[#表紙(表紙3.jpg)] 上方落語100選(3) 笑福亭松鶴 目 次  蛸芝居  立切れ線香  狸茶屋  ちしゃ医者  莨の火  次の御用日  鶴  手切れ丁稚  天神山  天王寺詣り  胴斬り  殿集め  苫ヶ島  西の旅(一)播州巡り  西の旅(二)兵庫船  人形買い  猫の災難  猫の忠信  野崎詣り  初天神  東の旅(一)尼買い  東の旅(二)運付酒  東の旅(三)軽業  東の旅(四)七度狐  一人酒盛 [#改ページ] 蛸《たこ》芝居  加持祈祷《かじきとう》とか申しまして、昔から、たくさんに呪《まじな》いがございます。  まァみなさんでもご承知の、鼻血が出たとき、首筋の毛を三本抜いたら、鼻血がすぐに止まるとか、また、目ばちこがでけますと、≪こより≫をこしらえまして、これで目ばちこの上をば丸う結びますと、すぐに目ばちこが治るとか、蛸を食べてあたったときは、黒豆を三粒買うてきて、これを食べるとええとか……いろいろなことが言うてございます。  このおはなしは、まだ映画なぞのなかった時分のことで……。  ここにこざいましたお家、ご主人からお店の人、女中《おなごつ》さんにいたるまで、いたって芝居好き。  今朝も今朝とて、ご主人みずから、店の者を起こすというので、三番叟《さんばそう》で起こしてなはる。 「おーそいぞや、おそいぞや(三番叟)夜が明けたりや、女中|丁稚《でっち》、起きよ、乳母《おんば》」(三味線入って) 「岩松っとん、岩松っとん。見てみなはれ。旦那はん、勉強しよんな。きょうは、エエ、わたいら起こすのに三番叟で起こしてくれてまっせ」 「ほんに。やっぱし旦那はんも好きなだけに、エヘッ、なかなかうまいことやりまんな」 「どうだす。ひとつ褒《ほ》めまひょか」 「そうだんな。褒めまひょ、褒めまひょ」 「いよッ、三番叟《さんば》ァーッ」 「なにを言ってくさるッ。ひとがこないして、気をつこうて、起きよいようにと思て、起こしてやってんのに、寝床《ねま》から首つき出しくさって、なにを言うてくさる。さァさ、早いこと起きて、表を掃除しまひょ」 「ヘーィ……。ハッハッハッ、岩松っとん。さっぱりわやでんな。ハハッ、朝からおこられてんね、エヘッ。しかしおもしろあんナ。あ、そらそうとな。こないして、二人でただ掃除してるだけではおもしろいことおまへん。なんぞ、この、掃除しながらする芝居、おまへんやろか」 「おまんがな。そう、二番目狂言の幕開き、水奴《みずやっこ》。下郎が、門外《もんそと》、掃除してるとこおまっしゃろ」 「ほんに、あるある。ホナ、ひとつあれやりまひょか」 「そないしまひょ。やっとまかせのな。丁稚奉公がなにになろ。夏は布子《ぬのこ》」 「冬はどてらの一貫で」 「寒さをしのぐ茶碗酒」 「雪と暮らすも絶興か」 「さらば掃除に、ア、かかろうけえ」(三味線合い方、水まき) 「やっとまかせのな。掃けども掃けども、落ちくる木の葉。なんと憂《う》たていことではないかい」 「それはそうと、掃除がすんだがこっちのつけ目。いつものように台所へ行て」 「つまみ食いと出かけようか」 「そんなら岩内」 「そんなら定内」 「俺について、こう来いやい」(囃子、はん唄)。 「コレ、コレ、コレ、コレ。二人とも、向かいの路地《ろうじ》へ入って行って、なにをしてんねン」 「旦那はん、花道がないので、ちょとこの路地を花道に」 「ようそんなあほなことしとる。こっちへ帰って来なはい。どんならんやっちゃ。お前ら二人おいといたら、芝居してどもならん。さァ岩松は坊ンのこの玩具箱《おもちゃばこ》を片づけ。定吉は奥へ行て、お仏壇の掃除をしなはれ」 「ヘーィ……ハッハッハッ、またおこられた……。しかし、ぎょうさんの玩具やな。でんでん太鼓に鬼の面。ア、独楽《こま》の長い紐やな。こんな紐もってする芝居なかったかいな……。オ、あるある」(本釣り、ボーン。囃子入り合い方)。 「八重にもつれし、この捕縄《とりなわ》。解くか結ぶか今宵のうち、当家《ここ》の禿頭《はげちゃん》、腕、まわせェ」 「オイ……だれが禿頭や」 「ア、いてなはったか」 「いてえでか。また芝居しとる。店へ行てなはれ」 「ヘーイ」  定吉の方は、奥の間でお仏壇の掃除。 「しかし、かなわんな。お仏壇の掃除、毎日、きまったように俺《わい》にさしやがんね。また、ここのお仏壇、大きなお仏壇やさかいなァ……。うわァぎょうさん位牌があるなァ、エェ。この位牌はだれの位牌……あ、死んだここのお婆ンのンや。あら憎たらしいお婆ンやったで、エエ、あいだは、定吉定吉、猫なで声で呼んどきやがって、ちょっとこっちがすかたんしたら、ボォンと、女《おなご》だてら、拳骨で頭どつきやがんねン。あんな憎たらしいお婆ンなかったな。そや、死んでから脳病わずらうように、こないして逆さまに立てといたろ。こっちの大きなお位牌、だれのやろ。あ、こら死にはった隠居はんのやっちゃ。この人、よかったなァ。このお婆ンとえらいちがいやで。よう可愛がってくれはった。ヘッ、頬ずりしといたろ。あ、そや。こんな位牌もってする芝居あるで……ある、ある。仇討物や。忠義な武士が御主人の位牌、前へおいて泣いとるとこ。ええやっちゃ。いっぺん、ここでやったろ。冷光院殿貴山大居士様(木魚入り、三味線合い方)。いつぞや、天保山舟遊びのそのみぎり、何者とも知れぬ曲者のために、あえないご最期。この定吉は未だその時には、鼻たれ前垂《まえだれ》。その前髪を幸いにまんまとこの家《や》に入りこみしが、合点の行かぬがこの家の禿頭、いまに禿頭、素ッ首引き抜き、日ごろのご無念、晴らさせましょう」 「なにを言うてくさんねン」 「あッ、ハッハッハッ、旦那はん、いやはりましたん」 「どもならんやっちゃな。ちょっと目ェはなすと、すぐ、そないして芝居してくさるねン。もうここはよろし、あっちへ行て、坊ンの守《もり》して来まひょ」 「ハッハッハッ、あァさっぱりわやや。ヘッヘッヘッ……またおこられてる……この坊ンの守、かなわんナ。太閤はんでも、子供の守には往生した、ちゅうねンさかいな。……よう泣く子ォやな……なに泣いてなはんねン。……そや、子供抱いてする芝居があるで……お家騒動もんや。忠義な下郎が和子《わこ》様ふところへ入れて落ちよる。そこへ追手が出てきて、立ち廻りになるとこ……ヘッヘッ、あれやったろ。旦那はん見てェへんやろな。あ、浮世じゃなァ。(三味線合い方)館の騒動にて、家中は散り散りばらばら。おいたわしいはこの和子様。一文奴《いちもんやっこ》のふところをば、百万石ともおぼしめし、スヤラスヤラと御寝《ぎょし》なさるお心根、おいたわしゅうござります。おォおォ、お泣きなさんな、お泣きなさんな。どれ、ベエが寝かして上げましょう。♪寝んねこせえ、お寝やれや」  こっちの方から、岩松が棒切れ持ちよって、 「エッエエィッ」 「エエィッ。♪山を越えて里へ行た」 「エエィッ」 「ヤォッエエィ」(♪里のみやげになに貰《もろ》たァ) 「エエィッ、ウーン。ヤァーツ」 「♪でんでん太鼓に、笙《しょう》の笛エーッ」 「コレ、コレ、コレッ。坊ンを投げつけて、どないすんねン。無茶しないな」 「ウァー、ハッハッハッ。えらいすんまへん」 「これこれ、そら逆さまやがな」 「さかさまいのゥ」 「あほんだら。もうよろし。お前ら二人っきりにしとくと、ろくなことあらへん。さ、もうナ、おとなしゅうに店で店番してまひょ。店番してまひょ。もし、今度め、芝居してんのン見つけたら、承知せんぞ。するのやないぞ」 「へえェ、ハッハッハッ、また、おこられてるね。なァ岩松っとん。もう芝居やめときまひょな」 「そうだんな。しかしナ、もう芝居でけんとなると、なんや淋しおまんな。……あ、ちょうど、よろしいわ。もうじき、魚善《うおぜん》が来まっしゃろ」 「ヘェ、魚屋、来ま」 「あの魚喜、芝居好きでっせェ。店の暖簾しゅっとめくりよりまっしゃろ。ホナ、こっちからナ、パァーッと、大向こうかけたりまんねン。すぐそれにのって、芝居しまっさかい、見てみなはれ」 「魚喜、よろーし」 「あ、ちょうど来ました。あんたナ、その下駄で、板の間《ま》たたいてツケのかわりにしなはれ。わたい、大向こう、かけまっさかい。よろしいな。魚屋ァーッ」(鳴り物・三味線唄……) 「ホレ、見てみなはれ。えらい芝居してまっしゃろ。見てみなはれ、エヘッ。役者気取りで入ってきまっしゃろ」 「やっとまかせのな。ご主人、今日はなんぞお魚の御用は、ござりませんか」 「そらなにを言うねン。そいでのうても、わしとこは役者が多うて、しやァないのンやがな。ほかから増《ふ》えたらどんならんな。魚喜、かんにしてや……ホイデ、なにがあんねン」 「ヘイ。豊島屋ござをあげますと、市川海老十郎、尾上鯛之助、中村蛸蔵……」 「堪忍して、堪忍して、モウ。よう、そんなしょうむない名前つけたな。……そんなら、なにかいな。蛸と鯛と海老か……ハハンこうしょうか。蛸は酢蛸《すだこ》にするさかいな。それ、流台《はしりもと》へもって行て、摺鉢《すりばち》で伏せといてんか。そいで、鯛は三枚におろしてんか」 「承知いたしました。君のお召しだ、鯛蛸両人、キリキリィ歩めッ」 「そんなもん歩くかいな」 「歩かんさかい、こないして、手ェでもって行きまんね……。へ、ええと……蛸はこの摺鉢で伏せとくと……鯛は三枚におろすのやったな。と、井戸の水を汲まんならんで……。半分残しといて、この井戸側へのせとくか」  パリポリ、パリポリ、パリポリ、パリポリ、パリポリ、パリポリ……。 「ああァええ鯛やな。エエ、これだけ新しい鯛、ちょっと口ヘ入らんで」プツゥーッ。 「ええ内臓《はらわた》やな、新しいなァ……あ、こんな内臓《わた》もってする芝居があるで……あった、あった。忠臣蔵の六段目、勘平の腹切り。二人侍が、勘平血判、ちゅうと、血判たしかに……あッ汚な、そこら血だらけや」  おもわず、この手をパァーッと振りますと、井戸側にのせてあった釣瓶《つるべ》へ当たった。釣瓶はもんどり打って、井戸の中ィズバァーッ(太鼓、水音)。なにを思いよったか、魚屋、井戸側へ片足かけるなり、 「ハテ、怪しやなァ」  表から丁稚が走って来よった。 「いぶかしやなァ」(三味線合い方) 「今このところへ、釣瓶|落《はま》るやいなや、水気《すいき》どうどうと立ち上るは、旦那の褌《ふんどし》が落《はま》りしか、お清どんの腰巻が落《はま》ったか。なににもいたせ、ふしぎな奇態《きたい》を見るものだなァ」 「なに言うてくさんね。よう、そんだけ、芝居してるな。みな、あっちへ行きなはれ。コレ魚喜、お前、のんきに芝居してるどこやあらへんで。表においたァる荷ィのなかから、横町の赤犬が出てきて、はまちを一匹、盗《と》って行きよったで」 「ナニ、すりゃ、はまちの一巻を……」 「まだ芝居してるわ。芝居してるどこやあらへんがな。早よ行きんかいな」 「遠くは行くまい、あと追っかけて、おお、そうだァ」(三味線合い方) 「魚喜ひとりで心もとなし。この定吉も、あと追っついて、おお、そうじゃ」 「こうれ、こうれ。そちが行こうと、まだらまだらと待っていようや」 「じゃと申して」 「血気にはやるは猪武者。待てと申さば、待ちおらぬか」 「ムウ、行くにも行けぬか。アノ、命|冥加《みょうが》なァ赤ァーイーヌー……」 「なァにを言うてんねン阿呆。ようそんな、あほなこと言うてるわ。サッ、あの蛸を酢蛸にせんならん。定吉、手が空《あ》いてんねやったらナ、酢なと買うて来まひょ」 「ヘーィ」 「どもならんやっちゃなァ。ちょっと目ェはなすと、みな、あないして芝居しくさる」  旦那が台所の火鉢の傍《わき》へ座って、煙草を吸うてますと、さきほど、摺鉢《すりばち》で伏せといた蛸が、一部始終を聞いてましたもんとみえまして、摺鉢の中で、ぼちぼち、もの言い出しよった。 「なにィ、わいを酢蛸にするてか。うまいことおっしゃれ。酢蛸にされてたまるかェ。……そや、いまの間《ま》に逃げてやれ」(鳴物・三味線)  ぼつぼつ、摺鉢をもち上げだしよった。  持ち上げるといっしょに、口から墨をブゥーッと吹きますと、これが体一面にかかって真ッ黒。黒の四天《よてん》が出来《でけ》たある。台所にかかったァる連木《れんげ》をはずしてきて、こいつをば腰に一本、刀のかわり。拭布《ふっきん》で頬かぶりしよって、出刃包丁手にもって、台所の壁の柔らかそうなところを、くり抜き出しよった(三味線)。  蛸めひとりで目ェむいとる。 「こらどもならんなァ。わしとこの家は、ちょっと生臭い物おくと、鼠がえらい音さして……。待ちや……鼠やと思たが、あら鼠やないで。アッ蛸や。けったいな家やなァ、わしとこの家は。買《こ》うた蛸まで芝居してくさる。高い金出して買うたある蛸や、逃げられてたまるかい。……ようし……」  この旦那もすぐに行て捕まえりゃ捕まるもんを、うしろからついて行て、蛸のさしてる連木のこじり、連木にこじりてなもんおまへんけど、刀のこじりのつもりで、そいつをひとつ、ぐっと握って、後《あと》へ引きもどします。  蛸め、うまァいこと、体をかわして最後に、握り拳《こぶし》。蛸の足に握り拳があるやないや、わかりまへんが……。  ひとつ固めますと、旦那の胸のところを、当て身でボォン。旦那、そのまま、当て身食ろうて倒れてしまいました。 「雉《きじ》も鳴かずば、射たれもせまい。明石《あかし》が浦へ、ア、ちっとも早よう、おお、そうだァ」(三味線) 「ヘェ、旦那はん、酢買うてきましたで。旦……アッ、旦那はん。こんなとこで倒れたはるわ……モシ、旦那はん、しつかりしなはれ、旦那はん」 「ウーン、定吉か、おそかったァ」 「あんたも、やっぱり、芝居してなはるがナ」 「定吉、黒豆、三粒、もってきてくれ」 「どないしはりました」 「蛸に中毒《あて》られた」 〔解説〕蛸にあたったら黒豆三粒食えばなおるというマクラを受けたオチ。芝居の部分はすべて鳴り物入りでやる。 [#改ページ] 立切れ線香《せんこう》  エエ、今回は「立ち切れ線香」という廓《くるわ》ばなしを一席申し上げます。  これは船場《せんば》のあるご大家の若旦那が夜ごと日ごとにお茶屋遊びを繁《しげ》くなされますので、ついに足止めの二階住まいとしてございましたのに、それでも抜けつ隠れつお茶屋へお通いになります。  ある日のこと、一家ご親類の方々がお集まりになって若旦那のお身につき種々とご相談中、若旦那は二階で退屈そうに赤表紙か何かを見ておいででしたが、 「コレ、丁稚《こども》」 「ヘーィ」 「今、階下でワヤワヤ私語《ささやきばなし》がはずんでるが、どなたかおいでか」 「ヘエ、秋田のお家はんと兵庫の旦那《だん》さんがおこしで」 「フーン、秋田の伯母貴と兵庫の伯父貴が来ているか」 「ハア、秋田の伯母貴と兵庫の伯父貴が来ております」 「おのれが伯母貴だの伯父貴ということがあるもんか、大方、おれのこっちゃろう」 「さよう、さよう、みんな己《おの》れのことで」 「何をぬかすのや、貴様がわしを己れというものの言いようがあるもんか」 「親|旦那《だん》さんがあなた様のことをいうてはりましたぜえ、金食う虫や、あんさん金食う虫でっか」 「阿呆言え」 「親旦那さんがうちにもう置いとかん放り出してしまうとおっしゃってでこざいます、あなたの伯母さんがマアともかくもわしの家へ預かっておこうとおっしゃいました」 「フーン、秋田の伯母貴は私を預かって帰《い》のうというてたか、伯母貴は婦女《おなご》やけど胸の広いひとや」 「イエ、わたしア行水していなさる時に見ましたが、胸は通常《ひととおり》でございました」 「何をいうのや、そうやないわい、あの伯母貴は婦女でこそあれ男勝りや、わしを預かって帰のうというのは先方のうちに不器量な娘がある。俗に人三化七《にんさんばけしち》というて、人間が三分に化物が七分、ソラ、もう奇妙奇天烈な顔や、嫁入りさせとうても、誰ももらい手がないという格別の不器量や、けど、そこが親の情で、やっぱり、それ相応の良人《おっと》を持たせてやりたいという伯母貴の了見で、わしをつれて帰んでアノ無細工な娘と夫婦にしようという話やろう、ウン、そうか」 「何を言うていなさる、そんなウマイことがおますもんか、それやったら、よっぽど、ええのだすけど、こないだ博労した牛がちょっと手荒いよってあれを連れて帰んで畑へ放り出したらええ加減に角で腹部《はら》を破られてゴネルやろうと言うてはりました」 「伯母貴アまるで鬼みたような了見やな、いよいよそうか」 「そうしたら兵庫の旦那さんがおっしゃいますには、そんなことをすると見る目がいじらしいよって、それよりか私の家へつれて帰ろうとおっしゃいました」 「フーン、なるほど、さすがは伯父貴は伯父貴だけ、また男子《おとこ》の了見はちごうたもんやなア、わしをば兵庫へつれて帰って北風とかなんとか立派なとこへ手代奉公にでも当分入れておこうという伯父貴の了見や」 「そんなんならエライよろしゅうございますけど、そうやおまへん」 「どうしようというてた伯父貴は」 「和田の明神さんのすぐ前に一艘つぶれかかった舟がこざいます、その舟へあなたを乗せて、ちょっと、風が荒う吹く日に沖へ指してドウーッと突き出しておけば、その暴風のために舟がひっくり返ったら鱶《ふか》の餌食にでもなるやろうと」 「まるで山椒太夫《さんしょうだゆう》の親類みたいな奴ばっかり寄りよったなア。いよいよ、それに話がきまったのか」 「ヘエ、すると、番頭さんがおっしゃるには、そんなことをするのも無益なことじゃによって、それよりいっそ乞食にしておあげなさったら、どうでこざいますと」 「ナニッ、乞食とは何んや、誰が言うたッ」 「番頭さんが」 「フーム……」 「ほいで今おもよどんが頭陀袋《ずだぶくろ》を縫うております、茶碗の割れたんやら、お椀の欠けたんやら、箸も一ぜん、それからあなたのよごれたお寝間着、細帯、ちゃあんといま手回していますよって、いよいよ今日からあなたは乞食でございます。ちょっと、こう見ますと、大分、あなたは乞食顔になってきましたぜえ……マア、お通り」 「阿呆ぬかせ、そっちへ行きやがれ……」  と若旦那は血相変えて、 「人間わずか五十年、われギャッと生まれ出た時は裸体《はだか》でまた死ぬ時も裸体で死ぬのや、うちの死に損ない親爺が頑固なことばかりぬかしてけつかるさかい、しまいに番頭までわしを乞食にするなんて生意気なことをぬかしおる」  と二階より真っ赤な顔をして段梯子をトントンと駆け下り階下《した》のお座敷へ飛び込むなり、そこに居た一家ご親類の方々のドタマを、いや、頭をかたっぱしから乱暴にも殴りに回りはったんだす。  この若旦那の勢いに一家ご親類のおひとは縁先から庭へころげ落ちるお方があるやら表へ飛び出すおひとがあるやら、エライ騒動が持ち上がりました。  けどさすがは番頭はん、おどろきもいたしませず煙草盆を前へ置いてパクリパクリと煙草を吸うております。 「オイ、番頭ッ、貴様はえらい者《もん》やなア、聞きゃア、わしをば乞食にしようというたそうやなア、フン、貴様はどれほどえらいねん、番頭番頭とあがめてりゃア、つけ上がりくさって、番頭という者はどのくらい権利のあるもんや、根を調べてみたら、貴様は丁稚の劫経《こうへ》たのやろう、わしを乞食にするなんて猪口才《ちょこざい》なこというなッ、たとえ極道のわしでも番頭の貴様がわしを乞食にしようというそんな権利はあるまい、出来るもんなら、サア、乞食にせえ、サア、せえ、せんかえッ」 「ヘッヘッヘ」 「なんやへッヘッへなんて、サア、早くさらさんかえ」 「若旦那、さらさんかなんのって、そんな、どうも不行儀な言葉づかいがございますか、さらせ、とおっしゃらいでも、元より私が親旦那さんからご依頼うけてあなたを乞食にします、お急《せ》きなさらいでもよろしい、すぐ乞食にしてあげます」 「サア、せえ、早うせんかい、早うさらせッ」 「なさけない、あなた、さらせのなんのと……今、します、コレ、丁稚《こども》」 「ヘイ」 「そこに若旦那のお寝間着、麺桶、頭陀袋、お椀、茶碗の欠けたのといろいろあるからここへ持ってこい……よし、よし、そこへ置け、サア、若旦那、ちょっとそっちお向きやす」 「番頭ッ、乞食にせんかえ」 「しますからそっちお向きやす」 「番頭、ど、どうする、わしの帯へ手をかけて、アレ、帯をほどいて……」 「どうするて、この帯と仕替えて乞食にします」 「アッ、ほんまかえ、ほんまにわしを乞食にするのんか、番頭、ほんまなら、ちょっと、待っておくれ」 「そんな卑怯なことおっしゃるな、あなたは乞食にしてくれとおっしゃるし、わたしゃ乞食にしようと思うてるところで、願うてもない、サア、ちゃっと着物を早うお脱ぎあそばせ」 「番頭、ちょっと、待っておくれ、わしは乞食は虫が好かん」 「誰かて乞食を虫が好く者がおますかいなア、あんまりパッとした稼業やおまへんぜえ、世間の人がようたとえに言いまんなア、乞食三日すりゃアやめられん、と、——ずいぶん、人様のおあまり物をよばれるというのは、えらい気の軽いもんやそうで、マア、ためしものだす、三日ぐらいやってごろうじろ、サア、サア、ちゃんと着物をお着かえあそばせ」 「マア、番頭、待っておくれ、今のように、強ういうたのは、実にわしがわるかった、これから改心しておとなしゅうするほどにお前からお父っつぁんに言うて堪忍してもろうておくれ」 「イエ、若旦那、もうそんなことは、わたしゃア、千べんも万べんも聞き飽いて、耳がタコになるくらいだす、マア、ともかくも、たとえ三日でも乞食をなされませ」 「番頭、どうぞ堪忍しておくれ、そのかわり堪忍してくれとばっかりでは、お前がほんまにすまんよって、どんな無理でも聞く、眼で沢庵《こうこう》を噛めといえば、沢庵でも噛んで見せるさかい、それが何よりの証拠やと思うて乞食にするのを堪忍しておくれ」 「なるほど、そりゃア、どうも恐れ入りました……コレ、丁稚」 「ヘーイ」 「お台所へ行って沢庵一切れもろうて来い」 「番頭、沢庵一切れ持ってこさせて何をするのや」 「あなたがお眼で噛みはるのを、わたしゃア見せていただきます」 「そんなことを、お前、西洋の手品師でも出来るもんか」 「それでも、あなた今の先、眼で沢庵噛むとおっしゃったじゃあございませんか、ありゃア嘘だしたんか」 「あれは物の道理をいうたんや」 「そんな道理のあわん道理がありますもんか」 「今、いうた通り、お前の無理は、どんなことでも聞く、どんな無理なというておくれ」 「なるほど、すると私のいうことは何に限らず厭とはおっしゃいまへんな」 「そや、どんなことでもお前の言うことはわしァそむきはせん」 「よろしい、長うとは申しまへん、今日より百日間、蔵へおはいりなされませ」 「誰といなア」 「あなたお一人で」 「そんな無茶言いな、百日も蔵の中に、たった一人で、淋しゅうて入っていられるもんか」 「入っていられぬとおっしゃりゃァ仕様がおまへん、そんならやっぱり、注文通り乞食……」 「そんな無茶ァ……」 「そんなら百日入りなさいますか」 「それやというて……」 「ほんなら仕様がない、やっぱり乞食に……」 「百日はえらいなア、番頭、せめて五十日に負からんか」 「私のほうは掛け値がないので正札だす」 「まるで大丸の商いみたいに……」 「百日がお厭ならやっぱり乞食にいたします」 「ヤッ、入る、入る、もうお前がそんなにいうてるのなら百日はおろか二百日でも入ります」 「そんなら二百日……」 「やっぱり百日に負けといて」 「そのかわりに百日の蔵住居《くらすまい》の間は、あなたのお好きな物を何不自由ないように私が取り寄せてお上げ申します、で、百日だけご辛抱あそばせ……」  若旦那は承知なされましたから番頭は若旦那をば一番の蔵へさして案内いたし、蔵の戸をガラッガラッガラッ、若旦那を中へお入れしましてピシャと錠前をおろしました。 「番頭、無茶やなア、こんな湿ッ気臭いところへほり込んで、こんな所に百日もいられるもんか」  とワアワアと若旦那は蔵の中で泣いておられます。番頭は大きな顔をして台所へ入って参りました。一家ご親類のお方は簀《す》の子の下から蜘蛛の巣だらけになって這うて出るおひともあれば、前栽の飛び石で頭を打って額口に凸凹をこしらえて出てくるおひともあり、いろいろでございます。 「番頭どん、アアこなたなればこそ、あれほどまでに意見をいうて下すった、何分、この上ながら番頭どんお頼み申します」 「寄ってタカって番頭どん番頭どんと扇であおいで、そないにしておくれなさいますと旦那さん、風邪をひきますわいなア」  親類のおひとはこの番頭に万事たのむと申してそれぞれお帰りになりました。  旦那も大きにこれでご安心あそばしましたが、なぜ、この番頭が若旦那をば百日も蔵の中へお入れしましたかという原因《もと》は、ちょっと、発端で述べましたが、以前は、至っておとなしい若旦那でござりましたが、放蕩《どうらく》にはなれやすいもんで、町内に懇親会がありまして、ご町内の若旦那様達に誘われてちょっと遊んでこようかというので難波新地へ遊びに参られ、あるお茶屋へあがって数多の芸妓をはべらせて散財をなされましたところが、紀《き》の庄の店から出ております小糸という十七、八の芸妓がフト若旦那の眼に止まり 「アア、奇麗な女子やなア」  と思いそめはった。  と、小糸のほうでも、ええ男もたんとあるが役者にもおさおさ劣らん美男やなア、妾《わて》も女子に生まれたからには、こんな殿御と添い臥しの身は姫御前の果報ぞ、と、廿四孝の八重垣姫みたいな惚れよう。  こんな訳で互いに深い仲となりました。  この小糸の屋形は中筋でございます。  若旦那は小糸の屋形をばわがうちのようにして間がな隙《ひま》がな入りびたり、それでいて、お茶屋へは小糸の花代をつけといて、ほいで小糸のうちで遊んでいはるもんだっさかい誰も苦情をいう者はなし、さらに若旦那はお茶屋へ遊びにお越しになりますれば、散財があざやかやよって、廓《しま》の妓輩《おなご》も若旦那若旦那と槌《つち》で庭掃くように申します。  その若旦那がフッツリご入来がないので、 「ナア、お母はん、若旦那|咋日《きんの》一日おいでやなかったわ、今日もおいでがない、どうおしやしてんやろう」 「さいな、なぜやろ、何か若旦那にもお手の抜けん用事が出来たかもしれん」 「けど、今日もお越しやない、お母はん、手紙一本あげたら、どうでっしゃろ」 「なるほど、手紙書きでえ、使いを呼びにやるよって、——オー早や、もう書きやったんか——ほんなら、コレ、お松、お前、横町へ行て、どなたぞちょっと来とくなはれ、と、いうて呼んどいで」 「ハイ」とおちょぼは表へ飛び出しました。入れちがいに、使いの者、 「ヘイただいまは……」 「オオ、使いの、この手紙船場の若旦那のとこへお返事をというて持って行ておくれ」 「ヘイ、なるほど、アノ若旦那様まで、ヘイ、心得まして、お返事を承って参ります」 「早う行てきてや」 「ヘエ、かしこまりました」  と船場の若旦那のうちへ出て参りました。  番頭は結界のうちらで何か二一天作の算盤をはじいております。ところへ、 「ヘエ、今日は」 「ハイ、お前は」 「南地《みなみ》の小糸さんのほうから参りました」 「ハイ何か、御用かな」 「このお手紙を若旦那様へ、お返事を承って参れとのことで」 「若旦那様はただいまお留守や、お帰りなさったら渡しておきましょう」 「何分よろしゅう、さようなら」  番頭はその手紙をば帳箱の抽斗《ひきだし》の錠前のおりるところへ放り込んで、錠をおろしてしまいました。  小糸の方では今に便りがあることかと待っておりますが翌日になっても何の便りがございませんから、また使いの者に手紙を持たせてやりました。 「ヘエ、今日は、どうぞこのお手紙を若旦那様へ」 「ハイただいまお留守や、お帰りなさったら渡しておきます」 「何分よろしゅう、さようなら」  番頭はまたぞろ以前の通りしもうておく。  また、翌日になっても便りがございまへんから使いの者に手紙を持たせてやる。……若旦那はお留守や、お帰りになったら渡しておきます。コリヤあ何べんいうても同じことでおますが、最初《のつけ》の二、三日は二本か三本の手紙でしたが十日目あたりになると十四、五本の手紙、二十日目ぐらいになりますと三十四、五本、三十日目には五十四、五本六十本、四十日目には七、八十本九十本とダンダンおびただしい数になりましたが、八十日目の夕方よりどうしたことか一本の手紙もこんようになりましたから番頭は、 「アア妓輩《おこ》というもんは実意のあるような者でもないもんやなア、先方様では百日という限りはご存じあるまいけれども、これまで手紙をよこしたなれば、もうわずかな日限ゆえに続いてよこしそうなもんや、今一つというところが不人情なもんやなア」  と申しておりますうちに早や百日の期限になりました。ご両親は申すに及ばず家内の者まで一方ならぬ大よろこびでございます。ヤ、小豆御飯をたくやら、ソラお膾《なます》や焼き物やというので料理人がはいってエライご馳走の仕度。  番頭は蔵の戸をガラリと開けまして、 「ヘエ、若旦那、今日は」 「オオ、番頭かご機嫌さん——わが家にいてご機嫌さんというのはおかしいけど——久しゅう顔を見せなんだなア」 「ヘエ、相すみませんでございます、早いもんで、若旦那、今日は百日の満期《あがり》になりました、永の間の蔵住居、さぞかしご窮屈でいらっしゃいましたでしょう、親旦那さんも大へんお喜びでございます、今日は一同お祝いというので、あなた様にも氏神様へご参詣あそばすよう、もうただいまお風呂もわきます、床清《とこせい》も来ております、髪も一ペん揃えておもらいあそばして、ほいで南地《みなみ》の小糸さんとこへもおいであそばしますよう」 「番頭、そうすると今日は百日目の満期か」 「御意にございます」 「アア光陰は矢を射るがごとく月日に関守《せきもり》ないとは、よういうたもんや、わしがここへはいった二、三日というものは寝るどころの騒ぎではない、夜昼泣いてばっかりいた、アアこれというのも、みんなわしがわるいのや、と我が身を悔やんでいたが、きょう日になってみると浮世のことはスッカリ忘れてしもうて、あげく蔵の中の住居が閑静で至極ええ、番頭、今日から、もう百日ここにいたってよいよって、どうや、お前百日だけつきあわんか」 「メ、滅相な、それにゃア及びません、しかし、若旦那へ、南地のなア、小糸さんの方からあなたへさしてお手紙が来てございますので」 「アア、番頭、そんなこというて山行け里行けと言わんとおいて、もうスッカリ小糸のことを忘れていたのにあいつのことをいい出してくれやと、寝てる子を起こすようなもんや、もうそんなことはいわんとおいて、きんじょうさいはい、謹上再拝」 「いや、いや、若旦那、そうやございません、申さんことは分かりまへんが、あなたをば蔵へお入れいたしたその翌日、小糸さんの方からお手紙が参りました、ところで何分に若旦那はお不在でございます故、お帰りになりましたらお渡し申しますというてその日は使いの者をかえしました、また翌日、手紙が参りました、これもお留守やというて帰しました、ところが、きた来た毎日毎日何本来ましたことか、若旦那、八十日目に至りますまで来ました手紙の数が何本とも知れまへん、帳箱の抽斗《ひきだし》が一杯になってはいりかねますから硯《すずり》箱の引き出しへ入れました、また半櫃《はんびつ》にいっぱい詰めました、まだはいらんので空き櫃に一杯——あの半切れや状袋だけでも些少《はした》な銭やございまへんぜ、ところが八十日目の夕景限り、ただの一本も手紙が来まへん、すっかり鼬《いたち》の道切りというやつで、若旦那、妓輩《おこ》という者は、ほんまに浮気稼業だすなア、先方では百日という期限のあることはそりゃあ知りますまい、けど、もう二十日ほどで百日の期限になるのに一本の手紙もよこさぬというは、実に不実なもんでごわすなア、だから、若旦那へ、あんまり色町へは深はまりをあそばさんように、月のうち、まず一度か二度、よう行て三度ぐらいにあそばすよう」 「番頭、私アもう花街へ再び行こうとは思わん、モウモウ眼がさめました」 「イエイエ、そうやございません、色町は気保養に行くところでおます、行くべきところなればこそ、お政府《かみ》も許してあるところだすが、一、二へんやったらおいであそばせ、その節は番頭もお供いたします。若旦那、マア、この手紙を一本ごろうじませ」 「アア、番頭、もうそんなことはいうてくりゃるな……それには及ばん」 「イエ、そうやござりまへん、それじゃ私の念が届きません、あれほどまでに番頭へ頼んであるのに若旦那へ一本の手紙も見せてくれんのか、アア、あの番頭は不親切な者やといわれても、いやだっさかい、マア、マア、どうぞ、一本だけでもごろうじませ」 「いや、いや……」  いやという若旦那に番頭は無理に一本の手紙を突きつけました。  その手紙は数多来た手紙の中でも一ばんしまいの日の終わりにきた手紙で、若旦那は開封してご覧になりますと、イヤ、もう婦女の手紙の文句はおきまりでございます。  一筆しめし参らせ侯、左様侯えば、と、書いて中ほどに、この手紙があなたのお手にはいって、今晩来て下さらなければ、これがこの世の別れになろうかもしれぬ、惜しき筆とめ侯、かしこ、と読むうちに若旦那は全身の毛がゾッと粟立《よだ》つようになりました。 「番頭、髪結いは来ているか」 「参っております」 「そうか、湯もわいてるか」 「ヘイ」 「よし、湯にはいろう」  それから若旦那はお湯におはいりになり、調髪もし、ちゃあんとお身装《みなり》をおこしらえになりまして、 「番頭、そんなら氏神様へおまいりしてくる」 「アア、もうし、若旦那、氏神さんへご参詣ならば、戻りに、どうぞ小糸さんとこへ行てあげて下さいまし、さもない時は、私が小糸さんになんとも申しようがございません故、是非、行てあげて下さいますよう」 「ウン、よしゃ、行きます」 「それでは若旦那、お紙入れにお金が入ってこざいます……コレ丁稚《こども》、若旦那のお供をしい」 「かしこまりました」 「では、丁稚……」  と若旦那は丁稚をつれて表へさしてお出ましになりました。しかし、なかなか、氏神様へ参詣する様子はさらにございません。最早、足は地についておらず、スタスタと一散走り、丁稚は途中から若旦那にハグレましたようなことで、若旦那は南地の行きつけのお茶屋へおいででございましたが、こういう内気な若旦那でございますから 「お梅うちかえ」  というてズーウッとおはいりあそばさず、庭まではいって片手で暖簾を上げて 「お梅」  という声に、朝の遅い色町の女、い眠っていましたお梅は、 「どなた……ハイ、どなただす」 「わしや、私や」 「オオ、若旦那……コレ、お竹、お春、お富——起きておくれ、船場の若旦那がお越しになった……」  下女仲居まで呼び起こされ、船場の若旦那という声を聞いて一時に眼がさめました。 「オオ、若旦那、アレー、クルクルクル」 「何んじゃい、まるで絞車《くるまき》や」 「マア、マア、若旦那、どうしてはったんだす、あんさんのようなほんまに分からぬ、聞こえんお方はありゃあしまへん」 「なるほど、その腹立ちはもっともや、わしが無沙汰をして音信《たより》もせなんだのは実にわるかった、これには種々ワケのあること、それは、マア、ボツボツ話すよって、とにかく、小糸はいるか」 「ハイ、ちょっと、あの妓は……」 「あの妓が、どうした」 「ちょっと、そこまで」 「ムウ、座敷《はな》か」 「イエ」 「ほんなら金比羅はんへおまいりか」 「イエ」 「イエイエとばっかり、一体、どこへ行てんなア」 「イエ、あの妓は……」 「まだいうてる、やっぱり座敷やろ、座敷やったら、行てる先が分かってるやろ、すぐ呼んどいで」 「イエ……ウソついてご免やすや、あの妓はウチにおります」 「なあんや、うちにいるのかいな、ナア、お梅、気をもまさんとおいてんか、どこぞに隠れていて、背後からワッとびっくりさすような洒落は古いぜ感心せん、あの妓はどこにいるのや」 「ハイ、あの妓は、ついそこに……」 「ついそことはどこに」 「若旦那、ここにいます」  と立ち上がるなりあちらの仏壇の扉をスーウと開けますと、中に新しい白木の位牌がございましてお骨入れが側に置いてござります。 「アア、若旦那、あの妓はここにいます」 「お梅、そんなつまらん調伏《ちょうぶく》はやめてんか、いかに仏壇の中やというたかて、位牌やの、お骨入れやの、そんな面白うもない洒落をせんと」 「若旦那、あんさんは何んにもご存じやおまへんなア」  と言いつつお梅はワッと泣き伏しまして、 「若旦那、あの妓は、もうとうに死にました」 「ゲエーッ、死んだッ……お梅、コレッ」  とだしぬけに座敷へ飛んで上がってお梅の胸ぐらを取る。 「若旦那、そんな無茶しなはんな……アア、呼吸《いき》が詰まる……お放しやして」 「コリャ、お梅、死ぬなら死ぬと、何んで一ペん、わしの方へこたえて、死なさんのや」 「よう、そんな無茶なことおっしゃる、若旦那、私の方からあんさんの方へさしてお手紙を差し上げたのは何本のことだすやろ、あんさんがおいでやないよって、あの妓が案じて、おかあはん、若旦那は昨日も一日おいでがなし今日もまたおいでやない、若旦那には他に好きなお情婦《かた》が出来、妾《わい》には愛想をつかしてやってんやろう、おかあはん、どないしまひょ、お手紙を一本あげてみましょうか、と、いいまっさかい、ともかくも手紙を書きでと、あの妓に書かせ、使いを呼びにやって、渡してやりました、ところが若旦那はお不在やお帰りになったら渡しておこうという帰り返事、また翌日も手紙をば持たせてあげても、やっぱり、同じ返事、あの妓が書いた手紙だけでも三百八十七本、私の書いた手紙が四百二十六本、お富お松お春お竹は皆一人三百五、六十本ずつ書き、来る人寄る人さわる人のこらず頼んで書いてもろうた手紙は数知れず、なんぼ手紙あげても、いつもながらお留守やお不在やとばかり、それからウンウンあの妓は気を病んで遂には床につき骨と皮のようにやせ細り泣いてばっかりいて、おかあはん、わたしゃ若旦那に見捨られた、どうしまひょう、と、私一人をば毎日せめます、ところへ、あんさんが誂《あつら》えておくれあそばした比翼紋《ひよくもん》の三味線を若村屋から出来たというて持って参りました、それを若旦那あの妓に見せてやりまして、コレ、小糸や、若旦那のお気の変わらぬ証拠にはコレご覧、若村屋から三味線を持っておいでになった、これは若旦那のお気の変わらんという何よりの証拠や、と、そう私が気休めにいうてやりますと、見る影もないようにやせた顔を、ただうれしそうにニッコリと笑うた、その顔が、若旦那、わたしゃ目の先に見えるようでござります……おかあはん、その三味線を弾いてみたい、どうぞついでおくなはれ、と、申しますさかいに三味線をついで糸をかけ駒をかけてやりましたら、抱き起こしてほしいというので、背後からシッカリ私が抱えて起こしてやりました、するとあの妓は調子をば合わせかけましたが……おかあはん……耳がジャンジャンいうて調子がわからん、おかあはん、調子を合わせておくれやす、と、あの妓がいいますよって、私が調子を合わしてやって、背後から抱えていましたが、一つ二つ弾きはじめますと、それが現世《このよ》の別れ、若旦那、そのまま、あの妓は死にましたわいなア……」 「そうか、そんなこととは夢にも知らなんだ、せめて夢になりとも見そうなもの、それと知ったならば、どないなとしてこように、お梅、私が内を外にしたばかりで番頭が私をちょぅど百日の間の蔵住居、それ故になんぼにか来たその手紙は、みんな番頭が中ではかろうたこと、こういうことと知るならば、たとえ、どうしてでも蔵を押し破り、小糸の死に目に逢おうものに、臨終《いまわ》の際《きわ》に会わなんだのが、わしゃ何よりの心のこり、お梅、わしゃもう帰ります、そのうちにまたくるとして」 「アア、モシ、モシ、若旦那、このままお帰りあそばすと、せっかく、あんさんが来ておくれあそばしたのに、私も何やら心残り、今日はちょうどあの妓の三七日、精進物だすけど、一口のんで、帰っておくれやす、で、あの妓の朋輩を二、三人呼びにやりますよって、一ぺん、その妓らにも逢うてやっておくなはれ」 「サア、そんなら、マア、ともかくも」 「では、どうぞ若旦那奥へ」  と奥の座敷へ案内をいたしました。 「若旦那え、どうぞあの妓がおりませいでもやっぱりいるように思召《おぼしめ》して、南地《みなみ》の方角へおいでの節は是非お立ち寄りを」 「ハイ、よせてもらいます」 「サア、ひと口召し上がれ」  と精進物で一盃飲んでるところへ朋輩の芸妓が表から、 「ねえちゃん、今日は」 「ハイ、今日は」 「オオ、ちょねやん、ぼてやん、やせ鶴さん」  三人の妓がはいって参りまして、 「ねえはん、お淋しおまっしゃろ」 「毎度、よう尋《た》ねとくなはる、今日はなア、船場の、ソレ、小糸はんの若旦那が来てはんねんしい」 「ヘエ、あの若旦那が……ねえはん、ごめんやす」  と三人は奥へさしてズカズカとはいって参りました、 「若旦那」 「オオ、ちょねやんか」 「若旦那」 「ぼてやんか」 「マア、マア、マア、マア、若旦那、あんさんのような分からんお方あらアしまへんし、小糸はんも、もう、もう、あんさんのことばっかり言いつめて、とうとう、ついにはこがれ死に、あんさん、ほんまに分からんやおまへんか」 「サア、お前はん方も、アア、分からん者《もん》やと思うてやろうが、これについては最前からお梅に種々と、マア、長い話をしていた、それは、また、追って、お梅からも聞いてくれてやったら、分かること、マア、ともかくも精進物やけども、久しぶりで、マア、一つ献《い》こう」 「ハイ、いただきます」 「ちょっと、若旦那」 「お梅、何んや」 「あんさんが、こうやって来ておくんなはったので、仏も大きに喜びます、そこであんさんから贈っておくれあそばした、あの比翼紋のついた三味線、あれをばあの妓への饗応《ちそう》にお仏壇へ手向けてやりまひょう」 「そりゃあ、よかろう」 「そしたらあの妓も余計よろこびまっしゃろ」 「ウン、そんなら、そうしてやっておくれ」  とこれからお梅は彼の三味線をば箱から出しましてチャンと三つを一つにつなぎ糸も駒も掛けまして仏壇へ供えました。 「マア、若旦那、一つつぎまほ」 「オットット……こぼれるがな」  と若旦那は盃を手に持って酒を飲もうといたしますと、どこともなく、テーン、テテン、テン、テン、と、三味線の調子を合わす音が聞こえて参ります。  傍なる芸妓は、 「おかあはん、どこだっしゃろ、あの三味線の音は……隣家《となり》だすか」 「阿呆らしい、隣家は空き家やしい、それにしても、あの三味線の音は、どこやろ」  と小首を傾けてますと、立った一人の芸妓が真っ青になって馳け戻って来て、 「おかあちゃん、ありゃお仏壇の中やしい」 「エッ、おぶったんの中……アレーッ」 「シイーッ……」  するとあちらの仏壇の裡《うち》から糸よりも細い声で ♪ほんに昔の昔のことよ、わが待つ人は、われを待ちけん、と、雪の歌をうたい出しました。  若旦那は胸一杯、眼には涙をためながら、 「コレ、小糸や、わしゃお前のために番頭より意見をされ、百日の間の蔵住居、お前のところから度々手紙をくれたそうやが、わしの手には一本の手紙もはいらず、今日は百日の満期《あがり》というので、初めてお前の手紙を見て、早速きてみればかくの様子、その代わりお前への心中立てには、一生、女房は持たぬほどに、どうぞ迷わずにええとこへ行ておくれ……」  泣きいる女将のお梅は、 「コレ、小糸や、今、若旦那のおっしゃったこと、お前の耳に通じたかえ、お前ゆえに心中立て、一生、女房を持たんとおっしゃるゆえ、これをみやげに、迷わず、成仏、よい仏になっておくれ、南無阿弥陀仏——」  共に居合わす皆も泣き入っておりました。  と、仏壇の中では ♪こおるふすまになくねをとめて……というところでピッタリと三味線の音が止まりました。 「コレ、お梅、何んで三味線やめてんやろ、三味線の糸が切れたんか、あと弾かせ、弾かせ」 「コレ、小糸はんええとこでやめたらいかんしい、コレ、小糸はん、あとを弾きでえ」 「大方、糸が切れたんやろう、サア、サア、糸を掛け直して、アトを弾かしい」 「なんで小糸あとを弾いてやないのんや、お弾きんかいな」  と仏壇の前へ行て見ますと、 「若旦那、もうこの妓は三味線弾きやいたしまへん」 「お梅、なんでや」 「ちょぅど線香が立ち切れでござります」 (註)芸妓の花代はかつて、線香を時間の目安にしてはかった。つまり「もうお時間です」というオチ。 [#改ページ] 狸茶屋《たぬきじゃや》  狸というのは、人をだましたり、化かしたりする。  狐、狸というやつは、たいてい化けるとか、化かすとかいいますけど、だますのは狐、狸だけやございませんので、人間でも人をだます場合がこざいますが、だますのを看板に銭《ぜに》儲けしてるおなごはんがあるもんですが——近ごろでもあるらしいんですけどね、北の新地へ行っても、また南へ行ても。  しかし、これはもうだますてな看板あげてはらしまへん。  ところが、昔は、これ公然とだますという看板をあげて、商売してたところがございまして、ええとこで新町、わるいところでは松島に飛田、こういうところに行きますと、われわれ分相応で一番おもしろかったんですな。だまされるとみすみすわかってて、お金持ってよう通うたもんですけれど。また通いとうなりますわな。  近ごろのあの北の新地のクラブやとか、南のバーというのは高うついてどもならん。昔はまア分相応に、一円か一円五十銭もあったら、いまよりずっとええ目ができたもんです。どんな目にあうか、想像にまかしますけれど。 「ちょっとお二人さん、寄っていきなはれ。ええ女そろうてまんねんし、ちょっと寄っていきなはれな」 「おい、あない言うて、呼んどるさかい、ここの店ちょっとのぞこか」 「やめとき、やめとき。ええ女がそろてる言うとるやろ。この時間にええ女がそろてるわけがないやないか。ええ女やったらもうとうにしもとるのに違いないで。ろくなおなごいやへん」 「そうかておまえ、おばはん、あないいうて言うてくれてんのや。ちょっと入ってみようや。どっちみち銭出して遊ぶわけやなし。顔だけ見て楽しんだらええがな」 「まアそらそうやけどな。どっちみち、ろくなおなごいやへんで」 「ちょっとお二人さん、そんなとこで相談してんと、相談やったらわたいとしまひょぅな。ちょっと入っていきなはれな」 「あ、そうか。おばはん、ええ女がそろてるて、どれくらいいてんねん」 「七人残ってまんねんわ。ええ女ばっかりでっせ」 「七人も残ってんの。ほいでおばはんとこ全部で何人いてんねん」 「七人いてまんねんわ」 「ほんなら全部残ってんねんやないか」 「そやさかい言うてるやろ。初めから売れてエへんねや。よっぼど悪いねんで。ちょっと見てみイ、やっぱし思たとおりや。なア、七人残ってるはずや。ようこれだけ悪いおなごそろえよったな」 「しかしなア、それはまア、なるほどおまえの言うとおりや。七人とも悪いけど、この悪い中でも辛抱して、おまえが今晩一晩泊まるちゅうのやったら、どのおなご選ぶ」 「そやな、まァ、この中で、一晩辛抱するちゅうのやったら、そうか、左から四ったり目か。おまえやったら、どのおなごがええ」 「おまえ、左から四ったり目か。やっぱし人間の好みてみな違うな。おれァ、左から四ったり目より、右から四ったり目がええなァ、おい」 「あほか、左から四ったり目、右から四ったり目やったらおんなしおなごや」 「あっ、なるほど、ほんに考えてみたら」 「考えんかて」 「なるほどなァ。しかしなァ、何でおれがあのおなこがええちゅうたらな、さっきからおれの顔、じいっと、流し目で見よるあの目つきの情のあること見てみ。あれァちょっとわいに気があんねんで」 「阿呆なこと言え。それやったら、さっきからおれの顔、じいっと、流し目に見とる。あれァおれに気があんねん」 「ほんなことあるかいな。見てみいな、わいのほう見てるやろ」 「あほなこと言え、おれのほう見てるやないか」 「ほんなこと……、あ、ほんに、なるほど、右の目でおれのほう見てるけど、左の目でお前のほう見とるな」 「そんなこというて、そんな器用な見方できるかえ。あれァやぶにらみやがな」 「あァそうか、察するところ、このおなごの親ちゅうのは、よっぽどタケノコで損しよったと見えるで」 「そんなことわかるか」 「オォ、わからいでかい」 「何でやねん」 「タケノコで損したさかい、あないしてヤブにらんどんねや」 「あァ、なるほどな。ほな、つまり何かい、親がタケノコで損したさかい、ほいで娘がマツタケでもうけてる」 「ようそんなあほなこと」  こんなことやってよう昔は遊んだもんでございまして、これはいま申します「照らしのおやまはん」の遊びで、こないなったらはっきり言いますけど。これが南やとか新町に行きますと、「送りの娼妓さん」というのがこざいまして、向こう行って、不見転《みずてん》で買いまんねんな。そうでっさかい、お茶屋のおかみさんがよっぽどしっかりしてなあきまへんので、 「姉貴いてるか」 「まァまァ、たあさんやおまへんかいな。長いこと顔見せてやなかったこと。また、あっちこっちで浮気してなはんのやろ。知ってまっせ。いいえェな、あんたのこと、箒《ほうき》さん、箒さんいうてまんねんで、ようそんだけあっちこっちでかわったおなごはん買いはりまんな。ちょっとは一人に決めはったらどないでんねん」 「いやいや、それはな、姉貴、お前が言うとおり、わいかてな、一人のおなごに決めたいねんけどな。一人のおなごでは具合が悪いねん。すまんけど姉貴、きょうもかわった女たのむわ」 「何を言うてなはんねんな。このまえ呼んだ女、あの女、ええ女でしたやろ。あんたかてえらい気に入ってましたやないか。あの女にしはったらどないでんねん。あの女も、今度またあのお客はん来はったら、おかァちゃん知らしとくなはれやいうて、約束して帰ったんでっせ。あの女にしときなはれ」 「いやァ、あの女、なるほどな、姉貴の言うとおりええねんけどな、わいはもう二度とおんなしおなごはあかんねん」 「また、そら一体どういうわけでんねん」 「いや、どういうわけてね、こんなことは人に言えんこっちゃねん。恥ずかしいこっちゃさかい」 「何が人に言えまへんねん」 「いやいや、あのな、そやさかい、わいがな、遊ぶたんびに相手かえるちゅうのはな、姉貴やさかい言うけどな、実はわい、子供の時分から脱腸やねん。どうしてもな、そういうわけでは、皆、お前、来たおなごが見て笑いよんのや。何ぼええおなごでも、笑われてみいな、あの時に。そらもう阿呆らしいてやってられんで。そやさかいな、知ってるやつ呼んでみいな。来るなり顔見て笑いよるのに決まったるさかいな、すまんけど、かわったんにしてんか」 「まァ、さよか。それやったらそうやと初めに言うてくれはったらよろしいのに。ほんならな、かわった女呼びまっさかい」 「言うとくけど、ええのんたのむで」 「わかってますわいな。あんた、面食いやさかい。ヘェ、なるべくええ女にしまっさかい。ほな、いつものとおり」 「ふん」 「部屋はいつもの部屋でっさかい、先に上がって待ってっとくれやす。いえ、もうちゃんと用意してまっさかい、どうぞ、お二階で待ってっとくれやす」 「ほなら、二階で待ってるさかい、早いところたのむで」  二階へ上がりますと、ちゃァんともう用意ができてます。  用意ができてるさかいちゅうて、まァ、どんなおなごはんが来るかいなちゅうのが、これがまた楽しみでして、どんなおなごに今晩あたるかいなァ、というて、むずかしい顔をして待ってんのもおかしなし、というて、寝てるわけにもいかんし、あの人行ったらもうすぐお蒲団に入ってはったわ、まァ、せからしい人、てなこと思われるのもいや、というて、起きてたら阿呆みたいに思われるし、いっそのこと、寝たふりしてたれというので、お蒲団の中へ入って、空いびきかいて寝てますと、下で、 「おかァちゃん、おおきに。えェ、何でんの、初めてのお客さんでっか。えェ、わかってま、よう心得てまっさかい、あんじょういたしま。また後ほど。ほな、お客さんとこ行ってきまっさ」  とんとんとんとんと二階へ上がってきた。この足音聞いたら、なおさら大きな高いびきかいて寝たふりしていますと、たいていこういうとこのおなごはんというのは、しつけがええというのか、行儀がよろしな。  上がってきて、立ったまま襖開ける人はおまへん。一ペん、だれが見ておらんでも、襖の外で座って、襖をばそォっと開けて、入ったらまたちゃんと座りまして、元どおりしめますと、入ったとこで、 「今晩は、おおきに」  絶対にお客さんのほう正面向いて頭下げんもんで、はすかいに顔見せるようにして、 「お客さん、おおきに、今晩は」  何ではすかいに頭下げるのかといいますと、これはちゃんと作戦がある。  はすかいに相手に顔見せると、鼻が高うに見えるそうですな、少々低かっても。これ、横の方見て、見えなんだら、もうかいもくないんですわ。  少々低い鼻でも、はすかいに 「おおきに」  と言いますと、鼻が高うに見える。 「お客さん……あァ、よう寝てはること、えらいいびきかいて。おかァちゃん、お客さんよっほど早うから来てはりまんのん。えェ、いま来はったとこ。よう寝てはんねんわ、ちょっとお客さん。まァ、ほんまによう寝てはるわ。よっほどお疲れと見えまんな。ちょっとお客さん、お客さんちゅうのに。まァ、笑てはるわ。おかしいお方、夢でも見てはんのやろかしら。まァ、わかったわ。お客さん、知ってまっせ、狸でっしゃろ」 「あ、わいの大きいのん、だれに聞いてん」 [#改ページ] ちしゃ医者 「こんばんは……こんばんは。ちょっとお開《あ》けを……。赤壁《あかかべ》先生、ひとつ、おねがい申します」 「ハイ……。ハイ、ハイ。どんどんとたたきなはんな。よう聞こえてある。……たたきなはんな、というのに。わかってあるがな……。大きな声、出しなはんな。どちらはんです」 「へえ、田中屋からまいりましたのやが、じつは、うちのご隠居はんに、急に変《へん》がきましたもんで、先生にお越しをねがいとうございますねが……」 「大きな声を出しなはんな。わかったある……。なにかいな。ご隠居はんに変がきた……それやったら、ほかの医者へ行きなはれ。いいえいな、よその医者へ行きなはれ、というね。うちの先生やったらな、助かる病人でも殺してしまうのやさかい……。わるいことはいわへん。助けたいと思うたら、よその医者へ行きなはれ」 「ひとつ、ここを開けていただけまへんやろか。こんばんは」 「わかったある、というのにどんどん、どんどん、この夜中に、大きな声出して、戸をたたく人がおますかいな。……もし、うちの先生の耳に入って、先生が起きてきたら難儀やがな。うちの先生は、達者な人の脈をとっても、その人が病気になる、というぐらいやのやで。そんな医者にかかって、どうするのや。ともかく、ご隠居はんが大事やと思うたら、ほかの医者のところへ行きなはれ。……どんどん、たたきな、というのに。うるさいな。……それみてみいな。どうやら、先生が起きてきはったらしいで」 「コレ、久助」 「ソレ、いわんことやないがな。とうど、起きてきよった、あの人殺し」 「コレ、久助。お前、いま、なにをいうた。人殺し、てなことをいう奴があるかい。内輪から火を出すようなことをいうな。……どなたや」 「へえ、田中屋はんだすね」 「ホウ……田中屋さんが、拙《せつ》を迎えにきなさる、というようなことはめずらしい。どうなさった」 「なんでも、ご隠居はんに、急に変がきたそうだすね」 「おお、さようか。そんなら、さっそく、拙が行って、なおして進ぜよう」 「棺桶へ……」 「なにを吐かす。なんで棺桶へ仕舞《なお》さんならんのや。表の戸を開けておあげ申せ」 「へえ、わかってま。わかってますがな……。あ、ここにいてはったのか。阿呆やな、あんた。大きな声を出したら、先生に聞こえる、というてるのに。ほんまに、運のない病人やな。いうてますやろ、うらの先生にかかったらあかん、と……。病人が大事やったら、なんで、よそへ行けへんね」 「へえ。それはようわかってますのやけど、うちのご隠居はん、年に不足はなし、もうあかん、と、みな覚悟をしてますのや。そこへ、急に変がきて、どのみち、あかんことは、はっきりしてますのや。そうですさかい、べつに、なにもええお医者はんに来てもらうことはおまへんのだす。ただ、恰好《かっこう》だけ……。この際、恰好だけ医者らしい恰好をしてる人があったら、だれでもかまへんさかい、一匹、生け捕ってこい、と、こないわれましてな。それやったら、ここの先生が近所やさかい、あれを提《さ》げてくるわ、こないいうて出てきましたのや。すんまへんけど、チョコチョコッと来てもらえまへんやろか」 「コレ……。わしは、ここで聞いてるのやで。ようそんな、えげつないいい方をしなはるな……。久助。お前もそこで、げらげら笑うているということがあるかいな。わしが、ぼろくそにいわれてるのやがな……。あ、さようかな。では、さっそくに、行って進ぜましょう。久助、すぐに駕籠《かご》の用意をしなされ」 「先生、駕籠て、どこにおます」 「裏の納屋に、ほうりこんであるやろ」 「あれは、去年の梅雨に、底が抜けましたがな」 「底がなかったら、割り木を五、六本わたして、その上へ布団を敷きなされ。わしがその上へ乗って行くさかい……」 「ハッハッハ。そんなら、先生、割り木の上へ止まっていきなはるか。あんた、藪《やぶ》やと思うたら、雀だすな」 「しょうもないことをいうな。なにをいうてくさるのや……。あ、それから、棒の者を起こしなされ」 「なんです」 「いいえいな。駕籠《かご》かきを起こしなされ、というのや」 「先生、見栄もええかげんにしておきなはれや。駕籠かきは、去年、辞めてしまいましたがな。あんたが、銭をやりなはらんさかい」 「おまえという男は難儀な男やな。相手は田中屋さん、お金持ちや。歩いて行ったのでは高銭《たかぜに》がとれん。こういうときに、大きな誇大《やまく》をはって、うんととらなあかんのや。考えてみ、ここ半年ほど、一人も客がなかったやないか……。お前が、よう芝居をせんのやったら、わしがする。……コウレ、棒の者、起きてきておくなされ。えッ……なんじゃ……ハァ、二人とも風邪をひいて寝てる……どもならんな。医者の駕籠かきが風邪をひいて寝てるやなんて、そんなみっともないことがあるかいな。なぜ、わしにいいなさらん。わしにいうたら、すぐに薬を一服、盛ってやるのに」 「ワッハッハ。命が惜しけりゃ、飲むまい」 「また、そんなことをいう。なんで、いちいち、よけいなことをいうのや。……コレ、お使いのお方。いま、お聞きとおり、駕籠の者が風邪をひいて寝てますのじゃ。いやいや、後棒は久助に担がせますでな、お前さん、えらいすまんが、先棒をば、ひとつおねがいいたします」 「あ、さいですか……。それはまあ、舁《か》けとおっしゃるのなら、舁《か》かんこともおまへんが、先生、歩いていただいた方が、はやいように思いますねが……」 「いやいや、やっぱり駕籠やないとぐあいがわるい。すまんけど、先棒をたのみます」 「そうでっか……。けど、わたい、生まれてはじめて舁くのですさかい、うまいこと、よう舁かんやわかりまへんで」 「いやいや、それはもうわかってます。べつに上手に舁いてくれというわけやないで……」 「そんなら、すんまへんけど、お使いのお方。あんた、先棒を舁いておくれやす。いえいえ、むつかしいことはおまへんね。肩を入れはったら、ひとつ、腰をきっていただいたら結構だす」 「なんです……」 「いえ、さきに肩を入れておくれやす。……そうそう、そういうぐあいに……。それから、ひとつ、腰をきっておくれやす」 「……わたい……そんな痛いこと……ようしまへんで、モシ」 「いや、べつに刃物で切るのやおまへんがな。腰にグッと力を入れて、駕籠を持ち上げておくなはれ。よろしいか……いえ、あんたがひとり、さきに持ち上げたらあきまへんで。二人いっしょに、やないと。そうせんと、この藪、転《すっ》ころんで落ちよりますさかいに……。よろしいか。わたいが掛け声をかけたら、上げておくなはれや。いきまっせ。イョーットサ、と」 「イョーットサ、と……。モシ。わたい、はじめて駕籠を舁いたんだすけど、駕籠というのは、えらい重たいものだすな。これ……まっすぐには歩けまへん……。これはえらいことでっせ。……これ……これ……どないなっておますのやろ。……えらいことでおまっせ」 「コレ、久助。ちょっと待っておくれ。なんで、こない揺れるのや。こう揺れたら、わしは、病家《むこう》へ行くまでに、病人になってしまうがな。ちょっと、止まっとくれ」 「わかりました、わかりました。ちょっと止まりなはれ……。あんた、はじめて駕籠を舁きなはるのやろ。それに、えらそうに、歩こうとしたかて歩けますかいな。わたいがうしろから押すようにしまっさ。わたいが押すようにしたら、それにつれて、歩きなはれ。……よろしいな。いきまっせ。……ヨットサト、コラサト。ヨウサ、で、コラサ」 「ヨットサノ、コラサ」 「コラサノ、ヨイサ」 「ほんに、これはうまいこといきます……。へえ……。こんどは、そないヒョコつかんと、歩けますわ、へえ」 「ヒョコつかんかわりに、こんどは、えらいガタつくやないか……。コレ、お使いの方。こんどは、駕籠がえらい上下に揺れるけど、あんた、どうかしたのとちがうかいな」 「先生、すんまへん。わたい足、怪我してますのや」 「……この調子やと、病家へ行くまでに死んでしまうで」  …… 「オイ、はよう歩きいな。芳さんは、どこへ行ったのや」 「芳さんは、医者を呼びに行ってくるというて走りましたで」 「阿呆かいな。足のわるい芳さんを、医者へ走らせたりしないな、可哀そうに……。それにもう、医者はいらへんがな。ご隠居はんは、もう死にはったのに……。なにをしてるのやろ、はよう帰ってきてくれたらええのに。あっちこっらへ知らしに廻るのに、人手がいるのや」 「オイ、ちょっと見てみ。向こうから、駕籠を担いでくるの、あれ、芳さんとちがうか」 「あ、あれ、芳さんですわ」 「そうやな。オーイ、芳さん」  …… 「あ、どこへ行きはりますね」 「どこへ行きはりますね、や、ないで。あんたこそ、なにをしてなはるね……えッ医者を連れてきた……いらへん、いらへん。医者はもういらへん。隠居はんは死んでしまいはったのや」 「えッ、死にはりましたんか……。