[#表紙(表紙1.jpg)] 上方落語100選(1) 笑福亭松鶴 目 次  打飼盗人  阿弥陀池  鮑貝  市助酒  犬の目  色事根問  植木屋娘  馬の田楽  江戸荒物  狼講釈  おごろもち盗人  親子酒  お玉牛  腕喰い  貝野村  黄金の大黒  口入れ屋  くっしゃみ講釈  蔵丁稚  鍬潟  月宮殿星の都  高津の富  鴻池の犬  菊江仏壇  掛取り [#改ページ] 打飼盗人《うちがいぬすっと》  エエ、我々の方でいちばん八方うけのするお噺《はなし》はと申しますと、泥棒のお噺で。  バリバリ、バリバリ……。 「誰や、かなわんなあ。またネズミや。ここの家《うち》はもう、年がら年中、ネズミが来やがって、齧《かじ》りやがんねん。チャイ……チャイ」  バリバリ、バリバリ……。 「ドひつこいガキやなあ、チャイ」ベリ……。 「チャイ、チャイ」ベリ、ベリ……。 「掛け合いやがな。コラ、ドひつこうさらしたら承知せんで。コラ、あれッネズミやないがな。誰や表の戸こじあけてはるねや、何をするねんな。コレ、無茶したらいかんで。そんなとこ、こぜても開けへんで。あかんいうてるねん。開けるねやったら、その戸はあかんねん。もう一枚、西の戸こじ開けて。いやいや、そこはあかんいうてるねん。コレ、あかんいうてるのに、無理から、こじ開けよった。無茶するなあ。どなた……どなたですッ」 「じゃかましい」 「誰が……。じゃかましいのは、あんたとちがいますか。わたい、おとなしい寝てたんでっせ。何でんねん」 「なにをッ。夜中に入ってきたんじゃ。俺ア盗人《ぬすっと》や」 「ハッハッ、さよか盗人やさんでっか。ハッ、よう来なはった。まあお入り、どうぞお入り」 「このガキ、おさまってけつかるなあ。ハハン、分かった。暗いさかいそんなこと吐《ぬ》かしてるねん。灯《あかり》つけい!」 「何です」 「灯をつけえ言うねん」 「イヤ、あのね。わたいさっきから言うてますやろ。寝てるんだ。エエ、灯はいりまへんねん。あんた、どうしても灯がいりますか。さよか、それやったら自分でつけはったらどうです」 「何を吐かしてけつかんねん。スイッチはどこや」 「えっ」 「スイッチはどこや」 「スーちゃんですか。わたいスーちゃんおまへんねん。そやさかい一人で寝てまんねん。淋《さび》しゅうに」 「そうやないわい。電気のスイッチはどこや言うねん」 「ああ電気のスーちゃんでっか。ハハ、電気のスイッチてなこと言いなはるさかいに、分かれしまへんねん。わたい職人だ。ええ、そんな英語わかりまへんねん。電気のネジ、そない言うてもろたら、分かるんだ。へえ、それやったらねえ、あんたの立ってはる真上だ。へえ、ちょっと手をのばしてみなはれ」 「なに吐《ぬ》かしてけつかるねん。それやったら、のっけに、そない吐かせ。スーちゃんとかごちゃごちゃと。オイオイ……」 「なんです」 「これ笠も球《たま》もないやないか」 「ヘエヘエ、おまへんやろ。実は電気会社とちょっと些細な揉めごとがおまして、ホイデ笠も球も外して帰りはったんで、へえ。あとに紙がはっておますやろ」 「ほんなら、われとこ灯は引いてえへんのか」 「いやいや灯は引いてるんです。へえ、根元で切りはってんと思いますねん、へえ。えらいお愛想なしで」 「なにを吐かしとるねん。他になんぞ灯はないのんかい」 「なんです」 「イイエエなあ、灯は他にないのんかと言うねん。暗やみで暮らしてるのか」 「阿呆なこと言いなはんな。生身《なまみ》の体で灯なしで暮らせますかいな。それやったら蝋燭《ろうそく》がおますね。へえ、エエ、マッチ……。蝋燭つけはるねやったらマッチがそこにおまっさかい。エエ、棚の上に広告マッチがぎょうさんのってますさかい。へえ、アッ、アッ、もっと右だ。右の方。——言うときまっせ。方々に柱がおますさかい、気ィつけ、あっあっあぶない。あぶないと言う拍子に頭打って。ド不器用な盗人」 「なにを吐かすねん。アア痛タ。われがごちゃごちゃごちゃごちゃ吐かすさかい頭打ったわい。頭打った拍子に目から火が出たわ」 「ホナ、マッチはいりまへんな」 「なにを吐かすねん。ちょっと待て。分かったあるわい。ほんまにロクなことさらさへん。蝋燭かい、エッ、アア、分かった分かった。これか。ようし。なあ、この時代に手燭《てしょく》に蝋燭つけやがって、ほんまにわれがごちゃごちゃごちゃごちゃ吐かすさかい、俺はな、まさか盗人に入って夜中にこないしてマッチで火をつけるとは思わなんだ」 「何をしてなはるね。いらいらしたらあきまへん。そう気イ短こうしたらあきまへんで。マッチをつけるのにそんなつけ方がおますかいな。いえ、もっと柔こうにスーッと……。柔らこうにスーッと」 「何を吐かしてけつかるねん。柔らこうにスーッと、何を吐かすねん。ヤッと、サア、灯がついた。オイ今までおのれ、おさまってたなあ。灯がついたらこっちのものや。サ、今に目に物見せたるわ」 「なんです。目に物見せとくなはるか。目に物、目に物を……。ハハ、わたいたいてい物を見るの目で見ますねん。耳では見られへんわなあ」 「何を吐かしとんねん。さあ、よう見いよ。二尺八寸|伊達《だて》には差さん」 「ハッハッハ、あんた古いこと知ってますなあ。二尺八寸伊達には差さん、ねえ。芝居でようやりますがな。長いやつ引き抜いて二尺八寸伊達には差さん。なるほど役者はんがやってはるのを見てます。へえ、よう分かってま。へえ、抜きなはったなあ。ええ、分かってま、これ二尺八寸、これが……。ほんまでっか。こんな物、あんた、二尺八寸もおますかいな。まあたかだかあって二尺。二尺ないなあ。イヤ大丈夫だ。わたいも職人だす。ちゃんと見るだけで分かるのだす。へえ、イヤイヤあるかないか、わたいいま計ります。ええ、手で計ったら分かるのだす。ジイーッとしてなはれ言うね。あんたぶるぶる震《ふ》るてるなあ。えらい気のあかん盗人やなあ。ジイーッとしてなはれや……。ハッハッハッハッ、ようそんなこと言うわ。二尺八寸やて。一尺八寸もあれへんがな。嘘ついたらあかんで。嘘つきは盗人のハ……。ハッハッハ、アアさよか。あんたやなあ、嘘つく人……」 「おかしげな言い方さらすな。しかし、われは若いのに、ええ根性してるわ。ナ、それだけの根性があるのは感心や。俺が入ってもびくともせんと、そないして俺を嬲《なぶ》ってけつかるねん。しかし俺も商売人や。素手では帰らんで。分かってるか、なあ……。コラッ、人が来てるのやないか。いつまでも寝ころんでんと、起きたらどうや」 「ハッハッハッ、もう起こしとくなはるな。わたいはいったん寝床《ねま》に入ったら起きるのかないまへんねん。……しかし、あんた美味《うま》そうに煙草を吸うてなはるなあ。たまらんなあ。いえいえ、わたいいたって煙草が好きだすねん。実はきのうから煙草を切らしてしもうておまへんね。ええ、どうです、ちょっと一服よんどくなはるか」 「ド厚顔《あつかま》しいガキやなあ。このガキは。さあ食らえ」 「食らえ。ハッハッハッ。あんた、そないしてごつごつごつごつ言うてはるけど、ええ人やなあ。男らしいなあ。ハッハッハ、いや、食らいます。へえ、食らいますけどね、すんまへん、火が……。へえ、吸い付け煙草、へえ、よんどくれやす」 「このガキは、甘えやがって。ほんまに……。さあ、食らえ」 「へえ、おおきに。へえ、おおきに。あんた、ええ人やなあ。口では食らえ言うてなはるけど、ちゃんとこうして、煙草つけとくなはる。へえ、ハア……。なるほどええ煙草吸うてなはるなあ。煙管《きせる》が銀ののべか。中に入ってある煙草が上等なあ。あんたら気のいらん銭で買うさかい……」 「そんなおかしなものの言い方するな。オイ」 「なんです」 「俺はナ、十日ほど前からわれとこの家に目をつけてたんや。エエ、十日ほど前に来た時は、たしか家の中にずーっと道具がいっぱいあったが、それが何じゃい、何にもないやないか」 「あんた知ってなはるの……。そうでんね。へえ、わたいね、ごらんのとおり嬶《かか》も子供もなし、一人で一生懸命働いてますねん。儲かった銭で道具買うのが楽しみで。へエ、町内でも評判になるほど道具集めたんだす。こんな長屋でこれだけの道具を持ってる家は他にないと、町内で評判になったぐらいだす。ところが、友達というのは選ばな、いきまへんなあ。へえ、悪い友達とつきあいしたんだす。そいつに誘われて一日が二日、二日が四日、四日が五日、五、六日の間にすっからかんになったんだす。イエ博打《ばくち》で。博打ですっからかんになってねえ、ヘエ、もう今のところ、着物もこのとおりメリヤスのシャツとパッチ一枚、へえ。もうこないなったら、しようがおまへん」 「何かい、あれだけあった道具がわずか五日か六日ですっからかん……。バカ、賭けごとなんかさらして……。博打するような人間はカスや」 「盗人よりましでんなあ」 「何を吐かしてけつかる……。ほいでわれは職はないのかい」 「いえ、職はおますねん。大工だ。へえ、まあ大工をしてりゃ、あんさんが見はったとおり、一人暮らし、道具がいっぱい買えたんだす。へえ、それが今いうとおり博打をしたばっかりに、このとおり、すっからかんになったんだす」 「阿呆か。大工というたら職頭《しょくがしら》、エエ、そんな結構な商売もってて……。イヤ、分かった、分かった、分かってるわい。友達に誘われたにしろ、博打に手を出すというのが間違うてるわい。イヤ、俺かてな、昔から生れた時から盗人やない。俺ももとは職人や。われかてそうやないかい。エエ、大工てな結構な商売がありながら、博打に手を出す。これもなあ、人間、欲を出すさかいにそないなるのや。阿呆《あほ》ンだら。真面目にやる気はないのんか」 「よう言うておくなはった。へえ、わたいかて言いはるとおり、大工さえしてりゃあ一人前以上の銭儲けが出来《でけ》るんだす。ところがしょうもないことに誘われて、とうとうこんな有様になったんだ。もうこれに懲りて……。イエ、実は仕事がしとうても出来まへんねん。今日も朝から、親類の家から友達の家、ずうっと銭借りに回ったんですけど、なにせやったことが悪うおます。博打やるような人間は相手に出来んいうて、誰も相手にしてくれまへん。しょうがないさかいに帰って来てぐうっと寝たら、夜中にバリバリバリバリ、表の戸をこじはる音がするものやさかい、目が覚めたらあんたが入って来はったんだす。ほいで、そのあんたがでっせ、そないして真面目にやらんかいと言うてくれはるのは、よう分かるのだす。分かるんでっけど、働きとうても、今言うとおり、もう道具箱まで質屋に入ってるんだ。こんど仕事するいうたかて、道具箱がなかったら仕事が出来まへんねん。どうですやろ。あかの他人のあんたがこうやって入って来はったのも、何かの縁……。そうですやろ。ほいで、わたいが何もかもぶっちゃけて話すのも何かの縁……。ネエ、どうです。これだけ打ち解けて、ものを言うてるのだす。沢山《ようけ》やおまへん。十円だけ、心安うにする気はおまへんか」 「われ、うまいこともの言うなあ。いやいや、われもなあ博打に懲りて一生懸命仕事をする、真人間になると吐かしたなあ。よっしゃ。そのひと言に胸突かれた。ヨシ、俺もお前と一緒に約束しよう。俺も今晩かぎり盗人はやめる。俺ももとは職人や。もとの商売に戻ってこんど会う時はお互いにきれいな体で会おう……。十円あったらええのか。ほんならこれで道具箱質受けして真面目に働けよ」 「おおきに、おくんなはるのか。えらいすんまへんなあ、あんた、えらいすんまへん。イイエいな、わたいの言うたことが気に入ったいうて、そうして十円くれはる。それが有難いのや。おおきに、おおきに。ヘテカラナア……」 「何や。そのヘテカラナアというのは」 「これは大阪の言葉で、それからというのを、ヘテカラ言いますのや。アノウ、仕事に行くというても、道具箱だけでは行けまへんね。へえ、法被《はっぴ》、腹掛け、パッチ、全部いりますのや。へえ、手拭でくくって質屋に入ってるんですが、どうです、出すわけにはいきまへんやろか」 「われの言うとおりや。まさか裸では仕事に行けんなあ。なんぼで入ってるねん。エエ……三円。そうか、ホナもう三円やるわ」 「ハハ、おおきに、おおきに。えらいすんまへんなあ。あんた話がよう分かるわあ。ア、ヘテカラ、アノウ……この十三円は元金ですわねえ。相手は質屋だすのや。へえ、利子がなかったら出してくれへんと思うんですけど、どんなもんでおますやろ」 「いっぺんに吐《ぬ》かせ、阿呆ンだら。ほんなら二円もあったら足るやろ。よっしゃ、これで質受けして仕事に行けよ」 「ほんまにあんた、あっさりおくんなはるなあ。おおきに、おおきに、ほいでヘテなあ……」 「コラ、ちょいちょい言い方変えるな。何や」 「へえ、腹が減ってますね。一昨日《おとつい》から何も食うてえしまへんねん。腹がペコペコでんねん。腹が減ったんでは仕事が出来まへん。どうですやろ、弁当持って行こうと思うんだすけど、米五合ほど……、どんなもんですやろ」 「俺あ、お前と所帯持ってるのと違うで。ようそれだけ厚顔《あつかま》しい吐かすなあ。ほんならもう三円置いとくわ、これでええかい」 「えらいすんまへん。へえ、イエ、沢山やおまへん、家賃が二つ溜まってまんねん。へえ、イエ、なかなか洒落《しゃれ》家主で、今こんな状態でんねん、えらいすんまへん、家主さんもう暫《しばら》く待っとくなはれと、こない言うたらねえ、それなら出来たら持っといでや言うてね、へえ、ほいで、そのままになってまんねん。わたいが明日、腹掛けから法被からパッチはいて道具箱持って、弁当持って仕事に行くのを、その姿見たら黙ってえしまへんがなあ……。どうですやろ、沢山はいれしまへん。一つだけ家賃を入れとこうと思うのでっけど、どんなもんだあ……」 「なに吐かしてけつかんねん……。三円で足るのんか。エエ、足らんのか、ホナ、ちょっと待てよ。……三円三十銭あるわ、これでなんとかせえよ」 「もうしまいでっか。わりに今晩少のうおますなあ、今度いつ来なはる」 「何を吐かしとるねん。真面目に仕事をするねんで、分かってるなあ……」  そのまま盗人、ポイと表へ飛び出しよった。道を半町ほど行った時分に後ろから、 「おうい盗人や」「盗人や」「泥棒、盗人や、オーイ、泥棒」……。 「コラ、何を吐かすねん。このガキは」 「痛い、痛い。分かってま、分かっ……。痛い、痛い……。そない叩きなはんな。イエイエ、何も悪気があって呼んだのやおまへん。へえ、へえ、えらいすんまへん。そないに殴《どつ》かんかて、用事があったさかいに呼んだんだす」 「俺が帰ろうと思うてるのに、わざわざ呼びとめた用事というのは何や」 「へえ、からの財布が置いておました」 [#改ページ] 阿弥陀池《あみだいけ》 「こんにちは」 「まあ、こっちへ上がりいな」 「さいなら」 「これ、これ、気の悪いことしいな、ええ、こんにちはちゅうて入ってくるなり、お前、帰らんでもええがな」 「気の悪いことしなちゅうのは、こっちが言いとおまっせ」 「なにがや」 「そうでんがな、あんたね、人に気の悪いことしなやと言いなはるのやったら、あんたこそ気の悪いことしなはんな」 「何かい、わしなんぞしたか」 「なんぞしたか……。なんぞしたかやおまへんで、わたいが今日はちゅうて入ってきたら、あんた、そっちへごそごそとかくしなはったやろ、気の悪いことしなはんな。なんぞ旨いもん食うててんやろ」 「何を言うねんな、あのな、お前が入ってきて、わしがこっちへかた寄せたんは、新聞紙をかた寄せたんや、エエわしがなんぞ食うてたら、お前が入ってきたら、かくさんとお前に食えと出すがな」 「ほいで、なんでっかいな、あんた新聞読んではったんで」 「そうや」 「はあ、あんた、だいぶに人間が変わってるなあ」 「何……」 「いえ、人間が変わってなはるなあ」 「人間が変わってなはるなあて、何で新聞読んだら変わってるねん」 「そうでんがな、あんた新聞みたいなん読んで、何になります」 「何になりますて、お前世の中が明るうなるな」 「ほう、ほなら新聞ちゅうたら電灯会社みたいなもんでっか」 「そうやないがな、新聞を読んどいたら、ありとあらゆる世の中のことが分かるちゅうねん」 「アレしょうもない、ようそんなこと言うて、よろこんでなはるわ、わたいらね、新聞読まんかて世の中のことやったらなんでも知ってまんねん」 「ほう、えらいなあ、世の中のことなんでも知ってるか」 「ええ、なんでも知ってます。分からんことあったら、わたいに聞いとくれやす。どんなことでも知ってますさかい」 「ほう、相当物知りらしいな、よっしゃ、それやったら訊《たず》ねよ」 「ええ、なんなと聞きなはれ」 「お前たしか、大阪で生まれて、大阪で育ってんなあ」 「へえ、そうでっせ、大阪で産湯《うぶゆ》を使うて、ほいで大阪で育った人間だ」 「ほんならお前に訊ねるが、お前、大阪にな、和光寺という寺があるのを知ってるか」 「へえ、和光寺でっしゃろ」 「そうや」 「お寺でっしゃろ」 「そうや、お寺や、お前知ってるか」 「ええ、知ってまんがな、ええ、大阪の和光寺ちゅうお寺……」 「どこにあるねん」 「どこにあるて、あんた、大阪におまんねや」 「いや、大阪にあるのは、分かったあるねん、大阪のどこにあるというねん」 「大阪のどこにあるて、あんた、あんた、どこにあると思いなはる……」 「知らへんねやろ」 「知ってまんがな、どこにあるか、あんた先に言うてみなはれ」 「ようそんなこと言うわ、和光寺という寺はなあ、大阪の堀江にあるねん」 「堀江、ちょっと待っとくれやっしゃ、堀江に和光寺てな寺おましたかいなあ。アなるほど、そない言うたら思い出しました。おまおま、向こうの坊さんが若いんだ、へえ、若《わこ》う寺ちゅうて」 「何を言うてるねん、負け惜しみの強い男やで、知らんねやろ、知らんねやったら、知らんとはっきり言いなはれ。あのな、和光寺ちゅたらなあ、お前とわしと、この前、堀江の植木市に行ったことあるやろ」 「へえ植木市、へえ、行きました」 「あの時になあ、帰りしなにすまんだちゅうとこで、ちょっと一杯飲んだことがあるやろ」 「へえ、あのお寺のすまんだにあるとこで、へえ、すまんだ、へえ、飲みました。あのお寺はあれ、阿弥陀池でっせ、あれは和光寺と違いまっせ。阿弥陀池」 「そうやないねん、和光寺ちゅうのは、阿弥陀池のことや」 「へえ、阿弥陀池のことでっか、ハハハ、さよか、わたいまた和光寺ちゅうのんと阿弥陀池は別やと思うてたんだ、アさよか、ほいでそれがどないしたんだ」 「これから訊ねる。お前、何でも知ってるちゅうたなあ、その和光寺にな、三日前に賊が入ったん知ってるか」 「え、そんなこと知りまへんわ、あんた、なんで知ってなはんねん」 「何で知ってなはんねんて、わしは、新聞読むさかい知ってるねん」 「へえ、新聞てそんなことのせまんのん、えらいもんでんなあ、ほいで賊は何人で入ったんだ」 「たった一人」 「ほいで、どないしたんだ」 「この和光寺というお寺は尼寺や。ところがな、夜寝られんもんやさかい書物《しょもつ》を読んでなはったんやナ、ところがいきなり賊が入って来てな、賊がピストルを出して、あるだけの物をみな出せと、こうおっしゃったなあ」 「誰がおっしゃったん」 「賊がおっしゃったんや」 「また、えらい上品な賊でんねんなあ、賊が何ですかいな、あるだけの物を出せ、とこない言うたん」 「そうや」 「ほいで、出しましたか」 「違うねん、わしの言うのは、あるだけの物ちゅうのはナ、品物や金と違うねん」 「金や品物やおまへんの。あるだけの物ちゅうたら尼はん何を出しまんねん」 「つまり、尼はんの体を狙《ねろ》うたわけや」 「しょうもないことしよるなあ。尼はん持って帰ってどないしまんねん」 「そやないがな、あれしようと思うたんや」 「どれを」 「ほんまに何も知らんなあ、いやになってきたわ、お前にもの言うてるのん……。こんなことは大きな声で言えるこっちゃない、耳をかしなはれ耳を」 「耳、へえへえ、どうぞ、へえ……。ハハッハッハ、何をさらすねん、ド助平……」 「お前がド助平や、つまり尼はんの体をくれとこう言うたわけやナ、ところが尼はん、わたくしは仏門に仕える身、そういうわけにはいきません、上げるのやったら命を上げましょう。いきなりナ、着てなはった法衣をばバーッと肌脱ぎになりはって、さあ、撃つなら撃て、この心臓を撃てと、大きな乳房を向こうへバアーッと突き出しなはった。わたくしは、ただいまこそこうして仏門に仕えてますが、わたくしの夫は日露戦争で戦死をしました松本大尉と申します。夫は心臓を撃たれてこの世を去りました。わたくしも同じ撃たれるなら心臓を撃ってほしい。これを聞いた賊がなエ、矢庭にピストルをその場へ置いて、両手をつかえて謝った」 「何で」 「何でて、つまりなあ、その賊の言うのには、実はわたくしも日露戦争の砌《みぎり》、戦地へまいりまして松本大尉に従卒として仕えましたが、大尉の戦死遊ばした姿をまざまざと見ております。その未亡人とは知らず、まことに失礼をいたしました。慚愧《ざんき》に耐えません、わたくしは自分の命を断って、お詫びにかえます、と今度またピストルを取ってな、自分のこめかみへ当てて、今にも引き金を引こうとしたら尼さんが、お待ちなさい、そこまで悔悟《かいご》なさるのやったら、相当教養のあるお方、そのあんたがわたくしを狙うというのは、これはあんた一人の考えやなかろう。誰ぞが行けと言いましたか、とこう言いはった時に賊が、はじめて言うた。阿弥陀が行けと言いましたと。こらこないだ曽我廼家《そがのや》の芝居見て覚えたんやがな」 「誰がそんな話聞いてまんねん、誰が曽我廼家の芝居の話聞いてまんねん。よううまいことだましなはるわ」 「何もうまいことだましたわけやないねん、つまりお前が新聞を読めへんさかい、こういうだまし方をされるねん。そやさかい新聞を読みなはれというねん」 「新聞を読みなはれ、ちゅうたかてわたいは嫌いでんねん、新聞は。エエ、そんなもん新聞読まんかてなんでも知ってまんねん」 「まだ言うてるわ、お前そない言うけど大阪のことどころか、町内に起こった出来事でも知らんやろ」 「町内にできた出来事ってなんです」 「昨夜、田中屋へ賊が入ったん知ってるか」 「知りまへん、あんた何でも知ってるなあ。田中屋へ賊が入ったんでっか、何で知ってなはる」 「新聞にちゃあんと載ってあるがな」 「へえ、そら何時《なんじ》ごろ」 「夜中や」 「大勢ですか」 「たった一人、エエ、抜き身さげて入って来よった。親父さん、帳合《ちょうあ》いかなんか、帳場でしてたんや。エエ、いきなり親父さんに斬ってかかったんや、ところがなあ、むこうの親父さん、ちょっと腕が利くとみえるな。昔からよう言うやろ、生兵法《なまびょうほう》は大怪我のもと、ちゅうてな、いきなり斬ってきたやつを、パアーッと体《たい》をかわした。体をかわされたさかい、賊は仕方がない、空を突いてタッタッタッと行くやつを利き腕をば一つ、パンと叩いたら、刀をポンと下へ落としよった。ナ、そのまま放っといたらええのに、わざわざ盗人《ぬすっと》の胸倉つかまえて、バアーッと庭へ投げつけた。盗人、庭へ仰向けにひっくり返ったやつを、馬乗りになって縄を掛けようとしたら、盗人もなかなか抜かりがない。隠し持ってた匕首《あいくち》で下から親父さんの心臓をばグサーッ。親父さん、急所の痛手、そんままそこへゴロッ、盗人ムクムクッと起き上がって、せんでもええのに拾うてきた刀で親父さんの首をばズバッと落として、横手にあった糠箱《ぬかばこ》へポイとほうり込んで、シューッと逃げてしもうて、いまだに行き方が知れんちゅうねん。どや、お前こんな話聞いたか」 「いいえ聞きまへん」 「きかんはずや。ヌカにクビや」 「ま、また、それでしまいでっか。しかし、あんたうまいこと嘘つきなはるわ」 「嘘やないがな、新聞読んでたらこういう間違いはないちゅうねん」 「ようそんなこと言いなはるな。わたいはなんぼ言うても、新聞は読まんちゅうねん」 「ほんならなあ、一昨日の晩、八百屋へ……」 「もうよろしい、もうよろしい、また賊が入ったんでっしゃろ。もう帰りまっさ、さいなら……。阿呆らしなってきた。ようあない、うまいこと嘘吐きやがるで、しかし、あれだけうまいこと嘘吐かれたら、得心やなあ。エエ、誰ぞが行けと言いましたか、阿弥陀が行けと言いました。お前こんな話聞いたか、いいえ知りまへん、きかんはずや、ヌカにクビか、おもろいなあ、こんなもん聞きっぱなしやったら、けったくそ悪いなあ、そや、どこぞ二、三軒回って、これをポンポンとかまして、家へ帰って気持ようバアッと茶漬食うて寝たろ、どこへ行ったろかしらん、ア、又やんとこへ行ったろ、又やんいてるか」 「おう、誰やと思うたらアホやないか、まあ、まあ、こっちへ入り」 「エ、えらそうに言いな、お前、人にアホちゅうねやったら、お前は賢いのんか、それやったら訊ねるがな、昨夜、お前アノ、ソウあの、田中屋ちゅう米屋へ賊が入ったのん知ってるか」 「いいや、知らんで」 「そやろ、知らんやろ、ほなら話したるわ、なあ、田中屋へお前、賊がな、褌《ふんどし》もせんと入りよってんゾ」 「なんの話や、賊が褌せんと入ったて、何のこっちゃ」 「抜き身さげて入りよったんや」 「それがどないしてん」 「ほな、向こうの親父さんな、帳場で帳合いしとってん、ところがちょっと腕が利くねん、昔からよう言うやろ、ナマ、なまびょうたんは、青びょうたんのもと。ちがうわ、生麩《なまふ》は焼麩《やきふ》、違うわ……。よう言うがな、なまじ手の利くのん、生ビールは……違う、なんや言うわな」 「生兵法は大怪我のもとや」 「そう、そう、そう、そのもとやねん。ナ、バアッと盗人が親父さんにバアッと斬っていったらなあ、親父さんがバアッと、バアッとかわしよったんや」 「何を」 「いや、米屋の親父さんがな、盗人が斬ってきたさかい、バアッとかわしよったんや」 「そやさかい、何をかわしてんちゅうねん」 「ちょっとまってや。今考えるさかい。バアッと、アッ、お前、戎《えびす》さん知ってるか、戎さん知ってる……。戎さんが持ってるもんあるやろ」 「ああ、釣り竿か」 「そやそや、バアッと竿をかわし、違う、違う、違うわ、釣り竿の先についているもん」 「テグスか」 「そやそや、バアッとテグス……。違うがな、違うがな。テグスの先についてるもんや」 「餌か」 「餌と違うがな、その先についてるもん」 「ああ、戎さんの釣り竿の先についているもんか、鯛《たい》か」 「そやそや、バアッとタイかわしよった」 「ようそんなアホなこと言うてるな、ほいでどないしてん」 「ほんなら、お前、盗人な、クウ、クウ、空を切りよったんや、ホナ親父さん、利き腕をパンと叩いて、ホナ刀を下へ落としよってん、ホイデ、おっさんそのまま放っといたらいいのにナ、バアッといきなり盗人の胸倉つかまえてな、バアンと庭へぶつけよってん、ホナ盗人、庭へ仰向けに寝ころんでなあ、枕もせんとナ、そうら、気持よさそうにしとんねん。それ見て、アノ田中屋の親父さんな、ムラムラっとしよってんやろなあ、いきなり盗人に夜這いしよったんや」 「なんの話や分からんなあ、なんで夜這いするねん」 「違うわ、違うわ。盗人の上へ馬乗りになりよったんや、アアそうや、そうや、アア、まあ安心せえ」 「なにを言うてるねん。誰が心配するかい」 「ほいでお前、いきなり縄を掛けようとしたら、盗人もなかなか抜かりがないがナ、隠し持った匕首で下から親父さんの心臓をグサッといきよってん、急所の痛手、親父さんゴロッと倒れてな、ほいでそのまま放っときゃええのに、いきなり刀拾うてな、親父さんの首をばズバッと斬ってナ、ほいで糠箱へポイと放りこんで、シューッと逃げてしもうて、いまだに行き方が知れんちゅうねん。どや、お前、こんな話聞いたか」 「オウ、聞いた」 「いや、違うがな、ちょっと待ちや、オイ、聞いたらいかんやないか」 「聞いたらいかんて、お前、差し向かいで話してたら、聞かなしゃあないやないか」 「ちょ、ちょっともう一ぺん言うさかいな、何で聞くねん、ほんまに。なるべく聞かんようにしてくれよ、あのな、刀でズバッと首斬って、ほいで横手にあった糠箱へ、この首をばバアッと放りこんだんや、シューッと逃げてしもて、いまだに行き方が知れんちゅうねん、どや聞いたか」 「ああ聞いたちゅうねん」 「誰に聞いてんな」 「お前に聞いたがな」 「わいそんなこと喋ったかあ、聞かれたらもうしゃあない、さいなら」 「何しに来よったんや」 「なんでこないなるのや……、向こうで聞かんちゅうさかい、ヌカにクビやとこういけるねん、聞かれたら何にもなれへん、けったくそ悪い、町内変えたろ……。おい竹やんいてるか」 「オお前か、今忙しいねん、また後できて」 「忙しいとこえらい邪魔するけど、えらいこっちゃなあ」 「何がや」 「何がやて、えらいこっちゃがな、あの田中屋、東の辻の角の田中屋」 「田中屋て何屋や」 「米屋や」 「うちの東の辻に米屋ないで」 「米屋ないか、ホナあの西の辻の角」 「ちがう、米屋はないちゅうねん。この町内に」 「どこぞ米屋ないか」 「米屋さがしてるのんかいな。それやったら、裏町に伊勢屋ちゅう米屋があるわ」 「アそや、伊勢屋、伊勢屋、昨夜、賊が入ったんや」 「ほんまかい」 「ああ、えらいこっちゃでえ、なんしなあ、賊が抜き身で入りよってん、フン、ほいで親父さんに斬ってかかりよってん、親父さんバアッと体をかわしてなあ、ほいで盗人の利き腕をパンと叩いてナ、刀を落としといて、ホイデ盗人をポイと庭へ投げつけて上から馬乗りになって、縄を掛けようとしたら、盗人が下から匕首で親父さんの心臓をばグサッ、親父さん、急所の痛手、その場へ倒れよった。ホナ盗人な、刀拾うて親父さんの首をズバッと斬って、エエ、横手にあった糠箱にポイと放り込んで、ホイデ、シューッと逃げてしもうて、いまだに行き方が知れんちゅうねん、どや、お前こんな話聞いたか」 「お前、えろう一生懸命に言うてるが、誰や、その斬られたちゅうのん」 「伊勢屋の親父さんや」 「向こうの親父さん、三年前に死んだでえ」 「ア、 あの、向こう、息子いてたなあ」 「アア一人だけいてるわ」 「そやろ、その息子や」 「嘘つけ、まだ今年五つや」 「あの、ちょうど年頃の男手ないのんか」 「それやったら、熊ちゅう若いのん」 「ああ熊、熊の首をズバッと斬ってな、ほいで横手にあった糠箱へポイと放り込んで、シューッと逃げてしもうて、いまだに行き方が知れんちゅうねん。どや、お前こんな話聞いたか」 「よう知らしてくれた、おおきに、嬶《かかあ》、えらいこっちゃがな、われの甥《おい》の熊が賊に……。いいええな、首を斬られて、えらいことがでけたあるねや、われ、すぐに国許へ電報打ったれ、俺これから行ってくるさかい、オイちょっと留守番たのむで」 「オイ、オイ、ちょっと待ち、ちょっと待ち、どこへ行くねん」 「どこへ行くて、お前、熊がそんな、えらい目に遭うとるねがな、エエ、うちの嬶の甥やがな、ええ、これからすぐに通夜に行くねん」 「いや、ちょっと、ちょっと、ちょっとお帰り、今のは全部ウソ……」 「ようはっきり吐《ぬ》かしたなあ、なんのために、そんな嘘つくねん、エエ、ハハン、こら、おおかた、お前一人の考えやないなあ、誰ぞが行けと言うたな」 「うん阿弥陀がいけというたんや」 [#改ページ] 鮑貝《あわびがい》 「今時分までどこをキョロキョロ遊び歩いてるね、情けない人やなア、御飯を食べたら家を出てしまう、まるで鳩みたいな人や、餌が欲しならんと戻ってきやへん、どこへ行ってたんや」 「万さんに逢《お》うたら、お城の堀から乙姫《おとひめ》さんが出はるというさかいに見に行ったんや、けどちょっとも出て来やへん、今日は休みかいなと思うて戻ろうと思うていると藤助《とおすけ》はんに逢うたんや、そんなら天神橋へ行っといで鯨が顔を上げているというたよってに、また走って見に行ったけれどいやへん」 「当たりまえや、川に鯨がいるかいな」 「それでもこのあいだ乾物屋の表通ったら、かわ鯨と書いてあった」 「あれは皮鯨やないかいな、弄物《おもちゃ》にしられてるね、情けない人やな、お前はんみたいな頼りない人と一生添うていかんならんかと思うと、情けのうなってくるわ」 「なんでもかまへん、飯《まま》を食べさせて」 「御飯を食べさせてというても、御飯があらへん」 「炊《た》かんかいな」 「炊くお米がどこにあるいな」 「オホッ……、腹はペコペコやわ、飯はない、米はないわとするとどうなりますので」 「精出して働きなはれ、銭さえ儲けてやったら、どんな物でも食べさしてあげる」 「嬶《かか》、どうぞ頼む、明日から心を入れ替えて働くよって、今日だけ飯を食べさして」 「情けない人やな、そんなら隣の源さん所へ行って、妾《わたし》がいうてるというてちょっと三十銭ほど借っといなはれ」 「あかん、私《わし》がこのあいだ三銭借りに行ったら、貸せんとボロクソにいいやがった」 「妾がいうてるというたら貸してくれてや、そういうて行っといなはれ」 「ヘイ……源さん、嬶がいうてるね、ちょっと銭三十銭貸してんか」 「お咲さんが三十銭貸せというのか、三十銭でええか、五十銭貸そか」 「コラ、源助」 「なんじゃ、眼をむいて」 「私が三銭借りに来たら、貸せんとボロクソにいうておいて、嬶やったら五十銭貸そか、ハハア、こらちと怪しいぞ」 「そら何をいうね、お前はズボラ者やがお前とこのお咲さんは、女でこそあれ義理の堅い物事に心得のある人やよって貸そというのじゃ、ゴテゴテということはない、これを持って帰《い》に」 「ヘエ……嬶、借って来た」 「借って来てやったか、それを持って横町の魚屋へ行って、なんぞこれと思うような、お頭《かしら》のついたものを見はかろうて買《こ》うといなはれ」 「やっぱり女やわい、偉そうにいうてもあかん、腹がペコペコに空いているのに魚を買うて食うて腹が膨《ふく》れますかい」 「家で食べるのやない、横町のお家主さんの若旦那がお嫁御を貰うてやったさかい、お祝いを持って行ってみなはれ。先方さんは張り手〔派手なひと〕や、御祝儀《おため》の五十銭くらい包んでくれてや、そしたら隣へ三十銭返して二十銭でお米と漬物でも買うたら、お前はんと妾と御飯が食べられるやないか」 「偉い、偉い、かほどの知恵がありながら、なぜ、市会議員に選挙せなんだ」 「何をいうてやね、早う買うといで」 「ヘイヘイ……魚屋はん、御免なはれや」 「おいでやす」 「そこにある金魚の親方はなんぼで」 「金魚の親方……そんな物おまへんで」 「そこにおますが、赤い魚」 「これは鯛《たい》で」 「それはなんぼです」 「一円八十銭だす」 「オオ高、三十銭に負かりまへんか」 「鯛が三十銭でおますかいな」 「そんならこっちにある鰻《うなぎ》の親方は」 「なんでも親方だんな、それは鱧《はも》だす」 「それなんぼだす」 「一円二十銭で」 「オオ高、三十銭に負かりまへんか」 「あんな無茶ばっかりいいなはる」 「こっちにある虱《しらみ》の親方は」 「それは烏賊《いか》です」 「これはなんぼだす」 「二十五銭だす」 「オオ高、三十銭に負かりまへんか」 「二十五銭の物を三十銭に値切る人がおますかいな」 「なんでも負けてもらわんと、どむならん、腹がペコペコで家へ戻って来たら、飯はないわ、米がない、仕方がないよってに家主へお祝いを持って行って祝儀を貰うて嬶と私が飯を食べようというので、人間二人助けると思うてなんでも結構だすさかい負けとくれやす」 「面白いお方や、家のアラを皆いうてしまいなはった、負けたげまひょう、そこに生貝〔あわび〕が三杯おます。それは十二銭と十五銭に売ってたんですがもう三杯でしまいや、その三倍を三十銭に負けたげます」 「さよか、大きにすみません、その代わり祝儀をどっさり貰うたら礼をしますさ」 「ゴテゴテ言わんと早う持って行きなはれ」 「大きに、さよなら……嬶、買うて来た、生貝三杯で三十銭や、安いやろ」 「マアマア安かったこと」 「魚屋で段取りをいうたんや、腹がペコペコに空いているとこから、祝いを持って行って祝儀を貰うて米を買うて飯を食うことまで皆いうてン」 「家のアラを皆いうたんか、阿呆《あほ》やな、サアあんじょう包んだげるさかい、これを持って行っといで。口上を覚えていきなはれや。おかしなことをいうてやったら笑われますで。行ったら手をついて、今日は結構なお天気様でござります、承《うけたまわ》りますればお宅の若旦那様にお嫁御をお貰い遊ばしたそうでございます。これは誠にお粗末でござりますけれど、長屋のつなぎの外《ほか》でござります、お眼にかけます。これだけ忘れんようにいうのやで。つなぎの外というてやないと、御祝儀を包んでや都合があるよって、早う行っといなはれ」 「ホー、ゴチャゴチャいわんならんねんな、腹がペコペコに空いてるのや、もっと手数のかからんようにいえんか、そんなことよういわんが」 「モウ一ぺんいうたげる、今日は結構なお天気様でござります、承りますればお宅の若旦那様にお嫁御をお貰い遊ばしたそうでござります、これは長屋のつなぎの外でござります。お眼にかけます」 「よしッ、解った。段取りようやる、米の袋を貸して」 「米の袋をどうしてやの」 「戻りに米を買うて来るよって湯を沸かしといてんか、釜《かま》の中へ米を放り込んで、出来たらガサガサとかきこむのや。腹がペコペコや」 「そないにお腹の空くまで遊んでこいでもええのに、しようのない人やな」 「チャンと仕度をしといてや、頼むで……アアこれを持って行ったら飯が食えると思うたら、気がしっかりして来た……ご免やす」 「オオ、誰かと思うたら喜イさんか」 「承りますれば……今日は結構なお天気様で」 「けったいな挨拶やな、ハイ結構なお日和《ひより》で」 「お宅の若旦那様におよもご、およもご……およも……マア早いところがお宅の若旦那が嬶を貰うたそうで……」 「ハイ、倅《せがれ》に嫁を貰いまして」 「これは長屋の引っ張りの外で」 「引っ張り、引っ張りということがあるものか、つなぎじゃろ」 「ヘイ、つないだら引っ張ります」 「縄でもつないだようにいうてなはる」 「これをお目玉へブラ下げます」 「お目玉へブラ下げる、それもお眼にかけるじゃろ」 「かけたらブラ下がります。これをいうておかんと御祝儀の都合がおますよって、確かにこれだけ申し上げときます。どうぞ御祝儀をよろしゅうお願いいたします」 「えらい気の毒じゃな、こんな心配をして下さらんでもええのに」 「ヘイ、心配して下さらんつもりだしたが、家へ戻ったら、して下さらんとどむならんようになったんで。腹はペコペコに空いてるのに飯を食うにも米はなし、隣の源さん所で三十銭借って段取りをいうて負けて貰うて来たんだす、御祝儀をどうぞよろしゅうお頼み申します」 「あればっかりいうてる、面白い男や、いや沢山《たくさん》包みましょう、えらい気の毒やな……喜イさん、こりゃ生貝やないか」 「ヘイ生貝で、これ三杯三十銭に負けてもろうたんで」 「これはお前が途中ではかろうて持って来てやったんか、それともお前とこのお咲さんが持って行けというてやったのか」 「家の嬶が持って行けというたんで」 「それでは折角やがよう貰いまへん、お前が途中ではかろうて持って来たんやったら貰うておくが。それというのはお前は町内で評判の阿呆や」 「そうそう、皆そないにいうてくれはります」 「そんなことを自慢すな。お前とこのお咲さんは女でこそあれ物事に心得のある人じゃ、祝いに下さる物にことかえて生貝とは何事じゃ、生貝は鮑の貝の片思いというやないか。私のところは縁喜《えんぎ》を祝うて嫁を貰いました。片思いは不縁のもと、両思いじゃなければどむならん、持って帰っとくれ」 「腹がペコペコで」 「お前の腹のペコペコを知ったかい」 「御祝儀を」 「祝いも貰わんのに祝儀を入れる馬鹿があるか、早う持って帰《い》んでくれ、縁喜の悪い」 「そんな無茶をしたらどむならん、それみい、放《ほう》ったさかい三杯の生貝が四杯になったがな」 「あんじょう見なはれ、一ツは猫の碗《わん》じゃ」 「腹が空いてるよってに眼も見えん」 「早う持って帰にくされ、愚図愚図《ぐずぐず》しくさったら煮え湯を浴びせるぞ」 「ウワワワワ、帰にます帰にます……腹がドカ減りや、オホホホホ」 「オイ喜イ公、泣いてるな、どうした」 「ウム万さんか、さっぱりわやや、飯が食えん」 「ホウ、どこぞ悪いのか」 「達者で飯が食えん」 「どうしたんや」 「今朝からお城の堀に乙姫さんが出ると聞いて見に行ったり、天神橋へ鯨を見に行って腹が空《から》や、家へ帰んだら飯を食うにも米がない、米を買うにも銭がない、家の奴の知恵で隣の源さんに銭三十銭借って、家主さんの若旦那がお嫁を貰いはった、先方は張り手やさかい五十銭御祝儀が入る、そうしたら源さんに三十銭返して、残った二十銭で米と漬物を買うてと、いうので持って行ったんやがあかん。お前は阿呆や、嫁はんは賢い、鮑の貝の片思い、双方そろうていんといかんと突き返しよった。この通り米を入れる袋を持ってるね。嬶は釜の下|焚《た》きつけて待っとおる、アー飯が食えん」 「可哀想に、たいがいわかってる、お前とこのお咲さんの知恵で家主へ麦飯で鯉釣りに遣《や》ったんやな」 「違う、生貝で五十銭釣りに行ったんや」 「それを麦飯で鯉というのや。そら先方が知りよらん。先方は鮑の貝の片思い、両思いやないと不縁のもととこういうたんやろ」 「お前立ち聞きしてたな」 「阿呆いえ、そら先方がものを知らんのや、モウ一ぺん持って行き」 「今度行ったら煮え湯浴びせられる」 「気遣《きづか》いあらへん、俺が尻を利《き》いたる、ビクビクしてたらあかん、ポンポンいうたれ、鉢巻きでもして尻からげをして行け」 「えらいことして行くねんな」 「ゴテゴテなしに取っときなんせと食らわせ、かまへん、先方は品物でも替えて来たのかしらんと思うて、開けて見よる。これは今の生貝やないか、私とこの家になんぞ恨みでもあってこんな物を持って来てやったかといいよる、そこで遠慮すな、己《おの》れとこのド息子にド嬶を貰いさらしたやろと」 「えらい穢《きたの》ういうねんな」 「ハイ嫁を貰いました。祝いを貰いさらすやろ、先方は交際《つきあい》が広いよってに仰山《ぎょうさん》祝いが来るに違いない、祝いを貰うたら祝いについて来る熨斗《のし》を剥《めく》って返すかといえ。滅多に剥って返すといわん、貰うとくといいよったら、熨斗の根本《こんぽん》を知ってるかいというたれ」 〔熨斗《のし》は今はすべて紙でつくる。しかし元は色紙を長細い六角形に折ったなかに、のしあわびを入れた。アワビを薄く剥いで伸ばしてから干したものが、のしあわび。「永続する」という意から進物に添えた〕 「熨斗のポンポン」 「根本や」 「ポンポン」 「難儀やな、根本」 「ポンポンか」 「困るな、熨斗のもとを知ってるかというねん、知らんというたら尻をクルクルと捲《まく》って座敷へ飛び上がったれ。そこで熨斗の根本は志州島羽浦志摩浦《ししゅうとばうらしまうら》で海女《あま》が漁業《りょう》する、海女というたら絵に描いたあるように綺麗なものやと思うているやろ、あれは絵空事でほんまの海女というものは潮風に吹かれてお色が真っ黒け、歌にまで唱うてあるぐらいで色の黒い穢《きたな》いものや。解ってるか、女というものは月に七日身が汚れる、月経というものがある」 「月経てなんや」 「嬶を持っていて月経を知らんのか」 「まだ食うたことない」 「食うものやない、月に七日ずつ身が汚れる、身の汚れた者は海へ入れん、そこで採って来た生貝を手桶に入れて陸で番をしている、これを手桶番という。手桶番の因縁を説いて聞かしたれ。それは後家で不可《いか》ず独身《やもめ》で不可《いか》ん、仲のよい夫婦が蒸し上げた貝を筵《むしろ》の上に並べて、夫婦が一晩その筵の上で寝んことには目出度《めでと》う熨斗にはならんわい。五十銭なら安い、一両包めというたれ、熨斗の因縁をいうたったら感心して包みよる」 「もし先方が包みよらなんだからお前が弁償《まど》うか」 「そんなことが出来るかい。まだ先方が尋ねよるに違いない。熨斗は幾手もある、蕨熨斗《わらびのし》はと尋ねたら、柿でも桃でも皮の剥きかけを見い、みな蕨の形になってるやろ、蕨熨斗は生貝の剥きかけやとこういえ。襷《たすき》熨斗はといいよったら、生貝の紐《ひも》というたれ。杖突《つえつき》熨斗はといいよったら、生貝を引っくり返して見なはれ、裏は杖突熨斗の形になってあるわいと、そういうたら先方は感心して一両包みよる、解ったか」 「よしッ」 「しっかりやらんと不可《あか》んで、ポンポンいうて行けよ」 「よっしゃ解ってる、ようも己れ教えさらしたな」 「怒ってるな、ここでいうのやあらへん、先方へ行っていうのや」 「ナア、俺は阿呆でも賢い友達がチャンと教えてくれるわい……元気をつけて入ったろ……御免なはれや」 「なんじゃ、えらい勢いじゃな」 「ヘヘ、ゴテゴテなしに取っときなんせテ奴じゃ」 「えらい勢いやな、わざわざ品物でも替えて来てくれたんか、えらい気の毒な、そないにしてくれんでもええのに」 「ゴテゴテなしに取っときなんせ」 「コレ、これは今の生貝やないか。さてはお前私とこになんぞ恨みでもあってこんな物を持って来たんやな」 「ここじゃ、急《せ》くな」 「誰も急いてはせんわい」 「己れ所《ところ》のド息子にド嬶貰いさらしたやないか」 「えらい汚いいいようやな、それより汚ういえんな、ハイ嫁を取りました」 「取ったか、よう取った」 「猫が鼠を捕ったようにいうてる」 「他所《よそ》から祝いを貰いさらすやろ」 「そのもののいいようはどうじゃ、そら私とこは交際《つきあい》が広いので、おかげであっちこっちから沢山下さるわい」 「そこじゃ、急くな」 「ちょっとも急きはせんわい」 「その祝い物について来る熨斗を剥《めく》って返すか」 「そら妙なことを聞きなさる、目出度い熨斗じゃ、いただいておきますわい」 「おいでたな」 「何がおいでた」 「わしがお前はんとこへおいでたんで、熨斗のポンポンを知っているかい、ポンポンを」 「ポンポンてなんじゃ」 「その熨斗のポンポン、熨斗のもとを知ってるかというのじゃ」 「えらいことをいいよる、そらわしは知らん」 「知らん、おいでた、ご免なはれや……ドッコイショ」 「えらい勢いで上がったな、下駄履いて上がったら泥だらけや、そんなとこで尻を捲って何をしてるね」 「熨斗のポンポンというたらな、志州島羽浦志摩浦で海女が漁業《りょう》をしますわい、海女というたら絵に描いたあるように綺麗なものやと思うやろ、あれは絵空事じゃ、ほんまの海女というたら、潮風に吹かれてお色は真っ黒け……」 「何をいうてんね」 「色の黒い汚いものです、女というのは月経というもんがおますで」 「そんなことは誰でも知ってる」 「わしは知らん、いま教えて貰うたとこや」 「阿呆やな」 「阿呆、阿呆というてもらいますまい、海女が生貝を取って蒸し上がったやつを筵の上へ並べて、後家でいかず、独身《やもめ》でいかん、仲のええ夫婦がその筵の上で一晩寝るのや」 「何をいうてるね」 「アア暑い、お茶を一杯汲んでんか、筵の上で夫婦が一晩寝んことには目出度う熨斗にはならん生貝じゃ。そのポンポンをなぜ取らん、五十銭なら安い、一両包め」 「ハハアなるほど、よう解った。最前から熨斗の意味をいうてたんか、これは感心、そうするとお前に尋ねんならん、熨斗は幾手もある」 「どんなんなとお尋ねやす、チャンとこっちにはいろいろ柄の変わったのが仕入れてやす」 「柄の変わった、なんじゃ浴衣地《ゆかたじ》でも買いに来たようにいうてる、それでは尋ねるが蕨《わらび》熨斗は」 「おいでた、生貝の剥きかけだす、柿でも桃でも剥きかけは蕨の形になりますやろ」 「なるほど、感心」 「サアなんなとお尋ね」 「襷《たすき》熨斗は」 「生貝の紐でござい」 「こら感心、杖突《つえつき》熨斗は」 「生貝をひっくり返して見なはれ、裏は杖突きの形になってます、もうしまい」 「しまい、まだあるわい」 「まだおますか、こら付け落ちや、どんな奴ですえ」 「片仮名でチョイチョイチョイチョイとした奴」 「片仮名でチョイチョイチョイチョイ、そらなんでやす」 「なんじゃ」 「その……なんでやすがな」 「なんじゃないな、先のはトントン拍子に返答が出来たのに、今度は返事がしにくいな」 「それは、その生貝を釜に入れて蒸す時に生貝が釜の中でブツブツと呟《ぼや》いてるね」 「ハハア、生貝が釜の中で呟《ぼや》くか」 「そら生貝やさかい呟きます、他の貝なら皆口を開きますわい」 [#改ページ] 市助酒《いちすけざけ》  以前は冬になりますると、町内に下役と申して、時刻の太鼓を打って町内をまわりましたもので、毎夜初夜を過ぎますると、その下役が家別に、「火の用心を大切におたのみ申します」というてまわったもので。  しかしこの家別にまわるのは、船場《せんば》へ行きましてもごく上等の町内に限りましたものでございます。家別にまわるのは、たいてい当今の十一時頃までで、後は、「火の用心、火の用心」というて、ただ表をいい流しに歩いたものでございます。また夜長の時分でござりますると、ご商法家などは、帳合《ちょうあい》の読み合わせなど、夜でことの足ることは、たいていみな日短かでござりますさかい、夜分にまわします。  こういう船場のようなお金持ちばかりのお住居のところに、ありそうものうてあるのは質屋でござります。してみると船場とはいいながら、やはり裏長屋もありました。また中には、大きい商法をしてござっても、内実さにあらずの家もあるものと見えます。 「丁稚《でっち》、銭《ぜに》の方はすてとけ、銀目ばかりを、先に読め」 「へ……百六十|匁《もんめ》、三百二十五匁、八十匁、五十五匁、一貫五百目……」 「一貫五百目って何じゃ、品物は」 「女の小袖一枚」 「それが一貫五百目か」 「イエ一貫五百文で」 「しっかり読め、居眠りばかりしくさって」 「火の用心を大切にお頼み申します」 「アア、また町内の市助め、酔うてくさる……ハイ、ご苦労ご苦労……サッ、後読め」 「エエ三百三十匁、二十匁……」 「火の用心を大切にお頼み申します」 「一ぺんいうたらわかっているわい、何べんも何べんもくそやかましい、ドひつこい……お前は居眠らんとしっかり読め」 「ヘエ……六十五匁、三十五……」 「エヘン、番頭どん、今お前さん大きな声を出していなさったが、何じゃったいな」 「ヘエ、ツイ常吉が、何じゃろうと居眠りをいたします、行燈《あんどん》の灯《ひ》を見たらすぐ居眠りますので、それで叱っておりますので、ツイ大きな声を出して貴方《あん》さんのお耳へ入って、大きに恐れ入ります」 「イエ、常吉が居眠ったので叱っているのばかりではなかった、何べんも何べんもくそやかましいとかいうていなさった、あれは誰にいうたのじゃ」 「ヘエ……」 「イヤ、だれにいうていなさったのじゃ、エエ——わしが今聞いておれば市助が火元廻りに来て、それが二度いうたさかいというて、お前さんはあのような荒くれない言葉つかいなさったのじゃ、お前がご苦労、ご苦労というたのも、私に聞こえていた、けれども市助もどうやら酒が廻っていた様子じゃよって、あんじょう聞き取れなかったのじゃろが、それを、くそやかましいの、ドひつこいのと、なんていう荒くれない物言いをなさるのじゃ、これが船場のどこそこの店を預かっている番頭といわれる仁《ひと》の言葉か、あの火元廻りは市助が己れ勝手に、酔うたまぎれに、すき好んでいうて歩いているのじゃアないぜ、寒い時分になると火事が多いよって、お上から、気をつけるようとお年寄りへお達しになって、それでお年寄りの旦那がいちいち廻って下されたら、こっちは店に坐っていて、ご苦労ご苦労というておられるか、入口を開けて、ご苦労様でござりますと、いちいち丁寧《ていねい》にご挨拶申さねばならぬ、それゆえ会所へお年寄りからいいつけ、会所は下役にいいつける、してみれば、市助がいうておるのかと思えば会所がいうのじゃ、会所の言葉かと思えばお年寄りのお言葉じゃ、そのお年寄りがうけたまわったのは奉行所からのお達し、その根本はというたらこういうものじゃ。それをば、ドひつこいのくそやかましいの何てことをいうのじゃ。  コレ、ついでじゃよって私はいいまするが、チョイチョイ細かい質《しち》を持って来やしゃる仁《ひと》がある、ツイこの間も、わしは内方で聞いていただけじゃよって、どれくらい値打ちのあるものや知らんけれども、五百文貸してくれえと先方がいうているのに、イヤ、このようなもので五百文も貸せまするものか、三百文より貸せません、それならどうぞ四百文貸しておくんなされ、四百文も何も三百文よりいけません、それで気にいらにゃア持って帰りなされと、そのどうも情けない言い方というものは、相手が貧乏してござる仁じゃからというて、何で見下げなさる。当家の商売は何じゃ。金銭をたくさん持っている人はけっしてお得意じゃアないわい、なるほど値打ちのないものであったじゃろけれども、先方さんは僅かな銭に困っておるのじゃろう。そうなら三百五十文貸しましょうと愛想でもいやアいいにと私は思うていましたけれども、マアとうとう、先方が根負けして、そんなら三百文でよろしいと、どうぞ札を書いておくなされというたら、三百文やそこらの質の札を書けというのが腹が立つのか、返事もせず、その銭もあんじょう手に渡すことか、結界《けっかい》の内方から放り出して、札を向こうへ吹き散らして、まるでお客様を無心者同様に、お前さん扱うていなさった。この札などはな、先方は黙っていても、こっちから書いて渡さにゃならぬ。大きい質は間違いの出来た時は、かえって事がすみやすい、細かい質は間違うたりなかなか面倒なものじゃ、その辺のところがわからぬお前でもあるまいと私は思う、するとその仁は引き返して受け出しに来るのは、何かかわったことがあるのではないかしらんと、私は思うていました。やはりかわったことがあったわい。お前さんその品物だけ渡したら、まだ一品《ひとしな》足りませんと先方がいわれる、お前さん持って来たのはこれだけだ、何が足らん、そんなことに間違いがあるものかというて、ひどう立派にいうていやしゃった。ところが、この札をば見ておくんなされ、もう一品足りませんぜ、女の布子一枚、ただし虱《しらみ》一合付きと、肩口にお前さんしょうもないてんご書きしなさった。サアその一合のうち一匹欠けても承知せぬよってといわれた時は、お前さん詰まってしもうたやろう。幸いそのとき町内の髪結人が来合わせて、マアともかくも今日のところは帰って下され、私がいずれ話に出るさかいというて、マアどうなりこうなりその場は帰りなした。後で聞いてみりゃア、髪結人どんがあっちこっちと何べんもして、何ぼかお金を出して、マアすましてもろうたと聞いておるのじゃ。またこの常吉は、行燈の灯《ひ》を見ると居眠りをするというのじゃが、此奴《こいつ》もようない。けれどもお前も、居眠らずにここまで大きゅうなって来たものじゃアない、行燈の灯どころではない、茶碗と箸を持って居眠っていたわい。頭の白禿《しらこ》がないようになったと思やア、だんだん増長して何と心得ておるのじゃ」 「まことに私が重々《じゅうじゅう》悪うござりました、この後は心得ますゆえ、どうぞこれまでのところはお腹も立ちましょうけれども、どうか御堪忍下されまするよう」 「ムム、私が悪かった、この後は心得る、ヤッよろしい、その一言で私は何にもいいません。自分のこれまでのことが悪かったというとこへ気がついてくれたら、私は何もいいません、お前さんは間に合う仁じゃよってに、私はこの商売を任せてあるのじゃ、ついては質屋の亭主が出るというと、何じゃ置く方に気がつかえて具合の悪いものじゃそうな、よってお前さんに任せて置くというて、間に合わぬ仁ならそういうわけには行かぬ、間に合うのじゃ。そやよって万事に気をつけて、マア不都合のないようにしてもらわにゃ何もならぬ、まさか町内の下役にお前さんが悪かったというて謝るわけにも行くまいけれども、明日でも表を通りよったら、呼び込んで、そこはどうなとあんじょういうておいてやりなされ。ナッ、禍《わざわい》は下からということがあるさかい、よそへ行って、己れの悪いことを思わず、お前のことを悪ういうて歩いておるてなことが、ツイ耳へでも入りゃ、あまり面白いものじゃアないさかい、そこはほどよう、ついででよろしい、表を通ったら呼び込んでそういいなさい……コレ常吉、お前は居眠るのじゃないぞ」 「イエ、別に私は……」 「コレ、やかましい、ヘエというたらいいのじゃ」 「モウしかし時刻も晩《おそ》いさかい寝やしゃれ」 「おおきにどうもありがとうござります」  その晩は寝《やす》みになりました。翌日になると、表を市助が通りやせんかと、番頭は気をつけておりました。市助の方も、酔うてはいたけれども、ここの家で昨晩怒られたということは薄ら覚えていますゆえ、表を走って通りました。 「コレ丁稚、市助があっちへ行った、ちょっと呼べ」 「ヘエ……市助どん、市助どん……聞こえぬ態《ふり》してあっちへ行きます」 「コリャ、コレ市助どん、ちょっと、ちょっと」 「へエ……」 「ちょっとこっちへはいっておくれ」 「へエ、どうも夜前《やぜん》はまことに……。ちょっと和泉屋《いずみや》さんの方で、こんなのがあるよって、これ持って行って飲めとおっしゃって下すったんで、少しその飲《た》べ酔いましたので、どうもまことに相済まぬことでござりました」 「マアこっちへはいりなされ、お前さんがなにも昨晩酔うていたさかい、それを私があれこれ不足をいおうというので呼び込んだのじゃない、昨晩のことは私からお前さんに断りをいわにゃならぬ。ツイ丁稚が居眠るものじゃさかい、それを叱っておる途端であったのじゃ、かっとして荒い言葉を使うてな、どうぞ気にせんとおいてくれ」 「イイエ、どうつかまつりまして、気にするのどうのッて、私が悪うござりました。エエご用事はどこぞへお使いにでも参じますのでござりますか」 「イイヤ、そうじゃアない、マア店ではお客さんでもあるといかんさかい、こっちへはいりなさい」 「エイ……」 「マアどうぞ掛けておくれ……そんなとこに踞《つくば》っていては腰が痛い……イイエ大事ない、掛けなされ」  この以前の町内の下役などというものは、許してもらわねば、なかなか敷居から内方へははいらなかったくらいなものです。