[#表紙(表紙4.jpg)] 上方落語100選(4) 笑福亭松鶴 目 次  百年目  日和ちがい  平の蔭  仏師屋盗人  べかこ  舟弁慶  へっつい盗人  へっつい幽霊  堀川  豆屋  まんじゅう怖い  向こう付け  宿替え  遊山船  欲の熊鷹  土橋万歳  弥次喜多地獄旅行  吉野狐  夢見八兵衛  龍宮界龍の都  寄合酒  悋気の独楽  宿屋仇  らくだ  貧乏花見 [#改ページ] 百年目  よほど寒さも薄らいでまいりました。  時候に合わせまして百年目という、ごくお古い噺を一席申し上げます。  すこしお笑いはすくないかと心得ますが、誠にお作がよう出来てございますので、どうぞこういう落語も聞いていただきたいと存じます。  昔から人を使えば苦を使うと、えらいええことが申してござります。  人にさしたアるさかいマアええわいと、ほっときますとあんじょうわやにしてしまわれます。それぞれに眼を配って間違いませぬように気を付けていくというのは、なかなか大ていじゃござりまへん。 「定吉」 「ヘエ」 「何しているのや」 「こよりを捻《よ》ってまんね」 「なんぼほど捻ったんや」 「モウ九十六本だす」 「何じゃ、朝からかかって、たった九十六本かい」 「違いまんね、モウ九十六木捻ったら、百本に成りまんね」 「そんなら出来たアるのは、四本だけやないかい」 「ヘエ、遅いことだすナ」 「そら何をぬかすね、わしがさっきから見てるちゅうと、せっかく捻ったこよりで馬をこしらえて、畳をトントン叩くと馬が動く、そんなことがなに面白い、いらんてんごばっかりしてるさかい仕事がはかどらんのじゃ」 「アア番頭はん、なに言うてなはんね、こら馬やおまへんで、馬にこんな角がおますかいナ、これは鹿だすがナ、あんた鹿を見て馬や言いなはる、つまり馬鹿や」 「コラッ、何ちゅうこと言いやがんね、ショムないことせんとしっかり捻ろッ、……藤七とん。あんたそこで何してるね」 「ヘエ、ただいま岡山の福田屋はんへ出す手紙を書いとります」 「アアそれはご苦労はん、お得意先への便りは欠かさんとおいとくなはれや、……しかし、私がさっき硯箱の抽出《ひきだし》を開けてみたら、四国へ出す手紙が入ってたが、何かいな、あんなところへ入れといても先方さんへ届くもんやろかナ」 「恐れ入ります、入れにやろうと思いましたところが、ちょうど丁稚《こども》の手がふさがっておりましたんで……」 「何、イヤ何や言いなはる、丁稚の手がふさがっておりました……丁稚て誰のことや。藤七とん、おまはんが丁稚と違うか、イヤサ、縫い上げ下ろして名前がかわったらそれで立派な番頭はんやと思いなはるか……あんたなんぞ一人前に出来ることがおますか、旦那の代わりに葬礼送るのと、御親類中へ年回の日を知らしにまわる他に何が出来るのや」 「向かいのお家まで、四足半で飛んでいきます」 「ようそんな阿呆らしいことを自慢しなはる、丁稚をつかうまでもない、なんで自分がおいどを上げて入れにいきなはらん、身体《がら》ばかりむやみに大きなって、あまりご近所へもみっともないよってに、親旦那がまだ早いとおっしゃるのを、わたいが無理に頼んで縫い上げを下ろしてもろたんや、今から人を使う身分やない、あんまり増長しなはんな……久七とん、ちょっとここへおいなはれ、わたいこのあいだから一ぺんあんたに言うとこと思うたのや、店で本読むのはおきなはらんか、商人が店で本読んでるほどいかん物はないナ、それが第一商いに身の入ってない証拠や、人さんが入って来なはっても、本に気が乗ってるものやで、どうしても無愛想になる、そんなことしてる間があるのんなら、見本の抜けたのがないかよう調べときなはれ、……利助どん、あんたもここへおいなはれ、……わたいが今見て見ん振りをしてるちゅうと、久七とんに意見してるのを尻目でチョイチョイ見て、肩でフフンと笑うてなはる、いかんことやな、おかしいことがあるなら、大きな声で遠慮なしに笑いなはれ、せせら笑いはしなはんなや、おまはんもあんまり人を笑えたお方やないで、このごろ何を稽古してるのや……インヤかくしなはんな、わたしゃよう知ってます、浄瑠璃をやってなはるな。コレちいと身分が違やへんか、あれはご大家の旦那方が身代を跡目へ譲ってしもうて、それから楽しみに稽古をなはるもんや、アタいやらしいちょっと目を放すと小さな声でオガオガいうてる、見られたざまかいな、奉公人の分際で、あんまり分に過ぎたことしなはんなや、そっちへ行てなはれ……アア幸助どん……」 「ソーラ来た」 「イヤ何じゃと言いなはる、何がソラ来たやいな、フーム、すると何か、おまはんはわたいに小言いわれるのを待ってなはったのか、……お望みなら申しまっせ、ヘエヘエいいまへいでかい、コレ幸助どん、あんたは他の人とおなしように、仕様もない意見をしられてええ人と違うはずやおまへんか、サアこれ見なはれ、帳場の鍵だっせ。わたいが来年にでも別家をさしてもろうたら、この鍵は一体誰が預かりまんのやいナ、そんなことでこの鍵が預けも出来にゃ預かりも出来しまへんやろがナ、わたいも今年四十二、本来ならとうの昔に別家もさしてもろうてるのを、あんたがたよりないよってに延ばしてもろうてるのと違いまっか、……昨夜どこへいきなはった」 「ヘエ、お店をしもうてから、チョット風呂へ……」 「そら知てますわいナ、……しかし風呂にしてはえろうお帰りがおそかったが……」 「ヘエ……実は風呂で田中屋のお番頭に逢いまして、今晩うちで旦那さんの謡《うたい》のおさらえがおますのや、御迷惑やろうが、二、三番聞いて帰ったげとくなはれと頼まれまして、ヘエ、あんまりすげのうお断りいうのも悪いと思うたものだすさかい……」 「アア謡を聞いてなはったのか、……イヤそれはええことをしておいなはった。……実はなアわたいは昨夜どういうものか寝付きが悪うて、夜通しオチオチよう寝まへなんだのや、ところであんたの出なはったのは知ってるが、ねっから帰んなはった様子がない、はアてナ、どないしなはったんやろと思いながらツイうつうつとしてたんや、するちゅうと、ちょうど三時もよっぽど過ぎたと思う時分に、俥《じん》がガラガラ走って来る音がするやないか、この夜更けに妙なことやなアと思いながら聞いてると、半丁ほど先でピタッと停まったで、世間がしんとしたアるもんやさかい何でもよう聞こえるのや、若い女はんの声で、どうぞお近い内に……ちゅうたら、シーッと、何や猫追うようにいうてなはる、ハテな、一体何のことやろと思うてると、しばらくしてうちの表の戸を、雨垂れみたいな小さい音でコンコン、コンコンと叩くやないか、誰ぞ言い付けられてよったのやろ、表戸をソーッと開けて、ヘエお帰りちゅうと、またシーッと猫追うて、大きにはばかりさんというてなはった声に、私しゃ確かに聞き覚えがおますね……」 「ヤ恐れ入りました、そこまでご存じなら仕様がござりまへん、実は謡のすんだあとで田中屋のお番頭が、えらいご退屈やおましたやろ、ちょっと口直しにつきおうとくなはれと、やかましゅう勧められまして、……ヘエ、エへへチョッとその、南地へ……」 「はーん、イヤ夜おそうから、なんちてな所へなんちにいきなはったんや」 「おそれ入ります、……ホンのしばらく、ワーッといいに……」 「ヘーん、ワーくらいのことはうちでいえまへんか」 「い−えナ、何でおますね、や茶へ上がって……」 「や茶……や茶て何やい」 「ひっくりかえしていうてまんね……お茶屋だすがナ……」 「遠い所までお茶買いにいきなはんねナ……」 「いえさようやおまへんね……アア難儀やナ、つまりその何でおまんね、ちょっとアッサリ騒いどいて……あとはしょうぎを買うて……」 「腰掛けるのかい」 「いんえ、早ういうたら姫買い……」 「やかましいッ」 「ヘッ」 「あんたわたいを何と思うてなはる、何ぼわたいが突念参《づくねんじん》でも、人さんから聞いてそれくらいのことは知ってますわい、南地といえばお茶屋のある所。お茶屋といえば何をするところということくらいは分かっておますわい、あんたがどういうかしらんと思うて、知ってとぼけてたら、ようヌケヌケとそれだけのことをわたいの前でハッキリいいなはった、幸助どん、わたいはなア、さっきもいうた通り四十二だっせ、自分に甲斐性《かいしょう》がないのでいまだにお茶屋の段梯子《だんばしご》はどっち向いて登るもんやら知りまへんワ、芸者という紗《しゃ》は夏着る物やら冬着る物やら、舞妓という粉《こ》は一升どのくらいするもんやら、太鼓持ちという餅《もち》は焼いたらええのか煮《た》いたらうまいのか、まだ一切れも食べたことがおまへんのや、そのわたいを目の前に置いて、よう面あつかましいそれがいえまんなア」 「あいすまんことでおます、以後は慎みます、今日のところは誠に私のデケ、デケデ、ケドこない……」 「フフン、物もろくざまいえんなんて恥ずかしいと思いなはれ、他の若い者と違うて、あんたらに小言いうてたらお互いに笑われるよって、もう何もいやへんけど、ちいと気ィ付けとくなはれや、……サアあっちへいて用事をして来なはれ、……あっちへいきなはらんかいナ、……コレ。わたいがいきなはれというた時に立たなんだら、立つしおがないようになりまっせ、いきなはれというのに……」 「ヘエ、……いきとうおますねが……痺《しび》れが切れまして」 「まアあきれはてた人やなア……イヤもう。あんたがたには物は言いまへんワ、丁稚ッ、わしの履物出そッ、これから一通り御得意回りをして来ます、あんたらに任しといたらどんなえらい無茶がしたアるやら分からへん、もし親旦那がお訊ねなはったら、日暮れまでには帰りますというときなはれ、しつかり番を頼みます」 「イヤア、毛虫が出ていきよる」 「何、毛虫がどうやて……」 「イエ段々暖うなって来たさかい、ボツボツ毛虫が出るいうてまんね、……お早うお帰り」 「お早うお帰り」 「お早うお帰り」 「お早うお帰り……」 「定吉、貴様いま何をしたんじゃ」 「何もしまへん」 「嘘つけ、うしろから舌出したやろ、馬鹿め、うしろに眼はのうても、チャンと前の戸にうつったるわい」 「ワア……。いえ番頭はん、あんたに出したんと違いまんね、舌がいつでも口の中でばっかりオネオネしてよる、かわいそうなさかい一ペん世間を見せてやりましたんや、舌出すというたらあんなんと違いまっせ、出すというたら……ペロッ」 「コラッ、仕様のない奴ばっかりや、みんな頼みます」  ポイと表へ出て道の小半丁も来ますと、横町の細合いから頭を綺麗《きれい》に剃《そ》った男が、 「ヘエ、次さん……こっちこっち」 「シッ、シッ、……オオこれは田中屋さんのご隠居で……先《せん》だちましては若旦那のおめでたで……イエお恥ずかしい、その節はまた結構なお祝いを有難う存じまして。どうぞチトお遊びに……」 「モシ、次さん……こっちだっせ……」 「シッ、シッ、チャイッ、……ヘエ今日は……お天気でよろしゅうござります、アア先日の見本の口はまだお返事はござりまへんか、アアさようでヘエ、何分よろしゅうお願い申します、ごめん……」 「もーし、次ーさんッ」 「阿呆」 「エエ」 「さっきから物を言うなと目顔で知らしているのが分からんか、お前の風態を見んかい、縮緬ずくめに甲斐絹のパッチ、誰の眼から見ても幇間《たいこもち》丸出しやがナ、そんな風して近所で物言われてたまるかい、チイと向こう先を見て気をきかしんかいナ」 「そうかてあんた、約束の時間が来るのにおいでやないさかい、皆が心配して一ぺん様子を見て来いいうので、わたいがお宅の前を何べんもウロウロ」 「それがいかんのやがナ、一ぺん通ったら分かったアるわい、わしも出るしおがないよってに、店の者に一通り小言いうといて、スッと出ようと思てたんや、それにその派手な風態でいたり来たりいたり来たり、こっちは気が咎めて出るにも出られへんがな」 「さアさようやさかいわたいかて頭つこうてまっせ、あんまり何べんも通ったらいかんと思うたよって、二十銭やって羅宇《らう》仕替屋の荷借って…」 「それで味噌つけてるがナ、羅宇仕替屋の荷を担げるのやったら、羅宇仕替屋の風態をしんか、そのままの着物で荷だけ担げて何するのや、丁稚ちゅぅもんは眼が早い、番頭はんあれ見なはれ、あの羅宇仕替屋えらいええべベ着てまっせいいよった、わしゃヒヤッとして脇の下から汗が流れたがナ」 「アッハッハッハッ」 「コレ笑いごとやないでほんまに、それで舟わい」 「サアそれがだすねん、いわいでええのに辻梅の姐貴が桝家の女将《おかみ》に今日コレコレと喋ったもんや、サアあんた、小蝶根はんが来る、呑ン八ツぁんが来る、いつもの桝家の顔触れが皆来ましたんや、舟がいうてたような茶舟では乗れまへんがナ、仕様がないよって屋形一艘……」 「そんな無茶すない、ワヤにしよるな、……それでどこへつないだアるのや」 「東横堀の研石屋《とぎいしや》の浜だす」 「コレコレ、あんな近い所はあかん、ことにあの浜側にご親類が一軒あるのや、見つけられたらどないするのや、もっと上へやり、高麗橋の詰めへでもつながしといて、わしゃ後でじきいくさかい」 「ホンなら次さん、待ってまっせ」  幇間をさきへやっといて、四ツ目の辻を右へ二筋ほど入ると、一文菓子と焼き芋を売ってる家がござります。 「お婆はん、ちょっと邪魔するで……」  狭い梯子をギイギイ鳴らして、二階へ上がりますと、ここに箪笥が一棹《ひとさお》預けたある。  今まで着ていた木綿物をスッカリと脱いでしもうて、目の細かい天竺金巾《てんじくかなきん》に八王子の襟のついた肌襦袢、上へ着る長襦袢というのがわざわざ京都へ誂《あつら》えた別染めの羽二重で、小豆茶に大津絵の一筆画きを散らしたという粋《いき》な物で、羽織から着物持ち物にいたるまで、一分の隙もござりまへん。細鼻緒の贅沢な雪駄をつっかけて、 「ちょっとその辺まで行て来るよって頼むで……」  高麗橋まで来てみると、立派な屋形船がデーンと着いておりまして、中にはお茶屋のお女将から芸妓幇間の連中がキャアキャア騒いで待っております。 「アア次さんが来てやった……」 「アア次さんおそいやおまへんか……」 「何しててだんねナ、こないせんど待たして」 「コレコレ、もうチト静かに出来んか、……アア、イヤイヤ迎えに来いでもええというたら、……船頭はん、チョッと手持ってんか、ああヨイトショと……お前らどうしたことやいナ、けんたいで行く花見やないとあれほどいうたアるやないか、そうそこらの障子あけ広げたら舟の中がまる見えや、皆しめてしまい」 「しめ切ってお酒飲んだりしたら毒だっせ、一寸ほどあけときまよか」 「あかんあかん、ピタッとしめとくのや、それからあまり大きな声出しなや。しばらくはなるべく物言わんように」 「まア嫌い、まるで三宅島行きの船やワ、船頭はん早う出しとくなはれ」 「ヘエいま出します、オーイもやはええか、ヤうーんとしょウ」(下座唄♪宇治の芝舟……)  周囲をキッチリしめ切って船が動き出しますと、幾分か安心が出来ます、東横堀を北へ突き抜けて大川の真ん中へ出ると少々くらいの声は人に聞かれる心配がござりまへん。 「次さん、もう大川へ出てまっせ、少うしくらい障子あけたら……」 「あかんというのに、陸《おか》からは見えいでも、船同士すれ違うた時に、どんな知ったお方が乗ってはるや分からへん、今日は一切あけることは成らん……」 「そんなこというて向こうへ着いたら、どないして花見まんねナ」 「そんな物見いでもええ、匂いだけでも嗅いでたらええのや、たって見たかったら、障子に穴あけて覗《のぞ》くのや」 「カラクリやがな、まるで、家へいんで人に話も出来へんワ、花はよう咲いておましたか、ヘエ何やよう咲いてるような香りがしておました、そんな阿呆らしいこといわれへん……」 「やかましい奴やなア、向こうへ着いたらお前らだけ上がって、思うだけ見て来たらええのや、サア酌いでくれ……」  チビリチビリとやっておりましたが、何しろ船足の遅い屋形で、桜の宮までというとかなり時間がかかります。  向こうへ着く時分にはあんじょう酔うてしまいよった。 「ウイー、ああ、むしむしするなア、もう一ぺん手拭しぼってんか、アア何や暑いと思うたら、こんなところ皆しめ切ったアるのやな、誰がしめたんや」 「あんたがしめエしめエとやかましいいうて、しめさしなはったんやがナ」 「何ぼしめエいうたかて、子供やあるまいしこない正直にキッチリしめ切る奴があるかい、阿呆め、暑いワィ、あけあけ……」  船の連中も暑うてたまらん。一ぺん風を入れたいなアと、思うてるところへあけあけときたもんやさかい、心得たちゅうので一時に障子をガラガラとあけますると、何しろ花は今が満開。一面に薄紅の霞がかかったように見えてござります。そここの木の根には毛氈《もうせん》を敷いて、ドロツクドンの散財をしているかと思うと、空になった瓢箪振り回してヒョロヒョロしながら、訳の分からん唄うとうてる人があるという、イヤもう陽気な景色でござります。 「オイッ、せ、船頭。こ、こ、こっちへ船着けたれ、さア皆、上がって花見て来い、ウイー、ひ、一人だけ残らないかんぞ、酌ウ申し付けるチャッチャ、アハハハ」 「まア次さん、何だんねナ、そないお酒ばっかり飲んで、あんたも一ぺんお上がりやす……」 「ばかいえ、ヒッ、船の中でさえ人に見られんようにしてるのや、こんな人混みの中へいかれるかい」 「アア次さん、ええことがおまっせ、まア繁八に任してみなはれ、それ扇子をこう拡げて、お顔へ当てまんね」 「アッ。コラ、な、何しやがんね」 「マアマア、じっとしてなはれ、小蝶根はん、あんたの扱帯《しごき》チョット貸しなはれ、それこういう具合に二つ巻いたら、後ろでグッと結んで垂らしときます、ナアこれなら誰にも顔は分からしまへんやろ」 「まアええ恰好やワ、ついでに着物も脱いで襦袢一つになりなはれ、サア帯ほどいたげまよ」 「コレコレ、無茶すな無茶すな」 「早う脱ぎなはれ」 「あかんというのに……」  何ぼ嫌やというても、周囲から脱がしにかかられると、そこは下に自慢の長襦袢を着てるもんやさかい、まんざら悪い気持もいたしまへん。あかんあかんと言いながら着物の肩を脱ぎますと派手な模様の襦袢。 「まアこの姿どうだす」 「ええこと、ちょうど左団次の石橋《しゃっきょう》みたいなワ……」 「イヨウ、高島ー屋アー」(下座唄♪なんたら愚痴だえ……)  芸妓幇間の肩へ寄りかかって、千鳥足で上がってまいりました。 「サアサア放せ放せ、これから鬼事じゃ、わしに捕まえられたら誰でもかまわん、肩脱がして踊らすぞ」 「キャーッ」  大騒ぎでござります。あっちでもこっちでも、あえ返るような大乱痴気。そうかと思いますと中にはまたごくおとなしゅう、上品に花見をしておいでになる御仁もござります。 「玄伯老、草疲《くたび》れやせんかナ」 「いえわたしはこの通り痩せておりますで、歩きますことは一向苦になりまへん。毎年のことながらここの人出はまた別でござりますなア」 「さいナ、わたしゃ梅見は好きじゃが、どうも桜というと賑やか過ぎて具合が悪い、まアこれだけ見たら充分じゃ、えろうおそうならんうちに帰るとしましょうかい」 「それがよろしゅうござります、……アッ、旦さん、チョッとご覧遊ばせ、向こうで大肌脱ぎになって扇子で顔をかくしてなはる人、お宅のお番頭によう似た恰好でおますが、次兵衛さんと違いますかいナ」 「アッハッハッ、何をいいなさる、うちの次兵衛があんなことの半分もしてくれたら、何いうことがあろうぞい、いや人間堅いのもええが、うちの次兵衛と来たらまるでありや石ころじゃがナ、今朝も店で若い者に小言いうてるのを聞いてるとナ、いや舞妓という粉は一升なんぼするたら、いや太鼓持ちという餅はどんな味がするたら。モ阿呆らしいて聞いてられやせんのじゃがナ、こんな物を見ただけでも目を回しよるじゃろ」 「イヤ旦さん、あれは他人の空似やござりまへんで、お番頭に違いごわへん、……そ、そ、あれ御覧《ごろう》じませ」 「アハハ、自慢してても玄伯老もやっぱり齢じゃ、もう大分お目がいかんらしいわい、ドレドレどんなお方と似てるちゅうのじゃ、いま眼鏡を掛けて見てしんぜよう、どのお人じゃ」 「あ、それそれ、向こうの一番大きな樹の下で、大手を拡げて、扇子で顔かくしたお方……そ、そ、ヒョロヒョロして歩いてはります、あっ、こけはった、それあの御方……」 「どれどれ、扇子で顔かくした、……ウウム……アアあのお方かいな……ヤッ、あ、ありやほんに……次、次兵衛じゃ。番頭じゃがなあれは、あれならお前、幇間も芸妓も丸呑みにしてよるじゃないかい、……ああああ、段々こっちへ出て来るがな……アア困ったなこれは……わしの姿を見せてやるのはかわいそうじゃ、というて後戻りも出来ず……アア難儀やなア、玄伯どん。なるべく道の端へ寄ってて下され」  道の脇へ寄ってやり過ごそうとしておいなはる、番頭はそんなことご存じない。 「さア、だれかれの用捨《ようしゃ》はせんぞ、捕まえたら肩脱がして踊らすのじゃ……」  えらい勢いでヒョロヒョロやってまいります、親旦那が右へ避《よ》けると右、左へ逃げると左へ、木の根につまずいて倒れかかるはずみに親旦那の肩へ手がかかりました。 「サア捕まえたぞ、捕まえたぞ」 「アアアこれ、人違いじゃ、人違いじゃ」 「何ぬかしくさる、逃げようとて逃がすかい」 「いんやさようじゃない、……アア痛いコレ……放して下され」 「ヘン、そ、その手は桑名三日市やぞ……繁か。どいつや卑怯なこといやがんのは、今この扇子をとって……面《つら》を検分……プッ、あ、あんたは旦那さん」 「オア次兵衛どん」 「ウへー、……親旦那様にはご機嫌よろしゅうござります、その後永々ご無沙汰をいたしまして申し訳がござりません、承りますればお店も追々ご繁昌の趣、おめでとう存じ上げます……」 「ウム、……ハイ……ハイ……アアこれ番頭どん何をいうのじゃいな、アッハハハハ、……次兵衛どんコレ、そんなとこへ坐ったら着物に土がつくがナ……ウームもう堪忍してんか、老人に仁輪加《にわか》の相手をさすのは殺生じゃ、アハハハハ……オオこりゃお連れの衆かいな、私とこの大事な番頭さんじゃ、どうぞ面白う遊ばしてやっとくなされ、ア、しかしな、日暮れはちょっと早う帰しとくなされや、それだけ頼んどきます、……サア玄伯老いこか、アア汗かかしよった」  親旦那の方がかえって汗ビッショリになって、玄伯を連れてそうそうとお帰りになります。 「サア次さん、陽気にいきまよ、はア、ツツンツンツンツ」 「じゃかましい、誰やい俺をこんなとこへ上げたのは」 「なに怒ってなはんね、今のお爺さん一体誰だんね」 「だれどころの騒ぎかい、あれが内の親旦那じゃい」 「まア、そんなんやったら、船へ来てもろうて一緒に飲んでもろうたらよかったのに……」 「阿呆んだら、さア羽織出せ、早よ早よ」 「まア慌ててどないしなはんね」 「どないも、こないもあるかい、すぐに帰るね」 「そんな無茶な、あとの始末わいナ」 「そこどころかい、どけどけ。……アアしもうたなア……、何やら今日は気が進まなんだ……やめときゃよかったなア……やっぱり虫が知らしてたんや……夢やったらええのに……一ぺん頬べた捻《つね》ってみたろ、痛ッ、あかん、起きてる……」  酔いも何もどこへやら真っ青な顔して走って帰るなり、まえのお菓子屋で着物もそこそこ着替えて、店へ戻ってまいりました。 「番頭はんお帰り」 「ヘエ、お帰り」 「……定吉っ。親旦那は……」 「あの親旦那はなア、あんたはんが出なはったすぐ後から、玄伯さんを連れて桜の宮へ花見においでになりました」 「さようか……ウーム……」 「ア呻ってはる。……番頭はんどこぞ悪うおますか」 「何でもええ、二階へ寝床敷いてくれ、頭が痛うてかなわん、しばらく寝る……」  二階へ上がって横にはなりましたが、とても眠るどころやござりまへん。 「アアアア、四十二まで奉公して、来年別家の身分、川口で船割ったか、今日は何とした悪日やろうなア……」 「アア玄伯どんえらい目にあわしたな、さだめし疲れなさったじゃろ、ちょっと寄って茶の一杯ものんでいになさらんか、アアさようかナ、それではここで別れましょ、ウム何、その土産物かいな、イヤイヤそれはお宅のご内儀へと思うて買うたんじゃ、エーこれ、何をいいなさるのやいナ、そんなら明晩、土井さんでまたお目にかかりましょ、ハイさようなら……ただいま帰りました」 「お帰り」 「ヘエお帰り」 「お帰り」 「ヘエ、お帰りやす」 「定吉……番頭どんはナ」 「さきほどお帰りになりまして、頭が痛いいうてやすんではります」 「ホホウ、番頭どんは具合が悪いか、……ウム、随分大事にしてもらうのじゃぞ、あれは内の真柱じゃ」 「ウワー、……応える応える、あア辛いなア……もうしばらくしたらちょっと来いか、……時にお前も、永年辛抱してくれたけど、と来るやろなア……いやモッとえぐいかも分からんで……次兵衛ッ、……一ペん坐れッ……いやそんな言葉はいやはらんと思うなア……何といわれても一言もないのやよってさっぱりワヤや……呼びつけるならいっそ早う呼びつけて、らち明けてくれる方がましかも知れん……蛇の生殺しはかなわんなア……えらい呼びに来るのがおそいやないか……」  梯子段がガタッというと、呼びに来られたのかと思うてビクッとする。  そうこうする内に下では店をしもうて皆寝てしもうた様子……。 「ハテナ……。何事もないとはおかしい……ハハア、明日|請人《うけびと》呼んで話をつけてしまう腹かも知れん……アアアアつまらんことしたなア……そうやいっそ逃げてしもうたろ……もうこうなったらどの道、足は上がるのや、いやなことの一言も聞くだけ損や……逃げると腹きめたら物は持てるだけ持って出にゃ、あとで取りに来られへん、着物の一番新しいのをこういう具合に三枚着て……その上から羽織をこう二枚引っ掛けたろ……アア窮屈やなア……タバコ入れを三ツ腰へ差して、矢立てもこう差して……あの傘、高う出して一昨日買うたとこや、あいつは持ていけんワ、あんな物買わなんだらよかったナ……財布はしっかり内懐へ……ト待てよ……明日まア請人が来るワ……何をいうても最初のことや、以後充分慎むなら今度のところは大目に見とこうという話にならんとも限らぬ……その時にわいを呼びに来てみると、自分の物すっかり持て逃げてしもうてる、アアこの了見ではとうから尻が据わっていなんだのや、恐ろしい男やったナと憎しみがかかる……そうや……やっぱりやめとこ……着物もたたんで箪笥へ直しとこ……さアどうやろナ……わいの欲目かも知れんで……あんなとこ見つけられて、まさかこのまま使うてもらえるようなことはないやろナ……着て逃げる方が得かいナ……いややっぱりたたんどこ……」  番頭夜通し一目もねまへん。  着物をたたんで直して見たり、出して着て見たり考え疲れてちょっとウツウツしたかと思うと、お詫びがかのうて店でせえだい荷出しの指図してる夢を見る。  アアよかったと思うと目が醒める、チョッとまたウツウツとすると今度は警察でどつかれてる夢を見て、ビックリして飛んで起きよる。  まるで地獄でおます。  ……そうこうする内に夜が明けますと、番頭モウじっとしていられまへん。店へ飛んで出るなり表の戸をガラガラガラガラ。 「アア番頭はん、えらい寝過ぎてすんまへん、どうぞわたいに開けさしとくなはれ」 「いやかめへんかめへん、お前らもっと寝て」 「そんなこと出来まっかいナ、アア表を掃くのはわたいの役だんがナ、番頭はん箒貸しとくなはれ」 「いやだんないだんない、わいが表掃いて水打つさかい、お前は帳場へ坐って帳合いしとき……」  無茶いうてます。  店が片付くと番頭仕方なしに帳場へ坐りましたが、なかなか帳合いどころやない。  筆は持ってるものの帳面の字がボーッとして、何が何やら分からしまへん、その内に親旦那がお目醒めになった様子、手水をつこうてお看経がすみますと、縁側近くへ座蒲団を敷かして一服おあがりになります。  村田張りの銀煙管を灰吹きへコーンとあけなはる音が、番頭の胸へコツーン。 「トホホホホ……、なまいだなまいだ」 「コホン、コホン、コレ……丁稚……」 「ヘエお呼び……」 「番頭どんはモウ起きてなさるか」 「ア、番頭はんやったら、今日一番さきに起きはりました、そいで表掃いて水打って……」 「シャイッ、誰がそんなことを訊ねてる、いらんことをベラベラ喋るやない、番頭どんは今どうしてなさる」 「ヘエ、お店で帳合いしてはります」 「ウム。私がいうてる。たんとお手間は取りませぬ、ちょっとここまで来ておもらい申す、そういうていきましょ」 「ヘエ、……あの、番頭はん……」 「ウムーあかん……どう考えてもあかん……」 「もし番頭はん……」 「アアーえらいことした……川口で船や……」 「番頭はん」 「ワッ、びっくりした……定吉か、何やい」 「こっちがびっくりしましたがナ、大きな声出して飛び上がんなはるよって、何やと思いました、あの親旦那がいうてはります、たんとお手間は取りまへん、ちょっと奥まで来ておもらい申したいと……」 「そうか……ウーン来たな……」 「お手間は取りまへん……」 「仕様がない……なるようになりやがれ。……」 「ちょっと奥まで…」 「今いくわい」 「何だす」 「エエイうるさい、今すぐにいくわいッ」 「ヘエ、……えらそうにいいよるなア……ヘエ親旦那さん、いてまいりました」 「オオご苦労じゃ、番頭どんはどういうてたナ」 「ムー、今そこへいくわいッ」 「こうれッ、そりゃ何という物言いじゃ、番頭どんはそんなこというお人じゃない、よしんば番頭どんがそういうたにもせよ、貴様はわしの前へ来たらチャンと手をついて、お番頭さんただいまお見えになりますと、なぜ丁寧に物を言わぬ、……また頬辺をふくらしてるな……主人の前でその顔は何じゃ、増長《ぞうちょう》もたいがいにせえ、米の飯がてっぺんへ昇ったとは貴様の事じゃわッ」  後ろで聞いてる番頭の辛いこと。 「ウッヘー、ウッヘー……」 「何じゃ何じゃ、誰じゃいなそこでペコペコおじぎをしてなさるのは……オオお前は次兵衛どんじゃないかい、アッハハハ。そりゃ何をするのじゃ、ささ、こっちへ入っとくなされ、いやいやそれでは話が出来ん、ズッとこっちへ来て火鉢にあたっとくれ、さアさア座蒲団を敷いとくなされ、わしもこの通り御免を蒙って敷かしてもろうてますじゃ、いんや敷いてもらおうと思やこそ出す蒲団やもん、なに遠慮がいる物かいな、遠慮はなア、番頭どん……よそでする物や」 「ウッヘー……」 「そ、そういちいち頭を下げたら、話も何も出来やせんがな、ヤしかし毎日ご苦労さん、なかなかたいていじゃなかろう、今も丁稚に小言をいうてたところじゃが、不愍をかけて優しゅうしてやると増長しよるじゃろし、その手加減なり、さいはい万端、いやもう一通りのことではあるまいと察しますじゃ、あんたの骨折りが顕われて、あの大きな大福帳が毎年一冊ずつ汚れていく、私しゃ喜んでいるのやで、……さアお茶がはいった、一杯飲みなされ、今は何かいナ、えろうせく用事はありゃせんか、フム、そんならまアしばらく相手になってもらうが、一軒の家の主を、旦那旦那と昔からいうなア、あれはどういうわけでそういうか知ってるか、……何、知らん、ウム無理はない、この齢になる私が知らなんだのじゃ。人さんから教えてもろうたんやで、間違うても笑うとくれなや、天竺も五天竺あるというな、この内の南天竺に赤|栴檀《せんだん》という大木があるそうな、ところでこの赤栴壇の根元に南縁草《なんえんそう》という草が生える、ええかナ、人が見てアアせっかくの名木の根元に、むさい草が生えたちゅうのでこれを抜いてしまうと不思議なことには栴壇の木が段々と枯れかかってくる、いろいろと考えてみるとこれは枯れるのが当然じゃ、つぎからつぎへと殖えては腐っていく南縁草の根が、栴壇にとってはこのうえもない肥料になる、じゃによって、南縁草が栄《ほこ》えればほこえるほど栴壇もほこえていくという道理、するとこの栴壇の繁りほこえた枝々から露を降ろすのやが、これがまた南縁草にしてみると、何よりも良い肥料になって益々ほこえていく、それにつれて栴壇もまたほこえてしだいに余計の露を降ろすという、つまりこれうぶ相持ちじゃ、ええ咄《はなし》やなア、そこで栴壇の≪だん≫と、南縁草の≪なん≫とを取ってだんなんとマアいうのやそうな、アハハハハ耳学問じゃ、ほんまかどうや知らんで……。マそこでやなア、これをこの家でたとえていうなれば、おこがましいがわしが赤栴壇で、こなた南縁草や、有難いことにはええ南縁草が生えてくれたお蔭で、この栴壇は見なさる通りエラほこえじゃ、で及ばずながら出来るだけの露は降ろさにゃならぬと思うてる、……ところが店へ出ると、今度はあんたが赤栴壇ではたの若い者一同が皆あれ南縁草じゃ……。時に私がこのごろ様子を見るのに、店の赤栴壇はえらいばりきでほこえてるが、南縁草の方は少うしグニャッとしてやへんか、いやこれは多分私の見そこないじゃろ、見そこないじゃろとは思うが、もしもそんなことがあるとしたら、一刻もほっとけんで……南縁草が枯れりゃ赤栴壇のこんたも枯れにゃならぬ、こんたが枯れりゃわしも一緒や、ナア次兵衛どん、わしゃこの通り気のつかん人間じゃ、どうぞあんたが蔭へ回って店の者へも露の降りるようにしてやっとくれ、ええかな、それが頼みたさに忙しい中を呼びつけましたのじゃ、いや。お手留めてすまなんだ、ささ、お前さんが居にゃ店は暗闇じゃ、早う帳場へ坐っとくなされ、どうぞ相変わらず頼みますぞ……」  暇が出ると思いのほか、さすがは大家の親旦那、叱言《こごと》らしいことは一言も言わず、法談をもちだして、自分ばかり楽しみするのが能やない、ちっとははたにもゆとりをつけてやれという結構なお心でおます。  聞いた番頭が韓信《かんしん》の股《また》をくぐって膝頭《ひざがしら》砂だらけ。 「ウッヘー、……何とも有難いことでござります……」 「ええショムないなぶりなはんな、アハハハハ、や、阿呆咄で暇つぶさした、堪忍してや、ハイご苦労さん……ああ。チョ、チョ、チョッと待っとくれ、まア、モ一ぺん坐ってんか……まアお茶のみいな。冷《さ》めてたら入れ替えさすで、こんた甘い物はどうや知らんが嫌いやなかったらつまんどくれ、……時に次兵衛どん、昨日はエライお楽しみやったナ……」 「ウワッ。ヒエー……。実はその……お得意の旦那衆のお供で……」 「ああそうやったかいな、しかしなア番頭どん、得意先のお方と一緒にいても、決してお銭《あし》はつかい負けしとくなさんなや、先様が五百円つかいなさったら、こっちは千円つこうとくれ、かまやへん、そうでないと商いの刀尖《かたなさき》が鈍りますじゃ、……が昨日の遊び方の様子では、そんなみっともないことしてやへん、それは一目見たら分かるわいな、……昨日お前はんが踊ってやったのはありや……フムそうやそうや、越後獅子やったかいな、いつの間に稽古してやったんか知らんけども、なかなか巧い物やがな、……子供の時は随分不器用な児やったのになア、……こんた内へ来た時のこと覚えてるか、早いものや、モウ三十年からなるなア、内へ肥料汲みに来る甚平ちゅう男の世話で、お前はんが内へ来たんや、色の黒い痩せた児でなア……これはとても間に合うまいが、まアまア当分遊ばすつもりで置いてやったらええがないうて、置くことにしたところが何とまたえらい小便垂れや……。死んだ婆どんがあの通りの癇性病みやろがな、毎日毎日怒ってなア……。いなすいなすとやかましいいうのを、まアまアちゅうて留めてはいるがどうしても小便垂れがなおらん、とうど灸《やいと》すえたらええやろいうので、肩脱がしたところが、あんまり色が黒いので墨でおろしても見えんのや、仕様がないよってしまいに白粉でおろしたことがあるがナ、使いにやりや迷子になって大騒ぎするやら、買い物に出しゃ銭落として泣いて帰るし、三年かかってようよう二桁の寄せ算覚えたんやで、まア世にも不細工な児やったのに、昨日の手際はなかなかどうして、鮮やかな物やったで、ソレどないやいうのやったいな、ああツツンツ、ツツンツ、ツツチートツツンツンかいな、ここに孫の太鼓がある、わしが一ぺん叩いてみるさかい、ちょっと演って見せてんか、……イヤ嘘じゃ、ハッハッハハハハ。嘘じゃがな、アッハッハッハッ、あの慌てることどうじゃい、正直者やなア、イヤ来年の戎講《えびすこう》まで預けとこ、戎講には逃がさんで、しかし次兵衛どん、怒ってなや、実は昨日あの姿を見てな、こりゃひょっとすると帳面に無理でも出来てやせんかと思うて、まア気を悪うしてくれてやと困るが、昨夜、夜通しかかって帳尻だけをあらまし調べて見たんや、ところが帳面にはこっからさきの無理もしてない、ああアわしゃ感心しました、こんたは甲斐性や、甲斐性で儲けて甲斐性でつかいなはるえらいなア、世の中に沈香《じんこう》も薫《た》かず屁もこかずちゅぅのがあるやろ、そんな奴はあきやへん、そんなぼんくらに何が出来ていナ、人のびっくりするような銭つかう度胸があってこそ、人のびっくりするような銭が儲かるのや、これからさきもドンドン遊んどくれや、わしじゃとてまだ老いぼれてやへん、たまには連れてももらうわいナ、アハハハハ、……しかし昨日はびっくりしたで、よう酔うてたなア……マアこれそない後退りせえでもええちゅうのに……何や妙なこというたで……エエ久しゅうお目に掛かりまへん、ご機嫌よろしゅうとか、承りますればどないとかこないとか、何やえろう長いこと逢わんような挨拶をしてやったが無論酒の上のことやろなア」 「いえ、モウあの時は酔いも何もどこへやら、スッカリ醒めておりましたが、ああ申し上げるより仕様がござりまへんでした」 「フーン、こりゃまた妙な、毎日顔を合わしてるやないか」 「ところが向こうで顔を見られた時は、しもうた、これが百年目やと思いました」 [#改ページ] 日和《ひより》ちがい 「辰っつあん、あいかわらず、働いてるなあ」 「喜ィ公か……。あいかわらず、のらついているなあ」 「そういうたら、掛け合いやがな。なんで、お前はそない働くねン」 「働かな食えんさかいや」 「そうか。働かな食えんのか。可哀そうに」 「なん吐《ぬ》かしやがるね。あっちへ行け」 「なんで、あっちへ行かんならんねン」 「仕事の邪魔になるさかいや」 「お前はそこで仕事をして、わいは表に立ってて、なんでそれが、仕事の邪魔になるね」 「お前がそこに立ってると、うちらが暗いやないか。あっちへ行け」 「そない、えらそうにいうな。きょうはえらい曇ってるな」 「そんなこと、わいにはわからんで」 「なんでわからん」 「なんでて、わいはお前みたいな、気楽な身の上とちがうね。じいとうつむいて、一生懸命に仕事をしてるさかい、曇ってるか照ってるか、そんなこと、わからへん」 「わからなんだら教えてやるわ。曇ってるね」 「曇ってるさかい、どうした、というねん」 「曇ってるさかい、どうやろ、というのや」 「わいはお前のような、賢い人間とちがうさかい、曇ってるねがどうやろ、といわれたかて、なにがどうや、ちょっともわからへん。もっとわかるようにいうてんか」 「ド根性のわるい奴やな。どうやろう、というたら、降らへんやろうか、ということやがな」 「降ったかて雨やないか」 「あっさりいうたな。その雨が、わいはつらいのや」 「そんなこと、おれが知るかい」 「おい、そない根性のわるいこといわんと、教えてくれ。お前はなんでも知ってる男やないか」 「なにいうのや。おれはな、働かな食えんという哀れな男や。仕事よりほかのことは、なにも知らん。日和を見るのが商売の人でさえ、まちがうことがあるねさかい……」 「日和を見るのが商売、というような人があるか」 「あるとも。新聞に天気予報がのってるやろ。昼まで曇り、昼から、しょぼしょぼ雨、と書いてあっても、ちょいちょいまちがうことがあるやないか」 「なに? 昼からしょぼしょぼ雨……、そんなこと、書いてあるか」 「しょぼしょぼ雨とは書いてないけど、間違うことがあるのや。おれのような職人に、わかるかい」 「……困ったな……」 「なにも困ることはないがな。それほど雨がこわけりゃ、傘を持って、高下駄をはいて行ったらええやないか」 「さ、それがな……。意気な蛇の目でも持って、きれいな高下駄でもはいて行くのやったらええけど、わいの傘は真っ黒で、ところどころ、破れた太い傘や。そんなもんを持つと、だいいち、色気がない……」 「どないしたかて、色気のある顔かいな」 「そないボロクソにいいな。だれぞ、日和を見るの、上手な人はないかしらん……」 「日和を見るのがうまい人、というたら、船頭か漁師や」 「船頭は日和を見るの、うまいか」 「うもうのうてか。大風の吹く日に沖へ出てみ、えらいことや。船頭は命がけで、日和を見てるさかい、うまいにきまってるわ」 「ほたら、船頭に聞いてこう。……けど、船頭は、このへんには住んでえへんな」 「あたりまえや。ここは上町やで。上町に船頭が住んでるかい」 「ほんなら、どこへ行ったら、船頭が住んでるやろ?」 「そうやな。安治川《あじがわ》のほうへ行ったら、いるやろ」 「あ、そうか。安治川には、舟がぎょうさんついてるな。やっぱり、舟のついてるところには、船頭がいてるか」 「ほんまにうるさいやつやな。お前は十丁ほどのところへ行くのやろ。さいぜんからそないいうてるまに、行ってこられるがな」 「わい、安治川へ行って、聞いてくるわ、しかし、安治川まで、なんぼほど、ある」 「そうやなあ……。一里半か二里ほどあるやろ」 「おい、わいはな、十丁ほどあるところまで行くねんで。それに、一里半も二里もするところまで、日和を聞きに行ってどないするね。そのあいだに、そこまで行けると思うが……」 「ほんまに、たのむさかい、はよう行ってくれ。お前がそこでごてごていうてると、仕事がでけへん」 「あの三軒目の八卦見に聞いたらどやろ」 「聞くのやったら聞いといで。けど、八卦のようなものは、あんまり当てにはならんで。当たるも八卦、当たらんも八卦、というさかいな。易者が、いうとおりになるのやったら、自分がぼろさげて辻へ立ったりするわけがないがな。けど、ま、気休めに行ってこい」 「行ってくるわい。わいが、働かな食えんのか、というたんが気に入らんもんやさかい、それで、あないボロクソにいいやがったんや……。先生、今日は」 「お、喜ィさんか。なんぞご用かな」 「先生。わたい、十丁ほどさきまで、使いに行きますが……」 「おお、そうか。落とし物をしたのか。失せ物の判断、すぐ見てやろう」 「先生、あんた、商売に勉強してるな。いや、そうやおまへんね。まだこれから行くところですのやけど、えらい曇ってまっさかい、帰って来るまで、雨が降らへんかどうか、聞きに来ましたのや」 「あ、そうか」 「先生、わかりますか」 「それくらいのことがわからんようで、易者ができるか」 「そうだすやろな。別条おまへんか」 「うん、今日は、降るような日和じゃない」 「さよか。ほたら、行って来ます」 「はよう帰りなされや」 「やっぱり商売やなあ。わかるのやな。今日は降るような日和じゃない、というたが、降るような日和やなかったら、大丈夫や。あの八卦見《はっけみ》、ええ人やけど、あのもののいいようがきらいやな。おさまりやがってからに……。アレッ、あの八卦見、下手やな。降るような日和やない、どころやないで。ぽつぽつ降ってきたで。しかも大粒や。……えろう降らなええが……」  いうてるうちに、降るも降らんも、細引きを流すごとく、ざあーっという大雨。  阿呆が米屋の軒へ飛びこんで、 「わァー、なんという雨や。五、六軒さきが見えんぐらい、降ってきた。こんな雨が二時間も降ったら、大阪中、水につかってしまうで。ソラ、いわんことやない。ドブ板が浮きだした。わァー……おまるが流れてきた。わアー、塵箱が浮きだした。わァー……」 「やかましいな。あっちへ行きなはれ」 「コラッ」 「コラとは、なんですねん」 「そんなら、ヤイ。……この大雨に降られて、軒の下へはいってるねんで。お前も日本人なら、わいも日本人や。おなじ日本人なら、そこはしぶきがかかりますさかい、こっちへはいりなはれ、というのが人情やないか。それに、あっちへ行け、とは、どうや」 「あ、なるほど。これはすまんことをいいました。けど、あんた、立つのやったら、だまって立ちなはれ。大きな声で、わあわあいいなはるさかい、びっくりしますがな」 「さよか。そらすんまへん。……この雨、やみますやろか」 「なかなかやみまへんで。本降りだっせ」 「困ったな…‥。傘を貸してんか」 「あっさりいう人やな。傘は貸せまへん」 「なんで貸せん」 「なんで貸せん、て、見ず知らずの人に、傘が貸せますかいな」 「見ず知らずやないがな。こうして、いま、話をしてるやおまへんか」 「いまは話をしてますけど、どこの人やわからんのに、貸せまへん」 「そうか。傘を貸せなんだら、今晩、あんたとこで泊めてもらうわ」 「それはなにをいいなはんね。泊められまへん」 「そんなら、傘も貸せん、泊めてもくれんというのやったら、わいの体を、どうするつもりや」 「そんなこというたかて、わたい、知らんがな。なにも、わたいがたのんで、立ってもろうたんやおまへんで」 「どうでもええ。わいの体を、濡れんようにしてくれ」 「これはえらい人が表に立ったもんやな。……そんなら、濡れんようにしてあげます。この空き俵を着せたげるさかい肩をすぼめなはれ。……さあ、どうだす」 「ああ、これはおもしろい。米俵を体へすぽっと着せなはったな。こら、ええ考えや……けど、あかん。体は濡れへんけど、頭が濡れる」 「そんなら、こうしたげまひょ。この桟俵《さんだわら》を頭へくくりつけたげよ。……さ、どうだす」 「あ、これはええ。なるほど、これやったら濡れません。あんたは、ほんまに親切な人や。おおきに、ありがとう……さいなら」 「モシモシ、……銭をおいて行きなはれ」 「あ、銭がいるのか」 「あたりまえだすがな。俵の銭……」 「銭がいるのやったら、なにもていねいに礼をいうのやなかった。もっとはよう、それをいうてくれな……。あ、懐ろへ手がはいらん」 「はいらなんだら、わたしが出したげます。見てみなはれ、財布を出しましたで。……さ、これだけ、もらいました。さ、はよういになはれ」 「馬鹿にしやがって……ほんまに。あの八卦見は下手やな……。ヤイ、ド下手、カス下手、日本一のド下手」 「ハハン、天気がわるいと思うたが、俵が降るとは思わなんだ」 「なにをぬかすね。俵が降ったりするかい……。わいじゃ。あんじょう、顔を見い」 「あ、喜ィさんか」 「なにをいいやがるね。えらい雨に会うて、俵を着てもどったんじゃ」 「お前は雨具の仕度をせずに行ったのか」 「それはなにをいいやがるね。お前が、大丈夫や、というさかい、傘を持って行かなんだのや。それがために、俵を着てもどったんや」 「だれが大丈夫やというた」 「お前がいうたんやないか」 「わしはなにも、大丈夫とは、いいやせん。今日は降るような、日和じゃない、というたんじゃ」 「それみい。降るような日和やなけりゃ、天気やないかい」 「なにをいうのじゃ。あんじょう聞かないかん。わしのいうたのは、今日は降るような、と、いうたんじゃ。そいで、お前があわてものやさかい、まちごうたらいかんと思うて、あとからべつに、日和やない、とつけてやったんじゃ」 「えっ、そんなら、なにかい。降るようなで、いっべん切るのかいな。そいで、あとからべつに、日和やない、とつけたんか。降るような……で、切って……日和やない……。というたら、雨やがな。そんなややこしいこといわんかて、降るとか、降らんとか、はっきりいうたらええのや。人をばかにしてよる。……これは喧嘩にもならん、さいなら」  二、三日たって、またおなじところへ行かんならんことができまして、表へ出ましたが、これまた曇っております。傘を持って出ればええのに、やっぱり傘を持たんと……。 「また曇ってるがな……。わいは雨男というのかいな。辰っつあんに日和を聞きに行ったら、また、ボロクソにいわれるし、八卦見に聞いたら、降るような日和やない、といいよるやろうし……。このへんで、いっぺん、日和を聞いてみたろ。……あ、菓子屋が仕事をしてよる。菓子屋は、あんまり雨が降ったら、飴がとろけて因るということやさかい、日和を見るのもうまいかもしれん……。お菓子屋はん」 「へえ、なんですえ?」 「きょうは雨かいな」 「いえ、これは砂糖……」 「いや、ちがうがな。きょうは雨か、と、いうてるね」 「そやさかい、砂糖や、というてまんね。これは有平糖というて、砂糖をたいてこしらえますのや」 「なにをいうてるね。まちごうてやがる……。あ、むこうで桶屋が輪替えをしてよる。輪替屋は出商売や。日和を見るのもうまいやろ。……モシ、桶屋はん」 「へえ、なんです」 「きょうは降るかいな」 「いいえ、盥《たらい》だすね」 「なにをいうてるね。降るかな、というてるね」 「そやさかい、盥やというてますね。ちょっと深いさかい、風呂かと思うけど、盥だすね」 「……また、まちごうてる……あ、痛た」 「わしのほうが、よっっぽど痛いがな。前をむいて歩きなはれ」 「あ、坊主か」 「坊主か、とはどうじゃ」 「そんなら、坊さん。行き当たりついでに、ちょっとものをたずねる……」 「けったいなたずねようやな」 「きょうは降りかな」 「フリや……。褌《ふんどし》を欠いとるわい」 「なにをいいやがるね。どこまでまちがうのやろ。……あ、むこうに魚屋が走っとる。魚屋は日和を見るのがうまいやろ。オーイ、魚屋、大降りやあるまいか」 「大鰤《おおぶり》はないが、鰆《さわら》があるね。鰆を切るか」 「あほいえ。俵着るほど、降らしまい」 [#改ページ] 平《ひら》の蔭《かげ》  一席、おつき合いのほどお願いしておきます。  相変わりませず、頼りないやつを引っぱり出しますのが一番お罪がございませんが……。ただいまは義務教育というものが実施されまして、字が書けん、字が読めんというお子達は一人もございませんが、昔は大人でも字の書けん、読めん人が、大勢いはったそうで、またそういう人に限って、人前ではいっかど、さも字が読めるような顔したがるもんですが、えてしてこういう人が恥をかいたそうで……。 「今日は」 「おうお、誰やと思うたらお前かいな、まあまあ、こっち入り」 「へえ、おおきに。あんた今、お手すきでっか」 「なに」 「いえ、あんた今、お手すきでっか」 「あんた今お手すきでっかて、見たらわかるやろ手がすいたあるさかい、こうして朝から新聞を読んでんねん」 「新聞、読んではるんでっか。そないして新聞読んではるぐらいやったら、今お手すきでんなあ」 「さっきから言うてるがな、手がすいたあるねん」 「ちょっとあんたに、折り入って頼みがおまんねんけど」 「頼みて何や」 「すんまへんけど、ちょっと見とくなはるか」 「何を」 「いやちょっと見とくれやす」 「何を見るねん」 「へえ、ここに持って来ておますねん。この手紙をちょっと見とくれやす」 「はあ……、ちょっと見たらええのんか、よっしゃ貸し。……見た。見た」 「いや、見てくれはったんは分かってまんねん、そやおまへんねん、それもっとはっきり見とくれやす」 「はっきり……、はっきり見ようが、ちっと見ようがこれは同じや。こら手紙や」 「へえへえ、手紙だんねん。いや、そうやおまへんねん。わたいの言うのはね、その手紙はどこから来たんでっしゃろ」 「どこから来たんでっしゃろて、たいて決まってあるが」 「決まってますか」 「ああ、決まったある。手紙が来るちゅうたら、郵便局から来るのや」 「あたりまえでんがな、ようそんな阿呆なこと言いなはるわ、恥かかしなはんないな、もうこないなったら、恥を忍んで言いま。わたいね、あんじょう学校へ行ってしまへん、学校途中で止めたんだ。そやさかい、わたい字が読めまへんねん、すんまへんけど、その手紙くれはった人の名前、へえ、そうでんねん、差出人の名前、それちょっと読んどくれやす」 「……読むのん、それやったら初めにやで、ちょっと読んどくなはれ、となんで言わんねん。お前がちょっと読んどくなはれちゅうたら、今忙しいちゅうて断るのや。ちょっと見とくなはれちゅうさかい、うっかりして見たんや。ほで、お前自分で読めんの」 「へえ、あきまへんねん」 「あきまへんねんやないで、ええ若い者がやで、手紙の一本ぐらい読めいでどないするねんな、エエ。いやいや、まあなあ、わしをたよって来てんさかい、そら手紙の一本や二本、百本でも読まんことはないでえ。読まんことはないけど、お前もちょっと考え」 「何を考えまんねん」 「何を考えまんねんやあれへんがな。そやろ、お前とこへやで、こないして手紙くれはる人があるのや。お前とこへな、お前とこへ手紙くれはる人があるのやさかい、誰がくれはるか心当たりはないのんかい」 「うちへ手紙くれる人の心当たり……。へえ……。ちょっと待っとくれやす、考えま。そうでんなあ、うちへ手紙くれはる人ちゅうたら、よっぽどわたいを知らん人でんなあ。わたいが字読めんのに、そのわたいのとこへ手紙くれてどないしまんねんな。それ分からんと手紙くれる人やさかい、多分あの阿呆のおっさんやろと思いますわ」 「阿呆のおっさんて誰や」 「へえ、あの上町のおっさんですわ」 「ちょっと待ち、合うてるか、合うてへんか今読んだげる。……当たった。お前が言うとおり、こら上町のおっさんからや」 「書いてまっか」 「ちゃんと書いたある。上町の阿呆のおっさんよりと……間違いない。分かったやろ」 「あのすんまへんけど、手紙も読んどくれやす」 「手紙も読むのん、手紙も。お前、嫌いや、そうしてすぐに甘えるやろ、ちょっとわいが甘い顔してやで、読んでやったら、すぐに手紙まで読んでくれて、そういう厚顔《あつかま》しい根性ではあかんで。ええ、どうしても読んでくれてか。まあなあ、お前が読んでくれちゅうねやったら、手紙の百本や二百本、読まんことはないで。そやけど、だいたい手紙てなもん、人に読んでもらうもんと違うで。そやないかい、中にやで、第三者に読まれたら都合の悪いことが書いたあるかも分からん、そやろ、それをばやで、赤の他人のこのわしに読んでくれてな、そういうことは第一……待ち、待ち…‥オイ」 「何です」 「おっさんとこ、誰ぞ死にはったんと違うか」 「ハアー、分かりまへん、へえへえ、分かりまへん。なんしあんた、おっさんもおばはんもねえ、あの齢でっしゃろ。そうどっちかが死んだに違いおまへんわ、ホデ書いてまっか」 「いや、手紙はまだ読んでへんがな、昔から、このなあ、何か不幸があった時には薄墨を使うのや、ホーラずいぶんに薄い墨が使うてあるで……見てみ、皆目読めんぐらいに薄いねん」 「それ裏と違いまっか」 「裏……当たった、裏や。アア、心配せんでもええ、こら不幸があったんと違う。それが証拠に、ずいぶん濃い墨で書いたあるわ。なるほど。阿呆のおっさんよう書くなあ。阿呆のわりには書き過ぎやで、こら。この阿呆になった原因は書き過ぎやな、こら。どうや、ぎょうさん書いたあるわ。おまけにこの手紙、始めから終いまで全部字イや」 「当たりまえでんが。何と書いておます」 「アア、今読んだげよ……。ハアハア、ハア、アなるほど、ハーンそうか。ハア、ハア、ヘーエ、なるほどなあ、ハア……。ハア、アッハハハ、あ、そうか。なるほど、アッハー、えらいおもしろいなあ、分かった」 「わたいちょっとも分かりまへんわ。すんまへん、声出して読んどくなはれ」 「声出して読むのんか、大体なあ、手紙てな物は声出して読むもんと違うねん、黙読ちゅうて、心で読まないかんねん。まあお前が声出してくれちゅうさかい、声出して読むけど、言うとくで、わしゃ声出して読みかけたら、すーっと読むさかい、お前途中ですんまへん、そこもう一ぺん読み直しとくなはれ、ちゅうても読み直しはせえへんで。しっかり聞きや。前文御免下されたく侯。陳者《のぶれば》、拝啓御無沙汰しましたが。前略御免、と。どや速いやろ、今わしが読んだ中で、お前どれが好きや」 「何を言うてなはんねん。そんなもん好きも嫌いもおますかい、あのね、その手紙、書いてあるとおり読んでくれはったら、よろしいねん」 「えらそうに言うな。手紙に書いてあるとおり読んでくれはったらよろしいて、阿呆のおっさんの昔の文句のやで……。この難しい文句やで、この書いてあるとおり読んで、阿呆のおっさんの甥《おい》やろ、お前は。やっぱし阿呆やないかい、お前みたいな阿呆に、この難しい文句が分かる道理があれへん、そやろ」 「そんなに難しい文句で書いておまんの」 「ああ難しいで。わしなればこそ、これ分かるねん、他の人が読んだかて、とても分かれへんで。その難しい文句をやで、わしがたとえ読んだところで、お前に分からなんだら読んだかて、何にもならんねん。そやろ」 「そない難しい文句やったら、えらいすんまへん、わたいに分かるように、それを易《やさ》しいにくずして読んどくれやす」 「くずして、易しいに、よっしゃ。その方がわいは得意や。ホナくずして読むさかい、しっかり聞きや……。長いこと会わんけど、どないしてんねんな、ちょっとお訊ねいたします……か」 「長いこと会わんて、二日前に会うたんでっせ」 「会うたん……。あのなあ、そういうことは先に言うときや。こっちはやっぱり手紙読む都合があるやろ。わしが手紙読む前に、甚兵衛はん、すんまへん、読みはる前にちょっと言うときますけど、実は二日前に会いました、と。ちゃんとこう言うとかんかい。ホナこっちは読みようがあるねん。……アーア、なるほど、心配せんでもええ、ちゃあんと書いたある」 「ちゃあんと書いたあるて、何が書いておます」 「長いこと会わんと思うたは、わしの思い違いやった。つらつら考えてみるに、二日前に会うたわねえ、とちゃんと書いたある」 「やっぱり会うたと書いておまっしゃろ」 「書いたある。ホデお前、おっさんにどこで会うた」 「どこで会うたて、わたい、おっさんとこの家へ行ったんだ」 「家へ行ったん……。アなるほど、書いたある。一昨日は、うちまで来てくれたが、あの時はなんの愛想もなかったなあ、とちゃんと書いたある」 「阿呆らしい、愛想ないどころか、上等の鰻丼《うなどん》を御馳走になっただ」 「そやろ、書いたある」 「何んや、わたいが言うと書いておまんねんなあ」 「書いたあるさかい、書いたあるというてるねん。何を吐かしとんねん。文句言うのやったら勝手に読め。お前読まれへんやないかい。人に読ましといて、いちいち文句言いやがって、しっかり聞け。……あの時にお前に上等の鰻丼を食わしてやったが、あの鰻丼は美味かったか、ちょっとお訊ねいたします……」 「あのねえ、手紙ちゅうのはそんなしょうむないことばっかり書いたある物でっか。もっと肝心の事が書いておまっしゃろ」 「書いたあるが」 「そやさかい、それ読んどおくれやす」 「そらあ、読むことは読むけど、お前は、この手紙は何が書いたあると思う」 「何が書いたあると思うて、上町のおっさんから来た手紙でっさかいね、たいてい分かってるんだ」 「ホナ読む必要ないやないか」 「そやけどせっかく来たんだ。ちょっと読んどおくれやす」 「読むが、お前なんぞ心当たりはあるのんか」 「へえ、あのおっさんに、お膳頼まれたん」 「お膳、お膳なあ……。ああ、お膳のこと書いたあるわ、ところでこのお膳は何のお膳や」 「なんのお膳て御飯食べる時のお膳でんが。祝い膳、知ってはりまっか、祝い膳。いえ、あのね、来月、月見しまんねん、おっさんとこが。その時にお客さんに出すお膳が足りまへんねん。上町のおっさんとこ、知ってはるとおり、大きな家でっしゃろ。あの大広間で月見しまんねん、で、お客さんに出すお膳が足りまへんのやけど、家にぎょうさんおますので、家のお膳貸してくれちゅうさかい、ああおっさん、いつでも貸すでえ、ちゅうたら、今のところでは人数が分からんさかい、人数が分かり次第、改めて知らすさかい、その時は頼むでえ、とこない言うてたん。おそらくそれが書いておまっしゃろ」 「……お前にこないだ頼んどいた、来月の月見に使うお膳、ぜひ貸してくれ、よろしく頼む、とちゃんと書いたある」 「いえ、それは分かってまんねん、数が書いておまっしゃろ、数が。改めて知らすちゅうてたんだ。お膳の数、何人前なら何人前と、書いておまっしゃろ」 「書いたある。いちいちごちゃごちゃ吐かすな、なおお膳の数は全部で、ウン人前貸して下さい」 「すんまへん、読み直さして悪いんですけど、そのお膳の数のとこ、もう一ぺんはっきり読んでもらえまへんか」 「うるさいガキや、そやさかい嫌いや、人に甘えるだけ甘えやがって……、なお、お膳の数はウン人前貸して下さい……」 「ああ、十人前でっか」 「そうやがな、分かったか。右よろしくお願いいたします。まずはこれにてさようなら、と、どや、この難しい手紙全部読んだ、ナ、分かったやろ、帰り」 「全部読んだて、手紙もう終いでっか」 「終いやがな。まずはこれにてさようなら、と書いたある。手紙これで終いや」 「おかしいなあ」 「何がおかしい」 「盃も貸してくれ言うてましたん、それ書いてまへんか」 「一ぺんに言え……。ああ書いたある。さようならと書いたことは書いたが、なおその上に盃もぜひお貸し下さい。今度こそほんとうにさようなら。もうほんまにさようならや、もう帰り」 「しかし、あんたえらそうな顔してねえ、えらそうなこと言うて、あんた一本の手紙も読まれしまへんねやろ」 「読まれしまへんねやろて、この手紙読んだやないかい」 「読んだやないかいて、ええ加減なこと言いなはんな、あんた、それやったら、わたいが盃のこと訊ねるまで、なんで読みはれしまへんねん」 「盃は書いたあることは書いたあるのやけどな、お膳のかげで見えなんだんや」 [#改ページ] 仏師屋盗人《ぶっしやぬすっと》  ひとくちに盗人と申しましても、その種類はずいぶんとたくさんございまして、まず山賊に海賊、馬賊、盗賊、巾着切り、掏摸《すり》、チボ、万引き、おいはぎ、昼鳶《ひるとんび》、宵《よい》こそ、土砂流し、蛸《たこ》釣り、箱乗り、板場稼ぎ、踊り込み、説教強盗、浪花節強盗、それに安来節強盗といろいろにありますけれども、山賊とは山で働くので山賊、海で稼ぐので海賊、馬に乗って泥棒するから馬賊。  これはちょっとたよりないことでっけど、盗賊というやつ、これは戸の外でうちらのようすをうかごうているあいだ、泥棒の胸がぞくぞくするので、とおぞく。そいで、うちらへはいると胴が坐るので、ド盗人。金のはいったのを、チャクリッと切るので、巾着切り。掏摸は往来で、すりちがう刹那にとるので掏摸。関西でいうチボ、これは関東の掏摸でございますが、チボをつかまえると、棒で頭をなぐる。血が出て、血がつく。そこで、ちぼ。  万引きは、ひとの間《ま》を見て、品物をひいて盗りますので万引き。おいはぎは、むこうへ行く人を、オーイと呼んで、はぎとるさかいおいはぎ。昼のあいだに、品物をかっぱろうて、とんでしまうさかい昼鳶。宵こそは、日の暮れまぎれに、こそこそと盗むので宵こそ。土砂流しは、ロシア人がはじめてこの方法で泥棒をやって、つかまって島流しにされたのでロシア流し。  蛸釣り、箱乗り、それから板場稼ぎ、これは、風呂屋でひとさんの着物をちょうだいするやつで、ときによっては桁丈《けたたけ》の合わん着物を着てることがございますな。 「モシモシ、あんたの着物、えらい桁が短こうおまっせ」 「いや、手が長いので」  踊り込み。こんな泥棒はあれしまへん、おどし込みがほんまやそうで……。  踊り込みなら、はでな長襦袢に緋縮緬の手ぬぐいで頬かぶり、扇ひろげて踊りながら、 「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ。こりゃこりゃ、こりゃこりゃ。ごめん。お金をあるだけ、ここへ出してんか」 「なんじゃ、泥棒か。