そんなら、この医者、どないしまひょ」 「どっちみち、あんまりええ医者やおまへんのやろ。そこらへ放っておきなはれ」 「そんなら放っときまひょか。……モシ、久助はん。ちょっと、駕籠をおろしておくなはれ。いまお聞きのとおりですさかい、わたいは、これで……。いずれ、お礼はのちほど……さいなら」 「モシモシ、殺生やがな。駕龍が一人で担げるかいな。……しかし、弱ったな。先生、モシ、先生……。なんや、寝てるがな、また気楽な先生やな。こんなとこへ放ったらかされてるのに、グーグー鼾《いびき》をかいて寝てるがな。べつに駕籠に乗ってこんでもええのに、大層に駕籠に乗って、シルクハットをかぶって……。なんで、シルクハットをかぶらんならんのやろ、これがわからん。……先生、先生。起きなはれや……。藪。藪医者。人殺し!」 「あ、びっくりした。大きな声を出してからに……。お、久助。田中屋さんへ着いたか」 「着いたか、や、おまへんで。もう、ご隠居はんは亡くなりはりましたのや」 「なに、亡くなりなさった……それは残念なことをしたな。拙が行けば、なんとか……」 「あかへん、あかへん、あかしまへん。病人かて考えてますわいな。あんたにかかるよりは、さきに死んでしもうた方が、いっそ、気が利いてると……。もうあんたに用事はおまへんのや。いにまひょ」 「そんならいななしょうがないな。せっかく銭儲けをしようと思うたのに、さっぱりわややな……。そんなら、久助。うちへ駕籠を廻しとくれ」 「ようそんなこというてるわ。あの使いの人は、放っといて帰ってしもうたんだっせ。わたい一人で、駕籠が担げますかいな。あんた、おりて、駕籠を舁いておくなはれ」 「なに、わしが駕籠を……阿呆らしいなってきた。わしも長年、こうやって医者をしてるが、自分の駕籠を、自分で舁くとは、思わなんだ。……そんなら、わしが先棒を舁いて、持ち上げるで……。ヨットサ、と。……久助。さっきのお方は駕籠がえらい重たいというてなさったが、こうやって舁いてみると、わりに軽いやないか」 「あたりまえや。あんたがおりたら、軽うなるのにきまってますがな」 「あ、なるほど。考えてみると、たしかに……」 「ようそんな、気楽なことを、いうてなはるな」 「あ、コレ、久助。ちょっと、ここへ、駕籠をおろしとくなされ」 「先生、こんなところで駕籠をおろして、なにをしなはるね……ぐずぐずせんと、帰りまひょ。もう、ぼちぼち、夜が明けかけてますのや。明るうなって、こんな恰好を人に見られたら、みっともないやおまへんか。さあ、はよう……」 「わかったある。わかったあるさかい、ちょっと待て、というのや。……ホラ、むこうを見てみ。うちへいつも汲《く》みにくる肥汲屋《ちょうずや》が立ってよる……。あの男は、いたって、喋りや。わしが駕籠を担いでる姿を見たら、また世間へ、なにをいいふらすやわからん。……医者の方が流行《はや》らんものやさかい、このごろ、夜中に、男衆と二人で駕龍かきをしてよる……。こんなことをいわれたら、よけい流行らんようになるさかい、あいつがあっちへ行ってしまうまで、知らん顔をして、ここでちょっと待ってましょう」 「オウ、赤壁先生やおまへんかいな」 「そうれ、見つけられた……。肥汲屋さんか。おはようさん」 「先生。わたい、いま、びっくりしましたのや。……いいえ、あっちから見てますとな……えらい上品な駕籠屋が来たなあ。紋付の羽織袴に、シルクハットをかぶった駕籠屋。これは、ひょっとしたら舶来の駕籠屋かいな……」 「ワッハッハッハッ。まあ、そない、ひやかしてな。じつはな、夜中に田中屋さんからお使いが来てな……」 「へえ、へえ……。なるほど……。へえ……。それで、こんなところで……。さよか。先生、そんなみっともないことをしなはんな。さ、先生は駕籠に乗っておくれやす。わたいがお宅まで担いでいきますさかい」 「そうかいな。そうしてくれると助かる。そんなら、ひとつ、おたのみ申します」 「さあさ、どうぞ……。あ、乗りはりましたら、なるべく、うしろの方へ坐っておくれやす。えらいすんまへんけど、もうちょっと、うしろへ……。へえ、そうそう。それから、ちょっと股を開きかげんにしてもろうて、そのあいだへ、ちょっとこれを……」 「あ、ちょっと待ち、ちょっと待ち。お前さん、いったい、なにを積むつもりや」 「へえ、この肥担桶《ちょうずたご》を」 「えッ。そんならなにかいな。駕籠のなかへ、肥担桶を入れるつもりかいな」 「あたりまえだすやないか。わたいがなんぼ器用でも、肥担桶を担いだ上に、駕籠まで担げますかいな。……いえいえ、ひとつだけでよろしいね。ひとつは空ですさかいな、棒鼻へ吊っておきます。こっちは、八分目ほど入ってますのや。こぼれたらいかんさかい、先生の足のあいだへ入れさしてもらいますよってに、たのんまっせ。……そんなら、これを。ヨットサ、と」  ……トボン。 「コレ、なにをしなはるね。置くのやったら、もっとちゃんと置きなはれ。ちゃぶつかしたらどもならん。そうでのうても臭いのに……。すると、肥汲屋《ちょうずや》さん、なにかいな。わしは、肥担桶《ちょうずたご》と合乗りかいな」 「なにをいうてなはるのや。駕籠を担いで歩くよりは、この方が、ましだすがな。いえいえ、人に見られんように、こうして、垂れをおろしておきます。……久助はん、すんまへんけど、ここへ、担桶《たんご》をひとつ、ぶら下げさしてもらいまっせ。よろしい、よろしい。朸《おうこ》は、こうやって腰へ差しておきますさかい。そんならいきまっせ。ヨイトショ、と……」  ……トボン。 「またや、またや! 気をつけてんかいな」 「久助はん。おうちの先生は気楽なお方だすな。先刻《さいぜん》まで、なんや、ぶつぶつぼやいてはったのに、もう鼾をかいて寝てはりまっせ。……あ、ところで久助はん、ちょっとここで、駕籠をおろさしてもらえまへんか」 「こんなところでおろさんと、家まで行ってしもうたらどないだすね」 「いえ、じつはな、この路地の奥の家で、ちょっと一杯汲んでいこうと思いますね。そうやないと、また引き返してくるのが、じゃまくそうおますさかい……。いえいえ、じきでおます。すんまへんけど、ちょっと、おろしておくれやす。すぐに汲んできますさかい。……おはようさんでおます」 「おお、肥汲屋さんかいな。じつはな、お前さんに、いっぺん、いわんならんいわんならん、と思うてましたのじゃ。いいえいな、こ近所へは、お前さん、来るたびに、大根やとか葱《ねぎ》やとかを持って来なさるのに、わしところの家へは、なんにも持って来てくれへんやろうがな。ええ、わしところの家へも、なんぞ、いっペん、持って来てくれたらどないや」 「おばあはん、すんまへん。いっぺん持って来んならん、持って来んならんと、思いながら、つい忘れてしまいますのや。こんどは忘れんように、持って来ますさかい、すんまへんけど、今日のところは……」 「そんなこといいなさるな。今日も、他家《よそ》へは持って来なさったのじゃろ」 「いえ、おばあはん。今日は手ぶらだすね」 「嘘を吐《つ》きなされ。いま、路地口ヘ、荷をおろしたやないか。あれは、なんじゃい?」 「あ、あれかいな。あれは」 「それはちょうどええ。あれを、ちょっと置いて帰《い》んでもらおうか」 「なにを」 「萵苣《ちしゃ》やろ」 「おばあはん、年のかげんで、だいぶ耳が遠うなったな。あれは医者や。……そんなら、汲んでくるで」 「コレ、兄。そこから笊《いかき》を出しておくれ。いえな、いま、肥汲屋さんが萵苣をもってきたというで、萵苣をちょっともろうてくるでな、ドッコラしょ……。それ見てみい、ぎょうさん、持って来てるがな」  夜の引き明けどき、おまけに目のうとうなってる年よりのことでおます……。  駕籠の垂れを上げりゃええものを、不精をきめこんで、おばあさん、垂れのあいだから手を突っこむと、 「萵苣はどこじゃいな」  ちょうど、肥担桶《ちょうずたご》のなかへ、手を、チャプチャプチャプ。その手で、先生の顔を、下から上ヘシューッ……。なんぼよう寝てる先生でもたまりまへん。 「だれや」  いうなり、駕籠の外へ足をニューッと突き出したら、拍子のわるい、おばあはんの脇腹へボイーン……。 「アレーッ!」  この声を聞くなり、息子が血相かえて、飛び出してきよって、 「おばあはん。どないした」 「あ、兄かいな。いま、だれやしらんけど、駕籠のなかから、いきなり足を出して、わしをボーンと蹴りくさった」 「なに。おばあはんを蹴った……コラ、駕籠のなかの奴《がき》、こっちへ出さらせ」 「痛い、痛い、痛い。コレ、人を糞垂猫《ばばたれねこ》みたいにしなさんな。なにしゃんす」 「しゃんす、も、長持もあるかい。うちの大事なおばあはんを足にかけやがって、この奴。おのれ、命をとってこましてやる……これでもか、これでもか」 「痛い、痛い、痛い。……コレ、久助。そこで、げらげら笑うてんと、なんとか、口をきいてくれ」 「モシモシ、兄さん。おこりなはりないな」 「なにを……。コラ、お前はこの医者の書生か、男衆か……。おこりなはるな……うちの大事な母親を足にかけられて、これが、おこらんといられるかい」 「なにをいうてなはるね。足にかかったさかい、よろこばないかんのや。この医者の手にかかったら、命がないところや」 [#改ページ] 莨《たばこ》の火  エエこのたびは莨の火というお噺を一席申し上ます。  上方落語の中でもごく皮肉な物で、誠にお作《さく》はよう出来てござりますが、お笑いに乏しいように心得ますので、まア精々|頬桁《ほげた》に力を入れてご機嫌をうかがうことにいたします。  ただいまは住吉街道もずっと家が並びまして、ことに西へ新道路の広いのが出来ましてから、あんまり車やトラックが通らんようになりましたので、夜分など散歩がてらの人達で、えろう賑やかになりましたが、前方《まえかた》は住吉さんの前と、天下茶屋とにパラパラと家があったほか、ずっと田圃《たんぼ》ばっかりで夜などはむろん人通りはござりまへん。  昼でも卯の日とか初辰とかいう時には大阪から住吉詣りをする人がずいぶん通りますが、あいだは紀州泉州から野菜や果物を積んだ車が通るくらいのもので、駕籠《かご》屋なんぞも、ごくひまなものやったそうで、住吉の鳥居前で駕籠屋が二人ぼんやりしているところへ南の方から、結城紬《ゆうきつむぎ》の着物に茶|献上《けんじょう》の博多帯、焦げ茶の節織り、ごく地の厚いお羽織という風態。  手拭いを大尽かぶりにした上品なお年寄りが、小さな風呂敷包みを首筋へくくりつけて雪駄ばき。  チャラ。チャラ。チャラ。  チャラ。 「もし旦那《だん》さん、お駕籠はどうでごわす、朝からあぶれとりまんので、お安うお供いたします」 「何じゃ私にいうてなさったのかナ、うっかりしててすまなんだ、ウム駕籠に乗れというてなさんのかい、乗せておもらい申さんでもないが、どこまで行きなさるナ」 「へぇ、そらもう旦那さんのおっしゃるところまで、どこへでもお供いたしますので、ヘエ」 「アアさよか、なりゃ一つ乗せていただきまひょう」 「大きに有難うさんで、相棒、結構なことやないかい、今どき値もきめずに乗るような人は滅多にあらへん、召物に気イつけよ、ヘェ旦那どちらへ」 「南から来ましたんじゃ、南へ戻るはずはなかろう、マ北向いてボツボツ行かんせ」 「ああさいでごわすか、相棒、さ肩入れるで、ええか……ハイ、たなあッそ……エエ旦那さん、どの辺まで……」 「北の方へおたの申します」 「アアさいでごわすか……何やいく先が分からんと頼りないナ、ええやっぱり大阪まで……」 「じゃろう」 「へえ」 「多分そうなるじゃろう」 「ヘヘへへへへ、どうぞおなぶりなはらんと」 「いや決してなぶるのやない、行く先はないのや」 「アアさいでごわすか……相棒しっかりしててくれよ、おかしい具合やで、こら……旦那さん、行く先もきめいで、そらえらい難儀だすがナ」 「アハハハハ、まアええがナ、どこまででもいくといわしゃったによって乗せておもらい申した、ま、歩いてたらどうにかなろうかい」 「そんなじゃらじゃらしたこと、……大体そんなら、何をしに歩いてござったんで……」 「えろう気になると見えるナ、実は何しに来たという考えもないのじゃ、ただ退屈紛れに今朝早う、和泉の佐野から堺まで駕籠で来ましたのじゃが、乗りくたびれたので駕籠を帰して、住吉まで歩いて来たところを、あんた方に呼び止められて、何のあてもなしに乗ったまでじゃ。しかし駕籠屋さん、大阪には立派なお茶屋さんがぎょうさんにあるそうじゃナ」 「そりゃモウ、大きなお茶屋はたくさんにござります、新町の吉田屋、北の綿富《わたとみ》なんどと申しましたら、なかなか有名な物で、ヘエ」 「そんなうちでは、知らん者は遊ばさんのじゃろナ」 「大茶屋は一見《いちげん》のお客様はみな断ります、がもし旦那がお越しになろうとお思いでござりましたら、綿富の女中頭、お富どんという人と心安うしてもろうてますよって、綿富ならご案内申します」 「こんなおやじでも遊ばして下さるかナ」 「ヘーえ、そらもうだんさんのご人体《にんてい》でおましたら、けっして粗略にはしやいたしまへん」 「そんならその綿……富かナ、それへ連れていてもらいましょう」 「ヘイ承知をいたしました、相棒、北やで」 「ヤレヤレよう行く先がでけた」 「気楽なお方やなア、そんなら旦那、一つ走らしてもらいます」 「アアコレコレ、別に急ぎやせん、そんな無理をしなはんな、お足《みや》がもとのご商売、痛めてもろうては気の毒じゃ、どうぞゆるゆるやっとくなされ」 「ヘエ大きに有難うさんで、アアしかし旦那さんなんぞ結構なお身分でごわすなア、今日どうして遊ぶということにご苦労なはる、我々みたいに朝から晩まで、ヘイ駕籠へイ駕籠と屁で死んだ亡者みたいにいうて暮らしてる者もやっぱり人間でおますがナ、考えると旦那、時々いやアになることがござります」 「アッハッハッハ、えろう悔やみなはるナ、いや人間、上を見ればきりがない、下見ても際限《ほうず》がない、箱根山駕籠に乗る人乗せる人、そのまた草鞋を作る人、各々その分に応じて楽しみもあれば苦しみもある、人の花は赤う見えるが人情じゃ、あんたがたがそうしてまめで稼ぎなはる姿を見て、羨ましゅうてたまらぬ人も世にはなんぼあろうやら知れぬ、年寄りや足弱の苦難を助けて己れの暮らしを立てる、立派な稼業じゃ、卑下せんと稼業大事に励みなされ」 「だんさん、大きに有難うはんでごわす、もう駕籠屋なんていいますと人間の屑みたいにいわれますので、自分でもついそない思うとりましたが、なるほど今みたいにおっしゃっていただきますと、やっぱりこれでも人間の仲間に入ってるような気がいたします、ヘエ」 「心に奢《おご》りを知らず、自らを卑《ひく》しとして世を渡る、アア尊い尊い、私も久しぶりでええことを聴かしてもろうて気が晴れました」  駕籠屋を相手に話をしているうらに、北の新地へ入って参ります、綿富《わたとみ》の表へ駕籠を降ろして駕籠屋が内らへ申しますと、さすが商売柄、目が高い、若い衆がバラバラと表へ飛んで出まして、 「オオこれは旦那さん、今日はようこそお越し下されまして有難う存じます」 「オオこれはこれは、見なさる通りの田舎者じゃ、少しお邪魔をさしてもろうてもええかナ」 「どうぞごゆるりとお遊びを願いますので」 「時にお前さんは」 「当家の若い者で」 「ちとお頭《つむ》が禿げてるが……」 「恐れ入ります、かような家に奉公いたします間は、いくつになりましても若い者と申しますので」 「そんならお年寄りのお若い衆……」 「ご丁寧で恐れ入ります」 「失礼ながらお名前は……」 「伊八と申しまして……」 「何じゃ、いたち……」 「イエ伊八で」 「アハハハハハ、聞き違いじゃ堪忍してくれ、時に伊八とやら、駕籠屋さんにお賃を上げねばならぬ、細かい物があったらちょっと一両とりかえとくれ」 「ヘエ承知をいたしました、……帳場はん、今のお客さん、一両おとりかえ」 「よしや持っていき」 「ヘエ……へ、旦那さん、お待たせいたしました」 「ハイご苦労、アア駕籠屋さん、えらいしんどをさしました、勝手が分からんで少ないようなら遠慮のういうとくなされや、さこれが駕籠賃じゃ」 「ギエッ、こッ、こッ、小判ッ、ブルルルル、オイ相棒お礼申せ、一両下はったんや、旦那さんお有難うさんで」 「お有難うさんで」 「おあーりがとーう」 「妙な節つけるやないか……いやえろう物喜びをなはる」 「大きに有難う存じますへエ、実は旦那さん、内に年とった母親が一人ござります、老い先も短いのでござりまっさかい、せめて綿の柔らかい蒲団にでも寝さしてやったらと思いましても、その日暮らしの駕籠屋風情で思いもよらぬことと諦めとりました、早速これで暖い蒲団を買うて、年寄りを喜ばしますでござります、ヘエ有難うさんで」 「アアこれ、チョッと待ちなされや、何じゃ蒲団を買うて親御を喜ばす。アア恐れ入りました、伊八もう二両とりかえとくれ」 「承知いたしました、……帳場はん、二両おとりかえ……」 「持っていき」 「ヘエだんさん、お待たせを……」 「や、はばかり、さア駕籠屋さん、これはあなたに差し上げるやない、お家にござる親|御前《ごぜ》へ私の寸志、何ぞお口に合う物でも上げとくれ」 「イヒヒヒヒヒ、オィ相棒、お礼申してくれ、また小判二枚下はったんや」 「旦那さん大きに有難うはんで、……私の家の筋向かいにも父親が一人……」 「アハハハハハ、面白いお人じゃ、いや縁があればまた乗せておもらい申す、ハイご苦労さん……伊八、それでは案内を頼みましょ」 「ええそのお包みを」 「持って下さるか」 「鶴の間へ御案なーいー」  立派な座敷の床の前ヘピタッとお坐りになります。 「ええ粗茶でござります」 「や頂戴しましょう、アアさすがは北の綿富、普請から建具万端、道具類にいたるまで結構な物やナ……おお、向こうの衝立ての下から、お足がチョイチョイ見える、どなたぞおいでかナ」 「これ、向こうへ行てなはらんかいナ、……お目障りで恐れ入りました、あれは当家抱えの見習い衆でござりますので」 「アアさようか、いやかまわんかまわん、こっちへ入ってもろうとくなされ」 「有難う存じまして、……お許しが出ました、皆こっちへお入り」  ゾロゾロゾロゾロゾロ。 「へ、おいでやす」 「へ、おいでやす」 「へ、おいでやす」 「ハイ、ハイ、ハイ、……オーぎょうさんござるのやナ、なアこんな時分から修業をして行儀作法を見習いなさる、ええ芸妓衆が出来るはずじゃ、皆で何人ござるのや」 「十人でござります」 「アアさようか、伊八、チョッと十両とり替えとくれ」 「承知いたしました、……帳場はん」 「何やいナ」 「ヘッヘッヘッヘ」 「ア笑うてよる。どうしたんや」 「十両おとり替え」 「十両……まアええ、持っていき」 「へ、お待たせいたしました」 「ハイはばかりさん、さ、あんた、何もよう買うて来なんだ、これを一つずつわけとくなされや」 「さアみんな、おいただきなはれ」 「旦那さんおおきに」 「旦那さんおおきに」 「オオオオ、アア恐れ入った、行儀のええことやなア、皆私をかまわいでもええで、甘い物でもいうてもろうて、好きなことして遊んどくなされ、伊八、まだこの他に」 「ヘエ舞妓衆がおられますので」 「アアさようか、いててやだけ皆入ってもろうとくれ」 「有難う存じまして、舞妓衆お通り……」  ゾロゾロゾロゾロ。 「へ、おいでやす」 「へ、おいでやす」 「ハイ、ハイ、これはまた何とした綺麗なことじゃ、いやもう美《うつ》やかなものじゃナ、何人ござる」 「十五人でござります」 「アアそうか、伊八、チョット十五両とり替えとくれ」 「ヘエ、……ウームかしこまりました、……帳場はん、ヘッヘッヘッヘ」 「アまた笑うてる、何やいナ」 「十五両おとり替え」 「これ、ええかいナ」 「気づかいおまへん」 「さ持っていき」 「ヘエ……お待たせいたしました」 「オオご苦労じゃ、さあんた、何もお土産がない、一つずつわけてもらいましょ、伊八この他には」 「芸妓衆が、……」 「入ってもろうとくれ」 「芸妓衆お通り……」  ゾロゾロゾロゾロ。 「へ、おいでやす」 「へ、おいでやす」 「ハイ、ハイ、オオオ、歌舞の菩薩の色競べとはほんにこれやなア、ても艶《あで》やかなことじゃ、何人ござる、何、二十人、伊八、二十両とり替えとくれ」 「しょ、承知いたしました、……ヘッヘッヘッヘ」 「アまた笑うて来よった、今度はなんぼや」 「二十両」 「大丈夫かいナ」 「心配しなはんな」 「持っていき」 「ヘエ旦那さん、お待ちどおさまで……」 「や、はばかりじゃ、さ失礼ながらめいめいこれ一つずつ、この他には……」 「幇間《たいこもち》衆がおられますので……」 「入ってもらいましょ」 「幇間衆お通り……」  バタバタバタバタバタ。 「ウへーッ」 「ウへーッ」 「おおこりゃ何じゃ何じゃ、そ、そう丁寧におじぎをしられると困る、田舎おやじじゃ、どうぞ心やすうしとくなされ、何人ござる、ウム三十人か、伊八、三十両とり替えとくれ」 「アアさいで、……ヘッヘッヘッヘ」 「おいまたかいナ、なんぼいるね」 「三十両だすと」 「だんだんロが大きなるがナ、まア持っていきなはれ、あとはモウあかんで、ええか」 「よろしおます、……ヘエだんさん」 「オオご苦労、ご苦労、さア少ないが一つずつ、そこで私に機嫌取りはいらんで、何を見せてもろうても分かりゃせん、皆が好きな物を取って遠慮なく勝手に遊んどくなされ、それを見て楽しみますじゃ、……オオ伊八、気がつかなんだ堪忍しとくれや、他の衆には皆お土産上げて、肝腎えらい目さしたお前を忘れてた、他にも奉公人衆もあるやろが、皆で何人ござる」 「上下四十七人おりますので」 「ウム、五十両とり替えとくれ」 「アアさいで、ヘエ……ヘッヘッヘッヘ」 「いかん」 「何だす」 「もう出されへん」 「そんな殺生な、今度わたいがもらう番や」 「何というてもいかん、考えてみい初めてのお方にそうそう立て替えが出来るかいナ、どうぞお手許のんをと、あんじょういうて出してもらい」 「ヘエ、……さっぱりわやや、……ヘエ旦那さん」 「オオ伊八、はばかりじゃナ」 「ええ、それがその……実はただいまあいにくと帳場に細かい物をきらしまして、……えらい申し兼ねますねが、どうぞお手許のをおつかわし下さりますようとへエ……大きな物でござりましたら、お両替をして参ります……ヘエ」 「何じゃ、フム、フム、……アアさようか、アハハハハ、いやいや心配せえでもええ、それでは私が持って来たのを出しましょう、さっきの包みをちょっとこれへ持って来とくなされ、……ハイはばかりさん」  首筋へくくりつけておいなした風呂敷包み、手許へ取り寄せてほどきますと中から小型の柳行李が出ます。  蓋を開けると中にはまた奉書《ほうしょ》の紙で四方から包んでござります。  この紙をパッパッと四方へ払うたのをとヒョイと伊八が見ますると、中には目も眩《まばゆ》いような山吹色が、綺麗に重ねてギッチリ詰まってござります。 「伊八、最初にたしか一両借りましたナ」 「ヘエヘエ、さいでござります」 「それ二両にしてお返し申す、つぎは二両やったかナ、ハイ四両にして返しますぞ、それから十両かいナ、フム二十両にして返す、それからが十五両でこれが三十両、あとは二十両が四十両、三十両が六十両じゃ、ええか、そのつぎはなんぼやったいナ」 「トホホホホホもうしまいでござります」 「ああ、もうそれだけやったかナ、ようこそお取り替え下された、どうぞそなたからよろしゅうお礼をいうて下されや、それからこれはお家の奉公人衆御一統でわけて下さるよう、さてお前にはいろいろ世話になりました、なんぼあるか知らんが、ほんの一掴みや、納めとくなされ」 「トホホホホホホ、あり、あり、有難うさんでござります」 「時に今日のお払い、どれほどお上げ申してよろしいやろうな」 「めッ、滅相もない、これだけ頂戴してなおお払いまでいただいたら罰があたります、どうぞご無用にお願い申します」 「フーム、すると何かいナ、これだけの大勢の衆にお伽をしてもろうて、たったのあれぐらいですみますのか、はてさてやすい物やなア、すると持って来た金が残ってくるが困ったナ、持って帰るのも面倒じゃ、オオ向こうの地袋、あれは一人くらい乗っても落ちやすまいナ」 「かなり丈夫に出来てござります、お一人やお二人、お乗んなしても、ビクともする気づかいはござりません」 「よし、それでは私があの上へ上がって、残った小判をまいてしまおう、何枚でも拾うたら皆そのお人の物じゃ、どうぞたくさん拾うとくれ」  ヒョイと身軽に地袋棚へ上がってチャンとお坐りになります。 「ええッ、小判まきイ、さア心得た、プッ、プッ、こう鉢巻きをして尻からげさしてもらうワ、わいのそばへ寄ったらだれかれの容赦はせんで、横っ腹蹴り飛ばすぞ」 「オイ一八、そんな無茶なことがあるかい、皆が拾うのやがナ」 「チョと姐ちゃん、この櫛《くし》と簪《かんざし》預かっといとくなはれ」 「何いうてんね、わてかて拾わんならん」 「旦那さん、こっちへぎょうさん放っとくれやすやー」 「用意はええか、さアいくぞ……ソーレ、バラ、ソーリャ、バラバラバラバラ」(囃子) 「キャーッ」 「ウワーッ」 「アッハッハッハッ、こら面白い、今度はこっちじゃ、そーりゃ、こっちもいくぞ」 「ウワーッ、痛いッ、誰や頭蹴りやがった」 「キャーッ、姐ちゃんあんなとこまでころこんでいきやはった」 「そりゃどうじゃ、面倒臭い、一ぺんにいくぞ」 「ウワーッ」 「キャーッ」 ドタバタ、ドタバタ、ドタバタ、ドタバタ。 「アハハ、アハハ、ウーワッハッハッハッ、おおあの慌てることわいナ、アッハッハッハ、ああ腹が痛い、こりゃたまらん、ウーム苦しい、ああああ、やーれ面白かった面白かった、伊八騒がしたナ、さよなら」  表ヘポイ……。 「何やあの客は」  ……帳場が、 「伊八どん、今のお客さんわいナ」 「もうお帰りになりました、これこれこういうお遊び方だす」 「ウム、ただのお方やあるまい、あとつけてみい」 「ヘエッ」  伊八が見え隠れてついていきますと、もうズンブリ暮れて、新地の中を例の風呂敷包みを首筋へくくりつけて、ゆっくりした足取りで南ヘチャラチャラ。今橋筋を東へ曲がって鴻池のご本宅。表の戸をトントン。トントン。 「え、どなたで」 「ああ、わしじゃ」 「おお旦那さん、ただいまお開け申します」  その時分のご大家はみな通り庭でござりまして、中庭と玄関と表と、三つ入口がついてござります。  ガラガラガラ。ガラガラガラ。ガラガラガラ。 「へえ、お帰りやす」 「お帰り遊ばせ」 「へえ、お帰り」 「大儀じゃ、あとを閉めとくなされ」  ガラガラガラ。ガラガラガラ。ガラガラガラ。 「はーてナ、どなたやろな、鴻池の旦那は時々見えるさかいお顔を知ってるが、あのお方とは違う、あれだけみなが丁重にしやはるのはご親類かいナ、一ぺん訊ねてみたろ」  トントン。トントン。 「どなた」 「夜分恐れ入ります、北の綿富の若い者で、少々ものをお伺い申しとうござりますので」 「何じゃ、綿富の若い者か」  表戸の横に臆病窓というのがござります。それをスーッと開けて、 「何や、お前、伊八やないかい」 「おッ、これは、夜分ご面倒なことを」 「待ちや、今|開《あ》けたげる。さ、入り」 「ヘッ、御免やす、へ、今晩は、いやお揃いで、へ、どなたさんも今晩は」 「何やいナ今時分に」 「エエ妙なことをお訊ねいたしますが、ただいまご当家へお入りになりましたのは、どちらの旦那様でござりますやろ」 「ああお前とこへ行きはったか」 「ヘエお越し下さりましたので」 「喜びや、福の神が舞い込んだようなものや、最初、駕籠賃取り替えやへなんだか」 「あッ、よう御存じで、ヘエお取り替え申しました」 「なんぼやった」 「一両と二両、都合三両で」 「フム、それは六両にして返してもろうたやろ」 「ヘエヘエ、さいでござります」 「つぎは」 「十両、十五両、二十両、三十両」 「取り替えたんやな、みな倍にして返してもろうたやろ、そのあとは」 「五十両で」 「フム、取り替えたか」 「何分お顔を存じまへんので……」 「あッ、断ったか、やれやれ可哀想に、モウあかんワ、早う帰り」 「なんでだすネ」 「モウお前とこ、しくじってるがナ、阿呆やなア、そこをもう一ぺん取り替えてみい、ウム腹の太い面白い奴やとなる、今度いきなはる時には、お前とこの襖が何枚あるか知らんけど、スッカリ小判で張り詰めてもらえるのや、おそばについてお世話申したのはお前か、フームよくよく運のない男やなア、しくじらなんだらこのつぎお越しになった時、新しい四斗樽の中へお前を坐らしてナ、ぐるりを小判でギッシリ詰めてくれはるのや、そのうえ頭から千両箱を一つソッと載せてもらえる、オイしっかりせえ、お前小判の漬物《こうこ》になりそこのうたんやで」 「ええー、一体あのお方はんは」 「知らんのかいナ、ご当家妹御前のお嫁入り先、和泉の暴れ旦那や」 「ギエッ、飯さんだすか」 「そうや」 「フワー」 「何じゃい何じゃい、どうしたんやいナ」 「腰が抜けましたア」 「情けない男やなア」 「そこをあんさんがたのおとりなしで、何とかご機嫌の直るような工夫が……」 「あけへんあけへん、さア早う帰りッ」 「フワーイ、……こらクソ帳場」 「ア痛たたたたた、コレ伊八どん何するね、人の胸ぐら絞めてどうや、放しんか、痛いがナ」 「イヒヒヒヒヒヒ、ああ、おのれのおかげで漬物《こうこ》になりそこのうた」 「そら何をいうね。まア落ち着いて話をしてみい」  実はかくかくしかじかという。このことを主人に申しますと、さすがは大茶屋の主、腹が大きい。ウム知らなんだことは仕方がない。時の来るのを待ってご機嫌を取り戻そうと、いろいろ思案をしているうちに段々と盆が近づいて参ります。  そこで大阪中の鰹節を買い占めて、これを屋台につくりました。今日しも盆の十四日、様子をきき合わしてみるとちょうど飯の旦那が鴻池にご滞在中という。これ幸いと右の鰹節の屋台に鳴物一式、伊八がはなへデンと乗って采配を振ります。選り抜きの綺麓どころが二百人余り、紅白の網を引っ張って賑やかに新地を繰り出しました。  ただいまの老松町から天満の十丁目へ出てこれを南へ、天神橋を渡って高麗橋から今橋筋へ練って参ります。鴻池のご本家近う参りますと、伊八が屋台から飛んで降りるなり、鴻池の表口へ参りまして、 「ヘエちょっとお願い申します、北の綿富から飯の旦那様へお中元でござります、どうぞ窓からでも御覧下さりますよう」  表からこのことを内らへいうて参りますと、飯の旦那。はてナ、どんなことをして来よったのじゃろうとお居間の窓を細目に開けてご覧になります。  ここで囃子に一層力を入れて、一同が手振り揃えて踊りましたのが、後に浪花踊りとなりましたのやそうで、伊八が窓の前で頭を下げまして、 「ヘイ旦那様、先日はまことに有難うござります、その後はご無沙汰をしました、今日は誠にお恥ずかしいような物でござりますが、お中元の印までにお目にかけます」 「おお伊八どんか、いつぞやらはえらいご厄介になりました、今日はまたお気をつかわれたご祝儀、有難う頂戴いたします、どうぞ主によろしゅういうとくなされ、いずれ近々に一ぺんよせていただきましょ」 「有難う存じます、是非お越しのほどをお待ち申し上げております」 「じゃが、貸して欲しいという物があれば、どうぞ何でも貸しとくなされや」 「恐れ入ります、それでは旦那様、これで御免をこうむります」  またここで賑やかに一踊りして北の新地へ帰って参りました。 「伊八どん、首尾はどうやった」 「上々吉だす、近々に一ぺんよせてもらうていうてはりました」 「そりゃ結構や、手ぬかりのないようにせないかんナ」 「今度しくじったらもう取り返しがつきまへんで、それにえらい下駄を預けられました、貸して欲しいという物は何でも貸してくれというてはりました、あの旦那が先からこたえときはるぐらいやさかい、今度は五十両や百両のチョロこいことやおまへんで」 「よっしゃ、その手配しとこ」  さアそれから大阪中の両替屋に掛け合うて小判の融通を頼みましたが、何というても北の綿富、信用がござります。千両箱をドンドン運んで来るのを庭先へ積み上げまして、伊八がそれへどんと腰を掛けて待っていると、日の二、三日も過ぎた時分。  薩摩上布の身軽なふうで、相変わらず小さな包みを首筋へくくりつけて、チャラチャラチャラ。 「おお伊八どん、先日は結構な物を有難う、今日はそのお礼かたがた、チョッと貸しておもらい申したい物があってやって来ました」 「旦邸様お待ち申しておりました、高の知れたお茶屋風情で、大したご用は承《うけたまわ》り兼ねますが、千や万の用意はいたしとります、さてご用立て申します金額《たか》は、……」 「アア、いや、チョッと莨《たばこ》の火が借りたいのじゃ」 [#改ページ] 次の御用日《ごようび》  ところは安堂寺町一丁目に樫木《かしき》屋佐兵衛さんというお宅がござりました。  ちょうど六月土用のうち、おひる御飯の時で、 「コレ常吉、常吉はなにをしていますな……」 「ハイ、ただいま御飯をいただいております」 「コレ、はたの子どもはみな御飯を食べてお店へ出ているのに、そちはいつまで御飯を食べておるのじゃ、早う食べんかいなア」 「ヘイ私は佐賀屋はんへ、お使いに行っておりましたので、一番ベベチャに食べましたので、一番ベベチャになってます」 「それを早う食べぬか」 「食べてまんねがな、それを早う食べ、早う食べとやかましゅう言いなはる、丁稚というものはつまらんもので、御飯もゆっくり食べられへん」 「コレ何をぶつぶつぼやいている、行儀のわるい、御飯を食べながら、そう喋るもんやない、おとなしゅう食べぬかえ」 「おとなしゅう食べてたのに、あんたが喋らしなアるねん」 「それを早う食べというのじゃ」 「食べてまんねがな、そないに早う食べいうのなら、常吉がまだやで待ってていっしょに食べてやれと、言うとくなアったら、いっしょに食べてお店へ出てますねがな、それはそうと今日はお芋と、葱《ねぎ》のお菜で、おおきにご馳走さんでおます」 「何じゃ今ごろ礼をいうてよる、コレ常吉、そちは子どものくせに芋が嫌いか、小皿の上に出してあるやないか」 「なに言うてなアるねん、わいお芋好きだんがな、お清どんが贔屓《ひいき》ぶりで大きな太鼓のとこを、二ツも入れといてくれたんだす」 「それにそちはなぜ食べんのじゃ」 「食べとうおますけども、他家《よそ》さんはこの日の長い時分に、ほっとせぬように、おやつが出ますけども、ご当家はえぐおますので」 「コレ……えぐいということがあるか」 「そうだんがな、おやつが出まへんよって、残しておいておやつに食べますのんや」 「コレ、そんな行儀のわるいことをするもんやない、早う食べてしまうのじゃ」 「食べてますがな……」 「用事があるのじゃ」 「また……」 「またということがあるか」 「そうだんがな、銭を使うと減るもんやので、銭をちっとも使わずに、丁稚使うても減らんもんやで、丁稚ばかり使うて、銭使いの細かい、丁稚使いの荒いうちや」 「そら何を言うのじゃ、糸の縫物屋行きのお供をせんならんで、早う食べというのや」 「嬢《とう》やんの縫物屋のお供なら、亀吉とんも、定吉とんもいはります」 「いや、亀吉や定吉ではいかん、何や知らんが、糸はそちが虫が好くのじゃ」 「えらいおかしいナア、嬢やん、あてに惚れてはんのんかしらんて」 「何を言いくさるね、気の変わらんうちに、行かんならんよって早う食べというのじゃ」 「食べてんのに早う食べと」 「コレ杓文字《しゃもじ》でかきこむ奴があるか」 「あんたら、ゴテクサゴテクサ言いなアるよって、たった十三膳しか食べられへん」 「十三膳食べたら結構じゃ、早う行こ」 「嬢やん、おおけにお待ちどおさん、ヘエお店のお方、嬢やんのお供して、縫物屋へ行てまいります」 「気をつけて行くのじゃゾ」 「気をつけるためにまいりますい、気をつけんのなら行かいでもよろしい」 「エエイッ」 「アー痛、嬢やん、お店のお方、みな気が短うおまんな、じきに拳骨でぼんと、叩いてでおます」 「あんた、いらんことを言いなアるよって、叩かれまんね」 「わて何もいらんこと言えしまへん、これ借り物やない、自前の頭やよって、痛い、痛いわ、そらそうと、お町内のお方がいうてはりまっせ、嬢やんは別嬪《べっぴん》さんや、別嬪さんやと、嬢やん別嬪だっか」 「そんなこと言うもんやおまへん」 「わて言うてえしまへん、お町内のお方が皆いうてはりまんね、お年頃やが嫁入りなはるねやろか、またご養子おもらいになるねやろか。嬢やん嫁入りしなはるのか、ご養子おもらいなはるのか」 「そんなこと言うのやおまへん」 「わて言うてえしまへん、お町内のお方が皆いうてはりまんね、ああいう家へご養子にお越しになる方は一生の徳や、どんなご養子がお越しになるやろと。嬢やん、どんなご養子おもらいなはるね」 「そんなこと言うもんやおまへん、いんでお母はんに言いまっせ」 「いんでお母はんに言いまっせ」 「またそんな根性のわるいことを言うて」  ゴテゴテいいながら、東横堀を南へ取ってまいりました。  安綿橋の南詰め、住友様の御屋敷、この辺はただいまでも淋しゅうござりますが、以前は昼間でも人通りがござりません。  現今大阪の市中で昼、人通りがないと申しますと不思議なようですが、前かたはずいぶん淋しいところがたくさんござりました。船|場《せんば》では本町橋の西詰め南へ唐物町の浜、俗に本町の曲がり。南では住友さんの浜。西では加賀の屋敷の裏手、薩摩堀願教寺の横手。江戸掘四丁目七ツ蔵。中之島|蛸《たこ》の松なんてずいぶん淋しいところです。ただいまはみな賑やかになりました。その以前はかような淋しいところがたくさんありました。  まして土用のうち、日中のこと、往来の砂は日が当たって、きらきら光っております。川向こうを通っている商人《あきんど》の声が、かすかに聞こえておりますが、夏の売り物は何となし、陰気な売り声で、葭《よし》や簾《すだれ》は、いりまへんか。茣蓙《ござ》や、寝茣蓙——すいとう、ところてん、鳥丸本家|枇杷葉《びわのは》湯——お女中方では産前産後血の道の妙薬、金魚屋の声を聞くと頭が細こう前へ行きます。  金魚えエ、金魚えエ……。一つだけ陽気な売り物は氷屋はんで、腰切れの法被《はっぴ》一枚で、オ—かち割りや、かち割りや、割った割った。居眠っていても目がさめます。  これでよろしいが、金魚屋と氷屋とてれこやったら、さっぱりわやや。金魚屋を氷屋のようにいうてごらん。オ—金魚や割った割った。金魚がみな鼻打って死んでしまうし。  氷屋をまた金魚屋のようにゆっくりいうてこらん。氷や寒氷《かんこおり》、冷たい氷、氷屋はん一ぱいおくれんか、アア溶けた。みな氷が溶けてしまいます。  遠くには油絞めの掛矢の音が、かすかにコツンコツンと聞こえてます。何とのう気持ちが悪いと思いながらまいりますと、南の方からやって来ました男が、この樫木屋佐兵衛さんの借家に住んでおりまして、安井さんの纏《まとい》もち、日本橋北詰めへまいりました東側のところにただいまお稲荷さんがあります。安井のお稲荷さんと申します。  ここが安井の屋敷。纏もちとはただいまで申します消防方で、名前が天王寺屋藤吉という手伝い職。まだ裸で歩いてかまわぬ時分、法被一枚、褌《ふんどし》一ッ、頭に日が当たるのが暑いので、法被を頭の上からかむってやってまいりました。  この姿を見るなり、嬢やんが、 「常吉、あてこわいわ」 「嬢《とう》やん、昼日中に怖いというものおますかいなア」 「そうかて、あてこわいよって去《い》の」 「何いうてなアるね、いま去《い》んだらわてのお供のしようが悪いというて叱られます、嬢やん、昼日中に怖いものがおますかいなア」 「そうかて見てみイ、向こうからあんな怖いもんが来た」 「何の怖いことおますかいな」  と向こうを見ると、 「アア怖わ怖わ」 「それ、怖いやろうがな、去の」 「嬢やん、今去んだらわてが怒られます、こっちへおいなアれ」  子ども心にも主人を思わぬ者はござりませぬ。  あの辺には、ぼろ屋さんがたくさんござります。ぼろ屋の格子の横の用水桶のところへ連れて来て、ここにつくぼっていなアれ、わてがかくしてあげますと、嬢やんをつくぼらして、上から隠していました、この姿を見るなり、アア家主の嬢やん、私の姿を見て怖がっているな、よし、も一ツ怖がらしてやろう。  洒落というもんは、せいでもよいもんで、頭の上に着ていた法被を上ににゅウと差し上げて、怖がっている嬢やんの頭の上にかぶせておいて、アア……と言うた。  たださえ怖いと思うている頭の上でアア……と言われたらたまりません。  あれえ—というなりそれへドンと倒れました。  これを見た常吉がびっくりして家へ走って帰りました。 「マア旦那はん、慌てなアんな」 「コレばたばたとどうしたのじゃ、雪駄ぐちお家へ上がって」 「マア旦那はん、落ち着きなアれ」 「コレそちが落ち着かぬかいナア、どうしたのじゃ」 「いま住友はんの浜まで行たら、嬢やんが怖いと言いはります、嬢やん昼中に怖いいうもんおますかいなア。けれどもあれ見てみ。ふッと向こう見たら背の高い人がだんだんと、こっちへ来はりましたので、わても怖かったよって、ぼろ屋はんの用水桶のところへ、嬢やんを隠していたら、その人がだんだん大きゅうなって、だんだんこっちへ来て、嬢やんの頭の上へ来るなりアッというてでおました、フッとその人の顔を見たら、うちの借家の天王寺屋藤吉サンのおっさんだんね、ほんなら嬢やんが、寝んねして、冷とう堅うなって、物言わんで」  それは騒動やがなと、お店の若い方が行って、連れて帰りまして、お医者を迎えましたら、ようようのことで息が戻りましたが、それから病みつきました。  今まで習いました読み書き算用は申すに及ばず、お茶、花、三味線、お琴に至るまで、みな忘れてしまいました。  嬢やんあっち向いてなはれ、フン。こっち向いてなはれ、フン、と三日でも四日でも向いている。もの忘れをする。世にいう、健忘《けんぼう》という病に、取りつかれました。一人しかない娘を健忘にされたから、親御の心としてどう諦めがつきましょう。  願書をしたためて、おおそれながらと願い出ましたのが、西御番所。西御番所と申しますは、本町橋東詰め北へはいりましたところ。浜側には溜《たまり》と申しまして人民控え所がござります。  これに待っておりますと、門の横手に武者窓という三角の木が横に入ってござります。時刻がまいりますとこの窓からお呼び込みに相成ります。 「安堂寺町一丁目、安堂寺町一丁目樫木屋佐兵衛、下人常吉出ましょう。借家天王寺屋藤吉出ましょう。町役一同出ましょう。出ましょう……」  声がかかりますと、みなが門を入ってまいります。  お白洲と申しますと、現代の法廷とは違いまして、やはり芝居で致しますように、後ろに稲妻形の襖《ふすま》がはまっております。下は一面に砂利が敷きつめてある。お上のお慈悲で、ごまめむしろという目の粗いむしろが一枚敷いてござります。  この上へ原告も被告も座るようになってます。  お白洲へ出てまいりますと、ここにはえらそうにいうておる人があります。 「コリャコリャ其方は何じゃ、樫木屋佐兵衛か、こちらへ座れ。其方は下人常吉か、こちらへ。其方は天王寺屋藤吉か、こちらこちら。 其方は何じゃ、何、町役か。 コリャ、髷の先が歪んでるじゃないか、袴《はかま》の裾が破れてる、町役だてら不行儀な奴じゃ」  町役かて袴の裾が破れんということはない。ぶつぶつぼやいている。  そうこうするうちに、座が決まると静止の声と申しまして、シイ……声がかかりますと、向こうの唐紙が左右に開きますと、お出ましになりましたお奉行様。色が白うて、顔が長手で、目の張りの好い中高な、青みのかかった、青長白という顔で……。  ちゃんと座におつきになると手文庫より書類をお出しになります。お奉行さんが字を読む時には、口で読まん。それでは目で読むか。目で読まん。口で読まん、目で読まん、どこで読む。目と眉毛の間で読む。眉毛ばっかり動かして人形芝居の岩永みたいに、声を出さずに読む。 「安堂寺町一丁目樫木屋佐兵衛下人常吉出ておるの」 「おそれながら、これに控えております」 「借家天王寺屋藤吉出ておるの」 「おそれながら、これに控えております……」 「町役一同出ておるの」 「おそれながら、これに控えております……」 「樫木屋佐兵衛、面を上げい」 「ヘエエ」 「差し出したる願面に、先月十三日、娘、糸なる者、縫物屋行き途中において、借家天王寺屋藤吉、娘、糸|頭《こうべ》の上にてアッと申したとあるが、奉行一向に相わからん、ありていに申し上げろ」 「おおそれながら、その儀なれば下人常吉をお調べ下さりますよう」 「コリャ常吉面を上げい……コリャ常吉、コリャ常吉、面を上げい」 「面を上ゲイ、面を上げ……」 「何でやす」 「面を上げ」 「アア表でやすか、表ならなア、けさ藤七とんが開けてでおました、そんなら源兵衛どんが暖簾掛けてでおました、わたしが庭を掃いて」 「コレそのようなことはどうでもよい、早く申せ」 「けどわてこれから言わんとよういわん」 「コリャ何でもよい、まだ十五にたらぬ小児のことじゃ構わぬ、捨ておけ」 「コレ顔を見せるのじゃ」 「アア顔でやすか、ヘエこんな顔でやす」 「こんな顔ということがあるか」 「コリャ常吉、先月十三日樫木屋佐兵衛、其方の主人じゃのう、樫木屋佐兵衛娘糸なる者、縫物屋行き途中、借家天王寺屋藤吉、娘糸の頭の上にてアッと申したとあるが、この奉行一向に相わからん、其方、心得おるならありていに申し上げよ」 「それならなア、おっさん」 「コレお奉行さんにおっさんということがあるか」 「そうかて、あて名前を知らんよって」 「コレ、おじでも何でもよい、捨ておけ、コリャ常吉、其方存じておるか」 「あのナア、それやったらなア、もうせんど、あて佐賀屋はんへお使いに行てました、帰って一番ベベチャに御飯を食べました、ほんなら旦那はんが、早よ食べ食べいうてだんね」 「コレそのようなことはどうでもよいではないか」 「けど、あてこれからいわんと、よう言わんね」 「コリャ、何でもよい小児のことじゃ捨ておけ、かまわぬではないか、コリャ常吉、一番ベベチャに御飯を食べて、それからいかが致した」 「ほんならなア、その日のお菜がなア、葱《ねぎ》とお芋《いも》のお菜だんね」 「コレそんなことはどうでもよい」 「コリャ、何でもよいではないか」 「おっさん、だんないなア」 「オオかまわん、かまわん」 「おっさんだんない言うてなはるに、このおっさんばっかり、ごてくさごてくさ言うてはる」 「芋と葱なら馳走ではないか、いかが致した」 「ほんならなア、旦那はんが子どものくせに芋きらいか、こない言やはりまんね、きらいやないけども、ご当家はえぐおます」 「コレ」 「そうでおまんがな、よそさんはこの日の長い時分にはホッとせぬようにと、おやつが出ますね。けども、わいとこの家は、おやつが出まへんよって、残しといて、おやつに食べますというたら、そんな行儀の悪いことをするもんやない、早う食べてしまえ。食べてるのに、早よ食べ食べ、用事があるねん、おっさん、わいとこの家は、ベタ一面の用事だっせ、銭を使うたら減るもんやよって、銭ちょっとも使わずに、丁稚使うても減らんもんやさかいに、丁稚ばっかり使うて、銭ちょっとも使わぬ、銭使いの細かい、丁稚使いの荒い家だっせ。糸の縫物屋のお供をせんならんよって早う食べ、嬢《とう》やんの縫物屋のお供なら、亀吉とんも定吉とんもある、亀や定ではいかん、何や知らんが、糸はそちがえらい虫が好く、えらいおかしいなア、ほんなら嬢やんが、わてに惚れてはるのか知らん、何を言いくさる、気の変わらぬうちに行かんならんで早う食べ。食べてんのに早う食べいうてだんね、わてらたったの十三膳しか食べられへん」 「ウム……」 「アアおっさん笑いなアったなア、笑われるねやったら言わんとおこ」 「イヤイヤ役目じゃ笑やせぬ、十三膳食べていかが致した」 「ほんでお店へ来て、どなたも嬢やんのお供して縫物屋へ行てまいりますというたら、気をつけていくのやゾウ、ヘエ気をつけるためにまいります、気をつけんのならいかいでもよろしい。何を言いくさるね、ボンと拳骨で叩いてでおまんね、うちのお店のお方は皆気が短うおまっせえ。ほいで、嬢やんのお供して住友はんの浜のとこまで行ったら、嬢やんが怖いいうてでおまんね、嬢やん、昼中に怖いもんが、おますかいなア、そうかて怖い、去ぬというてだんね、今去んだらあてのお供のしようが悪いいうて、叱られます。そうかて怖い、あれ見てみい、フッと向こうを見ましたら背の高い人が来ました。あても、怖かったので、嬢やんをぼろ屋はんの用水桶のとこへ連れて行て、あてが隠していたら、その人がだんだん高うなってだんだんこっちへ来て、嬢やんの、おつもの上で、アッと言うてだした。フッと顔見たらうちの借家の天王寺屋の藤吉つァんの、おっさんだんね。アアおっさん、天王寺屋藤吉つァんの、おっさんを知ってなアるか、恐いおっさんだッせ、いつも家賃を取りに行くと、家賃どころか屋根の漏りも直しやがらんと、酒屋へ払わんならんワエ、去んで禿ちゃんにそう言うとけと、そら恐いおっさんだっせ。からだ一ぱい絵の描いたアる、それはそれは恐いおっさんだんね、それから家へ去んで、そういうたら藤七どんや、太助どんや、源兵衛どんが出て来て嬢やんを抱いて戻って、お医者はんが来はってようようと物を言うようになったんだんね、それから病気になってでおました、今まで習うたことを皆忘れてしもうた、物忘れる病気、あの病気なんやらいいまんなア、それそれソウ、あのケンデッポウ、ケンデッポウという病気になってでやした。ほんなら旦那はんが一人しかない娘をこんな病気にしられた、御番所へ願ういうてだした、ほんなら兵庫のお家はんが、これお前そないに言いやけども、これも先世からの因縁や。ほんなら江州の旦那はんが、前世からの約束ごとやと言いはりますのに、うちの旦那はんが強情なもんやさかいに、こうしてあんたはんとこへ来んならんようになりました、もうこれより知らんのんでやす、これから使いも早うして、御飯も早うたべますよって、どうぞ今日のところはご了見なはっとくれやす(泣く)」 「速やかに相わかった、コリャ天王寺屋藤吉、面を上げい」 「なにぶんご憐憫《れんびん》をもちまして、なにぶんご憐憫をもちまして……」 「コリャ憐憫とはなんだ、裁判の黒白がついて、始めて上に憐憫というものがある、未だ黒白もつかざるうちに憐憫とはなんだ、たわけめ……」 「へ……」 「何らの趣意をもって先月十三日樫木屋佐兵衛娘糸なる者、縫物屋行き途中において、娘糸頭の上にて、アッてなことを申したのか、ありていに申し上げろ……」 「私、ねっから、嬢やんのおつもの上でアッてなことを申した覚えござりませぬ」 「なに、覚えないと申すか、コリャ常吉、天王寺屋藤吉は娘糸頭の上にアッてなこと申した覚えないと申すぞ」 「何いうてなアるね、言いはったんでやす、アアここへ来てはるおっさん、このおっさんだす、おっさん言うたで。言うといて言わんと嘘をついたら、死んだら鬼に釘ぬきで舌を抜かれるで、言うたわイ、言うたわイ、言うた言うた」 「ウム天王寺屋藤吉、娘糸頭の上にて、アッてなことを申しておきながら、この場に及んで申さんなぞとはここをどこだと思う、天下の決断所なるぞ、アッと申したと申してしまえばよし、それでも汝はアッと申さんと申すか」 「いかほどおっしゃっても、アッと申した覚えのないことは、アッと申したとは申されませぬ」 「黙れ、汝娘糸頭の上にて、アッてなことを申しておきながら、相手が十五にたらぬ小児とあなどり、この場に及んで、アッと申さんなぞとは上役人をあってないがしろに致す奴、アッと申したものなら速やかにアッと申したと申してしまえ」 「何と仰せになりましても、私やとて、アッと申したものなら、アッと申したと申しますけれども、アッと申した覚えのないことは、アッと申したとは申されませぬ」 「娘糸頭の上にてアッてなことを申しておきながら、この場に及んでアッと申さんなぞと申せば、重き拷問に行うても、アッと申したものなら、アッと申したと申さしてみせるが、それでも汝は、アッと申さぬと申すか」 「どのように仰せになりましても、私はアッと申した覚えがござりませぬ」 「己れ、アッと申しておきながら、アッと申さぬなぞとは不届き至極な奴め、重き糾明に行っても、アッと申したものなら、アッと申したと申さしてみるが、それでも汝はアッと申さんと申すのか」 「たとい、どのような目に会いましても、アッと申したことのないことは、アッと申したとは申されませぬ」 「己れ……アッてなことを申しておきながら、アッ……アッ……てなことをアッ……ア……アッア……アッ……ウム、一同の者さがれ、次の御用日に致す、この裁判|咽喉《のど》が痛うなったわい」 [#改ページ] 鶴《つる》 「さあさ、こっちへ上がったらどないや」 「へえ、大きに有難うさんで」 [どないしてんねん」 「へえあいも変わらずブラブラ毎日遊んでまんねん」 「いかんなあ。こないして年が押しつまったあるのに、ブラブラ遊んでるてなこっちゃ、どもならんな。ホデ、どこで遊んでるねん」 「たいてい、この横町の散髪屋へみな寄ってまんねん」 「ハアハア、横町の散髪屋さんへみなが寄ってる。どっちみちお前らの友達が大勢集まってるのやろ」 「へえ、そうでんねん。大勢集まって、みなでワアワアワアワア……、毎日騒いでまんねん」 「ホウ、そないして若い連中が大勢集まったらおもしろい話が出てるやろ」 「へえ、まあいろいろおもろい話ししてまんのやけどね、中にはちょいちょい人の噂などをやりまして」 「人の噂ちゅうと誰の噂や」 「あんたの噂をちょっとこないだねえ……」 「何かいな、散髪屋でお前らの連中が、わしの噂をしてたて、どんな噂や」 「へえ、みんな言うてましたで。あの横町の竹内っつぁんというお方は、あら知れんでえちゅうて……」 「なに……」 「知れんでえちゅうて」 「知れんでえて、何が知れんのや」 「泥棒かも知れんでえちゅうて……」 「ようそんな阿呆なこと言いくさったな。ホデお前、その場に居合わせて黙ってたんかい」 「何を黙ってますかいな。言うたりました。竹内っつぁんはそんなことする人やない。そんな正直な人やない……」 「おかしな言い方やな。ほなら、正直な人間やなかったらどないや」 「いや、わたいね、よっぽど言うたろかいなと思うたんでっけどね、わたいも男だ、腹にもってても口には出さん」 「それでは何にもならんやないか」 「そのかわり、たった一言だけねえ、相手の胸にボーンとこたえるようには言うときました」 「ああ、こらええなあ。男というものは、口数が多いよりたった一言でええ。相手の胸にこたえるよう、どない言うてくれた」 「知れんなあ、ちゅうて……」 「同じように言うてるのや、どもならんで」 「ホナもう止めてはりますか」 「まだあんなこと言うとおる。誰がそんなことするかい」 「ほならね、そないしてあんたのことを悪う言うやつがいてるかと思うたら、人間ちゅうのはみな違うんでんなあ、一人あんたのことをえろう褒《ほ》めてる人がいてました」 「わしを褒めとくなはった」 「へええ、えらい褒めてましたで。オイ、あの竹内っつぁんちゅう人、どない思うてるか知らんけどなあ、あの人はそんな悪い人やないねんで。大体この町内で物知りちゅうたら、あの人をおいてほかに右へ出る者がないちゅうぐらい、あの人は世の中のことをよう知ってはるさかい、お前らもし分からんことがあったら、あの竹内っつぁんとこへ行って聞いてみ、すぐに教えてくれはる。こない言うてね、えろうあんたのことを物知りや、物知りやちゅうて褒めてはりましたけど、あんたは何でっかいな、人にそない言われるほど物知ってはりまっか」 「そんなことを言うてくれた人があるのんかいな。いやいや、褒められるとまんざら悪い気はせんもんやけどな、いやいや、別に物知りやちゅうたかて歳《とし》がいてるだけ、まあまあ、豆の数余計に食べてるだけ、世の中のことならお前らよりは知ってるという程度や」 「アアさよか、ホナわたいの訊ねることやったら、どんなことでも答えられますか」 「まあどんなことでも分からんことはないと思うなあ」 「さよか、それやったら訊ねますけどねえ、南京虫は脚気《かっけ》患いますか」 「そんな阿呆な、あのな、そんな常識はずれなこと、訊ねたかてわしには分からん」 「ホレ見てみなはれな。あんたかて分からん。ホナもっと分かり易いやつでいきまひょか」 「分かり易いやつちゅうと」 「コンニャクはどっちが表でどっちが裏」 「も、そんな阿呆なこと言いなちゅうねん。わしが言うてるやろ、そういう常識はずれなことは訊ねられても返答がでけん、もっと、もっともらしいことを訊ねなはれ。それならいつでも答えよ」 「あ、さよか。それやったらもっともらしいことを訊ねまひょ。いよいよお正月が近づいてますけどね、お正月になりますと、どこの家《うち》でもあの鶴の絵の描いた軸が掛かってますなあ」 「ああ、おめでたいさかい、掛かったあるなあ」 「そうでっしゃろ。あの鶴という鳥は何でそないめでたいんだ」 「何でめでたいて、お前知らんのか。鶴というのはまことに姿、形の美しい鳥、そいでこの鳥はなあ、昔からよういうとおり、鶴は千年の齢《よわい》を保つというて、まことに寿命の長い瑞鳥《ずいちょう》とされてる。で、この鳥がいったん番《つが》いと定まったらな、絶対に他の雄《おん》や他の雌《めん》には目もくれんというぐらい、まことに操《みさお》の正しい鳥。そこでそれをすべて合わせて、日本の名鳥と讃えて、ああしてお祝い事に使いなはるねん」 「なるほどねえ。ほんに人が言うはずでんなあ。あんた、えらいこと知ってはりまんなあ。そない操が堅いんでっか。そいでこの鶴のために女の操ちゅう歌が……」 「も、そんな阿呆なこと言うてるのやあれへん。何も雌だけやあれへん。雄の方かて同じこっちゃ」 「ハーア、堅い鳥でんねんなあ。あんた今言いはりましたなあ。姿、形がまことに美しいというたはりましたけど、じいっと見てみたら、あいつ、他の鳥と違うて変わってまんなあ」 「どこが変わってる」 「どこが変わってるて、あんた、あれは、えらい首が長うおまっしゃないか。必要以上に首が長うおますけど、あれ、姿、形が美しおますか」 「なるほど、お前が言うたとおり、ちょっと首が長い。そやさかいこの鳥を、昔、日本では鶴とは言わなんだ」 「ホーオ、ホナ日本でどない言うてたんだ」 「首長鳥、首長鳥ちゅうてたん。まあ嘘やと思うたらな、昔の書物「古今集」てな書物を読んでみなはれ。歌の中に、首長鳥、首長鳥ちゅぅて出てくるなァ、皆、この鶴のことを詠んだあるわけや」 「なるほどねえ。えらいこと知ってはりますなあ。首長鳥ちゅうたんでっか。あ、さよか。ほな、もひとつ訊ねまっさ。その首長鳥をなんで日本で鶴と言うようになりましてん」 「ええことを訊ねなはった。こういうことはちゃんと覚えときなはれ。後学のためになるさかいな、なぜこの首長鳥を鶴というようになったかというと、昔、一人の老人がな、ある浜辺へ立って遥か沖合いを眺めてござった。と、唐の方からこの首長鳥の雄が一羽、ツーと飛んで来て浜辺の松へポイッと止まった。後へさして、雌がルーと飛んで来たんで、鶴と言うようになったんや……。こらあんまりよそで喋りなや」 「なるほど。こらええこと教えてもろた」 「これこれ、もっとゆっくり遊んでいったらどないや」 「いやっ、これからちょっと友達ンとこ二、三軒回ってね、この鶴の因録を説いて聞かして……」 「やめとき、やめとき、今のは嘘や」 「なに吐《ぬ》かしてけつかんねん。ハッハ、なあ、物知りちゅうのは出し惜しみしよるねん。他の人に知られたらかなわんさかい、嘘や嘘や、やめときやて。なに吐かしてけつかんねん。こんなええこと覚えたらなあ、よそで喋らなんだら、何になるねん。どこへ行たろかしら、あっそや、秀やんとこへ行たろ。秀やん、いてるか」 「おっ誰や。何じゃ、お前かい。何ぞ用事かい」 「ちょっと用事があって寄せてもろうたんやけど」 「もうこのとおりなあ、押し詰まったあるさかい、仕事が忙しいねん。どんな用事か知らんけど、早いことすましてや」 「いやいや、じきに片付くねん。お前、そらそうと、鶴という烏、知ってるか」 「何を」 「鶴という烏、知ってるか」 「どつくで、このがきは、この歳になって鶴知らんやつがあるかい。知ってるわい」 「知ってるか、やっぱり。あの鳥、昔、鶴とは言わなんだ」 「なに……」 「あの鳥、昔、日本で鶴と言わなんだ」 「ホウ、そら知らんわ。日本で鶴と言わなんだら、どない言うた」 「首長鳥、首長烏ちゅうたんや」 「なるほどなあ、首が長いので首長鳥。そら言うたかも分からんなあ。ホデどないやちゅうねん」 「その首長鳥をなんで鶴というようになったか知ってるか」 「そら知らんわ」 「どや知らんやろ。教えたろか」 「いや、もうええわ、忙しいねん」 「いや、教えたろかちゅうねん」 「もうええというてるやろ。また春になったら、ゆっくり教えてもらうわ」 「春まで待てんねん。いやちゅうても、俺は無理に教えるで」 「えらい難儀やなあ。ホナ早いことすましいな」 「なぜ、この首長烏を鶴と言うようになったかちゅぅとな。昔、一人の老人が浜辺に立って遥か沖合いをながめてござった。ナッ。と、唐の方からこの首長鳥のまず最初、雄が一羽……あの忙しやろけどなあ、ちょっと仕事の手休めて、こっち見ててんか。ここが一番肝心のとこやさかい、えらいすまんけどちょっと、見ててや。まず最初、雄が一羽、ツルーと飛んできよってな、浜辺の松ヘポイと止まりよってん。後へさして雌が……さいなら……」 「何しに来よってん」 「……むかついたなあ。向こうまでうまいこといってるのに、何であないなってんやろ。……先ほどはえらいお邪魔しました。あれ何で日本で鶴と……」 「もうよそへ行って喋って来よってん。うかつになぶりもでけん男やなあ。……あのなあ、昔、あの鳥をば日本では首長鳥……」 「いや、もうそこのとこは分かってまんねん。なんで鶴というようになったかちゅうとこが、ちょっと分かりまへんねん。そこ早幕で一つお願いしま」 「まあまあ、急ぎなはんな、ゆっくり聞きなはれ。まず最初、雄が一羽や……」 「ちょっと待っとくれやっしゃ。雄が一羽……」 「ツーと飛んで来て、浜辺の松へポイと止まった。後へさして雌がルーと飛んで来て、ツルや」 「これやッ。