TITLE : おかしな先祖 おかしな先祖 星新一 ------------------------------------------------------------------------------- 角川e文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 心残り とんとん拍子 戸棚の男 四で割って ほれられた男 オオカミそのほか 倒れていた二人 ふーん現象 所有者 おかしな先祖  あとがき 心残り  ここは病院の一室。重症患者専用の部屋。つまり回復不能、もう長いことはないという病人ばかり。もちろん医師はそんなことを告げはしないが、患者というものは独特の勘で、どうもそうらしいと、うすうす気づいている。  いうまでもなく、陽気なムードはない。お通夜の前夜といった感じがただよっている。大げさな形容をすれば、窓のそとの木の枝ではカラスが葬送の序曲を歌い、空を見あげれば、はるか上でハゲタカが舞っているかもしれない。  この部屋、三人の男がそれぞれベッドに横たわっていた。 「あああ、ぼくの人生もまもなく終りか。こんな不運なことはない。心残りばかりだ。おもしろくないな……」  と、ひとりがぼそぼそとつぶやく。三十歳ぐらいの男で、顔はなかなかの美男子、憂愁のかげがある。それに対し、となりのベッドの男が声をかけた。 「天をうらみたくもなるだろうが、身の不運をなげく点では、おたがいさまだ。しかし、あんたのほうが、おれよりまだましと思うな。あんた、なかなかハンサムじゃないか。こっちから横顔をながめると、メロドラマ映画のラストシーンによく出てくる図だぜ。まさに、それにぴったりだ。使い古された手法だが、何回見てもいいものだ。二枚目の最期。きよらかで悲劇的、静かにセンチメンタルなメロディーが高まり、終という字があんたの上で大きくなる。女性たちがみな涙を流すところだ。うらやましい。すばらしい。望んで得られるものじゃない。最高級だ」 「妙なうらやましがられ方も、あるものだ。買いかぶりだ。そんなことはないよ。きみはテレビか映画の見すぎだよ」  とハンサム男が苦笑いしたが、となりの男は自説をまげない。 「いや、おれの考えている通りのはずだ。あんたはこれまでに、いくつもの夢のようなロマンスを経験しているにちがいない。美女たちとさまざまな大恋愛をくりかえし、普通の人の一生の何倍もの思い出を持っているにちがいない。ちきしょうめ。不公平だ」 「いやいや、そういうしくみなら、あきらめもつくさ。しかし、ぼくは青年時代のはじめ、色道修行をはじめようと、まずスポーツカーを買った。スピードを出し面白半分、歩行者をおどかしたりしたものだ。そのバチが当ったというのだろうな。ガードレールに激突し、事故をおこした。それによって下半身不随、ずっと寝たきりの生活さ。そのうち、ほかの病気が併発し、かくのごとしというわけ。つまり、女性関係はまるでなしだ。一度でいいから女にもてたい。いや、もてたかったと言うべきかな。これだけが心残りだ」 「なるほど、そうとは知らなかった。うらやましがったりして、申しわけなかった。さぞ心残りだろうな」 「ぼくにしてみれば、きみにうらやましさを感じているよ。きっと、刺激にみちた人生をすごしてきたんだろうな」  ハンサム男がこう言ったのも根拠のないことではなかった。となりのベッドの男もやはり三十歳ぐらいだが、顔に刃物の傷あとがあり、胸や腕はたくましく、すごみのある印象。 「たしかにおれは、腕っぷしが強く、暴力団の一員だった。縄《なわ》張《ば》り争いで血の雨をくぐったこともある。しかし、これも映画で見るほど楽しいものじゃないぜ。なぐられれば痛いし、切られて出るのは本物の血だものな。それに、おれは頭がよくない。いつも損な役まわりばかり押しつけられ、危険なところへかり出される。だから、顔じゅう傷だらけになった」 「しかし、女にはもてたはずだ。テレビや映画で見ると、暴力団の連中はいつも女にもてている。おもしろくない。不公平だ」 「あんたもテレビ中毒だねえ。しかし、顔にこう傷があっては、女はこわがって寄ってこない」 「でも、ベッドに入り電気を消せば、あとは、そんなこと無関係だろう」  ハンサム男もしつっこい。むこう傷の男は、ためらったあげく言った。 「えい、どうせ先が長くないのだから、言ってしまおう。はずかしがっても、しようがない。じつはだ、おれは体質的に腸が弱いんだ。しょっちゅう下痢ぎみだ。興奮したりすると、生理現象がすぐ起る。だから、女とベッドに入ると、これも一種の興奮さ。たちまちムードがこわれ、女は逃げてしまう。他人にとっては喜劇だろうが、世にこんな悲劇はないんじゃなかろうか。腕っぷしは強いが、顔でもてず、ベッドでもだめ。一生のうち一度でいいから、まともに女にもてたかった。まったく、心残りだ。ちくしょうめ」 「そうとは知りませんでした。おたがいに悪い星のもとに生まれたんですね。その星には女の住民がいないにちがいない」  ハンサム男が同情し、悲しげに顔をしかめた。この病室には、もうひとり男がいる。五十歳ぐらいのふとった男。髪の毛はうすく、色は白く、好色そうな目つきだ。むこう傷の男は、こんどはそいつにむかって話しかけた。 「この部屋の三人のうち、あんたが一番いい思いをしているようですね。さぞ、たくさんの女をものにしたことでしょう」 「いや、なんともいえませんな。ごらんの通り、わたしは白ブタのごとき姿。あんたらのようにハンサムでもなければ、男性的肉体の持ち主でもない。だから、たよるのは金だけだった。女をものにするには、金にものをいわせなければならなかった。非合法の商売にも手を出し、せっせと金をもうけ、女をあさった。さらに、女性の歓心をかうべく、性のテクニックをいろいろと研究した。〈酔いどれ爬《は》虫《ちゆう》類《るい》〉とか〈バルカン半島の回転木馬〉という外国の秘術まで身につけた」 「うらやましい」 「しかし、どの女も金の切れ目が縁の切れ目。おちぶれたら、みんな逃げていってしまった。いま人生の終幕にのぞんで反省してみると、金の威を借るキツネ、わたしの金がもてたのであって、わたし自身がもてたことは一回もなかった。むなしい。くやしくてならぬ。それが心残りだ。女にもてたかった……」 「そういうものかもしれませんね。どうやら、われわれの共通点は心残り、女にもてなかったということですな」  三人はあわれな声を出し、おたがいに同情しあい、おたがいに不運をなげきあい、なんとかならぬものかと……。  その病室に医師がやってきた時、ふとった男がみなを代表して言った。 「われわれ三人、いろいろと相談したのですが、ぜひ先生にお願いが……」 「はい。なんでもやってあげますよ」 「われわれ、いずれも先は長くない。先生がそんなふうに、すぐやさしく承知して下さるのが、なによりの証拠。覚悟はできております」 「や、まずいことを言ったかな。しかし、まあ、そんな弱気ではいけません。回復への自信をお持ちなさい。大丈夫です」 「はげますのは医者の役目、はげまされるのは患者の役目。お言葉はありがたいが、みこみはなさそうです。夢《ゆめ》枕《まくら》の死神が、待ちかねていらいらしている。われわれ、あまり世の中のためになる人間でもないようですから、このへんであきらめます。しかし、あきらめきれないことがある。女にもてなかったという点です」 「なにを言い出すかと思ったら、また、なんと現実的なことを……」  医師は二の句がつげなかった。ふとった男はあらたまった口調で言う。 「そこでお願いというわけです。いよいよ臨終となったら、われわれ三人を切断し、組立てなおしていただきたい」 「といいますと……」 「それぞれから三分の一をちょん切るのです。わたしは腹部から足にかけての部分を残しておく。胸と腕の部分は、その暴力団のおにいさんのを使う。首から上は、そのハンサムなおにいさんのを。つまり、価値があってまだ使える部分を集め、ひとつの人間に仕上げていただきたいというわけでして……」 「なんですって、生体移植の大手術をやれというのですか。それは困ります。いえ、わたしに才能がないというわけじゃあありませんよ。腕前は優秀だ。だけど、生体移植には微妙な感情問題がからんでくる。提供するほう、されるほう、なかなかうまくいかんのです。この場合、だれが提供者で、だれが被提供者になるのか、はっきりしませんが……」  医師はしりごみした。しかし、むこう傷の男が口をはさんだ。 「その点なら、ご心配なく。三人の意見が一致の上でのお願いです。みな承知の上であり、希望でもある。書類を作成し、あとに問題が残らないよう、先生にご迷惑をおかけしないよういたします。死にのぞんでの最後の願い。それでも聞けねえと言うのかよお」 「そう興奮してはいけません。ほら、あなた、また下痢をした。しかしねえ、かりにやってみても、拒絶反応がおこるかもしれないし……」 「おこるわけはないでしょう。女にもてたい、その思いにみなこりかたまっている。それに関してはぴたりと一致。その執念のあげくのお願いです。三《さん》位《み》一《いつ》体《たい》の一心同体、同志的結合のチームワーク。拒絶反応など起りようがない。ぜひやって下さい。やってくれないのなら、いいですよ。執念の行き場がなく、先生のところへ化けて出る。三交代制で化けて出てやる。一日二十四時間、休みなく出現し、うらめしやと、わめきつづけてやるから……」 「いやな脅迫だな。しかし、どうも気が進まないな。成功したとしても、とやかく言われるだろうしな。神を恐れぬ行為だとか……」 「神を信じないやつに限って、そんなことを言うんですよ。そんな雑音、気にすることはない。先生こそ神ですよ。神はアダムの胸の骨から、もうひとりお作りになった。似たようなものです。勝てば官軍、成功してごらんなさい。医学史上に先生の名が残る。金文字で印刷されて残るかもしれない。ジェンナー、エールリッヒ、パスツール、ドクトル・ジバゴにドクター・ノオ、これらの輝かしき博士たちと並んで、先生の名がたたえられることになるのですよ」 「虚栄心がむずむずするようなことを言うなあ。妙な名もまざっていたが……」  医師の心は少しぐらつき、三人はそこをもう一押しする。 「名声がおきらいなのでしたら、むりにとはいいませんよ。これだけ条件がそろっているんです。ほかの先生に交渉してみますから」 「うむ。おどしたりすかしたりで、痛いところを突いてくるなあ。学術研究発表会での、はれがましい光景が目に浮かぶ。えへん、諸君、これから、わたしは世界最初の……」 「そうこなくちゃいけません」 「なんとなく、わたしも乗り気になってきた。いずれにせよ、このままではあなたがた、長いことはないんだしね。や、また口がすべった。いまのは取消しだ。みな、まもなく回復する。わたしが保証する。しかしだ、万一ということもある。その三人がそろって万一おかしくなった時にそなえておくのも、必要かもしれぬ。万の三乗はいくつになるかしらんが、ありえないことではない。医学の進歩のために身を投げ出そうという、きみたちの熱意には負けた。考慮しよう。大いに考慮すべきことだ。そうときまれば、一刻も早く書類を作っておこう。手おくれになっては、とりかえしがつかんからな……」  というわけで、合成人間ができあがった。経過はすべて順調。いちおう外出してもいいという許可がでた。一般人なみに行動できるかどうかを、まずたしかめてみる必要がある。医師は言う。 「わたしはせい一杯やり、ここまでなしとげた。上出来か不出来かは、なんともいえない。あなたがはじめてなので、比較しようにもほかに前例がないからだ」 「これでけっこうです。なんとお礼を申しあげていいのか。大感激です」 「しかしだ、なにしろ三つの部分品をよせ集めてあるのだ。神経のつながりかたが、まだ完全とはいえない。そのうち調和してスムースになるだろうが、動作には気をつけるようにな」  合成人間はからだを動かしてみる。 「なるほど、どことなく妙です。わが身にしてわが身にあらずといった気分。こればかりは、当人でないとわからんでしょう」  手を出して医師と握手する。医師は叫ぶ。 「痛い。そう力をこめるな」 「すみません。ぼくはそんなつもりじゃなかったんですが、手が勝手に力を出してしまうんです。きっと、この部分の暴力団のおにいさん、こうなって喜んでるんでしょう」 「ところで、外出したら、まずどこへ行くつもりだ」 「花を買い、お墓にそなえに行きます。これを第一にやらないと、気持ちの整理ができないようです」 「それはそうだろうな。まあ、新しい人生を大いに楽しんできなさい」 「はあ、そのつもりです」  合成人間は病院から出る。ゆっくりと歩く。足の歩くのと、手のゆれるのと、どうも調子が合わぬ。このかけがえのない生命を、車にはねられて失っては、とりかえしがつかぬ。注意してゆっくり歩くに越したことはない。  お墓まいり。新しい墓が三つ並んでいる。合成人間はそれにむかい、感無量。 「こっちの墓の下には、下半身のないでぶ男の遺体が埋葬されてある。まんなかは、胸と腕以外の、むこう傷の男の墓だ。そして、こっちの墓の下には、首のないハンサム男の遺体が眠っている。ああ、みなさん、迷わず成仏しておくれ。きみたちは、みな、生前はいいやつだった。なつかしい。もはやきみたちに会えないかと思うと、つらくてたまらぬ。悲しい……」  合成人間は涙を流し、それぞれの墓に花をそなえ、手を合せた。しかし、やがて首をかしげる。 「ここに墓が三つある。となるとだ、ここでおがんでいる自分は、いったいどういうことになるのだ。かつてはやった巧妙な犯罪、変造紙幣みたいなものだな。紙幣を少しずつ切りつめ、はりあわせ、十枚の札から十一枚の札を作り出してしまうというやつだ……」  ぶつぶつつぶやき、人間の存在の根本問題について深遠な思考にふけりかけたが、それはやめた。 「結論だけいえば、われこそ三人の執念によってうみだされた存在。その執念とは、女にもてることだ。それこそ存在の意義、存在の目標、唯一にしてすべてだ。ほかのことは考えるべきでない。さて、それにとりかかるとするか」  いまこそ行動。しかばねを乗り越えて進め。合成人間は墓地から出て行き、盛り場へとむかい、一軒のバーを見つけて入る。  だんだんなれてきたとはいえ、まだ頭、腕、足のバランスは完全でない。酔っぱらいのごとき足どり。  それでも、カウンターの席につき、注文をする。 「あの、お酒を飲ませて下さい……」  首から上はハンサム男なので、おとなしい口調。いささか女性的なやさしい声。バーテンが聞きかえす。 「なんにいたしましょう」 「さあ……」  ハンサム男は酒を飲んだことがなく、どれがいいのやらわからず、首をかしげる。しかし、腕の部分は勢いよく指を鳴らし、酒の棚《たな》をさす。バーテンはうなずき、 「はい、ウイスキーでございますな」  ダブルの水割りとなって出された。腕はなれた手つき、さっと口に持ってゆくが、口は酒を飲むのになれていない、むせるやら、胸にこぼすやら、不器用きわまる。しかし、手はまた酒の棚を指さし、おかわりを請求。それを顔をしかめて飲み、手は気持ちよさそうに酔った動きをする。バーテンふしぎがり、そっと聞く。 「お客さん、お酒が好きなんですか。そうでないんですか。どことなく変ですねえ」 「いや、これにはいろいろと事情があってね……」  合成人間は言葉をにごす。そのうち、胸と腕の部分が、なぜかもぞもぞと動きたがる。バーの片すみをむきたがるのだ。首の部分は首をかしげ、やがてつぶやく。 「ははあ、トイレに行きたがるのだな。なにしろ、この胸につながっていたそのむかしの下半身は、ああ、ややこしい。ようするに、その下半身は下痢症だったのだ。その習慣が残っているのだろう。習慣の力は強いものだ。しかし、もう心配することはないのだぞ。現在のおまえの下半身は、すなわち、ぼくの下半身ということだが、ふとった男のおかげで、いまは健康なのだ。なんだか複雑だな。早く神経の統一がとれてくれないかな」  やがて、店にいる女の子たちが、ちらちらと流し目を送ってくる。たいへんな美男子、そのうえ、胸と腕の筋肉はたくましく男性的。目立つのもむりはない。なかには、そばへきて話しかける女性もある。 「あなた、おひとりなの……」 「ええ、ぼく、あの、本当は三人なんですけど、それがこうなっちゃって……」  合成人間の首の部分は、恋愛体験をまるで持っていない。こんなことは、ほとんど生まれてはじめて。女性に話しかけられ、ぽっと赤くなり、どぎまぎした返事。それが女にはたまらなく好ましく見える。 「うぶなかたねえ。三人でいっしょに飲もうとしたけれど、はぐれちゃって、あなたひとりになってしまったというわけね」 「ええ、まあ、そうなんです……」  女性の顔をまともに見ることもできず、目を伏せて、おどおど。しかし、手のほうは勝手に、女の手を強くにぎりしめている。それがまた、彼女にとっては魅力となった。 「あなた、内面はすごく情熱的なのねえ。この力強い手。しびれるようだわ。そのくせ、口かずが少ない。いまどき珍しい男性だわ。普通の大部分の男ときたら、美男子でもないのにうぬぼれが強く、口からでまかせの大きなことをしゃべり、だまそうとする。あなたはその反対、ほんとに感じがいいかたねえ」  女性たちの人気は合成美男に集中し「すてきなかた」とか「ハンサムねえ」とか「このたくましい腕」とか、よってたかってサービスをする。  これでいいのだ。これこそ執念の悲願、いまこそ実現しつつある。霊魂も照覧あれ。これでこそ死んだかいがあり、生きているかいがあるというものだ。合成美男、まんざらでもない気分になりつつあった。  しかし、世の中、そうすべて順調にゆくものとは限らない。当然のことだが、バーのなかのほかの男の客たちは面白くない。こうひとりがもてては、いんねんもつけたくなる。 「やいやい、そこの客。ひとり色男ぶりやがって、どういう気だ。おれたちへの、いやがらせか。このやろう、不愉快だぞ」  酒の勢いもあり、大きな声。合成美男あわててあやまる。 「いえ、ぼく、そんなつもりなんか、少しもありません。すみません。許して下さい。あやまります。乱暴はやめて下さい」  合成美男の首はペコペコ前に傾き、おわびを言った。それを見て他の客、くみしやすい相手と判断し、調子に乗って言う。 「よし、じゃあ、よそで飲みやがれ。おれたちがここから、ほうり出してやるから」  しかし、お客たちの手が肩にかかったとたん、合成美男の胸と腕の部分が反射的に動き出した。暴力団にいただけあって、けんかの神経はなかなかのもの。  ひとりの顔をひっぱたき、ひとりの腹をなぐりつけ、もうひとりの首をしめあげ、ついでに投げとばす。その一方、首の部分の口は、おとなしい口調であやまりつづけている。 「すみません、すみません。ぼく、乱暴するつもりなんか、ないんです。だけど、理不尽なことをされると、この腕が勝手にかっとなって、あばれてしまうんです。あなたがた、けがをしたくなかったら、はなれていて下さい」  ただ正直に言っただけなのだが、これがまた相手のかんにさわる。 「やいやい、三文映画で覚えたようなせりふをぬかしやがって、ますます面白くない。油断をさせておいてなぐりかかるなんて、卑《ひ》怯《きよう》だぞ。そっちがその気なら、こんどこそ、ただではすまんぞ。おい、みんな」  ほかの連中も身がまえ、またも飛びかかる。合成美男の口はあやまりつづけている。 「ああ、ぼく、困っちゃいますよ。けんかなんか、まるで自信がないんです。やったこともないんですよ。ほんと。弱いんです。あやまりますから許して下さい。お助け下さい。助けて……」  それにおかまいなく、腕の部分は勝手に動き、上着をぬぎ、シャツをぬぐ。たくましい筋肉。ところどころに刀の傷あともある。  げんこつがさっと伸び、そばのひとりをぶちのめした。つづいて、もうひとり。他の連中はあまりのことに息をのむ。おとなしそうな顔と声のくせに、腕っぷしはすごい。暗黒街のボスの御《おん》曹《ぞう》子《し》なのかもしれず、特殊な機関に属する一流のスパイなのかもしれない。ひとまず、あやまっておいたほうがよさそうだ。 「まあ、お待ち下さい。おみそれしました。もとはといえば、われわれが悪かったのです。この場はごかんべん下さい。どうぞ、ごゆっくりお飲み下さい。おわびのしるしとして、われわれがおごらせていただきます」 「そうおっしゃられると、ぼく、どうしていいのかわからなくなっちゃいますよ。ぼくのほうが悪かったのです。乱暴は許して下さい。ぼくがみなさんにおごりますから」 「とんでもない……」  連中は少々うすきみ悪く感じる。しかし、合成美男はあどけなく言う。 「遠慮なさることはないでしょう。それとも、ぼくのおごりでは飲めないとおっしゃるのですか」 「いえ、いえ、決してそんなわけでは。ありがたくごちそうになります」  さわぎは一応おさまり、他のお客たちは酒を飲みはじめた。おごってもらうのなら、女の子たちのサービスが悪くても、べつに文句はない。  合成美男は、女の子たちを独占できた。独占するつもりはなくても、女の子たちのほうでほっておかない。寄ってたかって、ほめたたえる。 「なんてすごいんでしょう。表情も変えず、ハンサムで、口調はていねい。そのくせ、けんかとなると腕っぷしは強くて、勇ましい。こんな男性、テレビ映画のなかにだけしかいないはず。きょうまでそう思っていたのに……」 「ほんと、あたし、まだ夢を見ているようだわ」 「ねえ、これまでなになさってたの」  そう聞かれ、合成美男は答える。 「普通の人の三倍の人生をすごしてきたよ。話せば長くなってしまう」 「それなのに、ちっともすれていないのねえ。で、奥さんはいらっしゃるの」 「そんなもの、まだいない」  独身とわかり、女の子たちの声はひときわ高くなる。 「あたしにおごらせてよ。お好きなものをお飲みになってよ……」  さっきぬいだ上着を着せかけてくれる女もあった。合成美男は気づき、その上着の内ポケットから札束を取り出した。かなりの金額。  この金はつまり、それぞれのかけていた生命保険金が入ったのだ。本当は三人分の保険金が入るはずなのだが、保険会社が支払いをしぶった。三人が死んだのかもしれないが、現にここに一人は生きている。算術の原理からいって、差引き二人です。二人分でしたらすぐお払いしますが、三人となると、裁判にかけて判決がおりてからにします。合成美男はめんどくさいから、それでいいと答え、二人分で満足したのだ。医師を仮の受取り人にでもしておけば、三人分とれたかもしれない。こんど死ぬ時はそうしよう。  そういういわれの金。合成美男は女の子たちにチップとして渡し、他のお客の飲み分の代金も払ってやった。なにしろ気前がいい。どうせ一度は死んだからだだ、丸もうけのようなもの。もてるために使うべき金なのだ。  女の子たちはため息をつく。色男にして、金ばなれがよく、そのうえ力もある。さらに独身とくる。彼女たちの目が輝き、叫び声は高まり、熱狂的なさわぎ。  合成美男、神経の伝わり方はまだにぶいが、頭の部分はこれらの事情をやっとのみこむ。なるほど、なるほど。女にもてるとは、かくのごときことだったのかと、現実を理解しはじめる。これから、こんな生活をずっとつづけることになるのだ。なんとすばらしい。  これだけちやほやされれば、だんだん自信もついてくる。自分の使命も思い出す。 「そうだ、ぼくには、いろいろとしなければならないことが、あるんだった」 「いいじゃないの。今夜はあたしとつきあってよ。楽しい夜をすごしましょうよ」 「いえ、あたしとよ。ね、そうでしょ」 「だめ、このかたはあたしとよ」  他の客たちはみな帰ったあとだった。もし残っていてこのありさまを見たら、また頭に血がのぼり、いくらなんでももてすぎると、また乱闘がはじまっただろう。バーテンはまだ店にいたが、大量のチップをもらい、これも商売とがまんしている。  よりどりみどり。なかで一番のグラマー美人を、合成美男は指名した。 「じゃあ、今晩はきみと行こうかな。さよなら」  と、さっと連れ出す。ぐずぐずしていると、女たちの争奪戦がすごくなる一方だろう。その仲裁の自信はないのだ。合成美男は女に言う。 「ぼく、どこへ行ったらいいんだろう」 「ホテルへ行くんじゃないの」 「あ、そうか。だけど、ホテルって、どこにあって、どうやったらとめてもらえるのか、知らないんだよ。自動車で行くのかい」 「ああ、街から出ようってわけね。いいわ、あたし、静かな温泉地のホテルを知ってるわ。そこでよかったら、まかしといて」  悲願の達成もまもなくだ。 「うん、どこでもいいよ。楽しみだねえ。ベッドの上ですごいことが起るよ。きみはきっと、びっくりするから」 「あなたって、うぶなんだか、すごいのかわからない人ね……」  かくして、夜のホテルの一室。静かさ。豪華なベッド。ほのかなあかり。ムードは満点。うす暗さのなかで、女はささやく。 「光のかげんかしら。あなたって、胸のへんはたくましいのに、下半身から足にかけて、ずいぶん色が白く、ふっくらしているようねえ」 「なんだって。あ、そうか。いや、いろいろとわけがあってね。そんなことはどうでもいい。これから、すごい驚きがはじまるんだよ」  しばらくののち、女は声をあげた。 「あ、なんかもげたわ。これ、なにかしら」  あかりのほうにさしのべてみると、男性の部分。女は首をかしげる。 「驚かせるって言われてたから、悲鳴はあげなかったけど、それでもちょっとびっくりさせられたわ。あなたって、ユーモアもあるのね。ますますみなおしたわ」 「変だな。どれどれ。や、本当だ。ゴムのような感触の物質でできている。驚きはぼくのほうだ」  合成美男、急いで電話のそばへ寄り、病院にかける。 「先生、夜おそく申しわけありませんが、ぼくの下半身のようすが変なんです。どういうことです、これ……」  受話器のむこうで、医師の声。 「いや、約束が正確に履行できなくて、その点はこちらがあやまらねばならない。しかし、やむをえなかったのだ。ハンサム男とむこう傷の男は、ほぼ同時に死んでくれた。しかし、下半身の部分の提供者、あのふとった人は死ぬのが二日のびた。やつがいけないんだぞ。むりに殺して死期を早め、下半身を取ることは医師の良心としてできなかった。といって、下半身不随のハンサム男のでも、下痢症のむこう傷の男のでも困るわけだ。しかし、天の助け。ちょうどその当日、交通事故で運ばれてきた死者のなかに、下半身の健康なのがあった。なんとか、それでまにあわせたというわけだよ。きみがそうやって活動できるのも、そのおかげだ。感謝してくれとは言わんが、まあ、それでがまんしてもらいたいと思うよ」 「事情はわかりました。しかし、参考のためにうかがっときたいのですが、下半身の提供者はどんな人だったんです」 「名はあかせないが、ある若い女の人だ」 とんとん拍子  神社でおみくじを引くと、こう書かれてあった。 〈大凶。すべて悪し〉  それを読んで、その青年は顔をしかめた。 「大凶なんてのは、めったに出ないはずだ。よりによってそれを引いてしまうなんて、ぼくはよっぽど運が悪いのだろう。大凶のおみくじを引き当てたのが、不運の結果なのか証明なのかわからないが、うんざりであることは、まちがいない。いやな予感がするなあ……」  彼はぶつぶつ言いながら、歩きはじめる。その青年は、ある会社につとめ、まだ独身。これといった長所はなにもなく、したがって、たいした地位についているわけでもない。この現状を打破しよう、いいおみくじでも引き、それで自信をつけて恋人獲得の行動に乗り出そうと神社にやってきたのだが、どうやら裏目に出てしまったようだ。  うつむきかげんで歩いていると、服のボタンがひとつ、ぽろりともげて道に落ちた。なにかにひっかけたわけでもなく、手でいじったわけでもなく、強い風にあおられたわけでもない。音もなくぽろりと落ちたのだ。 「まったく、いやな気分だぞ。運命の糸がほころびはじめたといった感じだ。ボタンのひとつぐらい金銭にすればいくらでもないが、この場合、悪運の象徴のように思えてならぬ。拾って持ち帰り、丈夫な糸で服にしっかりと縫いつけるべきだ……」  拾いあげようとしたところ、そのボタン、ころころところがり、そばの小川へとむかい、ふちを越えた。ふちから川の水面までは二メートルぐらい。のぞきこむと、そのちょうど中間ぐらいの、石垣のちょっとでっぱったところに、ボタンはのっかっていた。 「あ、あそこにある。しめた。水に落ちたかと思ったが、そうでなくてよかった。ぼくの未来、まだ救いがあるというわけか。ぜがひでも、あれを拾いあげなくちゃあ……」  青年は決意をかため、石垣のふちで身をかがめ、手をのばす。もうちょっとだ。思いきりのばした指先にボタンがさわる。あと少しだ。意地でも拾いあげるぞ。彼はそのことに全神経を集中した。  そのために、ほかのことへの注意がおるすになっていた。上半身を下へむけたので、服の内ポケットに入れてあった月給袋がずるずるとすべり出し、あっというまに川の中へぽとん。 「や、これはいかん、きょうもらったばかりの月給袋だ」  袋はすぐには沈まず、水面をただよっている。しかし、ほっとけば沈んでしまうだろう。急がねばならぬ。こうなるとボタンどころのさわぎではない。あれがなくなったら、えらいことだ。  川のふちの石垣にしがみつくような姿勢で、そろそろと水面に近づこうとしたとたん、手がすべった。からだごと水のなかへ、ぼちゃん。その波紋で、月給袋は少しむこうへ押しやられる。それでも青年、拾いあげずにおくものかと水のなかを歩くと、底が急に深くなり、あっぷあっぷ。  服を着たまま靴《くつ》をはいたままなので、うまく泳げない。へたをすると、おぼれかねない。あわてて水をかき、もがきながらやっと岸へたどりつく。  ほっと一息つき、ふりかえって水面を見ると、いま水中でもがいた波のためか、月給袋はもはやどこかへ沈んでしまっていた。服は月給袋のぶんだけ軽くなっていたが、そのかわりびっしょりとぬれた水分で、だいぶ重くなっている。大損害。  寒くてたまらないが、着かえようにも、タクシーに乗ろうにも、金がない。通行人に指さされ笑われながら、とぼとぼ歩き、やっと帰宅した時には、かぜをひいてしまっていた。  つぎの日、休んで静養すればいいのだが、彼はがまんして出勤した。会社へ行って給料の前借りでもしなければ、どうにも身動きがとれない。  経理課長の席へ行き、前借りを申し出ようとした時、青年はくしゃみを連発。課長の机の上の書類につばが飛び散り、あわててハンケチでぬぐおうとしたら、紙がしわくちゃになって破けた。課長が怒って言う。 「おい。とんでもないことをしてくれたな。これは時間をかけて苦心して作成した書類だ。仕事をなまけるのなら大目に見てやらんこともないが、ひとの仕事の妨害は困る。会社としてはだ、ちゃんと月給を支払っているんだからな」 「その月給があればいいんですが……」 「なんだと。おまえは月給をもらっていないような口ぶりだな。感心しない態度だ」  話は食いちがい、課長はどなり、青年は首をうなだれ、前借りの件は切り出せなくなった。あきらめざるをえない。だが、金のないのをいかにすべきか。  食事しようにも金がなく、腹の虫はぐうぐう鳴き、腹の虫がおさまらず、青年はいらいら。かぜの熱で頭がぼんやりしてくる。よせばいいのに、むりに元気を出そうと足に勢いよく力を入れたら、階段をふみそこない、下までころがり落ちる。見ている連中は大笑いだが、青年は痛いのなんの。うなり声と涙と冷汗とが、いっぺんに出た。  ふらふらと起きあがり、よろよろと歩き、その日はなんとか帰宅する。金もなし、食うものもなし、眠る以外にない。かぜの薬を買うこともできぬ。眠ろうとしたが、階段から落ちて打ったところの痛みは、しだいにひどくなる。一睡もできず、ついにがまんしきれなくなり、朝になるのを待って近所の病院へ行く。  医者は青年を診察し、むずかしそうな表情で首をかしげ、こう言った。 「なぜもっと早く、病院にこなかったのです」  その口調には、なんとなくいやな感じがこもっている。青年は不安げに聞く。 