文春ウェブ文庫    昭和新山 [#地から2字上げ]新田次郎   目  次  昭和新山  氷  葬  まぼろしの白熊  雪呼び地蔵  月下美人  日 向 灘     昭和新山      1  最初の地震はひそやかな音を立てて去った。外を歩いていたら気がつかないでいる程度の地震であった。電灯がかすかに揺れた。  美松五郎は郵便局舎の彼の椅子でその地震を感じた。小さな地震だが、比較的長い地震だなと思った。揺れ方の周期が短い地震だとも思った。遠くに起きた大きな地震を感じたときのように、ゆるやかに揺れるのではなく、かさこそとせせこましい揺れ方に彼は震源地は意外に近いところにあるのではないかと思った。  彼の頭に|有《う》|珠《す》|岳《だけ》の姿が浮び上ったがすぐ消えた。彼は坐り直して、仕事をつづけた。年の暮になって割当てられて来た多額な戦時国債をどう消化しようかとその計画を立てていたところであった。割当額の半分もまだ売れていなかった。現金収入の少ない農民を対象に売りさばこうとしても、なかなか困難であった。 (あと三日で昭和十九年になる。年がかわればまた新しい国債の割当てが来るであろう)  美松五郎は北海道有珠郡|壮《そう》|瞥《べつ》の郵便局長であった。戦争が進展するにつれて郵便局長の本来の仕事より貯蓄奨励の仕事の方が多忙になった。彼は局員が帰宅したあとの局舎で仕事を続けていた。局舎と美松五郎の自宅とは廊下伝いにつながっていた。  第二回目の地震は十五分後に起った。前とほとんど同じぐらいの大きさの地震であった。彼の眼はストーブの方へ行った。ストーブはよく燃えていた。第三回目の地震は、五分と経たない間に起った。  彼は机上を取りかたづけてから、窓によった。暗い夜に雪が降っていた。彼は|薪《まき》ストーブの火を消した。焼けぼっくいから立ち昇る湯気が局舎の天井を|這《は》った。 (震源地は有珠岳だ)  それ以外には考えられなかった。有珠岳が新しい活動を始めたことによって起る地震だと考えればすべてが了解できた。  有珠岳火山の寄生火山として明治新山が活動を起したのは明治四十三年だった。当時二十歳だった美松五郎はそのときのことをはっきり記憶していた。明治新山が新生するときもやはり今夜のような地震が続いた。小さい地震だが、|執《しつ》|拗《よう》に続く地震だった。  美松五郎にかぎらず、この付近一帯の住民は、火山性地震という呼称を知る知らないにかかわらず、|此《こ》|処《こ》には地震が時々起ることをよく知っていた。そして、それが、有珠火山と有機的な関係があることも、先祖からの語り伝えによって知っていた。記録に載っている有珠火山の大噴火は、寛文三年(一六六三年)、明和五年(一七六八年)、文政五年(一八二二年)、嘉永六年(一八五三年)、そして明治四十三年(一九一〇年)の五回であった。文政五年の噴火はものすごく、熱雲のために多くの死傷者を出した。その有珠岳は美松五郎の家から四キロメートルのところにあった。美松五郎は、何度か外に出た。有珠岳になにか変化が起ってはいないかと思ったのである。雪の降り方は激しくなったようであった。有珠岳の方角は真っ暗でなにも見えなかった。  地震は、五分間、間を置くことがあるかと思うと、十分間、間を置くこともあった。二分か三分の間隔で、繰り返すこともあった。  家人が心配して、五郎のところに大丈夫かと念を押しに来た。 「大丈夫だ、たいしたことはない」  五郎は家人に寝るように言った。たいしたことはないかどうか、彼には全く自信がなかった。  電話がひっきりなしにかかって来た。有珠岳が爆発するのではないかという心配の電話が壮瞥村フカバ地区の北条忠良から掛って来た。 「そんなことはない、心配するな」  五郎はそれを否定した。  その電話を切ったとき、五郎は、大地の底で|桶《おけ》の|箍《たが》を叩くような音を聞いた。同時に揺れた。音と震動とは同時に彼を|衝《つ》いた。彼は三十三年前の明治新山のときのことを思い出した。その折も彼は、これと同じような音と震動を同時に聞いたのだ。この時は暑い盛りだった。忘れもしない明治四十三年の七月二十一日の午後だった。地底の音と地動が同時にやって来るから、それは文字どおり鳴動であった。鳴動は時間の経過と共にその強度を増して行った。地底で大砲を打つような音と共に大地が揺れ動いた。壁土が落ち、戸障子が|外《はず》れた。古い家は崩壊した。有珠火山にもっとも近い有珠村では畑地の中から泥水を吹き出した。道路の真中に泥水の噴水が上った。 (有珠岳が爆発する)  人々は口々に叫んで避難を開始した。そして、地震が始まってから五日目の七月二十五日に有珠火山の西北麓に爆発が起ったのである。ひとたび爆発が始まると、次々と新しい火口が現われ、噴石、降灰をこの辺一帯に降らせ、住宅、農地に大被害を与えた。活動は三カ月余にわたって続き、この間、爆発口付近の大地が隆起して、海抜二百二十メートルの明治新山(南北約一キロ、東西約七百メートル)が現出したのである。  美松五郎は、いま聞いた鳴動が明治新山のときと非常に似ているところから見て、この地震もまた、どこかに新しい噴火が起る前兆かも知れないと思った。有珠岳の西北西にある金比羅山から始まって西丸山、明治新山、東丸山、松本山と寄生火山が並んでいる。またひとつ寄生火山が誕生してもいっこう不思議なことではなかった。  近隣からの電話が相継いだ。情況の問い合せもあったが、今後どうなるか、予想を聞いて来る者の方が多かった。美松五郎は明治新山のとき大森房吉博士の助手を務めて以来、この地を訪れる多くの火山学者と知り合った。彼自身も火山に興味を持って、暇を見ては、有珠火山帯を歩き廻って地形を調べたり、地温を測定したりした。その彼のことを、この地方の人はよく知っていた。|洞《とう》|爺《や》|湖《こ》温泉町の地はもともとなにもない|荒《こう》|蕪《ぶ》|地《ち》であった。此処に温泉を発見したのは美松五郎であった。 「避難した方がいいでしょうか」  直接郵便局を訪れて来て、彼の指示を|乞《こ》う者があった。 「大丈夫だ。まだまだ大丈夫だ」  彼はそう言いつづけた。なんの根拠もなかった。ただ明治新山のときのように鳴動が激しくないからまだ大丈夫だと言ったに過ぎなかった。洞爺湖温泉町では避難を始めた家があるという電話連絡があった。  地震は洞爺湖温泉町の方が激しいようであった。洞爺湖温泉町は、有珠岳の北西山麓三キロメートルのところにあった。 「|兎《と》に|角《かく》住民が騒いで困るから来ていただけませんか」  洞爺湖温泉町からの電話の要望で、美松五郎は腰を上げた。  雪は降っていたが、風はなかった。彼は馬で行くことにした。郵便局を出るとき|提灯《ちょうちん》の光で懐中時計を見た。十二時を過ぎたところだった。      2  鳴動は続いていた。時折強い鳴動があったが、柱時計の振子の止る程度のものであった。美松五郎は有感地震があるたびに記録に残して置いた。十二月二十九日は一一六回、三十日は一一〇回、十二月三十一日は一〇五回と地震は続いた。  鳴動は続いたが、これに付随した現象は特に現われなかった。  年が変って一月一日になってから、有珠岳西北西方向の金比羅山麓にある上水道に小亀裂が起って洞爺湖温泉町が一時的に断水した。地形の変化はやはり起ったのである。一月二日になると地震回数は四十二回に減った。住民はやや|安《あん》|堵《ど》の表情をしたが、一月五日になって、国有鉄道|胆《い》|振《ぶり》線が、壮瞥村と伊達町との境界柳原地区で不通になった。|海鼠《な ま こ》状の隆起ができたからであった。美松五郎は現地に急行した。一夜にして、大地が盛り上り、レールを浮かした原因が、大地の底にあることはもはや疑うべくもないことであったが、なぜ、そこに隆起が生じたか、その隆起がなにを示唆するものか判断できなかった。線路は盛り上った部分だけ掘り下げて汽車が通れるようにした。  美松五郎は|室《むろ》|蘭《らん》測候所に電話をして、至急専門家の派遣を乞うた。室蘭測候所の答えは積極的ではなかった。 「局長さん、有珠岳の山麓にへん[#「へん」に傍点]な雲が出ていますよ」  郵便配達夫の|蛭《ひる》|間《ま》が入って来て、五郎に告げた。なんでもいいから、異常現象があったら知らせてくれと、三人の配達夫には伝えてあった。蛭間は、五郎を郵便局の外へ連れ出して、有珠岳を指さした。  フカバ地区の上空から有珠岳の中腹にかけて、|霞《かすみ》に似た薄い層ができていた。五郎は空に眼をやった。空はよく晴れていた。付近に雪はなかった。頬に当る風は冷たかった。そのあたりに、そのような霞の出る季節ではなかった。炭を焼く煙がそのまま上昇して、山の中腹で、平面的にひろがってできたもののようでもあった。五郎は一時は、その霞の下に、炭を焼く煙がないかと思って探したほどであった。北海道の極寒の季節で炭焼きなどする人がいよう筈はなかった。  ではいったいなぜ、あの霞が──五郎は瞳をこらした。気をつけて見ると、霞は有珠岳に接触してはいなかった。有珠岳とは関係なしにフカバ地区から九万坪地区上空に単独にできたもののようであった。九万坪というのは、フカバ地区の住民が政府から払い下げを受けたとき以来の呼称だった。霞は平面的なものではなく中央にほんの僅かながら高まりを見せていた。極端な表現をすれば笠形の霞だが、そういうには平板に過ぎた。  五郎は局舎続きの自宅に引きかえした。その不思議な霞を写生しようと思った。道具を揃えて、再び外へ出て見ると、霞は消えていた。  翌朝、彼は単独で有珠岳へ登山した。今度の地震が有珠岳と関係ある以上、なんらかの徴候が有珠岳に見られるかもしれないと思った。比較すべき資料は揃っていた。少なくとも、年に三回彼は有珠岳に登って、観測した結果を記帳していた。火山観測は長い年月にわたって続けないと意味がないということを大森房吉博士に教えられて以来のことであった。  大有珠岳にも小有珠岳にも銀沼にも異常は認められなかった。その日は風が強くひどく寒い日であった。吹きだまりには五十センチほどの積雪があった。一日中歩いて、彼はなにも得ずに帰った。足ゆびの先が凍傷でも起したように痛かった。 「|吹雪《ふ ぶ き》にならなくてよかったねえ」  妻のつね子が言った。 「吹雪になったところでどうってことはないさ」 「でも、あなたは、取って……」  取って五十五歳にもなって、ひとりで山登りをするなどということは無謀過ぎるではないかと妻のつね子は言いたいようだった。五郎は妻の気持が分らないでもなかった。地震が発生してから、郵便局の方は局員にまかせて、出歩いている自分自身のことが、いささか心配でもあった。 「だが、おれがやらないとすれば誰がやるのだ」  地震は相変らず続いていた。湧き水が出たの、井戸水が出なくなったの、という異変を告げに来る者はふえる一方だった。そういう人たちの相手はいったい誰がやればいいのだろうか。  五郎は、ゲートルを取り、靴を脱いだ。熱い茶が飲みたかった。 「局長さんいませんか」  と郵便局の方で言っている声が聞えた。本来、農家の人は大きな声で話すくせがある。おそらく、また誰かが異変を告げに来たのだろうと五郎は思った。  北条忠良は五郎の前で、直立不動の姿勢をとって言った。 「局長さん、うちの井戸の水が熱くなりました」  北条忠良の顔は雪焼けして黒くたくましかったが、眼には落ちつきがなかった。北条忠良は四十を出たばかりであった。 「いつそれが分ったのだ」 「いまです。一時間前に、うちのやつが水を汲んだときにはなんでもなかったんです。今は湯気が|濛《もう》|々《もう》と立っています」  北条忠良は湯気の立ち昇る様子を手で示した。美松五郎は、脱いだ靴をまた|履《は》いて、ゲートルを巻いて、北条忠良のあとに|従《つ》いて行った。  北条忠良の家は壮瞥村のフカバにあった。フカバという名称は、明治の中ごろ、そこに|鮭《さけ》の|孵《ふ》|化《か》|場《ば》があったからそう名付けたものであった。フカバには四十六戸の農家があった。  北条忠良の家はフカバ地区の中でも西のはずれにあった。その辺のどこの農家でも見られるような、草|葺《ぶ》き屋根の母屋と、物置きと、畜舎の三つの建物がコの字形に建てられていた。  井戸は中庭にあった。  井戸から濛々と湯気が立ち昇っていた。五郎は黙ってルックザックをおろすと、中から温度計を出して|紐《ひも》で吊して、井戸の中に入れた。井戸水の温度は三十五度あった。だいたい、その付近の井戸水の水温は十七、八度であった。それが突然、三十五度になったのである。 「大丈夫でしょうか」  北条忠良が言った。 「大丈夫さ、明治新山のときにもこういうことがちょいちょいあった」 「すると、此処にも、明治新山のような……」  北条忠良はへたへたとそこに坐りこんでしまった。五郎があわてて、言い方をかえても、忠良は立上ろうとしなかった。忠良の妻女が来て、意気地がないと怒鳴ると、忠良はやっとのことで立上って、 「局長さん、噴火なんか起りませんなあ、間もなく地震は止むし、井戸もつめたくなりますねえ」  と言った。  五郎はそれに|相《あい》|槌《づち》を打ちながら、ひょっとすると、このあたりに新山ができるかもしれないと思った。さっき見た|妖《あや》しい霞も、ちょうどこの上空あたりから、九万坪にかけてであった。      3  地震が発生してから二十日目に洞爺湖に異変があった。美松五郎は、雪の道を馬で洞爺湖温泉町まで出向いた。異変を見たのは、ホテルの経営者の成田留吉であった。  その朝、成田はいつもより三十分ほど早く眼を覚ました。寒かったからである。明け方こんなに冷えるから、ひょっとしたら洞爺湖は凍結したかもしれないと思った。成田はこの夏この地に来たばかりだったので、洞爺湖が不凍湖だということを知らなかった。彼は身支度を整えて外へ出た。洞爺湖は鉛色の表情をしていた。まだ凍ってはいなかった。成田はなにかだまされたような気がした。これだけ冷えこんだのに、氷が張らないのは、嘘のように思えてならなかった。彼は、夏期、ボートを|繋《つな》ぎ止める桟橋の上を、中島に向って歩いていった。洞爺湖の中央に置き物のように居坐った中島は、湖上を|覆《おお》う煙のために、いくらか遠のいたように見えていた。 (氷が張れば、中島まで滑って行けるものを)  成田はそんなことを考えながら、桟橋から中島へ行くコースを眼で決めた。中島まで約二キロメートルある。歩いていけば三十分はかかるだろうが、スケート靴を履けば十分とはかからない。成田はそんなことを考えていた。  彼は桟橋の先に立って、湖面に向って石を投げる真似をした。一つ二つは、軽く投げる格好をした。三つ目は大きなモーションをとって投げた。もしほんとうに石を手に持っていたら、ずっと先で、水柱が上り、そこを中心として波紋がどこまでも拡がって行くだろうと思った。そう思って、湖面を見た瞬間に彼は、彼の心の中での投石の着水点のあたりに異常を発見した。水柱が上らないかわりに、着水点を中心として、それまで、よどんでいた水が動き出したのである。成田は眼の錯覚だと思った。何度か|瞬《またた》きして見たが、水はやはり廻っていた。それは次第に速度を増し、はっきりと渦巻の形をなして行った。彼は|轟《ごう》|音《おん》を湖底に聞いた。渦巻ははげしい勢いで回転した。|漏斗状《ろうとじょう》の渦巻の底へ湖水の水が全部吸いこまれて行くのではないかと思われるほどの速さだった。桟橋がぎしぎし鳴った。桟橋がそのまま渦の中に吸いこまれそうな勢いだった。  成田は桟橋の上に這った。彼は宗教をなにも持っていなかったが、口の中でしきりに、神仏の名を唱えていた。桟橋の振動が止り、おそるおそる頭を持ち上げると、渦巻の速度はゆるやかになり、やがて、もとどおりの静かな湖面になった。無数の|泡沫《ほうまつ》が、そこに突然起きた異常現象のすさまじさを物語っていた。 「渦巻が始まって終るまでの時間はどのぐらいあったかね」  美松五郎は成田に|訊《き》いた。 「さあ、長いような時間でもあったし、瞬間のできごとのようでも……」  成田は正直に答えた。五郎はその渦巻が起ったという地点をノートに記録してから、 「湖底に突然、亀裂でも生じて、水を吸いこんだ、とでも考えるしか考えようがないね」  と言った。洞爺湖は代表的なカルデラ湖であった。陥没してできた湖であり、火山学的に有珠岳火山の活動と密接な関係があった。 「注意していて下さい、もしなにか変ったことが起きたら知らせて下さい」  五郎は成田に頼んだ。郵便局に帰りつくとそこに、二人の未知の人が待っていた。室蘭測候所長と伊達町警察署長であった。 「いろいろと御厄介をかけまして……」  室蘭測候所長は、地震発生以来の美松五郎の努力に対して礼を言った。威勢のいい声ではなく、なんとなく遠慮勝ちな言い方であった。警察署長のことを気にしているようでもあった。  警察署長は、初めから高い姿勢をとっていた。 「その後なにか変ったことはないか」  と彼は言った。その後という言葉が|曖《あい》|昧《まい》だったが、五郎は、此処数日来、フカバ地区の地形変化が顕著である旨を述べた。鉄道が柳沢地区で土地の隆起に悩まされている話や、北条忠良の家の井戸の水温が急昇したことを告げた。警察署長は、そんなことはすべて知っているぞという顔をして聞き終ると、 「どこへ行って来たのだ」  と訊いた。どこへ行って来ようが勝手だと五郎は心の中で思った。初対面に、じろりと頭のてっぺんからつまさきまで視線を縦に走らせた署長のやり方にいささか腹を立ててもいた。だが、どこへ行ったかを答えないわけにもいかなかった。五郎は洞爺湖に起った渦巻の現象を話した。 「そういう話を、あちこちで言いふらされたらこまる。今や、日本は……」  署長は大演説でもぶちそうな態度を示したが、思い止まって、いくらか声を落して言った。 「人心を動揺させるような言動は慎んで貰いたい。農民が地震に恐怖して農地を離れるようなことになればそれこそ戦力に影響する。こんどの地震が噴火の前兆だなどというデマを飛ばすものがあれば警察は容赦はしない。軍はこの地震がデマに結びつくことをもっともおそれているのだ」  署長はそれだけ言うと、駐在所に用があると言って出て行った。 「警察署長はいったいなにを言おうとしているのですか」  五郎は測候所長に聞いた。 「趣旨はこの地震のことで騒いでは困るということですが、それをあまり強調されると、この地震についての調査もやりにくくなりますなあ」  と言った。 「軍はどうしろと言っているのですか」 「それなんです」  測候所長は困ったような顔をした。 「軍は極度に神経質になっているようです。北海道に地異が起ったということが、悲観的デマにつながることを怖れているようです」  だから今度の地震に関するニュースは一切新聞紙上にも載らないし、ラジオでも放送されないのだなと思った。  軍という言葉が出ると、五郎は、去年の秋、相ついで出征して行った正一と健次のことを思った。  正一は結婚して六カ月目に召集を受けた。彼は身ごもった愛妻を札幌の実家に残して出征して行った。一度、昭南島から手紙が来たが、その後の消息はなかった。健次は満洲にいた。五郎は二人の息子を通して戦争を身近に感じていた。戦争中であることをいちいち強調されなくても五郎にはわかり過ぎるほど分っていた。 「軍がなんと言おうと、火山の活動が戦争にどのように影響があろうとも、誰かがこの地震と地形の変化を見守っていなければならないでしょう」  五郎は室蘭測候所長にはっきり言った。      4  二月に入っても、鳴動は続いていた。回数は減ったが、一日二十回ないし三十回の鳴動があった。明け方に多かった。九万坪の上空に出る妖雲は、その厚さを増したようだった。突然現われて突然消える性質は前どおりであった。  フカバ部落に次々と異常が起きた。大地の亀裂と、|地《ち》|皺《じわ》がふえた。今までなんでもなかった農家の庭の一部に亀裂が起り、その亀裂は日を追って幅をひろげて行った。いままで、|馬《ば》|鈴《れい》|薯《しょ》の畑地であったところに、|畔《あぜ》のような高まりができた。一条や二条ではなく、数条も並行して走るものもあった。遠くから見ると、それは大地の皺であった。亀裂と皺は数えきれないほど出来た。  美松五郎は、その一つ一つの亀裂と地皺を追った。雪の下でよくわからないところがあると、雪を掘りおこした。  亀裂と地皺は、有珠岳の麓の松本山からフカバ部落に至る|楕《だ》|円《えん》|形《けい》の範囲に限定されていた。亀裂と地皺の方向を図に書き込むと、その中心は九万坪の西部にあるように思われた。そこに隆起の中心があり、そこから地皺、亀裂が放射状に拡がって行くもののように思われた。  フカバ地区に亀裂と地皺が始まると、洞爺湖温泉町の方の地震は減った。洞爺湖温泉町の人たちは|愁眉《しゅうび》を開いた。  鉄道は毎日工事がなされていた。掘り下げても掘り下げても、鉄路は持ち上げられた。この鉄道の奥地に鉄山があったので、この鉄道の停止は許されなかった。鉄道工夫は、眼に見えない敵と昼夜戦っていた。電話線の障害、電灯線の障害も起きた。軍は鉄路の厳守命令を出していた。  三月に入って間もなく、北条忠良が、五郎の家を訪れて、どうしても不安だから一度来て見てくれと言った。  北条忠良の家の下に亀裂ができたために、家が傾いたのである。一番ひどいところは一メートルの差ができていた。 「とても、おそろしくて、住んではおられません」  と北条忠良は言った。彼の家の被害はそれだけではなかった。井戸から|溢《あふ》れだした泥水が、彼の家の庭を池にしていた。もともと、そのあたりは幾分低地だった。そこにたちまち池ができ上ったのである。池の水位が上って来れば、彼の家もまた危険であった。 「やはり、逃げたほうがいいと思うがどうでしょうか」  北条忠良は五郎に頼り切っていた。五郎が逃げた方がいいと言うならば、今日中にでも、隣村へ避難したいと言った。 「そうだな、一時的に避難した方がいいかもしれないなあ」  逃げることを|慫慂《しょうよう》するのではない。危険を回避するように口添えしてやっているのだと五郎は心の中で言いわけをしていた。  地下でなにかが起っていることは間違いなかった。フカバ地区に特に地震が多くなった。フカバ地区から郵便局までの距離は二キロメートル余しか離れていないのに、郵便局で一日十回の有感地震が観測された同じ日に、フカバ地区では三十回の有感地震があった。フカバ地区から九万坪付近にかけて大地が変動していることは、素人眼にも明らかであった。鳴動が続き、亀裂ができ、地皺ができ、隆起があり、一部沈下があっても、全体的にはフカバ地区、九万坪地区が徐々に隆起していることも明らかであった。  五郎は噴火を恐れていた。地震と隆起が噴火を前提としての地殻変動でないというより、あると考えたほうが、はるかに納得しやすかった。フカバ地区の住民でさえこの変動を噴火に結びつけて考えていた。  五郎は学者の到来を待ちわびた。彼一人ではどうにもならなかった。専門の学者が来て、はっきりしたことを言って貰いたかった。彼は、いままで、有珠火山を訪れた学者たちに、この変動を手紙で知らせて、一日もはやく来てくれることを願った。だが、三月に入っても専門家は一人もやって来なかった。  五郎は特定地区の大地がいちじるしい変動を起しつつあることがわかった以上、その推移を測定しようと思った。それまでの調査によると、変動地区はフカバ地区と九万坪地区の、長径約一・二キロメートルの楕円形内に限られており、幸い、彼の居住しているところには変動がないから、彼の家から変動地区の地盤の高さを観測しようと思った。それには|経緯儀《トランシット》が必要であった。彼は室蘭測候所に電話を掛けて経緯儀の借用を申しこんだが、測候所には予備がなかった。  彼は目測をすることにした。その日その日の状況をスケッチすることによって、高さの変動を記録しようとした。彼は裏庭の一箇所に観測点を設けた。そこからはフカバ地区、九万坪地区、有珠岳とその外輪山がよく見えた。そして、都合がいいことに、その観測点から五百メートルほど先に観音堂が見えていた。彼は観音堂を図に写生し、その背後に、フカバ、九万坪地区の地物を写生し、更にその背後に有珠岳外輪山を写し取った。それだけでは満足できないから双眼鏡を持って来て、外輪山の木々の特徴を写し取った。  観測点から見た観音堂と有珠岳外輪山は、現在のところ動いてはいなかった。その二つの固定点を結ぶ線上にある、フカバ、九万坪地区が隆起すれば、その背後の有珠岳外輪山の森の木は少しずつ見えなくなって行く筈であった。この写生による観測は忍耐の|要《い》る仕事であった。だが、こうする以外に変動を記録する方法がなかった。彼は写真機を持っていたが、戦時中だからフィルムを自由に買うことはできなかった。  地形変動の観測を開始すると同時に、定期的に変動地を巡回する仕事を続けた。すべて筆記、写生であった。  五郎は、中学を卒業したら、東京の美術学校に行きたいと父に願ったほど絵が好きだった。結局郵便局の仕事を父から引きついだが、絵の勉強は忘れなかった。その絵の技術が、役に立つとは思っていなかった。  北海道は四月に入ってもまだ寒かった。四月十九日に強い地震が数回襲った。その翌日から暖かい日が続き、四月二十日を過ぎると農耕が始まった。  五月になると地震の回数は急に減った。多い日でも一日数回しかなかった。だがフカバ、九万坪付近における亀裂、地皺、隆起の現象は相変らず続いていた。鳴動音も増加した。いち早く隣村へ避難しようとした北条忠良も、その後気が変って傾いた家に頑張っていた。フカバ地区のほとんどの農家は傾き始めていた。だが彼等は春とともに農事に精出さねばならなかった。一年中で一番多忙なときが来たのだが、畑地に亀裂ができ、水田の用水路の水が低地に溢れ出し、ところによっては水路が閉鎖された。農民たちは、その地変と戦わねばならなかった。  九万坪の上空にかかった妖雲は、春と共に消滅した。  六月になってすぐ、五郎は田口博士を迎えた。田口博士は南方へ行っていたが、身体を悪くして日本に帰ったばかりであった。田口はひどく|痩《や》せていた。五郎は田口から南方の話を聞いて、息子の正一のことを思った。フィリッピンから一度便りがあっただけだった。  田口は、五郎と共に現地を歩き廻り、五郎がそれまでに残しておいた観測記録を見て言った。 「かなり危険だな、フカバ地区の住民は避難させた方がいいかもしれない」  田口は、その危険な地点として、九万坪の北西部の一点を指して、更につけ加えた。 「地震が急減したからといって油断はならない、むしろ減少したことが危険に通ずるのだ」  田口は、地震計や測定器機を取りに一時壮瞥を去った。      5  昭和十九年六月二十三日、その日は快晴だった。美松五郎はその朝いつものように、彼の家の裏庭で、九万坪方面のスケッチをしていた。九万坪地区の地盤の隆起は日を追って増加し、一番多いところでは五十メートルと推定されるまでになっていた。大地が隆起するにつれて、背後の有珠岳外輪山の木々が隆起した地形の影になった。  五郎は九万坪と松本山との境のあたりになにか動くものを見たような気がした。眼をこらしてよく見ると、それは一条の白い煙だった。煙は真直ぐ立ち昇った。誰かが|焚《たき》|火《び》をしているような煙だった。煙の色が白すぎることが気になった。もしやと思った。彼は反射的に懐中時計を見た。八時十五分丁度であった。時計から眼をもとのところに戻すと、白煙はやや背を伸ばしたようであった。  その地点はきのう昼頃、調査に行ったところであった。その付近には大きな亀裂があり、亀裂の中に数個の穴があった。穴に鼻を寄せて|嗅《か》いで見たが臭気は感じられなかった。 「あんなところで焚火をするわけはない」  五郎はそう言った。畑地で焼くようなものはないし、いまごろ焚火をすること自体がおかしなことだった。  一条の白煙は、間もなく三条の煙になって、ほとんど垂直に立ち昇った。もはや焚火の煙ではなく、白煙の直下にエネルギーを潜在させたなにかであることに間違いがなかった。  五郎は噴煙のスケッチにかかった。その概略の形をやっと紙に写し取ったときに、爆発が起った。  空に向って|噴《ふ》き上げた赤い炎の柱を彼は美しいと思った。轟音が天と地を揺すぶった。赤い炎の上に黒い無数の小物体が見えた。それらの黒い物はしばらく空中に浮遊しているかのように見えた。やった、と五郎は心の中で叫んだ。来るべきものが来たという感じだった。爆発は数回にわたって繰り返され、次第にその高さを増して行った。高さを増すにつれて、火柱は細くなり、その高さは一キロメートルに達した。  風がなかったから、降灰は爆発口を中心にして周囲に満遍なく降った。郵便局の彼の観測地点にも降灰があった。スケッチブックの上に降って来た灰の微粒子は、そのまま紙に吸いついた。灰は湿っており、いくらか粘着力を持っていた。  フカバ地区の農民がつぎつぎと郵便局へ|馳《は》せつけた。情況の報告と、今後どうしたらいいかの指示を仰ぐためだった。 「これ以上ひどくなったら、いつでも逃げ出せる準備をして置くのだな」  五郎は言った。噴煙は一キロメートルの高さで停止し、|漸《ぜん》|次《じ》その高さを縮めて行くようであった。二時間後に爆発はおさまり、一条の白い煙がそのあとに残った。  五郎はスケッチを止めて外出の支度を始めた。 「どこへいくのですか」  妻のつね子が訊いた。 「現場へ行って来る」 「みんなが逃げようと言っているのに、あなたは、そこへ行くというのですか」  つね子が止めた。局員たちも、次々に出て来て、五郎を引き止めた。  五郎は知らんふりをしていた。言いわけを言っている暇がおしかった。彼は支度を整えると、噴煙を目掛けて小走りに急いだ。  松本山の麓に来ると刺激性の異臭が鼻を衝いた。その異臭を嗅いだ瞬間、五郎は戦地にいる正一と健次のことを思った。正一がその後どこへ行ったかわからなかったが、健次が満洲から比島へ転進したという通知を受けたのはつい二、三日前であった。  硝煙の中で戦っている二人の息子の姿がいま五郎の前に立ち昇っている噴煙の向うに見えるような気がした。  五郎はあたりに眼をやった。たった二時間の間に地形はすっかり変っていた。セメント状の降灰が二十センチほど積っていた。五郎は松本山の中腹から火口を見た。直径五十メートルほどの火口湖ができ、泥水をたたえていた。湖面から湯気が濛々と上っていた。火口湖は一面に泡立ち、中央から一条の白煙が立ち昇っていた。  双眼鏡で|覗《のぞ》くと、火口湖の周囲百メートル以内に、直径五十センチほどの噴石がばらまかれていた。  五郎は松本山の中腹をおりると、真直ぐに火口湖に向った。危険だという感じはなかった。行って見なければならないという使命感もなかった。彼の足は無意識にそっちに向っていた。  五郎の頭の中では、正一と健次が銃を持って駆け廻っていた。二人の息子は硝煙の中に見えかくれしながら、丘を越え、谷を越えて前進していた。五郎は、その二人の息子たちと共に歩いているような気持で火口湖に近づいていた。  足が熱かった。靴の底を通して、熱気が伝わって来た。だが、五郎にはたいして気にはならなかった。とにかく火口湖がいかなる形態をなしているか見とどけなければならないと思った。 「いまここに新しい火山が新生したのだ。その火山の第一番目の訪問者なのだ」  彼はそう言った。自分の言葉がふるえたように聞えた。空気がひどく乾燥していた。眼の前に水蒸気を上げている新生火山湖があるのに、この乾いた空気の存在は異常だった。 (そうだ、おれには今日あたり孫ができるはずだ)  札幌の実家にいる正一の嫁の出産予定日が来ていた。火口に近づくと足がぬかった。火口の周辺は泥水に覆われていた。くるぶしのところまで泥にもぐった。彼はちょっとためらった。それ以上進むことは危険のように思われた。彼の頭の中で、彼と共に前進していた二人の息子も前進を止めた。正一も健次もためらっていた。 (いったいお前たちはなにをしているのだ)  五郎は二人の息子を激励した。激励しているような気持になりながら、ルックザックから細引きと温度計を出した。火口湖の温度を測定するつもりだった。  五郎は細引きを束ねて持ち、その先につけた温度計をゆっくり振りながら火口湖に近づいて行った。火口湖は|摺《すり》|鉢《ばち》型になっていた。温度を測定するには、その摺鉢の縁に立たねばならなかった。泥土の縁は危うく見えたが、五郎は|遮《しゃ》|二《に》|無《む》|二《に》進んだ。意気地がないと息子たちに言われたくなかった。あいつらだって戦争で苦労しているのだと思った。  火口湖の摺鉢の縁に立って見ると、火口湖には汁粉状の泥水がたまっていた。ぶつぶつと無気味な音をたてていた。彼は摺鉢の縁に沿って温度計を火口湖の中に滑りこませようとした。そう思って腰をかがめた瞬間、彼の身体が火口湖に向って、移動し始めた。同時に彼の身体は泥の中に吸いこまれた。彼はもがいた。懸命に泥の中で泳いだ。泳いでも泳いでも、彼の身体は火口湖に引き摺りこまれて行きそうだった。  泥土は熱していた。衣服を通して焼けるように熱かった。妻のつね子の顔が見えたり、二人の息子たちの顔が見えたりした。呼吸が止りそうだった。泥土の火口湖がぶつぶつと泡を立てているところを見ると百度を越える温度であろう。落ちたら、それまでだった。彼は最後のあがきを試みた。左足の靴が泥に取られ、すぐ右足の靴が取られた。それでかえって身軽になった。足も手も|火傷《や け ど》を負ったように熱かったが、どうやら摺鉢の縁まで上ることができた。火口湖の泥水が彼を追いかけて来るような錯覚にとらわれながら五郎は逃げた。火口湖の縁から二十メートルほど離れたところで彼は焼石を踏んだ。思わずとび上ったほどの熱さであった。そのとき彼は危機を脱し得たことを知った。      6  美松五郎は九万坪に爆発が起ったことを関係方面に電報で知らせた。折りかえして、問い合せの電報や電話が殺到した。その電報の中に、喜びと悲しみを同時に知らせて来た一通の電報があった。孫の誕生とその母の死であった。妻のつね子はその日のうちに札幌に|発《た》った。  五郎は戦地にいる正一に女児誕生、母子共健全と手紙を書いた。嫁の不幸は知らせてやらないほうがいいと思った。新生火山のことも書きたかったが、軍の検閲にかかってもし正一に迷惑がかかってはいけないと思って止めた。爆発の直後に、憲兵隊から電話がかかって来て、爆発の事実を、火山学者以外には知らせてはならないという厳重な申し入れがあった。  火山爆発に関する一切の報道は禁止された。  五郎は手紙に封してから、この手紙が果して正一の手に無事届くかどうかを考えてみた。新生火山の爆発以来、五郎は彼の生涯のうちでもっとも多忙な日を送った。火山の観測と、火山を訪れる人たちの応接であった。戦時中であり、交通は困難であったが、火山学者や気象台関係者がつぎつぎと壮瞥を訪れた。五郎はそれらの人が来るたびに経過を報告し、案内に立った。その新生火山を見守っている者は自分ひとりだけではないと考えるだけで、元気が出た。鳴動に悩まされた暗い六カ月とは打って変ったように張りが出た。学者たちの論争の中に加わって深夜に及ぶことがあった。田口博士がいちはやく駆けつけてくれたことは五郎にとって大きな心の支えとなった。田口は五郎と共に火口湖近くまで何回か行った。爆発は、三日置きぐらいに繰り返されていた。漸次、爆発のスケールは拡大されていくようであった。  爆発と同時に招かざる客の一団がやって来た。隣町の伊達町警察署長が十三名の警察官をつれて来て、フカバ地区に本部を設けて警戒に当った。彼等は、隆起地区に非常線を張って、人が火口湖に近づくことを警戒し、余力の人員を付近の農村の見廻りに当てた。 「噴火はたいしたことはない、おれたちが来たから、大丈夫だ、安心して働け」  しかし農民たちは、その警官の後姿に向ってつぶやいた。 「いったい警察と火山がなんの関係があるのだ、ばかばかしい、火口湖なんかには銭をくれると言っても行き手がないのに、なぜ非常線なんか張るのだ」  ばかばかしいのは、それだけではなかった。招かざる客の食糧は壮瞥村でいっさい負担しなければならなかった。壮瞥村は水田が少なかった。非農家も少なくないから村の保有米は僅少であった。村は取りあえず、この米を招かざる客の炊き出しに使った。労力は婦人会員が交替で当った。  見わたすかぎり、農地は灰で覆われ、雨が降ると、その灰は作物の葉にこびりついた。作物は枯死した。収穫皆無の畑が爆発が起るたびに拡がっていった。被害村落にとって食糧は貴重であった。 「おれたちはジャガイモを食べ、頼みもしないのにやって来た人たちが白い飯を腹いっぱい食うということはどう考えてもおかしなことだ」  そういう不平が出たが、だからと言って、白米を出さぬわけにはいかなかった。招かざる客は一週間ごとに交替した。火山見物と食いだめを兼ねて出張して来ているのだと陰口をたたく者があった。  警察署長は、ある朝、いつもよりやや高く上っている白煙を見て、大爆発があるから一時避難せよとフカバの住民に命令した。学者たちや五郎のいうことならともかく、署長のいうことだから村民は信じなかった。署長はサーベルを抜いて、避難せよと|叱《しっ》|咤《た》した。フカバの地区民はやむなく一時的に家を離れたが、爆発はついに起らなかった。  |間《かん》|歇《けつ》的な爆発が、数回続くうちに、五郎は爆発の前兆を或る程度|掴《つか》んでいた。爆発が起る前には、突き上げるような地震が|頻《ひん》|発《ぱつ》し、そして、それまで立ち昇っていた白煙が一時的に停止するのである。署長はそういうことを知らずに、口から出まかせを言って、村民を退避させたのである。 「戦時中でなにかとおいそがしいでしょうから、火山のことは、私達に任せて、お引き取り下さい」  田口博士が、村の苦衷を察して、警察署長に言った。署長は真っ赤になって怒鳴った。 「お前たちは火山のことを調べておればそれでいいのだ。治安を所掌するおれの仕事に口出しをするな」  署長の|一《いっ》|喝《かつ》に対して、田口は次の言葉がいえなかった。五郎は、招かざる客たちの眼の|仇《かたき》にされた。彼等にとっては、中央からやって来る学者たちの先頭に立って火山の調査に歩き廻っている美松五郎の存在が眼ざわりであった。彼等は、非常線をたくみに突破して火口近くに日参する五郎を、つけ廻した。そんなことしか彼等のする仕事はなかったのである。  調査団が来ている最中でも、大爆発はしばしば起った。大爆発が起るたびに新しい火口ができた。地形の隆起は、その速度を増したようであった。八月に近くなるとフカバ地区の家のほとんどは倒壊寸前の状態になった。農民は、家を解体して、安全な場所に次々と移築した。火口に近い物置きや乾草小屋は、熱石の落下でことごとく消失した。九万坪地区は地皺と地割れと降灰と落石で、ほとんど全滅に近い状況になっていた。しかし、フカバ地区の住民の半ば以上は、その農地と家に執着して、熱灰をかぶりながらも頑張っていた。  八月に入って間もなく、夜の十一時を過ぎたころ大爆発が起った。その夜は月が出ていたが、黒煙のために空はまたたく間に覆われ、その中で雷光がきらめき、雷鳴が鳴った。フカバ地区には焼石が降った。地鳴りと震動で歩けないから彼等は這いながら逃げた。覆いかぶさって来る黒煙と、真紅の炎の柱と雷電は農民をどこまでも追って行った。  彼等はそれぞれフトン一枚をひっかぶって逃げた。焼石でフトンに火がつくと、それを消しては逃げた。世界の終りかとも思われる大爆発は三時間連続し、五分間置いてまた一時間噴いた。夜明けになって爆発は間歇的になった。  この大爆発による降灰は遠く|苫《とま》|小《こ》|牧《まい》(壮瞥より五十キロ)まで及んだ。火口から二・五キロメートル離れている郵便局の屋根にも二十センチの厚さに灰がつもった。セメントの粉のような灰であった。三千町歩の耕地と五千町歩の山林が被害を受けた。フカバ地区はこの一撃によって壊滅的打撃を受けた。作物のいっさいは灰の下になった。  大爆発と同時にフカバにいた招かざる客たちは伊達町に逃避した。サーベルを置いて逃げた者があった。フカバ地区の農民のほとんどは風の向きを見て、伊達町とは反対方向に逃げた。混乱の最中だったが、農民たちには風上に向って逃げるだけの知恵があった。 「村民を守る立場にいる警察官が、村民を置いて真っ先に逃げるとはなにごとです」  翌日になってすごすごやって来た署長に向って田口博士が言った。田口はその夜の警察官の行動にはなんとしても我慢できなかった。 「村民を誘導しながら逃げたのだが、村民は従って来なかっただけのことではないか」  署長は|昂《こう》|然《ぜん》と言った。  しかし、招かざる客たちはこの大爆発がよほどこたえたと見えて、二度と村には現われなかった。 「今度の大爆発による村の被害は大きい。だが、そのおかげで、なんの役にも立たない|居候《いそうろう》は村を去った」  村の人たちが来て五郎に話した。  八月の半ばになって、つね子が突然札幌へ行くと言い出した。孫の顔を見たいというのがその理由だった。五郎は強いて止めなかった。三日後につね子は、孫の照子を抱いて帰って来た。 「どうしたのだ、お前」 「私が育てるのよ、照子はうちの孫娘だもの——」  つね子はなにか思いつめたような顔をしていた。その方がいいのだと五郎は思った。亡くなった嫁の実家にこれ以上の負担は掛けたくなかった。つね子は照子を立派に育て上げるだろう。だが……五郎は窓の方を見た。その窓からも、ぐんぐんと生長を続けていく新生火山が見えた。もう丘ではなかった。火口を中心として山の形態をととのえていた。その新生火山に、更に大きな爆発が起ったらどうしようと思った。  この前の大爆発のとき、幼児が一人死んだ。降灰のために窒息したのである。爆発におびえて、老人と幼児は安全地帯に退避しているのに、逆に照子を連れて来たつね子の複雑な心情を察すると五郎はなにも言えなかった。つね子に抱かれた照子はまだよく見えない眼を窓の外の新生火山に向けていた。      7  九月になっても爆発は続いた。夜だとすさまじい景観を呈した。火口付近に紅の幕を張ったような明るさが走ると同時に大地を揺り動かすような爆音が起り、火の円柱が吹き上り、無数の赤い星が飛び散り、黒雲を雷光がつらぬいた。昼間の爆発では竜巻が望見された。火口で爆発が起った直後、周囲の空気は火口に吸いよせられて渦を巻きながら、一キロも二キロも昇騰した。爆発と共に火口付近に起った真空地帯に吹きこむ空気の流れであることがわかっていても、見る眼には竜が天に駆け昇っていくように見えた。  こういう現象に何回か会っているうちに、付近の住民は、この新生火山に馴れた。大爆発が起きても、火口から二キロメートル以上離れていると、まず生命に別条はないと考えるようになった。  フカバ地区と九万坪地区は完全に崩壊してそこには一本の草さえ見えなくなったが、北条忠良は半ば崩れた家の中にまだ頑張っていた。彼の家族は既に退避していた。地震が起きたころは、いち早く退避しようとした彼が、いまになって頑強に踏み止まろうとしている気持は誰にもわからなかった。  五郎は忠良の家族に乞われて、忠良の説得に行った。 「なんのために、こんなところにいるのだ。ここにはもう畑もない。水はあっても灰で濁って飲むことはできない。ここは人の住むところではない」 「だがねえ、局長、ここはおれの家なんだ。おれが耕す畑はここにしかないのだ」  その北条忠良に、五郎はそこから十キロほど離れた地主にたのんで、小作地を世話してやった。頑強に居すわることを主張し続けた北条忠良がそこを去ってからも隆起は続いた。  壮瞥川は隆起のためにせき止められ、|湛《たん》|水《すい》|池《ち》ができた。その水を排水するための運河掘りが続いていた。鉄道の保線には毎日百人近くの人が当っていた。大地の隆起を人力で食い止めようとする果敢な戦いは昼夜にわたって続けられたが、自然の威力には勝てなかった。掘り下げても掘り下げても地盤は持ち上った。回避線を作ったが、その回避線も、地盤隆起の影響をまぬがれることはできなかった。  軍はいかなることがあっても、鉄道を止めることのないように厳命を下した。農地を失ったフカバ地区の住民の一部は、この鉄道路線の工事に従事した。  降灰の被害はその日の風の向きによって、意外なほど遠くまで飛んだ。南風の強い夜に爆発を起したがために、熱風が、洞爺湖付近の山林を襲い山火事を起した。その後、雨になって、木の枝についた灰が水を吸ってかたまり、やがて乾いて固着した。その重さによって、枝が折れ、古木が倒れた。木が|石《せっ》|膏《こう》固めになって倒れた現場を見に行った五郎は、雛鳥をかばったまま石膏化して死んでいるエゾライチョウに出逢った。動物は、噴火とともに、ほとんど、他の山へ逃げたが、逃げずにいる動物も若干いた。野兎はその土地に固執した。五郎は新生火山を観測に行く途中で死んでいる幾匹かの野兎を見た。ほとんどが餓死であった。五郎は、餓死しても、その地を離れようとしない野兎と北条忠良とを考え合せて暗然となった。  九月の末にまた大爆発があった。爆発ごとに新火口ができた。火山は爆発毎に様相を変え、月日の経過とともに、|悽《せい》|惨《さん》な様相から怪奇な様相へと移行していくようであった。  大爆発があったあとは、五郎は必ず、新火口を確かめに行った。  その日も、新しい火口を見るために、松本山の北斜面を歩いていた。松本山は灰の山だった。樹木がすべて焼失したあとも、幾度となく灰をかぶっていた。灰の深さは、深いところは二メートルにも及ぶところがあった。五郎は歩きながら灰なだれを心配していた。前にも一度斜面を滑りおりる灰なだれを見たことがあった。雪のなだれと違って速度が速かった。だが、その灰なだれが直接彼を襲うとは予想もしていなかった。上方で木でも折れるような音がした。見上げると、松本山の頂上近くに煙が上っていた。灰なだれが起きたと思った瞬間、五郎は逃げる方向を決めた。彼はなだれに向って右手に逃げた。その辺の灰の深さは腰まであった。  灰は足をとらえて離さなかった。同じ深さでも雪に比較すると、足を抜くのに倍も時間がかかった。五郎はひどくあせった。心はあせったが足は重かった。  灰なだれの先端は波がおしよせて来るように見えた。雪のなだれと似てはいたが、雪のなだれよりもなだれの先頭の波の高さが高く、その先端が縦に渦を巻いていた。雪のなだれよりはるかにたくましく、濛々と煙を上げていた。