[#表紙(表紙2.jpg)] 上方落語100選(2) 笑福亭松鶴 目 次  後家馬子  仔猫  子は鎹  瘤弁慶  米揚げ笊  紺田屋  桜の宮  酒の粕  ざこ八  佐々木裁き  猿後家  三十石夢の通い路  三人兄弟  質屋芝居  三枚起請  借家怪談  正月丁稚  商売根問  尻餅  崇徳院  須磨の浦風  住吉駕籠  千両蜜柑  大丸騒動  大名将棋 [#改ページ] 後家馬子《ごけまご》  へい一席うかがいますは、秋のお噂でござります。所は玉造の稲荷さんの近所の裏長屋で、井戸端へ長屋の嫁さん達が寄り集まったのが話の端緒《いとぐち》で。こういう長屋の人はあんまり、銀行や債券の話はせんもんで、たいがいはどこの米屋は二厘がた安いとか、どこの酒屋で買うたら、盃に二杯多かったとか、こんな話ばっかりしています。 「ナアお松さん姐《ねえ》はん、この長屋ほど貧乏人の多い長屋はないし」 「なに言うてやんや、お竹はん、この長屋かて金持ちがいはるし」 「マアお松さん姐はん、この長屋にお金を持っている人が住んではるか」 「ハアハアあるとも、戸口《こぐち》の妙広《みょうこ》はん」 「なにか、あの糊屋のお婆んか……」 「ハア耳こそ遠いが、お金をどっさり貯めて近所へ小金を貸してはるそなし、私とこは借ったことないけども、あれが世にいうお多福《たやん》の鼻紙で、ふくつん、というのやし。それに按摩の眼鉄《がんてつ》さんも、お金を持ってるという世間の噂やし。それはそうと、お竹はん、今頃あんたお米洗うてやが、なんでやね」 「ハイナー、お松さん姐はん、マア聞いとう、うちの親父さん、今朝車を引いて出しなに、一パイ仕事をしたら、銭を持って帰ってやると言うて出て行ったんやが、帳場で籤《くじ》を引いたら籤まん〔くじ運〕が悪うて一番終わりになってようよう今一パイ仕事をして銭を持って帰って来たんで、そのお金でお米を買うて来て、これから昼御飯を炊くのやわ。それはそうと、お松はん姐はん、貴女《あんた》とこの兄さん、こないだ仕事休んでやったやないか」 「ハアお竹はん、あれ何も気楽に休んだんやないし、マア聞いとう、あんな阿呆らしいことないし、今でも思い出すと腹が立って腹が立って堪らんのやし」 「マアお松さん姐はん、どないにしてやったんやね」 「イーエー、宅《うち》の人、このあいだ雨が降った晩、仕事から遅う帰って来て、今から風呂へ行くのも大儀なというて、パッチを脱いで井戸端で足を洗うていたら、いつもの野良猫が入って来て、パッチの上へ糞たれしょったんやわ、慌てて洗濯をしたんやけども、雨降りで乾かへんので仕方がないさかいとうとう一日休んだんやが、日が暮れに雨が上がったんで、たとえ小遣いだけでも儲けて来るというけれども、まだパッチが乾いたないがなというたら、ええことがある、五厘で糊《のり》を買《こ》うてこいというよってに糊を買うて来たら、鍋炭《なべずみ》を糊で練って足へ塗って出て行ったんやわ。八軒家で客が末吉橋までなんぼやというので七銭くれというたら、五銭で行けというので、マア遊んでいるよりかましやと思うて客を乗せて末吉橋まで行ったら、末吉橋やない、住吉橋やというのんで、住吉橋ならとても五銭で行けんというたら、マア行ってみい、先方へ行ったら何とかしてやるというので、住吉橋まで行ったら、やっぱり五銭しかくれんので、やっさもっさ、言うてるところへ、巡査《おまわり》さんが来やはって交番所へ行ったのや。ところが宅の親父さんが夢中になって足を拭いたら、鍋炭はげて巡査に叱られて謝って帰って来たんや。翌朝、御飯を食べてるとまた猫が来たので、おのれのためにえらい目に逢うたと、そばにあった薪を投げたら、猫に当たらんと障子に当たって、障子の桟《さん》を折って紙を破ってえらい損をしたので、今でも猫のことを思うと腹が立ってどもならんねんし」 「マアさようか、しかしお松さん姐はんとこは、子供がないのでええわ。兄さんが仕事に出はったらその後で、家で手内職の一つも出来るけれども、妾《わし》とこの家は子供が仰山あるので、手仕事も出来へんのでほんまに損やわ」 「そらお竹はん違うし。子供は育てておかなあかんし、子宝というて、野にも山にも子は産み落とせ、子宝で咲く老の花、ということがある。今に子供が大きゅうなってみなはれ、年寄ってから楽が出来るやないか。その証拠に奥のお竜はんみなはれ、娘のおくしさんが親孝行やので、お竜はん結構やし」 「ほんにそうやしなあー、それはそうとあのおくしさん、このごろ髪結さんの弟子に行ってやねんとな……」 「ハア、あんなおとなしい正直で親孝行な娘やので、まだそこまでいかんのやが、今度、自前にしてもろうたんやと」 「それに引き替えお竜はん、このごろなんや若い男が出来てるのやそうな、ナアお松さん姐はん」 「ハアそれが何や、博労とか、馬方はんやとかやと」 「マア馬子はんか」  二人が話をしているところへ帰って来たのが、この噂の主人公で、お竜はん。絣《かすり》の単物《ひとえもん》を着て、風呂行き道具を持って、額の汗を手拭で拭きながら帰って来ました。 「マアお竜はん、お風呂だっか」 「ハア、あんまり暑いのんで、汗を流してきましたんや」 「マア奇麗に髪を結うて」 「イエおくしにちょっと撫で付けておいてと言うたら、お母さん同じことやで結うたげると言うて今の先、結うてくれましたんや」 「さようか。一ぺんそっちむいてみなはれ、マア恰好よう結うておますことわいなー」 「お竜さん、えらいええ絣を着てなはるなあ」 「これだっか、二十銭で質に置いておましたんやが、出して来ましたんや」 「お竜はんの前やが、質ほどつまらんものはおまへんな。こっちから品物を持って行って金を借るのに、ヘイコラヘイコラと頭を下げてただででも借りるように、出す時には利子を持っていかんならんし、妾ら質に置くのやったら紙屑屋に売ってしまうほうが気が利いてると思うわ」 「お松さん、そら違うし、質屋は貧乏人になけなならんもんやし。金のいる時には品物を持って行って金を借るし、また着物の欲しい時には、お金を持って行たら出してくれるが、売ってしもうたら、いる時に難儀をせんならん、そやよってに質屋は大事にしておかんといかんねし」 「お竜はん、貴女《あんた》えらい質屋の肩を持ちなあるねな、アアわかった。このごろ若い男はんが出来てるそうな、聞けば馬方はんやということやが、小金を貯めて質屋でもする気やしな。この路地を肩で風切って、ぴんしゃんぴんしゃんと尾を振り廻すつもりやねな」 「お松さんえらい妙なものの言いようしなアるな。妾の男が馬方であろうと、博労であろうと、ほっといとくなあれ。別に貴女のお世話になれしまへんで」 「お竜はん、ようそんなことを言いなはるなア、貴女のお世話にならんと、貴女とこの兄さんが死んでやった時には、宅の人が仕事を二日も休んで手伝いに行てますせ」 「そのかわりに妾とこで御膳を食べてなはるやないか」 「宅から醤油を持って行きましたけども、返してもらえしまへんで」 「そのかわりに借金取りが来たというて、断りの仕様がないので、妾とこで握り飯を食べなはったやろ」 「そんなことがなんじゃい」 「えらそうに言うない」 「言うたらどうしたい」  とうとう二人がつかみ合いの喧嘩になりました。そばにいたお竹はんが、 「マア待ちなはれ、危ないがなア、お竜さん、お松さんの目玉を掴んで、放しなはれ」 「妾は竜やよってに、玉を掴む」 「そんなことをしたらいかん。どなたぞ来とくなはれ……。アア眼鉄さんが来やはった。危ない、井戸のがわにお米の桶が乗せてある。気をつけとくなはれ(ドブン)井戸へはめたがなあ、お家主さん来とくなあれ」 「これちょっと待ち、そんなことをしたらいかん、待ちというのに、これは私の頭や痛いがな、二人とも待ち、女だてらに無茶なことをして。こら一体お竹はん、どうしたことや」 「マアお家主さん聞いとくなはれ、今お竜はんと、お松さんとが質屋のことから利子がどうとか、こうとかで、喧嘩が出来ましたんや」 「イヤわかった、これそんなしょうもないことで喧嘩をしなや。質屋のことでお互いが利と利で争うたところでしょうがない、また他の長屋へ聞こえてもみっともない、お竹はん私も仲直りさしたげたいが、いま用事がある、これお松さん、親父さんが帰っても何も言いなや、男に聞かして喧嘩に花が咲くといかん、またお竜はんも孝行者のおくしさんにしょうむないことを聞かしなや、あの娘が心配をするで、お竹はん頼むで」  家主さんは帰ってしまいました。お竜さんもお松さんも内へ入りましたが、可哀想にお竹はん、これから飯を炊いて昼御飯を食べようと思うていた米も桶も井戸へ陥《は》めて、うらめしそうな顔をしているところへ戻ってきたのが孝行娘のおくしさん。油の付いた手を紙で拭きながら、 「お竹はん姐はん」 「オオおくしさんか、勉強やなア、アアちょっと今な……お松さんと貴女《あんた》とこのお母《か》んと喧嘩しはったんや、家へ帰っても機嫌が悪いよってに何も言いなや」 「おおきに、姐はん」というてるとこへ出て来た子供が、 「お松さんのおばはんと、お竜さんのおばはんと喧嘩して、お米を井戸へ陥めてしもうた、御飯食べられへん、ウアン……」 「コレそんなことを言うもんやない」 「マア姐はんさようか、お気の毒、すみまへんが風呂敷一ツ貸しとくなはれ」  帯の間から銭入れを出して、 「寅チャン、これでお米を買うて来とくなはれ、そんでこれお賃に貴方に上げますさ」 「おくしさん、そんなことしたらいかん」 「大事おまへん、また後から」 「何も言いなやし」 「お母はん、只今」 「えらい遅かったんやな」 「すみまへん」 「今日はなんぼ儲けて来てやったんや」 「紙屋はんで二ツ結いましたが、お金は明日やと言うてはりますね、乾物屋と砂糖屋と糸屋と結うてここに二十銭おます、これでお酒を買うて、おかず屋はんが来はったら何ぞ好きなものを買うとくなはれ、妾が明日払いますよってに」 「コレおくし、二十銭やそこらでお酒が足らへんがな」 「お母はん、貴女なんぼ飲みなはるね」 「あの人が来はるがな」 「あの人て誰だんね」 「八さんが」 「アノ馬方はんだっか」 「コレ何を言うね、馬方はんやなんて、今お母はんとこのような仲になったら、貴女のためにはお父っつあんやないか」 「お母はん、あんな人をお父さんやなんて言わんとおいとくなはれ、妾のお父さんというたら、お仏壇の中にある位牌より他にお父さんはない、どうぞそんなことを言わんとおいとくなはれ」 「マアこの娘は何を言うねん、妾を馬鹿にして」  とこんなことは別に腹も立たんのやが、いま表で長屋の者に馬方と言われたんが胸にあるので、そばにあった煮えくりかえった鉄瓶を取ると、おくしめがけて投げつけましたが、体をかわしましたので鉄瓶は柱に当たりました。おくしが入口を出ようとする途端に入って来たのが馬方の八蔵、どこで飲んで来たのか千鳥足で、 「ウイッ……」 「オオ八さん、ええとこへ来てくれてやった。早うおくしを掴まえとう……」 「よっしゃ……」  こらえらい人が来たと、おくしは袖の下を潜り一目散に逃げ出しました。八蔵は後から追いかける。城の馬場から天満橋まで来ましたが、何しろ相手は男、こちらは女の足、とても逃げることが出来ません。今ここで八蔵に掴まえられたらどのような憂き目を見るやも知れん。いっそのこととおくしは橋の中央から身を躍らして川の中へドブン……。 「おくし……(新内が入る)……。わしはまた何と思うてこんなとこまで追うて来たんやら、上で降ったんで水かさが増してとうてい助かるまい、それに引き替えてあの座敷では面白そうに騒いでいる、おくしの身体はこのまま水葬、行く先は西方極楽浄土、三味や太鼓を経陀羅《きょうだら》に、迷わず成仏してくれよ」  とそのまま後も振り向かずに帰って来ました。 「姐貴」 「オオ八さん、おくしはどうしました」 「小娘の足で走るのでとうとう見失のうてしもうた」 「さよか、この水で足を洗うとくなはれ、お酒の燗が出来てる。何も肴がないので鯡《にしん》が買《こ》うたあるんのや」 「姐貴、俺はモウ酒をおくわ」 「なんでやね」 「今日からここの家へはよう来んで、今までの縁と思うてもらいたい」 「八さん、何が気に入らんねん」 「いや、今日の親子喧嘩もどうせ俺のことからおこったことやろうと思う、このままおくしが帰ってこんようなことがあっては世間へ俺は申し訳がない」 「八さん、おくしも子供やなし、もう年頃の娘や、どこぞで男でも持って暮らすのやろかいな」 「それが男でも持って世帯をするような娘なら心配はせんが、無分別な心を起こして川へでもはまって死んでしまうようなことがあったら」 「そんなら八さん、おくしが死んだら、あんたを妾がよう養わんと思うていてか、憚りながら、八さん、あんたの一人ぐらいはたて養いにするし」 「そんなら姐貴、現在我が子が死んでも俺を思うてくれるか」 「八さんかならず見捨てておくんなはるなや、さあ機嫌をなおして一杯飲んどくなはれ」  両人が差し向かいで一杯飲んでいると表の戸を(トントントントン) 「ヘイ今晩は、ちょっとお開け、今晩は……」 「姐貴、誰や来てるで」 「ちょっと待っとくなはれや、どなた……」 「片町の儀助でおます、ちょっとお開け」 「ヘイただいま開けます……。八さん、死んだうちの人の弟が来たんや、すまんがしばらく暑いやろけど押し入れへ入ってとくなはれ……いま開けます」(ガラガラガラ) 「ヘイ姐貴、今晩は、えらいご無沙汰してます。兄貴のいる時分はチョイチョイ寄せてもらいましたが、兄貴が死んでから見向きもせんと、さぞ薄情な奴やと思うてなはるやろうが、わしも僅かの資本《もとで》で商売をしましたが失敗をして、手に覚えたこともなし、漁が好きで片町で網打ちを渡世にしています。今日も上で降った雨で水がふえたを幸いに天満橋の下で網を打つと、どっしりかかったので、上げて見ると女の死体、温《ぬく》みがあるので水を吐かしてみるとこの家のおくしや、様子を聞いてみるとこれこれやと言うで、そんな馬鹿なことをと、さっき来て近所で聞いてみると、おくしの言うのと同じこと。近ごろ姐貴えらいお楽しみが出来たそうな、兄貴の生きている時分には蝶よ花よで育て上げたおくしが、あんなことになったら世間へすむまいと思う。そない博労とか馬方とかが可愛いか、姐貴」 「ハア、可愛ゆうて可愛ゆうてならん」 「イヤ、現在の実のわが子よりも」 「ハア可愛いのうてか、馬子じゃもの」 [むろん、馬子と孫の語呂合わせである] [#改ページ] 仔猫《こねこ》  これは船場《せんば》のある一流の問屋で、表の方で若い衆が四、五人寄って荷造りをしているとこへ、やってまいりましたのが、田舎から出たての女中《おなごし》さん。手には口入屋《くちいれや》〔奉公人などの斡旋屋〕の書付を持ちまして、袖の中へ手を入れて、かきそこないのこうもりのような格好で、 「はアイ、ちょっくらものを教えてくれんか、グルムケ」 「これ、グルムケとはどうやいな」 「わし、横町の口入屋から来よりましたがのオ、いま小《こ》まげな子と、連れのうて来よりましたが、途中ではぐれて、行く先がわからんで教えてくれんか、アンケラカン」 「なに、アンケラカン? そないにいちいち言いぐさをかえないナ。なに、書付を持ってる、それを見せてみい、あアこら、わしとこや」 「やれまア、お主《ぬし》のとこでござんすか」 「なんや、お主……妙なものの言いをしよるなア。不細工な女やで、人三化七《にんさんばけしち》というのやな。なに、あんな女に飯を炊いてもろたら不味《もみのう》て食えへん……なに、断りを……よし。あのウ、女中さん、せっかく来てくれたやが、わしとこに一人頼んだアる娘《こ》があるのや、その娘が縁がなかったら、あんた来てもろうよってに、きょうのとこは去《い》んでんか」 「はアあ、そら去ねと言うても納まらんぞ」 「そらなにを言うね。納まっても納まらないでもやなア、こっちに一人頼んだアる娘があるよってに帰ってと言うのや」 「そら去ねと言いよったら、去なんことはないが、わし去ぬとこがわからんで、送ってくれんか、こら……」 「そう、こらこら言うな、けったいな奴な。これ丁稚《こども》、ちょっとこの女中、口入屋まで送ってやってくれ」 「その小《こ》まげな子でいかん、いま小まげな子が来よって間違いができたのやで、そこの大きなやつ、五、六人して送れ」 「アホいえ、このいそがしいのに」 「あの、お店でわアわア言うててやのは、なんやね、なに、女中さんが来てくれはったのか。女中さんのことならお店で構うてもらわいでもええ。そこのお娘《こ》、かまへん、こっちへはいり、だんない、おはいり」 「はい、≪おゆずし≫、こらご当家のお家《え》さんでござんすか、なにぶん宜敷《よろしき》おたのみ申しますでの」 「まア、妙なもの言いやこと。いまお店で言うてやった通り、こっちに一人頼んだアる娘があるン、けどもわてとこのうち、一人や半分余計になっても、かまへんのン、しかしあとのけんかを先にしとくが、うちは給金が安い、これ、三両、おまえなにか、一年三両で辛抱をしてくれてか」 「はい……わし給料がほしイて奉公するんじゃ≪がせん≫。わしンとこの村に、大池の長三郎という男、おぬしは知っとるか」 「お前《ま》はんが、どこの人や知らんのに、そんな人は知らんがナ」 「知りよらんかな……その長三郎が、吐《こ》きよったには、お前のような者が、大阪さまで三日の日でも奉公ができたら、立てた柱に花を咲かすと、吐《こ》きよったから、わし三日が五日が十日が半月が、半期が一年が、五年が十年が二十年でも辛抱して国へ帰って、そのたてた柱に、花を咲かして見たいで、お鍋《なべ》、どうせい、こうせいと言うてもらえば、給金のとこは三両が五両でも辛抱するので……」 「アホらしい。なんのそないに出せるもんかいなア」  なにも縁のものやでと、これから居付きましたが、根が田舎の人で働くことにかけたら、他《はた》の人よりよう働きます。このお鍋が来てからというものは、お上の用は申すに及ばず、お店の若い衆から、丁稚さんにいたるまで、襟垢《えりあか》のついた物は着たことがない。また、お店で荷造りが手張ると、お店へ出て来て荷造りの手助けをいたします。また俄か雨が降って、若い衆が二人もかからな持てぬような品物でも、お鍋が、わしが持ってあげると言う。うちでは、お鍋お鍋と調法がられておりましたがある日のこと、えろう荷造りが手張って、この調子なら、日が暮れて一刻《いっとき》余りもせぬとすまぬと思うていたのが、案外早う片付きました。そこは人を使う主人、それ相応に目のあるもので、常《あいだ》は香々でお茶漬も、今日はうどんの一膳も付けて、ゆっくりご飯を食べて、宵寝をしとくれやと言われますと、さて宵寝もできぬと見えて、お店の人がみな集まりました。 「なア、おもわくより早う片付いたなア」 「そうや、どうしても、日が暮れて、一刻の余はかかると思うていたのに、早うすんだ。しかしうちの旦那はなかなか腹があるなア。いつもは香々で茶漬やのに、うどんの一膳もつけて、ゆっくりご飯を食べて宵寝をしてくれと言われても、さて宵寝も出来ずというて、遊びに出るわけにもいかず」 「それが奉公の身の上や。ところで、いつぞはお前に話をしようと思うていたんやが、うちのお鍋や、来た時にはあんな妙な顔をしてよるので、爪《つま》はじきをしたが、人には付き合うてみい、馬には乗ってみいとはこのことやなア、よう働きよるやないか、たれかれなしに用事をしてくれるだけ嬉しいなア」 「そうや、この間もあんまり下帯がよごれているので、洗濯をしようと思うて、ひまがないので二階へ突っ込んでおいたんや、上がって見るとないね。捜してると、そこへお鍋が上がって来て、お前さんなにを捜してるのやと尋ねよる。まさか≪ふんどし≫を捜してるとも言えんので、ちょっと捜し物をしているのンやと言うたら、これを捜してるのじゃろと、出してくれた。見ると、ちゃんと洗濯がしてあるのや、言わんでもしてくれるだけ嬉しいやないか」 「わしが、足袋がよごれて、おまけに指の先に穴があいたアるねン。履かんつもりで、ほり込んでおいたら、ちゃんと洗濯がして、継ぎがあてて、糊つけて、履けるようにしてくれたアるねン。お前のことをして、わしのことをせぬと、なんや人間のわけへだてをしてと思うが、たれかれなしに、普遍《まんべん》 にしてくれるだけ嬉しい」 「ところでお前、あのお鍋を女房《かか》に持つか、横町の葛籠屋《ぼてや》の女中《おなごし》を女房にするかと言うたら、どっちを女房に持つ」 「えらいまた、変わった尋ねようやなア、お前やったら、どっちを持つ」 「まア、うちのお鍋を女房にするなア」 「お前もまた物好きな、あんな人三化七を女房にせんかてもいいやないか」 「いや、そうやない。ああいう女を女房に持つと、亭主の値打ちが出る。というのは、かりに横町の≪ぼてや≫の女中がなんやろ、黒塗りの重箱や……ちりめんの袱紗《ふくさ》に包んだアる。えらいきれいな物やなとあけて見ると、中はしょうむない物や、食うたかて不味《うもな》い。うちのお鍋は、欠けたすり鉢や……よごれた蓋がしたアる。あけて見るとご馳走や、食うとうまい。なア、きれいなんが食えるのンなら、金魚を造りにして食べられるか、食べられへんやろ。穢《きたの》うても、おこぜの赤煮汁《あかだし》はうまいというようなもんで、人間は顔《ここ》のきれいなんかより、やっぱり腹《ここ》のきれいなんが好いので、ああいうお鍋のような女を女房に持つというとや」 「そんなら、お前、お鍋の一件を知らんナ」 「お鍋の一件というと……」 「知らんのなら言うてやるが、わしこの二ヵ月ほど前から夜、九刻《ここのつ》過ぎると、目醒めるのや、すると便所《ちょうず》へ行きとなるねン」 「おい、暴雑《むさんこ》に物を食いなや、腹をいためたら、あかんで」 「いや、習慣《くせ》になったアるね。ここ半月ほど前のことや、宵からシトシト雨の降った晩があったやろ」 「ちょっと待ちや、半月ほどと……うむ、あったあった」 「あの晩、いまいう九刻過ぎに目が醒めたんや。便所へ行きとうなったのや、けれども雨の降った晩に大裏まで便所に行くのがいやや、辛抱しようと思うても辛抱ができんので、自棄《やけ》から便所へ行たと思い……中へはいって窓から外を見ると、もう雨は上がって月はこうこうと冴えたアる、雨後の月というもんは、悪々《わるわる》う冴えてるもんや。人間は神経で、雲を見て山やと思うと、山に見えるもんや、竜やと思うと、竜に見える。お月さんの中に兎が餅をついてると思うと、そう見えるもんや。そこで、月を見たり、雲を見たりして気張ってたと思いんかいナ。そうするとなア、あの三番蔵の間をジタジタと歩く音がするので、いまごろだれが歩くのやろか、もし賊でも忍びこんだんやないかと、じイっと覗いて見ると、なんの……うちのお鍋や、夜の更けてあるのに、三番蔵の間をながめて、さも嬉しそうな顔をして、イヒヒヒヒヒ」 「あア、びくりした、なんやいナ」 「サア、笑いよった。その声を聞くなり、わしもびっくりして、便所《ちょうず》からとんで出て、寝間の中へゴソゴソとはいって、頭から蒲団をかむったんやが、あとで考えると手を洗うのを忘れた」 「きたない男やナア……あア、それやったらわしもあるのや」 「番頭はんも、おますか」 「ふむ、ちょうど二、三日前のことや、いま言うた時分に目がさめた。ふと見ると、お鍋の部屋がぼうと明《あか》いので、はてな、いまごろ灯《ひ》のともってあるはずがないのに、なんでやろ、あア、お鍋や——あんな勤勉《がせ》な女やで、人の寝静まってから、綴り物の一つもしている内に昼の疲れで、横になったが疲労《くたぶ》れているので、そのまま寝てしもうたのか、うたた寝をして風邪を引いたらどうもならん、まして灯がともってある。火の用心も悪し、行て起こしてやろうと、お鍋の部屋へ行て見ると、なんの、お鍋は起きてよる。鏡台を出して、両方にろうそくが二丁火をつけて、鏡の前にじイとうつぶいてよるので、この夜の更けてあるのに、鏡を出してなにをしてよるのやろと覗くのと、お鍋が顔を上げるのと一緒や、鏡に映った顔がこれからこれへ血みどろになりよって、ひやア」 「うわア……も……し、な……ん……と……いう顔をしなはるね。わてびっくりしましたがナ。今晩便所へよういかん、部屋へ便器《おまる》を持て上がる」 「これ、そなんなことしいなや」 「これ、大きな声を出して、どうしたんや」 「ああ、旦那《だん》さんでごわすか」 「これ、旦那さんでごわすかやないで。花街《いろまち》やなし、町家の真ん中で、夜の更けたアるのに大きな声を出して」 「これはどうも相すみませんことで……」 「番頭、お前まで若い者と同じようにどうしたのや」 「ヘエえ、以後はきっとつつしみます」 「ちょっと話がある。いや、ほかの人はいらん、番頭、お前だけこっちへはいっておくれ」 「ヘエ、なんぞご用事で」 「もっとこっちへはいっとくれ、いや、ほかのことやないが、あのお鍋の一件やが……」 「ヘエ、そのようなことは、なるべくと旦那さんのお耳に入れよまいと思うておりましたのでごわすが……」 「いや、わしもとうから知っている。妙な女やなア、人が寝静まったら、二重三重の締まりを越えて、どことなしに出て行く。その身の軽いこと、そりゃうちの品物がたとえ一ツでも減ったところで、わたしさえ目をふさいでいたらことがすむが、よそさんの物に手をかけて、もしうちから縄付きを出すようなことがあっては、うちの暖簾《のうれん》にきずがつくで、あのお鍋を断り言うてんか」 「あアそれはいきまへん、まだこれという手証《てしょう》を押さえんうちは……」 「なんとかよい工夫がないじゃろか」 「そうだすなア、こうつと、うむ、よいことがござります。あしたは、ご一統の芝居行きでおます。その芝居行きのお供をお鍋にさして、るす中にあれの所持品《もちもの》を調べて、もしも怪しい点がありましたら、それを機会《しお》に去《い》なしたらどうでございます」 「ふむ、よいところへ気がついた。そんならそういう都合にしとオくれ、他には内密でナ。頼んだで……今晩は寝とおくれ」 「さよならお寝《やす》み」  その晩は寝ましたが、明けの日、お鍋を芝居行きのお供につけてやりました留守ちゅう。 「これ、番頭」 「おウ、旦那《だん》さん」 「ゆうべはえらい邪魔したなア、いま用事はどういう都合や」 「ヘエ、ただいまちょっと手すきでおます」 「そんなら、ゆうべ言うてたお鍋の品物を、調べて見ようと思うているのやが……」 「どうぞ、お調べ遊ばせ……」 「そして、お鍋の荷物はどこにあるのや」 「二階でござります」 「そんなら先に上がっとくれ」 「ヘエ、お先へごめん」トントントントントン。 「エエこれがお鍋の荷物で」 「なかなか立派な物やなア」 「ヘエ、昔物でおますが拵《こしら》えはなかなか頑丈にしておます」 「これ番頭どん、こら駄目《あかん》がナ。錠がおりて、鍵が掛かったアる、開《あ》かへんがナ」 「旦那《だん》さん、こんな物、鍵がないかてあきます」 「なにか、番頭どん、錠のおりてあるのに鍵なしであくのか」 「なんでもないこと、ご覧遊ばせ。それ、あきました」 「これ番頭どん、お前さんは、錠を捻じ切ることがえらい上手やな」 「こんな錠の一ツや二ツ」 「一ツや二ツ……。そんなら去年三番蔵の錠を捻じ切ったのはお前と違うか」 「いイえ滅相《めっそう》もない」 「いや、これは冗談《うだつき》や、あけとくれ」 「ヘエ」 「着類《きるい》は相当に持ってるなア」 「ヘエ、かなり着物は持っております」 「お前、この上の着物に見覚えあるか」 「ヘエ、これはこの間お寺参りのお供に着てまいりましたように思うております」 「あアそうか。この帯は……」 「やはり、そのとき締めて行たように思うております」 「そうか、この着物は見覚えあるか」 「こら、目見得《めみえ》の時に着て来た着物で」 「そんならこれは」 「あア、旦那さん、この着物はお鍋が自慢の着物で、あれの母親が手織りで織ったという、強いことにかけたらこの上ないという、雨ははじく、鉄砲よける、大砲よける、地雷火よける……」 「これ、そんな着物があるかいナ」  先繰り先繰り出しまして、下から二枚目の着物を出そうとすると、プンと臭気《かざ》がいたします。 「これ番頭どん、妙なかざがするナ……」 「ほんにけったいな≪かざ≫がいたしますなア」 「ここまで調べたが、もうおこか」 「それはいきまへん、これまで調べて、あと調べなんだら仏を造って眼《まなこ》を入れんと同じことで、どうぞあとをお調べ遊ばせ」 「そんなら調べよう」  と下から二枚目の着物を取りますと、下には白い毛や黒い毛が血だらけになって、もやもや。 「ふわア……」 「もし、旦那さん、指を挟まれているのに、蓋をばしめて、どうしなはる。それ見なはれ、指が一本足らぬようになりました。ひイ、ふウ、みイ、いつ、むウ、なな、やア、ここのつ、それ見なはれ、十本あった指が九本になりました。この親指と、人さし指の間が広い、ここにもう一本あったんだすがナ」 「これ番頭どん、お前片手で算《よ》んでいるよってに九本しかないのや、両手を算んでみいナ」 「ヘエ、一本、二本、三本、四本、五本、六本、七本、八本、九本、十本、ほんにあった」 「無《の》うてかいナ。これ番頭どん、こんな物を持っているような者は片時として置いておくわけにいかん。さっそく断りを言うとくれ」 「そらいきまへん。こんな物を持っている者をうかつに断り言うたら、わたしの咽喉笛へ食いつかれます。まこと、これを断り言うようなことなら、近々に別家をさして頂く体でおますが、ひとまず親元へ帰らして頂きます」 「そこをなんとか……。いざとなったらみなの者に獲物を持たして加勢をさすよってに」 「それでは、ご主人のおっしゃることでござりますよってに、ぜひともござりません。それではなるべく大勢でご加勢をお頼み申します」 「それでは元々にしておいて……」  荷物を元のようにいたしまして、夜分芝居から帰って来るのを待っていると、何も知らずに戻って参りました。 「あの、お鍋どんお鍋どん」 「はい、番頭さん、なにか用事かナ」 「うむ、ちょっとお前に話のしたいことがあるのや、もう用事はすんだかいナ」 「はい、もう用事は片付いたが……」 「そうか、それはちょうど幸いや、こっちへはいっとくれ、後を締めといて。あアちょっとこっちがあいてる、ピシャッと、そうそう。もっと前へ寄り、蒲団を敷き、女は冷えるといかん、ほかでもないが、お前にわしが折り入って頼みがあるのや。わしの頼みや、うんと言うて聞いてや」 「はい、番頭さん、わしその頼み知っておるでのウ」 「え、お前、あの、頼みを知ってるか」 「はい、わし来た時は、なんじゃ妙な人じゃと思うていたが、付き合うてみると、お前、なかなか親切な人じゃで、聞けばお前、近々別家をするそうじゃが、わしもまだこれという夫もないで、お前さんのことなら、わし、どうでもするでのウ。番頭さん、わし、どうでもするでのウ」 「あア違う違う、そんな陽気なことやない。実はこうや、ここのご寮人に一人お妹|御前《ごぜ》があるのや。それが今度、ちょっとわけがあってお嫁入り先から、お帰りになるのや。それについてここのご寮人の妹てな扱いをしられるのが、気兼ねで辛い。女中代わりに使うてもらいたいと、こうおっしゃる。そうすると女中が一人不用になるやろ。そこでお妹御前の話がつくまでお前、国へ去《い》んでんか。こっちの話がついたら、また元の通りお前に来てもらうよってに。わしの頼みや。うんと言うてんか。わかってるか。うんと言うて」 「はい、きょうはああして芝居まで見せてもろうて、国への土産はできたで、去《い》ねと言いよれば、去なぬことはないが、ここのご寮人にはお妹御前がないはずじゃが……」 「それが一人だけあるのや」 「あるか知らんが、わしついぞ聞いたことがないでのウ」 「そら別に言うて必要のないことやで、おっしゃらんが一人だけあるのや。わしの頼みや、うんと言うて、うんと言うて」 「番頭さん、お前妙な人じゃナ」 「なんでやね」 「最初、わしが来よった時にも、お前が去《い》ねいねと言いよった。またきょうも去《い》ねいねと言いよる。お前|去《い》ねいねにかかっとるかい」 「そんな物にかかるかいナ」 「いや。そうじゃなかろう。お前、わしのるす中、な……に……か……見たか……番頭さん。……お前わしのるす中……なにか……見……た……か……」 「あ……ハ……ハハハハ、み、み、み、見た、みたみた。どうぞ命ばかりは、助けて……見たのはわし一人や、どうぞ命ばかりは、ハハ……」 「お前どこへ行くか、動けるなら動いてみよ」 「お前のような、えらい力で持たれたら動くことがでけへん。どうぞ、命ばかりは助けて」 「そうか……お前、あれを見たか……。見られた上はぜひがない。いまわしの言うことをひと通り聞いとくれ、こうこうわけじゃ、わしの父《とと》さんはのウ、百姓|副業《かたて》の山猟師、生きものの命を獲《と》るのは悪いことじゃと度々、意見はしたれど、父さんは聴いてはくれず、親の因果が子に報い、人様《ひとさん》のかわいがる猫と見れば、矢も楯もたまらず、人の寝静まったのを幸いに、二重三重の閉《しま》りを越え、その猫をとって、生血《いきち》を吸うのがわしの病じゃ。けっして人の命を取ろうというような者ではござんせん。この後はきっと慎みます、たしなみます、どうぞいままで通り、置いとくれ、この通り、拝みます、この通りじゃ」 「え? そんならお前、猫取りか。そんならそうと言うてくれたら、こないにびっくりしやへんがナ。しかし百姓|副業《かたて》の山猟師というたが、お前の国はどこやね」 「はい、海田《かいだ》でがんす」 「なに、カイダ? カイダというとどこやね」 「わからん人じゃな——芸州《うんしゅう》のことじゃ」 「芸州か、あアそれで、猫をかじるのじゃ」 [芸州は広島県のことで、芸妓のこともいう。芸妓は異名をネコというので、サゲになっている] [#改ページ] 子は鎹《かすがい》 「かくばかり偽り多き世の中に子の可愛さは誠なりけり」と申しますが、世の中に子どもほど可愛いものはない、子どもが出来ますと親は引きのばすように思い、早うこの子が大きくなってくれたらと一生懸命で、這えば立て立てば歩めの親心、すこし大きくなって悪|戯《わるさ》をするようになると、 「ちょっとお父さん、怒りなはれんか、また障子を破ってまんがな」 「わし怒ってもあかんねん、お前カモカの顔をしてみ」  母親はカモカの顔(口へ左右の指を入れ目を大きく引っ張る)、カモカというと子どもはそれを見て、げらげらと笑っているのに父親はこわいこわい。そばで他人が見ていると、まるで阿呆のようです。そのくらいでなければ子どもは大きく出来ません。 「サア、どうぞこっちゃへお上がり、ほんまに久し振りやしなア……あんまり突然でびっくりしたわ」 「姉さん、その後一ぺんおたずねせんとすまんと心で思いながら、相変わらずの貧乏暇なしでご無沙汰」 「イーエ、花ちゃん、無沙汰はおたがいにしとこ……しかし、ここの家ようわかったしなア」 「ヘエ、前の裏のお崎さんとこで聞いて来ましたの……ほんまに小ぢんまりしたええ家だんなア……そこへ姉さんはきれい好きやさかい」 「イイヤ、花ちゃん、ほったらかし……サア番茶やけど一つお上がり」 「おおきに」 「しかし花ちゃん、すこし見んまにきれいになってやったしなア」 「姉さん、冷やかすのんいや」 「なんにも冷やかしてエへんわ、ほんまに美しなってやったわ、それであんたあれから一体どないしててやの」 「ヘエ、話をすれば長うなりますが、マア聞いとくなはれ、姉さんもご承知のとおりあの人とああいういきさつで別れてしもうてから、わたしみたいなお多福だっせ、けど、二十は二十の縁、三十は三十の縁やさかい、もう一ぺん嫁入りしたらどうとか、男はんを世話するとか、それはもういろいろすすめてくれはるお方もおましたの……けど、考えてみるのに、私もはじめて世帯持った男がああいう酒飲みのやくざな人で、まして二人の仲に可愛い子まであるのに、別れてしまわねばならんという、肩の悪い女子でっしゃろ、今更、男持ってみたところでろくなこともなかろうと思いましたので、前に奉公してました主家《おもや》へ行き、御寮人さんに詳しく話をしましたら、お前も可哀そうにずいぶん苦労をしてんなアと、えらい同情をしてくれはりまして、そんなんならうちも今手が足らずこまっているとこやから、女中の取り締まりとして当分うちにいてくれたら、ええやないかと、ご親切に言うてくれはりましたので、お言葉に甘えて今主家に置いてもろてますの……姉さん、喜んどくなはれや、御寮人さんええお方でこの羽織、御寮人さんのお古いただきましたの。ええ柄でっしゃろ、今日もお使いにやっていただきますとたのみましたら、あんた外へ出るのなら、そんなハイカラに結うてんと、一ぺん久し振りに昔思い出して、丸髷《まるまげ》に結うたらどう、わたしの型使うたらええさかいにと、御寮人さんの型貸していただき、おまけに御寮人さんの髪結いさんに結うてもらいましたの。皆ほめてくれはりまんねんで、うまいこと結えてある、粋に結えてある、なんて……姉さんちょっと見とくなはれ、どう、うまいこと結えてまっか」 「マア、きれいに結えてあること……あんた、それやったら今しあわせやしなア」 「ヘエお蔭で心配なこと、一つもおまへんわ」 「結構やしなア、けど、花ちゃん、そうして結構に暮らしていればいるで、暑いにつけ寒いにつけ、コレ(親指)のこと思い出すやろなア」 「姉さん、それだけは言わんとおいとくなはれ、私負け惜しみやおまへんで、けど、あの人のこと思い出すなんて、そんなことちょっとも、エエ絶対におまへん。しかし姉さんあの子のことはなア」 「フン寅ちゃんのことか」 「ヘエ、どうせあんなやくざな男でっさかい、おかしな継母の手にかかって苦労してへんやろかと思いますと、道歩いてても胸が一ぱいになってきて、頭がぼうーっとしてこの間も自動車へ頭《ず》突き持っていったりしましてん、またあの子がきんつばが好きで、お饅頭屋の表を通って金鍔焼いてはったら、あの子がいて、買うて帰って食べさしてやったら、喜ぶのになアと思いますと、なんとなく哀しなってきて、涙流して金鍔焼いてはるのを見てたもんでっさかい、皆に顔見て笑われ、はじめて我れに返ったてなこと」 「そりゃそうやとも、当たり前やがな、畜生でさえ子のことは思うねんで、別して人間や、もの思わなんだらどうかしてるわ……アアそうそう、わてあんたに話をするのん、すっかりど忘れてたけど、今の話で思い出したが、なんでも寅ちゃんこの頃、この近所へ宿替へして来てるらしいで」 「アさよか」 「フン昨日やったか、うちの入り口に立ってうちらを覗いてる子があるやないか、それが寅ちゃんにあんまりよう似てるもんやから、寅ちゃんと違うか、こっちへお入りと言おうと思うてる間にあっちへ行ってしもうたの。なんでも時間はいま時分やったが……ちょっと、花ちゃん見てみ、噂をすれば影とやら、今入り口に立ってうちら覗いてるのん、寅ちゃんらしいわ、私呼んでみるさかい、あんたあっち向いて知らん顔してや……寅ちゃん、そこに立ってるの、寅ちゃんと違うか、アアやっぱり寅ちゃんやわ、そんなとこに立ってんと、こちらへおはいり」 「ヘエ、おおきに、おばちゃんご機嫌さん」 「マア賢うなって、あんた、ご機嫌さんなんて、私おぼえてる」 「ヘエ、おぼえてます、ほかの人なら皆忘れてますけど。あんただけはめったに忘れしまへん、というのはあんた裏中で一番こせやったさかい」 「ウフ……マア子ども正直であんなこと……寅ちゃん、あんたここにいる人、知っているか、おぼえてるか」 「ヘエ、忘れようと思うてもわすれることが出来しまへん……私のお母ちゃんで、お母ちゃん、あんた無茶な人だっせ、私とお父さんほっといて、出て行くなんて。私らあとで、えらい苦労してまんねんで」 「寅ちゃん、かんにんして、あんた子どもやさかい、何も知らへんから、そう思うのは無理ないが、お母ちゃんはなア、出て行かねばならんという、つらあい事情があったの……それで寅ちゃん、今のお母ちゃんあんた可愛がってくれはるか」 「ウン今のお母ちゃんも後のお母ちゃんも、私のためには、お母ちゃんというたらあんた一人しかあらしまへん」 「イイエ、そやないの、お母ちゃんが出てしもてから、かわりのええお母ちゃんが出来たやろ」 「ヘエ、そりゃあんたが出て行きなはった翌日《あくるひ》、お父ちゃん、よそからおばちゃんを連れて帰って、今日からこの人がお前のお母ちゃんになるねんから、お母ちゃんというねんぞ、私、お父ちゃんのいうとおりお母ちゃん、お母ちゃんというてた……ナ、お母ちゃん、そのお母ちゃん、始めのうちはよかったんで、お小遣いかて一ぺんに五銭もくれはるから、こりゃしゃれてるわいと思うてたんで、ところがだんだんだんだんと悪うなっていく。私が何か粗相したら、この子は、どんならん子やなアと、パチッと頭たたかれまんね、しまいにむこうの手が痛うなって、私の頭が固うなってきたら、この子の頭なんという固い頭やろ、今日からこれやと、煙管《きせる》でかつんといかれまんねん、煙管になったら、むこうの手が、楽なかわりに、私の頭のたまらんこと、晩にお父っちゃんと一緒に風呂へ行く時、お父っちゃん、今度のお母ちゃん、ええけど、なんぞというと煙管で頭たたくねん、というと子どもはよけいなこといわんと黙ってえ、ガンと拳骨で頭たたかれま。昼の間がお母ちゃんの煙管、晩になったらお父ちゃんの拳骨、私考えましてん。こんなことが長い間続いたら私の頭もたんから、今のうちに心安い輪替屋にたのんで頭へ輪を入れてもらう、けど近所のおっちゃんやおばちゃんは見かねて私を蔭へ呼んで、寅ちゃん辛抱し、今お父ちゃん、あの女に迷うてんねんさかい、誰がなんと意見しても、馬の耳に念仏、今にお父ちゃんの目のさめる時節がくるさかい、辛かろうが、我慢しいやと、皆親切に言うてくれはりまんねん。私もお父ちゃんのためやと思うて、じっと辛抱してたん、ホタラ、しまいに、そのお母ちゃん、朝起きてけえしまへんね、お父ちゃん勝手に起きて弁当つめて仕事にゆく、お母ちゃん十二時の笛が鳴らんと起きはらしまへん、起きてきたかて、なんにもせんと、本読んだり、近所歩きばっかりしはりまんねん、それがだんだんお父ちゃんにわかってきたとみえて、あれはああいう女子《おなご》とは知らなんだ、今ほり出すのは知っているが、近所や友達の手前もあり、またあいつには相当金のかかってあるやつ、金の冥加《みょうが》というものもあるから、そのうち俺もなんとか考えるが辛抱してくれ……私もお父ちゃんが気の毒でっさかい、おとなしい、お母ちゃんのいうことを聞いてたん、ホタラお母ちゃんが、お父ちゃんの我慢の出来んような悪いことがあったとみえて、金のことぐらいいうていられん、あいつには愛想《あいそ》もこそもつきた、今日かぎり出てもらうと、お父ちゃんの方からたのんで出てもろたん。その時ばっかりは、私の手を取って、寅公かんにんしてくれ、お父ちゃんが悪かった、お前も辛かったやろ……。なアよう辛抱してくれた、おれは今初めて目がさめた……私いうたんで、お父ちゃんあんたの目のさましようがおそい、せめて八時から九時にさましてくれたらええのに、今しばらくお父ちゃんの目がさめなんだら、私の頭、めちゃめちゃや……お父ちゃん笑いながらよう辛抱してくれた、これというのも酒があったばっかり、おれは今からすっかり酒をやめて、一生懸命に働く、おれはこんなやくざな人間やがお前だけは一人前の人間にしてやりたい、学校へ行け、私一年おくれてまんねんけど今学校へやってもろうてまんね、学校の先生この間の修身の時間に、いうてはった、人間と生まれたら君には忠、親には孝、忠孝の二字を守らなんだら人間やない。親かてそうや、子どもをこしらえるだけやったらアヒルと同じことや、子どもにはそれ相当の教育をつけねばなんにもならへん、また子どもには両親、二親そろうてるほど幸福なことはない……私らお父ちゃんとお母ちゃんとちゃーんと揃うたある……それにお父ちゃんや、お母ちゃんの心意気が悪いばっかり、幸福な児になれんと、不幸な児になってまんねん……お母ちゃんどうぞたのみま、帰って来とくなはれ、お父ちゃんこの頃お酒飲んではれしまへん、一生懸命働いてはります、どうぞたのみます、もどって来とくなはれ……」 「それみ、花ちゃん、話聞いてても、涙が出るやないか……あんたもなんとか思案せんと」 「エ、おおきに、姉さん私も最前からいろいろ考えてまんねん……しかしなア、今というて今、そんなわけにいかしまへんし、姉さん、こうしとくなはれ。私あんたにいろいろ相談したいこともおますし、ちょうど時分どきだすし、今ここへ来る道で通って来ました、横町の鰻《うなぎ》屋はん、エライ失礼だっけど今日私おごらしてもらいまっさかい、姉さん一緒に行っとくなはれいな」 「ハア、おおきに、鰻、私いたって好き、長い間、食べたことないの、エエ連れてもらお」 「そう、一緒に行とくなはる……そんなら寅ちゃんも一緒に」 「ヘイ私も連れてもらいます……けど、一ぺんうちへ帰らんと、お父ちゃん心配しまっさかい、今日お父ちゃん仕事休みだんねんけど、うちで仕事してまっさかい、一ぺんうちへ帰って鞄《かばん》おいといて後から行きまっさかい、お母ちゃんとおばちゃんと先へ行って待ってとくなはれ」 「そう、そんなら先へ行って待っているさかい、後でおいでや……アア寅ちゃん、ちょっとお待ち、これあんたに上げるさかい、何なと好きな物買いなはれ、それでな、うちへ帰ってもお父ちゃんに、お母ちゃんとここで逢うたこと、内緒にしとくねんで、お父ちゃんがこのお金どないしたと、聞きはったら、よその知らぬおばちゃんにいただきましたと、こう言うねんで、わかった……サア取りんか、あんたに上げるねん、何してんねん、取りんか」 「ヘイお母ちゃん、これ五十銭でんなア……あんたしばらく逢わん間に、えらい気が大きなんなはったなア、うちにおる時分三銭もらうのん、なかなかおくんなはれへん、一ぺんに五十銭なんて、私この五十銭あったら、父ちゃんにたのんで帽子買うてもろうて、洋服買うてもろうて、靴買うてもろうて」 「そない買われへんがな。コレ走ったらあぶない、怪我するがな。これあぶないというのに」  親は危ないあぶないと心配していますが、子どもはまるで鬼の首でも取ったように五十銭銀貨をにぎって一生懸命走って来ました。 「お父ちゃん、只今」 「エイ何してんねん、今時分まで、ご近所のお子たちはもう最前に皆帰ってなはるがな、お父ちゃん心配して最前から何べん表へ出たり入ったりしてる……。いつも言うて聞かしてるやろ、今までのお父ちゃんと違う、お前をたよりに働いてるねんから、遊びに行くなとはいわん、一ぺん帰ってから遊びに行けというてるのん、お前にはわからんのか、一体どこへ行てたんや」 「そら、お父ちゃん、私かて時と場合によったら、やむを得ん用事があって」 「何がお前にやむを得ん用事があるねん、生意気なこというな」 「お父ちゃん、あんた怒ってなはるけど、これ見せたら機嫌なおりまっせ、五十銭の銀貨、音がチンチロリン、横手がザラザラ……アアこれお父ちゃん、私のんだっせ、おれが預かってやるというて取るのんいやだっせ……この間お父ちゃんにたのんでおきました靴これで買うとくなはれや、たのみまっせ」 「ナニ、五十銭、そのお金いったいどないしてん」 「コレ、アノお母……イヤ、アノよその小母ちゃんにいただきましたの」 「ナニよそのおばちゃんにいただいた……フンそうか、表閉めといで、入り口閉めてくるねん、もっとこっちへおいで、イヤもっとこっちへくるねん」 「お父ちゃん、痛い」 「エエやかましいわい。……よう聞けよ……よそのおばちゃんにもろた、嘘つけ、そりゃ子どものことや、道でよその人が使いでもたのみなはったら、三銭や五銭くれはらんとはいわん、しかし五十銭といえば子どもに大金、何のためによそのお方がくれはることがあるねん。この間からおれに靴買うてくれ、仕事の都合で今少し辛抱せえと、いうて聞かしたのを、あさましい根性したなア、お父さんはな、こんな酒飲みのやくざ人間やが、今日が日まで、人さんの物ちりすべ一本盗んだことないねんで、何のため、学校へやってある、学校の先生泥棒せいと教えなはったか、お前が出来心でしたことなら、お父さんが盗んで来た先へ行って、謝ってこんならん、エエどこで盗んで来たか言うてみ。山家《やまが》の一軒家と違うで、近所両隣には米食う虫が住んでいる。で、近所へ聞こえたらみっともない、言うて、言わんか。オイ寅、この箱見たら言うやろ。今日は十五日。他の職人は皆休んで、好きな酒飲むとか、芝居見に行くとかしてるで、お父さんはよう休まん、常にあつめておいた木でこの箱こしらえ、問屋へ持って行って、なんぼに売れる、わずかな金やで。その金で、お父さん好きな酒飲むとは違う、みんなお前のためやないか、お父ちゃん遠足に行きまんねん、運動会に行きまんねんと、おれは出来ん中からでも、男親だけやから、お前が卑下しては可哀そうと、近所のつき合いだけはさしてあるで、せめて先の嬶《かかあ》がいたら、こんな浅ましい根性は出せんやろに、寅公、たのむ、どこで盗んだか言うてくれエ……言わんか、これほどいうてんのに、言わなかったら、この玄能《げんのう》でどつくぞ」 「お父ちゃん、待った待った待った待った待った、そんな玄能で頭たたかれたら、めちゃめちゃや。言いまんがな、ほんまのこと、言います、これもろた人はなア、アアあんたの、大事大事の好きな人」 「そら何をぬかす、いうてくれるな、おれはなア、あの女にこりてこの方、めん猫一ぴきでさえ置かんねんから」 「先のお母ちゃんや」 「エエ、ナニ、先のお母ちゃんに逢うた」 「ソレ見い、先のお母ちゃんのこというたら、お父ちゃんの顔色変わったる」 「なんで始めに、それを言わんねん、どこでお母ちゃんに逢うた」 「きのうお父ちゃんに話してましたやろ、先の奥のはしに、いやはったおばちゃん、豆腐屋の裏へ宿替えして来てはる、今日も表を通ったら、おばちゃんが入れていいはったんで、入ったら、お母ちゃんがいてはって、いろいろ聞きはったから、お父ちゃんこの頃お酒飲まんと、一生懸命働いてはるというたらこの五十銭、よそのおばちゃんにもろたといえというてくれなはったん、それから一緒に鰻屋へ行こといやはったのやけど、お父ちゃん心配するから、一ぺん帰って後から行きます、先へ行って待ってとくなはれと、帰って来たんで、お父ちゃん、お母ちゃんきれいになってはりまっせ、どうぞたのみまっさかい、お母ちゃんに帰ってもろとくなはれ、エエたのみます」 「お前のそう言うてくれる心はうれしいで……しかし、俺の酒飲みを、愛想つかして出て行ったあいつ、なんというても帰って来てくれへんやろ、お前には可哀そうやがあきらめ」 「そらお父ちゃん、心配せんかて、私気を引いてみたら、向こうにもすこし未練があった」 「何ぬかすねん」  そんなら行ってこいよと男親でもこれだけのことはしてあると、見せつけるために木綿物であるが糊のついた、しゃんとした着物と着替えさせ、鰻屋へやりましたが、後でおやじさん仕事が手につきません。気がそわそわして、とうとう仕事ほり出して羽織を引っ掛け、表へ飛び出して、用事もないのに、鰻屋の表をあっちへ行ったりこっちへ行ったり、しまいにたまりかねて、 「ヘイ、今日は、うちの伜《せがれ》が女の人と一緒におうちへご厄介になっておるそうで」 「ヘイおうちのぼんぼんでっか、女子さんと三人連れで……オイお菊どん、女子さんと来てはるぼんぼん呼んだげて」 「アアお父ちゃんか、上がり上がり。今おばちゃん言うてはってん、お父ちゃん、家にいやはんのなら使い出して来てもらおうと、上がり上がり、おばちゃん、お父ちゃんが」 「ソ、そらちょうどええとこ、どうぞお上がり、今、寅ちゃんが言うてましたように、使い出して来てもらおと思うてましたとこ、ほんまにええとこでした、幸いほかにお客さんもあらしまへんし、三人だけ、どうぞお上がり」 「ヘイ、おおきに」トントントン。 「ヘイ、これはご機嫌さんで。(女房の方へ)いや、しばらくやったなあ。達者で……。へイ、いつも無沙汰いたしまして、どなたにもお変わりおまへんか、一ぺんおたずねせんなりまへんねんけど、相変わらずの貧乏暇なしで、また今日は寅公がいろいろお世話になって、私も今更こんなとこへ、のこのこ出て来てあんたや、こいつに顔合わせた義理でもおまへんねんけど、ついうかうかと来てしまいまして、しかし、マアあんたも、お達者で結構、寅公がえらい世話になりまして、それでマア皆さんお達者で、今更面目ないやら、寅公がソノなんでも私も今更、その……無沙汰がなんで……その厄介になったってな、その……寅公がその……なんで、その……あの……」 「何を言うてなはんねん、ちっともわからしまへんがな、しかし今もこの子と話をしてましたの、もともといやで別れたという仲でなし、ああいういきさつで別れてんさかい、元の鞘に納まるものなら納めたい、この子の悪いとこもいろいろいうて聞かしまして、なんというても、こんな可愛い子まであるんでっさかい、私に万事まかすと得心してくれましたので、あんたに来てもろうて話をしようと思うておりましたとこ……あんたも私にまかして、元の鞘《さや》に納まることに異存はおまへんやろうなア」 「ヘイ何の私に異存がありますかいな。もともと私の酒の上から起こったことで、帰ってさえくれましたら私もしあわせ、寅公もどんなに喜びますか。こんな結構なこと……」 「あんた、泣かんかてよろしいが……花ちゃん、あんたも言うたとおり異存ないなア」 「そこ姉さんよろしゅうおたの申します」 「まずこんな目出たいことない。お花ちゃん、鰻だけでは安いで……これで元の鞘に納まった。これというのも寅ちゃんがあったばっかり。ほんまに夫婦の仲の子は鎹《かすがい》とはええことがいうてある」 「おばちゃん、夫婦の仲の子は鎹」 「そう」 「道理でお父ちゃん、玄能でたたくと言うた」 [#改ページ] 瘤弁慶《こぶべんけい》  伊勢参りからの帰り、大津の宿《しゅく》、岡屋半左衛門方で一泊いたしました。なにしろ春先のことで道者がたくさんで混雑しております。広い座敷で皆が集まりまして酒を飲み始めました。歌をうとうたり三味線を弾いたりしてわいわいと言うております。ところへ一人の男が顔の色を変えて駆けこんで参りました。 「なんやびっくりした、どないしなはったんや」 「いま私が雪隠へ入りましたら、雪隠の中に大きな蜘蛛《くも》がいました」 「蜘蛛、あんた大きな身体をしていて蜘蛛ぐらい怖いのだすか」 「私は生まれついてから蜘蛛を見ると、どんな小さい蜘蛛でもぞっとして身の毛がよだちますので」 「ハハア蜘蛛ぐらいで、それは妙だすなア」 「イヤそりゃ何とも言えまへんで」 「さよか」 「いったい人間にはかならず何か怖いものがあるものだす、というのは、生まれました時に床の下へさして胞衣《よな》を埋めます、その胞衣の上をば初めて通ったものが一番怖いと言いますので、父親が一番最初に通っておきます」 「ハハア、するとこのお方の胞衣の上を初めて蜘蛛が通ったんだすナ」 「そうだす」 「そうおっしゃると私は鼠が一番怖うおます」 「サア鼠がやっぱり最初に胞衣の上を通ったんだっしゃろう、あんたは何が怖うおます」 「私だすか、私は鼬《いたち》が怖うおます」 「そうすると鼬が胞衣の上を通ったんだす、あんたも何ぞ怖いものがおますか」 「ヘエおます、私はまたげじげじが怖うおますね」 「するとげじげじが胞衣の上を通ったんだす、あんたは何ぞ怖いもんがありまへんか」 「私でも怖いものはあります、私はまことに馬が怖いので」 「それも初めて胞衣の上を馬が通ったんで」 「うだうだ言いなアんな、床の下を馬が通りますかいな」 「そらマア胞衣を埋めてる時に戸外《かど》を馬が通って啼いたんだっしゃろう、あんたは」 「私は子犬が怖いので」 「子犬、ハハアやっぱり胞衣の上を通ったんだすな、あんたは」 「私は雷が怖いので」 「その時にやっぱり上で雷が鳴ったというようなもんだすな、あんたは」 「私は借金取りが怖うおますね、やっぱり借金取りが胞衣の上を通ったんだっしゃろうか」 「うだうだ言いなはんな、しかし人間には怖いものもありますが、また好きなものもあるもんで、あんたも嫌いなものがあれば好きなものもありますやろう」 「ヘエ、私も好きなものがあります」 「何が一番好きだす」 「それは二番が酒だす」 「イイエ、一番好きなものは」 「ハア、二番が酒だ」 「イエ、一番は何だす」 「えらい言いにくうおますけれども、一番は、女だす」 「何をいうてなはるね、あんたは何が好きだす」 「私は興行物が好きだす、芝居でも浄瑠璃でも俄《にわか》でも落語でも、見たり聞いたりすることが至って好きだす」 「なるほど、あんたは」 「私は魚釣りが好きだす」 「ヘエ、あんたは」 「善哉《ぜんざい》や甘い物が」 「ヘエなるほど、あんたは」 「私は酸い物が好きだす」 「私は苦い物が好きで」 「どうも妙な物が好きだすな、苦い物、やっぱり虫が好くとでもいいますか、あんたは」 「私はこの空消炭《からけし》が好きだす」 「妙な物が好きだんナ、あんたは」 「私はまた壁土が好きだす」 「何だす」 「壁土だす」 「アノ壁土、ヘエー、どういう壁土がお好きだんね」 「ヘエどんなんでもよろしい、なるだけ古いのがええので、それが私の病気《やまい》でおます」 「ヘエ妙な物を好きなお方もあるもんやナ、しかしあんた、それがほんまならこの壁土|毀《こぼ》って食べたらどうだす」 「イエそんなことが出来ますかいな」 「イエ大事おまへん、あんたがお好きなら私が引き受けます、土を毀ってあげます」 「アアさよか、あんたが引き受けとくなはるのんなら、私よばれます、この壁の取れかけてあるところから大きにご馳走さん、こらなかなか旨《うま》い」  と調子に乗って壁土を食べております。そばにいた皆の者は呆れて見ております。そのうちに皆は寝てしまいました。翌朝それぞれ出立いたしましたが、この壁土を食うた男は気分が悪いと寝ております。その翌日も頭が上がりません。二、三日逗留しておりますと、気分もようなりましたので、宿を出立いたしました。家は京都の綾小路|麩屋《ふや》町で人間が少々アヤフヤな男、家へ帰りますと、その後右の肩へさして小さな疣《いぼ》のようなものが出来ました。それを何じゃいナと思うて引きちぎると、またその跡へニュッと出来る、引きちぎると出来る、だんだん大きゅうなって来ます。ついには寝床《とこ》に就いておりますと、友達は親切なもので、 「オイ、うちかえ」 「オウ清やんか、マアあがって」 「何じゃ、どこぞ悪いのかえ」 「フム」 「どないしたんや」 「なんやしらんが、肩へさして疣《いぼ》が出来たんで気持が悪うて弱ってるね」 「アアそうか、そらいかんな、疣がどないした」 「ちぎると跡へ出来、またちぎると跡へ出来るのや」 「フウ、薬でも服《の》んでるのんか」 「別にどこが悪いというわけでもないので、別に薬も服んでエへんね、ただ気味が悪いよってに寝てるのや」 「しかし養生をせんといかんで、気をつけや、さよなら」 「大きによう尋ねてくれた、また来てや」  肩の疣はおいおい大きゅうなる、そうこうしているうちに瘤《こぶ》は人の顔ほどになりました。目鼻が出来て、この瘤がそろそろものを言うようになりました。 「コリャ喜六」 「アアびっくりした、あんた何や」 「俺は、西塔のそばに住んでいた武蔵坊弁慶という者じゃ」 「ヘエー、してその弁慶さんが何で私の肩へさして出店をこしらえなはったんや」 「貴様はこの春、大津の岡屋半左衛門という宿屋へ泊まったことがあるじゃろう」 「ヘエ違いおません、泊まったことがおます、それがどうしました」 「その時に貴様は壁土を食うたであろう」 「ヘエ壁土を食いましたが、それがどないしましたのだす」 「あの壁の中へ吃《ども》りの又平という画師が、俺の姿をば心を籠めて描いたその画をあの壁の中へ塗り込んでしもうた、どうかして今ひとたび世にあらわれて源氏の御世に翻《ひるがえ》さんと思う折柄、貴様がその壁土を食うたによって、汝の肩へさして俺があらわれて出て、今日から貴様の身体を俺が借りるから、サアこれから酒も飲むし飯も食うし遊びにも連れて行け」 「モシ、うだうだ言いなはんな、そのようなことが出来ますかいな」 「それをせねば俺は暴れるぞ」 「これは困ったなア」  喜六は肩の弁慶が無理を言うので困ってます。飯も食わさぬというと、己れの手でおのれが食われぬようになって、引ったくって弁慶が食うてしまいます。日に三升四升と飯を食い、酒といえば二升三升飲まにゃおかぬという、実にその日の暮らしに差し支えるようなことになって困っております。 「オイ喜ィやん、どうや、ちいとは具合がええか」 「イヤ困ったことが出来てきた」 「どうしたんや」 「マア私の肩を見てんか」 「なんや、エ……ッ……、こらどうした」 「マア聞いて、この春、伊勢参りをして大津の岡屋半左衛門で泊まったんや、その時私が壁土を食うたら、その壁土の中に吃りの又平という人が心を籠めて弁慶を描いたが、それが壁の中に塗り込んであったんを、私が知らずに食うたんや、ところがその弁慶は源氏の世に翻さんというので、私の肩へ出店をこしらえて私の体はこの間から弁慶になってるのや、酒は二、三升も飲みよるし、飯は三升も四升も食いよるので、実に困っているのんや、酒や肴を当てがわんと、こっつりこをさすね、私は頭が痛うて往生してる、なんぞええ工夫はあるまいか」 「そりゃ困ったことが出来たなア、ええことがある、こうしたらどうや、これを瘤というてお頼みしたら役に立たぬが、京都の寺町に蛸薬師《たこやくし》というのがある、あれは沢からお上りになったお薬師さんで、沢薬師というが、いつのほどからやら蛸薬師、蛸薬師というようになった、このお薬師さんに蛸を断ってお願いを申すと、どんな疣《いぼ》でも取れるそうな。京に住んでる有難さ、蛸薬師へ毎日日参をして祈ったらどないや」 「なるほどそれは有難い、それでは蛸薬師へ願《がん》を掛けよ」  とこれから毎日毎日蛸薬師へお参りをいたします。頭にはチョイと手拭を載せて歩いておりますと、こっちは鬱陶《うっとう》しいものですからまたしても手拭を取ってしまいます。 「あんたそう自由をしてもろうと困りますがな、皆人が頭が二つあるというています。伊予の松山に頭二つの子が出来たというが、その松山からこの京へでも来ているのじゃないかと、どうぞ辛棒して被っていとくなはれ、そうやないと私が困ります」 「エエーッ、ほっとけ、鬱陶しいわい」  ようよう寺町へ来ますと、ちょうど夕飯になりました、寺々の入相《いりあい》の鐘を撞《つ》き出しますと(鐘の音)、 「亀井、片岡、伊勢、駿河、主君《きみ》の御供なして一の谷へ急げ急げ」 「モシ何を言いなはったんや」 「今のは陣鐘《じんがね》ではないか」 「何を言うてなアるね、あれはお寺の入相《いりあい》の鐘だすがな」 「アアそうか」  これから蛸薬師へお参りをいたしまして、寺町へ参りますと、向こうの方からおこしになりましたのが、堂上方の御仏参の帰りと見えて、 「下に、下に、下におろう、下に、下に」  とこっちへ乗り物がやって参りました。侍士《じし》は大手を振って、 「下におろう、無礼者めが」  と咎《とが》めますと、例の弁慶が、 「糞でも食らえ、俺は武蔵坊弁慶だ」  と威張って大手を振ってやって参りますので、もはやお駕籠近くになりますと、近習の衆、 「すわ狼藉者、ソレッ、召し捕れ」  というので、いずれも袴《はかま》の股立《ももだち》を高くからげ、背後と左右から手をねじりました。姿は喜六でも何しろ弁慶という豪勇ですから、両人の者をば引き外してドンと投げる、背後から羽交締めに抱える奴をば、これも払うてドンと投げる、右から来れば左へ投げ、左から来れば右へ投げる、前から来る奴をば、腰帯を持ってからに上へドンと放《ほ》られた奴は中天に行き当たりまして下へ落ちて来る、二度目に投げられた奴に途中で行き逢うて、 「御貴殿お上がりか」 「イヤ尊公はお下がりか」  まさかそんなこともありますまいが、喜六はズンズンと進み寄り、駕籠の棒鼻に手をかけました。 