お金はないで」 「ないなら帰ります。こりゃこりゃ、えらいやっちゃ、えらいやっちゃ」  これでは泥棒になっても、金は盗れまへん。  説教強盗に浪花節強盗。これはよその家へはいってから、浪花節で脅迫の文句をならべます。そこへ巡査がやって来まして、一物をも盗らずに逃げるところを、つかまえられて縄目の恥。  これこそ、♪あれやこれやの手ちがいから、うけてこうむる身の恥辱……。  てなことになります。  変わってるのが安来節強盗で、 「金出せ、金出せ、出さなきゃ、これよ」  と刀を出す。  すぐ、交番へ訴える。  さっそくに巡査がやって来ますが、洞棒は雲を霞と逃げたあと……。 「泥棒はどこか」 「あら、行っちゃったあ」  説教強盗やおどし込みというのは、居直りでございまして、ご維新前は、笠の台〔首〕がとんだもんやそうで……。首がとぶというのも、これ、具合の悪いものでして、道を歩いても見当がつかん。  大掃除のとき、畳をかついでも、ペチャッとなって、勝手が悪いので困ります。  ともかく、昔は十両の金を盗ると、首がとぶ。  そこで、どうして九両三分二朱。十両よりちょっとでも少ないと、命は助かります。  江戸の霊岸島に左官の亀五郎というのがございまして、この男が、十両盗んで打ち首になるときに詠んだ辞世が、  ♪万年|齢《よわい》を保つ亀五郎 たった十両で首がすっぽん  夜中の二時もすぎ、三時ちかい刻限。  家の外で、バリバリ、バリーッ。  バリバリ、バリーッ……。 「あーあー、かなわんな。うちはえらい鼠やなあ。やかましいて、寝られへんがな。シーッ、シーッ」  バリバリ、バリーッ。 「あ、鼠やないで。人や。だれや、おもてをこぜてるのは……。どなた」 「シーッ」 「なんや、おもてから追うてるで」  バリバリ、バリーッ。 「だれや、戸をつぶしよったで。むちゃな奴やなあ。開けいなら、開けというたら、開けてやるのに……。だれや」 「やかましい」 「おとなしい寝てたんや。やかましいんはあんたやがな。だれや」 「おれは盗人《ぬすっと》や」 「あ、盗人はんか。まあおはいり。まあおはいり」 「まるで古手屋〔古着屋〕やがな。オイ、ほざいたらあかんで」 「あんたが、ほざかしに来たんや」 「目にもの見せるぞ」 「あたりまえやがな。目でなにが見えるねん」 「四の五のいうな。二尺八寸|伊達《だて》には差さぬ」 「ふるい≪せりふ≫やな。二尺八寸伊達には差さぬ。いまは、もう、尺貫法ははやらへんで。そこをもうちょっと延ばして、メートル法でどや。三尺三寸、一メートルぞ」 「なにぬかしてるね。仁輪加してけつかる」 「じっとしてや、動いたらあかんで。いま、お前はんの刀の寸法、はかってるとこやさかい。……なんや、しようもない二尺八寸て、一尺八寸しかあらへんがな。嘘つきやなあ、嘘つきは盗人の……。あ、もうなってんねがな、この人は」 「ばかにするな。フーム、おれがこわいことないのやな、オイ、ちょっとこわがったらどうや、たよりないわい」 「そうか。ほな、こわがりまひょ。コワッ、コワッ、コワッ」 「蛙の鳴き声やがな」 「そんなら、どないいうたらええのや。むりなこという人やなあ。……しょうがない。こわがりなおしをしまっさ。アレ、盗人さま、こわいわいなあ」 「芝居の子役やがな」 「モシ、刀を鞘へおさめなはったな。べつにおさめんかて、なにもにぎやかせにならべときなはったらどうだす」 「夜店みたいにいうな。暗いさかい、そんな勝手なことがいえるねん。……オイ、灯をとぼせ」 「ちょいちょい、むりいう人やな。立ってるついでに、あんたがとぼしたらええやないか。ソレ、右の手をのばしたら、敷居の上にマッチがのったある。右手、ソレ、右の手、右の手、右の手やいうのに。いいや、それは左やがな。右がわからんのか。ご飯食べるとき、箸をもつほう。そうそう、あったやろ。……ずーっと、そこらを探ってみて。うしろに小さい棚があるやろ。その上に、置きランプがある。石油がまだのこってるやろ。……気ィつけて行きや、上の棚が低いよって……」  ゴツン。 「あ、ソレ、頭を打ってる。不器用な盗人やな」 「ごつごついうない。いま灯をつけるさかいな……。どこにけつかるねん」 「きたないもののいいようやな。どこにけつかるねん。へん、ここにけつかるわい」 「金を出せ」 「おまへん」 「あっさりいいやがったな。おまへん、さよか、では、おれは帰らんぞ」 「ないものが盗れるかいな……。けど、せっかく来てくれてん、なんなと持って帰らすさかい、まあ、ゆっくりしなはれ。夜道に日は暮れへん」 「はようせえ」 「やかましいいいなはんな。退屈してるねん、煙草、もってなはるか。一服よんでんか」 「ばかにしてけつかる。さ、くらえ」 「へえ、おおきに……。なあ、気のええ盗人はんや……。えらい上等の煙草入れやな。これもやっぱり、盗んで来なはったんか」 「ほっとけ……さあ、はようくらえ」 「はばかりさん。夜中に目がさめて、一服つける煙草はうまいなあ……。ええ煙草をのんでるな。ぜいたくな煙草やがな、気のいらん銭で買うさかい」 「おかしなものいいするな」 「しかし、うっかりしてたが、見りゃ、まだ年も若いし、相当に教育もありそうな男やが、腹からの盗人でもなかろう……。そうやろ、そうやろ。学校か……ちがう。ハハン、会社へ行っててんな。馘首《でし》になったんやろ……。そうやろとも。そいで、食えんが悲しさにやってんやろ。しいなや。ふた親があるのやろ。親がこんなこと聞いたら泣くで。食えんというのなら、よけいなこともでけんけど、その三つひきだしの上をあけると、多くもないが三円はいってる。さがしてみ、あったやろ。……あったら、遠慮せんと持って行き。きょうのとこはそれでしんぼうして、また終廻《しまいまわ》りにたずねてみ」 「背負いの商人みたいにいいやがるねん」 「気をつけて帰りや」 「オイ、返さんかい」 「なにを」 「煙草入れを」 「あ、忘れんとおぼえてるか」 「おぼえてえでか」 「おおき、ごっつおはん」  あんまり落ち着いてるので、盗人のほうも気味が悪うなりまして、どううろたえたか、奥の間と中の間の障子をば、がらっとあけて、むこうへ出ますと、うしろに灯《あか》りがある。その前へ、大きなものが立ってるので、盗人、びっくりしよって、刀を抜いてスパッ……。 「こりゃ、なんじゃ」 「なんじゃえらい音がしたが、どうしたんじゃ。ひょっとしたら粗相をしたんやないか」 「われとこの家は気味の悪い家やな。ここに大きな坊主が立ってるさかい、首を斬ったんや」 「えーっ、コレ、むちゃしないな。えらいことをしてくれたな。おれとこの商売は仏師屋や。河内のお寺から賓頭盧《びんずる》さんの首のとれたんを、継ぎにもって来て、あずかったあったのを、きょうの日が暮れに急《せ》きにきよったんや。明日の朝、受け取りに来る、というさかい、継いでおいてあったのを、落としてどないするねん。お前はんにやった三円は、その継ぎ賃にとおいていきよった金やがな。その銭は持って行くわ、せっかく継いだ首は落とされるわ、こっちゃ上がったりや……。さ、手伝い」 「あーあ、わしはまた、なんと思うて、こんな家へはいって来たんやろ」 「ぼやくな。自分がしくじっといて、ぼやく奴があるかいな。こっちへおいで。その揚げ板の上に、膠鍋《にかわなべ》があるやろ、さ、それを出し。それから、七厘《かんてき》に消炭《からけし》をついで、そうそう、火をいこして膠《にかわ》を煮《た》いて、それが煮えたらわしを起こせ」 「しんぼうして聞いてたら、わしを丁稚のように思うてけつかんね……。オイ……煮えたで」 「よっしゃ。首はどこ……。やあ、こんなとこへ落ちてる。ほんまに、ろくなことせんやつやな。傷つかへなんだか……。ようまあ、傷のつかなんだことや。傷ついてたら、塗りなおしにやらんならんとこや。ほんまに、しょうもないことしやがって……。こうやってな、小刀で、もとの膠を削らんことには、膠がつかへん。……さ、これでよしと。うまいことついたかいな……。それ見てみい。夜業《よなべ》仕事やさかい、膠がはみ出してきて、せっかくの仕事が汚のうてならんがな。……まあ、ええか、よっしゃ。オイ、膠鍋をなおして火を消して、おもてをしめて帰り」 「へえ、これで三円……。ぼろい商売やなあ」 「なにがぼろい。わしとこはな、これだけでも、手を動かさんならん。そうせんと、三円でももうからんのや。それにくらべて、お前はんはどうや。お前らは、ニューッとはいって来て、三円持って帰るねん。お前のほうがよっぽどぼろいがな」 「フーン、あほらしなってきた」 「あの盗人、あわてものやな。せっかくやった三円の金をここへおいて、膠鍋を提げて行きよったで……。オーイ、オーイ、盗人やーい、盗人やー」 「オイ、コラ……。なんじゃ、おれが帰るに帰れんようにしやがる。大きな声で、盗人盗人と呼びやがって、いったい、なにごとじゃい」 「おこりないな。お前の名がわからんさかい、盗人やというたんや。すべて名のわからんときは商売で呼ぶときまったものや。八百屋でも名のわからんときは八百屋。魚屋でも名を知らなんだら魚屋や。お前かて名がわからん。商売が盗人やさかい、盗人屋、盗人屋」 「どついても音のせん奴やな」 「コウ、もっと度胸玉を臍の下へ落ち着けよ。ようそんな肝玉で泥棒ができたもんやな。おれも男や、いっぺん出したものは後へはひかん。銭を持って帰れ。お前の手を見てみい。膠鍋を提げてるやないか」 「アッハッハッハッ」 「あ、笑うてよる。たよりのない奴《がき》やな」 「承知で持って帰ったんじゃ」 「負け惜しみの強いこというない。承知で膠鍋を提げて帰ってなににするねん」 「首が落ちたとき、継いでもらうねん」 [#改ページ] べかこ  一人旅のお噂でこざいます。  名前は、泥丹坊堅丸《どろにぼうかたまる》と申します。  田舎まわりの噺家で、所々方々を巡業いたしまして、肥前の武雄《たけお》の湯治場に、大黒屋市兵衛と申します旅人宿がございますが、その宿へ泊まりこみまして、湯治客のお座敷をつとめておりました。 「オーイ、二階の泥丹坊堅丸先生、ちょっとしたへ降りておいで」 「へえ……。旦那、なんぞご用で」 「ええ口がかかったで」 「へえ……ええ口、といいますと……」 「この土地の殿さまのお姫さまがご病気で、いま、お床に臥しておいでなさる。そのおかたのお気慰みに、なんぞおもしろいことをやる芸人はないかと、お城から菅沼軍十郎さまというお侍が、いま、うちへたのみにみえた。そこで、わしは、上方から噺家がまいっておりますと、先生、あんたのことを申しあげたら、早速つれてまいれ、ということや。なにしろ、御前へ出て噺をお聞かせ申すということは、あんたのほまれでもあるし、その上、たいしたお礼金が下がるやろ。どや、ええはなしやろうが……」 「それは、どうも、ありがとうございます」 「それではな、いまのうちに、風呂へでもはいって、仕度をちゃんとしてきなされ」 「へえ、おおきにどうも」  身仕度ができますと、宿の亭主は、泥丹坊堅丸をつれて、佐賀の御殿へさして、やってまいります。  通用門からはいりまして、お玄関のところで、 「ええ、おたのみ申します」 「あ、だれだ、だれだ」 「へえ、大黒屋市兵衛でございますが、先刻、菅沼の旦那さまがおいでになりまして、おたのみになりました芸人をつれてまいりました」 「おお、大黒屋市兵衛まいったか」 「これはこれは、菅沼の旦那さま……。ここにおりますのが、泥丹坊堅丸と申します噺家で」 「ああ、さようか。フム、そのほうが泥丹坊堅丸という噺家か」 「御意にござります」 「なるほど。どうも、噺家だけに、ずいぶんおもしろい顔じゃな」 「ありがとう存じます」 「このたび、お姫さまがご病気につき、お気慰みにお伽ばなしをば申しあげるのじゃが、なるだけ、おもしろいことをやれ。噺家の、わけのわからぬ固いことは、じつに聞き苦しいから、ざっぱいなるがよいぞ。と申して、猥褻《わいせつ》のことなぞお耳ざわりになるから、なるべく、おもしろい、きれいな噺を申し上げろ。よいか。あ、それから、大きな声は出すな。お姫さま、ご病気であらせられるから……と申して、小さな声はいかんぞ。聞こえぬから……」 「承知いたしました」  堅丸は、うつむいて、しきりにお辞儀をしておりますと、お姫さまのお手飼いの、ちんころが、そこへ出てまいりまして、堅丸の額口《ひたいくち》をば、ペロペロと舐《な》めまわします。 「あ、心地のわるい。シャイシャイ」 「あ、こりゃこりゃ。ちんころが噺家の額口を舐めておる。湯をもってきて、洗うてやれ」 「いえ、大事ござりまへん。おちんさまが、お舐《ねぶ》りになったのでございます。どうぞ、おかまいくださりませんように……」 「いやいや。そのほうの額をあらうのではない。ちんの舌を、洗うてとらすのじゃ」 「おお、噺家の額は、ちんの舌より汚いもんとみえる。ああ、情けない……」  ご家来衆が、お茶とお菓子を運んでまいりますと、市兵衛はそれをいただいて、ひきとりました。あとには堅丸が一人。結構なお菓子をいただいて、渋いお茶を飲んでおりますと、 「しかし、噺家。噺をば申し上げるのに、なにか入用なものはないか」 「へえ、なにとぞ見台《けんだい》を拝借いたしとうござります」 「フム、当御殿には、見台というようなものはないが……」 「さようなれば、下駄箱か米櫃《こめびつ》でも……」 「こりゃこりゃ。下駄箱だの米櫃だの、そのようなものが御前へ出せるか」 「それでは、なにかお机でも」 「よしよし。机なれば、いかようなものでもあるわ……。そのほかには」 「ええ、燭台を二挺」 「ウン、燭台を二挺」 「それから、お火鉢を一個と、土瓶にお白湯《さゆ》でも……」 「土瓶……、土瓶というようなものはない。銅の湯沸しでもよいか」 「へいへい、金瓶でも銀瓶でも結構でございます。お盆に、お湯呑みをどうぞ、添えていただきとう存じます」 「ウム、よしよし。それだけでよいか」 「それで結構でございます」 「ところで、どうじゃ、噺家。当御殿を、拝見させてやろうか」 「ありがとう存じます。ぜひ、拝見をねがわしゅう存じます」 「よしよし。拝見しておけば、また噺の種にでもなるであろう。……案内をしてとらす。さあ、まいれ」 (鳴り物六段)菅沼さまが、先に立って、襖《ふすま》を左右に、さーっと開けましたが、なにしろお姫さまの御殿、襖でも、一間半四枚建て、というような小さな襖やございまへん。一間一枚という、大きな襖……。 「どうじゃ、噺家」 「立派なものでござりますなあ」 「この間は松の間じゃ」 「へえ、よう描いてござりますな」 「ウム、よく描いてあるじゃろ。この絵は、狩野古法眼光定《かのうこほうげんみつさだ》の筆じゃ。……さあ、この絵も、おなじく光定の描かれた、桜の間じゃ」 「結構でござりますな。わたしのような、わからん者でも、おどろきいります」 「立派なものであろう」 「どうも、おそれいりました」 「さ、この間が、すなわち、梅の間じゃ」 「へえー……、この絵は、どなたの絵でござります」 「この絵も、やはり、光定じゃ」 「へえー……この間は梅の間でござりますか」 「そうじゃ」 「なるほど。松の間に、桜の間に、梅の間。合わして、都合、三光《さんこう》の間でござりますな」 「コレ、三光の間とはなんのことじゃ」 「いえ、それは、あなたがたにはご存知ないことで……」 「さあ、こっちへまいれ」 「へえ。この間は、なんの間でござります」 「この絵は、元信先生の描かれたものじゃ」 「へえ、やっぱり……」 「狩野家じゃ」 「狩野古法眼元信でござりますか。へえ、なるほど……、牡丹でござりますな」 「そうじゃ。この間は牡丹の間じゃ」 「この蝶々が、ほんまに生きて飛んでるようでござります。よう描いてございますな」 「この間が菊の間。やはり、絵は元信先生じゃ……それ、この間が、すなわち紅葉の間じゃ」 「どれもこれも、結構なお部屋でござりますな。牡丹の間に、菊の間。この部屋が紅葉の間……。やっぱり、都合、紫の間で」 「紫……、なんじゃ、その紫とは」 「いえいえ、これもご存知のないことで……」 「ときどき、わからんことを申すなあ。この間が休息の間であるから、しばらく、ここで休息いたせ」 「おそれいります。へえ……これが休息の間でございますか。休息の間というても、うちの家より、よっほどひろいがな……」 「ときに噺家。どうじゃ、御膳でも食すか。それとも、酒でも出してやろうか」 「いえいえ、こちらへうかがいますまえに、すましてまいりました。またあとで、ご用ずみになりましてから、ちょうだいいたしますでこざいます」 「さようか。しからば、しばらく、ここに控えておれ。用意ができたれば、案内いたすで」 「ありがとう存じます」  堅丸がじっと控えて待っておりますと、つぎの間では、腰元の衆が、わちゃわちゃと、なにか、ささやいておりまして、 「あの、紅葉さん、桔梗さん、菖蒲《あやめ》さん……」 「なんや、花札みたいな名前ばっかりやな」 「モシ、今晩は、お姫さまのお気慰みに、大黒屋市兵衛の周旋で、上方の芸人がまいっておるそうでこざいますが、どれにおりますえ」 「はい、そのものは休息の間におりますわいな」 「さようにござりますか。芸人のことでござりますゆえ、さだめし好い男でござりましょう。なにをしているか、ちょっと、のぞいてみようではござりませんか」 「それはよろしゅうこざいます。さあ、おのぞきあそばせいなあ」  襖のすきまからのぞきますと、 「ホッホッホッ。ちょっと、ごらんあそばせ。あれはなんでこざいます。あたしは、芸人というからには、さぞ好い男であろうと思いましたのに、あなた、まあまあ、色の真っ黒な、まるで鼻などはあおむいて、水桶の紐《ひも》通しみたような顔でござりますわいな」 「ほんに、まあ。猫が茶を吹いた、ということを申しますが、まるでちんが茶を吹いたような顔ではござりませぬか」 「さようさよう。まるで太神楽《だいかぐら》の獅子のような鼻で……。ホッホホホ、妙な顔ではございませぬか」 「コラ、なにをぬかすのや。むちゃくちゃ、いうてよる。人の顔を太神楽やの、ちんが茶を吹いたやの……。そんな、けったいな顔があるものか。……待て、待て。ようし。そないぬかしやがるのやったら、ひとつ、びっくりさしてやるぞ」 「なんと、ごらんあそばしましたか。噺家の顔は、おもしろい顔ではござりませぬか」 「いえいえ、噺家なんて、いてやしまへんで」 「はて……。いま、そこにおりましたが、どこぞへまいりましたのかいなあ」  と、腰元がのぞくところを、堅丸は、口に指を入れて、ベカコーと、襖を開けて顔をつき出しました。たださえ、おもろい顔が、ベカコをしたもんですさかい、腰元はおどろいて、 「アレー」  ざまみやがれ、というので、調子にのって、ベカコ……と、腰元を追いまわします。さあ、こうなると、御殿は大さわぎ。廊下を腰元がバタバタ走る。なかには、目をまわすものもあるかと思うと、癪《しゃく》を起こすものもある。ご家来はおどろいて、さっそく、菅沼軍十郎に、この由《よし》を申し上げます。 「汝、噺家の分際で、御殿をさわがすふとどきな奴。なにか謀反のきぎしでもある奴ならん。みなのもの、怪しき噺家を、打ってとれ!」 (鳴り物・打込み)  おおぜいの家来が、 「泥丹坊堅丸、ご上意」  相手は武士、こっちは噺家、とうていかなうわけがござりまへん。とうど、高手小手にしばられまして、柱へくくりつけられました。 「モシ、けっして悪気があってしたんやござりまへん。お腰元の衆が、わたしの顔を見てヤレちんが茶を吹いたとか、太神楽の獅子みたいやとか、おっしゃいましたので、わたしも、つい、虫の居所がわるうござりまして、ほんのたわむれに、ベカコをしたのでござります。けっして、ほかに、わるいことをしたのではござりまへん。どうぞ、この縄目をといて、おゆるしなされてくださりませ」 「馬鹿を申せ。そのほう。噺家として当御殿へまいり、休息のうちに、腰元どもにベカコをいたしさわがせし罪により、今宵はこのところへしばりおくゆえ、さように心得よ。よいか、明朝、鶏が東天紅と鳴いたなれば、そのほうの縄目をばゆるしてつかわす。それまでは、必ず、この縄目をとくことはかなわぬ。わかったな」 「モシ、菅沼の旦那さま、モシ、軍十郎さま。どうぞ、縄をといてくださりませ」  堅丸は、くくられたまま、さしうつむいて、泣きだしましたが、そんなことには頓着なく、役人は引きとってしまいました。 (地唄『鳥の声』) 「ああ、わたしはこのように、縄目にかかっているが、国にいる母者人や妹は、旅でよいお座敷をしてもらい、銭をもうけて酒でも飲んで、おもしろう暮らしていると、思うているやろう。よもや、ベカコをして、ここで縄目にかかっているとは、思うていまい。ああ、情けない。ベカコをしたばっかりに、このいましめはなにごとぞ。いま、菅沼軍十郎さまのおっしゃるには、明朝、鶏が東天紅と鳴いたならば、この縄目をといてやろうとおっしゃった。なかなか、夜があけるまでには、よほどの間がある。昔、唐土《もろこし》の秦の昭王のころ、孟嘗君《もうしょうくん》という人あり、鶏の物真似をして、函谷関《かんこくかん》の関の戸をぬけたるためしあり。どうも、わしは、鶏の声色はようせん。あの衝立《ついたて》に描いてある鶏は、狩野永徳の描きし鶏。コレ、鶏や。そのほう、性根があるならば、ただ一声、東天紅と鳴いてくれい」  と、申しますと、あら不思議や。衝立に描いてある鶏が、すーっと、ぬけ出しました。 「ちえッ、かたじけない。そんなら、いま、わしがいうたことが、そのほうに通じて、ぬけてくれたのか。ああ、かたじけない。どうぞ、一声、東天紅と鳴いてくれやい」  と、鶏が、バタバタバタバタッと、羽ばたきをして、 「ベカコー」 [#改ページ] 舟弁慶《ふなべんけい》  時候に合わせまして、夏のお噂を一席。 「うちにいるか」 「いよう、清やんか。まあはいって」 「なんと暑いやないか。まるで、蒸されてるような心地やがな。また、この暑いのに、なんと、よう精出してるやないか」 「べつに精出してるというわけやないねやが、じっとしてても、こないに、汗がたらたら流れよる。手でも動かしてたら、気なとまぎれるやろ、と思うて、ぼちぼちやってるね」 「えらい。そこへ気がつくとは感心や。そらそうや。手を動かしてさえいりゃ、気がまぎれて銭がもうかる。ああ、そらそうと、えらいひっそりしてるな。小指《これ》は留守か」 「うん。きのう、上町のおっさんのぐあいが悪いいうて、知らしにきたんで、見舞いに行って、まだ帰ってきよれへんね」 「あ、留守なら幸いや。いてもらうと、ちょっと都合が悪い。というのが、お前とこの嬶、ようしゃべる女やなあ。口のはたにほくろがあるやろ。あれ、しゃべりぼくろ、いうのやで。世間でお前とこの嬶を、お松っつあんというものは一人もあらへんがな。雀のお松っつあん、雷のお松っつあん、と、二つ名がついたある」 「かなわんで、あいつには。明けても暮れても、ガラガラ、ガラガラ、鳴りどおしや。雨も降らんのに、なんで、あないに鳴るのやろ。あれは乾雷《ひがみなり》やろか」 「お前までおんなじようにいいないな。ところで、留守が幸い、というのはほかでもない。こないだ、友だちがよったときに話が出たやろ。だいぶ暑なってきたよって、いっペん舟行きをしようやないか、というてたな。あの話がきまって、きょう行くことになったんや。お前も、あのとき、まじってたさかい、もし誘わなんだら、あとでおこるやろと思うて、ちょっとよったんや。どうや、行けへんか」 「行く行く行く行く。よう誘うてくれた。おおきにありがとう。だれだれが行くね?」 「旦那衆がひとりでもまじってると、気がおけて、飲む酒が身につかん。今日は、われかおれかの連中ばっかりや。花屋の松公に畳屋の猪公、肉屋の丑公に、米屋の米公。金物屋の鉄に風呂屋の勇公。そこへ、お前とわいや」 「心やすい友だちばっかりやな。ちょっと待っててや。なんぞ、蒲鉾《かまぼこ》でも二、三枚買うて、提げていくわ」 「おい、もっちゃりしたこといいないな。舟行きでもしよう、というのに、うちから弁当提げて行けるかいな。魚は浜から活きのええのを、ドンと仕入れて、板前《いたば》が乗ってるね。菰《こも》かぶり一|挺《ちょう》すえて、飲み放題の食い放題や。男ばっかりでは、ごっついていかんさかい、南の芸妓がしらしているねが、みな馴染みばっかりやで。色気なしの年増がおもしろいというので、お松に小松に唐松に荒神松。おちょねに小ちょね、とこんな連中や」 「わあ、行く行く。だれの奢《おご》りやしらんけど、お前から、あんじょう、礼をいうといてや」 「おいおい。ちょっとあつかましすぎやへんか……。そうやがな、いま名前をいうたなかに、だれぞ一人でも、奢れるような顔ぶれがあるかいな。きょうは斬り合いや」 「短刀《どす》持って行くのんか」 「ちがうがな。どたま割り、や」 「やっぱり、鉈《なた》で」 「わからん男やなあ。割前やがな」 「ヘーえ。そしたら割前か、アノ、割前か」 「なんや、顔の色がかわったな」 「そ、ん、な、ら、なーん、ぼほほや」 「おい、そない震いないな。わずかなもんや。一人前が三本……」 「あ、三百文か」 「阿呆。かりにも芸妓を乗せて舟行きをするのやで。三百や四百の銭で行けるかいな。三分や」 「ゲーッ。三分ゥー……」 「お、眼むいたな」 「むかいでかいな。わいら職人や。三分の銭をもうけようと思うたら、幾日かかると思うね」 「そんなこというたら、おたがい、だれかてや。しかし、もうけるのは毎日で、つかうのはたまや。おい、いつも人の尻について歩いて、よばれるばっかりが能やないで。たまには、自前の酒も飲んでみ。味がちがうで」 「そらそうやろうけど、割前がつらい。わいら、嬶と二人暮らしや。三分がとこ塩を買うといたら何年あるやわからへん」 「お前とはなししてると、癇《かん》が立ってくる。芸妓《げいぎ》つれて散財するのと、塩買うてねぶるのと、だいぶ話がちがうわ。そんなら、まあお前は塩ねぶって仕事してえ。わいらは活きのええ鯛の刺身《つくり》で灘の生一本をチビチビ飲みながら、涼しい風に吹かれて、きれえな女に背中のひとつもたたかれて来《こ》うかい……、ま、さいなら」 「待った、待った、モシモシちょいと清やん。もういっぺんおもどり。そない気ィ短こうせんと、まあおもどり」 「古着屋の店やがな。なんやねんな」 「みんなが、おもしろう遊びに行くなあ、と思うと、仕事が手につかんわ」 「そんならお前も行きんかいな」 「そやけど、割前が三分というと……。ウーン、やっぱりやめとくわ」 「やめるのなら、呼びとめるな。辻を曲がりかけてるのに、呼びもどしやがって」 「行ったらおもろいやろな」 「舟にゆられて白粉の匂いをかざがいてみ、三年ぐらい寿命が延びるぞ」 「ああ、行きたいなあ。けど、なんし、三分というさかい……」 「やめとくか」 「ええい。清水《きよみず》の舞台から飛んだと思うて……」 「行くか」 「やめとくわ」 「やめるのに、清水の舞台からとぶことがあるかい。コラッ、かす。これから途中で逢うても、ものをいうてくれるな。お前らみたいな友だちがあったら、人に面目ないわい。暦を見て、ええ日があったら、眼を噛んで死んでしまえ」 「なんでそないぼろくそにいうね」 「あたりまえやないかい。二分や三分の金でビクビクしやがって……」 「三分の金はかめへんねけど、生きたつかいようがしたいさかい……」 「えらい妙なこというな。ついぞ、お前に死に金をつかわしたことがあるか」 「さ、お前がつかわした、というのやないけど、うっかりすると、銭が死にそうに思うね」 「そらまた、なんでや」 「いまお前がいうた芸妓はみな馴染みや。けど、馴染みというたかて、自分で線香をつけて馴染みになったのとちがうがな。いつでも、ひとに連れて行ってもろうて馴染みになったのや。そうやよって、わいの顔を見たら、めったに銭を出してるとは思いよらへん。いつまでも弁慶にきまってあるよってに、わいのこと、弁慶はんという名をつけやがったんや〔上方の遊里では大尽客を判官《ほうがん》という。これを九郎判官義経に見立てて、そのとりまきを弁慶といった。ここから、人のおごりで遊ぶのを弁慶という〕。しまいには、弁慶はんをひっくりかえして、ケべンはん、やいいやがるね。おなじ銭を出しながら、弁慶はんやのケべンはんやの、といわれたら、三分の割前が泣くやないか」 「おい、相手は商売人やで。きょうは弁慶で来たか、割前で来たか……、ひと目見て、それぐらいの見分けのつかん気づかいはあらへん。もしも、だれぞがお前に、弁慶のべの字でもいいよったら、一文の割前もとらへんがな」 「そんなら、なにかいな。弁慶というものがあったら、割前はいらんか」 「いらんとも。わいが出したる。そやよってに、行き」 「ウーム……三分……」 「まだあんなこというてよる。往生ぎわのわるい男やな」 「じつは、その……きょう、ちょっと懐ぐあいがわるいね」 「ウム、これはいうてやれんわ。だれしも都合のあることや。心配しな。きょうのところは、一時、わいがとりかえておく」 「あ、出しといてくれるか。そんなら、ここに百六十文だけあるの、とっといてんか。三分の内入りに……」 「じゃまくさいがな、そんなこと。またいっしょでええがな」 「それでもあずかっといて。あとは、四十八文ずつ、くずしで……」 「うだうだいうな。サ、はようこしらえしい」  箪笥《たんす》から着物を出して着がえてるところへ、帰ってきたのがここの嬶。  なにしろ、雷のお松と異名をとっているだけに、表から大きな声で、しゃべりちらしてはいって来たものでやすさかい、友だちの清八は逃げ場を失うて、だんばしごのすみに小そうなってかくれます。喜ィ公は着物を着かえたまま、仕事場の真ん中へ、芋虫が頓死したように、へたばってしまいよった。 「まあァ、お徳さん、おおきに。へえ、いま帰ってきました。なんと暑いやおまへんか。……へえ、おおきに、ありがとう。いいえいな、昨日、あないやかましいいうて、呼びに来たもんだすさかいな。あわててとんで行きましたんやがな。行ってみたら、あほらしい、ほんの風邪ひきだんねがな。それをれいのぎょうさんや、いまにも死ぬように、うんうん呻ってますね。わたいの顔を見るなり、ケロッと病気を忘れたような顔してな、よう来てくれた、いっぺん逢いたかったんや、西瓜の冷たいの食えへんか、わいも一切れつき合うで、いうてまんねがな。あきれて、ものもいわれへんよって、すぐ帰ろうと思うたら、伯母はんが、まあ久しぶりに来たんやないか、そない逃げるようにせんかて、しばらくぐらい遊んでおいで、といいはるもんやさかい、ついうっかりして、しゃべってたら、晩のご飯を出してくれはってな。なんぼなんでも、箸をおくなり帰るわけにもいけしまへんやろがな。ちょっと世間ばなしのひとつもして帰ろと思うてたら、伯母はんが、いつもの息子自慢、いつまでたっても話が切れしまへんがな。とうど、夜が更けてしもうて、こない晩おそうに女のひとり歩きは危ない、まあ泊まっていったらどうや、喜ィやんもまさかこわがりもせえへんやろ、といいはるもんやさかい、まあ朝はよう帰ったらおんなじことやと思うて、泊めてもらいましたんや。朝ご飯をよばれて帰りかけたらお医者はんが来はりましてな。伯母はんが薬をもらいに行ってくるあいだ、店番をしてくれとたのまれたらいやともいわれしまへんやろ。番をしてたら、あんな小さい店やのに、せんぐりせんぐりお客さんが、買いに来ますのやがな。伯母はんは店へ出るわ、伯父さんは、やれ水くれの、それ薬を飲ませと、用事をいいつけるし、ごたごたしてるうちにもう昼ご飯。気のわるいことせんと食べていにいな、といいはるさかい、よばれて、帰ろと思うたら日中でガンガン日が照ってますがな。せめて、片影になるまで昼寝でもしいな、あほらしい、ここ何年というもの、昼寝てなことしたおぼえはおまへんわ……いうてるうちに、やっぱり、うつうつとしたもんとみえて、目がさめてみたらちょうど三時《やっつ》。ああ、おおきに長居をいたしました、というたら、お前に食べさせよと思うて、素麺《そうめん》を茹《ゆ》でてるね、もうすぐできるさかい食べていに……。わたいもいやしいやおまへんか、素麺の冷えるのを待って、こんなお茶碗に二杯もよばれて、まだ晩ご飯まで、といいはったのを、振り切るようにして帰って来ましたんや。おおきに、お世話はんでおました。……うちの、いてまっか。さよか、おおきに……また晩に、難波橋へでも涼みに行こうやおまへんか。涼み舟がぎょうさん出てて、にぎやかにおますと……。へえ、ごめん」  鳴るだけ鳴りますと、 「こちの人……。まあ、この暑いのに、よう精が出るやないか。いっぺん、ちょっと一服してやったらどうや。いま隣でいうてたん聞こえてあったやろ。なにも心配することあれへんね、ほんの風邪。……おお、いややの。日中《ひなた》を歩いてきて、うちらが暗いものやさかい、仕事をしてるのやとばっかり思うてたら、着物着がえて、仕事場にへたばってるわ。ちょっと目をはなしたら、すぐにこれや。仕事をほったらかして、どないするつもりや、いいえいな、どこへ行くのんやいな。ガラガラガラ……」 「桑原《くわばら》、桑原……」 「そらまた、なにをいうね。桑原、桑原やなんて。あんたがそんなことをいうよってに、世間の人が、わたいのことを雷のお松てな名前をつけるのやないか。現在、わが女房を雷やといわれて、うれしいのんか、……仕事をしんか。どこへ行くね」 「嬶、ちょっとだけやってんか」 「どこへ行くのんやいな」 「浄瑠璃の会やね」 「コレ、おいてや。お前はん、あれで浄瑠璃を語ってると思うてるのか。豚が喘息《ぜんそく》をわずろうたように、おがおがわけのわからんことをいうて……。浄瑠璃の会やなんて、よういうなあ」 「いや、わいは行く気はなかったんやが、清やんが……」 「清やん、あの清八かいな。なんで、あんなものとつき合うね。友だちもぎょぅさんあるけど、清八みたいないやなやつはあらへん。これという商売もないくせに、大きな風呂敷を肩へかけやがって、ぶらぶらしてよる。あんなやつにかぎって、ド盗人しよるね」 「おい、そんなむちゃをいいないな」 「いうたらなんやいな。人の留守をねろうて、おとなしい仕事をしてるものを誘い出しに来やがって、もうちょっとはよう帰ってきて、清八がいやがったら、向こう脛へ噛りついたるのに」 「そんなら噛りついたりいな。お前のうしろに立ってるがな」 「阿呆。それをなんではよういわんのやいな。……まあ、清はん、おいでやす。暑いやおまへんか。まあまあ、この暑いのに、ちゃんと着物《べべ》着て、他人行儀な。裸になってやったらどうやね。ほんまにいつでも、あんたのこというて、ほめてんねし。甲斐性者やさかい、あんたとこのお芳さんは幸せや。うちら見なはれ。甲斐性がないもんやさかい、年中ばたばた働いて、貧乏のしつづけ。ちっと清はんを見習いなはれいうてるのやけど、とても真似もようしやへんわ……。まあ、肩を脱ぎなはれというてるのに……。井戸水の冷たいので手拭いをしぼってくるよってに、汗を拭いてやったらどうや。氷をいうてこうか、西瓜のほうがええか、柳蔭《やなぎかげ》〔焼酎の味醂割り〕を冷やして、奴豆腐で一杯飲んでやったらどうや」 「フワー……。いやもう、そのべんちゃらだけで満腹や。しかしな、姐貴。たいがいのことはしんぼうするけど、盗人するてなことは、いわんとおいてんか」 「まあ、清はん。かんにんしとくなはれや。あないにいわんと、うちの人が仕事をせえへん」 「亭主が仕事をせんよってに、というて、人を盗人にするのはむちゃやがな。……まあ、そんなことはええとして、いま、喜ィ公がいいよった浄瑠璃の会というのは嘘や。じつは、こないだ、町内の風呂屋が休みで、裏町の風呂へ行ったところが喜ィ公に逢うたんや。でまあ、いっしょにいのかというて、連らってもどってくると、えらい人だかりや。なんやしらん、とのぞいてみたら、肉屋の丑公と米屋の米公がけんかしてよるやないか。友達同士のけんかやさかいほっておけんがな。わいと喜ィ公が仲へはいって、まあまあとその場はおさめたが、友達同士いつまでも赤目釣り合うてるのはぐあいがわるいがな。で、まあ、今晩、南の小料理屋で仲直りということになったんやが、先方のいうのには、最初に口を利いてもろうたんが清はんと喜ィさんやねよって、ぜひとも、二人にその場に坐ってもろうて、盃をもってもらいたい、といいよるのや。まあ聞けばもっとものことやさかい、喜ィ公を呼びに来たところが、きょうは嬶が留守やので出られん、と、こないいうのやが、お前に顔を出してもらわんことには話がまるうおさまらん、姐貴にはわいがあとから話をするさかい……というて、ま、むりに着物を着がえてもろうたところやね。ちょうどええところへ帰ってきてくれた。ながいあいだやないねん、ほんの、ま、しばらくのあいだ、わいに貸して。……なあ、うんというて、貸してんか」 「まあァ、そないいわれると、わたいがつらいわ。いいえいな、べつに友だちのつき合いをするな、というのやないけれど、なにしろ、うちの人は癖がわるい。出たら鉄砲玉で、帰ることを忘れてしまうものやさかい、こないやかましいいいまんのや。そんなら、あんたにあずけるさかい、きっと連れて帰ってきとくなはれや」 「よっしゃ、ひきうける。……そんなら、ちょっと借るで」 「あいたら返しとくなはれや」 「釘抜きやがな、まるで……。おい、喜ィ公。そんなところで、ふるえてんと、はよう出ておいで」 「そんなら、もう、お聞きとどけになったか」 「けったいなもののいいかたをすない。さ、出かけよか」 「フン……。そんなら、嬶。ちょっとやってもらうで」 「はよう帰って来うぞ」 「ヘエー」 「どうでもええけど、大の男が、丁稚みたいな返事をしないな」 「清やん。お前はそないいうけど、うちの嬶はこわいねんで。今日はお前がいてくれたよってに、あれですんだが、お前がいなんだら、どんな目に会わされてるかわからへん」 「そないこわいのんか」 「こわいの、こおうないのて……。もうせんどのことや、いま、思い出しても、ぞおーっとするわ」 「どないしたんやいな?」 「嬶が、こちの人、晩のお菜《かず》にするのやよって、焼き豆腐を買うて来とう。よっしゃ、というて、笊《いかき》をもってとんで出るなり、豆腐屋へ行ったんやが、あわててこんにゃくを買うてもどったんや」 「あほやな」 「笊のなかを見るなり、嬶の顔色がサッとかわったものやさかい、あ、これはまちごうたんやな、と思うて、嬶、まちごうたんならすぐにかえてもろうてくるわ、というて、こんどは葱《ねぶか》を買うて来た」 「念のいったあわてものやな」 「こんどは嬶、おこりよらへん。ニタッと笑うてな。あ、おおきにはばかりさん。さあ、こっちへおいなはれ、と、こないいいよる。急にやさしいにいわれると、なおさら、気味がわるい。嬶、忘れたんやさかい、買うてくる品物を、もういっペんだけいうてんか。……こないいうたら、まあなんでもええさかい、こっちへおいなはれ。いい、いい、わいのわきへよってきて、首筋をグッとひっつかむなり、奥の間へずるずると引きずって行きよったんや。エエイッ、拗《す》ねくろしいせんと、来いというたらすぐ来るもんや。なあなあいうてたら、ええかと思うて、うかうかしてるさかい、こんなまちがいができるのや、きょうはド性根のはいるようにしてやる。こういうなり、着物をぐるぐるとぬがしてしもうて、うつ伏せに押えつけやがるね。どないなるのやろ、と思うたら、いつのまにもってきよったのか、艾《もぐさ》の袋と線香とを出しやがってな。背中へ大きな灸《やいと》を、ぎょうさんすえやがるね。熱いの熱うないの……。嬶、熱いわーい、というたらな、熱けりゃ熱うないようにしてやる、さあこっちへ来い、というなり、井戸ばたへひきずって行って、頭から水を浴びせよる。冷たいわーい、というたら灸や。熱いわーい、というたら水や。焼き豆腐でまちごうたんやよって、焼き豆腐みたいな目に会わされた。そこへ奥の妙香はんが来やはって、喜ィさん、こんどから気をつけなはれや。お松っつぁんも腹が立つやろけど、今日のところはかんにんしたげとくなはれ……。こないいうて、わいに煎餅を二枚くれはった」 「おい、そんなもの、もらいないな。子どもやがな……。お前ら、あんまり嬶にペコペコしてるさかい、そんな目に会うのや。おい、嬶というものはな、あいだは可愛がって、お前やなけりゃならん、というように、頭をさすっといたるね。そのかわり、ひとつまちごうたら、げんこつで頭をガンガンとなぐって、畳へ鼻柱をこすりつけてな、コラッ糞しはここやぞ、と、いうて聞かしとかなあかへん。そうしといてみ、鯡《にしん》をたいたかて、鼻ひとつ動かせへんわ」 「なんや、猫みたいにいうてるな」 「女を飼うのは猫を飼うのとおんなじことや。お前ら、自分の嬶をなぐったおぼえはないやろ」 「いや、いっぺんだけあるね」 「いっぺんでもあるのかいな」 「あるね。よそで一杯飲んだあげく、いい合いげんかして、むかむかして帰ってきたらな。この、のろんけつ奴《め》、どこをのたくって歩いてやがんね!……いいやがったんや。なにを洒落れたことを!…‥というなり、わい、金槌を振り上げたんや」 「そんなむちゃをしてどないするのや。嬶に怪我をさせるのは、わが身に傷をつけるのと、いっしょや。すぐに医者や薬やと、自分が貧乏をせんならん」 「ところが、うちの嬶、なかなかなぐらさんわ。いきなり、その手へしがみついてな。ちょっと待っとう、いまのはわたいの口がすぎたんや、これというのも、あんたの身を案じるさかいに、いうのやないか。いまは、どれほど、わたいが憎いかしらんけど、また、可愛いと思うときもあれへんか……。と、こないいいよる。なるほど、そういわれてみると、ほんに、あるなあ……こう思うたら、なぐれんもんやなあ」 「阿呆。溝へはまるがな。目も見えんのかいな」 「エッヘッヘッヘッ。夫婦げんかというのは、えらいおもろいものだすな……」 「おい、羅宇《らう》屋、そっちへ行きんか……。それみい。お前がしょうもない話をするよってに、羅宇屋がついて歩いてよるがな」 「エッヘッヘッ……。もう今日は、仕事を休んで、このつづきを聞かしてもらいますわ」 「阿呆をいいやがれ。講釈みたいに思うてよる。そっちへ行き、そっちへ」 「さあ、大川へ出た。ほかの連中は、もう、先に舟へ乗って待ってるのや。……オーイ、通い舟……」 「へーイ。よーっとしょ。(鳴り物大太鼓で水音)……ヘイ、どうぞ、お乗んなして」 「おい清やん。こんな小さい舟か」 「なにをいうてるね。むこうにとまってる川市丸という大きな舟や。あの舟は、ちょっと動かせんので、この小さい舟でかようのや。……おい、船頭はん。あの川市丸へやってんか」 「へえ、よろしおます。……やあ、うんとしょ」 (囃子入り唄・吹け川) 「や、ごくろうはん。これ、少しやが、とっといて」 「おおきに、ありがとうはんで」 「清やん、いま、船頭に銭をやったの、あれはなにやねん」 「舟賃やないか」 「ひえっ。むこうからここまでが一朱か。うわァ、高やの。そんなんやったら、わいにいうたら、負うてきてやるのに。あれはお前の自腹か」 「いや、みな割前のなかから出すのや」 「ギエッ。割前のなかからかいな。もうそない手荒うつこうてなや」 「ビクビクすない。今日はつかいに来てるのやがな」 「割前のなかからやったら、お前にばっかり礼をいわさんと、わいにかて、礼をいうてもろうてえな」 「どうでもええやないか、そんなこと。船頭はん、ちょっと、この男にも礼をいうてやってんか」 「ええ、そっちの旦那。おおきに、ありがとうはんで……」 「それ、礼をいうてるがな。そっちの旦那、おおきに……」 「おお、おお」 「えらそうにおさまりないな。……や、どなたもおそうなってすまん。喜ィ公をさそいに行ったところが、れいの嬶のごてでひまどったんや。おい、ちょねやん。お前のけんか相手が来たで」 「まあ、喜ィさんの弁……」 「シーッ……」 「ホッホッホッホ、さよか……。やれ、喜さんの持っつあん、持っつあん」 「ヘッへへへ。清やん、ちょね公が、わいのことを持っつあんといいよる」 「持っつあんて、なんのことか知ってるか」 「それは金持ちのことやろ」 「ちがう、ちがう。お前は、だれの尻にでもついて歩くよってに、とりもちやというてよるね」 「コラ。ちょね公。わいをとりもちやといいやがったな」 「まあ、それは清はんの惑乱やわ。金持ちやというてますねがな。そないおこらいでもええやないか。あんたとわたいの仲は夫婦も同然やないか、なあ、こちの人」 「イッヒヒヒヒ。女房ども」 「なにをいうてよるね、あいつは。おい、喜ィ公。けったいな声を出すない」 「かめへん。いわしといて。これもみな割前のなかにはいってよるね」 「そんな色気のないこというな。さあ、こっちへ来て、一杯やりんか」 「飲まいでかいな。おんなし割前を出して、みなよりおそう来たんや。はよう飲んで、はよう食うて、とりもどさな損や。刺身も焼き物も、吸い物も煮付けも」 「そない、いっぺんに食われへんがな」 「いや、食うね。みな、わいのまえへ置いておいて。おい、その鯛の頭を、ポンと切って、船頭はんに……」 「そんなこと、お前が心配せえでも、船頭はんには、ちゃんと肴が当てごうてある……」 「そうやないね。その頭を船頭はんにあずけておいて、帰りに持っていぬね。明日、焼き豆席とたいて、うちのお菜にするのや」 「そんないじましいことをいいないな。清やん、お前、えらい代物をつれてきたな」 「おい、大きなものでおくれや。みなが、さきに飲んだだけ、わいも飲むねやよって」 「なんぼでも、どんどん飲んでくれ。さあ、大きなものでいくで」 「おい、喜ィやん。これもうけてくれ」 「喜ィ公。わいのもうけてや」  友だちが、むかついて、どんどん飲ましよったさかい、かないまへん。見てるまに、ズブ六に酔うてしまいよった。 「ヒッ。コラあ……。だ、だれが、こない……酔わ、酔わしよったんや」 「なにをいうてるね。お前が勝手に飲んだんやがな。ちいと風にあたって、酔いをさませ。さあ、裸になれ、裸に……。おお、なんぼまじないになるかしらんけど、紅木綿の褌《ふんどし》なんて、あんまりええものやないな。まあ、ええわ。おれも裸になると、ソレ、褌が紅白や。舳《へさき》へ出て、源平踊りというやつをやろうやないか」 「源平踊りとはおもろい。おい、囃子方、しっかりたのむで。さあ、やった、やった」 (囃子入り唄・竜田川)  うちでは雷のお松っつあん。暑うてしようがないので、近所の嫁はんを誘うて、難波橋へ涼みにやってまいりました。 「まあ、お松っつあん。にぎやかなことやないか。あっちこっらに、えらい散財してはるが、なかなか、たいていなものいりやないやろな。……あ、ちょっと、お松っつあん。あそこのいちばん大きな舟で裸になって踊ってるの、あんたとこの喜ィさんとちがうか」 「いんえ。うちのおやっさんは、こないだ、友だちの喧嘩の仲人にはいってな、今夜がその仲直りやね。あんなたよりないおやじでも、顔を出さなおさまらんといいはるので、南へ行ってるわ」 「そうかしらんけど、あの赤い褌で踊ってるの、よう似たあるし。それに、もう一人のほうは、いつもあんたとこへ来る、清八っつあんという人やがな」 「お竹はん、どこやね」 「それ、あの鉦《かね》や太鼓で、ドンチャン、はやしてる舟があるやろ。あの舳で踊ってる二人。ソレ、こっちを向いた……」 「あ、ほんに。清八とうちのおやじやわ。まあ、まあ、まあ、まあ……仲直りの盃やなんて、うまいことだましやがって、あんなことしてくさる。ええ、もう、腹の立つ。ウームム……」 「あ痛タタタタ。コレ、お松っつあんわたいの胸倉しめて、どないするのや。コレ、息がつまるがな」 「向こうまで手がとどかんよって、ちょっと、あんたの胸倉で間に合わしたんや」 「そんな殺生なことがあるかいな。ああ、痛たやの。喉がヒリヒリするわ」 「かんにんしとくなはれや。腹が立つと夢中になるのや。ちょっと。あの舟へ行こうと思うたら、どないしたらええのや」 「あのかよい舟に乗ったら、つれて行ってくれるがな」 「あんたも手伝うてくれるやろな」 「はあはあ、手伝うとも。あんたは、喜ィさんの顔を掻きむしりで。わたいは、清八の向こう脛に噛りついたるわ」 「おおきに。お竹はん、たのんまっせ……ちょっとォ、かよい舟エー」 「ヘーイ」 「はよう、はよう。舟をもって来とくなはれえー」 「ヘエー、いま、行きまっさ」 「ああ、辛気くさ。舟をかたげて走っといなはれえー」 「そんなことができまっかいな。……ヘエ、お待ちどおさん」 「さ、はようやっとくなはれ。はようやっとくなはれ」 「やっとくなはれて、あんた、まだ乗ってなはれしまへんがな」 「あ、さよか。乗るの忘れてるね。……さ、はよう出して」 「どこへやりまんね」 「あの、ソレ、むこうで踊ってますやろ。あの舟へ、はよう……」 「へえ、よろしおます。や、うんとしょ。(囃子入り唄)へえ、着きました。危のうおまっせ」  舟ではますます大乱痴気。 「あ、こらこら。どっこい、どっこい……。あ、痛タタタタ……。コラ、どいつや、向こう脛に食いつきやがるのは」 「わァー、痛い。だれや、わいの顔を掻きむしるのは」  ひょいと顔を見ると、女房がものすごい形相をしています。  ビクッとはしたものの、ほかの手前もあり、酒の勢いもあるので、ちょっと、ええとこを見せるつもりで、 「コラ、こんなところへ、なにしに来やがったんや。いにやがれ」  どーんとひとつ、胸をつきましたんやが、なにしろ、気が逆上《かみず》ってるものやさかい、足もとがお留守。ひょろひょろとするなり、川のなかヘドブーン……。さいわい、川が浅いので、立つと、水は腰ぎりしかございまへん。元結が切れて、髪はザンバラ、白地の浴衣はびしょ濡れになって、顔はまっさお……。上手から、手ごろな竹が流れてきたのを拾うなり、川の真ん中へすっくと立って(鳴り物) 「そもそも、我は、桓武天皇九代の後胤《こういん》、平《たいら》の知盛《とももり》の亡霊なり……」 「ちょねやん、緋|扱帯《しごき》をちょっと貸してんか」  緋扱帯の輪にしたやつを数珠のかわりにして、 「そのとき喜六は少しもさわがず、数珠さらさらと押し揉んで、東方に降三世《こうさんぜ》、南方に軍茶利《ぐんだり》夜叉明王、西方には大威徳夜叉明王、北方には金剛夜叉明王、中央には大日大聖不動明王……」 「わあー、どうだす。あの舟の喧嘩、えらいはでな喧嘩やおまへんか」 「いや、あれを喧嘩と見てやるのは可哀そうだっせ。あれは仁輪加だすがな。女は仲居で男は幇間《たいこもち》や。夫婦喧嘩と見せて、弁慶と知盛の祈りだすがな。こういうのをほめてやらんと、いけまへんで」 「あ、さよか。ようよう、きょうの秀逸、川のなかの知盛さんもええけど、舟のなかの、ベーんけーいはん、弁慶はーん」 「なん吐《ぬか》しやがるね。今日は弁慶やない、三分の割前や」 [#改ページ] へっつい盗人《ぬすっと》 「えー、こんにちは」 「よう、どないしてんねン」 「いや、わいナ、じつはお前とこへ、ちょっと相談があってな……」 「大きな声やナ……え、イエナ、俺もお前とこへ行こかいなと思てたとこや。お前《ま》はんがそないして来てくれたら、こっちも手間が省けるちゅうよなもんや、どないや」 「あのな、あんたの相談ちゅうのは、なんやねン」 「俺の相談ちゅうのは、ほかやないねン。竹やン、宿替えした一件……」 「さあ、それやそれや。わいもナ、その竹やンが宿替えした一件でナ。というのが、ホレナ、アノ。みなよってつなぎしよったんや、祝いを。フン、ほでな、清やん。お前と俺だけやで……。銭ない思てばかにしてけつかんねン。だアれも相談しよらへんねン、ホンデ、残ってんのん二人だけや。しゃあない、どないしょう」 「さあ、それや。俺もそない思てた。だれも相談してくれんとは、思わなんださかいな。ああいうのはほんまの宿替えやさかい、なんとかせないかんなと思ててン」 「エエッ」 「ああいうのがほんまの宿替えちゅうねン」 「ヘエー、宿替えにほんまの宿替えと、嘘の宿替えとあるか」 「嘘の宿替えちゅうのはないけども、まア、ああやって裏店《うらだな》でこつこつと稼ぎためといて、表の広いとこへ出て行く、ああいうのんがほんまの宿替えや」 「嘘のは」 「嘘のンちゅうのは、ないちゅうてるやないか。難儀なやっちゃな、ほんまに。つまりやな、表でこう広う商売してる人が、なんぞの都合で左前になったかなんかして、裏店へ、引っこむのを、逼塞《ひっそく》というわ」 「なるほど、表から裏へはいったら逼塞か」 「そうや」 「ホタ、裏の二階借ったら、ちっそくか」 「ちっそくちゅよなことはないけど……ま、ま、そんなもんや」 「ホォン、なんぞ祝いせないかんやろ」 「さあ、そやなア、ま、俺とお前とよってするねンさかいに、ろくなこともでけへんけど、まアおたがいのこっちゃ、なア。値段が安うて……で、こう……見場《みば》があって、嵩《かさ》の高い……なんぞそんなもんがありゃアええねンけどな」 「ウン、あのな、カンナくず俵《たわら》に詰めて持って行たらどやろ。あれやったら値段が安うて、場アがあって嵩が高い。イヒッ、ホイデ、あれたきつけにええでエ。火イつけるのや、みな便利ええで」 「そんな物騒なもん持って行けるかエ。火事の原因《もと》やがな。そやないねン、むこはな、年寄りがいよるねンさかい、な、なんぞこう、もろといて間に合うたなアと、あとでよろこばれるようなもんがええな」 「棺桶」 「あのな、オイ、お前ちょっと考えてもの言え、もの、考えて……。棺桶みたいなもん……」 「棺桶みたいなもんて、お前いうけどな、そやないかイ、先方《むこ》かてあないして、年寄りがいてりゃ、いずれはお婆《ば》んかて死によるわいな。ホタラ、ああもろといてよかったなア、いまンなってよう間に合うとよろこぶやろ」 「よろこばへん、そんなもん。そやないねやナ。どない言うたらわかんねやろなア。つまり家中びっくりするようなもんや」 「ダイナマイト」 「もうええ。お前とはなししてたら癇立つだけや。エエ、あのなア、お前ナ、わからなんだらナ、人のはなし聞き、な……。あのな、俺こないだ、むこの嬶《かか》に出会《でお》た。ほいで、宿替えしたそうやな、おんなじ物《もん》が重なってもいかんさかいに、なんぞ、祝いさしてもらうねやが、足らんもんがあったら言うてんか、こない言うた。ホタラ、むこの嬶の言いよんのにナ、まあ兄さんにそんなことしてもらおとは思やしまへんけども、こんど宿替えした家、ちょっとへっついさんが、にじったアんのン。うちの人も私も年回りがわるうてへっついさん触られへんさかい、難儀してまんねンわ、と、じイわり……、へっついさんを祝うてくれという謎やと思うねン、俺は。で、二人よって、へっついさん祝うたったらよろこびよると思うね」 「なるほど、へっついさんちぅのは洒落てるわ。あれやったら値エ安いわナ、五十銭も出したらあるわ」 「あのな、もの考えて言いや、さっきからなんべんも口が酸《す》うなるほど言うてるやろ。五十銭で、ほんなもん、へっついさんがあるかい」 「あるかいて、あるでエ。お前なに言うてんねン、お前。わい、こないだ心斎橋のとこ歩いてたらナ、へっついさんにナ、お釜はんもついてナ、お櫃《ひつ》もついてナ、ホイデ五十銭やで」 「そら子供のンや、それは。おもちゃやないかい」 「ホナやっぱり大人のンか」 「大人のンちゅやつがあるかい。エエ、お前、そらちゃんと普通に火の焚《た》ける、ご飯炊けるやっちゃなかったらあけへんが」 「フーン、そら高いやろな」 「そらそうや。おんなじことでも桁がちがうわ、これくらいやな」 「エエ、片手ちゅうと、五万円ぐらい」 「そないせエヘん。せエヘん、せエへん、あほ。もっとずうーっと下、ずうーっと下」 「ずっと下ちゅうと……桁がちがうちゅうたナ、あんた……というと五銭」 「あらへんちゅうのに、あほやな。五十銭で子供のンや、五銭で大人のン買えそうなはずがないやないか。一服せエ一服。まんなかで‥…五円」 「五……円……五円、お前と俺《わい》と二人でやろ」 「そや」 「ホタラ、五円二つやったらお前、こう……二つと二つで一つあまるやんけ。ほいでこう二つと、こう二つで、そう五円、二つに、ソウ、こいで二つで、あのね……アノ……ソ、ホレ……」 「なにをしとんねンあほ。五円二つに割るのに、指つかわなでけんか、オイ。両方から二本ずつ引っ張ってきて、真ン中の一本で難儀しとる……。そんなぐらい頭の中で勘定せえ。……二円五十銭やないか」 「アウッ……アウッ……アウッ……」 「なにをびっくりしてんねン。どっから声だすねン。あほやな。なにッ二円五十銭がつらい。そら俺かてつらい、俺かてつらいがな。けど、つらいいうてせんわけにいけへん。そやさかい、俺ナ丼池《どぶいけ》の道具屋で手ごろなやつ見つけたアんね。あれ借ってきとこと、思てんねンけどな」 「フンフンフン。ホナ、お前と、先方の主人と心安い、で、借っといて銭のできたときに持っていって払うのン」 「いや、べつに心安いことないで」 「心安いことないのに、貸してくれるやろか」 「しゃアないがな、晩に行って借ってこな」 「晩に行たら、先方寝てはるやろ」 「寝てはる人は機嫌よう寝ててもらえや、お前。……なにも起きてもらうこといらんがな」 「こたえとかないかんがな」 「こたえたけりゃ、断れや、べつにやナ、寝てる人起こして断らんかて、先方には、へっついさんだけがいてはるわけやない。わきに石灯籠はんも立ってはりゃ、三輪車はんもいてはる、ちゅうようなもんやないかい。その人らにこたえといたら、ええやないか」 「その人らでもええのンか」 「そんなもんかめへんが」 「フウン……先方が知って、おこって来エヘんやろかナ」 「知っておこってきたら、出来心でございましたと、あやまったらしまいや」 「出来心ちゅうたら、それ、ひょっとしたら泥棒とちがう……」 「人聞きのわるいこと言うな、あほ。……ちょっと気がまじってるだけじゃ」 「おおかたそやろ……こわいな」 「こわいことあらへん。それくらいのことせなんだら、祝いでけへんがな、恥かくねンで」 「どうもしゃない。……それいこか」 「よっしゃ、よっしゃ。……晩にこいよ」 「清やん、丼池の道具屋へへっついさん盗みに行こか、清やん、丼池の道具屋へへっついさん、清やん、盗人に……」 「大きな声だすな、あほ。近所隣があるねやぞ。こ、これ。こっちへ入りちゅうのに」 「こんばんは」 「どっから声だすねン、あほ。表で大きな声だしゃがって、内らへ入ってから、小さい声だして、あほ。聞こえたらどないすんねン」 「心配しイないな、なんぼわいの声が大きいいうたかて、こっから丼池までは聞こえん」 「なにを吐かすねン。丼池まで聞こえてどないすんねン。隣へ聞こえたら難儀やちゅうてんねや」 「ころっと忘れてる。隣へ行て訊《たん》ねてこうか」 「なにを」 「いま、裏で丼池の道具屋へへっつい盗みに行こか言うたん、あんたとこへ聞こえましたか……」 「知らしに行くようなもんやないかい。こっちイ入り、チッ、オーオーオー、なんやお前、それ、モーニング着て。なにをッ……はじめてのとこへ行くのやさかいに、洒落《やつし》ていかないかん。なにを吐かすねン。そんな風態で、へっついさん担《かた》げられるかい、エエ。……そやけど、お前、日ごろ、銭ない、銭ない言うてて、ようそんなもんあったな。借ってきたア、どこで」 「家主《いえぬし》とこ」 「家主、吝《しぶ》ちんやないかい。よう貸したな」 「るすやった」 「嫁はんは」 「嫁はん風呂へ行とってん」 「女中《おなごし》いてたやろ」 「女中は二階で昼寝しとってん」 「ほな、お前断らんと借ってきたんか」 「うん、お前、昼間言うたやろ、寝てる人は気ィよう寝ててもらえ言うて。で、洋服箪笥あけてみたら、これ掛かっててん。これ、ええなアと思てな……で、まこと、断っとかないかんやろ、思たさかいな、見たら火鉢のとこに猫がいよったさかい、猫さんこれ借っていきまっせエ言うて……」 「ようそんなこと、お前……。で、猫、なんぞ言うたか」 「うん、ニャンない」 「言わへん、そんなこと。……お前の方が一枚上手や。そこになんぞ、俺の着古したもんがあるやろ。それと着かえ、それと着かえ。……そこにある、それ、担ぐねン、天秤があるやろ、ソレ……ソノ……ホラ朸《おうこ》、朸……えッ……それからそこに軽子《かるこ》、縄があるやろ……わかってるやないか。それ持って表へ出エ、表へ出エ」 「なにしてんねン」 「なにしてるて、鍵かけんと用心がわるい」 「なにを」 「鍵かけとかんと用心がわるい」 「そんなことない。よその家は盗人が入るけど、あんたとこは、これから盗人が二人も出ていく」 「大きな声だすな。だまって歩き、だまって歩き。……そのかわり言うとくで、丼池へ行たら、だまって歩くのやないで」 「なんぞするのか」 「先方《むこ》いてな、道具屋がぼちぼち見えるころ、一丁ほど手前まで行たなと思たら、ヨイヨイヨイトサ、ヨイトサノヨイヨイてなこと言うて、重たいもん持ってるような心持ちで先方いくねン。家の前まで行ったら、俺が一服しょうか言うさかいに、一服しょう、一服しょう言うて、な、荷ィおろすような顔してそこへじィわり坐《へた》るねン。な、一服してるようなつもりで、すっくりへっついさん荷造りしてしもて、出来《でけ》あがった時分に、行こか、行こ行こ、ヨイトサノヨイヨイ、ほんまのへっついさん担いで行ったらわかれへんやろ」 「うまいこといくなあ。こら出来心やないでエ、これはだいぶにこれは前心やで」 「前心てなもんがあるかい、わかったな」 「見つかったらこわいな」 「見つかったら度胸きめたらええねン」 「度胸きめるちゅうと」 「おっさんとこへ行くのや、別荘へ」 「お前とこのおっさん、別荘あるのン」 「ある」 「わいも連れてや」 「連れたる、連れたる、一緒や」 「おっさんとこどこや」 「おっさんとこか。うん、此間《こないだ》まで天満の堀川にいはってんけどな、方角がわるいいうて堺へ宿替えしはった」 「堺、電車で行くのん」 「電車で行かんかて、先方から自動車もって迎えにきはるわ」 「自家用車やナ、ええなア。大きいか」 「大きい大きい。高い塀があって、鉄の門がしまってるわ」 「立派ななあ……なんぞくれはるか」 「くれはる、くれはる。鎖くれはるで」 「鎖……時計もついてるか」 「ついてる、ついてる。無期ちゅうやつがついてるわ」 「無期……無期トケイ。ウォーツ……ソソレ、ひょっとしたら監獄とちがう……わい、監獄と気性《うま》合わん」 「だれぞ気性の合うやつがあるかい、あほ。それぐらいの覚悟で行けちゅうねン。オ、うだうだ言うてるうちに道具屋が見えてきた。ホレ、行くで。心得てるな。おっ、ヨイヨイヨイトサ……早よ言わんかい」 「あ、そうか、フン、ヨイトサノヨイヨイ」 「どこから声出してんねン。重たい物持ってるねンで、腹ヘ力いれなあかへん」 「あ、腹か。うんウーン、イヨーツ、ヨーイッ、ヨウウウトッサノヨーッイーッ……」 「気張ってどうすんねン。ええかげんな声で、ヨイヨイヨイトサ」 「ヨイヨイヨイトサ」 「そんなもんでええわ。ヨイトサノヨイヨイ」 「ヨイヨイヨイトサ」 「ヨイトサノヨイヨイ」 「ア、えらいことした」 「どないしてン」 「えらいもん忘れた」 「なにを」 「小便するの忘れた」 「あほッ。そんなもんここでしたらええやないか」 「そうか……。ホナ、みみずも、蛙も、ごめん」 「子供やがな」  ジャジャジャージャー、パラパッサ、パッサパッサ……。 「オイ、なんやそのパラパッサパッサいうのは」 「アッハッ……こんなとこへ竹の皮|捨《ほ》ったアんね。