鼓膜が破れるかと思われるほどの轟音と共に殺到した灰なだれから身をかわすために、彼はできるだけ遠くに身を投げ出した。灰が彼を乗り越えた。背から足の方にかけて重圧を感じたが、彼の頭部は灰の外に出ていた。彼は灰の煙を吸って激しくむせた。死ぬかと思うほど苦しかったが、やがて一息、きれいな空気が吸えた。|灰神楽《はいかぐら》はおさまり、灰の中から彼は頭と両手を出していた。  彼の身体は灰なだれの境にいたのであった。両手で灰をかき除けて、灰の中から身体を引き出すのに、長い時間がかかった。九死に一生を得た気持だった。彼はそのとき、息子たちも、彼と同じように九死に一生を得るような毎日を送っているのだと思った。  彼は家に帰ってもつね子に灰なだれのことは話さなかった。火山地帯の硫化物を踏んで歩くためにぼろぼろになった靴を脱ぎながら、彼は、もう履く靴がないから、この次は|草鞋《わ ら じ》を履かねばなるまいと思っていた。      8  十月三十一日の夜の大爆発は、それまでの爆発と類を異にして、華麗であった。爆発が起ると、黒雲の中で火球が入り乱れて飛び、その間を縫うように電光が走った。しばしば火球は雲の中で衝突して火の粉となって散った。爆発は一時間後に|熄《や》んだ。そしてこの第十七回目の大爆発が、新生火山の最後を飾るものとなった。  大爆発があった翌日、五郎は健次の戦死の公報を受けた。彼が乗っていた輸送船が敵潜水艦の攻撃を受けたのである。五郎は戦況が不利となるにつれて、増加していく郵便事務の処理と火山観測の整理に一日、三、四時間しか睡眠のできない日が続いた。彼は仕事に没頭することによって悲しみから逃れようとした。妻のつね子も、健次の死を口に出さなかった。 「まだ正一がいるし、この子もいる」  妻は照子を抱き上げて言った。照子はたくましく成長して行った。引き取って以来一度も病気をしたことがなかった。 「この子は新山のようにどんどん大きくなっていく」  つね子の言葉に答えるように、照子はつぶらな瞳を輝かして笑った。  新山はそのころから急に肥り出した。毎朝の観測でその生長ははっきりしていた。新山の頂はもとの畑の面より百五十メートルほども隆起していた。  火山は活動を続けていた。大爆発はないが、小爆発は間歇的に繰返されていた。七つの火口から吹き出す白煙の量が急増して、新山を包みかくした。五郎は頂上の位置を望見するために一時間も二時間も待たねばならないことがあった。  五郎は何度か新山に出向いたが、噴煙と熱気と灰の|泥《でい》|濘《ねい》で火口に近づくことはできなかった。  昭和十九年十二月四日の朝、五郎は白煙の中に突き出している三角形の岩塔を見た。岩塔はすぐ白煙にかくされた。五郎は田口博士が、或いは熔岩塔が現われるかも知れないと言っていたことを思い出した。  熔岩塔は日に日に生長を続けた。熔岩塔が推上するにしたがって新山全体がいちじるしく肥り出した。火口から噴出すべき|岩漿《マ グ マ》が、なにかの理由で流出せず、地底で、熔岩となって徐々に地上に姿を現わして来たのである。地震、噴火、熔岩流出と判で押したような火山活動をせずして、流出すべき岩漿を岩塔に変え、静かにおし上げて来る、その新しい火山のあり方は、なにか遠慮がちな活動であり、それだけに薄気味が悪かった。  昭和二十年に年が変ると、岩塔の発達はいちじるしくなり、その存在が多くの人々の眼にとまった。新生火山は新しい活動を始めたのである。爆発を停止したかわりに、爆発に相当するエネルギーを岩塔という固体にかえて押し出して来たのである。岩塔が推上するにつれて、それまでの七つの火口はおしつぶされ、それまでに形成されていた新山の崖は音を立てて崩れていった。  大爆発はなくなったが、小爆発は続いていた。鳴動も衰えなかった。火山塔はその中にたくましく生長して行った。三月になると熔岩塔自体の長さが五十メートルになり、更に、その近くに副岩塔が現われた。主岩塔と副岩塔はその背丈を競うように生長し、岩塔の生長に伴って、その周囲の岩石の崩壊が多くなった。新山には白煙と絶え間ない小爆発と崩壊が続いた。危険で近づくことはできなかった。雪が降るとすぐ地熱に溶けて、灰と混って泥土と化した。五郎が近づくことのできない理由の一つはこれであった。  新山は日に日に|変《へん》|貌《ぼう》していった。五郎は新生火山が突然に爆発を止めて、熔岩塔推上という新たな活動に入ったことを戦況に比較して考えていた。それは、日本軍が攻撃から守備に作戦を変更せざるを得なくなったのと通ずるものがあった。およそ、その時期も相似していた。一月に米軍はルソン島に上陸した。三月に硫黄島の守備隊が玉砕した。敵はじりじりと本土におしよせて来ていた。  東京がB29の大空襲を受けて十数万の死傷者があったことが伝えられた。三月半ばというのにその日は大雪が降った。新山は雪を溶かす水蒸気に覆われて見えなかった。彼は強制的に割当てて来る国債の処理に頭を悩ましていた。貯蓄奨励を叫んでも、昨年の降灰のためにいちじるしい農作物の被害を受けた農民たちには、それを消化するだけの力はなかった。  熔岩塔は一日に一・五メートルの速さで生長して行った。新生火山は毎日姿を変えて行った。一夜にして、新しい岩が顔を出しているようなことは珍しくはなかった。夜になると、大小無数の噴気孔や、亀裂から放射される赤熱熔岩の光が、新山に真紅色の標識を掲げた。  六月に沖縄本島の日本軍が玉砕した。新山の紅の火は最盛期に達した。赤熱熔岩の発光は、水蒸気を紅にそめた。水蒸気が風の間に間に揺れると、それは真紅の炎のように見えた。  室蘭から懸章をつけた参謀が三名の部下をつれて来て、五郎に火山のことを聞いた。新生火山の火が敵機の目標になっては困るからなんとかならないものかと言った。五郎は参謀を新生火山に案内した。噴煙と地熱と地底から発する怪光と、むせかえるような異臭の中に参謀は無言で立っていた。参謀の口から溜息が洩れた。  七月に入ってから、グラマン機が室蘭を襲った。七月十五日には、室蘭の工場地帯は敵の艦砲射撃を受けた。  八月十五日、五郎は逓信報国隊結成のため、伊達局に有珠郡の郵便局の十七局長を集めて自ら議長となって会議を進めていた。その途中で終戦の重大ニュースを聞いた。  その翌日は小雨が降っていた。その中を五郎は新山に向った。敗戦の知らせで虚脱したような顔をしている人々の顔を見ているのがやり切れなかった。敗戦後、自分たちはどうなるかと話しかけて来る者に答えるのも|億《おっ》|劫《くう》だった。新山にいけばなにかがあった。  少なくとも敗戦の重苦しい気持をはねのけることはできるだろうと思った。彼は三足の草鞋を持って家を出た。そのとき彼は、今日こそ、熔岩塔の正体を見とどけてやろうと思っていた。  彼は新山にどの方向から入るべきかを考えた。新山の頂は白煙に包まれていた。どこから入ってもその難易さに差はないように思われた。彼はまず乾いた地肌を選んで踏みこんだ。地熱のために大地が乾いてひびが入っていた。そのひびから蒸気が吹き上っていた。草鞋を伝わって来る地熱で足の裏が熱かった。硫黄のにおいに混って草鞋のこげるにおいがした。  熱板の上を歩くような地肌から亀裂地帯に入り、そこから、一気に熔岩塔に近寄ろうとしたが、前に音を立てて煮えくり返っている熱湯の泥池が彼の前進をはばんでいた。第五火口がつぶれて凹地になり、そこが泥池になったのである。そこを大廻りしようとすると、そこには噴気の柱が林立していた。その根元の|孔《あな》の奥に、紅の炎が|覗《のぞ》いていた。刺激性のガスのにおいが鼻を衝いた。その煙の中に数分間閉じこめられていたら、多分窒息死するだろうと思った。死ということがふと浮んだが、さほど怖いとは思わなかった。  五郎は門のようにほぼ同じ背丈に伸び上っている噴気の門柱をくぐり抜けた。  そこで彼は熔岩塔を見た。大地から生れ出て来た熔岩塔は滑らかな赤い肌をしていた。太陽を受ける部分はつややかに輝いていた。主岩塔に対して、二つの副岩塔は背丈も低かったし、痩せてもいたが、肌色はよく似かよっていた。岩塔の基部に針塔状の奇岩が寄り集まっていた。針塔は、赤、黄、緑に着色されていた。黄色や緑色のガスがその周辺に上っているところを見ると、針塔群はガスによって着色されたもののように思われた。針塔のひとつひとつに白煙がまつわりついて揺れていた。その基部の赤熱熔岩の光を受けて|灯明台《とうみょうだい》のように輝いているものもあった。奇観を通り越して、なにか胸に突きささるものがあった。それは恐怖を通り越して死につながるなにかを持っていた。  針塔の一つ一つが今度の戦争で死んだ将兵にささげられる灯明のように思われた。そう思って見ると、真正面の針塔は二本の針塔を中心にして成り立っていた。二本の針塔を巡って|螺《ら》|旋《せん》状に白煙が上っていた。なにか、その二本の|尖《せん》|塔《とう》だけが、他とは違った姿を彼に見せていた。 「あの二つは息子たちの供養塔だ」  五郎は、そうつぶやいてはっとした。縁起でもないことを言ったと思った。戦死の公報が入ったのは健次であって、正一はどこかの戦線で終戦を迎えた筈であった。五郎は背筋につめたいものを感ずると同時に、鳴動によろめいた。笛を吹くような噴気の音を聞いた。小爆発が起る前兆だった。逃げろと彼は心の中で言った。第二の地動で彼は危うく膝をつくところだった。爆発音がすると同時に彼の耳元を小石が飛び去った。噴気の門は彼が通り終るのを待って閉じた。その辺一帯で噴気が渦を巻いた。  彼は危地を脱したところで草鞋を履きかえた。水にしめして来た草鞋だったが、鼻緒が焼けてぽろりと取れた。足の裏の火傷が痛んだ。新生火山の活動は終戦の翌日からその活動が衰えたようであった。それは五郎の感じだけではなく、記録にもそれがはっきりと現われていた。そして終戦後一カ月経った、九月二十日の朝、五郎は新生火山の停止を観測したのである。その朝の観測には変動は認められなかった。地震発生以来一年九カ月にわたって活動を続けていた新生火山は、その頂上において、元の地面より、二百六十四メートルの背丈に達したところでその生長を停止した。  五郎は各関係者に電報を打った。その翌日は僅かながら下降さえ見せた。噴気も漸次少なくなり、地震も鳴動もない日が続いた。  正一の戦死の公報が入ったのは更に二カ月ほど後であった。      9  終戦後も五郎の火山観測は続けられた。それまで彼が観測した新生火山の生長の過程を完全なものにするには、予後の観測が大事であることは、火山学者に言われるまでもなく彼はよく知っていた。  彼は新生火山の観測に|尽《じん》|瘁《すい》することによって、戦後に生きる価値を求めようとした。  戦時中、新生火山に関する記事は軍の命令によって掲載は禁止されていたが、戦後の混乱の中では、まだまだ世人の眼がこの新生火山に向うまでには至っていなかった。  真っ先にこの新生火山に眼を向けたのは、鉱山師であった。彼等は次々と鉱区を申請して、その許可を待たずに、昭和二十一年の春ごろから硫黄の採掘にかかった。まだ熱い、良質の硫黄が多量に搬出された。  新生火山はまだ生きていた。その身体に傷をつけるような行動に五郎は我慢ができなかった。活動中の火山に人が立ち入ることも危険であった。しかし五郎のできることは、危険を説いてやるぐらいのものであった。それ以上立ち入ったことを言うと彼等は怒ってツルハシをふり上げた。 「また、新手が硫黄の採掘を始めたようだ、おれが行ったところで、止める奴等ではないが、ひとこと言ってやらねばならない」  五郎は、山へ行く支度をしながらつね子に言った。 「照子もおじいちゃんと山へ行く」  と、つね子の傍にいた照子が言った。照子は満二歳になっていた。なんでもしゃべるし、足もしっかりしていた。  照子は五郎におんぶして行くと言った。甘えているのである。危険だからと、つね子が言いきかせても承知しなかった。ついには泣いた。泣かれると五郎は負けて照子を背負った。  新山の近くまで行って引き返そうと思った。その照子が、新山の真正面に立って、赤い岩肌と白い噴煙を見上げたとき、 「あれはおじいちゃんと照子の山」  と言った。五郎は背中の照子が洩らした言葉を神の啓示のように聞いた。 (鉱山師たちは、十三人ほど鉱区を申請しているが、火山は活動中だし、まだ名前もない山だから許可はおりていない。だが、いずれ近いうちには、誰かに許可はおりるだろう)  五郎は札幌の鉱山監督局の係官が言ったことを思い出していた。そうだ、その許可がおりないうちに、新山を買い取ってしまう手がある。自分の山になれば、地上権を主張して、鉱山師たちの立ち入りを防ぐことができるのだ。 「おれはあの|新《や》|山《ま》を買うぞ」  五郎は家に帰るとつね子に言った。つね子はだまって五郎の顔を見ていた。正気かという顔であった。五郎はその理由を、くどくど説明しなかった。照子が「おじいちゃんと照子の山」と言ったことも話さなかった。五郎の眼の力に負けてつね子が言った。 「|新《や》|山《ま》を買うお金はどうするのです」 「土地を売るしか方法はない」 「先祖様がお許しなさるかしら」  二人はまた|睨《にら》み合った。美松家には、山林と若干の畑があった。彼の父が残したものであった。彼の父は延岡内藤藩の藩士であった。明治になって、内務省の役人になり、北海道に来て、内務省直営の製糖所の所長を務めていたが、上司と意見が合わずに辞して、この地に帰農したのである。彼の母は、旗本の娘であった。五郎は末子として生れ、父の跡を継いでこの地に留まったのである。戦後の農地解放によって農地の大部分を失い、売れるものと言ったら山林だけだった。その山林を売ることはつらいことだったが、それ以外に新山を守る方法はなかった。父が生きていたならば、黙って彼の話を聞いていて、学問のために必要なら止むを得ないと言うだろうと思った。口を一文字に結んで、五郎の話を黙って聞いている父の姿が見えるようだった。  元フカバ地区の地主たちに、もはや農地としてなんの役にも立たなくなった、焼けただれた土地を買いたいと言うと、すぐその話に乗った。だが、いざその価格になると彼等は意外なほどねばり強いところを見せた。 「畑にはならないが、硫黄だって取れるし、鉄も取れる……」  彼等はそんなことを言った。五郎は山林の三分の二を売って六十五町歩の新山を買い取った。 「あなたほど、ばかな人はいないね、なんにもならない土地を買ってどうするのです」  北条忠良は、彼の土地の代金を五郎から受け取るときに言った。  フカバ地区は壊滅したが、そこに住んでいた農民たちは、終戦と同時に新地主になっていた。農地法の改正によって、彼等が耕していた小作地が、労せずしてころがりこんで来たのである。だが、北条忠良だけは、その土地の受領をこばんだ。 「困ったときに土地を貸してくれた地主の土地を、ただで貰うわけにはいかない」  彼は権利を放棄して、フカバに帰って、災害をまぬがれた僅かばかりの畑を耕して暮していた。  新山の活動は、戦後の日本がたどる道を歩むように、年月の経過と共に落ちつきを見せて行った。豪雨があるたびに山は清掃され、寒風が吹くたびに磨きがかけられた。五郎は日が経つに従って山容を整えて行く新山と照子の成長を眼を細めて眺めていた。  昭和二十三年、オスローで世界火山会議が開かれることになった。田口博士はこの席上で、五郎が一日も欠かさずに観測をつづけた新山の生成過程について発表したいが、山に名がなくてはこまる、美松新山はどうだろうかと相談に来た。五郎は田口博士の顔をしばらく見詰めていたが、だまって首を横にふって、 「昭和新山がいいでしょう」  と言った。五郎の頭の中に照子の顔があった。彼女がおじいちゃんと照子の山と言ったことを思い出していた。昭和の昭と照子の照とはどこかで通じていた。  オスローの火山会議における田口博士の昭和新山に関する講演は、最も注目すべき課題とされた。最後に田口博士は、美松五郎が観測した新山生成の過程を図にして示した。地震発生以来、一カ月置きの新山のプロフィールを図に重ね合せたものであった。一目で新山の生成過程が分った。 「未だ地球上において為し得られなかったことが、日本のミマツ氏によって完成されたことを記念するために、このダイヤグラムにミマツダイヤグラムと名付けよう。そして、このミマツダイヤグラムはわれわれ火山学者のもっとも貴重な宝物となるであろう」  議長が発言した。その提案は満場の拍手によって迎えられた。  ミマツダイヤグラムのことが日本の新聞に報道されてから、新聞記者、雑誌記者がつぎつぎと壮瞥を訪れて、戦時中に新生した火山に驚異の眼を見張った。昭和新山の名はようやく一般に知られるようになった。だが昭和新山を訪れる者はごく少数の人でしかなかった。戦後の日本はまだ混迷の裏道を歩いていた。  昭和二十六年の六月彼は郵便局長を辞した。この日から彼は、誰にも気兼ねすることなく彼の新山の調査を続けることができた。ささやかな恩給と僅かばかりの農地と山林の収入が彼等一家の生活を支えた。      10  昭和新山が観光の対象となったのは、昭和三十年以後であった。このころは、物好きが見に来る程度だったが、三十五年を過ぎて、やがて観光ブームが訪れると、昭和新山を訪れる人が急にふえた。すでに火口のあとはわからなくなっていた。洞爺湖を訪れる人は例外なしに昭和新山を見たがった。美松五郎が戦時中ずっとこの火山の観測を続け、研究のために私費を投じてその山を買ったという事実も、観光客たちの旅愁を揺さぶった。洞爺湖上を走る遊覧船の案内嬢は、よく澄んだ声で、その|経《いき》|緯《さつ》を話した。その説明の中に、御神火という言葉がしばしば聞かれた。そのころは、まだ一部の噴火孔の底に赤熱熔岩が覗いていた。  洞爺湖を一巡する国道から、昭和新山観光用の完全舗装道路が北海道庁の手によって完成されてからは、年間五十万人を優に越す観光客が昭和新山を訪れるようになった。  五郎は著名な観光業者の訪問を受けた。昭和新山を売らないかという交渉であった。業者は三千万円という値をつけた。五郎の言い方次第ではまだまだ値をつり上げるつもりのようであった。 「私は火山の研究のためにあの山を買ったのです。儲けるためでも観光の用に供するためでもありません」  五郎はその話をことわった。その話が新聞に出ると、次々と山を買いたいという人が現われた。三億円出すから売れという人が現われたという噂まで出た。 「局長さん、あなたはばかだと思ったが、ほんとうは利口だったんですね、ちゃんとこうなることを見込んでこの山を買ったのでしょう」  北条忠良は局長をやめた五郎をいまだに局長さんと呼んでいた。五郎は笑っているだけで答えなかった。北条忠良は観光道路が昭和新山に通ずると同時にバスの停留所の近くに土産物屋を開店した。その土産物屋が当った。北条が儲けたと聞くと、次々と土産物屋が軒を並べるようになった。北条忠良は店を拡張して、群小土産物屋の追従をふり切った。 「利口なのは君じゃあないかな」  五郎は北条忠良に言った。臆病なのか大胆なのか愚鈍なのか機敏なのか全く正体がつかめぬ男だと思った。  昭和新山は二十一歳を迎えていた。風雪によって磨き上げられた昭和新山は匂うように美しく姿を変えていた。降灰のために枯死した付近の森林が当時に勝る生長ぶりを見せたばかりでなく、昭和新山の麓の山林一帯も、樹木が生い繁っていた。これらの植物の生長の速さは驚異に値した。  ニュージーランドから調査に来た火山学者は、 「昭和新山の吹き出した降灰は植物の生長に効果を与える灰であり、その効果は世界一である」  と評した。分析の結果、降灰中には、肥効補助剤となる成分が多量に含まれていることが証明された。  昭和新山は緑のスカートを|穿《は》いた。赤い地肌は朝日夕日に輝いた。新山を取り巻く数条の白煙はスカーフのように、或いは貴婦人が戴く帽子のように新山を飾った。雨の日は、白煙は全山を覆った。一日中、人に顔を見せなかった。そしてその翌朝雨が上ると、一段と健康な姿を見せるのである。五郎には新山と照子が姉妹に見えた。照子は美しく成人した。両親を戦争中に失った照子であったが、どこにも暗い|翳《かげ》はなかった。明朗で常に輝きに満ちた娘だった。高校を卒業して、大学に入ってからは更に美しさを増した。近所のおかみさんが、照子さんはあまりお綺麗だから女優さんにしたらいいと不用意に洩らした言葉に、つね子が腹を立てた。  五郎が新山を手放す気持がないことを繰返し表明しても、新山の買手はなかなかあきらめなかった。彼等は五郎の家計が決して豊かでないことを知っているからであった。恩給は物価の高騰におされた。五郎は山林を売ってどうやら生計を立てていた。やがては売食い生活が底をつくことが眼に見えていた。観光業者はそこに眼をつけているようだった。 「おれはこの前局長さんは利口だと言ったが、やはり局長さんはばか[#「ばか」に傍点]ですね、新山を売ろうとしないばかりか、新山を見に来る人から観覧料を取る方法を考えようともしない、あなたの新山だから儲けようと思えばいくらでも儲けられる筈だ。それだけに儲けようとしないのはほんとにばか[#「ばか」に傍点]な人ですね、局長さんは」  五郎が新山の見廻りに行ったとき、北条忠良が言った。 「ばか[#「ばか」に傍点]かもしれないが、そのお蔭で大ぜいの人が儲けているからそれでいいではないか」  五郎は笑っていた。  照子は大学を卒業した年の秋、結婚した。婿の紫郎は大学の助手で、生物学を専攻していた。新居は東京に持った。翌年の夏紫郎と照子は壮瞥で一夏を過すことにした。紫郎は五郎の昭和新山の資料の整理を手伝った。火山と生物では学問の分野は違ったが、自然科学の探究という点において共通する点が多かった。紫郎は、新生火山の生成中に五郎が観測した動物や植物に対しての綿密な記録を見て感激した。若い紫郎はその夏の終るころには、昭和新山に魅せられた一人になっていた。紫郎は五郎の残した|厖《ぼう》|大《だい》な観測資料や写生資料を|如《い》|何《か》に整理して後世に残すかを考えていた。  その夏の終りごろ、五郎は紫郎を誘って昭和新山に登った。昭和新山の頂上に登る道は一つしかなかった。それ以外の道は危険であった。安全ルートを知っている者は数名に過ぎなかった。  紫郎は既にその頂上まで何回か登っていた。紫郎と五郎はザイルにつながれて昭和新山を大きく|捲《ま》くようにして登って行った。  噴気しているところや、岩に触れると熱いところがあった。危険なところに来ると、紫郎はザイルを上手に使って五郎を引き上げた。紫郎は大学生のころ山岳部にいた経験を生かした。 「ありがとう、おかげでどうやら登ることができた。昭和新山は二十四歳になった。だがこれ以上この足で登って見てやるわけにはいかないだろう。此処に来るのもこれが最後かもしれない」  五郎はそう言って眼を山麓に投げた。洞爺湖上を遊覧船が走っていた。土産物売場のあたりで頂上に立った二人の人影を指さして騒いでいる観光客の姿が豆つぶのように見えた。  紫郎は、これが最後かもしれないと言う言葉を聞いたとき、はっとした。昭和新山は青年になった。だがまだまだその先がある。その先を誰かに見とどけて欲しいという気持があっても、それを口に出せない五郎の心境が紫郎の胸を打った。 「ぼくが、あとをつづけましょう」 「えっ! 大学は?」 「やめるんです。照子もそのほうを喜ぶでしょう」  二人はそれ以上話さなかった。話をしないでも心は通じていた。紫郎がいったことがでまかせでないことを五郎は知っていた。紫郎がその気持になったのは、五郎の業績に感動したのでも、つね子や照子の希望が反映したのでもなく、昭和新山の魅力によるものだと、五郎は思った。 「昭和新山はほんとうにすばらしい山だ。男子が一生を賭けても、惜しくない山だ」  その山をいま婿の紫郎に譲ったのだと五郎は思った。眼頭が熱くなった。五郎はそれをかくすために、言った。 「人間、八十歳を越すと、どこもここもだめになる、ちょっと噴気を感じただけで涙が出る」  頂上には噴気はなかった。乾いた風が吹いている青空の果てが噴火湾(内浦湾)につながっていた。 [#ここから2字下げ]  この小説は三松正夫著「昭和新山生成日記」を資料とし、実地踏査と三松正夫氏の談話を参考として書いたものである。この取材旅行中、私は昭和新山の頂上まで登った。岩の間から見た真紅の熔岩に驚き、臭い噴煙に鼻を覆い、そして靴底から伝わって来る地熱に追われるように降りて来た。三松正夫氏は現在北海道有珠郡壮瞥町滝の町に健在である。 [#ここで字下げ終わり]     氷  葬      1  南極大陸の昭和基地で見る真夏の太陽は、なにかしら物憂げに見えた。  あの日本の夏のぎらぎらと頭上に輝く太陽とは異質なものであり、日本アルプスで眺める紺色の空に輝く太陽とも違っていた。太平洋の|真《まっ》|只《ただ》|中《なか》で見る太陽とも、アジア大陸に沈んで行く太陽とも似てはいなかった。それは南極という途方もなく広い地域の中に、夏の訪れとともに|瀰《び》|漫《まん》して行く水蒸気の厚いベールを通して見る、眠そうな表情をした太陽であり、なんとなく遠慮勝ちに地表上を|彷《ほう》|徨《こう》する太陽であった。少なくとも熱気を感ずる太陽ではなく、やんわりと氷雪に降りそそぐ光には、やがてやってくる、太陽のない冬の南極大陸を暗示するものがなしさが潜んでいるようだった。  南極の夏は十二月、一月、二月の三カ月であった。この間はほとんど一日中明るかった。太陽は地表上を来る日も来る日も休むことなくぐるぐる廻った。太陽が南の方に一時間か二時間姿をかくすことがあっても、外は昼と同じように明るかった。  夏の太陽は地表線上を|這《は》うように廻るので、太陽が創り出す影は途方もなく長かった。そしてその長い影もまた太陽とともに、ぐるぐると廻った。  二月一日、太陽は午前三時に南南東方向の南極大陸に昇り、そして、地表線上を一周して、夜の十時には南極大陸の南南西方向に姿を消した。そして夜の十時から翌朝の三時までは白夜が続いた。この間、太陽が一番高くなる北中時には三十八度の高度角を示した。  |成《なる》|瀬《せ》|春《はる》|生《お》は南極基地においてはじめて対面した、この奇妙な動き方をする太陽の下を、時間に余裕があるかぎり歩き廻っていた。はじめての南極のことでもあるので、すべてが彼の興味を|牽《ひ》くものばかりであった。 (はじめて参加した者は、夏の間にできるかぎり基地の周辺を歩いて置くこと)  というのが、南極越冬隊長が新しく越冬隊に参加した隊員に指示した要目の一つであった。冬になって、暗い夜がずっと続くようになっても、激しいブリザードに襲われて、一寸先が見えないような日も、与えられた観測は続けなければならなかった。場合によっては外へ出ることがあった。基地の周辺の地形を体得して置くことは、越冬隊員の必修科目でもあった。  成瀬春生は、この太陽以上に、奇異な感じを受けたことがあった。この南極の弱々しい光を投げる夏の太陽が、そこに、現実に夏を作っているということであった。氷雪が溶けて、岩石がちょっとでも現われると、そこを中心として黒い部分は急速に拡がって行った。  彼はここに来るまで南極に関する資料を読み、話を聞いて、南極基地がどんなところであるか、おおよその知識を得て来たつもりであった。しかしそれは、南極基地の二月の平均気温が零下三・二度であり、平均風速が五・四メートルであるというふうな概括的な資料であって、地表線上をぐるぐる廻る、あの|詠《えい》|嘆《たん》的な表情をした太陽が、予想外に多量な熱エネルギーを放射して、基地の周辺の氷雪を溶かして南極の基地を裸にしようとしている事実は想像もしていないことであった。南極の氷雪が溶けて、岩石が露出し、|垂《たる》|水《み》が音を立てるのを聞くと、ここが南極であるということさえ、ふと忘れてしまうのであった。  成瀬春生は時間の許すかぎり歩き廻った。基地の周辺の高地へはすべて登り、海の、危険な割れ目地帯の近くも歩いて見た。そしてほぼ客観的に、基地の建物の配置や、観測項目別による観測施設の点在地を確認してから、建物の周囲を歩き廻った。  建物は、彼の眼には、科学の粋を誇る、南極基地とは思われなかった。それは予算の削減と、設営期間の時間的制約を受けたがために充分なことができなかったという理由はあるにしても、なにかしら、やっつけ仕事のように思われるふしがないではなかった。建物は、長いトンネル式回廊によって接続されていたが、それらの建物と離れているものもあった。何年か前に使用されたが、現在は使われていないものもあった。南極観測開始以来十二年の歴史のあとが、それらの廃屋の一つ一つに映し出されていた。  成瀬春生は、それらのほとんど|形骸《けいがい》をとどむるに過ぎないような建物のあとを歩きながら、光と影の対照に思わず足を止めることがあった。  南極観測が始まった昭和三十二年のこの地の氷雪は比較的に少なかったが、その年の冬に訪れた寒気と激しいブリザードによって、建設当時の幾つかの施設は氷雪の下になった。以来南極の寒気は夏が来ても緩和することなく、ずっと今日まで続いた。そして、南極に、十二年ぶりで異常に暖かい夏が訪れたのであった。成瀬春生は、たまたま、その暖かい夏に南極を訪れたのであるから、氷雪の中に姿を見せている、建設当時の半壊又は全壊した小施設に対して、なんとはなしに好奇の眼を以て眺めるのであった。十年ひと昔というけれど、昭和三十一年十一月、南極観測隊員を乗せた宗谷が歓呼の声に送られて日本を離れたことは既に遠い昔の物語になっていた。当時成瀬春生は小学校六年生であった。  成瀬春生は、基地設備を一周して、再び基地の北方に来たところで、基地の建物と二十メートルほど距離を置いたところに、雪の中から鉄骨を突き出している、おそらく、なにかの物置にでも使ったと思われるような建物の崩れたあとを見た。風速五十メートルを越えるようなブリザードに吹き倒され、その上を氷雪が覆ったものと思われた。氷雪がとけて、いま眼を覚まして|欠伸《あ く び》をしているところだと言わんばかりに、ぐんと突き出している鉄骨の腕に当った日ざしが長い影を作っていた。その影の先端に当るところに、赤い点が見えた。それは、氷雪の上にこぼした一滴の赤いインクのようであった。  成瀬春生はその赤い色に牽きつけられて行った。それはインクをこぼしたあとではなく、布の一端が雪の表面に出ていたものであった。更に近よってよく見ると、それは着物の袖のはしのように思われた。彼は、その氷雪に隠されているものを引張り出そうと思った。彼はそこにしゃがんで、前傾した姿勢で、右手を伸ばした。氷雪が鳴った。彼の体重がかかったからである。と、赤い着物の端から、三十センチほど離れたところの、やや盛り上ったように見えていた氷塊の表面の氷が音も立てずに崩れて落ちた。  女の顔の半分が現われた。長い|睫《まつげ》をした女の眼が成瀬春生を見詰めていた。  成瀬は声も出ないほど驚いた。胸を鋭い物で突かれたような気持だった。とにかく誰かに知らせなければならないということだけで頭の中がいっぱいだった。 「女が死んでいる、女が死んでいる」  彼は、そう叫びながら建物の中に駆けこんだ。幾つもの顔があったが、彼は、この重大な報告は、越冬隊長の玉村八郎に知らせるべきだと思った。人の顔を見ると、心の中にそれだけのゆとりができた。 「隊長、女が死んでます」  越冬隊長の部屋をノックしながら、彼は怒鳴った。隊長の返事があったかどうか確かめないで彼はドアーを開けていた。 「女が?」  越冬隊長の玉村八郎は机の上に地図を開いていたが、顔色を変えてとびこんで来た成瀬を見ると、ゆっくり立上った。 「そうです、女の死体です」 「どこにあったのだ」 「庁舎の北側の、こわれた物置小屋のあたりです。雪の中にかくしてありました」  玉村は成瀬の顔を穴のあくほど見ていたが、一時こわばった表情がすぐほどけて、 「その女は眼を開いていたろう、ぱっちりと」  玉村は、ぱっちりと、というところに力を入れて言った。玉村の顔が更になごやかになった。玉村は机を離れて成瀬の前に立った。 「それは人形だよ、|北《きた》の|方《かた》だよ」 「北の方?」 「中世の領主は、その細君を|館《やかた》の北側の居室に置いた。だから、奥方のことを通称北の方と呼んでいた」 「それが人形とどういう関係があるのです」  成瀬は人形を女の死骸だと間違えた自分の|迂《う》|闊《かつ》さがはっきりしてくると、なんとも言えない自分自身に対する怒りと共に、誰かにからかわれたのではないかという疑念が湧いた。誰かが雪の下に人形をかくして置いてはじめて南極へやって来た新参者を驚かそうとしたのだとすれば、許すことはできないと思った。玉村隊長がそれに関係しているとすれば、尚更このままほうっては置けないことだと思った。 「十二年前に、あそこに北の方の居室を設けてお移し申し上げたのだ」  そういうと、玉村はなにがおかしいのか突然笑い出した。心の底からおかしくて笑っているようであった。成瀬は、その玉村の笑いが、成瀬を対象として笑っているのではなく、昔のことを思い出しながら笑っていることに気がつくと、肩の力を幾分か抜いて玉村の次の言葉を待った。 「十二年前のブリザードで吹き倒され、そのまま氷雪に閉じこめられた北の方の館が、異常温暖の到来で地上に現われ、北の方がその顔を見せたということだよ」 「北の方というのは人形の名前ですか」 「いやあの人形には名前はなかった。北の方というのは、あの人形に与えられた俗称でしかない」 「人形と言ったって、人間とそっくりな……」  成瀬は人形を人だと誤認した自分を弁護しようとした。 「そうだ、あの人形は等身大の女の身体をしているのだ」  玉村の顔が突然きびしくなった。 「聞きたいだろうね、成瀬君」 「聞きたいですね、なぜあの人形が、十二年間も雪の中に埋まっていたのか」  隊長は大きく|頷《うなず》くと、腕組みをして、部屋の中を歩き出した。思い出そうとしているのか、それとも、回想にふけっているのか、首を垂れて、腕を組んで、|憂《ゆう》|鬱《うつ》な表情をして、成瀬春生の周囲をぐるぐる廻る隊長の行動は、なにか南極の太陽と似ていてもの悲しかった。 「あの人形の正式の名称は、保温|洗滌《せんじょう》式人体模型第一号というのだ」 「なんのことです」 「南極観測開始に当って、愚かなる、多くの人間が創り出したセックスに対する恐怖の幻影だよ」 「幻影ですって?……でも人形という実体はある」 「実体はあっても結局は幻影として終ったのだ」      2  日本の、国際地球観測年ならびに南極地域観測への参加が決定されて、南極観測統合推進本部という官庁機構ができ上ったのは昭和三十年の秋であった。  本部長は文部大臣、副本部長は日本学術会議議長、委員は各関係諸官庁の幹部やそれぞれ著名なる学術専門家によって構成された。この機構ができ上るのとほとんど同時に日本学術会議南極特別委員会が設けられ、同時に、日本学術振興会南極地域観測後援特別委員会ができ上った。  日本学術会議南極特別委員会(略名南特委)が南極観測を実施する母体となった。  南特委の下部組織として、南極観測に必要なあらゆる専門部会が編成されて準備に当った。南極という限界状態において人間が越冬するために必要な施設や機械器具が準備された。|犬《いぬ》|橇《ぞり》を牽く|樺《カラ》|太《フト》犬の準備も専門部会によって進められていた。  国民の眼は南極観測というはるかなる希望に吸い寄せられたかに見えた。日本学術振興会南極地域観測後援特別委員会という、日本始まって以来の長ったらしい名称は、この壮挙に、一般国民の浄財を得ようという、言わば寄付金受付所であった。  南極観測の計画は着々と進められ、そしてここに第一次南極観測隊五十三名の名前が発表された。越冬隊長と越冬隊員はその中から選出されることになっていた。  長ったらしい官庁的呼称の機構とそれに連なる|錚《そう》|々《そう》たる学者や役人の名前を以てしても南極観測が容易にできるとは考えられなかった。南極観測が成功するかどうかは、結局はその隊員の素質にかかっていた。各界は、その人選に苦心した。まず健康であること、安定した人格を持った人であり、専門技術に卓越している人であることが選定の基準となった。事実、第一次南極観測隊に選ばれた人たちの名簿を見ると、それぞれの分野の超一流の人間たちを|網《もう》|羅《ら》したと見てさしつかえがなかった。  第一次南極観測隊の隊長として選ばれた青柳直之助は四十三歳であった。地球物理学者としてその名は日本よりも海外において知られていた。学者でありながら、学者らしくない強健な身体つきをしていたのは、学生時代から山で鍛えていたからであった。豪放|磊《らい》|落《らく》な人間という批評をした者もあったが、人をそらさない点が、そのような評価を受けたのであった。実際は|緻《ち》|密《みつ》な神経の持主だった。大学の実験室で助手を相手に、地球磁場の研究に没頭していた青柳直之助は、突如として下った、南極観測隊長という大任を一応は辞退した。だが、二度三度と先輩を通じての申入れに彼はその仕事を引き受けざるを得なくなった。  南極観測は世界的な規模を持った大行事であったが、物理学者としての彼にはそのような広い舞台より、大学の狭い実験室のほうが合っていた。彼はそのとき、地球磁場の位相変動についての研究論文を執筆中であった。 「君以外に人はいないのだ」  日本学術会議南極特別委員会の主要委員の一人に彼の先生がいた。先生にそう言われると返す言葉はなかった。大学における、教授、助教授、助手のつながりは民間では想像もできないほど|鞏固《きょうこ》なものであった。軍隊における命令受領と同じような厳粛さと|悲《ひ》|愴《そう》|感《かん》の中で青柳直之助はこの役を引き受けざるを得なかった。  彼は南極観測隊長を受諾する旨を老教授に電話で伝えた。その日の東京の空は澄んでいた。前夜、東京を襲った低気圧がもたらした風雨が、スモッグを吹きとばしたからであった。  青柳直之助が隊長に決ったということは正午のラジオニュースで報道された。  ラジオニュースを彼は彼の研究室で聞いた。その直後から、彼は応接のいとまもないほどの電話を受けた。十分、二十分、三十分も続いて、そろそろ|辟易《へきえき》したころまた電話があった。  青柳直之助と中学校の同級生だった男からだった。年に一度の同級会で会っているからすぐ話は通じた。 「南極に一年こもるということはたいへんなことだね」  彼はまずそう言った。 「越冬隊長になるかどうかはまだ決っていないのだ」 「誰が隊長になるにしても、女っ気のない南極に一年間もいるということは、たいへんなことだ。へたをすると生きては帰れないぞ」 「そういう危険がないように、現在の科学で考えられるあらゆる準備をして行くつもりだ。医者も行くことになっている」 「南極の嵐だとか、病気だとかいう危険を言っているのではない、おれが言うのは、女が居ないということの危険性を言っているのだ。一年間も、女っ気のないところに置かれた男が、どうなるか知っているか。何人が越冬するか知らないが、そのうち半数は頭がへん[#「へん」に傍点]になるだろう。禁欲生活というものはおそろしいものだ。こういうことは、誰でもおおっぴらに言いたがらないものだ。しかしおれは、きみと同級生だ、言うべきことははっきり言わねばならない。きみはなによりも先に、女の代用品としてなにを持って行くべきかを考えるのだな、それが隊長として一番大事な仕事だと思う」  電話では長くなるから、改めて一度会って話をすると言って彼は電話を切った。  青柳直之助はきわめて複雑な顔をして立っていた。こんなことを言われるとは思っていなかった。しかし、旧友が真剣な声でそれを言っているのだから、そのことについても考えねばならないだろうと思った。南極観測にセックスを持ちこむと考えただけで|悪《お》|寒《かん》が走った。      3  青柳直之助は隊長を引き受けたその日から、学者の座からおりていた。その地位は暫定的なものであることが分っていても、それまで彼がいた学者の世界とはいちじるしくかけはなれたものであった。彼は、南極観測に関連する幾つかの委員会や、ちょっと数え切れないほどの部会やそのまた分科会にいちいち顔を出さねばならなかった。各部会から言って来る要求を、予算の裏付けをもたせて、推進本部に持って行くのも彼の仕事の一つであった。  予算は文部省の統合推進本部において一括して要求し、それが、各関係部門へ分割されて行くようになっていた。各部門毎に予算が検討され、ほとんどの部門は予算の不足を隊長のところへ来てうったえた。  青柳直之助はそれらの、全く思いもよらなかったような事務的な仕事に忙殺されているうちに多くの人々と会うようになった。それまで、彼の交際は、ごく一部の物理学者に限られていたのが、隊長となったとたんに、一日に一度はジャーナリストと顔を合わせねばならないような生活に変った。彼は、しばしば愚にもつかない議論や雑事や、区々たる縄張り争いに巻きこまれ、何度か隊長の肩書を返上しようと思うような目にぶっつかった。しかし彼は、意外なほど忍耐強い男であった。ほんとうに怒りのために頭痛を感ずるほど|嫌《いや》な目に会わされても、彼の持ち前の微笑でその場を逃れていた。そして、そういう、常に不満足な結末しか得られない、会議や打合せの回数を重ねるうちに、なんとなく、隊長としての風格を自分でも感ずるようになって来たのである。  彼が南極におけるセックスの話を、公式に耳にしたのは、これらの専門部会の席上であった。かなり面倒な学問的な討議が終ったあとで、 「隊長、越冬隊員のセックスについてはどのような準備をしているかね」  と、ある委員に訊かれた。その委員は著名な学者であった。会議が終ったあとだから、自由発言であることに間違いなかったが、その質問をした委員はひどく真面目な顔をしていたし、その質問を耳にすると他の委員たちも立ちかけた椅子に戻って、しんとなった。笑いを浮べるような不謹慎な男はひとりもいなかった。 「特にそういうことは考えていません」  青柳直之助はそう答えながら、この問題はやはり、考えねばならないことになるだろうと思った。越冬隊員のセックスについての質問は、他の委員会でも、専門部会でもしばしば話題にのぼった。みだらな雰囲気ではなく、せっぱつまったような言い方をする者さえあった。 「セックスを処理するには非常に精巧にできたものがあるそうではないか、それを持って行ったらどうか」  と真面目に彼に耳打ちをした者もいた。しかし、それをどこで売っているのかと訊くと、横浜だとか神戸だとか、港町の名が出るだけで、具体的にその販売店を知っている者はなかった。 「性の問題は怖ろしいものだ、おれは戦争中、おおぜいの若い兵隊を扱って充分そのことを味わわされた」 「アメリカのバード少将が南極探検をやったときも、完全人形を持って行ったそうだ」 「今度のアメリカ南極観測隊は電気仕掛けのダッチワイフを用意しているそうだ。その設計図を見た人の話によると、人体並の体温を保ち声まで発するそうである」  などと言う者があった。しかしその話を追究していくと、それは結局噂に過ぎないことがわかった。  だいたい、ダッチワイフというものからして、多くの人たちは間違えていた。ダッチワイフというのは、もともとは枕の補助のようなものであった。東南アジアでかなり以前から使われている、ごくありふれた家庭用具の一つであった。木又は陶器で作った枕状のもので、熱くて眠れない夜など、子供たちが、このダッチワイフに足を乗せたり、からませたり、抱きついたりして眠っている風景は珍しいことではなかった。ダッチワイフがセックスを対象とした人形であるというのはまったくの風説であった。  南極観測の準備が進むにつれて、この誤った解釈のダッチワイフの噂は自然発生的に拡がって行って、ついには、 (南極観測隊はセックス用具についても準備をしているそうだ)  というデマとなった。南極観測隊の準備が慎重を極めたものであるという実証の一つとしてそのような噂がでたものと思われた。 「南極のセックスが問題にされているのは、そのこと自体がやはり重大なことだからだ。そっぽを向かずに、むしろ積極的に取り組むべきだ」  と先輩の委員が青柳に忠告した。  青柳直之助が、山梨県の船津にある性博物館を見学に行ったのは、この直後であった。河口湖畔にある、その性博物館には、性に関する器具のコレクションが陳列してあった。しかし、その中に、越冬隊員のために持たせてやりたいようなものは一つもなかった。青柳直之助はその館長に色紙の|揮《き》|毫《ごう》を依頼された。その色紙は性博物館の壁に高々と掲げられた。 「南極観測隊長自ら性器具について研究している」  という噂がまことしやかに伝えられるようになった。それらの噂は、やがて“すべてを具備した|女体人形《ダッチワイフ》”というように統一されたが、その人形の出所については外国から輸入するとか、日本で作るとかまちまちであった。  青柳は、いつかわざわざ電話をかけて来てくれた中学当時の同級生と連絡を取って、具体的な協力を依頼した。彼は、そういうことなら任せて置けと、気軽に引き受けたが、一カ月もたって、青柳のところに持って来たものは、イソギンチャク状のゴム製品であった。ゴム管の先に、手で操作できるスポイト状の吸引具が付属したもので、使用する際には、イソギンチャクの内部圧力を手動で調整できるというしろものであった。値段が普通型で八百円、黒い人造毛らしきもので飾ったものが千三百円であった。とても南極へ持っていけるようなものではなかった。  青柳は、その性具を見せられたとき、ひどい侮辱を受けたような気がした。しかし青柳は、なにかしらこういう物があることを知らされ、もしかすると、もっとましな物があるかもしれないと思った。  青柳直之助は、南極観測隊が特殊の性具を用意しているという噂を、世論の期待のように考えてもみた。そういう噂が出ていることは南極観測隊員に選ばれた人たちも知り切っていることであった。青柳は、既に選ばれている隊員に、こういうものが必要かどうかをそれとなく聞いた。 「さあ、ぼくはそういうものは必要としないのですが、中には……」  選ばれた隊員たちは謙虚であった。一人として、そのものを否定する者はいなかった。唯一人、南極行きがほぼ決っているドクターだけは、 「そんなものが要るものか、欲求が起きたら自家発電をすればいいではないか」  とまっこうから反対した。 「そうだ、そういうものは必要ないな」  と青柳が同調していると、すぐはたから、 「南極観測隊員自身が、そういう物が必要とは言えないだろう。