「それはどういう意味でしょうか」 「非常にむつかしい容体です。あなたはかぜをひいていて、抵抗力がおとろえていた。それだけならまだしも、しばらく食事をしなかったし、きのうは眠らなかったようだ。それらの条件が重なり、病気をこじらせたというわけです。悪いビールスが体内にひろがりはじめている。階段から落ちた時にすぐ手当てをすれば、早期治療でなんとかなったところなのですが……」 「いったい、どうなんです。早くいえば、だめということですか」 「だめというわけではないんですが、ビールスのひろがる速度が、薬品で押える力よりも大きいとでもいうべき状態でして……」 「ははあ。早くいえば、だめではない。だが、遠まわしにいえば、もはや手おくれで絶望というわけなんですね」 「お気の毒ですが……」  青年はがっかり。入院させられ、ベッドにねかされる。しかし、手当てしてもらっても、なおるみこみはないのだ。死期をいくらかのばすだけにすぎない。いかにあがいても助からないのだ。彼は長い長いため息をもらす。  あーあ、なんというあわれなことだ。こんなばかげた形で、人生を終らねばならぬとは。なんのためにこの世に生まれてきたのか、まるでわからん。運命にみはなされたとは、こういうことなのだろう。  それにしても、運命といえば、この不運。ただごとじゃない。いくらなんでも、あまりにひどすぎる。神社であのおみくじを引いた時を境にして、ひろげた扇子をとじるように、ばたばたとこんなふうになってしまった。予想とか予報とか予言というやつは、いくらかははずれるべきものだ。こうも的中するなんて、ふしぎでならぬ。不運めざして最短距離をつっ走っているようだ。こんなことがあって、いいものだろうか。  青年は病室のベッドに横たわったまま、あれこれ考える。ひょっとしたら、原因はあのおみくじにあるのじゃなかろうか。あの神社の神主、なにか古代の秘法のたぐいを研究し、悪霊だか悪運の神だかをとっつかまえるのに成功したのではないだろうか。それを手なずけ、あの、おみくじの容器のなかにひそませた。  そんなこととは知らないやつがやってきて、おみくじを引くと、それがとりついてしまう。そういうしかけででもなかったら、こうまでひどい目にあうわけがない。救いを求めて、あの神社におまいりに行くとするかな。  いや、待てよ。むこうはそれが最初からのつけ目なのかもしれないぞ。応対に出てきた神主は、そしらぬ顔で「当方のおみくじはよく的中します。はずれて怒られるのなら仕方ありませんが、当ったことで文句をねじこまれては迷惑ですなあ」なんて、はじめのうちはとぼけている。しかし、そのうち「お祓《はら》いをして進ぜましょう。ここのお祓いは、おみくじのごとく効果てきめんです。もっとも、料金はいくらかお高くなっていますが」と商談へさそいこまれる。いやもおうもなく、金を出さざるをえなくなる。  かくして悪霊だか悪運の神だかは取り去られるが、それと同時に大金も巻きあげられる。悪霊はまた、おみくじの容器にひそみ、つぎにとりつくカモを待つ。そういったしかけにちがいない。ゆだんもすきもない世の中の、あくどい商売。たちがよくない。アル・カポネの発明によるギャング団の手口だ。訴え出ようにも、それをやっつけてくれるFBIもエリオット・ネスも、この場合はどこにもいないのだ。  このように青年は推測し、腹を立てた。世のために許せないことだ。正直なところ、世のためなんてことはどうでもいいが、このままではこっちがくたばってしまう。これはあくまで避けねばならない。  神社に掛け合いに出かけよう。そして、この悪霊だかなんだかを、祓ってもらうのだ。ことわられたり、とても支払えぬような大金をふっかけられたりしたら、もう断じて許しておけぬ。かなわぬまでも、ひとあばれだ。天に代り、神に代って成敗してやる。神主をぶんなぐり、おみくじの容器を奪い取り、火で燃やしてやる。どうせ死ぬのなら、その前にこのうらみをはらしておかないと、成仏できない。こういういいことをしておけば、最後の審判の日に祝福を受けられるというものだ。  体力がまだ残っているうちに、やらなければならぬ。青年は決意をかため、ベッドから起きあがり、服を着かえ、そっと病院をぬけ出し、神社へとむかう……。  神社へたどりつく。いざ、おみくじ売場へ乗り込もうと、青年は足をとめて深呼吸をし、内心の怒りをかきたてた。  その時、彼は声をかけられた。 「もしもし、ちょっと……」  声のほうに顔をむけると、そばの木のかげにいる人物が、青年にむかって手まねきをしていた。品のいい老人。青年は答える。 「なにかご用ですか。しかし、ちょっと待って下さい。ここのおみくじをやっつけるのが先決なのです。雑用はそのあと。ここのおみくじはたちが悪い。ひとに悪霊を押しつけやがって……」 「早まってはいけません。おみくじをうらむのは、すじちがいというものです」  老人の言葉が、青年にひっかかった。 「おや、いま、なにか妙なことをおっしゃいましたな。ぼくの身の異変について、あなた、なにやら事情をご存知のごようす……」 「そう、そのことで、ちょっとお話が……」 「ふむ、さては、あんたですか。おみくじに悪霊をひそませた張本人は」 「まあまあ、落ち着いて下さい。お若いのに、悪霊だなんて古めかしい概念を持ち出したりして。そのへんに腰かけて、ゆっくり話を聞いて下さい」  老人にうながされ、青年は石に腰かけた。 「いったい、どういうことなんです」 「さて、あなたは何日か前、ここで腕時計を拾ったかたでしょう。わたしは物かげで見ていました。あなたはそれから、おみくじを引いた」  老人に言われ、青年は思い出してうなずく。 「ええ。そういえば、そんなことがありましたが」 「じつは、あれはわたしが落したものです」 「そうでしたか。それは失礼しました。ねこばばするつもりじゃなかったんですが、あの日以来ごたごたつづき。ぼくの時計は水につかったり、階段から落ちてぶっつけたりで、故障。そんなわけで、つい使わせてもらうという形になってしまいました。さっそく、お返ししましょう。しかし、あなたも変ですよ。だったら、なぜあの時に声をかけてくれなかったんです。ひとが拾うのを黙認していて、あとになって文句をつけるなんて……」 「いやいや、文句をつけるつもりはありません。あれは、だれかに拾わせようと、わたしが落しておいたというわけでして。お拾いになって、いっこうかまわない品で……」  老人の話は、青年にとって、ますますわけがわからなくなる。 「それなら、なぜ、あらためてぼくを呼びとめたのです」 「それがです。じつは、あとになって気がついた。配線を逆にしてしまったという点です。これはとんでもないことをしてしまった。そこで、またここにおいでになるのではないかと、ずっとお待ちしていたわけです。お会いできてよかった」 「おけがわからなくなる一方だ。配線が逆でとんでもないこととは、なんのことですか。ぼくは頭のいい人間じゃないんです。説明をなさりたいのでしたら、かみくだいてお願いしますよ」  青年は質問し、老人は話した。 「わたしは科学者。ずっとある研究所につとめていた。そこを定年になったが、その後も学問への情熱おさえがたく、ひとつのテーマととりくみ、自宅でこつこつと……」 「学問への情熱なんてことにも、ぼくはあまり関心がないんです。なるべく早いとこ、本題のほうをお願いしますよ」 「そして、やっと開発した。それがあれです。一見して腕時計のごとくであり、その働きもしますが、実体はすごいものなのです。周囲の状況を当人につごうよくする装置。名称はデウス・エクス・マシーン。まあ、名称などはどうでもいい」 「ははあ……」 「あれが当人の脳波を強力に増幅し、空間に拡散させ、一種のテレキネシス効果を周囲におよぼす。まあ、原理の説明もどうでもいいでしょう。つまり、ようするにですな、ものごとをその当人につごうよく展開させ、幸運をもたらしてくれるというしろもの。われながら偉大な発明。その試運転として、だれかに使ってもらおうと、落しておいたというわけで……」  それを聞き、青年は自分の腕の時計をはずす。そういえばいくらか重く、耳に当てると複雑そうな音がかすかにしている。薄気味わるく思えてくる。 「これがその、いわくのある装置なのですか。しかし、なにが幸運だ。これを拾ってから、ろくでもないことばかりだ。おかげでこっちは……」 「まあまあ、だからお話ししかけたように、配線を逆にしたのが原因です。つまり、効果も反対となってあらわれたわけで……」 「なるほど。それで不運が連続したということになるのか。ぼくはこれを拾ってから、おみくじを引いた。あの大凶を引きあてたのも、もとはといえば、このなんとかマシーンとやらのおかげだったのか。あなた、ひどいですよ。こりゃあ、あやまったぐらいじゃすみませんよ」 「ごもっともです。そこで、おわびのしるしに、これを正しい配線になおし、あらためて、あなたに進呈させていただこうと思います……」  老人は青年から装置を受け取り、裏のふたを開いてなにやらなおし、小さなボタン式のスイッチを入れなおし、青年にさし出した。青年はためらう。 「進呈すると言われても、身ぶるいしますね。もう、それにはこりごりです。川にでもほうりこんだほうが……」 「まあ、ひとつ冷静にお考え下さい。あなたはこの装置の示した、悪運の効果をおみとめになった。いま、その配線はなおった。これから幸運が展開することも、充分に予想できるはずですがね。半信半疑の気分も当然ですが、そこをだまされたと思って……」 「だまされるのは好きじゃないが、どうせこうなったんだ。やけくそだ。やってみましょう。ようすがおかしければ、すぐに捨ててもいいし……」  青年はふたたびそれを腕につけた。  いささか妙な気分にひたりながら、青年は歩きはじめた。  前を若い女が歩いている。とつぜん小さなつむじ風がおこり、女の人のスカートを吹きあげた。「きゃっ」と叫んで、女の人は大あわて。青年はにやにやした。こういう光景は、めったに見られないことだぞ。  さらにしばらくすると、前を歩いていた紳士がころんだ。たまたま落ちていたバナナの皮の上に足がのり、勢いよく十メートルほどすべり、ポストに激突して倒れたのだ。みごとと言うほかはない。  青年は大笑い。これまた傑作なシーンにお目にかかれたというものだ。なるほど、こっちが楽しむ側にまわったというわけか。もしかしたら、幸運のはじまりなのかもしれないぞ。そう考えかけたが、ひっくりかえった紳士は起きあがれないでいる。倒れたはずみで、足の骨を折ったらしい。しきりに痛がっている。  青年はみかねて助けおこし、ちょうどうまいぐあいにやってきた通りがかりのタクシーをとめ、それに運びこみ、運転手に言った。 「どこか病院へやって下さい」  タクシーが走り出したはいいが、青年はタクシー代を持っていないことに気づく。親切をやりかけてはみたものの、これは困ったことになったぞ。しかし、その時、紳士がポケットから札入れを出し、青年の手に押しつけた。 「これをきみにあげる。タクシー代を払ってくれ」 「こんなにはいりませんよ」 「あとはお礼だ。おかげでわたしも助かった。きみの好意は身にしみた。遠慮することはない。わたしは金持ちなのだ」 「それでは、お言葉に甘えて……」  やがて大きな病院につく。病院だということで、青年は自分のことを思い出した。紳士の手当てがすむのを待ち、医者に相談する。自分のからだが、手おくれでこじれ、回復不能にむかいつつある。なんとかならないものでしょうか。医者はくわしく聞きおわり、青年に言った。 「そう悲観することはありませんよ。ここへ入院なさい。なおしてさしあげます」 「いやにあっさりとおっしゃいますが、前にみてもらった病院では、だめだとの診断でしたよ」 「その診断はあやまりではない。しかし、わたしの診断もまちがいではない。すなわち、わたしはさっき、外国からとどいた医学雑誌の最新号を読んだのだ。それに、その病気の手おくれ状態をなおす方法がのっていたというわけだ。ね、安心しなさい。確実になおります」  青年はその場で入院、その最新治療法は効果をあげ、めきめきよくなり、数日のうちに全快ということになった。紳士からもらった金があり、入院費用はそれでたりた。  めでたく退院。青年はそとへ出て、あまりのうれしさ。口笛を吹きながら、足もとにあった小石をなにげなく、ぽんとけとばした。靴のつま先の当りかたがよかったというのか、石は意外に勢いよく飛び、電柱にぶつかってはねかえり、横町へ飛びこんでいった。 「きゃあ」  という女の悲鳴があがり、あわただしい足音。青年はしまったと思った。青くなる。だれかに当ったらしい。まずいことになってしまった。いささか調子にのりすぎた。幸運の装置とやらの作用も、たまには狂うこともあるのだろうか。おそるおそる横町に曲ってみると、若い女がしゃがんで泣いている。 「申しわけないことをしました。まさか、あなたに石が当るとは……」  青年が声をかけると、女はほっとしたような表情になって言った。 「あら、あなたでしたの、石を投げて下さったのは。あたし、いま、たちの悪そうな数人の男たちにつかまり、困っていたところでしたの。ちょうど人通りがなく、だれも助けてくれそうにない。どうなることかとふるえ、悲鳴をあげたとたんに、あなたの投げた石が飛んできて、やつらの一人に命中。みなあわてて逃げてったの。すばらしい腕前ね。ほんとに助かりましたわ。なんとお礼を申しあげたものか……」  女は育ちのよさそうな、なかなかの美人。服装も上品で高価そうだ。感謝の表情をいっぱいに浮かべている。 「いや、お礼なんて……」 「でも、それでは、あたしの気がすみませんわ。ぜひ、うちへお寄りになって下さい」  女はくりかえして言う。送りがてらついて行くと、なんとその家は、青年のつとめている会社の社長の自宅。つまり、その女は社長の令嬢だったのだ。在宅していた社長は、事情を聞いて大喜び。 「娘が大変におせわになった。ぶじだったのは、すべてきみのおかげ。きみがわが社の社員とは知らなかった。そのような勇敢にして優秀な人材がいたとは、少しも気づかなかった。勤務はどの課だ。なになに、そんな末端の地位か。それはよくない。課長や部長に人を見ぬく目がなかったようだな。あすから、わたしの秘書になれ、さっそく人事部長に連絡しておく。給料もふやす。どうだ、秘書の仕事をやれそうか」 「はあ。なんとかできると思います」  と青年ははっきり答えた。秘書なんて高級で複雑な仕事など、どうやったらいいのか、まるで知識がない。しかし、自信のほうはあった。すなわち、幸運を作りだす、このなんとかマシーンなるものがあるのだ。先日からのようすをみるに、どうやらこの装置の効果は本物らしい。すばらしい、いや、すばらしい以上といえる。これがあるからには、不可能ということはないはずだ。  かくして青年は、一躍して社長秘書に昇進した。機密にして微妙なるさまざまな問題をあつかわなければならぬが、彼はたくみにそれを処理した。正確には、周囲のすべてが彼につごうのいいように自動的に動いたとでもいうべきだろう。  社長の信用はますます高まる。かつての同僚たちは、ふしぎがるばかり。いっこうにぱっとしなかったやつが、しばらく無断欠勤したかと思うと、突如として社長秘書となり、才能を発揮しはじめたのだから。これをふしぎがらなかったら、そのほうがふしぎだ。  さて、ここ数日、社長の表情がどうも沈みがち。動作もいらいらしている。顔色がよくなく、やつれたようだ。青年は聞く。 「社長、なにかお悩みのようですが、よろしかったら打ちあけて下さい」 「こればかりは、話しても、どうにもならんことなんだ」 「いえ、なんとかお役に立てると思います。かならず、うまく解決してさしあげます」 「それでは話すがね、だまされて手形をとられたのだ。注意はしていたのだが、じつに巧妙なペテンにひっかかって、大きな金額の手形をまきあげられてしまった。非合法すれすれで、警察にも訴えようがない。その手形決済の期日が迫りつつあるというわけだ。だが、その資金のあてがなく、このままでは倒産。弱りきっているところなのだ」  社長はがっくり。しかし、青年はあっさりと言う。 「なんだ、そんなことでしたか。お安いご用です。ぼくが取りかえしてきます。どこです、そいつの事務所は……」 「おいおい、気はたしかなのか。そう簡単にできることではないんだぞ。うまくゆけば大助かり。成功すればきみを重役にしてもいいくらいだが、とても無理だ……」 「大丈夫ですよ。安心しておまかせ下さい。失敗するわけがない……」  青年は夜になるのを待ち、その事務所へおもむく。ようすをうかがうと、ビルの入口に強そうな守衛が立ち、見はっている。しかし、その守衛のそばでちょっとした異変がおこった。ネコが犬のしっぽにかみついたのだ。犬は飛びあがり、逃げまわる。  守衛はそれに気をとられ、みとれている。そのすきに、青年はなかに入ることができた。この幸運の装置のききめはすごい。不可能だの障害だのを、すべて消してくれる。これが手に入ったからには、もっと大いに活用すべきだ。そうだ。国際的なスパイにでもなってみるか。いかなる危険なところへ乗りこんでも、危機一髪、かならず窮地を脱出することができるはずだ。  映画やテレビや小説などの活劇の主人公は、いつもうまいぐあいにすいすいと危機をのりこえているが、それが現実に可能となるのだ。どんなにいい気分のことか。夢のような人生がおくれるのだ。安全保証つきの冒険を楽しもう……。  そんな空想にひたりすぎ、注意がうすれ、青年はなにかにつまずき、よろけて壁に手をついた。手になにかの機械がさわる。はっとしてそれを見ると、非常ベルの電源スイッチ。いまさわったことにより、そのスイッチが切れたのだ。これで、なにをやっても非常ベルは鳴らない。すべて順調。とんとん拍子。順調などといった形容を通りこし、興ざめになるほどのことのはこびだ。  室内に入り、書類用ロッカーの鍵《かぎ》穴《あな》に針をつっこんでまわすと、うまいぐあいにピーンとあく。手でとびらをあける。なかには手形を入れた封筒が、きちんと整理されて並んでいる。これだと、みつけるのに手間がかからない。たちまちさがし出し、封筒をあけ、問題の手形を出す。それをポケットに入れ、さてと思ったとたん、声がした。 「待て」  ひとりの男が部屋の入口に立っている。しかし、あわてることなく青年は言った。 「あなた、だれです。なんでいまごろ、こんなところへ……」 「それはこっちで言うせりふだ。おまえこそ、ひとの事務所へしのびこんで、なにをしている。なにか予感がしたので出かけてきたら、このありさま。ただではすまんぞ」 「まあ、そううるさいことを言わないで、むこうへ行って忘れて下さい」  装置の性能を信ずる青年は、平然たるもの。しかし、相手もあとへひかない。 「なんたるいいぐさだ。後悔するのはそっちだぞ。とっつかまえてやる」  たちまちとっくみあいとなる。なかなか勝負がつかない。いったい、幸運の装置はどうしたんだ。こんなはずではないぞ。ふしぎがりながらも、青年は争いをやめるわけにいかない。  しばらくやりあっているうち、がちんと音がし、装置がこわれた。青年は気が抜けたように、へなへなとなる。青年は自分の腕のこわれた装置を、情なそうにながめつづける。  相手はと見ると、やはり同様。へなへなとなって首をかしげ、自分の腕をながめている。そこには同じような装置があった。青年は聞く。 「おや、それはどこで……」 「じつは、おれはけちなスリだった。先日、ある老人のポケットから、これをすりとった。自分の腕にはめ、なにげなく小さなボタンを押した。それ以来、わけがわからんくらい、すべてがとんとん拍子。なにをやってもうまくゆく。それでスリから昇格、手形の詐欺をはじめたのだが、気持ちのわるくなるほどうまくゆく。これのおかげらしいのだ。しかし、なぜこわれたのだろうな」  青年は内心で思い当る。その老人とは、このなんとかマシーンの発明者だ。自分用にとっといたのをすられ、ここに至ったということらしい。青年は言う。 「装置どうしがぶつかったようだが、なぜこわれたのか、ぼくにもわからん。いずれにせよ、これで幸運も終りだ。もとのもくあみ。最初の平凡な生活にもどらねばならないようだな」 「どうやら、おれもけちなスリに逆もどりらしい。この変な装置、持ち主のためには幸運を作らねばならず、といって、同じ仲間の装置を相手にはそれもできず、義理と人情の板ばさみで、動きをとめたのかもしれないな」  振っても、たたいても、もはや装置は作動しない。二人は落胆。なにも装置どうしがぶつかった衝撃ぐらいで、こわれてしまうこともないのに。あきらめきれぬ気分だったが、やがてどちらからともなく言った。 「こわれたのも無理もないことかもしれぬ。勢いづいたとんとん拍子、そのであいがしらでぶつかったんだからな」 戸棚の男  太郎という青年があった。父親は財産家であり、こづかいに困ることもない。したがって、毎日きちんと勤めに出かける必要もなかった。彼は独身の気楽さもあって、なんということもなく遊びまわっている。  これでハンサムであって頭がさえていたら、一般人にとってしゃくにさわる存在となるところだが、うまいことにというか、あいにくというか、そうではなかった。どこか抜けた表情で、頭の内部もまたそうだった。  しかし、金に不自由しないので、やることは豪勢だ。買いもとめたヨットを操縦し、ひとり海へ乗り出したりする。さわやかな潮風を深呼吸し、彼はつぶやく。 「いい気分だなあ。女遊びよりはるかにいい。女の子というやつは、どうもいかん。金をばらまけばばかにされ、金を使わないといっこうにもてない。船は女性の象徴とかいうが、こっちのほうはじつに従順。あやつる舵《かじ》の通りに動いてくれる……」  そのうち、遠い水平線に小さな島が見えてきた。なにげなく双眼鏡でのぞいて、太郎はびっくりする。 「やや、なんということだ。ひとりの若い女がいるぞ。人の住めるような島じゃないのに。ということは、乗っていた船が難破してあそこにたどりつき、救いを待っているにちがいない。近づいてみよう。美人だったら助けてやろう。そうすれば、心から感謝してくれるにちがいない」  ヨットをその島にむけて進める。そして、大声で呼びかける。 「もしもし、おじょうさん」 「なんですの……」  女はこっちをむく。なかなかの美人だ。 「助けてあげましょうか」 「そうねえ。べつに助けてもらわなくてもいいんだけど、あなたがお望みなら、助けてもらってあげようかな」  わけのわからない返事だったが、太郎はもう夢中だった。なにしろ、その女、輝いているように美しく、見れば見るほど上品。ひとの好意を受けたくないのなら勝手にしろと、ほっておく気にはとてもなれない。 「ぜひ助けさせて下さい。お願いです」 「そうねえ。そんなにおっしゃるのなら、助けられてあげてもいいわよ」 「ありがたい。ばんざい」  太郎は飛びあがって喜び、ヨットを島につけ、美女を乗せる。こう近くで見ると、一段とすばらしい。お化粧もしていないのに、肌《はだ》はきめこまかく大理石のごとく白く、からだの均整はとれ、やせてもいず、ふとりすぎてもいず、非のうちどころがない。身にまとっているのは島に流れついた帆布かなにかで、その点はみすぼらしかった。しかし、ヨットのなかのありあわせのガウンに着がえさせると、さらに魅力がました。太郎は言葉を押えきれない。 「さっそくこんなことを言うのは、なんですが、ぼくと結婚して下さい。お会いした瞬間から、ぼくの心は活火山になった。あなたに、生活の苦労はかけません。必ず、しあわせにしてあげます」 「どうしようかなあ……」 「ぜひ、ぜひ。したいことは、なんでもさせてあげます。あなたを大切に扱います。結婚して下されば、どんな条件でものみます。あなたに手荒なことは、決してしません」  太郎はここをせんどと必死だった。絶世の美女。ほかの男の目にふれたら、横取りされかねない。世の中にはもっと金があり、もっとハンサムで、もっと秀才の男だってたくさんいるのだ。ここで約束をとりつけておかないと、後悔することになる。その熱意が通じたのか、女はうなずいてくれた。 「すごい好条件ね。でも本当なんでしょうね。海の神に誓ってくださる……」 「もちろんですとも。海神ネプチューンだろうが、なんだろうが、ありとあらゆる神に誓ってもいい決意です。ついでにコンピューターの神に誓い、原子力の神に誓い、宇宙の神に誓い、山の神に誓い……」 「誓いの大安売りね。いいわ。じゃあ、ご希望にそってあげるわ」 「わあ、ばんざい。すごいことになったぞ。待てば海路とは、このことだ……」  かくして、太郎は陸へと帰りついた。  太郎は父親に結婚の許可を求める。 「お父さん。じつは、ぼく結婚しようと思うんです。すばらしい女性をみつけたんですよ。ぼくにふさわしい女性を……」  話を聞いた父親はにがい顔。 「なんだかいやな予感がするな。どうせ、変な女にとっつかまったんだろう。なにしろおまえは、ぼんぼんだからな。金めあての女に、だまされたにちがいない。その結婚は許さない」 「そうおっしゃるだろうと思ってましたが、独断はいけませんよ。まあ、本人をごらんになって下さい」  太郎は女を連れてきて、この人ですと父親に紹介する。父親は、美しさにまぶしそうな目つきをし、驚きの声をあげる。 「とても信じられん。おまえが、こんなすごい女性を見つけてくるなんて。美しく、気品がある、おまえには、もったいないほどだ。むしろ、わたしにふさわしい気がする……」 「お父さん。冗談は困りますよ。つまり、結婚していいというわけですね」 「許可しよう。しかしだ。おまえもこれで身を固めたからには、いままでのように、ぼやぼやと遊んでいてはいかん。なにか仕事をみつけ、毎日きちんと出勤して働くのだ。どうだ、それができるか」 「もちろんですよ。ぼくがだらしない生活にもどったら、彼女を取りあげられても、決して文句を言いません。あらゆる神にかけて誓いますよ」  太郎は各種の公約と誓いとを連発し、めでたく結婚することができた。ハネムーンの天にものぼる心地については、くどくど説明することもあるまい。普通の人の場合の、何倍何十倍であったと形容するにとどめておく。  二人はマンションの大きな一室を新居とした。事態はすべて順調に進展しているかのように見えた。太郎は職をみつけ、毎日まじめに出勤する。これまでのんびりと育っていたので、きびしいビジネスの世界、あれこれと苦労が多かったが、がまんできないことではなかった。なにしろ帰宅すれば、絶世の美女が夫人として存在しているのだ。こんなすてきな女を妻としている男は、ほかにいないだろう。その喜びが支えとなっているので、昼間の仕事など、なんということもない。  そして、ある日のこと、太郎はいつものごとく帰宅した。 「いま帰ったよ」 「おかえりなさい」  美しい夫人が迎える。ここまではいつもと変りなかったが、そのうち太郎はなにか物音を聞いた。夫人の衣装戸《と》棚《だな》のなかで変な音がしているようだ。太郎は夫人を別室にかくれさせ、ゴルフのクラブを持ち出して身がまえた。 「このなかにネズミがいるようだな」  すると「チュウ、チュウ」と鳴き声。 「しかし、ネズミが出るとも思えぬ。ネコじゃないかな」  すると「ニャア」と鳴き声。 「いや、犬かもしれぬ」  戸棚のなかから、犬のほえる声がした。 「小話で読んだことがあるような現象だな。しかし、いまの動物の鳴き声、いずれも真に迫っていた。動物がひとそろい、本当にかくれているようでもある。それとも、録音装置を応用した、新しいオモチャだろうか。おもしろいことになってきたぞ。いずれにせよ、たしかめてみずにはいられない」  太郎は戸をさっとあける。ライオンのほえる声がし、びくりとしたが、なかには三十歳ぐらいの見知らぬ男がいた。シャツとパンツだけという、ふしぎな姿。太郎は聞く、 「いったい、おまえはなんだ」 「もうおわかりと思いますが、声帯模写、物まねをとくいとする者です」 「なるほど、そうか。いまのネコの鳴き声なんか、すばらしかった。しかし、こんな戸棚のなかで、なにをしている」 「あなたのお留守中、物まねをやって、奥さまを楽しませてさしあげていました。なんて申しあげても、信用しては下さらないでしょうなあ」 「信用できぬと言ったら、なんと答える」 「弱りましたなあ。ごらんの通りで……」  戸棚の男はそわそわし、消え入りたいようなようす。こうなると、いささか抜けたところのある太郎も、ことの重大さにうすうす気がついてくる。 「うむ。外国漫画に時どき、こういう図があるぞ。亭主の帰宅で、あわてて戸棚にかくれる人物というやつだ。すなわち、その名は間《ま》男《おとこ》。どうだ。この推理にまちがいはないだろう」 「はあ。狂いのない神のごときご明察。おそれ入りました。名探偵の目から逃れることは、できないようでございますな」 「名探偵と呼ばれると、いい気分だ。これは財産権を侵害し、社会の秩序を乱す、許しがたい犯罪行為だ。待てよ、おれは探偵であるばかりでなく、この事件の被害者であり、目撃した証人でもあるというわけだ。おまえに有罪を求刑してやる。つまり、おれは検事の立場でもあるのだぞ。どう処置してくれよう。おれは判事として宣告する。とてつもない罰金を申し渡してやる……」  太郎の声は大きくなり、相手はふるえる。 「どうか、お手やわらかに」 「よけいな口を出すな。巨額な罰金を、むりやり取り立ててやる。これをたねに、おまえを一生 恐《きよう》喝《かつ》しつづけてやる。そこまでやると、これは犯罪になるかな。すると、おれは犯人でもあるということになるな。しかしだ、こういう精神的なショックと損害を受けたのだから、それぐらいは許されていいはずだ。すなわち、これは弁護人としてのおれの発言だ」 「お腹立ちはごもっともです。しかし、途中でまた口を出すようですが、なぜ妙なことをそう並べ立てておいでなのですか」 「推理小説には一人何役というのがあるが、その新記録を作れるのじゃないかと思えてきたのだ。これで一人何役になったかな。もっとほかに、なにか加えられないかな。そうだ、拷問係に死刑執行人でもあるというのが盛りこめそうだぞ」 「冗談じゃありませんよ。しかし、一人何役の新記録とは、エドガー・アラン・ポーでさえ気がつかなかったアイデア。こういう非常の際に、そんなことが頭にぱっとひらめくなんて、天才というか、なんというか、たぐいまれなる頭脳の持ち主でございますな」  頭のよさをほめられたのは、太郎にとって生まれてはじめてのこと。まんざらでもない。 「いや、それほどでもないがね」 「いかがでしょう。そのすばらしい構想に、わたしもお手伝いさせて下さい。死刑執行人であると同時に、特赦を発令する政府高官でもあるというのはどうでしょう。あるいは、つかまえはしたものの、相手に逃げられてしまう間抜けな警官の役というのは……」 「それもいいな。それを加えると、一人何役ということになるかな……」  太郎は指を折って熱心に数えはじめた。そのすきを狙っていたごとく、戸棚の男は大変な勢いでかけ出し、ドアから逃げていった。太郎が窓から見おろすと、その男は道路を全力疾走し、どこかへ行ってしまった。  間男をとり逃してしまっては、怒りを夫人にぶつけるしかない。太郎はまっ赤になり、大声で夫人にいった。 「いったい、おまえはおれの留守に、なんということをしてくれたのだ」  だが、美しい夫人は、あどけない表情。口にした言葉もまた、あどけなく単純だった。 「あら、なぜいけないの」 「なぜって、それは……」  太郎は絶句した。根源的な問いかけというやつに、こんなところでぶつかるとは。まさに大問題。太郎はあれこれ考え、考えつづけているうちに、立腹もどこかへ行ってしまった。最初は堂々と説得できそうな気がしていたのだが、どう言ったものか、いっこうに思い浮かばない。 「つまりだ、昔からきまっていることなのだ。聖書の十戒にもあったはずだ」 「十戒なんて知らないわ」  天衣無縫というか、うぶというか、世間知らずというか、どうにも手がかりがない。