しきりに遠慮をしておりましたが、番頭がたっての勧めに、 「それでは御免蒙りまするでござります」 「お前さんを呼び込んだのはな、何でもないことじゃ、今日はわしのな、母の祥月命日《しょうつきめいにち》にあたるのじゃ」 「ヘエーそれはどうも、してお寺の方へでも……」 「イヤ、そうじゃアないのじゃ、ところでそのマア乞食に報謝でもしたいのじゃが、どうも奉公をしている身の上で、主人の家で報謝するのもはなはださしつかえる、どうしたらよいかしらんと思うておる、ところがお前さんは、聞きゃアひどい酒が好きじゃそうな」 「ヘイ、ツイ好きなので、御酒が好きでそれがためにチョイチョイと失策《しくじり》がござりまして会所の旦那に不断叱られておりますけれども、マアその自分で酔うほどはなかなか飲むことは出来ません、いつも町内の旦那様方の燗冷《かんざ》がどうやとか何とかいうのをお貰い申した時やら、そういう時はツイよけい飲み過ごしますんで、それで会所の方でも、ツイ饗《よ》ばれた先が饗ばれた先ですさかい、これだけは堪忍してもろうております」 「そこでな、ひどい失礼な話じゃが、お前さんのような仁に酒を飲んで歓《よろこ》んでもろうたら、幾分か仏の供養になるかしらんと思う、それでお前さんひと口飲んでもらいたい、どうじゃろ」 「さようでござりますか、夜前の一件でひどうお叱りを受けるかと思うて案じておりました、それは結構でござります、頂戴いたしますでござります」 「丁稚、ちょっと調《ととの》えたのを持って来い」 「エエ御当家さんでお饗ばれいたしますると恐れいります、厚顔《あつかま》しゅうござりますけれども器《うつわ》をお借り申して頂戴して帰ります」 「イヤイヤ、そうじゃない、どうぞここで飲んで行っておくれ、遠慮も何もいりゃアせん、私の方からたのんで飲んでもらうのじゃ、仏のために……よし、そこに置いとけ……サッ、どうぞ飲んでおくれ」 「これはどうもおおきに、お言葉にしたがいまして頂戴いたします……常吉どん、おおきにはばかりさんでござります……ヘエー、こりゃアどうもえらいご馳走で」 「イヤ、何にもないので、晩菜《ばんざい》とな、こっちの方は、これは旦那様が至ってお好きなので、それを少し色取りに、しかしお前さん好きか嫌いかそれはわからぬが」 「ヘエーあちゃら、こりゃア私しゃア至って好物でござります」 「どうじゃ、燗《かん》はぬるいことはないか、わしは酒は一滴も飲まぬさかいわからぬけれども、酒は燗の具合で旨《うま》い不味《まず》いがあるということを聞いている、ぬるけりゃアもっと熱うさせます」 「イエ、結構でござります、ごく上等でござります……どうも何ですな、我々が端下銭《はしたぜに》を持ってちっとずつ買いに参じまするのは、時とすると悪い中にもう一つ品が変わったりします、ご当家様あたりは、チャンと灘《なだ》の名酒を菰樽《こもだる》でお取り寄せになっていますよって、どうも結構でござります、……酒というものはさア、見かけによらぬものでござります、紀伊国屋の旦那様はよう肥えてござって、ええ血色《けっしょく》で、酒の一升も飲《あが》りそうな見かけに見えてござりますが、それにあのお仁は一滴もあがりません。八幡屋の旦那様はやせ形で御酒はお嫌いそうに見えてござりまして、なかなかあがります。どうも見かけによらぬものでござりますなア……アーどうも晩菜とはいいながら、この同じ菜の煮《た》いたのでも、ご当家あたりは醤油が台に違います、ところへ油揚げが大きく切っておますこと、味が違います、アー結構でござります、始終お町内で油揚げを晩菜にお使いなさるのでも、こう大きく切っておいでなさるお家はあまりござりませんぜ」 「イヤ、阿呆らしい、そんなことがあるものか」 「イイエ、諂言《べんちゃら》じゃアござりませぬ……こりゃア私は別に昼御飯をどこでお饗ばれしましたという覚えはござりませんが、何ぞ法事ごとでもお勤めがあれば、そりゃア饗ばれますけれども、知れてあることには、どこさんはご家内《かない》が幾人あるというて、豆腐屋へ油揚げ買いにお出でなさるその割合で大きゅう切るか小そう切るかてなことがわかります。ご当家様はご家内のすくないのに、豆腐屋さんで聞きますというと、油揚げ買いにお出でなさるのが多うござります、それで第一わかってござります……大きいもので、ツイうかうかしゃべりしゃべりいただいておりますと、ちょっとこう酔うて参じました」 「そりゃア結構じゃ、どうぞたくさん飲んで下され、お前さんに飲ませているのじゃ」 「ヘエヘエ、そうおっしゃって下さるさかい、ツイ遠慮なしに頂戴いたします……アッ常吉どん、モシ、アー常吉どん、感心しました、もう燗筒《かんづつ》の酒がないようになって、いま注《つ》ぎましたので、それを貴方《あん》さんから、まだ市助酒あるかとおたずね下されたらないにしろ、ヘエまだござりますとか、もうこれで結構とか、私はご遠慮申さにゃなりません。それを貴方さんがフッと目加《めか》あそばしたら、私が注いで下に置く燗筒をばまだ手を離さぬ先に、ひったくって持って行きはりました、感心ですどうも、お仕込み方が違いますさかいに、これは、常吉どんおおきにはばかりさん、もうようけはいりません、上の段のところまででよろしゅうござります」 「その上に入れられりゃアせん」 「へエ、やッ恐れ入りやす、ハハハハ、しょうもないことを申し上げました……ヘ、こりゃアはばかりさん、ご当家あたりはもういつでもお湯が沸いておりますさかい、お燗がじきにつきます、我々がモシ番部屋で勝手に飲む時には、火から拵《こしら》えてかからにゃアなりません、燗するのに暇がいります、アーまことに結構です、この甲州梅、こりゃア≪あちゃら≫にようあいます、ちょっと酸味《すうみ》があって、酢の酸味とは違います、梅ッてものはモシ、なかなか急に実らぬものと見えます、梅は酸い酸い十三年なんて申しますさかい……アー常吉どんはモシ、ようお使いなさるのに路で会いますが、常吉どん、ちょっと見ておりまする間にピューと走ってです、お使いで早うござりますやろう、ヘエ、よそさんの悪口いうじゃアございませんが、丁稚衆さんが使いに出ても、始終よそ見してでござりますが、常吉どんに限ってさようなことはござりません、いつでも走ってです、このお子はモシ、行くゆくは出世してです」 「イヤ、諂言《べんちゃら》いわいでもよい」 「イエ、諂言じゃアござりませんけれども、アハハハしょうもないことを申して……一ぺんモシ、このようなことがござりました、しかし貴方さん忘れてござるか覚えてござるか知りませんが、私よう覚えております、何でも雨が三日四日降り続きました」 「いつのことじゃい」 「いつじゃったか、それは忘れましたが、何でも春先でござりました。一日カンカン日和《ひより》になった時、大和屋さんの表に傘が乾してござりました、すると紙屋の犬です、あれエ貴方、その傘へ小便しかけております、すると番頭さんがそれを見やしゃって、傘でしたか、他の棒であったか知らんが、そいつを振り上げて投げてでした、そんなことをせんでも相手は畜生じゃよって、何にも知りゃアしません、雨天に入用の品物とも、何ともそんなことはわかりゃアしません、だから追うてさえやりゃアいいのでござります。どうも番頭さんに似合わぬことじゃと思うておりました、けれども、我々なかなかそんなことをいえるわけじゃアございませぬ、見ておりますと、ピューとそれを打ち付けました、するとその棒が貴方、犬に当たらんと傘に当たって二ヵ所破れました。モシ、その犬|奴《め》がまたご当家の表へ来ました、ところがご当家には消し炭が乾してござりました、軒のところに、そこへ来て犬のやつ、また小便しております、そこが畜生じゃござりませんか、いま向こうで当たらなんだからよかったが、すんでのことに痛い目に遭いますのをようよう助かってこっちへ来て、また小便、貴方見てござったよって、アーどうなさるかしらんと私しゃアジっと見ておりました、サア、それを貴方覚えてござるかどうか、私しゃアよう覚えております、どうなさるかしらんとジッと見ておりましたら、小便をすっかりしてしまうまでジッとほっといて、してしまいおってから、シーというて貴方さん追うておやりなさった、まことに感心しました、ナニ犬などはものをよういわぬけれども、それだけのことを知っておりますわいな、それゆえあっちへ行きぎわに、貴方さんの顔を見てお辞儀をしておりました」 「オイ、しょうもないことをいいなさるな、犬がそんなことをするものか」 「サア、そうでやすけれども、私しゃア犬の腹の中ではそんなものじゃろうと思います、ヘエ……ア、常吉どん、ちょっとひどう厚顔しゅうござりますけれども、もう一つ頂戴いたします……ヘエ、こりゃおおきにはばかりさん……一ぺんモシこんなことがござりましたなア、あれはこうつと、何年ほどになるか夏のことで、和泉屋さんの丁稚さんが表へ水を打っておりました、するとそこへ通りかかった仁へ、出遭い頭にパッと水が掛かったのです、相手は悪い奴で、承知するのせぬのというてひどうゴテつきました、その時に私がそこへ行き合わせましたものですさかい、だんだんたのみました。マアどうなりこうなりすみましたのです、丁稚さん泣くやら、お店の者は心配なさるやらしました、マアそれほどのご心配やったが、私のような役に立たぬものですけれども、マアだんだんたのんで先方も承知してくれました、そうするとモシ、私への礼というわけじゃアござりませぬけれども、お心付けがモシ、天保銭二枚です、エエーイ、そりゃア二枚が一枚でも、また頂かんかて、何もそれをどうこういうのじゃアごわせんけれども、あまり心なさすぎると私は思いますのです、イヤ、酔うていろいろのことを申し上げて恐れ入ります」 「市助どん、アアもっとお前に飲んでもらいたいけれども、私もちょっと他に用もあり、お前さんもまたあまり飲み過ぎて、肝心の用が遅れたりすると、ツイ私の方でも気兼ねをせにゃならぬ、マア今日のところはこれでしまい、ナッ、それだけで納盃《のうはい》とこうしておこう」 「ヘイヘイ、モモこれでもう私から申し上げようと思うておりましたところで、貴方さんにそう仰せられましては実に恐れ入ります、もう私は今度おすすめ下されても、もうお断り申そうと思うておりました、貴方からうけたまわりましてどうも恐れ入りました、おおきにどうも、この上にもうよう飲みません、酒が好きであって、そんならばというて、もうようけはよう飲みません、おおきに常吉どんはばかりさま、ちょっとかたづけてもらいましょう、アー好い具合に酔うた、エヘヘヘヘ……アア、コレコレ、そっちへ行け(と乞食を追う)何もありゃアせん、オオ行きよったか、ヘヘヘヘ、私しゃアここにいることを知らんで来おった、町内では、さっぱり市助は三文の値打ちもござりませぬ、どこへ行っても頭が上がりませんけれど、あアいう乞食にかかったら、そりゃア好い顔でござります、私がいることを知ったらよう立ちゃアしません」 「しかし足許はどうじゃいなア、常吉にちょっと送らせようか」 「何をおっしゃる。足許は確かなものです、これぐらいな酒で……イヤ、これはえらいどうも……足は確かで、さよなら、常吉どん、お使い早うしなされや、ナア、賢い賢いアー酔うた、そんならご免を……」 ……………… 「オイ市助」 「ヘエ」 「ちょっと若い者が寄って一杯飲んでいるよっておいで」 「ヤッ、モモもう飲《い》けません、ただいま質屋さんでたくさん頂戴しました」 「マアよいがな、まだ飲めるがな」 「他に用がござりますよって」 「マアいい、来て一杯飲め、マアマア」 「そうですか、そりゃアどうも……」  前に酔うているところへさしてまた飲まされました。酒を飲むと少し悪うなりますが、平素はまことに町内で可愛がられております。というのは、ご大家でも、またご大家へ出入りするような仁にでも、ちっとも不同せぬ、物事をたのまれたら、親切にする温順《おとな》しい男ですから、若い衆にも可愛がられて、酔うている上へ飲まされて、もう今度は正体ないようになってしまいました。 「オイ、市助はどうしたいな」 「大変酔うているよって番部屋へほうり込んでやった」 「もうお前、火元廻りに廻らにゃならぬ、失策《しくじ》りおったら可哀想じゃ、行って起こしてやろうオイ……市助、市ス、早う起きて火元廻りに行かにゃ叱られるぜ、オイ市ス」 「ダダだれや、やかましい、市ス、市スてな名があるか、お上へ出た時には、私は市スですといわれるか」 「アッ怒ってござる、マアそんなことはどうでもいい、早く火元廻りに行かんと叱られるぜ」 「ほっとけ、叱られようとどうしようと、酒は飲んでも飲まいでも、勤むるところはきっと勤むるというのじゃい」 「何いいくさる、今まで寝ていて、サッ、早う行け」 「行かいで……火の元大切にお頼み申しますぜ」 「ハイ、ご苦労さん」 「ご苦労でのうてかい……火の元お大切にお頼み申しますぜ」 「ハイご苦労ご苦労」 「ご苦労ご苦労……紙屋、火の元大切にせえよ」 「コレ、何てことをいいくさる、また酔うておる、酒癖の悪い奴じゃ……ハイ、ご苦労じゃ」 「ご苦労じゃ、吝嗇家《けち》奴が……火の元大切にお頼み申しますぜ……火の元を大切にお頼み申しますぜ……アッ、返事せんな、コリャ、火の元を大切にせんといかんぞ」 「市助、何いうてるのじゃ、そこは空家じゃ」 「アッ、空家は応答はせんわい……火の元を……」 「ご苦労ご苦労」 「早いわい、大切にお頼み申しますとか、気をつけて下されとかいうてから、ご苦労ご苦労といえ、何にもいわんうちにご苦労ご苦労なんて……火の元を大切にせえよう……馬鹿にしてけつかる、酔うておると思うて、大切にせんときかんぞ……」  もう質屋の家からちょっと二、三軒も間があると、あまりいいようが荒いものですよって、番頭はこの声を聞いてえらい心配です。 「こりゃアえらいことをしたわい、あれほど酔うておるとは思わなんだが、ちっと飲み過ぎたかいなア、あれからまた飲んだのか、市助が去《い》にぎわにはあんなに酔うていなんだがなア……丁稚、マアトントン叩かぬ先にな、潜り戸開けて、家の表へ来たら、ご苦労ご苦労というてやれ、ちと酔い過ぎている……コリャ、また居眠ってくさる、どもならんなア、こいつは……」  番頭は入口のところへ来てジッと待っています。隣家までドンドンと叩き歩いていた市助が、ここで昼間酒を饗ばれたということがやはり腹にあると見えて、ほんのコツコツコツコツと、雨垂れ落ちみたように叩いております。番頭は潜り戸を開けて、 「市助、私とこは火の元は大切にしますぞ」 「滅相な。ご当家はどうでも大事ござりません」 [#改ページ] 犬の目  ただいまは、お医者さんも、立派なお医者さんがたくさんにございますが、前かたは、ずいぶんと頼りない、怪し気なお医者さんがあったもんで、手遅れ医者てなお医者さんがございまして。 「先生、すんませんけどちょっとこの男、診てやって貰えまへんやろか」 「はいはい、どうかなさったかな」 「今、この男、屋根から落って、足折りよったんで、ヘエ。すぐに先生、診てやっておくれやす」 「なんじゃい、屋根から落って、足を折りなさったてか。せっかくじゃが、もう手遅れじゃ」 「先生、手遅れて、いま折ったとこでっせ。落ちるなりすぐに先生のとこに連れてきたんだ」 「そうじゃから手遅れじゃ。なぜ落ちる前に連れて来ん」  マ、ずいぶんと、ええ加減なお医者さんがあったもんでございますけれど、その時代のお噂でございまして、 「今日は、甚兵衛はん、いてはりますかいな。今日は、お留守でっか」 「これこれ、お留守でっかて、わしがここに坐ってんのが見えんのか」 「あ、やっぱりそこに坐ってはりましたか。こらえらいすんまへん。いいえ、わけ言わなわかりまへんが、一月ほど前から、ちょっと目を悪うしまして、ほっといたらあんた、一日一日だんだんだんだん悪うなってね。このごろでは物がはっきり見えんようになりまして」 「そらいかんな、大分に悪いとみえるな、で、何かいな、医者には、診て貰《もろ》うたか」 「何です」 「いいええな、医者には診て貰うたかというね」 「いいえ、まだ医者には診て貰うてまへん。友達にこのあいだ診て貰うたんで」 「お前も人間が変わってるな。エー。目が悪いさかいいうて、医者に診て貰わんと友達に診て貰うて、どないするね。で、何かい、友達に診て貰うて容体《ようだい》がわかったんか」 「えーへ、おかげですぐに容体わかりました」 「ホーォ。すると、その友達ちゅうのは医学の心得があると見えるな。そいで、友達は、お前の目を見て、どない言いなはった」 「へえ、その友達の言うのにはね、喜イやん、お前の目はこれはひょっとしたら雨やでェーと、こない言うてました」 「何……」 「ひょっとしたら雨やと、こない言うてました」 「はあー、変わった見立てやな。お前の目がひょっとしたら雨。そら、何でや」 「さあ、わたいもわからん。そいで、聞いた。どういうわけでわいの目が雨やねんと、こない言うて尋ねたらね、その友達の言うのには、お前の目は大分に曇ってるさかいに、こら雨やで」 「よう、そんな阿呆なこと言うてるで。友達にええ具合になぶられてるね。エエ。第一、医者に診せんと友達に診て貰うちゅうのが間違うてるのや、エエ。友達に診せるぐらいやったらわしが診たほうが、まだ確かや。わしが一ぺん、診てやろ。もうちょっと顔を前へ突き出してみなはれ。あー、なるほど。こら大分に悪いな。しかし、やっぱりわしの思うたとおりやな。その友達は見立て違いしてるな」 「あ、さようか。友達、見立て違いしてますか」 「あーア、見立て違いやで。お前の目はけっして雨やない。天気や」 「甚兵衛はん、わたいの目、天気でっか」 「あー、天気やとも。それが証拠にホシが出たある」 「も、そんな阿呆なこと。あんたまでおんなじようになぶってなはるね。あんたはね、他人《ひと》ごとやさかい、そないして笑うてなはるけどね、本人のわたいの身にもなっとくれやす。目が悪いというのは不自由なもんでっせ、第一、道歩いてても危のうてしようがおまへんね。すんまへんけど、どこぞええお医者さんがあったら、一つ、世話して貰えまへんやろか」 「お前さえ医者に診て貰う気があるのやったら、ええ先生、お世話しょ。この横町《よこまち》にな、赤壁周庵《あかかべしゅうあん》先生ちゅうお医者さんがいてなはる。このお方はな、目が専門じゃ。この先生にかかったら、どんな眼病でも即座に治る。わしとこの家《うち》から聞いてきたと言うて行きなはれ。すぐに治してくれはるさかい」 「さようか。この横町。ヘーエ、灯台もと暗しとか申しましてねェ、ヘー、こんな近くに、そんなええ先生がいてはるとは知りまへなんだ。ほんなら、善は急げですさかい、早速これから行てきます」 「ああ、ちょっと待ちなはれ、ちょっと待ちなはれ。行くねやったら、前もって言うとくけどな、この先生は、ほかの医者と違《ちご》うてな、ちょっと治療の仕方が変わったあるけど、お前、辛抱|出来《でけ》るかいな」 「へえへ、そら、まあ、この目が治りさえすりゃ少々のこと、辛抱します」 「おお、かならず治しとくなはるさかいな、やって貰《もろ》うといなはれ。行たら先生によろしゅう伝えといとくなはれ、……。気いつけて行きなはれや」 「エエ、おおき有難うさんで。なあ、やっぱり、ああして尋ねてみたら、すぐにこないしてええ先生がみつかるのや。そえと、横町や言うてはったで。ハハン、ここらやな。はあー、えらいことしたな。こないして看板がずらあーっと軒並みにあがったあるねんけれど、悲しいことには、この看板に書いたある字が、はっきり見えんな。どうやらここの家の構えが医者の構えらしいな。一ぺんここへ入って尋ねてみたろう。……ごめんやす」 「はい。どなたじゃな」 「へい、あのー、赤壁周庵先生のお宅はこちらでおますかいな」 「はいはい。赤壁は手前ですが、あんた何じゃな」 「何です」 「いや、あんた、何じゃな」 「人間ですけど」 「いや、人間は分かってる。どこから来なさった」 「へー、表から来なさった」 「どう言うたら分かるんじゃ。いや、いや、誰かに聞いて来なさったか」 「えー、そうでんねん。横町の甚兵衛はんに聞いて来たんです。家《うち》から聞いてきたと言うて行きなはれ。先生すぐに治してくれはると、こない言うてはったんで。へー。そいで寄せて貰いましたんですけど、あんたが先生ですか」 「いや、いや、わたしじゃないが。甚兵衛さんのお世話で来なさった」 「ええ、そうでんね。で、一つ先生に目を治していただきたいんですけど、先生、お留守でっか」 「いや、いや。先生は在宅じゃ、しばらくお待ちを。一度先生に伝えますで。……先生」 「何じゃ、周達」 「あの、横町の甚兵衛さんのお世話で、目の悪い方が見えまして、先生に是非、目を治して頂きたいと、こない言うてはるんですが、いかがとりはからいましょう」 「ほおー、横町の甚兵衛さんのお世話なら、早速診て進ぜましょ。こちらへお通し申せ」 「あ、さいですか。……どうぞこちらへお通り下さい」 「へえ、おおきに有難うさんで。今日は」 「オオ、わたしに目を治してくれというのはあんたかな」 「へえ、あんたです。わたしの目を治そうという医者はあんたかな」 「えらいおかしなことを言うお方じゃな。はいはい。何かな。今まで、誰かに診て貰うたかな」 「へえエ、こないだ、友達に診て貰うたら、お前の目は雨やと、こない言われました。へエ。そいで、いま甚兵衛はんに診て貰うたら、天気やと、こない言うてはりましたんで。今度、先生に診て貰うたらおそらく嵐になるのやないかいなと思うんですけど、一つ、嵐にならんように、よろしゅうおたの申します」 「こらまた、面白いことを言うお方じゃ。ハイハイ、早速、診て進ぜましょ。どうぞ、それへお掛け下され。アア、なるほど。こら大分に悪うなってますな。何……。このごろでは、ものがはっきり見えんてか。そうじゃろ。これだけ、あんた、目の玉が汚れたら、ものが定かに見えんのが当たり前じゃ。よろし、この目の玉を、一度綺麗に洗うて進ぜましょ」 「先生、目の玉、綺麗に洗うて進ぜましょて、あ、なるほど、目薬かなんぞ差して、綺麗に洗うてくれはるんでっか」 「いや、いや。あんた、甚兵衛さんとこで聞いてきなさったと思うがな。うちは他の医者と違《ちご》うて、ちょっと治療法が変わってますが、あんた辛抱出来るかな」 「へええ。そらもう、この目さえ治してくれはりまんのやったら、どんなことでも辛抱さして貰いますで」 「かならずお治ししますで、万時わたしにお任せ下され。では早速治療にかかりますで。これ周達、鑿《のみ》と金槌《かなづち》を持ってきなさい。一番大きないかき〔ざる〕を一つ持っといなさい。さあさ、あんた、このいかきを持ってな、しっかりと落とさんように受けてなさいよ」 「先生、わたし、このいかきで、何を落とさんように受けてまんね」 「いや、これからあんたの、その目の玉を取りはずしますで、下へ落とさんように、そのいかきでしっかりと受けて頂きたいんじゃ。万が一、下へ落として玉に疵《きず》がつくとあと使いものにならんでな」 「ホナ、なんでっかいな先生、目の玉綺麗に洗うて、これ一ぺん取りはずして洗いはりまんの。取りはずすて、その鑿と金槌で」 「いや、いや。けっしてご心配には及びません。痛いようなことはいたしませんで、万事わたくしにお任せを。サアサ、目を閉じて、目を閉じて。言うときますぞ、じいとしてなさいよ。今も言うた通り、けっして痛いようなことはいたしませんでな。いいかな。そんならいきますぞ。よろしいな。どうじゃ、痛いかな。痛くはなかろ。一つ、はずれましたぞ。あともう一つ。な、痛いことも痒《か》いこともないはずじゃ。どうじゃ痛くはなかろう。ちゃあんと二つともはずれましたぞ。一度、見てみなさい。これがあんたの目の玉じゃ」 「先生、ようそんな無茶なこと言いなはるわ。一度見てみなさい。これがあんたの目の玉じゃて、わたい肝心の目の玉はずされてるのに、どないして見まんねんな」 「はあー、ア、こりゃあんたのおっしゃるのが道理じゃ。あんたは見えんな。そのかわり、目の玉があんたの顔を見てよる」 「モ、そんな阿呆なこと言わんと、先生、治すのやったら早いこと治しとくれやす」 「ああ、分かった、分かった。周達、この目の玉をな、よく綺麗に洗うて。エ……何……イヤイヤ、湯で洗うてはいかんぞ。湯で洗うたら、ふやけて大きなるから、アア、なるべく冷たいほうがええで。あ、井戸水で綺麗に洗いなさい。洗うたらな、日当たりのええとこへ出して干しときなさい。よく乾かして持ってくるようにな。ああ。乾きが悪いと、また汚れる憂《うれ》いがあるで、よく乾かして持ってくるように。分かったな。しばらくお待ち下され。エ乾き次第、すぐにはめ込みますで」 「先生、先生」 「なんじゃ、周達」 「おそれ入りますが、ちょっとこちらまで来て頂きたいんですが」 「周達、どうかしましたか」 「は、先生に言いつけられたとおり、あの目の玉、綺麗に井戸水で洗いまして、この縁側が非常に日当たりがよろしいので、この縁側へ干しときましたところ、家の犬が食うてしもたんで」 「なんじゃ、あの目の玉を家の犬が食べてしもうた。これはえらいことをやらかしてくれたぞ、これは。あの人あとに何なと入れてやらんと、あのままでは帰らんぞ。何か、かわりに入れる玉はないか」 「先生、ビードロ……」 「そんなものは駄目じゃ。手持ちの目の玉はなかったか。え、今、手持ちの玉がないてか。こら困ったことが出来たぞ。こうなったら仕方がない。万、止むを得ん。家の犬をこれへつかまえて来なさい」 「先生、犬をつかまえて参りましたが、どうあそばす」 「よく昔から言うじゃろ。目には目をちゅうてな、こやつがあの目の玉を食うたんじゃから、こやつの目の玉をあの人に入れるんじゃ。しっかりと押さえてなさいよ。ええかな。しっかりと押さえてなさいな。ええな。ソレソレ。さ、もう一度この目の玉を綺麗に洗うて、よく乾かして持ってくるように。アア、これ、周達言うときますぞ、今度はしっかりとそばに付いてなさいよ。今度その玉がなくなったら、お前の目の玉を抜かんならんぞ。分かったな。しっかりと番をしてなさいよ。いやあ、これどうもあいすまんことで、長らくお待たせいたします。もうしばらくお待ち下され」 「先生、どうも、遅うなってあいすまんこって、ようやく乾きましたで」 「ああ、乾いたかな。どうもお待たせしました。では早速はめ込むことにいたしましょ。いやいや、ご心配には及びません。入れしなも、けっして痛いようなことはいたしませんでな。アア、じっとしてなさいよ。ア、言うときますがな、わたしが、目を開《ひら》きなさいと言うまでは勝手に開かんようにな。しばらくな、しっかりと目を閉じてて下さいよ。ええかな。では、入れますで。どうじゃ、どうじゃ、痛くはなかろ。一つ入りましたぞ。あともう一つじゃ。なあ。ど、どうじゃ。これで、どうやら二つとも入りましたな。では、一度、目を閉じたまま、頭を前後に五、六度振って下さい。どうじゃ。玉が飛び出すようなことはないか。中でころころしませんかな。しっくりはまったらしいな。ハハ、そうか。では、静かに目を開いてみなさい」 「先生、もう治していただいたんでっか」 「あー、治りましたぞ。目を開いてみなさい」 「あ、さよか。な、先生、開きまっせえ。先生、もう目を開いてますけどね」 「どうじゃ、よく見えるじゃろ」 「いいえ先生、まっ暗で何も見えまへんで」 「何も見えん……。そんなはずはないんじゃが。ああ、すまんすまん、裏向けに入れたんじゃ。いやいや、心配せんでもよろし。すぐに入れ直しますで。こらあすまんことをいたしました。いや、いや、よく裏表、確かめて入れりゃよかったんじゃがな、確かめずに入れたもんじゃから、イヤイヤ、今度は大丈夫じゃ。もう一度入れ直しますで、じいっとしていなさいよ。ええかな。ソオレ、一つ入りましたぞ。あともう一つじゃ。それ。入りましたぞ。今度は大丈夫じゃ。開いてみなさい」 「先生、ほんまに大丈夫でっか。今度、横向きに入ってるてなことおまへんやろな。ほなら開きまっせ。あ、ほんに。先生、今度は、どうやら真っ直ぐに入ったらしおます」 「どうじゃ、見えますかな」 「え、よう見えますわ。おおき有難う」 「いやいや、まだ礼を言うのは少し早い。明日もう一度来なさい。それで異常がなければよいが、何か異常があればもう一度やり直しますで、今日のところは、このままお引き取り下さい」 「あ、さよか。明日もう一ぺん来たらよろしいの。ほんなら、そないさしてもらいまっさ。おおき有難うさんで……。今日は、先生、昨日《さくじつ》はいろいろお世話になりましておおき有難うございました」 「オオ、甚兵衛さんのお世話で昨日《きのう》見えたお方じゃな。さあさ、どうぞこちらへお通り下され。どうじゃな、目の方は」 「先生、喜んでまんね。よう見えますわ。ヘエ。これやったら悪うなる前よりよう見えますわ。第一ね、暗闇で本が読めまんねや。暗闇で何でもはっきり見えるようになりました。これも、ひとえに先生のおかげで、おおき有難うさんで」 「あーあ、結構、結構。そうして喜んでいただきますれば、わたしも医者として治療のし甲斐があるというもんです。いや、結構でした。しかし、ほかに何か、異常はないか」 「何でおます」 「いや、ほかに何か変わったことはありませんか」 「ほかに何か変わったことはありませんか……。先生、よう尋ねとくなはった。いいえ、いま先生がね、何か変わったことはないかちゅうて尋ねてくれはったんで気がついたんですわ。一つだけ変わったことが出来ました」 「何か変わったことが起こりましたか」 「へえ。先生に目を治していただいてから、小便する時、片足上げまんね」 [#改ページ] 色事根問《いろごとねどい》 「さあ、こっちへ入りなはれ、なんぞ用事でもあって来たんか」 「へえ、そうでんねん、実は、あんたにぜひお頼みしたいことがあって、よせてもらいましたんや」 「ほう、わしに何が頼みたいのや」 「いええ、実はね、女子《おなご》の出来る方法おまへんやろか」 「えらい奴が入ってきたで、言うにことかえて、女子の出来る方法、何を言うてるねん、ようそんなこと言うで、ちょっと顔と相談したらどないや」 「えげつない言い方しなはんな、なんぞ女子の出来るええ方法おまへんやろか」 「別に方法というのはないけどな、まあそれやったら、昔の人が言いなはったことを、ちょいちょいと、小耳に止めとくとええな」 「昔の人がどんなことを言うてます」 「ええことが言うたある、一|見栄《みえ》、二男、三金、四芸、五せい、六おぼこ、七|台詞《せりふ》、八力《やぢから》、九|肝《きも》、十評判てなことが言うたあるなあ」 「そら、いったい、何のことでんねん」 「今わしが言うたうち、一つでもお前の身に備わってあったら、けっこう色事、女子はんが出来るちゅうねん」 「へえ、いま言いはったうちで一つでも、わたいに出来りゃ、女子が惚れますか、こら有難い、それやったら訊ねまひょ……。その一番初めの一見栄ちゅうのは、いったい何でんねん」 「人間は見栄、形が肝心、風采《ふう》でも小ざっぱりした風采しててみ、あの人はなかなか身ぎれいな人や、甲斐性者《かいしょうもの》やてなとこから、女子はんがちょっと惚れるなあ」 「アさよか、どうでっしゃろ、わたいのこの風采《ふう》は」 「あんまり、人に自慢たらしゅうに見せる風采やないで、そやないかいな、きょう日は、若い者、年寄りにかぎらず、男は皆、服を着る時代や、まして、お前みたいな若い者が、着物きてるということからして、間違うたある、もうきょう日、着物きてるちゅうたら、落語家《はなしか》しかないねんさかい。落語家に、女子が出来たためしがないねんさかい、まあまあ、着物きてるようでは、女子は出来んとせんならん。第一お前、その着てる着物、えらいゆきたけが合わんなあ」 「ああ、これでっか、これ弟のを着てまんねん」 「なんじゃ、借り着か、身に合わんはずや。しかし、お前の弟、今年いくつになるかしらんが、えらい小さい男とみえるなあ」 「今年八つです」 「子供のん着てるのんかい、そんな風采ではとても女子は出来んわ」 「ア、 あきまへんか、ほな二は何です」 「二男というて男前や」 「どうです、わたいのこの顔」 「顔を突き出しな、もっとそっちへやり、お前の顔は離れて見てても、あんまり気持のええもんやないねん、厚顔《あつかま》しい人の前へ顔を突き出して……。わたいの男前はどうですと訊ねたなあ、まあまあ、お前が訊ねたさかい言うけど、お前の顔を物にたとえて言うたらブリのアラか」 「ブリのアラ。ホタラなんですかいな、わたいの顔、これ粕汁《かすじる》の中に浮いてる顔でっか、ほいでブリのアラでは、女子出来まへんか」 「まあ無理やなあ」 「あきまへんか、ホナ二はあきらめました。……三は何です」 「三金というて、金でまた女子はんが惚れるなあ」 「こらええこと聞いた、エエ、金やったら、わたいちょっと貯めてまんねん」 「ほいで、どれぐらい貯めてるねん」 「なんせわたい、三年間、夜の目も寝んと一生懸命働いて貯めた金が」 「なるほどなあ、口でこそ簡単に三年間というけどなあ、三年というたら長い年月《としつき》や。その貯まった金のたかは、どれぐらいあるねん」 「その金のたかがねえ」 「ハアハア、その金額はどれくらいあるねん」 「そのキ……ああ恐わ、ああ恐わ」 「何を恐わがってるねん」 「うっかり、もうちょっとで言うてしまうとこやった、ああ恐わ、言わんでよかった」 「何で」 「何でてあんた、こんなことうかつに喋《しゃべ》れまっかいな、どこで誰が聞いているとも限りまへんやろ、もしもあんた、そんなことうっかり喋って」 「ちょっと待ちなはれ、それやったら心配いらん、わしとこの家、他に誰もいてえへん」 「さあさ、誰もいてえへんと思うて、安心して喋ったら、えらい目に会いまんねん、昔からよう言いまっしゃろ、壁に耳あり、畳に目ありというてね、ヘエ、どこで誰が聞いてるとも限りまへん、ホレ見てみなはれ、ホレ見てみなはれ、奥の間に誰か一人いてまんなあ」 「奥の間に誰か一人いてますなあて、あれはうちの嫁はんや」 「さあさ、その嫁はんが怪しい」 「そら何を言うねん、うちの嫁はんが泥棒したみたいに」 「いやいや、泥棒はせえしまへんけど、女子というものは口の軽い尻《けつ》の重いもんでっせ、すんまへんけど、あの嫁はん、どこぞへやってもらえまへんか」 「コーラ、たいそうな男やなあ、まあまあ、そないまでして、聞いて聞かんならんこっちゃないけど、ちょうどええわ、さっき使いに行くと言うてたさかいな、ちょっと待ちや、コレおさよ、今の間に使いに行っといなはれ、アア……わしはしばらく家にいてるさかいな、ゆっくり行っといなはれや……、さあ嫁はんは使いに出した。言うてしまいなはれ」 「あ、さよか、ほんなら言いますけど……。ああ、恐わ、ハハ、ああ恐わ」 「何が恐いねん」 「もうちょっとで喋ってしまうとこや、よう言わんでよかった」 「ええ加減にしときや。嫁はんを使いに出したら、わし一人や。他に誰もいてえへんがな」 「あんたの横手に猫がいてる」 「ええ加減にしいや、猫がそんなこと、聞いたりするかいな」 「そうかて、猫に小判と言いますさかいな。すんまへんけど、ちょっと猫を追うとくれやす」 「ほんまにたいそうな男やで。ほんなら、猫を追うたらええねんなあ、ちゃい、ちゃい、さあ、猫はあっちへ行った」 「ほんなら言いますけどねえ、ほんまに、人に喋らんようにしておくれやっしゃ。実はねえ……。ああ恐わ、ああ恐わ」 「ええ加減にしときなはれ、嫁はんを使いに行かして、猫追うたら、もう誰も聞いてへんがな」 「あんたが聞いてる」 「あたりまえやないかい、わしに言うのんと違うのんかい」 「ア、そやそや、それをころっと忘れてましてん、ほんなら言いますけど、ほんまに人に喋らんようにしとくれやっしゃ」 「喋れへんちゅうたら、喋れへんわい。なんぼや。……何を言うたんや」 「まだ何も言うてへん」 「ええ加減にせえ、早いこと言いなはれ」 「ホナもう思い切って言いますわ、一円三十八銭」 「なんぼ」 「一円三十八銭」 「台はいな」 「台も踏まえ継ぎも床几にも腰掛けも何もない、一円三十八銭」 「たったのかい」 「立ったも坐ったも、寝ころんだも、じょら組んだも、何もない、一円三十八銭」 「ようたいそうに言いくさったで、エエ、ええ若い者が三年間で夜の目も寝んと働いて、わずか一円三十八銭……。あけへん、あけへん。そんなわずかな銭で女子が出来るかいな」 「あきまへんか、ほんなら四は何です」 「四芸ちゅうて芸事や」 「あ、芸で女子が惚れますか」 「あたりまえやがな、男でしっかりした芸が一つあったら男芸者、太鼓持ちがでけるちゅうねん」 「あ、さよか、自慢やおまへんけど、芸やったらわたい三つ持ってまんねん」 「おお大したもんやなあ、ほいで、その芸ちゅうのんは、いったいどんなのがあるねん」 「一つは炬燵《こたつ》の櫓《やぐら》の上から、とんぼ返りしまんねん」 「あかん、そんなことは子供でもやるわ、そんなもん芸のうちに入らへんがな」 「あ、あきまへんか、ほんなら次の芸はねえ、うどんを鼻の穴から食べまんねん」 「汚いなあ、お前の芸は。まあ、うどんを鼻の穴から食べるぐらいの芸やったら、お前だけにかぎらず他の人間もやるがな」 「いえ、食べるだけやおまへんねん、その食べたうどんをこんど口から出す」 「あけへん、あけへん、そんなもんあかんねん」 「あきまへんか、ほんならもう一つは踊りです」 「アア、踊やったらええ。踊りなら芸事のうち上《かみ》八枚のうちに入るねん、ほいで、お前の踊りはどういう踊りや」 「わたいのは、あの宇治のおっさんに教えてもらいました。ほうたる踊りちゅう踊りでんねん」 「ほう、あんまり聞かん踊りやなあ」 「ええ、そうでっしゃろ、なんせこの宇治のおっさんが死んでから、日本広しといえど、この踊りを踊れるのはわたい一人ぐらいのものでおますさかいねえ」 「ほう、なかなか類のない踊りやなあ、で、その踊りはどんなことすんねん」 「くるくるっと裸になりましてね、ホイデ体じゅう、まっ黒けに墨を塗りまんねん、ほいで、赤い手拭で頬被りしまして、太い蝋燭に火をともして、これを、おいどへはさみまんねん」 「何や、それ」 「頭が赤うて体が黒うて、おいどに火がともってまっしゃろ、つまりこれで蛍の格好になってまんねん、ほうたる踊りのはじまり、はじまり。三味線がチャチャチャンリン、チャンリン、チャンリン、チャンリンと鳴るとねえ、わたいがさながら蛍が舞い遊ぶがごとく、パアーと踊りまんねん、ホイデ最後にねえ、五、六ぺんぐるぐるっと回っといて、パタッと倒れるのと同時に、この蝋燭の火を消す」 「いや、消すのは分かってるが、どないして消すねん」 「こらあんまり人前で言えまへんねんけど、ガスで消しまんねん、へへへ、どうでっしゃろ、女子は惚れ……」 「あけへん、あけへん、阿呆らしい、惚れてる女子でも一ぺんで逃げてしまうわ」  わあわあ言うとります、色事根問《いろごとねどい》でございます。 [#改ページ] 植木屋娘《うえきやむすめ》  ここにございましたのが、商売は植木屋さん。名を幸右衛門と申しまして、今年十八になるお光《みつ》という娘と、嫁はんとの三人家内。この幸右衛門、地所や植木やなにやかやで、財産がざっと二タ箱……千両箱二つでおますナ。ひと口に千両と申しますが、十両で首が飛んだ時代の二千両でおます、莫大《ばくだい》なもの……。近所に浄増寺《じょうぞうじ》というお寺がございまして、幸右衛門とは、ごく懇意……。 「和尚《おっ》さん、こんにちはァ」 「オオ、だれやと思たら幸右衛門やないか。さァさ、こっちへ上がんなされ」 「へえ、おおきに……。和尚さん、ひとつ、節季《せっき》よろしゅうおねがいします」 「なにを……」 「いえ、節季を、ひとつよろしゅうおねがいします」 「オイ、ちょっと待ちなされ。節季よろしゅうおねがいしますて、わしは、なにもお前に借りた覚えはないのじゃがな」 「忘れてもろたら、どもならんナ。月末になったら、書き出し〔売上代金の請求書を書くこと〕を書く、ちゅうのがわかりまへんのかいな」 「あ、毎月、月末に出す書き出しか……。わかった、わかった……。また、ついでの折に持ってきといて、書いてやるさかい……」 「和尚さん。ちょっと勉強してもらわな、とうない、得意先でうけがわるおまっせ」 「そりゃどういうことじゃ」 「いえ、あの書き出しの字は、位牌や戒名を書く字や……と、こない言いよる」 「なるほど……。それは、先方さん、目が高い。坊主のわしが書く文字やで、そう言いなさるのじゃろ」 「そこを勉強して、もっとうまいこと書かんかァ」 「コレコレ、人にものを頼むのに、そないぼろくそにいうやつがあるかいな……。いやいや、それなら、こうしましょう。うちの伝吉に書かせましょ」 「なんでっか、和尚さん。伝吉っつあんて、あれ、字をよう書くのン」 「オイ、自分が書けんさかい、人も書けんと思たら、大きなまちがいじゃ。わしは、口では伝吉伝吉と、えらそうに言うてますがナ、心の中では、様をつけてる……。あの男は五百石の家督《かとく》を相続する身じゃ」 「さよか……。字をよう書きまんのかいな。そんなら、さっそく、伝吉っつあん、うちへ来てもろとくなはれ」 「コレ、すぐにというわけにもいかん……。また、わしがナ、伝吉の暇なときを見計ろうて、頼んでおいてやる……」 「いやいや、そんな気の長いこと言うてたらナ、いつ得意先から、書き出し取りにくるやわかりまへんさかいナ……。わて、家へ帰って待ってまっさかい、すぐにも来てもろとくなはれや。たのんまっせェ」 「コレ、コレ、コレ……。おオお、自分の言いたいことばっかりしゃべって、去《い》んでしまいよった。コレ、伝吉や、コレ、伝吉……」 「和尚さん、お呼びでござりますか」 「お、伝吉や。いまもナ、植木屋の幸右衛門が来て、書き出しを書いてくれというのじゃ。そなた、気の毒じゃが、行て書いてやってくださらんかナ」 「ハイ、ただいまのところ、お寺に用事もござりませぬで、では、さっそく行てまいります」 「おォ、行てやってくださるか。言うておくが、あの幸右衛門という男は、気に如才はないが、まことに、口強《くちごわ》い男でナ、ま、なに言うても気にせんようにナ」 「ハイ、承知いたしました。では行てまいります……。こんにちは。……あのゥ、お寺からまいりました伝吉でございます」 「あ、伝吉っつあん。よう来とくなはった、待ってまんねン。さ、ずうっと上がって、ずうっと上がって……ヘッヘッヘッ。一服せんと、早よ書いて」  最初に荒肝《あらぎも》とられてしもた……。 「書きますにも、硯《すずり》も紙も、なんにもござりません」 「おっと、そんなこと心配せいでもよろしい。ちゃんと、ここに用意してまんねン。へえ、このとおり、硯に墨、筆、紙……用意してまっせ」 「あの、帳面は」 「帳面、ハイ。帳面、帳面……ここへおいておまっせ」 「ちょっと拝見させていただきます。あのう、この帳面には、|ヽ《ちょぼ》と|〇《まる》と|△《さんかく》ばかりでございますが……」 「いやいや、伝吉っつあん。わたい、字をよう書かんやろ。ヽと〇と△で、わかるようになったァる」 「この、ヽはなんでございます」 「ヽ……それは一朱やがな」 「|ヽヽ《ちょぼちょぼ》としてあんのは……」 「二朱やないかい」 「△は……」 「一分やがな」 「〇は……」 「一両やないかいナ。それくらいのこと、わからんのかいな」 「あんたにはわかりましても、わたくしには一向にわかりません……。あのう名前は」 「名前はナ、心覚えにしたァるさかい、言うよってに、書いてんか」  そこは手のはやいお方でございまっさかい、またたく間に、百本ほどの書き出しを書いてしまいまして、 「あのゥ、出来あがりました」 「えッ、もう出来た……。そないはよう出来るのかいナ……。オイオイ、嬶《かか》、聞いたか。こないはよう出来るものを、あのお寺のド坊主、ぐずぐずぐずぐず言うて、書きさらさんのや。オイ、ちゃんとしてくれはったんや。酒肴《さけさかな》、ちゃんと出して、早よ用意せんかェ」  そこは有る家《とこ》でございまっさかい、酒肴を出してご馳走をいたします。これが縁になって、伝吉っつあん、毎日、植木屋へ遊びに来るようになる……。お父っつあん、あれはああするよりこうした方がよろしゅうございましょう……、これはこうするよりああした方が得でございます……と、なにかにつけて幸右衛門の手助けするもんでっさかい、幸右衛門、伝吉っつあんを、心から底から、爪の垢まで、ぞっこん惚れ込んでしもた……。 「オイ、嬶、ちょっとこっちへ来い。……わし、お前に、ちょっと話があるねン」 「まァどうしたんや」 「どうしたんや、や、あらへんがな。いや、うちのお光やがナ……」 「お光がどないしましてン」 「どないしたて、うちのお光は、あれはお前、今年は十八や。来年十九ちゅうのは、世間でのもっぱらの噂や」 「なにを言うね、この人……。そんなこと、あたりまえやないか」 「ところがお前は、そんな、カイライフみたいな顔してるやろ」 「人の顔に、カイライフちゅうような顔がおますかいナ」 「わしはひょっとこみたいな顔や。ところがうちのお光……あれは美形《うつくしもん》や。エエ、町内の若いやつは、機会《おり》があったら、歪《ゆが》めよか、蹴倒そか……と、火箸《ひばし》か小便|担桶《たんご》みたいに思てけつかんね。わしは、ささんと言うね。植木に虫がついたら、こら商売やさかい治すで。娘に虫がついたとなると、こら、よう治さん。虫のつかんうちに養子をもろうて、わしとお前とが隠居しよういうねン。どや、この考えは……」 「まァあんた、そら結構なこっちゃないか」 「結構か。ハッハッハッ、お前が結構なら、わしも結構や。……ええ養子、見つけてあるねンぞ」 「いったい、だれだすねン」 「お寺の伝吉っつあん、どやェ」 「……伝吉っつあん。あんた、えらいこと考えたやないか。けど、伝吉っつあんも結構やけど、お光がどない言うか……」 「どない言うか……。あんな結構な養子をもろうて、お光がぐずぐず言うのなら、わしゃ、お光を放《ほ》り出してしまうで」 「そんなことして、どないしなはんねン」 「どないしなはんね、て、伝吉っつあん養子にもらうやないかェ。交換《かえこと》やがな」 「そんなことしたら、うちの身代、まるで他人に譲ってしまうようなもんやないか」 「ええがな。そないなったら、お前に暇やるがな」 「おきなはれや。わて、この年になって暇もろたら、どこも行くとこがおまへんやないか」 「ええがな。そないなったら、お前と伝吉っつあんと夫婦になンのや。二人してわしを養え」 「そんなあほなことがおますかいナ」 「いっぺんお光に訊いたらええねン。お光、呼べ、お光……。お光。お父っつあん、お前にちょっと話があるね。お光、ちょっと来い、お光……。あ、そこへ坐れ、そこへ坐れ……。ヘッヘッヘッお父っつあん、お前にちょっと話があるねン……。お前ナ、今年十八来年十九、ちゅう世間ではもっぱらの噂や。エエ、町内の若いやつは、あわよかったら、歪めたろか蹴倒したろか、火箸か小便|担桶《たんご》みたいに思てけつかんねン。お父っつあんは、歪めささん、いうのや。なァ、植木に虫がついたら、こらお父っつあんの商売や、治すぞ。お前に虫がついたとなると、お父っつあん、よう治さん。虫のつかんあいだに養子をもろて、お父っつあんとお母はんが隠居しようちゅうねン、どや、この考えは……。エエ、養子もらう気ィあるか。ウンか、お光……。ウンか……ウンか……。エエ、ウン……ウン……。オイ、嬶。ウンといいよった、ウンといいよったがな。いや、よう言うてくれた。ええ養子見つけたあるねがな。ホラ、お寺の伝吉っつあん……伝吉っつあん、どや。お光、伝吉っつあん……伝吉っ……伝……ワッハッハッハッ……。嬶、赤い顔してうつむいてけつかる。ええのやがなァ、ええのやがなァ……。お光、お前がよかったら、お父っつあんもええねン……。ヨシ、待っとれ。これからお寺へ行て、伝吉っつあん、もろてきたるわァ」  猫の子ォをもらうようにやって来よった……。 「和尚さん、こんにちはァ……」 「オオ、だれかと思たら幸右衛門か。さァさ、こっちィ上がんなされ」 「ヘッヘッ、和尚さん。今日は、和尚さんに、折り入って相談があってやって来たんだっけどナ……」 「なんじゃ、その相談というのは……」 「いえ、じつはうちのお光のことだんねン」 「お光がどないぞしたんか」 「いえ、あれ、今年十八でんね、ヘエ。来年は十九というて、あんた、世間ではもっぱらの噂でしてナ」 「なにを言うてるのじゃ、こいつは……。それがどないした……」 「いえ、町内の若いやつは、あわよかったら歪めよか蹴倒そか、あんた、火箸か小便|担桶《たんご》みたいに思てけつかる。ヘッヘッ……。わて、あんた、歪めささん言ィまんねン」 「そゥらはじまった、いつもの娘自慢が……。わが子を褒めるものは阿呆やと、世間ではいうぞ。自分の子を褒めることだけはやめんと、他人《ひと》さまが、めでたいやっちゃと笑わっしゃるぞ」 「なァ、植木に虫がついたら、わての商売、治しまっせ。ところが、あんた、娘に虫がついたら、よう治さんがな。さ、さ、虫のつかんあいだに、養子をもろて、わてと嬶が隠居しようちゅうの、どうだす、この考えは……」 「そら結構なこっちゃないかい……」 「結、結構でっか。ハッハッ、和尚さんが結構やったら、こっちも結構でんね。ええ養子、見つけておまんのや」 「ホウ……。だれじゃ」 「だれやて、アノ、あの伝吉っつあんでんね」 「伝吉……。ハッハ、幸右衛門、あれは、他家へは縁づきのでけん体じゃ。いつぞやも言うたとおり、五百石の家督を相続せねばならん身じゃ」 「ハッハッハッ、それ言うてたらあきまへん。そやさかい、わて、言うてまっしゃないかェ。和尚さん、文句はおまへんな、と言うてまんがな、エエ……。考えてみなはれ。うちのお光は、あれ美形でんがな。伝吉っつあん、好え男や。二人、交合《けあわ》してみなはれ。こらァええ子が出来まっせ」 「兎みたいに言うてるのじゃナ」 「ところが、最初に出来た子供は、こら育たんと、わて、算盤《そろばん》に入れてまんねン。そしたら、さしずめ、あんたとこの銭もうけや」 「そんなおかしなこと、言うもんじゃないがな」 「あんたも死んだ者の仲人ばっかりせんと、たまには生きた者の仲人もしなはれ」 「あほなことを言うな」 「どうあったかて、あきまへんか」 「どうあってもあかん」 「あかん……。ア、さよか。あきまへんかァ……。チェッ、あかなんだらしゃァないわ。……さいならッ……。チェッ、あほらしなってきた、ほんまに……。オイ、嬶ア……」 「まァどうだしたんや」 「あかへんが、あかへんやないかィ」 「あかへんのンわかったァんねがな。……あんたひとりで、やいやいやいやい言うてなはるのやないか」 「オイ、嬶。ちょっと、そこへ坐れ、そこへ坐れ……。わしは、いまさっきから、じイと考えてんのやが、伝吉っつあんも、ああやって家へ毎日遊びに来るというのは、あらァ、お光のことをなんとか思やこそやと、わしゃ思うねン。そやろ……。邪魔してけつかるのは、お寺のド坊主やなァ……。嬶、こうしょうか。こんどナ、伝吉っつあん、家へ遊びに来るやろ……、酒肴を出して、御馳走するのや、なァ。ソイデ、お前、風呂へ行くような顔して、表へポイと出え。わしは得意先へ植木を持って行くような顔して、ポイと表へ出るわ。ソイデ、わしはグルッと裏手へ廻るが……と、焼き板に節穴があるやろ。あの穴から覗くがな……。伝吉っつあん、酒飲む。酔うた勢いで、お光の手でも握らんかい……、わしはそこへポンと飛び込んで行くで。伝吉っつあん、うちの大事な娘になんちゅうことしなはんねン。……まァ、お父っつあん失礼を。……失礼で事がすむと思うか。……ホナ、どないしたらよろしい。……うちの養子においなはれ……と、どや」 「そんなあほなことがおますかいナ」 「阿呆もくそもあるかい、わしゃ、やってこましたんね」  と、えらいことを考えよった……。そんこととは知らん伝吉っつあん……暗剣殺に向《む》こたようなもんで、 「お父っつあん、こんにちは」 「ヨォ、伝吉っつあん来とくなはったなァ。待ってましたや。サ、サ、サ、上がっとくなはれ、上がっとくなはれ……。さァ、ずうっと上がっとくなはれ」 「それではお父っつあん、あまりにも、高上がり……」 「いやいや、高上がりも低上がりもあるかいナ。いずれ、あんたの家になるねン……」 「なんのことでござります」 「イエイエ、アッハッハッハッ……オイオイ、伝吉っつあんが来てくれはった。酒肴を出して、御馳走を……。エェ、ホイデ、お前はちょっと風呂へ行てこい」 「……わて、いまさっき、行てきたとこ」 「なにを……」 「いまさっき行てきたとこやわ」 「なんなと持って出たらええやないか。サァサァ、ボンと表へ出え、表へ出え……。ゆっくり行てこいよ。少々、逆上《のぼ》せてもかまへんさかい……行てこい、行てこい、行てこい……ヘッヘッヘッ、伝吉っつあん、まァゆっくりしていっとくなはれや。ところでうちのお光でっけどナ……今年十八来年十九ちゅうの、世間ではもっぱらの噂……。町内の若いやつは、あわよかったら、歪めよか蹴倒そかて、あんた、火箸や小便|担桶《たんご》みたいに思てけつかんねや。ヘエ、わて、あんた、歪めささんちゅうんだ。植木に虫がついたら、うちの商売、治しまんねや。けど、こいつに虫がついたとなると、あんた、わてよう治さんがな。虫のつかんあいだに、養子をもろて、わてと嬶が隠居しょうと、こういう段取りになってまんのや。ヘッヘッヘッヘッ……。ホイデナ、伝吉っつあん……いや、まア今日はゆっくりしていっとくなはれや……。いま、嬶、風呂へ行きよりましたんや。わて、あんた、これから得意先へ植木を持って行かないけまへんのや、ヘエ。あとは、あんた、お光と二人きりですわ、ヘッヘッヘッ……。いま、嬶、風呂へ行きよった。わて、あんた、これから得意先へ植木を持って行かないきまへんのや……。となると、あんた、もう、この家にはあんたとお光と二人きり……。ヘッヘ、よろしおまっか。ここのとこ、よう聞いといとくなはれや……アノ、ほかの男やったら、お光、まかしまへんで。あんたやさかい、お光、まかしまんねん、なァ、たのんまっせ……。ホイデ、いま、嬶、風呂へ行きよった。なかなか帰って来まへんわ。わては、これから得意先へ植木を持って行て、ちょっとかかりまんね。……あとは二人きり……。たのんまっせ。イヤア……オオ暑う」  親爺、汗かいて、表へ飛び出しよった。  裏手へクルリと廻るなり、焼き板の節穴から、 「ワァッハッハッハッ……。裏手で見てるなんて知りよれへん……。フーム、あないすると、なかなかええ夫婦や、お雛《ひな》はんの夫婦やナ……。フワーッ、なんや……なんや言うとるで。……伝吉っつあん、うちのお父っつあんは、キョトの慌て者……。なに吐《ぬ》かしやがんね、阿呆。かまへん、親はキョトの慌て者でも、子はええ子を生んであるんじゃ。そんなもん、かまへん……。エッ、なんやて……エ、エ……伝吉っつあん、おひとついかがでおます……や、うまいこと言いよる。いつのまに、あんなこと覚えよってんやろ。アッハッハッハッ、どうぞおひとつやのん……エエ、うまいこといきよるがな。……なんやて……お光っつあんもおひとついかが……伝吉っつあんもなかなかやりよるなア。そういかないかんで……。エ、なんや……わたしは不調法でいただけまへん……。ソ、そら、なに吐かすねン、阿呆。そこで、お前、そんなこと言うてたらあかんがな。お前の方も飲まなあかんのや、そこで、お前、そんなこと言うてたらあかんがな。お前の方も飲まなあかんのや、それを……。いかんかいな、ソレ、飲まなあかん……。片方が飲んだかて、お前が飲まなあかんのや……。なにをしとるのや、あのガキは、ほんまに……。阿呆……」  親爺、一生懸命に顔|擦《す》りつけるもんだっさかい、焼き板で、顔半分、真ッ黒けになってしまいよった。 「えろう長居をいたしまして、ほどのう、お父っつあんもお帰りでございましょう。わたしも、お寺に用事もござりますれば、これで失礼をいたします」 「なんじゃいなァ、それ……。それではなんにもならんがな。また、あのお光の糞《くそ》ッたれ奴《め》が……お光」 「まァお父っつあん。おもしろい顔……」 「親は面白《おもろ》い顔でも、子はええ子を生んだあるんじゃわい」 「そやないがな。お父っつあん、いっぺん、鏡見てみなはれ」 「鏡ィ……鏡見てみなはれて……、それ見てみ。親は子供のことにかかったら顔までくろうしてるのに、お前もちょっとぐらい……飲まんかい」 「飲まんかいて、お父っつあん、あて、お酒よう飲まん……」 「よう飲まんて、お前、飲んだらええねやないか。飲んで、ちょっと、いかんかえ」 「どこへ行くのや」 「どこへ行く……ちがうがな。ちょっとこう……パッとこう……ウーム……せんかいナ」 「なにをするのや」 「そらお前……パッと……こう……。そんなこと親の口から言えるかえ……。阿呆やな、ほんまに……。また、うちの嬶、なにをしてけつかんねン。あのガキはほんまに……」 「えらい遅なって……」 「どこへ行ってたんじゃェ」 「どこへ行ってたて、風呂へ行ってたんやないか」 「世帯人が日になんべん風呂へ行くんじゃ」 「ようそんなこと言いなはんな……。あんたが、行け、言いなはったんやないの」 「行け、言うたかて、ええ加減に戻ってこんか」 「どうやったんや」 「あけへんがな」 「あけへんのは、わかったあるね。あんたひとりで、やいやいやいやい、言うてなはるねないか……。どうぞ、伝吉っつあんのことはあきらめとう」 「いいや。わしゃどんなことがあったかて、伝吉っつあんのことはようあきらめん。それより、お光のこっちゃ。あら、ひょっとしたら男嫌いとちがうか……。ええわい、男嫌いでもなんでも、わしが、男好きにしてみせたるわィ」  親爺、一生懸命のあまり、無茶言うてよる。  ある日のこと、嫁はん、風呂から帰ってくるなり、 「ちょっとォ、あんた……。あんたァッ」 「なんや。大きな声出して……火事か」 「なにを言うてなはんねン。ちがうの、ちがうの。いまもナ、風呂へ行てからに、横町《よこまち》のお婆さんに聞いたんやけどもナ、うちのお光……」 「お光がどないしてン」 「まあ、乳の色もかわってりゃ、帯もせんならん、お腹《なか》が大きいと、こう言うやないか」 「なにッ……。