それに小便がかかって、パラパッサ……」 「しょうもない音さしな。まだか」 「もうしまいや」  パラパラ……チョビン、チョビン。 「なんや、そら」 「竹の皮へ、滴《しずく》がかかったッ」 「もうええわい。……サ、行くで。ヨイトサノヨイヨイ」 「ヨイヨイヨイトサ」 「ヨイトサノヨイヨイ。オイ、どや、一服しょうか」 「一服しょ、一服しょ。ここの道具屋で」 「シイーッ……な、じィわり荷ィおろすで」 「おろそ、おろそ。へっついさんの前へ」 「言いなちゅうのに。オイ、そこのナ、竹の囲《かき》があるやろ、竹の囲が。その竹の囲のけてしまい。その向こうに、へっついさんがあんねンやさかい」 「これか、フーン。どなたもごめん」 「シイッ。だれもいたはれへん、あほ。起きられたら困るやろがな。静かにせい」 「フン」  カラッ……カラコロカラッ……カラッコロッカラッコロッ。 「シイッ、音さしな」 「さしてるわけやあらへん、先方が勝手に音しやはんねン」 「こわそうに、そっとあけるさかい音がすんねン。勢いよう、バアッといけ、かえって音がせえへん」 「勢いようか。うん」  カラッ、カラコロカラコロカラッ、ドンガラガッチャ、プップウ。 「音さしなッ」 「べつにどつかんかてええやないか。なにもわいが音さしたんとちがう、竹の|囲(かき」)、こういこ思たら竹の囲の先の紐《ひぼ》が、お前、あの石灯籠のボンボラさんにくくりつけたアったさかい、石灯籠のボンボラさんがドーンと落ちたんやないか。わいヨロヨロッと、よろけた拍子に、お前、バアーッと、こう、手エついたら、下に三輪車のラッパがあって、プウッ」 「手エついたら、ラッパ一つやないか。いまプップッと二つ鳴ったやろ」 「あんまりええ音やさかい、もういっぺん押した」 「鈍《どん》やな、われは。ぼけッ、ラッパッ、かすッ、あほッ、まぬけッ。しっかりせエ」 「ポンポン言うな、ポンポン。モウッ、モウッ、なんぼ、あほやさかいいうて、あほ、あほ、あほ、あほ、さっきンからなんべん、あほ言うねン。なんぼあほでも、ほんまのあほにあほ言うたら、あほかて、オイ、癪にさわるぞ、あほめッ。何吐《なんぬ》かしてけつかんねン。そのあほ連れてへっついさん盗みに来たン、だれや。ほんまに、モウ、あほ連れてへっついさん盗みにくるもんがあほか、ついてくる俺があほか、どっちがあほや、いっぺんここの主人《おやっさん》起こして聞いてもらお」 「そんなことがでけるかい」 [#改ページ] へっつい幽霊  ただいまでは家具のことをインテリアてなことを言うそうですが、インテリアちゅうとどんな物、売ってはるのんかいなあと思うて見てみますと、箪笥が売ってあったり、また机が置いてあったり、イスが置いてあったりしてこざいますが、昔からやはり日本にはそういう商売がずうとあったもんです。  ましてこの古いやつを売ってるのんが、道具屋と申しまして、今の言葉で言うたらセコハンインテリアショップてなもんですな。  こんな昔の古道具屋さんの店先がこのお話の発端になってございまして。 「おい道具屋、この店の表に置いたアる、置きべっつい、これは売り物かいな」 「ええ、そうでおます」 「これなんぼや」 「朝商いのことでございまっさかい、せいぜい勉強さして頂きまして、三円五十銭頂きとうおますねんけど」 「ああそうか、朝商いのことやさかい、せいぜい勉強して三円五十銭やなあ」 「ヘエ、そうでんねん」 「あ、そうか。これが朝商いやのうて、ほでせいぜい勉強せんと、なんぼで売るちゅうねん」 「エエ、やっぱり三円五十銭で……」 「ほな同じことやないかい。ホナなあ、道具星、ごじゃごじや言うのいやや、なあ、後の喧嘩を先にしとこや。どや三円五十銭に負からんか」 「何です」 「いえ、三円五十銭に負けてくれちゅうねん」 「いえ、私の言い値が三円五十銭」 「そやさかい、三円五十銭に負けとけちゅうねん」 「どんな勘定になりまんねん」 「分からん奴やなあ。こんな置きべっついてな物は、ほかの物と違うて、風呂敷に包んで、提げて帰るちゅう訳にいけへんのや。やっぱり、お前、これだけの物やったら車の一台も雇うて、仲仕の一人も呼んで運ばんならんやろ。そやさかい運び賃も入れて三円五十銭に負けときちゅうのや」 「ああ、そうでやすかいな。ええ、そらもうもちろん商売のことでっさかい、そないにさしてもらいま」 「アそうか。そいでどこへでも持って来てもらえるやろなあ」 「へええ、もうどこさんへでも持たしてやりますで」 「ああそうか、ホナわいのいうてるとこへ持って来てんか」 「へっ、どちらでおます」 「肥後の熊本や」 「うだうだおっしゃるな、肥後の熊本まで大阪から持って行けますかいな」 「いやいや、こら冗談や。実はな、この東の辻、あれ北へな、三丁ほど行ってもろたらな、西側に路地があるねん。路地入った戸口から二軒目、右側や。すぐに分かるさかい、ホナここへ三円五十銭置いとくさかい、持って来てや」 「へえ、おおきに有難うさんで」  さっそく仲仕さんを呼んで来まして、車にこの置きべっついを積んで運ばしました。  ところが、ちょうど夜中の一時も過ぎてかれこれ二時少し前になりますと、この古道具屋の表の戸をば叩いてるやつがございます。 「今晩は、道具屋ちょっとお開け、開けてんか、道具屋ちょっと開けて……」 「ちょっとちょっと。おやっさん、さっきから表の戸をどんどん叩いてるやないか、早う起きなはらんかちゅうね。まあなんちゅう顔するねんな、夜中に起こしたらけったいな顔して、いいえ、表で戸を叩いてはるさかい、早う起きなはれちゅうねん」 「アーッ、アーツ、何や嬶」 「まだあんな頼りないこと言うてるわ。あの音が聞こえへんのんか。表で戸をどんどん叩いてる人があるやろ」 「誰や」 「誰や分からへんさかい、早う表の戸を開けなはれちゅうねん」 「道具屋、早よお開け、ちょっと開け、道具屋……」 「分かってま、分かってま。そうどんどん叩きなはんな。戸がつぶれま。ちょっと待っとくなはれ、いま開けまっさかい。……へっ、お越しやす、何でおます」 「オ、道具屋、いやいや、お前、わいの顔覚えてるか」 「へえ、そないいうたら、今日お昼うちでへっついさんを買って頂いたお方と違いまっか」 「よう覚えててくれた。えらいすまんねんけどなあ、あのへっついさん、お前とこで引き取ってもらう訳にいかんやろうかなあ」 「へえへえ、そらまあうちで買うて頂きました品物でっさかい、引き取らしてもらいまっけど、うちも商売でっさかいな、三円五十銭で買うてもろて、三円五十銭で引き取るちゅう訳にはいけまへんねん。なんぼか損してもらわんなりまへんで……」 「ナ、ナ、なんぼでも損するさかい、なんぼ損したらええ」 「そうでんなあ、五十銭損して頂いて、三円やったら引き取らしてもらいま」 「あっ、そうか。ホナすまんけど三円で引き取ってんか、ホデ、アノすまんけど、すぐにこれから取りに来てんか」 「ア、せっかくでおますけどなあ、もう夜が更けとりま。今から仲仕雇いに行くちゅう訳にいきまへんねん、すんまへんけど、明日の朝にして頂けまへんか」 「あっそうか。ホナ明日の朝なるべく早いこと取りに来てや。銭はその時、持って来てくれたらええさかい。頼むでえ」  そのまま帰りましたが、あくる日、さっそく仲仕を雇うてそのへっついさんをもろうて帰って来て、うちへ置いときますと、また二日ほどすると、 「オイ、道具屋、この表に置いたある置きべっつい、これ売り物やなあ」 「へえへえ、そうでおます」 「なんぼや」 「三円五十銭でおますねん」 「ああそうか、すまんけどなあ、これわけてもらうさかい、わしとこのうちへ持って来てんか。所はここに書いて置いとくさかい」 「へえ、承知致しました。おおき有難うさんで」  売れたんで持って行きますと必ずその晩に表の戸をばゴンゴン、 「ちょっとお開け、道具屋、開けて……」  毎晩のようにそんなことが七、八へん続きました。  さあそうなると道具屋のおやっさんもノイローゼにかかってしまいよって、こらとても、へっついさんの売れた日は宵からゆっくり寝てるちゅぅ訳にいかん、お昼の間に昼寝しといて、へっついさんが売れますと、夜になってちょうど叩かれる時刻になりますと、もうちゃんと店先へ座ってよる。  表の戸をばドンドン、 「へっ、何でおます。へっついさんでっか」 「こら速いな、オイ、おやっさん、すまんけど、今日もろうたへっついさん、あれ引き取って」 「そらもううちで買うて頂きました品物でっさかい、引き取らしてもらうことは引き取らしてもらいますけど、それについて、あんさんにちょっとお訊ねしたいことがおまんねん」 「何や、何や」 「いいええな、あんさんだけやおまへんねん、もう今まで七、八回、こんなことがおますねん。へえ、かならず買うて頂いたその晩に、返しに来はりまんねん。何ぞ訳があるのやろと思いますんですが、今までのお方、一向にその訳を言うてくれはりまへんねん。へえ、引き取らしてもらいまっさかい、いえ、五十銭損してくれてなことは言えしめへん。三円五十銭で、へえ元値で、引き取らしてもらいまっさかい。その訳、聞かしてもらえまへんか」 「そうか。わいかてそんなこと言うのいややけど、お前がそない言うのやったら、話しするけどな、おやっさん、お前とこの店、えらい暗い店やなあ、もっと明るうにならんか」 「明るうにならんかて、夜、夜中でっさかいねえ、みな灯りが消しておまんねん」 「暗かったらよう話しせんねん。わい、いたって恐がりやねん、もっと明るうにバァーと灯り点けてえな」 「ああさよか、ちょっと待っとくれやっしゃ。嬶、お客さんがな、店が暗いさかい灯り点けてくれて、こない言うてはるねん、ちょっと灯り点けてんか。……お客さんこれでよろしいか」 「まだちょっと暗いように思うけどなあ。わい、この庭で話しするの恐いさかい、ちょっと座敷へ上がらしてもらうわ。ちっとごめんなはれや。ホデおやっさん、すまんけどな、今も言うとおり、わい、いたって恐がりや。すまんけどなあ、おやっさん、わいの後からわいの背中をしっかりと押さえといてほしいねん」 「ホウ、大層なお方やなあ。へえへ、背中押さえるぐらいやったらなんでもおまへん、エ、やらしてもらいま」 「ホデすまんけどなあ、嫁はん……。あれあんたの嫁はんか。別嬪《べっぴん》やなあ。道具屋の嫁はんにしとくのもったいないなあ。すまんけどなあ、嫁はん、前からわいの体、しっかり抱いて」 「ようそんな阿呆なこと言いなはるな。しようもないこと言うてんと、早いこと言うとくれやす」 「いや、それやったら話しするけどな、実はな、あのへっついさん、お前とこから家へ届けてくれたやろ、いやいや、昼間はどないもなかったん、ハア、夕方になっても別に別条はなかった。ところがな、夜中の十二時も過ぎ一時ちょっと回った時分に、イヤ、わいよう寝てたんや、ウン、ほんならナ、何やしらんけど、グウーッと胸元を押さえられるような気分がするのでな、ふっと目が覚めたんや、ホデ何の気なしにな……。走りもとの方を見たら、お前とこから持って来てくれたへっついさん、あのへっついさんの左肩あたりからな、青い陰火がポーと出たと思うたらな……そこへニューと現れた色青ざめた幽霊が……ウッウワアッ」 「分かりました……。さよか、幽霊がで……」 「そやさかいな、あのへっついさん、引き取ってちゅうねん。すまんけどすぐにこれから来てんか」 「せっかくでおますけど、もう夜が更けとりま、明日の朝一番に行きます……」 「いや、そんなこと言うてもろたら困るねん。あんなもんが出るへっついさんの置いたある家へ、わいが帰れるかいな。すまんけどなあ、すぐに今晩引き取りに来て」 「そうでっしゃろけど、今日のところはどうぞ親類へでもお泊まりになったらどうです」 「親類へ泊まれちゅうたかて、わいとこ、この大阪に親類ないねん」 「ホナお友達」 「友達も何にもないねん。独り者や。わい、あの家よりほかに寝るとこないねん。すまんけど、ホナラ道具屋、お前とこで泊めてくれるか」 「家で泊まりはってもよろしいけど、実はね、うち嬶と二人暮らしです。泊まって頂いてもよろしねんけど、布団がひと流れしかおまへんねん、へえ。そうでっさかいに泊まってもらう訳にいきまへんねん」 「何でやねん。布団ひと流れあったらけっこう寝られるがな、そやろ、お前、親類か友達の家へ泊まりに行きいな。わい嫁はんと寝るがな」 「ようそんな阿呆なこと言いなはるなあ。ともかく明日の朝一番に頂きに行きまっさかい、今日のとこお引き取りのほどを」  あくる日、さっそくへっついさんをもらいに行って持って帰ります。  ところがこの噂が世間にパーッと広がったもんですから、今までどうにかこうにか流行ってた古道具屋が皆目お客さんがないようになってしまいました。さあそうなりますと夫婦が心配しよって……。 「こない不景気になるとは思わなんだなあ」 「何を言うてるねんな、不景気ちゅうたら世間一般のことやし。うちだけが皆目売れへんのやないか。それと言うのも、あの化物の出るへっついさん、あのへっついのおかげやし。近頃ではなあ、わたいが道歩いてたら、化物屋敷の嬶が通ってる、とこんなこと言われるのやし。何とかせなあかんし」 「そうか、やっぱりあのへっついがわざしよってんなあ。もうどうもしゃアない、この際、商売抜きで、あれ今まで三円五十銭で売ってたけど一円五十銭で売ったろか」 「ようそんな欲なこと言うでこの人、あれ、何べん五十銭ずつ相手に損さレて買い戻したんや。あれだけでも十分儲かってるやないかいな、阿呆らしい、ただでさえな、化け物の出るような、幽霊の出るようなへっついさん、もらう人があるかいな。この際、たとえ五十銭でも銭つけて、誰ぞにもろうてもらいやったらどないや、それやったらな、五十銭の欲につられて、もらわん人もないとはかぎらんし」 「なるほど、こら、嬶、ええこと言うた。ようしほなへっついに五十銭つけて誰ぞにやろう」  大きな声で……。ところがこの道具屋の真裏手が長屋になってございまして、一番奥の端が脳天の熊五郎という博打打ちでおます、これが一人で住んでよる。  その隣にこれは船場の砂糖問屋の若旦那で、極道が過ぎて今では勘当の身の上、仕方がないので、この長屋で独り暮らしをしております作次郎という若旦那、この二人が銭はないわ、莨《たばこ》銭はないわ、しかたがないので、熊はんのうちでせいだい将棋指してよる。  ところヘヘっついさんに五十銭つけてやろうという話……。  この話聞くなり、 「作坊ン、作坊ン、あんたも銭おまへんねん、私も一文もないん、せめて莨銭でも」 「サ、わたいも一文もないん、せめて莨銭ぐらい欲しいと思うてんねんけどな、莨も吸われへんねん、どないぞならんやろか」 「サそやさかい、ええ銭儲けがいま耳に入りました」 「あんたの耳に。わたいとあんたと、二人っきりで、ここでこないして将棋指してて、あんたの耳にだけ入ったんか」 「何を言うてなはんねん。若旦那も聞こえましたやろ、表の道具星の親父が大きな声で、へっついさんに五十銭つけてやろ……、ちゅうて言うてましたやろ。どうです、あの表の幽霊の出るへっついさんもらいに行きまひょ」 「熊はん、ようそんなこと、心安う言うわ。あのへっついから幽霊が出ること、あんたも知ってるやろ」 「知ってまんがな。よろしいやないかいな。もろうて来て、バンバーンと叩き割りまんねん。土は路地のところへバーッと撒いてしもうたらよろしねん、凹んでるとこがおまっしゃろ、そこへ土はバーと入れてしまうんだ。台木はバンバーンと叩き割って焚《た》き付けに使うてバーっと燃やしてしまうようにしなはれ。へっついの形がないようになるんだ、幽霊出とうても出るとこおまへんやろ。残るのは五十銭。これをあんたとわたいと半分ずつにしまんねん、どうだ、莨銭になりまっしゃろ」 「なるほど。さすが熊はんやなあ、へっついさんないようにしてしまうの、ホンニそら幽霊の出るとこがないわなあ。ホナもらいに行こ」  無茶な男があったもんで、さっそく表の道具屋へ行って、このへっついさんと五十銭もろうて帰ってきよって……。 「サ若旦那、このへっついさえなかったら、幽霊は出えしまへんねん、こいつ叩き割りまっさかい、そこに斧《よき》がおまっしゃろ、その斧持って来とくなはれ、いや、あんたにこんな力仕事は出来しまへん、わたしにまかしときなはれ、よろしか」  バンバンバン、バーン、ちょうどへっついさんの肩のところを叩きますと、これぐらいのかたまりが、作坊ンの目の前ヘゴローッ、 「アーアーアーッ、出た、出た出た」 「作坊ン、大きな声で、出たて、何が出ましてん」 「出た、出たがな。ああ恐わ、ああ恐わ」 「何が恐いんだ、こんな物が恐わおますのんか、なるほどなあ、そらあんなへっついの角からこんな物が出てんさかい、無理おまへん。心配しなはんな、あんた、恐わがってるさかいに、何でも恐うに見えるんだ。よう見てみなはれ、紫のちりめんの袱紗《ふくさ》に包んだ物だ、ちょっと待ちなはれ。……。えらい物がへっついに塗り込んであったんやなあ、エエ作坊ン」 「ユユ、幽霊の卵か」 「何を言うてなはるねん、銭だ」 「えっ銭、銭……ナ、ナ、なんぼ包んだある」 「ちょっと待ちなはれ、いっぺん勘定してみまっさかい。……若旦那、これだけだ」 「えっ、なんぼや」 「五十円」 「ゴ、五十円、五十円……。ウワーッ、ぎょうさんに出て来たなあ、ホナさっそくに行こ、道具屋へ」 「何しに」 「何しにて、五十円出ましたちゅうて返しに」 「あんた阿呆か、ようそんなこと言うてなはるなあ。もう道具屋は、関係おまへんのや。もろたらこっちのものだ。そうでっしゃろ。もろたへっついさんの中に塗り込めてあった銭でんがな、もろうた者のものだ、こらわたいとあんたの物だ」 「かめへんか」 「当たりまえでんが、遠慮することおますかいな。これ、二十五円ずつ半分分けにしまひょ」 「ウワー、二十五円。久しぶりやがな、二十五円ちゅう銭、早よおくれ、早よおくれ」 「手え出しなはんな、今、分けてあげまっさかい、さああんたに半分の二十五円渡しまっせえ」 「おおきに、おおきに。……熊はん、忘れてえへんか」 「何ででんねん」 「先の五十銭の割り前、二十五銭」 「ちゃんと覚えてるねんな、あんた。細かい人やなあ。さっ、ほんなら二十五銭上げま」 「大きに、大きに、二十五円二十五銭、なあ久しぶりやで、こんな銭持つの」 「若旦那、あんたその銭持ってどないしなはんねん」 「熊はん、あんたこそ、久しぶりにそんな銭持って何しなはんねん」 「わたいは、相も変わらずこれからちょっと勝負して来まっさ、この銭をウーンと増やして来まっさ。……作坊ン、あんたどないしなはる」 「そんなもん言わんかて分かったあるやろがな、新町のあいつのとこへ、エヘッ、久しぶりに会いに行ってくるさかい」 「言うときまっせ、会いに行きはるのはよろしいけど、ちょっとは残しときなはれや、全部使うたらあきまへんで」 「分かったある、分かったある。熊はんかてなあ、かならず勝てるとはきまったあらへんねん、負けても、みな負けたらあかんで、なんぼか残しときや。ホナ、わい行ってくるさかい。しっかりやっといでや」 「何を言うてなはるねん。あんたこそしっかりやっといでや」  二人が左右に別れまして、片一方は勝負に行て、片っ方は女子《おなご》のとこへ会いに行きましたが、悪銭身につかず、熊はんは二晩ほど夜どおし博打してすっからかんになってしまいよって、 「ちえっ、阿呆らしなってきた。もとの木阿弥《もくあみ》や、一文も銭ないようになったで、また莨銭もあらへん、何とかして莨が吸いたい……そや、作坊ンにあれだけ言うてあるね。まさか一文なしにはなって帰って来よれへんやろ、莨銭ぐらいは持ってるやろ、作坊ンに借りてやろ」  こっちは久しぶりに好きな女子と会うたというので、有頂天になって、こっちもすっからかんに使うてしまいよって……。 「さっぱりわやや、ハハッ、阿呆らしなってきた、みな使うてしもた。そやけど、あいつの顔見たらなあ、もう銭なんかどうでもええわ、という気になるねんけど、さてこないなってみると、莨が吸いたいなあ。そや、心配することないわ、熊はん、まさか全部負けて帰るちゅうことないやろ、ひょっとしたら勝っとるかも分からん、エヘッ、莨銭熊はんに借ったろ」  同じ勘定書よって、ちょうど路地の入口でバッタリと会うたもんでっさかい、 「若旦那」 「おっ熊はん」 「銭貸して」 「さき言われてしもた」 「あんたわいな」 「すっからかんや」 「実はわたいも負けましてん」 「何をすんのやいな。あんた、どないする」 「これから一杯飲んでぐうっと寝まっさ」 「まだ飲めるだけええがな、わたいなんかお酒飲まれへんやろ、ホナどないしよう」 「あんた、家へ帰って寝なはれ」 「どもしやないなあ」  片方は酒を段取りして来て飲んで、酔うた勢いで寝てしまいましたが、若旦那の方、お酒が入ってない、そこへもってきて前の晩まで二晩、女子のそばで寝てきたもんでっさかい、煎餅布団では、なかなか寝られんもんとみえまして、 「阿呆らしなってきた、えらい違いや、昨夜と。熊はん、もうええ具合に寝てるで。鼾が聞こえたあるがなあ、しかし久しぶりに行って逢うたら、銭のこともみな忘れて夢中になってしもたなあ、ええ女子やで、なあ、わいの顔見たら目に涙ためやがって……。まあ、若旦那久しぶり……。やて、たまらんなあ、アッハッハッハッ、ああもう一ペん逢いたいなあ、今晩もう一晩でええさかい顔だけでも見たいなあ」  ごじゃごじゃごじゃごじゃ言うてますと、ちょうど時刻がいつもの時刻、一時も回り二時にかれこれ手が届こうかという時刻ですな、生ぐさい風が吹いて来たかと思いますと、へっついさんの肩から青い陰火がポーッ、それへさして色青ぎめた幽霊がズーッ……。 「うらめしや……」 「会いたいなあ、せめて顔だけでも見せてくれたらええのに、どこにいてるねん」 「うらめしやー」 「来てるのんか、どこや」 「金返せ……」 「イヤー、アーアー」 「若旦那、どないしなはってん」 「熊はん出たがな、へっついさんから幽霊が」 「何ぞ言うてましたか」 「金、返せて、わたいあの人に銭借った覚えない」 「分かった。あのへっついに塗り込めたあった銭が欲しいねんな」  これから二人が考えまして、またぞうろ、この幽霊と出会いまして、博打を打って落ちあいが着きます、へっつい幽霊というお噂でございます。 [#改ページ] 堀川《ほりかわ》  エエ一席はお酒のお噂を申し上げます、お酒というものは具合のよろしいもので、酒なくてなんの己れが桜かなと申します。  桜を見に参りましてもお酒を飲んでるのでよろしいが、桜を見に行って風邪薬を煎じて飲んでおりましても面白うおまへん。  お年を召しましたお方は酔うと身体を後へお引きになりますが、お若いお方は勢いが違いますので前へ出なはる、後へ引くお酒は上品でよろしいが前へ出るお酒は何や遠乗りの馬みたいに、口のはたへ唾を溜めて身体が斜《はす》かいになって、額であっちを睨んで、一人で八人歩きという歩きかたで、あっちへよったりこっちへよったり、 「ヨイトサノサちゅうやっちゃ、アア酔うたなア。お酒飲む人、真から可愛い、お神酒あがらぬ神はない……ちゅうて、また家へ帰ったら親父っさんのお眼玉や、うちの親父はよう怒りよるな、あら空消《からけし》親父というね、親父入れるよな火消し壷、怒《おこ》るたんびに蓋をする、か、どうぞ帰って親父さんが寝ていてお母さんが起きててくれたらええがなア、親父寝のお母ん起き、お母ん寝の親父起きやったらさっぱりわやや、モウうちの門まで来てるで、チョッとお開け。お母はん。チョッと開けとくなアらんか、お母ン、開けてんか母者人、昔の娘はん、今では皺くちゃのお婆はん、チョッと開けとくなはれや、もうし」 「コレ婆どん、また極道が酒に酔うて帰って来よった、毎晩毎晩遅う帰って来て、表の戸をドンドンと叩きくさってやかましい、私はご近所へ面目ない、昨夜も昨夜とて遅う帰って来て、私が寝てたら頭をボンと蹴りくさったので、頭を蹴ったなと思うてると、畳へ頭を擦りつけて、アアもったいないと言うてるので、アア酒の酔いは本性たがわずじゃ、親の頭じゃと思えばこそ謝ってよるわいと思うていた。朝起きて倅に言うたら、あれはお父っさんの頭でしたんか、お前何やと思うたと言うたら私はまた瓢箪《ひょうたん》かと思いましたと、それでも畳に頭をつけて謝っていたやないかというたら、イイエ瓢箪の詰めが抜けて酒がこぼれたらもったいないと申しておりましたと、こんなことを言いよるのじゃ。親の頭より酒の方が大事に思うている、そんな倅はうちへ入れることは出来ません、表を開けずに放っときなされ」 「ナア親父どん、腹も立つやろうが、今晩のとこは、わたしに免じてうちへ入れてやっとくれ」 「イヤなりません」 「マアマアそうじゃろうが、わたしに免じて」  と女親は子にかかったら甘いもので、マアマアの八百もいうてうちへ入れて寝さしましたが、その後へ帰って参りましたのが、マア筋向かいの息子さん、同じくらいの年輩で商売が大工さん、いたって極道で、男の極道と申しますとたいてい決まっておりますが、この息子の極道というのは風変わりで火事と喧嘩がいたって好き、火事と喧嘩があったら飯を食べいでも腹が空かんという、妙な極道もあるもので。 「アアとうない遅うなった、拍子の悪い、段々不景気になって火事も喧嘩もないようになった、一ペん血の雨の降るような喧嘩をさらさんかいな、腕がウナッてるねがな」 「うどんやエ、そばいよう……」 「アアうどん屋がいよる、ヤイうどん屋」 「ヘエ」 「熱いかい」 「ヘエ、親方なぶらんとおいとくなアれや、熱いというたら暑けりゃ肩脱げと言おうや思うてなはるねやろう」 「誰がそんなことを言うた、熱いかと尋ねてるのじゃ」 「さよか、ええ加減だす」 「なんじゃ、ええ加減じゃと、そんなら一杯くれい」 「うどんだすか、蕎麦《そば》だっか」 「湯じゃ」 「アノ湯、湯をどうしなはるね」 「どうするかい、今そこで泥の中へ足を突っ込んだので足を洗うのじゃ」 「モシ、うだうだ言いなはんなや、あんたが足を洗うのんを、この辛い時節に高い炭を焚いて湯を沸かして待ってますかいな」 「何を、われだいぶ洒落たことを吐かすな、俺にほげたを吐くとは少し骨のある奴やな、サア命のケコロをいこう、サア来い」 「モシモシ、そんな無茶なことしたらいかん、うどんの荷がひっくり返りますがな、チョッと待っとくなはれ今湯をかけます、とうない無茶な人やな、ヘエさようなら」 「コラ、熱いやないか、少しうめてくれ」 「無理をいう人やなア、ヘエヘエ……」 「足を拭いてくれ」 「手拭は」 「ないわい、われのんで拭け」 「ヘエヘエ」 「ヘエヘエ、何を吐かしてけつかるね、頤《あご》を蹴り上げたろか」 「イヤモウ結構だす」 「遠慮さらすな」 「イイエ遠慮さらします、顎蹴り上げられてどないになりますかいな」 「ざまみされ腰のない奴やな、文句吐かしたら二ツ三ツボンボンと張り倒して、うちへ去《い》んでガサガサと茶漬けを食うてコロッと寝たら胸がスウとするねがな、アアうどん屋びっくりして逃げて行きよった、仕方がない。去んで婆と喧嘩をしたろ……」  と乱暴な男で、うちではお母さんが昼の疲れで柱にもたれて居眠っておりますとこへ、 「婆、今帰ったぞ」 「オオ兄、帰りやったかえ、えらい早かったな」 「何を吐かしてるね、いつもより遅いのじゃ、寝《どぶ》さりやがってからに」 「兄、堪忍しとくれや、つい昼の疲れで」 「コラ昼の疲れ、昼なんぞ疲れるようなことをしているかい」 「明日から起きて待ってるで」 「あたりまえじゃ」 「兄、御膳をたべやるか」 「仕事から帰ったら飯食うのに決まってるわい」 「さあさあ食べやれ」 「コラ冷や飯に香物やないかい、なんで温《ぬく》飯に魚をつけさらさんね」 「わたしじゃとて可愛いそなたのことじゃもの、温《ぬく》い御飯に魚のお菜《かず》をつけたいのじゃが、兄が小遣いをくれんので」 「二言目には小遣い小遣いと俺の働くのを当てにせんと、われも何なと小遣い儲けをせい」 「そら兄、私じゃとて仕事があればする」 「するか、するなら浜へ頼んだるよってに明日から仲仕《なかし》に行け」 「兄、私のような者が仲仕に行ても間に合やせん」 「エエ情けない奴やな、飯をよそえ」  御飯を食べますと肩もめ足こすれと、二十四孝の横蔵そこ退け、無理の八百もいうてそのまま大の字なりになって寝てしまいましたが、この男、夜遊びが好きで朝の起きぬ男、無理に起こすと喧嘩を吹っ掛けますので、お婆さん門へ出て独り言を言うております。 「ハイハイどなたもお早うさん、えろう表を人が走りますのは何でござります、アアさようか坐摩《ざま》〔神社〕の前に心中があると、女が十八、男が二十歳で、あったら蕾《つぼみ》の花散らしましたな、可哀想に、さようか……」  独り言を言うてる。  これを聞いた息子、なんし人寄りと聞いたらジッとしていられまへん、寝床からムクムクと飛んで起きました。 「なんじゃ、坐摩の前に心中があると、退け、オオ、ライショ、ライショ」  裸足で飛び出しました、お婆さんは慣れてますので、後片付けて御飯こしらえをして待っておりますと、息子は坐摩の前へ行たが何事もない、シシラシンとしたアる、ぼやいて帰って来ました。 「コラ婆」 「兄、早うからどこへ行きやったんや」 「坐摩の前に心中があるというたやないか」 「兄、なにかいな坐摩の前に心中があったんかえ」 「あったんかえてわれ言うたやないか、女が十八、男が二十歳、あったら蕾の花を散らしたと」 「兄、あれかいな、あれは私が十六の年やがな」 「なんじゃ十六の時や、今から五十年も前のことを吐かしてるのじゃが」 「兄、寝やるか」 「今頃から寝たら仕事に行くのに遅うなるわい、飯を食うて仕事に行くわい」 「オオオオ、そうしやれ、そうしやれ」  御飯を食べると弁当を持って仕事に行きます。  日が暮れますと向かいの酒飲み極道が、 「ヨイトサノサちゅうやつじゃ、アア酔うたな、お酒飲む人、真から可愛い、お神酒あがらぬ神はない、ちゅうて、また帰ったら親父のお眼玉や。お母はん、チョッと開けとくなはらんかお母ん、母者人、昔の娘はん、今では皺くちゃのお婆はん、チョッと開けとくなはれや、もうし」 「コレ婆どん、極道が帰って来た、今晩という今晩は開けることはなりません」 「マアマア親父どん腹も立つやろうが今晩のところは」 「イヤなりません」 「そうじゃろうけども、マアマアわたしに免じてマアマア、マアマア」  またマアマアいうてうちへ入れて寝さしました。  後へ戻ってきたのが喧嘩極道。 「拍子が悪いな、昨晩はここにうどん屋がいよったのに、今晩はうどん屋もいよらん、去んで婆と喧嘩を…」  と戻って来ますとお婆さん昨晩は怒られたので、今晩は起きてチャンと門口までお出迎い。 「オオ兄、帰りやったかえらい早かったな、今晩はそなたの好きな温い御膳に生節のお菜や、御膳食べやるかえ、肩ももか、足こすろかえ」 「フム今晩は俺の怒ることをないようにしやがった、そうしてみい、怒りとうても怒られへんわい、飯よそえ」  御飯を食べますと例の肩もめ足こすれと十八番で寝てしまいました。  翌朝お婆さんはモウ独り言を言うわけにいきまへんので外へ出て、 「隣の佐助さん、お早うさん」 「お婆さん、お早うさん、えらい早いやないか」 「佐助さんまことに済みまへんがうちの兄を起こしとくなさらんか」 「イヤお婆ん堪忍して、お前とこの兄を起こすのんは、忘れもせん、モウ先頃《せんど》やった、兄を起こしてくれというのでうちへ入って、息子起きて仕事に行きやと起こしたら、フムというて起きて仕事に行たので、アア年は薬やなア、今日は素直に起きて仕事に行ったわいと喜んでたんや、日が暮れに路地口に立ってたらそこへ息子が戻って来て、佐助はん今朝ほどは大きに憚りさんというたので、私が精出して仕事に行きやと頭を出すと、拳骨でゴンゴンゴンのゴンと続けて七ツ殴られた、あの時私はフラフラが起きたで、あんな無茶な息子を起こすのんはモウ御免蒙る」 「別に手を掛けて起こしてもらわいでも、うちの兄は火事が好きでござりますで、火の回りの拍子木を打って火事や火事やというとくなされ、わたしは金盥《かなだらい》を叩きますで」 「お婆ん、堪忍していな、うちに子供が三人もあるね、子供が見たら笑いよるがな」 「どうぞ佐助さん、この年寄りを助けると思うて」 「いつもお婆んが年寄って子供のために苦労をするのがいとしいよってに、うちの嬶に怒られてるねが、どうも仕方がない、やったげる、お婆んもやりいな」 「佐助さんお頼申します、火事じゃア……火事じゃア……」  ガンガラガン。 「阿呆らしなってきた、四十三にもなってこのようなことをせんならんとは、厄たたりや、火事や火事や(チョンチョン)火事だっせ、火事やがな」  チョンチョン。 「火事じゃ……火事じゃ……」  ガンガラガン。 「モウシ火事やで(チョンチョン)火事やそうにおますせ」  チョンチョン。  火事というのが寝てる息子の耳に入った。  なんし飯より好きな火事やので寝床から飛んで起きて、 「婆、火事はどこや、火事は」 「兄、火事やといな、火事やといな」  ガンガラガン。 「火事はどこやというね」 「兄、その火事は」 「その火事は」 「火事じゃ」  ガンガラガン。 「火事は火事ということがあるかい、火事はどこや、早う言わんかい」  余り喧《かしま》しゅういわれたので、お婆さんうろがきて、あまり遠い所をいうたらまた仕事に行くのに都合が悪いので近所がよかろうと、 「兄、その火事は隣り裏や」 「なんや隣り裏やと、それを早う言わんかい、隣り裏なら友達の梅のとこへ行てやらんならん、そこ退け、オオライショ……」  裸足で飛んで行きました、お婆さんは後片付けて御飯こしらえして御膳を出して待っております、うちはそれでよろしいが気の毒なは隣り裏の梅はん、同職業の大工さん、朝出仕事とみえて早うから上がり口ヘ道具箱をほり出して、大工さんがお粥《かゆ》を食べるということはありますまいが、御飯の都合かお粥の釜を前へ置いて家内じゅう寄って食べております。 「オイ嬶、早う弁当を入れてくれ、今日は朝出で行かんならんね、遅うなったら手合いがさわる、洗濯は俺が出てからしたらええやないか、俺は気が急いてるね、ハアプウ、お粥に仰山《ぎょうさん》塩を入れて辛うて食われへんがな、コラ喧嘩をせんと早う御膳を食べて寺屋へ行かんか、遅うなるやないか、コラまだ喧嘩をしてる」 「ウワア……兄やんがわいの香物《こうこ》を取りよるね」 「コラ香物を取ったりするな、鉢に仰山あるがな、われ兄やないか」 「私なんにも取れへんのに取ったや言いよる、取らんのに取ったや言いよるねやったら取ったろ」 「また取りよるがな、ウワン……」 「コラそんなことをするな、モシお爺やん、チョット見てやっとくなアれ、香物で喧嘩をしてまんがな。お爺やんというのに、あんたは別に用事のない身体や、後でゆっくりと食べなアったらよろしいがな、お爺やんというのに、鼻を一ぺんかみなはれ、プラッと下がってます。温《ぬく》い物を食べたら出るねがな、別にすすり込まいでもよろしいがな、惜しそうに。なんぼでもあと湧いて出ますわいな、子供やあるまいし、ええ年をして鼻ぐらい人にいわれんかて、自分でかみなはったらどうだんね、それ漬物の中へ落ちた。アア心の悪い、お政、洗濯は後にして弁当を先に入れてくれというのに、片意地な奴やなア、われも早う食べて寺屋へ行かんかい、遅うなるがな」  と言うてるとこへ右の慌て者が、 「オウ、オオライショ、ライショ、オイ梅、火事やがな、火事やがな、納まって飯を食うてるのやないで、オイ道具箱を出したアるか、こっちへ貸し、焼けても道具さえあれば明日から仕事が出来る、俺が持って逃げたる、オオライショ、ライショ……」 「オイオイ、そら何をするね、そんな無茶しいないなア、俺朝出で仕事に行こうと思うて道具を出しといたのに、それを持って行てどないするね、俺仕事に行かれへんがな、お政、われが早いことせんよってにあんな無茶者が来て道具箱を持って行きよったがな、弁当を先に入れてくれというのに、洗濯は俺が出てからでも出来るがな、アアお爺やん、チョッと見てやっとくなアれ、寝床から小さい奴が這うて来ました。着物を着せてやっとくなアれ、風邪を引きまっせ、起きたら一ぺん小便をやっとくなアれ、アアお櫃《ひつ》を持って立ちよる、危ない、手を放したら頤《あご》を打ちますせ、お爺やんチョッと見とくなアれ、妙な顔をしてますせ、ソレソレ言わんこっちゃない、小便垂れをしてまんがな、足でビチャビチャと踏んでる、心の悪い、飯を食うてるとこで、お爺やん、チョッとむつきを取って拭いとくなアれ、茶碗を放しなアれ、茶碗は逃げしまへんがな、熱い湯を掛けて畳の目なりに拭《ふ》きなアれ、そう横に拭いたら畳へ摺《す》り込んでるようなもんや」 「オオライショ、ライショ、梅州まだ飯を食てるのんか、火事やというのに。アアお爺やん、こっちへおいで年寄りは危ないで俺が負うて逃げたろ、サアおいで、オオライショ……」 「オイオイ何をするね、そらお爺やんが逆様やがな、頭が引きつってるがな、頭痛病みになるがな、お政、それみい、早いことさらさんよってにお爺やんを連れて行きよったがな……」 「オオライショ、ライショ……」 「コラ源公、お前、何ぞ俺に意趣遺恨《いしゅいこん》でもあるのか、朝っぱらから俺とこのうちへ暴れに来やがってからに」 「暴れにやない、梅州火事やがな、火事やがな」 「火事やというて、どこぞ騒いでいるとこがあるかい」 「騒いでいるとこがあるかて、……ハハン」 「何がハハンや」 「けども俺が二度目に入って来た時に足を火傷《やけど》をしたで」 「火傷をした訳や、お粥の釜の中へ足を突っ込んだんやがな」 「アアそうか、なんやおかしい具合やと思うていたんや、またうちの婆と隣の佐助との仕事や、俺も悪気があってした訳やない、マア堪忍し」 「悪気でしたんやなかろうけども、俺朝出で仕事に行かんならんので道具箱を出しといたんやがどこへ持って行たんや」 「焼けても明日から働けるようにと思うて玉造へ持って行て預けたんや」 「そんな遠いとこへ持って行てどうするね、そいでお爺やんわいな」 「年寄りが怪我をしたらいかんと思うて安治川へ連れて行て預けて来た」 「そんな無茶なことを。西と東へ分けて預けてるねがな、お前道具箱を取って来て、俺お爺やん迎いに行て来るで」 「俺は仕事に行かんならんでお前仕事を休んで取っといで、さよなら」 「オイオイ、そんなことをしたら俺仕事に行かれへん、手合いがぐれるがな……お政……」 「馬鹿にしてくさる……コラ婆」 「兄早うからどこへ行きやったんや」 「何を吐かしてけつかるね、俺はえらい目に会うてるわい、コラ佐助」 「イヨオ……」 「イヨオやないぞ、この間のガンチキチンを忘れさらしたな」 「兄、寝やるか」 「今頃から寝られるかい、飯を食うて仕事に行くわい」 「アアそうしやれ、そうしやれ」 「そうしやれ、そうしやれ」  そのまま御飯を食べて仕事に参りました。  日暮れますと向かいの酒飲み極道が、 「ヨイトサノサちゅうやっちゃ、お母はんチョッと開けとくなはれや、母者人、昔の娘はん……」  何べん言うても同じことで、その後が喧嘩極道、例の無理を言うて寝てしまいましたが、翌朝になるとお婆さんモウ起こす機会《しお》がないので門口へかんてきを持って出て、火をいこして茶を沸かしながらボウとしているとこへ出て来ましたのが、この長屋の奥に住んでいる与次兵衛というて、背中へ猿を負うて市中へ猿回しに出る男。 「お婆ん、お早う」 「オオ与次さんか、毎日毎日よう精を出しなさるな、たまには一日ぐらい休んでやったらどうやな」 「お婆ん、私もたまには休みたいが日和になると背中の太夫が風呂敷を私の傍へ持って来て、商売に行こ、銭儲けに行こと口では言わんが、なんと可愛いもんじゃないかいな、太夫に引かれてつい出ますわいな、お婆ん」 「マアさようかいな、人間に三筋毛のたらん畜生でさえ銭儲けに行きますのに、うちの極道は何という奴でござります、今頃まで寝くさって」 「お婆ん、息子はまだ寝てるのか、起こして仕事にやりんか、職人が今頃まで寝てるということがあるかいな」 「ハイ起こしますと私に喧嘩を吹っかけます」 「ナンや、親に喧嘩を売るのか、そらお婆んが甘いよってにや、私が起こしたげる」 「イヤ与次さんほっといとくなはれ、モシあんたに喧嘩を吹っかけて傷でもつけましたら済んまへん」 「お婆ん何を言うね、私に手を掛けたら私が承知しても背中の太夫が承知せんで、お前とこの息子の顔へ掻きついて顔に傷をつけるで」 「たとえ倅の顔に傷がつきましても、仕事に行てくれさいしましたら」 「フムよくせきのことや、可愛い息子の顔に傷がついても大事ないというのか、心配しいな、私が起こしてやる、お婆んそこで見てや、それ太夫降りた、これからここの息子を起こすね、分かってるか、もしここの息子が私に指一本でもさえたら顔へ掻きついてやれよ、アハハハハ」 「これ源やん、起きて仕事に行きんか、職人が今頃まで寝てるということがあるかいな、なんやフムフム目が痛い、そら夜遊びが過ぎるよってにや、起きてやり。  ♪おきやるかめいたや、めいたやなア……、ウヤ源さん、イヤ源さん、イヤ日天《にってん》さんがお照らしじゃ、時間何時や知らんか、八時三十分回ってる、近所の車屋も、こんにゃく屋も、飴売、豊年屋も皆々銭を儲けに行てるのに、ふんずりかいて寝ているとは、冥加《みょうが》が悪いで、おとなしゅう早起きや、源さん、イヤむこいき姿が腕力な、イヤ腕力な、イヤさりとはさりとはノウヨホあろうかいな、喧嘩なぞやめようかいな、品行のええこと好んで母者人に安心さしやアア、これエ……。これこれこれ、それ見やんせ、余りこなさんの起きよが遅いによって、母者人が顔を真っ赤にして気をもんでいさんすわいな。  ♪これ、イヤこれこれこれ、行てやろ行てやろ、ノホヨホヨホエ仕事場へ鉋《かんな》ナゾ持とかいな、勉強第一、身のため母者人を大事にしいやアアこれ。これこれ足で蒲団を差し上げているということがあるかいな、じらさずにほんまに起きてやらんせ。  ♪イヤそうじゃ、そうじゃ、そうじゃ、そうじゃ、そうじゃやア……。そこで母者人が喜んだものだよ、よろこぶ、よろこぶノホオホヨホホ、仕事場で手斧《ちょうな》また持とうかいな、金銭儲けるのが手柄じゃ、稼がんせ、職人の朝寝はころりとやめ、イヤころりとやめ……。ウハハハハ、起きたか……。起きたら手水《ちょうず》を使わんせ、飯食うて仕事に行きやんせ、ヤアアええ息子じゃに改心なされ、ええ息子じゃ、ええ息子じゃ。すこぶる美男のええ息子じゃ、ノホオホヨホホあろうかいな」 「イヤキッキ」 「そら何をするね」 「こらえらい面白いわ、毎朝こないにして起こして、大きに憚りさん、仕事に行くわ」  そのまま御飯を食べて仕事に行てしまいました。 「コレ親父どんチョッとここへおいで、向かいの源さんは阿呆やないか。与次さんに起こされて猿になって仕事に行くとは、源さんはよっぽど馬鹿やないか」 「婆どん何を言うね、たとえ猿になってでも仕事に行てくれたら結構じゃ、うらの倅をみい、毎晩虎にならにゃ帰って来よらん」 [#改ページ] 豆屋《まめや》  あいも変わりませずばかばかしいお噂を一席聞いていただきます。  ただいまはあまり見かけませんが、昔はよく町中へ物を売りに来はったもんですが、あの商人《あきんど》さん、大きい声で売り声を叫びながら歩くんですが、この売り声ちゅうのがなかなか難しいもんで、一声《ひとこえ》と三声《みこえ》は呼ばぬなずな売り。  たいていこの呼び声は二声《ふたこえ》に決まってございまして、たとえば花屋さん、かならず二声で叫びなはる、花イー花、花イー花、二声やさかい花売りに来たような感じがします。  同じことで、これ一声やったらどないなるか、花、花、なんじゃ女子衆さんを呼んでるようになる。  ホナ三声やったらどないなるか、花花花、鼻拭きそうになります。  玉子屋さんがやはり二声、たあまご玉子、いかにも玉子を売りに来たように思いますが、一声でやりますと、玉子、玉子、どうれ、なんや案内こうてるようになります、三声やったら玉子玉子玉子、みな割れてしまいよる。  ごんぼ屋さんがやはりその通り、ごんぼごんぼ、ごんばごんぼ、一声でやると、ごぼう、ごぼう、具合が悪い、ほな三声やったら、ごぼごぼこぼ、言いにくいでんな。  やはり二声やなかったら具合が悪い。  ところがこの売り声によって、この商人さんが素人か素人やないかすぐ分かるそうです。  ここにございました新米の豆屋さん、ある路地へ入って来よって、新米丸出しです。 「豆でっせ、豆いりまへんかいな、豆買うとくれやす。豆、豆、豆でっせ、豆いりまへんかいな」 「おい豆屋」 「へい、お呼びでっかいなあ」 「呼んださかい聞こえてんやろ、こっちィ入りさらせ、入ったら荷、そこへ置きさらせ」 「ウワッハ、悪い言葉やな、へ、おろさしてもらいます、ええ親方、豆買うとくれやすか」 「豆屋、われ、その豆一升なんぼで売りさらすつもりや」 「ウワッ、悪い言葉やな、売りさらすつもりやて、親方なんでんね、この豆一升五十銭で売らしてもろうてまんねんけど」 「なに一升五十銭、おい豆屋、ものも相談やが五銭にまからんか」 「へ、へ、五十銭のうち五銭まけて四十五銭にせえとおっしゃる」 「そやないわい、何を聞いてけつかるねん、おれの言うのはただの五銭にまけえというねん」 「親方、うだうだ言わんといておくなはれ、なぶらんといておくれやっしゃ、えらいすんまへんねんけどもねえ、わたいとこ、やっぱりこれ元がかかってまんねん、へえ、五十銭の豆を五銭にまけとけて、ようそんなこと言いなはるわ、嬶を養わんなりまへんねや、えらいすんまへん、またなあ、どこぞでただで豆が手に入ったら五銭で買うてもらいますわ」 「こら、こら豆屋、われほげた吐いたな。まからんもんなら、まからんと吐かせ、エエただで豆が手に入ったら買うてもらいます、ははん、われそんなことさらしてけつかんのんか、何かい、ただで豆が手に入るちゅうねやったら、盗みさらすねやろ、嬶、表の戸しめて閂《かんぬき》入れ、そいでそこにある割り木一本持ってこい、太そうなやつ、こら、われ生意気なこと吐かしたな、どうしても五銭にまけられんのか、ようし、まけんなら、ええわい、無事にこの長屋出られると思うたら、あて違いやぞ。己れ、五銭にまけへんのやったらなあ、この割り木で己れのどたま……」 「ちょっ、ちょっと待っとくれやす、ちょっと待っとくれやす。まけさしてもらいま、五銭でどたま割られたら、えらい目に会いまっさかい、へえ、まけさしてもらいま、悪いとこへ入ってきた、ほんなら一升計らせてもらいまっせ、こんなもんでどうでっしゃろ」 「コラ、われ今なにさらしてん」 「角《すみ》切らしてもろたんで」 「なにイ、角切らしてもろた、豆屋、われ、嬶《かかあ》はないのんか」 「一人だけおまんねん」 「当たり前やないかい、豆屋で嬶が一人あったらそれで結構じゃ、嬶があったら子供がでけるとせんならんなあ、子供はまだないのんか」 「嬶、八月《やつき》でおまんねん、もうこぼれるような腹してまんねん」 「そうか、どっちみち近々に生まれるねんなあ、われみたいなそんな豆の計りようしたらなあ、鼻の低い不細工な子がでけるぞ、やっぱりええ子を産もうと思うたら、もっと豆盛れ」 「うまいこと言いなはるな、さよか、へいへい、ほんなら豆をもうちょっと盛らしてもらいまっさかい、親方、これでどうでっしゃろ、一升一合はおますけど」 「一合、もっと盛ったらどないや」 「親方、無理言いなはんな、もうこれ以上なんぼ盛ったかてあんた、友達つれて皆こぼれはりまっせ」 「どたまの悪いガキやなあ、当たり前やないかい、オイ、そのなあ、桝をずうっと手元に引いて、そうそう、片一方を自分の胸に当てるようにせえ、ほいで左の手で、こう、向こうから囲うてみ。こぼれへんさかい」 「あ、うまいこと考えなはったなあ、なるほど、ハハっ、こうしたらこぼれしまへんなあ、親方、ちょうど二升はおまっせ」 「それやったら、鼻の高いええ子が生まれるわ、嬶、いかき持ってこい、そこへあけとけ、ほいで五銭やったなあ、俺とこ、あんまり現金で買うたことないねんけど、特別に現金で払うたるわ」 「けっ、阿呆らしなってきた。五十銭の豆を五銭に値切られて、現金で買うたるわやて……、また、なんと思うてこんな長屋へ入って来てんやろ」 「何をぶつぶつぼやいてけつかんねん、われたとえ五銭でも商いさらしてんやろ、商いしたら、なんで有難うこざいましたと、礼を吐かさんねん」 「親方、なんでっかいな、五十銭の豆を五銭に値切られて、まだ、有難うこざいましたと、礼言わないきまへんのんか」 「いや、言わんなら言わんでええわい、言わなんだらええわい、そのかわり、おのれこの長屋無事に出られると思うてけつかんのんか、この割り木で己れのド……」 「分かりました、言いま、言いま、おおきに、有難うおました。ぎょうさん、ぎょうさん有難うおました。おおきに、えらいすんまへん」 「泣いてけつかる、このガキや、また持ってこい、買うたるさかい」 「誰がこんなとこへ来るかい、ほんまに、豆いりまへんかいな、豆」  うろが来てしもうて、早うこの長屋を表へ出ようと思うたんが、どう間違いよったんか、奥へ入ってきよって豆、豆、半泣きになっとる。  ちょうど一番奥の端の家から、 「ド豆屋」 「えらいことした、外へ出るつもりが奥へ入ってきたがな、ド豆屋と言いよったで、ああ、あいつやな、さっきのやつもえげつない顔しとったが、こいつもえげつない顔してるで、この方がだいぶとうわ手らしいなあ、聞こえんふりして帰ったろ」 「コラ、そんなことさらして、この長屋無事に出られると……」 「同じこっちゃがな、親方、なんぞご用でっか」 「こっちへ入りさらせ、そこへ荷ィ置きさらせ」 「同じこっちゃがな、さっきと。エ、親方、豆買うていただけますか」 「その豆、われ一升なんぼで売りさらすつもりや」 「親方、もうなんぼでもよろしいわ、まあ、五銭でも三銭でも二銭でも一銭でも結構でおます」 「なに、五銭でも三銭でも二銭でも一銭でもええてか、オイ、ド豆屋、われ、これだけの粒の揃うたええ豆を、わずか五銭で売りさらすちゅうのんか、コラ、われ、なんぞ不正なことさらしてけつかるな、嬶、表の戸閉めて閂入れ、この豆屋帰すな、ついでにその割り木一本持ってこい、コラ、己れ、この豆、どこぞで盗んだな」 「ち、違いまんねん、違いまんねん、わけを言わな分かりまへんねん、今ここの長屋へ入ってきたら、戸口の家から呼び込まれて入りましたらね、なんぼやと、こない言いはったんで、一升五十銭でおますとこない言うたらね、五銭にまけとけとこない言いはったんだ、そんな無茶なこと言わんといておくんなはれちゅうたらね、ほんなら、嬶、表の戸閉めて閂入れ、割り木持ってこい、ここら親方と一緒でんねん、へえ、ほいでまけんならまけんでええわい、そのかわり、この長屋無事に出られると思うてけつかんのんか、ちゅうてね、割り木ふり上げはったんだ、そいでわたい、五銭にまけたんだ。今、親方に呼び込まれて、お宅へ入ってきたらね、さっきの親方もえげつない顔したはりました。しかし、あんたの顔、えらい顔でんなあ、もし。顔に髭が生えてるのやおまへんで、髭に顔が生えてるてな顔でっせ、その凄い目でぐうっと睨みつけはったんでね、またうっかり、五十銭や言うたら怒られると思うて、五銭でも三銭でも二銭でも一銭でもええ、ちゅうたんだ」 「バカ、俺はそんなこと言う人間やあるかい。五十銭でええやないかい、一升五十銭で売らんかい、まあ一ぺん計ってみい」 「えっ、計らしてもろてよろしおますか、おおきに有難うさんで、だいぶにさっきの親方とあんたとでは違うわ、人間がなあ。エエ、恐い顔してはるけど、なかなか情があるなあ、エエ、思い切りこないしてねえ、だいたい一升桝は一升しか入らんもんですけどねえ、わたいこうしてねえ、ちょっと頭を働かして、へえ、桝をこう胸元へ当てましてね、ほいで左手で向こう側、こういうふうに囲いましてね、ホイデこうして豆を入れてみなはれ。へえ、見てみなはれ、こんな小さな桝にあんた、一杯入りましたやろ、どうです、エエ、ちょうど二升はおまっせ、これでよろしか」 「誰が、そんなことせえというた。何のために桝があるねん、一升桝なら一升きっちり計らんかい、だいたいなあ、豆屋、われ、嬶はないのんか」 「ここら同じや、へ、一人だけおまんねん」 「子供はえ」 「嬶が八月でんねん、大きな腹してまんねん」 「それやったら、われみたいな計り方したら鼻の高い化物みたいな子供がでけるぞ。その手をはなせ、囲うたある手をはなせ」 「はあ、さよか、なるほど、ええ、それでもまだ一升二、三合おまっせ」 「コラ、桝ちゅうもんはなあ、角切りちゅうて、一升きっちり計るようにしてあるのじゃ」 「さよか、ほんなら、きっらり計らしてもらいますわ、へい、これでよろしいか」 「オイ、豆星、われその桝の中に入ったある豆、ちょっと出してみる気はないか」 「なんでおます」 「いいええな、お前らみたいな、こんな豆屋てな商売、利の少ない商売やろ、たとえ一粒でも二粒でも、ちょっと桝からお前、こぼしてみい、それだけ儲かるねやないかい、それでお前、嬶や子供を養うのやないかい、それぐらいのどたま働かせ、商人なら」 「さよか、ほんなら、お言葉に甘えまして、へえ、気のもんですさかいね、へえ、ちょっとねえ、五つほどこないして取らしてもらいま」 「気の小さいガキやなあ、このガキは、われ男やろ、桝の真ん中からごそっと掬《すく》うて出してみい」 「桝の真ん中から掬うて出してよろしいか、ハアさよか、ホナ、こないして、これでどんなもんでおまっしゃろ」 「もっと出せ」 「もっとでっか……。これでどんなもんでっしゃろ」 「気の細かいガキやなあ、このガキは。一ぺんその桝持ってなあ、裏返してポンとはたいてみい」 「桝持って裏返してポンとはたくんでっか、親方、からでっせ」 「わいとこは買えへんわい」 [#改ページ] まんじゅう怖《こわ》い  我々同様てな連中が、七、八人も集まりますと、マ、随分と話の花の咲くもんでございまして、 「おい、そんな所へかたまってんと、こっちィおいで、こっちィおいで。いや、実はな、今この男が言い出しよって、人間というものはみな、お互いに、顔が違うように、その人間その人間によって、みな好きなもんが違うと、こない言い出しよって。なるほど、こいつの言う通りや。  なア。たとえばやで、お前が食うて旨いもん、必ずしも俺が食うて旨いかちゅうたら、そやない。こいつ、ようこんなもん旨いちゅうて食いよんな。わいらテンとどもならんてなもんでな。好きなもん、みな違うはずや。今日は、こないして久しぶりにみな顔が揃《そろ》うて、どないや、好きなもん尋ね合いして遊ぼと思うねんやが」 「オッホ、結構やな、やろ、やろ」 「やるか。やるのやったらこっちの端から順番に尋ねるさかい、順番に答えていってんか。おい、お前、一番好きなもん何や」 「そやなア、まあ、俺の一番好きなもんやったら、やっぱし酒か」 「なるほど、聞いてて嫌味がないな。一番好きなもんは酒。男らしゅうて、ええ。わかった。おい、そっちは。お前、一番好きなもん何や」 「わいの、一番好きなもんはア、二番目が酒や」 「な、聞いてみんならんちゅうのはここや。なア。こっちの男は一番好きなもんが酒やて、あいつは二番目が酒や。エー、おもろいもんやな。そで、お前の一番好きなもんは何やね」 「わいの一番好きなもんはア、二番目が酒や」 「いや、そら今聞いて分かったあんね、な。二番目を聞いてんのやないね。一番好きなもんは何やちゅうね」 「エヘ、一番好きなもんは、アッハ、アー、二番目が酒や」 「なぶってたらあかんで。何べん同じこと言うね。一番好きなもん言うたらええねや」 「ウフ、一番好きなもんは、アー、ウッフ、うらの嫁はん」 「よう、あんなアホなこと言うで。なんじゃ気がねして、言いにくそうにしとると思うたら、あんなことぬかしやがんね。おい、その次、お前一番好きなもん何や」 「そやなア、天婦羅《てんぷら》か」 「なるほど、天婦羅。どっちかいうと油っこいもんが好きらしいな。分かった。おい、その次、お前の一番好きなもん何や」 「キャラメル」 「何?」 「キャラメル」 「キャラメル。おい、ええ年して、キャラメルてなこと言いな。みっともない男やで、おい、その次、お前一番好きなもん何や」 「そやなアー、まあ、わいの一番好きなもんやったら、麺類《めんるい》では、ボタ餅《もち》か」 「何を」 「麺類では、ボタ餅」 「ボタ餅。おい、あのボタ餅、麺類か」 「あア、ボタ餅は、あれ、魚類ですか」 「お前、そんなアホなこと言いないなア。エ、分からなんだら、そんなむずかしいこと言わんでええのや。おい、そっちィ、お前、一番好きなもん何や」 「わい、一番好きなもんやったら、これぐらいのどんぶり鉢か」 「何……」 「これぐらいのどんぶり鉢」 「けったいなもんが好きやねんな」 「いや、どんぶり鉢が好きちゅうわけやないねン。そのどんぶり鉢ィな、熱つ熱つのな、炊きたてのご飯よそおてな、そいで、ごく新しい鯛な、バッバッバッバーンとぶつ切りにして、そのオ、切り身を、五つ切れほど、こう上へ並べといてな、そで、あの、玉子を二つほど、ボンボーンッと割ってな、えらい贅沢なようやけども、この、白身は放ってしもてな、黄身だけ上からかけてな、そで、そこへ浅草海苔のええやつ、とろ火で、こうあぶっといてな、そいつを上からバラバラーッとかけてな、そいで、ごく、よう効く山葵《わさび》をばすり込んで、そで、上等のうすロ醤油、上からシューッとかけて、こいつをば、ガーンとかき回して、八杯食う」 「化けもんや。ようそんなもん八杯も食うで。おい、その次、お前、一番好きなもん何や」 「まあ、俺の一番好きなもんやったら、朧月夜《おぼろづきよ》か」 「何?」 「朧月夜」 「朧月夜……。ホー、柄にもないこと言うたな。朧月夜がどういうわけで好きや」 「いや、朧月夜の晩にな、夜遅うに、なるべく人通りのない所を俺が一人で歩いてるとな、足になんや、こつんと当たるもんがあるね。何やろなアと思て拾うてみると、小さな風呂敷包み。うちィ持って帰ってな、電気の下で、この風呂敷を開けてみたら、中からお前、金が一杯出てくるわけや」 「はアー、金が一杯出てくるて、どれぐらいや」 「まあ、そやな、三百八十円ほどな。ほで、こいつをば、早速、警察へ届けるね。一年ほどたって、こっちが忘れた時分に、警察から呼び出しや。何やろなアと思て行てみると、例の一件、落とし主が知れん。君はこれだけの大金をば、正直に警察へ届けた。なかなか感心な男やちゅうてな、せんどその、警察の署長にほめてもろてな、そで、その、三百八十円もらうのが大好きや」 「よう、そんなあつかましいこと言うで。だれかて好きやがな。いや、そんな贅沢なもんやなしにな、今尋ねてるのは、ちょっと食べるもんでは何が好きやちゅうね」 「あ、それやったら南京豆」 「えらい違いやな、おい、エー。南京豆と三百八十円とつろくせえへんで。いやいや、これで好きなもんはみな聞いた。そな今度はな、好きなもんだけではおもろうない。どないや、好きなもんの反対いこうか。怖いもんとか、また、嫌いなもんとか。それから、ア、ソ、あのウ、昔、徳川家康ちゅう人がいやはったなア」 「ハァハ、いたって心安い」 「嘘つけ。あの人がな、あれだけの英雄やったけど、蛙見たら一ぺんに顔の色が変わったちゅうねン。こら、臆病やない。虫が好かんちゅう奴っちゃ。そやから、今言うたな。怖いとか、嫌いなとか、また、虫の好かんもんを今度言うてもらうさかい。やっぱしこっちの端から尋ねるさかい、答えてんか。おい、お前の一番怖い、嫌いなもんは何や」 「そやなァ、やっぱし、わいの一番怖い、嫌いなもんちゅうたら、蛇か」 「長もんな。こら、だれでも嫌がるもんや。いや、分かった。おい、そっちィ、お前何や」 「うん、わいもこいつと同じようなもんが嫌いやな。蛇だけやないねや。ウ、鰻《うなぎ》やとかな、穴子やとか、それから、あの、みみずやとかな。あの、ぬるぬるっとした感じが、わい、いたって嫌いやね。あらア、虫が好かんちゅうねんやろかなァ」 「まァま、そんなもんやろな。わかった。おい、そっち、お前は」 「あ、わいか。わい、あのな、この前、あのうちの嬶がな、子供産むので、お前、実家へいによって」 「だれがそんな話をしてんねん。そやないがな。お前の怖いもんは何やていうね」 「そや、そやさかい言うてるやろ。そで、お前、実家へいによったさかい、留守やから仕方がないね。そで、わい、その時な、褌《ふんどし》洗濯して、そで、糊ぎょうさん使うてつけたらな、糊がこわいこわい」 「も、そんなアホなこと言うてんねやないで、お前は、好きなもんはちゅうたらキャラメルやちゅうし、怖いもんちゅうたら褌の糊のこわいんのがこわい。よう、そんなアホなこと言うで、ほんま、みっともない。おい、そっち、お前、何が怖い」 「まあ、わいの怖いもんやったらケツネか」 「何……」 「ケツネ」 「こら、今時の若いもんが、ケツネてなこと言うな。第一な、狐、狸てなもんはな、だまされたり化かされたりしてはじめて怖いとか嫌いとか言えるねんで」 「そ、それが、お前、わい、だまされてン」 「ホー、お前が。何時いな」 「忘れもせん、去年の夏や」 「どこで」 「この町内で」 「この町内で、ホー。こら聞きはじめやな。そのだまされたのはどこでや」 「そ、あのー、割木屋があるやろ」 「あ−、あの角の割木屋か」 「そや、そや。わい、風呂から帰ろと思てな、あの割木屋の所まで、こう歩いてきてんや。時間にしたら夕方の六時頃やったかいな」 「はあ」 「そな、わいの目の前へな、大きな白犬がとび出しやがんね。え。はてなア、この町内で、あんまり見かけん犬やがなアと思てな、ジーッと見てみると、これが犬と違うね。尾ォが太い。狐や。そう。去年の夏頃、よう町内のな、年寄り子供が、ええ、割木屋の近所で、ひっくり返されたとか、こかされたとかいう噂がたってたやろ。ははあ、このド狐の仕業やなと思たもんやさかいな。いきなりな、つかつかっとそばへ行くなりな、エ、拳骨固めて、狐の、ちょうど額のところへんをば一つブァーンといった。え、狐が、バウッちゅうてな、仰向けにひっくり返りよった。早速首すじ、グーッと押さえつけて、横手見たら割木屋のこっちや、エエ、割り木が山のように積んだある。手頃な太そうな奴、一本ずるずるっと引き抜いてな、そいで、この狐をばひと思いにどつき殺してやろうと思たらな、狐が下から哀れェな声でな、『どうぞ、命ばかりは助けとくなはれ』こないぬかすね」 「おい、ちょっと待ち、狐がもの言うたりするか」 「言わいでかえ。相手はお前、人化かしたり、だます奴っちゃで、え。そやさかいな、『どうぞ、命ばかりは助けとくなはれ』と、こない言いよる」 「ほオー」 「ほいでな、わいが、『なんかしてけつかんねン。エエ、せんど今まで悪戯《わるさ》しときやがって、助けてくれ、虫のええことぬかすな。今までさらした悪戯の報いやと思て観念さらせェ』と、こない言うたらな『どうぞ、そんなことおっしゃらんと、命だけは助けとくなはれ。その代わり、助けていただきましたら、そのお礼といたしまして、あんたが生涯見られん珍しいもんをゆっくりお見せします』と、こないぬかすね。そいで、わい聞いたって『オィ、何かい、今この場で己れの命助けたら、俺が死ぬまで見られん珍しいもんを見してくれるちゅうのんか。