今度は大丈夫」 「もうやめときちゅうのに」 「なに吐かしやがんねん。今さらやめたら死ぬにも死にきれんわ。……ウォーイ、昔、あれ日本では鶴とは言わ……」 「また来よったで、あいつは。俺は忙しいねがな、仕事ささんつもりかいな。何やいな」 「あれ日本では鶴とは言わなんでん。首長烏、首長鳥ちゅうてん。それをなんで日本で鶴と言うようになったかちゅうとナ、昔、一人の老人がある浜辺に立って、遥か沖合いを眺めてござった」 「そこのとこはさっき聞いて分かったあるねん。それからどないしたんや」 「まあ、落ち着きなはれ。ええか、ホナ、まず最初、雄が一羽や。ここやな、今度はびっくりするぞ。まず最初、雄が一羽、ツーと、これや、ツーと飛んで来て、浜辺の松へルっと止まりよってん。後へさして雌が……。昔はあの鳥、日本では鶴と言わなんだぞ」 「何を言うとるねん。そこは何べんも聞いて分かったあるねん。どないしたちゅうねん」 「その首長鳥の、まず最初、雄が一羽や、なあ、ツーと、これに違いないねや。ツーと飛んで来て浜辺の松へルっと止まって、後へさして雌が……昔、あの烏を鶴……」 「泣いてるで、この男は。大層な奴やなあ、どないしたんや」 「まず最初、雄が一羽、ツーと飛んで来て、浜辺の松へルっと止まった。後へさして雌が……、後へさして雌が……」 「雌がどないしたちゅうねん」 「おおかた、黙って飛んできよったんやろ」 [#改ページ] 手切れ丁稚《でっち》  ただいまは、女性の職業も、非常に広範囲にわたりまして、増えましたけれど、前方《まえかた》は、女子《おなご》はんのお仕事と申しますと、ほん、限られたもんでございまして。  昔からあるご婦人の職業と申しますと、一番収入のええのがお妾《てかけ》さんでございますけれど、これはまあ、昭和の初期ごろのお噂でございます。  このお妾さんにも、ピンからキリまでございまして、一番ええお妾さんが、お妾様々、その次がお妾さん、お妾、おてか、おて……。 |か《ヽ》も、|け《ヽ》も抜けてる人がございます。  五段階ぐらいにわかれております。  人間は同じですが、おかしなもんでございまして。  昔は、大阪で、お妾さんが住んだはるところといいますと、船場《せんば》では、浮世|小路《しょうじ》、ここらがマア、メッカとされてたわけでございます。  島の内では、鰻谷近辺、やはりこれも、ええお妾さんが住んではったもんでございますが、これは明治、大正時代のことで、昭和の御代に入りますと、やはり世の中がコロッと変わって参りまして、船場あたりになりますと、どんどん、どんどんと、大きな会社がでける、銀行がでける、自然と、お妾さんなんかが、追い出されたと申しましょうか、自分が移住しなはった。  移住といいますと、何じゃ植民地みたいになりますけど、大阪の土地を離れはりまして、郊外、只今で申します衛星都市でございますな。  その当時でしたら、南海電車では、諏訪の森、高師浜《たかしのはま》、近うて、岸の里、粉浜《こなはま》あたり。  平野線でございますと文の里あたり、また、阪和沿線、只今では、JRでございますが、阪和沿線では、南田辺あたりでおますな。  これがまた大鉄線……大鉄線と今申しましても分かりませんが、今の近鉄でございますな。恵我《えが》の庄あたりでございます。  それでやはり大軌電車、只今の近鉄、大軌の沿線では、瓢箪山、小坂あたり、京阪電車になりますと香里園、新京阪になりますと千里山、阪急電車でございますと蛍ケ池、または桜井、牧落《まきおち》あたり、阪神電車でございますと香櫨園、芦屋あたりが、まあお妾さんの巣……巣ちゅうたらおかしゅうございますが、そういうところへ皆出て行きはったもんでございますが。  何と申しましても、お妾さんのおうちと申しますと、二間半の間口、表が船板塀に忍び返し、そこから見越《みこ》しの松がニューッと顔を出して、表の表札なんかでも、たいてい名前をちゃんと書いたあるうちはございません。  苗字だけでおますな。  中には、苗字の下に寓《ぐう》という字が書いてございます。  陶器の表札か、彫《ほり》の表札が上がっております。  格子を開けまして、玄関へ行くまでに間隔がございまして、玄関へ入りますと、土間《にわ》がちりめん漆喰《しっくい》、沓脱石《くつぬぎいし》がちゃんと置いたある。  上へ上がりますと、一面の畳が敷いてございます。  また、畳が敷いてなかったら空家でおますけれども。  たいてい、欅《けやき》の丸目の台輪の火鉢が置いてある。  そうかと思いますと、桐の江戸火鉢なんかも粋なもんでおます。  南部あられの鉄瓶に、湯がシュンシュンと沸いたある。  欄間《らんま》を見ますと、結構な油絵が、立派な額に入っておさまったある。  奥へ通りますと、こらまた、百貨店あたりから、家具部が持って参りました立派な家具がズッと並んでおります。  総桐の箪笥《たんす》。  床の間を見ますと、伊東麓水先生が、丹精こめて描きはりました墨絵の山水の、結構な軸がかかったある。今村尚古斎先生が編みはった、編籠《あみかご》がおいてあって、季節季節の活け花が入っております。  こちらを見ますと、樫の机が置いたある。  前には緞子《どんす》の蒲団が敷いたある。  横手を見ますと、ニュートロンのラジオのセットが備わっております。  右手の方には、やはり唐木でこしらえました鏡台が置いたあって、これに綸子《りんず》の鏡台掛け、別染めで自分の紋と、旦那はんの紋とが、比翼でちゃんと染まったある。  鏡台の上には櫛箱が置いてあって、こっちが鬢《びん》台。鬢台の上には、フランスのパリの化粧品がズラーッといろいろと取り揃えてございます。  その他に、ポマード、チック、ベーラム、クリーム、キニーネ、ミルクセーキ、ソーダ水……まさかそんなもんは並んでおりまへんねンけれど、いろいろ取り揃えてございます。  横手を見ますと、雑誌などが置いたある。婦人画報、主婦之友、蒲田画報、性の研究てな本が積み上げたある。  その横手に、桑の小箱がございまして、この中には、百人一首の歌がるた、トランプ、麻雀、花札、六四《むし》札、八八の道具がちゃんと揃えて入れてこざいます。  たいていこういうお宅には、狆《ちん》が飼《こ》うてございまして、この狆という犬は、昔からあんまり狆の瓜実顔《うりざねがお》ちゅうのは見たことがございません。チョンチョロ短い顔しよって、年中こう、水洟《みずばな》 たれております。こういう狆が、マア、狆仲間ではええ顔やそうでこざいます。  きれいなお妾さんが、この狆を抱いてなはるさかいに、お妾さんの器量が、一層映えて見えます。中にはこの、狆よりおもろい顔したお妾さんが、狆抱いて歩いたりしてますと、 「ハハア、あの狆は、あの女子が生んだんかいな」  と間違われるようなことが、度々《どど》ございますけれど。  これぐらいのお妾さんでございますと、月、二、三百円ぐらいもろうてはります。  そうでっさかい、女中さん二人も置いて、結構に暮らしてはりますけれど、ところが、これはもう上等の方で、先程申しました、 「おてか」  の方になりますとこうはいきまへん。  まあ大阪でございますと、長柄の墓地の近所あたりの、間口が三十九間、奥行きが二間半、間口のわりには、えらい奥行きが狭いなあと思いはりまっしゃろけど、これは裏長屋でございます。  ヘエ。  そうでっさかいに、とてもやないが船板塀とはいきまへん。焼き板の塀、あつちこっち節穴があいたある。見越しの松のかわりに、榎《えのき》が高入道みたいにそびえ立ってる。  突き当りがこの、共同便所になってございまして、共同便所の戸が、金具が腐ってしもうて、戸オがもたれかかったある。中へ入りますと、壁には一面に落書がしたあって、誰か知らんけれど、釘で克明に、隣の便所へ穴あけてる奴がある。  こういう不届きな奴の痕跡がちゃんと残っております。  表には、長屋一帯兼用のゴミ箱、これも輪入品の箱に、コールタールを塗りまして、ゴミ箱がわりに置いたある。  そこの一軒のうちでございまして、間口が一間、奥行きが二間半、うちらへ入りますとデコボコの土間があって、沓脱石のかわりに、石油箱が置いたある。  その中へ鼻緒の切れた下駄なんかが放り込んだある。  上へ上がりますと、畳は敷いてない。アンペラちゅう奴ですな。  つまり、黒砂糖の袋みたいな奴が敷いたある。  台輪の火鉢のかわりにかんてきが針金で鉢巻きしたある。  その上には、もう煤けてしもうた、口の欠けた土瓶、蓋がないもんでっさかい、お手塩皿がのせたある。  左側を見ますと、机のかわりにみかん箱が二つ並べてあって、その上には、状袋やとか、セルロイドのおもちゃが置いたある。これはつまり、内職にやってはる。  副業でございます。床の間を見ますと、掛軸《かけじ》のかわりに壁が落ったある。ポロ隠しに、活動写真、いまの映画ですな、そのポスターが二、三枚張ってある。  阪東妻三郎が目ェむいてるかと思うと、大河内伝次郎が、やっぱし目ェむいとおる。真ん中で鈴木伝明が、同じように目ェむいてる。  活動写真の宣伝の応援しとおります。  こちらを見ますと、四ダース入りのビールの箱が置いてあって、中が二つに仕切ってある。片っ方は、膳棚がわりに使いよって、その上には貧弱な植木鉢が、二つ三つのせてある。左っ側は鏡台のかわりに使うとる。廃物利用でおますな。  こういううちには、あんまり狆は飼うておまへん、ヘエ。性《たち》の悪い、猫が一匹飼うたある。  こいつが昼前になりますと、近所をばウロウロ、ウロウロいたしまして、買うたある魚なぞを盗んで来よる。そいつをば、頭をバーンとどついて、この魚を強奪する、それで御飯を食べる。  こういうお宅でおまっさかいに、もちろん中の間も、奥の間も、台所も何もない。  たった一間きり。  まあこういうお妾さんになりますと、月々のお手当が、十四、五円、安い人で三円五十銭から四円ぐらい。  よう、そんな手当で飯が食うていけるな。  チヤーンと食べられるようになっておりますので。  旦那が五、六人ある。  そうでっさかいに、旦那同士が鉢合わんようにチャーンとでけたある。 「旦那さん、わたし、あんさんのお顔が、月曜日になったら見とうなりまんねンわ。旦那さん、月曜日に是非顔見しとくれやっしゃ。月曜日でっせ」  片一方の旦那には、 「旦那、すんまへんけどな、わたい金曜日になったらあんたの顔が見とうおまンの。是非金曜日に顔見しとくれやっしゃ」  中には、「あんた、一六に来とくなはれ。あんたは二七がよろし。あんた三八や」  まるで夜店出しみたいに言われてる旦那がある。  こういうのが日イ間違うて、表でベーッタリと出会うとる。 「オッ、三田はんか。何だんねン」 「イイエ、実は、もう、すましたとこでんねん。ヘエ、ほならお先イ」 「ア、さようか。ほならわたい、もうついででっさかい、今日寄って行きまっさ」  てなことがでけておりますけれど。  まあ、いろいろとお妾さんもございます。  このお話は月々、六十円ぐらいもろてるお妾さんのお宅でございまして、頃は七月、祭月でございます。  時間はといいますと、お昼過ぎた三時頃のことで、 「お梅ちゃん、いててやのン」 「ア、お寅はんでっかいな。どこ行て来やはったン」 「ウン、あんまり暑いさかいナ、風呂行って来たんやわ」 「さよか。どうぞこっちお入りやす。かめしまへんやろ、チョットぐらい」 「ほんなら入らしてもらうわ。まア、お母はんの顔が見えへんけど、どこぞへ行てやったン」 「ウン、お母はんナ、あのう実は今日、島の内の、そう、中田の兄さんのとこ、お祭やさかいナ、招ばれに行きましてン。わたいもさっきからナ、一杯やってますの。どうぞこっちへ上がっとくれやす。一杯やりまひょうな」 「まア、さようか。おおきごっつおはん。ほんならな、えらい厚かましおますけど、よばれるわ」 「まア、何も遠慮しはることおまへんがな、お互いですがな」 「しかしあんた、何時でも家の中がきれいにしてあるわなア。ほんまにあんた、幸せやし」 「何がでんねンな」 「何がて、よっほど旦那はん、あんたに惚れてはんねンやろ」 「阿呆らし、お寅はん、ようそんなこと言いなはるわ。わたいもう、あんなお爺やん、嫌」 「ようそんな贅沢なこと言うし。たとえ相手がお爺さんでも、もらうもんはチャンともろてンねやないかいな。あんた幸せなお子やし」 「嫌やわア、わたいナ、もうあのお爺やん嫌になってンの」 「何でやの」 「いいえェナ、こないだもナ、明石〔明石縮み〕が一反買うて欲しいちゅうたらな、よっしゃ、わしが一緒に行って買うたる、三越行こて。エ。わたい嫌やがな、あんな爺やんと歩くの。そやろ、まるで娘か孫みたいな。皆、人が笑うがな」 「ようそんなこと言うし。買うて欲しもん買うてもらえたら、なにも笑われてもかめへんやないか」 「いいえェナ、それがナ、恥ずかしやないかいな。三越行たらナ、エレベーターに乗ったら、エ、こわい、こわいちゅうて、ブルプル、ブルブルふるうて、おまけに姐ちゃん、わたいの袂《たもと》シッカリ持ってはなせへんねンし。三越の表へ出たら、公衆電話と公衆便所と間違うて、エ。巡査にえらい叱られて、わたい謝り通し、恥かいてんし。それからあの交叉点の真ん中へ行たら、電車と電車の間へはさまれて、キリキリ舞いして、しまいには、そこへベーッタリ坐り込んで、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、エエ念仏唱えるやないの。恥ずかしいて仕方がないので、無理矢理に電車に乗せたら、サア今度は居眠って。水洟垂れるわ、おまけにわたいに、洟かんでくれやと。ほんまに、あんな恥かいたことなかったわ」 「まア、そうか。しかしナ、やっぱりええことは二つない、ちゅうねンやさかい、それぐらいのこと辛抱せな、いかんやないか」  二人が一杯飲みながら喋っとりますと、そこへやって参りましたのが、年の頃なら、十二、三、顔にニキビこしらえよって、 「こんにちはア」 「ヘェ、どなた。まア、定吉っとんやないかいな。何やねン」 「ヘェ、アノー、旦那さんのお使いで来ましたンです、ヘエ。アノ、旦那さん、これ見せてナ、アノ、返事聞いて帰るようにと、こない言いはりましたンで」 「まア、さようか。おおきご苦労はんで」 「アノー、わたい一ぺん、あんたに頼みたいことがおますねンけど……」 「わたいに……何が頼みたいねン」 「わたい、いつでもナ、あんたの顔見る度に言おかいナア、言おかいなと思て、今日までよう言いまへなんでンけど……」 「まア、気味の悪い子。いったい、何が言いたいねン」 「ヘェ。しかしわたいが言うてあんた、あんたが、あかん、言わはったら、わたい恥ずかしおまっさかいな」 「何やねンな」 「ヘェ。ほんなら、笑わんといておくれやっしゃ。わたいとこのうちナ、朝早うおまんねん。……へえ……。もうちょうど今時分になったら、眠とうてしょうがおまへんねン。いつでもナ、お宅に寄してもろたらナ、チョッと昼寝さしてもろたらええのにな、と思ってまんねンけどナ、今日まで、よう言いまへなんでン。昼寝さしてもらえまへんやろか」 「まア、ピックリしたやないかいな。なんやそんなことかいな。ハアハア、それやったらナ、一休みして行きなはれ。イエ、今蒲団敷いてあげる」 「イイエ、結構だす、結構だす。蒲団敷いてもろたら、グーッスリ寝込んでしもたらいけまへんさかいナ、イエ、わたいここで結構でっさかい」 「まア、そんなとこで寝て、風邪でもひいたらいかんさかい、ナ、チョット、チョッ……。まア罪のないこと、今喋ってたかと思たら、もうグウグウ鼾かいて寝てるわ。お寅はん、ちょっと待っておくれやっしゃ。『前略卸免下されたく侯』か『あなた様よりお申し越しの一件、当方にも都合これあり侯へば、このたびは、一時お断り申し上げ侯』まア、ケチやなア、あの人は。『また、あなた様には、他にお楽しみがあるとかのこ……』まア嫌らしい、あのお爺やん。年甲斐もなしに嫉妬《やきもち》やいてんねンわ。エ。他にお楽しみ……まア、ほんまによう、こんなこと言うて来るわ」 「どないしてやってン」 「いいえエナ、わたいナ、百円無心したン。ほんなら、断り言うた上にナ、おまけに、他にお楽しみ、やて。よう、そんなことぬかすわ、あの餓鬼……」 「まア、そうかア。しかし、あんたの言う通りにチャーンとしてくれはる、あんなええ旦那はんあれへんし」 「何言うてンの。もうわたい、嫌で嫌で仕方がないのン。このお金取ってナ、バーンと肘鉄砲くらわしたろと思ててンわ」 「まア、勿体ないこと言うて。こんな結構に暮らさしてもろてて、ようそんな贅沢なこと言うわ」 「そうかて、嫌やもん、もう、あんなお爺やん、つくづく嫌になったン。フン、そやさかいな。スーッパリ手ェ切ろと思てンの」 「ハッ、アーア。アーアよう寝た。おおき、お陰さんで、よう寝さしてもらいました」 「まア、あんた起きててンやろ」 「イイエ、阿呆らしい。わたし、よう寝てました」 「イイエ、そんなことあれへんわ。あんた、起きてたに違いないわ。今、わたいらの言うてたこと、聞いててンやろ。あんた、うちへ隠密に来たんと違うのンか」 「隠密て何でんねン」 「いいえエナ、うちの様子探りに来て、うちへ帰って旦那はんに、わたいらの言うてたこと、皆言おと思てんねやろ。定吉っつぁん、これナ、あんた好きなもん、買いなはれ」 「アッ、これ一円でンな。おおき有難うさんで。ヘェヘェ。わて一円もあったらナ、一ぺんナ、ゆっくりナ、休ましてもらいましてナ、ヘェ。活動写真二、三軒回ってナ、ほで、帰りしなにウンと洋食食べよて思てましてン。これで、そないでけますわ」 「そのかわりナ、さっきわたいらの言うてたこと、うちへ帰って旦那はんに言うたらあかんし。それよりもナ、わたいがナ、旦那はんに惚れてるちゅうて言うてたと、こない言うねンし」 「ヘェヘェヘェ、大丈夫でおます。ヘェ。もうわたいネ、アノー人に物頼まれたら、よう断らん性分で、ヘェ。わたいも男でっさかいに。ヘェヘェ、言うて悪いことは、絶対言わしめへん。ヘェ、チャーンと言うときまっさかいに、ヘェ。ほな、えらいお邪魔いたしました」 「ほんまに、帰って言うたらあかんし」 「ヘェ。ほんなら、さいならッ。……ヘェッ、旦那さん、ただいまッ」 「これこれ、バタバタと、どないしたんじゃ」 「ヘェ、アノお梅はんとこ行てきましてン」 「ほで、どないやった」 「ヘェ、斥候《せっこう》ちゅうのは、なかなか、任務の重い、責任の重いもんでンなア」 「大層に言うな。どないしたちゅうねン」 「ヘェ、路地口まで行てネ、足音忍ばして、ソーッと入って行って、門口まで行たらネ、うちらでネ、ボシャボシャとね、喋ってる話し声が聞こえまんねン。こらアいかんと思たんでネ、パーッと飛び込んだったンだす」 「なア、やっぱりこういうことはお前に限るわ、なア。よう、そういうことに気がつくさかい。ほで、どないやってン」 「ヘェ、ほなら中へ入って見たらネ、火鉢の横手でネ、差し向かいで一杯飲んだはりまんねん」 「ほォん。道理で近頃金使いが荒いと思た。エー、昼日中から、酒飲みくさって。何かい、お母んと二人で飲んでたンか」 「イイエ、お母んと違います。ヘェ。お母はんは、アノ留守でおました」 「ちょっと待ち。向こうはお前、お梅と母親と二人暮らしやで。ほなら、その、お梅と差し向かいで飲んでたちゅうんは、誰や」 「ヘッ。アノー若ァいきれェいな人でおまんねン。ヘェ。粗《あら》ァいネ、アノー模様の浴衣着た人がネ、坐ってはりましてン、ヘェ。ほでネ、馴れ馴れしゅう、物言うてはりました」 「そうか。何じゃおかしい、おかしいと思てた。あのガキ、浮気してくさる、エ。何かい、派手エな模様の浴衣着てた。役者やろ。イヤー役者に違いない。イヤ噺家てなことはない、アア。噺家ちゅたら、ごく品のええ、上品な、行儀のええもんや。ほで、その、役者は何ちゅう名前や」 「何です」 「イヤ、その男は何ちゅう名前や」 「ヘェ、あのう、お梅はんは、寅ちゃん、寅ちゃんて言うてはりました」 「トラちゃん……ハハァ、寅のつく役者やったら、箱登羅か、それとも女寅か……」 「何や知りまへんねけどナ、頭の毛、きれェいに分けたナ、ヘェ、二十四、五の人でおました」 「そうやろ、ほで、何かいな。そらアええ男やったやろ」 「イイエ、女の人でんねン」 「コラ、人をピックリさすな。それやったら、お寅やろが、何を言うねンな、おかしな言い回しして、エ。わしゃまた、男かと思うたがな。イヤイヤ、わしはナ、あのお梅ちゅう女子はナ、浮気するような女子やないと見込んでナ、ああして囲うたんや、ナ。お前があんなこというさかい、ウッカリ気イ回してしもて……ハッハハ……、イヤイヤ、それでわしも安心した」 「ヘッヘッヘ……、旦那はん、老人の嫉妬はみっとものうおまっせ」 「何を言いくさんねン。お前が嫉妬やかすようなこと言うさかい、こないなるのや、何かいな、お寅と差し向かいで一杯飲んどったんか」 「ヘェ、そうでんねン」 「そうか。あのお寅ちゅうのはナ、あのお梅ところから三軒目の、やっぱし妾や。アア、あいつはナ、一筋縄で行かんやっちゃ。また、あのお梅に悪智恵でも吹っ込みやがってな、エ、惑乱《わくらん》さそうと思とるねン。で、何ぞ言うてたか」 「何をです」 「イヤ、何ぞ二人で言うてたかちゅうねン。それがために、お前が行ったんやないか」 「ヘェヘェ。言うてはりました。ヘェ。言うてはりましたでェ、ヘェ。お梅はんがナ、アノ、お寅はんにナ、わたいはナ、なんであない旦那さんに惚れたんやろ。我が身で我が身がわからんようになるほど、旦那さんに惚れてんねン、てこない言うてはりました」 「なるほど。ほで、それからどない言うた」 「旦那さん、旦那さん、そない前へ乗り出して聞きなはンな。ヘェ。ところがナ、旦那さんの手紙読んでネ、他に楽しみがでけてんねやろ、へ、わたしの心も知りもせで、他に男があろうとは、今のお前の一言が、わしゃア腹が立つわいなア……」 「と、お梅が言うたンか」 「イエ、これは向かいの旦那はんが、浄瑠璃稽古してはるときの壷阪《つぼさか》〔壷阪霊験記〕の文句で……」 「チョイチョイお前、そないしてなぶりくさるな。で、何ぞ言うてたんやろ」 「ほんならナ、そのお寅はんちゅう小母はんがナ、お梅ちゃん、あんたがそない旦那はんに惚れてんねやったら、惚れてるという証拠に、何なと心中立て見せないかんやないか、とこない言いはったらネ、ほんならネ、お梅はんがネ……」 「お梅がどない言うた」 「そら、旦那さんのためやったら、わたい、どんなことでもする、とこない言うてはりました」 「えらい、やっぱりお梅やなア。そこへもってきてお寅、ええこと言うてくれたで、エ。イヤイヤ、あのお寅ちゅうのは、なかなかしっかりしてる。海で千年、山で千年。なア、やっぱり年功経てるだけに、ええこと言うてくれるわい。ほいで、お梅が、わしのためやったら、どんなことでもする、と言うてくれたか。何かい、指でも切るちゅうたか」 「イイエ、指どこやおまへんねン。百円もろたら、スッパリ手ェ切る言うてはりました」 [#改ページ] 天神山《てんじんやま》  エェ、うかがいますは、春さきのおはなしでございます。 「淋しさに宿を立ち出でながむれば、いずこもおなじ秋の夕暮」  とか申しますが、そのだん、春さきは陽気で、なかでも三、四月ころ……ぼちぼち、桜が咲きだしますと、人の心も浮かれだしまして、若いお方は、畳に尻が落ちついてまへん。 表《かど》へ出て往来を通る人をみて、相場でも入れようという……。 「オイ、いっぺん表へ出といで」 「なんやいな」 「なんやいなやないで。今日らの日ィに、内でぼんやりと仕事してるやつがあるか。外へ出て往来を通る人でも見てみいな」 「ほんに、ぎょうさん人が出てるなア」 「そら時侯がええ上に天気はよし、暑うなし寒うなし、なんともいえんな」 「あの人らはいったいどこへ行くねやろ」 「そら、みな、思い思いやがな。東へ行くもあり、西へ行く人もあり」 「みな用事があって歩いてはるのか」 「そら用事があって歩いてる人もあるし、またぶらぶらと花見遊山に行く人もあるがな」 「どんな人が花見遊山に行くね」 「べつにどんな人というてきまりはないが、着物のひとつも着替えて、弁当、折箱《おり》、瓢箪《ひょうたん》のひとつも提げてる人が花見遊山に行く人やがな」 「結構やな。ああしてええ着物《べべ》きて、美味い物を食うて、ぶらぶら遊びに行く人があるちゅうのに、片方ではきたないもんを着て、年中働いて、きゅうきゅういうてるもんもある……人間にも、いろいろ区別のあるもんやなア」 「オイ、そんなことを言いなや。この世は夢の浮世というて、人間は七転び八起きというねんで」 「そうかてわてらは七転び八転び、転び転びや」 「コレ……。あの人らは前世でええことをしておいでたので、今はええ夢をみてはるね」 「そんなら、お前や、わてらは、年が年中たたわれているとみえるな」 「そんな心細いことを言いな。それはそうと、お前、向こうからくる人知ってるか」 「どの人や」 「いま、八百屋の表《かど》を歩いてる人」 「どの人やね」 「それ、早よ見んかいな。いま呉服屋の前や、それ。風呂屋の前へきた」 「そない言うたらわからへんがな。アアあの人か」 「あれが町内で噂のへンチキの源助という男や」 「ア、聞いてる。ヘンチキの源助て、あの男か、かわった風体《なり》をしてよるな」 「見てみ、頭を半分剃って、半分毛が残したある。着物は胴が綿入れで、片一方の袖が帷子《かたびら》で、片方に浴衣《ゆかた》がつけたァるやろ。紺足袋《こんたび》と白足袋に、高下駄と草履、はいてるやろ」 「面白《おもろ》い風体《なり》してるなア。どこへ行きよるねやろ」 「わいの考えでは、日和《ひより》がええので、花見にでも行くねと思うな」 「なんや、担《かた》げてるな」 「弁当やろ。ここへきたら訊《た》ねるよってに、そばで聞いてや。モシ、ヘンチキの大将、どちらへお越しだす」 「イヤ、大将といわれますと恐れ入りますな。あんまり日和がようて内にもいられんで……」 「なるほど。花見にでも、お越しだっか」 「イヤ、今日は墓見に行くのンや」 「ヘエ……花見だっしゃろ」 「イヤ、墓見」 「はかみて、なんだす」 「石塔や塔婆を見て一杯飲むのや」 「オイ、かわってるなア。石塔や塔婆を見て一杯やると……。モシ、源さん、なんや担げてなァるな」 「ヘンチキでも、腹がへるで弁当や」 「えらい大きな弁当だすなア」 「フン、おまるや」 「アア、おまる、フフッ、片方は」 「酒やないか」 「容器《いれもの》は」 「尿瓶《しゅびん》や」 「尿瓶だっか」 「尿瓶酒のおまる弁当や」 「それは新《さら》だっしゃろな」 「両方とも、古いのんや」 「アア、気持わる」 「どうや、いっしょに墓見に行て、一杯飲まんか」 「いや、結構だす。聞いただけで胸がわるなってきた。まァあんた行《い》てきなアれ」 「そうか、そんなら俺ひとりで行てくるわ」  変わった男で、そのまま南へとってまいりまして、一心寺へやってきますと、お寺の門前で坊さんが掃除をしておりますところへ、弁当を担げて、さくさくとまいりました。(鳴り物・三味線) 「エエ、もうし、ちょっとお墓を」 「ハイ、お参りかな。ハイハイ、ご参詣なされ」 「イヤ、おおけに。本堂には用事がない。墓場へ……」  一心寺の墓場へまいりますと、石碑がたくさん並んどります。 「イヨッ……ぎょうさん石碑があるわい。どこで、一杯飲んだろ。まてよ、おなじ飲むのンなら、色気のある石碑の前で飲みたいな。この石碑は大きいなァ……千田川留吉か、こら相撲取りや。相撲取りでは色気がない。こっちにあるのンは、俗名小糸……なんや小糸……こら女や。ヨシ、この石碑の前で……。どっこいしょ。ヘエ、小糸はん、こんにちは。わたい、ヘンチキの源助いうもんだす。みなは花見に行きまっけど、わたいは、墓を見て、一杯飲みたいのできましたんや。あんたの石碑の前をちょっと拝借しまっせ。ヘエご馳走はもってます。尿瓶《しゅびん》酒のおまる弁当。ひとつ注《つ》ぎまっせ。ごめんやすトットットットッ……エ、なに、わたいに毒見せえと……あ、さよか。それではお先イ頂戴いたします。ア、おいしい。なんともいえんな。ヘイ、ごめん……石碑はものを言わんでたよりないな。石碑の上から酒をかけとこ。お肴《さかな》は生鮨《きずし》に|からすみ《ヽヽヽヽ》、ひとつどうだす……なに、わたいに。イエ、注いでもらわいでも勝手に注ぎます。独酌で。トットットットッ。けども、あんた、得《とく》だすなァ、毎日こんな閑静なとこで暮らしてなァるが、わたいらあきまへんわ。へェ、もひとつごめん……ヘエ、なにィ、拳《けん》。あきまへんわ。さっぱりヘボだす。ぜひ……さよか。そんなら拳盃《けんぱい》、負飲《まけのみ》。よろしいか。いっぱい注いどきまっせ。負けたらぐーっと飲ンまんねンで。ヘイ、お手やわらかに。ハァ、ボンボンボン、チョットハ、ソワナイ、ドンドン、チョィチョィ、一二《いちに》の三《さん》、それ負けた。負飲《まけのみ》……さよか。さっぱりわやや」  ひとりで拳《けん》をうって、ひとりで酒を飲んでますうちに、ええ心地に酔いがまわってくる。  あんまり日の暮れんうちに帰ろうと立ち上がって、横手にあります塔婆の根元を見ますと、土がこんもり盛り上がっています。  なんやいなァと、塔婆をもってきて、グイとこぜあげますと、髑髏《しゃりこうべ》がゴロリ……。 「ああ、びっくりした、髑髏や……けども、墓原《はかばら》から髑髏の出るのに、べつに不思議はないがな……しかし、一休という坊さんはええこと言うたで。骨かくす皮にはだれも迷うなり、好きもきらいも皮のわざなり。そらそうや。別嬪やの不器量《へちゃ》やのというても、死んだらみなこの通りや。皮があればこそ、別嬪、不器量《へちゃ》の区別がつくのや……。しかし、この髑髏ほしいなァ、もって帰ったろかしらん。床の置物《おきもん》か、きれえにみがいて煙草入れの根付《ねつけ》にしたら、さすがへンチキやな、髑髏の根付や。あら野晒《のざらし》の源助やと、二つ名がつくやろなァ……。だァれも見てよれへん、いまのうちに持って帰ろう」  と髑髏を手に取りあげましたが、やっぱり、なんとのう気持がわるい。  また下へおいて、 「オオ、寒《さぶ》なってきた」  帰ろうといたしますと、なまぐさい風が吹いてくると、身体がウーン……しゃちこばる。 「ウーン……ハハン、墓返しをしたので崇《たた》ったんやな、なにくそめッ」  行こうとしても歩けまへん。 「髑髏が魅ィ入れたんやナ」  と、もとの髑髏を持ちますと、これが、歩けます。そこで髑髏をふところへ入れ家へ帰って仏壇の前へ供え、お灯明を上げて念仏を唱え回向《えこう》をいたしましたが、独身《やもめ》のことで、そのままぐーッと寝てしまいます。  夜は次第にふけて、世間はしーんといたしますと、表の戸をば、 「ちょっとお開け……。ちょっとお開け」 「あ、あ、あ−あッ。ねむたいなあ……だれや戸をたたいてる……どなた」 「ちょっとおあけ」 「女の声やな、どなた」 「今日、一心寺でお目にかかったものでござります」 「なに、一心寺でお目にかかったもの。だれもお目にかかれへんで、モシ、家、間違てまへんか」 「イエあの、ゆうでござります」 「ヘエ、おゆうさん。そんなお方しりまへんで」 「イエ、れいでござります」 「おれいさん、そんな人、存じまへんで」 「アノ、ゆう、れい、でござります」 「なに、ゆうと、れいと、ゆうれい。フワ……。アアさよか、すまんことをいたしました。ほんの出来心で、持って帰りましたんや。明日はさっそくお返しにまいります。どうぞ今晩のところは……」 「あの、怨みを言いにまいりましたのではござりませぬ」 「ああ……さよか……そんなら、なにしにおいなはった」 「お礼にまいりました」 「それは遠方のところをようこそお越し。べつにわざわざ来ていただかいでも、手紙でけっこうでおます」 「ちょっと、ここ開けて」 「ブルブルブルッ。なんの開けられまっかいな」 「お開けくださらねば、戸の隙間より」  障子へあかりがさしたかと思うと、髪をおどろに乱した色の青白ォーい、年のころは十八、九の女が、前へズウーッ。 「アア、びっくりした。あんた何処《どっ》から入っといなはったんや。なにッ、戸の隙間から。……器用な身体やなア、しかし見れば美しいお方やが、あんた、いったいなんや」 「おたずねにあずかり、お恥ずかしいことながら、いま、わたしの申しますことを一通り、お聞きなされてくださりませ」(一つ鐘入り、三味線合方) 「モシ、そんなとこで芝居したら、どもならんがな」 「もと、わたくしは京都西陣、織屋清兵衛の娘、小糸と申すもの。父死去ののち家《やも》は困却、その日の煙のたてかねまするを、どうわたしが見ていられましょう。大阪新町へ浮き川竹《かわたけ》の勤め奉公に出ましたが、つき出しのその日より、ふと馴染みしお方ができました」 「フム、夜中に幽霊に起こされて、惚気《のろけ》まで聞かされたら十分や」 「互いに変わるな変わらじと、言いかわした仲、親方にはせきせかれ、いっそこの世で添えねば来世《あのよ》でと、無分別にも一心寺で心中。男はわたくしの死に姿を見て、その場を逃げさり、おのれやれ、とは思いますれど、お天道《てんとう》さんにおそれ、浮かびもやらずおりましたが、今日はからずも、あなたさまの結構なるご回向《えこう》にあずかり、お礼にまいり見ますれば、あなたさまにはいまだ独身《やもめ》そうにござります。逆縁ながら女房に……」 「モシ、うだうだ言いなはんな。けど、なんやて。嬶《かかあ》にしてくれ……嬶に。モシ、それほんまだすか。それがほんまやったら、わたいもへンチキや、普通の嬶をもったんでは面白《おもろ》ない。ヘンチキの嬶に幽霊とは、こら、洒落てる。……嬶になっとくなァんのなら、昼の酒肴が残ってる。ちょっと祝言の真似ごとだけ……ひとつごめんやす」 「おいただき」 「モシ、そんな妙な手ェ出しなァんないな。手を上へ向けて出しなァれ」 「手を上へ向けたら、幽霊仲間をはぶかれます。ちょっとご返盃《へんぱい》を」  幽霊と酒盛りをいたしまして、その晩は寝てしまいました。  翌《あく》る朝、この源助の隣に住んでおります男が胴乱の保平《やすべえ》というて、腰に胴乱をぶらさげてよろこんでる男。 「源さん、おはよう」 「や、保さんか、まァお入り」 「お入りやないで、殺生な」 「なにがやねン」 「なにがやないで、夜中に女を連れて帰ってきて、夜どおしごじゃごじゃ言うて、耳ざわりで寝てられへんがな」 「すまん、かんにんして。だしぬけに来よったんや」 「だしぬけかしらんが、あんまりひどいで。わいかて独身や、ちょっと言うてくれたら、よそへ泊まりに行てるのに……。しかし今朝ちょっと壁の隙間からのぞいて見たンやが、ええ女やな、源さん。あれはただものやないな」 「エエ……そうや、ただものやない……」 「あれ、出てたんやろ」 「そうや、出てたんや」 「どこや、南地《みなみ》か」 「そや、南や」 「あれ、芸者《これ》か、それとも娼妓《これ》か」 「いいや、幽霊《これ》や」 「そら、なんちゅう手つきや」 「じつは、あれは人間やないのんや」 「人間やないというと……ええッフン、一心寺で……フンフン……ゲエッ源さん。ほんならお前なにか、幽霊を嬶にしたんか」 「そうや、保さん、お前も独身やが、嬶をもつなら幽霊にしィ、得やで」 「幽霊を嬶にしたら得か」 「得やがな。それ見てみィ、昼は今日《こんにち》さんのお照らしでよう出てこん。昼、いなんだら、三度の飯を食わんがな。それだけ得や。頭は、年中散ばら髪や。髪結賃《かみゆいちん》がいらん。油がいらん、びんつけがいらん、元結《もっとい》がいらん。着物は盆が来ても正月が来ても、あれ一枚や。なるだけ古いのが値打ちや。足がないので足袋はかん。下駄はかん。晩にくるときには幽霊火がついてくる。火をともさいでもええ、家の中はあかるい。こんな得な嬶はないで」 「ほんに、そう聞くと、そやなァ。わいも一心寺へ行て、そんな嬶をさがしてこう」  家へ帰ると弁当をこしらえて一心寺へまいりました。  墓原を、あっちこっちとさがしましたが、そうそう、髑髏《しゃりこうべ》がありそうなはずがない。  しようことなしに一心寺を出ますと、向かいが安居《やすい》の天神さん。 「さっぱりわやや。一心寺へ嬶をさがしにきてお寺であぶれて、お宮はんへ来てしもた。しかし、世間は品物が値上げやの、高いのというのに、この天神さんだけは、安い安い、安居の天神さんという評判をとってはる。お参りしよう。お賽銭を一銭」  ガラガラン。 「ときに天神さん、あんたにおたのみがおますね。隣のへンチキ、昨夜《ゆうべ》、嬶もらいよりましたんで、ヘエ、わたいも急に嬶がほしなって、来ましたんや。どうぞええ嬶を一人世話しとくなアれ。イエどんな嬶でもけっこうだす。年だっか。いくつでも、ヘェ……わたい二十六だす、そこは二つ三つ若けりゃ……イエ、そら、姉女房《おいにょ》でも大事おまへん、いうて、わたしが二十六やのに嬶が六十三は、ちと姉女房すぎます。そこはてごろなんがありましたら一人……いえいえ、器量好みをしまっかいな。どんな不器量《へちゃ》でも大事おまへん、なんぼ別嬪《べっぴん》でもツンとしてよる女はきらいだす。友達がいいまんがな、なんやお前とこの嬶、ツンとしてるなァ、えらばってるのんか、やなんて。それより不器量でも愛想のええ、愛嬌《あいきょう》のある嬶がほしいンだんね……。天神さん、わたいが昼でもコロッと寝てます。そこへ友達が出てきますと、嬶が、マア兄《にい》さんお越しやす、毎度宅の人がご厄介になりまして、どうぞお入り。イエ、いまあんまりつらいいうて、奥で横になりましたン。もうし、お友達が見えましたで。どうぞお上がり……。友達とわたいと話をしてる。オイ、友達が来たのに一杯出しんか、とわたいに言わすようなことではあかん。言わいでもちゃんと酒肴の用意して、兄さん、なんにもご馳走がおまへんが、ひと口どうだす、イエ、えらい失礼だすが、あんたにこしらえたというわけやおまへんねン。いま宅の人があんまりほっとしたんで、一杯飲もか、いうてたとこ。だれぞお相手があったらええのにと思てました。ええとこへ来とくなはった、付き合うとくなはれ。酒《ささ》はずれはせんもん。ちょっと注がしてもらいまっさ。ごめんやっしゃ。さよか、わても、ひとついただきまっさ。えらい久しぶりで酔いました。兄さんどうぞひとつ、聞かしとくなはれ。三味線をもってきて、チャンチャンチャン、花アの……。アッ痛い。コラッ、無茶すな……頭へ石をあてよった。こら、ここはいかん、裏手へまわろ」  社《やしろ》の裏へまいりますと、崖になって一面に熊笹が生え茂っております。  その横に、紺のもじりを着て汚れた手拭で頬被りした男が縄を前へおいて、土手の穴を見つめております。  ところへ、 「さっぱりわやや。石あてよる。嬶のお世話はないかいな……アァ、モシ、あんた、そこでなにをしてなはるね」 「コレ、そっちへ行き。やかましい言いな」 「あんた、なにをしてなはるね」 「やかまし言いな、ちゅうのに。狐をとってるねン」 「さよか。狐をとってなはんのか。……ハッハッ、こらええとこへ来た、見せてもらお」 「コレッ、大きな声、出すな。そっちへ行け」 「べつに見るぐらい見ても大事おまへんやろ」 「そら見るのはかまへんけど、大きな声出しな、言うのや」 「大きな声はわての地声や」 「大きい声やな。黙っててくれ。イヤ、こいつの穴や、餌を拾いに出てきたのや。昼は今日《こんにち》さんのお照らしで目ェが見えん。わいに見つけられて、あわててこの穴へ逃げこんだんや、出てくるとこをつかまえるつもりや。畜生でも人間の言葉を悟る。大きな声出すと、出てこんよってに、しばらくのあいだ、黙っててくれとたのんでんね」 「アア、さよか。わたいは無口《ものいわず》だ。友達がみな、そないに言いまんね。お前いつでも黙ってるなァ、ちっとはものを言うたらどや、怒ってんのンか、こない言われまんねンけど、男のしゃべりはいかんもんで、三言しゃべると氏素性が表れる、言葉多きは品少し、わたいは至って無口や」 「なんの無口のことがあるもんか、しやべりつづけてるねがな。しばらく黙っててくれ」 「よろしい、わたいも男や。たのまれたらもうしゃべらん……。しかしあんた、これ商売か」 「まだ言うてる。商売やないが、極道をして食うに因って、こんなことをしてるね。親は百姓や」 「アァ百姓か、どこや」 「河内や」 「河内か、河内も広いが南河内、中河内、北河内。ア、あんた河内音頭を知ってるか。アァもろうた、もろうた、なにもろた、風呂敷包みで、嬶もろた」 「オイ、ほんまにたのむで、静かにしてくれ」  二人がしゃべっております隙をみて、狐が穴から飛び出しましたが、そこは商売人で、なかなか逃がしまへん。そばにあった縄をとって、ビュッと投げますと、狐にくるくるくるッ、巻きつきました。力を入れてグイと引きますと、狐がゴロゴロと転げてくるのをつかまえて、 「どっこいしょ。ハァ、すんでのことで逃がすとこやった。ようしゃべるやっちゃなア。サァ、つかまえたら、もう、なんぼなとしゃべれ」 「もう、しゃべることしまいや」 「あ、みな、しゃべってしまいやがった」 「もし、とうない大きなやつだんな、乳が下がってまんな」 「フン、牝《めん》や。子供の餌を拾いに出よったんやな」 「もし、なんや頭を下げてまんな。なにをしてまんね」 「ものこそ言えんが、堪忍してくれとたのんでよるね」 「かわいらしいもんだんな。もし、堪忍してやりなはったらどうだす」 「わいかてこんな殺生はしとうはないが、食えんが悲しさにするね」 「モシ、わたいの顔を見て頭を下げてますで」 「堪忍してもろてくれと、お前に、たのんでよるねン」 「あ、さよか。かわいそうに。もし、助けてやりなはれェな、あないにたのんでますがな」 「わいかて助けてやりたいが、いま言うとおり食えんさかいしょうがない」 「あア助けてやりたいなァ。もし、あんた。その狐をもって帰って飼うときなはんのか」 「あほ言え、高津《こうず》の黒焼屋へもっていくのんや」 「そんなら、高津の黒焼屋が飼うておきますか」 「まだあんなこと言うてよる。黒焼きにするのんじゃ」 「あのッ、黒焼きに。かわいそうやなァ。もし、その狐を黒焼屋へもっていたら、なんぼに売れます」 「そうやな、寒中なら値がええが、春先になるとまごついたら、毛が抜けてしもて……。けども、こんだけ大きいで……まァ三円か」 「ヘエ、そんなら、三円で黒焼きになりまんのか、かわいそうに。どうぞして助けてやりたいなァ。な、もし、あんた黒焼屋へもっていって三円なら、わたいに三円で売りなはったら、もっていく手間がいらんのやが、わたいに三円で売りなはるか」 「お前、この狐を買《こ》うて、どうするねン」 「かわいそうやで、逃がしてやりまんね」 「なにッ、逃がす……あの逃がす……。あ、そうか。わいかてべつにこんな殺生はしとうないが、食えんが悲しさや。逃がすと聞いたら売ってやろ、三円で買うか」 「ところがなァ……三円ないねン」 「なかったら、あかんやないか」 「そこが物も相談やが、黒焼屋へもっていて二円にしか買うてくれなんだと思て、二円に負けてくれるか」 「二円なら買うのか」 「それが、二円ないね」 「コラ、なぶったらあかんで」 「そこや、今日は出てきたが、獲物がのうて手ぶらで帰ったと思て、一円に負けてくれるか。人間は諦《あきら》めが肝心や」 「そんなら一円に負けてやるが、買うか」 「一円ならもってるねン」 「すぐ逃がすなァ。さあ一円出せ」 「九十九銭や」 「コラ、一銭ぐらい汚いことするな」 「一円持ってきたんやが、天神さんへお賽銭に上げて、残り九十九銭」 「どうもしゃアない、さあ狐とれ」 「噛めしまへんか」 「大丈夫や、お前が助けてくれるという心や、なんの噛むもんか」 「さよか、どっこいしょ。いや、おおきに」 「サァ早よ逃がせ」 「買うたら買うた者《もん》の物《もん》や。逃がそと逃がそまいと、わいの勝手や。これから高津の黒焼屋へもっていて三円に売るねン」 「オイ、そんな無茶なことがあるかい」 「嘘やがな、なんのそんなことしまっかいな、すぐに逃がします。ちょっとあっちへ行てとくなはれ。……さいなら。ああ、去《い》によった。オイ、危ないとこやったな。すんでのことで黒焼きになるとこやがナ。昼は今日《こんにち》さんのお照らしで、目が見えんねんとなァ……子供の餌を拾いに出たんか。昼は出ェなや、もし餌がほしいときは、わいの家へおいで。高津新地、百軒長屋がたがた裏で、胴乱《どうらん》の保平《やすべえ》ときいたらすぐわかる。かならず昼は出るなよ。あんな無茶者《むちゃもん》に出会うて、黒焼きにしられんならん。……ところでお前にたのみがあるが聞いてくれるか。じつは昨晩、隣のへンチキ、嬶もらいよったんや。そいで、わいも急に嬶がほしなってきたんやけど、ええ嬶があったらひとり世話してくれ。ええか、たのんだぞ。……うなずいてるが、わかったァるかいな。それ、逃がしてやる。ソラッ逃げ……ああ、うれしそうに逃げていきよった……。あァ臭《くさ》、狐というもんは臭いもんやな……」  気楽な男でぶらぶらまいりますと、藪《やぶ》の中から、いま助けてもろた狐が飛び出します。  草を頭にのせ、ひとつ後ろへ返りますと、十八、九のきれえな娘に化けまして、保平のあとから、 「おォい」(鳴り物・三味線) 「ちょっと保さんの兄さんやおまへんか」 「だれやしらんと思たら、お常ちゃんか」 「まァ、兄さんこきげんさん」 「ごきげんさん。しばらく見ん間にきれえになって。わい見違てるねン。しかし、お常ちゃん、いまごろこんなとこをうろついてンのは男を待ってンのやろ」 「あほらしい。あてみたいにお多福にだれが相手になってくれはりますかいな。兄さんこそ若うなって、さだめしええ女はんが出来て、ここで待ち合わせてなはンのだっしゃろがな」 「なに言うてるね。わい、まだ独身《やもめ》や。お常ちゃん、わいみたいなもんでも、嬶になってくれる女があったら世話してや」 「兄さんのような、ほどのええお方を、なんのひとりで放っておきはりまっかいな。あてこそひとりもん、あてのようなもんでも、女房にしてやろうという人があったら、兄さんおたの申します」 「お常ちゃん、ほんまに独身《ひとり》か」 「なんの嘘つきまっかいな」 「そんなら、わいの嬶になってくれへんか」 「あてのようなお多福でも、嫁はんにしてくれはったら、願うたり叶うたりやが、女房にしとくなはるか」 「嬶になってくれるか」 「してもらいますわ」 「そんならともかく家へおいで」  はなしがでけまして、保平、とうとう狐と夫婦《みょうと》になってしまいました。  そうこうしているうちに、十月十日《とつきとうか》たってホギャアと生まれましたのが、玉のような男の子。二人はよろこびまして、名を童子とつけました。  光陰は矢の如く、月日に関守《せきもり》なしとか、はや三年たちまして、童子が三つになりましたある日のこと。 「オイ喜ィやん」 「なんや、清やん」 「わい、もう、この長屋、宿替えしょうと思てるねン」 「なんでやねン」 「そうかて、気味がわるうて住んでられへんがな」 「どういうわけでや」 「よう考えてみ。ヘンチキの嬶は幽霊やし、保平の嬶は狐やし、なんのことはない化物屋敷やがな」 「そうやそうや、源助とこの嬶は幽霊や、保平とこの嬶はお常や」 「ちがうがな、狐やというねン」 「そうや、お常や」 「まだあんなこと言うてる。お常やない、狐や」 「そらお常は色は白い。顔は面長《ながて》で、目はちょっと吊り上がってる、口が少し尖ってるで、世間は狐やと悪口をいうねン」 「そやない。ほんまの狐やがな。その証拠に、ものを言ったら、しまいには、コンというで。よう気をつけてみ」 「オイ清やん。それほんまか。わいは気がつかんが、しかし保平知らんねやろか」 「そら、知らんよってに、いままで添うてよるね。お前が嘘やと思うのやったら、わいについといで、聞かしたる」 「そうか、そんならいっしょに行こ……」 「オイ、喜ィやん、見てみ。お常さん、子供を寝さして、枕もとで裁縫してる。さあ、いっしょに入り。……お常はん、こんにちは」 「オオ、どなたかと思たら、お二人連れで。どうぞこっちィお上がり、コン」 「それ、どうや、いま言うたやろ」 「フム、たしかに聞こえた、コンと言うた」 「どうや、言うやろが。……オイ、喜ィやん、お前、がたがた慄《ふる》うてるな」 「清やん、べつに慄うてるのんやない、こまこう身体が動いてるねン」 「おんなじこっちゃがな。ときにお常はん、保さんは留守か」 「ヘエ、宅の人は朝から寺町の叔父さんとこへ行きました。もう帰ってきまっしゃろ。どうぞ、お茶ひとつおあがり、コン」 「清やん、また言うた」 「そう慄《ふる》いないな……サァ、お茶をよばれ」 「いや、わい、やめる。お茶やと思て飲んだら、馬の小便やもしれん」 「そんなことがあるもんか。……お常はん、べつに用事やないねン。保さんがいてたら、日和もええし、どこぞへ、ぶらぶら行こと思て、誘いにきたんやが、留守ならしょうがない。帰ったら保さんによろしゅう言うといてや」 「まあ、お愛想《あいそ》なしで、ご親切に。宅の人が帰りましたら、そないに申します。またゆっくりお遊びに、コン」 「そんならお常はん。保さんが帰ったら、なるべく尾を見せなや……。さいなら、コン」 「オイ、喜ィやん」 「なんや」 「なにを言うねン、コンやなんて。しようむないこと言いないな。お常はんの顔の色がかわったがな……あほやなァ」 「お常はん、どないしてるやろ」 「そうーっと、裏から見に行こ」  裏の塀の節穴からのぞきますと、お常はん、びっくりした拍子に狐の正体をあらわして(鳴り物・三味線)。 「クシャン。清八・喜六両人の者の様子では、どうやら狐と悟りし様子。うらめしいは清八・喜六。清八は城の濠《ほり》、喜六は尿壷《どつぼ》へ放《ほ》り込んで、目にものをみせてやる」  やがてスヤスヤと寝ております童子の枕もとヘピタッと坐りまして、 「これ童子や。いまこの母の言うことを、寝耳ながらによう聞きや。われこそは人間にあらずして、天神山にて千年近き狐ぞや。三年以前、そなたの父保平殿に助けられ、その御恩を報いんと、これまでこうしていたなれど、長屋の人の言葉のはし、われを狐と悟りし上は、もはやこの家に長居はならず、母は古巣へ帰るぞや。名残り惜しいは保平殿、ウン、せめて一筆書き残さん。おお、そうじゃ、そうじゃ」  とお常さん、筆をくわえまして後ろの障子へ、「恋しくばたずねきてみよ南なる、天神山の森の中まで」……そのまま天窓から消えてしまいます。 「フワーィ、えらいことになってきたで」 「清やん、どうなるね」 「どうなるて、いま、お常はんの言うたことを聞いたか。わいは城の濠や、お前は尿壷へ放り込むと言うてたがな」 「清やん、わい、尿壷はきらいや。今の間ァに逃げよか」 「逃げられるもんかいな。道やと思てたら尿壷へはまるねン」 「そんなことをいうたら、どないもでけんがな」 「お前がよけいなこと言うよってにや、保さんどこへ行ったんやろう」 「清やん、保さんが帰ってきた」 「おォ、保さんか」 「お前ら二人、そんなところへへたばってなにしてるねン」 「保さん、えらいことが出来た。お前とこのお常はん、あれは狐やで。家の中を見てみ、障子へなんや書いて逃げて行ったで」 「エッ、お常が障子へ。フンフンなるほど……恋しくばたずねきてみよ南なる、天神山の森の中まで。……フーン、天神山の森の中……さては狐であったか。たとえ狐にもせよ、三年のあいだ添いとげ、子までなしたるその仲をば、古巣へ帰るとは、俺はともかく、この子が不憫と思わぬか。あくまで連れ帰らずにおくべきか。お常やーい。お常やーい」  芝居でいたしますと 「芦屋道満大内鑑《あしやどうまんおおうちかがみ》、葛《くず》の葉の子別れ」  落語でやりますと 「貸屋道楽大裏長屋、ぐずの嬶《かか》の子ほったらかし」  保平さん駈け出します。  お芝居なら出囃子《でばやし》になって、紫の鉢巻で保名《やすな》狂乱を踊りますところ……。 「お常やーい、お常やーい」 「オイ清やん、保さんがおかしいになったがな」 「お前がコンと言うたばっかりに、こんな騒動が出来たんや」 「いまさらそんなことを言うてもしょうがないがな。保さん、どこへ行たんやろう」 「ほっとくわけにいかん、さがしに行こ」 「さがしに行くにも、腰が抜けて立つことがでけん」 「わいも抜けてるねン」 「おかげで、また抜けた」 「コレ、お伊勢参りみたいに言うてる。二人でいっしょに立と。ええか、一《ひ》ィ二《ふ》ゥの三《み》ッつ、さあ立った、さがしに行こ」 「どこへさがしにいくねン」 「わいの考えでは、寺町の叔父《おっ》さんのとこへでも行《い》たんやないかと思うねン」 「お前、叔父さんの家しってるか」 「フム、花屋をしてるそうや。いっぺん行てみよ、早よおいで」  と二人が、やってまいりましたのが寺町の花屋で。保平の叔父さんというのが年のころは六十五、六で、禿《は》げ頭のでっぶり太った柔和な人。ちょうど表の床几《しょうぎ》へ腰かけて、一服しておりますが、耳がよう聞こえまへん。 「オイ、ここや。ちょうど表にいる。ヘイ、こんにちは」 「ハイハイ、お出でなされ」 「モシ、あんたとこへ保さんは来まへなんだか」 「さいな、えらいええ天気になったなァ」 「いえ……保さんは、来まへんか」 「わしか、今年、六十五じゃ」 「ちがう、年やない。保さんや」 「エーエ、婆《ばば》どんか」 「ちがうがな、オイ、喜ィやん、なんとか言うてんか。保さん、保さんや」 「フェー、なんや」 「保さんや」 「なんや言うてるが、フェ……わしは、耳が遠い、フェ……用があったら、フェ……書いとくれ」 「書いてくれと……。コレ、ここへ書くで。ええか。保、さ、ん、は、ここのうちへこなんだか。どうや、わかったか」 「フェ……なんじゃ、保さんはここの家へこなんだか、と訊《き》きなさんのか。保平なら、来《こ》ん来《こ》ん」 「あっ、叔父《おっ》さんも狐や」 [#改ページ] 天王寺|詣《まい》り  エエ、一席うかがいますは、天王寺詣りの、お噺でこざいます。 「今日は」 「コレ喜ィさんえろうにこにこ笑うているが、どうしたんや」 「あんた、珍しい物が好きだすが、珍しい物見せまひょか」 「珍しい物てなんや」 「あんたひがんて、見たことおますか」 「ひがんてなんや」 「サア知りなはれしまへんやろがな、内へきてごらん、裏の小さい穴から、出たり入ったりしてまんね、たけが五、六寸で鼠のチョッと長いようなやつで、キチキチと鳴いて、いまんね」 「ナンや、お前が言うてるのは、鼬《いたち》みたいなナア」 「ヘエ、ちょっとも違えしまへん、わたいも鼬やとばっかり、思うてました、あまり出たり入ったりするもんやさかいに、下駄で蹴ってやろと、蹴りかけたら、隣の藤助はんが入って来て、コレ何をするね、ひがんやがなと、言いました、ひがんて鼬によう似てまっせ」 「それは何を言うのや、そら鼬が出たのやがな」 「そんなら鼬が出たらひがんと言いますか」 「鼬が出たよって、ひがんと言うたのやない、彼岸中やから、これ何をするね、ひがんやがなと、言うたのや」 「マアさよか、鼬が出たら彼岸なら、鼠が出たら中日《ちゅうにち》だっか」 「ソラどうやしらん」 「ヤッパリ猫が出たら、けちにゃんだすか、彼岸て何だす」 「天王寺で、七日間、無縁《むえん》の仏《ほとけ》の供養をするのや」 「無縁の仏の供養をするというと」 「天王寺で、引導鐘《いんどうがね》を撞《つ》くと、それが十万億土へ聞こえるというのや」 「何のかんのと、天王寺のやまこ坊主が」 「やまこ坊主とは、どうや」 「そうだんがな、わたしとこから天王寺へ、近いのにちょっとも聞こえまへんのに、十万億土へまで、聞こえそうなことがおますかいな」 「そんな、無茶を言うもんやない、御出家は、十万億土の道を教えなはるのや」 「ソラあかん、わてこの間、心斎橋筋を歩いていたら向こうの方から来た坊んさんが、もうし八幡筋はどちらへ参りますと、聞いていました、八幡筋の、わからん坊んさんが、十万億土が、わかりそうなことが、おますかいな」 「コレそんな団子理屈を言うもんやない、御出家は極楽の道を教えなはるのや」 「そんなら、あても撞いてやりたい者がおますね」 「お前の身寄りかなんぞで」 「イエうらにいた男でやす」 「コレお前とこにいた男なら、私はたいてい知っているが、どんな男やええ」 「ヘエ色の黒い、目のちょっと釣った、ソレいつもお宅へ来て、可愛がってもらいましたがなア、ソレ買いたてのさかなを盗ってから、憎たらしなったと言うて、あんた怒っていなはったやろがな」 「コレびっくりしたがな、犬かいな」 「サヨサヨ」 「男やというから私はまた、人間かと思うていたがな」 「アレ雄だす」 「なんぼ雄かて、あのクロ見ぬと思うたら、死んだのか」 「ヘエ表へ出るなよと言うてますのに、表へ出て横手の風呂屋の前まで行たら、向こうの方から、長い棒を持った人が出て来て、いきなり鼻の上をば、ボン……と殴ったらクワ—ンと、言うたが、この世の別れアア……、無下性《むげっしょう》に〔残酷に〕、殴れんもんやなア、ボン……と、いたらクワン……、アア……、無下性に殴れんもんやなア……」 「コレお前泣いているな」 「ヘエこれから天王寺へ行て、鐘を撞いてやります」 「コレ犬の鐘を撞くとは、面白いな」 「けど、あれ犬どう鐘というて、ありがたいかしらん」 「コレ泣いていて、洒落を言うやつがあるか、マアマア撞いてやり、功徳《くどく》になる」 「どうしたら撞いてくれますやろうか」 「アア銭の二十銭も包んで行たら、撞いてくださる」 「二十銭て僅かでやすな」 「そや、僅かや」 「チョト取り替えてやりなはったら、どうでやす」 「まだ誰ぞ、連れがあるのかえ」 「イイエあなたの前にいる、にこにこ笑うてる男に」 「なんやお前かいな」 「ヘエお前でやす」 「コレひとごとのように言うているな」 「ついわがことは、言いにくいので、一人仲人を頼んだのだす」 「そんなことしいないな、ややこしい、お前に一円三十銭、貸しがあったな」 「ヘエヘエ、あんなもの、だいじおまへん」 「それは、私が言うのやがな、お前にもの言うたら損がいく、今よそへ持って行くので、包んだのが、ここにある、これ貸してあげる、しかし白紙でも持って行けんで」 「何ぞ書きますのか」 「普通ならこれへ戒名を書いて持って行くのや」 「犬の戒名で、ワンワン信士と、どうでやす」 「ワンワン信士とは、おかしいな」 「それなら俗名は、どうでやす」 「俗名ならよかろう、俗名はなんとしとこ」 「俗名クロとな」 「けったいな俗名やな、ヤアマア書いておいてあげよ、日は何日やえ」 「七月二十四日でやす」 「オオオオよくせき、なんとか思えばこそや、犬の死んだ日を、覚えているだけ感心や、七月二十四日俗名クロ、もうないかえ」 「なんぼ書いても、おんなじでやすか」 「なんぼ書いても同じことや」 「そんならついでに、お親父さんのも、書いてもらいまよか」 「コレちょっと待ちんか、どこぞの世界に、犬のついでに親の引導鐘を、撞くやつがあるかいな」 「ここらが、ハイカラだんな」 「何のハイカラなことがあるものか、お親父さんの戒名は何というのや」 「ヘエ霊龕奇定信士《れいがんきていしんし》と言います」 「霊龕奇定信士、日は何日や」 「それ忘れました」 「お前はたよりない男やな、犬の死んだ日を覚えていて、親の死んだ日を忘れるやつがあるか」 「ヘエ、ここらが現代で」 「何が現代なことがあるものか、ちょっと待ちや、お前のお父っさんの死んだ日は、エエ……こおつと、なんでも節句やったか、月見やったかと、違うか」 「ソウソウ、団子食うた日だす」 「コレ食い物のほうで覚えている、八月の十五日霊龕奇定信士と、もうないかえ」 「ソンナラ、もう一つ、俗名笑福亭|松鶴《しょかく》と」 「コレ笑福亭松鶴てなんや」 「ヘエ背の高い、口の大きな落語家だす」 「かわいそうに、あの男死んだかえ」 「イエまだ達者で働いています」 「コレ達者でいるのに、引導鐘を撞いてどうするね」 「私また、五代目松鶴がヒイキだすゆえ、撞いてやろうと思うてます」 「それでは、松鶴が災難やがな、書いてしもうたもの仕方がない」 「日は、何日にしておきまひょう」 「コレまだ死んでえへんがな、サア詣っておいで」 「あんたはどうだす」 「私は間の日に詣るのはいやや、私の詣るのは中日や」 「中日といいますと」 「今日が三日目、明日が中日や、明日詣る」 「明日詣るやなんて、気の長い、今夜にも死んでみなはれ、詣られまへんで」 「コレそのような、人の気の悪なるような、ものの言いよをしいなや」 「ソウでやんがな、小野の小町は女でも、よいことを言いましたで。