お、お光……お腹が大きい。これはお前がいかんぞ、これはお前がいかんぞ」 「まァ、なんと言われたかて、これは、わてがいけまへんの。謝ります」 「そやさかい、言うてるやないかェ。なんやかやいうたかて、子供やよって、ご飯食べるときはちゃんと給仕をしてやれよ、いうのに、お櫃《ひつ》あてごうてむやみに食うさかい、お腹が大きなってんやろ」 「なにを聞いてなはんの、この人。ちがうがな。チクチクと大きなったんやないか」 「チクチクと……。脹満《ちょうまん》やないかィ」 「ちがうがな、懐胎……」 「そやさかい、わしが言うてるやないか。なんというたかて子供やさかい、便所へ行くときはついて行てやれよ、いうてるのに、溝《みぞ》またげて小便さすさかい、狐が憑《つ》いて、カイカイか」 「なにを言うてなはんの。子供がでけたン」 「こどッ……。ちょっと、嬶、子供て、なにか、あの男嫌いの……お、お光に子供……子供……。で、相手はだれや、相手は」 「そんなこと、まだ、聞いてえへんやないの」 「聞いてえへんて、早よ聞かんかい」 「聞かんかいて、あんたがいてたら、あの娘《こ》、恥ずかしがってよう言えへんやないか。わてがまた、内緒で訊《き》いとく……」 「嬶、そんな殺生なこと言うな。肝心のええとこ、お前が聞いて、わしが聞けんて……。わしにもご聴聞を……」 「お説教みたいに言うてなはんのやナ。わてが内緒で訊いとくさかいナ」 「ほな、嬶、こないしょう。わしは二階へ上がってるわ。階段《だんばしご》のとこへ、お光呼べ。ソイデ訊いてくれ……お前のお腹大きいしたんはだれや……。ソイデ、どこそこのだれそれや、いうたら、わしに聞こえるように、大きな声で言うてくれ。ええか、わし、上がったとこで聞いてるさかい、ええな……。ハッハッハッ、男嫌いのお光が、ボテレンやて。うれしいこっちゃなァ。うちのお光はボテレンじゃ」  親爺、喜んで二階へ上がりよる……。 「お光っちゃん、お光っちゃん。ちょっと、こっちへおいなはれ。……お母はん、ちょっと、あんたに話があんの。そこへ坐りなはれ……。お光っちゃん、あんた、お母はんにかくしてることがおまっしゃろ。……いいえ、かくしてなはる。いまも、わてナ、風呂へ行てきたら、ソレ、横町のお婆さんが言うてたけども、あんた乳の色もかわってりゃ、帯もせんならん、お腹が大きいと、こういうやないか」 「……お母はん。あて、お父っつあんに叱られる」 「お父っつあんには、お母はんから、あんじょう話をしたげます。……あんたのお腹を大きいしたんは、一体、だれや」 「あてのお腹を大きいしてやったんは、アノ……お寺の……伝吉っつあん」 「えェッ」  よもやと思う伝吉っつあんということを聞いたもんでっさかい、このことを、はよう親父に知らさんならん……。嫁はんも一調子、張り上げよって、 「ほ、ん、な、ら、なに、かいな。お前の、お腹を、大きいした、というのは、あのお寺の、伝吉っつあんかいなァァァ」  これ聞くなり、親爺二階から転んで落ちよった。 「お父っつあん。こわい……」 「逃げいでもええ。やアよう捕《と》ってくれた、よう捕ってくれたァ、あの捕りにくい伝吉っつあんを、おォよう捕ってくれたァ……。オイ、嬶、鰹節《かつおぶし》かいて、雑魚《じゃこ》のせたってくれ」  猫が鼠捕ったみたいに言うてよる……。 「やァ、よう捕ってくれたな。よしよし、まかしとき、まかしとき。こうなったらなァ、お寺のド坊主がなんと言おうと、お父っつあん、伝吉っつあんもろてきたるぞ、ええか。待っとれ」 「コレコレ、コレコレ、ちょっと待ちなはれ。あんた、なんちゅう格好で行きなはんね。なににしたかて儀式のひとつやないか。羽織の一枚も引っ掛けていきなはらんかいナ」 「よう言うた、よう言うたァ。さ、羽織、かせ、羽織を……。ヘッヘッヘッ、こないなったらなァ、お寺のド坊主がなんと言おうと……こらまた、えらい長い羽織の紐《ひも》や……」 「まァ、それ、わての腰巻やないか」 「ややこしいとこへ、腰巻、おいとくな」  親爺、腰巻かぶって、表へ飛び出して、お寺へやってくるなり、 「和尚さァァん……。伝吉っつあん、養子にもらいまひょ」 「またやって来よったわい。しばらく来んで、助かってたのに……オオ。なんべんも言うようじゃがナ、あれは他家へは縁づきのできん体じゃ」 「ハッハッハッ、そら、あきまへんわ。和尚さん……うちのお光は、ボテレンじゃ、ボテレンじゃ……。いただきまひょ、もらいまひょ」 「すると、なにか……妊娠か」 「いや、鰊《にしん》が棒鱈《ぼうだら》、数の子でもあかんわ。うちのお光は、ボテレンじゃ。いただきまひょ、もらいまひょ」 「そこまでなった仲ならば仕方がない。機会を見て、また、わしが話をしておこう……」 「あかん。そんなこと聞きまへんで。いますぐ、だ……」 「いますぐ、というわけにもいかん」 「そんなら、こうしまひょ。わて、家へ帰って、待ってまっさ。よろしいか。返事の仕様がわるかったら、この風向《かざま》見て、本堂へ火をつけまっせェ。たのんまっせ。ほんなら帰ってまっさ、さいならッ」 「コレコレ……。オオ、あの男のことじゃ。しかねんがな。こりゃえらいことになってきた……。(手をうって)これ、伝吉や……伝吉や」 「和尚さん、お呼びで」 「お呼びで、ではない。そなた、口と心とは表裏《ひょうり》なお方じゃな。あの植木屋の娘をば……」 「お恥ずかしいことながら、ほんの、一度……」 「さ、さ、その一度がいかんのじゃ。……妊娠じゃという……。どうぞナ、あの家へ養子に行てやってくだされ」 「身不肖なるわたくしを、さほどまでにおおせくださるは、かたじけのうは存じまするが、なんと申しましても、わたくし、五百石の家督を継がねばならぬ身……」 「それを言うてたら、本堂が危ないのじゃ。この風向《かざま》見て、本堂に火をつけるという……。どうぞ行てやってくだされ」 「わたくし、どうあっても、行くわけにまいりませぬ」 「そなた、なぜ行ってやってくださらんのじゃ」 「はい、商売が植木屋でございます。根は、こしらえ物かと存じます」 [#改ページ] 馬の田楽《でんがく》  只今ではあまり市中で見掛けませんが、市中というより郊外へ行きましてもあまり見掛けませんけど……、昔はあの馬力というやつが、大阪の市内を歩いてたもんでございます。その以前はどうかと言いますと、馬の背中へじかに荷物を乗せて運んだそうで、その時代のお噂でございますが。  味噌|樽《だる》をば、二梃馬の背に積みまして、馬方さんが、ある家の表で馬を止めよった。  手綱《たづな》をば、格子《こうし》かなにかへくるっとひと巻き巻いて、そいつを馬の足へくるくると巻いて、すぐに出て来るつもりですから、そのままぽいっと中へ入ってしまいよった。そこへ出て来よったんが、近所の腕白小僧、 「もし、梅はんに、竹はんに、松ちゃんに、よっタンにふくタン、皆おいなはれ」 「何でんねん、秀さん」 「いや、あのな、今、山権《やまごん》の表に馬がつないでおまっしゃろ」 「あっ、お馬ちゃんがいてまんなあ。何でんねん。アノお馬ちゃん、どないしまんねん」 「いやなんにもするわけやおまへんねんけどな、どうです、皆で寄ってこれから遊びまひょか」 「なにして遊びまんねん」 「いや、あの馬のねえ、お腹の下くぐり合いしまひょか」 「ははっ、それやったらわたい、お断りさして頂きまっさ」 「なんででんねん」 「そうでんがな、あんな馬のお腹の下くぐったりしたら、危のうおまっせえ」 「ようそんなこと言うてなはるわ。あのねえ、目えつむって、シュウッとくぐったら、よろしねん」 「いいや、私やめときまっさ、馬のポンポンの下くぐって、このあいだえらい目に遭うた人がいてまんねん」 「誰がえらい目に遭いはりましてん」 「ここにいてはりまんがな、この梅はん。へえ、この前、えらそうに言うて、馬のポンポンの下シュウッとくぐりはってねえ、ホデあんた、棒で頭ボーンと殴《どつ》かれはったんですわ」 「ほんまでっかいな……、あっほんに、ハハッ、あんたの言いはったとおりですわ。あの馬、ポンポンの下に棒隠してましたわ。こら危のうおますわなあ。危ないさかい、なんぞ他のことして遊びまひょか。ア、ほな、こうしまひょか、あの馬の尾、バアーッと引き抜きまひょか」 「なんでそんなことしまんねん」 「あのなあ、馬の尾はトンボ釣りのスガ糸の代わりに使うたら、強うおまんねんで。あれなあ、みんなでパーッと抜いてねえ、ほでトンボ釣りしまひょか」 「トンボ釣りのスガ糸の代わりにしまんの、やりまひょ、やりまひょ。しかし誰が尾を抜きはります……、あの私、遠慮させて頂きますわ」 「さっきから、あんなことばかり言うてなはんのや、なんででんねん」 「いえ、馬の尻尾抜いてねえ、えらい目に遭うた人がいてはりまんねん」 「誰がえらい目に遭いはったん」 「この梅はんでんねん」 「梅はん、あんたちょいちょい、えらい目に遭うてなはるねんなあ、どないしはったんでっか」 「わたい、この前、馬のポンポンの下くぐってね、ホデ棒で頭たたかれましたやろ、そやさかいもうポンポンの下くぐるのやめてね、ホデ今度は尾抜いたれと思うてね、ホデあんた、尾抜きに行ったん、ホナわたい背えが低うおまっしゃろ、尾抜こう思たらね、尾シュウッと上の方へ上げはるんだ。背え届けしまへん、ホデネ、下りてくるの待ってたん、ホデ下からこう覗いてたらね、ホナ尾ボーッと上げはってね、ホデあんた、わたいの顔の上へ、ポトポットポトポット……」 「ようそんな目に遭いなはるな、あんた。さよか、ホナうかつに尾も抜けまへんなあ」 「あたりまえでんがな、第一ねえ、馬ちゅうのは後ろへポーンと蹴る習性がおまんねん。そんなもん、馬の尾抜いたとたんにポーンと蹴られてみなはれ、えらい怪我しまっせえ」 「ホナこないしまひょか、誰ぞ他のやつに抜かしたりまひょ」 「誰に抜かしまんねん」 「ちょっと見てみなはれ、向こうから輪替屋《わがえや》の友吉っとんが来まっしやろ、あの人、ちょっと煽《おだ》てたら、何でもやりまっさかい、皆でなあ、友吉っとんを煽てたりまひょ」 「アなるほど、ホナ友吉っとんに頼みまひょか。輪替屋の友吉っとん」 「ア、 皆寄って何してるねん」 「あのね、いま皆で相談してましたんですわ。今から皆で馬の尾抜いて、トンボ釣りのスガ糸の代わりに使おうか言うてまんねんけど、みな気のあかん人ばっかりでんねん」 「何が」 「何がてね、みな馬が怖いちゅうんだ」 「阿呆か、万物の霊長、我々万物の霊長やで、そんなもん、お前、馬ぐらい怖がってたらあかんで」 「いえ、あのね、わけ言わな分かりまへんねん。この梅はんがね、馬のポンポンの棒で頭たたかれてね、ホデ今度は尻尾抜きに行って、顔へなんやぎょうさん掛けてもらいはったん、へえ、ホデ皆が怖がってまんねん。ところがねえ、友吉っとん、あんた、世の中に怖いもんないちゅうこと聞いて」 「あたりまえやないかい、わいなんかな、うちの旦那はんかて怖うないねんでえ、馬ぐらいなんやねんな」 「ホナそない強いのやったら、あの馬の尾一ぺん抜いてもらえまへんか」 「馬の尾、何本抜いたらええねん」 「我われだけでよろしさかい、四、五本抜いてもらえまへんやろか」 「阿呆やなあ、こいつらはほんまに、四、五本ぐらいなんやねん、遠慮することあるかい。わいがぎょうさん抜いたるさかい、まかしとけ」  無茶な奴があったもんで、馬の尾を手へぐるぐるっと巻きつけよって、一ぺんに百本ぐらいバーッと抜きよった。馬かてたまりまへん。尾抜かれたもんですから、「ヒヒヒヒーン」と棒立ちに立った。前足に手綱がひと巻き巻いたあっただけ、ビャーッと棹《さお》立ちになったもんでっさかい、手綱がほどけてしもて、そのまま馬は東へ向いて行ってしまいよった。 「ああっ、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。ほれ見てみなはれな、友吉っとん、無茶しなはんないな、あんたがあないぎょうさん抜きなはったさかいね、ホレ見てみなはれ、馬逃げて行きましたで」 「そんなことわい知るかい。お前らが抜いてくれちゅうたさかい、抜いてやったんやないかい。さあこの尻尾お前らにやるわ」 「もうそんなもんいりまへんわ」 「なんかしてけつかんねん、人がせっかっく苦労して抜いてやったのに。なんかしてけつかんねん。お前ら、いらんのんか、ホナわいがこれからスガ糸の代わりに使うさかい」 「友吉っとん、あんた去《い》んだらあかんで、あんたに責任があるねんで、あの馬、あんたの責任やで」 「そんなこと知るかい、わい去ぬでえ」 「ああっ、去んでしまいよった。えらいこっちゃなあ」 「どないしまひょ、馬子さんが出て来たら、また我われ叱られまっせえ」 「ホナどこぞへ隠れて見てまひょか」  悪い奴があったもんで、木陰へ入って待ってますと、こちらは馬子さん。 「山権の、早いことしてえな、早いこと。荷が着いてるちゅうのが聞こえんのかい」 「ハイハイ、ちょっと待っとくなされ、えらい待たしてすまなんだ。いや、店に誰ぞいてるかと思うてなあ、何か用事かいなあ」 「用事かいなやあれへんがな、あんたとこへ荷が着いたんや、荷が。荷をおろしてええんかいな」 「ハアハ、荷が着いたて、何の荷が着きました」 「何の荷が着いたて、お前、味噌樽が二梃着いたんや」 「味噌樽……、ちょっと待っとくなされや、わしとこ、味噌なんか注文した覚えがないねんけど、あんた、何かいな、何ぞ書き物でも持ってなさんのかい」 「ええ、ここにちゃんと判取り持ってまんねん、あんたとこ山権やろ」 「ホウ……、うちやなあ、山権には間違いないねんけど、この近所に山権が二軒あるのや、わしとこは海苔《のり》を扱うてますねん。味噌は扱うてへんねん。わしとこはなあ、山形屋権兵衛ちゅうのや、お前さんの言うのは山城屋権兵衛はんとこと違うか」 「ホナ初めにそない言うたれや。せんど待たせやがって、それやったらそうと、早いこと言うたれや、表へ馬がつないであるのや。馬鹿にしてけつかんねんほんまに……。アッ、馬がいやへんが、馬が。たしか、ここへつないどいた……おかしいなあ……ア、あんなとこに小伜《こせがれ》が大勢寄ってこっち見てけつかる。ハハーン、また小伜の仕業や。ここらの小伜、悪い奴ばっかりやさかいなあ……。ウおーい、そこにいてるガキ。ウおーい、コラ、オーイ、チビ……、オーイ、返事さらさんかい、おっさんが呼んでるやないかい、ウおーい、オーイ、コラ、返事さらせへんのか」 「皆、返事しなはんなや、なんちゅう物の言いようだ、ガキやとか、チビやとか、ああいう物言いする人は相手にせん方がよろしい、皆知らん顔してまひょ、我われ子供やと思うて馬鹿にしてま」 「なんじゃブツブツ吐《ぬ》かしてけつかるなあ。アそうか、おれの言いようが悪かったんか、なあモシ、そこにいてはる坊んぼん達。坊んぼん」 「なんでおます」 「返事さらしてけつかる、現金なもんやなあ……。いや、ちょっと尋ねるけども、ここに馬がつないであったの、お前ら知らんか」 「ああ、それやったらね、なんでんねん、山権の表にね、馬がつないでおましたやろ、ホナこのねえ、秀はんがね、みんな来い。山権の表に馬がつないであるさかい、遊ぼか、とこない言いはったん」 「遊ぼかて、何して遊ぶつもりやってん」 「さあ、ソレこれから言わんとわかりまへんねんけどね、ホデ皆が、何して遊びまんね、ちゅうたらね、ホナこの秀はんが、あの馬のポンポンの下くぐろう、へえ、ホナここにいてはる竹はんがね、それやったらお断わりします、とこない言わはったん。なんでやねん、ちゅうたらね、えらい目に遭うた人がいてはりまんねん。ホデ、そら誰やねん、ちゅうたら、梅はんや、ちゅうて……」 「そんな話は聞いてえへんがな。俺の尋ねてるのは、ここにつないであった馬を知らんかというてるねん」 「わたい、これから言わな、よう言いまへんねん。まことお急ぎのことなれば、よそでお尋ね」 「ようそんなこと言うでえ、とにかく、お前らをあてにしてるねん、早う言うてえな、どないしたちゅうねん」 「ほでね、梅はんがえらい目に遭わはった、ちゅうて、どんな目に遭うてん、ちゅうたら、馬のポンポンの下に隠してある棒で頭たたかれた、とこない言うたら、ホナ今度は尻尾抜こか言うて、尻尾抜いてどないするねん、言うたら、ホナ、トンボ釣りのスガ糸の代わりに使うたら強うてええと、こない秀はんが言やはったんで、誰が抜くねん、言うたら、皆で抜こ、と言いはったら、ホナまたこの竹はんが、お断りします、とこない言わはったん」 「もうそんなことはどうでもええねや、こっちゃ気が急《せ》くのや、早いことしてえな」 「そない、ヤイヤイ言いはるのやったら、わたい、もうなんにも言えしまへんで。これから言わんと、わたい、よう言わんというてまっしゃろ。ホナラ秀はんがね、なんでやねん、と尋ねたらね、えらい目に遭うた人がいてはりまんねん、誰や、言うて尋ねたら、梅はんでんね、ちゅうて、ホデ、梅はんどないした、ちゅうたら、尻尾抜こうと思うたら背えが低いさかいね、尻尾パーッと上へ上げはったん。馬もよっぽど、根性の悪い馬でしてんなあ、ホデ上げはったけど、そのうち下ろすやろうと思うて待ってたら、顔へボトボット……と、ホデやめとこ、とこないなったんで」 「それでどないしたというねん」 「なんでそない怒鳴りなはるねん。わたい、怒鳴られたら、物よう言わんようになりまんねん。もっとおだやかに、物言うてもらえまへんか」 「わかった、わかった。それからどないなってん」 「ほんなら誰ぞに抜かそ、誰に抜かそ、言うて……。ホタラ向こうから輪替屋の友吉っとんが来たさかい、あの人を煽《おだ》てて抜かそ、ちゅうて。おっさん、輪替屋の友吉っとん知ってなはるか」 「いや、知らんで、そんな子」 「知りなはらへんか、有名な阿呆でんねん。ヘヘッ、その阿呆、ちょっと煽《おだ》ててね、あんた、度胸あるさかい抜いとくなはれ、とこない言うたらね、ホナ抜いたるわ。四、五本でええというてるのに、四、五本てな気の小さいこと言うな、もう同じこっちゃ、遠慮するな、言うてね、友吉っとん、無茶な人でっせ、手へ尻尾ぐるぐるッと巻きつけて、いっぺんにバァーッと抜きはったん。百本ほどおました。ホナ馬もよっぽど痛かったんでんなあ、ヒヒヒヒヒーンいうて、可哀想にヒヒヒヒヒーン、棹立ちにならはったん。私らみな同情して泣きました、ほんまに。ホナ手綱がほどけて東向いてチャーッと走って行かはるさかい、わて言うたん、へえ。モシモシ、まだ馬子さん出て来はらしまへんでえ、ちゅうたらね、馬さんの言わはるのには、急に用事を思い出したさかい、ひと足先に行くさかい、馬子君によろしく。失敬……」 「嘘つけ、何を吐かしやがんねん。馬を逃がしてしまいやがってん。ホデどっちへ行ったんや」 「東の方向いて行かはりました」 「ろくでもないことさらさんな、ここらのガキは、悪い奴ばっかりやで……。またあのガキは、味噌樽つけたまま、どこへ行きやがったんやろなあ、ほんまに、こっちゃ気が急いてるのに……あモシ、そこであの表の掃除してはるお方」 「ウオイ、何やいなあ」 「あのう、ちょっとお尋ねしますが、ここ馬通れしまへなんだか」 「馬なら朝からぎょうさん通ったが、どないや」 「背中に味噌樽つけた馬、ご存じやおまへんか」 「ああ、あれ、お前はんの馬かいな。さっきもなあ、徳さんと話してたんや。近頃は馬も賢うなったな、馬方なしで一人で仕事してるがな、言うてな。ほんならやっぱり相手は畜生やなあ、ソウソウ、そこに草むらがあるやろ、そこでな道草食うてよるさかいな、もしも遅うなって主人に怒られたら可哀想やと思うたんでな、ちょうど箒を持ってたんでなあ、これで尻、ビャーッと、しばいたらな、よろこんであっちへ……」 「ようそんな阿呆なことするで。よけいなことせんでええのやがな、ろくなことせんなあ。ほんまに、さっぱりわややなあ。……モシ、ちょっと物をお尋ねしますがなあ」 「ああっ……」 「あの、ちょっと物をお尋ねしますがなあ」 「……なんじゃ言うてるが、わしかいなあ」 「そうでんねん。あの、あんさん、馬ご存じやおまへんか」 「……なんじゃ」 「いや、味噌樽つけた馬、ご存じやおまへんか」 「……どう……」 「馬、ご存じやおまへんか」 「ハアハア、乳母かいな、あんた、乳母を知ってなさるのかいな。いやいや、乳母はな、河内《かわち》の狭山から来とりましてな、なんじゃ、こないだな、母者人《はじゃひと》が悪いとかでな、しばらく帰るちゅうて、帰ったきりじゃが、それっきり音沙汰がないので、心配してますのじゃが、あんた、知ってなさんのか」 「あんた、だいぶに耳が遠いな」 「エエッ……」 「だいぶに遠いな、と言うてるね」 「いやいや、あんまり遠うはないそうなで、駅降りたらじきやと言うてたがな」 「何吐かしとんねん。ムカムカしてきたな、バーンといたろか」 「なんや」 「いたろかちゅうねん」 「あっ、あんた行てくれるか、すまんなあ、行たらなあ、あんじょう言うといとくれ」 「何を吐かしてけつかんねん。ほんまになんでこないなるのやろ、むかついたなあ、ほんまに。……ああ、もし、もし、大将、大将」 「ダ、誰や、ダ、誰やちゅうねん」 「大将ちょっと物をお尋ねします」 「大将……。オイ俺は軍人やないぞ。大将でも大尉でも少尉でもないねんで、なんやちゅうねん」 「あっ、えらいすんまへん。ホナ親方」 「何を」 「親方」 「親方……。あのなあ、俺は子分、子方持ったことないねん、親方てなこと言われることはないねん」 「難儀やなあ、ホナおっさん」 「誰におっさん吐かしてけつかるねん。われみたいな甥《おい》を持った覚えはないねんさかい、お前らに、おっさんと呼ばれる覚えはない」 「ホナお兄さん」 「なに」 「お兄さん」 「ハイ、何です」 「難儀やなあ、アノちょっと物を尋ねまんねんけど」 「ああ、何なりと尋ねてくれ、言うてすまんけど、俺はなあ、友達にでも皆に言われてるねん、物知りやちゅうてなあ、天地宇宙間、森羅万象、俺は知らんことはないねん。何なと尋ねてくれ、どんなことでも、即座に答えるさかい」 「さよか、こらええお方に尋ねました。ほなら、お兄さん、尋ねますけど、あんた、馬知りなはれへんか」 「何を」 「いや、あんた馬知りはれしめへんか」 「われ、嬲《なぶ》ってけつかったら、張り倒すぞ。いま言うたやろ、天地宇宙間、森羅万象、なんでも知ってるちゅうてるのじゃ、お前もええ齢《とし》して、馬知らんのか、馬ちゅうたらなあ、四つ足で顔の長い、ヒヒヒーン……」 「いや、そうやおまへんのや。わたいの尋ねてるのは、味噌つけた馬知りはれしまへんか、ちゅうねん」 「何を吐かすねん。わしゃこの齢になるけど、まだ馬の田楽、見たことないわ」 [#改ページ] 江戸荒物《えどあらもの》  あいも変わりませず、ごくお古いお噂《うわさ》を一席申し上げますが、一時《いちじ》、大阪では東京が非常にうらやましい、ああ東京はええなあという時代があったそうでございます。その頃は、東高西低《とうこうせいてい》とか申しまして、何一つ取り上げても、東京の方がええように思うたんですなあ。言葉一つにいたしましても、ご承知のとおり大阪の方は、どういたしましても、もっちゃりしております。たとえば暑いときなど、 「暑うおまんなあ」 「さいな今日は、こない暑いとたまりまへんなあ」  てなことを大阪やったら言うんですが、東京の人が言うてると、もう一つ暑いように聞こえます。 「どうでえ、この暑さたまらねえなあ」 「キンタマがとろけちゃあ」  てなことを言いますと、よっぽど暑いように聞こえますが、その当時は品物ひとつでも、東京の品物がええとされてたんですなあ、 「ちょっくらごめんねえ、ちょっくらごめんねえ、ちょっくらごめんねえ」 「誰やいな、表でペラペラいわしてるのん、誰やなあ」 「わっちでござんす」 「何」 「わっちでござんす」 「パッチ、パッチやったらメリヤス屋へ行ったらどないや」 「なあに、わたくしでござんす」 「訳の分からんこと言いなはんな。片口やったら瀬戸物屋へ行きなはれちゅうねん」 「分からんのかいな、わたいでんがなあ」 「なんじゃい、お前かいな、なんじゃ表で訳の分からんこと言うてると思うたら……。なんや」 「なあに、今度ショウベエってやつをおっぱじめちゃってネ」 「何を」 「ショウベエってやつをおっぱじめちゃってネ」 「そのペラペラ言うの、やめたらどないや、お前がもの言うたんびに唾《つば》が顔へかかってどもならん……。何、ショウベエ、ショウベエを始めちゃった、ハハンつまりお前の言うてるのは商売やな。アアええとこに気がついた、ほいで商売ていろいろあるけどどんな商売や」 「東京荒物ってえやつをおっぱじめちゃってネ」 「アア東京荒物、なるほどなあ、今は東京ばやりな。浴衣《ゆかた》一つにしても東京別染め浴衣、下駄にしたかて東京新型下駄てなことを言うとナ、どんどんどんどんと売れる。東京荒物とはえとこに気がついた。ホイデそらええけど品物をいちいち東京へ仕入れに行くのは、ちょっと面倒ななあ」 「いいえ、品物は大阪で仕入れまんねん」 「フーン、大阪で品物を仕入れてどういうわけで東京荒物や」 「いいえ、看板に東京荒物と書いといてねえ、お客さんが来たら、わたいが江戸弁《えどっこ》でポンポンと応対しまんねん」 「アアそうか、なんじゃさっきから訳の分からん言葉を使うてると思うたら、なにかいな、それが東京弁のつもりか。悪い東京弁やなあ。お前、えらそうに東京弁でお客さんと応対すると言うてるが、ホナたとえばやで、大阪やったからお客さんが入って来はったら、おいでやすとかおこしやすというわナ、お前、東京弁でお客さんが入って来たら、どない言うつもりや」 「お客さんが入って来たら、おいでなされませ」 「おいでなされませ、ハーン、それ江戸弁《えどっこ》か、ホナ帰る時は」 「よくおいでなされました、またおいでなされませ」 「マ、せっかくやが東京弁には聞こえんなあ、エエ、あのな、もうわしは年がいって、あんまり東京のほうへは行かんが、若い頃には絶えず東京のほうへ商いで行ったもんや。ああ、あっちの商人《あきんど》さんと折衝してたさかい、東京の言葉やったらわしのほうがもっとくわしいわ」 「ア、 さよか、ホナ東京の言葉でお客さんが来はったらどない言いまんねん」 「まあ東京の人は威勢がええな。いらっしゃい、ずっといらっしゃい、なんでもあります、いらっしゃいませ。こういうふうに、言いなはるのや」 「なるほどねえ、いらっしゃい、ずっといらっしゃい、なんでもあります、いらっしゃいませ、こない言うたらよろしいのか」 「そうそう。帰りはる時には、有難うございました、よくいらっしゃいました、またいらっしゃい、有難うございましたと、なんべんでも丁寧に頭を下げなはれ。ナこない言うたら江戸弁らしゅう聞こえるやろ、ほいで第一なあ、まあ、東京ではちょっと言いなはることが、やっぱり東京の人らしゅうに聞こえるなあ」 「どんなこと言いまんねん」 「おおアマ、シバチにシがねえから、シを持っちきねえ、てなこと言いなはるなあ」 「なんでんねん。そのシバチにシがねえからシを持ってこい、ちゅうのんは」 「東京の人は火という言葉をシと発音しなはる。そこで、シバチにシがねえから、シを持っちきねえと、こう言いなはるねん。ホデ、まあ今でこそ、ないようになったけど、魚河岸あたりへ行くと、もっと威勢のええ商人はんがいてなはったなあ。そやさかい、向こうの人らが言うてはること聞いてると、いかにも江戸っ子らしい。品物一つにしてもやで、大阪でいかきのことを東京でザル、おうこのことを天秤棒。ナ、ザルでもって、天秤棒でもって、一貫、二貫、二・四の八百でござんす、てなこと言うてな。こない言うててみい、いかにも江戸っ子らしゅう聞こえるやろ」 「なるほど、そらええこと教えてもらいました、おおきに有難う」 「ああ、これこれ、なんやったら、もっと東京の言葉教えてあげてもええで」 「いえいえ、大丈夫です、もうこれだけ仕入れといたら大丈夫だ、おおきに、さいなら……。阿呆らしなってきた、入って行くなりポンポンと江戸弁でびっくりさしたれと思うたら、向こうの方が詳しいねん。なるほどなあ、お客さんが来はった時は、いらっしゃいませ、ずっといらっしゃい、なんでもあります、いらっしゃいました。帰りはる時には、有難うございました、よくいらっしゃいました、またいらっしゃい、有難うございました。オ、シバチにシがねえから、シを持っちきねえ、なるほど、江戸っ子らしいなあ、ザルでもって、天秤棒でもって、一貫、二貫、二・四の八百でござんすと。なるほどなあ、おい、アンマ」 「びっくりした、なんやねんな大きな声で」 「おお、アンマ」 「肩でも凝るのんか」 「誰が肩凝ると言うた、そやないがな、東京で嫁はんのことアンマちゅうねん。お前今日からアンマやで、ええか、俺は江戸っ子になってんさかい」 「まあ、情けないこと、それよりしっかりと店番しなはれ、さっきからお客さんが来てくれはるのやけど、品物の値段が分からへんさかいに、みな帰ってもろうた、しっかり店番しなはれ」 「分かったある、分かったある、まかしとき。いらっしゃい、ずっといらっしゃい、何でもあります、いらっしゃい、おいアンマ、シバチにシがねえから、シを持っちきねえ」 「何を言うてやってん」 「シバチにシがねえから、シを持っちきねえ」 「そんなとこへ塩を持って行って、何をするのん」 「分からんガキやなあ、このガキは。江戸っ子やないかい。火鉢に火がないさかい、火を持ってこいというてるねや」 「この暑いのに火がいるのんか」 「そらいれへんけど、いま稽古してるのや、やかまし言いな」 「ごめんなはれや」 「いらっしゃい、ずっといらっしゃい、なんでもあります、いらっしゃい、おい、アンマ、シバチにシがねえから、シを持っちきねえ」 「いや、そない大層にしてもらうほどの買い物やおまへんねん。ここに吊ってあるあの、藁草履《わらぞうり》一束分けてもらいとうおまんねんが、なんぼでおます」 「ザルでもって、天秤棒でもって」 「いや、そないぎょうさんいれしまへん、一束でよろしいねん、なんぼでおます」 「一貫、二貫、三貫、二・四が八百でござんす」 「分からんなあ、またこんど来まっさ、さいなら」 「有難うございました、よくいらっしゃいました。またいらっしゃい、有難うございました」 「ちょっと、何ぞ売れたんか」 「何も売れへん」 「そうかてあんた、えろう礼を言うてたやないか」 「品物が減らんさかい、礼言うてるねん」 「ようそんな阿呆なこと言うてるわ、品物が減らなんだら商売にならへんやないの」 「分かったあるわい、そないはじめから、うまいこといくかい」 「オウ、ごめんよ」 「いらっしゃい、ずっといらっしゃい。何でもあるよ、いらっしゃい、オイ、アンマ、シバチにシがねえからシを持っちきねえ」 「威勢よくやってるじゃねえか、おう、手前ッちに、たわしあるかい」 「いらっしゃい、ずっといらっしゃい、なんでもあるよ、オオ、アンマ、シバチにシがねえからシを持っちきねえ」 「何を言ってやがんでえ、手前ッちに、たわし、あるかってんだ」 「ザルでもって、天秤棒でもって一貫、二貫、二・四が八百でござる」 「焦《じ》れってえ野郎だなあ、この野郎、オウ、手前ッちにたわしがあるかってえんだ」 「たわしてなんや、おっさん」 「おっさんとは何を言う、お前の膝の脇にあるじゃねえか」 「あっ、この切り藁、これならあります」 「いくらだい」 「なんでえ」 「いくらだってんだ」 「いくらでもいいよ」 「おそろしく気前のいい商人《あきんど》だなあ、オウ一貫置いとかあ、三つばかり貰っていくよ、あばよ」 「有難うござい、有難うございません、もう、いらっしゃいますな、なんとほんまもんの江戸っ子が来やがんねん、もう江戸弁はやめたろ」  心細うなっておりますところへ、 「ヤアレ、おっじゅつ……」 「そうや、こんなやつに江戸弁をかましたったらええねん、いらっしゃい、ずっといらっしゃい、なんでもあります」 「おらあ、横町の長谷川から来よりましたんじゃがのう、行き方さあになあしろなあのつんるべ、なあのおざわちょうで、なかろまいかのう」 「何のこっちゃ分からん、あのなあ、女子衆《おなごつ》さん、あんた自分で分かってるつもりでベラベラ喋ってるけど、あんたの言葉わからんねん、すまんけどなあ、もう一ぺん長うに引っ張って言うてんか」 「やあれ、つじゅちじゃのう、うらあノ、横町の長谷川から来よりましたんじゃがのう、行き方さあになあしろなあのつんるべ、なあの、おざわちょうで、おざわちょうで、なかろまいかのうちゅうに、この人まだ分からんかのう」 「よけ分からんようになったがな、ちょっと待って、待って、待って。うちかたなあ、になあしろはあ、七尋《ななひろ》半、つんるべなあ、アア、釣瓶縄《つるべなわ》か、モシ、あんたの言うてんのは、釣瓶縄やろ」 「そうじゃ、つんるべなあ」 「そない言うさかいに分かれへん、ちょっと、待って待って、確かな、釣瓶、えらいことした釣瓶縄だけ仕入れるの忘れてるがな、今さらおまへんとは言えんなあ、江戸弁であることがあります……。分かった、えらいすまんねんけどなあ今釣瓶縄はないます、ないます」 「ヤアレ、今から綯《の》うとっちゃあ間にあわんでのう」 [#改ページ] |狼 講 釈《おおかみこうしゃく》  ヘエ、相変わりませず、入込みのお話を聞いて、イやない、読んでいただきます。入込みと申しますと、きまったように旅のお噂を申しますが、旅も種々ござりまして、皆様方の旅を遊ばすのんと、我々が旅をいたしますのんとは、よっぽど相違がござります。我々が旅をいたしますのんは、借金で当地におられまへんので、つまり借金逃げに旅へ出ます。決まった席もござりまへんので、あちらこちらで、一日とか二日とか座敷をして貰うて、中国筋を出て参りましたのが芸州《うんしゅう》の海田《かいだ》市で、町外れに一軒の髪結床《かみゆいどこ》がござります。  現今はどこへ参りましてもよくなりましたが、前方《まえかた》は片田舎へ参りますと、ずいぶん汚ない不行き届きなもんで、庭へ入りますと、チョッと一畳ほどの畳が敷いてござります。台輪の外れた火鉢に、蓋《ふた》の違う口の欠けた、マッくろけの土瓶《どびん》が掛けてござります。鬢台《びんだい》というたら植木棚のつぶれたようなもので、柱に七、八寸の曇った鏡が掛けてある。親爺の留守にゃア、女房が髭《ひげ》を剃ったり髪を結ったりするという。実になってない。客がないので、親爺は胡座《あぐら》を組んでしきりに髭を抜いております。 「エー、ご免やす」 「ハイ、お出で、髪結《かみ》だすか」 「イエ、私は大阪の芸人でおますが」 「ハハア芸人、何を演《な》さるね」 「落語家《はなしか》でござります」 「はなしか、はなしかて何じゃ」 「昔ばなし、落としばなしを演《や》ります」 「何じゃ、噺家《はなしか》か、お前はよいところへお出でなさった、マアこちらへお上がりなされ」 「ヘイ、有難うさんで、私もえらいよいところへ探し当たりました。どこぞに噺が聞きたいと言うお仁《ひと》がござりますのんか」 「イヤ、そうじゃない。マア話をせんければわからんが、ちょうど去年の今ごろじゃった。これも大阪の噺家じゃと言うて、このところへ尋ねて来た。で、そんなことの世話をするえらい好きな人があって、噺家ならばえらい面白い。ひとつ噺を演らそうというので、お庄屋様へ相談に行たら、そういうことならみんな土地《ところ》の者が寄っていくらか金を集めてやって、噺をば演らしてみようということになった。ところがその噺家が大層お庄屋さんの気に入って、お前のような面白い顔じゃない、その噺家は至って美《よ》い男じゃった。そこで二日ばかりも座敷をしてやった。そうすると雨が降って翌日は発《た》てぬので、マアマア、モウ一日も座敷をしてやろうかいと言うてるうちに、そのお庄屋の家に、一人娘がある。その娘がその噺家に惚れて、少々金子を持ち出してついに行方が知れんようになったんや。サアお庄屋さんは心配で、世話をした者も掛かり合いになり、どこへ行たのやろうと、あちこち手分けをし仰山《ぎょうさん》な金を費《つこ》うて、探したがどうしても知れん。そうするとその娘御は、備後の鞆《とも》の宿屋に着のみ着のままにして、ほったらかして置いて、その噺家はどこへ行たか行方がわからんので、娘御は困っていたところへようよう迎えが行て伴《つ》れて帰ったようなことじゃ、それゆえ噺家と見たら、どいつこいつの容赦なく、つかまえたら簀巻《すま》きにして、海へ放り込んでしまえと言うのじゃ」 「ヘエ、それは困ったことが出来ましたなア」 「そこでよいところへ来たと言うのんは、私の家へさしてお前さんが来たよってに、こうして見逃してあげるが、ここで噺家やというようなことはおくびにも言えんで」 「アア、さようか、そんなことはチョッとも知りまへんので、どうしたらよろしいやろうか」 「そうやな、しかしお前さんは噺家やと言いなさるが、講釈でも演れんのんか」 「ヘイ、講釈は演ったことがござりまへんので、実は、私は懐中《ふところ》に一文もないのんで、お恥かしいことだすが、朝から御飯も食べておりまへんので、お宅へ入って参りましたのは、お座敷でもして貰《もろ》うて、今夜一晩泊めていただこうと思て来ましたのに、そういうことなら困りました」 「えらい気の毒や、しかし噺家なら講釈の真似方《まねかた》を何なとしゃべれんことはあるまい」 「そりゃア、誤魔化してチョッとぐらいはしゃべります」 「それでは、こうしなされ、俺がよい智恵を貸したげる。この向こうに、太郎兵衛というて、商売は万屋《よろずや》や、荒物やの塩や醤油やいろいろな物を売ってる家がある」 「ヘエ、どの辺でござります」 「俺の家から、ツイ十軒ほど東の方へ行くと、右側の家や」 「ヘイ、ヘイ」 「そこへ行て、俺が言うてると言わずに、お前が私は大阪の講釈師でござりますが、なにとぞひとつ今宵座敷を、お世話に預かりとうござりますと、こう言うて行くのじゃ」 「ヘイ、ヘイ」 「そうするとかならず、太郎兵衛という男はえらい世話好きやで、お庄屋さんのところへでも行て座敷をしてくれる。お庄屋さんの家で風呂へでも入って、御飯も食うて腹を充分にこしらえて、そうして、お前が講釈を演れりゃ演ったらよし、演れにゃア小便でもするような顔をして裏口へ出るのじゃ、そうすると裏の切り戸を開けて出ると、ズーと畠道や、それをば西へ西へと行きゃア、本街道へ出られるよってに、夜通し逃げてしまいなされ。そうすれば腹も大きくなるじゃないか」 「イヤいろいろと大きに有難う存じます。何分よろしゅうお頼み申します」  とこれから教えて貰いました万屋へ参りまして、段々と話をいたしましたので、そういうことなら、私が世話をしてやろうと、お庄屋さんへ伴《つ》れて参りました。 「ヘエー、今晩は」 「ハイ、どなたじゃ、オオ太郎兵衛さんかえ、マア上がりなされ」 「エー旦那さん、早速だすが大阪から講釈師の先生が参りました。軍談を演るそうで」 「フムフム」 「どうぞひとつ今宵座敷をばしてくれと頼みに参りましたが、旦那さんどうでござります」 「アアそうかのウ、フム講釈、アノ軍談を演るお方か、ちょうど私も退屈じゃで、それでは座敷をばひとつしてやろうじゃないか、お前気の毒じゃがのウ、みな若い者を呼びにやっておくれ、衆人《みな》に聞かしてやろうから」 「マア何分旦那さん、よろしゅうお頼み申します」 「さて、その先生というのは、お前の方へ来ておいでかナ」 「イエ、只今同道して参りました」 「オオ、それはそれは、マア先生もこっちへ上がってお貰い」 「先生、どうぞこちらへ」 「ヘイ今晩は、大きに有難うござります」 「アア、お前さんか」 「ハイ」 「大阪で軍談講釈をお演りなさる先生というのはお前かえ」 「ハイ、泥丹坊堅丸《どろにぼうかたまる》と申します。何分よろしく」 「ハハア妙な名前じゃナ、泥丹坊堅丸、しかし御飯はまだであろうなア」 「ヘイまだ頂きまへんので」 「それじゃ、コレお鍋やお鍋や、この大阪の先生にお膳のこしらえをしてあげて。お風呂もわいているじゃろう、サア、風呂へ入って下され」 「有難うござります」 「しかし先生、こういう田舎じゃでな、なかなかお前さん方は上方で贅沢なことをして、旨いものを食うていなさるじゃろうが、こういう田舎で何も旨いものはないが、ホンの漬物でお茶漬じゃ」 「ヘイヘイ結構でござります」 「ゆっくりおあがり、そうしてお風呂にも入って下され、そのうちには衆人が寄って来るであろうからご遠慮なしに」 「いろいろ有難う存じます」  泥丹坊堅丸は朝から食わずで腹が空いてますから、会うたときに肩脱げで、食いよった食いよった、腹の皮が張り裂けるほど食いました。 「コレ先生、遠慮なしに精だい食べとくれや」 「ヘイ仰山いただきまして、モウ御飯がござりまへん」 「それはそれは、コレお鍋や、コレお鍋や」 「田舎の人は大きな声やなア、耳がジャンジャンいうがな」 「コレ、お鍋や、先生が飯が無いと言うてはるがな、大きい方のお櫃《ひつ》を出しておあげ申せ」 「イエ旦那さん、大きいお櫃を出してあげましたので」 「けども先生は、お櫃に飯がしまいじゃと言うてなさるじゃないか」 「ヘイ、三升炊きまして昼みなが食べまして、まだ沢山あったのでおます」 「アア、そうかえ、大阪の講談師の先生は田舎の者よりなかなかえらいナ、イヤまた後で温かい飯を炊かして何ぞ、ご馳走するじゃ、サアどうぞ風呂があいてる、風呂へ入って下され」 「有難うござります」  これから風呂へ入りまして、スッカリ身体を洗い、上がって参りました。 「アアよい心持ちになりました。有難うございます」 「しかし先生、講釈を演りなさるのには、やっぱり高座というものを拵えにゃならんだろうな」 「イエ、もう平舞台で結構でござります」 「そうか、そうして見台《けんだい》というものが要るやろな」 「ヘイ、別に見台やのうて、机か米箱でも何でもよろしゅうござります」 「コレそこにある米箱をこっちへ持って来んせ、先生これでよいかナ」 「ヘイ、結構でござります。両方へひとつずつ、燭台をどうぞ二梃出しなさって」 「ハイハイ、コレ藏へ行て燭台を二梃出しておいで、それで何にも他に要らんかナ」 「どうぞ火鉢にお白湯《さゆ》を土瓶に入れて、お掛け置き下され」 「アア、よしよし、コレ火鉢に火をすこし入れて土瓶にお白湯を入れて掛けて置けよ……ムムこれでよいかナ」 「ヘイヘイ、それでよろしゅうござります。そうして湯呑みをお盆の上へ載せてお貸し下され」 「ハイハイ、先生、これでよいかナ」 「それで結構でござります」 「サア先生、モウボチボチ聴衆《ききて》が来るよってに、マアゆっくり一服しておくれ」 「有難うござります。アノ旦那さん、お便所《ちょうず》はどこでござります」 「アア便所かナ、便所はそこの障子を開けるとナ庭じゃ、通縁《つたい》がついてるでナ……コレ、便所場へ灯《あかり》を点けてあんじょうしておけよ」 「イヤ、有難うござります、しばし休息さして貰います」と障子を開けますと、縁側へ出ましたが、小便をしに行くような態《ふり》をして、庭へ降りますと、あっちへウロウロ、こっちへウロウロとようやくのことで、裏口へさして出ますと切り戸がある。ソッと開けて外へ出ますと、先刻髪結床の親爺に聞いたとおり畠道、コレ幸いと尻をグッとからげますと、勝手の分からぬ路をば、一生懸命駆け出しました。 「どっこいさのさ」(鳴物、韋駄天)  そんなことはご存じないのはお庄屋さんの方で、村の若い衆がおいおいと寄って参りました。 「ヘイ、旦那様、今晩は」 「オオ新次郎か」 「ハイ旦那さん、今晩は」 「オオ安兵衛か」 「エイお庄屋さん、今晩は」 「オオ久造か、マア皆こっちへ上がっとくれ」 「ハイお庄屋さん、今晩は」と表から聞き手がおいおい入って参りました。 「サアサア皆さん、どうぞこっちへ、コレ煙草盆や、お茶を用意して持っておいで」 「お庄屋さん、ようお知らせ下さりました」 「ハイ、講釈はナえらい久しぶりじゃで、ほかのことと違うて講釈は実に面白いものじゃ」 「さようでござります。噺などは頼りないもので、また浮かれ節などと違うて、講釈は結構でござります」 「ナア新次郎、今度の先生は大阪の先生じゃそうな、ナニかどういうものを演って貰おうナ」 「お庄屋さん、どんなものがよろしゅうござりましょう」 「そうじゃな、いずれ軍談ものじゃナ、川中島とか、やっぱり太閤記か、あるいは慶安太平記だとか、マアそういうものが面白いナ」 「時に旦那さん、先生はモウ来ておいでなさるのでござりますか」 「フム、いま奥で皆さんのお集まりになるまで一服さしていただくというて、先生は奥にいなさる」 「アアさようでござりますか、モウたいてい皆の顔が揃いましたゆえ、ボツボツ演って貰おうじゃござりまへんか」 「そうじゃナ、コレ久七」 「ヘイ」 「奥へ行て先生に、皆がお集まりになったから、もうボツボツお始めを願いたいと言うて来てくれ」 「承知いたしました……。アノ先生、モシ、先生、どこへ行っただろう……。モシ旦那、先生は奥に見えまへん」 「ハハアそうかナ、最前便所場を尋ねていなさったよってに、お便所へでも行きなさったんじゃろう」  若い者は便所を探しましたが、影も形も見えまへん。これはなんぼしてもおりまへん。こちらは暗がりを走りましたので、路を間違えて段々山路へ登って参りますと、夜はしだいに更けて真っ暗がり、片側は谷川、片側は山の間の細い路をば、とぼとぼと歩いておりますと、向こうの方にパッと光りものが見えますので、 「コラえらいとこへ来たで、ハテナ、この空で今夜星が見えるはずがないのに、何や、下の方に星が見える。イヤイヤ星の光と違うようなが、ハテナ」  不思議に思うておりますと、またもや、パッパッと光るものが二個ずつ次第に増えて参ります。何やいなアと思うておりますと、横手から光る物がパッと出たので、よくよく見ますと星の光ではござりません。この深山に住んでいる狼が、二、三十匹ばかり、ウーと吼《うな》りながら堅丸のそばへ近寄って来ました。堅丸はびっくりして腰を抜かしそこへへたってしまいました。噺というものは奇妙なもので、これから狼に口を利かせます。 「コリャヤイ、大阪の噺家」 「ヘイ、ア……ハ」 「貴様は良からぬ奴じゃぞ、庄屋の家に講釈師などと偽って入り込み、腹いっぱい飯を食い、講釈も演らずに裏口から脱けて、この山へやって来た。サアお頭《かしら》の仰せによって、その噺家を食うてしまえということであるから、狼群《おれ》らが、いま貴様をば、寄って集《たか》って食うてやるからそう思え」 「アア、モシ狼さま、チョッチョッちょっとお待ちなさって下さいませ。なるほど、お庄屋の家で講釈を演ると言うて逃げて参りましたが、私は講釈を演らんことはござりません」 「コラ、貴様は講釈を演るのならば、何で逃げて来た」 「そらなるほど逃げて参りましたのは悪うござりますが、そのかわりにここで私が講釈を演りますよってに、どうぞ命ばかりはお助けになって下さいませ」 「そうか、貴様が講釈を演るとあれば、助けてやらんこともない。サアそれでは、ここで演れ、吾々はみな傍聴するから」 「かしこまりました」  泥丹坊堅丸《どろにぼうかたまる》も致し方がござりませんから、包みの中から張扇《はりおうぎ》を取り出しまして、そろそろ支度にかかりました。二、三十匹の狼はみな堅丸の膝前にチャンとひざまずいて、 「サア、早う演れ」 「かしこまりました……。エヘン(ボンボン)エー一席うかがいまするは難波戦記《なんばせんき》の抜き読みで、ころは慶長の十九年も相改まりまして、明くれば元和元年五月七日の日の中でござります。大阪城中上段の間には、内大臣|秀頼《ひでより》公をはじめとして、御左座には御母公|淀君《よどぎみ》を脇ぞえとなし、大野道犬、軍師には真田左衛門尉海野幸村《さなださえもんのじょううんのゆきむら》、せがれ大助|幸昌《ゆきまさ》、後藤又兵衛基次、長曾我部宮内少輔秦元親《ちょうそかべくないしょうゆうはたのもとちか》、木村長門守重成、七手組の番頭には、速見甲斐守時之、塙《はにわ》団右衛門、薄田隼人《すすきだはやと》の銘々、今や遅しと手配りなして相待つところへ、ここに関東方の惣勢五万三千五百有余人、辰の一天より城中を目掛けて、えいえい、どうどう、と押し寄せたり。中にも先手の大将と見え、その日の扮装《いでたち》は、黒革縅《くろかわおどし》の大鎧、同じく半月前立て打ったる兜を猪首《いくび》に着なし、白檀磨《びゃくだんみが》きの籠手脛当《こてすねあて》、馬はなにしおう荒栗毛と言える名馬に、金覆輪《きんぷくりん》の鞍を掛け、馬の平首に添うて悠然《ゆらり》とうちまたがり、吾こそは駿遠参の三ヵ国に、さる者ありと知られたる、徳川家康公の臣下にて、本多|中務大輔《なかつかさたゆう》平八郎忠勝なり、吾と思わん者あれば、わが首取って功名せよと、大音声に呼ばわったり。このとき大坂方にては、やア憎き本多の振舞いかなと、大手の門を八文字に押し開き、先ず一番に馳け出したるは、新田左兵衛義貞、楠正成、塩谷判官《しおやはんがん》、桃井若狭介、日本駄右衛門《にっぽんだえもん》、石川五右衛門、鼠小僧、幡随院長兵衛、平井権八、滅法《めっぽう》弥八、種ケ嶋六蔵、小錦、梅ケ谷、小柳と言える相撲取りまでも、吾も吾もと獲物をたずさえ斬り入ったといえど、ここに本多の一騎に斬り立てられ、秋の木の葉の散るごとくムラムラパッと逃げ失せたり。逃げる者には目も掛けず目指すは時政ただ一人、討つなもららすなと言えど、天を翔《かす》って遁《のが》れしか、地をもぐって逃れしか、無念ながらも時政を討ちもらして候と、注進聞いて敦盛は、詮方波に駒を入れ、海の深みに十段ばかり乗り入れたる背後より、日の丸の軍扇サッとおし開き、春のあしたの海風に、さそう轡《くつわ》の音たかく、これぞ熊谷次郎丹治直実、敵に後ろを見せたもうや、引きかえして勝負あれ、見参《けんざん》見参と呼ばわったり。敵に呼び止められ何のおめおめ落ち延びんと、駒の頭を立て直し馬上ながらも、兜の錣《しころ》を引きつかみ、エイヤエイヤと引き合いしが兜は脱げて、両馬が間にむんずと組み落ちたり。猪隼太《いのはやた》馳け来り、懐剣取り出し化鳥の胸板を刺し貫さんとする。ところへ曽我の兄弟、兄の十郎祐成、弟の五郎時致、ヤア珍しや工藤左衛門祐経、亡父の仇と打って掛かる。折しも空中より武蔵坊弁慶現れ出で、数珠サラサラおしもんで、東方に降三世《こうさんぜ》、南方に軍荼利《ぐんだり》夜叉王、西方大威徳夜叉明王、北方金剛夜叉明王、中央には大日大聖不動明王、と唱うれば鐘はなんなく鐘楼堂に巻き上がり、四方《よも》の山々雪解けて、水嵩《みずかさ》まさる滋賀の大川、川上川下と見てあれば、ここにひとつの不思議というは、二八ばかりの婦人《おんな》、天女眉に薄化粧、緋の袴を着し、白絹の血に染まりしを洗うに、保昌タジタジと立ち寄り、御身はなんぴとにて候、妾《わらわ》こそは大江山|酒呑童子《しゅてんどうじ》にとらわれとなったる、毛谷村六助の女房の園と語れば、こなたは両眼より涙を流し、妾こそ六年以前信田の森にて悪右衛門に狩り出され、死する生命を保名《やすな》殿に助けられ、鬼界ケ島へ流されたる、鎮西八郎為朝なり。このわけ語って聞かせんと船に打ち来り、竹生島詣での下船、瀬田矢走の方より二十ばかりの婦人、白絹のようなる物を口にくわえ、抜手を切って浮きつ沈みつ流れ来る。彼の女助けよと、実盛一人|舷《ふなばた》叩いて焦れども、折がら比叡の山|颪《おろし》、芝船の助けもなく、水に埋れし三間櫂を投げ込んで、難なく御船に漕ぎつけしが、飛騨左衛門白旗もぎ取らんとする、この旗渡しては源氏は末代埋れ木と、イヤ渡さじ、イヤ取らさじと争うところへ、この白旗を持ったる腕を、海へざぶんと実盛が斬り落とせば、この腕二十|尋《ひろ》余りの大蛇となり、日高の川をやすやすと渡りて、道成寺に鐘の下がりあるをさいわい、七巻き半キリキリと巻き、残りたる首を江州瀬田の唐橋へグッと出せば、田原藤太秀郷《たわらとうたひでさと》は心得たりと三人張り重藤造《しげとうづく》りの弓に、蕪根《かぶらね》の矢をつがえ、ヒョッピキヒョッーと切って放てばあやまたず、平親王将門のこめかみに発矢《はっし》とあたり、馬よりずでんどうと落ちたるところへ、今年二十六歳鉄砲の達人と呼ばれたる、早野勘平馳け来り、猪かと思えば南無三宝、こりゃ旅人、懐中に良き薬はなきかと手を差し入れる。手に触ったるは縞の財布に五十両、天より吾に与えしたまものと、勇み進んで馳け行くこなた、太田道灌現れ、声も涼しく詠み出す、一首の歌に『石川や浜の真砂は尽きるとも、むべ山風を嵐というらん』。箱根にお化けはいまだにない、あったらほんまに凄かろね。高い山から谷底見れば、瓜や茄子《なすび》の花盛り、アリャドンドンドン、コリャドンドンドン、オッペケペーのペッポッポー、この歌に敵も感心をいたしまして、軍は互いに引き分かれ、これより小野小町と、達磨大師の忍術競べは、ちょっと一服……」  とこうあたりを見ますると、今まで前で聞いていた狼は一匹もおりまへん。泥丹坊堅丸はヤレヤレと思いました。狼の手合はウーと吼《うな》りまして、山奥へ入って参りました。やがて頭の前へ狼群《おおかみども》ひざまずき、 「ヘー、お頭、ただ今帰りました」 「オオご苦労であった、いつわり者の噺家を汝《われ》らア皆寄って集《こ》って食い殺したか」 「どういたしまして、食い殺すどころの騒ぎやござりまへん。険呑《けんのん》でなりまへんので、帰って参りました」 「何が険呑じゃ」 「あの噺家、口から仰山鉄砲を放しました」 [#改ページ] おごろもち盗人《ぬすっと》  古い大阪の言葉でおごろもち盗人というのがあったんやそうで、おごろもち、河内《かわち》へ行きますと「おんごろもち」と、「ん」をば入れる所があるんやそうで、「おごろもち」と言わんと「おんごろもち」、もぐらのことでございまして。 「おやっさん、おやっさん、もう一時過ぎてんねんし、ぼちぼち寝たらどないやねん」 「眠むたかったら、われ先に寝たらええが、チャチャッチャッチャッチャッ、チャチャッチャッチャッ(算盤《そろばん》の音)」 「ちょっと、いつまで算盤おいてなはるねんな、寒いさかい早よ寝よ、ちゅうてまっしゃろ」 「眠たかったら、われ先に寝えちゅうてるやろ。ほんまにもう、チャチャッチャッチャッチャッ……」 「ちょっと、何べん算盤おき直しなはんねん。寒いさかい、早よ寝よちゅうてまっしゃろ」 「眠たかったら、お前先に寝えて、俺かて眠たいのに、いつまでもこんなことしてんとやでえ……チャチャッチャッ、われが横手からやいやい言うたんびに、チャチャッチャッチャッ、やり直さんならんのやないかい。やいやいやいやい言わんと、先に寝え」 「ほんまに頼りないなあ、何べん算盤おき直してなはるねん。寒いさかい早よ寝よちゅうてまっしゃろ」 「眠たかったら、われ先に寝えちゅうてるやないかい、お前先に寝え」 「わたいかて一人で寝て寒いことなかったら、先に寝るけど、あんたがいててくれなんだら、寒いやないか」 「なんで」 「そうかてあんたがいてくれてたら、炬燵《こたつ》がいらいでええやないか」 「ようそんな阿呆なこと言うてるなあ、エエ、明日|節季《せっき》や、あっちこっち仕払いせんならんのや。わしがこないして一生懸命……チャチャッチャッチャッ、計算して段取りつけてるの、お前がナ横手からやいやいやいやい言うさかい、チャチャッチャッ、なんでこないなるねやろ。ア、コレ、そないやいやいやいやい言いな、今月こない商いがあったのや、銭が残らんならんはずやねんけどなあ……、チャチャッチャッチャッ、帳面と算盤は合うたあるのや、どうしても銭が足らんねん、おかしいなあ……。われこの銭箱の銭出さなんだやろな」 「うっかりしてたわ、いいええな、死んだお母はんが言うてはった、夏にいる物があったら冬に買《こ》うとき、また冬いるもんがあったら夏の間に買うといたら、安う買えるちゅうて、聞いてたさかい、こないだ蚊取り線香買うたん、あんたに言うのころっと忘れてたん」 「なにをさらすねや、蚊取り線香てお前、第一まだ一月やで」 「そうかて、お母はん、安う買えるちゅうて。こないだ横町へ行ったら安うに出てたん。うーんと買うといたん。あれやったら、十年ぐらいいけると思う」 「無茶すな、阿呆、それで銭が足らんのや。われはそれでええかしらんけど、銭の段取りするのは皆こっちや」 「それよりもあんた、去年の夏に気イついて炭団《たどん》買うといたらよかったんやけど、何もないの、あんたがいてくれなんだら寒いやないか、早よ寝まひょ」 「分かったあるわい、分かったあるけど、今言うたとおり、銭の段取りだけしとかな、どないもならんのや、ええっと困ったなあ、チャチャッチャッチャッ、かなわんなあ……」  一生懸命、帳合いをしております。その時分、泥棒が昼の間に商人かなんかに化けまして、その家の様子をうかがいに参ります。ここのうちは出入口が何ヵ所ある、また裏へ抜けるとどこらあたりへ抜けられるという、およその見当をつけまして……。また表の戸締まり一つにいたしましても、ここの家はここに桟があって、ここから手を突っ込んでこの桟を外すと、表の戸が開くという……。そのためにはここらあたりへ穴掘ったらええという所へ、昼間地面へ印をつけまして、これが夜になると泥棒になってやってまいります。おごろもち盗人というやつでございます。 「……、チェッ、いつまでたっても寝やがらへん。ほんまにかなわんなあ……しゃあない、待ってられへんがな、ぼちぼち穴掘ってこっちから突っ掛けていてこましたれ、こないなったらしゃあない。ヘッヘヘヘヘヘヘヘ、これだけ時間かけて穴も掘ってあるんじゃい。ヨッコラショと。ヨッ、たしかこの辺に桟があって……、これを外したらこっちの……こっち……、こっちのもんやいうけど、あらへんなあ、桟が。おかしいなあ、たしかこれ……、しもた、昼間測り間違うてるがな、これ。というて、もう一つ穴掘るわけにいけへんし、なんとか届かんかいなあ……、もうちょっとやねんけど、これ、なんとかならんかいなあ」 「嬶《かか》っ、眠たかったら、われ先に寝え、とりあえず段取りだけつけたら、寝るよってに。