その珍しいもんて、一体、何を見してくれるねん』こない言うて尋ねたらな『あんたらご存じじゃおまへんけど、狐、狸てなもんはね、人をだましたり化かしたりはしますけど、ほかの人には、この、だましてるとこは見せんもんでおます。今日は、命を助けてくれはったら、そのお礼に、これからあんた以外の人をだますところをゆっくりとご覧に入れますさかい』こないぬかすさかいな、『ハハアー、なるほど、今まで狐にだまされた、狸にだまされたてな話は聞いてるが、そのだましとるとこを見たちゅう奴は一人もない。うん。こらおもろそうな。よし、お前の言うとおり、今日のとこ命助けたら、その代わり言うとくぞ、鮮やかァにだますとこ見してくれよ』言うてるとな、向こうのほうから来よったんが、年の頃は、二十四、五や。え、小意気な男や。こいつも風呂帰りと見えてな、浴衣がけで、ふん、濡れ手拭下げてぶらァぶらァ歩いて来よんね。『あのお方、だましまっさ』て言う。エ。横手にあったナ、小さなわら束な、頭の上へ載せやがって、『すんまへんけど、ひとつ、一ィ、二の三ツと掛け声かけてくれ』と、こないぬかすさかいな『よっしゃァ』俺が『一ィ、二の三ツウ」ポイッと俺の前でとんぶり返りしよったと思ったら、かき消すように姿が見えんようになった。しもたァ、えらいことしたなァ、うまいことぬかして逃げくさったなと思てるとな、今度俺の目の前へ、スーッと現した姿見たらナ、年のころは二十一、二。エエ、髪の毛の濃ォい、色がぬけるほど白オて、目元のぱっちりした、鼻筋の通った、撫で肩のスラーッとした、なんとも言えん別嬪に化けやがった。俺ァびっくりしたな、『お! おきっつぁん』」 「ちょっと待て、ちょっと待て。なんや、そのおきっつぁんちゅうのは」 「いや、相手が狐で、名前が分からんさかい、おきっつぁんちゅう名前つけたってン。『おきっつぁん、なるほど、うまいこと化けるやないかい。えー。現在お前を狐と知ってるこの俺でさえ、これやったらだまされるわ。なんと鮮やかに化けたもんやないか、しかしなァ、こうして前からゆうっくり、きれえなとこ見してもろうたんや、エ、ついでにな、一遍後ろ向いて、後ろ姿の粋なとこも見してんか』と、こない言うたったらな、狐もほめられてまんざら悪い気はせんもんと見えて、嬉しそうに、ニコッと笑いやがって、『まあ、あんさん、口が上手でんな。ヘーヘ、人に後ろ向かして、後ろ姿の不細工なとこ見て笑おうと思てなはんねんやろ。ヘーヘ、どうぞ笑ておくれやす』言うなり、くるっと後ろ向きよった。ところが悲しいことには急場の仕事や、エー、尾ォかくすの忘れとる。帯のとこから太い尾ォが、ダラーンと出たあるさかいな、『おきっつぁん、あかんあかん、まだ尾ォが出たあるでエー』と、こない言うたらな、あわてて、その尾をば、袂でしゅっとかくしやがってな、『オー、恥ずかしと』」 「嘘つけ、アホらしい。狐がそんな悪い洒落言うたりするかい。ほで、どないしてん」 「『すんまへんけど、あんたがそこにいてはると、仕事がしにくおまっさかい、どこぞへかくれて見てておくれやす』『よっしゃ』割り木の積んである陰へ入ってな、ジーッと様子見てるとな、その男の側へ、つかつかっと行きよったらな、なんじゃ耳元でぼしゃぼしゃっとなんや言いよったら、男が嬉しそうににやにや笑うて、ふうんふん、うなずいとるかいなと思たらな、二人が仲よう、くるっと裏返しやがってな、お互いに肩すれ合うように仲ように向こうに、とっとっとっとっとっと行きよった。『あ、もうだまされやがったわい。これからどういうふうにだまされよるやろ』と思てな、わいも楽しみにして、後ろから見えがくれについて行った。かれこれ、道なら二、三丁行た時分にな、片側に空家がある。え、その空家の戸をばな、狐がひゅっと開けよってな、男、手招きして、え、男の手ェ取るようにして中へすうっと入ってしまいやがんねん。俺もつづいて入ろうと思て、あわてて空家の前まで行たらな、空家の戸をば、ひゅっと内らから閉めてしまいやがる。え。開けよと思たがなかなか開かん。何をすんねん。えー、これから肝心の一番おもろいところォが見られるのに、これでは何にもならんやないか。どうぞして中の様子が見たいもんやと思うてるとな、その戸ォに小さな節穴が開いたある。その節穴から、白い、きれえな指がひゅうと出てきたと思たらな、チョイチョイ、チョイチョイッと招いといて、すっとへっこみよる。ははあ、なるほど、この穴からのぞけちゅう謎やなと思たんでな、早速わいがその節穴へ、こう目を当てて、中の様子をジーツと見てるねんがな、中がまっ暗や」 「何でや、お前、言うたやないか、去年の夏の、お前、夕方の六時頃ちゅうたやろ、たとえ空家にしろやで、えー、夕方の六時頃なら表はまだ明るいねんで。中が暗いちゅうのはおかしいやないか」 「そやそや、わいもそない思うてな。なんでこない暗いねんやろなァと思て、ジーッと中の様子を見るねんけどな、まっ暗で、なんじゃ、もやもやもやもやもやしとってな。そうこうしてる間にな、頭の上へ、なんじゃ、おかしいなもんがバサーッとかかってくる」 「なんや、そら」 「さあ、分からん。頭へかかってきたやつを、この、左の手ェで、こう払いのけながら中の様子をジーッと見てるねんが、まっ暗で、なんじゃ、もやもやもやもやもやもやしよってな。また暫くすると、けったいなもんが頭の上へバサーッとかかってきて、なんじゃ、妙に臭い」 「なんでや」 「さあ、分からん。なんでやろなァと思てな、その頭の上へかかってきたけったいなもんを、こう、手ェで払いのけて中の様子を見るねんが、まっ暗で、もやもやもやもやもやもやしてな、またしても頭の上へ、バサーッとおかしいなもんがかかってきて、ますます、プンと臭い」 「どないしたんや」 「さあ、わいも、どないしてんやろなァと思てジーッとのぞき込んでるとな、ふいに背中一つ、バーッとどつきよって『危ないやないか、何をすんねんなあ』ちゅう声で、フッとわい気がついたらな、わい、馬の尻のぞいてた」 「よ、そんなえげつないだまされようしたな」 「さあー、それから狐が怖うて怖うて」 「よう、そんなアホなこと言うてるで、ほんまに」 「おい、若いもんが大勢寄って、ワーワーとどないしたんや」 「ア、こら親父さんでっかいな。ま、ま、こっちィ上がっとくれやす。どうぞどうぞ、こっちィ上がっとくれやす。いいえな、今みなお互いに好きなもんやとか、また怖いもんの話してたら、この男が、あんた、狐にだまされたちゅうで、みなで大笑いしてるところですわ」 「そうか。いやいや、結構、結構。今日びな、若いもんが寄ると、ろくな遊びさらさんけど、そんな罪のない遊びなら結構や」 「あ、親父さん、ちょうどええとこへ来はりました。いいえ、今まで親父さんにいろいろ、親父さんの武勇伝聞かしてもらいましたけどね、そんだけ強い親父さんでも、ま、こんなこと言うて、えらい失礼でっけど、親父さん、今年、いくつになりはるか知りまへんけど、生まれはってから今日まで、ずいぶん長い年月、その長い年月の間に、一ぺんぐらいは、怖いとか、気味が悪い、てなこと思いはったことおまへんか」 「うん、えらいこと言うた、われの言う通りや、ナ。そら、お前、わいかて、怖いと思たことが、そやな、天にも地にも、後にも先にも、たった一ぺんだけあったかな」 「親父さんでもおますか」 「ああ、忘れもせん。俺が二十二の時や」 「ヘエ、二十二ィの年やったら、随分前の話でんな」 「そうじゃ、かれこれ三十四、五年前の話やな」 「ヘー。どない思いはった」 「いや、今言うたとおり、おら、しんから脂汗流して怖いと思たな」 「ヘエ。親父さんが、そない思いはるぐらいやさかい、よっほどすごい話でっしゃろなァ」 「うん。あんまり気味のええ話やないな」 「どうでっしゃろ、親父さん。その話、一ぺんわれわれにしてもらいまへんか」 「そらァ、したってもええけどな、お前ら、怖がらへんか」 「うだうだ言いなはんないな。われわれなんぼ怖がりやちゅうたかて、あんた、話聞いたぐらいで怖がったりしますかいな」 「そうか、それやったら話したろ。おい、みな、もっと前へ寄れ」 「ヘッ。で、親父さん、そらァ、いつ頃の話です」 「さっきも言うたやないか。俺が二十二の年や」 「へえへ」 「その当時な、俺の叔父貴《おじき》ちゅうのがな、農人橋お払い筋を北へ入った西側に住んでた。俺が叔父貴ンとこへ行ったんが、そやなァ、八時頃やったか。俺が入っていったら、ちょうど叔父貴も、職人のこっちゃ、夜なべ仕事をしもうて、これから寝酒一杯やろうちゅうので、おばはんが、叔父貴の前へお膳を置きよったとこへ入っていったもんやさかい『わァー、ええとこへ来た。これから一杯やるとこや、付き合うてんか』そこは、叔父甥の間柄や、遠慮気兼ねがないがな『あ、こらァええとこへ来ました。ほんなら早速よばれまっさ』と、叔父貴と二人で、差しつ差されつ、呑みながら世間話をしてた。この酒呑みてのはおかしなもんでな、呑みながら世間話してると、時刻のたつのんの分からんもんや。ひょっと気がつくとな、十二時も回ってる様子。『あ、おっさん、長いことお邪魔しました。えらい御馳走になりました。わたい、これで帰らしてもらいまっさ』『まあええやないか、ええ。遅うなったらうちで泊まっていんだらどないや、ええ。うちで泊まってやったら、まんざらお母ンも怒りもすまい。え、ええやないかい』『いえ、そらァ、おっさんとこで泊めてもろたら、お母ン怒りゃしまへんけどね、今日出しなに、なんにも言わんとおっさんとこへ来たもんでっさかい、へえ、帰らなんだら、うちでお母ンが心配するといけまへんさかい、今晩のとこは帰らしてもらいまっさ』『ああ、そうか。それやったら、ずいぶんと気をつけて帰れよ』『へ、大きに御馳走さんでごわした、お休み』ポイッと表へ飛び出したんが、かれこれ一時小前、農人橋《のうにんばし》筋を、ずうーっと下へ降りてくると、東横堀川。これに架かったあるのが農人橋や。おい、農人橋と言や、今でもあのあたりはずいぶんと寂しい所や」 「そうです。へ。大阪にね、あんな寂しい所があるとはだれも思いまへんで。そうですがな、あの本町の曲がりちゅう所、昼日中でも人通りがおまへんね。追いはぎが出るちゅうぐらい寂しい所でっせ」 「そうじゃ。ましてその当時の農人橋と言や、ずいぶんと寂しい、すごい所やった。西詰めにな、大きな柳の木が一本植わったあってな」 「はァ」 「で、俺が今、この、農人橋を渡ろうと思うて、ふっと気がつくとな、橋の真ん中に若ァい女子が一人、立ってるやないか」 「親父さん、この夜ふけにね、人通りのない所で、女子に会うたぐらい気味の悪い話はおまへんな」 「そうじゃ、俺も、この夜がふけたあるのに若い身空で女子が一人で、橋の真ん中で、何をさらしてけつかんねんやろと思てな、こっちから、じいーっと様子を窺うてみると、なんじゃ袂へ物を放り込んで、袂がずっしりと重たい。ハハー、身投げやなァと思たもんやさかいな。おい、お前らに言うといてやるわ。身投げ助けるのはな、声掛けたらあかんで。俺ア、足音忍ばしてな、まあ後ろまで行た時に、ちょうどこの女子が、欄干に足掛けよって南無阿弥陀仏と飛び込もうとするやつをば後ろから羽交い締めに、だあッと抱きとめて、『こォれ、何をすんねんな』『どうぞ、この手を放しとくれやす。どうぞ、助けると思うて殺しとくれやす』『何をぬかすね。えー、俺がいったんこうして抱きとめたら、放してくれ殺してくれちゅうたかて、ああさよかとこの手が放せるかい。さあ、人間大切な命を捨てるちゅうね、それにはそれ相当の、深アい訳があろう。さ、その訳を言いなはれ、事情を言いなはれ。な、話を聞いた上で、こらどうしてもお前が死なねばおさまりがつかんと俺が得心がいたら、え、なにやったら俺が手伝うて殺したってもええがな。さ、その訳を言いなはれ、事情を話しなはれ』と、噛んで含めるように言うてやるねんが、もうあかん。相手は死神がついたと言おうか、ただ、死にたい死にたい、殺してくれの一点張りや。ええ、おい。俺も、今ならやで、たとえ相手が聞かなんでも、無理矢理にでも、うちへひっぱって帰ってな、相手の気の静まった頃を見はかろうて、懇々と意見の一つもして思いとどまらすねんけどな、なんし、さっきも言うた通り、二十二や。年が若い。そこへもってきて、酒が入ったある。ムカムカッとしたもんやさかいな『ヤイ、赤の他人のこの俺がこれほど親切に言うてやってんのに聞きさらさんのか。そない死にたけりゃ勝手に死にさらせー』バーツと突き放して、二、三歩行ったが、ああ、しもた、悪いことしたなァと思うたが、後の祭り。今一足か二足で、橋を渡りきろうとする時分に、後ろで、ザブーンと飛び込みよった水の音がした。アーア、ああして、縁があって、いったん俺が抱きとめたってんけれど、俺の親切が足らなんだがために、今までもの言うてた、あの女子が、今、川へはまって死によるかいなと思たら、俺、思わず腹のうちで、南無阿弥陀仏と念仏唱えた。あーいやな晩や。こんな晩は早よ帰って寝まひょうと、西詰めをば南、川筋をかれこれ一丁も行たかいなァ。今までどないもなかったのにな、急に風が出てきて、えー、柳の木ィヘ、ザアー、ザアー。思うてる間にな、車軸を流すような雨がザアーッと降ってきよった。あー、えらいことした、早よ帰ろうと行きかけるとな、ふっと気がつくと、俺の後ろから濡れ草履《ぞうり》でも履いて歩くような足音が、じィた、じィた、じィた、じィた、じィとするやないか」 「親父さん、それ、何や」 「さあ、分からん。後ろ振り向くことがでけへん。気味が悪いもんやさかい、俺は急ぎ足に、タッタッタッタ、タッタッタッタァーッと行くとな、後ろの足音も同じように、じィた、じィた、じィた、じィた、タタタタァー、こっちがピタァッと立ち止まると、同じように、ジタッ」 「ほんに、この、話、親父さん、だいぶんに怖いな、親父さん。ほいで親父さん、どないした」 「さあ、こうなったら、もうあかんな。なんとかしてこの急場を逃れたいと、ふっと気がつくとな、浜側に地蔵さんが祀《まつ》ったある。地蔵さんの前に、大きな賽銭箱が置いたある。これ幸いと、この賽銭箱の後ろへ俺がパッとかくれた。後ろの奴、気がつかなんだもんと見えてな、賽銭箱の前をば、じィた、じィた、じィた、じィた、じィた、じィたと行き過ぎよった。やれ助かった。命拾いをしたと思うてな賽銭箱の陰からじいっと様子を見てみるとな、十足ほど行きよって何を思いよったかピタッと立ら止まったと思うたらな、あたりをば、キョロ、キョロ、キョロ、フイッと振り向きよった顔を見ると、最前の女子や。はまりしな、どこぞで打ちよったと見えてな、額が柘榴《ざくろ》のように割れて、血がこれからこれへさして、ダァーッと流れたある。もちろん唇の色は紫色、目の見当が狂うてしもうた。その見当の狂うた目ェでな、わいがかくれてる賽銭箱の方をば、じいっと見よったかいなと思うたらな。ひょろひょろ、ひょろひょろ、ひょろひょろっと帰ってきよった。見つけられたらどもならんと思うもんやさかい、俺ア、賽銭箱の後ろで小そうになってるとな、賽銭箱のまあ前まで来たら、賓銭箱の隅へ、こう手を掛けよってな、俺の頭の上から『さっきィ、た・す・け・てやろうと、言うたお方ィな……』」 「アー怖、アー怖、アー怖、ほおんにこの話怖いな親父さん。アー怖。おい、みな、どこも行きな、どこも行きな。わいの側にひっついとき、わいの側にひっついてて、アー怖ほんまに怖い話やな、親父さん。それからどないした」 「何をぬかしてんね、こいつは。そない怖かったら、あと聞きないな。さァ、こうなったら仕方がない。おら女子の前へ、ポィーッと飛び出してな」 「親父さん、飛び出したか」 「うん、『いかにも、さっき助けてやろうと言うたんは、この俺じゃ。あの時に俺の言うこと聞きさらさんと、勝手にはまって、勝手に死にぞこないさらしてんやろ。よおし、さっき俺が言うた通り、今度は俺が手にかけて殺したるさかい、こう来さらせえ』ちゅうなりな、女子の髪の毛ェ、手へ、グルグルッと巻きつけると、こいつをば肩へ担ぐようにして、ずるずるずるーッとひっぱって、元の農人橋のまあ真ん中まで行てな、女子の体、抱き上げて、この雨で、川の水は少々濁ってるが、末期の水は食らい次第や、勝手に食らいさらせェーちゅうなり、女子の体、抱き上げて、川の真ん中、目がけてェ、ドブーンッと」 「ウワァッ、放り込んだか」 「わいもはまった」 「なんや、親父さんもはまったんかい」 「そうじゃ、拍子の悪い橋の下にな、船が一艘つないであった。えー。その船の框《かまち》で、ド頭ゴツーンと打ったら、痛いッと思たらな、偉いもんやなァ、目ェから火が、バアーッと出よった。その火ィで、足火傷して、熱ァついの熱うないの、熱いッちゅうたら目が覚めてんけど、気ィつけよ、櫓炬燵《やぐらごたつ》は危ないぞォ」 「親父さん、親父さん。夢の話やったらこれは夢やと、なんではじめに言いなはらへんね。え、みな、ほんまの話やと思て、顔色変えて聞いてまっしゃないかいな。しかし親父さん、なんと長い夢見はりましてんな。なんでっか、親父さん、それ、はじめからしまいまで、ずうっと夢でっか」 「いやいや、そら、ほんまのとこもちょっとは混じったあんね」 「はあ。ほなら、どっからどこまでが夢で、どっからどこまでがほんまでんね」 「いや、俺が川へはまってな、着物がずぶ滞れに濡れたと思うたらな、わい、小便垂れしててん」 「なにをしなはんねんな。親父さん、寝小便してんねがな」 「ま、静かにせェよ」 「何を言うねんな。何が静かにせぇや。あんじょう、親父さんにだまさ………あ、光つぁん、あんた何時来なはって」 「へ、今、みなワーワー言うてはんのんで、何やろなと思うて寄してもろうたんで」 「あ、さようか、ええとこへ来なはった。いいえな、今、あんた、親父さんになぶられて、さっぱりわやや。へえ。実はね、みな、好きなもんとか、怖いもんの話してたんだ、ええ。光つぁん、ちようどええとこへ来はったんだ。あんたにも尋ねまっけど、あんた、怖いもんおますか」 「ヘッ」 「いいえ、あんた、怖いもんおますか」 「へ、そら、わたいかて、怖いもんが一つだけおますねん」 「あ、さようか。で、あんたの怖いもんて、いったい何でんね」 「へ、わたいの怖いのんは、おまんです」 「何です、おばん。あんた、ええ年しておばんが怖いてなこと言うてたらあきまへんで」 「いいえ、おまんです」 「え、おまん。おい、光つぁん、おまんちゅうたら饅頭で。ボンと割ったら中から餡の出る」 「ウフ……そんな殺生なこと言わんといておくなはれ。ボンと割ったら中から餡が出てちゅうような、そんなこと言わんといとくなはれ。わたい、自分の口で、おまんと言うだけでも、わたい、キ、気味が悪いんだ。それをばあんた、ボンと割って、ア、餡が出てくるやなんて……ソナ、殺生な……ハハ。わたいね、子供の時分からね。病気ちゅうてね、一ぺんもしたことないんだ。へ。わたいの病気と言うたらね、この、おまんのことを思うたり、おまんのこと聞いたりしたら、フ、フ、フ、震えが起こりまんね。またこの調子やったら、二、三日は熱出して寝んならんと思います。ホナ、もう、わたい帰らしてもらいまっさ、さよなら」 「オイ、オイッ、ちょ、ちょっと。聞いたか。いいえな、あの光つぁん、おまんのこと言うたら一ぺんに顔の色変えて震うてたで。おまんが怖いて、ほんまやろか」 「そら、わからんで」 「え……」 「いいえな、ようあるやろがな。なア、親が、たとえばやで、殺生したとか、な、親が猟師しててやで、え、ソイデ、ま、猪を撃ち殺したとか、それが子供に祟ってやで、子供が猪が怖いとか、いろいろあるもんや。な。そやさかいな、光つぁんにしたかてや、な、親が、その、饅頭を思いきり食うたとか、な、また、ひょっとしたら、光つぁん自身が、その、子供の時分に、饅頭をいじめた」 「よう、そんなアホなこと言うで。饅頭いじめたりするかいな」 「いやいや、分からん。な。そら、あんだけ顔色変えて震えるねんさかいな、よっほど饅頭が怖いらしいで」 「世の中には変わった奴がいてるなァ。おッ」 「どない……」 「おもろいこと思いついてんけど。こういう遊び、せえへんか」 「おもろいこと思いついたて、何すんねん」 「いや、光つぁん、饅頭が怖いちゅうて帰りよったやろ。お前らも知ってる通り、光つぁん、あれ、一人もんや。え。あの長屋のやで、四畳半一間の家に住んどんね。え。そこは、あの、裏口が、確かなかったはずや。な、表口一個や。え。あいつがほんまに饅頭が怖いか怖うないか。これから一ぺん試そやないか」 「試すて、どないするねや」 「いや、みなお互いにな、みな饅頭持ってな、そいで、光つぁん見舞いに行くねん。アア。そいで、『あの、光つぁん、見舞いに来ましてん』ちゅうてな。光つぁん、どっちみち、帰って、一人で寝とるのに違いない。そこで『すみまへんけど、ちょっと顔だけ見しとくれや』て。え。顔上げよったとこへやな、みなで、持っていった饅頭を、バアーッと投げつけるねや、え。饅頭の話聞いただけでもあんだけ怖がる奴っちゃ。ええ。ほんまもんの饅頭が、光つぁんの顔めがけて飛んで来てみィな。光つぁん、あの、狭い四畳半の家やで。裏へ逃げよと思うても裏口がないもんやさかい、表、ピシャーッと閉めてしもたあるねや、あの家の中をばやで、『キャー、ばたばた、キャー、ばたばたアー』ちゅうて走り回りよる。その声や音聞いて、みんなで楽しもやないか」 「なるほど、そらア、えらいおもろいな。オオやろやろ」 「やろやろはええけどやで、今言うてる饅頭、これもそこらの駄菓子屋に売ってる安物の饅頭じゃあかんで。え。大阪で一流の饅頭みな買うてきて集めて、そいで、そいつをば持っていくねや」 「あ、なるほど。早いこと行っといで、俺も行ってくるさかい」 「お! 行ってきたわ。うん。俺、あの、これ、橘屋のへそ張り込んで買うてきた」 「なるほど、橘屋のへそ、なかなか上物やな」 「オイ、わいとこは、亀沢の袱紗《ふくさ》や」 「ほうら、また上品な饅頭買うてきたやないか」 「お前が一流の饅頭買うてこいちゅうさかい」 「おい、わいのとこ、あの甘泉堂《かんせんどう》の粟饅頭や」 「甘泉堂の粟饅頭。洒落たあんな」 「おい、高砂屋のじょうよや」 「ほうら、またええ饅頭やな」 「おい、あの、友恵堂の太鼓饅頭や」 「わいとこ、あの、湖月堂の最中や」 「おい、わいとこは、あの、駿河屋の羊羹でもええかいな」 「ま、ま、羊羹でも饅頭のうちに入るやろ。いやいや、これだけみな揃うたらええわ。そいでお前わい」 「わいかい。わいは、あの、ひさご屋の罌粟《けし》餅買うてきたあるさかい」 「なるほど、ええ饅頭ぎょうさん集めたなア。ほならな、各自にこれを持ってな、そいで、これから行くねんさかい。え、ア、わかってんな。言うとくけどな、全部で声掛けたらあかんで、俺が一人で声掛けてな。え、そいで、光つぁんが顔上げてわいが合図したら、お前らがいっせいに、バアーッと饅頭放り込んで、あと戸をピシャーッと閉めて表へ出て聞くねんさかい」 「なるほどなあ。あの狭い家の中で、キャー、ばたばたばた、キャー、ばたばたばたァちゅうて、エ、その音聞いたり声聞くの、こらおもろいやろな」 「そらおもろいがな。こんなもんはな、芝居でも、映画でも、とてもな、見たり聞いたりでけへんこっちゃさかいな」 「ほんまやなァ」 「あ、もうぼちぼち、光つぁんとこの表へ来たさかい。静かにしいや。わいが声掛けるさかい。光つぁん、光つぁん、帰ったはりまっかァ」 「へえ」 「御気分、どうでおます」 「へ、まだァ、震えが止まりまへんね」 「さようか、そらいけまへんな。いいえ、あんたがね、あないしてあんたが、顔色変えて、あんた震えて帰りはったちゅうて話してたらね、是非お見舞いしたいちゅう人がね、来たはりまんね。会うてあげとくなはるか。ええ、ちょっと、あの、すんまへんねんけどな、あの寝てはるとこ悪うおまんねんけど、ちょっと顔だけ上げておくれやす。よろしかァ」 「へ。そンなら、どなたか知りまへんが、ご親切にお見舞い下さいまして、大きに有難うさんで」 「おい、顔上げよったで。それ行けえ」  と合図いたしますと、続けさまに表から、あるだけの饅頭を、バッバッバッバッバアーツと放り込んで、ピシャアーツと戸ォ閉めて。ところが、光つぁん。まともに饅頭が顔へめがけて飛んできたもんですさかい『うーん』ばたあーっと倒れた。 「おい。キャー、ばたばた、キャー、ばたばたちゅうのはちょっとも聞こえへんで。え。いいえな。キャー、ばたばた、キャー、ばたばた聞いて楽しもちゅうてたのに、静かやないかい。これでは何にもなれへん。みなお互いに、お前、ない銭、無理してやで、上等の饅頭買うてきたんや、なんにもなれへんやないか。だれや、キャー、ばたばたて言うたの」 「ばんばん言うないな。わいかてこんなことやるのははじめてや。なあ、あれだけ怖がってるさかいに、ほんまもんの饅頭がバアーッと飛び込んで来たら、キャー、ばたばたァとなるやろと思ってたんや。こない静かやとは思わなんだ。ともかく一ぺんな、な、中の様子見てみ」 「え……」 「中の様子を見てみちゅうね」 「だれが見る」 「だれが見るて、お前が言い出したんやないかい。お前がちょっとのぞいたらええがな」 「あ、そうか。ほな、わい、のぞくけどな。オイ」 「なんや」 「み、光つぁん、倒れてる」 「何……」 「光つぁん、死んでる」 「死んでる……アホなこと言いないな。なんぼ怖いちゅうたって、饅頭ぐらいで死んだりするかいな」 「いや、そら、そら一概に言えんで。うん、俺は見ててんけどな、おい、お前、違うか。お前、あの袱紗買うてきたん。あの袱紗が光つぁんの顔へ、ベタァーッと当たったン、俺、見たんや。え、それで心臓麻痺かなんかなんぞ起こして、ショック死ちゅうやっちゃ。え、光つぁん死んでるがな」 「えらいことになったな、どないしょ」 「どないしょうとも、こないなったらあかんで。いや、ここ動かれへんで」 「なんで」 「なんでてそやないか。えー。われわれがこんなこと考えついてやで、そで、光つぁん殺してんさかい。え。もう、こうなったら、みな、どこも行かれへんで」 「どこも行かれへんて、どないなんね」 「当たり前やがなァ、光つぁん殺したんはわれわれやさかいな」 「ハアー。そで、どないなるね」 「見ててみいな。もう暫くしたら近所からやな、人が出てきて、光つぁんの死んでるの見たら、え、すぐに警察へ連絡しよる。警察から検死官からみな出てきてな、刑事が出てきてバアーッと調べよる。え、われわれは一網打尽ちゅうやっちゃ」 「わいら、みな、警察へ引っぱられるの」 「そらそうやがな、な。共謀してやってんやからな」 「共謀して」 「ああ。あのな、単独でやる罪とな、共謀でやる罪とはな、罪がころっと違うねんで。え。一人でやるやつは、さほどでもないねんけど、共謀してやる罪ちゅうのは重いねんさかいな」 「そな、わいら、みな、刑務所へ行くのか」 「当たり前や。もうこうなったら一蓮托生《いちれんたくしょう》や、な。みなお互いに覚悟し」 「そいで、どないなる」 「もちろん、新聞記者が来よるがな。ええ。新聞記者ちゅうのは、またうまいこと書きよんでェ。そやな、まあ見出しがやで、『友達共謀して……』な、さっき言うたやっちゃ、共謀罪ちゅうて、罪が重いねんで。『友達共謀して、佐藤光太郎なる者をば、饅頭にて暗殺す』」 「はあー」 「『殺された奴もあんつくなら、殺した奴もあんつく』」 「フッ、そこでみなが、小豆色の着物着るのんか」 「そんな、しょうもないこと言いないな」  今までワアワア言うてた奴が、しいーんと、青菜に塩みたいなもん。静まり返ってしまいました。 「なあ、なんぞあるやろと思うたんや。えエ、『光つぁん怖いもんおますか』と言いよったさかい、えー、口から出まかせに饅頭が怖いちゅうたら、ウフッ、どうや、ちょっと芝居したったら、ぎょうさん饅頭買うてきやがんね。ええ。おら、酒ちゅうたら雫《しずく》も呑めへんけど、もう、甘いもんときたら、目も鼻もないねや。ここのとこ、ずうっと小遣いに困ってたさかい、旨い饅頭食うたことないねン。ええ。これだけ饅頭持ってきてもらえるとは思わなんだなァ。えー、これ何や。あ、えらい上物、張り込みよったで、ええ。橘屋のへそや。ヘッ。長いこと食べてェへんわ。ヘッ。あー、旨いな。この橘屋のへそ。この餡がな、えー、黄楊《つげ》の木ィで、長ァいことかかって炊《た》いたある餡やさかい、口の中へ入れたら、勝手に溶けよるな。ハハッ。この大きなのは何や。ああ、袱紗ちゅうやっちゃ。上品な饅頭や。えー。あっさりした、アハッ、甘味ちゅうやっちゃな。あ、これも食べてもうたろ。こっちは。ああ、ぎょうさんあるさかいな、どれから食おうかいなと思うな、アハハ。高砂屋のじょうよか。こら、また、ちゃあんと竹の皮の蒲団敷いとるさかいな、ヘッ。あー、アハハ、湖月堂の最中、へ、上品な味やで、エー。駿河星の羊羹か、夜の梅ちゅうやっちゃな。好きなもんばっかしや。ま、この調子やったら、四、五日は食べられるやろ」 「おい、おい」 「なんや」 「なんや、家の中で、もの言うてる気配がすんでェ」 「アホなこと言いないな。光つぁん、あれ一人者やで。この家の中にいるちゅうたら光つぁん一人や。その光つぁんが死んでるのに、もの言うたりするかいな」 「そうかてお前、なんじゃ、ぼしゃぼしゃ、ぼしゃぼしゃ言うてる話し声が聞こえるで。おまけに、なんじゃ、物食うてるような気配するでェ」 「そな、アホなことがあるかいな。光つぁん死んでるのに、なんでお前、物食うたり、もの言うたりする?」 「そうかてお前、じいっと聞いてみいな」 「あ、ほんに。なんじゃ物食うてるような気配がするな。おい、一ぺんのぞいてみ」 「え……」 「一ぺんのぞいてみ」 「よっしゃ。ちょっと待ちや。アッ、アッ」 「なんや、烏やがな、どないした」 「光つぁん、饅頭食うてる」 「エッ、光つぁん、饅頭食うてる」 「起きて、坐って、饅頭食うてるでェ」 「バカにしやがって、エエ、うまいことぬかして、饅頭が怖いやて、われわれ一杯食わしやがったんや」 「どないしょ」 「どないしょもこないしょもあるかい、開けて言うたれェ」 「よっしゃ、言わいでかい。オイ、光つぁん」 「あーッ、アハッ、どなたもお揃いで、大き御馳走はん」 「そら、何を言うねんな。あんた饅頭が怖いちゅうて食うてるやないかいな。光つぁん、あんたのほんまに怖いもんは、いったい何やねんな」 「へ、熱ゥいお茶が一杯怖い」 [#改ページ] 向こう付け  今は文字を書いたり読んだりするのは、これはもう、当たり前のこってね、書けなかったらたいへんなことですが、昔は落語の世界がそのまんま現実の暮らしであった時分には、字の書けるやつがかえって妙に思われたりなんかして。 「オーィ! エー、聞いたか」 「なにが」 「なにがってお前、マッチャン字書きよんねんて」 「エー、あいつ字書きよんの。アホ違うか」  て、自分がアホや。そういうその世の中の常識てなもんは、時代が移るとともに変わっていくてのは、こりゃ、まア当たり前のことでございます。 「カカア、ただいま」 「なにしてなはんねんこの人は、今ころまでのたくたと、ホンマにアンケラソ、えらいことがおこったんやで」 「アー、また火事か」 「アホか、この人は、火事どころではないで」 「差し押えか」 「あんたほんまに麩《ふう》踏んだような人やな。そやけど、え、あなたがいつもお世話になってたご隠居さんが亡くなりはったんやで」 「なくなったら、探さんかいな」 「モウ、いやんなってきたな、この人と添うてんのが。お隠れになったんやがな」 「だれが鬼や」 「かくれんぼと違う。この人はほんまにもう、死にはったんやないかいな」 「始めてで」 「どつくで、しまいに。二へんも三べんも死ぬ人あるかえ」 「そんなこと言うけど、カカア、お前、芝居の役者見てみ、お前、前の幕で死んで、次の幕でニコニコ笑いながら出てくるやないか……」 「あのな、もうそんなしょうもないこと言うてんと、これから行っとくなはれ」 「なにしに行くねんや」 「なにしに行くねんやあらへんがな、お葬式に決まってあるやないか。これ持って行っといなはれ」 「これなんや」 「お線香」 「お線香どないすんねん」 「お線香どないすんねんて、お仏壇へお供えしまんねんがな」 「あー、ほなまたあの難しいこと言わんならんな」 「そうでっしゃないか。お悔やみ。ナ、わかってるか、お悔やみを言いに行きまんねん。よろしいな、わかってますか」 「イヤ、わい、わい口下手ちゅうのんを、お前よう知ってるやろ、そんなもん、わいがそんなん行ったかてなにが言えるねんな。ほな、もうしょうがない、こないだ上町のおばさんとこで使うたあれで間に合わしとこか」 「上町のおばはんとこでなに言うたんや」 「おばはん、えらいこっちゃったな、けど大丈夫や、もう風向き変わったさかい大丈夫や」 「火事見舞いやないか、それは。お葬式に行って火事見舞い言うてなにしますねんや、けったいな人やな、まアそこへ坐りいな、この人は、ほんま。鼻ふきなはれ、ほんまに、あなた朝出て行ったら帰ってけえへんねん、ほんまにもう頼りないでそこへ坐って、私が教えたげますよって聞きなはれ」 「教えてくれるか」 「喜んでんのやあらへんがな。承《うけたまわ》りますれば、このたびこちら様にはご不幸があったそうで、まことにお気の毒に存じますと、こうして言うねん」 「だれが」 「おまはんが言うのやがな」 「おまはんが言うて、わいそないにいっぺんでよう覚えられへんで。なにか書いてくれるか」 「アホなこと言うてんのやあらへん。新米の乞食や。サ、よう覚えなはれ。承りますればこのたび、こちらにはご不幸があったそうで、まことにお気の毒に存じます、これはしょうもないもんですがどうぞ仏前へ、言うてこのお線香を渡す、よろしいな。その後で、なんの役にも立たんものでございますけれども、それ相当のご用がありましたらお申しつけ下さい。よろしいな。今日はもうそれで終わったらスッと帰ってきたらあかんねやで。ぼうーっといつも向こうへよしてもうたら、座敷のまん中へ立って天井見てニコニコ笑うて、エエそんなことではあかんねん。もっとふんどし力入れて、よろしいな。腹の底へ力入れていろんな用事しなはれ。で、お昼時なってもうちへ帰ってこんでもよろしい。今日は向こうにご馳走がぎょうさんあるさかいそれ食べといなはれ。よろしな。あんた大食いやさかいに、あんまり食べ過ぎたらしくじるさかい、ええ加減食べて、腹八分目。わかりましたな」 「あー、わかってる」 「わかってたら、早よ行きなはれ、このアホが」  ボロくそに言われてやって来ます。 「ごめーん、ごめんー、ごめんなはれや」 「なんや、九官鳥みたいな声出して、あの頼りない男がまたどういうわけかここのあんた隠居に、気に入られてんのや」 「こっちおはいり、こっちおはいり」 「ヤーどうも。表の暖簾《のれん》裏返ってまっせ」 「そんでええねんがな。知ったかぶりして、しょうもないこと言いな。今日はもう、そんでええねや」 「イヤ、そんでええ言うたかて、後ろの屏風、逆さまやがな」 「そんでええちゅうねん。今日はなんでも逆さまごとや」 「えー、逆さまごと……。なんでも逆さまごとか、あんたら逆立ちせんかい」 「そんなアホなこと、曲馬団みたいに言うてんのやあらへん。今日はこんでええのや。な、あんたもおとなししてなはれ」 「そやけど、ぎょうさん、今日はみなご苦労はんでんな、えらい賑やかで」 「それを言いな、イヤ、別に賑やかなことないねんがな。今日はみな葬礼《そうれい》の段取りで町内が寄ってんねさかい。あの奥へ行きなはれ。奥へ行きなはれ」 「なんで」 「なんでやあらへん。ご寮人《りょうにん》さんが、お前の顔が見えん言うて朝から心配してはった。早いこと行っといで」 「さよか、……ご寮人さん」 「まー、喜ィさんかいな。朝からどこへ行ったんや思て探してたやないかいな、ほんまにもう。あんたが可愛がってもろてた隠居はん、お亡くなりになったんやで」 「さー、それでんねん。ワタイ、さい前聞いた、ええ、もう家へ帰ったら嬶がえらいこっちゃちゅうさかい、差し押えか、言うたら、そんなん違うわい、言うたら火事かって、こう言うたら、火事や差し押えどころやない……隠居が亡くなったちゅうさかい……亡くなったら探さんかい……なに言うてんねん、この人アホか、隠れはったんやがな、ちゅうさかい……鬼だれや……カクレンボやない……こない言いまんねや。死にはったんや、ちゅうさかい、ね……始めてか……二へんも三べんも死ぬ人があるか……嬶が言うけど、ご寮人さんそうでっしゃろ、芝居の役者、前の幕に死んで、次の幕ニコニコ笑て出て来まっしゃろ、ほんでな……行っといなはれ……悔やみや……言うさかい、わい、口下手やしな、そんなん言われへん言うたら、とにかく隠居が死んでご苦労さん言うて、言うて来い……で線香もろて来ましたんやけどな、これ隠居にやって」 「おもしろい人やな、この人は。いやいや、あんたのその気持だけで嬉しいさかいな、奥へ行っとくれ」 「いや、あのな、それからな、わてなんも役に立ちまへんけどな、それ相当の用事があったら言うとくなはれな。もう一生懸命さしてもらいますさかい。そんでお昼になっても、わてうちへ帰らしまへん。今日は、ご馳走がぎょうさんあるさかいな、腹いっぱいよばれしまへん、八分目、もういっぱい食べたらしくじりますさかいな。エーホンデ、アノウ、何なと言うとくなはれ」 「いや、いや、大きに大きに。もうあんたにそない言うてもろたら、わたいな、気持がええねん。いや、あのな、いまそう言うてくれたんで思い出したけども、他々《ほかほか》の段取りはちゃんとしたあんねんけど、帳場の方、阿倍野|斎場《さいじょう》の方やけどもな、だれも行ってもろてないのやわ。あんたすまんけど、行ってくれるか」 「え、そりゃ行かしてもらいまひょ」 「で、あんただけでは頼りないさかいな、後からしっかりした人やるさかいに。ほな、頼んましたぞ」 「あ、アノウ、ほな行って来ます……え、……あ、帳場引き受けたけど、わい字書かれへんのや、えらいこっちゃ。これどないしょ。あ、いっぺん家かえったろ……カカア」 「嬶やないし、この人なにしてなはんねん。手伝いなはらんか」 「いや……それや、わい、これから北海道逃げるさかいな。お前、大和のおばはんとこへ身をかくすか」 「なにを言うてんねん。どないしはったんや」 「いや、あのご寮人さんに帳場頼まれてな」 「それやったらよろしやないかいな。縁の下の力持ちみたいなことばっかりさされるより、お帳場いうたら人目にも立って引き立ちまんのやないか。やんなはれ」 「お前、わいと何年添うてんねん。わい字よう書かんねんで」 「あ、そやわ」 「いまごろ気ィついてけつかる。どないしょ」 「あ、えらいこっちゃ、そんでなにか葬礼《そうれい》は、二時から……。そら急やないかいな。それ何とかせないかん。え、そいで、あの、お帳場あんた一人か」 「いや、わいだけでは頼りないさかいな、後からしっかりした人やる言うて、ご寮人さんもよう気のきく人でな。一人と違うねん」 「それやったらよろしいがな、あんた。これからすぐ行きなはれ。後から来る人に遅れたらあかんで。すぐ行って帳面ちゃんと綴じて、そこら掃除してお茶をわかしてな、なにも後から来た人にしてもらわんでもええようにしといてやな、で、その人が来やはったらちゃんと両手ついて、エエ、ところでお願いがございます。というのは、私はいろはのいの字をどっちから書くてわからん無筆でおます。もう、他々《ほかほか》のことは私一人でなんでもやらしてもらいますんで、どうぞ帳場の所はよろしゅうお願いします、と頭を下げて、丁寧に言いなはれ。早いこと、行っといなはれ。この九官鳥」 「ホンマにもう、えらいもん引き受けたなあ。……あ、斎場前へやって来た。……ちょっと物を尋ねますが、十一屋はんの帳場はどこでおます」 「え、十一屋はんか。ずーとむこうに、あの看板に書いたあるやろ。あそこや」 「なにぬかしてけつかんねん。看板が読めたらこんな苦労するか。お前、もっと親切に教えたれお前は……あのう、ちょっとお尋ねしますが」 「へえ、へえ」 「十一屋はんの帳場はこちらでおますかいな」 「へえ、こっちですが」 「さよか、わたい、あの帳場頼まれて来たもんですが」 「え、お宅ですか。まま、ここへ坐っとくなはれ、へえ、もうお茶わかしてありまんねん。もう帳面も綴じてありまんのでな。で、ちゃんと掃除かて……。なんにもしてもらうことおまへんのや。まアこうや。あんた遅いさかいどないしょうかしらんと思って私が、へえ、よう来とくなはった。ホッとした」 「イヤ、何であんたホッとしなはんねん」 「というのはでんな。ま、聞いとくなはれ、あんた。帳場、ご寮人さんに頼まれたんやけども、自分の名前をどっちから書いてええやらわからん無筆でおまんので、そいであんたに帳場頼みたいと思て……」 「わたい北海道へ逃げまんねん。あんた、モンゴルの方へ逃げなはれ」 「どないしはった、あんた帳場……」 「いや、それがわたいも字あきまへんねん」 「えッ、字書けんの」 「あきまへんねん。あんたも書けんの。わいも書けん、帳場が二人、おもろい」 「おもろいことあれへん。おもろいことあれへんが、これえらいこっちゃ。オイ、何とかせないかんのや。あの、お宅の知り合いにねえ、知り合いに字の書ける人はいてまへんのか」 「いや……それ、おらんことおまへんが、一人だけ学校の先生やってまんのやが」 「よかった。その人にいますぐ来てもろとくなはれ。なんとかこの場を納めんことには、見送り、送り人が来たらえらいこっちゃ」 「いや、……そ、それ……ちょっと遠おまっせ」 「いや、遠いのはしゃあない。人力呼んでね、ずーっとこの迎えに行ってもらいまっさ、……どこでんね」 「九州でんねんやが……」 「あんたおもろいな。そやけど……九州の人がいまの葬礼に間に合うかいな」 「そやから、私は遠いやろ…」 「遠すぎるわ。そんなもん。けったいな人やな。ほな、まア、しゃない、そ、そこへ坐んなはれ。まア、こ寮人さんも何を考えて無筆なもん二人こんな帳場へ……もう、なんぎな、まアここへ坐んなはれ」 「いや、坐んなはれいうたかて、あんた、字書けんもんが二人こんな所へ坐ってニコニコ笑うてても役立てしまへん」 「役立たん。しゃない。今日はもう、あの銘々付け、向こう付け、というふうに行きまひょ」 「何でっかそれは」 「送りに来た人が、みな、自分でこれ書いてもらいまんのや。よろしな、こっちゃもう帳面と筆、むこ向いとるな。向こう付け、銘々付けでござい。これ行きまひょ」 「ワッハハ、あんたうまいこと考えなはる」 「うまいこと考えなはるて、考えなしゃないがな」 「どうもご帳場はん、ご苦労はんでおます、浪花屋徳蔵と、ひとつよろしゅうお願いします」 「へえ、どうぞ、どうぞご苦労はん」 「いや、浪花屋徳蔵とひとつよろしゅうお願いします」 「ご苦労はん……お前も何かいいな」 「いらっしゃい」 「あのね、いらっしゃいあらへんがな。銘々付け、向こう付けや。銘々付けて勝手にお帰りとこない言わんかい」 「め、銘々付けて勝手にお帰り」 「いや、銘々付けてて、あんた、浪花屋徳……勝手に付けまんの、送った者が。さようか、ここのことですかいな。さい前から帰る人がけったいな帳場や、けったいな帳場やて、どないけったいなんかなと思うたらほんまにけったいでんな。ほな、ま、自分で付けまんが……いや、自分で付けるけどあんたらそこへ坐ってニコニコ笑うてなにしてはんねん」 「付けるか付けへんか検分の役」 「腹切りやがな。まるでこんなもんいままでない型でんな」 「わたいら発明したんや……」 「しょうもないこと、さよか、浪花屋徳蔵と」 「明石屋万兵衛とひとつ」 「あー、明石屋はんでっか、どうもお久しぶりでんな」 「えー、このたび、えらいこって。ええ、明石屋万兵衛」 「高野大介と、ええ」 「知らんがなあ、あんな人。わたい帳場になってしまうがな、あんた。お宅ら勝手にやんなはれ」  向こへ行ってしまいます。  おくればせにやってまいりましたが、羽織の上へ法被《はっぴ》をひっかけまして、 「どうもご苦労はんです。ええ、手伝いの又兵衛とひとつ」 「ええ、勝手に付けて、勝手におあがり」 「えッ、銘々付けて何でっか。皆、送ったもんが書きまんのか」 「さようさよう」 「さよう、さようって、あんた、けったいななア、いや、実はネ、わたいだけ特別に一つお願いしたいというのは、字あきまへんのや」 「え、あんたも字書けんと、よう見送るな」 「そんな阿呆なこと言うな。イヤ、そこ特別に何とか」 「わたいら二人もあきまへんねん」 「帳場、字書けんの。そんな阿呆な話があるかいな、ほな。このわたいの送ったことどないなりまんねん」 「あんたは来なんだことにしまひょ」 [#改ページ] 宿替《やどが》え  よくまァこの落語の中に長屋の話が出て参りますが、長屋というのは皆さん方もご承知の通り、同じ形の同じ間取りの家が何軒も並んでたんやそうです。  まァ今でいいます団地みたいなもんで、団地ももう同じ形の同じ間取りの家が何軒も並んでいます。  おかしなもんで団地と長屋の違いはと申しますと、中に住んでいる人が違うんです。  昔と今は人間の情というのが変わって参りまして、今の団地の人ちゅうのは断絶時代とか言いまして、隣近所の付き合いちゅうのはないもんですさかいに、もう何か水くさい感じがしますけども、昔の長屋の人ちゅうのはちょっと隣の奴とか近所の奴が青い顔したりして、何かボケッとしてたらこっちから親切に訊ねとます。 「オイどないしたんや、エーえらい青い顔してるけど」 「ウーン、二、三日前から雨つづきやろ、ウーン雨が降ったら仕事があらへんのや、仕事がないちゅうことは金がないねん、金がないちゅうことは米がない、二、三日飯食わずや」 「何じゃいな、そんなことかいな、それやったらちょっと家へ来て家の飯食うたらええのやないか」 「なんぼなんでもそんな訳にいけへんがな」 「何をゆうとんね、水くさいこというな、俺とお前との仲やないか、ないときはお互いさん、なァ俺とこが飯ないときァお前とこへよばれに行くてなもんやないか」  てなもんで、まァたえず親切にしていますけども、まァその点、今の団地ちゅうのは、ちょっと米一升借りに行くちゅうたら大層なもんでして、 「ちょっと奥さん、恐れ入りますけどお米一升貸してもらえまへんやろか、いいえな、切れたんころっと忘れてましてん、今気ィついたとこ、今から買いに行くにしたって、遅いので、済みまへんけど明日の朝になったらかならずお返ししますんで一升だけ貸していただけまへんやろか」 「まァなんですの、お米の一升ぐらいどうぞお使いやす、済んまへんけどな、ここヘサインして実印だけ押しといてもらいますか」  テナ大層なことになって来よる、団地いうのは薄情なもんで、もう隣の奴が夫婦喧嘩しようが、夫婦別れしようが殺人がおころうが知らんてなもんで、も、ともかく隣のことは関係ない……。その点、昔の長屋ちゅうのは親切ですな。 「オイどないしてン、えらい心配そうな顔してるな」 「ウーン家の嫁はん二、三日前に風呂へ行くちゅぅて家出たまま、いまだに帰ってきやへんのや」 「逃げられてんのやないか、それやったら気楽なこと言うてる場合やあらへんで、それが心配なんか。よーしよし、それやったら何も心配することあらへんがな、家の嫁はん使うとけ……」 「アホなこと言いないな」 「なに吐かしとんね、エー、ないときはお互いさんや、俺とこの嫁はんおらんときはお前とこの嫁はんかりに来る」  そんなアホなことないと思うんですけど一事が万事そんな具合ですんで、ちょっと宿替えしてきてもすぐ隣近所と親戚付き合いになったりしまして。 「ちょっとあんたら何をしてまんネン、そんなとこヘボサーっと座ってエ……何してなはんね」 「何してはんねんて、見たら分かるやろ、本を読んでるね、本を……」 「まあ珍しいことがあるもんでんな、本を読んではるの。で、なんちゅう本読んではるネ」 「何ちゅう本て、こりゃお前……これからの……これからの男と女は、いかにして生活するか」 「まーあ難しい本読んでなはるのやなァ、それ一体なんちゅう本でんネエ」 「ど……同棲時代……」 「漫画の本ですやないか、ようそんな阿呆なこと言うてなはんなあんたは。そんなこと言うてるさかいあかんのや」 「ポンポン、ポンポン偉そうに吐《ぬ》かすな、阿呆、お前がそないして偉そうに言うサカイ、俺が三文の値打ちも無いように聞こえるのやないか」 「また、あんた一文の値打ちもおますか」 「吐かしやがったなこのガキャ……コラ、俺こない見えてもお前の夫やぞ」 「フン、夫が聞いてあきれるわ、その下へどっこいつけなはれ」 「オットドッコイあぶないわい、阿呆、それで何やいな、さっきからゴチャゴチャ吐かしとるのは」 「何を言うてなはんね、今日は普通の日と違いまんがな。こないして宿替えして来た日だっせ。エー、こないして荷物が散らかっていますやろ……。荷物はわたいが後からゆっくり片付けまっけども、こないして宿替えして来たとこで箒《ほうき》かける釘一本おまへんね、済んまへんけど、あんた箒かける釘一本打っとくなはれ」 「チョッ……見くされ……エ女だてらにえらそうにぬかしたかて、釘の一本も打たれへんやろ、なに吐かしてけつかんね。道具箱持ってこい、道具箱、おれが打ったら、こっちへかせ、こっちへかせ、ほんまにえらそうにばっかり吐かしやがってェ……今はそないしてえらそうに言うてもええわい。しかしなァ、俺が死んでから……エエころーっといつ死ぬやら分からへんで、俺は。そんな時に後から長屋の者にいじめられたり何かしたときに、ああこんな時にあの人が生きててくれはったらなァと思うたかてそら手遅れちゅうのじゃ、分かったあるのかえ……そんなことはどうでもええね、あのな、今日は俺こっち来しなに友人に逢うたんや。オオお前とこ宿替えしたそやな、今晩祝いに行くわと言うとった。友達が来るのほっとく訳にいけへんがな、まして俺の友達は飲み助ばっかりや、なァ、そやさかい酒のええの二、三升買うとけ、肴はごぢゃごぢゃするの邪魔くさい、すき焼きにしようか、すき焼きに。ウン、ロースのええのをな、ウームそれからな、具はな、そやな、玉ねぎに豆腐に糸コンニャクエ、ちゃんと揃えとけよ、砂糖も醤油も、一つでも足らんさかいいうて後から買いに走るちゅうような、そんな格好悪いことしてくれな、分かったなァ」 「マ嬉しやないの、すき焼きやなんて…‥で、あんたお金は」 「お金て、お前去年の暮れちゃんと渡してある」 「ようそんな阿呆なこと言いなはるわ、去年の暮れのお金がいつまであると思うてなはる……」 「いつまであると思うていなはると言う口でハイと言えんかハイと……」 「あんた何でこれがハイと言えまんね」 「ハイ言えちゅうたら、ハイと言うたらどないやねん、お前大体亭主の俺の言うことに逆らいすぎるぞ。ハイ言えちゅうたら、ハイ言うたらどないやねん。ハイと言え……ハイッ、ハイ……あ痛い…‥」 「あんた、どないしなはったんエ」 「チェッ、おのれがゴチャゴチャ吐かすさかい、釘打ち込んでしもうたやないか」 「ま、何をしなはんねな、この人は……デ、どんな釘打ちなはったんエ」 「どんな釘て、お前道具箱に入ってた八寸の瓦釘」 「……八寸の瓦釘、何をしてんね、この人は。阿呆力で、どこの柱へ打ちなはったん」 「柱やあれへんがな、この壁へ」 「壁へ……。どこぞの世界に壁へ釘を打つ人があるかいな、エ、ましてこんな長屋の壁というのは薄いもんでっせ、お隣に先が出て、着物傷つけたり、怪我しやはったらいかんがな、あんた、すぐに行って謝っといなはれ」 「チェッ、嫌になって来た。ほんまに……宿替えしてくる早々、隣へ謝りに行くやなんて、そんな格好の悪いことってあるかいな、ほんまに……。こんちは……」 「ハイ」 「お宅へ釘は出てえしまへんか」 「何でんねんな、この人は、藪から棒に」 「いえわたいとこは壁から釘でんね」 「何の話してはるね、あんた一体誰でんねん」 「エ、わたい、こんどこの長屋へ宿替えして来た者でんねんけどねえ。ほんでね、今壁に釘打て言われて、ほんでわたい一生懸命打ってたんで、横から嬶がごっちゃごっちゃごっちゃごっちゃ言うもんですさかい、とうとうその釘打ち込んでしもうて、エーそれもね八寸の瓦釘をね、柱やおまへん、壁へ打ち込んだんだ、家の嬶の言うことにゃ長屋の壁っての薄いもんやさかい、怪我しはったり着物傷つけたらいかんさかい、あんたすぐに行って謝っといなはれ。言われ飛んで来たんでっけど釘は出てまへんか」 「アさよか、あんた宿替えして来はった人でっか、なるほどね、それやったらね、お隣へ行きなはれ、お隣へ、わたいはあんたとこの向かいでっせ」 「あ、さよか、さいなら」 「何しに来たのや、あの人は」 「いやんなって来た、あわてて向かいの家へ入ってるのや、釘でも向かいまでは届かんわな、ほんまに……。今日は」 「もう行ってきなはったんか」 「ア嬶か」 「何を言うてんのや、あの人は……」 「いやんなって来た、もうこないなったら目も見えてへんさかい、自分の家へ入ってるのやがな、嬶がいつも言うとったな、あんたは落ち着いたら一人前やけど、慌てるから半人前……。ヨシ落ち着いてこましたろと、エー、今のが俺の家やな、あっこへ打ったんさかいこっちが隣か、今日は」 「ハイ」 「ちょっとおたずねしますけど、今度この長屋へ宿替えしてきたちゅうのはどの家でっしゃろか」 「へ、宿替えしてきなはったなら、家の隣が朝から荷物入れてましたけどお隣でっせ」 「ああさよか、その隣へ宿替えして来たものですけど」 「あんたなにを言うてはんの、何を」 「へ、何でんねん、エエ、今度この長屋へ宿替えして来たもんで、まあよろしゅうにお願いします」 「言うてましたんや。これだけ家がずらりと並んでいて、一軒でも空いてたら歯が抜けたようで頼りない、第一用心が悪いなんて言うてましたんや、ままこっちこそよろしゅうにお願いします」 「へ、それについてご相談があって寄せてもろたんですけど」 「アさよか、それでしたら立ち話もなんでんな、まアそこへ掛けとくなはれ」 「掛けて話すちゅうの落ち着きまへんな、上がらしてもらいまっさ、どっこいしょと」 「ア上がってきたで、この人は、さよか、ま、そこへ座っとくなはれ」 「どうもすんまへんな、ちょっとひかしてもらいます。えらいすんまへんな、どうもどうも、しかしお宅きれいにかたづいてますな」 「何を言うてなはんのや、家はこうして仕事しまっしゃろ、そやさかいに埃《ほこり》が出てこまりますわ」 「何を言うてまんのや、埃が出れば出るほどお金もうけ、その点あたいとこはいけまへんわ、出商売ですさかいに雨が降ったら休み、風が吹いたら休みでね、とんと商売にならしまへんのや、しかしなんでんな、お宅はきれいにかたづいてまんな、ま、こうして片づいているというのはええことですけど、何ですかいな、お子達はいてはらしまへんのかいな」 「ええ一人も」 「そやさかいでんな。うちら二人もいてまっしゃろ、そやさかいに片づける尻から散らかしよりまんねん。その点お宅ら子供いてはらへんさかいに、きちっと片づいているってなもんで、しかし子供さん、いてはらへんちゅうことは……。お宅結婚しはって何年になりまんねん」 「へ、あんたの来はった用件ちゅうのはなんでんねん」 「用ちゅうのほんの些細《ささい》なことで、ひょっとしたら命にかかわる」 「な、なんでんねん」 「こっちの話でんがな、エ二十五年、銀婚式でんがな、目出たおまんな、エーなんでっかいな、今の奥さんと一緒になりはる時は仲人入れておもらいですか、それともどれ合いでっか」 「あんた何しに来はったんや、あんたの用ちゅうのはなんでんねんな」 「用ちゅうのはほんの些細なことでんがな、仲人ちゅうの日頃はいらんようですが、ちよっと揉《も》めた時にはいりまんのや。というのがね、家の嫁はんちゅうの、ここだけの話でっけどな、家の嫁はんちゅうのは女子でんねん」 「当たり前やが、あんたの用ちゅうのは何でんねん」 「用ちゅうのはほんの些細なことでんがな、まま家の嫁はんも今でこそああして世帯やつれして汚うなってますが、若い時分はやっぱりね、ポチャポチャと肥えて色の白い下ぶくれの可愛らしい女子で」 「嫁はんの惚気《のろけ》言いに来なはったかいな、あんた、あんたの用ちゅうのは何でんねんな」 「用ちゅうのはほんの些細なことでんがな、まァしかしねェ、今の嫁はんちゅうのは武内さんとこに奉公しておりまして、わてもそこへ出入りしてましたんですけど、最初見た時、今度来た女子衆《おなごし》さんえらい可愛らしい女子衆さんや思てたんだ、向こうもなんか好いたらしい男やな思ててくれましてんやろな、それが証拠にご飯の時でも、外のもんより余計におかずを盛ってくれまんねん、うれしおまんがな、そないしてくれたら。そんなら仕事してよったらなんか手伝うてやろかいなてな気になって、水の一杯もくんでやったり、漬け物石の一つでもおろしてやろかいなてな気になりますわいな、それでな、ある時ですけど、お兄さん、あんたお一人ですか、聞きよりまんねん。恥かしい話ですけどいまだに一人ですねん、一人やったら何かと不自由でっしゃろ、まあ洗濯物でもあったら持って来ておくなはれ、言われましたけど、えらい済んまへんけど褌《ふんどし》洗濯してくれはりまっか、そんな阿呆なこと言えまっか。けど、言うてくれる気持ちがうれしおまんがな。そない言うてもろうたらわたいもでっせ、休みをもらいよった時、襟の半かけ、前掛けの一枚も買うたろかいなという気持ちになりまんがな、ほんまにおかしな話でんな」 「ほんまにおかしな話でんな、この人の話は。あんたの用件ちゅうのは何ですね」 「用ちゅうのはほの些細なことでんがな。あれはいつでしたかいな。あたいが休みの時でした。南をブラブラ歩いてましたら、心斎橋のところでばったり今の家の嫁はんに逢うて、姐さんどこへ行きはります、今日はちょっとお暇いただきまして、里の方へ帰ってました。今からお店の方へ帰るところです。ああさよか。お兄さんはちゅうから、今日休みでブラブラ歩いてましてン、丁度十二時どきですさかいご飯でも食べに行きましょうか、と、いずも屋へ入ったんだ。嬶も肝吸いとまむしを取りまして、わたいはいける口ですさかい、蒲焼きと銚子の一本もとってチョネチョネ飲んでまんがな、一人で飲んだかておいしいことおまへんしな、姐さんおひとついかがですか、わたいお酒よう飲みません、そんなこと言わんと一杯ぐらいやったら飲めまっしゃろ、わたしお酒のんだら顔が赤うなりまんの、顔が赤うなったら恥かしい。なに言うてはんの。顔が赤うなって恥かしいのやったら、稲荷さんの鳥居や郵便ポスト、面目のうて立ってられん」 「あんた何の話してはるねん。よう喋《しゃべ》る人やな、ほんまにあんたの用件ちゅうのは何だんね」 「用ちゅうてのはほんの些細なことでんがな、まあそういうわけでゴジャゴジャええ仲になったんでっけど、かなしいかな受け身の体でっしゃろ。おなかがどんどん出てきまんがなア、そうなったら武内っつぁんには叱られるわ。どないしょう、上町のおっさんとこへいっぺん相談に行こうか、上町のおっさんとこへ相談に行ったんだ、上町のおっさんの言うことには、嬶と仏壇というものは持ち急ぎするもんじゃない、よう見定めてからもらわないかんで。身二つになってからでええやないか、ちゅうてるうちに子供がおぎゃと生まれまして、大きくなったら、お父っつぁんお母んの手前、ほっとく訳にいきまへんがな、そのままずるずるべったりで、今日まできてしもうて、仲人入れるのをころーッと忘れてましたんや、縁ちゅうのはおかしなもんでな」 「へ、であんたの用事てのは何でんね」 「用ちゅうのはほんの些細なことで、まあしかし、女子ちゅうのはあきまへんな、若い時分は可愛らしいな、おとなしいな思うてたけど、長年連れ添うてたら、女子の方が口が達者になりまして、エーなんじゃらとゴジャゴジャゴジャゴジャ吐かしよりましてね、片意地になりまんねんな、ハイということが言えまへんのやな、今日もそうでんね、わたしが本読んでたんだ、そんなら嬶が言うには、ちょっとあんた宿替えして来たところで、箒かける釘一本打っとくんなはれ、こない言うさかい、言うたったんだ、見くされ、女だてらにえらそうに吐かしたかて、釘の一本も打たれへんやろ、道具箱持ってこい、ちゅうてやった。道具箱を持って来たさかい、釘を打ってたんだ、横から嬶がゴチャゴチャゴチャ言いよりまんねん、ハイという一言が言えん。わたいあんまりむかむかするもんでっさかい、ハイと言え、ハイと言えと言うてる間に、とうとうその釘打ちこんでしもうたんだ、それも八寸の瓦釘、柱やなし壁へ打ちこんでねえ、そんならうちの嬶の言うのには、こんな長屋の壁は薄いもんやさかい隣へ先が出て怪我しはったり、着物傷つけたらいかん、すぐにあんた行って謝っといなはれ。言われてわたい飛んで来たんですけど、お宅に釘出てまへんか」 「で、あんたの用ちゅうのは何やねん」 「用ちゅうのはただそれだけのことですけど」 「あんた阿呆か。そやけどようそんな阿呆なこと言うてなはんな、たったそれだけ言うのに嫁はんとの馴《な》れそめみんな言うてしもてはる、そのね、釘というのはどこに打ちなはったんや」 「どこへ打ちなはったって、わたしとこの箪笥の横」 「分かりますかいな。すんまへんけどな、あんた家へ帰って打ったとこ叩いて、どこならどこ、ここならここと言うてもらえまっか」 「ああさよか、そんならそうしてもらえまっか……」 「嬶、なんや知らんがケッタイな奴が隣へ引っ越して来よったで」 「お隣はん、叩きまっせ、トントン、どこならどこ、ここならここ」 「そんなん分かるかいな……。何をしてなはるね、分かりますかいな、分からんちゅうのに」 「今、油虫が這うてるちょっと下」 「分からんちゅうのに」 「どんどん」 「そない叩きなはんな、壁が落ちるさかい、叩いたらいかんちゅうのに。えらい埃やな、ちょっと待ちなはれや……。嬶、何や知らんけど仏壇がグラグラ揺れてるで、あのガキはほんまにえらいことしよったで、嬶、見てみい、阿弥陀はんの首に釘が出てるがな、えらいことしよったで、ほんまに。お隣の、一ぺんこっちへ来なはれ」 「エー身元は知れましたか」 「何や火事みたいに言うてるで、この人は。ま、ま、こっちへ一ペん上がりなはれ」 「ヘエ上がらしてもらいますけど、しかし縁ちゅうのは……」 「まだそんなこと言うてる、この人は、気楽なこと言うてる場合やおまへんで。あんたね、仏壇を見てみなはれ、仏壇を」 「ぶったん、りっぱな仏壇ですな、お宅は浄土宗でっか、それとも真言宗」 「誰が宗派の話してるのや。そやおまへんがな、阿弥陀はんの喉を見てみなはれ、ちゅうてまんねん」 「阿弥陀はんの喉を……。ウハー、えらいところへ釘が出てまんな、やっぱりあんたここへ箒かけるか」 「あんたが打ったからここへ出たんやがな」 「なるほどあっちから入るとここへ出るか」 「それやったら抜け裏やがな、ようそんな阿呆なこと言うてまんな……。しかしこれは難儀でんな」 「そうでんがな、毎日ここへ箒かけにくるのは邪魔くさい」 「掛けるつもりかいなこの人は。怒るにも怒れんわ、呆《あき》れて……。あのな、ちょっとたずねますけど、お宅に釘の一本も打とうという男手はおまへんのか」 「何でごわす」 「釘の一本も打とうという男手はおまへんのかと聞いてるのや」 「釘の一本も打とうという男手、わたいとこの家族といいますと、わたいと嫁はんと子供とお父っつぁんでっせ」 「ちょっと待っとくなはれ、あんた、ここにいますわな、奥さん、朝から出たり入ったりしてますわな、子供さんちゅうたら表で遊んでたし、お父っつぁんちゅうの見掛けまへんな」 「へ」 「お父っつぁんちゅぅのあまり見掛けまへんな、ちゅうてるのや」 「よう言うとくなはった、いや実はね、お父っつぁんちゅうのが三年前から中風で寝てまんねん、今度こっちへ来るとき、ついてきて怪我したりしたらいかんさかい、あっちが片づくまでこっちで寝とりや、あとからかならず迎えに行ってやるさかい……。