人間は風前の灯火《ともしび》でやすと、風前の灯火とは風の前の火でやすと、明日をも知れぬ身の終わりかなと、言いましたら、一休さんが小町は昔の人間で気が長い、風前の灯火なら、明日をもどころやない、今を知れる身の終わりかなやと、また御開山が何とおっしゃった、明日あると思う心の仇桜《あだざくら》、夜半《よわ》に嵐の吹かぬものかや、ただ南無阿弥陀仏を」 「コレそんな所で法談《ほうだん》をしなや、人の気を心細うしよった、どうも仕方がない、牛に引かれて善光寺詣りや」 「犬に引かれて天王寺詣りでやす」 「コレ掛け合いでしゃべりな、コレおさよ、私の羽織を出してんか」 「私のんも出してんか」 「コレお前の羽織というてあれへんがな」 「あんたのを借って行きますね」 「あんな男や、何なと羽織を貸してやりなされ、大きな方の銭入れ出してんか」 「お金をたんと入れときなあれや」 「そんなことほっておき、早う外へ出なされ」 「用事のあるのに、引っ張り出して、気の毒におますな」 「出てからそんなべんちゃら言いなさんな、こんな曇った日に出ると、何とのうこぜわしいてどもならん」 「モシここら坊んさんがたくさんと歩いてはりますな」 「早いもんで、ちゃんと下寺町や、忙しい下寺町の坊主持ちと、いうのはここのことや」 「モシ向こうから来る坊んさん、えらいよい風体をしてはりますな」 「ほんによい風体をしていなさるな」 「よい坊んさんとみえますな」 「よい御出家やな」 「上坊主でやすな」 「コレ上坊主ということがあるか」 「アレは二十坊主だっか」 「コレ何を言うているね」 「ここどこでやす」 「ここが逢坂、合邦《がっぽう》ヶ辻や、この高台の寺が一心寺、こちらに鳥居のあるのが天神山、安居の天神、ソレ早いもので、これが天王寺石の鳥居や」 「マアマア」 「コレ大きな声やな」 「マア立派な鳥居でやすな」 「これを日本三鳥居と言うね」 「ヘエ日本三鳥居てなんでやす」 「大和吉野にあるのが、金の鳥居、芸州《うんしゅう》安芸の宮島にあるのが楠の鳥居、天王寺石の鳥居とあわせて、これで日本三鳥居と言うね」 「ソンナラ皆、同類だすか」 「盗人みたいにいいなな、上を見てみ」 「エライとこへ塵取りを、上げよったんやな」 「コレ塵取りやない、あれは額や」 「ヘイヘイ百日患うたら死ぬ病気で」 「それは癌や、中に書いてある文字が読めるか」 「ヘエ何や知らんが、四字ずつ書いて、四四の十六字、書いてます」 「字数やない、何と書いてあるか分かっているか」 「それは分かってやない……」 「ソレ、釈迦如来、転法輪所、当極楽道、東門中心じゃ」 「何にも分からん、猫のふんじゃ」 「コレ、いらんこと言いな」 「どなたが書いたんでやす」 「弘法の支え書きと言う」 「鰌汁《どじょうじる》の中に、入ってあるのん」 「それは、ごんぼのささがきや、誠は、小野の道風の自筆ともいう」 「古いもんだすな」 「道風を聞いて、古い時代が分かるか」 「イエ縁《ふち》が一ツ取れてます」 「取れてあるのやない、額というても箕《み》の形にしてあるのや、不意死にをした者は箕で身を救うてやろという、また鳥居の柱の根元に蛙が三ツ彫ってある、上が箕で下が蛙、上から下へ見返るという」 「私がここで、ひっくりかえる」 「コレそんな所で、とんぼりがいりをしないな、頭から着物まで、砂だらけやがな」 「前方《まえかた》これを言うて、お菓子を売りに来ましたで、蛙が三つでみひょこひょこ、向こうに鳩が飛んでますやろ、はとくうはとくう、建て石に石灯籠」 「コレそんなあほらしいこと、言いないな」 「ケド建て石が立てます」 「ソレハ建て石やない、ぼんぼん石や」 「ぼんぼん石てなんだす」 「あの石の真ん中に四角な穴がある、石を持ってたたくとぼんぼんと唐金《からかね》のような音がする、そこへ耳をあてると、わが身寄りの者が、来世で言うてることが、聞こえるのや」 「死んだ者の言うてることが、聞こえますか、これはおかしい、一ぺんやってみよ、コレハおかしい、フウン……なんのかんのと、ちょこざいな……」 「コレ何を言うてるのや」 「私の叔父さんは口が上手でやすさかいに、来世へ行ても、うまく閻《えん》ちゃんを取り込みよったんだすな」 「コレ閻ちゃんて何や」 「サア閻魔というと憎たらしいので、閻ちゃんと言うてますね、資本金出さして手広う商売してます」 「そんなことが分かってるか」 「ソレ聞いてみなはれ、言うてますがな、どうぞこちらへお掛けやす、景色のよい所が空いてます、おでんのあつあつ、何でも出来ます」 「コレそれは隣の茶店やがな」 「アアさよか」 「あんな狼狽者《うろたえもん》や、こちらへおいで、これが西の御茶所、納骨堂に太子念仏堂、引声堂、短声堂、見真《けんしん》大師、お乳母さんというて、乳の出ぬ人はここへ詣る、布袋さんが祭ってある、これが天王寺の西門や」 「さいもんてなんでやす」 「西の門を西門と言う」 「ソンナラ東の門は」 「東門やないか」 「南の門は」 「南門や」 「なんもんと言うたらさいもんや」 「ソンナ余計なことをいいないな」 「アアこんな所に車が、付いたある、アノよう回る、どなたも回してごらんなはい、大あたりはカステイラが三本」 「コレ、ハッタリ屋やないがな」 「これはなんでやす」 「これは輪宝《りんぽう》という」 「アア小便の出にくい病気だすか」 「それは淋病や、輪宝……」 「りんぽうてなんでやす」 「天王寺の寺内は、天竺の形をとったもの、手洗水がない、水という字が崩して車にしてある、三度回すと、手を洗うたも、同然や」 「これを三べん回したら、手を洗うたも同然だすか、一ぺんやってみよ、なんのかんのと、もさひきが」 「もさひきとはどうや」 「ソウでやすが、三べん回したら手を洗うたも同然や、私さっき尻かいて、コレ何べん回しても、かざがぐと臭い」 「コレ汚いことをしないな罰があたるで、こちらへおいで」 「敷居の高いこと」 「天竺の形をとって敷居が高くしてあるのや」 「私が家主さんへ行くように」 「家賃を払わぬから敷居が高いのや、コレが義経の鎧掛松や、コレが経堂、経文ばかりで詰まってあるのや、コレが金堂、この格子の内をのぞいて見なはれ」 「何やチョン髷に結うたお親父さんが上下着て座ってますな」 「アレが淡太郎の木像や」 「コレだすな、万さんとこの子を取りよったのは」 「ナニが」 「ガタロの極道だすか」 「淡路屋太郎兵衛という、紙屑問屋の旦那や、天王寺が大火で焼けた時、五重の塔を建立しなはった、その木像が残してあるのや」 「五重の塔てどこにおますね」 「前にあるやないか」 「マアマア」 「大きな声やな」 「なんでこれ五重の塔と言いますね」 「五ツ重なってあるから、五重の塔や」 「ひイふりみイよオ、四ツしかおまへん」 「上にもう一ツあるがな」 「あの蓋とも五重だすか」 「重箱みたいにいいないな、こちらへお出で、これが竜の井戸、天王寺の境内は池であった、竜が主、聖徳太子がこの井戸へ封じ込んでしもたので、竜の井という、これが回廊や、南門、仁王さんの立っているのはここや、西に見えるが紙子さん、南のお茶所、虎の門、お太子さん、前にあるのは夫婦竹、太子引導鐘、猫の門、左甚五郎作で、大晦日の晩にはこの猫が泣くという、用明殿、指月庵、聖徳太子十六歳のお像、亀井水、経木流す所や、たらりやの橋、俗に巻物の橋、向こうに見える小さいお堂が丑さんで、前にあるのが瓢たんの池、東に見えるが東門、内らにあるが釘無堂、こちらが本坊、足形の石鏡の池に、伶人の舞いの台や」 「れいじんの舞いの台てなんだす」 「前方この台の上で舞いをまいなはったのや」 「誰が舞うたのだす」 「大晦日の晩に、天王寺の楽人が、舞うたというね」 「そら大晦日の晩に舞いをまうのは天王寺の、らくにんやな」 「らくにんやない楽人や」 「たくさん見に来ましたやろ」 「四方の門を閉めて誰にも見せぬのや」 「何にもならんことをしたもんやな」 「ソヤから何にもならんことをすると、縁の下の舞いとこれから言うたのや」 「なるほど、ほんまだすか」 「これは墟や」 「うそつきなはんな」 「お前には少しは嘘をまぜんとたよりない」 「天王寺の蓮池に亀が甲干す、はぜをたべる、引導鐘ごんと撞きや、ホホラノホイてなんだす」 「コレそんなけったいな尋ねかたをしないな、皆がお前の顔を見てるがな、それはここや」 「アア向こうに亀がたんといてます、向こうへいきまひょうか」 「向こうへ行かいでも、手を叩くと、みな亀がこちらへ来るがな」 「ソレ知らぬよって、一ぺんやってみよ、アア来る来る、手を叩くと来るとは、うまいこと仕込みよったな、ココの亀、以前仲居をしてたのかしらんて」 「コレそんな阿呆なことがあるかいな」 「アア踊ってる、後でステテコ踊ってや」 「踊ってるのやない、何ぞもらえると思うて、上手しているのや」 「可愛いもんやな、そんなことを知っていたら、空豆なと買うて来てやるのに」 「コレお前に物言うてると腹がたつ、空豆のような堅い物を嚼《か》むかいな」 「ソンなら嚼まぬもんに、かめとなんでいうた」 「ソンな理屈をいいないな」 「亀、酒好きだんな、あてせんど、すっぽんの酒、亀に呑ました」 「コレお前は訳の分からん物の言い方をするな、すっぽん酒、亀に呑ましたてなんや」 「あんたが分からん人や、すっぽんという、酒を入れる物、その中の酒を亀に呑ましたのだす」 「そんなら、そう言いな、すっぽん酒を亀にと言うから、分からんのや」 「盃に酒をついで、亀の口の所へ持って行くと、亀、こう短いおとがいを突き出して、よほど酩酊」 「なんのそんなことをいうかいな」 「少し盃に残して向こうへ行きますので、オイそんな行儀の悪い酒を残して、皆呑んでしまいと背からかけたら、そうすすめてもろうても、こうの上は呑めまへん」 「コレそんな仁輪加をしないな」 「なんぞやる物がないかいな」 「お前の前にはぜがある、それをやり」 「コンナ物があるのを知らなんだ、ソレやろ、なんぼなと食え食え、ソレやろ」 「コレなんぼやるね、一ぱい一銭やで」 「アアこれお金がいりますか」 「ああいう阿呆やがな」  このようにいうてますと、天王寺の境内には、右の男二人きりのようですが、なかなか彼岸中は、寄進坊主が出るやら、商人さんがたくさんに店を出しています。  八丁鐘の音がして賑やかなこと。 (囃子)押したてうまいの、うまいの、握りたて握りたて、巻きたて巻きたて、本家は竹|独楽《こま》屋でござい……こちらは覗き屋、小さな台に、色硝子の入って横手に眼鏡が付いてある荷物、眼鏡を覗くと中に名所の写真が見える、説明をしています、あなた御覧じますは、東海道は鳴海の宿、ここの名物菜めし田楽、あなた御覧じますは、阿波の国は立江の地蔵堂、あなた御覧じますは、東海道は矢走、上る早船矢のごとく早きがゆえに矢走なりけり、あなた御覧じますは、信州は善光寺、八方八棟八重造り、灯火は消えず昼夜参詣。  こちらはからくり、これは屋台が小さい、ホイただいまお目に掛けますからくりは、桂川は連理の柵と、しつらえましてホイヤ、お半は春めくとの伊勢参り、ホイヤ、長右衛門は遠州浜松よりの戻り道、ホイヤ、出合う所が東海道、東海道は坂の下ホイヤ、お前は帯屋の小父さんか、そういうお前は信濃屋のおはん女郎、ホイヤ、そもじはどこへ行きやったぞ、小父さん、私はお伊勢参りの下向道、ホイヤ、下向とあるなら共によい道づれだ、馬の上より手を取って、泊まり合わすが石部の出羽屋、ホイヤ、出羽屋の奥の座敷の仮り枕、おはんは恋のいろはを書きそめて、ホイヤ、これより連れて戻るか京じゃ、どうじゃどうじゃ……。  こちらには巡礼が、ちいちいははの恵みも深き粉川《こかわ》寺、おありがとうさんでござります。  また乞食が、右や左の旦那様や、どうぞ一文いただかしてやって……、種々雑踏しております。 「サアこちらへおいで、これが引導鐘や」 「マア見なはれ、市松人形や着物がたくさん吊ってある、あれ売りはりますのか」 「あれは子達を死なしなさったお方が、涙の種になるので持って来て上げてあるのや」 「なんで涙の種になりますね」 「子供があの着物を着て遊んでいたとか、あの人形を持って遊んでいたとか、見る度に涙の種になるから持って来てあげてあるのや」 「それなら私も涙の種になる物がおます、クロが毎日食うた摺り鉢がありますね、こんなことなら持て来て、縄でくくって釣ってもらうのに」 「そんなことが出来るかいな、サア今の包んだのを出して頼み」 「オイ坊んさん」 「坊んさんとはどうやいな」 「一ツお頼み申します」 「なまみだぶなまみだぶ、はいはいはいこちらへお上がりなされ」 「上へあがり」ガン(鐘の音)。 「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、今日引導鐘の功徳をもって、七月二十四日の精霊者、俗名クロ、このお方はお女中ですか」 「イエおんだす」 「これ」 「また願わくば、八月十五日の精霊者、霊龕奇定信士、また願わくば、俗名笑福亭松鶴、このお方は日がおまへんな」 「ヘエまだ達者だす」 「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、光明遍照、十万世界、念仏衆生……」   ポン…… 「コレどこを見ているね、お前が鐘を撞いてやろうという一心で、クロが鐘に乗り移っている」 「どこにだす」 「あの鐘の音を聞いてみ、ウウムとうなるとこ、お前とこのクロによう似ている」 「南無阿弥陀仏」  ポ—……ワンワンワン、ウン……。 「テヘ……クロ、お前が来ていることを知ってたら、鰻のシャッポンでも、買うて来てやるのに」 「コレお前は訳の分からんことをいうな、鰻のシャッポンてなんや」 「鰻の頭と言いにくいので、鰻のシャッポンと言うてますね、オイ坊んさん、引導鐘三ツといいますよって、後の一ツ私に撞かしとくなはれ」 「サアサア撞いてあげなされ、功徳になります、こちらへ来て御焼香なされ」 「オイ御焼香しといで」 「御焼香てなんだす」 「むこの香炉へちょっと香をくべてくるのや」 「おしょうこう、今日わいな、御当家に、お金がどっさり儲かって、悪魔払いにあまた稲荷の数を寄せ集め、伏見では、熊鷹稲荷の大明神、権太夫稲荷の大明神、末広稲荷の大明神、白玉稲荷の大明神、人丸稲荷の大明神、数多稲荷を寄せ集め、御当家へは悪魔は、コンコン」 「コレそんな所で乞食のまねをしないな」 「今のウワンウワンを頼むで、ガンガシンニョ、ニョコロロ、テエカネンネン……」 「コレお前がそんなことをいわいでもよい、早う撞き」 「ひイふウノみっツ、クワン、ああ無下性《むげっしょう》には、殴れんもんやな」 [#改ページ] 胴斬《どうぎ》り  ええー今日は、胴斬りという、ごくお古いおうわさを聞いていただきますが……。  昔は、士農工商とか申しまして、お侍が一番えらいとされてたんやそうですなあ、ようお芝居などでございますが、斬り捨て御免、ずいぶん無茶なはなしですなあ。  町人などがお侍に逆らいますと、斬り捨て御免で平気で斬ってしもたそうで、そうですから昔のお侍は、新しい刀を買い求めますとその刀の切れ味を試すため、よう試し斬りちゅうのをやりはったそうで。  ここにございましたお侍、新刃《あらみ》の一刀を携さえて、ひとつ、この刀の切れ味を試そうと夜遅うに常安橋あたり……あの辺に沢山お屋敷があったそうで。  あの淋しいとこ、蔵屋敷の横手をば、何かよい獲物はないかと歩いてますと、ちょうど、その前を歩いていたのが、このおはなしの主人公、いたって頼りないやつ。  夜が更けたあるのに淋しいとこを、濡れ手拭をさげて、プラー、プラーと歩いとる。 「よし、この男で試そう」  足音を忍ばして、真後ろまで行きますと、一つ、腰をひねります。  居合抜きちゅう奴ですなあ。 「エイッ」  刀が新物、腕が冴えとります。  見事、胴斬りちゅうやつ、胴と足とが別々になりまして、胴が斬られた反動でポイッと上へ飛び上がって、横手にあった天水桶の上へうまい具合に乗りよった。 「ウォーイ、ちょっと待てえ。無茶すな、阿呆ンだら。ふいにひとの体放り上げやがって、何さらすねん。ちょっと待てちゅうねん、オイオイ、行ったらあかんで。ちょっと待て、ちょっと待ちや。おかしな具合やで。オイ、あかんちゅうねん、行ったら。ちょっと待ったれや。……何じゃおかしな具合やと思うたら足あれへんがなあ。オーイ、行てしまいやがった。そうか、何やここら辺に冷たいものが走ったと思うたら、試し斬りに遭うたんやなあ。えらい目に遭うたなあ。こらあ、さっぱりわやや。しかし、そらそうと足はどないしよったんやろ……。あんなとこに立っとるな。オイ足、しつかりせえ、わいがこんな目に遭うとるのやないかえ。お前、そこでぼやっと立ってるやつがあるかい。今の侍追いかけて行って、せめて、お前、ぱあんと一つぐらい蹴り上げるなと……あっそうか蹴り上げたれというたかて、俺がいなんだら見当がつかんなあ。こらしやあないなあ、ともかく、そこに、われ、立ってたら、俺も心細い。エ、お前も淋しいやろ、こっちへ来い、こっちへ来い」  けったいな話で、こっちへ来いと呼ばれた足がボチポチ歩き出しよったんで……。 「よっしゃ、よっしゃ、そこでええ、そこでええ、もう止まれ。よっしゃ、そこにいてえよ。ああ、えらい目に遭うたでえ、エエ、足があるねんけど家《うち》に帰ることが出来へん。どないしょう。案じることないわあ。ナ、誰なと、この時刻やったら、ひやかしに行って帰りよる道や、皆ここを通りよるねん。誰ぞ通りよったら連れて帰ってもろうたろ」  気楽な男があったもので、待ってますところへ、帰ってきましたのがこの男の友達、松島あたりへひやかしに行きよった帰りとみえまして、一杯入ったある。景気がよろしいなあ。こんなとこへ弥蔵《やぞう》〔ふところ手〕ちゅぅやつを決め込みまして鼻唄もんで……。 「♪抱いてえー寝てさえ、かあー、エエ口説が残る、か、ましてえや、格子の内と外、か、スチャラ、チャンチャンか、なだめこホイホイ、か、北国屋の庄やんでキタショ、か、笹屋の佐助どんでサッコラサノサ、か、いとろとはとにとほへとサッサ……」 「けったいな歌うとうとるで。しかし待ちや、声に聞き覚えがある……。ああ、声に覚えがあるはずや、又やんや、ちょうどええわ、又やんに連れて帰ってもろたろ、オイ、又、コラオイ、又やん」 「オッ誰や、誰や、今呼んだのはどいつや、オイ。誰もいよれへん、わい、えらそうに言うてるけど、根が怖がりやねんで。この頃、このあたりにたちの悪い豆狸《まめだ》が出るちゅうこと聞いてるのや。呼んだのは豆狸とは違うやろなあ」 「あいつ、わりに怖がりやなあ、もうちょっと、怖がらしたろ、オイ、又やん」 「いややで、オイ、誰や……。なんじゃい、お前かい、何をさらすねん、びっくりしたがな、しかしお前も変わってるなあ」 「何が変わってるねん」 「そやないかい、この夜が更けたあるのに、こんな淋しいとこでやで、何をしてるね。天水桶の上に行儀ようチンと座りやがって」 「わい何も座ってえへんで」 「座ってえへんて、お前、そこに座ってるやないかい」 「まあ座ってるか座ってへんか、いっべんわいの体ジイワリ持ち上げてみ。何でこないなってるかちゅうのが分かるさかい」 「変わったこと吐かすなあ、ほなら、お前の体を持ち上げたら分かるのかい。フーン、一体どないしたんや。あっ、足無い、足無いなあ、お前」 「足、お前の横手に立ってる」 「ア、ウアーッ、ほんにこんなとこに立ってよるがな。どないしてん。フーン、試し斬りに遭うた。しつかりせんかい、阿呆ンだら、ボウーとして歩いてるさかいやがな、ホイデどないするつもりや。エエ、いいや、気の毒なのはお前とこの嫁はんや。そやないかい、お前のためにずいぶん苦労してよるで。そやろ、お前は何もせんと、毎日ブラブラ遊んで、嫁はんに食わしてもろうてるのや。そやろ、嫁はん朝から晩まで、一生懸命手仕事して、ほいでお前を食わしてるのや。そやろ、それもやで、お前に惚れてりゃこそなあ……。そのうち、うちの人も気がついて真面目に働いてくれるやろ、という楽しみがありゃこそ、エ、今日が日まで苦労してきよったんや。その嫁はんのとこへやで、胴と足と別々になって帰ってみい、嫁はんなおさら苦労が増えるのや。まあな、悪いことは言えへん。せんど嫁はんが尽くしてくれたんや。ナこれをしおに心入れかえて、真面目に働かなあかんで。分かってるのかい、分かってるのかい」 「分かッ……分かってる」 「ホナ、こうしよう、負《お》うたろ。ナしっかり、しっかり持てよ。ええか、ナ、お前、大体、人間がボウー……おい下に何にもないなあ」 「下はかめへんわ。その空いてる手で、その足持って歩いてえな。いや、提げて歩かんでもええねん。ウン、そいつはお前が歩き出したら、同じようについて歩きよるさかい……。歩きよることは歩きよるねんけど、俺がいなんだら見当がつかんやろ。エエ、石にけつまずいたり、溝にはまりよったら可哀想やさかい、ウン、ちょっと手で介添えしたってんか」 「何かい、この足、手で介添えしたら、勝手に歩きよるの、ほんまかい、俺が歩き出したらついて歩きよる。ああそうか。アほんに、ああなるほど、お前の言うたとおりや。……さっきも言うたとおりなあ、お前も心入れかえるのやったら、エエ、そらお前、どっちみちお前とこの嫁はんのこっちゃ、帰ったらぼろくそに言うて怒られるやろ……。エッまかしとき、俺がちゃんと話しするさかいな、お前よけいな口出ししいなや、黙って座ってたらええさかい、ええ、分かったあるな……。オごちゃごちゃ言うてる間に帰って来たがな、表の戸が閉まったあるけど、嫁はん居てるねんなあ……。オイ、足ちょっと待ってえよ。……。今晩は、今晩は、おとわはん、今晩は」 「へえ、どなた。ア、又はんでっかいなあ、ちょっと待っておくれやす。いいえ、うちの人、今風呂行ってまんのん、へえ、まだ帰ってけえしまへんのん、いつも出たら帰ってけえしまへんねんわ、ちょっと待っておくれやっしゃ、今表あけまっさかい、近頃用心が悪いもんでっさかいなあ。閂《かんぬき》が入ってまんのん、ちょっと待っとくれやっしゃ……。おこし、今晩は、まあまあ、いややの、帰りが遅いと思うたら、またどこぞで飲んでなはってんな」 「今晩は、酒飲んどるのと違うねん、ウンウン……。今、そこへ降ろすさかいな、降ろしたら分かるさかい、さあ降りイ……」 「まあ、この慌て者、どこで足忘れて来たん」 「足忘れるやつがあるかいな。実は……」 「まあさよか。阿呆ンだら、ボウーとして歩いてるさかいやないか、いいえ、又はん、聞いておくなはれ、あんたも知ってはるとおり、この人まともの体でさえ何にもせんと、毎日遊んでまんねんし。それをわたいが一生懸命、手仕事して今日が日まで……」 「イヤイヤ、分かった、分かった。もうそこまで言いな。言わんかて、わい、ちゃあんと分かったあるねん。フン、それがためにな、さっき、こいつに、せんど言うてきかしたあるさかい、もう今晩のとこは何にも言わんと寝さしてやってんか」 「まあ、さよか。いつでもお世話になるちゅうたら、あんたにばっかり、お世話になって。えらいすんまへん。ア、そらそうと又はん、もうあってもなかっても同じですけど、斬られた足ちゅうのん、そこらにおまへなんだか」 「そやそや、コロッと忘れてたんや。いやいや、表までいっしょに帰って来たんや、足入ってこい」 「まあ、いややの。この足、勝手に歩きまんの、まあ、気味の悪いこと」 「何を言うてるねん、何が気味が悪いねん。お前とこの婿はんの足やないかい。…ナ、俺も悪いようにはせえへん、ウン、ちゃあんと働き口を段取りしてくるさかい、今晩はおとなしい寝えや」 「又やん、えらいすんまへんでした。まあ一つよろしゅうお願いしまっさ。ホナラ頼んまっさ」 「ホナ、俺明日、もういっぺん来るさかい、ほんなら、おとわはん、おやすみ。さいなら、ごめんやす」  とこのまま帰りましたが、あくる日、お昼ちょっと前に、 「おとわはん、今日は」 「まあ、又はん、咋夜はえらいすんまへんでした」 「いやいや、礼言うてもろたら損がいく。いやいや、もうそんな余計なこと言わんでええねん。俺うっかりしてたんや、いいええな、昨夜あないして、無事に届けたことは、届けたけど、コロッとお前、医者へ連れて行くのん忘れてたんや。何かいな、あれからどないもないか」 「わたい、さっきからもう、気味が悪うてよう奥い行きまへんのん」 「何が気味悪いねん」 「いいええな、うちの人が何や独り言うてるなと思うたらな、大きな声で歌うとうてまんねん。そうかと思うたらゲラゲラゲラゲラ笑うてまんねん。あんまり様子がおかしいさかいな、さっきちょっと覗いて見ましたん。いやらしいやおまへんか、うちの人が歌うたいまっしゃろ、あの足が踊りまんねん、もう気味が悪うて、よう奥へ行きまへんのん」 「そうか、何か、足の方もそないして元気でいてるのん。ちょっとあいつに話があるのや。ウン……。喜ィ公、お早うさん」 「あっ、又やんでっか。咋日は、えらいすんまへんでした」 「いやいや、今も聞いてよろこんでるねん。どないもないらしいな、ああ結構、結構、何やてなあ、お前が歌うとうたら足が踊るねんてなあ、へえ、そうか、そないして両方とも元気なら結構。いや実はな、お前に話があるねん。……実は今日、朝から行ってきたんや。お前が昨夜行った風呂屋、桜湯、お前も知ってるとおり、お爺んとお婆んと二人で商いしとるねん。いや、釜番の方は若い者がいてるわいな。ところが、番台を年寄り夫婦が交替でやってよるのやが、えらいそうや、あの番台ちゅう仕事は……。ほいでなあ、前々から頼まれてたんや、うん、若い人で信用のおける人があったら一人世話してくれちゅうてな、で、ふっと思いついてん。いやいや、昔ならとてもよう世話せんで、何ちゅうたかてお前、番台、銭を扱うねん、ナ、ところが、まあお前のこの体やったら大丈夫やろと思うてな……。風呂屋の番台どないや。あらええで、あの番台に座ってるだけや、お前にもってこいや、もちろん向こうに寝泊まりするねん、飯は向こうで食わしてくれるがな。給金が出たかて、お前はそんな体や、エエ小遣いいれへんやろ、煙草銭ぐらい取っといて、後はおとわはんに回してみい、あんなやり手や、何とかやりくりしてやて行きよるわ、どないや、エエ、風呂屋の番台になれへんか」 「又やん、ええとこ思いついてくれたなあ。風呂屋の番台、俺なあ、若い時からの夢があるのや、まあ死ぬまでには、いっべん風呂屋の番台やりたいと思うてたんや、はあ、ぜひ頼むわ」 「アそうか、行くのやったら、もうちゃあんと話が出来たあるねん。それからこの足や。今も聞けばそないして元気に踊ってるのやてなあ。寺町に俺の心安い寺があるねん。そこの和尚《おっ》さんに頼んでなあ、どこぞ空いたあるとこがあったら埋めてもろうたろと思うて来たんやけども、そないして元気にしとるやつ埋めてしまうちゅうのも可哀想やしなあ……。オイどうや、いっそのこと、足も奉公に出すか」 「ハアハア、まあ、うちに遊ばしといてもしゃあないさかい……。で、奉公に出すて、どこぞあるか」 「ちょうどええとこがあるがな。お前も知ってるやろ、上町の佐助はんとこ」 「ああ、麩《ふ》屋の佐助はん」 「そう、向こうになあ、麩を踏む職人が仰山いとるやろ。あれ足だけの仕事や、こいつにもってこいや。足を動かしてたらええのやさかい、エエ、いや、これもちゃんと給金もろうたるがな。ホナお前の方からと、こいつからと、両方からおとわはんに給金が入ってくるねん、女子一人、結構食うて行けるやろ」 「なるほど、こらええこと思いついてくれた。ぜひ頼むわ」 「ああ、そうか。ほんなら善は急げや、これから俺すぐに行ってくるさかい……ア、おとわはん、そこで聞いてくれてたか」 「さっきから聞いてましてんわ、何から何までえらいすんまへん、どうぞよろしゅうお願いします」 「よっしゃ、まかしとき」  世話好きな友達もあったもんで、早速、上町の麩屋へ行って話をしましたところ、ぜひ来てもろうてくれと、話がトントン拍子で進みまして、胴は胴で風呂屋の番台、足は足で麩屋へ職人に入りました。  二、三日して世話した又はんも気になるもんとみえて、風呂屋へやって来よった。 「おーい、一生懸命やってるか」 「アア、又はんかいな、おおきに、おおきに。ソーラようしてくれはるねん、ここのおやっさんも嫁はんも。もう至れり尽くせりや。ほいで第一なあ、ここに座ってたら気楽でええわ。おまけに絶えず女のお客さんが来るのが楽しみで」 「まだそんなこと言うてるわ、そんなこと言うてたらあかんで、一生懸命やりや」 「やるとも、やるとも」 「あのなあ、俺、これから上町へ行くねんけど用事ないか」 「あ、上町へ行くか、すまんねんけどなあ、足にちょっと言うてほしいことがあるねん」 「ああ、何ぞ言うのんか」 「この風呂屋てな商売、わい生まれてはじめてやろ。馴れんもんやさかい、のぼせて目がかすんでしようがないねん、すまんけどなあ、足とこへ行たら三里に灸《やいと》据えるようにちょっと言うてほしいねん」 「ああ、灸を据えるようになあ、よっしゃ、ホナラそない言うとくわ」 「今空いてるけど、一杯|温《ぬ》くもって行ったらどや」 「いやいや、また晩に返事に来るさかい、その時に入るわ。ほんなら行って来るわ、さいなら……あほらしなって来た、今までずいぶん言伝《とこづて》もきいたけど、胴から足に言伝なんて生まれてはじめてや。しかしえらい面白うなってきよったなあ……佐助はん、今日は」 「お、又はんでっかいな、おこしやす。オイコレ嬶、又はんが見えた、お座布団持っといで、どうぞ、どうぞ、どうぞ」 「どうです、奉公人」 「又はん、喜んでまんねん、ええ奉公人世話してくれなはった。よう働いてくれますわ。へえ、第一よそ見しまへんやろ、飯食いまへんやろ、あんなええ奉公人おまへんわ、又はん、あんなん、もう二、三人……」 「うだうだ言いなはれ、あんなもんがそないあってたまりますかいな。いやいや、そないして喜んでもろうたら、わたいも世話のし甲斐があるというもんだ。あのちょっと話がおまんねんけど、仕事してまっか。ヘエヘエ、一番奥の桶で、へえ。布が張ったある、何で……。近所からめずらしがって見にくるさかい……。へえ、エッ、本人が厭がってますか。さよか、分かりました.エエそこは、わたい、うまいこと……へえ、へえ、分かりました。なるほど、布の被さってあるこの桶やな、ホウ、ほんに一生懸命やってよるなあ」 「又はんでんなあ」 「そやがな、分かるか」 「ヘエ、もうお声聞いただけで分かりまんねん。何ぞご用事でっか」 「よう働いてるそうななあ、ここのおやっさんも喜んでたで」 「さよか、まあ一生懸命働かしてもらいまっさ」 「そらそうとなあ、風呂屋に奉公している胴から言伝きいてきたんや。ウン、のぼせて目がかすんでしようがないのや、ほいでお前に三里に据えてもろうてくれと、こない言うてよったで」 「ああ、さよか。三里に据えと言うてますか。へえ、よろしおま、暇な時に誰ぞに頼んで据えてもらいまっさ」 「そないしてやってんか」 「すんまへんが、また風呂屋に行きはりまっしゃろか」 「オオ、今晩、返事かたがた来るとは言うといてんけど、何や」 「ああ行きはんねやったら、すんまへんがね、ぜひわたいも言うてほしいことがおまんね」 「お前も言伝が……。どない言うねん」 「へえ、あんまり水や茶飲まんように言うてほしおまんねん」 「フーン、それは一体どんなわけや」 「へえ、小便が近うてしようがおまへん」 [#改ページ] 殿《との》集め  只今と昔とでは女性の趣味がころっと変わってしまいました。  昔はたいてい結婚なさいます場合には、お見合い。  お見合いがすみまして、縁談がまとまりますと、立派な仲人さんを立てまして、結納の取りかわしがありました後、結婚なさいますんですが、近頃はお見合いてなことあんまりやりはりません。どっちかいいますと、恋愛結婚。  もう見合いを抜いてしもうて、すぐに行動に移りはるのが多いんですが、昔はそうして見合いをしはりまして、じっくりと相手の顔を見る女子はんが少なかったんやそうで、どっちかいいますと、うつむいて見合いの間はほとんど相手の男性の顔は見ず、ただモジモジモジモジして、それで帰って来て 「あっしもた。顔見るの忘れた」  てなもんで、それでも親同士がちゃんとはなしを決めまして、なんや親同士が結婚するような感じがしますが、そんなんですから、昔の女子はといいましたら、いたってしとやかといいますか消極的といいますか、なかなか、積極的に自分から夫を決める人は少なかったそうでございますが、その時分のお話でございまして……。  さる大家のお嬢さん、歳《とし》が十八、そら評判の美人。そのお嬢さんが、清水の舞台から飛び下りるという評判がたちました。  只今と違いまして情報機関が発達してませんが、口コミで、 「今度、別嬪《べっぴん》が清水の舞台から飛びよるねんで」  この噂が京洛中伝わりまして、その日になりますと、清水の舞台の下は、いっぱいの人だかり。  それぞれ好きなこと言うてよる。 「あんた、もし、あんた、もし」 「へえ、わたいでっか」 「イエイエ、あんたやなかってもよろしいねんけど、こないぎょうさん居てはるもんやさかい、名前がわからんもんでっさかいね、ほいで大きな声で呼んだんだ。あんた返事しとくなはったなあ、ちょっと訊ねますが、ほんまですか」 「なんです」 「今日、舞台から飛び下りはるちゅうのは、娘はんでっか」 「そうでんねん、十八の娘はんでんねん」 「ほんまでっか、ほんまに十八の娘はんが清水の舞台から飛びはるの、へえー、別嬪でっか、別嬪でっか」 「そら別嬪さんですわ」 「さよか、そら楽しみでんなあ。しかし、間違いはおまへんやろなあ」 「さあ、それは私もわかりまへんわ」 「わかりまへんて、あんた今はっきり言いはりましたがな。歳《とし》が十八の別嬪が、あの清水の舞台から飛び下りるちゅうて。今あんた言いはりましたやろ。そらやっぱり、責任もって飛ばさないかんわ」 「そんな無茶言いなはんな。娘はんが果たして飛びはるか、飛びはれへんかわかりまへん。わたいもねえ、人に聞いてこないして来たんだす。そやさかいどっちやわかりまへん」 「そんな殺生なこと言いなはんないな。私、飛ぶと思うて今日は仕事休んで来たんだす。飛べへんのやったら私は仕事に行きまんがな」 「ホナ仕事に行きはったらどうですねん」 「サアサ、それでんねん。ようあるやつだ、そうでっしゃろ、もうちょっと辛抱して待ってたら飛びはったのに、あんた帰りはったすぐ後で飛びはりましたでえ、それを後で聞いてみなはれな、こんな口惜しいことおまへんで」 「ホナ仕事休みはったらどうです」 「そらあんたは簡単に言いなはるわいな、けどねえ、仕事休むとどうしても銭使いまんね。たとえばでっせ、普段酒三合飲むとこ今日は休みやさかい五合飲もと、ネ、ホデ仕事をすれば、今日は儲けが少なかったさかい三合飲むとこ二合にするとか、いろいろ考えまんがな。そやさかい飛ぶねやったら飛ぶと、はっきり言うとくれやす」 「それは私よう請け合いかねますなあ」 「請け合いかねますなあて、あんたそこまで言うて、今更責任のがれしたらあきまへんで。どっちでんねん。オイ」 「怒ったかてわかりまへんがな。まあこれだけ人が集まってるねんさかい、噂だけやおまへんやろ、飛びはりま」 「ほんまに……。今日仕事休みま。こうなったらいつ飛びはるかわからんけど、飛びはるまで待ちますわ。ところでなんで飛びはるんです」 「なんです」 「なんであんな高い所から飛びはるんだす」 「それはわかりまへん」 「わかりまへんて、あんた、ようそんな無責任なこと言いなはるなあ」 「そらわかりまへんて」 「わからんのやったらわからんなりに、想像ちゅうもんがおますやろ、あんたどない思うてなはるねん」 「どない思うてなはるねんて、わたいは唯、娘はんが飛ぶちゅうことを聞いたもんやさかい、こないして来てるんだす。そうでんなあ、想像で言うたら……わかりました、親のためです」 「親のために……。どういうわけ。親がどないぞしたんでっか」 「もちろん病気でんが」 「えっ、親が病気、なるほどあんたなかなか詳しいなあ、ホデ病気ちゅうのはやっぱし歳いかはって中風か痔でっか」 「ちょっとあんた考えてもの言いなはれ、ここは清水の観音さんでっせ。病気ちゅうたらたいていわかりますやろ、眼病だ」 「アなるほど、清水の観音さんやさかい眼病。これは理屈が合うてますわ。ホデ目が悪いのやったら、はやり目でっか、のぼせ目でっか」 「阿呆なこと言いなはんな、そんなんやったらすぐに癒りまっせ。そんな病気で娘はんが一命落としたりしますかいな」 「アさよか。ホナ一体なんです」 「まあそうでんなあ、眼病で一番癒りにくい病気ちゅうたら白内障でっか」 「ええこと言いなはった、白内障、これに決めまひょ」 「あんたそんなこと勝手に決めたらいかんわ、まあ、わたいの思うのには、白内障やろと思うんです」 「アさよか、なるほどねえ、で、白内障やさかいに、なんで娘はんが飛びはるんだす」 「いいええな、観音さんへ、お父っつあんの眼病癒すためにずーっと祈願しはって、今日が満願の日やさかいに、清水の舞台から飛び下りて、命を捨てるちゅうんだ」 「わからん」 「なんで」 「なんでてそうでんがな、たとえ親にしろ老い先は短いのだす、そんなもの目が悪いくらいで、これから末長う生きはる、しかも別嬪さんの娘はんがなんで死なないきまへんのや」 「なんで死なないきまへんのやて、私の想像では、まあ、ここの家は、お父っつあんとそのお嬢さんと弟と三人暮らし、ところがお父っつあんが目が悪い。そいで弟というてもまだ歳がいかんさかい、跡を継ぐというわけにいきまへん、ご本人は、よそへ嫁《かたづ》きはるんですけど、それでは店が潰れまっしゃろ、そこで店をば潰さんために、まあ弟のためを思うて命賭けはるわけだ」 「なるほど、親孝行でんなあ」 「そうでんがな。これだけ親孝行の娘はんはおまへんでえ」 「モシモシ、何を感心して聞いてはりまんねん、違いま、違いま」 「何が違うねん」 「何が違うて、あんた、眼病や言うてはりまっしゃろ。違いま、横根《よこね》だ」 「なんです」 「横根……」 「なんでっかいな、今日飛びはるのは横根だすかいな、娘はんが」 「そう娘はんかて横根になりまんがな」 「さよか、いや私も横根を一ペんやったことがおますねん。そら、えらい膿《う》んできて腫れるんだ、膿《うみ》が溜まってねえ、痛うて辛抱が出来まへんねん。歩くこともでけしまへんねん、そいでもうしゃあないさかいに医者へ行って、切ってもろた時の痛かったこと、痛かったこと。そいで横根やったらなんであんな高い所から飛びはるんだす」 「あんた、知らんさかいそんなこと言うてるんだす。横根ちゅうのは、あんたの言いはるとおり医者に切ってもろても、自分で切っても、なかなか痛いものだす、ところがねえ、高い所から飛んだら痛さ知らずに膿がみな出るんだ」 「アハハ、さよか、ホナ、今日は娘はんの横根切りはるのん見物出来るわけでっか、こら仕事休んでよろしおました。こら楽しみですわ」 「コリャ町人、静かにいたせ、静かにいたせ」 「お侍さん、なんでおます」 「もう娘御は飛ばれたか」 「いえ、まだでおます」 「まだか、まだか、これで身共、安堵つかまつった、身共が来たからには、絶対に命を落とさすようなことはせん。安心いたせ」 「あんさん、何しに来はったんでっか」 「もちろん娘の命を助けるために参った」 「さよか。やっぱり、お父っつあんが白内障《そこひ》で、弟はんがまだ歳がいかんさかい、まだ嫁入りせんのを幸いに、それで飛びはるんでっか」 「誰がそのようなことを申した」 「へえ、この人が言いはったんでんねん、白内障やと、この人が決めはったんだ」 「嘘吐きなはれ、あんたが白内障に決めなはったんや、私なんにも言うてえしまへんが」 「まあまあよろしいが、ホナなんでっか、白内障やおまへんのか」 「そうではない」 「ほなこの人の言いはった横根でっか」 「横根でもない」 「ホナ一体、娘はんなんで死にはるんだす」 「恋|患《わずら》い」 「ヘッ」 「恋患い」 「恋患い……なるほど、ようあるやつだ、大家のお嬢さんが、粋な大工かなんかに惚れはったんでっか」 「大工ではない、浪人者じゃ」 「浪人者てあんさんみたいな」 「そうじゃ」 「ヘーえ、よっほど詳しおまんなあ、そうはっきりわかってまんのんか」 「そうじゃ。女という者はな、一たん思い込むと他の男のことは絶対に思わんのじゃ、昔から、貞婦、両夫にまみえずと言うてな」 「えらいもんでんなあ、こら素人ではやれん芸でっせ」 「なにが芸じゃ」 「いえ、両手で逆立ちして屏風こしらえはるんでっしゃろ」 「なにたわけたことを申しておる。貞婦両夫にまみえず」 「そら何のことでんねん」 「わからぬ奴じゃのう。たとえ夫が先立っても、けっして他の男とはまみえんという、これが女の道や」 「さよか、すると家の嬶とえらい違いですわ。家の嬶ねえ、甚兵衛はんの世話でもろうたん。今年で五年になるの、たしか来た時、二十四でした。ホデ私聞いたん。こないして夫婦《めおと》になるのは初めてかというたら、何言うてるの、この歳で初めてのわけないやろ、とこない言いますさかい、二人目かというたらなかなか。三人目か、とてもとても。ホナ何人や。あんたでちょうど十人目……。家の嬶はまみえ過ぎでんねんなあ」 「何を申す。そのような女子と女子が違う。なかなか立派なものじゃ」 「ホデなんでっか、あんたが来て安心せえと言うてはったけど、どないしはるんだ」 「身共の顔を見れば、死ぬ気を起こさん」 「……えらいすんまへん、今のところをもう一ぺんはっきり言うてもらえまへんか」 「身共と会えば死ぬ必要はないと申すのじゃ」 「なんで」 「わからん奴じゃのう、先ほど申した恋患いの相手は身共じゃ」 「その顔で……ほんまでっかいな……すると娘はんの家は、骨董屋でっか」 「何故じゃ」 「骨董屋かなんぞやなかったら、そんなおもろい顔……」 「おもろい顔とは、なんということを申す。身共に惚れた」 「さよか、それやったらこんなとこにいてんと、上に上がって止めた方が早いのんと違いますか」 「いったんは、むこうから飛び下りさせ、身共がここで大手をひろげて、抱き止める。抱き止めた時に娘は、すでに気を失うておる。さっそく腰に提げたる印籠《いんろう》より……」 「お侍、あんた腰に印籠も何もおまへんがな」 「あればじゃ」 「あればでっかいな」 「そうじゃ。すぐに薬を与える、気がついて身共の顔を見るなり、ああ、うれしい、キャ……と申して抱きつくのじゃ、これで縁談がまとまるのじゃ」 「なんで」 「思い焦がれた男と、観音さんのおかげでめぐり会えるのじゃ、だからことはうまく納まるのじゃ」 「さよか、たいしたもんでんなあ。けどなんでっか、気がついてすぐにあんたの顔を見まっか」 「もちろん身共の顔を見る」 「見ん方がええと思いまんなあ、せっかく気がついてんのに、あんたの顔見たら、またすぐに気イ失いまっせ、そら顔見せん方が……」 「馬鹿なことを申すな、証拠は今に見せるから」  言うてますうちに、女中さんを三、四人連れて、綺麗な綺麗な娘さん、現今の女優さんで言いますと、松坂慶子と岩下志麻、二人チャンポンにしたような顔。  まず清水さんへご参詣あそばして、参拝をすました後、清水の舞台へ出ておいでになった。  さあ下では大騒ぎ、 「イヨーッ、待ってました。頼んまっせえ、白内障でっか、それとも横根でっか、恋患いでっか] 「静かにいたせ、静かにいたせ。退《の》け、身共がみごとに抱き止めてみせるから……さあ、いつなりと、飛びなされ」  娘はん、ずーっと見わたして、何思いはったか、そのまま、お帰りになった。 「モシ、モシ、モシ、飛べしまへんがな、どないなったんだ」 「たしか飛ぶはずじゃがなあ」 「飛ぶはずて、いにましたがな」 「フム、どうも子細がわからぬ、跡をつけよう」  世話好きな連中があったもんで、十人ほどがうしろからついて行きますと、お嬢さん、お供の女中さんを呼びまして、 「すみや、すみや」 「ハイ」 「のう、たくさん殿御は集まったが、よい殿御はないもんじゃなあ」 [#改ページ] |苫ヶ島《とまがしま》  世はまじない、加持祈祷《かじきとう》などと申しますが、昔は、ずいぶんと、まじないなどをやかましゅう申しまして、しびれが切れると、額へ畳の藺《いい》を細こう切って張りつけるとか、目ばちこができると、井戸へ笊《いかき》をのぞかせるとか、そら手が起きると未の子に小指をくくってもらうとか、鼻血が出たら首筋の毛を三本ぬくとか……いろいろとまじないがございました。  さて、これは紀州のご先祖、紀伊大納言|源頼宣《みなもとのよりのぶ》公。御三家のうちでも、ばりばりの、羽振りの利いたおかたでございます。  このおかたが、江戸表から、ご領地へご入国というので、東海道五十三次を、しだいしだいにお上りになりましたが、どんな大名でも、大津から蹴上までお出ましになって、京都へははいらずに、蹴上から竹田街道を伏見までお出ましになります。  その日は枚方《ひらかた》泊まり。  翌日は、枚方から泉州岸和田、岡部美濃守さまのご領内でご一泊。  あけて翌日は、お国へご入城、と、こういう順序になってございます。  さあ、お殿さまのご帰国というので、本町筋は町役人が出まして、粗相《そそう》があってはならんというので、みなそれぞれの警護が出ばっております。  お町人衆のお宅では金屏風、あるいは幕をはりまして、柄《え》長の杓《しゃく》には柄長の手桶、盛り砂などがしてございます。  ほどなくご通行ということになりますと、両側には拝観者が筵《むしろ》をしいて坐っておりますし、辻々には縄をひきまして、前へ出んように、番人がついております。  町役、お年寄りは紋付羽織袴で、 「はい、どなたもお殿さまに粗相のないようになされや」 「へえ、旦那さん。ごくろうさんでおます」 「はい、粗相のないようになされや」 「オイ、痛い、痛い。押したら痛い、というのに。むちゃをすない。背中に灸《やいと》がすえてあるのに、押したらつぶれるがな」 「知らんよってに押したんや」 「知らんよってに痛いというたんやないか」 「痛いというてから、押してえへんがな」 「いうまでに押したさかい、痛いというたんや」 「そのときは、灸のあることを知らん」 「知らんよってに、痛いというたんや」 「聞いてからは、押せへんがな。着物のなかにある灸が、外から見えるかい。そないにいうのやったら、この下に灸点御座侯、と書いてはっとけ」  喧嘩ができてます。  また、うしろのほうに立ってる人は、背が低うて見えんものですさかい、背伸びをして、それでも、まだ見えんので、顔を長うして、口をあいてます。  なかに気の利いたものは、 「へい、ごめん、ごめん」 「前へ出られへんで」 「ちょっととおして」 「あかん、というのに」 「おいおい、縄より出たらいかん」 「へい、お殿さまを拝みに来たのやおまへん」 「そんなら、どこへ行くのや」 「嬶《かかあ》が子どもを生みますので、取り上げ婆さんを呼びに行きます」 「ああ、そうか。とおれ、とおれ」 「おい、あいつ、うまいこというて出よったな」 「そら人間二人、生死の境や。お医者へ行くとか、取り上げ婆さんを呼びに行くとかいうのなら、とおしてくれるわいな」 「けども、あいつ、いま、嬶といいよったけど、あいつやもめやで。……あ、ちょっと見てみ、あんなところへ坐ってよる。うまいことしよったな。よし、わいも行ってやろ」 「お前はあかん」 「いや、大丈夫。へい、ごめん。へい、ごめん」 「コレ、どこへ行くのじゃ」 「アッハハハ……。取り上げ婆さんのとこへ行きます」 「だれが子どもを生むのじゃ」 「へえ、妹が」 「何歳じゃ」 「七つで」 「阿呆。七つで子を生むか」 「ちがう、ちがう。お母《か》んが生みます」 「母は何歳じゃ」 「六十三で」 「六十三で子どもを生むか」 「こらあかんわ」 「それみいな。あけへん、というてるのに」  群衆がわいわいというておりますと、ほどなくご通行……。八咫烏《やたがらす》と申しまして、ほろを着たものが四人ずつ、二組で八人。  足音をバタバタバタ……。  これは、なんで足音をさせるか、といいますと、もうご通行になるから静かにせよ、という、さきぶれでございます。  あとへつづきますのが、お先払い。  十人十人、二十人ずつ、下にィ、下にィと、おとおりになります。  この先払いの風態は、浮世|柄《づか》の大小、鞘小紋《さやこもん》の脚絆・甲掛、一文字笠、これがさきを払うてまいります。  そのあとへ、執行持と申しまして、お弓の飾ったのが二十梃、そのあとには、先箱、そのあとから、お簑《さい》箱、具足|櫃《ひつ》、飾り馬、お太刀箪笥、お具足櫃の執平返し、これが金紋先箱、それからお手道具、大鳥毛、小鳥毛。  紀州家におきまして、お家に伝えきたります大鳥毛は、紀伊家の名物というお天目槍で、これが三間以上もございます。  この大鳥毛を振りますのが、お手許|奴《やっこ》のミソでございまして、自慢のひとつ。  大勢の奴に、これを見ておけ、といわんばっかりに振っておりますが、この奴の掛け声が、これまた、なかなかむずかしい。  昔、家康公が江戸城へご入城のおり、表門からおはいりにならず、どういうものか赤坂御門からおはいりになったそうで、それで、この行列の奴を赤坂奴ととなえます。  その奴が、 「ひ……さあ……ひ……よ……い……い……しあ……あ……あ……なあ……」  天赦日《てんしゃにち》〔吉日〕を祝いまして、 「よい日じゃなあ」  と声を掛けますのやが、声をはり上げますので、それは聞こえまへん。 「あ……あ……よ……い………ひ……や……な……あ」  さて、そのあとへ、お乗駕籠がまいります。  そのあとから、こ家老の御供行列、そのお道具がつづく、という順序になっておりますが、この行列のころになりますと、いかにわいわいいうておりましても、にわかに静かになりまして、大道に水をまいたよに、しーんといたします。  いま生まれる赤子でも、一時は見合わすというくらいで……。ようようご機嫌うるわしく、めでたくご入国となりました。  さて、紀伊大納言頼宣公、ご城内にお着きになりましたが、下々とちがいまして、風呂へはいって、一杯飲んで、二、三日寝る、というようなわけにはまいりまへん。  さっそく、家中のものが総登城というので、お目どおりをいたします。  正面のお唐紙が開きますときには、警蹕《けいひつ》の声と申しましてシーッと声が掛かります。(囃子・上の舞)  ご着座になりますと、 「ハハッ。わが君にはご機嫌うるわしきご尊顔を拝し奉り、万々、おめでとう存じ奉ります」 「三浦内蔵之助をはじめ、そのほか、家中一同のもの、出仕大儀。きょう、そのほうらにたずねる仔細あり。心得あるものは、逐一《ちくいち》、返答におよべ」 「ハハッ」 「予が領内に、苫ヶ島と申すところありと聞きおよぶが、いまだ、予はその島を心得ず。苫ヶ島といえるところは、いずれにあるか。つまびらかに語れ」 「ハッ、その儀は、ご城下西南に当たって、西は阿波の海につづき、東は加太《かだ》の岬、およそ東西二里、南北一里半もあるといえる島。昔より人畜寄るところにあらず、禽獣諸鳥の棲所《すみか》と相なりおりまする」 「なにゆえ、その島を苫ヶ島と名づけしぞや」 「その儀、建久四年五月二十八日、頼朝公の御世に当たって、岡部の左門、弥太の六郎、右両人のもの、弓争いありて、岡部左門は弓の道にすぐれたとあって、しばしば高名をあらわし、左門思うに、われ、このままに過ごせば慢心出でこの身を害せんとあって、みずから黒髪を剃り落とし、出家となって、諸国を行脚に出で、南海に船を浮かべ、そのとき、風雨はげしゅうして一つの島に着く。岩上に眠りおるところ、ふしぎなるかな、観世音一体あらわれたもうて、汝をこのところに待つこと久し、われを安置し奉らば、その身をまっとうすること、ゆめゆめうたがうべからず。左門、夢さめて見れば、あらふしぎなるかな、わが前に観世音一体あらわれあり、あらありがたやと、わが乗りし船の苫《とま》〔スゲやカヤで作ったおおい〕をもって、尊堂をきずき、安置し奉りしとござります。それゆえ、そこを苫ヶ島と、聞き伝えたるままを言上申しあげます」 「なるほど。はじめて聞いた苫ヶ島の由来。予はよろこばしく存ずるぞ」 「ハハッ」 「予は、近く、苫ヶ島において、狩りをもよおしいたすぞ」 「ハハッ。おそれながら、その儀は、おとどまりくださるべし」 「なにゆえ、止めるや」 「ハハッ。昔、真田安房守、当時城主たるときに、あの島の木材を切って用材に当てんとあって、杣《そま》、十九人を入れましたる節、神罰仏罰とあって、十九人の杣、一人のこらず死したり、とござります。その後、一人もあの島へはいること、かたく禁ずるところにござります」 「だまれ」 「ハハッ」 「異《い》なることを申すものかな。神社仏閣破却いたせば、神罰仏罰はあるべきはず。そこに住居する鳥類獣類を射獲《いと》るに、なんの罰やあろう。一刻もはやく、用意をいたせ」  そのまま、すっとお立ちになって、奥へおはいりになりました。活発な殿の仰せでこざいますので、ぜひなく仰せにしたがいまして、狩り鞍の当日をきめます。  さて、いよいよ当日になりますと、城下から加太岬まで三里のあいだを、お行列で、殿がおいでになります。  加太の浜には、地黒丸という立派な御座船が着いておりますが、これは、昔、加藤清正が秀吉公より拝領しましたものを、故あって、頼宣公がおゆずりうけになったという、由緒のある船でございます。その御座船には、紫|縮緬《ちりめん》に、丸に三葉葵の定紋のついた幕がはってございまして、そこへ、殿さまはじめ、一同が乗りこみました。  時刻がまいりますと、水師頭《かこがしら》が船先へ出まして、門出《かどで》の唄を、うたえうたえ、と声がかかりますと、船人が声をそろえて、永き世の、とおの眠りのみな目覚め、波乗船の音のよきかな、とうたいまして、エ……ア……エ……ア……、とはやします。  このはやし声の仕切りに、太鼓が、テンカトッタ、ドロン……。テンカトッタ、ドロン……。このお太鼓は、ふつうの大名はお差しとめで、御三家、紀州、尾州、水戸家だけが打つことをゆるされていたんやそうでございます。  この太鼓の音にのりまして、船は波を切って、ちょうちょうちょう……と進んでまいります。  お船のなかでは、そのころの能役者、猿若衆というような人が、ヤアヤアヤハア……と小鼓・大鼓をとりまして、ボンボン……。それに横笛の音もまじりまして、なんともいえんええ気持……、難なく船は苫ヶ島へ到着いたします。  島には、先陣、二陣、三陣、四陣、五陣、ご本陣とございまして、殿さまはこ本陣におはいりになります。  時がいたりますと、拍子木を持ちまして、お狩りの刻限、お狩りの用意、と打ってまわります。  すると、お太鼓が、ドーン……と鳴りますと、五十人の勢子が割り竹をもちまして、狩り場狩り場を狩り出せい、アリャアリャアリャ……(鳴り物・打ち込み)。  ご家来衆は馬であちこちと、かけまわります。 「やあ、そこへおこしになるは、山坂転太氏ではござらんか」 「これはこれは、犬糞踏太兵衛殿、ご貴殿はなにか射獲りめされたか」 「某《それがし》は熊を一匹、射獲りました」 「それはお手柄。一度、お見せくだされ」 「これでござる」 「これは兎ではござらんか」 「さよう、毛色が熊に似てござる」  アアリャ、アアリャと狩り出しましたが、その日にかぎって、獲物が一匹も出ません。 「予が狩り鞍をもよおすに獲物一匹出でざるは、予が武勇薄きに似たり。鉄砲上げ。引き金上げよ」  殿さん、おこってなはる。 「引き揚げーい」  と、ご立腹の折柄、突然、乾《いぬい》のほうより、針でついたような黒雲が出たかと思うと、空一面、墨を流したごとく、まっ暗になった、と思ううち、雹《ひょう》かと思うような大雨が降りだしました。  そのうちに、ピカリ、と光りますと、震動雷鳴、ものすごい暴風雨。 「予が狩り鞍をもよおすに、雷雨とはなにごとぞ。天の妖気を沈むるは、地の陽気をもって防がん、とする。天に向かって発砲におよべ」  えらいことをいいますな。  天にむかって発砲せよ……。  これがほんまの、てんでっぽう……、なんのことやわかりまへんけど。  五十梃ばかりの鉄砲を、火蓋を切って射ち上げます。  殿さまのご威光というものはえらいものですな。  いままでの暴風雨がピタリと静まりまして、また、もとのように青雲が出てまいりました。またぞろ、アアリャ、アアリャと、狩り出しになりましたが、蝦蟇《がま》ヶ淵というところにかかりますと、二丁ばかりの芦原が、震動してひろがったかと思うと、妖気をはらんだ煙が、もうもうと立ち上がる。  なにごとならん、と見ておりますと、二かかえもあろうという大蛇、目は爛々として鏡のごとく、口は朱盆を二つ照らしたように、真紅の舌を出して、ただひと呑み、と殿さまめがけて、鎌首を立てて進んでくる。 「だれかある。一家中のもの、あれなる大蛇を射ってとれ」 「モシ、だれぞ、あの大蛇を射獲る人はおまへんか」 「拙者は幼少のころより、長虫はきらいでござる。まことあの大蛇を射獲れとなら、殿に禄《ろく》を返納いたし、町はずれにて芋屋でもいたすでござる。して、当今、芋は貫目いかほどのものでござろう」  だれ一人、近よるものがない。  そのあいだにも、大蛇がぐんぐん近よってきますので、殿のお馬は、その毒気に当てられて、タジタジと、あとじさりをする。  さあ、こうなると、気の強い殿さん。  みずから陣笠をパッとぬぎすてると、大蛇をグーッとにらみつけようという……。  大蛇のほうでも、なにくそと、これまたグーッ……。  殿さまと大蛇のにらみ合い。  ところが、国が大きいということはえらいもので、末座に控えておりました牧野弥兵衛。  この人は、のちに、このときの手柄によりまして、牧野兵庫守という守名《かみな》をいただきましたのやが、この人が、紀伊家に伝わる、静の一振りと申します、身と穂が四尺、柄が四尺、都合、八尺という薙刀を、おあずかり申しておりました。  ……すわ、殿の一大事と見るより、その薙刀をりゅうりゅうと打ち振り打ち振り(鳴り物・早舞)  殿のご前に立ちふさがると、そのまま、ずずずーっ、大蛇に近づくと見るより、大蛇の口もとへ、その薙刀を縦閂《たてかんぬき》にあてごうた。  これには大蛇も弱りましてな。  なんぼ、大蛇のロが大きいても、天地八尺の口は開けまへん。  ……さあ、こうしといたら、もう大丈夫、弥兵衛はん、急にいばりだしよった。  家中のもの、多しといえども、拙者ほどの手柄を立てたものはあるまい、という顔をして、 「いかに、邪性のもの。汝、性根があれば、いま、牧野弥兵衛が申すこと、耳かっぽじって……」  ……大蛇に耳がおましたかいな……、 「よっくうけたまわれ。もったいなくも、これにわたらせ給うは、清和源氏の御大将、八幡太郎義家公の末孫にて、東照宮家康公が身内において、紀伊国《きいのくに》は名草郡《なぐさごおり》、虎伏山《とらぶせやま》竹垣、和歌山のご城主、その禄高五十五万五千石、紀伊大納言頼宣公なるぞ。普天《ふてん》のもと、卒土《そつと》の浜、王土ならざることなければ、その国の上にしたがうべきはず。それになんぞや。草びら食《は》みて、生きながらえたる蛇性の類属にありながら、きょう、わが君のご酒興をさまたぐるや。しりぞかずんば、いま、この牧野弥兵衛が静流の薙刀の斬れ味を試してくれん。汝、みごと、受けられるなら、受けてみよ、ええ」(鳴り物・一声)  弥兵衛はんと大蛇、組んずまろびつ、戦いましたが、なにしろ、相手は大きな蛇。  ヘビー級のやつですさかい、まともにやってたんでは、こっちの体がもたん。  弥兵衛、気転を利かせまして、大蛇が、ごうーと延びてくるのを、体をかわして、やりすごす。  あれっ、と大蛇がふりむくところを、手をのばして、薙刀をはずすと、それを逆にとって、石突でゴツン……。  大蛇の鼻柱をたたいた。  みるみる、大蛇の鼻から、ドクドクドク……、鼻血が流れた、と申しますのやけど、あれやっぱり、鼻血といいますのやろか……。蛇は目がくらんで、これはかなわん、と逃げようとする。  すかさず弥兵衛、懐剣を口にくわえると、富士の牧狩り、仁田四郎もかくやとばかり、大蛇の首筋を、ひっつかむ。  蛇は、つかまれてはかなわんものですさかい、逃げようとする……、バリバリバリ。  大蛇の首筋の鱗が三枚、ぬけました。  まじないというのは、ふしぎなもので、大蛇の鼻血が、ピタリととまった。 [#改ページ] 西の旅(一) 播州《ばんしゅう》巡り  エエ相変わりませず宵の内は旅のお笑いを一席申し上げます。  旅もいろいろござりますが、ご陽気で具合がよろしいというのは東の旅お伊勢詣りやそうです。  お伊勢様は結構な神様で、詣りますのに酒は飲んでもかまわんし、散財しても女郎買いをしてもかまわんといいます。  昔は親方の金を持ち出してお伊勢詣りをし、お祓いさんを受けて来たら帰参がかのうたと申します。  同じことでも西へ参りますと物が陰気になります。  四国のお大師さん、あまり芸者を連れて詣っている人はおまへん。  たいてい杖をついたりした人が多いのでどうしても陰気になります。  これは大阪の二人連れの男、西は讃岐の国は象頭山金比羅大権現から弥谷寺、善通寺屏風ケ浦、八栗、屋島、壇の浦から中国へ渡り、備前では吉備津さん、西大寺、播州路へ入りますとここはまた松の名所、高砂の松、尾上の松、石の宝殿、別府手枕の松、播磨では西国三十三所二十六番の札所、法華寺の御詠歌が 「ありまふじ ふもとのきりはうみにゝて なみかときけば おののまつかぜ」、  二十七番の札所が書写、ここの御詠歌が 「はるばると のぼればしよしやのやまおろし まつのひびきも みのりなるらん」、  二十五番の札所が清水寺 「あはれみや あまねきかどのしなじなに なにをかなみの ここにきよみず」  の各札所へも参詣いたしまして、尾上の鐘には曽根の天神も参詣いたしまして、名所をかんぶつやない見物いたしまして取って参りましたのが明石でござります。 「サア、早う歩き。早いもんで、もうチャンと播州の明石や」 「ウハハハハハ」 「コレ、お前何を笑うてんねん」 「今お前、播州がおかしいというたさかい笑うたんや」 「違うがな、おかしいやない、明石というたんや」 「アアそうか、あかしな所やなア」 「ここが播州の王子川や」 「そんなら叔母川はどこにあるのんや」 「叔父川やない王子川という。応神天皇さんの時代に掘ったという。またこの上に王子村という所があるので王子川という、一名|衣洗川《ころもあらいがわ》ともいうねん」 「それがほんまや。向こうに子供が笑うているさかい子供笑い川か……」 「そうやない。弘法大師が修行の砌《みぎり》、衣を洗いなはったので衣洗川というねん……ここが本町や。それ向こうに見えるのが明石のお城や」 「前へ回ったらよほど立派な物やろなア」 「コレお前のいうてるのは前後《まえうしろ》のことや。私のいうのは御城、お城というているのや」 「アア、しようもない小さい城やなア、大阪の城から見たらチャリみたいな」 「コレ、そんなこといいないなア。この土地の人が聞いたら怒るで。やっぱり郷に入っては郷に従い所に入っては所に従え、賞めとき」 「そんなら賞めとこ。立派な城やなア」 「立派な城やろがな」 「よい城やなアこの城は。この城はええ」 「何や魚屋みたいにいうてる。ええ城やろがナ」 「フム、鉢山へ乗せたら」 「これそんな悪口をいいないなア。これからお前を人丸さんへ連れて行ったげるわ」 「人丸さんて何や」 「神さんやないか」 「何に効く神様や」 「コレ、神様が何に効く彼に効くということがあるか」 「そやけど天満の天神さんへ行ったら悪事災難を逃れますようにと頼むが、同じ天神さんでも服部の天神さんは脚気によい、広田はんは痔によい、石切さんはでんぼ一切引き受けて、柳谷の観音さんは眼の方で、四国のお大師さんはひえ一切治してくれはるやないか、人丸さんは」 「何やお医者はんみたいにいうてる、人丸さんは歌神さんや。