隊長は、隊員たちの気持を察してやって、黙って整えて置くべきじゃあないか」  と忠告する者があった。  青柳直之助は南特委に所属する学者たちの意見も、それとなくただしてみた。その話を聞いて怒る者はなかった。 「そういうことは真剣に考えてやるべきだな」  それが元老たちの共通した考えだった。  青柳直之助は、この問題について、なんとかけりをつけたかった。しなければならないことは山ほどあった。セックスの問題なんか南極観測全体から見ると、論ずるに足らないほど小さいものだと思いこもうとした。むしろ忘れようとした。しかし、彼が意識的にそのことにそっぽを向こうとすると、いろいろの形でその問題が彼の面前に提出された。日本学術振興会南極地域観測後援特別委員会を構成する委員の中には実業家が多かった。青柳直之助はこの委員の二、三にこの問題を問われた。なぜさっさと用意しないかというような言い方に反発を感じた彼は、 「もし皆様のなかに、南極のセックスについて妙案がありましたら、御教示願いたい。もし適当な器具、用具があったら教えていただきたい」  と開き直った。しかし、誰も、実物を提示してくれる者はなかった。  南極観測の準備は着々と進められて行った。厳冬の|乗《のり》|鞍《くら》|岳《だけ》や北海道での訓練が行われた。この訓練が終ったころ越冬隊員の名が発表されることになっていた。  青柳直之助はこの訓練にも参加した。隊員たちはすべて真面目に職務を遂行しようという者ばかりだった。酒癖の悪い者もいないし、|猥《わい》|談《だん》をするような者もいなかった。彼等は学術優良、品行方正、身体健康に過ぎた。青柳直之助は、その乱れのない訓練ぶりとあまりにも優秀な人たちが集められたことに対して、ふと|杞《き》|憂《ゆう》を抱いた。 (あのような整い過ぎた人格者だけを集めて南極へやって一年間越冬させた場合、なにごとか予期しない大事件が起きるのではなかろうか。彼等にはなにかしらの笑いが必要であり、なにかしらの精神的逸脱が必要ではなかろうか)  そのとき青柳直之助の頭に浮んだものは、すばらしくよくできた等身大の人形であった。セックスとは関係のない飾って眺める人形だった。美しい着物を着せて飾って置くだけでも、なにかしらのうるおいが得られるだろうと思った。  彼は東京へ帰って、その考えを二、三の人たちに話した。 「どうせ作るなら、眺めるだけでなく、セックスの相手を務める人形を作ったらどうだ。そういうことも、南極観測という未知な部門を開拓するには必要なことではなかろうか。南極観測と言っても、人間の生活を無視することはできない。その人形に対して、人間がいかなる反応を示すかを見るのも広い意味での科学研究になるのではなかろうか」  青柳直之助はその先輩委員の意見を取り入れて、セックスを対象とする人形を製作することを決意した。      4  南極観測に必要な物品のすべては、各専門部会でリストを作って推進本部へ送った。推進本部が内容を検討した上で発注することになっていた。機械器具にはいちいち仕様書が添えられていた。その機械の内容|如《い》|何《かん》によっては競争入札が行われたが、特殊なものは指名注文がなされた。  青柳直之助は人形の仕様書を誰に書かせるかに苦慮した。どの部門に持って行っても、それはわれわれの部門ではないといって拒絶された。隊長自身で書いてはどうかと言われることもあった。|揶《や》|揄《ゆ》の眼につき|纏《まと》われたが、止めろという者は一人もなかった。そのころになると、人形のことは関係者に知れわたっていて、いまさら取り止めるわけにはいかなかった。  青柳直之助は、推進本部の庶務課長に相談した。推進本部の庶務課は、文部省関係の役所から応援編成された、暫定的事務機関であった。約三十名の事務官が山積する事務処理に当っていた。 「その仕事なら吉見君が適当でしょう。彼は事務官と言っても、もともとは技術屋出身ですから」  庶務課長はそう言って吉見信男を推薦した。吉見信男は、南極観測という壮挙に、いささかなりとも力になればという気持で、進んで応援出向して来た若い事務官だった。  吉見は青柳から人形の話を聞くと、はじめ戸惑った顔をしたが、青柳が熱心にその必要性を説くと、黙って頷いた。だが、決して喜んで引き受けたという顔ではなかった。  青柳直之助は吉見信男がその仕事を引き受けてくれたのでほっとした。長いこと、しがみついていた憑きもの[#「憑きもの」に傍点]が落ちたような気がした。  吉見信男は二週間かかって仕様書を起草した。 [#ここから3字下げ] 保温洗滌式人体模型仕様書 [#ここで字下げ終わり]  一、本器は南極において南極隊員が使用するものとす  一、本器の購入個数は全く同一なるもの二体とす  一、本器は別第一図に示すような標準型成人女性体の模型にして、特に指示された部分については図面どおりの構造を有するものとす  一、本器は全体を、ゴム又はゴムの化合物を用い、容易に変色もしくは変性しないように配慮すること  一、本器は、内部に電熱線を埋没し、温度を常に摂氏三十七度に保つものとす。従って、これに要する自動恒温装置は本体内部に具備するものとす、電源電圧は交流五十サイクル、百ボルトとす  一、本器は別第二図に示す如く、手及び足は自由に動かすことが可能にして、任意の位置に静止できるような構造とす  一、本器の下腹部の内部構造は別第三図に示す如くし、本器を使用した後の洗滌は簡単容易なるような構造とす  一、本器の下腹部|恥丘《ちきゅう》には良質なる人毛を密植するものとし、その毛植部分の構造寸法は別第四図に指示する  一、本器の頭部は日本髪、洋髪、および断髪の三種とし、|夫《それ》|々《ぞれ》、本体に着脱容易なるような構造とす  一、本器の付属品として一体につき夫々、次に示すものを納入のこと    イ、振袖一着(下着つき)    口、ワンピース二着(下着つき)|但《ただ》し、同一生地を用いざること    ハ、ワセリン百グラム入り三|瓶《びん》  一、本仕様書に明記せざる細部については、直接官の指示を受けるものとす  一、納品は受注日より起算して、三カ月以内とし、納入前の検査に合格した場合、十日以内に支払行為が行われるものとす  一、検査官は南極観測隊員がこれに当り、不合格の場合は、更に一カ月以内に最終検査を実施するものとす  一、検査に合格したものは、夫々、別個に|梱《こん》|包《ぽう》すること  一、梱包については南極までの輸送中本器の|毀《き》|損《そん》なきよう特に考慮すべきこと  一、本器の銘盤は保温洗滌式人体模型第一号及び同第二号とし、製造者名及び製作年月日を刻印すること  この仕様書には本文の他に詳細なる図面がつけられ、閲覧決裁文書として上司の机上を移動して行った。保温洗滌式人体模型と名称をつけたのは、国家予算によって製作された器械であり、備品台帳に登録すべきものであるのでセクシーな名前はつけられなかったのである。  仕様書の上にクリップで止められた決裁文書には、上司の職名が十三も並んでいた。そこに十三個の印が押されるのに、二週間を要した。その間、起案部局の庶務課長が、呼び出されて内容について説明を求められたことは一度もなかったし、|付《ふ》|箋《せん》を添付されて、再審議に持ちこまれることもなかった。  決裁はおりた。吉見事務官は発注の手続きを取らねばならなかった。そして彼は製造業者選定の段階で|暗礁《あんしょう》に乗り上げた。  そういう種類のものは、横浜に製造するところがあるというので、業者を通じて調べたが、探し出すことはできなかった。どうやら、そのようなものを作ったことは、未だかつてないことのように思われた。一般人形製造業者の出る幕ではなかった。大企業、中企業が製作図面を引くような品物ではなかった。  吉見事務官は思案に余って、その仕様書を持って、本郷のいわし屋[#「いわし屋」に傍点]へ行った。  いわし屋[#「いわし屋」に傍点]というのは、医療器具製造業者のうち義足を作る業者の俗称であった。どのいわし屋[#「いわし屋」に傍点]も首を振った。なかには、そんな仕事を持ちこんだと言って怒る者もいた。五軒目のいわし屋[#「いわし屋」に傍点]が、吉見の困り切った顔を見てやっと引き受けた。  早速、見積り書を取ったが、ものがものだけにいくらかかるか見当がつかなかった。明治の初年からいわし屋[#「いわし屋」に傍点]としての業績を誇っている笠部八郎兵衛は、二体で三万八千円という見積りを出した。予算がないから四万円以下にしてくれと、吉見に頼まれたからそうしたのである。損は覚悟していた。契約手続きが完了して、製作命令書が笠部八郎兵衛のところへ届いたその翌日、吉見事務官は、急にもといた勤務先に帰任することになった。有能な事務官はどこでも引張りだこであった。吉見事務官のかわりに、この仕事を担当したのは、羽塚事務官であった。  このころ南極観測隊の準備工作は大詰めに入っていた。各部門で出して来た予算を総合すると、国が南極観測のために用意した予算の三億円をはるかに超過した。二割削減の通知が各部門に通達された。  羽塚事務官は予算削減の対象の第一として保温洗滌式人体模型を上げた。  羽塚事務官は吉見事務官と違って、好きでこの場に出向して来たのではなかった。一年という条件つきでいやおうなしに出向させられたのであった。彼は二人の兄を戦地で失い、両親は東京大空襲の際に死んだ。彼は疎開学童として生き延びて、伯父によって育てられた。彼に関するかぎり、戦争の傷跡はまだ|癒《い》えていなかった。羽塚事務官は、南極観測に対して批判的だった。戦争の後始末も終っていないのに膨大な国費を使って南極観測をやろうとする政府に対して怒りを覚えていた。公務員である彼は、その|鬱《うっ》|憤《ぷん》をそのまま吐き出すわけには行かなかった。彼は南極観測隊員が使う人形に対して怒りの|鞭《むち》を当てた。 「二体で二万円でやってくれないか」  彼は笠部八郎兵衛に電話で言った。 「仕様書を直していただかないと、できませんね」  当然なことだった。羽塚事務官は吉見事務官が書いた仕様書を書き直した。全体がゴムであったのが、腰部だけがゴムになり、電熱保温が、下腹部だけを湯を入れて保温する方式に書き改められた。前の契約は破棄されて、新しい契約が結ばれることになった。製造は正式契約の日まで延期された。  そのころ更に予算一割削減の通達があった。羽塚事務官は、削減の|斧《おの》を当然のことのように再び保温洗滌式人体模型に当てた。両手両足が切断された。細かいところでは、恥丘に密植させるべき人毛をブタの毛に変更した。 「両手、両足がない人体模型なんてありますか。わしは、こんなものを作るのはごめんを|蒙《こうむ》りたいね」  両手両足を失くして、二体で一万三千円で作れと羽塚事務官に言われた笠部八郎兵衛は、色をなした。 「しようがないだろう、予算がないのだから。きみが損をすることはわかっている。しかし、この次にはきっといい仕事をやるからな」  羽塚は口では|旨《うま》いことを言って、腹の中では舌を出していた。  保温洗滌式人体模型ができ上ったのは、南極観測越冬隊員十一名の氏名が発表された一カ月後であった。  青柳直之助は、本部の羽塚事務官から、人体模型ができたから検査官を出すようにという電話を受けたので早速、東京在住の越冬隊員に電話をかけた。しかし、当日になると、夫々の隊員から、ことわりの電話があった。腹が痛いとか風邪を引いたとか、会議があるという理由であった。選抜された隊員は殺しても死なないような男ばかりだった。仮病を使っていることは明瞭だった。  立合い検査には、青柳直之助一人が当った。  彼は、両手両足のない哀れな人形に言葉も出なかった。羽塚事務官が予算削減のために止むなくこうなったのだと説明したが、それに抗議する気すらおこらなかった。役所仕事というものが、いかにくだらない結果を生むか痛感させられた。 「こんなものを南極へ持って行けるものか」  青柳直之助は怒りの涙を浮べた。 「そういうわけには参りません、ちゃんと正式に発注命令がおりて製作したものですから、所定の手続きを取らなければなりません。あなたには、この改訂仕様書によって、検査を施行していただき、合格不合格を決めて貰わねばなりません」  羽塚事務官は冷然と言った。  青柳直之助は黙って立っていた。三つの首の髪型がそれぞれ違うのに顔かたちは同じであった。二体だから合計六つの首になった。六つの首の眼が同時に青柳直之助を見つめていた。人形が、裸にされた。人形の恥丘に密植された黒ブタの毛はあまりにも毒々しかった。  笠部八郎兵衛は|薬《や》|罐《かん》にわかした湯を、人形の|臀《でん》|部《ぶ》の|栓《せん》を抜いてそそぎ込んで置いて、人形をもとどおりにして、|腿《もも》のつけ根しかない人形のそこを開いて見せようとした。 「もういい」  青柳直之助は顔をそむけた。そのとき、青柳直之助は、いかにしてこの人形を南極へ持って行かないようにするかを考えていた。彼はそのときほど、彼自身の立場を悲しく考えたことはなかった。既に越冬隊長は決っていた。越冬隊長に合わせる顔はなかった。      5  ひとたび備品として正式に登録された保温洗滌式人体模型は予定されたルートを経て南極に送られ、二体とも昭和基地へ他の膨大な量の荷物と共に運ばれていった。  荷物の箱には番号が打たれてあり、番号と内容物との対照リストがあった。  保温洗滌式人体模型第一号はナンバー五七三、第二号はナンバー五七四の番号を打った木箱に収容されていた。  設営資材が優先して運ばれ、まず隊員たちの庁舎が組立てられてから、次々と器材や資材が運びこまれて行った。南極の夏の太陽は、沈むこともなく、地表線上をぐるぐる廻りながら、そのあわただしい設営を眺めていた。  庁舎が組立てられ、南極観測越冬隊員十一名が庁舎に入った。そこで、各専門部門別に梱包が開けられ、観測器材が整えられて行った。梱包が開けられた項目は赤線で消された。最後に二つの梱包が残った。  第一次越冬隊長の松谷重久は、隊員の玉村八郎を呼んでリストの一点を指して言った。 「これがなんだか知っているかね」 「そういうものが送られて来たことは知っていますが、どんな構造のものか知りません。噂に聞くとたいしたものだそうですね」 「使ってみたいと思うかね」 「いや、少なくともぼくには無縁なものですね」 「越冬隊員たち全員に知らせるべきものだと思うが、いつにしようか」 「今夜がいいでしょう、越冬隊員だけを呼んで公開したらいかがですか。そういうことははやくしたほうがいいと思います」  そういうことはと玉村が言ったことを聞きただすような眼を向ける松谷に、玉村は即座に答えた。 「とにかく噂が拡がり過ぎていましたからね。使うにしても使わないにしても人間である以上、隊員たちが興味を持つのは当然です。はやく見せてやったほうがいいと思います。見せてからどうするかはみんなで考えたらどうでしょうか」  松谷重久は大きく頷いた。そして玉村に、その二個の梱包を隊長室に持ち込んで、一個の梱包を解くように言った。  その夜と言っても、南極の夏の夜のことだから外は明るかった。隊長室に越冬隊員全員を集めて松谷重久が言った。 「この人形は、われわれ隊員のセックスの問題を解決するために本部が作って、備品として送りつけてくれたものだ。傍へ寄ってよく見れば、どういう構造になっているかわかると思う。おれは夜の間だけ、この人形のために部屋を開けることにする。この人形をテストしたい者は自由にやって見るがいい。湯はこの薬罐に入れて持って来ればいいし、あと始末にはこのバケツを使うがいい。使用のときにはワセリンを使うことを忘れないように」  松谷重久はそう前置きして、ソファーの上に置いてある人形が着ている振袖を脱がせた。そこに手と足のない人形が出て来た。腰部だけが、白いゴムを使ってあったが、上体は、プラスチック製品であった。マネキン人形の型をそのまま使って作ったような、妙につんと飛び出した、二つの隆起がむしろ|滑《こっ》|稽《けい》だった。プラスチックとゴムとは、かなり念を入れて接合してあったが、材料が違うために、異質なものをつぎ合せたという感じが強かった。恥丘には黒々とブタの毛が植えつけられていた。黒いタワシを埋めこんだようであった。隊員の一人が人形のそこを開いた。そこには、ふちを赤く彩った花びらがあり、そこだけは抜き取ることができるようになっていた。その隊員は、真面目な顔をして、その構造を確かめると、なにかひどく|汚《きたな》い物にでも触れたような顔をして、その手を振りながら外へ出て行った。二度と入っては来なかった。 「着物も三着ある。首も三つある。使用するときには好きなのを使えばいい」  松谷重久が言った。誰も答えるものはなかった。その人形に近づくものもなかった。  その夜松谷重久は隊長室を出て隊員の部屋で寝た。翌朝隊長室に入って見ると、人形は箱に入ったままだった。箱のふたを取った形跡もなかった。|勿《もち》|論《ろん》、バケツや薬罐はもとのままになっていた。  五日後に松谷重久はその人形を庁舎の北のはずれに建てられた物置に移した。もし利用したい者があれば勝手に使うがいいと言った。しかし、この通告がなされてからも、その物置に近づく者はなかった。  松谷越冬隊長は保温洗滌式人体模型第二号を梱包したまま宗谷に乗せて送り返すことにした。その処置について松谷は、南極観測隊長として基地に来ている青柳直之助には相談しなかった。人形について、青柳直之助がいかに気まずい思いでいるかを知っているから、彼の前ではいっさいこの件には触れなかったのである。  宗谷は南極をはなれ故国に向った。  南極基地では十一名の越冬隊員の水入らずの生活が始まった。  隊員たちは、仕事に追われているから、顔を合わせるのは主として食堂であった。 「おい、誰か北の|方《かた》の|館《やかた》を訪問したか」  などという者があったが、その話も、一カ月もするとでなくなった。  三月になると、一段と寒くなった。平均気温が零下五度、最低気温は零下十六度にもなった。隊員が、もし北の方の館を訪れるとすれば、庁舎を出たところで、零下何度という寒気に会わねばならなかった。北の方の館の中も同じような寒さだった。その館の中で、湯を沸かして、人形の臀部に入れようなどとしている間には、いかなる|煩《ぼん》|悩《のう》も冷え切ってしまうような状態だった。 「だいたい、手も足もない化け物のような人形を抱く奴がいるだろうか」  隊員の一人がつぶやいたことがあった。  三月の半ばにB級のブリザードが三日間吹きまくった。南極観測隊基地は氷雪に閉じこめられた。五月の半ばごろ、A級のブリザードがやって来て北の方の館を吹き倒して雪の中に埋めた。風速六十メートルの猛吹雪であった。  観測は順調に続けられていた。どの隊員も眼が廻るほどいそがしかった。気象班を例に取ると、三人で、地上気象観測と上高層気象観測をしなければならなかった。日本では二つの係がこれに当り、少なくとも十名の人手が要る仕事を三人でこなすのだから、たいへんだった。食べる時間と寝る時間以外は仕事にかかり切りだった。他の隊員たちも、抱えこんだ仕事に追い廻されていて、ほとんど自由の時間がなかった。隊員が一堂に会して一杯飲むというような機会もそう多くは得られなかった。仕事が忙しいから、日が経つのもはやかった。  越冬隊が非常に健全な生活をしていることは、彼等の仕事の量を見ても分ることだが、彼等の酒類の消費量を見てもわかる。南極観測隊は食堂の一隅にバーを設けて、夜間、時間を限って酒類を実費でわかち与えた。洋酒、日本酒、ビール等一通りの酒類は備えてあった。  一年間の統計によると、一番酒を飲んだ人で六千円、平均千五百円であった。一番飲む人で一年に六千円というと、月五百円の飲み代ということになる。共同生活だから一人だけが酔っぱらって翌日仕事をさぼるというようなことはできないのである。仕事に追い廻されているから、人と人とのトラブルも少なくなり、セックスの問題も、当初考えていたようなことはなにごとも起らなかった。  一年経って、宗谷が第二次越冬隊員を乗せて昭和基地へやって来たときには、人形のことは第一次越冬隊員の頭からは完全に消えていた。      6  保温洗滌式人体模型第二号は、宗谷に送り返されたその日から、好奇の眼につきまとわれた。南極まで運ばれ、船からおろされ、基地まで運んで行った荷物がそのまま返送されることになったのだから、それがなんであろうかと注目するのは当然であった。船には荷物のリストがあったから、返送されて来た荷物の五七四という番号によって、それが保温洗滌式人体模型であることは分ったが、その内容について知る者はいなかった。しかし、人間の直感は、性に関する限り鋭く働くもので、どこからともなく、梱包五七四の中には、精巧無比な等身大の女体人形が入っているという噂が流れ出た。当時有名なある女優の顔にそっくりな人形で、すべて電気仕掛けになっていて、スイッチを入れさえすれば、生きた女体にはできないような演技もするし、痴語まで発する人形だなどとまことしやかに言うものもいた。  たまたま物品管理官として宗谷に乗船して来た浦尾清武はこの噂を聞いて、乗船中の南極観測隊長の青柳直之助に梱包五七四の内容がいかなる構造のものかを訊いた。  青柳は不可解な微笑を以て答えた。その青柳の微笑は自己嫌悪や彼の立場の苦しさや口で言えないそれまでの経緯などをすべて含めた微笑であったが、物品管理官の浦尾清武には、それがすこぶる|猥《わい》|褻《せつ》な内容物であることを示唆する笑いだと解釈された。 「そのうち、物品検査をさせていただきます」  浦尾清武は、意味ありげな微笑をたたえて言った。青柳直之助はそのひとことを聞くと笑いを止めて、度の強い眼鏡の奥に一瞬鋭い光を見せた。しかし、彼は、その物品検査を拒否するとは言わなかった。言えなかったのである。青柳直之助は、 「わざわざ見るほどのこともないつまらないものです」  というと、浦尾清武から逃れるように、外へ出て行った。  浦尾清武は、梱包五七四になにが隠してあろうとも探し出してやろうと思った。職務上の理由ではなく、まったくの好奇心からであった。だが、その物品検査は、即座にできるような状態ではなかった。  宗谷は氷の海に突込んで難儀していた。氷の海を出て、しばらくすると船は暴風圏に入った。浦尾清武は船酔いのため船室に入ったままだった。  ナンバー五七四の梱包がなぜ宗谷に返送されて来たかについては、南極観測に当って、人事院が通達した、人事院指令第九三二号の南極観測に派遣される政府職員の待遇条令中の第五条、第六項にある、 「南極観測隊員と南極観測隊員を輸送する船舶の船員の処遇[#「処遇」に傍点]はすべて同一の取扱いとする」  という条令に基づいたものであるという解釈をする者があった。  つまり、人事院通達の精神によれば、南極観測隊員も、船員も同等なもてなし[#「もてなし」に傍点]を受ける権利があった。それなのに、南極観測隊員にだけ、すばらしい人形が与えられ、船にないのは片手落ちである。紳士の集りである南極観測隊員はその事情を知って、人形のうち一体を船員のために割愛したのだという解釈であった。この説は、一般船員の間にまことしやかに語り伝えられて行って、ついには、噂のとおりだと信ずる者も出るようになった。誰が、|何《い》|時《つ》、その人形に対面して、それを抱くことができるかというようなことが|囁《ささや》かれた。  その人形が入った梱包五七四は、満載して来た荷物がすべておろされてがらんとした船倉の片隅に置いてあった。もし噂のとおり船員のために贈られたものならば、そんなところに置いてあるのはおかしな話だった。これに関しての一般船員からの質問に対し、幹部船員は、梱包五七四は返送を依託されたものであって、本船の所有物ではないことを明らかにした。その公式発言はすぐ船員たちの間に流されて、それまでの噂に水を掛けた。考えて見れば、そんなにすばらしくできた人形を観測隊員が手放すわけもないし、ましてや返送するはずがないじゃあないかと話し合う者がいた。人形の話は次第に下火になって行った。  船員の中にあくまでこの噂の真相を確かめようとする三人がいた。彼等は、ひそかに船倉に忍びこんで、ナンバー五七四の梱包を開けることに成功した。  人形は|鹿《か》の|子《こ》絞りの振袖を着て、箱の中に横たわっていた。二人の船員はその頭と足を持って外へ出した。足の方を持った船員が足のないのに驚きの声を上げた。着物を脱がされて提電灯のもとに明らかにされた人形を見た三人の船員は|唾《つば》を飲んだ。 「なんだ、こんなものか」  第一の船員が局部を改めながら言った。 「こんなものなら、使う気は起らないだろうな、返送するのは当り前だ」  第二の船員が言った。  第三の船員はいささか酔っていた。 「なあに、使おうと思えば、使えるさ」  第三の船員はズボンを取ると、その人形に覆いかぶさって行った。他の二人の船員は思わず顔を見合せた。  第三の船員の叫び声が起った。彼はワセリンを使わなかった。彼は彼自身を押えて飛び退いた。使用法を誤ったので自身に擦過傷を負ったのである。その船員は、わけのわからぬ怒りの叫び声を上げると、力一杯、人形の恥丘を踏みつけた。ブタの毛の恥丘は醜くつぶれた。  宗谷が暴風圏を突破して、静穏な海域に入ると、物品管理官浦尾清武は、むっくりと起き上って、青柳直之助のところに行った。 「船の揺れも収まったようですから、これから物品検査を始めます」  青柳直之助は、来たなと思った。物品検査というのは名目で、実際はあれを見たいのだと思ったが、彼は黙っていた。  宗谷には海洋観測隊員が乗っていて、毎時間観測を続けていた。器械や装置もかなり整備されていた。物品検査をやろうとすれば、それだけの仕事量はあった。 「まず倉庫にあるものから見せていただきましょうか」  浦尾清武は真面目な顔をして言った。 「船倉については、船長に言って下さいませんか、船倉にある荷物の保管責任者は船長ですから」  青柳は逃げた。浦尾とおつき合いをするつもりは毛頭なかった。浦尾清武は物品管理官としての職責をはたす目的で船倉におりた。二人の幹部船員が同行した。  梱包五七四は既に開けられているばかりでなく、人形は箱の外に放り出されていた。三人はそれを見たとき人形はこわされていると思った。しかし、手と足は初めからつけてなかったことが分ると、三人は|唖《あ》|然《ぜん》とした。恥丘がふんづけられて凹んでいるのは人為的な仕業だと判断された。 「ふざけていやあがる、こんなものを……」  物品管理官浦尾清武は怒り出した。期待をものの見事に裏切られたこともあるが、恥丘を踏みつぶされた人形をまともに見せつけられたのが、彼の激怒を買った。 「即座に海に投げこんで下さい」 「棄てるのですか」 「勿論」  一人が軽々と鹿の子絞りの振袖を着た人形を小脇に抱いた。一人は洋髪の首を一つずつかかえこんだ。人形を抱えていた男がタラップを上ろうとしたとき、日本髪の首がころりとはずれた。首は水葬を嫌うように船倉の床の上をころがって行った。浦尾清武がその首の髪を引っつかむと、真先にタラップを上った。海はあくまでも青く、あたりに島影も船も見えなかった。  浦尾清武は腐った|西瓜《す い か》でも棄てるように首を海に投げこんだ。続いて、二つの首と、首のない人形が投げ棄てられた。それ等はちょっと沈んだがすぐ浮き上って、航跡の中に消えて行った。人形を棄てるのを見ていた人はごく少数だった。  浦尾清武はその仕事を手伝ってくれた船員にありがとうも言わずに、さっさと彼の船室に帰って行った。  保温洗滌式人体模型第二号は太平洋上で水葬されたが、備品帳簿には歴然と登録されていた。  物品管理官浦尾清武は一時の|昂《こう》|奮《ふん》にまかせて処分した人形のことが心配になった。官用備品をなんらの理由なしに棄却したことは彼の職務が物品管理官であっただけに、もし|表沙汰《おもてざた》になれば、減俸もしくは戒告処分を受けることは間違いなかった。日が経つにつれて彼はそれを気にするようになった。  一年経った。南極から越冬隊員が帰って来ると、浦尾清武は松谷重久を訪れて言った。 「昨年宗谷で送り返すことになっていた、保温洗滌式人体模型第二号は、航海中水葬にしました」 「そうか棄てたのか」  松谷は大きく頷いた。理由は聞かなかった。 「物品管理の手続き上、廃棄処分にしたので、これに印鑑をお願いいたします」  浦尾清武はあらかじめ用意して来た一片の紙片を松谷重久の前に置いた。 [#ここから3字下げ]  始末書 [#ここから2字下げ]  左記の物品は使用中故障を発生し、鋭意修理に努むるも、修復する|能《あた》わず、依ってこれを棄却処分せり [#ここから3字下げ]   記 保温洗滌式人体模型第二号 昭和三十三年三月二十五日 [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]第一次南極観測越冬隊長松谷重久  松谷重久は、始末書を一読したあとで、第二号の後に、及び第一号と五字を書き加えて|捺《なつ》|印《いん》した。南極の氷雪の下にある第一号も棄却処分にしたのと同じことだった。  保温洗滌式人体模型第一号、第二号が登録された備品原簿の該当欄には赤線が引かれ、欄外に、ゴム印で棄却と明示された。      7  氷の海へ向っての行進に加わった者は、越冬隊員二十九名中十一名だった。他の者は定期的な仕事を持っているから、職場を離れることができなかった。  橇を先頭とした列は細長く延びて、それぞれの隊員の長い影を斜め横に伴いながら、ゆっくり進んで行った。 「越冬隊員二十九名中隊長だけしか真相を知っていなかったというのは、やはり十二年の歳月の経過でしょうか」  成瀬春生がふりかえって越冬隊長の玉村八郎に訊いた。 「その真相を知っていたのは、第一次越冬隊に属した十一名の他には、ごく限られた人だけだった」  玉村八郎が言った。  その第一次越冬隊に属していた隊員は、ここには玉村八郎しかいなかった。南極観測は年毎に施設が拡張され人員が増加されると共に、観測隊員も新しい人に交替して行った。そして、成瀬春生が参加したこの年の南極観測隊員二十九名中、越冬の経験を有するものは、玉村隊長の二回を筆頭に一回の経験を持つ者が四名いただけで、あとの二十四名は南極の越冬は初めての人たちだった。 「このような面白い話がなぜ語り伝えられなかったのでしょうね」  成瀬がひとりごとのように言った。返事がないから振り返ると玉村は立止っていた。 「面白いのかね、この話が。おれには、ちっとも面白くない。ゆうべ食堂で、ことの真相を話すときも、決して楽しい気持ではなかった」  玉村はまた歩き出した。 「成瀬君、南極観測隊員服務規程というものがあるのを知っているかね」 「知りません、そんなものがあるのですか」 「南極観測開始と同時に制定されたものだ。随分細かいことまで規定されていた。例えば行動中に撮影したフィルムは、すべて一定期間中、隊の管理下に置かれ、許可なくして発表してはならないというような規程だ。その中に、行動中の個人手記を許可なくして発表してはならないという項目と、各隊員は報道機関員とのインタビューに際しては、あらかじめ談話の内容について発表を許されたこと以外は発表してはならないという項目があった。これは一見言論の圧迫のようであった。若い隊員の中には、この規程を見て怒った者もいた。しかし、この規程は事実上必要はなかった。発表内容について、隊長が何等かの指示を与えたり、また隊員が、発表内容について隊長の許可を貰いに来たことは、十二年間に一度もなかった。一年間南極基地で生死を共にしていると、隊員たちの気持は肉親以上に通じ合って来るものだ。こういうことは発表すべきではないと、一人が思うようなことは他の者もそう思うのだ。人形のことについても松谷越冬隊長は|緘《かん》|口《こう》|令《れい》を|布《し》かなかった。しかし、この事実を知っている十名の隊員は、このことに関してはいっさい口外しなかったのだ。へたなことを言えば南極観測隊員の名を自ら傷つけるからだ」  玉村が話し出すと、列は乱れて、隊員たちは玉村を取り巻くようにして歩いた。 「第二次、第三次とつぎつぎ南極観測に参加した隊員たちも、人形があったらしいことは知っていても、その人形に、手も足もなかったことは知らなかった。ましてや外部にことの真相を知っている者はいなかった。週刊誌が人形について書いた記事を見ると、南極へ持って行ったダッチワイフは隊員たちに嫌われて宗谷に積んで持って帰る途中、水葬にしたというのが圧倒的に多かった。大々的な記事としては掲載されなかった。人形が二体あって、一体は南極基地で雪の下に眠りつづけているなどということを|嗅《か》ぎつけたジャーナリストはいなかった」  玉村はそこで話を切って、 「おい、人形の運搬を交替しろ」  と言った。人形は箱に収められ、橇に載せられて、三人で引張っていた。橇には人形の他に、鉄線や石などが載せられていた。新しい三人が交替して綱曳きにかかり、いままで綱曳きをやった三人は玉村の周囲に集まった。  そのうちの一人が口を開いた。 「ゆうべの話の中で聞き|洩《も》らしたのですが、外国の南極観測隊でも同じようなものを用意したのでしょうか」 「それは分らない。公式には聞けないことだし、もし、そういうものがあったとしても、誰も真実は語らないだろう。しかし、われわれの体験によると、おそらく現段階では外国隊も、そのようなものは必要としないだろう」  玉村の話が終ると列は橇を先頭にしてまた長く延びた。交替の命令があって十二分ほど歩いたところで、玉村は橇に停止を命じた。  氷の海へ来たのである。  玉村は、隊員三名をつれて、氷の様子を見に行った。ところどころに、ぱっくりと口を開いた氷の割れ目があった。厚さを測ると約二メートルほどあった。  玉村が手を上げた。適当な氷の割れ目が見つかったからである。橇は氷の上を滑り出した。氷というよりも南極大陸の末端という感じであった。氷であることは、氷の割れ目を見ないと分らなかった。でこぼこした氷の表面と陸地との境界は|曖《あい》|昧《まい》であった。 「さあ人形をおろして、氷葬の用意をするのだ」  玉村が言った。 「隊長、これが最後だから、人形にもう一度日の目を見せてやりたいのですが」  成瀬春生が言った。 「いいだろう、どうなりといいようにしてやるがいい。できたらお経の一つも唱えてやるのだな」  玉村は太陽を見た。いつもは物憂げな顔をした太陽が、今日にかぎって、ぎらぎらと輝いていた。 「北の方という名はほんとうの名前ではない。なにかこの人形にふさわしい名前はないだろうか」  成瀬春生が言った。 「名前が無いのだから、ななこはどうだ。名の無い子と書いてななこと読ませるのだ」  成瀬春生の隣に立っている隊員が言った。 「そうだ|名《な》|無《な》|子《こ》がいい」  成瀬春生は、そういうと、橇からおろされた箱の|蓋《ふた》を取った。|牡《ぼ》|丹《たん》模様の振袖を着て日本髪をつけている名無子のガラスの眼が生き生きと光っていた。その名無子の日本髪と並んで、洋髪と断髪の首が並んでいた。 「十二年も雪の下にあったというのに、少しも痛んではいないな」  と一人が言った。 「へん[#「へん」に傍点]なものがくっついていなけりゃあ、このまま飾って置いてもいいのだがな」  その言葉でいっせいに笑いが起った。笑いがしずまったところで、成瀬春生が、箱のふちに手をかけ、人形を|覗《のぞ》きこむようにして、なにかつぶやいた。お経でも唱えたようだった。隊員たちは耳を澄ませた。 「南極の花とよ|名《な》|無《な》|子《こ》氷葬す」  成瀬春生はこんどは誰にでもはっきり聞えるように言った。成瀬はその句を二、三度口にすると、自ら、箱に覆いをして、石を手に釘を打った。あとは、箱を鉄線でぐるぐる巻きにして、大きな石の|錘《おもり》をつけて、氷の割れ目に沈めれば、それで終りであった。  南風が吹き出した。それまで潜んでいた風が急に吹き出したような吹き方だった。そう強くはなかったが、南極点から吹き出して来る風は寒冷に過ぎていた。冷たい風が、北の海洋から吹きよせて来ていた水蒸気と混合した途端に、そこに、氷霧を創り出した。氷霧というよりも、気象学でいうダイヤモンドダストに近いものだった。非常にこまかい氷の結晶がきらきらと輝きながら空中を浮遊した。ダイヤモンドの粉を|撒《さん》|布《ぷ》したように美しかった。ダイヤモンドダストは、氷葬の式場を飾って動かなかった。いまそこで行われようとしている氷葬のために用意されていた自然のはなむけのようであった。  ダイヤモンドダストのきらめく中で、男たちが力を合わせて鉄線を繰り出す声がしばらく続いた。石の錘をつけられた箱は、徐々に氷の割れ目の奥深いところへ沈んで行った。彼等が箱を支え止めていた鉄線は長いものではなかった。十メートルほどの鉄線の末端を握っていた成瀬春生の手から鉄線が離れた。鉄線が氷の割れ目の壁を擦る音が、名無子のすすり泣きのように聞えた。  すべての仕事が終ったとき、隊員たちは、成瀬春生の顔を見た。南極観測隊員にしては珍しいタイプの男だから、ひょっとすると、涙でも見せるかと思ったのである。成瀬春生は涙なんか浮べてはいなかった。彼は、偶然に彼がかかり合ったことの後始末をやり遂げた満足感に溢れているようだった。 「成瀬君、さっき君が一句ひねった、南極の花とよ名無子の、とよ[#「とよ」に傍点]はどういう意味だね」  玉村が言った。 「さあ、どういう意味だか、私にもよくわかりません。ふと頭に浮んだままを句にしたのですから」  成瀬春生はそう答えると、みんなの視線の中に居ることが耐えられなくなったように、空の橇を引張ってひとり先に立って歩き出した。その後にぞろぞろと隊員たちが続いた。  日がぐるっと廻ったせいか、人々の影は、彼等の背丈の何倍かに延びた。人が動けば影も動いた。人もその影の動きも、なんとなく力なく感じられた。来るときのような話し声さえもなかった。  その長い影を引く行列は、葬送の列の動きにどことなく似かよっていた。     まぼろしの白熊      1  白熊は北極にしかいないと岩国三郎が云うと、横山鷹雄は、むきになって反対した。 「いや日本にも白熊はいる。現に、このおれはこの眼で、その白熊を見たことがある」  と彼は頑張るのである。 「そんなばかなことがあるものか、夢を見たのだろう白熊の夢をね、きっと白熊のように白い肌の女を抱いて寝た夜にそんな夢を見たのだろう」  岩国三郎はそう云って茶化した。  正八会は、口の悪い者ばかりの集りである。旧高校時代の同級会で、正月と八月の年二回、東京で会を開くことになっていた。同級会と云っても同級生の中で東京在住の者ばかりの集りだから、二十名を越えることはめったになかった。だいたい来る顔ぶれは決っていた。  どんなきっかけから白熊の話が出たのか、どうして岩国三郎と横山鷹雄の云い争いになったのか多くの者は知らなかったが、その二人を中心に話が沸いたから、なんだなんだと周囲に人が集った。 「白熊は北極熊のことだよ、北極圏にしかいない動物だよ、横山君」  と岩国三郎が、おおぜい集って来た手前、話の概略をわざわざふり出しに戻した。 「いや、日本にもいるのだ。おれは、日本の白熊をこの眼で見たのだ。その場所は上野の動物園だ」  笑いが起った。 「なあんだ、おとし話か」 「いや一口ばなしだろう」 「新年だからな」 「新年早々白熊の話か、おめでたいことだね」  などと口々に勝手のことを云うと、横山鷹雄は、じろりと一同を|睨《ね》め廻して、 「おい、おれをばかにするのか、おれは上野の動物園に日本産の白熊がいたのを見たことがあるのだ。新潟県産日本熊とちゃんと札に書いてあったのをこの眼で見たのを覚えているのだ、戦前のことだ」  横山鷹雄はむきになって云った。 「戦前の上野の動物園か、なるほどそれで……」  その話を聞こうじゃあないかと森川良輔が口を出した。森川良輔は大学の医学部の教授であった。 「おれは、北極にしかいない白熊が日本の新潟にもいるのだと思うとたいへん愉快になって、上野動物園に、弟や妹や、田舎から出て来た親戚などをつれて行ったときは、必ずその白熊の檻の前に立ったものだ。その白熊はずい分長生きしたように覚えている」  ここまで話が具体化して来ると、それまで、ひやかし気分でいた連中も、それぞれ自分の席に戻って、その話の先を聞こうとした。そろそろ六十に近い年齢の男たちばかりであった。どんちゃん騒ぎをするという会でもないから、なにかしら面白い話が出ると、みんな聞き手に廻るのである。盃が静かに交わされ、ビールのコップが動いた。 「暖房が効きすぎているんじゃあないかな」  誰かが云った。部屋には二つのガスストーブが燃えていた。仲居の女が立ってガスストーブの一つを消した。 「おれが、その新潟で|獲《と》れたという白熊に興味を持ったのは、その白熊が同じ動物園にいた北極熊と違った風格を持っていたからだ。熊に風格なんていうのはおかしいだろうが、北極産の白熊は、檻の中のコンクリートの狭い運動場を絶えずせかせかと歩き廻っていた。夏ならば、その檻の中の一坪か二坪ほどのせまいプールにつかっては、身体についた露が乾くまで、歩きまわるのだ。のそのそではなくせかせかとね、そのせかせか[#「せかせか」に傍点]が北極熊の風格なのだ。同じ熊でも北海道の|羆《ひぐま》となると、せかせかではなく、のそのそと歩き廻る。どっちの熊にしても、その動作は画一的で、歩き方も、その方向も、歩く速度も同じなんだ。まるで永久電池のついた玩具のように同じ動作を繰りかえすのだ。朝から晩まで、餌を与えられるとき以外はその動作を続けている。どこか逃げ口でもありはしないかと探しているのかもしれない。単純過ぎて、写真にもならない」  横山鷹雄は大きな電気器具店を経営しているが、今は妻と長男に店の方をまかせっぱなしで、カメラに熱を入れていた。アマチュアカメラマンとして彼の名前はその方面では知られていた。彼の作品には動物を対象とするものが多かった。 「ところで問題の日本産の白熊の風格の話だが、その日本産の白熊もやはり狭い檻に入れられていたが、その白熊はじっとしていた。斜めに身体をこう開いて……」  横山鷹雄は身体をよじりながら、 「つまり見物人にそっぽを向いて、なにかこう望郷の念にかられているような顔でじっとしているのだな、そこになんとも云えない風格を感じたのだ」 「長いこと生きていたのか、その白熊は」  週刊誌の編集長をやっている西村昭造が訊いた。 「少なくとも十年以上は生きていたという感じだったな」  そうかと西村は便所にでも行くのか席を立った。 「おれが白熊について興味を感じたのは戦後のことだ。動物園に行ったのではない。ちょっとした病気で入院している間に読んだ本に、白熊のことが書いてあった」  まあ一杯やれと近所にいた者が盃をつきつけた。横山はその盃を手を上げてことわったかわりにビールのコップを取り上げた。傍にいた仲居の女がビールをついだ。 「鈴木牧之という人が百五十年ほど前に書いた|北《ほく》|越《えつ》|雪《せっ》|譜《ぷ》という本に、天保三年(一八三二年)の春、新潟県の南魚沼郡の|浦《うら》|佐《さ》の|宿《しゅく》で、白い熊を見たと書いてあるのだ。その白熊は浦佐の近郷の大倉村の|樵《きこり》が|八《はっ》|海《かい》|山《さん》で生捕りにしたものを|香《や》具|師《し》が買って、見世物にしていたものである。鈴木牧之は、その白熊についてこう書いている」  話が面白くなったので、みんな、横山のほうに気を取られていて、そのとき、西村が入って来たのには気がつかなかった。横山は、ちょっと眼をつぶって、頭の中に書いてある字を読むような調子で云った。 「|白《はく》|毛《もう》、雪を|欺《あざむ》き、しかも光沢あり、眼と爪は|紅《くれない》なり」  横山はいささか得意のようであった。 「それはアルビノだったんじゃあないか」  西村が口を出した。 「なんだ、アルビノっていうのは」  質問が西村の方に集った。西村は懐中ノートを開いて云った。 「横山君の上野の白熊の話に真実性があると思ったので、おれの知っている動物学者に電話をかけて訊いてみたのだ。彼はその白熊のことをちゃんと知っていた。その白熊は上野動物園になんと三十七年間も生きていたそうだ。学名はアルビノツキノワグマっていうんだそうだ。つまり、日本に従来から生息している月の輪熊の|白《しら》|子《こ》のことさ、アルビノは白子のことだ」  西村はノートから眼を離した。 「なるほどね、熊の白子か、それなら日本にだっているだろうさ」  岩国三郎が、これで勝負は決ったぞといわんばかりの顔をした。 「いや、違うんだ。おれも、そのくらいのことはちゃんと調べてみたさ、古来、動物の白子が発見されると|瑞兆《ずいちょう》、吉兆として喜ばれたものだ。日本書紀によれば、白鹿、白猿、白兎などが瑞兆の動物として挙げられている。延喜式には、赤熊を|上端《じょうずい》、黄熊、青熊は|中瑞《ちゅうずい》だと書いてある。天文十八年(一五四九年)には美濃の立正寺が、将軍に白熊を奉ったという記録がある。これらはすべてアルビノ即ち白子に間違いない。ところが、新潟県で取れて、長生きしたその白熊は白子ではなくて、ほんものの白熊だとおれは思うのだ。白子というのは一代限りだが、連続的に生息しているとすれば、それはもはや突然変異とは云えない。種族と見るべきだろう。おれは、その後、その証拠になるような話を聞いたのだ」 「つまり、新潟の山の中に白い熊の一族が棲んでいるというのだな」 「まぼろしの白熊物語か、おい西村、きみの雑誌で取り上げてはどうだ」 「ちょっと待てよ、その証拠となる話ってのを先に聞こうじゃないか」  それぞれが勝手なことをしゃべって、しばらくして落ちついたところで横山が云った。 「おれは日本全国の猟友会へ往復ハガキを出して白熊のアンケートを取った。新潟県の猟友会から来た返事の中に、白熊を見たという話を聞いたという二件の返事があった。新潟県の山奥には確かに鈴木牧之が北越雪譜に書いた白熊の子孫がいるのだ。上野動物園に居たのもその子孫だし、今度おれの調査に現われたその二件も、その子孫に違いない。おれはそのうち、新潟県の山奥に乗りこんで行って、その白熊の存在を確かめようと思っている」  ここまで来ると、もう誰も横山の話に|茶《ちゃ》|々《ちゃ》を入れる者はなかった。  それまで興味深そうにその話を聞いていた森川良輔が口を出した。 「白子は動物の世界にはよくあることだ。メラニン色素を作る、酵素チロジナーゼの欠如を起す遺伝子の作用による単劣性形質の出現を白化現象即ちアルビニズムと称しているのだ。