エエーと、ということは、チャチャッチャッチャッ、とこうしといて、中野さんとこへ、チャチャッチャッとこうまわして、あと藤沢さんか、チャチャッチャッ、こうして……アっ、これでも足らんか、もうちょっとやねんけどなあ」 「なんでこれが届かんねや、もうちょっとやねんけどなあ」 「われがしょうもない物を買うさかい、こないなるのや。ほんまに、もう、エーと、チャチャッチャッチャッ、ホナこれ高橋さんとこ入れといてホデこっちの金の山本さんとこ……。これで……これでもたらんか、けったくその悪い」 「なんでこれが届かんか、けったくその悪い」 「お前ええかげんにしとけよ」 「なんやねん」 「なんやねんや、あらへんがな。おれが一生懸命帳合いしてんの横手から、もうちょっとやとか、けったくそ悪いとか……ようそんな気楽なこと言えるなあ」 「あんた、わたいなんも言うてへんし」 「言うてへん……。そんなことあるかい、同じように口合わせて、……言うてへん。ほんなら誰かが表通ってて同じように……、嬶、見てみい、イエいな、土間を見いいうねん」 「なんやねん、土間を見いて……まあいややの、あんなとこから手が生えたある」 「阿呆言え、地イから手が生えたりするかい、第一そんな種どこに売ってあるねん。盗人や、盗人や、細引き持ってこい」 「どないしなはんねん」 「どないするって、あないして盗人が手え出してるやろ、ぐるぐるーっとくくりつけて、明日の朝、警察へ突き出すのや。ホナ警察かてほっとくかい、褒美の銭くれるが、いや、くれなんだら無理からにでも取ったるがな。その金で穴埋めしたらええねやないかい」 「もうそんなことせんと逃がしてやったら」 「何を言うてんねん、おれにまかしといたらええねん。細紐を持って来い……。持って来たか、ヨシヨシ、おれが手をぐーっと引っ張ってる間にお前くくれよ。このガキどない思うてうちへ入りやがったんや。こっちが盗人に行きたいくらいじゃ、そないして手エ出しとれ」 「なんで届かんねん、これ、もうちょっとやねんけどなあ……、もうちょっと……」 「ハハッ、嬶、いくでえ、さあ今や、くくりッ」 「あ痛タ痛ッ、痛ッ、痛タタ、アハハ、捕まってしもうた、ハハ、えらいすんまへん、すんまへん」 「何がすんまへんじゃ、オ、くくり、くくったか、ようし、グーッと閂《かんぬき》を通せ、通したか、グーッと引っぱれ、遠慮することない、グッと引っぱれ」 「痛い、痛い、大将、えらいすんまへん、大将、堪忍しとくなはれ」 「何を吐《ぬ》かしてけつかるねん、なあ、こないなったらこっちのもんじゃ、明日の朝、警察へ突き出したらッ」 「えらいすんまへん。大将、えらいすんまへん、なあ、堪忍しとくなはれ、ほんの出来心でやったんだす。えらいすんまへん、こんなことするつもりやなかったんだす。えらいすんまへん、なあ大将、堪忍しとくなはれ、ねえ大将、ねえ、堪忍しとくなはれな」 「コレあんた、堪忍したんなはれな、いいええ、うちまだなんにも盗られてへんねんし、この人にぎょうさん仲間がいてて、後から仕返しされたらどないしなはるねん」 「そうだ、そのとおりだ、奥さんの言わはるとおりだんねん。わたいが捕まったんはソラもうしょうがおまへんけども、わたいの仲間がぎょうさんいてまっせ、お宅に捕まったと知ったらかならず、ええ日を選んで、お宅の家に油かけて火をつけよりまっせえ」 「オイいつでもつけたらええがな。これはおれの家やない、借家やさかい」 「あ、さよか、えらいすんまへん、えらいすんまへん。イエそんなことせえしまへん。わたいの友達はええ人ばっかりだんねん。そんことする人、誰もいてえしまへんねん。ねえ、堪忍しとくなはれな、ほんまはねえ、友達いてえしまへんねん、わたい一人しかいてまへんねん、わたいねえ、みんなから馬鹿にされてねえ、誰もいてまへんねん、ねえ大将、堪忍しとくなはれな、ねえ大将、あきまへんか、ねえ、大将、ねえ、あきまへんのか……エエワイ、いらんわい、コラッ、堪忍していらんぞ、そのかわり覚えてけつかれ、おれがなあ、五年食らい込もうが十年食らい込もうが、かならず出て来たら、お礼参りしたるさかい」 「おお、いつでも出て来い、その時分にはもうこんな家にいてえへんさかい」 「アさよか、えらいすんまへん、えらいすんまへんなあ、生意気なこと言うて、えらいすんまへん、わたいねえ、口達者やけど、何もようせん人間でんねん。堪忍しとくなはれ、冗談で言うてまんねんで、本気と違いまんねん。へえ、わたいねえ、そんな悪いことできる人間やおまへんねん。嘘や思うたら外へ出ていっぺん顔見とくなはれ、阿呆みたいな顔してまっせえ、もう顔見たら許したろうという気になりまっせえ、ねえ大将、あきまへんやろか、ねえたーいーしょうー」 「阿呆声しとるなあ、エエ、イヤイヤ、もう明日の朝、警察へ突き出して褒美の銭を貰うたら家はうまいこといくねんさかい、ホナ、嬶、ぼちぼち寝よか」 「モシ、大将、大将、……。アア、こらえらいことになったなあ、なんとかして紐切って逃げんことには……言うたかて利き腕をくくられてるし、どないもこないも、だんだん手は痺《しび》れてくるし、なんとか……ならん、……ならんかいなあ、なんや、犬が来やがった、向こうへ行けシィーシィーッ、なんや足上げやがった。アアアアッ、プッ、ペッ、ペッ、オー、小便かけて、おまけに丁寧に後足で砂までかけやがるねん、……アアこら、アアこら、あかんなあ。なんとかならんかいなあ。だんだん手が痺れて来たがな」……。 「おおい、出て来い……お前、おれにどない吐かしてん。おれにつき合うてくれ、おれの女に会うたってくれというさかい来たんやないかい、それがなんや、あのざま、また向こうのおばはんもおばはんやで、お前の顔見るなり断ってけつかるねん、ハハン、さては、われなんやな、向こうの店に大分に借金があるのと違うか」 「松っちゃん、えらいすまなんだ、実はな、三円ほど」 「そんな不細工なことさらすさかいやないかい、けったくその悪い、と言うてやで、今更、よそへ行ってクーッと一杯飲んで寝るいうたかて……、おれかてふところに銭がないのや。オイ、われナ、明日中に五円の銭段取りせえ」 「五円……五円……五円なんてあかんわ、とても五円なんてでけへん」 「おれかてないわい、しかしなあ、お前とわしの金、なんとかして十円にしたらええねん、明日、今日行った店の真ア向かいの店へ行って、当てつけにどんちゃん騒ぎするのじゃ、それでないとおれの気が納まるかい。分かってるか、おれかてなんとかするが、明日中に五円の銭。お前かて五円なんとかせえよ、明日中に、ホナわいこれで帰るさかい」 「オイ、オイ、松っちゃあん……かなわんなあ、なにもあない怒ることあれへん、わいがちょっと借金あっただけで、言われただけやのになあ、というて五円の銭段取りせなんだら、あいつまたぼろくそに言いよるやろし……、しゃあない。こないなったら家へ帰って洗いざらい質に……というても、うちにはもう質草がないのや、もうこうなったら、天だのみ、神だのみちゅうやっちゃ、なるべくうつむいて歩いてたら、銭落ってるかも分からんさかいなあ……ア痛……なんや」 「えらいすんまへん、えらいすんまへんなあ」 「いや、別に謝ることおまへんけど、あんた、酔うてまんのんか、寝てはりまんなあ。どないしなはってん」 「いえ、酔うてるわけやないねん。ちょうどええ、われに頼みがあるのや……いやわけ言わな分からんけど、実は、わしゃ盗人や」 「泥棒……」 「イヤイヤ、心配せいでええわい、実はなあ、ここの家へ忍び込んだろうと思うて、手を突っ込んだところが、家の奴に見つかってしもて、利き腕くくられてるのや、どないもこないもならんねや」 「ホナ、何でっかいな、あんたくくられてまんの、アっさよか、面白うおまんなあ」 「なにが面白いねや、面白いことあれへん。そこで頼みちゅうのは他でもないねんけど、なんとかこの紐を切って逃げよと思うのやけど、どないもならんのや。ホデナ、実はおれの腹掛けのたすきの内側に隠しがあるのや、その中に小刀が入ってる。その小刀で紐を切って……と思うねけども、なんせ左手しかないやろ、どないもこないも、おれ一人では届かんのや。すまんけど、小刀出してほしいのや。イヤ、小刀ははだかで入ってるのやないねん、隠しの中に蟇口《がまぐち》があるねん、蟇口の中に小刀が入ってるねん、すまんけど出してくれ」 「なんでっかいな、蟇口の中へ小刀て、なんでっかいな、蟇口の中は小刀だけだっか」 「そらまあ、蟇口やさかい金も入ってる。けど僅かなこっちゃ、僅かや、そのかわりなあ、一杯飲ます、一杯、かならず、今日あかんかったら改めて飲ますさかい頼むわ」 「へえ……、僅かてなんぼ入ってまんねん」 「なんぼて、たしか五円ぐらいやと思うねんけど、いやいや、改めて飲ます。なあ頼む、出してくれ」 「五円入ってまんの。ホホウ、で、あんたほんまにくくられてまんのか」 「くくられてるさかい、頼んでるのやないかい、頼むわ」 「あんた左手でごちゃごちゃしなはんなや」 「せえへん、せえへん、早いこと頼むわ、そこや、そこや、もうちょっと左、オットそこや、ソウソウソウソウ……。隠しがあるやろ、ソラその中に蟇口が入ってるさかい、あったか、あったか、あったら見てくれ」 「ちょ、ちょっと待っとくなはれ……蟇口おました」 「あったやろ、あったやろ、あったら見てくれ、入ってるか、見てくれ」 「ちょっと待っとくなはれや……ウッハッハッハッ、入ってますわ、五円」 「誰が五円の話をしてるねん、小刀や」 「ホデ、あんた、ほんまに動かれしまへんの、ハハハ、さよか、あんたも今まで悪いことばっかりしてきなはったんや、これが年貢の納め時だんなあ、ここの人親切でっせえ、明日ねえ、朝起きたらちゃあんと警察へ連れて行ってくれますわ、ホナわたい、この五円貰うときまっさ、おおきにさいなら」 「オイオイ、それ、何をさらす、オイオイ行ったらいかん、オイ、コラ待て、ぬすっとおー……」 [#改ページ] 親子酒《おやこざけ》 「コレ嫁女《よめじょ》、今戻りました」 「ア、お父っつあんでっか、お帰り遊ばせ、今お開けしまっさかい、ちょっと待っとくれやっしゃ、お帰りやす、まあお父さん、またどこかでお召し上がりになったんでんな、早よ、こちらへお上がりやす」 「ああ、おおきに憚《はばか》りさん、ああ、ええ具合に酔いました」 「酔いましたやおまへんで、お父さん、ええ年して、そないして飲んではったら、お身体に悪うおまっせ」 「何を言うねん、心配せんでもええ、なあ、わしなんか、若い自分から長年飲んでますのじゃ、アア、心配することはない、それはそうと作治郎の姿が見えんが、作治郎はどうしました」 「お父さんがお出ましになる後からすぐ出て行きました」 「出て行った、ハハン、またどこぞへ行たんやろ」 「あの竹内さんへ寄してもらうとか、おっしゃいまして」 「なに竹内さん、アア、竹内の日出《ひで》とこやな。あんな悪い友達はないねや、どっちみち、またむこうへ行て酒飲んでくさるねん。エエ、常日頃から言うて聞かしてあるのや、ええ若い者が酒飲んでどうするねん、中風になったらお前、えらい目に会うぞ」 「まあ、ようそんな勝手なことおっしゃるわ、お父さんこと中風になりまっせ」 「いや、さっきから言うとおりや、わしゃ、長年飲んでるのやさかい中風になる気遣いはないねん、ええ、よっしゃ、あれだけわしが常日頃から言うてるのに言うこと聞きくさらんのや、よっしゃ、今晩はなあ、夜《よ》とともに意見してやるさかい」 「何をおっしゃるねん、お父さん、もうずいぶん酔うてはりまんねん、お休みやす」 「いや、お休みにならん、わたしはなあ、もうこうなったら伜《せがれ》つかまえて夜とともに意見しますのじゃ、アア、どんなことがあってもなあ、わたしは休みませんぞ、なかなか寝ませんぞ、私は、アア、何を言いなさるねん……、いや、奥へ行けへんちゅうねん。ああ……、何、床が取ってます、何を言いなさるねん、伜に意見するのんに床に入って意見がでけますかいな、私はなあ、今晩は倅が帰って来るまでここに坐ってます。アー、夜とともに意見するのやさかい、身のためにならんねんさかいな、何もなあ、あいつが憎うて意見するわけやないねんさかいナ、伜が可愛けりゃこそ、今晩はな、わたしゃどんなことがあってもなあ、夜とともに意見するさかい、ハア、ハア、そのうち……、ハア、グウグウ……」  ええ具合に寝てしまいました。こっちは、伜の方は若うおますなあ、これは勢いが違う、お父っつあんの方は、こう反りかえるようにしなはるが、若い奴は向こうへ体がいきよる。 「♪ 一でなしか、二でなし、三でなしか、四、五でなしか、六でなあしか、七でなあしか、八でもおまへんでちゅうやっちゃ、九でなあし、十でなあしねか、十一、十二……、痛い痛い、ア痛、ああ痛、え、えらいすんまへん、え、えらい失礼なことしました。ちょっと酔うてますさかい、えらい……。なんじゃ、人に突き当たったと思うて謝ってたら郵便ポストや。お前も飲んでるとみえて、えらい赤い顔してるなあ、ハハハ、阿呆らしなってきた、酔うてるもんやさかい、郵便ポストにせえだい、謝って……。誰や、どいつや、さっきからくすくす笑うて見てるのん誰や」 「へい、うどん屋でんねん、オーラ大将、えらいええご機嫌でんなあ」 「えらいええご機嫌でんなあ……。うどん屋クン。僕が今晩こない酔うてるの、機嫌よう酔うてるか、機嫌悪う酔うてるか分かってるのんか、生意気なこと言うな……。すまん、失礼、失礼、失礼、いやちょっと酔うてるもんやさかい、言葉が過ぎたかもわからん、えらい失礼しました。堪忍してください、ア、荒い言葉使うてえらい悪かったですね、えらいすんまへんでした、堪忍してください、このとり頭下げて頼みます、頼みますから堪忍してください」 「まあよろしいがな」 「……。まあよろしいて、誰におっしゃった。誰に言うてるねん、人が悪いと思えばこそ、さきほどから、何べんも何べんも頭下げて堪忍してくださいちゅうて頼んでるのに、まあ、よろしい、てな言い方がありますか、そういう曖昧なものの言い方が、ア、アリ、アリ、あるべきものではないはずですよ。堪忍するもんなら堪忍します、堪忍でけんもんなら堪忍でけんと、はっきり言うたらどうです。どっちや」 「さよか、ほんなら堪忍しまっさ」 「堪忍してくれますか、有難う、よう堪忍しておくんなはった、大きに有難う、礼言いまっせ、よう堪忍してくれた。しかし、うどん屋、君に訊ねるがねえ、これほどまでに謝らんならんようなことをしたか」 「知りまへんがな、わたいは。あんたが勝手に言うて勝手に謝ってなはるねん、ええ、大将、一杯つけまひょか」 「つけて、熱燗《あつかん》で一杯つけて」 「いや、お酒やおまへんねん、うどん一杯つけまひょか」 「ああ、うどんしかないのんか、よっしゃ、うどん一杯つけてくれ、ウン、素うどんで、いや、きつねはあかんで、素うどんでええさかい、うん……。あ、訊ねるが素うどん一杯なんぼや、エ、ア、七銭、アそうか、ぼくは言うことは言うが、することもちゃんとするのやさかい、人みたいにねえ、食べてから金払うちゅうのんと違うねやさかい、なあ、先払うとくさかい、さあ、取っときたまえ、えっ、いやあ、それ十銭あるから取っときたまえ、釣りはいいよ、また家建てる時の足しにせえ」 「ようそんな無茶言いなはるわ、三銭やそこらで家が建ちますかいな」 「誰が三銭で家を建てえと言うた、建てる時の足しにせえちゅうたんや、いや、えらいすまん、こない酔うつもりはなかった。ウン、あの、うち毎晩お父っつあんと僕と二人でなあ、おしきせ、二本と三本いやいや、お父っつあんは年行ってはるさかい二本や、ほいで僕が三本や、おしきせ飲んだら親父もちょっと足らなんでんなあ、エ、なんとかかとか、うちの嫁はんにね、口先でうまいことごまかしてパアーと出よった。アアこら、親父どこぞへ飲みに行きよったなあと思うたんでね、ほいで僕も実は、友達の竹内君とこへ行ってくるさかいちゅうて、ほいで親父が出た後すぐに竹内君とこへ行たんや。竹、竹、竹内君いてるかちゅうて、言うたらほんなら竹内君、留守やねん。細君が出てきて今ちょっと、どこかへ行ってまんねん……けど、もうちょっとしたら帰って来まっさかい、どうぞお上がりやす、ほいで、それからよばれてん、よばれたら、ええ具合に酔うてるとこへ帰って来よって、えらい留守してすまなんだちゅうて、それからまた竹内とせんど飲んでな、ほいで今帰ろうと思うて、ほいでここを通ってんけど、うちの親父帰ったか」 「知りまへん」 「うちの親父さん知らんの、ここで商売してて親父さん知らなんだらあかんで……。うどん出来た、出来た……。アおおきに、こっちへもらうわ、こっち……。エ、熱い、熱いのは承知の上や、ナ、熱いのんが御馳走や、唐辛子、一味《いちみ》おくれ、アアおおきに憚りさん……。これ、どないすんねん、エ、振ったら出るてか、アそうか……。おい出えへんで」 「アっ詰め取っとくれやす」 「ああ、詰め取るのんか、ああ、この詰めか、フーン……ペッ」 「ほかしなはんな」 「なんやねん、こんな詰めの一つや二つ、けちけち言うな、これで出るなあ」 「ええ、それで振っとくなはったら出まっさかい」 「ああそうか、よっしゃ、おい、うどん屋、唐辛子の中へ目が入った」 「さかさまでんがな、目の中へ唐辛子が入ったんだ、ああ、あきまへん、そら、上向けて振りはったさかい、エエ、下向けて振っとくれやす」 「ああ、下向けてか、ハハン……。君の言うたとおりや、下向けてポンと振ったら、唐辛子がシュッと出た」 「出たて、出るようになってまんのや」 「喧嘩売るつもりか、ポンと振ったらシュッと出たちゅうたら、さよか、でええやないか、さよかで。出るようになってますて、えらい言葉に角が立つやないか、なあ、丸い玉子も切りようで四角ちゅうねん、ものも言いよで角が立つちゅうねん」 「そらよろしいけど、唐辛子がえろう出てまっせ」 「たとえ出ようが出よまいが、言うべきことは言わな分かるかい」 「それ見てみなはれ、唐辛子の山が出来ましたで、赤い」 「何、唐辛子の赤い山ができた、ああ、ほんに、お前、こんな歌知ってるか、昔ようはやった歌や、僕が子供の時分に、僕のおばあちゃんがよううとうてた歌……」 「ほうら古い歌でんなあ、何ちゅう歌だ」 「誰でも知ってんがな、♪赤い山かあら……」 「そら高い山でっしゃろ」 「いちいち、よう逆らうなあ、こっちゃ機嫌よう赤い山で歌うてるねん、だまって聞いてえ、♪谷底見いればな、ちゅうねん、瓜や、な……。唐辛子おかわり」 「みな掛けなはったん」 「何やねんな、こんな唐辛子の一合や二合みな掛けたちゅうて、けちけち言いな。そんな気の小さいこと言うてたら、大きな商《あきな》いでけへんで、エエ、何、そんなもん辛うて食べられまへん。唐辛子てなもん、辛いさかいに値打ちがあるねや、エエこんなもん辛うなかったらお前、値打ちがあるかい、エッ、辛いのにも限度がおます、とても食べられへんさかい、やめときなはれ。何を言うとんねん、これぐらいの唐辛子に驚くかい、我輩も日本男児や、これぐらいで驚く我輩やない、今食うからびっくりすな……。ああっ、うどん屋、口の中火事や」 「それ見てみなはれ、片意地な人やで、ようそんなもん食べなはるわ、サアサこの水飲みなはれ、すっとしまっさかい」 「ああ、おおきに、おおきに、この水かよっしゃ、フン、この水さえ飲んだら大丈夫やウーン……。ああ、ハッハハ、うどん屋、うどん屋、君の言うたとおりや。水すうっと飲んだら口の中が一ぺんに爽やか。……ヘッヘックション。オイうどん屋クン」 「何ですか」 「くしゃみしたら、鼻の穴からうどんが出てきた、見てみ、長いやっちゃ」 「汚い人やなあ、ほかしなはれ」 「ほかせ、君にそういうこと言う権利があるか、ほかす、ほかさんは所有者の自由や、誰がほかすかい、もったいない、スズーッ、ヒャクション、こんどは、こっちから出てきた、君にこれやる」 「いらんわ」 「いや、えらい邪魔したなあ、えらいすまなんだ、さいなら……。オイ今帰ったで、オイ今帰ったでえ」 「どいつやい」 「どど、どいつやい、ハン、亭主の留守に知らん他人の声がするというのは怪しいなあ、どいつやと言うたお前こそどいつや」 「作さん、ええ加減にしときや、お前とこの家やったら東へ三軒目やで」 「あっ、芳《よし》さんとこか、俺とこのうち東へ三軒目か、おおきに有難う……。オイいま帰ったで」 「何を言うてなはんねん、作さん、あんたとこのうち、東へ七軒目やで」 「さっき三軒目で、こんどは七軒目か、ああ、そうか西へ来てんねん、あほらしなってきた。俺とこのうちはどこや、おい、嬶ア」 「ちょっと、ちょっと、大きな声出しなはんな、こっちや、こっちや、早よ、こっちへ入んなはれ」 「ああ、嬶、いま帰った、ああ、あのお父っつあん、帰ってるか、ええ、ふん、俺が出て行った後へ、酔うて帰ってきたかてかあ、何をさらすねん。阿呆んだらやなあ、ええ年して、お前中風になったらどないすんねん、ほんまに、どこにいとるねん、……アッ、こんなとこへ寝ころんどる、親父さん、親父さん、いま帰ったで、これ親父さん」 「今日はどんなことがあっても夜とともに明かして……、ウイ、伜よ、コラ、またどこぞで飲んで来くさったなあ、常日頃からわしが言うてるやろ、エエ、酒はあんまり飲んだらいかんちゅうて、その言うてること聞きくさらん、とまた今晩もせんど飲んだんやろ、それが証拠に顔が二つもあるやないか、顔が二つもあるような化物に、うちの身代は、譲れん、勘当じゃ」 「勘当で結構じゃ、こんな家いるかい、こんなぐるぐる回る家、いらんわい」 [#改ページ] お玉牛《たまうし》 「オイ、半鐘のチャン吉、蛙ふんだか久太郎、池の端の亀公、こつきの源太、そんなら宗助、|〆《しめ》て十助、みなここへおいで、どうや与次平《よじへい》とこのお玉」 「別嬪《べっぴん》やないか」 「あれ与次平の嬶《かか》の妹やといなア」 「嬶はあんなおもろい顔してよるのに、お玉は別嬪やなア」 「京へ行ってたんやと。あのお玉が帰ってから与次平の家はえらい人気やナア」 「オイ、この村ばっかしやない、上村《かみむら》も下村《しもむら》からも肩入れに来よるねん」 「来る奴はみな土産を持って来よる、大根を持って来る、人蔘を持って来る、牛蒡《ごんぼ》を持って来る」 「大豆を持って来る、与次平の家、もらい物でつかえたアる」 「棚をつって並べたアる、与次平、断りを書いて張りよったて」 「何と書いて」 「今年は南瓜《かぼちゃ》いやいやと」 「地蔵祭やがナア」 「しかしあないにぎょうさん肩入れに行くが、他の村の者にお玉を取られたらこの村の恥や、なんと、この村でお玉を、うん、といわす者はないか」 「見渡したところがそらないらしい」 「そらない」 「ずっとない」 「コラ、あごたの軽平」 「なんや」 「われ、あごたが軽いと思うて喋《しゃべ》んない、憚《はばか》りながらここに半鐘のチャン吉さんがいるぞ」 「フム、そんなら何かチャン吉、われお玉にものでもいうてもろうたんか」 「もの、アアものぐらいいうてもろうて、こんな騒動が起きるかい」 「フム、そんなら手でもさわったのか」 「手をさわったぐらいでこんな間違いが出来るかい」 「そんならどうしたんや」 「それが聞きたかったらもう少し前へ寄れ」 「いったいどうした」 「オイみな聞いてくれよ、このあいだ俺が畑で仕事をしていると、堤の上を玉公が通りよるので、オイ玉チャン玉チャンと呼ぶと、フッとこちらを見よって、誰かと思ったら半鐘のチャン吉さんやおへんか、といいよるので、玉チャンどこへ行くのや、と聞いたら、アノ兄さんや姉さんの八ツ茶を持って行きまんのえ、まだ時刻が早いちょっと一服して行きなア、というたら、そんなら一服さしてもらお、と堤を下りて来るのや、こんなことはないことやで、側にあった筵《むしろ》を敷いてその上へ俺の襤褸着《ぼっこ》を敷いてその上へお玉を座らして三尺下がって土下座したんや」 「そんなことをしいないナア」 「オイ玉チャン一服しい、と煙草入と煙管を渡すと、よばれよ、と煙草を二服飲んで三服目の煙草を俺に、煙管の吸い口を袖で拭いて、チャン吉さんご免、とくれよったその煙管を受け取った時に、俺は身体が細《こま》こう震うたんや、見ると煙管の吸い口に唾がついたある、拭くのはもったいないので吸い口を横に吸うたその時の美味《うま》かったこと」 「そんなものを吸いないナア」 「玉チャン、都へ行って、こんな草深いところへ来たらさぞかし淋しいやろナア、と聞いたら、アノ村の若い方がみな可愛がってくれはるので、あたしは喜んでいます、マアそうかいなア、しかし京都には好きな人があるねんやろなア、というたると、ナンのわたしにそんな者がおすかいナあ、アア、そうかそんなら毎晩若い者がたんと肩入れに行ってるが、中に好きな男があるならいうてや、というたら、そらわたしやとて木竹《ぼくちく》やなし女やもん、好きな人の一人や半分はないことはないが、とかく浮世とというものはままならぬもので、成るは否なり思いは成らず、ツイ辛気《しんき》に暮らしていますがな」(ポカン) 「オイ無茶をしないナア、俺の頭を殴ってからに、痛いがナア」 「それからどうしたんや」 「オイ、前へ行きなや、頭殴られるぞ」 「オイ玉チャン、そんな人があるならいうてんかいな、俺が提灯持ちぐらいはさしてもらうで、誰やえ、というたら、わたしの好きなお方というたらつい目の先に、とこないにいうのでそこらを見たが誰もいえへんやろ、まさか俺かともいえんので、この鍬《くわ》か、担桶《たんご》か、土壺《どつぼ》かと尋ねてやったら、なんぼわたしのような者でも鍬や担桶に惚《ほ》れてどうしまんのやいナ、わたしの好きな方というのは、半鐘のチャン吉さんあんたでおますがナア——」(顔を掻《か》く) 「オイ痛い、オイ痛い、何をするのや人の顔を掻いて、痛いがな」 「イヤ——、俺どっち向いてる」 「夢中で目も見えへんのか、そしてお玉が、半鐘のチャン吉さん、あんたでおます、というたのか」 「サア、俺ではとてもむずかしい」 「ナンヤ、むずかしいのか、人の顔を掻きやがって」  みな若い者がやかましゅういうていますところへ向こうから、鎌を一挺持って踊って来よる奴がおます。 「チョイトチョイト、コラコラ、エライヤッチャ、うれしてたまらん、お玉の色男は俺じゃぞ、ドッコイドッコイ、コラコラ」 「オイ、またあんな奴が一人ふえたで、オイ、あばばの茂平《もへい》と違うか」 「そうや、みな寄せ場に集まってるが、お玉の噂をしているのと違うか」 「そうや、今お玉の惚気《のろけ》をいわれて、おまけに顔を掻きむしられよったとこや」 「オイ、すまんがお玉のことならいわんとおいてや、ここにあばばの茂平はんという色男がいるねんさかい」 「茂平どうした」 「どうの、こうのて、みな、もっと前へ寄って聞いてくれ、今俺が土橋の下で大根を洗うていたらお玉が通りよったんや、オイ、玉チャンどこへ行くねん、と尋ねたら、誰かと思うたら、あばばの茂平はんやおへんか、オイ玉チャン、この間から手紙をやってるのに返事もないが一体どうしてくれるねん、サア今ここで逢《お》うたは和尚直々の権化《ごんげ》、サア、ウンといえばよし、否といえばこの鎌が、ドテッ腹へお見舞い申すぞ、否か応か、ウンか鎌かウン鎌かというてやったらお玉奴ナア、あばばの茂平はん……そんな……手荒いことせいでも……あんたのことなら……とうからウンでおますがな、というてナ……俺の顔を尻眼でジイーと見てナ、ニタッと笑いよったんで、ウンならええ、ちょっと話があるさかい向こうの辻堂まで来てくれ、というたらお玉が、昼このようなところで二人が話をしているところを村の若いお方に見つけられたら、またおかしい噂が立つといかんさかい、今晩、夜中の鐘を合図に裏から忍んで来とくなはれ、切り戸を開いて待ってます、とお玉が……いうた、で……今晩わたしは……お玉のとこへ……忍んで……参ります……エライヤッチャ……コラコラ……ドッコイサノ……チョイトチョイト」 「オイ茂平、えらいことをやりよったで、オイ茂平、前祝いに一杯おごれ」 「よっしゃ、みな一杯飲んで、ヤアトコセ、ヨホイヤナア」  と若い者は賑やかにさわいでいますが、すまんのはお玉さん、泣いて家へ帰って来ました。 「ウワーア……、兄さん姉さん、どないしましょう」 「オーいややの、どうしたんや、ちょっと出ると泣いて帰ってからに」 「アノ聞いとくなはれ、今わたしが土橋のとこを通ったら、横からあばばの茂平はんが出て来てわたしを掴まえて、この間から手紙をことづけてるに何の返事もない、ここで逢うたはちょうど幸い、和尚直々の権化、サアウンといえばよし、否というならこの鎌がドテッ腹へお見舞い申す、と鎌を振り上げて否か応かと手詰めになったので、わたしもあんまり恐いのでウンやというたら、そんなら話があるよってに向こうの辻堂まで来てくれと引っ張るので、昼このようなところで二人で話をしているとこを村の若い方に見つけられて、妙な噂が立つといかんで、今晩夜中の鐘を合図に裏から忍んで来とくなはれ、切り戸を開けて待っています、とその場逃れに逃げて帰りました、どないしまひょう」 「マア、えらいことになってきた、コレ与次平はん、与次平はん」 「なんや」 「なんややないし、えらいことやがナア」 「イヤ残らずみな聞いた、ヨーいうた」 「またそんな大きな声を出して」 「よしこうせい、今晩俺の寝間へお玉を寝させ、お玉の部屋へはこのあいだ博労《ばくろう》して来た[買ってきた]牛、まだもやしにかけてないので荒い」 「コレ与次平はん、そのようなことをして、もし茂平が牛に突かれて死んだら騒動やがなア」 「だんない、夜中に他人の家へ忍んで来る奴や、まして村で嫌がられてよる奴じゃ、死んだら皆の者が助かる、俺にまかしとけ」  日が暮れますと牛小屋から牛をお玉の部屋へ引き出しまして、 「チャイチャイチャイ」 「モーウ」 「チャイ」  牛を蒲団の上へ寝さしますと、いつもの小便臭い藁《わら》の中より気持がいいので牛はベタベタと寝ました。 「コラ、われをこんなとこへ寝さすのんやないが、今晩茂平がうせたら、われの角で突いてやれよ」 「ショチシタ——」  牛がそんなことは申しませぬが、上から大蒲団を着せて灯を消してしまいました。そんなことはちょっともご存知ないあばばの茂平、世界中の色男は俺やといわぬばかりに、鼻の先へ頬かぶりを致しまして、 「オオ寒む……。裏口まで来たで、切り戸が開いてるかしらん(コトン)。開いてる、やっぱり玉公、俺のことを想うてよったんやで、お玉の部屋は台所の次の間、ここから忍んで、オオソウジャ」(端唄・忍ぶ夜)  大経師の茂兵衛みたいな気になりよって、 「アア暗ら……(ゴツン)アア痛、戸が閉めたあるナ、(ガタン)えらい音がする、ヨシ小便かけたろ(ジジュウジュ、ジュウー、スウー)戸が開いたぜ(囃子・色めき)真っ暗やナア、オイ玉チャン、俺や俺や(フウー)えらい鼾《いびき》やなア、どこや……アアここやな、フワア——とうない大きな体やなア、いつも細いのに、ハハンわかった寝太りというのやな、あれだけの容色《きりょう》をしていて年頃で嫁入りもせず、養子ももらわんのはこういう病気があるさかいやな、だんない、俺さえ辛抱をしたらよいのや、蒲団を脱ぎ、ヨットショ、なんやまだ毛布を着てんのか、これも脱ぎ、えらい堅う巻いてるなア、ともかくも話がある、どっちが頭や、なるほどここやな、さすが都育ちや、下げ髪やな、長い毛やな——コレ、下げ髪でしばいたり、てんごしないなア、黙っていんと何とかいいんか、コレ玉チャン、びんつけをどさりつけてええ匂いやな……アア臭さ、こら俺が悪い、昼畑で仕事をしていたので匂いがうつってんのやろ、ここと違うか、なるほどこっちや。笄《こうがい》をさしてるな、太い笄やなア、俺の詰まった時のやりくりに貸してや、ナア玉チャン黙っていんと何とかいうてんか、これ玉チャン」  牛の角を持って振り廻したんで、牛も今まで辛抱してたが気持が悪うてたまりまへん。ムクムクと起き上がって、 「モーウ」 「フワーイ……オイみな寄せ場にいるか」 「オイ茂平やないか、どうした」 「お玉のとこへ行て来た」 「偉い、お玉をウンといわして来たか」 「イーヤ、モーウといわした」 [#改ページ] 腕喰《かいなく》い  涼み台にふさわしいお話を演《や》らしていただきます。ところは中船場《なかせんば》で、若い者を大勢使うておいでなさるお宅の若旦那、いたって放蕩者でございますが、ついにお金をつかんでお家を飛び出しました。いろいろ苦労をいたしまして、久々にわが土地へ帰って参りましたが、親類へも立ち寄るわけにもいかず、心配をしておりましたが、わが家にながらく奉公をいたしておりました徳兵衛という者が別家をして、今では立派に商売をしておりますので、この徳兵衛の家へ参りましたが、身には肩の脱けた着物に、かじりさしの梨みたいに芯《しん》の出た帯を締めて、醤油で煮しめたような手拭いで頬かむりをして、尻切れ草履をはきまして、首筋は垢《あか》だらけで門口から、 「どうぞお余りをいただかして、お手元はご面倒さまで」 「エイ五月蝿《うるさ》い、いま帳合いをしかけたらあんな乞食が来よった、コレ、気をつけんといかんで、このごろの乞食は油断も隙もならん、このあいだ下駄が知れんようになったのもきっとあんな奴が提げて行きよったに違いない、コラあっちへ行け」 「ヘヘヘヘ、徳兵衛、ご機嫌さん」 「そら何を言うねン、私は乞食に馴染みはないわい、徳兵衛やなんて心安そうに、コレ、内へ入って来たらいかん、表へ出んか」 「徳兵衛、腹も立つやろうが、とっくりと私の顔を見て堪忍しとくれ」  と頬かむりを取りますとびっくりいたしました。 「あなたは若旦那さんやござりまへんか」 「フム、徳兵衛、作次郎や」 「マアお情けない……、コレおとわ、早よう表戸《おもて》を閉め」 「なんでおまんねん」 「なんでもええ、早よう表戸《おもて》を閉め、御主家《おもや》の若旦那がお帰りになったんや、表に人が立ったらみっともない」 「マア、誰方《どなた》かと思うたら若旦那さんではござりまへんか、それはマア、なんというお姿でござります……」 「コレ泣いてるねやない、早よう表戸を閉め」 「徳兵衛、面目次第もない、お前とこへ来られた義理やないが堪忍して、お前とこの敷居が高うて、またげられるかと案じて来たが、おかげで躓《けつま》ずかんと入れた」 「相変わらず気楽なことをおっしゃる、定めしご難儀をしてござるとは思いましたが、このように落ちぶれておいでなさるとは思いまへなんだ……、コレおとわ、泣いていんと盥《たらい》へ湯を取って足を洗うてお上げ申せ」 「イヤ放っといて、私が勝手に洗う」 「そんなら若旦那に任しておいて、私の着物と襦袢《じゅばん》と帯と褌《ふんどし》をチャンと揃えて持っといで、ナニ、褌がない、洗い替えたばっかりか、困ったな……、若旦那これでご辛抱を願います」 「えらい気の毒やなア、こんな着物はしばらく着たことがない」 「晒布《さらし》が皆きれて新《さら》のがおまへんので、失礼でござりますが、私の洗い替えの褌をお締め下され」 「大きに有難う、お蔭様で温まります……」 「可笑《おかし》いものの言いようをしなはんな……。おとわ、若旦那の着てなはったものを、汚いよってにそっちへやっておき」 「やらいでも、放っておいたら勝手に行く」 「着物が独り歩きしますか」 「フム、虱《しらみ》が持って行きよる」 「仰山《ぎょうさん》湧かしてなはるねンな、マア蒲団をお敷き、しかしご機嫌よろしゅうござります、どこもお障《さわ》りがのうて結構なことで……」 「そんなむつかしい挨拶は止めて」 「イイエ、挨拶はせないきまへん、とはいうものの患《わず》ろうてお帰りになっても仕方がござりまへんのに、無事にお帰りになって、こんな目出たいことはありまへん、その後は一体どこにおいでなさりました」 「あれから処々方々を流浪して、先月中ごろに帰って来たんや」 「先月中ごろに……、それからどうなさった」 「長町で芸人をしていたんや」 「アノ長町と申しますと乞食のいる所で」 「フム、そうや」 「幇間《たいこもち》でもしてござったのだすか」 「イイヤ、乞食の頭《かしら》の家で居候をしてた」 「アノ、乞食の家で」 「そうや、小遣い銭が無いようになると、拍子木を打って、他所《よそ》の家の表に立って(節をつけ)トコトントコ、トンサクナ、芸題尽くしや紙尽くし、紙にもいろいろ有馬紙、私のような薄い美濃紙は、一銭二銭はふうじゃの塵り紙、トコトントコ、とやるねン、ちょっと銭になるで」 「モシ若旦那、何をおっしゃる、大きな声を出してみっとものうござります」 「それはそうと、お前このあいだ卯《う》の日に住吉へ詣ってやったやろ」 「ヘイヘイ、友達に誘われまして……」 「私あの時に、鳥居の前でお前に逢うたで……」 「そうだすかいな」 「お前、あの時立派な羽織を着て四角張っていたな。私よっぽど徳兵衛と言いたかったけども、こんな乞食姿で言葉を掛けたら、お前が恥をかくやろと思うて黙っていた、どうぞ一文いただかしてと言うと、つくなとお前が睨《にら》んだ。お前が睨んだら怖いなア、つくなとお前が言うたとて、狐狸じゃないわいな、と言うたやろ」 「ヘヘエ、あれ貴方《あなた》だしたんか、ちょっとも存じまへんので失礼致しました。若旦那、貴方が動きなはると、手や首筋からポロポロ粉が落ちますな、風呂へはいつお入りになりました」 「風呂は一年半ほど入ったことがない、いつも川へ入って洗うねン」 「まるで鳥みたいな、お腹も空いておりますやろ」 「フン、二日前から何も食べておらんのや」 「お腹の空いたん辛抱して、風呂へ行って、散髪をして髭でも剃っておいでやす、その間に温かい物でもこしらえておきます」 「すまんな、そんなら風呂へ行って来るで」 「ハイ若旦那、ここに石鹸《シャボン》がござります、どうぞごゆっくりおいで遊ばせ」  作次郎は表へ飛び出しますと、しばらくすると風呂へ入りまして、スックリ垢を落とし、散髪をしまして髭も剃ったので人間らしゅうなりました。 「徳兵衛、今帰った」 「お帰り、サアお茶が入れてござります、一ツおあがりやす」 「アア結構結構、ええ心持になった、徳兵衛、やっぱり川より風呂のほうがええな」 「川と風呂と一緒になりますかいな」 「なんぼ垢が出たかわからん、洗うても洗うてもきりがない、風呂の湯が真っ黒になったで、垢の山から漆喰場《しっくいば》を見れば」 「そら何を言いなはるねン」 「ほんまに垢の山ができたんや、頭髪を刈って髭を剃ってもろうたら気が変わったようで、アアええ心持や」 「何もござりませんが、今日はこれでご辛抱を」 「イヤ大きにご馳走さん、こんな美味《うま》いものは永いあいだ食べたことがない」 「今日は、マアごゆっくりお寝《やす》みやす」  と二階へ床を敷いて寝さしました。一日二日五日十日半月と家に置いて遊ばしてござりましたが、 「若旦那、ちょっと貴方にお話がござりますので」 「徳兵衛、わかってる、お前に言われるまでに出ようと思うていたが、お前とこで食い倒していたら済まん、今日は出ようか、明日は発《た》とうかと思うている間に二十日あまり経ったんや」 「イイエ、そんなことは決してご心配なされますな、私の家は御主家《おもや》さんがあればこそ、煙を立てさしてもろうておりますので、私の家も御主家も同じこと、たとえ半年が一年でもご遠慮遊ばすことはござりまへん、私もこの間から考えておりますね、先日お帰りになりました時に、今度は改心遊ばしたと思うております、今のところは兄御様が世を取ってござるから、頭の百も下げてお帰りになったところが、貴方さんはやっぱり他家へ出ねばならぬお体、それよりこちらに程のよい養子の口がござります、怒ったらいきまへんで、世の諺《ことわざ》にもいうとおり、小糠《こぬか》三合あったら養子に行くなといいますが、末弟《おと》に生まれたら養子に行かんならん、妹に生まれたら嫁に行かねばならんのが紋切型、別に養子が悲しいものでも、恐いものでもござりません。一ツご養子にお出で遊ばしたらどうでござりますか。先方様はお宅より身代もズッと上でござりますし、また小姑があるではなし、まことに都合のよろしい家で、お母さんと娘さんと二人暮らしで、お宅は上町でござります。河内屋勘兵衛さんというて、その勘兵衛さんがおかくれになって、母親と娘さんだけでござります、その娘さんは今年十八、今小町と二ツ名をとっておられますぐらい、あの近辺での評判の美人でござります、どうですお越しになる気はござりまへんか……」 「フム、行こう行こう、養子に行こう、私は決して贅沢は言わん、三度の御飯さえ食べさしてくれたら、着物なんど着やへん」 「着物を着んて、どういう訳で」 「三度の御飯を食べさしてくれて、蒲団の中で寝さしてくれたら結構や」 「どんな家へ行ったかて、着物を着んとおれますかいな」 「俵か菰《こも》をかぶる」 「また、そんなことをおっしゃる」 「サア行こう行こう」 「マアお待ちなされ、それからちょっと貴方さんに言うておかんならんことがござります、そのご養子をおもらいになるのは初めじゃござりませんで」 「わかってるがな、娘が養子をもろうたら、その養子がコロッと死んだんやろ」 「死んだんと違います」 「そんなら二人目か」 「二人や三人ならよろしいが、ちょっと私が知ってるだけでも十八、九人はかわってますねン」 「徳兵衛ちょっと待ちや、その娘は歳は十八やと言うたな」 「ヘイ、十八で」 「歳が十八で、養子が十八、九人もかわるというのは、どういう訳や」 「それが、その養子が一晩と続かんので」 「一晩も続かんというのはおかしいな、その娘さんと息が合わんとか、また母親と折り合いが悪いとか、家風に合わんとか、養子が放蕩をして半年と続かんというのは世間にもようあることやが、一晩と続かんとはさっぱり訳がわからんな」 「そこだす」 「どこや」 「その娘さんに、ちょっと疵《きず》がおまんねん」 「イヤわかってる、身代《しんだい》があって別嬪《べっぴん》で何から何まで揃うていて、養子が一晩も続かんのは、何か疵物やなかったら、私のような乞食にまでなった者を、誰が養子にもらうもんか。わかってるがな、寝たら身体が倍になるねやろ、寝肥りというて……」 「そんなものやござりまへん」 「ハハン、そんなら夜中に首が延びて行灯《あんどん》の中の油をペロペロと嘗めるという、ロクロ首か」 「イイエ違います、三々九度のお盃が済んでお寝みになると、夜中に嬢《いと》がムクムクと起き上がり、婿さんの寝息を考えてあたりを見廻して、そっと寝床を抜け出して縁先の雨戸を開け、庭前《にわさき》へ出ると高塀をかき上って、裏の常念寺の墓地へ飛び下りて、石碑の間で夜中にバリバリバリ……」 「そらな、な、なんじゃいな、そ、そのバリバリというのんは」 「その音を聞くと、ご養子がびっくりして皆逃げて帰りなさるので」 「夜中に、女のバリバリは感心せんな」 「貴方、バリバリぐらいが怖うおますか」 「あんまりええもんやないな」 「けども、諸国を乞食して廻ってお帰りになって、酢いも甘いも噛み分けてござって、堂宮でお寝みになったこともあるやろし、狼と後先《あとさき》で寝なはったやろ。女のバリバリぐらいが怖いやなんて、モウ人間をやめなはれ」 「オイ徳兵衛、あんまり馬鹿にしいなや、何じゃいなえらそうに、おこかいな」 「若旦那、えらい怒ってなはるな」 「怒らいでかいな」 「マアお聞きなはれ、今日のところではバリバリが怖いというてる場合じゃござりまへん。その辛抱さえなさったら、先方の身代が皆貴方さんのものになりますので、嬢《いと》が折節お出ましになる姿を見ると、どこに一ツの不足はなし、お母さんも言うてなさる、夜中のバリバリが不思議で、どうぞこの病気が治ってくれたらと、何時も泣いておられる。貴方さんが我慢して先方へ行ってその病気を治して上げなさったら、嬢も喜び、お母さんも満足、貴方さんも大威張りだすせ、またあれだけの身代が自由になりますが、一ツ我慢をして行きなはれ」 「そないに言われると行かんならんようになるがな、そんなら一ツ命を棒に振ったと思うて行こう、今夜から行こう」 「マアお待ち遊ばせ、貴方さんおいでなさるお心なら、先方の仲人に一応、当たってみましょう」  というので先方へ話をする、縁が行き合いましたものか、そういう大家の若旦那で、苦労をなさったお方がお越しくださるならなにより結構なことやというので、もらいまひょう、上げまひょう、といよいよ話が決まりました。こう話が決まった上は善は急げ、何日に婚礼をしようと結納も取り交わし、日取りも決まりまして、徳兵衛から親旦那にこの話をいたしますと、お父さんもお喜びで、さて当日になりますと若旦那はいそいそしております。 「徳兵衛、今夜行くねんなア」 「ヘイ若旦那、風呂へ入って散髪もしておいでなはったか」 「フム、朝から風呂へ五度行って、散髪を二度して、髭を三度剃った」 「一日に風呂へ五度も行く人がおますかいな」 「風呂の五度はこたえなんだが、髭の三度目は痛かったで」 「あたりまえだすがな」 「お前に一度尋ねようと思うていたが、どっちゃみち今夜は紋付が要るやろ」 「紋付はこのとり用意ができとります。先方へお行きになったら、また貴方さんの好きな物をお作りになったらよろしおます」 「アア、これは私の定紋《じょうもん》がついてある、あつらえたのか」 「羽織から着物袴をとっくり御覧《ごろう》じませ」 「徳兵衛、これは私が本家にいる時分に着てた着物や、これどうしたんや」 「これは黙って貴方さんをご養子にお上げ申す訳には参りません、親旦那さんにかくかくかような次第で、ご養子に差し上げますとお話し申しますと、親というものは結構なもので、涙をこぼしてお喜びになりました、久離《きゅうり》切って勘当した者はあかの他人、そのような者に塵芥《ちり》一本祝う因縁はないが、こなたの親切に免じて、一重《ひとかさね》だけお前に祝います、どうぞ不都合のないように言うて聞かしてやってくれ、家は兄が立派にやっている、他家へ行って粗忽をしてくれたらやっぱり兄の顔にかかわるよって、よう言うて聞かしてやってくれと、涙を流してのお頼み、兄様に内緒で丁稚《でっち》さんに持たしておくれなさったお心のこもった御紋付、戴いてお召しなされや」 「そうか、お父さん大きに有難うござります、おありがとうさんで、ござります……」 「若旦那、けったいな物言いをしなはんな」 「ながい間着物を着たことがないよってに、着物を着るとなんやグニャグニャして、腐ってるような気持がするわ、袴もしばらく着けたことがない、腰板が前か後かわからへん」 「若旦那さん、ご立派なこと、お帰りになった時のお姿とえらい違いだすこと」 「あの時の乞食の姿を絵に描いて残しておいたらよかったな」 「何をおっしゃるねン、若旦那、別に恩も義理もござりまへんが、家の者が心配をしたというお気がござりましたら、他人ばかりのところでござりますよって、居づらいこともござりましょうが、そこをなにとぞご辛抱遊ばせ、辛抱が大事でござります」 「おとわ、これで頼み納めやよってに、モウ一度だけ私の頼み聞いてんか」 「若旦那さん、何でござります」 「今晩夜通しここの家の表戸《おもて》を開けておいて。夜中にバリバリが始まったら逃げて戻って来るかもしれんよってに」  その間に日が暮れて、丁稚が定紋のついた提灯を持って先に立って、徳兵衛も紋付袴に草履ばきで付き添いまして、若旦那の身体は宙に浮いております。女房のおとわは入口に立って門火を焚《た》く。 「徳兵衛、気色がええな、こんな嬉しいことはない、養子に行くというもんはええもんやな」 「そりゃあたりまえでござります、一生の身の納まりがつきますのんや」 「これから毎晩養子に行ったろ」 「毎晩養子に行ってたまりますかいな」 「ええな、こんな風体《ふう》をして、素見《ひやかし》に行きたいな、馴染みの女に見せたりたいな、♪ひやかしが表に立つほど年期が立てば……というやつや」 「モシ若旦那、花婿さんが紋付を着て頬かむりをして、なんという風体をなさる、大きな声で唄をうとうたりして、人が笑うてますがな」 「イヤわかった、しかし徳兵衛、済まんが向こうの町へ廻ってんか」 「そんなことをしたら道が損になります」 「損でもかめへん、乞食の時に私の持ち場やったよってに、町内の人が私の顔を知ってる」  ようようのことで参りますと、サアご養子がお越しというので、先様《さきさん》では表に幕を張り、玄関には金屏風を引き廻し、燭台には百目蝋燭が点《つ》いております。ズット奥へ通り、まず仲人とご挨拶も済み、いよいよ三々九度のお盃も終わりますと、仲人は宵の口というので開いてしまいました。徳兵衛もひと安心いたしまして、ヤレ嬉しやと台所まで下がって参りますと、若旦那は顔の色を変えて走って来ました。 「徳兵衛……」 「びっくりしましたがな、若旦那、何だんね、あわてて」 「徳兵衛、今盃をしたあれがバリバリか」 「妙な物言いをしなはんな」 「とうない、美人《うつくしもん》やな」 「どうでやす、お気に入りましたか」 「そら気に入りやけども、バリバリが気に入らん、済まんけども、お前とこの家も、この家も夜通し開けといてや、いつバリバリで逃げて帰るやわからんで」 「何をおっしゃるねン」  とようよう納めておいて徳兵衛も帰りました。こっちは六畳の間は金屏風を引き廻し、そこに絹夜具が敷いて枕が二ツ並べてござります。床の間には山水の軸物が掛かって唐木の台の上には香炉が置いて梅が香の一ツも燻《た》いてあろうか、プーンとええ香りがいたします。宣徳《せんとく》の火鉢には銀瓶が掛かってお湯がシャンシャンと沸《たぎ》っております。菓子鉢には菓子が盛ってある。九谷焼の煎茶器に、青い絹張りの丸行灯、暗うなし明《あこ》うなし、羞《はずか》しゅうないという点《とぼ》り方をしております。嬢さんは今年十八になる娘盛り、小野の小町か楊貴妃か、衣通《そとおり》姫の再来か、沈魚落雁羞花閉月《ちんぎょらくがんしゅうかへいげつ》の粧《よそおい》ありという手数のかかる女で、夜具の上にキチンと坐って羞しそうに両袖で顔を隠している。その可愛らしさは何ともいえまへん。何時のほどやら夜の更けるに従うてグーッと寝入ってしまいました。その間に時刻が来ますと、嬢さんがムクムクと起き上がり、あたりを見廻しますと世間は森閑《しん》としております。草木も眠る丑三ツころ、常念寺の夜半鐘《やはんしょう》が陰にこもって、かすかにボーン……と諸行無常を告げ渡る。嬢さんは乱れ髪を梳《と》きながら前を掻き合わせ、 「モシ若旦那……、モシ若旦那、モシ……」  寝息をうかがうと、よう寝入っておりますので、そっと床を抜け出で、あっちにあった着物を取って、自分の姿の映らんようにパッと行灯に振り掛けて、火鉢に掛かってありました銀瓶を提げまして敷居へスーッと湯を流し、音せぬように障子を開けて縁側へ出ますと、雨戸の敷居へ湯を流してスーッと開けますと、今日しも十五夜の月が皎々《こうこう》と冴え渡っております。前は広々たる奥庭で正面が築山《つきやま》になっております。庭前へヒラリと飛び降りると、飛び石づたいになって向こうに泉水がある。それに土橋が架かって、かたわらに灯籠があって、ここには亭座敷がしつらえてござります。築山には植木がコンモリ茂ってござります。嬢さんはバタバタと築山に登りましたが、馴れているとみえて、こっちの雪見灯籠に足を掛けるなり松が枝を持つとヒラリと高塀に飛びつきます。と、その向こうは常念寺の墓場で、高塀の上から一番高い石碑に足を掛けて飛び降りました。しばらくあっちこっちを透かしておりますと、向こうに青竹が三本|遣《や》り違いにしてある、これを俗に浮世竹と申します。新仏《にいぼとけ》とみえまして、その青竹をキリキリと長襦袢の袖に巻きつけて引き抜きました。ガサガサとそこを掘り起こして、引きずり出しました棺桶は五斤入りの砂糖桶のような棺桶で、縛ってある縄をプツッと歯で切って、中からズルズルと引きずり出しました仏さんは、生まれてまだ二十日になるやならず、天然痘に罹《かか》って死んだものとみえてむごたらしいこと、一目見ても身の毛がよだつばかり。その嬰児《あかご》の首筋と足を持ちまして、さも嬉しそうにニンマリ笑いながら腕のところをバリバリと噛《か》んでチュウチュウと血を吸いながら、 「アー、妾《あたし》ほど世に因果《いんが》な者はまたとない、生まれ落ちると何の因果か知らねども、人間の生血死血を吸いたいが病気、今日はこの寺に嬰児の新仏があると聞くより飛び立つように思えども、今宵ばかりは慎みましょうと、ジッと堪えていたなれど、刻移らばたしなまれぬが身の因果、今宵お越し遊ばされしお婿さんも、妾のこのあさましい姿をごらんになったら、定めし愛想をお尽かしあそばすでござりましょう、なにとぞ妾を不憫《ふびん》と思召して一生添い遂げて下さりまするよう、どうしてもこの味ばかりは忘れられませぬ」  バリバリ、チュウチュウ、それに引き替えてこっちの座敷では若旦那。 「お手許はご面倒さまながら……お有難うさんでござります、ムニャムニャ……アアア(ボーン鐘の音)今|他家《よそ》の表で銭をもろうてる夢を見てた、アア喉が渇いた……コレ嬢さん、水でも湯でも一杯飲ましてんか、コレ……アア居んがな、どこへ行ったんやろ……」  そこらを見廻しますと行灯に着物が掛かって障子が開いてますので、さてはと思うて抜き足差し足で雨戸のところへ来て様子をうかごうておりますと、常念寺の墓場でバリバリチュッチュッという音が聞こえる。 「そーら、ボツボツ始めやがったな、なにくそめ、バリバリぐらいは何の怖いことがあるもんか、と言うもののその実余りくださらぬ……」  ガチガチと歯の根も合いまへん。それぐらい怖けりゃ見んでもよいのに怖い物見たしで、ブルブルと震いながら四ツ這いになって築山へ登りまして、松の枝にすがり、ようよう登ってこう下を見下ろしますと、拍子の悪い月に雲が掛かってまっくらで何が何やらさっぱりわかりまへん。石碑の間でバリバリチュッチュッという音だけ聞こえています、驚いてウワーッと声を立てようとしたが、声をあげてはならんと思い、歯を噛みしめて気張っておりますが、悲しいことには手足が承知しまへん。ブルブルと震う途端に松の木の葉がバラバラと落ちましたので、 「アレ、風も吹かぬのに木の葉が落ちるとは、どうしたことじゃろう」  ヒョイと見上げるのんと、若旦那は見下ろす。このとき雲が晴れて月は冴え渡りましたので、互いに見合わす顔と顔。 「アレーッ、若旦那様……」 「ナ、ナなんじゃいな」 「かようなあさましい姿を、お目に掛けまして定めし愛想が尽きましたでござりましょうが、どうぞ不憫と思召して連れ添うて下さりませ」 「嬢さん、そんなとこで何をしてるねん、見せてみ、性さえわかったらええがな」 「かような物でござります」 「もっと高う上げてみ、ウワーッ、えらい物を喰うてんねんなア、そら嬰児《あかご》の腕やないか」 「ハイ左様でござります」 「妙な物が好きやねんな、好きならええがな、明日から諸方へ頼んでおいて、もろうて来てあげる、そうならそうと最初《のっけ》に言うてくれたら、こないにびっくりせんのに、嬰児の腕ぐらいはなんじゃいな」 「エッ、若旦那そんなら貴方も嬰児の腕をお食《あが》りあそばすか」 「嬰児どころか、私は親の脛をかじったわい」 [#改ページ] 貝野村《かいのむら》  おところは、大阪の船場《せんば》、奉公人の二十人余りも使いました立派なお店、ご家族が親旦那と若旦那の二人っきり。この若旦那というのがこのおはなしの主人公でございまして、お年が二十二歳、なかなかのええ男で、町内で今業平《いまなりひら》とあだ名がつきまして、この若旦那がお年に似合わずなかなかお商売が上手、如才《じょさい》がございません。ところがこのお家へ、棟梁の甚平はんの世話で丹波の貝野村からおもよどんという女中さんがまいりまして、このおもよさんというのが、年が十八、そのお方がもう若旦那に……。  若旦那も何かにつけておもよ、おもよと言うとります。ところがこの若旦那が商用で九州の方へ、番頭の久七をつれまして、旅立ちまして二十五日目に、国元からおもよどんのお母さんが具合いが悪いさかいにすぐに帰ってくれと、替わりの女中さんを連れて暇を取りに来ました。仕方がない、そのまま帰しました。ところがこの替わりに来た女中さん、偶然にも名前がやはりおもよどん、名前は一緒、年も十八、年も一緒ですが、このおもよどんが前のおもよどんと違いまして、背はすうっと低うて、色はくっきりと黒うて、目が下がり目、鼻はどっちかと言いますと通らんと、口がワニ口で、眉毛がゲジゲジ眉毛、肩がいかっとりまして、おいどが大きいて、昔からよう申します、月とスッポンちゅうやつでンナ。そのおもよどんが替わりに来まして、それから三日ぐらいして若旦那が帰ってまいりました。 「おう帰ってきたか、久七、ご苦労さん、さあさあ疲れたやろ、さあ、すぐに風呂に入りなさい」  若旦那さっそく疲れてるもんですさかい、お風呂へ入りまして、まあこのお風呂へ入るのがこの若旦那の楽しみで、かならず若旦那が風呂へ入っとりますとおもよどんが来て背中を流してくれる。もうその内には来てくれるやろと風呂でつかってますが、根っから、おもよどんは来ません、そうこうするあいだに、ぼちぼちのぼせてきました。 「ははーん、私が帰ってきたと言うので、髪結さんでもよんで、今髪でもときつけてんねんな、そうや御飯食べたら、今度は給仕に出てくるやろ」というのでお風呂から上がりまして、 「これ、お腹がすいてるねん、すぐに御飯の用意しておくれ」 「かしこまりました」  若旦那が、そのうちに、おもよどんが御飯の仕度をして給仕に来てくれるやろと待っとりますところへ、 「はい、若旦那様お帰りあそばせ」 「おもよは、どうした」 「はい、ウラア、おもよでがす。まあまあ、つねづね聞いとりました。若旦さんは、ええ男じゃ、よか男じゃちゅうこと聞いとりましたが、まあ噂に違《たが》わずいい男じゃのう。前のおもよどんがオッ惚《ぼ》れたちゅうが、ウラもオッ惚れました。飯食らうちゅうでノウ、給仕に来ました、さあ食らえや」 「これはなんや、これは、コレ、お千代、ちょっと来とくれ」 「若旦さん、なんでんねん」 「なんでんねんやあれへんがな、誰がこんな者をここへ上げた。エエ私これから御飯を食べるねん。おもよはどうしました、おもよは」 「すんません、おもよさん、暇取って帰りはりました」 「えッ、暇取って帰った、いつやねんな」 「あの三日前でおます」 「三日前に。