皆ここへ歌袋を請けに来たのや」 「風呂へ持って行くのやなア……」 「何がやねん」 「糠袋を請けに来ると」 「糠袋やない歌袋や。このお方を日本で和歌三神というのや」 「お前を入れたら四人になるなア……」 「何がや」 「馬鹿三人やて」 「馬鹿やない、和歌三神とは日本一の歌人《かじん》やったんや」 「よほど焼けたと見えるなア」 「何でや」 「日本一の火事やったと」 「火事やない、歌人とは歌人《うたびと》や」 「かき回したら臭い」 「それは糠《ぬか》味噌や。歌の名人やったのや。あるとき御歌所から難題が下ったんや」 「江戸ッ子やなア、なんだいべらぼう」 「そうやない難題とは無理な題。石の袴《はかま》という題や」 「石の袴。私は仙台平の袴というのは聞いたが石の袴というようなん聞いたことがない」 「それが難題や。早速返歌なさった」 「そらそうや。早速喧嘩したか」 「喧嘩やない返歌を作り返した、その歌が『勅《ちょく》なれば石の袴も縫ひはせめ真砂を糸に縒《よ》りて給はれ』と書いてやったら、人丸あっぱれとお賞めの言葉が下った。もう一度下ったのが、焚かぬ火の灰という題や」 「焚かぬ火の灰て何や」 「物を焚くと灰が出来る、焚かぬ火の灰。これにはいかな人丸さんも困りなはった。一週間の猶予をもらいなはったが、どうしても句にならなんだ」 「あいつは人がずぼらやさかい苦にしよらんのやな」 「そうやない。句にならんとは歌にならんということや。これしきの歌が出来ぬとは私も世の末であると、明石の浦へ入水《じゅすい》に行きなはった」 「明石の浦へ雑炊を吸いに行たのか」 「雑炊やない入水や」 「入水て何や」 「水に入《いる》と書いて入水という」 「そうや。湯に入と書いて行水という」 「そんなことをいうもんか。人丸さんが今や海へはまろうとすると後から、これそなたは何者じゃ、して何故あって入水いたすと抱き止めたお方がある。私は明石の人丸という者、かくかくかようの歌が出来ませぬので死にます、というたらその人が、人丸とは名人と聞きしに未だ歌道《かどう》に暗いなアとおっしゃったんや」 「その時は暗《やみ》やったんで、門外《かど》が暗かったんか」 「違う、歌道とは歌の道や」 「そうや人道とは人の道や」 「歌のわきまえがない、私なれば夜もすがろうというぞえと背中をおたたきになった。ふと気がついて『夜もすがら沢辺にもゆる蛍火も明くれば草に灰かかるらん』という歌が出来た。礼を述べようと頭を上げるとその人の乗った船は沖へ出て島の陰になって見えなんだ。そのとき船を惜しんだ歌が『ほのぼのと明石の浦の朝霧に島かくれ行く船おしぞ思う』とお詠《よ》みになったんや」 「そんなら私も詠んだことがある」 「ホン、歌を詠んだことがあるか」 「フン、質屋の庭で詠んだんや。踊りの襦袢を質に置いたんや。ほのぼのと浅黄《あさぎ》の浦の赤襦袢、今流れ行く利がほしぞ思う」 「これそんな阿呆なことがあるかいな。こっちへおいで」 「こんな所に水が出たある」 「それが亀齢水《きれいすい》という『詣《まい》るなら心も清き手洗鉢《ちょうずばち》、亀齢|流《ながれ》で御手を洗うて』と額に書いてある、亀の口から水が出てる。この水を一口飲むと三年の寿命が延びるというのやで」 「そんならこの水を一口飲むと三年長生きするのやったら明石の人みな死なんか」 「何でや」 「そうかて三年長生きするのんやったら死にかけたら一口飲み、三年してまた死にかけたら一口飲む、ほんならみな死なんか」 「そんなことがあるかいなア。寿命より三年生きるという。日本で二水という一つは大阪天王寺亀井水、今一つは明石の亀の水、日本に二つしかないのや……それこの坂をお前はどう思うて登ってる」 「しんどいなアと思うて登ってる」 「そうやない。この坂はどんな坂やと思うてる」 「土で高うなってると思うてる」 「違う。この坂を日本で二坂という」 「一つは大阪やろ」 「偉いことをいうた。大阪は高津の西坂、あれが三下り半、この坂が七下り半、離別坂、縁切坂、暇状坂ともいう。仲のよい夫婦が手を引いて登ると縁が切れるというくらいや」 「そんならお前と私と縁が切れるといかんさかい、離れて歩くわ」 「友達はかまわんのや」 「そんならもっとこっちへ寄り」 「ひっぱりないなア……これが月照寺や。内らへ入り。こっちにあるのが千体の地蔵、これが八つ房の梅や。普通の梅は花片が五枚やがこの梅は八枚あるねん」 「えらい変わった梅が出来たんやなア……」 「奉納をした人がある。間瀬久太夫が上げたともまた大石蔵之助が上げたともいう。それこれが松露糖に梅の餅、それ人丸さんの境内や、本社へ参詣しなはれ」 「詣《まい》ったら何ぞになるか」 「信あれば徳ありという」 「触らぬ神に崇りなしという」 「私が拝む。家内安全商売繁昌、道中無事に帰りますよう」 「オイ清やん、お前人丸さんに借りがあるのか」 「何でや」 「今お前お金を返したやないかい」 「違うお賽銭を上げたんや」 「なんぼ上げたんや」 「お三《さん》もつ、三厘上げたんやお前も上げ」 「オイ清やん、わたイお三もつ、ないで」 「なんぼあるねん」 「お一銭もつや」 「そんなら一銭上げいなア」 「お前は馴染みやで。馴染みが三厘で、一見《いちげん》が一銭か」 「神さんに馴染みか一見てあるかい。一銭上げたらよいのや」 「やっはり一銭がんとこ余計に効いてくれはるか」 「薬みたいにいうてる」 「エエ、一銭やってこませ、ど盗人《ぬすっと》」 「ど盗人ということがあるか、罰があたるで」 「罰があたったらどうなる」 「口がいがむね」 「どっちへいがむやろ」 「そんなことが分かるかいなア」 「分かったらよいのになア」 「分かったらどうするねん」 「いがまぬ先につっぱりしとくねん」 「まるで倒れかけた塀やがなア」 「時に人丸さん」 「これ友達みたいにいいないなア。神様を拝む時には手をポンポンと打つ、これを拍手《かしわで》という」 「ポンポンと手を打ったらどうなるねん」 「神様が出て来はるねん。拝んでしもてポンポンと打つと入りはるのや」 「アア、そうか。それではポンポンと。これで神様が出はったんやな。出てはるときづつないよって入ってもらうポンポン、入ってはると頼りないでやっぱり出てもらう、ポンポン。ちょっと出やのちょっと入り」 「コレ、何をしてるねん」 「神様を出たり入ったりさして一ペん頭を打たしたろうと思うてるねん」 「神様をなぶる奴があるか。早う拝み」 「よっしゃポンポン。ちょっと清やん見てみ。神様が出はった。田舎の神様で品がない。油差しを持って廊下につっ立ってはる」 「阿呆やなア、あれは神主やがな」 「アアそうか、この正面の丸い窓から見てはる口の大きい色の黒い……」 「あれは御鏡へお前の顔が映っているのや」 「そうか。ねっから神様が出はれへんなア」 「神様見えるかいな。『神の戸を開いて見れば幣《へい》ばかり祈る心に神ぞまします』という。戸を開けても中は幣ばっかり」 「開けたら臭いか」 「何がや」 「お前今いうた戸を開けたら中は屁ばっかりやと」 「違う屁やない。幣とはご幣のことや」 「四平の兄キで六平の弟か」 「まだ分かったあらへん。こっちへおいで、この正面にある絵が船町の森狙仙《もりそせん》の駒曳《こまびき》の猿という日本に三つしかない絵や。一つは安芸の宮島の廊下にある、また一つは大阪天王寺の庚申堂にある。森狙仙は猿を描くのが名人やった」 「そや猿は人かくのが名人や」 「アア、痛やの。私の顔をかいてどうするねん。アア、痛。血が出て来た。痛いわ」 「赤い血が出て赤血のイトナルとはどうや」 「人の顔をかいて仁輪加《にわか》をしてよる。これが船形八つ房の梅、八つ房の種をまいて出来た帆掛け船の形になったある。これが盲杖桜《もうじょうざくら》や」 「盲杖桜て何や」 「昔筑紫の国に大島という座頭があった。都へ官位を請けに上る途《みち》この明石まで来るとにわかの暴風雨、明石の浦へ船を入れて風待ちをした。船中一同は海上安全を祈るがために人丸山へ参詣をした。右の座頭さんが人丸さんは歌神さんと聞いているさかい、歌を詠んだら眼を開けて下さるじゃろうと、人丸山へ一週間断食をしたんや」 「そら賑やかなことやったやろ」 「何でや」 「一週間|地車《だんじり》を曳いたんやろ」 「地車やない。断食とは飲まず食わずの行をしたんや」 「そら腹の空いたことやろ、内証で握り飯でも食てたんやろ」 「そんなことをするものか。一週間のあがりに歌が出来た。その歌が『ほのぼのと真実《まこと》明石の神ならば一と目ぞ見せよ人丸の塚』と詠んだら眼がパッと開いた」 「座頭喜んだやろ」 「それがパッと閉《ふさ》いだ」 「何にもならんことをした」 「歌が小さい。ひと目ぞ見せよやよってに一目見たら閉いだのや。もう一週間願掛けをして今度詠んだのが『吾にも見せよ人丸の塚』と詠んだらパッと眼が開いた」 「またパッと閉いだやろ」 「今度は閉がんわ」 「せいだいさからい」 「誰がさからうもんか。眼が開いたら杖はいりませんとグサッと突き刺した。それから芽が出て花が咲いた、盲杖《めくらづえ》の桜で盲杖桜や。お筆柿『陰たのめこの涼しさに柿の元』これが日除《ひよけ》の塚や」 「火除の塚て何や」 「これに書いてある。『ほのぼのと柿の元まで火は来ても明石といえばすぐにひとまる』この歌を詠むとどんな大火でもすぐ消えるというねん」 「ハハン、感心なもんやな(プーン)」 「コレ、感心をして屁を落とす奴があるか」 「ほのぼのと足の元まで屁が来ても、あくさといえばすぐに屁とまる」 「そら何や」 「屁どめの歌や」 「これが芭蕉の塚や『蛸壷《たこつぼ》やはかなき夢を夏の月』。さあこれから大倉谷へ出て行くのや」 「真っ暗がりか」 「何でや」 「おおくらがりやて」 「違う大倉谷や」 「暗いことがないのに大倉谷とはこれいかに」 「問答をしてよる。大阪というても大きな坂がない、八軒家というても家がたくさんある、片町でも両側に家があるやないか」 「そやそやお祓《はらい》筋でも払いぐせの悪い人がいる、骨屋町でもよう肥えた人がいる、善安《よしやす》筋に貧乏人がいて、塩町の叔母はんが水臭うて、塀のそば通って音がせいで、馬場先通って臭ないか」 「ようしゃべる男やなア、さあこっちへおいで。サア早う出といで、ここが舞子や」 「だれが迷子や」 「コレ違う、迷子やない、舞子の浜やというねん」 「ナンデ舞子の浜というねん」 「ここの海の潮が渦巻込《まいこ》むので、渦巻込みの浜ともいうし、またその昔神功皇后三韓征伐の砌《みぎり》ここで風待ちをなされたがつれづれのあまり、数多の白拍子を集めて舞いを回しなさった故に舞子の浜ともいうのや、一ぺん海原を見てみい」 「何や胸倉を見るのか」 「胸倉やない海原や、海を見てみいというのや」 「マア、でっかい海やナア」 「でっかいとはどうや、この世は三山六海一分の里というて、山が三分で海が六分あって里が一分しかないという、海が一番広いのや」 「アアそうか、けども海の中にあんな鉢山が入れたアるがナ」 「あれは淡路島や、歌にもあるやろ『唐《から》を隠せし淡路島』と」 「あの島が唐を隠しよったんやナア」 「淡路島が大きいので、あの島がなかったら唐まで見えるやろうというたのや」 「そんなら隠さんのに隠したと無実の罪を被ってよるのやなア、ヨシそんなら俺が加勢をしたる、オーイ淡銘島しっかりやれ、俺がついてるぞ淡路島……」 「コレなんや、相撲を見に行ってるようにいうてる」 「あの先の方はどこや」 「あれは淡路の岩屋の端先《はな》や」 「ズウーと向こうに見えてるのはどこや」 「あれは紀州の加太《かだ》の突端《はな》や」 「そのこっちは」 「あれは泉州岸和田の突端、堺大浜の突端、大阪天保山の突端、尼ケ崎大物の突端、西の宮の突端、住吉大石の突端、神戸は和田の突端、西に見えるが明石の突端や」 「オー、はなばっかりやなア、そんなら高いのが天狗の鼻で、低いのがお多福の鼻、長いのが象の鼻で、ひらたいのが獅子の鼻、これはお前の鼻かいなアー」 「これ何をするねん、私の鼻をつまんでどうするねん」 「お前の鼻はつまみにくい鼻やなア」 「つまみにくいかしらんが、お前の手は臭いなア」 「そうやろ今尻をかいたんや」 「これその手で私の鼻をつまみよったんや、なんや臭いと思うた」 「ちょっと見てみ、こんなところに赤い物が浮いてる、これ何や」 「それはクラゲや」 「アア、クラゲというたら備前の岡山で二はい酢で食うたあれか」 「そうや」 「こないにたんといるねんやったら少し取って土産に持って帰ろか」 「そらあかん、この辺のクラゲは持って帰っても食えんで」 「何でや」 「すべてクラゲは前名《ぜんな》のついたクラゲやないと食えんとしてある」 「ぜんなてなんや」 「備前、筑前、肥前、豊前と前名のついたところのクラゲは食えても、この辺のクラゲは食えん」 「そんなら備前、筑前、肥前、豊前のクラゲがくらえてここらのクラゲはくらえんのか、くらえるクラゲとくらえんクラゲがあったら、くらえるクラゲが鼻を高うして、くらえんクラゲが鼻を低うする、くらえるクラゲとくらえんクラゲのわけを分けて、くらえるクラゲとくらえんクラゲのないように、くらえる……」 「これ、いつまでそんないいにくいことをいうてるのや」 「アア、こんなところに白いクラゲがいよる」 「それはクラゲやない、蛸《たこ》や」 「アア、蛸の幽霊か」 「コレ、蛸に幽霊があるかいナ」 「けども白いがナ」 「蛸は白い物や」 「うそつきないなア、横町の煮売屋に吊ってあった蛸は赤かったで」 「あれはゆでてあるので赤いのや」 「そしたらゆでたら赤うなるのか」 「何でもゆでたら赤うなる」 「そんなら稲荷さんの鳥居、誰がゆでて赤うなったんや」 「コレ、稲荷さんの鳥居のような大きな物がゆでられるか」 「小そうて赤いのは皆ゆでたんか、ほおずきでも梅干しでも唐辛子でも」 「コレ、そんな物をゆでるかいナ、すべて魚類はゆでると赤くなる、蟹でも、海老でもゆでると赤うなるがな」 「そんなら鮪《はつ》の赤いところは煮《た》くとどんな色になる。鮭に鱒《ます》、鯨、赤貝はどんな色になる」 「コレ、そないによりないナ」 「ちょっと見てみい、蛸仲間が葬式があるとみえる、蛸が裃《かみしも》をつけて並んでる」 「コレ、蛸が裃をつけるかいナ、あれは帆掛け船やがナ」 「アアそうか、なんや角張っていると思うた」 「阿呆やなア、蛸が裃をつけるかいナ」 「けども天婦羅屋の蛸はコロモを着てる」 「そんな理屈をいいないなア、サアこれから須磨へ連れて行ったげる」 「清ヤン、はじめて来たんやさかい真ん中へ連れてんか」 「誰が隅《すま》というてる、須磨というて源平の古戦場や、三の谷、二の谷、一の谷という、一の谷より東が摂津で西が播磨や、『かたつむりつのふりわけよ須磨明石』という句がある、早いもんでここが一の谷や、これが敦盛《あつもり》さんの五輪や」 「五りんてなんや」 「石碑やがなア」 「前にうどん屋があるなア」 「これが敦盛そばという、まことは熊谷《くまがい》のそばという、熊谷がここで敦盛の首を討った、芝居でする熊谷陣屋、熊谷が蓮生坊となって諸国行脚をして再びここへ来て敦盛追善のためにお通夜をしたので、所の百姓が何か差し上げようというたが何も食べん、ところが蕎麦を打って出すと喜んで、その礼に歌を書いた、その歌が『呼び返し花の二八の敦盛を能くも打ったり熊谷の蕎麦』それから出来て熊谷蕎麦という」 「それに今お前、敦盛蕎麦というたやないか」 「その後誰いうとなしに敦盛になった、ここの名物や、この蕎麦屋の主が表へ出てお客さんに『ハイ、どなたもお上りか、お下りかと、お茶を沸かして待っております、あがらんか、あがらんか、そばあがらんかナ、蕎麦は敦盛あんばいは義経、お茶碗にデッカイ山盛、それを知りつついかほども九郎判官、うどんは白い玉織姫、酒は源平つつじの諸白《もろはく》、熊谷大盃で一杯飲めば顔は弁慶、大口のお客さんは茶屋のよしつね、食い逃げしたればそれは武蔵坊、お茶は接待薩摩の守ただ呑み、座敷は千畳敷、泉水は帆掛け船、紀州熊野浦まで突通しの風景』『名物をのがさじ物と須磨の浦敦盛蕎麦を食べて弥陀六』ここの名物になったアるのや」 「そんなら一膳食べて行こか」 「おきや、うまいことないぜ」 「うまない物をなんで名物にした」 「俺におこっても知らんが、けども昔から名物にうまいものなしと、お前お伊勢参りして食べたやろ、大野の焼鳥、津の杓子餅、馬賀《めが》の田楽、鞠子《まりこ》のとろろ、草津の姥ケ餅、大津の走り餅とどれを食べてもうまなかったやろ」 「そんなら聞くが、大阪の名物で津の清の岩おこしは名物でうまいがどういうわけや」 「そら一軒くらいはあるわいなア、大阪は繁華の地やから、うもうないと人が買わんが、大阪を離れたらうまい物はないで」 「そんなら堺の小島屋の罌粟《けし》餅に、岸和田の村雨はどうなるねん」 「あれは大阪へ、南からの入口やさかいうまい」 「京都の鴨川の鷺《さぎ》しらずに、聖護院《しょうごいん》の八ツ橋、千枚漬けにすぐきはどうや」 「京都は王城の地、京を離れたらない」 「伏見の駿河屋の羊かんにういろはどうなる」 「あれは京の喉首やでうまい」 「江戸の浅草海苔はどうなる」 「江戸は将軍のお膝元や」 「奈良の菊屋の霰《あられ》酒に奈良漬けは」 「奈良は昔、南都というて都でうまい」 「備後の鞆《とも》の保命酒に、薩摩の泡盛に、柳井津の甘露醤油、広島の牡蠣に、備前吉備団子、金比羅の糠《ぬか》飴、西条柿、紀州田辺の酒盛、紀州みかん、伊勢の桑名の時雨蛤、江州《ごうしゅう》の鮒《ふな》ずし、信州更科の蕎麦、尾張大根、天王寺蕪、吹田|慈姑《くわい》、毛馬の胡瓜、みな名物でうまいで」 「コレ、お前みたいにうまい物ばっかり探りないナ、たいていの名物はうもうない物や」 「ほんにそういうとうまないナ、山上参りをして洞川で土産に買うて帰る陀羅助に、伊勢の朝熊《あさま》山の万金丹は名物やけどもうまない、苦い苦いわ」 「阿呆やなア、苦いはずやあれは薬やがな、どこぞに甘い薬があるか」 「ずぼう糖に甘草、蜂蜜に竜眼肉は薬でも皆甘いがどうなるのや」 「コレ、そないに甘い物ばっかりよりないナ、サアこっちへおいでここが須磨の町や」  鶯も海むいて鳴けすまの浦(山陽)  淡路島かよふ千鳥の鳴く声にいく夜寝ざめの須磨の関守(兼昌) 「ここの辺は祭りか」 「何でや」 「みな門に簾《みす》が吊ってあるがナ」 「祭りやない、この辺は昔平家福原の都というて内裏跡や。西国の大名が参勤交代の時には鎗《やり》を倒して通る、それは気の毒というので表へ簾を吊ると家の中の者も裸でいてもかまわんというので、簾が吊ってあるのや」 「屁を落としてもかまわんやろう、みすの中の屁というて」 「コレ、洒落ないナ、ここの名物が磯なれ味噌や、向こうに見えるのが上野福祥寺や」 「丁稚が難儀しよるやろ、上のの拭き掃除やったら」 「違う、上野山福祥寺、俗に須磨寺という、寺内には宝物の青葉の笛、源平咲分つつじ、弁慶若木の桜、神功皇后釣竿の竹、敦盛首洗池首塚、義経腰掛松、弁慶軍用鐘その他宝物がたんとあるが、それを見ていると遅くなるさかい行こう」  行きくれて木の下かげを宿とせば花や今宵のあるじならまし(忠度) 「ここにあるのが松風村雨庵という、その昔|行平《ゆきひら》さんが流されてござったんや」 「はしり元の津波でか」 「何がや」 「お前が今いうた土鍋《ゆきひら》が流されたんやと、水壷もか」 「コレ、違うがナ、行平さんとは中納言の行平や」 「中な方のゆきひらなら家のお粥《かゆ》を炊く時にいる」 「まだ間違えてるお公家はんや」 「お公家はんが何で流されたんや」 「ちょっと悪いことがあったんや」 「いがんだんやったら俺にいうたら直すのに」 「お前どないして直すのや」 「金槌でなぐったらよいがナ」 「何でや」 「くげのいがんだんは金槌で直すがナ」 「それは釘のいがんだんや、毎日つれづれのあまり浜辺をぶらぶら散歩しなはったら、この上に多井の畑というところに、西国の大名の娘が継母の讒言《ざんげん》でここへ流されて来ていた、毎日汐汲みをしているので行平さんが、これそのほうは何者なるぞ、とお尋ねになると右の娘が、このようなお方に言葉を交わすはもったいないと砂地へ歌を書いた、『白波のよする渚に世をすごす海女の身なれば宿もさだめず』と書いたのでしおらしい女じゃと行平さんの庵《いおり》へ連れてお帰りになった、行平さんのお手がかかって松風村雨と名をおつけになった、その内に勘気《かんき》がとけて都へお帰りになった、両人の娘は黒髪を剃り尼になって庵を建てた、その庵の名が松風村雨堂という、行平さんは今頃どこにどうしてござるやら、逢いたいが逢うことが出来ん、都の空を眺めようと松の木に登ったが枝が出て見えぬ、右の両人が嘆息したら一夜の間に枝が片一方へ向いたので、都恋しい片枝の松という、行平月見の松というのもある、ここが須磨の前田さんの杜若《かきつばた》というて年に二度咲く。『さいてしほれてまたさく花は須磨の前田の杜若』という歌がある、早いもんや兵庫の長田神社や、我が一代に鶏と玉子を絶つと一願かなえてやろと仰せ、それ兵庫の棒端や、道を右へ曲がるとここが柳原という廓《くるわ》や、早いもんで兵庫の鍛冶屋町の浜や」 [#改ページ] 西の旅(二) 兵庫船《ひょうごぶね》 「サア、こっちへ出ておいで、早いもんでもうここが兵庫鍛冶屋町の浜や、お前の立っている所が波止《はとめ》や」 「鳩こわい」 「何をいうてんねン」 「私、鳩こわいねン」 「何でや」 「足の裏に豆が出来てるよってに」 「そうやない、波止というたら波を止めると書いて波止というのや」 「アア、そうか」 「喜びや、ここからお前を歩かさずに大阪まで連れていんだげる」 「負うていんでくれるか」 「コレ、お前のような大きな男を負うていねるかいな」 「けども今、お前歩かさずに連れていぬと言うたやないか」 「そうやない、ここから船に乗せて連れていぬというのや」 「あの船か」 「大きな声やなア」 「私、船嫌いや」 「コレ、お前このまえ野崎詣りした時、船に乗ったやないか」 「あの時は好きやったが、今嫌いになった」 「何でや」 「清やん、私、こないに旅してるが家のことが気になるのや」 「なるほど、年取った親があるので、親のことが気になるのやろ」 「イイヤ、親みたいな者はどうでもええ」 「そんなら何が気になるのや」 「私は、嬶があるよってに」 「お前に嬶があったら私にも嬶がある」 「お前とこの嬶と内の嬶と一緒になるかいなア」 「何でや」 「お前とこの嬶は来てから三年でも四年でも添うているが、内の嬶は来てから間がない、新しい」 「別に古うても新しいても嬶に違いはないやないか」 「旅に出る時、内の嬶が言いよったことが耳の底に残ってるねン」 「お前とこの嬶がどんなことを言うたんや」 「お前とこの嬶は旅へ出る時に何ぞ言うたか」 「そら言うた」 「どない言うた、その口説を聞かせ」 「こちの人、旅へ出たら水がかわりますよってに患わぬようにして一日も早う帰って来とくなはれや、と、こんだけ言いよった」 「お前とこの嬶は年は長いが口上が短いなア、内の嬶はそんなことは言わん、旅立ちする宵に私が寝ている枕元へチント座って私を起こしてる」 「何と言うて」 「もうしこちの人、一ぺん起きしとくれなはれ、よう寝てからに。男という者は悪性なもんやわ、自分さえ寝たらよいと思うて妾《わたし》の身にもなってくれたらよさそうなもんや、ちょっと起きとくなアれ……」 「オイ、何という声を出すねン、人が顔見て笑うてるがな」 「ちょっと、嬶の声色や」 「声色なしでやり、ややこしいがな」 「ちょっと、起きとくなはれというのに、起きなはれんかいなア」 「コレ、何をするねン、人の鼻をつまんで」 「嬶の身振りや」 「身振りかしらんが鼻が痛いがな」 「私の鼻を持って起こしよったんや、私が蒲団の上に座ると私の膝の上へもたれて、ホロッと涙をこぼしてよるので、嬶、お前泣いてるな、と言うたら、あんたという人はどうよくなお方やと言うので、何でやねン、と聞いたら、お宅へ来ましてまだ間がないのにあんたが旅へ出なはったら誰を頼りにしますねンナ、とこうおっしゃるねン」 「おっしゃるとはどうや」 「そこで私が言うたったんや」 「何と言うたんや」 「内にはお父さんや、お母はんがおるやないか、と言うたら、お父さんやお母はんはよい人やが、片時でも貴方の顔を見んと頼りないと」 「ようそんなことを言いよったなア、私はお前の顔見てると余計心細なるがな」 「そこでいうたんや、嬶心配しな、行きは歩いて行くが帰りは船に乗るさかい、一晩の内に帰って来ると言うたら、こちの人、三日が四日かかってもだいじおまへんよって必ず船だけは乗っとくなはんな、船という物は板子一枚その下は地獄やおまへんか、もし途中で船がひっくりがえるというような、事があるというような、事が始まるというような、事ができたというような」 「コレ、同じ事を何べん言うねン」 「そこで言うたんや、もし私が死んだら他に可愛い男をこしらえて添うのやろ、と言うたら何のそんなことしますかいな、あんたに死に別れたら黒髪を剃り下ろして尼になりますがな、妾は内でこない思うているが男心と秋の空は変わりやすいよってに、旅へ出てええ女子はんでも出来たら、妾のようなお多福は見捨てなはるやろ、もし見捨てられたら淵川《ふちかわ》に蓋はないよってに川へでもはまって死にます、その代わり死んだら毎晩仏壇の中から迷うて出て、あんたと女子はんと寝てなはったらあんたの前へ噛りつくと」 「コレ、前の何に」 「へそに」 「コレ、へそに噛りつけるか」 「お前やさかい言うが、私のへそは出べそや」 「出べそか、よほど出てるらしいなア」 「私も言うたんや、私は旅をしているが女心と春の空は変わりやすい」 「コレ、ちょっと待ち春の空が変わりやすいか、秋の空と違うか」 「嬶が秋の空で来たさかい春と替えた」 「そんなことしないな、それでどうした」 「もし留守中に男でもこしらえるようなことがあったら、ただはおかん、淵川に蓋がないよってに川へはまって死ぬ、死んだら毎晩仏壇の中から迷うて出てお前と男と寝ている所へ行ってお前の前へ噛りつく」 「そんならお前とこの嬶も出べそか」 「ところが嬶のは出たない、へっこんでる」 「それでは噛りつけんなア」 「なんぼ私が出っ歯で口が大きいても噛りつけん、その時はチリレンゲですくい取ると言うたんや」 「とうふやがな、そんなこと言わんと船に乗り」 「嫌や、ひっくりかえる」 「大丈夫や私がひきうけてやる」 「清やん、お前のひきうけるはアテにならん、この前お前がひきうけて頼母子《たのもし》に入ったら三ツ掛けてつぶれたがな」 「コレ、船と頼母子と一緒になるかいな、大丈夫や私が太鼓のような判を押したげる」 「その一言で船に乗る、友達のお前が太鼓のような大きな判を押すと言うねんさかい、別に判を押さいでもかめへん、太鼓のような大きな判だけ見せといて」 「そんな判があるかいな」 「そんならない判を押すと言うたんやな、つまり謀判するつもりやな、さあ告訴したる、おいで」 「何を言うてんねん、もしもお前が死んだら産んで返す」 「誰が産むねん」 「内の嬶に産ますがな」 「お前とこの嬶いくつや」 「二十七や」 「二十七の女が三十一の男をきばり出すか」 「コレ、そんなこと言うてんと乗り」 「イヤ、乗れへん」  嫌がってる男を無理に突きますと、歩板《あゆみいた》が馴れてますので滑ってズルズルと船の中へ乗ってしまいました。 「君がなんぼ進めても我輩は船に乗らん」 「我輩やなんてゴマの蝿みたいな顔をして、もう船に乗ってるがな」 「そんなら私もう死んでるか」 「コレ、そんなことを言いないな、まだ他にこないたくさん乗っていはるやないか」 「ほんに、命知らずもたんとあるなア」 「コレ、船には禁言ということがあるのを知らんか」 「知ってる、なまこの干したあるのやろ」 「それは金海鼠《きんこ》や」 「小さい人か」 「そらちんこや、船の中で言えん言葉や、死ぬとか、長物の話とか、この船いつ着くと言うたりすると船頭はんが嫌がる」 「そんなら隅の方で死んだようになってるわ」 「それがいかんのや」 「往生するなア」 「往生がいかん」 「もうああ言やこう言うし、いっそ殺すなら殺せ」 「モシ、あんたはんのお連れだすか、えらい船が嫌いと見えますなア」 「ヘイ、船心が悪うて困ります」 「船の嫌なお方はよう酔うものだす、酔わぬまじないに船板を三べんねぶっておきなはれ」 「イヤ、おおきに有雑うさんでおます、オイ善イやん、船板を三べんねぶり」 「船板を三べんねぶったらどないなるねん」 「船に酔わぬまじないやと」 「そんならお腹が大きいけどもよばれるわ、どなたもお先へ」 「誰もねぶりはれへん」 「チッ……、えらい砂や」 「吹かんかいな」 「吹くのん忘れたんや、プッ……、えらいことをした」 「どうしたんや」 「吹いた拍子に目の中へ船が入った」 「コレ、船のような大きな物が目に入るかいな、砂が入ったんやろ」 「アア痛い」 「コレ、目をこすっても取れへん、目を吹かんと」 「フウー、フウー」 「自分が吹いてもあかん、目をこっちへ持っといで」 「台ぐちか」 「台ぐち……、目に台がついてるか」 「頭と一緒にか」 「目だけ持って来られるかいなア、頭ぐちや」 「貸すよってにあいたら返してや」 「お前の目を借りとくかいな、フウー……、どうや」 「おかげで船が出た」 「砂が出たんやがな」  そのうらに時間が参りますと船頭さんが大きな声で、 「出しますそう……、ないかの……」 「ないわの」 「コレ、ないということが分かってるか」 「どうやらなさそうな雲行きや」 「そんな雲行きがあるかいな」 「大阪へのしょう……」 「三井寺いの……」 「コレ、そんなことを合わしないなア」  乗前《のりまえ》が決まりますと船頭さん、もやい綱を解きまして歩板を引き上げました。赤樫の長い櫂《かい》を一本張りますと船は波を切って岸を離れました。深海へ参りますともう櫂は立ちません櫓《ろ》にかわりました。船頭さん肌を脱ぎますと赤松を割ったように陽に焼けた腕によりを掛けて漕ぎ出しました。 「イヤーうんとせい」(囃子入り唄)  船が沖へ沖へと出て参ります、そうこうしているうちに追い風が吹いて参りましたので船頭さんが帆こしらえというのでやかましゅういうております。 「オーイ勘六ヤーイー、帆こしらえじゃ、帆桁《ほげた》を回せ」 「フワイー」 「コレ喜イやん、何をしてるのや」 「いま船頭がほぺたを回せと言うてるさかい、頬はこのくらい回したらよいか」 「お前の頬やない、帆桁や」 「帆桁て何や」 「向こうの真ん中の太い、両端の細い木があるやろがな」 「フン、あの雑煮箸の親方かいなア」 「雑煮箸の親方……あれが帆桁や、あれを回せと言うてるのや」 「私はまた頬かと思うてた」 「オーイお客さん、どたまを気をつけとくなされや、これ、お客さんどたまが飛びますぞ」 「フワイー」 「コレ、何をしてるねン」 「船頭がどたまが飛ぶと言うてる。どたまが飛んだら方角がつかんようになる」 「違う、どたまが飛ぶと言うたのは、あの帆桁を回すと、お女中の頭へさわって櫛やかんざしが落ちる、もし海へはまったら取れんさかい、あないに言うてよるねン」 「何につけても危険な船や」 「大層に言いないな」  帆こしらえが出来ますと船頭は、ヨッショーヨッショーと巻き上げました。帆は十分より八合がよいと申します、船頭は帆八合に巻き上げて、帆しんどと洒落の一つも申しまして、帆へ風が十分にくくみますと波を切って馳け出しました。船中は千差万別でござります。お客さんはみな帆の蔭へと寄りました。主船頭は寝ながら足で舵を取っております、追分の一ツも唄いまして、 「♪西は追分——東は関所、(取り舵やでギイギイ)せめて関所の茶屋までも(おも舵やでーギイギイ)オーイ勘六よ——おも舵やというのに分からんか、くそめ、舵が分からんか、舵じゃ」 「フワイー、火事じゃ火事じゃ」 「コレお客さん、何を騒いでいなさるのじゃ」 「今お前、火事やと言うたやないか」 「ヘィ、船の舵でござります」 「船火事は逃げる所がないがな」 「違います、船の尻に杓子を割ったような物がついてますやろ」 「ウム、船の尾か」 「尾やおまへん、あれが舵だす」 「私はまた尾やと思うていたらあれが舵か、アアおかじ」 「何を言うてなはるねン、モシあんたはん、今火事やというて走りしなに私の矢立てを持って行きなはったなア」 「イヤこれだしたか、家のおかんが、兄よ、火事の時は何でも手当たり次第持って逃げよといつもいうてますので、横にあったさかい持って逃げました」 「そんな無茶をしなはんな」 「モシあんた、私の財布ご存じおまへんか」 「どんな財布だす」 「稿の財布だす」 「これ、違いますか」 「イイエ、横縞だす」 「ほんならこれだすか」 「イイエ、もう少し細い縞だす」 「そんならこれと違いますか」 「オイ喜イやん、なんぼ持ってるねン」 「タッタ十三や」 「ぎょうさん持ってるなア、皆ここへ出してしまい」 「モシ、いま私が竹の皮包みを出したら持って行ってでおましたなア」 「ヘイ、お返し致します」 「貴方、股倉から出しなはったな、心持ち悪い、食べられへん、ほかしますさ」 「あんた、ほかしなはるんでしたら私におくんなはれ」 「どうしなはるねん」 「食べます、その生節の切り身も股倉へ入れまひょか」 「モシ、うだうだ言いなはんな、お菜までとろと思うてなはる、えらい面白いお方だすな」 「モシ、どうだす、ちょっとも早うこの船が大阪へ着くように、チクチクという題を出しましたがどうだす」 「そんなら私が、チクチクと兵庫神戸を後に見る、とはどうだす」 「イヤ、これはよう出来ました、そちらのお方はんは」 「私は、チクチクと天保山が近くなる、とはどうだす」 「なるほど、その隣のお方は」 「ハイ、チクチクと毎日|反古《ほご》になる暦、とは」 「これはよう出来ました、そちらはんは」 「チクチクとれんげを食わぬ人はない、とはどうだす」 「モシ、それは何のことだんねン」 「味噌を摺りますと摺粉木《れんげ》が減っていきます、それを知らずに食べてますので、チクチクと摺子木を食わぬ人はないと」 「けったいな人やな、あんたは」 「チクチクとあんたをそっちへ押して行くと」 「モシ押しなはんないなア」 「チクチクと広うなった、チクチクと寝よ」 「無茶な人やなア、寝てしまいはった、えらい面白いお人や、このような人が船に乗ってはると退屈をせいでよろしい」 「モシ、あんたはん、どちらです」 「私、大阪だす」 「アア、さよか、しかしこうして乗り合いの中で、諸処方々のお方が、乗ってはりますなア、そちらのお方、あんたは、どこだす」 「私は、和州だす」 「和州とおっしゃると、大和だすな、大和は、よいところで、国の始めは、大和の国と申しまして、第一に橿原神宮、結構なところだす、多武峰談山神社、法隆寺、奈良には、お春日さん、大仏さん、また春先には、月ケ瀬の梅、吉野の桜、初瀬の牡丹、竜田の楓、四季に好いところがあります、そちらのお方は」 「私は、泉州《せんしゅう》だす」 「和泉、泉州堺は、所の始まり、住吉四社の明神、なるほど、そちらのお方は」 「私は、勢州だす」 「伊勢だっか、結構だすな、お伊勢さん、外宮さん、内宮さん、朝熊山、二見、桑名の時雨蛤が名物、そちらは」 「尾州だす」 「尾張だっか、名古屋の城は、金の鯱《しゃち》雨さらしというて、熱田神宮、宮重大根が名物で、そちらはんは」 「三州で」 「三河、五万石でも、岡崎さんは、お城下まで船が着くという唄がおます、その隣の方は」 「わたしは遠州で」 「遠江、遠州浜松は広いようで狭いとかいいますな、お次の方は」 「甲州で」 「甲斐の国身延山法華の本山、日蓮上人がお開きになりましたそうで」 「私は相州で」 「そっちのお方は」 「私は、九州で」 「九州には、耶馬渓というよいところがありますな、熊本の清正公さん、箱崎の八幡さん、太宰府の天神さん、名所旧跡がたくさんあります、そちらのお方は」 「私は長州で」 「長門、馬関、赤間ケ関、硯《すずり》が名物で、そのお隣は」 「防州です」 「周防の錦帯橋、あんたは」 「芸州《げいしゅう》だす」 「安芸の宮島、回れば七里、七里七浦、七恵比須、日本三景の一、大きな楠の鳥居、千畳敷、灯籠がぎょうさんにあります、その次のお方は」 「私は讃州です」 「讃岐では、金比羅さん、祖父谷、善通寺、よいところだす。その次は」 「播州だす」 「播州は松の名所、そちらは」 「紀州だす」 「紀州には、西国三十三ヵ所、第一番の札所、那智山、文覚上人が荒行をした那智の滝、那智の権現、三熊野の権現というて、本宮の権現、新宮の権現、妙法山、熊野の本宮の湯、瀞八丁、よい所がぎょうさんおますなア、そちらのお方は」 「私は因州で」 「因州、因幡の鳥取で唄がおます、そのお次は」 「私は雲州で」 「出雲の大社、よい所だすな、次は」 「奥州で」 「奥州の松島は日本三景の一、わしが国さで見せたい物は昔谷風、今伊達模様と、お国の唄がおます、そちらは」 「私は、大阪、どうしゅうだす」 「大阪を、どうしゅうと言いますか」 「イェ、皆が州を言うてはりますのんで、うつりましたんや」 「ヘエ、そんなものがうつりますか」 「ヘエ、朱に交われば共に赤なると言うて」 「うだうだ言いなはんな、大阪どうしゅうと言いますと、どこだすね」 「堂島を、洒落で、どうしゅうと言いました」 「アァさよか、その次は、どこだす」 「私は、大和の郡山だす」 「今度は、山とかわりましたな、その隣は」 「紀州和歌山のし」 「和歌山は、徳川御三家の一、権現さん、玉津島明神、塩釜さん、紀三井寺、加太の淡島さん、よいところがぎょうさんおます、お次は」 「河内の佐山だす」 「そのお次は」 「備前の岡山です」 「私は周防の徳山」 「私は、長崎の円山で、ございやちゅう」 「作州の津山」 「次は」 「越中富山で」 「丹波の福知山で」 「同じく篠山です」 「丹後の峯山」 「備後の福山です」 「伊勢の、亀山」 「私は河内の瓢箪山」 「辻うら屋でござい」 「オイ、相手になりないな、そちらは」 「京の、東山の、円山どす」 「あの人、一人で、山を二つも言うてはる、私は、大阪」 「モシ、大阪には、山がつきまへんな、大阪に山がおますか」 「ヘエ、お城の東にドングリ山、南に真田山、茶臼山、天神山、瑞軒山、お勝山、私のうちが順慶町の中橋を南へ入西側に、宇山という首より上の薬を売っている、向かいに瀬山という稽古屋があって、その隣が秋山という医者で、その隣に山田屋裏というて、うちの親父が鉢山屋で、私が床山で、嬶がおやまで、子供が庖瘡の山、いんで話が山々あるのや」 「ウオオオオオ、一人でぎょうさんに山を言いはった、そっちのお方はんは」 「私は播州の加古川だす」 「同じく、播州の市川で」 「今度は、川が続きますな、次はどちらで」 「紀州の粉河で」 「同じく紀の川で」 「私も日高川だす」 「私は大和の十津川です」 「同じく洞川だす」 「山城の木津川」 「東京の深川だよ」 「京の堀川」 「同じく、鴨川どすえ」 「そうどすか」 「俺は、天竺の流砂川で」 「モシ、それは、ほんまだすか」 「イエ、今言うたんは嘘のかわ、欺されたのはよい面の皮、握り飯を包むのんが竹の皮で、丸いのんが井戸側で、臭いが膠《にかわ》で三味線は猫の皮、太鼓に張るのが馬の皮、鬼のふんどしゃ虎の皮……」 「モシ、この人、踊ってはりますせ」 「モシ、お互いに住めば都で、わが土地はよろしい、どうだす、船には付き物で、謎掛けはどうだす」 「オイ喜イやん、謎掛けやろかというてはる」 「清やん、一ツもろうてんか」 「何をやね」 「いまお前、砂糖掛けをもらおかと言うたやないか、私、退屈してるね」 「コレ、砂糖掛けやない、謎掛けや」 「後掛けなら、船に乗る時に取ったで」 「まだ間違うてる、謎掛けや、謎は人々の知恵くらべ、互いに心を言うたり、面白い物や、他の人がやるのんを聞いてい。どうぞそちらから、お出しを願います」 「それでは私が題を出します、お銭《あし》を十文と掛けて、何と解く」 「これをもらいますと、京の両本願寺と解きます」 「その、心は」 「御門徒《ごもんと》御門徒と」 「これは、よう出来ました、オイ、あんなことが言えんか」 「何のことや」 「分からんか、京の本願寺は御門徒宗やで、銭が十文、五文と五文で、十文になるやろ」 「なるほど、謎かけというたら、銭の勘定か、そんなら銭八文や」 「お前、やれるか」 「何でもないことや、京の本願寺、四文と四文と、八文になるやろう」 「そらいかん、四門徒というようなもんはない」 「四門はないかて、南禅寺に山門があって、天王寺に仁王門がある、布袋の市右衛門に、按摩の半右衛門」 「コレそんな無茶を言うたらいかん、どうぞそちらから、お出しを」 「私が、いろはの、いの字と掛けて、船頭さんの手、心は櫓の上にあるとはどうだす」 「私が次の、ろの字、野辺の朝露、葉の上にある」 「次の、はの字、金魚屋さんの弁当、荷の上にある」 「次の、にの字、頭痛に張った膏薬、頬の上にある」 「そんなら、次はほの字、見越しの松、塀の上にある」 「への字、秋葉さんのお札、戸の上にある」 「いろはにほへと」 「あんた、一ぺんに言いなはったな」 「花の三月、ちりぬる前」 「私は、破れた財布に、お銭が一ぱい、瀬田の唐橋、膳所がみえる」 「わたいは、破れん財布に、お銭が一ぱい」 「あげまひょう」 「おくんなはれ」 「その心は」 「気の変わらぬうちに」 「誰が、あげますかいな、破れた蚊帳、島台松竹梅、つるとかめが舞い込む」 「私は、一間《いっけん》の床に二間の掛軸、仙台の殿様高尾を口説く、床へ入らんで切ったであろう」 「富士の山を一またげ」 「大きな題やな、あげまひょう」 「堀川猿回し、与次郎の文句、心は、そんなまたあろうかいな」 「奈良の大仏さんが、猿沢の池へはまったと掛けてなんと解く」 「あげまひょう」 「何人よって」 「その心は」 「重たいことやろう」 「モシ、なぶりなはんないな」 「私は奈良の生まれだんね、昔奈良の春日神社の前に、黄金の鈴が釣ってありました、ある夜、泥棒が忍んで来て、この鈴を盗みました、逃げようとすると、身体が堅くなって、動けまへん、神罰を蒙りました、その間に夜が明けて、神主が出て来て、見付けられました」 「なるほど悪いことは出来まへんな、縄を掛けて、お奉行所へ差し出しましたか」 「ところが、神主が御祈祷をして、神様に詫びを致しますと、身体が元のようになりました。それから盗人に御飯を食べさして、銭をやって帰しましたんや」 「モシ、そんな悪い奴に、なんで飯を食わして銭をやったんだす」 「そこが、罪を憎んで、人を憎まず、なる堪忍は誰もする、奈良の堪忍は、鈴が堪忍と言うてな」 「モシ、そらなんだね」 「これは、落とし話だす」 「私、真面目で聞いてますのに、落とし話だっか、モシみな聞きなはったか、あれ落とし話やといな」 「あの、モシ、あんたはん皆ワアワア言うてなはるがこの船は動いておりまへんで」 「モシ、そんなことがおますか、動かんのに、ここまで来ますか」 「ここまでは無事に来ましたが、ここで船が止まってますで」 「何で、それが分かりましたんや」 「この向こうの松の木が、最前から、この正面にありますがな」 「アア、さよか、ほんに船が動いてまへんな、オイ、船頭はん、この船は動いていんな」「ハイ、お客さんお前がたは気が付いたかえ」 「いったい、どうなったんや」 「ハイ、このところ、悪い鱶《ふか》が住んでおりまして、その鱶がこの船へ魅《み》を入れ〔とりつき〕ましたんや」 「そんなら、鱶が魅を入れたら、どうなるね」 「ハイ、皆様は、お気の毒やが、ここから海へはまって鱶の餌食になってもらわんならんのじゃ」 「オイ、私は鱶の餌食は嫌いや、私だけ助けてもらえんか」 「そんなわけにはいかんで」 「そんなら、どうしたらよいのんや」 「そうや、船中皆の衆に鱶が魅を入れたというわけやない、この中の一人に魅を入れたんや、気の毒なが、その人は海へはまってもらわんならん、小の虫を殺して、大の虫を助けるということがあるで」 「オイ船頭はん、もしも私に鱶が魅を入れてるというようなことはないか」 「サァ、どうやら、お前さんらしいぞ」 「それみいな、そやよってに船に乗る時にいうたがな、船には乗れへんと、私は死んでもだんないが、宅には六十三になる妹と、十八になるお母さんがあるね」 「オイ、それは、あっちこっちや」 「その、あっちこっちがあるね」 「そんなずぼらなことがあるかいな、お前がこわがるよってに船頭がなぶりよるねが、オイ、船頭はん、どうしたらよいのんや」 「誠にすみまへんが、皆さんの所持品をば、海へほり込んでもらいますのや」 「ほり込んだら、どうなるね」 「無事に流れましたらよいが、もしも品物が沈んだら、その人が鱶の餌食になってもらわにゃなりませぬ、皆さん、何か、ほり込んどくなされ」 「オイ船頭はん、私は手拭をほり込むで、おお流れた流れた」 「わたしは、風呂敷をほり込みます、アア流れた」 「わたしも、ほり込も、この竹の皮を、アア流れました」  と、皆の人が、それぞれ、所持品を流しました。 「オイ、喜イやん、今度はお前の番や、何ぞ流し」 「そんなら、もう皆が流しはったんか、いよいよ私の番か、ほり込むで(ドブン)フワイ、アハハハハ、沈んだ」 「何、沈んだと、それはえらいことや、何をほり込んだんや」 「銅の矢立てを、ほり込んだ」 「阿呆やな、そんな重たい物をほり込んだら沈むのんがあたりまえや、もっと軽い物をほり込み」 「よっしゃ、分からんようになった」 「今度は、何をほり込んだんや」 「髪の毛を」 「コレ、そんな小さな物が、この広い海へほり込んで分かるかいな、もっと分かる物をほり込みんかいな」 「何もないがな」 「お前の持っている扇子をほり込み」 「この扇子か、惜しいな」 「そんなことをいうてる場合やない、早うほり込み」 「そうか、どうぞ、この扇子が無事に流れますように、讃岐の国に鎮座まします、金比羅大権現様、水天宮様、住吉明神様、達磨様、棚の布袋様、テレツク天満の天神様」 「オイそんな、妙ないい方をしいないな、何やぎょうさんに神様をいうたなア」 「このぐらい、ぎょうさんに頼んだら、どれなと聞いてくれはるやろう、何とぞ、この扇子が無事に流れますように、もし無難に流れましたら、御礼と致しまして、金の灯籠を、千灯籠、銀の灯籠を、干灯籠、こしらえて差し上げます」 「コレお前、そないにたくさん出来るか」 「コラ、嘘や」 「コレ、嘘をつきないな、お前扇子を頭でこすってるな」 「頭でこすると、油がついて、水はじきがよい」 「そんなことをせんと、早う流し」 「よっしゃ、ひイふウの三ツと」 「流したか」 「イヤ、かたげた」 「かたげたら、あかん、ほり込み」 「どうも、仕方がない、ほり込むで、ひイふウ三ツとほり込んだ(チヨチヨチヨチヨ)流れた、流れた、私の扇子が、流れたと掛けて何と解く」 「コレ、謎掛けどこやないで」  皆の者が、ワアワアというておりますと、艫《とも》の方に乗っておりました親娘連れの巡礼。母親が笈摺《おいずる》を流しますと、無難に流れましたが、娘さんが、笠をほり込みますと、その笠が、モンドリ切って、海の底へ巻き込まれました。 「モシ、えらいことや、あの巡礼の娘さんの笠が海の底へ舞い込みました」 「モシ、どうなりましたんや」 「鱶が、あの巡礼の娘に、魅を入れました」 「モシ、どうなりました」 「護が、巡礼の娘に、魅を入れました」 「モシ、どうなりました」 「巡礼の娘に、鱶が魅を入れた」 「モシ、どうなった」 「巡礼が鱶に魅を入れた」 「そら、さかさまや」 「わたいにばかり、尋ねなはるよってに、こないになりますね」 「モシ、どうなりました」 「鱶が巡礼の娘に、魅を入れたんだす」 「どの娘はんだんね」 「向こうにいるあの娘だす」 「あの娘はんなら、私も船に乗った時から魅を入れてます」 「あんたが魅を入れますかいな」 「モシ、なんとかわいそうやおまへんか」 「気の毒なことが出来ましたなア」 「サアサア、どなたも、見ておやりなはれ、国は丹波の氷上郡、親は代々殺生して、親の因果が子に報い、かわいそうなはこの子でござい」 「オイ、見世物やないで」  船中、ワアワアいうております。 「もし、おかあさん、妾《わたし》の笠が沈みましたで、妾は海へはまります、あなたは千代八千代の後までも、生き永らえて下さりませ」 「コレ娘、何を言やる、そなたは先の永い身体、妾は年寄りのこと、いつ死んでも構わぬ身の上、妾がはまります」 「イヤ、おかあさんは後に残って下さりませ。妾が死にます」 「イヤ、妾が」  死を争うておりますと、横手に、大きな肝をかいて、寝ている人が目を覚まして、 「なんじゃ、大きな声で、ワアワアと、よう寝ている枕元で、やかましいわい、何をしたんじゃ」 「モシ、あんた、よう寝ていなはったなア、えらいことが出来てまんねがな」 「どうしたんじゃ」 「ここにいる娘はんに、鱶が魅を入れました」 「ナニ、鱶が娘に魅を入れた、そんな馬鹿なことがあるか、人間は万物の長という、それが鱶ごときに魅を入れられるということがあるか、どけ、俺が鱶にお目にかかってやる」 「モシ、えらい人がいはりまっせ、鱶にお目にかかると、どうぞ一つ、鱶にお目にかかっとくなはれ」 「どけ」  腰に提げてるタバコ入れから、煙管《きせる》を取り出しまして、船の舳《へさき》へ出て、タバコを吸いながら、 「パ……パ……、鱶……鱶」 「鬼は外、鬼は外」 「モシ、相手になりなはんな」  鱶、鱶、と呼びますと、なんし、人間に魅を入れるというほどの鱶、大きな口を開いて、船もろとも一呑みにと、水面に現れて来ました。それを見ると右の男、タバコの吸い殻を鱶のロヘ、 「これなと、食らえ」  ポンとはたきますと、この鱶、タバコが嫌いか、ゴホン、ゴホンむせてよる。鱶はそのまま海の底へ消えました。船はチョチョと動きだしました。 「モシ、船が動きだしましたで」 「モシ、あんたえらいお方だんな、鱶にお目にかかっとくなはったんで、船が動きました、あんたはどこだす」 「俺は、大阪じゃ」 「大阪……大阪はどこだす」 「雑魚場じゃ」 「雑魚場には、えらい人がおりますな」 「俺の手にかかったら、鱶でも、鱧《はも》でもすりつぶしてしまうのじゃ」 「ヘエ、お宅の御商売は」 「蒲鉾《かまぼこ》屋」 [#改ページ] 人形買い 「オイ、喜ィやん、うちにいるか」 「イヨウ、清八つぁん、お上がり」 「オオうちにいたな、お前が家にいえへんなんだら、仕事場へ逢いに行こうと思うてたんや」 「今朝、奥の神道《はらいたまえ》屋の先生からお祝いをもろうたか」 「もろうた、えらい立派な粽《ちまき》をくれはった」 「さあ、それでお前とこへ相談に来たんやが、お前も知ってる通り、この長屋は、めでたいことでも悲しいことでも、四十八文と定《き》めたある。柏餅でも配っておくのやったら、マアそれでもええが、あないして立派に粽を配るとすると、そういうわけにもいかんから、そこで私の思うのに、長屋じゅう百文集めると、ちょぅど二十四軒あるよって、二貫四百文集まる。そいで、まあ人形でも買うて祝うたらよかろうと思うが、どんなもんやろう」 「なるほど、そらええなア」 「お前はええというてくれるが、この長屋にゴテクサゴテクサいう奴があるのや」 「誰や、あの落語家《はなしか》か」 「イイヤ落語家は何もいえへん、ニコニコ笑うて阿呆が多いな」 「そんなら誰や」 「奥の講釈師や」 「かなわんなア、あいつえらばりやがって。咋日の朝もなあ、先生お早うございます、というたら、ハハア、今朝《こんちょう》は土風《どふう》激しくして小砂眼入《しょうしゃがんにゅう》すと言いよった。さっぱり分からぬ。まるで唐人と相住居《あいずまい》みたいなもんや。で、わいも返答でけんのもあほらしいよって、スタンブビョウでござりますというた」 「ソラ、何のこっちゃ、お前のほうがかえって分からん」 「箪笥と屏風をさかさまにいうてやった」 「ようそんな無茶いうたなア、まだもう一人、ごてつく奴がある」 「誰がごてつくのや」 「八卦《はっけ》見の先生がごてつく」 「尋ねに行ってみたらどうや」 「まあ、わいもそないに思うてるのやが、お前一緒に来てんか」 「よし、長屋のこっちゃ、手伝おう」 「しかし、金が寄《よ》ったらお前に返すが、お前とこに銭二貫四百文あいたのはないか」 「ホーウ、二貫四百文いうたら、天保銭で二十四枚でええか」 「それでもええ」 「ひょっと銅銭《かねせん》やったらどうや」 「それでもかめへん」 「文久銭やったらどうや」 「それでもええわ」 「二十一|波銭《なみ》ばかりやったら、どうやろう」 「それでもええがな」 「で、銅銭やババ銭やら文久銭やら二十一波銭やら、みんな混じってたら、ややこしいで、お前怒るか」 「そんなこと、わし怒らへん」 「二分金《にぶきん》やったら、どうや」 「それもええがなア」 「一朱やったら、どうしょう」 「おんなし勘定やがな」 「額金《がく》二つやったら」 「それでもええが」 「ところがなんにもないのや」 「ソラ何をいうねん、貧乏《しみったれ》やなア」 「そないえらそうにいいな、貧乏やというが、お前かて貧乏やろう」 「ウウ、俺かてあらへん」 「コレ、お前とこはわしとこと違うぜ。お前とこは食うても二人、食わいでも二人、食えなんだら夫婦が辛抱したらそれでええのや。わしとこはそういうわけにいかん。夫婦の仲に子が三人ある。親は食わんでいても、子に食わさんでほっとくわけにいかん。そやよってに、チャーンと常にそれだけの貯えをして、箪笥の引き出し開けた時に、五貫《ごかん》文|結《からげ》の三つや五つは入ってなけりゃあならん。けれど、それがついぞ入ってあったことがあるかいな」 「ないので怒っているのやな」 「ないかと思うと余計気がムシャクシャして腹が立つわい」 「そりゃ無茶やがなア」 「よし、最前《さいぜん》なア、木挽《こびき》の鶴やんがな、質に置いとくれ、というて、着物持って来て、その銭を私とこに預かったある。あれちょっと取り替えて持って行こうか」 「ア、それ、貸して、ほいで一緒に来てんか。今、八卦見の先生はどこやら出て行きはったぜ」 「そんなら講釈の先生とこへ行こう……先生、こんにちは」 「ホウ、誰かと思えば隣家の若人達、何らの用ばしあって予が陣屋へ詰めかけしぞ」 「アア、びっくりした、裏長屋に住んでいて陣屋なんていうてる……先生」 「アア、何らの儀でござるな」 「そないむつかしゅう言うておくんなはんな。今朝ほど神道《はらいたまえ》屋の先生から粽を頂きまして……」 「ヤヤいかにも一連な、頂戴つかまつった」 「そこでやすねん。この長屋は、目出度いことでも悲しいことでも、四十八文と定まっておりますけれども、あないして立派に粽配りはると、そういうわけにもいきまへん。長屋一軒前に百文ずつ集めますると、ちょうど二貫四百文寄ります。それでマア人形でも買うて祝うたらよかろうと思いまんが、どんなもんでっしゃろ」 「ヤッ、これはご苦労さま、よい目論見でござる。しかし、あなた方、人形はいずかたでお求めなさるご所存か」 「マア御堂前《みどうまえ》が好かろうと思いますが」 「なるほど、しかし御堂前の人形屋と申せば至って掛け値を申す、あいついかほど掛け値を申そうとも計略をもって安く買う、計略は密なるをもってよしとする……」 「オイここの家を早う出え、むつかしいことを言いよったなア」 「かなわんなア」  やがて長屋を出まして、御堂前へ二人づれでやって参りますと、人形買う人と見たら商人は目が高い。 「ヘエ、マアおはいりやす、ヘエ、マアおはいりやす」 「オイ、ここへはいろか」 「ウン」 「ごめん」 「ヘエ、おいでやす、マアお掛けやす……コレ、丁稚《こども》、お座布団を持っておいで……。エエ、毎度ありがとうさんでござります」 「毎度やないねん、今日、はじめて来たんや」 「コレ、いらんことを言いな、毎度のほうがええ顔や」 「アッ、そうか、そんなら、どうぞ毎度のほうと換えておいておくなはれ」 「コレ、何を言うねん……。しかし、人形屋さん、ここの段にある人形はなんぼや」 「ヘエ、ヘエ、それはよほど人形がよろしゅうござります。五両二分でござります」 「フーン、オイ、これ、五両二分やと」 「フーン、モシ、それ二貫四百文に負かりまへんか」 「イヤア、五両二分の物は二貫四百文には負かりかねまするでござります」 「モシ、こっちゃのはなんぼだすえ」 「ヘエ、それもやっぱり五両二分でござります、品物が、よほどよろしゅうござります」 「オイ、ちょっと見てみい」 「なんじゃい」 「ナア、聞いてから言うのやないが、五両二分というだけあって、人形がよう出来てるなア、姿勢《いきおい》といい、衣装の着せ具合といい、どう見ても人形とは思えんなア、生きてものを言いそうやないか」 「そうやなア、よう出来たあるなア。人形屋さん、お前の背後《うしろ》に、暖簾《のれん》の間から首を出して、鼻汁たれてる奴、よう出来たあるなア、生きてものを言いそうやなア、あれなんぼや」 「ヘエ、アッ、ありゃ家の丁稚で」 「あいつ鼻汁かんでなんぼや」 「ヤッ、ありゃ売り物じゃござりません」 「人形屋さん、この男に相手になんなや。実は長屋の祝いに上げるのや、見映えが好うて安い人形はないか」 「ヘエ、畏《かしこ》まりましてござります、それですと、この段のはいかがで」 「コレなんぼや」 「エエ、これでござりますと、……ちょうど。これにつきますでござります」 「ナア、オイ」 「なんや」 「人形屋はん、算盤《そろばん》出してな、これにつくというているのやが」 「フーン」 「ちょっとお前その珠《たま》うごかしてみてんか」 「動かしても、だんないかえ」 「お前の思惑に動かしてみてんかいな」 「ムム、これこれに動かしたら、どやろ」 「どうやろうと言わんと、わしはお前に尋ねてんねんやさかいに、お前が十分に動かしてみい」 「そない言われるとつらいなア、このくらい動かして置いたらどうや」 「それでええ、ムム、十分や……人形屋さん、この男が言うのやが、こんなもんで、どやろ」 「ヘエ……、エッ……、こりゃどないなってござります、六万八千五百六十五両三分一朱と、二千八百六十五貫三百四十一文……こりゃあ一体どうでやすねん」 「オイ、何したんや、お前」 「なんや」 「算盤、お前知らんのか」 「算盤、これやないか」 「イイエイなあ、どう動かしたんや」 「お前が精々動かせというよってに、大方、みんな動かしてしもうた。もう、それで動かすところはあるまい」 「そんな無茶しいないな。お前がそんなことをしたよってに恥ィかくがな、算盤知らんのかい」 「えらそうに言いないな、お前かて算盤知らんやろうがな」 「コレ、店頭で人に恥かかすようなことを言いな。わしは算盤知ってるけども、訳があって算盤置くのは聖天様ヘスッパリ断ってしもうたわい」 「ウダウダ言いな。人形屋はん、この男は算盤知りゃアせん」 「コレ、人に恥かかすない、……しかし、人形屋はん、二人は算盤知らんのや、口でいうてんか」 「ヘエ、えらい失礼なこといたしましてござります。これでござりますと……」 「オイ、算盤おきないな、かえってややこしいから」 「ヘエ、ヘエ、エエ四貫につきまするでござります」 「四貫、高いなア」 「高うござりませんぜ。私ども一軒の人形屋なら、そりゃ高うも売りまするでござりましょうけれど、こうやって近所に仰山《ぎょうさん》人形屋がござりますので、われ一《いち》とお客様を引っ張り込むのでござります。えらそうに申すようでござりますけれども、私ども職人に貸金《かし》がござりまして、割り方、安う仕込んでござります。失礼なことを申し上げますけれども、よその人形屋たずねてもらいまして、なるほど、向こうは安うあきないよると思召しがござりましたら、お帰りにでもお立ち寄りがねがいとうござります。あなた方は、これ一ぺんではござりません、また、今後もご注文ねがわねばなりません、その時に口銭を頂きますでござります」 「そりゃあ、そうやなア、何につけてお前とこでもらうぜ」 「どうぞよろしゅうお願い申し上げます」 「私とこの小口に八十四になるお婆さんがあるので、死んだらお前とこで湯灌桶《ゆかんおけ》もらおうか」 「そんな物はありゃアいたしません」 「番頭さん、この男に相手になりな、しかし、これ二貫文に負からんか」 「ヘエ、二貫文、つろうござりますなあ、しかし、知らにゃア半値ということもごアりますけれども、露店の品物ではござりませぬから、そう荒いことはござりませぬ。……ぐずぐず申していましても、朝商《あさあきな》いのことでござりますので、黙って去《い》なれましては私ども縁起《えんぎ》がわるうござります。で、私どもから、これは五百文お引き申しておきまする、三貫五百文に、どうぞお買い求め願います。実にこの人形は三貫文や四貫文でござりませんぐらいな好い人形でござります」 「ぐずぐずいわんともっと負けときいなア」 「それはあまり殺生でござります」 「そんなら、こうしい、もう三百文はりこもう、二貫三百文にしておき」 「ヘエ、あんさん買い物はお上手ですなア。大ていなお方は、二貫文とつけなすったら、二十文とか三十文、五十文、百文ぐらいなことをおっしゃいますが、あなたは五十文や百文のことはおっしゃらず、二貫文とつけておいて、あと三百文……アア、スッパリしたお買いようでござりますなア。商人の腹エグリですなア、あんさんの気にほだされまして」 「マケとくか」 「もう、ちいっとお買いねがいます」 「何いうているのや、負けそうで負けんのやなア」 「どうも二貫三百文ではあまりひどうおまっさかいなア、……モシ、モシ、お客さん、そっちゃのお人、どうぞ虎の髯《ひげ》むしらんようにしておくれやす」 「オイ、何するのや、虎の髯むしったりしいなや、人形屋はん怒っているがな」 「ヤッ、えらいことをした、尾を取ってしもうた」 「そんな無茶しいな、人形屋はん」 「ヘエ」 「尾を取ってしまいよった」 「ヤッ……大事ござりませんです、職人にあんじょうさせますでござります。