通常一代限りで終る場合がほとんどだ。しかし横山君の云っているように、その白化現象が、なにかの原因によって定着し、優性形質的遺伝をするようになり、白熊の出生頻度が安定したものになっているとすれば、もはやアルビノとは云えないだろう、それは明らかに日本白熊と名づけるべきだ」  森川良輔の学問的見解は横山の話に重みを加えた感があった。 「しかし、白子の数が少なく、ごくたまにしか現われないということになれば、やはり白子じゃあないのかな、白い熊が白い仔熊を連れて歩いていたというようなことになれば別だがね」  岩国三郎は尋常のことでは降伏しないぞという顔をした。 「それもそうだ。しかし、おれはさっき横山君が話した北越雪譜の中の、白毛、雪を欺き、しかも光沢あり、眼と爪は紅なりという文句の最後に、かなり|重み《ウエイト》をかけて考えているのだ。アルビノは、徹底的に白化したものが多い。上野動物園にいた白熊がアルビノだったとすれば、おそらく、全身の毛はもとより、鼻面も、口も、眼も爪も白化していたに違いない。それが、眼と爪は紅なりというところになにかしら、アルビノと違ったものを感ずる」  森川良輔は首を|傾《かし》げた。 「眼と爪が紅だというのは、その白化現象が、完全ではなかったということではないのかね」  岩国三郎がすぐ反駁した。 「そうとも考えられる。しかし……」  と森川がなにか云おうとしているときである。 「親仔連れの白熊はほんとうにいます。だって、私はこの眼で見たんですもの。でも、白熊が瑞兆だとか、吉兆だとかというお話は嘘ですわ。それが証拠には、この私は、白熊を見て以来、ちっともいいことがないんですもの」  横山の隣にいた女が云った。それまで話に夢中になっていて、その女の存在をほとんど気に止めていなかった男達はいっせいに女の方を向いた。横山鷹雄は改めて彼女を見た。仲居の女にしては若すぎるし美しかった。色が白かった。化粧して白いのではなく、地肌が白いことは、傍にいる横山にはよく分った。むしろ、白過ぎるなと思った。 「新潟県の生れですね」  横山は、彼女がそうであることに間違いないと信じて訊いた。 「そうです。新潟県の南|蒲《かん》|原《ばら》郡の山の中から出てきた、ほんとうの山家育ちですわ」 「いやいやどうして山家育ちなんてものではない、立派なものだ」  西村昭造が云った。 「なにが立派なの、いやなひと」  女は西村を打つ真似をした。 「親仔連れの白熊を見たときの話を訊こうじゃあないか」  と森川良輔が云った。  正八会の正月例会は全く意外な方向へ流されて行った。 「三年も前のことよ」 「でも覚えているだろう、思い出してくれ」  横山は頼みこむように云った。 「それはよく覚えているわ、ほんとうにびっくりしたもの、あのときは。でも、みな様の前で話すなんて、ちょっと気が引けるわね」  女は少々照れた。男たちが、酒をすすめた。  女の名は千代である。  千代は一度話し出すと、つまずくことはなかった。頭の中に深く刻みこまれていたことをそのまま披露しているようだった。話によどみがないし、考えこむようなことのないのは、話の真実性を裏づけるものでもあった。誰も、千代が作り話をしているとは思わなかった。  千代と新吉は五年前の春に結婚した。千代が十九、新吉が二十三であった。もともと惚れ合って夫婦になったのだから、たいへん仲のいい夫婦であった。なにをするにも、二人は一緒だった。その年の秋二人はキノコ取りに行った。そして白熊の親仔を見たのである。仔熊を連れた熊に出会うのは危険だとされていたので、二人は落葉の中に身を伏せて、白熊の通り過ぎるのを見送っていた。 「それはもう神々しいように美しい白熊でしたわ」  千代は云った。その白熊の思い出の中に浸っているような顔だった。五年の年月が、彼女の中の恐怖を除いて、その白熊の美しさだけを残したもののようであった。  白熊が谷へ見えなくなってから二人は逃げるように村へ帰った。新吉はすぐ鉄砲を持って山へ駈けこんで行った。その白熊を撃ち取るつもりだった。千代が止める間もないことだった。この村の若者で鉄砲を持っていない者はなかった。若者として認められることは猟師として一人前になることだった。  新吉は日が暮れてから帰って来た。いくら探し廻っても白熊親仔に会うことはできなかったのである。新吉に村の古老が云った。 「なあ新吉、白熊は神様のお使いだ。鉄砲なんか向けてはならねえと昔から云われていることを忘れたか、もしそんなことをしてみろ、お前たち夫婦ばかりじゃあねえ、この村にまで、災難がふりかかって来るぞ、もう二度とへん[#「へん」に傍点]な真似をするではねえぞ」 「迷信だよ、そんなこと」  新吉はそう云って笑った。  だが、その新吉に間もなく災難がふりかかったのである。正確にいうと、千代に災難がかかって来たのである。  新吉は、その年の終りころ村の人たちと共に東京へ出稼ぎに行った。新婚の千代との別れは、はた目にも気の毒に見えた。東京へ出た新吉からは、十日に一度は、千代のところに手紙が来た。その手紙が月に一度になり、やがて来なくなった。千代の手紙も、住所不明で返送されて来た。  春になって村の人たちが帰って来たが、新吉の姿はなかった。千代は狂気のようになって、出稼ぎ組の一人一人に当った。みんな言葉を濁して真実を語らなかったが、そのうち、新吉が、東京の女と一緒になったという噂が村中に流れた。出稼ぎの悲劇であった。  千代は新吉の帰りを待った。できるだけの手を尽して探したが行先は不明であった。新吉の居ない生活に彼女は耐えることはできなかった。千代は上京する決意をした。 「災難も災難、新吉さんにとっては、大災難なんですわ。れっきとした私があるのに、どこの馬の骨ともわからない女にだまされたのですから」  千代は胸をたたいていった。 「それで千代さんは新吉さんを探しに、上京して来たってわけですか」 「上京して三年、もう帰ろうかと思うけれどやっぱりね」  千代は三年の間にすっかり東京の人になっていた。 「やっぱり、あなた方夫婦の仲を引きさいたのは白熊っていうわけですか」  千代の話が終ると西村が云った。 「そう、白熊のたたりだわ、白熊さえ見なかったら、新吉さんが迷うことなんか、あろう筈がないでしょう」  千代は深い溜息をついたが、その割に彼女の顔には暗い|翳《かげ》はなかった。      2  横山鷹雄は、正月の終りに東京を発って、千代から聞いた、彼女の生家のある村へ向った。|弥《や》|彦《ひこ》線の終点、越後長沢で下車して、バスも通らぬ雪深い山道をほとんど丸一日も歩いてたどりついたところに、千代の生家があった。山深いところだった。北側に|烏《え》|帽《ぼ》|子《し》岳がそびえていた。東側は福島県と新潟県との境の山々が連なっていた。なるほど熊の出そうなところであった。  横山はその村の源次郎を真先に訪ねた。口の重い老人で、なかなか口を開かなかったが、横山が辞を低くして頼むとやっとぼつぼつと話し出した。千代の云ったことにはほぼ間違いがなかった。ほぼ間違いがなかったというのは、千代とその老人との話にいささかへだたりがあったのである。源次郎は、辰吉という猟師を紹介してくれた。辰吉は六十を三つ四つ越していたが、まだまだ元気な顔をしていた。ほとんど若い者がいなくなった村の中で、指導的な役割をしていた。辰吉は、新吉と千代が白熊を見た数日後に、やはり白熊を見た。だが、それは普通の月の輪熊が白い仔熊を連れていたのであって、親仔とも白熊ではなかった。 「千代と新吉は、怖くて、ろくろく相手を見なかったのじゃあないかな。親仔連れの熊と云っても、親仔がくっついて歩いていることはまずねえな。たいていは仔熊の方が、親熊の心配をよそに、あっちこっち、勝手放題に駈け廻っているものだ。だから、山を歩いていて親仔熊に出会う場合は、たいがい、仔熊が先で、親は後だ。千代と新吉は白い仔熊を見て、その向うにいる親熊を想像したのじゃあないかな、想像しなくとも、どっちかが、白い親熊を見たような気がしたと云えば、そうだおれも見たぞということになり、親仔の白熊を見たというふうに変っていくものだ。話なんていうものはそういうものだ」  辰吉は|炬《こ》|燵《たつ》の向うでにやりと笑った。 「白熊なんていうものはめったに出るものじゃあねえ。一生に一度見るか見ねえか、まあそんなところだろうな」  だから、千代と新吉が見た親仔連れの熊は、それから数日後に辰吉が見た親仔連れの熊に違いないというのである。 「ほかに白熊を見たという話を聞いたことはありませんか」  と訊くと辰吉は、 「二十年ばかり前に白熊を見たという猟師がいたが、その男はもうだいぶ前に亡くなった」 「どこで?」 「この上に笠堀湖というのがあるが、そのずうっと奥の沢だ。そうそう千代と新吉が白熊を見たのもその辺だ」 「すると、やはり白い熊の種族がその辺にいるということですね」 「種族? さあね、私は熊の|白《しろ》|子《つこ》だと聞いているがね」  辰吉は、手を伸ばして、炬燵の上の大きな盆の上に載っているつけもの[#「つけもの」に傍点]を箸でつまんで口に入れると、音を立てて茶を飲んだ。 「そこへ案内していただけませんか」 「冗談じゃあねえ」  辰吉は外へ眼をやった。庭の石燈籠が雪に埋っていた。この積雪の中を行けるものかという顔だった。 「たとえそこへ行ったところで、雪ばっかりでなんにもいやあしない。もっと奥へ行くとカモシカがいるが、カモシカは獲るわけにはいかないし、熊は穴の中で眠りこけている」  辰吉の云うとおりだった。雪深い此処まで来るのだって、容易なことではなかったのだ。横山は自分の雪に対する不明を恥じた。 「辰吉さん、あなたはさっき、白い熊は熊の|白《しろ》|子《つこ》だっていいましたが、白子はだいたい一代限りだというのに、ずっと昔から、なぜ、新潟県の山奥にばかり白い熊が現われるのでしょうかね」 「そんなことおれに訊いても、こまるね、おれは、ずっと前に、なんとかという先生が、やはり、その白い熊のことを調べに来たとき、熊の白子だと云ったことを覚えていたまでのことだからね」  辰吉は、そこで口をつぐんだ。これ以上白熊のことを訊かれも、答えないぞという顔であった。 「辰吉さん、最後に一つだけお願いがあるのですが聞いて戴けませんか、三年前に千代さんと新吉さんが見たという白熊の仔は、三年経てば三歳になっているでしょう、もしその白熊が現われたら、電報で知らせていただきたいのですが」 「撃ち獲るってつもりかね」  辰吉の眼が光った。|他《よ》|所《そ》|者《もの》を、おれの山には入れたくないぞという強い意志がその眼に光っていた。 「写真に撮るんです。日本の白熊の生きた姿を撮りたいのです」 「熊が穴を出るのは四月になってからだな」  辰吉が云った。横山は、電報料として、|幾《いく》|許《ばく》かの紙幣を置いた。こんなに電報料はかからないと云う辰吉に、手間代だから、預って置いてくれ、もし白熊の話が他にもあったら必ず知らせてくれと云い置いて、辰吉の家を出た。  横山は、そのまま東京に帰らず、この前白熊についてのアンケートに返事をくれた猟友会員をたずねて、北魚沼郡の須原へ入った。白熊を見たというのは、三十年も前のことで、福島県との国境の五味沢という部落の猟師であった。そしてもう一件は、やはり北魚沼郡の中ノ|岐《また》川の大沢山の麓で、大正の初めごろ見たという話であった。両方共話であって、白熊を見た者は既に死んでいた。  横山鷹雄の白い熊を訪ねての雪の旅の最後は上越線の|浦《うら》|佐《さ》であった。駅前で大倉村と訊くと、すぐ分った。八海山の麓にある村であった。  古老を訪ねて、百五十年ほど前にこの村の|樵《きこり》が八海山で白熊を生け捕ったという話について訊いてみたが、その話を知っている者は一人もいなかった。北越雪譜を読んだ者もいなかった。そのかわり横山は耳よりな話を聞いた。数年前に、大倉村からずっと東の方の福島県との国境に住んでいる権之助という若い猟師が白い熊を見たという話である。たまたま、その権之助の親戚が大倉村にいたので、権之助の消息を訊くと、 「それが東京へ出稼ぎに出たままでな、時々僅かばかりの金を親のところへ送ってくるが、その度に住所が変っていて、今はどこに住んでいるか分らねえで困っている」  ということであった。権之助は今年二十六歳であった。  横山が白熊について調べた結果は、彼が期待したものとはほど遠いものであったが、決して無駄ではなかった。白熊が出たという場所を地図の上に点を打ってみると、それは、新潟県の南蒲原郡、北魚沼郡、南魚沼郡と南北に隣接している地続きの三郡であり、熊を見た場所も、福島県との国境の山中であった。 「日本の白熊は、必ずこの範囲に生息しているに違いない」  横山は地図上に鉛筆で大きな|楕《だ》|円《えん》を描いた。  横山が東京に帰った翌日、西村昭造から電話があった。白熊の話を訊きたいというのである。 「週刊誌に書くのか」 「わからない。記事になったとしても、小さいね」  三十分もすると、西村昭造の名刺を持った若い記者がカメラマンを連れて現われて、白い熊について質問を始めた。横山は、次から次とぶしつけな質問をしながら、輪転機のような速さで、メモ用紙を繰っていく若い記者を、あきれた顔で眺めていた。カメラマンは、横山の写真をばちばち撮った。なんでそんなに撮る必要があるか分らなかった。  一週間後、新聞紙上に週刊誌の見出しがずらりと載った中に、一段と大きく、まぼろしの白熊という文字を見つけたとき、横山は、いきなり、横面を張り飛ばされたような気がした。  彼は、その週刊誌を買いに家人を走らせた。まぼろしの白熊と、記事はセンセイショナルであったが、内容は、横山がいままで調べたことを並べたてたに過ぎなかった。千代と新吉の写真が載っていた。白熊の親仔連れを見たがために不幸になったと語る千代は、さっぱり不幸らしくなかった。彼女はむしろ明るい顔で笑っていた。新吉の写真は、彼の生家で借りたもののようであった。新吉は祭りの|法《はっ》|被《ぴ》を着ていた。  横山については、日本白熊の実在を信じて、三十年間、その後を追跡している写真家という形で押し出してあった。横山の顔が年齢よりは若く撮れてあったことがせめてものなぐさめであった。  ひどいじゃないかと、西村に電話を掛けると、西村は、しゃあしゃあとした声で、 「やあ、すまんすまん、しかし、ああすれば、あの記事を見て、新しい情報を知らせてくる者があるかもしれない。つまり、おれは、君の日本白熊の研究を大いに援助してやりたいというつもりもあって、あれを載せたのだ」 「ふん、云い方はいろいろあるものだ」  横山は電話を切ってもう一度、その記事を見た。北極熊の写真がいやに麗々しく掲げられていた。横山には、ひどくその写真がばかげて見えた。日本の白熊の写真をなんとかして撮りたいと思った。  週刊誌が出てから更に二週間経った。千代から電話があった。ぜひ会って話したいことがあるというのである。 「なんですか、話というのは」 「あなたにも責任がある話ですから、どうしても聞いていただきたいのです。西村さんに相談したら、あなたに会いなさいと云って電話番号を教えて下さいました」  千代は、当然会って貰えることを予想しているようであった。 「わかった、それじゃあ、今夜そっちへ行こう」  横山は返事をしてから、なんの話か知らないが、とにかく訊いてやろう、それに、あのことも、もう一度確かめて見る必要があると思った。千代と新吉が見た親仔連れの熊のうち親熊は普通の月の輪熊ではなかったかという疑問であった。  千代の務めている小料理店は神田にあった。ちょっとした名の通った店で、本来は川魚料理で有名だったが、今は、一通りなんでも食べさせていた。 「こういうところに一人で来たことはないな」  横山は坐ったとたん、そんなことを云った。なんとなく、おかしな感じだった。 「今夜は暇ですから私がつきっきりでサービスいたします」  千代はにんまりと笑った。二人だけで会って見ると、千代はまことに愛らしい女に見えた。肌の白さが、この前会ったときより一段と冴えて見えた。その顔をじろじろ見ていると、千代は流し眼を使って、いやなひとと云って肩を振った。色気があった。この女には男がいるなと思った。 「週刊誌に出てからたいへんよ」  千代は話し出した。まず、お客にからかわれる。不幸なら、幸福にしてやろうかといったふうな冗談も云われた。白い熊に関心を持って、くどくどその時のことを訊く男もいた。新吉らしい男を見掛けたと云う者もいた。わざわざ電話で知らせてくれる者もいた。 「ところが先生」  千代は横山のことを先生と云った。横山が先生と云いやすい年頃だからであろう。 「あの人から電話があったのよ」 「新吉さんから?」 「そうなの、それで困っているのよ」 「別れた亭主にめぐり会ってよかったじゃあないか、困ることなんかちっともない」  それがほんとうに困っているのですと、千代はその理由を話し出す前に、もう一つ驚くべきことを云った。 「週刊誌に出ていたあの権之助さんね、あのひとは、実は私のなんとかなの」  横山はそのなんとかという意味が分らずに、眼をぱちくりした。  千代は、新吉が上京したまま、帰らないので、村にいるのが嫌になって、知人をたよって、東京へ出て働くようになった。そして、その知人を介して、権之助を知ったのである。同県人というよしみもあって、二人の仲は急激に近くなった。ただの仲ではなくなってから既に二年は経っている。権之助は、ある会社の運送部に務めていた。二人が正式に結婚できないのは、千代が新吉と結婚しているからである。千代は、彼女を棄てた新吉には未練がなかったが、籍を抜くためには、彼の居所を知りたいと思っていた。その新吉が、週刊誌を見たと云って電話を掛けて来たときも、二こと三ことしゃべったあとで、籍を抜きたいと云った。新吉は、おれがもともと悪いのだから、お前の云うとおりにすると云った。 「それで、彼と会ったのだね」 「そう、次の日曜日に会ったわ。彼は東京の女にさんざんだまされた上、逃げられて、しょんぼりしていたわ。恥かしくて、故郷へも帰れないし、親戚に手紙も出せないでいたときに、あの週刊誌の記事が出たから私のところへ電話を掛けて来たんです」 「悪かった、もとどおり夫婦になってくれって云ったのか」 「そんなことは云いませんでした。新吉さんは私の顔を見て、泣きました。お前の幸福のためなら離婚してもいいって云いました。そのかわり、一度だけと云って手をついて頼むんです」 「その一度で、もとに戻ったのか」 「その前があるのよ」 「なかなか面倒な話だな」 「そうよ、男と女の仲ですもの、そう簡単にゆくわけがないでしょう。一度だけと新吉さんが涙を流して畳に手をついて頼むから、私は云ってやったわ、さんざん私をばかにして、今ごろになってそんなことがよく云えたものだってね、すると新吉さんは、なにもお前に、おれの云うなりになってくれって云うのじゃあない。一度というのは、一度でいいから、お前の身体を見せてくれ、おれは、お前と別れてから三年間というもの、お前のあの輝くような白い肌を忘れたことはない。今さら、お前に嘘を云ってもはじまらないからほんとうのことを云うけれど、おれは東京の女の肌を幾人か知っているが、お前のように大理石のような肌をしている女は一人もいなかった。一度でいい、一度でいいから、お前の肌を拝ませてくれって、あの人は云うんです」 「なるほど、新吉という男はなかなか口が旨い」 「口が旨いかしら?」  千代は不服そうな顔をした。横山は千代の気持が分ったから、すぐ云いかえした。 「いや、新吉はきみの肌の美しさをほんとうに知っていたんだろう」  横山は千代の襟元から胸のあたりを見た。象牙色の肌とはこういう色かとも思った。もっと奥が見たかった。想像しただけでまぶしい思いがした。 「きみも一種のアルビノじゃあないのかな」 「あの白熊のこと? いやだわ、私の肌はただ白いだけじゃあなくてつやつや光っているのよ、この店のねえさんたちとお風呂に入るとき、みんなが口々に云うわ、女でも惚れ惚れするぐらい白くてつやがある肌だって、……だからね、新吉さんのいうことがまんざら嘘じゃあないなと思ったのよ」 「それで見せてやったのか」 「だって、可哀そうですもの、でもそれがいけなかったわ、私のはだかをじっと見ていた新吉さんの眼がぎらぎら光り出したと思ったら、それこそ気が狂った熊のような勢いで私に飛びかかって来たわ、もうとても、防ぎようがないわ、はだかですものねえ」  横山はあきれて、言葉が出なかった。  新吉が、白い肌の千代に熊のように飛びかかっていく姿が眼に見えるようだった。それにしても、この千代という女はいったいどういう女だろう。白い肌をした情にもろい女というよりも、千代の中には多分に野性的なものが潜んでいるように思われた。 「まるで白熊の牝だな」  えっと驚く千代に横山はわざとしかめっ面をして云った。 「それで新吉と権之助ときみの三角関係のもめごとにおれを引張り出したというわけか」  一生に一度ぐらい、そんなことをしてみるのも悪くないと思った。 「岩国さんがおっしゃっていたわ、先生はそういう調停役にはもって来いの人だって、それに、もともと白熊の話は横山先生から出たのだから横山先生がけりをつけるのは当然ですって」 「なに岩国三郎が」  横山は姿勢を変えた。西村がそう云ったなら、まあ許してもやれるが、岩国が云ったとなると簡単には引き受けられないぞと思った。岩国と横山とは高等学校時代から、どうもうま[#「うま」に傍点]が合わなかった。仲が悪いというほどのことはないが、しっくり行かなかった。同級会で顔が合うと、きっと二人の間にはなにかが持ち上る。正八会正月例会の白熊論争も、もともとそういう前提があったからである。 「その後岩国が来たのか」 「この前、西村さんとお二人で見えました」  岩国と西村が、おれを|肴《さかな》に飲んだなと思った。岩国と西村がなにを云ったか、声も内容もはっきり分るような気がした。 「調停なんか要るものか。きみが権之助と新吉のうちどっちかを選べばいいことじゃあないのか」  横山は吐き出すように云った。 「ところが、私はその二人が好きなんです」  ぬけぬけという千代の顔を横山はびっくりして眺めていた。 「だって、男の人だって、二人の女を同時に愛することがあるでしょう」 「それはある」 「なら、女だって、そういうことがあったっていいじゃあないかしら」  いよいよ、この女は白熊の牝だと横山は思った。 「二人の男が、それぞれ、どうしても、きみを欲しい、他の男に触れさせたくないと云ったらどうするんだ」 「そう云われて困っているから、先生に相談したんじゃあないの、このままだったら、私は死ぬしかないわ、私が死ねば、終りになるでしょう」  千代は、本気でそんなことを考えているのか、そのとき、思いもかけないほどの悲愴な顔をした。      3  週刊誌に白熊が載った反響はまだ続いた。週刊誌の記事を見て、白熊についての問合せや、白熊についての情報が西村の手を通じて横山のところに届けられた。 「な、おれが云ったとおりだろう。ちゃんと効果は現われているじゃあないか」  西村は得意顔で云ったが、横山は渋い顔で反発した。 「かえって手数が増えたようなものだ、投書は多いが、ろくなものはない。|信憑性《しんぴょうせい》の乏しいものばかりだ。なかには、からかい半分の投書だってある」  そうは云うものの、その投書の中に一通だけ、たいへん参考になるものがあった。その手紙をくれた人は、新潟県で、長く教員をしていた人であった。 「私は南蒲原郡の五十嵐川の上流の袴腰山の麓の一寒村に生れた者であります。少年のころ、祖父から白い熊の話を聞いたことがありますので、参考までにお知らせいたします。私の祖父の子供のころの話ですから、今からおよそ百年ほど前のことになるでしょう。その年の夏は雨が多くて、例年になく気温が低かったので秋になっても山の木の実が稔らず、熊が里に出て来て畑を荒して困ったそうです。それが一頭や二頭ばかりではなく、次々と現われるので村中大困りでいたということでした。白い熊が村の近所に現われたのはこの秋のことです。白い熊は、昔から山の神様のお使いということになっていたので、村の人は白い熊が里に現われても、追わないように、鉄砲など向けないようにと申し合わせていました。しかし、その白い熊は、村の近くに来ていてもなかなか畑に現われないで、附近をうろついていました。その白熊は臆病だったのです。人間が怖くて里へは出られなかったのですね。祖父がその白熊を見たのは、村の上の栗林だったそうです。今の言葉で云えば、スマートと云いましょうか、カッコイイと云いましょうか、そんな感じの熊で、白毛が輝くばかりに美しく見えたそうです。白熊は、祖父の姿を見ると、すぐ山の中へ姿をかくしてしまったそうですが、その時は怖しいという気はせず、ただ驚いて見ていたということでした。その白熊は結局、畑には現われませんでした。そして、翌年の春先、その白熊が餓死しているのを、村の人が発見しました。その白熊はあまりにおとなしいために自然との闘いについて行けなかったのではないかということでした。週刊誌にも書いてありましたが、やはり、白熊は熊の白子ではないでしょうか。白子という運命を背負って生れて来たそれは、どことなく虚弱で、弱い性格ではなかったかと思われます」  横山は、その人の手紙に書いてある弱い白熊のことから、上野動物園で見た白熊のことを思い出した。檻の中でじっとしていたあの白熊が野生の熊に比較したら弱かった、と考えたらどうだろうか。動物園という檻の中に入れられて保護されたから長寿を保ったのだと考えられないことはない。だからと云って、あの白熊が白子だときめつけるのは危険だと思った。人間の場合、一般的に白子は身体が弱いとされている。それが、熊の白子にも当てはまるかどうか、動物学的に正しいかどうかは専門家に訊いてみる必要があると思った。  三月に入って、横山は新吉の突然の訪問を受けた。新吉は西村の名刺に走り書きで書いた紹介状を持っていた。  やたらにすみません、すみませんと口癖のように云う男だった。見るからに気が小さそうな男だったが、なかなかの男前だった。東京に出て来てすぐ、女にひっかかり、そのままずるずる今日まで来てしまったことを話しながら、ときどき千代に悪い、千代には迷惑かけたと悔いていた。彼の現在の職業は、バーテンであった。 「千代さんをどうしてもあきらめ切れないって云うんですね」  そう云われただけで新吉は涙をためた。 「あきらめるくらいなら死んだほうがいいと思っているくらいです」 「そんなに惚れた女をなぜ三年間も放りっぱなしにしていたのだ」  と云うと、すみません、すみませんと云うだけで、その辺の責任の所在については|曖《あい》|昧《まい》だった。 「とにかく、眼が覚めたんです、千代にあって、千代を見て、自分がばかだったことに気がついたんです」  千代を見て、と新吉が云うのは、千代の白い肌のことを云っているのかと思うと、横山は内心おかしかった。 「それでおれにどうしてくれって云うのだね」 「千代に権之助をあきらめて、おれと一緒に故郷へ帰ってくれと云って貰いたいのです。もう東京はいやになりました。国の方が、気が楽です。貧乏していたって、千代とふたりなら心にゆとりがある生活ができます」  新吉はしおらしいことを云った。 「云ってはみるが、千代さんが嫌だと云ったらどうする気だね」 「だから死ぬと云ったでしょう」  新吉の眼がきらりと光った。  新吉と会って三日目に、千代から電話があった。権之助に会ってくれというのである。新吉に会ってやって、権之助に会わないという法はないから、横山は会うことを約束していた。  横山は権之助という名前からたくましい男を想像していた。権之助のたくましさに、千代が参ったのだと思っていた。しかしその権之助は、新吉におとらぬ気の弱そうな男であった。権之助は、絶えずおどおどしていた。話していると、彼が怖れているのは、横山の口から、千代をあきらめろという一言を聞かされることにあったらしい。権之助は人妻と関係していることに自責を感じているようであった。 「私になにを頼みたいのだね」  横山は新吉に云ってやったことと同じことを訊いた。 「新吉に正式な離婚手続きを取るように云って貰いたいのです。そうしないと千代とは世帯が持てないんです」 「新吉は千代と離婚をしないと云っているよ」 「だから、そこを先生から上手に話してやって欲しいんです」  それから、権之助は、いかに自分が千代を愛しているかを|訥《とつ》|々《とつ》と話すのである。新吉と同じように|泪《なみだ》まで溜めて、|惚気《の ろ け》とも述懐ともつかないことをいうのを聞いていると、横山はいささか腹が立って来た。千代はよくもまあ似たような男を選んだものだと思った。千代が好きな男はこういうタイプの男だなと思った。 「私は東京に居るのがつくづく嫌になりました。千代と結婚したら故郷に帰りたいと思っています。故郷には山があります」  新吉にしても、権之助にしても一度は東京へ出て来たが、都会の|坩《る》|堝《つぼ》の中で生きて行けるほどの自信はないのだなと思った。横山は、腹を減らして里へ出て来たが、結局、畑へ入ることができずに、餓死したという白熊のことを思い出した。新吉も、権之助も色白だった。なにか、二人の性格が、その白熊に似ているように思えてならなかった。 「きみは白熊を見たことがあるそうだな」  すると、権之助は、それまでになく元気な声で彼が見た白熊の話を始めた。その白熊は立派な白熊だった。鉄砲を向けることも忘れていたほど見事な熊だった。白熊は、権之助に気づいてすぐ樹間に消えた。 「その白熊は牝でした」  権之助が云った。 「牡か牝か区別できるほど近くで見たのかね」 「いえ、そんなに近くではありませんでした。しかし、その白熊は牝でした。牝に違いありません、いまになってそう思うんです」 「いまになって?」 「そうです。雪のように輝く牝熊でしたよ」  横山は、雪のように輝くという権之助の言葉から北越雪譜の中の一節を思い出した。 「白毛、雪を|欺《あざむ》き、しかも光沢あり、眼と爪は紅なり……これは、古人が白熊を評して云った言葉だ」 「うまいことを云ったものですね、その白毛を白い肌に直すと、そっくり千代に当てはまる言葉ですね、白い肌は雪を欺き、しかも光沢あり、眼と爪は紅なり、ほんとうにそのとおりです。千代は爪を紅に染めています。千代が一杯飲むとすぐ赤い眼になります。赤い眼になると、やたらに暑がってはだかになりたがるんです」  権之助はけろりとした顔で云った。  横山はとうとう笑い出した。権之助にしても、新吉にしても、千代にしても、少々どこかが変っていた。次元がずれた感じだった。まともに掛り合っていたら、こっちがどうにかなりそうだった。  この三人は愛欲だけが先行して、なにも見えなくなっているのかもしれない。 「ようし、お前たち二人を千代の前で対決させてやろう。おれが、その席で裁判官の役を務めてやる。きっぱり決着をつけてやるぞ」      4  三月が終ろうとしているのに、千代と横山を前にしての新吉と権之助の対決はなかなか実現しそうもなかった。新吉が出るというと、権之助が尻ごみするし、権之助が、いよいよ決心したというと、今度は新吉が、仕事が忙しくて出られないと逃げた。二人は決着をつけるのが恐しいのである。自分が勝つという自信がないからだった。対決した結果、負けたら、千代を失うことになる。千代と別れるくらいなら、このままずるずるべったりに、千代との関係を持ち続けていた方がいいと考えているふうであった。  千代にしても、横山が決着をつけるぞと云い出すと、そのまま二人との縁が切れるとでも思うのか、それともどちらの一人を失うことも耐えがたいと考えるのか、新吉と権之助の対決を急いでくれとは云わないのである。 「どうでも勝手にするがいいさ、あの白熊族には白熊族の考えがあるだろうから」  西村昭造にその後のことを訊かれたとき、横山はそう答えた。 「なんだ白熊族というのは」 「三人は三人とも白熊を見た。三人が離れたりくっついたりしたのは、間接的ではあるが、白熊が介在しているからだ。三人と白熊を分離しては考えられない」  横山は、千代という白熊の牝の尻を追って行く新吉と権之助という二頭の白熊の姿を想像しながら云った。 「そうだ、そのうち本物の白熊が現われるかもしれない。そうしたら三人の関係に新しい進展があるだろう」  なんとなくそんな気がした。別に根拠があって云った言葉ではなかった。  四月になった。横山は、桜の花を追い駈け廻していた。桜の花などという平凡な主題にいくら取り組んだところで、ろくな写真は撮れないことは分っているのだが、やはり桜の季節になると、西から東、南から北へ向って桜花を追いかけていた。九州と東北では、桜の開花がほぼ一カ月も違う。だから、桜花の命は短くても、被写体の生命としては長かった。  横山が東北から帰京した翌日、辰吉から電報が来た。ヨル八ジデンワスルという内容であった。  そのとおり、その夜八時になって辰吉から電話があった。 「白熊が出ました」  と辰吉は落ちついた声で云った。 「どうも大きさからいうと、三年前に千代と新吉が見た白熊ではないかと思うがね」  四月の末になると冬眠中の熊は穴から出て餌を求めて歩くようになるが、しばらくの間は、一冬のねぐらの附近に巣を作っているから、そこを突き止めれば、写真を撮ることは不可能ではないだろう。だが、あなたの来ないうちに多勢の人間が熊の巣探しに山へ入りこむと、熊は驚いて、よそへ行ってしまうから、それまでは、そっとして置いてやるつもりだ。できるだけ早く、出て来て貰いたいという電話であった。 「よく分った。あまり他人に話さないでくれ、新聞や週刊誌に書き立てられて、多数の人がおしかけるとまずいからな」  横山は予防線を張った。白熊の写真は彼一人の手柄にしようと思った。  彼は、直ぐ準備を始めた。  辰吉から電話があった翌日の夜、千代から電話があった。 「白熊が出たそうですよ、先生」  と千代は昂奮気味で云った。彼女の父親から速達が届いたのである。見たのは隣家の正作だった。熊を見たのはどうやら辰吉の耳に入るより三日も前のことらしかった。千代の父親は、彼女の写真が載った週刊誌を見て以来、白熊に関心を持っていて、いち早く彼女に知らせたのである。 「新吉さんと、権之助さんが白熊を撃ちに、故郷へ帰りました」  全く意外な話であった。わけをよく訊くと、千代から白熊が現われたという話を聞くと、二人はその白熊で話を決着させようではないかと申合わせた。新吉と権之助はその白熊を撃ち取った方が、千代を独占することにしようと、千代の前で、誓い合った。千代も、それを承知した。二人が故郷へ帰ったのは、きのうのことである。 「鉄砲で撃ち取るんだって? もう五月だ、猟期はとっくに過ぎている。二人は猟銃は持っているにしても免許はないだろう。そればかりじゃあない。鉄砲なんか持ち出されたら、おれが迷惑する。おれは生きた白熊を是非写真に撮りたいのだ」  しかし、横山が電話で怒鳴っても、どうにもならないことだった。急いで現地へ行って、二人を取り静めるより方法はなかった。  横山は、翌朝上野を発って現地へ向った。      5  五月になったというのに山はまだ冬の眠りからは覚めてはいないようだった。日当りのいい尾根筋の雪は消えたが、沢や谷は重々しく雪に閉ざされていた。それでも、木々の枝には春らしいやわらかい色がふくらみかけていた。|葉《よう》|芽《が》が目立って大きくなり、木の幹も、つややかに輝いていた。その木の幹にそって、目を木の根本に落とすと、根の周囲の雪だけが溶けて、その木の根っ子に、人が二人も三人も入れるほどの穴ができていた。 「ごらんなせい、先生、春はまず木の根っ子から来る。するてえと、木の根っ株の下の穴の中で寝ている熊は眠っていられなくなるっちゅうことだ」  辰吉は横山にそう教えた。春は木の根っ子から来るという辰吉の表現は、まこと当を得たものだと横山は思った。まわりを見ると、すべての木の根っ子の周囲の雪だけが溶けて、ぽこんと穴が明いていた。そう思って見ると、それは奇観でもあった。なぜそうなるか、横山には分らなかった。  辰吉の話によると、冬眠から覚めた熊は雪が溶けた日当りのいい場所に、枯枝や枯草を集めて巣を作り、しばらく身体を馴らすということであった。 「するとその熊の巣を見つけると、あとはこっちの思いどおりということかな」  横山は、彼の後から、荷物を背負ってついて来る、新吉と権之助に云った。  新吉と権之助は横山より先に東京を発ったが、二人が新吉の生家に姿を見せたのは、横山より一日遅かった。鉄砲を取りに、権之助の生家に寄って来たからだった。新吉が権之助の家まで同行したのは、白熊については、すべて同じ条件で掛かろうと二人が約束していたからだった。どちらの抜け駈けも許されなかった。  横山は新吉の生家で、彼等が来るのを待っていて云った。 「きみたち二人が白熊で決着つけたい気持は分るが、白熊は学問的に貴重な動物だから殺さないで貰いたい。そのかわり、二人が納得が行くようにおれが決着をつけてやる」  二人ははじめのうちはなかなかうんと云わなかったが、新吉が権之助を連れて突然帰郷した目的が村人たちの間に知れわたると、いい若い者が女の取り合いで、山神様のお使いの白熊に鉄砲を向けようなどとは、とんだ了見違いだという声が高くなった。新吉と権之助は、結局千代のことは横山に一任することに決めざるを得なかった。  横山、辰吉、新吉、権之助の四人は、山に入ってから三日目であった。  辰吉だけは鉄砲を持っていた。横山が来るまでに、有害獣駆除の名目で、猟期外の使用許可を貰っていた。もし万が一、白熊に襲われた場合を考慮したものであり、白熊を撃つためではなかった。 「沢はあんなに雪が深いが、日当りのいい尾根筋には、もうコブシの花が咲いてるぜ」  尾根に出たところで、新吉が云った。コブシの白い花がちらほらと見えた。春に先がけて咲く花だった。横山はその芳香に打たれたように、コブシの木の梢を見上げていた。 「コブシの花がそんなにめずらしいのけえ」  辰吉に云われたので、横山は眼をその木の根本に落した。なにかが堆くたまっていた。 「なんですか、あれは」  横山が発したその一言が、白熊発見の端緒となった。 「これは熊の糞だ」  辰吉が唸るような声で云った。黒い糞だった。炭の粉を水で練って、縄にして、とぐろを巻かせたような形をしていた。横山がすぐ糞だと気付かなかったのは、その色があまりにも黒く、そして量が多かったからである。  辰吉は、棒で熊の糞を突つきながら、 「二、三日前のものだな、とすると、例の白熊の糞かもしれない」  白熊と聞くと、横山はびくっとした。新吉と権之助はこわばった顔をした。  辰吉は更に糞の固まりを棒の先でこわしながら、 「この熊はカモシカを食べているぞ」  と云った。糞の中にカモシカの毛が入っていたのである。 「熊がカモシカを食べるのですか」  横山は意外な顔をした。考えていた熊とは別だ、きわめて|獰《どう》|猛《もう》な熊がその近くに潜んでいるような気がした。 「穴を出たばかりは腹が減っているから、食べられるものならなんでも食べる。しかし熊の食ったカモシカは拾いものじゃあないかな、拾い物を巣に引きずり込んで幾日もかかって食っていたということは前にもあった」  近くに|爼 岩《まないたいわ》という絶壁があった。|爼《まないた》を立て並べたような岩なので、雪がつかなかった。しかも、この爼岩の附近にはカモシカの好むモチノキが多く、この木の皮がカモシカの冬の間の食料になっていた。冬になるとこの附近にカモシカが集った。地形的に傾斜角度がきついところだから、|雪崩《な だ れ》がよく起きた。雪崩の犠牲になるカモシカは珍しいことではなかった。辰吉が拾い物と云ったのは、雪崩で死んだカモシカのことであった。 「白熊が雪崩にやられたカモシカを引張りこんだとすれば、巣は爼岩の近くにあるってことだな」  新吉が云った。 「そうだ。おそらく、爼沢をへだてて向う側の尾根の南側斜面じゃあなかろうか、そうだとすると、そのつもりで掛らねえといけねえな」  辰吉はそう云って腕を組んだ。  新吉や権之助がなにか話しかけようとすると、辰吉は手で制した。静かにしろという辰吉のしぐさが、他の三人を緊張させた。 「いいか、これからはめったに口をきくじゃあねえぞ、云うことがあったら耳元で云うのだ。それからおれが手で合図するまで動いちゃあいけねえ」  辰吉は歩き出した。忍び足というよりも、そのあたりを嗅ぎ廻るような歩き方だった。熊の足跡でも探している様子だった。辰吉はしばらく歩いては手を上げて、三人を呼び寄せ、足音を立て過ぎるとか、歩き方が速すぎるなどと、小声で文句を云った。本能的に熊が近くにいることを感じ取っているようであった。 「辰吉爺のやつ、まるで猟犬みたように嗅ぎ廻っていやあがる」  新吉が低い声でいった。辰吉はすぐうしろを振り向いて新吉を睨んだ。声の届く距離とも思われないのに、辰吉は、新吉の無駄口を気配で感じたようであった。辰吉が藪の中にしゃがみ込んだ。なにか拾ったようである。辰吉は三人を手を上げて呼びよせると、拾ったものを三人の前に黙ってさし出した。それは白い毛であった。辰吉は藪にひっかかっていた白熊の毛と、その下に足跡を発見したのである。 「しばらく前に歩いた跡だ。少なくとも数時間前に、白熊は此処を爼沢の方へ降りて行ったに違いない。おそらく巣へ帰ったのだ。いいか、気をつけろよ、音を立てたり、声を上げたりするな」  横山には、辰吉が熊の足跡だと云っても、そのようには見えなかった。雪溶け水が流れた後、乾いて浮き上った黒土の上に、去年の枯葉が重なり合っていた。熊が通ったところは、ぽこんと凹んでいた。それが足跡であった。  三人は、尾根を越えて爼沢の方へ降りていった。木の間から、爼沢の雪渓が見えだしたところで、今度こそ確実に大きな|獣《けもの》の足跡と分るものがあった。  辰吉は三人をそこに待たせて一人で降りて行ったが、すぐ引返して来て、三人を岩のある場所へ連れて行った。そこは爼沢を見おろすことのできる絶好な見晴し台だった。辰吉は岩の上に伏せるようにして双眼鏡で雪渓を眺め廻していた。爼沢は半分は日陰になっていた。雪渓の上部に聳えている爼岩から眼を雪渓に沿っておろして来ると、雪渓の半ば下に、傾斜方向に走る大きな|割れ目《クレバス》が見えた。 「やはり熊は雪渓を越えて向うの尾根へ帰っている。雪渓の上に何回も歩いた跡がある。とすると、白熊は、爼沢の上部で拾ったカモシカを、あのあたりに引張りこんで、そこに巣を掛けているに違いない」  辰吉があのあたりと指すあたりはもう日がかげっていた。  横山は辰吉にかわって双眼鏡を眼に当てた。雪渓を横断している足跡がちゃんと見えた。足跡は割れ目を迂回していた。新吉が横山にかわって双眼鏡を覗き、その次に権之助がかわって、双眼鏡を眼に当てた。  辰吉がまた考えこんだ。彼は長いこと考えた末、ようやく心を決めたらしく、横山の傍に来て云った。 「先生、もし白熊が、あのあたりから雪渓へ降りて来たとしたら、此処から、写真が撮れるかね」  辰吉は、巣があるだろうと思うあたりを指して云った。 「望遠レンズなら撮れますね」 「そうですか、それじゃあ、写真を撮る場所は此処に決めましょう。私と先生は此処で野宿して白熊を見張っている。新吉と権之助は明日の朝早く爼沢のもう一つ向うの尾根の|樵道《きこりみち》を行って、裏側から、そら、あのあたりに這い登り、熊を爼沢に追い落とすのだ。熊が居れば、必ずこの爼沢へ降りて来る。そこを先生が写真に撮るという寸法だが、どうだね」  方法を寸法と云った辰吉の言葉が横山には新鮮に聞えた。 「おい、新吉に権之助、おめえたちは|勢《せ》|子《こ》だ。上手に熊を追い出す役だから、そのつもりでかかれよ。鉄砲なんか持ち出すんじゃあねえぞ。わかったな」  辰吉に鉄砲と云われたとき、新吉と権之助は顔を見合わせた。視線がからんで、固定した。二人は眼でなにか云い合っていた。 「わかったのか、おい」 「わかった、鉄砲なんか持って行くものか」  新吉が云った。 「そうだ。鉄砲なんか持って行くものか」  権之助が新吉の言葉に応じた。二人は互いに見詰め合ったままだった。  横山は、新吉と権之助が、鉄砲なんか持って行くものかと云ったのは、鉄砲を持って行こうと誓い合ったことのように聞えた。そのことが二人が去ってからも、ずっと気になっていた。  新吉と権之助に背負わせて来た荷物の中には、簡易テント寝袋と若干の食糧と燃料が入っていた。辰吉は、火を焚かなかった。熊に所在を気付かれないためであった。二人はパンと罐詰で食事を済ませた。夜が来た。横山は寝袋の中に入り、辰吉は毛皮で作った胴着を着こんで丸くなった。辰吉は音を立てることを極度に警戒しているので、二人はほとんど口をきかなかった。寝苦しい、寒い夜であった。  その朝はよく晴れていた。  夜が明けるのを待ち切れないように横山は見晴台に出て、撮影の用意にかかっていた。  何時、どこから白熊が現われてもカメラで捕えるつもりだった。辰吉は双眼鏡を眼に当てて、爼沢の向うの尾根を監視していた。二人はときどきポケットから飴を出して口に入れた。それが食事だった。どうせ白熊が現われるならば、日が高く上って雪渓に日がさしかけたときに出て貰いたかった。横山は、朝日を受けて雪渓に立つ白熊を望遠レンズで捕えた構図を想像しただけで胸が鳴った。  やがて太陽が昇り、爼沢の向うの尾根いっぱいに日が当った。辰吉は双眼鏡で明るくなった尾根を探した。 「白熊だから居さえすれば見える筈だ」  辰吉は低い声で云った。横山はどんなに遠くとも白熊が居たらレンズを向けるつもりだった。緊張の連続だった。いつどこから現われるか分らない白熊を待っている気持はなんとも云えないほど息苦しいものであった。張りつめた気持の中に、倦怠の一瞬が流れ去ることがあった。そういうとき、西村や岩国や森川や千代などの顔が浮んだ。それぞれの顔にそれぞれの表情があった。  一瞬自失していた自分に気付くと、横山はあわててカメラを持ち直した。 「ゆうべのうちにどこかへ引越してしまったかな」  辰吉は心細いことを云った。熊は敏感な動物だから人間が近づいていることを知ると、一夜のうちに十里も先に逃げてしまうことがあると辰吉は小声で話して、横山を失望させるかと思うと、今度は、 「しかし、ね、巣に餌があるうちはたいていそこを動かねえものだ」  などと安心させるようなことも云った。日が高く昇って雪渓が鏡のように輝き出した。 「それにしても、もう新吉と権之助の勢子は向うの尾根に現われてもいい筈だが、どうかしたのかな」  辰吉はそれをしきりに気にしていた。 