寝させておいてコローッと忘れて……よう言うとくんなはった」 「ええかいな、そんな阿呆なこと言うてる、どこぞの世界に親を忘れる人があるかいな」 「何を言うてなはんねん。親ぐらいなんですね。わたいら酒飲んだら我忘れまんねん」 [#改ページ] 遊山船《ゆさんぶね》  へエ、一席|演《や》らして頂きます。  四季にお遊びも沢山ござりますが、夏は川遊びで、東京は両国の川開き、京は河原の夕涼み、鴨川へ床《ゆか》が出来て、雪洞《ぼんぼり》に灯が入り何となく好もしいもので、大阪は水の都と申しますで大川の夕涼み、仲の好い友達が二人連れで、夕方から浴衣がけで難波橋へ参りますと、下は行き交う遊山の船、その賑やかなこと(三味線、太鼓囃子)。  西瓜へ……市岡新田じゃいナア……皮のきわまで真っ赤いの……氷、氷、かん氷、かん氷……そばいよう……玉屋揚げてや……シューボン……親玉……。 「オイ喜ィやん、上を見んと下を見い、とかくこの世は下見て暮らせ、上を見たらきりがないというが、下を見てもきりがないナ……オイ、どこを見てるねん」 「賑やかに聞こえるのはどこや」 「川の中やが、川を見んかいな」 「さいぜんから見てるが、真っ暗で何も見えへんがな」 「こんなに灯《ひ》が点《とも》って、昼みたいながな」 「冷とうて、暗い……」 「阿呆やナア、冷とうて暗いはずや、橋の欄干に目をひっつけているよってにや、欄干の上へ首を出しんかいな」 「せっかくやけど上へ出んわ」 「何でやねン」 「背がとどかんねン」 「ぐっと伸ばしんかいな」 「これで決着一ぱいや」 「小さい男やナア」 「オイ、清やん、三人寄れば満座やで、別に満座の中で恥をかかさいでもええがな、私でもこれでゆっくり六寸着るで」 「六寸着たら一人前や、三尺六寸か」 「イヤ、二尺六寸や」 「子供やがな、欄干の間から首を出しいな」 「イヨーウ、この間の雨続きで上の堤が切れたが、仰山家が流れて来てる」 「阿呆やナ、家やない、あれは皆船や」 「アア、ぎいこんこんか」 「船をぎいこんこんやて、子供やが」 「二階づきの船やな、手摺りがついてる」 「あれが大屋形や」 「お前がいつも銭を借りに行くとこか」 「それは親方や、大きな屋形船で大屋形というねン」 「そんならこっちにあるのは、小さい屋形船で小屋形か」 「小屋形ということがあるかいな、あれは通い船、こっちにあるのんが茶船というねン」 「仰山あるな、川の中は船で詰まってる、小さい船は涼しいがあの大屋形は暑いやろう」 「何でや」 「障子が閉ってあるがな」 「あの障子は開けるのんや」 「ほんにあけたあけた、ヤア綺麗な姐《あね》さんが大勢乗ってはることわいな」 「綺麓なやろ、あれはみな玄人《くろうと》や」 「色は白いで」 「違う、出てる妓《こ》や」 「みな、船の中へ入ってはる」 「違う、褄《つま》を持ってる人や」 「何も持ってはれへんがな」 「分からん男やな、芸州《げいしゅう》やがな」 「アアそうか、そんならそうと言うてくれたらええのに、玄人やの、出てる妓やの、褄を持ってる人やのいうよってに分からんねんが」 「えらいおかしいな、玄人や出てるや褄を持ってるが分からんのに、よう芸州が分かったな」 「そら分かるがな、広島の人やろ」 「まだ分かってないがな、広島の人が船に乗るかいな」 「牡蠣船《かきぶね》のおばはんは」 「理屈をいいないな」 「芸州てなんや」 「芸妓《げいぎ》のことを、洒落て芸州というねン」 「芸妓を洒落て芸州か」 「そうや、気の利いた若い者が、あの人芸妓やてなもっちゃりしたことがいえるか、源さんなら源州、金さんなら金州、万さんなら万州てなもんや」 「なるほど……あの芸州の隣に座っているのん、あれ芸州の芽生えか」 「芽生えということがあるか、あれは舞妓や」 「播州《ばんしゅう》の」 「違う、舞を舞うので舞妓や」 「今舞うてえへんが、まわん妓か……妙な頭をしてるな」 「あの頭を京風というて、鬢《びん》をふくらすのんや」 「派手な着物を着てるな」 「あれが友禅《ゆうぜん》や」 「あれが幽霊か」 「友禅や」 「長い袖の着物やな」 「あれが振り袖というねン」 「別に振ってえへんが」 「振らんでも振り袖や」 「あんな袂《ふところ》へ南京豆を入れたら食いにくいやろう」 「舞妓が振り袖へ南京豆を入れて食うかいな」 「入れへんが、もし入れたら食いにくいやろというねン」 「そんな物を入れへん」 「ほんならあの舞妓はまあ州というねんな……あの丸髷に結うてるのは」 「あれは仲居《なかい》や」 「今立ったが短いがな」 「誰が長いというた、仲居や」 「そんなら仲州か、あの隣にいる男は何者や」 「何や盗人みたいにいうて、あれは幇間《ほうかん》や」 「あれ羊羹か」 「羊羹やない、幇間とは太鼓持ちや」 「夜番の」 「違う、男芸者、幇間、太鼓持ら、男で男の機嫌を取るという、なかなかむつかし商売や、手軽うなって、よっぽど角《かど》がとれんと出来ん仕事や」 「軽石みたいな、こっちに紺の筒袖を着て端絞りの前掛けをしてる男は」 「あれは板場《いたば》や」 「風呂屋で物を盗るやつか」 「それは板場稼ぎや、板場とは俗にいう料理人や」 「何や知らんけれどさっきから見てると、汁を吸うたり物を食うたりしてよるで」 「あれが商売や」 「飲み食い屋か」 「そんな商売があるかいな、お客さんにもむない物は出せんで、前に味を見てそれからお客に出すのや、その上で気に入ったら御祝儀がもらえるねン」 「ええ商売やな、物を食うて御祝儀がもらえるなら私も板場になろか」 「板場になるて、お前庖丁が持てるか」 「何丁ほどや」 「一丁持ったらええのんや」 「庖丁の一丁ぐらいなんでもない、このあいだ鉞《まさかり》をかたげた」 「金時やが、一丁の庖丁を持って鮮やかに料理が出来るか」 「そら出来んワ」 「そんなら板場になって何をするねン」 「汁を吸うて物食うて、御祝儀をもらいに」 「そんなボロイことがあるかいな」 「あの真ん中に眼鏡を掛けて座ってる人は何や」 「あれがこの中のキャアや」 「あれ脚絆か」 「脚絆やない、キャアとはお客や」 「お客ならお客というたらええのに、キァアというよってに分かれへんね」 「そこを洒落てお客をキャアというたんや」 「洒落というものはよう変わるものやな、芸妓を洒落て芸州というのなら、お客を洒落てキャア州と言いな、お客をキャアなら、芸妓をゲイ、舞妓がマア、仲居がナア、板場がイ、お前がアで、この人がホか」 「コレ、阿呆を割って言いないな」 「あの客えらいえらそうな顔をしてよるなア」 「えらそうにするはずや、なんぼかかってもあの人が出すねん」 「なんぼかかるやろ」 「まあどう安う見積もってもこのくらいやな(指五本出す)」 「エエ五銭か」 「阿呆、もっと上や」 「五万円か」 「そないに間が飛ぶかい、五十円や」 「五十円か、何日で」 「今夜一晩や」 「一晩に五十円も使いよるのか、手荒いことをしよるねなア……あの客、右の手があれへん……」 「ナニ右の手が……コレ、あんじょう見んかいな、右側の芸妓の懐中へ手が入ってるねン」 「サアなんや銭遣いが荒いと思うたら、そんなことをしてよるねんな、オーイ芸妓、気をつけや、懐中へ手が入ってるで、紙入れや銭入れを盗られんように気をつけや」 「コレ、何を言うてるねン」 「お前、芸妓の懐中へ手が入ってると言うよってに、金を盗られんように」 「違うがな、芸妓は承知で手を入れさしてるねン」 「ほんなら芸妓は知ってるのんか」 「そうや」 「それで安心をした」 「お前が心配をせいでもええ、あの芸妓にあのお客がついたあるねン」 「芸妓にお客がつくか」 「そうや、みな芸妓にお客がつくもんや」 「お前とこのお婆さんに狐がついたな」 「そんなもんと一緒にしないな」 「しかしあないにしてたら腹が減るやろう」 「そうやさかい板場がついているねン、これから御馳走が出るねン」 「ア、持って来た、大きなお椀や」 「お椀やない、あれは大平《おおひら》や」 「あれ一人に一つずつか」 「あの中へ一つや」 「それは少し甲斐ないやろ」 「そんなことほっとき」 「何が入ったあるやろ」 「そんなことは分からん」 「お前の想像では」 「そうやな、マア玉子の巻き焼きか」 「玉子のマクワクか」 「お前、あんじょう物が言えんか、玉子の巻き焼き」 「マクワクか、オーイ早う蓋《ふた》を取り」 「そんなことはほっときんかいな」 「アア蓋を取りよった、えらい煙や」 「あれは湯気や」 「黄色い物が入ってるな」 「あれが玉子の巻き焼きや」 「赤いのんは」 「はじかみ生姜《しょうが》や」 「アアよそいよった……オーイあんじょうよそわんと足らんようになるぞ」 「そんなことを言いな」 「客のとこへ持って行きよった、箸を持ちよった、生姜を食うてよる……オーイあんまり生姜を食うたら頭が禿げるで」 「お前が心配したら秀げるで」 「玉子を早う食い、玉子は冷とうなったら食われへんで……嫌いか、嫌いならわしにおくれ」 「コレ、手を出しないな」 「また持って来た、あれはなんや」 「あれは鰻《うなぎ》や」 「あれ鰻か、私の食うてる鰻と形が違うな」 「お前鰻を食うてるか」 「いつも食うてる、私の食うてる鰻は短うて細いが、あの鰻は幅が広うて長いで」 「鰻はみな長いもんや、お前の食うてるは半助と違うか」 「いいや源助に買うねん」 「いいやいな、半助とは鰻の頭と違うかというねン」 「エエ、鰻は胴のある物か」 「そうやが、鰻は胴を食うもんや、頭をみなほかすねン」 「アアそうか、頭はほかすのか、ほかすとこでもあないに旨いのに定めし胴体は旨かろう、どうぞ私も死ぬまでに鰻の胴体に巡り逢いたいことや」 「コレ、そんな心細いことを言いないな」 「ちょっと見てみ、あの芸州鰻を川の中へほりよる、もったいない、いまさら川へはめても焼いた鰻が生きかえるかいな、今天狗風が吹かんかいな」 「何でやねン」 「あの鰻が舞いあがるやろ」 「そんな物が舞いあがるかいな」 「ちょっと見い、巻きずしを持って来たで……舞妓の前へ置きよった、舞妓が食いよる、あれを長いなり噛りよる……オーイそんな長いすしを噛らんと切ってもらい」 「あれが尺八食いというねン」 「そんなことをしても噛み切られへん、浅草のりの上等や……食い切られへんというのに、さきにのりをぬらして噛るねン、エエ鈍な奴やなア、オイこれを見てみ、こういう具合に(ブウ)えらい砂やな、このすしは」 「お前、雪駄を噛んでどうするねン」  橋の上でやかましゅういうておりますところへ、上手の方から下って参りましたのが稽古屋の連中、碇《いかり》の揃えの浴衣で三味線太鼓で囃子立ててその陽気なこと(囃子)。 「オイ清やん、ちょっと見てみ、綺麗なことわいな、見れば綺麗な碇の模様」 「風が吹いても流れぬように」 「フワイーー」 「オイ喜ィやん、お前そこへへたったな」 「清やん、何とうまいこと言いよるな、私が、見れば綺麓な碇の模様というたら、風が吹いても流れぬようにと、感心やな」 「オイ喜ィやん、お前とこの嬶《かかあ》はあんなことをよう言わんやろ」 「宅《うち》の嬶かて言うわいな、清やん、さいなら」 「オイ喜イやん、どこへ行くねん」 「宅へ帰って嬶に言わしたろ」  と喜ィさんはそのまま家へ帰りました……。 「嬶……」 「嬶やないし、どこをヌタクッてるねン、このノロンケツが」 「ウワー、ノロンケツやと、今な清やんと二人で大川へ涼みに行ったんや、そんなら揃えの浴衣で踊ってるので、私が、見れば綺麗な碇の模様と言うたら、風が吹いても流れぬようにと言いよったんや、お前よう言うか」 「そんなことぐらい、何でもないわ」 「よし、そんならこの前祭りの時の碇の模様の浴衣があったやろ」 「もう汚れて着られへんさかい、押し入れへつっこんだある」 「えらい、それを出し、かまへん、船がないさかい、その盥《たらい》の中へ入って踊り、私は橋の上と……天窓からのぞいたろ……いようー、汚いなア、あらなんや、見れば汚い碇の模様」  と言うたら嬶も粋《いき》な女で、 「質に置いても流れんように」 [#改ページ] 欲《よく》の熊鷹《くまたか》  我々の方ではずいぶんと面白い人物が現れます。  皆さん方にはそういうことはございませんが、我々お金のない人間は、道歩いてても考えてることは、お金のことばっかりで、何かこう思いつめますと他のことが全然わからんようになる。  道歩いてる、向こうの方から来る人、ふっと見ると、 「どっかで会《お》うた人やのになあ、誰やったいなあ……、あの人誰や」  だんだんねきへ来ますと、もしも知ってる人であった場合、知らん顔して通り過ぎたら失礼にあたるさかい、 「こんちは」 「はい、こんちは」 「ええ天気でんなあ」 「今日はわりによろしなあ」 「あの……まことに……聞きづらいんでっけど、あんさんどなたはんです」 「お前の親や」  こんなことがちょいちょいあるんですが、いま申しましたとおり、やはり何か、お金が欲しいとか、きれいな女子はんが欲しいとかいう奴が道歩いてます。  やはり向こうから来た人の顔がどっかで見覚えがある。  近づいてきてつい笑顔で頭下げると、相手も礼儀ですから同じように頭下げる。  頭下げて二、三歩行き過ぎて、 「誰やったいなあ」  とふり返ると以心伝心ちゅうんですかなあ、相手の人もやっぱりほっとふり返る、お互いに照れくさいもんですから、またぞろ、ニコッと笑うて挨拶する。  また十足ほど行てふり向くと、相手の人もふり向いた。  もうしょうがないさかい、知らーん顔して歩いて、横町へ曲がろうと、角を曲がったとたんに、やっぱり何か考えてる人ですなあ、向こうから来た人、出合い頭に、もうちょっとでぶち当たるとこ。  ところが、やっぱり当たったらいかんというので、パッと左へ体をよけた、ところが反射神経、こっちが左へよけたら相手が右いよける。  また当たりかけるさかい、自分が右へよけたら相手が左へよける。  どうしてもうまい具合にすれ違わんようになってる。  ほいで顔見てお互いに照れくさいもんですから、ふっと下見ますと二人の間に財布が落ちたある。 「もし、財布が落ちてまんなあ」 「そうでんなあ、あんた落としはったん」 「いいえ、私、財布持ってしまへん、そやさかい落とす道理がおまへん。あんた落としはったんと違いますか」 「いえ私はねえ、財布はここにちゃんと持ってますねん」 「ああさよか、誰が落としたん」 「エエッ」 「誰が落としたん」 「誰が落としたて、分かりまっかいな。落とした人がありゃあ、拾いに来まんがな。そうでっしゃろ」 「ほな、この財布は一体どういうことになります」 「どういうことになりますて、これ、落ちてあるものをほっとくわけにいけまへんが、そやさかいあんた拾いなはれ」 「へえっ」 「あんた拾いなはれ」 「あんた拾いなはれて、わたい一人やったら拾いまっけど、あんたが真ン前にいてはるのに、人の財布拾うわけにいけまへん。あんた拾いなはれ。かめしまへん、どうぞ拾うとくなはれ」 「さよかほな拾います」 「ああ、ちょっと待っとくなはれ。ちょっと待って。お互いにこの財布見つけたんは一緒でっさかいね、この財布はあんたもわたいも権利がおます。そやさかい先に決めときまひょか」 「何を」 「これ見つけたんは、あんたとわたいと二人っきり、周囲に誰もいてえしめへん。どうです、これ拾うた場合、どういうふうにしはるつもりです。おそらく財布やねんさかい、中に金が入ってると思うんですけど、わたい金が欲しいてねえ、朝からそのことばっかり考えて歩いてたんだ。あんた拾いはってもよろしいさかい、なんぼ入ったあるか知らんが、半分分けしまひょか。いや悪いことやちゅうことは、分かってるんだ、拾うたら警察へ届けんのんがあたりまえでんねんけど、ねえ、どうです、半分ずつ……」 「よろしい、あんたの言わはったとおり、なんぼ入ってても半分ずつということにしまひょ」 「入ってまっか」 「入ってま」 「なんぼ入ってまっか」 「ちょっと待ちなはれや……」 「えっ……五銭」 「五銭やおまへん、もっとずーと上だ」 「上ちゅうと五十万」 「阿呆っ、五十万もこんな小さな財布に入りまっかいな、五千円」 「えっ」 「五千円、有難いなあ、ほな半分やったら二千五百円、わたいにおくんなはんの、すんまへん、おくなはれ、おくなはれ」 「よろしおま、五千円札が一枚、これあんたに上げまっさかい、二千五百円釣りおくなはれ」 「あんた、わたいに喧嘩売るつもりでっか。言うてまっしゃろ、銭がないさかい、銭が欲しい、銭が欲しいと思うて歩いてるんだ。二千五百円あったら苦労しまっかいな、そんなもんおまへん」 「怒りはらんかてよろしいがな」 「ホデあんた二千五百円ないんでっか」 「いや、お金は持ってるんだ、ところが、拍子の悪い、一万円札しかおまへんねん」 「あんた金持ちやなあ。一万円もあるのやったら、五千円全部わたいにおくなはれ」 「そんなわけにいきまっかいな、はじめに約束したとおり、二千五百円ずつ、ね、あんたこのご近所の方ですか」 「いえ、ちょっと遠いんだ、上町でんねん、お宅このご近所」 「いえいえ、わたいとこ安治川でんねん」 「安治川でっか……どこかの近所で心安い家おまへんの」 「おまへん。あんたおまへんか」 「そうでんなあ、この近所はおまへんねんけど、わたいの兄貴とこやったら、細かい銭があると思うんだ」 「細かい銭があると思うんだ、て、お兄さん、なにお商売してはるんです」 「へえ、風呂屋やってまんねん」 「お風呂屋さん、なるほどねえ、まあお風呂屋やったら、日銭を扱うてはるねんさかい、そら細かい銭おまんなあ。ホデところはどこでんねん」 「肥後《ひご》の熊本でんねん」 「阿呆か、あんた。肥後の熊本へ五千円替えに行けまっかいな。困りましたなあ、どないしまひょ」 「もうこうなったら、わたいあんたから離れんでえ、二千五百円もらうまではあんた放さんでえ」 「そんなこと言いなはんないな。なんとかせないきまへんなあ」 「どないぞしとくんなはれ」 「あのまことに失礼でおますねんけど、さっきから一部始終ここで見ておりました。えろうお困りの様子ですけど、なんでしたら、私の方でお取り替えしましょうか」 「あっ、そこであんた、一部始終見てはったんでっか、いやハハッ、こら面目ないなあ、いえいえ、今話してたようなわけで、へえ、ほで細かいもんと替えてくれはるんでっか。そうでっか、ぜひそうして頂いたら助かるんですが」 「どうぞこちらへお入りやす」 「そうですか、おおきに。……もし、もし」 「何です」 「何ですやおまへん、ここの奥さんが細かいものに替える、こない言うてくれてはるんだ、入りまひょ」 「さよか、すっくりいきましたなあ」 「大きな声出しな、何がすっくりいきましたなあや、まあ中へ入らしてもらいまひょ、今日は」 「おこしやす」 「えらいもうまことにすまんこって、初めてお目にかかってえらいお世話になりますが、ひとつこれ五千円お替え願えますか」 「よろしおます、すぐに替えまっさかい」 「もし、もし」 「何です」 「何ですやおまへんがな、よその家へよしてもろて、あたりキョロキョロキョロキョロ見て、そんなことしてんと、何なと言いなはれ」 「何を」 「何をて、何でもよろしが言いなはれ」 「さよか……。もしジャガイモも煮《た》きよで旨《うも》うおまんなあ」 「何を言うてなはんねん」 「あんた、何言うてもかまへん言うたがな、ジャガイモ、あれ煮きようで旨うおまっせえ」 「しょうもないこと言いなはんないな、奥さん、笑ろうて奥へ入ってしまいはりましたがな」 「奥さんて、今の女子はん、ここの奥さんでっか」 「そうでんがな」 「別嬪《べっぴん》だんなあ」 「何です」 「別嬪だんなあ」 「ああ、別嬪だんなあ」 「わたいねえ、前から思うてたんだ、嫁はんもらうのやったら、今のお女中みたいな別嬪が欲しいなあと、思うてたんだ、へえ、なんですか、あの方ここの奥さんちゅうことは、ご主人がいはるんでっか」 「あのねえ、ちょっと人さんを見ないきまへんで、やはりこの家の造りといい、あの奥さんの化粧のしようといい、髪の結いよう、着物の着こなし、どう見てもあれは、奥さんやおまへんわ」 「あんた、さっき奥さんや言いなはった」 「いやいや、そらやっぱし奥さんと言わんならんさかい、奥さんと言うた。あれはお妾《めかけ》さんですわ、二号はん」 「ほおっ、お妾さん、旦那いてまんのんか」 「何です」 「旦那いてまんのんか」 「旦那があるさかい二号はんでんがな」 「あ、さよか。ホナ、訊ねますが、旦那は齢《とし》いくつぐらいです」 「知りまへん。わたい、今日、ここへ来たん初めてです。第一、今のご婦人の齢もわかりまへんねん」 「齢わからんて、あんた、まあそうでんなあ、今の女子はんの齢は、二十五、六、化粧してはるさかい二十五、六に見えてるけど、化粧落としはったら、三十四、五でっか。朝寝たはる顔見たら、六十五、六」 「何を言うてまんねん、そんなことおますかいな、まああんたの言わはったとおり、二十七、八ちゅうとこでんなあ」 「そうでんなあ。……それから推量したら、旦那の齢わかりまっしゃろ。これだけの家へ囲うちゅうのや、旦那の年格好、地位、そういうもんが分かるはずだ。言いなはれ、言いなはれ、白状しなはれ」 「知らんがな、私に言うたかて。けどそうでんなあ、想像でっけど、まあこれだけのお宅で、あんな若い、若いちゅうたって二十七、八というたら年増やけど、……まあ旦那の齢は五十二、三でっかなあ」 「ええとこ言いはりました。五十二に決めまひょ」 「別に決めんかてよろしけどね、まあ五十二、三でっか」 「五十二。五十二、三と違いまっせえ、五十二。こらもう間違いおまへん。……ホデこの旦那は週に何べん来はりま」 「知りまへん」 「知らんことおますかいな、ようおまんがな、週一とか週三とか、中に助平なんは週四てなんがおまんねん。私は週に三べんやと思います。月曜日に来て、ほいで火水は休んで木曜日に来て、金曜日に休んで土曜日に来はる。週に三べんです。こらもう絶対に間違いおまへん」 「そんなこと分かりまっか」 「へえ、分かります、もうちゃあんと分かってます。週に三べん。ホデこの旦那の地位はどんな地位や分かりまっか」 「どういうことしてはるか分かりまへん」 「わたいはねえ、大きな会社の専務さんかなにかやと思いまんなあ。そうですから、普通やったら、会社の専務専用の車に乗って来はるんでっけど、それでは会社に知れるさかい、ここへ来はる時だけは乳母車で来はるんだ」 「阿呆なこと言いなはんな、なんで二号はんの家へ来るの乳母車で来まんねん」 「乳母車は冗談です。タクシー。タクシーで来はるん、ほでタクシーが表へ着いて、クラクション、パパッと鳴らすとね、これが合図。一番先に誰が出て来ると思いはりま」 「分かりまへん」 「何にも知らん人やなあ、この人。一番先に出てくんのはねえ、ここのこれが可愛がってる狆《ちん》。チンコロ。顔のちょんちょろ短い、いつも目に涙ためてる、チンコロがねえ、一番先に出て来て、玄関先でキャンキャン、キャンキャンキャン……鳴きまんねん。その鳴き声を聞いて、出て来るのが誰やと思います」 「二号はん違うんでっか」 「違います。お清どん」 「何です」 「お清どん」 「お清どん……。お清どんて誰でんねん」 「何も知らん人やなあ、この人は。ここのお宅でっせえ、あれだけの二号はん置くぐらいでっさかい、お清どんという女中さんがいはるんだ、この女中さん出て来て、ア旦さんのおこしでっせえ、奥さん、旦さんのおこしでっせえ」 「大きな声出しなはんな」 「よろしがな。旦さんのおこしでっせというと、今度はじめてさっきのご婦人が……ちょっと風邪気味でんねん」 「ええ」 「ちょっと風邪気味でんねん、ちょっと風邪ひいたはるもんでっさかい、ここらへ頭痛膏はって奥から出て来はるんだ。まあ旦さんおこしやす」 「あんた、ちょっと病院へ行きはったらどうです。何でもよう知ってなはんねんなあ、ヘーえ旦さんおこしやす……言うて出て来はるん」 「へえそうでんねん、えらい、すんまへん。今日来てくれはったんやけど、風邪気味で、横になってましてんわあ。こんなふうしてすんまへん。ああええがな、ええがな、風邪ひいててんやったらええがな。いいえすぐに用意しまっさかいに。それから酒の用意だ、で、旦さんが盃持ちはると、エヘ、二号はんがお酌しまんねん、ホナ旦さんがぐっと飲んで、オ、お前、風邪ひいてんねやったら、一口飲みいな。さよか、ホナ頂きまっせ。キュッと飲んで、こ返盃。ほんならわしが飲むわ。キュッ。エっ、お前、飲み。キュツ。頂きますわ。……」 「もうなんぼなと喋りなはれ、ようそんなこと言うてなはる」 「そのうちに二号はんが、風邪気味やさかい、お酒飲んだらやっぱりしんどなってきましたわ。ちっと横になってもかめしめへんか。ああ、実は僕もちょっと疲れててん。ホナ寝よか。そないしまひょ。ちょっとお清、お清」 「大きな声出しなはんな、何でんねん」 「いえ、女中さん呼んでまんねん。お清、旦さんもお休みになるさかい、いつものとおり隣室《はなれ》にお布団敷いとお。ほな、女中さんが押し入れ開けて、布団出してきて、♪床取って寝んねんしょう」 「何を言うてなはんねん、ようそんな阿呆なこと言いなはるなあ」 「ちゃあんと床が敷かれると、まず旦那が寝はりまんねん。よろしか、たいていねえ、寝る時は旦那はこっら側。こっち側、ここをちゃんと聞いときなはれや、ホデ二号はんがこっち側。ほで上向いて寝るか、背中合わせに寝るか、あんたどっちやと思う」 「知りまへんがな」 「そらそうと、えらい遅うおまんなあ。奥さん、奥へ入ったきり出て来はらしまへんでえ、……しもた。あいつ、だいぶに曲者でっせ、あの五千円持って裏から逃げよったんでっせ」 「阿呆なこと言いなはんな。これだけの家構えてて、五千円やそこら持って逃げはりまっかいな」 「そうかてあんた、出てくるのー……。アア、ほれ見てみなはれ、わたいの言うたとおり、ソウ奥のとりあいの襖《ふすま》の横から、狆が顔出してまっしゃろ、チンよ、チンよ、……。アッ玉ちゃん」 「何でんねんその、玉ちゃん、て」 「あの犬の名前だ。玉ちゃん、玉ちゃん来い。こっちへ来い、玉ちゃん、玉ちゃん、こっちおいで、狆、こっちへおいで、狆よ、狆よチン玉よ」 「何を言うてるねん、阿呆なことばっかし言うて」 「アアッ、見てみなはれ、こっちへ来ましたやろ、やっぱり玉ちゃんに間違いおまへん。来たか、可愛い奴や、見てみなはれ、チンチンしてますわ、可愛いなあ。お前がいてるのやったら、何なと持って来たのになあ。もし、あんた、ビスケット持ってなはらへんか。おまへんか、あっ、袂糞《たもとくそ》〔袂の底にたまるゴミ〕があるわ」 「袂糞、それどないしはりまんねん」 「食わしたりまんねん。おいチンせえ、チンチンせえ。チンチンしてなあ、くるっと回って、ワンちゅうて鳴け。チンチンしてなあ、くるっと回って、ワンちゅうて鳴け。チンチンしてくるっと回ってワン……。ワン、ワン、ワワワワッ、アアっモシ、袂糞て旨うないもんでんなあ」 「あんたが食うてどないしまんねん」 「アッハハッ、びっくりしてあっちへ逃げて行きよった」 「えらい長いことお待たせいたしましてすまんことでおました。いいえいナ、お清がいると思うてたら留守でおますの」 「ほれみてみなはれ、やっぱりお清はんだ。留守でんねんて、今日は。さよか、ホデ何でおます」 「先ほどお預かりしまして、家にあると思うてたんですけど、なかったもんですさかい、ちょっとそこまで替えに行って来ましたん。あの千円札五枚にして来ました」 「えらいすんまへん。わざわざよそで替えてくれはったんでっか、どうもすまんこって」 「あの……この二千円は、あんさんにお渡しします」 「アさよか、二千円。へえへえ」 「それで、この二千円はあんさんにお渡しします」 「おおき有難うさんで、おおきにええ人でんなあ」 「あとに千円残ってこざいますの」 「そうそう。五千円ですさかいねえ、二千五百円ずつ。あと千円細かいのんに替わりまへんか」 「ここへ私の方から、もう千円足しますとちょうど二千円になりますの」 「何でっかいな、替えてくれはった上にもう千円足してくれはるんでっか」 「この二千円は私の方の、手数料に頂いときます」 [#改ページ] 土橋万歳《どばしまんざい》  へイ、どうぞ相変わりませずお引き立てのほどをお願い申します、何か新年にふさわしいお噺をと心得まして、土橋万歳というのを一席ご機嫌を伺います。  この万歳も、三河万歳、東京万歳、名古屋万歳、大和万歳とその土地土地で多少|演《や》り口が違いまして、お正月には家々の軒先へ行てめでたい柱建てなどを唄うて歩いたものでござります。  このうちの名古屋万歳というのだけは、時とんぼなしに流し歩いておりましたが、段々普通の数え唄ぐらいでは人も相手にせぬところから、ちょっと軽口の真似事のようなことを演り出し、時たま場末の寄席などで興行をするようになりました。  これがここちょっと前ごろまでえらい勢いで流行した漫才の始まりであることは、どなたもようご存じでござりますが、もとは太夫《たゆう》と才蔵《さいぞう》とがはっきり分かれてあって、太夫は松に鶴の模様を描いた袴《はかま》、才蔵は檳榔樹《びんろうじゅ》の黒紋付に荒い縦縞のカルサンをはきましてな、大阪付近ではまア大和が本場としてござりました。  俗に大和根性牛根性と申しますぐらい、大和の人は辛抱が強うござりますので、昔|船場《せんば》あたりで、奉公人を置きますのに、大和の子供か江州《ごうしゅう》〔近江〕の子供が一番喜ばれたそうで、大阪生まれがいっちペケやった、というのは台に辛抱というものがござりまへん。  その上、親の家が近いもんやさかい、ちょっとしたことがあるとすぐに泣いて帰りよる。それで大阪生まれの子供はどこへ行ても嫌がられましたが、中には大阪生まれを選りとった商売がござります。  何やと申しますと落語家で、言葉に訛《なま》りがないので、これだけは大阪生まれに限りましたが、碌なものに向きゃいたしまへん。 「コレ定吉、お前そこで何してるね」 「貴方はんの番をしてますのや。あんまり極道をしてだすさかい離座敷《はなれ》へお入れ申してござりますねが、ちょっと油断するとじきに脱けて出なはる、それでこないしてチャンと番してますのや」 「何や手に持ってるやないか」 「ヘエ、割り木だす」 「それ何にするのや」 「もし貴方はんが出掛けてだしたら、これで向こう脛をどつきまんね」 「犬みたいに思うてくさる、……まアそんなとこにジッと佇《た》ってんと、こっちへ入り、サアここにこんな菓子がある、食べてみ、美味いで、お茶|汲《く》んだげよか、いっぺん手を出してみ、それ二十銭の銀貨や、お前にやるワ」 「ヘエ……あの折角だすけど、モウ頂いたも同然だす……」 「何で取らんのや」 「甘き物食わす人には油断すないいまっさかいなア、貴方わたいに油断さしといて生き胆《ぎも》取りなはるのと違いまっか」 「阿呆いえ。貴様らの生き胆が何に効くかい、心配せんと取っとけ、そのかわりちょっとだけいうこときいてや、実は今日 中筋《なかすじ》の大梅へ行ってナ、芸妓幇間を仰山連れて、難波の一方亭へ遊びに行くつもりで、その約束が定《き》めたアるのや。してみるとわしが行ても行かいでも、費《い》るだけのものはもうチャンと付いてしもうてある、まアそんなことはかめへんけど、わしが行てやらんと先へ行てる連中が、仏のないお堂の守りしてるようになりよる。なア、そうやよってにちょっとここを出してくれたら、戻りには貴様の好きな笹巻きの鮓《すし》を仰山土産に持って帰ったる、また薮《やぶ》入りの時にはお父っつぁんやお母んにええ物持たして帰なすよって、どうや、ちょっと出してくれへんか」 「そやけど貴方が居てなはれへんのに、私一人こんなとこで割り木持って佇ってたかて、矢っ張り仏さんのないお堂の守りみたいになりますがナ」 「アア、そりゃわしに任しとき、それここへこういう風に寝間を敷くね、それからこの箒《ほうき》をこう臥《ね》さしといてナ、枕をさして蒲団をかぶせとくのや。そうれ見イ、わしが寝てるように見えよがナ、もしも番頭が出て来たら、若旦那はよう寝《やす》んでござりますというのや。ここをちょっと開けて見せても、あの通り身替わりがこしらえたアるさかい、滅多に分からへん、そのつもりで貴様番をしててくれ」 「ヘエ、そんなら若旦那、なるだけ早う帰っとくなはれや」 「心配すな、じっき帰って来る」 「鮓《すし》忘れんとおいとくなはれ」 「よしゃ、よしゃ」  プイと出ておしまいになりました。  こっちはお店の番頭さん。 「コレ亀吉」 「ヘエ」 「アア若狭屋はんのお葬式はたしか二時やったと思う。もうかれこれ二時や、今日は旦那様が頭痛がするというて寝んでござる、わしが代わりにお送り申さにゃならぬ。うっかりしていたがお前ちょっと一走り行って、葬式はまだ出そうにないかどうや、見て来ましょ。今にも出るようなら仕度をせにゃならぬ、チャッと見て来う」 「ヘー。……ヘエ行て参じました、もう出掛かっとります、いま入口で皆出やはるお方の順番呼んではりました」 「アアそりゃえらいことじゃ。コレ亀吉、貴様をば供に連れて行くはずじゃが、体が小さいので上下挟《じょうげばさ》み持って、ヒョッコラヒョッコラ随《つ》いて来るのも、格好が悪い。裏に定吉が若旦那の番してよるさかい、貴様、定吉と番を代わってやれ」 「へー……定吉とん、定吉とん」 「オイ、何や亀吉とん」 「今番頭はんが、旦那はんの代理《かわり》で若狭屋はんの葬式送りやらはるね、そのお供がわたいでは体が小そうてみっとむない、そんでここの番をわたいが代わって、お前が番頭はんのお供をするのや」 「アアそうすると若旦那の番はお前がするのやナ、よしよし、そんならこの割り木渡しとくさかい、しっかり番してや。いま若旦那よう眠てはるよってそこ開けなや。お前、居眠って若旦那逃がしたらあかんで、お前が粗相したらわいも共に落度になるよって、ええか、しつかり割り木持って気イつけてえよ。……へへへ、スックリ行きやがんね、もしあとであこ開けて若旦那いやはれへんのが分かったら、おのれが居眠りやがって若旦那を逃がしたんじゃ、しっかりせえちゅうて、あいつが頭をどつかれよる、俺は二十銭もろうて高見の見物や。そのうちにあいつが泣いて眠てしまいよる。若旦那が帰って来やはる。鮓はわいが一人で食う。アアスックリ、スックリ」 「コレコレ定吉」 「ヘー。アア、チンチリガン、スックリスックリ、エーライヤッチャ……」 「あんなこというて踊ってくさる、仕様のない奴じゃ、サア急《せ》くのやがナ、早う紋付の着物と着替えて来い……サー早うしいや……オオ着替えて来たか」 「ヘエ、着替えて来ました」 「サッ、その上下挟《じょうげばさ》みを持ってわしについて来う……」 「ヘエ」 辻を曲がりますともう葬式はポツボツ繰り出しております。 「ヘエどなたさまも、エーこのたびは思いもよらぬことで、まことにご愁傷さまでござります、実に人間というものは今日あって明日ない命と申しますが、ほんにモウ頼りないものでござります、まアどうぞ後々《あとあと》をお大事に……」 「ヘエどなたさんも、このたびはえらいもう……」 「コラ貴様は黙ってえ。子供の癖にいらんことをいわいでもええワイ」  そのうちに葬礼もズッと出ましたのでお供をいたしまして、お墓まで参りましたが、この時分はモウ阿倍野へ移っておりまして、只今のように便利な乗り物もござりませず、葬礼送りもなかなか大ていじゃござりまへなんだ。  戻りもまたテクテク歩きまして橋筋から戎橋を北へ渡って参ります。 「ナア番頭はん」 「何じゃい」 「貴方ア何ぞ忘れてなはれしまへんか」 「いや分からん、今日は気がせかせかするのでな、何ぞ墓へでも忘れてきたかナ……というて別に忘れ物もないように思うが……」 「いや。おまっせ……」 「何やいな、いったい」 「貴方、いつかて日の暮れにここ通ったら、丸万の饂飩屋《うどんや》へ入ってちょっと一杯飲みなはるやろ、そいでわたいにかて小田巻き取っとくなはるやおまへんか。去《い》んだら皆にきつねよばれたいうときやいうてナ。……あんまり早う食いないナ、酒飲む者が忙《せわ》しのうてドムならん、足らにゃうどんなと、も一つもらいいナいうて、きまったアるやおまへんか。それに貴方いうたら、いまあの表通ってるのに、知らん顔してドンドンドンドン歩いてなはんね。そらどなたかてご都合のあることだすよって、無理に小田巻きやのうても、うどんでもかめしまへんねけど、ヒョッと忘れてなはんのやったらいかんさかい、ちょっというてみたんだすね」 「アハハ、いやそうか、いやいや忘れてやへんね。お前も遠道歩いて定めしお腹も空いてるやろと、よう気はついてるねが、今日はまア辛抱しとき、今度ゆっくりした時にまた連れて入ったる。ちょっと今日はそうしてられんね、気が急いてかなわんのや」 「何がそないに気忙《きぜわ》しのうおまんね」 「いや、貴様が若旦那の番をしてるのならわしも安心するのやが、何しろ亀吉は年もいかず頼りない、もしも留守中にあいつが居眠りでもして、若旦那を出したてなことがあると、親旦那に申し訳がない、そやよってにちょっとも早う帰りたいのや」 「そやけど番頭はん、ちょっと一杯飲みなはるぐらいの間《ま》はおますやろ、わずかの間ぐらい何だんね」 「サア、そうやろけど、何しろ気が落ちつかんのやさかい仕様がない、まア早う帰ろ」 「そないいらいらして帰ったかて、若旦那はたぶん居やはらんかもしれまへんで」 「サ、そやさかい気が急《せ》くのや」 「まア急きなはんな、今頃は丁度亀吉とんが居眠って、若旦那を出してしまいよった時分やと思うワ」 「そんなけったいな時分があるかい」 「いーえ。わたいが請け合う。きっと若旦那いやはれへんわ」 「……コレ定吉、貴様若旦那を出したナ」 「何いうてなはんね、そんなことしまっかいな、わたいら滅多にそんなことしやしまへん。亀吉とんやったら二十銭もろて出しよるかしらんけど……」 「コラ貴様ア……アアそうか、イヤイヤそうやろ、お前はなかなか賢いよってそんなことしやへんなア」 「そうだすとも、誰かてわたい賢いいうてくれはります」 「ウム賢い賢い、亀吉とえらい違いや、あいつはとんとドムならん……そうやよって今頃はなるほど二十銭もろて出してしもうてよるやろ」 「それに定まったアるわ、そやよってもう急がいでもよろしい、どこぞへ行きまよ」 「よし行こ行こ、しかしもし亀吉が二十銭もろて出してよったら、若旦那はどこへ行きはると思う、お前は賢いよって分かるやろ……うまいこといい当てたら、今晩は小田巻きやない。茶碗蒸しと親子丼取ったげるで……どうや考えて当ててみい……」 「よろしおます、当てまっさかいなア、ほんまに取っとくなはれや、若旦那の行きゃはる先やったらなア、きっと中筋の大梅いうお茶屋だすワ、そこで芸妓はん仰山連れて、難波の一方亭いうとこへ遊びに行きはったに違いおまへん、……サア親子……」 「待て待て、わしが行て見んことにゃ、貴様のいうたことが当たったかどうや分からへん」 「行て見んかて違いおまへんのに……」 「いやそりゃいかん、わしゃちょっと行て見て来る、貴様は先へ帰って、親旦那に番頭はんはチョッと一軒寄り道しやはりますというとけ、ほかに余計なこというのやないぞ」 「親子はいナ……」 「見てきてからのことや」 「ほんまかいナ……。何なら煙草入れ預かっときまよか」 「阿呆いやがれ。サア早よ帰《い》の」 「ヘエ……」  丁稚を帰しましてその足で難波の一方亭へやって参りました。ズッと通ろうといたしましたが、それもあまりようないと思うて、しばらく様子を伺うていると、二階で賑やかな人声がいたします。 「若旦那一つお頂き申しまよか」 「サア飲め飲め、そんなちっちゃい物ではあかん、これで飲め」 「マアそんな大きな物……」 「ええがな。グッと飲んで何ぞめでたいもの演《や》ってくれ」 「モウ酔うてしもうて声も何も出やしまへんのやで……♪初春や、日なたへ直す福寿草……」 「ヨウヨウヨウヨウ……」 「ヘエ御免やす。ちょっとおたの申します」 「ハイお越しやす」 「貴方はんとこへ、船場の播磨屋の若旦那がおいでになっていやしまへんか」 「ヘエ……イイエ、根っからお越しやござりまへん、よそさんと違いますか」 「アアいやいや。隠して頂くと困ります、私は東堀の灰屋の常治郎という者で、今日若旦那と逢う約束がしてあったのを、手放せぬ用事のために手間取ってようよう今やって来ましたのじゃ、定めし若旦那もお待ち兼ねのことと思います、決しておいでにならぬはずはないと思いますが」 「アアさようでおますか、そんならおいでかもしれまへん」 「そんなジャラジャラしたこと……」 「どうぞしばらくお待ちを……」  二階へトントンと上がって参りまして、 「アノ若旦那」 「何じゃ」 「只今下へ、東堀の灰屋の常治郎さんというお方が、若旦那にお目にかかりたいいうて見えてでござりますが」 「何、灰常はんが、妙やなア。わしがここへ来てることをなんで知ってはるのやろ、ハハアまたいつもの大梅やと思うて行て見やはったんやな、それで大梅で聞いて来やはったんや、粗相のないようにお通し申し、コレ繁八、一八、お前ら二人も下までお出迎いに行といで」 「ヘエ、承知いたしました」  幇間《ほうかん》二人は下まで飛んで降りて来まして、 「オオこれは灰屋の旦那様でござりますか、先ほどからもう、播磨屋の若旦那がおまちかねでござります、さアどうぞ、さアどうぞ」 「アアもし、そのように丁重にして頂きますと、えらい難儀をいたします。あのチット若旦那にお話し申したいことがござりますねが、二階へ上がりますとかえってご面倒を掛けます、どうぞちょっと下まで降りていただくよう、お取り次ぎを願います」 「まアそんなお固いことをおっしゃらずに、第一それではお出迎えに来た、我々両人の使者の役目が済みまへん、オイ繁八、お手をお取り申せ、ヘエ旦さん、どうぞどうぞ」 「アこれ、そ、そんな無茶な、イヤ、ま、待っとくなはれ、わしが行くと、コレ具合が悪いちウのに……」 「ヘエ若旦那、灰屋の旦那をお連れ申しました」 「オオ灰常はん、サアサアこっちへこっちへ、これは思いも掛けず有難い、さ早うこっちへ来とくなはれ……何だんねナ、そない丁寧にお辞儀ばっかりして、……アッお前は番……」 「押し掛けまして相済みまへん、チョッとお話し申したいことがあって参じました、どうぞしばらく次の間へお越しを願います」 「ウーム。……いや分かったアる、分かったアる、何もいいなや。番頭黙ってくれてても、ちゃんと分かったアるね。ええか、なんにもいいなしやで。コレ皆挨拶しとき。うちの番頭はんや。粋な男やないか、わたいをびっくりさそ思うて、友達の名いうて来たりして。こっちはまともに調伏《ちょうぶく》に掛かってしもうたがナ、アハハハハ、コレ何をボンヤリしてるね、早う盃を持って行きんか」 「ヘエお番頭さん、まア一つごめんやす」 「ヘエ大きに有難うござります。しかし私は今日はお酒を頂きに来たのとは違います」 「コレ番頭、分かったアるというてるがナ、サ一杯飲み、ナア飲んでやりイな、芸人が照れるがな……」 「何とおっしゃります、芸人が照れる……ああお情けない、モシ若旦那」 「シッ」 「若旦那」 「分かったアる」 「エエ貴方様はなア……」 「チャチャチャチャチャンリンリ……高砂屋ア」 「誰やそんなこといいなはるのは。私は何も役者の声色使うてるのやござりまへん。もし若旦耶、吹けば飛ぶような奉公人の身分ではござりますが、お家のためを思えばこそ、涙とともにご意見を申し上げたのは、たった今朝のことやござりませんか。なさるにもこと欠いて、丁稚を誑《たぶら》かして脱け出る……」 「悪かった悪かった、よう分かったアる、ナ、そやよってに、とにかく熱い酒を一杯キュッと」 「アアまだそんなことをおっしゃる、……あの厳しい親旦那の蔭になり陽向《ひなた》になり……」 「済まん済まん、そやよってに機嫌直して一杯だけ飲んで、ええか。フムフムいやもっともや、マア一杯、ヤ無理はない、イヤ分かったアる、そりゃわしが悪か……エーイじゃかましいワイ。去《い》にくされド阿呆め、番頭番頭と奉ってやりゃええ気になりやがって、番頭がなんぼ豪《えら》いのじゃい、己れらア素丁稚《すでっち》の劫《こう》経たんやないかい、コラよう聴け、親の意見さえ屁とも思わぬわしがナ、己れら千万匹たかってギャンギャン吐《ぬ》かしても、蚊が鳴いたほどにも思やへんワイ」 「アアもし、そんな無茶苦茶な……」 「家で充分|五月蝿《うるさ》いこと吐かして、まだこんなとこへまで恥かかしに来やがる。顔見るのも胸糞が悪い、去《い》ね去ね、去にやがらんか」 「アアもし若旦那、そんな手荒い……お番頭はん、早う逃げとくなはれ」 「繁八、放っとけ、エイ放せちうのに、コラ腐り番頭、去にやがれ、去にやがれ、去にやがれ」  上がり口のとこまでタタタタタと押して参ります。 「危ない、危ない」  というてるうちに、番頭さんが足を一つ踏み外すなり、ドドドドドドターン。 「ア痛たたたたた」 「まア危ない、貴方はんどこもお怪我はござりまへんかいナ」 「アタタタタッ、……ヘエヘエ有難うござります、無器用者で怪我一つよういたしまへん」 「そんなものはようせん方が宜しござります、しかし大した痛みはござりまへんか」 「ご親切様、お蔭で大したこともござりまへんようで、何しろ気の短いお方でおますので、大方こんなことにならにゃええがと思いましてな、下へ降りてもらうように頼んだのに、無理矢理に二階へ押し上げられましたので、案の定この始末でござります。……ヤッこれは近頃愚痴なことを申しました、それでは私はこれでお暇《いとま》をいたします。どうぞ若旦那を宜しゅうおたの申します。しかしあんまりおそうなりますと、また家中が心配をせにゃなりまへんで、えろう更けぬうちにどうぞお帰しを願うときます。ヘエ、それではどなたもごめんを蒙ります、えらいご造作をお掛け申しました」  番頭がスゴスゴと表へ出ますと、二階では何が面白いのかワーツという笑い声。 「アアお若いので無理もない……がしかし、あんなもんやなかろうと思うがなア……」  恨めしそうに二階を見上げて、そのままトボトボと帰って参ります。 「サアもっと大きい器持って来い、碌《ろく》でもない奴が来やがって。折角気持よう飲んでるのに、あんじょうワヤにしてしまいやがった」 「若旦那、ありやいったい何だすね」 「あれが家の親父の気に入りの番頭や」 「けったいな人だすなア、大体商人衆の家で番頭とか何とかいわれる人が、あんな融通の利かんようなことでは仕様がおまへんな。わたいらには分かりまへんけど、あんな人はあまり商いも上手やなかろうと思いますワ。どっちかいうと、えろう大した人やおまへんなア」 「もういうな。あんな奴のこと思い出してもムカムカする。サアやけくそや、尻が腐っても帰らんぞ」 「鉄眼《てつげん》寺の達磨《だるま》はんと根競べしてみなはれ」 「これから中盞《はんちょく》でグーッと飲って、北へ飲み直しに行くのや。熱うして早よ持って来い」  さアそれから大きな器でドンドン飲《や》ります。 「ウイー、アア大分ええ気持になって来た、サア皆ぼつぼつ出掛けよか」 「アアもし、だいぶお足元が危のうござります、ヘエ繁八がお手をお取り申しまひょ」 「そっちへ行け、ゴツゴツした手ェ出すない、阿呆。サ、美代鶴、肩貸してくれ」 「繁はん、堪忍やし……」 「ウワア、こら堪らん、こんなとこ見せてもろうたら眼の毒や。提灯持ってお先へ歩かしてもらいまっさ、……お元どん提灯一つ出しとくなはれ。ヘエ、どなたはんも足元照らしまっさかい気イつけて来とくれやすや」 「サアサア皆来いよ、誰やそこでフラフラしてよるのは、品吉かい、アハハハハえらい酔いよったナ、オイ一八、手を引いたれ、危ないがナ。コラおかしな顔すな。こんな時やなかったら貴様ら女の手なんて触《さわ》れるかい、アハハハハ、ウーイ……花アはーアか、よしーイのーかーちゃッちゃ……」  提灯《ちょうちん》の明かりをたよりに土橋のところまで掛かって参りますと、手拭で顔をかくした一人の男。裾《すそ》を高々とからげて腰に長い刀を差したのがヌーッ。 「追剥《おいはぎ》じゃア」  と太い声。  イヤ芸妓幇間の連中、びっくりしたのせんのやござりまへん。 「キャーッ」バタバタバタバタバタ。 「サア早う逃げなはれ、逃げなはれ、若旦那どこやおまへん、命あっての物種や、後は野となれ山となれ、ウワ……」  バタバタバタバタバタ。  逃げおくれた若旦那の襟髪《えりがみ》をグッと掴んで、 「こーりゃ」 「アアもし、決してお手向かいはいたしません、身ぐるみ脱いで参ります、どうぞ命ばかりはお助け……」 「やかましい。着物持ち物に眼はつけんワイ」 「さようなれば懐中に少々の持ち合わせもござります」 「そんな目腐れ金、欲しゅうはないワイ」 「そんならいったい何がお入用でござります」 「今日かぎりスッパリと、茶屋遊びをやめてもらいたいのじゃ」 「けったいな盗人さんでござりますなア」 「サアそのけったいな追剥の面を、そうれ。トックリと御覧なさりませ」 「トックリ……アア何や、お前番頭やないか。しょうもないことすない、びっくりしたがな、……オーイ、皆帰っといで、違う違う、家の番頭や番頭や……。それ見いな、お前がこんなことして恐がらすさかい、皆逃げてしもうて誰もそこらに居やへんがな」 「アハハハハハ」 「コレ、笑いごとやないで、こっちはほんまに寿命縮めたがな」 「もし、考えても御覧じませ、どこの世界に追剥じゃというて出る追剥がござりますかいな。時にまだお気がつきまへんか。ふだんは若旦那やのスポポンやの、やれ貴方はんやなけりゃの、どうのこうのというてる奴が、今のざまはどうでござります。誰一人あとへ残って貴方のお身を庇《かぼ》うた者がござりましたか。しかも逃げぎわの言い草を何とお聞きになりました。傾城の誠と玉子の四角、あれば晦日《みそか》に月が出る。アアええことが申してござありますなア。あいつらの心を貴方はんに、お目に掛けようと思うて、こんな真似をしてみました。私は甲斐性のない生まれつきで、茶屋の茶の字も存じまへんが、今日のお遊びの費用も端《はした》なことではなかろうと存じます。その莫大なお金を掛けてお招びなされた奴らがいざという時には、貴方はんを突き退けて、若旦那どこのこっちゃない、命あっての物種やと、さア。あれがあの人達の正直な心の底でござります。それじゃによって私がご意見申すのでござりまっせ。あの衆のいうことを真に受けて、深入り遊ばしたら、それこそどんな阿呆らしい目を見るやら分かりゃいたしまへん、なアこの道理がお分かりになりましたら、ちっとは親御様たちの身にもおなり遊ばし、あまりあアいう所へはお立ち寄りにならぬよう、誠心《まごころ》をもってご意見を申し上げます」 「アア番頭、よういうてくれてやった。わたいもようよう迷いの夢が醒めた。今日後《きょうご》お前のいうこと聞いて、お茶屋遊びもスッパリやめや……というたらよかろうが、まアいやじゃワイ。オイお前、ちと呆《ほう》けてやへんか、わいは何も盗人や追剥の用心に、芸者連れて歩いてやへんで。それならそれで相撲取りか剣術使いでも引っ張って歩くわい。いざという時に客を放っといて逃げて行く、当たり前やないかい、わずかの線香《はな》を買うてもらやこそ、赤の他人の機嫌気まま取って、大事な頭も下げてよるのやで。その上、命まで投げ出さんならん義理があるかい。オイよう聞けよ、かりにお前が得意先から金受け取ったら、その金だけの品物渡したうえに、命まで添え物にするか。さアそれと同しことじゃ。向こうは芸と愛嬌が売り物じゃ、此方《こっち》は品物|買《こ》うただけの金払うてやるのに、なに恩に着せることがあるかい、コラ。人に小生意気な意見でもしようと思うなら、ちっとは世間の学問もしときやがれ。芸者末社という者はナ、家によったら冬でも座蒲団なしや、籐莚《とうむしろ》の上へじかに坐って、火鉢には手も出しやへんわ。夏は夏で暑苦しい重ね着して、やれ弾けの、それ唄えの、苦しい勤め酒も飲まにゃならぬ、オイ。それでもどうや、花代ただ取ってよるように思うか、命まで出さなんだら畜生みたいにいうてやらんならんか、糞ッ、どこまでわしに逆らいやがるね……エーイッ、エイッ、エイッ」 「アッ痛ッ、モシそんな貴方、人の横面を、アッ痛ッ、若旦……アッ痛ッ」 「己れらにでも痛いというど性根があるのかい。ヘン、手で殴ったるのは勿体ない、コラ有難う思うとけ、大阪五花街を踏み鳴らした、この雪駄でやったるワ。ウーン、ウーン、ウーン」 「ア痛ッ、ア痛ッ、ア痛ッ、モシ若旦那そりゃ何ということを、アッ痛ッタタタ、アアこれもし、たとえどのように叩かれましても、私はかまいはせんが、もしも顔に傷でもつきましたら、アアあの播磨屋の番頭は顔に傷がある、ひょっとよそで喧嘩でもしたんやないかと、世間の……世間の……プッ、わ、若旦那ッ、貴方アわたいの額を……」 「フン何じゃそのつらア、オオ割ったった、それがどうしたんじゃい」 「エーもう……」 「オイオイオイ、刀の柄に手ェ掛けたな、斬る気か、面白い、斬られたろ、さア斬れ、早う斬らんかい」 「わ、若旦那、め、滅相もない、斬るやなんのと、大それたことを……」 「嘘|吐《つ》け、そんならなんで刀に手ェ掛けたんじゃい、イヤわしゃ斬ってもらうね、サア斬ってくれ、斬りやがれ、斬らんかい」 「アアもし、危ない、そんな無理を、アッ危ない、イエこれは、お葬式の帰りやさかい、持ってる刀だすがナ、アッこれもし、危ないというたら……」 「ウワーツ、……番頭斬ったなッ、ヒッ、ヒッ、人殺しやーツ……」 「コーレもうし、大きな声で何をいいなはんね、あたりには米食う虫が住んでますがな、いうてええことと悪いことがおます、もしも人に聞こえたら……」 「ヒッ、人……」 「エエもう、静かにしなはらんかいな、なんで私が貴方はんを、どう……して……斬……る……ヒヤッ失敗《しも》うた……(鐘の音)……。アアお怪我をさせまいと、刀を引こうとしたはずみに、鞘が走ってえらいことしてしもうた、……しかしここまで性根の腐ったお方、生きておいで遊ばしても、どうせ末始終は、……なア若旦那、貴方一人は殺しやしまへん、私もすぐあとからお供いたします、お家のために死んどくなはれ。南無阿弥陀仏……御免ッ」(ブスーリ) 「ウーム。ウーム」 「もし若旦那、若旦那、えろううなされてなはるな……もしッ、若旦那ッ」 「ウーム、ウーム、……アア、アア、……定吉か」 「ヘエ」 「ここどこや」 「何いうてなはんね、離座敷やおまへんかいな」 「何や離座敷エ……土橋はどこや」 「そんなもの、こんなとこにおまっかいな」 「番頭はどないしてる」 「お店で帳付けしててだす」 「すぐに来てくれいうて呼んで来てんか」 「ヘエよろしおます……番頭はん、番頭はん」 「ウーム。ウームッ……」 「アッ、番頭はんもこんなとこでうなされてはる、今日はこんな日かいな、ワー、筆で帳面こすり倒して、帳面真っ黒けや、……番頭はんッ、番頭はんちウたら」 「ウーム、フーフー、……アア定吉か、ここどこや」 「ア、またかいな、お店の帳場だすがな」 「フーム……土橋は」 「アおんなしことや。そんなもんあれしまへん、若旦那がすぐ来てくれいうて、呼んでてだす」 「何ッ、若旦那が。よっしゃ、そこ退《ど》け、わッ若旦那ーツ……」 「オオッ、番ッ、番頭かッ」 「わッ、若旦ッ」 「サッ、サッ、入てッ、入てッ……わしゃ今、ウツウツしたかと思うと、えらーい夢を見てなア」 「アア貴方はんも……、私も昨夜、ちょっと夜が更けましてナ、今帳場で帳合いをしているうちに、思わずウトウトと居眠りましたものとみえて、妙な夢を見ました」 「何、お前も夢を見た、フーム、お前はどんな夢を見てやったか知らんけど、わいは難波の一方亭で芸妓幇間を招んで大騒ぎしてるところへ、お前が灰常の名をいうて、二階へ上がって来るなり、えろう意見をしてなア……」 「アッ、チョッ、チョッ、ちょっと待っとくれやす、……貴方はんその時、私を二階から突き落としてやござりまへなんだか」 「落としたがナ、落としたがナ、それからわしは皆を連れて北へ飲み直しに行こうちウので、大勢連れて土橋まで来ると、頬被《ほおかぶ》りした……」 「追剥やおまへんか、それがわたいでしたやろ。ヘエさようさよう、それからまたぞろ意見申したところが、貴方はんがえろう怒って、雪駄で散々わたいの顔を叩いた上、とうとう額を割りなはった、……それからすったもんだの末が刀が鞘走《さやばし》って……」 「それや、それや、ちょっとも違わん……」 「アア若旦那、ようその夢を見とくなはった。日頃からいいたいいいたいと思うてた一心が、チャンと夢になって通じてくれたのでおます」 「番頭ッ、大きに有難う。こんな極道者でも主人やと思やこそ、ようこそそこまで想うてくれてやった。……アアアアしかし夢でよかったなア。あれがもし夢やなかったら……、いやわしみたいな極道はよし殺されても自業自得や。けれどもお前みたいな忠義な人を、主《しゅう》殺しという汚らわしい罪名で、縄付きにせにゃならんとこやった。アア怖《こ》わやの、怖わやの」 「若旦那ッ、嬉しござります、そのお一言でこの番頭、ご当家千万年のご繁昌が眼に見えるようで、こんな有難いことはござりまへん……。したがまア怖ろしい夢でござりました。主殺しと申しますとえらい罪でござりますやろな」 「まア昔なら逆磔《さかさはりつけ》、今でも死刑は免れんやろなア」 「ウワーン。……」 「コレ定吉どうしたんやいナ。番頭見てやり、可愛いもんやないか、お前がふだん目を掛けてやるもんやさかい、今の死刑でびっくりして泣いてよるね。……コレ定。心配せえでもええ。今のんは夢の話や、番頭はどないもならへん」 「イエ、番頭はんのことで泣いてるのと違いまんね、イヒッ、イヒッ、いまじゅうざいで死刑やいいなはった、イヒッ、ほしたらうちのお父っつぁんはどないなる思うて、心配でしようがおまへん」 「フーン、するとお前のお父っつぁんは」 「ヘエ、大和のまんざいだすね」 〔じゅうざい(十罪)と聞いたので、まんざい(万罪)とさげたオチ。上方落語の大物のひとつである〕 [#改ページ] 弥次喜多《やじきた》地獄旅行  日本諸国を巡った弥次郎兵衛、喜多八の両人、今度はひとつ、かわった旅をしようやないかと、 「ナア、喜多八、今度はひとつ地獄極楽へ旅行しようやないか」 「なるほど、そらええ。しかし地獄極楽となると、このままでというわけにはいかんが、どうして行く……」 「そらそうや。あっちへ行くには死なな行けんが、どうして死のう、喜多八」 「そうやなあ、首|縊《くく》って死ぬのも厭やし、鉄道自殺は痛い。川へ飛び込むのは寒いし」 「そう言うたら死ねんがな。どやろ、美味《うま》いものを食うて死んだら」 「弥次さん、美味いもの食うて死ぬとは」 「河豚《ふぐ》食うて死のう」 「こらええ」  と、フグにフグ買いに行って、フグに料理して、フグに食うて、フグにあたってフグに死んだ。風体《ふうてい》はたいがい決まってまして、白の経帷子《きょうかたびら》に角帽子《かくぼうし》と、頭陀袋を首に掛け、おがらの杖をついて草鞋履き……、というのですが、時局がら、国民服には戦闘帽、ゲートルにはリュックサックといういでたちで、登山杖をつき、やって来ましたのが、三途《さんず》の川。岸辺には一軒の茶店がありまして、表にはコーヒー、みつ豆なぞを売っていて、十七、八の娘がせっせと大きな盥《たらい》で洗濯をしております。 「姐《あね》はん、あんた何してはりまんねん」 「鬼のいぬ間に洗濯してまんねん」 「まだお若そうやが、おいくつだす」 「鬼も十八だす」 「ところで、この三途の川には婆さんがいて、行き来の亡者を裸にするということを聞いてますが」 「阿呆らしい、それは昔のこと。今、裸で歩いたりしたら、オニ巡りさんに叱られますがな」 「ア、さよか。ほんならお婆さん、どないしました」 「あの人、今、賽《さい》の河原で夕刊売ってはります」 「もし姐はん、ここらも随分、変わりましたやろうな」 「ヘエ、昔とはころっとすべての物が変わりましたわ」 「さよか、向こうに見えてる大きな建物、あれは何だす」 「あれはユウレン局です」 「郵便局と違いまんのんか」 「あの隣が死電《しでん》局だす」 「アさよか。ほいであんたは何だんねん」 「わて、鬼の娘だすわ」 「角《つの》がおまへんが」 「独身のあいだは出せしまへんね。結婚して、主人が浮気したとき、ちょっと出しまんねん」 「ア、なるほど、それで三途の川はやっぱり渡し舟で渡りまんのか」 「ええ、そうだす。もうすこし上へ行きますと渡し場がおます」 「ア、おおきに。ほんなら弥次さん、行こか」 「ウン、姐さん、いろいろ大きに」  と両人がやって参りますと、渡し場には大勢の亡者が一列に並んで、順番に舟へ乗り込んでおります。  両人もその舟に乗ってしばらくいたしますと、船頭が大きな声で、 「オオ、早よ乗れ、早よ乗れ。気ィつけて乗れよ、はまったら生きるぞ」 「オイ、弥次さん。はまったら生きる、と言うとるで」 「そら皆、死んで来てるもの」 「ア、そうか。ほんなら俺いっぺん生きて、嬶《かかあ》の顔見てきたろか」 「何を言うてるねん」  時間が参りますと、舟を出しまして川の中ほどまで参りますと、何を思うたか錨《いかり》をドボンと放り込みますと、舟はそのままその場にとまります。  乗り合いの亡者が、 「オオ船頭はん、こんなとこへ舟をとめんと向こう岸へ着けんかい」 「オオ、渡し賃をもらわんならん」 「なんぼやねん」 「死にようと病《やまい》でみな値が違う」 「ほんなら何で死んだら一番安い」 「そんなこと俺が言えるかい。お前、何で死んだんや」 「わしかい、わしはあんまり酒を飲んださかい、酒のために死んだんや」 「なにッ酒のため……。このごろ、娑婆では酒が少ないということやが、それに酒を飲みすぎて死んだとは、あんまりええことしてよらんな。どうせヤミでもしてたんやろ。ま、お前らは地獄行きや」 「心細いこと言うな」 「二十四銭や」 「何でや」 「なんで……。お前、酒飲みすぎて酒のために死んだんやろ。そやさかいシュドク二十四で二十四銭」 「けったいな勘定やな」 「つぎはその隣のお爺さん、お前、何で死んだんや」 「わしは年病《としやまい》や」 「ほんならジイサンが六銭じゃ」 「船頭さん、私も年病じゃ、六銭渡します」 「オイオイ婆さん、婆さんてな九々はないわ。お前、えらい皺《しわ》やな」 「そら婆アじゃもん、皺くちゃじゃ」 「そんなら三十二銭じゃ」 「えらい高いやないか」 「シワ三十二銭じゃ。そっちの若いの」 「僕はニコチン中毒で死んだから、ニコチンの十銭だろう」 「オイオイ、そんな勘定があるかい、六十四銭出せ」 「なぜだい」 「煙草の中毒やさかい、パッパ六十四じゃ。オイそのつぎ」 「私はこの人と添うのを親が許してくれまへんので、いっそあの世で添おうと、心中しました」 「何、心中……。この時局に心中とは、そんな命ならなんでお国のために捨てへんね。お前らどっちみち地獄行きや、八十銭じゃ」 「なんで八十銭だす、二死が八銭と違いますか」 「阿呆言え。二シンジュウが八十銭じゃ。つぎは」 「私は腸チブスで」 「下痢したのならビチビチ四十九銭」 「まア、汚い勘定やこと」 「オイ、つぎの女は」 「私、赤子《ややこ》を産みまして、産後に死にましたさかいサンゴ十五銭でっしゃろ」 「コラ、そっちで勘定するない。