……モシ、こっちゃのお方が二貫三百文で買おうというておくれでやす、あんさん、すこし中に立っておくれやす」 「よっしゃ、ババ銭三文がとこ上げたろ」 「ババ銭三文やソコラしょうがござりませぬ、朝商いのことでござります、去んでもらいましたら縁起がわるうござります、損いたしておきます、ア、ヨイ、ヨイ、ヨイ、と、お負け申します」 「もう負けてくれてか……オイ、その銭二貫三百文出しい」 「よっしゃ」 「で、うちへ帰《い》んだら二貫四百文やというておきや」 「なんでや」 「お前と私とここまで来た、足代や。そいで帰んで焼き豆腐で二合のむのや」 「ハハアン、百文がとこ盗っ人するのか」 「大きな声だしな。しかし、人形屋さん、あの人形どれでもおんなじ値か」 「ヘエ、ヘエ、この段のでござりましたら、どれでも同じことでござります」 「こっちゃの人形はなんというのや」 「ヘエ、それは神功皇后《じんぐうこうごう》様でござります」 「ヘエ、こっちゃが神功様で、こっちゃが皇后様」 「イイエ、一体で神功皇后様でござります」 「ほんなら、こっちゃのお爺さんは」 「それは武内宿禰《たけのうちのすくね》と申しまして、帝《きみ》三代に仕え、至ってご長命なさった方でござります」 「オイ、あれ聞いたか」 「ムム、ありゃアどこの長兵衛さんという人や」 「何を言うてるのや、……あのこっちゃの台のはなんや」 「ヘエ、ヘエ、ありゃア太閤さんでござります」 「オイ、あれ聞いたか、あれは太閤さんやと」 「ムム、知ってる、わしの心安い」 「ウダウダ言いな、……ナア、人形屋はん、長屋のつなぎに持って行くのやが、この人形|二組《ふたくみ》見せてんか、わしの一了見にもいかんのやさかい」 「ヘエ、かしこまりましてござります。コレ、常吉、そこの空櫃《あきびつ》の蓋ァ持ってこい、一反風呂敷と……。この人形二組持って、お客さんについて行き、先方で一組おとりなすったら、一組もって戻ってくるのや。冗談せんように早う戻ってくるのやぜえ」 「ヘエ」 「毎度ありがとうさんでござります」 「丁稚衆《こどもし》さん、大きにご苦労やなア」 「イエ、今日は結構なお天気さんで、えらい暑うござりますなア」 「ホウ、えらい可愛らしい丁稚衆さんやなア」 「イエ、どういたしまして」 「えらい凛々《りり》しい子やなア」 「どうつかまつりまして」 「お前、歳いくつやえ」 「エエ、十五でござります」 「ハアン、歳のわりに身体小っちゃいなア」 「ヘエ、その代わりに、よう熟《ひね》ておりますので」 「南瓜みたようやなア」 「あんさん、この人形私とこでなんぼでお買いなさったんで」 「これはお前はんとこで二貫三百文に負けてもろうたんや」 「ヘエー、あんさん二百文買いかぶってござるな」 「エエッ、二貫百文で売っても口銭あるのか」 「ヘエ、ヘエ、二貫百文に買うてもろうても、なんぼに買うて頂いてもこの人形はな、豆くいというてなア、去年の置き古しだす。利滓《りかす》みたいな物で、光沢が変わっていましょう。蔵の隅にほったらかしてあったのを、埃払うて店へ並べておいといたんで、それをあんさん買うてでしてん」 「えらいことをしやがった、お前とこの店にいる番頭さん、とほうもない商売《あきない》が上手やなア、ツベコベ、ツベコベと、よう喋るなア」 「イエありゃ番頭さんやござりまへん、うちの若旦那だす、養子さんだす。あの方の商売が上手やというてはったら、うちの親旦那さんのを聞きなさったらびっくりしはりまっしゃろ。うちの親旦那は商売は上手だっけど、歳とって罪つくってヤイヤイいうのがうるさいいうて、奥にばっかりおいででやす。ええお人で、彼岸詣りのお供をしたかて、戻りにいろはで茶碗蒸したべさせてくれてでやす。ほいで、うちで誰かが尋ねたら、湯豆腐で飯たべたというておけと言うて、いつかて二人前くれてでやす。ほかの物はくれてやないが、ご自身お歯が悪いさかい、栗なんぞ、みんなくれてでおます。口の中でモグモグさしたのをくれてやよって、ヌルヌルして、ほん心持ちがわるうござります」  と丁稚は正直に皆いうてしもうている。 「あの若旦那、うちのおもよどんという女子衆さんとけったいなことがあったが、あんさん知っていはりまっか」 「わしゃア、そんなことは知らん」 「銭八文おくなはれ、言うて上げます」 「もうえ、もうえ」 「けれども、なんや面白そうや、今の銭ソッと八文出していうてもらおうか」 「お前は阿呆やなア」 「わたいも八文もらわんかて、だまってると眠とうなりまっさかい、ボチボチ言いますがな、せんど私お腹が痛うて二階に寝ていました。そうしたら前の方に鏡台がござりました。そこへおもよどんが出て来て、髪を梳《す》きつけていた。すると、若旦那が出てきはって、おもよ、何しているのや、ハイ、髪撫でつけていますねん、お前ゆんべ宿へ帰ったやないか、で、じき今朝髪なでつけているのやなア、櫛ィ貸して、若旦那櫛で何なさる、撫でつけるのや、あんさんの髪でっか、何いうてるねん、お前の髪撫でつけてみたいのや、若旦那、女子の髪を殿達は撫でつけられやアしません、その撫でつけられぬお前の髪を私が撫でつけてみたいのや、若旦那そんなワルサしなさるな、アレーッ……」 「オィ、丁稚衆さん、溝へはまるぜ、とうない妙な丁稚やなア、……オイ、丁稚衆さん、お前しょむないことを言うよって、乃公《おれ》アうかうかついてきて、道を三丁ばかり来すごしたぜ」 「えらい面白うござりますな、今日こうやって大阪じゅう歩きまひょか」 「阿呆いえ、こっちゃへ戻って」 「オイ」 「なんや」 「八卦見の先生戻ってはるぜ」 「ああ、そうか、ほんなら、そこへ入ろう、丁稚衆さん、こっちゃへ来て‥…ヘエ、今日は」 「オオ、誰かと思えば、長屋の清八様、喜六様まずこちらへ」 「ヘエ、先ほどあがりましたけれどお留守でござりまして、今朝ほど神道《はらいたまえ》屋の先生から粽を頂きまして、あなたもご存知の通り、この長屋のつなぎは、めでたいことでも悲しいことでも四十八文という定めでおます。ところが、柏餅ならそんなりほっとけますけれど、あない立派に粽を配りはったんやさかい、長屋一軒前に百文ずつ集めまして、二貫四百文でけましたのや、それで人形でも買うて祝うたらよかろうと思うのでござります。で、人形買うてまいりましたのでござりますが、ちょっと先生ごらんなすって。丁稚さん、こっちへ貸して、これが神功皇后様でござります。こっちのは太閤さんでござります、こりゃあ、先生、どっちにしたら、よろしゅうござりましょうな」 「ハアなるほど、神功皇后様、太閤さん、どっちにしたらよいかと尋ねられますかな、これは一つ易の表で占いましょうか」 「オイ、先生八卦見るというてなさるぜ」 「フーン、そうやなアー」 「アア余計な暇は取らせません」  というて、出してきましたのは、算木《さんぎ》と申して、我々が高座で使いまする小さな拍子木を六つよせたようなもの。  六つあってさん木とは、どういうわけでっしゃろ。真ん中は赤色で塗ってある。  筮竹《ぜいちく》と申して、シンシの真っすぐになったような細竹が五十本ござります。灰吹きのようなものに入ってござります。  こっちには梅花心易、その他、二、三冊の易書が置いてある。片一方には天眼鏡とか申して、ポッペンのへちゃげたようなものがござります。  先生筮竹を取り上げまして、 「乾元享利貞、乾元享利貞、爾《なんじ》の泰筮常《たいぜいつね》あるに藉《よ》る、今、まことに不審の卦を顕わす、乾元享利貞、乾元享利貞」  と一本取りまして脇に置く、これは鎮宅霊符尊に納める、また自分が信仰している神様へ納める人もあります。  その残りの筮竹をポンと二つに分けて、半分を下に置き、半分を読みまするのでござります。  パチパチパチ……。 「アア、出ましたる卦名は、山沢咸《さんたくかん》と申して、咸は感ずる、山沢気を通じ、鶯吟じ、鳳凰舞うという象《かたち》の卦でござります」 「先生、それは何でやすねん」 「と言ったばかりでは相分かりますまい、先ず家名にかかわらず今年生じたる子は金性にして、まった太閤秀吉公は元来尾張の産にして、百姓の胎内より出で、末は日本六十余州を収め、あたかもその勢いは火の燃えあがるごとくなり。してみれば秀吉公を火と象《かたど》り今年生まれの子は金性なれば、火と金を合せれば、火尅金《かこくきん》と申し、ごく悪い。まった神功皇后様は、婦人にして、女を北とつかさどり北は陰なれば水、水は方円の器に従う、円き物に入れれば円く納まり、角なる物に納むれば角に納まる、その水と金を合すれば、金生水と申して、至って相性がよろしい、こりゃア、やっぱり、神功皇后様がよろしゅうござりましょう」 「先生、大きに有難う存じますでござります——丁稚衆さん、もう一ペん奥へ行ってんか」 「ヘエ、参りますでござります」 「アア、ちょっと、お待ち下され、お心安いは長屋の交際《つきあい》、平素《つね》のことでござりますが、八卦の表で観ますれば、私の業体じゃから、見料を頂きたい」 「オイ」 「何や」 「銭が要るのや」 「勝手に見はったんやがな、貴様なんぼや尋ねてみい」 「モシ、なんぼでやす」 「家相方位などは百銅でござるが、お心安いから、マア四十八銅でよろしい」 「オイ、銭四十八文出しい、——さっぱりワヤや、焼き豆腐で二合飲めやせんぜ、一合より飲まれへん、——先生、ここへ四十八文置いときまっせ……サア、講釈師とこへ行こう」 「もう行きな、また銭とられるぜえ」 「何いうてる、講釈師が八卦見るかい」 「アッ、そりゃそうやなアー」 「ヘエ、先生、先刻は出まして」 「ムム、計略《はかりごと》は的中いたしたかな」 「ヘエ、——オイ、笑いな、どっちゃみちこの長屋は宿替えせにゃアどむならん、——マア、先生、安う買うて来たつもりだす。丁稚さん、こっちゃへ見せて、エエこれが神功皇后様でこれが太閤さん、どっちにしたらよろしゅうござりましょうなア」 「ハハア、神功皇后様、太閤様、どちらにしたら好いかと尋ねられますのかな、エッヘン、今一章で相分かろう読み終わろうというところ——」 「オイ、おかしな具合やぜ」 「太閤秀吉公は、尾州愛知郡中の中村、百姓竹阿弥弥助の伜にして、幼名日吉丸、成長の後、遠州浜名の領主、松下嘉平次の家に仕え、初陣の時の功名といっぱ、伊東日向守を討ち取ったり、これによって松下の家名を伝えんとせしに、何ぞ人の家名にならわんやとて、われとわがでに木下藤吉郎と名前を改め、尾州に立ち帰り、織田信長に随身なし、中国征伐の留守中、主人信長は京都本能寺にて、逆賊明智光秀のために命終わり、その弔い合戦は、頃は天正十年六月十三日、山崎天王山にて明智方を亡ぼし、翌年、北国柴田滝川の両家を討ち亡ぼし、太閤関白職に上らせ給うといえど、奢侈に長じその家三代つづかぬとある。男子の初節句、跡目相続つづかぬは縁喜わるし。こりゃアやっぱり神功皇后様がよろしゅう御座る」 「アッ、長い口上やなア、丁稚さん、もうこれでええ」 「わたしゃもう眠とうなってきました」 「えらい気の毒やったなア、……先生、大きに——」 「アア、コリャ待て、中途で帰るは其の方の得手勝手、講釈を聞いたら席銭を置いて帰れ」 「オイ、また銭が要るぜ」 「聞きないな」 「勝手にいうてるのや、なんぼや値を聞いてみい」 「先生なんぼでやす」 「一人前二十四銅ずつ」 「サア四十八文出しい」 「もう一文もあらへんぜ、最前四十八文と、今また四十八文、九十六文払うて、これでスッカラカンやぜ」 「アア、コリャ、茶が二文に敷物が三文」 「オイ、座布団なんぞ敷きないな、とうとう十文持ち出しや、わしが出しとこう。サア、早よ逃げ、なんぼ銭とられるか分からへん、サア、神道《はらいたまえ》屋の先生のとこへ人形持って行こう」 「堪忍して、もうわいは口上いうたりするようなことは知らん男やさかい」 「なあに、わしが後についてる、そやよって、言いそこのうたら、わしがいうたる」 「そうか、下手な口上ならわしかていうが、叱ってなや」 「ええがな、わしがついてる、——」 「先生、今日は」 「オオ、これは長屋の喜六様、清八様、先ずこちらへ」 「エエ、マア何でやすねん、承りまするところでは、お家方《うちかた》は今日はえらい結構なお天気でござります」 「マア、ぐずぐずいうていますと間違うさかい、手っとり早う言いますが、実は貴方とこから、今日粽くれた一件で出て来たんや。あんたも知ってはる通り、この長屋では、めでたいことでも悲しいことでも、四十八文と定めたあるけど、そこが貴方とこで柏餅でも配っておきなさったらそのままほっといてもええと思うのやが、いろいろといらんことして痩せ我慢張って、粽の一つも配りよったさかい、ほっておくわけにはいかんがな、そこで長屋じゅう相談して一軒前に百文ずつ集めて、ちょうど二貫四百文集まりました。そこで人形買うて祝うてやったらどうや、というので買うて来たんでごわす。どうや、この人形は元二貫三百文だす、マアなんじゃかんじゃゴテゴテして二貫四百と十文についてるようなわけで、マア粽《ちまき》ももろうた時は立派であったが、お菜《かず》にならず、皮|剥《む》いてみたら団子の磔刑《はりつけ》みたようで、風が当たりやア固《かと》うなって食えんわ、砂糖買うてこにゃアならんわ、長屋の者は皆ブツブツぼやいているようなことで、こりゃアお粗末でやすけれども一つご仏前へおそなえなすっておくなされ」 「オイ何いうのや、そんな無茶言いな」 「そやよって、わしゃア口上知らんというてるがな」 「知らんからというてあんまりや、先生とこでは祝《いお》うてござるのにお仏前などと言うて……先生、えらい相済みませぬでござります。喜六は阿呆だす、どうぞお気にさえられんように、折角祝うてござるところへご仏前てなことを言うて、気をつけんかい、私が改めて口上を申し上げます」 「イヤ、もう清八さん、それには及びませぬ」 「イエ、そうではござりません、ヘエ、先生今日は、結構なお天気さんで」 「ハイ、今日は結構なお天気で」 「エエ、明日も結構なお天気さんで」 「ハア、この調子なれば明日も結構なお天気で」 「エエ、じゃア明後日も——なんならこの月じゅうけっこうなお天気さんで」 「雨天はかないませんなア、百日晴天でも飽かんけれども、三日の雨天には飽くといいますが」 「さよう、三日も降るとさっぱりワヤだす、仕事は休みやし、雨はボトボト漏るし、それはさておき、路地のはいり小口がゴボッと掘れていますから、あすこに水が溜まってる、置き土《つち》してくれえと家主へ言うてもしてくれん、それも無理もおまへん、家賃やったことはないよって、それはさておき、前に並んだある三軒の雪隠《せっちん》、雨降り揚げ句にウッカリ行けまへん、水が一杯たまってる、きたない話をするようやけど、ジャブーンとハネかえる、てなことで、それはさておき、こりゃア、まあ、お目にぶらさげるような物ではござりまへんが……」  と風呂敷の中から取り出して差し出しましたのは人形の神功皇后様でござります。  神道《はらいたまえ》屋は押し戴いて悦びました。 「アー有難うございます、私を神職と見立て、何より結構な人形をお祝い下された、そもそも神功皇后様と申し奉るは、人皇十四代、仲哀《ちゅうあい》天皇の御皇后《おんきさき》様にして、息長足姫《おきながたらしひめ》と申し奉り、仲哀帝筑紫退治の折柄、船中にて御崩御、神託あって軍を出さんと、肥前国松浦川の流れに御髪を浸し給い左右に分け顱巻《はちまき》し給う、これ男子の形なり、朕戦に出づべくんば、この針の先に魚懸かるべしと、ご自身所持の弓の絃《つる》を外《はず》し、宝冠の金の針をつけ、下したまえば一尾の魚かかる、これ即ち鮎なり、それまで鮎という文字あらざりしが、占いと書いて鮎なり、時に御腹には応神天皇を宿し給い、船中にて腹冷えざる方法なきやと御尋《おんたず》ねある、傍にいました武内宿禰答えて曰く、さん侯、けがれたること御厭《おんいと》いなくば、鹿の生皮を御腹に巻き侯えとある、これを用いたまいたるゆえ、いまだに男山の正八幡宮の扉は鹿の生皮にて張るなり、続いて人皇十五代……」 「先生、待ったア、そう長い口上いうてもろうたら、あんたんとこでも銭が要りますやろう。どうぞ今度はお心付《ため》〔将来のお返し〕のうちで引いといとくなはれ」 [#改ページ] 猫の災難  お酒をお上《あ》がりになる方には、それぞれ上戸《じょうご》とか申しまして、くせがございます。  なかに、後引酒《あとひきざけ》というお酒がこざいますが、これは飲めば飲むほど、後欲《あとほ》しなるという、いやしい上戸でこざいますけれど、朝からどこぞで一杯引っ掛けよったか、ええ具合に酔うて、 「てとろしゃんしゃんでかあッ、なだめこしゃいしゃいかァ、ウォーラ、ええ具合に酔うたなァ。ウワッハッハハハハ、あアーちょっと朝から飲んだら、しかし夜飲む酒もうまいけど、朝酒ちゅうやつは、またなんともいえんぐらいに酔うなァ。えエー、気持がええなァ。しかしなんじゃ、あれだけでは頼りないなア。もうちょうと飲みたいねンけれど、拍子の悪い、懐にゃ銭はないし、顔の利く飲み屋はないし、しかしなんとかして飲みたいなァ。あ、そや、ええこと思いついた。向こうに魚屋が店出しとる。へえッ、魚屋へ行ってこましたろか。……おういッ、魚屋」 「へえッ、おこしやす、大将、なんぞいきまひょか」、 「いこ、いこ、いこ、どこでもいこう」 「いや、そやおまへんね。なんぞいきまひょかちゅうてまんねン」 「うん、そやからいこちゅうてる。ウワハハハ。あーら、仰山《ぎょうさん》あるな」 「えッ、見とくれやす。生きのええやつばっかしでっせ。どれいきまひょ」 「そやな、おい、ちょっと魚屋、わい、ちょっと酔うとるさかい、間違うてたら堪忍してや。ソレッ、向こうの柱のとこに、向こう向きに坐ってるのは、あれ、たあちゃんと違うか」 「どこにです」 「いいえいな。そう、向こうのあの柱のとこに、向こう向きに坐ってるの、あれ、たあちゃんと違うかちゅうね。わい、ちょっと酔うてるさかいな、間違うてたら堪忍してや。あれ、たあちゃんやろ」 「柱の向こうに、向こう向きに坐ってる……。大将、うだうだいいなはんないなア。たあちゃんやいいなはるさかい、人間かと思いました。あれでっかいな。あれ、章魚《たこ》です」 「そやろ、そやろ、たッ、たあちゃんやろと思うた。どッ、どうも後ろ姿がよう似てると思うた」 「よお、そんな阿呆なことおっしゃるで。どうです、大将、章魚いきまひょか」 「いこ、いこ、章魚いこ、章魚いこ、あの章魚、なんぼや」 「へえ、ヘッ、あれは、八円でおます」 「ああ、あの章魚、八円か。アッハハハ、なるほどな。参考のためにちょっと魚屋、聞くけどな。あの章魚の足、あれ、何本あんね」 「大将、章魚の足は、八本に決まってますがな」 「うッ、えらいッ、えらいッ。なあ、さすがは商売人や、よう研究しとる、たいていならやで、何本あるちゅうて尋ねたら、ちょっと待っとくれやっしゃちゅうもんやけどな、エッ、お前みたいに即答で、八本でおますというだけ、なかなか勉強してるな」 「うだうだおっしゃれ。誰かて章魚の足は八本ちゅうこと、知ってまんが」 「さァさ、知っててもやで、それをば即座に言えるちゅうのは感心したな。ほンなら、魚屋、尋ねるけどな、足のいぼいぼはなんぼある」 「うだうだおっしゃれ。そんなもん数がわかりますかいな」 「そやさかいいうてるやろ。なッ、お前も商売やろ。それぐらいの勉強せないかんやないか、えーッ、章魚の足のいぼいぼはなんぼある、これは日頃から勉強しとかないかんのや。アッハッハハハハ、いや堪忍《かに》して、堪忍して、ちょっとわい酔うてんねン。ホナラなにか、あの章魚、足が八本で八円やったら、足一本が一円ちゅうことやな」 「ええ、そうでおます。一本やったら一円でございます」 「あァ、そうか。ほな、足が八本あって、足が一本一円やったら、あの、あ、頭は無料《ただ》やな。ははあ、ほなァ頭だけもらおうか」 「阿呆《あほ》なことおっしゃれ、あんた。章魚の頭だけ買《こ》うて帰る人がおますかいな」 「アッハッハハ、嘘や、嘘や、堪忍《かに》して、あッ、魚屋、お、おかしなこと尋ねるけどな、そうそう、お前の足許で、そう、あの、こっち見てはるの、それ、あの、た、鯛《たい》、鯛と違《ちゃ》うか」 「なんです」 「いいえな、お前の足許でな、こっちを睨《にら》んではるのは、鯛と違うかちゅうね」 「わたいの足許で……あァーッ、こらァ鯛の頭だ」 「アッハッ、た、鯛、鯛やろ、やっぱしなァ。なんでその人だけそんなとこにいたはるね」 「いいえ、これはね、悪うなったもんでっさかいね。鯛の頭と尾と、ここへ放っておまんねン」 「あァ、そうか。それ、なんぼや」 「なんです」 「いや、その鯛の頭と尾となんぼやちゅうね」 「なんぼやとおっしゃったって、あんた、こんなもん、お金いただかれしまへんがな」 「はァ、お金いただかれへんということは、無料《ただ》やな。ヨシ、魚屋、その鯛の頭と尾といこォ」 「いや、これはいまもいうたとおり、腐ってますのやで。ぷーんと臭うおまンねンで。とても食べられしまへん」 「いやーッ、かまへん、かまへん、わ、わい、それ欲しいのや、はあッ、すまんけど、それおくれんか」 「あ、さよか、へいへい、承知いたしました」 「あッ、えらいすまんな。それ、竹、竹の皮に包んでくれんのか」 「あたりまえでんがな。こんなもん、このまま持って帰られしまへんやろ」 「ワハァッ、えらいすまんな。ほならその竹の皮代なんぼか渡そか。なんぼや」 「いやや、こんなもん、よろしおますわ」 「ウワッハハハハ、あーら、気の毒やなァ、ほな無料《ただ》か、アハッ、えらいすまん、ほなァ、有難《ありがと》うッ、さいならッ。アッハッハハハハ、これもろていくわ。そのかわりな、また今度なんなとで、い、いり合わせさしてもらうで。……あァ、うまいこといった。えーッ、鯛の頭と尾と、無料もろうてきた。これでどうやら一杯飲めそうな」  悪いやつがあったもんで、家へ帰ってきますと、わざわざ門口まで、俎《まないた》と庖丁《ほうちょう》と持って出てきよって、俎の上へ頭と尾と置きよって、その間へ擂《す》り鉢《ばち》を伏せて、出刃《でば》庖丁持って目エむいてますところへ、はいってきました友達こそ、暗剣殺に向こうたようなもんで、 「おいッ、家にいてるか」 「おッ、芳《よし》さんかい、ワッハハ、いや、実はな、今日仕事が休みやのでな、ちょっと朝から一杯やってな。いやッ、いまな、ちょっとなんぞあて〔酒の肴〕ないかいなァと思うて、魚屋へ、い、行ったらな、こんな大きな鯛があったんでな。ほいでこいつで一杯やろうと思うてな、これからこの鯛、料理しようと思うてるとこや」 「おー、そうか、そらちょうどええわ。いや、実はな、おれも休みや。もしもお前が仕事休んでたらな、一緒にどこぞで飲もうかいなと思うてきたんや。そうか、これからその鯛で一杯飲むのか。こーら、立派な鯛やなァ、えーッ、相当大きいな」 「ウワッ、見てくれ、見てくれ、目の下一尺からある大きな鯛やで」 「なるほどなァ。それ、新しいか」 「新しいも、新しないもお前、ぷんぷんと新しいぞ」 「ぷんぷん新しいてないい方があるかい。ほなら、こうしよかァ」 「どないする」 「どないするって、そうやないか、お前がそないして、あてのほうちゃんと段取りしてんのや、エエ、それでお前、酒よばれたら気の毒な、ナ、飲むのやったら、お互いに気兼《きが》ねなしに飲みたいさかいな、こうしよ、おれは酒の段取《だんど》りしてくるさかいな。そのかわり厚《あつ》かましけど、その鯛、あてにしてよばれるさかい。ナ、お互いに遠慮気兼ねなしに、酒はおれが買うてきたやつを、お前が半分飲んだらええがな。そのかわりおれも遠慮なしにその鯛よばれるで」 「いやッ、そ、そんなこと気ィ使わんといてや。なッ、いや、そんなこと気ィ使わんでもええちゅうのや、なッ、酒もおれが段取り……」 「いやいや、そらいかんて、そらいかんて。ホナおれ酒段取りしてくるさかいな。その間にその鯛、ちゃんと料理しときや」 「いや、おいッ、ちょっと待ち、おいッ、芳さんッ、いやいやッ、お前、そんな気ィ使うたらいかんがな。おいッ……。いてしまいよった。アッハハハハハハハハ、こうすっくりいくとは思わんなんだな。エエ、あいつも気のええやっちゃで。酒段取りしてくるさかい、お互いに気兼ねなしに飲もうや。エヘッ。その鯛、おれ遠慮なしによばれるかわり、お前もおれの酒気兼ねなしに飲めや。アハハハハ、そら酒は気兼ねなしに飲めるけど、この鯛どないして食うつもりやろ。そや、困ったでエ。あいつが酒段取りしてきよるわ。鯛料理できたかァ。いや、実は……困った。そや、こうしょッ、この擂り鉢なおしといてな。この鯛の頭と尾だけ、置いといたらええわ。そこはまたうまいことおれが、えへッヘ、ごまかしたるさかい。ヨシッ、これで段取りさえついたら、こっちのもんや」 「おーッ、酒段取りしてきたで。もう鯛の料理できたんか」 「ア、えらいすまなんだ。いやいや、えらい、えらいすまなんだなァ。えーッ。酒段取りしてきてくれたン、えらい済まん。いや、実はな。お前に申し訳ないことがでけてな」 「申し訳ないことがでけたて、どないした」 「いやッ、実はな、お前が酒段取りしに行てる間にな、この鯛、早う料理せないかんと思うてな、ド頭《たま》と尾とパンパーンと落としてな、料理にかかろうとしたら、実はちょっと人が来たもんやさかいな。ほいでわいここ離れてな、ほいでその人と話してた。フッと横《よこ》手見たら、猫がきとる。エエ、ほいで猫がきてるもんやさかいな、生臭《なまくさ》いにおい嗅《あ》いできよったなと思うたさかいな。シッ、シッちゅうて追うたン。シッ、シッちゅうて追うてんのに、あっちへ行きよれへん。ホデナ、わいがな、あっちへ行けーッちゅうたったらな。えらいすんまへん。ちょっとあんさんにお頼みがござりますと、こないいいよンね」 「誰がや」 「誰がて、猫が」 「猫がそんなこというか」 「いやいや……、いいよった。いいよった。いいよったがな。アハハッ、実は今日、猫仲間の寄り合いがおますねン。ヘエ、ほいで皆でちょっと一杯やりとおますねンけど、あてがおまへん。まことにすんまへんけど、この鯛いただいて帰ります、とこないいいよるさかいな。おれいうた。なんかしてけつかるねン。これからわい、芳さんとこれあてにして、一杯飲むのや、そんなもん持って行かれてたまるかいッちゅうてんのにな、いきなりバッとくわえてな、バーッと走りやがった。おらァすぐに後ろから、バァーッと追いかけていった。なかなかすばしこいやっちゃ、ビャアーッと走りよんね。そいでわいそこで考えた」 「なにを考えた」 「なにを考えたって、お前、相手はあないして四つ足で走っとるねン。こっちは二本の足で走ってるのや。こらァとても二本の足では追いつかんやろと思うたんでな。わいも四つ這いになって走ったけど、余計追いつかん」 「あたりまえやがなァ。ほならなにかい、猫に鯛の胴いかれてしもうた。肝腎のええとこいかれてどないするねンなァ。しかしまあ不幸中の幸いや。そないして頭と尾が残ったあんねン。えッ、ほなこうしよォ。なッ、鯛の潮《うしお》や。その頭で汁《しる》こしらえて、それあてに一杯飲もう」 「なにや」 「いや、なにやて、その鯛の頭をな、鯛の潮にするねン。ナ、その汁で一杯飲むちゅうねン」 「お前、なにか、どうしてもこの鯛、食うつもりか」 「食うつもりかて、お前、それしか残ってなかったら、それ食わなしようがないやないか」 「ところがな、訳を言わなわからん。いや、いまいうたとおりな、描が胴くわえてバーッといきよったんでな、帰ってきた。帰ってきてフッと気がついたら、ちょうど、そう、あの天窓からな、お日《ひ》ィさんが顔出してニコッと笑いはった。ワハハハ。えらいもんやなァ、えーッ、こんな生きのええ鯛でもな、お日、お日ィさんにパッと笑われたら、いっぺんに、いっぺんに、い、い、いてしもうたで」 「いてしもうたて、なにがいてしもうた」 「いやいや、ま、まッ、お前、これ食えりゃ食うてみィなァ、おらァもう、とてもやないがよう食わんで」 「ほな、なにかい、お日ィさんにあたって腐ったちゅうのか」 「そや、そーや。ハッハ、お前、これ鯛の潮にするか」 「なんかしてけつかるねン。そんなもん食えるかいな」 「そやろ、そやろ、そやから、もう、もう別にあてみたいなンいらん、酒飲むのに。エエ。ほな、その酒な、もうなんにもなしで、お前とおれと二人で飲んで、ホデ酔うたら、お前帰って寝え、わいも寝るさかい」 「なんかしてんねン、阿呆らしい。お前はあてなしでも飲めるかしらんけどな、おらな、なんなとあてがなかったら飲めんのや。どもしようない。わいこれからな、なんぞつまむもん、買《こ》うてくるさかい。その間にな、おれは冷酒《ひや》で飲むのンかなわん。燗《かん》するように、ちゃーんとあの火を起《いこ》して、湯を沸かして、ほいで燗の用意しときや。ホナ行ってくるさかい」 「おいッ、ちょっと待ち。芳さん、ちょっと、いやいやいやッ、酒は段取りさすわ、おまけにあてまでお前に段取りさしたら、それではおれが立っていても、立っていても、いら、いられんちゅうたって、いなしゃあないか……。アッハハハハハハハ、すっくりいきゃがんね、アハハハハハハハ、エエ、気のええやっちゃなァ、エエ、酒は段取りしてきてくれよった、ナ、おまけにエヘッ、今度は、あて段取りしてくるちゅうて、行きやがるねん。ワッハハハハハハハ、こないうまいこといくとは思わなんだなァ。アア、これはまたええ酒張り込んで買うてきよったで。ナ、鯛のあてやというたものやさかい、向こうも気ィ使いよってんな。エエ、上等の酒買うてきやがったで。どんな酒買うてきよったか、いっぺんちょっと、えッへへ、毒味したろか。なるほどなァ。トットットットットットト……なるほど、こらァええ酒や、アッハハハ、久しぶりやで、こんなええ酒飲むの。エエ。……アッハハ、この酒ならだいじょうぶや、これはええ酒買うてきてくれよったわい。しかし、えッヘヘ。ちょっと飲んだだけやけど、はっきりまだ味がわからんな。もうちょっと飲んだろか。そうやなあ、これだけええ酒や、上へ水増ししといたって、エヘッ、わからへんやろ、もうちょっと、えッへへ、注いだろか。ドッドッドッドッドドドドド……、アハッハハハハ、アア、ええ具合にまわりよるなァ、エエ、先にちょっと下地があっただけにな、エエ、そこへもってきて、こんなええ酒飲んだらたまらんなァ。えッへへー、……そや、いうとったなァ。わいは冷酒《ひや》で飲む酒はかなわんさかい、酒の燗するように、ちゃーんと、火|起《いこ》して、湯沸かして、ちゃんと用意しとき。エヘッヘ、なんかしてけつかる。しゃらくさい。ウワッハハ、そんなことしてられるかい。えーッ、第一、酒燗して飲むってのは、ほんまの酒飲みやないがな。ナ、ほんまの酒の味のわかるのは、冷酒で飲まなんだらわかるかい。なんかしてけつかるねン、えへッヘ、おれはなんなとつまむもんがなかったら、酒が飲めん。なんかしてけつかるね。ほんまの酒飲みちゅうのはな、おのれの指ねぶりながらでも、一升や二升の酒飲むのや。ヘッヘ、しかしだいぶに減ったな。もう水増すちゅうわけにはいかんようになってきた。ヘッヘヘ。………まァ、ええわ、ナ、あいつがいうとった。お互いに気兼ねなしに飲もうや。その鯛、おれも遠慮なしによばれるかわり、お前もおれの酒、気兼ねなしに半分飲め、とこないいうとった。ナ、どっちみち、おれが半分飲まんならん責任があるのや。後で飲むか、先に飲むのかの違いやな、半分飲んでしもたらええのや、ハッハハ、そうや、ドッドッドッドドッド、これでちょうど半分や。ハッハハァ。やあッ、えらい済まなんだ。おれはあてもなにもいらんねン。うん、先に半分よばれたで、えッへへ、お前それでまァ、あとゆっくり飲みいな、てなもんや。アッハハハハ、この酒、半分よばれたらええのやさかい。……アーア、しかし遅いな。なにしとるのや。あーッ、誰やッ、その戸口《こぐち》から覗《のぞ》いてんの。アッハッハッハハハハハ、ハハ、お、お光ちゃんやないかいな。アッハッハハハハ、なに覗いてる。そんなとこから。えーッ、どない……わいが大きな声出すさかいに、なんやろと思うて、覗……、なーやて、なんかしてけつかる。ヘッヘヘヘ、いやッ、わいちょっと酔うてんね、えッ、うわッ、またお光ちゃん、えらい今日は、えらいやつしてるやないか。えーッ、ちゃーと髪《あたま》結うて、えッ、はあッ、可愛《かわい》らしいなァ、エエ、いーぺん、いっぺんそっち、そっち向いて、そっち向いてみィな、そっち向いてみィ。ウワッハハハハハハ、ナ、女ちゅうのは得なもんやで、ナ、そないしてやつしてやで、髪の一つ、結うててみィな。ころっと見違うがァ、ナ、エエ、いやいや、ええ恰好に結えたある。ええ恰好に結えた、アッハハ、ナ、……えへッー、ワァッハハハ、いや、もうそんなとこに立ってんと、こっちへ入ったらどないや、ナ、なんや、恥ずかしい、なんかしてけつかる。ウワッハハハ、顔|赤《あこ》うにしゃがって……。エへへヘェ♪丸髷《まるまげ》にかァッ、エへへへへ、♪結われる身にをばァ、持ちながら、ちゅうやっちゃ、ホーレ、えッへへ、嬉しそうな顔して。アッハハハ、ほ、ほんま、ほんまにうまいこと結えたはるわ。ウワッハハハ、そ、それで顔さえよかったら、ハッハ、もっとええのに、アッハハハハハ、あーッ、ハ……なんや、なんや、泣いてけつかる。ウッフフフ、い、いま嬉しそうににこーッと笑うてたかいなと思うたら、笑うて、笑うてると、お、思うたら泣いてくさる。ヘン、なン、なン、なン、なに泣いてんね。なは、なにが悲しいね。えーッ、どない、顔がよかったらええのにいうたんで、なんかしてけつかる、ワッハハ、そんな顔、どないにもなるかい。なにを……なン、なんかしてけつかる。しやあない、な、泣くなァ、あほんだら、ワッハハハハハ、はあー、……泣かんでもええっちゅぅのや、ええ年して、な、な、泣きなちゅぅのや、ナ、イヤ、あのなア、そら嫁ィ、嫁入り前の娘にこんなこと言うのは、それはお前も気が悪いやろうけどな、いやーいやッ、心配せんでもええで。嫁入りロはなんぼでもあるわィ、なあーッ、昔からよういうやろ、破《わ》れ鍋《なべ》に綴《と》じ蓋《ぶた》ちゅて、ハッハァ、お、お前らみたいな顔してても、またお前らみたいな嬶《かかあ》を持つやつがあるのやさかい、心配せんでもええわい。アッハハハァ、ハッハ、泣いてあっちィ行きやがった。アッハハァ、……、ウフッハハ。しかしあいつ、なにしとンね、遅いなァ、芳公、いつまでかかっとんのやろ。ア、えらいことした。もうちょっとしかないで。ナ、こんだけぐらい残しといたってしようがない、ついでや、いってしもうたれ。アッハハハハハハハ、ナ、わりに一升《いっしょ》ってな酒、飲みでのないもんやなあ。ハーン、阿呆らしなってきたン、フン、……、ウワッハハハハハ、あァ、ええ具合にまわったなア。そうや、おいッ、あて買うてきたで。酒の燗、ちゃんとでけてるのか、と言いよったら、どないしょ。ええわ、ナ、この瓶、ここへころがしといて、ここらへこの湯をばまいといたらええわ。そこはまたなんとか言いようがあるやろ、ウワッハハハハ、だいたいあいつが帰ってくんのが遅いさかい、こないになってしまうねん……」 「オイッ、しょうむないもんやけどなァ、これを段取りしてきた。こんな物でもつまんでやらなあしようがないと思うてな、オオ、そいであの酒の燗、もうでけてるか」 「ウワッハハ、よう、芳さん、お帰、お帰り、お帰りッ、お帰り、いやあッ、あのな、芳さん、わいお前にま、まことに済まんことがでけたや」 「またあんなこと、ぬかしとる。済まんことて、どないした」 「いやいやッ、そッ、ほんまにどないいうて言い、言い訳したらええや、わからん、いや、いやッ、あのな、芳さん、まッ、まッ、あの、おッ、落ち着きや、なッ、あッ、あッ、慌てなッ」 「誰も慌ててえへんがな、どないしたというのや」 「いやッ、アッハハハハハ、あのな、わしァほんまにお前に面目ないわ。いやッ、実はな、お前があてを買いに走、走ってくれたやろ、なッ、そいでお前、行きしなに言うていったやろ。ちゃんと、アノ、燗するように、火をいこして、湯を沸かしとけやーッ、とこない言うたもんやさかいにな、すぐにお前、そのお湯を沸かそうと思うて、ほいでわい台所へ立っ、立っ、立っていったんや。なッ、いやいや、酒はここへ置いてあってん、酒はここ、お前が持ってきて置いたところへ置いてあってん。ナ、ホイデわいが、七輪《かんてき》に火をいこそうと思って、フッと気がついたらな、またさっきの猫がきとるね」 「おい、また猫か」 「ウン、また猫がきよってな。先ほどはえらいご無理申しまして、相済まんこってございました。つきましては、もう一つお頼みがございますと、こないいいよるね」 「ええ加減にしときや。猫がそんなこというわけがない」 「いやいやッ、いう、いうわけがないというけどな、もうその猫の態度でわかるのや。ア、頭、畳にすりつけよってな、先ほどああして鯛はいただいて帰りましたのやけど、ちょっと思うたより、人数が多うございますので、酒のほうがちょっと足らんようになりましたので、まことに申し兼ねますけど、このお酒をばいただいて帰りますと、こ、こ、こう言うよる、こう言いよるね」 「ほんまかいな。猫がそんなこと言うたりするわけがない」 「いやいやッ、いッ、いッ、いう、いうわけはないけど、つまりパッとこう、この瓶をばクワッと、か、抱《かか》えようとしよるさかいな、わい、わいいうた、わいかていうた。なるほどな、さきの鯛は、おれが段取りしてきた鯛やさかい。おれさえ諦めれば、それでええてなもんやけど、この酒はな、よッ、芳さんが段取りしてきた酒や。ナ、そやさかい、それ持っていかれたんでは、芳さんに済まんさかい、それだけは持っていったらいかんちゅぅて、おれが、ウッ、おれがこんこんと言うてきかしてるのにな。ソレ、それでもグァッと抱えて行こうとしよったさかい、おれもむかむかっとした。ナ、いきなり持ってた火箸《ひばし》をばビャーッと猫目がけて、パァーッと、投ッ、投げた。ナ、ところが手許が狂《くる》うたんや。えッ、拍子の悪い、瓶のちょうど詰めのとこへ、ポーンとあたった。ナ、ホナ詰めがポーンと抜けたと思うたらな、瓶がゴローッと横になりはった」 「横になりはったって、お前、ようそれを見てたな」 「いやいやッ、見てたらゆうわけやないけどな、せっかくそないしてお前、機嫌よう横になってはんの、いま起こしたら、機嫌悪う……」 「よお、そんな阿呆なこというてるで。で、どないしたいッ」 「いやッ、ソナお前、横になりはったもんやさかい、酒がドッドッドドドドドドドーッとこっ、こっ、こっ、こっ、こぼれたんや」 「こぼれいでかい、そいでどないしたちゅうねや」 「いやいやッ、ほいでな、わいも思うた、あーッ、勿体《もったい》ないことしたなァ、こらァ芳さんに済まんなあ、えらいことしたアとな、わいそのときに思うた」 「まァ、ええわ、ナ、こぼれたもんはしようはないわい。しかしお前、あれからだいぶんに酔うてるな。なるほどおれが来たときにも酔うてたけど、あのときくらべたらお前、相当酔うてるが、それは一体どういうわけや」 「いやッいやッいやッ。そらァ、わ、訳を言う、訳を言う。イヤッ、酔うてる、たしかに酔うてる。ウン、いや、いまいうたとおりな、畳にこッこッ、こぼれた酒な、むざむざと畳に吸わすのは勿体ないと思うたもんやさかいな、そやから、わい、畳に顔すりつけてな、で、グーッと一息《ひといき》にスス吸い込んだ。ナア、芳さん、なるほど盃や湯呑みで飲む酒も酔うけど、まァ、いっペん畳にこぼれた酒、吸うてみい、よう酔うで。もうわい、ええ具合に酔うた。わいもう寝るわ。お前も家へ帰ってゆっくり寝え」 「なにをぬかしてんねン。いい加減にしとけよ、ようそれだけ口から出まかせに言うたな」 「ア、芳さん、見てみィ、見てみィ、そッ、向こから、そッ、ナ、きまり悪そうな顔して、顔出しと覗いとる猫があるやろ。あいつや、あいつや、ア、ア、あいつがお前、鯛持って行って、ほいで、この、この酒こぼさんならんような、ゲ、原因起こしよった。あ、あ、あの猫、あの描やッ」  いうとりますと、猫、なに思いましたか、台所の三宝さんの棚の上へ上がりますと、向こう向きになって、手を合わして、 「悪事災ニャン、逃《のが》れますように」 [#改ページ] 猫の忠信《ただのぶ》  上方の名物は浄瑠璃で、この浄瑠璃と申しましても、いろいろ種類がござりますが、まず浄瑠璃というものは織田信長の愛妾小野お通、この人がはじめて浄瑠璃というものを作りまして、後に岩船|検校《けんぎょう》が琵琶をもって合わせたのが始まりやそうでござります。  また鶴翁という仁《ひと》は暦という浄瑠璃を百段こしらえたといいます。  この京阪では浄瑠璃というたら竹本義太夫節を浄瑠璃といいます。  また東京では浄瑠璃といえば清元あるいは常磐津じゃとか、一中節、河東《かとう》節または大薩摩《おおざつま》あるいは新内など、どれも浄瑠璃ですが、そのうちにも義太夫ときますと天狗が多い。  もう素人の連中が寄りますと、みな自慢をしますのでこの連中を天狗連と名をつけております。 「オイ次郎やんやないか」 「オオ六さん、今日は」 「お前どこへ行くのんや」 「お師匠はんとこへ行くね」 「今度師匠とこに会があるねとな」 「それで忙しゅうて、忙しゅうてどもならんね」 「今度の会は通会《たて》かみどりか」 「やっぱり通会やが、いつも忠臣蔵とか菅原とか、むこの連中の出し物は決まってるという世間の評判やで、今度は千本桜の通しにして御殿は連中みな総出で掛け合いや」 「ナ二千本か、それはよかろう、そこで出番はどうなってるね」 「すしやは吉野屋の常やんが語るね」 「フムすしやを吉野屋の常貴がやったら私はどこを語るね」 「六さんは椎の木のはば≪端場≫〔はじめの部分〕を語ってもらうというてはったで」 「ナンヤ、私に椎の木の端場を語れと、オイ私は昨日や今日の稽古と違うで、あの稽古屋では私が連名頭や、それになんで椎の木の端場を語らんならんね」 「そらいうてたで、他の連中が、亀屋の六さんは師匠の内では一番古いやおまへんか、そんなことをしたら六さんが怒りはりまっせと言うてた」 「そうやろ、また他の連中に真似の出来ん節があるのや」 「その節が邪魔になるねと」 「なにが邪魔になるね」 「イイヤ、そうやそうや、あの人はごしきやというてた」 「ナニ私を越路やというてたか」 「違う、ごしきや、と」 「ナニごしきてなんや」 「素人のくせに玄人《くろと》ばって気張って黄な声を出して赤い顔をして鎗《やり》を食うて青うなるので、あれは五色やと言うてた、あんな下手な浄瑠璃はない、まるで豚が喘息《ぜんそく》を患うてるような声を出してウガウガと唸られたらたまらんと」 「オイ次郎、私は何も浄瑠璃の太夫さんになろうと思うて稽古をしてるのんやない、ただ人に聞いてもらうのんを楽しみにやってるのや」 「それを聞かされたら災難やと」 「何が災難や、そら吉野屋の常貴は声はええし、節はええし、浄瑠璃に艶《つや》はある、それは巧いやろ」 「そら常やんと六さんとは一つにはならん」 「私は今度の会にはよう出んよってにそう言うといてくれ、お前も稽古をするのんなら男の師匠に習い、このごろ師匠に好きな人が出来てるで」 「それは私も知ってる」 「お前知ってるのんか」 「知ってるとも、それは私や、師匠も言うてはったで、連中さんも仰山来るけども次郎はん、あんたが一番好きやと」 「阿呆、ようそんなことをいうてるなア、誰がお前みたいな男に惚れるもんか、師匠は吉野屋の常貴と好い仲になってるで」 「そんな無茶なことあるもんか、現在私という者があるのに」 「まア聞け、師匠とこのお父っさんは伊勢屋の三郎兵衛旦那のお供をしてお伊勢参りをして留守や、それで私が留守見舞いに師匠とこへ行て入口を入ろうとすると話し声が聞こえるもんやで、アア誰ぞ連中が来てるのじゃと思うて、表の格子の間からのぞいて見ると吉野屋の常貴と師匠と二人、台所で差し向かいになって一杯飲みながら何やイチャイチャ言うてるので、私は入らんとそのまま戻って来たんや、ところがお前に逢うてはじめて会の話を聞いてみると、師匠と常貴とああいう仲やで常貴にすしやをやらして、私に椎の木の端場を語らしよるね、お前もそのつもりで師匠とこへ行きや」 「そんなら何かいな、六さん、今お前が言うたん、それほんまか」 「ほんまも嘘も私が今見て来たとこや、嘘かほんまか、師匠の家の表からのぞいて来たら分かるやないか」 「ババ馬鹿にしてよるがな、マァ六さん聞いてや、私は今度の会にこうやって稼業《しょうばい》を休んで走り歩いているね、それも盗人の昼寝や、当てがあるね、そんなことならこれから稽古屋へ行て見た上で私にもつもりがある。常やんとこの姐貴《あねき》は悋気《りんき》深い女やよってに、姐貴を焚きつけて夫婦喧嘩をさしてやる」 「オイ次郎貴、そんなことをしいなや」 「だんない、ほっといて、じゃらじゃらした、人を馬鹿にしてよる、しかし待てよ、師匠かて言うてたで、他の連中さんはともかく、次郎はん、あんたほど好きなお方はあれへんと。私と師匠とあんまり仲がええのんで六さんが悋気をして私に惑乱をさしよるねで、師匠にかぎってそんなことがあるもんか……、アア師匠とこの門口へ来たで、うっかり内へは入れんで、よう見届けてから、こおつと、見るとこがないかいな、あるある格子の隙間からのぞいたろ、アア六さんの言うてたとおりや、師匠と常やんと差し向かいでイチャイチャ言うて一杯飲んでよる、アア腹が立って来た、常やんとこの姐貴に焚きつけてきたろ、こうつとどないしたろ。まてよ。そうやそうや、姐貴は悋気ときたら目も見えぬようになりよる、そばへ茶碗や鉢や皿を置いといてやろ、投げて割りよったら、うちの兄貴の商売が焼きつぎ屋をしてよるよってに、そこで兄貴に銭儲けをさして入れ合わせをしたろ……。姐貴、今日は」 「オオ誰方かと思うたら次郎はんやおまへんか、サアどうぞお上がり、マアこのたびは稽古屋の会であんたがえろうお世話をしてくれてはるそうで、家の常はんはあんな不精なんでおますよってに、次郎はん、あんたばっかりに骨を折らして、常はんにあんたもちいと走り回ってやったらどうだんねというてまんね」 「イイエ私はこんなことが好きでやってまんね、しかし姐貴、えらいええ着物を縫うてなはるな、そらあんたのんだっか」 「イイエ常はんのン、いつも会のたんびに同じ着物も着せておかれしまへんのんで急に縫うてまんね」 「それ常やんのんだっか、それ」 「ヘエ」 「姐貴、あんたそれ嬉しいと思うて縫うてなアるか、また憎たらしいと思うて縫うてなアるのんか」 「そらあの人が喜ぶと思うて縫うてまんね」 「アアさよか、しかし姐貴、今もみな連中が寄ってあんたの噂をしてましたで」 「マアさよか、どうであての棚卸しを皆が寄って言うてはったんだっしゃろう」 「何言うてんね、姐貴、皆があんたのことをいうて褒めてたで」 「何で次郎はん、あてが褒められるようなことがおますかいな」 「さいな、ここの常さんは男前はよし、愛想《あいそ》はよし、浄瑠璃は巧いし、節はええし声はええし、どこの会があっても当たりのつかぬことはなし、常やんは連中うちでの色男やと、世間で皆がかれこれいうてるのんが姐貴の耳に入らんことはあるまいと」 「阿呆らしい、何を言うててやね、次郎はん」 「けどもむこの姐貴はえらいというて褒めてたで、マアたいていの女はみな悋気をするのに、それに吉野屋の常貴とこの姐貴だけは感心や、世間でどんな噂を聞いてもすこしも顔へも出さねば口にも出さず、実に感心やというてたで、うちの嬶《かかあ》はそんな縫い物でもしてる時に外で亭主が浮気でもしてるというようなことを聞いたら、人の物でも我が物でもそんな区別がつかん、すぐに引き裂いてしまうのに、それに聞いても知らん顔をしてるのは実に感心や、しかし女という者はすこしは悋気をせんといかんで、女に悋気のないのんと山葵や芥子の利かんのんは何とのう間が抜けていかんもんや、すこしは姐貴、悋気をしいや、世間の人が阿呆やというで、すこしは悋気をしいや」 「イエ次郎はん、なにか、今聞いてると何やうちの常はんに外で情婦《おなご》でも出来てるような言い方やしな」 「なにや、外に情婦でも出来てるような言い方やな。姐貴お前なにも知らんのか、アアそうか、しかし姐貴、どんなさばけた女でもこのごろの常やんの行状《しだら》を見たら悋気をせんとはおられんで、うちの妹やったら縫うてる着物をピイーと引き裂いてしまうで、けどもナア姐貴、お前はそんなことをしいなや」 「そんなら何か、うちの常はんに情婦が出来たというのんはそらどこの女や、次郎はんあんた知ってるのんならあてに教えてんか」 「そーらおいでた」 「何がおいでたんや」 「こらこっちのことや、お前とこの常やんと稽古屋のお師匠はんとそれはそれは、深い仲やで、連中で知らん者はないというのは、皆の前でも構わずにイチャイチャするので見ていられんね」 「エエ、それほんまか次郎はん、知らなんだ、知らなんだ、あの稽古屋のお師匠はんとか、エエ腹の立つ」 「姐貴、茶碗も鉢も皿もここへ持て来とこか。みな割ってしまい」 「次郎はんなんでやね」 「うちの兄貴は焼つ……アババババ」 「何を言うてるのんや、そんなこととは知らんもんやさかいにこうやって会の時の用意にと、何もうちに物があり余ってあるやなし、あてが一枚の着物でもうちの人に内緒でこしらえて、会の日に着せてやったら喜ぶやろうと思うて縫うてるのに、それに人もあろうに稽古屋の師匠と好い仲やなんてあんまりや、次郎はん、あんたそれ見てやったんか」 「見たとも、見んとそんなことが言えるかいな、姐貴、その着物ピイと破り」 「マア腹の立つ、そら次郎はん、いつのこっちゃ」 「そら今のこっちゃ」 「いつの今やね」 「今の今や、見て来た温々《ぬくぬく》や、まだ湯気が出てる」 「次郎はん今の今か」 「そうや、茶碗も鉢も……」 「アアびっくりした、すんでのことでこの着物を破ってしまうとこやった、次郎はん、ご親切に大きに憚りさん、マア一服おあがり」 「アレちょっと風向きが変わって来た、今見て来たんやで、姐貴」 「次郎はん、好い加減に惑乱しときなアれや、そら世間の人はいろいろなことを言いますやろう、常やんとこの嬶は悋気深いとか焼き餅焼きやとか言われてますやろう、これが昨日とか一咋日とかならあてもほんまにしますが、今の今やなんて阿呆らしい、あんた惑乱が下手や」 「姐貴なかなかえらいな一ペんは怒ってみたけども、じっくり持ち直して私が帰った後で悋気をしようと思うて、それでは焼きつぎが持ちになるがな」 「何がやね」 「これはこっちのこと、けども姐貴今見て来たんやで」 「何を言うててやね、次郎はん、うちの常はん奥で寝ててやがな」 「エエー、ウダウダ言いなや。姐貴そんなことがあるもんか、現在今私が見て来たんやないか」 「そんなことがおますかいな、奥で寝ててやがな」 「アアアアア、大きな声でワアワアと喧《かしま》しい何を言うてるのじゃ、馬鹿奴、オイ次郎貴」 「アア常やんか、フッフッフッ……」 「何がフッフッじゃ」 「常はん、次郎はんが来てあてをつかまえて惑乱をしてやのんで」 「馬鹿、お前は黙っておれ、オイ次郎貴、友達という者はえらい親切なもんやな、オイそのようなしょうむない惑乱はおいてくれ、そうやのうても他人の悋気ででも痩せるくらいな焼き餅焼きや、ひっきょう俺が家にいたならこそええが、もし俺がいなんだらどんな間違いが出来てるや分からんで、うちの嬶は腹が立ったらわが家でも火をつけ兼ねへんで、しようむないことを焚きつけてくれな、サアもうこれからは途中で逢うても言葉も掛けてくれな、友達の付き合いは今日限りじゃ、そう思うていてくれ」 「ちょっと常やん待ってんか、そないに言われると、えらい私がつらい、私はどう考えても不思議でたまらん、私起きてるか」 「起きていいでかいな」 「しかし世の中に似た人もあるが、こないによう似た人を見たことがない、着物から莨《たばこ》入れまで同じことや、マア聞いて、今私が師匠とこへ行くと誰やらうちらで話し声が聞こえるのんで、格子の間からのぞいて見たらば、お師匠はんと差し向かいで一杯飲んでる男が常やんやね、怒りなや、それでここへ出て来てこんなことを言うたんやが、別に惑乱でも何でもないね」 「次郎貴、私が家で寝てるのに師匠のとこでいるわけがないやないか」 「それが不思議やね、私かて紋も型もないことを言いそうなことがない、ナア姐貴、えらい済まんが、一ぺん私と一緒に稽古屋まで来てんか」 「次郎はん稽古屋へ何しに行くのんや」 「常やんがいるか見に」 「次郎はんしっかりしいや、あんたどこぞおかしなとこへ小便でもしたんやないか、今現在ここに常はんがいるのに常はんを見に行くやなんて、そんな阿呆らしいことが出来るかいな」 「けども余り不思議なよってに、姐貴に見てもろうて、似た人がいてたら私が間違うのも無理がないと分かるよってに」 「そうかてそんな阿呆らしいことがあるかいな、常はんどないにしまひょう」 「お前が余りしょうむない悋気をするよってにや、仕方がない、次郎貴も帰るしおがないのんや、ついていてやれ」 「そうかて」 「マアええわい、途中で逃げたらほっとけ、逃がして戻って来い」 「そんなら次郎はん行きなはれ、ついて行たげる、ほんまにこれに懲りて今度からこんな惑乱をしなはんなや」 「姐貴えらい気の毒なナア、そんなら常やん、ちょっと姐貴を借って行くで」 「サアサア用事のない暇な身体や、せいぜい使うてや」 「ほいほい、姐貴済まんな」 「サア次郎はん、あてがこっち向いてるよってに早う逃げなアれ」 「イヤ逃げへん、稽古屋まで行てもらう、こんな妙なことはない、姐貴来た、待っててや、この格子の間からのぞいたんや、姐貴いててや……、やっぱりいるがな、サア姐貴、私の目が違うてるか、一ツあんじょう見て」 「何か、次郎はん、うちの常はんがいるか」 「いるとも、いるとものぞいて見」 「どこにや、アレ次郎はん、あれうちの常はんや、エエ腹の立つ」 「オイ姐貴何をするね、私の胸倉を絞めて、どうするね、咽喉の仏はんがつぶれるがな、放してんか、アア苦しい」 「次郎はん、うちの常はんが差し向かいで一杯飲んでる」 「それみいな、姐貴」 「マアあないに家で立派に口で言うていて、それでここで一杯飲んでるのんは、あて合点がいかん、いつの間にここへ来たんやろう」 「姐貴、あんたは知らんが、常やんはこないだから講釈を聞きに行てる、難波戦記の真田幸村がどうやとか、抜け穴がどうやとかいうてたがこれや、お前とこの奥の畳をめくると、抜け穴が掘ってあって、稽古屋へ出るようにこしらえたあるね、ズボッと入ってここ町内へニュッと出るね」 「マアそんなことをしてよるねやろうか、次郎はんどうしまひょう」 「家へ帰って穴から出るとこを笊《いかき》で伏せてやり」 「まるで鼬《いたち》やがな、次郎はん手伝うとうや」 「よしや、常やんが穴から出たら姐貴咽喉を絞めてやり」 「そんなことをしたら、うちの常はんが死ぬがな」 「常やんが死んだら私が後へ養子に行くがな」 「そんなこと嫌やし、次郎はんあんた先に家へ入って常はんの出るとこを捕らえとう」 「よしや」 「次郎貴、どうやった」 「姐貴、あかんあかん、もう穴から出て火鉢の前へ坐ってるで」 「マア常はん、ヒイヒ……そら殺生やわ、あてに内緒でトンネルをこしらえてからにヒイ……」 「マア待て、俺が稽古屋にいてたか」 「ようそんなしらじらしいことがいえるな」 「コレ、次郎貴が見違えるのはともかくも現在連れ添う女房のお前が見て、俺やというのはどうも合点がいかん、ハハンー」 「フフンー」 「真似をするない、何やこのあいだから連中が私の顔を見ると、常はんお目出とうさんとか、いずれお祝いがおますやろうなアとか妙なことをいいよるわいと思うていたが分かった。さては狐狸妖怪《こりようかい》の類《たぐい》じゃな」 「常やん、コウリがヨウカン食うたてなんのことや」 「氷が羊羹じゃない、狐狸妖怪とは狐狸《きつねたぬき》の仕業やというね、そんならこれから次郎貴、俺と一緒に行こう」 「どこへ行くね」 「稽古屋へ行くのじゃ」 「稽古屋へ何しに行くね」 「俺を見に行くのんじゃないか」 「そんなジャラジャラしたことが、常やん、お前がお前を見に行くてそんなことが出来るか」 「マアええわい、おとわ、俺は行て来るよってに、お前はうちに留守番をしておれ、かならず誰が来ても門戸口を開けることはならんぞ、サア次郎貴、俺と一緒に稽古屋へ行こう」 「けども、なんやおかしいな、姐貴どないしよ」 「次郎はん、常はんも引っ込みがつかんよってにあんなことを言うてるのやわ、途中で逃げたら逃がしたげとくなアれ」 「馬鹿、同じようなことを言うてよる、サア次郎貴、俺がここにいるのに向こうに俺がいるというはずがない。何にしても怪しいぞ、次郎貴、サアそっとのぞいて見い、俺がいるか」 「心細いな、常やんそこにいててや、アア常やん、いるいる、お前が向こうにいるで」 「何いるか、いよいよ狐狸妖怪の類じゃな、退《の》いてみい、ほんにいるな、着物の縞から莨入れまでそっくりや」 「常やんいるやろう」 「フムここにいるのが俺じゃが、あいつは誰や、俺があいつか、あいつが俺か」 「常やんそんな頼りないことを言うたらどもならんがな」 「サア次郎貴、お前うちらへ入って行け、この莨入れを貸してやる、家中へ入ったらどうでお前に盃をさしよる、その手をつかまえて手首を調べてみい、指が長ければええが先が丸かったら手を放すな、この煙管で殴れ、俺が入って行てやる、ええか」 「常やん、かどに待っててや、お師匠はん今日は」 「オオ次郎はんだっか、どうぞこっちへお上がり、今常はんが来はったんで一杯飲んでまんね、ちょうどええとこへ来とくなアった、今度の会でえらいあんたにしんどをさしまして、ちょっと常はん、居眠ってはるわ、次郎はんが来てでおましたわ」 「イヤ次郎貴、お出で」 「イエ……」 「何もおまへんけども、次郎はんチョッと一ツお盃、ご免やす」 「イエ大きに有難とう、お師匠はんこれお酒でおますか、馬の小便やおまへんか」 「阿呆らしい、何を言いなはるね、次郎はんサアどうぞ」 「アアさよか、けども氷が羊羹やよってに」 「次郎はん、あんたえらい慄《ふる》えてなアるナ」 「イイエ慄えてエしまへんね、身体が細こう動いてまんね、ほんにこれはお酒や」 「鰻の蒲焼きどうだす」 「鰻やいうて蛇やおまへんか」 「次郎はん妙なことばっかり言うてはる、サアお召|上《あが》り」 「ヘエ、ほんに鰻や、常はんご免」  と盃を取りに来るその手をしっかりと握りまして手首をなぜました。 「アハハハハハ、常やん、丸いで……」  門口から中へ飛び込んで参りまして襟首を取って押さえつけました。 「オオあなたは常はん」 「お師匠はん心配しなはんな、これ、お前は何者じゃ、どっこい逃がすもんか、コレ言わんか、言わな煙管で殴るぞ、コレ言わんか言わんか」 「ハイ、モモ申します、申します。頃は人皇《にんのう》一百六代正親町院の御宇《ぎょう》、山城大和《やましろやまと》二ヶ国に田鼠《でんそ》というて田畑を荒らす鼠つきしが、民これを悲しみ時の陰陽師《はかせ》に占わせば、高位に仕えられたる三毛猫の生皮をもって三味に張り、天に向こうて弾く時は湿《うるお》いたちまち地に落ちて、田鼠ことごとく去るとのこと、私の親、その頃伏見の院様に仕えしが、一旦御用を相勤め、民の困窮を救いしが、いかなる業困深きにや、両親とも三味に張られ、親を取られしその頃はまだ毛も揃わぬほんの仔猫、ごろにゃんごろにゃんと尋ぬるかいも泣くばかり、親の仇を討たずんば、あれは盗人猫よ野良猫よといわれるが悲しさに、所々方々とさ迷い尋ぬるうち、回り回ってその三味がこの家にあると聞きしゆえ、仮りに常吉様のお姿となって、当家へ入り込みしは、あれあれあれ、向こうに掛かってあるあの表皮は母、裏皮は父、私はあの三味線の仔でござります。にゃん」 「アア猫や、それでことが分かった、しかし今度の会は当たるで、千本桜の役割がすっかり出来てる」 「そうか」 「マアわしがさしずめ吉野屋の常吉で義経や」 「なるほど」 「お前が駿河屋の次郎吉で、駿河の二郎や、年長で古いのんが亀屋の六さん、亀井の六郎、伊勢屋の三郎兵衛旦那が伊勢の三郎、この家の親爺さんがお伊勢詣りのお供について行てる弁慶で、この猫が俺に化けて毎日酒を只飲んでるので、猫の≪ただのむ≫とちゃんと出来てる」 「常やん、肝心の静御前がないやないか」 「何をいうてるね、お師匠はんや、名前までがお静さん、そこで静御前や」 「なるほど」 「阿呆らしい、あてのようなお多福が静御前やなんて、似合いますか」  猫が頭を上げて、 「ニヤウニヤウ」 [#改ページ] 野崎|詣《まい》り  俗に三詣りと申しまして、関西には、変わったお詣りがございます。  何かと申しますと、京都は祇園さんのおけら詣り、またもう一つは、讃岐の金比羅さんの、鞘橋《さやばし》の行違い、あとの一つが大阪の野崎詣り、このお詣りが変わってございまして、関東にはこざいません。  喧嘩がつきものというお詣りで有名なものですが、大阪の我々同様という奴、馬の合いました奴が二人、野崎詣りをしようというて、大阪を東へ東へとりまして片町、京橋を過ぎまして、徳庵堤にかかりますと、主従無礼講、その道中の陽気なこと。(おはやし) 「おーい、早よおいでや、早よおいでや」 「ちょっと待っとくなはれな、そない早う歩かんかてよろしいやろ、まあいけずやわ、ちょっと待っとくなはれちゅうのに」 「早よ来い、早よ来い、じじくさいガキやな、早よ歩きいな」 「おい、おい、待てよ」 「なんや、竹やん」 「なんややあれへんがな、なにを愚図ぐずしてるねん」 「何を愚図ぐずしてるて、お前、お前みたいに早う歩けるかいな、もっとゆっくり、のんびりと歩いたらええやないかい」 「まあなあ、ゆっくり歩いたらええちゅうけど、エエ、他の人は皆、急いて行きはるのや。エエ、お前みたいにゆっくり歩いたらあかんがな」 「そうかてお前、ずうっと歩きづめやろ、足が痛うてしょうがないねん」 「足が痛いのんかい、もうしばらく辛抱しい、お前を歩かさんと、野崎の観音さんまで連れて行ったるわ」 「何かいな、歩かんと野崎の観音さんまで行けるの」 「ああ、まかしとき、お前をナ、舟に乗せたるさかい」 「なに」 「舟に乗せたるちゅうねん」 「あかん、わい、舟恐い」 「なに」 「舟、恐い、イーコンコン、イーコンコン恐い」 「イーコンコン恐い、ようそんなこと言うてるわ、何が恐いねん」 「何が恐いてお前、板子一枚下地獄やで」 「そのかわり、板子一枚上極楽や、ナ、ゆっくりと。