「あいつらは東京に長いこといて、勢子も出来なくなったのか、なさけねえものだ」  辰吉がそう云って、双眼鏡を眼から離したときだった。轟然一発銃声が聞えた。爼沢を越えて向うだった。余韻が山峡に反響して、その音の発生点を決めることはむずかしかった。 「撃ちやあがったな、馬鹿者めが」  辰吉はそう云って立ち上った。横山は反射的にカメラを構えた。間もなく樹の間から煙が上るだろうと思った。彼は眼を見張った。白熊はきっと飛出して来るに違いないと思った。横山は、きのうから辰吉がきっとあのあたりだろうといっていた方向へカメラを向けていた。  銃声は一発だけだった。再び山はしんとした。その一発で白熊は死んだかもしれない。やはり、新吉と権之助は、白熊を撃ち取った者が千代を取る、という賭けをやったに違いないと横山は思った。きのう、辰吉に鉄砲なんか持って行くなと云われたときの、新吉と権之助の答え方や眼つきから想像して、銃声は二人のうちどっちかが撃ったものに思われた。鉄砲を撃った煙はなかなか立昇らなかった。待ち遠しい時間だった。 「あそこだ」  と辰吉が叫んだ。一条の煙が樹間から立ち昇り、その森の中から白いものが、雪渓目がけて走り出たのが見えた。横山があの辺だろうと見当つけていたところより、ずっと下であった。白いものは走るというより転がるような速さだった。カメラを向けたのと、白い物が視界から消え去ったのと同時だった。消えたところは爼沢の雪渓が大きな口を開けたあたりだった。 「白熊が雪渓に落ちた」  と辰吉が云った。辰吉が先に立って二人は雪渓の割れ目に走った。森の中から、銃を持った新吉と権之助の二人が現われた。雪渓の割れ目の深さは三メートルほどあった。白熊は雪渓の底に首を突込むようにして死んでいた。白熊の首のあたりを音を立てて水が流れていた。首から先に雪渓の底に落ちこみ、窒息死したものと思われた。 「どっちが撃ったのだ」  辰吉が怖い眼で二人を睨んだ。新吉が黙って頭を下げた。  その日のうちに村の人が寄り集って、雪渓の中から白熊を引き上げた。|弾《た》|丸《ま》|疵《きず》はなかった。白熊は銃声に驚いて雪渓に落ちこみ、頓死したのだ。  横山は雪渓から引き上げられた白熊の身体中を調べた。身長約一五〇センチ、体重約四〇キロ、年齢は五、六歳と推定された。牡熊で、全身白毛におおわれていた。目、鼻、口元、爪、掌まで真白だった。文句なしのアルビノだった。熊の白子の典型だった。  横山の全身から力が抜けた。生きた白熊を撮影するという目的がふいになったばかりでなく、日本白熊族実在に対する期待も消えた。白毛、雪を欺き、しかも光沢あり、眼と爪は紅なりの、あのまぼろしの白熊でもなかった。  虚脱した顔で雪の上に坐っている横山の前に、新吉と権之助が並んで立った。 「白熊に弾丸は当らなかったが、撃ち取ったと同じ結果だからおれの勝ちだ」  新吉が云った。 「いや、白熊は雪渓に落ちて死んだんだ。おれたちの勝負とは関係がないことだ」  権之助が云った。 「勝負はついた。新吉の勝ちだ。弾丸が当る当らないは問題外だ。白熊は新吉の鉄砲の音で撃ち取られたことは明白だ。おれの裁判に不服なら、きみたち二人は、また別の白熊を追いかけるがいい。白熊には一生に一度会えるかどうかというのが定説だ。お前たちは運よく二度も白熊を見た。だが、三度目の白熊を見るときは、よぼよぼの爺さんになっているだろうよ」  横山はふらふらと立上った。棒にくくりつけられた白熊を二人の猟師が|担《かつ》いで、横山の前を通って行ったが、彼はそれにカメラを向けようとはしなかった。彼は黙って頭を下げて、その山の神様の使者のなきがらを見送った。悲しみが横山の全身を貫いた。自分が白熊に異常な関心を示したことが、白熊を亡ぼす結果になったのだと後悔した。もう二度と白熊を追うのは止めようと思った。 [#ここから2字下げ] この小説は次の論文よりヒントを得て書いたものであり、登場人物は、すべて架空である。 The Occurrence of Albino Bears in "Serow Paradise" by Dr. Teiichi Asahina [#ここで字下げ終わり]     雪呼び地蔵      1  そのもみじの一枚にユミが眼を止めて、なんてきれいでしょうとひとりごとを言ったときから三人の運命は狂い出したのである。 「ああそれですか、誰かが置き忘れて行ってしまったものです」  三人を送って出て来た宿の番頭が言った。もみじの一枝はビールの空瓶にさして、玄関脇の台の上に置いてあった。ビールの空瓶の中に水が入っているかどうかもあやしいものだが、もみじは、|手《た》|折《お》ったばかりのように新鮮な紅の色をしていた。殺風景な宿の玄関にはまったく調和しない存在だったから、かえってユミの眼に止ったのかもしれないが、十人のうち九人までが知らずにすんでしまいそうな暗いところに置いてあったそれが、ユミの眼に触れたのは、さしこんで来た朝の光が、そのもみじの枝の末の一葉に当ったからであろう。 「ほんとうにきれいだわ」  悦子もまた改めて驚いたように言うと、ユミの肩に手を置いて、 「大滝っていうところに行けばまだ見られるかしら」  と、言った。東京から|此《こ》|処《こ》まで来る途中、この付近は、春先はこぶし、秋はもみじが美しいということを、千恵からさんざん聞かされて来たからであった。大滝という地名もそのとき聞いておぼえていた。 「さあ、もみじには少しおそすぎますね。もう半月も早ければ、あの沢はもみじでいっぱいでしたが」  番頭はそう言うと、宿の直ぐ前の|滑《なめ》|川《がわ》の方へ眼をやった。そこらあたりから、滝と紅葉で売り出している滑川の渓谷が始まっているのである。 「もう十一月ですからね」  千恵は、紅葉の季節はもう過ぎてしまったのだからもみじのことはあきらめたほうがいいだろうと言いたいところを、もう十一月だと、季節のせいにして、すでに御厄介になりましたと番頭に向って挨拶した言葉を、もう一度言うのはおかしいから、 「では、またね」  と大きな声で言うと、ルックザックをゆすり上げるようにしながら、宿を出た。千恵が出たから、悦子もユミも出ないわけにはいかずにそのあとをついて出たところで、ユミが言った。 「大滝って遠いかしら」  ユミはやはりもみじにこだわっているのである。宿の玄関で見たようなもみじの自然の姿を見たいと考えだすと、もうなにがなんでも見たくてたまらないのは、末子として生れたあまったれた気持も手伝ってはいるが、ここで無理しておせば、悦子は問題なく、ユミの言うとおりになるし、千恵だってユミの願いをそう簡単に拒絶するようなことはあり得ないという確信があった。 「大滝までならかなりあるわ。往復一時間もかかるかしら、今日の行程からいうと、それはとても無理よ」  千恵は静かに言うと、日が短い季節のハイキングには時間がいかに大事かということをユミに教えてやるつもりのように腕時計を見た。八時半である。  彼女たちのその日の行程は、滑川温泉──霧の平──|家《いえ》|形《がた》|山《やま》──|一切経《いっさいきょう》山──|微《ぬ》|温《る》|湯《ゆ》の行程を八時間かけて歩こうというのであった。滑川温泉を八時半に出ると午後の四時半に微温湯につく予定であった。そう無理な計画ではなかった。 「一時間も道草を食うと、微温湯へつくのは午後の五時半になるわ、今は日が短いから、四時半までにはどうしても目的地に着かないといけないわ」  千恵はさらにつけ加えて、彼女がきめたスケジュールを変更するつもりがないことをユミと悦子に示すために、滑川の渓谷の方角とは反対の家形山登山口の方へゆっくり歩き出した。すぐ後からユミと悦子が|蹤《つ》いて来ることをひそかに期待していたが、数歩行っても、うしろからの足音が聞えないので、むっとしたような顔でふりかえると、ユミと悦子は顔をつき合わせてなにか話していた。 「どうしたのよ」 「ちょっとでいいから、私たち大滝のもみじを見たいのよ」  悦子が言った。悦子が私たちと言ったとき、悦子とユミが、もみじを見るということで意見が一致したことをはっきり示していた。三人で山へ来て、その二人がそうしたいというならば、千恵としても|強《し》いてそれに反対はできなかった。 「ちょっとだけにしましょうね、あとがつらくなるから」  千恵は顔には不満を出さないでいた。こんなところで、気まずいことになれば、今日一日が全く面白くないことになってしまうし、へたにここで、千恵だけの意見を通そうとすれば、それでは、あなたひとりでなどと言われないともかぎらなかった。千恵は、悦子とユミを会社の中でのみ知っていて、一緒に山に行ったことは今度がはじめてであった。  千恵は引きかえして、彼女等の先に立った。この春来たところだから、道はよく知っていた。宿の裏手の吊橋を渡って、二十分ほど歩くと、尾根から大滝を見ることができた。そこで引き返すのだ。滝壺までおりて行くとすれば時間がかかって、今日の日程からはみ出すおそれがある。千恵はそう考えていた。  もみじはもうおしまいになっていた。ほとんど落葉しているし、木の枝に残っている葉もすっかり色あせていた。宿の玄関にあったようなあざやかな色彩を放つものはなかった。空はよく晴れているから光のせいではなく、宿の番頭の言ったとおり、もう遅いのである。すると、宿にあったもみじはどこから持って来たものだろうか。そのことについては、千恵だけではなく、悦子もユミも同じように疑問を持っていた。だがそこから見る大滝はすばらしかった。数十メートルもあるような岩を、滑らかに覆いかくすように流れ落ちる主流の滝と並んで、幾条かの小さな滝が見えた。滝の下から、男女の声が聞えていた。 「さあ、引きかえしましょう、日暮れて道遠しではつらいから」  千恵が言った。 「道さえ、はっきりしていたら、私たち懐中電灯を持っているから大丈夫でしょう」  悦子が言った。それは悦子に言われるまでもなく、実は列車の中や、昨夜の宿での打合せのときに千恵が言ったことなのだ。  千恵はそれには答えなかった。 「ほんとうに、もう時間がないのよ」  千恵はやや声を高めていうと、二度とうしろを振り向かずにもと来た道を引き返しにかかった。しばらく歩いてから立ち止って、背後の音に耳をすませると、悦子とユミの話し声がした。千恵は微笑した。  吊橋を渡って、宿の傍を通るとき千恵は湯のにおいを|嗅《か》いだ。それほど刺戟のつよいにおいではなかったが、そのにおいから彼女は、ゆうべ湯船の中で見た湯ばなのことを思い出した。湯ばなは自らの意志を持っているかのように湯の中を浮遊していた。その形のあるような、ないような浮遊物は湯の中でじっとしている彼女の肌を目がけて集まって来るように見えた。その湯ばなが、ぺったり彼女の肌についたらさいご、もうどうしたって拭い去ることのできない汚点にでもなりそうな気がした。  千恵はこの年の春も、この湯に入った。湯ばなが浮いてはいたが気にかかるような存在ではなかった。それが今度は、なぜこの湯ばなが、いやらしいものに見えるのだろうか。千恵は湯ばなの思い出から駈足で遠のきたい気持だった。 「もうちょっとゆっくり歩いてよ」  悦子の声で千恵は、いま自分がかなり速いペースで歩いていることに気がついた。道草を食った一時間の遅れを取りかえそうとして、意識的に足を速めているのだ。山登りははじめが大事だ。はじめいそぐと、あとでそれがこたえて来る。一時間の遅れは、一日かけて、なしくずしに取り返さねばならないと自分に言い聞かせていた。 「でも天気がよくてよかったわ」  悦子は、天気さえよければ一時間の遅れなんか気にすることはないと言っているのである。千恵は空を見上げた。山と山にかこまれたせまい範囲の青空の中に、一片の雲が動いていた。ふわっとした、山霧が千切れて、とんで来たような雲だった。千恵はその雲の動きを見て、また湯ばなのことを思い出した。  ひとかたまりの湯ばなが彼女の白い肌を狙っておしよせてくる瞬間を思い出した。千恵は身ぶるいが出そうになるのを危うくこらえて、ルックザックを左右にゆすぶった。 「わからないわ、宿の玄関のもみじ」 「どこにも、もうもみじはないのに」  ユミと悦子が話しているのが聞えた。二人はまだあのもみじのことにこだわっているのだ。ユミと悦子がもみじにこだわり、千恵が湯ばなにこだわっているのがおかしかった。妙な出発点だなと千恵は思った。いつもならこんなときは、声を揃えて山の歌でも歌っているのだが、山登りにはなんの関係もないことにとらわれている三人は、まだほんとうに、これから山をやるのだという気がまえに欠けているのかもしれない。 「一時間ずつ交替で先頭を歩きましょうね、道を間違わないように、ゆっくり歩くのよ」  先頭を歩いている千恵が言った。三人だってパーティーを組めば、リーダーが要る。そのリーダーはこの場合千恵であるべきだが、別にリーダーだのパーティーだのと面倒くさいことを抜きにしての女性どうし三人の気軽な晩秋のハイキングにしましょうねという、千恵の提案だった。      2  滑川温泉は奥羽本線|峠《とうげ》駅から南に約四キロ、標高七七七メートルのところにある。十一月に入ると訪れる人は急に少なくなる。滑川温泉はまだ晩秋の憂いを残しているが、山手に向って一時間も歩けば日陰に雪がある。春まで解けない根雪である。  ユミが雪よ、雪だわと大きな声を上げたのは滑川温泉から一時間ほど歩いた霧の平の分岐点であった。石の堆積に半ば埋るようになって、石の地蔵がユミに向って合掌していた。何時ごろからそこにあるものか分らないが風化がはげしく、あっちこっちが欠けたり、磨耗しているのにもかかわらず、地蔵の眼ははっきりとユミを見ていた。地蔵の眼は深くきざみこまれた眼であり、ほんのわずかではあるが、目尻が張っていた。吊り上っているというほどではないが、一般の地蔵のように目尻を下り気味にしたものではなかった。その特徴ある眼と対照的に合掌している両手が上向きにそり返っているあたりに地蔵の両手にこめられた力が感じられた。  ユミはその地蔵の眼を怖いとも、やさしいとも、ましてや、尊いとも感じなかった、ただ、じっと見詰められているという感じだった。老婆が井戸端に立って、通り過ぎる人に投げかけている、あの意味のない眼に似ていた。  地蔵の前にはひとかたまりの雪があった。地蔵自身が日をさえぎったためにそこに雪が解けずにそのままでいるものと思われた。雪は地蔵にささげられた供え物のようであった。 「お地蔵さんがめずらしいの」  悦子に言われたのでユミは地蔵から眼をそらした。寒いなと思った。立止っていると、すぐ汗が引いて背筋に寒さが走るのである。 「いつも同じところにじっとしていて何を考えているのかしら」  千恵が言った。 「でも、もう間もなく雪の下にかくれるでしょう」  悦子の言葉に、千恵は首を振って、 「ここは風が強いから、多分お地蔵さんは雪に埋まることはないでしょう」  悦子と千恵の話を聞いているうちにユミは、地蔵の眼は彼女を見つめているのではなく、地蔵の前の雪を見つめているのではないかと思った。地蔵の前のほんのひとにぎりぐらいの雪が、四方八方にどんどんひろがって行き、はてしなく野も山も包みかくしてしまうのを、地蔵はそこからじっと見ているように思われてならなかった。 「雪呼び地蔵さん……」  ユミの口からそんな言葉が洩れた。千恵と悦子は、その言葉の意味を確かめるようにユミと地蔵とを見較べてから空を見た。空は晴れてはいたが、全体的に白濁して来たようであった。  三人が霧の平から、高倉新道の稜線を南に向って歩き出したころから、空の様子が急に変り出した。白濁した空はもう空ではなく雲にかくされていた。かなり高いところにある雲でありながら、時間と共に、その厚さを増し、高度をぐんぐん下げて来るように思われた。南風がつめたく、どんよりして来た空の下を歩くのがなんとなく不安でもあった。  一息登ったところに、奇妙な形をした岩があった。道はその岩の右側を通っていた。|神楽《か ぐ ら》岩だと千恵が二人に教えた。  三人は岩を背にして少々早い時間の食事を|摂《と》った。食事をしながら、風が強くなったので、それぞれ、ウインドヤッケをつけた。 「いやな天気になりそうね」  三人の気持を代表するように悦子が言った。吹雪になりはしないかというのを、みんなの気持を考えて、いやな天気と言ったのである。 「今時分になると、この辺はだいたいこんなものよ、この稜線は風が強いので有名な場所よ」  千恵が言った。千恵のいったのは嘘ではなかった。霧の平から家形山までの南北に走る稜線は西の米沢盆地と東の福島盆地とを気候的に分ける境界線であった。もっとわざとらしい表現をすると、日本海側気候と太平洋側気候の境界線ということになる。従って、年中風が強く、天候が変りやすいところであった。千恵が今時分と言ったのは、もはや冬の季節風の支配下にあるのだから風が強いのだと言いたかったのであろうが、冬の季節風ならば西寄りの風が強い筈であり、いま彼女等が当面している風は南寄りの風であることには特に気がついていないようだった。 「朝一時間の道草をしたから、あまりゆっくりできないわ、そろそろ出かけましょうよ」  千恵がそう言っているとき、一人の男の登山者が、彼女等の前を滑川温泉の方へ降りて行った。 「あの人、なぜ山を降りるのかしら」  ユミが言った。 「別に山を降りるってわけではないでしょう、今朝早く|吾《あ》|妻《ずま》小屋を出れば、いまごろこの辺よ、あの人、|五《ご》|色《しき》温泉にでも行くつもりじゃあないかしら」  千恵はそう言ったが、ユミには、その男が、家形山を目ざしていた登山者であって、天気が悪くなりそうだから、山を降りるのではないかと思われた。ユミは、その彼女の想像を悦子と千恵に言おうと思ったが、千恵も悦子も、それほど天気のことを気にしてはいない様子だから、ついそのことを口には出せなかった。  それからずっときつい登りだった。吹きさらしの稜線を風に向って登って行くことはつらいし、時折稜線の両側の針葉樹林の中から飛雪が吹き上って来ると、ほんとうに吹雪になったのかと思わず辺りを見廻すほど暗い気持になるのである。  一時間置きに先頭をやろうと自分から言い出しておきながら、千恵はずっと先頭を歩いていた。それは、他の二人がこの山は初めてだし、どうやら天気が変りだしたようだから、なるべく早く安全地帯まで踏みこもうという気があったからである。  眼の前が白く開けた。ユミはそこだけになぜかたまって雪が降りつもっているのだろうかと思った。雪だ雪だとは騒がなかったし、騒ぐような気分的なゆとりがなくなっていたユミには、白いものがさえぎったときにはもうこれから先へは進めないのだと思った。しかしそれは、雪ではなく白い砂の地帯だとわかると、なあんだという気持になって、白い砂の正体を掴もうとしゃがみこんで、手袋をはめている両手をそっと白砂にさし出したとき、その灰色の手袋にほんとうの雪が降りかかったのである。 「雪だわ」  とユミは今度こそ遠慮のない声を上げた。降るか降るかと思っていた雪がとうとう降り出したのである。ユミは雪呼び地蔵の顔を思い出した。 「どうするの」  と悦子が千恵に聞いた。千恵がリーダーだと決めているわけではないが、ここらあたりのことは千恵だけしか知らないし、だいたいこのコースを悦子とユミにすすめたのは千恵だから、必然的に千恵がリーダーであり、千恵の意志によって進むか退くかが決定されるべきところであった。 「今ごろの、この辺の山は、ときどき雪がちらつくものよ」  千恵は驚いたふうは見せなかった。千恵は地図を出して、あと一時間半も歩けば家形山の頂上に出られる。そこまで行ってもまだ向い風が強いようなら、一切経山の方へ行くのはやめて、五色沼へおりて高湯へ行けばいいし、もし天気が悪くなったら、家形山のすぐ下の家形ヒュッテへ逃げこめばいいと言った。そのように説明されると、悦子もユミもまた気持を変えて前進する気になった。  きつい登りになった。家形山の頂上が近くなるにつれて雪が激しく降り出し、吹雪の様相を示した。三人は着られるものを全部着こんだ。 「とても家形山まで行くのは無理だわ、滑川温泉へ引き返しましょう」  悦子が言った。 「でも頂上はすぐそこよ、ここまで来たら家形山ヒュッテに逃げこむのが一番はやいのよ、家形山の頂上からほんのひといきのところにヒュッテはあるのよ」  千恵は前進することを主張し、悦子は引き返すことを主張した。二人は寒いので、歯をがつがつ言わせながら言い争った。 「じゃあユミさんの意見によって決めましょうよ、多数決だわ」  悦子はユミが引き返す説に賛成してくれること間違いなしと見込んで言った。ユミは低い声で山を降りると言った。 「ユミさんまで、そんなことを言うの、家形山の頂上はすぐそこなのよ、ほんとうに、二十分か三十分のところなのよ」  千恵は、ここまで来て、二人に裏切られたことがこらえ切れなくなったように眼に涙をためた。 「いいわ、ここでお別れしましょうね、私は登るわ、あなたがたは勝手にするがいい」  千恵は二人に背を向けた。そうすれば、この辺の山にくわしくない彼女たちはきっと|蹤《つ》いて来るに違いないと思った。千恵は十歩ほど登ったところで立止って、彼女等の足音を待った。足音は遠のいて行った。千恵は彼女等の姿が見えなくなると、身が凍るような孤独感の中に立ちすくんだ。  千恵は二人のあとを追った。吹雪の中を寄りそうようにして降りて行く二人の姿を認めたとき千恵はほっとした。このままおりて行けば、あの二人とまた滑川温泉に泊ることになるのだ。玄関に置いてあった真赤なもみじの色が眼に浮ぶと、すぐ、ゆらゆらと浮き上って来る湯ばなのことを思い出した。彼女の足が止った。滑川温泉に泊ったからと言って、いやならお湯に入らないでもいいのだ。そんなことを考えているうちに、前を行く二人の姿は吹雪の中に消えた。 「なによあの|女《ひと》たち……」  千恵は二人の姿が消えたあたりに向って言った。あの二人に追いつけば、彼女たちに負けたことになる。意地でも二人に、さっきはごめんなさいねなどと言えるものか。      3  ユミはたわいなく滑ってころんでいやというほど尻もちをついた。激しい吹き降りになったために、雪で道が覆われて、道だか山の斜面だか見分けがつかないところであった。ユミは枯草の上に降り積った雪の上に乗って滑ったのである。地蔵の顔が眼の前に浮んだ。このまま降りて行くと、地蔵はユミのほうにくるっと向きを変えて、声を上げて笑い出すかもしれない。そんな気がした。その地蔵の顔を見るのもいやだが、その地蔵のところまで悦子と二人で行けるかどうかが心配だった。悦子は年上だし、気も強いけれど、山のことはなにも知らない。もし、雪にかくれて分りにくくなった道を踏み迷ってしまったらどうしよう、そう思うと、この場合は、年は七つも上だし、山にかけてはベテランだと言われている千恵にたよるより仕方がないのではないか、彼女が家形山の頂上はすぐそこだと言ったのをなぜ信用しなかったのだろうか。今ならまだ追いつける──ユミはくるっと山の方へ向きを変えた。 「ユミさんどうしたのよ、なぜ急にまた……」  悦子はユミを引き止めようとしたが、悦子自身も、帰路を雪にさえぎられて不安になっていたから、今なら追いつけるわとはっきり口に出して、本気で千恵の後を追おうとするユミを見ると、千恵について行くのが、結局は一番安全だと考えるようになった。二人は声を揃えて千恵の名を呼んだ。向い風におし戻されて、その声は千恵には届かなかった。二人は千恵の後を追った。  一人になってからの千恵は気が重くてしようがなかった。二人と別れてしまったということもあったが、そのころになって疲労が彼女を責め出した。千恵は昨夜眠れなかったのである。山に登る前夜は、眠らないといけないと、自分に命令する声が邪魔になってかえって眼がさえることがたまにはあった。だが、昨夜の眠れない理由はそのようなことではなかった。眼をしっかりつぶって眠ろうとすると、あの湯ばながふわふわと浮き上って来るのである。一つ二つ三つと浮き上って、彼女の身体にまつわりつこうとするのである。別に湯ばなに触れてもどうってことはないのだが、その夜の彼女はその湯ばなに悩まされつづけた。千恵は疲労と吹雪とを同時に相手にして、これからかなりはげしい戦いをしなければならないことを知っていた。急坂を登り切って家形山の頂上の吹きさらしに出たときが勝負だと思った。  千恵は霧の流れの中に身をゆだねながら家形山の頂上に立っていた。春来たときは、そこは三角形の広場であったが、今は吹雪と共におしよせて来たガスのために十メートル先は見えなかった。 「だけど私はだいじょうぶよ、きっと家形山ヒュッテを探し出して見せるわ」  彼女は霧の中に見当をつけて入って行った。霧の濃淡は速い周期で変っていた。ときによるとすぱっと霧の幕が開いて意外に遠くまで見えることがあった。ユミと悦子が家形山の頂上に立ったとき、丁度霧に切れ目ができて、ずっと向うを、背を丸くして歩いている千恵の姿を望見した。二人は声を上げながら千恵のあとを追った。霧がまた視界を閉ざした。激しい吹き降りになった。  千恵は頭の中に描いた地図をたよりに歩いていた。家形山ヒュッテへ行くには、家形山の頂上から一切経山へ行く縦走路をおりていって五色沼のほとりまで来たところの左側に立っている指導標をたよりに行けばいいのである。  彼女は家形山の頂上から一切経山へ行く縦走路のおり口を探した。そこには指導標があった筈だ。霧と吹雪でその降り口がなかなか発見できなかった。こんなときはあせってはいけない、もしあせったがために道を失って遭難でもしたら、悦子とユミに負けたことになるのだ、心を静めなければと思うのだが、吹きさらしの山の頂上に五分も立っていようものなら、身体中がかちかちに凍ってしまいそうに寒かった。歩いていなければどうにもならないし、霧の中を歩けば歩くほど方向がわからなくなってしまうことは理の当然だった。そのへんのことを千恵は感覚的にとらえていた。彼女はかなり迷い歩いてから、信用できるかどうか分らないが、とにかく踏みあとには間違いないと思われる道を降りていった。五色沼のほとりまで行けば高湯へ行く道に必ずぶっつかる筈である。その道がわかれば家形ヒュッテへの道はすぐ分る。彼女はそう考えていた。  その踏み跡はやがて細くなって消えた。そうなればただもうそのあたりを歩き廻る以外に仕方がなくなっていた。  彼女の頭の中には、五色沼と反対方面の大倉沢に迷いこんだらいけないということがあったし、南の風に正対することのつらさもあって、左へ左へと足が向いていった。その方向は間違っていなかったし、そのまま注意して歩いて行けば、高湯行きの道が発見できたかもしれない。だがそのころは吹雪の絶頂になっていた。吹雪は眼にも口にも入り、ウインドヤッケから吹きこんだ雪は首のあたりで解けて身体にしみこもうとした。歩くことより、なんとかして、その吹雪をさけてひといきつけるところに出たかった。  悦子とユミは家形山の頂上で、霧の切れ目に見た千恵の歩いていく方向を追った。二人は千恵のように歩き廻るようなことはしなかった。あっちへ千恵は行ったのだと思う方向に進んで行って、千恵が家形山の頂上でもたついている間に、家形山の頂上を越えて、五色沼の方向へ雪の斜面をがむしゃらに降りて行って、風に鳴る針葉樹の疎林の間を通ったり、やぶの中でバラに引掻かれたりしながらも、二人は千恵のあとを追うつもりで、吹雪の中をさまよい歩いていた。 「家形ヒュッテはまだかしら」  ユミが言った。 「家形山のすぐ下だっていうからこの辺よ、きっと」  悦子が言った。 「私はもう歩けないわ」  ユミは雪の上に坐りこんで首を垂れた。千恵のあとを追おうとして急いだことが彼女を急速に疲労させたのであった。馴れない吹雪の中の寒気が彼女をたたきのめしたのである。 「あのまま滑川温泉へ降りたらよかった」  とユミがひとりごとのように言った。寒さのために口がいくらかもつれていた。 「いまさらなによ」  悦子はうらめしそうな眼でユミを見たが、別にユミをせめようとはしなかった。それよりも弱りこんだユミをどうして引張っていこうかと考えていた。  悦子はそのとき人の声を聞いたような気がした。 「ユミさん、人の声を聞かなかった」 「人の声?」  ユミは眼を上げた。まつげに雪がついて真白だった。 「案外この近くに家形ヒュッテがあるかもしれないわ、ちょっと待っていてね、見てくるから」  ユミは、なにも言わなかった。彼女はものを言うのも、おっくうであった。そのままそこに眠ってしまいたいような気持だった。  悦子は、人の声が聞えた方向に歩いてみた。ヒュッテはなかった。人の声ではなく、疎林で鳴る風の音を、人の声に聞き違えたのではないかという疑惑に取りつかれると、これこそ、遭難する前にきっと聞えるという幻聴かと思った。  悦子はユミのところに引返したがユミはいなかった。確かにこの辺だと思うのだけれど、そこにユミが居たという証拠はなにもなかった。声を上げて呼んだが応答はなかった。  悦子はユミと離れてしまったときから、自分の足が思うように動かなくなって来たことを知った。暗くなって来た。もうまもなく日が暮れるのだと思いながらも、腕時計を見る元気がなかった。彼女は、風の陰を探した。ほんのちょっとばかり休養すれば、そして、ルックザックの中のお菓子を食べて、水を飲めば元気が出て、家形ヒュッテを探し出すことができるのだと思った。悦子の中から、ユミが次第に遠ざかって行った。千恵もユミも去ってしまうと悦子は、自分がいま吹雪の中を|彷《ほう》|徨《こう》していることさえもわからなくなった。      4  ユミはいつまで待っても帰って来ない悦子の名を呼びながら歩き出した。ひょっとすると悦子に捨てられたのではないかと思った。千恵にとっても悦子にとってもユミは厄介者なのだ。山の経験はなく、足だって弱いし、なにかと言えば年長者に甘ったれるユミなんかと一緒にいて、死ぬまでおつき合いさせられたらたまらないと思って、ユミを一人にして逃げたのかもしれない、そうだ逃げたに違いないと思うようになると、ユミはもう悦子の名を呼ぼうとはしなかった。自力でなんとかしてこの場を脱出することを考えねばならないと、彼女は四方に眼をやった。家形ヒュッテを探し出さないと生きられない、もし家形ヒュッテが見つからないとしても、もう間もなく日が暮れるのだから、それまでに道を探し出さねばならないと思った。  雪は小降りになったかわりに風が強くなった。降雪が少なくなるにつれて風が南西から西に廻りつつあった。その風向きの変り方は彼女には分らなかったが、雪よりも風のほうが始末に負えないほど厄介なものだということを彼女の身体がよく知っていた。 「どこかに逃げこまないと私は死んでしまうわ」  彼女は口のなかでつぶやいた。彼女は寒い風を背に受けて歩いていた。この場合、風に耐えるにはそうするより仕方がなかった。周囲が暗くなって来た。夜になるのだと彼女は思った。夜になっても歩かねばならないし、夜になっても逃げこむところがなければ死なねばならないと思った。死についてしきりに自分に言い聞かせようとしても、死は現実には迫ってこなかった。  夜が来た。彼女はルックザックの中から懐中電灯を取り出した。スイッチを入れると前方に石の地蔵が坐っていた。 「あら、もうここまで来たのだわ、ここまで来れば、滑川まではあと三十分か四十分よ」  ユミは彼女のうしろにいるつもりの悦子に言った。悦子の返事がないし、それは地蔵ではなく、背の低いブッシュが雪をかぶったものだった。ユミは、滑川に向って降りているのではなく、家形ヒュッテを探しているのだと自分に言いきかせてまた歩き出した。しばらく歩くと、今度こそ地蔵がこっちを向いていた。あの地蔵に間違いなかった。 「家形ヒュッテを探しているのではなく、やはり私たち三人は滑川に向って下山していたのだわ」  ユミが地蔵に向ってそういうと、地蔵はげらげらと笑い出した。笑うと地蔵の身体に付いている雪がばらばらと落ちた。ユミはわれにかえった。地蔵の笑い声だけが妙に彼女の耳に残っていた。なにかに反響していたような気がした。彼女は懐中電灯を大きく廻した。霧が薄らいで来たので、|光《こう》|芒《ぼう》はずっと先まで届いた。右手の方になにか大きなものが見えた。  それは大きな岩であった。その岩の陰に入ると、西風はぴたりと止んだ。嘘のようにその付近が静かになり暖かかった。 「とうとう私は吹雪にも風にも負けないですんだのよ」  すると彼女のまわりから、いっせいに地蔵の笑い声が起った。ユミは懐中電灯をふりまわしてその声をおさえると、その不謹慎な雪の地蔵たちに言った。 「ほんのちょっと眠るうちだけ黙っていてね」  ユミは膝をかかえこむようにして眠りこんだ。  悦子は懐中電灯をつけたとたんにもみじを眼の前に見た。こんな寒い、こんな風の強い雪の原野になぜ、こんなに美しいもみじがあるのだろうかと思った。それを取ろうとした。取って帰らないと、ユミや千恵は悦子の話を信じないだろうと思った。手を伸ばすともみじは雪を落してくだけて散り、すぐその向うにまた前にも増して美しいもみじの枝が風に揺られていた。 (あのもみじの枝さえ取れば、私はもうなんの心配もないのだ)  悦子は頭の中でそんなことを考えていた。頭の芯が痛いなと思うとき、ふと彼女は、いま自分は吹雪の中で幻視におそわれているのだと思った。こんなことをしていてはいけない、どこかに逃げこまなければとあせり出すと、ぽかっと前にもみじが現われるのである。彼女もまた風を背にして歩いていた。無意識に風に背を向けていた。  懐中電灯の光の中に悦子は懸崖をとらえた。その懸崖からもみじの枝が垂れ下っていた。今度こそ取れそうなところにあった。一歩、二歩、三歩のところで風が止んだ。あれほど強かった風がぴたりと止んだ。そのわけは直ぐわかった。岩の陰に出たのだ。もみじは消えた。 「これで助かったわ、ここで一休みして、食事でもするうちに風は止むだろう、それから道を探せばいいのよ」  彼女はルックザックからチョコレートを出して食べた。砂を噛むような味だった。岩の陰に入ったので急に暖かになったような気がしたが、それはそのときだけで、すぐ寒さがやって来ることを彼女は考慮してはいなかった。とにかくしばらく休むことだ。彼女は眼をつぶった。彼女のすぐ近くにユミが同じような格好で眠っていることを悦子は知らなかった。  千恵は彷徨をつづけた。彼女は頭の中に描いた地図の中を歩き廻りながら家形ヒュッテを探していた。だが、彼女の身体は寒いのが嫌いだったから、彼女の考えと、彼女の足の方向は必ずしも一致しなかった。吹雪が止んで西風が強くなると、彼女の歩く方向は決ったようであった。結局、彼女もまた風に送られて岩の下に出たのである。三人は別々に行動していたが、風が三人を同じところに追いこんだのである。千恵は岩の陰に入って、寒さから解放されたとき、 「道はこの岩の下だわ」  と叫んだ。  彼女は豊富な山の経験をもっていた。疲労|困《こん》|憊《ばい》して|朦《もう》|朧《ろう》となった彼女の頭の中に、岩の下に道がある風景が思い浮んだ。  彼女は岩の下へ向って歩き出した。そこは、かなりの急傾斜面で、一面に草で覆われ、その上に雪が降りつもっていた。彼女は滑ってころんだ。起き上ってもすぐころんだ。体力の限界が来ていた。三度目に転んだとき彼女はふわっとしたものを感じた。そうだ。滑川温泉に入っているのだなと思った。  身体中がむずがゆかった。つぎつぎと浮き上って来る湯ばなが、彼女の身体にぴたりと吸いつくと、どうにもこらえ切れないようなかゆみを感ずるのである。手でこすっても落ちなかった。背中についたそれには手がとどかなかった。彼女はころげ廻った。そうすると幾分かゆみがとれた。湯に入っているのになぜ着物を着ているのだろうかと思った。彼女はウインドヤッケをはぎ取り、セーターを脱いだ。なにかすうッとした。眠りが彼女を誘った。  持田新介は彼の会社の三人の女性の遭難が確実になると、捜索本部を滑川温泉に置き、彼女等の歩いたと思われる道を捜した。三人が休んでいたのを見かけたという青年が現われた。神楽岩のあたりで、三人が食事を摂ったあとが発見された。山に入った場合千恵は食べた物の後始末はきちんとしていた。食べ散らかしておいたのは、よほど先を急いでいたのだと考えられた。持田新介は、捜索本部を高湯に移して、五色沼の付近を重点的に探した。当日の吹雪が非常に速くやって来たところから考えると、家形ヒュッテに逃げこもうとして遭難した可能性が強かった。遭難してから七日目に三人の遺体が発見された。  ユミと悦子は|海《え》|老《び》のように身体を丸くして死んでいた。二人の間隔は数メートルほど離れていた。悦子はチョコレートを食べた形跡があった。その二人から二十メートルばかり下に、千恵がウインドヤッケとセーターを脱ぎ捨てたまま仰向けに倒れていた。  すべての後始末が終ったあと、持田新介は地元の山岳会員とともに高湯から滑川温泉へ向った。捜索に協力した地元の人たちにお礼をいうためだった。霧の平の下の分岐路を通るとき持田新介は石の地蔵に眼を止めた。 「この地蔵は通る人を嘲笑しているような顔をしているな」  持田新介がひとりごとをいうと、 「十一月と言えば山は冬です。軽装で、しかも吹雪の中を歩けば誰だって遭難するさ、地蔵はそれを笑っているのでしょう」  地元の人が言った。皮肉とは聞えなかった。  その夜持田新介は手取り早く遭難記録をまとめた。東京へ帰れば、遭難報告書など書いている時間はなかった。 「結局この遭難の原因は山を軽視したことにあり、その責任の大部分はリーダーの負うべきものと思われるが、他の二人になんの落度もなかったと断言はできない。三人に途中で会った登山者の言によると、彼女等は、その地点に行きつくまで、一時間ないし、一時間半の時間を空費している。宿を八時半に出てから、神楽岩までの間に、どうして一時間ないし一時間半という貴重な時間をロスしたのか不明である。結局この時間の遅れが彼女等を死に追いこんだのである。しかし彼女等は最後まで立派に行動した。吹雪の中で道を迷っても彼女等はパーティーの結合を守っていた。リーダーにすべてを任せていたようである。そして家形ヒュッテまであと一キロメートル足らずのところまで来て、リーダーは二人を岩の陰に休ませて、道を探しに行く途中、力が尽き果てて倒れ、そして二人は、帰らぬリーダーを待ちながら永遠の眠りについたのである。彼女等が二度と覚めることのない眠りについたころは、さすがの風も衰え、吹雪は去り、満天に星が輝いていた。彼女等はその星に見守られながら、あの世に旅立ったのである」  持田新介は遭難報告を書き終って、風呂場へ降りて行った。風呂場へ行く前にもし帳場が起きていたら東京へ電話をかけようと思って玄関の方へ廻った。帳場はもうしまっていた。帳場の前の台の上にビール瓶にもみじが一枝さしてあった。持田は思わず手を出した。 「なあんだ造花のもみじか」  彼は造花のもみじという言葉がおかしいので苦笑した。人造のもみじは比較的よくできていた。光線の具合だと、ほんものと見間違えるほどよくできていた。彼は風呂場へ降りて行った。誰もいなかった。彼は湯につかりながら、今度の遭難事件を考えた。出発点で道草を食ったその道草はなんだろうかと考えた。宿の人に聞くと、|微《ぬ》|温《る》|湯《ゆ》に行くと行って八時半に宿を出たというのだから、八時半の出発時刻には間違いないのだ。 「いまから考えたところで、どうなるものでもなし……」  彼はつぶやいた。湯の中に湯ばなが浮いてそれが対流にあやつられながらゆっくり動いていた。その一つが持田の股間を狙っているようだった。彼は身を引いた。それまで静かにしていた湯ばながいっせいに動き出して、それらのすべてが、彼に向っておしよせて来そうに見えた。  彼は大きな音を立てて湯の中から立上ると、さっさと身体を拭いて彼の部屋へ引きかえして行った。その夜も星空だった。     月下美人  青い海と緑の海とが交互に見えた。青い海が見えるときは、飛行機が島から離れたときで、緑の海が見えるときは飛行機が島の周辺をかすめて飛んでいるときであった。緑の海の色が、緑青色ほどに濃く見えたとき、飛行機は大きく旋回した。どうやら着陸の態勢に入ったようであった。  緑の海を機上から見たとき彼は三十二年前の昭和十四年にはじめてこの沖縄を訪問したときのことを思い出した。あのときも、船が島に近づくと、青い海が緑に変った。彼はその緑の海の中に多くの夢を抱きながら、やがて水平線上に見え出した、大きな鉄塔と、その鉄塔が立っている丘に眼をやったものであった。  飛行機は滑走路に降り立った。窓から黒い翼の軍用機が今にも飛び立ちそうに並んでいるのが見えた。やがて飛行機は停止して乗客たちはタラップを降りて行った。  彼は白い飛行場の土を踏み、びっくりするほど暖かい空気に触れたとき、三度沖縄にやって来ることができたのを喜んだ。それは久しぶりで故郷の土を踏んだ思いと似ていた。  沖縄新聞の玉置義雄と琉球ラジオの|真知城《まちぐすく》玄男が肩を並べて彼を迎えに来ていた。 「先生は少しおふとりになったようですね」  と玉置が言った。 「あなたもやはり」  小笠原|喬《たかし》は玉置に答えながら、真知城を見た。玉置はやや肥っていたが、真知城は十二年前に会ったときとほとんど変ってはいなかった。玉置は文化局長に、真知城は総務局長に、それぞれ昇進していた。 「どうです、こちらは暖かいでしょう」  玉置が言った。 「羽田を出るときは摂氏六度、|那《な》|覇《は》は摂氏二十二度、冬から夏にいきなり飛びこんだようなものだ」  小笠原はそう答えながら、二時間余りで東京と那覇を結びつける飛行機の旅は、確かに便利ではあるが、幾日もかけてやって来て上陸するときの喜びに比較すると、あまりにも|呆《あっ》|気《け》ないものだと思った。 「初めて|此《こ》|処《こ》に来たのが、昭和十四年、次が昭和三十四年、そして今年は四十六年……」  小笠原は自動車に乗りこんでから、三回の経験を回顧するように言った。 「そして、やはり第一回目の昭和十四年のときのことが、先生にはもっとも思い出深いでしょうね」  玉置が言った。 「それは、どこへ行ったにしても、一番最初の印象が強烈に残るものでしょうね」 「そして、そこに特に印象づけるものがあったとすれば尚でしょう。そうそう、この前、お出でになったとき月下美人の話を聞きました。月下美人のことはまだ覚えておりますか」  真知城が言った。 「|勿《もち》|論《ろん》忘れてはいない」  小笠原はそう答えたとき、なにか、自分の弱点を真知城に指摘されたような気がした。沖縄新聞と琉球ラジオがスポンサーになって主催する民俗学会が那覇で開かれると聞いたとき、彼が真先に参加を申し込んだのは、民俗学会で発表すべき彼の論文に自信を持っていたためでも、その論文が沖縄で発表するのにふさわしいと考えたからでもなかった。彼は沖縄へ行きたかったからである。その行きたいと思う心の底には、いま真知城が言ったように、三十二年前の月下美人の思い出があった。そんな以前のことがなにかの折に繰り返して思い出されること自体がたいへん青臭いことに思われるのだが、彼を今度の旅行に|牽《ひ》きつけたもっとも大きな原因の一つが、それだということを|否《いな》むことはできなかった。しかし彼は、そのことについてことさら語ろうとはしなかった。 「月下美人の名はかなしいさんでしたね」  玉置が訊いた。 「そうだ。かなしいという名だった」 「それで、姓を忘れてしまったというわけでしたね」 「忘れたというわけではない、初めっから知らなかったのだ」  小笠原はもの憂げに言った。そんなことを、着くそうそう、二人はなぜ問題にするのだろうか。 「実は、二人で、もう一度その月下美人のかなしいさんの行方を探してみようとさっき相談したところなんです。世の中もようやく落ちついて来ましたから、この前よりもかえって探しやすいのではないかと思うんです」  真知城が言った。  この前というと昭和三十四年のことなのだ。二人がそのときのことを未だに覚えていてくれたことが、小笠原には嬉しかった。 「しかし、いまさら、そんなことをしてもなんにもなりませんよ」 「そうでしょうか、先生の御滞在中になんとかしようと思っているのですが。ところで、先生は民俗学会が終ったら、すぐ八重山へ行く予定だそうですが、なにか向うで準備して置くことがございましたら御遠慮なくどうぞ」  玉置が言った。 「たいした目的はないさ。石垣島へ行くのは一種の郷愁のようなものだ。三十二年前と今とどれだけ違っているか見たいだけだ」  自動車は米軍用地に挟まれた|陽《かげ》|炎《ろう》の立つ道を那覇に向って走っていた。三月になったばかりだというのに、枯草よりも若草が目立って見えた。小笠原はきのうの午後遅く東京では雪がちらついたことを思い出していた。  突然前が開けて、那覇港が見えた。十二年前に来たときと同じように、港の中に発電船が浮んでいた。その前を通り過ぎて、今来た丘の方をふりかえったとき、十二年前に、丁度今と同じように、このあたりから、港の向うの丘を眺めて、島の白い紋章が消えてしまったのを見て、淋しい気持になったことを思い出した。      1  彼が、白い島の紋章を見たのは昭和十四年の夏のことである。当時大学生だった彼は、夏期休暇を利用して、沖縄を訪れた。鹿児島から島伝いの連絡船に乗って、沖縄本島にやって来たのは東京を|発《た》って七日目であった。  船はほぼ満員であった。那覇が見えるというので、乗客はデッキに出た。  島の紋章は船が那覇港に向って針路を変えたときから見えていた。白い四角な紋章は、大鉄塔が立っている緑の丘の中腹に一定の間隔を置いて十数個並んでいて、船の動揺と共にきらきらと輝いた。その島の玄関ともいうべき港を見おろす緑の丘の中腹に、なんのためにその白い紋章があるのか彼にはわからなかった。古城の跡かもしれないと思った。そのつもりで見れば、港を見おろすその丘は城として格好の場所であった。  船は港の外で停止し、水先案内が乗りこんで来た。彼は港の方にしばらく眼をやってから、再び、白い紋章に眼をやった。紋章は|亀《きっ》|甲《こう》型をしていた。デッキで、彼と同じように、眼の前に迫って見えるその亀甲型のものを指さして話している一団があった。その中の一人がかなり沖縄のことにくわしい様子であった。 「墓地だよ、沖縄では墓地を非常に大事にする習慣がある。あの墓地の中には、先祖代々の骨が立派な壺に収められ、並べて置いてあるのだ。つまりあの墓地は、一族の納骨堂のようなものだ」  彼はその話を聞いて、改めてそれを見直した。