訪問者 新津きよみ [#表紙(表紙.jpg、横101×縦144)] 目 次   プロローグ  第一部 中野区上鷺宮二丁目   幕 間  第二部 中野区中野一丁目   エピローグ [#改ページ]   プロローグ  あの男が現れるまでのわたしは、今夜炊いたご飯の残りを、明日の昼にチャーハンにしようとか、冷蔵庫の隅に確か長ネギがちょっとだけ残っていたはず、それをお味噌汁《みそしる》の具に使うのとマーボー豆腐に入れるのとでは、どちらがおかずとして効率的か、などとぼんやりと考えるごく普通の主婦だった。  カレンダーを十月に替えて間もない日。その朝、夫は、二泊三日の予定で大阪へ出張した。  彼がやって来たとき、わたしは子供に音楽を聴かせながら——わたしが聴いていたのだが——、授乳していた。ベランダ側に置いたソファで、庭に背を向け、首筋に秋らしい心地よい風を受けながら。  音がして、顔を振り向けた。  逆光の中に、サングラスをかけた男が立っていて、その手にはナイフが握られていた。急に立ち上がることも、子供の口を胸元から離すこともできなかった。  時間が止まったように感じられた。実際、その頃、わたしにとっては時間が止まっていたのも同じだった。昨日と一昨日《おととい》、一昨日とさきおとといの区別もつかないような毎日を送っていたのだから。  わたしは、十月半ばで七か月になる息子——牧人《まきと》の世話に明け暮れていた。気がついたらもうこんな時間、と思わず溜《た》め息《いき》をつく日々を過ごしていた。  二十七歳の春に結婚し、その夏には妊娠、二十八歳で出産した。胎内にいるときに、すでに男の子だと知っていた。娘は父親に似ると聞いていたので、男の子だからわたしに似るかしらと思っていたのが、生まれた息子はまるで夫のミニチュアだった。少しがっかりした。夫はハンサムな方だが、目は一重だ。少なくともくっきりした二重の目だけは、わたしのを受け継いで欲しかった。  男が、手に持ったナイフで誰かを傷つけて来たのに違いない、とわたしは直感した。  数時間後、男は、〈殺人犯〉となって、わたしと牧人の前にいた。テレビで、付近のコンビニエンスストアで起きた強盗殺人事件のニュースが流れた。「犯人は現場から逃走し、まだ捕まっておりません」と、アナウンサーが言った。  殺人者がいようと、赤ちゃんの生活は変わらなかった。お腹がすけば泣き、オムツが濡《ぬ》れれば泣き、眠くなると泣いた。牧人は、わたしの心を映す小さな鏡のようなものだった。恐怖や不安や怒りや焦りなど、さまざまな感情が、わたしの目や腕を通して彼に伝わった。  わたしたち三人は、長い昼と夜を、一戸建てのその家で過ごした……。 [#改ページ]   第一部  中野区上鷺宮二丁目   1 「怖いわねえ」  柿沼|周子《しゆうこ》は、その朝、夫に言った。 「ああ」  ネクタイを締めながら、柿沼|直人《なおと》は、鼻にかかった眠そうな声で応じた。 「あんまり怖くないみたい」 「ん?」 「毎日、ショッキングな事件ばかり起きるから、鈍感になってるんでしょう。そういう神経の方が、本当は怖いのかも」  ダイニングテーブルに新聞を広げ、周子は刺《とげ》のある言い方をした。  十日ほど前に、隣の練馬《ねりま》区の環八《かんぱち》通り近くのアパートで、三月に上京して来たばかりの女子学生が絞殺された。その事件の続報が載っていたのだ。彼女は最近、「変な人がアパートのまわりをうろついている」と、友人にもらしていたという。 「でも、考えてみて、直ちゃん。若い女性がアパートで乱暴され、首を絞められて殺されたのよ。確実に人ひとりの命が奪われている。彼女には家族もいる。友達もいる。この人は独身みたいだけど、婚約者がいるかもしれない。母親はどんなに嘆くかしれない。家族の悲しみを考えたら、ああ、また殺人事件か、なんてのんびりと言ってられないでしょ。そんなかぜぎみの声で」  直人は、二、三日前から鼻が詰まる、とかぜ薬を飲んでいる。 「大丈夫? 大阪に行ってこじらせない?」 「かぜぐらいで出張をとりやめたら、ばかにされるよ」  ふん、と鼻を鳴らしたつもりだろうが、きれいに空気が抜けなかった。直人は、鼻をぐじゅぐじゅいわせ、「なるほどなあ」と言った。 「なに?」 「女って子供を産むと、環境汚染とか原発とか自然食品とか、そういったものに突如として関心を示し始める、って言うけど、本当だなあ。周子も言ってただろ、タラコの人工着色料がどうとか、ウインナーの食品添加物がどうのこうのって」 「ああ、つまりは、生命をそこなうものに怯《おび》えるってことね」  妊娠中、周子はお腹の子のために、口にする食べ物に神経質になった。「それはそうでしょ。女は、尊い命を産み出す生き物なんですもの。生命を脅かすものを、本能が恐がらせるのよ」 「ふーん」  ネクタイを二度、締め直した直人は、「あれ、詰めてくれた? ありがとう」と言って、出張用の鞄《かばん》を足元に置き、テーブルについた。周子がいれたコーヒーを飲む。 「じゃあ、直ちゃん。直ちゃんが大阪から帰ってみたら、ここでわたしと牧人が血まみれになって死んでいた。そういうシーンを想像してみて? 新聞に、美貌《びぼう》の主婦と七か月の乳児惨殺される、と出るわね、きっと。一組の母と子よ、客観的には。だけど、それが、このわたしと牧人なの。どう? ゾッとするでしょ。わたしなんか牧人がそうなったと考えただけで、胸が張り裂けちゃう。鼻の奥がツーンとして涙が出てきちゃうわ」 「よせよ」  眉《まゆ》を寄せ、直人は、バカだなあ、と言った。「心配しすぎだ」 「ねえ、もしもよ、もしもそうなったら、直ちゃん、悲しい?」  話の内容とは裏腹に、周子の頬《ほお》は緩んだ。 「あたりまえじゃないか」 「そう、よかった」 「よかない。俺《おれ》はいつも心配してるんだ。俺の留守中、牧人に何かあるんじゃないかと思ってね」  直人の方は真面目《まじめ》な表情になっている。 「大丈夫よ。わたしが一生懸命やってるんだから」 「危なっかしいからな。ベビーベッドの柵《さく》、かけ忘れるなよ。寝返りして落っこちたら大変だから。それから、鍵《かぎ》もちゃんとかけとけよ。ちょっと出かけるんでも、物騒だから」  牧人はまだベッドから落ちたことはないが、ちょっと目を離したすきにソファから落ちたことならある。 「大丈夫だって。……あら、で、わたしは? 心配じゃないの?」 「言わせたいのか」 「言って」  周子は身を乗り出し、直人の顔をのぞきこんだ。顎《あご》の先に、剃《そ》り残《のこ》しのひげが数本ある。だが、その方が虫がつかないだろうと思って、周子は教えないでおいた。  直人がやってられない、という顔をして、何か言おうとしたとき、聞き慣れた泣き声が隣の部屋で上がった。  この朝もやはり読みかけのまま、新聞をたたむはめになった。牧人が生まれてから、新聞をゆっくり読めたためしがない。 「はいはい、おめざめ?」  周子は声をかけながら、ベビーベッドに行く。牧人が掛け布団から両手を出し、まぶたを固く閉じて真っ赤な顔で泣いていた。 「おはよう、牧人君」  わが子を抱き上げる。風船がしぼむように声が徐々に小さくなり、泣きやむ。真っ赤な顔だったのが、うそのように白くなる。きょとんとした目で、母親を見、右に、左に、まだややぐらつく頭を動かした。ぼんやりした表情。完全な寝起きの顔だ。 「おお、牧人。おはよっ!」  マグカップをテーブルに置き、直人が椅子《いす》から立ち上がった。「パパのところに来るか?」 「パパ、おはよう、って」  と、周子は直人に牧人を渡す。  朝は忙しい。自分以外に、牧人の世話をする手が二本あるのが心からありがたい。たとえそれが、ただ息子を抱いたりあやしたりするためだけの手であっても。 「牧人、ほら、おはよう」  直人は、腕の中でわが子を揺する。七か月の子だ。おはよう、と返すわけがない。それでも三十二歳の父親は、オウムに言葉を教えこむように、唇をすぼめ、おはよう、と根気よく繰り返している。  牧人が手をばたつかせながら、バアバと、とか、オウオ、とか赤ちゃん言葉を発した。 「ほら、ママ、言ったぞ、おはようって」  直人が、感激したように、おおげさに首を振った。「こいつ、天才だ、まったく」 「親ばかね」  周子は肩をすくめ、離乳食の用意をするために、台所に立った。献立は、カボチャの煮潰《につぶ》したのとコーンフレークのミルクがゆである。  まだ直人は、牧人をあやしている。牧人が声をたてて笑う。いつもの光景だ。そんな光景を、周子はほほえましく思って見る。牧人が生まれてから、直人とは「直ちゃん」「周子」よりも、「パパ」「ママ」と呼び合うことの方が多くなった。直人は言う。「牧人が幼稚園でも行くようになったら、その呼び方、やめろよな。直ちゃん、だなんて恥ずかしい。牧人もそう呼ぶようになっちまうだろ」と。だが、周子は、知り合った三年前のときの呼び方に固執していたいのだ。 「ママをよろしく頼むぞ、牧人」  牛乳を温め、そこにコーンフレークを二つまみ入れ、かきまぜている周子の後ろで、直人が牧人に言った。 「牧人、おまえは男なんだからな。ママに何かあったら守ってやるんだぞ、パパのかわりに。いいな」  牧人を目の高さまで抱き上げ、直人は少し怖い目で睨《にら》んだ。牧人の顔から笑いが消える。だが、泣きそうな顔にはならない。高い高い、をすると、キャッキャッ、とはしゃいで喜んだ。 「牧人に守ってもらうようなヤワな母親じゃありませんよ、わたしは」  周子は笑い、レンジの火を止めた。牛乳が煮立った。出産祝いにもらったピーターラビットの離乳食用の皿に、ドロドロに煮たコーンフレークをあけた。 「さあ、牧人君。ご飯ができたわ。その前にお着替えして、お顔、きれいきれいにしましょうね。これ、さましとくから」 「さあ、牧人。パパはあさってまで帰らないからね。元気でな」  直人が、牧人を周子に預けた。「パパ、寂しいな」と言って。   2  こんな小さな生き物と二人きり——周子は、退院して一週間後、手伝いに来ていた実家の母親が帰ってしまうと、ベビーベッドの中の手のひらサイズの小さな顔を見つめて、溜《た》め息《いき》が出た。  産んだら即、母性も生まれるもの、という考えは間違っていたのだとわかった。  ——皮膚の柔らかいフニャフニャした肉の塊。何が不快なのか、すぐに泣く。泣くと、両手足を突っぱらせ、顔を真っ赤にする。不快な状態を解消してやらないかぎり、フニャフニャした生き物は泣きやまない。小さなくせに、頑固な生き物——。  戸惑いの方が大きかった。出産から二日目、看護婦が「じゃあ、お母さん、お願いしますね」と、周子の部屋に赤ちゃんを——もちろん、その子が牧人だったのだが——置いて出て行こうとしたとき、「待ってください。わたしに押しつけないで。困ります」とうろたえて、看護婦を苦笑させた周子であった。  洋酒の輸入会社に勤務している直人が出勤すると、家には当然ながら、小さな生き物と周子がとり残される。  二人きりになる最初の日、周子は自分のことはほとんど何もできなかった。目を離しているすきに、赤ちゃんの息が止まってしまうのではないか、と心配でならなかったのだ。出産した病院で、うつぶせ寝を勧めていたので、退院後もその習慣が身についた。それでよけい、窒息死が心配になった。偶然、目にした新聞の家庭欄に『SIDS——乳幼児突然死症候群』という言葉を見つけたのも、周子を不安にさせた。それまで元気だった赤ちゃんが、何の前ぶれもなく突然死んでしまう病気だという。SIDSが起こりやすいとされる半年が過ぎるまで、周子は気が気でなかった。  そんな手探りの育児にも、ようやく慣れた。赤ちゃんなりに生活のリズムがついてきたのだ。それでも、昼間、二人きりのときに地震にでも遭おうものなら、ドキッとする。牧人を守ってやれるのは自分しかいない。その責任の大きさに頭がくらくらするほどだ。  牧人を抱き、玄関に出、直人を見送ったあと、周子は急に寂しさと不安とに襲われた。牧人が生まれてから、一晩だけなら、直人が家をあけたことは何度かあった。だが、二泊三日の出張は、はじめてである。大阪市内のホテルで、直人の会社が主催する洋酒フェアが開かれる予定で、営業推進部からは直人が二日間、参加することになっている。  その準備のために、この二、三週間、毎日直人の帰りは遅かった。子供の顔を見たいせいか、大阪での仕事も日帰りですませていた。寝るだけに帰る日々が続いた。  それでも、夫——牧人のパパ——が、家に帰って来てくれる、というだけで周子は安心できた。今日一日、牧人は無事だったのよ、と夫に伝える。そのとき返してくれる夫の笑顔が、夫のひとことが、周子の安心感と自信につながっているのだった。  直人を送り出すと、しばらく牧人は元気で起きている。ときどきは朝寝をするが、それも回数が少なくなってきた。居間に、二畳ほどの大きさのキルティングのプレイマットを敷き、そこで牧人を遊ばせる。  牧人はもう、立派に寝返りもすれば、お座りも安定している。壊れそうで抱くのも怖かった半年前からすれば、驚異的な成長ぶりだ。下の前歯も二本、真っ白なのがはえてきている。  牧人のまわりに、ぬいぐるみだのガラガラだのラッパのオモチャだの、気を惹《ひ》くものをいっぱい置く。そうしておいて、洗濯やら掃除やらアイロンがけやらの家事をする。視野からはずれると、牧人は、アーア、と大きな声を上げて母親を呼ぶので、周子はたえず牧人の視野の中におさまっていなければいけない。  買い物は、ベビーカーに乗せて行く。たいてい午後だ。  昼には、リンゴをすりおろしたり、キイウイを細かく刻んだりして与える。一日二回、朝夕の離乳食から、あと二、三か月もすれば、大人と同じ三回食になる。おかゆ状が多かった食事の内容も、次第に大人のものに近づいていく。  どんどん人間らしくなっていく、この子、と周子はわが子を見て思う。  青森の実家から送って来た「津軽」を、四分の一切れ、牧人にすりおろして食べさせてから、いつものようにソファで授乳した。  秋晴れだ。郵便受けに、近所の幼稚園の運動会の案内が投げこまれていたのを、ふと思い出した。十月十日の体育の日。牧人を抱き、親子三人で運動会を見に行くのもいい。  居間の掃き出し口のサッシ戸は、空気の入れ換えのために開けてある。爽《さわ》やかな風が入り込んできて、首筋や頬《ほお》を撫《な》でた。  庭のある一戸建て。右隣は新築のアパートで、左隣は、広い敷地に高い塀を巡らした旧家だ。昔は井戸もあったと聞く。ここの敷地も、八十坪あまりある。贅沢《ぜいたく》な住まいだ、と人は言うだろう。だが、この家は、直人と周子のものではない。三年間の予定で借りている。会社の先輩の知人が、ロサンゼルスに転勤になっているあいだだけの仮住まいだ。  隣と違い、低い生け垣を巡らしただけの簡単な囲いだが、夾竹桃《きようちくとう》やさるすべりや木蓮《もくれん》などの密集した枝ぶりが、外からの視線を遮り、カーテンのかわりをしてくれている。年に二度、家主が古くから頼んでいる庭師が入り、慣れた様子で手際よく手入れをして行く。休日には、直人が率先して草取りをしたり、水をやったり、いい気分転換になっているようだ。  この家にいられるのも、あと半年。はたしてこの先、庭のある——その前に土のある——家に住めるかどうか。牧人のためにも、自由に遊べる庭が欲しいのだが……。  授乳中は、音楽をかけることにしている。いまかかっているのは、ヴィヴァルディのCDだ。フルート協奏曲——第一番ヘ長調『海の嵐《あらし》』。眠けを誘われる。 「痛っ」  その眠気が飛んだ。胸元にマシュマロのような頬を埋めている牧人が、はえ始めたその歯で乳首を噛《か》んだのだ。 「牧人、だめよ」  やさしく睨《にら》むと、意味がわかっているのか、小さな悪魔は顔を見上げ、いたずらっぽく微笑《ほほえ》んだ。母親の反応を見てから、また胸に顔を埋める。  そのとき、背後で物音がした。  周子は振り返った。開けた戸口の中心に、立ちはだかるようにして男が立っていた。サングラスをかけ、ナイフを手にして。 「どなたですか?」  恐怖が、周子をそのままの姿勢に凍りつかせたのか。身動きもせず、声を震わせもせずに聞いた。 「ニュースを……見ていないのか」  男の声は震えていた。  ニュースと聞いて周子は、直人と話題にしたばかりの女子学生暴行殺人事件のことを思い浮かべた。続報が載っていたものの、読み終えないうちに牧人の泣き声に呼ばれたのだった。 「二人だけか?」  彼は聞いた。  周子はうなずいた。  昼間のこの時間、ほかに誰がいると言うのだろう。新米ママと、この世に生を受けて七か月目の人間になりたて。  そんな心もとない組み合わせで、一日の大半を乗り切っているのは、何も周子たちだけではない。同じ時刻、遥《はる》か上空からこの都会を俯瞰《ふかん》すれば、アパートやマンションの一室に夥《おびただ》しい数の母と子が閉じ込められ、慣れない世話をやいたり、やかれたりしながら、わめいたり泣いたり途方に暮れたりしている姿を、容易にのぞくことができるだろう。 「旦那《だんな》は?」 「出かけています」 「会社か?」 「いいえ」  夫は、いつもの会社に行ったわけではないから、そう答えた。が、相手が相手だけに、正確に答える必要はなかったのだ。 「いつ帰って来る」 「…………」 「夜か、夕方か」 「出張で、大阪に」  言ってしまって、周子は後悔した。夜、いや、夕方にでも帰って来る、と言えばよかったと思った。夫でなくとも、近所の人が来る予定だとか、二階に誰かがいるとか、心もとない二人以外の誰かが周辺にいることを匂《にお》わせればよかったのだ。  牧人の柔らかい唇が、周子の乳首から離れた。ぱっちり開けた目で不思議そうに母親の顔を見上げる。周子は、あわてて、左手でブラウスの胸元をかき合わせた。  何かいつもと違う雰囲気を察知したのだろう。牧人は、母親の視線の先に首を向けた。男を見つけ、しばらくじっと見つめてから顔を崩し、周子に救いを求めるようにしがみついてきた。  牧人は、人見知りをし始めていた。  男は後ろを振り向き、様子をうかがうそぶりを見せた。そして、すばやい動作で部屋に上がりこんで来た。 「靴が……」  と、周子は言った。口の中に唾液《だえき》が溜《た》まり、声がかすれた。立とうとしたが、腰の力が入らない。  男は、チッと舌を鳴らし、その場で靴を脱いだ。裸足《はだし》だった。足の先で、紐《ひも》つきの黒いシューズをカーテンの方にころがし、隠すようにした。 「な、何の用?」  今度は、はっきりと声が震えた。  牧人が、母親の顔を見上げた。一重の目でも、ぱっちり開けると大きい。  周子は、牧人をかばうように胸元に頭を押しつけたが、赤ん坊の好奇心の方が勝った。母親から侵入者へ関心が移った。父親以外の、大人の男。それも見かけない顔だ、というように、牧人は男を見つめている。直人は眼鏡をかけない。それでよけい、男のサングラスが珍しく、不気味なのだろう。赤ん坊なりに、それが目の表情を隠すためのものだとわかっているのか。  そして、予想どおり、べそをかき、火がついたように泣き出した。  その泣き声に触発された形で、周子はハッとしてソファを立った。テーブルにぶつかりながら後ずさる。プレイマットの上で足が滑った。 「うるせえ!」  男が怒鳴り、二、三歩、周子に近づいた。 「黙らせろ」  顎《あご》の先で牧人を示す。牧人の泣き声は、いっそう激しくなった。周子はきつく抱き締めた。こもった泣き声で、胸に顔を強く押しつけすぎていたことに気づき、びっくりする。顔を離すと、目の周囲にいっぱいしわの寄った小さな顔がすぐ前にあった。しわのあいだに涙が溜まっている。 「うるせえな、このガキは」  こころなしか、前より声が低くなった。声に困惑が混じっている。 「出てって」  あなたが出て行けば、この子は泣きやむのよ。本当はそう言いたかった。「お願い、出てって」もう一度言い、周子は後ずさる。 「動くな!」  さっきより低い、だがさっきよりドスのきいた声が、周子を立ち止まらせた。  わが子を抱いて、立ちすくむ。離してはならない、と思った。できることなら、自分の胎内に戻してしまいたかった。そこがいちばん安全な場所だから。  サッシ戸は開いている。男は、周子の視線の先をチラと振り返った。前を向いたまま、庭の方に下がる。急いでサッシ戸を閉めると、鍵《かぎ》を下ろした。横歩きをし、隅に寄っていたカーテンを勢いよく引くと、ナイフを持たない右手で額の汗を拭《ぬぐ》った。そのあいだナイフは周子に向けられていた。  細みのジーンズに、丸首の白いシャツに黒いブルゾン。浅黒い肌に引き締まった身体。改めて見ると、それほど長身ではない。一メートル七十センチ前後だろう。髪は長めで、前髪にウエーブがかかり、サイドに流れている。ブラウン系のサングラスに隠れて、この位置からでは目の表情はよくわからないが、のぞいた眉毛《まゆげ》は濃く、その下の鼻筋は通り、唇は厚い。顎がキュッと締まっている。都会的な容貌《ようぼう》で、若さが感じられた。  二十代半ばというところだろうか。  紫色の地に花模様の遮光カーテンが、部屋を薄暗くした。 「そこに座れ」  男はイライラしたように命令した。相変わらず牧人は泣き続けている。大きな声に敏感な子なのだ。  男が目で指し示した、窓に向いた二人掛けのソファに、周子は座った。後ろには、カウンターがわりの白いワゴンが手を伸ばせば届くところにある。 「うるせえなっ! 黙らせられねえのか。母親のくせに」  この男に言われたのでなければ、たとえば直人に言われたのであれば、周子は即座に言い返したであろう。——母親のわたしにだって、さっぱりコントロールできないのよ。母親は万能じゃないの。あなた、知らないの? 泣く子と地頭には勝てぬ、ってことわざ。  周子は立ち上がった。 「座ってろ」男が怒鳴る。 「黙らせろって言ったでしょう」 「…………」 「大丈夫よ、牧人」  自分に言い聞かせるようにして、周子は牧人を揺すり、あやした。「ママがいるから大丈夫よ」  そして、男に向き直った。「立ってあやさないと、この子はだめなの」 「ふん、勝手にしろ」  男はせかせかとした口調で言い、窓側のソファとテーブルのあいだに立ったまま、家の中を見回した。  牧人の泣き声は弱くなり、やがて泣きやんだ。周子はホッとした。少なくとも、この闖入者《ちんにゆうしや》の神経を苛立《いらだ》たせずにすむ。 「座れよ。それとも……泣くのか?」 「大きな声を出さなければ大丈夫よ」 「じゃあ、座れ」  男は声を落とした。  周子は、ふたたび座った。牧人は、目をこすり始めた。半身をそらせる。 「眠くなったみたい、この子」  牧人を守ることが最優先だ。まずは、牧人を男の視野からはずし、安全な場所に移すのよ。それから、わたしだけがこの男と向き合うのだ。この男が誰で、何の目的でここに入って来たのか。怖くても、聞き出さなければならない。  周子がもっとも恐れていたこと、それは、男がここに来る前に〈何をして来たか〉であった。彼はナイフを持っている。それは誰かを脅すためのものであろう。それに、ニュース、と言った。明るいニュースであるはずがなかった。 「どこかその辺に眠らせろ」 「ソファだと落っこちるわ」 「いつもどこに寝かせてる」 「寝室に」 「どこだ」 「二階よ」 「二階?」  男は天井を見上げ、顔をしかめた。「だめだ。見えるところに……寝かせろ」 「じゃあ、そこに」  周子は、左手に続く和室に視線をやった。八畳の和室。床の間、内障子、二畳分の広縁つきで、庭に降りるための濡《ぬ》れ縁《えん》も設けられている。マンションの間取りに慣れた周子の友人たちには、うらやましがられる造りだ。  引き戸が開いている。 「でも、この子……」  目をつぶり、指をしゃぶっているものの、牧人は寝つくまでに時間がかかる。ソファに降ろせば、またすぐに泣き出すだろう。周子は躊躇《ちゆうちよ》したが、泣き声で男を刺激したくはなかった。左手に抱いたまま和室に行き、押し入れを開けた。  男が、周子の背後に来た。「早くしろ」とせかし、ナイフを突き出した。それが牧人の顔をめがけていて、思わず周子は「やめて」と、子供の顔を右手でかばった。  心臓の鼓動が耳の奥で響いている。膝《ひざ》が震え、歯もうまく噛《か》み合わない。身体中の関節がはずれかかっているような、自分の身体でないような感覚だ。靴下をはかない裸足《はだし》が畳に触れて、ひんやりしている。子供を産む前の周子には、家の中で裸足で過ごすことなど考えられなかった。冷え性だったのだ。出産後、体質が変わった。  ベビー用の敷き布団を出し、部屋の中心に敷いた。居間から目の届くところ、だが、戸口からは離れたところ、無意識にそういう場所を選んだのかもしれない。子熊の模様の黄色い掛け布団は、男の子、女の子、どちらが生まれてもいいように、と夫の実家から送って来たものである。  九キロ近い重量を片手で支えるのは、ふだんなら「ああ、重い」と溜《た》め息《いき》が出る。だが、このときは重さなど感じていられなかった。 「早く寝かせろ」  男が布団の端に足を載せて言った。  お願い、静かに寝て。祈るような思いで、口をへの字にしている牧人を横にした。あなたは強い子。どんな環境の中でもぐっすり眠れる強い子よ。  牧人は、うーん、と小さくうなったが、ちょうど昼寝の時間だ。思いがけないアクシデントで授乳を中断され、哺乳《ほにゆう》量はやや少なかったものの、日常の習慣の方が勝った。親指をちゅうちゅうしゃぶりながら、まとまった睡眠に陥りそうな気配である。  周子はホッとした。牧人だけでも、この突然の災厄の渦に巻き込みたくはない。  だが、牧人が眠ってしまうと、周子は一人で受けなければならない恐怖に、身がすくんだ。人間は、自分が守らねば、という存在が傍らにあれば、驚くほど大胆に強くなれるものなのかもしれない。 「こっちに来い」  牧人のそばを離れずにいた周子の背中に、男が言った。背筋に悪寒が走った。ナイフを直接当てられたような冷たさだ。  居間に戻る。和室の引き戸は閉めずにおいた。  男は、和室寄りの、廊下に続くドアを背にし、ナイフを持って立っている。 「わたしたちをどうするつもり」  男は答えない。 「どうしてここに入って来たの?」  男は無言で、顎《あご》をしゃくり上げ、庭へと向けた。横顔になり、二重の目がのぞいた。  たまたま目についた家だったから、生け垣が低くて入りやすかったから、だから、庭から忍び込んだ。落ち着かない様子のその目は語っていた。 「……逃げているの?」  その質問には答えず、「座れ」と、男はまた命令した。  周子は、和室を向き、牧人の寝顔を確認してから、ソファに座った。その位置から牧人の顔が見える。  そのとき、電話が鳴った。   3  周子と男は、同時にサイドボードを見た。  サイドボードは、ドアの横にある。そこは、家主たちが住んでいたときは、ピアノ置き場になっていたところだ。子供たちが成人して、古くなったピアノは処分したらしい。置いといてくれれば、自分が弾けたのに、と周子は残念に思ったものだ。子供のときにピアノを習いたかったが買う余裕のなかった周子の、ささやかな願望だった。  ピアノ置き場は、いまは電話機を載せるための、サイドボード置き場になった。直人が勤めている関係で、色とりどりの洋酒のボトルが詰まっている。  男の肩が、大きく上下している。電話は鳴り続ける。五回、六回。そして、切れた。 「誰だ?」 「知らないわ」 「誰か来る予定なのか」  男の太い眉《まゆ》がピクッと動いた。 「友達が、来るかもしれない」 「友達って誰だ」 「母親学級で知り合った友達よ」 「いつだ」  男は腕時計を見た。周子も、サイドボードの上の時計を見た。一時十分前だ。 「はっきりとはわからないけど、午後に来る、と言ってたわ」  男は、何か考え込んでいるふうだった。  ふたたび電話が鳴った。 「出ろ。そいつだったら、来るな、と言え」  周子がためらっていると、「早くしろ」男が周子の左手を強い力で引き、立たせた。  電話に出る。 「はい、柿沼です」 「周子? わたしよ、わかる?」 「あ……」  声を出したのは、男がナイフの刃を背中に突きつけたからだった。 「柿沼っていうから、ちょっと変な感じがしたけど、考えてみたら、そうなのよねえ。柿沼周子だものね、いまは」 「久美でしょ?」  思いがけない人物だった。  野崎久美。青森の高校時代の同級生である。高校生のときは仲がよかったが、その後、久美が東京の大学に進学し、地元に就職した周子と離れ離れになってから、疎遠になっていた。 「うーん、ほんと、久しぶりねえ」  と、久美は、受話器の向こうで、おおげさなほど感慨ぶかげな声を上げた。「知らなかったのよ。周子がご主人の転勤で、三年も前から東京にいるなんて。実家のお母さんに聞いて、わかったのよ。赤ちゃんが生まれたとか。牧人君ですって? おめでとう」 「うん」 「どうしたの? いま、忙しい?」 「えっ? う、ううん」 「さっき電話したんだけど、ほかのところにかかっちゃったみたい」 「あ、ああ。ちょっと二階に行ってたものだから。……出ようと思ったら切れたの」 「あっ、やっぱりそう。赤ちゃんがいて、手が離せないんじゃないの?」 「ううん、いいの、大丈夫よ」  男が、早く話を切り上げろ、というふうに顔をしかめた。 「久美は? いまどこにいるの? 出版社に勤めているって聞いたけど」  時間を稼ぐつもりで、周子は質問した。男が、周子のすぐ横で眉をひそめた。 「あそこは辞めたわ。いまは翻訳の仕事をしてるの」  それを言いたくてたまらなかった、というように久美の声は弾んでいた。いつもの周子なら、へーえ、翻訳、どんな内容? と好奇心いっぱいで聞いただろうが、このときはうわのそらだった。  何とかして、いまの非常事態を伝えたい。久美は、頭の回転の早い女性だ。何か方法がないか、そのことに気を取られていた。 「会いたいわね」と、周子は言った。切実に会いたい、と思った。ここに来て欲しい。 「ほんと、会いたいわ。すごく久しぶりだもの。上鷺宮《かみさぎのみや》でしょ? わたしは東中野《ひがしなかの》。そう遠くないでしょう。会わない?」 「え? う、うん。西武池袋《せいぶいけぶくろ》線の富士見台《ふじみだい》が最寄りの駅だけど。歩いて、十分かそこらかしら」 「じゃあ、行っていい?」 「え? あ、あの……」 「誰か……いるの?」  久美は、周子の歯切れの悪い声の調子にいま思い至ったというふうに、「お客さま? そうでしょう。お客さんがいらしてるのね?」 「あ、うん。あの……」  男が、周子の右腕を揺さぶった。ナイフを持った左手を顔の前でちらつかせる。  周子は息を呑《の》んだ。いままで気づかなかったが、ナイフの刃には布で拭《ぬぐ》ったような血の筋ができている。その赤い色を見て、周子の体内を流れる赤い血が引いた。牧人の笑顔が脳裏に浮かぶ。 「え、ええ。あの、母親学級で知り合ったお友達がね、来てるのよ」  村井容子が、午後、北海道の主人の実家から送って来たかぼちゃを持ってお邪魔するわ、と言っていた。その村井容子を使った。 「あら、そうなの。じゃあ、また電話するわ」 「ごめんなさい。こちらからするわ。電話番号教えて」 「わたし、いつもフラフラ出歩いているから。帰りが遅いかもしれない」 「留守番電話に入れとくわ」 「いい、わたしから電話する。周子、昼間、いるでしょ?」 「そうね。子供がいるから……あんまり外には行けないわ」  周子と男の目が合った。ナイフに視線がいかないようにした。 「じゃあ、また」  久美の方から電話を切った。切れてもまだ、周子は受話器を握ったままでいた。