「無礼者待て、なにやつなれば狼藉をいたす、名を語れ」 「ムムわが名を聞きたくば言って聞かせん、耳をかっぽじってよっくうけたまわれ、吾を誰ぞと思う、天津児屋根命《あまつこやねのみこと》、中関白《なかのかんぱく》道隆公の御|胤《たね》にして、母は二位大納言の娘、熊野|参篭《さんろう》の折柄|別当《べっとう》弁正と心を通わせ、ついに夫婦の契りをなせしが、わが母妊娠となり、十七月経って男子出生、幼名を鬼若丸と名づけ、播州|書写山《しょしゃざん》にて成長なし、誕生水別当の屋敷に古跡を遺し、頭髪を剃《てい》し、京都比叡山に登り、観慶|阿闍梨《あじゃり》の弟子となりしが、そのころ武蔵といえる荒法師あり、この者相果てしより、跡を継ぎて武蔵となり、父弁正の弁の字と、観慶阿闍梨の慶の字と、これを合わせて、武蔵坊弁慶と名づけたり。山を降って大原の里に住みしが、五条の天神へ丑の時詣での折柄、五条の大橋にて牛若丸に出会い、名乗れば源家の御曹司、弁慶二十余年栄華の夢あとなく覚めて京都を払い屋島壇の浦の戦いに、頼朝、義経不和となり、腰越より追い返され、吾は奥州衣川にて立ち往生、紀伊大明神と祀られるまで、主君の御供をなしたるこの弁慶、汝等ごときの下にいようや、奇怪千万、ナナ何を小癪な」 「乗り物止め」 「ハハーッ」  御駕籠の引き戸をがらりと開けますと、中より麻の裃《かみしも》に提げ刀で、 「コリャ其方は乱心者と相見える、予がここにて手討ちにいたすからさように心得よ」 「アアモシ、しばらくお待ち下されませ、けっして私は乱心者でも何でもござりません、ご覧なさるとおり、この肩の瘤があのようなことを申しましたのでござります、お手討ちにしようとおっしゃるのもごもっともでござりますが、昼間なればともかくも、夜分のことでござりますので、なにとぞお慈悲にお見のがし下されて、お助けを願います」 「イヤ昼間なればよいが、夜分のことじゃによって了見することは相ならぬ」 「ヘエー、それはまた何故でござります」 「されば、夜のこぶは見のがしならぬのじゃ」 [このサゲは「夜のこぶ(昆布)は見逃すな」ということわざをもじったもの。「夜昆布」は「よろこぶ」に通じるので、夜昆布を食べるのは吉とされた] [#改ページ] 米|揚《あ》げ笊《いかき》  ごく他愛のないお噂を一席聞いて頂きます。 「さあさこっち入んなはれ、今お前とこへ家の奴呼びにやったけど、家の奴行たやろ」 「ヘエヘエ今、家の奴、家ィ来てくれましてね、そして家の奴、直ぐ家ィ帰りましたけどまだ家の奴、家ィ帰ってェしまへんか」 「そう言うたらどっちの家の奴や分からん。相も変わらず面白いことを言う男やで。いやいや実はな、お前とこへ家の奴やったんは他でもないねんがな」 「ヘエヘエ、ほな家の奴、何しに来たんで」 「まだ言うてるで。お前が遊んでるちゅうことを聞いたもんやさかいな。ほいでまあ、きょう日は、働いた上にも働かんならん時代や。え、遊んでるてなこっちゃどもならん。どないやちょっとした銭《ぜに》儲けの口があるねんけどやらへんか」 「ヘエヘエ銭儲けの口、へ、やらしてもらいます。ええ口がおますか」 「いや、大した儲けにはならんねんけどな、実は訳を言わな分からんねんが、天満の源蔵町に、商売が笊《いかき》屋さん、うん、そこからな、笊の売り子を一人世話してくれちゅうて頼まれたんや。お前にならちょうど打ってつけの仕事やと思うねが、どないや。お前笊の売り子やれへんか」 「ヘエ、笊の売り子ちゅうと、ざるを売りに歩きまンの」 「そう、そうそう」 「ヘエ、やらしてもらいます」 「ホウそうか、行たげてくれるか。いつから行く」 「そうでんな、今から直ぐに行きまひょか」 「ウハァ、えらい急やな。いやいやこういうことはなるべく早い方がええ、思い立ったが吉日ちゅうさかいな」 「そやそや、出た日が命日と言いますさかいな」 「そんな験《げん》の悪いこと言いなはんな、大体な、お前はちょっとな、物数《ものかず》が多過ぎるで。エ、男というものはな、そう喋るもんやない。三言喋れば氏素性が現れる。言葉多きは品少なし、てなことが言うてある。何も言わんでええ。ここにちゃあんと手紙が書いてあるさかいな、この手紙を持って行て、委細はお手紙でございます、というて渡したら分かるさかい」 「あ、さよか、ほな行て参じます」 「あ、ちょっと待ちや、ちょっと待ちなはれ。行て参じますはええが、お前、天満の源蔵町知ってるやろなあ」 「ヘエヘ、ここを表へ出ましてね、南行きまして、ヘエ、あの難波から南海電車に乗って、終点駅で聞いたら分かりまっしゃろ」 「それじゃお前、和歌山へ行てしまうやないか」 「あ、和歌山から天満の源蔵町へ行けまへんか」 「そんなもん行けるかいな」 「それやったら訊《た》ンねますが、すると何ですか、和歌山の人は生涯、天満の源蔵町へ行けまへんか」 「そんな団子理屈言うもんやない。何で大阪にいて、大阪の天満へ行くのにわざわざ和歌山まで行くね、それが余計なこっちゃ。わしとこの家の表が丼池筋《どぶいけすじ》や」 「そやそや、お宅の表の通りが丼池筋でンな」 「これをば北へとって北浜へドーンと突き当たるわ」 「オホ。デボチン打つわ」 「余計なこと言いなはんな。北浜の丼池には橋がないなあ」 「昔からない、いまだにない。これ一つの不思議……」 「何の不思議なことあるかい。橋ない川は渡れんてなことが言うたあるな」 「渡るに渡れんことおまへんで」 「どないして渡る」 「舟で渡ろか、泳いで渡ろか」 「それでは事が大胆な」 「ほたらどないしよ」 「ちょっと黙って聞きなはれ。一丁東へ行くと栴檀《せんだん》の木橋ちゅう橋があるわ」 「ヘエヘエ栴檀の木橋。この橋渡りまンねやろ」 「いやこの橋は渡らん。もう少し東へ行くと今度は難波《なにわ》橋」 「難波橋ねえ、エヘ、この橋も渡れしまへんねやろ」 「いやこの橋を渡るねン」 「ウワ、せえだい逆らえ」 「誰が逆ろうてるか。北詰をば少し北へ行くと、天満の源蔵町。笊屋《いかきや》重兵衛はんちゅうてなあ、大きな看板が出たァるさかい、直ぐに分かる。もしも分からんなんだら訊ねて行きなはれ、問うは当座の恥、問わずは末代の恥ということが言うたあるさかい、分からなんだら何べんでも訊ねて行たらええさかい。それからな、さっきもいうたとおり、余計なこと喋ったらあかんで。喋ったら失敗の元。分かったあるな。そな、行っとおいなはれ」 「あ、さよか。ほなら行て参じます。ハハハなあ、ええ人やで。ひとが仕事がないちゅうて遊んでたら、こないして銭儲けの口探してくれはンねん。有難いなあ。あ、言うてはったなあ、お前はちょっと物数が多過ぎる。あんまり喋ったらあかんで、言うてはったなあ。なるべく喋らんようにしたろ。そうそう、それから分からなんだら訊ねて行けちゅうてはったで。なあ、問うは豆腐屋の損で問わなんだら松茸屋の損、あ、こら違うわ。何や言うてはったで。問うは研ぎ屋の錆《さび》で問わなんだら真っ赤いけの錆か。何でもええわ。錆びんまに一ぺん訊《たず》ねたろ。誰に訊《た》ンねたろかいな。そや、なるべく忙しそうにしてる人に訊ねたろ。ゆっくりしてる人はゆっくり教える。急《せ》いてる人は早う教えてくれよる。誰ぞ忙しそうにしてる人はないかいなあ。ウワア、いとるいとる。エエ、えらい汗かいて走っとるで。よっぽど忙しいらしいなあ。こいつに訊ねたろ。あ、ちょっとお訊ね」 「へ、何です」 「あんた、えらい急いてはりまンなあ」 「ちょっと心急ぎで」 「どういう訳で心急ぎです」 「家の家内にケがついたんで」 「お宅の奥さんに狐がついた」 「狐やおへん、ケがついた」 「何の毛」 「産気《さんけ》ですがな」 「はあ、どこへ参詣《さんけい》しなはる」 「何を言うてなはる。子供が出来まンねや」 「おお偉いわ、オンかメンか」 「そら何を言いなはる」 「ほで何を急いてはりますねん」 「産婆はんを呼びに行くので急いてまンね」 「あ、産婆はんを呼びに行きはるので急いてはりまンのか。それやったらちょっと物をお訊ねします」 「そんな、早うしなはれな、私、気が急くがな。そいでこの袂《たもと》、放してもらえまへんか」 「えらい済んまへんけど、エヘッ聞いてしまうまではたとえ千切れても放さん」 「何やいな、早うしとくなはれ、何でんねん」 「あんた、丼池の竹内っつあん知ってなはるか」 「いえ、そんなお方存じまへんで」 「ウフッ、存じまへんでて、こないだ、私、向こうでうどんよばれた」 「あんたのよばれたん知らんがな。早うしとくなはれ」 「向こうの表が丼池筋だンね。これをば北へとって、北浜へドーンと行き当たったら、あんたデボチン打つやと言おと思うてるけど、そうは言わしまへんで。北浜の丼池には昔から橋がない、今だにない。これ一つの不思議。橋ない川は渡れん。渡るに渡れんことない。どないして渡ろ。舟で渡ろか泳いで渡ろか。それでは事が大胆な。ほたらどないしょ」 「何をゴチャゴチャ言うてなはんねん。早いことしとくなはれ」 「一丁東へ行くと栴檀の木橋ちゅう橋がおまんねが。私、この橋を渡ると思いなはるか、渡らんと思いなはるか」 「そらま、橋があるねやさかい、渡りなはるねやろ」 「オ、ところが渡りまへんねん。意地の悪いもんでんな。もう少し東へ行くと今度がね、難波橋ちゅう橋でんね。この橋を私が渡ると思うか渡らんと思うか」 「またかいな。今、橋があっても渡りなはらへんね。この橋も渡りなはれへんねやろ」 「ウフ、ところがこの橋を渡りまんねん。根性の悪いもんでな。北詰をば少し北へ行くと、天満の源蔵町、笊屋《いかきや》重兵衛はんちゅうてな、大きな看板の出たァるのは、どう行ったらよろしい」 「どう行たらよろして、あんたの言うてるとおり行たらよろしね」 「ああさよさよ」 「何を言うてんねんな」 「ハハハハあんたの言うてるとおり行け、言やがんねん。ちょっとでも違う言いよったら、一ぺん竹内っつあんとこまで引っ張って行たろと思うててんけどな。しかし念には念を入れ、ちゅうことがあるさかいな。何べんでも分かるまで訊ねたろ。もうほかに急いてる奴はないか。ああこいつも汗かいて走っとる。こいつに聞いたろ。ちょっとお訊ね」 「ハイ、何じゃないな、ちょいちょい、ちょいちょいと」 「ちょいちょい、ちょいちょいて、あんた見たような顔やな」 「見たような顔やなて今そこで道訊ねたがな」 「ああ見たはずや。同じガキや」 「何ぬかしやがんね」 「慌てて同じ奴に訊ねてんやがな」  あっちで訊ね、こっちで訊ねいたしましてようよう出て参りましたのが天満の源蔵町で、 「今日は」 「アイ」 「ちょっとお訊ねいたします」 「何ですいな」 「天満の源蔵町言いますとこの辺でっかいな」 「はいはい、ここら一帯が源蔵町ですけど」 「あさよか、笊屋重兵衛はんのお宅どこらへんでっしゃろ」 「おお、笊屋重兵衛なら手前です」 「あ、何軒ほど手前です」 「いいえ私とこです」 「オウ己れとこか」 「えらい口の悪い人やな。どこから来はったんです」 「丼池の竹内っつあんとこからよしてもらいましたんで」 「あさよか、そら御苦労はん、まあま、どうぞお掛けやす」 「ヘエ、あのオ、掛けさしてもらいたいんでっけど、実は尻にできもんが出来たぁンので痛うて坐れまへんね」 「そらいきまへんなあ、な、マア一服吸うとくれやす」 「私煙草吸いまへんで」 「ほならお茶なと入れまひょか」 「私、茶を飲むのやめてまンねヘヘヘ」 「えらい愛想がおまへんな」 「何でしたら鰻丼《うなどん》よばれまひょか」 「厚かましい人やな、そいで何しに来やはったんで」 「エ、それ私言いまへんね」 「何で」 「何でてあんた、男というものはそう喋るもんやない。三言喋れば氏素性が現れる。言葉多きは品少なし、何にも言いなやちゅうてね、くれぐれも言われて来たんで、わて何も言わん」 「それではあんたの来はった用事が分かりまへんやろ」 「そこは委細はお手紙でっせ」 「委細はお手紙でっせて、そのお手紙はいな」 「ウハ、それ出すの忘れてンね、この慌て者」 「あんたが慌て者や。えらい面白い人が来はったな。ちょっと待っておくれやっしゃ。フンフンあ、なるほど。あ、さよか。いやいやこないだな竹内っつあんに笊《いかき》の売り子をしてくれる人があったら一人世話してくれちゅうて頼んでおきました。手紙の様子ではあるそうでんな」 「ヘエ、あるそうでん」 「そうでっか、お帰りになりましたら、どうぞ直ぐに来てもろうておくれやす」 「もう直ぐに来てもろうてまんねんけど」 「ちっとも気がつきまへんねんがな、どうぞ遠慮せんと、こっちへ入ってもろうておくなはれ」 「もう入らしてもろうてはりまっせ」 「どこにいやはりますねん」 「ウフ、さっきからあんたと機嫌よう物言うてるお方」 「何じゃあんたでっかいな」 「ヘエあんたでんがな」 「面白い人やな、あんたが行ておくなはるか。それで何時から行てもらいます」 「へえ、今から、直ぐに行こと思てますねんけど」 「はあ結構ですな、もう家はちょっとでも早い方がええので、いつ来て頂いても直ぐに行てもらえるようにこないして荷はちゃあんと一荷《いっか》こしらえておます。ああ、始めから品数が多いとややこしいので四種になってます。エー。大まめ、中まめ、小まめに、こっちにあるのがこれが米揚げ笊《いかき》、分かってますな。大まめ、中まめ、小まめに米揚げ笊。中に値段が書いて貼っておます。いえ、その値ェで売って頂いたら結構です。分《ぶ》は私の方からあんさんに差し上げます。で、何故こうしてな、あんさんにわざわざ売りに行てもろうか言いますとな、われわれの方で 二八《にっぱち》と申しまして、二月と八月に伐った竹は差し支えおまへんねんけど、他の月に伐った竹はな、どうしても虫がついて粉ォが出ます。で、まあ粉ォの出るような品物を家の店で商いますと店の暖簾に傷がつきますので、それでわざわざこれ、売りに行ってもらいます。そうでっさかいね、こいつを一ぺんようね、叩いといてもらいます。あ、黙って叩いてたんでは具合が悪いさかい。そうでンなあ、つぶれるような品物と品物が違います、こんなことを言いながら叩いてもらいます。よろしいなあ。つぶれるような品物と、品物が違います」 「ははあん、丈夫な品物やな、強いねんな」 「そやおまへん。こうして叩いとくまに粉ォを荷の中へ落としておきます。これが商売の要領でおます。分かりましたな。そいで服装はそのままでっか」 「あ、服装、このままではいきまへんか。紋付袴で……」 「いや、そやおまへんねん。着物はそのままでよろしねんけどな、その長いなりやなしに、尻からげが出来まへんか」 「へ、折角ですが出来まへん」 「何で」 「褌《ふんどし》を落として来た」 「男だてら、褌落とす人がおますかいな」 「男だてらさかい落としま。女だてら落としとうてもしてまへんわ」 「けったいな人やな、この人は、どこで落としなはった」 「さあ、それが分かってたらちょっと拾うて来まんねんけどな」 「ほんまに面白い人や。ともかくな、そのままでは見た目エも悪いし、第一あんた、荷ィ担《にの》うて歩くのに歩きにくうおまっしゃろ。そうそ、ちょっとだけでも揚げな、ああそれで結構だす。どうぞ行とくれやす」 「あさよか、ほんなら行かしてもらいまっさ。いかーき……」 「あ、びっくりした。何を言うてなはる」 「いかーき」 「家の土間で大きな声出したって買えしまへんで」 「何で買わん」 「何で買わんて家が商売でんが」 「そこを試みに一つ買え」 「誰が買うかいな、表へ出なはれ」 「いかーき」 「買えへん、ちゅうねん」 「誰があんたとこへ売るちゅうた。誰が買うてくれちゅうた」 「怒ってなはんな、いいえ、家の表で大きな声出しても近所も買わんちゅうてまんねん」 「近所も買わんとこへ何でこの店出した」 「そら何を言いなはんねんな、家があるさかい近所も買わんちゅうてまんねや」 「そこをあんたとこより安うしてあんたとこの老舗《しにせ》つぶす」 「悪い人やな、早よ行きなはれ」  怒られ倒して出て参りましたが、さあ始めの間は慣れるまでなかなか声の出るもんやございません。始めの間は偉そうに言うてても揚がりかかった鮒《ふな》みたいに大きな口ばっかし開いとォる。 「いかーき……いかーき。こらあかんわな。照れ臭いもんやなあ、エエ、さてこうなると、言うてる本人が聞こえんねんさかい。しかしなかなか声の出にくいもんやなあ。思い切って一ぺん言うたろかしらん。な、黙って歩いてたって買うてくれよれへん。いかきッ……ハッハハハびっくりするなあ。自分で言うて自分でびっくりしてたら世話ないわ。えへ。いかきッ、ハハハハいかきッ」 「ワン」 「あ、犬が吠えやがるのン。これはいかんわ。そや節つけて言うたら幾分か言いようがあるやろ。一ぺん節つけて言うたろか。いかーきやいかき。あ、こらええわあ。これやったらいけるわ。へー。いかーきやいかき」 「鰯屋《いわしや》はん」 「あ、鰯屋と間違えやがんね。こらいかん。どないしたろ。そやそや、言うてはった。始めから品数が多いとややこしいさかい、四種にしとく言うてはったなあ、大まめ中まめ小まめに米揚げ笊か、これで言うたろ。♪大まめ中まめ小まめに米揚げ笊。あッ、こらええわ。これでいったろ。♪大まめ中まめ小まめに米揚げいかきはどうでおます。どうでおますやて、えらい面白うなって来よった。大まめ中まめ小まめに米を揚げる米揚げいかきはどうでおます」  覚えるより慣れ。慣れてきますと大きな声張り上げてやって参りましたのが堂島。ご承知のとおり、只今はございませんが、前方《まえかた》は、堂島で米相場が立ちまして、株屋さんがズラーッと並んでおります。株屋さんという商売は非常に縁起を担ぎなはる。朝の一声は天から降るてなことが言うてございます。強気の方も、弱気の方も、朝の一声をその日の辻占見徳《つじうらけんとく》にいたします。強気の人は上がる、昇るということを喜びます。反対に弱気の方は下《さ》がる、降《くだ》る、ということを喜びます。そんなことを知らん右の阿呆、ちょうど強気の店の表へ出て来るなり一調子声を張り上げよって、 「大まめ、中まめ小まめに米を揚げる米揚げ笊はどうでおます」 「これ番頭どん」 「へえ」  頭を下げると御主人の気に障るちゅうので、そこは番頭さん、心得たもんで、 「これ、番頭どん」 「ヘエ」  後ろへ反り返ってよる。 「今、表でええ声聞いたやないか。米を揚げる米揚げ笊とは気に入った。早速呼んで買うてやっておくれ」 「かしこまりました。おい、笊屋」  招きますと手先が下がります。そうでっさかい、これを逆にいたしまして、 「おい、笊屋、戻っといで、戻っといで」  堂島のすくい呼びと申しまして、 「ウワッハッハッハ面白い手つきして呼んどんで、大まめ中まめ……」 「いやァ大きな声出さんでもええ。分かった分かった。家の旦那さんが気に入って買うてやるとおっしゃる。さ、こっちィ持って入れ。あーっと、暖簾が邪魔ならはずしてやってもええぞ」 「大事おまへん。暖簾は頭で上げて入る」 「頭で上げて入るとは気に入ったな。よし品物全部買うてやる」 「全部買うてもろうたら品物はお家へ放り上げる」 「ウワ、放り上げよったで。放り上げるとはますます嬉しいな、番頭どん、そこから拾円札を一枚出してやっとくれ」 「こら拾円も頂きましたら私、浮かび上がります」 「何じゃ、浮かび上がる。もう一枚やんなはれ」 「二枚ももろうたら跳び上がるほど嬉しい」 「百円やんなはれ、百円。これ、思わん金が入ったさかいちゅうて無駄遣いするねやないぞ」 「何の、無駄遣いいたしますかいな。家へ持って帰って、お母ンに見せて喜ばします」 「親に見せて喜ばすとは感心やな。親は大事にせえよ、親を大事にせんようなこっちゃ、人間出世は出来んぞ」 「大事にいたしますとも、神棚へ上げて拝み上げております」 「拝み上げてる。二百円やんなはれ、二百円。ほで何かいな、笊屋、お前さん兄弟はあるのんか」 「ヘエ、上ばっかりで」 「上ばっかり。三百円やんなはれ。三百円。ほで、上ばっかりちゅうと、兄さん、それとも姉さんか」 「姉が一人と兄が一人でおます」 「ホー、ええ兄弟やな。ほで何かいな、姉さんはもうどこぞへ片付いてなはんのんか」 「お恥ずかしい次第でおますが、いまだに奉公いたしております」 「どこへ奉公してなはる」 「上町の上田屋右衛門ちゅう紙屋の上の女中勤めておりますので」 「ちょっと、千円ほどやんなはれ、千円ほど。ほで、兄さんもやっぱりこの大阪にいてなはんのんか」 「兄貴は京に居ります」 「ホウ、京はどこや」 「高瀬のずーっと上でな、高田屋高助ちゅう背の高い、鼻の高い、気高い威高い男でおます」 「二千円やんなはれ、二千円、ほんまに気に入ったなあ、これ。ほいでやっぱり兄弟仲良うしてるかいな」 「へえ、昨日も兄貴から手紙が参りまして」 「ホウ、何ぞ言うて来なはったか」 「今いるとこ、商売の都合が悪いので宿替えすると申しまして」 「ホウ、宿替えしなはるのんか、うん、気に入った地所があったらな、地所諸共買いなはれ、はあ、資本《もとで》が要《い》りゃ、どんどん家から下ろしてやるさかい。ほいで、どこへ宿替えしなはんねん」 「今いるとこがちょっと上過ぎますので、二、三丁下がって……」 「帰り。番頭、それ全部なおしてしまいなはれ」 「旦那さん、今までお気に入りましてたくさんに頂戴いたしましたのに、取り上げて帰れとおっしゃるのには、何ぞ私に悪いとこがございましたら頭を下げて……」 「それが気に入らんのじゃ、下げなて」 「旦那さん、旦那さん」 「何じゃい、番頭」 「旦那さん、そんな無茶なことおっしゃるな」 「何が無茶や。あんまり人を馬鹿にしてるやないか、今まで上がるとか、昇るとか言うといて、今になって下がる……」 「さ、さ、旦那さん、相場と言うもんは頂上の分からんもんでおますで」 「当たり前やがな。それが分かれば皆が買うて儲けるが……」 「さ、そこでおますがな、今、笊屋が申しましたとおり、タタタタタタタッと上がって行って、トントントンと二、三下がったとこで、あ、向こが頂上やってんな、と始めて手が合うて、グーッとお儲けになりますねんで。旦那さんのおっしゃるように、そうどんどんどんどん昇りつめたら、高つぶれにつぶれてしまいますがな、なあ笊屋はん」 「阿呆らしい。つぶれるような品物と、品物が違います」 [#改ページ] 紺田屋《こんだや》  エエ一席うかがいまするは、京都のお噂でござります。三条の室町通りに、紺田屋忠兵衛さんと申しまして、旧家でご裕福な縮緬《ちりめん》問屋さんがござりました。ご夫婦の中には今年十八になる一人娘で名をお花さんと申します。いたって別嬪《べっぴん》さんで、近所では今小町というて評判娘で、ご両親は掌中《てのひら》の玉、蝶よ花よと可愛がってござったが、月に叢雲《むらくも》花には風のたとえ、ふとしたことから風邪《かぜ》の心地でぶらぶら病《やまい》。  サアご両親は大層ご心配遊ばしまして、医者よ薬よ看病よと手の届くかぎりお尽くしになりましたが思うようにご全快になりまへん。ある日のこと、ご両親はお花さんの枕頭《まくらもと》へおいでになって、 「コレお花や、今日は気分がちょっとええか、くよくよしてかえって病気が重《おも》なるといかん、心配をせんと気をたしかにもって早う良うなっとくれ」  と慰めますと、嬢やんは痩せた両手を合わして涙ながらに、 「お父さんお母さん、いろいろご心配を掛けまして何ともお詫びの申し上げようもござりまへん。あたし、今度はとても治らんと諦めているのエ、もしあたしが死んでしまいましたあとで、お力落としをなされませんように、先立つ不孝は幾重にもお許し、草葉の蔭からお詫びいたしますエ」 「コレなんでそんな心細いことを言うて親たちを泣かすのじゃ、病は気からと言うよってに、心を丈夫に持っておればきっと治る。もう死ぬというようなことを言うもんやない、ナアお母さん」 「お花や、一日も早う治っておくれ、お前に先立たれてお父さんもお母さんも、この先何を楽しみに生きていられよう、そやよってに、お花や一日も早う良うなるように」 「とは言うものの人間は老少不定《ろうしょうふじょう》、いつどんなことになるかもしれん。もしお前が先へ逝《い》くようなことでもあったら、心残りのないように何なりとも言いおいたがよい。お前のことなら何でも聞いてあげる」 「ハイありがとうおす。そんならお父様、たった一つお頼みがおすのエ。聞いておくれやすか」 「フムどんなことでも聞いたげる」 「そんなら、あたしが死んでもかならず頭を剃ったらいやエ、あたし坊《ぼん》さん嫌いエ」 「はアはア、お前がいやと言うのんならけっして坊さんに剃れへん、安心をしなされ」 「ああ嬉し、きっと」 「これお花や、もう他にないかえ」 「もう一つあるのエ」 「あるのんなら遠慮はいらん、言いなされ」 「そんなら、あたしが死んだら、お母さん、あのあたしの一番好きな着物を着せて、髪も結い直して、おしろいもつけて、綺麗にお化粧をして、湯灌桶《ゆかんおけ》へ納めて、それからお金を三百両財布へ入れて首に掛けておくれやすや」 「これお花や、何を言うのじゃ、昔から死んだ者には六文銭を持たしてやると決まってあるのに、三百両も何をするのんや」 「あの、地獄へ行たら閻魔《えんま》さんに上げて、お父さんや、お母さんのことをお頼みしておくのエ」 「これお父さん、死んでも親たちのことを思うてくれる……」 「それから、あのあたしが死んでも焼くのんいやエ、焼いたら熱いであたしいややエ」 「めったに焼けへん、土葬にしてあげる」 「お寺は四条の寺町、大雲寺へ」 「よしよし承知した。これお花、お前なんぞ食べたいものはないか」 「欲しいものが一つあるのエ」 「何が食べたいのんや」 「あの四条の新町の新粉《しんこ》屋の新兵衛さんの新粉餅が食べたいのエ」 「これお花や、何を言うのや、ほかのものならかまへんが、新粉餅は消化《こなれ》が悪いで、それはお止め」 「でも新粉餅が食べたいの、一生のお願い、食べさして欲しいのエ」 「よしよし、食べたいものなら食べさしてあげる。イヤ少しぐらいなら毒にもなるまい。コレ、常吉、四条の新町の新粉屋の新兵衛さんの新粉餅を嬢《いと》が食べたいと言うので、お前早う行て新粉餅を買うといで」 「ヘエ、行て買うて来ます……。ヘエ只今、四条の新町の新粉屋の新兵衛さんの新粉餅を買いに行てああしんこ……」 「そら何を言うね、これお花や、常吉が新粉餅を買うて来た、一つ食べるか」 「ハイ、とうないおいしおす。お父さんもう一つ頂戴」 「コレお花や、一つでも多すぎると思うているのに、二つも食べたら毒エ」 「そうでも、おいしいおすがな」 「よしよし、そんならもう一つ上げます。それ」 「お父さんおおきにありがとう。おおおいし、お願いどす、もう一つ」 「コレお花や、何を言うのんや、そないに食べたら病気に障《さわ》るといかん。もう止めときなされ。お母さんは悪いことを言わんで」 「そうでもこんなおいしいものを食べて死んだらあたしは本望どす。もう一つ」  手を合わして頼みますので、子に甘いは親心、悪いと知りながら三つ目の新粉餅を渡しますと、それを半分ほど食べかけると、急に顔の色がだんだん変わってきましたので、両親はびっくりいたしました。お医者さんを呼びにやりますやら騒動で、 「お花や……」「コレお花や……」  と呼べどその甲斐もなくとうとう息を引き取りました。さてこうなると一家親類へ使いを出して知らせました。ご親類は早速馳けつけました。ご両親の嘆きはひととおりやござりません。娘の遺言どおりお化粧をいたしまして、立派な着物を着せて三百両の金子を財布へ入れて、首へ掛けさせまして棺桶に納め、四条の寺町の菩提所大雲寺へ泣く泣く野辺の送りをいたしまして、遺言どおり土葬にいたしました。皆の者は引き上げて帰って参りました。 「イヤ皆様、ご苦労さん、さぞ疲れたじゃろう。なにかのことはまた明日のことにして皆|寝《やす》んどくれ」  手伝いの人々は帰りました。奉公人は二階へ上がってゴロッと横になりますと昼の疲れでぐウッと寝てしまいました。ご夫婦は奥の座敷でお寝みになりました。家内は静かになり、夜も更け渡る丑満《うしみつ》ごろ、二階に寝ていた久七という若い者が、フッと眼を覚ましました(ボーンと鐘の音)。 「アーアーア(欠伸《あくび》)。アア葬式の出たあとというものは、何となしに淋しいもんやなあ。しかしご当家のご主人様は実にお気の毒なお方やな。たった一人の嬢やんを十八までもお育てなさって死なしてしまうとは、それにひきかえあの三味線はお向かいのお嬢やん、年もちょうど同年《おないどし》、今夜はご親類のお客さんがお泊まりなはってその慰みに弾いてござるのんやが、親たちの身になったらどんな気がすると思うと、実にお気の毒なもんや。そうそう嬢やんで思い出したが、なんぼ金があり余っても、死んだ人に立派な着物を着せてそのうえ三百両という大金を地中へ埋めるとは実にもったいないことや、幸い皆が寝ている間に掘り出して来てやろう」  そっと二階から降りて参りまして、裏口の切り戸を開けて外へ出ますと、そのまま大雲寺へやって来ましたが、表門は閉まっておりますので裏へ廻りました。一面の茨垣《いばらがき》をかき分けて中へ入りまして墓場へ来てみますと昼見たままで、まだ線香の煙も絶えません。久七は新しい墓の前に手をついて、 「モシ嬢やん、久七はけっして悪心でお金を取りに来たのやござりません。通用金を土の中へ埋めるのはご法度で、もし埋めたということがお上へ知れましたらご一家は厳しいご詮議を受けなければなりません。それがお気の毒ゆえ、今この久七が一時拝借をしておきましたら、もしここを発掘なされても証拠さえなければお咎《とが》めはござりません。それで久七が拝借に参りました」  と言い訳をしながら土を取りのけ、棺桶の蓋を取りますと、手には水晶の念球《じゅず》を掛けて周囲《ぐるり》には着物が詰め込んでござります。着物を引っ張り出しまして、懐中へ手を入れますと手先に触りました縮緬の財布、グッと引っ張ったんで財布の紐がお嬢さんの首へ掛かっておりましたので首が上向いたはずみにお嬢さんが、「ウーン、ウーン」と呻った。久七はびっくりしました。 「アア、南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……。嬢やんどうぞ迷わず成仏を遊ばすように、けっして私は泥棒に来たのじゃござりまへん」 「誰や……どなたや、あたしの居間へ来るのはいやエ」 「ヘエ……久七でござります。どうぞ嬢やん迷わず成仏遊ばすよう、南無阿弥陀仏……」 「そういう声は久七や、ここはどこエ」 「ヘエ……こ……こ……ここは大雲寺の墓原でござります……」 「アア怖《こ》わ、なんでこんな淋しいとこへあたしを連れて来たの」 「嬢やん、あんた死んででおましたんや」 「嘘、久七死んだ者がものを言うかいな」 「そんなら嬢やんあんた生き返りなはったんや、こんな目出たいことはござりません。ちっとも早うお宅へお帰り遊ばせ、旦那さんもお家さんもお喜びでござります」  と抱えて上へあげました。 「あたし、家《うち》へ帰るのんいやエ」 「そらまた、なんででござります」 「あたし死んだんなら、家へ帰ったら世間のお方が紺田屋の娘は一ぺん死んで生き返ったといわれるエ。それよりあたしをこのままどこへなりと連れて行ておくれ。お願いや……」 「そんなら嬢やん、お父さんやお母さんは」 「久七、お前となら、どのような苦労をしても大事ない」  このお嬢さん死んだのではなかったので、新粉餅を咽喉《のど》へ詰めておりました。それを死んだと思うて葬式をいたしましたが、財布の紐を引っ張った拍子に新粉餅が咽喉を通りまして蘇生をいたしました。久七に前からお嬢さん恋患いをしておりましたんで。 「ご勿体ない、ご主人様のお娘御を連れまして逃げるというようなことは……」 「何をいうのや久七、長い間あたしがこうやって患うているのがお前にはわからんのかエ。実は……あの……お前に……」  ここまでいえますが、これから先はさすがにいいにくいので、もじもじしておりましたが、 「あの久七、あたしはお前に恋患いやがな……」と久七の手をしっかりと握りました。久七も木竹《ぼくちく》やなし、 「ヘエ……嬢やん、それはほんまでござりますか」 「なんの嘘をつくかいな、女の口から恥かしい、推量してくれたがええわいな……」 「ヘイ有難うござります。そういうことならご主人様には申し訳がござりませぬが、人の噂も七十五日と申しますで、噂がさめたら何とかまたお詫びをする時節も参りましょ……サア人目に掛からぬそのうちに、ちっとも早うお仕度を」 「そんならあたしのいうことを聞いておくれかエ」 「嬢やん」 「久七」  と互いが寄り添いますと、今まで冴えておりました月に雲がかかって暗闇となりました。芝居ならここが木頭《きがしら》で、舞台が廻りますと舞台一面桜の釣り枝、上手に紅白の幕、山台にずらりと囃子方が並ぶ。花道からバタバタでお花が出て来る。石に躓《つまず》くとそこへ跪《ひざまず》く。久七が走って来る、お花に突き当たる。入れ替わってお花じゃないか、久七さんというと、三味線がシャラン、唄が落人のと語るところだすが、落語の方はそんなものはござりまへん。  話が変わりまして、京都の紺田屋忠兵衛さんは、可愛い娘さんに死に別れて商売も手につきまへんので、店の番頭から若い者丁稚に至るまで、それぞれお金をやりまして暇《いとま》を出しました。屋財家財《やざいかざい》を全部ご親類へ預けまして、ご夫婦は娘の菩提を弔うために四国西国の霊地を巡礼に出まして、今は秩父坂東を思いたち巡礼をしようと廻国《かいこく》いたしまして、終わりに江戸の浅草の観音さんへ参詣しようと、毎日昼は市内を廻り夜は木賃宿に泊まって、若い年頃の娘さんを見ると老いの愚痴《ぐち》。 「ナア婆さん、今日芝というところで見た娘さん、お花と同じような年頃やな……」 「ほんにそうどすな、お花が今頃生きていてくれたら、こんな巡礼なんぞはせいでも、面白おかしゅう江戸見物が出来るのに、あのお爺さん、あんたもう泣いてなさるのかえ」 「いや私は泣いてるのんやない、江戸は暑いので眼から汗が出てるのんや、サア今夜は寝て、また明日は浅草の方へ行こう、もう早う寝なされ」  と煎餅蒲団に巻かれて寝ましたが、翌日は早朝から浅草方面へ詠歌を唱えながらやって参りました。浅草の観音さんへ参詣をいたしまして、雷門を抜けて、並木通りへ出て参りましたが、紺田屋という店先で、 「ふるさとをはるばるここに紀三井寺、はなのみやこもちかくなるらん」  と報謝を請けようと店の前に立ちますと、内から丁稚が盆に載せていくらかのお銭《あし》をくれましたので、夫婦は喜んで礼を述べて立ち去ろうとする時、眼についたのが表の暖簾《のれん》。 「ナア婆さん、同じ家名もあるが、ここの家《うち》の名も紺田屋というて商売も縮緬問屋とはよう似たこともあるもんやな……」 「わたしもさっきからそう思うていました。ここでしばらく休ましてもらいましょ」  二人は店の表へ腰をおろして店の様子を見廻しておりました。 「コレ常吉」 「ハイ」 「店の表に腰をおろして休んでござる巡礼のお方に、もしやあんたは京都のお方ではござりませんかと聞いて来い」 「ヘエ」  丁稚は走って参りまして、 「あなた方はもしや京都のお方ではござりませんか」 「ハイ、私ら二人は京の者でござります」 「旦那、あの二人は京の者やといってます」 「そうか、もう一度行て、三条室町ではござりませぬかと聞いておいで」 「ハイ、もうしあんたは三条室町ではござりませぬか」 「ヘエ、ようご存じでござりますな、私は三条室町でござります」 「アアそうですか、ヘエ旦那、三条室町やというております」 「そうか、もう一度聞いておいで、お名前は、紺田屋忠兵衛さんとは申しませんかと」 「ヘエ、何度も面倒臭い。もしお名前は紺田屋忠兵衛さんとは申しませんか」 「ヘエ、さようでござります」 「なに、アノ紺田屋忠兵衛、待っておれ、もし旦那、やっぱり紺田屋忠兵衛というております。どうしましょう」 「そうか、よろしい、私が行きます」久七は表へ出て参りまして、 「旦那様お久しゅう存じます。いつもご機嫌よろしくお達者でお目出とう存じます」 「ヘエーヘエ、どなたさんでござります。なれなれしゅうおっしゃって下さります、あなた様は」 「ヘエお見忘れでござりましょ、私はお店にご奉公をいたしておりました、アノ久七でござります」 「なんや久七やて、これ婆さん、お店にいた、アノ久七さんやて」 「オオそれそれ、家にいて、あのお花が死んで葬式の晩に行方の知れんようになった久七どんや」 「なるほどそうか、久七どんで思い出したが、家に奉公人も仰山使うてみたが、物を置いて出たのは、お前ばっかりや、ほかの者らは皆物を持って逃げて出る者が多い、お前さんの荷物はちゃんと荷造りをして京の家に預かってあるで、私が帰り次第に送らせます。イヤモウこんなに出世をせられたのも、常からお前さんの心掛けがええゆえ、マアこんな目出たいことはない、ナアお婆さん」 「つきましては、お二人にぜひご覧に入れねばならぬものがござります。どうぞ奥へお通り下さりまして、ごゆっくりお休みを願います」  久七の案内で奥の座敷へ通りました。結構な座蒲団の上に座らしまして、お茶よ菓子よと厚いもてなしを受けております。しばらくすると以前の久七が裃《かみしも》姿で、お花を綺麗に着飾らせまして連れて参りまして両人の前に手をついて、 「さて旦那様、何からお話を申し上げましたらよろしいやら、実はここにござるのは嬢《とう》さんでござります」 「エー嬢やんとおっしゃるのは」 「ハイ、あなた様の嬢様、お花さんでござります」 「お父様お母様、お久し振りでござります。お達者《たっしゃ》でお変わりものう、こんな嬉しいことはござりません」  と丁寧に挨拶をいたしましたので、忠兵衛夫婦、驚いたの何のて夢ではないかとばかりに、 「ナンヤ、家《うち》の娘《いと》のお花やと、これ婆さん、娘のお花やと、ほんまかいな久七さん、ほんにお花や、お……は……なや、これ婆さん」 「エー、あのまあ、お花や、ようまあ達者でいてくれた」 「これまあいったい久七さん、どういうわけでござります。まるで夢のようじゃ」 「へい、お驚きはごもっともでござります。これはこれこれこうこうの次第でござります」  以前の話の一部始終を物語りますと、忠兵衛夫婦は夢に夢見る心地をして、娘の手を取り合い嬉し涙にくれておりました。 「お二人様に喜んで頂きたいことがござります。子供が出来まして今年三歳になります」 「何や子供が出来た、これ婆さん、赤坊《ややこ》が出来たんやと、そして男か女か」 「ハイ男でござります」 「男か、えらいな、早う孫が見たい。見せとくれ」 「これ」と手を鳴らしますと、女中が抱いて参りました。 「これ婆さん、私の眼鏡を出しとくれ、どれどれ。婆さん、眼鏡を掛けたら真っ暗になって何も見えへんがな」 「お爺さん、貴方まだ眼鏡の鞘が外してござりまへんがな」 「ああそうか、大分うろたえているのんや。ドレドレ、ほんにええ子じゃ、動いてる」 「生きておりますね」 「アハハハハ、坊んかいな、坊んかいな……」 「お爺さん、わたしにも抱かしとくれ、オウオウ両親によう似てええ子じゃ」 「ともかくも、お風呂へお入り遊ばせ」  とこれからお二人をお風呂へ入れて、お上がりになるまでに着物をば、チャンとこしらえておいて、風呂から上がると着物を着替えさせます。と御飯の仕度が出来ております。床の前に老夫婦を座らしまして、こちらには若夫婦が座りましてそれへお膳が出ます。いろいろなご馳走を取り寄せまして、久し振りで親子が四方山《よもやま》の話をいたしまして御飯をすましました。 「定めし今日はお疲れでござりましょう。また明日も、明後日も、ゆるゆるとお話を申し上げます。今夜はどうぞこちらでお寝み遊ばせ。これお花や、ご案内申し」 「ハい、ご案内いたします。どうぞこちらへ」  縁側から廊下伝いに離れ座敷へ連れて参りました。結構な夜具を敷いて枕元には有明行灯《ありあけあんどん》が置いてござります。莨盆《たばこぼん》から水差しと至れり尽くせりで、 「さあどうぞごゆっくりお寝み遊ばせ、ご用事がございましたら」 「ハイハイ、モウけっして構うて下さんな。それでは明日またゆっくり逢います。モウ寝とくなされ、私らも寝さしてもらう」 「さよなら、お寝み遊ばせ」  両人は寝所へ入りましたが嬉しゅうて、なかなか寝られまへん。 「これ婆さん、お前どんな気持がするな」 「ハイお爺さん、わたしはあまり嬉しいので夢ではないかと思います」 「そうやろそうやろ、いやもっともじゃ、私かてそう思うた。さっき風呂へ入ってる時に、何べんも頬《ほ》っぺたをつねってみたが、私もなんや夢を見てるような気持がして、どもならん」 「わたしもこんな嬉しいことはござりません」 「イヤイヤ夢やない、ほんまや、これというのもみな観音様のおかげや、ああ有難い、南無大慈大悲の観世音菩薩……」 「なあお爺さん、世の中にまたとこんな嬉しいことはないが、あんた何時までもここにいなさるかエ、お花のそばに」 「いるともいるとも、私は死ぬまでここは離れぬ」 「そうでも京の家はどうしなさるエ」 「京の家なんぞはどうでもええ、ここで孫の守りをして一生を送るつもりや。べらぼうめ」 「お爺さん、急に江戸ッ子になりなさったな」 「ああ有難い、有難いこれも南無大慈大悲の観音さんのおかげや」 「なあお爺さん、昨日は木賃宿で、ゴツゴツした蒲団の中で何やら痒《かゆ》うて痒うて寝られなんだが、今夜は絹布の夜着蒲団でええ気持やが、昨夜までは何であないに寝苦しかったのじゃろうかしらん」 「お婆さん、それもやっぱり観音さんのおかげじゃわいな」 [虱《しらみ》のことを観音さまともいうので、これがサゲになっている] [#改ページ] 桜の宮  エーエ、一席うかがいますは、相変わりませず、お古いお噂を申しあげます。春先は人間の気が変わりまして桜が咲き出しますと、畳に尻がジット落ちついていまへん。ここは稽古屋の連中が四、五人連れで、 「定はん今日は」 「どなたかと思うたら、松さんに寅はんに、喜ィさん、みなお揃いでどこへ」 「どだい、表を瓢箪《ひょうたん》を提《さ》げて大勢がうろつくので、内にジイッと仕事をしていられまへん、我々も一つ揃うて桜の宮へでも出掛けたらどうだす」 「そこで、なんぞ趣向《しゅこう》がおますか」 「毎年のように赤襦袢の肩脱ぎで、チョイチョイコラコラと踊って行くのも面白うないので、なんぞええい思惑がおまへんか」 「あんたの方になんぞ思惑は」 「私には何もこれというておまへんが、何や喜ィさんにええ思惑があるそうで」 「アアそうか、喜ィさんあんた、えらいええ趣向があるそうだんな」 「イエ別にええ趣向ということはおまへんが、なるべく人の目に立つことがやってみたいと思いまんね」 「さようさよう、アアえらいことをやりよったなアというようなことを」 「えらいことをやりよったなアというて、目立って驚くことなら、連中が赤い手拭で頬かぶりをして、桜の宮へ行って枝ぶりのええ桜の枝で並んで首を吊ったら、えらいことをやりよったとびっくりすると思います」 「モシ喜ィさん、ウダウダ言いなはんなや、花見に行て首を吊るというような、そんな阿呆なことが出来ますか、ほんまやと思うたら、あれは洒落やったんかというような趣向が、何ぞおまへんか」 「それなら、連中がみな、イジカリ股をして歩きまんね、大勢が見ている前で、シュッと立って歩いたら」 「そら、なんだんね」 「みな揃《そろ》うて横根〔股の付け根の炎症〕やと思うたら洒落やった」 「モシ定はん、喜ィさんの言うてることを聞いてると腹が立ちます、あんたなんぞ思惑がおまへんか」 「そらないことはおまへん、こないだからチョッと考えたことがありますね、ここで芝居を一幕仕組みまんねなア」 「芝居を仕組むといいますと」 「兄弟の巡礼が仇討ちに出ています、桜の宮で一服していますと、そこへ深編笠の浪人者が莨《たばこ》の火を借りに来ます、互いに顔を見合わせてびっくりして名乗り合い、長い刀を抜いて斬り合うところへ六部《ろくぶ》が仲裁に入りこの勝負修行者にお任せ下されと、双方が別れると、六部の笈櫃《おいばこ》をおろして中から毛氈《もうせん》が出る酒肴《しゅこう》が出る、みなが酒を飲んで後で三味線を弾いて騒ぐ、ほんまやと思うていたら、あら洒落やった、とどうだす」 「サア、これやよってに定はんとこへ来ないかん、しかし定はん、役者はこれで足りまっか」 「ヘエ、たいていいけると思います」 「役割はどうなります」 「そうだんな、寅はんと喜ィさんは背格好がよう似てますさかいに兄弟の巡礼、松さんは体が大きいので百日鬘《ひゃくにちかずら》がよう似合いますさかいに、敵《かたき》もちの浪人で、わたいが仲裁の六部を」 「定はん、わたいはどの役だす」 「今、言うてます、兄弟の巡礼、弟の方だす」 「役者なら、誰がやります」 「マア、葉村屋か河内屋だんな」 「女が惚れますか」 「娘はんがベタ惚れだすぜ」 「あんたの役は」 「仲裁の六部だす」 「役者は」 「マア、伊丹屋か、あるいは高砂屋というとこだす」 「娘が惚れますか」 「マア、後家はん、年増だんな」 「ほんなら、わたい年増の惚れる方が好きや」 「六部は笈櫃《おいばこ》を負わんなりまへんで」 「ほんなら娘はんで辛抱しときます」 「定はん、台詞《せりふ》はどうなります」 「役に不足はおまへんか」 「定はんあんたに役割をしてもろうて、何の不足がおますかいな」 「不足がなければ、こないだからちょっと書いといた抜き書きを渡しまひょうか、松さんこれ、寅はんはこれ、喜ィさんはこれ」 「定はん、台詞が仰山《ぎょうさん》おまんな」 「見ると紙数が仰山でも、読んでもろうたらなんぼもおまへんで、そんなら台詞の稽古をしまひょか」 「どうぞお頼み申します」 「最初、兄弟の巡礼が莨を喫《の》んでいるとこへ、敵もちが莨の火を借りに来る、松さん、あんたから台詞に掛かっとくなアれ」 「ヘエ、エーと、そつじながら、たばこの火を、ひとつ、おかしくだされ」 「モシ松さん、なんや本を読んでるようだんな、も少し力を入れて、率爾《そつじ》ながら莨の火を一つお貸し下され、とな」 「率爾ながら莨の火を一つお貸し下され」 「ヘエ寅はん、あんたの台詞だっせ」 「エーと、エーさあさ」 「よいよい、よいよい、よいやさ」 「モシ、相手になりなはんな」 「けども、こうなりまんがな、エーさアさよいよいと」 「寅はんあんたの言いようが悪い、エーさアさと言いなはるよってに、いきまへん、エーは言わずに、サアサア打ち立ての清い火じゃ、チャッとお付けなされませと」 「サアサア、打ち立ての清い火じゃ、チャッとお付けなされませ」 「寅はん二枚目だすせ、力を入れずに柔和《やわ》らこうよろしいか、松さん、莨の火を付けに行て、お互いに顔を見てから、後の台詞に掛かってもらいます、寅はんあんたから」 「ヤア珍しや、汝、黒煙《くろけむり》五平太ならずや」 「松さんあんた」 「わがなをしーつーたる」 「しつたるでは具合が悪い、やっぱり知ったると」 「我が名を知ったる其方は」 「寅はん」 「知ったも無理か、三年以前、我が父、蒸気登之助を討って立ち退き」 「ヘエ喜ィさん」 「あまつさえあまつさえ」 「喜ィさん何や売りに来てるような」 「あまつさえ、淀川丸の短刀うばい取って立ち退きし曲者」 「ヘエ寅はん」 「斯《かく》言う某《それがし》は、彼岸中日頃好《ひがんちゅうにちころよし》」 「喜ィさん」 「桃山群集酒盛《ももやまぐんじゅうさかもり》」 「寅はん」 「ここで逢《お》うたは優曇華《うどんげ》の」 「喜ィさん」 「花咲く春の心地して」 「寅はん」 「不倶戴天の父の仇」 「喜ィさん」 「いざ、尋常に」 「両人一緒に」 「勝負、勝負」 「松さん」 「勝負なぞとは、片腹痛い、汝《うぬ》ら寄ったら返り討ちだ」 「何を、小癪な」 「台詞が分かりましたら、立ち回りの稽古を」  とこれから箒や物差しを刀の代わりにして、立ち回りの稽古、定はん何が損になるや分からん、襖《ふすま》を突き破るやら、障子の桟《さん》を叩き折るやら騒動、ようようのことで立ち回りの稽古が出来ました。 「定はん大きに」 「結構、わたしこれから芝居の衣裳屋へ行て小道具を借って来ます、あんた方は今晩台詞を稽古しておくなはれ、明日の朝早う来とくなはれや」 「どうぞお頼み申します」  皆は帰りました。定はんは衣裳鬘小道具を調えて待っておりますと、朝早うから、 「定はん、お早う」 「イヨー早うおいなはったなア」 「どだい、ジイッとしていられまへん、早う桜の宮へ行て刀が抜きとうて、定はん衣裳はどうなりました」 「チャンと借っておます、少々高いがええのを借って来ましたので、松さん、あんたそこに黒羽二重の五ツ紋付、白献上《しろけんじょう》の帯|割介《わりほそ》み、紺足袋に緒太《つぶねじ》の草履、朱鞘《しゅざや》の大小落としに差してもらいます、印籠《いんろう》を腰へさげて、松さん刀を見なはれ、よう光ってますやろ、いざと言うまで抜きなはんなや、鬘《かつら》は大百日だす、深編笠、よう似合いまっせ、寅はんと喜ィさん、浅黄|甲斐絹《かいき》の石持《こくもち》、白の手甲脚絆、草鞋《わらじ》履き、笈摺《おいずる》背中に西国三十三所巡拝、同行二人と書いて、頭は弾き茶筅《ちゃせん》、喜ィさんは弟やで前髪だす、仕込杖。しかし松さんの敵もちと巡礼と一緒に行くわけにいきまへんで、松さんは、難波橋を北へ突き当たり寺町を東へ八軒家を通って土手下から、京橋を東へ越え、備前島橋を東へ網島を通って桜の宮へ、土手下あたりで待っておくなはれ、わたしはすぐに行きます、一足お先へ行とくなはれ」 「そんなら定はん、早う来とくなはれや」  と、みなは出て行きました。定はんは、鼠甲斐絹の着付に、鼠手甲脚絆、鼠の帯、草鞋履き、頭は虫入りの弾き茶筅、天蓋という油粕《あぶらかす》のような笠、笈摺《おいずる》に金剛杖、前には鉦《しょう》、手には鈴《りん》、チャンチャン、チャンチンリン、願我身浄如香炉《がんがしんじょうにょこうろ》、と天神橋の南詰まで参りますと、この定はんに一人叔父さんがありまして高津新地に住んでいます。天満へ用事に行た帰りがけ、天神橋の南詰で、べったり逢いましたが、この叔父さんいたって耳が遠い。定はんの衣裳が立派なんで目につきました。 「フヘー、そこへ行くのは定やないか」 「アア、えらい人に逢うた、ヘエ叔父さんだすか、今日は」 「フヘー、見れば変わった——、ヘーなりをして、廻国《かいこく》するのか、フヘー気にいらんことがあるなら気にいらんと、フヘー私に話をしてくれたらええがな、フヘー嫁が心配するじゃないか」 「ほんまやと思うてる、叔父さん違う、今日は稽古屋の連中が、桜の宮へ花見の趣向や」 「フヘーなんや言うてるが、フヘー私は耳が聞こえん、とにかくわしの家までおいで」 「難儀やなア、これは洒落や」 「フヘーなんや」 「洒落や」 「言うことがあるなら、家へ来て婆どんに言うとくれ」 「コラ困ったなア、ちごうと言うのに。難儀やな、叔父さん、ここへ書きますせ、きよは、ひよりがよいので、さくらのみやへ、はなみにいくのんや」 「フヘーなんや書いてあるが、フヘーわしは無筆《むひつ》で読めぬ、とにかく、家へおいで」  無理に定はんを引っ張って帰りました。そんなことは知りまへん、寅はんと喜ィさんは土手下で一服しております。松さんは桜の宮へ行きましたが、時刻が早いのでぶらぶらとやって来ました。 「オイ喜ィやん、チョッと見てみ、松さんが来た、体が大きいのでよう似合うな」 「そうや、第一目玉が大きい、盗人眼《ぬすっとまなこ》や」 「そんなこと言いな、松さん聞いたら怒るで、オイ松さん」 「どうや」 「いま言うてるね、よう似合うと」 「定はんは、どうしたんや」 「サア、モウ来るやろうと思うているね、しかし松さんあんたは桜の宮やで」 「そうや、いま桜の宮へ行ったのやが、早いので仕方がないのでここへ来たのんや」 「定はんが来たら、すぐに行く。モウ一ぺん桜の宮をウロツイて来て」 「ほんなら定はんが来たら、すぐ来てや」 「よしや、じきに行く」  松さんは桜の宮へ行きました。寅はんと喜ィさんと二人が、尻から煙の出るほど、莨を喫んでいるとこへ、おこしになりましたのが、西国《しも》あたりのお武家様、頭は大|髻《たぶさ》、物に例えば百貫目の陀羅尼助《だらにすけ》二ツ折か、雪隠の屋根に琴箱を乗せたような格好、細元服というて指が二本入り兼ねる、身には黒羽二重の五ツ紋付の対の羽織に、段小倉の袴《はかま》、紺足袋に雪駄履き、長い刀を流儀に差し、 「時に中村氏、何と好い景色ではござらぬか」 「いかさま、さようじゃ、平野氏」 「これが、豊太閤が築かれし、南面山不落城、この流れが音に名高き淀川じゃ」 「なるほど、国元にかようなところがあれば、我々がいかばかり愉快でかなござろう」 「当所桜の宮は今が満開とうけたまわる、国への土産に見物いたそうではござらぬか」 「いかにもさようじゃ」 「しかし、時刻も早いで茶店なども出ておらぬで暫時《ざんじ》ここにて休らい行こう、幸い彼方に巡礼がいる、莨の火を一つ借ろう、コリャコリャ巡礼の衆、莨の火を貸してくれ」 「イヨーほんまの侍《さむらい》が来た、サアお付けなされ」 「よい天気じゃのウ、我々は遠国の者でござるが雨に降らるると困るが、かく晴天の日は格別じゃのウ、兄弟か、西国巡拝と見えるな、かく莨の火を借るも何かの縁であろうかな、袖振り合うも他生《たしょう》の縁《えん》、躓《つまず》く石も縁の端《はし》とか申すで」  いろいろの話をしておりますが、こちらの中村という仁は莨を喫めぬので、あっちこっちを見ておりますと、喜ィさんは一生懸命に立ち回りの稽古をして仕込みを二、三寸チョイチョイ抜きます。芝居の小道具とはいうものの金具が張ってあるのでキラキラと光ります。それが侍の目につきましたので、 「コリャ平野氏」 「ナンじゃ中村氏」 「必ず粗相なことを申されな、あれはただの巡礼ではござらんぞ、察するところ、親兄弟、あるいは主君の仇を狙わるる方と相見ゆる」 「中村氏、なにゆえでござるか」 「御舎弟と相見ゆるが、竹杖には業物《わざもの》が仕込んでござる、あれを見られよ」 「なるほど、いかさま、さようじゃ、これは失礼なことを申した、ハハ、いずれの御藩かは存ぜねど、先般よりの無礼の段々、お許し下され、さては御主君の仇、親兄弟の復讐を狙わるる方と相見ゆる」 「イエ、そんな者とちがいます、ほんまの巡礼だす」 「イヤ隠しあるはごもっともなれど、某《それがし》も武士でござる、決して他言はいたしませぬ、今にも敵《かたき》にお出合いめされたら助太刀をいたすでござる、仔細あって主君の名は語り申さぬが、某は平野と申して一刀流を学ぶ者、彼者《かれ》は中村と申して神陰流を学ぶ者、今にも敵にお出合いめされたら、言葉の助太刀でもいたすものを残念でござる、心おきなく本望《ほんもう》を遂げられよ、武士の亀鑑《きかん》でござる」 「イエ、ちがいます」 「イヤお隠しあるな、あれ見られよ、ご舎弟の竹杖に名刀が仕込んでござる」 「エエ、コレ喜ィやん、何をするね、阿呆やな、モシ、これはちがいますね」 「イヤ、長居をしては妨げになる、縁があれば再会いたす、失礼御免、中村参ろう、かく太平の御世にも、仇討ちというものがござるかな」  侍両人は行てしまいました。 「オイ喜ィやん」 「なんや」 「なんややないで、しょむないことをするよってに、今の侍がほんまの敵討ちと思うてよる」 「ほんまの敵討ちやったらどうなるね」 「助太刀をすると言うてた、助太刀したら松さんの首が飛んでしまうで」 「えらいことになったんやな」 「お前が刀を抜いたりするよってにや」 「オイ松さんが来たで」 「ほんに、オイ松さん、長い物を差してウロウロしいな」 「別にウロウロしいたいことはないが、定はんは」 「まだ来《こ》んね」 「わし、モウ厭になって来た、あんまり嬉しいのんで朝飯も食わずに来たので、腹は減るしついぞこんな長い物を差したことがないので肩はこるし、腰は曲がるし、笠を脱ぐことは出来ず、着物の紋が大きいので、人がジロジロ見るし、モウ厭になってるね、松さんわいな」 「まだやが、今なここへほんまの侍が来て、喜ィやんが刀を抜くもんやで、ほんまの敵討ちと間違えて助太刀をすると言うので往生をしたんや、しかし定はんかても今頃まで来んということはない、桜の宮へ行てるのんやで、斬り合いが始まったら、桜の間から不意に出て来るねで、ブラブラ行こか」 「行こいな」  三人連れで桜の宮へ参りますと、モウあっちでは三味線が鳴ってる、こっちでは酒を飲んでる、むこうでは踊ってるのでたまりかねて、 「オイ、松さん来てるやろうか」 「来てるわいな」 「ボチボチ始めよやないか」 「始めよか、莨の火を借りに来て」 「行くで」 「おいで」  相談をしてよる。 「行くで、コリャコリャ巡礼、率爾ながら莨の火を一つお貸し下され」 「松さんなかなか上手になったな、サアサア打ち立ての清い火じゃ、チャッとおつけなされませ」 「オイ定はん来てるやろうか、来てるわいな」 「やろうか」 「やるで」 「ヨッシャ」 「ヤア珍しや、汝、黒煙五平太ならずや」 「我が名を知ったる其方は」 「知ったも無理か、三年以前、我が父、蒸気登之助を討って立ち退き」 「あまつさえ、淀川丸の短刀奪い取って立ち退きし曲者」 「かく言う某は、彼岸中日頃好《ひがんちゅうにちころよし》」 「桃山群集酒盛《ももやまぐんじゅうさかもり》」 「ここで逢うたは、優曇華《うどんげ》の」 「花咲く春の心地して」 「不倶戴天の父の仇」 「弁才天の母の仇」 「喜ィさん、余計なこと言いな、いざ、尋常に」 「勝負、勝負」 「勝負なぞとは片腹痛い、汝《うぬ》ら寄ったら、返り討ちだ」 「何を、小癪な」  長い刀を引き抜きました、今まで何事が始まったしらんと、黒山のように集まっていた人が、刀を抜くと、敵討ちやというなり、蜘蛛の子を散らすごとく逃げ出しました。 「オイ早う逃げ、それ弁当箱を踏みつぶした」 「それ三味線を踏み折った、早よう逃げ、怪我をしたらどもならん、子供を負うてやり、それはお爺やんや、お爺やんを逆様に負うて頭痛病《ずつうやみ》になるがな」 「さかさまいの……」 「オイ、仁輪加をしいないな、早う逃げ」 「オイ早う逃げ、これやよってに源八へ行こと言うたのに、桜の宮へ行こと言うて来たら、こんな騒動が出来たんや」 「私らもまだ何も食うてへんがな、盃に酒を注ぐなりや、これでも同じ割前か」 「そんな汚いことを言うてる場合やない」  大勢はバラバラ逃げ出しましたが、可哀想に鳥居前に店を出していた親爺、餅を引っくり返されて割れた鉢を持って、どなたもご免やす。さっきの侍、ブラブラと参りますと、大勢の人が馳け出しますので、 「中村氏、何か、大勢が騒ぐ、何事であろう、コリャコリャ町人、大勢が馳けるは何事じゃ」 「オイ今日らの日に、うっかり侍に相手になりなや、どんな騒動が起こるや分からんで」 「コリャ町人」 「ヘエ……、どうぞ命ばかりはお助け」 「大勢が馳けるは何事じゃ」 「オイまって、尋ねてはるね、かたかたもち」 「何じゃ、かたかたもち、何じゃかたかたもちというのは」 「ちがう、かたかた、そのかたかたもち」 「かたかたもち、敵討ちと申すのか」 「その通り、かたかたもち」 「平野氏、敵討ちとは耳寄りな話、して討たるる者は何者じゃ」 「おおきな笠を着て、黒い煙がもえて、フホウと」 「それは何じゃ、其方の申すことは相分からん、なに大きな笠で、面体《めんてい》を包みいるか、してお討ちなさる御方は、いかような方か」 「兄弟の、巡礼」 「ナニ、兄弟の巡礼とな、平野氏、先刻の御仁ではござらぬか」 「コリャ町人、兄弟の巡礼と申すか、一人は二十一、二、今一人は十八、九、色白にして鼻筋通り」 「目の二ツある」 「馬鹿を申すな、中村氏、先刻の御兄弟の衆に相違ない、敵にお出合い召されしか、言葉の助太刀をいたすと申した、武士の言葉に二言はない、町人よくぞ教えた、茶店の婆、水を一杯くれ、中村氏、用意召され」 「心得申した」 「お続き召され」  馳けて参ります。こっちは長い刀を振り回して、教えてもろうた立ち回りの同じ手ばかり。 「オイ、寅はん、一ぺん一服しよか、大分しんどなってきた、定はんはどうしてるのんやろ」 「サア、モウ出て来てくれんと困るがな、同じことをしてるね」 「モウ一ぺんやってみよ、そのうちに定はんが来るやろう」 「喜ィやんは面白いかしらんが、わしはモウしんどいね」  と言うているところへ、両人の侍がやって来た。 「ヤア、先ほどの御兄弟衆じゃ、御兄弟の方々、我々が助太刀に参った、心臆せず、本望をとげられよ」 「フワイ……、それ来たで」 「寅はん、定はんが来たのんか」 「ちがう……、助太刀や」 「ナンヤ、助太刀、稽古の時にはそんなもんはなかったで」 「それが出来たんや、さっき土手下で休んでいるとこへ侍が来て、ほんまの敵討ちと間違えて助太刀をすると言うね」 「助太刀したらどうなるね」 「松さん、お前の首が飛ぶで」 「わい厭やがな、何でそんな人を頼んだんや」 「別に頼めへん、勝手に来はったんや」 「そんならどうする」 「お前は常日頃から心意気が悪い、諦めて念仏を唱え」 「厭やがな」 「ヤア、御兄弟の方々、いかが召されしや、それそこに隙がござる、血迷い召されしか」 「それそこに、エエ某より一太刀参ろうか」  と刀の鯉口を二、三寸抜きますと、ピカピカと光ったので、松さんへたばってしもた。 「アハハハハ、フワイ……オイ寅はん何とかしてんか」 「今更どうも仕方がない」 「そんなことを言わんと、私と一緒に逃げてんか」 「どこへ逃げるのんや」 「どこか分からん、私の行く方へ逃げて」 「そんなら逃げるよってに、帰ったら今晩一升おごるか」  松さんえらいとこでつけこまれた。 「そら逃げるで、よいか、一イ二ウの三ツ」 「ヒョウ……喜ィやん早う逃げ」 「イヨウ……と」 「これは何だ、討ち方も、討たるる者も、共に逃げるとは、さては御兄弟の衆には、血迷い召されしか、中村氏、卑怯未練な犬侍をつかまえ召され、某は御兄弟の方々をお止め申す」 「心得た、ヤア犬侍待て、逃げるとは卑怯であるぞ、帰せ戻せ、待て……」 「待ってたまるものか、首がなくなるわい」 「御兄弟の方々、お待ち召され」 「イヨウ、来た来た、早う逃げ」 「卑怯者待て、逃げるとて逃がすものか」  可哀想に松さん、芝居の衣裳で裾に綿が沢山入ってある、それを二枚も重ねて着ているので、足に纏《まと》いついて走れん、木の根につまずいて転んだ、首筋をつかまえられた。 「コリャ、逃げるとは卑怯であるぞ」 「御兄弟の方々、現在敵に出合いながら、逃げるとは血迷い召されしか、お待ちなされ」 「どうぞ命ばかりはお助け」 「お助けではござらん、いかがなされしぞ、中村氏、犬侍に傷はござるか」 「傷はござらん、御兄弟の方々は」 「御両人とも傷はござらん、無傷と無傷なら勝負は五分だ」 「イエ、六部が参りません」 [江戸落語では「花見の仇討ち」という] [#改ページ] 酒の粕《かす》  相も変わらずばかばかしいところをば一席聞いて頂きます。  世の中には、お酒を沢山にお上がりになる方があるかと思いますと、反対に全然お酒が飲めん方がおいでになります。こういう方は、酒屋さんの前を通っただけで酔うてしまうてなことおっしゃいますが、こういう人が偶然に灘《なだ》の親類から、酒の粕のええのんをもろうた。  沢山に送ってもらいまして、酒の粕ぐらいやったら大丈夫やろ、二枚ほど食べたところが、さながら酒の二升も飲んだように、とろっぴき酔うてしまいよったん。 「さっぱりわやや。まさか酒の粕|食《く》うてこない酔うとは思わなんだ、アハハハッハ、しかし、ええ気持ちやなあ、俺は生まれて初めてこないして酔うてしもたけど、酔うちゅうのは、気持ちのええもんやなあ。