太郎は大汗をかき、口をぱくぱくさせたあげくに言った。 「おれもどこか抜けているが、おまえもどこか、かんじんの点が抜けているみたいだな。しかし、要するにいかんことなのだ。亭主の留守に間男を家に入れて浮気をするのは、よくないことなのだ。一と一を足すと二になる。これと同じ、証明不要の公理なのだ。わかったか。わかっておくれ」 「わかったことにしてあげてもいいけど、あなたがあたしに結婚を申し込んだ時の、約束ってものもあるのよ……」 「つまらん約束をしてしまったな」  太郎は頭をかいた。好きなことをさせ、乱暴はしないという約束があった。しりをひっぱたくこともできぬ。それに、離婚を言い渡して追い出すには、あまりに惜しい女なのだ。これを理由に追い出してもいいのだが、どこかの男が待ってましたとばかり結婚してしまうだろう。それを考えると、ますます面白くない……。  ことはうやむやになった。しかし、太郎は不祥事が二度と起らぬよう、当分は外出をするなと夫人に申し渡した。好きなことをやるのは、部屋のなかだけにしろ。そして、出勤の時にはドアの外側から鍵をかけた。つまり、夫人を家にとじこめることにしたのだ。  これで万事解決というわけにもいかなかった。何日かし、太郎が帰宅すると、またも戸棚のなかで、なにやら物音。とんでもないことだ。もう断じて許せぬ。一人十役でしめあげてやろう。  太郎は勢いよく戸棚をあけた。しかし、そこにいたのはいつかの男ではなく、ふしぎな服装の人物。古風な服装に帽子、口ひげをはやしマントをはおった外国の男。太郎は聞く。 「あなたはどなたです。どこかで見たような気もするが……」 「そうお感じになるのも、ごもっともです。わたしはルパン。アルセーヌ・ルパンの孫にあたります。シックである点、怪盗である点、すべて祖父そっくりです。そういったようなわけです。どうぞよろしく」 「よろしくもないもんだ。ひとの留守中に、間男として入りこむなんて……」 「まあまあ、お待ちを。とんでもない。わたしは、あくまで泥棒です。ルパンであることが、なによりの証明。ご理解下さい。ここへ泥棒に入りこんだが、ご主人の帰ってくるけはい。見つかっては大変と、戸棚にかくれるのも当然でしょう」 「それもそうだな。なるほど、ルパン三世ならば、鍵のかかった室内にしのび込むのも朝飯前といえそうだ。わかったよ。泥棒と知って、安心したよ。疑って悪かった。あなたはいい人だ、えらい人だ。せっかくおいでになったのだから、まあ酒でも一杯いかがです。あなたの自慢話などうかがいたい」  太郎はルパン三世をもてなした。話がはずみ、そのうち太郎は聞いた。 「さっきから気になってならない点がある。いったい、なにを盗もうとして、ここに入ったのです。ここにはべつにあなたのような、大怪盗がねらいたくなるような品は、ないはずだ。考えてみると、だんだんふしぎになってきた」 「いやあ、これは恐れ入った。その疑問に気づいたとは、あなたは頭の鋭いかたですな。ルパン三世も敬服いたします」  またも太郎はうれしがった。 「あなたにほめられると、本当に頭がいいような気になり、ぞくぞくしてきます。しかし、その先が思いつかない。なにをねらったのです。教えて下さい」 「じつはですな。わたしのねらったものは、あなたの奥さんの愛です」 「なんだと、このやろう。結局は間男ということになるじゃないか。酒をごちそうして損した。ただではすまないぞ」  太郎は飛びかかろうとしたが、なにしろ相手はルパン三世。ひらりと身をかわし、ドアをすり抜け、たちまちのうちに逃走してしまった。  戸棚さわぎは、これで終らなかった。  そのつぎに、物音に気づいた太郎が戸棚をあけた時には、なんと小さな男の子がいた。 「おやおや、男の子か。ませたやつだな。しかし、子供だからといって容赦はしないぞ。いままで、なんだかんだとごまかされ、間男を二人もつかまえそこねた。そいつらへのうらみを、おまえで晴らしてやる。悪く思うな。窓からそとへほうり出してやる」  太郎は美しい夫人を愛しており、その夫人には当りにくい事情がある。間男のほうに当る以外にない。たとえ相手が少年であってもだ。しかし、戸棚のなかの少年は言った。 「まあ、待って下さい。わざわざほうり出さなくても、自分で窓から出て行きますから。さよなら、おじさん」  そして、窓からさっと出て行った。すなわち、少年の背中には翼があり、それで空中を飛び、どこかへといってしまった。それを見送りながら、太郎はつぶやく。 「あれあれ、いまのはなんだ。天使なのだろうか。天使なら間男をするはずはないがな。キューピッドというやつかな。しかし、キューピッドなら恋愛をつかさどる係のはずだ。自分が間男となるとも思えんし……」  いずれにせよ、間男をとり逃したことだけは事実だった。こうなると、太郎は意地になってくる。野球のバットから飛出しナイフ、手錠や催涙弾まで用意して待ちかまえた。こんどこそ、たたきのめしてやる。そうしないことには、腹の虫がおさまらない。  会社を休んで待ちかまえていれば、間男の来襲も未然に防止できるのだが、永久にそうしているわけにもいかない。また、毎日出勤するというのが父親との約束。それを破ると金銭の援助が打ち切られ、あわれな生活におちぶれる。待ち伏せ作戦もやれないのだ。  あんのじょう、つぎの日に帰宅すると、またも戸棚のなかで物音。太郎は用意の器具すべてをそろえ、ぶちのめしてやるぞと勢いよく戸棚をあけた。しかし、ふりあげたバットをおろし、こう言わなければならなかった。 「これはこれは、寝ぼけてお部屋をおまちがえになったのでございましょう。出口はあちらになっております。どうぞ……」  と太郎はあいそ笑い。戸棚のなかにいたのは、フランケンシュタインの怪物。大きく、いかにも強そう。バットでなぐってもききめはなく、刃物は刃が折れるだろう。へたしたら、大あばれされ、部屋はめちゃくちゃ、こっちの背をぺきぺき折られかねない。おとなしくお帰りいただくに越したことはない。  そいつはゆうゆうと戸棚から出て、歩いて帰っていった。たしかにフランケンシュタインの怪物だったのか、それに似たやつだったのか、そこまでの確認はできなかった。太郎は呆《ぼう》然《ぜん》とし、ふるえあがっていたのだから。  それにしてもだ、なぜこの戸棚に、つぎつぎとかくも変なのばかり出現するのだろう。なぞだ。太郎は腕組みして考える。もしかしたら、この戸棚は呪《のろ》われているのかもしれぬ。あるいは、次元のゆがみかなにかで、戸棚の奥が妙な場所へと通じているのかもしれぬ。そうとしたら、引越さねばなるまい。絶世の美女と結婚したはいいが、こういう目にあったのでは、さんたんたるものだ。  太郎は長い縄を持ってきて、からだに結び、戸棚の探検をこころみた。しかし、大げさな装備をしたにもかかわらず、なんということもなかった。戸棚はただの戸棚にすぎず、次元のゆがみもなく、呪われているようなようすもなかった。いったい、どういうことなのだ。  つぎに太郎が戸棚のなかに見いだしたのは、学者風の男。ひげをはやし、ふとい黒ぶちの眼鏡をかけていた。こういうやつなら、なんとかやっつけることもできそうだ。 「やいやい、もっともらしい顔つきをしやがって。なんだ、おまえは。こんどこそただではすまさない。覚悟しろ」  太郎がどなったが、相手は平然たるもの。 「まあまあ、お静かに。これは重要なことですぞ。わたしは精神分析医。その方面ではいくらか名を知られた学者です。たとえば、あなたの内面の悩みなど、すぐわかる。あなたは、この戸棚のなかにつぎつぎと男が出現する原因を、知りたくてたまらないという思いにとらわれている」 「これは驚いた。まさにずばりだ。教えて下さい」 「しかしねえ、あなたは乱暴そうだ。わたしに手荒なことをしないと約束すれば、ご説明しないこともありませんが……」 「約束するから、ぜひたのむ。さあ……」  太郎はせかし、相手は話しはじめた。 「では、お話ししましょう。そもそもの原因はですな、この戸棚にではなく、あなたの奥さんのほうにある。そして、これはきわめて大変なことで……」 「妻がなんだというのだ。もったいをつけずに早く言ってくれ」 「奥さんが美人すぎるとは思いませんか」 「美人すぎて、なにが悪い」 「いいですか。あなたの奥さんはですな、ビーナスなのです。海の泡《あわ》から生まれたという、ギリシャ古代の女神。といって、はるか昔からずっと存在しつづけたわけではない。ある時期には海の泡に還元し、ある時期には、ふたたび形をとりもどして実在となる。そういう宿命というか、そういう体質というか、つまりそういうわけなのです。このあいだまで精霊の形で海をただよっていたが、金星が太陽と月に対し特定の位置に来た。その金星の光を受け、また姿をあらわし、小島の上に出現していたということです」 「たしかに小島の上で見つけたが、とても信じられん……」  ため息をつく太郎に、相手は言った。 「しかし、奥さんの美しさと上品さとは、人間ばなれしているでしょう」 「ああ、事実、われながらそう思うよ。となると、やはりビーナスなのかな。おれはビーナスと結婚した男というわけか。しかし、まだ実感がわかないな。また、妻がビーナスであることはありがたいが、こうひっきりなしに浮気をされ、間男が押し寄せてくるのはたまらないな。こんな場合に使う形容じゃないだろうが、まさに、ありがた迷惑だ」 「それは、いたしかたないことです。ビーナスの魅力には、だれも抗しえない。いけないことだと思っても、自制心もなにもなくなり、ふらふらとここへ引き寄せられてしまうのです。そして、あまりの美しさに別れがたく、ご主人がまもなく帰宅される時刻とわかっていても、引きあげそびれ、やがてご主人の足音を耳にし、冷静さをとりもどし、あわてて戸棚のなかに飛びこむ。こういうわけです」 「さすが学者だけあって、よくわかるな」 「わたしも同様だったというわけで」  学者の答えに、太郎は立腹した。 「けしからん。結論は、おまえも間男だということだ」 「まあまあ、約束でしたよ。乱暴なことはやめて下さい。しかし、ご主人。ビーナスといえば美の女神。これは万人のものでしょう。美を愛するのは、人として当然のこと。あなたが独占なさるべきではない。公益優先という原則をお考え下さい。たとえば、芸術史的に価値のある建造物に住んでいる人があったとする。その人が、ここは自分の家だ。だれであろうと入ってはならぬと主張したら、あなたもその不当さを攻撃するでしょう。それと同じです。美の独占は、許しがたい行為と言うべきでしょう。反省しなさい」 「まことに正論。申しわけないしだいで、これからは……。いや、そうはいかん。とんでもない話だ。おれは結婚しているんだぞ。それなら、おれがおまえの奥さんと浮気しても、かまわないというのか」 「わたしの家内は美しくもなければ、女神でもない。とても公共的価値はありません。だから、個人の所有物です」 「どうもなっとくできんな」 「まあ、これについては、ゆっくりお考えになって下さい。では、わたしはこれで。料金の請求はいたしませんから、その点はご心配なく……」  学者風の男は帰っていった。  そのあと、太郎は夫人に話しかける。 「おまえはビーナスなのか」 「早くいえば、そういうことね」 「驚いたなあ。前に聖書の十戒なんか知らないって言っていたが、ギリシャの神なら他の神の束縛は受けないというわけか。しかし、浮気は困るなあ。神通力があるのなら、なんとかそれを活用し、変な男がやってこないようにできないのかい」 「あたしの立場になって考えてよ。あたしの美を崇拝し、敬慕してやってくる人を追いかえすなんて、できないわ。女神なんですものね」 「弱ったなあ。こっちの気持ちにもなってくれよ。ここは人間世界なんだよ。なんとかならないものかな」 「あたしだって、あなたを苦しめたくはないわ。離婚してあげましょうか。あたしが別な人と結婚し、あなたが間男としてやってくればいいのよ。気楽でいいんじゃない」 「それもいやだよ。別れる気はない。きみを愛しているし、ビーナスと結婚したという、すごい幸運を手放したくないし……」  またもや議論はうやむやとなる。ビーナスと結婚できた幸運を誇り喜ぶべきなのか、持てあますべきなのか、太郎にはわからなかった。  というわけで、戸棚に変な男が出現するという現象は、依然として終らなかった。いかに防ごうとしても、どこからともなくやってくる。ビーナスの発散する美と愛の放射線を、とめることはできないのだ。恋の防止装置なるものは、どこにも売っていないようだ。そして、その放射線を感じた男は、ビーナスの魔力で一瞬のうちに引き寄せられるというしかけらしい。  とても太郎の手におえる事態ではない。女神をコントロールする力など、平凡な人間にあるわけがない。彼は毎日、帰宅すると戸棚をあけ、そこにひそんでいる男をみつけ出し、追い出す。なさけないことだが、それが日課となってしまった。ちょうど美術館の管理人のよう。さあさあ、きょうはもう閉館ですよと追いたてる係。めんどくさいからといって、美術館を売りとばすこともできぬ。金銭にかえられないものの所有者なのだ。面白くない、もんもんたる日常。  戸棚のなかから、幽霊が飛び出してくることもある。黒ずくめの服、黒いマント、色の青白い人物が出現したこともあった。どなたですと聞くと、そいつはドラキュラ伯爵と答え、ゆうぜんと帰っていった。太郎は、血を吸われなくてよかったと、ほっとする。  戸棚のなかにサンタクロースがひそんでいたこともあった。「クリスマス・シーズン以外はひまでしてね」とあいさつをし、換気孔から帰ってゆく。変なのばかりが出てくる。変なやつのほうが、ビーナスの魔力に敏感なのかもしれないし、変なやつのほうが人間界の道徳にしばられていず、ぱっとやって来やすいのかもしれない。ピノキオだの雪ダルマなどがいたこともあった。 「いくらなんでも、これはひどい」 「なぜいけないんです。ビーナスは人間だけのものではない。万物の美の女神でしょう。人間の独占と考えるのは、勝手すぎます。そもそもビーナスとは、ファンタジーの国の仲間。わたしが夢の国から飛び出してやってきたって、かまわないじゃありませんか。理屈でしょう。うるさいこと言わないで下さい」  ピノキオならまだしも、そのうち戸棚のなかにピンクの象があらわれた。アル中患者の妄《もう》想《そう》の世界からぬけ出して、ここへやってきたらしい。いくらビーナスかもしれないが、こんなのを相手に浮気することもないだろう。太郎はいささか悲しくなった。  時には普通の男も出現する。くみしやすしと判断し、日ごろのうらみを晴らしてやるかと太郎がバットをふりあげると、そいつはとつぜんオオカミに変身した。窓のそとに満月がのぼりはじめていたのだ。オオカミ男とあっては、銀製の杖《つえ》かなにかでないと、たちうちできない。あきらめざるをえなかった。  頭に鳥の羽飾りをつけたインディアンの大 酋《しゆう》 長《ちよう》が戸棚のなかにすわっていたこともあったし、みどり色の宇宙人がいたこともあった。 「太陽系を通りがかったら、魅力に引き寄せられてしまいました。地球という星は、じつにすばらしい。いい経験をしました。あなた、わたしの星においでの時は、わたしの妻をお貸ししますよ。あなたの奥さんにはとても及びませんが」  と宇宙人は言い、窓のそとに浮いている円盤に乗って飛び去っていった。  つぎからつぎへと出現。考えようによっては、テレビよりよっぽど面白いといえた。毎日毎日の意外の連続で、太郎の心にも微妙な変化がおこりはじめた。つまり、きょうはどんなのが戸棚のなかにいるかなと、それが楽しみになってきたのだ。以前は帰宅すると、むかっ腹で戸棚をあけたものだったが、このごろは胸の奥がぞくぞくする。世界最高のびっくり箱ではあるまいか。  一方、ビーナス夫人のほう。太郎のこの変化に気づいた。以前は「いま帰ったよ」と言っていたのに、このごろは物も言わず、にこにこと戸棚に飛びつく。こうなると、浮気も楽しくなくなる。この人、あたしより間男たちのほうに興味を持ってしまったわ。あたしを無視している。なんということなのよ。美の女神の誇りと自尊心を傷つけられた。浮気がばからしく思えてきた。むなしい気分ね。そろそろやめようかしら。  そして、まともな生活をしましょう。人間の世界にいるのだから、やはり人間のルールに従い、人間らしい生活をすべきだわ。亭主である太郎にあやまり、あなた以外の男に今後は決して心を移さないと告白し、誓い、喜んでもらおう。  ビーナス夫人は決心をした。精神を統一して邪念を払い、愛の放射線の発信を止めた。これでだれもやってこないだろうし、やってきても追いかえそう。亭主に喜んでもらうことが、これからのあたしの喜び……。  そんなことは知らない太郎。いつものように帰宅し、まっすぐ戸棚にむかい、そこをのぞきこんで大喜びした。大喜びの点ではビーナス夫人の期待どおりだったが、彼のあげた叫び声の内容は、それと少しちがっていた。 「わあ、すごい。きょうは透明人間か。おれはずっと前から、こいつを見たくてたまらなかったんだ」 四で割って  四人の男があった。ほかにくらべようがないほど、彼らは仲がよかった。なにがかくも四人を結びつけていたかというと、それは賭《か》けごとが人生のなににもまして好きという性格だった。  四人ということから麻《マー》雀《ジヤン》を連想する人があるかもしれないが、そうではなかった。彼らの好きなのは純粋な賭け。その点、麻雀には技術の優劣が関係してくるので、趣味にあわない。  しかし、四人が連れだって歩いていて、麻雀屋の前でふと足をとめ、なかへ入って行くこともたまにはある。だが、ゲームをやるわけではない。 「おれは四で割り切れると思う」 「おれは四で割って一あまりだ」 「二あまりだ」 「三だ」  すなわち、なかにお客が何組いるかが賭けの対象となるというわけだ。競馬もまた同様。馬券を買ったりすることはない。研究や情報が大きな要素をしめていては、純粋な賭けとはいえない。彼らは配当金の数字そのものを対象とする。四で割ってどうなるかという点を……。  純粋な賭けではあるが、宝くじを買うこともない。新聞に出る宝くじの一等の番号を見ればいい。彼らのあいだで賭け金のやりとりがなされ、それですんでしまう。なぜ四人が公認の賭《と》博《ばく》をきらうのかというと、ごそっと税金を天引きされるのが面白くないからだ。  また、八《や》百《お》長《ちよう》のからむ可能性のあるものは、すべて避けていた。ギャンブル・ブームの世の中とはいえ、こういう傾向の性格の人物は少ないとみえ、新たに仲間が加わることもなかった。ほかにこういうグループもなく、この仲間から抜けるやつもない。というわけで、この四人組は変ることなくつづいていた。  彼らはそれぞれちがった職業だったが、毎日一回は顔をあわせる。あわせなければ一種の禁断症状をおこし、気分が悪くなるからだ。会えばすぐ話は例の件になる。 「きのうそれぞれが賭けた、赤い数字を見にいこう。きょうはいくつが出ているか」  赤い数字とは、警察署の前に毎日掲示される、交通事故の死者の人数。それを見て、悲喜こもごもの声がおこる。 「わあ、ぴたり的中だ。胸がすっとする」 「ちきしょう。もうひとりだけくたばってくれれば、おれが的中だったのに。このところさっぱり当らない。おれは死神に見はなされている」 「なげかわしい。交通事故死が多すぎる。警察、なにをしている。死者が二人だけ少なかったらよかったのだ」 「さあ、あすの数に賭けよう」  この賭けには八百長の入りようがない。掲示の数字を見て、こうなるとわかっていれば、きのう車で一人ひき逃げしておけばよかったのだとくやんでも、すべてあとの祭。事故死が何名以上という賭けだったら、あるいはそれをやりかねない。しかし、おたがいにそんな性格を知っているので、赤い数字に賭ける場合は、数を四で割った結果を対象とする方法以外にやらないのだった。  彼らのうち二人は、ずっと前からひとり暮しだった。残りのうち一人は、このあいだまで父親と生活していた。賭けごとの好きなやつは親の死に目にあえないというが、そんなことはなかった。父親が重態におちいった日、その男は必死に看病をした。 「お父さん、元気を出して下さい。死んではいけません。せめて、あしたまで生きていて下さい……」  父親は苦しい息の下から言う。 「わしはもうなおらん。しかし、おまえみたいな親思いの子を持って、うれしい。一日でも長く生きていて欲しいというとは。よし、気力を出そう」  老いた父親は、生への最後の力をふりしぼり、つぎの日まで生き、そのつぎの日にも死ななかった。父親は言う。 「息子よ、おまえの願いにこたえ、わしは一日を生きのびたよ」 「一日以上になってしまいました。四で割りきれなくなった。こうなったからには、あと三日間を生きのびて下さい。あとに残される息子のためと思って……」 「なんという、妙な日数の区切り方をするのだ。むりじゃよ。わしはもう、生きるのに疲れた……」 「あ、お父さん。死んじゃいけません。し、しっかりして。お医者さん、強力な注射か酸素吸入かなんかで、ぜひ。え、もう手当てのしようがない。ご臨終だと。ちきしょう。やつらに金を取られる。ああ、お父さん、死んじゃうなんて……」  彼はあらぬことを口走り、死体にとりすがって号泣した。事情を知らぬ者は、孝行息子の哀切な姿に、涙をさそわれたにちがいない。  残りのもう一人は結婚していた。ある日、ほかの三人が話しかける。 「きみの奥さんは貞節かい」 「さあ、そんなこと考えたこともない。おれの生きがいは、妻より賭けごとだ」 「きみにも判定がつかないとなると、これは純粋で公平な賭けの対象となるぞ。たまにはこういう変ったのもいいだろう。おれはきみの奥さんがよろめくほうに賭ける」  二人がよろめかないほうに賭け、亭主はよろめくほうに加わり、二対二で賭けが成立した。ただちに腕ききのプレイボーイに依頼がなされ、自宅に派遣された。やがて報告がもたらされ、夫人はよろめいたとわかる。そのほうに賭けていた亭主は勝利の喜び。 「ばんざい。妻が浮気をした。おれの勝ちだ。どうだ、ざまあみろ……」  しかし、この一件が夫人の耳に入り、彼女はあまりのことにあいそをつかした。「あたしと賭けごとと、どっちが好きなの」と迫る。答えはいうまでもなく、その結果、彼女は家を出ていった。  かくして、四人はみなひとり暮しとなり、いままで以上に気ままに、その趣味に熱中できることとなった。もはや、文句をつけるうるさい家族は、だれにもないのだ。  道ばたでけが人を見ると、走り寄り、助けおこし、血の一滴をもらってくる。その血液型を調べるのだ。A、B、AB、Oの四つの型があり、それに対して賭けがなされているのだ。調べてみるまでは、だれにも予想がつかないことだ。  夏には趣向を変えて、ネズミ花火を使ったりもする。地面に十字を書き、その中央にネズミ花火をおいて火をつける。くるくる回って、最後にどの方角に飛ぶかの賭け。  秋には古い本にのっていた、柿切りという賭けをこころみたりする。柿を二つに切って、左右の種の数で勝負をきめる方法だ。  おたがいに技量伯仲。いや、正確には運命の神がわけへだてなくほほえんだというべきだろう。技量に関係のない賭けなのだから。だれも破産には至らなかった。大はばに負けがこむことはあっても、やがて盛りかえし、なかなか終ることがなかった。 「どうだ、ひとつ徹底的に賭けの勝負を争ってみようじゃないか。どこかのホテルに部屋をとり、時間を気にせず、とことんまで賭けてみよう」 「うむ、それもいいな」  ほかに楽しみはないのだ。相談がきまり、四人は札束を持ちより、それをはじめた。  勝負が白熱した、夜おそい時刻。彼らのいるホテルの部屋のドアがノックされた。 「だれだろう、いまごろ。ボーイかな」 「おれはサービスになにかを運んできた、女の従業員だと思う」 「おれは、だれかが部屋をまちがえたのだと思う。さあ、これに大きく賭けよう。きみはなんだと思う」 「では、おれはそれ以外の者とする。確率が大きすぎることはないだろう」 「それはそうだ。さあ、ドアをあけよう」  みなの話がきまり、ドアがあけられた。そこには警官がおり、こう言った。 「さあ、みつけたぞ。賭けの現行犯だ。密告があったので来てみたら、やっぱりだった。おまえらは常習だそうだな。逮捕する」  ひとりがうれしそうに叫んだ。 「ばんざい。おれの勝ちだ。ボーイでも、女でも、部屋のまちがいでもない。きょうの沈みを、みんなとりかえした。おまわりさん、ありがとう」  警官は目を白黒させた。なかに歓迎するやつがいるとは、どういうことなのだ。それでも職務は職務。あたりの札束と、サイコロとスゴロクとを証拠品として押収した。なぜスゴロクがなされていたかというと、これも彼らのいうところの純粋で公平な賭けだからだ。  四人はひそひそ相談しあい、警官に言う。 「恐縮ですが、警察手帳を見せて下さい」 「それは当然の要求です。さあ、どうぞ」  四人はそれをながめる。三人はがっかりし、一人が喜ぶ。 「この手帳の番号。四で割って三あまる。こんどはおれの勝ちだ」  警官が連行してきたこの四人を、警察はほとほともてあました。留置場に入れてようすをうかがっていると、なにやらささやきあっている。どういう順で呼び出され、取調べがなされるかに賭けているのだ。看守のその報告を聞き、その裏をかいて、四人をいっぺんに呼び出さなければならなかった。  だが、それも裏をかいたことにはならなかった。取調べが終り、留置場に戻される順についての賭けもなされていたのだ。四人はおたがいになれており、その一瞬のうちあわせまでは、看守も見抜けなかったのだ。  裁判がまたひと苦労だった。 「賭けの常習犯というからには、その証人を呼んでもらいたい。警察へ密告したのがだれなのか、それを知りたい。その証人をうらんだり、そいつにしかえしをしたりはしません。ただ純粋に知りたいだけなのです」  密告者がだれかについての賭けが、四人のあいだで成立しているのだ。ひとりは裁判官に無罪を主張する。 「賭けはよくないことかもしれないが、べつにわれわれ以外の者になんの迷惑も及ぼしていません。なぜいけないのです。このごろは学校の入学にまで、くじが使用されている。公団住宅だって、抽選でしょう。いまや実力より運の時代。社会や人生、かくのごとし。これが世の傾向です。無罪が正当です」 「それが被告の信念か」  裁判官が聞くと、それへの答え。 「いえ、わたしだけの意見です。無罪になると、わたしが賭けに勝つというわけで」 「反省の色がないな。となると、罰金刑を科すべきだな」 「罰金でもけっこうですよ。しかし、その場合は、できることなら、最後のゼロを取っ払った数字が、四で割り切れるような金額にして下さい」  ほかの者が口を出す。 「それはいけません。そんなことをしたら、裁判官は八百長だ。どうせ八百長なら、わたしのために、四で割って二あまりに……」  裁判官もあきれてしまう。 「驚くべきことだ。手のつけようがない。禁治産者にすればいいのだが、みな家族がなく、その申請をしてくれる人がないとくる。どうなのだ、被告たち。賭けの習慣をやめられないのか」 「やめたいと思うこともありますが、ほかの三人の顔を見ると、その意識がさっと消えてしまうのです。生きている限り、やめられそうにありません。あるいは、ほかの三人が破産するか死んでしまうか……」 「早くそうなってほしいと本官も思うよ。断食バクチかなんかやって……」 「どういうことです。聞いたことのない賭けのようですが」 「つまりだ、それぞれが全財産を賭け、断食をはじめる。途中でなにか食った者は、それで失格。死ねばそれももちろん脱落。最後に一人だけ勝ち残るというわけだ。いくらおまえたちでも、これはできまい」  冗談であり、そこまでの勇気はあるまい、だから賭けはやめろとの意味だった。しかし、それは裏目に出てしまった。 「こりゃあ、すごい。画期的なアイデアだ。自己の精神力と体力を賭けるとは、はなばなしさの極致だ。さいわい、健康さの条件もみな同程度。いいぞ。じつは、平凡な賭けばかりなので、いささかあきていたところなのです。しかし、やめては生きがいがない。そんな心境だったのですが、いまの提案で、心の底から闘志がわいてきました」 「まあ、待て……」  裁判官、あわてて口を押えたが、もはや手おくれ。  かくして、四人は世紀の断食バクチを開始した。  といって、とくに熱狂的なものではなかった。四人が一室にとじこもり、おたがいに監視しあうだけの静かな進行だった。  どこで聞き伝えたのか、宗教関係者が説得にやってきた。 「おやめなさい。自殺は罪悪です」 「なぜ自殺が罪悪なのか知りませんが、その主張はみとめてあげましょう。しかし、だれが自殺しようとしているんです。わたしは死ぬつもりなんかありませんよ。みごと生き残って勝つ自信があるからこそ、この賭けに参加したのです」 「しかし、他の人を殺すことになる」 「では、ほかの三人に聞いてみて下さい。わたしに殺される恐怖を感じているかどうか」 「そういっても、いずれにせよ、だれかが死ぬことになる。死はいけません。生きていればこその人生でしょう」 「生きがいが賭けなのです。わたしは負けるなど考えていない。ほかにご忠告は……」  まるで話が通じない。宗教関係者は説得をあきらめ、帰っていった。そのうち、どこかのテレビ局のプロデューサーがやってきた。 「すごいことをはじめましたなあ。どうでしょう。実況中継の独占権をわたしの局に下さい。驚異的な視聴率はまちがいない。昨今の視聴者は、人命に関する番組が大好きとくる。口先では非人道的だと言いながら、内心では早く死ぬのが見たいと祈り、画面をにらみつけてくれます」 「そういうものですか」 「そうなんです。学者や評論家の大群を集め、賛否両論の大連続討論会を演出する。むかし、保険業が一種の賭けとみなされ禁止された時期もあった。しかし、いまはみとめられている。統計に金を出すのはよくて、確率に金を出すのがなぜいけない。こんな本質論からはじまって、開発途上国の援助に金を出すのも、革命もクーデターもみんな賭けではないかと、大論戦になるぞ。なんだか、ぞくぞくしてきた」 「謝礼をはずんでくれれば、中継してもいいですよ。謝礼は四人に分けなくてかまいません。最後に残った一人が取るんですから」 「しめた」  プロデューサーは飛び上って喜んだが、局へ帰って検討すると、金を出すことは局が賭けに参加することになるわけで、テレビコードにひっかかる。放送不能ときまった。プロデューサーは残念がったが、やむをえない。最後の勝利者のインタビュー放送権の独占予約だけで、あきらめなければならなかった。  そんなことにかかわりなく、四人の断食バクチは進行し、何週間かがたった。もちろん空腹だが、賭けへの情熱のほうが上まわっている。中途でやめようとする者はない。  警官隊が強引に中止させようとやってきた。しかし、近づいたら薬を飲むぞとおどかされ、帰っていった。外見は同じ四錠の薬なのだが、そのうち三錠には毒が入っている。  時どき医者がのぞきにくるが、手の出しようがなかった。法定伝染病でもなく、家族の申し出もない。他人に害を及ぼしてもいない。当人たちの意志を無視して強制入院させる口実がないのだ。ひとりが医者に言う。 「先生、ほっといて下さい。もっとも、死亡診断書の時にはおねがいしますよ。それより以前の手当てはおことわりです。安楽死も、だれも望んでいませんよ」  生命は当人のものか社会のものか。かかる状況について論ずる気になれば、生存の意義をめぐり、きわめて深刻にして不毛なる議論をとめどなく展開することも可能なのだが、この四人にとってはどうでもいいことだ。賭けの意義は結果しかない。  そのうち、ひとりが弱々しく言う。 「断食の苦痛も死の恐怖も、なんとも思わない。だが、結果を見ずに死ぬのは残念だ……」  そして、息が絶えた。さらに、もうひとり。 「くやしいな。二番目に死ぬのがおれだというのに賭けておけば、みごとに勝つところだったのに……」  とわけのわからぬことを言い、息たえた。 「どうだ、このへんでやめてもいいぞ。