これなんや」 「こんど前のおもよさんの替わりに参りました、おもよどんです」 「おもよどん、おもよどんです。……こんな者は片付けとくれ。これ、町中やさかいええねんで。山の中やったら、猟師が間違うて射つで。早いこと片付けとくれ、アアもうこの顔見てから、なんじゃ気分が悪うなった。もう御飯いらん、お膳引いとくれ、寝床《ねま》取っとくれ、寝ます」  と若旦那寝てしまいます。さあこうなりますと、あくる日の朝御飯を持って行くと食べとない、お昼も食べん、夜も食べん、またあくる日になって持って行きますと、朝昼晩食べへん、五日六日、一週間余りも食べんといますとほんまの病人さんのようになってしまいました。  こうなりますとお薬がのどを通らん、もちろん水は通らん、電車は通らん、飛行機は通らん、なんにも通らんようになってしまいました。あっちこっちのお医者さんに診てもらいますが、どうしてもその病気の原因がわからん。ところがある日、ふっとおもよという名前をば口にいたしまして、お医者さんがそれを聞きつけまして、ははん、これは恋患いやなというので、 「旦さん、今日、若旦那のお診立てをいたしましたところ、どうやら、おもよどんというお方に恋患いをしておいであそばすようです」 「先生、なんですかいなあ、そんなことが分かりましたん」 「ハイ、いろいろと話をしておりましたときに、おもよという名前をば口になさいましたんで、ハハンとわたし胸に思いあたることがございまして、は、こらどうやら恋患いらしゅうございます」 「さいですか、こらよう診てやっておくんなさった。親ですからなあ、いつまでも子供じゃ、子供じゃと思うとりました。そこまで気がつきませなんだ。おおきに有難う、早速なあ、おもよを呼び戻しまして、ハイ、へえ、なるほど、なんでおますか。このまま放っておくと、明日の晩までもたん。早速おもよを貝野村へ呼びにやります、へえ、先生、どうも有難うさん、ご苦労さんで」  早速、棟梁《とうりょう》の甚平さんを呼びにやりました。 「旦さん、何か急なご用事やそうで」 「ああ、すまんがなあ、甚平さん、あのうちの伜《せがれ》のことやがなあ、ハア、もうあっちこっちの先生に診てもろうてもどうしても分からなんだ、アア、ほんならな、お前さんも知ってる玄白さん、あの人に診てもろうてようよう分かりましたんじゃ。ああ普通の薬では、うちの伜の病気は、治りませんのじゃ、おもよを煎じて飲まさなしゃあないと、こういうことになりましたんじゃ」 「さいでおますか」 「すまんがな、早速、おもよを呼び戻しておくれ。うん、なんでも噂に聞くとなあ、おもよどんの母親の病気は治ったということを聞いたんじゃ。アア、早速になあ、おもよを連れて帰ってきておくれ」 「へい、承知いたしました」 「先生のおっしゃるのには、明日の晩までに連れて帰らなんだら命が危ないそうな。どんなことがあっても、明日の晩までには、おもよを連れて帰ってきておくれ」 「旦さんそんな無茶なことおっしゃったら……」 「何が無茶や」 「そうでおますがな、ようそんなことあっさり言いはりますなあ。貝野村というたら丹波でっせ、丹波へ行って、あんた、おもよどんを連れて帰るのに、明日の晩まで」 「いやいや、そりゃ無理は承知じゃ、無理は承知やけど、何とかして連れて帰ってきておくれ。その代わりな、もしも連れて帰ってきてくれたら、三千円、あんたにお礼に上げるさかい」 「旦さん、三千円でおますか、三千円というと千円が三つでおますわなあ」 「そうや」 「三千円、よろしおます。行って参じます、どんなことがあっても、へ、おもよどん連れて帰って来ますさかい、へ、行って参じます」 「ああ、旅装束は、うちに全部あるさかい、すぐに用意しておくれ。早いこと行ってきておくれ」 「へ、承知いたしました」  さあ、こうなりますと欲と二人連れ、甚平さん一生懸命に走って、その晩の夕方頃に、ようよう丹波の貝野村へやってきました。ところがこのおもよどんのお父さんというのが二、三ヵ村の庄屋さん、なかなか立派な家に住んでなさる。ところがたえず出入りしてる甚平さん、勝手知ったもんでそのまま、バアーッと玄関から飛び込みまして奥の座敷の真ん前の庭のとこへ、へたばってしまいよった。 「イヤアしんど、アアしんど」 「これ誰やいな、なんじゃおかしなんが降ってきたで。コレ、頭に草鞋《わらじ》つけてるがな、病気かいな。とにかく誰かちょっと背中をさすってやっておくんなされ。誰やと思うたら甚平さんやないかいな、何しに来はった」 「お庄屋はん、実は、おもよどんが奉公いたしておりました主家《おもや》の若旦那の命にかかわることが出来ましたんで、私参上いたしましたんで」 「ああ、ああ、何かいな、若旦那どないぞ、あそばしたん」 「実はおもよどん暇をとってから、若旦那が旅からお帰りになって、それを聞いてそのまま、お床におつきになったきりでおます。へえ、明日の夕方までにおもよどんを連れて帰らなんだら、若旦那の命がおまへんねん」 「そうか、いや実はな、おもよがああして家に帰ってきたら、ばばあどんが喜んでなあ、おもよの顔を見るなり二、三日でようなったんやがなあ。で、まあ一ぺんお礼に上がらんならんと思うてたんや。ところが、ええことは続かんもんやなあ、一難去って、また一難、ばばどんが治ったと思うたらな、おもよが寝たっきり。それからというものは何も食べんとなあ、床についたきりじゃ。なるほど、これで思い当たった、つまり、若旦那も、うちのおもよも、同じ患いらしいなあ」 「そうでおますがな、そうですさかいねえ、おもよどんを連れて行って、若旦那に会わしたら、もうこの病気は治ると思いますので」 「よろしい、早速連れて行っておくれやす」 「しかし、ずっと寝はったきりでおますか」 「かめへん、連れて行きなはれ。若旦那のために途中で万が一のことがあっても、私は諦めます。おもよがなんというか知らんが、ともかく、その話を甚平さん、おもよに言うてやっておくんなされ」 「さいですか、そんなら早速おもよどんに会いまして……、えらいやつれてはりますなあ……、おもよどん、おもよどん」 「ハイ、あ、甚平さんですか」 「聞きましたで、へえ、エ、エ、エ、そうでんねとなあ、エエ、若旦那のことを思いつめて寝てしまいなはってんやろ。実はねえ、若旦那もあんさんのことを思いつめて、ずうっと寝はったきりでんねんがな。へえ、それでぜひおもよの煎じ薬を飲みたいと、こない言うてはりますのや。わたいとこれから一緒に大阪まで行っておくんなはれ」 「若旦さんがそんなこと言うてくれてはりますの。ああうれしい、大阪へ行きます」 「起きなはったなあ、あんた、病気の方は」 「もう治ったわ」 「治りましたか、それやったら、途中で万が一のことがあってもかめへんさかい、連れて行ってやってくれと、お父さんがそない言うてはりまんねん」 「まあ、粋なお父さん、ほんなら早速、行きまひょ、さあ行きまひょ、さあ行きまひょ」 「おもよ、お前病気の方は」 「おとっつあんいろいろと心配かけましたけど、良うなりました」 「良うなったか、えらいもんやなあ。しかしなあ今までずうっと寝たきりや。一ぺんお風呂へも入って、髪もきれいに撫でつけてあんじょうして行かな」 「いえいえ、このままでよろしい。若旦那の命にかかわることでおますさかい、これから行きます」 「そんなら、おもよどん、この甚平があんさんを負うて行きますさかい」 「なに言うてなはんねんな、年いってなはって、わたいを負うたりでけしまへん、なんやったらわたいが負いまひょか」 「なにを言うてなはんねん」  早速|駕籠《かご》を二挺あつらえまして、人足を大勢雇うて、前の駕籠にはおもよどん、後の駕籠には甚平さんが乗りまして駕籠舁きが、エイホー、エイホー、エイホー、チャイ、チャイ、チャイ、チャイ……、早いもんでもう大阪へつきました。 「旦さん、おもよどん連れて帰ってきました」 「連れて帰ってきてくれたか、ようよう間に合うた。もうちょっと遅かったらうちの伜の命のないとこや。よう行てきてくれた。ともかくなあ、お礼の方は後でするさかいすぐに伜に会わせてやっておくれ、倅に会わしてやっておくれ」 「承知いたしました、おもよどん、こっちでおます」  ところが、うっかりおもよどんが来ましたでと言うたら、あまりの嬉しさに、コロッといてしもたらどもならんというので、甚平が考えまして、長い竹の筒、節を抜きよって遠いとこから小さな声で、 「若旦那、おもよどんが来はりましたでえ」 「ほんまかいな」  顔を上げると今まで思いつづけたおもよが枕許に座ってるものやさかい、おもわず、ばあっと立ち上がるなり、 「ア、 おもよか」 「若旦那、会いたかった」  芝居では、ええとこですが、さあ、そうなりますと若旦那、今まで寝てたのをころっと忘れて、立ち上がってしもうて、 「アア、よう帰って来てくれた。アー嬉しいと思うたとたんにお腹が減ったがな。長い間何も食べてえへんね。おもよ、お前もか。すぐに御飯食べよ、コレ誰ぞ御飯の用意をしておくれ。ともかく長い間何にも食べてへんさかい、なるべく精のつくもんがええなあ。鰻二十人前ほど焼かしにやってんか、ウン、それからな、玉子五十ほど持ってきて、御飯熱つあつにしてすぐに持ってきて」  さあそれからおもよどんと二人で差し向かいで食べて、なんと若旦那、大きなお茶碗に三十八杯、さすがにおもよさんは女子はんのこと、まして好きな男はんの前でそないに食べられるものやござりません、二十九杯食べました。病気がすっかり良うなりました。こうなったら親として夫婦にせないかん、ところが先方へ話をいたしましたところが、おもよどんも一人娘、若旦那が一人息子、まさか一人息子の若旦那が養子に行くわけにはいきませんが、今言うとおり、田舎の方のしきたりでやはり親類がうるさいというので、ホナラ一日だけ若旦那に入り婿として来ていただいたあと、うちのおもよを嫁入りさせましょうと話が決まりまして、若い者を一人、仲人として甚平がつきまして、おもよどんと若旦那と四人が、貝野村へやって参りまして、入り婿、親類縁者と顔つなぎをいたしまして、三々九度をいたします。あくる朝、起き上がりますと若旦那、都会に住んでるだけに、田舎の朝の空気というのを初めて吸いなはって、縁側へ出て、 「ああ、ええ空気やなあ、なんとも言えんええ眺めやなあ、おもよ、ちょっと一ぺんこっちへ来てみ。どうや、なんとも言えんすがすがしい気持ちやなあ。ああ、こんなとこで一生暮らしたいけど、やっぱり大阪で商いをせんならんねんさかいなあ。こんなとこでゆっくりと暮らしたいもんやなあ。ア、そうや、女中さん、女中さん」 「はい、お呼びで」 「ここで手水《ちょうず》を使いたいと思うねん、手水を回しておくれんか」 「承知いたしました。……旦さん」 「おなべか、何や」 「大阪の若旦さんが手水を回せと、こないおっしゃっておられます」 「なにッ」 「あの手水を回してくれと、こないおっしゃっておられますので」 「そんなこと、私に言うてどないするねん。料理人の喜助に言いなはれ。そんなことは、わしのとこへ言うてくることやないがな」 「アアさいでおますか、ほな喜助さんに言うたらよろしおまんのん……喜助はん」 「何や、おなべどん」 「アノウ大阪の旦さんが手水を回してくれと、こない言うとりまんのん」 「何やて」 「アノウ手水を回してくれと、言うてはりますの、いま旦さんに言うたら、喜助に言えと、こない言うてはりましたんで」 「ちょっと待ちや、オイ。手水を回してくれと、こない言うてはんの。どこでや、え、縁側へ回してくれて。ナ、そやさかい田舎者はあかんねん。大阪の婚礼と田舎の婚礼の違いはこれやろなあ。まあま、田舎の婚礼の料理は、たいがいの料理はしたけどな、……手水を回す、分からんなあ。ちょっと待ちや、一ぺん、これ旦さんに相談してみるさかいな。えらいことになったで、ひょっとしたら、これがもとでご当家をしくじるかも分からんなあ、旦さん」 「何や喜助」 「今おなべどんがなんや手水を回せとか、こない言うてはりまんのやけどねえ、手水てなんでっしゃろ」 「それが分からんさかい、あんたとこへやったんやないか」 「へえ、それわたいも分かりまへんねん、一体何のことでっしゃろなあ」 「そうやなあ、そんな難しいことは我々ではとても分からん、ア、そうや、越南和尚、あの人なら何んでも知ってござるお方や、ああ、早速行って来ておくれ」 「あ、さいでおますか、では、早速行って参じます。ええ和尚さん今日は」 「オオ喜助さんか、なんじゃなあ」 「実は、ご承知のとおり、昨晩おめでたがございまして、ええ、大阪の旦さんが今朝お目覚めになりまして、縁側で、女中のおなべどんに、手水を回せと、こないおっしゃったんで、へえ、我々いっこうに分かりませんのですが、何のことでおまっしゃろ」 「手水を回せとおっしゃった、そんなことがお前さんらに分からんのか。これはナ、長とは長い、ずとは頭、つまり長い頭を回すこっちゃ」 「あ、さいでおますかいな、難しいこと言いはるもんですさかい、へえ、さいですか、ほんなら、早速帰って旦さんにそう申しあげます。エエ旦さん、行って参じました」 「和尚は何とおっしゃった」 「いえ、なんでもないことですのや。長とは長い、ずとは頭、つまり長い頭を回せとこない言いはったんですわ、大阪の旦さんは」 「ア、そうかいなあ、ハッハッハッハ、ハアそうか、しかし困ったな、長い頭というの一体誰のことや」 「へいへい、布袋《ほてい》、そう、布袋の市兵衛というて、この村はずれに住んでまっしゃろ、あの男の頭がまあ、ずいぶんと長い頭で、へえ、五尺の手ぬぐいで頬かむりがでけんちゅうんですさかい、たぶん大阪の旦さん、噂を聞いてなはってぜひ大阪への土産にこれが見たいと、こないおっしゃったんでっしゃろ」 「あ、そうか。そんなら早速、その市兵衛を呼んで来て。……オオ行ってきてくれたか、市兵衛さんいてたのか、一緒に来たのかいな。サアサ、遠慮せんとこっちへ入ってもろうて、直ぐに離室《はなれ》の縁側に行ってもろうておくれ。市兵衛さん、どんな無理を言いはるか分からんけども、ともかくおっしゃるとおりにお願いしますで」 「どういうことか分かりませんが、まあ一ぺんやってみますで」 「一つお願いします」 「ごめんなすって」 「おもよ、なんじゃおかしなお方が入っておいでになったで。ちょっと見てみ、こらずいぶん長い頭してなはるで、ハッハッハ、あんた、なんぞご用があって」 「ヘイ、当家の旦那さまに頼まれましたで。長頭を回せとおっしゃったで、ハア、回しに参りましたで」 「手水を回しておくれとさっき、私が頼んだけど……」 「ヘイ、じゃあ回さしていただきますでなあ、はあ、これでどうでおますかいなあ、ハア」(と頭をぐるぐると回しはじめる) 「違うねんがな、なんぞ勘違いしてはるのと違うか、いえ私はな、手水を回してくれと言うたんで」 「へえ、回してますでなあ」 「早よ、回してくれというてるねん」 「早うですかい、ほんなら回します」  ハーッ……。あんまり早う回しすぎたので、とうとう目を廻して引っくり返ってしまいよった。 「まあ、お父さん、なんでんのん。分からなんだら分からんと言うてくれはったらええのに。みっともない。ようあんな阿呆なことしなはったなあ、何も知らん方やこと。そやさかい田舎者は笑われますのやわ、もう私、大阪へ帰ります」  おもよどん、面目ないので若旦那を連れて大阪へ帰ってしまいました。 「喜助、えらい目に逢うたなあ。またあの越南和尚も越南和尚やがな、長い頭やなんて、言うて……。とうとう恥かいてしもた。しかし手水というの、覚えとかないかんな。そやなかったら、この貝野村の恥になる。エエ」 「どうでおまっしゃろ、旦さん。いっそのこと、旦さんと私と二人で大阪へ行きまして、どこぞ大阪の宿屋へ泊まって朝、手水を回してくれというたら、分かるのんと違いますやろか」 「なるほど、ええこと思いついてくれた。早速これから大阪へ行こ。そやなかったら、この村の恥や」  さあこれから庄屋の旦那と喜助とが大阪へやって参りまして、道頓堀の大きな宿屋に泊まりましてそのあくる日の朝、縁側へ出てくるなり、 「喜助、お前そこで隠れてや、一ぺん女中さんを呼んで頼んでみるさかい、どんなものを持ってくるか、お前もしっかり研究しとかなあかんで。そやなかったら一人前の料理人には、なれんさかいなあ、分かってるな。ちょっと、女中さん」 「お呼びでおますか」 「あのなあ、この縁側に手水を回してほしいねんけれど」 「ここでお使いでおますか」 「アア、ここへ手水を回しておくんなされ」 「承知いたしました」  しばらくいたしますと、真鍮《しんちゅう》の大きな金盥《かなだらい》、その中へお湯をたっぷりと入れまして、塩と歯磨粉とを皿の上へのせまして、房楊子を添えて持って参りました。 「どうぞお使いあそばせ」 「おおきに憚《はばか》りさん。喜助出といで、これや、手水というのは」 「なるほどこれでおますか。えらい違いでんなあ、長い頭とは。ハハア立派なものでおますなあ、大きな器ですなあ」 「ここに塩があるけど、これどないするのやろ」 「言わずと知れた、これ塩で味つけをしますんで、へえ」 「あ、なるほどなあ、それでこの赤い粒は」 「ヘエこれは、薬味のかわりに、やっぱりほり込みまんねん」 「ア、 なるほどなあ、ホイデここに棒があるが……」 「ヘイヘイ、房のついた棒ねえ、これでかきまわすのやろと思います」 「ア、 なるほどなあ、ホナ一ぺんやってみよか」  湯の中へ塩も歯磨粉もほり込んで、房楊子でかきまわしまして、 「ともかくわしが先に頂戴するさかい、お前も今後のために、ちょっと飲んで覚えときなされや。それでは頂くさかいな……。なんや美味しいのや、美味しいないのや、分からんけども、ともかくなあ、私これだけ頂いたら結構やから、お前さんあとを全部飲みなされ」 「さいでおますか、ホナわたくし、ヘ、お流れを頂戴いたします。お相伴させていただきます、結構なものでおます、大阪へ来たおかげでおますなあ、こんな結構な手水を頂きまして、それなら頂戴いたします」  金盥に一杯あったやつを二人で全部飲んでしまいました。ところへ女中さんが、また、金盥へ一杯のお湯と塩と歯磨粉と房楊子とを持って出てまいりました。 「どうぞこれもお使い下さいませ」 「女中さん、これ何ですのや」 「そちらのお方のでおます」 「エエ、もう一人前おますのんか、あとの一人前は、お昼に頂きます」 [#改ページ] 黄金《きん》の大黒《だいこく》  戦前はずいぶん大阪に、あやしげな長屋がたくさんにございまして、こういう長屋に住んでる連中は、家賃払わん講《こう》てな講をこしらえまして……。 「おい、何や家主のうちから長屋全部、顔をそろえるようにいうてな、使いが来てんけど、おそらく家賃の催促やろうと思うのやが、どうする」 「やめとこ、やめとこ。家賃の催促やったら行かんほうが無難やで」 「いや無難やでと言うけど、お前とこ家賃やっぱ溜めてるのんか」 「わずかやねんけど(指を三本出して)、これだけ」 「割に少ないな、三月か」 「いや、三年や」 「ぎょうさん溜めてるのや。オイ、お前とこ、家賃どないしてる」 「どこの」 「どこのて、この長屋の家賃や」 「ア、この長屋の家賃がいるということは、親父《おやっ》さんが生きてる時分に、一ぺん聞いたことがあるねんけど」 「ちょっと待て。親父さんが生きてる時分に一ぺん聞いたことがあるて、お前とこの親父さん死んで今年十七年やで。オイ、ホナなにか。十七年間払うてえへんのかい」 「イヤ、親父さんの代で十年払うてないさかい、ちょうど二十七年は払うてえへんと思うねん。親父さんが払わんと死んだのに、息子の俺の代になって払うたんでは親不孝に……」 「ようそんな阿呆なこと言うてるわ。なにが親不孝や……。お咲さんあんたとこ、家賃どないしてる」 「兄さん家賃てなに?」 「家賃知らんやつがいとるで。こらあかん、あかん」 「オイオイ、なにを心配してるねん。家賃の催促やないがな」 「ホナ、なんで家主の家へみな集まれと言うてるねん」 「イヤ、あのな、きょう長屋の小伜と、家主の坊《ぼ》んぼんが、砂いじりをして遊んでたら、砂の中から黄金《こがね》の大黒さんが出てきてナ、それを家主の坊んぼんが、拾いはったのや。それでこんな目出たいことはないいうてナ、内祝いに長屋の連中をみな呼んで、ご馳走を食わして一杯飲ましたろと、こない言うてはるのや」 「ア、 そうか。家賃の催促と違うのかいな」 「オイ、ホナなにか。我々に一杯飲ましてくれはるのかい。ホナ、行こ、行こ」 「オイ、行こ行こはええけど、普段《つね》とは違うねんで、やっぱり、向こうが目出たいいうて祝うてはるのや。ナ、やっぱり羽織の一枚も着て行って、祝いの口上も言わんならん。第一、その羽織てなもの、この長屋に持ってる者ないやろ。そうやないかい。羽織着てこの長屋へ入ってきたら、犬が吠えつくいうねんで。誰ぞ、紋付の羽織持ってるやつあるか」 「アノウ、一枚だけやったらおますのやけど」 「ああ、一枚あったら結構。ほんならすんまへんけど、その羽織持って来とくれやす。それで言うときますけどナ、その羽織着て中へ入って、口上すましたらすぐに出て来てもらわんと、後の者にも都合がおますさかいな。いっぺん入って上がってしもたら、後の者が入れんようになりますさかい。それですんまへんけどなあ、徳さん。あんた一番年かさで、弁が立ちますさかい、あんたから先に入っとくなはれ。そいであんたの口上聞いといて、そのとおり言いますさかい」 「さよか。ほなら羽織こっちへ貸してもらえますか」 「ヘエ」 「ホナラ、どなたもお先に入らして頂きます」 「なんじゃ風呂へ入るように言うてなはるな。いま言うたとおりで、すんだら出とくなはれや」 「へえよろしおます。まかしといてくれやす。……今日は」 「おお、徳さんかいな。いやあ、さっきから待ってますのや。ササこっちへ上がっとくれ。何もないのやけどなあ、内祝い、心祝いに一杯飲んでもらおうと思うのや」 「今日は、まことに結構なお天気さんで。承りますれば、長屋の小伜とお宅の坊んぼんが、砂いじりして遊んではったら、砂の中から黄金の大黒さんが出てきて、それをば長屋の小伜が拾うのやったらともかくも、家主の坊んぼんが拾いはった。昔から言うとおり、高い所《とこ》へ土もちやなあ言うて、長屋の連中が羨ましがってるような次第で。今日《こんにち》はまことにお目出とうさんでございまして」 「ああ、こらまたご丁寧なご挨拶、恐れ入ります。サアサ、徳さんこっちへ上がっとくなはれ」 「長屋の連中、まだ誰も来てまへんか」 「もうおっつけ皆来るやろうと思うのや。ササ、徳さんこっちへ上がっとくなはれ」 「ちょっと私、表へ一ぺん出さして頂かんと」 「なんでやねんな。そんなことせんと、まあ、上がったらどないや」 「ちょっと、アノお便所へ行きたいんで」 「ホナ、うちの便所へ行たらええがな」 「ええ、お宅にもおますのやけどね、この長屋の戸口《こぐち》に三軒並んでる真ん中の便所から、ぜひ徳さんに来てもろうてくれと言うて……。で、これからあっちへやらしてもらいまっさ。さいなら……。もうちょっとで上がらんならんとこやった。つぎ誰が行くねん」 「おっ! おっ! ちょっとすまんけど、俺《わい》に行かしてんか」 「アホ、出しゃばるな。俺に行かしてんかて、お前が徳さんみたいにうまいこと口上が言えるのかい」 「オイ、あんまり人を馬鹿にしなや。徳さんの言うた口上ぐらい、なんでもないことやがな。俺は徳さんの言うたとおり以上に、うまいこと言うたるさかい。どない思うてけつかるね。羽織こっちへかしてくれ。何ぞいうたら、俺を馬鹿にしやがって。あれぐらいのこと、なんやねん。言うてすまんけどなあ、肝心なことは、バアーッと言うたるのやさかい。普段《あいだ》はあんまりもの言わん無口な人間やけど……」 「ちょっとも無口なことあらへん。人一倍ようしゃべるのや」 「大丈夫やて、まかしときいうねん。ナ、昔から立て板に水というやろ。立て板に水やったら、板に滲《し》みこむ間《ま》があるね。俺のは立て板にツブやで。バアーッと喋りまくったら止まらんのやさかい。おいみんな参考のために、俺の口上をよう聞いとけよ、ええか。……エエ今日は」 「ア誰やと思うたら喜《き》ィさんかいな。サアサ、こっちへ上がっとくれ」 「エエ今日は……、結構なお天気さんでございまして」 「ハイハイ、ええ天気やなあ」 「この調子やったら、明日もええ天気やろうと思いますが」 「うん。これやったら大丈夫やろなあ」 「明後日《あさって》あたりが危ないと……」 「何を言いに来たんじゃ……。いったいなにしに来た」 「いえいえ、これから口上言わしてもらいます」 「モウモウ、そんな堅苦しい挨拶抜きで、ササこっちへ上がっとくれ」 「いいえ、あきまへん。今日はやっぱりちゃんと言わしてもらわんと。ええ何ですねん。ウケ、アノうけたが、うけたまがりは、うけたがまりまり、ヘッヘッヘッ、まあ急《せ》くな」 「誰も急いてへんが、お前が落ち着かんかい」 「つまり何ですのや。アノ早い、早い話がネエ、つまり何でんねん、アノウ、長屋の坊んぼんと、お宅の小伜……」 「さかさまやがな」 「イヤ、そのさかさまがネ。砂いじりして遊んでたら、砂の中から、お多福《たやん》が飛んで出て」 「そんなもの飛んで出るかい」 「お多福と違いますわ。砂の中から、ソウ、金太郎さん……。戎《えべす》さん、戎さんと違いますワ。砂の中から、ソウ、にゅうと出たやろ」 「何を言うとるのや。黄金の大黒さんが出て来たんじゃ」 「アッソウソウ。その大黒さんが出て来てネ、ホデ長屋の小伜が拾うのやったらともかくも、家主の小伜が拾うた、生意気やぞいうてね、昔からいうとおり、高い、高い山から谷底見れば、うりやなすびの花盛り。アリャ、ドン、コリャドンドンドン……。さっぱりわやや。さいなら」 「何を言うてるのや」 「どうや、うまいこと言うたやろ」 「何を吐《ぬ》かしてけつかるねん、このガキは。立て板にツブやて、お前のは立て板にツブやあらへん。横板にトリモチやないか。あっちへべったり、こっちへべったり、ひっつきやがって、阿呆ンだら。そやさかい生意気なこと吐かすなというねん。羽織をこっちへかせ。俺をさしおいて先に入ろうというのが、間違うておるのや。ナ、こういうお祝いの口上てなものは、この徳さんの言うたように、ごちゃごちゃしょうもないことは言わんでええのや。簡単にしてかつ明瞭に言うたらええね、相手に分かるように。オイ、つぎ誰が入る。エエ? お前か。ちゃんとここで用意しとけよ。俺が出て来てから、まごついてもあかんぞ。俺のは早いのやさかい。びっくりするな、ええなあ……今日は」 「はい」 「さいなら」 「こら早いわ。これやったら誰かて早う行けるが。ウォーイッ、ちょっとつぎ俺に羽織かし、俺も先に入る。あれやったら」 「ちょっと、ちょっと見てみ。なんじゃ、さっきからおかしな具合やと思うてた。今年は長屋の連中、よっぽど景気がええとみえて羽織をそろえでこしらえたのかいなと思うてたのや。入って来るやつが皆おんなじ紋やさかいな。違うのや。見てみいな。一枚の羽織を取り合いしてよるで。ウワーッ、ホレ、見てみいな、二つに裂けてしもたがな、引っ張り合いするさかい。……コレコレもうそんなしょうもないことせんと、こっちへ入りなはれ」 「ワッハッハッハッ、家主さん見てはった。こないなったら、もうどうもしゃない、羽織なしで入らしてもらお……。家主さん、今日は。お目出とうさんで」 「家主さん、今日は」 「エエ今日は」 「今日は。一杯よばれまひょ」 「しょうもないこと言いな。入ったら、ちゃんと挨拶せな、いかんねん。家主さん、今日はお目出とうさんで。坊んぼん、えらいお手柄でんなあ。言うてまんがな、家主さん、さすが家主さんの孫だけあって、なかなか目先がききますなあ。長屋の連中の方が人数が多かった、小伜連中の数が。それやのに、大勢いてる長屋の小伜がよう拾わんと、お宅の坊んぼんが拾いはる……。これは大分ずるいなア……」 「厭味を言いに来たのかいな」 「いえいえ、そうやおまへんので。しっかりしてはるというてますのや。……坊んぼん、ちょっとこのリンゴ上げますさかい、どうぞリンゴ食べなはれ」 「コレコレ、おじさんに礼を言わんかい。おじさんがお土産にあんなええリンゴを上げよと、こない言うてなはるのや。おじさん、ありがとうございますと、頭下げてちゃんと、お礼を言いなはれ」 「いえいえ、そらいけまへん。そら、そんなことしてもろうたら、ソラ、つらい。このリンゴ、今あの床の間の大黒さんの前にあったやつですのや」 「ホナ、うちのリンゴやがな。何をするねんな。しかしな、長屋の連中、言うとくがな、こんな小さな子供のことやさかい、長屋へちょいちょい入って行って、悪戯《わるさ》するやろうけどナ、家主の孫やさかいというて、けっして遠慮しとくなさるなや。悪いことしたら、どんどんと叱ってやっとくなされ。その方がこの子のためになりますでな」 「それやったら、家主さん、このあいだ、この坊んぼんを怒ったったんだ」 「喜ィさん、なんぞうちの孫がしましたか」 「へえ、そうでんねん。私が表でかんてきに火をいこしてたん、ホナ、そこへこの坊んぼんが出て来はってネ、『おっちゃん、この火、消したろか』とこない言いはるねん。ホデ、『どないして消しはりまんねん』言うたらナ、『こんな火ぐらい、ボロクソに消えるわい』。見てたらネ、横手にあったバケツの水、がばっとかけて消しはんねん。でわたい言うたんだ、『坊んぼん、おっちゃんが一生懸命いこした火をば、なんでこんなことして消しまんねん。そんな悪戯しはったらおじいちゃんに、言いつけまっせ』。坊んぼんの言いはることが、憎たらしいやおまへんか。『あんなハゲチャビンのおじいちゃんの言うことなんか怖いないわい。イイン!』『イーン』いうた時の顔の憎たらしいこと。わたいかて相手が子供や思うさかい辛抱《しんぼ》してたんでっせ。この『イーッ』というた顔見るなりネ、この胸のあたりで『プツッ』と音がしたんだ」 「なんの音が……」 「堪忍袋の緒の切れた音ですねん。ムカムカッとしたもんですさかいネ、いきなり頭、コンコンと二つだけ軽うに……」 「コレコレ、ちょっと待っとくれ。なるほど、遠慮せんと叱っとくなされとは頼みましたで。しかし、相手はこんな小さな子供やがな。悪戯したら口で言うてくれたらええねが。軽うに頭コンコーンと二つて、げんこつでもいきなはったか」 「イイエ、金槌で……」 「何をするねん」  これから皆が一杯飲みまして、落ちあいがつきます。黄金の大黒さんでございました。 [#改ページ] 口入《くちい》れ屋  ヘイ。口入れ屋というお噺を一席|演《や》らして頂きます。従前《じゅうぜん》大阪では四月と十月が女中の出替わり月でござりましたが、どちらもよう雨の降りまする時季で、この季節を前垂れ被《かぶ》りと申します。女中衆がめみえに行くのに、よい着物を着て参りますが、途中でこの雨にあいますと前垂れを被りますので、そう申したそうでござります。船場《せんば》の口入れ屋で、表の間《ま》には奉公先を待っている女中が、仰山寄ってワヤワヤ喋っておりますと、こっちには一段高いところ、ちょうど風呂屋の番台みたいなとこへ結界《けっかい》を引きまわして、机の前に番頭が女護《にょご》の島〔女だけがすむ島〕の取締みたいな顔しております。 「コレ、お前らもうちっとおとなしゅうできんか、やかましいてどむならんがナ、役者の噂かいな、なに、葉村屋が死んで惜しいてかい、お前が惜しがらいでも、仕打《しうち》が惜しがってるわいナ、何じゃて、落語家の松鶴《しょかく》に後ろ幕をしてやりたい、出来へん出来へん、誰やこんなとこへ豆の皮をまいとくのは、ちゃんとほりんかいナ、皆もうええ加減に納まってくれんとかなわんな、コレそこの娘《こ》、お前はどういう家《うち》へ行きたいのや」 「小父《おっ》さんわたいな、月に二、三べん芝居へやってくれはって給金はなるべく高うて体の楽な家へやってほしいね」 「コレそんなぼろい口があるもんかい、そっちの娘、お前はどういう家が望みや」 「あのなア小父さん、旦那はんと御寮人さんと二人きりで、御寮人さんの病身な家へ行きたいのや」 「ハハア、手の足らん家で、親切に病人さんの世話がしたい、お前は何ぞ願《がん》があるのやな」 「イヤ小父さんそうやないね、御寮人さんが病身やと、どうしても旦那はんが≪はしまめ≫になってなはる。わたいにチョイチョイ転合《てんご》〔いたずら〕しやはるのを黙っているね、そのうちに御寮人さんはだんだん悪うなってコロッと死にやはる、わたいがすぐ後へ直って、前の御寮人さんの着物や頭の物を皆もろうて、女中の二人も使うてなア、清……もよ……いうて、ひだり団扇《うちわ》で暮らすつもりや」 「ア何と悪い奴やなア。お家横領をたくらんでよる、コレそっちの娘、お前《ま》はんはどういう先を探してるのや」 「小父《おっ》さんわたいは、どんな家でもかまやしまへん、どうぞ小商いをしていやはる家へやっとくなはれ」 「フム、感心や、コラお家横領、ここへ来てこの娘のいうてることを一ぺん聞いとけ、小商人《こあきんど》の家へ奉公して、小商いのコツを覚えたら、世帯を持った時に亭主の手助けができるという、あとあとのことまで手をまわした考えや」 「小父さん違う違う、小商いする家へ行たら、小遣いに不自由せえへんよってや」 「アこいつは盗人《ぬすっと》やがな、一人としてろくな奴がいやがらへん」  番頭がぼやいているとこへ、表から十二、三の丁稚《でっち》、 「小父さん、横町の十一屋から来たのや、別嬪《べっぴん》の女婢《おなごし》さんを一人よこしてんか」 「なに、別嬪の女婢やてか、いつもなるだけ不器量《ぶきりょう》な娘というて来るのに」 「それが今日は違うね、そうやけどなア、番頭はんに十銭もろうて別嬪の女婢さん呼んで来いいうて、頼まれやへんで」 「コレ子供衆《こどもし》さん、お前番頭はんに十銭もろうて、別嬪の女婢さん呼んで来いいうて、頼まれたナ」 「アッ、小父さん、それわかるか」 「わからいでかい、お前の顔にチャンと書いたアあるがな」 「エッ。書いたアるか小父さん、誰が書きやがったんやろ(手拭いを出し唾を付けて拭く)ほんならなア、今日家の杢平《もくべえ》どんが若布《わかめ》の味噌汁きらいやいうて、揚げ昆布買うて来て御飯食べはったか、どうや、知ってるか」 「そんなぐらいはエラわかりや、杢平どんは若布の味噌汁が嫌いで、揚げ昆布で御飯を食べはったやろ」 「アア小父さん、何でもよう知ってるなア、ちょっと手の筋見てんか」 「阿呆いえ、そこに仰山女婢さんがいるがナ、ええ娘を連れて去《い》に」 「ホンに仰山いよるなア、そやけど皆おもろい顔ばっかりや、アアこの娘この間うちに来て、つまみ食いして去なされた娘や」 「コレそんなこというもんやない」 「そこにうつむいてる人、ちょっとこっちを向いとくなはれ。アア貴女《あんさん》とうない別嬪さんや、貴女家へ来とくなはれ、小父さんこの人来てもろうで」 「アアさようか。よっしゃ、貴女この子供衆さんと一緒に行とくなはれ、横町の十一屋という古着屋《ふるてや》さんじゃ、いずれ後から私が判をもらいに行くでなア」 「それでは行て参ります」 「サアどなたも退《の》いとくなはれや、家の女婢《おなごし》さんのお通りだっせ、サア退いた退いた、貴女大きにご苦労さんでおます、貴女えらい別嬪さんだすなア、わたい貴女に頼みがおますね、きいてもらえますやろか」 「どんなことだす」 「そやけどなア、言うてしもうてからいやや言われたら恥かしいよってなア」 「どんなことだすいナ、言うてみなはれ」 「そんなら言いますけど、恥かしいよってちょっとこの路地へ入っとくなはれ。あのな、わしとこの家はお朔日《ついたち》と、十五日に焼き物がつきまんね、それが尾のとこは魚屋が大きい切って来まんのや、貴女わたいにはきっと尾のとこつけとくなはれや、アア恥かし」 「まアびっくりした、何やしらんと思うたら、そんなことだっかいナ、よろしおます」 「女の人と一緒に歩いたら、この辺で丁稚仲間をはぶかれますのや、わたい先に去《い》にますよって後から来とくなはれや。この辻曲がって三軒目に十一屋とした家がおますやろ、むこだっせ、……へエ番頭はん、ただいま」 「エエイ。バタバタと何じゃ、使い上手とは貴様のことじゃ。道で油とって門口まで来ると、バタバタと走りくさる、どこへ行てたんや」 「アア忘れてもろうたらどもならんな、女婢《おなごし》呼びに行きましたんやがナ、貴方いうてなはったやろ、別嬪の女婢を連れて来い、ほんまに別嬪やったら十銭やるいうてなはったよってに、一番ええのん連れて来ました、応対通り十銭頂きまひょう」 「そないにええのがあったか」 「そら別嬪だっせ、サア十銭」 「きっと別嬪に違いないか」 「けっして如才はおまへん」 「ア商売気になってくさる、あとでやるわい」 「サアそれがなア、あとでもらえなんだよってにいうて、お上へ願う訳にもいかず、モウどなたはんも、この節は一切現金で頂いておりますね」 「阿呆いやがれ、さア十銭やってこます、それで女婢《おなごし》はいつ来るね」 「今そこまで一緒に帰って来ましたんやけど、一足先にご注進に来ましたんや。もう来まっせ」 「何じゃ、モウすぐに来るのんかい、それを早う言わんかいナ、誰や今二階へ上がってるのは、藤七とんか、ちょっと私の羽織持って降りてんか、イヤそれやない、このあいだ仕立ててきたのや、行李の一番上に入れたアる、アアそれそれ、はばかりさん、ちょっとかして、それから誰やったいな、このあいだ夜店で鏡買うて来たのは。アア久七とんか、ちょっと貸してんか、何じゃいちょっとぐらい、せちべんなこというものやないわいナ、減るものやないがナ、けったいな奴やほんまに、……しもうた、えろう髭が伸びてるワ、こんなことなら、昨夜床屋へ行ときゃよかった……コレ皆もっと凹んでんか、何やそんなところへズラッと並んでまるで男の見世つきやがナ、お前《ま》はんらかて女の四、五人もいるとこへ行たら恥かしいやろ、まして女のことや、恥かしがるわい、凹んでなはれ」  番頭一人前へ出て見合いでもするような気で、待っているとこへ入って来ましたのが右の女中さん、初めて来た家、恥かしいとみえて口へ袖を当てて頭とお臀《いど》を七三に振って、孑孑《どんぶり》が水害に会うたような恰好で、店の間で会釈して内らへ入ろうとするのを番頭が、 「アアちょとちょっと……ハハハ、イヤ店の端《はな》で呼び止めておかしゅう思いなアるやろが、ここの家は旦那と御寮人さんと、お上はタッタお二人きりや、万事は私が何もかも引き請けています、旦那はんはほんええお人やが、御寮人さんというのが内娘でな、ちょっとマア気ままなお方やけれども、マアマア辛抱しとくれ、そこでちょっと給金の決めだけをしておきたいのやが、ここの家は給金は安い、半期これ(指を出す)……七円や、安いなア。貴女みたいなきれいなお娘《こ》、白粉代にも足らへんやろが、そこを辛抱するのや。とマアこの七円が、十円になるやら、二十円に当たるかわからへん、こういうとハハアそれでは何ぞ、もらいでもあるか落ちこぼれでもあるのかしらんと思うやろが、お茶屋や料理屋と違う、見なはるとおり堅気の古着屋や、こぼれももらいも何もあらへん。そしたら何でそないに収入《みいり》がようなるのやわからんやろ、まア聴きなはれ、早い話がここにこういう品物がある、このとおりお召しやが昔物で性がええ、柄行きもちょうどお前はんらに持って来いや、これでなんぼやと思う、見なはれ、ここに符牒がついたアる、それメチヤと書いたアるが、なんぼのことやわからへんやろ、四円三十五銭や、安い物やないか、さらでこしらえたら二十円でもでけへん、古で買うてもお前はんらの手へは、十円より下では入らぬ品物や、チョイチョイとこんな物が出た時に買うといたらええね、しかし半期七円の給金で、そない仰山買い物して、どないして払えるかしらんと思うやろ、イヤ話をせんとわからんがナ、この前丹波の園部から、おもよどんという女婢が来てたんや、来る時は小さな風呂敷包み一つ持て来たんやで、それがどうや、年季が明いて帰る時は大きな行李に二杯、ギッシリ詰めて去《い》んだがナ、それちウのは、閑があると店へ出て来て、気に入った品《もん》があると欲しそうな顔して見てる、私が横から、おもよどんこの丸帯が欲しいのやろ、良かったら買うとき六円二十銭や、けども番頭さん、そんな高い物分けて頂いても、ええがな、いつなとあった時に払うようにしなはれ、マアお前はんの行李へなおしとき、てなこというて分けてやるやろ、物のふた月もたった時分に他家へおつかい物でも持って行た、おためをもろうたりすると、アノ番頭さん、先月分けて頂きました帯のお金に、ちょっとこれ三十銭だけ、エエ、六円二十銭の内入れに三十銭や、邪魔くさいなア、けどマア帳面の端へ三十銭入と書いとく、またひと月ほどしてから二十四銭入、十八銭入、十銭入、七銭入、四銭入と、六、七遍も入った時分に、私の計らいで帳面ドガチャガドガチャガ、そこはマア私の筆先一つで、どうにでもなるのや。そうそう、ある時もナ、私が三番倉へ用事があって行こうと思うたら、蔵の間でおもよどんが手紙を読んでるのや、好きな人から便りがあって、嬉しいやろいうたらナ、イーエ親元からこんな手紙が参りましたのやが、わからん字がござります、済みませんが番頭さんちょっと読んでもらえまへんやろか、アアよろしい貸しなはれと、私が読んでみると親から十円の無心や、マアお恥かしいものをお眼にかけました、何をいうてるね、誰かてお互いに困る時は一緒や、親のためや、早う送ってやり、サア送りとうはござりますがただ今手元に、アア心配しいな、店に遊んだ金があるさかい廻しといて上げよ、イエ貸して頂きましても返す目安が。アアいつなと、あった時に返したらええがナいうて、店の金立て替えて送らしたところが、折り返して親元から、えろう嬉しそうな礼状が来たわいナ、その手紙を私に見せて番頭さんのお蔭で生まれて始めての親孝行がでけました、つきましては今日着破った寝間着と抜け毛を売りましたお金が四十五銭、これだけをちょっと内入れに、や、よろしいというので帳面へ四十五銭入や、また三月ほどしてから二十八銭入、十六銭入、九銭入、六銭入と、これもまた六、七遍も入れたやろか、後は帳面ドガチャガドガチャガ、それここが番頭の有難さ、ここらに仰山いよるけれど、わら人形同然ただ人間の格好してよるだけや、万事は店を預かる番頭の胸三寸、私の考え一つで物事はどうにでもなるのや、……ところでチョッと話をしとかんならんが、私は今年が四十で来年別家する体や、別家したらさしずめ女房を持たにゃならぬが、まア気立ての優しい娘《こ》があったらと、実は内々それとなしに捜してる……時に私しゃ冷え性とでもいうのか、夜になると小便《ちょうず》が近いのや、それがなにぶん眠むた眼で行くもんやで、帰りに部屋を間違うことがようあるね、万が一お前はんの部屋へでも間違うて入った時にやナ、キャアとかスウとかいわれると、来年の別家もポコペンで、今までの辛抱も川口で船や、そこんとこをば、お前はんの胸一つで、なアそれ、ドガチャガドガチャガとしといてくれたら、そこは魚心あれば水心、水心あれば魚心」 「猪名川《いながわ》土俵で逢おう」 「誰じゃい、|鉄ケ獄《かながだけ》みたいにやがるのは」 「番頭はん、貴方何いうてなはんね」 「女婢《おなごし》の給金決めてるのやがナ」 「女婢さんなら、モウさっきに内らへ入らはりましたデ」 「そんならここにお辞儀しているのは誰や」 「そら杢平どんが頭から風呂敷を被って、うつむいていやはりますのや」 「コラ杢平、何しやがんね」 「イヨウ番頭はん、帯も何もいりまへんよって、十円だけ一つドガチャガ……」 「阿呆いえ、みな聴いてくさる、ろくなことしやがらん、コレ丁稚《こども》、店の煙管が詰まってあったら、いわいでも羅宇《らう》仕替えをさしとかんかい」 「番頭はん、そらわたいの矢立だんがな」 「何や、こら矢立か」  番頭もう眼も見えぬようになってよる。 「これは御寮人様でござりますか、初めましてお眼に掛かります、何分ふつつかな者でござりますがよろしゅうお頼み申します」 「まア、貴女が来てくれてやったんか、オオいや、別嬪さんやこと、誰が口入れ屋へ行たんや、定吉お前か、なるだけ山から這い出しの不細工な娘《こ》を呼んどいでと、あないにやかましゅういうたアるのに、何でこないな綺麗なお娘を連れて来たんや」 「わたい口入れ屋でいうたんだっせ。なるだけヘチャな人やないといかんてな、そしたら小父さんがいうてました、今年は梅雨に降って土用に照ったんで、どことも女婢の出来がよろしゅうおますのやと」 「まるでお米やがナ、この前にもちょっとええ娘が来たら、三晩もお店が夜どおしガヤガヤいうてるもんやさかい、びっくりして逃げて去んでしもうたがナ……まア貴女気にせんとおいてや、何しろお店に若い者が仰山いるさかい、こっちもそれで気をつかうのや、下《しも》の女婢と思うて呼びにやったんやが、貴女みたいな綺麗なお娘、下という訳にもいけへんワ、上《かみ》の方を勤めてもろうとすると、ちいとばかりお針を持ってもらわんならんが、貴女どうや」 「マア御寮人さん、お針のことを申されますと消えたいように存じます、幼いとき母からほんのお針の持ち方だけを習いましたので、ただもう単物一通り、袷《あわせ》一通り、綿入れ一通り、襦袢に羽織袴、洋服、チョッキ、ズボン、マント、トンビ、パッチ、猿又、足袋、手甲、脚絆、甲掛けその他針に掛かる物は綱貫《つなぬき》、雪駄《せきだ》の裏皮、畳の表替えもいたします」 「まアまア器用なお娘やこと……アアそれから、これは無けな勤まらんというのやないけれど、マアあれば重畳《ちょうじょう》と思うて尋ねるのや、というのはうちの旦那《だん》さんが、まことに陽気好き、ちょっと一杯召し上がると、一ぺん三味線弾きんかてなことを、ようおっしゃる、貴女《あんさん》三味線はどうや」 「マア御寮人さん、三味線の話が出ますたびに、私もう穴があったら入りたいような気がいたします、ほんの手ほどきをしてもらいましただけでござりますので、ただもう地唄が百五六十と江戸歌を二百ほど上がりましただけでござります。それからマア長唄と常磐津、義太夫、清元、端歌、大津絵、とっちりとん、伊予節、都々逸《どどいつ》、よしこの、追分、騒ぎ唄、新内、源氏節、チョンガレ、祭文《さいもん》、阿呆陀羅経、また鳴物も少々かじまして、太鼓《おおかわ》、小鼓《こつづみ》、大太鼓、〆太鼓、甲太鼓、長胴鼓《ながどう》、横笛《おうてき》、竹笛《しの》、尺八、笙篳篥《しょうひちりき》、琴、琵琶、胡弓、八雲、月琴、木琴、鈴《りん》チャンポン、銅鑼、鐃鉢《にょうはち》、木魚、四ツ竹、半鐘、釣り鐘、拍子木、鳴子、法螺貝……」 「まア何でもいけるのやこと……」 「もし子供衆が夜習いでも遊ばすようならば、卒爾《そつじ》ながらお手本ぐらいは書かして頂きます、字はお家流、仮名は菊川流でござります、算盤は四則から始めまして開立《かいりゅう》、開平まで、お手前は裏千家、花は池坊、盆画盆石と香も少しは聞き分けます、絵は狩野派、歌は万葉、句は蕪村の流れを汲みまする、剣術は一刀流でござりまして柔術は渋川流、槍は宝蔵院、薙刀《なぎなた》は静流、手裏剣は兵藤流、鎖鎌は山田流、軍学は山鹿流、忍術は甲賀流、馬は大坪流、鉄砲の作法は江川流、大砲の打ち方、地雷火の伏せ方、烽火《のろし》の揚げ方……」 「フワーイ、番頭はん、ご注進」 「何やびっくりするがな」 「あの女婢さんなア、えらい人だっせ、地雷火伏せて烽火揚げるやいうてまっせ、あんた今夜の便所《ちょうず》行きは甲冑《よろいかぶと》や」 「阿呆いいやがれ。もっと聴いて来い」 「まアそんなお娘にいてもろうたら私も安心やワ、それであんたの生まれはどこやね……」 「私は、アノ京都生まれでござります」 「ええとこで生まれてやったんやナ、京はどこや」 「寺町の満寿《まんじゅ》寺で……」 「賑やかなとこやないか。それで今でもご両親はそこにいててやんのか」 「御寮人さん、私は誠に運の悪い者でござりまして、幼いとき両親に死に別れましたので、心斎橋の八幡筋におりまする伯父さんの世話になっておりましたが、伯父さんはほん人のええ仏のような人でござります、ところが伯母さんというのが根が他人のこととて口で大きなことをいわれますが、ごくお腹《なか》の小さい人で、何やら油の中へ水が混ったように、何かと顔で切って見せられるのが辛さに、かようにご奉公をさして頂きます」 「まア可哀そうなお娘《こ》」 「さような訳でござりますので、お目見得の晩から泊めて頂きますと、縁があるとかないとか申しますが、いずれ荷を引きに参ります節、一日お暇を頂くとして、今晩から泊めて頂きとう存じます」 「ヘーイ、また御注進」 「コラ、そない大きな声出すな、どうやった」 「番頭はん、あの女婢さん京都の人だすと」 「ソレ久七とん、どうや、私が上《かみ》に違いないちゅうのに、お前紀州やいうてきかんね。京やなかったら、言葉があないぼいやりしやへん、京のどこや」 「寺屋の饅頭《まんじゅう》屋だす」 「えらいまた、変わった商売やなア」 「商売やおまへん、所だっせ」 「ナニ所が寺屋と饅頭屋……そら寺町の満寿寺と違うか」 「アアそうそう、それから心配なしに鉢巻きしてはりまんね、そこでおっさんが仏はんでおばはんが化物だんね。口の大きな、お腹の小ちゃい小ちゃい人や。油の中に水を入れてなア、顔を斬って痛い痛いと」 「何を聞いて来やがんね」 「そうやさかい、今晩から泊まらはりまっせ」 「ナニ、今晩から泊まるて、よしよし、コレ皆ぼつぼつ店をしまいや」 「まだ早うおます」 「だんない。女婢《おなごし》のめみえの日は早う店をしまうものや、コレ丁稚《こども》、表を掃いて水打ちましょ」 「まだお日さんがあたってます」 「かめへん、サッサと掃除しょ」 「えらい面白いなア、女婢がめみえしたら早仕舞いや……向かいの友吉とん、私とこ何で今日こないに早うしまうか知ってるか、今日家へ別嬪の女婢さんが来たよってにや、今晩うちへ遊びに来てみ、ゴチャゴチャしてそら面白いので」 「コレコレ、いらんことを喋るのやない、早う家へ入れ、阿呆」 「ヘエ掃除してしまいました」 「しもうたら戸を閉めるのじゃ」 「まだ明《あこ》うおますがナ」 「だんない、戸を閉めたら神様へお灯明を上げてまわれ」 「お灯明、上げました」 「上げたら消《しめ》してまわれ」 「今上げたとこだんがな」 「だんない、親方の身にもなれ、油一升なんぼすると思う」 「ホイホイ、まるで神様なぶり物やがな、自分に目論見があるもんやさかい、ほんなら神様済みませんけど消さしてもらいます、貴方はんもえらいご災難でおます」 「コラ、余計なこといわいでもええ、消したらさア早う寝るのじゃ」 「晩御飯まだ食べてやしまへん」 「女婢のめみえの日だけぐらい、晩めし食べんかて何や」 「そんな無茶なことあるやろか、こら殺生や」 「サア寝よ、サア寝よ、コレ皆早う寝なはれや、亀吉、早う寝んかい、何してるのや」 「ヘエ、算盤の稽古してまんのや」 「極道め」 「勉強して極道いわれたんはじめてや」 「藤七とん、寝んか、何をしてなはる」 「ちょっと姫路へやる手紙を書いてます」 「明日出す手紙なら明日書いたらええ、早う寝なはれ」 「けどもあまり宵から寝るのはもったいのうおます」 「何やもったいない、妙なこというな。何時も灯がついたら居眠ってるやないか、寝られんのならちょうどええワ、安治川へ荷出しに行きなはれ」 「滅相なこと、寝《やす》まして頂きます」 「それ見くされ、皆寝えや、モウ寝たか……寝たら鼾《いびき》かきや」 「ア鼾の催促や……グウ……グウ……」 「何や、いうたら急に鼾かき出しよった、……コレほんまに寝てるのんかいナ……狸と違うか……コレ」 「グー」 「コレ」 「グー」 「コレコレ」 「グーグー」 「ア鼾で返事してよる。悪い奴やで皆……実際寝てるのんかいナ……久七とん……」 「グウー」 「久七とん……」 「グウー」 「どうやら寝よったらしい……この間にちょっと便所へ……ア、ニコニコ笑うて鼾かいてやがる、しょうのない奴や、どいつもこいつも……。ナアそこへいくと子供は邪がないわい、番頭はん別嬪連れて来たさかい十銭おくなはれ、やかましいいうて十銭取りよったが、枕元へ放っといて寝てよる、今の内に取り戻しといたろ」 「グウ……(鼾をかきながら頭を上げて捜す)」 「コラ眼を開《あ》いて鼾かく奴があるかい」 「どなたも夜ざとうお寝み、えらい物騒な晩でおますせ」 「何をいいくさる、早う寝んかい。サア寝よサア寝よ」 「貴方がやかましいて寝られまへんねがナ」 「私が寝んとどいつも寝やがらん、サア寝てこます」  番頭も根負けしてそのまま寝てしまいました。他の者も喋り疲れて皆それぞれ寝てしまいましたが、しばらくしてフト眼をさましたのが杢平、 「グウ……グウ……(あたりをキョロキョロ見まわしながら)グウ……久七とん(小声)……久七とん」 「何だす」 「ア、 あんた起きてるのんかいナ、番州とうとう寝よりましたで」 「往生して諦めよったんだすな」 「モシ今日来た女婢はとうもない別嬪だすナ」 「別嬪だす」 「横町の張籠屋《ぼてや》の女婢と、どっちがええと思いなはる」 「阿呆らしい、くらべ物になりますかいな」 「そやけど張籠屋も悪うはおまへんで」 「あんたふた言目には張籠屋張籠屋といいなはるけど、あれは塗ってまっせ。粉の吹いたんが好きやったら冬瓜《かもうり》見ときなはれ」 「そないえらそうにいわいでもよろしいがナ」 「貴方がわからんすぎるさかいや、こっちは生地なりだっせ、そんなあんた、ごまかしものとひと口に……」 「別にそない、青筋立てて怒らいでもええやおまへんか、ただちょっと訊ねてみただけですがな」 「別に怒らしまへんけどナ、……今日日暮れに私が三番藏から出て来ると、漬物納屋の中で何やらゴトゴト音がしまんね、何やいな思うて覗いて見ると、今日来た女婢が漬物の重石持って難儀してるやおまへんか、何をしていなはるのやいうたらナ、女という者はあかん者どすえなア、あんまり石が大《いつ》かいので、上がらんのどすえ……とこないにいうさかい、のきなはれ上げたげまよいうて、私がのけてやったらナ、おおけに憚りさんどす、どうだす杢平どん、京の女は礼をいうのにきっと言葉を押さえつけまっせ、おおけに憚りさんといいよるよって、私もいいんえエ滅相なと」 「しょむないこといいなはったんやナ」 「あの、卒爾でござりますが、お名前は何とおっしゃります、こないにいいよるよって、ヘエ私は当家の三番番頭にて久七と申しまする、以後お見知りおかれまして、評判よしなのご吹聴……」 「何や軽業の口上みたいにいうたんやなア」 「アノ久七さんと聞きますと、おなつかしゅう存じます、ハハン、それではなんぼ想うてもあきまへんナ、貴女には久七さんという可愛《いと》しいお方がござりますのやなア、イイエお話をせぬとわかりませんが、私は三年前に一度嫁ぎました、その夫の名が久七と申しましたが、半年余りで死に別れましたので、死にあとは悪いということを聞いて、ズッと独りで通して参りましたが、今久七さんと承りまして、思わずお懐かしいと申しました。マアそうかいナ、世には似た名前もあるものだすなア、また用事があったら遠慮のういいなはれやいうて、納屋から出ようとしたら、桶と桶の間が狭いものやよって、私の尻がポンと当たったんや、そしたらナ、まアどないに私にお臀《いど》が大《いつ》かいとて、そないに突かいでもええやおへんかいうて、ボイン(臀で杢平を突く)と突き返しやがるのや」 「なるほど」 「わたいなにも突けしまへんがナ、ちょっと触っただけだすがナ、嘘おいいやす、お突きやしたがナ、触ったんだすがナ、お突きやしたがナ」(臀でボンボン杢平を突きはねる) 「痛い、何するのや人の横ッ腹ボンボン突いて、ソレ見い、蒲団の外へ放り出しやがった、ハーックシャン、ハーックシャン、それ風邪ひいたがナ、無茶しないナ」 「アハハハハハ、すまんすまん、サアこっちへお入り」 「私はなア、晩飯の時や、食べようと思うたらお菜が昼の残り、若布のお汁《つい》やが私は嫌いや、昼は子供に揚げ昆布買いにやって済ましたが女婢は知らんものやさかい、よそうてくれた、アアそれは嫌いだすいうたら、向こうがてれるやろ思うて食べるような顔してそっと横へ置いたら、それをジッと見てな、あんたはん味噌《おみ》のお汁はお嫌いどすかと訊きよるね、ヘエ奉公していて好き嫌いをいうのは気ままでござりますが、若布だけはどうしてもよう頂きまへんいうとナ、まア妙なこと、私も若布は嫌いどすわいうて、わたいの顔を尻目でジイッと見てなア、似た者何やらどすなアと、オイ似た者何やらどすなアと、オイ、似た者……」 「わかったアるがな、何べんいうのやいな同《おんな》じことを、似た者何やらて、何のことや」 「それみい。わかってないのやろ、似た者夫婦という謎を掛けてよるね、見てるちゅうとな、そのお汁を自分がちょっと吸いよるやないか、貴女嫌いやいうて吸うてなはるやおまへんか、アノ若布のお汁は嫌いどすのやが、殿達の食べさしは、どんな味がするかと思うて、よばれてみたのどすが、嘘ついたのがお気に触ったのなら、貴方のお気のすむようにどうなと信濃の善光寺さんは、このあいだも阿弥陀池に御開帳が、あったや、無アーいイーなアーフワフワフワ……(久七の顔をかきむしる)」 「痛たたた、いたーい」 「コレコレ何してるのや、そこで」 「杢平どんが惚気《のろけ》いうて、わたいの顔を掻きむしらはりまんね」 「早う寝んかいな、もう」  わアわアいうているうちに、昼間の疲れでグーッと寝てしまいましたが、夜中に目をさましたのが一番番頭。 「アアアーッ(欠伸《あくび》)もう何時やろ……アアそやそや、今日めみえに来た女婢……うっかり寝惚けて忘れるとこやった、……フフン皆よう寝てよる、このあいだに行てひと評判……」  暗闇を手探りで取り合いの障子をスーッと開けて、足音のせぬように二階への段梯子を上がると、頭をゴツン。 