ドヤこれ、ちょっと寒いのに、体はカッカカッカ温《ぬく》もってくるわ、顔は真っ赤いけになるわ、おまけに気がウキウキしてきよったなあ、何とも言えん、ええ気持ちや。そうや、俺アふだんから酒飲まんものやさかい、酒飲みの友達はみな俺のこと馬鹿にしてぼろくそに言いやがるねん。ちょうどさいわいや。俺、今日、こないして酔うてるの、まさか酒の粕食うて酔うてるとは誰も思いよれへんやろ。なあ、これから俺のことぼろくそに言うて馬鹿にしやがった友達とこへ行って、酒に酔うてるねんちゅうて、一ぺんびっくりさしてこましたろ。どこへ行ったろかしらん。そや芳《よし》さんとこへ行たろ。もうあいつはなあ、ふだん酒飲まなんだら、それはおとなしいええ男やねんけど、ちょっと酒が入ると、ころっと人間が変わってしもてなあ、ソーラもう酔うたら大きな声出してびっくりさしゃがるねん。今日はあべこべにこっちがびっくりさしたろ。ウォーイッ、芳さん、いてるかい」 「ホーラ大きな声やなあ、どないしてん。何じゃ、阿呆やないかい。またないことにえらい勢いやなあ、どないしてん」 「何ぬかしてけつかんねん、ないことにえらい勢いや、どないしてんて、尋ねるだけ野暮やないかい。たいてい俺の顔の色見たら分かるやろ、どや、赤いやろ」 「ほんに、真っ赤いけやなあ、ジンマシンか」 「何ぬかしやがんねん、ジンマシンみたいなもん、お前に見せにくるかい。今日は俺ア酒に酔うてるねん」 「お前が酒に酔うてるの、へえ、めずらしいこともあるもんやなあ、大体お前、酒よう飲まんのと違うのかい」 「何ぬかしとんねん、阿呆ンだら。酒よう飲まんのと違うのんか、ちゅうて尋ねるだけ手遅れや。あのなあ、言うてすまんけどなあ、わいら子供の時分に親から小遣いもろうやろ、この小遣い使わんと貯めといてな、ある程度貯まった時分に、銭持ってパーッと酒屋へ行てなあ、酒屋の蔵で桝の隅から冷や酒バーッと飲んで大きなった人間や。お前らみたいに、親から小遣いもろうたら、その小遣い持ってすぐにパーッと焼き芋屋へ走って行ってやで、芋のヘタ食うて屁をこいて大きなったような人間と、同じようにすな」 「えらそうに言いやがったなあ、このガキ。ホナ何かい、お前、子供の時分からそやない酒が好きやったん」 「好きやったんやあるかい。俺は好き通り越してんのやさかいな、人はみな酒飲むてなこと言うけど、わいら子供の時分から酒を浴びて大きなってんやぞ」 「ホウ、それほど酒好きやったら、なんで我われのつき合いがでけへんねん」 「何ぬかしてけつかんねん、我われのつき合いが何ででけへんねんて、そない一人前な顔してなあ、酒飲みみたいなこと言うな。あんなお前らが飲む酒の量と、俺が飲む酒の量と、桁が違うねん、桁が。わずかの酒のつき合いは全部お断りしてるねん」 「ほおう、そらちょっとも知らなんだなあ。ホナちょっと尋ねるが、今日は大分に回ってるが、一体どれぐらい飲んでん」 「どれぐらい飲んでんて、聞いておどろくな。こんな大きなやつ、しかも二枚もいてんぞ」 「何をぬかしてけつかるね。なんじゃおかしいと思うた。お前酒の粕食うてんやろ」 「芳さん、酒の粕やちゅうこと、何で分かる」 「何で分かるて、阿呆か。こんなやつ二枚食うたちゅうたら、すぐに分かるがな。アア、分かった分かった。お前、ふだんから酒よう飲まんと、友達に馬鹿にされてるさかい、酒の粕食うて酔うたのを幸いに、酒飲んだというて、友達をだまそうと思うてるに違いない。それやったら、もっと芝居を上手にせえ。まだほかを回るのん。俺とこが初めて……。アアソウ、それやったらええこと教えたろ、今度、どれぐらい飲んだちゅうたらなあ、同じことにこれぐらいの大きさの武蔵野〔大盃〕でキューと二杯飲んだと、こない言うたれ。いかにも酒飲んだように聞こえるやろ」 「ちょっと待ってくれ、ホナ何か、今度どれくらい飲んだ、ちゅうて尋ねよったら、これぐらいの武蔵野でキューと二杯飲んだちゅうたらええのんか」 「そうや、うまいことやりや」 「イヤ、おおきありがとう。さいなら。なるほどなあ、ハッハー、やっぱり相手は酒飲みだけにいっぺんに酒の粕やちゅうこと分かりやがんねん。しかし友達やなあ、あないして怒りもせんと、親切にアドバイスしてくれた。これぐらいの大きさの武蔵野でキューと二杯飲んだか。なるほど、今度はうまいことやったらんならん。どこ行たろ、日出やんとこ行たろ……。おい日出やんいてるか」 「誰や……。オ何や、お前かい、コーラまたええ色してるなあ。どないしたん。エッ……酒に酔うてる。うれしいなあ、お前が酒飲めるとは知らなんだなあ、しかし、一体どれぐらい飲んでん」 「どれぐらい飲んだて、尋ねるだけ野暮や。聞いておどろくな、これぐらいの大きさの武蔵野でキューと二杯飲んでん」 「武蔵野で二杯、大したもんやなあ。それやったら尋ねるが、それだけの酒飲むねやったら、あて〔酒の肴〕は何でやってん」 「黒砂糖でやった」 「阿呆らしなってきた、お前酒の粕食うたやろ」 「やっぱり分かるか」 「分からいでかい。ハハーン、なんじゃ話がおかしいと思うた。武蔵野で二杯やて、それはお前の知恵やなかろ。誰ぞに教えてもろたん、ええ、芳さんに……。教えてもらうのやったら、もっとあんじょう教えてもらえ。まだほかへ行くのん。俺とこ二軒目か。よし、それやったら教えたろ。今度なあ、あては何やと言いよったら、まあ、そうやなあ、鯛《たい》のぶつ切り、山葵《わさび》のボッ掛け、こない言うてみ。これやったらいかにも酒飲んだように聞こえるわ」 「ちょっちょっと、ちょっと待ってくれ、ホナ何かい、今度あては何やちゅうて尋ねよったら、鯛のぶつ切り、山葵のボッ掛け……、高うつくやろなあ」 「何も心配することあるかい。口で言うだけや、大きなこと言うたれ」 「アア、なるほど、口で言うだけか。よっしゃ、分かった分かった。いや、おおきありがとう。だんだん賢うなってきた。今度はうまいことやったらんならん、どれくらい飲んでんちゅうたら、これくらいの大きさの武蔵野でキューと二杯や、あてはと言いよったら、鯛のぶつ切り、山葵のボッ掛け……は、ええけど、やっぱりほんまの酒と違うて、粕だけに酔いの覚めるのも早い……。こら酔いが覚めたら何にもならん。もう一軒早幕ですましたろ。どこへ行たろかしらん……あっそや、松っちゃんとこへ行たろ。オウイ松っちゃん、松っちゃん、いてたらはやいこと顔見てくれ、赤い間に」 「何を言うてるねん……。そない言うたら、えらい赤い顔してるなあ、どないしてん」 「どないしたて尋ねるだけ野暮や。俺ア今日、酒飲んでえらい酔うてるねん」 「ほおう、一体どれぐらい飲んでん」 「どれぐらい飲んだて、聞いておどろくな。これぐらいの大きさの武蔵野でキューと二杯や」 「なるほど、大したもんやなあ。ホデあては」 「あてはお前、黒砂糖では……飲めんぞ」 「黒砂糖で酒飲んだんかい」 「そやさかい、飲めんちゅうてるねん、ナ、あてはお前、鯛のぶつ切り、山葵のボッ掛けや。ちょっと高うつくけど、どや」 「なるほど、鯛のぶつ切り、山葵のボッ掛け、うんこれやったら飲める。しかし酒は燗してか、冷やでか」 「ううん、よう焼いて……」 [#改ページ] ざこ八《はち》  エエ、一席うかがいますは、相も変わりませず、お古いお噂で、当今は東京|流行《ばや》りで、何でも東京、東京と申しまして、品物一つにしても東京何々とつけますとよい品のように思います。東京|浴衣《ゆかた》、東京足袋、東京下駄など、また言葉でも江戸弁《えどっこ》で喋《しゃべ》りますと粋なように思います。  我々同業者がたまに東京へ一ヵ月でも交代に参りまして帰って来ますと、すぐに江戸弁を使います。その江戸弁のなかに大阪言葉が出ましてずいぶんおかしいことがござります。なかには箱根知らずの江戸ッ子というのが仰山ござります。永らく東京におりますと喧嘩でもする時には啖呵《たんか》を切るのに江戸弁がつい出ます。 「ヘエ、ちょっとお尋ねいたします、桝屋新兵衛さんはお宅様で」 「ハイ、どなたじゃな、桝屋新兵衛は手前じゃ、開けて入りなはれ」 「ヘエ御免、今日は……オオ小父さんですか、ご機嫌よろしゅうございます。永らくご無沙汰いたしまして、一度お伺いせにゃ済まぬと思うておりましたが」 「ハイハイどなたじゃな、馴れ馴れしゅうおっしゃるが、歳をとると眼かどが悪うてどもならん」 「ヘエ、お見忘れはごもっともで、町内におりました眼鏡屋の弟の鶴で」 「何や、眼鏡屋の鶴さんやて、そら珍しい人じゃ、サア、マア掛けなされ……これ、お茶を持っといで」 「なにとぞおかまいなく」 「イヤ、お茶は私が飲みますのじゃ」 「アア、さよか」 「これ、眼鏡を持って来とくれ、いやもう歳をとるとあかんで、眼鏡がないとどもならん……オオほんに鶴さんじゃ、ごきげんさん」 「いつもお変わりなくお達者で」 「ハイハイ、イヤあんたもお達者で結構、ながいあいだどこへ行ててやったんや」 「ハイ東京へ行っておりまして」 「東京へ、アアそうか、行てやってもう何年になるえ、鶴さん」 「ヘエ、町内を出ましてから、ざっと十年になります」 「早いもんやな、十年になるか、そうして東京はどこにいてやったんや」 「ヘエ、魚河岸におりました」 「私もだいぶ前に東京へ行ったことがあるが、あっちもずいぶん変わったやろな」 「ヘエ、ずいぶん変わっております」 「そうやろうな鶴さん、私ももう一ぺん行きたいと思うてるねが、この歳になったらとてもあかん」 「この坊ンは、小父さんの坊ンで……」 「鶴さん何をいうのじゃ、これはお前さんと寺子友達の倅《せがれ》新之助の児じゃ、今な三人孫が出来てこれが一番兄じゃ、コレ小父さんおいでやすと言いなされ……ハイもう七ツになります」 「そんなことは存じませいで、知っておりましたら江戸絵の一枚も買うて参りますのに、これはまずいものですが手土産の替わりで」 「鶴さん、気の毒な……さよか頂きます、大きに有難うさん……コレ小父さんにいつもうたう唄を聞かしてあげ、あのソレ……何……小父ちゃん、大きな眼をあいてるさかい厭や、何を言いくさる、コレそないに身体を振るもんやない」 「ヘエ坊ンは唄がお上手で、そんなら小父ちゃん眼をつぶってますで、聞かしとくなされ」 「それ、小父ちゃんが眼をつぶってなさる、早ううたわんかいな、なんやったいな、野毛のかいな、野毛の山からノオエかいな、野毛の山からノオエ、鉄砲サイサイかついで小隊進め、やったかいな」 「えらい坊ンは老いくろしいお声で」 「鶴さん、今のは私じゃ、ワハハハ」 「小父さんもなかなかお上手で」 「うだうだ言いなさんな、孫にかかったらさっぱりわやじゃ、時に鶴さん、御飯はどうじゃ」 「只今途中で食べて参りました」 「そんなことをせいでも私とこで食べたらよいのに、そいで何か、兄さんに逢うてやったんか」 「まだ兄の家へは寄らずで、すぐご当家へ参りましたので」 「アアそうか、兄さんは相変わらず精出して働いてござる。しかし鶴さん、この町内もずいぶん変わったで」 「そうでございますか、只今も町内を通って参りましたが、あの糸屋さんのお宅がコロッと変わっておりましたが」 「糸屋さんか、あのお宅はえらいご出世じゃ、いま横町へ地所を買うて立派なご普請《ふしん》をなさって、ご家族は上下かけて二十七、八人はござるそうじゃ、なんでも生糸で仰山儲けなしたのじゃ」 「ヘエ、あの播磨屋さんは」 「播磨屋さんはいま心斎橋筋に店を出して、なかなか繁昌してござると聞いてます。それにひきかえ相変わらずつまらんのは私とこじゃ」 「ご冗談を、これだけの店を張ってござるのに」 「アハハハハ、私はモウ隠居して店は新之助にすっかり譲りましたが、うちの新之助は相変わらず、沈香《じんこう》も焚《た》かず、屁もこかずで、ただ店を守ってるというだけじゃ、アハハハ」 「それに、あの角の雑穀屋の雑穀《ざこ》八さんは……只今通って参りましたが、店が小さく仕切って変わっておりますが、どこかへ宅替えでもなさったのですか」 「鶴さん、人の家のほろぶのは早いもんやで、四丁界隈きっての金持ちといわれた雑穀八さんも、三年たたん間に箸一本ないようになった」 「ヘエエ、雑穀八さんはあのように堅いお方、お婆さんは女のこと、ほかは娘さん一人、ほかにつぶす者はないはず、ハハン、こら誰か外からつぶした者があるのですな」 「鶴さん、お前えらいことをいうた、そうじゃほかにつぶした者があるねん」 「いったい雑穀八さんをつぶしたのは誰です」 「他人《ひと》さんは何というかしらんが、雑穀八をつぶしたんは、鶴さんお前さんじゃ」 「小父さん冗談を、弄《なぶ》らないで」 「イヤ、冗談でも弄りもしやせん、お前さんがつぶしてやったんや」 「そら真剣におっしゃるのですか、それは」 「そうじゃ」 「カア、プウーッ」 「コレ、畳の上へ土足で上がってどうするねん、コレ唾《つば》を吐いたりして」 「唾じゃねえや、痰《たん》だよ。ヤイもう一度言ってみろ、十年前に東京へ行って今帰ったばかりのこちとらが、どうして雑穀八の家をつぶせるんでえ、桝屋新兵衛、てめえ耄碌《もうろく》しやあがったな、老いぼれめッ」 「アハハハハハハ」 「何がおかしいんでえ」 「コレ表へ立つな、喧嘩やない、少し声の大きい話をしてるのじゃ、入口の障子を閉めときなされ、戸口へ人が立つ、コレ鶴さん大きな声を出しなさんな、ご近所へみっともない」 「大きな声は地声だい」 「マア落ち着きなされ、お前さんがつぶしたという因縁を説いて聞かしてあげよう。お前さんは昔からこの町の褒《ほ》められ者じゃ、若い者に似合わん堅人《かたびと》じゃ、放蕩もせずよう働く感心な者やと、誰一人お前のことを悪う言うもんがなかった」 「おだてるねえ、禿茶瓶《はげちゃびん》」 「イヤおだてはせん、本当の話をしてるのじゃ。町内の極道息子があると、鶴さんを見習えとお前さんを手本にして意見をするぐらいじゃ。そのあいだにお前さんが浄瑠璃の稽古屋入り、アア悪いとこへ入ったなア、あれが機会で悪い友達でも出来て極道をせねばええがなア、と思うたがなかなか身を崩さず相変わらず商売を一生懸命にやりなさる、浮いた話も聞いたことがない、ところが今でもお前さんはええ男や、まして十年前はなかなかの美男子、町内の娘がお前さんにヤイヤイいう、雑穀八のお糸さん、毎日縫物屋の往き帰りにお前さんとこの前を通って、お前さんの顔を見て赤い顔をしてる。家で婆さんと話をしてたんや、陰裏《かげうら》〔日陰の〕の豆もはじける時にははじける、お糸さんもどうやら鶴さんに気があるらしいなアと、ところがある日、町内の参会があって、ほかの人と別れてこの町内へ帰るのは八兵衛はんと私と二人連れ、道での話に、時に桝屋さん、うちの娘のお糸に誰ぞええ養子がありましたらお世話願いますとの話、私が眼鏡屋の弟息子鶴さんはと、お前さんのことを言うたんじゃ。すると、あの眼鏡屋の鶴さんなら町内での褒者《ほめもの》、本人も堅い人やで結構、しかし娘がなんと言うか一度娘に話してみますと、その晩は別れて帰った。翌日八兵衛さんが、娘に話をしたら、自分が惚れた男、何の不服があるものかいな、二つ返事で承知したので、早速私の家へ来て話を進めてくれとの頼み、そこでお前とこの兄さんに話をした。ところがお前の兄さんは堅い人やで、雑穀八さんとことは身代が違います。釣り合わぬは不縁の因《もと》といいなさるが、イヤそうやないといろいろ話をすると、お前さんも両親に早う死別れて、兄親やで、本人さえ承知したらということやで、私がお前さんを呼んで話をした。その時お前さんはなんと言うた。小父さん何分よろしゅうお頼み申しますと言うたこと覚えているやろな、よもや忘れはせんやろな。  そこで話がまとまって結納まで取り交わして、私が媒酌人で吉日を選んでさて婚礼となった当日、日が暮れたらお前さんの姿が見えん、風呂へでも行ったんかいなア、と思うて風呂屋へ探しに行ったがおらん、床屋へ行ったがおらん、そうこうするうちに九時が鳴った、十時が過ぎた、十一時十二時も回った、一時になっても姿が見えん、とうとう夜の明けるまで、雑穀八とお前さんとこの家の間を、私は何べん行ったり来たりしたか分からん。あの時ばかりは足が棒のようになったで、鶴さん。八兵衛さんは怒る。うちの養子は舛屋さん、どうなったんだすと極めつけられる。娘は娘で、初めての殿御に嫌われたのやで死んでしまうというし、私はあの時ほど困ったことはない。侍やったら腹を切って申し訳をせんならん、マアマア私が行き届かなんださかいにと謝って、後で何とか話をつけると一時は納めた。八兵衛はんは納まったが、収まらんのがお糸さん、それから、ぶらぶら病い、ほかの養子をというてもいやという。役者はどうやというと、役者は顔が青白いのでいやや、浄瑠璃語りは咽喉が太い、仁輪加《にわか》師は面白い顔やし、噺家はチャリ顔や、どれも娘の気にいらん。ある日天王寺さんへ参詣して一心寺のとこまで来ると、そこに桶を担げて通った小便汲みが、お前さんに瓜二つというほどよう似た男や。それを見ると、お糸さんが鶴さんによう似てるというたので、後をつけて行くと猪飼野の百姓で相当な家の次男じゃ。人をもって話をすると先方も早速承知をして養子に来た。  初めの間はおとなしかったが、そのうちに町内の参会に八兵衛はんの代理に行った、茶屋酒を覚えた、面白うなった、お糸さんがなんぼ綺麗でも、また色町に出てる女はどこか違う。繁々と通いかけた、同じとこは面白ない、今日は北の新地、明日は堀江、新町と遊び回った。金を湯水のように使うので、それがために雑穀八さんはそれを苦にしてコロリと死んだ、つづいて内儀さんも後を追うという始末、養子は両親が死んだので、後は恐い者がないので、日夜放蕩三昧、とうとう家は家質に入れる。何から何まで人手に渡ってしまう、金がなくなった、ぼちぼち安ものを買う、病気が伝染《うつ》って、とうとう梅毒が出る、腫れ物は身体一面できる、膿《うみ》が流れるという有様。  仕方がないので、町内へ奉加帳《ほうがちょう》を回して〔寄付金をあつめ〕金を集めて四国詣りをさした。途中で死んでくれればよいのに、またノコノコと帰って来た。夫婦の情で一晩寝たが、その病気をお糸さんに伝染《うつ》しておいてそのまま養子は死んだ。そのとき葬式の費用を私が出した。死んで行た者はそれでええが、可哀想に今小町といわれた評判娘のお糸さんも病気のために頭の毛が脱けて、ちゃぼのような実に見る影もない有様、今は磯家裏の奥の端で、二畳敷きの納屋同然のとこで、畳というたらええけども、たたというたら、≪み≫のない、芯が出てる、着物は単物《ひとえもの》に袷《あわせ》と綿入れと帷子《かたびら》と四季の着物を一ぺんに着てる。肩が袷で背中が単物で腰のとこが破れて帷子のつぎが当たって裾《すそ》が綿入れになってある。欠けた行平《ゆきひら》〔質素ななべ〕でお粥《かゆ》をすするのがどうなりこうなりという有様や。あの時にお前さえ養子に行てくれたら、雑穀八の家はつぶれはせぬのじゃ、お前がつぶしたというのが無理か。なんじゃ、えらそうに禿茶瓶やなんて、私じゃとて、何もすき好んで暇にあかして一本一本抜いたわけじゃなし、歳がいけば勝手に抜けるんじゃ、老いぼれもしますわい、何じゃえらそうに、江戸弁を使うて、啖呵を切って、どうや、グッとでもいうてみい」 「イヤごもっともで、あの節私は養子にやってもらうつもりでおりましたが、友達の申しますには、小糠《こぬか》三合あったら養子に行くなとのたとえのとおり、身代をふやしたところで、先方は以前からあるねというし、またなくしたら養子が使うたといわれるし、養子ほどつまらんものはない、お前も男やないか、立派に嬶《かかあ》をもろうたらどうやと言われましたので、急に嫌になりまして、以前の身代にはならずとも、せめて一軒の店でも出しましたら世間の人は何と言いましょう」 「そら、そうなったら世間の人はお前さんを褒めますがナ」 「ひとつ私を雑穀八の娘さんがいる磯家裏へ、養子にお世話願えますまいか」 「コレ鶴さん、お前さんも物好きな人じゃナ、以前と違うて美しいことはないで、先にもいうたとおり、病気で毛は脱けてずいぶんみにくいで」 「イヤそれは承知です。病気は癒して、毛の脱けたところは、青菜と米を食わして、日当たりのええとこへ囲います」 「まるで鶏じゃがな」 「あんたに先ほどからいわれてみますと私が悪うござりました。養子にお世話願います」 「ええ心掛けじゃ、鶴さん、そんなら、お糸さんに話して来る」と話をいたしますと、なにしろ惚れた男やもの否も応もない。 「こんな汚いとこでもよろしかったら」と、話が出来ました。 「小父さん、ここに三百円ござります、これは私が東京で世間のつき合いもし、食いたい物も食い、飲みたい物も飲んで残った金、この金は私が店の一つも出せるようになるまで、お預かりを願います」 「ハイよろしい、たしかに預かりました。あんたは感心な人じゃ、生き馬の眼でも抜くという東京で三百円の金を残して来るとはえらい人じゃ。それでは鶴さん、雑穀八の家を興《おこ》してやっとくれ、頼みます」  これから鶴さんは、養子になって働くの働かんのやない、夜の目も寝んと働きます。朝は暗いうちから起きて市中を歩いて紙屑や縄屑を拾い、紙屑は屑の問屋へ売る。縄は細かく切って左官への壁のスサに売る。夜が明けると漬物を売りに行く、帰ると昆布巻きを売りに行く、昼前には「とうふ」、昼すぎになると「しがらき餅」、夕方には「刺身」、日が暮れると「うどんやィ、そばイヤウ」と夜泣うどんに出る。「河内瓢箪山辻占やでござい」。夜中になると町内の夜番に行く。一生懸命に働いて小金を残したので、舛屋さんを頼みまして小さな米屋の店を開きました。商売はなかなかうまいもので、勉強をいたしますのでよう売れます。舛屋へ預けました三百円をないものと思うて、堂島の相場へ手を出しました。運がよい、三百円張ると六百円になりました。六百円もう一つ張ると千二百円になった。何くそと張ると二千四百円になった。買うとドドッと上がる、上がったとこで売ると下がる、下がったとこでグッと買うと上がる。売ると下がる、買うと上がるで、しばらくの間にウンと財産が出来ました。前の養子が売った地所を買い戻しました。借家に仕切って住んでる人にもわけをいうて、立退料を出して出てもらいました。以前は蔵が三戸前のところを、五戸前にして、八間間口を十間間口に立派な家を建てまして、小そう仕切りまして雑穀が店の者の商売。こっちは自分の出生した商売米屋、店には米|搗《つ》き臼三十挺も並べて米搗き男が米を搗いております。声は一番、調子は二番、♪松のナ名所は播州でござる、ドスン、ドスン……。五十人からの家うちで鶴さんは、大店の主というような顔もせず、若い者と同じように着物は河内縞に厚司《あつし》を着まして、雲斎の前掛け、矢立てと手鉤を腰に差しまして頭は手拭でバイ巻にして働いております。 「横町の増田さんへすぐ五斗持って行き」 「竹内だす、一石持って来とくなはれ、お昼に炊くお米がおまへんね」 「ヘエ毎度有難うさんで、すぐ持たしてやります。オイ竹内さんへ一石持って行き」 「ごめん」 「ヘエー」 「二石じきに持って来とくなはれ」 「どなたさんで」 「裏町の小林だす」 「よろしゅうおます。毎度有難うさんで」また出入りの商人が沢山に参ります。 「ヘエ、今日は毎度どうも」 「どなた」 「ヘエ、大丸で」 「アア大丸か、うちの奴が待ってたで、奥にいる」奥では、お糸さん、いまでは病気も癒り髪も丸髷に結うて台所まわりの指図をしております。 「お家、今日は」 「どなた、大丸さんか、こないだ頼んでおいた旦那はんの羽織があったん」 「せんだってのはいかがで。ずいぶん渋い柄だすが、一|梱《こうり》の中でようよう一反ありましたのを持って参りましたのだすが」 「そうか、それならあれを仕立ててもらおうか、寸法を間違わんように。うちの旦那はんは東京に永らくいはったんやで、仕立てはずいぶんやかましいので、そのつもりで」 「ヘエ承知いたしました」 「ヘエ御寮人さん、今日は、毎度有難うさんで、小間物屋で」 「小間物屋はんか、こないだ注文しておいた、珊瑚珠の根掛けと簪《かんざし》は、まだ出来んのか」 「ヘエ、モウ二、三日お待ち願います。ほかにご注文はござりまへんか」 「アア、おために上げたいので頃合いの簪を五十ほど持って来といと」 「ヘエ有難うさんで、すぐ揃えて持って参ります、さよなら」 「魚喜よろし。今日は、大将。今日の鯛は活けだす、よう活かってます。大将に食べていただこうと思うて買うて来ました」 「そうか、置いといて、二枚におろして片身造って、片身塩焼きや、頭は潮煮にする、荒をこなしといて」 「ヘイ……お家今日は」 「魚喜さん、なんやね」 「ヘエ、旦那が上がりまんね、鯛を」 「アア今日は精進日やで、持て去んどくなアれ、また明日もらいます」 「アアさよか……」 「魚喜なんや、持って出て来たな、売れへんのか」 「イイエ、お家が今日は精進日やで持って帰れ、また明日もらうと」 「ええやないか、俺が食うね、だんない、持って入れ」 「アアさよか……」 「魚喜さん、また持って入って来てや、今日は先の仏の日や、精進やで、生臭い物がちらばるといかんので持って帰っとくれ、分からんのか」 「そら分からん。先の仏の日か知らんが、魚屋が過去帳を持って回って……。エヘン、持って帰ります」 「魚喜、また持って出て来た、ハハン分かった。今月は大分払いが多いのでお前さばいてるねナ」 「モシ大将、うだうだ言いなはんなや。お宅になんぼ掛けがあっても、そんなことにビクつく魚喜と違いまっせ。魚喜、魚で詰めとおっしゃったら、お家を魚で詰めまっせ」 「そんなら持って入りんか」 「持って入りますけども……」 「オオいや、また持って入って来てやったな。アア分かった。魚喜さん、あんた押し売りしてやんのやな、よろしい、その鯛置いときなはれ、その代わりに、毎月|朔日《ついたち》、十五日の焼き物はわたしが誂《あつら》えるのやで、ほかの魚屋に頼みます」 「そんなことをしられたら、さっぱりわやや、持って帰ります……」 「また持って出て来た」 「お家が、その鯛置いとくねやったら、朔日、十五日の焼き物はほかの魚屋へ誂えると」 「ええやないか、ほかの魚屋へ誂えてもらえ、銭は俺がお前に払うてやるがな」 「アアさよか、そら品物がいらずに銭がもらえる、これほど結構なことあれへん……」 「また入って来た、お清そこに煮え湯があったら、魚喜の頭から掛けなアれ」 「フワイ」 「魚喜どうした」 「頭から煮え湯を掛けると」 「あいつが言うたか」 「ヘエ、あいつが」 「お前があいつということがあるか、ヨシ持って入れ」 「イヤおきます。今度持って入ったら頭から煮え湯を掛けられますがナ」 「ええがナ」 「ナンノええことおますかいな、あんたはどうもないが、私は頭から煮え湯を掛けられたら、頭がずるずるに禿げてしまいます」 「俺がついて入ってやる、鯛を持って入れ」 「あんたがついて入っとくなアったらよろしいけどもナ、私一人やったら……」 「魚喜、何をしてるのや」 「あんまり鯛の頭へ手鉤を打ったんで、頭がグジャグジャになって手鉤が打てまへん」 「提げて入れ」 「また入って来たわ」 「オイ、お糸」 「旦さん」 「旦さんやない、俺が鯛を食うので魚喜に持って入らしたんや、俺は全体ここの何や」 「あんたはんは、ご主人でございます」 「主人やナ、まさか奉公人やないナ、その俺が食うのに食わさんのか、俺の口をひじめるのんか」 「イエそうやござりません。あんたはんはご存じござりまへんが、今日は先の仏の精進日でござりますので、さように申しました」 「ナニ先の仏の精進日と誰が決めた、先の仏、先の仏というが、先の仏になんぼの恩があるね、身代は潰されて、磯家裏の奥の端で欠けた行平でお粥をすすったんは、みな、先の仏のおかげやないか、頭の毛が抜けて鶏の尻みたいになったん忘れたのか、米の飯がてっぺんへ上ってるというのは貴様のことじゃ、ドすべた奴」 「何もそないに他人さんの前で、わたしの恥を言わいでもよろしいがな、わたしの方から来てくれというたわけやなし、あんたの方から酔狂で養子にお越しなはったのに」 「ナニオ、洒落たことを吐かしたな、生意気な」 「サア、どうなとしなされ」 「オウ……してやらいでかい」 「モシ旦那、そんなことをしたらいかん、お家あぶない、ちょっとどなたぞ来とくなアれ、痛い、これは私の頭や、お店のお方、私の荷を見てとくなアれ、赤犬が来てる、それ鰆《さわら》をくわえて行たがな……ヨシお家、貴女《あんた》もいかん、あんまり先の仏、先の仏というよってに、今の仏の気にさわったんや」 「何が今の仏や」 「そうやそうや、まだ仏になってエへんね」 「今日は休みや、店の者、表を閉めてしまえ」  鶴の一声、バタバタと店を片付けてしまいました。 「魚喜、浜にある魚買うて来い」  魚喜はどんどん魚を運びます。そうなるとお家も負けぬ気で、 「お清、横町の八百善へ行てすぐに来てもろうとくれ」  女中が飛び出しますと、八百善が参りました。 「お家、今日は」 「オオ八百善さんか、精進料理百人前さっそくこしらえとくれ」 「かしこまりました」  精進物をドンドン運び出した。台所では鯛の鱗をふきだしよった。横町で八百屋はかんてきに火をして昆布だしを出しております。 「オイ八百屋、鯛の頭をだしに入れたろか」 「コラそんな無茶をするな、何をしやがるね」  魚屋と八百屋が喧嘩が出来てます。 「オイお宮さんへ行て神主を呼んで来い」 「お寺へ行って和尚さんに来てもろうとくれ」  しばらくすると神官が二十人ほど参りました。後へお寺から御出家が二十人ほど参りました。神官がのりとを、高天原に神……拝み出します。御出家はまた、チーン、帰命無量寿如来……と拝みだしました。お勤めが済みますと、みなの者が奥へ通りまして、これから酒肴が出まして腹一ぱい食べました。次の間へ参りますと、お精進でお家が、 「サアサア皆さん、どうぞ遠慮せんと充分食べとくなはれや」 「お家、皆の者が充分戴きました」 「サアサア、お汁をお替えやす」 「モウ結構で、エウ、お腹一ぱい戴きました。エーウ……。ナアオイ、先が魚でご馳走やのに、後で精進やと食えんな、エーウ」 「ほんまに、エーウ、この菓子碗が、エーウ鬼のように見える、エーウ」 「オイ、今からそんなこと言うていてどうするね、来月は、お家の帯の祝いやで、またよばれんならんで」 「私は帯の祝いと聞いただけで、お腹が大きゅうなった」 [別名「先《せん》の仏」ともいう] [#改ページ] 佐々木|裁《さば》き  エエ一席お邪魔を致します。よく只今と昔と変わりがあると申しますが、とりわけ、目に立って変わりましたのが、交通風俗、いま一つは公判廷。  昔の御奉行所時代とはよほど、相違があるようで、江戸は旗本八万騎と申しまして、旗本が沢山おいでになります。中から、八十人怜悧な人を抜き取り、八十人から八人、八人から一人と洗い揚げて、奉行というお職におつきになります。してみると、頓智のすぐれたお方がおいでになりましたに違いないようです。  その奉行の中で、一番務めにくかったのが京都。京の奉行はまことに務めにくかったそうで、なにしろ、宮家どころで御所がお近いので、わずかのことでも御所の方、または公卿《くげ》衆の方から、槍を入れられるので、腕のにぶいお奉行様は、京都では、往々、泣かされたと申します。  只今も残っております八瀬《はつせ》の里、昔は、お公卿様のお子様が、お育ちがお弱いと八瀬の里へ預けましたので、無事に育つとか達者で育つとか申しまして、また、大阪京都あたりでも、大家では、お子様が弱いと、いまだに八瀬の里へお預けになるようで。なんぼか、養育料を出しまして、いまだに里子にやると、通言が残っております。この八瀬のご亭主が妙な習慣で、名前を呼びませんところで、自分の生まれました故郷、国所《くにどころ》を名前のように呼び伝えます。ちょっと聞くと、おかしいようで……。 「ヤア、伊勢」 「何じゃ美濃」 「オイ、おのれ俺のことを美濃やというが」 「美濃やないかい」 「美濃には違いないがなア、俺ら、こないだから思うてるのや。何じゃ、伊勢やとか、大和やとか、乞食がこんな呼び方をしているぞ、仮にも、お公卿様のお子様を、お預かりしてお乳をあげようというのに乞食と同じような名前ではおかしいやないかい、お奉行様へ願をあげて、守名《かみな》を許してもらおやないかい、伊勢なら、伊勢の守、丹波なら丹波の守、そしたら、大名と同じように聞こえるやないかい」 「これはよかろ」……と願書にしたためて、恐れながらと願いを上げました。この時のお奉行様、困ったそうで、見ると守名を許してくれとある。ならぬといって、ポーンと蹴ると、公卿の方へ突っ込まれる、というように、京の奉行はまことに務めにくいらしい。というてわずかのこれぐらいのことを、江戸うかがいというわけにもいかず、追って沙汰を致すると、その日はお下げ渡し、日がたって、お呼び出し。 「八瀬の里、一同出ましたか」 「ヘエ、恐れながら、一同控えましてござります」 「願書のおもむき、守名《かみな》を許してくれとあるが、しかとさようか」 「ヘエ、恐れながら、守名を許していただきとう存じます」 「願いのおもむき、たしかに承知致した……が、のの字を付けることはならんぞ」 「イエ、のの字も、何にもいりませんので、守名さえ許してもらえばよろしゅうござります」 「守名のみならば、許してつかわす、かならず、のの字は付けるな」 「有難う存じます」 「どうや、願うてみんならんもんやろ、下がったがなア」 「うれしいなア、俺は今日から丹波の守やなア」 「オット、のの字はいかんというてたぞ」 「ヘーエ、そんなら丹波がみ、オイこら、具合が悪いぞ」 「オイ、俺は今日から、美濃の守やぞ」 「オイ、のの字はいかんのやぞ」 「そんなら、美濃がみ」 「障子紙みたいなぞ」  これは、いかんというのでお返しをしたといいますから、お奉行様なぞは、頓智の勝れた方がおいでになったようで。その奉行の下を働く手先、俗に岡っ引き、これがある時、願いを上げた。十手、お捕縄《とりなわ》だけでは、大賊に出会った時に困るから、両刀を許してくれと願いを上げました。昔は町人でも一本差し、岡っ引きは、もとより町人、その上、十手捕縄が下がりおりますだけ、相手の泥棒は、何に化けて来るやも分かりませんから、二本差しにさしてほしい。二本差せば士分、武士も同じ、と……この時、お奉行様、交代前で、許してご出発になりました。すると、替わりのお奉行様がござりましてお目見得で、与力同心衆ははるか、末座に岡っ引きが長い刀を脇に置いて控えております。 「ありゃ何じゃ」 「恐れながら申し上げます、手先にござります」 「手先……両刀たばさみおるようじゃが」 「恐れながら申し上げます、前奉行和泉守様に許して頂きましてござります、なにとぞ大刀お許しのほど願わしゅう存じます」 「オウ、前奉行、和泉殿が許されたか、知らぬじゃった、許せ……。前奉行許されたとあらば、この方も許そう、もう一本差してくれ」  こりゃどうも具合が悪いようで。俗に二本差し、二本で形がとれるので、一本増えて三本となると妙なものが出来ます。刀を三本差して威張っているのは「車引」の梅王だけでして、刀が三本だけで済めばよろしいが、お奉行様はたびたび交代なさる、交代した奉行が、余も一本ときた日にゃ、しまいには刀で腰の回りを、取り巻いてしまうことになる。これでは、いかんというのでお返しして、もとの一本差しになったと申しますから、許してご出発になったお奉行様もお偉いが、次のお奉行様も頓智が偉かったと申します。  すべて裁きは大岡に取られ、太閤は秀吉に取られ……祖師は日蓮に取られ、大師は弘法に取られ、月掛けの頼母子《たのもし》は落語家に取られ……イヤ、さよなことはござりませんけれども、大師さんにも伝教大師、見真大師、また達磨大師など、大師も沢山にござります。達磨大師など、煙草屋の看板に雇われたり、手品の道具に使われますようなお仁がありますが、空海上人、弘法大師と決まっているようなことで、それで太閤と申したら、豊臣殿下に限るように申します。これもこのお仁にお徳がござりましたからで、裁きは大岡裁判、日本三明智の中の一つでござります。  あまた裁判もござりまするが、すべて裁き物は大岡に限りますので、ごもくでも大岡でさばける……イヤ、それは大川です。この大岡様は、なぜあのように裁判が巧かったかと申しますると、以前はこの奉行所に与力同心がついておりまして、この与力というものは、大坂で申しますと、天満与力同心衆、江戸表では八丁堀の与力同心衆。これはどのくらいの格かと申しますと、まず七十石から八十石くらいの格でござります。が、屋敷の暮らしを見ますと、一万石以上の大名よりもええ暮らしを致しておりました。  なぜそういうことが出来るであろうかと申しますと、昔は袖の下、賄賂《わいろ》というものが行われました。まずこの笠の台を飛ばされる〔斬首にあう〕者でも、当今で見れば、死刑といえばよほど重うござります、が、昔は人の首を斬るのを、菜や大根を切るように思うておったもので、まず只今の十銭、昔の二朱、この金でも封印を切る〔くすねる〕と、笠の台を飛ばされたもので、憐れなものでござりました。そこでお掛かりの与力衆に懇意な者に頼みまして、お菓子の折の下に金を敷いて参りまする。当今なら紙幣でござりますけれども、その昔は正金《しょうきん》でござりました。で、下に金を敷き、上に金平糖などを入れて、お茶菓子といって持って出ますと、ちょっと持ってみたら、アア、こりゃ金の重みであるということが分かるのです。そこでこの度の事件はこうして下さいと頼み込みますと、直《ちょく》なる者も曲《きょく》におとし、曲なる者も直にし、与力同心の腹でもって、天下の政道が枉《ま》げられたもので、まことに不都合な次第でござりました。  が、当今は有難いことには、さようなことは毛頭ござりません。昔はこれがよく流行ったもので、そこで大岡様というお仁《ひと》は、与力同心にその調べをまかしません、もしお任せになって、このようなことですと、天下の政道を枉げて圧制を行うようなことになる、そこで小さな事件でも、ご自身自らお裁きになったもので、大岡裁判という小説には、畳屋三右衛門の一両損、また姦通猫裁き、白木綿裁きなど申して、これはいちいち申し上げるまでもなく、皆様方ご案内のことと存じます。それで大岡さんというお仁《ひと》は、かくご熱心であったから、お名が高かったのでござります。  大大岡様に続いてのお奉行というのは、遠山様と申して、これは吉原の廓《くるわ》を伝法肌でお歩きになったお仁《ひと》で、続きまして、根岸九十郎様の御子息肥前守様、この方は芝居で演《や》りますと倶利迦羅《くりから》の白太郎と申し、これは菰《こも》までかぶりなすったお仁でございます。維新後でございますと、あの大津の松田様というようなお仁は、なかなか面白いお裁きをなすったお仁でございます。ところが嘉永年間に大坂西町奉行に、お座りになりました佐々木信濃守。大坂与力同心が、賄賂を取り過ぎて困る。意見の一つもと思うてござる矢先へ、大坂へ交代。来るには来ましたが土地の勝手が分かりません。与力同心を意見しに来ながら、その与力同心に土地の案内をさすわけには参りませんので、毎日、町をお忍びでお歩きになります。  ある時は、百姓または町人、あるいは職人。今日も田舎武士というこしらえ、小紋のお羽織、家来を一人お連れになりまして、お役宅をお出ましになりまして、すぐ浜通りを南へ、末吉橋付近まで参りますと、只今の学校帰り、その頃の寺子屋戻り、八つ下がりと申しますから只今の午後二時過ぎ、七、八歳から十二、三の子供が七、八人、中で二人が荒縄で手を縛られております。縄の端を持って、竹切れを十手の心持ちで「ホーホ、ホホ」手先の真似。お奉行様、御覧になり、 「三造、いかが致した。子供を荒縄で結《ゆわ》えおるようじゃ」 「一応取り調べまして」 「イヤ、所が変われば遊びも変わる。上方では、かような遊びが流行るのじゃろう。何を致すか、ついて参れ」  お奉行様が後から、ついて参りますことを、子供は存じません。末吉橋を渡ると安綿橋、南詰めが住友様の浜のとこ、以前は一面、高塀になっておりました。浜に材木が沢山積んであります。その間から茣座《ござ》を二枚出して、「下に居れ」。材木の端へ子供が手をつかえ「シイー」と制止の声を掛けますと、うしろから出ましたのが、年は十二、三、寺子屋戻りで、顔は墨で真っ黒、月代《さかやき》をのばした、悪戯ざかりの子供。 「両名の者、頭を上げ。道路において口論の上、しかのみならず、喧嘩を致す、喧嘩の始まり申し上げい。かく申すは、大坂西町奉行、佐々木信濃守、つぶさにうけたまわる」 「三造、三造聞いたか、あの奉行は、佐々木信濃守じゃと申す、ハハハハハ、予と同姓じゃのう」 「子供の戯れとは申しながら、あまりの振舞い、一応取り調べて」 「イヤ、子供の戯れごとじゃ、捨て置け、捨て置け」  お奉行様、ご覧になっておりますと、竹を持った子供が、 「コレコレ往来に立っている侍、吟味の邪魔じゃ。脇によって控えておれ」  ひどい奴があるもので、お奉行さんを竹で追うている。 「顔《おもて》を上げい、何故に口論いたしたか」 「恐れながら申し上げます、私、町内で物知り物知りと申しますけど、物、知りませぬので。そうするとこの菊松という子供が、物知りなら尋ねるが、一ツから十までツがあるか、ないかと申します、ツがあるか、ないか、そんなことは知らんといいましたら、知らんくせに物知りなんて言うな、と、申したのが喧嘩の始めだす、お役人のお目に掛かりましてかくの次第、何分ご憐憫をもちまして」 「菊松とやら、尋ねたか」 「ヘエ、あまり物知り顔して、威張りますさかい、一本突っ込んでやったのだす」 「今日は差し許す。以後、喧嘩いたしては相成らんぞ、下役の者、両名の縄を解いてやれ」 「有難う存じます、お奉行様まで、ちょっとお尋ね致します、一ツから十までにツがあるものでございますか、ないものでございますか」 「一ツから十までツが揃うているわい」 「それでも十ツとは申しゃ致しません」 「十ツとはいわぬが、一ツから十までのうち一つ盗んでいるものがあろう……分からぬか、一ツ二ツ三ツ四ツ五ツツ、五ツツのツを取って、十につければ、十ながらツが揃うておるわい」 「恐れ入りましてござります」 「道路において、口論の上、しかのみならず、喧嘩を致し、上《かみ》、多用のみぎり、手数を掛くる段不届きの至り。重き刑にも行うべきところ、格別のご憐憫をもって差し許す。以後、喧嘩、口論いたせば、きっと、糾明申し付ける、そのむね、心得て立ちませい」  脇でこれを聞いておいでになりました佐々木様、 「コレ、三造三造、ほかの子供は、かまわぬが、あの奉行役をした子供、親あらばもろとも、もっとも町役付添い、西役所まで、即刻出るように」 「ヤアーお奉行さんは四郎やんが一番うまいわ、明日から奉行あんたに決めとくわなア、さようなら」  さようなら……、さようなら……。さようなら……。  バラバラ左右へ別れて帰りました。佐々木のご家来、見失わぬようにと、後をつけて参りますと、子供というものは、真っ直ぐに帰らぬもので、あっちへ寄ったり、脇見をしたり、佐々木のご家来、ウロウロして「なんじゃ、ここの子供でもないのか。また出たな」ようよう帰って参りましたのが、松屋表町、桶屋の伜《せがれ》で親父は一生懸命仕事をしています。 「早よ、帰れやイ、早よ。遊びに出さんとはいわんに、いったん帰ってから遊びに出い、コレ、遊ぶのもええが、子供らしい遊びをせいよ、お番所などしてみたり、盗人などしてみたり、ちょっと、ええ役さしてもらわんかい。盗人役ばっかりされたり、表を縛られて歩きやがって、みっともないがなア、その上に竹で、尻をピュウピュウたたかれたり、尻が紫色に腫れ上がっているがなア、親は夜どおし、さすってやっているのが分からんのか」 「イヤ、お父っつあん、いろいろ苦労かけて済まん、けどマア、安心して俺も今日から、奉行とまで出世した」 「阿呆なこというない」 「あれ、皆、東さんでやるのやけど、東のお奉行さん、大根で、評判が悪いさかい、わいら西でやってやった、今度、江戸から出て来よった佐々木信濃守」 「コレコレ、店の端でそんなこというてたら、あかん、今度の西のお奉行様は至って怖い人や」 「アハ、許せ」 「ヒエー」 「この子供は、手前方の子供か、身は西町奉行佐々木信濃守の家来じゃ」 「それそれ、いわんことやないがな、あの、どんな粗忽《そこつ》を致しましたか存じませんが、相手は子供のことでございますので」 「この町名は何と申す、なに、松屋表町か、その方は」 「高田屋綱五郎と申します」 「伜は」 「四郎吉と申します」 「年齢は」 「四十六でございます」 「たわけめ、小児の年齢じゃ」 「十三でございます」 「その方付添い、町役付添い、西役所まで、即刻出るように、町役へはこの方が申し付けおく、よいの」  町には自身番会所というものがござりました。それへ言いおいてお立ちになりますと、町内はひっくり返るような騒ぎ。 「旦那様、ご苦労さん」 「なにかい喜助、この辺の子供は、そんなことして遊ぶのかい」 「なんぼ言うても、聞いてくれやしまへん。ことに、桶屋の息子ときた日にゃ、私らのいうこと、馬鹿にしてしまいます」 「どなたも、ご苦労さん」 「フーン旦那、お聞きやしたか、あのとおりですやろう、大きい者が心配してても、肝心の本人はゲラゲラと笑うて。御用の多いとこをご苦労さん、葬式でも頼まれてるような気でいるのですさかいなア」 「コレ四郎さん、お前、またお奉行さんごとをしてたのやないかい」 「ヘエ、住友さんの浜のとこで」 「難儀やなア、子供らしい遊びをしてくれりゃええのに、誰も見ていやへなんだか」 「小紋の羽織を着た武士《さむらい》が見てました」 「お武士、その着てた羽織に紋でも、ついてやへんかえ、気がつかなんだか」 「ヘエ、四ツ目の紋がついてました」 「ヘエ……ヒエ、四ツ目……佐々木さんでやす、イイエ……油断がならんのでおます、近ごろ町をお忍びでお歩きになりますさかい、コレ四郎やん、なんぞ粗忽でもしたのやないか」 「私は何も、しやしまへん、けど、木屋の友吉どんが往来に立っている武士、吟味の邪魔じゃ、脇へよっとれちゅうて、竹で追うてました」 「それは、何をしやがるのや、お奉行さんを竹で追う奴があるかい」 「あたい、知りまへんがなア、ありゃ下役の方の係でやす」 「なんの、下役の奴も糞もあるものかい」 「コリャ、えらいことをしたで、この祟《たた》りに違いない。オイ綱やん、コリャ四郎やん無事で戻れんで」  父親はじめ町内一同、真っ青になりました。そのまま多勢で参ります。本町橋の東詰め、只今の商品陳列所、あれが西の町奉行所。東町奉行所は、只今の衛戍病院のところ、あれが東の町奉行所になっております。今の商品陳列所は、松屋町通りに表門がありますが、奉行時代には浜通りが表門で、松屋町通りは、只今の官舎同様で、お役宅と申しまして、奉行の住居になっておりました。商品陳列所の北寄りから、浜通りへかけまして、折れ曲がって牢屋敷になっておりました。浜の方に溜《たまり》があります。これへ、お呼び出しのあるまで、控えております。ほかの掛りの者は呼び出されて、ずんずん調べを受けて帰りますが、この松屋表町桶屋の者だけがいつまで待ってもお呼び出しがない。そうすると、その頃、役所の退出は、只今の四時過ぎには天満与力がお帰りになります。巻き羽織に黒足袋、雪駄ばき、役所の都合で遅くなりますと、中間《ちゅうげん》に提灯を持たせてお退出ですが、この時の提灯には御用という字が入っておりません。捕物のほかは御用提灯は使わなんだものやそうです。役所退けの時、左巻きの紋のついた提灯で、そのころ、左巻きの提灯を見ると、ソラ、天満与力が来たと、皆、震え上がったほど、見識のあったものです。この日に限って与力衆が一人も下がって参りません。そのうち、小さい窓からお呼び出し。 「松屋表町、高田屋綱五郎、町役一同、出ろ出ろ出ろ出ろ」  ぞろぞろ一同、町役の者は役所の勝手を存じておりますから、こういうことはどこで調べる、こういうことは目安方で調べる、とは分かっておりますので、子供の粗忽だから、目安方だと思うてその方へ行きかけると、 「オオ……違う違う」 「どちらで」 「お白洲じゃ」 「ヘエ……お白洲」  お白洲と申しますと、お奉行様、直き直きにお調べになるところ、子供の粗忽ぐらいで、お白洲とは、と思いながらもそのまま白洲へ参ります。 「コラコラ、待て待て、貴様、なんだ、家主か。下げ物はならんぞ」 「ヘエー化物が出ますか」 「下げ物はならんのじゃ」 「化物はならんので」 「いいや、下げ物は……分からん奴じゃなア。煙草入れはなんと申すのじゃ、貴様は何じゃ、町役か。袴がふくろべているぞ、貴様は高田屋か、胸を合わせ、胸を合わせ、胸を、胸があいてるぞ貴様、鼻をかめ、涎《よだれ》を垂らすな」  この人、怒ってばかりいて、月給をもらっている商売、ええ商売があるもので、そのまま一同白洲へ参ります。と、下は一面の砂利、筵《むしろ》が二枚敷いてあります。それへ控えておりますと、正面が稲妻形のお唐紙《からかみ》、お衝立、与力同心衆が左右へ居揃います。役所へ初めて参りました高田屋、そのほかの者は、こんなものかと思うておりますが、町役なぞは、オホ、今日は何事や知らん。こないに与力や同心衆が奉行と並ぶことはありませんので、びっくりしております。 「シーシー」  制止の声もろとも、お出ましになりました佐々木様、袖の紋服、嘉平次平のお袴、赤ら顔の、体の小さいお方で、ピタリとご着座。 「松屋表町、高田屋綱五郎、町役出ましたか」 「恐れながら、控えましてございます」 「四郎吉、頭を上げい、オオ……その方じゃ、予の顔を見覚えあろうのう」 「ヤア……さっき住友さんの浜で、立ってた武士やなア」 「ウム、先ほどは吟味の邪魔を致して済まんのう」 「イーエ、どう致しまして、これからも、あることで、以後気をつけてもらいます」 「そんなことをいうな」 「ハハハハ、至らぬ奴が多いので、上に苦労の絶える間がないのう……」 「ヘエ、ご同様に事務多忙です」 「そんなこというない」 「道路において口論の上、しかのみならず、喧嘩いたし、上多用のみぎり手数を掛くる段、不届きの至り、重き刑にも行うべきところ、格別のご憐憫をもって差し許す。以後、喧嘩口論いたせば、きっと糾明申し付けるものなり、そのむね、心得て立ちませい、と申したのが、裁きの終わりのようじゃのウ」 「ヘエそうだす」 「ああいうことは、寺子屋で教えるか」 「あんなこと、寺子屋で教えますもんかいなア」 「しからば、本の端くれにでも書いてあったのか」 「阿呆らしい、本にも何にも書いてあらしまへん、あんな、遊び方見られたら、一ぺんに怒られます。けどなア、きのうまで、盗人ばっかりさしよった、盗人やったら、縛られたり、たたかれたり、痛うてしようがおまへんさかい、私も一ぺんお奉行さん、さしてくれんかいうたらな、奉行さんは頓智がいる、どんな無理なことでも、即座に裁きが出来なあかんちゅうので、ほんなら一ぺんやってみよかちゅうて、初めて、今日、あたいがやりました、今日のあたいの頓智だす」 「即決か、よくあれだけの難題を即座に裁きがとれるのウ」 「そら何でもないことだす、高いところへ上って、ポンポンいうて睨んで威張ってますのや、どんな裁きでもとれます、高いとこから威張っているばっかりで、裁きの出来んお奉行さんが大坂へ来たら、大坂は暗闇やないか」  お奉行さんに赤い顔をさしよった。 「しからば、予の尋ねること、いかようなことでも、返答いたすか」 「ヘエーどんなことでもいいます。けどなア、あんたはそんなとこで威張ってなはるし、私は砂利の上でお辞儀してるし、返事しようと思うたかて、位負けで返事がつまってしまいます。あんたと同じとこへ座らしておくなはったら、どんなことでもいいます」 「ウム、可愛いやつ、許す近う進め」 「ほんなら御免」 「ちょっと、喜助はん、伜を掴まえとくなはれ。伜は気が違うて、お奉行さんのそばへ行きます」 「許しが出たからよいのじゃ。捨て置け捨て置け」 「イエー、そやけど、子供のことで、粗忽いたしましたら申し訳がございません」 「よいと申すに、くどい、控えておれ」  可哀想に親父は、叩かれてお辞儀をしておりまするあいだに、子供はツカツカと遠慮もなくお奉行さんのそばへ、ピタリと座りました。ジーイと顔を見た佐々木様、利口そうな子供じゃと、見ておいでになります。 「四郎吉、夜に入ると星が出るのう」 「ヘエー、お星さんなら、夜やのうても、昼間でも出ます。けど、おてんとさんのお照らしが強いので、われわれの眼にはいらんのです」 「ウム……」  お奉行さん、初めに負けておしまいになりました。 「あの星の数は幾つあるものか、存じおるか」 「ヘエー、……このお白洲の砂利の数は幾つあるか、知ってなはるか」 「白洲の砂利の数が分かろうはずがない」 「それ、御覧じませ。手に取って見られるものでも分からんのに、手の届かぬ天の星の数、そんな物は分かるはずがないやござりまへんか」 「フーン、こら妙じゃ」 「これが、頓智頓妙で」 「しからばその方、天へ上って星の数を調べて参れ、余はその間に砂利の数を調べておこう」 「ヘエー天へ上りまんのか。かしこまりました、しかし初めて参りますとこで、道の勝手を存じまへんさかい、道案内のお方を一人と、往来切手をお下げ渡しを願います」 「イヤ、こりゃ妙じゃ」 「これも頓智頓妙だす」 「ウム、頓智頓妙、申しつけたる品これへ」  と、三方へお饅頭を山のように盛ってご家来が四郎吉の前へ持って参りました。 「四郎吉、遣《つか》わす、食《しょく》せ」 「これ私《あたい》、もらいまんのか。ほんなら、よばれます。イヤーこら上等やなア、白餡《しろあん》やなア。お父さんがいつもなア、虎屋の饅頭買うて帰ってくれます、そやけど、この方が上等や」 「ホウ、父は饅頭をくれるか。母は何をくれるな」 「お母さん、何もくれしまへん、ときどき小言くれます」 「土産をくれる父、小言を申す母、父母のうち、どちらがよい、またどちらが好きじゃと思う」 「こう、二ツに割った饅頭、どっちの方が、おいしいと思いなはる」 「イヤー、こりゃ妙じゃ」 「こんなことくらい、なんでもないことや。誰ぞ茶一ぱい汲んでんか」 「茶を取らせ、取らせ」 「ハアーおかしいなア、お菓子やらは高坏《たかつき》の上へのせてくるのに三方の上へのせてある」 「四方ある物を三方とは異じゃのう」 「ほんなら、ここらにいる武士、一人で与力というやないか」 「フーン、妙。しからば、与力のついでに尋ぬるが、アア与力の身分はどういうものじゃ、存じておるか」 「ヘエー」  しばらく、考えておりましたが、袂《たもと》から起き上がりこぼしの達磨を出して、向こうへほりました。 「あのとおりでおます」 「あのとおりとは」 「身分の軽いもので、お上様のご威光を頭に頂いてピンシャンピンシャンと、はね返っております。そやけど、どれもこれも、腰のない奴ばっかりだす」  ひどいことを言い出しました。佐々木さん笑いながら、 「フーンいかにも、与力の身分は相分かったが、与力の心意気は、どういうものか存じいるか」  また、しばらく考えておりましたが、 「だれか天保銭一枚お頼み申します」  懐中から紙を一枚出して観世よりをこしらえ、達磨の頭へ結わえて、ヨイと向こうへなげますと、こんどは銭がついてますので達磨さん、立たずに横にコロリと寝ております。 「イヤ、あのとおりだす」 「あのとおりとは」 「とかく金のある方へ傾くわ」  えらいことをいうて賄賂、マイナイを素っ破抜いてしまいました。与力同心衆、えらいことを言いよる、余計なことを喋るなアとうつむいてござる。一方にはそう怪しい与力衆ばかりでもございません。中には大塩さんのような与力衆もござります。この小僧、にくにくしい奴じゃと、睨みつけてござる。佐々木様は、それ見ろ、わずか十五歳に足らぬ子供ですらこれくらいのことを申す。汝ら、賄賂、まいないを取るゆえに民百姓はどのくらい、困りおろうぞ。ジッと睨み回される。と、与力衆、震え上がるような顔つき。 「四郎吉、以後、さようなことを申してはならんぞ」 「お尋ねになったので、言うただけで、座興だす」 「座興座興、コレ四郎吉。あの衝立ての仙人、なにか囁き噺を致しておる。何を申しているか聞いて参れ」 「ヘエー聞いて参りました」 「何と申しておった」 「佐々木信濃守は阿呆やと申しておりました」 「なにゆえ、馬鹿と申した」 「画に描いたものが、もの言いそうなことがない、それを聞いてこいというのやさかい、佐々木信濃守、阿呆や」 「イヤ、こりゃ妙じゃ、高田屋綱五郎。さてさてよい伜を持ったの」 「何じゃ、さっぱり訳が分かりまへん」 「四郎吉、十五歳にならば、予が近習《きんじゅう》に取り立て得さす、それまで四郎吉に学問を勉強させ、心して育てくれよ。町役一同、四郎吉に目を掛け、養育致しくれよ」  高田屋はじめ町役一同、どんなお叱りを受けるかと心配いたしておりましたが、一足飛びに士分に出世、死んだ者がよみがえったような喜び。 「四郎吉、今日よりは余の家来じゃぞ、武士じゃぞよ」 「イヤー今日から武士やなア、それで名大将の名前が出来ました」 「名大将の名前とは」 「あんたが佐々木さんで、お父さんが高田屋綱五郎で、私が四郎吉、合わせて佐々木四郎高綱」 「フーン、佐々木四郎高綱とは予が先祖じゃ。四郎吉、その方も源家か」 「イーエ、私は平家(平気)でおます」 [#改ページ] 猿後家《さるごけ》  エエ今回は猿後家というお話を一席申し上げます。春は長閑《のどか》で人の気は陽気で八方へお出ましになる。それをまた路傍《みちばた》に立って評をして楽しんでいる人がござります。 「日和《ひより》がええのでぎょうさんの人が出るなア」 「ソラお前、この頃は猫でも屋根伝いに遊びに出る、人間で出ぬのは病人ばっかりじゃ」 「ケドお前や私は病人でもないのにどこへも行かんのは、これはどういう訳や」 「懐中《ふところ》にお銭《あし》がないのでどこへも行けんのじゃ」 「オオ心細いなア……スルトあの人らは皆遊びに行く人ばっかりか」 「そんなことはないが、マアこの頃弁当でも持ってる人はみな野がけに行く人じゃな」 「そんなら、あの子供が大勢連れ立って行くものか」 「あれは学校行きの生徒じゃ」 「ハハアンあの法被《はっぴ》がけの男は」 「あれは普請《ふしん》方じゃ」 「ケド、弁当持ってるぜ」 「ソリャ仕事に行きはるのじゃ」 「アアそうか、オイちょっと向こうへ行く女を見てみい」 「どれ」 「ソレ、下女を連れて、いま菓子屋の表を歩いている、ソレ小間物屋の表、ソレ時計屋の表、ソレ呉服屋の……」 「そういうたら分からんがなア、フンフンあの女か、あれお前は知らんか」 「知らん、どこの人や」 「この町内に住んでいて、あの人を知らなんだら、大阪に生まれてお城を知らんのも同様やぜ」 「ハハアン、お城に住んでる人か」 「イイヤ、城を知らんのも同様じゃという譬《たと》えをいうてるのじゃ、あれは横町の川上のゴーシュウじゃ」 「近江の人か」 「イイヤ、後家さんじゃ、歳はまだ三十八、九」 「旦那は」 「旦那があるもんかいな」 「アア旦那のない後家か」 「バカやなアお前は、亭主がないよって後家というのじゃ」 「ハハーン、ええ容貌《きりょう》やなア」 「お前は顔を見たか」 「顔は見んけれどもあの後ろ姿ではよッぽど別嬪《べっぴん》らしい」 「サア、後ろ姿が千円の値打ちのあるものなら、顔はマア四銭八厘ぐらいで、五銭にはむずかしいな」 「えらい違いやなア、一体、どんな顔じゃえ」 「色の赤いところから口元の出たあるところ、目えのへっこんだところは、マア山から捕れ捕れの猿じゃなア」 「フウン、アッ呉服屋から出た、一ぺんこちら向いて顔を見せてくれ、モウシ、川上の後家はん」 「コレ何をいうのじゃいな」 「イヤこちら向かしてやるのや、モシ川上の後家はん……イヨーこっち向いた、なるほど、猿によう似てるなア」  と大きな声で申しましたからたまりません。後家さんは赤い顔をいっそう赤うして泣いてお帰りなされました。お供の下女も驚いて帰りまして、 「マア、マアどう遊ばしたのでござります」 「どうもこうもあるもんかいなあ……いま途中で町内のお若い衆が何やらいうてであったやろ」 「何をでござります。あれはあなた様をこのご町内で名高いお方じゃと申して賞めておられましたので、別にお腹をお立て遊ばすことはないかと心得ます」 「何もあのお方らに賞めてもらわいでもよろしい、まだその他に何やら私の顔のことをいうてであったわいなア」 「何をでござります」 「何をでもないもんじゃ、聞いていながら知らぬ顔をして……私を捕れ捕れの猿みたような顔じゃと、ウワーッ……」 「何をおっしゃります、そんなあほらしい、ちっとも猿に似てやいたしませんワ」 「そうか、私は猿に似てやせんかえ」 「なんのマアお家様が猿に似てござりますものか、猿がお家様に似ておりますので」 「キイーッ」  下女は顔を掻きむしられてすぐにお暇が出ました。その後は猿ということがお家の禁句になりまして、どうなさるこうなさるも、うっかり申されません。誠に窮屈なことで、 「コレ定吉、坊んちが、また筆を持って遊んでおいでじゃ、早う取り上げぬと畳が墨だらけじゃがなア」 「なんというても放してやおまへん、無理に取りますと、ガシガシと手を掻きはります。えらい爪でまるで猿みたいな……」 「コリャ、なんというのじゃ、御当家の禁句を知っていながら、そんなことがもしお家の耳へはいったら直ぐにお暇になるぞ、だんだん生意気になりくさって、この間も子供の癖に小楊子を使っているのを、お家が御覧なさって、この小楊子はどこのじゃとおっしゃったら、東京の猿屋といいかけたのを、私が横から、さすが東京の品は格別でござりますと、打ち消してやったが、ちっと気をつけぬと、こんなよいお家は外にありやせんぞ、サア、早う坊んちを表へ連れて行かんか」 「坊んち、早うお出でやす。それそれ表に太鼓の音がしています。いつも猿回しの……」 「何を」 「イエ、アノ、犬回しの……」 「馬鹿ッ、早う行け行け」  というております。