二人で金を山分けして」 「それはいかん。ルール違反だ。さきに死んだ二人に申し訳がたたん。いやになったのなら、きみが抜ければいい」 「いや、おれは勝つつもりだから、抜けはしない。きみが降参するよう、水をむけて言ってみただけだ」  断食バクチはさらに継続した。二人は勝負の鬼と化している。しかし、いかに気力があっても無限にはつづかない。食わなければ死ぬという、生物の悲しい宿命。ついに、もうひとりも息が絶え、死亡診断書が作成された。医者の連絡で、テレビ局員がかけつけてきた。 「おめでとうございます。この世紀のレースを勝ち抜いたご感想は……」 「われ勝てり。それがすべてです。最後に二人となってからは、気力だけで生きていた。からだのほうはずっと前に死んだも同然でした。仲間たちはいなくなったし、わたしもこの世に生きる楽しみはない。つまり、気力もこれで終りです。ひとつお願いが。わたしには遺族もない。この金は不幸な人たちのために寄付して下さい。ああ、面白かった……」 「しっかりなさって下さい。この薬を飲んで元気を出して……」  アナウンサーのさし出す、この中継番組のスポンサーである製薬会社提供の薬を飲み、最後の一人もにっこり笑って息たえた。  さきに死んだ三人、死出の旅路をゆく。 「お、むこうに川が流れている。三《さん》途《ず》の川らしい。平原を流れているので、どっちが上流かわからんな」 「おれは右が上流だと思う」 「おれは左だ。しかし、三人だと、こういう場合に困るな。二対一ではバランスがとれない」  勝手がちがって弱っていると、うしろから「おーい」との声。最後の一人が追いついてきた。 「やっといっしょになれた。おれたちは別れられぬものらしいな」 「まあ、そろってよかった。さて、おれたちは天国に行くのだろうか、地獄だろうか」 「そこなんだ。おれたちの出しあった金は、不幸な人たちに寄付してきた。どんな不浄な金だろうが、寄付さえすれば善行となるのが慣習。また、おれたちは生前、他人に迷惑をかけてない。この点からは天国の可能性がある。だが、どの宗教も賭けをいいこととはみとめていない。この点からは地獄ともいえる。可能性は半々だな」 「よし、それでいこう。おれは地獄のほうに賭ける」  二人ずつに意見がわかれ、賭けが成立した。なんだかんだと楽しんでいるうちに、閻《えん》魔《ま》大王の前につく。大王いわく。 「おまえらは生前、賭けばかりやっておったな。天国にやるわけには……」 「わ、ばんざい。おれが勝った。天国じゃないのだ。では、つぎは、炎で焼かれるのと針の山と、どっちが先かで……」  それを見て閻魔大王。 「ま、まて。まだ決定を下したわけではないぞ。おまえらは賭けとなると、いかなる苦痛も感じなくなるとみえるな。地獄にやっても、それだと罰の意味がなくなるし、こんな傾向が他の連中に伝染したらことだ……」 「となると、天国のようだぞ。では、つぎの賭けはこうしよう。われわれのすぐあとから天国へ来るやつ、それは男か女か……」 「まて、天国にやるわけにもいかんな。ひとりは天国、ひとりは地獄、ひとりは生きかえらせ、ひとりはわしの手伝い。そう分離したいところだが、おまえらの生前は同じ条件、それぞれにちがった決定は下せぬし。どうしたものか、ううむ……」  閻魔大王、腕組みし、うなりはじめた。四人は話しあう。 「どうだ、このうなる声、いくつかぞえるあいだつづくかだ。おれは四で割り切れる数に賭ける」 「おれは二あまりだ」  たちまち賭けが成立。四人は声をあわせて数をかぞえはじめる。閻魔大王、だれかひとりを勝たせて喜ばせるわけにもいかず、にが虫をかみつぶしたような顔で、いつまでもうなりっぱなし……。 ほれられた男  ひとりの科学者があった。エフ博士という。学問にも、勝負事と同じように人の脳神経の一部を麻《ま》痺《ひ》させる作用があるらしく、博士はそのとりことなった。世の中にはほかに面白いことがないかのごとく、実験をし文献を読み、それだけの日常をくりかえしつづけた。こちとらにはなにが面白いのか、ちっともわからねえ。  ようするに彼は研究熱心だったのだ。熱心すぎた。歳月のほうもまた熱心に流れ、ある朝、博士は鏡にうつる自分の顔をのぞいて、ふと気がついた。李白だと〈知ラズ明鏡ノ裏、何《イズ》レノ処《トコロ》ヨリカ秋《シユウ》霜《ソウ》ヲ得シ〉と言うところだが、博士はこうつぶやいた。 「いつのまにか、わたしも中年男になってしまった。一般に中年男といえば、社会の中堅、人生の悲哀、家庭の重荷、浮気心など、とりようによってはなにやら人間的ムードの語感がある。しかし、わたしの場合は、ムードなしの中年男で、まだ独身。かっこうがつかない。人生に無縁のまま、子供がそのまま中年になったような顔つきだ。考えてみると、青春という貴重な時期を、わたしはくだらぬことのために空費してしまったようだ。とりかえしがつかない……」  全財産を勝負事に熱中してすってしまい、没落して反省する人と同じようなことを言う。しかし、その先の言葉は、いくらかちがっていた。 「くやしがっていても解決にはならぬ。わたしはこれから、青春のすばらしさを味わい、意地でもそれを取りかえしてやる。燃えるような恋をするのだ。しかしだ、この鏡にうつる顔つきでは若い女が夢中になってくれそうにない。といって、女をくどく絶妙な手腕が自分にあるわけがない。さて、どうするか……」  科学者だけあって、彼の思考経路はいささか理屈っぽい。そして、結論へ進む。 「このギャップを埋めるに適当な、科学的方法があるはずだ。なければならんのだ。それはだな……」  博士は考えつづけ、やがてひざをたたいた。 「……あった。それはだな、ほれ薬。媚《び》薬《やく》というやつだ。相手にふりかければ、自動的にこっちに夢中になるという作用の薬だ。それができれば、万事うまくゆくわけだし、わたしにはそれを作る才能があるようだ……」  かくして、博士はまた研究の日常をつづけることとなった。だが、こんどは研究のための研究ではなく、趣味と実益と目標と生きがいをかねている。だから能率があがった。  マタタビという薬草は、ネコを魔法のごとく引きよせる。これを逆にしたような薬品はどうであろう。それをふりかけることで、相手の嗅《きゆう》覚《かく》と感情とのあいだに神経の回路ができ、博士の持つ特有の体臭に引きつけられる……。  そのような発想をとっかかりに、エフ博士はさまざまな実験をくりかえした。もともと研究熱心な性質。作るからには完全にして万能、しかも強力にして持続性あるものでなくてはならない。電気、磁気、放射線、特殊空間といった物理学の知識と理論とをつぎつぎに盛りこみ、他人にいわせれば妙な薬、博士にとっては理想に近いものができていった。彼はさらに熱中し、夢うつつのなかで改艮へのアイデアを得たりし、完成の日を迎えた。 「やっとできた。ばんざい。これでよしだ。どのような面から検討しても、これは完全なものだ」  博士はちょっと作用の実験をしてみたかったが、それはやめた。この媚薬、作用は強烈で、しかも半年はそれがつづく。つまり、変な女にこころみたら、半年間はそれにつきまとわれることになる。その段階は省略し、ただちに理想的で実用的な目標に使うべきものなのだ。  それは液体で、ピンク色をしており、その作用にふさわしい感じだった。博士は注意ぶかくアンプル状の容器に移した。それを胸のポケットにおさめる。なんとなく、からだの奥に自信がわいてきたような気持ちだ。いまや、いかなる相手をもなびかせる力がそなわっているのだ。 「では、美人さがしに出かけるとするか」  博士は自動車を運転し、街に出た。むかしの殿さまも、こんな気分だったろう。見つけ出し、あれがいいときめればいいのだ。  美人は時どき目にとまる。しかし、万能の力があるとなると慎重になるし、目うつりもする。軽率に使用すると、あとで後悔することになる。あれこれ迷いながら、彼は車を走らせつづけた。  そのうち、はっとするような美女が目にとまった。博士ははっとし、反射的にはっとブレーキをふんだ。そこまではよかったのだが、あまりにも急にブレーキをかけすぎた。胸のポケットからアンプルが飛び出し、前面のガラスにぶつかって割れ、大切な薬液は車内に飛び散ってしまった。 「やれやれ、なんということだ。みすみす美女を見のがさなくてはならない。しかし、長いあいだの苦心も水の泡というわけではない。薬の作り方はメモに書いてとってある。作ろうと思えば、また作れるのだ。あらためて出なおすことにしよう」  エフ博士はさほど落胆もせず、いちおう帰宅することにした。  異変はその途中で起りはじめた。車内には博士ひとりなのだが、だれかもうひとりいるような気分になってきた。運転席のシートが、からだにまとわりついてくるような感じ。だれかがうしろから抱きかかえている、といった感じがしはじめたのだ。  また、ハンドルへの手ざわりもおかしかった。ただの物品とちがった、あたたかく、生きているような感じがする。どうも薄気味わるい。媚薬を吸った副作用かな。帰宅した博士は、大急ぎで車からおりる。  しかし、家へ入ろうとしたとたん、背後で車のクラクションが鳴り出した。だれもいないのに、ひとりでに鳴り出した。そして、その音色がいつもと変っていた。なまめかしい音、だだをこねているような、すねてるような音、博士を呼びかえそうとするような音。そんなたぐいの感情のこもった音だ。とてもただの機械のたてる音とは思えない。  博士は故障個所を調べようとしたが、どこがどうなったためなのか、いっこうにわからない。ドアをあけて車内に入り、シートに腰をおろすと、音はやんだ。シートはうしろから抱きついてくる。彼はふと、魅力的なにおいをかいだような気がした。  計器のライトが、ウインクをするかのようにまたたきはじめた。その点滅を見つめていると、妙な気分になってくる。そればかりではない。スイッチも入れないのに、カーラジオが鳴りはじめた。甘ったるい恋の歌。 「これはどうしたことだ」  博士はべつな局に切換えようとラジオをいじくったが、どうやってもその恋の歌は鳴りつづけている。やがて、もっとすごいことがはじまった。歌につづき、恋の言葉も流れ出した。 「ねえ、あたしから離れちゃいやよ。いつまでもいっしょにいてね。そばにあなたがいらっしゃらないと、あたし寂しいの……」  という愚にもつかない文句が、とめどなくくりかえされるのだ。それに連動しているかのように、シートが抱きついてくる。事態はいよいよ、ただごとでない。博士はつぶやく。 「おかしなことになったな。あの媚薬が自動車に作用したとしか、考えられない。驚いたな。生物ばかりか車にも効力を発揮するとは、予想以上のすごさだ。わたしの理論の正しさは、これで実証された。とはいうものの、ちょっと困ったことだな……」  博士は車からおりる。すると、またもクラクションが鳴りはじめるのだ。 「ねえ、ここにいらっしゃってよ。あなたとお別れしたくないのよ」  とでも言うように、悲しげな音をたてる。このままでは近所から文句がくる。博士はガレージを大急ぎで防音式に改造し、なんとかひと息ついた。  いったい、あの色気づいた自動車め、いつまであれがつづくのだろう。博士は思い出す。あの媚薬の効果は半年間だったということを。こりゃあ、たまったものじゃないぞ。  時どき、友人がやってきて博士に言う。 「ちょっと車を貸してくれないか」 「いいとも、ずっと貸してあげる。なんなら返さなくたっていいぜ」  博士の気前のいい言葉に、友人は喜んで乗ろうとするが、そうはいかないのだ。第一、ドアがなかなか開かない。むりやりにあけて乗りこむと、カーラジオが勝手に鳴り出し、聞くにたえないことをわめき出す。かりにそれをがまんしたとしても、決して動こうとはしないのだ。  乗ろうとしたのが女性だったりすると、もっとひどいことになる。シートからチクチクしたものがおしりを突ついたり、どこからともなく電流が流れ、びりびりとくる。いたたまれなくしてしまうのだ。というわけで、博士以外の者は車に乗ることができない。  中古車業者に売り渡そうとすると、クラクションが悲鳴をあげつづけ、買手は気味わるがって帰ってしまう。処分もできない。別に一台を購入しようかとも思ったが、そうしたら体当りするかなにかして、こわすか追い返すかするだろう。  手のつけようがないのだ。こうなると、媚薬の効力の切れるのを待つ以外にない。博士は覚悟をきめた。自動車が凶暴になったり吸血鬼になったのだったら大変だが、こっちを愛してくれているのだ。がまんできないこともあるまい。それに、愛してくれているのなら、事故を起すこともなく、安全保証つきともいえるだろう。  博士は車でドライブに出かけたりもした。いそいそという形容が、ぴったりの走り方をする。乗っていると、からだがむずむずするような妙な気分だが、なれてくるとそう悪いものではない。こんな体験をしているのは、世の中で自分だけだろう。そのうち、博士のほうも、しだいに自動車に愛情を感じはじめ……。  となったころ、半年がたち、媚薬の効力がきれた。自動車はもとの状態にもどる。なんということのない、ただの車だ。クラクションのなまめかしい声をあげなくなる。しかし、博士はそう残念とも思わなかった。車に愛されるのも悪くないが、やはり人間の美女のほうがいいというものだ。  博士はメモによって、また媚薬を作りあげた。こんどこそ、うまくやるぞ。うまく使ってこそ媚薬だ。使いそこなったら、やっかい薬。彼は薬液をアンプルに入れ、ポケットにおさめる。しかし、こんどは車を使わない。注意するに越したことはない。  ラッシュアワーをさけ、街に出る。どこかに美女はいないかな。きょろきょろしながら通りを歩いているうち、むこうから美女がやってきた。美しいばかりでなく、しとやかで品がある。これにきめよう。  すれちがった美女のあとを、博士は追いかける。歩きながらアンプルの口を切る。あとは、この薬をかけるだけ。そうすれば、あの美女が、たちまちこっちに飛びついてくるのだ。それから……。  その興奮で手がふるえたためか、夢ごこちでねらいが狂ったためか、なにかにその時つまずいたためか、媚薬の液は方角がそれ、女にかからなかった。そのかわり、そばの店のなかに飛びこんだ。そして、そこはウナギ屋。料理人の手につかまれ、カバヤキにされようという寸前の大きなウナギ。  液のかかったウナギは、身をよじってその手をすり抜け、道へ飛び出し、エフ博士のあとを追いかける。博士はあわてて逃げだすが、ウナギは追いかけるのをやめない。通行人がそれに気づき興味をもってながめ、大笑い。さっき目標とした美女も、いっしょになって笑っている。 「またまた、ひどいことになったようだ」  これ以上の人目をひかないようにと、博士は立ちどまる。ウナギはうれしげにすり寄ってきて、ズボンのすそから入って足にまとわりつき、上へとのぼってくる。なんとも形容できない感触だが、媚薬の効力の強烈さは、博士もよく知っている。簡単に追っぱらうことはできないのだ。  手をあげてタクシーをとめて乗り、一刻も早く帰宅することにした。座席にかけていると、ウナギはズボンから腹のほうにのぼってきた。くすぐったくてならない。思わず笑い声をあげると、タクシーの運転手が妙な顔で聞く。 「お客さん、どうかなさいましたか」 「いや、うふふ。なんでもないよ。うふふ、急いでくれ」 「変な笑いかたですよ。いい気持ちじゃありませんな」 「こっちだってそうさ、うふふ」  なんとか帰りついたものの、博士もこのウナギの処置には手を焼いた。つかまえてどうかしようにも、しろうとの手におえるしろものではない。博士は悪戦苦闘する。ウナギのほうは大喜び。にょろにょろと巻きつき、楽しげにたわむれている。  退治しようと近所のウナギ屋から本職を呼んだが、媚薬のきいているウナギは、愛する人のために死ぬわけにはいかないといったふうに、巧みに逃げまわる。博士はいじらしくなり、ウナギ退治は中止となった。 「こんなのにつきまとわれるくらいなら、まだしも自動車のほうがよかったかな。しかし、もはや手おくれ。また半年を、こいつ相手に苦しまなければならぬわけか……」  またも妙な日々がはじまった。姿が見えなくなったからといって、安心してはいられない。朝おきて水道の蛇《じや》口《ぐち》をひねったとたん、そこからにょろりと出てきて、おはようと言いたげな身ぶりをする。ウナギに発声器官がないことを、博士は神に感謝した。なまめかしい声をあげたりされたら、たまったものじゃない。  トイレの水洗の水とともに出てくることもある。水とともに下水へ流れ去ったかと安心していると、どこをどう戻ってくるのか、いつのまにか花びんのなかから出現してくる。すべて博士の気をひかんがための、愛情の表現というわけなのだろう。そして、なれなれしくまとわりついてくる。  博士は媚薬の効力を消す作用の薬の研究をしようと決心したが、この日常では、とてもそんなひまはない。ウナギと同《どう》棲《せい》していて、冷静に頭が働くわけがない。  ウナギからはなれようと、博士はあつい風呂に入ったりもしてみた。しかし、ウナギはあつさもものともせず、いっしょに入ってくる。恋はなによりも強い。媚薬のきいているあいだは、不死身になるのかもしれない。完全な媚薬なら、死んではならないわけだ。  風呂場のウナギは、博士の背中を流してくれる。つまり、石けんを器用にくわえ、こすりつけてくれるのだ。石けんのぬるぬると、ウナギのにょろにょろが背中をはいまわり、博士はくすぐったがってのたうちまわり、それとともにウナギも喜ぶ。  たとえいかに異常でも、この環境に適応しなければならないのだ。逃げようとあがいたって逃げきれず、かえって頭がおかしくなってしまう。博士はこのウナギをかわいがってやることにした。いっしょに風呂からあがったら、オーデコロンをふりかけてやり、酒を飲ませてやり、特別に作ってやったベッドの上でねかせつける。ウナギの寝床というものが、ここでこういう形で実現するとは、さすがの博士も予想しないことだった。  なにもそうまでしてやることもあるまい、と思う人もあるかもしれない。しかし、ウナギがこっちのベッドに入ってくるのより、はるかにいい。ウナギに一晩中、肌《はだ》の上をはいまわられては、眠ることもできず体力がつきてしまう。ウナギのほうは精力があるかもしれないが、こっちは人間というひよわな生物なのだ。  早く半年がすぎてくれるようにと、博士はただそれだけを祈る。  かくのごとく、媚薬の成果は二回ともあがらなかった。いや、二回にとどまることなく、その後もまた同様だった。これだけ効力がはっきりしているものを、なんで二回の失敗で中止する気になれよう。  三回目は動物園。そこで美女をみつけた。しかし、その時も手もとが狂い、媚薬はハゲタカにかかった。オリのなかだから大丈夫だろうと思ったが、つぎの日になると、恋の一念、どうやって脱出したのか、博士の家へと飛んできた。  朝、ガラスをたたく音で博士が目ざめ、カーテンをあけると窓のそとにハゲタカがにっこり笑っていたというしだい。こんなのになつかれては、ぞっとせざるをえない。いまにもこっちが死ぬんじゃないかとの予感におそわれるが、それが愛情の表現なのだから、複雑なものだ。  またも博士は外出できなくなった。家から出ると、頭の上を舞いながらついてくる。他人はそれを気味わるそうに眺め、ささやきあう。どんな遠くへも飛んでくるので、旅行もできない。  もっとも、ウナギとちがって鳥類のため、夜には眠ってくれるのでありがたかった。買物や散歩は、夜のうちにやる。そして、ただ早いところ半年たつよう祈るばかり。  四回目には、みごと人間に媚薬がかかった。しかし、成功とはいえなかった。博士が美女のうしろから媚薬をかけようとした時、その手を警官につかまれた。 「やい、硫酸魔だな……」  液はその声をあげた警官にひっかかった。硫酸でないことはすぐにわかり、刑にもならなかったが、それ以上のひどいことになってしまった。警官が博士になついてしまったのだ。  その警官は自分の家に帰らず、博士の家に泊りこむようになった。しかし、このころになると、博士はいかなる異様なことにも驚かなくなっていた。ただで守衛をやとっているようなもので、便利じゃないか……。  だが、そのうち警官の妻がこのことをつきとめ、博士の家にどなりこんできた。 「どこへ行ったのかと思ったら、こんなところにいつづけだったのね。よくも、あたしの亭主を誘惑したわね。この変態で頭のおかしな科学者……」  博士がなにか言おうとする前に、警官が妻をなぐる。 「だまっていろ。おれは、このかたの魅力にひかれ、自分からここに来たのだ」  争いのあげく、拳《けん》銃《じゆう》をふりまわす。まるで漫画にでもありそうなさわぎ。博士は二人をなだめる。 「まあまあ、こんなことになったのもなにかのご縁でしょう。半年ほどです。しんぼうしましょう」  警官の妻もその日以後、博士の家に泊りこみ、連日のごとく夫婦げんかをくりかえす。そのさわぎで、警官の妻はそうとは知らずに、媚薬のアンプルを投げた。それがたまたま玄関に来ていた女性の保険勧誘員に当り、彼女はたちまち警官の妻に熱をあげた。やがて、その亭主が乗りこんできて、言い争いになる……。  何角関係やらわからないほどの大混乱。これが媚薬の効力期間中、すなわち半年つづくのだった。  やっとそれが終ったが、博士は疲れはてた。媚薬の残りはあれど、もう使う気がしなくなった。何回こころみてもうまくいかなかった。媚薬という、自然の法則に反したものを作ったのがいけなくて、ばちが当ったのだろうか。あるいは、最初に作った時、目には見えないが、そばに幸運の女神ならぬ不運の女神でもいて、それに媚薬がかかったのかもしれない。まあ、せんさくはどうでもいい。こう毎回だめだったということは、これからもうまくいかないとの意味だろう。 「ろくなことはない。媚薬はもうやめだ。終止符をうつとしよう」  博士はメモを燃やした。それから、川にでも投げこもうと、媚薬の入った残りのびんを持ち、外出した。しかし、途中で公園のベンチにかけ、考える。いや、川に捨てるのも考えものだ。魚にかかるかもしれない。ボウフラにかかるかもしれない。万一、カッパでもいたらことだ。捨てるにも苦労することになろうとは……。  博士が頭をかかえて立ちあがると、そばで声がした。 「もしもし、なにか忘れ物ですよ」  老婦人がびんを指さしている。 「あ、それでしたら、いらない物なんです。忘れてったほうがいい品です」 「でも、なにか大事そうなもののように見えますけど……」 「媚薬の残りが入ってるんですが、いらないんです。ろくなことはない」 「媚薬ですって。本当なんですの」  と老婦人は関心を示した。博士は言う。 「本当ですよ」 「いらないのでしたら、ちょうだいしてもかまいませんでしょうか」 「どうぞご自由に。相手にかければいいんです。お使いになるのは勝手ですが、そのかわり、どうなっても責任は負いませんよ」  それを聞き、老婦人はうれしげにびんを手にし、せんをはずし、なかの液を博士にふりかけた。 オオカミそのほか  山の上に丸い月がのぼっていた。月の光は澄んだ空気をつらぬき、あたりの光景を昼間とは別の世界のように仕上げている。静かだった。時どき、木の葉がかすかに音をたてる。あれは、ねぼけた小鳥が羽ばたいたせいだろうか……。  なんてぐあいに、おれはがらにもなく詩的な気分になっていた。まったく、がらにもなくだ。おれは夜の山道を散歩している。休暇をとり、都会を離れての休養なのだ。いや、修養というべきかもしれない。  おれは、どこかひとつ抜けた性格であり、おまけに、きわめて自主性がないとくる。そのため、会社につとめていて、いっこうにぱっとしないのだ。失敗することはしょっちゅうだが、めざましいこととなると、めったにやらない。われながら情なくなる。ひとつ、山奥へでも行って、自分を見つめなおしてみるとするか。そんなわけで、ここへやってきた。  夜の山道。そばには奥深い森がある。遠くからは、小川の音がささやきかけてくる。音もなく星が流れて消えた。こう道具立てがそろっては、おれだって詩的な気分にならざるをえない。なにしろ、おれは自主性がないんだ。まわりが陽気だとすぐさわぎたくなるし、環境が詩的だと、すぐそれに同化してしまう。たあいないものさ。  とつぜん、なにか物音がした。うしろのほうからだ。せっかくの気分が中断された。なんの音だろう。どうやら、動物のほえる声らしかった。それに気がつくと、背中のほうにぞっとしたものを感じた。いや、感じだけじゃなく、現実になにかが飛びかかってきた。不吉さをともなった恐怖のけはい。  いや、もう、生きた心地もなにもなかった。手で払いのけたような気もするし、大声で叫んだような気もするし、倒れながら必死に抵抗したような気もするし、石を投げながら思い切り走って逃げたような気もする。  いちおう気分が落ち着いてみると、おれは旅館に帰りついていた。水をもらって飲み自分をながめなおすと、からだじゅう泥だらけで、手から血が流れている。旅館の主人は、医者を呼んでくれた。医者は、おれの傷の手当てをしながら言った。 「どうなさいました」 「それは、こっちで聞きたいとこだ。暗い森のなかから、なにかが不意に襲いかかってきた。あとは無我夢中。なんだったのだろう、あれは」 「この傷のぐあいからみると、動物にかまれたみたいですな。犬の歯のようでもある。傷そのものは、たいしたことはない。しかし、万一のことを考え、狂犬病のワクチン注射をしておいたほうがいいでしょう」  やれやれだ。まったく、ひどい災難。注射なんて大きらいなのだが、狂犬病だなんて驚かされては、いやいやながらでもやらざるをえない。休養にも修養にもならなかった。おれは都会に帰り、会社づとめという平凡な日常へと戻ったというわけ。  それからしばらくした、ある日。あの事件からひと月ぐらいたった、ある日のことだ。  おれは昼ごろから、なんだか妙な気分だった。それは時とともにひどくなった。つまり、夕方になるにつれ、異様さが高まる。落ち着けないんだな。自分でもしらぬまに、激しい息づかいをやっている。これは、どういうことなんだ。わけがわからん。  わけがわからんのは、むやみとビフテキが食いたくなってきたこともそうだ。ふしぎではあるが、食欲は食欲。どうしようもない。おれは会社が終ると、すぐレストランへ飛びこんだ。 「ビフテキをくれ」 「はい。焼きぐあいはどの程度に……」 「レアにしてくれ」  レア、すなわち、よく焼いてないビフテキのことだ。運ばれてきた、その血のしたたるようなのを、おれはたちまちたいらげ、さらにおかわりを注文した。給仕の人は変な顔をしている。当然だろう。おれだって、この食欲が変でならないんだ。  二人前のビフテキを食ったせいかどうかはわからないが、おれの体内で、形容しがたい荒々しいものが、一段と大きくなってきた。ひとあばれしたいという衝動。なんだ、こりゃあ。ふしぎがってみても、現実にそうなのだから仕方ない。  そこで、おれは考えた。よくわからんが、ただごとでないのは、たしかなようだ。このままだと、おれは今夜、とんでもないことをやりかねない。なにかをしでかすにちがいないぞ。  それを防止するには、早く帰って寝てしまうに限る。おれはそうすることにした。おれの住居は、平凡なアパートの一室。そこへ帰ったというわけだ。帰ってみたはいいが、食事はさっきすませたし、することはない。ひとりぼんやりと、手のひらで顔をなでてみるぐらいだ。  手のひらになにかがさわった。ひげだ。だが、それにしても、いやに伸びている。十日ぶんぐらいがいっぺんに伸びたようだ。おかしい。  窓ガラスに顔をうつしてみようとした。しかし、夜になっていたが、むこうに満月がのぼっており、よく顔がうつらない。洗面所の鏡でなければだめなようだ。  鏡の奥をのぞき、おれは大声をはりあげた。そこにはオオカミの顔があったのだから。それできもをつぶして大声を一回はりあげ、それがつまり自分の顔だと気づいて、もう一回おれは大声をあげ、おれの大声がオオカミのほえる声そっくりなのを知って、さらに大声をあげた。すなわち、オオカミのほえる声が合計して三回ひびいたことになる。  おれのとなりの住人は三十歳ぐらいの独身の男だが、そいつがおれの部屋のドアをたたいてどなった。 「へんなオモチャの笛を吹かないで下さい。テレビでしたら、音を小さくして下さい。動物番組が好きという子供っぽい趣味までとやかくは申しませんが、音量を最大にされては、近所めいわくです」  おれはなにか言いかえそうとしたが、あわてて口を押えた。声を出せば、オオカミの声になるにきまっているのだ。しかし、テレビの音とまちがえるとは、単純なものだね。テレビ中毒で頭がぼけているのは、どっちのほうなんだ。  反撃してやりたい気分をも、なんとか押えた。おれはいま、オオカミに変身しているのだ。けんかになったら、やつを食い殺しかねない。  おれは窓にカーテンを引き、月の光をさえぎってみた。しかし、それはなんの役にも立たず、おれは依然としてオオカミのまま。満月の示す神秘的な作用は、そんなことでは防げないものとみえる。  いつか山道で飛びかかってきたのは、狂犬にあらずして、のろわれたオオカミだったようだ。おれはそれにかみつかれ、伝説にあるオオカミ男になってしまった。満月の夜になると、人間であることをやめオオカミになる。ああ、なんという不運。  しかし、なげき悲しむ感情より、からだじゅうで高まる野性のエネルギーのほうが大きかった。月が天心に近づき夜のふけるにつれ、内部で荒れくるうものを、おれは制御できなくなった。  獣の血は、火口から噴出しようとする溶岩のように、おれをかりたてる。  おれは窓をあけ、そこからそとへ飛び出した。公園のほうへと進んでゆく。オオカミの本性として、ビルよりも樹木のほうを好むのだろう。おれは公園のなかをかけまわった。このスピード、このすばやさ、このジャンプ。すべて快適な気分だった。おれは思いきりほえたてた。  公園内は混乱におちいった。ベンチにかけたり、物かげなどにいて愛をささやきあっていたアベックたちは、大あわて。腰を抜かすのもいれば、あられもないかっこうで逃げまわるのもある。失神したままの女もいた。もっとも、おれを見る前から失神していたのかもしれないが。  どこへ逃げたものか見当がつかず、逃げようとしてぶつかりあってるやつもある。たき火をしようとして、そのへんに散らばっている服を集めてきて火をつけるやつ。木へのぼるやつもあり、のぼった木の枝が折れて池に落ちるやつもある。まったく、壮烈な喜劇的シーンそのままだ。  パトカーの音が近づいてきた。しかし、おれはかけまわるのをやめない。警官なんかこわくない、だ。おれをつかまえることなんか、できるものか、他人に当るかもしれないから拳銃はうたないだろうし、うってもおれには当らないだろうし、当ったところでオオカミ男は銀の弾丸でないと死なないんだ。  おれはかけまわり、警官たちに追いつめられると公園を飛び出し、街じゅうを走り、へいを飛び越え、屋根に飛びうつり、オオカミであることを、こころゆくまで楽しみつづけた。月が沈み、おれのからだが人間にもどるまで。  オオカミであるあいだはむやみと面白かったが、そのあとがよくない。後悔と反省だけが残る。バーのはしごをし、いい気になって金を使いはたし、二日酔いだけが残った朝のようなものだ。  大ぜいの人を驚かし、世をさわがせてしまったのだ。新聞によると死者や重傷者はなかったようだが、社会不安を引き起したことはたしかだ。思いきって自首すべきか。しかし、だれが信じてくれる。医者へ行くべきだろうか。だが、オオカミ男だと、むきになって主張すればするほど、精神異常あつかいされるのがおちだろう。おれは正気のオオカミ男なのだが。  おれは本を読んで調べてみた。しかし、オオカミ男の治療法はでていなかった。殺し方だけがのっている。銀の弾丸でうつか、銀の杖《つえ》でなぐりつけるかだ。ひでえもんだ。ヒューマニズムに反する。