その受話器を男が奪い取り、「よけいな話をするんじゃねえ。子供が可愛いだろ」と、荒々しくフックに戻した。 「誰からだ?」 「友達からよ」 「母親学級とやらの例の友達か」  どう答えようか、周子は迷った。 「違うのか」 「高校のときの友達よ」  正直に、だが、聞かれたことだけに答えた。 「西武池袋線の富士見台駅がどうとかこうとか言ってたな。これから来るのか」  サングラスの奥の目に、不安な色が宿った。  周子はかぶりを振った。男は吐息をもらし、ホッとしたような表情を見せた。  周子は、大事なチャンスを失ったことを悔いた。あれだけの電話で、久美が不審を抱くような手がかりは何もないはずだった。 「クミ? 確か、そんなふうに呼んでいたな。何て名前だ、その女」  自分の交友関係まで気にし始めた男に、周子はいままでとは違う得体の知れない恐怖を抱いた。男は、近くで何らかの事件を起こし——誰かを刺したのかもしれない——、逃げているのだろう。その途中で、ここに逃げ込んだ。自分たちを人質にし、警察に何かを要求するつもりなのだろうか。無事に逃がしてくれることを要求するのだろうか。それとも、逃走資金を調達しにここに入ったのか。いや、ただ警察の目から逃れるために、一時的にここに身を隠すつもりなのかもしれない。いずれにしても、男はまだ当分、ここにいるつもりなのだ。 「野崎……久美よ」  彼女の名前を知ることに、どんな意味があるのか。 「さっき言ってた友達は?」 「えっ?」 「母親学級とやらだよ」  イライラしたように男が言う。 「村井容子さんよ」 「近いのか」 「ええ」 「電話して、来るなと言え」 「で、でも……」 「しろって言ったらしろ!」  周子の右腕をねじり上げ、男はナイフの刃に受話器を引っかけた。あまりの痛さに顔が歪《ゆが》んだ。  ——直ちゃん、帰って来て。わたしと牧人を助けて。  声にならない叫びを上げる。  受話器を取り、耳に当てたとき、ある考えが閃《ひらめ》いた。 「村井さんが迎えに来るのよ」  まだ番号を押さずに、男に言った。心臓の鼓動が早くなる。 「迎えに? どこへ行くんだ?」 「……保健相談所よ」  うそだと見破られないように、周子は男から目をそらした。 「何しに行く」 「あの子の予防接種なの。ポリオの」 「ポリオ? 何だそりゃ」  男は眉《まゆ》を寄せ、面倒くさそうな表情を作った。 「小児マヒにかからないために、赤ちゃんに生ワクチンを飲ませるの。今日は、それの接種の日なの」 「で、友達と行くのか」 「ええ」 「やめろ」  あっさりと男は言った。そう言われるのは予想していた。 「行かないと」  周子は生唾《なまつば》を呑《の》み込んで、「保健相談所から連絡が来るわ。保健婦さんが調べに来るのよ。乳幼児の予防接種は、区で義務づけられたものだから」もっともらしく言った。  男は、厚い下唇を噛《か》んで、ヒュウッと空気のもれるような音を出した。 「別の日に行けばいいだろう」 「でも……」 「でも、何だ」 「先週行けなくて、今日来るように言われたの。行かなければ、訪ねて来ると思うわ。牧人を連れて行かなくちゃいけないのよ」  牧人をここから連れ出すために、チャンスがあればどんな口実でも作らねばならない。 「ポリオだかマリオだか、そんなものを受けねえと、病気になるのか」  男の目がやや真剣になった。 「怖い病気よ。手足が動かなくなるの」 「俺《おれ》も受けたんだろうか」  その目が宙に向いた。思いがけない男の言葉に、周子は当惑した。 「あんたも受けたか」 「さあ……」  しばらく沈黙が続いた。男の視線が、ワゴンの横の壁に注がれた。周子も、そちらに顔を振り向けた。  あっ、と思った。そこには、銀行でもらったカレンダーがかけてある。赤いサインペンで、ところどころ丸印や書き込みがしてある。  男に視線を戻すと、男も周子を見た。周子の顔色で、驚きの意味を理解したようだった。男が「あそこへ行け」と、周子にナイフを向けて促した。  足がすくんだ。行きたくはなかった。ギロチンへと導かれる死刑囚の心境だった。  壁の前に来ると、カレンダーを見て、男は聞いた。「今日は何日だ」 「十月……二日」 「じゃあ、この印は」  ナイフの刃先で男が示したのは、十二の数字を囲んだ赤い丸だった。十二日のところに、『ポリオ 鷺宮保健相談所』と周子の字で書き込んである。 「この日は何だ」 「…………」 「ポリオの日じゃないのか? 今日は……大阪へ? 亭主のことか」  直人が大阪へ出張する今日と、あさって四日の帰りの日は、カレンダーに記してある。「うそついたな」  低く、うなるような声だった。 「うそじゃない、間違えて書いただけなの、本当は今日……」  言い終わらぬうちに、男は周子のブラウスの襟首をつかんだ。自分へ引き寄せる。喉《のど》が詰まった。息苦しくなって、周子は目をつぶった。 「ちくしょう。うそ言いやがって」  男は、周子をソファへ引っ張って行った。「座ってろ」と、いきなり手を離されたので、周子はソファにくずおれた。フレアスカートの裾《すそ》が乱れた。 「いいか」  男がソファの肘掛《ひじか》けに尻《しり》を載せ、周子の顔の前にナイフを差し出した。「俺にうそをついたら承知しねえぞ」和室に視線を投げ、「いいな」と念を押す。 「何がしたいの? 何が欲しいの? お願い、出てってよ」  周子は、両手で顔を覆った。わたしにうそをつかせるようにしむけたのは、あなたじゃないの。いきなり人の家に飛び込んで来て、母親と子供を恐怖にさらしている。なぜわたしが、理不尽な苦痛を味わわなければならないの? 「おとなしくしていれば、何もしない」  やや穏やかな口調で、男は言った。「だから、俺にうそはつくな、これからは絶対に」  周子は顔を上げた。男を睨《にら》みつけると、男はせわしないまばたきを返した。 「いいな」  声が少し震えている。 「わかったわ」  周子は覚悟を決めた。牧人を守るいちばんいい方法は、男にうそをつかないこと、いまはそれだけのようだ。「でも、教えて。いつまでここにいるつもり」 「俺は、人を刺して来たんだ」  男は、ポツリと言った。周子は男が向けたナイフを見た。それが凶器になったのは間違いないだろう。 「死んだの?」  わからん、というふうに男は首を横に振った。 「どこで?」 「新《しん》青梅街道《おうめかいどう》に面したコンビニだ」  うつろな視線が、庭の外に向いた。「店にいた客を刺した」  新青梅街道までは、車で数分もかからない。牧人を連れて三人で、近くのファミリーレストランに行くことがある。 「逃げて来たの?」  どういう状況だったのかは明らかでないが、凶暴な人間だということはわかった。しかし、その後、客がどうなったのか気になるのだろう。そわそわして落ち着かない様子なのは、そのためなのだ。  男は答えなかった。が、逃げる途中、ここの庭に駆け込んだのは明らかだった。 「誰かに見つかりそうになったの?」  周子は、さらに聞いた。 「おまわりの姿が見えた気がしたんだ」  男は下唇を噛《か》んだ。それが震えを止めるためだと、周子にはわかった。 「いま外に出たら……」  言いかけたのを、 「そんなことできるか。自殺行為だ」と、男が吐き捨てるように遮った。 「コンビニエンスストア? あの辺にあるのは、『アップルロード』……」  周子の生活圏内である。地理にはくわしい。 「よく知ってるな。……そうだ」  男は、かすかに笑った。「まるで取り調べみたいだな」  だが、周子はひるまなかった。男が、自分の犯行を話す気になっている。彼の心理に立ち入る余裕は、わずかながらでも残されているということだ。 「お金を盗《と》ったの?」 「ああ」  右手をブルゾンのポケットに入れ、「これっぽっちさ」と、クシャクシャになった一万円札を七枚と千円札を三枚、周子の前に広げて見せた。  それらの札が、ほんの少し前まで、コンビニエンスストアの明るい店内のレジの中にあったと思うと、周子は背筋が寒くなった。何人もの手に触れてきた紙幣。それがいま、ナイフで人を刺した男の手に握られている。 「ついこのあいだ、杉並でもコンビニ強盗があったとか。方南町《ほうなんちよう》だったかしら。それが……」 「俺じゃない」  男は、怒ったように言った。「これがはじめてだ。本当だ。やっちまったんだ。いまさらどうしようもない」  次第に、言葉の勢いが弱まってきた。自分のしたことに深い後悔を感じ始めている、と周子は思った。 「刺したのは、店員なの?」  客を刺した、と男が言ったのは覚えていたが、新しい情報を聞き出すために周子は質問した。 「違う。そこにいた客だ」 「どうして? あなたに何かしようとしたの?」 「バカがいたのさ、あんなところに。よりによって」  チェッ、と舌を鳴らし、男はふたたび下唇を噛んだ。「あいつ、とんでもねえバカだ。無視してくれりゃあいいものを。そうすりゃ、あんな目に遭わずにすんだ」  男は、あんな目に遭わせずにすんだ、と本当は言いたかったに違いない。はっきりと後悔の色が目に表れていた。 「あなたを捕まえようとしたのね」  その光景が想像できた。 「ああ。店の外まで追って来た。おせっかいなやつだ」 「勇気があるのよ、その人」 「何だってえ?」  男が、きっと周子を見た。 「勇気があるんだわ」  と、周子は繰り返した。「ふつうは見て見ぬふりをするものでしょう。自分に災難がふりかかってくるのが怖いから」  男の神経を逆撫《さかな》でするような言葉だとは知っていたけれども、それでも周子は言いたかった。 「そいつを褒めたたえようってのか?」 「…………」 「そんな勇気は、別の機会に出してくれりゃあよかったんだ。よりによって……」  男は溜《た》め息《いき》をつき、また唇を噛んだ。 「お金が欲しかったの?」 「ああ」  それ以上、くわしいことは言いたくない、というふうに口をつぐむ。 「どうしてあの店を? こんな昼間に」  コンビニエンスストアが狙《ねら》われるのは、圧倒的に深夜から早朝にかけてが多いはずである。 「やるつもりはなかった。下見のつもりで行った。だけど、店員は一人しかいなくて、そいつはまだ高校生みたいに若くて、客の方は雑誌を立ち読みしているやつ、そいつも若いやつで、一人しかいなかった」  男は思い出す目をした。「俺の中の何かがささやいた。そこのレジの中に金がある、ってね。ほら、早くやれ、って」 「ナイフは持って行ったんでしょう?」  下見のつもりでも凶器は携帯していたのだから、彼の中に実行する気がなかったとは言えない。 「あっけなかった。ナイフを突き出して、『金をよこせ』と言ったら、その若い店員は、一瞬、後ろにそり返って、ええっ? とか何とか素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を上げた。だけど、まるでそういう状況を予想していたみたいに、素直にレジを引き出し、押さえのバネみたいなのを上げて、札束をひとつかみ、こっちに差し出した。無表情だった。バカみたいに口だけ開けて。手際はよかったな。マクドナルドのマニュアルにでもあるみたいに。いつもの白いビニール袋に、入れてくれないのが不思議なくらいにね。リンゴのマークのついた袋に」  それで逃げれば、コンビニ強盗だけですんだのだろう。 「見ていた人はいたんでしょう?」 「…………」  男が答えないということは、そのあと誰かに追われた形跡がないということかもしれない。周子は、ここに逃げ込んだ男の姿を誰かが見ていたら、と望んだ。だが、目撃者がいたら、とうに確認の電話がかかってきてもよさそうなものだ。私服警官か誰かが訪ねて来ても……。 「そこには……よく買い物に行くの?」  男は、周子の質問の意味に気づいて、警戒した声で、「取り調べのような口調はやめろ」と、ぴしゃりと言った。  男がこの近所に住んでいるのか、土地鑑はあるのか、探ろうとしたのだったが。近所に住んでいるとしても、少なくとも周子の記憶にはない顔だ。 「わたしのこと、見かけたことある?」  質問の仕方を変えた。彼が周子を知っていて、この家を選んで入りこんだのかもしれない、と思ったのだ。ありえないことではない。周子を知らないまでも、家は知っていた可能性もある。隣は、大邸宅だ。その隣にあれば、周子の家だって目立つだろう。 「取り調べはやめろと言っただろ」  男は、肘掛《ひじか》けから立ち上がり、周子をまっすぐ見据えた。まぢかで見ると、男の目には怯《おび》えのような表情も混じっている。 「事件が気になるなら、テレビをつけたら? そこよ」  周子は、男が動揺しているのを知って、テーブルの上のリモコンを指した。周子自身、情報は欲しかった。  一度はリモコンを手にしたが、男は迷っている様子だった。周子は喉《のど》の渇きを覚えた。  そのとき、玄関のチャイムが鳴った。  突然の音にビクッとする。男も同様のようだった。牧人のためにボリュームは下げてあるが、それでも昔の造りの天井の高い家屋ではよく響く。 「あいつ、村井……容子か?」  低い声で男が聞いた。「ポリオがどうとか言ってた。うそだったんだろ?」 「え、ええ。ポリオはさ来週だけど、でも、今日、遊びに来る予定になってたの。たぶん、綾《あや》ちゃんも一緒に」 「綾ちゃん?」 「うちより二週間早く生まれた女の子よ」  村井容子も、周子と同じではじめての子だ。願いがかなって女の子だった。 「チッ、そんなガキを連れてか」  ふたたびチャイムが鳴った。留守にするとは言っていない。すぐに出られないだろうと思って、根気よく待つ気だろう。 「出ろ。家にはあげるなよ」 「…………」 「帰せ」 「…………」 「客が来ている、とは言うな。誰かと聞かれる。子供の具合が悪い、とでもごまかせ」   4 「どなたですか?」  声をかけると、 「村井です」  ソプラノのきれいな声が答えた。「かぼちゃ、持って来たの」  村井容子は、歩いて五分ほどのところに住んでいる。夫は、大手の損保会社に勤務していて、そこのマンションは二棟とも社宅だ。夫がらみの近所づきあいが面倒だとかで、去年の秋、保健相談所で開いた母親学級で知り合って以来、周子の家にときどき愚痴をこぼしに来る。 「牧人君は、お昼寝?」  ドアを開けると、綾を抱いた村井容子が奥へと視線をやった。  容子はおしゃれだ。綾とペアルックのピンクのトレーナーに、チェックのワイドパンツを合わせている。いつもどおりの様子から、まだ容子は、新青梅街道沿いで起きた〈コンビニ強盗事件〉を知らないのだろう、と周子は判断した。 「牧人、かぜをひいたみたいなの」  居間のドアの陰で、男は聞き耳をたてているに違いない。 「あら、そうなの。それは可哀想」  容子は眉《まゆ》をひそめ、「どんな具合? 熱ある?」と、綾の顔を見てから周子に聞いた。綾は、周子の顔を見慣れている。だが、今日は、周子があやすのも忘れているので、キョトンとした顔つきで母親の友達を見つめている。 「ちょっとね」 「どんなふうなの? ぐったりしてる?」  容子は、当然のように、身体を玄関に滑り込ませてきた。周子は、ドアを閉めざるをえなかった。 「牧人君、一度も熱出したこと、なかったのにね。かぜだったら、まかせといて。綾の専売特許だから」  綾は、突発性|発疹《はつしん》も気管支炎もやっている。その意味では、病気の先輩だ。「ご主人、かぜひいていたんじゃなかった? うつったのかしら」 「そうかもしれない」 「熱はどのくらいあるの?」 「ええっと、何度だったかしら、リンゴを食べさせたあと測ったら……」 「リンゴ食べたんなら、食欲あるんじゃないの。心配ないわよ」 「え? あ、ああ、あんまり食べなかったわね、そういえば」  周子は、しどろもどろになった。「三十九度少し、あったかしら」 「そう、ちょっと高いわね。水分をとらせた? 熱を下げた方がいいのよ」  容子が、心配そうに言う。 「ええ、大丈夫だと思うわ。いまは眠っているし」 「見ていい?」 「あっ、だめ」  言ってしまってハッとした。後ろを振り返る。居間ではことりとも音がしない。  容子が、訝《いぶか》しげな顔でいる。 「ごめんなさい」 「ぐっすり寝ているんなら、お邪魔しないけど」  容子は、気分を害したような声で言った。 「肺炎っぽいのよ」 「肺炎」 「午前中に病院に行ったの。そしたら、肺炎じゃないかって。ウイルス感染するそうなの。マイコプラズマだっけ? だから、綾ちゃんにうつったらいけないと思って」  聞きかじりの知識を口にした。 「そうなの」  容子の方が知識はある。「検査は?」 「検査? ううん、まだだけど。でも、先生はたぶん、そうじゃないかって」 「入院は、勧められなかった?」 「え、ええ。あの、すぐにはしなくてもいいみたいで……。様子を見てということで」 「そう。心配ね」  容子は腑《ふ》に落ちなさそうな顔をしたが、綾の頬《ほお》を指先で突き、周子に向かせて言った。 「そういうわけで、ごめんなさい。綾ちゃんにうつしたら悪いから」 「そうねえ、この子もあんまり丈夫じゃないから。ねえ、綾ちゃん」  容子がすんなり引き下がってくれて、周子はホッとした。 「ああ、そうだ。かぼちゃよ」と、容子はドアを開け、ベビーカーのかごからビニール袋を出し、重そうにつるして持って来た。 「かぼちゃって、離乳食にいいのよね」 「ありがとう。うちじゅう、大好きよ」 「牧人君。早く元気になるといいわね」  家の中で異変が起きていることを容子に知らせるには、どうすればいいか。言葉ではだめだ。男に気づかれないように、彼女に目配せしようか。奥を指差して、電話をダイヤルするまねをして、唇だけ動かして「ケイサツ」と言おうか。周子は逡巡《しゆんじゆん》した。  だが、自信がなかった。容子は、パニックに陥りやすい性格だ。二か月目に綾がミルクをゴボッと大量に吐き出したとき、「何か腸の病気じゃないかしら」と心配して、救急車を呼ぼうとしたくらいだった。「誰かいるの?」と声に出してしまうだろう。容子のおっとりしたところが周子は好きなのだが、勘の鈍さに苛立《いらだ》つこともたまにある。 「どうしたの?」  沈黙したままの周子を、容子は不思議に思ったようだ。 「何かあったの?」  容子は、周子の後ろをのぞき見るようにした。 「ううん、なんでも。……心配なの」 「ああ、大丈夫よ。子供なんて、親に心配させるためにいるようなものだもの。牧人君、丈夫な子だから、すぐよくなるって。何かあったら電話して。看病に来るわ。ご主人、出張でしょ?」 「ええ、ありがとう」  そのとき周子は、造り付けの靴箱の上の、籐《とう》のかごに目をとめた。その中には、配達ものの受け取りのための印鑑や朱肉、ベビーカーにかけるフックや、裏の物置の鍵《かぎ》などこまごましたものが入っている。メモ帳と細いボールペンも混じっていた。  ——筆談したらどうか。 『コンビニごうとうがうちにいる。けいさつにとどけて。気づかれないように』  周子の視線は、紙とボールペンに釘付《くぎづ》けになった。  我に返らせたのは、牧人の泣き声だった。 「あら、牧人君が泣いてる」  容子は目を見開いて、「早く行ってあげて。可哀想だから」と言い、「じゃあ、おだいじにね」そそくさと帰ってしまった。  玄関のドアが閉まる音とともに、男が居間から顔を出した。「鍵をかけろ」  周子は鍵をかけ、言われるままに、チェーン錠もおろした。  牧人の泣き声が高くなる。気が気ではなかった。居間に戻り、かぼちゃの入った袋を床に転がすと、すぐに和室に飛び込んだ。布団から牧人を抱き上げる。 「何したの、牧人に」  牧人を胸に抱き締め、男を見上げた。 「なんにもしてねえよ」  男はぶっきらぼうに答えた。「あんたが変なまねをするんじゃないかと思って、用がすんだらさっさと呼んでやったのさ」  周子はドキッとした。心の中を見透かされた気がした。 「聞いていたんでしょう? だったらわかったはずよ。何もしなかったわ」  男と視線を合わせられなかった。 「もっと早く引っ込んで来いよ。あの女に気づかれちまうじゃないか」 「何も言わなかったし、何もしなかったじゃないの」  周子は、目に涙をためて言った。自分は、確かに行動を起こそうとした。だが、実際には何もしなかった。何もしなかったことを強調しすぎている不自然さに、周子は気づかなかった。  牧人の激しい泣き方は、明らかに何かにびっくりしたときのものである。 「それなのに、どうして? あなた、牧人に何をしたの?」 「な、なんにもしねえよ」  男は面食らったように、かぶりを振った。 「だって、こんなに泣いているじゃない」 「ちょっと頬《ほお》をつねって起こしてやったのさ」  見ると、牧人の右頬に、うっすらと赤いあざができている。 「なんてことするの。ひどいじゃないの!」 「ちょっとつねっただけで、そんなに怒るなよ」  男は少しひるんだ声で言った。 「なんにも抵抗のできない赤ちゃんに乱暴するなんて、最低の人間のすること……」  周子は、われながら自分の剣幕に驚いて、言葉を切った。  ナイフをいまは床に向けて、男は黙って戸口に立っている。 「ヒステリーを起こしたりはしないのかい」  ボソッと、男は言った。 「えっ?」 「口のきけない赤ん坊だろ。ギャアギャアわめいてばかり。ときどき頭にくることってないのか」 「……あるわ」  あやして泣きやんだ牧人の真っ赤な顔を見つめて、周子は答えた。 「どんなときだ」 「どんなって……。最初は、何が気に入らなくて泣いているのかわからなかったわ。お腹はいっぱいで、オムツも濡《ぬ》れていなくて、抱いてあやしてやってもいる。それでも泣かれると、もうこっちまで泣きたくなったわ」 「手を上げたくならなかったのか?」 「……なったわ」 「あんたでもか」  男は、意外そうな顔をした。 「でも、しなかった。そのかわり、十分ほどほうっておいたことがあったわね、ベッドに泣かせっぱなしにして」 「そしたら、どうした」  男の顔が真剣になっている。 「泣き疲れたのか、泣きやんだわ。行ってみると、顔をくしゃくしゃにして、指をしゃぶりながら、息をひっひっ、って言わせてた」 「…………」 「でも、この子より、わたしの方がずっと疲れたのよ、精神的にね」 「…………」 「考え方を変えてみたの。この子はまだしゃべれない。表現方法は、泣くしかない。泣かなかったら、生きる気力がないのと同じだって。大人になったって、ろくに口もきこうとしない人って多いじゃない。他人に何かしてもらっても、ありがとうも言わない。迷惑かけても、ごめんなさいも言わない。冷静に話すかわりに、泣いたりわめいたり、怒鳴ったり、叫んだり。それよりもずっとましよ」 「なるほどね」  男はかすかに笑った。「母親がそこまで寛大なら、子供は幸せだ」  周子は戸惑った。皮肉には聞こえなかったからだ。  男がはじめて背を向け、居間に戻った。ドアの前に立つ。周子は牧人を抱き、布団の隅に座り込んでいた。  電話が鳴った。チャイムもベルの音も、この空間ではやけに大きく聞こえる。  男に促される前に、周子は居間に行く。起きてしまった牧人はもう、腕から離すつもりはなかった。 「わかってるな。よけいなことは言うな。万が一、俺《おれ》のことを聞かれたら、知らないで通せ。いいな」  一度は下に向いたナイフの刃が、ふたたび二人に向けられた。  周子は受話器を上げた。周子の脇腹《わきばら》にナイフを当て、男は耳を近づける。 「はい、柿沼です」 「周子さん?」  直人の母親の静枝の声だ。八王子《はちおうじ》に住んでいる。直人は妹と二人兄弟だが、妹が早くに結婚して、実家の敷地内に住んでいるので、周子も気が楽だった。 「お義母《かあ》さん」  相手が誰か男に知らせるために、周子は呼んだ。 「牧人は元気?」 「ええ……とても元気です」  肺炎になりかかっていたはずだった。 「直人は大阪だったわね。帰りは……」 「あさってですけど」 「ああ、あさってね」  孫と息子のことを前置きにして、静枝はいつも話を始める。最近、耳が遠くなった。そのせいか、電話の声がやけに大きい。受話器から声がもれて男に聞こえているだろう。  一呼吸おいて、「ねえねえ、さっきニュースでやっていたんだけど、見た? そこの近くよ」と、静枝は声を弾ませた。  周子はドキッとして、男を見た。 「鷺宮五丁目ですって。そこは、二丁目だったかしら」 「上鷺宮です」 「ああ、そうだったかしら。でも、近いんじゃない?」 「何か……あったんですか」 「まあ、やっぱり周子さん、知らないのね」  静枝の声が興奮で高くなった。「新青梅街道に面したスーパーだかどこだかに、強盗が入ってね、店にいた若い男の客が殺されちゃったのよ。怖いわねえ」 「殺された……」  受話器を持つ手が震えた。隣で男が蒼白《そうはく》になるのがわかった。 「それで、心配になったのよ。ああ、そういえば周子さん、あのあたりじゃなかったかしら、そう思ってね」 「え、ええ。でも、あそこまで買い物には行きませんから、牧人を連れては」 「そう、じゃあいいけど。でもね、その男、まだ捕まっていないっていうのよ。逃げているみたい。だから周子さん、外に出ない方がいいんじゃない? まだそのあたりをうろついているかもしれないから」  男がスッとその場を離れ、周子が座っていたソファに力なく腰を落とした。周子はナイフから解放された。 「牧人は? お昼寝?」 「いえ、ここにいます。抱いているんです。ちょっとぐずったので」 「あら、そう。声がしないわね。ねえ、牧人君? おばあちゃんですよ」  静枝が声色を変えた。 「牧人君、ほら、八王子のおばあちゃんよ。こんにちは、って」  近づけた受話器をつかもうと、牧人は小さな手を伸ばした。  静枝は、牧人が何か声を発するのをしばらく待っていたが、 「まだお話しないのねえ、牧人君は。じゃあ、周子さん。気をつけて。今日は、外に出ない方がいいんじゃないかしら」  そう言って、電話を切った。  受話器を置くと、ソファに座っていた男が顔を上げた。二重のきれいな目に、暗く絶望的な光が宿っていた。  男は、サングラスをはずしていた。若く、端整な顔だった。   5  サングラスをかけたコート姿の男が、画面の中に現れた。両手に何か握っているのはわかる。それをレジに向かって突き出すのも。だが、それからの動きが慌ただしい。店員の差し出した札束をすばやくつかんで後ずさり、画面から消えた。  ビデオカメラは、レジの方向から男をとらえている。残念ながら、映像は鮮明とはいえない。テープが使われすぎて古いせいもある。 「こういうことをやるやつの、精神構造はどうなっている、亀山。おまえならわかるだろ。心理学者さんよ」  深沢警部に意見を求められて、画面に見入っていた亀山勇気は、言葉に詰まった。ビデオテープはもう何度も繰り返し見ている。 「どうなっていると聞かれても、どうなっているんだか。どうなっているんでしょう」 「なんだ、なんだ、心理学なんかお勉強しても、全然役に立ってないじゃないの。もしもし亀さんよ」  と、深沢は、亀山の肩をポンと叩《たた》いて皮肉を言った。  亀山は、深沢警部が苦手だった。だが、先輩として尊敬してはいる。  亀山勇気は、大学院で犯罪心理学を学んで警視庁に入った、博士号を持つ異色の刑事である。杉並署に二年、その後、捜査一課に転属された。  まだ二十九歳と若い。南千住《みなみせんじゆ》の古い家に母親と二人で暮らしている。 「わかっているのは、そうですね、金を欲しがっている、ってことですかね」 「そんなことわかりきってる」  深沢は、呆《あき》れた声を出した。「だから、コンビニなんかに押し入ったんだろうが」 「はあ」 「頼りにならねえな、まったく。人間の心理として、こういうときどっちの方角に逃げるか、最低それだけでも分析してもらいたいんだがなあ」 「行動心理学、ですか」  亀山は溜《た》め息《いき》をついた。深沢は、人間心理は単純明快、いくつかのパターンに分類できる、例外はない、と考えているから困る。  亀山は、九月二十四日に練馬《ねりま》区桜台《さくらだい》で起きた『女子大生殺人事件』の捜査にあたっている最中だ。捜査本部は、練馬N署内にある。  本来なら、殺人事件の捜査にかかりきりのところなのだが、深沢に呼び出され、野方《のがた》K署にいる。まったく便利屋のようなものだ、と亀山は思う。  一課に来てから、たまたま最初にぶつかった凶悪事件の犯人像を、得意の犯罪心理学の知識を駆使して——そう言ったのは深沢警部だったが——、亀山がみごとに言い当てた。犯人の年齢、職業、趣味、生い立ちまで、捕まえてみたら、ほとんど亀山の予想したとおりだったのだ。もっとも亀山にしてみれば、半分はまぐれであったが。  ともかく、亀山の〈みたて〉を重視し、それにしたがって捜査は再開された。そして、行き詰まっていた事件が、ほどなく犯人逮捕になって解決したのだった。客観的に見れば、亀山の手柄、ということになる。  それ以来、捜査一課に若き犯罪心理学者あり、と言われるようになった。動機や手がかりがまるでわからない事件のときには、だいたい犯人像を絞り込んでから効率的な捜査に乗り出す、というのが最近の傾向である。通り魔的な殺人事件、愉快犯めいた連続放火事件など、被害者との接点のない事件が増えている。  そんな事件のときには、こうして亀山がその実績を買われて、便利屋よろしく駆り出されることが多いのだ。 「ただのコンビニ強盗じゃないんだぞ」  と、顎《あご》に手を当てた亀山に、深沢が太い声で言った。「店にいた客を殺したんだ。店員の話では、追いかけようとして店を出たところでもみ合いになったらしい。ナイフで胸を刺された。凶器は見当たらない。ガイシャは大学生。救急車で運ばれる途中、出血多量で息を引き取った」 「強盗殺人、ですか」  亀山は言った。「ビデオを見るかぎり、初犯のような気がするんですが」 「強盗の方か、殺人の方か」 「両方です」 「根拠は」 「……カンですけど」  深沢は、肉づきのいい丸っこい肩をすくめて、 「ホシがレジに手をついたときの指紋がとれた。いま、前科があるかどうか調べている。未解決のコンビニ強盗事件との関連もな」 「マエはないかもしれませんよ。たぶん、ないでしょう」 「なぜわかる。またカンか?」 「真っ昼間にコンビニに入るような男は、こういうことに慣れていないとみていいでしょう」 「なるほど。まあ、それは誰でもわかる」  と、深沢は、意外そうでもなく厚ぼったい唇の端を持ち上げた。「白昼の死角というか、昼が過ぎて客が引けた一瞬のスキを狙《ねら》ったんだろう。最近、未明に入る強盗が多いからな、その時間帯ならかえって警戒している」  深沢は悔しそうだ。 「それからこの男は、左ききですね」 「えっ?」  深沢は、今度は驚いたように目を見張った。「左きき? ナイフは両手に持ってレジに突き出しているぞ。それを左手に持ちかえて、金は右手で受け取っている。コートの下かどこかのポケットに、右手でそれを突っ込んでいる。ナイフは左手に持ったままだ。左手に持っているから左きき、とは言えないんじゃないか。きき腕の右手で金を受け取りやすいように、ナイフは左手に持っていた。それだけしかわからん。刺し傷は、やや左寄りにあった。心臓にかかっていたのが不運だったが。右ききか左ききか、どちらとも言えない。そうじゃないかね」 「ナイフを差し出したときの左手が、一瞬ですが、かなりはっきりと映ります。顔よりはずっと鮮明に。人差し指に切り傷のような線があるのが見えます。それから、中指の先にペンダコのような膨らみも。左手の方を使いこんでいる証拠でしょう」 「ほ、ほんとか?」  深沢は、ビデオを巻き戻し、もう一度映像を注意深く見た。 「言われてみれば、そんな気もするが。