ところへ参りましたのは歳ごろ四十一、二、身なりは双子織《ふたごおり》ずくめの、小ざっぱりした、腰の低い、誰を見てもニコニコ笑うて、我が手で我が頭を叩いて、お辞儀ばかりしている男、 「ヘイ、今日は、お店はいつも皆様お揃いでご勉強、実に感心でござりますなア」 「オオ、太兵衛さん、また例の世辞か」 「イエ、どういたしまして……今日はお家様はおうちでござりますか」 「ハア、今お台所にお声がしていた、サアおはいり」 「御免……ヘイ今日は、ご機嫌よろしゅうござります、ご無沙汰をいたしまして、誠に相済まぬことで……エエお家様にはご綺麗にお化粧が出来まして、いつもお美しゅうござりますなア」 「何をいうのやらこの人は、私がそんな化粧なんぞするもんかいなア」 「エエッ、それがお素顔でござりますか、マアマアお綺麗なこと、いつやらでござりましたな、成駒《なりこま》屋の芝居へお供をいたしました、その時の切狂言|吃又《どもまた》の所作事《しょさごと》、大津絵の中の藤娘に生き写し、鴈治郎《がんじろう》ソックリ、成駒屋——」 「そのようにいうておくれやと、はずかしいワ、コレ太兵衛が来てますがなア、ほんまに気のつかん、早うお酒をつけて、鰻を焼きにやっておくれ」 「イエ毎度あがります度にご馳走になりましては恐れ入ります、モウご無用に遊ばしまして、エエしかし実は今日一ツお願いがございますので」 「なんじゃい」 「ヘイご町内の若旦那連、田中様、西村様そのへんの方々ばかりで、伊勢参宮を遊ばしますが、みな初旅のことで、勝手がお分かりになりません、そこでお前はたびたび伊勢へ参って、万事詳しいじゃろうから、案内者に来てくれとの仰せでござりますが、何分手前の身体はご当家様のもので、手前の身体で手前の自由になりませぬゆえ、一度お家様に伺いました上で、お返事をいたしますと中受けにしてござりますが、願わくばもう一度参詣いたしとうございますので、お願いに参りましたようなことで、いかがでござりましょう」 「オオいや、久し振りで来てやったらと思うたら、暇《いとま》乞いか……けれども他の神様なら止めもするが、お伊勢様ばかりは止めたら止めた者に罰が当たると聞いているよって、参りたければ参りなはれ、その代わり他へ回らずに一日も早う帰っておくれや、アノーお店の衆、太兵衛がお伊勢参りしますよって餞別をやっておくれ、多分なことは要りません、一人前五円ぐらいずつでよろしい」 「オイえらい命令が出たぜ、太兵衛が伊勢参りするよって、一人前五円ずつ餞別をやってくれと」 「一人前五円ずつ……何の因果で、あんな奴に五円もやるか」 「全体ここの家は鏡というものを見たことがないがな」 「鏡は見通し、この鏡は色を黒う見せるというては割り、イヤこの鏡は顔を円う見せるというては割り、ひっきょう鏡がモノをいわねばこそ、お前みたような鏡やったら、毎日喧嘩のしづめじゃ、それに成駒屋の藤娘に生き写しなんて、あほらしい、同じ大津絵の中でも、宙づりの雷に似ているワ」 「コレコレ何んということをいうのじゃ」 「そうかて太兵衛が伊勢参りをするのに、一人前五円ずつ餞別にやれと」 「何もお家が五円ずつとおっしゃったからというて、そんだけ出さにゃアならんことはない、お家の顔立てに一同からいくらかやったらええのじゃ」 「ヘイヘイ、そんなら私は五十銭出します」 「私も五十銭」 「私も五十銭」 「私はちょっと手もと不如意で三十銭」 「コレ、お前も出しておやり」 「チョッ、盗人におうたと思うて一銭五厘だけ……」 「そんなことをしては他の者に済まん、せめて三十銭だけなと、サアサア皆寄せて四円あるか、それでは私が一円出して、都合五円にして、ちょっと包んで水引きをかけて、イヤ太兵衛にするのじゃない、お家の手前にするのじゃ、出来たら私が持って行く……。へエお家、只今店中を集めましてございますが、皆しみったればかりで、これは誠にいささかで、どうぞご容赦を願います」 「アレマア正直なこと、今のは冗談にいいましたのやに、マアマア気の毒なこと、私からお礼申します、太兵衛、お店からのご心配、もろうておきなはれ、私からはこれだけ上げる、また随分気はつけて上げるが、お前の留守中、何んぞ不自由なことがあったら、遠慮なしにいうてくるよう、心配せずに参っておいで」 「何から何までお気をつけられまして有難うございます、さようならちょっと参らせて頂きます、御免遊ばしまして、エエお店ご一同様、只今は結構なお餞別を頂戴いたしまして、有難うござります、ヘッヘッヘッ……」 「ゲラゲラ笑うな、お前は面白いかしらんが、私らはちっとも面白ないわい」 「そないにいうもんじゃない、太兵衛さん、早う帰っておいで」 「ヘエかしこまりました、直ぐに帰って参ります、どなたも御免、さようなら」  と帰りましてから丁度五日目の朝、太兵衛は小さな風呂敷包みを持ってニコニコ笑いながら、 「ご一同様、只今帰りまして」 「オオ太兵衛さんか、思うたより早かったなア、お家はお前さんが立った翌日から、太兵衛はいつごろ戻るやろう、モウ帰りそうなものじゃ、今日はどこまで戻っとるじゃろう、まだかまだかの言い続けじゃ、早う顔を見せなされ」 「ヘエヘエ、どうも有難うございます、出立の節は過分なご餞別に預かりまして、なんとお礼を申しましょうやら、つきましては、これは壺屋の煙草入れ、つまらぬ物でござりますが、ホンのおみやげの印ばかりで、これには例の蜀山人の狂歌がござります、夕立や伊勢のいなきのたばこいれ ふるなるひかる つよいかみなり、とか申しまして」 「それはかえってお気の毒な、大きに有難う、サアともかく奥へお入り」 「それでは皆様のお礼は後回しといたしまして、御免、ヘエ、今日は、大きに遅うなりまして、只今帰りましてござります」 「オオ太兵衛か、ようマア無事で帰ってやった、サアこっちへおいで」 「ヘエヘエ、お家様は今日はお留守でござりますか」 「何をいうのや、私はここにいますがなア」 「イヤこれはお家様でござりますか、マアマアこれはシタリ、お家様、あなたは人魚でも召し上がりましたか」 「イヤ私はそんなものは食べたことはないワ」 「さようでござりますか、けれどもお目にかかりますたびに、だんだんお歳がお若うおなり遊ばしまして……いつやら京都のご親類からお千代様と申すお方がお越しになっておりましたなア、私はまたあのお方がお越しになっているのかと、ツイお見それ申しまして、粗忽なことを申しました」 「あほらしい、あれは京の水で洗い上げた、ことに歳も若いし、あんな綺麗なお子と私とが、なんの似ているもんかいな」 「イエ似ましたどころか、現在私が只今お見違い申したくらいで」 「そうか、うれしやの……コレ、太兵衛が来てますよって、早うお酒を燗《つ》けて鰻《うなぎ》を焼きにやっておくれ」 「どうぞモウお捨ておき遊ばして、毎度ご馳走になりましては、誠に痛み入ります」 「シテ何かえ、お伊勢参りは面白いということやが、なんぞ面白いことがあったかえ」 「ござりました、ご町内の若旦那方はみなご粋家で、そこへ旅の恥は掻き捨てというので、古市の洒落などは実に大滑稽、弥次喜多そこのけでござりました」 「そうか、私も一度参りたいと思うているのやが」 「お参り遊ばせ、私がお供をいたしまして、詳しゅうご案内いたします。只今は電車が出来まして、誠に楽でございます、湊町から汽車に乗りまして奈良へ下車いたしましたが、お家様は定めし奈良はお詳しゅうござりましょう」 「イエまだ奈良も知らんの」 「アアそうで、まだお越しになりませんか、これは是非お越し遊ばせ、一日のご保養には至極適当なところでござります、なんしょ南都と申して、昔は都でござりまして、名所旧跡もなかなか沢山でござります。先ずザッとお話しいたしますと、停車場を出ました筋が三条通りと申しまして、宿屋とか、角細工、あられ酒、奈良漬などの土産物を売っております家が並んでござりまして、賑やかな通りでござります、その筋を東へ参りますと、南側に古い大きな宿屋が二軒ございます、それが、印判屋に、それから、エ、何んとか申しました、ナイフ屋でもなし、小柄《こづか》屋でもなし……」 「それなら小刀屋《こがたなや》と違うかえ」 「さようさよう、小刀屋、なんでも切れ物と心得ておりましたが、お家様の方がよう御存知でござりますな、ヘッヘッヘッ。……その筋向かいの高みにござりますのが、西国三十三所第九番の札所南円堂で三面八臂|不空羂索《ふくうけんじゃく》観音が祀《まつ》ってござります。これは藤原|冬嗣《ふゆつぐ》という人が建立いたしましたお堂で、補陀落《ふだらく》の南の岸に堂たてて今ぞ栄えん北の藤波、とか申すその時の歌があるそうでござります、これらはみな興福寺と申すお寺の境内で、昔はまだ沢山立派なお堂がございましたそうで、それから師範学校に博物館、あの百人一首の、いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂ひぬるかなの八重桜は、只今この師範学校の中にございます、ズッと北へ参りますと、東大寺と申して奈良第一番のお寺で、南大門と申す仁王門がございます、東の方の仁王様が湛慶、西の方の仁王様が運慶の作でござりまして、これもなかなか名高いものでござりますそうな、その正面が大仏様、これはまたいかにも大きなもので、御身の丈が五丈六尺五寸ござりまして、鼻から傘をきてはいれると申します」 「それはほんまかえ」 「ヘイ、現に入って落ちた人がござります」 「大方、大仏様の罰が当たったのやろう」 「イエかさが鼻へ回ったら、大抵落ちるもので」 「それは瘡《かさ》やないか、そんな冗談をいわずにほんまのことをいうておくれ」 「ヘッヘッヘッ……これは冗談でございますが、それから裏へ抜けまして大釣鐘、すこし東へ参りますと四月堂に三月堂、若狭の呼び水の井戸、鵜の杜、良弁杉、二月堂、この二月堂の御本尊は十一面観世音で、ご身体に温かみがあるとか申して肉身の像とか申します、その隣が手向山の八幡様、管公の、このたびはぬさも取敢ず手向山紅葉のにしき神のまにまに、とお詠みなされましたのはここでござりまして、これは紅葉時分にお越しなりまするとよろしゅうござります、そこを出ますと三笠山、この山は三重になっておりまして、一面の芝で、遠くから見ますと、毛氈を敷きつめたようで美しゅうござります、その側に、奈良七重七堂伽藍八重桜、と彫りました芭蕉の句碑がござります、それから三条小鍛冶宗近、武蔵野と申す旅館、南へ参りまして春日神社、なかなか結構なお社で灯籠が何んぼと分からんほどござります、その灯籠の数をよんだ者は長者になると申し伝えておりますが、よんだ人がないというくらいでござります、若宮様から走り元の大黒、白藤滝《しらふじのたき》、この辺は広々とした公園で閑静なよい所でござります。西へ参りますと石子詰の跡がござります、俗に十三鐘と申す古いお寺、それから坂を下りますと、大きな池がござります、乃の字の形になっておりまして、魚半分水半分、竜宮まで届いてあると申します、猿沢の池、その池の東手に衣掛柳《きぬかけやなぎ》、西北に釆女《うねめ》の宮《みや》」 「コレ太兵衛、ちょっとお待ち、今いった池の名は何んというのや」 「ヘエヘエ、それは魚半分水半分、竜宮まで届いて……」 「そんなことは聞きとうない、池の名だけいうてみなはれ」 「ヘイ、池の名は、さ……、ヒャー、これはどうも……」 「エエ腹の立つこの恩知らずめ、ようもようも、私の前でそんなことがいえたもんじゃ、いつも金をやったり、着物をやったりしているのに、その恩も忘れくさって、アタ憎てらしい……。お店の衆、ここへ来て太兵衛の頭から煮茶《にえちゃ》でもあびせてやって……アア腹の立つ……ウワッ」  この有様に太兵衛は驚いて店へ逃げ出して参りまして、 「ゴ、ゴ、御番頭ッ、えらいことをしました」 「太兵衛さん、ビックリしたがなア、どうしたのじゃ、今ちょっと聞いていたら四月のお釈迦さんのようにいわれていたな」 「シ、失敗失敗、大失敗」 「どうして」 「池の名で、しくじりました」 「どこの池で」 「奈良名所の猿沢の池で」 「大変なことをいうたなア……」 「その癖、充分注意して、あのぎょうさんにおる鹿でさえいわぬよう獣はなるべく気をつけましたのに、ツイ口がすべって一ぺんにしくじりました」 「全体お前さんは喋り過ぎる、今も店であないにべらべら喋ってしくじらなよいがというていたところじゃ、しかしモウどうも仕方がない、今日はマア早う帰る方がよい、お家の目についたら今度は私らがお目玉頂戴じゃ」 「ヘイ、どうもえらいことをしました」 「何んぼいうても返らぬことじゃから早う帰りなされ」 「ケドこのままお出入り止められますと夫婦の者が暮らしに困りますので」 「というたところがしくじったものは仕方がない、商売に精を出したらええのじゃないか」 「商売というて只今のところ、別にそのウ……」 「そうそういつか聞いてみようと思うていたが、一体お前さんは何が商売じゃな」 「ここのお家様を賞めるのが商売で」 「そんならモット勉強したらよいのに……同じしくじっても又兵衛の方は些細《ささい》なことでほんまに可哀想じゃった」 「又兵衛と申しますと」 「お前さんと同様、お家のお気に入りじゃ」 「ヘヘエー、私より先手がござりましたか」 「そうじゃ、手伝職で誰の気にも入る男じゃった、ご普請の時、漆喰を打っていたらお家が、又兵衛、ご近所に普請好きのお家もあるが、私の家ほどの漆喰を打たすお家はあるまいなアとおっしゃった、その時、又兵衛も、ヘイヘイというていればええに、このご近所にござりませんが、船場のサルお家にござりますというただけで落第じゃ」 「なるほど、それっきり参りませんか」 「イヤ、その当時は来なんだが、三ヵ月ほどしてからご機嫌を取り直しに来た」 「ド、ド、どうして来ました」 「大砲の筒さらえのような頭をして、髭を蓬々《ぼうぼう》生やして四季の着物を一時《いっとき》に着てなア」 「四季の着物を一時に着てとは」 「肩のところが単物《ひとえ》になって腰の辺が袷《あわせ》で、裾《すそ》が綿入れ……」 「なかなか説明の要る着物ですなア」 「縄の帯をしめて私の顔を見てちょっと会釈をして入ったから、これは何んでも仕事に来たのじゃろうと思うて、みな見て見ぬ振りをして通してやった、すると中庭の方へ行って、猫に睨《にら》まれた鼠のようになってかがんでいるのをお家がご覧なすって、お店の人、あんなきたない人が入っていますがなア、早く追い出しておくれといわれると、又兵衛は顔を上げてシオシオと泣き声を出してなア、ヘイ、何んと申されましてもいたし方のない私、オメオメと参られた義理ではござりませぬが、ご当家からお暇を出されましてからは他のお得意先も、あんな好いお家をしくじるような奴は寄せつけないというので、おいおいお出入りが叶わぬようになりまして、到頭親子三人の者が食うや食わずにこのような態《ざま》になりましたのは、元はお家様のご機嫌を損ねましたからのこと、この世でお詫びが叶わねば、せめて後の世でなりとお詫びが叶いますように、神仏にお願い申すより外はないと、四国西国の巡礼を思い立ちまして、ありもせぬ世帯道具を売りたいと日本橋筋へ道具屋を呼びに参りますと、子供が絵草紙屋の店を見まして、お父っつあん、あの錦絵を買うてくれいと申します故、コレ何をいうのじゃ、そんな気楽な手許じゃない、親の心子知らずが叱ってはみましたが、安い物なら買うてやりたいと子に引かさるる親心で、ふと、その錦絵を見ますと、お家様に似たとはおろか瓜二つ、余りのおなつかしさに、下駄のまま、店へ飛び上がりましたほどでござります、三枚続きの物を無理に頼んで一枚だけ分けてもらい、帰るなり壁に貼りつけまして、コレ女房よ、今まで親子の者が安楽に暮らしていたのは、皆この錦絵のお方のお蔭じゃと、夫婦が手を合わして拝んでおりますと、何も知らん子供までが、同じように手を合わせまして、これは仏様かいなアといわれました時のその悲しさ、御推量下さりませ。我々親子が四国西国を巡りまするご本尊にいたしとうござります、どうぞこの画像にお性根をお入れ下さりませ、お家様一生のお願いでござりますと、出したその錦絵の、マ美しいこと、実に水のしたたるような美人じゃ、お家はその時まで恐ろしい顔をして、怒っておいでなさったが、その錦絵を一目見るなり、顔の紐が解けてしもうて、ニヤリとお笑いなさって、その絵を手に取ってジーッと穴のあくほど見つめて、コレ又兵衛、四国や西国へ行かいでも宣しい、この絵は私が買うて上げる、これだけで売りなはれッと、大きな紙幣の束をもらいよった」 「フウーン、うまいことやりましたなア」 「お家も現金なお方じゃ、早う又兵衛御に酒を燗《つ》けて、鰻を焼きにやッておくれて、お家はお気に入ったら鰻と酒の外は知らんとみえる、それからお前はそんなきたない身なりをして出入りをしやると、ご近所の手前もみっともない、これは先の旦那の袷、お前に上げる、サア帯も、この羽織もと、マア、マア沢山おやりになって、まるで子供のように片手で錦絵を持って、片手に又兵衛の手を取って、又兵衛又兵衛、又兵衛は、お家様お家様と奥から店まで行ったり戻ったり、行ったり戻ったり、終わりに床柱にもたれかかって、又兵衛、これは女のような顔で、男のお姿じゃが、何んの絵じゃえ、ヘイ、それは東京の吉原の花魁《おいらん》が、三十六歌仙の練り物に出ました時の、在原業平の姿でござります、そうかえ、マアマアうれしいこと、ヘイ私もお家様のご機嫌が直りましてこんなうれしいことはござりません、帰りまして、家内に話しましたら定めて夢のように思うでござりましょう、誠にご当家をしくじりましたら、親子の者は木から落ちた猿でござりますと、またしくじりよった」 「ヒエーッ、人の事とは思えませんなア……ナアモーシ御番頭、私を助けると思うて、昔からこの上ないという別嬪《べっぴん》を教えて頂けませんか」 「何にするのじゃ」 「ご機嫌を取り直しに参りますので」 「そんなら暫く気を抜いてからの方がよかろうぜ」 「イヤ、今やないと都合が悪いので、どうぞ別嬪を二、三人だけ……」 「昔からの美人で誰でもよう知っているのは、先ずわが朝では小野の小町に照手姫、衣通姫《そとおりひめ》」 「ヘイヘイ、なるほど、この町《ちょう》では」 「イヤ違う違う、わが朝というて、この町内のことじゃない、わが朝とは日本ということじゃ」 「ヘーエー、スルとわが朝の日本では」 「イイヤ日本というたらわが朝とは言わいでもよい、どちらか一方でよいのじゃ」 「エエわが朝では初めが小野の小町に、次が、テ、照手の姫、それから、ソ、ソ、衣通姫……これはどうしても指が外《そと》に折れません」 「指が外へ折れるもんかい」 「そうすると指は内へ折っても衣通姫」 「そんなややこしいことを言わいでもよいがなア」 「もソッとござりませんか」 「そうじゃなア、唐土《もろこし》では玄宗皇帝の思い者の楊貴妃《ようきひ》」 「どこの物干しに」 「物干しじゃない、唐土とは唐《から》のこと、もろもろの物を送ってくるので、もろこしじゃ」 「送ったあとは何んにもないのでカラですか」 「いらんことを言うない、それで分かっているのか」 「ヘイ、何んとかでござりましたなア」 「玄宗皇帝の思い者、楊貴妃じゃ」 「唐人だけでなかなか覚え難い名前ですなア、大きに有難う、分かりました」  とこわごわ台所へ参りますと、お家は見るなり、 「オオイヤ、この恩知らずが、まだうろついていたのか、お店は誰もいてやないのか」 「ヘエ、ヘエ、エエお家様には何がお気に障りましてござりますか、太兵衛とんと合点が参りませぬので、お腹の立つことがござりましたら、幾重にもお詫びをいたしますが、どのようなことがお気に障りましたのでござりますか」 「白々しい、まだそんなことをいうて、人を馬鹿にしようと思うて……池の名は何というのか、もう一ぺんいうてみなはれ」 「ヘイ、魚半分水半分」 「それは聞かいでも分かっている、竜宮まで届いてあって、そして池の名は」 「さようでござります、そこでこの池は竜宮まで届いてあるのか、深い池じゃなア、こんな池へはまったら、とても助かることは出来まい、ヤレ恐ろしいと思いますと、身の毛がよだちまして、ゾッと寒気《さむけ》がいたしますので、誰いうとなく、さむそうの池と申します」 「ナニさむそうの池……」 「ヘイさむそうの池でござります」 「ソウカ、そんなら私の聞きようが悪かったのかいな……、お前に限って、よもや、そんなことはいうてやなかろうと思うていたのやが、矢ッ張り私の聞き違えやった、マアマアおどろかさして、堪忍しておくれや」 「イエ、どう仕りまして、お分かりになりましたら、私も何より結構でございます」 「コレ、鰻はまだ焼けて来んのか、一ぺん、急《せ》きにやっておくれ、太兵衛、これは僅かやけど取ってお置き」 「これは毎度有難うござります、ところで藪から棒のようなことを申しますが、お家様のご器量を昔の人に喩えて申しますと」 「アアコレ、そんな弁茶羅《べんちゃら》は止めておくれ」 「イエ、何んの弁茶羅を申しますものか、実際のことでござります、先ずわが朝では小野の小町か照手の姫か、ソ、衣通姫か」 「ナニ、私を小野の小町か照手の姫に似ているというのかえ」 「マ、マ、まだござります、唐土は玄、玄、玄宗皇帝の思い者、よう狒々《ひひ》に似てござります」 [#改ページ] 三十石《さんじっこく》 夢の通《かよ》い路《じ》  一席うかがいますは、少々、お長いお噂でござります。 「サァ早う歩き、なにをぼうーッとしてるね」 「べつにぼうーッとしてるわけやないけど、京で子供のみやげを買うて帰ろと思《おも》て、ころっと忘れたんで、なにを買おかと思案してるね」 「子供のみやげなら伏見人形でも買うて帰りィな」 「伏見人形てなんや」 「この稲荷山の上で焼いてる人形や。ここの人形は、持って帰って割れても、その土がもとの稲荷山へかえるというね」 「そんな人形を売ってるか」 「この辺は人形屋ばっかりや」 「ほんにぎょうさん人形屋があるなァ」 「オイ見てみィ。だんだん職人が上手になるのか、器用になったんか、どの人形も焼き物と見えん、羽二重細工《はぶたえざいく》のような。どうや、世帯道具はなにひとつないもんはない。焼き物でみな出来《でけ》てるやろ」 「そうかいな。けど見わたしたところ横槌《よこづち》〔洗濯物を叩くのに使う棒状の槌。打盤《うちばん》に載せて叩く〕がないな」 「コレ、焼き物の横槌が使えるか」 「お前、いま、焼き物でなんでもある、言うたやないか」 「そらなんでもあると言うたけど、焼き物の横槌があるかいな。そのほかのものならあると言うねン」 「打盤がない、ほこりたたきがない、箒《ほうき》がない、十能《じゅうのう》がない」 「ないもんばっかり選《よ》ってんのやがな。あの棚にある、大黒さんが戎《えびす》さんの耳をほぜくってる、あの肉付きといい、ニタッと笑うてるとこは、ものでも言いそうやなァ」 「フム、こっちの暖簾《のうれん》の間から首をつき出して鼻をたらしてる丁稚《でっち》もよう出来てるな」 「どれェな」 「あの暖簾の間から顔を出してる……それ……」 「阿呆、あれは人間やがな」 「アアそうか……人形屋のン、ごめんなはれや」 「おいでやす。どうぞお掛け」 「お前とこ、どれでも売るかえ」 「ヘエ、どれでも商います」 「あの暖簾の間から首出してる人形、あれきれいに鼻をふいてなんぼや」 「これはおそれいります……子供、頭をひっこめてェ。あれは私の伜《せがれ》で」 「お前《ま》はんの息子はんか、不都合な息子をこしらえたんやな。あんな伜《せがれ》、大きなってもろくな者になれへんで、いまのうちに売ってしまい」 「うだうだおっしゃるな。一人しかない伜であれを売ったら跡取りがのうなります」 「なかったらまたこしらえんかいな」 「こしらえんかいなというて、手細工で出来るもんやおまへん」 「そこをうんと気張って」 「どない気張っても、私のような年になったらあきまへん」 「そんならわいが手伝うてこしらえよか」 「イヤ、それには及びまへん」 「ハッハッハッ……こらまあ嘘や。あの棚にある頭の長い人形、あれはなんや」 「ヘエ福禄寿と申しまして、値段が百七十でっけど、百六十にまけときます」 「なんや、百六十が百七十やが、百六十にまけるのか」 「いいえ、福禄寿、百七十を百六十にまけますので」 「値《ね》ェ聞いてて肩が凝《こ》った。この小さい人形は」 「ヘェ饅頭《まんじゅ》食いの人形で、こっちが文使《ふみづか》い。これが虚無僧《こむそう》の人形。この人形は肌身につけていただきますと、船などに酔わん呪《まじな》いで」 「これはなんや」 「ヘエ、寝丑《ねうし》と申しまして、持ってお帰りになりまして床《とこ》などへ祀《まつ》っておきますと、子供に疱瘡《ほうそ》が出来たらこの丑に、坊《ぼ》ンの疱瘡を食べてくれ、嬢《いと》の疱瘡を食べてくれ、こない頼みますと、不思議とその疱瘡がなおりますね」 「お医者はんみたいな丑やなァ」 「値ェはなんぼや」 「三百だす」 「この小さい汚い丑が三百とはねうしがないな……。丑にもいろいろあるなァ」 「へえ、これが黒丑、これが赤丑、こっちが斑丑《まんだら》、これがこって丑だす」 「わいの言うような丑はないか」 「どんな丑だす」 「こって丑のように肥えたのに、背中に鍋を背負《せたろ》うて、なかに葱《ねぶか》と焼豆腐を入れるとジューウーと鳴くという丑はないか」 「そんなすき焼きいな丑はおまへん」 「とにかく、寝丑と、饅頭食いと虚無僧をもらう、みんなでなんぼや」 「ちょうど五百だす」 「だれがぼやくねン」 「ぼやくやおまへん、五百だす」 「アアそうか、ちょっとさげるようにしといて。銭《ぜに》はここへおいとくで」 「ありがとうさんで」 「えらい邪魔をしたな。それ、みやげが出来た……」  まいりましたのは、伏見寺田屋の浜。夕方になりますと、船に乗るお客さんを呼んでおります。 「ヘエ、あんさんがた、お下りさんやございまへんか。ヘエ、あんさん、お下りさんやおまへんか。そちらの顔の色の悪いお方、あんた下らんか」 「イイエ、けっして〔便秘〕ます」 「オイ、なにを言うてるねン」 「あの人がわいの顔を見て、下らんかというて訊《たん》ねてはるさかい……」 「ちがう、ちがう。船に乗って大阪へ帰ることを下るというのや」 「アア、そうか。そんなら大阪へ帰って下ります」 「そないていねいに言わいでもええ。オイ、船はすぐに出るか」 「ヘイ、すぐに出ます、どうぞご一服を」 「そんなら待たしてもらお」  二階へ上がりますと、二階にはお客さんがたくさん待っております。この待っている間は退屈とみえて、みな、それぞれ手そぐりをしております。日記をつけてる人、銭勘定をしてる人、店屋物《てんやもん》を食べてる人、本を読んでる人、かと思うと、こっちでは伏見人形の大けな丑を買うてきて、荷造りがしてあるのを解いて、角をポキッと折ってあわててついでる人がある。これをあわててついださかいにというて、もとのようにつげるものやないが、人間の癖というものは妙なもんで、茶碗を割ってもいっぺん破片《かけ》をさがしてひっつけてみるもんで。まだそんなのはよろしいが、お芋などを食べてる人をみますと、かじり口をいっぺん見てからやないとあとをかじりまへん。汚いのは鼻をかんで、すぐにほかす人はないもので、一度はひろげてみます。汚い癖があったもんで……。そこへまいりましたのが、船宿の番頭さんで、 「ヘエ、どちらさんもえらいながらくお待たせいたしました。もうほどなく船が出ます。まことにご面倒さんどすが、みなさんのお所とお名前を帳面へ書かしていただきます。役場へとどけますのんどすが、なかには冗談《てんご》をおっしゃるお方さんがおして、役場で私の方がおこられますので、どうぞ冗談を言わんように、ひとつていねいに言うていただきとおす」 「アア、そうか、そんなら私が言うで、書いてや」 「ヘエありがとうさんで、どちらさんどす(と、手拭と扇子をかまえて)」 「私、大阪やで」 「ヘエヘエ大阪」 「東区今橋通り二丁目、鴻池《こうのいけ》善右衛門と」 「ヘエ、東区今橋通り二丁目、鴻池善右衛門、(気がついて顔を上げ、愛想笑いを浮かべて)あの、ほんまはどちらさんどす」 「わたしや……」 「あの、わたしの方は鴻池さんはごひいきになっておりますので、鴻池の旦那《だん》さんはよう知っております。鴻池の旦那さんはもっとよう肥えてはったように思いますが」 「フム、よう肥えていたのやが、米高がこたえてドカッとやせたんや」 「米高でやせた、ご冗談ばっかりおっしゃって……もう少うし背が高かったように思うてますが」 「背が高かったが、道中をして歩いているうちにちびって背が低うなったんや」 「ちびった。どうぞ冗談おっしゃらんように……そっちの旦那《だん》さんは」 「おいどんは、鹿児島県鹿児島市本町通り二丁目十六番戸、西郷隆盛じゃ」 「西郷隆盛……そんなお方はおへんどす」 「そんなら西郷ひくもりか」 「どうぞなぶらんように。そっちのお婆ァさんは」 「み、ず、か、ら、は、お、の、の、こ、ま、ち」 「イヨー、汚い小野の小町やな。みずからやない、塩辛みたいな顔をしてなはる。そっちの坊ンは」 「ムチャチボウベンケイ」 「お子たちまでなぶりなはる、そっちのご出家は」 「愚僧かな、愚僧は高野山弘法大師、これなるは円光大師、|※[#「口+奄」、unicode5535]阿謨伽毘盧遮那《おんなぼきゃべろしゃな》、摩訶母捺羅《まかぼたら》、|摩※[#「てへん+尼」、unicode62b3]鉢納摩人※[#「口+縛」、unicode56a9]※[#「口+羅」、unicode56c9]《まにはんどまじんばら》、|※[#「口+縛」、unicode56a9]※[#「口+羅」、unicode56c9]韈哩多耶吽《ばらはりたやむ》……真言経を二十一遍書け」 「帳面がまっ黒になります。どうぞなぶらんようにていねいに言うておくれやす」 「ほなら、わたし、ていねいに言うよって、ていねいに書いてや」 「ヘイ、ていねいに……結構で」 「仮名で書いてや」 「ヘイヘイ、仮名で」 「おおさかよりさんりみなみにあたる、せんしゅうさかいと」 「それなら最初《はな》から泉州堺でええのどす」 「ものごとはていねいに」 「ていねいすぎます、泉州堺、ヘエヘエ」 「だいどうくけんのちょう、ほうちょうかじきくいちもんじかねたか、ほんけこんぽんかんじもときゅうざえもん。なごやししんまちどおりにちょうめ、おなじくしてん、にょうぼ、さよ、せがれ、まんきち」 「モシ、それはなんどす」 「こんど堺から名古屋へ庖丁《ほうちょ》の店を出そうと思うねンが、ちらしの所書きはそれでわかるかしらん」 「モシ、うだうだ言いなはんな。そちらさんは」 「わたしは名前だけ言うで、名前だけ書いて」 「ヘエ、名前だけでけっこうどす」 「播磨《はりま》屋弥兵衛と」 「ヘエヘエ」 「河内屋太郎兵衛、大和屋徳七、万屋《よろずや》金兵衛、紀州屋源助、泉屋与兵衛、浪花屋清七、山城屋嘉一、堺屋治助、舛屋新兵衛、今井屋安兵衛、竹屋岩吉、雑穀屋八兵衛、赤穂屋太三郎、備前屋佐兵衛、讃岐《さぬき》屋喜平、肥前屋角兵衛、近江屋勘右衛門、津の国屋万助、伊勢屋三郎兵衛、永楽屋宇兵衛、鶴屋秀治郎」 「エーエ、おっしやったのはどなたはんとどなたはんどす」 「おっしやったのはこなたはん一人や」 「アノ、名前をぎょうさん書きましたが」 「そうやろ、去年うちのお父っつあんが死んでナ、香典をもろうたんやが、香典返しをせんならん、何軒あるやろ」 「モシ、うだうだ言いなはんな、帳面がまっ黒になりましたがナ。さっぱりわやや」  番頭はん、下へ降りてしまいました。しばらくすると、 「出しまッすぞォッ」  という声にみながどやどやと下へ降りてきますと、下では女中さんが世辞《べんちゃら》を申しております。 「ヘエどなたさんもお静かにどうぞ、お早ようお上がりを。ヘエ、どなたさんもお静かに。あのあんたはん、草鞋をお召しにならんでもよろしゅうござります。すぐに船に乗るのンどすので、そこに手前の方の下駄がおす。それをはいてお越しあそばせ。川端へぬいでおいていただきましたら、わたしの方の焼き印が押しておすので、あとで拾《ひら》いにまいります。ありがとさんで、お早ようお上がりを。あんさんのお弁当、これにこしらえてござります。中に高野豆腐が入ってござります。お汁《つい》はしぼってござりますが、せっかくのお召物にしみがつくといきまへんので、蕨縄《わらびなわ》でさげるようにしておす。さげてお越しあそばせ。ありがとさんで。どうぞお早ようお上がりを、ありがとさんで、お静かにお越しあそばせ、おオ、これは船場の旦那《だん》さんどすかいな。お見それ申しておりまして、まことに失礼をいたしました。まァまァ坊ンさん、大きゅうおなりあそばしたことわいな。先年お越しのときは、乳母《おんば》さんに抱かれてござったのに、こんなに大きいおなりあそばして、可愛いおすことわいな。お帰りになりましたら御寮人《ごりょん》さんによろしゅう言うていただきますように、さきほどはまたご祝儀をいただきましてありがとうさんどす。あの、丹波の園部からおもよどんという女中《おなごし》さん、まだ奉公しておられますか。まァまァ、ご忠義なお方わいな。どうぞお帰りになりましたら、寺田屋の清がよろしゅう言うておくれと申しました、と言うていただきますように。さよーならー、どなたもお静かにお下りやーす」 「オイ、あいつなんや、大きな口をあきよったな」 「みんなの頭へお静かにをふりかけよったんや」 「アアそうか、そんなら、さよーならー」 「コレお前、なにをしてるねン」 「あいつがお静かにをふりかけよったんやさかい、わいはさよならをゆすり込んだったんや」 「そんなしょうむないことをしないな」 「オーウ、早よこい、早よこい」 「どなたもお静かに」 「早よこい、早よこい」 「お静かに……」 「ア、 ハハハハハ……」 「オイ、何をしてるねン」 「船長は早よこいと言うし、下女《おなごし》はお静かにと言うし、どないしたらええねン」 「早ようこんかいな」 「オーウ、早よこい、早よこい」 「船頭はん、このお客さん一人で五人前取っとくれ、このお客さん、一人で二人前、三人で五人前、二人で三人前取っとくれ」 「あれはなにを言うてよるねン」 「あれはな、一人前の場所やと混みおうてくると坐ってられへんさかい、一人で二人前とってゆっくり坐るとか、三人で五人前の銭を払うて足をのばすとか、一人で五人前場所を買うて寝るとかするねン」 「アアそうか……船頭はん、二人で一人前とってんか」 「なにを言いなさるねン、一人でも狭いのに、二人で一人前どうして坐りなさる」 「一人坐って、一人|肩車《かたくま》するねン」 「そんなことしたら、肩が痛うて大阪まで行かれへんで」 「肩が痛うなったら、枚方《ひらかた》で上と下と交替するが」 「何言いなさる、早よう乗りなされ」  どやどやと船へ乗りこみますと、それへ物売りがまいります。 「どなたも、お土産《みや》はどうどす、お土産はどうどす。おちりにあんぽんたんはどうどす。西の洞院紙《といんがみ》はよろしおすか。おちりにあんぽんたん……あんた、あんぽんたん」 「コラ、そっちィ行け、なにをぬかしやがるねン」 「オイ、なにをおこッてるねン」 「こいつわいの顔を見て、あんたあんぽんたんや言いよるねン」 「ちがうちがう、お前のことやない、あんぽんたんという菓子があるねン」 「そんな妙な菓子があるのか」 「かきもちのふくれたんに砂糖の衣《ころも》がかかったァるのや、東山というのやが、俗にあんぽんたん」 「妙なことを言うねんナ。おちりてなんや」 「塵紙《ちりがみ》のことを京言葉がやさしいので、お塵というねン」 「ホナ、便所へ行《い》たら、おちりでおちりをふくか」 「汚いことを言いな」 「西の洞院紙《といんがみ》てなんや」 「大阪で鋤直《すきなお》し、京で西の洞院紙、東で浅草紙というそうな」 「えらい名が変わるねンなァ」 「べつに変わるということはないが、ところによって名がちがう。大阪で南瓜《なんきん》を京でかぼちゃ、東で唐茄子《とうなす》というそうな。ところによって唱《とな》えがかわる、浪花の蘆《あし》も伊勢の浜荻《はまおぎ》というでな」 「妙なこと言うねんナ。買えへんわい、あっちィ行け」 「マア、あんたはん、いっかいお声どすなァ」 「いっかい、コラいっかいといわずに、大きいといえ」 「そんなことをお言いたかて、京の言葉や、しかたがないえ」 「しかたがないえて、京がどれだけえらいのや」 「京は王城の地どすえ」 「青物ばっかり食《くろ》うて往生の地じゃ」 「マア、あんなことをお言いる、京は一条から九条まで法華経普門品《ほけきょうふもんぼん》が埋《う》めておすえ」 「そんなもん埋めんと、ちょっと石を埋めえ、歩きにくいわい」 「あんなことをお言いる、京の御所の砂をお掴《つか》みてみ」 「なんぞになるのか」 「どんないっかい瘧《おこり》でも落ちるえ」 「瘧が落ちる……大阪の造幣局の金をお掴みてみ」 「瘧が落ちるんどすか」 「首が落ちるわい」 「オイ、そんな無茶を言いないな」 「負けるのんきらいや」 「なんぼ負けるのんきらいでも」 「買えへんわい」 「買うてもらえへんえ」 「買うかい」 「おちりにあんぽんたんはどうどすえ、お寿司《すもじ》のおいしいのはよろしおすか」 「ずいきは入っておすか」 「そんなこと訊《たん》ねないな」 「京のやつがもの言うと生《なま》ったれてるのンで腹が立つ」 「そんなことを言うたかてしょうがない。むかしから言うたァる。郷《ごう》に入《い》ッては郷に従い所に入っては所に従うということがある。そうお前のように言うもんやない」 「けったくそが悪い、寝てこまそ」 「コレ、お客さんよ、こんなとこへ寝なはったら、邪魔になるがな、退《の》きなはれ」 「コラッ、なにをしやがんねン、人の頭をなぐりやがって」 「お客さんよ、船頭はしておりますが、お客さんの頭《どたま》を殴《どつ》いたりはしません」 「うそつけ、いまなぐりやがったわい」 「殴《どつ》きやしまへん。邪魔ンなるで退《の》きなはれと突きやァ、お前の頭《どたま》が鳴ったんじゃろう」 「コラッ、人の頭《あたま》をなぐっといて、鳴ったんじゃろとはどうや」 「殴《どつ》きやしまへん。退《ど》きなはれと突きや、お前の頭《どたま》が鳴ったんじゃろ。よう鳴る頭《どたま》」 「コラ、よう鳴る太鼓みたいにぬかしやがる。なぐったわい」 「お前さんはなぐったと言いなさる、俺はなぐらんと言う、お前さんなぐったと言いなさるなら、なぐられたという書き証文もっとるかい……書き証文を……」 「コラッ、なぐられるのにいちいち証文を書いてなぐられるやつがあるかい」 「角《かく》よ」 「オーウ」 「オーウじゃない、いつまでお客人をとらまえて、からこうとるかえ……お客さんよォ国から出てきてまだ間《ま》がない者じゃで堪忍《こらえ》まいよ」 「お前のようにやさしゅう言うてくれたらええのに、人の頭《あたま》なぐッといて、よう鳴る頭《どたま》やと言うよってに、腹が立つねン」 「それじゃから堪忍《こらえ》まいよと言うのじゃ」 「さあ、そう言うてくれたらええのや。銭を出して乗ったら客や、その客の頭《あたま》をなぐるということがあるか」 「それじゃから、堪忍《こらえ》まいよと言うのじゃ。銭を出すと言いなさるが、この船は施行船《せんぎょぶね》じゃござんせんで銭《ぜに》やァいただきます。堪忍《こらえ》まいよというに堪忍《こらえ》られんか。堪忍《こらえ》られんなら堪忍《こらえ》られんとぬかしてみくされ、頭《どたま》かちまくぞ」 「ウオー、こわやの。挨拶人の船頭の方がこわい。頭《どたま》かちまく言いよる」 「お前が悪いがな。船頭の通り道に寝てるよってに」 「お前に叱られるわ、船頭に殴られたら、わいの立つ瀬がない」 「そないにおこりな。あないに言うてるが、馬方、船頭、お乳《ち》の人というて、言葉は荒いが気立てはええ。あないごつごつ言わんと、この大きな船が動かされへん。馬方でも馬の手綱を持ったら年中怒ってよる。ドウ、長い顔《つら》さらして、張りたおすでッ。ド畜生め、脛節《すねぶし》いがんでるがな……。ようあんな無茶言いよる。むかしから馬の丸顔見たことない、みな長いものや。張りたおすで。馬かて張りたおされたら痛いで。顔を短こうしたいやろが、でけんさかい、気のええもんで鼻で笑うてる、ヒヒン……ド畜生て、馬は畜生にきまってる。脛節いがんでる、いがんでるので歩けるのや。まっすぐやったら歩かれへんがな。けどな、ああ言うよってに馬が動くねン。やさしいのがええというて、京言葉で馬を追うてみィ。馬は動けへんで。チャイチャイ、お歩きんかいな、なにしとォいるねン、あんたはんいっかいお顔どすな。お足《みや》ゆがんどすえ、というたら、馬がそうどすかと言うて、寝てしまう。船でも退《ど》きなはれというので船が動くねン。なァ番頭はん」 「やかましいわい」 「それみい、お前のために、わいまでおこられるがな」 「オイ、船頭はん、早よう出し」 「オイ出しますぞオーッ」 「蕎麦《そわあ》……饂飩《いやう》」 「オーウ、うどん屋、鉢をあげてしまわんと、割ってしまうぞ」 「お客さんまことにすみませんが、お女中やで一人おたのぎ申します」 「オイ、船頭はんもう乗られへんで」 「そこをひとつお女中やでおたのぎ申します」 「なんぼおたのみ申しますというても、この通りいっぱいやがな」 「お女中やけ」 「なんぼお女中でも、もうこの上乗せるのんなら、酢《す》をバラバラと振って葉蘭《ばらん》でも敷《ひ》きィな」 「寿司みたいに言いなさる」 「寿司のように詰まってるがな」 「そこをひとつお女中やで」 「もし、あないに船頭がたのんでます。お女中やと言うてます、乗せてあげまひょ」 「乗せてあげまひょというても乗られしまへんがな」 「よろしい。あんたら、大きゅう、広う坐りなはれ。わたいは細う長う坐ります」 「あんた一人、細う長う坐っても、入る場所がおまへんで」 「わたいの膝の上へ坐らします」 「あんたの膝の上へ」 「ヘェ二十一、二のきれいな別嬪《べっぴん》さんだす。足をポンと両方へ割って膝へ乗せます。モシ姐《ねえ》さん、眠とうなったら、わたいの肩へもたれて寝なはれ。そんなことをしたらあんたの着物に油がつきます。いえ、差支《だん》ない。わたいが、あんたの肩を後ろから掴まえてたげます。船が出て櫓《ろ》にかわると、船ががぶる。それについてうつうつと寝ます」 「えらいうまいことをしなはるねんなァ」 「八軒家へ着きますと、兄さんえらいお世話になりました。どういたしまして。兄さん、どっちィお帰り。ヘェわたい久宝寺町へ帰りますが、姐さんは。わたしは上町の和泉町へ帰りますねんが、おんなじ方角でっさかい、一緒に帰りまひょか。そんならお供いたします。歩いて帰るのもなんでござりまっさかい、人力車《くるま》を。あの、人力車屋はん、人力車屋はーん……」 「あんた大きい声やなァ」 「人力車屋はん合乗り一台。ガラガラガラ、ヘイどうぞ兄さんお乗り、姐はんお乗り、兄さんから、姐さんから、そんなら二人一緒に乗りまひょ。一ィ二ゥ三ッつ。人力車屋はん母衣《ほろ》かけてんか合乗り母衣かけ頬《ほっ》ぺたひっつけ、テケレッツノパー」 「オイ船頭はん、放《ほ》り上げてしまい」 「人力車がガラガラ……」 「モシ、まだいまのつづきだっか」 「和泉町の松屋町を東へ入ったとこで人力車が止まる。人力車屋はん、おおきにご苦労はん、帯の間から小さい銭入れを出して、人力車屋に銭をやると一軒路地。表の戸をトントンとたたくと、なかから女中さんが出てきて、おォ、御寮人《ごりょん》さんお帰りあそばせ、昨日、お帰りかと思うて待っておりましたのに、お帰りやござりませなんだな。昨日帰るつもりやったが、雨で一日遅れたんや。コレお松、ここにござるお方に船でご厄介になったんや、お礼を言うとくれ。まァ、さよでござりますかいな、主人が船でお世話になったそうでありがとうさんでござります。サァ、どうぞこっちへお入り。ここまで送ってまいりましたら、これでお別れいたします。そんなこと言わんと、お入りあそばせエェ……」 「モシ、なにをしなはんねン、私《あて》の袖を引っ張って。モシ、放しなはれ、袖がちぎれるがな。放しなはれ(と、右手で払う)」 「そうでっか、そんなら一服さしてもらおうと上がり口へ腰をかけると、そこは端近《はしぢか》、どうぞこっちへ。上へあがると唐木《からき》の江戸火鉢の前へさし向かいに坐る。渋いお茶に甘い菓子を出してくれる。女中さんに合図すると、気もあれば目も口ほどにものを言う、女中さんがすぐに表へ飛び出す。しばらくすると紺のもじりを着た若い衆が提箱《さげばこ》をさげて、毎度おおきに。はばかりさん。それへ三ツ鉢が出る。横手に菰樽《こもだる》がデンとすえてある。片口をうけて呑口をひねると、お酒がドッドッドッと出る。たんぽに入れて、銅壺《どうこ》につけると燗《かん》がでける。徳利へいれて、脇取りへのせる。盃洗へ湯を入れて、盃を入れて、のせる。三ツ鉢をのせる。女中が奥へ運ぶ。チャプン、チリン、トブン」 「モシ、そのチャプン、チリン、トブンというのはなんだす」 「女中が気取《ようす》して歩くので、盃洗の湯がチャプンといいます。その拍子に盃があたってチリン、沈んでトブンと」 「あんた、なかなか言うことが細かいな」 「サァ、どうぞ奥へお通り。なんにもございませんがほんのお口汚し、なにもご馳走がござりません。イイエ、そのようにご厄介をかけましてすんまへん。べつに毒が入ってるわけやなし、酒《ささ》はずれはせんもん、どうぞ。さようなればせっかくのご心配、ひとついただきます。盃洗から盃をとってわたいにくれる。わたいが飲んで、姐さん、あんさんもひとつどうだす。わたしはよけいはいただけまへんが、お相手いたします。向こうが飲んで私にくれる、私が飲んで向こうへ差す、やったりとったりしてる間《ま》に、相手の女子はん、目のふちがほんのり赤うなって桜色、私は色が黒うてほんのり桜の皮色」 「けったいな色やなァ」 「えろう長居をいたしました、これでおいとまいたします。そら、どうでお帰りにならぬと、お宅には角の生えるお方がござりますねやろ。あほらしい、うちには角の生えるものはござりまへん。雨が降ったらデンデン虫とナメクジラが角を生やすぐらい。そんなら今晩お泊まりやすな、ウワーイ」 「オイ船頭はん、なんとかしてんか」 「もしあんた、そらなんだす」 「ヘエ、お女中をここへ乗せて大阪へ帰ったときのつもりだす」 「えらいつもりやなァ」 「お客さん、お女中の荷物や」 「オッとどなたもさわりなはんなや、わたいがあずかります。大阪へ帰って一盃よばれる、これが手付けや。どなたも羨望《けなる》いことおまへんか。一ぺんあやかるようにしてあげまひょう。イヨーウと、頭の上へ吊っておこ」 「ハイハイ、どなたか知りまへんがご親切に、年寄りを……」 「モシ、あんたの相手のお女中が来やはりましたで」 「姐はん、どうぞこっちへ……イヨウ……こらなんや、えらい婆さんや、オイ船頭はんお女中は」 「ハイ、そのお女中をおたのぎ申します」 「オイ、この人お婆ンやないか。お前、お女中や言うたやないか」 「ハイ、お婆ンでもお女中じゃ」 「ワイこんな皺《しわ》くちゃ婆さん、きらいや」 「あんた、膝の上へ乗せて、抱いて大阪まで行きなはれ」 「いやだんがな。どうぞその辺に坐らしてあげなはれ」 「まことにすみまへんが、わたしの荷物を取っとくなはれ」 「お婆ン、心配しィな。頭の上に吊ったァる」 「ちょっとおろしとくなはらんか」 「お婆ン、これなんや」 「ハイ、家主の旦那さん、まことに親切なお方。年寄りが船に乗って便所《おちょうず》へ行くのは難儀やというて、焙烙《ほうらく》に砂を入れてくださった」 「なんや、これお婆ンの便器《おまる》か」 「コラッ、そんなもん、いただかしやがったんか」 「お婆ン、これ新しいやろな」 「ハイ、いま宿屋でいっぺん使いました」 「モウ、いっぺん使うたんやと。頭の上にある。おろしィな」 「割れたがな、アハハハ……」 「オイ、早よう船を出し」 「オーウ、出しまずそーッ」  乗りまえがきまると船頭さん、舫綱《もやい》を解きまして歩板《あゆみいた》を引き上げます。赤樫《あかがし》の長い櫂《かい》を突っぱりますと岸を離れます。(鳴物、水音)船を艫《とも》下げにいたしまして、川幅の広い所へまいりますと船をギイッと回しまして、櫂を櫓にかえる。二挺の櫓にはかならず四人の船頭がつきまして、ガックリガックリと漕ぎ出します。 「いや、うんとせェー(囃子、鳴物)♪伏見浜から船漕ぎ出《いだ》す、なんとした。もはや、お立ちか、お名ごり惜しい。なんとした」  船が出ますと、かならず船頭が唄をうたいます。いま船が出たでという知らせにそうするのやそうで……♪いやれ、伏見、中書島《ちゅうじょじま》ナァ……泥島なァれどよ、なぜに撞木町《しゅもくまち》やナァ……藪の中よォ。ヤレサよいよいよォ……エ。(鐘の音、ボーン)  船が出ますと、中書島に船頭さんのなじみの女子はんが橋の上へ来て、 「勘六さにナァー。上《のぼ》りかいな、下《くだ》りかいナァー」 「なにをぬかすぞい。年中、船頭を相手にしていて上り下りのわからんやつがあるか。船が下《しも》を向いておりや、下りにきまっているぞ、クソッ」 「お主《ぬし》のように言うものじゃない。上り下りのわからんうちが花じゃと思え。上り下りがわかるようになったら、船頭ぐらいに相手にならんわ」 「われはまた合点合点《がってんがってん》して銭をとられとれ、あの衒妻《げんさい》〔売女というような言い方〕、宵仕切《よいじきり》なんぼじゃ……なに三百じゃて。やれ、おそろしや。あんな衒妻に三百出すなら米を買うとくわ」 「姫買いと米買いといっしょになるかい」 「あの衒妻の目も鼻も置きどこがまちごうとるわい。町にいるでええが、山におれば猟人《かりゅうど》が猪とまちごうて鉄砲で撃つぞ」 「そう言いなさるな、不器量《へちゃ》でもええじゃないか。色が白けりや肌もええわ。立って食う寿司も、すしすしというじゃでのう」 「なに馬鹿こくかィ。立って食う寿司もすしすしということがあるか」 「なに、巻いた寿司もあれば、箱の寿司もあるで、立って食う寿司もすしすしじゃ」 「ばかッ、それもいうなら蓼《たで》食う虫も、むしむしじゃ」  どっちもまちごうてる。 「勘六さーん。大阪へ行ってやったらナァ……小倉屋の鬢付《びんつけ》を買うてきておくれ」 「なにをぬかす。おのれらの頭《どたま》に鬢付が性に合うか。馬の糞をぬすくっておけ、馬の糞を……」 「待っててやわいナァー」 「われのようなかぼちゃにだれが待ってるかや」 「柳屋の絹松ッつあんが……」 「銭を待ってるじゃわい……銭を……」 「コレ太三郎、あの衒妻《げんさい》はわれの衒妻か。このあいだ大阪へ行たとき、国元の妹に笄《こうがい》を買うてやるで銭を貸せというたが、あの衒妻に買うてやったんじゃろ。オーイ衒妻ィーッ。太三郎に笄を買うてもろうたかよー。あれ、赤い顔をして顔をかくす。おかしやな、おかしやな。♪いやれ、抱いて寝もせにやナァー、暇《いとま》もくれずよー、それじゃ港のナ、つなぎ船よー、ヤレサよいよいよォ」 「オイ、お客さんよ、苫《とま》をまくってなにをしなさるね。なに、茶をくれと言いなさるのか。お前さんに飲まそうと思うてわかした茶じゃありませんがの。ほしけりゃ上げますが、汲《く》みなされ。なに、汲むのが邪魔じゃて。何をぬかすぞ。そっちが邪魔ならこっちも邪魔じゃ。そこで水を食《くろ》うて土左衛門になってしまえ。くそめッ……。オオ、お女中、今時分、そのような所からくぐり出てなにをしなさるね……なに、尿《ばり》をはじきなさるのか、あぶないことをしなさるな。お尻をニュッと出しなされ。船框《ふながまち》へ尿《ばり》をはじいて、かかったら船霊《ふなだま》さんの罰があたりますぜ。河中じゃ、だれも見ている者はありやァせん。ズッと出しなされ、ズッと出したか、色が白いな……」  ドブーン。 「馬鹿よ、色が白いというて川へ飛び込むやつがあるか。上がってこいよ」 「お客さんよ、いくらでもええで、船頭がもらうのじゃない、川堀りの役銭じゃで、おたの申します。お客さん、なんぼでもええで、モシ、お客さん。今までチャチャクチャクチャと言うていて、銭のことを言や、すぐ寝たふりをしなさる。起きなされ……なんじゃ人かと思えば、だれじゃ、荷物に笠を着せておくのは、いや、うんとせ……♪いやれ二度は真壁ナァ三度はなじみよォ淀の車がいナよォーくるくゥるとよォヤレサよいよいよォエ」 「オウー、いま下りかな」 「下りますじゃ、伏見に着いたらな、万屋のおッ母にわしが莨《たばこ》入れを忘れておいたで、取っておいてくれと、言《こと》づけをしてくれよー」 「早よう上がっといでよォ♪いやれ淀の町にもナァすぎたるもォのはよォお城櫓とナァー水車よォヤレサよいよいよォ」(鐘の音、ボーン)  船中はみな白川夜船の高いびきで、グウッと寝入っております。東がジィーッと白むと鶏の声。コカコッコウー。方々の茅葺《かやぶき》の屋根からは煙がもうもうと出ております。お百姓の朝夜業《あさよなべ》、藁《わら》を打ってる音がかすかに聞こえてくる。  ♪チワイナレナ、ワラバイ、ワイナアズキ、サンガデチバラレタン、フハイ……  わけのわからん唄をうとうている。お婆さんは糸車をしている。ズウズウチョキ。妹娘さんは機《はた》を織ってる、姉さんは気取《ようす》をして、  ♪お前紺屋か紺屋の手間か、お手が染まればあいとなる  枚方の十五丁手前で、一人ポイと上がった男がござります。 「アーアー、大津からつけてきてわずか五十両の金で骨を折らしょった。今晩は橋本か中書島で久しぶりで女郎買いをして、明日は芝居か落語《はなし》へでも行ってやろう」  堤を歩いておりますと、下から出てきた犬が盗人ということを知っているか……ウムーゾク、ウムーゾク、ドロボウー……。 「何を言やがるね……♪阿倍保名《あべのやすな》の子別れよりも、今朝の別れがなおつらい」  こっちでは犬のもらい泣き……ウムワン、ウムワン。こっちでは年をとった犬がつき合いに鳴かんとわるいと思うて歯がぬけてあるのに……ウムバン、ウムバン、バウバウバァ……。あくびをまぜて鳴いてる。こっちでは大きい犬と小さい犬と喧嘩をして……ウムワン、ウムワンワンワンワン、ソプルプルプルキャンキャンキャン。齧《かじ》られよったりしてナ。船中では五十両の金がなくなったというので、主《おも》船頭の勘六がわしの船で五十両の金がなくなっては三十石の名折れになると船をキリッと回して上りにしました。綱を陸へ放《ほう》りあげると四人の船頭が土手へ上がりまして綱を引きます。だんだん上ってまいりましたがそんなことは知りません右の男、 「オイ一|人《まい》乗せてんか」 「オウ上りじゃ」  とうまく乗せまして首尾よく賊をつかまえました。聞いてみますと盗まれたのは、京の大仏前、こんにゃく屋の権兵衛と申します男で、五十両の金を取りもどし、これも船頭の頓智で金がもどったと喜んでお礼として五両もらいました。盗人は苦労して三文にもならず、船頭が五両儲けましたので、権兵衛ごんにゃく船頭が利。 [骨折り損のくたびれもうけを意味する「権兵衛コンニャクしんどが利」という京阪の古いことわざをもじったサゲ] [#改ページ] 三人兄弟  エエ、お古いお話を一席伺います。  船場《せんば》で相当な商人《あきんど》のお宅で、ご子息が三人ござります。どこさんでもようあることで、兄さんが極道をなさるのに弟さんがえろう真面目なとか、弟さんが手もつけられぬ放蕩者《やんちゃ》やのに、兄さんがまたいたって親孝行の優しいお方や、などという噂をとかくあちこちで聞きますが、このお家はまたご兄弟三人が三人とも、揃いも揃うて極道《ごくどう》でござります。  一番の上が作治郎さんと申しまして、まずお遊びも新町なれば九軒の吉田屋、北なら平鹿、南地ならさしずめ富田屋という風にごく鷹揚な上品なお遊び方でござります。それにつけまして、お服装《みなり》もやっぱり、チャンと紺博多の角帯を貝の口に結んで、鉄無地|袖《そで》のお羽織に焦げ茶の紐、白足袋に表つきの堂島下駄という、おとなしい風をしてお歩きになります。  つぎが彦三郎さんと申しまして、これはまたどっちかといいますと、ほんの着流しに雪駄履きという好みで、まず越後町か南なれば中筋あたり、ちょっと爪弾きで新内でもという、ごく垢《あか》の抜けたいきかたでござります。  一番下が吉松さん。上の兄さん方とはガラッとやりかたが違いまして、阿波座の卯之《うの》はんというような遊び人の家などへ出入りをいたしますので、自然、風態から言葉つきまで変わって参ります。まア河内縞でも三宅のジャガというようなものを身幅七五三に仕立てまして、座ると膝が出て胸から腹掛けがのぞく、この腹掛けがまたやかまし物でござりまして、仕立屋が自慢の一針抜きというやつ、一針縫うては小さな槌でトントントン、また一針抜いてはトントントンと打って、十分念が入れてござります。寸法がキチンと合わしてあるので咽喉にキュッと食い入ってます。ウッカリ団子でも食べたら命にかかわるという、物騒な代物もあったもんで。盲紺《めく》の股引《ぱっち》に盲紺の足袋、股引《ぱっち》と足袋の空きが五分というのが定法やそうで、履物は南部表の五分高、八幡黒の鼻緒をすげた糸柾の神戸下駄で、背丈《せい》が低うて値が高い、持つと重とうて履くと軽い、まるで切支丹の化物みたいな、そのくせ新町の西口から入って東口へ出たらモウ台の打ち替えをせんならん。考えてみると随分不自由な下駄でおます。  懐には半紙一帖を四ツに折って始終入れて歩きますねが、これはもし喧嘩がでけた時に、水に浸けて額に当てごうた上から、鉢巻きをいたしますと刃物が通りまへん、頭を割られても血が眼へ入らん。なんや敗ける時のことばっかり考えたアる。豆絞りの手拭を鷲づか みにして、汁屋へ飛び込むなり、泥鰌《どじょう》を肴《さかな》に茶碗酒引っ掛けて、新町の吉原から松島あたりを流して歩こうという、えらい手荒い極道でござります。  三人とも夜泊まり日泊まり、お父っつあんが何ぼご意見をなされましても、馬の耳に風で、一向にこたえまへんとこから、とうとう三人とも二階住まいということになりました、御飯だけは下へ降りて食べますが、すむとすぐ放り上げられます。 「コレ作治郎やないか、わしの背後《うしろ》をソッと通って庭へ降りようと思うてくさる、油断も隙もありゃせん、何しに降りるのじゃ」 「ちょっとお手水へやってもらいますね」 「そんならそうというて行きなさらんかい……コレコレそこは下《しも》の便所じゃがな。何で上《かみ》のへ入りなさらん」 「ヘエ……アノ何でおますね……下の手水から、いっぺん来てくれという伝言《ことづけ》が……」 「阿呆言お……」 「イエあの……実はなんだすね、こない二階にばっかりいるものだすさかい、一ぺん下が歩きとうてな、せめて手水へ行く時だけなと、下駄が履きとうおますね」 「身から出た錆《さび》じゃ。チト性根に入りなされ。早う行ってこう」 「ヘエ……アアさっぱりわやや、ソッと出たろと思うたら見つけよった、……。アア臭さ、あんまり用事のない時に来るとこやないナ……まアせめてここから世間なと見たろかい。……アア横町の白犬が通ってよる、何や嬉しそうな顔に見える、……アア向こうから来るのは町内の歩きしてよる市助やナ。オイ市助……オイ市助……」 「ヘエ……どなただすいナ」 「市助、わしやがナ、ここやここや」 「ヘエヘエ……アア気味わる……声はすれども姿は見えぬか……アア怖わ……ここんとこホン嫌いや……昼でも狸が出やがんね……どいつじゃいッ」 「アアびっくりした、何じゃ大きな声で……上を向いて見い、市助ここやがナ」 「オオ兄坊ンさんだすか、びっくりしました」 「こっちがびっくりしたがナ」 「ご機嫌さんでおます、このごろ暫くお眼に掛かりまへんが、どないしてはりました」 「実はこのごろ二階住まいや、一足も外へ出してもらわれへんね、……それについてなア市助、お前に折り入って頼みがあるのやがきいてくれへんか」 「ヘエ。そらモウ、ほかならんあんたはんのお頼みだすさかい、どんなことでも致しますけども……しかしどういう御用でおます」 「今晩なア、ぜひとも新町へ行かにゃならん約束がしてあるのや、ところが今いうたような訳で出られへんやろ、そこで頼みというのは、今日、日が暮れてしもうたら、お前、梯子を持ってソーッと裏へ来ててんか、わしが様子を見計ろうてエヘンと咳払いをするよって、そしたら屋根へ梯子を掛けてくれるのや、わしは梯子で降りて新町へ行く、とまアこういう段取りや」 「滅相な、謝っときます。そんなことが親旦那に知れたら、私がどないいうて叱られるか分からしまへん、このお町内に置いてもらわれんようになりますがな、それだけは堪忍しとくなはれ」 「アアそうか、……イヤかめへんかめへん、えらい無理なこと頼んで済まなんだなア……お前が厭ならまた他の人に頼むさかい、ちょっともかめへんで、しかしやなア、まあこんなこと言うのやないけど、お前がこの前、しょうもない安物買うた罰で、年甲斐もないけったいな病気もろうて来て、医者に掛かる銭はなし、というてほっといたら鼻がないようになってしまうワ、さればというて町内の人にそんな話もでけへんわなア、難儀してるちゅうのを聞いて、病の根の絶えるまで、道修町三界からわざわざ薬を取り寄せて、誰にも知れんようにズッと服《の》ましてやったん、あら誰やったいな」 「ワア辛いな……イエもう、あんたはんのことなら、どんなことでも諾きはしますねが……ヒョッと知れたら」 「心配しいな、知れるような不細工なことしやへん、わしがスッと降りるなり、お前がスッと梯子を持って去《い》ぬのや、知れるはずがあるかいナ、わしやまたじきに帰って来るのや、帰りにはお前に知らすわなア、お前が梯子をちょっと掛けるワ、わしがスッと昇るワ、梯子をヒョイと担《かつ》げんかい、それでしまいや。そうやろがナ、なに心配してるのや、なア市助、これが旨いこといたらナ、もうせんどお前が欲しがってた、あの莨《たばこ》入れもやるで。別にお礼が一両、どうや、厭ならかまへん」 「ワア辛いな、……ウーム辛いなア……」 「阿呆やなア、お前。こんなぼろいこと逃がしたらあかへんで、ナ承知しとき、サア手付けや、今これ、一歩やる」 「ヤよろしおます、額《がく》の顔拝んだらモウ断れまへんワ……イヨー一歩金でやすか、これが……ピカーッと光っておますなア、大きに……あかん。やっぱり狸や、頂いたら額がないようになった、ア怖わ」 「何してるのや、あんまり頂きすぎるさかい後ろへ落ちたのやがナ」 「ああホンに落ちてました、そやけど頂かんならんもんだすな、一歩の額が二つになってます」 「あんじょう見い、一つは茶碗の破片《かけ》や」 「アアさようか」 「慌て者やなア……そんなら頼むで、……へエお父っつあん、少々お通しを」 「コレ少々お通しやない、いつまで手水へ入ってるのじゃいナ、早う上がって寝てしまいなされ」 「お休み」  二階へ上がりましたが、入れ替わって降りて来たのが次男の彦三郎さん。 「どこへ行くのじゃ」 「ヘエ、ちょっとお手水へ……」 「早う行て、早う寝よ……」 「お休み」  後へ降りて来ましたのが弟の吉松さん。 「コラ親父、チョット退《の》け」 「コレ。そら何ということを言うのじゃ、親をつかまえてコラ親父なんて、どこへ行きなさる」 「雪隠《せんち》へ行くのじゃい、疑うのんならついて来い、ヘヘンじゃ……サア行て来たった、上がって寝てこましたるさかい、喜びやがれ、何ちゅう顔さらしてんネ。阿呆ンだら、鼻糞ほどの金持ちやがって、子が使えへんかと思うて、ビクビクさらしてけつかる、この世へ金の番に生まれて来やがって、ザマ見され、サア退け退け、テトロシャンシャンの、ナダメコヒョイヒョイ……笹屋の佐助さんでサササのサッサで、北国屋の庄やんでキタショウ……イと……。オイ兄貴、作兄」 「アア吉やん、お前まだ寝てやへんのか、早う寝んかいナ」 「寝んかいないうたかて、赤子やあるまいし、アカの宵から眠られるかいナ、しかしうちの親父は何とした奴やろ、人生五十年というのに、あいつは六十をとうに過ぎてスカみたいな顔してよる、ヒョッとしたら死ぬのん忘れてよるのと違うか。持って死にもでけん銭を、せんぐり増やして喜んでけつかる、因果な奴やで、ちっと減らして罪亡ぼしをさしたろという、結構な息子を二階へ押し込めやがって、しまいに罰が当たるぞ、ほんまに……、アーアしようがないなア、どや、八八引こうか」 「わしゃ、そんなこと知らん」 「知らんのか、どじやなア、八八ぐらい知らなんだら、交際でけへんで、まア知らにゃしようがない、つッこいこうか」 「知らんなア」 「フン。そんなら札《ふだ》なおしとくわ。これやろ、賽《さい》や、丁半どうや……知らんか、しようのない奴やなア。お前らみたいな甲斐性のない奴がいるよってに、こんな二階へ上げられて、寝てんならん、ざま見やがれ、お前らに蒲団二帖はもったいないワイ、一帖ずつわいに貸せ」  二人の蒲団を取って、自分が四帖も着てそのままゴロッと仰向けになるなり、グーッと高鼾《たかいびき》で寝てしまいましたが、一番上の作治郎さんは、今夜脱けて出るあてがあるので、なかなか寝まへん。 「吉やん、小坊ン……、コレ中坊ン……、よう寝てよる」  そっと蒲団から這い出しまして、物干しの出口からゴロゴロを開けて、物干しへ上がります、手摺りを越えて屋根へ降りましたが、瓦が冷え切ってござります、音のせんようにソロソロ歩いて屋根の端まで来たとこで、エヘンと咳払いの合図を致しますと、下では市助が一両の金儲けやというので、宵から待ってよる。ソレきたちゅうので、梯子をニュッと突き出しましたので、すぐ降りようと思うたところが、誰しも覚えのあることで、寒い時分に寝間から出て、風にあたりますと急に小水《ちょうず》をもよおします。