もっとも、オオカミに変身している時は人間とみとめられないから、殺してもかまわないという理屈なのかもしれない。いずれにせよ、おれは殺されるのもいやだし、自殺するつもりもない。  あれこれ悩み、おれは腹を立て、そのあげく決心した。もとはといえばだ、夜道で飛びかかってきたあのオオカミがいかんのだ。あれをぶち殺してやろう。胸のもやもやも少しは晴れるだろう。それをやれば、のろいがとけるかもしれない。やってみよう。だめでももともとだ。  おれは武器を用意し、いつかの山へ出かけた。昼といわず夜といわず、森のなかをさがしまわる。しかし、オオカミのやつ、いっこうに出現してくれない。おれは疲れ、森のなかで横になり、うとうとした。  その時、皮膚にいやなものを感じた。はっと身を起したとたん、なにかにかまれた。おれはそれを見て、悲鳴をあげた。  ヘビだった。おれはヘビが大きらいなのだ。そばに武器はあれど、使う気にもならず、ただただふるえているばかり。  そのうち、ヘビは音もなくどこかへ姿を消した。しかし、かみつかれた傷からは血が出ている。旅館に帰ると、主人が医者を呼んでくれた。医者はおれを見て言う。 「またあなたですか。あなたは、かみつかれやすい体質なんですかな」 「まさかと言いたいところだけど、そうかもしれないとの気がしないこともない。自主性がないと、運命にもてあそばれやすいのかもしれない」 「傷はたいしたことないようです。しかし、毒ヘビだといけませんから、注射をしておくほうがいいでしょう」  やれやれ、またも注射だ。めもあてられぬ。かたき討ちに出かけ、べつなやつにかえり討ちにされたようなものではないか。おれはオオカミ退治をあきらめ、都会へ帰った。  しかし、おれの心のなかで不安は濃くなる一方だ。満月の夜がまたも近づいてくる。なんとか対策をたてねばならぬ。このままだと、おれはまたオオカミに変身し、あばれまわることになる。前回よりも度が進み、人をかみ殺すかもしれない。殺さないまでも、おれにかみつかれたやつはオオカミ男になり、被害はとめどなくひろがる一方となる。  おれは親しい知人にたのみ、倉庫を一晩かり、そのなかにとじこめてもらうことにした。金を前払いし、なんとか承知させる。  その倉庫は鉄筋コンクリート製、みるからに丈夫そうで、なかであばれてもびくともしそうになかった。上のほうは鉄格子のはまった小さな窓があるだけ、これなら無事に一晩をすごせそうだ。  ふしぎなことに、その日はべつにビフテキへの強い食欲はおこらなかった。オオカミへの変身という症状が、なおったのだろうか。そんな安心感で、おれは倉庫のなかで居眠りをした。カエルを食べるという変な夢を見てから、ふと目がさめた。そして、キモをつぶした。  なんと、おれのからだが、ヘビに変身しているではないか。その驚きと、ヘビぎらいの感情とで、おれは絶叫した。いや、絶叫したつもりだったが、声にはならなかった。ヘビには発声器官がないからだ。  なにしろ、おれはヘビがきらいなんだ。それに自分がなってしまったのだから、なんともいえぬいやな気分。そばに鏡がなくて助かった。ヘビになった自分の顔をみないですむ。しかし、とぐろを巻いていると、からだの一部が目に入る。それを避けるため、おれはからだを長くのばしていることにした。  退屈でもあるし、いてもたってもいられない感じ。もっとも、ヘビに立つことはできないのだが。おれは壁のほうに行ってみた。のぼれそうな気がする。やってみると、壁をのぼれるではないか。これだけはちょっと面白かった。上の小窓にたどりつき、格子をすり抜けてそとへ出る。  といって、行くあてもない。公園へ行っても、オオカミの時のような爽《そう》快《かい》なあばれかたはできないだろう。イブを誘惑し、禁断の実を食べさせてみようにも、いまの女たちにはその必要もあるまい。第一、この長いからだで道を横断しようとしたら、車にひかれて、たちまち死んでしまうだろう。  おれはとなりの倉庫へ入ってみた。酒のたるがしまってあった。おれはしっぽを使ってそれをあけ、酒を飲んだ。暗くてよかった。明るかったら、顔の前にちらちらあらわれる赤く長い舌が見え、酔うどころではなかったろう。とにかく、おれは酒を飲んだ。だれかがこの光景を見たら、ヤマタノオロチと思うことだろう。  酔うにつれ、気がめいってきた。ヘビは陰気な動物だからだろう。ひでえことになったなあ。なんたる宿命だ。まったく、どうしようもない。おれの自主性のない性質がいけないんだ。それが性質にとどまらず、体質にまでおよんできやがった。オオカミにかまれるとオオカミに変身し、ヘビにかまれるとヘビに変身するとくる。体制順応の極致。体制のほうがいかんのか、順応のほうがいかんのか、どうすりゃいいのさ、このおれは。ただひたすらに風まかせ。  歌を口ずさもうにも、声は出ぬ。酔いがさめてきたのか、気温が下ってきたのか、寒けがしてきた。眠っちゃいかん。おれはいま冷血動物なのだ。冬眠になってしまうかもしれないぞ。それに、ここで人間にもどったら、そとへ出られなくなる。おれは千鳥足のごとき動きかたでそこを出て、もとの倉庫へはいもどった。そのうち、月が沈んだのだろう。もとの人間の姿になれた。  一難去ってまた一難。オオカミへの発作が起らなければ、こんどはヘビときやがる。なにはともあれ、ヘビだけはごめんだ。つぎの満月の夜のことを思うと、身ぶるいがする。その恐怖を酒でまぎらし、おれはあるバーで酔っぱらって言った。 「なにかにかみつかれたいよ……」  そのとたん、そばの女がおれの指にかみつきやがった。なにかの不満で八つ当りしたがってたためか、サド趣味の女か、そこまではわからんが。 「痛い……」 「だって、かみついてって言ったでしょ」 「そうだったな。いちおう、お礼を言っておく。役に立つかどうかはわからんがね」 「変な人ねえ」  という次第だが、はたして効果の点はどうだろう。めぐってきた満月の夜、おれは厳重に戸締りをして自分の部屋にとじこもった。来客は入れまい。また、おれがヘビに変身したとしても、ヘビには鍵《かぎ》をあけられないから外出して恥をさらすこともない。  満月がのぼる時刻になると、おれは女になった。まさかという驚きと、やはりという期待とが混合した気分。鏡をのぞくと、けっこう美人だった。鏡をながめながら、おれは服をぬいでいった。無料でヌードショウを見物できるわけだ。みごとなヌードだ。おれは、ごくりとつばをのむ。しかし、それまで。飛びつくこともできないのだ。自分で自分に飛びかかれるわけがない。  ノックの音がした。服をつけドアをあけると、となりの部屋の男。 「郵便がまちがって配達されたので、お渡しします。よろしく……」  男はおれを見て、妙な顔をした。いつものおれでなく、この部屋に男装の女がいるので、ふしぎがっている。おれは言った。 「ねえ、お茶でも飲んでかない……」 「そうはいきませんよ。やつが帰ってきたら、おこられてしまう」 「じゃあ、あなたの部屋に行くわ」 「それも困りますな。なにしろ、ここのやつは、ぐうたらな性質のくせに、やきもち焼きなんだ。さわらぬ神にたたりなしです。おっと、こんな批評は、彼には内密ですがね。じゃあ……」  となりの男は、おれの悪口を並べたてて帰っていきやがった。しかし、おれの内部では好奇心が燃えはじめた。この機会に、女なるものを徹底的に体験しておくことにしよう。  おれはそとへ出て、ハンサムな青年をえらんで声をかけた。 「ねえ、いっしょに遊ばない……」  簡単にゆくかと予想していたが、そうでもなかった。まだよく女になれていないせいだろう。なまめかしさが不足のようだ。それでも、やがて中年の男がひっかかった。ひっかかったといえるかどうか。ただでいいとおれが言ったので、やっと話が進展したのだから。  ホテルの部屋に入ると、中年男は品のない笑いでおれをながめまわした。男装という点が刺激的なのかもしれない。まったく、男ってやつはいやらしいものだ。  かくしてベッドに入ったわけだが、そのとたん異変がおこった。どういうわけか、おれのからだが男にもどってしまったのだ。中年男は悲鳴をあげる。 「きゃっ。なんだ、おまえは。男装の女だとばかり思っていたら、男装の男だったのか。詐欺だ」 「詐欺だなんて。おれがいつ金を請求した」 「そうだったな。ただという話だった。その点は取消す。おまえは変態だ。この点は許せぬ。おれにそんな趣味はない。しかし、さっきまでは本当に女のようだったがな。頭がおかしくなってきた。胸がむかつく。どうしてくれよう。おまえをぶんなぐってみよう。少しは頭がすっきりするだろう」 「まあ、まあ、ここはひとまず……」  おれはベッドから飛び出した。中年男は目をつりあげ、歯をむきだして迫ってくる。あの口でかまれたら、つぎの満月の夜にろくなことはないぞ。おれはベッドの下にかくれ、逃げまわりながら、手早く服をつけ、大急ぎでホテルを出た。  ほっとして空を見ると、なんと月食。満月が半分ほど欠けている。ははあ、このせいだったのか。満月の作用が、月食で一時的に中断したらしい。おれは帰宅した。  しかし、これは面白いことになってきたぞ。こんどはうまくやろう。満月の夜が待ちどおしい気分に、はじめてなれた。  準備をととのえる。婦人服を買い、口紅のたぐいをそろえた。そして当日、おれは安ホテルの一室を借りた。満月がのぼり女に変身したら、おれはここでさっそく婦人服に着かえ、そとへ出て男をさそい、ここへ戻ってこようという作戦。無料であり、宿泊費持ちとくれば、ひっかかる男もあるだろう。未知への期待で、胸がわくわくした。  だが、なんということだ。おれはとんでもないものに変身してしまった。なんにだと思う。ベッドにだ。  このあいだ、中年男から逃げる時、急いでベッドから飛び出して下にかくれたりした。その際、ベッドのどこかに手をはさみ、けがをしたのだろう。ベッドにかまれたのだ。たぶん、それが原因だろう。  ベッドに変身しては、身動きもできない。おれはそこにベッドとして存在した。世の中に、これほどつまらないことはない。おれはベッドの立場になってみて、それがきわめて同情すべきものだと、はじめてわかった。  そのうち、事態はいっそう悪化した。夜おそくなってノックの音がし、おれが声を出せずにいると、ドアが開いた。ホテルのボーイがなかをのぞきこみ、空室と知って、アベックを案内してきた。おれが借りた部屋なのに、ひどいものだ。しかし、ベッドには抗議もできない。  そのアベックは、おれの上に乗りやがった。ああ、なんということだ。無礼きわまる。ひでえもんだ。縁の下の力持ちとは、このことかもしれぬ。いかなる感情も行動にあらわせない苦痛。じっと、がまんしていなければならぬ。月の沈むまでは……。  月が沈んだ。おれは人間にもどった。たまっていた感情を、おれは一度に爆発させた。 「なんだ、このやろう。だまっていればいい気になりやがって、おれをさんざんふみつけたりしやがったな……」 「そっちこそなんだ。ぼくたち二人の部屋に侵入してきやがって」 「ここはおれの借りた部屋だ」  どなりあいのそばで、女が金切声をあげる。さわぎを聞きつけて、ボーイが来る。 「なんです。お静かに。あ、ベッドが一つなくなっている。泥棒だ」  おれは言いかえす。 「泥棒とはなんだ。だいたい、この部屋にははじめからベッドは一つしかなかったはずだ」 「そうでした。しかし、さっきは二つ見たような気がしたが……」  かくして、さわぎははてしなくつづいたというわけ。  女への変身はうまくいかなかった。金を払って美人にかみついてもらったのだが、そのあと蚊にさされたのがいけなかったらしい。満月の夜になると、おれは蚊に変身してしまった。こんな心細い夜はなかった。いつ死ぬかわかったものじゃない。女性の部屋に飛びこむことはできても、へたをすればパチンとつぶされかねない。人間として、こんなみじめな死に方はあるまい。  蚊にさされただけで蚊に変身するなんて、おれの体質の敏感さと自主性のなさは、ここにきわまった形だ。なにかにかみつかれると、つぎの満月の夜にはそれになってしまう。アリにかみつかれたら、もっとひどい死に方になるかもしれない。  死といえば、ひどい目にあったことがある。交通事故ではね飛ばされたやつ、おれがかけよって介抱すると、おれの指にかみついて息がたえやがった。  つまり、そのつぎの満月の夜には、おれは死人になった。まさに変死だ。警察は病院に運び、死因究明のため解剖しようとしやがった。解剖したって死因はわかりっこないぞ。  やめてくれと叫ぼうにも、死人に口なし。恐怖でおれは背中が凍る思いだった。死体だからつめたいのは当然かもしれないが、おれは息もできなかった。死体だからこれまた当然かもしれないが。おれは生けるしかばねだ。  これからなにをされるのかと思うと、おれは生きた心地がしなかった。しかし、危機を脱することができた。生きるか死ぬかという状態だったら、警察もことを急いだだろうが、死者となると能率的に処理しようとしない。死んでたのがよかったのだ。やがて月が沈み、おれはもとにもどり、そこを逃げ出した。九死に一生だ。そのあと、死体消失で警察と病院とが責任を押しつけあい、ひとさわぎあったことだろう。だが、このミステリーだけは、いかに推理作家を動員しようが、とけっこあるまい。  もう死体だけはこりごりだ。おれは自分で自分にかみついた。なぜこの名案に早く気がつかなかったのだろう。つぎの満月の夜にはなにも起らなかった。おれはおれに変身し、おれとしての一夜をすごし、月が沈むと同時に、おれはおれにもどった。  名案は名案だが、どうも物足らない。おれは変身中毒にかかっているようだ。せっかくの能力を、宝の持ちぐされにしているような気分。心の奥で変身への欲求がうずく。  気の抜けた感じでぼんやりしていたためか、おれは小型金庫に手をはさんだ。金庫にかみつかれたということになる。ひとつ金庫の気分を味わってみるとするか。  おれは会社の事務所のなかで、その夜、金庫に変身した。夜がふけたころ、賊が侵入してきた。なんだか心配になってくる。高熱の炎で穴をあけられたり、ダイナマイトで扉《とびら》を破壊されでもしたら、おれはどうなる。しかし、その賊は金庫破りの名人で、ダイヤルを回して扉をあけた。おれはほっとする。  賊はがっかり。なかはからっぽだったのだ。ぶつぶつつぶやいていたが、この金庫をちょうだいする気になったらしい。おれを運び出し、車につみ、自分の家へと持ち帰った。そして、これも盗品らしいダイヤモンドを何粒も、おれのなかにしまいこんだ。それから、安心したごとく眠りについた。  おれは人間にもどると同時に、そこから逃げ帰った。なんだか胸がむかつく。吐くと、ダイヤモンドの粒がいくつか出てきた。しめしめ。おれは下剤を飲み、からだのなかのダイヤを全部回収した。思わぬ収穫。  これを処分し、豪遊するとしようか。なにを買うかな。三角の帆のついたヨットなんかいいかもしれないぞ。しかし、なにも買わなくてもいいことに気づいた。おれがヨットに変身すればいいのだ。おれはすてきなヨットを選び、それにわが身をちょっとかみつかせた。  つぎの満月の夜、浜辺でおれはヨットに変身した。月の光をあび、夜の海の上を風を受けて動きまわる。悪くない気分だぜ。しかし、他人が見たらきもをつぶすだろう。だれも乗っていないヨットが、生けるがごとく航行しているのだから。  そのことを気にし、おれは沖のほうへ出た。しかし、いささか出すぎてしまった。へたをすると、海上で月の沈む時刻を迎えることになるかもしれぬ。そうなったら、おれはそこで人間にもどり、おぼれ死ぬことになる。あわてざるをえない。おれは海岸へとむきを変えて必死に進み、なんとかまにあった。この時はひや汗をかいた。  まあ、こんなわけで、けっこうスリルや変化を楽しんできたというわけ。しかし、ひと通りやってみると、あきてもくる。あなただって、こんな話にはもういいかげんあきてきたはずだ。なにか変った目標があればいいんだが……。  神にかみつかれてみたいと、どれほど念じたことだろう。しかし、神は出現せず、出現したとしても神がかみついてはくれまい。神がだめなら悪魔でもいいんだが、どうやれば出てきてくれるのか見当もつかない。  ということだったのだが、こんどの満月の夜、つまり明晩というわけだが、それについてはおれはスリルとサスペンスをいだいている。なぜって、おれはこのあいだ、地面の割れ目に足をはさんでけがをした。それがどうしてスリルとサスペンスなんだと、ふしぎがる人がいるかもしれない。いいかね、つまりおれは、地球にかみつかれたという状態にあるんだぜ……。 倒れていた二人  とある谷間の、細い川にそった道。そのそばに若い男と女が倒れている。あたりには、びんの割れたガラスの破片が散らばっている。これがことのおこりなのだが、それは、さておき……。  昼すぎのひととき、テレビの画面では、なんということもなく番組が進行していた。学識のありげな顔つきをした人物が、もっともらしくしゃべっていた。 「これからは個性の時代です。しかし、個性とはなんでしょう。考えてみると重大な意味を持っています。個性的な生活というものが、新聞や雑誌でさかんに紹介されています。それを読んだ人が、なるほどなあと、その通りにやるとする。しかし、それは人まねであり、個性的な生活とはいえない。というわけでありまして、個性とはなにか。その答えはなにか。すなわちイマジネーション、想像力です。だれにでも、少しずつ性格のちがいがある。そのちがいを、想像力で伸ばす。それが個性的な生き方です。アインシュタインも言っております。想像力は知識よりも重要である、とか。や、他人の言葉を引用するということは、個性や想像力に反するものかもしれませんな……」  ユーモアのつもりか、苦笑いをしてみせる。あまり変りばえのしないコマーシャルが二つほどつづき、ニュース担当のアナウンサーが画面にあらわれた。まわってきた紙片に目をやり、読みあげる。 「本日はたいした事件もありません。こんなところです。ハイキング・コースとして有名な桜沢の道ばたで、若い男女の心中死体が発見されたことです。目撃者の話によりますと、やすらかな死に顔で、少しはなれて遺書があったそうです。おたがいに愛しあっているのだが、各種の事情でいっしょになれない。この上は天国で結ばれることにします、との内容だったとか。ドライないまの世に珍しいほどの純情さ。この点で、さまざまな話題を呼ぶことになりましょう……」  視聴者、ふうん、そんなこともあるだろうなと感じるだけ。なにかもっと、面白いことはないものかな。他の局へチャンネルを切りかえてみる。そこでも、たまたまニュースをやっている。アナウンサーが、仕事と割り切った表情と口調でしゃべっている。 「桜の名所としても有名な桜沢で、若い男女の死体がみつかったそうです。遠くから目撃した人の話によりますと、いやがり逃げまどう女性に対し、男がむりやり乱暴をしようとし、争いとなった。男は女の首をしめあげ、女は必死に抵抗し、割れたびんで男を刺した。女をしめ殺したものの、男も出血多量のために死んだとのことです。またも発生した血なまぐさい事件。社会のうれうべき傾向と、人びとの眉《まゆ》をひそめさせる話題となりましょう……」  視聴者、ふうん、そんなこともあるだろうさ、とうなずきかけ、ふと気がつく。桜沢というと、どこかで聞いた地名だぞ。いつ、どこで耳にしたのかな。ええと、なんだ、ほんのちょっと前に聞いた地名じゃないか。  しかし、なんだ、こりゃあ。男女の死体が二組、みつかったということなのだろうか。そうじゃなかろう。ちょっとした見解のちがいにすぎないのだろうな。  愛しあったあげく、それがこじれ、かわいさあまって憎さ百倍とでもいった心境になっての結果。つまり、けんか心中とでも呼ぶべき新手法かな。そのへんまでは頭に浮かぶが、それ以上の想像をしてみるのは、めんどくさい。だれかが真相を教えてくれるさ。信頼できそうなテレビ局へと、チャンネルを切りかえてみる。  やはりニュースをやっていた。画面には桜沢の場所を示す地図が出ており、アナウンサーの声が流れていた。 「桜沢の駐在所から所轄警察署へもたらされた報告によりますと、ハイキングをしていた男女ふたりが、なにものかに襲われて殺されたとのことです。犯人らしいのが逃走してゆくのを見たという人があらわれ、警察ではその捜査活動を開始したとのことです。犯人の早期逮捕は、だれもが期待していることでしょう……」  視聴者、ははあ、なあんだ、やっぱりよくあるたぐいの事件か。まもなく犯人が逮捕されるのだろう。そして自白し、事情がわかる。一件落着という経過か。こういったことに頭をあれこれ使うのは、浪費というものだ。  それにしても、いくらかは気になるな。ニュースにそれぞれ、ずれがある。早く真相を知りたいものだ。犯人はもうつかまったのだろうか。ラジオをつけてみたくなるというものだ。音楽が流れ、女性歌手が甘ったるい声で歌っていた。その曲が終ると、ディスク・ジョッキーのアナウンサーが言った。 「桜沢ちかくの山に銀行強盗の一団が逃げこみ、警官隊が出動し、山狩りにむかっている。そのような電話が入りました。早くつかまってくれるといいですな。もっとも、つかまらなかったからといって、われわれ預金者が損をするわけじゃなし。なぜ、つかまってほしいなんて思うのでしょう。うまくやったやつへの嫉《しつ》妬《と》心かもしれませんな。では、つぎにお送りする曲は〈ジェラシー〉……」  うむ、銀行強盗がからんでいたというわけか。これは、ちょっとした事件といえるかもしれないな。しかし、さっきのテレビのニュースで言っていた、男女の死者はどうなったのだろう。強盗団の巻きぞえにされたのかな。気の毒に……。  しかし、あれこれ推測の努力をするより、ダイヤルをべつな局に回したほうがてっとりばやい。その局もディスク・ジョッキーをやっていた。 「桜沢のちかくにお住いのかたから、電話でおしらせがありました。みなさまのさがしたニュースを、新鮮なままただちにおしらせし、ほかのかたがたと電波で親しく結びあわせるのが、この番組の特色。よその局で、このまねをはじめたのは、まことに困った現象ですが……」  そこで一息ついて言う。 「……さて、桜沢の山のほうに過激な政治的な一団がたてこもり、警官隊と対立している状勢とのことです。火炎びんの破片をたしかに見たとか、興奮した声の電話でした。いずれ、くわしいことがわかりしだい、またおしらせいたしましょう。ぶっそうな世の中ですね。これというのも政治が悪いからです。ところで、顔の色のお悪いかたへの、耳よりなおしらせ。栄養および化粧の二つの作用をそなえたクリームは……」  過激派の集団が銀行強盗をやったのだろうか。銀行強盗のやりかたが過激な政治的傾向をみせはじめたのだろうか。顔の色の悪さの解決の重点は、栄養にあるのか、化粧法にあるのか。それに匹敵するほどの大問題かもしれないぞ、これは……。  こんな日の夕刊は、いささか楽しみだ。電波というやつは消えてうやむやになるが、活字となると、そうでまかせな報道はしないはずだ。配達されるのを待ちかね、のぞいてみる。  わあ、出ている、出ている。わが社のスクープとばかりに、大きく出ている。道ばたに倒れていた若い男女は、近くの民家に収容され、医師の手当ての結果、生命はとりとめるもよう、と書いてある。おいおい、どういうことなんだ。死んだものとばかり思わされていたのに。しかし、新聞報道だから、うそではないのだろうな。  昏《こん》睡《すい》状態で面会禁止となっているが、わが社から急行した記者は、ひそかに近づき、男のほうの声を聞くことができた。「先生、すみません」と、力ない声でつぶやいている。その記者の推測だが、その男の言葉からこんな印象を受けた。政界上層部の裏面にからむ、なにか複雑な事件に巻きこまれたあげく、死の道をたどらざるをえなかったらしい。  そして、識者とやらの意見が、二つほどのっていた。ひとりは「憂うべきことである。よくあることだ。何回くりかえせば、すっきりするのだ」と言い、もうひとりは「憂うべきことだ。まれにみる大不祥事というべきだ。このさい徹底的に究明して、すっきりさせるべきだ」  べつな新聞では、それなりのスクープをやっていた。驚くべきことに、若い男女とも生命をとりとめたそうであり、面会禁止の点までは同じだったが、この社から飛んでいった社会部記者は、なんとか女のほうのうめき声を聞くことに成功したという。  それによると、女は「あんたは、ばかよ」との、うわごとをくりかえしているという。男を批難する感じがこもっている。一部では純愛的な内容の遺書があったように伝えられているが、その現物は確認されていない。しかし、たしかにそれを見たという少女はおり、その言葉にうそはないようだ。それらから推理されることは、三角関係のからんだ、心中をよそおった巧妙な殺人未遂事件ではないかと思われる。記事はそんなふうに結んであった。  読者としては、そとへ出て、べつな新聞を買って読んでみたくもなる。そして、買えば買ったで、それなりの面白さを味わえた。  ある新聞には、こんな報道がのっていた。桜沢には昔から、どこかに埋蔵金があるとのいいつたえがある。倒れていた二人は、ある歴史学者にたのまれて調査にやってきたというわけ。そして、ついにその手がかりを発見しての帰途、どうするかについての意見が対立し、争いとなったあげく、二人は倒れて気を失ったようである。  地図らしき紙片が川に落ちて流れてゆくのを見たという老人は、以上の真相を本社の記者に話してくれた。警官隊があたりを警戒しているのは、その埋蔵金のうわさを聞きつけ、どっと人が押しよせるのを防ぐためのようだ、と。  興味のある人は早く押しかけろと、そしらぬ顔でそそのかしているような印象を与える記事だった。新聞とは、事件の大きく発展するのが本質的に好きなのだ。多くの読者がそれを望むので、新聞もそれに応じているわけで、どっちのせいかはわからないが……。  埋蔵金か。うん、そのへんが真相かもしれないな。そううなずく人もいることだろう。倒れていた男のほうは「先生、すみません」とか言ってたそうだ。先生とは政治家のことでなく、歴史学者のことかもしれない。女の「あんたは、ばかよ」との言葉は、金銭への欲望のあらわれかもしれない。争いにもなるだろうな。おれだったら、どうするか。恩師への義理、金銭と女、この二つをくらべた時、どっちを選ぶだろうか。  そういった平凡な空想はしてみるが、事件についての想像など、だれもやらない。情報とは、だれかが結果を知らせてくれるものなのだ。考える必要などない。ちょっとのあいだ待てばいいだけのこと。  つぎの日になると、朝のニュースショーは、それをとりあげていた。現地へ行っている中継車からは、各局それぞれ、べつべつな説を伝えていた。  麻薬密売団がからんでいるにちがいないとの、新説を持ち出したテレビ局もあった。現場に散っていたびんの破片が、なによりの証拠だ。断固たる口調で語っていた。  すべてに共通していたのは、ヘリコプターからうつした画面だけだった。地上では、そのへんの住民、警官隊、報道関係者、それらが意味ありげに動きまわっている。いったい、本当のところ、なにがおこっているのだろう。  こんな日には、だれも一瞬、ふと考える。テレビが五台ほどあり、各局の各説をいっぺんに知ることができたらなあと。新聞も六種ぐらい購読しておけばよかったかなと。  一方、世の中には、テレビや新聞など、まるで気にしないで生活している人が、いないこともない。ここにもそのひとりがいた。  桜沢の少し先に別荘地があり、老科学者がひとり、そこで余生をすごしていた。食事や掃除のたぐいは、近所の農家から中年の婦人がやってきてしてくれる。  その老科学者、まさに学問の鬼。すなわち世俗的なことに関心がないため、テレビや新聞に目をやろうとしない。定年退職のあと、時間を持てあます形となった。アイデアだって浮かんでもくるわけだ。  この別荘の一部を実験室に改造し、その思いつきをもとに研究をつづけ、やがて、ある薬品の合成に成功した。 「できた。これでいいはずだ。これこそ、イマジネーション・ガス。これを少しでも吸うと、大脳の細胞に刺激が及ぼされ、当人の想像力を大きくひろげる。つまり、その人の個性的な思考を、ぐんと伸ばすという作用がある……」  濃縮液化したそれを、びんにつめ、老科学者はうなずく。 「これは人類史上、大変な発明だぞ。いまや情報はコンピューターとマスコミ媒体で、すべて処理できる時代。これからは、個性を伸ばすことが各人の最大の課題だ。個性とひとくちに言うが、これまでは非常な努力をして築きあげなければならないものだった。それがこのイマジネーション・ガスによって、苦労することなく入手が可能となった。人間が画一化し、どんぐりの背くらべといった世の中だったが、これによって、どんぐり相互のあいだの微小なちがいが、ぐっと拡大されるのだ。変化にとんだ人生を、各人がそれなりに持てるようになる……」  彼はにっこり笑う。 「有効に使えば、新しい文明期の幕あけともなる。夢のような気分だぞ。しかし、ここでは動物実験も、人体への作用の試験もできない。それは、知人の経営している製薬会社にたのむとするか」  そこへやってきたのが、かつて助手であった青年。ガールフレンドと近くまで来たので、あいさつに寄ったという。老科学者は言った。 「都会へ帰るのだったら、ついでにこのびんを持っていって、わたしの知人にとどけてくれないか。これからどこかへ回るのなら、荷物になるから、たのんでは悪いが」 「先生のおたのみなら、引き受けますよ。それに、どうせ帰り道なのです」 「それはありがたい。では、これはその謝礼だ。とっておいてくれ」 「いいんですか、こんなにいただいて」 「遠慮しないで、とっときなさい」 「いただきます。わかりました。たしかにおとどけいたします」  青年はガールフレンドと帰っていった。そのあとも、老科学者は満足感にひたりつづけた。ぶじにとどき、有効性がはっきりすれば、わたしも大金持ちになれる。いや、金銭などは問題じゃない。学者としての名声があがるにちがいない。もしかしたら、歴史に名をとどめることになる。  あの青年、びんを落して割ったりはしないだろうな。多額の謝礼を渡したのだから、気をつけて持っていってくれるとは思うが。しかし万一、途中で割ったりしたら、あの液体はガス状となって発散し、ひとさわぎ発生しかねない。ちょっと、いやな予感がした。  ところが、その予感が現実のものとなった。青年はびんを落し、液体はガス状となって爆発的にひろがった。ショックで気を失った二人には、脳細胞への刺激もさほど及ばなかった。だが、あたり一帯には、ほどよい濃度でそれがひろがった。  桜沢は谷間のくぼ地であり、あまり風が吹かない。そのため、ガスはあたりにただよったまま。だから、そこへふみこんで呼吸した者は、たちまち作用を受ける。つまり、ちょっとした見聞をもとに、その人の個性に応じて、想像をどんどんひろげるということになる。  純愛小説の好きな少女は、その性格によって、倒れている二人を見て美しい死と思いこむ。暴行事件の記事の好きな男は、それにちがいないと、見てきたような錯覚をひろげる。だれかに襲われるのではないかとの不安感を心のすみに持っている者は、倒れている人物を見ると、それが原因にちがいないと信じてしまう。  警官の出動を見て、銀行強盗を連想する人と、過激団体を連想する人と、いろいろある。その性格のちがいは拡大され、話の差も大きくなってゆく。新聞記者やテレビ局のレポーターにだって、政界裏側趣味、三角関係傷害趣味、埋蔵金趣味、麻薬団趣味、いろいろ各人の好みがあるはずだ……。  取材のため現地にかけつけた社会評論家は、深呼吸したあと、あたりの各人各説を見聞し、すぐに結論を出した。電話をかけ、週刊誌へと意見を伝える。 「真相はぴんときました。来る前から、そうじゃないかと考えていた通りです。これはまさしく、マスコミの陰謀です。どれもこれも大差ない記事なら、新聞は一紙だけとればいい。しかし、それでは部数がのびず、利益があがらない……」 「なるほど」 「いいですか。