オイ、そっちの二人」 「わいら二人は、河豚《ふぐ》食うて死んだんじゃ」 「えらい贅沢なもの食うたんやな。贅沢は敵だという標語を知らんのか。フグてな勘定はないがな。死にしなはどうやった」 「四苦八苦の苦しみやった」 「それで勘定ができるわ。シク三十二のハック七十二で、一円四銭、二人で二円八銭や」 「ウワー、高いな。オイ、十円で釣りくれ」 「釣りはない」 「ないて……。十円取ってしまいやがるねん」 「取ったら地獄じゃ」 「弥次さん、この船頭、悪い奴やなあ。鬼みたいな……」 「みたいな、て、鬼やがな」 「ア、そうか」 「オオ、もうないか」 「ここに一人いるのに、小さいさかい気がつかんらしい。鬼の眼にも見落としや」 「オイ、もうないぜ。出しや」 「オオ、出しますぞオ」  錨を揚げてしもうて、櫂《かい》では立たんので櫓《ろ》にかえて、鬼が三本の指で漕ぎ出した。 「ア、ウントセ」  だんだんと、舟が岸に近づいて参ります。 「オーウ、当たりますぞオ」  ゴツン。 「コラ、当たるなら当たると吐かせ」 「当たると言いましたがな」 「嘘吐け。アターと言うなりゴツンと当てやがった。舌噛んだやないかい、舌あるかしらん……。あるある、なかったら閻魔はんに願うてやるねん」 「喜多八、何でや」 「こんなことはシタナイではすません」 「洒落言いないな」 「オー、早う上がれ、早う上がれ」  皆がどやどやと上がりますと、 「オイ、極楽へ行くのはどっちへ行くねん」 「いっペん閻魔はんのお調べを受けんと、極楽へ行けんわい」 「それはどう行ったらええねん」 「これを上がると、幽霊の小路、向こうへ抜けると念仏町、皆、有難い経文を買うて行くのじゃ。そこを向こうへ抜けると楽天地じゃ。そこをすこし行くと六道《りくどう》の辻という交叉点から死電で行くとすぐじゃ。地獄の一丁目、二丁目、三丁目、地獄の東門へ行くわい」 「ア、おおきに。なあ弥次さん、知らんとこへ来ても親切に教えてくれるな。渡る世間に鬼はないという譬えがある」 「何を言うてるね、鬼が教えてくれたのや」 「譬えも当てにならんな。ここら、えらい道が悪いな」 「幽霊の小路やというてたがな」 「道理で通りがドロドロか」  と両人がやって参りましたのが念仏町、両側にたくさん念仏屋が並んでおりまして、 「弥次さん、えらい立派な商店街やな」 「船頭がいうてた、念仏町やがな」 「念仏町て何や」 「あの大きな建物の看板を見てみ。南無阿弥陀仏商事と書いたあるやろ」 「フンフン」 「あの店では南無阿弥陀仏を売りよるねん。宗旨宗旨でみな買う念仏が違うねん」 「ア、なるほど、そうすると法華やと、向こうの南無妙法蓮華経商会で買うてなもんやな」 「そやそや、こっちは真言宗や」 「何と書いてあるねん」 「おんあぼきゃ、べいろしやの、まかもらはんどんが、じんばらはらはれたや商店や」 「ウワー、長いなあ」 「随分ぎょうさんあるなあ」 「弥次さん、見てみ。向こうの端にある家の前に、何や鉄砲持った大きな体の亡者が、仰山並んで買うてよるが、あれは何や」 「あれかい。看板見てみ、アーメン洋行と書いてある。向こうの店はキリスト教を売りよる店や。買うとるのは、あれは皆、米英の兵隊や。日本の兵隊さんに殺《や》られて来てよるねん」 「アそうか。あいつらもきっと地獄行きやろ」 「サア、わしらも買おか」  と両人も買いまして、念仏町を通り抜けますと、一つの橋がございます。この橋の名が観音橋と申しまして、この橋を渡りますと、ジャズの音賑わしい歓楽の巷《ちまた》……。 (道頓堀行進曲)。 「弥次さん、賑やかやなあ」 「見てみい、喜多八。五座の櫓《やぐら》が並んだあるで。まるで大阪の道頓堀やがな」 「映画館もあるな」 「畜生座としたある。洋画や、アメリカ映画……、ダグラスとジーン・ハーローリー主演……」 「弥次さん、ここの芝居、よさそうやな」 「ええ役者やなあ。大阪の役者や。中村宗十郎に市川斎入、先代中村梅玉に先代の延若《えんじゃく》。演《だ》しものがええ、末広屋の盛網陣屋《もりつなじんや》に高砂屋の相模や。高島屋はんの演しものが鯉つかみや。河内屋が小さん金五郎、ええ芝居やな」 「見てみ、弥次さん。ここは東京の役者ばっかりや」 「なるほど、団菊左やな。それに演《だ》しものがええ。勧進帳に弁天小僧……」 「弥次さん、これは何や」 「キャバレー人玉《ひとだま》としたある、カフェーや」 「またここも歌舞伎芝居や」 「喜多八、見てみ。中村鴈治郎に先代片岡仁左衛門、中村歌右衛門、中村雀右衛門に尾上|梅幸《ばいこう》。こないだ死んだ市川左団次に市川|松蔦《しょうちょう》や」 「弥次さん、初下り大谷友右衛門と書いたあるで」 「これはこの間、鳥取の地震で死んだ明石屋や。ええ演《だ》しものやな、ここも。成駒屋の治兵衛に雀右衛門の小春、梅幸のおさんで紙治《かみじ》や。歌右衛門と松島屋の桐一葉、高島屋の青山播磨に松蔦のお菊や」 「向こうの芝居が新派やで、川上音二郎に河合武雄に伊井|蓉峰《ようほう》……」 「ほんまにこっちへ来ると、ええ芝居が見られるなあ」 「ア、わしの好きな沢正《さわしょう》の芝居もあるわ。国定忠治や」 「えらい人気やなあ。どこの芝居も大入り満員や」  両人がそこを回りますと、法蓮寺というお寺がございまして、細い小路がありまして、その両側にはいろいろな飲食店が軒を並べております。その中ほどに一軒の落語の寄席がございます。 「弥次さん、噺《はなし》の席があるで」 「なるほど、紅梅亭としたあるで」 「誰が出てるね」 「見てみ、喜多八。ええ噺家が出てるで。四代目|松鶴《しょかく》に福松、文団治、先代の春団治、東京の小さんに円朝に円馬や、ええ座やな」  こっちへ参りますと浪花節の小屋があって、桃中軒雲右衛門の看板が上がってございます。弥次善多の両人がそこらを見物して、やって来ましたのは六道の辻の交叉点で、死電が六つに交叉しておりまして、どの電車に乗りましても行きつくところは地獄の東門前へ参ります。両人もそこより死電に乗りますと、間もなく着きましたのが、地獄の東門前で、大勢の亡者が口ぐちに喧《かしま》しゅう言うております。 「モシ、門が閉まってますな」 「盆の十六日やないと開きまへん」 「それまでここで待ってまんのか、そんなことしてられん。オイ喜多八、いっぺん訪《たず》ねてみい」 「よっしゃ……、ア痛い」 「手で殴るさかいや、相手は金やがな」 「ア、なるほど、訪ねるものはカネばかり」 「洒落てるのやあらへんがな、石で叩いてみい」 「よっしゃ……(コンコン)。オイ開けてんか、鬼貴。弥次さん、中は鬼ばっかりか」 「いいや、閻魔はんもいる」 「オイ、閻魔はん、開けてんか、ちょっとお開け。エン的、エン公、エン助、エン州浜松広いよで狭い。毎年毎年、ご嘉例をはずさず福は内や鬼は……、オオ、鬼はどっちやった」 「鬼も内やがな」 「鬼は内やエー」  内側にいる鬼どもびっくりいたしまして、 「オイ赤、青、黄、紫、みな集まれ。えらい奴が表にいてよるで、表の門叩いてよるで」 「門叩かんともいえん。今の閻魔はんの先代の時代に、娑婆から朝比奈というのが来て、表の門をどついたが開けなんだので、門を叩き破って、閻魔はんの横ッ面を張りとばして、閻魔はん上段の間から転んで落って、それから中風になりはったという。そんな強い奴やないやろか。オイ赤鬼、お前、柄《がら》が小さいよって這《ほ》うて行って、下の隙間から様子を見てこい」 「わし厭やがな」 「そうかて、アカいオニのしんどは這うてせい、と言うやないか」 「それは、若い折のしんどは買うてせい、や。……オイ、のぞいてきた。アア怖《こ》わ、酒の酔いがいてよる」 「酒の酔いが何で怖い」 「酔いがさめたらショウキになる」 「何を言うてるねん。かまうことないさかい、門を開けて亡者をみなひっ縛《くく》れ」 「よっしゃ、開けるで」  閂《かんぬき》を外しまして、門を左右に開きますと、亡者がなだれを打って入って来ますのを、みな、縄を掛けまして連れて参りましたのが閻魔大王の前でございます。(未完) 〔編者注〕これは六代目笑福亭松鶴の死後、その筐底《きょうてい》より発見された五代目松鶴の自筆原稿である。ネタは上方落語に古くよりある「地獄八景」で、五代目松鶴がそれを太平洋戦争中、時代に合わせて改作したのがこの原稿である。  原稿は中途までで未完のままとなっているが、五代目松鶴がこれを高座にかけたことは六代目松鶴の証言によっても明らかなところで、いまこの選集を編集するに当たって、捨てるに忍びずここに掲載した。 [#改ページ] 吉野狐《よしのぎつね》  頃は一月の末つ方、年の頃二十二、三とおぼしき男、あたりきょろきょろ打ちながめ、袂の中へ拾い込む石、瓦屋橋の西詰めから人の見ているのも知らずに、橋の欄干に手をかけて今や飛び込まんとする有様。 「コレ待った、あぶないがな」 「イエどうぞお放しなされて下さりませ、どうでも死なねばならぬ者でござりますゆえ、助けると思うて殺して下さりませ」 「コレ何をいうのや、医者が薬違いしたのやないで。助けると思うて殺す人があるか、死は一旦《いったん》にして易《やす》し、生は難《かた》しということがある、死ぬとは思案が若い、訳をいわんせ、訳を聞いた上で、死なねばならぬことなら、手伝うてでも殺してあげる。マアマア待たんせコレ……、コレ、若いだけに力が強いな、一体お前はどこの人や」 「お尋ねあずかりお恥ずかしいことながら、今わたしの申しますことを、一通りお聞きなされて下さりませ。(三味線合方)わたくしは心斎橋筋で、渋谷や石原と肩を並べるほどでもないが時計屋店、親父は渋いことはこの上なし、堅いことは石より堅く、それにひきかえ私は新町南通り木原の娼妓に馴れ染めて、通い廓《ぐるわ》の習いとて、芸者舞妓や幇間《ほうかん》にもてそやされての大和巡り、何せ時計屋のことゆえに、回るものが回りますゆえ、汽車や車で柱掛け、ここに逗留かしこに居続け、舞妓が酒が嫌いじゃ甘い物といえば、饅頭時計やアンクルと栄耀栄華《えいようえいが》に日を送り、使いし金が三千円、家へ帰れば親父に眼玉、家に置けぬと追い出され、今更夢も眼覚まし時計、後悔先に立たぬ身の上でござります」 「フフン、すると今お前さんがここで死んだら、その使うた金はだれぞ返してくれるのかえ」 「イエそれはあら致しまへん」 「ソレ見さんせ、そやよって、思案が若いというのや、私はナアお前様とこのような、金目な物を商う商売やない、高が知れた夜泣きのうどん屋じゃ、モウ年を取って、肩が利かんで、車で歩いているような始末や、ところが今夜うどんが二杯残ってあるので、これを売ってしまおう思うて、ここまで来ると、お前の素振りが怪しいので後ろからついて来ると、この始末や」 「そんなら、あんたはうどん屋さんだすか」 「そうや」 「うどん屋が蕎麦へ車で知らなんだ」 「何をいうのや、いまわの際《きわ》に洒落をいうてる、ともかくも私の家までおいで、悪うはせぬ」  むりにわが家へ連れて帰りました。 「婆さん、いま帰りました」 「オオ老爺《じい》どんか、今晩は冷えが強い、さぞ寒かったやろ、お炬燵《こたつ》にどっさり火が入れてあるさかいに、早うあたらんせ、荷はわたしが片付ける」 「しかし婆さん、今夜は客人があるのや、これお若い衆、そんなとこに立っていては寒い、内へはいりなされ、婆さん御飯があるか、なに、無いか、どんなことやったな、アア、うどんが二杯残ってある、今晩はうどんで辛抱さんせ」 「いえよばれましても、お金が」 「コレ何をいうのや、お金をもらおと思て、食べさすのやない」  うどんを食べさしてその晩は三人が押し合うて寝ましたが翌日の朝、 「若い衆」 「お早うございます。昨晩はいろいろご厄介になりまして、何とも御礼の申しようもござりませぬ」 「何をいうのや、これからお前さんの家へ、話にいこうと思うているのやが、お前さんの家は、どこやらということやったな、フンフン心斎橋で、フンお前の名が島三郎、アア、よしよし」  どこまでも親切な人で、それから親元へ渡って、すぐ帰って来ました。 「島さん、行て来たぜ、お前の親父さんに逢うて来た、ほんに渋い堅い人じゃ、何というても取り合って下さらんので、昨夜の話を一部始終はなしたら、親父さんのいわれるには、いっそほっといて殺して下さる方がええ、一時は金もいりますけれど、後で代物《しろもの》を持ち出したり、金を盗み出す心配がのうてええといわれるのや、そこで、そのようにいらぬ息子さんなら、いっそ私の方へ養子に下さらぬかというたら、よいようにしてくれとのことゆえ、お前と話はせぬけども、モウ戸籍まで送ってもらう約束にして来たのじゃ、お前も昨夜瓦屋橋からはまって死んで、こんな家へ生まれ変わったと思うて、どうじゃ、私の家にいて、この年寄り二人の面倒を見てくれる気はないか」 「いろいろ有難う存じます、何分によろしくお頼み申します」  とそれから島三郎は、ここのうどん屋の家に厄介になることになりましたが、毎日|所在《しょざい》がないので、商いに行く時に連れて行て、向こうへ三膳、あちらへ五膳と持って行く。間は荷の番をさしたり、また手替わりに運ばしたりしていましたが、ちょうど四月の中頃になりました。いつもの通りうどんの車を路地へ引き込んで、戸を締めて閂《かんぬき》を入れて、 「コレ婆さん、いま戻って来た、今夜はどういうもんかしらんが腰が痛んでかなわん、島三郎に手伝わせて荷をしもうて下され、これ婆さんというのに、また居眠りをしている、コレ婆さんというのに、年寄りのくせに眠たいなんて、早う片付けとくれ」  独り言をいうて一服のんでおりますと、島三郎は荷をしまいながら、何やらボシャボシャと話をしているようです。ハテ路地は締めたし、閂は入れてあるのに、誰もはいって来た人もなし、誰と話をしているのかしらんとのぞいて見ますと、年の頃二十一、二の綺麗な女と島三郎が立ち話をしております。 「イヤいかん、今お前がここへ来てくれると、私の尻まで上がる」 「かましまへん、私がお父さんに逢うて話をします」 「いかんというのに、ここの親父さんはなかなか堅い人やさかいに」 「マアあんたはそっちへ行っといでやす」  と手を突きのけて、 「ヘイ御免遊ばせ、これはまだお初にお目に掛かります」 「ハイお出でなされ」 「私は新町南通り木原席に勤めを致しております吉野と申すふつつか者、こちらにござる島三郎さんとは、深ういいかわした仲、ところが今年の一月大和巡りを致しまして帰りましてから、チチ、プッツリとお越しがないので所々方々と尋ねましたが皆目《かいもく》とお行方が分からず、今日、風の便りに聞きましたら、ご当家様へ入り聟《むこ》になってござるとのこと、もとより私も自前で働いておりましたゆえ、儲け溜めを親方さんへ千円預けておきました。今日この金を持って参りましてござります。どうぞ、それを私の荷物と思召して、この島三郎さんのお嫁さんにして下されませ」 「ハアさよか、これ島三郎、お前がそこでキョロンとしててどうするのや、万事は私が胸にある、コレ姐《あね》さん上へ上がりなされ、庭が狭い、ともかくも奥へ連れて行きなされ」  無理矢理に二人を奥へ連れて行って襖《ふすま》を閉めました。 「コレ婆さん」 「老爺どん、なんと綺麗な女子さんやな」 「サイナ、あれが島三郎の馴染んでいた女じゃといな、エエ、婆さん、昔から歌にいうてあるな、女郎の誠と四角な玉子、あれば晦日《みそか》に月が出るちゅうて。近頃は晦日に月が出ているし、ああして女郎の誠が出て来たら、この調子やったら、近々に四角な玉子が見られるやろ。ドレドレこれで腰の痛いのも忘れてしもた、荷をしまいましょ、コレ婆さん、お前炭取りを膳棚《ぜんだな》へ入れてどうするのや」 「コレコレ、老爺さん、お前もうどんの鉢を縁の下へ入れてどうするのや」 「エエ慌《あわ》てなさんな」 「お前が慌てているのや」 「コレ婆さん、どこへ行くのや、コレ人の話をしているところをのぞくのやない、コレ何……。涙ながらに話をしている、ナア無理はないわ、逢いに行きとうても行くことは出来ず、また逢いとうてもいる所は知れず、久し振りに逢うて積もる話もあるわいな。時に婆さん、今夜寝るのが難儀やナア、蒲団があらへん」 「サア私もそないに思うているのや、モウ少し早かったら家主さんとこへ泊まりに行くのやけども、もう遅いよって家主さんも寝てはるしなあ」 「マア仕方がないよってに、今夜久し振りに席貸屋でも行こかいな」 「あほらしいことを言いなさんな」 「しようがない、今夜は二階で寝よ」 「お老爺さん、二階に蒲団がないで」 「ええがな、一晩ぐらい餅むしろに巻かれてでも寝るわいな、サア二階へ上がろ、コレ姐さん、私らは二階で寝る、お前らは勝手知らんのに、火を持って上がったら火の用心が悪い、マア今晩は手足のばしてゆっくり寝なされ、コレ婆さん、早よお二階へ上がろ、先に上がるぜ、ゴツン、アア痛やの」 「老爺どん、どうしたのや」 「ウン、勝手は知っていても二階の梁《はり》が低いもんやさかいに、頭を打ったのや。お前も打たんように上がらんせ」 「時に老爺どん、二階は寒いな」 「婆さん、どうしたのや」 「老爺どん、えらいことした」 「どうしたのや」 「用便がしとうなった」 「なぜ下でしておかぬのや」 「下でしとなかったが、二階へ上がってからしとうなった」 「エイ、若い者が寝ているのに、年寄りが二階から降りたり上がったりするといやがる、暗がりやでそこらでしておきなされ」  さてその夜は餅むしろに巻かれて寝ましたが、ナカナカ寒うて寝られません。夜の明けるのを待ち焦がれて下へ降りて来ましたが、二人は煤煙で顔が真っ黒けでござります。  さて、こうしてついに見なれぬ女が、出入りして近所で妙なうわさが立ってはならぬと、この事情を家主へも、長屋へもくわしく話をしますと、家主さんはなかなか親切な人で、 「これ安平さん、いま話を聞いて喜んでいるのや、常からお前は正直なゆえに、あんな好い息子さんが出来、またその上にそんな綺麓な嫁さんが来るというのは、正直の頭に神宿るということや。しかしこんな裏長屋にいつまでも暮らしていては頭が上がらん、千円を資本《もとで》にして表へ出て商売をしなされ。夜泣きのうどんやでは金が上がらん、というのが売る物がうどん、そばにきつねなんば、きつね、こんな物では駄目や。内店《うちみせ》を出すと、かやく物が売れるので、どこか好い家を捜して、イヤ私の方は借家のことやから長くいてほしいが、金のあるうちにせねば駄目やで」 「何をおっしゃる、わずかの資本で」 「コレ安平さん、足らんとこは何とかまた融通をしてあげる、とにかく家を探しに行こう」  と家主さんも世話好きで、二人を連れて道頓堀をあちらこららと探しましたところ、格好な家がありましたので、それを借り受け、手伝いや大工を入れて普請をすることになりました。 「コレ安平さん、えらかったやろ」 「どういたしまして、お家主さんにご足労を掛けまして」 「イヤイヤ、しかしあの調子やったら、近々に開店が出来るじゃろう。しかし今度の商売は当たるで、というのは今まではえらい失礼やが、夜泣きのうどんやで売る物がしれているが、内店を出すと、かやく物が売れる、そのかやく物がみな家の人で出来ているのがおかしいな、しっぽくのことをきやという、お前とこの苗字が木谷じゃ、あんぺいのことを安平という、お前の名が安平じゃ、小田巻のことを巻という、ソレ嫁さんがおまきさんや、蕎麦のことをしまという、息子さんが島さんや、あんかけのことを吉野という、こんど来た嫁さんが吉野さん、ソレから今いうたきつねなんば、きつねのことを信田という。そこでや、はじめから派手なことをしてすぐに失敗したらみっともないさかいに、はじめのうちはえらかろが、うどんやそばを打ったりは安平さんお前さんがして、出前は島さんが持て行くようにして、帳場へはおまきさんを座らして、若い男の一人も置いたら回って行ける。またお客さんがつかえて来たら吉野さんにも持ち運びを」 「何をおっしゃることやら、昨日今日まで勤めをした者に、うどんのお給仕が」 「イエお父さん、今までの勤めのことを思えば、うどんのお給仕ぐらいなんでもないことで」 「ソレ見なされ、今の若い者の方がなかなか勉強家じゃ、しかし資本は吉野さんが持て来たのやから、すべてを吉野としようか」  と暖簾《のれん》、行灯《あんどん》、法被《はっぴ》、出前箱にいたるまで吉野としてあつらえました。そのうちに普請も出来上がりまして、吉日を選び開店いたしましたが、出せば買うの世の中、開店早々大繁昌、お客が押しかけます。 「うどん一膳おくれ」 「ヘイ、う一ッ膳……」 「オオ来た来た、早いナア、早いが御馳走や、なかなかだしがええナ」 「オイ小田巻一膳おくれ」 「きや一膳、アアちょっと待っとくなはれ、間違いました、アノ小田巻というたら巻だんなア、アノきやが巻にかわって」  中には間違うのが面白いというて食いに来る人がある。  また、もう一膳、いうたらあの別嬪が持て来るかしらんちゅうて、うどんの鉢を十五、六杯も積んでるお客もあります。  日増しに繁昌しています。光陰矢の如し、月日に関守《せきもり》なく、ここに三カ年の星霜《せいそう》を経ました。  島三郎は以前を忘れぬように、やっぱり法被姿で出前を持って行く途中、以前遊びに行っていたお茶屋の女将さんにべったり出会いました。 「アアそこへおいでになるのは、島坊んやおまへんか、ちょっと島坊ん」 「おお姐貴か」 「マア島坊ん、御機嫌さん、永いこと逢いまへんな、マアお達者で、こないだ竹内さんに逢いまして、あんたのことをお尋ねしましたら、どこやらへご養子に行てござるということやけども、お所が分からんというてはりました、おかわりがのうて結構でおますな」 「いつから逢わんねんな」 「それ大和巡りして帰ってから逢いまへんのだす」 「そやそや、面白かったな」 「早いもんだんな、もう三年になりまっせ、それ奈良の元林院で流連《りゅうれん》の時に、毎日毎日雪に降られて仕方がないので、野施行に行きましたな」 「そうそう狐の面をかぶって、白のシャツとバッチで」 「赤飯の握り飯と油揚げを持って」 「寒かったな」 「そうそう、あんまり寒いので、みんなそこへ一緒に捨てておいて帰りましたな、皆が寄るとあの時の話が出ますね、今日も吉野はんとあの話をしてましたのや」 「貴女、吉野に逢うか」 「ヘエ毎日逢いますねで」 「アアそうか、あれは一月やったなア……一、二、三と、四月から家へ来てくれてるのや」 「だれが」 「吉野が」 「マア嘘ばっかり、吉野はんはまだ働いていはります」 「二代目の吉野か」 「イエ大和巡りした吉野はんが」 「うそ、家へ来ているがな」 「あんなことを。今日も吉野はんと旦那はんと私と、三人連れで芝居見物に来ましたのや、ちょっと幕間に買い物に出ましたのやがな」 「エへ吉野が、芝居へ来ている、それほんまか」 「アノ妙な顔してなさること、そないに疑いなはるのやったら、逢うてやったら、分かるやおまへんか」 「オオ逢わしてくれるか」 「しかし、じかにはいきまへんね。コレが悋気《りんき》深いよって、戸屋《とや》口からのぞいて見たらわかるやおまへんか」 「そんなら連れて行て」 「はア、よろしおます……芝居へおはいり。ここからのぞいてごらん、それ向こうにいやはりますやろ、髭の生えた紋付の羽織を着てはる人と」 「ほんに、あれは吉野や……」 「それ見なはれ」 「ほんまに吉野……動いている」 「ソリャ生きていやはりますもの」 「いずれそのうちに行て話しする、さいなら」 「ちょっと若旦那、お所は」  と言うているうちに島三郎は家へ帰りますと、お客は満員。 「オイ巻二膳してんか」 「巻二膳」 「アアちょっと待って、何や、玉子を絶っている、ええやないか、何、いかんて、そんなら何を食うのや、きつね、もっさりしているなア、巻はいかんね、きつねと替えてんか」 「巻が信田にかわって」 「やっぱり吉野に違いないがな」  とそのままそばへつかつかと、吉野のたぶさをつかんで前へ引き寄せます。 「コレコレ島三郎、お前なんちゅうことをするのや、吉野になんの罪があって」 「イーエお母さん、あんたは何もご存じおまへん、コレ、お前はどこの人じゃ、いえ、言わんと痛い目をせにゃならんぞ」  と五ツ六ツ手荒らに打擲《ちょうちゃく》しました。 「ハヘ、申します、申します(鳴物)……頃は一昨年一月、寒風はげしく降り積もる、ゆききの人も絶え絶えに、まんも拍子も足曳《あしひき》の、大和の国は奈良町の、片ほとりなる野辺に住む、無官の狐、親子五匹が困難の折柄、あなた様の野施行、御身も寒さを耐え兼ね、いっそここへとあるだけを、置いて賜る有難さ、お恵みのあずきめし、油揚げもろとも頂戴し、親子五匹が糊口《ここう》をしのぎ、この後は守護し奉らんと、お行方を尋ぬれば、実父のもとを追い出され、今はご流浪の御身とうけたまわり、仮に吉野の君の姿を借り、資本をご用だてしも、畜生ながらも恩義を忘れぬ、大和魂かく物語る上からは、われは古巣へ立ち帰らん、姿はたちまちこれ御覧……」 「アア……今のいままで、木原の遊女と思ていたが、吉野が信田にかわって」 [#改ページ] 夢見八兵衛《ゆめみはちべえ》 「こんにちは、どうだす、近ごろ寝ていて食われるというようなぼろ口はおまへんか」 「なんじゃ、来る早々出し抜けに、寝て、食われる口……無いともいえんなア、まず丹波の山奥へでも行きいなア」 「食われますか」 「そうやなア、弁当でも持って出掛けるのや、弁当があいたら空の弁当箱枕にして寝ていなア」 「ヘイ、食われますかいな」 「そしたら狼が出て来てすぐ食ってくれるわ」 「ヒヤア、そら狼に食われるのや」 「そや、寝てて食われろのや」 「ウダウダと、それでは腹がふくれへん」 「狼の方でふくれるがな」 「そんなジャラジャラした、そうやない、寝ててこっちが食えるというようなことを聞いてまんねんで」 「このせちがらい時節に、そんなぼろいことがあってたまるもんか、稼いだ上にも稼がないかん世の中、稼ぐに追いつく貧乏なしと昔からいう通り、お前も、のらのらしてずに働かないかん、相変わらずのらのらしているのやろ」 「そのくせ働いてまんねで」 「フン、でこの頃は何してるねん」 「ちょっと教えてもろうて、爪楊子《つまようじ》削りを」 「なに、爪揚子削り、フフフ、爪楊子削りなんてどうせ資本《もと》の細い商売じゃろ」 「何いうてなはんね、元の太い、先の細いもんだんが」 「イヤ、そうやない、資本が細かろというのや」 「元が細かったら問屋が取ってくれまへん、元は太うて先になるほど細めて」 「分からんなア、私のいう元とは元値、つまり早う言うとあまり儲けがなかろうということや」 「ヘー、それなら百本削って三厘」 「心細いなア、一日何本ほど出来るね」 「私でも商売となると勉強しまっせ、朝は早起き夜は夜なべ」 「なるほどなア、職欲という奴やな、それで一日何本削れるねん」 「一生懸命きばって三百本」 「そんなことでは飯どころか、茶も満足に飲めんやないか」 「茶どころか水が危ないくらいだす、そやさかいにあんたのとこへ、何ぞぼろ口と思うて相談に来たんや」 「ずいぶん呑気な男やなア、だいたい今まで何してたんや。他におぼえの仕事でもないのか、お前だけ喋れる口があったら太鼓持ちでもしたらどうや」 「太鼓持ちしましたが、ずいぶんえらい商売だっせ」 「楽なと思うていたがえらいか」 「ヘエ、夏はさのみえらいことはないが、冬の風の吹く晩はたまりまへん」 「何でや」 「手が冷えて太鼓のばちが持っていられまへん」 「コレちょっと待ち、そらお前のいうてるのは夜番と違うか」 「昔はこれでも夜番してたんです、夜番でもちょっと売った男です」 「そうか、こりゃ初耳や、夜番てよほどやったんか」 「夜番夜番とあまり見下げてもらいますまい、夜番にはみな持ち場持ち場がありますねん、第一、年に一度の大会がありますねんで」 「いや見下げるということはないが、その大会というと、どんなことをやるねん」 「毎年集まる場所がきまってまんねん。たいてい順慶町の天狗です、皆くじ引きで順番を取りきめて一人一人が舞台へ上がってやりまんねん」 「フーン、舞台まで造るのか」 「舞台の書き割りが嬉しい、もっとも町遠見に番小屋の書き割り、上手《かみて》に用水桶、中央に柳の木の植え込み、前が溝石、犬が一匹寝てます」 「咄《はなし》が細かいなア」 「第一番に上がったのが安堂寺橋の久七です、ホイ入りの初夜を打ちやがんねん」 「何じゃ、そのホイ入りの初夜というのは」 「五ツ打つ太鼓を四ツ打ち、掛け声を入れて五ツに聞かすんです。ドンドンホイドンドン、とな」 「太鼓の音ならやっぱり四ツやないか」 「それがその男が打つと五ツに聞こえまんねん」 「手に入ったものは、なんでもおそろしいもんやなア」 「次の男が柝《き》です」 「拍子木くらい誰でも打てるやないか」 「モシ甚兵衛はん、自分らの家の火の用心まわりと違いまっせ、しかも寒中、北風の吹きすさぶ中を風にむこうて声が消えぬように、というて夜大声で寝てる人を起こしてはあかん、寝ながら夢のようにうつうつと、回りの声を家々へ呼び掛けて行くのがなかなかむずかしいもんだす、火の回りや火の……火のもと……用心……ましょう」 「そんなおかしな顔をするな、なんやそんな大きな口を開けて」 「火の回り中に北風を食いちぎりながら行くとこです、火の……」 「もう分かった、分かった」 「次の男が金棒、金棒でもなかなか引き方のあるもんで、高すぎて悪し、というて低すぎるとならず、なかなかむずかしいもんだす、シャシャシャンシャンシャン、チャブ、ポソソ……」 「何じゃ、それは」 「シャシャシャンと金棒の音です」 「そのシャシャシャンは分かってるが、後のポソソやのチャブというのは」 「これはチャブと溝の中へはまった音で、ポソソは牛のわらじを引っ掛けた音だす」 「先にそれを言うとけ、ややこしいがな」 「いろいろとあって最後に私の番だす」 「ハハア、お前が切り席やなア」 「何や知らんがくじの都合で一番ベベたや、サア自分の番が来たと思うと胸がドキドキして、ひょいと舞台へ上がるなり目がクラクラクラとなって、頭がジャンジャンジャン、わきの下からちめたい汗がタラタラタラと流れて来ますねんがな」 「それは場うて〔気おくれ〕とかなんとかいうやつじゃがなア」 「ヘイ、胸がドンドン、頭がジャンジャン、汗がタラタタ、ドンドンジャンジャンタラタタ」 「コレ、楽隊やがなア」 「ぽーとしてると、前のお客さんの方から、八兵衛待ってましたと贔屓《ひいき》の旦那の掛け声にふっと気がつきました」 「フン、そりゃ結構ちょうどええがな」 「それがさにあらず」 「何じゃ、さにあらずなんて」 「夢中で舞台へ立ってる間はよかったけど、気がついたら何かやらんならん、前の晩から考えておいたことをフトど忘れしてしもた、さあえらいこっちゃ、考え出そうとあせるとなお思い出せまへん、困っていると、八兵衛シッカリやれと二度目の掛け声で思いついたのが文句入りの夜中〔真夜中の十二時、九ツ〕、どうです太閤はんはだしの知恵をしぼって」 「ぎょうさんにいうな、その文句入りの夜中というのは何や」 「エソエエソエエソシモサカ、ヤレコノホイト、ホイト、どうです」 「そら何のことや」 「文句がきっちり九ツの太鼓に合いますねんがなア、エソエエソエエソシモサカ、ヤレコノホイト、ホイト」 「そう火鉢の台輪を火箸《ひばし》で殴ったらどむならん、しかしうっかり聞いていたが、えらい面白いなア、うまいこと合うやないか」 「さあ大当たり、八兵衛えらいぞというので、御祝儀を頂く、盃がふる、あちらからも八兵衛、こちらでも八兵衛とな」 「たいしたもんやなア、上出来やがなア」 「ところでよいことは二ツない、金の玉は三ツないというてまんが、満つれば欠くる世のならい」 「折々変なことをいうのやなア」 「その日は無事目出とう済みましたが、済まぬのは隣町の奴らです、早速あくる朝早くからやって来て、オイ八兵衛えらい人気やな、お前は結構やが、わしらの方はあがったりや、すまんけどわしらにゆずってくれといいますよって、私もせっかく売り出したんやからせめて一年だけでも辛抱してくれというたら、そうかゆずれぬなら仕方がない、お前がその気ならこちらにも考えがあると言うて帰った、その晩何の気もつかずに太鼓を持って表へ出て、ドンと打つと隣町の方からドンドンドンと打つ、またドンと打つと向こうの町からドドンドンとやる、それに気を取られて、いくつ打ったか忘れてしもた、翌朝、町内のお年寄りに呼ばれて、八兵衛お前|時刻《とき》を知らせに歩くのか、それとも間違わせに歩くのかとえらいお小言、平謝《ひらあやま》りに謝って、その晩は心を落ち着け今晩は間違いのないよう胸で勘定してよう、太鼓を耳のそばへ寄せてドン、これで一ツと勘定してました」 「なるほどそれなら大丈夫や」 「それがドンと打つと太鼓がその晩にかぎってウンとうなりまんねん」 「何でや」 「私も不思議に思うてドンと打つとやっぱりウンとうなる、しかし太鼓は前でたたくのに、うなりが後ろで聞こえるのでおかしいなアと後ろを見ると、横町のかまぼこ屋の赤犬め、私の後ろでウンと歯をむいてよる」 「犬にほえられてるねやがな」 「腹が立ったなア、隣町の若い奴ばかりか犬まで馬鹿にさらすと思うて、犬の方へ太鼓をむけて、ドドンドンドンと打つと、犬の奴がびっくりしてウムグウグウグウ、ドドンドンドン、グウグウと逃げるのが、面白さに太鼓を鳴らして追い回し一町内くるっと回って来ると、町内では提灯をつけ人が大勢表へ出ています、私を見ると町内の衆が、八兵衛アカはどこじゃと聞かれたが、面目ないが夜番していて火事のことをアカというのをうっかりしていて、ヘイ赤は横町のかまばこ屋です、つい犬のことを言うてしもうたら、皆で行け行け行けと、気の毒なのはかまぼこ屋、水をかけるやら屋根をめくるやらメチャメチャ、お年寄りに大叱られ、八兵衛、人の家の番をしてるのか騒がしてるのかわからん、昨晩といい今晩といいもう町内に置くことは出来ぬから出て行きなはれとな、私町内をほり出されましては食うことが出来ません、これから気をつけますからなにとぞもう一度許していただきたいと頼んだら、仕方がない、今一度大目に見るから気をつけなさい、しかしモウ太鼓は駄目じゃから柝《き》に回りなさい、そんなら辛抱しようと、太鼓は楽やが、柝のえらいこと」 「何じゃ、その柝というたら」 「太鼓は時刻を知らすのやよって時々に起きて回ればよいのですけど、柝というたら番小屋で寝ずの番です、一人通行があればチョンと柝を打つ、二人通ったらチョンチョンと二ツ打つのだす」 「それなら楽なことやないか」 「ところが私は寝んということがまことに辛《つら》い。すぐ居眠りが出ますねん、眠るのが私の病ですわ」 「オイ、夜番していて居眠りする奴があるもんか」 「ある晩、町内の十一屋の御隠居、おそく帰ってきて、八兵衛どん、御苦労さん、只今帰りましたで、居眠っていたので慌てて、お帰りというと、お帰りやない柝を打ちなさい、ヘイと柝を合わしたらぼそ……。八兵衛どん打たんかいな、打っておりまんねん、ぼそ……何度打っても、ぼそぼそぼそ」 「そのぼそぼそぼそて何や」 「私もなんで今夜にかぎって柝が鳴らんのかしらんとよく見ると、音が悪いはず、寒天に墨をぬったやつで、私の寝てる間に柝と寒天とすりかえたらしい」 「馬鹿やなア、なんの寒天が鳴るもんかいなア」 「私もあんじょう見て初めてカンテンがいた」 「洒落どころやないで」 「如才のうお年寄りに叱られました、自分の持ち物まで盗まれて気のつかぬようでは他人の家は守れん、しっかりせえとな」 「あたりまえや」 「翌晩はなんでも居眠りせんよう、誰か来たらこっらから驚かしてやろうと、宵から顔へ鍋墨《なべずみ》をぬりつけて待ちかまえてましたら、コトコトコトと足音が来たなと思うと、こっちの起きているのに心づくとコトコトコトと帰る、しばらくするとまた来る、よしと思うとまた帰る、夜通しくり返している間についウツウツと」 「また寝たのか」 「ハッと気がついてみると、チョロチョロチョロと前に水が流れてる」 「どうしたのや」 「サアしもた、こりや寝てる間に津波が来て番小屋を流されたなと思うて、慌てて飛び出すと、まあ落ち着きなはれ」 「己れが落ち着け」 「寝てる間に番小屋を農人橋の上へ引っ張って来やがったらしい」 「よう寝たもんやなア」 「お年寄りに気づかれぬうちにと番小屋をかついで戻ろうとすると、大勢の子供が来て笑いやがる、考えてみると宵にぬった鍋墨で顔は真っ黒、町内のお年寄りによばれて」 「不細工な男やなア、お年寄りに呼ばれどおしやが」 「八兵衛、自分の家が動くのを知らんようでは心細い、今一度だけ辛抱しようが、再度ちょっとでも粗相《そそう》があったらもう町内に置くことが出来ん、そのつもりでいなさいよ、承知しましたと帰りかけると、八兵衛、お前そんなにチョイチョイ居眠りするというが夢を見やせんか、ヘイ夢を見ますというたら、ひょっとよい夢を見たらいうて来い、私はこのごろ夢判断をしているから、よい夢なら買うてやる、コリャ有難いとその翌朝早速出掛けました、そして一富士二鷹三茄子の夢を見ましたというて行った」 「またえらいええ夢を見たんやなア」 「別に見たんやないけれど、金儲けにそういうて行ったのや、お年寄りはこれはまたとない良い夢じゃ、それ一歩で買うてやろと一歩もろた」 「金儲けに抜け目のない男や」 「一歩もろて帰ろう思うと、八兵衛、夢は上夢じゃが、今頃そんなこというて来るようでは昨晩もろくに番は出来てないらしい、他から苦情はまだ聞かぬが、丁度幸い、その一歩を涙金として今から町内を去ってもらおう、とうとうほり出されましたが、アアあんな夢を言うて行かねばよかったと思い、アアあの夢がたたったのかと夢のことが心に掛かり、それからというものは起きていてさえ夢を見ます、表を歩いていても夢を見る、朝飯食うていても夢を見る、最前からあんたと話しながらもちょっと七ツ八ツ夢を見ましたぜ」 「気持ちの悪い男やなア、そういうと、このごろ人がお前のことを夢見の八兵衛とかなんとかいうがそれで分かった、丁度よい金儲けがあるが行くか」 「金儲けと聞いたら聞きのがせん、行きますとも、どんな口だす」 「別に難しい仕事やない、家の番に行くのや、それも一日だけでええ、相当の礼金もする、つまりつりの番や」 「結構、つまり留守番だすな、私も釣りはすきだす、今から行きまひょか」 「イヤ夕方からでよいから、お前またねむいといかん、たった一晩のことやで寝んように、これから夕方までゆっくり昼寝しておいて、なるだけゆっくり出掛けて来たらええ、ちゃんとこしらえはこっちでしておくさかい」 「そんなら頼みまっせ、夜釣りだんな、面白いなア」 「頼むのはこっちや、よう寝といてや」  ……夕方早くから出掛けて来て、 「ボチボチ行きまひょうか」 「まだちょっと早いけどまア出掛けよう」 「遠方ですか、どの辺へ釣りに行ったんやろ」 「ついこの横町じゃ、うちの借家じゃ」  横町へ回りますと、一間半以上もあろかと思われる間口の広い路地で、片側の前が便所、家が四軒ほどある長屋で、突き当たりには大きな植木が一本デンと植わってある。一番戸口、初めの家が差配人《さはいにん》の家らしく、主人は不在らしいがお内儀《かみ》さんが台所片付けの最中。 「お咲さん、居なさるか」 「お家主さんですか、まアまアお待ち致しておりました。先程、お使い有難う、ちゃんとこしらえはしておきましたが、何しろまだ検死がすまんあのまま、隣もいややから引っ越すなんていうてますし、奥の家でも今夜は帰らんというて夫婦で出掛けますし……」 「いろいろとお世話さん、何というても他のことと違うて、あんな、ソレつりやろ、来手がないので困った、幸いこの男が番してくれるので今晩は安心しておくれ」  これだけ聞いたら大体はわかるはずやが、そこが変わり者の八兵衛、このはなし横で聞いていて感心して独り言。 「よっぽど釣りが好きやなア」 「あんた御苦労さんです、うっかりしていました」 「まアよい、この男にその切り溜めを渡して、さア八さん、行こう」 「まだ先だっか」 「一番奥の家や、サアここや、開けて入り」 「ハハ、閉まってまっせ、留守だっせ」 「留守やから番に来たのやが」 「なるほど、マア甚兵衛はん、お入り」 「何を言いやがるのじゃ、どっちみち入らな番が出来へんがな、サア入り」 「ヘイ今日は」 「阿呆、誰も居えへん、留守やないか」 「ソウソウ、内らは真っ暗だすな、戸を一枚開けまひょうか」 「イヤ、もう日暮れやからすぐ閉めんならんさかい、ええ」 「アアここの家、畳がおまへんなア」 「上へ上がる前に庭のすみに筵《むjしろ》が一枚ある、それを取って上へ敷きなはれ」 「これでよろしおまっか」 「それからここに米箱の空《から》があるからその上へ置き」 「ここら辺ですか」 「よしよし、それからこの土器《かわらけ》に火をつけてその箱の上に置いて、それから表の家から持て来た物をその上へならべるのや」 「これは何だす、えらい温《ぬく》おますなア」 「それはお前が夜中に腹が減ると困るし、退屈せぬように握り飯と煮しめやがな」 「では私がよばれますのか、頂きます」 「オイオイ食い意地が張ってるなア、そこへ坐り込むまでに、庭のすみにある割り木を二本取って来なはれ」 「ヘイ、これですか」 「どれでもええ、お前が持つのに手頃なやつをよっておいで、それそれ、そしてその割り木で一ペん床板をたたいてみなはれ」 「これでたたけてだすか、どうたたくのだす」 「どうたたくというたて、お前も前は夜番をしていて、太鼓の一つもたたいた覚えがあるやろう」  パンパン、スパパンパン、スパラパンのパンパンスパパン、パン。 「これでどうです」 「なかなか上手い、節がついて面白い」 「上手やなんておだてて、左の手があいてまんがな」 「腹が減ったら左手で食べたらええのや、それから今日の日当少ないけれど入れておくさかい」 「これはごきんとうに、有難う、急いで来たので夕飯食わずだんね、ちょっと失礼します、これはなかなかうまい、急ぐ時には熱飯《あつめし》を握るには醤油にかぎりますとなア、なかなか塩加減が上等、表のお咲さん上手だんなア、米が上等やから石が多い、うっかり石を噛んだ、そのかわり煮しめにコンニャク、金玉の砂おろしか、なかなかお咲さん気が利いてるがな」  パンパンパンパパパンパン。 「これは一体何だんねんなア」 「今頃気がついたのか、今日のはなしでお前はよう寝るということやさかい、寝られたら困る、寝んようにそうして床板をなぐらしておくのや」 「アアさよか、こら寝られんわ、大丈夫だすわ、自分でもやかましゅうて寝られん、第一腹が空いたらこれを食べて、これでねむとうなったらあんたと話しまんがな」 「オイなに言うのや、わしと話しする、わしがいるくらいならお前に金出して頼むかいな」 「甚兵衛はんはお帰りですか、アアさよか、けどまア宵の内ぐらいよろしおまんがな、まアお上がり」 「なに言いくさるね、わしもいろいろと他に用事がある、また来られたら後で来てやるから、寝んように番するのやあで、どっちみち朝は早く迎いに来るけれど」 「甚兵衛はん、まアよろしいがな、アアもう表へ出なはったのか、モーシ甚兵衛はん」 「やかましいな、表から掛け金をかけておいてあげるからな」 「そんなことしたら便所に困りますがな」 「やりたかったらその庭のすみででもしときいなア」 「犬か猫やが、モシ甚兵衛はん」 「さあこうなったら言うておくが、お前の目の先の奥の間に、取り合い筵《むしろ》が一枚吊ってあるやろ」 「筵……ヘイおます、おます」 「それさえ間違いのないように朝まで番をしていたらよいのや、ええか頼んだぜ」 「甚兵衛はん、モーシ甚兵衛はん……筵というて、そんな殺生な、それならそれと最初に」  パパンパパンパンパン、 「誰や居なはるな、モーシあんたも番に頼まれて来なはったのか……こっちへお出でやす……賑やかになってよろしいが……上に頭があってこれが足で……ヒヤー長い人や、甚兵衛はん、甚兵衛」  パンパンパンパン。 「誰や居ててて……居ててだすせ」  八兵衛は夢中でパンパパンパンパパン。  せいでもよいのに、こわい物見たしのたとえ。手をのばすとちょうど割り木が筵の裾《すそ》へ届くのでちょいと下から二、三度いじると、落ちよう落ちようとしていた筵ですから、フワリととれると、この家に住んでいたやもめ、はりに細引きを掛けてふらりと下がる。松鶴《わたくし》はこの話が嫌い。  というのは、師匠が、お前はつり前がよい、とほめられましたが、色消しで……、青洟《あおばな》をたらして……。首くくりというから締めるのかと思うたらそうでない、紐が耳を越していたらよいのやそうで、下から足がちょっとでも離れて喉仏さえ押さえれば大丈夫、やり損じがないと、私の心安い首つりの話で、イヤ心安い首つりてございませんが、ともかく八兵衛、びっくりしよった。 「ヒャー、首つりやがなア、甚兵衛はん……吊ってるねやがな、吊ってるねやがな、首つりならそうというてくれたら、こら、ちと安いで、甚兵衛はん、ええ甚兵衛、コラ甚兵衛」  パンパンパパンパンパンパンパパンパン。  宵の口はそうでもないが、夜が更けるにつれて近辺が静かになる、自分がたたいてる割り木の音が響いてこだまするのが、なんじゃ気味悪い音がする。風が吹いて前の榎《えのき》に当たるとザアーとすごい、細いとこ吹く風はピューとうなって、これが破れ障子に当たると障子が江戸弁をつこうて、ペロペロナンダベラボ。  まさかなんだとはいいませんが、近所の風呂屋のしまい湯が大水道へ流す音、ザアー……。これが小溝に伝うと一層すごく聞こえてチョロチョロチョロ。  八兵衛も宵と違うてすこしだれて来た、手もだるなるし声も出んようになる。 「ウフフフフウ……甚兵衛はんいうたら」  時刻はちょうど丑満頃、家の棟も三寸下がろか水の流れもひとやすみ 、草木もしばし眠る丑満頃とは今の二時過ぎ頃、屋根の上をあるく猫の足音でも一通りやない、ひどく聞こえる、ミシミシミシと。  もっとも猫でも今頃になると腹が空くとみえてメシメシメシと飯を呼んで歩くのでしょ。尾が二股三毛の猫は、えてして化けるなんて昔からよういいますが、ひょうしの悪い、古くからここに住む飼い主のわからん三毛猫で、しかも尾が二つに割れてる奴、この時、屋根上を歩いていたが、なんじゃパンパンと音がするので、天窓から首つりの肩越しにじっとのぞきよると、この有様に猫めハハン今夜の番人は大分こわがりじゃなアとまさか口へは出しませんが思うたに違いない、首つり目掛けて毒気を吹き込みよった。 「ニャン、ニャン、ニャーンゴ、オワーゴウーオウガーオーフー」 「フアーどなたや呼んでだすぜ……。お直はんて居ててですか……甚兵衛はん」 「オガオーオガフフフ……」  と毒気を吹き込むと首つりがぼちぼち動き出した。 「番の……番の……」 「ヒャー、甚兵衛はん、首つりが物言うがなア、モシ甚兵衛はん、甚兵衛」 「今夜は賑やかでええなア」 「アハハハア……どうぞ黙ってとくなはれ」 「そんなら黙っているよって、伊勢音頭を唄うてくれ」 「伊勢音頭、そんなことやられへんがなア」 「唄わなそこへ行くぞ」 「唄います、唄います、唄いますよってじっとしてとくなはれ、難儀やなア ♪アーアヨーオオイナアエ、お伊勢七度、ヨイヨイ熊野へ三度……」 「ハハよいよい」 「ハハハア、言わんとおいとくなはれ、♪愛宕山《あたごやま》へはソレ月参り……」 「ヤトコセヨイヤナア……」  という拍子に体を振りよった。最前から切れよう切れようとしていた綱がプツと切れたからたまらん、前へどさんと落ちて来た。  八兵衛の奴、驚いたの候のと、ヒャーというなり、なに思うたかその死人を抱えるなり、こいつもそのままドスンと倒れた……翌朝……。 「お咲さん、お早う」 「お家主さん、お早う」 「昨晩はどうやった、別に変わったこともなかったか、気になっていたがよう見に来なんだのでなア」 「マア、何や知りまへんけど賑やかな人だんなア、甚兵衛はん、甚兵衛とやかましいこと、パンパンパンパンと音がしてましたで」 「そうじゃろ、実は寝んように床板を割り木でたたかしておいたんや、朝までたたいていたかいなア」 「イイエ、夜中に連れでも出来たのか女の名前、そうそうお直はんお直はんちゅうて、とても寝られまへなんだが、夜明け前からどうしたことか、えろう静かになりました」 「また寝てやがりやせんかなア……表から掛けておいたんでな……開けたが、真っ暗や、雨戸を一枚開けてんか」 「ヘイ……マア死人とならんで……」 「見てみい、呑気な奴やなア、死人を下ろして一緒に寝てけつかる、オイ八兵衛八兵衛、起きんかい、起きんかい」 「ヘーイ唄います、唄います ♪今はなア枯木にソレ花咲かす……」 「ア、チャンと伊勢参りの夢を見てよる」 [#改ページ] 龍宮界|龍《たつ》の都《みやこ》 ——別名 小倉船《こくらぶね》  へイ一席当年の干支《えと》にちなみましたお咄を申し上げます。  豊前の小倉の浜から乗り込みましたが、海上が穏やかで船中は種々様々な噂をしております。 「モシ皆さん、今日みたいな波の静かな日に乗り合わしましたのが、お互いの仕合わせだすな」 「さようさよう。しかしあんたはん、先刻船に乗る時に大きな荷物を積みなはったがあれは何だす」 「ヘエあれはフラスコと申しまして、ギヤマンでこしらえたもので形は瓶の大きなようなものだす」 「何をするものだすね」 「あのフラスコの中へ人が入りまして、ご馳走を入れて詰めをしますね、網をつけて海の中へ下ろしまして海中で魚の泳いでいるのを見ながら一杯飲みますねん」 「贅沢《ぜいたく》なことをしますねんな、あんたはんの御商売だすか」 「ヘエ長崎へ参りまして買うて来ましたんや、大阪へ持って帰りまんね」 「随分高価なもんだすやろうな、なんぼほど致します」 「千両だす」 「あれ一個が千両だっか、随分高価な物だすな」 「モシ大阪のお方はん」 「ヘエ何だす」 「そんな堅い話をせんとどうだす、退屈をせんようにここで当て物をしまひょうか」 「モシ当て物てなんだす」 「子供がよういうてまんがな、畑の中で蚊帳《かや》を釣って赤い顔をして寝てる物はなに、ほおずき、こんなことを言いまんね」 「アアさよか、私何も知りまへんねが、あんたいうとくなはれ」 「よろしい私がいいますが、あんたがその品物を当てなはったら褒美に私があんたに一文あげます、そのかわりにあんたが品物をよう当てなんだら私があんたから一文もらいまっせ」 「イヤよろしおます、あんた先に一ついうとくなはれ」 「そんなら私からいいます、いる時にいらん物でいらん時にいる物はなに」 「そらお銭《あし》だすやろう、いる時にいります、いらん時にいりまへん」 「違います、いる時にいらん物で、いらん時にいる物だす」 「えらいむつかしいもんだすなア、分かりまへん」 「分からなんだら一文もらいまっせ」 「品物はなんだす」 「風呂の蓋《ふた》だす、入る時いらいで入らん時に蓋が入用だす」 「アアさよか、そんならモウ一ぺんいうとくなはれ」 「そんなら今度は食う時食わん物で、食わん時に食う物、なに」 「コレハ分かってます、狼だすか」 「違います」 「そんなら何だす」 「分からなんだら一文おくんなはれ」 「品物は」 「魚釣りの弁当だす、魚が食う時は食えまへん、魚が食わん時に弁当を食います」 「なるほど、あんたはんなかなか上手だすな、こんどは十文賭けまひょう」 「モシ一文にしときなはれ」 「イヤ十文いきます、モウ一ぺんいうとくなはれ」 「そんならいいまっせ、身の丈が三尺ほどで目も鼻も口もなんにもないのに、足一本で世界中どこへでも行く物はなに」 「分かりまへん。約束どおり十文出します、品物はなんだすね」 「唐傘だす」 「なるほど、今度は百文いきます」 「とうない仰山になりましたな」 「ヘエ百文いきます、モウ一ぺんいうとくなはれ」 「よろしい、やっぱり丈が三尺ほどで色が青とも赤とも紫とも黒とも分からん、目もロもなんにものうてぬるぬるしてる物はなに」 「コレハ分かってます、鰻《うなぎ》だすやろ」 「鰻に三尺もある大きな鰻がおますか」 「そんなら鱧《はも》だっか」 「鱧には目もロもおますがな」 「そんなら蚯蚓《みみず》だっか」 「蚯蚓に三尺もあるのがおますかいな」 「大人国の蚯蚓」 「違います」 「そんなら何だす」 「分からなんだら百文もらいますせ」 「品物は」 「芋茎《ずいき》の腐ったんだす」 「アノ芋茎の腐ったん、アアさよか、今度は一両いきまひょう」 「一両は多い、百文にしときなはれ」 「イヤ一両いきます、今度は私にいわしとくなはれ」 「イヤよろしい、いうとくなはれ」 「ちょっとむつかしおまっせ、身の丈が一間ほどで四ツ足で尾があって、顔が長うて角が二本あって、鼻に鼻木というて籐《とう》の輪が入ってあって、シイー、というとモーウと鳴くもんなんだす」 「フム、分かってます、一両もらいます」 「モシ品物をいいなはれんか」 「そら牛だっしゃろうがな」 「モシ、分かりましたか、あんたえらいお方やな、今度は五両いきまひょう、モウ一ぺんいわしとくなはれ」 「イヤよろしい、いうとくなはれ」 「やっぱり丈が一間ほどで四ツ足だす、尾があって顔が長い、角がないかわりに耳が立ってます、ドウと追うと、ヒヒンと鳴くものなに」 「五両もらいますわ」 「モシ、銭を先に取らんと品物をいいなはらんか」 「分かってますがな、そら馬だすがな」 「本当に感心しました、馬だす、分かりますか」 「分かりまへいでかいな、鳴き声をいうたら子供でも知ってますがな」 「アアさよか、今度は十両いきまひょう、モウ一ぺんいわしとくなはれ」 「いうのはよろしいが、今度は鳴き声をいいなはんなや、お金をもらうのに、他の人にきまりが悪い、サアいうとくなはれ」 「いいまっせ、今度は丈が二丈五尺ほどで顔が四斗樽ほどあって、目が一ツで鼻がのうて、口が耳まで切れて牙があって角が一本生えていて、三本足で闇の晩にピョイピョイと飛んで歩いているもの何」 「今度はだいぶむつかしい、モウ一ペんいうとくなはれ」 「モウいえしまへんで、よう聞いてとくなはれや、丈は二丈五尺ほどで顔が四斗樽ほどあって目が一ツで鼻がのうて口が耳まで切れていて牙があって角が一本生えていて、三本足で闇の晩にピョイピョイと飛んで歩いているものなに」 「鳴き声は」 「あんた鳴き声をいうたらいかんといいなはった」 「えらいことをいうたなア、十両やで、コラ仕掛けの負けやがな、仕方がおまへん」 「分からなんだら十両もらいます」 「モシ品物は」 「品物は化物だす」 「化物や、モシ化物はあきまへん」 「なにッ化物があかん、よういうたなあ、お前、芋茎の腐ったんで銭を取ったやないか、コラよう聞けよ、私は大阪の人間じゃ、そんなことを知らんと思うているのか間抜けめ、モーや、ヒンというたらそれに乗りやがってここまで釣ってやったんじゃ、分からんのか、お前のような奴がこの船に乗ってやがるので、だんだんこの船が淋しゅうなるのじゃ、よう面を見覚えとけ、この後こんなことをしやがったら承知せんぞ、後学のために化物の鳴き声を教えといてやるぞ、カモカーと鳴くわい、金が欲しいのか、買い物の残りがここに小判で五十両あるね、拝んでおけ、ヒョットコめ、オイ船頭はん、小便はどこでするね」  と艫《とも》へ出て来て小便をしてますと、ドボン。 「何やドボンというたんは、しもうた、今見せた五十両海へ落とした、オイ船頭はん、済まんが船を止めてんか、えらいことをした、今見せた金子を海へ落としたんや」 「お客さん無茶なことをいいなはんな、こんなとこで船は止められやせんで」 「けども金子を落としたんや……」  船中は大騒ぎ、中に気の利いた男が帆綱《ほづな》を切りますと帆はくるくると下りました。 「船頭はん、あの金子がなければ大阪へ帰ることが出来ん、あの金子は主人の金子や、仕方がない、ここから海へはまって私は死んでしまう」 「ちょっと待ちなはれ」 「放して、殺しとくなはれ」 「マア待ちなはれというのに」 「イエどうあっても死にます」 「そんならどうでも死になはるか」 「ヘエ」 「そんなら死になはれ」 「そんなら待ちまひょうか」 「何を言うてなはるね、どなたか海へ入って取ってあげるお方はおまへんか」 「どこへ落としなはったんや、私が取ったげます」 「大きに有難うさんで、あっちだす」 「さよか、ここは真水だすか潮水だすか」 「海だすもん潮水にきまってます」 「そんならあきまへん、私は真水で稽古をしましたので潮水では泳げまへん」 「モシ、うだうだ言いなはんなや」 「モシ、さっきのフラスコで海の中へ入って取って来たらどうだす」 「それを忘れていましたんや」 「あんた入りなはれ、皆が手伝うて降ろしたげます」 「どうぞよろしゅうお頼み申します」  この男をフラスコの中へ入れまして詰めをして帆網で縛りまして、 「皆はん、相済みまへんが、手伝うて降してあげとくなはれ」 「イヤよろしい、やっとこせい」(唄・鳴り物) 「イヤ大きにはばかりさんだす、イヨー海の中というもんは気持ちのええもんやな、仰山魚が泳いでよるな、木の葉が散ってるようなあれは何や。ア鰈《かれい》か、赤いのんが鯛で、大きな坊主が来よった、小さい坊主の手を引いて、アア蛸《たこ》や、子供を連れて遊びに行きよるねな、ナンやいうてよる、ナ二あの瓶の中の人形を買うてくれ、阿呆いえ、人形やないわい、人間やぞ、シャイシャイ瓶に吸いついてよる、そんなことをいうていられん、金子があるかしらん、アアあるある、さすがは小判や、あそこに沈んだアる、あの横に長い物が光ってる、あれは何やいな、アア長刀《なぎなた》やで、銘が彫ってある、ナニ新中納言|平知盛《たいらのとももり》の所持、知盛の長刀やがな、ついでに拾うて帰《い》のう、アア手が出んがなアア……眼の前に落ちてありながら拾えんとは、宝の山に入りながら手を空しゅう帰るのか、イヤ残念な……」  と瓶の中で四股を踏みましたら瓶が岩に当たってピチンとひびが入って潮水が入って来ましたので、これは堪らんと腰の矢立てを抜いてバンバンと破ると、いくひろとも知れぬ海の底へ真っ逆様にドブン(鳴物)  ドンと落ち着きまして目を開きますと、空朦朧として、晴れ渡り、一天曇りし際《きわ》もなく、霞にそびえし龍門に、大龍王宮の額を上げ、右に紫雲の回廊あり、左に火焔の輪塔あり、珊瑚瑪瑙《さんごめのう》の鎮《しず》をつけ、七宝七重の玉垣、金銀きらめく庭の小砂。 「さては音に聞く龍宮界は龍の都よな」(鳴物)  門を八文字に開いて参りましたのが、乙姫様の腰元。頭は眼鏡のような髷《まげ》に結いまして、身には猩々緋《しょうじょうひ》の筒袖《つつそで》を着て、手には唐団扇の柄の長いのを持っております。大勢つらって出て参りました。 「ヤアヤア、それへ来給いしは丹後の国は与謝郡《よさのこおり》水江の里の浦島殿に侯わずや、乙姫様のお待兼ね、妾《わらわ》について来給え、来給え」 「アアモシ、私はそんな者と違います、いま船から金子を落として拾いに来ました者だす」 「アイヤお隠しあるな、かねてより見覚えおきし額《ひたい》の黒子《ほくろ》、妾についておじゃいのう」 「そんならそうしょうかいなア」  ずぼらな男でそのまま腰元について奥の間の乙姫さんの目通りへ出ました。  いろいろのご馳走を戴いております。  その後へ来ましたのが正真の浦島。  頭は弾き茶筅《ちゃせん》、身には熨斗目《のしめ》の着付けに腰|簑《みの》をつけまして片手に釣り竿、小脇に玉手箱を抱えて緑毛亀に乗りまして波を蹴立て沖を遥かにズウ……と(鳴物)。  ほんものの浦島が来たというので龍宮中は大騒ぎをしています。  男は乙姫さんから玉手箱をいただきまして裏の水門から逃がしてもらいましたが、あたりは一面に真っ赤いけ。 「とうない赤いとこやなア、アア分かった、さては音に聞く珊瑚珠《さんごじゅ》畑やなア(鳴物)……。大阪への土産に珊瑚珠を持って帰ったろ、一本三十両の値打ちはある、二本で六十両、三本で九十両、四本で百二十両、五本で珊瑚珠の百五十両や……」  洒落をいうておりますと、そこへ出て参りましたのが龍宮の代官で河豚腸蝶安《ふぐわたちょうあん》、頭に河豚を冠って手先を連れて参りました。  この手先が種々の魚を冠っております。  イワシにハゼ、コノシロ、サバ、アジ、キス、タコといろいろの魚がやって参りました。 「やあやあ者ども、参れ参れ……」 (義太夫)♪かかる処へ河豚腸蝶安、家来引き連れ出できたる…… 「ヤアヤア、にせ浦島、うぬが所持なす珊瑚珠、いざこざなしに渡せばよし、否じゃなんぞとぬかせば最期、からめ捕ろうや返答は、さあ、さあ、さあさあ、にせ浦島、返答はイヤなんとなんと」  ♪なんと、なんと詰め寄ったり、浦島フッと吹きいだし…… 「ウムフ、ヘーヘ、ウムフム、へへヘヘへへ、オオよいところへ河豚腸蝶安、うぬら一疋食い足らねど、この浦島が腕の細葱《ほそねぶか》、料理あんばい食らって見よやい」  ♪大手を拡げて身がまえたり……。 「それ者ども打って捕れい」 「ホウ……」(鳴物) 「イヤどっこいしょ」(立回り) 「これはとてもかなわん」  珊瑚珠を杖に逃げ出しまレた。 「これわいさのさ……」(鳴物) 「アアしんどやの、ここまで逃げて来たら大丈夫や」 「モシ、駕籠《かご》行きまひょうか」 「アアびっくりした、なんや駕籠屋か、龍宮にも駕籠があるのか」 「ヘエ海の底でも駕籠がおます」 「どこへでも行くか」 「ヘエ参ります、あんたどこだす」 「私は大阪やが、大阪ならどこが駅場《たてば》や」 「そうだんな、天王寺の亀の池か天保山だんな」 「天保山までなんぼで行くね」 「ヘエ天保山なら二|歩《ぶ》で行きまひょうか」 「天保山まで二歩とは安い、乗ってやろ、しかしお前の顔といい、頭の毛から身体中赤いが、お前はなんや」 「ヘエ海に住んでまんね、私は猩々《しょうじょう》だす」 「なんや猩々か、折角やがお前の駕籠には乗れん、酒手が高うつく」 [#改ページ] 寄合酒《よりあいざけ》  若い連中が七、八人も集まりますと、笑いがたくさんございまして、 「オイッ」 「ヤア、こないしてな、仲のええ友だちが顔をあわすてなことは滅多にないこっちゃ、どないや、久しぶりにこないして顔がそろうたんや、みなお互いに好きな連中ばっかりや、久しぶりにみなで一杯飲もうと思うねんが、どないや」 「ワァァ、けっこうやな、飲もう飲もう」 「飲むか。そっちはどないやな」 「賛成」 「賛成やて、えらそうに言うな。その次は……」 「しせん」 「何や、その≪しせん≫ていうの」 「こいつが三銭といいよったさかいにな、わい、一銭張り込んで四銭」 「そんな、おかしなこと言いな。その次は」 「同意ですゥ」 「同意ですゥやて、おさまっとるなァ。そっちは……」 「同じく」 「同じく……。ヤァけっこう、けっこう、飲む相談やったら、こないにしてすぐに相談はまとまる。しかし、言うとくで、きょうはこないして、われかおれかの友だちばっかりや、きょうはおれが一人で出しとこゥ、おれが一人でおごろうという人間は一人もいえへんで。きょうはひとつドタマ割りでいこうと思うねんがどないや」 「斧でか」 「そやないがな、斬り合いでいこうというのや」 「匕首《あいくち》持って……」 「まだ、あんなこと言うてるね。割り前やがな」 「えッ、ほたら、きょうは割り前か、オゥ」 「何じゃ、急に声の調子が変わったな。そうや、割り前や」 「一人前なんぼや」 「震うてるでェ、あの男。心配せんでもええ、われわれでちょっと一杯飲もうというのや。