作治郎さんも寒い風に吹かれたところへ冷たい瓦を踏んだものでやすさかい、降りる間の辛抱がでけん、屋根へつくばってやってるとこへ、こっちは中坊ンの彦三郎さん、ウツウツしてるとどうやら兄さんが物干しから屋根へ降りた様子でおます、おかしい具合じゃわいと、はね起きて自身もそっと物干しから屋根へ降りて見ていると、エヘンのニュウで梯子が出ました。ハハア兄貴め、えらいことを仕組んでよる、よし、わしもこれで降りたろ。ずるい人で兄さんより先に降りて来ました。 「誰や、こんなとこへ梯子出してるのは、アお前、市助やないか」 「アッ、あんたは中坊ンさんだすか」 「よう気が利いたナ、大きに憚りさん」 「もし、そら応対が違いまっせ、貴方を降ろすのと違いますがナ」 「やかましい言いな、帰りに土産持って寄ったる、兄貴はあとからすぐに降りて来るけど、何も言いなや」  プイとそのまま遊びに行てしもうた。兄さんは何も知らずにそのあとへ降りて来まして、 「アア市助、ご苦労はん、サア約束の金と莨入れ、これ取っとき、早う帰れたらまたこの梯子で上るけど、おそうなったらかめへんさかい、心配しいなや」  プイ。これも行てしまいました。そんなことは存じませぬ弟の吉松さん、グッスリ寝込んでおりましたが、物干しの出口の戸が少しばかり開いていたので、針の穴から棒の風とか申しまして、冷たい奴がヒューッと当たります、フッと眼を醒ました。 「アッアー。……オオ寒む……、アアよう寝た……。オイ兄貴……、コウ中兄《なかて》……、よう寝てケツかる……。エエイ何じゃ肩が凝ると思うたら、仰山蒲団を被《き》せやがった……、けったくその悪い何しやがんネ……。しかしもう何刻《なんどき》やろう、まだ夜中までは間があるやろうナ……。今頃は色町の宵や、あの世界はまた別やな……アあいつどないしていよるやろ、アア行きたいなア……同しうどん屋でも、ここらの奴とは声の出るとこが違うで……。『うーどん……やウ、イ。そーウばイヤウーイ……くーじら汁イ、どじょう汁ウーイ』……。エエ、あの声聞いただけでも、色町へ来たなアちゅう気がするで……『河内瓢箪山……恋のウー辻占ア……、……お座敷でのお愛嬌……待人あぶり出し……かアわちイ、あぶり出しイ』アハハ、河内があぶり出せるかい……。♪赤襟さんでは年期が長い、仇な年増にゃ間夫がある……テトロテンテンのスッチャラチャンのチャンチャン……、向こうの方で甲走った声出しやがって、ナ『お竹どん……お竹どん……、どこへ行きやんや』『ちょっと玉水まで三ツ鉢いいに……』『こないだは寅やんと、道者横町の辻でお楽しみ、ピー』てなこと言いよって……。アア行きたいなア……。オイ兄助、……中兵衛、よう寝やがったなア……。エエ遣《や》り手めが眠たそうな声で『末広家はーん……、末広家はーん……』『へエ』『熱うして二つや』『うどんだっか』……『イイヤ、きつね』……アア堪らんなア、オイ兄貴、起きイな一ぺん、……ようどぶさったなア……♪手枕さし替え顔見合わせて、あの憎らしい鐘の音……チャラチャンのチャンチャンの、オッピコピョイのピョイピョイと……。『粋《いき》な兄さんお入りやす……入てやったらどうやねん』『オオご親切に甘えて、ちょっと見せてもらいまっせ……。えらい皆くすぼった顔してるなア、こら五百羅漢の土用干しか』『憎たらしい口やなア、貴方は』『真ん中にいる娼妓《げんさい》、あれ何ちゅう名や』『ええお妓《こ》やろ、此松《これまつ》さんいうのや』『ハハア、道理で大きな尻やと思うたワイ、……此松たちまち大ケツとなり、いうさかいナ……。こっちの妓はまた、えろううかめた顔してるねナ、オイ一ぺんこっちを向いて見せたらどうや。……アアそれでこっち向いてたんか、アハハこら済まん、堪忍してや……わしに色眼と思うていたら、サッパリすかたん藪《やぶ》にらみちゅうやつやナ……。その隣はまた煙管掃除によう精が出るやないか、……なかなか手付きがええがナ。ハハアお父っつあんの商売それやな、……ヘヘヘちょっと面白い商売やで。抽出《ひきだし》の仰山ついた荷|担《かた》げて、鼠色の手拭で頬被りして、……ダオーシカエー……』『けったいなひやかし方せんとおきんか、うちの恰好が悪うなるがナ』『何吐かしやがんね、このうえ悪うなれる家かい、オイ、掃除がでけたら一服つけて出しや』『阿呆らしい、お前はんらにつける莨はあれへんで』……『己れのくらう莨もないのやろ』『ようあんなこと言えるでナ、心配しいな、莨は仰山買うたアるわいナ』『そやそや、仰山買うたアるなア、皆煙草屋に預けてあるのやろ、いる時は端銭《はしたぜに》持って取りに行くのやろ』『なんでそない憎たらしいこと言うのや、ナア仲直りして一ぺん揚がっといナ』『揚がれ揚がれは曳子《ひきこ》の習い、去《い》んで寝ちゃんせ末のため、ちゅうわい。……端の妓は何ちゅうのや』『八重はんや』『何、弥兵衛はんか』『女に弥兵衛はんがあるかいナ』『弥兵衛は知らんが、八兵衛はあるワイ、……向こうの二番目は』『桜はんいうのや、ボッテリとよう肥えてはるやろ』『肥えてるもんか、ありゃ腫れてよるのや。桜々とウダ腫れてというてナ……。アハハそれでも生きてるかして動いてるワイ』『動かいでナ、うちの娼妓《こどもし》は皆米の飯食べさしておますのや』『嘘吐け、お粥ばかり食わしやがって』『そんなこと知ってるのんか』『こんな稼業する者はナ、三度三度お粥の方が悪い病が抜けてええのじゃワイ』『何でやネ』『女三カイに梅毒《ひえ》なしというわい』『もうええ加減に去《い》になはれ、あとがつかえるがナ、退いたらどうや』『狸|憑《つ》きみたいにいうない、退けやなんて、いわんかて去ないでかイ、いつまでも見てたら眼の恰好が悪うなるわい、テトロシャンシャンのスッカラカンのカンじゃ』……オイ二人ともどうや……、何とよう寝さらしたもんやなア……。♪またしても刃物三昧怖くはないが、今朝の一言気に懸かる、いトろトはトにトほへとサッサじゃ……。『ア、吉ちゃんやないか。コレお少婢《ちよ》やん。吉ちゃんが表を素通りするがナ、早う行て留めてえナ、チョッと吉ちゃーん』……庭へ飛んで降りるなり下駄と草履を片っぽずつ履いて、ガタボソガタボソ……。『チョッと、吉ちゃんやないか、何で素通りするのやいナ、なアいうたら、吉ちゃんいナいうたら、……ええナいうたら……』『うるさいわい、吉ちゃんやないかとはどうや、昨日や今日の馴染やなし。大てい嗅《かさ》でも分かりそうなもんやろ』『サア吉ちゃんや思うたよってに、吉ちゃんと言うたんやないか、なアて……そんな怖い顔するのん厭やいうのに、なアて……入りんかいな。吉ちゃん……早ういうたら』『放してんか、銭がないので泊まりが買えんのや』『またあんないけず言うて……いつでも、銭がないかて揚がってるやないか、何で今日にかぎってそんなこと言わんならんのや、……お少婢《ちよ》やん、これ持って、横町であんじょうしといて……』と、締めてた緋|扱帯《しごき》をクルクルと丸めてお少婢《ちょぼ》に渡しよる……。『何しててやね、早う揚がりんかいナ』……トントンと上がって部屋へ入るワ……。『オイ一杯飲むで。何でもかめへん、ちょっとそういうて、一本つけといて』……てなもんや。『マア吉やん、何刻やと思うてるのや』『サア何刻やろなア』『モウ八刻《やつ》前やがな』『そないよう知ってる者が、何で知らん者に訊くのや』『サアいな、もうこないおそいのやよって、また明日でも、ゆっくり朝から飲んでやったらええやないか。なア、もう今夜は飲まんと寝なはれいナ』『フーム、すると何か、夜が更けたら酒が飲めんというのか、わりゃ俺の口をひじめるのか』『何もひじめるのやないけども、今頃から飲んで寝たら毒やさかい、辛抱しなはれというのやないか、貴方、そないわたいの言うこときかれんか』『ぐずぐず吐かすことないわい、黙って持て来いッ』……『なんでそんな無理ばっかり言わんならんネ』『言うたらどうしたんじゃい、ど多福め』『お多福は生まれつきや』『コラ洒落やがって、口答えさらしたナア』『叩きやがったナ、女を叩くは犬猫を叩くも同然や、さアなんぼなと叩け』『オオなんぼでも撲ったるワ』『ヒー、サア殺せ』……ドタバッタンドスーンとやると婆がびっくりして上がって来よる。……『コレまア吉ちゃん、どないしたんやいナ。ちょっとまア待ちというのに』『イヤおばはん、放っといて、こんな餓鬼、なアなアいうてたら癖になる』『おばちゃん、かまわんと降りとくなはれ、ど甲斐性のあるだけ叩かしたるね』『コレ何やいな、この妓は。女だてら、そんなこというさかい男を怒らすのや、また吉ちゃんも吉ちゃんや、そんな手荒いことせんと、あんじょう言うて聞かしてやったらええやないか、全体どないしたというのやいナ』『おばはん聞いて、大体人を莫迦《ばか》にしてけつかんね、俺が酒を飲むよって、その拵えせえというのに、いやモウおそいの、ヘッチャクレやの、逆らうようなことばっかり言やがんネ』『イーエいな、おばちゃん、飲むなというのやないけどなア、夜が更けてからは毒やさかい、明日の朝にしなはれいうたら、口答えするいうて、叩くのやがナ』『そりゃ吉ちゃんが無理や、しかしあんたも悪いで』『なんでわたいが悪いのや』『イヤ悪い、こら今晩飲ましたらいかんなアと思うたら、よけい素直に拵えをするのや、サア何にもないけど辛抱して飲んどくなはれ、しかし時刻もおそいしするさかい、身体のためにようないよって、前で心配して見てるあてが可哀想なと思うたら、なるべく控えとくなはれやと、女らしゅういうてみなはれ。男というもんは子供と同じことや、腹も何もあらへん、自分の言い条さえ通ったらそれで得心するのや。そない心配するのやったら、明日の朝のことにしょうかいと、こうなるのや、つまり貴方の言い回しが悪かったんやさかい、あとでよう謝っとかないかんし、また吉ちゃんも叩いたりして何やいな、何もこの妓が悪気で止め立てしたのやなし、皆あんたのためを思やこそ気に入らんことのひとつも言うのやないか、そらこの妓かて他の人と違うて、あんたに叩かれたんやさかい、口ではあないいうてても、腹では嬉しいのやろ、泣いたかて嬉し泣きやろけども、やっぱりまだ奉公してる身体や、親方から苦情が出たりしたら、いらん断りの一言もいわんならん、なア吉ちゃん、そうやろがナ、まアお互いにあんまり仲がようて、遠慮がなさすぎるさかいでけた喧嘩やろけれど、あんまりこの妓を虐めてやるのは殺生やし、可哀想にこの妓というたら明けても暮れても、あんたのことばっかり想い通しているのやもんナ、チョッと二日も顔を見なんだら、それこそ大騒ぎや、風邪でも引いたんやないやろか、えろう悪いのと違うやろかいうて、皆がうるさがるほどやかましいいうのやがナ、この間もあんた可笑《おか》しいのやで、妙見さんへお午《うま》の詣りをするのやさかい、付き合うてくれちゅうものやよって、まア一緒に行たと思いなはれ、途《みち》で堀江の橘《たちばな》通りを通ったらナ、荒物屋の表へじっと佇《た》って動けへんねがな、ナアおばちゃん、二人暮らしやったら、どのくらいの大きさのお櫃《ひつ》やったらええのやたら、お膳は抽斗のついたのが欲しいたら、男のお茶碗は大きい方が値打ちがあるたら、何や彼や言うもんやさかい、小僧《ぼん》さんがじいと顔見るのやがナ、あて照れ臭い。まア他の妓というたら、やれ鮓《すし》やの饂飩《うどん》やの善哉《ぜんざい》やの、店屋物《てんやもの》のことより他に考えてやへんのに、この妓はモウ世帯道具ばかり欲しがっている、一日も早うあんたと一緒になるのを楽しみにしているのや、そんなこともちょっと考えて、もう少し可愛がってやらなあかへんし、明日でもまたこの妓の悪いとこは、あてがよう言うて聞かしとくさかい、今夜はこの婆に免じて堪忍してやっとう。コレお前はんもいつまで泣いているのやいナ、早う何なと見繕うて、機嫌直して飲んでもらいんか、サア早うしんかというのに、わたいが按配してお相伴もしたいのやけど、まだ娼妓さんが二人残ってるのやがナ、あの妓らをしもうてもらわにゃ、どないも出来へん、下へ降りて来るよってに、具合ようして吉ちゃんによう謝っときで、そんなら吉ちゃん、どうぞよろしゅう頼んます』『イヤ済まんなア、お世話はんだす。……それみい、しょうもない片意地ぬかすさかい、おばはんの世話にならにゃならぬ』『あてが悪かったんやワ。貴方の気もよう知ってるくせに、なんでわたい、こんな阿呆やろ』『分かりさえすりゃそれでええがナ、しかし痛かったやろ』『痛かったかどうや分かれへんけどな、さっきあんたが、コラもっと撲ってやろうか言うて、手を振り上げたやろ。あの時の男らしい恰好いうたら、下から見上げてアアええ男やなア思たらナ、笑いなや、身体がゾーッとして、いっそ殺して欲しかった』『けったいなこというない、どついてもこたえん奴やさかいしようがない、サア何なというて来んかい』『何がええやろ、お少婢やんに蒲鉾買いにやろか、それとも海苔買うて炙ろうか』『堪忍してくれ、講詣りの朝飯やあるまいし、蒲鉾や焼き海苔で酒が飲めるかい、鰻の蒲焼でもいうて来い、お婆はんにも一人前取っといたれ、ついでにいるだけの娼妓にズーとまむしでも配ったれ』『まア吉ちゃん、なんでそない無理ばっかり言うのやいナ、今夜の泊まりをどないして払うたか知ってるくせに』『なさけない顔してくれな、サアこれであんじょうしとけ』というて、懐から財布をポーンと放り出したるね、財布の中と俺の顔をジイと七分三分に見比べやがってナ、……『まアこの人いうたら、見んか、こんな仰山お金持ってるくせに泊まりの銭もないやいうて、人に心配さすのやワ、憎たらしいなア、ほんまに』……ぼやいてるもののやっぱり嬉しそうにして降りて行きよる、しばらくすると膳の上へ二鉢ほどの肴と、銚子一本載せて上がって来るなり、俺の顔を睨みよる……。『何やいナえらそうな恰好して、ちょっと手を伸ばしてお膳ぐらい受け取ってくれたらどうや』『ヘン天竺猿やあるまいし、そんなとこまで手が届くかい、こっちへ持って来い』『まアこの人いうたら、女房を使わにゃ損のようにしてるねワ、サアお飲《あが》り』『オイきた、何じゃこの肴は』『鰻屋はモウしまいやいうよって、玉水へやったんやけど玉水も山入れたとこで何も出来へんネ、煮売り屋の物やけどこれで今夜だけ辛抱しといとう』『ほほウ、えらい物持って来よったナ、何や鰤《ぶり》の煎付《いりつけ》に昆布巻きか、こっちが慈姑《くわい》か、こら結構や』『ちょっとまアあんた、この慈姑食べるのんか』『食うて悪い物なら何で持って来たんや』『頼むさかいそれだけは食べんとおいとう』『俺はこれが大好きや』『それでも慈姑は男の精を落とすというやないか』『俺みたいな暇筋は、慈姑なと食わなしようがないわい』『まアどう言やこう言うと、ようそない無理が言えたもんや、アアッ食べたらいかんというのに。吉ちゃんいうたら、キャア、食べたら厭やーん』……フワーイ、ああ行きたいなあ。兄貴、中兄《なかて》、一ぺん起きて俺の惚気《のろけ》も聞いてくれ、オイ兄貴、オイ、オイ……」  蒲団をめくると蛻《もぬけ》の殻《から》。 「アッいよれへん……オイ中兄、しっかりしんかいナ、兄貴はいやへんがナ」  揺り起こそうと思うたらこれも空っぽでやす。 「アアッ、二人ともいやがれへん」  ふと気がついてみると、物干しの戸が少し開いて、薄明かりがさしています。 「ウームここから出やがったのやナ」  そのまま着物を引っ掛けて、屋根へ出るなり、今度はエヘンも糞もおまへん。裸足で往来へ飛び下りるなり新町へ走ってしまいました。夜がガラリと明けますと、上の作治郎さん九軒から出て通り筋をブラブラ戻って参りますと、塀《へ》の側《かわ》の角で、中の彦三郎さんとベッタリ。 「オオ兄さん」 「イヨウ中坊ンかいナ、どないして出て来たんや」 「貴方が市助に梯子掛けさして小便してなはる間に先へ降りましたんや」 「無茶するなア、小坊ンはどうしたやろ」 「よう寝てました」 「アハハ、帰ったら怒りよるやろ」  話をしながら新町橋を渡ろうとすると後ろから、 「オイ兄貴、オイ中兄《なかて》」 「アッ小坊ンやないか」 「オイオイ腹の悪いことすない、二人腹合わして、俺一人ほったらかしやがって」 「イヤ怒りな、そうやないネ、二人とも別々に出たんや、まアとにかく一緒に帰ろ……お父っつあんが店にいにゃええがナ、アアもう帰って来た、一ぺん様子見るワ……ワーッあかん、お父っつあんが座ってる……怖い顔して莨吸うてるで……中坊ン、お前一番先に出たのやよって先に入り」 「阿呆らしい、弟が兄より先へ行けますかいナ、まア兄さんから」 「しょうもないとこで遠慮しよる、まア奉公人のいぬ間に入る方がましや……ヘエお父っつあん、お早うさんで……」 「何がお早うさんじゃ、コレ作治郎。こなたは二階にいるはずじゃに、何で表から入って来なさった」 「ヘエ……」 「ヘエじゃありゃせん。どこへ行てたんじゃい」 「実はその……夜前は謡《うたい》の会に参じます約束がしてござりましたので、ソッと抜けて出て分からんように早う帰るつもりでござりましたのやが、ツイツイ夜が更けましたので……」 「コレ嘘もええ加減にしておきなされ、えらい謡があったもんじゃ、奉公人の手前もあるわ、極道めが、誰にも見られんうちに二階へ上がりくされ」 「エヘ……」 「中兄、兄貴どないしよった」 「エライ怒られて、今二階へ上がらはった」 「そんならお前早う行き」 「フム、……ヘーッ。お早うさんで……」 「彦三郎、お前も二階にいるはずじゃないか、なんで表から入って来たんじゃ」 「ヘエ……昨夜は宗匠のとこで開きがござりましたので、ちょっと内密でやって頂きましたところが、マアついその、余りはずみましたので、早う帰るつもりのが、思わず夜通し……」 「嘘|吐《つ》けッ」 「イエほんま吐《つ》いてます」 「ほんま吐くちゅうことがあるかい、呆れて物が言えんわい、二階へ上がろッ」 「オイ帰ったぞ、コラ親父、婆ア、お帰りと吐かさんかイ」 「ギェッ、そ、そ、そりゃ何ちゅうざまじゃ、裸足で尻めくって、肩へ拳骨突っ張りくさって、どこへ行てたんじゃ」 「問うだけ野暮じゃい、新町へ遊びに行てたんじゃ、遊びというたら、女郎買いじゃ、姫買いのことじゃ、分かったか、俺は二階で寝転んでるよって、茶が沸いたら飯食うたるさかい、すぐ知らせ、何なら二階へ持って上がれ、ええか頼むぞ、テトロシャンシャン」 「なアお父っつあんいナ」 「何じゃ婆どん」 「わたしゃモウ情けのうて涙も出やせん、現在の親をつかまえて親父じゃの、婆アじゃの、隠すでもあろうことか、女郎買いに行たんやなんて大きな声出して、あんな奴を産んだかと思うと、わたしゃあんたに面目ない、そこへいくと作治郎は謡の会へ行たとか、また彦三郎は発句の巻開きに出たとかいうだけ、まだしおらしいとこがあると思いますわいナ」 「しかしなア婆どん、この家の相続をさすのは、どうやら吉松より他にないらしいわい」 「なんでまよりによって、あんな無茶者を見込みなさるのや」 「それでもなア、あいつだけがほんまのことを言いよった」 [#改ページ] 質屋《しちや》芝居  昔からただ今までございます商売で、質屋さんという商売がございますが、まあ近頃のお方は、あんまり質屋さんなどへお越しになる方は少のうございますが、あの質屋さんも近頃では名前が変わっとりまして、横文字で書いてございます。パンストリー、こないだも質屋さんの前へ行きましてバーと間違うたりしたんですが、今日お越しのお客さん方は、質屋さんのシステム、ルールてなものをご存知ないと思うんですけれど、何か品物を持って行きまして、これでお金を借るんですけれど、お金を借りますと、かならず質札というものをくれますが、この質札に借った金額が書いてございまして、月になんぼならなんぼという利子がつきます。  ほいで三月置いといて四月めになりますと流れますんです。それを三月でとても出せなんだら、四月めから利上げちゅうやつを致しますと、いつまででも置いといてくれはるんですけれど、私なんか、ずいぶんと流したもんでございまして、もうほとんど時計から靴下にいたるまで、まあずいぶんと昔は貸してくれたもんです。  手袋にしろ靴下にしろ、足袋にしろ、もちろんマフラーなどはええ値で貸してくれましたんですけど、もう近頃はそういうとこへ、あんまりお越しになる方がございませんけれど、このお噺はごくお古いお噂でございまして。  商売が質屋さん、ここの家が変わった家で「眼の寄るとこへ玉」「類は友を呼ぶ」とか申しまして、ご主人は申すに及ばず番頭さんから丁稚さんにいたるまで、いたって芝居好きでございますが、今日も今日とて朝、店をきれいに掃除をいたしまして、表へ水をまきますと暖簾を掛けて、これからいよいよ商売をしようというところへ、表から忙しそうに入ってきたお客さん、 「おはようさん」 「おっ、こら松っつぁんでっか、早うからどないしはったんで」 「いえ、実は、わけ言わな分かりまへんねん。へえ、うちの親類でちょっと不幸がとれましてなあ、へえ、急にあんた知らして来たもんですさかいねえ、いいええ、お宅へこの前、当分こんな物いらんやろうと思うて、葬礼《そうれん》用の裃《かみしも》を預けてましたやろ、あれが急にいるようになったんで、ええ、ほいで慌てて出しに来ましたんですわ。ここにあの札《ふだ》と銭《ぜに》とちゃんと揃えてますさかい、ひとつお願い致します」 「ああさよか。ご親類にご不幸があって、そら大変なことで……。いえいえ、すぐに出さしますで、これ定吉」 「へえ、何でおます」 「三番蔵に行ってな、松っつぁんの葬礼用の裃をすぐに出して来たげておくなはれ」 「アノ、三番蔵のどこらへんにおます」 「たしかなあ、一番上の棚の端にあったと思うねん、すぐに分かるはずや」 「ああ、さよか、ほな行ってさんじます……三番蔵や言うてはったなあ」  ガラガラガラガラ……(おはやし) 「ホウ、ええ音がしたあるがなあ、隣の稽古屋や、この蔵へ来るのの楽しみはこれや。いつでもこの蔵へ用事に来たら、隣の稽古屋でええ音がしたあるねん、ははあ、序の舞ちゅう三味線やなあ。そや、ちょうどええわ。年の暮れや。かならず年の暮れには忠臣蔵という芝居が出るねん。あの三味線はこの芝居にもってこいや。三段目の喧嘩場。判官さんと師直《もろなお》の松の廊下の喧嘩、そや、ちょうどええわ。ええっと、一番上の端に入ったあると言うてはった。ああ、あったあった。ナ出しに来たもんがこの裃や、せっかくこれだけ道具立てがそろうてあるねん。ナ、この裃つけて、これからひとつ忠臣蔵の芝居でもやったろかい」  ………… 『遅い遅い』『遅なわりしは、拙者重々の誤り。まだ御前に出づる間もあらんかと、次に控えおりしところ、身共が家来、早野勘平をもち、妻顔世、出頭公へ和歌の添削。いざ、ご披見《ひけん》くだされ』『なに、そこもとの奥方顔世殿、この武蔵守に和歌の添削とな。どれどれ……。さなきだに……、さなきだに重きがうえの小夜衣、わがつまならでつまな重ねそ。判官殿、御身はこの歌ごろうじたか』『いまが初にござりまする』『判官殿、ご自慢さっせ、どこもとの奥方顔世殿、ご器量といい、ご手跡といい、ちとよまれる歌がかくのとおり。そのような美しい奥方のそばにへばりついてござるゆえ、かく登城が遅くなる。そこもとのような侍をものにたとえて申そうなら、井の内の鮒《ふな》。井の内の鮒と申しまするものは、わずか二間か三間の井の内をば天にも地にも代えがたきところと心得、井戸替えのみぎり、若い者に釣瓶《つるべ》にて汲みあげられ、やれ鮒じゃ、やれ殺せと騒いでおるところへ、身共のような慈悲ぶかあい者が通りあわせ、鮒めあわれと助けやり、大川へ放ちやれば、あまりの広さに度を失い、あちらの橋杭では鼻っ柱をピシャリ、こちらの石垣では鼻っ柱をピシャリ、ピリ、ピリ、ピリ、ピリとおてこねまする。そこもとがそのとおり、わずか五万三千石をば天にも地にも代えがたいところと心得、かく御殿へ登城なされば、あまりの広さに度を失い、あちらの衝立てでは鼻っ柱をピシャリ、こちらの柱では鼻っ柱をピシャリ、ピリ、ピリ、ピリとおてこねまする。おお、そう申さばそこもとの顔が鮒に似てきた。おお鮒だ、鮒だ、鮒侍だア』『出頭公には御酒召されたか』『判官殿、そこもといつ酒《ささ》盛られた。酒は飲んでも飲まいでも、勤むるところは、きっと勤むる武蔵守。そりゃ本性でお言やったか』『本性なればなんとした』『本性なれば』『本性なれば』『本性なればッ』  ………… 「もうし、あの裃どないなってまんねやろなあ、いえいえ、もうさっき、あんた、葬式が出かかってるもんやさかい、わたい慌ててお宅へ走ってきたんだ。早いこと裃出してもらえまへんやろか」 「こらえらいすまんこって、いえいえ丁稚に取りにやってまんねん。えらいすんまへん」 「お早うさん」 「おっ、こら芳さんでっかいなあ。何でんねん」 「いえ、ちょっとねえ……。こないだ預けた蒲団、へえ、大蒲団、いえ実はあれわたいのやおまへんねん。ハハハ、実は貸し蒲団屋のおばはんに借ったやつでんねん。エエ、銭に困ってるもんやさかいね、一時の融通にあんた、あの蒲団預けたんでっけど、もう朝からやいやい言うて来てまんねん。期限が切れてまんのや。ええ、三日間ちゅうてたのが今日で五日間で、へえ、ほいで朝からおばはんが来てやいやい言うてねえ、へえ、蒲団返せ、蒲団返せ、こない言うて来たもんですさかいね。しょうことなしに、銭あっちこっち走り回って、ようよう段取りして、札《ふだ》とこないして持って来ましてん。すぐに出してもらえまへんか」 「はあ、さよか。へえ分かりました。これ番頭どん」 「へっ、旦さん、何でおます」 「いや、実はなあ、ちょうどええとこや、芳さんとこの蒲団がなあ、三番蔵や、いやいや、三番蔵へはな、定吉が松っつぁんとこの裃を出しに行てるのや、ウン、入ったきり出て来えへんねん、すまんけどなあ、あの定吉に早よ持ってくるように急《せ》いてほしいねん。ほいでついでに芳さんとこの蒲団、すぐに出してくるように」 「ああさよか、へいわかりました。……何をしとるねやろ、また旦さんに叱られるようなことをしてよるねんでえ。エエ、……、やっぱり思うたとおりや、三番蔵へ来たらあないして芝居しとるね。裃きて目えむいとるでえ……おい定吉」 「番頭はんでっかいな、えとこへ来ておくんなはった。いいえ、役者が足りまへんねん。わたい一人で、あんた、判官さんと師直と二役やってたとこだんのや、いえ、これからねえ三段目の返しで、塀外ちゅうやつで、役者がようけいりまんのや。ちょうどええとこへ来とくなはった、ちょっと手伝うておくれやす」 「ようそんな気楽なこと言うてるで。松っつぁん、やいやい言うて待ってはるのやで。早よその裃持って行ってあげな、葬礼へ行かれへんで」 「もう葬礼行かんかてよろしいがな、別に。もう相手は死んでるんだ。よろし、よろしい、かめしまへん。すんまへんねんけどなあ、ちょっと手伝うておくれやす」 「阿呆なこと言いないな、わしかて用事があって来たんや」 「番頭はん、何しに来はったんで」 「何しに来はったて、芳さんがこの前入れた蒲団がこの三番蔵にあるちゅうてな、旦那はんが言いはったさかい……。お前、どこにあるか知らんか」 「ああ、それやったら、ちょうどここにおますねん。いいえ、ここに置いてますねん。これ、わたいがこの前、ここに置いたんだ。ええ、よう分かってまんねん。ちょうどよろしいわあ、見てみなはれこの蒲団、ちょうど縞になってまっしゃろ、粗い縞に。今言うたとおり、これから三段目の返し、塀外だ。塀外の書割《かきわり》にもってこいだ、これ。エエ、ちょうど道具立てが出来まんねん。へえ、こいつねえ、ここらの壁へ打ちつけてねえ、ほいで、この前でひとつ芝居しまひょか」 「そんなことしてもかめへんか」 「かまいますかいな。何を言うてなはんねん、あんたかて好きやねん、いたって芝居が。ええ、役者が足らんとこだ、手伝うておくなはれ」 「そうか、ホナわしにええ役さしてくれるのやったら手伝わしてもらうわ」 「さよか、ともかくな、わたい、勘平やりますさかい。すんまへんけど、この蒲団、そっちへ渡しますさかい……、イエイエ、こいつをね、ここらへ吊りとうおますのやけど、なんとか工夫おまへんか」 「そうやなあ、ここらへ……。そうや、引っ掛けるとこがないさかい……、ああ、ちょうどええわ、ここに道具箱があるわ、これ釘で打ちつけてしまおや。よっしゃ、そっちへ渡すさかい、そっちも打ちつけ」 「ああさよか、ほなこっちも釘で打ちつけときますさかい、ほな、いきまっせ」  ………… 『喧嘩じゃ、喧嘩じゃあ』 (義太夫)♪立ちさわぐ、表御門裏御門、両方打ったる館の騒動、早野勘平うろうろ眼《まなこ》、御門前へとさしかかる。 『やあやあ、門内にもの申す。塩冶《えんや》判官高定が家来早野勘平、主人の安否心もとなく、この門を開けた、開門、開門』 『そこは裏門、表御門へ回らっしゃい』 『裏門合点、表御門、諸士の面々、早馬にて寄りつけず、してして喧嘩の次第は何と、なんと……』 『喧嘩の次第は相済んだ、出頭たる師直公に手傷を負わせし咎により、屋敷は閉門、網乗物にて、とっ帰した』 『ゲ、ゲ、ゲ……、そりゃ網乗物とよな。館へは帰られぬか。いかがなさる』  ♪ 行きつ戻りつ思案最中。 「チャチャチャンチャンチャン……。道にてはぐれ……。番頭はん、あんた、そこで嬉しそうな顔して黙って見てるのやおまへんがな。あんたの出えでっしゃろ、お軽の出え。あんたがお軽になって出てくれな、あと芝居でけへん。アこら無理か。なあ、あんたにお軽やれちゅうのは、こっちが無理や。とてもあんた、お軽ちゅう顔やない、おさるみたいな顔して。ほなこうしまひょか、あんたの役柄にピッタリ合うた役でいってもらいまひょか」 「何かいな、ほな、わしはお軽はあかんのかいな」 「ああ、そらお軽は無理や。それよりね、あんたにうってつけの役、伴内《ばんない》いってもらいまひょか」 「伴内か、しょうもない役やがなあ」 「こらもう一番、食抜きの役でっせ、ひとつ頼みまっさ」 「そうか、ほなら、どうもしゃあない。ホナ行くでえ」 「参れ、参れえ」  ♪ かかるところ鷺坂伴内、家来引きつれいできたり。 『やあや勘平、俺が旦那の師直様とうぬが主の塩冶判官高定公と、何か殿中でボシャクシャ、ア、ボシャクシャとぬかしたそのあとで、小さ刀をちょいと抜いてちょいと斬った咎によって屋敷は閉門、網乗物で、あエッサッサ、ア、エッサッサ、ア、エッサ、エッサ、エッサッサ……と帰した。さあこれからはうぬが番、俺が所望のおか坊をイチャコチャなしに渡さばよし、いやじゃなんぞと吐かすが最後、搦《から》め取ろうが、さあ、さあ、さあさあさあ……勘平返答、何となんと』  ♪ 何となんとと詰めよったり。勘平プッと吹き出し。 『フ、フ、ハ、ハ、ハッ、ハッ、ハッハ……よいところへ鷺坂伴内、うぬら一羽で食い足らねども、この勘平が腕の細ねぶか、料理あんべい食らってみよやあ』  ♪ 大手を広げて身構えたり。 『それえー』  ………… 「もうし、わたいの蒲団どないなってまんのや、あんた蒲団屋のおばはんがやいやい言うてまんねん」 「もうし、もうし、早いとこ裃出してもらえまへんやろか。もう葬礼帰って来まっせ。早いことしてくれまへんか」 「こらまことにすまんこって、いえいえ、わたしが今度いてきますさかい」  旦那はん奥へやってまいりますと、蔵の中、ますます火の手があがったある。  ………… 『や、どっこいしょ』  ♪ 春の野山を見渡せば、……(おはやし) 「なんじゃ、遅い遅いと思うたら、また二人とも蔵の中で芝居してくさるね。しかし、なかなかようやりよるな。ははあ、この芝居は忠臣蔵の道行きやなあ。定吉が勘平か、なるほど、さしずめ番頭が伴内ちゅうとこやなあ。一番ええとこやがなあ。せめて花四天で手伝いたいけど、一人では何にもならんなあ。これだけのええ芝居に、木戸番がなかったらいかんがなあ。なんなとせないかんねんさかい、そや、わしが木戸へ座って札でも売ったろか。そうや、ちょうどここにええ台があるわ。この上へ座って札売ってこましたろ。さあ、いらっしゃい、いらっしゃい」  ………… 「もうし、けったいな家でんなあ、もう。入ったら入ったやつ、ちょっとも出て来えしまへんで、どないなってまんのやろ」 「もうぼちぼち、葬礼すんで骨揚げに行く時分でっせ、もう裃いらんようになりましたがなあ」 「そうでんがなあ、うちもでっせ、蒲団屋の婆あがやいやい、やいやい、あれほど言うてるんですさかいねえ、これで持って帰らなんだら、みてみなはれ、かならずお上へ訴え出よりまっせ」 「えらいことになりましたなあ、どないしまひょう」 「どないしまひょて、あんた、あんなもん、出てくるの待ってられますかいな。こないなったら、どうもしようおまへん、いっぺんあの蔵へ行ってみまひょ」 「行きまひょか、ほな、そないしまひょ、行きまひょ、行きまひょ」 「おっ、見てみなはれ、えっ、どうや。蔵の入口でおやっさん、台の上へ座って何や言うてまっせ。もし」 「さあ、札買うた、札買うた」 「何を言うてまんねん、これ。札買うた、札買うたやて、よう質屋のおやっさんが、あんな阿呆なこと言うてまんなあ」 「もうし、見てみなはれ、蔵の表だけやおまへんでえ、蔵の中、丁稚と番頭がえらい眼えむいて芝居してまっせ」 「あ、ほんに。何や出て来んはずでっせ、あんなとこで、ええ気持ちになって芝居しとるわ。もうし、もうし、あの丁稚が着てるあの裃、おたくが出しに来はった裃と違いますか」 「そうでんがな、あれ、しわくちゃになってしもたあるがな。あんなもん着て行かれへんでえ、葬式へ。えらいことしよって。もうし、あんた、何や、出しに来はりましてんなあ」 「わたい蒲団、出しに来ましてん」 「大蒲団でっしゃろ、見てみなはれ、向こうに釘づけにしておまっせ、あれ」 「えらいことしやがったなあ。無茶苦茶やがな、あんなもん、釘づけにしやがったらどもならんな」 「どないしまひょ」 「どないしまひょも、こないしまひょも、おまへんがな。こないなったら、もう、我われが蔵の中に入って、あの裃と蒲団と持って帰りまひょ」 「そや、そないしまひょ、そないしまひょ」 「コレ、コレ、どこへ行くのんじゃ」 「何を言うねん、どこへ行くんじゃて、蔵の中へ入るつもりや」 「蔵の中へ入る、せっかくやが、ただ入りはでけんぞ」 「阿呆らしい、表でちゃあんと先に札がわたしておますわ」 [#改ページ] 三枚起請《さんまいきしょう》 「源やん、今日は」 「喜ィやんか。サァこっちへ上がり、その蒲団を触ってみ、まだ温《ぬく》いやろがな。今までお前とこのお母《か》んが坐っていたのや。お前のことをいうて、えろう泣いてたで。チイと温和《おとな》しゅうせないかんで。そう年のいた者に心配をさしなや。聞けばお前このごろ夜泊まり日泊まりやそうやな。いかんで」 「誰がそんなことをいうてまんね」 「お前とこのお母んが来ていうてたがな」 「そら嘘だす」 「そうか。両方を聞いてみんと分からんもんやなア。お前そんなことをしやへんのか」 「ヘエ、夜は泊まって来ますけども、昼泊まるというようなことはしたことがおまへん」 「そら何をいうのや。それが夜泊まり日泊まりということや。しかしわが家があるのに、他所《よそ》で泊まるというのは碌《ろく》なことやない。またオイデオイデの逆様《さかさま》てなことでもやってるのやないか」 「ヘエ、オイデオイデというたらこうだんな」 「そうや」 「逆様というたらこうだっか」 「そんな仕にくいことをしいないな。そうやない。手の平へ三個《みつぼ》の賽《さい》をのせて、勝負というようなことをしてるのやないかというのや」 「源やん。お前のいうてるのは、そら博奕《ばくち》やないか」 「そうや、お前博奕を打ってるのか」 「源やん、博奕やなんて、フワア……」 「お前、嫌いか」 「イーヤ、好きや」 「なんや、フワアやいうよってに、嫌いかと思うた。そんな危ないことは措《お》きや」 「そら俺《わ》いかて知ってる。わが銭《ぜに》でして、お上《かみ》の罪人にならんならん。そんな馬鹿なことはしやへん」 「それに家《うち》を空《あ》けるというのは、どういう訳や」 「このごろ小指《これ》が出来てるのや」 「フム……阿呆らしなってきた。ショムない。惚気《のろけ》か。しかし出来たというのは白か黒か」 「横町で産んだんは、斑《まんだら》やで」 「誰が犬の仔を尋ねてる。お前の出来たという女は、素人か商売人かと尋ねてるのや」 「それなら、出て姫の玄人《くろと》や」 「いうことが丁寧な。出て姫なら商売人に違いないが、お前のことやで、ショムない芸妓《げいしゃ》にでも欺《だま》されているのやないか」 「侮《あなど》りないな。娼妓《おやま》や」 「誰が侮っているもんか。おやまか」 「ちゃんりん」 「掛け合いに喋りないな。また程《てい》のええことをいうてもろうて、のぼせあがっているのやないか」 「阿呆らしい。程のええことをいわれたぐらいで、こんな騒動が起きるかいな」 「騒動。大層にいいよったなア。どうした」 「こういう物がもろうたアるのや」 「なんや手紙か。文句に油かけてもろうて、のぼせてるのやろ。チョッと見せてみ」 「見せるけども手はきれいなか。穢《きたな》かったら罰が当たるで」 「頂いてよる。なんや。ひとつ、てんはつ、きしゃう、もんのこと。オイ喜ィやん。これ起請《きしょう》やな」 「ウム、そうや」 「フム、ショムない。おい。起請をもろうというような色事をしいなや。こんな物をもろうたんは弘法大師さんに髷があって手習屋《てらや》へ行てはった時分に流行《はや》ったんやで。ナニ。わたくし、ねんあき、さふらへば、あたさま。オイ喜ィやん、このあたさまて、こらなんや」 「あなた様やけども、なの字が脱《ぬ》けたんや」 「フム。なるほど、あなた様と。ふふ。ふふ。オイふふは」 「そら、ふうふやけども、うの字が脱けたんや」 「フーム、ぎょうさん脱けたアるのやなア。なるほどふふのやくそく、いたし、さふらふ、ところ、じっしゃうなり、よってくだんのごとし。なるほど。名前は下駄屋喜六さま。オイ様づけやな。どこの妓や。備前屋店、小照こと、本名たね。本名つきやな。備前屋の抱妓《こども》で小照というのか。本名たね。備前屋の抱妓で本名たね……たね……オイ喜ィやん」 「ええ」 「この備前屋というたら難波新地か」 「そや」 「この小照というたら年の頃二十二、三の」 「そや」 「もと堺の新地に出てた」 「そや」 「去年の暮れに大阪へ仕替え取って来た」 「そや」 「丸顔の」 「そや」 「笑うとえくぼの入る」 「そや」 「鼻の横にほくろのある」 「そや。両方に耳のある」 「当たり前や。フフン……あの小照か。ショムない」 「オイ源やん。無茶しいないな。ほったりして。お前はショムナイかしらんけど、俺《わ》いは神棚へあげて洗い米《よね》を供えて朝晩拝んでるのやで。この先をチョッと千切って水で飲んだら、どんな病でも癒るというぐらいや。もし火鉢の中へでもはまったらどうするね。プップップップッ」 「フン、こめかみに力を入れて怒ってくさる。そんな物なら俺《わ》いら煙草入れの中へ放り込んだアる。サアこれ見てみイ」 「エー、これ何や、一、天罰起請文の事。アア源やん、これ起請やな」 「そうや」 「ひとに起請をもろうのは弘法大師が髷があって手習屋《てらや》へ行てる時分やというていて、自分かてこんな物をもろうているがな。ナニ私年明き候えば貴方様と夫婦の約束致候処実証也。為後日依如件《ごじつのためよってくだんのごとし》。源やん起請の文句は一緒やなア」 「たいてい、文句は極まってる」 「名前は仏壇屋源兵衛様。やっぱり様づけや。どこの妓《こ》や。備前屋店。小照こと、本名たね。やっぱり本名つきで書いたアる。備前屋小照こと本名たね。アッ、備前屋……備前屋、店小照こと……店小こと店小照こと、本名たね……本名たね、源やんこれ一緒や」 「それ見んかい。それやよってにショムないというたが無理かい」 「下駄屋喜六様。仏壇屋源兵衛様。源やんここ違う」 「名前が一緒やって、どうするいナ」 「好きなお方は貴方一人やというときやがって、人を馬鹿にしよる。くそったれめ。イヒッ、イヒッ……」 「オイ、喜ィやん納《なお》し。喋りの清八が来た」 「源やん、えらい悪いとこへ来たなあ。また出直して来るわ。マア」 「オイ、清八や。入りんかいな。気の悪いことしないな。門口まで来て入らんと帰ったら気が悪いやないか」 「イヤ、入れてもろうてもだんないか」 「いつでも入るのに、今日に限って去《い》ないでもええやないか」 「そんなら入れてもらお。(煙草を喫いながら顔を見る)時に源やん。お前と俺とは何やえ」 「ケッタイなことを尋ねるなア。兄弟みたいにしている友達やないかいナ」 「オイ源やん。友達というものは飲んだり食うたりするばっかりが友達やないで。お互いにいかんことがあったら、ああやないか、こうやないかというてこそ正真《ほんま》の友達やと思うね。今門口まで来たら、喋りの清八が来たというたなア。俺がなんぞお前らの悪いこと喋ったことがあるか。済まんがいうて悪いことなら、一つしかないこの首がとんでも俺はいわんつもりや。それに喋りといわれたら、お前が気が悪いか、俺が気が悪いか、オイ」 「オイ清やん。ものをあんじょう聞いて怒りや。誰がお前に喋りの清八てなことをいうかいな。今喜イ公が来て、女《おなご》の惚気《のろけ》をいうてよるので、大きな声を出しな、そんなことを喋りな、いうてるとこへお前が首を出したので、喋りな、清八が来た、というたんや。誰がお前に喋りやなんていうかいな」 「アアそうか。源やん堪忍してや。わいは怒ると目が見えへんね。喋りと聞いたんで喜イ公の来てるのを知らんね。喜イ公どこにいるね」 「お前の横にいるがな」 「ほんに。ここにいるのが気がつかんね。ナニ。これが女に起請をもろうた。フフ。阿呆らしなってきた。ついこの間まで溝をまたげて小便をしてよったのに、もうそないになったか。オイ喜イ公、その起請とかいう物を俺にも一ぺん見せてんか」 「フッ、フッ、フッ」 「何がフッフッや。貸せ。ケッタイな奴やな。源やんこれか。オイ待ちいな。一ぺん読ましてくれ。ナニひとつ、てんはつ、きしゃうもんのこと。えらい肩の凝る書きようやなア。——わたくし、ねんあきさふらへば、オイ喜イ公、侯やみな本字で書いてもらえ。ややこしいてどもならん。あた……。あたさま、とふふ、あたさまとふふ。源やんこれなんや」 「サア、あなたさまとふうふやそうなが、あなたのなの字とふうふのうの字がぬけてるのや」 「フフフフフ、人間がぬけてよるよってに、もろうた起請の文句までぬけてるのか。ふうふのやくそくいたしさふらふところ、じっしゃうなり……。いよいよけんびきが肩越しそうな。文句は分かってる。名宛は……下駄屋喜六さま。オイ喜イ公、さまづけやな。色男。一ぺん鼻かめ。色男が鼻を垂れたりするない。どこの妓や。備前屋店、小照こと本名たね。本名付きやな。おたねというねな。ヤレおたねはん、おたねはん。備前屋店小照こと本名たね……。エエ……備前屋。オイ喜イ公」 「ええ」 「この備前屋というのは難波新地の備前屋と違うか」 「そや」 「この小照というのは年の頃二十二、三の」 「そや。源やんと一緒や」 「何が源やんと一緒や。もと堺の新地にいた」 「そや。源やんと一緒」 「去年の暮れこっちへ来た」 「源やんと一緒」 「あんなことばっかりいうてくさる。笑うとえくぼの入る」 「ちょっとも違えへん。源やんとおんなしことや」 「あの小照か」 「そや。源やん、また一枚出そうなで」 「そんなこというない」 「指物屋清八さま。備前屋店小照こと本名たね……」(起請を持って震える) 「あんたはん誰方《どなた》のお下《さ》がりだす」 「喜イ公そんなことをいうない、オイ……清八や、チョッと待ち。あぶない……オイ清八や」 「源やん放して」 「オイ、チョッと待ち。オイ喜イ公、お前がためにこんな騒動が出来てるねがな」 「アア、そうかいなア」 「頼りない奴やなア。手に出刃庖丁を持ってる。あぶない。喜イ公、早う取り」 「源やん。出刃やない、擂子木《れんぼ》〔すりこぎ〕や」 「清八や、擂子木を振り回してるのや、放せ、どうしたんや」 「源やん、俺は口惜《くちお》しい」 「清八や、泣いてるな。男が泣くのはよくせきのことや。一体どうしたんやいな」 「オイ、源やんこいつらはどういう事情でもろうたか知らんが、俺はこの起請については一通りや二通りやないね」 「そんなら貴方《あんた》はんのはよっぽど念が入《い》ってまんのんやな」 「何を吐《ぬ》かしてくさんね。……源やん話をせんと分からんがな。去年、親方の仕事で堺へ行てたんや。仕事が手張って帰るのがおそうなった。一杯飲んだとこからぶらぶら素見《ひやかし》に行たと思い。上がっとくなはれといわれて上がった、その時買うたのが彼奴《あいつ》や。初会から惚れたとか嫁はんにしてくれとか、程《てい》のええことをいいよる。うまを合わして二、三べん行たと思いんかいな。去年の暮れのことや。仕事から帰って来ると、路地の横手から手招きをする女がある。行て見ると彼奴や。貴方《あんた》の嫁はんにしてもらいに来たというので俺はガクッときたで。今お家へ入れてもらえんことはよう知ってるわ。実は貴方《あんた》に逢いたいがために、大阪へ仕替えを取って来たのや。いろいろ話があるよってに、今晩どこそこまで来てくれ。よっしゃと早速その晩行たと思い。なんと俺の顔を見るなり二十円の無心や。貴方にこんなことをいうて済まんねけども、二十円ないとどうすることも出来んね。仕替えを取ってお金も掴《つか》んだけどもいろいろに要《い》ってしもうた。他に頼むお客さんも沢山あるけども、他のお客さんに頼んだら、貴方と世帯する時の足手まといやよってにどうぞ諾《き》いてくれといいよる。俺もよっしゃと引き請けたが二十円のことはさておいて五円の工面もつかん。そこで俺の妹が上町に奉公をしてるので、妹のとこへ行って空涙《そらなみだ》をこぼして、妹、実はお母んの病気や。お医者はんに診《み》てもろうたところが、今度はどうもむつかしいといわれるので、どうぞしてもう一ぺん元の体になりまへんかというたら、ならんことはないが、これには人参《にんじん》という高薬《たかやく》を盛《も》らねばならぬ……」 「オイ清やん。わいが真面目で聞いているのに芝居をする奴があるかいな」 「妹、なんとかならぬもんやろうかというたら妹が、兄さん、わたいに甲斐性がないよってに、あんたにこんな苦労を掛けまんね。待ってとくなアれやと、内らへ入って持って来た風呂敷包み。嵩《かさ》こそ高いが木綿物ばっかり。六一屋へ持て行ったら六円七十銭しか貸してくれへん。妹のところへ引き返して行たら、そうチョイチョイと男が呼び出しに来るようでは碌なことが出来たんやなかろうと親方の足が上がりかかったので、実はお母はんの病気でこれこれと、打ち明けて言うたら、親方も良い人で給金を先貸ししてくれはった。それから、彼奴《あいつ》のところへ耳を揃えて持って行たら何というた。このご恩はめったに忘れしまへん、わたいの心はこの通りと書きよった起請がこれや。欺された俺は諦めがつくが、何も知らんと暑い寒いの不自由な目をして、奉公をしよると思うと妹が不憫《ふびん》な」 「そうか。訳を聞くと気の毒なわけやなア」 「今まで欺されていたかと思うと残念な」 「そらお前の怒るのももっともや」 「妹が不憫な」 「もっともや」 「残念な」 「道理や」 「口惜しいわやい……」 「ツツ、ツツツ……」 「馬鹿。三味線の真似してよる。オイ清やん。お前ばっかりやない。哄《わろ》うてなやが、年甲斐もない俺にもこんな物を書いてよるね。腹も立つやろうがマア辛抱して」 「エエお前もか。友達三人にこんな物を書きやがって、叩き斬っても腹がいえん」 「マアええ。俺にまかし、悪うはせん。こうしよう。これからわしの遊びに行く茶屋へ行て彼奴をしらして、三人車座になって赤恥かかして、この大阪にいられんような目に遭わしたろ」 「そうなとしてくれんと俺の腹が納まらん」 「そんならこしらえをして行こう」  夕方から羽織の一枚も引っかけて、三人連れで南へ参りました。戎橋を南へ中筋を西へ曲がりますと、両側の行灯《あんどん》に灯が入りまして、色町はいつに変わらぬ陽気なこと。(鳴物、三味線) 「オイ喜イ公、なにをゲラゲラ笑うてるのや、みっともないがな。何がそない可笑《おか》しいのんや。オイ」 「源やん、チョッと見てみ、向こうへ一匹|牝《めん》犬が行くあとから牡《おん》が三匹|随《つ》いて行きよる。あれもやっぱりみな起請をもろうてるやろか」 「馬鹿、犬が起請をもろうたりするもんか。オイ清やん、この三軒目に大梅とした行灯が出てるやろう。彼方《むこ》がわいの行く茶屋や。わいが入って内らの様子を見るよってに、呼ぶまで入りなや。ここで待っててや……姐貴《あねき》」 「オオいややの、誰やと思うたら源さんやないか。まアご機嫌さん。いつもお達者で。おちよやん、源さんが来はったやないか。お座蒲団《ざぶ》持っといでんか。さあどうぞお上がり。マア長いことだしたなア、どないしてなアったんだね。チョッとも顔を見せんと。それはそうと、こっちの妓(小指を出す)あんたのことばっかりいうてるし。やっぱりたまには顔を見せてやらんと、あの妓が心配するやないか、惑《まよ》わし」 「姐貴。あの妓やなんていうてな、わいえらい目に遭うてるねで」 「阿呆らしい。あの妓、毎日入って来るのん。髪を結いに行たというては寄り、お参りしたというては寄り、来ると貴方のことばっかりいうて、なアー姐やん、源やんどないしてるねやろ、チョッとも顔を見せへんが、どこぞ悪いのやないやろかやとか、もう来ると惚気ばっかり聞かされとおし。貴方《あんた》が来てやったらどっさり按摩賃張り込んでもらおと思うてるのん。エエ、違う、ナニ耳貸せ、エエあたいの、ハアどうぞお使い(耳を持て行く)。エエ、ハア、ハア、ナニ、ハア、イエ、エーハア、イエ、そら違う、そらそんなことをいうてやったらあの妓が可哀想や、そら誰ぞの調伏《ちょうぶく》。ハア、あたいが請け合う。ハア、貴方《あんた》とあの妓の中はこの廓《しま》中評判。ハアハア、みな知ってるわ。お互いに堅い物握り合うて」 「姐貴それが堅うないね。もう柔らこうなってグニャグニャや。もう一ぺん耳を」 「エエ、ナニ、フンフン、ハア。エエ、ハア、フウン、オオ、イヤヤノ。それ——ほんまか——。それがほんまやったら、あたいまで一杯食わされているのやわ。ほんで貴方のお連れはん来てはるのん。マア照れくさ、なんでそれを先にいうとくなアれへんね。これ、おちよやん。お連れはん来てはんねと。呼びなアれ。マアきらい。あのお連れはん、お連れはん」 「オイ清やん、おつねはんやと」 「おつねはんやない。お連れはんや。入れてもらい」 「ヘエ、おばはん今晩は。おしまい」 「馬鹿やなア。お茶屋へ来て、おばはん今晩はおしまいという奴があるかい」 「サア、どうぞ、お上がり」 「ヘエ、皆だまされ連中でおます」 「そんなことをいうない」 「マア悪い奴でおまっせなア。今聞いてびっくりしてまんねがな。あんたら別々においなアるよってにそんな目に遭いまんねで。今度から皆ご一緒に。こんな汚アい内だっけども、チット遊《あ》ぼしに来とくなアれ。またええお妓《こ》を世話しまんがな……、イイエ、顔《ここ》ばっかりやない、腹《ここ》のええお妓を世話しまっさ」 「ヘエ、ほんならまた改めて欺され直しに来まっさ」 「オイ喜イ公、そんな物言いをしいないな。時に姐貴、チョッと彼奴《あいつ》呼びにやってんか」 「ハア、よろしおます。おちよやんでは具合が悪うおますよってにわたいが行て来ますわ。おちよやん。二階の奥の間チョッとあんじょうして、お座蒲団《ざぶ》は一畳でよろしいで、煙草盆と……。ほんならチョッとお頼《たの》申します」 「ナア源やん、あれここの姐貴か」 「そうや」 「とうない別嬪《べっぴん》やなア。あれ何者や」 「もと、出てたんや」 「下水《すいど》からか」 「狸やがな。イヤそうやない、北の新地から芸者に出てたんや」 「フウン、ええ旦那があるねナア」 「旦那があって落籍《ひか》すのんにチョッと一箱《ひとはこ》かかったアるのや」 「フウン、蜜柑箱か」 「分からん奴やなア、千両箱や」 「エヘ、あれ千両か、あれ」 「そうや。引かしてもろうて、ここの老舗《しにせ》を買うてもろうて、お茶屋をするなり、旦那がころっと死んだんや。いま後家やね」 「旦那が死んで後家か。そら淋しいことやろなア。お気の毒に」 「悔やみをいいないな」 「俺《わ》いもう小照をやめて、ここの内へ養子に来うかしらんて」 「誰がお前みたいな者を養子にするもんか。そらそうと彼奴が来よったら目が早い。下駄がたんとあって勘づきよったらいかん。オイ喜イ公、下駄を納《なお》しとき」 「そんなこといわれんかて、チャンと納したアる」 「えらい、お前に似合わん気が利いたなア」 「そらもう」 「しかしどこへ納したんや」 「下駄箱へ」 「初めて来て、下駄箱がよう分かったなア」 「そら知ってるがな、この網戸の下駄箱や」 「阿呆、そら水屋やがな。水屋へ下駄を入れる奴があるか、出しとき。ここの姐貴、いたって潔癖性《かんしょうやみ》や。出しときんか」 「そない怒らいでもええがな。知らんよってに入れたんや。出したらええやないか。ほんにこれは水屋や。ムニャムニャムニャ」 「オイ喜イ公、お前何や食うてるな」 「フン。鶏肉《かしわ》とみしり蒟蒻《こんにゃく》と煮《た》いたアるのや。とうない美味《うま》いわ」 「オイ。そんな無茶をしいないな。ここの内へ宵《よい》に客があった。姐貴御飯たべに行こか。ハア大きに、直きに後から寄せてもらいますワ。姐貴待ってたのに来てくれえなんだなア。ハア済んまへん、お客さんが一ときになったんで手が足らんものやさかいに放ったらかしておいて。これ食べさしやない、別に入れさして来たんや、食べ。マア大きにお土産頂きまんのんか、寝しなによばれますワ。というてグツグツと煮《た》いて、今度客があったら突き出しに出して、たとえ二十銭でも取ろという、こまかい茶屋や。そんな無茶しいないな。ナニ美味《うま》いか。美味けりゃわいにもおくれ」 「それ見いな」 「誰方も皆おあがり」 「アア。皆おあがりというてよる。皆食うたろ」 「阿呆、それやない。二階へ皆お上がりや」 「マア二階か。俺《わ》いまた鶏肉《かしわ》かと思うた」 「あんな阿呆や」 「こっちへ上がっといで」(トントントン) 「ここの内えらい綺麗にしたアるなア。さっき姐貴がチット遊びに来てくれいうてよった。俺《わ》い一人ここへ来て小照にしらしたろかしらん」 「まだあんなことをいうてよる。しかし、オイ、三人ここに坐っていたら具合が悪い。オイ清やん、お前しばらくその衝立《ついたて》の向こうへ隠れていて。呼ぶまで出たらいかんで。オイ喜イ公」 「ええ」 「お前その押し入れへ入って」 「なんでやね」 「彼奴が来よって、ここにお前がいてると具合が悪いよってにや」 「そんなら源やん、お前一人か。とうないぼろいことをするのやなア」 「ぼろいということがあるかいな。呼ぶまで出て来たらいかんで」 「よしや」 「早う入りんか」 「今入るがな」 「オイ喜イ公。押し入れへ入っても襖《ふすま》を開けといたら何にもなれへんがな。閉めときんか」 「チョットの間開けといてんか」 「何んでやね」 「臭いのんや」 「湿気で臭いのか」 「いや、今入るなり屁を放《こ》いたんや」 「何をするね、阿呆やなア。閉めとき」 「時に源やん」 「オイ清やん、お前衝立の上から首を出してどうするね」 「イヤ、じきに入るが、いうとくで、彼奴、なかなか口の巧い奴やで、程のええことをいわれて、ふんそうかそうかというようなことしいなや」 「大丈夫や、心配しいな。首を引っ込めて」 「ナア、源やん」 「なんじゃ、喜イ公。襖を開けて顔を出してどうするね。閉めときんか」 「今清やんのいうたとおり、あいつ口が上手やさかいに、お前ごまかされたらあかんで」 「そんなこと心配せいでも大丈夫や。顔を出しな」 「ナア源やん」 「オイまた首出した。なんや清やん」 「あいつ出て来たらいきなりポンポンポンとなぐりや。それから話に掛かりや」 「そんなことをせいでも、俺に任しとき」 「ナア源やん」 「ナンヤ。チョイチョイ、掛け合いで顔を出してる」 「今清やんがいうた。ポンとなぐりというたけども、あんまり手荒いことをしてやりなや。相手は女《おなご》のことやで、もしもなぐるようなことやったら、わいの頭ですましとき、可哀想な」 「まだあんなことをいうてよる。オイ来よったらしい、閉めとき」 「ヘエ、小照さん送ります」 「よねどん、御苦労はん、これほんの紙だけやし」 「女将、済みまへんな、いつもご心配になりまして、大きに。小照さん、何も用事おまへんか」 「ハア、後で一ぺん尋ねとう。お母ちゃん大きに」 「よう出来たしなア。こちのん来ててやし」 「お母ちゃん、誰。エエ源やんか。嬉しやの。あてなア、昨夜遅うにお風呂へ行たら少しお湯がぬるいので、とうとう風邪を引いて、今日頭が痛いよって休んでたん、店で線香場を手伝うていたら、神棚のお灯明に大きな丁字が載ったんで、あて待人にしてたんやわ。そんならやっぱりあの人が来たわ」 「オイ源やん。……来てる……来てる……」 「分かってる」 「昨夜遅がけに風呂へ行たら湯がぬるかったんやと。風邪を引いて頭が痛うて休んでたんやと。線香場を手伝うていたら神棚のお灯明に大きな丁字が載ったんやと。やっぱり三つ載ったやろか」 「ショムないことをいわんと押し入れへ入って」 「お母ちゃん、まだいろいろ話がおまんねけども先にあの人の顔を見て来ますわ」  二階へトントントン、と上がって来て部屋の襖を開けて、普通なら今晩は大きにといいますが、もう年が明いたら夫婦になろうという仲やので、あっちを向いて煙草を喫んでいる後から背中を膝でボン。 「あ痛た。誰やい」 「おいでやす。源さんどないにしててやったんや。どこぞ悪かったんと違うか。案じていたんやし」 「フーム、今までその手はたんと饗《よ》ばれてました」 「源さん、何をいうててやんや。わかれへんがな。黙って恐い顔をしてどないしてやったんや。また喧嘩か。措《お》いとうや。今までと違うし。今は妾《わたい》という厄介者があるねし。もしもおかしいことがあったらともに心配するやないか。けったいな顔をしてからに」 「ヘエ、けったいな顔は生まれつきだす」 「アアそんなことを怒っててやのか。妾《わたい》こないして働いているのは何が楽しみや。たまにあんたが来て優しいことの一つもいうてもろうのが楽しみやし。お前もこうして働いているのえらいやろけども、もう暫くやさかいに辛抱をしいやと、いうてくれてやったら、それを楽しみに働くやないか。それに出て来たら怖い顔をして、なんやいな。自分ばっかり煙草喫んで、あたいにも一服よんどう。(煙管を取って煙草を喫む)きらい。辻占いが悪いと煙管《きせる》まで詰まったある」(コンコン) 「コラ。煙管の知ったことやないわい。無茶をすない。雁首《がんくび》をへちゃげてしまいよった。煙管が詰ったあるなら詰ったあるといえ、ここに通す物があるわい。これで通せ」 「オオいややの、貴方《あんた》、反古《ほご》を持って歩いてなアるのか、嬉しやの。いつも半紙一折四つに折って、懐中《ふところ》へ入れてなアる。飛汁《はね》でも上がったらその紙を出して拭いてなアると、えらい男らしいけども、世帯してあんな派手なことをしてくれてやったらどむならんと思うてたが、そんな気になってくれてやったんか。これ手紙やしな。女の手で書いたアるしな。見せてもろうてもだんないか……。オオいややの、源やん」 「なんーや」 「これ……わたいが……あんたに命がけで書いて渡した起請やないか」 「そうや。起請といやア起請、ちらしといえばちらしみたいな物や」 「なんや、ちらしや……。知ってるがな、知ってるがな、なんやこの間からおかしい具合やと思うてたんや。内のお母ちゃんかていうてはったし、この頃前のんが帰ってるよってに、気を付けや、焼棒杭に火が付き易い。少しは悋気《りんき》をしいやというてはった。そら妾《わたい》かて女やもの悋気の一つぐらいは知ってる。女に悋気のないのと、刺身《つくり》に大根《けん》の付いてないのと、辛子の利かんのはすぼらかで頼りないぐらいのことは知ってるけど、これが素人やなし、出ている者が悋気して、それがために愛想をつかされたらいかんと思うて、黙って辛抱していたら、そら殺生や殺生や。知ってるがな、あんた今日は別れ話においなアったんやわ。そうならそうと打ち明けていうとくなアったらええやないか。お前とこういう仲になったけども、実は今度こういう訳で義理で女房を持たんならんさかいに、お前の縁はこれまでの縁と諦めてくれ。そのかわりに兄妹にでもなろうというてくれてやったら、妾《わたい》かて諦めがつくのに、命がけで書いた起請を破って、内のお母ちゃんに聞いてもろう(立ち上がる)」 「小照ッ……。まてッ……(三味線。唄♪男心は)コラ、泣く涙があるなら小便に垂れとけ。今、命がけで書いたと吐《ぬ》かしたな。命がけで書く起請なら一枚しか書きはせまいな」 「起請を何枚も書く阿呆があるかいな」 「嘘つけ。俺の友達の喜イ公に書いて渡そがな」 「チョッと源さん。貴方《あんた》も男らしない人やなア。別れるのんなら、そんな難癖つけんと、綺麗に別れたらどうやね。誰が他に起請を書いて渡すもんか」 「なに吐かすぞい。下駄屋の喜六に書いて渡そがな」 「下駄屋の喜六て、どんな奴や」 「どんな奴……この前住吉へ行った時、一緒に丸太格子で一杯飲んだやろうがな」 「ハア彼奴《あいつ》か。唇の厚い、背の低い、ぶくぶく肥えた、漬豆の土左衛門みたいな奴。源やん堪忍しとう。汚やの。なんぼ妾《わたい》が物好きでも、そら余り殺生やし。エエ……なにか……あいつ、起請をもらうたいうてよるのか。ようまあそんなことがいえたもんやしなア。顔と相談をしよったら、そんなこといわれへんのに」 「イヤ、お前書いたことがないか」 「ハアハア」 「ヨシ、コラ漬豆の土左衛門出て来い」 「ヨシャ。コラ小照……。あたいの好きなお方はあんた一人やいうときやがって、漬豆の土左衛門やなんて……」 「オオいややの、来てるわ」 「コラ、どうじゃ、書いたやろ」 「ハア、書いた……書いた……こらこうや、あるお茶屋で、万々の都合があって幡随院で書いたんやわ。そのかわりに字が抜いたアるやろう」 「コラ、字が抜いたあるやなんて……」 「チョッと喜ィさん何をいうてるのや。ナアー。あんたと妾《わたい》はなんや。ナアー、ナアー」 「フム、ソヤソヤソヤ」 「何を吐かしてくさる。まだ書いていようがな」 「源さん。なんでそないにいうのや。もう誰にも書いてエへん。これだけや」 「嘘吐け。まだ清八にも書いていようがな」 「源さん、清八てどんな奴や」 「千日前で逢うて、丸万へ行たことがあるやろう」 「ハアハアあの背の高い、口の大きい、長清か。彼奴《あいつ》そんなことをいうてよるのか、厚かましい。ここにいやがったらばぼろくそにいうてやるのに」 「ここに清八がいたらいうか。ヨシ、長清、出て来い」 「コラ、小照おのれはようも欺しやがったなア」 「オオいや、来てるわ。分かった。あんたら三人徒党しておいなアったんやな。書いた書いた。なんや清はん、手を振り上げて、妾《わたい》を叩くてか。叩いてもらいまひょう。妾の身体《からだ》は頭の先から足の先まで証文に書いたあるのやし、親方からお金の掛かったある身体。叩くのんならお金を積んで叩いとくなアれ。チョッと姐やん。店へ行って常どんに証文持って来てもろうとくなアれ。皆が集《よっ》て妾を叩くというてはりまんね。サア、お叩き、お金を積んで。さア、叩きなアらんかいな。とてもお金を積んではよう叩きなアれしまへんやろ」 「トットそのとおりだす」 「コラ喜イ公、余計なことをいうな。