目がしょぼしょぼしてよくわからん」 「僕、視力はいいんです。二・〇ですから」  深沢は、判断がつかないというふうに首をかしげている。 「それから、この男は、かなりいい男でしょう」 「ハンサムってことか?」 「まあ、そうですね」 「なんでそんなことがわかる」 「ストッキングで覆面をしたりしていません。サングラスに、丈の長めのレインコートのようなもの。帽子もかぶっていなければマスクもしていません」 「だからどうだと言うんだ」 「自分の顔に、けっこう自信があるんでしょうね。自己顕示欲の表れでしょう。もっとも、犯罪者の中には多かれ少なかれ、自意識過剰の傾向は見られますが」  へっ、と深沢が顔をしかめ、 「やっぱり、あてにならん。おまえのみたては」と、天井を見上げた。「おいおい、亀さんよ」  亀山は、自分の名前をときどき呪《のろ》う。名字から、のろまの亀さんを連想する呼び方をされたり、名前から、勇気があるはずだよなあ、とちゃかされたりする。 「そんなことありません。当たっていると思いますよ」  亀山勇気は、ムキになって言い返した。本当は、不鮮明ながらかろうじてつかめる男の顎《あご》の形が、自分に似ているから、と言いたかったのだ。キュッと締まった形のよい男らしい顎。そういう顎の持ち主が、男前でないはずがない。 「俺《おれ》はな、おまえの得意の心理分析ってやつは、ようするにデカの第六感と同じだと思っているんだ。おおげさに大学院まで行ってお勉強するものだとは思っとらん。アメリカあたりじゃ、容疑者の性格を分析する専門家がいるとかいうが、そんなやつの力を借りなきゃ解決できないようじゃ、刑事なんかもともと不要だってことになる。そうだろ」  いわゆる叩《たた》き上げの刑事である深沢は、インテリぶったように見える若造の亀山が鼻につくようなのである。とはいっても、皮肉を言いながらも、深沢はけっこう亀山を可愛がってくれている。何かというと新米の亀山に意見を求めるのも、本当は彼の能力を高く評価しているからかもしれない。 「じゃあ、第六感で……そう思います」  亀山は譲歩した。 「犯人は逃走した。どこをどうやって逃げたのか」  と、深沢は腕を組んで、溜め息をついた。  犯行から一時間半が経過した現在、ビデオに映っていた男は捕まっていない。  店員や目撃者の話では、犯人は二十代半ば、身長は一メートル七十センチ前後。画面から受ける印象も、ほぼ同じくらいだ。 「上鷺宮方面に逃げたのは、通行人が目撃している。だが、その後の足取りがわからない。西武池袋線の富士見台や中村橋《なかむらばし》などの各駅、付近のバス停にも、ただちに捜査員を張り込ませたが。タクシーを拾ったという可能性も考えられるし、どこかに車かバイク、あるいは自転車かもしれんが、停めておいてそれで逃げたとも考えられる」 「タクシーにも自転車にも、電車にも乗ってはいないんじゃないでしょうか」  亀山は深沢に言った。「それだけの時間があれば、もっと目撃者が出てくるはずです」 「聞き込みは進めているが……」 「犯人が、どこか現場の近くに住んでいると考えられませんか」 「それは考えた」  と、即座に深沢は応じた。「だから、ビデオを見せたら、近所に住む誰かが、ああ、あの男じゃないか、と気がつくかもしれない。犯人の特徴から、聞き込みである程度、浮かび上がってくる人物がいるかもな。アパートに一人住まいの仕事のない金に困った若い男。そんな犯人像に絞られてくるだろう」 「いずれにしても、犯人は、そう遠くには行っていない気がしますね。自分の巣に舞い戻って、息をひそめて嵐《あらし》の去るのを待っているか、そうでなければ、どこかへ逃げ込んで……」 「どこかにたてこもっているか、だな」  深沢は、言いかえて険しい表情をした。「最悪のケースだが、ありうるだろうな」  どこかに逃げ込んで、ひっそりと身を隠しているとしたら、と亀山は考えた。気の遠くなるような夥《おびただ》しい数の家々の窓が、脳裏に浮かんだ。そして、先月の末、自宅のアパートの一室で殺された女子大生も、そうした大都会のちっぽけな窓の一つだったのだ、と思った。どちらの殺人犯も、まだ殺伐とした都会の空の下にいるのだ。  亀山は、一人の女の顔を、ふっと思い浮かべた。   6 「——二日午後一時五分ごろ、東京都中野区鷺宮五丁目のコンビニエンスストア『アップルロード』に、サングラスをかけた男が押し入り、アルバイトの店員に果物ナイフを突きつけ、『金を出せ』と脅しました。店員がレジから現金約七万円を出すと、男はそれを奪って逃走しようとしましたが、ちょうど居合わせた客の大学生と店の外でもみ合いになりました。  大学生は胸をナイフで刺され、救急車で病院に運ばれる途中、出血多量で亡くなりました。殺されたのは、持ち物から、近所に住む東南大学二年の伊集院光司さん、二十歳とわかりました。大学では剣道部に所属していました。男は年齢二十五歳前後、身長約一メートル七十センチで、サングラスをかけ、黒っぽいコートを着ていたようです。上鷺宮方面に逃げたのを目撃されていますが、現在も、逃走中だということです」  午後のワイドショーが始まる前のニュースで、事件は報道された。 「死んだのか」  と、男はつぶやき、リモコンを向け、テレビを消した。「俺《おれ》は、殺人犯だ。そうだろ?」と、周子を見上げる。  周子は、牧人を抱いて立ちすくんでいた。 「なんとか言えよ」 「…………」 「勇気がある人だ、あんたはそう言って感心してたよな。だが、死んじまったんだぜ?」  と、男は、泣き笑いのような裏返った声を出した。  一度はずしたサングラスを、もうかけようとはしない。くっきりした二重で、やさしげな目の色をしている。 「俺が殺したんだ。憎いだろ?」 「…………」 「何か言えってば!」  男が怒鳴り、テーブルの足を蹴《け》った。その音に驚いて、牧人が周子の顔をすがりつくような目で見、泣き出した。 「うるせえっ! 黙れ」  男は、長い膝《ひざ》に身体を二つ折りにし、頭を抱え込んだ。耳を押さえるように。  周子は牧人をあやし、泣きやませた。 「自首したら?」  男がハッと頭をもたげる。 「自首した方がいいと思うわ」  もう一度、周子は言った。 「俺に自首を勧めるのか」  男の声が投げやりな調子に聞こえたので、周子は警戒した。自暴自棄になっているとしたら怖い。 「七万三千円を盗んだだけじゃないんだぞ。人を殺したんだ」 「だから、自首した方が……」 「俺のせいだと言うのか」 「…………」 「あいつのせいじゃないと言うんだな」  あいつとは、伊集院とかいう刺殺された大学生のことだ。伊集院? 何かが周子の記憶の領域に働きかけた。 「俺がスピードを出して車を運転していたところへ、いきなり男が飛び出して来た。まるでそんな状況だったんだ。よける暇もなく轢《ひ》いちまった。そう、俺は、弾みで刺したんだ。脅すつもりで……。あれは、勇気なんかじゃない。無謀だ」  無謀……そうかもしれない、と周子は思った。大学の剣道部にいたという。生まれつき正義感の強い青年だったのだろう。とっさの行動力を発揮するタイプで、体力にも自信があったのだろう。自分の強運も信じていたに違いない。 「そうだろ? コンビニ強盗に立ち向かうやつなんて、聞いたことがない。俺の場合は、そう、運が悪かったんだ。そうだろ?」  男は、同意を促すような目を周子に向けてきた。  周子が黙っていると、 「そうだと言えよ!」  ヒステリックにテーブルを叩《たた》いた。 「そうだわ」  息を呑《の》み、周子は言った。これ以上、牧人を男の怒鳴り声で怯《おび》えさせたくなかった。しかし、運が悪かったと言ったところで、男の気持ちが鎮まるとは思えなかった。 「じゃあ、自首しろだなんて、軽々しく言うな」  小さくうなずき、周子は庭側のソファに座った。男と周子の位置が、最初と入れ替わった。牧人は、おとなしく胸に抱かれている。そこがいまは一番安全な場所だとわかっているかのように。  男のサングラスが、テーブルの上にある。周子は、慄然《りつぜん》としてそれを見つめていた。男の顔をはっきり見てしまった。顔の輪郭、目鼻立ち。全体の印象から細部の造作まで脳裏にしっかり刻み込んでしまった。  手足が長く細い。茶色がかった髪は、女のような印象を与える。それでいて、力がありそうに見えた。ナイーブそうで甘い顔立ちが、若い女の子に人気のある何とかいうミュージシャンに似ている。  ——顔を覚えてしまった以上、もう、わたしたちを解放してくれないのではないか。 「どうした」  男が言った。「何かしゃべっていろ」 「でも……」  話すことなど見つかるはずがなかった。 「大学生……」  周子はつぶやいた。男を見ていたら、ふと思い出したことがあった。 「剣道なんかやってたのが悪いのさ。敵と見れば攻めかかっていく。身体がそう訓練されているんだ」 「…………」 「どうしたんだ。なぜ黙っている。……そいつを知っているのか?」  男の表情が引き締まった。 「いいえ、よく知らないわ。でも……」 「でも、なんだ」 「伊集院という名前は、聞いたことがあるの。というより、読んだことがあるの」 「どういうことだ」 「この子を散歩させていたときに、『伊集院』という表札を目にした記憶があるのよ。一度じゃない。何度か。よく通るところだってことだわ」 「近所か」 「すぐ近所ではないわ。近くの公園に飽きて、新青梅街道の方まで行ったときだから」 「大学生とやらは、そこに住んでいたのか」 「そこの人かどうかはわからない。でも、このあたりにはない名字だから、覚えていたんだわ、きっと」 「表札を読むのが趣味なのか」  男は、皮肉っぽく言った。 「そういうわけじゃないけど、でも、この子と二人きりだと、散歩するくらいが息抜きなのよ。だから、入りくんだ住宅街を選んで歩くの。手入れされた庭をのぞいたり、表札を目にとめながら歩いたり……」 「死んじまった大学生が、そこのやつだとしたら……」  男の表情が強張《こわば》った。「どんな家だ」 「どんなって、庭のある広い家よ。門があって、高い塀が巡っていて」  うちとは違い、と内心でつけ加えた。 「家族と住んでいるんだな」 「たぶん、そうだと思うわ」  男は、組んだ足の先で、イライラしたようにテーブルを何度も蹴り、 「そこの家のやつだと思うか」と聞いた。 「わからないわ」 「思うか、と聞いているんだ」  男は身を乗り出した。思わず周子は、腰が引けた。 「……思うわ」 「なぜだ」 「カン……よ」 「どんな家庭だと思う」 「わからない」 「言えよ。あんたが想像する家庭でいいんだ」 「父親がいて、母親がいて、息子がいて、犬を飼っていて、……そんな家庭」  御影石《みかげいし》らしい表札に彫られた『伊集院』という、由緒正しそうな名前。門扉の横には、『犬・犬・犬……』と、しつこいほど犬を強調したステッカーが貼《は》ってあった。周子は、〈わたしもこんな家が欲しいわ〉と思いながら、何度かその家の前を通った記憶がある。 「もっとくわしく言え」  男の形のよい目には、サディスティックな輝きがあった。 「世間並みに教育ママの、世間並みに息子思いの母親がいて、でも、無事、私立の一流大学に合格したから、ああ、役目を終えたわ、とホッと肩の荷を下ろして。どこかの会社の部長か、役員か、それも一流会社の父親がいて、そして、息子。多少マザコンで、小さい頃からスポーツ好きで、お勉強もできて。だから、母親の自慢の息子で……」  牧人の将来を重ね合わせていたのかもしれない。周子は、未知の家庭を思い描いた。 「一人息子か?」 「妹がいるかもしれない。いいえ、お姉さんかも。妹だったら、活発な現代っ子。お姉さんだったら、髪の長いおしとやかな、でも、芯《しん》がしっかりしていそうな子。とにかく、女の子一人、男の子一人の二人兄弟よ、きっと。……なんとなく、そんな気がするわ」  夢中で言って、周子はハッとした。男が、探るような目つきで、周子と、コアラのように胸にしがみついている牧人を、交互に見ている。 「幸せそうな家庭、そう思うんだな」 「…………」 「それを俺《おれ》が壊した。そうだろ?」 「そうなふうには言ってないわ。ただあなたが、どんな家庭だと思うかと聞いたから、わたし、どこにでもありそうな、平凡な家庭を思い描いただけじゃない」 「平凡な家庭?」  男は、どういう意味かかぶりを振り、冗談じゃねえ、とつぶやいた。「いまはもう、そんな家庭なんかありゃしない。俺がその母親思いの息子とやらを、幸せな家庭を奪っちまった。もう、おしまいだ」  もう、おしまいだ——その言葉に、周子は震え上がった。この男は、何を考えているのか。わたしたちを最後まで巻き込むつもりなのか。最後の最後まで?  死、という文字が、脳裏に浮かび、大きく膨れ上がった。 「おしまいじゃ……ないわ」  言ってはみたものの、むなしく響いた。 「心にもないことを言うな」  男は、ふっと弱い笑いをもらして、視線を落とした。  自首しなさい。やってしまったことを後悔しているのなら、あとは罪を償うことしかないのよ、あなたには。——そう喉《のど》まで出かかった。 「俺は……人を殺した」  放心したように男は言った。「人を殺すような人間は、どこか遠い世界にいて俺とは無関係なやつだと思っていたのに。簡単だった。あんなにあっけなく人を殺せるなんて」 「殺すつもりはなかった。威嚇《いかく》するつもりが、人が飛び出して来たので、弾みで刺してしまった。そういう状況は、わかるわ」  周子は、遠慮がちに言った。 「だから、自首しろと? あんたにわかっても、刑事や裁判官にわかるか?」  慰めの言葉が、男を刺激するようだ。だが、それでいて同情を欲しがっているのを、周子は感じた。 「わたしにはわかるわ」 「何がだ」 「あなたがさっき言った気持ち。誰でも殺人者になりうる可能性を持っているのよ」 「どういうことだ」  男はまっすぐ周子を見た。 「わたしだって、もしかしたら殺人者になっていたかもしれない」 「何かあったのか」  男の目が真剣な光を帯びた。 「この子が二か月になる前だった」  周子は牧人の腫《は》れぼったいまぶたを見て、話を始めた。いまではもう懐かしい話だ。 「主人が、一晩だけだけど、家をあけたの。この子は三時間おきに、いえ、二時間ももたずに泣いてわたしを起こした。わたしは昼間の疲れを引きずっていて、もうフラフラでクタクタだった。おっぱいをあげながらウトウトして。ああ、一晩でいいから泣き声なんか気にせずに、ゆっくり眠りたい。この小さなわがままな生き物。うるさく泣き続ける小動物。ふっと、この桜貝のような口を手のひらでふさいでみたら、そう思ったの。そしたら、このこざかしい生き物は静かになるんじゃないか。実際、わたしの手がこの子の口元に伸びて。ちっちゃな顔よ。大人の手のひらで、口と鼻の穴が一度にふさげる。柔らかな感触を手のひらに感じたわ。熱い吐息みたいなものが手のひらに当たって……」 「どうしたんだ」  男が、息を呑《の》む気配がした。 「ハッとして起きたの。半分眠ってしまっていたみたい。気がついたら、牧人は腕の中で、口をポカンと開けてスヤスヤ寝ていた。でも、あのままわたしが眠っていたら。夢の中で、わたしの手はこの子の口を……。意識下に眠っていた潜在的な願望が、頭をもたげたのね。あのとき目覚めるのが一分でも遅れていたら……。思い出すだけでゾッとするわ」 「そいつは窒息死していたかもしれない、そう言うんだな」  周子はうなずいた。 「不注意な母親、と言われたかもしれない。でも、世間はきっと不注意だけではすまさないでしょうね。育児に疲れて発作的にわが子を殺したひどい母親。母親としての愛情が足りない、母性に欠けた女の犯行。そんなふうにワイドショーに取り上げられ、新聞にも書かれるでしょう」 「だが、あんたは殺さなかった」  男は、静かに言った。「だが、俺は殺した。それは現実だ。さっきまでなんのかかわりもなかった人間を」   7  男がその場を動こうとしないかぎり、周子は永遠に座ったままでいただろう。しかし、赤ん坊の牧人はそうはいかない。誰かが言っていた。——赤ちゃんは寝ているか、何かをしているか、そのどちらかです。何もせずじっとしていることはありません、と。  牧人は、母親の腕から逃れたがり出した。昼寝の時間は、半年を過ぎた頃から次第に短くなってきた。昼寝を中断された牧人は、いつもより機嫌が悪いが、それでも眠るより遊びの方に気が向いているようだ。周子の膝《ひざ》の上でむずかり、手足をばたつかせ、自由になりたがった。 「この子を遊ばせていいかしら」  ソファを立って、周子は男に言った。お願いするというよりも、要求するという口調だった。ひとたび自己主張を始めたら、聞き入れてやらないかぎり収拾がつかない、それが赤ちゃんというものだから。 「遊ばせる?」  このくらいの月齢の赤ちゃんに慣れていない様子の男は、訝《いぶか》しげな顔で、「どうやってだ」と聞いた。 「お座りさせてもいいかしら。そこで」  部屋の一角のプレイマットに、周子は顔を向けた。牧人の顔も一緒に向いた。 「じっとしてられねえのか」 「わたしならできるわ。でも、この子は無理よ」  男は、チッと舌を鳴らした。 「この子に何ができるって言うの? 逃げもしなければ電話をかけもしない。せめてこの空間で、好きにさせてあげて」 「じゃあ、勝手にしろ」  と、男は顎《あご》をしゃくり上げた。「ギャアギャア泣かせるなよ」  周子は、プレイマットに牧人を座らせた。ガラガラやミニカーやぬいぐるみなどのオモチャの入った整理箱を、牧人の前に置く。牧人はすぐご機嫌になった。箱に手を伸ばしてひっくり返し、気に入った真っ赤なミニカーからそばにたぐり寄せる。  遊びに夢中になり始めたのを見届けて、周子はすぐ近くのソファに座り直した。母親の姿が視野に入っているので、牧人は上機嫌だ。ときどき笑い声をたてながら、オモチャにじゃれついている。しばらくはもつだろう。 「どうするつもり?」  周子は聞いた。「赤ちゃんの相手をずっとするつもりなの」 「ガキは苦手だ」  男は肩をすくめた。「あんたたちにしてみれば、いきなり俺が逃げ込んで来たんだ。いい迷惑だろう。だけど、俺にしたって、こういう家だとは思わなかったからな」  逃げ込む家を選べるとしたら、誰も七か月の赤ちゃんのいる家庭を選ばないだろう、と周子も思った。 「いつまでいるの」 「安全だとわかるまでだ。まだ表には警官がうろうろしているだろうよ」  男は、カーテンの閉まったサッシ戸に目をやった。そして、胸をつかれたように、「戸締まりはどうだ。どこか開いているんじゃないだろうな」と言った。 「玄関も、勝手口も……そこの裏だけど、全部閉まっているわ」 「上もか」と、男は天井を見上げる。 「二階のベランダも閉まっているわ。心配なら見て来たら?」  午前中に洗濯物を干したときに、ベランダの鍵《かぎ》はかけた。  男は、しばらく疑うようなまなざしで周子を見ていたが、「いや、いい」と低い声で言った。「二階には行くな。俺の目の届く範囲にいろ」  周子はふと、洗濯物が干したままになっていた方が都合がいいのでは、と思った。そのままで夜を迎え、朝を迎えたら、近所の目はそれをとらえ、不思議に思うかもしれない。もっとも、近所といっても、周子の脳裏に浮かんだのは、一軒だけだったが。  洗濯物のことは言わない方がいい。庭に逃げ込んだとき、男は二階のベランダを見上げる余裕などなかったであろうから。 「警察は、まさかあなたが、どこかの家に逃げ込んだとは思わないんじゃないかしら」  洗濯物にほんの少し希望を託し、それを悟られないように話を進めた。男を少しでも安心させ、一刻も早くここから出る気にさせたい。 「いや、わからん。誰かが見ていたかもしれない」 「そんなはずないわ。それだったら、とっくに刑事がここに来ているわ」 「そうとは言えんだろ。探っているのかもしれん。さっきの村井容子、あれは、警察が送り込んだ女じゃないだろうな、様子を見るために」 「容子さんが? そんなはずないわ」  男は腰を上げかけた。「まさか、あんた、友達から何かもらったんじゃないだろうな。手紙か何か。警察からの指示を」  疑心暗鬼になっているようだ。 「わたしにそんな暇があったと思う?」  周子は、まだ一人遊びに熱中している牧人を指差し、「この子がいるのよ。危険なことはしないわ」と、きっぱりと言った。 「いいだろ、信じる」  と、男はふたたびソファに座った。「亭主が帰って来るのは、あさってだったな」 「ええ」  周子は、胸が騒いだ。カレンダーで確認してしまっている。まさか、と思った。それまでに出て行ってくれるのか。それとも、夫が帰るまでここにたてこもるつもりで、一家全員を巻き込む考えでいるのか。いや、最悪の事態は、夫が、妻と息子の死体を発見する場合だ……。 「ど、どうするつもりなの」 「さあ」  人ごとのように男は言った。「わかっているのは、警察だってバカじゃないってことだ。俺が逃げそうな経路を隈《くま》なく探すだろう。どこかにたてこもっている可能性だって、とっくに思いついているさ」 「でも……」  と、言いかけて、周子は混乱した頭を落ち着かせた。早くなんとか、男を追い出す手段を見つけなければならない。  ここは、周子と牧人の〈生活の場〉なのだ。お腹がすいたら授乳し、離乳食を与え、オムツが濡《ぬ》れれば取り替えてやる。唐突に眠くなったり、機嫌をそこねたりする生き物相手の、大人の論理が通用しない世界である。いつ、このわがままな生き物に男が腹を立て、衝動的な怒りを爆発させないともかぎらない。男は興奮状態にいる。気長でなくてはやってられない育児を、とても理解してくれるとは思えない。 「でも、なんだ」 「村井さんは、少しも疑っている様子はなかったし、電話で主人の母も同じだった。あなたも聞いていたでしょう?」  男は、少し考え込んだ。そして、「たとえ、いまはまだおかしいと思われていなくてもだ」と、腕を組んだ。「いま、出て行くわけにはいかない。地雷が仕掛けてあるところへ裸足《はだし》で出て行け、と言うようなものじゃないか。あんたは俺を殺したいんだな」 「殺すだなんて」  周子は、あわててかぶりを振った。「ただ、ここが安全だと思うあなたの気持ちがわからないだけよ。わたしだって、いつ何があるかまるでわからない」 「俺がいることを隠してくれさえすればいいんだよ。その意味では、そのガキがいてかえってよかったかもな」  そのガキ、と呼ばれた牧人は、母親がそばにいるので、見知らぬ男の存在にも慣れたようすだ。 「安全だとわかったら……出て行ってくれるのね?」  男は、すぐには返事をしなかった。「どうなの?」と、周子は促した。 「ああ」 「主人が帰って来るまでに?」 「…………」 「予定が変更になって、突然、今夜帰って来るかもしれないわ」  そういう事態になったとき、はたしてどうなるのか。それまでに男が出て行かなければ、直人は男に出くわす。どんな反応を示すだろう。いきなり殴りかかって行くのか、妻と子の身の安全を考え、自分もおとなしく人質になり、男の要求——あったら、の話だが——を素直に受け入れるのか。  周子は突き詰めて考えたくはなかった。直人が加わると、事態はさらに悪化する気がした。 「そうなった方がいいのか?」  男は、逆に周子を試すように聞いた。 「…………」 「どうなんだ」  返事に窮した母親を、息子のむずかる声が救った。一人遊びに飽きて、クルンとあおむけになり、寝返りを一つして、周子の膝元《ひざもと》にすり寄った。膝に手をかけ、遊びの相手になるのを要求する。 「買い物に行きたいんだけど」  と、周子は、許可されるとはとても思えなかったが、切り出した。 「冗談じゃねえ」  案の定、却下された。 「ミルクが切れてるの」 「ミルク?」  それがどういう意味を持つのか、男は測りかねているらしかった。「母乳をやってたんじゃないのか」  母乳、と言われて、周子は心臓がビクンとした。おっぱいは、赤ちゃんに吸わせるときは、ほほえましいイメージだが、もう一つ、違うイメージがある。それを、男が想像しないはずがない、と思った。  動揺を悟られないように、「ええ、でも、それだけじゃ足りないのよ」と言った。  粉ミルクが大缶にあと数さじしか残っていないのは、本当だった。午後、散歩がてら薬局に買いに行くつもりでいた。こういう状況の中だ。母乳の出が悪くなっている。 「だめだ。何か食べさせりゃいいだろう」  男は言い、台所の方を見た。「離乳食ってえの? 貼《は》ってあったじゃねえか」  男は、カレンダーの隣のコルクボードにベタベタと貼ってある、離乳食に関する雑誌の切り抜きを見たのだろう。『初期・中期・後期・離乳食のすすめ方』やら『三分でできる簡単離乳食メニュー』やら『離乳食のあるレストラン一覧表』など……。 「五時には、離乳食を食べさせているの。そういう習慣なの」  膝にまつわりつく牧人を抱き上げて、周子は言った。時計は、四時を回っている。 「時間がきたら、作ってあげて、食べさせていいかしら。わたしたち、どこへも行かないから」  どこへも行かないのではなくて、行けないのだ。たとえ殺人犯がいようとも、牧人は無心に食べ、排泄《はいせつ》し、眠る。それが赤ん坊だ。「でも、その前に……オムツ替えていいかしら」   8  五時になった。  周子は、台所から見えるところにプレイマットを移動させて、そこで牧人を遊ばせた。その頃にはもう、男は、牧人に関するかぎり周子に主導権を握らせてくれていた。自分の見える空間でなら、母親が七か月の赤ん坊におっぱいを与えようが、何か食べさせようが、オムツを替えようが、子守歌であやそうが危険はない。勝手にやってくれ、といった感じだった。  台所で、パンがゆを作り、じゃがいもとにんじんといんげんを茹《ゆ》で、ベビー用のコンソメで味を整えた。  男は、テーブルに足を載せ、〈まだ事件を起こす前の〉朝刊を読んでいる。 「外の郵便受けに、夕刊がきているはずよ」  小さなすり鉢で野菜を潰《つぶ》しながら、周子は言った。手は料理のために動かしながらも、頭は、きっかけになる何かをいつも探している。 「夕刊?」  男は、ギクッとしたように反応した。「まさかもう、俺のことが載っているわけじゃないだろ」 「郵便受けは外から見えるわ。夕刊がそのままになっていたら、明日、朝刊を配りに来て変に思うかもしれない。それに、近所で誰かが気づくかもしれないわ。お隣さん、おせっかいだから」  隣には、通いの家政婦がいる。彼女の、人のよさそうな顔を思い浮かべた。  男は少し考えて、「暗くなってから、取りに行け」と言った。  玄関のドアと郵便受けは、三メートルも離れていないけれども、周子だけが外に出られる。チャンスだ、と思った。 「腹が減った。何を作っている」  野菜スープの匂《にお》いが、食欲を誘ったらしい。 「この子のもの」  手を休めずに答える。 「何か作れ。あるものでいい」  手が止まった。 「あんたは何を食べるつもりだったんだ、今晩」  周子は、違和感を覚えた。男の言葉は、三人をごく平凡な日常に引き戻した。 「わたしなら、なんでもいいの」  弱々しく笑った。「主人がいないときは、いつもそうよ」 「でも、何か食べるんだろ?」 「冷蔵庫にあるものを適当に」 「じゃあ、冷蔵庫にあるものでいい。……ビールはあるか」  言いながら、男は台所に来た。 「あるわ」  周子は、何も言われないかぎり、ビールも出さなければ、サービスもしないつもりでいた。  男は冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出す。  狭い空間に一緒にいるのを避けるために、周子は牧人のそばに行った。ベビーラックを運び、牧人を座らせる。 「さあ、ご飯よ」  パンがゆを一さじ、口に運ぶ。そのそばを、缶ビールとプロセスチーズの箱を持って、男がすり抜けて行く。ソファに座り、テーブルに箱を投げ、いきおいよくプルリングを引く。よほど喉《のど》が渇いていたのだろう、男は一息でビールを飲み干し、空き缶を派手な音をさせてテーブルに置いた。  その音に気をとられたのか、牧人が首をひねり、丸っこい顔で男を見上げた。  男と牧人の目が合った。アルコールのせいか、男の目が充血している。周子はあわてて、牧人の顔を前に向けて、祈るように「いっぱい食べて」と語りかけた。 「何か気のきいたものはねえのか」  と、男はぞんざいな口のきき方をした。わざとらしい感じだ。そこに幼さがのぞいた。 「コンビニに行ったんでしょう。なんでも好きなものを買ってくればよかったじゃない」  周子は、少し腹を立てて言った。牧人の存在が、周子の気を大きくさせていたのかもしれない。 「それ、皮肉か?」  男は、最初は静かに言った。周子が黙っていると、 「おまえら、そんな目で俺を見るなよ!」  と怒鳴り、空き缶を周子の方へ投げた。母と息子をひっくるめて一人、と数えているらしい。それは、けたたましい音を上げながら、食堂のフローリングの床にころがった。  牧人の気がそれた。運んだスプーンから口を離し、音のした方向を探してから、怯《おび》えた目で周子を見た。  周子は唾《つば》を呑《の》み込んでから、「ほらほら、もっと食べて」と、やさしい声を出した。喉が渇いて声がかすれた。 「俺をバカにしてるんだろう」 「いいえ」 「いや、軽蔑《けいべつ》している」 「いいえ」 「じゃあ、なんでそんなに冷静でいる。黙々と赤ん坊の世話なんかしやがって」  周子は黙っていた。牧人が口を開け、次のさじを催促する。「はい、あーん」と、パンがゆを口に運ぶ。 「そんな猫なで声、出すな!」  男は、長い足でテーブルを蹴《け》った。  男の癇癪《かんしやく》を周子は無視した。牧人と向き合い、〈いつもの日常の仕事〉に専念することによって、この緊迫感や息苦しさや恐怖から逃れられると思ったからだ。  テーブルに足を放り出した格好で、しばらく男は動かなかった。そのあいだ周子は、男が言ったとおり黙々と赤ん坊の世話をした。小さなご飯|茶碗《ぢやわん》に軽く一杯の分量を、牧人はたいらげた。 「いつもそうやって、その子が優先なのか」  気がつくと、男は身体を斜めにして、周子の手元を見つめていた。  ベビーラックからテーブルをはずそうとしていた周子は、えっ? と顔を上げた。 「旦那《だんな》の飯は?」  ようやく意味を理解した。 「主人はね、だいたい帰りが遅いの。早くて七時頃かしら。だから、この子の夕飯を済ませて、それから作るのよ」  食事のあとしばらくは、牧人はベビーラックの中で遊ぶ。 「あんたも一緒に食べるのか」 「ええ。でも、待つのは九時までにしているの。この子をお風呂《ふろ》に入れて寝かせなくちゃいけないから」  お風呂……そう、お風呂だ。赤ん坊の新陳代謝は激しい。毎日、入浴させる。九月の半ば頃までは、よく汗をかいたので、一日二度、多いときで三度、沐浴《もくよく》させたものだ。殺人犯の前で平静さを装い、そこまで〈日常的なこと〉をする勇気が、周子にはなかった。 「じゃあ、あんたが食べようと思っていたものでいい。何かくれ」  この男のために、手のこんだものを作る気はさらさらなかった。わたしの方は食欲がないわ、と言ってみようか、と周子は考えた。  だが、男が冷蔵庫をのぞき、食べられそうなものを引っ張り出す姿を想像して、ゾッとした。空腹で苛立《いらだ》った男に台所をうろつかれるのは、危険だ。熱を加えたり火を使ったりする作業を、ここでやられたらたまらない。台所は危険な場所であり、女にとっては神聖な場所でもある。それは、日常をかき乱されるに等しい行為だった。いきなり逃げ込んで来たことで、十分かき乱されてはいるけれども、もっと生理的に我慢がならない行為だった。 