まあ、汚い舟やけど、日頃は小便買い舟でも、今日は、毛氈《もうせん》を敷いてきれいにしてあるねん、その舟でゆっくりと坐ったまま、観音さんまで行けるねん」 「ああ、それでもあかんねん、俺、第一な水見たら恐いねん、アコワちゅう病気があるねん、水見たらアコワ、アコワちゅうねん、あ、あかんねん」 「あかんねんて、そんなこと言うてるやつがあるかい、エエ、一ぺん乗り」 「乗りてか。堪忍してえな、わい、ほんまに恐いさかいに」 「何を吐かしとんねん、何が恐いねん、舟に乗るぐらい。乗れちゅうたら乗れ」 「ポンポン言いなや、ポンポン、何でポンポン言うねんな。ホナ乗ったらええねんやろ、オイ、どの舟に乗るねん」 「なるべく混んでる舟に乗るねん」 「空いてる舟に乗るほうが楽と違うか」 「そら分かったあるけど、空いてる舟は暇がかかるねん、ナ、なるべく混んでる舟は乗前《のりまえ》 が早う決まって、早う出るねん」 「アそうか、ほんならどれに乗ろ」 「どれに乗ろうて、早う乗れちゅうねん」 「ノ、乗るがな、無茶しないな、人をボーンと突いたりしないな、ほんまに。オイ、竹やん、おかしな具合やで、何やこの舟動くで」 「当たり前やないかい、動くさかい向こうへ行くのや」 「わい、動く舟きらいや」 「動く舟きらいて、お前、動かん舟があるか」 「大阪へ行ったらぎょうさんあるがな、道頓堀でも、大川でも」 「どんな舟や」 「牡蠣船《かきぶね》」 「阿呆、あれはくいにつないであるねん、何を言うてるねん、恐がるやつがあるかい、大丈夫やいうたら大丈夫や」 「ほんまかいな、ほんまに大丈夫か、ほんまにわい舟が恐いねんさかいな」 「オイ、船頭さん、もう舟出るのかいな」 「オオ、乗前が決まったら出しますでの」 「ああ、そうか、竹やん、乗前が決まったら出すと言うとるで。早う出せ、言うたれ」 「ア、そうか、ホナ早う出してくれよ」 「オウ、今出しますでの、ほんだらすまんがのう、今乗ったお客さんよ」 「わいかい」 「すまんが舟出しますで、一つ艪《とも》を張ってやっておくんなさらんか」 「何や」 「すまんが艪を一つ張っておくんなされ」 「張ってもかめへんか」 「オウ、力一杯張っておくんなされ」 「アそうか、ちょっと待ってや、すぐに張るさかい……。張るで、ええな、ヨットコラッ」 「痛い、何をしなはるのや、不意に人の頭どついてどないしなはるね」 「いいええな、船頭がトモを張れちゅうたさかい、こないして見たところ、あんた、この人の供らしいさかいね、ちょっとだけ」 「オウ、お客さんヨ、違う、違う、何をしなさるねん、誰もナ、その供じゃあらせんがな。棒ぐい持って力を入れておくんなされちゅうんじゃ」 「棒ぐい持って力を入れるのかい。お前、供を張れちゅうさかい……、えらいすんまへん。しかしあんたの頭よう鳴る頭でんな、ええ音しましたでえ」 「人の頭を太鼓みたいに吐かしてけつかる」 「ホナ棒ぐい持って気張ったらええねんなあ。よっしゃ、気張るでえ、待ってや、ちょっと待ってや、いま気張るさかいなあ、よっしゃ、気張ったで、早よ出して」 「なあ、お客さん、一つよろしゅうお頼み申しますで」 「ヨッ、ヨッ、ヨッ、何糞ッ、こんなもの腕が抜けても放さんぞ」 「ヨッ、なんでこない舟が出えへんねん……」 「こうなったら意地でも放さんでえ、イヨッ……」 「オイオイ、何をするねんな、そんなもん持って気張ったら舟が出えへんがな」 「お前、棒ぐい持って気張れ言うたやないか」 「そうじゃあらせんがな、棒ぐいを一つ向こうへポンと突いとくなされちゅうんじや」 「あ、向こうへ突くのんかい、ややこしい、艪張れやとか、棒ぐい持って気張れやとか、張ったらええのんかい、よっしゃ、ほんなら張るでえ、ヨーット、ヨーイ……。おい竹やん、えらいもんやなあ、エエ腹の立つ時ちゅうのは思わぬ力の出るもんやな。エエ、力を入れてボンと突いたら、見てみいな、土手《どて》がくいのついたまま後ずさりした」 「阿呆、それだけ舟が出てるねん」 「アア、もう舟出たんか、アそうか……。えらいことした、忘れ物した」 「なに」 「忘れ物や」 「お前ぐらい、よう物を忘れる者ないぞ、何を忘れてん」 「いや、もうええわ」 「イヤ、今やったらな、銭の五銭もやったら元へ戻してくれよる、何を忘れてん」 「いや、もうええわ、かめへん、かめへん」 「かめへんて、お前、遠慮せんと言うたらええのや、何を忘れてん」 「小便するのを忘れてん」 「阿呆か、小便するぐらい何やねん。そんなやったら、遠慮することあれへん、舟の中からしたらええがな」 「したらええて、どないしてするねん」 「何も知らん奴やなあ、丁度ええわ、そこに竹の皮があるやろ、それでやったらええねん」 「竹の皮、この竹の皮か、これどないするねん」 「どないするて、それを樋《とゆ》がわりに使うてナ、それでするねん」 「これを樋がわり……」 「そうや、それを巻くねん、そいで樋がわりに使うねん」 「これを巻いて、アなるほどそうか、ほんならこれを巻くのんか。何や鯖《さば》の寿司みたい」 「阿呆なこと言うてるのやあれへん、巻いたか」 「巻いた、巻いた……。普通は、こんなもんか」 「そんなん知らん、わしは。ともかく早いことしい」 「よっしゃ、よっしゃ、分かった、こらええこと教えてくれた、やるで、ミミズもカエルもごめん」 「そんな阿呆なこと言うてるのやあれへん、早うしい」 「するがな、するがな……ハッハッー、アアこら具合ええわ、こら楽や、アア、アー、こら気持ちええ、アア、ええ具合やった、ハッハッ、これどないしょう」 「ほったらええねん」 「ほるか……、勿体ないなあ」 「オイ何をするねん、そんな物を振りないな」 「いやな、これよう雫を払うといてなあ、乾かして、また握り飯を包むのや」 「阿呆なことしいな、ほかしなはれ」 「ハッハッハッ、しかしおもろいな、それはそうと、お前、向こうへ着くまで黙ってないかんか」 「当たり前やがな、ほかに乗り合いがあるねん、ごちゃごちゃ言いなや」 「わい、あかんねん、何なと喋らんとあかんねん、喋らんと口の中に虫が湧きそうになるねん、ウン。何なと喋らしてえな」 「そない喋りたいのか。ヨシ、ホナ丁度ええわ、喧嘩せえ、堤を歩いてる奴と喧嘩するねん」 「何で」 「何でて、お前、喋りたいのやろ、そやさかい、丁度ええがな、堤を歩いてる奴と喧嘩したらええねん」 「そんな分の悪い喧嘩があるかいな。向こうは道歩いとるねんで。わいらこんな小さな舟に乗ってるねん。そんなものお前、石投げられてみいな、逃げられへんがな」 「阿呆か、お前、知らんか、野崎詣りの喧嘩ちゅうたらな、口だけの喧嘩。ナ、ホイデ、相手を言い負かしたら、その年の運がええ、運定めの喧嘩や、遠慮せんとバンバンと喧嘩したらええねん」 「ア、運定めの喧嘩か、口で言い負かしたらええわけか。ホナラ一ペんやるわ。オーイ、向こうへ行く奴」 「阿呆か、お前は、みな向こうへ行く奴やないか、この朝の早いのに帰って来る奴があるかい」 「ホナ、どない言うねん」 「何でもええやないかい、誰なら誰と、こない言うたらええのや」 「アそうか、オーイ、誰なら誰」 「よけい分からへんやないか、阿呆やなあ」 「そうかてお前、はじめてやねんで、どないしたらええか、分からへんがな」 「情ない奴やなあ、ほんなら、こうせえ、俺が教えたるわ。ホレ、向こうを粋な女子に傘さしかけて行く男があるやろ、あの男をつかまえて喧嘩するねん」 「ど、ど、どないするねん」 「オイ、そこの、女子に傘さしかけて行く奴、偉そうな顔して、自分の嬶《かか》みたいな顔して連れて歩いてるけど、それは己れの嬶やなかろう、どこぞの稽古屋のお師匠はんでも引っ張り出して、住道あたりで、酒塩《さかしお》〔酒のこと〕でどんがら痛めて、ボンと蹴倒そうと思うてんのやろうがそうはいかんぞ。稲荷さんの太鼓でどよどん、どよどんと、こない言うねん」 「それ、一ぺんにか。わいとてもやないけど、よう言わんで。それでのうても、言いにくいねん、お前かて言いにくいやろ」 「そんな阿呆なこと言うてるのやあれへんがな、言わな喧嘩になれへんがな」 「アそうか、ともかく言えるか言えんか、一ぺん言うてみるけどな……。オーイ、そこで女子に傘さしかけて行く奴」 「ヘエヘエ、後先に見えまへんが、わたしですかいなあ」 「へいへい、あんさんです」 「阿呆、己れじゃと言わんかい」 「そんなこと言うたら喧嘩になるで」 「喧嘩をするのや」 「アアそうか、それ忘れてた、そうじゃ己れじゃ」 「なんぞ呼び止めて、ご用ですかいなあ」 「そうじゃ……、つまりな……、早い話が……」 「阿呆やな、喧嘩に早いも遅いもあれへんがな、ポンポンとかまさんかい」 「ワ分かったあるがな、ヤイヤイ言いないな、コラ、自分の嬶みたいな顔して連れて歩いてるけどなあ、それはお前の嬶やなかろうがな……。なあ、これでええねんなあ」 「そうや、それでええねん。あとをポンポンと言わんかい」 「分かったある、己れの嬶やなかろうが。どこぞの稽古屋のお師匠はんでも引っ張り出して、住道あたりで、さか、さか、酒塩でどんがらボンと蹴倒そうと思うてるけど、そうはいかんぞ、祭りの太鼓でどよどん、どよどんじゃ。どうじゃ」 「何を言いなはるね、えらいすんまへんけどねえ、わたいとこれの仲はねえ、仲人が入って高砂やと謡《うたい》の一つもうとうてもろうた、わたいの嬶でおますわ、これから仲よう野崎の観音さんへお詣りしまんのや」 「ハッハッハッ、さよか、こらお楽しみなこって」 「負けや、エエ、負けやないか」 「なんでや」 「お前、頭下げたやろ、そんなことしたら喧嘩は負けやがな」 「そうかて、どないしてええか分からへんがな」 「ホナもう一ぺんやってみ、エエ、向こうへ背の高い奴が行くやろ、あいつになあ、何やら踏んだぞと、こない言うたれ」 「何やら踏んだぞ、こない言うのん……。こらあ、その後ろから行く背の高い奴、何やら踏んだぞ」 「踏んだらどないしたんや」 「ア恐わ、踏んだらどないしたんや、言うとるで」 「ほんなら何踏んだんやと言うたれ」 「オイ、オイ、オイ、何踏んだんじゃい」 「馬の糞じゃい」 「馬の糞……。馬の糞やて、馬の糞踏んだら、どないなるんや」 「背が高うなるわい」 「アなるほど、考えよったなあ、こらおおきに有難う」 「また負けよった、さっきからお前、頭下げどおしや、どけ、俺が言うたるわ、こらあ、そのあと行った奴、何や踏んでるぞー」 「何です」 「何や踏んでるぞ」 「何を踏みました」 「馬の糞や」 「馬の糞ですか、どこに」 「ホレ見てみ、こっちの勝ちや」 「なんでわいの勝ちやねん」 「違うがな、俺が勝ってん、俺がな、馬の糞踏んでるぞーとこない言うたら、何も踏んでえへんのに、どこにちゅうて下を見よったやろ、あれで向こうが負けで、こっちが勝ちや」 「けったいな喧嘩やな、何や分からんわ」 「お前がしょうもないことばっかり言うさかい、あっちから来た稽古屋の船から、お前のことをどない言うてると思う、エエ、片仮名のトの字のちょぼがいかってると言うてよるで」 「片仮名のトの字のちょぼがいかってる……。何のことや」 「俺が背が高いやろ、お前が背低いやろ、そやさかい片仮名のトの字のちょぼ、お前のことを背が低いちゅうとるねん」 「わい、背が低いてか、俺なあ何が腹が立つというてな、背が低いと言われるのが、一番むかつくねん、糞垂れめが、やったるわ、どない言うたらええ」 「どない言うたらええて、言うたれ。エエ、小さい小さいと軽蔑するな、大は小を兼るといえど、箪笥長持は枕にならん、浅草の観音さん、お身丈は一寸八分でも十八間四面のお堂の主や。仁王さんは大きいても門番してるやないかい、山椒は小粒でもピリリと辛いわい、こない言うねん」 「だんだん難しなってきたなあ……。うまいこと言えるかしらん、やったるわ……。コラッ今片仮名のトの字のちょぼと言うた奴はどのガキや」 「もうし、見てみなはれ、あの小さいのがまた、なんや言うてまっせ、コラ、物言うのやったら立って言え」 「立ってるわい」 「阿呆なこと言いないな。坐ってると言わんかい」 「ア、坐ってるわい」 「なんぞ用かい」 「用かいやあるかい、コラ、お前、今俺のこと片仮名のトの字のちょぼやと言うたなあ、俺はなあ、小さい小さいと言われるのが、一番むかつくねん、コラ、小さい小さいとセンベツするな」 「軽蔑やがな」 「そのベツや、なあ、大は小を兼るといえど箪笥長持は蒲団にならんわい」 「蒲団になるかい」 「なれへんのになんでなるというねん。阿呆んだら。どない思うてんねん、ナッ、浅草の観音さん、お身丈は十八間四面やけど、一寸八分のお堂に入ってるわい」 「そんなん入るかい」 「は、入れへんわい、仁王さんはなあ、大きいても門番じゃわい、門番だけで食えんさかいなあ、草鞋売ってるわい、阿呆んだら、どない思うてけつかんねん、な、山椒はなあ、ヒリリと辛いわい、ド阿呆、どうじゃい」 「見なはれ、エエ、柄が小さけりゃ小さいだけに、頭が回りまへんねんなあ、オーイ、教えてもろたとおりに言わんかい」 「何を吐かしとんねん」 「山椒はヒリリと辛い、小粒が落ちてるぞ」 「どこに」 [小粒は豆板銀などの少額貨幣でもある] [#改ページ] 初天神《はつてんじん》 「這《は》えば立て、立てば歩めの親心」てなことをよく申しますが、お子たちも二つか三つくらいまではよろしゅうございますが、これが七つ八つから十二、三になりますと、女のお子たちはそうでもございませんが、男の子のほうはずいぶんと腕白《やんちゃ》になりまして、こういう子が一番扱いにくうございますが、 「嬶ア、ちょっと羽織出せ、いいェな、羽織を出せちゅうねン」 「まァえらそうに羽織出せ、羽織出せて、羽織が一枚できたと思たらえらそうに。何でんねんな、いいェな、あの羽織かて、あんたの甲斐性でできた羽織と違うねンし。主家のご隠居はんが死にはったときに、わたいが三日三晩お手伝いしたら、そのときに、お家はんが、あんたにあげるさかい、あんたの着物になとしたらええやろちゅうて、わたいにくれはってンし。亭主に羽織の一枚もなかったらみっともないと思うさかい、あんたの羽織にしたんやないかいな。まァ、羽織が一枚できたというたら、ちょっと隣へ行くさかい羽織出せ、風呂行ってくるさかい羽織出せ。この間もあんた、羽織着て雪隠へ行ったやないか」 「みっともないこと吐《ぬ》かすない。俺が羽織を出せ言うたら、黙って出したらどないや」 「またあんた羽織着て、どこへ行ってやつもり」 「どこへ行ってやつもり。オイ嬶、きょう、何日やと思てんね」 「きょう、何日やと思てんねて、きょうは一月二十五日やないか」 「それみてみィ、きょうは初天神や。俺はこれから天満の天神さんにお参りに行てくるねン」 「まァさよか、いエ決してとめしまへん。神参りとめたら、とめた者に罰があたるちゅうさかい、えェどうぞまァ行っといなはれ。そのかわりなもうちょっとしたら、うちの寅やんが帰ってきますさかい、あの子連れてお参りしなはれ」 「いやもう堪忍してくれ。あの寅公連れて外へ出るの、俺はこりてンねン。あんな悪い小せがれないで。エー、もう外へ連れていったら、あれ買えェ、これ買え、ゴテクサゴテクサぬかしやがってな。近ごろではちょっと俺が叱ると、生意気に口ごたえさらすねン。もうわが子ながらつくづく愛想がつきてンね。嬶、せっかくやがな、あの小せがれはとてももう俺の手には負えンねン。すまんけど堪忍してくれ」 「ようそんなこと言いなはるわ。男の子、男親がテコに合わんちゅうて、一体だれが育てまんの。あれ、あんたの子やおまへんか。まさか他人《ひと》さんの子やおまへんやろ」 「おい、嬶、われまたえらい妙なことぬかしたな。まさか他人さんの子オやおまへんやろ。他人の口から聞くのやったらともかくも、われの口からそんなこと聞いたら、俺はちょっと自信失うたな。ハハァん、そうか、何じゃおかしいおかしいとは思てたンじゃ。エー、あの小せがれ、親の俺のいうこと聞きさらさんと思たら、嬶、われ、あれこしらえるとき、だれぞに手伝わしたな」 「ようそんなアホなこといいなはるな。だれがそんなことしまンねン。しょうむないこというてんと、連れていきなはれ」 「いや、俺は連れていけへん」 「連れていきなはれ」  夫帰が揉《も》めておりますところへ、ちょうど帰ってきよったんが、ここのうちの一人息子。年のころは十一、二。 「あ、ハハァーン、またお父っつぁんとお母んと揉めてけつかる。よう揉める夫婦やで。お父っつぁん、おっ母はん、やめとき、やめとき、夫婦げんかは犬も食わんちゅうねンで。やめときちゅうたらやめときィな。第一俺が近所に対して面目ないがな、お父っつぁん、何やったらな、わい、しばらく表で遊んできたるわ。その間にいっぺん仲直りにお母はんと寝たらどないや」 「いやらしいガキやな、あのガキは。あんなこと吐かすやろ。嬶、聞いたか、子供の吐かすこっちゃないでェ。そやさかい、俺はあのガキ連れていくのいややちゅうねン」 「そんなこと言わんと連れていきなはれちゅうのに……。寅やん、いっぺんお母はんのそばへおいなはれ。あんた何であんな生意気なこというてやねン。子供があんなこというのやあれへんし。お父っつぁんえらい怒ってはるやろ。これから二度とあんなこというたらあかんし。あのな、お父っつぁん、きょうな初天神、一月の二十五日やさかいな、これから天満の天神さんへお参りに行くいうてはんの。あんた連れてもらいで。エエッそのかわり言うとくし、今日はな、いつものようにグズグズいうたらあかんの。おとなしい、賢うにして連れてもらうねンし、わかったんな。ちゃんとこないしていうてきかしておりますさかい、連れていきなはれ」 「あかんあかん、このガキは。うちではフンフンちゅうてうなずいとるけど、外へ出たらすぐにそれ忘れて、グズグズグズグズ吐かすのやさかい」 「お父っつぁん、そんなこといわんと、わい、おとなしゅうする言うてンねンさかい連れていってェな」 「あかんっちゅうたらあかんねン」 「どうしてもあかんか」 「あたりまえじゃ、お父っつぁん、連れていけへんいうたら連れていけへンねンさかい」 「あァそうか。なら連れていってくれへんのやったら連れていってくれへんでえェわ。そのかわり、わいかて覚悟があるさかいな」 「なに、わいかて覚悟があるて、どんな覚悟があるねン」 「あのな、お父っつぁんがどうしても連れていってくれへんのやったらな、わい、この間の晩のうちのできごと、全部向かいのおっさんにしゃべったるさかい」 「何をぬかしてけつかるねン。エエ、親をおどしてけつかる。連れていかなンだら、この間の晩のうちのできごと全部、向かいのおっさんに話しするやて。嬶、聞いたか。子供の吐かすこっちゃないで。親、脅迫してくさる。オイ、寅公、おまえな、向かいのおっさんになに話しするつもりか知らんけどな、お父っつぁんはな、いうてすまんけど、世間の人に知られても、これから先もな恥ずかしいようなことはしてェへん。あァ、何なとしゃべってこい。お父っつぁん痛いこともかゆいこともないさかい」 「ほんまにお父っつぁん、痛いこともかゆいこともないねンな、よっしゃ、そンならちょっと向かいのおっさんのところへ行ってくるわ……。おっさん」 「なンや、寅ちゃん」 「ちょっとおっさんに折りいって話があるねンけど」 「あらたまって、話って何や」 「あのな、きょううちのお父っつぁんな、一月の二十五日、初天神やさかい、これから天満の天神さんへお参りにいきよるねンと。それでな、お父っつぁん、わいも連れてェな、いうてンのに、連れてくれよりへん。連れてくれへんのやったらな、この間の晩のうちのできごと、向かいのおっさんに全部話してもかめへんか、言うたらな、うちのお父っつぁんな、痛いこともかゆいこともこそばいこともないと、こない言いよったさかいな、おっさんに話ししィにきたんや」 「ほウ、寅やん、この間の晩て、何があったんや」 「いや、あのな、わい大体、夜寝られん性分や。いつもおそうまで起きてンのや。この間の晩に限って、お母はんがはようからな、はよ寝エ、はよ寝エちゅうていいよるね。おかしなぐあいやなァと思ててンけどな、眠とうないねンけど、お母はんに逆ろうてもいかんと思たさかいな、眠とうないけども、はようからお布団へはいったン。ところがなかなか寝つかれへん。十二時ちょっと前にな、お父っつぁんが帰ってきよったンや。どこぞで一杯呑んできよったンやろな。大きな声出しやがってな、入り口で、嬶ア、坊主寝とるか……。お母はん、びっくりしよってな、まァ、なんという大きな声出しはるねンな。あんたがあないいうてたさかい、きょうは宵から寝かしつけてあンの。あんたが大きな声出して、あの子が目エさましたら、なンにもなれへんやないか。よう寝てると思いますけど、いっぺん様子見てきまっさ……。わざわざわいの寝てる枕元へきよってな、わいの寝顔、ジーッと見とるさかい、わい、寝たふりしてたってン。ホナお母アはん安心しよってな、ちょっとこちの人、悪戯児《わるさ》、ないことによう寝てますわ、とこないいうたらな、お父っつぁん、うれしそうにニコッと笑いよって、エッ、よう寝とるか、嬶、こんなことは、もうめったにないこっちゃ。今晩は久しぶりにゆっくりとしようなァ、とこないいうとるねン」 「寅やん、この話、えらいおもしろそうなな。よかったらそんなとこに立ってンと、こっちへ上がったらどないや。何かいな、久しぶりにゆっくりしようなて、何しよるねン」 「さァ、わいも何しよるね、分からへんさかいな、それでお布団の中で、聞いてたって。ほな、お父っつぁんな、外で呑んで帰っても必ずうちへ帰ったら一杯呑みよる。お母はん、それ心得とるさかいな、ちょっと、何もないねンけど、一口呑んでやったらどないや、きょうはわたいもつき合いさしてもらうさかいに、こない言うたらな、ホナお父っつぁんな、何かい、お前、きょう俺につき合うて一杯呑むちゅうのか、そうか、そんなら一杯呑もうか……。それからお父っつぁんとお母はんと差し向かいで一杯呑んどった。ところがなしばらくしたら、お母はん、まっ赤いけの顔しよってな、ちょっとオ久しぶりにお酒いただいたら、えらい酔うてしもたわ。いままでやったらこんなことなかってンけど、しばらく呑まなンだもんやさかい、すぐに酔うてしもたわ。顔はまっ赤いけになるし、胸がドキドキしてきたわァと、こない言うたらな、ホナお父っつぁんが、どこにィ、やなて、えェ、わざわざお母はんのふところへ手エ突っ込まんでもええのに、ふところへ手エ突っ込みよってな、ほんに、嬶、えらい胸ドキドキさしとるな、しかし嬶、ここらのさわりぐあいは若い時分とちょっとも変わらんなァ……。言うとんねン」 「ほんまにこの話おもろいな。それで、それから寅やん、どないなってン」 「さァ、わいもどないなるのンかいなと思て、ジーッと聞いてたってン。ソナ、そうこうするうちにな、お父っつぁんもえェぐあいによったとみえてな、嬶、ほなボチボチ寝よか。こない言うた。あのな、うちのお父っつぁんな、ふだんやったらな、いつでもな、うちのお母はんにえらそうにいうねンで。おい、嬶、眠たいさかいにはよう布団ひきさらせ。いつでもえらそうにいうのにな、あの晩に限ってな、ボチボチ寝よか、嬶布団ひくのやったら、わいも手伝わしてもらうわやて。えェ、ないこっちゃで。お母はんと二人でな、布団ひきよってな、お布団がひけたら、嬶、はよ寝よかと、こない言うたらな、なにいうてなはるねン、ここらあと片づけせな、寝られしまへんわと、こない言うたらな、あと片づけみたいなン、あしたの朝にしたらえェやないかい。寝よういうたらはよ寝ような。ちゅうてな、お母はんいやがってるのに、むりやりに布団の中に……」 「ちょっと、天満の天神さんへ連れていきなはれ。あの子、こないだの晩のこと全部いうてしまうし」 「悪いガキやなァ、あのガキは。寝たふりして全部聞いてけつかったンや。おい、寅公、帰ってこい、天満の天神さんへ連れていったるさかい」 「あッ、おっさん、お父っつぁん、天満の天神さんへ、わい連れたるいうとるさかい、わい帰るわ」 「おい寅やん、そんな殺生なこといいな。これから肝心のオモロイとこやないかい。エエッ寅やん、やめとけ、やめとけ。子供が天満の天神さんへお参りにいったかて、オモロイことないで。おっさんな、ちょっと銭やるさかい、エエッもう天神さん行くのやめて、その続きゆっくり聞かしてくれ」 「おい、嬶、聞いたか。向かいのおやじ、アホと違うか。ゼニ出して続きやれ、ちゅうとんで。おい寅公、銭だけもろて、何も言わんと帰ってこい」 「ようそんなアホなこといいなはるわ。あんたがそんなしょうむない知恵つけるさかい、だんだん、あの子生意気になるねンわ。寅やん、お父っつぁん、連れてあげるいうてはるさかい、帰っておいで」 「お父っつぁん、ほんまに連れてくれンのンか」 「連れてくれンのンかて、あんなことしゃべったら、連れていかなしゃァないやないか。ほんまに、どうもならんガキやで。おい、嬶、よそゆきの着物と着かえさしたれ。お父っつぁんな、ちょっとその間に雪隠《せっちん》いってくるさかい」 「ハハハハ……お父っつぁん、その羽織着たらかならず雪隠へいくな」 「何を吐かしやがるねン。われがしょうむないこと吐かすさかい、こいつまで覚えてあんなこと吐かすがな。はやいこと用意しいや」  用意がでけますと、親子二人、天満の天神さんへお参りしようというので、出かけましたが、天満の十丁目筋へやってまいりますと、なんし初天神のことですから、たくさんにお参りがございます。  またこのお参りの人を当て込みまして、両側にはずうッと食べ物店が軒を並べております。さァこうなりますと、お父っつぁんのほうはヒヤヒヤしてよる。  また子供に無理言われたらどうもならんというので、親のほうから子供のほうにせえだい、べんちゃらしながら歩いとる。 「おい寅公、ハッハハハ、きょうは賢いなァ、えェ。いつでもこないしてな賢う、おとなしいしてたらな、お父っつぁん、これからどこ行くのんでも、こないして連れてきたるで」 「お父っつぁん、わい、きょう賢いやろ」 「あァ、かしこいかしこい。いつでもこないしてなあかんぞ」 「こない賢うにしてるもののこってすさかい、お父っつぁん、ここらで何ぞひとつ、買うていただいたらどんなものでおまっしゃろ」 「アホらしなってきた。褒めたら褒めぞこないや。おい寅公、子供が親に対して、なんてものの言い方さらすねン。ここらで何ぞひとつ、買うていただいたらどんなものでおまっしゃろ。相談をかけるやつがあるか、アホンダラ。あのな、子供はもっと子供らしいせい。ほしいもんがあったら、よその子オみたいに、お父っつぁん、あれ買うてェな、お父っつぁん、これ買うてェなと、かわいらしいにいえんかいな」 「お父っつぁん、あれ買うてェな」 「お前がそない言うと、よけい憎たらしいな。あれ買うてェなて、何が買うてほしいねン」 「向こうに売ったァるあのミカン買うてくれ」 「なに、ミカン……。寅公、ミカンは毒や」 「お父っつぁん、ミカン毒か」 「あァ、毒じゃ毒じゃ」 「なんで毒や」 「なんで毒て、お前、子供はミカン皮ぐち食うやろ、あの皮が胃袋の中で、ブーッとふくれるねン。胃に悪いさかい、毒やいうてンね。お父っつぁんはな、お前の体のこと思て、いうてやってンね」 「あ、そうか。ホナ、ミカンが毒やったら、あの干し柿にしようか」 「干し柿も毒や」 「干し柿は何で毒や」 「あれは腸を冷やすさかい、腸に悪いちゅうねン」 「あ、そンならあの上等のリンゴにしようか」 「なに、上等のリンゴ……リンゴも毒や」 「お父っつぁん、ちょっと尋ねるけどな、リンゴが毒か、値段が毒か」 「何を吐かしてけつかるね。お父っつぁんが毒やいうたら毒やわい」 「ホナ、お父っつぁん、あのバナナ……」 「毒や」 「お父っつぁん、ここの店、毒なものばっかし売っとるねンな。これでよう警察が許可する……」 「もうそんな生意気なこといいなちゅうねン。そやからお父っつぁん、お前連れてくるのいややちゅうねン」 「お父っつぁん、ほな子供に毒やないものやったら、何が毒やないねン」 「まァそやな、子供に毒やないものちゅうたら、アメか」 「あっ、お父っつぁん、アメやったら買うてくれるか」 「おお、売ってはったら買うたるで」 「ここの店で売ってはるけどなァ」 「先に見といて、こういうこと吐かすやろ、このガキはほんまに悪いガキやて。おい、アメ屋」 「ヘッ、お越しやす」 「こんなところに店出すな」 「そな無茶いいなはんないな。こんなところに店出すなて、わたいのところ、定店《じょうだな》でっせ」 「たとえ定店でも、きょうは休め」 「無茶いわんといておくなはれや。この天満の天神さんの近所で商売してて、初天神の日に休んで、いつ商売しまンねン。きょうはわれわれのかきいれ日でっせ。無茶いわんといとおくなはれ」 「あのな、こうしてな子供連れてお参りする親の身になれちゅうねン、なァ。子供というものは見るもん、さわるもんがほしいねンさかい、そやさかい店出してもええさかい、なるべく人通りのないとこで商売せェ」 「ようそんな無茶いいなはるで、そんなところで商売したら、商売になりますかいな。一体あんた、何いいにきはったんで……」 「何いいにきはったて、この子供がアメがほしいというさかい、買いにきたんやないか。おい、アメ屋」 「なんです」 「ここにある一つ一銭のアメ、これ一つ何ぼや」 「なんです」 「いいェな、ここにある一つ一銭のアメ、一つ何ぼやちゅうねン」 「一つ一銭のアメ、一つ一銭でっせ」 「そうや、そうやがな。一つ一銭のアメ、一つ一銭や。それでええねンが」 「あんたがいうてなはるね、わけのわからんこと」 「それでなにかい、ここにあるのどれでも一銭か」 「えェ、これ、どれでも一つ一銭ですわ」 「あァそうか。寅公、そんならこのアメ買うたるわ」 「おおきにありがとさんで。数は幾つしまひょ」 「なにをッ」 「いえ、アメ、数は幾つしまひょ」 「数は幾つしまひょて、いま言うてるやろ。一つ一銭のアメ、一つ何ぼやていうてんね。一つにきまってるやないかい。じゃ、なにかい、数が少なかったら不足か、いいェな、数が少なかったら売りさらさンのか」 「いえ、売りまンがな、売りまンがな、何を怒ってなはるね」 「あのな、俺はな、なるほど数は少ないけどな、ゼニは現金で払う」 「あたりまえでンがな。ようそんな無茶いいなはる」 「あかんあかん、寅公、手エ出すな、アホ。お前が手で持ってどないするのや。手がニチャニチャするさかい、な、お父っつぁんがな、ちゃんとええヤツ、とったるさかい、お父っつぁんにまかしとけ。な。えェと、どれがええかいな。あッ、この白いアメにせい。この白アメ。エーなに……。白いアメは歯ァにはさまって食べにくいてか。あァそうか。そんなら白いアメやめとけ。そんならこっちの赤い、ちょっと待ちや、この赤いアメにするか。エッ、赤いアメはすぐにとけて、ないようになる……。あァそうか、そんなら赤いのやめとけ。ホナこっち側のこの青いのにエッ青いのにするか。エッ、青いのンはお茶のにおいがするさかい、きらいてか。そうか。お前グズグズいうな。ホナこっち側のこのゴマのはいった……」 「もし、お客さん。よろしけど、そのいちいちね、ツバつけんようにしておくれやッしゃ。あんたアメつまんでは、それあんた、指ねぶってなはるやろ。そのツバのついたナ二で、またいらいはりまッしゃろ。ほかにお客さんが見てはったら、気持ち悪がって買えしまへんで」 「いや、ひッついて取りにくいさかい、こうしてねぶって……」 「それやったらね、ひッついてたらひッついてるというていただいたら、ちゃァんと道具がおまンのやさかい、もうしょうむないことせんといておくなはれ。いえ、こんなもの、こうしてあんた……ちゃんとうちには道具がおまンのやさかい、これやったらひッついてェしまへん。どれなと取っておくれやす」 「ほんならのっけから、こないしておけ、アホンダラ。何してけつかる。エエ、もうお父っつぁんにまかしとけ、ほな、この一番大きなこの黒いアメにせェ。あ−あ、あかん、あかんて。さっきからいうてるやろ、手で持ったら、手がニチャニチャするさかい、お父っつぁんがな、口の中に入れたるわ。いいェな、歩きながら上向いて、口、アーンしてみ。お父っつぁん、口の中にほり込んでやるさかい、アーンせェ、アーン。ええな。ホレ。いうとくで。噛んだら承知せんぞ。……あたりまえやないか。アメみたいなもの、噛むもんやあるかい。……口の中に入れてな、舌の上に載して、ジーッとさしといてみ、甘いおつゆが出てくるさかい、それ吸うてたらええねン、なッ。そないしてたら、お前、うちへ帰るまでそのアメもつやろ」 「お父っつぁん、なにか、初天神やで、天満の天神さんまで出てきて、それでなにかいな、一銭のアメひとつ……」 「何をゴチャゴチャ吐かしてけつかる、コラッ、アメを口へ入れてしゃべるな、ドアホ、涎《よだれ》こぼしてお前、そのよそいきの着物よごしてみ。またうちへ帰ってお前お母はんに叱られるで」 「お父っつぁん、わいこないしてたら、アメ口の中に入れたまましゃべったかてな、涎こぼすような素人と違うのやさかい。お父っつぁん、嘘やと思うのやったら、いっぺんな、アメ、口の中に入れたままな、涎こぼさんように歌うとうてやるさかいな、聞いててみてみ。なッ。♪高いヤァァマァかァァら谷底……」 「生意気なこというな」(ゴツン) 「アァァーン、アンアン……」 「コラ、悪戯児《わるさ》のくせにドタマどついたら大きな声あげて泣きやがって、アホンダラ。悪戯児やったらな、おとっつぁんに頭どつかれたくらいで泣くな、アホンダラ」 「フン、お父っつぁん、なにも痛いさかい泣いてんのと違うわい」 「ほんならなんで泣いてけつかるね」 「お父っつぁんが頭ボォンとたたいた拍子にアメ落としてしもたわい、クスン」 「チェッ、ろくなことさらさンで。しかけの負けや。えェ、アメ落としやがって、ほんまにどもならんで、ほんまに。何が損になるやらわから……。こら、寅公、アメ落としたて、どこにも落ってェへんやないか。どこへ落としたンや」 「ノドの穴じゃ」 「こういう悪いガキやろ、そやからお父っつぁん、お前連れてくるの、いややッちゅうねン」 「お父っつぁん、もうわいなァ、無理いえへんさかいな、ひとつだけわいの無理聞いてェな」 「なんじゃい、ひとつだけ無理聞いてくれて、何がほしいちゅうねン」 「お父っつぁん、わいなァ、まだ生まれてからいっぺんも凧《たこ》揚げてなこと、したことないやろ、向こうにぎょうさん奴凧売ってはるやろ。あの奴凧買うてェな」 「あァ、奴凧買うてくれちゅうのンかい。やあや、お前の言うとおりや。ナッわれが生まれてからいっぺんも奴凧てな、買うたったことはないわ。よし、奴凧買うたろ。そのくらいの無理やったら、お父っつぁんかて聞くで。おい、その奴凧、ひとつやってくれ。えッ、糸かい。糸はフンええ加減でええさかい、つけといてンか。よッしゃ。うなり……。うなりはつけといたって。よッしゃ、銭はここへ置くで。さァ、寅公、破らんように持って歩けよ」 「お父っつぁん、えらい無理いうてすんまへんでした」 「何を吐かしてけつかるね。買うてもろてからべんちゃらいうな」 「お父っつぁん、無理のいいついでにもうひとつ、無理聞いてくれへんか」 「こういう悪いガキやろ。お前どないいうた。もういっぺんだけ無理聞いてくれ、そのかわり無理いえへんちゅうたんと違うのンか」 「いや、ちゃうがな。わい、なにも買うてくれいうのやあれへんね。せっかくこないして買うてもろたけどやで、うちへ帰って、この凧、揚げる場所がないやろ。ちょうど向こうに広場があって、よその子、ぎょうさん凧揚げしてるやろ。うちへ帰るまでに、向こでこれ凧揚げさしてくれへんやろか」 「あァなんじゃい。そんな無理やったら聞いたるがナ。あァなるほど、ぎょうさん向こうで揚げとるな。よし、ホナ向こうで凧揚げしたらええが」 「ホナわいここで凧揚げするさかい、その間にお父っつぁん、天神さまに参ってきたらどないや。はよ行け、行け」 「お前えらそうに、凧揚げする、いうてるけど、生まれて初めてやろ。よッしゃ、お父っつぁんがな、初めこうして凧揚げといたら……。それで上へ上がったらやな、あとはもうだれがやったかて勝手に上がりよる。そやさかい、お父っつぁんが先やったるさかい、寅公お前その凧持ってな、向こうのほうに行け」 「お父っつぁん、あとでほんまにわいに揚げさしてくれるねんな」 「あたりまえやないかい。お前に買うたった凧や。そやから、その凧持って向こうのほうへ行け」 「そうか。な、お父っつぁん、ここらでええか」 「アホやな。そんな近くであけへんがな。もっと向こうへ行かんかい」 「お父っつぁん、ここらでどないや」 「もうちょっと向こうへ行けちゅうねン」 「こんなもんか」 「痛いワ。アホンダラ、凧湯げに夢中になりやがって、人の足踏んでるの、気がつかんのか、ドアホ」 「おっさん、えらいすんまへん。お父っつぁん、向こうへ行け、向こうへ行け、ちゅうさかい。わいこのおっさんの足踏んだら、おっさん。えらい怒ってはるのや」 「えらいすんまへん。足踏みよりましたか。うちの小せがれでンねン。いやえらいすんまへんでした。相手、子供のこった、堪忍しとっておくんなはれ。おい、寅公、なに泣いてけつかるねン。われ、何もこわいことあれへん、こわいことあれへん。お父っつぁんがついとるがな。心配せんでもええわい」 「大丈夫か、お父っつぁん、ここらでええのンか」 「そやそや、あッとあかん、そこあかん、そこあかん。いや、もうちょっとこっちへ寄れ。いいェな、もうちょっと右のほうへ寄れちゅうねン。上に電線があるやろ、電線に凧の糸が引っかかったら何にもなれへん。もうちょっと右へ寄れちゅうねン。いいェな、もうちょっと右へ」 「痛いッ……こら、大人だてらに、凧揚げに夢中になりよって。気イつけさらせ」 「あッ、おっちゃん、それ、うちのお父っつぁんでンね。えらいすんまへん。堪忍したっておくなはれ。相手、大人のこってすさかい。お父っつぁん、こわがることあれへん。心配すな、俺がついてる」 「何を吐かしてけつかる。同じように吐かしてけつかる。あァそこでええ、そこでええ、俺がよッしゃいうたら、手エ放せよ、ええな。よし、放せ、放せ。ほおれ、見てみィ。お父っつぁんはな、子供の時分にはな、凧揚げるのはな、ちょっと人には負けなンでンさかい、どうや、見てみい、うまいこと上がるやろ。初めはな、こうしてな、だますようにして、こういうふうにして、ほれ見てみ、ナッだましながら、こうしてホラ、何ぼでも上がるやろ。どうや見てみい」 「はァ、お父っつぁん、うまいこと揚げるな。もうこンだけ上がったら大丈夫やろ、お父っつぁん、わいにさしてェな」 「いや、もうちょっと待て、もうちょっと待て。もうちょっと上に上がったほうがな、あと揚げよいさかい。ほれ見てみィ。オイ、オイ、寅公」 「なんや、お父っつぁん」 「えらいことしたな、もう糸がしまいやぞ」 「お父っつぁん、何やったら、いまのところへいって、糸買うてこうか」 「そうやな、もうちょっと長いほうがええな」 「お父っつぁん、ゼニどこにあるのや」 「あァ、たもとにはいったあるさかい、持っていけ。早いとこ行ってこいよ」  …… 「お父っつぁん、買うてきた」 「買うてきたか、よし、この先を渡すさかいな、その糸をくくれ。いいェ、うまいことつないどかんとあかんぞ。途中でほどけたら何にもならんさかい。つないだか、つないだか、よォしよし、糸さえあったら何ぼでも上がるのやさかい。ほれ見てみ、どうや、ほかにもぎょうさん上がってるけど、そんなもんに負けるかェ。どうや、高うにあがったやろ。えェ、どうや、この糸の長いこと。おい寅公、この糸、何ぼで買うてきてン」 「お父っつぁん、五円で買うてきた」 「そんな無茶すな、おい。五円も糸買うて、どないするのや、ほんまに。そんなもん、糸が余ってしようがないがな」 「お父っつぁん、こんだけ上がったらもう大丈夫やろ。わいにさしてェな」 「待てェちゅうのに。いまが一番おもろいさいちゅうや」 「ようそんなアホなこというてるわ。お父っつぁん、この凧、わいの凧やで。わいに遊ばしてェな」 「やかましいッなちゅうね。第一、凧揚げてな、子供のするもんやあるかェ。これは大人のするもんや」 「えらいことしたなァ。こんなンやったら、お父っつぁん連れてくんのやなかった」 [#改ページ] 東の旅(一)尼《あま》買い  さて三人は明星の宿《しゅく》へまいりますと、もう黄昏時《たそがれどき》、宿屋の行燈にはチラホラと、灯が入っております。  宿引きのいなごし、やない、下女《おなごつ》さんは、ふだんは畑や田の草を引きに出ておりますが、道者の入りこむ時期になりますと、宿屋へやとわれますので、背はすんなりと低うて、よう肥えて、背の高さより、横幅の方が広い、四斗樽《しとだる》みたいで、顔はと申しますと、人三化七《にんさんばけしち》というて、人間が三分で化物の方ヘ七分|寄留《きりゅう》してます。  色がくっきりと黒うて、その顔へ白粉をぬったのが一生のあやまり。  つねは白粉になじみがないので、ついてるとこと、つかんとこがでけて、焼け残りの蔵か、石灰小屋のいたちか、冬瓜《かもうり》が夕立に会うたような、ロに紅をつけたが、唇いっぱいにぬったんで、青光りに光って、黄金虫《ぶんぶん》の背中みたいな。  しゃべると、よだれをくるので口紅が流れて、人食うた狼みたいな口もとで、頭へブリキで作ったかんざしを十五、六木もさして、歩くとドシンドシンと地ひびきがして、足袋は十三文甲高という、はだしで歩くので、足の甲の上へほこりが積もって苔《こけ》が生えて、春先になるとレンゲ草が咲いたァる。  踵にはあかぎれが切れてる。  去年のあかぎれが切れのこって、今年のあかぎれが切れて、来年のあかぎれが芽生えしてる。あかぎれの間に米粒が入ってる、粟粒が入ってる、麦に 稗《ひえ》に大豆に豌豆《そらまめ》が入ったある。雑穀屋の店をあんかけにしたような。  歩くと鶏がこついてる。中からみみずが出る。なめくじ、蛙が出る、うわばみに狼に山賊が出ようか、窟《いわや》みたいな足をしてますが、さすが女で、島田に髪を結うて、赤い鹿《か》の子《こ》をかけまして、赤だすきで、頭のてっぺんから黄な声を出して、お客さんを呼んでいます。 「貴方《あん》さんがた、お泊まりやないかいな(三味線、囃子入り唄)」 「ちょっと貴方さん、お泊まりやござりまへんか。ちょっと、手前の方は肥前屋でござります」 「私の方は紀州屋でござります」 「手前は播磨屋で」 「こっちは伝法屋で」 「ヘエヘエ、私の方は伊丹屋でござります」 「ナァ清やん、ひぜんやないか、きしゅうやないか、でんぼやないか、張ったら痛いやないかというてよる」 「ちがうがな、肥前屋に紀州屋に伝法屋に播磨屋に伊丹屋というてるのや」 「どこへ泊まるねン」 「さっき馬子がいうてよった、三田屋は玄関横づけやと、三田屋で泊まろ」 「あないに引っぱりよるがな」 「引っぱったら、定宿があるというたらええのや」 「ヘイ、貴方さんがた、三人さん、お泊まりやござりまへんか」 「わしらは定宿があるねン」 「アァさよか、おおきに失礼」 「オイ清やん、定宿があるというたらおおきに失礼というて、お辞儀しよったで」 「ヘェ、貴方さんお泊まりやござりまへんか」 「定宿があるで」 「おおきに失礼を」 「えらい面白いな、オウ定宿や、定宿はいりまへんか、定宿がまかった、定宿のしまいもんや」 「コレ、定宿を売るやつがあるかい」 「むこうの下女にいっぺんお辞儀さしたろ、ちょっと姐はん、わたい定宿があるで」 「そうやから、わたしはなにも申してまへんがな」 「アァさよか、おおきに失礼を」 「喜ィ公、お前がお辞儀をしてるがな」 「ちょっと、貴方さんがた、お泊まりやおまへんか」 「わたい定宿があるねン」 「さっきから聞いてますと、定宿、定宿というてなはるが、定宿の名前は」 「定宿やないかい」 「いいえ、みな、何屋何兵衛という名前がおますが」 「定宿屋の定宿兵衛や」 「そんな家はあれしまへんがな」 「そんなら足がいたみや、や」 「まァ粋な兄さん、伊丹屋は手前だす、どうぞお入りを」 「ああ、さよか……オイ清やん、来てんか、ここの家が伊丹屋やと」 「阿呆やな、しようもないこと言うよってにや、どうもしょうがない……お前とこで泊まるわ」 「ありがとうさんで……コレ、三人さんお泊まりや、お足洗《すすぎ》をおとり申しや……二階の八番へご案内申し」 「ヘイ、どうぞこちらへ……」  二階の座敷へ通りますと、宿屋の番頭さん、 「ヘイ、お早いお着きさんで、ただいまお風呂があいておりますで、どうぞお入りを」 「ア、そうか、オイ風呂があいてると。かわるがわる入ろ」 「そんなら、わたいが先いってくるで」 「ご案内します」 「ほっといて、一人でいくわ」 「貴方さん、お風呂ご存じでござりますか」 「わかってる、ここの家はどこに風呂があって、どこに雪隠があって、どこが漬物納屋や知ってる、案内せいでもええ」 「ア、さよか」 「わいいってくるで……風呂場はどこじゃいなァ、風呂場はここかいな……」 「お客さん、そこは洗物納屋でおます」 「知ってる」 「漬物納屋へなにしにお越しだす」 「ここの家は漬物を、どういう具合に漬けてるか見にきたんや、そっちへいってて……風呂場はここかいなァ」 「お客さん、そこは便所だす」 「知ってるがな、ついといでなというのに」 「貴方さん、お便所へなにしにお越しだす」 「お前、妙なことを訊《たね》るなァ、お便所へなにしに……なにしにてお便所しにきたんや」 「貴方さん、裸でおまっせ」 「裸で便所へこられまへんか」 「こられんことはおまへんが、風呂場はこっちでおますで」 「知ってる、ついといでなというのに、そっちゃへいき……風呂場はここかいなァ」  とあけますと、お侍が女子《おなご》を相手にいっぱい飲んでおられるところをガラッ。 「コリャ無礼者|奴《め》、武士の借り受けたる部屋を、案内もなしに無断であけるとはなにごとじゃ、無礼千万な、それへ直れ、手討ちにいたす」 「フワアーイ……アァこわやの」 「喜ィやんやないか、どないしたんや、大けな声で、そんなとこへ、へたばってからに」 「アァこわ。風呂やと思てあけたら侍と女とが差し向かいでいっぱい飲んでよったんや。だしぬけにあけたんで、びっくりしよって、武士の借り受けたる部屋を無断であけるとはなにごとじゃ、無礼千万な、それへ直れ、手討ちにいたすいうて長い刀を抜きよったんで、わいもびっくりして逃げてきたんや」 「あほやな、よう殺されなんだこっちゃ。それで風呂へ入ってきたんか」 「そらまだや」 「なにをしてるねン、わいらお前が遅いので先に入ってきたで」 「アァそうか、そんならわいはあとで風呂へいくわ、先に飯を食べる」 「膳《ぜん》がきてるね、どうや膳の上でいっぱい飲もか」 「いや、よしとく」 「なんでや」 「そうやがな、こんな小さい膳の上にのったら膳がつぶれるがな」 「そうやない、飯の上でいっぱい飲もかというねン」 「尻が飯だらけになるがな」 「ちがう、この膳の肴でいっぱい飲もかというねン」 「そんならわかってる、飲も、飲も」 「オイ姐はん、姐はん……」  お酒がまいりまして三人で飲みはじめます。 「なァ清やん」 「なんや」 「さっきの侍の部屋にいた女、あれなんやろ」 「あれが宿場の飯盛女とか、ここのおじゃれとかいうのや」 「どうや、わいらも旅のうさばらしに、おじゃれとかいうのを呼んだらどうや」 「イヤ、それもおもしろかろう」 「ひとつ、話のたねに呼んでみようか」 「よかろう……オイ姐はん、姐はん」 「ハイ、お呼びやす」 「なにかいな、ここにおじゃれというものがあるか」 「ヘイござります」 「ひとつ呼んでもらえんか」 「お一人さんでおますか」 「いや、三人や」 「あの、今晩はたてこんでおりますので、三人さんはでけますかしらん……」 「ちょっと聞いてみてんか」 「ひとつ訊ねてみまひょ」 「オイ清やん、今晩はいそがしいらしいで」 「あの、お客さん、まことにすみまへんが、お二人しかござりまへんが」 「二人しかないか、三人いるのに二人では具合がわるい、三人ないか」 「ハイお一人さんはお比丘《びく》さんではどうでござります」 「そらお菊さんでも、お梅さんでも、お松さんでもだんない」 「あのお菊さんやござりまへん。お比丘尼さん、あの尼さんでござります」 「なんや、尼さん、尼さんというたら坊さんやないか」 「さいで……」 「坊さんの女は色気がないな。やっぱり髪を結うてんとたよりがないがな」 「けれどもお一人だけだす」 「サァ一人でも」 「どなたかおひとり、ご辛抱ねがいます」 「だれが辛抱するねン」 「籤《くじ》にしよう」 「それがよかろう、そんならたのむ」 「かしこまりました」  しばらくいたしますと女中に送られてまいりました。 「あのお客さん、連れてまいりました、向かい部屋を三つあけてござりますで、お三人さんが順番にお入りくだされ。わたしの方も三人を順番にいれます。部屋をまっ暗にしておきますので、どなたにあたるかわかりまへん。三人揃いましたらこの部屋へ来ていただきます。そこではじめてどなたに尼さんが当たるか、その方が、かえっておもしろいと思います」 「そらおもしろかろう。玉手箱をあけるようなもんやで、そんなら姐さんたのむで」 「ハイ、かしこまりました」 「サア清やん、順番をきめよ、年の順にしょうか」 「そらよかろう、清やんが一番年上で、次がわいで、三番が喜ィやんや」 「そんなら順番に部屋へ入ろ」  と、めいめいが部屋へ入って待っておりますと、 「下からあげまっせ……」 「ごめんやす」  入ってまいりましたので清やんが、 「おいでやす、ちょっと頭を、アァ坊さんや、さっぱりわやや、わいに当たった」  次に二番目が、 「ごめんやす」 「おいでやす、ちょっと頭を、アァ坊さんや、わいに当たった、さっぱりわやや」  次が三番目で、 「ごめんやす」 「そら来た、どうぞ坊さんが当たりまへんように、こらあかん。わいに当たった」 「オイ揃た、もとの座敷へいこう」  と三人が明るいとこへまいりますと、三人とも坊さん……。 「アア、三人とも坊さんや、これは片身恨《かたみうら》みがのうてええ」 「ナァ清やん、さっきの侍、どうしてるやろ、わい、いっぺん見てくるわ」 「コレ清やん、今度いったら首を落とされるで」 「ソーッと内緒で見てくる」  と侍の部屋へまいりまして、障子の隙間からのぞきますと、 「コレ婦人、これは些少なれど拙者の寸志じゃ、櫛かかんざしなと買うがよい」 「マア旦那さま、沢山にありがとうござります」  喜ィやん、さっそく帰ってまいりまして、 「オイ清やん、あの侍が女に祝儀をやってよった、わいもやったろ、コレ、ふしん」 「ふしんということがあるかい、婦人や」 「コレ婦人、これは些少なれど拙者の寸志だ、櫛か、かんざしでも買うがよい」 「マア妾《わたし》に……櫛やかんざしを買うても頭にさすとこがござりません」 「そら困ったなァ、ウム……そうや鬢付《びんつけ》なと買うがよい」 「まァ旦那さん、なにをおっしゃることやら、坊主が鬢付なぞ買うたかてしかたがございません」 「ウーム……油でも買うてお灯明なと上げとくれ」 [#改ページ] 東の旅(二)運付酒《うんつくざけ》  宵のうちは旅のお噂にきまっております。 「オイ喜ィやん、早う歩きんか、えらい顔の色が悪いな、腹でも痛いのんやないか、どないしたんや」 「清やん、昨夜宿屋で飲んだ酒が悪いので頭が痛いのんや、どこぞでええ酒を飲み直したいな」 「オイ見てみ、向こうの屋根裏に立派な杉の看板が吊ったある、あの家は造酒屋《つくりざかや》と見える、向こうへ行って良い酒をちょっと一合ほど引っ掛けて行こうやないか」 「そうしよう」  やって来ますと大きな造酒屋で、表には縄暖簾《なわのれん》が吊ってござります、それを潜って中へ入り、 「御免やす」 「ヘイおいで」 「ちょっとお気の毒やが、酒を一合飲まして下さらんか」 「ヘイえらい折角でおますが、私の方は酒造元でござりますので、居酒はどなた様でも、お断りを申しております」 「イヤそうでおますやろうが、実は昨晩宿屋で飲んだ酒が頭へ上って気持ちが悪いので、見ればご当家は立派な酒屋さんで居酒はなさるまいが、一合がお邪魔なら五合だけ売ってもらえまへんか」 「えらいお気の毒さまでござりますが、お断りを申します」 「そんなら、五合が売れんのんなら一升でも二升でも構わん、二升買います、量《はか》って下され」 「ヘイ只今申しましたとおり、私の方は酒造元でござりまして小売は一向致しまへん、ハイ一樽かまたは一駄とか一車なら買うて戴きますけども、一升や二升の瑞下《はした》酒はどなた様でもお断り申しておりますんで」 「イヤ、何やと言うね、一升や二升の瑞下酒はお断り申している、一樽か一駄か、イヤ一車、オイ馬鹿にするなえ、宿屋で飲んだ酒が頭へきて心持ちが悪いよってに飲み直しに五合は気の毒やで、一升か二升売ってくれと頼んでいるのに、小売はせん、コラ、小売をせんのはもとより分かってあるわい、そうやよってに頼んでいるのじゃないか、俺ら両人は旅をしている者じゃ、向こう先を見て物を言え、貴様は何じゃ」 「私はこの家の若い者じゃ」 「そうじゃろう、若い者面してるわ、よもや旦那じゃあるまい、コラ旅をするのに一駄の二駄のと酒を買うて、そんなものを提《さ》げて歩けるかえ、コラ耳をさらえてよう聞きやがれ、ひょっとこ野郎が、俺らは大阪者じゃ、どう見違えやがった、一駄二駄と言うて買うくらいなら大阪へ帰《い》んで立派な酒を買うわい。こんな田舎酒を買わんかて、コラ耳の掃除をして聞いておけ、大阪の平野町二丁目には米喜の沢の鶴、灘の御影に嘉納の菊正宗、同じく嘉納の白鶴、酒の司、長部の大関、山邑《やまむら》の桜正宗、花木の富久娘、小網の世界長、若林の忠勇、泉正宗、鈴木の山星、高田の金盃、まだあるぞ、堺では大塚の金露、同じく大塚の菊泉、肥塚の都菊、また伏見では大倉の月桂冠、そのほかなんぼでも造酒屋は数知れんほどあるのじゃ、ど間抜けめが、何を吐かしてけつかるねン、一駄二駄でなければ売らんやなんて、洒落たことを吐かすなエ、スットコドッコイのカンカンツク、擂子木《すりこぎ》めが、オイ喜ィ公、お前も言うたれ」 「言うたる、コラどう見違えやがったんじゃ、スットコドッコイめが、ガリガリ亡者めが、エエッ擂子木めが、アノお味噌《むし》する擂子木めが」 「そないに丁寧に言うない、ドうんつく奴が、こんなん食ろうておきやアがれ、ブウーッ……サア行こう」  二人は悪口吐いて戸外へ出ますと、 「藤助、宗兵衛」 「ヘエ、コレは旦那さんだすか」 「今、次の間で委細のことはみな聞いていたが、しまいにドうんつくと吐かした、どうも聞き捨てにしておくというわけにいかん、お前、行て呼んで来い、コレ荒い言葉をだすな、穏やかに言うて呼んで来い、また逃げたりしたら面倒やよってに、モシお帰りやす、主人が只今申されますには、あんた方お二人にお酒をば、五合でも一升でもお売り致しますと言うておられますよってに、どうぞお帰りなすって下さりませと、呼んで来い」 「ヘエ畏まりました」 「コレかならず荒い言葉を出すなよ」 「ヘエ」 「そうして戻って来たら、ドうんつくの因縁によって一向構わんさかい、よいか、みな薪木《まきぎ》で撲《どつ》いてやれ」 「承知いたしました」  と若い者は戸外へ馳け出しますと、両人はモウ十四、五軒も先へ行ております。 「モシ大阪の衆お二人さん、チョッとお帰りなさって」 「ナニ、ちょっと帰れ、何ぞ用か」 「ヘエ、主人がさように申されます、たとえ一升でも二升でもお売り申しますよってに、なにとぞお帰りを願います、お酒をばお商い申しますから」 「そんなら何か、行ったら酒を一合でも売ると貴様の主人がそう言うたのか」 「ヘエ、さように申しておられますよってに、なにとぞお帰りを」 「そうか、ざまア見され、オイ喜ィやん」 「何や」 「喧嘩はこつきが得やな、あれだけ言いたいことを言うてやったよって、びっくりしてけつかる、これから行って五合ほど飲んで行こうか」 「どうぞお帰りなさって」 「アア帰ってやるぞ」 「ヘエ大阪の二人衆を呼び戻して来ました」 「アア大阪の衆か、どうぞこっちへ入って下され、イヤイヤご遠慮には及びません、ズッとこっちへ入って下され、コレ宗兵衛」 「ヘエ」 「お酒のええのを出して注いであげい」 「どうも済みません」 「藤助、表の締まりをして閂《かんぬき》を入れい」 「オイ清やん、何やおかしい具合やで、ナア清やん」 「何やお前ガタガタ慄《ふる》えてるな」 「なんにも慄うてえへんねが、身体がガタガタ動いて来た、オイ見てみ、蔵から若い奴らが薪木を提げて出て来たで」 「オイ大阪の二人の衆、酒はうまいか」 「えらい好い酒でまことに美味《おい》しい」 「そうやろう、それが末期《まつご》の水と思うてよう飲んでおけ」 「エーエ何と言うのんや」 「さて大阪の衆、私はこの家の主人じゃが、今次の間で聞いていたら、お前さん方何とか言うていなさったなア、スットコドッコイやとか、擂子木《すりこぎ》やとかはどうでもええが、ただ聞き捨てにしておけんのは、どうんつくと言うていなさったなア」 「ハイ言いました」 「どういう訳でどうんつくじゃ、そのどうんつくの因縁聞かんうちは、お前さん方を表へ出すことは出来ません、返答が出来るならさっしゃれ、どういう訳じゃ」 「なるほど、どうんつくの因縁をあんた聞きたいのんか」 「そうじゃ」 「イヤ話しましょう、あんたが坐っていなさる、その後ろの障子に貼ってある、それは何だすか」 「これか、これはお前さん日本長者鑑、持丸番付ともいうて、金持ちばかり書いてあるのじゃ」 「ヘエー、それをここでは何と言いますか」 「何と言つて、長者番付け、金持ち番付けと言いましょう」 「ヘエーこれは大阪では運付く番付けと言います、書いてはござりませんけども、これを運付く番付け、ど運付く番付けと申します」 「これが何で運付く番付けじゃ」 「サアあんたはご存じなければ私はお話し申しますが、大阪の今橋に鴻池善右衛門という仁《ひと》があります」 「そりゃお前さんが言わいでも、番付けにこの通り大関に書いてある、どこへ行ても知らん者はありません」 「そうでしょう、この鴻池というのはもとは大阪ではじめて酒を造りなさったんで、その酒をこしらえていた時分は、今のような清酒は出来なんだ、皆むかしは濁り酒であったので、すると酒を造っているうちに、若い者がたびたび小遣いを貸せ、銭を貸せというので、遂には、そうたびたびちょっと貸しをするとややこしいので断りを言うと、サア奉公人が怒って悪口を吐いてからに、手あぶり火鉢を酒桶の中へ投げ込んで出て行ってしもうた。するとあるとき濁りをば汲み出そうとして、出してみると酒が澄んでいる。ハテ奇体なことがあるものじゃ、澄み切った酒が酒桶の中にあるので、どういう訳じゃと、その酒をあけてみると桶の底に灰が沈んであった、ハハン、若い者が火鉢を投げ込んだために澄み切った清酒が出来たのやと、サアこれが始まりで、清酒の製法をば発明しておいおいと売り出した、すると大層酒が売れるところから運の付き始めじゃ、その年より倍も造り、その翌年は四倍も造るというようになった、だんだん酒を沢山造るように運が付いて、遂に身代を仕上げて、それから儲けた金を資本《もと》として両替屋を始め、諸国の大名衆へ御用達《ごようたし》をして、ドーンと運が付いて来て、日本で鴻池と人に知られるようになった。ドーンと運が付いたのでド運付くじゃ。  また三井八郎右衛門という人は、むかし六十六部《ろくじゅうろくぶ》〔廻国巡礼〕に出て伊勢の国へ出て来た、ある山寺に一泊したら夜中に庭前にピカピカと火が燃える、ハテ不思議と思い雨戸を開けて見ると、そのかたわらの井戸の中から火の玉が燃えて出るので、これは何か、狐狸《こり》妖怪の類《たぐい》の所業《しわざ》であろうと思うているうちに夜が明けたので、それからその井戸の中をば探して見ると、井戸の中から金子が三百両出たので、その三百両の金子を村方へさして持って行き預けておいたが、さて別に誰が取り落としたという者もないので、まったくこの金子はお前さんの身に備わった金であるよってに、というところからその三百両の金子をもって、伊勢の松阪にちょっとした呉服屋を始めた。ところが店の品物がドンドン売れる、銀主がだんだんついてきて、おいおいと店も立派になり、サアこれが運の付き始めで、だんだん運が付いてきて、とうとう大阪には高麓橋に立派な店をつくり、江戸にも店を出した。井戸の中から出た三百両が資本《もと》で、三井八郎右衛門と誰も知るようになったので、三井の印は井筒の中にその三百両の三の字を入れたんじゃ、今では日本国中三井八郎右衛門というたら誰知らぬ者もない、ドーンと運が付いて、これもど運付くじゃ。  まだある。大阪の木綿屋橋の辰巳屋という、この仁は伊賀の辰巳の渡し守やった、僅かな渡し賃をもろうて船頭をしていたが、ある時一人の客を渡した、すると後でふと見ると船の中に金包みが落ちてあった、あの人が落としたに違いない、そのうちに取りに来られるであろうと待っていたがその日は取りに来なんだ、それからわが家へ持って帰り、その金を神棚へ上げておいて、今日は取りに来るやろうか、明日は取りに来るやろうかと待っていたが、遂に一年というものは何の音沙汰もなかった。その翌年同じ人がこの渡し船に乗ったその時、あんたは去年の今月この船へ乗りなされはしまへんか、はい乗りました、そのときお金を百両落としはなされませなんだか、はい落としました、さようか船の中に落ちてありましたので取りにお越しになるかと待っておりましたが、お越しがないので私の家に預かってござります。もう取りにおいでるかと今もってちゃんと神棚へ上げておきましたので、私がこれから一卜走り取って来ますと言うと、その人は日向の延岡の人で、イヤなかなか感心なお方じゃ、失礼じゃがこういう渡し場の船頭をしていなさるお方にも似合わぬ正直な人じゃ、私には備わらぬ金じゃによって決して戻さいでもよい、お前さんのその正直な心に感心しました、その百両の金ぐらいでは商売も出来まいから、及ばずながら私がお前さんの後をきいて進ぜるからというので、そこで日向から炭を送ってもろうて、初めて大阪へ出て来て炭屋を始めた、それが始まりで炭があっちへもこっちへもよう売れて、それが運の付き始めじゃ、それが遂には木綿屋橋の橋詰め角引回した辰巳屋というてドーンと運が付いてど運付くじゃ。