誰がどつくというた」 「そんならその手をなんで振り上げていなアるのや」 「ウム——こんな山の芋で芋汁《とろろ》をしたら美味《うま》かろと思うているね」 「とてもお金を積んで叩く甲斐性がおますまい。大体妾の商売を何やと思うてなアるね。娼妓《おやま》だっせ。欺しますよってに欺されにおいなアれと看板を掛けて商売をしている所へ、欺されにおいなアる貴方《あんた》が阿呆や」 「コラ、小照。起請という物は一枚しか書かんと聞いているが」 「ハア昔は好きな人一人。しかし近頃のお客さんはなかなか普通の手管では承知してくれはれへんのん。もう初会から起請書いて渡してるのやし。なかなか書いていては間に合わんので蒟蒻版《こんにゃくばん》で刷ってもろてるのん」 「蒟蒻版で刷ってもろう。空《あだ》に起請を一枚書く時は熊野で烏《からす》が三羽死ぬというぞ。おのれのようにぎょうさん書いたら三羽どこやない、熊野中の烏がみな死ぬやないかい」 「熊野中はおろか、世界中の烏を殺すつもりか」 「そんならお前は烏に怨みがあるのんか」 「別に烏に怨みはないけども、あたいも勤めの身。世界中の烏を殺してゆっくり朝寝がしてみたい」 [#改ページ] 借家《しゃくや》怪談  エエよく申しますが、まっすぐに、傾《かし》げが読んだ貸家札。貸家札というものは、あんまり、まっすぐには張ってないもので、みないがめて張ってます。二枚張ってあるのは、外から見ると人という字で内から見ると入るという字。人が入るというのやそうで、わたしは借家を持ったことがないので、知りまへんがそうやそうで、これはある裏長屋。 「エエチョット、おたずねしますが」 「ハイどなた」 「ヘイ、お隣の空家を借りたいので、お家主さんは、お近くだすか、また遠方だすか、チョットお尋ねいたします」 「アー、となりの貸家をお借りなさるのか、家主は安治川の三丁目や」 「えらい遠方だすなア、この辺に家守《やもり》さんはござりませんか」 「ハイ家守というてはないが、万事は私が引き受けています」 「それはえらいよい都合で、間取りはどういう間取りになってます」 「私の方と、同じ間取りで奥が四畳半で、台所が三畳に、押入れがあって入った所が土間で右手が走り元になってます」 「いま表の格子の間から、チョット見ましたが、なかなか勝手ようしておますなア、それで、敷金はどのぐらいだす」 「それがここの家主さんは、ものがよう分かっていて、借家人から敷金を取るのは、かわいそうなというので、敷金はなしや」 「ヘエー、敷金なしとは、我々貧乏人にとっては、結構なことで、それで家賃は、どのくらいで……」 「家賃は一カ月が十八円や」 「エッ十八円……アノ十八円、敷金のいらぬは結構やが、家賃の十八円は、この家に少し高いように思いますが……」 「いやチョット聞くと高いようやが、それを、じいと聞くと、十八円が安いのや」 「ヘエー、どういう訳で安いのでやす」 「サア、となりの家へ入ったら、一カ月十八円を、家主へ持って行くと思うから高いが、毎月家主から、十八円というのを、お前さんのところへくれるのや」 「ヘエーエ……モウ一ぺん聞きますが、なんだすか一カ月住んで、家主から十八円、私の方へくれますか」 「そうだす」 「それは、ぼろい話やが、何で空いてますね……」 「それが、アアやって空いているのは、アノ家へ人が住みますが、一カ月はおろか十日といいたいが、三日とつづきまへん」 「ヘエー、するとあの家に、なんぞ仔細《しさい》がおますか」 「そりゃおますとも、よう考えてみなはれや、この辛《から》い時節に、ただやない、十八円という金をくれるには、仔細がおます」 「イヤ、そりゃごもっとも、その訳は、どういう仔細でおます」 「そうやな……マア、あんたが、お聞きになるのやよって、お話しいたしますが、マアおかけやす、実はなア、あの家は、日のうちは何の事もないが、日が暮れますと……ナア」 「ヘエ……」 「あの裏に塀がおます」 「ヘイ」 「その塀の向こうにまた塀がおます」 「ヘイ」 「ツマリ塀が二ツある」 「ヘイ、ヘイ」 「何を言うてなはるのや、その塀の向こうが、ヅクネン寺という、お寺の墓原や、それが、宵のうちは何事もないが、夜がふけてくる、かれこれ十二時もすぎ、一時もまわり、もう二時にもなろうとすると、世間は、しんとする、屋の棟三寸さがろか、水の流れも、しばしは寝入るという、時分になるとナア」 「ヘエー」 「遠寺《とおでら》の鐘が陰に籠もって、ボオーンと鳴ると」 「ヘエー、モシわてこわがりだっせ、モット派手に言うとくなはれ」 「すると、あの家が、どことはなしに、メキメキメキと鳴り出すのんで」 「ナルほーど」 「すると、縁側をば、濡れ草鞋をはいて歩くように、ジタジタジタと音がするとなアー」 「ヘエエ、モシ、チョットお家へあげてもらいます」 「しばらくすると、縁側の障子をば、誰があけるとなしに、スースースウとあくと、あんたが寝ている、胸のところを、グウと押さえるので、苦しいので、目をあくと、色蒼ざめた、髪を、おどろに乱して、血みどろになった女が、あんたの顔を、恨めしそうに眺めて、ゲラゲラゲラと笑う……」 「ウワーッ」 「オイオイ、モシあんた、オイコレ、途方もないこわがりやなあ、あわてて、かどの手洗鉢をひっくり返して走って行った」 「源さん」 「ヤア喜イやんか、まあ入り」 「ごめん、しかし、俺、いま聞いてたんやが、何かえ、となりの空家から、あんなものが出るのかえ」 「お前、あの話を聞いてたのか」 「そうや」 「そんなら言うが、心配しいな、何んにも出エへんのや」 「フーン何んにも出エへんのに、なんであんなことを、言うたのや」 「出やへんけども、あの男に出るというのは、それには訳がある」 「どういう訳や」 「それは、この長屋は五軒あるのに、だいたいこの長屋に納屋がない、それでアアやって、一軒空いていると、お互いに、邪魔になるものは、皆入れて置く、これから洗濯物でも俄雨の時は、竿に通したなりで、入れて乾かせる、あの空家を物入れに使うつもりや、どうや、俺の考えは、えらいもんやろ」 「やアなるほどさすがは源さん、賢いナア、することが……そうすると、これから借りに来た奴があったら、誰でもあんなことを言うのやなア」 「そうやよって、これからもしも、あの空家を借りに来たら、皆な俺んとこへ寄越し、そうすると、俺んとこで、うまいこと怪談話をして、帰してやるさかい」 「よし、それでは万事頼むで、オイ源さん、こんなとこに、えらいええ煙草入れがあるで」 「アア、今の奴が、あわてて忘れていんだのや」 「ヘエー、えらいええ煙管《きせる》やで、銀やで、私、銀の煙管が一つ欲しいと思うていたところや、これどうや、源さん、わたいにおくれんか……なに、取りに来るもんか、源さん、また空家借りに来たら、お前とこへ寄越すよって、なるだけこわい話をして、忘れ物があったら私がもらうよってに」 「そんな、うまいことがあるものか」  それからというものは、チョイチョイ借りに来る人があると、源さんが、こわい話で脅かしてしまいまするから、誰一人この家の借り手がない。借りに来ると怪談話してこわがって帰りしなには、チョコチョコ物を忘れて行く。それをば長屋で、分けていると、ある日のこと。 「オイ、隣に貸家札が張ってあるが、あの家の家主はどこや」 「ハイ、家主は遠方やが」 「なんや、遠いのか、この辺に、モリヤはないのか」 「コレ、分からんことを言いなさったなア、モリヤてなんや」 「分からんのか、家守を、さかさまに言うたら、モリヤじゃないか」 「コレそんなものを、さかさまにしなさんな、ヤヤコシイ、家守というてはないが、万事私が引き受けている、お前さん借るのかえ」 「オイ、借ろと思うて来たんや、お前が万事引き受けているなら、ちょうど幸いや、あの家は敷はなんぼや」 「ハイ、マアお入り、あの家は敷金はいらんのや」 「ナニ、敷金がいらん、そら貧乏人には、もってこいや、それで、チンヤなんぼや」 「マタ分からんことを言うた、チンヤて、何のことや」 「家賃を、さかさまに言うと、チンヤやないか」 「そうチョイチョイさかさまにしたら、ヤヤコシイ、家賃は十八円じゃ……」 「ナニ、家賃十八円、コラ、あんな薄汚い、小さい家で、家賃の十八円も取る、コラ……家主にそう言え、そんなことをぬかしたら眉毛がぬけるぞ、向こう脛を、たたき折ると、生意気な奴や」 「お前……お前さん怒りなさるな、話をあんじょう聞きなされ、毎月家主へ十八円家賃を払うと思うよってに腹が立つ、そうやない、あの家に住むと、毎月家主から十八円ずつくれるのや」 「ソンナラ何か、あの家に住むと、家主から毎月十八円くれるのか」 「そうや」 「イヤ、結構、俺は隣の家、気にいった、借るよってに頼むで」 「コレ、チョット待ちなされ、そりゃ借るのはよいが、あの家、十日と言いたいが、三日とは住んでいられん」 「オイ、家主から毎月十八円もくれるのに、なんで三日と住んでいられんのや」 「サア、そこや、住んでいられんというのには、仔細がある」 「ソラ承知や、家主から十八円もくれるというには、訳があるに違いない、その訳聞こう」 「マア、掛けなされ、ほかのことやないが、隣の家ナア」 「フム」 「日のうちは、なんのこともないが、日が暮れるとなア世間が、シーンとする」 「当たり前やがな、日が暮れて世間が賑やかなと、寝られんがな」 「イエ、あの家の裏手が寺の墓原や」 「墓原、俺好きや、閑静でよい」 「アア、さようか、宵の内はなんのこともないが、十二時が回るとなー、どこともなしに、ミチミチと家鳴りがするのや」 「ソラ、大工が建てしなに逆木をつかいよったんや」 「フム何を言うてもこたえん人やなー、すると、どこで撞き出す鐘か、陰に籠もってボオーンと鳴る」 「当たり前やがな、鐘やよってボオーンと鳴るのや、太鼓ならドンと鳴る、別に不思議はないがな」 「アアさよか……スルト縁側をば、濡れ草鞋を履いて歩くように、ジタ、ジタ、と音がする」 「ソラ、ど狸や、ショムナイ、てんごをしやがる、フム捕えて、狸汁にして食てしまえ」 「狸汁……スルト縁側の雨戸が勝手にスウスウッと開きます」 「そりゃ便利がよい」 「ヘエー」 「ヘエーッて、そうやがな、よう考えてみい、俺のような無精者が、夜中に小便に行くのに、戸を開ける世話がいらん、勝手に戸を開けてくれるこんなよいことはない」 「スルトなア、血腥《ちなまぐさ》い風がフウッと吹き込んで来るのや」 「ハハアどこぞ近所に魚屋でもあるのやろ、とにかく魚屋の近所はイヤな臭いがするものやが、そんなことぐらい別にさしつかえはないがな」 「ソウスルと、陰火がボウット見えるのや、スルトこのくらいの火の玉がコロコロコロところんで来るのんや」 「フム、いくつほど」 「いくつほど……、そりゃ一つやがな」 「一ツやて、そりゃ淋しい、せめて三つぐらい欲しいな」 「ヘヘッ、三ツあったらどうしなはる」 「一ツはランプのかわりに天井へ吊っておく、一ツは火鉢へ入れて鉄瓶をのせておくと、いつも湯が沸いているやろ、一ツはこたつへ入れる」 「マルデ炭団やがな、そんなことを言うてなはるが、その火の玉が、ポンと割れるとなア」 「フムー」 「その中から、片ッ方の目がはれふさがって、片ッ方の目が吊り上がって、目や口からドロドロと血を流した、やせ衰えた奴がニュット」 「妙な顔をするなえ、それは何んや」 「何んやて、これを見て分かりまへんか、幽霊が出るのだす」 「何んじゃて、幽霊が出る、俺、幽霊好きや、その幽霊は、男か女か」 「サア、それが男ならすごうはないのやが、おなごの幽霊やよって、なおすごいのや」 「ハハア、おなごの幽霊か、そりゃ結構やな、実は俺、やもめや、女の幽霊なら、ちょうどよい、幽霊前がよかったら、嬶《かかあ》にする」 「エエ、嬶にするて、幽霊を……」 「ソウや、幽霊のつけ物、気に入った、今日から借るよって、家主にソウ言うといて、家賃を滞らんように、なんやったら、先家賃にしてもらうように、もし一ぺんでも滞ったら、俺は気が短いよって、すぐに石油をかけて火をつけるで、なにぶん頼むで、さよなら」 「コレ、オイ、チョット待ちんか、サアえらい奴が来やがった、あの口振りでは、今日から宿替えして来るで」 「源さん」 「よう喜イやんか、マア入り」 「どうや、また何んぞ忘れて行たか」 「欲張ってるなア、なかなかお前、忘れて行くどころか、えらいことやがなア」 「どうした」 「どうの、こうのというて、何しろえらい奴が来よったで、何を言うても、こたえんのじゃ、それでとうとうしまいには幽霊をば、嬶にするというやないか、どうもわいも困ったで」 「ヘエーッ、そしてそれがどうなったんや」 「どうなったんやてすぐに宿替えして来ると言うて帰ったよって、今日にも宿替えして来よる」 「そんならどうなるのや」 「どうなるて、いにしなに、えらいことをぬかしたで、家賃を先家賃にしてもろてくれ、一つでも、もし家賃が滞ッたら、家へ石油をかけて火をつけると言うたが、アリャ、やりかねん、あの男は」 「ヘエー、そうすると源さん、どないにするのや」 「どないて、俺やとて悪気でしたことやなし、長屋のためを、思うてしたのやよって、仕方がない、長屋中で集めて、あいつの家賃をやろうじゃないか」 「源さん、お前の考え、あんまりようないで、あいつの家賃は長屋中から出すとしても、家がふさがったら家主へも家賃を持って行かんならん、これはどうするのや」 「仕方がない、皆から出してもらう」 「源さん、わし、いややで、我が家の家賃さえ心配しているのに、よその分まで、おまけに二ツも、よう出さん、堪忍してんか」 「まあ、仕方がない、こうしよう、あいつやもめと言うてよったさかいに、宿替えをして来たら、長屋から、かわりがわりに、おかずをば、辛う煮いてやるのや、やもめが、お菜もろうたら、嬉しいので、むやみに食いよると、のどがかわく、そうすると湯水を飲む日暮れから、子供のある家は、子供をギャアギャアと、泣かすのや、手の空いた家は、鐘を、チンチンチンとならす、念仏をあげる、なんや陰気な晩やなアと思う、ひる湯水を飲んでいる、こんな時は、かならず、便所へ行きとなる、気持が悪いと思いながら、便所へ行く、長屋の便所が三ツある、両方の便所の戸を、釘で打って、開かんようにしておくのや、戸をあけよとするがあかん、誰ぞ入っているのかと思い、片方へ来る、これもあかんで、まん中へ入ると、徳さんの毛だらけの手であいつの尻を、なぜて見イ、たいがいはびっくりして、逃げ出すで」 「オイ、ウダウダ言いないなア」  長屋は、ゴテゴテ言うております。スルト右の男、俥《くるま》に荷物を積み込んで、宿替えをして来ましたが、猫の子一匹出ません。 「化け物も俺の勢いに、おそれて、よう出んわい、ええ、そんな化け物の出るはずがない」  ものの五、六日も経ちました。ある日のことで日が暮れて、仕事から帰って来たが、まだチト早い。ランプの火をつけて、かんてきへ火を起こして、鉄瓶を掛けて、上がり口へ出しておいて、手拭いを提げて風呂へ行きました。表の戸が五、六寸開いております。この留守中にやって来ましたのが、右の男の友達二人連れ、片手に一升徳利を提げて、 「オイ早うおいで、弥太州、うまいことをやりよったなア、化け物も何も出やへんねがな、長屋の賢がりがあって、化け物が出るとか、なんとか言うたのや」 「そうやてなあ、弥太州内におるかしらん、この長屋と思うが……」 「そうや、ここらしい……、オイ弥太州……、オヤどうしやがったんやろウ、留守らしいぞ」 「かまやへん入れ……、ハテナ、風呂へでも行きよったらしい、オオオオ上がり口へ火を起こして、鉄瓶を掛けたままで出て行きやがった、これやから、ヤモメに家を貸すのは家主がイヤがる。ガンガン火を起こして……これが一ツパチッと飛んだら、たちまち火事やがな、オイお前その火を、半分ほど取って火鉢へ入れてんか、鉄瓶の湯がヨウ沸いているで、いずれ後から飲む酒や、こうして祝いに持って来た酒、弥太州が帰るまで退屈やで、二人で飲んで待ってやろう」 「ウン、よかろう、そうしよウ」 「早う燗をしてくれ……」  とそこは心安い友達同士のことやで、勝手に燗徳利を出して、銚子をつけて、持って来た酒を、チョビチョビ飲んでいたんですが、ご承知の通り酒飲みというものは気の汚いもので、一升の酒をば二人で飲んでしもうたが、酒が少し回って来たので、 「ナア、八ちゃん」 「なんや」 「どうや、アノ弥太公、えらそうに化け物が出んと、いばってよるが、至ってこわがりや、モウ帰って来るやろうと思うが、一ツ化け物をこしらえて、びっくりさしてやろうか」 「ナニ、化け物をこしらえる、そら面白い、どんなことをするのや」 「オイ八ちゃん、そこらの棚に道具箱があるやろ、中から金槌と釘と針金を出し、あったか、針金で、鉄瓶とかんてきをくくりつけるのや、弥太公帰って来て鉄瓶をさげるとかんてきが、いっしょに上がるので、ドキッとしよるにきまっている、それからランプを消しておくから、あかりをつけようと、マッチを探すにきまってる、その棚の隅にあるマッチを……そこのお櫃から飯粒を出して、その棚へヒッツけてしまうね。あいつがマッチを取ろうと思うて、そこへ手をやる、マッチがひっついているわ、またびっくりする、それから飯粒を、畳の上へまいておく、くらがりで、畳の上を歩くと、足の裏を畳へ吸いつけられるような気持がして、震い上がってしまいよる」 「なるほど」 「そこでや、その紐をこっちへ持って来い、このお膳の足へくくっておいて、上へ茶碗や皿をのせておく、紐のはしを押入れの中へ引っ張り込むのや、そして俺とお前が、押入れへ入るのや、そのとき仏壇の鉦《かね》をばお前が持って、俺がよい時分に、エヘンと知らすと、お前がその時、その鉦をばチンチンチンと鳴らす、唸りが足らんと口でモンモンモンと言うのや、そうすると、あいつ、びっくりする、そこで、この紐をばグウッーと引っ張ると、お膳が、ひっくり返る、ガチッガチッガチッ、あいつ表へとび出して行くにきまっている」 「なるほど、こりゃ面白いなア」 「待て待て、モウ一ツ化け物があるのや、庭の真ん中へ、天窓の紐が下がっている、今空になった一升徳利をこっちへかし、この紐へくくり付けておく」 「なににするのや」 「これをばこうやっておくと、あいつが逃げる時に、この徳利でコツンと頭を打つ、それをば、暗がりやから、化け物が堅い冷たい手で頭を殴ったと思う」 「そりゃ、あかん。入りしなに徳利で頭を打ってしまうやろ」 「イヤところが、入りしなは打たんというのは、暗がりへ入る時は、誰でも、うつむいて入るのや、逃げしなは夢中やよってに、真っすぐに走って出る、ゴツンと行くにきまっている」 「シカシ、デボチンを打てばよいが、もし鼻の上を打ったら死んでしまうで」 「それもそうやなア、お前と弥太州と、着物のたけは一緒やなア、チョット、そこに立っていてや、エイカ、それ(ゴツン)」 「アアイタ……何をするね米やん」 「これなら大丈夫や」 「無茶しいないな、人の頭で寸法計ってからに、ソレこないに、ふくれた」 「アア、堪忍して、もう帰ってくる時分や」 「押入れ入ろうか」 「よかろう、そしたら俺が紐のはしを持って入るさかい。お前その仏壇の鉦を持って入り……火を消すぞよいか」  というので、両人がちゃんと趣向をいたしまして、押入れへ入って待っている。所へ来ましたのは、やっぱり弥太はんの友達で、いたってこわがり。 「ヨイショコショ……ここの裏は嫌いや、化け物が出るというよってに……。弥太はんいなアるか、弥太はん留守かいな、弥太はん、戸が開いたあるのに、えらい暗いなア、弥太はん弥太はん、かんてきに火がいこってて、湯が沸いている、アア重たい、かんてきと一緒にあがってくる、アア恐い、弥太はん……、灯をともすのにマッチが棚にある、コオット、この棚の隅にいつもあげてある、あったあった、オヤオヤオヤ、ひっついて取れへん、おかしい具合やなア、お仏壇にマッチがあるやろう、アア、畳に足が吸いつく、アアこわ、弥太はん、弥太はん……」  押入れの中で、ふたりはおかしゅうてたまらん、エヘンと合図をすると、こちらの八ちゃんが、待ってましたと、チーン、モンモン、ここじゃと紐を引っ張りましたから、お膳が、がらがらがちゃーン。ヒャア、びっくりして、あわてて表へとび出すと、徳利で頭を、ゴツン、アレイと後ろへ寄ると、はずみで、徳利が、ゴツンー、二ツ頭をいかれた。外へ飛んで出ると、路地の真ん中へ、腰を抜かして、へたばってしもうた。ところへ、帰って来たのが、弥太はんの親方脳天の熊五郎と弥太はんと二人連れで、路地の中ほどまで来ると、人が、へたっている。 「だれや」 「アア、弥太はんか」 「万やん、何をしているね」 「弥太はん、出た出た出た」 「何が出たのや」 「化け物が出た」 「そんな馬鹿なことがあるもんか」 「そうかて出た、内らが真っ暗がりで、カンテキと鉄瓶がひっついている、マッチが取れん、足が畳みに吸いつくと、チンモンモンモン、がらがっちゃー、冷たい堅い手で頭を二ツゴツンゴツン、出た出た出た……」 「そんなことがあるかえ、行け」 「マア、弥太はんからお入り」 「こいつこわがりやなア、アレ、出るときに、ランプに灯をともして出たのに消えたアる」 「消えたあるやろがな……」 「湯が沸いている、アレ、かんてきが付いてあがる」 「マッチが棚にひっついているで」 「ホンに、取れんなア」 「何を言うている。俺が灯をつけてやろ、オイ弥太公、コレを見てみイ、鉄瓶とかんてきと針金でくくってあるのや」 「アア、化け物がしよったんだすか」 「何を言うてるのや、棚のマッチが飯粒でひっつけてあるのや」 「畳へ足が吸いつきます」 「飯粒がまいてある、膳やら茶碗や鉢が引っくり返してある」 「化け物という者はショムない洒落をしよるもんやなア」 「マダあんなことをいうてよる」 「ケドモ、出しなに冷たい堅い手で頭二ツ殴りましたで」 「馬鹿やなア、これ見てみい、徳利が吊ってあるがな、危ないことをしたものやなア、チョット待て、えらい鼾《いびき》が聞こえるで、ハテ、誰ぞおるな、よし俺が探してやる、待てよ」  熊五郎が上がって行きますと、押入れの中の奴、先刻飲んだ一升の酒の酔いが回って来たところから、よい具合に、寝てしもうたのだす。それを聞き付けて熊五郎がソッと押入れの襖をあけると、右の始末。 「オイオイ、弥太公、心配するな、化け物の正体が分かった、化け物はお前の友達やで」 「ウダウダ言いなはんな、わて化け物に友達なんぞおますかいな」 「マアマア上がって来い、コレ見てみい、お前の友達やろがな」 「わての友達に化け物がおますかいなア、アア八公と米公や、こんなことをさらして、俺をビックリさしやがって、糞ッたレめが……、そこどいとくなはれ、殴ってやるのや」 「コレ待ち、そりゃいかん、殴ってどうするのや、こいつら二人は洒落にしたのに、怒る奴があるか、向こうが洒落なら、こちらと洒落で仕返しをしてやれ、その方がええ」 「そんなら、洒落で仕返しというとどうしますのんや」 「それは、こいつら二人が寝ているよってに、その間に馬の糞を拾うて来て、そうしてこいつらを呼び起こすと、酔うた後で寝呆けて起きよる、そこで馬の糞を突き出し、オイあんな無茶しいなや、サアぼた餅や、これ食い、あいつの口へ、馬の糞をねじ込んでやるのんや」 「なるほど、コレハ面白いなア、そんなら馬の糞を拾いに行きまひょ、あんたも一緒に来とくなはれ」 「よし俺も一緒に行てやる、サア来い」  熊五郎と弥太はんと万さんと、三人連れで馬の糞を拾いに出掛けました。スルと押入れの中にいた、米やんの方が、目をさましていたので、 「オイ、八ちゃん、起きんか」 「アアアアアア……チンモンモンモン」 「阿呆やなア、寝呆けてチンモンモンやってる、オイ、しっかりせい」 「エイ何んや」 「何んやヤない、お前がグウグウ鼾をかいているよってに、とうとう悟られたがな」 「エーどうしたのや」 「どうしたというて、脳天の熊五郎と、弥太公と一緒に帰って来よったのや、今三人連れで、馬の糞を拾いに行たで」 「馬の糞を拾うて来てどうするのやろう」 「お前と俺に食わすのやと」 「わし馬の糞はキライや」 「だれかて虫がすかん」 「そんなら今のうちに逃げて帰ろうか」 「チョッと待ち、こいつ逃げて帰っては面白うないよってに、熊五郎も一緒に、もう一ぺんびっくりさしてやろうやないか」 「どんなことをするのや」 「サア、今考えているのや、まあ一服しイ、何んぞないかしらん」  と両人は押入れの中から出て来て、火鉢の前へ座って考えていると、表へさして、 「按摩ー、按摩ー、鍼《はり》の療治」ピーピーと笛を吹いてやって来た。 「オイ、八ちゃん、化け物に、ええものが来た、按摩の頑鉄《がんてつ》、あいつを一ツ化け物のネタに使うてやろ、オーイ頑鉄、頑鉄」 「ヘイ、お呼びになりましたか……アア弥太はんトコだすか、お声が違いますなア」 「弥太州はいま留守やが、マアこっちへ入り」 「ヘエ、大きに、アア、八ッさんに、米はんだすな、ハイ今晩は、按摩をしますのか」 「イヤ、按摩やないね、実はなア、お前の身体を三十分間ほど借りたいねが、お前仕事したら何んぼほどになる」 「マア三十銭だすなア、しかし私の身体を雇うて何しはりますのんや」 「ウムー実は化け物をこしらえて弥太公をビックリさしてやるのや、ちょうどお前の頭が坊主で、目玉が飛んで出ている、お前を頭にして縁側の敷居を枕に寝てもらうのや、その次ヘ八ちゃんが寝る、足の方へ私が寝る、三人がズウッと寝るのや、それで継ぎ目に蒲団を着せておくのや、そうすると、弥太公が帰ると、暗がりになっているから、手探りで上へ上がろうとすると、上がり口の所に俺の足がある、そこから順々に探って行く、取り合いには蒲団がのせてあって、分からんやろオ、しまいに縁側まで行くと、お前の頭や、撫ぜてみると坊主頭や、高入道やと思うて、ビックリする、そこでお前が目をむいて、弥太はんカモウカというと、腰を抜かしよるやろう」 「イヤこれは面白い、私もこんなことをするのは大好きでやす、一ツやりまひょう」 「頑鉄お前やってくれるか、オイ、八ちゃんお前三十銭ないか」 「わてない」 「そんならそこの火鉢の引き出しをあけてみ、銭が入ってないか」 「アア、五十銭あった」 「そんならそれをこっちへかし、おい頑鉄三十銭渡すで、残りの二十銭は二人でわけとこ」  と、この按摩も呑気な男で、これから頑鉄を縁側の敷居を枕に寝さして、その次に八ちゃん、それから米やんが、継ぎ目に蒲団着せて、ランプの灯を消して待っている。そんなことは知らずに、熊五郎と弥太はんと万やん三人が、馬の糞を拾うて帰って来ました。 「弥太はん、今度は私が先に入る、モウ大丈夫や、私の頭をばどつきやがって、こんな大きな瘤が出来た、口へ馬の糞をねじ込んでやるのや、アアまた灯が消えてある、上がり口に誰や、寝ているで」 「酒に酔うてランプでも引っくり返しよったのやないか、かまへんよってに、口の中へ馬の糞をねじ込んでやれ」 「ヨシ頭はどこや……、オヤオヤ、途方もない背の高い奴やなア、頭が縁側まである、頭が坊主で、コリャ、高入道や……」 「コラ、そんな馬鹿なことがあるもんか、ハハンまた何んぞこしらえよったのやな」 「コレ弥太公、灯をともして見い」  マッチを出して灯をともし始めたから、上がり口に寝て居た二人は、化け物のネタが知れるから、そッと逃げ出しましたが、頑鉄は敷居を枕にして、グウグウ寝てしもうた。 「サア灯がともったよってに、あんじょう見てみい」 「アア親方、化け物は二人やと思うていたら、按摩の頑鉄も、交じっているのやな……グウグウ寝てよる、コラ頑鉄、ヤイ頑鉄」 「アア、噛もか……」 「そら何をしやがるのや」 「コレハ、親方と弥太はんだすか」 「弥太はんやない、どうさらしたのや、これは」 「ヘイ、今なア、表まで私が流して来ましたら、お友達の八ッさんと米はんがいはりまして、化け物をこしらえるのやよってに、お前三十分ほど、ここで寝ててくれ、三十銭やると言いはりましたので、私三十銭で雇われましたのだす」 「アア、三十銭出して、こんな奴を雇うてよるね、しかし、あいつらふたり、よう三十銭持ってよったなア」 「何や知りまへんが、火鉢の引き出しに五十銭あったので、私に三十銭くれはりました、残りは二人で分けてはりましたで」 「アー無茶しよるナ、頑鉄われも馬鹿やなア、よう物を考えてみい、灯をつけたよってにええけども、暗がりで高入道と間違うて割り木で、われの頭でも殴られてみい、死んでしまわんならん、生命がけの仕事をば、僅か三十銭ぐらいで雇われるとは、きさまはよっぽど腰のない奴やなア」 「チョット待っとくなはれ、アア、腰はさっきに抜けたようでござります」 [#改ページ] 正月|丁稚《でっち》 「コレ……定吉。定吉」 「ヘェ……。アァァァあァ、眠《ねぶ》た……。ヘェ」 「なんという顔をします。お正月じゃ、さァさ、お店の方《かた》を起こしてまわりましょ。お雑煮をお祝いせねばなりませんのじゃ」 「ヘェ……。お店の人、起きなはれや。お正月だっせェ、起きなはれや。……起きて、雑煮、食いなはれや」 「コレ、コレ。なんちゅうことを言うのじゃ。雑煮、食いなはれ、ということがあるかい。今日は、お祝い、と申しますのじゃ。なにごとも、丁寧なことば、つかいましょ」 「今日は丁寧なことばで言いまんのか。丁寧なことばちゅうたら、どない言うたらよろしいねン」 「すべて、かしらへ御《おん》の字をつけると、丁寧に聞こえる」 「なるほど、かしらへ御の字をつけますか……。すると、旦那はんやったら、おん旦那はん……」 「そうそう、そう言うたらよろし」 「御寮人《ごりょん》さんやったら、おん御寮人さん、と言いまンのか」 「御寮人さんには、御の字がついてるさかい、それはいらん」 「番頭はんやったら、ご番頭はん……」 「そうそう」 「杢兵衛《もくべえ》どんやったら、ごもくべえどん。太助はんやったら、おたすけ……」 「コレ、縁起のわるい……。それから、若水を汲《く》んできましょ」 「へえェイ……」 「コレコレ、ヘェと汲みに行くのはええけど、今日は黙って汲むのやないぞ。歌を誦《くちず》さんで汲みますのじゃ」 「歌て、どんな歌です」 「知らんのか。知らんのなら教えてあげる。……あらたまの年たちかえる朝《あした》より若柳水《わかやぎみず》を汲みそめにけり……と、三べん唱えて、この橙《だいだい》を……これはわざとお年玉だす……と言うて、井戸の中へ落として水を汲みますのじゃ」 「ヘェ……。ちゃんと汲んできました」 「ごくろう、ごくろう。歌をまちがわんと汲んだやろなァ」 「ひょっとしたら、すこし、まちごたかもしれまへん。旦那はんのは、はじめ、どない言いまンのだしたいな」 「はじめは、あらたまの、じゃ」 「アッハッハ……。それやったら、はじめがまちごてます」 「はじめがまちごてる……。どない言うたンか、言うてみィ」 「へえ……はじめなァ……目の玉の……ヘッヘッヘッ……目の玉のでんぐり返る朝《あした》には末期《まつご》の水を汲みそめにけり……。橙を井戸の中へ落として、これはわざとお人魂《ひとだま》です……と。……ちょっとちがいまっかいな」 「阿呆やなァ。よう、そない縁起《げん》のわるいことばっかり言うたなァ……。サ、お店へいって、みなに、お雑煮の用意ができたそうやで、お膳の前へ坐ってもらうように言うてきなさい」 「ヘェ、旦那《だん》さん。明けましておめでとう存じます。旧年中はいろいろとお世話に相成りまして、また、今年《こんねん》もあいかわりませず……」 「ハイ、おめでとう。今年もまたどうぞあいかわりませぬよう……」 「ヘェ、旦那さん。おめでとう存じます」 「ハイ、杢兵衛はんか。おめでとう」 「ヘェ、おめでとう存じます」 「太助どんか。おめでとう」 「ヘェ、眠《ね》むたい、眠むたい」 「眠むたい、いうやつがあるかい。権助、めでたいな」 「ハァ、死にたい、死にたい」 「縁起のわるい。死にたいというやつがあるかい。お松、めでたいナ」 「煙《けむ》たい、煙たい……」 「なんで、そんなことを言うのじゃ。しょうのないやっちゃ。……定吉、さ、大福茶《おおぶくちゃ》を、ずうっと持ってまわろ」 「ヘェ。……お雑煮を食べるまえに茶を飲まして、それで餅を、沢山《ようけ》食わさん計略やな」 「コラ、コラ。なんで、そないなこと言う……」 「旦那さん。さきほどから、定が縁起《げん》のわるいことばっかり申しますので、縁起なおしに一句浮かびました」 「なんぞ出来ましたか」 「これはどうでございます。……大福や茶碗の中で開く梅、とはどうでござります」 「なに……大福や茶碗の中で開く梅。ウン、よう出来ました」 「旦那さん、わたくしも一句。大福や茶碗の中で匂う梅、とはどうでござります」 「杢兵衛どんもか……。なに、大福や茶碗の中で匂う梅、とな。これもよう出来ました」 「旦那さん。わたいもひとつ……」 「丁稚《でっち》のくせに生意気に……。お前らに、出来やせん」 「わてかて出来ます。大福や……」 「大福や……」 「茶碗の中で梅干と昆布が土左衛門」 「ちょっと黙っとれ。もの言うたら、ろくなことを言いくさらん。それより、早《は》よ雑煮を祝え」 「ヘェ。……お松っとん、雑煮を盛《よそ》てんか。餅《あも》を、沢山《ようけ》入れて。わて、餅、大好きや。お正月は餅を食べるのンがたのしみやで……。エェ、はばかりさん……オイ、お松っとん。餅を沢山、入れといてや、言うてンのに、芋ばァかり入れやがって……。こんどから、お使いに行てくれ、いうたかて、行たらへんぞ。ツツツツゥゥ……。オット、芋がツルツルすべって箸ではさまれへん。アハハハ……芋がお膳のとッから逃げやがった。クソッ、逃げようたて逃がすもんかェ。ヨ、芋の脱走やァィ」 「なんで、そんなこと、言うのンや。芋の脱走やなんて……」 「いよいよ、逃げるナ。アハハ……とうとう、お膳の下へ身をかくしやがった。番頭はん、すんまへんけど、そこから芋を突き出しとくなはるか。それとも、すぐに召し捕りまひょか」 「また、そんなこと言う……」 「箸で突き刺したるぞ。ヤァイ、突き刺せた……。芋の磔《はりつけ》やァイ……」 「あんなことばっかり言いやがる。黙って食べよッ」 「ヘェェ……。ウハハハ……」 「ちょっとおとなしいと思たら、こんどは泣きよる……。なにしたんや」 「いま、餅《あも》、噛《か》もと思たら、歯が抜けたんで……。アァ、痛い、痛い……」 「やかましいッ。元旦早々から、歯が抜けるやなんて……。あんばい、見てみィ」 「アヮヮヮ……。歯が抜けたんやと思たら、銀貨が出てきた」 「番頭どん、聞いたか。縁起《げん》のわるいこと言うても、さすがは子供じゃ。うちは、毎年、餅《あも》つくときは銀貨を十枚入れておくのやが、出入りの者に当たるか、家《うち》の者に当たるかと思てたら、定に当たった……。定」 「ヘェ」 「よろこべよ。お前は果報者やぞ、今年は運がええぞ。金持ちになるのじゃ」 「なんででやす」 「餅の中から金が出たさかい、かねもちになるのじゃ」 「あほらしい。金の中から餅が出たら、金持ちだっけど、餅の中から金が出たら、この家《や》の財産、もちかねる……」 「もってまわって、あんないやなこと、言いくさる。鶴亀、鶴亀……」 「そやけど、旦那さん。今日の箸は、いつものとちがいますなァ。先が細うて、真ん中が太うて……。これはなんでだンのや」 「そら、どこのお家でも、はじめから金持ちはあらへん。はじめは一生懸命に働いて、しだいに太ってきて、しまいに金持ちになるのや。そこをはなさんように祝うのじゃ」 「なるほど……。そうかて、また、先が細うなってきてますナ。すると、だんだん、また、金が無いようになりまんのか」 「なんで、そんなことばっかり言うのや。縁起のわるい」 「しかし、旦那はん。お正月の物は、みな、縁起のええ由来のあるもんやそうでんな」 「そうや。みな、由来のあるもんばっかりや」 「松は、あおうあおうと待つばかり」 「そうそう……」 「竹は節の数だけお家が繁昌。梅は代々かわらぬよう……」 「そうそう。定でも感心にええこと言う。そんなこと言うてたら叱《おこ》られへんのや」 「海老《えび》は腰の曲がるほど長命するように」 「そうそう」 「昆布は、家内じゅう、喜び事のあるしるし」 「そうそう」 「切り炭は家内じゅう、くろうするように。串柿は家内じゅう、枕をならべて寝るように」 「三世相《さんぜそう》〔過去・現在・未来の三世の占い〕みたいなやっちゃな。はじめがようて、あとがわるい。もう、そこらでよしよし。しゃべりな。雑煮を祝《いお》たら二階へ上がって、着物を着替えてきましょッ」 「ヘェ。ありがたい、もう遊べまンので……」 「まだ遊ばれへんのや。これから、わしは、礼まわりに歩くで、供をするのじゃ」 「ホイ、ホイ」 「ホイホイちゅうやつがあるかィ。早よ、着替えて来ましょ」  丁稚の定吉、旦那に叱《おこ》られて、二階へ着物を着替えに上がりましたが、降りた姿を見ると、木綿の着物に小倉《こくら》の帯を堅《かと》う結んだもんで、身揚げがピンと上がって、なんのことはない、遠い所から見ますと、お釜の化け物みたいで……。旦那のお供をして、表へ出ますと、さすがはお正月、紋付の廻礼者《かいれいもの》、どこで飲んだか年酒《ねんしゅ》に酔うて、九人歩きと申しまして、あっちへ≪よったり≫、こっちへ≪よったり≫、自分をいれるとちょうど九人になります。寄せ算みたいな歩き方……。向こうを見ますと、娘さんが羽根をついてる。鳥追いが来る。千差万別の初春気分、じつに泰平の瑞気《ずいき》みなぎり……とでも申しまひょうか……。 「サァ、定吉。ご町内、一軒一軒、名刺を一枚一枚、入れてまわりましょ。だまって入れンのやないぞ。おめでとう存じます、渋谷藤兵衛、御礼申します……と言うのや」 「ヘェ……。おめでとう存じます。渋谷藤兵衛様御礼申します……」 「コレコレ。なんで、渋谷藤兵衛様と言うねン。こっちへ様をつけると、先様《さきさん》に失礼に当たる」 「それでも、旦那はんはわたいの御主人で、その御主人を呼び捨てにするのは、奉公人としてもったいないと存じまして……」 「お前の言うのは結構やけど、今日は藤兵衛と言うてよろしい」 「ホナ、今日は藤兵衛と言うてもかましまへんか」 「あァ、今日はよろしい」 「なァ藤兵衛。ちょっとは、丁稚に美味《うま》いもん食わしてやりィな。なァ藤兵衛」 「コラ、なにを言う、阿呆」 「それでも、いま、藤兵衛いうても大事《だん》ない言うて……。それに、藤兵衛と言うたら藤兵衛が怒っとる。そない怒りたいンなら、なァ藤兵衛、ちょっと定吉に小遣いでもやれ、藤兵衛。早よ帰《い》んで遊ぼうナ、藤兵衛」 「コラッ、大人なぶりしたら承知せんぞ。はよう名刺を入れてまわりましょ」 「ヘェ……。チェッ、大人なんて嘘を吐《つ》くもんやなァ」 「コレ、ブツブツ、ぼやかんと、はようまわりましょ」 「ヘェ、渋谷藤兵衛、御礼申します。……へ、渋谷藤兵衛、御礼申します」 「コレコレ、どこへ名刺を入れてまわるのじゃ。そこは共同便所やないかェ」 「いつも、この便所に厄介になってまンので、ちょっとお礼に……」 「便所なんかに礼がいるかィ。で、名刺は一枚入れたんか」 「いいえ、邪魔くさいさかい、四、五十枚、かためて投《ほ》りこんでやったわい」 「やったわい言うやつがあるかィ。早よ、まわりましょ」 「ヘェ、渋谷藤兵衛、御礼申します……。ヘェ、渋谷藤兵衛、御礼申します……。しぶと御礼申します」 「コラコラ、死人《しぶと》なんて言うもんやない」 「そいでも、渋谷藤兵衛をちぢめると渋藤《しぶとう》だす」 「そんなもん、ちぢめんでよろしい。もっと丁寧に言いましょ」 「藤兵衛、そない言わいでもええやないか。藤兵衛、早よ帰《い》のやないか、藤兵衛……。藤兵衛、そこは水が溜まってる。ちょっと、とゥべ」  御主人も、あんまりあほらしいので、赤い顔して、定吉よりさきに家へお戻りになりますと、 「番頭どん」 「あ、旦那《だん》さん、お帰り。定吉は」 「まァ聞いとくれ、番頭どん。礼まわりに、名刺を入れさしたら、渋谷藤兵衛様というさかい、今日は様をつけると先様《さきさん》に失礼に当たるよって、藤兵衛と言いなさい……というと、それから、藤兵衛、藤兵衛と、しまいには、そこに水が溜まってる、ちょっととゥべやなんて言いくさンのじゃ。わたしは、赤い顔になったで、さきに帰って来ました」 「それは、どうもあいすまんこって……。帰りましたら、早速、叱りますで……」 「いやいや、今日は元日のこっちゃで、叱ってはくださるな」 「ヘェ、番頭はん、只今。藤兵衛、もう帰りましたか」 「なにを言うのじゃ。いま、旦那さんがお帰りになって、えらいご立腹じゃ」 「怒ることあらへん。藤兵衛が藤兵衛というてもかまへん、いうさかいに、藤兵衛と言うたら、藤兵衛が怒ってんのや」 「馬鹿。表へ行て、御礼受けをしましょ。御礼者が見《め》ェたら、御早々にありがとう存じます。どうぞこちらへお通りをねがいます。なにもござりませんが、御年酒《ごねんしゅ》をさしあげますと言うのやぞ。早よ、表へ行て店番《ばん》をしてましょ」 「ヘェイ。かなわん、かなわん……。ちょっとも遊びにやってくれへん。いま台所で、餅、もろてきた。これ焼いて食べたろ。(店の火鉢で餅を焼く態。それを取り上げて、熱いのを口に頬ばると)フゥフゥ……あ、うまい、うまい」 「新年はおめでとう存じます。今年もあいかわらず……」 「ウムムム……。アハハハ……。ヘェ……。あァ、びっくりした。餅を頬ばったとこへ、だしぬけに声をかけやがったもんやさかい、すってのことで、餅と心中するとこやった。アァ、苦し……」 「どうぞ、おあまりでもありましたらいただかして」 「御早々にありがとう存じます。なんにもございまへんが、年酒をさしあげます。どうぞ、うちらへお通り……」 「おありがとう存じます」 「コレコレ。こんな者を通してどないするねン。この、阿呆」 「ヘェェ……」 「番頭どん、叱ってやんなさんな。それより、家《うち》で年酒をしましょう」  と、これから、年酒がはじまります。 「定吉、なんじゃ、そんなところで蒲団を振りまわして」 「ヘェ、夜具〔厄〕、払いまひょ」 [#改ページ] 商売|根問《ねどい》  ばかばかしいお噂を一席申し上げます。 「こっちへ上がり、そらそうとお前はんどこにいてるねん」 「なんです」 「いいええな、お前はん、今どこにいてるというて訊ねてるねん」 「あんた年がいきはって眼が悪うなりはったとみえますなあ。今お前どこにいてるて、あんたの前に坐ってますがな」 「そらそうやがな、そら分かってあるがな、そうやない、わしの訊ねてるのは、居所を訊ねてるねん」 「アそれやったらね、横町で産んだやつが……ええ、白と黒」 「誰が犬ころのことを聞いてるねん、そやないねん、住所はどこやちゅうねん」 「ハーン、あんた知りはらしまへんか、あの淀川を渡ったとこが十三《じゅうそう》でんねん」 「誰が十三を訊ねてるねん、そやないがな、お前の住んでるとこは、どこやちゅうねん」 「ああ、住んでるとこやて、マメダみたいに言いやがったなあ、それやったら、ぼうやかやだ」 「何ッ、ぼうやかや……はあ、大阪を北の方へ行くと、萱《かや》村というのがあるな、何かい、ぼうやちゅうねんさかい、その村のお寺にでも住んでるのか」 「いえ、そうやおまへんねん、ほうぼうどこやかやに住んでまんねん」 「半分しか言わんさかい分からんねん、相も変わらずおもしろい男やで、ほいでどない暮らしてる」 「まあ今のところでは十階の身の上でっか」 「何ッ」 「十階の身の上」 「十階の身の上て何のこっちゃ」 「よその家の二階に厄介になってるさかい、しめて十階」 「お前の話は判じ物みたいや、ほいでなんぞやってるか」 「へ、へ、子供の時分には、ようかき餅《もち》食うたり、飴玉《あめだま》しゃぶったりしましたけど、もう大人になってからは、何もやってえしまへん」 「そら、店屋物《てんやもん》のなんぞや、そやない、わしの訊ねてるのは家職《やしょく》はやってえへんのか、ちゅうねん」 「それも前やってたんだ、へい、ところが、わたい胃を悪うしましてな、それからちょっともやってえしまへん」 「そらお前の言うてんのは夜食や、そやないがな、なんぞ手職はないのんか」 「あったんだ、ええ、銀のやつがねえ、へえ、ところがあんた今の時代にこんな物はいらんちゅうてね、この前、古道具屋へ安うに売った」 「そら、お前の言うてるのは手燭、どない言うたら分かるねんな、つまり、なんぞ手に残ったかたはないのんかちゅうねん」 「ア、 それやったらねえ、子供の頃にやった疱瘡のあと」 「誰がそんなこと訊ねてるねん、わしの訊ねてるのは飯《まま》の種はちゅうねん」 「稲の穂や」 「嬲《なぶ》ってたらあかんで、その飯はどないして食べてるねん」 「飯をどないして食べてるて、あんた、左の手で茶碗持って、右の手で箸持って食べてまんねんが」 「当たり前やがな、いや、そのお茶碗の中へ入れる御飯はどないするねん」 「お櫃《ひつ》からよそいまんのやけど」 「ほんだら、そのお櫃に入ってある御飯はどないするねん」 「釜で炊いたやつを移しまんねん」 「ほんだら釜で炊く米はどないするねん」 「釜で炊く米はあんた、外櫃《げびつ》から出して、これをよう洗うて釜に入れて炊きまんねん」 「そやさかい、その外櫃に入ってある米はどないするねん」 「そらあんた、米屋が持って来まっせ」 「ホタラその払いは」 「それは倒す」 「それがいかんがな、人に物を買うて倒すてな了見では、川流れの金槌、一生頭の上がる目処《めど》がない、なんなとお前、銭|儲《もう》けをせないかんやないか」 「そらあんたに言われんかてね、銭儲けせな食うていけんちゅうことは分かってま、わたいかてやりました」 「ほう、なんぞやったんか、何をやってん」 「鳥取りちゅうやつをやったんで」 「何ッ」 「鳥取り」 「鳥取り、ああ、お前の言うてるのはそら鳥刺しやろ」 「いえいえ、違いまんねん、鳥取り、あんたの言うてはる鳥刺しちゅうのは、鳥もち竿で、鳥を一羽、二羽刺すやつ、あれが鳥刺し。わたいの言うてるのはねえ、鳥取り。へえ、一ぺんに雀を百も二百もごそっと取る、鳥取り」 「フーン、雀を一ぺんに百も二百も取る。そら一体どないして取んねん」 「アノ、中山寺へ参ったらよう土産に買うて来まっしゃろ、伊丹《いたみ》の名物で」 「フンフン、お前の言うてるのは伊丹の名物、おこころこぼれ梅やろ」 「へ、そうでんねん、おひよひよこひよぼれ梅」 「いや、そやないがな。おこころこぼれ梅やろ」 「エ、言うてまんがな、おひよひよこひよぼれ梅」 「ちょっとも言えたあれへんがな、そのこぼれ梅をどないするねん」 「エ、そのひよぼれ梅を」 「まだ言うてるで」 「そのひよぼれ梅をねえ、お土産に買うて来ましてね、ホイデ、家の裏に、あの大きな榎《えのき》さんが一本植わってまんねん、へえ、榎さんの枝に毎日雀がぎょうさん遊びに来よるんだ、これを狙うたわけだ、ええ、榎さんの真下へネ、きれえな茣蓙《ござ》を敷きましてねえ、ほいで今言うてるアノ、あひよひよこひよぼれ梅をネ、この茣蓙の上へバアーッと撒《ま》いときまんねん、ほいでわたい、アノ頬かぶりしましてね、ほいで塵取りと箒《ほうき》と持ってねえ、こっちの方で様子見てまんねん」 「はあん、変わったことするねんなあ、ほんだら、どないなるねん」 「ほんだらね、この枝にとまってる雀がね、『オイ、チュウ一つぁんに、チュウ二郎はんに、チュウ三郎はん、チュウ太郎はん、みんなこっちへおいなはれ、おいなはれ』『何でんねん』『何でんねんやおまへんがな。あんたら気がつきまへんか。一ぺんこの下を見てみなはれ、なんじゃ旨そうな物がぎょうさんおまっせ』とこない言うたら、ほんならみんなが下を見て『ア、ほんに、ほんに、あんたの言うたとおりや。ぎょうさん、旨そうな物がおまっしゃないかいな、あれ行ってよばれまひょか』『そないしまひょ』みんなでよばれまひょ、よばれまひょ、というてるとねえ、中に賢い雀が一羽ぐらいいてまんねんな、『オイ、ちょっと待ち、ちょっと待ち、お前らそんなあっさりナ、よばれまひょ、よばれまひょちゅうけどナ、この世知がらい世の中にあれだけの食べ物、エ、ただで食わしてくれるちゅうのはナ、こらひょっとしたらおかしいで。何か隠された魂胆があるのに違いない、こらしばらく様子を見た上でのことにしたらどないや』とこう言うんだ」 「誰がや」 「エエ、雀が」 「ほんまかいな」 「エエ、ほんだらね、ほかの雀が『ほんになるほどこいつの言うたとおりや、こらうかつに行ったら、どんな目に会うや分からんなあ』『ホナ、しばらく様子を見よか』『ホナそないしよう、そないしよう、ちょっとじっくりしようやないか』と言うてね、ほいで様子を見とるねん、ホナそこへネ、ひと足おくればせに飛んで来よったのが、東京の雀でね、吉原雀のチュウ太という奴だ」 「ちょっと待ち、ちょっと待ち、お前、さっきから雀にものを言わしたりしてるが、いま言うたなあ、東京の雀、吉原雀のチュウ太いうたな、そんなことが分かるのんか」 「へ、ちゃんと分かります」 「なんで」 「なんでてあんた、鳴き声で分かりまんねん」 「ハアン、鳴き声で分かるちゅうと」 「いえ、大阪の雀やったらねえ、ちゅうちゅうちゅうちゅうちゅう、へへ、ことば尻が下がりまっしゃろ、こら人間でも雀でもいっしょでっせ、へえ、東京の人間がもの言うてたら、ポンポンとことば尻が上がりまっしゃろ、それと同じだんがな。雀でもねえ、同じ鳴いてても違いまっせ、ちゅちゅうちゅうちゅう、ちゅうちゅう、ちゅちゅう、ちゅうちゅう、ちゅうちゅう」 「ほんまかいな」 「ええ、ほんまですとも。いま言うてるチュウ太がねえ、ちゅちゅう、ちゅうちゅう、ちゅうちゅうと飛んで来よってねえ、ポイと枝の上へ止まって『オウ、大勢よって何してやんでえ』とこう言うとね、『ア、こら吉原雀の兄貴でっかいな、いえ実はね、今この下見たら旨そうな物がぎょうさんあるさかいねえ、皆行ってよばれよかあ、てこない言うたらね、こいつがうっかり行ったらえらい目に会うで、こら何か隠された魂胆があるのやさかい、しばらく様子を見た上のことにしたらどないや、というのでね、皆じっくりして様子を見てるとこです』とこない言うたらね、ホナそのチュウ太がね、『何を言ってやんで。高えところへ上がらなくっちゃ、熟柿は食えねえや。虎穴に入らずんば虎児を得ずってえ言葉があらあ、何でもねえから、見ていねえ』と言うなりね、このチュウ太がたった一疋でね、ちゅちゅう、ちゅうちゅう、ちゅうちゅうと下りて来よってネ、それからこのひよぼれ梅を食いよるねん、わたいその間、見て見んふりしてますねん、ちゅちゅう、ちゅうちゅう、ちゅうちゅう、ちゅちゅう、ちゅうちゅう……。せんど食うといてねえ、もとの枝へポイと戻るなり、『オウ百聞は一見にしかず、なんともねえじゃねえか』とこう言うとね、ほかの雀も見てるもんですさかいな、『ほんに、こらチュウ太兄貴の言うとおりや、別条ないわ、ホナ行ってよばれよか』『ホナそないしょ』ちゅうてね、百からの雀が一ぺんにばたばたばたばたばたっと、下りて来よってねえ、それからこのひよぼれ梅を食いよるんだ、なんし、あんた、百からいてる雀が一ぺんにねえ、ちゅちゅう、ちゅうちゅう、ちゅうちゅう、ちゅうちゅう、こっちの方でも、ちゅちゅう、ちゅうちゅう、ちゅうちゅうちゅう、あっちの方でもちゅちゅう、ちゅうちゅう、ちゅうちゅう、ちゅう。こっちの方でちゅちゅう、ちゅう……」 「やかましいなあ、いつまで同じことを言うてるねん、ほいでどないなるねん」 「へ、そないして、あんた、せんど食べておりまっしゃろ、ところがねえ、このひよぼれ梅ちゅうのはね、味醂粕《みりんかす》でこしらえておますねん、へい、ぼちぼち、酔いが回ってくるんだ、じゅじゅう、じゅうじゅう、じゅうじゅう、じゅじゅう、じゅうじゅう、じゅうじゅう……」 「なんやそのじゅじゅう、じゅうじゅうというのは」 「へ、つまりね、酔いが回ってきてぼちぼち、呂律《ろれつ》が回らんようになってきたんだ、じゅじゅう、じゅうじゅう、じゅう……」 「そんな阿呆なこと」 「いや、ほんまでんねん、エエ、ほいでぼちぼち酔いが回ってくるとねえ、やっぱりあんた、人間でも雀でも一緒でんなあ、中には酔うてくると陽気な雀もいてますわなあ。エエ、ちょっと、歌の一つもうたいよる。♪ちゅちゅラア、ちゅちゅちゅちゅくか、エエ、ちゅちゅ、ちゅちゅ、ちゅちゅ……」 「もうええ加減にしときや、オイ、ようそんな阿呆なこと言うてるなあ。で、それからどないなるねん」 「へえ、うとうてる間はよろしいで、エエ、歌をうとうてる間はよろしいねんけどな、だんだん、だんだん、酔いが回ってきまっしゃろ、へえ、そうなりますと足元が危のうなってきまんがな、皆ね。あっちへひょろひょろ、こっちへひょろひょろと、雀足で歩く」 「なんや、その雀足というのは」 「人間やったら千鳥足でっけど、相手が雀やさかい雀足で歩く」 「ようそんな阿呆なことを言うてるで、それからどないなるねん」 「ヘエ、歩いてよる間はよろしいねんけどねえ、ぼちぼち、あっちでもごろり、こっちでもごろりとね、その場へ寝よるんだ、エ、寝よった時分を見計ろうて、わたいがねえ、前からちゃんと買うて用意してある、南京豆、エ、こいつをばこっちの方からバラバラ、バラバラと撒いたりまんねん」 「なんでそんなことをするねん」 「いま言うとおりナ、地面へじかにみんな寝てよりまっしゃろ、そこへあんた、南京豆をバーッと撒いたりまんねん、ほんだらね、雀が思いよる、アアなかなか気が利いてよるなあ、枕まで当てごうてくれはるわい、ちゅうてね、その南京豆を枕にぐうっと寝よった時分を見計ろうて、箒を持って行って、こいつをばバアーッと掃きよせてね、ほいで塵取りでシューッと掬《すく》うて、籠の中へポイとほり込んで、こいつをば担《かた》げて、焼鳥屋へ売りに行く」 「ようそんなこと考えたなあ、ほいでやったんか」 「へ、へい、やりました」 「で、うまいこといったんか」 「さあ、いま言うとおりねえ、みんながええ具合に酔うて寝よるとこまではうまいこといったんだ。へえ、ほいでわたいがね、掃いたろうと思うて箒持って行ったらねえ、今までよう寝てたやつがねえ、一斉にバタバタバタバタバタアッとネ、飛んでしまいよったんで、資本《もと》の入れ損や」 「なんじゃ、あかなんだんか」 「ええ、あきまへなんでん、ほいでね、商売を変えましてん」 「ほう今度はどんな商売やってん」 「へ、鳥取りは鳥取りでんねんけどね、雀みたいな安物狙わんとね、今度は上物《じょうもの》を狙うたれと思うてね、鶯《うぐいす》を取るのにかかりました」 「ハーン、鶯をどないして取るねん」 「これもわたいの考案でんねん、へい、あの糊《のり》と鍋墨《なべずみ》をよう混ぜときましてね、ほいで、わたいのこの右の腕、この二の腕から上へ、こいつをべったりと塗りまんねん、へえ、ほいでこの掌《てのひら》の上へ飯粒を五粒ほどのせましてね、ほいで、家のあの天窓へ梯子を掛けてねえ、この梯子を上がって行きまして、天窓から屋根の方へ手をニュッと突き出しときまんねん」 「なんやそれ」 「へい、つまり、これ、梅の古木《こぼく》だ。へい、掌の上にのってある米粒が梅の蕾《つぼみ》だ、鶯が梅を慕うて飛んで来て、この蕾のとこへとまったやつを、グウッとつかむ、鶯の手づかみ法」 「えらいことを考えたなあ、そんなこともやったんか」 「ええ、やりました、へへっ、朝早うからね、鍋墨を手へ塗りましてね、エエ、ほいであんた、飯粒をちゃあんとのせといて、ホイデ天窓へ上がって行って、なるべく枝振りのええように、屋根へこうして手をニュウッと突き出してました、ところがね、朝の六時頃からねえ、一生懸命こないして手え突き出して待ってるのに、ねっから鶯が飛んできまへんねん、お昼ちょっと前ぐらいになったらねえ、サア足は棒みたいになるわ、手はだるうなってくるわ、もう止めてこましたろかいなあと思いましてんけども、人間は辛抱が肝心でんなあ、へえ、待てば海路の日和あり、ちゅうやつだ、お昼ちょっと回った時分にねえ、ホーホケキョ、鶯の鳴き声がしました」 「なるほど待った甲斐があったなあ、ホイデ何かい、鶯はとまったんか」 「へいへい、とまったことは、とまったんでっけどねえ、蕾のとこへとまってくれたらなんでもなかった、根性の悪いやつだ、へえ、とまることは、とまったんでっけどね、ちょうどわたいの、ソウこの脈の上へとまりよった、なんせ、あの小さな足でねえ、ここら歩かれてみなはれ、こそばいのこそばないの……。と言うてでっせ、今こそばいさかいちゅうて、この手を動かしたら、あんた鶯が、逃げまっしゃろ、そやさかい、このこそばいのをじいっと辛抱してるのが、わたいの手ェだ」 「そや、お前の手や」 「いえいえ、そやおまへんねん、わたいの言うてるのはね、このわたいの手は、これ梅の古木でんねんネ、ほいであの鶯が小さな足で脈の上をこそこそ、こそこそ歩きまっしゃろ、こそぼうて、こそぼうてたまりまへんねんけど、今この手を動かすと、わたいの手やちゅうことが分かりまっしゃろ、そやさかい、そのこそばいのをじいっと辛抱して、動かさんようにしてるのが、わたいの手ェやというてまんねん」 「そうや、お前の手や、人の手やない」 「いや、どない言うたら分かるねん、分からん人やな、いや、ソ、そら分かってまんねん、これはわたいの手でんがな、こらわたいの手ですけど、この場合、わたいの手は梅の古木でんねん、ね、ほいでこの、こそばいのをじいっと辛抱してるのが、わたいの手ェや……ちゅうのは、つまりわたいの手はわたい……」 「いつまで同しことを言うてるねん、つまりお前の言うのは、じいっとさしとくのがお前の計略やろ」 「ええ、そうでんねん、そうでんねん。わたいの計略だ、じいっとこそばいのを辛抱して、じいっとしてたらね、ホタラ、やっぱりえらいもんでっせ、ぼちぼち、ぼちぼち、蕾のほうへ近づきました、とうとう、蕾のとこへ来ました」 「来たか、で、そこでグウッとつかんでんな」 「そうでんねん、ここでグッとつかまんならんと思うてね、バッとつかもうと思うたらね、なんせ塗ってあるのが、鍋墨と糊と混ぜ合わしたやつでっしゃろ、朝早うから屋根の上へ手をつき出して、お日いさんに当たったもんですさかい、カンパチになってねえ、この手が握れまへんねん」 「それでは何もならんやないか」 「さあさ、これで握れなんだら今まで辛抱したんがどもならん、なんとかして握らないかん、宝の山に入《い》りながら、手を空しゅう帰るのは残念な。精神一到何事か成らざらん……。パーッとつかんだところがね、神経が全部手の方へいってまっしゃろ、エエ、足元がお留守だんがな、つかんだと思うたらねえ、梯子を踏み外して下へドスーンと落っこった。痛いと思うた瞬間に、わたい手ェポイと放した。鶯は逃げてしまうわ、わたいは腰骨を打ってあんた、それから骨継ぎ屋へ通うてえらい損や」 「あんなことばっかり言うてるねん、ほいでどないしたんや」 「ほいでまた商売変えた」 「よう商売変えるねんな、で今度は何をやったんや」 「鳥取りを」 「鳥取りをばっかりやってるねんな、ホイデ今度は何を取りに行ってん」 「鷺《さぎ》を取りに行ったんだ。あの鷺ちゅうやつはふけ田へ降りるそうでんな、ほいで、わたいね鷺取りに行ったんだ」 「どないして取んねん」 「エヘッ、これもわたいの考案でんねん、へえ、あの鷺がねえ、ふけ田へ降りてねえ、あの泥鰌《どじょう》を食うてまっしゃろ、へえ、ほいでねえ、わたいこっちの方からねえ、へえ、サギッというて呼んだりまんねん」 「なんや」 「サギちゅうてね、鷺を呼んでやりまんねん」 「ふうん、変わってるなあ、ほんならどないなるねん」 「へ、ほんでね、呼んどいてシュッとかくれるんだ、ほんだらね、鷺がね、はあ、いま誰かわしを呼んだな、ちゅうのでね、一生懸命泥鰌を食うてた頭を上げてね、あたりを見回しよる……。ところがわたいはかくれて見えしまへんやろ。おかしいな、たしかに呼んだように思うねんけど、空耳やったんかいな……。ちゅうて、また俯《うつむ》いて泥鰌を食うてる間にねえ、えへっ、その鷺の一間ほど手前まで行ってねえ、こんどはさっきより声をちいそうしてね、サギッちゅうて呼んで、またシュッとかくれたりまんねん、ホナ鷺はねえハハン、たしかにやっぱり呼んでるわ……。頭上げてあたり見まわしても姿が見えんもんやさかい、おかしいなあ、しかし待ちや。さきの声よりだいぶに声がちいそうなったところをみると、さっきより遠いとこから呼んどるのやなあ、と思うてな、ホイデまた俯いて泥鰌を食うとる間にね、エ、今度はね、傍まで行ってね、サギッと呼んだりまんねん。ホイデまたシュッとかくれるんだ、ホナ、鷺はね、今度は頭上げしまへん。ハハン、また呼んどるけど、今度はだいぶに声がちいそうなったな……、ちゅうのでね、俯いて一生懸命、泥鰌を食うとる間にね、真後ろまで行ってねえ……」 「何、何を言うてん」 「さあ、聞こえしまへんやろ、聞こえんもんやさかい、アアこらもう向こうへ行ってしもうてんなあと思うて、安心してるやつを後ろからグウッと首筋をつかむ」 「ようそんなこと考えるな、ホイデやったんか」 「エ、やりました」 「で、うまいこといったんか」 「エ、うまいこといったことはいったんだ、真後ろまで行って、バアッとつかもうと思うたらね、足を滑らして田圃《たんぼ》の中へドボーンとはまってね、田圃の水飲んでさっぱりわやや」 「そんばっかりしてんねんがな」 [#改ページ] 尻餅《しりもち》  一年のうちでいやな月がひと月ございます。何月やと申しますと、十二月というガキでおます。別にこない憎らしそうに言わんでええんですけれど、まあ、あんさん方のほうでは屈託がございませんが、もうこんさん方のほうになりますと、ずいぶんとこの十二月という月には悩まされるもんでございまして、十二月に入りまして奥へ参りますと、大晦日峠というのがございまして、なかなかこの峠が越しにくいもんやそうで。  うちの親父なんかこの峠の中途でブランコしてあの世へ越してしもたと申しますので、まあいわば私にとりましては親の仇でございます。何とかして仇討ちがしたいもんやと思うて、毎年この仇には出会うんですが、いまだに返り討ちに会うて、さっぱりわやでございますが、なんし、十二月になりますと風がきびしゅうなりますな。  ま、電信柱のあの針金なぞが笛のもの真似をいたします。ピュウウウ、ピュウウウ、……激しい音がいたします。破れた障子などはこうなりますと江戸弁《えどっこ》を使いますな。ベラベラベラベラベラ、ベラベラベラベラベラベラ、ベラベラベラベラなんだい、ベラベラベラ、……まさか、なんだいてなことは言いませんけれど、そうなりますと表を歩いてる人でも忙《せわ》しそうに歩いてなはる。なんじゃ口の中に焼豆腐を入れて歩いているように言うてなはるな。エーサッサッサッサッサッシー、エーサッサッサッサッサッ、飛んで歩いてなはる。そうなりますと町中をば大きな釜を差し担《にな》いにいたしまして、賃搗《ちんつき》屋がやって参ります。その後ろから餅箱を売りに参りますな。 「餅箱はア、いりまへんかいなあ。餅箱はアどうでおわす」  注連縄《しめなわ》飾りなどを売りに参ります。 「注連縄、エー飾りイ、松飾りイいりまへんかえ」  てなことを言いますと、いよいよお正月がやってきたという気分がいたしますが……。 「ちょっと親父さん。親父さんちゅうのに」 「なんやねん」 「なんやねんやあらへんがな。ようそないして納まって坐ってられるわなあ。ええ今日は何日やと思うてなはるねん。十二月三十日やし」 「そや昨日が二十九日で明日が三十一日や」 「何を言うてなはるねんな、エエ。さっきから見てたら煙草ばっかり喫うて、一ぺんその煙管《きせる》はなしてやったらどないや。まあ、まるで貧乏町の戸長はんみたいに持ちきりやがな。煙草の雁首《がんくび》が火になってしまうし。黒い顔から煙出してこのエントツ親父が」 「コラ、われみたいにそない言うたら、俺に三文の値打ちもないやないか」 「またあんたに一文の値打ちでもあるのんかいな、エエ、わたいがこないしてさっきから精出して夜業《よなべ》してるの、何やと思うてなはるねん、子供の着物縫うてるねんし。