「残りものでよかったら」  なるべく感情がこもらない声で、周子は言った。殺人を犯した人間と、夕飯を一緒にすることが——もちろん、周子は一緒に並んで食べるつもりはないが、自分が食べようと思っていたものを男と分け合う、という意味で——、何かとても忌まわしく大胆なことのように思えて、冷蔵庫を開ける手に力が入らなかった。いま、直人がこの光景を目にしたら、どう思うだろうか。「なにやってるんだ、周子。よく、悠長に食事の用意なんかしてやれるな。いやよ、早く出てって、子供がいるのよ。あんたのご飯なんか誰が作るもんですか。そうわめき叫んで、とり乱すのが、ふつうの神経の女ってもんじゃないか」——直人はそう言うかもしれない。  それなのに、わたしはいったい、何をやってるの? 男は確かにナイフを持って、それをときどきわたしと牧人に向けて脅すけれども、ご飯を作るのはいやよ、と拒否したからと言って即、殺されるとは思えない。男は、自分で冷蔵庫を開け、食べられそうなものを探し出し、それを夕飯とするだろう。  料理をしている場合じゃない、と思いながらも、手を動かすことによって、冷静さを保っていられるのも事実だった。何よりも、本能が周子に教えていた。〈いまはこうすることが、牧人のためにいちばんいいのよ〉と。  作り置きしておいたはすの煮物とひじきを、それぞれ小鉢に開けた。冷凍庫から焼きおにぎりを出し、レンジで温める。 「干物があるけど、焼く? それとも、しょうが焼きにする?」  えぼ鯛《だい》の干物と、自家製のみそだれに漬け込んで冷蔵庫に寝かせた豚肉がある。タレは実家の母からの秘伝だ。周子は、料理が嫌いではなかった。その意味では、主婦に向いていると言えた。 「あんたは何を食べようと思っていたんだ」  男は、周子の食べたかったものにこだわった。 「まだ決めてないわ」 「じゃあ、しょうが焼きだ。包丁は……使い方を考えろよ。大事な息子がいるんだ」  かしこまりました、とは言わなかったが、周子はすぐに豚肉のしょうが焼きの方にとりかかった。包丁を使う必要はなかった。  フライパンで三分もかからずに、肉は焼けた。丸盆に、かぼちゃとひじきとしょうが焼き、それに焼きおにぎりを三つ、セットして、割《わ》り箸《ばし》をつけてテーブルに持って行こうとした。 「もう一本、ビールくれ」  男が言った。その口調は、直人のものにドキッとするほど似ていた。男がこういう状況でこう言えば、みな同じ口調になるものなのかもしれない。  周子は、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、それも載せた。テーブルに、黙って盆を置く。まるで、愛想の悪い旅館の仲居のように。 「あんたは食べないのか」  左手で焼きおにぎりをつまみ、男は聞いた。右手に握ったナイフは、離そうとはしない。 「食べたくないの」 「腹減るぜ、あとで」  無理するなよ、という目で男は見た。それが、長丁場になるんだから、と暗示しているように思えた。 「牧人のそばで食べるわ」  周子は、テーブルを離れた。遊び用のスプーンを持ってご機嫌の牧人の前にかがみこみ、焼きおにぎりを頬張《ほおば》った。味わう暇などなかった。ただ空腹を満たせればいいのだ。これからの体力を蓄えておくために。  男は、前かがみになり、ちらちらとこちらを見ながら、左手に箸を持って食べている。ナイフを持つ右手は使えないので、必然的に前のめりになり、犬食いのような格好に見える。  周子は、ふと背後を見た。そう離れていないところに、包丁を収納した引き出しがある。三本、入っているはずだ。魚専用のものとそれ以外のもの、パン切り包丁。男の手にしているナイフよりは、ずっと迫力がある。  ——牧人をベビーラックから抱き上げ、後ずさり、引き出しから後ろ手で包丁を取り出す。そして、おもむろにそれを男に向け、「来ないで」と脅し、ずっとずっと後ずさって勝手口まで進む。  鮮やかにその場面を思い描いたものの、すぐに諦《あきら》めの気持ちが場面に覆いかぶさった。 〈わたしには、とてもできそうもない〉  周子は、牧人を見つめた。七か月のいままでかぜ一つひかなかったわが子を。何も知らないつぶらな瞳《ひとみ》で見返してくる。  あんなに時間があって、逃げるチャンスも何度かあっただろうに、なぜ被害者は逃げなかったのだろう、と不思議に思った事件は、過去にいくつかあった。暴力団の男に車に連れ込まれ、モーテルをいくつも連れ回され、暴行を受けた女性。オモチャのピストルを持っただけの刑務所帰りの男に、一昼夜、監禁されていた中年の男性……。  しかし、いまなら彼らの気持ちがわかる。逃げようとは何度も思ったのだ。だが、身体がすくんで動けなかった。ふつうの状態なら十分発揮できる敏捷《びんしよう》性という能力を、恐怖で抑えられ、半分も発揮できなかったのだ。彼らは大切なものを人質にとられていた。自分の命を。そして周子は、自分の命のほかに、息子の命も人質にとられている。 「下げてくれ」  周子は我に返った。あっというまに男は、ありあわせの夕飯をたいらげてしまったらしい。  テーブルから盆を下げようとして、皿に残っている付け合わせのピーマンを残しているのに気づいた。にんじんとピーマンは、みそだれに一緒に漬け込んであった。そのピーマンが二切れ、油の中にしなびて横たわっていた。 「ピーマン、嫌いなの?」 「ああ」 「小さい頃から?」 「ああ」 「食べなきゃだめよ、ってお母さんに叱《しか》られなかったの?」  男は、残りのビールを飲み干し、「叱ってくれる母親がいなかったのさ」と言った。 「亡くなったの?」 「質問攻めにするな」  男は、不機嫌そうに答えた。  周子は、盆を下げ、流しに皿と小鉢を置いた。みそだれの油に蛍光灯の光が反射して、小さな楕円《だえん》形がいくつも見えた。水道の蛇口のレバーを下げようとしたときだった。 「焼き肉のタレ、どこのだ」  と、男が唐突に言った。手元は、流しの中だから男からは見えない。 「作ったのよ」  周子は、みそだれの残りを流しに捨てるのをやめた。 「お口に合わない?」 「いや、うまい。……何が入ってる」 「いろいろよ」 「どんなものだ」 「薄口しょうゆにお砂糖に、赤だしみそ。それに、みりんとサラダ油と、それから……そう、いりゴマと、一味と七味の唐辛子。それに、しょうがとにんにくと、りんごをすりおろしたのを混ぜて、とろとろ三時間ほど煮るの。コツは、けっして煮立たせないこと」  レシピをゆっくりと教えながら、周子の視線は、流しの前に掛かったふきんに注がれていた。漂白したばかりなので真っ白だ。皿を拭《ふ》くふりをして、ふきんを取った。左手に持つ。  右の人差し指を、皿に残ったみそだれに浸す。思いのほかドロッとしていて、水分が少ない。これなら、うまくいきそうだ。でも、慎重にやらなくては。チャンスはそうそうないのだから。みそだれが十分ついたところで、すばやくふきんにこすりつけた。男の目には、皿の汚れを拭《ぬぐ》っているように映っているだろうか。  ガーゼのように毛ばだっていない綿のふきんだ。液体を吸収しすぎず、にじまなかった。何度も指先にみそだれをつけ、布にこすりつける。なるべく大きく、文字がつながらないように、ていねいに描いた。男の視線を気にしながらだったので、時間がかかった。   SOS  最初のSが縦に長くなってしまったが、それでもSOSとはっきり読める。  ふきんを柔らかく丸めて、右手に持ち替え、男の視線から隠す。デニムのフレアスカートの右ポケットにすばやく押し込んだ。 「夕刊は取りに行かなくていいの?」  声が震えないように、切り出す。 「あんたが行け。新聞取ったら、すぐに引っ込め。ガキがいるからな。それから、外の明かりは点《つ》けるなよ」  男は玄関まで出て、周子の後ろ姿を見送った。  深呼吸した。右手でスカートの脇《わき》のわずかな膨らみを確認する。  玄関のドアを開けると、低いアルミ製の門扉まで数メートル。門扉の横に、箱形の赤い郵便受けが取りつけてある。夕刊が投げ込まれているのが見えた。  周子は、ポケットからふきんを取り出し、文字が上になっているのを確認すると、それを門扉の向こうの道路に投げ捨てた。男の位置からは、死角になって見えないはずだ。通行人はいなかった。  神様がか弱い母と息子を守ってくれるはずよ、と自分に言い聞かせた。誰かがこれを拾い、SOSのメッセージに気づき、機転を働かせて警察に届ける。あとはじっくり待っていれば、警察が隠密《おんみつ》に動いてくれる。わたしと牧人は必ず救出される……。  夕刊と、一緒に入っていたダイレクトメールを数通持って、引き返した。  昨日よりいっそう、肌寒さが増していた。   9  さすがに、風呂場《ふろば》での牧人の沐浴《もくよく》は許可されなかった。男が、周子が家の中をあちこちするのを嫌ったのだ。自分の目の届く範囲で、周子に牧人の世話をしろ、と言った。廊下を隔てた洗面所からベビーバスを持って来て、そこに湯をため、牧人を沐浴させた。一か月を少し過ぎる頃まで、やっていたことだ。いまでも、周子一人のときは、ベビーバスを使って沐浴させることの方が多い。  沐浴のあと、水分補給のために、オレンジジュースを飲ませた。  これから寝つくまでに時間がかかる。授乳を一度、しなければいけない。だが、男のいる空間で乳房を出すのはためらわれた。周子は、ダイニングテーブルに座り、牧人を腕の中で揺すっていた。  男は、拠点を二階に移そうとはしなかった。周子は、テレビの報道特集番組で観たことがある。民家にたてこもった凶悪犯は、たいてい二階にいた。窓からカーテン越しに外の様子をうかがったり、ときには人質を窓辺に出したりしていた。もっとも、それは、警察に知られてからの行動であった。罪に怯《おび》える人間は、なるべく地上から離れようとする習性があるのかもしれない。踏み込まれても、すぐには捕まえられない空間に身を置こうとするのだろう。  男がここにいると、誰が想像できるというのだろう。上鷺宮二丁目だけでも、何百世帯、いや、何千世帯あるというのか。自分から知らせないかぎり、誰も男に気づくはずはない、と周子は確信していた。そして、周子はすでに弓矢を放ってしまった。SOSのメッセージをすぐ家の前に捨てて来たのだ。  ニュースでは、上鷺宮方面に逃げたと言っていた。この付近一帯も、警官が張り込んでいるだろう。警官が拾えばそれこそラッキーだが、警官以外の誰かが拾っても、その重要性に気づきさえすれば、警察に伝わる。その可能性は十分にある、と周子は考えた。  周子は、指をしゃぶり、眠たそうな牧人を抱きながら、〈その瞬間〉を想像した。〈その瞬間〉はいきなりやってくる。あるとき突然、ベランダのサッシ戸が、玄関のドアが蹴破《けやぶ》られ——あるいは、勝手口のドアかもしれない——、大勢の警察官——いや、機動隊かもしれない——が踏み込んで来る。彼らは手に手に拳銃《けんじゆう》を持っているから、男のナイフなど目じゃない。男は、周子と牧人、どちらかの首にナイフを当てる余裕などなく、プロの彼らにあっというまに押さえ込まれる。または、こっそりと二階の窓から忍び込んで、救出の絶好の機会をうかがっているのかもしれない。とにかく、いきなり、この部屋に警察官が大勢現れて、男はびっくりし、周子はホッとし、それでおしまいだ。周子と牧人は助かる……。  男はたえずテレビを気にしていた。だが、実際にテレビをつけてニュースを観たのは、七時のNHK、一度きりだった。それも、鷺宮で起きた強盗殺人事件のニュースが流れると、それを聞き終えて切ってしまった。  ——逃げた男は、身長約一メートル七十センチ、年齢二十五歳前後。サングラスに長い髪、黒っぽいコートを着ていた。男の足取りはわかっていない。果物ナイフのようなもので刺された伊集院光司さんは、その後、息を引き取った。  目新しい情報はなかった。  目の前で見ても、男の正確な年齢も、正確な身長もわからない。髪の毛も、普通のサラリーマンに比べれば前髪が長いが、とりたてて長いと強調するほどでもない。どれだけの人が、この男に近い人物を思い描けるだろう。防犯カメラが彼をとらえていたのではないか、とふと周子は気になった。だが、テレビではその画像は公開されなかった。あったとしても、まだ公開する段階ではないのかもしれない。 「何を考えている」  テレビを切ったあとの静けさの中で、男は言った。  助けられる瞬間を思い浮かべていた、とは言えなかった。  そのとき、周子は、男の服装に閃《ひらめ》いたものがあった。ニュースでは、〈黒っぽいコート〉と言っていた、その黒っぽいコートはどうしたのだろう。男は、丸首の白いシャツの上に、黒い薄手のブルゾン風の上着を着ているだけだ。コートなど着ていなければ、入って来たとき手に持ってもいなかった。  凶器となった果物ナイフはこうして持っているから、抜き取ったということだ。犯罪者の立場になって言えば、凶器は残して来ない方がいいに決まっている。返り血は当然、浴びているはずだ。黒いコートをはおっていたとしたら、血痕《けつこん》はそこに付着したのだろう。どこかで男はコートを脱ぎ、たぶん、処分して来たのではないか。  ナイフについた血は、ここに来るまでに拭《ぬぐ》うかどうかして、凶器の方は持ったままでいたのだろう。自分が逃げるために、必要な〈道具〉だから。  高校時代から結婚前まで、周子はミステリーが好きでよく読んでいた。子供が生まれてからは読書の時間などゆっくりとれなくなったが、朝のワイドショーを牧人を相手に観ながら、事件の推理をするのが好きだった。 「どうした、何を見ている」  男が、気味悪そうに、自分の胸のあたりを凝視している周子に言った。 「コート……」 「えっ?」 「黒っぽいコートは、どうしたの?」  男はそっぽを向いた。答えを探していたのかもしれない。だが、次の言葉を玄関のチャイムが遮った。周子の胸は高鳴った。 「誰だ」  男が立ち上がり、玄関の方を見た。ナイフの刃をまっすぐ前に向ける。「旦那《だんな》か」 「さあ」  周子は首を振った。いよいよ来たのよ、私服警官かもしれない。助けに来たのよ、わたしたちを。 「インターホンで誰か聞け」  男は、冷蔵庫の横の壁を見た。カレンダーと冷蔵庫のあいだにインターホンがある。 「どなたですか」受話器を取る。 「菊地ですけど」  菊地——隣家の表札にある名前だ。だが、声の持ち主は、そこに通っている家政婦「ヒデさん」のものだった。  七十くらいの年齢で、ふっくらした感じのよい女性だ。周子は、彼女の名字を知らない。けれども、長年通っている家政婦だということは、ここに越して来たときに挨拶《あいさつ》に行って知った。そのとき、「ヒデさん」が最初に出て来て、主人の老紳士、菊地栄が彼女をそう呼んだのだった。それ以来、ゴミ捨てのときや、近所のスーパーでときどき顔を合わせる。だが、彼女の本当の名字は聞きそびれてしまった。いまも知らないままでいる。 「何か」 「奥さん、お宅のものじゃないかしら」  周子はハッとした。 「これ、落ちてましたよ。たぶん、二階の洗濯物が。まだ、干したままですよ」 「あ、あの……」  周子は、男を振り返った。  誰だ、と男は唇を動かした。 「ちょ、ちょっと、お待ちください」  インターホンを切る。 「隣の人なの」 「隣の? 何の用だ」 「洗濯物を……拾ってくれたらしくて」 「洗濯物だぁ?」  男は、素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を上げる。「干したままなのか」怪訝《けげん》そうな目を天井に向ける。 「わ、忘れてたのよ」  嫌な予感がしていた。あれを拾い、SOSに気づいたら、それがどんな意味を持つのかとっさに判断できたら、こんな接近の仕方はしてこないはずだ。 「わかってるな。またチンタラしていたら、ガキのほっぺたをつねるぞ」  男が、ナイフを牧人に向けて脅した。  周子は、指示されたとおり牧人をベビーラックに座らせ、玄関に出た。  ドアを細めに開ける。ヒデさんのしわの多い浅黒い顔が現れた。 「こんばんは」とヒデさんは頭を下げ、微笑《ほほえ》んだ。そして、あのふきんをドアから押し込むように差し出した。「これ、お宅のじゃないかしら」 「あっ……」周子は、声を詰まらせた。ふきんのほかに、ヒデさんの身体のわりに大きな手と、ビニール傘が見えたからだ。 「あの……もしかして、雨が?」  不吉な予感は、どんどん膨れ上がった。 「ええ、ちょっと前から降り出したんですよ。天気予報では雨のあの字も言ってませんでしたのにね」  と、ヒデさんはていねいに答えた。 「わざわざすみません」  周子は、一応ふきんを受け取った。全身から力が抜け、他人の声のように聞こえた。 「いま、お帰りですか?」 「ええ、今日はちょっと遅くなってしまって。お宅の前を通りかかったら、何か落ちていたから。やっぱりそうだったんですね」  ホッとしたような、嬉《うれ》しそうな微笑みが、しわの多い口元いっぱいに広がった。 「え? ええ、うちのです。ありがとうございました」  ドキドキしながら、周子はふきんを裏返した。見覚えのある茶色いしみがあった。だが、それは文字ではなく、ただの汚れだった。 「せっかくお洗濯なさったのに、汚れてしまいましたねえ。泥でしょうか」  と、ヒデさんは肩をすくめた。  雨に濡《ぬ》れて、それぞれの文字がにじみ、周囲が不気味にぼやけている。それは、しみでしかなくなっている、表面上は。 「ああ、いいんです。台所のものですから。また洗います」  周子は、この無邪気な初老の女性を憎むのはお門違いだとわかってはいたが、それでも彼女を憎んだ。雨も恨んだ。雨に濡れるほんの少し前に、これを見つけて拾ってくれていれば、などと思った。  しかし、拾ったところで、彼女にSOSの意味がわかっただろうか。教養がなさそうな人には見えないけれども、いつか駅前のスーパーで会ったときに、Dをデェーと発音していたことを思い出した。 「赤ちゃんはお元気ですか」 「え、ええ」 「よくお散歩させていますね」 「はい、天気のいい日は」 「今日はお散歩に出かけられました?」  ヒデさんは、わずかに探るような目をした。周子はいつも、夕食の買い物を兼ねて散歩に行くので、週に何度かは彼女と外出の時間が同じ頃になる。彼女は広い敷地のどこからか隣家の様子をうかがっているようなところがある。庭を掃いているときにでも、開けた通用門からベビーカーを押す周子の姿をよくとらえているのかもしれない。 「いいえ、今日はちょっと……」  周子は口ごもった。詮索《せんさく》好きの彼女が、隣家の庭に忍び込んだ〈不審な男〉を目撃していてくれたらよかったのに、と思った。どう見ても、彼女は、知っていて様子を探りに来た顔ではなかった。 「ご機嫌でも悪いの?」  ヒデさんに子育ての経験があるかどうかはわからない。自分のことは話さない人だ。立ち話のときに、「わたしにも孫がいるんですけどね」とか、遥《はる》か昔の子育ての思い出話の一つもしたことがなかった。 「ちょっとかぜぎみで」  言ってしまってから後悔した。下痢がひどくてとか、姑が来て一晩預かると連れて行ったとか、村井容子に話したことと違う理由を言えばよかったのだ。万が一、村井容子とヒデさんとがどこかでつながりができたとき、周子の話の〈矛盾〉に気がついて、わずかながらでも不審を募らせるかもしれない。ほんのわずかな可能性かもしれないが、それだけでもチャンスは生まれたことになる。 「あら、それはいけないわ。急に寒くなったから、最近。お大事にしてくださいね」  ヒデさんは、本当に心配そうに言った。彼女自身の経歴は謎《なぞ》だが、子供好きなのは明らかにわかる。外で会えば、気軽に牧人に声をかけてくれる。 「え、ええ、ありがとうございます」  これでヒデさんを帰してしまうのは惜しい気がした。だが、引き止める理由がないし、長引けばまた、男が牧人に危害を与えかねない。男は、いまだって、あの柔らかい頬《ほお》に爪《つめ》をたてようとしているかもしれないのだ。 「ご主人、お帰りになりました?」  ヒデさんの顔が少し曇った。 「いいえ、まだ……」  今度は、出張|云々《うんぬん》は言わずにおいた。正直に言う必要はない。うそをつくことによって、どこからかこの家の不自然さが外部にもれればいい。 「まさか、どこかへ出張?」  ヒデさんの方から出張という言葉が出た。 「ええ、大阪の方に」  正直に答えるよりほか仕方ない。 「大阪? じゃあ、今晩はお帰りじゃないでしょう。明日?」 「あさってです」  男に聞こえているだろうから、うそはつけなくなった。 「じゃあ、心配だわね。赤ちゃんと二人きりで」  と、ヒデさんは、心もち身を乗り出す。「ご存じない? 新青梅街道のところのスーパーで、殺人事件があったの。ニュースでもう、何度もやってましたよ」  彼女は、コンビニエンスストアとスーパーを混同して言った。 「あ……そう、ですか」 「知らないんですか? ああ、そうか。お宅は赤ちゃんがいて、のんびりテレビを観る暇もないんでしょう」 「ええ、まあ」  その殺人犯がすぐそこ、壁の向こうにいるんです。そう周子は伝えたかった。目で伝えられるのなら。 「まだ捕まっていないんですって。なんでも、こちらの方に逃げたとか」 「誰か……その男を見た人はいなかったんですか?」  ドキドキしながら、周子は言った。その男、と断定したことなど気づかなかった。ヒデさんも気にとめないふうに、 「さあ、わたしのところはまだ、警察が来たわけじゃないから。もっとも、警察が一軒一軒聞いて回るものなのかどうか、わたしは知りませんけどね。その男が、この近くに住んでいたとしたら怖いわねえ。ちょっと行けば、アパートがごろごろしてるでしょう。誰が住んでいるんだかわからないような」 「ええ、怖いですね」  周子は、壁の向こうに神経を向けていた。「あの、その辺に警官はいるんでしょうか。そういう事件があったのなら」男を意識して言ってみた。 「さあ、いるんでしょうね。これからわたし、駅まで行くんですけど、行き合うかもしれませんね。あっ、警察官の方ですよ」  と、ヒデさんは、怖い怖い、というようにかぶりを振った。「殺人犯とその辺でばったり出会ったりしたら……ああ、ゾッとする。おばあちゃんだと思われて、人質にでもされてはねえ。なるべくにぎやかなところを選んで歩かなくては」  ヒデさんは、早くご主人がお帰りになるといいですね、奥さんはもう出かけないと思いますけど家にいなさいな、赤ちゃんと一緒に、と忠告してドアを閉めた。  ドアが閉まったとたん、周子の脳裏から、拳銃《けんじゆう》を手にしたテレビに出てくるようなかっこいい私服刑事や、重装備の機動隊らの姿が、むなしく消え去った。 「よくしゃべるババアだな」  戻ると、男が口を歪《ゆが》めて言った。  牧人は、ベビーラックで眠っていた。その姿を見て、周子は涙が出るほど嬉《うれ》しかった。こんなときに母親を煩《わずら》わせずに静かに寝ついてくれる息子が、まったく天使に思えた。 「それが洗濯物か」  と、男は、周子の手からふきんを取り上げた。躊躇《ちゆうちよ》するまもなかった。 「それは……」 「二階のベランダから落ちたのか?」 「あ、あの、たぶん……」  心臓の鼓動が早くなる。  ふきんを広げ、男はじっと見つめた。顔色が変わった。 「おまえ、落として来たのか」 「えっ?」 「ハンカチ落としじゃなくて、ふきん落としか」  男は、しみのついたふきんを振り上げ、周子の右の頬《ほお》を勢いよくひっぱたいた。それは、風を切って、むちのようにしなった。  火花の飛ぶような痛さに、周子は頬を押さえた。 「夕刊を取りに行って、わざと落として来たんだろ。目立つように」 「ち、違うわ」 「じゃあ、なんでわざわざ家の前に落ちているんだ」 「だから、二階から……」 「うそつけ!」  男が、頬を押さえた周子の右腕をグイと引き、身体をすぐ目の前に引き寄せた。唇が触れ合うほどの近さになった。「何が二階から落ちた洗濯物だあ?」  周子の鼻先に、丸めたふきんを突きつける。「そんなものがあれば、とっくに誰かが見つけているさ」 「でも……」  ふきんを口に当てられ、声がくぐもった。 「俺は知ってるぞ。これはなあ、そこにあったんだ。台所に掛かっていた。そうだろ?」  グイグイ鼻先に押しつけてくる。息苦しい。と、突然、息が楽になった。ふきんが取り除かれたのだ。  男が、広げたふきんに見入っている。ゆっくりと顔を上げて、「何か書いたな」と言い、布を鼻に近づけて匂《にお》いを嗅《か》ぐ。 「わたしはなんにも書かない……」 「この匂いは、特製焼き肉のタレじゃねえか。そうだろ」  周子の弁解は、ドスのきいた男の声に遮られた。 「なんて書いたんだ」  男は、汚れた布を周子の口に押し込んだ。喉《のど》の奥から吐き気がこみ上げてくる。 「おとなしそうな顔して、ちょっと油断すりゃ、こんなことしやがって。ええっ? なんて書いたんだ」  く、苦しい、と声にしたつもりだった。ようやく布が引き出され、周子はあっぷあっぷするように息を吸った。 「SOS、そうだな」  答えるより前に、男が解読した。周子は、絶望的な気持ちに襲われた。男のカンは思った以上に鋭い。一種の極限状態で感覚がとぎすまされているのかもしれない。それは、形をなすまでは単純なしみに過ぎないが、ひとたびSOSという文字が心に浮かべば、それ以外の何ものにも見えない。 「助けを外に求めるつもりだったんだな、そうだろ」  身体がすくんで答えることができない。ただ、かぶりを振った。  男は、つかつかとベビーラックに向かうと、椅子《いす》の足をガツンと蹴《け》った。椅子がずずっと床を滑る。衝撃に驚いて、一瞬、固くつぶったあと、牧人はぱっちりと目を開けた。男を見上げ、火がついたように泣き出した。 「やめて!」  周子は駆け寄った。くるりと向きを変え、ふたたび周子の腕を男がつかむ。 「殺したいのか、おまえのガキを」 「やめて」泣きながら哀願した。 「ガキが可愛いだろ?」 「ごめんなさい」  周子は、その場にくずおれた。   10  いままでの人生で、頬をぶたれたことなど一度もなかった。だから、免疫がなかったのだろう。周子の受けた衝撃の大きさは、普通以上だった。右頬の火照りはなかなか引かない。  周子は、自分の思い上がりを悟った。  自分より若い、弟のような年齢の男を、ほんの少しでも、突然逃げ込んで来たときよりは〈手なずけた〉と自負していたのだった。誰でもが殺人犯になりうる可能性を持っている、と同情してやったつもりだし、うまいとうならせる食事も用意してやった。頑《かたく》なな心がほぐれかけてきたのを感じていた。  いきなり飛び込んで来たのはあっちだが、以前から淡々と生活を続けてきたのはこっちだ。こちらのペースに次第に巻き込んでやろう、という企《たくら》みがなくもなかった。平和な日常生活、平凡な家庭というものに目覚めさせ、男を改悛《かいしゆん》させ、ついには自首するよう導く。周子は、そうしたかった。そうできる力はある、と震えながらも思っていた。心のどこかで、最終的には〈愛らしい牧人〉が武器になる、と思い上がっていたのだ。  そう……思い上がりだった。甘かった。  男に頬をぶたれて、周子は本当の恐怖に目覚めた。彼だって必死なのだ。人をひとり、殺しているのだから。  男が、長い夜をこの家で過ごすのは、疑う余地のないことになった。  時計は九時を回った。周子と牧人は、雨戸を閉めた和室にいる。出入り口は居間に面しており、そこには男が見張っている。  牧人は、あれからかなりの時間、ショックが尾を引いていたようだ。あんなふうな脅され方を、七か月のいままでされたことがないのだ。周子が力いっぱい抱き締めてさすってやると泣きやんだが、動きを止めると、思い出したようにぐずり声を上げた。  牧人の泣き声に耐えかねたのか——結果的にはそれがよかったのだけれども——、男は母子を和室に監禁したわけである。  周子は、男に背を向け、牧人に授乳した。泣き疲れた牧人は、幸い、いつものように同じに九時前にはまぶたが重くなった。授乳しているあいだ、少し前の光景がよみがえってきて、牧人の顔を見ながら涙が出た。  男は、ベビーラックを蹴った。それだけでも周子は胸が潰《つぶ》れそうな思いをしたが、男の足があと数センチずれていたら、と考えて、その最悪の事態に涙が止まらなくなったのだった。牧人の小さな身体を痛めつける——そんなことは、母親の自分が傍らにいて、けっしてさせてはならないことだ。そういうことになったとき、そのときは周子が身を張って死ぬときだ。  無事、授乳を終えて——出はよくなかったが、なんとか牧人は満足してくれた——、寝かしつけた。  寝かしつけたとき、電話がきて、周子は「出ろ」と居間に呼ばれた。直人からかと思ったが、出てみると青森の実家の母親だった。  母親は、「まり子さんが気がついたんだけど」と切り出した。まり子さんというのは、兄嫁で、両親と同居している。周子の実家は、青森市内で家具店を経営している。 「そっちの方のスーパーだかどこだかで、殺人事件があったそうじゃない。ニュースでやってたって。あんた知ってる?」 「うん」 「大丈夫かい、そっち」 「大丈夫よ。東京じゃ、コンビニ強盗なんてしょっちゅうあるのよ。殺人事件もね。たまたま近くだからって、うちとは関係ないよ。鷺宮といっても広いから」  実家の母は一度だけ、ここに来たことがある。二泊しただけだったし、根が田舎者なので、当然ながら、付近の地理に疎いまま帰ってしまった。 「しょっちゅうはちょっと怖かないかい?」  と母親は呆《あき》れたように言った。「直人さんは?」 「出張なの」 「どこに?」 「大阪。あさって帰る」 「まあ、じゃあ牧人と二人? 気をつけなさいよ。誰か来ても玄関開けないように。いいかい?」  娘に注意しながら、本人は、母屋の鍵《かぎ》をかけ忘れて寝てしまうことがある。それを言うと、「いいんだよ。うちは大勢いるから」と笑う。 「本当に大丈夫だってば。わたしだって母親になったんだから。牧人? もう、寝てるわよ。じゃあね」  自分でもびっくりするほど、周子は平然と受け答えをし、最後は笑い飛ばして電話を切った。さっきの反動かもしれなかった。男に、わたしはもう下手なまねはしません、という覚悟を見せたかったのかもしれない。  けれども、切ってから、母親の声がいつまでも耳に残り、心細さに胸が張り裂けそうになった。これで誰も——実家の母も、八王子の姑《しゆうとめ》も、近所の村井容子も、隣のヒデさんも、この家が災厄に包まれている、などと疑いもしなくなった。周子の接し方にわずかな疑問を抱いたとしても、それがすぐそばに殺人犯がいたためだ、とは夢にも思わないだろう。来客があったためだとか、牧人の具合が悪かったためだとか、それなりの理由が疑問を打ち消してしまった。  野崎久美がいる?  これまでに接触してきた中で、彼女がいちばん頭が切れる。何かの拍子に、事件とあの電話とを結びつけてくれないだろうか。  そういえば彼女は、独身で身軽。今日も、周子の都合さえよければ、遊びに来るようなそぶりだった。ふらりと立ち寄ってはくれないかしら、と周子は思った。「主人が出張であさってまでいないの」と、なぜひとこと言わなかったのだろう。高校時代から行動力のあった久美だ。夫がいないと知って、本当にふらりと泊まりに来たかもしれない。そう思い始めると、現実にそうなった気がして、周子は悔やまれた。  十時になると、男は居間のテレビをつけた。周子は、牧人のそばに座り、まんじりともせずにいた。音だけが聞こえる。  やはり事件の続報が気になるのだろう。 「チッ、また同じニュースじゃねえか」  と、男が舌を打つ音がして、テレビが切られた。  