「痛ア……アア、ゴロゴロの戸が閉めたアる、御寮人さんの仕事やな、根性の悪い……、しょうもない悋気《りんき》せえでもええのに……、ここから上がれなんだら、二階へは行けぬもんやと思うてござる、別にここから上がれえでもかめへん、台所へまわって膳棚を足場にして薪棚《きやま》へかき上がる、あれから横手の窓を開けて忍び込んだらチャリみたいなもんや」  苦しまぎれにはえらい知恵が出るもんで、ソッと台所へまわって来て、膳棚へ手を掛けて一イ二ノ三ツと弾みをつけて飛び上がろうとすると、腕木が腐ってあったか、釘がゆるんであったか、力を入れた拍子に、膳棚が肩の上へ、ガラガッチャガチャガチャ。 「ウワアしもうた、(ガチャガチャ)膳棚が取れるとは知らなんだ(ガチャガチャ)向こうが釘付けになったアるさかい(ガラガラ)放り出して逃げることも出来へん(ガラガチャ)イヒヒヒヒヒ」  膳棚かかげて泣いていよる。つぎに目をさましたのが杢平。 「アア皆よう寝てよる。この間に二階へ……」  こいつも同じくゴロゴロで頭をゴツン。待て待てここから行かいでもええわい。台所へまわって膳棚を足場に薪棚へ。ときっちり同じ勘定をつけて膳棚へ。前は右手、今度は左手へ手を掛けると、前に片方が取れて十分ゆさぶってあるので至って脆《もろ》うなってます、ちょっと力を入れるが早いか、ガラガチャガチャガチャ。 「フワア……えらいことした(ガチャン)取れるとは知らなんだ……」 「誰や誰や」 「アア番頭はんだっか、ちょと来とくなはれ」 「あかんあかん、私はこっちがわをかかげてるのや」 「アアあんたが先だしたのかいナ」(ガラガラ) 「オイ杢平どん、あんまり動きなや(ガラガチャ)コレ動きなというのに」 「わたいはじっとしてまんがな、(ガチャガチャ)ソレあんたが動きなはるのやがナ、(コットン)アア何やら倒《こ》けましたで……醤油入れと違いますか……アアやっぱり醤油や、コラいかん……首筋から背中へ伝いよる……背中の灸《やいと》の皮が剥けておますのや……ウワー堪える、堪える、イヒヒヒヒヒ」  両人が膳棚をかかげて泣いてる時に、目をさましたのが久七。どれ今の内にとこれまた同じく頭を打ちよって。よしここから上がらいでもだんない、台所から庭へ降りて、井戸側へ乗ったら、天窓の紐にブラ下がって、井戸側を一つポンと蹴ったら、弾みでシューッと薪棚へ。こいつが一番考えはよかったが、可哀そうに暗剣殺に向かいよった。女婢《おなごし》が来たてで勝手がわからぬので、天窓が閉め忘れてあったのをご存じない。紐を手へ巻きつけて、充分腰を定めると、「ヤツ」とブラ下がろうとしたら、体の重みで天窓がゴロゴロゴロ、奴さん井戸の中へズルズルズルドブン。 「フワア……」 「オイ杢平どん、誰や井戸へはまりよったで」 「どなたぞそこにいなはるか、ちょっと来て揚げとくなはれ」 「行かれへん行かれへん、こっち二人は膳棚かかげてるのや」 「アアそうか、まア膳棚の方は命に別条おまへんが、私の方は一つ間違うて紐が切れたら命がけや、アアどうやら切れそうな塩梅《あんばい》だっせ……ミチミチと妙な音がしてきたがナ、イヒヒヒヒヒ」 「コレ奥や……一ぺんちょっと起きて見て下され、何や台所の方がガタガタと騒がしい、また猫でも暴れてるのじゃないか、手燭をともしてそこらを見て来なされ」 「アッ、いかんいかん、御寮人さんが灯ともして来はる、杢平どん、膳棚ほかして逃げようか」 「逃げたらいきまへんでーッ、そっちは逃げられるが、こっちは逃げられへんのや」 「ワッ。明りがさして来た。モウ間にあわん。サア寝たふりして鼾かき……グウ……グウ……」 「グウ……グウ……」 「何でこないに騒がしいのやろ……オオいややの、天窓の紐が井戸の下へ下がったアるわ……マアマアびっくりしたやノ、あんた久七やないか、井戸の中で紐にブラ下がって、何をしてるのや」 「御寮人さん、これはチョット西瓜の身振りでござります」 「阿呆らしい、上がらしまへんねやろ、しょうむないことするさかいソレ見なはれ、待ってなはれ、今お店の人に上げてもろうたげます……ちょっとお店の……まアどないしたことや、お店はスッカリ総出やないか……ここにいるのは番頭はんと杢平どんやワ……マア膳棚かかげて鼾かいて……あんたら何をしていなはるのや」 「ヘエ。宿替えの夢を見ております」 [#改ページ] くっしゃみ講釈《こうしゃく》  ヘイ一席伺いますは、お馴染みのお噂でござります。 「オイ内にいるか」 「誰や、マアこっちへ入り」 「清《きよ》やん、ご機嫌さん」 「誰やと思うたら喜《き》ィやんやないか、長いこと顔を見せなんだが、どこぞへ行てたんか」 「フンちょっとカイサの方へ行てたんや」 「どこの会社へ行てたんや」 「会社やないカイサや」 「カイサてなんや」 「堺をひっくり返してカイサや」 「コレそんなものをひっくり返しないな、ややこしい、何しに行てたんや」 「ゴトに」 「ゴトてなんや」 「仕事を倹約《しまつ》してゴトや」 「そんな妙なものの言い方をしいなや、いつ帰って来たんや」 「一昨日《おとつい》帰って来たんや」 「アアそうか、マア上がり、何ぞ変わった話でもあるか」 「別に変わった話というてないが、しばらく帰ってこん間《ま》に町内がコロッと変わったな」 「フムそうやろ、改造とか軒切りとかいうて、道路が広うなって家並みがようなったやろう」 「フムあの喧ましゅういうてた横町の化物屋敷な」 「フム噂のあった化物屋敷」 「昨夜十時過ぎに化物屋敷の前を通ったら仰山化物が出たで」 「何か、化物が出たか」 「フム座布団を持ってる化物やら莨盆《たばこぼん》を提げてる化物やら、中に化物の頭かしらん、高いとこへ上がって明晩もお早うからおこしを願いますとお辞儀《じぎ》をしてたが、あれは化物の親分か」 「そら何を言うね、ああいう悪い噂の立った処は人寄り場所にしたらよかろうと、今度あそこへ講釈の新席が建ったんや、ところが席がきれいなとこへ先生が上等で、読み物がええので毎晩大入りや」 「先生て誰やね」 「後藤一山という先生や」 「ゲエ、そんならお前のいうてる後藤一山というたら背のチョッと高い」 「そうや、でっぷりと肥えた」 「色の白い」 「鼻の高い」 「耳の両頬に二ツある」 「耳は二ツのうてかい」 「そんならあの後藤一山か」 「そうや」 「アララララララ」 「オイ喜ィやん、どうしたんやお前泣いてるな」 「聞いてくれ、聞いてくれ、私今年二十八や」 「誰がお前の年を改めて聞いてる」 「初めて女が出来たんや」 「コレちょっと待ちんか、いまどきの若い者が二十八にもなって、初めて女が出来たと自慢をする奴があるかいな」 「それが他の女なら自慢をせんが横町の水引屋のおまやんや」 「おまやんというたら町内で今小町と渾名《あだな》を取ってるねで」 「そうや、渾名を御輿《みこし》娘ともいうね」 「なんで御輿娘やね」 「みな若い者が肩入れに行てるが、いまだにお渡りがないという」 「コレ泣いていて俄《にわか》をする奴があるか、どうしたんや」 「マア聞いて、辻の門でおまやんにベッタリと逢うたんで、おまやんええとこで逢うた、ちょっと話があるね、そこまで付き合うてんかと風呂屋の横手の路地へ入って二人でボシャボシャと話をしてると、そこへ来たのがその後藤一山や、講釈師というもんはむつかしいものの言いようをするで、夕景より腹中がシクシクと痛んで参ったがここに大便所があれば拝借ないたしたいと、路地へ入って来よった、路地口で何か踏みよったんや、雪駄の裏へニイヤリとおいでたわ、土にしては少々粘り気も之有候《これありそうろう》、犬糞でなくばよいがとジイと雪駄の裏を撫ぜてきて、その手を嗅いで案に違《たが》わず犬糞犬糞、紙で拭くのも異な物、どこぞそこいらの壁へ塗《なす》くってやろうと、路地へ入って来よったんや、見つけられたらいかんと思うて壁へベチャッとへばりついていたら、ここらの壁がよかろうとニュッときたのが私の鼻先や、私の鼻を犬糞の雑巾にしられたんや、臭いやらけったくそが悪いのでキャッと言うたら、その声で講釈師は逃げるし、おまやんは逃げるし、後に残ったんは私と犬糞と二人連れや」 「そんなもんと二人連れになりないな」 「その晩は風呂へ行て綺麗に洗うて帰って来て翌晩おまやんとこへ行て、おまやん昨夜はえらい首尾が悪かった、もう少し話が残ってるね、今晩もう一ぺん付き合うてんかと言うたら、おまやんの言うのんは、そら内のお父っつあんやお母はんはあんな人やよってに夜店へでも行くと言うたら出してくれはらんこともないが、内へ帰ってよう考えてみると、鼻であのような汚いものを拭かれるような人に添うても末の見込みがないで、せっかくやがあの話は変更《へんがえ》やといな、せっかく出来た話も犬糞がために目茶目茶や、その後藤一山と聞いたらじいとしていられん、これから丑《うし》の時参りをしたる」 「コレちょと待ち、丑の時参りというたら恋の意趣でするもんやで」 「そうや、私かて犬糞の仕返しや、肥《こえ》の意趣でするね」 「泣いていてあんなことを言うてる」 「それがいかんのなら講釈を演《や》ってるのを前から相手になって、講釈を演れんようにしてやろうかしらん」 「コレそんなことをしたら商売つぶしや、お前がそないに思うのなら、たとえ一晩でも講釈を演れんようにしたら、お前の気がすむか」 「一晩やない、たとえ一時間でも講釈を演れんようにしたら私の腹の虫が得心するね」 「そんなら私がええ知恵を貸そか」 「それではなにぶん尊公の尽力をもって御加護を頼む」 「大層に言いないな、そんなら銭を二銭はりこみ」 「どうするね」 「横町の八百屋へ行って、胡椒の粉を二銭がん買うといで」 「胡椒をどうするね」 「講釈を演ってる前で火鉢へ胡椒を燻《く》べるとその煙が鼻の中へ入ると黒いくしゃみが出る、くしゃみの三つもしたところでボロクソに言うて講釈を演れんようにしたり」 「なるほど、行こう行こう、行こ行こ行こ」 「行こうというて肝心の物を買うてこねば行かれへんがな」 「そうやそうや、何やら買うて来るねな」 「胡椒の粉やがな」 「どこで買うね」 「横町の八百屋で買うたらええがな」 「なんぼがん買お」 「余計はいらん、二銭がんほどあったらええ」 「二銭がんなんやら買うねな」 「今いうた胡椒の粉やがな」 「それ忘れてんね、どこで買うね」 「横町の八百屋やというてるがな」 「なんぼがん買うね」 「嬲《なぶ》ったらあかんで、二銭がん買うねがな」 「何を買うね」 「胡椒の粉や」 「どこで」 「横町の八百屋や」 「なんぼがん」 「二銭がん買うね」 「何を買うね」 「お前が怒ってどうするね」 「覚えられんよってムカムカするね」 「そうお前のように物覚えが悪いねやったら、私がええ目安を教えたげよか」 「目安てなんや」 「先方へ行てすぐに思い出せるように」 「フム教えて」 「お前からくりを見たことがあるか」 「からくり好きや、子供の時にからくり屋の前で真似をして叱られたことがあるね」 「八百屋お七のからくり知ってるか」 「知ってる」 「行く先が八百屋、お七の色男を小姓《こしょう》の吉三というやろ、そこで胡椒を思い出し」 「なるほど、なんぼがん」 「まだ言うてる。横町の八百屋で胡椒の粉二銭や、早う行き」 「ウフ怒りよった、あいつがいらちのとこへ私が物覚えが悪いときてるので癇癪を立ててよる……八百屋のん、ご免やす」 「ヘイおいでやす」 「ちょっと早まくで出してんか」 「何をだす」 「二銭がんや」 「品物は」 「くしゃみの出るもんや」 「私とこにそんな物はおまへん」 「それがあるね、ちょっと思い出し」 「何をだんね」 「お前えらい鈍な男やな、あのくらい目安まで教えて貰うてもう忘れたんか」 「私知りまへんがな、あんた何を買いにお出でなはったんや」 「お前以前火あぶりになった娘はん知ってるか」 「そんな人知りまへんで」 「誰でも知ってる、東京がまだ江戸というた時分や」 「そんな時分に行たことがないので知りまへん」 「アア難儀やな」 「あんたより私の方がよほど難儀だす」 「ちょっと思い出しいな、それいな、ホイ」 「モシなんだんね」 「大伝馬町より引き出されホイ、先には制札紙幟《せいさつかみのぼり》ホイ、罪の次第を書き立ててホイ、同心与力を供に連れホイ、裸馬にと乗られてホイ、チュウのん二銭がんおくれ」 「私とこにそんな物おまへんで」 「あるね、ホイ」 「まだだすかいな」 「白い襟にて顔かくすホイ、見る影姿が人形町ホイ、今日で命が尾張町でホイ、チュウのん二銭がんや」 「そんな物はおまへん、それ見なはれ。あんたがしょうむないことを言うてなはるよってに、表は一ぱいの人だかりや、モシ何でもおまへんね、この人品物買いに来て忘れてこんなことを言うてはりまんね、往来をしとくなはれ、あんたも何を買いに来なはったんや」 「ホイ、今ドンドンと渡る橋ホイ、悲し悲しの涙橋ホイ、品川女郎が飛んで出るホイ、チュウのん二銭がんや」 「いよいよおまへんわ、それ見なはれ、だんだん人が増えてきたがな、押しなんな、ソレ店の前に積んである大根をひっくり返してしもうた、あんたも早う思い出しなはれ、何を買いに来たんかや」 「ホイ」 「まだだっか」 「これより替わると天下の仕置場、鈴ケ森じゃ、どうじゃどうじゃ」 「賑やかなお方やなー」 「二丁四方は竹矢来ホイ、中にも立ったる火柱のホイ、オイ八百屋、私の言うてるのん、これなんや、これ」 「あんたの言うてなはるのんは、そらからくりと違いますか」 「違いないよう思い出してくれた、からくり二銭がんおくれ、ウム違うがな、ちょっと思い出し、それそれそれ」 「モシ火鉢の縁を叩きなはんな、瑕《きず》がつきまんがな」 「このからくりは何のからくりや」 「そら誰でも知ってる八百屋お七と違いますか」 「違いない、お七二銭がん、違うがなそばまで行てるねが、八百屋お七の色男は何や言うな」 「あれは駒込吉祥院の小姓の吉三と違いますか」 「なんや、こしょオ、そいつや……、そいつや」 「盗人を掴まえたように言うてるなアる」 「そいつや、よう思い出してくれた、オオ暑やの」 「汗をかいてなはるがな」 「胡椒二銭がんおくれ」 「なんや胡椒買いに来なはったんかいな、びっくりしましたがな、アア胡椒なら一昨日から売り切れてしまいました」 「ゲエ、そら殺生や、そら殺生やその胡椒を火の中へ燻べたらくしゃみが出るか」 「随分えぐいくしゃみが出ます」 「ほんならそれや、切れたら後をチャンと仕込んどきなはれ、今日は私が買いに来るのんきまったあるがな」 「そんなことがわかりますかいな」 「何ぞ火鉢へ燻べてくしゃみの出る物がないか」 「そうだんな、私ら胡椒でやったことはおまへんが、子供の時分に居眠っているのを吃驚さすのんに唐辛子を燻べたことがおますせ」 「唐辛子でくしゃみが出るか」 「随分えぐいくしゃみが出ます」 「ほんなら唐辛子の粉二銭がんおくれ」 「妙な買い物に来る人やな、唐辛子の粉二銭やそこら買うのにからくり一段やって、あんた今時のお方やおまへんで、ヘエそんなら、負けておますせ」 「おおきに二銭ここへ置いときますせ、ヘエどなたもごめんやす、モウしまいだすせ……アハハハハ、清やん」 「オイ清やんやないで、お前という男は埒《らち》の明かん人間やな、明るい間に行て日がずんぶりと暮れてしもうたがな、何をしてたんや」 「ポンポン言いないな、私八百屋へ行て胡椒を忘れたんや」 「鈍な男やな、あのくらい目安まで教えてあるのに」 「それを思い出したが、思い出すあいまが大抵のことかいな、太閤さんがござったら肩を並べようという智恵を出したが」 「どないにしたんや」 「忘れたよってに、ホイ大伝馬町より引き出されホイ、先には制札紙幟ホイ、罪の次第を書き立ててホイ」 「コレそんな阿呆らしいことをやったんかいな」 「フム一段やったんや」 「八百屋の親爺さん笑うてたやろう」 「ウム賞めてたで」 「賞めてたか」 「フムあんた今時のお方やないと」 「そら賞めてるのやない、それはくさされてるのんやがな、そいで胡椒の粉はあったんか」 「ないねがな」 「なかったら何もなれへん、早う帰っといでんかいな」 「唐辛子の粉にしなはれ、随分えぐいくしゃみが出るというたんで唐辛子の粉を買うて来た」 「私は唐辛子でやったことはないが効けば結構や、講釈はナどこの柱はどこの旦那、どこの壁はどこのご隠居と場所が決まってるね、早う行て前へ行かんと何もなれへん、さあ早う出とおいで」  怒られながら辻を曲がりますと講釈小屋。何とのう陰気な、木戸には髭だらけの親爺が鉄火火鉢を抱えて、額で向こうを眺めて雨を呼ぶ蛙みたいに小さな声で、「おはいり、おはいり」。お客さんを呼んでおります。講釈場いらぬ親爺の捨てどころとか申しまして、ええことが言うてござります。あまり若い衆は行ておりません。たまに若い方が行てると病人で、年寄りばかりで、宅にいると若夫婦の邪魔になりますので日が暮れると追出されますので仕方なしに講釈小屋へ参ります。来るとえらそうに、なア河内屋さん、お早うから見えてますな、これは泉屋さん、貴方も早うからおこしで、夜前のとこをお聞きになりましたか、ハイ大阪方の軍師真田幸村ともあろう者があのような計略を、やなんて真田幸村の計略の不足をいうてる。自分は嫁の計略でほり出されていることを知らずに。 「オイ喜ィやん早うおいで、二人やで」 「有難うさんで」 「それみてみ、お前ら来るのが遅いで、モウ皆来てはる、木村はんに後藤はんに福島はんに薄田はんに加藤はん」 「なんや難波戦記みたいな人ばかりやがな」 「前へ行き」 「ヘイどなたもごめんやす、どなたもごめん」 「オオ若い方に講釈とは面白い、お前方は陽気な話、落語でも聞きに行たらどうやね」 「へエ私落語が好きだんねが、落語家に犬糞の恨みがないもんだっさかいに唐辛子の粉を燻べ……」 「コレ余計なことを喋りな、オイ肝心の物を貰いんか」 「肝心な物てなんや」 「火鉢を貰わんとあかんがな」 「それを忘れてるね、姐《ねえ》はん、姐エーはん」 「これ何という声を出すね」 「火鉢に火を仰山入れて持って来とくなアれ、唐辛子の粉をくす……」 「これ喋りないな」 「おおきに憚りさん」 「コレ何をしてるね、今から燻《く》べてどうするね、まだ講釈師が出てエへんがな、ちょっと待ちんか、そばの人に悟られたら何もなれへんがな、コレそっちから煽いでどうするね、お前大分にチョカやな、待てというのに、それでは私がくしゃみをするがな、コレ待ちんか、コレま、まちというのに、ハア、クシャン、ハアクシャン」 「アハハハハ、これなら唐辛子でも大丈夫や」 「コレ、私で測量をしやがるね」  そうこうする間に出て来ましたのが講釈師。落語の方は舞台へ出ますと直ぐに演りますが、講釈の方はなかなか高座へ上がりましても納まり返って、鋳掛け屋の親爺が軍艦を受け取ったような顔をして、これでも昔は軍談読みというて空俵の二十俵も取った者じゃいというような顔で、湯呑みへ湯を注いで一度頂く。小笠原流の肘張りもんで、湯を頂いて呑むほど丁寧な奴かと思うと、家賃の三ツも滞らしてるずぼらな奴が多い。 「エヘン、お早くからお詰め掛け下さりまして有難き仕合わせにござります。毎度読み上げますは赤穂復讐録、義士銘々伝の義にござります。いよいよ、今晩のところでは山鹿流の陣太鼓の音を止め吉良が邸へ乱入の一条、私もよほど読み場にござりますればお客さん方この講釈を聞かずんばあるべからず、前席にお人寄せのご愛嬌として一二席ずつ伺いますは、いずこの島々谷々津々浦々へ参りましても、お馴染み深き慶元両度は難波戦記のお話、頃は慶長の十九年も相改まり明くれば元和元年五月七日の儀に候や、大阪城中千畳御上段の間には内大臣秀頼公、御左座には御母公|淀君《よどぎみ》を始めとして介添えとして大野道犬主馬修理亮、軍師には真田|佐衛門尉《さえもんのじょう》海野幸村、伜《せがれ》大助幸昌、四天王の銘々には木村長門守重成、長曾我部|宮内少輔《くないしょうゆう》秦元親、薄田隼人兼省、後藤又兵衛基次、七手組番頭には伊東丹後守長実、青木民部少輔一重、速見甲斐守時之、野々村伊予守雅春、堀田図書之助|勝嘉《かつよし》、中嶋式部少輔氏種、真野豊後守|頼包《よりつね》、何れも持口持口を手配ったりしが、今や遅しと相待つところへ関東方の惣勢五万三千五百有余人、辰の一天より城中目掛けて押し寄せたり、中にも先手の大将その日の扮装《いでたち》見てあれば、黒革おどしの大鎧には白檀磨きの籠手脛当《こてすねあて》、鹿の角の前立打ったる五枚|錣《しころ》の兜を猪首に着なし、駒はなにしおう荒栗毛と名づけたる名馬には金覆輪の鞍を掛け、悠然がっしと打またがり、駒の頭には三十八貫目三十八粒打ったる金采棒を軽々とひっさげ、黒白二段の手綱をかいぐり……」 「オイ喜ィやん、講釈を聞いてんと肝心の仕事をしんか」 「そうやそうや、それ忘れてんね」  唐辛子の粉を火鉢へ燻べますとその煙が鼻の先へモヤモヤときましたのでたまらん、講釈師こそ暗剣殺に向こうたようなもので、 「ハアクシャン、ハアークシャン、これはお客さん誠に失敬をいたしました。拙者もうたたねをいたして風邪をひいたと相見えます。もう大丈夫で、エヘン黒革おどしの大鎧には白檀磨きの籠手脛当、鹿の角の前立打ったる五枚|錣《しころ》の兜を猪首に着なし、駒はなにしおう荒鹿毛と名づけたる名馬には金覆輪の鞍を掛け、悠然がっしと打またがり、駒の頭には三十八貫目三十八粒打ったる金采棒を軽々とひっさげ、黒白二段の手綱をかいぐりあたかも砂煙を蹴立てて城中目掛けて、ハイヨ……とうとうとう、と、と、ハアクシャン、ハアークシャン、これはしばしば失敬をいたしました。このごろの風邪はひくと治りにくうてひつこい、皆様方もご要心遊ばせ」  ええ加減なことをいうて、これからくしゃみが出るとてれかくしをする顔がだんだん面白くなってくる。 「ハイヨウ——とうとうとうと押し寄せたりしが大手の門前に突っ立ち上がり、天地も破るる大音声、ヤアヤア遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、吾こそは駿遠参三ヵ国においてさる者ありと知られたる、ハアクシャン、ハアークシャン、本多平八郎鬼忠勝が一子同名忠知とは吾が事なり、吾と思わん者あらば出て来って、功名手柄を現せよと、ハアクシャン、ハアークシャン、高だかと呼ばわったり、この際城中にては、ヤア憎き敵の挙動かな、ハアクシャン、いで息の根を止めてくれんずと、ハアクシャン、ハアクシャン、大手の門を、ハアクシャン、八文字に押し開き、ハアクシャン、なぜ今夜はこのようにくしゃみが出るのかしらんクシャン、これではさっぱり講釈が形なしじゃ、クシャン、お客さん誠に相済みませんが半札と思いますが、全札《まるふだ》を差し上げますので今晩のところはお許しを願います、ハアクシャン」  皆は気の毒なというのでぞろぞろ帰ります。 「喜ィやん、ここで言うたるね、コラ講釈師、貝杓子、おたま杓子、われはお粥《かゆ》もすくえぬお玉杓子やな、われのくしゃみを聞きに来たんやないわい、講釈を聞きに来たんじゃぞ、くしゃみをさらすので前に居る者は唾と痰でズルズルじゃい、これなと食ろとけ、ハアプウ、オイ喜ィやん言うたりんか」 「言うたる、こらオイ、なんじゃい、ほんまに、そうやないかいヨオ、ほんまに……」 「何を言うてるね」 「わたい急ぐとものが言いにくいね、こんなん食べ、スウーと……。おけら毛虫げし、蚊にぼうふら、蝉蛙《せみかえる》、やんま蝶々にきりぎりす、はたはた、ぶんぶんの背中でピカピカ」 「オイ喜ィやん、そんなけったいな唄を歌いないな」 「あいや、それへおこしのお二人さん、ほかのお客さんは私の苦しむを見て黙ってお帰り下さるのに、あんた方お二人は何ぞ私に故障があるのですか」 「イヤ胡椒がないので唐辛子の粉を燻《く》べたんや」 [#改ページ] 蔵丁稚《くらでっち》 「へえ旦《だん》さん、ただいま」 「これこれ、ばたばたと……。外でせんど遊んで来て、店の近所へ来たらそないして忙しそうに走ってなはる。どこへ行といなはってん」 「旦さん、わたいお使いに行て参じましたんで」 「お使いに行きなさったんは分かったある。どこまでお使いに行といなはってん」 「あの島之内の田中屋さんまで行て参じましたんで」 「ホウ、島之内の田中屋さんまで、そらご苦労さん、ほで、なにかいな、店出なはったん、何時頃に出なはってん」 「お店出たん、朝の九時頃に出たんでっけど」 「ちょっと待ちなはれや、朝の九時頃に出て今帰っといなはったん。いま何時やと思うてなはんねん。もうかれこれ夕方の五時でっせ、何かいなあ、わずかこの船場《せんば》から島之内までお使いに行て、何でこない長いこと時間がかかるねん。ハハン分かった、お前さん、また途中で芝居を見てなさってんやろ。イヤ隠してもあかん。ちゃんと分かったあるねん。お前さんなあ、芝居を見てなさったんじゃ、というのがな、さっき手伝いの又兵衛が来てなあ、お店の定吉っとんと道頓堀、中の芝居の前で会うた、ちゅうてなはった。お前さんまた使いの途中で芝居を見てて、こないして遅うなりなはってんやろ」 「旦さん、わたいお使いが遅うなったらそのたんびに、芝居見ててんやろ、芝居見ててんやろ、言いはりますけどねん、旦那はん、わたい世の中で何が嫌いやいうたかて梅ぼしと芝居ぐらい嫌いなものおまへんねん。中でも芝居ちゅうたらあんな嫌いなもんおまへんねんで、その嫌いな芝居、何でわたいがお使いの途中で見たりします」 「ホウ、お前さん、芝居が嫌いじゃとおっしゃるのか、それやったら訊ねよ、どういう訳で芝居が嫌いや」 「そうでっしゃないかいな、旦那はん。男のくせに顔へ白粉塗ったり紅《べに》差して、女の真似しまっしゃろ。わたいもうあんなこと、大嫌いで。へえ。もうそやさかい、わたい芝居の看板見ただけでねえ、何じゃ、ぞーっと寒気がもよおしまんねん。ほんまに芝居見んならんようなことがあったら、ひょっとして熱出して病気になれへんかいなあ、と思うてまんねん」 「ホウ、よっぽど芝居が嫌いとみえるなあ。それやったら、お前さんが芝居を見てたちゅうのは、私の思い過ごしかも分からん。ほんなら、なんでこないお使いが遅うなったか、その訳を言いなはれ」 「ホナ旦那はん、もう何もかも言うてしまいますわ、わたいお店へ早う帰らないかんと思うてねえ、ホデあの、ちょうど心斎橋の北詰まで帰って来たらね、ホタラ北の方からうちのお母《か》んが来たんだ、ホデわたいね、アお母ん、ええとこで会うたなあ、どこへ行きなはんねん、ちゅうて訊ねたらね、うちのお母んのいうのには、あんたも知ってるとおりお父っつあんが去年の暮れから中風で寝ついたまま、うちの商売が俥屋。外の車が廻らなんだら共にうちの車も回らんさかい、お父っつあんに一日も早うようなってもろうて、働いてもらわんならんさかい、千日前のお不動さんへお百度踏みに行てんねん。こない言うもんでっさかいな。ア、ホナ何かいな。お父っつあんの病気治すためにお不動さんへお百度踏みに行てるの、神信心してるのかいな、それやったらちょうどええとこで会うた、わたいも一緒に行ってなあ、お父っつあんの病気を一日も早うに治してもらうよう、お百度踏むわ。こない言うたらな、何言うてなはんねん、あんたはご奉公してる体、そんな勝手なこと出来しめへん、えらい怒ったんでっせ。そやけどわたい言うたんだ、そらなあ、他のことと違うてなあ、親の病気治すために神信心しててんやったら、少々遅うなっても、なんぼうちの分からず屋のおやっさんでも……」 「ちょっと、ちょっと待ちなはれ。今何を言いなはった。分からず屋のおやっさん、て誰のこと言いなはった」 「何言うてなはんねん、わたいそんなこと言いますかいな、そうでっしゃろ、現在旦那はんが前にいてはるのに、分からず屋のおやっさん、てなこと、腹に持ってても、口には出さん」 「それでは思てんねやろ。分からず屋のおやっさん、て誰や」 「いいえ、違いまんねん。そら旦那はんの聞き違いでんがな、わたいの言うたんは、ことのよう分かった、親旦さんのことやさかい、こない言うたんだ。そやさかい、けっして叱られへんさかい、お母ん、わたいも連れて行っとくなはれ、こない言うたらな、それやったら一緒に行こか。お母んとわたいと今までねえ、千日前のお不動さんで一生懸命、お父っつあんの病気が一日も早う、ようなりますように、というてお百度踏んでて、こない遅うなりましてん、えらい勝手なことしてあいすまんこって」 「ああ、ちょっと待ちなはれ、ちょっと待ちなはれ。頭上げなはれ。いいええ、謝らんでよろしい、お前さんの言うとおりや。なあ、他のことと違う、親の病気を治すために神信心してて、遅うなったんやったら、けっしてわしゃ叱りやせん。オオそうか、去年の暮れからお前とこのお父っつあん、中風で寝てなはるの。それやったら訊ねるけどなあ、今年のお正月の三日の日やったかいな。お前とこからご年始にみえた方があったなあ。お前さんとこたしか、お父っつあんと、お母はんと、お前と、親子三人やったな。男の方がみえたが、あれは一体、お前さんの誰に当たるのや」 「……へえ、ヘヘヘヘッ、へえっ、旦さんのおっしゃるとおり、男の人来はりましたなあ。そうでんねん、あの人わたいの誰に当たるのんか、なんし古うからいてはりまんねん。わたいが生まれる前からうちにいてはりまんねん。ほで聞いたらなんでも、うちのお母んと、何か関係が……」 「ようそんな阿呆なこと言うてるな。お前のお父っつあんやないかい。去年の暮れから中風で寝てなはるお父っつあんが、正月の三日の日にあないして元気にお越しになったん、あらどういう訳や」 「ア、あのね、中風は中風でんねんけどね、お正月は紋日《もんび》でっしゃろ、ホデ紋日の間だけ休み……」 「ようそんな阿呆なこと言うで、病気が紋日やさかい休みちゅうことがあるかい。アよろしよろし、お前さんはさっき、芝居が嫌い、と言いなさったな。ちょうど幸いや、というのがな、さっき話したとおり、又兵衛が出て来てなあ、今度の中の芝居、ぜひお越しなされ、ええ芝居でおまっせ、忠臣蔵……、出しもんが。ええ芝居やええ芝居やというて褒めてたんじゃ。わしも長い間、芝居見物に行たことがないねん、久しぶりにええ芝居が出たら見たいなあ、と思うてた矢先や、又兵衛がそないして、すすめてくれたものやさかい急に芝居見物に行きとうなったんや。ところがや、わたい一人で楽しむより、同じ行くのやったら家内中みなそろうて行て、一日ゆっくり芝居見物して楽しもうと思うた矢先や、ところがなあ、まさかお前、家を放ったらしといて、皆が出てしまうという訳にいかず、気の毒なけど誰ぞ一人だけ、留守番して貰いたいなあ誰にしたらよかろうなあ、と思うてたとこや。ちょうど幸いや、お前さんすまんけどなあ、明日みな芝居に行くさかい、お前さん、家で留守番してて貰おうか。そのかわりなあお前さん、明後日でも一日ゆっくり休んで好きなとこへ行ったらええがな。ええそうやなあ、今度の忠臣蔵、出しもんが忠臣蔵ちゅうたら、お前さんら芝居知らんさかい分からへんやろけど、こらもうええ役者が大勢集まらなんだら出せん芝居や。今度は東京と大阪のええ役者が全部顔そろえて出てるらしい。中でもええのんが、五段目の山崎街道、これがええそうななあ。えーと、言うてなはったで、その五段目の山崎街道へ出てくる中で一晩ええのが猪。役者がええなあ、前足を大阪の成駒屋がやってなあ、後足は東京の成田屋がするそうなが、この猪がなんともいえん、ええ猪やちゅうて、えろう又兵衛が……。コレコレ、お前さん、なんじゃさっきから、うつむいてクスクスクスクス笑うてなさるが、何がおかしいねん」 「ワッハハハハ……。よう旦那はん、そんなこと、真面目くさった顔で、アハハハハハ。そんな阿呆らしいことおますかいな」 「何が阿呆らしい」 「そうでんがな。山崎街道へ出て来る猪、前足を成駒屋がやって、後足をば、あんた、成田屋がやるて、ようそんな阿呆なこと言いなはるわ。あれはねえ、大部屋のしょうもない役者、それも一人でやりまんねんで、それをそんなええ役者が」 「何を言うねん。さっき又兵衛がえろうこの猪がええちゅうて褒めたんや」 「そらあきまへん、なんぼ旦那はんが言いはったかて、そんな、うだうだした話おますかいな」 「ホホウ、すると定吉、なにか、主人の私の言うことが信用でけんと言うのか」 「なんぼご主人のおっしゃることでも、そらわたいよう信用しまへんわ。そうでっしゃろ、旦那はん、又兵衛はんに聞いて、又聞きや、わたいら現に今まで見てた」 「そうれ見てみイ」 「あっ阿呆なことした、えらいことした」 「何がえらいことしたや」 「計ろう計ろうと思いしに、かえって茶ビンに計られた」 「そら何を言いくさる。どっちみちこんなことやろうと思うてうまいこと引っ掛けてやったら、うまいこと掛かりくさった。私じゃとて、忠臣蔵の山崎街道へ出て来る猪、一人でするか、二人でやるかぐらいのことちゃんと分かったあるわい。いつでもお使いに出したら、途中で道草食いくさって、帰って来たらうまいこと口先で誤魔化してたが、今日と言う今日は、とうとう尻尾《しっぽ》つかんでやった。さあ、これから二度とこんな横着なことせんように懲《こ》らしめのため、二、三日、あの三番蔵へほり込んどいてやるさかいに、さあこっちへ来い」 「ちょっと待っとくなはれ、旦那はん。えらいすんまへん。もう今度からお使いに出て芝居も見いしまへんし、道草も食えしまへんさかい、今日のとこ、堪忍しとくれやす」 「いいや、いかん、今日はたとえ誰がなんと言うて止めても、今日という今日は、どんなことがあっても、三番蔵へ」 「待っておくなはれ、と言うてまんねん、旦那はん、堪忍しとくなはれな、どうしてもあきまへんか、ホナすんまへんねんけどなあ、わたい朝早うに御飯頂いたきりで、何も食べてえしまへんねん。お腹がぺこぺこに減ってまんねん。すんまへんけど、御飯食べさしとくれやす。御飯食べさしてもろうてから、ゆっくりと入らしてもらう」 「なんじゃ風呂へ入るように言うてくさる。こっちへ来くされ」  厭がってる丁稚さんの襟髪つかんでズルズルズル、蔵の戸をガラガラガラ、と開けるなり、 「これへ入っとれ」ピシッ……。 「旦那はん、堪忍しとくなはれちゅたら、堪忍しとくなはれな、なあ旦那はん。これからお使いに行ってな、芝居も見いしまへんさかい、堪忍しとくんなはれ、なあ旦那はん。……どうしても堪忍しとくなはれへんか。ホナすまへんねんけど、お腹が減ってまんねん。御飯食べさしとくなはれ、なあ旦那はん。……堪忍しとくなはれ、どうしてもあきまへんか……えらいことしたなあ、いつでも芝居見てたらお使いが遅うなるねん。今日かて早う帰ったろうと思うてたんや、早う帰ろうと思うてたのに、隣に坐ってるおっさんがいかんねん。四段目の判官さんの切腹場がすんださかい、この後はまた今度、改めて見に来うと思うて、出かかってんのに、隣に坐ってるおっさん、コレコレ、子供衆さん、あんたせっかくここまで見てるやないか、もう一幕見て行きなはれ。今度は、勘平の腹切り、判官さんの切腹場もええけど、勘平の腹切り。お大名と侍の、お腹の切りようの違うとこを見て行きなはれ。こない言うもんやさかい、ふらあーっとその気になってしもたんや。ハハハ、そやけどあのおっさんの言いはったとおりやなあ。判官さんの切腹場と、勘平の腹切りとは違うなあ。片っ方は世話がかかってあるだけになあ、第一役者がええなあ、成駒屋。中村鴈治郎ちゅう役者ええなあ。如何なればこそ勘平は……。こんなこと言うてられへん。お腹減ってきたなあ、旦那はん、御飯食べさしとくなはれな……。そうや、あのまた、薬師寺の役者、市川箱登羅、ちゅうねん。あいだは三枚目やってるけど、あんな悪役してもええなあ。石堂右馬之丞が市川市蔵、この人はまた上手《うま》いなあ。また判官さんの上品なこと、高砂屋。上手で石堂右馬之丞と薬師寺次郎左衛門が坐ってる、真ん中で判官さんが紋付の羽織着てちーんと坐ってなはる。石堂が状を読み上げる。ここのとこがなんともいえずええなあ。一つこのたび、塩谷《えんや》判官高定、わたくしの宿意を以て高師直《こうのもろなお》に手傷を負わせし咎により、屋敷は閉門、その身は切腹申し付くるものなり。読んどいて、判官さんの方へこの状を見せる。判官さんそれを下の方からじーっと見上げなはって、上意の趣、承りし上からは、何はなくとも御酒一献、と言いなはると、薬師寺ちゅうやつが、これさ判官殿、またしても御酒御酒と、本日の御上意承れば、さぞ驚くべきはずのところ、当世様の長羽織、ぞべらぞべらと着召さるは、判官殿には、血迷い召されたか、いやさ、狂気走りなされたか。判官さん、これ聞いてムッとしなはる。身不肖なれども塩冶判官高定、狂気、狂乱、かつてござらん、ご覧下され、と言うなり着てなはった着物、シュッと脱いでしまいなはると、下にはちゃあんと切腹の用意、白装束。白の裃《かみしも》付けてなはる。これ見るなりびっくりしたように、目えパチクリさしとおる。判官さんが立ち上がって、ツツと二足ほど後ろへ下がりなはると、諸士が畳を二枚持って出て来て、これを裏向けに敷く、上へ白布を張りつめて、四隅に樒《しきみ》を置く、切腹の座が出来ると判官さん、その上へお坐りになる。上手から、大星力弥、九寸五分を三方の上にのせて、こいつを押し頂きながら、持って出て判官さんの前へ置いて、判官さんの顔をば下から名残り惜しそうに、ジーッと見上げる、判官さんも同じ気持やけれど、検使の手前、あっちへ行け、あっちへ行けと、目で合図しなはるが、力弥は聞き分けがない。いやいや、いやいや……。たまりかねて判官さんが、キッとにらみつけると、仕方がないのでしおーッと力弥は下手へ下る。太の三味線がデーンと入ると……」  ここは昔は通さん場と申しまして、どんなええお客さんでも、客席へ出入りが出来んようになってたそうですなあ。 「デーン、デーン……」  これに合わせて判官さん、おもむろに肩衣を解きなはって、こいつをば十文字に膝の下へ敷く、三方の上の九寸五分、こいつをば紙に巻いて左手で持つ、右手で三方を押し頂いて後ろへまわして、これをお尻の下へ敷く。これはお腹を切った時に、仰向けに引っくり返らんように不様な死に様をせんようにという心得。左の手で九寸五分持ってる間はまだ物が言えるが、右の手に持ち直すともう物が言えん。力弥、力弥。ハハーッ。由良之助は。いまだ参上仕りませぬ。今生で対面せで、残念じゃと伝えよ。またしばらくして、力弥、力弥、由良之助は……。力弥もたまりかねて、花道の付け際までツツツツー、揚げ幕の方見込んで、いまだ参上……。お父っつあん、なんでこんなに来るの遅いのかという思い入れがあって、本舞台へ帰るなり、仕りませぬ。晋に予譲ありと伝えよ。御検使、お見届け下され……。右の手に、九寸五分持ち直して、左の脇腹へグサッ、と突っ込むのをきっかけ、花道の揚げ幕がシュッと上がると、そこからバタバタバタバタバタバタッと出て来るのが大星由良之助、花道の七三まで来て、ほっと本舞台を見ると、ご主人もうお腹を切ってなはる。しもたという思い入れがあって、思わず、懐へ手えつっこんで、腹帯十文字にギュッと引き締めるんがきっかけ、太の三味線がツーンとうけると、これに合わせて左の足からツーッ。ツーン。ツーッ。ツーン、ツーツツツツツ……。本舞台へ掛かるなり、御前。由良之助かあ。ははーっ。待ち兼ねた。 「……とええとこやけど、だんだんお腹が減ってきたがな。旦那はーん、御飯食べさしとくなはれな、旦那はん。なあ旦那はんちゅうのに……。どうしてもあかんか。そうや、今みたいに芝居の真似してたら、幾分か気が紛れてお腹の減ってるのも忘れるわ。そや、いっそのこと三日間ほり込まれるか、四日間ほり込まれるかしらんけど、蔵の中に入ってる間、芝居の真似したろ。そや、たしかなあ、長持の中になあ、旦那はんの浄瑠璃の裃が入ってたはずや、ああ、思うたとおりや、入ったある、入ったある。これをまず着けて、判官さんになったろか。オ、刀もお誂え向きに入ったあるで、葬礼差しや。ちょっと長いけどこれで辛抱したれ。これであと三方の代わりになるもん……あったあった。お膳があるわ。このお膳を三方の代わりに使うて、よっしゃ、これからゆっくり判官さんの切腹場の真似したろ。デーン、デーン、デーン、まず九寸五分をば左の手に持って、右の手で三方を押し頂いて、こいつをば尻の下へ……」  バリバリ。 「あっつぶれやがった。もうどっちみち怒られついでや、なあ。御検使、お見届け下され」  丁稚さん一人で目えむいて芝居してよる。ちょうど夕方になりましたんで、朋輩の女中さん、洗濯物取り入れに物干しへ上がりましたが、そこは朋輩のよしみですなあ。 「可哀そうに定吉っとん、いま時分蔵の中でどないしてるやろ」  ちゅうのんで蔵の窓からふっと、中を見ますと、薄暗いとこで、ピカピカする刀振り回して、目えむいてるもんやさかい、これ見るなりびっくりして、女子衆が二階から転《ころ》んで落ちて来よった。 「まあ旦那はん、落ち着きなはれ」 「お前が落ち着かんかい、どないした」 「定の中で蔵吉っとんが……」 「そら逆様や」 「その逆様が、刀でお腹切ったはります」 「何、定吉が蔵の中で、刀で腹を切ってる……。ああ、えらいことがでけた。イヤイヤ、子供心にあんまりお腹が減るさかい、死ぬ気になりよったんやがな。えらいことしたなあ。コレコレ、これ、番頭どん、あの場合、わしがなんと言うても、お前さんらが止めてくれないかんやないかい、あないして定吉、奉公に取ったあるけど、命まで奉公に取ってやせんねん、ともかく、お腹が減ってるねん、御飯を持って行ってやりなはれ。御飯を。いやあ、そないしてお茶碗によそてるてなことでは間にあわん、そのお櫃《ひつ》をこっちへ」 「そら旦さんおまるでおます」 「おまるかいな」  旦那もうろが来てしもて、お櫃受け取るなりこいつを小脇へかかえ込んで、廊下をばバタバタバタバタバタ。蔵の戸をガラガラッと開けるなり、お櫃向こうへ突き出して、 「ごぜーん」 「蔵の内でかあ」 「ははーっ」 「待ち兼ねた」 [#改ページ] 鍬潟《くわがた》  昔から歌にもござりますが、大きいもので言おうなら、あれ九紋竜《くもんりゅう》に釈迦ケ嶽、奈良の大仏、仁王さんと申しますが、随分大きな人間がありました。九紋竜という人は掌《てのひら》に銭が九文ならんだと申します。釈迦ケ嶽が御堂《みどう》さんへ参詣して、お賽銭《さいせん》を上げると、御堂さんの屋根を越えて裏の座摩《ざま》神社へ上がったと聞いておりますが、まさかそんなことはござりますまいが、とにかく昔のお相撲さんは大きかったに違いござりません。往来を歩いておりますと、 「なアもし、前に長い棒が立ッてますが、これは何だす」 「これはお相撲さんの足だすがな」 「ヘエー顔が見えまへんなア」 「そら腰から上は霞が張って見えまへん」 「あの中央《なかほど》に黒いもんがありますが、あれは何だす」 「ア膝頭《ひざがしら》の灸《きゅう》だんがな」 「ヘエーあすこまでどのくらいますやろ」 「大方三里ほどおますやろ」  それから膝の灸を|さんり《さんり》を申します。もう一里上がると|しり《しり》と申します、こんな大きな人やから両親も大きいか。そんなわけでもない。また母親の腹の中で膨脹して横腹を蹴り破って出たというわけでもござりません。また身体が小さいよってに遠慮して、裏門からコッソリと出んならんということもござりません。ここにござりましたのはごく小さい男。着物の丈なら二尺をよう着ぬという小男で、職人さんでござりまして、仕事はいたって上物仕でおますが、嫁さんがいたっての貞女者で、こういう夫に襟垢《えりあか》のついた着物を着せたら、亭主を尻に敷いてると世間の人に、後ろ指を指されるいやというので、いつも小ざっぱりしたなりをさしてござります。今日しも仕事が休みのことで、銘仙《めいせん》の着物に対の羽織、筑前博多の帯を貝の口に結び煙草入れを提げさして、どこなと遊びに行っといなはれと、すこしの小遣い銭を持たして遊びに出ましたが、出て参りましたのが道頓堀、芝居の前。 「なア道頓堀はいつ来てもええなア、ここまで来ると気がスーッとするで、芝居はいつも繁昌するなア、アアええ外題《げだい》やなア、忠臣蔵の通しや、何べん見ても飽かんなア、大序《だいじょ》から大詰まで女を一人も殺さんという、よう出来てるなア、小芝居でもやるが、大芝居はまた別やで、役者がそろうていて、道具といい衣裳といい 囃子《はやし》鳴り物に至るまで申しぶんがないなア、ええ芝居やなア……こんなんならもっと嬶《かかあ》に銭をもろうて来たらよかったのに……」  羨ましそうに見ておりましたが、それへ出て参りましたのが立派なお関取、昔は相撲取は芝居へ参りますと羽振りの利いたもので、相撲の櫓《やぐら》を芝居へ貸したというぐらいで。 「ハイ、毎度お邪魔じゃが、一幕見せてもらいたい」 「コレ、関取がお越しになった。ええ場へご案内申せ」 「アア相撲取は柄が大きいので得やなア、こんな大芝居|無銭《ただ》入れる、私はなんでこんなに小《ちい》そう生まれたんやろ、けどもあの人も人間なら、私かて小そうても人間や、あの人があおた切れて私が切れんということがあるもんか、ヒトツあおた切ってやろ」  とチョコチョコと木戸口へ入って来ました。ご承知のとおり芝居の木戸番は、高い所に坐っておりますので入って来た人の胸のとこへ手が行くようになっています。小さい男が入って来たので、どこへ行くのやと胸を突こうとしたが、小さいので手が胸へ届きません、頭の上で、すかを食うて転んで落ちました。 「アア痛やの、アア痛……」 「モシ、大木戸どないしなはったんや」 「今ナ、小さい奴があおた切りよったんで、胸を突いてやろと思うたら、スカタンを食うて落ちたんや」 「小さい奴というたら子供だすか」 「イヤ、大人や」  小さい男チョコチョコと中へ入ってあっちこっち見ると、重箱の置いてあるところが空いているので、重箱の上へチンと坐りました。 「アアモシ貴方《あんた》、ソンナ無茶をしたらいかん、それは私の弁当やがな、重箱がつぶれますで……」 「大丈夫だす、ちょっとの間拝借します。煙草の火をひとつ貸しとくなはれ」 「サアサア、おつけやす」 「イヤ大きにありがとう。まだ幕は開きまへんか」 「まだだす」  小さい男、我を忘れて大きな声で「オイ幕開けてや」と言うたので、すぐ見つけられた。 「コラ、小さい体をしやがって生意気な奴や、こっちへ来い、大木戸、こいつだっか、どないにしまひょう」 「表へ放り出せ」 「ヘエ、よろしゅうおます」  と首筋をつかんで、表へポイと放り出しましたが、あまり力も入れなんだが、相手の体が軽いので、クルクルクルと舞い上がって前茶屋の屋根を越えて、道頓堀川を越えて向こう側の塵芥場《ごもくば》の中へ、ドスンと落ちました。拍子の悪い塵芥《ごもく》の取りたてでなかなか深いのでかき上がれまへん。そこへどこの女婢《おなごし》か、塵取りに三杯も塵芥をブチあけましたので、塵芥の下敷きになって挟み虫みたいになっております。そこへ紙屑拾いが竹の先に釘の付いた、あれを仲間では出雲というそうで、何でやというと紙(神)を寄せる。えらい意気な符牒をつけたもので、紙屑を拾いに来たが、襤褸片《ぼろきれ》かと思うて引っ掛けたのが、小さい男の首筋で、竹の先について上がって来たので、 「アアびっくりした。コリャ何や、二、三日暖かいと思うたら、こんな物が湧《わ》いてるのか」 「わしは人間だす」 「アアあんた人間だすか、とうない小さいお方だすなア」 「いま向かい側から放られてここへはまったんや」 「アアそうだすか。それは危ないことで、もし川へでもはまったら死んでしまいますがな」 「ヘイまことに有難う。あんたは生命《いのち》の恩人だす。いずれ改めてお礼に参ります」 「イヤそれには及びまへん」  小さい男ぼんやりとしてわが家へ帰って参りました。 「嬶、いま帰った」 「オオお帰り、どうしてやったんや、えらい顔の色が悪いがな、着物がえろう土がついて汚れている。ハハンあんたは相撲が好きやので輪替屋《わがえや》の小僧《ぼん》さんと相撲を取って投げられてやったのか」 「阿呆言え、相撲取ったんやないわい。芝居を見に行ったら表方が放り出しよったのや」 「マアあぶないことわいな、よう怪我をせなんだことわいなア、マア怪我をせんのが拾いもんやと思いなはれ」 「嬶、私は腹がへってるね、飯《めし》を食わせて」 「まことに済まんねけれども、今ちょっと手の放せん用事をしているよってに、あんた一人でお膳を出して御飯を食べてとう」 「コラ馬鹿にするない」 「今わてが訳を言うてやるやないか、手を放せんと」 「飯ぐらい一人で食うけれど、お櫃《ひつ》が米櫃の上に上げてあるので手が届かんわい」 「あ、そう、これはわてが悪かった、堪忍しとう」 「嬶ア、私はもう飯食やへん」 「マアマア癇癪持ち、いつも腹を立てたら御飯を食べてやない、アア、こうしなはれ、あんたが出てやった後で隣の甚平はんが来やはって、大将が家《うち》にいるなら遊びにおこしと言うてやった、甚平はんとこへ行って、機嫌を直しといなはれ」 「そんなら甚平はんとこへ行って来る……甚平はん今日は」 「オオ隣の大将か、マアお入り」 「ヘイもう入ってます」 「何や。入っているのか、鶏籠の後ろに立っているので見えへんがな、こっちへ上がりんかいなア」 「アノお宅に打盤《うちばん》がおまへんなア、うちは打盤があるので足つぎにして、お家へ上がりますね」 「足つぎがないと上がれんが、ヨシ、私が上げてやろ……、サア一服しなはれ」 「ヘエおおきに、お宅は火鉢に火が入ってまへんのか」 「コレ、火鉢に火はたんと入ってある」 「けども、ねっから煙草の火がつきまへん」 「それはお前火鉢の横でつけているよってにつかんのや、上へ手をのばしんかいな」 「上へ手が届きまへん」 「それなら立ッたらどうや」 「これで立ってます」 「立ッてそれか、アハハハハそれなら煙草盆へ火を入れてやろ、これならつくじゃろ、しかし今日はえらい顔の色が悪いが、また嫁はんと喧嘩でもしたんやないか、喧嘩はしいなや、あんな貞女な嫁はんはないで」 「モウこのごろ嬶と喧嘩はやめています」 「なんでや」 「このあいだも嬶と喧嘩して、どたまなぐってやろうと思うて、梯子を取りに行ってる間に、嬶が逃げてしまいました」 「アハハハハハ、コレ嫁はんの頭をたたくのに梯子がないとたたけんというよな無細工な喧嘩をしないな、しかしなんで顔色が悪いのや、どこぞ悪いのと違うか、用心しいや」 「私もつらつら考えてみると人間がやめたいのでやす」 「コレ何をいうのや、人間をやめるというわけにいかんが、一体どうしたのや」 「ヘエ、友だちがみな言いますね、お前は身体《から》が小さいよってに、雪隠へ行ったら早う臭味がまわるやろ、このあいだも川端で立っていたら、まごついて川へはまりなや、コマンジャコに食われるで、やなんて言われます、それから人間がいやになってますね」 「コレ、それは友だちが嬲《なぶ》りよるのや、小さいというて別に卑下することはない、小さいのが好いのや」 「小さいのが好《え》えやなんて、あてに弁茶羅《べんちゃら》言うて」 「別にお前に弁茶羅も何もない。小さいのが好いという証拠には反物一反買うても身体《から》が小さければ着物を取って前垂れの一ツも取れる」 「それやったら、いつも嬶が反物一反買うて来ると、着物と羽織と対で取って残りで風呂敷が取れます」 「それみい、それだけでも得やないか」 「そんなら、小そうて、えらい人がおますか」 「そらある、お前太閤さん知ってるか」 「ヘエ、いたって心易い」 「コレ、うそ吐《つ》きな、太閤さんは昔の人に似合わぬ小さい、五尺なかったそうなが、アノ人が世の中へ出てから三百年の動乱を治めたという、あの人の家来に加藤清正という人は七尺からあったが、五尺にたらぬ太閤さんの家来や、江戸の浅草の観音さんは御身丈《おみたけ》一寸八分や、けれども、十八間四面の堂の主《あるじ》やないか、仁王さんは大きいても門番している、門番だけで食えんよってに、草鞋を作って売ってるが、わが足に合わしたによってに、大きいて誰も買わへん、山椒は小粒でもヒリリと辛いということがある、小そうても卑下するに至らん、大きゅうなって歩き」 「おおきに、よう言うとくなはった。そんなら、相撲取でも小さいのがおますか」 「ハハ、あるともあるとも」 「小さい相撲取は、年百年中負けて泣いていますやろうな」 「そら何を言うのや、小さい相撲取が負けて、大きい相撲取が勝つときまったら、誰も相撲を見に行く者はない、小さい相撲取が大きい相撲取をゴロゴロ倒すので、皆が楽んで見に行くのや」 「そんなら、昔から小さい相撲取が、大きい相撲取を倒した話がおますか」 「それはある。わしは詳しいことは知らぬが、祖父《おやじ》から聞いたが、むかし将軍家にお目出たいことがあって御前相撲を催すことになった、何か変わった取組がなかろうか、大きな者とごく小さな者と取り組ましたら面白かろうと、その当時信州小諸から出た雷電為右衛門という、これは大きかった、八尺五寸からあったという、この相手に小さいのはというと、大阪福島に鍬潟《くわがた》三吉という相撲取、丈が四尺に足らぬ横幅が四尺からあった、四斗樽みたいな相撲取、この鍬潟と雷電と取り組ましたら面白かろうというので、さっそく江戸から赤紙つきの書面が鍬潟の宅へ着いた。鍬潟が書面を開いてみると、急々江戸へ下って来い、さっそく江戸へ乗り込んだ、頭取が鍬潟関おおきにご苦労さん、このたびは御前相撲で雷電関と取り組んでもらいたい、いや結構で、雷電関と取りますれば私は負けても勝ちでござりますと、番組に承知の点《しるし》を付けた、雷電のところへ行て、上方から来た鍬潟関と取り組んでもらいたい、オオ鍬潟はえらい小まい相撲やそうな、先が承知なら俺は誰でも相手はかまわん、先は承知どこやない負けても勝ちじゃと喜んでいます、ナニ俺と取り組むのを辞退もせずに、負けても勝ちやと言うているか、小癪《こしゃく》な奴めがと、わずかのことが気に障った、鍬潟はそんなことは知らんので、当日まで日が五日あるので、荏《さい》の油を買うて来て、毎日刷毛で身体へ荏の油を塗っては日に干し、油を塗っては乾《かわ》かし」 「サヨサヨ、紐を通して独楽《こま》を付けて引っ張り」 「ソレは天窓じゃが、いよいよ当日となって相撲もおいおい取り進み、いよいよ雷電鍬潟となると、呼び出しが扇をひろげて声を自慢に、エー西……鍬潟、鍬潟……。エー東……雷電、雷電……。名乗りを上げると、なんしろ大きな雷電は、土俵へ上がるのもノソリノソリ、鍬潟は小さいので、土俵へ上がるのもチョコチョコと上がった、大きゅうても小そうても、することにゃ変わりはない、ドスンドスンと四股《しこ》を踏んで、力水をつける、相撲取というものは身体がハシャグと見えて、水をブウブウ拭き掛けて敷熨斗《しきのし》をする、化粧紙を取ってフンと鼻をかんで、丸めて捨ててしまう人があるかと思うと、四ツに折って四本柱の根元へ埋める人もある、立行司は軍扇を持って、東西東西……あまた番数も取り進みましたるところ、片や鍬潟、鍬潟にはこなた、雷電、雷電……これ一番にて今日の打ち止めエー、見物はウワーと大喜びや、双方十分に仕切って、雷電がヨイショッと立ち掛けると、鍬潟が待ったと言う、また仕切り直して雷電がヨイショッ、鍬潟が待った、なんと待ったが八十五遍」 「なんでだすネ」 「雷電は身体が大きいので、立ったり坐ったりすると身体がくたびれて来る。鍬潟はそれを待ってよるのや」 「ア、 まるでペテンだすな」 「そうや、雷電もさる者、それくらいのことは百も承知、よし百遍まで待ってやるワイと、気を抜いて仕切っていると、鍬潟がどうした拍子か不意にヨイショと声を掛けた、雷電あわてて立ち上がったが、鍬潟は飛び込んで取り組もうとせぬ、はるか後ろへ飛び下がって、土俵の二字口へ立ちはだかるなり、ヨイショと大手を拡げた、ヤ雷電が怒ったの怒らぬのやない、おのれ指で突いても倒れる奴、ヨシ今日は一番米屋にしたり、襷《たすき》にしたり、根付けにしてやろうと、鍬潟の肩をムンズと掴もうとするとツルッとすべる、まるで天婦羅と相撲を取ってるようで力の入れどこがない、エイ面倒なと後ろ褌《みつ》を掴みかかると、鍬潟はハッと身を縮めて雷電の股をくぐって後ろへ廻るなり脚の折れ跼《かが》みのところを一つドーンと突いたのや、身体こそ小さけれ、大阪名代の怪力士といわれた鍬潟三吉に、渾身の力を両腕に込めて不意に突かれたのやから堪らん、さすがの雷電も仰向けにドーンと引っくり返って鍬潟がヌッと立ってる、行司も狼狽《うろ》たえたが勝負は至って判然《はっきり》してるのやから仕方がない。軍配をサッと西へ上げて、勝ち相撲鍬潟アと名乗りを上げると、仰山の見物が思わず一時に、ウワーッと上げたその声が、天は三十三天、地は奈落の底、竜宮まで聴こえて乙姫はんが頭痛病みになったがいまだに癒らぬとういくらい、雷電不思議で堪らん、なんであんな鈍な相撲を取ったであろうと、わが部屋へ帰って手を嗅いでみると荏《さい》の油の匂いがする、己れ卑怯な鍬潟め、計略にかけて人に恥辱を与えたナ、ひねりつぶしてくれんと鍬潟の部屋へ乗り込んでみると鍬潟はモウ先刻に出立して、今頃は箱根を越えているやろうという。詮方なく一年延ばすことにしているとガラリ年が替わって大阪の興行、待ち兼ねた雷電ドンドン乗り込んで来るなり、宿へも寄らずにやって来たのが福島、尋ね尋ねて鍬潟の家へ来てみると、鍬潟夫婦は子供らと朝粥《あさがゆ》を食べている、ヤア鍬潟どん、おおこれはこれは雷電関、むさ苦しいところへようおいでなされました、イヤイヤようは来ぬ、今日は悪う来ましたのじゃ、しかしこのように沢山子供がいては話がしにくい、どうぞみな去《い》んでもろうて下され、イヤ去なす訳には参りませぬ、これはみな私の子供でござりますという、雷電が子供の顔を見るとみな鍬潟夫婦と瓜割らずそのまま、オオそう言いなさりゃみなお前さんによう似ててじゃ、皆で何人あんなさる、ハイ九人でござりましたが一人は疱瘡《ほうそう》で取られ、また一人は麻疹《はしか》で死なしまして唯今は七人残っております。