墓という暗さはどこにも感じられなかった。石碑や石塔らしきものはなにも見えず、その三十坪ほどもある亀甲型の石の建造物は、海に向って開いた巨大な花のように輝いていた。彼は、やはり、それは墓ではなく島の紋章として心の中にしまって置きたいと思った。  那覇港は港らしくない港であった。河口を港にしたようでもあり、狭い入江のようにも見えた。大きな船が幾隻も|碇《てい》|泊《はく》できるようなところではなかった。彼は港に入ってもまだ緑色をしている海を見たり、陸地を見たりしながら、タラップが降ろされるのを待っていた。港の前には倉庫が並んでいた。  暑気と湿気に包まれて上陸した彼に、静かな重い声がかかった。 「小笠原さんではないでしょうか」 「はい」  と答えてふり返ると、黒い顔の小柄な男が|面《おも》|映《はゆ》そうな顔でしきりに眼をぱちぱちさせながら立っていた。それが|豊城《とよぐすく》長善であった。  伯父の手紙が一足先に着いていたのだなと思った。彼はほっとした。 「藤島先生の手紙には、旅館を探して置くようにと書いてありましたが、町の中は暑いし、旅館というのも窮屈ですから、私の家に泊っていただくことにしました」  豊城はそういいながら、小笠原の荷物に手を出した。藤島先生というのは小笠原の伯父で、豊城を大学時代に教えたことがあった。  二人は、暑い日盛りの道を歩いた。豊城は港を見おろす丘の上にある気象台の官舎に住んでいた。彼は気象台に勤め、彼の妻は小学校の先生をしていた。豊城夫妻の間には子供がないから官舎はがらんとしていた。窓はすべて明け放されていた。沖縄には泥棒がいないから、昼も夜も明け放して置くのだという豊城のさりげないひとことを海から吹いて来る涼風がさらって行った。 「この丘の中腹に墓があるでしょう」  と小笠原は、豊城の家に落ちついて、サイダーを一杯飲んだところで言った。 「港からよく見えるお墓のことですか」 「海の彼方からよく見えました。まず大鉄塔が見え、そして島の紋章が見えた」  小笠原は、その墓をこれから見に行きたいと言った。上陸早々、なにを置いても、まず島の紋章として眼に映った墓を間近に見たいと言う小笠原に豊城は当惑したようだったが、小笠原はそんなことはいっさいおかまいなしにどうしても真先にその墓を見たいのだと言った。大学生の暑中休暇の旅行にしては無鉄砲過ぎるほどの遠い旅路の上陸第一歩で、彼はいささか|昂《こう》|奮《ふん》していたようであった。  豊城は|草《くさ》|叢《むら》の中の小道を先に立って、墓の方へ降りて行った。このあたりには、時々毒蛇のハブが出ると豊城が言ったが、小笠原には実感として迫って来なかった。  墓は石で|覆《おお》われ入口は固く閉じられていた。豊城は、洗骨というこの島の習慣について説明した。遺骸はいったんはこの墓の中に入れられ、完全に白骨化されたころ墓が開けられ、骨は水で|浄《きよ》められてから、立派な壺に納められて、墓の奥に安置されるという説明を小笠原は遠い古代の儀式を見るような眼をして聞いていた。その大きな墓の前はちょっとした広場になっていた。  その広場を囲むように|仏《ぶっ》|桑《そう》|華《げ》の垣があった。そして、広場のほぼ中ほどに、サボテンに似た木が一株植えられてあった。一本の雑草もないように手入れの行き届いたその広場に墓守のように静まりかえっているその珍しい植物に小笠原は眼を留めた。その葉はサボテンに非常に似ていたが、たくましい茎がすいすいと伸びているあたりを見ると、サボテンとは違った植物に見えた。背丈は一メートルほどあった。葉は|瑞《みず》|々《みず》しい緑色をしていたが花は咲いていなかった。 「なんですか、これ」  小笠原は豊城に訊いた。上陸して二度目に訊ねた植物の名前だった。豊城の宿舎の垣根には仏桑華が咲いていた。その真赤なびっくりするほど美しい花が沖縄ではごくありふれた花で、|何《ど》|処《こ》へ行っても、ほとんど一年を通して見ることができるのだと説明されたとき、小笠原はやはり南の国に来たのだと思った。  小笠原はサボテンに似た葉をつけている木の傍にしゃがみこんだ。 「月下美人という花の木です」  月の下の美人と書くのだと説明されて、その字は分ったが、その異様な植物の名前に彼はいささか戸惑ったような顔をした。 「非常に美しい白い花が月の出と共に咲き、数時間咲くとしぼんで、その花はそれで終りなのです。花が咲くときにすばらしい芳香を放ちます。この花が好きな人は、寄り集って酒を酌み交わしながら、この花の開くのを待つのです。月下美人という名はこのあたりから出たのでしょう。おそらく、この墓に入った人は生前月下美人が好きだったのでしょう。しかし、この丘は風当りが強いから、木は育っても花を咲かせることはむずかしいでしょうね」  豊城はそう言いながら、その緑の葉の厚みでも計るように指でつまんだ。  小笠原は豊城に誘われたように、その薄緑色をした葉をつまんでみた。やわらかいすべすべした感触であった。 「花はいつ頃咲くのですか」 「八月になれば咲きます。あなたがお帰りのころには、そろそろ咲きます。沖縄で見たすべてのもののうちで、月下美人は一番美しかったときっとあなたはおっしゃるでしょう」 「ぜひ見たいものですね」 「見られるように心掛けておきます。でも小笠原さんは国文学を専攻されているから、沖縄の古典に触れるようなところに案内してやってくれと藤島先生の手紙には書いてありましたが、あなたは意外に植物に興味があるようですね」  おれはなんにだって興味があるんだと小笠原は言いたかった。伯父が、どう考えていようが、おれは遊びに来たのだ。なんの目的もなく見て歩けばそれでいいのだ。小笠原はそう言いたかった。  次の日、豊城は小笠原を連れて首里へ行った。|守《しゅ》|礼《れい》|之《の》|邦《くに》と書かれた門をくぐって首里城の前に立った。それは城ではなく、丘の上に建てられた殿堂であった。柱の朱の色も屋根瓦の色もその年月を物語るように色あせた落ちついた色をしていた。城全体が|靄《もや》にでも包まれているように見えた。頭上から照りつける暑熱と、べとつくような湿気のために、じっとしていても限りなく汗が湧き出て来た。そのような条件下にいながら首里城を見つめていると心のなごむのを覚えた。それは、小笠原の心を、この地が琉球と言われていたころの歴史に大きく傾けて行ったようであった。  豊城は得意になってべらべらしゃべりまくるという男ではなかった。豊城は小笠原と一晩話しただけで、小笠原が沖縄に対してかなり勉強をして来たものと見たようであった。そうではない、東京の古本屋で買った沖縄の歴史を書いた本と民俗学の本を汽車と船の中で読んだだけだと小笠原が弁解しても、豊城は、その本の著者の名前を聞いただけで、もう私が話すことはなんにもありませんと言うほど謙虚であった。その豊城も、小笠原が質問することにならなんでも答えてくれた。  首里城を見学したあとで小笠原は城下町を歩いてみたいと豊城に言った。首里に王城があったのだから、このあたりには士族たちの屋敷があったに違いない、そのあたりを通ってみたいと言った。豊城はその大きな眼を見開いて、小笠原がほんとうに求めているものはなんであるかを探るように見ていたが、すぐ視線を地上に落して、 「期待するほどのところはありませんよ」  と言った。だが、豊城が小笠原を連れて歩いた坂の多い城下町は、期待以上のものがあった。石畳を敷きつめた道の両側に家の軒に届くほどもあるような高い石垣があり、その石垣の内側には、カシの葉を一廻り大きくしたような葉をつけた|福《ふく》|木《ぎ》が、道の半ばまで枝をさし出していた。日ざしは福木の枝にさえぎられて、石畳までは届かなかった。人はほとんど通らず、石畳を踏む豊城と小笠原の靴の音が石垣に反響していた。石畳の道には坂を上下する道と、首里の丘を|捲《ま》くように走る道とがあった。 「一日歩いていても飽きることはないだろう」  と小笠原は言った。そこにはいい物がいっぱいあった。石垣にからんでいる|蔓《つる》|草《くさ》一つを取っても、たくまぬ美しさがあったし、泉の上に気根をたれているガジュマル(|榕《よう》|樹《じゅ》)の大木にも情緒があった。  石畳には、わざと日の光のこぼれる穴でも作ったように日が洩れていた。そのこぼれた明るさを拾うように歩いて来る女性があった。軽快な身のこなし方にしとやかさがあった。和服を着た若い女性であった。彼女は、こちらから行く二人に気がついたのかやや|俯《うつむ》き加減に通り過ぎようとしたが、豊城を見ると、福木から洩れる明るさの中でパナマの草履を揃えて立止った。豊城は彼女に挨拶を返しながら彼女の父親のことを訊ねた。月末に帰って来る予定だと彼女は答えていた。  彼女が顔を上げるとびっくりするほど美しく見えた。黒曜石のように輝く大きな眼が彼を牽きつけた。やや広い額とふくよかな頬と高い鼻は、彼女の|項《うなじ》にかけての肌の白さによく調和していた。  彼は胸を|衝《つ》かれた思いがした。これほど美しい|女《ひと》を、こんなに近くで見たことがなかった彼は、彼女が豊城と言葉を交わして去って行くまで、完全に小笠原の存在を無視していたことを残念に思っていた。 「美しい|女《ひと》ですね、なんという名前ですか」 「かなしいさんという人です。良家の女性に多い名前ですよ。古語の|愛《かな》しいをそのまま取っているのです」  豊城はそれ以上のことは言わなかったし、小笠原も、それ以上彼女のことを詮索することはできなかった。 「なぜ沖縄の女性は琉装をしないのですか」  と小笠原は豊城に訊いた。かなしいが、もし琉装をしてこの道を歩いたらもっと美しく見えるだろうと思ったからである。彼の琉装の知識は、本や絵葉書で見たものであって、この島に来てから、まだ一度も若い女性の琉装を見たことはなかった。 「ずっと以前から良家の子女は琉装しませんよ、辻町の女たちが琉装をしているからでしょうね、でも田舎へ行くと老人が今でも琉装しているのに出会うことがあります」  辻町というのは那覇の遊廓のことであった。      2  彼は豊城の家を根城にして歩き廻った。多くはバスを利用し、バスのないところは歩いた。彼はほこりと汗にまみれながら、行きついたところで宿を求めた。彼は沖縄本島の北部の|今《な》|帰《き》|仁《じん》城(北山城)を見たかえりに名護に出た。通りかかった小学校の校庭で遊んでいる児童の一人が、首に「方言」と大書した札をかけているのを認めて、近くにいた先生にわけを聞くと、最近他県から赴任して来たばかりの県庁の学務部長が沖縄県の方言をなくすための方策の一つとして、小学校に方言札を強制しているということであった。方言を使ったことが分ると、その少年には首に方言札が掛けられた。少年は、彼の友人が方言を話すのを発見するまではそれを首に掛けていなければならなかった。少年にはその屈辱に耐えることはできなかった。少年は懸命になって、方言を話している友人を探し、どうしても見つからないと、いきなり他人の足を踏んだ。踏まれた者は思わず、『あがっ!』と声を上げた。『あがっ!』というのは方言で、『あいたっ!』と同意語であった。 「なにもそれまでして、方言撲滅策を取らないでもいいでしょうに。方言と言っても沖縄の方言の多くは古い大和言葉のなまったものであり、言わば日本語の生きた文化財のようなものだ。ある学者は沖縄県は言葉のふるさとだと言っているくらいだ……」  小笠原は、机の上だけで仕事をやろうとする県庁の役人の|傲《ごう》|慢《まん》な顔を思い出しながら言った。  小笠原はその夜名護の宿で、『方言札について』と題して、原稿用紙四枚ほどの原稿を書いて沖縄の有力地方紙宛に送った。彼の氏名と大学名もはっきり書いた。私は国文学を専攻する大学生であるという書き出しで方言札の強制を痛烈に攻撃したものであった。その投稿を新聞社が採用してくれてもくれなくてもよかった。彼は、方言札を首に下げて校庭を走っている生徒の姿を思い出すと怒りがこみ上げてならなかった。原稿を投函すると幾分か気が晴れた。  彼は北部から南部の|糸《いと》|満《まん》に行った。どこへ行っても、美しい花が咲いており、城と伝説と歌があった。那覇に帰って来ると豊城が新聞の切り抜きを持って小笠原を待っていた。  豊城は面と向ってよく書いてくれたとは言わなかったが、豊城の言葉のはしばしに、小笠原の投書に対して共鳴する多くの県民の姿が浮んでいた。その夜、豊城は小笠原を那覇の料亭に招待した。そこで数人の男に紹介された。|何《いず》れも豊城の知人で、|琉歌《りゅうか》(琉球の歌)の研究のグループであった。  小笠原は、料亭で初めて琉球舞踊を見た。踊の女性の琉装は|絢《けん》|爛《らん》たるものであったが踊りそのものは単調に過ぎた。むしろ彼は|金屏風《きんびょうぶ》の蔭から流れ出て来る|蛇《じゃ》|皮《び》|線《せん》の音と男の歌う歌に打たれた。哀調の中に|強靱《きょうじん》な生命力を|謳《おう》|歌《か》するようなその歌は、彼を牽きつけて放さなかった。  彼は|貪《どん》|婪《らん》だった。限られた暑中休暇をフルに活用しようと考えた彼は一通り沖縄本島を見て廻ると、宮古島、石垣島と足を伸ばして行った。行く先々で豊城の紹介状がものを言った。彼は多くのものを見た。|薩《さつ》|摩《ま》の圧政の遺蹟として宮古島に残っている人頭税石も見た。子供をその石の傍に立たせて僅か百二十五センチしかないその石より一センチでも背丈が伸びると、その子には一人前としての人頭税が課せられたという|苛歛誅求《かれんちゅうきゅう》の歴史に彼は眉をひそめ、その人頭税石の直ぐ近くに咲いている花の数々に眼を見張った。彼はほぼ一カ月ほど島を巡り歩いてから再び、那覇の土を踏んだ。若い彼の肉体もかなり疲労していた。彼は豊城の家で|蚊《か》|帳《や》を吊ったままで丸一日眠った。  西日がさしこんで来てそれがまぶしく、眼を覚ますと、彼の枕元に豊城が坐っていた。 「月下美人を見に行きませんか」  豊城が言った。豊城は花の名を言ったのだが、小笠原は、首里の石畳の道で見掛けた、かなしいのことを直ぐ思い浮べた。月下美人とかなしいとはなんのかかわりもなかったが、彼の頭の中では一つのものになっていた。彼は、あのとき以来、時々かなしいのことを思い出した。かなしいを思うときは、不思議にまだ見たこともない月下美人の花を思い出すのであった。 「首里の旧家の庭にある月下美人が今宵あたり、一度に五輪ほど咲く予定なんです。ひょっとすると十輪全部が一度に開花するかもしれません」 「ぼくなぞ伺って失礼ではないでしょうか」 「すでに連絡してあります。あなたなら誰だって喜んで招待しますよ」  豊城は含み笑いをした。ときどき豊城はそのような笑いをすることがあった。馴れるまでは、気になったが、今の小笠原は、それが豊城にもっともふさわしい表現の一つだと考えていた。  豊城と小笠原は日暮れごろ丘を降りて那覇で食事をしてから、タクシーに乗った。沖縄では食事をしてから酒宴に出掛けるのが習慣になっているという豊城の話も耳新しかった。自動車を降りて石畳の道を歩き出したときから小笠原は胸が鳴り出した。或いは、これから行く家がかなしいの家ではないかと考えたからである。胸の動悸が豊城に気づかれることを彼は内心おそれていた。  福木の繁っている石畳の道は既に薄暗く、石垣に囲まれた家の門の前に立ったときには表札の字が読めないほどの暗さになっていた。  庭の方から多勢の声がした。その中から、彼は若い女性の声を探し出した。その声がかなしいの声でなければならないような気がした。 「かなしいさんの家でしょう」  彼はひとりごとのように言った。 「御存じでしたか、いや油断はできませんね」  豊城は大きな声で笑った。既に何等かの方法で小笠原とかなしいとが連絡をつけていたのだと豊城は誤解しているようであった。そうではないと否定しようと思っていると、庭の木戸を開けて、その家の主人が現われた。そのうしろにかなしいが立っていた。豊城が小笠原をその家の主人に紹介した。主人は、姓を言ったようだったがひかえ目な声だったのでよく分らなかった。二人はそのまま庭に通されて、庭に敷いてある|筵《むしろ》の上に坐った。数人の客が来て既に|泡《あわ》|盛《もり》の杯を上げていた。筵の中央に月下美人の大きな鉢が置いてあった。花は白い|蕾《つぼみ》を固く閉じたままであった。  彼は花を数えた。合計十個あった。その花が一度に咲いたら美しいだろうと思った。母屋から|沓《くつ》|脱《ぬ》ぎ石を伝わって庭まで筵が敷きつめてあった。かなしいは、朱塗りの琉球膳を捧げるように持って母屋の方から降りて来た。白地に紫の朝顔の花を染め抜いた|絽《ろ》ちりめんの|単衣《ひ と え》を着て胸高に博多帯をしめたかなしいの姿が庭園灯の中に浮き出して見えた。  しばらく二人は口をつぐんでいたが、 「小笠原さんが新聞に書かれた記事を読ませていただきました」  とかなしいが小さな声で言ったひとことが二人の境を取り除いた。自由に話ができるようになってから、彼女は小笠原という姓が小笠原諸島となにか関係があるのかと訊いた。 「さあ、信州松本の城主小笠原貞頼という人が小笠原諸島を発見したのだそうですが、ぼくの小笠原は出身地の青森県の十和田地方にある小笠原姓なんです」 「十和田湖のある十和田?」  と彼女は訊いた。彼は十和田湖がいかに美しい湖であるかを話してやった。 「冬になって零下二十度になっても、十和田湖は凍らないのです。あまり美しいので、神様が冬の間も氷を張らせるのを遠慮したのだという伝説があります」  話は、あちこちに飛んで、やがて眼の前の月下美人のことになると、小笠原は訊き手に廻った。 「もしかすると今夜中に十輪が全部咲くかもしれませんわ、そのように育てることはとてもむずかしいことですし、そういうことはめったにないことですわ」  とかなしいは言った。 「でも一度開いただけで、明日はもう見られないなんて淋しいじゃないですか」 「そうね、でもそれが月下美人の宿命ですから」  宿命という言葉が強く響いた。彼女は膝の上に眼を落した。小笠原は酒が飲めないから、杯は置いたままだった。彼女は彼に酒をすすめようとはしなかった。かなしいの母や、隣家の婦人が二、三人加わってからは、あとはただ月が出て開花を待つばかりであった。女たちのグループと、男たちのグループ、そして、小笠原とかなしいの組との三つに座は分れていた。  |蒼《あお》|白《じろ》いほどに澄んだ月が福木の上に上ると、座に連なる人たちは急に言葉を失ったように静かになった。開花の一瞬を見守っているようであった。いつか庭園灯は消されていた。 「開花するとき音が聞えることがあるんですって」  かなしいが彼の耳元で|囁《ささや》いた。その開花の音より、かなしいの囁きの方が彼にとっては嬉しかった。耳がくすぐったくほてっていた。  開花の音は聞くことができなかったが、月が昇るにつれて、十個の花はいっせいに動き出したようであった。風もないのに、微風でもあるかのようにごく僅かながら揺れ動くのは、揺れるのではなく、花がふくらみ出したからであった。それは高速度カメラによって撮影された開花の瞬間を見るようであった。花が開き出してから彼は、その花が、菊の大輪のようであり、|芍薬《しゃくやく》の花のようであり、|牡《ぼ》|丹《たん》の花のようだとも思った。白菊の大輪の花弁より幅が広く、そして長かった。白い羽毛でくるんだ|手《て》|毬《まり》が次第に膨張して行くように、花は形を整え、やがて白い|孔雀《くじゃく》が尾を拡げたように放射状に花弁の一枚一枚が月に向ってその羽根を拡げて行くと、人々の間から感嘆の溜息が洩れた。 「十の花を一度につけて、十の花が一度に咲いたぞ、これは珍しいことだ」  と花を|讃《たた》える人がいた。次々に花を讃え、その花を作った主人を|讃《ほ》めた。芳香が座に流れた。|木《もく》|犀《せい》のように甘い|馨《かお》りでもなく、|百《ゆ》|合《り》のような強烈さでもなかった。その馨りは小笠原にとって初めてのものであった。彼はその芳香をたたえるべき形容詞を考えた。高貴な馨り、|馥《ふく》|郁《いく》たる馨り、夢のような馨り、月光の馨り……すべてその花の香気を表現するものではなかった。 「そうだ、これこそかなしい馨りだ」  彼は低い声で言った。 「どのようにかなしい馨り」 「かなしいさんのようにかなしい馨りです」 「まあ……」  と彼女は言ってから、 「かなしいなんて名前、おかしいとは思いませんか」  と訊いた。 「古語の|愛《かな》しいはただ|愛《あい》らしいというだけの意味ではないでしょう、もっともっと、深い意味がある。かなしいという音もいい……」 「私の人生は悲しみのかなしいになるかもしれませんわ……でも私はかなしいという名前がほんとうに好きなんです」  月下美人の花冠は十個とも揃って開いた。月は中天に近づきつつあった。  男たちが二人並んで蛇皮線を弾き出した。この家の主人が正坐して琉歌を歌った。 「妻が、遠く離れている夫と夢の中で会っているうちに夢が|醒《さ》めるという歌です。月や|西《いり》|下《さ》がて冬の|夜半《やふわん》というのは、月が西に傾いてひとりでいる淋しさを歌ったものです。沖縄では東をあがり、西をいりと言います。これは古典に属する琉歌ですわ」  かなしいは、彼の耳元でそのように説明してくれた。歌は切々と彼の胸を打った。 「あなたは|何《い》|時《つ》お帰りになるの」  かなしいが訊いた。 「今週の土曜日です。あと四日でお別れです」 「その四日間になにを御覧になるの」 「首里の|桃《とう》|原《ばる》農園に行ってみたいと思っております」 「あそこのクロトンはすばらしいわ、私がご案内しましょう。そう明後日がいいわ、あとで時間は豊城さんに電話で申し上げます」 「あなたが案内して下さるんですか、それはすばらしい。一生の思い出になる」  ほんとうでしょうね、と彼は何度も念を押した。  歌声が一段と高くなり、それが、なにか悲しみを強調したような歌い方になったところではたと止った。男たちや女たちが一人ずつ主人夫妻に挨拶して席を立った。月下美人が咲いてから三時間は経っていた。花の生命が四時間だとすればあと一時間はその麗姿を見せている筈であった。彼は豊城に誘われて名残り惜し気に座を立った。かなしいが柴の戸まで送って来た。 「月下美人はしぼむところを見るものではない、花の盛りのうちに席を立つのが月下美人の|宴《うたげ》の作法になっています」  豊城は歩きながらそのように説明してくれた。  小笠原は、かなしいからの電話を待った。約束の日の朝豊城のところにかなしいから電話が掛って来た。 「狭い土地ですからなにかと他人の眼があります。彼女は十八だし、いつまでも女学生の気分ではおられないでしょう。……でもね小笠原さん、ことわったのは自分の意志ではないことだけは伝えて下さいと、かなしいさんは泣きそうな声で言ってました」  豊城はすまなそうな顔で、そう言ったあとで、 「桃原農園なら、私が案内してさし上げましょう」  と言うのを、今度は小笠原がことわって、翌日、ひとりで、そこへでかけて行った。かなしいとはもう二度と会えないだろうと思っていた。      3  昭和三十四年秋、小笠原喬は二十年ぶりで那覇の土を踏んだ。彼は二十年の歳月における沖縄の|変《へん》|貌《ぼう》を見て声をのんだ。那覇港を見おろす丘の中腹にあった島の紋章は消えていた。丘そのものが形を変えていた。二十年前の那覇市はそこにはなく、新しい那覇が出現していた。二十年前に|田圃《た ん ぼ》だったところに町が出来たり、町だったところが軍用地に変っていたりした。コンクリートの自動車道路が島の中を縦横に走っているのに、一歩裏通りに入ると狭いほこりの道に自動車がひしめいていた。  彼は大学教授として沖縄新聞と琉球ラジオの共同主催による講演会に招かれて来たのであった。彼との連絡に玉置義雄と真知城玄男が当った。 「先生自身が御覧になりたいところがありましたら、何処なりと御案内いたします」  真知城が言った。沖縄全体を見たいのだと小笠原は言いたかったが、それは無理なことは分っていたから、彼は一般的な観光コースを廻って見る他に|中城 城址《なかぐすくじょうし》、|今《な》|帰《き》|仁《じん》城、南山城、|勝《かつ》|連《れん》城など二十年前に見た城址に行ってみたいと言った。 「それから、一つお願いがあるのだが、真先に私を沖縄気象台へ案内していただけませんか」  そう頼む以上、彼はその理由を話さねばならなかった。彼は自動車の中で、二十年前に来たとき気象台の豊城長善に厄介になったことを話した。今度沖縄に来るに先だって、沖縄気象台に手紙で問い合わせたところ、戦争中に死んだということであったが、できたら、その時の事情を詳しく知りたいと話した。戦前気象台があったところは軍用地になり、気象台は、三キロほど北の天久という丘の上にあった。前の気象台は那覇港を見おろす丘の上にあったが、新しい気象台は|泊《とまり》港を見おろす丘の上にあった。  会議室のようなところに通されてしばらく待っていると、三十五、六歳の男が入って来て玉置と真知城に会釈した。知り合いのようであった。男は小笠原と名刺を交換した。 「豊城さんが戦死される直前まで私は傍におりました」  北河はそう前置きして当時のことを話し出した。  昭和十九年十月十日の空襲で、那覇と首里は|灰《かい》|燼《じん》に帰した。沖縄気象台は三カ所に分散し、地下壕で仕事をするような態勢を整えた。昭和二十年四月一日に米軍が上陸を開始してからは、一日一日が命を刻むような毎日であった。丘を見おろす気象台の九十三メートルの大鉄塔は五月三日の艦砲射撃によって倒壊した。三十三名の職員は五月十日に|小《お》|禄《ろく》飛行場の地下壕庁舎に移った。五月十七日には福岡気象台との間の通信が途絶し、五月二十一日になって地下壕の庁舎は米軍の砲撃によって崩壊した。彼等は傷ついた職員を連れて南へ向って退避しなければならなかった。 「終戦の年は梅雨が一カ月も早く来ました。いつもなら五月になって梅雨になるのに、四月に入ってから連日の雨でした。その雨は六月になっても止まず、泥沼の中をわれわれは砲弾に追われて、南へ南へと移動を続け、六月三日に糸満町の国吉部落まで来ました。そしてそこが|終焉《しゅうえん》の地となりました」  北河は声をのんだ。 「砲弾がわれわれの周辺で炸裂し、同僚は次々と死んで行きました。豊城さんは最後まで、革のケースに入った水銀気圧計を背負っていました。近くで砲弾が炸裂して、豊城さんが倒れました。きらきらと輝く水銀の粒子をかぶって倒れている豊城さんを見たのが最後でした。私は次の砲弾で重傷を受け、気がついた時には、敵の野戦病院の中でした。結局生き残ったのは三十三名中、私一人でした」  北河はそこで話を結んだ。  小笠原は豊城の家族か親戚のことを知っている者はないかどうかを訊ねた。 「奥さんは疎開児童と共に引揚船に乗り、敵の攻撃を受けて船は撃沈され、そのまま消息はありません。現在豊城さんの親戚は気象台にはおりません」  小笠原は北河に厚く礼を言って天久の丘を降りた。二十年前の那覇のことを思い出すと、涙が出そうだった。小笠原は自動車の中ではものを言わなかった。豊城の顔と対照的にかなしいの顔が浮んだ。彼女はいったいどうなったのであろうか。彼は、そのことを考えていた。 「まだ会食が始まるまでには時間があります。何処へ参りましょうか」 「首里へ行って下さい」  小笠原は反射的に答えた。そうだ、彼女は首里にいたのだ。  首里も昔の面影はなかった。首里城の跡には、そこに首里城があった事実を故意に|隠《いん》|蔽《ぺい》するかのように大学が建てられていた。石垣の一部が残っているだけであった。砲弾で首里の丘は吹き飛んだと聞いていたが、丘だけは残っていた。焼けたあとに建てられた家には、二十年前と同じように、やはり赤い瓦が載っていた。  その夜の会食は主催者側と講演者側との顔合わせの会であった。豚肉を多く使った沖縄料理が出されたあとで、琉球舞踊があった。彼は、琉球舞踊は東京で何度か見ていた。映画やテレビで見たこともあった。二十年前にはじめてこの地で見た時ほどの感激はなかった。彼は音曲を聞きながら、豊城とかなしいのことを考えていた。  玉置と真知城が小笠原を二次会に誘った。 「この辺は桜坂と言って飲み屋の多いところです」  真知城が説明した。玉置が一足先に十和田と書いた看板のかかっている店をくぐった。小料理屋であった。三人は小座敷に上った。 「ここの|女将《お か み》が、小笠原先生の講演のことを新聞で知って、来たら是非連れて来てくれというんです」  玉置が小笠原に言った。 「おかみが先生を知っているというのかね」  真知城が訊いた。 「そうではないらしい。しかしここのおかみは|濫《らん》|読《どく》|癖《へき》があるから、小笠原先生の書いたものを案外読んでいるかも知れないな」  玉置が答えた。玉置と真知城が声を合わせて笑った。 「濫読癖があって悪うございました」  |襖《ふすま》が開いて和服を着た中年の女が入って来て、小笠原に挨拶した。 「何処かで会ったことがあるような気がするが……」  と小笠原は彼女の顔を見つめながら言った。 「いいえ、私ははじめてですわ、私のような顔はどこにもここにもある顔ですから、きっと誰かの間違いでしょう」  彼女は、ねえそうでしょう、と玉置と真知城に言った。 「そうだな、眼が大きくて額が広い、きみのような顔立ちの女は沖縄ではもっとも平凡な顔だ」  玉置が言った。眼が大きくて額が広いと言えば、かなしいはそうであった。小笠原は考えこみながら杯を口に当てた。 「どうしたんです先生、気象台で豊城さんが死んだ話を聞いてから急に元気を失くしてしまったようですね、いったい豊城さんと、なにがあったんです」  玉置が訊いた。 「随分とお世話になったものだ。月下美人の宴に招待されたこともあった」 「ほう、二十年前にね。どこです、その宴の開かれたのは」 「首里の旧家の庭で開かれた。そこでぼくはほんとうの月下美人を見たのだ」 「ほんとうの月下美人というと」 「その家にかなしいさんという月から降りて来た天女のように美しい娘さんがいたのだ」  彼は、その夜のことを語った。 「すると、先生は豊城さんを探していながら、実はそのかなしいさんを探しているのではないでしょうか」  玉置は確かめるような眼で小笠原の顔を見た。  真知城は腕を組んで黙って聞いていたが、 「その首里で月下美人の宴を開いた人の姓はなんていうんですか、姓を聞けばたいてい見当はつきます。私が探し出してさしあげましょう」 「ところがその姓を知らないのだ」 「では町名は? 場所に記憶はありませんか」 「石畳の坂道があった。近くに泉があった」 「ああ、きっと|金城《かなぐすく》町ですよ、そこまで分ればなんとかなります」  真知城は胸を叩いた。 「真知城さん、ばかな真似はお止めなさい。そんなことをするとかえって先生に悪いわよ。だってそのとき、その娘さんが十八だったとすれば、今は三十八よ、先生が会ったら、びっくりするほど変っているでしょう。それも生きていたらの話よ、昭和十四年に十八歳なら終戦の年は二十四歳、二人か三人の子供をかかえて苦労したことでしょう……今だって決して恵まれてはいない筈よ、そのひとばかりではなく沖縄の人はみんなそうよ。本土の人が尋ねて来ても会いたくないと思っている人のほうが多いのではないでしょうか」  座がしんみりとした。幼い子供を抱いて、戦火の中を逃げ廻った悲惨な話は数限りなくあった。そういう話はこの席では不釣合いであった。 「しかし、桃原農園へ先生と一緒に行くと約束しておきながらことわらざるを得なかったそのかなしいさんの心情は哀れだな」  玉置は、哀れだ哀れだ、と言いながら、しきりに杯を口に運んだ。 「そうだ、まさしく哀れだ。だからおれはその月下美人をなんとかして探し出してやるぞ」  と真知城が言うのを、おかみが、 「話はほどよいところで止めて置かないと……ね、そうでしょう。最後まで落したら終りよ、あなたはなにかというと話を落したがる、品性、下劣よ」 「これは手痛い」  と真知城は頭を|掻《か》いた。かなしいの話はそれで終った。  小笠原はかなり飲んだ。そこが居心地がいいのである。酔って話があちこち飛んだ。三人はかなり酔って、十和田を出た。おかみは三人をタクシーの通る大通りまで案内した。タクシーが走り出したとき、小笠原は暗い街灯に映し出された彼女の顔を見た。庭の木戸で彼を見送った二十年前のかなしいの横顔にどことなく似ているように思った。 「どうしました。またかなしいさんのことを思い出しましたか」  玉置が言った。 「いや眠いんだ。疲れたんだ」  彼は眼をつむった。      4  民俗学会の二日目が終った夜、小笠原は玉置と真知城に誘われて夜の那覇に出た。 「十二年経つと随分と変るものだ。しかし、桜坂の地名は残っているし、十二年前の名前がそのまま残っていたことは嬉しい」  小笠原は店の中をぐるぐる見廻しながら言った。小ざっぱりした店である。 「名前もそのままだが、その店をやっているこの京子さんだって、十二年前から十和田にいたんですよ」  玉置に言われて見ると、十二年前に飲みに来たとき、おかみの蔭に隠れるようにして料理を運んでいた少女がいたことを思い出した。 「それでどうしたの、前のおかみは」  小笠原は京子に訊いた。 「行ってしまったのよ、上に……」  上にと言って京子は天井を指さした。 「天国へ行ったのか」 「まあひどい、ママは二階の東京というバーにいるわ」  それまで、二人の会話を黙って聞いていた玉置と真知城が笑い出した。 「天国はいいじゃあないか、桜坂のバー東京などというやぼったい名前よりバー天国の方がいいな、ママにそう言ってやろう。ではそろそろわれわれも天国へ登ることとしようか」  真知城が立上った。  狭い階段を登りつめたところの天国は暗かった。正面にジュークボックスがあって、そこだけが僅かに明るさを残していた。  小笠原は彼女との十二年ぶりの再会に、なにかしらの期待を掛けた。店がすばらしい豪華なものであってもよかった。そこで使っているホステスが美人揃いであってもよかった。十和田のおかみだった彼女が、ママという呼称に変っただけのなにかが、そこにあれば彼は満足だった。しかし、彼の前にどこからともなくすうっと現われて挨拶した彼女は、十二年前の彼女そのままだった。静かな物腰も前のとおりだったし、語りかけるような話し方も前と違ってはいなかった。理性的で、感情の起伏が少なく、お世辞もなかった。違っているところは、小料理屋がバーに変り、ホステスが五人に増えたことぐらいのものであった。客はほとんどいっぱいだった。 「ママは覚えているかね、小笠原先生がこの前来たとき、十和田で飲みながら話した月下美人の話」  玉置が言った。  彼女は|頷《うなず》いた。 「実は今度、小笠原先生が此処にいる間にその月下美人を探し出そうと玉置さんと相談したんだ。首里から立退いていた人たちはだいたいもとのところへ戻って来たし、戦時中の資料もいろいろと整理されて来た。ぼくは女学校の卒業者名簿の中から、かなしいさんの名をつきとめ、それから順ぐりに知人をたよって行こうと思っている。そういう種類の名簿類もこのごろやっと出るようになったから、案外はやく探し出すことができるかもしれない。そう思わないかね」  真知城が彼女に訊いた。 「月下美人のことなら、私はこの前と同じ意見だわ。いらざる人探しをやって、先生の夢を壊してしまったら、かえって失礼だわ。だいたい、先生に頼まれもしないのに、そういうことをするのは|僭《せん》|越《えつ》ではないかしら」  彼女は、玉置と真知城の顔を交互に見ながら言った。 「新聞記事のネタにしようなんて気は毛頭ないのだから、先生がそんなことはよせとおっしゃるなら止めてもいい。しかし、先生が黙っているかぎりぼくはやってみたいんだ。先生と月下美人とのコントラストがあまりにも面白いからその結末まで見届けたいのだ」  玉置は既に十和田でかなり飲んでいるから、いささか言葉が乱れた。玉置は、身体を乗り出すようにして、熱い息を小笠原の顔に吹きかけた。 「月下美人とかなしいさんとの因果関係がいいじゃないですか、ぼくはかなしいという名が断然好きになった。ぼくには今女の子ばかり三人いる。もう間もなく生まれる四番目の子が男の子であることを祈っているが、もし女だったら、かなしいという名をつけることにした。かなしいとはまったくいい名前だ。だから、月下美人のかなしいさんはどうしても探し出さねばならぬ」  玉置はそんな|辻《つじ》|褄《つま》の合わぬことをしゃべっていたが、突然、すばらしいことを思いついたように、 「先生が滞在中にぼくは必ずそのかなしいさんを探し出して、三十二年前の約束どおり桃原農園の案内をさせてやるつもりです。そのとき十八歳だった彼女は三十二年経った今は……」  玉置はちょっと間を置いて、 「今は五十歳の|姥桜《うばざくら》だ、丁度このママさんと同じ年齢じゃあないか」  玉置は彼女の肩を叩くとなにがおかしいのかげらげらと笑い出した。そして玉置は突然笑うのを止めて、 「そうなるとこれこそ正真正銘の小笠原先生のセンチメンタルジャーニーってことになりますよ。しかしその感傷旅行の終末がどうなってもぼくは知らない、つまり先生が感傷旅行をやって、ぼくは無責任旅行をやる……こんな楽しいことはないではありませんか、ねえ先生」 「いいじゃあないか、終末がどうなっても責任はぼくが取るから、かなしいさんが探し出せるものなら探し出して貰いたいものだ」  小笠原もいささか酒に酔っていた。 「そうですか、それなら先生、もう一度当時のことをよく思い出していただけませんか、かなしいという名はねえ先生、当時の沖縄県では他府県の花子さんと同じくらいに多かったんですよ、なにかもっと気の利いた……」 「さあそのヒントになるかどうかしらないが、今夜の古典琉球舞踊の観賞会で最後に見せて戴いた|諸《シュ》|屯《ドン》という舞踊があったろう。あの舞踊の幕が開く前に、このパンフレットを読んでいて、三十二年前の月下美人の宴で聞いた歌の歌詞が諸屯だったことを思い出したのだ」  彼は玉置の前にパンフレットを拡げたが、室内が暗くて字は読めなかった。 「その歌ならぼくが知っています」  真知城が低い声で歌い出した。 [#ここから2字下げ] |思《うむ》|事《こと》のあても|与《ゆ》|所《す》に|語《かた》られめ |面《うむ》|影《かじ》とつれて|忍《しぬ》で|拝《うが》む 枕並べたる夢のつれなさよ 月や|西《いり》|下《さ》がて冬の|夜半《やふわん》 |別《わか》て|面《うむ》|影《かじ》の立たば|伽《とじ》|召《め》しやられ 馴れし匂袖に移ちあむの [#ここで字下げ終わり] 「そうです。その歌の中の、月や|西《いり》|下《さ》がて冬の|夜《やふ》|半《わん》、という一句を思い出したのです。夢の中でいとしい夫に会ったのもつかのま、夢から醒めたという歌詞の意味も、月下美人の宴でかなしいさんから聞いたのと大体同じだ。三十二年前のあの夜、蛇皮線に合わせてその家の主人が歌った歌は諸屯に違いない」  小笠原は確信を持って言った。 「諸屯を歌ったのですね、諸屯は琉球古典舞踊中、最もむずかしい踊りだと言われています。歌も非常にむずかしい。月下美人の宴の会で、蛇皮線に合わせて歌いこなせる人と言えば、そうざらにはいない筈だ、それを歌ったのは、その家の主人なんですね」  真知城はせかせかした調子で言った。 「かなしいさんのおとうさんでした」 「手懸りは|掴《つか》みました。これだけ分れば、その線を追って行けば、たいてい突き止めることができるでしょう、ぼくも、少々これをやりますから……いや、ぼくばかりではありません、戦前の沖縄の男は教養として蛇皮線を習ったものです」  真知城は、これをやると言ったとき、|撥《ばち》を持って蛇皮線を弾く格好をして見せた。膝に手を置いて姿勢を正して、そっくりかえって眼をつむった格好は、月下美人の宴の宵でのその家の主人を|彷《ほう》|彿《ふつ》とさせた。 「どうしても当ってみるの」  ママはやや淋しげな表情で真知城に言った。 「ただ興味本意に探してみるだけではない、諸屯という古典音楽が三十二年間の空白を解き明かすかもしれないところに意味があると思うんだ」  真知城は玉置や小笠原に比較すると格段と酒が強かった。一晩飲みつづけても平気なような顔をしていた。 「ようし、真知城さんがその線で行くならば、おれはおれの線で行く、おれは、明日から首里へ出かけて行って、犬のように|嗅《か》ぎ廻るぞ」  玉置が言った。玉置が酔うと眼尻が下る。全体的に、とろりとした眠い顔になるのである。しかし玉置は、酔ってはいないことを誇示するように、真知城よりも自分の方がその月下美人を早く探し出してやるぞと力んでいた。  東京のママは黙っていた。男たちのやることがたいへん馬鹿らしいことに思われるのか、彼女は俯いたままで、他のことを考えているようであった。  小笠原もかなり酔った。玉置と真知城に連れられてホテルに帰ったときは十二時を過ぎていた。      5  翌日は小雨が降っていた。  民俗学会の三日目のスケジュールは|見学旅行《エクスカーション》になっていた。彼は見学旅行のバスに乗って、戦跡や遺跡を見て廻った。十二年前から見ると戦跡ははるかに観光地化された観があった。  そのために、現実感や|悲《ひ》|愴《そう》|感《かん》は急速に亡びつつあるように思われた。が、中城の城址や、今帰仁城址は完全に残されていた。この二つの城は三十二年の歳月にはかかわりがなかったようであった。  民俗学会の四日目は最終日であった。午後四時に幕を閉じた。あとは五時半からお別れパーティーが開かれることになっていた。  会を終って廊下に出ると玉置が小笠原を待っていた。 「パーティーまでにはまだ一時間半もあります」  玉置は先に立って小笠原を会場の外に連れ出して、彼が運転して来た自動車に乗せた。 「何処へ行くんです」 「首里の金城町」 「なぜ」 「行けば分ります」  金城町の坂道には石畳が敷いてあった。おそらく戦後復元したものと思われた。石垣もあったが、石垣の中の福木は歩道の中央まで枝を差し出して日射しをさえぎるまでにはなっていなかった。彼が三十二年前に豊城と共に歩いたような、福木の枝に|蔽《おお》われた城下町の道はなかった。玉置は黙っていたが、小笠原には玉置がなんのためにここに来たのか、ほぼ分りかけていた。玉置は丘の中央の泉のほとりで止った。自然に湧き出る泉ではなく、もと泉があった場所に水道の水を引いて来て、水汲み場にしたものだった。 「この泉のことを覚えていませんか」 「たしか、この泉にはガジュマルの気根が垂れ下っていたような気がする」  玉置は小笠原のその答えで満足したようであった。玉置は石畳の道をしばらく歩いたところで、その石畳の道から分岐している、おそらく私道と思われるような狭い路地に入った。その道は石畳ではないから歩くと白いほこりが立った。半ば崩れた石垣が両側にあった。片側はミカンの畑になっていたが、片側は廃墟という名にふさわしいほどに荒れていた。崩れた石垣の囲む面積から想像すると、かなり大きな屋敷がその中にあったものと思われたが、建物らしいものはなにもなく、背丈ほどの枯れたススキと、腰の高さほどにも伸びたススキの若葉が生い繁っていた。ススキの穂がたった今木枯らしに吹き飛んだばかりのように、まだ冬のたたずまいを残しているのに、もうこの年の若葉が伸びているのを見ると、今が三月の上旬とはとても思えなかった。彼は、冬と夏とが共存するような沖縄の生暖かい空気の中に、まとめようのない|侘《わび》しい心をむき出しにして立っていた。 「ここではなかったのですか、月下美人の宴が開かれた家というのは?」  玉置が言った。  小笠原は、玉置が金城町へ行くと言ったときから、かなしいの家を探し当てて、そこへ案内してくれるのだと思っていた。  だから、玉置がいきなりそう言ったところで別に驚くほどのことはなかった。ただ、ここは彼の心の中にあるものとはあまりにも違い過ぎていた。 (これが、あの月下美人が咲いていた庭であろうか。かなしいの父が眼をつむって月に向って諸屯を歌った庭であろうか、かなしいが私の耳元をくすぐるように囁きかけたのはこの庭であったろうか) 「ここなんです、この家にかなしいさんがいたのです。戦争で家は焼かれ一家が離散するまで彼女は此処にいたのです」  そう言われても小笠原には、そうだ、ここが月下美人が咲いていた庭だとは言えなかった。彼の頭の中に生き続けて来た思い出と、ススキの荒れ地とはあまりにも懸隔があり過ぎた。 「ここが……そうですか……ここが……」  彼は溜息のような言葉を吐いた。玉置が彼に更に強い姿勢で、記憶を呼び戻してくれと言ったならば、自分はきっとこのススキの|藪《やぶ》の中に坐りこんでしまうに違いないと思った。  石畳の道から、路地に白いほこりを立てて入って来る人があった。手を上げたから、それが真知城だとすぐ分った。彼はほこりの道から、崩れかかった石垣を乗りこえて、いきなり二人の前に現われた。 「首里へ行ったというので後を追って来ましたが、やっぱり此処だったのですね」  と真知城は言った。彼は感情を眼によく表現する男だった。彼の眼が、いくらか潤んで光を帯びて来るときは、興に入ったときであった。 「玉置さん、どうやら貴方に先を越されたようですね、それで、かなしいさんの現在場所も確かめましたか」  真知城は詮索と期待をこめた言葉を玉置に向けて言った。自信ある眼つきだった。 「いや、それは分らない。此処が月下美人の家の跡だということだけを突きとめたところなんですが……」  玉置は、しかし真知城の、いささか挑戦に似たその質問に、が……という余韻を残して応じた。まだまだ降参はしていないぞという気持が、眼に浮んでいた。酔うと垂れる玉置の眼尻は、彼が緊張すると異常に張った。 「では、玉置さん、この勝負はぼくの勝ちだな。かなしいさんは、佐喜城朝宗の長女として生れ、昭和十五年、徳平安信と結婚、昭和十七年長男を生んだが沖縄戦のとき北部に疎開中、長男は病死、夫の徳平安信は南方で戦死、彼女は昭和二十三年石垣島の人、瀬仁名幸章と再婚し、翌年子供を生んで石垣島に渡った。瀬仁名幸章は間もなく単身那覇に出て来て、商社に勤務中、交通事故死。彼女のその後のことは分らない。おそらく石垣島の瀬仁名家に居られるだろう」  真知城は一息にメモ帳を読み上げると、小笠原に言った。 「諸屯が手掛りでしたよ、首里の旧家の月下美人の宴で諸屯を歌ったというから、多分、士族出の人だと見て、その方を調べて行くと佐喜城さんの名前が出て来た。