新青梅街道に面したコンビニエンスストアで強盗殺人事件があった。犯人は逃走中。背格好は……というおなじみのだ。 「もう遥《はる》か遠くに逃げた。警察はそう思っているんじゃないかしら」  と、周子は居間にいる〈犯人〉に言った。 「そんなことなんにも言わねえぞ」  不機嫌な、しかし不安げな声で、男は周子を責めるように言った。 「でも、わたしがこういうニュースを聞いたら、犯人が現場のそばに隠れているだなんて思わないわ」  男は黙っている。安心できないのだろう。外に出たら、とたんに巡回中の警察官に見つかる。そう考えているのかもしれない。 「いや、山に逃げ込んだ殺人犯が、民家にたてこもった、って話がある」 「それは、山狩りをされたからでしょう。でも、ここは東京よ。逃げ道はいっぱいある。犯人が見つかっていないということで、いちばん考えつきそうなことは、犯人があのコンビニからそう遠くない場所に住んでいる可能性よ。あなたが」  あなた、と言い換え、男の反応を期待したが、言葉は返ってこなかった。どこに住んでいるか、男がちらとでも匂《にお》わせるかと思ったのだが。  また電話が鳴った。鳴った瞬間、周子は、直人からではないか、と直感した。 「たぶん、主人からだと思うわ」  今度は、男は「出ろ」ともなんとも言わなかった。周子は戸口に立ち、イライラしながら指示を待った。  切れてしまうのではないか、とハラハラした。が、切れてしまった方がいいのでは、と思い直した。電話に周子が出なければ、直人は不審に思うはずだ。留守にするはずがないのだから。 「ちょっとでもおかしな受け答えをしてみろ。こっちも鈍感じゃないからな」  男は前髪をかき上げ、顎《あご》の先で電話を示した。上着を脱いで、半袖《はんそで》のTシャツになっている。「夫婦ってのは信用できねえ。暗号なんか使うなよ」  受話器を取り上げようとした周子は、ドキッとした。まさに、その暗号のことを考えていたからだ。  いつだったか、牧人が幼稚園に上がる頃の話になったときだ。誘拐《ゆうかい》が怖い、と周子が言い出した。幼児が誘拐未遂に遭った、という話はよく耳にしていた。直人が言った。「知らない人について行っちゃだめ、だけでは十分じゃないな。あなたのお母さん、周子さんって言うんでしょ? わたしはお母さんのお友達なの。そう言って連れて行くやつだっていないともかぎらないし。牧人には、暗号のようなものを教えといたらどうだろう。山と言えば川のような。暗号を知っていなければ、誰だろうがついて行かない。そうだなあ、二十六といったら二十八。そういう暗号はどう?」  二六二八——二人の誕生日をつなげた数字ではない。婚前旅行で泊まったホテルのルームナンバーである。二十六階の二十八号室。二人の記念すべきナンバーであった。  周子は、電話でこう言うつもりでいた。「ねえ、直ちゃん。洋酒フェアはどう? 盛況だった? で、泊まっているホテルの部屋は、ええっと、二六二八だったっけ?」  直人がどう答えようが、そのとんちんかんな受け答えによって直人に危機を知らせよう、ととっさに考えたのだった。 「どうした。早く出ろ」  男が促した。 「はい、柿沼です」  受話器を当てると、耳が脈打つのが聞こえた。かぜぎみの直人の声がすぐにでも流れてくると思ったのに、シーンとしていた。 「もしもし? どなたですか?」 「…………」  無言電話だ。男が、少し離れたところに立ち、眉《まゆ》をひそめた。 「もしもし?」  気のせいか、かすかな息づかいのようなものが聞こえる。が、声はしない。  周子は、思いきって話しかけた。「ねえ、いたずら電話なの、これ。何か言ってよ」  男の頬《ほお》がピクリとひきつった。 「もしもし、誰なの?」  どうしたんだ、という形に、隣で男が唇を動かした。周子は、かぶりを振った。  何度も声をかけるが、応答はない。いたずら電話か。そう思って、胸をつかれた。いたずら電話だと決めつけてしまうのは早計だ。  ——もしかしたら、これは様子を探るための電話? 警察か、ほかの誰かからの。  心の中に、希望の明かりが灯《とも》った気がした。周子のほかに、誰かいるかどうかを探っているのではないか。電話に男の声が混じるかどうかを。  ということは、誰か——野崎久美か、村井容子か、ヒデさんか、そのあたりが、警察にどうも様子が変だと届けたか、さもなければ自分で確認の電話をかけてきたということではないのか。  これは、向こうからやってきたチャンスだ。送話口をしっかり押さえ、「だめ。何もしゃべらない」と、小さな声で男に告げた。もう一度トライしろ、というふうに男は顎《あご》をしゃくり上げた。 「もしもし?」  やはり返事はない。周子が受話器を置こうとしたときだった。 「電話? どこ?」と、男の声がもれた。受話器のすぐ向こうからではなく、離れた場所からの声。そう、同じ部屋の隅と隅、といった感じの響き。  その声に、周子は息を呑《の》んだ。少しくぐもっていたが、鼻にかかったかぜ声だった。  声に憶《おぼ》えがある。直人の声に似ていた。 「もしもし? 誰なの?」  抑えきれないほど胸の鼓動が激しくなっている。  ぷつり、と電話は切れた。 「何かしゃべったのか? どうした?」  男が、周子の腕をつかんだ。  男の声で、周子は自分の顔色が青ざめているのがわかった。 「いいえ、なんでも。……無言電話だったの。いたずらよ」 「本当か?」周子の腕を引き寄せる。 「本当よ。わたしは何もしゃべらなかったじゃない」  あれは、夫の声だったのか。いや、聞き間違いかもしれない。いや、そんなはずはない。結婚して三年間、つき合っている声なのだ。聞き間違えるはずがない。 「男の声がした気がしたがなあ」 「雑音よ」 「雑音?」男は、高い鼻をひくつかせた。 「無言電話に、近くにいた誰かの話し声が入った。そんな感じだったわ」 「なんて言ったんだ。男の声か女か」 「男の声で、『電話? どこ?』って」 「どういう意味だ」 「さあ」 「電話、どこからか、って意味か、どこにかけているのか、って意味か」 「そう……かもしれない」  周子は、自分の耳で聞いている。どちらともとれるニュアンスの響きだった。  直人の声に似ている、いや、直人の声だ、と直感した瞬間、周子の脳裏に鮮やかに浮かんだ場面があった。  ——ホテルに、男は部屋をとっている。その部屋に女が来る。男はバスルームに入り、女はベッドで待っている。男がシャワーを浴びているあいだ、女はふと電話をしようと思いたつ。男の妻のところにだ。部屋から電話する。彼の妻が電話に出る。が、女は黙っている。女の目的は、男が自分といるときに彼の妻はどうしているのだろう、様子を知りたいという単純な、けれども多分に妻の座への嫉妬《しつと》と羨望《せんぼう》を含んだものだった。そこへ、男がバスルームから出て来た。受話器を握っている女を見て、「どこに電話しているんだ」(あるいは、「どこから電話がきたんだ」)と声をかけた。女はハッとしてすぐに電話を切る……。  夫は、浮気をしている? 出張先の大阪のホテルで? 「いたずら電話はよくくるのか」  男は探るような目つきで、静かになった電話を見た。 「そんなには。でも……たまに」 「心当たり、本当にないのか、さっきの電話に。ええっ?」  声に少し怒気をはらんでいる。わたしを疑っているのだ、と周子は思った。 「ないわ」 「亭主……じゃないのか」  いきなり亭主、と言われて、周子はうろたえた。 「ど、どうして?」 「どうしてって、可愛いガキがいるだろうが。出張中でも、ニューヨークに行ってるわけじゃない。大阪あたりなら、いまごろ電話をよこしてもよさそうなものだろう。ガキの声が聞きたくってさ」  男は、ちらと和室へ顔を振り向けた。 「こんなに遅い時間にはかけてこないと思うわ。あの子はだいたい寝ているから」 「ふーん、そうか」  男は顎に手を当てた。「じゃあ、あんたに用はないのか。ガキの様子、妻のあんたに聞きたいだろうよ」  男は、なかなかしつこい。周子が動揺したのを見逃さなかったらしい。 「出張は、いつものことなの。もう慣れっこになっているから。だから、あんまり心配してないのよ」  わざと明るく周子は言った。 「いつものこと? カレンダーには、大阪行きしか書き込んでなかったぞ」 「えっ? あ、ああ、今月は。でも、先月までは、よく出張していたの」  男には、うそをつけない。彼は、見ていないようでよく見ている。カレンダーにしろ、台所のふきんにしろ。 「それに、たぶん」  周子は、矛先を変えようとした。「仕事で忙しいんだと思うの。夜はきっと飲み歩いていると思うし。半分、仕事をかねてね。妻に電話するような暇、ないでしょうし、きっと気恥ずかしくてかけないのかもしれない。大阪だから、ニュースも見ていないんでしょうね。事件には、たぶん、気がついていないと思うわ」 「そうだな」  意外にあっさりと、男はうなずいた。「あんたの亭主だったら、無言電話をするはずないしな。たとえだ、俺《おれ》がここにいると知っていたとしてもだ。あんたの声を聞いたら、すぐに何か話すだろう。そうだろ?」 「…………」 「どうした、奥さん、そうだろうよ」  奥さん、とはじめて呼ばれて、周子は面食らうと同時に我に返った。 「そうね。主人であるはずないわ」 「じゃあ、どういうやつだよ」  と、男がつぶやくように言ったとき、また電話が鳴り、緊張で空気が張りつめた。飛びつくようにして、周子は受話器を上げた。 「もしもし?」 「周子か? 俺だけど」  直人だった。今度は、〈俺〉とはっきり名乗っている。 「あ、ああ、直ちゃん」  あなた、とは呼ばなくても、男はすぐに夫だ、とわかったらしい。弾かれたように周子に詰め寄った。右腕をつかむ。〈わたしの立場がまずくなるようなことは言わないわ〉とメッセージをこめて、男に目配せする。 「どうしてる? 牧人は寝た?」  こころなしか、いつもよりやさしげな口調だ。 「寝たわ。いつもどおりに」 「変わったこと、ない?」  その言い方で、直人がコンビニ殺人事件のことをまだ知らないのがわかった。 「別にないけど。でも……」  周子は、言葉を切り、大きく息を吸った。「あのね、新青梅街道の『アップルロード』、知ってるでしょ? あそこで強盗殺人事件があったのよ。殺されたのは、店にいた大学生。犯人はまだ捕まっていないんですって。ニュース、そっちでやってなかった?」  一気にまくしたてるように言った。  男が、周子の視線と合うように、目の前に位置を変えた。 「殺人事件? いや、ニュースなんか見る暇、全然ないから。でも、怖いな。コンビニ強盗ってのはよくあるけど、へーえ、あそこでか。で、ほかには別になんにもなかったんだろ? 牧人は……」  殺人事件への関心は、すぐに失《う》せたようだった。 「元気よ」 「こっちは、まだぐずぐずだぜ」  直人は、鼻をわざと、ずるずるすすった。 「洋酒フェアはどうだったの?」 「ああ、まあまあさ。あーあ、疲れた」  疲れたのは、今日にかぎらないじゃないの、と周子は思った。直人はいつも、疲れた、を連発している。「いま、どこから?」 「ホテルだよ。言わなかった? Mホテル」 「ええ、聞いたけど、忘れちゃったから」 「何かあったら困るから、連絡先はちゃんと伝えてるだろ」 「一人?」 「えっ? あ、ああ、もちろん、決まってるじゃないか」  気のせいか、かぜぎみの鼻に詰まった声が、うわずって聞こえた。「どうして」 「ううん、誰かと飲んでいるのかな、と思って」 「バーで同期入社のやつと飲んでいたけど、いまは一人だよ」 「そう」  で、ホテルの部屋は、二六二八なの? と続けようと思ったが、声が出なかった。  周子は、確信していたからである。「電話? どこ?」というあの声。あれは、まぎれもなく直人のものだった。二本の電話が接近していたから、よけいわかる。  ——直ちゃんは、その前の電話を気にして、様子を探りに電話をかけてきた?  いちばん頼りにすべき夫、牧人の父親、である直人なのに、周子の中に不信の芽が生じてしまった。こんな大事なときに。  暗号めいたものを言うのよ、周子。夫に、牧人のパパに、わたしたちの危機を知らせるのよ。  だが、迷っているうちに、「じゃあ、君も疲れただろうから、早く寝たら。おみやげ、たいしたものないけど、まあ、楽しみにしてろよ」と、やさしい言葉をかけて、直人は電話を切ってしまった。 「どうして、事件のことを持ち出したんだ」  受話器を離したとたん、男は言った。 「話さない方がかえって変だと思ったから」  男は、ふーむ、と曖昧《あいまい》にうなずいた。そして、あっちへ行ってやれよ、と和室の方を指差した。   11 「なんで、いとも簡単に男を部屋に入れるんだろうなあ」  と、捜査一課の滝本刑事が、ベッドにあおむけに横たわった若い女を見下ろして、溜《た》め息《いき》混じりに言う。まるで、部屋に入れた彼女の方が悪い、と言わんばかりだ。亀山は、熱心なフェミニストというわけではないが、その言い方には女ならずとも反感を覚えた。  亀山は、深沢警部に〈犯罪心理分析家〉として呼び出され、ビデオを観ながら無料で〈診断〉してやったあと、練馬の捜査本部へ戻った。会議に出てから、被害者多治見香子の交友関係を調べるために、香子が通っていたカルチャー・センターに聞き込みに行った。多治見香子は、お嬢さん学校として知られる清和《せいわ》女子大学の一年生だったが、週に一回、御茶の水にあるフラワー・アレンジメントの教室に通っていた。  亀山は花には興味がない。母親は、古い家の猫の額ほどの庭に、いろんな種類の花をごたごたと植え、四季を通して自分の第二の子供のように愛《め》でているけれども、それよりずっと年下の若い女性のあいだで、華道ならぬフラワー・コーディネートとかいうものが流行《はや》っているとは知らなかった。  講師は女性。受講生もほとんどが女性だったが、驚いたことに男性が三人、混ざっていた。そこでの香子は、大学での聞き込みと同様、明るくて真面目《まじめ》な女性で通っていた。親しくつき合っていた男性は、とくにいない。春に、合同コンパ——亀山はその言葉に、懐かしさを覚えた——があり、それをきっかけにK大学生の一人、西川実がモーションをかけてきて、いままでに三度ほどデートをしたらしいが、西川は九月二十四日の事件当日、はっきりとしたアリバイがあった。  香子は、二十四日の夜、桜台のアパート『メゾン花井』の自室202で、首を絞められて殺されていたのを、翌朝、東京に遊びに来た従姉妹《いとこ》によって発見されたのだった。  死体には暴行された跡があった。死亡推定時刻は、二十四日の午後十一時前後。十時半頃に近くのコンビニエンスストアにいたのを、アルバイトの店員に目撃されている。十一時頃、部屋で物音や女性の悲鳴がしたのを、下の部屋の女子大生が聞いている。  それから十日もたたないうちに、今夜、同じように若い女性の絞殺死体を見ることになった。 「手口が似ていますね。強姦《ごうかん》したあと、首を麻紐《あさひも》で絞めている。玄関の鍵《かぎ》は開いている」  部屋を見回して、亀山は言った。「同一犯人のしわざでしょうか」  今度は、豊島《としま》区南|長崎《ながさき》に住む一人暮らしのOLが被害者である。  青柳美喜、二十三歳。新宿のデパートに勤務している。練馬区桜台とは、西武池袋線で二駅の距離だ。  青柳美喜もまた、激しく抵抗した跡があった。下半身はむき出し状態で、ベッドに投げ出されている。首には細い麻縄のようなものが巻きつけられ、紫色の痣《あざ》になっている。 「窓は閉まっているし、ドアも蹴破《けやぶ》られたふうではないから、要するにガイシャが犯人を招き入れたんだろうな」  と、滝本は、被害者が男を部屋に入れた、ことにこだわっている。「となると、顔見知りの犯行か」 「でも、多治見香子のケースと非常によく似ていますよ。殺された時間といい、現場の状況といい」  なによりも、被害者の雰囲気——すなわち、犯人の〈好み〉が似ている。  はっきりした目鼻立ちの肉感的な若い女性。どこか外で目をつけたのか。 「多治見香子とも青柳美喜とも知り合いだったとなると、犯人像は限られてきますけどね」と、亀山は言った。 「多治見香子は、四月に富山から上京して来たばかり。青柳美喜は、ほんの一か月前に引っ越して来たばかり。その前は、杉並の和田《わだ》の実家から会社に通っていた。紹介された不動産会社は、別だ。二人のあいだに面識があったかどうかも問題になってくるが」  滝本は考え込んだ。  鑑識課員がひと通り調べたあとの現場に、滝本と亀山はいる。滝本は、三十代半ばで新婚ホヤホヤ。一課では、亀山より三年先輩に当たり、脂ののりきった年代だ。亀山が来る前は、深沢警部の皮肉の矛先は滝本に向けられていたらしい。それが亀山にそれて、滝本はホッとした、というのが正直なところのようだ。 「二人の共通の知り合いに殺された、という可能性は低いんじゃありませんか? 多治見香子の身辺を調べたところでは、青柳美喜の影さえも感じられなかったし」  青柳美喜の交友関係は、これから洗うにしてもだ。 「同一人物、と決めつけるのも危険だが……」と、滝本は言葉を濁らせながら、「いや、この状況を見れば、おんなじやつが味をしめてまたヤった、としか考えられんなあ」と、自信に満ちた表情でかぶりを振った。 「僕もそう思います」  亀山も、自信を持って言った。「犯罪者の現場での行動は、ある程度、パターン化しているものです。意識的に作為しなければ。一度味をしめれば、なおさらのこと、前回の犯行のおさらいのような感じになります。それが、成功したことを知っているからです。それに、こういう状況から、犯人の個人的な恨みというよりは、不特定多数の女性に対する性的な攻撃性が、息苦しいほど感じられるんです」 「なるほど」  深沢と違って、心底感心した口ぶりで、滝本はうなずいた。「当たっていると思うよ」  連続殺人事件か! という新聞の見出しが、亀山の頭に浮かんだ。 「しかし、どうやって、犯人はドアを開けさせたのか」  滝本の関心は、すべてそこに集中しているようだ。「宅配業者を装ってドアを開けさせるか」 「でも、女性が一人でいたら、警戒するでしょう。それに、いまのところ、少なくとも多治見香子の方は、それらしい人物を目撃したという者が現れていません」 「合鍵《あいかぎ》はチェックずみだったな」  多治見香子の方は、管理人のほかに、実家の母親が合鍵を持っていた。青柳美喜の方は、これから調べるところだ。何か手がかりが出てくるかもしれない。 「顔見知りだったかもしれない、とは言っても、部屋にはもてなしたような形跡はありませんね」  ミニキッチン付きの奥に細長いワンルーム。クロゼットもバスルームのドアも白いペンキで塗られ、女性好みの部屋だ。両隣も女性が住んでいるという。  モスグリーンのカーペット敷きの七畳半ほどの部屋は、きれいに片づいている。ここで、部屋の主が必死に抵抗したため乱れた分を差し引いても。ステンレスの流しには、洗いものもたまっていなければ、ガスレンジの周辺には飛び散った油のしみ一つ、ついていない。それだけ、使っていないということかもしれない。  シンプルなベッドに、CDとテレビやビデオなどオーディオ機器一式を集めた大型のラック、半円型の鏡付きのドレッサー。目につく家具はそれだけだ。あとは、キッチン寄りに低いガラスのテーブルとフロアクッションが二つ。少しこぢんまりしすぎているが、一人暮らしのOLの部屋として、テレビドラマに出てきてもおかしくない。  勤め出して二年目の女性の部屋は、こんなものだろう。すっきりしているのは、一か月前に一人暮らしを始めたばかりで、これから荷物がどんどん増えるところだったのかもしれない、と亀山は思った。  大学生の多治見香子の部屋は、美喜の部屋より広かった。2DKで、六畳の和室と六畳の洋間があり、ベランダには鉢植えを置くスペースがあった。香子の実家は、富山で薬局を営んでおり、彼女は十分な仕送りをしてもらっていた。対して美喜は、親元を離れる必要がなかったのに、「とりあえず一年だけ」という約束で、いわば自立するために一人暮らしを始めたわけで、すべて自分の収入の範囲内で生活していたようだ。  その自立するための一人暮らしが、あだになってしまった。親元にいれば、青柳美喜は死なずにすんだかもしれない。 「部屋に入れたところを、いきなり襲われたんだな」  と、滝本が顔をしかめた。  多治見香子の遺体から、精液が検出され、血液型がA型だと判明している。青柳美喜の下半身にも、はっきりそれとわかる痕跡《こんせき》は残っている。司法解剖の結果、くわしいことがわかるだろうが、亀山は、同一人物の精液のはずだと思っていた。 「その男にとっちゃ、ドアを開けさせさえすりゃこっちのもの、ってとこか」  滝本は、まんまとそいつの網に引っかかって可哀想な女だ、というような悔しそうな顔をした。  亀山はふと、学生時代につき合っていた野崎久美のことを思い出した。  別れてからもう五年あまりになる。久美の郷里は青森で、彼女は東中野で一人暮らしをしていた。その野崎久美が、当時、亀山がアパートを訪ねると、彼だとわかっていてもドア越しに〈合言葉〉を要求したものだ。 「四五」と言えば、「二十六」  久美の誕生日が四月五日で、亀山が八月の二十六日。それからとって、数字を組み合わせただけの暗号めいたものだったが、久美が「四五」と言うのに「二十六」と答えないかぎり、玄関のドアは開かないのだった。もっとも、亀山はふざけて、「四五」に「二十」などと答え、少しの時間、開けてもらえないのを楽しんだこともあった。それらは、懐かしい思い出となってしまっているが……。 「少なくともなあ、深夜知らない男がいきなり訪ねて来たら、チェーンをかけて話すくらいはしてもいいのに。いや、知らない男じゃなくてもさ」と、滝本。  ドアチェーンはついている。多治見香子の部屋にもドアチェーンはあった。 「チェーンをかける習慣がついている人は、そんなに多くないんじゃないでしょうか。かけるとしたら、きっと寝る前でしょう。それに、最近、ドアチェーンをかけると、地震のときにドアが歪《ゆが》んで開かなくなる、なんて心配も出ているようです。本当かどうかわかりませんけどね」  亀山は言った。得意の分野になってきた。 「ドアを開けるときは、すでに警戒心が多少ほぐれだしているときです。警戒心ががっちりのときは、開けなければいいんです。ドア越しとかインターホン越しでいいんですから。そして、ひとたびドアを開けようとしたときには、チェーンをかけることによって相手に警戒心を悟られたくない、という自尊心のようなものが入り込んでいるんです。あるいは、自意識過剰だと思われたくないとか、寛大でやさしい人間だと思われたい、などという見栄も混じってしまっているんです。とくに女性は」 「ふーむ、なるほど」  と、滝本は、さっきと同じようにうなずいて、目を輝かせた。「じゃあ、女性心理を分析してみてくれないかな。青柳美喜は、なんで夜遅くにドアを開けたんだ? 知らない男にだよ。多治見香子は、なんで夜の十一時なんて時間に、知らない男に対して、やっぱりドアを開けたんだ?」  司法解剖の結果、青柳美喜の体内から精液が検出された。血液型はA型。  青柳美喜の部屋からは、多治見香子の部屋から検出された指紋と同型のものは検出されなかった。だが、ガスレンジまわりから、二、三、はっきりした指紋がとれた。  その指紋のことで大騒ぎになったのは、三日の昼のことだった。  青柳美喜の部屋から検出された指紋の中に、コンビニ強盗殺人犯と同一のものがあったのだ。コンビニ強盗殺人犯が手をついたレジの場所は、防犯カメラにもはっきり映っていた。コンビニ強盗殺人犯の指紋が一足先にコンピューターに登録されていたため、指紋の照合の結果、迅速に判明した事実である。  OL殺人犯、いや、連続婦女暴行殺人犯——の可能性が高まっているが——とコンビニ強盗殺人犯は、同一人物か?  亀山ばかりでなく、捜査にかかわる誰もの脳裏を一瞬、よぎった考えだった。   12  どんな状況下でも人間は眠れる。いや、眠ってしまうものだ。——周子はそう思った。  気がついたとき、隣に牧人のいつもどおりの寝顔があった。  客用の毛布を膝《ひざ》にかけ、周子は牧人の頭を撫《な》でながら眠ってしまったらしい。牧人が生まれてから、細切れの睡眠には慣れっこになった。  夢の中に、直人が出てきた。両手にスーパーの袋をいっぱい抱えて、周子の前を歩いていた。「直ちゃん」と呼ぼうにも声が出ず、周子は彼のあとをつけて行った。歩道橋があり、そこを直人は渡る。周子も続く。ふと、牧人はどうしたのかしら、と思う。歩道橋を下りると、いきなり夜になった。通路に薄暗い電灯の点《つ》いた一軒のアパートの前に来た。右端の部屋に、直人は入って行く。と、突然、次の場面は、部屋の中に変わった。直人が一人の女性と向き合っている。誰? と思ったら、なんと野崎久美だった。久しぶりに見る久美は、すばらしく美しくなっていた。洗練された都会の女の雰囲気。もうずいぶん会っていないのに、すぐに彼女だとわかった。そういえば彼女、もともとスタイルがよくてきれいだったから、と周子はうらやましげに彼女を見る。そう思う周子も、同じ部屋の中にいる。が、直人も久美も周子には気づかない。まるで透明人間のように、周子は無視されている。部屋の片隅にベビーベッドがあり、びっくりするほど小さな赤ん坊が寝ていた。周子はハッとし、ベッドをのぞきこんだ。牧人ではなかった。髪の毛のふさふさした女の子。ピンクのベビードレスを着ている。 「直ちゃん」と、周子は直人を振り返った。直人にはその声が聞こえない。そのとき彼は、スーパーの袋から、ポン酢だのマヨネーズだの桜えびだのヨード卵、それに粉ミルクの缶などをいっぱい取り出してテーブルに並べていた。久美が「ああ、買って来てくれたのね、あなた。ちょうどミルクが切れていたのよ」と、嬉《うれ》しそうに言った。何よ、久美、ミルクが切れてたのはうちよ、と言い返そうとしたら、赤ん坊が泣いた。周子は赤ん坊を振り返った。そして、あっ、と驚いた。赤ん坊の顔は、牧人の顔に変わっていた。「ねえ、どうしたの、牧人。どうしたの、直ちゃん」声がかすれてもどかしい。  そして、目がさめた。心臓がドキドキ鳴っていた。  どうしてあんな夢を見たのだろう。  時計を見ると、午前三時。居間の電気は点いている。  居間に行くと、男は起きていた。ソファにこちら向きに座り、肘掛《ひじか》けに長い足を投げ出している。ナイフはテーブルの上、男が手を伸ばせばすぐに取れるところにあった。 「起きているの?」 「見ればわかるだろ」  男は、サイドボードの上の置時計を見て、三時だよ、と言った。まだ三時だよ、という意味に周子には聞こえた。「よく眠っているな」と、周子の後ろに視線を投げる。 「親孝行な子なのね」  皮肉をこめて周子は言った。昨夜は、ちょうどいまごろ起こされたのだから、いま起きると母親の立場がまずくなる、と本能的にわかっているのだろうか。 「寝ないの?」 「眠れるかよ」  男はちょっと笑った。「あんたこそ。俺《おれ》がうとうとしているんじゃないかと思って期待してたんだろ」 「そんなこと……ないわ」  こんな状況で数時間でも眠ってしまった自分が不思議だった。 「コーヒー、いれてくれないかな。ブラックでいい」  こころなしか、口調が和らいでいる。けれどもそれは、疲労のせいかもしれなかった。  周子は台所に行き、ワゴンの上のコーヒーメーカーに二人分の粉を入れて、コーヒーを作った。マグカップに注ぎ、テーブルに持って行く。周子もブラックにした。 「旦那《だんな》は大阪のどこに泊まっている」  コーヒーを一口飲んで、男が聞いた。 「Mホテルよ」  Mホテルか、ふーん、と男は、ホテルの名前を知っている口ぶりで言い、「いたずら電話だとか言ってたのは、あんたの亭主じゃないのかい」と、唐突に続けた。  周子は当惑した。まさかあ、と打ち消すつもりで、目を見開いた。 「そのすぐあとで、旦那から電話がきた。おかしな感じだったぜ」 「どうして?」  実際、電話口に出ていないこの男の鋭いカンに、周子は興味を持った。「ああいうことは珍しくないんじゃないかしら。違う人から続けて電話がかかってくるってことは」 「一緒にいる二人の人間が、別々に電話をかける、そういうこともあるけどね」 「どういうこと?」 「かけて欲しくないところに、かけられてしまった場合さ。相手の反応が気になるだろ? で、まったく無関係なふりを装って電話し、様子を探る」 「主人の電話がそうだと言うの?」  わたしたちのあいだには波風はたっていません。そう強調しようとして、ついきつい口調になった。「主人が、誰かといたって言うの? その人が無言電話をかけてきたと?」 「女がいるんじゃないかい?」  正面から切り込まれ、周子はパンチを食らった。 「図星か?」  男は、おかしそうでもなく言い、コーヒーをすすった。 「ばかみたい」  態勢をたて直して、周子はかぶりを振った。「うちにかぎって、そんなテレビドラマみたいなことはないの。なんにも劇的なことが起こらない家なんだから、うちは」  あなたが突然、侵入して来る前は、と周子は内心でつけ加えた。 「ふーん、そうかな。案外、知らないのはあんただけじゃないのか?」 「あの子が生まれたばかりなのよ。直ちゃんはね、すごく子煩悩《こぼんのう》なの。前から子供を欲しがっていたんだから」  牧人を切り札に使ってしまった。少し前、牧人の頭を撫でながら、周子は疑惑を必死に打ち消そうとしていた。——牧人をあんなに可愛がっているあの人が、浮気なんかするはずがない。 「子供が可愛いのとは別じゃないの?」  と、男はあっさりと返した。「あんたみたいに、一日中、子供とべったりってわけじゃないんだからさ。外に出りゃ、結構、いろんな誘惑があるだろうよ」  男の言葉が真実味を帯びて、周子の心に届いた。同じ男だ。共通した感じ方があるのだろうか。 「直ちゃん、か。そう呼んでるのか」 「えっ?」 「旦那のことをだよ」  周子は、顔を赤らめた。家の中を見られるより恥ずかしい気がした。 「なんて名だ」 「直人よ」 「直人で、牧人か。なるほど」  男は軽くうなずき、「で、その直ちゃんだけど、息子に一字をくれてやるのとは別だってことだよ」 「あなたが言いたいのは」  と、周子は毅然《きぜん》として言った。「主人のそばに女性がいて、彼女が電話をかけてきたと言うのね? でも、どうしてそんなことをするのかしら」 「あんたの……つき合っている男の妻が、気になるんだろう。黙ってこっそり電話したところを、男に見つかって切った。で、男は、妻に知られたんじゃないかと不安になって、直後に電話をかけてきた」 「よく考えたものね」  周子は笑った。「あなた、結婚してる?」  男は答えなかった。マグカップを目の高さに上げ、温度の上昇によって赤くなった象の模様を見つめている。熱い飲み物を入れると色の変わるマグカップは、直人が会社の忘年会で景品としてもらって来たものだった。 「してないでしょう」 「してようとどうしようと、関係ないだろ」  ハッとするほど鋭い視線を周子に向け、「ただ、あんたの様子が変だったからさ。亭主と話しているときも、なんだかよそよそしかった」 「そ、そんなことないわ」  否定する頬《ほお》が強張《こわば》る。「そう見えたとしたら、そう、あなたがいたからでしょう。あなたがいて、ふつうに話をしろなんて無理よ」 「夫婦だろ? 俺のことを、俺にわからないやり方で知らせるかと思ったのに。あんたはそうしなかった」 「…………」 「動揺してたからだろ」 「な、なに言ってるの」  周子は視線をそらした。