ぜいたくなこといえへん、ひとり前片手や。こんなもんでどないや」 「五百円か」 「こらッ、割り前で声震わしてるのと、五百円と相応《そうおう》するかい、桁《けた》が違う、桁が、もっとずーつと下やァ」 「五厘か」 「はり倒っせ、このがきは。間を飛ばすな、ひとり前五十銭や」 「あッ五十銭ていうたら、わずかやなァ」 「おう、えらいこと言うた、五十銭いうたら、わずかや」 「ちょっと、立て替えといて」 「あっさり言いやがったで。おいッ、その次、ちょっと五十銭出してもらおうか」 「えらいすんまへん、今日、うち出しなちょっと慌ててたんで、財布忘れてきたんや」 「こら言うたれん。だれしもあるこっちゃ。なあ、そんなら今日はおれが立て替えて出しとくさかい、今度、忘れんように持ってきてや。おいッ、そっちは……」 「財布、持ってきたでエ」 「すまんけど、ちょっと五十銭出してもらおうか」 「中の金忘れた」 「何にもならんがな。おいッ、その次は。……オイ、ちょっと見てみい、気がきいてるなあ、その次はというただけで、あと何にも言わんかてすぐに懐中へ手、突っ込んでくれよった。ちょっとあの男、見習いや。えらいすまんな」 「何が」 「いや、おまえ懐中に手突っ込んでるの、割り前の五十銭出してくれるのやろ」 「いいや」 「ほな、何で懐中に手エ突っ込んで…」 「飲む相談がまとまったさかいな、ぼちぼちパッチの紐をゆるめてる」 「気が早いなあ、そいで、五十銭はいな……」 「それはないわ」 「なかったら、あけへんがな、おいッ、そっち五十銭出してもらおうか」 「えらいすまんけど、ないわア」 「ないわ、て、ようそんなこと言うでェ、これはあかんあかん、とうてい銭のこというたかて相談はまとまりそうではないわ。というてやで、いったん飲もうと話がきまったのに、今さらやめるわけにいけへん、どないなとして飲もう……。あッ、こうしょう。ホナ今日はな、ひとつ持ち寄り散財ということにしようか。いや、何でもかまへんのや、お互いにうちへ帰ってな、うちにあるもの一品でも、二品でも、皆がお互いに持ち寄って、そいでそれであっさりと一杯飲もう」 「アア、そうか、何なと手回ししてくるわ」 「おゥ、またあの男、気が早いなァ。持ち寄り散財にしようというただけで、一番先、飛び出しよった。ほかの連中も早いこと行ってきてやァ」 「おうッ、早幕で酒のええやつ一升あまり手回ししてきた」 「ああ、お前がやっぱし一番先に飛び出しただけに、一番早いなァ。酒のええやつを一升あまり、あぁおおきに、はばかりさん。そいで、酒は酒屋から持ってくるかあ」 「いやいや、酒はおれがちゃんと持ってきた」 「お前が持ってきてくれた。あぁ、おおきにはばかりさん。そいで、どこにあるねん。えッ、おれの前へ置いたて……、ちょっと待ち、入ってくるなりおれの前へ桶を置いたと思うたが、何かい、この桶の中に入ったの、これ、酒か。ははぁ、ちょっとおまえ人間変わってるな。そやないかい、たいてい酒屋へ酒買いにいくというたらやで、一升徳利持って行くか、壜《びん》を持って買いに行くねんで。あんまりこの、桶持って酒買いに行く人間ないで」 「いや、それが桶やないと都合悪いんや。訳いわんと分からん。わいうちへ帰ってな何ぞないかいなと思うて、あっちこっちさがしたんや。何にもないんや。一升徳利の古いのンが出てきよって、ふッとええことを思いついたんでな、さっそくこの一升徳利、きれいに水で洗うて、ほいで底だけ金槌でうまいこと抜いてな、そいでこの桶の中へ入れて、ソウ、この横町に近眼の酒屋があるやろゥ、向こうのおやっさんの近眼ねろうて行ったわけや。『おいッ、おやっさん、一番ええ酒一升早幕で計ってんかぁ』とこない言ったったらな、向こうのおやっさん、『毎度おおきに、もし、よその店はネ、一升徳利に一升二合も三合も入る気づかいないのに、いちいち桝ではかるてな細かい商売の仕方しますけど、うちはそんなきたない商売はせいしまへん。お客さん、見てておくなはれや』勝手に勘定かきよってな、漏斗《じょうご》当ててじかに樽の飲み口キューッとひねって、ドッド、ドッド、ドッド、ドッド、ドッド、ドッド、ドドッ、計ってよるねん。かれこれ一升は入ったやろうなぁと思う時分に、わい横手から、おっさんに分からんようにな、徳利をそうっと持ち上げた。底が抜いてあるさかいに酒は桶へ、桶へ、桶へ、桶へ回りよる。一升二、三合も入った時分、相手はやっぱり商売人やァ、分かると見えるなァ、不思議そうな顔しやがってな、おれの顔と徳利と七三に見比べながらな、『お客さん、この徳利よう入る徳利でんなぁ』とこない言うとるさかい、『あぁ、おっさんそれでええ、それでええ、こぼれたらもったいない、ちょっとわいこれから横町へ買い物に行ってくるワ、銭は帰りしなに払うワ、その代わりな、おっさん、この徳利それまで預かっといてんか』というなりな、徳利シューツと持ち上げた。底が抜いてあるやろ、酒は全部桶へ残ったあるねん、からの徳利酒屋へ預けて、酒の入った桶持って帰った」 「ようそんなこと考えたでェ、ええッ、徳利を漏斗《じょうご》にして酒一升あまり持って帰ってきやがるねん、むちゃしやがるな」 「オゥーッ、こんな大きな鯛が一枚や」 「うわーツ、立派な鯛やなァ、高かったやろう」 「さぁ、高かったやろな」 「いや、高かったやろなぁて、お前、買うてきたのと違うのんかい」 「いや、わい、うちへ帰ろうと思うてな、そいで道歩いてたら、お前、魚屋が荷おろしてよそのうちへ入っていきよった。そこへ、どこの犬や知らんけど出てきてな、いきなりこの鯛くわえて東向いてパァーッと走りやがるねん。わい、すぐにうしろから追いかけていった。道なら二、三丁追いかけた時分にな、追いついたもんやさかい、ちょうど持ってる下駄を幸いに、犬の頭バンといってやったらな、その犬がワンていうてこの鯛はなしよった。犬の食わぬ鯛、皆で食おうか」 「ようそんなアホなこと言うてるでェ、犬の上前はねてきやがったんや」 「ウォーィ、こんな大きな太い鰹節《かつおぶし》が二本や」 「こらア、大きな鰹節やなァ、高かったやろ」 「そう、高かったやろな」 「あんなやつばっかりやで。どないしてん」 「いや、ふだんからなァ、鰹節屋のぼんぼんわいにようなついとんねん、わいの顔を見るなりな、『おっちゃん、遊びまひょうか』とこないに言いやがんね。ふッとええこと思いついたもんやさかい、『あぁ、ぼんぼん遊びまひょ、何して遊びまひょ。あッ、今日はひとつ、ぼんぼん、鬼ごとしまひょうか。ぼんぼん逃げなはれ、おっさん鬼になってあげますさかい。その代わり言うときまっせ、鬼に角がなかったら格好が悪いさかい、うちへ帰って鰹節の大きいやつ二本持っといなはれ』とこない言ったったらなァ、『よっしゃァ、すぐに取ってくるわァ』いうて、これ取ってきやがるねん。さっそく手拭いでな、顔のところにこうつけてな、『ぼんぼん、逃げる前に一ぺんよーう鬼の顔を見ときなはれや、ぼんぼん噛《か》もかァ』て目むいた。相手、子供やろ、『おっちゃん、こわい』こない言うとるねん、『ぼんぼん、噛もかァ』『おっちゃん、こわい』、これ五、六ペん言うといてな、最後に思いっ切り目エむいて、大きな声で、『ぼんぼん、噛もかァーツ』とこないに言ったったらなァ、『おっちやん、こわぁーい』いうて泣いてうちに飛んで帰りやがるねん。その間にそうーッと懐へ入れてきた。みんなで噛もうかァ」 「それは何をするねン、オイ、商売物の鰹節持ってきたりしたりなやァ、かわいそうに」 「オーィ、ちょっと、これそっちへ取ってもらおうか」 「ウワーッ、大きな棒鱈《ぼうだら》やなァ、なんぼやった」 「たらやァ」 「いや、鱈《たら》はわかった、値段がなんぼやったちゅうねン」 「品物が鱈で、値段もタラやァ」 「ややこしいな、どないしたんや」 「乾物屋の表通ったら、乾物屋のおっさん、一生懸命新聞読んどんねぇ。前の桶見たら、ぎょうさん棒鱈が浸けてあるねん、その中でな、こいつが一番大きそうなさかい、右の肩ヘポイッとかたげたってん、左の手で小さな棒鱈一本持ってな、『おっさん、この棒鱈はなんぼでおますいなァ』とこないに言うたらな、『あッ、その棒鱈一本三十五銭でんねん』とこないに言いよる。『何かァ、おっさん、お前のとこ、こんな小さな棒鱈三十五銭もとるの、大体、お前のとこ何でも高いで、きょう日もっと勉強せなあかんでェ。いま横町の公設市場でこんな大きなやつ二十八銭で買うてきたワ、もうちょっとまけときいなァ、えッ、まからんかァ、まからなどうもしょうがない。そならもう一本、横町の市場で買おう』というてな、小さいほうを返して大きいほうをかたげてきた」 「えらいやつがいとるなァ、棒鱈かたげて帰ってきよったで」 「オーッ、数の子が五合あまりや」 「これまた、五合あまりていうのはえらいおかしいやないか、数の子どないしてん」 「いや、こいつナ、棒鱈かたげとる間にナ、横で見たらお前、数の子が山のように積んである。持ってた風呂敷、その上へパーツと広げてナ、『おっさん、すまんけど、ちょっと早幕で小豆二升はかってんかァ』とこないに言うたったらナ、『お客さん、あんた慌て者でんなぁ、うちは乾物屋でっせ、小豆買いはるのやったら雑穀屋へ行きはるのと違いまんのんか、店まちがってはりまっせ』こないに言いよったさかいナ、『あッ、おっさん、慌て者やねン、わい。いや、おっさんの言うたとおり、店まちごうてえらいすまなんだ。気ィ悪うせんといてや、今度また入れ合わせさしてもらうさかい、えらい邪魔したな、さよなら』ていうなりナ、風呂敷をばグァーッと持ったら、数の子がぎょうさんついてきた」 「そんなものついてけェへん、ついてけェへん、ようそんなアホなこと言うで、ほんまに。風呂敷ぐち数の子つかんできやがったんや」 「オーィ、ちょっとあんた、手の……、手のすいたもんがい……、いてたら、ちょっと四、五人手エ借してんかァ」 「何を言うとるねン、四、五人手エ借してんかて、どないしてん」 「ネ……根深《ねぶか》がァ、だハ……大八車に山盛りいっぱいやァ」 「根深が大八車に山盛りいっぱい、そないぎょうさん根深どないしてん」 「横町の、や……八百屋の表にほったあった」 「そんなものほったあれへん、ほったあれへん、置いてあるのやがな、十把ほどとって、あと返しときやァ」 「ちょっと、味噌の包みが一つ」 「あぁご苦労はんご苦労はん。これだけあったらどないなとして飲める、しかし言うとくで、今日はこないして男手ばっかり、おなご手が一人もないねン、そやさかいにナ、きょうは皆手分けしてやってもらうワ。オィッ、すまんねんけどな、お前、その鯛三枚におろしてんかァ、井戸端へ持っていて。そいでお前、酒の燗《かん》、責任もって燗番のほう頼むでェ。オイッ、お前すまんけどその鰹節なァ、ウン、鰹のだしがほしい、ウン、すまんけどすぐに鰹のだし、こしらえてんかァ。それでお前はあの棒鱈の係、それでお前、葱《ねぎ》や、それでお前数の子。わかってんナ、早いことしいや。ああお前手がすいたるやろ、ちょうど幸い、お前の前に七輪があるやろ、そこへ炭ついで、ウン、空消し炭ついで、すぐに火おこしてナ、ウン、火がちょっといることがあるさかいに、早いことやってやァ」 「オイッ、鯛三枚におろしたらそれでええなァ」 「ああ、すまんけどナ、三枚におろしてんか。片身は煎りつけ、片身はつくり、骨はこなして汁にするさかい、井戸端へ持っていってナ。あーあちょっとちょっと待った、ちょっと待った、言うとくけどな、料理する前によう鱗《うろこ》をふいといてやァ」 「何や」 「鱗ようふいといてや、ていうねん」 「手拭いで」 「いや、そうやないがな、尾のほうからパーリパリと鱗をおこしたらええねん」 「あぁ、鱗おこしたらええのか、よっしゃ」  パリポリ、パリポリ、パリポリ、パリポリ、パリポリ、パリポリポリ……。 「シャイ、シャイッ。グゥーていうたってあかん、そっちへ行け」  パリポリ、パリポリ、パリポリ……。 「シャイッていうに、グゥというたかてあかんと言うてるやろ、行かんなァ。オーイ、ちょっとだれぞ来てえなァ」 「どないしてん」 「いや、わい鯛料理してたら横手へなァ、犬が来て、グゥーいうてにらんどるねん」 「追いんかいな」 「いや、さっきから追うてるけど、あっちへ行かへんのや」 「そんならボーンと一つくらわしいな」 「何やァ」 「ボーンと一つくらわしちゃうのや」 「どこを」 「どこでもかめへんが」 「あ、そうか、よっしゃ」 「おぅ、くらわしたれ」  パリポリ、パリポリ、パリポリ、パリパリポリ、パリポリ、パリ。 「シャイシャイッ……。オイ、まだグゥというてはるでェ」 「グゥていうてはるでェ、やないがな、くらわしたんかい」 「尾をくらわした」 「アホか、尾みたいなとこくらわしてもこたえへんがな、どたまポーンとくらわせ」 「頭、くらわしてもかまへんか」 「遠慮することあらへんがナ、大きいやつバーンとくらわしてみい」 「よっしゃ。大きいぞゥ、そーれくらえ、ハッハ」  パリポリ、パリポリ、パリポリ、パリポリ、パリポリ、パリポリ……。 「シャイシャイッ。頭くらわしたのに、まだグゥていうてるでェ」 「こたえん、ガキやなァ。そならどうもしょうがない、胴を二つ、三つボンボンボーンとくらわせ」 「胴ねェ、よっしゃ、それッ、それッ。ハッハッハッ、あぁしまいや。あぁ、ほんにお前の言うたとおりや、えらいもんやなァ、胴二つ、三つボンボンボーンとくらわしたら、あっちへ行た」 「行かいでかい。そな、すぐに料理にかかってぇ」 「何やァ」 「いや、料理にかかっていうねん」 「何の」 「何のって、鯛の料理や」 「鯛、まだそっちにあるか」 「何をぬかしてんねん、鯛はおまえが持っていったやないか」 「あの鯛、もう犬にみな食らわした」 「それは何をするねんなァ、えらいやつに鯛料理さしたで。オイ、オィ、オィ、お前もいつまでその七輪あおいでるねん。もうかれこれ三十分ほどになるでェ、まだ火がいこらんのか」 「はぁ、まだ火がいこらんでぇ」 「いや、いこらんでて、何でいこらんねや」 「さあ、何ででしょうねェ」 「よう、そんなこと言うてんなァ。何かい、空消し炭も炭もちゃんとついだあんねやろなァ」 「あんたがおっしゃったとおり、ちゃんと空消し炭も、炭も、たーくさんについであおいでまっせ」 「それがどういうわけでいこらぬ。如才《じょさい》はないやろけど、火のタネも入ってあるやろなァ」 「いえいえ、そんなものはまだ入ってません」 「ようそんなアホなこと言うでェ、ほんまに。火のタネなしで、それ一生あおいだかて火がいこるかいなァ。ああ、そっちのほうからプーンとおかしいな匂いがするが、どないした。いえ、勝手元のほうからナ、プーンとけったいな匂いがするがどないしたというね。えぇッ、何、数の子|煮《た》いてる、それは何をするねんな。何ぼたいても、柔らこうならん。あたりまえやがな、数の子煮くやつがあるかいな、数の子は塩で揉《も》むねん、塩で」 「葱《ねぎ》、塩で揉んだァ」 「葱は細こうに刻むねん」 「棒鱈、刻みました」 「皆することがスカタンやがな。オーイ。鰹のだしはどうなった、鰹のだしは」 「あの……あのねェ、あの鰹節、二……二本ともかいてねェ」 「いや、あの大きな鰹節を二本ともかいた」 「小さな鍋では、あぁ……あかんと思うたんでねェ、それでいま、一番大きな鍋でグラグラッといわして、ようようできたとこですワ」 「まぁまぁ、お前のしてくれたことが一番役に立ったらしいな。そな、ともかくな、とりあえずそのできた鰹のだし、こっちに持ってきてもらおうか」 「よっしゃ。入れ物がないさかい、この笊《いかき》へあけてきた。えらいもんや、山盛りいっぱい」 「いや、鰹のだしを持っといで、ちゅうねん」 「これ、かつ……鰹のだし」 「それはだしがらや、それは捨《ほ》かすねん。それをたいた汁を持っといでちゅうねん」 「あッ、あの湯ゥいりますか」 「いらいでかいな、あれが鰹のだしや」 「あーあ、それを私知らぬもんですさかいネ、あんまりグラグラ、グラグラと煮えてる湯|捨《ほ》かすのもったいないと思うたさかいネ、ホイデ、いま、とりあえず手と足と洗うてネ、そいで残ったやつ、盥《たらい》へあけて褌《ふんどし》浸けた」 「それは何をするねんなァ、鰹のだしで褌を洗濯するやつがあるかいな、あれを食べんねんがな」 「それ、知らんもんですさかい、まこといるようでしたら、い………いま浸けたとこやさかい、絞りあげて……」 「あかん、あかん、あほらしい。褌の浸けたもんが食べられるかいな。オーイ、あのう、ちょっと、燗番待ってほしいねんけど。いえなァ、ちょっとあの燗番、酒の燗ちょっと待ってんかァ」 「ウィッ、燗は上燗でっせェ」 「おい、おかしなぐあいやで、おい、燗番酔うとるでェ。あんた酔うてるなァ」 「ちょっとお毒味に二つだけ」 「お毒味に二つだけて、あんたが小さなもんで一つや二つ飲んで酔う人やないがなァ。湯のみででもいきなはったか」 「いえ、ここにある金《かな》……金盥《かなだらい》で」 「ようそんなアホなこというてるでェ、酒、一人でみな飲んでしもうてんねがな。おいッ、もうどうもしょうがない、酒は何とかおれが段どりするさかい、ともかくあるものちゅうたら味噌しかないねん、あれで味噌汁こしらえるさかい、すまんけどな、味噌すらんならん、すまんけどそのすり鉢とってきて、すり鉢を。オイ、オィ、オィ、どこ見てんねんアホ。はしりもとはわかったあるけど、上見たかてあるかいな、目の切ったものは目より上へあげたら苦労ごとが絶えんというねん。はしりもとの下を見てみい。あったやろう、あったやろう、あぁおおきにはばかりさん。あッ、ちょっと待ち、すり鉢だけ置いていってどないするねんな、すり鉢だけで味噌がすれるかいな、ちょっとナ、気をきかしい。のみといわば槌《つち》やのみと、えぇッ、金槌、違うがなァ、金槌てなものいらへんがな。おれの言うてるのは、摺子木《すりこぎ》を持っといでというねん、れんげ、すりこぎ。摺子木知らん……。情けないやっちゃな、摺子木ていうたら、木でこしらえた丸い長い棒やァ。いいえなァ、木でこしらえた丸い長い……、それは竿竹《さおだけ》や。言うてるやろ、木でこしらえたちゅうて、それは竹やがな。木でこしらえた丸い長い、それは閂《かんぬき》、それは朸《おうこ》、あのナ、長いちゅうたって限度があるやろう、これだけのすり鉢で味噌するのや、もっと短い木でこしらえた丸い……、というと爪楊子持ってくるやろう、どない言うたらわかんのやろ、爪楊子で味噌がすれるかァ。あーあ、ちょうど幸い、いまお前が立ってる真ん前や。いえナ、お前の立ってる真ん前に、先が丸うて、よう馴れて、そうそう、それで根元で細うになってプランと下がってるやろ。先が丸うて……、どこ覗《のぞ》いてるね、お前の体に摺子木が吊ってあるわけはないやろう。いえ、わいの言うてるんはお前の真ん前に、そう、よろず掛け、木でこしらえた先の丸い、それはお玉杓子や、それは杓子、それは切り藁《わら》や、山葵《わさび》おろしをいらいな、アホンだら、どない言うたらわかんのや、あぁそうそうそう、そう、いま右の手でさわったやろ、それが摺子木や、よう覚えとき。すまんけどな、こっちへ来しなに、ちょっと頭濡らしてきて。いえ、こっちに来しなに頭……、あッ違う、お前の頭濡らしてどないするねん、だれがお前の頭濡らせていうた、摺子木の頭を濡らしちゅうのや。じゃぶっと浸けたらええねん、いいえナ、摺子木をじゃぶ……、それは手水鉢や、汚いなァ」  われわれのような連中が寄りますと、こういう間違いができます。寄合酒でございます。 [#改ページ] 悋気《りんき》の独楽《こま》  お差し支えがあったらお許しを頼いまして、アノお妾《てかけ》さんという商売、商売というのもおかしゅうござりますが、お妾さんを只今では第二号とか二号さんとか二合五勺《こなから》とかいうのやそうで、このお妾さんなぞがおっしゃることを聞いていますと実に可愛いことをおっしゃるもので。 「なア旦《だん》さん、あてあんたはんにお頼みがあるのん」 「分かってる、芝居かそれとも着物でも買《こ》うて欲しいのか」 「イエそうやないのん」 「そんならなんじゃ」 「アノあてが歳がいきませんのに、旦さんの頭《おつむ》に白い毛が沢山あるので、電車に乗っても人が顔を眺めますので、頭の白い毛を抜かして頂戴」 「フム、どうで歳がいたら頭に白い毛も生えるわいな」 「それが抜かして欲しいのん、抜かして頂戴な、エエ、なエエエエ」  と豚が餌を拾うてるように鼻で突いて行きますと、旦那もまんざら殴られてるような気持ちも致しまへんで、そんならどうなとええようにしいなアと頭を委託してしまいますと、暇と根とで頭の白い毛を毛抜きで一本一本抜きます。  お宅へお帰りになりますと、御寮人《ごりょうにん》さんは少々|悋気《りんき》の気味で、 「マア旦さんこのごろ、えろう頭の毛が黒々とおなり遊ばした。お歳をめしましたら少しは白い毛がないと締まりがのうていきません。白い毛の目立つように黒い毛を抜いておあげ申します」  と御寮人は毛抜きを持って来て黒い毛を抜きます。  お妾の方では白い毛を抜く、宅では黒い毛を抜く。四、五日経ったらスッペラ坊主になってしもうた。  そんな手荒いことはありますまいが、どうしてもご婦人には悋気のあるもので、悋気もこんがり焼くとよろしいが、黒焦げに焼くと苦うて食べられまへん。  悋気は女の慎むところ疝気《せんき》は男の苦しむところとチャンと決まっておりますが、また一方から申しますと、ご婦人に悋気のないのは何となしに淋しいそうで、どうしてもご婦人には悋気がつきもので、旦那が夜分にお帰りが遅いと先へ寝むわけには参りませんで、台所で女中さんを相手に電灯の下でお針仕事、お店は若い衆が集まっておりますが、この奉公をしております時分は夜分|灯火《あかり》を見ると居眠りの出るもので、このまた居眠りをしているのは頭を前に垂れまして目がふさぐと口が開きます。陰陽で。  電車の中などでよう見うけますが居眠ぶって隣の人にもたれていく人があります。  これを起こすと随分面白い顔をするもんで、豆鉄砲を食うた鳩みたいに、目ばっかりパチつかして何やムニャムニャとロを動かしておりますもんで。 「これ、チョッと、これ、これ……」 「フエ、アアアー(欠伸)、ムニャムニャムニャ……」 「番頭さんえらい遅うなって気の毒やしな。旦さんがお出ましになるとお帰りが遅いのであんた方みな眠たいやろうに」 「どう致しまして」 「何か、あんた、旦さんどちらへお越しになってやったか知ってやないか」 「ヘイ、私は旦さんのお出かけの節に帳面を調べておりましたので、どちらへお越しになったか一向に気がつきませなんだ」 「アアそうか。常七、あんた、旦さんどちらへお出ましになってやったか知ってやないか」 「ヘエ、私は旦さんのお出ましの時に二番蔵へ入っていましたので、旦さんのお出ましになったのも存じまへん」 「そうか。アノ太七、あんた、旦さん知ってやないか」 「ヘエ奥さん、何でござります」 「イエあんた、旦さんを知ってやないかと尋ねてますねがな」 「ヘヘへへへへ、奥さん冗談《てんこ》をおっしゃるにもほどがござります。旦さん知ってやないかて、存じております。私ご当家へ十三から御奉公に参りまして当年二十八歳になります。十五年間明け暮れ見てよう知ってます。旦さんは背のスラリと高い、色の浅黒い眼のパッチリとした苦味の走ったいい男で」 「これ、誰がそんなことを聞いてます。旦さんはどちらへお越しになってやったか知ってやないかと尋ねてますねがな」 「ヘエそれは一向に存じまへん」 「何を言うてやね。アノ源助」 「存じまへん」 「あてまだ何も言うてやへんがな」 「モウおっしゃるやろうと思うて口を開いて待ってましたんや」 「源助と言うただけやのに存じまへんやなんて、あてが女やと思うて馬鹿にしてからに、どうせあんた方はみな旦さんづきやろう、分かってるがな、同じ穴の狐やろう」 「コン……」 「誰やそんなことを言うて……」  奥さんはお店でなぶられたというので、額へ太い青筋がニュウと出ました。  台所と店の取り合いの襖《ふすま》を腹立ちまぎれにピシャッと閉めて、内らへ泣いてお入りになりました。そこに針仕事をしていた女中が、梁《はり》の上を通ってる鼠でもこの女中がグウとひと睨《にら》みにらんだら落ちよるという、俗に猫いらずという女中で、 「マア御寮人様、どう遊ばした、泣いてござるやござりまへんか。どうあそばしたのだす」 「アノお竹聞いとくれ、あんまり旦さんのお帰りが遅いのでお店へ聞きに出ましたんや。番頭に聞いたら帳面を調べていたんで知らなんだ、常七に聞いたら二番蔵へ入ってたんで知らん、太七に、お前旦さん知ってやないかと言うたら、私はご当家へ十三からご奉公に参りまして当年二十八歳で十五年間明け暮れ見てよう存じております。旦さんは背のスラリと高い色の浅黒い眼のパッチリした、苦味の走ったいい男やとこんなことを言いますね。源助というたら存じまへんと、何も言うてエへんのんに、モウおっしゃるやろうと思うて口開いて待ってましたやなんて、同じ穴の狐やろというたら誰やコンやというて。あてが女やと思うて皆が寄って馬鹿にしてからに、ヒイ……」(泣く) 「奥さんマアさようでござりますか、お店へお出ましあそばすな、お店はみな旦さんづきでござりまっせ。わたしはこないだからどうもおかしい具合やと思うておりました。このごろ旦さんが夜分家をチョイチョイおあけになりますので、これは奥さんがあんまりおとなしゅうしてござるからや、少しはおっしゃらんといかんがなアと思うておりました。今日もお出かけの時に、定吉とんがお供をして参りました。今晩こそ、旦さんがお帰りになりましたらチイとおっしゃれや、いいえ、わたしがついておりましたら大丈夫でござります。少しはおっしゃれや」 「アノお竹、よう言うてくれてやった、貴女ならこそや。あての身になってくれる人は誰もあれへんね。アノな、この襟《えり》、こないだ襟屋はんから持って来はったんやが、なんやあてに顔うつりが悪いように思うのんで、貴女《あんた》やったら常の襦袢の襟に掛けられるやろう、この襟掛けとくれ」 「奥さん何をおっしゃるね、めっそうな、そんな結構な襟を女中風情が掛けましたら罰が当たります。エエさようでござりますか、かえって辞退は失礼に当たりますで、そうなら遠慮なしに頂戴いたします。ほんまに奥さんおっしゃれや、男という者は悪性なものでござりますせ。お話をせんと分かりませんが、わたしこれでも世帯破りでござりますのん、わたしの村のドンドロ坂に茂左衛門というのがござりまして、そこの息子に茂吉という男がござります。それはそれはええ男で、毎年七月には村で盆踊りがござりますと村の若い衆が踊りますね、そうするとこの茂吉が櫓の上へあがって音頭を取りますが、それはそれはええ声でな、こないに申しますわ。♪アア踊り子さん、イヤなんじゃいなア、揃うた揃うた踊り子が……」 「これお竹、なんという大きな声を出してやね」 「オホホホホ、マア奥さん御免やすや。その茂吉とわたしが好い仲になりましたのん、一夜はままよ、二度三度、逢瀬《おうせ》が度重なりますと田舎は狭いもので村一ぱいの評判になりましたの。とうとう親の耳に入りまして、親の許さぬ不義いたずらをした、どうのこうのと申しましたが、人が中へ入ってくれまして、今さら出来たものを互いに生木を割くようなことをしてもし間違いが出来たらいかん、いっそ添わしてやったらどうやと、ようよう家を一軒借ってもらいまして二人が世帯をしましたが、その当期はよろしいがものの半期もたちますと男という者は浮気なもので、村の薮の畑におさよ後家というのがござりまして、そこの娘でおちょねという女とええ仲になってますねがな、それを聞いて腹が立って腹が立って辛棒が出来んので、どなり込みに行てやろうと思うて途中まで行くと、向こうから二人連れで手を引いて来るやござりまへんか。わたしがそれを見るなり、これおやっさん、たまには家へも帰ってやったらどうや、と言うたら、このど多福め、家で悋気がしたらいでこんなとこまで来て、往来で男に恥をかかしやがってからにと、わたしを突き飛ばしましたので、わたしは気が上ずって足元がおるす、横手の井地川ヘジャブンとはまりまして、上がって来てくしゃみをしたら鼻の穴から鰌《どじょう》が三匹も飛んで出ました。家へ帰ると殴るやら蹴るやらえらい目にあわされましたんで、親に話をしましたら、そんな悪性な男に添わしておいたら、末が恐ろしい、今のうちに別れたらどうやと別れ話をしたら、男という者は毒性なもので手切れおこせ、退代《のきしろ》おこせのと申しますので、村にアゴタの軽平というて口の軽い男がござりますので、その男を頼んで小豆三升とじんき綿二百目を出して別れ話をつけてもらいました。奥さん、こんな目にあいますよってに、ほんまにおっしゃれや、おっしゃらんといきまへんで」 「マアお竹、よう言うてくれてやった。このかんざしな、こないだ小間物屋から持って来はったんやが、玉が大きいてあてには何や若返っているようなので、貴女常の頭掻きに差しとう」 「マア奥さん、めっそうな。そんな結構なかんざしを女中が差しましたら頭が腫れますがな。アアさようでござりますか、かえって辞退は失礼に当たりますでお言葉に甘えまして頂戴いたします。ほんまにおっしゃれや」 「オイ、一ぺん台所を見てみ、お竹、奥さんの咽喉の下へ入ってよる」 「とうない狭いとこへ入りよったんやな」 「そうやない、奥さんにおっしゃれおっしゃれというて、暫くの間に二、三十円の仕事をしよった」 「とうないぼろいことをしよったんやな、私も台所へ入っておっしゃれと言うて来たろかしらんて」 「お前はあかん、最前コンと言うたやないか」 「えらいことを言うたなア、やけくそでスココンコンと言うて来たろかしらん」 「そんなことを言うたら噛《かじ》りつかれるで」  お店はいろいろな噂をしております。  旦那は二号のお宅で、 「これお艶、もう今から帰るのも大儀なで、今晩はここで寝る」 「マア旦さん、早うにおっしゃればよろしいのに、定吉とんが待っておりましたのに」 「フム定吉が待ってたのか。本家へ帰って、旦さんは竹内さんへ行たら渡辺さんや小林さんがお越しになって碁が始まったので、私もお相手をするので、今夜は帰らんから、火の用心に気をつけて先に寝《やす》むようにと言うて、帰しとくれ」 「マア早うおっしゃればよろしいのに……定吉とん、大きにお待ち遠さん。アノ旦さんは今晩こちらでお寝みになるで、本家へ帰ったら奥さんに、旦さんは竹内さんへお越しになったら渡辺さんや小林さんがお越しになって、碁が始まりましたので、今晩はお帰りになりまへんので火の用心に気をつけてお先へお寝みとおっしゃった、と言うて帰っとくれなアれ」 「アアさよか、そんならお先へ帰らして頂きます」 「アアちょっと待っとくなアれ、アノこれすこしだっせ、帰りにおうどんなとおあがり」 「大きにありがとうさんでござります。さよならお寝み」 「気をつけて帰っとくなアれや」 「さよなら御免」……。 「さっぱりわやや、旦さんのお供をして行くといつでも遅うなるね、ほんなら帰って奥さんに怒られるね。丁椎が中に立った柱で辛い辛い。旦さんと一緒やったら表でも直ぐに開けてくれるけども、私一人やったらチョッとも開けてくれよれへん。長いこと表に立たしておきよるね、こないだも横町の赤犬が来てグウやいいよるね。すってのことで犬に噛られるとこや、今晩帰ったら旦さんのお帰りだっせとびっくりさしたろかしらんて。けども嘘をついたらじきに拳骨で三つぐらい殴られるね。けども犬に噛られるよりましや、やったろ……ヘイちょっとお開け」(トントン)。 「旦さんのお帰りだすちょっとお開け」(トントン) 「コレ居眠ってるのんやない。早う表を開け、旦さんのお帰りやと、早う開けんか」  ガラガラガラ。 「ヘイお帰り」 「ヘイお帰り」 「旦さん、お帰り」 「フフ、表をチャンと閉めときなはれや」 「そら何を言うね、旦さんは」 「お帰りやないのだす」 「今、旦さんのお帰りやと言うたやないか」 「あれはちょっと計略だす」 「ナニ計略やと、コラ何で年のいた者をなぶったんやコラ」  ゴツン。 「そら来た」 「そら来たとはどうや」  ゴツンゴツンゴツン。 「アア痛、こういかれると応対が違う」 「応対が違う、頭を殴られる覚悟でいてくさる。旦さんは」 「これの(小指を出す)とこへお越しだす」 「奥さん怒ってござるで気をつけよ」 「お店が開いたが、定吉が戻ったんと違いまっか」 「これ、早う返辞をしんかいな」 「ヘイ奥さんただいま」 「定吉とんご苦労はん、アノ旦さんは」 「アノナ……アノナ……アノ」 「何を言うてるのや、旦さんは」 「旦さんな、竹内さんへお越しになりましたら、ほんなら渡辺さんや小林さんがお越しになりまして、それから碁が始まりましたんで、ほんで旦さんが今晩は先へ帰って火の用心を気をつけて先に寝むようにとおっしゃりました。モウしまい」 「コレ定吉」 「ヘエ」 「あんた嘘をついてなアるな」 「イエ、私ほんまついてます」 「ほんまついてるという言いよがおますか、そのお座蒲団を触ってみなはれ、温うおますやろうがな、竹内さんがお越しになって旦さんに折り入ってお話があるというので待ってござったが、あんまりお帰りが遅いので、仕方がないというて今お帰りになったんやわ、今までここにおいでになってござったのに、竹内さんのお宅で碁が始まる訳がないやないか。ようそんな白々しい嘘をつくわ」 「そうかて竹内さんで碁が……」 「コレ定吉とん、ほんまのことを言いんか、ほんまのことを言わなあかんし」 「なんかしやがんね、えらそうに女中のくせに」 「女中が言うたらいかんのか、今晩は奥さんからお許しが受けたアるのんやシ、コレほんまのことを言いんか」 「なんじゃいえらそうに言うな、お多福だてら」 「何やね、そらわたしはお多福や、なにか、お多福が言うたらいかんのか」 「コレお竹、大きな声を出しなアんな、ご近所はみな寝んでござるのにやかましおす。定吉、モよろしい、寝とくなアれ」 「ヘエそれならお先へ寝まして戴きます、おやすみ」 「アアちょっと待ちなアれ、コレお竹、そこのそれをこっちへ、サア定吉、これあんたのおちんあげます」 「奥さん大きにご馳走さんでおます。これから寝床へ持って入って楽しんでよばれます」 「コレ定吉、そんな物を寝床へ持って入るのんやおまへん、行儀の悪い、そこでおあがり」 「ヘエ大きにご馳走さんでおます、戴きます。お竹どん、お茶一杯汲んでんか」 「何をいうてんね」 「ほんならもうええがな。アア鶴屋の上用の饅頭《おまん》や、あたいこの饅頭好きだんね、下に竹の皮の蒲団敷いてますやろ、アア中は白餡や、口の中へ入れたらとけるような、アア美味《おい》し、一つ明日の楽しみに残しとこかしらんて、イヤ食べてしまお。永いことこんな饅頭食べたことないわ、いつ食べたんやったな。そうやそうや、先度お妾《てかけ》はんとこで……アアびっくりした、半分知らん間に咽喉へ入ってしもうた。すってのことで饅頭と心中をしかけた、アア熱ツ……」 「勝手にいうて勝手にびっくりしてるねがな。コレ定吉、それただの饅頭と違うし」 「ヘエよう知ってます、上用の饅頭だす」 「イエその饅頭の中に熊野の牛王さんという物が入ってあるねん」 「ほんなら奥さん、熊野の牛王さんが入ったアったらどうなりまんね」 「嘘をついてやったらそこへ血を吐いて死ぬし」 「えらいことをしたな。甘き物を食わす人には油断すな、すぐに後腹痛むものなり、チュウチュウ、奥さん血が出えしまへん」 「嘘をつかなんだら出えへんわ。サア旦さん、どこへお供したんや、正直なことを言い、ほんまのことを言わなんだら血を吐いて死ぬし」 「アアアア、五十銭もろうた義理があるもんやさかいに辛いな」 「マア安い義理立てやな。あんた五十銭で死んでもだんないのんか、五十銭ぐらいなんやね、あてら一円あげるわ」 「アアほんなら奥さん、一円おくんなアるか」 「ハアハアあげますわ」 「ほんなら奥さんが高札や、高札へ落とさんと後でもめる」 「なんや頼母子《たのもし》みたいに言うてるわ、サアどこへお供したんや言いなはれ」 「アノ、へへへへへへ」 「なに手を出してるね」 「一円戴きまひょうか」 「後であげます」 「後でというて、私が言うてしもうてからもらえんさかいにというて、お上へ願う訳にいかず、私の方はどなたはんでもみな現金で戴いておりまんね」 「商いみたいに言うてる、後であげます。サアどこへお供したんや」 「どもしようがない、言うてしまお、旦さんに内緒にしといとくなはれや」 「そんなことは言やへんがな」 「アノお妾はんとこへ」 「アノ何か定吉、旦さん妾を置いてござるのんか」 「ヘエー」 「ヒエ……あてには始末をせいの節約をせいのとおっしゃって、ご自身はそんな贅沢なことをしてござるね、ヒエ……」 「奥さんどうでござります。わたしが睨《にら》んだら間違いはござりまへんやろう。どうでござります」 「コレ定吉、妾はどこに置いたアるね」 「一円おくんなアれいな」 「あげますがな。妾はどこや言いなアれ」 「一円もろうたら五十銭と合して一円五十銭で矢立てを買いまんね」 「矢立てぐらいなんやね。あてが別に買うたげます」 「アア奥さんほんまに買うとくなアるか」 「ハアハア買うたげます。どこや言いなアれ」 「アノナ、心斎橋の大宝寺町を南へ入ったとこで」 「とうない賑やかなとこやな。何ぞ商売でもさしたアるのんか」 「大丸の向かいの金物屋に矢立てを売ってます」 「誰が矢立てのことを聞いてます。妾はどこやと聞いてるのんやがな」 「エエどうも仕方がない。みな言うてしまお、鰻谷の中橋を少し東へ入った北側で張物屋の路地、一軒路地だす」 「そいで妾一人か」 「イエ女中さんと二人だす」 「贅沢に女中まで置いたアるのんか」 「ヘエお竹どんというて。アア奥さん妙だんな、家の女中さんもお竹どんなら先方の女中さんもお竹どんだす、同じお竹どんでもえらい違いや。先方のお竹どんは別嬪《べっぴん》でよう気がつくが、家のお竹どんは面白い顔やな」 「面白い顔でもだんない、ほっといて」 「怒りないナ、ほんまのことを言わんと血を吐いて死ぬがな」 「そんなことをほんまに言わいでもええがナ」 「コレ定吉、あんた袂《たもと》の中で何やガチャガチャいうてるのんはそらなんやね」 「アアこれは独楽《こま》でおます」 「なんや独楽や、そんな物を持ってるのんでお使いが暇いるのんやないか」 「イエこれはあたいのやないのんで、旦さんのだす」 「旦さんのん、旦さん、独楽みたいな物をどうなさるね」 「これ三つありまんね。この独楽をこないだ伏見のお稲荷さんでご祈祷をしてもろうて来ましたんだす」 「それどうするね」 「コレ三つ回して、当たった方で旦さんがお泊まりになりますね。これみな紋がついてますやろう、丸にかたばみの紋は旦さんのんで、花菱の紋は奥さんの紋だんな。蔦《つた》の紋はお妾はんの紋だす。これを回すのんは罪のない者が回したらええというのであたいが回す役になってますね」 「どんなことをするね、定吉回してみ」 「奥さんの独楽をここへ回します。お妾はんの独楽をここへ回します。旦さんの独楽をこの真ん中へ回します。これがコツンと当たったら当たった方へお泊まりになります。アア旦さんの独楽がお妾はんの方へ行く、それそれコツンとお妾はんの独楽に当たりました」 「マア嫌いやの、モウ一ぺん回してみ」 「何べんでも回します。今度はお妾はんの独楽をあっちの方へ回して、奥さんの独楽をここへ回して、旦さんの独楽を奥さんのそばへ回します。あたいら、こないに奥さんの肩を持ってまんね。アア今度はどうやら奥さんの独楽に当たりそうな、だいぶん近寄って来た。アア旦さんの独楽が逃げよる逃げよる。奥さんの独楽が追いかけて行く、旦さんのんが早うなって来た、ソラソラソラコツン、それお妾はんの独楽に当たった」 「マア旦さんの独楽なんでそないになるね」 「あたい知りまへんがな」 「一ぺん見てみとう」 「旦さんの独楽なんでこないになるねやろう。アア奥さんあきまへんわ」 「なんでやね」 「ヘエ肝腎の心《しん》が狂うてますね」 [#改ページ] 宿屋仇《やどやがたき》  ヘエ、一席伺いますは、まだ道頓堀の日本橋辺に宿屋さんが沢山ございました時代のお噂でございます。旅籠《はたご》商売と申すものはなかなか気苦労の多い商売で、昼間は近所どなりと口の物を食いあうように、仲よく致しておりますが、夕方になりますと、商売がたきと申しますか、われ一に好いお客さんを引かんならんというので、門前《おもて》へ出ましてそれぞれ喧《かしま》しゅうお客を呼んでおります。 「ヘエ、あんさん方、お泊まりやござりまへんか、万屋《よろずや》金兵衛は手前の方でござります、ヘエヘエ、あんさん、お泊まりやござりまへんか……ゴホンゴホン……これえろう家の中から煙が出て来るで、お客さんを引かんならん時分に……ゴホンゴホン……何をしているねん、そう燻《くす》べたらどもならん、早う燃やしんか……ヘエ、あんさんお泊まりやございまへんか……なに、燃えへん、そんなことがあるかいな……なに、割り木から水が出る、家は枯木ばっかり使うてるのにそんな……あわてて牛蒡《ごんぼ》をくべた、阿呆やなア、牛蒡が燃えるか……なに、松明牛蒡《たいまつごんぼ》は燃える、理屈を言いなはんな……ヘエ、あんさんお泊まりやござりまへんか……それ燃えたやろ、気をつけんさかいや……ヘエ、あんさんお泊まりやござりまへんか……アアコレ、坊んが帳場で筆を持ってるがな、そこらじゅう墨だらけや、早う筆を取りなはれ、アアこけて頭を打った、お乳母どんは何をしているねん、なんや白髪を抜いている、日暮《ひがく》れの忙しいのにそんなことをせいでもええがな、早う乳を飲ましなはれ……ヘエ、あんさんお泊まりやござりまへんか……」  番頭は一人で喧しゅう言うております、ところへお越しになったのが、歳の頃ならかれこれ四十余りの立派なお武家様、頭は大髷《おおたぶさ》というて大きな髷《まげ》で、物にたとえて申しますと、雪隠の屋根に琴箱を載せたか、百貫目の陀羅助二つ折という、細元服と申しまして月代《さかやき》の間へ指が二本と入りまへん、日頃の撃剣の稽古で面ずれをして両|鬢《びん》が禿げ上がっております。  黒の五つ紋付に、縮小倉《ちぢみこくら》の袴、紺足袋に雪駄ばき、長い刀を流儀に差し、腰に印籠《いんろう》、胴乱《どうらん》と申しまして、熊の皮でこしらえた大きな袋、この袋の中に世帯道具が一式入ってござります。入ってないものは、井戸にへっついに嫁さん、こんなものは入りませんが、手に持ってござるのが鉄扇、親骨が南蛮鉄、子骨が鯨、ひろげると唐土《もろこし》の鶏頭山の絵が描いてありまして、裏には新聞と暦とをあんかけにしたような細かい字が書いてあります。詩とか五とか申しまして、見て分からん、聞いて分からん、教えてもろうて分からん、生涯分からんという、えらいむつかしいもんで。 「コリャコリャ許せ、万屋金兵衛と申す旅籠はその方か」 「ヘエヘエ、万屋金兵衛は手前の方でござります、有難うさんで」 「島の内河内屋太郎兵衛より指《さ》し宿《やど》な致してくれた、一人でも泊めてくれるか」 「ヘエ、有難うさんで」 「某《それがし》は、紀州和歌山の藩にして、万事世話九郎と申す者じゃ、その方は何者じゃ」 「ヘエ、私は当家の若い者で」 「なに、若い者と申すか、若い者に致しては少々頭が禿げているな」 「これは恐れ入ります、いくつになりましても奉公致しております間は若い者で」 「なるほど、では頭の禿げたお若い衆」 「これはご丁寧なことで」 「その方の名は何と申す」 「伊八と申します」 「ナニその方か、鶏の尻から血を吸うのは」 「それは鼬《いたち》で、伊八と申します」 「伊八か、許してくれ、これは些少なれど取らす」 「有難うさんで、これは旦さん、お茶代で」 「いやいや茶代ではない、その方に取らす、探ってみいでもよい、中は金一分じゃ」 「これは恐れ入ります」 「その方に金一分つかわしたのは余の儀にあらず、夜前は泉州《せんしゅう》岸和田、岡部美濃守のご領分、浪花屋と申す間狭《まぜま》なる宿に泊まり、有象無象《うぞうむぞう》も一緒に寝かしおった。巡礼が詠歌を唱えるやら、六部《ろくぶ》が念仏を上げるやら、相撲取りが歯切りを咬むやら、駆け落ち者が夜通しいちゃいちゃ申して、一目も寝さしおらん。今宵はどのような間でもよいで静かなる間へ寝かしてくれるように」 「いや承知致しました。コレ、この旦那さんを二階の八番の間へご案内もうせ」  その後へお越しになったのが兵庫の若い衆三人連れ、お伊勢詣りの下向《げこう》、三十石からお上がりになりましたか、若いので勢いが違います、伊勢音頭を取りながら…… 「オー万屋金兵衛はどこや……万金《よろきん》はどこやー」 「ウワー、えらい勢いやな……ヘエヘエ万屋金兵衛は手前でござります」 「オーウ、お前とこが万屋金兵衛、万金かえ、私ら兵庫の若い者や、伊勢詣りの下向で、始終《しじゅう》三人や、泊めてもらえるか」 「ヘエ、有難うさんで……これこれ大勢さんやで、早う風呂を沸かしや、大きい方の風呂を……あんさん方三人様がお宿取りで」 「そや、三人宿取りや」 「ヘエヘエ、お荷物は帳場へお預かり致します……コレ、お焼き物は皆そろうか……エーこのお笠を拝借致しまして表へ吊らして頂きます」 「笠が何ぞになるかえ」 「お連れさんがお見えになりましたら目印に」 「お連れて何や」 「ヘエ、あんさん方三人様がお宿取りで」 「そうやが」 「後の四十《しじゅう》人さんは」 「オイ違う、俺ら始終三人や、お前とこへ泊まってやるねん」 「エーッ、三人だすか、オイ違う違う、たった三人や、ナニ焼き物を皆切った……菓子碗もこしらえた……風呂も焚いた、えらい騒動やがな、仰山物がもちになった、たった三人……」 「オイ、たった三人で気に入らんのならよそへ行くで」 「どう致しまして、どうぞお泊まりを、コレ早うお洗水《すすぎ》を持っといで」 「オーイ、水やー」 「そないに火事場へ行ったようにいいないな」  三人が足を洗いまして、 「オイッ、一つ威勢ように二階へ上がったろか、ヤアトコセー、ヨオイヤナー、アリャリャ、コレワイセ、ササナンデモセー」 「えらい勢いやな、モシ旦さんお静かに」 「オイ、俺らのいうてることが分からんか、お伊勢詣りの下向やで、音頭を取ったらいかんのか」 「イイエ、音頭は構いまへんが、後の旦さんが草鞋《わらじ》を片方|履《は》いたまま上がってでござります」 「オイ誰や、草鞋を履いて上がったりして、そんな無茶なことをしないな……オイ間はどこや」 「七番へご案内申します、どうぞこっちへ」  ところへ番頭さんが挨拶に参ります。 「ヘエ旦さん方、お早いお着きさまで、只今お風呂が空いております、暫く致しますと道者《どうしゃ》が沢山入りますと湯が濁ります、今のうちにお入りを」 「入れてもらう」 「御飯の節にお酒でも」 「みな、飲む口や」 「何か御料理のお誂《あつら》えでもござりましたら調《ととの》えておます」 「お誂え、オイ見損のうたらあかんで、俺らのいうてることが分からんか、兵庫の若い者やで、大阪あたりに気の利いた肴《さかな》があるか、そんな腐った魚は食いとうないねん、沖で釣り竿の先で針を合わして、釣り上げた目の下一尺もある鯛を鱗をばりばりとふいて三枚におろして、下駄の歯のようにブツ切りにして、山葵《わさび》醤油をぼっ掛けにして食うてるねん、腹の中で魚がピチピチと跳ねるような魚を食うてるねん、大阪あたりの魚を食おうとはいわん、お前とこのええような物を持っといで」 「有難うさんで、どうぞお風呂を」 「オイ、風呂へ行こう」  と三人が風呂の底を抜かんばかりに暴れまして、風呂から上がって参りますとお膳が出ております。 「オイ、宿へ泊まって風呂へ入って膳の前へ坐った時ほど気持ちのええものはないな、ところで明日は兵庫へ帰るねん、今夜で宿屋は泊まり終《おさ》めや、どうや女を呼んでワアーと騒ごか」 「それもよかろ……オイ姐《あね》はん」 「はーい、お呼びで」 「姐さん、ここらによさそうなメンがないか」 「なんや猫みたいにおっしゃる」 「ちがいない、そのネコがほしいねん、五、六匹生け捕って来て」 「猫か狼みたいにおっしゃる、承知致しました」  一杯飲んでおりますと、出て参りましたのが芸妓《げいぎ》はん、御酒の場所へ女が混じると賑やかになります、盃がくるくると回っているうちに、少し酔いが回って来まして、 「オイ、陰気なことはいかん、三味線弾いて陽気に騒いで、コラコラ……」(鳴物)  さっきお泊まりになりましたお武家さん、お食事が済みますと、宵から寝られませんので手紙を書いておりますと、隣り座敷では三味線を弾くやら、太鼓を叩くやら、ワアワアと踊るやら、二階の根太《ねぶと》板が一緒に跳ね板に掛かって、身体が動いて手紙が書けません。 「これはどうも騒々しい、到底これでは寝られそうにないわい、これ、伊八……伊八……」 「伊八どん、二階からお手が鳴ってるで、八番のお座敷らしいで」  トントントン。 「へい、旦那さんお呼びで」 「オーウ伊八か、敷居ごしでは話が出来ぬ、ズッとここへ参れ」 「ヘイヘイ」 「当家へ泊まった節、その方に金一分つかわしたナ」 「有難うさんで、頂戴致しましてござります」 「金一分つかわしたのは余の儀でない、夜前は泉州岸和田岡部美濃守のご領分、浪花屋と申す間狭《まぜま》なる宿へ泊まり、有象無象も一緒に寝かしおった、巡礼が詠歌を唱えるやら、六部が念仏を上げるやら、相撲取りが歯切りを咬むやら、駆け落ち者が夜通しいちゃいちゃ申して一目も寝さしおらん、今宵はどのような間でもよいから静かなる間へ泊めてくれと申したに、隣の部屋は何事だ、ヤレコラドッコイの散財が始まった、実は国元へ手紙を出さんと筆をとったところが、身体がピョンピョン動いて書くことが出来ぬ、これを見よ、この手紙が真っ黒になった、先方の座敷を替えるか、拙者の間を取り替えるか、静かにしてくれるか、三つに一つの返答を致してくれ」 「ヘイ、まととに相済まんことで、ツイ御酒が弾んでおりますので、どうぞ暫くお待ちを願います」  隣の座敷へ参りますとますますエライ勢い。 「ほんにこらたまらん、ヘイ御免を」 「オオ伊八どんか、一つどうや、お前も踊りんか」 「モシお静かにお頼み申します」 「ナニ静かに……静かに、オイここの宿屋は芸妓を呼んで散財が出来んのか、とうない不自由な宿屋やな」 「イエエ私の方は構いまへんが、そう騒いでいただきますと他のお客さんが寝られまへんので、どうぞお静かにお願い致します」 「イヤ何かえ、俺の部屋で騒いでいると他の奴が寝られんので静かにせいと吐かすのか、どいつがそんな生意気なことを吐かすねん、こっちで散財するのがむかつくのんやろ、そっちも負けんように芸妓を呼んで散財をせい、そんなに喧しいのが気に入らんのんなら宿屋を買い切っておけ、ぐずぐず吐かしたらここへ引っ張って来い、生意気な。相手にしてやるさかい引っ張って来い……」 「えらい勢いだすな、引っ張って来んことはござりまへんが相手が悪うござります」 「相手が悪いというても日本人やろ」 「それは日本人に違いはおまへんが、二本差しで……」 「二本差して田楽か」 「ウダウダおっしゃるな、お侍で」 「エッ……侍か、アノお侍か……」 「急に勢いが変わりましたな」 「私、侍嫌いや、人斬り庖丁を持ってるで」 「どうぞお静かにお願い申します」 「モウこれだけ騒いだら結構や、モウ静かにする、あんじょう断りいうて、女の人も帰ってもらうで、飯を食うて寝る、寝て話をするぐらいは構へんやろ」 「ヘイヘイ、話ぐらいはなんぼしていただいても大事ござりまへん」 「オイ、飯を食うたら寝よ……オイ女中さん、寝間を敷いて……そんな不細工な寝間の敷き方をしないな、今もいうてるがな、寝間で話をするのに三つ並べて敷いたら、真ん中の者は両方の顔が見えるが、端に寝ている者は端の顔が見えへん、寝間を三方から敷いて頭を真ん中へ寄せてくる、これを巴寝《ともえね》という……そうそう、これで頭を上げたら三人の顔が見られるやろ、しかしこんな洒落たことはないナ、宿屋へ泊まって芸妓を呼んで散財をして侍に叱られて、ビックリ止まりがして一ぺんに寝るやなんて、いついつまでもこんな面白いことがあったと、話の種になる、しかしようこないに三人が馬が合うな、今度の伊勢詣りがそうや、俺が伊勢へ行こうというたら、お前らも行こうという、金毘羅詣りをしようというと、行こう、花見が三人、芝居へ行くのも三人、相撲を見に行くのも三人、ようこないに馬が合うと思うとおかしいてどもならん」 「今お前が相撲というたんで思い出したが、相撲は玄人より素人相撲の方が面白いな、玄人は八百長なんてあっていかんが、その段、素人は一生懸命や、この間の宮相撲どうやった、何ともいえん面白い相撲が一番あったで、あの時の相撲取り何とかいうたわい……そうそう竿竹《さおだけ》、細長い男やった、また片方がよう肥えた象ケ鼻や、なかなかよう取りよった、行司が軍配を持って、よろしく見合わして互いに立つ気になりましょう、ヨイショと立上がると象ケ鼻は下へもぐり込みよって、やっと巻き上げて来よった、竿竹もなかなか強い、ヨイショと上から押し掛ける、押さえつけられたらどもならんと象ケ鼻が前袋をこう持ちよって、ウーンと引いた……」 「オイ何をするねん、寝てる者の褌《ふんどし》をとらえてどうするねん」 「ドッコイショ」 「何がドッコイショや、痛い痛い、腹が締まるがな、そう引っ張ったら痛い、そんな無茶しいな……お前がそうするねんやったら、俺もジッとしておられん、上手からお前の褌にこう手を掛けてヨイショてやつじゃ」 「なにくそ、ドッコイショ」 「ドッコイナてやっちゃ」 「なんや、あんなで二人で相撲を取りだしやがった、二人が相撲を取るとしてみると、ジッとしていられん、さしずめ俺が行司役で、軍配の代わりにこの扇子で……ハッケヨイ残った残った」 「ドッコイこっちや」 「残った残った、勝負あった」 「ホホホホホ、無茶しないな、勝負あったというてるのにぶつけて、それ見いな、床の間の柱で頭打って、こんな大きな瘤《こぶ》が出来たがな、おまけに襖《ふすま》を蹴り破ってしもたがな……」 「伊八……伊八……」 「伊八どん、また二階の八番から手が鳴ってるで」 「何や、これから寝ようと思うているのに、よう呼びよるな、ヘイ旦那さんお呼びやす」 「コレ伊八、敷居ごしでは話がならん、モウ少々前へ参れ」 「ヘイ」 「当家へ泊まった節、その方に金一分つかわした」 「気ずつないナ、ヘエ頂戴致しました」 「金一分つかわしたは余の儀ではない、夜前は泉州岸和田岡部美濃守のご領分、浪花屋と申す間狭《まぜま》なる宿へ泊まり、有象無象も一緒に寝かしおった、巡礼が詠歌を唱えるやら、六部が念仏を上げるやら、相撲取りが歯切りを咬むやら、駆け落ち者が夜通しいちゃいちゃ申して、一目も寝さしおらん、今宵はどのような間でもよいから静かなる部屋へ泊めてくれと申したに、隣の部屋は何事じゃ、ヤレコラドッコイの散財がすむと、後が相撲じゃ。拙者枕を取って寝ようと致したが、頭がピョコピョコと動いて寝られんではないか、向こうを見よ、襖に大きな穴をあけよった、あろうことかあるまいことか、たとえ一夜たりとも借り受けたれば武士の城郭同様、それに何ぞや、脛《すね》を突き出すとは無礼千万、隣の部屋を取り替えるか、拙者の部屋を取り替えるか、静かに致すか、三つに一つの返答を聞いて参れ」 「ヘイまことに相済まんことで、暫くお待ちを……モシ、静かにお頼み申しまっせ」 「伊八どん、こっちへ入って。清八っつぁん無茶やで、勝負あったというてるのに、ボンとぶつけて床柱で頭を打ってこんな大きな瘤が出来た。向こうの襖を蹴り破ったが堪忍してや、まどうさかい……」 「襖は大事おまへんが、隣のお侍、えらい怒ってまっせ」 「アア伊八どん、済まん、侍を忘れていたんや」 「忘れていてもろうたらどもなりまへんがな、お侍怒って、たとえ一夜たりとも借り受ければ城郭同様、脛を突き出すとは無礼千万、何事じゃと言うてまっせ」 「伊八どん、あんじょう言い訳いうて、モウ静かにする」 「そうしてもらわんと私の方が困ります、どうぞお静かに」 「オイ無茶しないな、喜ィやん、俺がおとなしゅう寝ているのに、褌取って相撲を取るよってにや」 「源さんが悪いねん、行司をしたりするよってに立ち上がったりするねん」 「オイ、相撲の話をしたりするさかいにや、艶事《いろごと》の話、惚気《のろけ》の話、これなら暴れる気づかいはない」 「源さん、惚気の種があるか」 「あるか……あるか……オイ、わいらな、人二人殺して金を三百両盗っていまだに知れんという、こんな艶事をしてるね」 「フム、人を二人殺して三百両盗っていまだに知れん、それは一体どうしたんや」 「オイ寝てんかいな、起きて来てどうするねん。わいが極道をして親の家を飛び出して、高槻《たかつき》の叔父貴《おじき》の世話になっていたんや、叔父貴の商売が小間物屋、私も小間物の背負い商人《あきんど》で得意回りをしていると、ある日のこと、小柳彦九郎というお屋敷から誂え物があるから来てくれという手紙が来た、早速荷物を持ってお屋敷へ行った、ヘエ小間物屋でござります、何かご注文をというと、奥さんが、オオ小間物屋か、よう来て給《たも》った、さあこっちへ上がりや、と奥の間へ通しよった。今日は女中がみな里帰りをしておらぬ。そなた酒《ささ》上がるか、ヘエ、少々頂きます、暫く待っていや、暫くすると酒肴《しゅこう》が出る、何もないが一つ飲みやいのう、有難うさんでござりますと私が飲んで、奥さん一ついかがで、妾《わたし》も余り飲めぬが相手をすると、グッと飲んで私にくれる、私が飲んで奥さんにと二人で二升ほど飲んだ」 「何の飲まんことがあるものか、よう飲んだやないか」 「その奥さんというのが、色の白い髪の毛の濃い鼻筋の通った眼の張りのええ、そりゃ何ともいえんええ女や」 「フム、フンフン」 「仰山返事をしな、色の白いとこへ酒が入ったさかいほんのり桜色や、私は色が黒いので桜色というわけにいかん、備後徳利栗茶色や」 「けったいな色やな」 「酒というものは気を狂わすもんや、酔うたまぎれにそこへ寝た」 「フンフン」 「そこへ出て来たのが小柳彦九郎の弟で大五郎という大きな男や、姉者人、兄者人のお留守見舞いに参った。姉者人はいずこにござると襖を開けるとそこに酒肴が散乱して、赤い顔をして私が寝ている、それを見ると、やあ姉者人には淫《みだ》ら千万、兄者人の留守中に不義をなさるとは怪しからん、不義の相手は小間物屋、重ねて置いて四つになさんと長い刀をスラリと抜いたので私はビックリして飛び起きた。一生懸命に廊下へ逃げて出たんや。すると後から追い駆けて来た、ヤア小間物屋待て、刀を上段に振り上げて斬りつけて来たので、こりゃたまらんと思うて縁側から庭先へ横飛びに飛んで降りた、己れ待てと同じく横飛びをしようと思うたが、縁側が拭《ふ》き入れてあるとこへ足袋が新《さら》や、スルーッと滑った拍子に利き腕を打って刀をガラリと落としよった。その刀が私の前へ転げてきたので、その刀を拾うて大五郎の首をスパリッと斬ってしもうたんや」 「エエ、えらいことをやったな」 「すると奥さんがこれを見て、小間物屋えらいことをしてくれた、弟を殺しやったらこの家には居られん、どこへなりとも連れて逃げてたも、路銀《ろぎん》をというと手金庫から三百両持ってきたので胴巻きへ入れて、表からは出られん裏口からと、女を先へやっておいて後からスパッと斬ったんや」 「何でそんな無茶なことをするねん」 「こうやって二人とも殺してしもうたら誰も知る者がない、蟻の穴より堤《つつみ》のたとえ、そのまま高飛びや、人を二人殺して金を三百両盗っていまだに知れんて、こんな艶事《いろごと》をしたことはあらしょまい」 「フーム、源さんは色男やな、清やん、源さんの色男、色男の源さん、エライ奴や、コラコラ源さんの色男、ドッコイドッコイコラコラ踊れ……」 「伊八……伊八……」 「オイ伊八どん、また手が鳴ってるで」 「叶わんな、寝かけると二階から呼びよる、こら夜どおし寝ささんな……ヘエお呼び」 「伊八、敷居ごしでは話がならん、ズッとここへ参れ……ズッと参れと申すに」 「ヘイ」 「当家へ泊まった節にその方に」 「アア気兼なナ、何べんも何べんも、金一分頂戴致しました、夜前は泉州岸和田岡部美濃守のご領分、浪花屋と申す間狭なる宿へお泊まりになりまして、有象無象も一緒に寝かしまして、巡礼が詠歌を唱えますやら、六部が念仏を上げますやら、相撲取りが歯切りを咬みますやら、駆け落ち者が夜どおしいちゃいちゃ申しまして一目も寝かせまへん、今宵はどのような部屋でもよいから静かなる部屋へ泊めてくれとおっしゃいましたに違いござりません」 「コリャコリャ伊八、その方が申すと拙者のいうことがないではないか、さにあらず、その方へ泊まった節、拙者紀州和歌山の藩にして万事世話九郎と申す者じゃと申したが、これは真っ赤な偽りじゃ」 「ヘーエ」 「まことは高槻の藩にして、小柳彦九郎と申す者じゃ」 「ヘイなるほど」 「国元において妻を討ち、弟を討ち、金子三百両盗って立ち退きし曲者があるじゃて、殿に仇討ちをお願い申せしが、目下の者の仇討ちゆえお許しがない、そこで永のお暇《いとま》を頂き諸処方々と巡り探す折柄、今日住吉四社の明神へ参詣を致したと思うておくりゃれ」 「なかなかご信心なことで」 「その神の徳によって仇《かたき》に出遭うたのじゃ」 「それはまたお目出度いことで、どちらでお出遭いになりました」 「出遭った場所か、出遭った場所はその方の宅じゃ」 「ヘエー、手前の宅とおっしゃると」 「ウム、隣に泊まりおる三人、喜六、清八、源兵衛と申すその中の源兵衛と申す者、問うに語らず語るに落ちるとか、蛙は口からとやら自分の口より白状致した、先方より名乗ってくるか、拙者より参ろうか、返答を聞いて参れ」 「ファイー、えらいことになって来たで……ヘイ御免を」 「オオ伊八どんか、こっちへ入って、源さん艶事師やで、人を二人殺して金三百両盗っていまだに知れんて」 「それが高槻の小柳彦九郎はんで」 「アア伊八どん、聞いてたか」 「聞いてたかやおまへんで、えらい騒動だっせ、隣に泊まっているお侍がその小柳彦九郎やというて、いま襖ごしに聞いたから仇討ちをすると、先方から名乗って来るか、来ねばこっらから乗り込もうか、いずれに致す、返答を聞いて参れと」 「アアえらいことを言うたなア。伊八どん、嘘や嘘や、首がついとるかしらん、あんじょう断りをいうて。