この販売競争が限界に達したわけです。そこで、ついに共同してこの予想外の事件を作りあげたのです。だから、この事件発生以来、各紙の売行きはそれぞれ伸びているはずです。どの社も損をすることなしにね。テレビ関係も加わっているかもしれない。ガチャガチャとチャンネルを切りかえるため、視聴率も高まっているはずです。わたしは、この張本人を必ずつきとめてみせます」  出版社系のその週刊誌は、緊急特報と称し、すぐに記事をのせた。これまた売れに売れた。その週刊誌だけはマスコミの分類に属さないようなふりをして。  なにごとも革命と結びつけなければ気のすまない若い学者は、これまた興奮して意見を送っていた。 「いよいよ革命です。この地点に革命の火がともった。この桜沢という地名は、歴史の上に大きく記録されるにちがいない。警官隊のものものしさを見たとたん、わたしはそれを直感した。警官たちの表情には、おびえたものが感じられる。これは事態が、権力ではすでに止めようもない勢いに至っているからです。自由と解放を求めるこの力は、ここを中心に、とめどなくひろがるにちがいない」  電話の相手は聞きかえしている。 「もっと具体的に、冷静におっしゃってくれませんか。なにへの自由、なにからの解放を求めているのですか。現地の、そのへんの事情を知らせて下さい」 「なんたる質問。冷静でいられる場合じゃない。これは革命なのですぞ。世の中には解放感があまりに多すぎ、ぬるま湯にひたっているようなものです。それから脱出して自由になりたいとの心からの欲求ですよ。おわかりでしょう。また、ですよ。自由が多すぎることでの、なにをしたらいいのか目標のわからぬ不安とあせり、それからの解放を求める叫びですよ。わたしには肌《はだ》でそれがわかります。うそだと思うのなら、来てごらんなさい。わたしはこれから、山へ入り、指導者を激励してきます」  聞いているほうは、なにがなんだかさっぱりわからないが、真剣な声に接しているうち、そうかなと思えてくる。  防衛関係の役所の一人は、そこへやってきて、つねづね思っていた不安をかきたてられ、それが現実化したのではとの錯覚におちいる。本部への報告を送る。 「ただならぬ状勢です。奇襲にちがいない。どこかの国の落《らつ》下《か》傘《さん》部隊の一団が降下したようです。わたしは以前から、わが国のレーダー部門の研究のおくれを気にしていました。どこかでレーダー網にかからない技術を開発するかもしれないから、その対策を考えておくべきだと。それにちがいない。敵の一団はどんな武器を持っているか、予想もつかない。この周辺に包囲態勢をととのえるべきでしょう。一刻も早く」  べつな一人は、本部へこう報告する。 「外敵の侵入なんかじゃありません。これは重大な陰謀に関連した計画の一端のようです。このあいだから気になっていた。このへんに防衛態勢を集中させておき、そのすきに首都でクーデターを発生させようという計画の可能性です。いや、可能性なんてものではなく、現実ですよ。そもそも、敵兵らしき姿をみとめられないのですから」  報告を受けた本部は判断に迷い、さらに調査のために人員を派遣する。やってきた人物は、その人の個性を最大限に発揮した報告をやってのけることになる。  防衛関係者ばかりでなく、どの報道機関も、現地へ行かずに報告だけ聞かされている本社の者は、みな当惑していた。なにが起っているのだ。集めた限りの資料をコンピューターに入れたが、なんの解答もでてこなかった。しかし、報道しないわけにもいかない。  一種の集団ヒステリーとして片づけるべきではなかろうかとの、名案を出した者があった。混乱しかけた大衆を落ち着かせるには、それに限る。そのつじつまをあわせるよう言いふくめられた専門の学者は、苦労した。  みなが同一の幻覚を抱いたのなら、集団ヒステリーと呼ぶこともできる。しかし、各人がさまざまな錯覚でさわぐとは、どういうことか。そのあげく、多極分散型の、新種の集団ヒステリーとの命名をした。そして、原因は一種の公害であろうと仮定した。新しい公害としておけば、説明はひとまず先へとひきのばせる。  そして、現地へやってきて報告する。 「まさしく公害です。これまでの公害の例とまったく同じ。わけのわからないうちに現象がおこり、ぐずぐずして対策をおこたっているうちに、さわぎが大きくなる。公害の公式どおりです。一刻も早く対策を……」  それは当然。公害だと思いこんでやってくれば、その想像力は大きく強力になり、すべてがそのように思えてしまうのだ。  この桜沢の一帯は、個性発揮の場と化していた。いつもならちょっとした性格のちがいにすぎないのだが、ここに来ると、ちょっとしたという程度のちがいではなくなってくる。  数日後の夜、空に大きな流れ星があった。だれかが叫ぶ。 「円盤だ。ついに宇宙人の増強部隊が到着しはじめた。地球の危機だ。あ、あそこに一人いる。ほら、緑色のやつが動いている」  たまたま、そばに宇宙小説を読みすぎた警官がいて、それに共鳴し、拳銃を発射した。容疑者を簡単に殺してはいけないと教えられてはいたが、宇宙人の来襲となると話はべつなのだ。弾丸は命中し、草が倒れた。警官は叫ぶ。 「やった。宇宙人をやっつけたぞ」  同じ宇宙小説の読みすぎでも、べつな好みで読んでいる者だってある。 「宇宙人を殺すなんて、なんてことだ。友好的な目的で訪れてきた相手なのに。とんでもないことになった。人類は野蛮な生物であるとみとめられ、滅亡させられるかもしれない。ああ、すべて終りだ」  と、ふるえあがり、泣き叫ぶ。  その銃声は、べつな警官の一団の耳へもとどいた。その指揮者は、相手はギャング団の一味と思いこんでいる男だった。一味はついに、やぶれかぶれの抵抗をはじめたらしいと判断する。照明灯がつけられ、拡声機から声が流れる。 「むだな抵抗はやめろ。完全に包囲した。武器を捨てて出てこい」  安物の拡声機であり、遠くにいる者には、なにが叫ばれているのかわからなかった。革命マニアはそれを自分なりに判断し、絶叫した。 「ばんざい。ついに革命は現実となった」  そばにいた、耳の遠い老人が言う。 「そうですか。ついに神が現実となりましたか。あの光を見ていると、なんとなく神々しい気分になります。ありがたいことです。長生きしたかいがありました。これで死ななくてすむか、この世が天国になるか、どちらかでしょう。いずれにせよ、同じことです」  うれしそうにひれ伏す。しかし、そばでとがめるやつがあらわれる。 「天国とはなんだ。神なんて、あるわけがない。おれは仏教の信者だ。阿《あ》弥《み》陀《だ》さまといえ。あのお声は、阿弥陀さまにちがいない」 「なにいってんです。阿弥陀さまのあらわれるわけがない。地蔵菩《ぼ》薩《さつ》ですよ」 「よっ、待ってました。この仲裁はわたしにやらせて下さい。つまらない論争はおやめなさい。宗論はどちら負けても釈《しや》迦《か》の恥といいますよ……」  と口を出したのは、落語の好きなやつ。そばで、釈迦をシャケと聞いたやつがある。 「シャケですって。やっぱりそうですか。わたしはシャケの群れが川をさかのぼるのを見たいと、前から思っていました。どうしてこの川にのぼってこないのか、ふしぎでならなかった。ついに現実となりましたか。そういえば、下流からそれらしきもののさかのぼって来るけはいがする」 「シャケのさかのぼる川には、クマが出るはずです。出なければならないのだ。あ、あの林のくらやみでなにかが動いた。わあ、クマだ。クマが出た」 「ウマが出たから、どうだっていうんです。わたしは競馬ファン。ウマは大好きです。安心なさい。ウマは人を食べたりはしません。ウマはウマです」 「うまい食べ物があるんですか。ひと口くれとは言いませんよ。わたしは料理の研究家です。教えてもらうだけでいいんです。これまでにわたしの感心した味は、カエルをすりつぶして浮かせた、フランス風のコンソメあたりですな……」 「カエルですって。どこに出たんです。このところ、気象のぐあいがおかしいと気になってました。カエルの異常な大発生ということは、たしかにあります」  なにか言葉の断片を耳にすると、それをもとに、各人の個性にもとづく想像がひろがり、そんな錯覚にとらわれるのだ。そして、それは伝染する。 「大量のカエルが出れば、それにともなってヘビも大発生するはずだ。これこそ、生態学の原理。早く対策を……」 「それなら、つぎはナメクジの大発生となるわけでしょう」  ヘビとかナメクジとかの襲来のうわさがひろまり、あたりで女性たちの悲鳴があがる。こんなのは、その一端にすぎない。各所ではなにかしら、この種のたぐいの混乱が発生し、そのつじつまをあわせようとし、新説が出たり、論争となったりし、どうにもつじつまがあわせられなくて絶望的に叫んだり、その絶望の叫び声から世の終りを連想しておびえたり……。  このままだとどこまで発展するのか見当もつかなかった大混乱も、やがておさまっていった。ガスがうすれ、人体に作用しない濃度に下ってしまったからだ。だれも、とりついていたキツネが落ちたような気分となり、気の抜けた表情で散っていった。  最初に倒れていた若い男女は、ショックのためか、高濃度のガスの副作用のためかもしれないが、その前後の記憶をほとんど失っていた。老科学者からびんをあずけられたことも。  その一週間ほどあと、別荘の老科学者は新聞をのぞいた。新聞なんてものは、一週間ずつまとめ、さっと目を通せばすむという主張と習慣の主。それだけ、研究に頭と時間とがさけるというものだ。  そして、事件の報道を知った。 「や、あいつ、びんを落して割ったとみえる。それでこうなったというわけか。なるほど大混乱になったようだな。しかし、桜沢のへんに集った人たち、内心にさほど凶暴性がなかったためか、べつに死者も出なかったようだな。それにしても、めちゃくちゃな混乱だな。無秩序もいいところだ。個性と想像力をいっせいに高めると、こんなふうになるわけか。考えるべき点だな。さて、わたしの研究のすべてを燃やして消滅させてしまうべきか。それとも、もっと大量に作って大都会にばらまいてみるとするかな……」  彼は腕組みし、長いあいだ考え、やがてうなずいた。そして、自分の判断の実行にとりかかった。 ふーん現象 「やあ、しばらく」 「しばらくもいいところだ。きみ、死んだんじゃなかったのか」 「そりゃあ、本当かい」 「ああ、ぼくは葬式に行ったぜ。香典をそなえてきた。きみは死んでいるはずだ」 「そうとは知らなかった」  と、言われたほうは心臓麻《ま》痺《ひ》でばったり倒れ、あの世行き。もう一人は頭をかく。 「やはり勘ちがいしていた。死んだのはべつな友人のことだった」  しかし、もはや手おくれ。こんな場合、どちらがそそっかしいというべきか。  そんなわけで、世の中にはいろいろと変なこともおこる。  おかしな患者が発生しはじめた。患者とみとめるべきかどうかはなんともいえないが、いわゆる一般の人とちがう点があらわれ、周囲であつかいかねれば、そう称してもいいのではなかろうか。  一種の精神障害。といっても、狂暴でも劇的でも珍奇でもない。記憶喪失や健忘症に似ているが、そうでもない。もったいをつけてもしようがないから簡単に説明すれば、自分がだれなのかわからなくなるという状態なのだ。そのほかについては普通なのだが、自分の名前となると、ぼやけてしまう。言うことも書くこともできない。他人に名を呼ばれても、それが自分だとわからないのだ。失語症というのがあるが、それは机とか車とか、赤いとか明るいとか、ある単語に限ってのこと。だから、それともちょっとちがう。  どの患者も、自分の名前に関して、紙に穴があいたように、そこだけすっぽり忘れてしまっている。記憶というか観念というか、つまり頭のなかでその部分だけが抜けているのだ。年齢とは関係ないようだった。老人もあれば、若いのもあった。男もあり女もあり、職業や学歴とも関係なかった。それらが、ぽつりぽつりと病院へやってくる。  やってくるといっても、本人が進んで診察を求めにくるわけではなかった。家族だの、会社の同僚だのが、持てあまし顔で連れてくるのだ。これまでの習慣だか本能だかで、家庭と職場を往復するのだが自分の名への関心がなくなってしまうと、周囲は困る。  医者はカルテに記入するため患者に聞く。 「で、あなたのお名前は……」 「さあ……」 「名前のない人はいませんよ。犬やネコにだって名はある。まして、あなたは人間だ。それをおっしゃって下さい」 「なぜ、名前が必要なんです」 「これはこれは。なぜって、むかしから、そうなってるじゃありませんか」 「むかしはそうだったかもしれませんが、いま必要とはいえないでしょう」 「そうはいっても、別な人とまちがわれたら、困るでしょう」 「どう困るんです。人間はみな平等でしょう。天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、だれも大差ありません。そういう区別が、そもそも社会問題のもとなのです」 「頭がおかしいくせに、理屈だけは妙に筋が通ってますな。大差ないからこそ、各人に名前が必要なのですよ。動物園ではゾウやカバにだって名がついています」 「ひとがわたしをどう呼ぼうと勝手ですが、わたしのほうから名乗るのはどんなものでしょう。いっこう、その気になりません」  医者はいささか持てあまし、つきそい人から当人の名を聞き、それを何回もはっきりくりかえしてから言う。 「これがあなたの名前です。いいですか、忘れないようにして下さい」 「はあ……」  たよりない返事だった。事実、そのあとすぐその名を呼びかけてみても、まるで反応を示さない。無関係な物音を聞くように、右の耳から入ると同時に左の耳へ抜けてしまってるといったところ。こうなると、患者とみとめなければならない。  入院をさせるが、どう手当てをしてみても、いっこうに快方にむかわない。といって、退院させるわけにもいかないのだ。  そんなのが、ほうぼうの病院でふえてきた。医者どうしで問い合わせたりしているうちに、そのことがわかってくる。こうなると、各所でばらばらに治療するより、一か所に集め、専門の医師団を編成してこれに当り、治療法発見につとめたほうが能率的ではないかということになった。  ある病院の建物がそれにふりむけられ、患者たちはそこに移された。当人たちはのんきなものだが、管理するほうは大変だ。番号と名前とを大きく書いた服を着せ、識別の手段とした。番号制をいやがるとも予想されたが、そんなことはなかった。自己意識というものがないのだ。  これだけ集っているのだから、患者もおたがいどうし名前を呼びあうようになるのではないかと期待されたが、効果はなかった。名を呼んだところで反応がないのだから、呼ばなくなる。服の番号も名も、意味のないただの模様と同じことだった。どの服がだれのやら、混乱してくる。しかし、患者どうしは、なんとかやっていた。だれかれかまわず話しかけ、だれかれかまわず返答している。  それらのありさまを、かくしカメラによるテレビでながめ、治療本部の医師たちは話しあっている。 「どういうことなんでしょう。異常であることはたしかです。なんとかすべきだ」 「いうまでもなく、患者の治療はわれわれ医師の義務です。しかし、あらゆる手をつくしたが、ききめがない。だれか、なにか手がかりを発見したかたはありませんか」  ひとりの医師が発言した。 「ひとつだけある。もっとも、わたしがやったのではないので、確実だとはいえませんがね。怪しげな新興宗教の教祖が、そんな患者をなおしたというのです。そんなのに教えをこうのはしゃくですが、治療のためにはやむをえない。質問に行きました。すると、びっくりさせたら患者がなおったというのです」 「まるで、しゃっくりと同じあつかいだな。どう驚かしたのだろうか」 「それは教祖も忘れていた。しかし、驚かしたらなおったという点だけは、たしかなようです」 「なるほど、そう言われてみると思い当るな。この患者たちは、だれものんびりとしている。このところずっと、社会にきびしさがなくなった。国際関係がきびしさを増したとか、経済状勢がきびしくなるぞとか、ニュースは叫びつづけだが、緊迫感がまるでない。現実は平穏そのものです。ぬるま湯につかっているようなもの」 「たしかですな。体温と同じ湯のなかにつかっていると、どこまでが自分なのか、わけがわからなくなってくる。お湯が自分なのか、自分がお湯なのかです。自己の存在する価値や意義がわからなくなってくる。そうなれば、名前なんか消えてしまいますな」 「おめでたいことなんでしょうかね。あの、おめでたい患者野郎たちは、精神的になかば眠っているようなものですな。目をさまさせなければならない。なにか緊張を与える必要がある。つまり、びっくりさせることだ。くやしいが、その教祖さんの言う通りだ」 「では、それにとりかかろう。こんな方法はどうだろう。患者たちは、うまいことにひとつの建物のなかにいる。なかの連中は、屋上のアンテナで受信したテレビを見ている。だから、あのアンテナに細工して、すごいニュースを送ってみよう。一般には許されないことだが、限られた場所で治療目的に使うのだから、かまわないだろう」  特撮による悲惨な大事故のニュース映画が作られた。それを屋上のアンテナから、建物の内部に送りこむ。 〈臨時ニュースを申し上げます。ただいま大事故が発生し、死傷者多数……〉  患者たちの反応は、かくしカメラとかくしマイクにより、医療本部で観察することができる。しかし、それは期待に反したものだった。 「ふーん」  という、春の日の牛のなき声のような、のんびりした声。驚きとはほど遠いもの。あとの会話はこんなふう。 「あんなとこにいあわせなくてよかった。もっとも、いあわせていたら一巻の終り。それだけのことだな」 「マスコミが大さわぎし、政府があやまり、大臣がやめ、二度とおこさないようにしましょうで幕だ。例によって例のごとく」 「チャンネルをまわして、ほかの番組を見よう」  それならばと、べつなニュースが制作され、患者の建物のなかに放映された。 〈大変なことになりました。銀行がひとつ倒産しました。経済界は、大混乱におちいりましょう……〉  患者たちの反応。 「ふーん」 「政府がなんとかするだろうさ。それ以外にしようがないんだし、そのために政府があるんだろう」  医療本部はくやしがった。この程度では、患者たち驚かないようだ。もっと強烈なのをぶつけなければならない。それが制作され、アンテナから送りこまれた。 〈経済の混乱で破産し、首をつった企業主がありました。あとに残された未亡人と遺児とが、親のかたきと経済閣僚を日本刀で切り殺しました……〉  患者たちの反応。 「ふーん」 「以前にもこんなことがあったようだな。なかったかな。このあいだ見たテレビの時代物にあったかな。や、評論家が画面に出てきて、なにやらもっともらしいことを言いはじめた。いやだね、ますますつまらなくしやがる。あーあ」  せっかくの衝撃フィルムも、効果をあげなかった。医療本部では相談がなされ、こんどこそ驚かしてみせると、週刊誌を作りあげた。普通の週刊誌の一部のページを抜きとり、そのかわりに、作りあげた記事を入れたのだ。 〈暴露された内幕。近世における戦争や内乱の大部分は、中立主義の国にある、大銀行の陰謀であったことが発覚した。ここは秘密で安全ですと預金させておき、そのあと情報部員を送りこみ、巧妙に戦乱に巻きこみ、受取人を死亡させてしまうのである。この世紀のスクープの発端は……〉  患者たちの反応。 「ふーん」 「秘密を永遠に保つことはむりさ。待ってれば、いつかはばれてくる」  週刊誌作戦は、もう一回くりかえされた。こんどはこんな記事。 〈迷宮入りとなっていた、かつての大金強奪事件の犯人が判明し、逮捕状が出されました。なかなか発覚しなかったのも当然で、あのとき盗まれたのは全部が偽造紙幣……〉  患者たちの反応。 「ふーん」 「にせ札を盗むと、犯罪になるのかね。いずれにせよ、待っていれば、真相はいつかわかるものさ。わからなくたって、どうってことないけどな」  医師たちはまたもがっかり、こんどは新聞の一部に、作りあげたニュースを刷りこんでくばってみた。 〈科学的に不可能といわれていた永久運動の機械が作られました。フラグ博士は、地球の重力の微妙な周期的変化に着目し、これと地球の自転および空気の性質とを組み合わせ……〉  患者たち。 「ふーん」 「なにが大発見なのやら、さっぱりわからんな。そのうち便利な装置でもできるってことかね」  医師たちはやっきとなった。会議が開かれ、今後の方針が検討された。 「内幕暴露ものも当らなかったし、学説のくつがえるのもだめだった。あの、おめでた野郎たち、どんなことを見聞させたらびっくりしてくれるんだろう」 「テレビの番組会議、雑誌の編集会議なんてのも、こんなふうなんでしょうかね。われわれ医師は、このたぐいのことは苦手です。そこで、知人のマスコミ関係者に知恵をかりました。すると、革命なんかどうでしょうと教えてくれました」 「どうでしょうかね。なんとか戦争、かんとか戦争で、すっかり手あかのついてしまった戦争という言葉よりはいいかもしれないが、革命という言葉にも、このところすごみはないようですよ。業界における革命だなんて、コマーシャルでよくやってる」 「いやいや、しかし現実に本物の革命がおこったとなれば、これは迫力がちがいますよ。わたしだって、あれこれ考えますよ。他人はどうあれ、自分はうまく立ち回ろうと」 「なるほど。自己というものを意識しはじめるわけですな。ききめがあるかもしれない。やってみましょう」  またもテレビ番組が作られ、患者たちが見ている時間をみはからい、送りこまれた。 〈わが同志たちの行動により、ついに革命が成功した。旧支配階級への容赦ない処罰はおこなうが、一般の人たちは安心してよろしい。軽々しくさわぐことなく、落ち着いて日常生活をつづけるように……〉  患者たち。 「ふーん」 「なぜ今まで革命がおきなかったのですかね。いずれにせよ、ここの者たちは支配階級じゃないんだから、どうってことない。落ち着いて日常をすごす。いわれるまでもなく、そうするほかはないやね」 「それに、ここの者たちは、病人ってことになってるらしい。革命政府が病人をいじめるわけがない。それをやったら、世界じゅうから批難されるでしょう」  またべつな番組が作られた。 〈臨時ニュースを申し上げます。不当なる革命政権に対する軍事クーデターが成功し、戒厳令がしかれました。善良な市民の生命財産は保護されますが、夜間の外出など、不穏な行動をする者は射殺されます……〉  患者たち。 「ふーん」 「逃げかくれし、ふるえている人もあるんでしょうな。しかし、ここにいる者は危険分子あつかいなどされないでしょう。ひどい目にあうとしても、いちばんあとまわしになるんでしょうな」  そんな反応を見て、医師たちは腹を立てた。 「あの、おめでた野郎ども。革命にもクーデターにも、ふーんとしか言えないらしい。楽観的にもほどがある。気ちがいだ」 「精神異常であることは、前からはっきりしてるわけですよ。自己の意識がない人ですから、どうなろうと平然たるものです。精神的な透明人間という感じがする。いわゆる透明人間は、個性はあれど肉体は透明。やつらは、それぞれことなった外観を持つが、精神が透明。なにを送りつけても、そのまま通り抜けてゆく。どうしましょうか」 「ほかに方法がない。いままでの方針をぐんとエスカレートさせてみよう」  その結論により、またも患者たちむけの特撮映画が作られ、建物内のテレビに送られた。 〈驚くべきことが発生しました。南米の奥地に空飛ぶ円盤がつぎつぎと着陸しております。これは現地から送られた現像です。みなさん、決してあわてないように……〉  かつてアメリカで「火星人来襲」のラジオドラマが放送され、パニックの発生したことがあった。今回のは本物のニュース仕立て。いくらかの効果があっていいはずだった。しかし、患者たちの反応は前と同様。 「ふーん」 「人類が宇宙へ行く時代なんだから、むこうからも来るだろうさ。そういえば、むかしの学者たちは宇宙人の存在を一笑に付していたが、このごろはみな、いる可能性もありますね、なんて言っている。うすうす知ってたんじゃないかな」 「いずれにせよ、来ちまったんだから、しようがないやね。成り行きにまかせる以外、しかたがあるまい。来る前だったら……」 「来る前なら、やはり考えるのはむだでしょう。じたばたしたってしようがない」  医師側はまたも相談。 「ひとすじなわではいかん連中だな。いったい、前に話に出た新興宗教の教祖は、どうやって患者を驚かしたんだろう」 「おそらく、世の終りが近いと言ったんじゃないかな。宗教ではよく使われる。ショックですものね。やはりそれ以外にないようだ」  かくして、またも番組が作られた。 〈地球に来訪した宇宙人は、地球の滅亡の近いことを告げ、そのまま去りました。この世の終りです。どう滅亡するのかは不明ですが……〉  いくらか手がこんできた。時期や原因を不明にすれば、一段と不安を感じるはずだ。しかし、患者たちの反応。 「ふーん」 「こういう大問題じゃ、解決に力を貸しようがないな。あくせく働いてこなくて、とくをしたというべきだな」 「世の終りだなんて言ってたが、どうせまたはじまるさ。ご好評にこたえ、またもカムバックとか……」 「滅亡だなんて、むかしからあった話だぜ。ちょっと冬が寒いと、氷河期きたるかとなるし、夏が暑いと、地球は温暖化の一途をたどるとなる。平均体重がふえると、人類は肥満で滅亡か、だ。世の中、滅亡のたねでないものはない。そんなことをわざわざ教えに来るなんて、あの宇宙人、ごくろうさまだ。ばかじゃないのか」  さんたんたる結果。なにかしめくくらないと、作りもののニュースとばれる。いちおう、こんなことにしておいた。 〈先日お知らせした地球滅亡の件は、宇宙人の言語の翻訳のあやまりと判明しました。ただの儀礼的なあいさつだったのです。ご安心ください〉  そのあと、医師たちは会議を開いた。 「宇宙人も世の終りも、だめだった」 「最初からこれをぶつければ、効果をあげたかもしれない。少しずつ刺激をあげていったのが、よくなかったようだ。いまさらしようがないがね。それにしても、まったく手のつけようのない、ばかどもだな」 「いや、患者たちは、ばかとも思えない。会話なんか、まともなところが多い。これまでの観察から、ひとつの傾向がわかった。マスコミのパターンになれてしまっているという点です。たとえていえば、マスコミは、オオカミが来たとくりかえして叫ぶ少年です。それに巧みに適応し、精神の動揺を最小にたもっている。こういう連中に衝撃を与えるには、いままでのやり方ではだめなようです。なにか別な手法を使わぬと……」 「ふーん」 「しっかりして下さい。あなたまで、ふーんだなんて」 「どうしたらいいのか不明なことへの、ため息さ。あの患者たちを見ていると、ものぐさ太郎の話を思い出すよ。ぼやぼやと日をすごしていたが、ある機会にめぐまれ、すごい出世をしたとかいう物語。あの患者たちも、やがて、どえらいことをはじめるんじゃないだろうか」 「なんともいえませんな。やるか、やらないか、正常にもどるか、三つしか結果はないわけですがね」  しかし、ものぐさ太郎のドラマを放映し、その反応を観察してみることとなった。それも効果はなかった。患者たちの反応。 「ふーん」 「なんにもせずにいて出世する。なんにもせずにいて、そのまま人生を終る。あくせく働いて出世する。あくせく働いてもだめだった。ほかに人生はないんじゃないかな」  医師たちは、しからばと性的な映画を放映した。あまり期待はかけなかったが。  やはり、これも「ふーん」の反応で終った。セックスで注意をひこうという手法は、すでに使い古されているし、すでにエスカレートしている。さほどの衝撃にならなかった。予想されてたとはいうものの、医師たちはがっかり。  ここに至って、根本方針がまちがっていたのではないかとの反省がなされた。テレビを利用し、ニュースでひとまとめに驚かそうとするのが無理なのかもしれない。各個人単位の、きめのこまかい驚かしかたをすべきかもしれない。たとえば、こんなふうに。 「あなたがここに入院しているあいだに、奥さんが浮気をしてますよ。いま、その証拠があがりました」  しかし、そう言われた患者の反応。 「ふーん」 「ふーんじゃないでしょ。あなたの奥さんが、ですよ。自己の意識がなくったって、それは大事件のはずですがね」 「テレビドラマ、週刊誌、新聞の身上相談欄。よろめきものでいっぱいです。ということは、そういう世の中なのかもしれません。だとすれば、例外たりうる人のほうが、ふしぎというものでしょう」 「もう、手のつけようがない。ちくしょう、マスコミめ。新鮮味のない性的混乱ばかり芸もなくくりかえしているから、なんのショックも与えなくなった。こりゃあ、治療は想像以上に容易じゃなさそうだ」  かくなる上は、最後の手段。これまで禁断だった言葉を患者の耳にささやいた。 「あなたは、まもなく死にます。この診断書の通りです」  さあ、どうするとの勢いだったが、患者の反応は以前と同じ。 「ふーん」 「驚いたらどうなんです。遺書を書くとか、あとしまつをするとか、急いでやるべきことがなにかあるはずです」 「その診断書はだれのです」 「ほら、これ、あなたの名前じゃありませんか」 「そうですかねえ。そういえば、一時ありましたねえ。幸運の手紙の逆のやつ。これと同文のを何通か出さないと、まもなく死ぬとかいうのが、いっぱいきたが、なんということもなかった。このところ流行しなくなったところをみると、みな平気になったんでしょう。そうですよ、死のおどしにいちいち驚いていては、生きてはいけません。死を避けようとして、あたふた手紙を書きまくった人たちのほうが、寿命をちぢめたにちがいない。ねえ、そういうものでしょう」 「それはそうです。しかし、ああ、なんということだ……」  サソリを病院内にはなす方法もやってみた。死者が出てはことなので、毒のないサソリをたくさん集めて使った。しかし、やはり「ふーん」だった。新種のゴキブリかザリガニと思われてしまったのだ。サソリの恐怖など、はじめから知らない。  最も原始的な方法、爆発音だの、パトカーのサイレンなどを不意に鳴らしてもみた。しかし、騒音なれしている連中には、なんの役にも立たなかった。なにも患者に限ったことじゃないだろうが。  もはや、あらゆる手を打ちつくした感じだった。死の予告にも、サソリにも、爆発音にも驚かないとくる。医師たちは頭をかかえて相談しあう。 「なにをやっても、ふーんが返事だ。こっちがばかにされているようだ。あの、おめでた野郎たちめ、ぶっ殺してしまうか。治療不可能なのだから、安楽死させてやるという方法も残されている」 「いくらなんでも、それはいけませんよ。じつは、わたし、こう考えはじめてきたんです。前にも話がでましたが、あの患者たち、この情報の混乱のなかに、みごとに適応している。精神の動揺が最小ですんでいる。だから、あれはあれでみとめていいのではないかと……」  それについて、医師のだれかが言った。 「ふーん」 「ふーんとはなんです。わたしの考え抜いたあげくの仮説なんですよ」 「そうたいした意見とも思えませんねえ。よくあるパターンですよ。使い古された考え方だ。そんな意見が出るだろうと思ってた」 「とうとう、ここにも患者があらわれた。あなたはここにいるべきではない。患者のいる建物に移るべきだ」  ふーんと発言した医師は、その場で患者と認定され、連れてゆかれた。べつに抵抗もしなかった。会議が続行され、さっきの仮説が強調された。 「というわけでありまして、患者の存在を一理あるものとみとめていいどころか、わたしとしては、患者のほうが正常ではないかとさえ考えたい。彼らは平穏そのもの。ですから、無理に治療することもないのではないか。あまりに大胆な意見なので、驚かれるかたもおいででしょうが……」 「ふーん」 「あなたも、わたしをばかにするのですか」 「異常と思われてたほうが、じつは正常、古い手法だ。