コーヒーはもう飲む気にならなかった。 「あれが旦那《だんな》か」  男はマグカップをテーブルに置き、かわりにナイフを握った。周子はドキッとしたが、それは周子に向けられずに、男はソファを立っただけだった。  サイドボードのところに行く。置時計の右横に牧人の写真が、左後ろに控えめに家族の写真が、それぞれシルバーの丸い額の写真立てに飾ってある。  牧人の写真は、はじめてお座りをした五か月半の頃。家族の写真は、一か月ほど前に新宿御苑《しんじゆくぎよえん》に行ったときに撮ったものだった。近くの人に撮影を頼んだので、大人二人の表情がどこかかしこまっていてぎこちなく、周子はあまり好きな写真ではなかった。だが、最近の家族写真といえば、これ以外にない。 「やさしそうな旦那じゃねえか」  と、男は写真立てを手に取った。やさしそう、と表現したのが意外だった。 「やさしいわ」 「おのろけか」  男が周子を振り返る。視線から逃れるように、周子はもう一枚の写真立てを手にし、額のまわりのほこりを払った。顔がアップになった牧人。撮影する直人の傍らで周子が笑わせたので、目が糸のように細くなりふくよかな頬に埋もれている。 「男は浮気すると、家でやさしくなるんだってさ」 「どうしても、そう決めつけたいのね」 「調べてやろうか」 「えっ?」  元の場所に写真立てを戻しかけて、手が滑った。 「亭主の浮気相手をさ」  男は唇の端を持ち上げ、ニヤッとした。不思議と下品な笑いには見えなかった。若さと清潔感があった。 「結構よ」  一瞬、逡巡《しゆんじゆん》した間を男に気づかれたのではないか。 「冗談だよ」 「…………」 「亭主は、あんたをなんて呼ぶ」  まだ写真を戻さずに、男は聞いた。 「名前を呼ぶわ」 「だから、なんて名だ」 「周子」 「シュウコ?」 「円周率の周子よ」 「エンシュウリツ? ああ、円周率か。珍しいけど、いい名前だな。円周率は、三・一四一五九二六五三五八九七九三二三八四六二六……」  お経でも唱えるように、男は淡々と数字を並べた。周子はあっけにとられた。こんなときに、男の抜群の記憶力を知ることになろうとは思わなかった。  周子の視線に気づき、子供じみたまねをした、というふうなきまり悪そうな顔を男はした。沈黙が続いた。 「洗面所に行かせて。心配だったら、見張っていればいいわ」  洗面所かトイレの窓から逃げようとか、タオルの一枚でも投げ捨てよう、とはもはや思わない。窓は小さすぎるし、タオルを投げ捨てても敷地の中だ。  トイレに入り、出てから洗面所で顔を洗った。目の下の隈《くま》が青黒く鏡に映った。右頬にうっすらと、みみずの這《は》ったようなあざができている。化粧水をつけ、髪をとかした。  そのまま戻ろうとして、足を止めた。棚の引き出しから、ピンクの口紅を出して塗った。それだけで、顔がパッと明るく華やかになった。孤島に化粧水のほかに持っていくとしたら、というアンケートで、一位が口紅だったのを思い出す。  しかし、口紅は濃すぎた。ティッシュを唇に挟み、余分な色をとる。  何をしているのよ、と周子は思った。戻っても、ナイフを手にした男がいるだけだ。彼に見せるためか。寝不足のひどい顔を少しでもましに見せたいためか。子供を産んだ女でもまだ十分きれいよ、と知らせたいのか。それとも、「調べてやろうか」という言葉にとらわれているのか。あのとき、「ええ、調べて欲しいわ」と言ったら、冗談ではなく、そうしてくれたような気がする。  調べてやろうか、と言ったということは、周子と牧人に何も危害を与えずに、ここから出て行く、そういう意味ではないか。  周子は、居間に戻った。男はそこにいた。入って来た周子を見て、瞬間、ハッとしたように眉《まゆ》を動かした。周子は無言で、牧人のそばに戻った。   13  朝は、六時半に、牧人の泣き声で始まった。火のついたような泣き方に、危うく男の存在を忘れそうになったほどだった。急いで膝《ひざ》に抱き、居間に背を向けて乳首をふくませたが、すぐに唇を離してしまった。原因はわかっていた。なんてことよ、と思った。  母乳が出ないのだ。疲労のせいか、ストレスのせいか。両方だろう。食欲|旺盛《おうせい》な牧人を満足させるほどは出てくれない。牧人はまだ、離乳食ですべての栄養をまかなえる時期ではない。  どうしよう。粉ミルクは切れている。昨日、買い物に行けなかったので、牛乳も残り少ない。  とにかく牧人を抱き、ひとまず泣きやませる。抱いたまま、朝刊を取りに行き、男に渡したまではよかったが、離乳食を作ろうと牧人をベビーラックに座らせ、手から離したら、ふたたびけたたましく泣き出した。「ちょっと見ていて」とも、夫ではない男には頼めない。しかたなく周子は、子守帯で牧人をおんぶし、台所をうろうろし回った。  気がつくと、男は朝刊に見入っていた。それで、うるさい、と声を上げなかったのだろう。何か新しい情報でも出ているのだろうか。だが、男がバサッと新聞をテーブルに投げ置いたので、目新しい情報がなかったのがわかった。  男はテレビをつけた。リモコンをイライラしたように操作し、ニュースを流しているチャンネルを探した。  周子は手を止め、テレビに注意を向けた。 「——防犯カメラがとらえた男の映像を公開することにしました」と、アナウンサーの声が聞こえてきたからだ。  男の背中が緊張するのがわかった。  画像は鮮明ではなかった。——黒っぽいコートを着た男が、両手でナイフのようなものを持ってレジに突き出し、札束を右手でつかむと、画面から消えた。——それだけの映像だった。  周子の目の前にビデオの男がいるせいか、周子の中では二人が完璧《かんぺき》に一致した。コートをのぞけば。だが、不鮮明さが男に幸いした。髪型の一部と、高い鼻筋だけが特徴としてつかめるだけだ。似たような顔形の男は、若い男にごろごろ見られるだろう。一箇所、左手がヌッと大きく映った場面があった。カメラの位置が振動か何かでずれたのだろうか。 「チクショウ」  と、男がつぶやいた。「防犯カメラなど、あってないもんだと思っていたが」  男が振り向くより先に、周子は準備に戻った。食パンにパン切り包丁を入れる。 「見ただろ? どうだった」  と、男が聞いた。 「どうって……」  周子は、オーブントースターに食パンを二枚並べた。一枚は厚切りにした。 「似ていたか、俺《おれ》に」 「わからないわ」 「似ていたかどうか、はっきり言えよ」  男は、自分自身に腹を立てているようだ。 「残念ながら、鮮明じゃなかったわ」  それだけ言い、周子は朝食のしたくに戻った。忙しくてあなたの相手をしてられないの、という態度をとりたかった。 「残念ながら、か」  声に安堵《あんど》感がわずかにこもっている。「だがな、はっきりしないってことは、似ているような似てないような、ってことだ。つまり、似ているかもしれないってことで、それが怖いのさ、人間の直感というのは」  ——わたしは、画面のあなたじゃなくて、本物のあなたを見ているのよ。もう十七時間近くも。わたしの記憶から消えないあなたはどうなるの?  心の中で、男に問いかけた。声にするのはためらわれた。  テレビでは、事件のニュースが続いている。 「——昨夜、十時半頃、豊島区南長崎五丁目のアパート『ハイデルコーポ』103で、会社員青柳美喜さん、二十三歳が首を絞められて殺されているのを、預かっていた荷物を届けに来た管理人が見つけました。死亡したのは午後九時から十時のあいだと見られ、死体には暴行された痕跡《こんせき》がありました。青柳さんは、一か月前に一人暮らしを始めたばかりでした。管理人の話によると、一度、九時頃、青柳さんの部屋の電気が点《つ》いた気がしたので、訪ねたところ、応答がなかった。もう一度、十時半頃訪ねてみて、殺されている青柳さんを発見した、ということです。なお、先月二十四日に練馬区内のアパートでも一人暮らしの大学生多治見香子さんが、やはり首を絞められて殺された事件がありましたが、警察では手口が似ていることや現場が近いことから、その事件との関連も調べています」 「あの事件だわ」  周子は言った。女子大生が殺された事件に、「怖いわねえ」とつぶやいたのは、つい昨日のことだった。ダイニングテーブルには直人もいた。平和な朝だった。もうずっと以前のことのような気がする。  男は、周子の声が聞こえなかったかのように、リモコンを差し出し、テレビを消した。 「きっと、同じ犯人よ」  ゆっくりと男が周子に向かった。 「どうしてわかる」 「手口が似ているって言ってたわ。それに近いし」 「同じやつ、か」  男は、リモコンをテーブルに投げ置いた。「女を二人、続けて殺すなんてね。わかるようなわからんような」  男の言葉に、背筋が寒くなった。周子は、恐怖から逃れるために、せっせと手を動かした。牧人のパンがゆを作る。隣のガスレンジでは、卵を茹《ゆ》でている。 「一人殺したら、二人も三人も同じだっていうんだろうなあ」  男のつぶやきが、聞こえないふりをした。その声には、憧憬《しようけい》や尊敬のようなものが含まれているように周子の耳には響いた。  彼は何か考え込んでいる。形のいい目を細め、唇を固く結んでいる。 「朝食の用意ができたけど」  周子は、男を自分の世界から自分たちの日常生活に連れ戻した。  大人の朝食は終わっても、牧人の朝食は終わらなかった。母乳が十分でなかった牧人は、離乳食を三分の一も食べなかった。ミルクは底をついてしまった。  牧人はぐずっている。あやしても一時的に落ち着くだけで、空腹は満たされない。男が、自分の心配事に心を奪われているのに、どんなに救われたことか。だが、色つやのいい小さな歯茎をめいっぱい見せて泣くいつもの泣き方は、周子の方をどうかしてしまいそうだった。自分の欲求を満たしてくれない不甲斐《ふがい》ない母親を、まるで全身で責め立てているかのような泣き方。  テレビで全国的に放映された男は、庭の方に行き、カーテンの隙間《すきま》から外を眺めている。低い生け垣から、通行人の横顔だけが、生い茂った木々のあいだにわずかにのぞくだけであろう。 「九時に開く薬局があるの。ビルの一階にあって、二階が小児科のクリニックなの。よくそこに処方箋《しよほうせん》を持って行って、薬を出してもらうわ。粉ミルクを買って来たいんだけど」  腕の中で牧人を揺すりながら、周子は切り出した。自分でもわかるほど、声が苛立《いらだ》っていた。 「なんだって?」  聞こえなかったのか、男は振り返る。頬《ほお》に暗い影ができている。  周子は、胸の奥に熱くこみ上げてくるものを感じた。まったく同じだ。忙しい朝、「牧人、ウンチしちゃったよ、ママ」と、台所にいる周子を大声で呼ぶ直人に対して感じる苛立ちと。直人は、どんなに愛《いと》しいわが子でも、〈大〉の方はオムツを替えようとしない。半ばヒステリーに胸を突き上げられながら、周子はまったく同じセリフを繰り返した。 「外に行く? 誰が」  男は、カーテンを音をたてて閉め、きっと周子を見た。 「わたし一人で。それならいいでしょ?」 「母乳は」 「出るわけないでしょ。こんなときにたっぷり出るとしたら、それは神経のよっぽどず太い女だわ。牛だって出やしない」 「牛乳でも飲ませりゃいいだろ」 「切れてるのよ」  牛乳は、毎日、新鮮なものを買う。 「腹が減りゃあ、なんだって飲むだろ」  男は、面倒臭そうに言った。 「それは、大人の考え方よ。大人なら、今日我慢して明日おいしいものを食べよう、と頭でわかってるわ。でも、赤ちゃんにはわからない。いま、どうしても欲しいのよ。そして、いま必要なものが、赤ちゃんにはあるの。大人とは違うのよ」 「一日、ミルクを飲まなかったからって、死にゃしないだろうよ」 「一日? 一日っていつからのことかしら。あなた、一日で出て行ってくれるの? あとどれくらい? 決まっているんだったら、それでもいいわ。でも、わからないじゃないの。いつ出てってくれるか」 「…………」 「じゃあ、出てって。いますぐ出てって、そしたら、わたし、この子のミルクを買いに行けるわ」 「だめだ。さっき、警察官が自転車に乗って通った」  男は、指で後ろを示した。 「あなたを捕まえるためじゃないかもしれないじゃない」 「ばか言え。職務質問でもされたらどうする。ビデオに映ってただろ。俺の指紋がどこかに残っているかもしれない」 「じゃあ、ずっと泣かせっぱなしにしておけってわけ」  やめてよ、と周子は何度もかぶりを振った。大人二人の大声での言い合いに驚いたのか、牧人はソファの上に大の字になり、手足をばたばたさせ、ひきつけでも起こしかねないような激しい泣きぶりだ。 「あんたを外に出して、おとなしくミルクだけ買って帰って来るって保証がどこにある」  男は、ナイフの先を天井に向けて、くるくる回した。 「だから、牧人が……」 「そのうるさいガキを俺に押しつけるのか」 「すぐに帰って来るわ。自転車で行けば、五分もかからない」 「誰かに持って来させろ。昨日の、村井容子か、あいつはどうだ」 「……いいわ」  周子は、男のそばで電話をかけた。だが、容子は出ない。 「いないみたい。ご主人を送って行ったのかもしれない。彼女、実家が近いから、綾ちゃんを連れて出たのかも」 「うるせえな、本当に」  男も、さすがに耐えかねたようだ。ソファで泣き続ける牧人を振り返る。  周子は、ソファに駆けつけ、牧人を抱き上げた。だが、抱いたからといって、牧人は許してくれない。目から涙がしぶきのように飛び散っている。涙を拭《ぬぐ》ってやる。と、そのうっとうしさに、いっそう激しく泣きたてる。 「周子さん、あんたには前科があるからな」 「前科?」  ふきんのことを言っているのだ。 「薬局にことづけでも残して来たら、俺はどうなるんだ」  周子は返事に詰まった。言われてみれば、そのとおりだ。いくら牧人を人質にとられているからといって、一人で外出さえできれば、いくらでも打つ手はある。 「誓うわ。ミルクだけ買ってすぐ帰って来るわ」 「誰かを連れて帰るなんてバカなことはしないかもしれない。だが、帰ってから、警察に踏み込まれたりしたらたまらない。信用できないね」  泣き疲れたのか、牧人はいったん休んでしゃくり上げ、また泣きわめいた。赤を通り越して、顔色がどす黒い。 「それじゃ、一緒に行きましょう」  周子は、男のナイフを握った手をつかんだ。つかんでから、あっ、と声を上げた。瞬間的に、不安定な精神状態になっていたらしい。赤ん坊の耳をつんざくようなけたたましい泣き声が、いつも正常な神経を狂わせるのだ。ああ、もう、どうにでもおなり、と投げやりな状態に精神を追いやる。いま、周子は、そういう状態に近づいていた。 「あ、危ないぞ」  男の方がひるんだ。ナイフの刃を周子から遠ざけ、上に向ける。 「でも、じゃあ、どうすればいいの? あなた、甘いのよ。この子がいい聞かしてわかると思う? それとも、わたしの乳首を噛《か》みちぎるのを見る?」 「よ、よせよ」  男は、周子の腕を振り払った。 「行かせて」 「このガキの命がかかっているんだぞ。それでもいいのか。やめろ。なだめていろよ、そうやって」  男は、声を低くした。 「行かせてくれないなら、殺して」 「えっ?」 「殺せばいいわ」 「だ、誰を。こいつをか」  腕の中で、上半身を思いきりそらして抗議を唱えている牧人を、彼は指差す。 「わたしたちをよ。この子を殺すならわたしも殺して。そしたら、静かになるわ。わたしも泣き声を聞かなくてすむし。つらいのよ。この子が泣くのが」 「ばかなっ。ガキを殺して、なんて言う母親がいるかよ」  油断したのか、男は舌ったらずの幼い声を出し——案外、それが地の声なのかもしれない——それに伴って、幼い顔がのぞいた。 「一緒に、と言ってるのよ。それだったら怖くないわ」  本当にそう思ったことは、一度ならずあった。母子心中する気持ちが、子供を産んでみてはじめてわかった。母親は、一緒なら怖くないのだ。一緒にあの世につれて行くのがこの子のためだ、と心底思うものなのだ。 「静かになさいっ、牧人」  言葉を失っている男を前に、周子は牧人を叱《しか》りつけた。当然ながら、効きめはなく、かん高い泣き声となって返ってくる。 「買いに行けよ」  諦めたように男がポツリと言った。 「えっ?」 「すぐ戻って来いよ。ぐずぐずしてたら、そのガキは一生泣き声も上げなくなるぞ」 「わかってるわ」  周子は、ホッとしたと同時に、新たな不安で胸がいっぱいになった。牧人を叱りつけた声に効果があったようだ。きっと、すごい形相をしていたにちがいない。それこそ、鬼のような母親の。  牧人を和室のベビー布団の上に寝かす。抱かれていたいので、そのより不快な状態にますます泣き方はひどくなる。  サイドボードの引き出しから、財布を取り出す。 「泣かしておいて。かまわないで」  男に何かされるよりは、五分間、泣かせっぱなしにしておいてくれた方がましだ。そのあいだの牧人の心細さを考えれば可哀想な気もしたが、その分、あとでミルクをたっぷり与え、たっぷり慰めてやればいい。 「ちょっと待てよ」  男が、玄関に向かおうとした周子の腕をつかんだ。「わりに合わない取り引きはやらねえんだよ」 「ど、どういうこと?」  やっぱり気が変わったというのか。 「あんたが、ぐずぐずしないで帰って来るようにしてやるさ」  男は、周子の手を引き、台所に導いた。 「ピューって音の出るやかんだな、これは」  朝、周子が湯を沸かしたやかんの把手《とつて》を、男はナイフを持った手で一緒につかむ。赤、青、黄の派手な色合いが楽しい輸入もののケトル。直人の同僚の結婚式の引き出物だ。 「どうするの?」  お湯でも沸かせというのか。 「ここにたっぷり水を入れる。ピューっと音が鳴るまでに帰って来い。自転車で五分で行って来れると言ったよな」  周子は絶句した。 「いいか」と、男は周子を向く。周子は、片手をつかまれたまま、ほうけたように立っていた。 「俺だって、ナイフで赤ん坊を……なんてやり方はごめんだ。血を見るのは嫌だからね」  周子は生唾《なまつば》を呑《の》み込んだ、背筋が悪寒でザワザワする。 「やるとしたら、あんたが言ったように、手で口と鼻をふさぐ。……すぐにグタッとするだろうな。意外に簡単さ。あんたもそう、しそうになった」 「な、何を言ってるの」  ようやく周子は声にした。「お湯が沸くまでに帰って来いって言うの? そのやかんがけたたましく笛を吹いたら、牧人を殺すって言うの?」 「俺の安全のためさ」 「そんなバカなこと、よしてよ。わたし、誓うわ。ちゃんと帰って来る。わたしだって牧人が大事よ。頭の中は、牧人のことしかない。ほかに、どうこうしようなんて頭が働く余裕があるはずないわ」  周子は必死に言った。耳の奥で、ピュー、という笛の音が鳴っている。沸騰した湯が、やかんの中でぐらぐらいっている様子が浮かんだ。白い湯気が立ち上り、ピューという音はいっそう高くなる。 「ようするに、あんたに道草を食ってほしくないのさ。当然だろ? 嫌ならミルクは諦《あきら》めろ。腹が減ったら何だって食うさ、赤ん坊だってね」  男はやかんの把手から手をはなした。 「ちょっと待って」  周子は、つかまれていた腕をふりほどくと、深く息を吸った。牧人の泣き声が気のせいか弱くなった。泣き疲れて、指でもしゃぶり、ふてくされたように寝入ってしまうのか。いや、牧人は、そう簡単に諦めてはくれないだろう。 「さっき五分と言ったけど、あれは何もなかった場合よ。薬局が混んでいたりしたら、たとえば、あそこは薬剤師が一人きりで、上のクリニックの患者が来たりしたら、薬を作るのにかかりきりになるの。そしたら、お湯が沸くまでに帰って来られるかどうか……」 「そんなことは知らん」  と、男はそっけなく言った。「もしそうだったら、緊急だと言えばいいだろ。一刻も早くミルクを飲まないと、うちの子は死んじゃいます、とか何とか。とにかく、普通の場合だ。たっぷり水の入ったやかんを中火のガスにかけて……お湯が沸くまでだ」  それがリミットだ、と男はつけ加えた。 「いいわ」  周子は心を決めた。外に出れば、と思った。外に出れば、絶対に何とかなる。心臓が胸を裂いて飛び出しそうなほど、鼓動を強めている。 「忘れるな。俺は、もうどうでもいいって気になってる。もちろん、逃げるつもりさ、絶対に。だがな、一人は確実に殺しているんだ。無抵抗な赤ん坊の一人や二人は、そりゃ、気がとがめるが……殺せないことはない」  周子の胸に、ナイフでえぐられたようなジクジクした痛みが生じた。男の言葉は半分脅しなのだろうが、本当にやりかねない狂気のようなものにとりつかれている、と周子は思った。周子の帰りが遅ければ、男は疑心暗鬼になるだろう。苛立《いらだ》ちが募り、焦りにかられる。そんな不安定な精神状態で、被害妄想が高まり、発作的に弱者である赤ん坊を殺してしまう事態になりかねない。 「用を済ませたら、一秒も無駄にしないで戻るわ。だからお願い。早まらないで。牧人に手を出さないで。万が一、お湯が沸いても、もう少し、もう少しだけと思って、お願い、待っててちょうだい。必ず、必ず戻るから」   14  門を出たとき、自転車のハンドルを持つ手が、寒さでかじかんだときのように震えた。気がせく。一秒も無駄にはできない。  周子は、自転車に乗った。ペダルをこぐ足がもつれる。スピードを出した。五軒ほどいき、右に曲がる。住宅街にポツンと米屋がある。いつも配達してもらっている店だ。視野の端に、店の中の人影をとらえた気がしたが、そちらを向かずにひたすらスピードにのった。  小さな交差点の「止まれ」とある道路の標識を無視して、もう少しで左から来た自転車とぶつかりそうになった。年配の女性が乗っていた。あちらは「わっ」と声を上げたが、周子は息だけ呑《の》み込んで、すぐに体勢をたて直した。事故ってはいられない。  二つ目の交差点を右へ。曲がったところに本屋があり、隣が目的の薬局だ。  息を切らせながら自転車を降りた。 『マチダ薬局』  間口の狭い店だが、ガラス越しに紙オムツのカラフルなパッケージなどが見えて、雰囲気は明るい。  九時を少し回ったばかりなのに、中には客の姿が見えた。嫌な予感がした。 「ごめんください」  店に入ると、その客が振り返った。レジの前のスツールに座っている。  嫌な予感は当たった。たぶん、上のクリニックで処方箋《しよほうせん》をもらい、薬を作ってもらっている客だろう。女性薬剤師——といっても、薬を調合しないときは、生理用品や歯磨き粉を売ったり、ハンドクリームや安いメーカーの口紅を売ったりもするのだから、兼販売員だ——、彼女の姿は見えない。奥のガラス張りの薬局で、薬を調剤しているのだろう。  周子は、左手のベビーフード・コーナーに行き、中段からMメーカーの粉ミルクの大缶を取った。富士見台の駅の先に行けば、安売りをしている薬店があるが、もちろん、いまそこまで行っている暇はない。 「すみません」  と奥に呼びかけたが、返事はない。 「もうすぐだと思いますよ」  レジの前に座っている老人が、穏やかに言った。 「え、ええ。でも、急いでいるもので」  老人をちらっと見て、「すみません」と、今度は大きな声を出した。 「はーい」  手ぶらで、白衣の薬剤師兼販売員が奥から出て来た。まだ薬はできていないようだ。 「ミルクください」  周子は、レジの横に缶を置いた。すでに五千円札を握り締めている。その手が汗ばんでいた。 「あ、はい。ごめんなさい」  顔なじみの薬剤師は、先に周子の方を済ませようと、ミルクの缶を受け取った。何度か、牧人を連れて買い物に寄ったことがある。が、真面目《まじめ》で有能そうな薬剤師は無駄話はあまりせず、周子はそういうところが気に入っていた。  腕時計を見た。門を出てから、針が少し次の黒い点寄りに動いている。だが、周子の腕時計は、五分間隔でしか目盛りがついていないので、時間の経過は正確にはわからない。わからない方が、いっそのこと気が楽だ。デジタル時計でなくてよかった、と周子は思った。居間の置時計もデジタルではない。家を出るとき、男と時刻合わせはしなかった。だから、わたしの時計ではまだ五分たっていないわ、と言い訳できるかもしれない。万が一、五分を過ぎるような事態になったとしても……。  そう考えて、周子の全身から血の気がサアッと引いた。  時計ではない。基準にしているのは、時計ではない。あのやかんの笛の音なのだ。二階のベランダで洗濯物を干していても、風呂釜《ふろがま》の掃除をしていても、「お湯が沸きましたよ、わたしを止めて!」とおかまいなしに呼ぶ、あのけたたましい笛の音なのである。  周子は思わず耳を押さえた。そのピューが、聞こえた気がした。 「どうしました?」  と、薬剤師が怪訝《けげん》そうに周子を見る。すでに、ビニール袋にミルクの缶を入れて、こちらに差し出していた。 「いいえ、何でも」  ちょっと頭痛が、などと言えば、頭痛薬を勧められるだろうか。今後のために買っておきたいくらいだ。だが、どんな頭痛薬がいいですか……と、貴重な時間を奪い取られかねない。 「わたしの薬はまだかな」  と、いきなり老人が腰を上げた。穏やかそうな老人に見えたのに、その声には、軽い怒りが含まれていた。 「ああ、すみません。いま袋に詰めたところで……」  薬剤師は奥を振り向き、戸惑った視線を老人でなく周子に戻した。  周子は、老人の言葉が聞こえなかったふりをして、すばやく五千円札をレジに置いた。 「それじゃ、先にお願いしますよ。土曜日だから、早くから上で順番待ちしていたんですよ。わたしだって急いでいるんです」  老人は、じろりと周子を睨《にら》んだ。七十を越えているだろう。穏やかそうに見えて、根は頑固そうだ。目のまわりがたるみ、白目の部分が充血している。 「すみません」  と、周子は小さな声であやまった。薬剤師は、非難を周子が受けてくれたので、ホッとしたように、レジの中からつり銭を拾い上げた。 「あんた、そんなに急いでるの?」  老人が周子に聞いた。薬剤師が、ハッとしたように顔を上げ、おつりを握ったまま動きを止めた。 〈こんなときに、些細《ささい》なことでわたしの時間を無駄にしないで〉  喉《のど》まで出かかった言葉を呑《の》み込み、周子は「すみません。子供が寝ているあいだに来たもので」と、早口で言った。 「あら、赤ちゃん? それは落ち着かないですね。自転車で?」  薬剤師が、それは大変、と眉《まゆ》をひそめた。周子の手に、千円札が二枚と小銭がいくつか渡された。 「あんた、赤ん坊を置いて来たの?」  老人が素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を上げた。「よくそんなことができるねえ。いくら寝ているからって、地震でもあったらどうするの。母親がちょっと留守しているあいだに、火事にでもなったら。いや、お宅じゃないよ。隣の家か何かがさ。赤ん坊を一人きりにするなんて、信じられないよ。わたしにも孫がいるがね。まったく最近の若い母親は、困りものだ」  呆《あき》れた顔で、老人はたたみかけた。 「ですから、わたし……」  一刻も早く帰らなくちゃいけないんです。周子は、胸の中が煮えくり返るような思いで、痛みさえ感じた。あなたのそのお説教のせいで、何十秒か、いいえ、一分近く損したじゃないの、と言いたかった。 「すみません。じゃあ」  急いで袋を受け取ると、周子は老人に軽く頭を下げて、きびすを返した。  脳裏に、赤と青と黄色の湯気がたちこめている。やかんはいまにでも、〈悲鳴〉を上げるのではないか。 「あらあ、柿沼さん」  店に入って来た客が、周子を呼んだ。  見ると、マタニティ・スイミング教室で一緒だった岡田|智子《ともこ》だった。妊娠中、周子は中村橋の駅の近くにあるスポーツ・クラブに通っていた。岡田智子とは帰りに何度かお茶を飲んだ程度の仲で、出産後は一度も会っていなかった。 「元気ぃ? 男の子だったんですって? 会いたいと思いながら、生まれてみたらすっごく忙しくって、なかなか会えないものね」  岡田智子の胸元に、小さなピンクの帽子がのぞいている。その帽子が傾いているので、赤ちゃんが眠っているのだとわかった。わが子をだっこ紐《ひも》に入れている。普通は、そうやって、母親の身から離さずにいるものなのだ。 「え、ええ。牧人……名前、言ったかしら。お宅は、ええっと、舞ちゃん?」 「そう、舞。このごろ、多い名前なんですってね。幼稚園でも一クラスに二人はいるとか、舞とか舞子とかっていう子が」  岡田智子は、ピンクの帽子を撫《な》でながら笑った。話し好きの女につかまってしまった。嫌いな人間ではない。だが、いまは別だ。 「で、牧人くんはどうしたの?」 「ああ、その、家に置いて来ちゃったのよ」  立ち去るきっかけが、まさにそこにあった。「寝ているあいだにと思って、ミルクを買いに。ごめんなさい。急いでるの」 「あら、それじゃ、早く帰って」  同じ立場にいるから、理解は早い。周子は、救われた気がした。 「じゃあ、また」と帰ろうとしたが、ふと思いとどまった。  何かが心に引っ掛かっている。腕時計を見る。もうすぐ五分になるかならない、というところだ。やかんには、ふたのギリギリまでたっぷり水を入れたから、沸くまでにはいつもより時間を要するだろう。たとえ、ピューが鳴ったとしても、男は周子の帰りを待ってみる気になるはずだ。どのくらい男にゆとりがあるかどうかはわからないが。  何が引っ掛かっていたか、思い出した。さっきレジのところで、蛙の顔を見た。あれは、サインペンか何かの先っぽだった。薬局向けの何かの景品だろうか。カウンターの上に飾られていた。その隣には、メモ用紙があった。  周子はレジに戻った。薬剤師が、何かお忘れものですか、という顔をする。後ろから岡田智子が、「ミルク、どこの使ってる? あたしもあんまり出がよくないのよ」と声をかける。老人が、軽く咳払《せきばら》いをした。 「あの……それ……」  蛙の顔に手を伸ばして、周子は躊躇《ちゆうちよ》した。 「これ、ですか?」  と、薬剤師が、ペン立てからそれをスポッと抜き取った。短くて太いボールペンのようだった。「どうぞ」と、周子に差し出す。 〈書くのよ〉  時間はない、ともう一人の自分が言う。文面はそう……コンビニ殺人犯がうちにたてこもっている。けいさつに知らせて。でんわは××××……とでも書けばいい。  ここには、知的で落ち着いた感じの薬剤師と、思慮深そうな、そして少々頑固で昔|気質《かたぎ》の老人と、おしゃべりだが行動的な主婦がいる。三人いれば、周子が去ったあと、とるべき道を正しく、冷静に判断できるだろう。  いいチャンスだ。もう二度と巡ってこないチャンスだ。  周子の指がボールペンに伸びた。  そのとき「あっ」と、岡田智子が声を上げた。三人が一斉に彼女を見る。 「あたし、アイロン、ちゃんと切ったかしら。どうしたかしら。忘れちゃった」 「あんた、つけっぱなしで来たの?」  と、老人が今度も呆れ顔で聞いた。 「切ったような切らないような。でも、たてかけて来たとは思うけど。だから、大丈夫なんだけど、でも、過熱したら……」  岡田智子はソワソワし出した。 「危ないんじゃないの?」と、老人。 「ええ、そうですね。そうだわ。帰ってみるわ。じゃあね」  彼女は、片手で赤ん坊の背中を支え、店を飛び出して行った。  しばらく周子は、あっけにとられていた。が、我に返った。  その瞬間、鮮やかに、自分の家の台所の光景が目前に広がった。換気扇を回さないので、湯気が狭い空間にたちこめている。やかんの中で湯がぐらぐら沸騰している。両手で耳をふさいだ。笛の音が、すぐそこまで迫っている。まさにいま、あの男が、口にくわえたホイッスルを吹こうとしている。  