いいええナ、近所の子はせんぐりせんぐり新しい着物を着せてもろてるのに、エエ、古い着物一枚きり、いつでも同じ着物着てるのはうちの子だけやし。せめてお正月なと新しい物を着せてやりたいと思うけど、あんたの働きが悪いさかい、古ぎれの一枚も買われへんやないかいな。エエ、そやさかいな、そこらになんぞあったらと思うてあっちこっちから引っ張り合わして、こないして、まあせめてお正月、手でも通せるようにと思うて、一生懸命精出してるねんし。ちょっと、あんた聞いてるのか。連れ子やないねんし。あんたと二人の仲にできた子やし。コレっ、何とか言ってやったらどないやね」 「お大抵やおまへん。ようしてお上げなはる」 「まあ、ひとごとみたいに言うてるわ。いいええな、ま、それはそれでええけれど、近所みな餅《あも》ついてはるねんし。いいええな、うちの子が帰ってくるたんびに、お母ン、近所は餅|搗《つ》きしてるのに、うちいつ餅搗きするねん、ちゅうて訊ねられるたんびに、わたい辛い思いしてるねんし」 「何を吐かしてけつかるねん。餅みたいなもん、どうでもええやないか。掛け餅買うとけ。掛け餅を」 「それは分かったあるけど、何も食べたいことはないけども、そうやろ、近所に対してみっともないがな。せめて餅が搗けなんだら音だけなとさしてくれてやったらどないや」 「なんじゃい。音だけさしたらええのんかい」 「そうやがな」 「よっしゃ。音だけさしたるわ」 「まあ、うれしいこと。どれほど搗いてくれるねん」 「われの我慢のできるだけ、搗いたるわ」 「まあ、そうか。嬉しいやないかいな。お米屋へ行てこうか」 「阿呆。米が買えるぐらいやったら、何も苦労するかい」 「そうかてあんた音だけさすちゅうたやないか」 「そうや。音だけさしたるのや」 「音だけさすて、一体どないするねん」 「今晩な、夜中に俺を起こせ、エエ、俺は表へポエーッと飛び出してな、路地口へ行ってな、路地の戸をドンドンとたたいて大きな声で『この裏に竹内さんちゅう家おまへんか。賃搗屋でおます』ちゅうたら、『竹内はわてとこ』ちゅうて、われ出てきて、表の戸を開けエ。ほんなら、俺がうまいことやったるさかい」 「まあ、どないすんねん」 「どないするも何もあらへんがな。うちらへ入ったら、われな、板の間へ尻まくって四つん這いに這え。俺はお前の尻を、音のよさそうなとこ、バーンバーンと……」 「ちょっと、おいとお。この寒いのにおいど捲《めく》って叩かれてたまるかいな」 「そうかて、われ音だけさしてくれちゅうやたやないか」 「まあ、ろくなこと思いつけへんわ。ホナラしかたがないわ。もう今晩早う寝なはれや」 「ほんなら寝よか」  親子三人が薄い蒲団に入りまして寝たんですが、なかなか寒いときは寝られんもんでおわして、 「ホッホッホッホッホー、寒いなあ。嬶《かかあ》、しかしめでたいな」 「何がめでたいねん」 「今晩わしとこ餅搗きや」 「ようそんなこと言うわ。わたい今晩な、おいど叩かれると思うたら、心配で寝られへんわ」 「しかし、嬶、寒いやないかい」 「寒いやないかいて。あんたがもっとしっかり働かへんさかいやないか。こんな薄い蒲団で三人寝てるねんし。ちょと、ちょっと、おとなしいしてやったらどないや。いいええなあ、どこへ足を持っていくねん。これッ、そんなとこへ足持ってきてどないするねん。あかんちゅうのに。もっとそっちへ足をやりなはれ、ちゅうのに」 「アーッ」 「それ見てみなはれ、お腰が破れたやないか」 「ワッハッハッハッ、お腰が破れたらまた買うたる」 「ようそんなこと言うわ、ついぞあんたにお腰の一枚も買うてもろうたか。そやないかいな。わたいが奉公してるときに溜めといた、エエ、ずっと使うてた……、とうとう先月でお腰みんなないようになってしもた。女子が腰に何も巻いてなんだら頼りないもんやさかい、エエこの間うちからわたい風呂敷巻いてるねんしい。いいええなあ、昨日もうっかりして洗濯しようと思うてな。井戸端で尻からげしたら、奥の妙香はん、ええこと言いなはるやないか。まあ、お咲さん、あんたとこ師直《もろなお》の親類と違うのんか。大きな桐の紋がついたあるやないか……。こんなこと言われてんし。ほかの近所の連中はみな、わたいのことどない言うてる……。エエ、豊国さんのご威徳やて。ほんまにわたい恥ずかしい思いばっかりしてるねんしい。そやさかい、おとなしい寝なはれちゅうのに。おとなしい寝な、あかんし」  怒られ倒して寝てしまいましたが、夜中に嫁はんのほうはなかなか寝つかれんもんとみてまして、早うから目をさまして、口八丁手八丁でせえだい起こしとる。 「ちょっと、親父さん。ちょっと親父さんちゅうのに。よう寝てるわ。まあ、男の寝顔というたら可愛らしいもんやちゅうこと聞いてるけど、うちの親父の顔、不都合すぎるわなあ、まあ、こわい顔して寝てるし、まるで道修町の張り子の虎みたいな顔してるわ。ちょっと親父さん、起きなはれちゅうのに」 「アアア」 「まあ、鼻から大きな提灯出して。祭りの夢でも見てるのんかしら。あっ消えたわ。雨でも降ってきたんかいな。あ、またついたわ。ああ、消えたら蝋が口へ流れるわ。あっまたついたわ。せんぐりせんぐりつくわ。ひょっとしたら提灯行列の夢でも見てるのかも分からへんわ。ちょっと親父さん。親父さん、起きなはれ」 「フウ、フウーン。ウー寒、ウウッ嬶、火事か」 「何を言うてんねんな。しなはらんか」 「なんや」 「しまんねがな」 「するのんか」 「何を言うてんねんな。餅屋《あもや》はんをしまんねがな」 「ウワッハッハッハッ。ころっと忘れてた。寒いやないかい。嬶、明日の晩にしてんか」 「ようそんなこと言うてなはるわ。片付けごとや、今晩搗いてしまいなはれ」 「片付けごとや言いやがるねん。どうもしようがない。ワーッ、寒いな」 「いじけてんと、表へ出なはれ」  嫁はんに無理やりに表につき出されましたが、寒い時分にたいてい手のいくところはきまってございます。こんなとこに手をあてがいよって、 「ウウー寒、オオウ寒いなあ。ああ、たまらんなあ、こらあ。ア痛ッ。長屋のど阿呆や、エエ、何のためにこんなとこに閂《かんぬき》を入れやがんのや。ろくなことさらさんで。ついぞこの長屋へ盗人はいったことはないのや、エエっ盗人やったら、ちょいちょい出よるのや。閂入れんのやったら表から入れんならん。ろくなことさらさんで、ウウッ……」 「留吉っつあん、畳拭きまんねん、湯ウかえておくれやす。雑巾絞っとくれやす」 「なあ、横町の中田はんや、ああして若い者に掃除さして、けっこうに正月迎えはる家があるかと思うたら夜中に起きて、嬶の尻どつかんならんて、チェッ考えてみたら世の中ちゅう……ハクション、ハクション、こりゃいかん。ああ、風邪ひいてしまうわ。早いとこ済ましたろ。……今晩はア。ちょっとお開け、この裏に竹内さんちゅう家おまへんかいな。竹内さんちゅう家おまへんかいなあ、賃搗屋でおます。ちょっとお開け」 「竹内はわしとこ。どなた」 「俺やあ……。賃搗屋でおます、ちょっと戸開けとくれやす」 「そう戸を叩いたら戸がつぶれます。しばらく待っとくれやす」  嫁はんもよっぽど世間へ見栄がはりたいものとみえまして、鼻緒のゆるんだ下駄はきよって、ガラゴロガラゴロガラゴロと出てきよるなり表の戸をばキイイーン。 「阿呆、どなたちゅうたら、俺やて」 「ウワッハッハッハッハッ、毎晩、遅うに帰ってきてな。どなた……、俺や……ちゅう癖がついてしもたんや」 「しっかりしなはれな」 「オウ、われなこれから横町の木村はんへ行ってな、ああ、それから真田はんへ行って、大方、後藤はんあたりで会うと思うのやがな」 「ちょっと。だれぞ他に連れでもいてるのんか」 「相手になるな、エエ、親方は一人やけどな、釜が二丁出たあるのや。釜の指図してるね」 「そんなしょうもないことせんと、早いとこやりなはれ」 「分かったある、分かったある、オウ気イつけて入れよ。路地が狭いさかい。ええか、エ、氷が張ったあるさかい気イつけえよ。ホナ行くで。ウォッショ、ウォッショ、ウォッショト、ショッ、ウォッショッ、ワットショッ」 「ちょっとこの寒いのに路地を四つん這いに這うて何してなはるねん。ひびが入るしい」 「やかまし言うな。やかまし言うな。エエ、俺一人やないか。大勢の足音をささんならんやろ。ナ、そやさかい俺は四つん這いになって這うてるのや。オウ辰、われ、提灯持ってるのやないかい。足元が暗いわい、危ないさかい先へ立ったれ、先へ立ったれ、オットショ、オットショイショ、その井戸端へ持っていけ、井戸端へ。エエ氷が張ってるさかい気イつけよ、滑らんように。オオット、オット、そこらへじいわりと下ろせ、じいわり……。オット、ちょっと傾いてるのと違うか、そこに瓦屑があるやろ。それ支《か》いものにして。ああ、オットオット、それでよかろう。ええ、お早うさんで。……嬶、早うからわちゃわちゃとどうした」 「まあ、いややの。いま路地を這うてたと思うたら、もう座敷へ上がって、蒲団の中へ入ってるわ」 「二役せんならんがな。ゴチャゴチャ言うことあらへんがな」 「まあ、いいええなあ、こちの人、賃搗屋はんが来てくれはってんわ」 「ようけもつかん餅、早うから来てうるそうてどうもならんな、エエ、まだ眠たいさかいな、エエ、二、三軒よそを回って来てもろうたらどないや、『お家が一番釜とおっしゃったんで、一番釜を回さしていただきやしたんで、へえ、ほか二、三軒回っておりますと、また日の暮れになりまっせ。来たついででおますさかい、搗かせていただきまっせ』どうもしょうがないな。ほんなら、えらい済まんけど頼むわ、嬶、餅屋はんも寒いやろ。一杯飲んでもらえ。エエ、いいええなあ、一杯飲んでもろうて温もってもらえ、ちゅうのや。なに……、上の樽、空《から》になったてか。この間、お前、鏡を割ったとこやがな。エエ、噺家が来てみな飲んでしもた。どもならんなあ、ホナ、しょうがないがな。下の樽を開けえな。いやいや、お神酒だけとっといたらええのや。ほいでな、肴はな、フンフン、もう、その煮〆でええがな。いやいや、組重箱やないが、重箱のほうをほり出しときいな。ええ、なんなと好きなものを食べてくれるやろ。それからな、紙に包んだ物、こっちへ持ってこい」 「ちょっと紙に包んだ物ていったい何やねん」 「餅屋の祝儀やがな」 「まあ、嬉しいこと。この長屋ぎょうさん餅搗きはるけど、餅屋はんに祝儀出すとこはどこもあらへんのやわ、そこを近所へ聞こえるように大きな声で言うといとう」 「よっしゃ餅屋はん、えらい少ないのやけど、皆で分けてんか。『オウ、こっちへ入って親方にお礼申せ。エエ寒いさかいちゅうて一杯飲ましてくれはった上に、ご祝儀までくれはったで。親方、お内儀さん、おおきにありがとさんで。ご祝儀おおきにありがとさんで。ご祝儀ありがとさんで。ご祝儀ありがとうさんで。ありがとさんで』ワチャワチャワチャ……」 「何をごちゃごちゃ言うてるねん」 「大勢で言うてるさかい、分からんようになって」 「そんなしょうもないことしなはんないな」 「『ワッハッハッハッハッ、こりゃええ親方やないかい。エエ、寒いさかいちゅうて、こないして我々に一杯飲ましてくれはるねんで、嬉しいなあ。エエ、重箱ほり出しといて、好きなもの取って食べやて、嬉しいやないかい。いちいち手塩皿《てしょう》によそうたんでは気兼ねするやろちゅうて。ヘッヘッヘッ、なかなか気のつく親方やで、エエ、しかしこないに回ってきたら、アア、エエ、どないやて……。巳んちょ、巳んちょが、ハア、今年顔見せんと思うたら、ハハ、嬶に子供がでけた。そうか、そら、めでたいな。ハッハッハッハッハッ。まだだいぶに星は高いなあ。ハアーッよう冷えよるな。♪揃うたアアン、揃いました、か、エエ、加賀越前のオオ、お駕籠やエ回りのエエ、さまお陸尺よ……か。シンコツ、カンコツ、寒紅梅か南無阿弥陀仏は……。ああーああ……』」 「ちょっと、井戸端へ坐り込んで何をしてるねえ」 「相手になるなちゅうてるやないか。エエ。蒸しの上がるまで釜の前で火に当たってるのやナ、これから粉のボデが間違うたちゅうて、つかみ合いの喧嘩……」 「おきなはれ。阿呆なこと。エエ、ほんまの喧嘩やと思うて、近所の人が出てきたら、ばれてしまうやないか。そんなこと言うてんと早う搗いてしまいなはれ」 「ああ、分かった、分かった、『オウ、あの臼を持って入れ、臼を。ええか、いくで、オイショ、オイショ、オットショ、オイショ、オットショ、オイトショ、オット……、そこらでよかろう。オット、そこへ臼を据《す》え』オイ臼据えんかい。臼を据えちゅうのに」 「何やねん」 「尻まくれちゅうねん」 「ああ、ほんまにろくなこと思いつけへんねんわ。もういっそのこと、今晩寒いさかい、明日の晩にしとう」 「何を吐かしてけつかるねん、阿呆んだら。ここまで仕込んどいて、今更やめたらどないもならへんがな。早う臼据え」 「ハアーッ……ほんまに情けないし。夫婦仲でもな、恥ずかしいさかい、そっちを向いてとう……情けない」 「ウワッハッハッハッ、こらあ立派な臼やな。『お家小桶に水一杯……』」 「ちょっと小桶に水、何してやねん」 「何してや……。臼取りするのに水がいるやないかい」 「おいど叩かれるだけでも心配してるのに、そのうえ水つけられてたまるかいな」 「辛抱せい。辛抱せい。音が悪いわい、『オウ蒸し上がったら持ってこいよ。いくで』フーフー」 「何を吹いてるのや」 「いいええな、蒸籠《せいろ》を運んでるのやけどな。湯気が立って向こうが見えんさかい、吹いてるのや」 「もうそんなしょうもないことしなはんないな」 「『ウワッハッハッハッハッ、こらあ立派な……。ウワッハッハッハッ、こらあ、まあ、ええ米でおますな。ええ、三島でおますか、さいでおますかいな。いえいえ、こんな米搗かされたら、あんた、餅屋は腕なまってしまいますわ、へえ。ええ米でごわすわ。ええ何でおますへえへえ……。この裏は今年初めてでおますがな。エエ、隣裏は毎年搗かしていただいておりますので、また、これをご縁によろしゅうお願いいたします。こらあ、ええ米でおますわ。へえへえ、あの神折敷《かみのしき》切っといていただきましたら、へえ、こっちでちゃんと合わさしてもらいますで、へえ、それで結構でおます。えっ、何でおます? ヘエ分かっておます。三宝さんの、へえ、お飾りと、へえ、なるほど、へえ、お飾りが三組でおますか。へえ、ホデ、あとは伸べ餅と、へえ、分かっとります。へえ、小餅、へえ、分かりました。へえ、まかしといていただきましたら、ちゃんとやらしていただきまっせ。オオ寝間が動きましたな、えっ、ああ、坊んぼん、お目覚めでおますかいな。可愛い坊んでおますな、ああ、目えこすりはったらいけまへん、目が痛うなります。ええ、あのしばらくしたらな、餅運んでいただきましたら、すぐに温もりますので、へえ、可愛い坊んでおますな。へえ、幼稚園行ってはりますの。そうですかいな、はとポッポッ、はとポッ……』」 「何をゴチャゴチャ言うてるねん」 「相手になりないな、ええ、一杯よばれたもんやさかい、べんちゃらしてるのやがな。『オオぼちぼちよかろう。気イつけや、エエ、天井が低いさかいな。ああ、上を気イつけや。ホナ、ぼちぼちいくで。ええな』、オッ、ペッタペッタン、ヨッ、ペタペッタン、ヨッ、ペッタペッタン、ヨッ、ペッタ、ヨッ、ペッタン、ヨッ、ペッタペッタン、ヨッ、ペッタ、ヨッ、ペッタン、ヨッ、ペッタペッタン」 「トホホホ……、ちょっと、同しとこばっかり叩かんと叩くとこ変えてやったらどないや」 「コラっ、臼がもの言うやつがあるかえ。辛抱せい、辛抱。ヨッ、ペッタペッタン、ヨッ、ペッタ、ヨッ、ペッタ、ヨッ、ペッタペッタン、ヨッ、ペッタ、ヨッ、ペッタン、ヨッ。『上がったで、次や』フーッ、アアア……」 「どないしてやってん」 「プーと吹いた拍子にな、ゴミが目に入った」 「そんなしょうもないことせんでええねんがな。塵取り持ったりして早いことしなはれ」 「分かったある、分かったある、『アッ、こらほんまに一臼搗かしてもろうただけで、アア、エエ、もう腕があんじょうなまってしまいました。エエ、ええ米でおわすわ。ヘッ、ヨッ、ぼちぼちいけるな。ホナ、いくで。ええな』ペッタペッタン、ペッタ、ヨッ、ペッタペッタン、ヨッ、ペッタ、ヨッ、ペッタ、ヨッ、ペッタペッタン、ヨッ、ペッタペッタン、ヨッ、ヤッ痛っ、痛たっ、コラ、尻動かすな、板の間叩いたやないか」 「臼取りが弾んださかい、から食わした」 「臼が洒落を言うやつがあるかい。ヨッ、ペッタペッタン、ヨッ、ペッタ、ヨッ、ペッタ、ヨッ、ペッタペッタン、ヨッ、ペッタ、ヨッ、ペッタペッタン、ヨッ、ペッタペッタン。次や」 「ホホホホ、ハアハア餅屋《あもや》はん、あと幾臼あるねん」 「『オウ、お家があと幾臼やとおっしゃる。エエ、あと二臼か。お家、あと二臼残っておりますな』」 「ちょっと、こちの人、あとの二臼は白蒸しで食べといとう」 ※「白蒸し」とは、搗かないで蒸しただけのおこわのこと。 [#改ページ] 崇徳院《すとくいん》 「ああ、熊さん、こっちへ入っとくれ、忙しいとこすまなんだなあ」 「へ、わたいね、これから天下茶屋のお得意に行こうと思うてたら、主家《おもや》からお使いがみえたさかいちゅうて、嬶《かかあ》が言うもんですさかい、ほいでとりあえず仕事の方ほっといて、お宅へ来たんだ、何ぞご用事でっかいなあ」 「ああ、実はな、えらいことが出来たんや、伜《せがれ》、作治郎が」 「えっ、さよか、ちょっとも知りまへんねんがなあ、二、三日前ね、ちょっと若旦那が具合が悪いちゅうこと聞いてたんだ。へえ、さよか、人間ちゅうもんは分からんもんでんなあ、ほいでお通夜はいつで、お葬式は」 「何を言うてるねん、伜はまだ生きてるで」 「あっ、まだ生きてはりまんのんか、まあ埒《らち》のあかん」 「何を言うねん、違うがな、あのな、実はなあ、恋わずらいをしよった」 「恋わずらい、へえ、今どきの若旦那が恋わずらい、へえ、どないしはったん」 「いや、わけを聞いたところがな、あの高津《こうず》さんへお詣りに行ったんや」 「へえ、高津さんへねえ、あそこはね、仁徳天皇さんが祀《まつ》っておまんねん、へえ、昔あの仁徳天皇さんがね、向こうの絵馬堂のとこへ立ちはって詠みはった歌がおまんねん、へえ、高き屋にのぼりて見れば煙立つ、民《たみ》のかまどは賑わいにけり……。ほいでどないしたんで」 「いや、実はな、向こうの茶店で休んでん、ほいでお茶飲んでるとこへ、一足おくれて入ってきはったんが、これがもう別嬪《べっぴん》さんも別嬪さん、そらもうとても美しい娘はんが入ってきはった。その娘はんの顔をうちの伜が、美しいお娘《こ》やなあとじいっと眺めた。ところが相手も同じようにじいっとうちの倅の顔を見た。なあ、ほいでどうしたはずみか、その娘はんが先に立ちはった。ホナあとへ塩瀬の茶袱紗《ふくさ》が忘れたある。これをばうちの伜が拾うて、これはあんさんのやございませんかちゅうて渡した。娘はんが喜びはってなあ、もとの床机《しょうぎ》に腰かけはって書きはった歌が、瀬をはやみ岩にせかるる滝川の……。こない書きはった。そいでうちの倅に渡して、そのまますうっと、お供の女中を連れて帰りはった。ええ、それをもろうて、うちに帰ってから、伜は頭が上がらん。この今詠んだ歌が崇徳院さんの歌、百人一首の中にある。瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に会わんとぞ思う、今ここでお別れしますがいずれ後には、どこぞで会いましょうという、つまり恋心を訴えた歌や、そやさかいそれをもろうてから、とうとう寝こんでしもうた。ようようお医者はんに聞いて恋わずらいということが分かった。ところがうかつな伜やで、ええ、それだけ美しい女子はんや、丁稚を連れて行ってるねん、そやろ、そやさかいその丁稚に目配せして跡をつけさしたらよかったんやけど、それをせなんだ。それからその娘はんのことを想うて、何を見てもその娘はんの顔に見えるねんて、つまり恋わずらい。な、そいでなあ、どっちみち大阪で会うてんさかい大阪のどこか、大家《たいけ》のお嬢さんに違いないさかいな、お前はん、すまんけど、イヤほんの橋渡し、仲人は別にちゃんとあらためてつけて、ちゃんと話しするさかい、その先方の娘はんとこへ行《い》ておくれ」 「何でっかいな、わたいに用事ちゅうのはそれでっか、大阪の人やといいはるけど大阪いうたかて広うおまっせ」 「ああ広いなあ」 「そんなんすぐ分かりまっか」 「そこをお前はんが一生懸命探したらええねん。そのかわりただやない、お前はんになあ、この前三十円貸しがあったなあ、あらもう棒引きにしよ、ナ、あらいらん、その上なあ、別にお礼として百円……。アこうしよう、出来たらなあ、あの横町の借家七軒、あれ、あんたに上げるさかい、すぐに探しておくれ」 「すぐに探しておくれて、あんた、そらね借金棒引きやわ、おまけに百円もろうて、借家七軒、そらよろしいけど、あんた大阪かて広い」 「広いというたかてしれてるがな、一生懸命探したら分かるわ」 「もしも大阪で分からなんだら」 「ほな京都へ行きんかいな」 「京都で分からなんだら」 「名古屋へ行きなはれ」 「名古屋で分からなんだら」 「東京へ行ったらええ」 「ようそんなこと言いなはるわ、まあ、ともかくなあ、行きますさかい、ホナ一ぺん家へ帰って嬶と相談して」 「あかんあかん、家に帰ってる間《ま》あれへんエ、先生のお診立てではなあ、あと五日の寿命やそうや、どうしても五日の間に探さなあかん、そやさかいすぐに行っておくれ、エ、お腹が減ってる、何を言うねん、そんなこと心配せんでもええ、これお千代、あのなあ、熊さんに大きなおにぎり、いや、おにぎりでは間に合わん、お櫃に御飯いっぱい炊いて入れて、お菜、お菜みたいなもんいれへん、ウン、漬物がええ、長い太い漬物を五本ほど、それを縄にくくってな、首にぶら下げてやっとくれ、コレコレお櫃を腰へぶら下げたらあかん、背中へ背たろうて、ほいで草鞋《わらじ》を五足ほどつけてやっとくれ、ホナ、早いこと行っといで」 「へえ、こんな格好して行きまんの、ホナ行ってきまっさ……。えらいことなったなあ、一ぺん嬶に相談したろ、嬶、行てきた」 「どないやってん」 「実はこうこうこういうわけや」 「まあ、うれしいやないか、人間一生に一ぺんは運が回ってくるちゅうのん、あんた運が回ってきてんし、先方へすぐに行かなあかんやないか、エエ分からん、分からんことがあるかいな、エエ東京まで行って分からなんだらまた西へ帰らんかいな、エエ、神戸で分からなんだら姫路へ行って、岡山へ行って、広島へ行って下関へ行って、ほいでそれで分からなんだら、海渡って九州……」 「何かいな、日本縦にまっすぐ走るのんか、ホナともかく行くわ」 「あっ、ちょっと待ち、草鞋五足しかない、もう十足つけて行きなはれ」 「おうおう、えらい格好やで、背中へお櫃背たろうて、ええ、腰にぎょうさん草鞋ぶら下げて、香物《こうこ》首へ掛けて、阿呆らしなってきた。何屋や分からんようになってきた」  ぼやきたおして探しましたが、分かるどうりがない、とうとう五日目がやってきました。嫁はんたまりかねて、 「ちょっと、今日はどうしても探しておいなはれや、今日、よう探さんてなこっちゃったら、もうわたいあんたと別れるさかい、な、あんたみたいな先のない人はあかへんねん、しっかり聞きなはれ」 「ホタラ嬶、何かい、今日若旦那の嫁はんが探せなんだら、われと俺とが夫婦別れするのんか、そんな殺生なことがあるかい。主家の若旦那の嫁はん探すために、それが分からなんだら、うちが夫婦別れ、長年われと添うてきて、たいてい情がわかってるはずやで、お前みたいな薄情な女しらんわ、ホナ行ってくるわい」 「あっ、ちょっと待ちや、ちょっと待ち、あのな、一体どない言うて探してるねん」 「何ッ」 「どない言うて探してなはるねん」 「何も言わんと探してる」 「阿呆かいな、この人は黙って歩いてたら分かるかいな、何とか言うたなあ、ア、そうそう、瀬をはやみ岩にせかるる滝川の、この歌をなんでうたいなはらん、エ、大きな声出してうとうたら、それ聞いてはった人がアアそんな話やったらどこそこで聞いたと、どこそこにあったと、すぐに分かるねん、それが手掛りになって……。なるべくなあ、人の大勢集まるとこ行きなはれや、散髪屋はんとか風呂屋はん、ああいうとこへ行くとぎょうさん人が集まってるさかい、しっかり行っといなはれ」 「よっしゃ、ホナ行ってくるわ、お前と別れるぐらいやったらなあ、俺、今日、命がけで一生懸命探してくるさかい……。情けのうなってきた、まさか正月早々こんなことになるとは思わなんだ。なあ、しかし、嬶はええ頭してよるなあ、あの歌をうとうたらええねんなあ……。さて、こうなると声の出んもんやなあ。人のいんとこで稽古したる、瀬、瀬、瀬をはやみ、ハハ、これやったらいけるわ、瀬をはやみ、岩にせかるる滝川の、なるほどこの調子でやったらええねん、瀬をはやみ岩にせかるる滝川の、瀬をはやみー」 「いわし屋はん」 「何を吐かしとんねん、誰がいわし屋や、いわし屋と間違いやがって、アそや、言うとった、嬶が人の大勢集まってるとこがええと言うとった……。向こうにぎょうさん人が集まってよる、向こうへ行って言うたろ、瀬をはやみ……」 「ああ、びっくりした。何でんねん」 「えろうぎょうさん人が集まってますが、何でんねん」 「犬がさかってまんねん」 「やっぱり瀬をはやみがもとでっか」 「何を言うてなはるねん、あっちへ行きなはれ」 「あ、さよか、えらいすんまへん、……ア、そや、散髪屋へ行ったろ、な、なるべく混んでるとこがええやろ、ごめんやす」 「へ、おこしやす」 「おたくつかえてますか、空《す》いてますか」 「アア丁度よろしいわ、今空いてまんねん」 「さいなら」 「もし、もうし、間違うたらいかんで、うち空いてるんだ」 「いや、あきまへんねん、空いてるとこは。なるべく混んでるとこを探してまんねん、また来まっさ、へへ、なに吐かしてけつかんねん、何で空いてるとこへ入るねん……。ごめんやす」 「へ、おこしやす」 「おたく空いてまっか」 「アちょっとつかえてまんねん、へえ、しばらく待ってもらわんなりまへんねん」 「ぜひお願いします、わたい、つかえてるとこ探してましてん、ええ」 「さよか、どうぞ一服しとくれやす」 「へえ、おおきに有難う……。今年のお正月はなかなかええお正月で、へえ、ちょっと失礼……。瀬をはやみ」 「何でんねん」 「岩にせかるる滝川の……。瀬をはやみ」 「もし、もうし、あんた、その歌がえろう、お好きとみえまんなあ」 「いや、別にわたい好きで言うてるわけやおまへんねん、あんたこの歌ご存じでっか」 「ええ、わたいもねえ、あんまり知りまへんねんけども、近頃、うちの娘がたえずそんなこと言うてまっせ」 「ええ、お宅のお嬢さんがたえず言うてはるん……。アノウ、つかんことを訊ねますが、お宅のお嬢さん、高津さんへお詣りしはりまっか」 「ええ、まあ氏神さんでっさかいねえ、へえ、ちょいちょいお詣りするらしおまんねん」 「ハア、さよか、お宅のお嬢さん、別嬪さんでっか、別嬪さんでっか」 「ハハハ、阿呆らしい、いやいや、そない訊ねられたら、親の口からこんなこと言うのんおかしおまんねんけど、まあ町内では鳶が鷹を生んだと、こない言われてまんねん」 「さよか、おたくのお嬢さんに間違いおまへん、お歳おいくつで」 「今年七つでんねん」 「瀬をはやみ」 「何じゃいな、この人は」  それから散髪屋三十八軒、風呂屋二十八軒回りました、夕方になったらもうボーとしよった。 「こんにちは」 「もうし、あんさん、朝からうちに来はったことおまへんか」 「ひょっとしたら、よせてもろうたか知れまへん。なんしねえ、散髪屋三十八軒、風呂屋二十八軒、回ったんだ、はじめの間、頭刈ってもらうの、気持よろしおましてん、へえ、もうしまいには剃刀で剃ってもろうて、もうここらヒリヒリしまんねん。もう顔なんか何べん剃られたか、もうさっぱりわやですわ」 「ホナ、刈るとこおまへんなあ」 「ぼちぼち植えとくなはるか」 「何を言うてなはんねん」 「ともかく、ちょっと一服さしてもらえますか……。瀬をはやみ」 「またはじめはったで」 「今日はちょっと急《せ》き前で頼むわ」 「ああ、源さんやおまへんかいな、どないしはったん」 「えらいことでんねん、うちの本家、お嬢さんが恋わずらい、へえ、男ちゅうのはええ男に生まれなあきまへんなあ。ええ、うちのお嬢さん、この界隈きっての今小町と綽名のある別嬪さん。あの人がねえ、高津さんへお詣りになって、ちょっと茶店で休みはったんだ。先からお休みになってた若旦那、どこの若旦那や分からんけど、ええ男やそうですね。へえ、ちょうど六代目松鶴みたいな、そらねえ、声はちょっと悪うおまっけどねえ、へえ、なかなかええ男だ、へえ、その若旦那見てねえ、歌書いて渡した。自分の心をこめて、瀬をはやみ岩にせかるる滝川の……。われても末に会わんとぞ思う、というのが下の句だ、分かってまっしゃろ。百人一首、崇徳院さんの歌だ、それ渡して帰ってから若旦那に恋わずらい、寝たきりだ、ええ、ようよう病気の原因が分かったんでねえ、皆で手分けしてあっちこっち探し回って、へえ、わたいもこれから南回り……。もうずうっと住吉から堺、岸和田から和歌山、それで分からなんだら紀州熊野浦へ行ってねえ、探そうと、ちょっと他の人に悪うおまんねんけど早いことやっとくなはれ」 「もうし」 「な、何しなはる、不意に人の胸倉つかまえてどないしなはった」 「何かい、瀬をはやみ岩にせかるる滝川の、と書いて渡したお嬢さんちゅうのは、お前とこの本家のお嬢さんかい」 「それがどないしてん」 「おのれに会おとて艱難辛苦《かんなんしんく》はいかばかり、今日ここで出会いしは、うどんげの花咲き見えたる心地して、おのれ、恨み晴らさで……」 「何や、仇討ちやなあ、ホナ、何かい、その瀬をはやみ岩にせかるる滝川の、ちゅう歌もろうた若旦那というのは、おのれとこの主家の若旦那かい」 「そうじゃい」 「ナニ糞、コラ、なにするねん。おのれに会おとて、艱難辛苦……」 「同じように言うな、何を吐かしとんねん、さあ、俺とこの主家へ来い」 「俺とこの本家へ来い」 「いや、俺とこの主家へこい」 「もうし、もうし、もうし。あんたら、もめてるどころやおまへんで、ええ、お互いに探してる人が知れてこんな目出たいことおまへんがな、お互いが家《うち》へ帰って、ちゃんと消息を伝えなあきまへんがな」 「もうし、もうし」 「何です」 「おたくの主家の若旦那ちゅう人は、どれだけええ男か知りまへんが、こちらの本家のお嬢さん、そらなかなかの別嬪さんでっせ、その別嬪さんに恋わずらいさすとは、よっぽどおたくの若旦那、人徳のあるお方でんなあ」 「ニン徳のあるはずや、見そめたんが高津さんや」 [#改ページ] 須磨《すま》の浦風《うらかぜ》  ごく昔のお話を一席申し上げます。大阪の今橋三丁目に鴻池善右衛門さんというのがございます。従前《まえかた》は鴻池屋善右衛門と申しました鴻池屋が、紀州公の御用達《ごようたし》になられました。この紀州公の御用を仰せつけられました時に紀州公はああいう派手者でございますから、この御用達になったならば鴻池の家がもたんじゃろうから、なんとかしておことわりをいたしたい。御用を仰せつけられて、今度はお間にあいかねますからというて、商売屋へ物をあつらえたように、どうか他家《よそ》さんへというふうに手軽ういきません。何しろ相手は紀州公でござります、どうしてお断り申したらよかろうかというので善右衛門さんはわざわざ紀州へ乗り込んでこられた。紀州家では金方《きんかた》〔金の主〕をささねばならぬ善右衛門が参ったというのでございますから、御前へ到着届けを出します。すると、早速、逢いたいとおっしゃる。善右衛門は殿様の御前へ出ました。 「殿にはうるわしき御尊顔を拝し、恐悦至極に存じ奉りまする」 「オオ、善右衛門なるか、遠路のところよくこそ参った……コリャ、善右衛門は空腹であろう、馳走を振る舞え」 「ハハッ」  というなりズラッとそこへ御馳走が出ました。どこの料理屋が早いのあそこの料理屋が早いというても、大名のような具合にはいきません。また、どんなに早うてもわれわれとこのような大根おろしの中へ雑魚をほりこんであるとか、数の子を塩で揉んで花鰹がかけてあるというようなものとはちがいます。第一、紀州公はそんな物をおあがりになりやいたしません。とほうもない御馳走が出ました、大名が人を抱えるとはここらをさしていうたのでございましょう。 「善右衛門、盃を取らす……」  殿様からお流れのお盃でございます。鴻池さんは断りに来ているので、このお盃を頂戴したら断りをいうわけにいきません。というて、殿様がお出しになったお盃を戴かんというわけにはいきません。仕方がございませんから、 「エエイッ、やけくそや、御酒《ごしゅ》を頂戴して無礼をしたらお手討ちになるじゃろう、手討ちになったら私一人の生命ですむのじゃ、家名に関わるようなことはあるまい」  というので、度胸をきめて、飲んだ戴いた吸うた、ずぶ六からずぶ十までやってしまいまして、殿様の御前で大の字になってグウグウと寝てしまいました。サア、こうなるとそばの御家来衆が承知をいたしません。 「ヤア、おのれ、素町人の分際をして我が君の御前をはばからず無礼千万であるぞ」  と刀の柄へ手をかけますると、御覧になった殿様は、 「コリャコリャそのままでよいよい、長の道中の疲労が出たのである、さがれさがれ」  と御家来衆を皆さがらしてしまいなすって、御自身が召しておいでになったお羽織を脱いで、 「善右衛門、風邪をひいては相成らぬぞ」  と自らお着せになったそうでございます。ここにおいて鴻池善右衛門はスッカリ感じ入りまして、かかる殿様のためならたとえ家がつぶれてもかまわん御用達をせねばならぬと、それから紀州公の御用達をなさったということを承っております。金の威光というものは大したもので、紀州の殿様でもこれだけお世辞《じょうず》をなさるのでございます。  さて、ごく暑い時分のことでございます。紀州公が鴻池の宅へお立ち寄りになるということでございまして、鴻池でも明後日お殿様がお越しになるというので、お店の者をみな集めなさった。 「皆、こっちへ来なさい、このたびは紀州のお殿様がお越しになるから、何か御馳走をせねばならん。ついては、何かよいことはないじゃろうか、考えて下さらんか」 「さようでございます、これというご馳走もございませんが、旦那様、私の考えまするのには薩摩芋の上等をばおおよそ五、六分の厚さに切りまして、一番のほうらくを火にかけまして、そこへ芋を並べて大鍋の蓋を持って来て蓋をいたし、コンガリ焼けたところでひっくりかえし、塩をバラバラとふって、焼けたとこを、お殿様にさし上げたらどうでございます」 「それは焼き芋じゃないか」 「さようでございます、私はチョイチョイやっておりますが、なかなか、うまい物で……」 「お前と殿様と一つにいうたら、どむならん、何かよいことはないじゃろうか」 「旦那様、私の思いまするには、ごく上等のおはぎでもしつらえてさし上げたら、どうでございます、えろう、ぎょうさん出来て、あまるようでございましたら、私共が頂戴いたします」 「お前さん達は自分の食べることばかりいうていなさる……コレ、番頭どん、お前さんが黙っていてくれてはどむならん、何かよいことはないかナ」 「さようでございますな、私の考えますのにはお炬燵《こたつ》でもさし上げたら、どうでございます」 「番頭どん、お前は呆けてやせんか、紀州公は若様もあれば姫君もある、お子達をさし上げて御馳走になりますか」 「イエ、お子達はございません、お炬燵でございます」 「ヘーエ、コレ番頭どん、この暑い最中に炬燵みたいな物をさし上げて何が御馳走になる」 「そこでございます、寒い時分の炬燵ならなんでもございませんが、暑い時分の炬燵でございます、私は随分珍物じゃろうと心得ます」 「フーム」 「その炬燵も一通りの炬燵では面白うござりません、炬燵の櫓《やぐら》をばギヤマンにいたします」 「ギヤマンとはびいどろじゃナ」 「さようでございます、炭壺もびいどろにいたします、その中へ水を一杯はっておきます、赤いものがないと具合がわるうございますから、緋鯉《ひごい》を二、三尾放り込んでおきます、そうすると火に見えます。蒲団も一通りのお蒲団では面白うございません、薩摩上布のとびきり上等という肌に触っただけでも総身の汗がいっぺんに引くという極上等の蒲団を掛けておきます、そこへお殿様がお越しになり炬燵へお温もりになって足をお伸ばしになると水が張ってございますから、踵《かかと》のとこが濡れますでございましょう」 「そりゃ濡れるじゃろう」 「ひいやりとしてよい按配《あんばい》じゃとおっしゃって足をジャブンとおつけになると緋鯉が入れてございますから、緋鯉が邪魔になるものですから、ピチピチと跳ねますと、殿様の足に水が掛かります、これはひいやりとしてよい按配じゃとお気に入るかと思います」 「なるほど、そりゃよかろう、それを一つしつらえて下さらんか」 「かしこまりましてございます」 「それだけではいかん、何か他に御馳走はないじゃろうか」 「さようでございますな、その他の御馳走といいますと、冬景色を御覧に入れたら、いかがでございます」 「冬景色とは、どうするのじゃ」 「暑い時分の御馳走でございますから、庭前から築山を雪降りの景色にいたします」 「そんなことが出来るか」 「出来ますとも、木綿に綿をまぜまして雪降りの景色にいたします、芝居でいたします宮本武蔵の山の場のようなもので」 「なるほど」 「その上に須磨の浦風でも取り寄せたらいかがでございます」 「須磨の浦風とは……」 「どうもこの町の中の風は温うございますが、須磨の浦で吹く風は涼しゅうございますから、長持を百|竿《さお》ほど持たせてやって須磨の浦の上等の風を取りにやります、向かい風を吹き入れるなり目張りして持って帰り、お殿様がお着きになった時に目張りをめくります、と、座敷中へ風が吹き込みます、これはよい按配じゃとお気に入るかと心得ます」 「よかろう、それも、一つ取りにやって下さらんか」 「かしこまりましてございます、一竿の長持に肩代わりをつけまして六人、むこうで目張りをする者やら糊を塗る者やら紙をあてがう者などが三、四人いりますから、どうしても一竿の長持に十人ほど人足がかかります」 「なんぼいってもかまわん、取りにやりなされ」 「承知いたしました」  というので長持百竿を人足に持たして、大きな握り飯の中へ梅干しを放り込んだ弁当をしつらえて一人前に三つ四つほど持たせました。当今なら須磨へ行くぐらいはなんでもございませんが、従前のことでございますから、右の足と左の足を交代に向こうへ出して歩いて行かんならん時分でございます。夜どおりドシドシ走りまして、翌日の朝、須磨へ着きまして、スーッと浜辺へ百竿の長持を並べました。人足は暑いものでございますから、みな木の蔭へはいって休んでおります。 「オイ、今日の暑さは、また、なんたる暑さやろ、しかし、早う風が吹いてくれんとマにあわんが、いつ風が吹いてくるやろ、金持ちというものは贅沢なことをするなア、いつ吹いて来るやらわからへん」  と待っておりますところへ山手の方からごく上等の風がフウーと吹いて来ました。 「ソーラ、ここじゃ、目張り方、ええか、早う早う、ここじゃ、ここじゃ」 「オイ、待った待った、待ってんかいなア、アイタタタ」 「どうしたんや」 「まだやというてるのに蓋をしてしもうたよって、おれの指が一本はさまったんや」 「ビューッと抜いたら、どうや」 「無茶いいな、そんなことしたら、指がちぎれてしまうが」 「相手は金持ちや、指の一本や二本は弁償《まどう》てくれるわい」 「なんぼ鴻池かて指を弁償てくれるもんか、痛い痛い、そんな無茶したら指がちぎれてしまうがなア、ソレ見いな、このあいだが一本不足になった、十本なけりゃならん指が不具になった、ひイふうみいよういつむうななやあここのツ……ソレ九本よりあらへんが、一本足らん、このあいだにモウ一本あったんや」 「お前は片一方ばっかり数えてるさかいや、両方、よんでみいナ」 「そうか、ほんに両方であったあった」 「あらいでかいナ、明日の朝までにマに合わさんならん、皆、急いでや」  ヨッショイ、ヨッショイ、と長持をかついで一生懸命、兵庫の湊川の土堤まで戻って参りました、人足はみな前日終夜走って来まして翌日は日光に照らされておりますから、モウくたびれてヘナヘナでございます。 「ちょっとだけ休ませとくなはれ、今晩、夜どおししても明日の朝までにはきっとマにあわしますよって」  というので、長持を土堤の上へ並べまして、人足は皆ゴロゴロ寝てしまいました。しばらくして中で目をさました奴が、 「アーア、暑いなア、寝ていても、タラタラ汗が出てきよる、今日の暑さはなんたる暑さやろ、しかし、わけの分からんのは、この長持や、風を吹き込んで来たんやが、来た時と戻りと目方が同じこっちゃ、風がはいったあるのかいな、皆よう寝てよるな、寝ている間に、この目張りを一つやぶってみたろ、百竿もあんねん、一本ぐらい空になったかてわからしょまい、一本だけ目張りをメクってみたろ」  ベリベリベリ、フウーッ、 「オオ、よい按配や、とほうもないええ風がはいってるわい、アア涼しい、この風で生き返ったような気持がした、金持ちというものは贅沢なことをするなア、こんな風をわざわざ取り寄こしたりして、一竿に何んぼもはいったあれへん、モウ一本やったろ」  ベリベリベリ、フウーッ、 「オオ、涼しいええ按配や」 「アア、暑い暑い」 「誰や、ちょっと、ここえおいで」 「暑いなア」 「暑けりゃ涼しいことを教えたろ、この長持の目張りを破ってみい」 「そんなことをしたら、いかんぜえ」 「かまへん、百竿も長持があるねん、二本や三本やぶってもわからへん、俺は二本だけやったんや」 「そうか、エライことをやったなア、そんならわしも一本だけやったろ」  ベリベリベリ、フウーッ、 「アア、ええ按配やなア、コラ涼しい、モウしまいや、余計もないナ」 「フン、なんぼもはいったあらへん」 「アーア、暑い暑い、こう暑いとたまらんワ」 「オイ、暑けりゃ、ここへおいで、涼しいことを教えたろ」 「何んや」 「ちょっと、その長持の目張りをやぶってみい」 「そんなことをしてもかまへんか」 「今、二人で三本だけやったんや」 「二人やったんか、そんならおれもやぶったろ」  ベリベリベリ、フウーッ、 「なるほど、コラよい按配やなア、アッ、涼しいと思うたら、モウしまいや、なんぼもあらへんなア」 「ソヤ、すこうしよりはいってない」  順々に起きて来てはやぶり、ついには百竿のものをスッカリ空にしてしまいました。 「サア、エライことになった、調子にのって、エライことをしてしもうた、この長持はみんな空や」 「どうしょう」 「今更、しょうがあらへん、ここで風を入れるというても、いつ吹いてくるやらわからへん、須磨まであともどりしてたら、明日の朝のマにあわへんし、エライことしてしもうたなア、このままもって帰って目張りをメクった時に中から風が出なんだら、言い訳がたてへん」 「そんなら、どうや、この長持の中へ屁でもたれこもうか」 「屁をたれるというても、そないにタント屁が出るかいナ」 「これだけぎょうさん人がおるねん、一人前に五、六発ズツたれこんだら、この長持につまらんことはあるまい」 「そうやなア、よっしゃ、そうしょう」  と、芋を食うてくる奴もあるし、牛蒡《ごぼう》を食べて来る者もある。手荒い奴ばっかりで、イヤたれよったたれよった、百竿の長持に屁をギッシリ詰めて目張りを元のようにしてしまいましたので、そのまま、右の長持を担いで大阪今橋三丁目の鴻池の家へ持って帰って参りました。ガラリと夜が明けますると、紀州公のお屋敷は天神橋南詰を東へ入りました所にございました。この日は殿様はおしのびでございます、家来を三十人ほど連れてお越しになりました。今橋を越えて鴻池家へお着きになりますと、鴻池善右衛門は羽織袴でお出迎え申し上げまして、 「これはこれは殿様にはよくこそお越し下されました」 「善右衛門、鴻池は旧家のことゆえ、何か珍物があるじゃろうと思って参ったわい」 「ハッ、殿様に何か珍しき御馳走をさし上げたいと思いましたが、さしあたってこれと申すものもござりませぬが、お炬燵をさし上げようと心得ております」  紀州公も驚かれました。この暑いのに炬燵をさし上げるて、どんなことをしよるかしらんと思われたが、 「所望であるぞ」 「ソレッ、御所望とおっしゃる」  座敷の襖をスウーッと開けますると、案の定、炬燵をしつらえて蒲団が着せかけてございます。 「どうかお炬燵へお温まりを願います」  紀州公は、この暑いのに炬燵へあたれというのは、こりゃ私をば蒸し殺しよるのじゃないかとお思いなすった。大名というものは意地な者でございまして、あたるぞよ、と、ツカツカと炬燵の中へ足をお入れになると、なかなか熱いどころじゃございません。蒲団は薩摩上布のとびきり上等でございまして、肌に触っただけでも総身の汗が引くようでございます。 「おみ足をお伸ばしあそばせ」 「フム、そうか」  と、のばしなさると炬燵の簀《す》がございませんから、足をお入れになると水が一杯張ってございますから、踵のとこが濡れました。殿様はよい按配ですからジャブンと中へ突ッこみなさると緋鯉めがピチピチとアバレましたから、水が殿様の足へビッシャリかかった。 「善右衛門、この炬燵は予の気に入ったぞ」 「ハッ、冬景色がしつらえてござりますが、いかがにございます」 「所望じゃ、見せくれよ」 「ソレッ、御所望なるぞ」  と言うと縁先の葭《よし》障子をスーッと左右へ開きますと築山から離れ座敷は一面の降雪の景色でございます。 「オオ、見事見事」 「殿様、須磨の浦風を取り寄せてございます」 「フム、須磨の浦風、所望であるぞ」 「ソレ、者ども、浦風の用意をいたせ」  と言うと、なんしろ芋を食うては腹を揉み、牛蒡を食べてはたれ出したおならが一杯つめてあるので、長持の目張りをめくると殿様と善右衛門との鼻ッ柱へえらいヤツがフウーッと吹いて来たからたまりません、二人は鼻がちぎれそうでございます。 「善右衛門、どうしたのじゃ、この須磨の浦風は……」 「ハッ、殿様にかかる粗忽《そこつ》なるものをさし上げまして、まことになんとも申し訳もございませぬ、厳しく取り調べたる上お詫びを申し上げまする」 「コリャコリャ善右衛門、叱ってやるナ、暑気の折柄じゃ、須磨の浦風が腐ったと相見えるわい」 [#改ページ] 住吉駕籠《すみよしかご》  唯今は便利な世の中で、電車が出来、また車あるいはバスがあり、住吉へご参詣になりまするにも好いたものに召して、歩かずに行けるように交通機関が発達しておりますが、昔は先ず歩かずに行こうと思いますると、駕籠に乗るよりほかにしようがござりませなんだ。  当今駕籠に乗ってどうこうというのは足の弱いお方が高野山へでもご参詣の時に山駕籠でお登りなさる、それとても現今はケーブルという便利なものが出来てます。大阪で駕籠といえば、十日|戎《えびす》の宝恵駕《ほいかご》しか見られません。以前、落語家の連中がみな俥《くるま》で寄席を回りました。その時代に三代目文三はんが赤い俥に乗っておられました。俗に赤俥の文三といいました。松鶴《しょかく》も一つ変わったことをして掛け持ちをしてみよと、駕籠に乗って席回りをしようと戎橋筋から道頓堀へ行きました、もっとも両方の垂れを下ろしてござります。道で見る人は碌なことを言いません。 「八さん」 「エエ」 「駕籠に乗っていますなア」 「ほんに、何ですやろ、赤痢患者だすやろか、コレラだすやろか」 「阿呆なことを言いなはんな、避病院《ひびょういん》へ行くのとは駕籠がちがいます、あれは普通の駕籠だす」 「今の時節に駕籠に乗るというのは、どうしたのだすやろ」 「サア病人が入院でもするのだす」  私は駕籠の中で聞いて腹が立って、病人でないと思わすために、エヘンと大きな咳払いをしました。そうすると、 「ハハア、あの咳払いの具合では、あれは病人やない」  昔は今宮から大和橋まで駕籠賃が五百十文、今宮には江戸吉、八百卯《やおう》と申す駕籠屋がござりました。この五百十文は駕籠屋の親方が駕籠の貸し賃に取ってしまいます。そうすると、稼ぐ人間二人はただで行かねばならぬというような具合になりますが、その代わり、道へ出て走らせてくれいと言いますと、走り増し賃というてその頃でマアしみたれたところで一朱、通常二朱、それからマア別走りになりますと一分、それが稼ぐ者の取り分になりまするので、その間に雲助というものがあります。これは住吉街道ばかりでなく、京都へ行く伏見街道なりそのほか東海道、木曽街道、どこにもありまして、夏冬ともに褌《ふんどし》一丁で暮らしておりました。東海道あたりの雲助になると、草鞋《わらじ》を質に置くものさえありました。そうすると質受けをせぬうちは草鞋をはくことが出来ません、裸足で歩いていたもので、そういう稼業の中にも妙なもので規則がありまして、それを堅く守りましたということを私も聞いております。住吉街道の雲助というのは、これは東海道あたりと違うて褌一本ではお客が嫌がって乗ってくれません。たとえ汚い単物《ひとえ》の一枚でも着ておりました。往来ばたに空駕籠を下ろして客待ちをいたしておりました。 「ヤイわれ、マアちっとお客を呼ばんかい、居眠りばっかりして、俺ひとりに喋らしている、何をうつむいて愚図愚図しているのじゃい」 「イヤ行きやがってもかまわん」 「そんなもん行かすない」 「俺ア行かすつもりじゃないが、勝手に向こうから行きやがってしようがない」 「困るなあどうも……ヘエ旦那、お駕籠はどうでござりますな、お安う参りますが、旦那様お乗りなすって下さい、お前も何とか言え」 「ヘエ駕籠、ヘエかご……、ヘエかご」 「ヤイ、だれにヘエ駕籠と言うてるのや」 「いま足音がした」 「馬鹿、犬が通ったのや、しょうのない奴やなア、草鞋でもはいて杖でもついている人を呼べ」 「ヘエ、かご」 「誰に言うてるのや」 「今ここを杖ついて行た人」 「あれは四国詣りの乞食やがな、荷物でも持っている人や」 「ヘエかご」 「それは肥取りやがな、情けない奴やなア……オイ、チョイと雪隠へ行って来るよって、よう気をつけてよ、居眠りばかりしていんと、ええかえ」 「よっしゃ、承知だ……ヘエ旦那、お駕籠はどうですな、ナアモシ、平作じゃござりませんけれども、朝から銭の顔などは、一文も見ませんよって安うやっつけます」 「マアええ」 「そうおっしゃらんと、どうか一つ、なあ旦那」 「コレ、袂《たもと》を引っ張ったりするない」 「ヘエ旦那、袂を引っ張りましてすみまへんけれども、なかなかこのごろのお客はひどうござりますので、口で頼んでも乗ってくれませんので、マア袖や袂に取りすがり、お頼み申しますので可愛いものだす、どうかお乗りなすって、人間二人助かることだす、どうかお頼み申します」 「ムムよし、人間二人助かることなら乗ってやる、そこをのけ」 「ヤア、大きに有難う」 「サア乗った。これでええか」 「ヘエ結構でござります、エエ旦那、どちらへ行きますので」 「どこまでなとわれの好いたとこまでやれ、乗ってくれと頼んだよって俺ア乗ったのや、乗ったら頼まれた顔は立っているじゃアないか」 「そんな、ジャラジャラと、行き先わからんで闇雲に駕籠はかつげません、何ならお宅までやらせてもらいましたら結構だす」 「サア俺も家までやってもろうたら助かる、家までやれ」 「ヘエ、お宅はどこだす」 「筋向かいの葦簀《よしず》囲いの茶店までやれ」 「ヘエ向こうで一服なさるので」 「向こうで一服するぐらいならこんな駕籠に乗るかい、あれは俺の家じゃ」 「ヘエ……モシ旦那いな、なぶってやっておくんなさんな」 「何がなぶっているのじゃ」 「でも貴方、ここから向こうまでなら、何も駕籠に乗らいでも、歩いてお帰りなすったらええじゃありまへんか」 「俺は歩いて帰るつもりやったが、人間二人助けると思うて乗ってくれと言うたから乗ってやった、サア乗った以上は、たとえ三歩が四歩で家へ入れるとこにもせよ、駕籠に乗って行くのじゃ、サアやれ、やらんか、コラ一ぺん前へ回って俺の顔をとっくり見ろい、ムムわれの面《つら》に二つ光っているのはそれは何や」 「ヘエこれは眼でござります」 「ナニ眼……見える眼か、見えん眼か、ただしは面の飾りか、コレ、日に一ぺんでも二へんでも、煙草の火を貸してくれ、時によりゃお茶の一杯も呑ましてくれと言うて入らぬ日はないのに、それに俺の顔を見忘れたのか、間抜けめが、己れらのような駕籠屋がいつの間に湧いてうせた、また俺とこへ休むお客はナア、茶碗酒飲んで鯡《にしん》かじって、天保銭放り出して端銭《はしたぜに》の釣り銭でも持って去《い》こうという人ばかりじゃ、そんな人なつかまえて、無闇にヘエ駕籠、ヘエ駕籠と勧めやがるよって、それで厭がって俺とこへ休む客も休まんようになるわい、糞ッ垂れめ、気をつけんとわれの足と頭を持って糞結びに結ぶぞ」 「オイ相棒、早う来てくれ、こりゃアえらい人を駕籠に乗せた……」 「コリャ、そっちへのけ……モシどうぞ親分、ご了簡なすって下さい、こいつはようよう四、五日前にこの街道へやって来たので、貴方様のお顔を存じまへんので、えらい相済まぬことで、お腹も立ちましょうがどうぞご了簡なすって下さい」 「われはそこにけつかるのか」 「ヘエ、チョイと雪隠へ入っておりましたので、まことにどうも済まぬことでござります」 「このごろ出てうせた奴で顔を知らんとあれば堪忍しておいてやるが、今度こんなことをしたら承知せんぞ」 「大きにどうも相済まぬことでござります……コレわれも黙っていんとあやまれ、われがしたことじゃないか。馬鹿じゃなア、わりゃア、茶店の親方に駕籠を勧めるということがあるものか」 「そうじゃけれどもあの人もそうじゃないか、俺ア茶店の者じゃと言うてくれたら、俺ア勧めやアせなんだのや」 「けれども顔を知らいでも、大概|風体《ふうてい》を見ても分かる、向掛《むこがけ》つきの高下駄はいて二幅前垂れしている、片手に塵取り持っている、向こうの松の根元へ塵をほかしに行たんじゃがな、高下駄はいて塵取り持った人が駕籠に乗るかいな、大概風体を見ても分かっているやろう」 「ナニそないに言うてくれるない、お前にはぼやかれ、あの人にゃアボロ糞に言われ、言い草で俺アモウ満腹した、足と頭を持って糞結びにしてやるなんて、まるで昆布か、干瓢《かんぴょう》みたいに言われてるね」 「しっかりせい阿呆めが……ヘエ旦那駕籠はいりまへんか、お安う参ります、どうでござりますな、エエ旦那いりまへんか」  折り柄ここへ出て参りましたのは、マア当時の三文字屋、伊丹屋というような大きな店へ入ったのではござりませぬが、分銅屋、恵比寿屋というようなとこで一杯召し上がったと見えて口のあたりを遠乗りの馬みたいに泡だらけにして、 「ヨイショコラ、ヨイヨイヨイト……高い山から低い山を見れエば、低い山の方が低うござる、ヨイショコラ、ヨイヨイヨイト……」 「妙な歌うとうて来たぞ、相手になるなよ」 「モシ旦那お駕籠いりまへんか、モシ御酒機嫌の旦那、お駕籠はどうでやす」 「ヤイ相手になるなってのに」 「イヤこんな人が乗るわいな」 「イヨーこれは駕籠屋の親玉ア」 「ヤア出て来た、出て来た、旦那、えらいご機嫌でござりますなア」 「ご機嫌で飲んだ酒か、自棄《やけ》くそで飲んだ酒か知ってるかい」 「イエそれは分かりまへん」 「分からんのにいらざることを言うたら承知せんぞ」 「ソレみい、叱られてくさる」 「旦那、お駕籠はどうでやす」 「イヤお駕籠がどうって、馬がドーじゃ、駕籠がハイじゃ」 「イエそうじゃごわせん、お駕籠はいりまへんかと、お尋ね申していますので」 「イヤこんな物もろうたとこで、持って行くのが大儀じゃ」 「ウダウダ言うておくんなさるない、よほど御酒が入ってござりますなア」 「酒エ飲んでも飲まいでも、勤めるところはきっと勤めるというのや」 「ハハハハ、師直《もろなお》だすな」 「もろの言いよで角が立つというやっちゃ」 「口合い言うていなはる」 「時に駕籠屋、ちょっと分銅屋で一杯やって来たんじゃ、どうもこう面白うてたまらぬ」 「ヘエ……」 「オイ駕籠屋、お前らも面白いやろう」 「イエ、私らは別に面白いことはござりません」 「たとえ面白うないとしたところが、俺が面白いと言うたらそこはお前、物に愛想というものじゃないか、面白うございますと一つ言うてえな、サア面白うございますと言うて」 「ヘエ、そんなら面白うございます」 「そんなら面白うございます、すると頼まれてよんどころなく面白いのじゃな、心底から面白いと言うて」 「えらい難儀じゃなア」 「そやよって最初から相手になるなと言うてるのに」 「イヤ面白うてたまりません、心底から面白うございます」 「ナニ心底から面白い、何がそう心底から面白い、ムム、ヤアさだめて俺が酔うているさかい、それで心底から面白いと言うんじゃろう、随分どうで面白かろう」 「イエ、貴方面白いと言えとおっしゃったよって」 「アアそうか……イヤこりゃア悪かった、分銅屋はどうも安うするな」 「私らア、高いやら、安いやら、自腹切って飲みに入ったことはありませんから分りません」 「ヤッ、分からぬのはもっともだ、むこの仲居にお袖《そで》というのがあるが知ってやろう」 「知りません、私しゃア」 「馬鹿言え、この街道に働いていて分銅屋のお袖を知らんことがあるか」 「あるかというて私しゃア知りません」 「アー途方もない奴やなア、色の白い鼻のとこにパラパラッとそばかすがある、あのそばかすが愛嬌になるぞ、なア分かっているやろう」 「イエ分かりません」 「分からぬ、どうして分からんのやろう、ソレ河内の佐山の産で」 「知りませんがな、私しゃ」 「父は治右衛門というてこれも善い人やったがな、これだけ言うたら想い出すやろう」 「皆目知りません」 「えらい難儀じゃなア」 「イエ貴方より私の方が難儀でやす」 「アノお袖なア、分銅屋にいることを知らんがな、ふと俺の顔を見るなり、オヤ旦那様、ご機嫌よろしゅう、どうぞこっちへ、お前誰やったいなアというたら、妾しゃア佐山の治右衛門の娘の袖でござります、アア、こりゃアお袖坊か、ヤアえらい奴じゃ……」 「オイえらい難儀なことになって来たぞ、急には埒《らち》あかんぜ」 「十二、三の時分に見たままじゃ、今年二十一になっているという娘ッ子が、ガラリと子供から大人に変わったのや、見違えるなア、お前、小父さんというたのが、今は仲居をしているので旦那様と言いよる、可愛いものじゃないかいな、あのお袖知ってるじゃろうがな」 「イエ知りませんて言うていますがな」 「エッ一ぺん尋ねたかいな、祝儀やって総計一両一分、値打ちもある、なかなか安い安い、ハハア嘘じゃと思うているな」 「イエそんなこと思っておりません」 「阿呆言え、いませんてお前、口で言うてるが、心では思っているやろう、一両一分の証拠物見せてやる……サッこの通りチャンと竹の皮に包んである、コレ料理屋へ物を食いに行って、食い残して戻るのじゃないぜ、残ったら残らず包ませて持って帰るがええ、残しておくと、ハハア、気にいらなかったかいなと気をつかいよる、アアーえらい旨い、家へ土産に持って行てやる、包んでというと先方も心持ちよう嬉しい、こっちも見栄を張って残しておくにゃ及ばぬ。なア、ソレこれが玉子の巻き焼き、車えびの鬼焼き、烏賊《いか》の鹿の子焼きやきやきやきっていう奴じゃなア、家へ土産と思って包ませたが、そこのどれなと一つずつやるからコレ食え」 「イエもう結構でございます」 「結構でございますって何が結構じゃい」 「阿呆、やるとおっしゃる、一つもらえ」 「だってあんな酔いたんぼ、薄汚い」 「ナニッ……」 「イエ何も申しておりません」 「イヤ言うた、俺エ酒に酔うていてもよう聞こえる、薄汚いと言うたな、わりゃア、薄汚い者が大枚一両一分も使うかい、そういうわりゃア、冥加なことを知らん人間じゃよって、何時までも往来ばたでヘエ駕籠と、まるで屁で死んだ亡者のように吐《ぬ》かしているのじゃ、コレ、あんじょう包め」 「ソレみい、いろいろなことをさせられるわい」 「コリャぼやかんとせえ」 「ヘエ……ヘエ……包みました」 「コリャ何という包みようじゃ、巻き焼きがこぼれかかっている、他人《ひと》の物じゃさかいッてそんな不親切なことがあるか、そういう人間じゃとどうせ頭が上がらぬ、巻き焼きをあんじょうしぼっておけと言うたのに、やっぱり汁があるわい、ハハハハ妙なもので、銭使うても何じゃなア、割合に安いと思うと心持ちがええなア、祝儀をやったりしたのは、そりゃアこっちが承知でやったのじゃ、どうも安うしおる、流行《はや》るはずじゃなア、分銅屋は、一両一分、ほんまやぜ、しかもそれで十分食べたあとがこんなじゃ」 「アッまた広げ出した」 「サッもう一ぺん包め」 「何べん包ませなさる、あんじょう懐中へ入れておくんなされ」 「懐中へ入れて玉子焼きの汁が垂れたら困る、着物汚れるわい……アア心持ちが好い、コレ駕籠屋ええことを聞かしてやろうか」 「何でやす」 「去年二月二十五日じゃ」 「ヘエ」 「讃岐屋とわしとなア、二人連れで河内の道明寺へ詣ったその途中の話じゃア……」 「マアよろしい」 「今日中に片付きゃせんで、聞いてんと、もう行かんかいな」 「マアよろしいというような水臭いことを言わんと、わしの方から駕籠屋というて、われを俺が呼びかけたのじゃない、俺が機嫌よう歩いているのに、モシご機嫌の旦那とお前の方から呼んだじゃアないか」 「ソレみい、理屈は先方にある」 「ナニ、そうやろうがな」 「ヘエ」 「そやよって聞かんかいな、振りがあるよって前へ回ってええか、俺は舞は下手やが、讃岐屋はちょっと舞うなア、稽古をしているさかいに舞はチョイと舞うのじゃ、コラあんじょう見んかい」 「ヘエ見ております」 「ムム、われはええ、そっちのがうつむいている」 「コレそんなことをしないな」 「扇子をサッとな……蝶が菜種かイヤパッちゅうやっちゃ。