かなしいさんは、先生と会った翌年結婚したわけですね」  小笠原は黙っていた。そこまで現実的になって来たことを喜んでいいのかどうか分らなかった。なにか、玉置と真知城に引張り廻されているような気がした。 「すると先生は明日、石垣島で、彼女と三十二年ぶりに再会ということになりますね。支社に連絡して、彼女の方に先生のことを伝えておきましょうか」  玉置が言った。 「そこまではどうかな、あとは先生の意志を尊重しようではないか」  真知城は玉置をおさえて、ちらっと廃墟に眼をやったが、現在この地が誰のものになっているかについては一言も言わなかった。そこまでは調べがついていないらしかった。      6  小笠原が石垣島の飛行場に降り立つと、玉置の手配で元沖縄新聞社に勤めていたという具志嶺老人が迎えに出ていた。とても七十歳には見えないつややかな顔をしていた。 「瀬仁名さんとお知り合いだそうですね」  具志嶺が言った。 「なにか玉置さんがおっしゃいましたか」 「いえ、ただ瀬仁名さんの家に案内してやってくださいということでした」  具志嶺は、それ以上のことは知らないようだった。 「時間があったらちょっと寄ってもいいけれど、ぜひにというわけでもありません」  そして小笠原は、石垣市内がどう変っているかまず見たいものだと言った。豊城の紹介状を持って三十二年前にやって来たときと現在との変りようがまず見たかった。 「そのために自動車を用意してあります」  と具志嶺は言った。石垣港が近代的な港になっていた。港に臨む広い地域が埋立てられて、コンクリートの建物の町ができていた。三十二年前に僅か五百トンの島廻りの船に乗って着いた港は消えていた。町は戦災は受けなかったが、三十二年前とはすっかり変っていた。石垣が少なくなり、赤い屋根の家が少なくなっていた。拡張された道路の両側の相思樹や芭蕉やクバなどの街路樹を見ていると、とてもかつての石垣島へ来たような気はしなかった。しかし、大通りから少しばかりはずれると、そこには三十二年前の石垣島の顔がそのまま残っていた。  小笠原がしきりに自動車から降りて歩きたいと言うので、具志嶺は自動車を返した。  石垣島の名にふさわしく、家の軒よりも高いような石垣にもたれかかって、今を盛りと咲いている仏桑華の真紅の花を見ていると、三十二年前にこの島に来たとき、真先に尋ねた琉歌の研究家の喜捨場氏のことを突然思い出した。このあたりのような気がした。その喜捨場氏の近況を訊こうと思っていると、まるで彼の心を|覗《のぞ》いたように、 「あ、ここですよ」  と突然具志嶺に言われたので小笠原はびっくりして足を止めた。 「瀬仁名さんのところですよ、あなたがさっさとこっちへ来られるから、瀬仁名さんのところを思い出されたのだと思っていました」  具志嶺は笑った。  石垣に囲まれた庭の奥に白髪の老人がいて、植木に水をやっていた。  具志嶺は先に入って行って大きな声で話しかけた。老人は耳が遠いらしかった。身体も不自由のようであった。 「甥夫婦が同居しているのですが、見えませんね」  と具志嶺は周囲を見廻しながら言った。 「この方の息子さんは瀬仁名幸章さんでしたね」  小笠原は老人に訊かずに具志嶺に訊いた。 「そうです。遅くなってできた一人息子でしたが、那覇に出て交通事故で亡くなりました。もう大分以前のことです。奥さんと子供さんがあったそうですが、私は会ったことがありません。奥さんは此処にいても生活の道がないので那覇へ出て行ったそうです。結局ここには、老人夫婦が残され、今はこの老人一人きりというわけです」  老人は、自分にかわって話してくれる具志嶺の顔と小笠原の顔を交互に見較べていた。 「その親子は今何処にいるのですか」  小笠原のそのひとことで、具志嶺はどうやら小笠原が訊ねている人が誰だか分ったらしかった。具志嶺は、大きな声で老人の耳元でそのことを訊いた。  老人は|這《は》うようにして縁側に上ると、神棚のところへ行って、その下の引出しをごそごそ探して、二、三通の現金書留の封筒を持って来て、具志嶺に渡した。那覇における住所と瀬仁名かなしいの名が書いてあった。彼女は那覇からこの老人に送金しているのであろう。封筒は最近来たもののようであった。小笠原がその住所をノートに写し取っていると、老人はどこからか一葉の写真を持って来て具志嶺に差出して、よく廻らぬ口でなにかしきりに話し出した。 「そうか、孫娘さんか」  具志嶺は、その写真を小笠原に渡した。琉装をしたかなしいが立っていた。それはかなしいの娘ではなく、何度見返しても、三十二年前のかなしいそのひとだった。 「きれいだ。やはり沖縄の女には琉球結いの髪が似合うんだね、このように髪をかき上げるようにして結うと額が広く見えるし、眼も一段と綺麗に見える。どうです、小笠原さん、そうは思いませんか。頭髪を短くしたり、ちぢらかしたりするより、この方がいいのだが、いつの間にかこの髪型はすたれてしまった。しかしこのごろ、若い娘さんの中に教養として琉球舞踊を習う人が増えたことはまことに結構なことだ。おそらくこのひとも、琉球舞踊のとき、この髪に結い、琉装をして写真を撮って貰ったのでしょう」  小笠原は具志嶺の説明を聞きながら、写真に見入っていた。月下美人の宴の席で、かなしいに琉装をさせてみたいと思ったことが思い出された。 「|銭《じん》|花《ばな》という花は一年中咲いているんだねえ」  具志嶺が、庭先に咲いている花を見て言った。小笠原は写真を老人に返して、花の方に眼をやった。小さな紫色の花だった。具志嶺が、あの花は|銭《ぜに》の形をしているから|銭《ぜに》|花《ばな》というのだがそれがなまって|銭《じん》|花《ばな》となったのだと説明するのを聞きながら、いったい、かなしいは那覇でなにをして暮しを立てているのだろうかと思った。それを訊きたかったが、彼にはどうしても言い出せなかった。  小笠原が石垣島に三日間滞在して那覇に帰って来ると空港に真知城が待っていた。  真知城は小笠原の荷物を奪い取るように持つと外には出ずに、空港ビルの二階の喫茶室へさっさと入って行った。 「ほんとうに済みませんでした。もうひとおしが足りなかったようです」  真知城はひどく真剣になって謝っているようだが、小笠原にはなんのことだか分らなかった。 「石垣でなにもかもお訊きになったでしょう、瀬仁名かなしいが、今どこにいるかも……」 「那覇の住所だけは教えて貰った。それでなにか?」 「そうですか、その先はまだ知らなかったのですか」  真知城は一瞬ほっとしたような顔をしたが、すぐ前にも増してせわしい口調で話し出した。 「桜坂のバー東京のママさんが瀬仁名かなしいその|女《ひと》だったんですよ」 「まさか」 「と思うでしょう。私もそう思いました。しかしそうだったんです。小笠原先生が十二年前に来て、十和田で月下美人の話をしたでしょう、彼女はそのときからとぼけ切っていたんです」 「とぼけていた?」 「それにはそれだけの理由があったでしょうが、ぼくや玉置さんにしてみればとぼけていたとしか思えませんね」  小笠原は眼を伏せた。真知城の眼が残酷なほど|執《しつ》|拗《よう》に自分を追っているような気がした。小笠原は心の動揺を真知城に見せたくなかった。彼は窓越しに飛び立ったばかりの軍用機に眼をやっていた。 「十和田っていう小料理屋の名前も元を|質《ただ》すと先生の故郷の十和田湖から取ったそうです。この関係に気がついて彼女に泥をはかせたのは玉置さんです。彼女は三十二年前にあなたが沖縄新聞に『方言札について』と題して投書された文章の内容をほぼそっくり覚えていた、ということです。全く甘い話ですよ、今の沖縄にこういう甘い話が存在するなんてことはまず考えられないことです」 「甘くしようが辛くしようがそっちの勝手だけれど、彼女の娘さんは今どうしているのかね」  小笠原は着陸態勢に入った黒い軍用機から眼をそらして、真知城の顔を見た。気持がすっかり落ちついていた。真知城がなにを言おうがもう眼を窓の外へやらないでもいいと思った。 「瀬仁名たまみさんは現在二十二歳、コザ市の外国人経営の貴金属品店に勤務しています。実はそのたまみさんが先生を桃原農園へ案内しようということになったんです。これは、ぼくや玉置さんが取計らったのではなく、かなしいさん自身が言い出したことなんです。つまり、三十二年前のかなしいさんがあなたと約束したことを娘さんに代理させようというのです。こうなるともう甘いなんていうものではないですな。蛇足です。少女小説の古本の押し売りみたようなものだ。しかし、時間はちゃんと決めました。瀬仁名たまみさんは、明日一日休暇を取って、あなたを桃原農園とショッピングに御案内いたします。午前十時に彼女はホテルヘお迎えに上ります」  話が進行するに従って真知城の言葉使いは事務的になって行った。たのまれたことを忠実に果すぞという態度であった。  二人は肩を並べて空港の外に出た。 「まるで真夏のような空の色じゃあないか」  小笠原は、緑がかった空を見上げながら言った。綿のような雲がぽかりぽかりと浮いていた。 「それで瀬仁名かなしいさんはなにか言っていたかね、このことについて」  自動車が走り出してから小笠原が言った。 「玉置さんが、月下美人の当人が彼女であることを突き止めて尋ねて行くと、彼女は、沖縄にもあなたがたのような物好きが出るほどの余裕が出て来たのかしらと言ったそうです。そして彼女からは、きのうの十時ごろ午後の飛行機で東京へ行くという電話がありました。あまり突然だからどうしたのかと訊くと、いやこれは前から決っていたことで特にどうってことはない、返還を来年にひかえた沖縄がどう変るか、店の経営方針をどう変えたらいいかを心配しているより先にしばらくぶりで東京へ行って、銀座の一流のバーを見て来たいっていうんです。時の勢いに乗るためには勉強が必要だと彼女は気負いこんでいたが、どうもぼくは一時的に逃げたんじゃあないかと思っています。つまり、先生と顔を合わせたくないということではないでしょうか」 「ものごとをそうこじつけて考えないでもいいだろう。東京へ勉強に行ったというのならそれでいいではないか」  小笠原は|憮《ぶ》|然《ぜん》とした顔で言った。  那覇の飛行場に降りて真知城に会ったときから、音もなく崩れて行く丘の上に立っているような空虚な思いが続いていた。自動車が那覇港の近くの軍用地の傍を通過するとき鉄条網の柵のところに、赤旗を持った一団の日本人と手に手に棒を持った米軍人の一団が数十メートルの距離を置いて|対《たい》|峙《じ》していた。自動車がその前を徐行した。野球のバットを持った黒人兵が、びっくりした顔で見ている小笠原ににやりと笑いかけた。労働歌を歌っている日本人の団体の緊張した表情と、チューインガムを|噛《か》みながら、いかにも物憂い顔で突立っている米兵の一団との間に、首輪のないノラ犬が歩いていた。 「いったいなにが始まるんです」 「全軍労のストです、玉置さんは今そっちの方へ行っています」  そして真知城は、自動車が市内に入ってから、 「まあ、大丈夫でしょう、明日は」  と言った。なにが大丈夫なのか訊き返すと、 「先生と月下美人二世とのデイトにはなんの影響もないだろうってことですよ」  真知城は、社の近くで自動車を止めると、 「では明朝の十時をお忘れないように」  真知城はにこりともせずに去って行った。自動車が全軍労ストの現場近くを通ったときから真知城の顔はこわばったようだった。おそらく彼には、全軍労ストに関係したいろいろの仕事が待っているのだろうと思った。小笠原は、そういう多忙な最中に、わざわざ飛行場まで迎えに来てくれた真知城の好意に感謝していた。      7  その夜はむし暑くて真夏のようだったし、その日着いたばかりの観光団が夜遅くまで酒を飲んで廊下を大声を上げて歩いているので眠れなかった。ホテルの入口に掲げられた札を見ると単なる観光団ではなく、何々県戦跡追悼旅行団御一行と書いてあった。  翌朝彼は九時半にホテルのロビーに出ていた。瀬仁名たまみが来たら、すぐ出られるようにしていた。十一時まで待っても来ないから、彼はフロントに頼んで、自室へ帰ってテレビをつけた。  全軍労のストは官公労、教職員会、高教組、自治労、マスコミ労などが参加の気勢を示すにいたって、いよいよ、高潮して行くようであった。テレビには、労働者ともみ合っている警察官の姿がほとんど連続的に映し出されていた。ニュースは警官隊、全軍労、右翼団体、基地業者のスト反対団体などが入り混って複雑な様相を呈していることを報じていた。  午後になったが、瀬仁名たまみは現われなかった。彼は辛抱強く待った。そのうちきっとどこからか電話があるだろうと思った。二時まで待って来なかったら、真知城か玉置に連絡してみようと思った。  二時五分前に玉置から電話があった。 「瀬仁名たまみさんが今朝、糸満町の名城ビーチで死体になって発見された。検視の結果は|溺《でき》|死《し》である。|辱《はずか》しめられた形跡はない。昨夜遅く男に追いかけられて海の方へ逃げて行くのを見た者があった。足の裏に|珊《さん》|瑚《ご》が刺さっていたところを見ると干潮の海を男に追われて沖へ沖へと逃げ、ついに溺死したものと思われる。彼女を追っていた男の身元については今のところ全く不明である」  玉置はひと息ついて更に続けた。語調ががらりと変った。 「上京中の瀬仁名かなしいさんには今やっと連絡がついて、明日の朝の飛行機で帰って来ることになりました。とにかく、これからそちらに伺って、もう少しくわしい事情をお話しいたします」  小笠原はハンマーで頭をぶんなぐられたような気持だった。なぜこのような偶然が突然起ったのだろうかと思った。嘘のような気がした。話が突飛すぎた。こしらえごとのような気がした。ほんとうだとすれば、自分と瀬仁名親娘とを引き裂こうとする運命の|悪《いた》|戯《ずら》としか考えられなかった。  小笠原はその場に坐りこんだ。自分の娘が殺されたように悲しかった。いったい誰が殺したのだ。そのような怒りが燃え上って来たとき彼は、この偶然のようなできごとが、決して偶然ではなく、これこそ現在の沖縄を象徴している一つの現実かもしれないと思った。ひょっとしたら、彼女の死が、現在行われている全軍労のストとなにかしらの関わり合いがありはしないかとも思った。彼女が軍基地のコザ市の外人相手の商店に勤めており、テレビが放映している場面もコザ付近であった。  玉置より先に真知城がホテルヘやって来た。瀬仁名たまみのことについては玉置とほとんど同じだったが、彼女がきのうの四時ごろ、外国人の運転する自動車に乗っていたのを見た者がコザ市に居たという新しい情報を伝えた。 「その外国人の身元が割れれば、或いは彼女の死因がわかるかもしれない」  そして真知城は、 「彼女は美人だったので、多くの男が言い寄っていたようです。その中には外国人もいたでしょう。彼女は英語がかなり|堪《たん》|能《のう》で、週二回、那覇の国際クラブの英語研究会に顔を出していたそうです。きのうが、丁度その研究会だったらしい」 「いや、きのう彼女はその研究会には全然姿を見せませんでした」  何時来たのか玉置が傍に立っていた。 「たしかに彼女は美人だった。多くの男が言い寄っていたのは事実だが、彼女の品行がきわめていいことも評判だった。現在、彼女が親しく交際しているような男は一人もいなかった」  玉置が言った。 「だが、彼女に|惚《ほ》れていた男が、彼女を強引に誘い出して最後の手段に訴えたとしたらどうだろう。きのうはコザ市の外人相手の商社は午後三時には店をしめている。彼女もそのころ店を出たのだ」  真知城が言った。小笠原は、二人の会話に口を挟む余地はなかった。彼は、コザの商社がきのうにかぎって三時に閉店したという異例な日に彼女の不幸が起きたことと全軍労ストとを思い合わせていた。彼女の死は全軍労ストとは直接的な関係はないが、事件が沖縄全体の異常な昂奮状態の中に起きたことだけは確かだった。小笠原は青い顔をして突立っていた。 「とにかく外へ出ましょう」  と玉置が言った。小笠原は玉置に言われるままに靴を履いた。行く先は訊かなかった。彼自身、じっとしてはおられない気持だった。 「彼女は男に誘い出されて、名城ビーチまで行き、暴行されそうになったので、身を守るために海へ逃げて溺死したとしか考えられない」  真知城は歩きながら言った。 「結果的にはそうかも知れない。しかし、彼女はたいへん利口なひとだったから、うまうま、そんな手には乗らないだろう、そこらあたりがどうしても分らないのだ」  玉置はつぶやくように言うと、手を上げてタクシーを止めた。 「首里の桃原農園まで」  玉置はタクシーに乗りこむとすぐ言った。 「先生を桃原農園へ御案内しようと思いましてね、そうしないと、なにかおさまりがつかないような気がするので」  玉置が言った。 「そうだ。先生は明日の飛行機で帰ることになっていましたね……ぼくも御一緒したいのですが、どうしても出席しなければならない会議があるので、ここで失礼します」  真知城は途中でタクシーを降りた。 「瀬仁名たまみのたまみという名は沖縄の古い伝説の中に出て来る|玉《たま》|美《み》|嘉《か》から取ったのだと、かなしいさんが話していました。昔玉美嘉という美しい娘がいて、海の男神に|見《み》|初《そ》められて海の女神になったという話の主人公です。玉美嘉が海の神になったということは海に入って死んだということにつながる話だとすれば、瀬仁名たまみさんは、宿命的な名前を持っていたということになります」  タクシーが急坂を登り切る手前で止った。刺すような日射しが頭上から照りつけていた。小笠原は、何度か玉置に、もう桃原農園は見ないでもいいのだと言おうと思ったが、それが言えなかった。  桃原農園は琉球王の尚氏の直系一族が経営していた。幕末までは、尚家の庭園だったところを植物園とし、桃原農園と名付けたのは大正の初めのころであった。  玉置が|予《あらかじ》め手配してあったので、農園長が案内に立ってくれた。  小笠原が昭和十四年に来たときは、この農園はクロトンで一杯だった。色彩に|溢《あふ》れた滑らかな細長い観葉植物でこの庭園は飾られていた。花を見るのではなく、葉を眺める植物だから、庭園全体にしっとりとした冷気と落ちつきがあった。 「昭和十四年にお出でになったというなら、随分と変ったでしょう、とに角戦火でこの辺一帯は焼野原となったその後に開いた農園ですから」  園長は、戦前七千坪あった植物園が現在は四千坪になり、植物も、ヤシ科の植物と果樹を主として栽培していると前置きして、植物園の中を案内して行った。  |数珠《じ ゅ ず》のような実をつけたユスラヤシ、大王ヤシという名のとおりの品格を備えたヤシ、竹のような葉をしたカンノンチクまで、ヤシの種類は豊富だった。樹の幹がビール|樽《だる》のように太いトックリヤシは、|滑《こっ》|稽《けい》でもあった。孔雀が羽根を拡げたようなクジャクヤシ、|刺《とげ》が痛々しく眼につくナツメヤシなどのヤシの群落が続いていた。アレカヤシ、ヤスズヤシ、ビロウヤシなど、その種類は三十種類もあった。  果樹園には様々な木が植えられていた。バンジュローはミカンほどの緑色の果実をつけていた。中国産の不老不死の実を|生《な》らすというレイシの木の花の芽はまだ固かった。  農園は、二段に分れていた。上の段には、各種の花が栽培してあった。温室もあったが、すでにその必要がなくなったから、温水のパイプのコックは閉じられていた。温室を見て、帰途につこうとしたとき、小笠原は園の一隅に他の植物とはかけはなれて大きな樹木に眼を止めて立止った。 「|福《ふく》|木《ぎ》です。この広い園内でたった一つだけ生き残ったものがあの福木です」  園長は二人をその木の傍につれて行った。ひとかかえもあるほどの福木の幹には無数の穴があったが、その内部にいたるまで押し麦ほどの小さな葉の沖縄かずらが緊密に蔽っているので幹そのものの地肌は見えなかった。 「これは|弾《だん》|痕《こん》ですね」  玉置が、幹の凹部を|撫《な》でながら言った。 「そうです。おそらくこの幹の中には、何キロという弾丸や砲弾の破片が入っているでしょう。しかしこの木は生き残ったのです。樹齢およそ三百年ですから、尚貞王の時代に植えられた福木が、今度の戦争にも負けずに耐え抜いたのです」  今度の戦争にもという言葉の中には、薩摩の侵略や圧政などを含めているようであった。 「立派なものだ」  と小笠原は言いながらその樹を撫でた。沖縄かずらの葉の感触は思ったより滑らかであった。砲弾を受けたこの福木は、沖縄かずらに包帯されたことによって死をまぬがれたのだろうと彼は思った。何キロというほどの砲弾の破片を飲みこみながら毅然として生きているこの福木こそ、現在の沖縄の姿のような気がしてならなかった。  桃原農園を出て強い日射しの中に立っていると丘の下から風が吹いて来た。 「先生は、予定通り明日お帰りになりますか」  玉置が訊いた。 「帰るつもりだ」 「一日か二日日程を延ばして瀬仁名かなしいさんに会ってやったほうがいいのではないでしょうか、飛行機の席なら、なんとかなりますよ」 「いや、こういうときはかえって会わないほうがいい。彼女は昔の月下美人ではない、ほうっておいても福木のように、強く生きつづけて行くだろう」 「福木ねえ、そう言えば福木こそ沖縄を象徴するものかもしれませんね」 「そうそう玉置さん、あなたは、桜坂で飲んだ夜、今度女の子が生れたら、かなしいという名をつけると言っていましたが、やめたほうがいい。たまみという名もいけないな。福木の福を取って、福子にしたらどうでしょうか」 「そうですねえ……」  玉置はそう答えただけで、その名がいいとも悪いとも言わなかった。  二人は肩を並べて坂道をおりて行った。そこから金城町のあの石畳の道までそう遠い距離ではなかったが、小笠原も玉置もそっちへ行こうとはしなかった。 「ねえ、復帰後の沖縄はどうなるでしょうか」  突然、玉置が立止って言った。小笠原が今度の旅行中、いたるところで受けた質問であった。 「さあ、どうなるかぼくにも分らない」  小笠原は自分の無責任な答えを恥じるように眼をそらした。民家の庭の|緋《ひ》|寒《かん》ざくらは、もう散って、|萌《もえ》|黄《ぎ》色の|嫩《わか》|葉《ば》の季節に入っていた。     日 向 灘      1  彼は松林から浜に出たとき明るさに|狼《ろう》|狽《ばい》した。白い砂浜から反射して来る光線がまぶしくてしばらくは動けなかった。白浜の向うに輝く海を見るまでには|尚《なお》しばらくの時間がかかった。彼は眼を細めたまま海に向って、やわらかい砂を踏んで行った。砂を踏む感覚があっても、砂を踏む彼の靴音はほとんど聞えないほど、砂はやわらかだった。  |畦《あぜ》|道《みち》ほどの高まりを持った白い波が彼に向っておしよせて来ては、彼とそう離れていないところで、すくむように崩れて行った。崩れた波の向うを見ると、前と同じような波の畦があった。畦は横にどこまでも長く、畦というよりも堤に見えた。その波の堤が海と陸とを隔てているようであった。波の堤には、陰影があった。そこから見えるもののなかで、ただ一つの影であり、それは動いていた。しかし、その波の堤に現われた影さえもまぶしくて、そう長くは見つめていられなかった。  波の堤の向うに海があったが、その輝きが強いために、海の広さをつまびらかに眺めることはできなかった。海の輝きを色で表現しようと思ったが、適当なものが見つからなかった。ただ、彼に向って真直ぐ伸びている黄金の道にははっきりした色があった。  彼は黄金の道の突き当りの空に輝いている太陽に眼をやり、|慌《あわ》てて眼を伏せた。  それまでひどくまぶしかったのは、太陽に向って歩いていたからだった。太陽が海の上に輝いていたからだと、ごく当り前な理屈を思いついたとき、彼は、|日向灘《ひゅうがなだ》という言葉を思い浮べた。 「そうだ、おれはいま、まさしく日に向った灘に対面しているのだ。相手が日向灘だから光に|溢《あふ》れているのだ」  彼は宮崎市に来てから三年になる。その間何回か日向灘を見た。しかしそれまで彼が見た日向灘は単なる海でしかなかった。どこにもここにもある海であって、ことさら日向灘と呼んでみるほどの海ではなかった。やはり出会いがよかったのだと彼は思った。海岸地帯を広く覆っている松林を出て、前に展開する海を見たとき、その海が日向灘であり、それ以外のどの呼称も通用しない海に見えた。  彼は深呼吸をした。仕事のことをしばらく忘れてこうして海に向っている時間は、自分にとって貴重だと思った。彼は歌でも歌ってみたい気持になった。 [#ここから2字下げ] こころ|自《ま》|由《ま》なる人間は |永《と》|久《わ》に|賞《め》ずらむ|大《おお》|海《うみ》を 海こそ人の鏡なれ 灘の大波はてしなく [#ここで字下げ終わり]  詩を|詠《うた》う女の声が背後に聞えた。なにかで読んだことのある詩だなと思ったが、作者の名は直ぐには思い出せなかった。斜めうしろの砂浜で、少女が幼女を相手に砂遊びをしていた。詩はその少女が詠っていた。風向きが変ると少女が詠う詩はもう彼のところには届いて来なかった。それでも、彼女の口が動いていることだけはよく分った。彼女は幼女と遊び戯れているふうだった。その広い海岸に、彼女たちの他に、青年がひとり立っていることには気付いていないようだった。  彼はふたたび海を見た。海の表情がなにかしら変ったようだった。風だなと彼は思った。海岸線を境にして吹く海陸風のせいではないかと思った。少女の声が聞えて来たのは陸から海へ向って吹く風が彼女の声を、そのままそっと彼のところまで運んで来てくれたからだ。彼女の声が途絶えたのはこんどは海から陸へ向って風が吹き出したからなのだ。気まぐれな海陸風の|悪《いた》|戯《ずら》が彼には|微笑《ほ ほ え》ましく思われた。  彼は少女が詩を詠ったから、自分もほんとうに歌でも歌おうかと思った。が、彼はそれほど時間に余裕がある身ではない自分を思い返した。 (稲葉君、仕事、仕事。青島観光の社員は仕事以外のことは考えるべきではない)  課長の中沢進助の声が聞えたような気がした。彼は思わず海に向って姿勢を正した。太陽と正対した途端にくしゃみが出た。太陽に背を向けると、砂遊びをしていた姉妹が、びっくりしたような顔をこっちに向けていた。眼と眼が合った。少女と幼女がどういう関係か分らないけれど、彼は一目見たとき姉妹だと思った。姉の少女がいそいで膝頭を合わせた。そのあたりに少女の年齢が浮んでいた。  眼が合ったからなにか話さないとまずいような気がした彼は、一度は砂浜に落した眼をゆっくり上げて、少女たちの方に近づいて行った。少女は幼女の手を引いて立上った。 「みどりちゃん、帰りましょうね」  と姉は妹に言った。姉妹は彼に背を向けて、ゆっくりと砂浜を松林の方へ去って行った。彼の接近を警戒しているふうはなかった。そろそろ帰ろうかと思っているところへ偶然彼が現われたというだけのことであった。彼のくしゃみが、彼女たちが立上るきっかけを作ったのだ。彼は姉妹の後を追わずに黙って見送っていた。姉妹は白いワンピースを着ていた。彼女たちが立上ったとき、なにかその辺に穴が明いたように感じたのは、彼女たちの着ている物の色が砂の色に似ているからだった。つまり、その白いワンピースは洗いざらした、くたびれた白さであり、それが砂の色に似ていたのだった。  姉妹は砂浜に足跡を残して、|草《くさ》|叢《むら》の向うに消えた。松林にかこまれて三軒の家の屋根が見えた。彼がさっき来た道とは離れた松林の中に、三方は松林、前は砂浜にかこまれて、まるで、世捨人の隠れ家のように三軒の家が寄り添って建っていた。その真中の家の屋根から紫色の煙が立昇り、途中で直角に折れ曲って松林の方になびいていた。彼は、あの姉妹はきっと紫色の煙の立つ家に住んでいるのだと思った。  彼は、三軒の家がもっともよく見えるところまで行って、地図を出して地形と照合してみた。彼が来た道はすぐ分ったが、その地図の三軒の家のあるあたりには人家の記号はなく、砂浜になっていた。  彼は地図上の三軒の家のあるあたりに赤で印をつけてからもう一度家の方へ眼をやって、その三軒の家には電灯線が入っていないし、テレビのアンテナも無いのに気がついた。彼は|一《ひと》つ|葉《ば》浜一帯の区分図を取り出した。国有地と私有地を色分けしてあった。防潮林のほとんどは国有林でところどころに私有地が混っていたが、その三軒の家のあたりは明らかに国有地であった。  彼は地図を砂の上に置いて、三軒の家とその付近の地形を眺め廻していた。三軒の家へ行って訊いて見るまでもなく、この三軒は不法建築物と推測された。三軒の家には、庭はなかった。三軒の家を取囲んでいる|草《くさ》|藪《やぶ》に夏の名残りのようにハマヒルガオが二つ咲いていた。三軒の家のうち、一番手前の家からさっきの少女が出て来た。|塵《ちり》でも捨てに出て来たような格好だった。幼女はいなかった。少女は、砂浜と防潮林との境目に立っている彼にいささか驚いたようであり、彼がいる前で塵を捨てるのをはばかっているようでもあった。彼は少女の顔をはっきり見た。色の白い利口そうな少女であった。  彼を見つめていた大きな眼の中になにかしらの疑惑があった。彼が手に持っている地図と鉛筆の意味を彼女が、理解しようとしている努力が、眼の動かし方の中に|窺《うかが》い取ることができた。  彼女は家の中に姿をかくした。間もなく、その家の屋根から紫色の煙が上った。彼はきっと彼女がごみをもやしているのだろうと思った。三軒の家のうち、二軒だけには確実に人が住んでいるようだった。  彼は家に背を向けて、もう一度海を見た。海とはかなりの距離があったが、大波が押しよせて来たら、その三軒の家は一飲みにされそうな気がした。 「浜で若い男の人に会ったわ」  少女は、寝たままじっとしている父に言った。 (どんな男だね)  父は中風で口がきけないから眼で言った。 「そうね、お父さんの若いころの写真によく似た人だったわ、長いこと海を見詰めてじっと立っていたわ」 (ほう海をね、海が好きなんだね、その男は。そして、その男は、お前になにか話しかけたのか) 「いいえ、その人はなんにも言わなかった。でもさっき、塵を捨てに出たときその人は地図を拡げて見ていたわ。大きな地図を砂の上に置いて、まわりと見くらべていたわ、なにかこの付近のことを調べているような感じだった」 (地図をね)  父の眼は、二、三回続けて|瞬《まばた》いてから、視線を彼女からそらして宙に流した。眼の周囲の張りがなくなり、眼の光が曇った。 (なにか悪い知らせでなければいいが)  少女は父の眼の色をそのように読んだ。 「お父さん、心配することはないわ、あの人は絶対に悪い人ではないわ」 (絶対? 初めて会った人だし、まだ話したこともないのにそんなことが言えるものか)  父は少女にとがめるような眼をやった。  それまで黙っていたみどりが、少女に菓子をねだった。少女は立上ると、部屋の隅の古いタンスの上に置いてある|罐《かん》をおろして覆いを取って、キャンディを二つつまみ出して一つをみどりに与え、一つを紙を取って父の口に入れてやった。六畳の部屋の畳はすり切れていた。部屋の中央にだけ|茣《ご》|蓙《ざ》を敷いていた。タンス以外に調度品はなにもなかった。  隣り合わせている狭い台所に、なにやかやと積み上げられていた。この家は六畳一間と台所だけで、便所と井戸は外にあった。三軒の共同のものであった。 「暗いわねえ」  と少女はたった一つの窓の方を見た。彼女は直ぐカーテンと窓を開けて、日の光と風を同時に部屋の中に導いた。父の顔がなごやかになった。 「詩の本を読みましょうか」  父は大きく一つゆっくりと眼をつぶって見せた。父の枕元に箱が置いてあった。その中に読み古した雑誌や週刊誌が投げこんであった。その一番上に一冊だけ小さな本が置いてある。表紙が|手《て》|垢《あか》で光るほど読み古された文庫本だった。それでも、本の背の、上田|敏《びん》詩抄、茅野|蕭々《しょうしょう》 編という字だけは読み取れた。  少女はその本の中ごろを開いて読み出した。読んでいるのではなく、眺めているだけだった。少女はその詩抄の内容はほとんど暗記していた。父にとってはその詩を読んで貰うことが、彼に残されたたった一つの楽しみであることを彼女はよく知っていた。  少女は、抑揚をつけて詩を詠った。父は眼を閉じた。少女はさっきみどりと浜で砂遊びをしているとき、無意識に詩を口にしていたことを思いだした。海を見ていた青年がこっちへ向って歩いて来たから、詩を詠うのをやめたのだ。  そのとき少女は、いま自分が詠っていたのは、上田敏詩抄の中にある、シャルル・ボドレエルの「人と海」の一節だったことに気がついたのだ。 (どうかしたのか)  父が眼で少女に訊いた。少女は前よりも高い声で詠った。      2  中沢進助は自然という言葉を口にすることが好きである。 「観光とは|如《い》|何《か》にして自然を保護し、それを大衆に見せるかということだ。自然を保護することを第一に考え、人を寄せることを第二に考えないといけない。稲葉君、君はいまその下準備をしているのだが、実際は、その企画に参加している一人なんだから、調査中に気がついたことがあったら、どんどん言ってくれ、ここはこうしたらいい、ここにはこう施設をしたらいいというふうなアイデアが浮んで来たら遠慮することはないんだよ」 「ところがなんにも浮んで来ません。なるべくならあの白浜はあのままにして、砂遊び場として置いてやりたいと思ったくらいのものです」  彼は、少女とその妹が砂遊びをしている光景を思い出しながら言った。 「なにを言うのだ。そんなことを言っていたら、わが青島観光株式会社の存在の意味はなくなるではないか、わが社は自然を保護し……」  と、またさっきの本論をぶちまけようとする中沢を制するように稲葉が言った。 「夢でしょう課長、夢のある観光開発を考えろって言うんでしょう。でもあの広い海岸を、三日も四日も朝から晩まで歩きつづけていると夢なんて出るものではありません。出るのは汗ばかりです」 「そうか、この調査図面は足と汗で描いた図面だと言いたいのだろう。なるほどね」  中沢は、一つ葉浜付近の区分図に稲葉が書きこんだ現状との相違点を一つ一つ眼で追っていたが、たちまち重大なミスでも発見したように大きな声を上げた。 「これはいったいなんだ」 「それは疑問符です」 「そんなことは分っている。この疑問符は何を意味するかと訊いているのだ」  中沢進助の太い指先が、三軒の家のあるあたりに行ったとき、稲葉は、あの少女の長い髪が風に乱れて、彼女の白い|頸《くび》にまつわりついている光景を思い出した。 「どうやらその三軒は不法建築物のように思われます」 「ように思われますとはなんだ。不法建築物かそうでないかは、この地図ではっきり分っている。念のためにその家に立寄って、ちょっとカマを掛けて見れば分るし、それがいやなら近所の部落で訊いたって分る。その知恵がないのか。おれは君に一つ葉浜の観光開発という大きな宿題を与えたのだ。どんな細かいことでも見落してはならない」  稲葉はかしこまって頭を下げた。中沢進助が文句を言い出したら、落ちつくまで黙って聞いているより仕方がないと思った。足元に眼を落すと、リノリュームの床が、油を引いたばかりのように、光っていた。彼は光る海を思った。砂遊びをしている姉妹の姿がまた浮んだ。 「すみませんでした。これからすぐ行って調べ直して参ります」 「すぐ行く? そうか、それなら……」  中沢は、稲葉の調査要項に、その|他《ほか》なにか|洩《も》れたものはないかどうか探しているようだったが、それ以外に、調査の段階における欠点がないことがわかると、 「ぼんやり行って、ぼんやり訊いて、ぼんやり帰って来るのではなく、会社を出たときから帰って来るまで、ずっと考えるのだ、一つ葉浜観光開発を如何にすべきかを考えるのだ」  中沢はいささかいまいましそうにいった。 「課長……」  稲葉はそのときになってはじめて、彼の方から話しかけた。 「その一つ葉浜観光開発という言葉ですが、それをなんとか変えることはできませんか、だいたい観光開発という言葉がいやに|癇《かん》に障るんです」 「おれは、君がそういうことを言うことが癇に障るね、観光開発という言葉は既に常用語となっている。これ以外にうまい言葉があったら聞かせて貰いたいものだ」 「観光開発という言葉は、課長がいつも言うわが社の根本方針に違反するように思われるのです。自然を保護するということが、わが社の観光方針の第一義であるならば、開発なんていうのはおかしいじゃあないですか、開発というと、その前提として破壊が潜在するように思われるのです。だから、もっと保護の方を強調した、例えば一つ葉浜保存観光というような言葉を使ってみたらどうでしょうか」 「保存観光か、なるほどな、しかし大衆に呼びかけるのには弱い。観光開発に比較すると積極性がない」  中沢はそう言って置いて、 「いったいなんだ、君は」  と開き直った顔つきをした。この次には怒鳴るにきまっているから、稲葉は、一礼して、逃げるように部屋を出た。  秋は青島観光にとって、春に次ぐ書き入れ時であった。全国から集まって来る観光客をさばくためのバスが青島観光ビルの前の広場に並んでいた。騒音が大きなかたまりになってぶっつかり合っていた。  彼は背になにかわびしいものを感じながら、会社を出た。この観光シーズンになると、いつも感ずる気持だった。フェニックスの並木道を新婚のカップルが通るのを見ても、なにかしら、これに近い気持になるのである。観光客の多くは、宮崎市を去るに当って、|佳《よ》いところだ、美しいところだと|讃《ほ》めて帰る。その声が彼の耳にしばしば入る。そのときにも、彼の中には、むなしい風が吹き通るのである。  彼は一つ葉浜へ行く前に市役所によって、一つ葉浜のあの問題の土地のことを調べて置こうと考えた。が、彼は途中で気が変ってバスに乗った。バスの窓から見る空は曇っていた。  バスを降りてから彼はずっと歩いた。一つ葉浜の松林が見えて来ると、さっきまで彼につきまとっていた|憂《ゆう》|鬱《うつ》が次第に晴れて行った。  彼は松林の中の一本道を急いだ。空が曇っているから松林の中は暗かった。道の向うに明るさが少しずつ見えて来て、そして突然白い砂浜に立った彼は、砂浜を眼で探した。  あの少女がきょうもきっと妹と砂遊びをしているだろうと思った。  姉妹はいたが、砂遊びをしてはいなかった。|渚《なぎさ》に立って貝でも探しているようだった。彼女たちははだしだった。  彼は彼女たちの方へ真直ぐ歩いて行った。この前はあんなにまぶしかったのに、きょうはそれほどのまぶしさはなかった。曇っているからだと思った。海は全体に鉛色をしていた。波の堤はこの前来たときよりもずっと高く、崩れ落ちる波の白さが眼に痛かった。風は海から吹いていた。  彼は彼女たちの傍に行ったら、声をかけねばならないと思っていた。遊びに来たのではなく用務を帯びて来たのだから、黙っているわけには行かないと思った。しかし適当な言葉が見つからないうちに彼は、彼女たちのところに来ていた。  少女は、彼の接近に気がついているふうだったが、妹の手を持って、砂の上を歩きつづけていた。少女もその妹も足元の砂から眼を離そうとはしなかった。 「なにをさがしているの」  彼は少女に話しかけた。そして彼自身も彼女たちとともに、そこにあるものを探そうとした。濡れた砂と乾いた砂との境界を彼女たちは歩いていた。 「なんにもないな」  と彼は言った。白い砂浜は、砂時計の砂のようにこまかい砂でできていた。小石を拾おうとしてもないし、貝を探そうとしてもなかった。時折、小さな貝のかけらが落ちてはいたが、それはわざわざ拾い上げて見るほどのものではなかった。 「ほんとうにきれいな砂浜だ」  彼はひとりごとを言った。  濡れた砂浜と乾いた砂浜との境界線は曲率のゆるい幾何学的な弧を描いていた。そのような弧がつぎつぎとできて連なっているから、境界線は実際には|蛇《だ》|行《こう》しているように見えた。しかし、それは遠ざかるに従って直線に見え、ずっと先は、|汀《てい》|線《せん》に平行に走る地形の紋様に見えた。  彼は、少女が妹の手を引いて、その境界線の上を歩いていることに気がついた。なんとしゃれたきれいな遊びだろうと思った。 「どこまでも歩いて行ったらどこへ行きつくの」  彼は幼女に訊いた。 「こどもの国よ」  幼女は答えて、さらに続けた。 「そこへ行くと、ラクダもいるし、リスも、ハクチョウもたくさんいるの」  と幼女は答えた。  少女は幼女の答えに合わせるように微笑した。きっとその少女が、遊園地のこどもの国のことを幼女に話してやったのに違いないと思った。 「でも、方向がちょっと違うようだな」  彼は笑った。遊園地のこどもの国のあるのは、丁度正反対の方向だった。 「いいのよ、お姉ちゃんがつれて行ってくれるから、みどりはだまってついて行けばいいの」  みどりはそう言って姉を見た。みどりは彼を姉に取りついだような形を取った。しかし少女は、みどりの言葉をそのまま受け流して、知らない男と話そうとはしなかった。彼を恐れているのでも、警戒しているのでもなく、少女は彼と直接話をすることを恥ずかしがっているようだった。少女は彼の方を見ないようにしていた。少女は、彼の視線の影へ影へと廻りこもうとしていた。 「そろそろ帰りましょうよ、みどりちゃん」  少女がそう言って、彼の顔をまともに見たとき、少女はそれ以上汀線を歩くのを思い止まったようであった。松林の家の方を気にしているふうでもあった。少女は、つづけて何度か家の方に眼をやると、みどりの手を引いて汀線とは直角の方向に歩きだした。  松林と砂浜との間の草叢の中から、突然和服姿の女が現われた。派手な|服《な》|装《り》をしていた。そこらあたりの風物とは少しも合ってはいなかった。続いて、今度は洋装の女が現われた。二人は、並んでこっちを見て、少女達と彼との間隔を眼で測り、そこになにごともなかったことを見て取ると、まず、和服の女が少女たちに手を振り、続いて洋装の女が手を振った。姉妹はそれに答えて手を振った。二人の女が同時に姿を消した。  彼の前を歩いていた少女は肩から力を抜いて、ほっと一息ついたようであった。そして少女はなんとなくふりかえって彼の方を見た。彼はその機会を逃してはならないと思った。 「ちょっとおたずねしたいことがあります」  彼は思い切って言った。彼の氏名や会社名をはっきり示し、ここに来た用件も話そうと思った。彼はポケットから地図を出した。波の音が背後で聞えた。波の音と言えるほどの音ではなかった。じっと聞いていたら眠くなるような単調な音であった。 「私に用?」  少女が言った。 「はい、あの松林の家のことで、ちょっとお訊ねしたいのです」  彼は、たいへん悪いことを言ってしまったように、ハンカチを出して照れかくしに顔を拭いた。 「それであの男はお前になにを訊いたの」  女は、|宿酔《ふつかよい》で頭でも痛いのか、|眉《み》|間《けん》のあたりに深い|皺《しわ》を寄せて言った。 「この三軒の家は|何《い》|時《つ》ごろ出来たかって、そして、三軒の家には誰が住んでいるかって」  少女は継母の前にきちんと膝を揃えて坐っていた。少女の膝の高さの方が、|凌駕《りょうが》していた。少女は、悪いことでもして叱られているふうであった。少女のうしろに父が潤んだ眼を見開いて聞いていた。 「それでお前はなんて言ったの」 「この家は前に住んでいた人から買ったものですから、何時ごろできたものか知りませんと答えました。それから、いま住んでいる人たちのことはだいたい話してやりました」 「ばかだねえ、お前は、そういうときはなんでもかんでも知らない知らないってとぼけておけばいいのよ。しかし、青島観光が、なんでそんなことを訊きに来たのかしら、ひょっとすると、青島観光が|此《こ》|処《こ》にホテルでも建てようっていうのかもしれないね」  女は、少女にそれ以上のことは訊かずにしばらく考えていたが、 「もしそういうことになれば、そういうことになったときのことさ。なにがどうあったって、現に私たちはここに住んでいるからね、ちっとやそっとで動くものか、そうそう、今度またその男が来たらね、なんでここらあたりのことを調べているのか訊いてみるんですよ」  少女は、それに対して自信なさそうに|頷《うなず》いた。 「はっきりしなさい。お前は十七でしょう。十七にもなって、そんなじゃあしようがないじゃないの。もしその男が、どうのこうのと逃げ口上をぶつようだったら、おかあさんがそのうち伺いますというんだよ、それから、その男の名刺を貰って置くことだね」  少女は稲葉の名刺は既に貰っていた。生れてはじめて貰った名刺だった。彼女はそれを、詩抄の中に|挟《はさ》んで置いた。継母が詩抄を読むことは絶対にないから、そこに挟んで置くのが安心だった。物が言えない父にはその名刺を見せて置いた。父は眼で頷いた。特にその名刺に対してそれ以上の反応は示さなかった。少女はその名刺を隠していることで、父と共通な秘密を持ったような気がした。継母に対するささやかな反抗であった。 「いいかね、恵津子、今度その男が来たら、きっと名刺を貰って置くのだよ」  女は、強く命令するときにだけ、お前というのをやめて、実名を呼んだ。少女は恵津子と呼ばれたときは、お前と呼ばれるよりも、もっと大きなへだたりを継母との間に感じた。少女は黙っていた。 「ほんとうにしっかりしなければだめなんだよ、お前も。私だって生きることにせいいっぱいですからね。この人とお前たち二人を食べさせることは容易なことじゃあないんだよ。この人の残したものと言ったら、この不法建築の家だけでしょう。この人が持っていた本は全部売払ってしまったし、もう売るものはなんにもないんだから」  女は少女の父の方へ眼をやった。少女の父の顔には表情がなかった。聞き流しているふうだった。 「これでも、お前の母さんと一緒だったころはちょっと名の知れた詩人だったそうだけれど、もうなにもかもおしまいさ。お前の母さんはいい時死んだものだ」  女は、そう言って、立上りぎわに、 「ほんとうにこの家には売るものはもうなんにもないかしら」  女は鋭い眼を少女の身体に投げた。少女は継母のその眼の光に射すくめられたように、頭を下げた。恐怖が深いところを走った。      3  彼が調査した結果を詳細に記入した三千分の一の、一つ葉浜付近の地図は形を変えて青写真になっていた。青写真になったばかりではなく、彼が見せられたそれにはさまざまな線が入り、各種の色で区分されていた。 