自分がいない空間が、これほど恐ろしいものだとは知らなかった。悪い方向へと想像力が働く。  男は、やかんがどうこうというより前に、牧人の泣き声に癇癪《かんしやく》を起こしてしまうのではないか。うるさい、黙れ、と牧人を叩《たた》く。叩かれた牧人は、ひとたまりもない。大の男から見れば、軽く二、三度ひっぱたいたくらいかもしれないが、脆弱《ぜいじやく》な赤ん坊にはそれが致命的になる場合だって、たくさんある。  チャンスを生かそう、と思い躊躇した時間も、はっきり言って浪費になる。  こんなことはしていられない。すぐに戻らなくては。  周子は、弾かれたようにドアに駆け寄った。外に、岡田智子の姿はもうなかった。  自転車に乗り、来た道を戻る。それが最短距離だ。  途中、巡回中らしい警察官に会った。制服を見ても、もはや周子はためらわなかった。  家に着いた。かすかに笛の音を聞いたように思った。 「大丈夫よね、大丈夫よね、まだよね」  自分の胸に言い聞かせながら、周子は玄関に飛び込んだ。鍵《かぎ》は開いていた。   15  周子の心臓は凍りついた。  気のせいではなかった。思いきり高い、神経を震わすような音。  やかんの笛の音だ。 〈遅かった? まさか、そんな……〉  多少のロスはあったとはいえ、粉ミルクを買うという一つの用事を済ませて来ただけだ。五分は過ぎたかもしれないが、十分まではかかっていない。充分に〈待てる〉時間内ではないか。 「待って! 行って来たわ」  居間に駆け込む。  周子は足がすくんだ。カーテンを閉めきった室内に、庭を背にして、異様な形のシルエットが見えた。こちら向きに立っている男。その腹部から胸にかけて、柔らかな膨らみがある。  一瞬、周子は笛の音を忘れた。周囲の音が消え、静寂が訪れた。それだけ、見たものの衝撃が大きかったのだ。 「何してるの!」  男は、牧人を抱いていたのだ。牧人の泣き声は聞こえない。周子などねじふせられてしまうその強健な腕の中で、ぐったりして見える。 「あなた、ひどいじゃないの! わたし、必死で帰って来たのに……」  変なおじいさんに嫌みを言われ、会いたくもない女に呼び止められて。でも、必死で帰って来たのに。……あとは、言葉にならなかった。  手にしていた袋を落とした。ミルクの缶は、周子の右足の甲の骨に触れ、鈍い音をたてた。痛みは感じなかった。 「何てことするのよ!」  周子は、男につかみかかって行った。  涙がとめどなくあふれた。胸から喉《のど》に、苦くて熱いものがこみ上げる。やりばのない憤りが、全身を怒濤《どとう》のように駆け巡る。  男が弾みでソファの方に飛んだ。それだけ、思いがけない周子の激しさだったのだろう。ソファに座り込み、同時に、チッ、というような小さなうめき声を上げた。  そのとき、周子はようやく気がついた。牧人の体がびくっとはねて、目が開いた。寝入ったところを起こされて、不機嫌そうにまぶたにしわを寄せる。 「生きてるのね」 「見ればわかるだろ」 「だって、あなた……」  男は、やれやれ、とおおげさに言って、ソファから立ち上がった。 「すごい力だな。火事場のバカ力とは、こういうのを言うんだろうな」  男は、「お返ししますよ」と、牧人を周子に渡した。 「どうしようとしてたの?」  牧人の顔を手のひらでかばいながら、周子は聞いた。確かな重さを両腕に感じて、胸が熱くなる。 「どうって……」  男は、ばつが悪そうに周子から視線をそらし、口ごもった。  周子の耳に、笛の音が戻って来た。 「沸いたよ」  男は顎《あご》で台所を示す。促されて、周子は牧人を抱いたまま台所に行き、まるで怒ったように湯気を吐き、鳴き声を上げているやかんの火をとめた。プシュッと空気がもれる音がして、笛の音はやんだ。湯が沸騰し、やかんに近づいただけで熱を感じる。  牧人が、きれいな色に誘われて、やかんに手を伸ばした。あわてて遠ざける。 「あんたの自転車がそこに止まったときに、ちょうど沸いたのさ」 「そう」  安堵《あんど》のあまり、体中の力が抜けた。現実は、想像したよりスローペースで時間が進行していたのだ。 「でも、牧人をどうかしようとしてたんじゃないの?」  安心したとはいえ、男を許す気にはまだなれなかった。 「どうもこうも。あんまり泣くんで、抱いてやったんだよ。そしたら、しばらくして泣きやんで、眠くなったのか、目がトロンとしてきて……」 「あやしていたの?」 「あやす? まさか」  男は唇を少し尖《とが》らし、へっ、と笑った。不思議なほど幼い表情が、唇や目のあたりにのぞいた。 「俺《おれ》が何でそんなことするんだよ。うるさいから、泣きやませてやろうかと思っただけさ」横を向いたまま答え、「ガキは嫌いだ」とつけ加えた。 「あなた、兄弟いるの?」  ふと気になって聞いてみた。 「いてもいなくてもいいだろ、そんなの」  その答え方から、いるのだと思った。  周子は、答えた男が左手を不自然に握っているのに気づいた。ナイフは、男のすぐそば、テーブルの上にある。 「手、どうかしたの?」 「えっ? ああ、ちょっと切ったらしい」  見ると、左の薬指の中ほどから血が出ている。 「これでさ」  男が少し照れたような顔でつまみ上げたのは、清涼飲料水か何かの瓶のふただった。切り口がギザギザになっているものだ。一昨日そこで、直人が冷蔵庫から持って来た炭酸で焼酎《しようちゆう》を割って飲んでいたのを思い出した。切り口の鋭利なふたをこんなところに忘れるとは危なっかしい、と周子は思った。牧人は、目についたものを何でも口に入れてしまう時期だ。 「血が出てるわ」  周子は、サイドテーブルの引き出しからハンカチを一枚取り出して、男に渡した。  男は、黙って花柄のそのハンカチを受け取り、指をくるんだ。 「たいした傷じゃないさ」  だが、ハンカチには思いのほか赤いしみが広がった。 「カットバンがあるけど」 「いらないよ」  過保護な母親を煙たがるような口調で、男は首を振った。  男は、台所寄りの隅にゴミ箱を見つけると、瓶のふたを投げた。数メートルあったが、見事にシュートは決まった。  周子は、牧人をベビーラックに座らせ、ミルクを作った。二百CC。ソファに座り、授乳する。牧人は夢中であっというまに飲み干した。その様子を、男は左手をハンカチでくるみ、右手にナイフを持って、じっと見ていた。 「あやしてくれてたのね。ありがとう」  立ったままの男に、周子は言った。 「そうじゃないと言っただろ」 「でも、赤ちゃんは、立ったまま抱かれて揺すられたいものなのよ」  空腹が満たされた牧人は、胸の中で半身をそらせ、活動をし始めた。 「あなたの腕、気持ちよかったのよ、きっと」 「うるせえ」  よせよ、と男は天井を見上げた。周子が時間通り戻って来て、赤ん坊に何もせずにすんだことに、自分でもホッとしているようだ。  赤ん坊など簡単に殺せるようなことを言ったのは、やはり脅しだったのだ。この男のせいいっぱいの虚勢だったのだ。そう周子は思った。誰でも、無抵抗の赤ん坊を殺《あや》めたくはない。 「それより、変なまね、しなかっただろうな。誰かに俺のことを知らせたり……」  男は声にドスをきかせた。 「するわけないでしょう。そんな暇があったかどうか、入って来たときのわたしの様子でわかったでしょう」 「十秒もあれば、知らせることはできるさ。紙っきれにでも、俺がここにいることと電話番号を書けばいいんだから」  一度はそうしようとした周子である。男の視線から逃れた。 「そんなことすれば、様子を探るための電話がくるでしょう。わたしだってもっと落ち着かないわ」  言ったとたんに電話が鳴り、周子の体は硬直した。男が眉間《みけん》にしわを寄せ、「まさか、その様子を探る電話じゃないだろうな」と言った。  周子は、牧人をプレイマットに座らせ、電話に出た。牧人は最近、電話に興味を示す。丸い顎《あご》を上げ、目で周子を追う。 「もしもし」  直人の声だった。 「直ちゃん……」 「おはよう。元気か?」  直人の方は、から元気を出しているように聞こえた。 「どうしたの、朝早く」  こんな時間に、出張先から電話をかけてきたことはない。 「ああ、これから会場に行くところでさ。ほら、二日も家をあけるのって、はじめてだろ? ちょっと心配になってね。新聞で、周子の言ってたあれ、コンビニ殺人事件の記事を読んだから。どう?」 「どうって?」  昨夜のわだかまりが消えない。どうしても刺《とげ》のある口調になってしまう。 「牧人は元気?」 「変わりないわ。いま、遊んでる。オモチャで」  その牧人が、手をついてお尻《しり》を持ち上げ、プレイマットから男の足元へと、身を乗り出そうとしていたので、周子はびっくりした。男を、いい遊び相手だと認識してしまったらしい。気のせいか、二、三日前より、動きが身軽になったように思った。もう少しで、はいはいができそうな気配だ。 「コンビニのその犯人、まさかその辺をうろうろしてないだろうなあ」  と、直人は言い、内容とは裏腹に笑う。 「逃げた……んじゃないの。もうずっと前に。でも、警察はそのあたりにいるけど」  警察、と聞いて、男がハッとしたように周子を見る。 「コンビニなんかにあんまり行かない方がいいぞ。どんなやつが来るかわからんからな」 「大丈夫よ。牧人を連れては行ったことがないから」  それはうそだった。買い物帰りに、買い忘れたものがあれば、コンビニに寄る。主婦にとってコンビニエンスストアは、文字通り、手軽で便利な存在である。 「直ちゃん」  周子は、男に背を向けて、続けた。「昨夜、一緒に飲んでいた人って、誰だったの? 同期とか言ってたけど」 「えっ……」  直人は一瞬、言葉に詰まったが、すぐに「ああ、同期入社で、大阪に転勤になった坂本だよ」と答えた。「坂本だけど、それが?」 「ううん、別に。誰だったかな、と思って」 「今日も一緒だけどさ、仕事のあと飲むかどうかはわからない」 「そう。坂本さん、元気?」 「ああ、元気だよ。元気すぎるくらい。相変わらずさ」 「まだ結婚しないんでしょ?」 「どうだかね。あいつはもてるからな」  あなたはどうなの、と周子は聞きたかった。昨夜は、本当は誰といたの? ホテルのあなたの部屋に誰がいたの? 「ねえ、直ちゃん」周子は声を落とした。  男が近くに来た。背骨のすぐ脇《わき》に固いものが当たった。警告の意味だろう。だが、周子が話そうとしていたのは別のことだった。 「何?」 「昨夜ね、いたずら電話があったのよ。わたし、牧人と二人きりでしょ。おまけに、近くで殺人事件なんかがあるし。関係はないのかもしれないけど、なんだか怖くて……眠れなかったの。牧人も、夜泣きがひどかったわ」 「いたずら……電話?」  探るような声で、直人が聞き返した。「何か、言ったのか?」 「ううん、何もしゃべらなかったの」 「無言電話、か」 「そうなの。気味が悪くて」 「そういうのは、こっちもすぐに切っちゃえばいいんだよ」  そっけなく直人が言う。 「でも、もしかしたら、直ちゃんからかもしれないと思って。大阪からで、回線がおかしくなったのかな、とか」 「俺じゃないよ。いたずら電話だよ」  即座に直人が返した。 「うん、いたずら電話だったと思うんだけど。嫌ね」 「その電話はいつあったの? 俺がかける前? あと?」 「直ちゃんの電話のあと……だったかしら」 「あと?」  少し間があった。「……一回だけ?」 「え、ええ」 「そういうの多いからな、東京は」  直人は、その話を切り上げたかったのか、一般論でけりをつけた感じだった。 「明日の夜には帰るから。何かおみやげ、買って行く。食べ物でも」  それまで牧人と二人、頑張ってくれ、と言って、直人は電話を切った。  何を頑張るのよ、と受話器を置いて、周子は内心でつぶやいた。確信していた。あの無言電話のそばに、直人はやっぱりいたのだ。直人は、いたずら電話があったのは、自分がかけた前かあとかを聞いた。前を先に言ったのは、実際に電話があったのが、直人のかけた直前だったからだ。ふつうなら、電話の最中に「さっきおかしな電話があったのよ」と切り出すものである。 〈直ちゃんは、わたしの態度に疑問を感じないのかしら〉  自分の〈浮気〉を気づかれたのでは、といまごろ、電話の前であわてているはずだ。  周子は、牧人と自分が置かれている状況より、直人が昨夜誰といたかを問題にしている自分に驚いた。もうすっかり、この状況に慣れっこになってしまったということか。だったら怖い。神経がマヒし、鈍感になっている証拠だ。 「どうしてうそなんかついたんだ」  と、男が薄笑いを唇に浮かべて言った。  それを無視して、周子は台所に行き、空になった哺乳瓶《ほにゆうびん》を洗った。牧人が高い声を発し、周子を呼んだ。手を動かしながら「はあい」とそれに答えると、それで満足したのか、木製の自動車とふたたび戯れ出した。 「無言電話があったのは、旦那《だんな》の電話のすぐ前だっただろ?」  冷蔵庫に寄りかかり、ナイフをぶらぶらさせて、男は聞く。「あとだったなんて、うそじゃないか」 「かまわないで」  周子は、哺乳瓶の水を切り、食器乾燥機に入れて、ぴしゃりとふたを閉めた。スイッチを押して、乾燥させる。ジイッという音がした。何か人工的な音を、周辺に集めておきたかった。 「わかんねえもんだよな、夫婦なんてさ」  と、男が愉快そうに言った。  周子は、きっとなってそちらを向いた。まだ何か手を動かしていたかったが、とりたてていますぐする台所仕事もなかった。 「あんた、旦那を試したつもりだろ」  男の言葉を無視し、牧人のそばに行く。プレイマットからはずれたガラガラを拾い、牧人の足元に置き、遊び相手になってやる。 「あの電話に旦那が関係していたかどうか、探りを入れたんだろ? うまいやり方だよな。だけど、屈折してる」 「屈折ですって?」周子は、顔を上げた。下から見上げる男は、顎《あご》が引き締まってきりっとした顔立ちをしている。この角度で二枚目に見える男は少ない、と思った。 「そうだよ。ストレートに、女と一緒だったの? と聞けばいいじゃねえか」  周子は押し黙った。 「聞くのが怖いのか? 開き直られるのが怖いのか?」  ひげがうっすらと生えた顎を撫《な》でながら、男が続ける。「そうだよな。可愛い赤ん坊がいるんだ。それで離婚となれば、あんたが大変だ」 「ほっといて」  強い口調だったので、ガラガラで母親の膝《ひざ》を叩《たた》いていた牧人が、きょとんとした表情になった。 「旦那、いい男じゃねえか」  男がサイドボードの方にナイフを向ける。 「頼りがいがありそうでさ」 「あなたには関係ないわ」  男は、下唇を突き出し、ごもっとも、とうなずいた。「けどね、あんたの精神状態がこちらにも微妙に影響してくるんでね。あんまりイライラするなよ」  男の言葉はこたえた。自分は確かに苛立《いらだ》っている、と思った。それも、いまこの瞬間は、この男にではなく、夫にだ。 「夫婦のあいだにはね、いろいろあるのよ。他人にはわからないような……」 「悩みとかが、か?」  と、男があとを引き取った。 「人のことはほっといて」  周子は、毅然《きぜん》として言った。「それより、あなたの方でしょ? 昨日からずっとイライラしてるのは」  周子が、抜き取って返した矢は、男の胸にぐさっと突き刺さったらしい。  男は、何だよ、というふうに視線をそらし、宙にさまよわせた。    16  この男のために、何度食事の用意をすればいいのよ、と時計を見ながら、周子は溜《た》め息《いき》をついた。昼まであと三十分。牧人は、昼寝をしている。午前中に寝るのは、変則的なことだった。  男はテレビをつけた。警戒のためか、音を小さくして聞いている。周子は牧人のそばにいる。頭の隅では、男に何か食べ物を要求されたら、冷蔵庫の残りもので何を作ろうか、冷凍庫には何があったかしら、などとまったく主婦と変わらぬことを考えていた。 「はっ」と、男の叫びとも溜め息ともつかぬ声が、居間で上がった。  周子は、牧人がうなったものの、起きそうにないのを確認してから、居間に行った。 「どうしたの?」 「ニュース、聞いたか」  周子が画面を見たと同時に、男がリモコンを差し出し、画面を消した。  指の怪我《けが》は、出血が止まったらたいしたことはなかったらしい。ハンカチはもう当てていない。 「聞こえなかったわ」 「ラッキーだぜ、まったく」  男は、興奮を抑えるためか、胸に強く手のひらを押し当てている。 「どうしたの?」 「俺《おれ》が田無《たなし》にいたとさ」 「田無?」  どうして田無が出てくるのか、周子にはわからなかった。 「さっき言ってたぜ。コンビニ殺人の容疑者が着ていたらしい黒いコートが、田無市内で発見されたってね」 「あなたの着ていたコートが?」  事件の報道では、容疑者は確かに黒っぽいコートをはおっていた、と言っていたが、だが、ここに現れたときの男はコートなど着ていなかった。そのことは、周子も疑問に思っていた。 「田無に捨てて来たの?」  聞いてから、そんなはずはない、と気づいた。 「俺は魔法使いじゃないぞ」  得意そうに男は言う。「その服装じゃ目立つだろうと思って、逃げながら脱ぎ捨てたのさ。返り血も浴びていたしな。道に停まっていたバイクの後ろの籠《かご》にほうりこんだ。こっちも夢中だったからね。配達の途中だったのか、それはわからない。きっと、田無まで行って、風で落ちたんだろうよ」 「…………」 「うまい具合に、新青梅街道沿いだとよ」 「じゃあ……」 「警察の目が、そっちにそれたってことさ」 「あなたが、バイクか車か、そんなもので、田無の方に逃げたと思われたってこと?」  男はふうっと息を吐き、うなずいた。目に真剣な輝きが戻っていた。 「あのバイクを運転していたやつが現れないうちは、そう思われてることだろうよ」 「その人、バイクから落としたことに気づかなかったのかしら」 「気づいて欲しいか?」男は周子を睨《にら》んだ。「とにかく、俺はその周辺にいることになっている。少なくともいまは。そうだろ?」  意見を求めるのは、自分でもまだ確信が持てないせいかもしれない。  ふいに、絶好のチャンスだわ、と周子は思い当たった。男は、警戒の手が緩んだから、ここから出て行かれる、と言っているのだ。 「運転していた人が気づいていたら、もう名乗り出ているはずよ。知らずに落としたんだわ」  動揺で声が震えないようにと、努めて冷静に言った。 「そうだよな。田無だなんて、それも新青梅街道のそばだなんて、まったくついてるぜ」  そうね、と言おうかどうか周子は迷った。よかったじゃないの、早く出てって、とせかしていることを悟られないようにしなくては、と注意した。ずっと神経を尖《とが》らせていた男は、少しのことで気が変わるおそれがある。  男が自分から「出て行く」と言うのを、周子は待った。  昼を回った。隣の部屋で、牧人が低くうなった。しばらくして泣き声に発展した。  二人は、黙ったままでいた。牧人を起こしに行くのも忘れていた。 「あんた、運転できるか」  と、男が沈黙を破った。 「ええ」  門の右に車庫があるのを、男は見ているはずである。 「じゃあ、運転しろ」 「いま?」 「ああ」 「でも……」牧人のいる和室へ顔を向けた。 「ガキも連れて行く」 「ど、どういうこと?」 「俺を乗せてけ、ってことさ」 「どこへ」 「それは、乗ってから言う」 「もうずっと運転してないわ。うちは主人がするから」 「ペーパードライバーか」  男は肩をすくめた。「だけど、運転はできるだろ? 高速に入るわけじゃないんだ」 「あなたの言うところまで行って、あとは帰ってもいいのね? わたしたちを自由にしてくれるのね?」  周子の目には、真摯《しんし》な輝きが宿っていたに違いない。肩に力が入っていた。これほど長い時間、殺人犯と一緒にいたのだ。生活を共にしたのも同然である。面が割れてしまったことを、男はどう解釈しているのか。 「ああ」  あっさりと男は約束した。周子が拍子抜けしたほどだった。 「いますぐにだったら、したくするわ」  男の気が変わらぬうちに、と周子は焦った。だが、喜んでいると気づかれるのも都合が悪い。沈んだ面持ちを崩さずに、牧人のところへ行った。 「行くのよ、牧人」  抱き上げる。「久しぶりの、お散歩よ」  牧人の機嫌がよくないのは、生活のリズムが狂ったせいもある。昨日一日、外に連れ出していない。  すぐに持って行けるように用意してある外出用のマザーズバッグを、台所から取って来る。中には、紙オムツやガーゼ、タオル、ガラガラ、小形の哺乳瓶《ほにゆうびん》などが入っている。冷蔵庫からオレンジジュースのパックを取り出し、バッグに入れる。 「わたしは、いつでもいいわ」  上着を肩にかけ、待っていた男に、周子は言った。声がうわずった。 「車を出せ。ガキは俺が抱いて行く」  一瞬、周子はためらった。車まで、自分が牧人を抱いて行くつもりでいたのだ。 「車を出したら、待ってろ。外の様子を確かめてから行く」  牧人は、車を出すまでの人質だというのだろう。「車でずらかったりしたら、その時点でこいつは窒息死だ」 「わかってるわ」  ショッキングな言葉を聞いても、もうそれほど驚かなかった。男は、最後の最後で周子が裏切るとは思っていないだろうし、周子にしてもあとは慎重に言われたことをするだけだ、と思っていた。  車を運転するのは、数えてみたら二年ぶりだった。妊娠したとき、当分車の運転とは無縁だわ、と思った。こんなことがなければ、あと何年か、牧人が幼稚園に行くようになるまで運転から遠ざかっていただろう。  周子は、落ち着いて、と自分の胸に言い聞かせながら、車庫からクラウンを出し、門の前に停めた。自転車が二台ほど、車の脇《わき》を通った。  意外に早く男は出て来た。車まで駆けて来る。牧人を高く抱き、自分の顔を隠すようにしている。サングラスは目立ちすぎるのか、かけていない。  後部ドアを開け、座席に滑り込んだ。外に出ると、牧人はご機嫌だ。誰に抱かれていようがかまわない。自動車は大好きだ。  後部シートの中心には、チャイルドシートがくくりつけてあるが、男は無視している。 「出ろ」 「どこへ行くの?」 「とにかく前に行け。早く」  男は、緊迫した声でせかした。  周子はエンジンをかけ、車をスタートさせた。ハンドルを握る手が汗ばむ。アクセルを踏む足がガクガクしている。  事故を起こしてはいけない。そう思って、ハッとした。ここは事故を起こした方がいいのではないか。みんなに注目され、取り囲まれ、警察が来る。周子は事情を聞かれ、男との関係を問い質《ただ》される。そこで、世間があっというような事実が明るみに出るのだ。  その思いつきにドキドキしながらも、事故を起こしたら終わりだ、とも思った。  男が周子の家で一昼夜を過ごしたことを、世間はどう受け止めるだろうか。そのあいだ、周子には男のことを外部に知らせるチャンスがあった。薬局にミルクを買いに出ている。  電話は何人からかあり、夫からは二度あった。一度くらいチャンスはあったのではないか、と世間は思うだろう。  ——殺人犯と主婦とのあいだに、何があったのか? 主婦の不可解な行動——  そんなふうな週刊誌の見出しを、周子は思い浮かべた。  その前に、この車に牧人が乗っているのを忘れてはならない。しかも、男がすぐそばにいる。警察が来る前に、男はやけになって牧人の首を絞めてしまうかもしれない。  やっぱり事故は起こせない。  幸い、男はスピードに注文をつけなかった。周子は時速四十キロを守り、何度か後ろから追い越しをかけられた。  男の指示に従って、新青梅街道をまっすぐ走り、丸山陸橋で環七《かんなな》に入った。 「牧人だったな、おまえ」  と、突然、男が腕の中の牧人に話しかけた。牧人は車に乗ると、窓の外の風景に気を取られ、おとなしくしている。「自動車が好きか?」  周子は、ルームミラーで男を見た。牧人を見つめる男は、胸をつかれたほど、美しくやさしい表情をしていた。 「車が好きなの。乗るのも見るのも」  かわりに周子が答えた。「あなた、子供好きなのね」  えっ、男が顔を上げた。鏡の中で目が合った。すぐに周子は視線をはずした。 「好きじゃねえよ」  その言葉には乾いた響きはなく、どこか懐かしい響きがこもっていた。  外の風景を見ていた牧人が、ぐっと顔をそらして、男を見上げた。  男は、ふいに身をかがめ、牧人の視野から消えたらしく、「いないいないバア」と言った。場違いな感じを受けて、周子は一瞬、振り返った。  二度、男は繰り返した。はじめて牧人が、声をたてて笑った。 「お母さんは?」  周子は聞いた。  あなたが殺人犯だったら、母親はどうするかしら、と言いたかったのだ。 「いねえよ」  つぶやくように男は言った。憎悪のようなものが混じっていた。 「死んだの?」 「いないいないバアをしているうちに、本当にいなくなっちゃったのさ」  男は、ふっと弱く笑った。  周子は、くわしく聞かなかった。聞けない雰囲気がその言葉には含まれていた。  救急車のサイレンが聞こえてきた。男が後ろで息を呑《の》んだのを、周子は運転席で感じた。  救急車が通り過ぎてから、沈黙が続いた。ときおり、牧人のはしゃぎ声が上がる。車の流れは、思ったよりスムーズだ。  中央陸橋の手前で、「右に曲がれ」と指示が出た。  交差した道路が何という名前か、表示を探して読んでいる暇がなかった。五分もいかないうちに、「その先は右だ」とまた指示された。  右折し、数百メートルいったところで、「横断歩道の先で停まれ」と、緊張した声で男が言った。  車を停めた。こちらも緊張で顔が火照っている。耳たぶの先まで熱い。  日大板橋病院の近くらしく、案内の表示が道路の脇に見えた。  あなたの家、近くなの? とも、周子は聞かなかった。ここまで来て、少しでもリスクが伴う言動は避けたかった。  気がつくと、牧人はちゃんとチャイルドシートにお座りさせられていた。  男は、大きな溜《た》め息《いき》を一つついた。そして、車から降りた。  すぐにでも発進できるのに、なぜか周子はそうしなかった。  男が助手席のドアを開け、周子の方に身を乗り出し、何か言おうとした。  そのとき、前方から自転車がやって来た。制服を着た警官が乗っている。  男も周子も、身構えた。周子の視線と、若い警察官のそれとが絡み合った。あっ、という形に周子は口を開きかけた。  その瞬間、男の体が周子にかぶさってきた。息を吸う暇もなかった。  熱くて柔らかい感触があった。男が唇を重ねてきたのだ。右手はハンドルを握り、左手は男の肩のあたりに触れ、という不安定な格好のまま、周子はされるがままになった。  どのくらいたっただろう。唇が涼しくなり、気がつくと、男の顔が離れていた。警官の姿はもうなかった。 「安全運転で帰れよ」  最初に周子に言い、次に後ろの牧人に「元気でな、牧人」  そう言って、男は助手席側のドアを閉めた。数メートル先の路地に男は駆け込んで、その姿はすぐに見えなくなった。  頭の芯《しん》が痺《しび》れていた。周子は唇に指を押し当て、まだぬくもりが残っているのを確認した。  胸の奥に、つんとした痛みが生じた。痛みは熱を伴って、じわじわと乳房全体に広がる。乳房が固く張った。その先端から熱いものがじゅわっと流れ出した。  ——こんなときに……。  周子は、ブラジャーに当てたパッドが母乳を吸って次第に重くなっていくのを、夢の中にいるような気分で感じていた。 [#改ページ]   幕 間  無言電話は、翌日から始まった。きまって昼過ぎにかかってきた。たいてい、周子が牧人と二人でいる時間帯だ。 「誰なの? 言いなさいよ、嫌がらせしてるつもり?」  さすがに三日目には、周子は声を荒らげた。だが、その周子の憤りを確認したかのように電話は切れた。  一日に何度もかかってくるようなら、周子の神経は耐えられなかっただろう。だが、日に一度きりだ。まるで、周子の在宅を確認するかのような電話。  二つの可能性が考えられた。直人が浮気したかもしれない大阪の女と、ケイ。  ケイ——周子は彼を、心の中でそう呼んでいた。彼がブルゾンの下に着ていたシャツのロゴが、確かKで始まる単語だったのだ。  だが、ケイではないような気がしていた。ケイなら、電話口で何か、一言、二言、話すと思われた。  やはりこれは、大阪の女の嫌がらせではないだろうか。好きな男に妻子がいて、自分の思いどおりにならないためのストレス発散法? いや、それとも、直人が彼女に何か脈のありそうなことを言っているのかもしれない。それで、女が、妻の座にいる周子を脅かそうとしているのかもしれない。  ——この先も続くようだったら、いよいよだわ、直ちゃんにきちんと問い質《ただ》してみよう。その女との関係がいまも続いているのかどうか。  しかし、それは、周子にとって、とても怖い決断でもあった。夫婦二人でも家庭に変わりはないのだが、それは世帯とも言うべきもので、牧人が加わってはじめて〈家庭〉になれたような気がしていたのだ。家庭は揺らいではいけないものとして、周子はとらえていた。  直人は、以前より、家の中のことを手伝うようになった。牧人の大の方のオムツも一度きりだが替えた。こころなしかやさしくなった気がする。  それが、浮気をしていることの後ろめたさのせいなのかどうか、周子には判断がつかなかった。  波風をたてなければ、表面上はうまくいくのではないか。そう周子は思ってみた。現実に、よその女がこの家庭にずかずかと踏み込んで来ないことに、ホッとした気持ちを抱いていたのも本当だった。  不思議なことに、直人がいる土、日は、電話はかかってこなかった。  無言電話がかかるようになって二週目の火曜日、昼前に郵便受けを見に行った周子は、そこに差し出し人の名前がない、厚みのある封筒を見つけた。  開けてみると、白いレースの縁どりが施された花柄のハンカチだった。周子が、指を怪我《けが》したケイに渡してやったものだ。  きれいに洗濯されてアイロンの当てられたハンカチを手に、周子は心臓の高鳴る音を聞いていた。  ケイが、ハンカチを送り返して来た……。  消印は、薄くて判読できなかったが、都内のようだった。宛名《あてな》には、正確な番地と柿沼周子という名前が、ワープロ文字で打たれている。ハンカチのほかには何も入っていなかった。  どういう意味を持つのか、周子は考えた。  単純に借りたものを返しただけなのか。だが、そこまで律儀にする必要はない。かえって危険なのだから。それとも、ケイには、受け取った周子が誰にも見せるはずがない、という絶対的な自信があるのだろうか。  あるとしたら、その自信はどこからくるのか。あの……キスか、それとも……。  その日の昼過ぎ、無言電話はこなかった。そして、その日から、無言電話はぴたりと止んだ。  ハンカチを受け取った日と、無言電話が止んだ日が一致した。偶然なのか、偶然ではないのか。  電話をかけてきていたのがケイだとすると、と周子は考えた。どういうつもりだろう。俺はどこかであんたの行動を見張っているぞ、という警告の意味なのか。警察には届けるなよ、俺の目が光っているぞ、という脅迫の意味なのか。  夫は自分に秘密を持っている。たぶん、浮気の類《たぐい》だろう。だが、それと、自分が夫に対して持っている秘密とどちらが大きいだろう、と周子は思った。そして、絶対にあの二日間のことを夫に知られてはならない、と結論を出したのだった。 [#改ページ]   第二部  中野区中野一丁目   1 「寂しいわね、引っ越しちゃうなんて」  と、村井容子が、すねたように言った。「せっかくお友達ができたと思ったのに」 「遊びに来てよ。そう遠くないじゃない。車ならすぐよ」 「でも、歩いて行けなくちゃ。