お前さんの家ももとからこういう大家でもなかったやろう、これだけの田舎に似合わぬ大きな酒屋になるのもドーンと運が付いて、これまでになりなさったんじゃろう、それやからど運付くと言うたんじゃ、それをあんた腹が立ちますか、分かりまへんか、どうや、ど運付く……」 「フムウさようか、これ宗兵衛、藤助、杢蔵、何じゃ向こう鉢巻きをして、片肌を脱いで、そりゃ何じゃ」 「ヘエ……」 「薪を持ってどうするね」 「ウム……その……」 「また表を閉めて閂を入れて、誰じゃ、表を開けんか」 「けどもあんたが表を閉めいと言いなはったので」 「イヤもう開けてもええ、早う開けえ、田舎者のことで何も知らぬのでな、お前さん、今ど運付くの因縁、分かりました」 「イヤお分かりになったらまことに結構で、そしてこのお方は」 「ハイこりゃ私の家内でござります」 「ハハアこれがあんたのご家内のど運付くさんで、してあの向こうにおいでなさるお子達は」 「あれは私のせがれで」 「イヤお宅の小運付くさんですか」 「これ、ここへ来てお礼を申せ、大阪のお方に、これも家のせがれでござります」 「ハハア道理でど運付く顔がしています」 「アア嬉しいことじゃ、あのようにほめて下さる」 「これは皆お宅のお若い衆で」 「ハイさようで」 「ハハア、ど運付くに仕えているお若い衆はみな運付く顔がしております、お前さん方も皆ここの旦那を見習うて、ど運付くにならにゃなりませんで」 「これみな礼を言わんかい、あなた達も終いにはど運付くになれる相があると賞めて下さるじゃないか」 「大きに有難うござります」 「コレ礼を言うのんなら鉢巻きを取って手をつかえて言わんかい」 「ヘエ大きに有難う存じます」 「コレ酒をば、ええのをこっちへ出しておくれ、何ぞ肴を、そうじゃ鶏卵《たまご》でも焼かして、ナアどうぞ大阪のお二人の衆、遠慮なしにせいだい飲んで下されや、コレコレここへ来てお酌をせんか、サア精出してやって下され」 「有難うござります、イヤどうも良い酒でござります、アア、えらいものじゃ、こりゃほんまにど運付くやよってに、ど運付く」 「沢山飲んどくなされや」 「イヤ沢山戴きました、さようなら、もうよばれ立ち致します、大きに」 「マアマアええやないか、お前方も急がぬようなら、私の家で二、三日泊まって行きなされ、さしずめ何も愛想がない、何ぞまたご馳走します、ゆっくりして」 「イヤモウ心|急《せ》きでござりますよって、お暇《いとま》申します」 「さようか、モウお出立《たち》か、しかし大阪の衆や、こりゃお前さんに心得までに言うておきますが、またこれから先へ行きなさっても、途中で酒が飲みたいというようなことがあるまいもんでもない、その時には居酒というてはどこでもいやがりますで、そこで酒屋へ入るとチョッと利酒をさして下さらんかというと、五合が一升の酒でも一向差し支えないでどこでも酒が飲めますじゃ、こりゃお前さん方に心得までに言うておきます」 「イヤ大きに有難う存じます、さようならご馳走さんでござりました、さようなら運付く、さようなら小運付くさん、可愛らしいな、今にど運付くになるのじゃ、ど運付く……」  二人は表へ飛び出しました。 「オイ喜ィやん、早う歩き」 「オイ清やん、私どないになるかと思うて心配してた、しかしお前は何でもよう知ってるな、あれほんまか」 「フムあれはみな嘘や」 「嘘か……、しかし早速にあないにうまいことを言えたなあ」 「大坂で噺を聞きに行たら、噺家があんなことを言いよったんや」 「そんなら噺家に聞いたんか、噺も聞きに行かんならんな、噺家は命の恩人や、噺を聞いたらためになる、大阪へ帰ったら噺家を贔屓にしてやろう」  と二人は急ぎ足で家なら十軒も行った時に後から、 「これこれ大阪の衆、これ大阪の衆……」 「オイ清やん、後から呼んでるで」 「ハイ何ぞ用かな」 「お前さん達も大坂へ帰ったら、私らを見習うてど運付くになりなされや」 「エエッ、阿呆言え、俺らはど運付くは嫌いじゃわい」 「アア、生まれつきの貧乏性は仕方がないナ」 [#改ページ] 東の旅(三)軽業《かるわざ》  伊勢参宮を志しました大阪者の二人連れ、小さな村へとかかって参りました。  村の入口には大きな笹が立って紅提灯が出てございます。  聞いてみますと、所の氏神さんの六十一年目、屋根替えの正遷宮《せいせんぐう》やというので、まあ急がん旅やお詣りして行こうやないかと、道を訊いてやって参りますと、小さなお宮で、正面の鳥居には白髭《しらひげ》大明神という額が掛かってございます。  境内へ入りますと正面が拝殿、右手がお神楽堂、ぐるりには所々方々からブチアケ商人《あきんど》が店を出しております、お神楽堂からは絶えずお神楽の音が聞こえて参ります。  浄めのお神楽ア……(神楽の鳴物)。  参詣を済まして裏手へ出て参りますと、怪しい見世物小屋が並んでござります。掘立小屋に訳の分からん看板を掲げよって、その下へ四斗樽《しとだる》の古いのを一つデンと据えて、上がった小銭を放り込みます。  田舎者を無理にでも引っ張り込んで、僅かの銭をひったくろうというので、大きな声出して客を呼んでよる。 「さア評判評判、アイ一間の鼬《いたち》や一間の鼬や、山から取り取りや、そばへ寄ったら危ないぞ……」 「ナア清やん、一間の鼬やいうてよるで、一ペん見ていこか」 「止めとき、ここらへ出しよるのは皆だましもんや」 「そうかて山から取り取りやいうてよるで、そばへ行たら危ないねんと。暴れてよるのに違いない、見て行こいナ」 「うるさい男やなア、オイなんぼやね」 「おー人が八文ずつや」 「二人で十六文か、払うとくで」 「やア大きに有難う」 「さア早う入り、一間の鼬はどこや」 「ずっと正面、ずっと正面」 「こんな狭いとこ、ずっと正面も糞もあるかい……おい、何もあれへんがナ」 「正面に立てたアるやろ」 「何じゃいこら、板に赤いものがついたアるなア」  一間の板に血がついたアるね、一間の板血や」 「アア板血かいナ、山から取り取りいうたなア」 「そうや、山から取り取りや、そんな板は海からは出やへん」 「そばへ寄ったら危ないいうたがナ」 「倒《こ》けてきたら危ないやろが」 「倒けてきたら危ないのんか、莫迦《ばか》にしよる、こんな物見せて八文やなんて、オイ銭はどうなるね」 「取ったらモギ取りや、替わろ替わろ……」(鳴物) 「さア評判じゃ評判じゃ、糸細工貝細工……」 「清やん、糸細工貝細工見よか」 「おきいナ、いまだまされたとこや」 「いや、あれはこっちが悪かったんや、一間の鼬なんてありそうなはずがない、糸細工貝細工はある物や、一ペん堺で見たことがあるね、綺麗な物やで」 「そうか、オイなんぼや」 「お一人前が八文ずつや」 「オイショ二人で十六文……オイどこにあるのやいナ」 「ずっと正面、ずっと正面……」 「娘はんが何や食べてるで」 「そのお娘《こ》はこの村の庄屋のいとはんや、永の病気で飯が食えん、お粥を食べてなはる、時々お菜《さい》も食べはるやろ、いと菜《さい》食う、粥菜《かゆさい》食うや」 「ようあんな悪いこと言いよるなア、お粥食べてるとこ見るのが八文やったら、飯食うてるとこは高いやろ、オイ銭はどうなるね」 「取ったらモギ取りじや、替わろ替わろ……」(鳴物) 「ソーラ評判評判、天竺の孔雀や、白い孔雀や、サア拡げた拡げた……」 「こいつ見ていこ、白い孔雀なんて珍しい、天竺の孔雀やと、拡げた拡げたと言うてよる、孔雀というものは拡げた時に見にゃ何にもならん」 「何でも見たがる男やなア、オイなんぼや」 「お一人が八文ずつや」 「二人で十六文、おいしょ」 「何もあれへん」 「それ見いナ、オイ何もあれへんがナ」 「その上に吊ったアるやろ」 「こら褌《ふんどし》と違うか」 「そうや、越中と六尺と二本あるやろ、合わして九尺や、天竺木綿の丈夫なやつや、洗濯して今拡げてる拡げてる」 「アばかにしよる、褌干して見せやがんね、銭はどうなるね」 「取ったらモギ取りや、替わった替わった」(鳴物) 「さア評判や評判や、評判のタゲじゃ」 「オッさん、タゲて何やい」 「見てござれ面白いものや、眼が三つに歯が二枚や」 「ふーん」 「それが砂や土を食うて笑うてよるね」 「いやソラおもろい、清やん見ていこ」 「懲りん男やなア、オイなんぼや」 「お一人が八文ずつ」 「アレに決めてよる、さア二人で十六文や……オイどこにあるのや」 「それそこにあるやろが」 「何じゃい、下駄が片っ方引っくり返したアる」 「下駄が引っくり返ったらタゲやないかい」 「眼が三つに歯が二枚」 「鼻緒入れる眼が三つ明いていようがナ、下駄はみな歯が二枚や。あんじょう見なされ、砂や土を食うているやろ」 「考えやがったなア、……ヘヘン、誤魔化してもあかンぞ、笑うちゅうたやないかい、こんなものが笑うかい」 「笑いまへえでナ、ゲタゲタとなア」 「阿呆らしなってきた、下駄見るのに八文いるのなら沓《くつ》見るのはなんぼやろ、沓かて笑うで、クツクツとナ」 「しょうもないこと言いな、オイ銭はどうやい」 「取ったらモギ取りや、替わろ替わろ」(鳴物)  あっちでだまされこっちで銭取られして、社の裏へ来ますと高物、軽業興行でござります。表には十二枚の絵看板、看板の周囲は金襴《きんらん》の縫いつぶし、縫いつぶしは綺麗なが食いつぶしは汚うおます。  まず式三番叟《しきさんばそう》には、菖蒲《あやめ》渡り、四ツ綱渡り、乱杭渡り、火渡り、石橋は獅子の飛びつき、一本竹には二挺|撞木《しゅもく》。  立看板には葛の葉の障子抜け、雨木戸と申しまして左右に木戸が取ってござります。一段高い札場には札を山のように積み上げまして、角々には盛り塩で 縁起《げん》が祝うたアる。  座った表方の風態というのが、腹掛けから股引き、足袋にいたるまで盲紺《めく》ずくめ、白ぬきで太夫元とした印半天を引っ掛けまして、勢いのええとこを見せようというので黄色の切れで鉢巻きもの。  チョッとお神酒が入って顔はほんのり桜色というところだすが、色の黒い奴が赤うなりよるとそうはいきまへん、顔はほんのり桜の皮色、ややこしい色してよる。  二枚の札をパチパチ鳴らして、箱根知らずの江戸ッ子ちゅうのん。  景気よう客を呼んでます。 「サア入らっしゃい(鳴物)、サア札買うて買うて、サア入ろ入ろ」 「清やん、軽業見よやないか」 「フム、どうやら今度はだましもんやないらしい、オイなんぼや」 「お一人が四十文や」 「なアええものは銭も取りよる、オイきた、二人で八十文払うで」 「オイ二枚通りや……」 「なア清やん、一文でも銭出したら客やなア、それに二枚通りやなんて、紙か煎餅《せんべ》みたいに言いよる」 「それは興行物の習いや、客の数をよまずに札の数をよむのや」 「アア今のお二人さん、ちょっとお戻り、銭が一文多かった」 「気イつけて払いんかいナ、親切にいうてくれてる、早う返してもろうといで」 「やア大きに、多かったら返して」 「いや、実は一文足りまへんね」 「なに吐かしやがんね、今一文多いというたがナ」 「足らんいうたら、聞こえんような顔して入ってしまうやろ、多いというよって戻って来るね、そこで一文もらう」 「うまいこと掛けやがったナ、どの筋が足らんね」 「こっちの端の筋が九文よりおまへんね」 「一イニウ三イ四オ五イ六ウ七ア八ア九オ十ヨ、阿呆かい、チャンと十文あるやないか」 「モシ。こんな物勘定に入れたらあかん、こら銭やない、板の節穴だっせ」 「アア節穴か……ヤヤこしいとこに節穴があるのやな、これは通らんか」 「節穴が通りまっかいな」 「このとおり指は通るで」 「そんなとこへ指突っ込みなはんな、早う払いなはれ」 「やかましい言うない、サア払うてこましたる、……ウワー仰山、入ってよるなア、オーイ幕開けてやア……」(鳴物) 「大きな声で何言うてるね」 「幕開けてや言うてんねがナ」 「幕みたいなもの閉まったアるかいナ」 「正面にベラベラ下がったアるがナ」 「あれは緞帳《どんちょう》や」 「どんちょでも大事ない。開けてやア……」 「けったいな仁輪加《にわか》しいないナ」  喧《かしま》しゅういうてるうちに出て参りました口上言い。檳榔樹《びんろうじ》五ツ所紋、段小倉の軽衫《カルサン》を胸高に穿《は》きまして、手に頬張るような拍子木を持ってます。  舞台の七三まで出ると三足後ろへさがって、牛の糞《うんこ》みたいにベタベタと座りよる。 「東ウざアーい、一座高席にござりますけれど御免、御許しナこうむり、不弁舌なる口上なもって申し上アげ奉ります(鳴物)、御当地|御《おん》客様にはご機嫌よろしくあらせられ、恐悦至極に存じ奉ります、さてこのたび当御宮様屋根替え正遷宮につきまして未熟不鍛錬なる我々一座をお招きにあずかりましたなれども、御当所は花の御地とうけたまわり、再三御辞退を致しましたるところたってとのお勧めにより、あつかましくも推参つかまつり、初日出しまするや否や、かくは永当永当のお運びよう、楽屋一同は申すに及ばず、太夫元より勘定元、数ならぬ私どもに至りまするまで、有難き仕合わせに存じ上アげ奉ります。  東ーざアイ、まだまだ申し述べたき口上もござりまするなれども、長口上は芸当番数の妨げ、相勤めまする太夫、楽屋にて身仕度整えますれば、お目通り正座まで控えさせまアす(鳴物)。東ざアーィ、お目通りに控えましたる太夫、芸名の儀は早竹虎吉の門人、和矢竹野|良市《よしいち》と申しまする、お目見得お引き合わせ相済みますれば、舞台半ばにおきまして、芸当二度の身仕度には取り掛からせまアーす(鳴物)。  東ざアーイ、身仕度な整いますれば、あれに設《しつら》えましたる蓮台《れんだい》へと足《そく》を移す、蓮台は次第次第と迫《せ》り上がりましょうなれば、この儀をなぞらえまして出世は鯉の滝登りーッ。(鳴物)  東ざーい。頂上まで登り詰めますれば、蓮台の縁を放れ、張りおきましたる網にと移る。まず最初は足調べ、あなたよりはこなたへと通う。この儀を名づけて深草の少将は、小町が許《もと》へ通いの足どりーッ(瑞唄)。……ありゃシッカリ……ハアッ。……片足にてスックと立つ。野中の一本杉ィ……ハアッ。お目留まりますれば体は元へと取り直す、ハアッ……。……達磨大師は座禅の形……ハアッ。逆戻りーッ。……邯鄲《かんたん》は夢の枕ア……ハアッ……。危ないッ、体は元へと取り直す、……尾張名城、金の鯱鉾《しゃちほこ》立ち……ハアッ……。逆戻りーッ、……。  東ざーいッ、これまでは首尾よく相勤めましたるなれども、これよりは太夫身に取り千番に一番の兼ね合い、綱よりは両手片足の縁を放す、しばらくは鵜《う》の水放れーッ。アさて、アさて、アさてさてさてさて、さて錆《さ》びたりな赤鰯《あかいわし》、いわしておいて笑おでな、お手鳴るほうへ鳴るほうへ、ほえから落ちるかんざしを、かんざせ戻せというお軽、お軽い口の平右衛門、衣紋つくろうそのひまに、ひま入った九太夫が石となる、いし食うたむくいか伴内《ばんない》が、伴内頼む奥座敷、座敷は斬られて血まみれ、まみれつ倒《こ》けつ来る力弥、力弥由良之助は未だ来ぬか、小糠《こぬか》一升がただ五文、御紋所は菊と桐、義理と褌《ふんどし》かかねばならぬ、奈良の旅籠や三輪の茶屋、茶屋の姐貴が飛んで出て、だまされしゃんすなお若い衆、わたしも若い時や二度三度、だまアされたションガイナ。おっと違うたうちの太夫さんの軽業は、網の半ばにおきまして、あちらへゆらり、こららへゆらり、ゆらりゆらり、落ちると見せて束《そく》にて止める、この儀なぞらえ古い奴じゃが、野田の古跡はさアさア、さアさアさアさア、下がり藤の軽業じゃアーい」(ガラガッタガタ)  片っ方の足でうまいこと綱へぶら下がるはずやったのが、どうした拍子か、下へ真っ逆様にドスーン。 「アさて、アさて、さてさてさてさて」 「オーイ、太夫さんが落ちて怪我してるがナ、いつまで口上言うてるのや」 「長口上は大怪我のもとや」 [#改ページ] 東の旅(四)七度狐《しちどぎつね》  相変わらず二人の男、急がぬ旅でぶらぶらと伊勢の亀山まで出て来ましたが、それから庄野、石薬師、追分とやって参ります。  左へとって伊勢街道。神戸《かんべ》から白子の不断桜《ふだんざくら》も見物いたしまして上野村へ掛かって参ります。 「ナア清やん、えらい腹が減ってきたなア」 「コレ大きな声でみっともない男やナ、お互いに大阪者や、腹が減ったてなこというない」 「そら無茶やがナ、大阪者かてどこ者かて、減る時がきたら腹は減るがナ」 「さ、そこや、ちょっとこのへんの人が聞いても分からんような言葉つかいんかいナ」 「符牒で言うのんか」 「阿呆かいナ、大阪の粋言葉という結構なものがあるやろ。らはが北山や、底入れていこかと言いんかいナ。はたの人が聞いたかて何のことや分かれへん」 「わいが聞いたかて分かれへん」 「情けない男やなア、らはというのは腹のさかさまや、北山というたら空いたことやがナ」 「何でやね」 「天気のええ日に北の山を見なはれ、カラッと空いて見える、それで空いたことが北山や」 「そうすると腹が大きかったら南山か」 「そらどや知らん、飯食うことを底入れるという」 「便所へ行くことを底抜くという」 「そんなこと言えへん、アアちょうど幸いや、向こうに煮売屋みたいな家がある。何ぞ出来るか見といで」 「よっしゃ、……行て来たがアカんわ」 「何でアカんね」 「休みや」 「いや田舎の店は年中休んでるように見えたアるけど、入ったら商売してよるで」 「いいや、表に大きな断りが書いたアるね」 「何と書いたアる」 「一つ、せんめし、酒肴。いろいろ、ありやなきや」 「何じゃいそら」 「断りやと思うね、それ見いナ、ここからかて見えたアる」 「阿呆やなア、あれは一ぜんめし。酒肴いろいろあり。やなぎやと書いたアるねがナ」 「やア悪い書きよう」 「読みようが悪いのや、入って何ぞ出来るか訊ねてみイ」 「おーい、誰ぞいるか」 「おお、何じゃナ」 「ちょっと掛けさしてもろうても差支≪だん≫ないか」 「掛けて悪いぐらいなら床几なおしとくがナ」 「アアさようか、ちょっと一服さしてもらうで」 「自分の莨《たばこ》や、遠慮せんと喫うたらええ」 「何ぞ出来るか」 「尻に腫物《でんぽ》が出来たアる」 「いや違うがナ、何ぞ焼いた物でもあるかいうね」 「ぎょうさんある、裏の囲いの板かてみな焼いたアるね」 「そうやないがア、ちょっとくさい物はないかいうてんね」 「糞溜《どつぼ》が二つあるで」 「難儀やなア、作った物はないのんかいナ」 「草鞋《わらじ》がいるのんか」 「いいやいナ、食える物を訊《たん》ねてんね」 「裏の石垣がもう崩《く》えるやろ」 「清やん、一ぺん来てんか」 「泣きないナ、そこのき、いやおっさん、この男のいうのはナ、ちょっと酒の肴になるような、旨い物はあるやろかと言うてよんね」 「ああそうかいナ、何じゃ次々に変わった物訊ねて、しまいに泣き出しなさるよって、何じゃしらんと思うてたんじゃ、ははアどこの国のお方じゃナ」 「それみい、あっちゃこっちゃ田舎者扱いしられてるがナ、時におっさん、何が出来るね」 「そこの紙に書いたアるような物が出来ますね」 「清やん、わいが読んだるワ、エエーと、くちらけ、あかえけ、あかかいけ、とちやうけ……おっさん、何やこら」 「鯨汁、赤え汁、赤貝汁、泥鰌《どじょう》汁やがナ」 「嘘吐け、あれは『け』という字や」 「けなら偏の上に、|ヽ《ちょぼ》がない。あれは皆、ヽが打っておますやろ」 「偏の上てどこや」 「左の肩のとこだすがナ」 「ああ、蔕《へた》のとこか」 「字に蔕があるかいナ」 「泥鰌汁は旨いやろ、そいつ早幕で二つしてんか」 「よろしおます、……コレ婆さんや、泥鰌汁を二つせにゃならん、わしゃ泥鰌捕って来るよって、こなた町で味噌買うて来るのじゃ」 「ちょっと待ち、ちょっと待ち、これから泥鰌捕りに行くのんかいナ、そない行くなり直ぐに捕れるか」 「大丈夫や、ぎょうさんいるよってナ、モンドリ伏せといたら婆が味噌買うて来るまでに、きっと入ってますワ」 「町まで味噌買いに行くいうて、町は近いのんか」 「向こうの山越えて三里十八丁や」 「オイオイ、あんな年寄りの足で山越えの三里やなんて、そら急なことやなかろ」 「いやこの辺の者は山道馴れてるよってナ、なんぼ年寄りでも二日あったら大丈夫や」 「こら、うだうだ言うない、泊まりがけで味噌汁が待てるかい、もう何でもかめへん、出来合いの物でええ、早いこと頼む」 「ああそうかいナ、出来合いなら里芋《こいも》はどうやな」 「そいつはヌルヌルして気持ちが悪い」 「鰊《にしん》持って行こか」 「いや鰊はあとロが渋いよって堪忍してんか」 「数の子はええやろ」 「いやロヘ滓《かす》が残るさかい謝るワ」 「午蒡《ごんぼ》はいかんかナ」 「腹が張って屁が出るよって、ドムならん」 「人参はどうじゃろ」 「人が腎張《じんば》りや言いよるさかい食えへん」 「生節《なまぶし》は」 「値が高い」 「そう言うたら食う物ないがナ」 「いや生節好きやねんけどナ、今日は親の精進日でくさい物食うたらいかんね」 「そら難儀やなア、ああ精進ならええ物があるワ、高野豆腐はどうや、これなら精進や」 「高野豆腐か、カスつく奴やなア、まア他になけりやそれで辛抱せにゃ仕様がない……と、おっさん待ちや、それを皿へよそうまえに、汁を絞ってしもうてんか」 「何を言いなはんね、たださえカスつくいうてなはる、それに汁絞ってしもうたりしたら、とてもカスカスして食えまへんで」 「差支《だん》ない、わいが食うね、心配せんと絞って」 「さよか……これくらいでよろしいか」 「オイ、そんな俎板《まないた》の上で怖そうに箸で押さえたりせんと、両方の掌でグーッと思い切り絞ってんか」 「面白いことして食べなはんのやなア、や、ウーンと、これでどうやナ」 「よしや、そいでええ、しかしカスカスで食えんやろ」 「そうやよって始めから言うてるがナ」 「済まんけどそこへ生節の汁掛けてんか」 「えらい企《たく》らみがあったんやア、そらまア汁ぐらい掛けたげてもええけど、あんた、親の精進やないかいナ」 「そうやね、けども親の遺言でな、かならず精進だけは守ってくれよ、そのかわり汁だけは辛抱するというのや」 「けったいな遺言やなア、よろしおます、こうして掛けときまっせ」 「いやア有難い、オイオイおっさん、汁と一緒に入った小片《かけ》を別に出さいでもええやないかいナ、小片の一つぐらい入れといたかて何やね、気の汚い」 「あんたが気が汚いね」 「何|吐《ぬ》かしやがんね、よっしゃ、そういわれたら俺も男や、生節ぐらい買うたる、一枚持って来い」 「一枚やない、一切れや」 「当たりまえなら一切れや、そいつは薄いよって一枚というてんね、巧いこと剥《へ》ぎよったナ、鉋《かんな》でやるのんか」 「何言いなはる、庖丁で切りまんね」 「巧いもんやなア、大阪へ刺身の添大根《けん》切りにおいで、料理屋で使うてくれるで、亀節ちゅうのはチョイチョイ見るけど紙節てな始めて見た、おっさん、よそう時気イつけや、咳したらヒラヒラと散るで」 「無茶言いなはんな、生節が散るかいナ」 「あんなこと言うてよる、ここから吹いて飛ばしたろか、見て感心するな、本真《ほんま》に、それ一《ひ》イ、二《ふ》の、三つ、フーッとどうじゃい」 「どこに飛んだアるのや」 「お前の前の皿の上へや」 「こら今よそうたんやがナ」 「アアそうか、何や手ェぐち散ったと思うた」 「オイ、もうええ加減にしときんか、しまいにおっさんが怒りよるで。時にちょっと一杯飲みたいのやが、酒はあるやろナ」 「酒はこの村の銘酒があるね、むらさめ、にわさめ、じきさめいうてナ」 「妙な名前の酒やなア、むらさめてどんな酒や」 「ここで飲んでると、ホロッと酔いが回って来る」 「さア、酒はそこが身上や」 「ええ気持ちになってこの村外れる時分に醒めるね」 「何や、心細い酒やなア、にわさめいうのはええか」 「この庭から出たら醒めるね」 「じきさめわいナ」 「飲んでしもうたらじきに醒める」 「そんなんドムならんナ、どうで酒の中へぎょうさん水混ぜてるのんやろ」 「いや、水の中へ酒を混ぜるのや」 「ウワー、水臭い酒やろナ」 「いいや、酒臭い水や」 「どこまでさからいやがんね、何でもええワ、一番ええのん持って来い」  さア二人が献《さ》しつ献されつ飲んでるうちに、ええ機嫌になって来ました。 「オイおっさん、何ぞもっと気の利いた肴はないのんかいナ」 「田舎のことやよってにナ、とても貴方がたの気にいるような物はあれへんやろ」 「その擂《す》り鉢《ばち》に入ったアるのんそれ何やね」 「こら烏賊《いか》の木の芽あえや」 「オイオイそんなええ物があるのんやったら最初に言いんかいナ、そいつは大好きや、早う持って来て」 「いやせっかくやけどなア、これはいかんね、今晩村の寄り合いがあるのでな、注文でこしらえたんや、売るわけにはいかんね」 「さアそうやろけど、そないぎょうさんにあるのやがナ、ちょっと一人前ぐらい取ったかてかめへんやろ」 「いやそれがいかんね、チャンと聞いた金高に合わしてこしらえたアるねよって」 「ちょっとでも別に売ったら、それだけ余分に儲けることになるのや。儲けたらええやないかいナ」 「いやそんな曲がったこと嫌いや」 「田舎者は融通がきかんなア、そんなら無理なこと言えへんワ、好きな物見たち堪らんねさかい、ほんのちょっと、なア、十銭がとこだけ売ってんか」 「それがいかんね」 「そいたら五銭だけ」 「いかんね」 「そいたら三銭」 「いかんね」 「二銭」 「いかんね」 「そいたら……」 「いかんね」 「コラ親爺、そいたらモウええわ言おうと思うてんのに、あんじょう聞きもせんと、いかんね言うことがあるかい」 「いや貴方は売れに掛かってるよって、こっちはいかんねの方に掛かったんや」 「けったいな物に掛かりやがったナ、売らんという物を無理に買うわけにはいかんさかい、まア諦めるワ」 「えらい済みまへんナ」 「しかし目の前に好きな物を置いといて、それが食えんというのはえらいつらい、ちょっとこの擂り鉢の上へ笠かぶせとくが差支《だん》ないか」 「どうなとええようにしなはれ」 「ああえらいええ気持ちになって来た。飯はもっと先で食うワ。勘定はなんぼになる……アアそうか、えらい安いねナ、これ取っといて、釣りは要らんで。時におっさん、お前とこ何ぞ裏に生臭い物置いてないか」 「棒鱈《ぼうだら》が水に浸けたアる」 「アアそれや、いま犬がくわえて走りよったで」 「ギエッ、棒鱈を犬が……、いやそれは犬やなかろ、この辺には悪い狐がぎょうさんいよるね、そいつに違いない、ちょっと行て掴まえて来るワ、気の毒なけど暫く番しててや」 「よっしゃ行といで、残りの酒飲みながら気イつけたるワ……アア慌てて走って行きよった、サア喜ィ公尻からげしィ」 「何でやネ」 「何でもええ、わいのいう通りにしたらええね、しっかり尻からげしたか、サア早う走るのや」 「何で走るのやいナ」 「何でもええがナ、わいの言うとおりしたらええね、あとで訳が分かる、さア走り走り」 「アアしんどい、しんどい、モウええか」 「まだまだ走るね、もっともっと、早う早う」 「アア苦しい、フアああ」 「アへたばりよった」 「なんでこない走るのやいナ」 「さあ走った訳聞かしたろ、これ見てみイ」 「あッ、これはさっきの木の芽あえや、こんな物どないしたんや」 「なんべん頼んでも売ってくれやがれへんやろ、売らんとなるとなおさら食いたい、笠の下へ隠しとくわいうて笠かぶせたやろ、あれは思惑があったんや、犬が棒鱈くわえて行きよったというたら、親爺びっくりして捧持って飛んで行きよった、そのあいだに笠持つような顔して擂り鉢ぐち持って出たんや、それで走って逃げたんやがナ、モウ大丈夫や、さア遠慮せんとぎょうさん食い」 「うまいことやったんやなア、早速よばれるワ、ムシャムシャ、ふむ、木の芽の匂いがしてなかなか美味い、ムシャムシャ」 「ムシャムシャムシャ、銭が出てないと思うとなおさら美味い、ムシャムシャムシャ」 「ムシャ。ああ腹がふくれた、もうしまいになったで、ボツボツ行こ」 「待ち待ち、こんなとこへ擂り鉢置いといたら足がつく」 「ギエッ、播り鉢に足が生えるか」 「そうやない、我々が盗んで食うたことが分かるというのや、その空の擂り鉢を田圃《たんぼ》の中へ放ってしまい」 「よっしゃ、放るで…」  田圃の真ん中めがけて放り込みましたが、拍子の悪いことにはこの田圃に一匹の狐が昼寝をしていました。そいつの額へコツンと当たったものやさかい、額が破れて赤いものがタラタラ。 「クスンクスン(鳴物)。おのれあの二人の奴、他人の物を盗み食いするばかりか、罪もないものに摺り鉢あてて傷負わす、憎さも憎き、畜生め……はこっちじゃが、おのれ憎っくき人間め、狐の執念見せてくれん、今にどうする、覚えていよ」 「おい美味かったなア、さア早よ歩きや」 「好きな物を充分食うたんで元気が出て来た、なんぼでも歩くで」 「オイちょっと待ちや、何やこんなとこに大きな川があるで、橋も何もあれへんよってここから向こうへ行かれへんがナ」 「清八つぁん、しっかり頼むで、わいは伊勢参りは初めてや、お前が道をよう知っているいうさかい、頼りにしてついて歩いてるのや。向こうへ行けんようなとこへ連れて来たらあかんがな、あと戻りするのんか」 「そう喧しい言いナ、わいも道は知ってるのやが、こんなとこに川はないはずやね」 「ないはずでも、ちゃんとあるやないかいナ」 「すると道を間違うたんかいナ。あと戻りしたらさっきの煮売屋の表を通らんならん」 「あかんあかん、今度通ったらきっとあの棒でどつきよるで」 「えらい難儀やなア、しかし幸いこの川は流れが緩い、あんまり深いことなかったら入って渡れるで」 「それが深いか浅いか分かれへんがナ」 「いやそれにはええ工夫があるね、石を一つ拾うて来て川へ放り込んでみるのや、ドブンという音がしたら深い、とても渡られへん、チャプンという音がしたら浅いしるしや、大丈夫入って渡れる」 「アアそうか、そんなら一つやってみたろ……何にも音せえへんで」 「どんな石放り込んだんやいナ」 「小豆ぐらいの砂利や」 「阿呆やなア、そんな小さい石で分かるかいナ、なるべく大きな石の方がええねがな」 「そんならはなからそう言いんかいナ、なるべく大きな石……やアあったあった、ウームこら重い、ちょっと手貸してんか」 「コレコレ、それは大き過ぎるがナ、難儀やなア、握り拳ぐらいの頃合いのを捜しんかいナ」 「難しいのやナ、握り拳ぐらいのんはーと、あるある、しかしこの石大分柔らかいで」 「オイ柔らかい石があるかいナ」 「それでも柔らかいのやがナ……アア違う、馬の糞や」 「そんな汚い物拾いないナ」 「知らなんだんやよってしょうがない、なるほど、わいの掌は糞《ばば》つかみや」 「しょうもないこと言わんと早う石を放り込みんかいナ」 「よっしゃ、丁度ええのがぎょうさんあるワ。放るぞ。イヨッと……」  バサバサ。 「どうや。ドブンかチャプンか」 「いいや、バサバサや」 「何」 「バサバサやで」 「オイ。バサバサいう水があるかいナ」 「そうかてバサバサいう音がするのや」 「そら川岸の草の上へ放ってるのや、川の真ん中めがけてあんじょう放ってみい」 「よっしゃ、イヨーウと。(バサバサ)……コーラしょっと(バサバサ)……清八っつぁん、何ぼ放ってもやっぱりバサバサやで」 「そうか、いや分かった、これな、何でも上の方に大水があって、急にこんな流れが出来たんや、下には麦でも生えてるのやろ、大丈夫、深い気遣いはあれへん、歩いて渡ろ」 「そない手軽ういうけど、ヒョット深かったら土左衛門にならにゃならん」 「心配しいナ、ここに竹杖が一本ある、わいが片方の先を持って先に渡るね、お前はもう片方の端を持って後からついて来るのや、お前が深いか浅いかと言うて訊ねる、わいが浅いぞというたらお前は杖を突き出してくれるのや。もしも深いぞというたら杖を引っ張るのや」 「ハハア、深いぞというたら突き出すのんか」 「そんたことしたら死んでしまうがナ、深いというたら引っ張ってくれるのや」 「よっしゃ分かった」 「分かったら着物を脱ぎや、襦袢も脱いで素っ裸になるのや、誰も見る者はあれへん、脱いだら細こう畳んで頭の上へこう載せてナ、褌で顎へしっかり括りつけるのや、さアこの杖の端持ちや、まるで大井川やナ」 「大井川ア深いかア」(鳴物) 「浅いぞ浅いぞ」 「大井川ア浅いか」 「深いぞ深いぞ」…… 「オーイ、吾作ヤー」 「何じゃ太郎作ー」 「あれ見よれ、われんとこの麦畑を素っ裸になって歩き回っとる奴があるぞ、二人して麦を踏み荒らしよる」 「ホー、竹の杖を引き合うて深いか浅いかちゅうとるぞ」 「また狐にだまされとるんじゃ、背中どついたれや」 「コレ、しっかりさんせ」 「アー深いか浅いかア」 「何言うとるんじゃ、しっかりせんかい」 「アー。川がないようになった、お前はんら何や」 「わしらはこの辺の百姓じゃ」 「フーム、ここにあった川をかくしたナ」 「川も何もあるかい、このとおり麦畑じゃ、お前ら狐にだまされてるのやぞ」 「エッ、狐に……それは油断のならぬ」 「今さら眉毛《まゆげ》に唾《つば》つけてもおそいわい、まア早う着物を着さんせ」 「いや、こらモウ、面目ない次第で……」 「気をつけて行かんせや、この辺の狐は性が悪い、七度狐というてナ、一ぺんだましたらかならず七へんだまさにゃおかん奴じゃ、しつかり気を張って行かんせ」 「ヘエ大きに有難うさんで……お大事の麦をえらい荒らしまして済みまへん、さいなら、大きに……」 「清八っつぁん、えらい目に遭うたナ」 「阿呆らしいて人に話も出来へん」  清八に喜六の二人が百姓に気をつけてもらいましてそこを街道へ出てぶらぶらと参りますと日が暮れて参りました。 「なア清やん、えらい暗うなって来たやないか、まだ日の暮れるのんにはチイと早いと思うているのに」 「イヤさっきうろうろしている間にだいぶん時がたったんやろう」 「そうやろうかなア」  歩いておりますと日はずっぶりと暮れて真っ暗がりになりました。  ぶらぶらと歩いて参りますと向こうの方に灯火が見えますので、灯火をたよりにやって来ますと一つのお寺がござります。 「オイ喜ィやん、ここにお寺がある。今晩はこのお寺で泊めてもらお」 「えらい汚い寺やなア」 「そんなことを言いないな、案内を乞い」 「何と言うのや」 「お頼み申しますと言うたらええのや」 「よっしゃ、お頼み申します、お頼み申します」  声を掛けますと内から出て来ましたのは年の頃は二十二、三の尼さんで、 「ハイあなた方は」 「ヘエ私ら二人は旅の者で宿を取り損ねましてまことに困っておりますので、どうぞ今晩一泊をばお願いしとうござります」 「ハイお見掛けのとおりのこういう庵寺《あんじ》のことでござります、不自由でもおいといがござりませんなんだら、男の方は泊めるというわけには行きまへんが、今夜は本堂でお通夜でもしなされ」 「ヘエありがとう存じます」 「して御飯はどうでござります」 「ヘエ大きに、今の先チョット一パイ飲みましたのでまだおなかは空いてはおりまへん」 「アアそうか、何もお上げ申す物もござりまへんが、おなかがすいたらそこの鍋にベチョタレ雑炊が炊いてござりますから、それでもあたためてお上がりなされませ、そこに柴が沢山ござりますよって囲炉裏へ焚《く》べて、マアマアごゆっくりなさりませ」 「ヘエありがとう存じます」 「しかし妾《わたし》もこれからチョット出て行かんなりませんので、どうしようと思うていたところで、ちょうどあなた方二人がおこしくだされてまことに結構でござります、妾はこの向こうの薮際の甚次郎兵衛後家という人が死にましたので、枕念仏に参りますよってに、あんた方はどうぞ留守番をお頼み申します」 「アア、モシ庵主さん、チョット待っとくなはれ、こんな淋《さび》しいとこで私ら二人留守をしていましたら恐うおますがな」 「何をおっしゃる、お寺というものは至って賑《にぎ》やかなもんだす」 「ヘエー」 「もうしばらくしたらこの墓の中で亡者が角力《すもう》を取るやら、また妊娠で死んで来た女の新仏《にいぼとけ》が土葬で埋めたのが、墓場で子を産んだとみえて、夜中になると子を抱いて来て、ネンネンヨーというて子守りをしますのでほん賑やかでおます」 「わたいそのネンネン嫌いだす」 「それは仏壇のお灯火を消さぬようにしていれば出やしません、どうぞお頼み申します……」 「モシモシ……トホホホホホ……そンな気味の悪い女の幽霊が出るのに、あんたが出て行ってしもうたらどうもなれへんがな。モシ、オイ……トホホホホホ清やん、坊さん行てしもうた、えらい所へ泊まり込んだなア、ネンネンヨーと言うて出るといナア」 「気味の悪いことやなア、マア仕方がないがな」 「しかし清やん、えらい広いお寺やないか、けども何もないなア、あんなきれいな尼はんがこんな淋しい寺にたった一人よう馴れたものやなア、オイ清やんちょっと見てみイ、仏壇の火がなんや薄暗うなって来た。油がないのと違うか、少し油を注いで来たらどうや、灯心が細いのかとうない暗いなア」 「お前灯心を掻き立てといで」 「よっしゃ、ア、いかん、油が切れかけたアる」 「そらどもならん、そこらに油の入れ物ないか捜してみい」 「あったあった」 「有難い、早うつぎなはれ」 「よっしゃ、つぐで………(パチパチパチパチシュウ)……」 「オイおかしい具合やないか、どないしたんや」 「油ついだら火がだんだん暗うなるねん」 「そんなはずがあるかいナ、なんぞ間違うたんと違うか」 「ア、えらいことした、油やと思うたら醤油の入れ物やった」 「それ何をするのやいナ、そんな物ついだら火が消えるがナ」 「えらいことしたなア、(パチパチパチシューン)……アア消えた」 「消やしたらあかんがナ、ネーンネーンヨーウ……」 「ウワッ……でででで出た、出た出た」 「何がや」 「ネンネンが出よった」 「いや今のは俺が言うたんや」 「オイ清やん、そんなしょうもないこと言いないなア」  二人がガタガタ慄えておりますところへ向こうの方から提灯をともして村の若い衆四、五人連れで棺桶を担いで、 「行け行け」(下座) 「オイ清やん火が見えて来たで」 「アア庵主さんが私ら二人淋しいと思うて村の若い衆を遊びによこしてくれたんやで」  門のとこまで出て来ると、 「オイ善四郎や」 「ムムン」 「どういうもんでお寺から来てくれんのやろうか」 「さいなア、ことによると上道《うえみち》と下道《したみち》と行き違うたのやないか」 「そうかも知れん、しかし庵主さんがいてくれたらええのになア」 「アア門が開いている、ヘエご免やす、お頼み申します」 「オイ清やん、誰や提灯を持って来てくれた」 「ご免やす」 「ヘエー」 「私は藪際の甚次郎兵衛後家の所から来ました、後家はんの死骸をば担いで来ましたが、庵主さんがおいでくださると思うて、今まで待っていましたが、おいでがないので、死人を持って来ました、どうぞよろしゅうお願い申します」 「アア今庵主さんはその藪際とやらへ行くと言うて出はりました」 「アアそうか、そんなら行き違うたんや」 「それやよって上の道を行こうというのに下の道を行こうというよってに、こないになったんや、どうしよウ」 「今さら死骸持って帰るわけにもいかん、どッちゃみち持って来んならんのやよってに本堂へ持って上がろ」 「そんならそうしよう、エイカ、ドッコイショ」と仏壇の前へ棺桶をば担いで来て据えました。また灯明を上げて、 「アノモシお二人さん、庵主さんがお帰りになりましたらどうぞよろしゅうお頼み申します、またしてもまたしても、金返せ金返せと言うて、それを言い死に死にましたのでござりますので、迷うて出ませぬようにお念仏を授けてやって下さるようにおっしゃって下さりませ、私らアもう帰ります、さよなら……」 「アア、モシモシ、チョット……オイ清やん、また妙な物が一ツふえたで」 「どうもならんなア」  二人はますます気味が悪いのでガタガタ慄えておりますと、だんだん夜が更けてくると棺桶がミチミチミチミチと鳴り出します。  棺桶がポンと割れると中から白髪の老婆が痩せ衰えた細い手を出して、 「金返せ金返せ」 「フワーイどうぞお助け下さりませ、私らは何も金を借ったおぼえはざりません、どうぞお助け」 「イヤ金返せ金返せ、ここへコイ」 「イヤーッどうぞ助けてエーッ」 「オイ田野四郎や、これさいぜんの奴じゃないか、アレ、あんなとこへ坐って手を合わせて地べたへお辞儀をしているぜ」 「また欺されてよるのや、気をつけてやれ……こらしっかりせんかい……」 「モシ私は金を借った覚えはござりません、どうぞ堪忍しとくなアれ」 「コレ何を言うてるのじゃ、しっかりせえ」 「ヘエ今ここに庵寺がありましたがどこへ行きました」 「コレ庵寺、そんなものがあるものか」 「イエいま白髪の老婆が細い手を出して、金返せ金返せ……と」 「お前また欺されているのや、この辺は悪い狐がいる所やでなア」 「ヘエー、オイ清やんどうも狐という奴は巧いこと欺すもんやなア、今ここに庵寺があったと思うのに」 「アアあんなことをしてよる、オイ旅の衆向こうを見てみイ、竹の先に筵《むしろ》を下げて突き出してよるがナ」 「アアあれが庵寺に見えたのか」 「ヘエー」 「ソレ見い」  百姓が鍬で叩きますとまたこっちへニュウと突き出す。 「アアまたあんな所へ庵寺が出来た」 「アアまたあんなとこへ莚を突き出しやがる」  またぞろ打ち落とすとまたこっちへさして突き出す。 「またこっちへ庵寺が出来ました」  百姓が打ち落とすとまた向こうへニュウ。 「コラヤイ、ド狐、われもええ加減に旅の者をば欺しておかぬかい」  と狐が、 「われもええ加減に庵寺アつぶしておかぬかい」 [#改ページ] 一人酒盛《ひとりさかもり》  お酒の好きな方は酒は百薬の長と申されまして、一人で二升ぐらいのお酒を平気でお上がりになる方がございますが、わたくし同じ人間と生まれながら、どう不幸に生まれましたか、そうして人さんが沢山に飲みはるお酒がそういただけません。  まあ嘘やとおぼしめしたら、いったいどれくらい飲めるちゅうて、今ためしにさらの一升びんをここへ一本ボーンとあてごうていただきましたところで、そうですなぁ、小さな盃に一杯か、まあ無理して二杯ほどしかよう残さんようになってございますので。  お酒をお上がりになる方は、みなそれぞれ癖がございます。  飲み方の癖、または酔う上の癖、上戸《じょうご》とか申します。  機織り上戸、左官上戸、鶏《とり》上戸、仏上戸、薬上戸、皆それぞれ飲みようで名前がついてございますが、機織り上戸ちゅうのは、こらお女中に多うございまして、お女中が盃持ちなはると、せいだい機織っているようなかっこしなはる。 「いえ、もう兄さん飲まれしまへんの、あけしまへんちゅうのに、いえ飲まれしまへんねがな」  せいだい機織ってなはる、機織り上戸。  左官上戸、こら男の人に多うございまして。 「エエッ、もっと飲めてか。いやもうあかんねん、あかんちゅうねん、あかんちゅうねん飲まれへんちゅうのに。あかんちゅうのに」  せいだい壁塗ってなはる左官上戸。  可愛らしいのがあの仏上戸、こら盃持ったらせいだい拝んでなはる。 「エエ、いやもう堪忍してえな。あかんちゅうねん、このとおり、もうあかんちゅうねん、もう参った」  参らんかてよさそうなもんですが……。  反対に陽気なのが鶏《とり》上戸。 「エエッ、もうちょっと飲めてか、ほんなら、もうあんまり飲めんさかい半分だけにしといてや。こんな大きなもんでそうは飲まれへんさかい、半分だけに、なっ、半分に……、おうっとトトトトト……もうけっこう」  こら陽気すぎますけれど。  にくたらしいのが、薬上戸ちゅうやつですなあ。 「エエ、飲めてか、飲まいでかい、おんなしように割り前出してるのやないかい、なに吐かしてけつかるねん。コラッ人に飲めちゅうて、すすめといて……、酒を注がんかい。コラ、そんな手つきで酒が注げるかい、もっとけつ持ち上げ、もっとけつ上げちゅうねん、われのけつやないわい、徳利のけつ上げちゅんじゃ、おうっとバカ、阿呆か、注げちゅうて、こない仰山注いでどないするねん、酒八分目、知らんか、山盛り注いでどないするねん、阿呆ンだら、手を動かすこともでけへんやないかい。ええ、寒中に荒ら男が裸で造った酒やで、こぼれたらもったいない、口の方からお迎えに行かんならんやないか、気ィつけさらせ、ド阿呆。ろくなことさらさんねん……、阿呆ンだら……どない思うてけつかるねん、ウーッ、ウーッ、ウーッ……、ああっ、辛《か》らア。もう一杯おくれ」  そない辛かったら飲まなんだらよろしいねんけれど。  そうかと思いますと、笑い上戸、怒り上戸、泣き上戸、皆その酔い方によって違うもんですなあ。別に面白いこともおかしいこともないのに、酔いが回ってきますと、うれしそうに笑うてる人がある、笑い上戸。  反対にまた悲しいこともないのに、ポロポロポロポロ、涙こぼして泣く人がある、泣き上戸。  もうひとつは何かといいますと、やはり、お酒の加減で人の顔さえ見たら怒ってるやつがある、怒り上戸、それぞれ皆、酔い方が違います。 「さ、こっちへ入って。うちの嬶《かかあ》が行ったか……。いやいや、お前、手がすいてたら、休みやったら来てもらおうと思てな、うちの嬶を呼びにやったんやけど、何かい、休みか」 「いや、そやないねん、休みやないねん、仕事に行こうと思うてな、表へ出たとこでひょっこり、お前とこの嫁はんに会うたんや。ハア、ほんならお前とこの嫁はんが、うちの人が呼んでるさかい、ちょっと顔出してやってくれ、わたいこれから上町へ行って来まっさかい、ちゅうてな、お前とこの嫁はん行ってしもたんや。仕事があるてなこと言われへんさかいな、とりあえずやって来たのや。何ぞ急な用事でもできたんと違うか」 「あ、仕事があったんか。そら気の毒ななあ、いやいや仕事があるのやったら、わざわざ来てもらわんでよかったんや。別に用事ちゅうわけやないのや。実はな、五年ほど前、うちにしばらくいてた男や、お前も知ってるはずや、五年ほど前に半年ほど、二階にいとってん、まあ居候ちゅうたら、居侯やねんけどな、そいつ、長いこと顔見せなんだのに、昨日来よってな、もうそれっきりになって、お礼にも上がりまへんと、えらいすんまへん。相も変わらず貧乏しております。ろくなお礼もでけまへんが、今、灘《なだ》の方の酒蔵で働いてます。で、蔵出しの酒をわずかでおますねんけど持って来ましてん。ちゅうてな、蔵出しの酒、五合置いていきよったんや。いやその酒はやな、俺がこれから飲もうと思うねけど、お前も知ってるとおり、俺は一人で酒飲むの、かなわんねん。誰なと付き合うてくれる人がなかったら、飲んでる酒が旨うないねん。ホデまあ、仰山《ぎょうさん》友達はあるけど、友達は仰山あってもやで、気心の分かった友達やなかったら、飲んでる酒が旨うないやろ、エエ。そやさかい、友達の中でもお前となら、子供の時分からの馬合いやさかい、ホデお前に付き合いしてもらおと思うて、うちの嬶に呼びにやったんや。……仕事があるのんか、そら気の毒な、ホナ行って、行って」 「……いや、あのなあ、そら仕事はあることはあるねけどな、別に今日行かんならんちゅう仕事やないねん。ウン、お前が言うとおりや。そらお前が一人でよう飲まんちゅうことは知ってるねや、イヤイヤ付き合いさしてもらうわ」 「そらいかん、そらいかん。ほかのことと違うがな、俺が酒飲む付き合いにやで、お前、仕事休んでもろたら、それでは気の毒な、行てきて」 「そんな水臭いこと言いないな。お前、今、どない言うた、友達は仰山あるけれど、気心の分かった友達はお前一人やと、俺のこと言うてくれたんと違うのんか。そやろがな、そやろがな、いやそんなもん何も遠慮することあれへん、俺が付き合いさしてもらう。仕事は明日行くちゅうてるねや、付き合いさしてもらうがな」 「そうか、そらまあ、お前はな、そない言うてくれるかしらんけど、お前とこの嫁はんに対して悪いがな。そやろ、うちの人がおとなしい仕事に行こと思うてんのに、あの人がそんなことで呼びに来た、ちゅうてやで、あとでお前とこの嫁はんにぼやかれるのが辛いが」 「何もお前、うちの嬶に気遣うことあれへんやないかい。そやろ、何やねんそんなこと、気遣うことないやろ。大体やで、嬶てなもん、なんぼでも代わりがあるねんで、違うか。気に入らなんだら、向こうが出て行ったらええのや。そやろ。友達ちゅうたら、気心の合うた友達ちゅうのは、おいそれとそこにあるわけやなし、そやろが、そんなこと気遣うことあれへん。付き合いさしてもらうわ」 「そうか。いやいや、お前がそれまで言うてくれるのやったら、付き合いしてもろうたらええねんけど、なんしなあ、俺は一人で飲んでる酒てな、てんと旨うないねん。誰なと相手が居ててやで、ごじゃごじゃごじゃごじゃ、この酒は旨いとか、ええ具合に酔うたとかなんなと、こう話し相手がなかったら、飲んでる酒が旨うないねん。いや、お前がそないしてやで、仕事休んで付き合うてくれるのやったら幸いや。ホナ一つ頼むわ。あ、それからな、この五合の酒や、わずかな酒やけどな、持って来た男が言うとった。ほかの酒と違うてな、蔵出しの酒、手のしてない酒やさかい、ゆっくり、味おうて飲んどくれやす。冷やで飲みはるのもよろしけど、やはりほんとうにお酒が好きやったら、ちょっと燗して飲んでくれはったらよろしいと、こない言うてたんや。俺もまあ、普通の酒やったら、冷やでガブーッとやってしもたらええ、てなもんやけど、それだけええ酒やったらなあ、やっぱりちょっと燗して飲みたいと思うね。ところが俺いたって不精やねん。火いこしたり、湯わかすのがどむなら……。  エッ、ナニ、お前がやってくれるて、ああそうか、男のお前にそんなことさしてえらいすまんな。ホナお言葉に甘えて、フン、ホナ、湯わかしてんか。ホデわいたらなあ、俺、勝手に燗《かん》……。エエッ、燗してくれるの、お前が、気の毒ななあ。しかし、それやったら、もう遠慮、気兼ねなしに、お前に燗頼むさかい、いや、今さっきも言うたとおり、五合しかないねん、その代わり大事にしてや、こぼしたりしなや、大事に飲みたいさかいな。これ、そっちへ渡すさかい、そこに徳利があるやろ。その徳利に入れて燗してくれたらええさかいに。エエッ、盃、いやいや、盃はいらん。盃はいらん。ここにいつも使うてる湯呑みがあるねや。ウン、小さい盃で飲むの、どもならんのや。これちょうど一合入るねん。ちょうどもってこいやねん、これでええさかい。如才はないやろけど、燗はあんじょうしてや、温《ぬる》いやつはどもならんで、と言うてやで、熱過ぎてもいかんのや、酒は上燗ちゅうさかいな。燗が出来たら……エ、もう……出来た……。出来た、アハ出来た。ホナえらいすまんけど、使うて悪いけど、持って来て。いやいや、別にお前に注いでもらわんかて、俺、勝手に……。エッ、注いでくれるの、お前が……。ハッハッハッ、気の毒ななあ。ホナ注いで、注いで。アハ、おおきに、おおきに。えらいすまん。アアッと。おおきに。ナ、見てみい、ちょうどやろ。こぼれへんやろ。ちょうど一合入るねん。ほいでその徳利、空《あ》いたやろ。あと燗しといてや。頼むで、ハハッ……。  いやな、持って来たやつがえろう自慢しとってん、この酒は蔵出しの酒で、そこらの酒屋で売ってる酒と、手ェが違うちゅうて言うとった。ソーラよっぽど自慢しとったさかいな、ええ酒に違いないねんけどな………。ウーツ、ウーツ、ウーツ……。ええ燗や、ウン、ちょうどええ燗や。これぐらいの燗が一番ええねん、うちらの嬶はな、長年俺と連れ添うてて、いまだに燗がまともに出来んのや。熱かったり、温かったりしてなあ、燗が一番むつかしいねん、どんなええ酒でも、燗のしようでなあ……、ウーツ、ウーツ、ウーツ……、アーッ。ハッハハハハハ、ほんになるほど、自慢しよるはずや、ええ酒や、もう口あたりが違うさかいなあ。どない言うのかいなあ、こくがあるちゅうのかいなあ、舌の上へのせただけで分かる、味が。なかなかええ酒もって来よった、こら旨いわ。この酒ならちょっといけるわ、……ウーツ、ウーツ、ウーツ……。ア、燗でき過ぎてえへんか。いやいや、出来たらすぐにこっちへ持って来てくれたら、ええさかいに。エッ、出来たか、出来たか。ア、大き憚りさん。ウーツ、ウーツ、ウーツ、……ウーツ。お代わりは……エッ、また注いでくれるの。気の毒ななあ、あそう、ホナすまんけど注いでんか。ホーラええ酒や。これやったらな、ちょっといけるわ。おおきにおおきに。今まで俺もずいぶん酒飲んだけどもな、こんなええ酒飲むの、生まれて初めてや、ハハハ。……ウーツ、ウーツ。  お前、燗するのなかなか上手いなあ。イヤイヤ、べんちゃらやない。なかなかこうはいかんもんやで。たいていはな、初めはうまいこと燗したあっても、二度目には、温かったり熱かったりするもんやけどな、ちょうどうまいこと、ちょっとも変わらんように、燗が出来てるわ。ハッハハッ、ほんまにお前、そないして、燗が出来るとは思わなんだ……いたってド無器用な男やのになあ……。ウーツ、ウーツ……、アーツ。ハハハハハハッ、いやほかの酒ならな、これぐらい飲んだかてなあ、ええ、別に酔うたという気分にならんもんやけどな、やっぱり酒がええだけにえらいもんやなあ、あれ一杯グーツと飲んで今、二口か三口飲んだだけやけど、もうホローッとええ具合に酔いが回ってきよった。ハッハハハハ、やっぱり値打らがあるなあ、酒がええと。ハハッ、エエ、ハッハハハハ。ア、忘れてえへんやろなあ、その空いた徳利、ちゃんと燗しとけよ。そんなこといちいち俺に言わすなよ、……ハッハハハハハ……。いやいや、如才はないやろけどなあ、ちゃんとしてくれてるとは思うけど……。  ウーツ、ウーツ、ウーツ……。アア、ハハッ、旨いわ、ハハッ、ええ酒や。アアええ具合……ええ具合に酔うて来た。ハッハハー、気持ちようになって来たわ。ハッハハーどや、ええ、お前も嬉しいになれへんか。アッハハハハハハ、……いやお前、こないしてな、やっぱり飲んでやで、この酒はええ酒やとか、旨いとか、誰なと言う相手がなかったら、飲んでてやで、黙って飲んでてみいな、なんぼええ酒でも、お前、旨いこともなんともないがな。なあ、やっぱりこないして旨いとかなんとか言う相手が、あればこそや……、ウーツ、ウーツウーツ……、アーッハハ……。オイオイ、注がんかい、燗が出来てあったら……。阿呆か、お前……、ようし、よし、ハッハハハハハ。いやおおきに、いやほんまにええ酒や、ええ具合に酔うてきた。  ハッハハ、しかし酒飲みておかしなもんやなあ。……おれ今でも思い出すがなあ、そやな、ちょうど昭和二十二年ぐらいかなあ。あの時分は酒の不自由な時分や。皆が酒飲むのに苦労した時分や。それでもやで、酒飲みちゅうのはおかしなもんやでフン……、ウーツ、ウーツ、ウーツ……。その当時は酒だけやないわ、食い物かて不自由した時分や、食い物不自由してんのは、さほどでもないけど、酒がなかったらたまらんねんなあ、どないなとして酒を飲んだもんや……。お前、お前覚えてるか、一軒の店で一人に二合飲ましてくれたらええ方や、たいてい一杯しか飲ましてくれへん、それも正一合ないがな、ハハッ、なあ、酒飲みがそんなもん一杯や二杯飲んだかて、酔えへんもんやさかい、二軒も三軒も走り回ったもんや。ハハッ、そやろ。ウワアッハハハハッ、そないまでして苦労して酒飲むのやなあ、フン……、ウーツ、ウーツ、……。あの時分のこと考えたらな、エエ、貧乏はしててもやで、今こないして不自由せんと酒飲めるだけでも嬉しいやないかい。  ええ……オイ、お前何ぞ心配事でもあるのと違うか、むつかし顔してるなあ。イヤ、わいが今、話ししてることを聞けちゅうねん。アホ、バカ。あの時分におもろいことがあったちゅうのや。皆で、もうちょっと飲みたいなと思うてな、夜ウロウロウロウロしてるとな、どこで飲みよったんか、ええ具合に酔うてやで、往来の真ん中でゴローッと寝とるのや。なあ、ところがあの時分は、何もかも不自由な時分や。酒に酔うて道で寝てて、よう靴脱がされたとか、腕時計盗られたとか、中にはお前、洋服の上着もズボンも脱がされたやつがあった時分や。それでも、ええ具合に酔うてしもたら、そんなこと心配なしに、ゴローッと寝てよるねんなあ。俺は、お前、ちょっと酔うてたけどなあ、ちょっと酔うてたけど、もう一杯飲みたいなあと思うて御堂筋歩いてた。御堂筋、ハッハハハハッ、あの当時の御堂筋ちゅうたら、殺風景なもんやった……ウーツ、ウーツ、ウーツ、……。  ちょうどあの三津寺はんの……三津寺はんの横手なあ、塀の横手へ行ったらな、男がゴローッと寝てよるねん。立派な風態《ふう》して、ほなそこにお前、一人、男がな、えろうその寝てる奴の肩へ手ェ掛けて、何かしかけとるさかい、ほで、俺、こらあひょっとしたら上着か、持物《もちもん》でも盗られよったら気の毒なと思うたんでな、いきなりつかつかっと行ってな、あんた何してなはんねん、ちゅうて訊ねてん、ホナその男の言うのには、いやこの人、ええ具合に酔うて寝てはるさかい、一ぺん起こそうと思いまんねん……。そら、まことに親切でよろしいな。起こして家へ連れて帰ってあげなはるのか、ちゅうたら、いや、こないしてね、道で寝るほど酔わしてくれる飲み屋はどこやと訊ねよと思うて……。アッハハハハハハハ……、俺その時感心したなあ、熱心な人やなあと思うて。アッハハハハハハ、そないしてまで飲みたかってんなあ、ハハッ、ハハハ……酒飲みておかしなもんや……ウーツ、ウーツ、ウーツ、……ああっ、ハハッ。おい、注げ。注いでくれちゅうねん。何吐かしてけつかるねん……。何のためにそこにけつかるねん、そこに。ヨ、ようしよし……。ハハハハッ、おおきにおおきに。へへッ、後つけといてくれ、まだもう一本あるはずや……。それからな、すまんけどな、そこの台所の揚げ板開けてくれ、ソウソウソウ、そこにな、ドブ漬けがあるやろ、そのドブ漬けの中へ、いっぺん手ェ突っ込んでバアーッとかき回してくれ、いやあ、底の方に茄子《なすび》の古漬けがあるはずや。ア、あったか、あったか。アッハハッ、それすまんけどなあ、きれいに洗うてよう塩出しして、細こうに刻んでなあ、土生姜《つちしょうが》すって持って来てくれ。  ハッハハいやいや、ちょっとそんなもんでも摘まむもんがあると、飲んでる酒が旨いさかい……おおき、おおき憚りさん、ハハッ、お前こないしてなあ、ちゃあんと俺の言いなりになるだけ嬉しいわ。ハッハハ、言うたらちゃんとしてくれるだけ……。うちの嬶、こうはいかんで、ハッハハーお前に来てもろてよかったわ、ほんまにハッハハー大きに憚りさん、ハッハハ、ウーツ、ウーツ、ウーツ……。いやこんなもんでもなあ、ちょっと醤油かけて、ホデ、これ摘まんでると、へへッ飲めるもんや……。こんな古漬けみたいなもんでもな、ちょっと肴《あて》になるやろ、ああ、ええ具合に酔うて来た。ハッハハー、ほんまに気持ちええわ、ハハッ。ちょっとお前、歌でもうとうたらどや。ハッハハハハ、そこでお前、黙って座ってたら、飲んでる酒が旨うないわ、ハハッ、ちょっと歌うとうてくれ、ハハッ……。ウーツ、ウーツ、ウーツ……、ええ具合に酔うて来た、ハハッ……。♪梅はー咲いいたか、かっ、桜はまだかいな、とくらあ、アッハハハハハ……ああええ具合、ああもうなんともいえんええ気持ちや……ハハッ……ウーツ、ウーツ、ウーツ……。アッハハ……。  おい、湯飲みが空になったら、言わんでもちゃんと酒注がんかい、コラ。そこへはり込んだままやったら、燗が出来過ぎるやないかい。言うてるやろ、大事にしてくれよちゅうて、大事な酒やちゅうて……、コラ、取りさらさんかい……、そうか、ええわい、ええわい。おれの言うことが聞けんのか、ようし、ええわい、俺が勝手に注ぐさかい。何吐かしてけつかるねん、おのれらの世話になるかい、バカ。……どない思うてけつかるねん、しようもない。こんなもん、燗しすぎて熱すぎたら、せっかくのええ酒がだいなしになるやないかい、そやさかい言うてるのや、なあ……。見てみイ。お前、煮えたあるやないかい……。阿呆か、こない煮やしてどないするねん、バカ。こんな熱いの飲まれへんやないかい。……フッフーフー。甘酒と違うねんぞ、アホ。吹いて冷まして飲むてな酒、どないするねん。阿呆ンだらめッ。……こんなこといちいち言われな分からん齢か、バカ……。ウーツ、ウーツ、ああ熱ッ、そやさかい俺、始めから言うてるやろ……。チョッ、何の役にも立たんガキ、どない思うてけつかるねん……。何や……、何ぞ文句でもあるのんか、バカッ。何吐かしてけつかるねん、人が気持ちよう酔うてるのに、むつかしい顔しやがって。コラ、第一な、そこで突っ立ってんと、そこへ座れ、ドアホ。人が酒飲んでるのに、人の前へニューと立ちやがって、むつかしい顔しやがって……どない思うとるねん……。ウーッ、ウーツ……。ちょうど飲みかげんになっとる……。オイ、お前、俺に何ぞ文句でもあるのんと違うか、おい、むつかし顔……、コラ、人が酒飲んでるねんぞ、人が酒飲んでる前で、むつかしい顔して人の顔グーッとにらみつけやがって、どない思うてけつかるねん……ウーツ、ウーツ、ウーツ。お前のな、その顔見てたら、飲んでる酒が旨うないわ。帰れッ、ド阿呆」 「オイ、ええ加減にしとけよ。口の端に交番所がないと思うて、ようそれだけ言いたいこと吐かしやがったな、このガキは。人が仕事に行こうと思うてんのに、わざわざ呼びに来やがって、付き合いしてくれ……。オイ、あのな、酒の付き合いちゅうたら、お互いに差しつ差されつ飲んでこそ付き合いやぞ。人に用事さすだけさしときやがって、そら、お前は旨いやろ、お前はええ具合に酔うたやろ。どない思うてけつかるねん。あのな、俺がナ、ひと雫も飲めなんでも、おい、お前も一杯飲んだらどないや、ちゅうのが友達と違うか。なにが気心の知れた友達や。何吐かしてけつかるねん。今日が日まで、お前と友達やと思うて付き合いしてきたのが俺は口惜しいわ。今後道で会うても、もの言うな。お前みたいなガキはな、ええ日選んで目噛んで、死ねッ。ドアホ」 「アッハハハハハハハ……。とうとう怒って去《い》にやがった」 「松っちゃん」 「何や、お梅はん」 「お梅はんやないし、竹やんえらい剣幕で帰ってやったやないかいな、喧嘩でもしてやったんと違うのか」 「心配しな、心配しな、あいつ、酒癖が悪いのや」 「笑いまひょう笑いまひょう」