「どうだね、稲葉君」  と中沢進助が言った。そのあとに文句はつかなかったが、稲葉が出張している三日間にそれを仕上げたことを得意がっていることは中沢の顔色で読めた。  稲葉は一つ葉浜と松林との間を海岸線に沿って一直線に走る極彩色に塗り分けられた帯に眼を止めたが、それだけではなんのことだか分らなかった。 「砂浜と松林の境目の、君の調査によると雑草が生えている地帯に、ハマという名のつく植物だけを集めて花壇を作ろうという案だ。元来、ハマという名のつく植物は浜を好み|汐《しお》|風《かぜ》に強い。その植物の群落をここに作ろうというのだ。ハマと名がつく植物と言えば一般的にはハマユウ、ハマナスぐらいのものだが、実際には十数種類もあって、しかもハマに咲く花はどれもこれも美しい。ハマボウ、ハマベノギク、ハマヒルガオ、ハマナデシコ、ハマナス(又はハマナシ)、ハマゴウ(又はハマシキミ)、ハマグルマ、ハマギク、ハマカンゾウ、ハマユウ(ハマオモト)、ハマエンドウ、ハマアザミ(ハマゴボウ)、ハマボウフウ、これらの日本の浜に咲く花の他、外国の浜に咲く花も若干混えて、浜花壇を作ろうというのだ」  中沢は地図の脇に置いたメモから眼をはなして一息入れた。 「千ヘクタールに近い松林の中には、一方通行のサイクリングコースと歩道を作る。自動車と名のつく物はいっさいシャットアウトする。松林の入口には貸し自転車店を作る。また、松林の適所にレストハウスを設ける。海の見えるところにも簡易なレストランやレストハウスを作る。入場料は取らない。すべて自然や風致を破壊しないという条件で、関係方面の許可を得て実施するのだ」 「驚きました」  稲葉は頭を下げた。浜の松林の中にサイクリングコースを作るアイデアはそう目新しいことではないが、浜辺にハマと名のつく植物の花壇を作るという構想は美しくて雄大だった。 「このアイデアがいいか悪いかは大勢の意見を訊いてみなければ分らないことだが、まずその一案をここに出したのだ。実のところこの案を思いついたのは社長だ。社長が今年の夏、あの浜を散歩しているとき、少女がその妹らしい女の子の髪をハマヒルガオで飾っているのを見たとき、一つ葉浜にハマのつく植物の花壇を作ろうと思いついたのだ」 「少女とその妹……」  稲葉は、おそらく、社長が見た少女とその妹というのは、あの姉妹のことであろうと思った。 「心当りがあるのか」 「たぶん、この家の姉妹ではないかと思います」  稲葉は少女の家を指さして言った。 「不法建築物に住んでいる子供たちのことか、その親はなにをしているのかね」  中沢は、ついでながら聞いて置こうというふうであった。稲葉は、あの日、少女から聞いた話をかいつまんで話した。  少女は十七歳で、妹は三歳、父は中風で寝たままである。少女の継母は市内のバーのホステスをしている。隣家には、六十を幾つか過ぎた老婆と、三十五、六の娘が住んでいて、その女と、少女の継母とは同じバーに勤めている。帰りは夜遅くなるので、二人でタクシーに乗って帰って来ることなどを話した。 「あとの一軒はどうなっているのだ」 「中年者の夫婦が住んでいたが、このごろはめったに姿を見せないということです」 「ずいぶんとくわしく調べたものだな、その少女に訊いたのか」  稲葉は頷いた。彼は立入ったことを少女に訊いたことを、課長に叱られるかもしれないと思った。 「その三軒は、いずれ立退いて貰うことになるな。おれは、この三軒の家のあるあたりに、レストハウスを作ろうと思っている」 「レストハウスよりハマヒルガオの花壇の方がいいでしょう」  稲葉は、ハマヒルガオの淡い紅色の花と少女の顔とを頭の中に並べてみた。あの少女の顔はハマヒルガオだ。  派手な顔ではない、清楚な、ひっそりと咲く花でありながら、光を恋しがる花だ。淋しい花だけれど、どこかに強さを感ずる花だ。汐風に耐えて浜に咲く花だからかもしれない。 「ハマヒルガオの花壇は、このハマ花壇のベルトのどこかに設けるつもりだ。なにも、ここでなければならないということはあるまい」 「でもいま、このあたりにはハマヒルガオが多いようですから、そうしたほうがいいと思うんです。植物は適性地を選ぶべきです」  稲葉は三軒の家のあたりを指さした。 「まだ咲いているのか」 「もう咲いてはいません、はじめて行ったとき、残り咲きのハマヒルガオが咲いていましたが、いまはあの付近の雑草は枯れかかっています」 「ハマヒルガオはやはり雑草なんだな」 「ハマと名のつく花のほとんどは雑草ですよ」 「だが、ハマヒルガオは特に雑草だ。或いはこれだけは花壇に植えるのを止めた方がいいかもしれないな」 「それには反対します。一つ葉浜からハマヒルガオを取ったら、あとにはなにも残りません」 「妙にハマヒルガオにこだわるじゃあないか」 「こだわるのは課長です」 「その少女とハマヒルガオとなにか因果関係でもあるのか」  中沢は探るような眼で稲葉を見た。 「なんの関係もありません。あるとすれば、彼女たちが、そこを立退かねばならないってことでしょう」 「それは当然なことだ、開発の許可がおりて、いよいよこの辺一帯に手をつけることになれば、真先に、この三軒には立退いて貰わねばならない」  中沢は地図の上を、ゆび先でごしごしこすりながら言った。 「だが、追立てるって言ったような立退かせ方をしてはいけない。行く先がなければ、落ちつく先を探してやらねばならないだろう。場合によってはいくらかの立退料のようなものを出さねばならないかもしれない」  中沢は地図から目を離して、 「きみは、いまそのことまで考えなくてもいいのだ。そういうことは、その時になって考えればいいことなのだ。この三軒のことより、この広い地域には私有地がいっぱいある。その方が問題だよ、一つ葉浜を開発して、観光客がどっとおしかけて来ると、その私有地には、土産物売場とか飲食店が|簇出《そうしゅつ》する。それが風致を害する。せっかくすばらしい自然公園を作ったところが、そういう低俗なものが出て来ると、ぶちこわされてしまう。だから、私有地を買上げるか借り受けるかしなければ、開発しても意味がないことになる」  中沢は彼の持論をひと通りぶったあとで、 「もう間もなく冬になる。冬になっても、一つ葉浜はある。君は冬の日向灘をなんとかして観光に活かすことを考えてみてくれないか。冬の季節風が強くなると、あの海岸に花壇を作ることはむずかしくなる。風を防ぐような囲いを作るとなると、自然の環境を破壊することになるかもしれない。だいいち、風致を損う。自然をなるべく自然のままに置いて、しかも冬を活かす方法はないかどうかを考えねばならない」 「条件がむずかしいですね」 「むずかしいが、当ってみる必要がある。寒いだろうが、これからちょいちょい、一つ葉浜へ行って見てくれ、ぶらりと行けばいいのだ。社長がハマヒルガオを見て、ハマのつく花壇を思いついたように、きみもまたなにか新しいアイデアが出るかもしれない」  稲葉は、冬の日向灘に対面したことはあったが、これと言って、変った感懐はなかった。だが今度は、なにかあるかもしれない。なにもなくとも、あの少女と妹が白砂と遊んでいるに違いない。  砂浜で遊ぶ少女と妹の姿を想像すると、風が吹きすさぶ浜であっても、寒いとは思われないような気がした。 「稲葉君、なにを考えているのだ。ハマヒルガオは冬は咲かないだろう」 「はい」 「すると少女のことだな、そうだ、おれはまだ、君から、その少女について詳しい報告を受けてはいないぞ、その少女のことをもっとよく話してくれ」  中沢はからかうような眼で言った。 「ハマヒルガオがとび抜けて美しい花ではないように、その少女は、課長のおこのみ[#「おこのみ」に傍点]に合うような美人ではありません。しかし……」  稲葉は、少女のことをそれ以上いうまいと思って口をつぐんだ。      4 「この前あなたと会った日は風が強かった」  彼が言った。 「二月の中ごろだったかしら」 「その風もずっと弱くなった」 「あれからもう三月も経ってしまったわ」  少女はみどりを膝の上に抱いて、砂の上に坐っていた。少女は、彼との間も風が吹き通っていた寒の日のことを思い出していた。 「春の海ってこんなに美しいものかなあ」  彼はつぶやいた。 「海は静かなときはいつだってきれいだわ」  彼は少女の言葉に頷いた。太陽は彼の背の方にある地形の陰に沈もうとしていた。だから、海に沈む真赤な太陽も、その太陽と共に輝く夕焼けの海も見ることはできなかった。滑らかに光を浮べた海の向うの灰色に煙った水平線には、下化粧した夜の顔がはっきり見えていた。水平線上の灰色の壁が、やがてくすんだ夜の色に塗りかえられたときが夕暮れなのだ。 「風が|凪《な》いだようだ」 「朝のひとときと、そして夕のひとときが休息するときなのよ、海は息を止めて、ほんの一時間ばかりおねんねするのだわ」  少女が言った。 「みどりはまだおねんねしない」  とみどりが言った。 「みどりちゃんはまだまだおねんねする時間ではないわ、でも海はいまおねんねしなければいけないの」 「海はなぜそんなにはやくおねんねするの」 「きっと一日運動して疲れたのでしょう」  海はほんとうに息を止めたようだった。一面に油を流したように光っている海には当分ざわめきは起らないようだった。 「お父さんはどう」 「それがよくないの、ずっと私がついていてやらないといけないのよ、もしかしたらお父さんはもう駄目かもしれないわ」 「此処では医者を呼ぶにもたいへんだな」 「なかなか来てくれないのよ」  少女は話が父のことに触れると、急に父のことが不安になったらしかった。 「みどりちゃん、お父さんがひとりぼっちで可哀そうだから帰りましょうよ」  それは、少女が彼に、なぜそこを立たねばならないかの言いわけであった。彼は、さっき少女の家の窓に立った。少女は彼の足音に気がついて、みどりを抱いて出て来たのだ。砂浜に出て、まだ三十分とはたっていないのに、もう帰らねばならないのは、ほんとうに少女の父が悪いのかも知れない。 「お母さんは」 「きのう出たままなの」 「ときどきそういうことがあるのですか」  少女は答えなかった。彼女の顔に深い悲しみが見えた。  二人はみどりの手を両側から持ってやって、砂浜をゆっくりと家の方へ歩き出した。 「私たちが立退くのは何時ごろになるのかしら」 「まだ、そこまで行ってはいないんですよ、お役所の手続きが済むのは早くて今年の夏ごろかな。だから立退きの段階はずっと後になるでしょう。でも心配しないでもいいですよ、あなた方の行く先はなんとかします。なんとかしなければならないと課長も言っていました」  彼はそのとき中沢課長の顔を思い浮べ、会社を出るとき中沢に、ハマヒルガオが咲いたかどうか見て来るように言われたことを思い出した。 「もう五月だ。ハマヒルガオがそろそろ咲くころですね」 「あ、あの花のこと、もう咲いているわ」 「きれいな花だね」 「ここだけにしか咲かない淋しい花だわ」 「花壇にしたらどうだろう」 「きっとその前に枯れてしまうでしょうね」 「ハマヒルガオは強い花だ」 「でもそれはここにあるからですわ、花壇にすれば、ハマヒルガオではなくなるのではないかしら」 「それはどこに咲いてるんです」 「あそこに、あの藪にからんで咲いているわ」  少女の指さした藪の中には隣家の老婆が|胡《う》|散《さん》臭そうな眼で彼を見詰めていた。近づくと、彼に向けていた老婆の姿勢は、妙に反抗的に見えた。老婆はとんでもないことを突然口走るのではないかと思われた。めったに|櫛《くし》を入れたことのないような|白《しら》|髪《が》頭が、そろそろ暗くなりかけた松林を背景にして、左右に揺れていた。老婆には他人を見るとき首を振る癖があるようにみえた。  彼は、そこで少女と別れた。さよならも言わず、ただちょっと手を振っただけだった。その別れ方が、この前と同じであったのを思い浮べながら、彼は松林の中の砂の道を歩いていた。背後に海の音が彼を呼び戻すように鳴っていた。その音は、彼の心の中の不安を|掻《か》き立てるものであった。彼は、彼女の父を見舞ってやったほうがいいのではないかと思った。一度は立止ったが、彼には引返すだけの勇気は起らなかった。  少女は窓から中を|覗《のぞ》いて父が眠っているのを見ると、すぐには中に入らず窓のところに立っていた。もしかすると彼がもう一度引き返して来るかもしれないと思ったからだった。彼が来たら、父に会わせてやりたいと思った。ものを言えない父だったが、少女が彼のことを話すときは、彼のことに非常に興味を持ち、できたら彼に会ってみたいものだという眼つきをした。少女は、みどりに家に入ろうと言われるまで暮れ|滞《なず》む外に立っていた。少女は家に入って、|洋灯《ラ ン プ》をつけた。父の寝顔は安らかだった。いつも、この時刻に父は眠った。深い眠りだったが眠るときは一生懸命に眠っているような感じだった。少女は父の|鼾《いびき》がいつもよりいくらか高いかなと思った。特に気にするほどのことはなかったが、その鼾の音は、夕食の用意をしている間中彼女の気になった。  夕食と言っても、炭をおこして、あり合せのものを温めて食べるだけのことであった。少女とみどりの食事とは別に、父の食事があったが、それは今でなくてもよかった。眠っているときはなるべくそっとして置いてやらなければならないことを彼女はよく知っていた。  少女とみどりの食事はそう長くはかからなかった。後片づけをして水を汲んで来ると、少女にはもうその夜の仕事らしいものはなくなっていた。少女は絵本を拡げてみどりに読んでやった。みどりが眠ってしまってからは、ほんとうになにもすることがなかった。せめてラジオかテレビがあればいいのにと少女は思った。いつものことだった。少女は、父の枕元の箱の中を探して、継母が持って来て投げこんで置いた週刊誌を取り上げた。それが少女の唯一の外界に向った窓であった。だが、どれを取り上げて見ても、それらはすべて隅から隅まで読み尽してしまったものだった。少女は箱の中から上田敏詩抄を取り上げた。内容は暗記していても、本を開いて黙読すれば別な味があった。その文庫本の|栞紐《しおりひも》は、半ば擦り切れていたがまだちゃんとついていた。昼間見ると茶色の紐だったが、夜目には黒っぽく見えた。  少女がその詩抄を手にしたとき、真先に開くところはきまっていた。手加減でそこを開いた。シャルル・ボドレエルの詩の一節の「人と海」であった。シャルル・ボドレエルという人がどこの国の詩人で、どういう生涯を遂げたのか少女は知らなかった。父の元気なころ、詩の読み方と詠い方を教わったけれど、詩の内容については、読んでいるうちに自然に分るものだと言って教えてはくれなかった。まして、作者について触れるようなことはなかった。少女はその夜も、詩抄の三十頁目を間違いなくあけた。「人と海」という文字が眼に入ると少女は、彼女の母がその詩をもっとも好んで、美しい声で詠ったという父の話を思い出した。  少女はその詩を黙読した。父の鼾が前よりも高くなったような気がした。気のせいかもしれないが、その間隔も短くなったようだった。少女は詩を読むのを止めて父の顔を見た。いつもと特に違ったところはなかった。少女はその詩を最後まで読んでから、その本の末尾を開いた。その本には末尾に目次が載っていた。『目次終』と印刷されたそのあとに八行ぐらいの空白があった。そこに母の書いた字があった。万年筆の跡は変色して黒くなっていた。 [#ここから2字下げ] 己れに負けること|勿《なか》れ、心にそむくこと勿れ [#ここで字下げ終わり]  少女はその母の筆跡をじっと見詰めながら、母がどんなひとであったかを思い浮べるのである。少女は、母が書いたただの言葉とも詩ともつかない短文を声を上げて読みたいと思った。父のほうをちょっと見てから、少女は居ずまいを直して、そして低い声で詠った。  父が眼を開いた。そして少女の口元を見つめていた。少女は、その父の眼つきで、父が亡き母のことを追慕しているのだと思った。父の顔に感動の反射が光ったように見えた。そして父の眼に|泪《なみだ》が浮んだ。少女は詠うのを止めた。父が口を動かした。水を求めるしぐさだった。  少女は台所に立って、さっき汲んで来た水を吸い飲みに入れて父の口にそそぎこんでやった。父は満足したようであった。父がなにか彼女に言おうとした。父が言おうとすることは父の眼を見れば少女にはたいがい読めたが、その夜の父の眼はいつもと違っていた。なにか重大事を、おそらくそれは彼女の身に関する重大事を言おうとしているらしかったが、少女にはどうしてもそれを理解することはできなかった。 「お父さんどうしたの、いったいなにがいいたいの」  父は言えない口からなにかを語ろうとした。動けない身体を動かそうとした。 「いけないわ、お父さんそんなことをしては」  父は彼女のひとことであきらめたようだった。父は自失した顔で天井を見つめていた。父が発作を起したのはその数分後であった。父は苦しそうに|喘《あえ》ぎながら、口からなにかを吐いた。声にならない声が|咽《の》|喉《ど》の奥から漏れた。動かない手足をばたつかせようとした。顔が|歪《ゆが》んだ。  少女は突然のことでどうしていいか判断がつかなかった。少女は隣家に走って、まだ起きていた老婆を呼んで来た。 「これはいけないよ、お医者さんを呼んでこないと死んじゃうよ」  老婆は言った。老婆の声でみどりが眼を覚まして泣き出した。 「お医者さんに電話をかけて来る。おかあさんにも知らせないといけないわ」  少女はそう言った。自分がしなければ、誰もしてくれる者はいないのだと思った。少女は壁に書いてある医者の電話番号と継母が勤めている店の電話番号を写し取ると、財布と懐中電灯を持って外へ飛び出した。  少女は松林の道を市内に向って走った。海の音がどこまでも彼女を追った。松林の中は夢中で走った。怖いともなんとも思わなかったが、橋を渡って|田圃《た ん ぼ》道に出るとかえって怖かった。市街地に出たときには息が切れていた。少女は店をしまいかけている煙草屋の店先にとびこんで電話を貸してくれと頼んだ。その店の主人は懐中電灯を片手に走って来た少女のただごとではない様子を見て、黙って電話を貸してくれた。少女は中学を出るとすぐ勤めに出された。父が寝こむまで商社で働いていたから、電話の掛け方は心得ていた。  かかりつけの医者に電話をかけて父の容態を告げると、しばらく待たせてから、別な女が電話に出て、先生は不在だから、ほかのところに頼むようにと言って邪険に電話を切った。居留守を使っている様子だったが、少女にはそれ以上どうすることもできなかった。ほかの医者にたのめと言っても、ほかの医者がどこにいるのか知らなかった。少女は思い余って、継母の店に電話を掛けた。騒々しい音楽と女の|嬌声《きょうせい》が聞えた。電話に出た女はかなり酔っていた。継母の名を言ったが、そんな女はいませんと言った。電話は向うから切れた。少女は、継母が店では別な名前を使っているのを知らなかった。居ないと言って電話を切られたことだけが、彼女の胸を痛めつけて、それでは一つ葉浜の女を呼んで下さいという才覚は出なかった。もう一度電話を掛け直そうという思案も出なかった。少女の頭には死に|瀕《ひん》している父の顔だけがあった。父を助けるには継母をつかまえねばならないと思った。少女は継母の勤めている店へ行こうと思った。その店のある方向はだいたい見当がついても、とても歩いて行けそうな距離でないことが分っているだけに、どうしていいのか|咄《とっ》|嗟《さ》の妙案は思い浮ばなかった。  空のタクシーが近づいて来た。少女は無意識に手を上げた。自動車は止ってその反動のようにドアーが開いた。 「中央通りの近くなんです」  少女は乗りこんでから言った。 「いまごろ、なんの用があって、そんなところへ行くのだね」  運転手は、夜更けに懐中電灯を片手にうろついている少女に興味を持ったようだった。 「お父さんが死にそうなんです。おかあさんを探しに行くのです」  そして少女は、継母の勤めている店の名を言った。  運転手は、少女の顔をもう一度見直してから、速度を上げた。タクシー代を運転手に払うと財布の底にはあと二十円しか残っていなかった。  その店は、一人がやっと通れるような狭い階段を登りつめた三階にあった。扉は半開きになっていた。中から女たちや男たちの声が聞えて来た。少女にはすぐ入って行けそうもなかった。少女はそこでしばらく|躊躇《ちゅうちょ》していたが、思い切ってその暗い|洞《どう》|窟《くつ》に一歩足を踏みこんだ。多勢の人がいるようだったが、暗くて中はよく分らなかった。店の隅に、やっと一人が踊れるくらいの狭い舞台があって、和服の女が踊っていた。照明はそこに集中され、客席の方は暗かった。  少女は、その和服の女が継母ではないかと思ったが、横顔が似ているだけで、着物も顔も違っていた。女はレコードに合わせて踊りながら、客席の方へ身を乗り出し気味に両足をふんばって、身をかがめた。|裾《すそ》が開いた。前の客席にいる男たちの手から、紙で作ったヒコーキが女の裾の拡がりに向って投げこまれた。だが、女は真紅の裾裏をひるがえしながら、紙のヒコーキを払い落していた。男たちが、紙のヒコーキの攻撃を止めると、女はかなり大胆に裾を拡げて男たちに挑戦した。女は奥深いところにあるなにかをちらつかせながら嬌然と笑った。音楽は無視されていた。男たちは次々と前に乗り出して、懸命にヒコーキを飛ばした。それは百円札で作ったヒコーキだった。 「千円札のヒコーキでないと奥の院には届かないわ」  誰かが叫んだ。客のうちの二人が、ほとんど同時に千円札で作ったヒコーキを飛ばした。女の身体がそのヒコーキに向って大きく揺れて、ヒコーキは奥深いところへ吸い込まれて消えた。拍手と笑い声が起った。それをしおに、客が一人立上り、その客を女が送って出て来た。 「なによ、あんた」  女は少女に言った。 「おかあさんを呼んで下さい、お父さんが死にかけているんです」  少女の思い余ったような声が酔払いの男をひきつけた。酔払いの男は、舞台で次の踊りを始めようとしている女に向って言った。 「おおい、ママさん、あんたの父ちゃんが死にかけてるよ」  そのどら声で、店にいる客も女もいっせいにこっちを見た。暗い店の奥から、女がばたばたと駈けて来て、少女の腕を取ると階段を引きずり降ろすように外へ連れ出した。少女の隣家の女だった。 「おかあさんは?」  少女は泣き声で訊いた。 「さっきお客さんと一緒に外へ出たけれどすぐ帰って来るよ、いったいどうしたというのよ、こんなところまで来てさ」  女がとがめるように言った。 「お父さんが死にそうなのよ、お医者に電話したけれど来てくれないって……」  あとは言えなかった。少女は大きな声を上げて泣きたかった。父はもう死んでいるかも知れないと思った。      5  春から夏にかけては彼にとってもっともいそがしい季節であった。彼が所属する企画宣伝課は、宣伝という二字がついている手前、企画だけをやっているわけにはいかなかった。そうかといって、新聞や雑誌やテレビに広告を出す仕事をやるところでもなかった。宣伝はしなくても、観光客はいくらでもやって来た。彼等が宣伝しなくても、外部が書き立ててくれるからであった。彼等が観光シーズンになって忙しいのは実はこの外部に対してであった。宮崎県の観光を取材すると称して各種各様の人間がやって来て、青島観光に案内を求めた。それが知名人だったり、知名紙であった場合は、企画宣伝課の誰かが案内に立たねばならなかった。その結果が青島観光の宣伝になる場合もあったが、一週間も案内に立たされた挙句、二行か三行の記事に止まることもあるし、宣伝どころか、青島観光への冷たい批判となってはね返って来るものもあった。 「稲葉君、つらいことがあっても我慢しなけりゃあならない。大きな眼で見れば、いつかは宣伝効果となって現われて来るものと思わねばならない。無理を言われても、けっして嫌な顔をしちゃあいけない」  観光開発の企画にかけては鬼のように働く中沢進助が、彼の外交員的反面を見せるのはこの季節であった。彼は好まざる客であっても、常に笑顔を見せながら深夜まで酒のつき合いをした。翌日の中沢は、終日、苦汁を飲まされたような顔をしていた。課員はこういう日の中沢を敬遠した。  稲葉が、ある雑誌社の取材旅行の案内を終って帰社した日の午後も、中沢は宿酔の翌日らしく眉間に深い溝を作って書類に眼を通していた。  稲葉はおそるおそる近づいて行った。 「稲葉君、君のところに、女の子から二度ほど電話があったぞ」  中沢は、物憂い声で言った。 「女の子?」 「女の子から電話があってもなにも驚くことはないさ、だが、その女の子の電話はなんとなくへん[#「へん」に傍点]だった。君が出張していないというと、絶望的な声でいつごろ帰るかと訊くんだな。二度目にその女の子から電話があったのはきのうだ。名前を訊いたが言わないんだ。いいんですというんだね。なにかたいへん困っている様子だった」  彼は、その電話はあの少女からのものだろうと思った。それ以外の誰でもあり得ないような気がした。あれ以来もう一カ月近く一つ葉浜には行っていない。その間になにかが起ったのかも知れない。 「それでどうしたのでしょうか」 「それだけだ。偶然、その女の子から君に電話が掛って来たとき、おれが電話の傍にいたのも不思議な縁と言えば縁のようなものだ。心当りがあるのか」  彼は下を向いた。当てがあると言えばあるようであり、ないと言えば無いのも同然だった。 「きょうの午後、きみが帰って来ることを知っているから、また電話が掛って来るだろう」  稲葉は時計を見た。退社時刻まで二時間ほどあった。彼は自分の席につくと、気になっていた一つ葉浜観光開発の許可申請について、その後の進展があったかどうかを、市の都市計画課、県の造林課、港湾課、所轄営林署などの担当官に電話で問合せた。近いうち許可がおりるだろうとはっきり言ってくれる者がいた。その明るい見とおしについても、去年の秋以来の成果が眼の前に実現されようとしていることについても、それほど彼の血をわかせなかった。彼は電話を掛けている間中、他の電話を気にしていた。  彼は退社時刻を正確に守って、会社を出ると、すぐタクシーを拾った。あの少女が電話を掛けて来たのだとすると、よほどのことが少女の身辺に起っているのに違いないと思った。いろいろと考えて見たが、それがなんであるか予測はできなかった。とにかくこの一カ月の間になにかが起ったのだ。タクシーは窓を開けて走っていた。道路の両側に咲いている花のかおりが自動車の中に流れこんで来た。彼はそのにおいを常に無く強く感じた。宮崎市は花の季節だった。主要道路の両側には、各種の花が咲いていたが、毎日住んでいる者にとってはそのかおりはそれほど新鮮なものではなかった。それなのに──彼はちらっと窓外の花に眼をやった。なぜいま花のかおりをむせぶように感じたのだろうか。彼はそのことを心の中の少女に問いかけていた。  一つ葉浜で自動車を降りて、彼は走るようにして砂浜に出た。砂浜のどこにも少女とその妹はいなかった。少女の家へ行って見ると、たった一つの窓には雨戸がしめてあった。急いで裏に廻ろうとすると、隣の婆さんがみどりの手を持って立っていた。 「お前さん、やっぱり来たのかえ」  婆さんは首を振りながら彼に言った。濁った声だった。婆さんの声に押し戻されるように、彼は閉じられた窓の下に立った。 「留守ですか」 「ああ留守だ。あの娘はもう帰っては来ないかもしれないよ。帰って来たとしても此処にそう長くはいないね」  老婆は言った。 「どこかへ引越すんですか」 「引越しだって? 誰が引越すものか。青島観光が三百万円も引越し料を出すというのに引越す手はないさ。引越すのは、あの娘一人さ。邪魔なんだよ。あの女には邪魔だから売りとばしてしまうのさ。なんの血のつながりもない娘だからね」  老婆の首の振り方は、話の進むに従っていよいよ小刻みになり激しくなった。 「なあにね、あの女は亭主が死ぬ前から、今の男とくっついていたんだよ。亭主が死ぬと、四十九日も済まさないうちに、もうその男を引張りこんでね、子供たちを砂浜に追い出して、真昼間から抱き合っているのだからね。こうなると、二人の子供が邪魔になるってわけさ、それに、その男というのが、たいした奴でね、女を売って食っているというしたたか者さ。わしはね、この窓の下で、二人が話しているのを聞いたよ。まずあの娘を遠くに売払って、その次には青島観光から三百万ほどの立退料を取って、それからこの子をどこかに里子に出して、二人で手に手を取って大阪へずらかろうっていう話を聞いたんだよ。よくよくの|悪《わる》だね、あの二人は」  老婆は一息ついた。 「それできょう、あのひとはどこへ行ったんです」 「見合いだよ、見合いっていったって、あたり前の見合いじゃあなくて、玉を買い手に見せる見合いってわけさ。話がきまればそのままつれて行かれるかも知れないが、折り合いがつかなきゃあ、帰って来るかもしれないな、しかしどっちみち、あの娘は売られるさ」  彼は老婆の顔を見た。頭がおかしいというふうには見えないけれど、老婆のいうことは、彼がまだ生れなかった前の時代のことのように思われた。しかし、少女の身に、どっちみち、危険が迫っていることだけは、その話で読めた。 「お前さん、あの娘に|惚《ほ》れているのだね」  老婆は、くしゃくしゃにゆがんだ、皮肉とも|阿《あ》|諛《ゆ》とも|愚《ぐ》|弄《ろう》ともつかない顔で、ヒッ、ヒッ、ヒと笑った。歯のない口の奥に暗い空洞が見えた。 「惚れているなら駈落ちするさ、こうなったらそれ以外に手はないよ」  そして、婆さんは肩を振るようにして、近づいて来て、手を出した。 「これだけ言わせて、ただで帰るって手はないよ、ねえ、お前さん」  老婆が彼の前で開いた乾いた掌には無数の皺が寄っていた。  彼はその老婆の掌に、銀貨を二つ置いた。みじめな気持だった。少女の家の前の草叢にハマヒルガオが咲いていた。アサガオによく似た淡紅色の花は夜に向って|萎《しぼ》む用意をしていた。 「おにいちゃん、もう帰るの」  みどりが言った。 「ああ、もうすぐ夜が来るからね」  彼はみどりにそう答えたとき、みどりの眼が、いつになく不安におののいているのを見た。単に彼が帰るかどうかと訊いたのではなく、帰って貰いたくない気持をうったえているのだと思った。みどりにも、なにかしらの危機感が分るのかもしれない。  彼は松林の中をずっと考えながら歩いていた。松林を出るまでに、これからどうしたらいいかを決めねばならないと思った。背後に大砲のような波の音が聞えていた。台風が近づいているからだと思った。松林を出ると、もう波の音は聞えなかった。前に広々と田圃が続き、その向うに街の灯の中へ|飄然《ひょうぜん》と出て行く中沢進助の後姿を思い浮べた。そうだこの話を中沢に話そう。中沢は少女を救うべき妙案を示すかも知れない。少なくとも話さないより話した方がいいと思った。彼は街に出ると、すぐ会社に電話を掛けた。その電話機が、一カ月ほど前に少女が継母に電話をかけたものだとは知るよしもなかった。中沢は会社にまだ残っていた。 「話があるんだって、それじゃあいつものところで待っている」  いつものところというのは、中沢がときどき課員たちをつれて行く飲み屋であった。彼は電話を切ってから、ほっと一息ついた。  飲み屋ののれんをくぐると、中から中沢がようと声を掛けて来た。既に一本はあけていた。 「話ってなんだ」 「留守中に掛って来た電話の話なんです」  稲葉はそう言いながら、中沢の右の椅子に腰をかけた。そこはカウンターの一番右端だったから、話をするのに好都合だった。 「あの女の子のことか」  中沢の眼鏡が光った。そうですと答えようとして稲葉は、あの少女が電話を掛けて来た本人かどうかまだ確かめてはなかったことに気がついた。稲葉自身がそう思いこんでいるに過ぎなかった。  稲葉は中沢の耳元でぼつぼつと話した。話す筋書はここまで来る間に考えていたから、比較的要領よくまとめて話すことができた。 「なるほどね、そんなことがあったのか。それで一つ訊きたいことがあるが、きみはその少女に惚れているのかね」 「冗談じゃない、ぼくはただ……」 「ただの感傷か、そうであってもいいが、問題は感傷と仕事を一緒にしちゃあいけないってことだ。おれたちは、その少女を助けるとか助けないとかいうことに頭を突込むべきではないが、その少女の一家があそこを立退くことには積極的に努力すべきだ。うちの会社はバスの車掌を募集中だ。たとえばその少女をうちの会社に採用するとしたらどうだ。彼女だけでもうちの会社の女子独身寮に引っ越して貰うことができる。家族三人一緒でないと困るということになると、直ぐにはむずかしいが、少女がうちの社員ということになれば、その家族を社員寮に入れることは絶対不可能ではない。その少女の継母の職業については特にどうこういうことはない。よくある例だ。それから頭を振る婆さんの話はどこまで信用していいか分らない。とにかく、その少女の継母に会ってやろう。明日は会議があって行けないが、明後日の午後には行けるだろう」  中沢はこれですべて済んだというふうな顔で稲葉に酒をすすめながら言った。 「明日の午前中の会議は、|串《くし》|間《ま》市の|樟《くす》の自然林を観光開発のテーマとしてどのように取り上げるべきかという会議だ。樹齢七、八百年という樟の大木が七ヘクタールにわたって密生しているところは他には類を見ない。この密林の中に一本道がある。そしてこの密林の南側一帯は畑になっている。畑に立って見上げると亭々と|聳《そび》える樟の原生林から、樟特有のあの|香《かぐわ》しいにおいがただよって来る」  中沢は樟の原生林のことを夢中になって話した。 「きみには、明日の会議の記録を取って貰おう。午前中は樟の原生林の会議、午後は|椿園《つばきえん》についての会議だ、いそがしいことだ」  稲葉は黙っていた。明日は、一つ葉浜に行くことはできないかもしれないと思った。行くとすれば、きょうのように退社時刻過ぎに行くしかないが、会議が長びいて夜になった場合は無理だった。彼はなんとかして彼と中沢が明後日の午後少女の家へ行くことを|予《あらかじ》め知らせて置くべきだと思った。彼は前に置いてある|盃《さかずき》の酒を一気に飲み乾して立上った。 「これから一つ葉浜へ行って、明後日のことを伝えて来ます。もし誰もいなかったら隣の婆さんに、頼んで来ます」  彼は、あっけに取られている中沢をそこに置いて外へ出た。外には生暖かい風が吹いていた。      6  女はひどく|慇《いん》|懃《ぎん》だった。一昨夜はこの娘をつれて市内へ出て帰りが遅かったものですからつい失礼しました、御親切に置手紙まで戴いてありがとうございました、としゃべる彼女はその家にはふさわしくない服装をしていた。  中沢と稲葉が来るというので、着こんで待っていたという格好だった。  中沢は部屋の中をあまり見廻すようなことはしなかった。  女の物腰にも心を動かされるようなことはなかった。彼は飽くまでも事務的にことをすませようとしているようだった。中沢は一応の挨拶が終るとすぐ用件に入った。既に新聞などに載っていたとおり、わが社は一つ葉浜の観光開発の許可を申請中であり、許可がおり次第、工事に取りかかる予定である。その時には此処にある三軒の家には立ち退いていただくことになるので、予めそのことを耳に入れて置く。もし、そういうことになった場合、立退先について、心当りのないときには、会社で積極的に世話をしたい。お嬢さんが、わが社に就職を希望されるならば、女子独身寮の設備があるし、家族三人ということになれば、そのときはまた別の宿舎を考えられないことはない。お嬢さんがもし希望されるならば、立退きの話とは別に今直ぐ入社することもできるだろう。中沢は許可がおりた場合とかそうなったときとかいう言葉で、将来と現在をはっきり区別した。波の音が高いので中沢の声はしばしば|跡《と》|切《ぎ》れることがあった。 「そうしていただければほんとうに助かります。なにしろ主人が死んだばかりで、どうしていいか困っていたところでしたから、お話をうけたまわっただけで涙が出そうでございます」  そういう女はけっして涙が出そうな顔をしてはいなかった。女の傍に少女が悲しそうな顔をして坐っていた。少女は中沢の話にほとんど表情を動かさなかった。 「お嬢さんの就職の話はいかがですか。バスの車掌さんはうちの会社の花です。だからそれだけ待遇もよくなっています。宿舎も整備されています。勉強をすることもできます」  中沢は半ば少女の顔を見ながら言った。少女はその声に押されるようにうつむいた。そのとき稲葉は少女の眼に光るものを見た。その涙をかくすために少女はうつむいたのだと稲葉は思った。窓の外に誰かが立聞きしている様子だった。稲葉はおそらく隣の婆さんだろうと思った。 「ほんとうにもったいないようなお話でございますこと、恵津子とよく相談して、本人がよいということならば、そうさせてやりたいと思っています」  女はそう言った。なにもかもすらすらと話が運んだ。中沢はもう言うべきことはなかった。中沢は稲葉をつれて、隣家へ行こうとしたが、そこにみどりの手を引いて立っている老婆に気がつくと、それまでに言ったことと大体同じことを話した。 「なんだ、立退料の話ではないのかね」  老婆は不服そうであった。もう一軒の家のことを訊くと、もう、ここのところ三月あまりは閉め切ったままだということだった。  中沢がそれではそのうちまたと言うと、女は共に外出したいような素振りを示した。 「自動車は待たせてあります。よかったら御一緒にどうぞ」  中沢が誘うと、女はそう言われることを初めから期待していたようにすぐ立上った。  自動車の置いてあるところまで、歩いて数分だった。中沢と女は肩を並べて先に立った。稲葉は、わざと遅れた。少女があとから来そうだった。あの家を出るとき少女と眼が合った。少女の眼が彼に待っていてくれと言っていたようであった。その予感は当った。少女は、ハマヒルガオの藪の小路から出て来ると小走りに彼のところに追いついて言った。 「あなたが出張中に二度、会社に電話を掛けました。お話ししたいことがあったからです。でももういいんです」 「なにがいいんですか」 「もう終りなんです」  彼は立止った。少女の言うことが理解できなかった。 「いったいどうしたっていうんです。言って下さい。ぼくにできることがあるならなんでもします」 「これをあなたにさし上げたかったんです」  彼女は、表紙がすり切れた文庫本の詩抄を、すばやく彼の手に握らせると、両手で顔を覆ったまま走り去った。  自動車の中では女がひとりでしゃべっていた。およそつまらない話が次から次と出た。二人は黙って聞いてやっていた。女を千草町で降ろしたあとで中沢が稲葉に訊いた。 「少女がきみになにか言っていたね」 「これをくれたんです」  稲葉はポケットから、詩抄を出した。 「ひどく古いものじゃないか」  中沢は、文庫本の表紙や背を珍しいものでも見るような眼で眺めてからぱらぱらと頁を繰った。そしてその本の最後の余白に書いてある文字を音読した。 「己れに負けること勿れ、心にそむくこと勿れ、|汝《なれ》は死を選ぶとも己れにそむくこと勿れ、おい稲葉君、この字を見ろ、己れに負けること勿れ、心にそむくこと勿れは、ずいぶん前に書いたものだ。しかし、あとに書いてある、汝は死を選ぶとも己れにそむくこと勿れは、ごく最近書いたものだ。筆跡も前のものとは違うぞ」  自動車が会社の前で止った。  二人は自動車を降りた。|驟雨《しゅうう》が二人を打った。黒い雲が低い空を速い速度で走っていた。台風が近づいたのだ。  中沢は会社の建物の中に駈けこんで少々雨のとばっちりを受けた詩抄を稲葉に返しながら、 「気になるな」  とつぶやいた。 「彼女は別れるとき、もう終りです、と言いました」 「なんだと、なぜそれを早く言わなかったのだ。彼女がそう言ったとすれば、その詩抄のうしろに書いてあるのは遺書だ。彼女は死のうとしているのだ」  中沢は稲葉の腕を痛いほど強く|掴《つか》んで言った。 「あの自動車を止めろ、もう一度、一つ葉浜まで行かねばならない」  稲葉は雨の中を走りながら大声で叫んだが、既にその自動車は走り出していた。  稲葉は別の自動車の手配に走った。天気が悪くなったから自動車がすぐ都合つくかどうか不安だった。  驟雨はそう長くは続かなかった。すぐ青空が出て、しばらくするとまた激しい雨が降った。少女は、波のしぶきが吹きつけて来る砂浜をみどりを抱いて歩いていた。 「おねえちゃん、どこへ行くの」 「子供の国よ」  少女はみどりを抱きしめた。 「こんなに雨が降っても、風が吹いても子供の国はあるの」 「子供の国は、どんな日でもあるのよ、いつまで経っても子供の国はあるのよ、亡びることはないのよ、なにもかもなくなっても、子供の国だけはあるの」  強風が海から陸へ向って吹いていた。少女の長い髪がうしろになびいていた。少女はみどりを抱いたまま海へ向ってゆっくりと歩いていった。少女は彼女が行こうとする方向をみどりに見せないために、みどりの顔を少女の胸の中に埋めるように抱いていた。  白い壁のような波が一斉に沖に立上って陸に向っておしよせて来た。白い壁は陸地に近づくに従って横のつながりを堅固にし、何物も、そのおしよせて来る高波のかこみからは逃すまいとしているようだった。動きと音だけが卓越して、もはや、白い壁でも、黒い壁でもなくなり、形容できないほど大きな運動量を持ったものが、そのエネルギーを試すために必要な対象物を探しているようであった。少女はそれに近づくことがとても怖かったが、怖いと考えてはならないと思っていた。眼をつぶるようなことはしなかった。その波は天が彼女を迎えるためによこしたと考えねばならないと思った。中沢や稲葉の前で、しゃあしゃあと嘘をついている継母は、もう一時間もすると、あの男を連れて、彼女を迎えに来ることになっていた。少女の身体はもはや少女のものではなかった。少女は継母が多額の金を受取っていることを知っていた。昨夜、彼女が留守番をしているところへ、あのいやな男がひとりで入って来て、少女を犯そうとした。少女の叫び声でみどりが眼を覚まして泣き出し、隣家の婆さんが来たから、男はその行為を止めたが、その時、男がどうせ二、三日したら同じような目に会うのだ、いまさらじたばたしたってどうなるかと言った言葉が、少女の心に刺さった。その後に帰って来た継母は、隣の婆さんからその話を聞いても、ふんと言っただけだった。少女はゆうべ一晩中起きていた。  やはり海は怒っているのだなと少女は思った。そうでなければ、こんなに大きな声を上げないだろうと思った。おしよせて来た波は、彼女の何倍かの背の高さに立上り、そして砂浜に倒れた。波の憤死だと少女は思った。何を怒っているのか分らないけれど、海は怒り、波という兵隊を送り、その兵隊も怒って波打ち際で憤死しているのだと思った。綺麗な死に方ではないかと思った。彼女は波に向ってゆっくり歩いていった。既に彼女の足は波に洗われていた。 「おねえちゃん、子供の国はまだなの」  みどりは頭を上げようとした。 「みどりちゃん、黙っていてね、おねえちゃんの胸に抱かれていれば、もうすぐ子供の国へ行きつくのよ」  みどりを道連れにするのは一人で死ぬのが怖いからではない。継母がみどりを捨てるのは、時間の問題だった。少女が死んだら、みどりをほんとうに可愛がる者はこの世にはいなくなるのだ。みどりは暗い人生をひとりで歩まねばならないのだ。だから一緒につれて行ってやった方がみどりには幸せなのだ。  眼の前で崩れた波が、少女の|脛《すね》にまできた。彼女はちょっとぐらついたが、すぐ立ち直った。彼女の口が動いた。彼女は詩を詠った。詩が好きだから詠うのではなく、なにか言っていなければ不安だった。少女の口から出る声は次第に高くなっていった。少女の母が好きだったという、シャルル・ボドレエルの「人と海」の章が詠われた。どこをどう詠っているか彼女の意識にはなかった。詩を詠っていなければ、波に負けてしまいそうだった。波に負けたら、己れに負けることになり、継母やあのいやな男に負けることだと思った。継母やあのいやな男に勝つには自分が死なねばならないと少女は思いこんでいた。  少女はいよいよみどりをしっかりと抱きしめた。少女にとって、みどりは自分の分身であった。少女の怖れがみどりに伝わった。みどりは少女の腕の中でもがいた。 「みどりちゃん、もう少しのがまんよ、もうすぐ、子供の国へ行きつくことができるのよ」  少女の前で崩れた波が彼女の腰のあたりまでおしよせた。その波に|牽《ひ》かれるように、少女は二、三歩前にのめって、片膝をついた。みどりが泣き出した。みどりを死なせるのが可哀そうな気がした。稲葉のことがふと頭に浮んだ。なぜ彼のことをいまごろ思い出したのだろうか。そうだ、みどりのことを彼に頼んだら、みどりだけでも死なせずに済むことができるかもしれない。でももうおそいと彼女は思った。波はそこまで来ているのに彼はいない。もう遅いのよ。波が来た。少女は反射的に、むしろ本能的にみどりを波から守ろうとした。濡れたみどりを抱いてどうにか立上ることができた。 「あそこだ、あそこにいるぞ」  稲葉は海をゆびさして言うと、少女の方へ向って、砂浜を駈け出した。そのあとを中沢が追った。驟雨が稲葉と少女との間をさえぎった。稲葉は、波をかぶってつまずいた少女が、みどりを抱いて再び立上って歩き出したのを見た。彼は、力いっぱい呼んだ。|南《は》|風《え》が彼の声をはばんだ。少女の死へ向う姿勢は確かだった。  大波がおしよせて少女に覆いかぶさった。彼は祈った。大波が引いたあとに、少女とみどりが立っていてくれることを祈った。だが大波が引いたあとには人影はなかった。  日向灘は、彼等の到着が遅かったことを非難するかのように吠えつづけていた。  翌日の新聞に、青島観光の一つ葉浜の観光開発計画の申請に対して当局の許可がおりたことが大きく取扱われていた。一つ葉浜の砂浜と松林の境界帯状地帯に、ハマヒルガオ、ハマユウなどのように、ハマのつく草花の花壇を作る計画が紹介されていた。その同じ新聞に、一つ葉浜で、少女とその妹が固く抱き合ったまま水死体となって発見されたことが載っていた。それは注意しないと見落してしまいそうなくらい、小さな記事であった。 [#地から2字上げ]〈了〉 文春ウェブ文庫版 昭和新山 二〇〇〇年十月二十日 第一版 二〇〇一年七月二十日 第三版 著 者 新田次郎 発行人 堀江礼一 発行所 株式会社文藝春秋 東京都千代田区紀尾井町三─二三 郵便番号 一〇二─八〇〇八 電話 03─3265─1211 http://www.bunshunplaza.com (C) Tei Fujiwara 2000