なにが新説です。そんなので他人が驚くと、思ってたのですか。ばかばかしい」 「あなたも発病した」  またひとり、医師が患者の建物に移された。残ったなかのひとりが、その新説とやらを出した医師に質問する。 「わたしはすばらしいご意見と思います。しかし、ひとつ矛盾がある。患者たちのほうが正常とすればですよ、あなたが異常ということになる。あなたが患者で、連中たちが医師であるべきだということになる」 「ふーん」 「そんな冗談でごまかさないで下さい」 「ごまかしてはいません。あまりに平凡な反論だからですよ。あなたはとくいになって発言したつもりでしょうがね。議論がこうなってくると、当然でてくる話。それを本気になっておっしゃるなんて、あなたはたわいない」 「あなたも患者の建物に移るべきだ」  医師たちはつぎつぎと、患者たちの建物に移されていった。あとに二人の医師が残った。ひとりが言う。 「ふーん」 「なにに対して、ふーんなのだ」 「言ってみただけさ。だが、いっこうそんな気にならん。ばかげている。あまりにばかげていて腹が立っているんだ」 「わたしもだ。みんな頭がおかしくなりやがった。くそ。やつらにつきあってなんか、いられない。ほっぽっとけ。勝手にしやがれだ。サービスなんかするな」 「まったくだ」  患者たちの建物のテレビは取りはずされた。作ったニュースも、本物のニュースも、ドラマも見せない。新聞はじめ印刷物もとどけないことにした。与えるものは食料だけ。  そのうち変化があらわれた。かくしカメラでながめていると、患者たちはそわそわしはじめた。不安げにあたりを見まわす。なにかひそひそ話しあっている。それがやがて大きな声となった。 「どうしたんだ、こんなことってあるか」 「なにかしら、恐るべき事態が進行中らしい。ただごとではないぞ」 「病院の管理者たちが、陰謀をたくらんでいるにちがいない。このままだと、われわれは頭がおかしくなる。断固として解明すべきだ」 「そうだ。要求書を作って持ちこみ、全員で交渉をしよう」  文案が作られ、書面が作られ、そのあとに患者たちが、つぎつぎに自分の姓名を署名した。住所や年齢、つとめ先まで書く者もあった。  それをつきつけられた二人の医師は、かわるがわる言った。 「ふーん」 「こんなことだろうと思っていたよ。よくある経過だ。くだらない」 所有者  カオ博士という、とんでもないやつがいた。恐るべき人物。どんなふうに恐るべきだったかは、のちほどのべる。  そのカオ博士、その日は公園を散歩していた。目つきが鋭く、頭のよさそうなひたい、意志の強そうな口。ひとくせある外見だが、いまはうれしげな表情で、軽く口笛を吹いている。そのため、ますます奇妙な顔つきとなっていた。  公園のなか、むこうのほうから、あわただしくかけてくる青年があった。 「どなたか、お医者さんはいませんか」  と叫んでいる。カオ博士は聞いた。 「どうしたのです」 「あなたはお医者なのですか」 「いわゆる医者ではないが、医学をまなんだ。いまでも医学を研究している。この分野に関しては、わたしにまさる者はあるまい。ノーベル賞なんか……」 「つまり、医学の心得があるというわけですね。自信がありそうだ。にせ医者ではないようだ。ちょうどいい。このさき、むこうの木の下に人が倒れているんです。苦しんでいる。みてあげて下さい」 「それは気の毒。医は仁術だ。行ってみましょう。しかし、散歩の途中だから、診察器具も薬も持っていない。あなたは、電話をさがし、救急車を呼ぶべきです」 「そうしましょう……」  青年はかけていった。博士は木の下へ行ってみる。やじうまが五人ほどいたが、だれも遠くから見ているだけ。五十歳ぐらいの男が倒れていた。みすぼらしい服装で、やせおとろえたからだ。 「こ、こ、こ……」  と苦しげにわめき、青ざめ、激しい息をしている。 「しっかりしなさい。わたしは医者です。どこがどう苦しいのです」  博士は介抱した。だが、男はただ苦しがるばかり。どういう病気なのか、まるで見当がつかない。博士は脈をとる。そのうち、男は無念そうに叫んだ。 「これを……」  にぎりしめていた手を開き、ぐったりとなった。なにかが地面に落ちた。博士はそれをポケットに入れながら、あわてて男をゆさぶる。しかし、もはや男の心臓はとまっていた。その時、やっと救急車がかけつけてきた。博士は言う。 「もはや手おくれです。もっとも、少し早く来てたとしても、同じだったでしょう」 「あなたはお医者のようですが、病名はなんだとお思いですか」 「なんともいえませんな。苦しんだあげく、ばったりでした。古くなった料理を食べての食中毒、またはアル中のひどくなったものかもしれない。あわれな姿から察して、そんなたぐいといったとこでしょう」 「服のポケットをさがしたが、身元の手がかりになるようなものは、なにもない。あと始末に手数がかかりそうですな。では……」  その死体をのせて、救急車は戻っていった。  カオ博士も、口笛を吹き、笑いながら公園から自分の住居兼研究所へと帰ってきた。 「さっきは妙なことにぶつかったな。診察など、久しぶりだ。みすぼらしい男の、行倒れか。あわれなものだ。ああいう人間が発生するというのも、世の中が悪いからだ。しかし、遠からず、全世界がいい社会になるぞ。それも、わたしの力によってだ。考えただけでも、楽しくなってくる。うひひ……」  異様な笑い声とともに、大変なことをつぶやく。しかし、冗談でも、気がちがったのでもなかった。彼はすぐれた学者であり、出まかせをしゃべるような性格ではないのだ。 「わたしはやっと完成したのだ。思えば努力のしつづけだったな。脳に作用する薬品の研究にとりつかれ、さまざまな新薬を発見した。そのなかの傑作がこれだ。この微量を吸いこんだだけで、当人はたちまち従順になってしまう。命令のままに動く人間になってしまうのだ。うひひ……」  薬びんを手に、うれしげにながめる。 「……しかし、このたぐいの作用の薬は、いままでにないわけではなかった。これだけの発見だったら、そう威張れたものじゃない。われながらすばらしいと思うのは、この触媒の発見のほうだ。この触媒を作って、空中にばらまけばいい。すると、大気中の物質が太陽光線の作用で化合しはじめ、さっきの従順薬がしぜんにできあがってゆく。自動的に化合し、世界じゅうにひろがるのだ……」  カオ博士は触媒の製法を書いたノートを見つめ、こみあげる笑いを押えきれなかった。この触媒物質をまくと、人を従順にしてしまう薬が、大気中にしぜんにふえてゆく。  あらかじめ解毒剤を飲んでおけば、その作用をまぬがれる。すなわち、命令する側に立てるのだ。博士の命ずるままに、全人類が動かされるということになる。 「……そのあと、この分解触媒をばらまけば、空気中から従順薬が消える。それまでのあいだに、わたしの好きなように世界を変えてしまえばいいのだ。ぶつぶつ言うやつらがあらわれたら、また触媒をばらまけばいい。ふたたび、みなが従順になる。史上だれもやれなかった、世界の征服と支配ができるのだ。どんなふうにやるかな。まあ、そんなことは、ゆっくり考えればいい。わたしは最高の力を手に入れたのだ。うひひ……」  早くいえば、世界征服薬を発見したというわけ。笑いたくも、口笛を吹きたくもなるだろう。支配される人類にとってはいい迷惑だが、自由に支配できるカオ博士にとっては、こんな面白いことはないだろう。恐るべきものを完成したのだ。  口笛を吹きながら、研究室のなかを歩きまわる。なにげなくポケットに手を入れると、指にさわったものがあった。 「そういえば、さっき、行倒れ男が、手からなにかを落したな。それを拾った……」  引っぱり出してみると、ペンダント。きらきら白く輝く宝石に、金のくさりがついている。それを見て、博士がつぶやく。 「きれいなものだな。ちょっと見ると、ダイヤモンドのようだ。しかし、そんなことは、ありえない。あのみすぼらしい男が、こんな大きな本物のダイヤを持っているわけがない。ガラスにきまっている。だから、この窓ガラスにこすりつけても、きずがつか……つか……ついた。や、本物だ」  もう一回やってみて、博士は飛びあがって驚く。こんな大きなダイヤがあるとは、聞いたことがない。これが本物とはねえ。ただならぬ、あやしい美しさがある。しかし、ふしぎでならない。あのみすぼらしい男が、なぜこんな高価なものを持っていたのだろうか。わけがわからない。 「こういうものは、一生かかっても、わたしには買えそうに……」  そう言いかけて、首をふる。 「そんな考えは、早く改めねばならん。以前はそうだったが、いまはちがう。世界征服薬を完成させたのだ。金など、思いのままに手に入る。いや、金など払わなくたっていいのだ。みなが従順になるのだから、よこせと言いさえすればいい、うひひ……」  またも笑い声。 「……ひとのものは、おれのものだ。世界全部が、おれのものなのだ。いったん返して、それから巻きあげるのも、ばかげている。第一、返してやろうにも、あの男は身元不明だったしな。これは、さいさきいい記念品として、もらっておくとするか……」  大きなダイヤをながめているうちに、博士は思いついた。 「そうだ、世界征服の触媒、および分解触媒の製法を、このダイヤの裏に書きこんでおくとするか、特殊の液でだ。見ただけではわからないが、ある波長の光を当てると、字が浮き出してくるというぐあいに……」  博士はその作業をやった。そして、ノートを燃やし、ペンダントを首からかけた。世界征服の秘密と大型ダイヤとは、いまや博士とともにあるのだ。まことにいい気分。彼は酒のびんを持ち出してきた。 「前祝いに一杯やるとしよう。いまこそ、祝うべき時ではないか。ほろ酔い気分で、世界征服の構想でもねるとしよう……」  博士はグラスを重ね、ほろ酔いを通りすぎ、そのまま眠ってしまった。  ところが、壁に耳あり。さっきからの博士のつぶやきは、部屋にしかけられてあったかくしマイクによって、某国のスパイのZ9号にすべて盗聴されていた。つつしむべきは、ひとりごと。  まもなく、そのZ9号は博士の研究室にしのびこんできた。 「よく眠っているな。この先生、ひとのいいのが欠点だ。構想の雄大さと頭のよさには敬服するが、警戒心がまるでない。なにもかも、こっちへつつ抜けだ。うふふ……」  と、にやにや。 「……もっとも、それがスパイの商売というわけだけどね。博士がなにやら、とてつもない研究をやっているらしいとは、以前から気づいていた。あとは待つだけ、完成した時にやってきて、それを取りあげればいい。学者は果樹、スパイは収穫係。われわれプロにとって、アマチュアはものの数じゃない。そもそも、世界の征服とか支配なんてことは、しろうとの手におえることじゃない。われわれその道の専門家にまかせてもらったほうが、はるかにうまくゆく。先生の夢は、かならず実現してあげますよ。では、気の毒だが、おやすみなさい」  拳《けん》銃《じゆう》をとりだし、眠っている博士にむけて一発。博士は世界征服の夢を見て眠りながら、そのまま永遠の眠りについてしまった。  博士を生かしておいては、触媒の製法がよそにもれる可能性がある。その防御法を開発されることだってある。そうなっては、この秘密の価値がなくなる。秘密情報は唯一だからこそ意味があるのだ。スパイの考え方は、冷酷にして非情、そして理屈にあっているとくる。  あわれをとどめたのは、カオ博士。こんなものを発見しなければ、天寿をまっとうしたものを。また、部屋をよく調べておけば、つぶやく習慣さえなければ、番犬でも飼っておけば……。  なんという不運。  本当は不運なんていうものでなく、必然の経過だったのだ。その大きなダイヤのせいだった。  このダイヤが掘り出されたのは、二百年ほどのむかし。山からおりてきた男が、鉱山技師のところへ持ってきて言った。 「ほら穴の壁を掘ったら出てきた。いやに大きいが、本物のダイヤでしょうか」 「ちょっと見せなさい。うむうむ、や、これは本物だ。すごい」  そう答えるやいなや、喜びかけた発見者をナイフでぐさり。 「な、なんとひどいことを……」 「これを手にしたとたん、欲しくてたまらなくなったのだ。悪く思うなよ……」 「これが悪く思わずにいられるか。こんなことで殺されるなんて、あんまりだ。うらみつづけ、のろいつづけてやる。あの世に行ってからもだ。このままでは、死んでも死にきれない……」  そして、息がたえた。かくしてダイヤは技師の手に移ったが、ぶじにはすまなかった。親友だからと安心して、それを見せる。 「ちょっとしたものだろう」 「なるほど、すごい。見ていると、返したくなくなってくるぜ。どうしたらいいか。こうでもするか……」  技師は殺され、ダイヤは奪われる。それ以来、そのくりかえし。だれでも、見たら所有したくなる。加工され、きらめくようになってからは、なおさらのことだ。  欲しくなるのはいいが、あまりに大きいので値のつけようがない。いかなる金持ちにも、手のだせぬ価格になる。となると、所有者をぐさりとやって巻きあげる以外にない。やられたほうは、うらみ、のろいながら死んでゆく。  だから、ある国の王の所有になるまでに、何人が殺されたか、数えきれぬほど。その各人の無念さが、何重にもダイヤにとりついた。ついに完全なる、のろわれた宝石というやつになってしまった。だれもそうとは気づかないまま。  のろわれた宝石かもしれぬと思う者があったとしても、現物を見ると、なにもかも忘れて欲しくなる。それほどすばらしいダイヤなのだ。だが、現実は死者たちのうらみの受信機。  所有した王だって、長くはつづかなかった。反乱によって殺され、ダイヤはその首謀者の手に移る。さらに所有者はかわりつづける。独裁者、それを殺した殺し屋、殺し屋を殺したその情婦……。  いちいち書いていたら、きりがない。所有者の交代は、金銭での売買によらない。ほとんどが、死をともなった強奪だ。だから、宝石商の目にふれ、値のつけられるということがない。ひそかに持ち主がかわっている。  のろいは、そのたびに強力確実なものとなり、所有したら最後、ただではすまない。  すでに公園でみすぼらしい男が原因不明の死をとげたし、カオ博士も殺された。  ダイヤをカオ博士から奪ったスパイ、Z9号は本部へ無電で報告した。 〈大変な秘密を手に入れました。世界を思うがままに支配できる物質の製法です。二、三日中にそちらへ送ります〉 〈そんな大変なものなら、すぐ送れ〉 〈警戒がきびしくなったようです。行動は慎重にしたほうがいいようです〉 〈それもそうだな。いずれにせよ大手柄だ。その情報が本物だったら、ボーナスがたくさん出るぞ〉 〈そんなご心配はいりません。これが職務なのです〉  まったく、ボーナスなんかどうでもいいのだ。このダイヤのすばらしさにくらべたら。  そもそも、本部へ送るのは、物質製造についての情報だけでいい。このダイヤは、ちょうだいするとしよう。 「ある波長の光を当てれば字が出てくると、博士が言っていたな……」  Z9号はその仕事にとりかかる。 「……見れば見るほど、すごいダイヤだ。これが、所得税なしで手に入る。この程度の役得は、あっていいよ。なにしろ、命を賭《か》けて、スパイという仕事をやっているんだから……」  光線を当てる仕事に夢中になっていると、いつのまにか、みしらぬ男がそばに来ていた。そいつは拳銃をつきつけ、Z9号に言った。 「では、命をいただくとするか。勝負はついたのだ。いやにきれいなものを、いじくっているな。まず、それをいただいてからだ」  銃をつきつけられては、さからえない。ダイヤを取りあげられてしまった。Z9号は泣きつく。 「あ、それは返してくれ。命より大事なものなのだ。いったい、あなたはだれだ」 「ご同業さ。所属国籍はちがうがね。RR3号という。すなおに従ってくれれば、命だけは助けてやる。命がそれほど大事でないというのなら、それもいただいてゆく。こっちは、もらってもそうありがたくないがね」 「なんのお話です」 「とぼけてもだめだ。さっきの無電を傍受してしまったのだ。暗号表がこっちの手に入ったばかりだった。これだけ話せば、おわかりでしょう。不運とあきらめ、製法の秘密とやらを渡すんですな」 「いやだと言ったら……」 「まず痛めつけてみるかな。手かげんはしないよ。死んだら死んだでいいんだ。それからゆっくり、さがしてみる。そのへんから、なにかが出てくるだろう。出てこなければ、面白くないから、ここを爆破する」 「ひどい、むちゃくちゃだ」 「おいおい、世間の常識を持ち出すなよ。スパイの世界は、ひどいのが当り前だ。おまえだって、身におぼえがあるはずだ」 「うむ。それはそうだ。ところで、どうだろう。取引きといこう」 「すなおじゃないね。なにをのんきなこと言ってるのだ。この道の経験が少ないらしいな。おれはスパイから情報を盗むのを専門にしているスパイだ。学者を果樹とすれば、おまえは収穫係、おれは山賊となる。こっちのほうが一段うえなのだ」 「取引きもだめか」 「なにもかも、いただいてゆく。そのかわり、命だけは助けてやる。これが条件だ。同業のよしみだし、そのうちまた役に立ってくれるかもしれぬからな。さて、イエスかノーか」  こうなっては、いやもおうもない。 「仕方ない。死んでは、なにもかも終りだ。言いますよ。いまの宝石に書きこんである。ある波長の光を当てると、読みとれるらしいのです」 「そうかいただいてゆくよ」 「不要になったら、あとでダイヤを返してくれませんか」 「まだぶつぶつ言ってやがる。だめだね。おれだって、役得にありつきたいもの。命を助けてあげたのだから、心から感謝してもらいたいところなんだぜ。元気で仕事にはげんで、せいぜい情報を集めるんだな。そのうち、また巻きあげに来るから。あばよ」 「ああ、ああ……」  泣いてもむだ。ついに情報もダイヤも奪われた。殺されないですんだのは、相手がいち早くダイヤを見つけ、とりあげて所有してしまったためかもしれない。  しかし、のろいの宝石と知らない当人は、くやしがる。おれ以上に不運なやつはないだろう。情報も、ダイヤも、ボーナスも、昇進も、なにもかもふいになってしまった。こんなことがあって、いいのか。あのダイヤには、もう二度とお目にかかれないことだろう。  本部から無電連絡が入る。 〈どうなった。待ちかねているのだ〉 〈もう、くやしくて、くやしくて。あ、敵に暗号を知られています。べつな暗号表に変更しましょう〉 〈よし。さて、どうなった〉 〈くやしくて、くやしくて……〉 〈それはわかった。感想でなく、報告を知らせてくれ〉 〈だめになってしまいました。対立国のスパイに奪われました。ダイヤごと〉 〈ダイヤなんか、どうでもいい〉 〈そのなかに、秘密がしるしてあったのです。ああ、ああ……〉 〈いまさら泣いても、まにあうものか。どうやら、ダイヤに気をとられていて、油断してたようだな。このまぬけ。もう、おまえには、まかせておけぬ。かわりの者を本部から派遣し、取りかえさせる〉 〈ああ、ああ……〉  Z9号、みるもあわれなほどの落胆。本部の信用まで、なくしてしまった。思い出すのは、あの大きなダイヤのことばかり。ほかのことは頭に浮かばない。魂が抜けたように、ぼんやりと毎日をすごす。  そのあげく、道を歩いていて交通事故死。本当に魂が抜けてしまった。やはり、のろいの宝石の力は健在だった。  本部はすご腕の女スパイを派遣した。若く美人で、頭がよくクールという、とびきりの情報部員。  RR3号のかくれ場所をつきとめ、出かけてゆく。 「あらあら、部屋をまちがえましたわ」 「あなたのような美人にまちがえられるとは、この部屋も光栄です。わたしも幸運。一杯つきあっていただけませんか。ちょっとしたものを、ごらんにいれますよ」 「あたし、たいていのことには驚かないつもりよ」 「驚いたら、どうします。ひと晩おつきあいいただけますか」 「ええ。で、どんなものなの」 「これですよ、ほら……」  とダイヤを出す。この、のろいのダイヤ。なんとなく他人に見せて自慢したくなる。それがのろいであり、だからこそ悲劇がつづくのだ。美人スパイは目を丸くする。お芝居でなく、本心から驚いた。 「まあ、きれい。見ていると胸がいっぱいになってくるわ」 「でしょう。ゆっくりしていって下さい」 「ええ」  RR3号は、まさか女がスパイとは気がつかない。このダイヤには、女をふらふらとさせる魅力があるらしい。いいものが手に入った。しめしめ。にやにやしていると、酒のなかに毒を入れられ、のろいの言葉を最後に、死んでしまった。またしても死者。 「これで任務をはたしたわけだわ。だけど、それにしてもすごいダイヤね……」  男でさえ理性を失うダイヤ。まして、女とくる。この輝きの魔力にはさからえない。 「これだけのものを、本部へ提出してしまうなんて、もったいないわ。あたしが持っているうちは、危険な秘密もよそにもれないわけだし。そこは適当に……」  とスパイ精神がおろそかになる。身につけてひとに見せびらかしたくなるのだから、どうしようもない。よせばよいのにとは、第三者のいう言葉。 「あなたのようなお美しいかたにお会いしたのは、はじめてです」  身だしなみのいい紳士が、ささやくように話しかけてきた。このほめ言葉、ダイヤへのものとは彼女も気がつかない。 「あら、やさしいかたねえ」  一流の女スパイなのに、だらしないことおびただしい。柔道の心得もあったのだが、相手が悪かった。この紳士は詐欺師兼すり、いつのまにかダイヤと紳士は消えていた。彼女はダイヤの幻を追うかのように自殺。本部は責任感によるものと判断したが、どっちにしろ悲劇であることに変りない。  世界征服の秘密がかくされている大型ダイヤ。その存在に関するうわさが、各国の情報組織にひろがっていった。 「金に糸目はつけない。いかなる手段に訴えてでも、それを入手せよ。どんな非合法なことをやってもいい。考えてもみろ。そんなのが他国の手に渡ったら、どうなる。わが国は、めちゃめちゃだ」  どこもこんな指令を出す。スパイたちの動きが活発になる。  犯罪者たちのあいだにも、その話は伝わった。理由はわからないが、大型ダイヤをみつけると、とてつもない値で売れるそうだ。その所在についての情報提供だけでも、かなりの金がもらえるそうだ。そこで子分たちが動員される。みな目の色を変えて、ダイヤをさがしもとめ、追いかける。  女スパイからダイヤを奪った紳士も、盗品故買屋に見せたのが運のつき。たちまちギャングのボスに通報され、射殺され、取りあげられた。ギャングのボス、それを見て言う。 「これが問題のダイヤか。なるほど、すばらしい。いかに高価でも、手放す気にはならないな」  しかし、いい気になってはいられない。故買屋はよそへも情報を売っている。それは、秘密警察の知るところとなった。ギャング団といっても、秘密警察にはかなわない。その一隊に包囲されて全滅。  ダイヤは、その隊長の手におさまった。 「まてよ。これを上役に渡しても、ほめられるだけで終りだ。昇進したって、しれている。よその国へ売りつけて、大金をさらったほうが賢明というものだ」  それを持って逃走。秘密警察の隊長だけあって、巧妙に脱出した。しかし、自国内にはくわしくても、国境から出るとそうはいかない。道に迷って、力つきて倒れ、そのまま死亡。ダイヤは、国境警備隊のひとりの手に渡った。  こうなってくれば、普通だったら、のろわれた宝石と気づいてもいいころ。しかし、大秘密がからんでいるのだ。争奪にともなう犠牲者が出るのも当然と思われ、だれもそうは思わない。  たとえようもなく美しく大きなダイヤ。それに秘密情報の価値が加わっている。うわさを聞くと、その入手に人生を賭けてみたくなる。一度でも目にすると、わがものにしたいとの衝動にかられる。  いかに訓練された情報部員も、その魅力には勝てない。自己の立場を忘れ、所有欲が優先してしまうのだ。それはそうだろうな。  上役は部下を殺してでも取り上げたくなるし、金庫にしまっておくと、その番人が変心し、持ち出す。それを見ていた者は、対立国にそのことを知らせてしまう。  自分のものにできないとなると、くやしさのあまり、対立国だろうがギャング団だろうが、そこへ情報を流して金にする。  ダイヤが移動するにつれ、そのあとには死者が何人も発生する。うらみと執念を残した、死者たちだ。そして、その何倍もの裏切者が出る。だから、どこの国においても、情報部も、秘密警察も、一般警察も、内部が大混乱。組織の機能低下がいちじるしい。  しかし、上層部はどこも、やっきとなって指令を出しつづける。 「争奪が激しいのは、それだけ秘密が重要だからだ。あくまで努力をつづけろ。絶対に他国に負けてはならぬ。あきらめるな」  裏切者を大量に処刑し、新しい人員がダイヤ作戦につぎこまれる。そして、つぎつぎに死んでゆく。のろいの宝石なのだから、それは必然なのだ。死者がふえるにつれ、宝石へののろいも強くなる一方。  とめどなく人員と資金がつぎこまれたが、成果はいっこうにあがらない。いたずらに死者がふえてゆく。これに関連したどこの国のスパイ組織もめちゃめちゃ。壊滅寸前。  みごとにダイヤを手に入れ、飛行機を操縦して逃亡したやつがあった。当人は幸運な成功と思ったことだろう。しかし、宝石ののろいのほうが強い。計器に故障がおこり、無人島へ墜落。救助信号を残して消息を絶った。  その情報は、あっというまにひろがる。各国は軍艦や潜水艦をそこに急行させる。にらみあいとなって、どこも手が出せぬ。むりに上陸しようとしたら、そこで砲撃戦がはじまり、増援隊がかけつけ、世界大戦のきっかけともなりかねない。  各国の首脳たちが交渉をはじめた。 「武力衝突だけは避けましょう。なんとか話しあいで……」 「ただごとではありませんな。報告によると、どこの国もこの件によって、すでに被害甚大のようですな」 「情報部はどこも、がたがた。金と人員がへる一方。優秀な人材から死んでゆく。へたすると、国家までぐらつきかねない」 「どうも異様です。もしかしたら、これはわれわれの常識をこえた力が、働いているのかもしれませんよ」 「どういうことです」 「神の意志といったものかもしれない。世界征服という恐しいことは、だれにも許されないことでしょう。それをさとらせるために、それとなく罰を与えているのかも……」  のろいの宝石のせいとは知らず、物質製造の秘密のせいと思っている。 「そんな気がします。国の対立のむなしさも感じます。あのダイヤがいくら高価だといっても、しれています。ばかばかしい損失です。これ以上つづけることはない。この件は、凍結ということにしましょう」 「そうですな。島へは、武器を持たない共同捜索隊を上陸させる。発見したら、どこの国のものともしないで、秘密を解読することなく、そのまま国際管理ということにしましょう」  その提案にみなが賛成した。ダイヤはこわれた機内の死体のそばにあった。ダイヤは島から運び出され、そのために建てられたビルのなかにしまわれた。各国の人員によって編成された警備隊により、厳重な警戒がつづけられることとなった。もはや、だれにも手が出せない。  完全な国際管理。おそるべき秘密は発表されることなく押えられ、これで世界の危機は去った。平和と連帯の確立。  すばらしい結末だ。しかし、それはどうかな。ダイヤは全人類の共有になったのだ。のろいはダイヤの、所有者におよぶ。すなわち、いまや全人類が所有者。どうなることか。 おかしな先祖  ある日の午後。時刻は四時をちょっと回ったころ。場所はにぎやかな街なか。  ざわめきがわきあがり、流れていった。 「おい、見ろよ。あれ……」 「まあ、どういうつもりなんでしょう」 「正気のさたとは思えない。もっとも、ちかごろは、あんなこと珍しいとはいえないかもしれないな」  人びとが指さすところには、二人の人物がいた。いずれも二十歳ぐらいの男と女。それだけならなんということもないが、みながさわぐのには理由があった。二人とも、はだかだったのだ。  男も女も美しいからだをしていた。男はほどよく筋肉のついた健康そのものの肉体で、髪の毛がのび、ひげもあった。女の髪の毛も長かった。ウエストはひきしまり、バストもヒップもみごとだった。二人が歩くにつれ、ぴたぴたと舗道に音がした。つまり、彼らは靴《くつ》もはいていなかったのだ。  といって、完全な全裸ではなかった。腰のあたりを、大きな葉っぱでおおっていた。この二人がどこから出てきたのか、それはだれも気づかなかった。ざわめきの中心に目をやったら、そこにいたというわけだった。なんとなく異様で、夢を見ているのではないかと思った者も多い。それぞれ自分のどこかをつねり、痛いことを確認していた。 「ターザンごっこだろうか」 「いや、よくある、人目をひきつけて喜ぶ、新しい芸術きどりの……」  そこまで言いかけた者は、口をつぐむ。そのたぐいではないらしい。なぜなら、はだかであることを恥ずかしがっており、人目をさけようとしている。しかし、この街なかでは、群衆の視線からのがれることなど、できっこない。  走れば、だれもいないところへ行けるのではないか。二人の動きにはそんなふうなものがあった。しかし、どこまで行っても人通りはたえない。道ばたの商店にでも飛びこみ、着るものを買うなり借りるなりしたらよさそうに思えるが、そういう方法は思いつかないらしかった。  二人が動くにつれ、ざわめきも動いた。しかし、やがて、それも終る時がきた。交番のなかから警官たちが出てきて、飛びつき、つかまえたのだ。よかった。ほっといたら、二人は信号を無視して走りつづけ、車にはねられたかもしれないという感じだった。  やじうまは、交番のまわりを動こうとしない。警官はレインコートを出し、二人に着せかけた。それでも、やじうまは立ち去ろうとしない。人びとがやっと散っていったのは、電話連絡でパトカーがかけつけ、二人を運び去ってからだった。  警察へ連行された二人は、ありあわせの下着と服とを貸してもらい、それを身につけた。二人はきわめて不器用であり、着せてやるのにてまがかかった。  やがて一室に入れられ、型どおりの取調べがはじまった。年配の警察官が言う。 「ああいう人さわがせなことを、やってもらっては困るね。どういうつもりなんだ。なぜ、あんなことをした」  男が答える。まのびした変な口調だった。 「わざとしたのではありません。あんなところへ出てくるつもりは、なかったのです。出てきたところが、たまたまあそこだったというわけで……」 「わけがわからん。で、きみたちの名はなんというのだ」  警察官はメモを手にした。男は言う。 「わたしはアダム」  女が言う。 「あたしはイブっていうの」 「ふむ。アダムとイブか。ちょっと待っていてくれ……」  警察官はしばらく席をはずし、戻ってきて言った。 「……若い者に聞いてまわったが、そんな名の歌手は知らないと言っていた。そういえば、エキゾチックなところもあるな。外国から来たというわけか。いったい、どういうつもりで、あんな人さわがせなことをやったのだ」 「ですから、そんなつもりは、なかったのですよ。禁断の木の実を食べたら、おこられ、追い出されてしまい、気がついたら、あんなところにいたというわけです」  警察官は机の上の電話で、だれかにこう告げた。 「いま取調べ中なのだが、どうやら麻薬がからんでいるようだ。そのうち禁断症状がおこるかもしれないから、あばれるのにそなえて、三人ほど待機させておいてくれ。外国人らしいのだ。追放されて、ここへ来たらしい。麻薬不法所持とも考えられるから、所持品の検査を……」  返事を聞きながら、うなずく。 「……そうか。はだかだったから、なにも持っていなかったことになるな。いや、待てよ。からだにつけていた、あの葉っぱが怪しい。よく分析させてくれ。薬がしませてあるかもしれず、種子がついているかもしれない。変な植物を国内で栽培されては、かなわんからな。うん、うん。どうも麻薬がからんでいるとしか思えんのだ。なにしろ、言っていることが、普通ではないのだ」  顔をしかめる警察官に、アダムと称する男が、ゆっくりした話し方で言った。 