この顔を見て、女の惚れる顔かいな、艶事惚気話というたんで、この前三十石船であんな話を聞いたんでわがことのように作って言うたんや、今のは嘘や、断って」 「しようもないことを言いなはんな、貴方より私がビックリしましたがな、嘘を吐《つ》くにもことによりますがな、一度お侍にそう申します……ヘイ旦那さん」 「伊八か、先方より名乗って参るか」 「ヘエ、さよう申しましたら、あれは嘘や、前かた三十石船でああいう話を聞いたので、それをわがことのように言うたのじゃと申しております、あれは嘘で」 「ナニ嘘じゃと、イヤ町人と申す者は卑怯未練な、いったん自白な致しておきながら、いまさら嘘なぞとは卑怯千万、伊八案内を致せ、拙者が乗り込んで参る」 「モシ旦那さん、暫くお待ちを願います、私の方でさようなことがござりましては、あの宿で仇討ちがあった、人殺しがあったといわれましては、家の暖簾にも関わることでござります、どうぞ暫くご猶予を」 「伊八、そのところへ気のつかざる拙者でもなかりしが、討ちたい討ちたいと思う心が先立って何の考えもなく申した、鹿追う猟師山を見ずのたとえ、しからばかよう致そう、出会い討ちに致そう」 「出会い討ちと申しますと」 「出会う場所はどこがよいか」 「出会う場所は……」 「明早朝……」 「崇禅寺馬場において」 「コリャ、馬鹿を申すな、明早朝日本橋において出会い討ち、今宵三人のうち一人たりとも逃がしなば、伊八その方の首は胴についておらんぞ、助太刀は幾何万人あろうとも、死人の山を築いてくれん、明朝までしかと番を致せ」 「ファイー、サーえらいことになってきたぞ、今度はこっちの首が危のうなってきた……ヘイ御免」 「伊八どん、どうなった」 「あきまへん、明日の朝日本橋で出会い討ちに致すというてはります」 「エーエ、あんじょう断ってんかいな」 「なかなか聞いてくれはりまへん、助太刀は幾何万人あっても死人の山を築くと……モシあんた、どこへ行きなはるねん」 「ちょっと、お便所へ」 「あかんあかん、あんたが逃げたら私の命がない、便所へついて行きます、まだ後に二人残っている、難儀やなア、みな一緒に来とくなはれ」 「私、便所しとうない」 「マア、しとうのうても一緒に行ってもらわんと困ります」 「えらい災難や」  四人連れで便所へ行きまして、座敷へ戻ると寝ることも出来ず、四人が蛭《ひる》に塩をかけたようにしおれております。  そうなるとお侍というものは魂の置きどこが違います。枕につきますと白河夜船の高|鼾《いびき》でグウーとお寝みになりました……ガラリと夜が明けますと嗽《うが》い手水で身を清め、神仏に礼拝を致しますと御飯を召し上がりまして、身ごしらえが出来ますと、 「伊八……伊八……」 「あの声が腹の底までこたえる、みな逃げたらあきまへんで、そこにじッと居とくなはれや、茂助どん、ちょっと番をしていてや、この人を逃がさんように……ヘイ旦那さんお呼びで」 「伊八、昨夜は厄介を掛け相済まん」 「どう致しまして」 「これは宿科じゃ、これは僅少《きんしょう》なれど茶代じゃ、取っておけ」 「有難うさんで」 「縁があれは重ねて泊まる、縁がなければこれきりじゃぞ、静かにいたせ」 「有難うさんでござります……アノ旦那さん、ちょっとお待ちを」 「何じゃ」 「いかが致したものでござります」 「何がいかが致したのじゃ」 「お預かり申しました物でござります」 「拙者は何も預けた覚えはない」 「昨夜おっしゃった三人で、出発さしたものでござりますか、ただしは留めおいたものでござりますか」 「出発したものか、留めおいたものか、とは」 「日本橋の出会い討ちの一件を」 「ナニ日本橋の出会い討ち……アア伊八、あれは嘘じゃ」 「ゲヘー嘘、ビックリしましたがな、私は昨夜は一目も寝ずに番をしておりました、嘘を吐くにことかいて、旦那さんなぜあんな嘘をおっしゃった」 「伊八許せ、ああ申さんと夜どおし寝かしおらん」 [#改ページ] らくだ 「オイ、らくウ……、らくだア……。るすかいな……。オイ、いやがらへんのかエ……なんじゃ、こんなとこに寝てけつかる。オイ、起きんかエ……。よう、寝《どぶ》さったもんやなア、オイ。……あッ、こら、寝てよンのとちがうで。死んでよンねがな。枕もとに鍋が放り出したアる……。ホホウ、河豚《ふぐ》らしいな……。わかった、どこぞで、くさった河豚、もろうてきて食ろうたんやナ。それで、中毒《あた》って死にやがったんや。……しかし、こいつには、親も兄弟もなんにもない、ほんまのひとり者やがな……。さしずめ、兄弟分のおれが葬礼《そうれい》してやらにゃしゃアない。それにしても、えらいときに、死にやがったもんやナ。運わるう、負けつづけで、一文の銭もあらへん。……というて、このまま、ほっとくわけにもいかず、こまったもんやなア……」 「屑《くず》ウィーン、屑ウィーン……」 「あ、ええとこへ、屑屋が来よった。……オイ、屑屋アッ……」 「ヘエエイ……。お呼びになりましたんは、どこさんで……」 「ここじゃ、ここじゃ」 「アッ、らくだの家や。うっかり、この路地へ入ってきてしもた……。あかん」 「コラッ……。ズ屑屋ア」 「うわア……。えらい頬桁《ほげた》やな。屑屋の頭へ、ズ、つけよる……。ヘエ、こんにちはア」 「さっきから、なんべんも呼んでンのに、なんで来《う》せさらさんねン」 「えらいすんまへん。ちょっと、考えごと、してましたんで……。モシ、ここは、らくだはんの家やと思いましたが、おかわりになりましたンか」 「いや、かわらへん。らくだの家や。お前、らくだ、知ってンのか」 「ヘエ、ちょいちょい、物を売ってもろてましたんで……、ヘエ」 「ハハア、得意先か」 「エッヘッヘッヘ、得意先と言や、まア、得意先だっけど、いっぺんも儲けさしてもろたことはおまへんのンでて…。銭にもならんがらくたを放り出して、なんぼでも買え……あきまへん、言うと、入口の戸ォ閉めて、買わんと帰れるもんなら帰ってみイ……言いはりまんねン。えらい目エにばっかり会《お》うてます。えげつない人でっせエ」 「オイ、そう、わるう言うてやりな。仏が聞いてよる」 「エッ、仏……。そんなら、らくだはん、死にはりましたんか」 「見たってくれ、このざまや。せんど、人を泣かした罰で、不細工な死態《しにざま》してけつかる」 「ア、さよか。そら、ええ具合……」 「なにイイッ……」 「い、いえ。なにも言うてエしまへん」 「いや、聞こえた。ええ具合やと吐かしたやろ……。しかし、むりもない。大勢の人にいやがられたやっちゃさかいナ……。ま、かんにんしたってくれ」 「や、そうおっしゃるよってン言うのやおまへんけど、じつのとこ、死にはったら世間の人は、みな、よろこびまっしゃろ……。ときに、あんたはんは、どなたはんでおまんねン」 「わしか……。わしは、このらくだの兄貴分になるもんやが……」 「ゲエッ……」 「ま、さしあたり、このおれが葬礼を出したらなしゃアない……。ところがこの四、五日、敗北《しけ》つづきで、一文もないねン。そこで、ものも相談やが、この家の屋財家財を、すっくりお前に売って、それで、葬礼、出そうと思うねン。どうぞ、なるべく、ええ値で買うてくれ」 「エッヘッヘッヘッ……屋財家財というと、えらい体裁がよろしいが、なにしろ、五厘にでもなるようなものは、みな買うてしまいましたんで……。このとおり、家についたアる建具まで、燃やしてしもたアる始末だす」 「そらそうかもしらんが、たとえなんでも……。かりにも、人間ひとりが住んでた家や、なんなとあるやろ」 「そう思いなはンのは、もっともだっけど、いっぺん、家ンなか、見回しとくなはれ。そこにある壊《つぶ》れた七厘《かんてき》と、手のとれた土鍋と、欠けた茶碗のほかは、なにひとつ、あらしまへんねン」 「ほんに、そういうと、なにもないなア……。ま、しかし、なんぼかんぼと言わへん。値打ちのあるだけで買うてくれ」 「さア、それがなア……。えらい失礼だっけど、ほんの志で……。これを、どうぞ仏前へ……」 「オイ、なにか……お前、これ、香奠《こうでん》にくれンのか……。こらアすまんなア……。そんな心配さすつもりで呼び入れたんやないのやが、こっちも、いま言うたとおりのような懐中《ふところ》や、遠慮なしにもろうとくわ」 「いえ、そない言うていただくほどのことやおまへんね。その日稼ぎの紙屑屋のことでっさかい……」 「いや、千倍に思う。ときに紙屑屋……」 「ヘエ」 「お前、気の毒なけど、いっぺん、長屋の月行司の家へ行てきてんか」 「なんちゅうて、行きまんねン」 「長屋のらくだが死にました。兄弟分の、やたけたの熊五郎、いう者《もん》が葬礼をいたします。つきましては、いずれ、長屋の交際《つきあい》というもんがござりまっしゃろ。なんぼ、とは申しまへんで、どうぞ、香奠のところを、なるべくはようおねがい申します、言うてきてんか」 「イヤ、そらあきまへん。……らくだはんは、長屋に住んではっても交際ということは、しはったことがおまへん。行たかて、めったに、香奠なんて出エしまへんわ」 「なん吐《ぬ》かしてんねン。お前が、断りいうことはないやないか。ただ、おれの言うたとおり、言うてきたら、それでええのや。もし、ぐずぐず言いやがったら、おれが行て、話をする……。行てこいッ」 「あ、さよか……。ホナ、行てきます」 「コラコラ……。お前、手に持ってる物はなんや」 「こらア商売道具の量器《りょうき》だす」 「そんなもんを、ぶらさげて、歩かいでもええやないか……。置いとけ、預かっといたる……」 「あ、さよか、ヘエ……。えらい目に会うた。杠秤《ちぎ》〔はかり〕、とられしもたんで、逃げることもでけへん……。エエエ、遅なりました」 「どうやった」 「そない言いましたら、なんせ貧乏長屋のこって、極《きめ》もなンもあらしまへん……。まア、わずかでも集めて、すぐに持って行く、言うてました」 「それみイ……。しかし、ごくろうやった……。ときに、紙屑屋……」 「ヘエ……」 「この長屋の家主《いえぬし》はどこや」 「この路地口だすねン」 「お前、気の毒なけど……」 「親方、えらいすんまへんねけど、お見かけどおり、その日稼ぎの、実薄《みうす》い商売してまんので……わたいひとりで、家内四人口を……」 「わかったアるわイ。遠いとこへ行け、言うのやないがな。たかのしれた路地口まで行くのがなんじゃいッ」 「ヘエ……。で、なんちゅうて行きまんねン」 「お長屋のらくだが、昨夜、死にました。今夜、長屋でお通夜をいたしますので、家主と店子とは親子も同然、どうせご厄介になることでございまっしゃろが、お忙しいなかを、べつに来ていただきまへいでもけっこうでござりますで、お酒を三升と煮しめを重箱に一ぱいだけ、すこし甘いぐらいに味をつけて、持ってきてくださりますように……」 「エッヘッヘッヘッ……。そらあきまへん。ヘエ、そらあきまへん」 「また、そんなこと、吐かす。いまも、長屋で香奠なんて出さへんと言うてて、行たら、出すやないか」 「さ、それが、ずいぶん、長屋でもぐずぐず言いましたんやが。……いま、来てはるのが、らくだの兄貴分という人で、出さにゃうるさい……イエ、うるさいこと言わんと、なにも厄《やく》のがれやと思て、イエ……そのまア、わたいがやかましゅう言うて、ようよう、出すことにしましたんや」 「やかましい言わんと、早よ行けッ」 「ヘエッ……」 「ひょっと、家主が、出すの出さんのと吐かしたら、それでは葬礼を出すことがでけまへんので、お宅へ死骸を持ってまいります。それも、ただ、持ってきたんでは、お愛想がござりまへんよって、死人《しびと》のカンカン踊りを、ひとつごらんに入れます、とそう言うてこい」 「あ、さよか……。そんなら行てまいります……。なんとえらいやっちゃなア……死人のカンカン踊りさす、言いよる。世のなかには、上には上があるもんや。らくだほど、無茶者はないと思てたら、まだその兄貴分があンのや……。ヘエ、こんにちは」 「ハイ……。オオ、屑屋さんかいな、今日は、なにも売るもんはないで」 「いえ、今日は、商売で来たんとちがいまんねン。じつは、お長屋のらくだはんが、昨夜、死にはりましてナ……」 「エ、らくだが死んだか。それをわざわざ知らしにきてくれたんか……。いや、ごくろうはん、ごくろうはん。やれやれ、助かった。肩の荷がおりたように思うで……」 「ヘエ。それにつきまして、そのらくだの兄貴分というのが、いま来てますねンが、その兄貴分の言うことには、今夜お通夜をしますので、お忙しいところを、来ていただくにはおよびまへん……」 「あたりまえじゃ。なんで、わしが行かんならん……」 「ヘエ……。そこで、そのゥ……まことに申しかねますのやが……お酒を……ソノ、三升と……ヘエ……。それから、お煮しめを……へエ……そのゥ……勝手申しますが、すこし甘いめに味つけて、重箱に一ぱい……おそれいりますが、ヘエ……」 「オイ、オイ、屑屋はん。お前、なに言うてんねン。洗面《ちょうず》、忘れたんとちがうか……。よう、ものをかんがえてみイ。らくだが死んだというて、なんで、わしがそんなことせんならんのじゃ」 「イエ、そらわかっとります。けど、ソノ、家主といえば親も同然……」 「わしゃ、らくだみたいな子ォ持った覚えはないわい。わるい借家人にも、ずいぶん、会うたが、あんな念のいったやつははじめてじゃ。たいていの者なら、入った月ぐらいはまともに家賃を払うわイ。あいつときたら、住んだその日イから、鐚銭《びたせん》一文、家賃というものを払うたことがない。取りに行くと、明日来いの、明後日来いの、いま細かいもんがないよってについでに持って行く……なんて、むかつくことばっかり吐かしよる。あんまり腹が立つので、雨露しのぐ家賃を、なんやと思てる、ちゅうたら、よっしゃ払うよってに受け取れ、言うなり長い刀《やつ》をズラッと抜きやがった……。わしゃ、腰抜かして、もとどおりになるのに三月かかったわい。しかし、なんぼわるいやつでも、死ねば仏じゃ。いままでの家賃は、香奠として棒引きにしてやる。ありがたいと心得て、一刻もはよう、家を明けさらせ、と、そう言え」 「ヘエ……いや、ごもっともで……。しかし、なるべくなら、持って行きはる方がええと思いますがナ……」 「コレ、屑屋はん。なんで、お前、そんなあほなことを……」 「さ、そこでおます。いま言いました兄貴分というのが、なんし、体いっぱいに刺青《いれずみ》して、ものすごい顔した男ですねが、もしお宅でどやこうと言われたら、らくだの葬礼をすることがでけまへんさかい、死骸をもってまいりますよって、よろしゅう始末をおねがい申します。それも、ただもってくるだけでは、お愛想がござりませんので、ちょっとお慰みに、死人にカンカン踊りをさせてごらんにいれます……」 「コレ、コレ、ちょっと待ち、屑屋はん……。お前も、知らんことはなかろう。わしゃ、世間ふつうの家主とは、すこゥしちがうのやで。人から因業家主と二ツ名をもろてるのじゃ、刺青ぐらい見せつけても、ビクともするもんじゃないわイ。去《い》んでそう言うとくれ。この年齢になるけど、死人のカンカン踊りというもんは、まだ見たことがないわイ。初物を見せてもろて、七十五日生きのびたい。今日は、さいわい用事もないよって、ゆっくり見物さしてもらう、なるべくはよう始めてほしい、と、言うてくれ」 「エッ、そんなら、ごらんになりまっか。さいなら。えらいやっちゃなア。死人のカンカン踊りを見ると言いよる……」 「どうやった」 「あきまへん。ながいあいだ家賃を倒されて、なんでその上に、酒肴《さけさかな》まで持って行かんならん……」 「そんなこと、聞いてこいでもええわエ。もしも出さにゃ、カンカン踊りを……」 「サ、それも言いましたんや。そしたらわしもこの年齢になるが、死人の踊るのは見たことがない、七十五日生きのびるように、ゆっくり見せてもらう、と、言いよりました……。親方、あんたも強いお方やけど、相手がわるいと、こたえまへんな。向こうもずいぶん……」 「喧《じゃかま》しいわエ。オイ、屑屋、そっち向けッ」 「ヘエ……」 「そっちを向けというのじゃ」 「どうなりまンので……」 「黙って向きさらせ。ソーラ」 「ウワーッ……。そ、そんな無茶な……。あんた……人の背中に死骸を乗せたりして」 「ぐずぐず言うなッ。ソレ、うしろへ手ェ回して、立って歩くンじゃイ」 「トホホホホ……。こら殺生《せっしょう》や、死人というもんは、妙に冷たいもんやナ……。わたいの頬べたへ、死人の顔がさわる……」 「ビクビクするなッ。噛まへんわエ」 「噛まれてたまりまっかいな。モシ、これ、どうなりまンので……」 「家主のとこへ持って行くのンじゃ。サア、歩きさらせ」 「えらいとこへ来たもんや」 「先方《むこ》ィ行たら、おれが首と手エ使《つこ》たる……。汝《われ》は、こいつの股ぐらへ、首、突っこんで、足、使いながら、カンカンのうを唄え」 「モ、モ……モシ、そんなこと、わたいが……」 「できるのできんのと吐かしてみイ。土性骨、踏み折るぞッ」 「……やります、やります……。トホホホ」 「不景気な面、さらすなイ。……サ、家主の家はここか。よし、おれについて入れ。オイごめんなアれ」 「ハイ、どなたじゃな」 「おれはやたけたの熊五郎いうて、らくだの兄貴分にあたる者じゃ。さっき紙屑屋を使いによこしたところが、汝《われ》えらい気のきいた返事さらしたナ。お粗末ながら、お望みによって、死人のカンカン踊り、いうのを見せてこましたる。大きい目エむいて見物しやがれ。七十五日、寿命を縮めくさるなッ。オイ、屑屋ア入ってこい」 「ギャッ……。な、なんじゃ、それは……。コレ、紙屑屋はん、お前までがどうじやいな、……ア、ほんまに、演《や》るつもりかいな。ブルルル、鶴亀《つるかめ》、鶴亀。どうぞたのむよって、持ってかえっとくれ」 「なんじゃ。たのむよって、持って帰れてか……。いや、話によっては、持って去《い》なんでもないが、酒と肴はどうするねン」 「も、持って行きます。持って行きます」 「ド甲斐性《がいしょ》もないくせに、しようもないこと吐かして、余計な手数をかけやがった。はよう持ってこんと承知せんぞ」 「持って行きます、持って行きます」 「サ、屑屋。持って去ね」 「トホホホ……」 「サ、そこへおろせ。コラ、もっと静かにおろしたらんかエ。仏に疵《きず》がついたらどうさらすねン。……あ、それからなア屑屋……」 「親方、すんまへんけど、その日稼ぎの人間で、家に女房子が……」 「やかましいわイ。わかったアる、いちいち、ごてくさ言うもんやないわエ。……もう一軒、行てきてくれ。遠いとこやない、この路地を出て、たしか一丁ほど南へ行たとこに、漬物屋があったはずや。彼処《あこ》イ行て、棺桶にすンのやよって、いうて、樽を一|挺《ちょう》、もろてきてくれ。もしごてごて言いよったら、もらわいでもよろしい、貸してくれ……あいたら返すと言え」 「それでも、貸さん、言いよったら、カンカン踊り、演《や》る、言いまひょか」 「どうなと言うて、もろうてこい」 「へエ……。アア、えらい目エに会うたなア……。ごめんやす」 「オオ、お前、紙屑屋やないか。なにしに来た……」 「この先の路地に住んでたらくだが死にましたンや」 「なにッ、らくだが死んだか。……やれ、ありがたい。よう知らしてくれた」 「ヘエ……。それにつきまして、まことに申しかねますが、棺桶につかいますので、樽の古いのを一挺、いただきたいと……」 「オイ、紙屑屋。なにを、あほなこと、言いにくるねン。樽は宅《うち》の商売道具やで……」 「もし、いただけまへんのなら、ちょっと貸してもらいましたら、あいたらすぐにお返しいたします」 「馬鹿なこと言いなや。そんな物が使えるかい。ものをよう考えてみイや。なんで、わしの家が、らくだにそんなことせにゃならんのや。……なるほど、らくだには、ずいぶん、品物を買うてもろた……買うてもろたが、いっぺんも銭をもろうたことがないのや。あほらしいこと言うてきなや」 「サ、そこだすねン……。これは、樽の一挺ぐらいだまって出しはる方が、ええと思いますがナ。らくだの家には、いま、らくだの兄貴分にあたる、やたけたの熊五郎という男が来てますがね、これがなかなか、尋常の人間やおまへんねン。ひとつまちがうと、死人を担ぎこんで、カンカン踊りをやらしまンのや」 「エッそんなことやるのンか」 「いま、家主の家でやってきたとこだす」 「ブルブル……。やる、やる。ソレ、そこに空樽が一つあるやろ。その古い方にしといて。箍《たが》がちょっと傷んでるけど、それよりなかった、言うといて」 「えらいむり言うてすんまへん。この縄も、ちょっと、もらいまっせ」 「よっしゃ、よっしゃ。なんなと持って、はよう去《い》んで」 「さいなら……。なるほど、カンカン踊りはよう効くなア……。米屋で、カンカン踊り、言うて、うちへ一斗ほど、持たしてよこしたろかしらん……」 「もろうてきたか、ごくろう、ごくろう……。家主|奴《め》、カンカン踊りにびっくりしよったとめエて、さっそく、持ってきよった。いま、ちょっと、味見したが、わりあいにいける。お前も商売まえに、死人背負たりして、体が汚れてるやろ。サ、これ、一ぱい飲んで、清めて行き」 「ヘエ、おおきに。いや、モ、いただいたも同然でおます。……これで、帰らしてもらいとおます」 「待て、待て。せっかく出した盃や。一ぱいだけ飲んで行たらどや。……お前、酒はきらいか」 「イエ、いたって好きだすね」 「皮肉なやっちゃな。好きなら、なんで飲まんねン」 「それが、商売まえに、酔うといきまへんので」 「なん吐かしてんねン。酔うほど飲まれて、たまるかエ。一ぱいぐらい飲んでもええやろ」 「いえ、それがそのウ……」 「ホウ……すると、おれがこれほど言うてンのに、飲まんと、言いとおすのやな。おもしろい、飲むな、食うな……。見ン事、飲まずにかえってみせエよ」 「オ、親方。そない怒ったらいけまへん。そんなら、逆らわんしるしに、ほんのちょっとだけ、いただきます」 「ざま見され。いらん口数、たたかしゃがって……。サ、湯呑み、持て。ブルブル震わんと、しっかり持たんかイ」 「どうぞ、もう、ほん、まねだけ。アッ……モウ、モシ……そない……あアア、たんと、ついどくなはったなア。ヘエ、御馳走はんで」 「それ見やがれ。それだけ飲めるくせに、ぐずぐず吐かしやがって。サ、もう一ぱいついだろ」 「イエ、もう、あきまへん」 「一杯酒は飲まんもんや。もう一ぱいだけ……」 「いや、おおきに。なんせ、商売前だすよって、ちょっと一回りしてきまして、帰りにでもまた寄せてもらいます」 「あほ言うな。お前がかえってくるまで、おれがこんな格好して、じっとしてられるかエ。さア、もう一ぱいだけ……」 「いえ、どうぞ、かんにんしとくなはれ」 「オイ、屑屋。おれがこないやさしゅう言うてるうちに、素直に飲む方が、ええことないか」 「エッ……ヘエ。そんなら、もう一ぱいだけ。アッ、そない……モウ、アッ、うわアー、ぎょうさんつぎなはったなア……。ヤ、えらい御馳走はんでおました。さいなら、これで、ごめんこうむらしていただきます」 「コラ、待て、待て。なンにも、そないせかせかせいでもええやないか。お前みたいに、ひと息に飲んでしもたら、飲ましてる方も、あんまり愛想がないわい。まア、途中で、肴のひと口もつまんで、味おうて飲んでみイ……。サ、もう一ぱい、ついだろ」 「あ、もう、大将、かんにんしとくなはれ。エッ、イエ、べつに逆らうわけやおまへんねが……。あア、さよか。ホナ、もう一ぱいだけ。どうぞ、もう、ほんまにこれだけにしといとくなはれや。ヘエヘエ……アッ、こぼれます。おオオ、酒が山盛りになってます、フウッ……あア、ええお酒だすなア……。ヘエ、おおきに、ひとつ饗《よ》ばれまっさ。フム……わりにうまいこと煮《た》いておますわ。砂糖も奮発《はり》こんでなア……。ヘッヘッヘッヘッ、家主奴、よっぽど、びっくりしたと見エまんな。……しかし、あんたは、えらいお方やナ、いや、ほんまだっせ。できる世話は、だれでもしまんがな。できんなかから、これだけのこと、したげなアる……まったく、見上げたもんや。ちょっと惚れたで……。いや、ほんまに……。ヘッヘッヘッへッ、なア、えらいすまんけど、もう一ぱい、饗ばれまひょか」 「オイ……。ええかいな」 「だ、大丈夫……。三ばいや五はいの酒には、酔やしまへん。ええもんだすなア……、ね酒、いうもんは……。じつはナ、恥を言わんとわかりまへんが、わたいも、もとからの紙屑屋やおまへんねン。ちょっとした道具屋の店を出してましたんやがナン……こいつだす。ヘエ、これで、すっかりいてしもて、今日《こんにち》、この始末だすがな……屑ウィーン、やて、さっぱりわやや。……サ、それでも、病気《やまい》だんな。これだけはやみまへんねン。イエ、むかしと違て、腹いっぱい飲むなんてことは、でけしまへん。毎晩、お仕着せ。燗瓶《かんびん》に一ぱいずつ……。ヘエ、いや、燗瓶もいろいろおまっけど、わたいのは三合入り……。三合入りとはいいまっけど、口まで入れたら、三合五|勺《しゃく》ぐらいはおまっしゃろ。……それをだンナ……三合分の銭もたして、買いにやると、酒屋が勉強して、口まで入れてくれまんねン。うちの路地口に、一軒、酒屋がおまんねけどナ、そこは、すこし計量《はかり》がわるおまんねン。二丁ほど離れたとこまで、買いにやりまんねンが……ヘッヘヘ。酒飲みというもんは、気が汚《きた》のおますわ。いえナ、天気の日イはよろしいけど、雨の降る日なんど、家内がちびた下駄はいて、ピチャピチャ帰ってくる姿見ると、あア、かわいそうなもんやと、思いまっせ、ヘエ……。ソイデ、わたい言いまんねン。……酒ぐらいお前が買いに行かいでも、子供をやったらええやないか……ちゅうと、家内が、いいえ、出世まえの子供にこんな使いをさすわけにいきまへん、わたしが行きます……言いよりまんねが、大将、義理は辛《つろ》おまんな。……いえ、継母だんねがナ……。まえの家内は、わたいが極道して、さんざん苦労したあげくに、死なしましたんや。これは、島の内の、ちょっとした表具屋の娘だしたが、縫い針から、お茶、花、ひととおりの心得《わきまえ》があって、三荷《さんか》の荷イを持って、うちへ嫁《かたづ》いてきたもんだす。……おとなしい女だした……。あんまり素直なんで、わたいが増長してしもたんが、わるおますねン。かわいそうに、二十九だした。ヘエ、肺だっしゃろな。ろくに医者にも診せまへなんだけど、おうじょうしましたで……。なんせ、四つと二つの、二人の子供を残されたんだっさかいなア……。それで、ま、縁があって、いまの家内をもらいましたけど、先の家内と、えらいちがいだす。そらもう、だい一、育ちがちがいますよってンなア……。それでも、まア、子供だけはかわいがってくれよりまっさかい、それだけはよろこんでまんねン。……わたいが、まア、途中で、弁当がわりに間食に食べた芋でも、すこし残して、持って帰りまへんかいナ……お前、これ食べてみ、わりあいにおいしい芋や……と言うとだンナ……おおきにありがとう、けど、子供においといてやりまっさ……言うて、手もつけしまへん。大将、あんた、どう思いはるかしりまへんが、わたいはそれが情無《なさけの》おまんねン。これがだっせ、ほんまの親子やったら、自分が半分食べて、あとの半分を子供にやりよんがな。そやおまへんか……。それを、おのれがひと口も食べんと、みんな、子供にやる、いうとこが、かえって水くさいやおまへんか。子供というもんは、かしこいもんだっせ。それだけかわいがってくれてても、わたいが商売《あきない》に出るときは、路地まで送って出よりましてナ……お父ちゃん、早よ帰ってや……言いよりまんねン。エッヘッヘッヘ……気のわるいことしなはんな。こっちの湯呑みが空になったら、黙っててもついでくれたらどうや」 「まア、飲むのはええけど、ひとまず、それぐらいにして、いっぺん商売に行てきたらどや。ソイデ、またあとで、飲みにきたらええがな」 「なんやッ……。イヤ、なにを言うねン。そのくらいにして、あとで飲みにきい……馬鹿ンすなッ。一ぱい二はいの酒、飲みに、わざわざ回ってこられるかい」 「それでも、お前はその日稼ぎ、お前の働きで女房子を……」 「フン、なにを吐かすねン。オイ、ものをよう考えや。わしゃ、出商売《であきない》やで。今日雨が降ったら商売を休まにゃならん。休んだからというて、かかや子供を干乾しにでけるかエ。二日や三日の食いだめがのうてどうするねン。はばかりながら、お前らとおんなじように思てくれるなッ……。けちけちせんとつげ。大体、この酒やかて、おれが死人を背負うて行ったりやこそ、持ってきたもんじゃ。気兼ねするかい。……コラ、アホ。なんちゅうつぎ様《よ》さらすねン。酒を山盛りにするやつがあるかエ。それみイ、口からお迎いにいかんならん。無器用なやっちゃなア……。そんな不細工なことで、よう博奕《ばくち》打ちをしてけつかる……。オイ、その徳利、こっちイ貸せ。お前みたいに、いじいじすると、酒の味がわるなる。独酌《どくしゃく》でやったる、早よ、徳利、貸さんかイ」 「……あかんで…。オイ、だいぶ、酔うてるがな」 「だれが酔うてる。なにを吐かす……。まるっきり飲んだとて、三升や五升の酒に、酔うてたまるかエ。貸せ、貸さんかッ……。よし、貸すな。みンごと、貸すなよ。クソッ、ぶち破ってこます、エエカ汝《われ》のド頭《たま》がかたいか、徳利がかたいか……」 「オイオイ……。あ、わるい酒やな。あぶない、やめとけ。サ、そんなら、ついだる」 「あたりまえじゃ。えんりょせんとつげ。……ないようになったかて心配すなよ。酒の三升や五升、買うぐらいの銭、持ってるわい。オット、こぼすな。ハッハッハッハッ、お前、面白い男や。これから仲ようつきあいしょう。なア、兄弟サア、一ぱい、いこ。……オイ、お前にさしてンのに、ついでどうするねン。酔うてやがるナ、ざま見され」 「いや、ちょっと待ってくれ。おれ、もうひとつ、用事が残ったアんねン」 「用なんて、どうでもええやないか。……用事て、なんじゃい」 「死人に湯灌《ゆかん》してやらにゃいかん」 「あ、そうか。こら、ほんに、してやらにゃいかん……。ヨシ、おれが手伝《てつど》てやる」 「なにかイ、手伝てくれるか」 「手伝てくれるか……とはどうじゃエ。兄貴、手伝え、言うたらええやないかイ。こんなやつでも死んだら仏や。ド頭ぐらい丸めたろかい」 「剃刀《かみそり》があるやろか」 「なにを吐かす……こんな家に剃刀があってたまるかい。あったら、とうに、おれが買うてるわい……。そんなもん、いらへん。髪の毛エ、手エでつかんで、引きむしったらええねン。細かい毛エが残ったら、紙、燃やして、焼いたらきれえになる……」 「鶏《かしわ》みたいに言うな。そんなこと、でけへん。どこぞに剃刀ないやろか」 「そんなら、こうせエ。向かい側の、奥から二軒目の家に、女が二人いる……女が二人もいたら、剃刀ぐらいあるにちがいない。お前、行て借ってこい」 「おれは顔しらんよって、貸してはくれへんやろ」 「気の弱いやっちゃなア。かまうこと、ないわい。行てこい。貸すの貸さんのと、吐かしたら、こう言え。うちには紙屑屋が控えてる。なんなら、死人のカンカン踊り、見せよか……。はよう行かんかエ。なに、ぐずぐずしてやがる。どじッ」 「行くがな、行くがな……。サ、借ってきた」 「それみイ、貸しよるやろがナ。さア、お前、その死骸、起こして、頭、持てエ。おれが剃《そ》ったる……。なにを、怖そうにさらすねン。死骸は噛まへんわい。……ナニ、水か……そんなもん、いらへん、死人が痛がるかイ。ソーレ……。汚い頭、してけつかンな。オイ、頭、もっと下向けんかエ。気ィきかせ、アホッ。サ、こんどは、こっち側や……。サ、このくらいにしとこ。まだ毛エが残ったアるけど、なんぼきれえにそったかて、ええ仏になる代物やない……。ついでに、棺桶へ入れてしもたろ。その樽、持ってこい。ソレ、おれが頭のほう持つさかい、お前、足持て。アホ、おれが手エ放してンのに、いつまで足を持ってんねン。それみイ、死人が逆さまになってよる……。かめへん、かめへん。その足を、どうなと折り曲げて、突ッ込んどけッ。……ア、なんやら、死骸の下から出てきたで。なんじゃ、六四札《むしふだ》か……。この坊主を一枚、棺の中へ入れといたれ。枕念仏のかわりじゃ。どうせ極楽へ行くやっちゃない。サ、上から蓋《ふた》して、こうして縄をかけて、なにッ、墨で目印《しるし》……。そんなことせんでもええ。どっちみち、逆様に入ってよンのじゃ。地獄へ、頭で飛んで行きよったらええのや…‥。サア片づいた。お前、この剃刀、返してこい。借った物を返さんような料簡で出世がでけるかい……。返してきたか……。ごくろう、ごくろう。さア遠慮せんと、ゆっくり飲め……。オイ、飲めちゅうたら、素直に飲まんかい。おれは気が短いのンじゃ、物数《ものかず》、言わすな。オット、この徳利は空じゃ。そっちの徳利……。なに、空か……みんな空……。なんじゃ、しようもない。そんなら、しようがない。この勢いで、焼き場までかついで行たろ。どうせ、人足雇うような銭、ないのやろ。ええがな、その閂《かんぬき》をこう通して、お前が先をかつげ。おれが後棒や。あ、コラコラ、と……。イヤアア、南無阿弥陀アア……」 「葬礼や、葬礼や。らくウだアの、葬礼やア」  棺桶をかつぎました二人、空堀《からぼり》通りを西へ、九之介橋を西へ渡って、大宝寺町を堺筋へ出て南へ曲がりますと、夕景になります。その堺筋の砂糖屋の表、丁稚が店をしまうので掃除してます。そこへやってきよったこの二人、 「葬礼、葬礼やァ。らくウだアの葬礼やア」 「定吉ッとん、定吉ッとん。ちょっと見てみなはれ。えらい汚い葬礼が来ましたで」 「葬礼や、葬礼やア」 「オイ、ちょ、ちょっと待て。棺桶、おろせ」 「どないしてン」 「いま、あの砂糖屋の丁椎が、おれらを見て、汚い葬礼やと吐かしよった。汚い葬礼がいかんのなら、これから彼所《あこ》へ行て、きれえな葬礼にしてもらおやないか」 「よし、そら面白い。やれ、やれ」 「どいつや。汚い葬礼やと吐かしたンは……」 「コレ、えらい表が騒々しいが、どうしたんや。……エエッ、丁稚が汚い葬礼やというたら、きれえな葬礼を出してくれと……エエッ、棺桶をかつぎこまれた。なにをするのじゃいな、それは。……そんな縁起のわるいことされてはどもならん。はよう金を包んで、酒を出して、あやまンなされ……コレ……」  とうとう酒にありついた二人、とろっぴき酔いますと、 「さ、ぼちぼち、行こか」 「葬礼や、葬礼やア。らくウだアの葬礼やア……」  表へ出ますと、外はもう真っ暗……。日本橋の北詰を西へ、太左衛門橋を渡りましたが、 「オーイ、ちょっと待て」 「またかいな………。どないしてン」 「棺が軽なったで、死骸を落としたらしい……」 「えエッ……。ほんに……。壊《つぶ》れかけた樽やったさかい、底が抜けたんかいな。しやァない、後戻りして探せ」  太左衛門橋を引き返しますと、ちょうど、橋の北詰に一人の願人坊主〔乞食僧〕。この橋の下をねぐらにしてる願人坊主が、酒に酔うて、前後不覚に、橋の袂《たもと》で寝てます。  これを見つけた二人、なんせ、真っ暗な上に、酔うてるもんでっさかい、まちがいよった。 「オオイ、あった、あった。こんなとこへ、落ちてけつかる」 「よっしゃ。早いとこ棺桶にぶち込んで、千日の焼き場へ連れて行け」  やっとのことで千日の焼き場へ連れて行きましたが、時刻がおそいので、もう戸オが閉まったアる。 「モシ、おたの申します……。コラア、開けんかい、仏を連れてきたぞオ」 「だ、だれや。いまごろ、焼き場の戸オたたくのンは……」 「仏を連れてきた」 「なにイ……仏……。じゃまくさいな、いまごろ。あとで焼くさかい、そこへ置いとけ」  二人が棺桶をそこへ放り出して、帰りますと、やがて、乞食坊主が目をさまして、 「アーアア。コラア、はよう、酒のかわりを持ってこい」 「アッ、びっくりするやないかイ。なんじゃ、酔っぱらいか………。気楽なもんじゃな。すんでのことに、焼くところじゃった。……オイ、しっかりせエ。こんなとこに酒があるかい」 「ここはどこじゃ」 「千日の火屋《ひや》じゃがな」 「冷酒《ひや》でもかまわん、もう一ぱい……」 [#改ページ] 貧乏花見  エエただ今は大阪の端ばしもなかなか綺麗になりまして、以前のようなむさ苦しいところでござりませんが、昔はずいぶんひどいところがあったもので、まず北では福島の羅漢前、南では日本橋の三丁目から五丁目へかけての長町。  あの辺へ参りますとそりゃアもうお話になりまへん。百軒長屋、ガタガタ裏、三月裏、六月裏、釜一つ裏、雪隠《せんち》裏、戸無し裏てな名前のついた長屋がございます。三月裏、六月裏などと申しますと、ちょっと気の利いた長屋のように聞こえますが、家が菱形《ひしなり》に歪んでるので三月裏。年中裸でくらすので六月裏。聞いただけでもぞっとします。釜一つ裏というのは七十六軒の長屋で釜が一つしかござりまへん。籤引きで飯を炊きますねが、籤運の悪い家ではなかなか番が回って来まへん。 「オイお前とこ、モウ朝飯は済んだか」 「ヤなかなか、今日の朝飯は明後日の昼頃やないと食えん」  心細いこと言うてよる。戸無し裏というのは戸をみな焚《た》いてしまいよって一枚も無いようになってます。よう用心の悪うないことやと思いますが、盗人も滅多に入っては来まへん。うかつに入ったらあっちこっち裸にされる。怖いところがあるもんで。  雪隠《せんち》裏というのは長屋が百二十軒で便所が百六十建てたアる。家主も賢い、どうせ家賃なんて取れそうもないよって、糞取りで飼うといたれ。鶯《うぐいす》みたいに思われてよる。  こういう長屋へ行きますと、家賃払わん講《こう》てな講を組んだりして、日家賃の溜まったことを自慢してる奴がござります。 「お前とこいくつ溜めた」 「溜まらんもんやなア、今日で六十四や」 「あかんなア、俺ら四月前から一つも払やへんで」 「しっかり溜めたなア、徳やんはどうや」 「俺の親爺は家賃を払わなんだそうな」 「ハーなるほど、するとその古いのを待ってもろうて、お前の代から払うてるのやな」 「阿呆言え、俺が払うたら死んだ親爺へ面当てみたいになるやないかい、そんな不孝なことが出来るかい、チャンと親爺の志をついで一つも払わん」 「えらい志をつぎよったなア、親の代から払わんというのは感心や……お梅はん、お前とこはどのくらい家賃溜めてる……」 「兄さん、家賃いうたらどんな物や」  たまから家賃を知らん奴がいます。 「オイ源やん、好《え》え天気になったなア」 「フム好え日和や」 「こんな好え天気になるのんやったら、仕事に出たらよかったなア」 「そうや。朝ちょっと曇ってたもんやよって、こら怪しいと思うて出損のうた」 「長屋の連中も大分出損のうてよるで、天気がようなって来たもんやよって、表をゾロゾロ人が通るやないか。あれを見い、どうやエエ、仰山《ぎょうさん》出よるなア」 「どこへ行くのやろ」 「知れたこっちゃ、みな花見に行くのやがな」 「結構な身分やなア、わいらかて同し人間や、一ぺんでもええよって、あんな身分になってみたい」 「そないに悔やみな、人間というものは七転び八起きや」 「わいらはそうやないで、七転び八転びや」 「この世は夢の浮世というやないかいな、あの人達は好え夢を見てござるのや」 「わいらは年中、悪い夢におそわれてるのやろか」 「そんな心細いこと言いないナ、花見に行きたけりゃ行かんかい、木戸銭も何も要らへんがな」 「食う物も飲む物もなしで行たかて、面白いことあれへん」 「お前らはそんなこと言うさかいあかん、家にいたかて飯食うやろがな、それを向こうへ持って行て食うたらええねがな」 「それにしたかて肝腎の酒が無いやないか」 「さア、酒が無けりゃ行けんように思うてるさかいに、大層になるのや、徳利に茶を詰めて行きんかいナ、人間は気で気を養うのや、人が酒盛りで、こっちは茶か盛りや」 「そんな阿呆らしいことよう思わん」 「そこがそれ、気で気を養うのやがナ」 「そないなジャラジャラした……。それに第一着物があれへん」 「何で着物が無いと行けんのや、お前らほんまの贅沢ちゅうことを知らんな、さる金満家の旦那が洒落た花見をしようというので、芸者|幇間《ほうかん》をさきへやっといて、自身は汚いぼろぼろの着物を着て行きなはった。さきの連中が陣取ってるとこへ、醤油で煮しめたような手拭いで頬かぶりして、どうぞお余りを戴かしてやっとくなはれ、言うて行きやはったんや、幇間が出て来て、こらあっちへ行け、アタ汚い、いうて、ドンと突きよった、すると旦那が、これ蝶助、そんな無茶すな、言うなり、頬かぶりをとって、襤褸《ぼろ》をグルッと脱《ぬ》ぎなはると、下は別染めの長襦袢に縮緬の扱帯《しごき》という風でスッと立ちなはったんや、一座の者はいうも更なり、ぐるりに見てる者がアッとびっくりしてる顔を見て楽しむという、どうや、こんなんがまアこの上なしの贅沢な花見やないか、そうやろがナ、そやよってに着物はかえって汚い方が面白いのや」 「そら面白いやろ、その旦那は面白かったやろ、襤褸を脱いだら下に別染めの襦袢があるのや、それから芸者相手に散財しやはんね、面白いに違いないがナ、そやけどこっちはそうはいかんがな、この着物脱いだかて下から別染めが出るのやなし、背中の灸《やいと》出して茶ばっかりガブガブ飲んで、それがなに面白いのや」 「さそこをや、下には立派な長襦袢を着てると思うてたらええやないか、なア、気で気を養うね」 「あんなんばっかりや」 「オイ、皆ここへ集まっといで」 「なんや、なんや」 「最前から今日は一つ花見をしようやないかいう相談が出来《でけ》たアるね、お前らも行けへんか」 「オット、山椒《さんしょう》」 「おかしいこと言うない、山椒て何やい」 「知らんのかいナ、旦那方の遺《つか》やはる言葉や」 「それなら賛成やろ……お前は」 「三銭」 「そっちは」 「四銭五銭六銭……」 「まるで競《せ》り市やがナ、そしたらみな行くのやな、よしよし……そこでやなア、弁当やら何やらいうてたらとても相談がにえん。わいの思惑ではめいめい家にある晩菜物をここへ持ち寄るのや、それをば風呂敷にでも包んで持って行ことこう思うね、何でもかめへんよって持っといで……」 「俺とこは何も持って行くような物あれへん」 「サ、どうせお互いに気の利いた物は無いわいナ、何でもええがナ、家にあり合わすもので辛抱するのや」 「そしたらカマウコでもよかったら、三枚ほどあるのん持って来うか」 「よかったらとはどうやいナ、お前らそんな贅沢なこと言うてるさかい頭が上がらへんのや、この長屋でそんな美味い物食うてる家があるかいナ、気兼ねなしに持っといで」 「よっしゃ……さアこの笊《いかき》に入ったアる、食べてや」 「……こら何じゃい、飯の焦げやがナ……」 「そうや、塩気が利かしたアるよってちょっといけるで」 「いや、お前さっき言うたやろ、蒲鉾《かまぼこ》三枚……」 「そうや、釜底三枚……」 「なんや、かまぞこかいナ……ヤヤこしい物言いしやがったナ……お前とこは何ぞあるか」 「長いなりが鉢に一杯あるね」 「長いなりてなんや……オイこら≪おから≫と違うか」 「そうや、それをきらずというやろがナ、切らなんだら長いなりや」 「まるで判じ物やがナ、藤やん、お前とこは……」 「無いこともないねが……えらい気兼ねナ……」 「何言うてんね、はたの持って来てる物見んかいナ、かまぞこに長いなりや、何でもええがな」 「そしたら鯉汁《こいじる》が少しあるのん持って来うか」 「えらいッ、流石《さすが》は藤やん、食うてる物が違うなア、鯉汁やなんて嬉しいものやってるやないか、結構結構、早う持って来て、……ナア藤やん。鯉汁はええが、土の釜に入れたりしいないナ、銀鍋銅鍋と贅沢はいえんにしても、せめて行平《ゆきひら》にでも入れて来たらどうや。おまけに縁《ふち》が欠けたアる。ざんないがナ、することが……オオオ。縁へ溢《あふ》れて……」 「吹いたものやよって……」 「チョッと拭いてくるとええのに、手綺麓にしたら鯉のお汁《つい》て、なかなか洒落た……何や。これ麦飯のお粥《かゆ》やないかい……」 「探してたら鯉が出てくるやろ思うね、麦飯で鯉釣る……」 「莫迦《ばか》にすない、何や妙に気兼ねしやがると思うた、オイみんな見い、麦飯のお粥持って来よったで、吉やんとこはなに持って来るね」 「そうめんはあかんか」 「ええがなええがな、あっさりと好え物や、持っといで……何やこれは、醤油やないか」 「そうや、お菜の無い時はこいつで辛抱するのやが、なかなか箸《はし》では挟《は》そうめん」 「ああ、はそうめんかいナ、えらい物持って来よったナ、そらこんなもの挟めるかい。虎やんは何や」 「オイショ、卵の巻き焼き」 「ソラ、大根漬《こうこ》やがナ」 「色がよう似たアる」 「味がてんで違うがな」 「そこは気で気を養うのや」 「ソラなに吐かしやがんね……作たんとこは何がある」 「何といわれるとえらい辛《つら》いねけど、鯡《にしん》の付け焼きが十五、六本あるね」 「ホホー、そら済まんなア、お前とこのが一番上等や、みな作たんに礼言うとけ。大きにご馳走はん」 「そんなこと言いないナ、こうしてりゃお互いや、ある時には食べてもらうかわりに無い時はよばれるね、礼言うたりしられるとホン辛いのや、それから生節の煮《た》いたんが七ツ八ツと、煮豆が小一升あると思うね」 「気の毒なナ、オイみな礼言いんかいナ、仰山出してくれるがナ、ほんまに済まん」 「それを言うてなちゅうのに、辛いなア、その他に高野豆腐が十二、三と、烏貝の酢味噌が少しに、蛸《たこ》の足が六本残ったアるね、それから巻きずしが何でも十本余り……」 「オイみんな、あんじょう礼言わなあかんぞ、作たん一人で長屋中の弁当もってくれるようなもんや、コラ釜底、もっとあんばいドタマ下げんかい」 「かなわんなア、そう言われると……お互いやいうてるのに……まアとにかくしろもの持って来るわ」 「チョッと待ちチョッと待ち、お前にばっかり物出さして、体まで使うたら済まん、ここにいてて、オーイみんなおいでや、作たんとこからご馳走をお手繰りで運ぶのや……。お前、何キョロキョロしてるね」 「何もあれへんがナ」 「そんなことがあるかい、あない立派に言うてよるね、あんじょう見いナ、膳棚か水屋に入れてないか」 「大体、膳棚も水屋もあれへんがナ」 「妙やなア……なア作たん、何もあれへん言うてよるで」 「家にないか、待ちや……ハハア、すると横町の煮売屋やったかいナ」 「オイオイ、嘘や嘘や、煮売屋の店にある物を皆ならべやがったんや。コラわやにすない。人にせんど礼言わしやがって」 「そやさかい言うてるがナ、礼言われると辛い……」 「あたりまえじゃ、倒し者め。……お前らもまたあんじょう見てから礼言わんかい」 「そらなに言うね、お前が礼言え、礼言えいうもんやさかい礼言うたんや、わいらお辞儀四ツした」 「まアみんな腹立ててなや、わいかてあったら出すのやけど、無い時はお互いや、今日はそっちのんよばれるわ」 「もうこんな奴相手にしいナ、ご馳走を皆こっちへ持っといで、それから羅宇《らう》仕替屋の片荷と歯入《なおし》屋〔下駄の歯なおし〕の箱とを持って来るのや、家主の裏に醤油樽の空いたんが放り出したアるやろ、あいつを綺麗に洗うて歯入《なおし》屋の箱の中へ入れるね、長屋中の茶をみなあの樽へ詰めるのや」 「えらい泡やで」 「新酒や思うてたらええがナ」 「色が濃過ぎる」 「水入れて薄めえナ、今日は嬶《かかあ》も年寄りもみんな連れて行たろ、アア源やん、済まんけどナ、奥の塵芥《ごもく》場に梅干しの筵《むしろ》が放ったアるよって持って来てんか、向こうへ行たら毛氈《もうせん》のかわりに敷かんならんさかい、ついでに持って行こ」 「ヤアどなたも大きに……」 「それ見い、お前らぐずぐずしてる間に、徳やんがチャンとこしらえをして来たがナ、しかし甲斐性者やなア、こんな長屋に住んでても、いざ出るといや羽織の一枚も引っ掛けてるがナ、徳やん小紋やな、ちょっと荒いがえらい好え羽織やないか」 「羽織に見えるやろ」 「見えるやろて、羽織と違うのかいナ」 「いんや、襦袢の襟《えり》を外して着てるね」 「えらいこと考えよったナ」 「ヤア失礼しました」 「オオ八卦見《はっけみ》の先生、さすがお商売柄や、黒の五つ紋で上品な風態《ふう》やなア、先生|奉書《ほうしょ》〔つむぎの一種〕だすか」 「イヤそんな上等やないので」 「紬《つむぎ》だすか」 「イーヤ」 「金巾《かなきん》だすか」 「いいや」 「何だすね」 「草紙《そうし》や」 「草紙……、ウワー、オイみんな見い。紙の羽織着て来やはった、何じゃガサガサ音がすると思うてたんや、紋はどないしておまんね」 「切り抜いて貼ったアるのや」 「ヘー。羽織の紐がちょっと変わっておますなア」 「下駄の鼻緒や」 「アア鼻緒だすか……、シャッポは何だすね」 「笊《いかき》に紙張って被ってるね」 「何でも紙でいきなはるのやなア」 「ヤー、失敬ッ」 「びっくりしたがナ、新公やないかい、夫婦の中に着物が一枚しか無いいうて泣き言いうたりしてて、何と立派な洋服着てるやないかいナ」 「着物が一枚よりないよって、わいが着たら嬶が裸や、しょうがないさかいこんな風態《ふう》してるね」 「どこで借って来たんや、キッチリ身に合うてるが」 「洋服に見えるやろ」 「ア、またあんなんや、洋服と違うのかいナ」 「裸に黒塗ったアるね」 「ヒヤア。えらいことやって来よったなア、ボタンは何や」 「胡粉《ごふん》で描いたアる」 「オイ道で汗かきなや、洋服が流れてきたりしたら難儀やで、シャッポが釜で、ステッキが火吹竹か、炊事場の化物みたいな風態《ふう》して来よったナ」 「どなたも大きに」 「大きに遅うなりました」 「どなたも大きに……」 「イヨウ来た来た、やっぱり女連中は風態《ふう》をチャンとすると綺麗なナ、お竹はん好え風態してるねナ、その着物は何や、上が無地で下に模様があったら裾模様やが、それは反対やないか。上に模様があって下が無地やがナ」 「上はお襦袢着てるのや、下は何も無いよって風呂敷巻いてその上から帯してるのや」 「好え度胸やなア、襦袢と風呂敷で表歩くちゅうで、この女は……。何でもええ、こしらえが出来たらボツボツ出よか、羅字仕替の荷の中へご馳走が入れたアるよって、歯入《なおし》屋の箱と一荷にして、喜ィ公、お前かたげて出たり、途中でまたかわり合うさかい、それから路地出る時はみなちょっと派手に出えや、チョイチョイコラコラ花見や花見や、と踊ってナ」 「わいだけそれ堪忍してもらうわ、酒も飲まんとそんな阿呆らしいことようせんワ」 「飲んで酔うてると思うてやりんかいナ、そこがそれ、気で気を養うのや、この近所で花見にでも行こかてな奴は一人もあれへん、一番ひけらかしたるね」 「ショムないことするねんナ」 「さアみな踊りや、アアチョィチョィ花見や」 「ヨイトヨイト花見や」 「コラコラ花見や」 「チョイチョイ」 「コラコラ」 「花見や」 「そうな」 「コラどいつや、いらんこと言いやがるのん、そうな、ちゅうことがあるかい、コラコラヨイトヨイト」 「花見じゃ」 「夜逃げじゃ」 「誰やいな、おかしいこと言うのん、一ぺんどついたれ」  ワアワア言いながら桜の宮へ掛かって参ります、その道中の賑やかなこと。(下座唄) 「オーイみんな、早うおいでやー」 「ちょっと待ってんかいナ、わてら女やさかい、そない早う歩かれへん……」 「オイ待ったれ待ったれ、風呂敷が足に纏《まと》いついて難儀してよる。落としよったら騒動もんや」 「まアお掛けやす、おでんの熱々がござります、景色のええとこがあいてござります」 「どうだすな、この辺の茶店で休んで、あとの者を待ち合わしまひょうか」 「銭あるかい」 「阿呆、大きな声出すな、やまく張ってるのやがナ……しかし、茶店も考えもんだすなア、道具が汚のうてなア、盃は欠けてるわ、茶碗は欠けてるワ」 「それでかけ茶屋というか」 「悪口だけは一人前やなア、さアこの辺で陣取りしよう、金満家の旦那みたいな気になって、鷹揚《おうよう》にせなあかんで、ここらがええか、もっと高みへ行こか」 「イヤなるべく低い方がええで、どんな拍子で上から美味い物が転んで来んとも限らん」 「そんな賎《いや》しいこと言いないナ、さアみんな来た、みんな来た、ここへかたまりや、やア荷持つぁん、ご苦労はん」 「コラ六兵衛。馬鹿にすな」 「オッ、怒ってるナ」 「怒らいでかい、えらそうに納まりやがって、荷持つぁんやなんて、何ちゅうこと吐かしやがんね、途中でかわり合うやいうたんどいつや、誰ぞ一人でもかわった者があるかい、クソ重たい物を俺一人に持たしやがって、よっほど途中で放ってしもうたろかと思うたんやけど、片っ方の荷が俺の荷やさかい、仕方なしに担《かた》げて来たんじゃい、ばかにしやがって」 「まアそない怒りな、帰りしなはかわるがナ」 「帰りは軽うなったアるわい、酒でもあるのんならせえがあるけど茶けやないかい、けったいな物持たしやがって……」 「いや済まん済まん、ほんまに気の毒やったなア」 「いや何もお前に怒ってるのんと違うねけどナ、あの六兵衛のガキがえらそうな顔しやがるのんがむかつくね」 「マアええがナ、お前はじきに箱屋起こすさかいドムならん、サアサア毛氈をこっちへ……」 「そ、アレがむかつくね、何じゃろと人に指図しよるやろがナ、なに吐かしてんね、毛氈みたいな物あるかい」 「そこにあるがナ。梅干し並べた……」 「筵《むしろ》の毛氈か」 「そんなこと言いないナ。それからグルッと幕を張ろやないか」 「幕なんてあれへんで」 「ええがナ、嬶連の湯巻きを取ってぐるりへ吊ったらええね」 「アアなるほど、そういくか、オイ嬶村屋、みな帯出しや」 「兄さん御免……」 「コラコラ。誰や人の顔へ幕放りやがんのは、お松つァんの幕かいナ。汚いなアこれは……」 「六兵衛はん、心悪そうにしいなや。そのお腰はまだ新《さら》やし」 「これが新《さら》か」 「はア一昨年の二月に買うたとこや、まだ一ぺんも水潜らずやし」 「潜る方がええのやがナ、オイ誰もこの幕の風下へ坐りなや」 「オイ次や、放るで……」 「アッ、プップッ、何でわいの顔へばっかり放るのんやいな、サア幕が張れたら、ご馳走をこっちへ順々にお手繰りお手繰り」 「わいは最初から荷持ちさされて往生してるね」 「まアそういわんと、今日一日は金満家の旦那みたいな顔しいというのに」 「何でもかめへん、茶ア一杯|汲《く》んでんか」 「そ、茶アてなこと言わんと、そこを酒らしゅう、ちょっと一杯|酌《つ》いでんかとやりいナ」 「えらいゴテゴテ言われるねナ、何でそないにゴテつかれるねナ、気兼ねなしになんぼでも飲むで、わいかて土瓶に二杯出したアる」 「分かった分かった。それからなア、今日は羅宇仕替屋とか歯入《なおし》屋とか言いなや、みな旦那衆や、煙管《きせる》屋の旦那とか、履物屋の御主人とかいうことにしよう」 「紙屑屋はいナ」 「紙屋の旦那やがナ、女もお梅はんやお竹はんでは具合が悪い、やっぱり小梅ちゃんとか、小竹ちゃんとかいうてると芸者らしいて色気がある」 「ようあんな阿呆らしいこと考えよるナ、どこぞの世界にあんな汚い芸者があるやろか」 「さアお一ついきまひょか」 「オット溢《ち》ります溢ります、アアー結構なお茶けでござりますナ、これはどちらのお茶けで、オオあんたはんとこの、そうかいな、お宅は宇治にええご親類があんなはるとみえて、ええお茶けが手回ります」 「酒が宇治から出るかいナ」 「このぐらいのお茶けになりますと一斤どのくらいいたします」 「酒に一斤ておかしいナ」 「このお茶けは悪酔いせえでよろしおますな、アア結構だす、モウだいぶ腹がダブついてまんね」 「さア皆はんどうだす、ご馳走をお取りやす、盛《よそ》いまひょうか」 「いえいえ、お手数を掛けては恐れ入ります、モウ勝手に頂戴いたします」 「まアよろしいがナ、何をお盛《よそ》い申しまひょ、鰆《さわら》の子でもどうでおます」 「そんな物あれへんやろ。鰆の子て何や」 「おからや」 「ああおからの鰆の子」 「そんなこと言いな」 「この鰆の子は仰山食べられまへん、あんまり食べると目が赤うなって、耳が長うなる」 「兎みたいにいいな、紙屋の大将|一献献《いっこんけん》じまひょうか」 「ハハハハ、藤やん、六兵衛はんの言うことえらい面白いナ、一献献じまひょうかなんて、お前も何とか言いいな」 「そんなら献じられまひょう」 「お蝋燭《ろうそく》やがなまるで、喜ィさん、貴方は何をいきまひょう」 「イエどうぞ放っといとくなはれ、玉子の巻き焼きを頂戴いたします、これをちょっと摘《つ》み久太郎町一丁目」 「オイみんな聞いたか、喜ィ公でもあんな意気な洒落を言いよるがな、摘み久太郎町一丁目、ええナ」 「わいは博労町一丁目」 「そんなこと何にもならへん」 「この巻き焼きは色はよろしいが、だいぶ押しが利き過ぎてまんな」 「巻き焼きに押しが利くちゅうのはおかしいな」 「それに塩が強い……バリバリ」 「オイ、巻き焼きをバリバリ音さして食う奴があるかいナ」 「そうかて音がするのやよってしようがない」 「そこは音ささんように、口の中でオネオネやって鵜《う》呑みにしいな」 「ヤアえらい物もろうたなア、噛むことが出来へん」 「鵜呑みにしたらええねがナ」 「口一パイになってるね」 「何時までオネオネさしてんね、早う食べんか」 「これがどうして早う食べられるかいナ、エーイ、ウーン」 「オイどうしたどうした」 「ウーン……」 「喜ィ公、しつかりせえ」 「可哀想に巻き焼きを咽喉へ詰めよった、そんな物を鵜呑みにさすよってにや、喜ィ公、しっかりせえ」 「アア苦しい、オイみんな玉子の巻き焼きはもらいなや、巻き焼き食うのは命がけやで……」 「そんな可哀想なことしたりないナ」  ワアワア申しております。  上の茶店では嬢《いと》はん坊《ぼん》さんを連れておいでになるお方もあれば、芸者幇間を連れて大騒ぎをなさるお方もござります。下で茶ばっかり飲んでる連中、これを見て堪らんようになりよった。 「オイ、こりゃもうジッとしていられん、俺に思惑があるね、上へいて一つ喧嘩しょう」 「喧嘩してどうするね」 「俺のいうとおりにしたらほんまの酒飲ましたる」 「どないするのや」 「あいつらの前で殴り合いの大喧嘩をするね、そしたら、危ないさかい逃げよるに違いない、首尾よういたら向こうの酒肴《さけさかな》をこっちへ持って来て飲むのや、ええやろがな」 「喧嘩ちゅうて、どういう具合にやるのやいナ」 「茶店の前でわざと突き当たるね、お前がコラ気イつけさらせちゅうと俺が、己れこそ気イつけさらさんかいと、言うなり、頭を三つほど殴るね」 「ウワア痛いな。右か左か」 「そらその時の拍子でどっちになるや分からへん」 「わい右の頭に腫物《でけもん》が出来たアるね、なるべくなら左の方にしといてんか」 「心配しいナ、痛いようなことしやへん、馬鹿にさらすな、己れが先に当たっときやがってと、今度は向こう脛《ずね》を蹴るね」 「痛そうなとこばっかりやな」 「少々は我慢せえ、ほんまの酒を飲ましたるのや」 「辛抱はするけども、なるべくぼんやりやってや」 「大丈夫や、そうするとお前が、そんな手荒いことせんかて訳さえ分かったらええのやないか、訳もクソもあるかい、いうなり胸をドーンと突くね」 「急所ばっかりやな」 「お前が仰向けにゴロッとひっくり返る、その足引き摺って向こうの小便桶へ逆様に放り込んで、石叩き込むね」 「せっかくやけどわい止めとくわ、そないしられてまで酒飲みたいことないワ」 「そこまで滅多にやらへんわいナ、まアそのぐらいの呼吸でいたらええね」 「どうぞ腫物だけ気イつけてや、頼むで」 「分かってるがな、お前は向こうから回り」 「よしか、もうええか」 「阿呆やな、隠れん坊みたいにいうてよる、チャッチャンチャン……オイ早う当たりんか」 「もうええか」 「そんなこと言うたらあけへん……(ドーン)コラ気イつけやがれ、向こう見さらせ」 「向こう見てたんや、そいたらお前がモウええいうような恰好したさかい突き当たったんや」 「ド阿呆、己れの目は銀紙か、もっと大きな目を開いて歩きくされ、何ちゅうことをさらすね」……(ポカッ) 「アッ痛ッ、腫物だけは叩いてなやいうて頼んだアるのに」 「なに吐かしてけつかんね、洒落たこというない」  ポカッポカッポカッポカッ。 「痛いッ、痛いッ、痛いッ、コラ三つどつくいう約束やないかい、それに腫物の上ばっかり仰山どつきやがってナ……それ見い、こない血が出て来たわい……己れクソッタレ奴《め》……」 「痛たたたたた、オイオイ人の顔を引っつかんでどうや、指が目へ入るがナ、コレ。ほんまに怒ったらいかんがナ」 「何|吐《ぬ》かしやがんね、あない仰山どつかれて怒らん者があるかい、ウーム、糞ッ」 「痛たたたたた、よしほんまに来るのやな。エーイ」  ポカッ。 ポカッ。  どうやら喧嘩がほんまもんになってきよった。  旦那方やご身分のあるお方は喧嘩のそば杖を食うて、怪我でもしてはならんというので、 「嬢《とう》さん、こっちへ早うおいでやす」 「旦那《だん》さん、お危のうござります、お逃げやすお逃げやす」 「そこらは放っとき、怪我したらドムならん、サアみんな早う逃げ逃げ」  大騒ぎ。芸者幇間を連れた旦那衆や、金満家の嬢さん坊さん方はみな逃げてしまいなはって、掛け茶屋はヒッソリしてしまいました。 「オイもうええがナ、いつまで顔つかんでるね」 「ばかにしやがって……」 「もう誰もいやへん、サア早うこの酒肴を運ぶのや」 「ホホー、旨《うま》そうな物があるな、ちょっとこれ一切れよばれるワ」 「オイ食うのは後にしいナ、怒ってるかと思うたら物食うてよる」 「まア先に酒を一杯……」 「運んでから飲みちゅうのに……オーイみんな来い、みんな来い、お手繰りや、お手繰りや」  スッカリ下へ運んでしもうて、今度はほんまの酒盛りを始めました。 「どもならんナ、ああいう手合いは酒を飲むとすぐ喧嘩しよる、誰も怪我はなかったか、アアそれは良かった……コレ繁八、わしとこの場所はどこやったなア、……茶店の衆がみな片付けてくれたんかいナ」 「ちょっと待っとくなはれや……アアここだす、ここだす、ご馳走も何もおまへんで……」 「どないしたんやいナ」 「はてナ……なるほどそうか、いや旦那分かりました、下を一ペんご覧、向こうに湯巻き吊ったりして、いま喧嘩しよった連中がかたまってよるとこを……」 「アッ、向こうに家の重箱がいたアる」 「あア、わたいの折詰もある、家の酒樽もいたアるわ」 「アばかにしやがって……わいも何じゃ、サアけったいな喧嘩やと思うてましたんや、腫物の上を撲《なぐ》りよったんで、ほんまの喧嘩になったけど、大体は相対《あいたい》喧嘩してよったんだっせ、あんなことして家の酒肴を取りに来やがったに違いおまへん……己れ糞……何と思うてくさる……」 「コレ繁八、そら何をしてるのや、鉢巻きや腕まくりして徳利持ったりして……」 「こんなことしられて黙っていられますかいナ、向こうへ乗り込んであいつらの横面張り倒してやりまんね」 「やめときやめとき、相手が相手や、ああいう手合いにそんなことしたらかえってうるさい、コレやめときちゅうに」 「阿呆らしい、旦那方のご贔屓《ひいき》になって、飲んだり食べたりするばかりが幇間の能やおまへん、いや大丈夫、あんな奴ぐらいにへこたれる繁八とはちょっと違いまっせ……いいえ酔うてやしまへん、いてこましたりまんね……ギャイ、コラッ、己れらアそれ、どこの物を飲み食いさらしてんね」 「ヒッ、どいつや」 「何じゃ、何じゃ」 「ウイー、ど、どないや言うてよんね」 「人の陣取りしたとこへ鉢巻きしてうせて、何ちゅう大きな声出しやがんね、何ぞ気に入らんことがあるのんかいッ、ハハア、己れはさいぜんからこの上で、ワイワイ吐かしてけつかった幇間やな、向こうにあった酒や肴を持って来たんがいかんちゅうてくさるのか、腕まくりして徳利提げてるとこを見ると、それで俺らを殴るとでもいうのんか、イヤこら面白い、オイ羅宇仕替屋、歯入《なおし》屋、みんな幇間に殴ってもらおうやないかい、さア殴ってくれ、殺してくれ」 「ウーム……ウーム、そんな……」 「さアやってもらおう、一ぺん死んだら二度とは死なんわい、さア殴れ、殺しやがれッ」 「チョッと待っとくなはれ、何も殴るのどうのそんなつもりで来たんやおまへんね……」 「そんなつもりやないのんなら、その腕まくりや鉢巻きは何じゃいッ」 「ヘエこれは……えろうお陽気そうにおますさかい、わたいもちょっと踊らしてもらおうと思うて……」 「嘘吐けッ、そんなら手に持ってる徳利は何じゃ」 「これはその……ウーム銚子のお代わりを持って来ました」 「心配しな、心配しな、あいつ、酒癖が悪いのや」 「笑いまひょう笑いまひょう」