扇子を払うとこが好きじゃ、蝶が菜種かヨウ……ナア駕籠屋、菜種は蝶の味知らず、菜種の味知らず、こう唄うのんかいな」 「知りまへん」 「何じゃ、そんなことを言う……味知らず、アッ、チントンシャン、ア、酔うた酔うた、何だいべらぼうめ、ヨウ……」 「モシ駕籠の中へ頭ア突っ込みなすった」 「べらぼうめ、呼んで来い、誰なと、何だい、どうなとせい、エヘッ……馬鹿ア……」 「オヤオヤ、グウグウ鼾をかいてとうとう寝てしもうた、困るなア起こせ起こせ」 「モシ旦那」 「ナナ何じゃ、どうするんじゃ」 「イエどうするもこうするもござりません、駕籠の中へ頭ア突っ込んで寝てもろうたら困ります、どうぞあっちへいておくなはれ」 「いかいで、何時までこんなとこにいるものか、人がウツウツとしかけたところ、ヤッと突然に背中を突きやがって、びっくりしたわい……こうっと、土産物はこれでよし、手拭はこれでよし、何かそのへんに忘れ物はないかしらん」 「ありまへん」 「そうか、また縁があったら、会おうわい、さよなら」 「ほんまに馬鹿にしよる」 「そやよってあんな者に相手になるなと、最初に言うてるのに、向こう先を見ずに馬鹿めが……オヤッ南から来てまた南へ行きよるぞ、オヤオヤ、方角を取り違えてるのじゃな、酔うてるさかい酒癖が悪いのじゃなア、敵《かたき》の孫末じゃなし、あんじょうに言うてやれエ」 「モシモシ南から来てまた南へ行っていなさるがな、方角を取り違えていなさるのやろう」 「ナニ南から来て南へ行けんかえ」 「大分に憎たらしい酒じゃなア、大阪へ行いくならこっちへ行かんと行かれやしまへん」 「誰が大阪へ行く、俺は堺の神明の町じゃ」 「それでは南からこんなとこへ何しに来なはったのじゃ」 「アノ、チョッと酔い醒ましにそこまで」 「オヤオヤなぶりに来やアがったのじゃ、えらい目に会うたなア」 「コリャコリャ駕籠屋」 「ヘエ」 「アーお駕籠が二挺だ」 「大きに有難うさまで」 「先なるはお嬢様、後なるは乳母様」 「ヘエ大きに有難うござります……オイ、駕籠が二挺やで、一挺は吉と留とに言うてやれ、早う行け、尻からげて……エエ旦那、直ぐに調えますでございます」 「それから両掛けが一荷」 「有難うさまで、オーイ荷持ちが一人じゃ、早う行け行け……エエ直ぐに調えます」 「左様な御仁がここをお通りに相成ったか」 「オイオイ違う違う、オイ待て待て、尋ねに来やアはったんや……エエ一向存じまへんで」 「ハハア是非このところをお通りに相成るはずじゃ、身共は足立町で用を達しておったので、遅れたと存じ、只今駈けつけて参ったのであるが、それではまだ住吉へ御参詣なされ遅れてござるのじゃ、いずれこのところをお通りであるから、この茶店に一服いたしておる、お通りになったら知らせエ」 「そんなことを知ってるかい……オイ相棒、尋ねに来たのじゃ、よう聞いてから行け……慌てもんめが」 「ようそんなことが言える、お前が早う行け早う行けと言うさかいにこんなことになったんや」 「駕籠屋さん」 「ヘエ……」 「ここやここや、この手の鳴っている方じゃ」 「ヘエ旦那いつの間にお入りなすって」 「お前らアそっち向いてあれこれ言うてるうちに入ったんじゃ」 「そりゃアどうも済みまへんことで旦那、駕籠をやりますのですかえ」 「サアやってもらおうと思うて乗っているのじゃが、気にいらぬのなら出ようかえ」 「イエ、お乗りなすって下され、まだ朝からあぶれ通しで、酔いたんぼにゃアくだまかれ、ホッとしておりますので、どちらまでやりますので」 「ちょっとマア住吉鳥居前までやってもらおう」 「承知いたしましてござります……オイ下駄はええか」 「よっしゃ」 「時に駕籠屋さん」 「ヘエ」 「駕籠に乗るのに茶屋へ寄って一服喫むのも異なことじゃによって駕籠に乗ったんじゃ、お前火打ち道具持っているか」 「ヘエ持っております」 「ちょっと貸しておくれ」 「ヘエ承知いたしました……ヘエ御免なすって」 「何するのじゃ」 「ヘエ」 「お前さん鉢巻きをとったのか」 「ヘエ」 「何でそんなことをする」 「イエあんまり貴方の前で失礼でござりますので」 「失礼、失礼って行儀正しく言うのなら、何で羽織袴で駕籠をかつがぬのじゃ、街道の駕籠屋なんかというものは襦袢《じゅばん》一枚でかついだりするものじゃ、そんな駕籠屋なら駕籠屋らしゅうするがええじゃないか、らしいということを知らんか、サア金持ちは金持ちらしゅうして金持ちがらず、芸人は芸人らしゅうして芸人がらずということがあるわい、駕籠屋も駕籠屋らしゅうして駕籠屋がらず、駕籠屋が駕籠屋がったとこで何にもなりゃせんけれども、鉢巻きしたままでヘエとよこしたらそれでええのじゃ」 「阿呆、気をつけい、鉢巻きとって叱られているがな」 「コレとった鉢巻きならわざわざせいでもええ」 「ヘエそうだすか」 「マアしたらしておけ」 「そうおっしゃるとウロウロします」 「サッ、フッと吹け」 「フッ」 「よっしゃ駕籠屋、わりゃあ悪い煙草|喫《の》んでいるな」 「ヘエ、私ら良い煙草は喫めまへんので……おおそこら辺へ吸い殻が飛び出しまへんか、お召し物焼いてはどうもなりまへんが」 「ええええ、心配せいでもええ」 「お前が力を入れてフッと吹いた途端に、私が吸い取ったんじゃ、今日は煙草を切らしてなア」 「ヘエ向こうの方に売っていますが買うて参りまひょうか」 「イヤイヤ、煙草は盛粉などは買やアせん、ありゃアえらい損じゃぜ」 「ヘエ玉でお買いになりますか」 「ムム玉で買うても格別得じゃないなア」 「それじゃア箱へ入ったままでお買いなさるか」 「イヤ、そう余計に買うても粉が出たり何かしてかえって損じゃ」 「それじゃアどうするが一番よろしゅうござります」 「マアこうやって他人のを吸い取るのが一番勘定じゃア」 「そんな阿呆なこと言うておくんなはんな……エエやりますでござります」 「アアやって下され」 「アイアイアイ……旦那、一つ走らしてもらいますでござります」 「サアサア走ってもらおう」 「アイアイアイ……」 「ナア、こりゃア出駕籠にしてはエライ上手にかつぐわい、なかなかうまいものじゃ」 「エエ私らア住吉街道で育ったものじゃござりません、東海道木曽街道を股に掛けて来ましたので、その時分には貴方年も若うございましたから、どうもあいつら二人にゃア追いつかねえ、宙飛ぶようにやるから、これがほんとうの雀駕籠だろうと、仲間の者に言われたんです」 「何じゃ、急に江戸弁になりよった、マア宙飛ぶようにやるさかいに雀駕籠は面白いなア、けれども駕籠はちっとも啼かんなア」 「ヘエ」 「イヤ、雀というものはチュウチュウと啼くものじゃが、啼かんなア」 「イエ雀駕籠というのですが、別に雀の啼き声するわけじゃアございません」 「そうか、そう言わんと一つ雀の啼き声で走っておくれ、チュウチュウと」 「どうも極りが悪うございます」 「極りが悪いことがあるものかい、やっておくれ、早う」 「オイ、旦那の御所望だ、雀の啼き声でやれとおっしゃる」 「そんなことをやれるものかい」 「マアやってみい、またそれだけのお心持ちはあるわい」 「早う雀をやらんか」 「ヘエ……催促していなさる、チュ、チュ……」 「チュ、チュ、チュ、どうも具合が悪いなア……チュ、チュ、チュチュチュッチュッ……」 「チュ、チュ、チュ、チュッチュ……」 「こりゃア面白い」 「貴方は面白いかしらんが、私らア阿呆らしゅうございます……チュチュ、チュチュッチュッチュッチュチュチュ」 「チュ、チュ、チュチュッチュッ」 「ハハハハそれを一つ烏でやってもらおう、烏で」 「オヤオヤ注文が変わって来た……カ、カ、カカカッカッカ、カカカカッカッカ……」 「アア面白い、鳶《とんび》でやれ、鳶で」 「ヒューヒョロヒョロヒョロヒョロヒューヒョロヒョロヒョロヒョロ……」 「コレよろつくな、これはどうもいかん、それならやっぱり雀にしておけ」 「ヘエ、そりゃア、雀の方がやりようござります……チュ、チュ、チュ、チュ、チュッ、チュッ、チュチュ、チュ、チュッ、チュッチュ、チュッ……チュ」 「オイオイ雀を止めて鶯で一つやっておくれ……コレ立ち止まってどうや、鶯をやらんかいな」 「旦那様、鶯はやれません、もう少し籠なれませんよって」 [#改ページ] 千両|蜜柑《みかん》  おところは中船場《なかせんば》で、大勢の奉公人を使うて盛大に商売をしてござる、ご大家でござりますが、この家の若旦那というのがふとした病《やまい》から寝つきましたが、日ィ一日と重うなるばかり。たった一人の息子さんとて、ご両親は言うもさらなり、番頭から丁稚女中にいたりますまで、夜の目も寝んと、案じ暮らしております。 「ヘ、若旦那。お暑いことで……。今日はお体の具合はどうでござります」 「あ、番頭。毎日毎日、親切に訊ねてもろておおきに。……もうもう、みなはんのお志は、死んでも忘れやへんで」 「モシ、若旦那。そんな縁起《げん》の悪いことをおっしゃるもんやござりまへんがな。さきほども、医者のお話では、どうもご病気の見立てがつかん。これはきっと、気病《きやまい》というて、なんぞ、心に思いつめてなはることがあるにちがいない、その願いごとさえ叶うたら、病はうそのように治るに相違ない……と、おっしゃってでござりました。そこで親旦那のお考えでは、……かえって親には、話のしにくいことがあるかもわからん、番頭、お前からひとつ訊き出してもらえまいか……と、こういうお話で、へェ。それで、ちょっと、お伺いをしたわけでおますが、貴方《あん》さん、なんぞ思いつめてなはることがござりまっか」 「すると、なにか、医者がそないおっしゃったか」 「そう言うてでござりました」 「あァおそれ入った。さすがは、大阪一の名医といわれるお方や。じつはなァ、番頭。寝ても覚めても忘れることのでけんことが、ひとつ、あるのや」 「それやッ。それが貴方さんのお体に、災《わざ》をしてますのやがナ。さァ、言うておしまいやす。何を思いつめておいなはる……」 「それが言えるぐらいなら、なんにもこんなに苦しい思いをしやへん……。両親はさぞかし心配してなはるやろなァ」 「ご心配どこのこっちゃおますかいナ。毎日毎日、泣き暮らし、目にみえて痩《や》せてでござりまっせ」 「あァすまんこっちゃ。今日まで育てていただいたご恩も返さず、まだその上に、こんな嘆きまで見せて、申しわけがない。せめては、一日も早よ、冥途へ行て、この不孝|者《もん》のことを忘れてもらいたい。お前はじめお店一統にも、えらいご苦労かけて、すまなんだなァ」 「モォシ、若旦那ィな。なんちゅう心細いこと、言いなはんねン。わたいやよってにええものの、ご両親にそんなこと聞かしてみなはれ、それこそ、相手《むこ》が先に死んでしまやはりまんがナ。それほど、ご両親のことをお思いなはるなら、その貴方さんの思いごとというのを、ツイひと言、おっしゃったらええのやごわへんか。どんなことかは存じまへんが、この番頭がひきうけて、ご両親さまの力もお借り申し、かならず叶えてさしあげます。さすればたちまちご本復、ご両親のおよろこびはいかばかり……、こんな親孝行がござりますかいナ。さァ、親御さんの心を察して、どうぞ言うてしもとくれやす」 「かんにんしてや。意地張って言わんのでもなんでもないね。言うて叶うことなら、聞いてもらう。及びもつかんことを言うたとこで、かえって、親たちの苦ゥを増すだけや。言うも不孝、言わぬも不孝、おなじ不孝なれば、このまま言わずに死んでいきたい……。どうぞ助けると思うて、訊かんとおいて……」 「あァア、難儀やなァ。そしたら、こうしてもらえまへんか。わたいが、とにかく、聞かしてもろてみて……あ、なるほど、これは叶いそうもない思い、と思たら、けっしてご両親には言やいたしまへん。わたいにだけ……なァ。どうぞ聞かしていただきとござります」 「おおきに、ありがとう。わてみたいな者《もん》でも、主人やと思えばこそ、ようこそそこまで案じてくれる……。その心にほだされて、お前にだけ聞いてもらお。けっしてだれにも言うてなや」 「よろしござります、めったにしゃべりはいたしまへん」 「じつはなァ……」 「へえ」 「あ、恥ずかし。……笑うてなや」 「なかなか笑いますもんか。恐い顔しております……」 「べつにそんな顔、せえでもええ……。じつはなァ、……きめの細こい……、光沢《つや》の良《え》え……、ふっくりとした……」 「ヘェヘェさよかいナ、いくつぐらいの……」 「一つでもかめへん」 「モシ、うだうだ言いなはんな。赤子《やあこ》みたいな者《もん》、どうなりまんねン……。やっぱり十七、八の……」 「番頭。お前、勘ちがいしてェへんか。……わてのほしいのは女子《おなご》はんやあらへん。蜜柑《みかん》や」 「えェッ」 「蜜柑が食べたいのや」 「えーッ。みーかーんー……」 「それみィな。言うたかて、及びもつかんやろ……」 「なに言うてなはる。たかのしれた蜜柑ぐらい、なんだすねン。ようおっしゃった。しばらく待っとくなはれ、すぐ丁稚《こども》に買いにやります。なんならこの部屋を蜜柑詰めにでもいたしまっせ」 「えッ。そんなら諾《き》いてくれるか。……ありがたい、待ってるで」 「よろしおます。待ってとくなはれや……ヘェ、親旦那さん。伺うてまいりました」 「おォおォ、番頭どん。ご苦労じゃった。なかなか急には言わなんだじゃろ」 「おっしゃるとおり、ずいぶん骨が折れました……。叶いそうもない願い、言うも不孝、言わぬも不孝、とおっしゃりましてナ……。それをば、ま、だんだんとことをわけて訊いてみますと……、とうど、言うてくだはりました」 「このとおり、手ェついてお礼を申します。ようこそ、訊いてやってくだされた……。して、伜は、なんと申しましたナ」 「それがナ……。きめの細こい、光沢の良え……ふっくりとした……」 「アッそうかいナ。いつまでも子供じゃと思てた親が悪かった。いくつぐらいの……」 「サ、だれでもそう思いまっしゃろがナ。……ところがちがいまンので……。蜜柑がほしい」 「ギエッ、なんじゃと」 「蜜柑が食べたいとおっしゃンので……」 「それで、汝《こなた》、なんと言わしゃった」 「なんともおやすいことでござります。すぐ使いを出しまして、買うて参じます。なんなら、このお部屋を、蜜柑詰めにでもしてさしあげます、……と申しました。そうしましたら、えろうおよろこびなされまして、待ってるよってに、頼むで……とおっしゃって、いつにないご機嫌でござります。あの調子なら、もう、やがてご本復……。へェ、おめでとう存じます」 「これ番頭どん。そんな無茶いうて、どうなさる。今日は、コレ、何日じゃと思いなさるのじゃ。六月の二十一日……、土用の最中に、どこの世界をさがしても、蜜柑のみの字もあるかいナ。伜が、言うも不孝、言わぬも不孝、というたのは、あたりまえじゃ」 「あッ。ほんに季節をうっかり……」 「うっかりで、事がすみますか。伜は、自分の望みが叶うと思うよって、いまは元気も出てるやろが、コロッとあてがはずれてみィ、一時に気を落として、死んでしまうにちがいない。そうなりゃ、さしずめ、お前さんは、手は下《お》ろさいでも、りっぱに主殺《しゅうごろ》しじゃ。なんの罪が重いというても、親殺し、主殺しほど、重いものはありゃせん。町中引き廻しの上、逆磔《さかさはりつけ》や」 「トホホホホ……。悪気があって言うたんやござりまへん。どうぞ、ご料簡をねがいます」 「わたしが料簡しても、お上が料簡をなさらん。サ、早う出かけて蜜柑をさがしといなされ。広い大阪じゃ……、どんな拍子で、一つぐらいの蜜柑がないともかぎらん」 「ほんにさようでござります。それでは、早速、さがして参ります……。あァ、うっかりと、えらいこと、請け合うてしもた。どうぞあってくれたらええがなァ。……八百屋はん、ごめんやす」 「へ、おいでやす」 「おうちに、蜜柑はおまへんやろか」 「なに言いなはる。この暑いときに蜜柑がおますかいな」 「冬の売れ残りでも……」 「そんな物が、今まで、保ちまっかいな」 「さいなら……。あァ、いよいよ、逆磔かいな……。こんにちは、ごめんやす」 「まァおはいり……」 「お宅さんに、蜜柑はおまへんか」 「アッハッハッハッ……。クソ暑いのになぶりなはんな。今時分、蜜柑なんて、どこにおますかいな」 「トホホホホッ……。なんやら磔刑柱《はりつけばしら》が、ちらちら見えるような気がする。……ごめん……」 「へ、おいでやす」 「おまへんやろかなア……」 「なにがだんね」 「蜜柑。……光沢《つや》の良《え》え……ふっくりした……」 「なに言うてなはんね。私《わたい》ンとこ、鳥屋だっせ」 「蜜柑生むような鳥……おまへんか」 「しっかりしなはれや。暑さにあてられてるのンかいナ」 「お宅のご親類に、磔《はりつけ》になった人、おまへんか……」 「しょうもないこと、言いなはんな。そんな者《もん》あるかいナ」 「そんなら、あんた、磔ちゅうもん、見たことおますか」 「そらおます。若いときに、いっぺん、見たことがおまんナ」 「どういう具合だす」 「怖ろしいもんだっせェ。あれを見ると、悪いことする気にはなれまへんなァ」 「あ、さよか……」 「十文字になった磔刑柱が横にねさしたある。これへ、罪人を縛りつけて、立てまんね。もっとも、目かくしがしておますわ。お役人が出てきて、罪の次第を読んで聞かします。矢来《やらい》の外では、見物が、シーンとして見てます」 「ヘェヘェ……」 「人が二人、竹槍をかまえて両脇へ立ちます」 「ブルルルル……な…はァる……ほど……」 「役人がサッと合図をすると、肋《あばら》の三枚目めがけてブスッ……」 「うわァーッ」 「あ、びっくりした。大きな声出して、ひっくり返りなはったなァ」 「腰が抜けましたんや」 「気の弱いお方やなァ。……これは昔の話だっせ」 「それがなかなか、昔の話どこやおまへんね。蜜柑がなかったら、わたいが、そんな目に会いまんのや」 「一体、どないしなはってん」 「うちの若旦那が、蜜柑が食べられなんだら死ぬ、言いはりまんのや。わたいが、うっかり季節を忘れて、ひきうけてしまいましたんや。いまさら蜜柑がない、言うたら、若旦那、気を落として、いっぺんに死んでしまいはりますわ。そうすると、わたいがさしずめ、主殺しの……イヒヒヒッ……主……主殺しの磔だんね……」 「そらえらいこっちゃ。……しかし、それやったら、こんなところを、なんぼ、うろうろしてたかてあきまへんで。早よ天満《てんま》へ行ってみなはれ。あそこには紅果《あかもん》問屋がぎょうさんおます。なかには、蜜柑ぐらい蔵《かこ》てる家が、あるかもしれまへんで」 「アッそうや。ほんに、天満を忘れてました。おおけありがとう。ええこと教えとくなはった、貴方は命の恩人だす。いずれお礼に参じます。さいなら……。そうや、天満へ行ったら、あるかもしれん……。どうぞあってくれたらええがなァ……。もしなかったら、どないしょう……、肋《あばら》の三枚目……ブスッ。トホホホホッ……。あ、来た来た。ぎょうさん、問屋が並んでるわ。片ッ端から訊《た》ねてみたろ。ヘェ、ごめん」 「おいでやす」 「あのゥ……お宅に蜜《み》……、なぶりに来たンやおまへんねで、怒《おこ》っとくなはんなや。蜜……暑さにあてられてンのやおまへんで。蜜……トホホホホ。……おまへんやろなァ」 「……わからん。もっとはっきり言うとくなはれ」 「あの……蜜柑はおまへんか」 「ア、 蜜柑だっか。おます」 「ギェッ。あるッ」 「たしかに一箱だけ、蔵《かこ》ておます」 「キャーッ」 「なにするねン、この人は。胸倉絞めてどうするのや」 「さァ売って。早よ売って」 「ま、とにかく、放しんはれ。あァ……痛かった。無茶する人やなァ……。よろしい、いま出させます。これ、定吉、倉ィ行《い》て、蔵《かこ》いの蜜柑出してこい……。よし、よし。そこィ置いて蓋とれ。お客さんあれや。ま、急《せ》きなはんな。しばらく手を入れなんだで、どうなってるやらわからん。定吉どうじゃ……なに、みな腐ってるか。そら、しょうがない……お客さん、せっかくやったが、みな腐ってるわ」 「うわーん」 「泣きなはんないナ。大きい声で」 「これが泣かんといられるかいな。いよいよブスッ。キュー。ふわァァァ……」 「そらなんのことやねン。よくせき蜜柑のいる人らしい。ちょっと待ってなはれ。もういっぺん、念入りに調べてみたげまっさ。定吉、その蜜柑をそこへぶっちゃけ……。よっしゃ、退《の》け退《の》け、イヨ、あった、あった。お客さん、良《え》えのが出てきたで」 「ギェッ。あったかッ」 「これだけのなかから、たった一つ。これ見なはれ。色といい、光沢《つや》といい、取りたてとちっともちがわん」 「やれ、助かった。あァ、おおきに、おおきに。早よ売っとくなはれ」 「いや、買うておもらい申しまひょ。が、ちと高おまっせ」 「承知してます。季節《しゅん》はずれの果物、高いのはあたりまえだすがナ。なんぼで売ってもらえます」 「さよう、負からんところで千両や」 「エッ。チッ。チッ。ふわァー」 「あ、へたばりなはったナ」 「腰が抜けましたんや。……モシ、なんぼなんでも、そらあんまりや。蜜柑一つが千両やなんて、そんな足もと見るような……」 「モシ、外聞《ひとぎき》のわるいこと言わんといとくなはれ。わたしの家も、長年この土地で商売してまんね。お客さんの足もと見て、掛け値いうような商いはしまへんで。広い天満に、たった一軒の、蜜柑問屋という看板をあげてるとナ、いつ何時、買いに来られても、ないと断ることはでけまへん。腐るのは承知で蔵いますのは、一粒選りの上物ばっかり、何千両のなかから一箱残る。その一箱のなかから、たった一つ残った、その蜜柑や。みな腐ってしもたら、また今年も暖簾の資本《もと》入れした、と思て、笑うて諦めますわ。が、たとえ一つでも残ったら、それへ腐った分をみなかける。商人冥利、鐚《びた》一文、損はようしまへん。千両でお気にいらにゃ、どうぞやめとくなはれ」 「ま、ま、待っとくなはれ。とにかく主人と相談してきまっさかい、どうぞ、しばらくのあいだ、待っとくなはれや。……あァァ、なんや、今日は、まるで夢見てるようやな。こないして走ってても、なんやら足が、宙に浮いてるような気持がするがナ……あ、唯今、戻りました」 「オオ、番頭どん。えろう顔の色が悪いが、蜜柑はなかったのじゃな」 「いえ、一つだけございましたので……」 「なんじゃ、あったか。やれ、ありがた、ありがたい。婆さん、蜜柑があったとィの。番頭どん、かんにんしとくなはれや。わが子かわいさに、無茶なこと言うてナ。おかげで、倅が助かります」 「あ、ちょっと待っとくれやす。ところで、その蜜柑が無茶に高《たこ》おますので」 「高いというて、一体、なんぼぐらいじゃ」 「一つ千両で……」 「安いッ」 「えッ」 「安い物じゃ。千両で伜の命が買えるなら、こんな安い物はありゃせん。どうぞ、早よ、これを持って行て、買うて来てくだされ」  目の前へ千両箱をドンと投《ほ》り出されて、 「うわーァ」  ベタベタベタ……。番頭さん、かわいそうに、これで三べん腰を抜かしました。 「ヘェ、親旦那《おやだん》さん、この品でござります」 「オオ、オオ、みごとな蜜柑じゃ。さだめし伜がよろこびますじゃろ。ササ、一時も早う、もって行て、食べさしてやってくだされ」 「承知をいたしました。ごめんを……。ヘエ、若旦那……。おおきにお待ち遠さまでござりました。さァ、お望みの蜜柑をもってまいりました。どうぞお召し上がりを……」 「あっ。ほんに蜜柑ッ。あァうれしい……。しかし番頭、この時候はずれに、さだめし辛苦してさがしてくれたんやろ。けっして粗略《おろそか》には思やへんで」 「モシ、なにをおっしゃりまんね。奉公人がご主人のためにつくすのは、あたりまえでござりますがナ。それよりも、親御さんのお慈悲をおよろこびなはれや。その蜜柑一つ、なんぼやとお思いあそばす。千両でごわっせ。わたしは、値ェ聞いたとき、腰抜かしましたがナ。ところがふだんあの通り吝《しぶ》い……いや、アノ、倹約人《しまつじん》の親旦那が、高いとも言わずに、千両箱を投《ほ》り出してでござりました。親なればこそでござりますナ」 「あァ結構なこっちゃ。お父っつあんなり、お母ァはんが、大枚のお金を出して、買うてくれはった蜜柑……ありがとう頂戴するわ……」 「それがよろしゅうござります。剥《む》いておあげ申しまひょ。あア……勿体ないもんやなァ。これが千両……。皮だけでも五両ぐらいの価値《ねうち》があるやろナ。袋が一《ひ》ィ二《ふ》ゥ三《み》ぃ四《よ》ォ五《い》ィ六《む》ゥ七《な》ァ八《や》ァ九《こ》ォ十《と》ォ……、十袋おまっせ。一袋が百両や。筋かて一朱ぐらいにはなるやろ」 「お父っつあん、お母ァはん、頂戴いたします。番頭よばれるわ。あァ、美味しい。あァ美味しい……」 「あッ百両。……あッ二百両。……あっ三百。四百。五百。……ウワー、恐ろしい……」 「あァ美味《おい》しかった。えらいもんやなァ……。蜜柑を食べたなァと思たら、急に頭がスーッとして、体に元気がついてきた。ところで番頭、いま七袋よばれて、ここに三袋残したァる。わたいの病気は、もう治ること疑いなしや。これというのも、両親なりお前のおかげ、そこでせめてこの一袋をお父っつあんに、この一袋をお母ァはんに、残りの一袋をお前に食べてもらいたい……」 「あ、さようでござりまっか。おやさしいお心づかい、ありがとうぞんじます。早速、親旦那のとこへ持って参ります」  三袋の蜜柑を掌にのせて、部屋の外へ出ましたが、 「あァあ、金持ちというもんはえらいもんやなァ。蜜柑一つに千両の金を投り出す……。しかし、親心とはいいながら、考えてみれば勝手なもんや。息子のためなら、千両の蜜柑を買う人も、わしが来年別家するのに、くれる金が、たかだか五十両。めったに百両とくれる気づかいない……。が、待てよ。ここに蜜柑が三袋ある。一袋が百両ずつで三百両や……。ええいッ、あとは、野となれ山となれ」  と蜜柑三袋もって脱逃《どろん》。 [#改ページ] 大丸《だいまる》騒動  一席伺いますは、これは伏見大丸屋騒動という噺《はなし》でございます。芝居でいたします吉原百人斬り佐野次郎左衛門妖刀のたたりという、町人が持つと大勢の人をば殺害するようなことになります。  ここに、伏見の京町に大丸屋という質屋の大家《たいけ》がございまして、ふたりの息子さんがございます。兄さんが惣兵衛《そうべえ》、弟さんが惣三郎さんと申します。この惣三郎が村正の刀を二百両の質物《かた》に取ってございまして、これが流れ込みました。惣三郎ふだんどこへ行くにも、この刀を肌身離さず持っていました。  この惣三郎、京都祇園新地へしげしげ通うていましたが、そのころ富永町の三舛屋の抱えでお時という芸妓がございました。このお時と惣三郎は深い仲になって、しまいにはこのお時を落籍《ひか》せまして、富永町に囲い者にしておきましたが、惣三郎の心算《つもり》でゆくゆくは、宅《うち》へ入れて女房にしようというのですが、大丸屋では由緒正しき家柄ゆえ、なんぼなんでも泥水稼業をしていた女《おなご》を宅へ入れるとうわけにはいかんというので、いろいろすかしてみましたが本人はなかなか聞き入れませんので、やむなく女の身許を調べて見ますと、もとより卑しき者でなく、世の変遷のために芸妓になって稼いでおりますので、このお時は至って親孝行で礼儀作法も正しく、ごくおとなしい女だということですから、大丸屋の方でも、そんな女なら機会《おり》をみて宅へ入れようということになりました。  それとは知らぬ惣三郎は我が思いの叶わぬというところから、自棄《やけ》を起こして狂気同様のふるまいをいたします。それがために、まずしばらくは三条の木屋町をば上がりましたところの川沿いの小ぢんまりとした座敷借りをいたしまして、番頭の忠八を付き添えて出養生《でようじょう》〔転地療養〕をいたしております。時候は七月のことでございました。惣三郎は縁側の葦簀《よしず》を開けひろげ、東山をば眺めておりました。ところへ番頭の忠八が山海の珍味をば広蓋《わきどり》にのせて、 「若旦那定めし今日はご退屈でございましょう、サア一ツ召し上がりなされませ」 「オオ、忠八か気がつかれたな、一ツ注《つ》いでおくれ」 「ヘエ、お酌いたしましょ」 「アア、チョッ、サア一ツいこう」 「ヤア、これはどうも恐れ入ります、オットットト、ちりますちります」 「ときに番頭、私お前にいつぞは聞こうと思うていたが、あの向こうに見える寺は何という寺や」 「ヘエ、あの寺でござりますか、あれは檀野《まゆみの》の法蓮寺と申しまして、表にかかってあります額は有名な額でござります。あれは有栖川《ありすがわ》親王様御真筆でござります。こちらにありまするのは、竜灯の松と申してこれは往昔《おうじゃく》安永の頃、鴨川大洪水のみぎり加茂の明神様がこれへ流れて参りまして、京都洛中洛外までも大いに立ち騒ぎました、そのさい竜神この松に現れ出て灯火を点じ、京都洛中の人をば、この灯火のために助けたということで、ただ今においても晦日《みそか》の夜には、あの松の木に灯火を点じます、これがいわゆる竜灯|怪訝《けぶ》の松、こちらの松はあれが星野勘左衛門|逸《そ》れ矢の松と申します。昔あのところをお縄手というて、みな土手でございました。ただいまでは人家になっていますが、ここで和田|雷八《らいはち》と星野勘左衛門の両人弓術の競いをいたし、勘左衛門の逸れ矢があの松の樹に刺さって、近頃まであったと申します」 「フム、向こうのほうに白い壁が見えるのはなんや」 「あれは大日《だいにち》山であの下に、弓屋に弦《つる》屋という二軒の茶屋がござります、松茸狩りにはみなこのところへ出かけまする」 「この通りに見えるのは」 「あれは永観堂《えいかんどう》黒谷真如堂、これには熊谷蓮正坊と、敦盛《あつもり》公の墓がござります」 「向こうのほうに禿げた山は何というのや」 「あれは吉田山、下にあるのが聖護院《しょうごいん》の宮」 「そのも一ツ向こうの高い山は」 「あれは大文字山……ヘエあれは上加茂、下加茂」 「その北手は」 「そないにお尋ねなさると私が、のぞき屋の口上言いみたようでござります」 「しかし忠八、隣座敷はしんねこでよい声やなア、あの歌は京の四季、私あの唄好きや、お時が舞妓の時代に舞うたがよかったで、あらどこの芸妓やろなア」 「サア先斗町だすやろか、サモなければ、向かい側〔鴨川東〕の芸妓はんだっしゃろう」 「あれをさかなに一ぱい注いでくれ……これ何で顔をしかめているのや、エエどこぞ悪いか」 「イエどこも悪いことはござりませんが、小用《ちょうず》がしたいのでござります」 「これは恐れ入った……マアしておいで、そないにこらえているのは、かえって毒や」 「それではチョットやっていただきます」  番頭さんは用をたしに参りました。惣三郎は隣の三味線の音を聞くにつけ、フト、お時さんのところへ行きたいなア、と思いましたるところから、床に置いてある、村正の刀を、腰に帯び表へ出ようといたしましたが、気もそわそわいたしておりますので、履物に、けつまずき、ガタリッ、という音に忠八が飛び出して来ました。 「オヤ、若旦那、あなたはどこへおいでなされます」 「チョットその辺まで」 「チョットその辺まで、やござりまへん、行くなら行くと私に、一ぺんこたえておいで遊ばせ、一体どこへお出でなさるね、さだめしお時さんとこへおいでなさるご了見でござりましょう」 「なるほど番頭、私がだまって出ようとしたのが、おおきに悪かった、実は、このあいだから、一ぺんお時の顔が見たいと思うているところへ、いま隣のあの三味線を聞いたとこから、急にお時の顔が見とうなった、どうぞしばらくの間、やっておくれ、私はすぐに帰るから」 「それはいきまへん」 「なんでやエ」 「なんでとおっしゃっても、マア、あんたよう物を考えてごらん遊ばせ、お時さんをば、伏見のお宅へお入れ申すにも、出ていなさったお方のことゆえ、今しばらくお時さんなり、あなたのことをば、見抜いた上で、これならばと目処《めど》がついたら、伏見のお宅へさしてからに、お時さんを納めようということになっております。それに今あんたが、向こうへおいで遊ばしては、それはおためになりませぬ、今しばらくのところは、あなたのご辛抱どころでござりますからお宅は申すまでもなく、ご親類でも、いろいろとご相談の上にて、私をあなたのお側にこうやって、お付き添い申しているので……というのも、あなたがお時さんの許へおいでなさらぬように、お宅さまなり、ご親類からのお頼みです、それにお時さんの許へやったというては、私ア、どうも伏見の旦那さんや、ご親類さまに申し訳がたちません、それともおいでなさるようなら私もお供いたして参りますが、若旦那、今日のところはどうぞおとどまり遊ばして」 「アア、番頭、おおきに私が悪かった、かんにんしておくれ、ツイ何とも思わず、行きたいという気が出て、お前までいらぬ心配をかけた、モウ決して行きはせん」 「イヤ、それで私も安心いたしました、キット行ておくれなされますなや」 「アア行きません、大丈夫や」 「それでは、お座敷でごゆっくり……私はちょっとご免こうむりまして」  と門戸のしまりをして、またもや用便に入りました。若旦那惣三郎は、座敷へ帰って、じっと座っておりましたが、もとより、魂はお時さんの許へさして、行っとりますのんで、どう思い直してみても座敷に座っていられませぬ。またも村正をば腰に差し、こんどは河原に飛び降りて三条の橋下をば、かみの車道へ上がり縄手を下がりまして、富永町のお時の許へ出て参りました。 「お時うちかえ」 「オオ若旦那やおまへんか」 「お松、お時はおるか」 「ハイ、お宅でおます、ご新造さん、若旦那がお出になりました」 「アラ、若旦那……あなたおひとりどすか」 「ハア、私ひとりや」 「お番頭さんを連れずに、今日は何しいにおいでやしたのえ」 「何しにおいでやした……これはおかしいなア、しばらくお前の顔を見ぬよってに、今日はお前の顔を見に来たのやがな」 「それは、よう来とくれやした……サアと、申しとおすが、お番頭さんとご一緒でおいでやしたのなら、よろしおすけども、あなた、ひとりでおいでやしたのでは、ちょっとでもここに、いておもらい申すというわけにはいかんのえ、どうぞ妾《わたし》が可愛いと思し召すなら、お帰り遊ばせ」 「それは分かっているけれども、ちょっとくらい、いたかてもかまやしまい、一ぱい飲もう、なんなとありあわせで、お酒を燗《つ》けて」 「お酒はおへんのえ」 「なんでないのんや」 「なんでないとおっしゃるけども、今は、あのお松と妾とふたりきり、妾はお酒を飲みまへんやろう、それゆえ常にお酒のあるはずは、おへんがな」 「そんなら何ぞ、すしなと取りにやってんか」 「あの子は、足を怪我していますよってに、使いにやるというわけにゆきませぬ」 「そんならお前行ておいで」 「いまから行たとこで、おすし屋はヤマ入れて〔店を閉めて〕いますわ——」 「そんなら何ぞ甘い物、いしいし〔牡丹餅〕でも」 「今から行たところで、いしいしもヤマ入れています」 「そんならままでも食べよ」 「アノ、御飯も、ふたりきりのこと、暑いじぶんでおすゆえ、よぶんに炊いておへん、おひつは空どす」 「そんなら、仕様がない、お茶を汲んで、茶を」 「あなたお察しの通り、火鉢には火はおへんよって、お茶なんぞは、いれられしまへんえ」 「それでは、水なと汲んで、おいで」 「イーエ、モウ井戸に水もおへんえ」 「ババ、馬鹿にするな、これお時、ここは誰の宅や、イヤサア、ここは一体誰の宅や、お前の体をひかして、こうしておくのも、みな私が、してやったのや」 「そんなことをあなた、おっしゃらぬかて、よう知っていますのえ」 「そんなら、たまに私が出て来たのに、なに一つ、私のいうことを聞かず、めしを食うといえば、めしはない、茶を汲め、茶はない、水はない、エエ、ナナ、なんということを言うのじゃ」 「若旦那、妾のいうことをば、お分かりになりまへんのどすか、妾のような賤しい者でも、いましばらくうちの、様子を見た上で、伏見のお宅へさしてからに、ご親類からも、ご相談の上で、入れてやろうというお噂も聞いております、よって妾が可愛いと思し召すなら、どうぞ今日のところは帰っておくれやすと、これほどまでに、お願い申しておりますのにあなたはそれが、お分かりになりまへんのどすか」 「オリャ、分からんわい。ナアナアいうていりゃ、よいかと思うて、生意気なことを、ぬかしやがるな……コレ私が腰に、差しているのア、何やと思うている」 「妾は女のことゆえ、何も存じまへんが、刀やと思うています」 「エエ、刀は誰でも知っているわい。これは、村正という銘刀や、汝、グズグズぬかすと、この刀で、貴様、ブチ斬るぞ」 「これは、変わった言葉をおっしゃる、妾の身の上、あなたのお身の上をば、思うて妾が申すことをば、聞き入れなく、斬るとおっしゃるなら、いかにも斬られましょう、サアお斬り遊ばせ、お斬り遊ばせ、あなたに、ひかされてからは、妾の体で、妾の体とは思うておりません、サア斬るなと、どうなと、遊ばせ、サア斬って、サアお斬り遊ばせ、斬って赤うなかったらお銭《あし》はいりまへん」 「人を馬鹿にするなえ、新田西瓜じゃあるまいし」 「サアお斬り遊ばせ」 「ヨシ、斬ってやる」  斬るつもりやない、おどすつもりで、鞘のままパシリッとなぐると、鞘が破れてからに、無残やお時の、肩先より、ザクリー。 「アレー」  と言いざま、お時はそこへドサーッと倒れる。この物音に、下女のお松はびっくりしまして、 「アレ若旦那危ない、お待ち遊ばせ」  ととめるのを、またもや、一太刀、ザクリー、斬り付けられて、ドーンとそれへ倒れました。 「それみい、言うことを聞かぬよってにや、こんなところへ寝んと、早う起きんか、コレお時、お松も、おんなじように、何してる、コレコレ」  じっと見ますと、鞘は破れて刀に血が付いていますゆえ、びっくりしました。 「しもた」  顔は真っ蒼になって、刀を持ってふるえております、こちらは番頭忠八、便所より出て来まして、座敷へ参ります。 「若旦那、ながい間、おまたせいたしまして、さだめしご退屈でござりましたろう、誠にすみまへん、若旦那……アレ、どこへおいでになったのやろ」  床の間を見ますると、村正の銘刀がござりませぬから、サテは若旦那は河原伝いにお時さんの許へ行ったのであろうと、番頭気もそぞろに、富永町へさして走って参りました。おもてから、 「お時さん、モシお松どん……、うちらは真っ暗がりで、どうしたんやろ、門を開けはなしておいてからに、内は灯もともさず、お時さん、オイお松どん」 「番頭やないか」 「ヤアーあなたは若旦那……」  というなり、頭の上から、一太刀、頭は二つに割れて、はじかみ〔生姜〕みたい、キャッ——、ドサーッと、 「何しに来やがった、こいつも斬られに来やがった、馬鹿め」  惣三郎は、人三人殺したから、気はかみずって、頭の髪はザンバラ、そのまま血刀を提げて、表へ出て行きまする。通りかかった芸妓や、箱屋やは、これを見て、人殺しや……というこの声にお茶屋は、表をば一ッ時にみな閉めますやら、夜鳴きのうどんやは、荷をひっくり返すやら、箱屋は三味線箱を打ち捨て置いて逃げるやら、往来の人らは、四方八方に逃げまどう。惣三郎は、むやみに、あばれ回って、お茶屋の行灯《あんどん》は、片端から切り落とし、ついに祇園の石段のところを曲がりますと、下河原に出ます。祇園の南門の鳥居ぎわには、むかいあいにお茶屋がござります。これは祇園とうふの二軒茶屋と申しまして、この東側は中村屋、庭さきではたくさんな切籠灯籠《きりこどうろう》を吊り、山猫の芸妓〔祇園丸山へんの芸妓〕が、百人ばかりも秋草の模様のついたそろえの着物に黒|繻子《しゅす》の帯を立こに結び、銀の団扇を腰に差して、あたまは、いずれも島田に結うて、すすきのかんざしを差し、美々しいいでたちで、総踊りをいたしております。ところへ、血刀|提《さ》げて、フラフラと参りました惣三郎、舞妓の肩先より一太刀ザクリー、舞妓はそれへ倒れました。 「なにしとおいるね、こんなとこへ、ねんね、したら、いかんえ」  またもや斬り付けました。「アレエ」「人殺し」惣三郎は片っぱしから、斬り付けました。何かはもって、たまりましょう、見る見るうちに傷を受けた者は四、五十人、即死した者は数知れず。 「イヤ人殺しや——」というので、上を下への大騒ぎ、御上様も近うござりますから、早速この由を届けましたので、お捕方役人衆が向かいました。 「御上意御上意」と皆てんでに十手を振り上げて、立ち向かいましたが、誰一人捕り押さえる者がござりませぬ。名にしおう村正という妖刀でござりますから、さわるや、さわらんに、傷を受けますので、誰しも命は惜しいから、ただワイワイワイワイいうておりますばかり。  ところが惣三郎の実兄惣兵衛は、木屋町の宅に用向きがあって来てみますと、惣三郎も番頭の忠八もおりませぬから、これはまったく富永町のお時の許へでも行たのやろうと、思いまして、お時の宅へ来て見ますと、お時をはじめ番頭下女、三人とも殺されていますから惣兵衛は大いに驚きました。近所は一軒も門戸の開いている所はござりませぬから、尋ねようにもいたし方なく、ブラリブラリとどこへ行くともなく、祇園の南門……、ここは妙なもので、兄弟の縁に引かされましてか、思わず中村屋の庭さきへ出て参りました、すると大勢の役人が取りかこんでおります中央に、弟の惣三郎が、血刀を持って、仁王立ちになっております。 「イヤーそなたは惣三郎ではないか、チエー情けないことをしてくれたなア」 「コリャコリャ、そなたは何者じゃア」 「ヘイ私は身寄りの者でござります、何とぞ、あれなる乱心者をば、私に、召し捕らせて下されようなら有難いしあわせでござります」 「イヤ、苦しゅうない、早く行って召し捕れ」  自分が行ったら斬られるから、行く方がよほど苦しい。ちょうど願うてもないことだというので、 「サア早く行って召し捕れ、許す……」  惣兵衛はツカツカと行って惣三郎の後からグット羽がい締めにいたしました。 「コリャ惣三郎、おまえはマア情けないことをしてくれた、町人風情の持つべき物でないこの村正、かような物を所持するから、多くの人を殺害なし、京洛中を騒がした、不埒《ふらち》者め」 「エエ、ちょこざいなことをいうな、エエ放せ、放さねば斬るぞ」  惣兵衛にむやみに斬り付けます。すると傍に見ていた役人衆、 「いずれも御同役、ただいまあれなる者の言葉をお聞きなされたか、町人風情の、持つべき刀剣ではない、村正という銘作じゃと申すが、いかにも不思議な刀の斬れ味、斬られし者もあまたあるが、先刻よりあれほどにあの者に斬り付けるといえども、傷一カ所も付かず、血の出たる様子もなし、誠に不思議な奴ではござらぬか」 「いかにも不思議でござる、アア、コリャコリャそなたは全体、これなる者の身寄りと申すが、何者である、先刻より幾度斬り付けるといえども、傷一カ所も付かぬと申すは実もって不思議な奴じゃの、そなたは何者じゃ」 「ハイ、私は、斬っても切れぬ、伏見〔不死身〕の兄でござります」 [#改ページ] 大名将棋  紀州の親殿様がご逝去《せいきょ》になりまして今は若殿の御代でござります、毎日臣等一同が殿様のご機嫌うかがいに出ます。 「エエ若君にはうるわしき御尊顔を拝し、ただただ恐悦を申し上げまする」 「フム菅沼か、予は毎日所在がないにより盤将《ばんしょう》手合わせにてもいたしたいと思うが、そのほう将棋を心掛けおるか」 「ハッ、いささか心得がござります」 「しからば予が相手をいたせ」 「ハッ、お相手つかまつりまする」 「コリャ坊主、盤を持て」 「ハハッ」  と答えて茶坊主がそこへ将棋盤を持って参りました、持って来た将棋盤でも、私どもが指しているような紙に罫《けい》を引いて蜜柑箱の底に貼り付けてあるような将棋盤とは違います。相手は何しろ紀州公でござりますから梨子地《なしじ》塗りに三葉葵の御定紋が付いてござります。駒でも歩が足らんさかいといって巻き煙草の吸口をちぎって載せたり、マッチを折って載せてあるというような駒とは駒が違います、象牙に彫りこんでございます。茶坊主が盤に駒を並べますと、 「菅沼、そのほうが予に不覚を取ったならば、そのほうの頭をこれなる鉄扇をもって二つ打つぞ」 「委細承知いたしました、もし君がお負けになりましたら……」 「黙れ、主が家来に負けるという法やあらん」 「そりゃいけません、手前とても打たるれば痛うござりまする」 「そこはなるたけ忍耐をいたせ、予が万一やり損なったらそのままじゃわい」 「そんなじゃらじゃらした、敗けたらどつかれるわ、勝ってもそのままにせいというような……」  と言うてみたが鶴の一声、殿様のおっしゃることは仕方がござりません。皆様も御案内の通り紀州という所はだいたい将棋のはずむ所でございます。殿様はどのくらい指せるかというと初段角落ちというところだ、将棋も初段に角落ちとなればなかなか大したもので素人初段というぐらいでござります。菅沼様はどのくらい指せるかというと三段の上指《かみさ》しで将棋も三段の上ならば立派なものでございます。  私もちょっとなぐさみに指しますが、三段のちょっと悪いところでございます、お笑い遊ばすと恐れ入りますが真実《ほんま》でございます、何をしても算段が悪ければ仕方がござりませぬ。さて平手で指しかけましたが段があく将棋でござりますからたまりません。十五手二十手ほど指しますと殿様の王様はあっちこっちへ逃げ歩いている、ついにはたまらんところから、そっと銀を横へ寄せた。これを目早く見つけた菅沼は、 「若君そりゃいけません、それは銀でござります銀は横へ寄れません」 「イヤよいよい金を斜《はす》に下がって入れ合わせする」 「そないな乱暴なことされては困ります、金銀の働きが狂うております」 「黙れッ、先ほどから予の王はあっちこっちへ逃げ回っているじゃないか、王が逃げれば乱世である、乱世に金銀の狂うぐらいは当然のことじゃ」 「仁輪加《にわか》やがな、そんなじゃらじゃらした……」 「愚図愚図申さずに早く参れ……」 「若様、そりゃいけません、角がならん先にまっすぐ行っては」 「イヤかまわぬ、その代わり飛車を斜に行って入れ合わせをするワイ」 「どうもならんがな、そう桂馬が五つも六つも向こうへ跳んでは」 「予の駒は名馬である、このくらい駈ける駒でないと戦場で間に合うと思うか」 「香車をそう横斜に行っては困ります」 「予の香車は東山宝蔵院流の槍だ、この槍先が受けられるなら受けてみよ」  こんな無茶な将棋があったもんじゃない、菅沼さんあちらへ逆馬《さかうま》〔王将を敵陣へ入れる〕に入ってよい加減に扱うております。何ぼ無茶をなされてもかまわん段の開く将棋でござりますから、 「サア若君どちらへお越しになりまする、それは飛車道でございませんか……そこは桂馬が利いております」 「いろいろな所に駒がおる、邪魔になるから取り除け」 「そないなこと出来やしません、マアどちらへおいでになります」 「そう申せば予の王の行き所がないわい」 「それでは若君のお敗けでございましょう」 「黙れ主が家来に敗けるという法やあらん」 「ではどちらへおいでになります」 「予の王は右大将頼朝公の末弟にいたし、幼名を牛若丸と申し、成長の後源義経となって八艘飛びをやった、その八艘飛びをもって逃げるわい」 「そんな乱暴なことをされてはいけません……若君、王をどこへおやりになりました」  王さんを盤の下へ放り込んでしまいなすって、 「こちらに片付けてある早く参れ」 「私も将棋をたびたび指しますが、敵の王様なしの将棋は指したことはございません、そんなじゃらじゃらした将棋はたよりのうていけません、攻められるばかりで向こうを攻めることが出来ん」 「どうじゃ菅沼そのほう敗けじゃろう」 「これでは誰かて敗けます、攻めることの出来ん攻められる一方の将棋で……」 「コリャ頭をこちらへ出せ二ツ打つのじゃ」と鉄扇でポカポカ。 「コレヨ、次に控えし者参れ」 「ハッ」 「オイ田中氏、乱暴な将棋だぜ、こりゃ誰が行ってもかなわん」  毎日家来一同が皆殿様に頭を打たれる、七日というものは打たれ通しました。八日目の朝一同詰所へ集まって、 「いずれも御出仕大儀でござる」 「盤将お手合わせはいかがでござる」 「いろいろなことが始まりましたな、拙者はモウこの将棋が三日も続くというようなことなら殿様へ食祿をお返し申そうと考えております、そうして城下外れで焼き芋屋でもするほうがよほど気楽でございます」 「拙者も頭が病めるので、頭を揉みますやら冷やすやら大騒動でございます」 「フムよほど苦しい、芋屋でもしようと考えるが、芋はこの頃十貫目どのくらいで卸しますかな」  いろいろなことを言っております、ちょうど二十日ほど前より病気のため登城をお休みでございました殿の御意見番、お年の頃は六十余り、頭はようはやる汁屋のお玉|杓子《じゃくし》のような格好をしております。石部金吉郎という固い固い石部金吉金兜というて恐ろしい固い人で、前日から全快届けを出してございました。今日は久し振りの登城でございまして、 「ヤア、これはこれは石部氏には、ご病気全快の由おめでとうございます」 「アア病中は毎日御見舞い下され有難う存ずる、おのおの方お見受け申せば皆頭が腫《は》れてござるがいかが召された」 「ハッ……」 「フム、コリャ石部が誤った、いかに泰平の御代なればとて、治にいて乱を忘れぬために毎日剣道の稽古でござるな、素面素小手でおやりあそばしたとみえる、これは木太刀の跡でござるか、それはそれはお勇ましいことでござるわい」 「これは面目次第もございません、さような気の利いた疵《きず》ではございません」 「それではいかが召されたのじゃ」 「若君に毎日鉄扇にて二つずつ打たれたので」 「フム鉄扇で打たれたとな、なにゆえまた若君はさような乱暴をなさるので」 「将棋を指して敗けると打たれるのです」 「そりや仕方がござらん……さすがは菅沼氏は紀州家において一と呼ばれて二と下らん将棋の名人と聞きしだけに、お敗けなさらんとみえて頭が腫れてござらんな」 「イーエどうして拙者は最初からやられておりますので」 「それでも腫れてござらんじゃないか」 「モウベッタリと腫れて目立たぬようになっているので」 「コリャ怪しからん、菅沼氏がお敗けになるというからは若君はよほど指せますのじゃな」 「イヤ、弱い弱い」 「弱いのに強い者が敗ける法がないではないか、いかに勝負は時の運とはいいながら……ハハーンさては若君というところで勝ちを譲り追従軽薄いたして御加増にでもなろうという御心中でござるな、なにゆえ武士たる者が槍先で知行《ちぎょう》をお取りなさらん、さような追従軽薄などする武士は犬侍盗人侍と申す、馬鹿者めがッ」  と怒鳴りつけられ、 「拙者もこれで得心じゃ、殿様には毎日頭を打たれ、石部氏には馬鹿侍、犬侍、盗人侍といわれていよいよ芋屋でもするか紙屑買いでもする方が楽でございます」 「いかにもさようでござる」 「強い者が敗ける法はないではないか」 「それがどうしても勝てんので」 「なにゆえ勝てぬのか」 「殿様が銀を横にお寄せなさるので」 「なに、銀を横に寄せる」 「金を斜に下がって入れ合わせをするとおっしゃって……」 「そんな乱暴な将棋はない、さようなことをなされば金銀の働きが狂うじゃござりませんかと、なぜ申さん」 「いけません、予の王は先ほどから逃げ回っている、王が逃げれば乱世である、乱世に金銀の狂いは当然のことじゃとおっしゃいます」 「それはまるで仁輪加じゃがな」 「それから飛車が成らん先に横斜に行って角をまっすぐに行って入れ合わせをするとか、桂馬が五つも六つも向こうへ跳んで、このくらい跳ぶ名馬でないと戦場で間に合うかとこんなことをおっしゃります、また香車を縦横十文字に行って予の香車は宝蔵院流の遺人《つかいて》だ、この槍先が受けられるなら受けてみよなどと言われる、それでもよい加減に扱ってやっておりまして、王様が詰めかけますと、予の王は源義経だ、八艘飛びをもって逃れると言って王様を将棋盤の下へ放り込んでしもうてです、敵の王なしに将棋が指せますか指せませんか、考えてもらいとうござります」 「フム、そんな乱暴な将棋はござらん」 「それでは皆が負けますので、負けるとやられます」 「そんな乱暴なことをなされば、なにゆえ諫言《かんげん》なさらんのじゃ」 「諫言しても聞いて下さらんので」 「一度二度諫言をしてお聞き入れなき時は、なぜ切腹をして御意見なさらんのじゃ、かようなことが他国へ聞こえては我が国の恥辱になることでござるぞ、この国で祿を食《は》みながら、国の恥辱になることを捨て置くとは何事じゃ、かような武士を犬侍、馬鹿侍、盗人侍と申したのが石部の誤りでござるか、馬鹿侍めがッ」 「ホイホイ叱られ直しやぜ……」  この声が若君のお耳へ入りましたとみえ、 「コリャ、詰所にて高声に罵《ののし》りおる者は何者じゃ」 「ハイ、石部金吉郎にござります」 「オオ、石部か呼べ呼べ」 「ハッ……アイヤ石部氏、上のお召しでござる」 「石部氏、お気をおつけ召されよ、貴殿も頭を打たれますぞ」 「そうむやみに鉄扇で頭を打たれてたまるものか、借り物の頭ならかまわんが、みな自前の頭だ……ハハッ若君にはうるわしき御尊顔を拝し、ただただおめでとう存じまする」 「オオ石部か、予は毎日所在がない、盤将手合わせいたしたい、そなたは将棋の心得があるか」 「ハッ、石部はよほど強いのでござる」 「こやつ、よい年をしながら物に遠慮をすることを知らぬ奴じゃな、己れのことを自慢する奴があるか……ではいささか心得おるな」 「イヤ、よほど強いのでござります」 「けったいな爺やな……しからば予の相手をいたすか」 「何時《なんとき》なりとも御相手つかまつります」 「坊主、盤を持て……」  茶坊主がまたそれへ将棋盤を持って来て駒を並べますると、 「コリャ石部、そのほう予に不覚を取ったならばそのほうの頭、これなる鉄扇をもって打つぞ」 「ハッ委細承知いたしました、もし殿がお敗けになったら……」 「黙れ、主が家来に敗けるという法やあらん」 「そりゃいけません、手前とても打たるれば痛うござります、ましてや老年になりまして頭の毛も薄くなって、かくの通り禿げておりますから、なるだけ打たれぬようにいたします」 「万一予が敗けたらそのままじゃ」 「ヘーッ」 「そのままじゃわい」 「そのまま……そのまま……それは何ということを仰せになります、あなたも紀伊国名草郡虎伏山五十五万石の御太守でござらんか、敗けたらそのままとは何ちゅうことを仰せになる、うけたまわれば他の家来は皆二つずつじゃそうでございますが、石部は若君だけおまけ申して三つ打ちますぞ」 「黙れッ、石部、己れ下司下郎の分際として主の頭を見事打つか」 「何でもないこと、打ってお目にかけましょう」 「エッ、えらい爺やナ、怒りよったぞ、こりゃかなわん、父上もそういうておいでになった、石部にはかなわんと、強い奴じゃわい」 「よろしゅうござりますか」 「よいッ」 「鉄扇をモットこちらへお出しあそばせ、モットこちらへ……」 「石部め、勝たん先から私を殴る気になっていやがる」 「かようなことを申せば釈迦に説法をするようでござるが、駒の働きは御存じでございましょうな」 「ウーム」 「あの銀は横に寄れませんぞ」 「アア、よいよい、寄ってもかまわん、金を斜に下がって入れ合わせをする」 「そんな乱暴なことはいけません、乱世に金銀の狂いは当然などという仁輪加みたようなことは石部は嫌いでござります」 「おかしな爺じゃな」 「しかしこの銀とても向こうの地面に入ってまったく成った時には今までの働きは廃《よ》してしまいまして、金の資格になりまする、よろしゅうござりますか」 「フム、よいよい」 「桂馬は横へ一つ向こうへ三つずつ跳ぶものでござりますが、これも向こうの地面へ入りましてまったく成る時は今までの跳ぶのを廃して、金の資格になりまする、香車は向こうへ八つまで跳べまする、これもまた向こうへ入って成った時には金の資格になりまする、角は斜め限りのもので向こうの地面へ入ってしまった時には縦横に一つずつ寄ることが出来る、飛車は縦横限りのものでございますが、これも向こうの地面へ入って成った時には斜めに寄ることを一つずつ許しまする」 「いやに固い爺やな、よいわい」 「よろしゅうございますか、そこでいよいよ王が詰まった時に、予の王は右大将頼朝公の末弟にいたして幼名牛若丸の後源義経となって八艘飛びなど、それは前もってお断り申しておきますぞ」 「アッ、この爺め、あこで聞いて来よったな、よいよい」 「それでは金ですか、歩ですか」 「金か歩かとは何じゃ」 「先手後手を争います」 「黙れ、主が家来より後に行くという法やあらん」 「そりゃいけません、この将棋は戦場をかたどったものでござりますれば先手後手の争いはあるもので、金なら金、歩なら歩とおっしゃれ」 「やかましい爺じゃな、よいわ、歩じゃ」 「歩でござりまするな」 「アッ、待てよ金にいたそう」 「何ちゅうことを仰せになります、武士の言葉に二言はござらん、歩なら歩でよろしい……」カラカラバチン。 「サア、金でござります、私が先に参ります」 「けったいな爺やなア」  この石部金吉郎はどのくらい指せる将棋かというと二段の上指しで、これも若君とは大分開きます、それに平手で指しだしたからたまりません。十六手、二十手と指して行きますと、殿の王様はまたあっちへ逃げこっちへ逃げ回り、しまいには銀を横へ逃げんならんようになって来たが、前に止められてあるから行かれん。若君は石部の顔と駒とを七分三分に睨み分けてソッと内緒で銀を横へ寄せた。 「アイヤ若君、銀は横へ寄れません」 「よいよい、金を斜に下がって入れ合わせをする、乱世に金銀の狂いは当然じゃ」 「そんな仁輪加みたようなことは石部は嫌いでございます……桂馬はいくつお跳びになるので」 「予の桂馬は名馬じゃ、このくらい跳ばんと戦場で間に合うと思うか」 「先ほどから若君には敗軍の体《てい》にござります、敗軍の時には総て人馬とも足を痛めております、そうお急ぎあそばさずにボツボツおいであそばせ」 「けったいな爺やな」 「香車はどこへおやりになります」 「予の香車は東山宝蔵院流で練磨いたしておる、この槍先が受けられるなら受けてみよ」 「そりゃいけません、そんな香車は先ほど千段巻のあたりから打ち切ってございます。マアボツボツおいであそばせ……王さんはどこへおいでになりますか、そこは角道じゃございませんか、なにゆえ銀の頭へ王を持っておいでになります」 「そう申せば予の王の行く所がないわい」 「しからば若君はお敗けでございます」 「黙れ、主が家来に敗けるという法やあらん」 「それではどちらへおいでになります」 「予の王は右大将頼朝公の末弟にして幼名牛若丸と申し成長の後源義経……」 「八艘飛びなどは前もってお断り申してございます」 「どうあってもいかんか」 「いけません」 「そう言わずに八艘飛びを一ぺんだけやらしてくれ」 「いけません」 「ただ一ぺんだけじゃ」 「いけません。一ぺんも半分もいけません」 「八艘飛びの出来んような将棋なら敗けじゃ」 「お敗けでございますか、それでは頭をこちらへお出しあそばせ……イヤサ頭をお出し召され」 「ウム」 「家来衆は二つずつでございましたが、石部は若君だけ特におまけ申して三つ打ちますぞ」 「そんなものはまけていらぬわい」  二度と再びそんな乱暴なことをしようとおっしゃらぬようにと、忠義の腕に任して若君の頭を思いきり力をいれてポカポカポカと三つ続け打ちに打った。 「アーッ、痛い痛い、石部、無礼なことをいたしたな、さがれさがれ」 「ハハッ」 「アア痛い、予は家来の頭を打ちしが、皆かほどに悩むか」 「それがために妻子|眷族《けんぞく》の嘆きはいかばかりでございまするか、なにとぞ盤将手合わせの儀は御中止のほど願わしゅう存じます」 「オオやめだやめだ……坊主盤将を焼き捨てい……」  エライものですな、この辺が大名でございます、モウ将棋はやめる、将棋盤はいらんから焼き捨ててしまえとおっしゃった。紙屑拾いが来たら売ってしまえ、そんなことは言やしません。大名などというものは実に度量の大きなものでございます。この気前は私と少しも違わん……これはあまりあてになりませんが、石部金吉郎は十分に殿様に意見をしておいて、大きな身体をモウ一層大きくしてさがって参りました。家来衆一同は、 「石部氏、おん身のおかげでモウ今晩から頭の腫れが治ります、これで妻子の喜びはいかばかり」 「ヤア石部氏、貴殿のお働きによって拙者の寿命が延びるように思います」  中にも根性の悪い家来は、殿様は石部に頭を殴られてどんな顔をしているかしらんと殿様の顔色を見に来よる奴がある。 「若君にはうるわしき御尊顔を拝し奉り、ただただおめでとう存じます」 「ウム、今日はあまりめでたくないわい」 「ハッ、いかが召されたので」 「石部め、鉄扇で予の頭を三つ打ちおったのじゃ」 「ヘーッ、石部め、下司下郎の分際をして主の頭を鉄扇で打つなどは無礼千万、この由お目付へ申し出で閉門のうえ切腹を申しつけまする」 「コレコレそりゃいかんのじゃ」 「なぜいけませんので」 「予が将棋を指して敗けたのじゃ、それで打ちよったのじゃ」 「オオ、若君が将棋にお敗けになりましたので、これはこれはおめでと……」 「何のめでたいことがあるものか」  家来衆はみな大喜びです、しばらくいたしますると殿様が呼んでござる。 「臣等一同参れ参れ」 「また殿様が呼んでまっせ、難儀でやすな、また将棋じゃございますまいか」 「モウ将棋の気づかいはございません、将棋盤は焼いてしまいましたから」 「それでは今度は碁ですかな」 「碁は五目並べぐらいより知りません」 「なんでも行かんとゴテだっせ……ハハッ、お呼び遊ばせ」 「フム、予は所在がないぞ」 「また所在がない、所在がないには、かないませんな」 「難儀やな」 「どうじゃそのほうども、予が話をしてやる、落とし噺じゃ、面白いものじゃぞ、しかし面白かったら皆笑えよ」 「モシ、殿様が落とし噺をしてやろうとおっしゃる」 「へー、結構ですな、私は落とし噺が好きでな、一ぺん聞きたいと思うておりますが聞く折がございませんので結構なことではございませんか、落語をしてやるが面白かったら笑えとおっしゃる」 「フフン、落語家のほうで笑えと催促する奴がございますかな、一体どんな落語を聞かして下さるのじゃろう」 「石の上に亀がいよったのじゃ」 「アア、こりゃ大分へただんな」 「よほどへたや……ヘイ……」 「誰や横手から返事をしなはったのは、落語を聞いて返事をする阿呆がおまっかいな」 「しかし返事せんあらんような、いいようだんが」 「空に鶴が飛んでおった」 「へー……」 「また返事をしなはる」 「そないに言いなはるけど、返事をせんあらんようになって来ますがな」 「返事をする奴がおますかいな」 「亀の心にしてみれば私にも翼があればあのように飛べるものを」 「ヘイ……」 「また返事をしなはる」 「石の上で亀が地団太を踏みよったんじゃ、それは石亀の地団太じゃ、分かったか」 「ハッ、分かりました」 「分かったら笑わんか」 「笑えというて、こんなこと面白いことも何もあらへん」 「どないなとして笑いなはれ、ちょっとくすぐりあいなとして……」 「面白くもないものを無理に笑えといっても笑えますかいな」 「笑わなんだらゴテだっせ」 「チョッともおかしいことはない……」 「コレ、予に落語をさせておきながら笑わんか、いよいよ笑わんとあればこの鉄扇をもって打つぞ」 「サア、鉄扇の出ん先に笑いなはれ」 「オイオイ誰や、拙者の脇の下に手を入れたりするのはくすぐったらいかんいかんウフウフワッハ……」 「アア予の落語が気に入ったとみえる、モウ一ツしてやるぞ」 「ソレ見なはれ、またあんた落語を聞かんならん……」 「茄子《なす》がいよったんじゃ」 「ヘイ……」 「モシ、拙者は殿様の落語よりあなたの返事のほうが気になりますが」 「そこへ蟹《かに》が来よったんじゃ」 「ヘイ……」 「どうぞその返事だけ堪忍しとくんなはれ」 「蟹が茄子を挟《はさ》みよった、茄子は茄子しやる、蟹は蟹してくれと言う、そこへ布袋《ほてい》和尚が来て、布袋な布袋なと申したぞ分かったか」 「分かってやすかい」 「分かってやすが」 「分かったら笑わんか」 「笑いなはれ」 「笑えといっておかしいことも何もない」 「そこはまたくすぐりおうて」 「そんな無茶なことをしたらいけません」 「笑わんとあれば鉄扇をもって打つぞ」 「ソレソレ、鉄扇の出ん先に笑いなはれ」 「拙者ばかりくすぐったら困る、そんな無茶なことをしたらいかん、ウッワッハハハ……」 「予の噺がよほど気に入ったとみえる、まだまだしてやるぞ」 「あんな噺を三べんも聞かされたら患いますぜ」 「山があったんじゃ」 「ヘイ」 「ほんまにその返事だけ堪忍しとくれやす、あなたの返事が気になってかなわん」 「何があったんじゃ」 「ヘイヘイ」 「今度は二ツしなはったな」 「そこへ白酒を売りに来よった、それで山河の白酒じゃ、分かったか、分かったら笑わんか……」 「分かってます、山があって河があって白酒を売りに来て山河の白酒でございます」 「サア分かったら笑え、笑わんと鉄扇をもって……」 「また鉄扇が出てます、笑いなはれ」 「チョッともおかしいことあらへん、そんなにくすぐったらいかん、ウッワッハハハハ」 「いよいよ気に入ったな、まだまだしてやるぜ」 「難儀でやすがな」 「鶴がいよったんじゃ」 「ハハア今度は鶴ですぜ」 「亀がいよったんじゃ」 「また元の話に戻って来ましたな」 「鶴は千年亀万年……」 「アッ、違う違う」 「東方朔《とうぼうさく》〔前漢の奇人〕は九千歳、浦島太郎は八千歳、三浦大助百六ツ、かくほどめでたき折柄にいかなる悪魔が来るとも、この厄払いが引っ捕え、西の海へ真っ逆さまにザブリン……」  このとき時一同の家来衆は声を揃えて、 「笑いまひょう笑いまひょう」