「あなたは、わたしたちにからかわれているとお思いのようですが、そうではないのですよ」 「変なことを言うなあ。麻薬でおかしくなっているにしては、いくらかまともみたいなところもある……」  机の上の電話が鳴り、警察官は言う。 「葉っぱの種類がわかったと。ただのイチジクの葉で、種子はなく、薬品の付着もみとめられないと。うむ、すると、麻薬の線の可能性はなしか……」 「だいぶお困りですわね」  とイブと称する女が言った。 「そりゃあ、そうさ。いつもの尋問の調子が、まるで出ない。仕方ない。まあ、順を追って、事務的に質問することにするよ。としはいくつだ」 「それが、あたしにもわかんないの。すごく若いようであり、すごくとしとってるようでもあるのよ。アダムだって同じことよ」  アダムはうなずく。警察官はメモをほうり出し、おてあげの表情になって言う。 「カレンダーのない国にいたというわけか。季節の変化のない、南の島かね」 「いいえ、エデンの園ってとこからよ」 「なるほど。そういうことになるんだろうな。きみたちアダムとイブは、そのエデンの園で楽しく暮していた。しかし、食べてはいけないと言われていた、木の実を食べた。そのため、神の怒りにふれ、追い出された。こう言いたいんだろう」  アダムがうなずく。 「すごい。よくおわかりですね、まだお話ししてないのに。あなたにも、ひとの心を読む能力があるようですね」  警察官は、反射的に机をたたく。 「ふざけるな。いいかげんにしろ。ここは警察なんだぞ。こんなところで芝居をしたって、意味ないじゃないか。だれも、さわいでくれたりしないぞ」 「わたしの言うことを、うそだとお思いですね。ひどい事件の処理を押しつけられ、運が悪いとなげいておいでだ」 「当り前だ。相手に同情されるなんてことも、警察に入ってはじめてだ。いいかげんにしてくれないかね。さて、どうせまともな答えはしてくれないだろうが、身もと引受け人はいないのかね」 「あります。神さまです。しかし、いまの場合、なんにもしてくれないでしょうね。わたしたち、おこられて追い出されたばかりなんですから」 「そうだろうね。で、エデンの園とやらへは帰りたいんだろう。それはどこにあるんだね」 「もちろん、帰れるものなら帰りたい。しかし、どうやれば帰れるのか、わからないのです。追い出され、気がついたら、さっきのところだったのです。わたしたちこそ、帰り道を知りたい。警察で教えてくれますか」  警察官は自分の頭を、手で軽くたたいた。メモは依然として白紙のままだ。イブが口を出した。 「警察をからかうとは、許しがたいことだ。そうお思いのようですわね。だけど、あたしたち、そんなつもりはありませんの。本当のことを、お話ししてるだけなんですわ。信じていただけないようですけど」 「こっちは、からかわれているような気がして、ならないがね。まあ、この件は大目にみよう。黙秘権というものがあるのだから、言いたくないことをごまかすのは仕方ない。しかし、街なかをはだかで歩いたことは、よろしくない。現行犯であり、交番の警官の証言もある。罰せざるをえない」 「罰って、なんですの」 「あつかいにくいね。つまりだ、法律できめられたことに違反したということだ」 「法律って、なんですの」 「それはだ、どう言ったものかな。うん、いい形容があった。あなたがた、食べてはいけない木の実を食べた。そして、そのむくいを受けた。それと同じようなものだ」 「おきてにそむいた、というわけですね」 「そうそう、よくおわかりだ」 「しかし、はだかがいけないなんて、知らされていなかった」 「弱ったね。とにかく、そうきまっているのだ。しかし、あなたがた、悪質な目的でやったとは思えない。凶悪犯罪をやったわけでもない。だから、罰といっても軽いものだ。罰金を払ってくれれば、すぐ釈放する」 「なんですの、罰金って」 「お金のことだ。うん、そういえば、お金もなにも持っていなかったわけだな。かわって支払ってくれそうな人は、神さまだけだが、それもみこみなしとくる。どうにもしようがないな。しばらく留置場に入ってくれ。ほかの者と相談して処置をきめる。おっと、留置場ってなんだなんて、聞かないでくれよ。入ってみればわかるのだから」  アダムとイブとを留置場に入れ、その警察官はため息をつき、同僚にぼやいた。 「あんな変なのは、はじめてだ。頭がおかしいらしいんだが、二人とも、いやに調子があっている。なんてやつらだ」 「最近の若い連中には、芝居気たっぷりのがいますからな。どうせ、そのたぐいさ。留置場で一晩すごせば、心境も変るだろうよ」  しかし、事態の変化は、一晩を待つこともなかった。テレビ局の者と称するのが、警察へやってきて言った。 「さきほど、はだかの二人をつかまえたそうで……」 「さすがはテレビ局、耳が早い。アダムとイブだと、当人たちは言っています。エデンの園から来たともね。世間知らずで、妙に理屈が通っているとこもありで、さっぱり正体がわからない。頭の変な、ふしぎな二人組です」 「興味ある存在ですよ。で、どうなさるおつもりです」 「罰金を払えばすぐにでも釈放しますが、金を持っていないのです。もっとも、また同じことをくりかえしたら、次回からは罪も重くなりますがね」 「いかがでしょう。罰金を立替えますから、渡してくれませんか」 「そう願えれば、こっちもありがたい。いささか持てあましぎみなのです。しかし、どうするつもりなのですか」 「すぐに出演させますよ。うちの局のナイトショーに〓“変った人たち〓”というコーナーがある。それに出てもらうのです」 「それだと、みすみす二人の計画に乗るようなものじゃありませんか。こんなことで名前が売れるとなると、まねするのが続出する。警察としても困る。局も利用された形になり、信用を失うでしょう」  警察官は当然の疑問を口にしたが、テレビ局員は言った。 「うちの、その番組をごらんになってないようですな。決して、そんなものではない。独自性のあるアイデアが、ねらいなのですよ。人まねは、絶対にとりあげません。竜宮の乙《おと》姫《ひめ》だなんてのがつづいたのでは、番組もあきられてしまう。ちゃんとしたゲストの人も出席していて、批判すべきは批判している。それにしても、エデンの園からやってきたアダムとイブとは、ちょっとしたものですよ。普通の人には考えつかない」 「そういうものですかね。まあ、同類が出ないよう注意して下さい。罰金を納入して下さい。これが領収書です。あ、それから、できうれば、彼らに貸してある服を、あとでかえしていただきたい」 「わかりました」  テレビ局員は二人をもらいうけた。自動車に乗せようとしたが、乗り方がよくわからないような感じだった。窓から珍しそうにそとをながめている。それでいて、おっとりとした点もある。局員はつぶやく。 「アダムとイブが現代に出現したら、かくもあろうか、だな。芝居もここまで徹底すべきだ。いい出演者をみつけたものだ」 「芝居じゃありませんよ。わたしたちは、本当にアダムとイブなのです」 「わかった、わかった。そうそう、服を買ってあげなければならないな。ちょうどいい、あそこに店がある」  車はとめられた。店に入る。アダムとイブはよりごのみをしなかった。しかし、着せるのは大変だった。はじめて着るかのごとく、ぎごちない。また、はだかになるのを恥ずかしがった。はだかで街なかに現われたというのに……。  そのほか、なんだかんだとさわぎがあったが、やがて本番の時刻となった。司会者が言う。 「きょうの出演者は、さきほど街なかにはだかであらわれた、若い二人組です。ご本人たちは、アダムとイブだと言っております。では、お話をうかがってみましょう。まず、アダムさんに。いつからご自分をそうだとお思いに……」 「もの心ついてからですよ」 「そうですか。では、イブさん。エデンの園からいらっしゃったそうですが、そこはどんなところでしたか」 「いろんな木のある土地で、美しい花が咲き、泉があり、小川がありましたわ。小鳥はさえずり、気候はよく……」 「いったい、どこの……」 「ヌーディスト・キャンプのことかとおっしゃりたいようですけど、あたし、それがどんなものか知りません。宣伝をたのまれたのでもありません」 「質問をみんな先取りされてしまいますな」 「エデンの園の中央には、善悪を知る木があり、その実を食べるなと言われてたのですけど、ヘビにそそのかされ、あたし食べてしまいましたの。そしたら急にこわくなり、アダムにも食べさせた。すると、はだかでいるのが恥ずかしくなり、たちまちそこから追い出された。気がついたら、あの場所にいたというわけですの」  司会者はゲストのほうに歩み寄って言う。 「どうお考えですか」 「エデンの園とは、人類のあこがれと郷愁の象徴です。そのお二人は、過密と公害とで住みにくくなる傾向をうれい、その防止キャンペーンを、身をもってなさったのではないでしょうか。また、こうも考えられます。先祖がえりという現象がありますが、その一種、精神的な先祖がえりの極端な形ともいえましょう。過密と公害から逃避したいという感情が高まって……」  きょうのゲストは、なんでも過密と公害に結びつけたがる人物だった。これでは番組が盛りあがらないと判断し、司会者はアダムにむかい、いじわるな質問をした。 「あなたがた、これでみごとにテレビ出演ができた。このチャンスを利用して、これから歌手になるおつもりですか、それともモデルに、あるいは喜劇的なタレントに……」 「どこでも、同じことを聞かれる。これからずっと、同じ質問ぜめにあうのだろうか。こんなことになろうとは。神の罰のおそろしさが、だんだんわかってきた」 「お芝居が徹底してますな。しかし、本当にエデンの園から出てきたばかりなら、言葉がこう簡単には通じないはずですがね」  司会者に言われ、イブが答えた。 「言葉をおぼえたのじゃ、ありませんわ。あなたの頭のなかのことが、しぜんにこっちに伝わり、あたしの心に浮かんだことが、相手に通じるような形で口から出るのです。こんな能力はないほうがよかった。なければ、ヘビにだまされることもなかった。あの実を食べると神のようになれると話しかけられ、そうかなと思ってしまったのです」 「ははあ、テレパシーの一種ですな。すると、わたしの考えていることも、おわかりになる」 「ええ、あなたは、あそこにいる女の人に熱をあげている。この番組が終ったあと、帰りがけにどうくどこうかと……」  イブは歌手のひとりを指さした。司会者は赤くなり、どぎまぎし、なんとかごまかした。音楽がはじまり、女性たちのおどりがはじまった。セミヌードの女もでてきた。アダムとイブは、手で目をおおった。  たまたま、ほかに大事件のない、ニュース不足の時期だった。これはいい材料とばかり、新聞社が動き、記者会見となった。アダムとイブに、質問があびせられる。 「なぜ、はだかで街のなかに……」 「またもその質問。自分で望んでやったことじゃありませんよ。神さまに聞いて下さい」 「あなたがた、もしかしたら、宇宙人じゃありませんか。つまり、ほかの星から、この地球へやってきた……」 「星といいますと、神さまが、天地創造の第四日目に作られた、空のあれですか……」 「宇宙人でもないようだな。で、神さまとは、どんなかたです」 「外見はわたしに似ております。わたしたちをお作りになり、例の木の実を食うなと命じられたあとは、お会いしておりません。わたしたち、エデンを追い出されたのですが、その時はお声だけ聞きました。怒りのこもった、きびしいお声でした」 「神さまは星々を作られたそうですが、そのお力はすごいものなのでしょうね」 「わたしたち、天地創造を見ておりませんから、なんとも言えません。わたしの作られたのが第六日目なのですから」 「こちらにいらっしゃって、なにに最も興味をひかれましたか」 「男や女、人間がかくもたくさんいるという点です。これだけは、生めよふやせよ地にみてよという、神さまのおぼしめしにかなっているようです。そのほかについては、まだよくわかりません」  きめてがない。あれぐらいのことは、旧約聖書の創世記を読んでいれば、だれにでもしゃべれる。しかし、答える表情からは、うそや芝居が感じられない。となると、自分をアダムとイブと思いこんだ、新種の精神異常ということになる。同じ妄《もう》想《そう》を二人で共有しているというのは、たしかに珍しく、新種にちがいない。  人びとの好奇心はかきたてられ、それを解決するためには、二人を病院に送りこみ、専門家の鑑定にゆだねる以外になかった。費用はマスコミ各社が負担し、アダムとイブは病院に移された。  妙なものを押しつけられたととまどいながらも、医師たちは一応のことをした。心理テストとして、インクのしみを示し、なんに見えるかと聞いた。イブは「ヘビ」と答え、アダムは「善悪を知る木」と答えた。  うそ発見機にかけ、前にもなされた質問がくりかえされた。二人がうそをついているという証拠はえられなかった。脳波測定をはじめ、さまざまな診察がなされたが、精神異常という点はみとめられなかった。  アダムの胸の皮膚には、傷あとがあった。レントゲン写真をとると、胸の骨の一本が不足していた。  どの結果も、アダムとイブが本物であることを示している。医師たちは頭をかかえた。本物とみとめざるをえないが、そう発表したら、病院の信用が失われる。頭のおかしい医者がいるとなり、患者たちが来なくなるだろう。  最後の手段、二人に暗示をかけ、アダムとイブではないと意識を変えてしまうことができれば、それに越したことはない。しかし、そのこころみは失敗だった。二人にはテレパシー能力があり、こちらの目的が察知され、暗示にかからないのだ。  困りはてていると、うまいことに二人が病気にかかってくれた。おかげで、治療中という理由がつき、診断結果の発表をひきのばすことができた。  病気はハシカ。この年齢でハシカをやっていないとは。本物であるという証明が、またひとつ加わった。あわてて二人のからだを調べてみると、種痘のあとがない。ためしに種痘をしてみると、ちゃんとついた。むし歯は一本もない。すべてのことが現代人でないことを示している。  医師たちは、二人に各種の予防注射をした。時間かせぎの役に立った。  新聞社のなかには、他社をだし抜こうと計画したところがあった。人びとのあいだには、そっとしておいてあげるべきだとの声が多かったのだが。  かりに本物であったら、現代に適応させるのに急激すぎては悪いのではないか。精神異常であったら、さわぎたてるべきではない。  しかし、その一方、事情を知りたいという強い要求もある。それにこたえなければならない。ある新聞社は、社の診療所の看護婦にいいふくめ、アダムとイブのいる病院に就職させた。インタビューをし、手記を独占するのがねらい。運動費が使われ、うまくその病室の担当になれた。テープレコーダーのスイッチを入れ、看護婦は聞く。 「退屈なさったでしょう」 「そんなことはありません。エデンの園よりは、はるかに変化のある毎日です」 「子供のころの思い出で、とくに印象に残っていることはございますか」 「ありません。少年時代というものが、なかったのです。いまのような形で作られ、ずっとそのままでした。これからは、としをとることになるのでしょうが」 「エデンの園の毎日は、どうでした」 「起きて、食べて、ぶらぶら歩きまわり、眠る。そのくりかえしです」 「イブさん。お二人のなれそめについて」 「あたしが作られ、気がついたら、そばにアダムがいたのです。それだけのことですわ」 「浮気についてどうお考えですか」 「ほかにだれもいなかったんですから、考えたこともありませんわ。これから、いろいろ知ることになるのでしょうが……」  どう引き伸ばしても、半生記になるような内容ではなかった。かくなる上はとばかり、その看護婦は大胆なことをやってのけた。医師の部屋にしのびこみ、二人についての診断書をあさって写真にとり、新聞社に持ち帰った。その報酬として大金をもらい、どこか外国へ遊びにいってしまった。  新聞社は発表にふみきった。人びとは知りたがっているのだ。真実を報道して、なにが悪い。不治の病気との診断なら問題もあろうが、これはちがう。それに、あの二人は、自分たちが本物だと主張したがっているのだ。大きな見出しが紙面にのった。 〈アダムとイブは完全に本物〉  病院側は驚いたが、べつに抗議もしなかった。むしろ、ちょうどよかった。診断書のすべてが新聞に出たことによって、結論をくだすという病院側の責任が、うやむやのうちに解消した。  病院側としては、こんな計画をたてていた。事件待望は、大衆の欲求である。それが無意識のうちにつみ重なり、集団幻覚としてのあの二人がうみだされた。あるいは、その大衆の欲求が二人に集中して作用し、アダムとイブだというふうに意識を変えてしまった。そんな説明で、なんとかつじつまをあわせようとしていたのだ。  それをやらずにすんだのだ。新聞報道のおかげで、本物であるということが、いつのまにかきまってしまった。 「本物のアダムとイブが、なぜ現代に出現したのでしょう」  その質問に、医師たちは答える。 「二人が肉体的、精神的に健全であることは、たしかです。すべては新聞報道のとおり。当方に秘密は、なにひとつ残っていません。しかし、なぜ現代に来たかとなると、医学上の問題ではありません。その方面にくわしい専門家にお聞き下さい」  話題は、原因究明のほうに移っていった。二人は病院内にいるのだが、当人に聞いても要領をえない。また、こんなことの専門家など、あるわけがなかった。しかし、やがてひとつの仮定が出た。 「ずっと、冷凍されてたのじゃないでしょうか。氷河に落ち、冬眠状態になっていた。それがめざめたのです」 「それはおかしい。アダムとイブは、カインやアベルという子を作ったはずです。あの二人、子供があるようにみえませんよ」 「そういわれれば、そうですな」  冬眠説は、あまり適切といえなかった。そのうち、ある物理学者がこんなことを言いだした。 「これは、タイムスリップ現象です」 「なんです、それは」 「時間を移動することです。ものすごく大きなエネルギーが作用すると、その力は空間的なひろがりだけではおさまらず、時間軸にも作用する。縦、横、高さという三つの次元におさまりきれず、時間という次元におよんだのです。それによって、アダムとイブが現代に飛ばされた」 「どんな大きな力が働いたのでしょう」 「それは、あなた、天地創造ですよ。これは大変なエネルギーだったはずです」 「そういうものですかねえ。なんだか、おかしい気がしてならないが」 「時間旅行には、パラドックスがつきものです。矛盾があって当然です。ないほうがおかしい。だから、わたしの説が有力ということになるのです」  ほかにこれといった説明も出ず、大衆は解説を求めている。いちおう、これがマスコミに流された。  その数日後、事件が発生した。  武器を持った一団が病院に侵入し、アダムとイブを人質にとり、その病室を占拠した。まさかという盲点で、警備が手薄だった。警官隊がかけつけ、呼びかける。 「無茶なことをする。人質をはなせ」  それへの応答。 「二人を助けたかったら、金を出せ……」  とてつもない大金が、要求された。警官側は、きもをつぶす。 「なんで、そんな大金を払わなければならないのだ。だれに出せと言うのだ。そもそも、あの二人には親類などない」 「いや、すべての人類が親類なのだぞ。二人は人類の祖先、これを殺すとどうなると思う。その瞬間、人類が存在しなくなるのだ。それでもいいのか」 「よく理屈がわからない。相談するから、しばらく待て……」  警官隊は例の物理学者に意見を求めた。そんなことが起りうるのかと。学者はむずかしい顔で言う。 「やつらの言うようなことに、なりかねません。アダムとイブが現代にやってきましたが、これは一時的なもので、やがて時間の引力とでも称すべき力により、もとの時点に戻るはずです。そして子孫を作る。だからこそ、いま、これだけの人類が存在しているのです。あの二人の安全は、絶対にまもらなければならない。あの二人、いや一人でも死んだら、ビルの土台石を引き抜いたように、人類の全部が崩れて消えます」 「すると、要求をのまないといけないわけですかな……」  深刻になりかけたところへ、広告代理店の人がやってきた。 「その身代金は、出しましょう。しかし、そのかわり、あの二人は、わが社の専属契約ということにしますよ」 「それで、金が回収できるのですか」 「できますとも。テレビの、どんなコマーシャルにでも使える。いいですか。まず、アダムとイブとがエデンの園にいるわけです。はだかということで、人目をひける。つぎに禁断の果実を食べ、楽園から追放される。とぼとぼと歩いてきて、なんとか印の既成服を拾いあげ、身につける。大喜び、エデンにいた時よりずっといいとなる。なにも既製服に限らない。食品、自動車、パソコン、どんな商品にも使える」 「なるほど」 「広告業界は、油断のできぬところ。このアイデアを、横取りしようと考える者もいましょう。普通の場合、そこが問題です。しかし、当社で現物を押えていれば、これは強い。迫力がちがいます。世界的な規模で使えます。番組より、このコマーシャルのほうを見たがる」 「いよいよとなったら、お願いするかもしれません。しかし、犯人の要求をそのままのむことはない。値切りましょう……」  そうこうしているうちに、アダムとイブとが、病院のなかから、のこのこ出てきた。あわてたのは警官たち。 「気をつけろ。むこうへ戻れ。うたれたら一大事だぞ」  人質にむかって、むこうへ戻れとの呼びかけは、前例のないことかもしれない。なにしろ、死なれたら大変なのだ。手に汗にぎる、気の遠くなるような一瞬だった。  そんなことにおかまいなく、アダムとイブは脱出してきた。犯人たちは一発もうたなかった。 「よく無事でしたね」 「あの連中の考えを察したのです。わたしたちを殺したら、人類が消滅すると思っている。つまり、自分だって消えるわけです。だから、だれもその気にならなかった」 「そうでしたか」 「それから、やつらにあんなことをやらせた黒幕がわかりましたよ」 「え、それはだれです」 「あの物理学者」  指さされ、学者はたちまち逮捕された。怪しげな学説を流し、それを利用して大金を手に入れようとした。成功していたら、まさに世紀の大犯罪になっただろう。だれかが言った。 「祖先を殺したら、その瞬間に子孫も存在しなくなる。存在しない子孫に、先祖を殺すことはできない。あの学者、この矛盾をごまかしていた。しかし、気になる問題だな。アダムさん、どうお考えです。かりにあなたがここで死んだ場合、人類が消えると思いますか」 「見当もつかない。やってみますか。死ぬのはいやですから、不妊手術でも受けてみましょうか。どうせ、神の怒りにふれたのです。こうなったら、やけだ」 「とんでもない。自重して下さい。あなたたち以外の全員が消えたなんてなったら、ことですよ。しかし、やけになるなんていう現代的な感情を、もう身につけたのですか。適応が早いですね」  あの物理学者の説は、陰謀にもとづくものだったと判明した。しかし、その一方、アダムとイブは本物。説明がつかないと、人びとはなんとなく不安になる。  例によって、出るべき議論が出る。 「なにかの謀略にちがいない。アダムとイブに気をとられているうちに、危険な事態へと巧妙にみちびかれてしまうのだ」 「で、どんな事態に……」 「わかるもんですか。だからこそ、謀略なのです」  この件について、アダムとイブに聞いた者がある。 「だれかの手先きじゃないんですか」 「知りませんよ。ああ、こうさわがれるのなら、あの実を食わなければよかった。のどのぐあいがおかしくなった……」  ごほん、ごほんとせきをする。エデンの園にくらべたら、空気のよごれははなはだしいはずだ。  二人を空気のいい地方へ移すことにした。病死されたらことだ。はたして人類が消えるかどうかはわからないが、安全を期すに越したことはない。  別荘が作られ、その準備がなされ、二人を乗せた車が出発した。  その途中、車が襲われた。護衛の車が同時に故障し、煙幕が張られ、スパイ映画によくあるような、巧妙な方法だった。  アダムとイブの車には、拳《けん》銃《じゆう》を持った男が乗りこんできて、運転手に命じる。 「おれの言う通りに運転しろ。右へまがって広場に行くのだ。そこにヘリコプターが待っている。おれは、ある国の秘密情報部員。アダムとイブをさらうよう、指令を受けたのだ」  運転手はうなずく。 「どうりで手がこんでいた。まあ、お手やわらかに。さらわれるのは仕方ないが、お二人を、そちらの国でも大切にあつかって下さいよ。しかし、さらってどうするんです。なにかの役に立つのですか」 「立つからこそ、さらうのだ。この二人のテレパシー能力。それを活用したい。首脳会談のそばにひそませる。つかまえた敵のスパイの取調べにも使える。なにもかも、すべてわが方にわかってしまうわけだ。そのかわり、二人には最高のぜいたくをさせる」 「アダムとイブをスパイに使うのか」 「なにしろ、国際関係は微妙なのだ。なにがきっかけで大戦にならぬとも限らぬ。その防止は、人類のためでもある。二人にとって、ふさわしい仕事といえる」  あまりのことに、運転手の注意がおろそかになり、ハンドルを切りそこねて、車は道ばたの木に激突した。情報部員は、どこの国の者ともわからぬまま即死した。  救急車がかけつけてくる。運転手は重傷ながら、以上のことを報告した。  そして、アダムとイブ。けがはないが、気を失っている。病院に運ばれ、あらん限りの手当てがなされ、そのかいがあって、あいついで意識をとりもどした。アダムは、あたりを見まわして言う。 「おや、ここはどこだ。なぜ、こんなところにいる。どこからここへ来たのだろう」  イブも同様。二人とも、記憶をまったく失っている。二人はベッドから出る。身にまとっているものを、うるさそうに取ってゆく。はだかになってしまった。それを見ていた医者がつぶやく。 「や、こんなことがおこるとは。この世にやってくる前の状態に戻ったようだ……」  報告のため部屋を出て、ほかの人たちを連れて戻ってくる。しかし、その時、アダムとイブの姿はなかった。だれも、二人の外出を見ていない。あとかたもなく消えてしまったのだ。 「あの物理学者の言ったように、時間の引力でもとへ戻ったのだろうか」 「それだったら、出発した時点、禁断の実を食べた時に戻るはずだ。しかし、いまの消えかただと、そうは思えない」 「たぶん、アダムとイブは、ふたたびエデンの園に戻っていったのだろうな。善悪を知る木の実を食べたため、エデンから追放された。しかし、記憶をすべて失って、その能力がなくなれば、はだかも恥ずかしくないという、それ以前の状態だ。となると、この世にいる必然性もなくなり、エデンの園にいる資格と理由とを持てることとなった」 「そんなところでしょうね」 「うらやましいな。エデンに戻り、のんびりと毎日をすごすのでしょうな。生活苦もなく、不安もなく、としをとることもない。エデンがどこにあるのかは知らないが」 「しかし、なんだかひっかかるな。いずれにせよ、アダムとイブは本物だった。となると、二人が出てきて、また戻っていったエデンの園も存在することになる。神も存在することになる。それはまだいい。だが、まだなんの説明もついていないのですよ。アダムとイブは、はるかかなたの大昔の人でしょう。それがなぜ、こうもおくれて、現在にひょいとあらわれたのか」  だれかが言った。 「おくれてでなく、早すぎたのかもしれませんよ。そんな気がしてならない。なぜだれも、このことを考えなかったのだろう」 「どういう意味だ」 「ちょっと話しにくい……」 「いや、言ってくれ」 「つまりです。核戦争で、すべての人類が消滅する。だれも、いなくなってしまうんです。そのあと、またもと通りにするには、アダムとイブが必要じゃありませんか。そのために、いつでも出番に応じられるよう、神は二人をエデンの園において、待機させている。それを、ヘビのやつが神の目を盗み、ちょっと早めたんじゃないでしょうか。ヘビは悪魔の化身だそうだから、それくらいはやりかねない。しかし、神はうまくはからい、二人を記憶喪失にして、なんとか回収した」 「ヘビがちょっと早めたというが、それはどれくらいの日時だろう」 「わかるもんですか。それだけは、考えてみたくもない」 あとがき  本書が単行本として刊行されたのは、昭和四十七年のことである。そのころの時代背景を書こうかと考えたが、私は時事風俗を排除する方針で執筆しているので、あまり意味のないことに気づいた。  ひまを持てあましているかたは、ご自分でお調べ下さい。政治、外交、社会など、いろいろなことがあったのだが、みな時のかなたに消えてしまった。私なりの思い出はあるのだが、若いかたに通じるかどうか。  ただ「瀬戸の花嫁」という歌が作られ、流行した年とだけ書いておく。耳にし、口にされたかたは多いだろう。こういうものは、時を超えて残るのである。私としても、自分の作品がそのようであって欲しいと思うが、それをきめるのは、読者であるあなただ。評論家が画期的だと記しても、なんの役にも立たない。  お読みになってお気づきだろうが、いわゆるショートショートとちがって、どれも少し長目である。これらは、SF落語を試みようということを、頭のすみにおいて書いた。成功しているかどうかは、これも読者のきめることだ。落語のことはよく知らないが、話として面白いと感じて下さっても、もちろんありがたい。  子供のころから、私は落語をよく聞いた。当時はほとんどラジオによってであり、寄席にもたまに連れていってもらったし、作家になってからはホール落語によく出かけた。  現在は、どれくらい好まれているのだろう。本質的には笑いの集成と思うが、古典落語に登場する人物、職業、場所、小道具など、わかりにくくなっているものも多い。しかし、解説つきでは、笑いにずれが出る。  そこで、といえるかどうか。いまになってみると、落語の存続の助けともなればという気持ちもあったようだ。  厳密にいえば、落語(発生は日本)、本来のSF(発生は英仏)、ショートショート(発生はアメリカ)、面白さの焦点は必ずしも一致していない。しかし、どこか似た部分があり、結びつけられないものかと、作品にしてみた。たぶん、前例はないはずである。  巻末に、早川書房のご好意により、平井和正さんの一文を再掲した。(編集部・注 著作権上の都合により、該当ページは割愛されています)これは昭和四十八年の早川文庫『冬きたりなば』の解説がわりにいただいたものである。なお、それらの作品は現在、新潮文庫にも収録されている。  大いにほめて下さって、私をいい気分にさせる。作家とは、単純なものだ。  もっとも、それだけが原因ではない。このあいだ、平井さんと二人でゆっくり話し合う夜を持て、時のたつのを忘れた。そして、思い出にふけったりした。  いまや日本のSF作家は、それぞれの独自な世界を確立した。しかし、その初期には宇宙の発生のビッグ・バンのように、混《こん》沌《とん》と熱気と連帯感と無限の可能性がみちていたのだ。  そんな事情を察してもらうには、この文が最適と思ったのである。私への賛辞は、割り引いて受け取って下さい。ただ、世の中には私のことを、さらさらと作品の出てくる人物と想像している人があるらしい。まちがいです。血のかよった人間である点では、読者やほかの作家と同じと知っていただきたいというわけです。   昭和六〇年七月 おかしな先《せん》祖《ぞ》 星《ほし》 新《しん》一《いち》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成14年2月8日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Shin-ichi HOSHI 2002 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『おかしな先祖』昭和60年8月25日初版発行             平成11年1月20日30版発行