ここで雷電が感心してしもうた、大概の相撲取は女房をもらうと力が落ちる、子供が出来たら土俵を退くというくらいじゃ、それになんと九人も子供を産んだ上、憂い目悲しい目を見て、その上はるばる江戸まで百三十里も下って来て、たとえ身体に荏《さい》の油を塗ってでも一番俺と取り組んでみようという、貴方《こなた》の度胸に感心した、どうぞ今日から兄弟分になって下んせ、有難うござりまする、左様なればお前様が兄分に、エイ何を言わんすぞい、私しゃ相撲に敗けたゆえ弟じゃと、八尺に余る雷電が、半分にも足らぬ鍬潟の弟分になったという話がある、そやよってに、身体が小さいというても、何も卑下することはありゃせん」 「ヘエおおきに、そない言うてもろうと心丈夫になって来ました、時にお宅へ相撲取がチョコチョコ出入りしてまんなア」 「ウム、朝日山とちょっと遠縁に当たるので、アアして相撲取が遊びに来るのや」 「みな大きな身体してまんな」 「稽古が積むと、だんだん身体が大きなるのや」 「アアさよか、どうだす、一つ私も相撲取にしてもらえまへんやろか」 「その気があるのなら行てみなされ、今手紙を書いたげる」  甚平さんも気楽な人で、こんな男を相撲取にしてくれというてやったら部屋の笑い草にでもなるやろうと、手紙を一本したためて、 「サア、今日から稽古してくれと書いてあるよって、朝日山の部屋へ持って行といで」  稽古事も沢山ござりますが、相撲の稽古ほどえらいものはござりまへん。アーリャよいしょ。ドーンと頭突きを持って行く。エイよいしょッ。耳でも何でも容赦なしに張り倒すとゴロッと転がる、それでたいていの相撲取は耳がつぶれております。また起き上がってドーンとブツかって行くのを、よいしょッゴロッ。真面《まとも》に鼻を打って鼻血がタラタラと出るのを、ツーンと拭《か》んどいてドーン。よいしょゴロッ。眼の玉が飛び出すのをポンポンと砂を払うて眼の中へ放り込むなり、ヨイショ……そんなことはおまへんやろうが、とにかく大した修業でござります。 「ヘエ今日は……御免やす……」 「ハイ、誰じゃナ」 「難波の甚平さんとこから参りました」 「オオこれは可愛らしい丁稚さんじゃナ」 「イエ大人だすネ」 「何じゃ大人か。これは失礼申しました。まアお掛けなされ」 「掛けとうても背が届きまへん」 「というて、立っていさんしたらしんどいじゃろ」 「ヘエ、ここの下駄に腰掛けさしてもらいます」 「アハハ、面白い人じゃ、何、甚平さんからのお手紙か、ドレドレ拝見いたしましょう、ウム……ハハハハ、これ、お前さんが相撲取になりたいと言いなさるのか」 「ヘエ、どうぞお頼《たの》もうします、稽古したら身体が大きゅうなりますか」 「ウム大きゅうなるぞ、イヤ嬉しい人じゃ、……オーイ鼬山《いたちやま》ア……鼬山ア」 「親方さん、何でおます」 「難波の甚平さんが新弟子を世話して下された、稽古場へ連れて行て稽古したげませイ」 「どこにいやはりますね」 「そら踏みつぶすな、われの足元じゃイ」 「アッびっくりした。ヤー細かい人じゃナ、お前さんかい」 「お前が鼬山か、屁かましなや」 「何ぬかすね。サアついて来い」  裏の稽古場へ連れて参りますと、稽古の最中。 「コラコラ鼬山ア、稽古場へ子供を連れて来てどうじゃい、危ないわい、そっちへ連れて行けイ」 「イヤ子供と違いまんね、難波の甚平さんのお世話で来た新弟子や」 「エー、コレお前さんが相撲取になるのかイ」 「そうや、なにぶん頼むで兄弟子」 「ウハハハハ。こりゃ面白い人じゃ、そんなら稽古をつけて進ぜよう、裸になりなされ……オオ越中褌じゃナ、そりゃいかんわい、コウ鼬山ア、汝れの褌貸したげませイ。……サアこれを締めるのじゃ、この端をシッカリと押さえて、よいかナ、コレコレついて廻ったらいかんがナ、誰ぞ頭を押さえてやれ。……アアエー、相撲やんれエ、取りにーイはどこがようて惚ーれエたアエー、稽イ古ウやんれ、もどーりイのサマみイだれエーみイエー、トコ真骨、寒骨寒紅梅、押してけ押してけ三段目、トコドッコイドッコイドッコイ、……オー鼬山ア、何とわれの褌は長い褌やなア、……なにイ。先が傷んだので切ってほったア、何じゃ知らんが三十六廻ってまだこないに余ってるがナ、面倒臭い、挟んどいてやれ、サーどうじゃ」  人間が心棒になった雲斎の独楽みたいなもんが出来よった。 「サア、ドーンとブツかってごんせ」 「イヤ、申し合わせでやってんか」 「何を小癪ナ、ヨイショ」 「待った」 「コラ、稽古に待ったがあるかい、しっかり来ウ、ヨイショ」 「待った」 「何べん待ったするんじゃイ」 「八十六遍するのや、貴方の身体がええ加減くたびれた時分に、不意に後ろへ廻って足の折れ跼《かが》みを突くのや」 「えらい勘定つけてよるナ、そんなことで稽古になりゃせん、ソーレ、ドーンと来ウ、ヨイショウ」 「ア痛タタタタタ、アア堅い胸やなア」 「阿呆言え、こりゃ膝ぼしじゃイ」 「そら痛いはずやがナ、もっと柔らかいとこないか」 「エエ五月蝿《うるさい》奴じゃ、ソラ、よいしょウ」 「アアこれは柔らかい、腹やな」 「何が腹まで背が届くかい、掌《てのひら》じゃい」 「アア掌かいナ、……アリャアよいしょ」 「ソラ来い、よいしょよいしょよいしょよいしょ」 「ウワー、モウええええ」 「エーしっかり来んかい、ソラ来い来い来い」  充分揉み抜かれてフラフラする奴の両耳に掌を当てて力任せにグルッと廻すと、はずみでブーン……。 「フワー、えらいこっちゃえらいこっちゃ、目が舞う目が舞う、誰ぞ止めてんか——」 「兄弟子もう堪忍してやらんせ、可哀想に死んでしまうがナ」 「アアしんどいしんどい、フーフー、おおきに有難う、また明日頼みます」 「オオまた明日休まずに来んせ」 「へエおおきに、オイ鼬山、ちょっと着物着せてんか」 「えらそうに言うない、サアこっちへ来い、着せたるワ」 「おおきに憚りさん、ついでにこの溝越やしてんか」 「邪魔臭い奴やなア、サアこれでええか」 「ちょっとこの敷居もや」 「部屋に新弟子が出来て、用事がふえるてなことあるやろうか……サア早う去なんせ」 「やアすまんすまん、ヘエ親方おおきに、稽古してもろうて来ました」 「ウムそりゃよかった、明日から毎日ごんせ、去んだら甚平さんに宣《よろ》しゅう言うて下んせ、朝日山が喜んどります、ええ若い者を世話して頂きまして、これは横綱代物じゃとナ……」 「ヘヘヘヘ、弄《なぶ》りなはんな、しかし稽古したら身体が大きなりますやろナ」 「ウムきっと立派になる、休まずにごんせや」 「ヘエさいなら……アアあの親方はええ人やなア……鼬山かて呟《ぼや》き呟き親切にしてくれよる、それにあの稽古してくれた人もえらいええ人やった、アノ褌を締める時に唄うた歌、あれはええナ、エー相撲ーやんれエ、とリーにイは、どこがようて惚ーれエたアえー、稽古ーやんれーエ、もどーり……ア何や頭へ触ったと思うたら、馬の腹くぐって来たんや、ア危なア……オイ嬶、帰ったで……」 「オオこちの方、お帰り……」 「イヤ今日から甚平はんの世話で相撲取になったんや。これからこちの人といわずに、関取と言え」 「まアあんた、風邪ひいたんか」 「何ぬかすね、とにかく腹が空いた。飯食おうか」 「マアすまんこと、いま薪を引いたとこや。すぐにお膳こしらえてお燗もつけるよって、しばらく奥で待っとくなはれ」 「ヨシヨシ」  と奥へ入りましたが、よくせきくたびれたものとみえまして、そのまま横になるなりグーッと高鼾《たかいびき》、嫁さんも風邪をひかしてはならんと、ソッと蒲団を着せておきましたが、やがてお膳ごしらえが出来ましたので、 「もしこちの人……、アアそうそう、こちの人と言うたら叱られる、モシ関、関取」 「アア、ウウーム、ヤ嬶、何じゃナ」 「アノ御飯が出来ました」 「そうかよっしゃ、アアアーッ(伸び)しかし嬶よ、稽古はせんならんもんじゃ、いつも俺の起きるのがおそいと、大蒲団に巻きこんで押し入れへ放りこまれるのじゃが、今わしがグッと伸びをすると、それこの通り、手も足も蒲団の外へグッと出よるがな」 「そりゃ出るはず、座蒲団が着せてあるのや」 [#改ページ] 月宮殿《げっきゅうでん》星の都  ええ相変わりませずお早くからのお運びさまで、有難くお礼申し上げます。宵の口でござりますので楽屋から少々手伝うて頂きまして、お陽気にご機嫌を伺います。 「オイ徳やん何をしてるね」 「たってるねん」 「何してたってるねん」 「黙ってたってるねん」 「けったいな男やなア、ぼんやりしないナ、どうや一杯飲ましたろか」 「いやせっかくやけどやめとくワ、一杯飲まそに懲《こ》りてるねん」 「なんでやね」 「このあいだ清やんが一杯飲ますさかいついて来い言いよったんや、わい喜んでついて行たんやがナ、天満の十丁目まで来てもねっから飲まそと言いよらん、清やん一杯飲ますと言うて、一体どこで飲ましてくれるのやいなと言うたらナ、オオ堪忍してやうっかり忘れてたんや言うて、天神橋まで連れて来てナ、橋の下まで降りたとこで、さア何もないけどゆっくり飲んでやと言いよるのや」 「何をいナ」 「河の水やねん」 「それでお前どないしたんや」 「せっかく親切に言うてくれてるのんに、断りを言うのも角が立つと思うたよってに、両手に掬《すく》うて十六杯」 「オイそんなもん飲みないナ」 「清やん、トンと美味《うも》ないナ言うたら、贅沢言いうな、これでも淀川の一筋やと言いよった」 「嬲《なぶ》られてるのやがナ、オイわいらそんな人の悪いことしやへん、飲ますと言うたらほんまに飲ますのや、お前|鰻《うなぎ》食えへんか」 「鰻大好きや」 「よし、それならちょうどええ、よそから頃合いの鰻を四、五匹もろうたんや、それを肴《あて》に灘《なだ》の生一本ちゅうやつを一杯飲ましたろ」 「ウワーご馳走やなア、酒はやっぱり灘にかぎる、淀川のんは具合が悪い」 「当たり前やがナ、ところでやなア、鰻という奴は料理がちょっとむずかしい、お前いけるか」 「そら饗《よ》ばれるのやったら、料理ぐらいせんならん」 「そら有難い、そんなら料理はお前に任すよって頼むで、サアついといで……さ、入んなはれ、この水槽《ふね》に入れたアる、これや」 「いよう大きな鰻やなア、なるほど、これなら十分二人前の肴になるやろ、これをわいが料理をするのやナ、よっしゃ、庖丁に俎板《まないた》はそこにあるナ、それでは早速この鰻をつかみ上げて……と、つかみ、……つか…清やん、この鰻ヌルヌルやがナ」 「どの鰻かてヌルヌルや、お前鰻の料理したことないのんかいナ」 「お前とこは糠《ぬか》と金槌《かなづち》ないやろか」 「糠や金槌なにするねん」 「このへんへ糠を一面にまいとくのや、そこへ鰻を放り出すね、鰻が糠だらけになってすべらんようになったとこつかまえて金槌で頭《どたま》どつくねん、そうすると動かんようになるやろ。それをブツブツ輪切りにする……」 「そんなじじむさい料理があるかいナ、お前ら水槽の真ん中で鰻つかまえようと思うさかい、つかまえられへんのや、隅の方へ追い込んでだましつかみにつかんでみいナ」 「アンなるほど、だましてつかむか、よっしゃ、コラ隅へ行け行け、アアうまいこと行きよる、ナアここでつかまえようと思うと逃げよる、ちょっとこう背中をさすってやるね、鰻でも人間でも気持のええとこは一緒や、えらいええ具合に按摩をしてくれよるナアてなもんや、この手をこうだんだん上の方へ持って上がるね、すると鰻がどう思う、ハハア首筋も揉んでくれよるのかいナと思いよるやろ、そう思わしといて不意に首筋をグッとこうつかむと……それ逃げよるやろ、それをこっちの隅へ追い込んで、両方の手でこうつかむと……そーれこう逃げるやろ」 「何をしてるね、玄人の真似して首筋つかもうと思うたかて、そらあけへん、胴でも何でもつかみ上げて、指の間から抜けて出よるところを首筋つかみんかいナ」 「そう喧《やかま》しい言うたかて、なかなか思う通りにいけへんがナ、胴ならつかめんことないやろ、こーら糞、(キュー)……サアつかまえたぞ……と……ちょっと前の物皆どけといてや、……ウントショ……裏口開けてんか……」 「オイオイどこへ行くのやいナ、アア裏へ抜けてしまいよった……」 「アアうんとしょウ、なーにコラア、……アア暑い……」 「アア、あんなとこから戻って来よる、隣の鶏小屋つぶして何するねんナ、コレ、止まりんか」 「わいかて止まりたいがナ、それが止まられへんのや、……ウントショウ、……コラショウ、……それ前へ出るやろ」 「阿呆やなア、鰻を前に向けるよってにそうなるのやがナ、上へ向けて見なはれ」 「サ、それが思うようになれへんのや、上へ……と向いた向いた、アア楽になった、歩くのが助かった」 「最初からそうしときゃええのに……」 「とショ、……こらショ、……アいかん……今度は上へ上へ行きよる……アアしんど、……コラショと、モウ手が伸びやへん、ちょっとその梯子を屋根へ掛けてんか、ウントショ、コラショ、……」 「アアアア、とうど屋根へ上がってしまいよった」  早う放せばええのにとうとう鰻について大屋根へ上がってしまいました。なかなかこの鰻はこんな手合いのてこに合う奴やござりまへん。海に千年、池に千年、沼に千年、三千年の劫《こう》をへた奴、時期が来たら天上しょうと待ちかまえてた奴でごわす。この日は朝からドンヨリ曇った妙な日和でおました。やがて雨がボツボツ降り出します。おかしい風が吹いて来たかと思うと俄《にわ》かに黒雲が舞い下ってあたり一面真っ暗闇。そうしますると今まで一尺ぐらいやった鰻が見ている間に胴廻り三尺もある大鰻になりました。徳さんを尾でグルッと巻くなり、折柄キリキリッ捲き起こった竜巻に乗って宙天へビュー(鳴り物・大どろ)、中天まで参りますと鰻は徳さんを連れていては自分の昇天の邪魔になると思うたものか徳さんを放り出しといて天へ昇ってしまいよった。 「アア痛ッ、コラ鰻、無茶なことすな、連れて行かんなら連れて行かんでええわい、別に放り出さいでもええやないかい、サアえらいとこへ放り出されたぞ、一体これはどの辺やいナ、アアあんなとこから人が来よる、一ぺん訊ねてみたろ……モシ、ちょっとお訊ね申しますがナ」 「アアわしかナ」 「ヘエさようだす、アノ順慶町の方はどっちへ行ったらよろしおますやろ」 「何じゃ順慶町……そら何じゃい」 「わたいのとこだんね、……順慶町の丼池《どぶいけ》で……」 「順慶町の丼池……それは下界やないかい」 「イエ下界やおまへん、大阪だす」 「さアそれが下界やがナ、しかし、わたしは何やらお前さんに見覚えがあるような気がしてならんのじゃが、お前さんは何というお方やナ」 「へエ順慶町丼池を南へ入った西側の路地で徳兵衛いう者だす」 「なに、箱屋の徳兵衛……オオ、ほんにそうじゃ、徳さんじゃ」 「ア、 えろう心安そうにおっしゃる、どなたはんでおましたいナ」 「お見忘れごもっともじゃ、わしこそお見それ申してすまなんだ、先年大嵐の日に雲の破れから下界へ落ちてナ、それがちょうどお前さんのとこの縁先《えんさき》やった、腰の骨打って立つことも出来なんだのを、お前さんご夫婦から親切に介抱してもろうて、おかげでようようこの天へ帰って来た、わしはあの雷の五郎藏じゃがナ」 「アア、ほんにそういえば、そんなことがあった、そらまアご機嫌さん、すっかり風態《ふう》が変わってるよってにわからなんだ、貴方モウあの太鼓持ったり虎の皮の褌《ふんどし》したりしなはれへんのか」 「アハハハハハ、なんぼ雷でもふだんはあんな風態はしやへん、あれは仕事に出る時だけや、雷じゃからというて、寒中にはまさか裸で暮らされやへんがナ、しかし下界の徳さんとこんなとこでお眼にかかるとは思わなんだが、全体どうして来なはったんや」 「ヘエ鰻の昇天《てんじょう》に連れられて来たんだすけど、途中で振り落とされましたんや、大分低いとこへ落ちたと思いましたが、これはまだ天だすか」 「左様、天も三十三天おますのじゃ、これはそのうちで一番下界に近い中天というところだす、近いうちに鰻の昇天があるという噂は聞いてましたが、アアそれについておいなはったのか、しかし振り落とされて幸いや、これから上へ昇って一番上の大宇天下死不生界へ行くまでには八億の魔性《ましょう》と出逢わにゃならん、下界の人なんどとても命はあらへん」 「そら怖いことだしたんやなア、ここからやったら大阪へ去《い》ねますか」 「マア急というわけにはいかんがナ、そのうち折を見て連れて行ったげる、まアわたしんとこへ来てゆっくりと遊んでいきなされ、先年の恩返しや、及ばずながら出来るだけのお世話はしますでなア」 「アアさよかいナ、ええお方に出逢うたものや、昔からいうたアる、渡る世間に鬼はない……アアやっぱりある」 「なに言うてるね、さアこっちへごんせ、……いつも家内とお噂していました、腰骨打ってどうしても歩けん、難波の伊吹堂へ負うて行ってもらいましたなア……さアこれがわしの家や、汚いけれどもどうぞ遠慮なしに上がっとくなされ、コレお鳴《なり》……」 「モシお鳴て何だすね」 「わしの家内で」 「アなるほど、雷の嫁はんでお鳴か、えらい面白いナ」 「アアお帰り、えらい早うおましたナ」 「イヤ、もう先方へは行かずに戻って来たんや、珍しいお方と出逢うてお連れ申した、いつもお前に話をしていようがナ、下界へ落ちた時にいろいろご厄介になった箱屋の徳兵衛さんというお方じゃ、さアご挨拶申せ」 「オオ、これはようこそおこし遊ばしました、始めましてお目に掛かります、わてはこの五郎蔵の女房でお鳴と申します、先年うちの人が下界で一方《ひとかた》ならぬお世話になりましたそうで、何ともお礼の申しようもござりまへん、今日はまた思いがけものう、お目にかかれまして嬉しいことでござりますが、お一人でお上がりやしたんで」 「いいえ、鰻と一緒に来たんだすネ」 「まあまあそれはそれは仲のおよろしいことで」 「何がだすネ」 「イエ、お内儀《ないぎ》と一緒に……」 「違う違う、お内儀やない、≪うなぎ≫だんね」 「アハハ……、何でもええ、オイお鳴、早幕でちょっと一杯つけんかい、時にえらいええ時にござった、今日はここの月宮殿《げっきゅうでん》のお祭りでなかなか美事なものやでナ、日が暮れたらご案内するよって、下界の土産に見物していかんせ、それまでは何もないけれどまアどうぞ、ゆっくり飲んどくなされ」 「おおきにご馳走はん、えらい珍しいものが出ますな、こっちの端は何でおます」 「つまんでみなはれ、ちょっといけまっせ、それは霰《あられ》の三杯酢や」 「ヘエー、こっちの皿にあるのは」 「ウムそれも下界の人には珍しいかもしれん、稲光りを二寸ほどに切って塩焼きにしたアるのや」 「こっちはまた香ばしい匂いがしますなア」 「アアそれは雹《ひょう》の油揚げ、それらはまアみな冬食うものやが、前にある小鉢物を、つまんでみとくれ。それは今が季節《しゅん》や、虹の時雨煮、虹かていろいろあってナ、敷熨斗《しきのし》や障子張りの小さい虹はテンと旨味がない、澄んだ青空に掛かったなるべく大きなやつを採ってくるのや、それをば天の川で十分|晒《さら》し上げるとアクが脱けて見違えるほど色が綺麗になる、こいつを細う刻んで、カラッと煮《た》き詰めたアるのや」 「ヘエー、やっぱり醤油で……」 「イヤこの辺では醤油はあんまり使わん。もむないよってナ」 「そしたら何で煮きまんね」 「みな星さんの小便や」 「ア汚な」 「何を言うね。星さんというものは天の精気を食うて生きてなはる、小便かてきれいなものや、大体その味というのがまた格別やナ、ここではこの品がほしさに土蔵の中で死んだ者があるくらいや、それをばピカ松という作者が浄瑠璃に作ってナ、星小便《ほししょうべん》久松という」 「そらお染久松だすがナ」 「いいや、ここでは星小便久松というのや」 「やっぱり外題は芋屁《いもへ》の門松だすか」 「そんなこと言やへん、さア、そんならボツボツ仕度して行きまひょか」 「そならボチボチ」 「しかし徳さん、その姿ではこの辺を歩くことが出来まへん」 「なんでだす」 「やっぱり雷の姿やないと咎《とが》められますさかいに、ともかく裸になりなされ。とても虎の皮の褌は出来ぬので、私の息子がしてる欝金《うこん》木綿に墨で縞《しま》が書いたアるこれをしなされ。それから色が白いと具合が悪いで紅殻《べにがら》を塗って、角がないといかんで、……これお鳴や、そこの金槌を持っといで——徳さん頭を出しなされ」(ゴツン) 「おお痛やの、(ゴツン)無茶しなはんな。人の頭をだしぬけに金槌でたたいて、それ見なアれ、こんな瘤《こぶ》が二つも出来たがな」 「それでちゃんと、角が出来ましたんや。この俎板の上へ両方の手を乗せなはれ」 「五郎はん、どないなりまんね」 「指が五本では具合が悪いで、三本にしたげます」 「もし、そんなことをしたらどうもならんがな。ああいた、指を切りなはったなア。それ見なアれ。こんなことをしたら今度から拳《けん》が打たれへんがな」 「さアそんでよろしい。太鼓を背負いますのや。この≪ぶち≫で叩いてみなはれ」 「ああさよか」(ゴロゴロゴロ) 「そら具合が悪い。もっと続けて打てまへんか」 「どないに打ちまんのや」 「それこのように(ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ)打って見なはれ」 「あんたは玄人やけども、私は素人やさかいにそう巧いことは打てまへん」(ゴロゴロゴロゴロ) 「マアそのうちになれて来ます。それでは行きまひょか。しかしもし貴方を咎めたら雷の五郎蔵の弟で五右衛門やといいなアれや」  二人連れで表へ出ました。 「さあ行こう。(「かみなり」という鳴り物入る)徳さんここが織物工場や」 「ヘエ何を織ってますのんや」 「虹を織っているので、ここを虹陣といいます」 「もし五郎はん、≪たどん≫を仰山こしらえていますなア」 「あれは≪たどん≫やない、雪だす」 「エライ黒い雪だんなア」 「こしらえた時はみな黒うおます。ここが天の川といいます。ここで雪をさらしますと、みな白うなりますね。それを向こうの堤で干します。彼方《あっち》を晒堤といいますのや。年中雪をこしらえています」 「夏に雪がいりますか」 「ヘエ北国の方へ卸します」 「ハアさよか」 「徳さん。そこに穴があるよって気をつけなはれや」 「アア、びっくりした、こらなんだす」 「それが久米の仙人の落とし穴といいます。そこから私が去年落ちましたんや。覗いて見なアれ。あんたとこの裏口が見えます」 「アアさよか、チョッと見せとくなアれ。ほんにうちの裏や。アアうちの嬶《かか》アが裏の井戸端で洗濯をしてよる。ちょっと見てみなアれ、私のことが心配か、えろう上ばっかり見てよる。オーイ嬶、心配しいなや。ワイここにいるで安心し。……隣の米公、うちの嬶に何やいうてよる。アア嬶の尻を捻《ねじ》りよった。コラ何をしやがるね。あかんぞ。ここから見てるぞ。アア逃げて入りよった」 「徳さん何をいうてなアるね。早よこっちへおいなアれ」  やって参りますと月宮殿はお祭りのことで、沢山な星さんがおります。その賑やかなこと——(楽の音)。 「もし五郎はん、えらい綺麗におますなア。向こうに掃除している人はあれは人足だっか」 「何をいうてなアる。みな星さんだっせ。掃除しているのが、箒《ほうき》星だす。水を撒いているのが水星で、仕事をしているのが木星だす。火をおこしているのが火星で、道を直しているのが土星だす。お賽銭を運んでいるのが金星で……」 「ヘエ、向こうに赤い顔をしてひょろひょろしているのん、あれなんだす」 「あれは宵の明星だす」 「こっちに渋面つくってるのんは」 「あれはようなかんの明星だす」 「戸を持ってきばってるのんは」 「あれはようあけんの明星だす。さあこの内らへ入りなされ」  内らへ入りますと、立派な御殿に七五三縄《しめなわ》を張り御簾《みす》が下がってござります。 「もし徳さん。この御簾の中に葛篭《つづら》があります。その中に臍《へそ》が入ってますね」 「臍が」 「ヘエ、みな下界へ降りて、人間の臍を取って来ますね。男は二十一になりますと臍を一つもらいます。それを食べると通力が叶いまして飛び歩けます」 「アアさよか」 「わし、内らへ入って来ますよってにしばらく待ってとくなはれや」 「ヘエ、五郎はん。早う来とくなアれや、私一人で淋しいよってに」 「へエじきに来ます」  五郎蔵は中へ入りました。 「もし五郎はん、もし、アア行ってしもた。今いうてはった、この御簾の中の葛篭の中に臍が入ってるのんやと、誰もいん間にちょっと見てやろ」  葛篭の蓋を取りますと中には臍が一杯入っております。 「アア仰山臍入ったアる。えらい美味《うま》そうな。一ツ食べてやろ」  えらい美味い、もう一つ食べたろと臍を食いましたから、身体がふわふわと飛び上がりそうになって来ました。 「うちへ土産にこの臍をみな持って行ったろ」  と葛篭を背負いますと身体が空中に上がりました。それを見ると多勢が出て参りまして、 「アレアレ葛篭が動くわ、動くわ」 「五右衛門が葛篭背負うたがおかしいか」 「それ者ども打って取れ」(打込)  こらかなわんと一目散に逃げ出しましたが、あわてて久米の仙人の落とし穴から足をすべらして、下界へ真っ逆様。ちょうどわが家の裏口で嫁さんが洗濯をしている前へドスーン。嫁はんびっくりして持ってる杓《しゃく》でたたきながら、 「マアびっくりした。日和がえいのにこんなもんが降って来た」顔を見て、 「あんた、うちの徳さんやないか」 「嬶、まことに済まん」 「あんた、どこへ行てたんや」 「雷のとこへ行て、土産に臍を盗んで帰って来たんや。何で私を≪しゃく≫で打ったんや」 「へその敵《かたき》や、長杓《ながしゃく》で打ったんや」 [へそは「江戸」のこと、長杓は「長崎」。「江戸の敵を長崎で討つ」の語呂あわせ] [#改ページ] 高津《こうづ》の富《とみ》  運は天にあり、牡丹餅《ぼたもち》は棚にあり、布子は質屋の蔵にあり、果報は寝て待てとか申しますが、わたしらはよう寝ますが、ねっから果報が参りません。果報は寝て待てやない、練《ね》って待て、練らねばならぬそうでござります、ところは大阪の大川町、宿屋さんが沢山ありました時分のお噂でござります。宿屋商売と申しますものは気苦労の多い商売で、昼の間は近所隣とは口の物を食い合うように仲良ういたしていますが、夕景になりますとお互いが商売がたきで、何でもよいお客さんを引かんならんというので、表口をきれいにいたしまして、水の一杯も撒いて待っておりますところへ、お越しになりましたのが、年の頃が五十五、六、田舎者風体のお方。 「ハイ御免なされや」 「これはお越し遊ばせ」 「お前さんとこは、宿屋さんやナア」 「ヘイ、宿屋渡世をいたしております」 「一人でも厄介になれるかえ」 「ヘイヘイ、お一人さんがお半分さんでも、結構でござります。……どうぞお泊まりを」 「ちょっと金の取引があって出て来たのやが、五日と思うているが、金のことやで十日も厄介になるやわからん」 「どうぞごゆっくりと、これ、旦さんのおすすぎをお取り申せ」 「いや、雪駄を履いていますので足は汚れたない、居間はどこじゃナア」 「二階へご案内申せ」 「旦さん、どうぞこちらへ」 「……ハイ、やれやれ、これで落ち着きました」 「旦さん、有難うさん、お茶を入れましたでどうぞ」 「いや、よばれましょう……ご主人、近頃はどうじゃナ」 「ヘイ、お蔭さんでぼちぼちで」 「イヤ、何商売をしてもぼちぼちなら結構、ハハハハハ、イヤ今も言うたとおり、二万両ほどの取引で出て来たんで、金のことじゃで五日が十日、十日が半月と長引くやわからんで、こんなみすぼらしい風体《なり》をしているので、何じゃしらんと思うてるじゃろうが、私は因州《いんしゅう》鳥取在の者で、土地《ところ》では相当金持ちじゃ、ハハハハッハ、私の口からこんなことを言うのもおかしいが、ちょうどこっちへ来る一月ほど前のことや、夜中に若い者がワアワアと言うてるので、何事がおこったのやと思うて起きてみると、皆が向こう鉢巻に手に手に割り木を持ってるので、コレどうしたことじゃと聞いたら、旦さん、納まってござるどころやおまへん、賊が参りました。何じゃ、賊といえば盗人さんじゃないか、金がほしゅうてござったんじゃろう、もし手向かいでもして怪我でもしたらどうする。金で命は買えやせぬ、入って持っていんでもらえと言うたが、誰一人表を開けに出る者がないので、私が庭へ飛び下りて閂《かんぬき》をはずして大戸を開いてやったら、なんと賊が十七人どやどやと入って来よったんや、それから金蔵へ案内したら、さあ運びよった運びよった、そうこうしているうちに東がジイーと白んできたら、コトッと一人も来んようになったで、アア賊もわが身が恐ろしなって夜が明けたら一人も来んようになったわい、しかし金はなんぼ持って帰ったしらんと思うて、金蔵へ入って調べてみたが、あかんもんやで、千両箱がタッタ七十五しか減ってないのや、賊も欲のないものやないかいな、アハハハハハ」 「ヘーエ、千両箱が七十五とは、これは恐れ入りますなア」 「いや、これも話のついでじゃが、こっちへ来る十日前のことや、女中《おなごし》が不精しよって、旦さん漬物の重石《おもし》が丸うて持ちにくいので何ぞ持ちよいものと言うたので、フッと思いついて千両箱を十オ投げ出して置いたら、夕方になると一ツずつ減るので、不思議なことがあると思うてなんで減るのやと思うていたら、減るはずや。出入りの者が帰りに一ツずつ担《かた》げて帰りよるねんが、銭のない者はあさましい心になるもんやないかいな——アハハハハ」 「ヘーン、漬物の重石が千両箱とは恐れ入りました、時に旦さん、そのお言葉につけこむのやござりませんが、私の方もこんな小さな宿屋をしてまして、宿屋だけでは会計が立ちませんので、この頃はあっちこっちの世話をさしてもろうておりますが、今度|高津《こうづ》へ富が出来ましてその富の札を売らしてもろうていますが、日が明日になりまして、一枚残りましたんやが、なんとご無理を願えんものでござりますやろか。旦さんのような勢いのええ方には当たると思いますが、これでござります。子《ね》の千三百六十五番、なんとええ番号ですが、一ツお願いが出来ませんもんだすやろか」 「フム、それは一体どうなるのや」 「ヘイ、一番が千両、二番が五百両、三番が三百両という籤《くじ》がござります」 「そうすると何か、私に一番が当たったら千両さえ上げたらそれでええのか」 「エー」 「イヤ、千両さえ出せば済むのじゃろ」 「アア旦さん何をおっしゃる、千両というのは向こうからくれますねがな」 「何じゃくれるのか、いやわずか千両ぐらいの金、邪魔になる、モウそらおいとく」 「旦さんでは千両ぐらいとおっしゃるが、我々では千両と申しましたら大したもので、何とご無理が願えんもんでしょうか」 「それで一体なんぼ上げたらよいのじゃ」 「一歩《いちぶ》で……」 「ナニ一歩、一歩といえば小さい額が一ツ、そんなんなら賽銭の残りがあったはずじゃ……アアあったあった、それ上げましょ」 「それではこの札を」 「イヤ、そらいらん、当たったところでわずか千両ぐらい邪魔くさい」 「で、ござりましょうが」 「アアさようか、そんならこれはもろうておく、また鼻紙にでもなる、しかしもし当たったらどれが当たっても半分はお前さんに上げるとしとこか」 「ヘエ、半分と申しますと」 「千両なら五百両、五百両なら二百五十両、三百両なら百五十両じゃ」 「エエ、何でござりますか、それを私が頂きますので、これはまた沢山頂戴いたしまして」 「コレ、頂きましてて、まだ当たったないが、当たってからのことや、とにかく熱燗にして二本ほどと、何でも構わん、別に一鉢ほどこしらえて早幕で持って来とくれや、ええか、早う頼むで、これ早うしとくれや……アア下へ降りよったか、ハアア、うっかり法螺《ほら》も吹けん、法螺を吹いたために大事にしていた一歩取られてしもうた、明日《あす》から一文無しや、マアあのように言うておきゃアまんざら催促もしよるまい、ええ加減に食い倒して逃げてやろ」悪い人で。 「旦さん出来ました」 「イヤ、出来たか憚りさん、いやいや酌したり給仕したりしてくれるとかえって気辛《きずつな》い、私一人|気根界《きこんかい》に〔気ままに〕飲む、用事が出来たら手を叩く、下へ降りてとくれ」 「どうぞ」  それからゆっくり酒を飲んで、腹一ぱい御飯を食べてコロリと寝てしまいましたが、翌日、早朝から起きて用事もないのに、 「お早うさん」 「オオ旦さん、お早うござります」 「亭主はどうしたなア」 「ちょっと用事があるので朝早うから出ました」 「アア出たか、私も昨日|主人《あるじ》 に話をした二万両の口、これから行って来る、いずれ帰りは夕方や、二階の部屋に何もないが、チョイチョイ気をつけてや」 「ハイ、お早うお帰り」 「ハイ」  ポイと表へ出ましたが一文無しのからっけつで行く所がない、天満の天神さん、城の馬場、道頓堀、あっちこっちを見物いたしまして出て参りましたのが高津さん。なんし久し振りの富というので境内は一ぱいの人で押し合いへし合いしております。沢山な商人が店を出しております、正面の拝殿には檜《ひのき》の台があって三方が乗って、上には富籤の箱がデンと乗っております。八つぐらいの男の子には熨斗目《のしめ》の着付けには金襴《きんらん》の裃《かみしも》をつけさして錐《きり》の柄の長いのを持って立っております、世話方は羽織袴でうろうろしている、群衆はワアワアいうております。 「モシ、えらい人だすなア」 「なんし久し振りの富だすよってに」 「しかし誰ぞ当たる人がおますねんなア」 「そらこないに沢山《ようけ》いる中で運のええ人に当たりますねん」 「アアさようか、貴方も買うてなあるのか、貴方も、貴方も、あんたはんも」 「ヘエ、沢山《ようけ》やおまへんが一枚だけ買うてます、見とくなはれこれだす、番号がよろしい、辰の八百五十一番、これがあたいに当たります」 「さよか、一番だっか」 「イイエ、一番は当たりまへん、二番の五百両、これが≪あたい≫に当たります」 「さようか、決まってまんのか」 「ヘエ、昨夜《ゆうべ》神さんのお告げがおましたんで、二番の五百両はお前にきっと当ててやるよってに、あてにして待っておれと」 「ほんまだすかいな」 「ヘエ——、もし五百両当たったら何をすると思いなはる」 「そら人のことでわかりまへんなア」 「けども人間には想像というものがおます、何すると思いなはる」 「まあ貴方のことやさかい、地所でも買うて家でも建てなはるのやろ」 「それが違いまんねん、十人寄れば十腹というて、思うことが違います。あて五百両当たりましたら、すぐに大丸へ走っていって、浜縮緬《はまちりめん》を一反買うて来て、それを京へ紺に染めにやりまんね、染まって来たら真ん中からプツッと二つに切りまして、それで長い財布をこしらえまんね、五百両をこまかい物に替えてもろうてこの財布の中へほりこみまんね、くるくると巻いてふところへ入れますと、布袋はんのように腹がふくれます、新町にあての女が一人出てます、年がテンナラ、テンナラの二十二だす、丸ぽちゃで色の白い鼻筋の通った髪の毛の濃い、笑うと≪えくぼ≫の入る、えへへ……」 「モシ惚気《のろけ》だすか」 「惚気やおまへん、まあ聞きなアれ、いつもは、すうと行って、すうと上がるのに久し振りで行くのに、こっちの方から、手拭を肩に掛けて、こんなとこへげんこつを入れて、鼻唄もんで、♪赤えり……」 「大きな声やなア」 「赤えりーさんでは、年期が長い、仇な年増にゃ、間夫がある……あての相娼《あいかた》、張り店で火鉢を引き寄せて灰をかきならし、火箸をぐさっと突きさして、でぼちんのせて、思案らしい顔をしてると、表にわたいの声がするので、好きな男の声する時は蝶々の笄《こうがい》抜けて出る、チョットおちょやん、いま表を唄うとうて通るのん、松ちゃんと違うか、これおちょやんというのに、まあまあ不景気な、この娘わいな、寝とぼけて頭をがしがし掻いてからに、手で掻くのやない、笄でかきんか、それがために、笄があてごうたるのやないか、手でかいて、着物で拭くよってに、何時も髪結いさんの梳子《すきこ》みたいに、そこらが油だらけやがな、早う行きんかいな、おちょやんというのに、辛気臭《しんきくそ》なって、自分が、庭へ飛び降りると、下駄がない、草履と高下駄と片一方ずつ履いて、ガタポソガタポソと表へ出て、チョット、松ちゃんやないか、なんで内の表を素通りするねん、一ぺんくるっと廻って来るねん、廻って来るやない、久し振りに来たのに、なんですっと上がってやないね、今日俺銭がないで、またあんな無理言う、何時でも銭がないかて、すっと上がるくせに、今日にかぎってそんな根性悪いことを言わいでもええやないか、ついぞあんたに、銭がないよってにいうて、恥をかかしたことがあるか、サア早う上がり、あんじょうするよってに、サアええ、早う上がり、上がり、上がり」 「モシそんな無茶をしなー、そないにあたいの横腹を突いて痛いがな、モシ」 「上がり、上がりと言われて、二階へ上がって、部屋を開けると水屋があって、江戸火鉢が置いてある前に大きな座蒲団が敷いてある、その上へでんと坐ると、マア松ちゃんどないにしてやったんや、えらい久し振りやしなア、これおちょやん、この笄《こうがい》をおばはんとこへ持って行ってあんじょうしとおいで。おちょぼが笄を持って表へ飛んで出ますと、しばらくしてこの笄で、一両借って来ます、その内から一朱だけ残して、サアおちょやんこの金、帳場へ渡しとくれ、残した一朱を紙に包んで、サアおちょやん、これ松ちゃんに礼を言いまんねんで、これおちょやんいうたら、松ちゃんに礼を言いや。モシあんた何と聞いてる、自分の笄を質に置いてこしらえた銭を、松ちゃんに礼を言いやと、モシちょっとこっちむきなはれ」 「モシ人の耳を引っ張って痛いがな——」 「話に身が入ってあんたの耳を借ったんや」 「何をしなはるね、けったいな人やなあ」 「松ちゃん、どないにしててやったんや、どうのこうのあるかい、酒五十本ほど燗をして茶碗蒸しを百ほど言うといで、松ちゃん茶碗蒸しの百も何するね、何する、茶碗蒸しで行水が出来るか、食べるね、食べるのんはわかったアるが百も食べられへんがな、食べられなんだら店の朋輩に食べてもらえ、朋輩かてそないに食べられへん、そんなら近所へ配っといで、茶碗蒸しの施行や、マア松ちゃん、そんな手荒いこと言うてどうするねん。今夜は夜も更けたあるよってに、今夜は何も食べず寝んねしなはれな、何も食べんと寝んねしなーれ、何も食べんと寝んねせい、そうすると俺に食わすのんがおしいねな、じゃ俺の口をひじめるな」 「モシ、何とか言うとくなはれ、この人えらい勢いで怒ってはりまっせ」 「私が、ひじめるなーと言うと、ヒー……(泣く)」 「モシ、また、泣いてはりますせ、一人で怒ったり、泣いたりしてはりますがな」 「松ちゃん、なに言うね、今店の仕切りでさえ笄《こうがい》を殺してこしらえたのに、お酒の五十本、茶碗蒸しの百やなんて、そんな手荒いことを言うて、ウハハ……」 「何という妙な顔をしなはるね」 「そうすると、銭がないので泣くねな、金がないのでほえるねな、サアこれで買うて来いと、ここでこの財布をドスンとほうり出してやりますね。そうするとチョコチョコと走って行って、財布を拾おうとすると重たいので、松ちゃん、これお金やないか、あんた、沢山お金持ってなはるねなーわかった、こないだ住友はんへ賊が入ったという噂や、あんた賊の片割れやないか、なに、賊の片割れや、あほ言え、高津の富が当たったんじゃ、マアそうか嬉しやの、あんたどうするつもりや。どうのこうのあるかえ、親方呼んどいで、証文持っといでと、一文も値切らずに身請けして、家を一軒建ておなごしの二人も置いて、あて朝風呂丹前で、朝起きたら手拭を肩へ掛けて、楊子をくわえて風呂へ行きまんね、帰るとお酒の燗が出来て、小鉢を並べて差し向かいで一杯飲みまんね、酔うたらオイ寝よか、目が明くと、手拭を肩に掛けて楊子をくわえて風呂へ行く、帰ったらお酒が出来てる、酔うたら寝よか、目が明くと」 「モシあんた、風呂へ入って、一杯飲んで、寝てばっかりいなはる、それは富が当たってからのことだっせ、モシ富が当たらなんだら、どうしなはるね」 「当たらなんだら、うどん食べて寝ます」  群衆は、ワアワア言うております。時刻がまいりますと、世話方が、そこへ出て来まして、富籤の箱を持って、ガランガランガランガランと振ります。蓋を取って中を一度改めまして蓋をすると、蓋の真ん中に丸い穴がある。箱を戴きまして、ガラガラと振りますと、子供が、錐をプツッ、と、突き差しますと、世話方が、それを取りまして、大きな声で「第一番の御富——」と声がかかります。と今まで、ワアワア言うておりました人が、一時に水を撒《ま》いたように、シーンといたします。 「子の千三百六十五番——」 「フウ——」 「モシ、あんた、どうしなはったんや」 「すれました」 「エエ」 「すれたんや」 「なに、すれた、わずかの≪すれ≫なら、金をくれます、なんぼすれました」 「たった八百五十——」 「仰山《ぎょうさん》すれてますがな」  またも世話方が箱を戴いて、ガランガランと振りますと、子供が、錐をプツッーと突き差しますと、世話方がその札を取りまして「第二番の御富——」と声がかかりますと、今まで惚気をいうてた人が、 「モシ、どいとくなはれ、これから、私の番や、風呂へ入って一杯飲んで寝るか、うどんで済ますかの境目や、サアやって、辰やろ」 「辰の——」 「どんなもんや、八百か」 「八百——」 「えらいわ、五十やろ」 「五十——」 「モシ、あの人、とうとう祈り出しましたで、うどんやおまへん、風呂へ入って一杯飲んで寝まっせ」 「一番やろ」 「七番——」 「フワ——」 「またへたばったでこの人」  三番も突っ切りますと、大きな紙へ当たりを書いて張り出しますと、群衆は潮の引いたごとく。ところへ参りましたのが、例の、空けつの親父さん。 「えろう人がドヤドヤと、ウム、昨日宿屋の亭主が話をした富やな、モシ、富はどうなりました」 「モウ、済みましたで」 「済みましたか、当たりは」 「正面に紙に書いて張ってます」 「なるほど……フム立派に書きよったなー、一番が、子の千三百六十五番か、二番が辰の八百五十七番で、三番が寅の五百四十八番、ええ番号が出たあるなー、干支頭に竜虎か、勢いのええものが出てるなー、一番が子の千三百六十五番か、そうそう私も昨日宿屋の亭主から一枚買うたある、まてよー、私の買うたのが、子の千三百六十五番と、フーム、こら当たらんもんやなー、沢山《たんと》の中やで。二番が辰で、三番が寅と、私のが、子と。一番が子の千三百六十五番と、私のが子の千三百六十五番か、こらあかん、いよいよ一文無しの、空けつと決まったなあ、あれが子の千三百六十五番と、こうなると小水が掛かるなア、私のんが番の五十六百三千の子……こら逆様や、子の千三百六十五番と、ハハン、チョットの違いやで、あれが子の千三百六十五番で、私のんが子の千三百六十五番と、あれが子の千三百六十五番で、私のんが子の千三百六十五ゴ、五番や、子と子と、千と千と、三と三と、百と百、六と六と、十と十と、五と五と、番と番と、アア……アアタタタタアタタタタタ」 「モシあんた、どないにしなはったんや」 「アタタタタ……」 「ヘエ、当たりましたか」 「アタタタタタ……」 「当たった、アア当たった、いんで待ってなはれ、世話方が、すぐに、金を持って行きます、いんで、待ってなはれ」 「あたたたた、あたたたた」 「あんた、何をしてなはるね」 「懐中《ふところ》が知れまへんね」 「あんた、外を、探してなはるがな」 「ああ、さようか、あたたたた、なんでこないに震えるねんやろ、昨日、宿屋の亭主に、偉らそうに言うて、旦さん、富が当たりましたと、言うたら、当たったらええじゃないかいなー、とこれが納まって、言えんかいな。なんでこないに震えるのんやろ。あたたた、ハイ、今帰りました、あたたたた……」 「オオ旦さん、お帰り遊ばせ、えろう早うにお帰りになりましたなあ、マア旦さん、どう遊ばしたのでございます、顔の色が悪うて、震うてござる」 「震いますとも、これが震わずにいられますか」 「どう遊ばしたので」 「昨日亭主に話をした二万両の口、行ったところが、証文がどうの判が違うとかで、ごてごて言うたので、私は腹が立って腹が立って、私は喧嘩まくで帰って来たので気色が悪い、これじゃから、銭のない者相手にするのは嫌いじゃ。今日は誰が来ても、会わん、二階へ、寝床《とこ》を取っておくれ、あたたたた」  二階へ上がって頭から蒲団を被って寝ました。宿屋の主人さんも、気になりますので、高津さんへ参りますと、モウ、富は、済んだ後で、 「えろう早う済んだな。当たりはどうなったか知らん、オオ、書いて張ってある、一番が、子の千三百六十五番、二番が、辰の八百五十七番、三番が、寅の五百四十八番か、ええ番号が出ているわい、違いない、私も、旦さんに一枚買うてもろうたーる、もしもどれが当たっても、半分はお前にやると、おっしゃった。私の買うてもろうたのが、子の千三百六十五番と、一番が子の千三百六十五番か、私のんが、子の千三百六十五、あれが子の千三百六十五番で、私のんが、子の千三百六十五番やったら、あたたたたた」 「モシあんたどないにしなはったんや」 「あたたたたた」 「エエ当たったんだっか」 「あたたたたた」 「当たった、当たったんやったら、いんで、待ってなはれ、世話方が、金を持って参ります」 「あたたたた、足が地につかんがな、あたたたた、あの人は来た時から、福の神やと思うた、どれが当たっても、半分やるとおっしゃったによって、半分もらえば五百両、五百両もろうたら、大阪中の地所を買うて、大阪一杯の宿屋を建て、それはええが、手がひっついて、離れんが、これを取ってもろうのに、五百両かかったら、五百両が、何もならん。ああ取れた、あたたたた、嬶ー」 「マア嬶やない、どないにしなはったんや」 「あたたたたた」 「コラ、しっかりしいや、何やね」 「だん、だんさ、ささんは」 「旦さんは、今、お帰りになって、なんや行った先で、証文がどうとか、判がどうとかで、喧嘩まくで帰って来たので、気分が悪いというて、二階で寝てござる」 「寝ているどこやない、寝ているどこやない」 「どないにしたんや。どうのこうのて」 「ととと富が、あたたたたたたんやが」 「なにあの富が、当たった、フハ……ア」 「これ、腰を抜かして、どうするね。旦さんは、お酒がお好きや、酒の燗をせい、徳利ではあかん、風呂の湯を流して、風呂の中へ酒を入れて、下からもやして燗をせい。酒風呂へざぶっと入ってもらう、寝ているやなんて、じゃらじゃらした」(トントントン) 「ヘイ旦さん」 「あたたたたた、誰も今日は逢わんと言うているのに、私の部屋へ来たのは誰や」 「ヘイ私でござります、旦さん高津の富が当たりました」 「ナニ、あたったらええじゃないか、当たったらええじゃないか」 「ええじゃないかじゃござりません、旦さん」 「エーイ、うるさい、これじゃから、貧乏人は嫌いじゃ、わずかの金がもらえるのが、それほど嬉しいか」 「イエ旦さん、富が」 「コレそのざまはなんじゃ、人の枕もとへ来るのに、下駄を履いて上がって来る奴があるか」 「マア旦さん、相済まんことで。余り嬉しいので、下駄をぬぐのを忘れておりました。とにかく寝ていてもろうては、どうにもなりません、起きて、祝い酒を」  と蒲団まくりますと、この旦那も、雪駄《せった》を履いて寝ていました。 [#改ページ] |鴻 池《こうのいけ》の犬  話と申しますものは器用なもので、鳥類畜類、草木、すべての物にものを言わします。御簾《みす》になる竹の上着も皮草履、とか申しまして、御殿の御簾になる竹もあれば、関東煮屋で芋やこんにゃくを差す串になる竹もあり、運不運のあるもので、このお話は大阪|船場《せんば》あたりのお話でござります。 「これ、小僧《こども》よ、これ、常吉」 「ヘエ……」 「まだ起こすのには早いが、眠ぶたかろうけども、ちょっと起きてくださらんか」 「ヘエ、なんぞご用事でござりますか」 「私が今ウツウツとしていますと、表でガチャンと音がしたので、塵芥取《ごもくや》さんでも来たのかしらんと、聞き耳いましたが、そうでもない様子じゃ。時節柄、塵芥《ごもく》に石油でもかけて火でも付けられると困る、他家《よそ》さんから焼けて来る火は仕方がないが、わが家から火は出しとむない、七生《しちしょう》人に怨まれてわが身が浮かばれんということを聞いている、ちょっと表を開けて見てくださらんか」 「ヘエ(ガラガラガラ)アア旦那はん、えらいことだすせ」 「ナニー、えらいことや、火事か」 「イーエ」 「なんじゃ」 「表に捨て児がしてござります」 「ナニ、捨て児じゃと」 「ヘエ」 「可愛い児を捨てなさる親達にはよくせきのことがあるのじゃろう、そして捨て児の様子は」 「ヘエ、蜜柑かごに入れて、上から布が着せておます」 「蜜柑かごに入れて、可哀想に生まれたての児とみえる、とにかく、こっちへ持って入っといで」 「旦那さん、返して来ましょうか」 「これ、ばかなことを言いなさんな、捨て児を返しに行く先があるか、それとも捨てた親は拾い主のあるまでそばをよう離れんというが、そばに誰か怪しい人でもいなさるか」 「イーエ、どなたも居ててやござりまへん」 「そんならどこへ返しに行くのんじゃ」 「お隣さんへ」 「コレ阿呆なことを言いなさんな、お隣さんが何で捨て児をなさる」 「それでも、お隣さんで拾いはったんに違いおまへん」 「なんでそんなことがわかったんじゃ」 「最初隣へほったら隣が先に気がついたので、近所が寝ているもんやさかいに、隣からうちの門外へ持って来はったんだす」 「何でそれがわかったんや」 「入れものが蜜柑かごだすさかいに、隣からこの家へ引きずって来た土の形がついてます」 「アア毒性《どくしょう》〔意地悪〕なことをしなさるなア、まアお隣さんなら、それくらいのことをしなさるじゃろう、ここ四丁界隈であれくらい吝嗇《けち》はないのじゃから、ハハハハ、わしとこと認めをつけてほりなさったんやで、仕方がない、こっちへ持って入りなされ」 「エエ、旦那はんちょっと見てごらん、こないな蜜柑かごだす」 「見るも可哀想に、その上の布切《きれ》を取ってみなされ」 「ヘエ、アア旦那はん、えらいことだすせ」 「何んじゃ、呼吸でも途切れているか」 「イイエ」 「えらいこととは何じゃ」 「ご兄弟が居ててござります」 「ナニ、ご兄弟が、そら騒動やな、何人ござるね」 「三匹居てござります」 「三匹ということがあるか、三人じゃろう」 「イエ、三匹だす」 「三匹て、なんや」 「犬だす」 「それを先に言わんか、びっくりしたがな、犬でも生き物じゃ、ほっておくわけいにはいかん、ちょっと出してみなされ」 「ちょっと旦那はん、見てごらん、真っ白いのが居ます、真っ白いのんは、つぎの世に人間に生まれて来る、人間に近いといいます。旦那はん、小さい犬は唐犬《からいぬ》より日本犬の方が可愛いおますなア、芋虫みたいにまるまると太ってます、こっちのんは斑《まんだら》や、こげ≪ぶち≫といいまんね、一番下になってるのんは、爪の先まで真っ黒や、これ尨犬《むくいぬ》というて、大きゅうなったら強いのだすぜ、これ私におくんなアれ」 「コレ何を言うね、私は今までに犬なぞを育てたことがないので、どうしたらええのか一向に勝手がわからん」 「それだしたら、私がご当家さんへご奉公に参りますまでに、家のお父っつあんが犬を飼うていましたのでよう知ってます、私が育ててやります」 「アアそうか、裏になんぞ空箱があるじゃろう、中へ藁《わら》を敷いて入れてやりなされ」 「ヘエ、まだ目が開いてまへんさかいに、御飯はよう食べまへん、お粥を焚いて食べさします」 「オオなかなか手間の掛かるものじゃな、塩梅《あんばい》してやっとくれ」  犬は猫と違いまして、三日飼いますと、飼い主の恩を知るとか申します。ものの三十日もたちますと、主人や丁稚に可愛がってもらいますので、まことにようなついております。後から尾を振って付いて歩きます。可愛いもので、ある日、表から、四十格好の上品な人が、 「エエ御免やす」 「ハイ、おいでなされ」 「ちょっとお尋ねいたしますが、アノ表におります犬は、あれはご当家様の犬でござりますか」 「ハイハイ、私の方のかと尋ねられますと、マアマア、今分のところではわしとこの犬じゃが、畜生のことじゃによって、何か粗相《そそう》でもしましたかな」 「イイエそうではござりません、エエご当家の犬なら丁度幸いで、アノ三匹居ります中で一匹頂きたい犬がござりますので、ちょっとお願いに出ましたのでござりますが、どうでござります、ご無体《むたい》が願えませんでしょうか」 「ハイハイ、犬をもらいにおいでなさったのか、イヤ商売人《あきんど》の家に犬が仰山いますとややこしゅうてどむならん、どれなと好きなのを持ってお帰り」 「ハイ、あの中の黒が頂きとうござります」 「アアさようか、誰の眼も同じじゃ、うちの丁稚《こども》もあれを一番可愛がっておりますのじゃが、ご所望とあれば何も縁のものじゃ、連れてお帰り、差し上げます」 「有難う存じます、早速のご承知でござりますが、今日は私の一存でお願い申したので、宅へ帰りまして主人と話をいたしましたら定めし主人も喜ぶことでござります、いずれ日を改めて、吉日を選んで頂戴に参ります。ご用事の中をばお手止めまして相済まんことで、さようなら御免……」 「ハハハ、何じゃ、犬をもろうのに仰山な、帰って主人に話をしたら定めし喜ぶやなんて、大層にものをいう人や、コレ丁稚、今のお方の言うてやったことを聞いたか、あの人は犬をもらいに来たのやないで、お前があんまり犬を可愛がるよってに、あの家は犬気狂いじゃによって嬲《なぶ》ってやろうかと、近所の若い衆が嬲りに来たのじゃ、モウ犬を可愛がるのも善し悪じゃ、ええ加減にしときなされ」 「ヘエ」  それから一ヵ月も経ちますと、若い者を連れて、 「エエ御免、エー過日は参りましてご面倒をつかまつりました。オオこれはご主人でござりますか、エーこないだは参りましてご面倒をつかまつりました、あれより帰宅をいたしまして主人に話をいたしましたところが、主人も大きに喜びまして、おもらいに行くなら吉日を選んでということで、幸い今日は天赦日《てんしゃにち》なり日柄もよろしゅうござりますので、お約束の犬を頂きに参りましたというようなことで。これは誠にお粗末な品でござりますが、頂戴いたしまするお礼と申しますのも、えらいおかしゅうござります、ほんの印と思召しまして、お納め願いとうござります」 「アアさようか、マアどうぞお掛けなされ、これ丁稚よ」 「ヘエ」 「茶を一つ汲んどいなされ」 「どうぞおかまいなく」 「サアどうぞお掛け、敷《あて》とくなされ」 「ヘイ、どうぞ」 「このあいだ犬をおあずけ申すと約束をしましたが、折角やがあの話は変改じゃ、お断り申します」 「ヘエ、そうしますと何ぞお気にいらんことがござりますか」 「ヘイ、気にいらんことがある」 「ヘイ何が気に障りましたか存じませんが、お気にいらんことをおっしゃって下さりませ」 「尋ねなさるなら申しますが、私はこの町内に永らく住んでおります、向こうむいて歩きたい、人様から後ろ指を指されるのが嫌じゃ、世間なみのことがしてもらいたい、というのは私は猫の子一匹やったこともなければ、もろうたこともないが、鰹節の一本とか、雑魚の一掴みとか持っておいでになったら、サアサアというて犬を上げますが、他人さんの持ってお越しになった物をもろうて犬を上げたら、あの家はもらい物に目がくれて物をやったと世間から言われたら、私はこの町内に居ることができぬ、今日の世の中にそんなことはないが、これは譬えごとでいうのじゃが、お前さんとこの家に、どないに介抱しても癒《なお》らぬ病人があって、あるお方の話に、その病人なれば爪先まで真っ黒な犬の生肝《いきぎも》を黒焼きにして飲ましたら癒るというので、それで立派な品物を持って来て犬を連れて行こうとなさるのかと思う。なんぼ不人情な者でも見殺しするのが厭じゃ、それじゃによってお断り申すのじゃ」 「イヤ、お話をうけたまわりましてごもっとも、実は私の言葉が足りませなんだで、申し遅れまして相済みませんことで、実は私は東区今橋の鴻池善右衛門から参りました者で、主人の宅に坊様《ぼんち》がござります、まことに犬が好きでござりましたところが、このほど坊様が可愛がってござる犬が病死をいたしましたところから、坊様がその犬のために病気で、ブラブラ悪うござりますので、主人が一方ならん心配をいたしまして、出入りの者に似寄りの犬を探してもらいたいと近国近在を探しておりますが、一向に見当りません。私が先日ご当家の表を通り掛かりますと、寸分違わぬよう似た犬がおりますので、お願いいたしましたら、早速やろうとおっしゃって下さりましたので、帰りまして主人に話をいたしましたところが、大きに喜びまして、今日は日柄もよろしゅうござりますので、頂戴に参りましたようなことで、ご変改になりましては、私が帰りまして、主人に申し訳がござりません、言葉の行き届きませんところは幾重にもお詫びをいたします、ご機嫌をお直し願います」 「アハ、さようか、イヤそれで話がすっくりわかりました、鴻池さんなら結構じゃ、買われる犬も仕合わせじゃ、私はおもらい申すものがあまり大仰じゃによって疑いを起こしましたのじゃ、サア、ちっとも早う連れてお帰りなされ」 「有難う存じます、さようならお言葉の変わりませんうちに頂いて帰ります、これ犬の箱を」  と申しますと、若い衆が二人掛かりで、唐木で造りまして、金の隅金物が打ってござります、中に敷いてある蒲団が緞子《どんす》で、その箱の中へ犬を入れてやりますと、今まで藁の上におりましたのが、急にお蚕《かいこ》の上へ乗ったものだすので心持ちがええ。 「さようなら、チトあっちへお越しの節はお立ち寄りを」 「どうぞお帰りになりましたら、ご主人によろしゅうおっしゃって下され、ハイさようなら」  鴻池へ連れて帰りましたが、今度この犬に病気でも出たら、坊様の命にかかわるというので、丁重に扱いまして、毎日お医者さんが来て、犬の診察をいたします。食物も吟味をいたしまして美味い物を食べさしますので、体も太って大きゅうなります、どこの犬と喧嘩をしても負けたことがない、強いの強うないのというたら、大阪中の犬の大将になりました。たいていの喧嘩はここへ連れて来るとおさまります、これから犬のいうてることを翻訳いたします。 「オイ、伏見町」 「ナンヤ、平野町」 「道修町の、このあいだの黒と白の一件はどうなった」 「しょむないことから、噛合《かみあ》いをしたのやが、いまだに仲が直らんで、私が仲裁に入ったんやが、どうしてもおさまりがつかんね」 「友達同士や、放っておくわけにいかん、一ツ鴻池の大将を頼んで話をつけてもらおうか」 「それがよかろう、一緒に行って頼もう」と鴻池へ参りまして話をしますと、 「ヨシ、そんなことなら一ぺん連れておいで、私から仲直りをしてやる」 「どうぞおたの申します」と、白と黒を連れて参りますと、 「コレ、お前らか喧嘩をしたのは」 「ヘイ」 「コレ、喧嘩はするなよ、噛んでも夜が寝にくいし、噛まれても夜が寝苦しい、喧嘩ほど損なものはない、サアこれを食べて仲直りをせい、かならず喧嘩をすることならんぞ」  というて聞かしますので、大将大将と皆が尊敬します。つぎの犬は表へ出るなり、車に轢かれて、クワンというたがこの世の別れ、一番末の犬が性質が悪い、あっちでは盗み食いをしたり、こっちでは拾い食いをしたりいたしますので、病気になりました。ソロソロ毛が脱けだしましたが、犬の毛の脱けたのは厭らしいもので、家へ帰ると丁稚が厭がって足で蹴ったり、棒で殴ったりするので、家へ帰ることが出来ぬようになりました。行くとこがないので場末へ落ちました。船場辺の丁稚が使いに行った帰り、焼き芋を買うて皮をほり、皮をほりした、その丁稚の尻について船場へ参りました。そうなると、歩くのも愁歎な歩きようをしてる、今橋通りをば通ろうとすると、町内の若い者、やない犬が見つけました。 「オイ一丁目、今向こうから来る奴はこの辺で見たことのない奴じゃ、場末の奴に違いない、この町内を言葉もかけずに通るとは、野放図な奴じゃ、一つウタワシテやろうか」 「それもよかろう、ウタワシテやれ、お前はあっちからおいで、私はこっちから行って、双方はさみ打ちにしてやろう」 「よし、腕力でいてやろう」  犬にわん力は面白い。双方から「ワンワンワン」「ワンワンワン」  と噛みつきに来ましたが、相手は病人、たまりません。ヒョロヒョロと逃げて参りました。ちょうど、鴻池の大将、お天気がよいので、表の敷居へ頤《おとがい》を乗せて、世間を見ている前へ、 「コレコレ、何をしたのんじゃ」 「アア、大将だすか」 「コレ大将だすかやないで、今も見ていると、ついぞ見馴れぬものを、二匹も寄って、可哀想なことをしてやるナ、どうしたんや」 「ヘエ、場末の奴が挨拶もなしにこの町内を通ろうとしますので、三丁目と言い合わして、ウタワシテやろうと思いましたんや」 「なに、ウタワス、そんな無茶をするな、可哀想に、ヨオ聞けよ、ところで吠《な》かぬ犬はないということがあるじゃろう、お前らでもこの町内に居るよってに威張っていられるが、他の町内へ行けば同しことじゃ、そんな弱い者いじめをしてやるな、常からいうて聞かしてあるじゃないか」 「どうも、相済まぬことで」 「以後は気をつけよ、お前は一体どこの者じゃ」 「ヘイ、私は今宮だす」 「今宮からこの町内へ来たら、なぜ挨拶をして通らんのじゃ、それじゃから喧嘩を吹っ掛けられるのじゃ、しかし生まれは今宮か」 「え、生まれは船場だす」 「船場は、どこや」 「ヘエ、南本町堺筋を東へ入りました南側だす」 「南本町堺筋を東へ入ったところに、竹内さんという内があるじゃろう」 「ヘエ、その竹内さんで生まれました」 「竹内さんと聞くと耳寄りな話じゃが、その家に三匹兄弟があったじゃろう」 「ヘエ、みな私の兄さんだす」 「なに、兄貴か、その兄はどうした」 「ヘエ、上の兄さんは幸福な方で、鴻池さんへもらわれてだした」 「フム、その次の兄はどうした」 「ヘエ、表へ遊びに出るなり、車に轢かれて、クワンというたが、この世の別れ、その場で死んでしまいました」 「フムそうか、そしてお前は」 「ヘエ、私は心得違いをいたしまして、あっちの物を盗み食いし、こっちの物を取って食いいたしましたところから悪い病気をうけ、毛が脱けて、この有様になりましたので、家を放り出されて今宮の場末へ落ちました」 「ナニ、物を盗った、物を盗るというような悪い了見を出すなよ、そんな根性では一生出世が出来ん、一生尾が上がらんぞ、今の話を聞いてみれば、幼い時分に別れた私の弟か」 「エエ、そんならあんたが鴻池さんへもらわれなはった兄さんだすか、アア、面目ない」 「そら何を言うね、お前のような弟があったら私は世間へ尾が上がらん、二丁目に三丁目、今聞いてみると幼い時に別れた私の弟やと」 「ほんにそう言いなはると、兄弟はあらそわれんものや、あんたに鼻筋がよう似てます」 「これから俺同様仲ようしてくれ」 「そんなことを知らんもんだすよって、えらい失礼をしました」 「弟、こっちへ入り」 「ここはどこだす」 「私がもらわれて来た鴻池さんじゃ」 「入っても怒られまへんか」 「私についてこっちへおいで」  裏の蔵の間の日当たりのええところへ連れて参りました。 「腹はどうや」 「一昨日から何も食べてまへん」 「そんなことをするから病気が出るね、そこにある器の中の物を食え」 「これが兄さんの食器だすか、塗り物で立派なもんだすな、こんな入れもので食べたら舌が荒れへんわ、私らあっちの芥箱の底を舐めたり、擂り鉢の底を舐《ねぶ》ったりするので舌が疵《きず》だらけや、戴きます」 「せいだい食べてゆっくり養生せい、お医者さんにも見てもろうてやるし、病気の都合で入院もさしてやる、温泉へも入湯に行け」  というておりますと、座敷の方より、 「コイコイコイコイ」 「アア呼んでござる、何ぞご馳走をもろうて来てやるぞ、待ってえよ」  牛蒡《ごぼう》のような尾を振って走って行きました。しばらくすると眼の下一尺もある鯛《たい》をくわえて来た。 「サア、これ食え」 「これなんだす」 「鯛の浜焼きじゃ」 「えらいご馳走だんな、あんた身をお上がり、私は骨を戴きます」 「私は毎日食べてる、お前食べ」  また奥から「コイコイコイコイ」 「また呼んでござる、何ぞもろうて来てやる」  またぞろ牛蒡のような尾を振って走って行きますと、今度は玉子の厚焼き、 「サア、これ食え」 「これなんだす」 「玉子の厚焼きじゃ」 「ご馳走やな、あんたお上がり」 「私は毎日食べてる、日曜日には洋食やし、今晩あたり、あっさりと奈良漬で茶漬が食べてみたい」 「贅沢なお方やナ」 「コイコイコイコイ」 「また呼んでござる、私の弟が来ていることがわかって、あっさりと汁の物でもくださるとみえる、待ってい、もろうて来る」  と飛んで行きましたが、以前にひきかえ尾を下げてシオシオと帰って来た。 「兄さん、行といなはったか」 「行て来た」 「何ぞくれはりましたか」 「何もくれはれへんね」 「今コイコイコイというてはったんは、呼んではったんと違いますか」 「インニャ、行ってみたら、お乳母さんが坊様《ぼんち》のシシやってはった」 [大阪では小児に小便《シシ》させるとき、「シーこいこい」という] [#改ページ] 菊江仏壇《きくえぶつだん》  昔の人がええことを申しております。庭に水新し畳伊予すだれ、透綾《すきや》縮みに色白の美女《たぼ》。なるほどこれは涼しいに違いござりまへん。 「コレ伜や、ちょっとこれへ来なされ、……この間からあれほど喧《やかま》しゅういうてるのに、まだお花を見舞うてやりなさらんのかいナ」 「へエ……それがその……私《わたい》は大体病人の顔見るのが嫌いな性分で」 「そりゃ何ちゅうことを言いなさる、あのお花は大体そなたの何じゃ、いやさ、何に当たる人じゃ、コレかりにも偕老同穴《かいろうどうけつ》の契りを結んだ女房やないか、病人の顔見るのがいややなんてそりゃ何たる言い草じゃ」 「ヘエ……」 「ヘエじゃないわい。大体そなたは気が移りやすい。いつまで親を泣かそうと思いなさるのじゃ。あのお花をもろうた時のことを思い出してみい。それまでは連日連夜、夜泊まり日泊まり、手もつけられん極道をしくさる。せめては気に入った家内でも持たしてやりゃ身持ちも直るじゃろうと親の欲じゃ、聞いてみるとあのお花をもろうて欲しい。あれさえもろうてくれたら一生懸命に精出すとぬかしくさった。先方を調べてみるとご身分といい、本人は元より、御両親のお人柄、寸分の申し分もないワ。早速人をもって掛け合うたところが先方様《さきさん》お眼が高い。ふつつかな娘をさようまでおっしゃって下さりますことは誠に辱うござりますが、何分まだ年齢がいきませぬ。ことに今まで親の手許ばかりで育ちました者で世間様の勝手というものが分かりません。承りますればそちらの若旦那様は随分お遊びになりまして何事も知り尽くしたお方やそうで、さようなお方のお傍におりましても、到底お目まだるいことだらけでお気に入るはずはござりません。ご親切だけは有難くお受けいたしまして、このご縁談はどうぞ今暫くご猶予をと、まず態《てい》のええお断りじゃ。まあ縁がなけりゃ仕様がない。一時諦めて他にええ娘を捜したらというたら、コレ、あの時のそなたのざま覚えてるかい。死ぬの生きるのと駄々け散らして、果てはみっともないオイオイ泣きくさる。もしやおかしい了見でも起こしゃせんかと、人様にも面目ないが又候《またぞうろ》頼みに行ったところが、それほどまでに思し召して下さりますものをお断り申したとござりましては女冥利が恐ろしゅう存じます。さようなればお言葉に甘えまして行き届かぬ娘をもろうてお戴き申しましょう。行儀作法の道さえもわきまえませぬ不調法者、何分とも末始終お目かけられて下さりませという恐れ入った口上じゃ、さアもろうてみるとどうじゃ。何も知らぬ不束者とおっしゃったがなかなかどうして、お茶、花から遊芸の道一通りは申すに及ばず、女として恥ずかしゅうないだけの読み書き算用までチャンと仕込んだアる。なるほどそなたみたいな極道には下さるのをいやがって二の足を踏みなさったはずじゃと思うたわい。ことにその心根の優しいことというたら、婆どんと早う別れて、男手一つでそなたを育てた親じゃと思うてか、何につけてもお父っつあんお父っつあんと大事にしてくれる。わしゃいつも仏壇の前へ坐って、貴女《あなた》は早う死んで可哀想じゃ。わしゃ長生きをしたお蔭でこんな孝行な娘を持て、今日もこれこれしてくれた。こんなこともいうてくれたと、毎日婆どんにいうて聞かしてるわい。あの当座はそなたもどうじゃ。夜が明けるとお花。日が暮れたらお花。やれやれこれでどうやら納まってくれたと喜んだのも束の間じゃ。ものの一月と経つか経たぬかにモウ元のとおりの極道三昧。三日四日と家を明けくさる。お花をもろうてからまだコレ三月余じゃないかい。それにまあ何たるざまじゃ。移り気じゃというたが無理か」 「いや恐れ入りました。なるほどホンにそういわれますと移り気かもしれまへん。まア親に似ぬ子は鬼子やいいまっさかいナ。蛙の子は蛙だすワ」 「コリャ聞き捨てならん。何でわしが極道じゃ、若い時から今日までお茶屋の梯子は昇ったことがないのじゃ。常には双子〔綿織物〕より柔らかい物は気持が悪うてよう着ませんワ。それに何をもって極道じゃといいなさる」 「いや決して極道やとは申しまへん。まあま、そう急《せ》かんとお聞きやす。いやよろしい。お父っつあんが移り気な証拠を申し上げましょう。大体あんたは信心家すぎる。やれ今日はどこそこのご開帳や。いや今日は何々のお講やと毎日毎日お出掛けなはる。子というものは因果な者で、ああ、あないして毎日出掛けて行きやはるが、年寄りの身で怪我でもなけりゃええがなアと、帰っておいなはるまで安心出来まへんがナ。内にもああしてお仏壇があるのやよって、うちで拝んでおきなはっても同しことやおまへんかというたら、いやいややっぱり立派なお堂で拝むのと阿弥陀はんの有難さが違うといいなはる。そんならどこぞにお気に入ったお仏壇でもあったら、お買いなはったらどうだすというたところが、実は立花通りにとても立派な大きなお仏壇がある、それが欲しいてたまらんと言うてだした。アアそんなことぐらいで危ないお寺詣りが止むのんならと、早速その仏壇を見に行ったところが、生地といい塗りといい、彫りの具合から箔の色まで寸分申し分おまへんワ。すぐさま人を頼んで買いに行ってもろうたら先さんがお眼が高い。聞けばお宅の親旦那さんはえらいご信心家で、あっちの御堂、こっちの御厨子と拝み尽くしておいなはる。さようなお方に買うて戴きましても、すぐさまアラが出ましてお飽きが出て参るに違いござりません。折角ながらどうぞお考え直しのほどをと、まあ態のええ断りだしたなア。あの時の貴方はんの萎《しお》れ方どうでおました。ええ年してみっともない、涙をポロポロこぼしなはる。見るに見兼ねてもう一ぺん先方へ掛け合うたら、それほどまでのご執心なら買うてお戴き申しましょう。ろくに艶拭きも出来てはいまへんがという口上。さて買うて内へ持って帰ると何分大きな仏壇で今までの仏壇入れへは入りまへんワ。大工指物屋表具屋を呼んで、あの大きな仏壇を納めてもまだ人の一人ぐらいは楽に入れるような立派な仏壇入れをこしらえなはった。いよいよちゃんと納めてみると、なるほどさきさまが売り惜しみしなはったはずや。ろくに艶拭きも出来てないどころか、錺《かざ》りの金物から、鈴、線香立てに至るまで眩しいように光っておましたなア。あの当時の貴方はんの喜びようはどうだした。夜が明けたら仏壇の前でチャンなんまいだ。日が暮れたら仏壇と差し向かいでチャンなんまいだ。チャンチャンなんまいだの一点張り。アアこれで危ないお寺詣りも止んだらしい。ヤレヤレと思うたのは束の間だっせ。ものの一月と経つか経たんのに、ちょっと今日は御開山の五百年忌やよってちゅうては寺詣り。いやお大師さんの御命日やいうてはお寺詣り。今日この頃のざまは何だす。大体貴方はんが移り気過ぎます」 「喧《かしま》しいわい。そら何ということを言いくさる、信心でするお寺詣りとそなたの極道が一つになるかい。コレそなたとてもやっぱり血の通うた人間じゃろう。あのお花の心遣いを可哀想とは思わんかい、お父っつあん、今日も若旦那はお帰りやござりまへん。私が不束なためにあのように毎日宅をお明けになります。参りましてまだ間もないのにかような不調法をいたしまして、お父っつあんにも若旦那にも申し訳がござりませんと、どうじゃ。まあ仏みたいな心とはあのことじゃろう。酷《むご》いそなたの仕打ちを怨むことは更々なし。ただ一途《いちず》自分の不調法とばっかり思い込んで身を責める不愍さ。エエ、これ嫁女《よめご》、何を言うてくれるぞい。あの極道奴の今このごろのしだらは、何と言うて謝ったらええやらと、わしゃ貴方《そなた》の顔見るたんびに、穴があったら入りたいと思うてるのじゃいというたら、まアお父っつあん勿体ない。こんな不調法者を叱りもせずに、そのように優しゅうおっしゃって戴きますとなおさら鈍な自分が怨めしゅうござりますというて、それはそれはわしに気兼ねをするのじゃ。やれ可哀想に、あない日々気を遣うて、患《わずろ》うてくれにゃええがと思うていると案の定、日に日に痩せて顔の色が悪うなっていくやないか。これ身体の具合が悪いのなら、どうぞ遠慮をせんと寝て下されというても、いいえ、別に何ともござりません。夜分もよう寝ますし、御飯も美味しゅうござりますと、笑うてみせるいじらしい心根。わしゃ何べん泣かされたかしれんわい。まあそうでもあろうが見たところ顔の色がえろうようない。無理して仕損じたらかえって難儀じゃ、どうぞ年寄りのいうこときいて寝て下されと、たっていうたところが、さようならお父っつあん、お言葉に甘えまして暫く寝《やす》まして戴きますと、寝ついたきり枕が上がらんがナ。わしの顔を見るたびに、お父っつあん、若旦那はまだお帰りがござりまへんか。こんなむさ苦しい姿をお眼にかけまして申し訳がござりまへんと気兼ねする。あないに気を遣いながら寝ていては、養生にもなるものじゃない。実家《さと》へ帰してやったら誰気兼ねもなしに、ゆっくり保養が出来るじゃろうと思うて、先方の親御に話して帰らしたアる。わしゃどんなことがあっても毎日一ぺんは見舞いを欠かしたことはないけれど、そなたは一ぺんもまだ行ってやったことがないとはあんまりじゃないか。本人にしても親御達にしても、わしが十ぺん行くよりそなたが一ぺん行って優しいことをいうてやりゃ、そのほうがなんぼ嬉しいやら分かりゃせん。何とした邪見な心を持ってるのじゃ」 「さあ。けれども見舞いに行たよってにというて病人が癒るもんやなし。まアお父っつあんが物好きで行こうと思いなはるのやったら、お慰みにおいでやす」 「慰みとは何という言い草じゃ。人でなしめッ」 「まあ親旦那さんご立腹はごもっとも。若旦那、貴方がいきまへん」 「番頭どん、わしゃこんな伜を持ったかと思うと、世間様に申し訳がないわい」 「まアそう一途におっしゃるもんじゃござりまへん。後でまた私からとくとご意見申し上げます。エエところで唯今ご寮人さんのお実家《さと》からお使いがみえまして、急にお越しを願いたいとの口上で」 「何、嫁の実家から。フムフム。急に来てくれてかい。フーム。何じゃ病人の様子でも変わったんと違うかいナ」 「エエどうやら急にお悪いらしゅうござります」 「アア、そりゃどむならん。それではわしはすぐ行て参りますでナ。どうぞ留守中何分お頼申します」 「承知いたしました。定吉をお供にお連れ遊ばして」 「アアそうか、店の手を取ってすまんが、そんなら定吉を貸してもらいましょ」 「コレ定吉。お清どんにいうて親旦那のお羽織を出してもらお。それからお履物《はきもん》を揃えるのじゃ」 「いや憚《はばか》り憚り。わしゃことによったら先方で泊まって夜どおし看病をしてやるかも分からん。番頭どん、くれぐれも頼んどきますのはナ、どうぞわしの留守中、あの極道をばちょっとも外へは出しとくなさんなや。こういう折柄、いつどんな用があるや分からん。行く先が知れんというようなことでは、向こうの親達へ言い訳が立たんでナ」 「承知をいたしましてござります」 「定吉ご苦労じゃ。ハイ行て参ります」 「どうぞお早うお帰り……」 「……オイ。……オイ番頭……」 「オオ若旦那、いつの間にうしろへ来てでおましたんや。びっくりしましたがな」 「アハハハ、親父出て行きよったナ。……チョッと頼むで」 「何をだすね」 「エヘヘヘ……なア、チョッと二時間……」 「いや、二時間どうするといいなはんね」 「野暮なこと言いないナ。親父はああして出て行たら、滅多に今日中に帰って来やへんがナ。ほんまに二時間できっと帰って来る。頼みや。出してんか」 「折角でおますがお断り申します。お留守は私がすべて預かっとりますので、ちょっとも出て戴けまへん」 「さア、そこを頭さげて頼むよってに……」 「いきまへん」 「ま、そない言わんと」 「なりまへんッ」 「アアそうか。いやコリャ仕様がない。そんなら諦めよ。時に番頭、内らで一人ボンヤリ坐っててもまたろくなこと考えやへんさかいなア。ここへ坐って話をさしてもろうてもかまやへんか」 「ヘエヘエ。いや大事ござりまへんとも、お店に坐って戴きますれば、ご近所がご覧になりましてもえらい体裁がよろしゅうござります。えらい片意地に申しましてすみまへんが、どうぞお腹立ちのないように」 「何言うてんね。わいの方が無理言うてすまなんだ。しかし帳合いの邪魔になれへんか」 「いえこれは別に今でのうてもかまわん帳合いで」 「いや、そらいかん。わいが店で喋って仕事の邪魔してると思うと気兼ねでかなわん、どうぞ帳付けをしながら聞いててんか」 「アアさようで。へエ。そんならえらい失礼でごわすが、ご免蒙りまして、帳付けしながら承らして戴きます」 「アアそうして、そうして。しかし毎日ご苦労はんやなア。店の切り盛りからお得意先との交際万端。大ていやないやろ」 「恐れ入ります」 「お得意先でも内の親父より、お前の方が信用があるということや」 「エヘヘ、そんなこともごわへんが、何せえ十四の時からご奉公をしておりますので……」 「つまり内の白鼠や。ところがなア番頭、世間にはおもて忠義そうに見せといて、内実とても悪い番頭もあるそうやなア」 「さア、そういうお方もあるそうにごわすなア」 「実は確かに一人だけ知ってるのやがナ。これが今いうた奴で、チョッと見たところではとても忠義な白鼠や。ところでなア。裏から覗いて見るちゅうと、なかなかどうして此奴がしようのないドブ鼠やね」 「ヘエヘエ」 「堀江や新町へ人に隠れてチョイチョイ内密《ないしょ》遊びに行ってよるうちに一人気に入った妓《こ》があってナ。それを落籍《ひか》して淀屋小路あたりで小意気な家を借って囲うたアるね。時々得意回りに出るような顔して店を脱け出てはここへ来て楽しんでよる。奉公人風情で妾狂いするくらいや、どうせ帳面に無理の出来たアるのは当たり前やろがナ」 「そら自然そうなりますなア」 「ところがその主人というのがこの番頭に具合ようチョロまかされて、信用し切ってよるのやさかい、まア当分ばれる気遣いはないワ」 「なるほど……」 「そしたとこが、この家にえらい極道の息子があってナ……」 「ヘーン……」 「アア、手を止めたら気の毒な。帳付けしててや」 「ヘエヘエ……」 「それが何も知らんような顔はしてよるけれど蛇の道は蛇や、チャーンと皆知ってよるね」 「へエ……」 「ア、 どうぞ帳付けしててや」 「ヘエヘエ……」 「息子としてもやなア。親の亡《な》い跡は自分の物になる金や。遣《つか》われて気持のええはずはないのやがなア……」 「なアるほど……エッ。ヘエヘエ……」 「また自分の無理もきかさにゃならん時もあると思うよってに、目をつむって辛抱してよるのや」 「ヘヘエ……」 「ハハハハ、どうや……」 「何がでおます」 「お前、これ誰やと思う……」 「さア誰方《どなた》でおますやろなア」 「この町内やで……」 「ハハアこの町内で……」 「商売は糸の問屋や」 「同業でごわすなア……」 「……ばーんーとーう……」 「……ヘ、エ……」 「お前と違うかナ」 「……さア……分かりまへんで……」 「こらッ。馬鹿にすないッ」 「あッ。そんな大きな声で……」 「言うたらどうしたんやいナ。オイ、この俺が何も知らん人間やと思うてたらチイと当てが違うで」 「まア、どうぞ待っとくれやす。これは恐れ入りました。イヤもう今後貴方はんには頭が上がりまへん。どんなご無理でも決して否やは申しまへんよって、どうぞ今の口は内々に」 「心配しいナ。そんな事荒立てるような野暮な人間なら極道もしやへんわいナ。しかしやなア。言い草は古いが魚心あれば水心や。ええか。……二時間だけ……」 「あ、そらいきまへん」 「何、いかんッ」 「あ、チョッチョッチョッチョッと……ああア難儀やなア。そんならここを折れ合うてこうして戴けまへんか。今日は何時《なんどき》ご寮人さんのお実家《さと》からお迎えが見えるか分かりまへんよって、出てもろうということはえらい困りますね。そこで貴方はんが、これから逢いに行こうという女子《おなご》はんをここへお呼びになってだすなア。内でお遊びになったらどうでごわす」 「そんな無茶言いないナ。仮にも船場の堅気の商人や。ご近所の手前、奉公人の手前、こんなとこへ妓《おなご》が呼べるかいナ」 「いやそれは心配おまへん。ちょっと手紙を一本お書きになって若い者に持たしてやりますね。駕籠の垂れを深うおろして裏の浮世小路の方から入ってもろうたらご近所へは滅多に分かる気遣いなし。また店の者はヒョコヒョコお座敷の方は通らしまへんよって、少々は暑うおますやろが襖でも閉めてやってなはったら、わかりはいたしまへん。近所の小料理屋から出来合いでもお取りになって、コッソリとしんねこで、エエ、私もお相伴をいたしますがナ」 「ほんにそうやなア。けどもこの暑いのに襖閉め切って、内の者にまで隠れてビクビクしながら酒飲んでてもあんまり美味いことなかろうと思うがナ。そんならこうしょうか。どうせ今晩中は親父は留守や。でまア今日は店を早仕舞いにするね。それから店の者一同へもご馳走してやって、もウ家中皆一緒になって遊ぼやないか」 「もうし、そんな大仰《おおぎょう》なことして……」 「ええやないかいナ、たまのことや。店の者にかて一ぺんぐらい愉快な目をさしたりイな。自分さえよかったら他《ほか》はどうでもかめへんてなこと、わいは嫌いや」 「へエ、まあなるべくお静かに……」 「分かってるちゅうのに。お前も図々しいわりに気があかんなア。オイ。店の者、みな今日はちょっと訳があって早仕舞いや、番頭も承知してくれてる。さア仕舞うてや」  お店では訳が分かりまへんが悪い話やないさかい、不足いう者はごわへん。開ける時は暇いりよるが、閉める時の早いこと。バラバッタバッタバッタ。 「ヘエ、閉めました」 「やあご苦労はんご苦労はん。先刻も言うたとおり少し訳があってナ。今晩は一つ皆で面白う遊んでもらおうと思うのや。でまア何ぞご馳走をして上げようと思うねが、これだけ大勢やちゅうと中には好き嫌いが違うやろと思うのや。そこでめいめいが好きな物を注文して、遠慮なしにやってもらいたいと思うのやが、順々に訊《き》いてつけるさかい皆注文してや。番頭お前は何がええ」 「イヤ恐れ入ります。私はモウ……」 「そんなこと言いないナ。好きな物があるやろ。何や」 「いえ、ほんまに、何でも結構でごわす」 「お前がそんなこというたら、他の者が遠慮せんならんがナ。なんなと、好きな物を注文してやりいな」 「ああさようでヘエ。……そうなら厚かましゅうござりますけど、チョッと洗《あら》いか水貝でも……」 「それみいナ、贅沢な物知ってるのやがナ。よしよし。番頭が洗いに水貝——と。次は源助。何や」 「えー。蓮根の天婦羅で」 「しょうむない物が好きやなア。よしよし。源助が蓮根の天婦羅。車海老もつけといてもろうたる。徳蔵お前は……」 「鯛の塩焼きで」 「本膳やがナ。よしよし。次は佐七や。お前は……」 「鮪《はつ》の照焼《つけや》きで……」 「ウワー。えげつない物食うのやなあ。鮪の照焼きか。次は藤助、何が好きや」 「へエ。そんなら餡《あん》巻きをどうぞ……」 「何、餡巻きやア。アハハハハ。ほんにお前は甘党やったなア。しかしなんぼ何でもお膳に餡巻きのせてるのやなんて感心せんで。栗のきんとんで辛抱しとき。ええか。藤助きんとん……それから次は、何なまぶしの煎りつけか。次は飛び魚の塩焼きやナ。よしよし。あんまりええ物食わんなア。次は何や」 「鹿尾菜《めえ》と生揚げで」 「葬礼の弁当やがナ……。お清、お前は何や」 「私は蟹の二杯酢で」 「おッ。女が一番洒落た物食うがナ。面白い面白い。お清が蟹の二杯酢と……。お元は何が欲しい」 「鏡台と針差しを……」 「オイオイ。嫁入りするのと違うで、食べる物や食べる物や」 「そんなら揚げ昆布」 「ア下落しよった。よしよし。サア清吉、お前これ持ってずーっと注文して回っといで、皆裏口から持って来とくなはれちゅうとかんと勝手知らん家《うち》があるで。お前も何でも好きな物をいうて持って来てもらいや」  えらいことになりました。 「ああ、藤七。お前、気の毒なけどちょっと使いに行て来てんか。この手紙を持ってナ。曽根崎新地の大滝という家へ行てほしいのや。頼むで」 「ああなるほど。それで今日は皆にご馳走が……」 「そうや。チョッと気転の利いた者やないと出来ん使いやね。それでお前を頼むのや。さあ少ないけど取っときや。着物も何もそのままでええのやよってに言うて大急ぎでナ。駕籠は裏の方から入れるのやで」 「承知をいたしました。行て参ります……」 「へエ今晩は。毎度有難うはんで」 「エエ今晩は。毎度大け……」 「へエ、大きに遅うなりまして」 「大きに、お待っ遠はんでやす」 「いよう来た来た。サア皆運びや。奥へお膳を出してな。それをずっと並べるのや。さあ運んだ、運んだ。自分の食う物だけ運ぶなんて、せちべんなことせんと、お互いにしんかいナ。さア番頭。お前は先坐ったり。でないと他の者がよう坐らへん。お清とお元は暫く酒の燗に回ってや。さ、男連中は皆坐った坐った。ナニ燗が出来てるか、よしや持って来て。さ、番頭いこ」 「いやア……。私は……」 「なんで一々そない言うのやいな。猫かぶったかて、あけへんちゅうのに。さア受けんか」 「恐れ入ります。どうぞ真似だけ。アッ。そない。おうおう。いっぱいついでくれはりましたなア。ご馳走さん、頂戴いたします。……アア美味しい」 「それみいな。なかなか飲み口がええで、さア続いても一つ」 「阿呆らしい、そないよばれたら酔いつぶれます」 「酔いんかいナ。誰に遠慮はあれへんがナ。皆もそうや。今日は無礼講やで、お清もお元も、燗番はまた交代でやるようにして一緒に坐ってやったらええ。さ、お清一杯いこか」 「滅相な、私ら女のことでお酒なんて飲んだことおまへん」 「なかったら飲んでみんかいナ。おい誰ぞ注いだり注いだり。さア、皆盃をドンドン回しや」  さア初めのうちは皆遠慮をしてますが、だんだん回ってくると陽気になります。薄暗いと陰気でいかん。燭台並べて灯をともせ。えらい騒ぎでおます。  北陽《きた》では菊江さん。若旦那からの急のお使い。持って来た手紙を見るとこの迎えについてすぐ来てくれ。着物も何もそのままでええよって早う来るようとの文面でござります。見覚えのある若旦那の筆蹟でもあり、とにかく匆々《そうそう》に参りましょうというので常着の白地の帷子《かたびら》、薄色の単帯という手軽な風で近所の駕籠に乗りまして、使いの藤七を案内にして蜆橋《しじみばし》を南へ、大江橋から淀屋橋を渡りまして、浮世小路を東へ入ると提灯の灯を消してやって参ります。 「駕籠《かご》屋はん、この家だすね。この入口から駕籠入れとくなはれ。飛び石になってるよって、足元気イつけとくなはれや」 「ヘエ、よろしおます。さ、相棒、ジックリ来いよ」  前栽の出入口から駕籠を入れまして縁先の廊下へ降ろしました。 「ああ駕籠屋はん、ご苦労はんだした。そんなら貴女はん、ご案内いたしまっさ」  廊下伝いに、奥座敷、仏間を通り越して中の間へ来てみると若旦那が正面に坐って、番頭から若い者、丁稚女中に至るまでズラッと並んで酒盛りの真最中。 「ヘエ、お連れ申しました」 「まア若旦那」 「おお菊江、来てくれたか。待ってたんや。えらい早かったなア。急に呼びにやってびっくりしたやろ」 「何が何やら訳が分からしまへんねがナ。せめて髪ぐらい梳《と》きつけてと思うてるのに、お使いのお方がえろう急《せ》いてやもんやさかい。まアこんな風態《なり》で、あて恥ずかしいわ」 「何言うてんね。気の張るお客さんは一人もあれへん。ここにいるのは内の店の者ばっかりや……」 「まア、勝手なことばっかり喋って誰方はんもご免やすや、ご挨拶もしまへんと……」 「オイオイ、そんな堅苦しい挨拶も何もいらへん、ここにいるのん、これが番頭や。今晩こうして逢えたんも、皆この粋な番頭の計らいや、あんじょうに礼言うといてや」 「まアこれは、お番頭はんでござりますか、初めましてお目にかかります。毎度ご迷惑をお掛け申しまして……」 「いや阿呆らしい。そう言われるとさっぱり往生いたしまんね。へエ、手前が番頭の次兵衛で。……イヤ今日も若旦那にキュッと咽喉締められましてな。コトンと往生安楽。アハハハ、土台ワヤでおますワ。親旦那のお留守を幸い、ちょっと魂胆して、来て頂いたような訳で……なるほど、若旦那がお迷いなはるのも無理はごわへん。失礼ながら北陽《きた》のお方はどこやらに粋なとこがおますなア。いえ私らは北陽なんて性に合やしまへんけど、そのうちには若旦那のお供して一ぺん寄せて頂きますワ、その節は何分よろしゅう。さア一つお酌いたしまよか。ええ、やっぱり若旦那のお酌の方がよろしおますか。ああ辛い。さっぱりワヤや、アッハッハッハッハ」  番頭|幇間《たいこもち》みたいな気になってよる。 「さアさア、皆見せつけるようですまんけどナ。そのかわりに遠慮なしに飲んでや。佐助どうや、やってるか」 「ヒッ。遠慮なく……ヒッ。頂戴……仕っております。ヒッ。……えらいッ。……アアー豪い。年は若いが若旦那は豪い。人、ヒッ。人間ちゅうもんは……極道する時はして……銭遣う時は遣うて……ヒッ。そのかわりさてという時に極道せなあかん……。わた……わたしご当家へ奉公に来た時若旦那、あんたはん四つでやした。ヒッ……溝跨げて小便しててやした。それがア。今《こん》……今日《こんにち》イ。綺麗な女《おなご》はんとゴチャゴチャして、店の者には。ヒッ。酒飲まして……旨い物食わして……何じゃ色気づきやがってしようもない。……いや御免……ウッカリ口すべりましたんや、しかしあんたア悪戯者《わるさ》でやしたで。……ヒッ。言う、言うことなんてなかなか聞きなはらん、ムカムカしてなア。蔵の横へ連れて行って、ヒッ。……ガーンと食らわしたったんや。ウワーンいうて泣きやがんね」 「オイ、そんな無茶したんかいナ」 「ショムない。昔のことやがナ。……オイ藤七どん注いでんか……わたしお宅へ奉公に来た時あんたはん四歳でやした。……み、溝跨げて小便しててやした……それが今日イ」 「アハハハ。分かった分かった……」 「何が分かったや。イヤ何が分かった分かったや」 「ア、 悪い酒やナ。まええがナ。まア機嫌よう飲みいナ」 「いや、こらすんまへん。オイ藤七どん注《つ》いでんか。モットぎょうさん入れえナ。ヒッ……あんたア悪戯者でやしたで……言うことなかなか聞けへん……ヒッ。蔵……蔵の横……ガーンちゃっちゃ。……ウワーンて泣きやがんね……ざま見い……昔のことやがな。ショム無い……オイモッと注いでんかうウ……若旦那。ヒッ。わたしお宅へ奉公に来た時、貴方はん四歳……」 「ああうるさいナ……」 「何イ……何がうるさいね。……こらッ」 「おい佐助どん。ええ加減にしときんかいな。何いうてるのやそら……」 「何じゃい。言うたらどやちゅうね。ヒッ。なに吐《ぬ》かしやがんね。おい藤七もっと注げ……ビクビクすないアッハッハッハ。しかし考えるとおもろいもんやなア。あんな泣き味噌の若旦那が、女の一人もこしらえるやなんて、アハハハハ。真面目な顔しやはると余計おもろい……アハハハハ、アハハハハハ。ウーイ。若旦那、ご免やすや。えらい管まきましてな。なア。古い奉公人やと思やこそ。何言うても堪忍してくれはんね。ああ結構なことや。……イヒッ。嬉しい。……若旦那ア、佐助は喜んどりますイヒッ。死ん死んでも忘れはいたしまへん……イヒッ。イヒッ。……こら藤助。何笑いやがんね。いーやいナ、何で笑やがんのじゃい。ウイー。アハハハハ……びっくりしよった、アハハハハハ。おもろい顔しよったアハハハハ。藤助どん堪忍してや。ウイー。よーう知ってるのやで……おお注いでくれるか、大きに……アア——親切にしてくれるなア、大きに……嬉しい、でわいは……イヒッ。イヒッ。グー、ムニャムニャ。何じゃいこら……グー、ムニャムニャ。……アハハ……おもろい……グーグー……結構でおます……ウエーン……ムニャムニャムニャ、グーグー、グーグーグーグーグーグー」 「アア寝てしまいよった。何と悪い酒やなア。一人で三人上戸みなやってしまいやがんね、此奴にグズグズ言われて、他《はた》の者は皆酔が醒めてしもたやろ、さア熱うして大きな物でドンドンやりや。番頭はどないしてるね」 「ウイー、ふわアふわア」 「ア番頭こないなってよる。さア皆飲んだ飲んだ……さア、菊江、お前もちと飲んだらどうや、根から酔うてやへんがナ」 「若旦那こそまだ素面《しらふ》だすがナ。そら酔うような気持になれまへんやろけど」 「何でやね」 「大事の大事の御寮人さんが患うてでだすねもんナ」 「おい、もうあいつのことは言わんといてんか、あんな者、女房やとも何とも思てやへん。それが証拠にまだ一ぺんも見舞いに行きやへんのやで、この世に可愛いと思うのは、菊江、お前ばっかりや」 「まアあんなこと言うて人を喜ばして、憎たらしい」 「痛ーい」 「ヒッ、おて……やわらかに……たの、たのんますウ」 「あ、酔うてても悋気《りんき》しよる。聞こえて気がもめるのんなら、皆手叩いて唄でもうたいいナ」 「唄結構、お元どん三味線のかわりに金網でも鳴らしいナ。清吉、お釜の蓋たたけ、他の者皆、お鉢の端でも茶碗の底でもかめへん、いっときに叩いて陽気にいこかい。ああ、やったやった」(騒ぎ唄) 「ああ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、定よ、遅うにご苦労じゃ。オオオオどこさんや知らんが、えろう賑やかに騒いでなさる。泣きの涙のこっちに引きかえ、何ぞお芽出度でもあるとみえるな」 「親旦那《だん》さん、あれはうちでござりまっせ」 「何を言うぞい。なんでうちが……あんな……ええッ。おお。ほんに、ほんにうちじゃ……ええもウ、何をしくさるやら……これ開けんか」 「ふわーい。コラコラコラ。しーッ。チョッ、チョッと待ち。誰や表叩いてるで」 「これ開けんかちゅうのに……」 「うわッ。親旦那やッ」 「何ッ。親父やッ。さあえらい騒動やがナ。オイ誰やこんな大層らしい燭台出したりするのは」 「あんたが出せ出せ言いなはったんや」 「お前にやるさかい食うてしまい……」 「うだうだ言いなはんな。アッ。もし。そんな無茶な。……背中へ燭台突っ込んだりして。アッ……うつむかれへん……」 「熱い熱いッ。誰やわいの股倉へ鍋かくすのは……無茶苦茶やがナ。……オイオイそんな七輪《かんてき》を押入れの中へ入れたら危ないがナ……」 「チョッと、わたいまアどないしまひょ」 「そうや、菊江、お前を第一にかくさんならん。チョッとこっちへおいでおいで。さアこっちの間へ入ってナ。これが仏壇や。大きいよって一人ぐらい楽に入れる。ええか、ここに暫くかくれててや、じきに出しに来る」 「コレ、何してるのじゃ。早う開けんか」 「ヘイヘイ只今。……おい皆並びや並びや。……ヘイ只今開けます。……佐助どん、お前そんな顔して前へ出てたらいかん。もっとうしろへ坐って、顔かくしてや……ヘエヘエ……オイ開けるで」 「ヘエお帰り」 「ヒエ、お帰《くわ》えリヒ……」 「お帰《ふわ》えり遊《あほ》ばへ……」 「おお、派手なお出迎えじゃ。藤助。何でしゃちこ張ってるのじゃ、……背中へ燭台入れてくさる。源助、股倉から鍋が覗いてるぞ」 「それみいな。誰やこんな物入れるのん……ええこのごろ冷えて困りますので、こうして温めとりますので」 「阿呆言やがれ。……お清、懐から鯛が顔出してるぞ」 「まアこの児わいナ。ってネンネンヨウ……」 「そら何しやがんね。……大体番頭どんはどうしなさったのじゃ」 「ウイー。ヒッ。番……番頭はア……こ、これに控えとりますウ……」 「オオオオ、ええ恰好じゃ。番頭どん。私しゃお礼を申し上げます。そなたはさてさて頼み甲斐のあるお方じゃなア」 「こたえまっせ」 「こたええでかい、極道奴。何でもええ、いずれ後日、この裁きはキッとつけます。今夜はそこどこじゃない。伜。伜はどこじゃ」 「お父っつあん、バア……」 「そら何をしくさる。……気楽らしいワイワイ騒ぎやがって。コレまあ落ちついてよう聞けよ。今日もわしが見舞いに行てやったらな。今までスヤスヤ寝ていたお花がパッチリ眼を開いて、オおお父っつあん。永々ご心配を掛けましたが、今度は妾《わたし》もいよいよお暇《いとま》をせねばなりません。いろいろお世話になりながら、ご恩返しもいたしませず、相すまぬことでござりますが、どうぞ堪忍しとくれやす。それにつけても若旦那は今日もお越しがござりまへんが、よくせき嫌われたものでござりますなアと、天にも地にもたった一ぺん、初めて怨みがましいこと言われた時のわしの辛さ。こなたはどう思わっしゃる。いやいや嫌うのどうのやない。見舞いに来とうてしようがないのやが、風邪をこじらした熱病で、ちっとも身体が動かせんのじゃと心にもない嘘いう心苦しさ。まあそんなこととも知らずに、病人のひがみから、怨みがましいこというてすみまへなんだ。お父っつあんちゅうて、わしの皺だらけの手を握りにくる。顔の色が見てる間に変わってきたなあと思うと……イヒッ……若旦那に……どうぞよろしゅう……と言うたがこの世の別れ……イヒッ。とうどうお花は……死んだわやい」 「チチチチチチ、チンリンリン……」 「誰じゃい、そんなこと吐かしくさるのは、さア今夜は叱言どこじゃない。直ぐ引き返してお通夜に行てやりますじゃ。あんな心掛けのええ嫁じゃで、かならずええとこへは参るじゃろうが、内に親鸞さんの有難い御姿があるのを、ちっとも早う戴かして、極楽往生をさせてやらじゃならぬ。それを取りに戻りましたのじゃ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」 「お父っつあんどこへ行きなはる」 「お仏壇の抽出《ひきだ》しへ入れといたお姿をとりに行くのじゃ」 「ええッ、仏壇ッ。あかんあかん、そんなもの仏壇にあれしまへん」 「ないことがあるかい、わしがチャンと入れといたのじゃ」 「それが入れどこが替わったんだす」 「誰が替えたんじゃ。大体そんならどこにあるといいなさる」 「へエ、あの……下駄箱の中……」 「阿呆言お……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、そうじゃ、このお仏壇の抽出しへお入れ申しといた……」  ギー……と扉を開けますと、菊江さんの白い帷子姿がヌー。 「おおお花。迷うたか。やれ無理はない無理はない。死んだ身にも女のたしなみ。髪も結い上げ化粧までして来たか、いじらしい。伜の了見はキッとわしが意見をして入れ替えて見せる。どうぞ迷わずに成仏しとおくれ」 「へ、わたいも消えとうござります」 [#改ページ] 掛取《かけと》り 「ちょっと、親父さん、親父さんちゅうのに。あんた、落ち着いて坐ってるわなあ、煙草ばっかり吸うて、今日何日やと思うてなはるねん。十二月の三十一日やし。もうそこへお正月が来てるねんし」 「正月が来たらどないやちゅうねん」 「ようそんな気楽なこと言うてるわ。いいええな、今も言うとおり、今日は大晦日《おおみそか》、あっちこっちから、ぎょうさん掛取りが来はるの、払いの方はどないしてやつもり」 「どないしてやつもりと言うたかて、お前、銭がなかったら仕方がないがな」 「ようそんなこと言うし。ほかの月と違うねんし、今日はな、十二月、エ、なんとかせないかんやないの」 「オイ、われみたいにそう言うたら、われが掛取りみたいになるやないか、まあまあ、心配せんでもええわい、なんとか俺がするわい」 「まあ、ようそんなこと言うし。なんとかするて、出来るのんか」 「そやさかい、俺がちゃんとすると言うてるやないかい」 「ええ加減にしときなはれ。昨年の暮れもそうやないかいな。エエ、もうお正月が近づいてるちゅうのに、銭が一文もあれへんの、あんたどないしてやつもり……というたら、エエ、あんた、あの時どない言うてやった。俺も男や、万事は俺にまかしとけ……。まあ、わたいその時思うたし。ふだんは頼りない人でも、こういう時にはやっぱり男やな、頼り甲斐があるなあと思うて安心してた。エエ、あんたえらそうに言うて表へ飛び出したさかい、ハハン、やっぱりあない言うてても、ちゃあんとお金の段取りに行ってやったのやと思うて待ってたら、しばらくしたら大きな棺桶背負うて帰ってきて、帰ってくるなり、嬶《かかあ》、俺は死んだ振りしてこの中に入ってるさかい、掛取りが来たら、われうまいこと言うて断り言え……。ようあんなしょうもないこと思いついてやったわなあ、わたいかて、そんな真似するのは厭やけど、銭がなかったら仕方がないやないか。しょうことなしに来る人来る人に、えらいすんまへん、うちのが、今朝方、急に亡くなりまして、家の中このとおり取り込んどりますの、誠にすんまへんねんけど、払いのほうはもうしばらく待っとくれやす……。エエ、どの人も、どの人も、何も言わんと、催促一つ言わんと帰ってくれはってんし。中でも気の毒なのは家主さん。そやないかいな、あんなええ人ないし、あんたが死んだというたら、ポロポロ涙こぼして泣いてくれはるの。赤の他人の家主さんがそないして泣いてくれはるのに、わたいが知らん顔してるわけにいけへんやないか、なんとかして泣こうと思うけど、とっさに涙が出るもんやないし、ふと気がついたら、横手にお湯呑みが置いたあるさかい、これ幸いと、お湯呑みに残ってあるお茶、目のふちへつけて泣いた真似してたら、家主さん、粋なこと言いはるやないか、お咲さん、あんまり泣きな、あんまり泣いたら、目から茶かすが出るで、て、こんなこと言いなはるねん。もうわたい、あの時、腋の下から冷や汗かいたし。おまけに溜まったある家賃のことはこれから先も言わんと、エエ……。なあ、これはえらい少ないねんけど、御仏前に取っといてと、別にお金をちゃあんと紙に包んで出してくれはったん。わたいかて喉から手が出るほどほしいお金やけど、なんぼなんでもそれがもらえるかいな。何をおっしゃるのん、家主さん。家賃もろくすっぽ払うてえしまへんのに、こんな物もらわれしまへん。何を言うてるねん。あれとこれとはまた違うねん、こらまあ、遠慮せんと取っといて。何を言うてなはるねん、こんな物はもらわれしまへん。まあ、取っといて。いけまへん……。言うてたら、あんたあの時どないしてやった。あんた死んでるねんし。そやのに棺桶の中から、大きな声で、嬶、せっかくあない言うてはるね。もろうとけ……、やて。おまけに手をにゅうと突き出して、家主さんびっくりして、庭へころんで落ちはったし、あれから神経痛が出たと言うてはるねんし。ようあんなしょうもないこと、さしとくなはったなあ。あんなこと、もうあけへんしい」 「そうか、もう今年はあの手えあかんか」 「当たり前やがな、毎年大晦日に死ぬ人があるかいな、今年はなんとかせなあけへんし」 「どうもしゃあない、よっしゃ、ほな今年は一つ手を変えよ」 「手を変えるて、一体どないしてやるつもり……」 「昔からよう言うやろ、好きなものには心を奪われるというさかいな、今日は、掛取りが来よったら、その掛取りの好きなもんで、俺がうまいこと借金の断り言うわ」 「まあ、なにかいな、相手の好きなもんで、断り言うというのんか、大丈夫か」 「ああ、万事俺にまかしとけ、どんな奴が来ても、俺がうまいこと断り言うたるさかい。オイ嬶、見てみ、噂をすればなんとやらや、エエ、今年は家主が一番先に来よったらしいで、今、路地口を入ってきよったん、あれ家主や。嬶、あの家主のおやじの一番好きなもんは何や知ってるか」 「そやなあ、家主さんの好きなもんちゅうたら、アッ、いつでも言うたはるわ、向こうのこれが……。うちの人は何一つ極道てないけで、あの人の好きなもんちゅうたら、狂歌が好きやと、こんなこと言うてはったわ、家主さんの一番好きなもんは狂歌と違うか」 「狂歌ちゅうたら、あの歌作るやつか」 「そうそう」 「よし、そんなら俺が狂歌でうまいこと断り言うてやるわ」 「大丈夫か」 「ああ、万事俺にまかしとき」 「お事多《ことおお》うさん」 「ア、こら家主さんでおますかいな、お忙しい中わざわざ来ていただきまして、えらいすんまへん、いえいえ、家主さんにわざわざ足運ばさんかて、こっちから行かなんならんとこでおますねん、イエイエ、昨年はえらい目に会わしまして」 「ちゃんと分かったあるようやな。ホホウ、今年はだいぶ風向きが変わったなあ、エエ、昨年はたしかわしが来た時、棺桶へ入ってたのになあ、で、何かいな、今月はわしがわざわざ出向かんでも、ちゃんとお前が銭を持ってくるちゅう……」 「イエイエ、そうやおまへんねん、断りを言わんならんなあと思うてたんで、へえ」 「ようそんなこと、あっさり言うで。断りを言わんならんて、オイ、お前な、今日は他の月とちがうねんで、いやいや、他の月ならまあ、一月や二月、待ってやらんことはないねんけど、エエ、今日は大晦日、エエ、今日はどんなことがあっても、もろうて帰るで」 「家主さん、もう重々《じゅうじゅう》わたいの悪いのは分かってまんねん、イエイエ、昨年、家主さんをあんな目に会わしましたもんですさかいねえ、嬶と言うとりましたんですわ。……まあこうして、親子三人が雨露凌がしてもろうて結構に暮らせるのも、これもひとえに家主さんのおかげや、家主さんの恩を忘れたらいかんで、他の払いはほっといても、どんなことがあっても、今年の暮れには、ちゃあんと溜まってある家賃は全部払わないかんで、ちゅうてねえ……。ええ、今年の春から一生懸命、精出して働いてました、へえ、ところが魔がさしたというのかねえ、三月ほど前からでんねん、へえ、しょうもないもんに凝りだしまして、へえ、それがために仕事の方がほったらかし、お留守……。またあんた、今まで貯えてた銭、全部使うてしまいましてねえ。エエ、また家主さんに待ってもらわんならんようなことになったんで……。えらいすんまへんけど、もうしばらく待ってもらえまへんやろか」 「おい、ようそんな勝手なこと言うな、三月ほど前から魔がさした、何に凝ったんや、どっちみち、お前らがものに凝るちゅうねんさかい、ろくなこっちゃなかろう。賭けごとかなんぞやったん……」 「いえいえ、そうやおまへん。博打やおまへんねん、いえ、こんなこと人さんに話したら笑われまんねんけど、実はあの狂歌ちゅうやつに凝りだしたんで、ええ、さあ、やりかけると面白いもんですさかいねえ、つい夢中になって、仕事の方はほったらかし」 「ちょ、ちょっと待ち、こらまたえらい耳よりな話を聞いたなあ、お前はんが狂歌に凝りだしたてか、はあ、こら嬉しいなあ、いや、実はなあ、わしも若い時分から他に極道て何一つないねんけど、この狂歌が好きでなあ。ああ、いやいや、今でもわしらの友達で好きな連中がな月に一ぺんや二へん、わしとこの家へみんな集まってなあ、会を開いてるぐらいや。お前みたいに年が若いのに、狂歌に凝りだしたとは嬉しいなあ、ほいで何かいな、なんぞ面白い句が出来たか」 「ホタラ家主さんも狂歌やってはりまんのん。丁度よろしい、へえ。家主さんがやってはるのやったら、わたいの作った狂歌聞いてもろうたら喜んでもらえると思います」 「うん、ぜひ聞かしてもらお、どんな歌が出来た」 「まあ、これをやりかけた時にねえ、どういうふうな歌作ったらええのかと、知ってる人に訊ねたところが、なるべく身近なことを読んだら歌になる、とこない言われたもんですさかいね。へえ、ごくわたいに身近なもんを作ったんですわ」 「どんなんや」 「貧乏の棒がしだいに太くなりふりまわされぬ年の暮れかな……。ちゅうのが出来ました」 「ちょっと待ち、貧乏の棒がしだいに太くなり、ふりまわされぬ年の暮れかな、ハハッなるほど、なかなかええがな、こらお前はん下におけんなあ」 「二階へ上がりまひょか」 「いや、二階に上がらんでもええけどな、まあやりかけとしたら、なかなか上手に出来たあるがな、えらい面白いなあ、まだ他にもあるか」 「も一つええのがおまんねん」 「ぜひ聞かしてもらお、どんな歌が出来た」 「貧乏に」 「ちょっと待ち、ちょっと待ち。なんじゃ、お前の歌は貧乏ばっかりやな」 「ええ、なるべく身近なもんがええと思いまして」 「なんぼ身近か知らんけど……。ほいで貧乏の」 「ハイ、貧乏に……だ」 「ああ、貧乏に」 「追いつめられし年の暮れ」 「なるほどなあ、貧乏に追いつめられし年の暮れ」 「溜まりし家賃とても払えん」 「ようそんな阿呆なこと言うてるなあ、うまいこと言うて、借金の断り言うてくさる、いやあ、ま、どうもしゃあない、なあ、他のことで断るねやったらともかくも、わしの好きな狂歌で断るとは気に入った、よっしゃ、その代わり言うとくで、春になったら、年があけたら、一番先に持ってくるねんで。分かったあるなあ」 「へい、かならず一番先にお届けいたします、えらいすんまへんでした、おおきに、さいなら、……。どや嬶、うまいこといったやろ」 「ああ、ほんまにうまいこといたやないかいなあ、この調子で他も大丈夫か」 「大丈夫やとも、どんな奴が来ても、相手の好きなもんで断ったらええねんさかい、ああ、誰が来ても大丈夫や」 「ちょっと、今度来た人ごてやし」 「今度来た人て、誰や」 「いま路地口入って来た、炭屋の大将」 「炭屋のおやじ、何がごてや」 「あの人の好きなものは喧嘩」 「喧嘩か、ほんにこらごてやなあ、どうもしゃあない、ヨシ、喧嘩で断り言うたろ、嬶、そこに割り木があるやろ、ウン、なるべく太そうなやつを一本持っといで、いやいや、心配せんでもええ、手荒いことするのやない、ちょっと小道具にここへ置いとくだけや」 「オイ、いてるかいな」 「ああ、これは炭屋の大将でっか、もうお忙しい中、わざわざ足運んでもらわんでも、こっちから寄せていただきますのに」 「ホウ、えらいわ、何かい、俺が来んでも銭持ってくるつもりやったんか」 「いえ、そうやおまへん、断りを言うつもりでした」 「何を。断りを言うつもりでした、張り倒すぞ、このガキは、何を吐かしてけつかるねん。人がおとなしい出たら、ようそんなことあっさり吐かしたな、断るつもり……。オイ、今月は他の月やないねんで、エ、われがなんと言おうと、今日どんなことがあっても持つもの持つまでは、俺は帰らんぞ」 「そんな無理なこと言いなはんな、持つもの持つまでは帰らんでえて、あんた、そない言いはったかてねえ、ないもんは仕方おまへんやろ。銭があって言うのやおまへんねん、ほんまに一文も銭がおまへんねん、そうでっしゃろ、石川五右衛門でも、ないもんは取れんと言いまっせ」 「コラ、オイ、もう一ぺん吐かしてみい、石川五右衛門でもないもんは取れん、なんちゅう言い草や、なけりゃないで、もっと他に断りようがあるやろ、オイ、俺はなあ、盗人に来たんやないぞ、当然取るべき金を取りに来たんじゃ、われがそんなこと吐かしたら、俺はどんなことがあっても、意地でも俺は持つもん持たなんだら帰らんでえ」 「なんぼそない言いはったかて、あんた、ないもんは仕方ない……」 「何を吐かしてけつかんねん、あけへんちゅうねん。オイ、古いせりふやがなあ、達磨大師やないが俺は尻が腐っても持つもん持つまでは、ここ動かんでえ」 「そんな無理なこと言いなはんな、ナ、ナ、大将、なるような話にしまひょ」 「なるような話、なるような話てどないするねん」 「どうです、長う待ってくれ言えしまへん、一月だけ待ってもらいまひょか」 「せっかくやが耳にタコがでけたあるわ」 「あ、さよか、ホナ半月だけ」 「そのせりふは聞きあいた」 「ホナ五日だけ」 「あかんちゅうたら、あかんねん、われがそない言うのやったら、言おか。エエ十日ほど前、難波で会うたやろ、知らんとは言わさんで。エエ、ハハーン、向こうからうせたが、俺の顔見たら断りの一つもしよるかいなあと思うて、俺はわざと見て見んふりしてた。われ、あの時、どないした、ええ、俺の顔見ときながら、肩で風切って、断りを言うどころか、何一つ挨拶もせんと、行き過ぎたやろ、俺はその時、思うたで、ははん、ああしてえらそうな顔して行くところを見ると、この大晦日には耳を揃えて払うもんやと、思えばこそ今日が日まで黙って待ってたんじゃ、さあ今日は、どんなことがあっても、持つもん持つまでは帰らんねんさかい」 「ア、さよか、どうしてもあきまへんか、よろしい、それやったら、わたいも男や、持たすもん持たすまでは帰さんでえ」 「えらいなあ、ほんなら待たしてもらおか」 「何を」 「待たしてもらおか、というねん」 「誰が今持たすちゅうた」 「ほんならいつ持たすねん」 「さあなあ、五年かかるやら十年かかるやら」 「何を吐《ぬ》かしてけつかるねん、銭もないのにえらそうなこと吐かすな、持たすもん持たさな帰さんやて、あのなあ、他の月やったら俺もなあ、三度の飯よりも好きな喧嘩や、ゆっくりと喧嘩したいねんけど、今日はそんなことしてられへんねん、なあ、あっちこっち、これから掛取りに行かんならんねん、俺は帰るさかい……」 「ちょっと待て、ちょっと待て、われが帰るちゅうても、俺が帰さんでえ、俺はどんなことがあっても、持たすもん持たすまでは帰さんねんさかい、嬶、表の戸をしめ、閂《かんぬき》入れよ、帰すな、このガキ、オイ、そこをちょっとでも動いてみい、おのれの向こう脛《ずね》をこの割り木で」 「ちょっと待て、ちょって待て、こんな無茶な奴ないなあ、ほんならこうしよう、なるような話にしようか」 「なるような話て、どないさらすつもりや」 「どないや五日だけ待ったろか」 「せっかくやが、耳にタコがでけてあるわい」 「ほんなら十日待とか」 「そのせりふは聞きあいたわ」 「ホナ一月」 「あかんちゅうたら、あかんちゅうねん、われがそない言うねやったら、言おか、十日ほど前、難波で会うたやろ、知らんとは言わさんで。エエ、われの顔見て、ああ向こうから炭屋のおやじが来よるなあ、俺の顔見たら催促の一つもするかいなあと思うて、俺はわざと、見て見んふりしててん、われ、あの時どないさらした、エエ催促するどころか、俺の目の前、肩で風切って黙って行ったやろ、俺は、その時思うたでえ、ハハーン、ああして催促もせんと行きよったところを見ると、この大晦日には取りに来ん」 「ようそんな阿呆なこと言うわ、それでは、逆捩《さかね》じや、ともかくなあ、お前の相手になってられへんのや、他にこれから掛取り……」 「分かったある、分かったあるわい、帰りたいねやろ、帰りたいねやろ、帰りたかったら、帰れるよにせんかい」 「帰りたかったら帰れるようにせえて、どないしたらええねん」 「われ、吐かしたやないかい、持つもん持たなんだら帰らんと吐かしたやろ、帰ろうと思うたら、持つもん持ったと吐かせ」 「なるほど、ああ分かった、お前の言うのがもっともや、なあ、俺もえらそうに持つもん持つまでは帰らんというてん、なあ、帰ろうと思うたら、持つもん持ったというたらええねんな、よし持つもん持った」 「たしかに持ったなあ」 「たしかに持った」 「そうか、さあ受取り書け」 「よう、そんな無茶言うわ、金ももらわんと、なんで」 「われ、持つもん持ったら、受取りを書くのは当たり前やないかえ、書かんかい、いや、書かんならええで、書かんのやったら、俺は帰さんでえ、たとえ、われの尻が腐っても」 「分かっ、分かった、分かった、書いたらええねんやろ、さあ書いた、これでええか」 「ちょっと待て……。金三円八十銭、右正に受け取り仕り候か、オイ、判がないぞ」 「そんなもん、どうでも……」 「何が、何がどうでもや、もしも後で間違いが……」 「間違いが起こるわけないやないか」 「さあ、押せというたら押せ」 「押したらええのやろ、さあ、押した、これでええか」 「嬶、閂外して、戸を開けたれ、オイコラ、われも、商いすまして銭もろうて帰るのやったら、なぜ有難うございましたと礼を吐かさん」 「何か、銭ももらわんと受取り書いた上、まだ有難うございましたと言わんならんのか、口惜しいなあ、ほんまに、言うたらええのやろ、有難うございました」 「ヨシ、オイ、炭屋、ちょっと待て」 「まだなんか用かい」 「さっき渡したん十円札や、釣りを出せ」