散歩の途中で寄るとか、そういうのが楽しかったのに」  村井容子が本当に残念そうに言ったので、周子もふっと寂しくなった。  子供を育てていると、家にいる時間が長くなる。環境は大切だ。近くにスーパーがあったり、公園があったり。同じ年頃の子供を持つ母親との交流も必要だ。その意味では、村井容子と離れるのは、周子も不安だった。  だが、この家を離れることになって、ホッとしているのも事実だった。あの〈事件〉から、四か月がたっている。 「もともとここに住むのは、三年の予定だったのよ。だから、あと二か月はあるわけだけど、それがほんの少し早くなって。主人に言わせれば、持ち主の帰国が急に早まったからって、それはあっちの勝手な都合だ。出て行く必要はない、って怒ってたけど」 「じゃあ、二か月だけでも延長して」  子供っぽいところのある村井容子は、綾ちゃんを抱いて、またすねてみせた。 「でも、いずれにしても、そろそろ出て行く準備をしようと思ってたところだから……」  膝《ひざ》の上でジャンプをするように遊んでいる牧人を見て、周子は言葉を切った。十一か月に入って、牧人は伝い歩きをするようになった。「ここを紹介してくださった方が、悪いと思ったらしくて、適当なところを見つけてくださったの」 「中野だったわよね」 「そう。ねっ、そう遠くないでしょう?」 「そうだけど。でも、歩いては行けないわ」  村井容子は、あくまでも歩いて行ける距離にこだわった。綾ちゃんを散歩させるコース中にないと、たとえ一駅の距離でもすごく遠いことになるらしい。  先週、下見に行ったが、近くにきれいな公園や図書館があり、環境に恵まれた場所だった。JRの中野と東中野の中間で、駅からは歩いて十分ほどかかるが、車があるからさほど不便ではない。大型スーパーも、歩いて行ける範囲にあった。  引っ越し先は、築五年のマンションの五階で、間取りは2LDK。庭つきの一戸建てから見れば、子供を育てるのに不満もあるが、だいたい八十坪の一戸建てに住んでいるのが、身分不相応なのだ。マンションに住むのも悪くはなかった。周子は、鍵《かぎ》一つで外出できる気楽さに憧《あこが》れていたのだった。庭がなければ、低い生け垣だの高い塀だのと、家の砦《とりで》を気にせずにすむ。  この家にいたから、あんな〈事件〉に巻き込まれてしまったのだ、と周子はこの四か月間、ずっと思ってきた。 「住所、教えて」 「ちょっと待って。控えてあるから」  周子は、牧人を床に座らせて台所へ行き、転居先を書いたメモ用紙を持って来た。  中野一丁目。偶然、野崎久美の住む東中野二丁目の隣になった。  それも、周子には楽しみだった。子供が生まれてからの友達もいいが、久美は何といっても、青春時代を共に過ごした気心の知れた古い友達だ。大親友というほどではなかったけれども、不思議なもので、大人になり、結婚やら転勤やらで会えなくなる同級生が増えて来ると、会える状況にある友達を大切にしたくなるものだ。親友のような気がしてくる。  とはいっても、野崎久美は、翻訳の仕事が忙しいらしく、あの電話のあとつい先日まで、電話もこなければ、いきなり訪ねても来なかった。あれは、一時の気まぐれだったのかしら、と思ったほどだ。そして先日、「ずいぶんご無沙汰《ぶさた》しちゃったわ。何だかんだで忙しくて。そっちも、ほら、赤ちゃんがいるでしょう? あんまり遅く電話かけちゃ悪いかなとか、いきなりかけて起こしちゃうかしら、とか思っているうちに、年を越しちゃって」と、昼間、前回と同じ時間帯に電話がかかってきた。  そのとき、中野に引っ越すことを知らせると、 「えっ、ホント? わあっ、嬉《うれ》しい」  と、野崎久美は、思いきりはしゃいだ声を出した。住所を知って、「近いわ。お邪魔できるわね。牧人くんの顔もしょっちゅう見れるし。あっ、しょっちゅう見に行ってたら、周子が大変か」と、声を弾ませた。  野崎久美は、引っ越しの日を聞き、「お手伝いするわ」と言った。いちおう遠慮したものの、「子守りが必要でしょ? やったげる」と思いがけなく言われて、じゃあ、と好意に甘えさせてもらった。久美は独身である。結婚願望があるかどうかはわからないが、なんとなく子供好きではないのでは、と周子は思っていたのだ。  ——野崎久美 訳——と表紙に印刷されたミステリーの新刊本は、本屋ですぐに探せた。注意していると、新聞広告でも何度か目にした。最近、その名前の露出度が増えた気がする。ということは、久美はいま、若手の女流翻訳家として脂がのっているということだ。  高校時代の友達の活躍は、夫に話すときは誇らしく、一人になると少なからぬ羨望《せんぼう》を覚えた。あの当時、英語の成績は、周子の方がよかったくらいだった。  久美に実力があったというより、運がよかったのだろう、と周子は意地悪く思った。そう思いたかったのかもしれない。本屋で、彼女が訳した本を見つけたのに買わなかったのは、自分の名前で堂々と仕事している久美に嫉妬《しつと》したからだった。ささやかな抵抗だった。  人生は、選択の連続だ。チャンスがきたときにいかにその波に乗るかだ。仕事のチャンスばかりではない。結婚にもチャンスというか、しどきというようなものがある。周子は、地味な公務員という職業を捨て、結婚し子供を産み、専業主婦になる道を選んだのだし、久美は、自分の基盤をがっしり固めることを選んだだけだ。翻訳家をめざす女性は、数多くいるだろう。ほとんどは夢が破れて終わるが、久美はたまたま運よく成功した。  久美が、美人翻訳家としてもてはやされているであろうことは、想像できた。ずば抜けた美人でなくとも、十人並み以上であれば、肩書きに美人がつくのがこの世界である。久美は十分、美人の部類に入っていた。  美貌《びぼう》にしても、わたしだって見劣りはしないはずなのに。少なくとも、高校時代はそうだった。そんなことを考えてしまう自分に、周子は自己嫌悪を抱いた。髪振り乱して育児に明け暮れている自分が、昔ならまだしも、きらきらと輝いている現在の久美に太刀打ちできるはずはない。  それでも、久美に会いたい気持ちに変わりはない。会えば、懐かしい高校時代の思い出話に、ときも忘れるだろう。  久美と会うことによって、彼女のパワーを身近に感じてみたい、という好奇心もあったが、わたしが彼女に嫉妬しているように、彼女もまたわたしに嫉妬するはずだ、という確信に似たものも持っていた。わたしは子供を産んだ女なのだ。久美にはその経験がない。いくら彼女が気鋭の女流翻訳家として活躍しようが、ちゃんと子供を育てているわたしが、久美にひけめを感じる必要はないのだ。久美は〈知的生産〉だと思っているかもしれないけれども、わたしだって〈生産〉活動は立派に遂行している。 「電話してもいい? うっぷんばらし、したいから。社宅って、ホント、いろいろあるのよ。このあいだもね……」  野崎久美のことを考えていた周子は、容子の言葉に我に返った。 「……ちょっと待って。コーヒーが沸いたから」  社宅暮らしの愚痴をこぼしたそうな容子を遮って、台所に立つ。牧人は、綾ちゃんとテーブルにつかまりながら腰を揺らしている。 「あら、何だったかしら。言おうとしてたこと、忘れちゃったわ」  台所の周子に、容子は気の抜けた声で言った。周子が中断したせいで忘れたと言いたいらしい。  忘れるくらいならどうでもいいことじゃない? と内心で周子はつぶやいた。 「ああ、ところであの事件」  と、いきなり容子は話題を転換した。話が飛ぶのは、いつものことだった。あの事件と聞いて、嫌な予感が脳裏をよぎった。 「もう四か月なのに、まだ犯人、捕まらないみたいね」 「あの事件?」 「ほら、あれよ。コンビニ強盗殺人事件」  もちろん、周子はすぐに気づいた。気づかぬふりをしたかったのだ。直人に対してもそうだった。事件後、直人は五回はその話題を出した。朝、新聞を読みながら。夜、牧人が寝たあと、遅い夕飯を食べながら。日曜日の午前中、ぼんやりとテレビを観ながら……。  直人には、結局、あの夜のことを追求せずにいる。直人も出張から帰ってから、「あれからおかしな電話はこなかったか」と聞いたが、周子がないと答えると、それきりその話題には触れようとしなかった。無言電話のことも直人には秘密にしている。  唇にあの感触がよみがえってきた。ケイの顔は、月日とともに記憶から輪郭が薄れていくのに、体の一部に受けた感覚は忘れない。  頬《ほお》が少し火照った気がして、周子は「ちょっと暑いかしら」と言った。ガスのファンヒーターで暖房している。 「ううん、ちょうどいいわ」  気にもとめないふうに言ってから、「わたし、事件のあと、『アップルロード』に何度も行ってるの。ちょっと遠いけど、野次馬根性でね。一度、ああいう事件があると、警備がちゃんとするでしょ? だから安全なんだけど。別に、普通のコンビニなのよ」と、容子は不服そうな顔をした。  周子自身は、その後、一度も現場のコンビニエンスストアには行っていない。  周子は、テーブルにロイヤル・アルバートのコーヒーカップを二つ置き、コーヒーを注いだ。子供がいるので、普段は、ゆっくりコーヒーを飲む暇も気持ちのゆとりもない。とっておきの器を使うのは、来客があるときだけの楽しみである。 「何かに書いてあったけど」  コーヒーを容子に勧めて、「最近、検挙率が急激に落ちているんですって。未解決の事件は、ゴロゴロあるそうよ」  だからといって、コンビニ強盗殺人犯が捕まらなければいいというわけではない。  周子は、不思議に思われてならなかった。ケイは、この四か月、捕まらずにいるのだ。防犯カメラが彼の姿をとらえていたにもかかわらず。あまり鮮明とはいえないけれども、そのビデオテープがテレビで流されたのに、である。  どこかで周子の姿を見張っているかもしれない。だが、周子自身は、彼の姿を公園の隅やスーパーの出口などで見かけたことは一度もない。誰かに尾行されている気がしたことは、二度や三度はあった。が、それも、気がしただけで、ケイらしい人影を遠目に見たわけではなかった。  ケイのことを、周子は誰にも口にしていない。  夫に言わないのは、彼に不信の念を抱いてしまったせいだろうか、と周子は考えた。少し違う気がした。  たとえ彼に何もなかったとしても、やはり周子は口を閉ざしていただろう。どんなに信頼のおける人間であろうと、それは同じだ。  その心理状態は、レイプされた女子高校生が、一か月悩んだ末に両親に打ち明けて、「おまえにもスキがあったんだ」と、叱《しか》られたときのショックを想像するのに似ていた。あの男がこの家に逃げ込んで来たのは、まったくの偶然だったから、周子が責められることではないだろう。しかし、逃げ込んでからあとの周子の接し方は、人によっては疑問に感じるであろう。  最大の疑問は、なぜミルクを買いに外に出たときに、誰にも告げなかったのか、ということであろう。周子も、実のところよくわからない。チャンスはあった、とは思う。けれども、心に余裕はなかった、とはっきり言える。あのときの立場にいなければ、誰にもわからないはずよ、とも思う。周子は、どうかなりそうだったのだから。耳鳴りのように、あの〈笛の音〉がまつわりつき、周子を追い立てていた。やかんのけたたましい鳴き声と、牧人の泣き声とが重なっていた……。  それに、もう一つの心配もあった。あの男が捕まり、この家に二日の昼からほとんど三日の昼までいたことを警察に自供する。赤ん坊を人質にしていたとはいえ、周子が逃亡の手助けをしたこともしゃべらざるをえなくなる。とすると、車から降りようとしたとき、警察官の姿を目にとめ、とっさに周子の唇を奪ったことも、話してしまわないともかぎらない。警察官の目をごまかすために、アツアツ夫婦を演じたつもりだろうが……。  男がうそを言ったらどうしよう。「あの女は、怖がってなんかいなかった。亭主が、出張先の大阪で浮気していたみたいで、男に飢えていたんだろ。逆に俺《おれ》を誘った」とか何とか。それが、そのまま報道されたら、マスコミの格好の餌食《えじき》になるだろう。 「殺された伊集院さんの息子、わたし、見かけたことがあるのよ。体格のいい人だったわ。それこそボディガードにでもしたいくらいの。いまでも死んだなんて信じられない」  容子がコーヒーに口をつけ、かぶりを振った。  村井容子は、伊集院光司の母親を、顔と名前程度だが、生協の集まりを通してたまたま知っていた。やはり、周子が散歩の途中でよく通った家が、彼の家だった。  男から解放された翌日の日曜日、牧人をベビーカーに乗せ、外に出た。足は、伊集院家の方に向いた。門が見えるところまで行ったが、どうしてもそれ以上足が進まなかった。  黒い服を着た人たちが、慌ただしく出入りしていた。周子は、走って行って、「お焼香をさせてください」と言いたい気持ちを抑えた。「わたし、息子さんを殺した犯人を知っているんです。警察に行って話します」と、言うべきだったのに……。 「この辺に住んでいる男だったら、怖いわね。……ねえ、怖くない?」  周子が黙っているので、容子は促した。 「えっ、誰が?」 「やだあ、犯人がよ」 「あ、ああ。でも、この辺に住んでいないんじゃないかしら」 「あら、どうして?」  容子は、わずかに突っかかるような言い方をする。 「このあたりだったら、すぐに捕まるでしょう。警察も目を光らせているし」 「一人暮らしの男とかに的を絞って、捜査してるってわけ? そうかもしれないわね」  意外にあっさりと容子は納得する。 「でも、コンビニなんて、それこそゴロゴロあるでしょう。行きあたりばったりに狙《ねら》うなんて考えられないな。生活圏内にあるところとか、何かで目にしている店よ、きっと」  容子の着眼は、なかなか鋭い。周子も、そう考えたのだった。ケイは、以前、この付近に住んでいたか、このあたりに何度か来たことがあるか、あるいは、車で新青梅街道を何度も通ったことがあるか、そういった人間ではないか。  ケイが周子の車から降りた場所は、あとで地図で調べて、どのあたりだったか見当がついた。  板橋区|大谷口北町《おおやぐちきたちよう》  だが、はたして、ケイがその辺に住んでいるかどうかとなると疑問だ。もしかして、周子の目をくらますために、そのあたりで車を降りたかもしれないのだ。それから先は、またタクシーでも拾って……。しかし、そうとはやっぱり思えない。事件からあまり時間がたっていないときにタクシーに乗るのは危険だ。なるべく大勢の人間の目に触れないようにして、自宅に引きこもろうとするものではないだろうか。犯人の心理としては。  牧人が低いテーブルの角を回って、こちらに伝い歩きをして来た。足取りがおぼつかない。バランスを崩しかけた。慌てて周子は両手を伸ばし、きゃしゃな腰を支えた。 「でも、怖いよねえ」  と、容子が眉《まゆ》をひそめる。「コンビニ殺人犯が、連続婦女殺人犯と同じやつだなんて」 「同じ、とはまだわからないでしょう?」  容子の表現に、周子は生理的な嫌悪を感じた。彼女は、女性週刊誌の見出しだけを拾い読みし、それがすべて真実だと思い込む性格だ。嫌悪とともに、不安やら苛立《いらだ》ちやら恐怖やら焦燥やら、さまざまな苦い感情の混じったものが、胸の奥に渦巻き、喉元《のどもと》を突き上げ、軽い吐き気を覚えた。  十月二日の夜、十時半頃、豊島区で一人暮らしのOLが、アパートの部屋で首を絞められて殺された。被害者の部屋から、ケイの指紋が発見されたというのだ。ケイの指紋は、『アップルロード』の店内のレジから発見されたという。照合の結果、二つが一致したのだろう。  警察では、その前の九月二十四日、練馬区桜台のアパートでも同様の手口で若い女性が殺された事件を重要視した。連続婦女暴行殺人か? と書かれた新聞記事を周子は読んでいた。  その連続婦女暴行殺人犯が、ケイだというのだ……。  ケイではないことを、周子は知っている。なぜなら、ケイは、そのとき、自分といたのだから。自分と牧人と。   2  そそくさと蕎麦《そば》屋で昼飯を済ますと、「ちょっとそこへ」と、蕎麦湯を飲んでいる滝本に告げ、亀山勇気は二軒先の書店に入った。  野崎久美が訳した新刊本が出ているはずである。それは、文庫本のコーナーに、平積みされていた。亀山は手に取った。 『闇《やみ》を愛した女』  アメリカの女流作家による心理サスペンス小説だ。最近、女性が書いた小説を女性の翻訳家が訳す、というのが流行《はや》っているようである。ミステリーにも女性の時代が到来したらしい。  赤い背表紙に淡いピンクの装丁がしゃれている。きりっとした顔立ちの、だがどこか憂いを帯びたヒロインのイラストが、表紙を飾っている。  亀山は、悠長にミステリーなど読んでいる暇はないはずだった。多治見香子と青柳美喜を殺した犯人は、まだ捕まっていない。  犯罪心理を研究するのなら、専門書を読めばいいのだが、この本は特別だった。野崎久美が訳していて、しかも、アメリカで心理サスペンスの傑作として評判になった本である。多重人格の女性を扱った作品で、近々映画化されるともいう。新聞で広告を見て、すぐに買おうと亀山は思った。  表紙のヒロインのイラストが、野崎久美の顔とだぶる。久美は憂いを含んだ顔ではなかった。だが、目鼻立ちの整った、きりっとしたちょっと男っぽい顔立ちが似ている。眉が濃く、鼻筋が通り、頬骨《ほおぼね》が突き出ていた。唇は厚い。  いや待てよ、と本を手にしながら、亀山は思い直した。自分が知っている久美は、五年前の久美だ。人間の記憶は曖昧《あいまい》で、本当は彼女は、そんな顔立ちではなかったのではないか。もっと女っぽいソフトな顔だったかもしれない。たとえば、どんな目をしていたか描いてみろ、と言われたら、うまく描ける自信がない。大きかったのは確かだが、切れ長だったのか、丸みを帯びていたのか、その形はよく憶《おぼ》えていない。  それでも、この五年のあいだに久美が別人のように変わったとは、とても思えなかった。輝きは増しただろうが、基本的な服装のセンスとか髪型とか化粧の仕方は変わっていないだろう。  久美は、そういう女だった。仕立てのいいものを、何年も工夫して着こなすような。けっして、安物は買わなかった。そこに彼女のプライドがあった。  翻訳という根気のいる孤独な仕事は、久美にぴったりだと、亀山には思える。久美は行動派だが、晴れやかな場が苦手だ。パーティーの誘いなどがあれば、義理がたいから必ず顔を出す。だが、誰とどれだけの時間話したらいいのか迷う立食パーティーや、誰が集まるのかわからないホーム・パーティーは、死ぬほど嫌いなの、本当は、と亀山の胸で話したことがある。外見は、そうは見えない。華やかさを感じさせる女だった。ちゃめっけもあった。  しかし、実は、内気で繊細なところがあって……というのが、亀山が惹《ひ》かれた久美の魅力だった。内向的なくせに、サービス精神が発達した女、そのアンバランスな魅力が亀山を強く引きつけていたのだ。  久美の方が、亀山から離れて行った。去って行った、というべきか。卒業後、久美は小さな出版社に就職した。社会人になったと同時に、彼女はひどく大人びたように見えた。一方、亀山はまだ大学院生である。久美の仕事上の悩みや人間関係の悩みをおざなりに聞いて、とんちんかんなアドバイスを返していたらしい。 「勇気は、心理学を勉強しているくせに、人の心のカウンセリングはしてくれないのね。あなたは、普通の人間に興味はないんだわ。でもね、普通の人間の正常な心理が、何かのきっかけで、異常の方に傾いていくだけなのよ。ちょっとした日常のひずみに落ちるだけよ」  久美が去って行く前に、寂しそうに言ったことがあった。  一年後に、久美は別れを切り出した。突然のことで呆然《ぼうぜん》としていた亀山を、一人、見知らぬ国の真《ま》っ只中《ただなか》に放り出すようにして、振り返りもせずに行ってしまった。そんな感じだった。それまで、仲良くヒッチハイクをして旅を楽しんでいたというのにだ。  いまなら、久美がなぜ自分のもとを去ったのか、その理由がおぼろげながらわかる。久美は、将来に漠然とした不安を抱えていたのだ。それなのに、亀山がノーテンキすぎた。久美には、近い将来、互いの人生観が微妙にずれ始め、小さくない衝突を起こすであろうことを、漠然と予感できていたのだと思う。彼女にはやりたいことがあった。  亀山は、大学院に進んだ時点で、すでにやりたいことを見つけていた。犯罪心理学をより実務的に生かしたい。アメリカなどではFBIに犯罪心理学の専門家を置いていると聞く。日本でもできないものか。捜査に役立てたい。  犯罪捜査に進みたい、と久美には打ち明けた。そのとき久美は、それはいい考えだ、あなたらしい、応援してる、ととても喜んでくれた。  その反面で久美は、企業PR誌の編集という仕事に打ち込めない自分に苛立《いらだ》ち、自信を失いかけていたのだろう。自分のしたいことはこれじゃなかった、何か違う、と違和感にとらわれ続け、模索していたのだろう。  久美が、新進翻訳家として頭角を現してきたいま、亀山は、自分の分析が間違ってはいなかったと悟っている。  別れた女が、そのままの名前で出している本が、気にならないはずがなかった。未練がましいと言われるかもしれないが、嫌いで別れた女ではない。しかも、自分の専門分野に関係がなくはない内容の訳書だ。  久美は英文科出身で、とりたてて語学ができるとか好きというタイプではなかった。けれども、本はよく読んでいた。日本のものも海外のものも。歴史小説もミステリーも。高校時代から読書家だったという。  大学の勉強を一生懸命するというより、好きな本を原書で読みたいから、という理由で分厚い英英辞典を何冊か揃《そろ》えて自慢していた。そんなわけで久美は、要領のいい同級生たちのように成績表に優がずらりと並びはしなかった。就職試験も、第一希望の大手出版社には受からなかった。  仕事にいま一つ、燃えることができなかったのだろう。別れる半年ほど前から、お茶の水にある翻訳家養成講座に通っていた。  別れた女が、一つの固有名詞となって活躍しているのは、素直に嬉《うれ》しい。刺激になる。  本を買い、外に出る。蕎麦屋からちょうど滝本が出て来たところで、 「また、お勉強か?」  と、亀山が手にした文庫本を見てひやかした。ありがたいことに、カバーをかけてあるので、タイトルはわからない。 「暇つぶしですよ」  照れ隠しに答えたつもりが、 「つぶすような暇がどこにあるんだ」  と叱《しか》られた。  練馬区にある合同捜査本部に向かう。午後から会議がある。練馬区と豊島区で起きた二つの殺人事件。手口が似ているだけで同一犯人と決めつけて、最初から合同捜査を行うのはどうか、という見方もあったが、二つの事件は時間的にも物理的にも接近しすぎていた。  二つの事件に、いきなり割って入ったような形になったのが、例のコンビニ強盗殺人事件であった。その一報が知らされたときは、捜査陣の誰もが息を呑《の》んだ。 「青柳美喜を殺した男がコンビニに? いや、時間的には、コンビニ殺人の男が、青柳美喜を殺しただってえ?」  と、素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を上げた者もいた。  深沢に個人的に要請を受けて、ビデオテープの分析をしに行った亀山である。 〈あのときの犯人が?〉  深沢にたいして助言もできなかった責任を感じて、これは、自分への挑戦のような事件だ、と思わざるをえなかった。ぐっと肩に力が入った。  犯人がレジに身を乗り出し、店員を脅そうとしたときに、油断したのか、左手をカウンターに瞬間的についた。そこから指紋が採取された。手袋をはめていなかったのは、来店したときに注目されたくなかったせいだろう。半分計画的で、半分偶発的な犯行だったのではないか、と捜査段階で判断された。ナイフを持っていたのが計画的で、真っ昼間という時間帯は、計画外のことだったように思える。  いちばん問題になったのは、犯人の逃走経路だった。捜査会議で、さまざまな見解が出された。  犯人の男が着ていたらしい血痕《けつこん》のついた黒いコートが、田無市|西原町《にしはらちよう》の新青梅街道沿いの空き地で、発見されたのだ。店員や目撃者の証言だけでなく、ビデオテープで繰り返し確認した結果、デザインが酷似していた。ポケットには何も入っていなかったが、奥の糸くずやらほこりの類《たぐい》は科学捜査研究所で鑑定を受けた。とりたてて手がかりはなかった。ティッシュペーパーや木綿《もめん》のハンカチらしい繊維がいくつか、検出されただけであった。コートに付着した血痕は、被害者の血液型と一致した。 「犯人は、車か何かで新青梅街道を田無方向に逃げ、そこで着ていたコートを捨て、そして、夜の十時半に、豊島区南長崎|界隈《かいわい》に行き、一人暮らしのOLを襲った? なんで、そんなジグザグな逃走経路をとる。しかも、コンビニで人を殺してやけになったとでも言うのか。また新たな殺しを重ねちまったってえのか?」  滝本が疑問を口にしたのに、 「黒いコートは、確かに容疑者のものかもしれません。でも、彼自身がそこで脱ぎ捨てたとは断定できないんじゃないでしょうか」  と、亀山は、突っかかるような口調で言った。興奮すると、自然にそうなる。 「容疑者は、上鷺宮方面に逃げたのを目撃されています。車ででも逃げるのなら、新青梅街道からの方が便利ですし、早い。住宅街の方へ逃げたときには、まだ黒いコートをはおっていたと言います。彼は、どこかでそれを脱ぎ捨てたのではないでしょうか。たとえば、動くもの、トラックの荷台のようなものに投げ込めば、すぐには発見されません。その辺に脱ぎ捨てるより、時間が稼げるし安全です。彼はそうしたのではないでしょうか。だとすれば、田無市内で発見されたのは、偶然というか、容疑者のアリバイ工作というか……」  亀山のこの推理は、会議で支持を得られなかった。犯人以外の人間が落としたか、投げ捨てたのなら、本人が名乗り出てもいいはずだ。新青梅街道沿いの空き地というのも偶然すぎる、というのだ。  おおかたは、容疑者が、一度は上鷺宮の住宅街に逃げ込んだとしても、最終的には田無方面に逃げたと見ていた。そちらの方は、ほぼ間違いないだろうと。  そして、青柳美喜殺しの事件とはこちらは無関係ではないか、と見ていた。青柳美喜の部屋から発見された指紋は、当日のものではなく、十月二日以前のものだったのではないか、と。  亀山は、容疑者が田無方面に逃げたとも思えなければ、彼がその夜に、青柳美喜の部屋を訪れたとも考えていなかった。しかし、少なくともコンビニ強盗殺人犯——X——は、青柳美喜の部屋をそう遠くない過去に訪れていると見ていた。  青柳美喜は、一人暮らしを始めて一か月。ミニキッチンに汚れはほとんど目立たなかった。家族や友人によれば、「野菜やお肉を買っても一人だと残っちゃって不経済だから、パックになったお惣菜《そうざい》を買うことにしてるの」と話していたという。なるほど、台所に包丁は見当たらず、大きめの果物ナイフと料理バサミが揃《そろ》えてあるだけだった。油をたくさん使う揚げ物などはしなかったのだろう。レンジまわりがきれいなはずだ。  拭《ふ》き掃除をまめにする必要がないのだから、そこについた指紋も完璧《かんぺき》な形で残る。大家が、新しい住人のために念入りに掃除をしておいたと言うから、指紋Xは、青柳美喜が入居してからついたもの、と考えてもいいだろう。  亀山は、指紋がレンジに付着していたことを重視した。男が台所でレンジに触る。考えられる場合は、湯を沸かすか調理するかだ。けれども、流しや調理台からは同一の指紋が検出されていないから、その一か所に手をついた場合を想定してみた。そして、レンジの真上の換気扇のフードに注目した。  ——換気扇の掃除のときに、レンジまわりに手をつくことはないだろうか。  早速、換気扇の修理、清掃会社に当たってみたが、調べたかぎり、青柳美喜が入居してから換気扇の修理等を外部に頼んだ形跡はなかった。  合鍵《あいかぎ》の線も調べた。母親が持っている鍵のほかに、彼女がいくつ作って誰に渡したかは不明である。近くの業者には、合鍵の作製を依頼していない。鍵は、入居する前に、大家が錠前ごとそっくりつけ替えた。多治見香子の方は、新築したばかりのアパートに入居したので、鍵をつけ替える必要はなかったようだ。念のため、鍵の業者を調べたが、共通してはいなかった。  異性関係も調べたが、両者ともに特定の男性は浮上してこないままだ。簡単に部屋に入れていることから、顔見知りの犯行の可能性も消えてはいない。青柳美喜の場合は、会社の同僚はもとより、昔の同級生まで調べた。  事件から四か月がまたたくまに過ぎ、捜査員の顔には焦りと疲労の色が濃くなった。おりしも、「検挙率の著しい低下」などと新聞に発表されたばかりである。「最近の刑事は、捜査能力が落ちているのではないか。情報や科学データに頼りすぎ、一番大事なカンのようなものを忘れているのでは」と、検挙率低下の原因を分析していた識者もいた。  その日の捜査会議には、深沢も出席した。「青柳美喜の部屋から検出された指紋は、左手のものだったな。亀山、おまえは前に、コンビニ強盗殺人犯は左ききじゃないか、と言ってたが、まだそう思っているのか」  深沢に聞かれて、亀山は戸惑った。それは、あのビデオテープからの情報などより、自分のカンによるものだった。だが、ここでカンを出して深沢を説得できるとは思えない。 「あのビデオテープを見るかぎり、そう思います。でも、青柳美喜の部屋に関しては、あの状況だけでは何とも言えません。左ききだから、レンジに左手をついた、などとは言えませんからね」  亀山は正直に言った。「ですけど、レンジの上に用があったのでは、と思えるんです」 「レンジの上に用とは?」 「換気扇です」 「それは、調べただろう。換気扇の修理や掃除とか」  と、滝本が口を挟んだ。 「ええ。でも、どうしても換気扇にこだわってしまうんです。たとえば、レンジに手をついて、換気扇を見上げたり、のぞきこんだりするような動作とか……」 「どういうときにそういう動作をするんだ。修理とか点検だろうが」  と、深沢警部。 「はい、そうなんですが。でも、換気扇の手前の電球……ありましたよね、それが切れた場合なんか、点検のためにのぞいてみるんじゃないでしょうか」 「そんなことをするやつは、修理屋か何かでなけりゃ、青柳美喜の親しい男か何かだろうが」 「え? ええ、まあ」  その親しい男が浮かび上がってこないのだから、そうとしか答えようがない。青柳美喜が入居してからいままで、部屋に招いた男は一人もいなかった。もっとも、「彼女の部屋に行ったことはない」と、会社の同僚にしろ、高校の同級生にしろ、そう主張しているだけのことだが。しかし、大家も両隣の住人も、一か月という短期間に、彼女の部屋に男が出入りするのを目撃したことはなかった。 「うちの方は『アップルロード』鷺宮店に勤めていた昔の店員やアルバイト、その友人に至るまで、徹底的に調べている。もちろん、近くに住んでいる若い男もだ。いままでにその数、三百七十人。灰色のやつはいるが、これだという真っ黒なやつはいない」  と、深沢が苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような渋い顔で言った。嫌な予感を覚えて深沢を見ると、案の定、きつい言葉が返ってきた。 「亀山、おまえの心理分析、信じていいんだろうな。ホシは住宅街に逃げ込んだ。このあたりだ」  と、深沢は、手元に配られた地図を高々と示し、上鷺宮一帯に指で円を描いた。「で、ほとぼりが冷めるまで——ということは、捜査の目がそれるまでだが——、どこかに隠れていた。亀山、おまえだけがそう推理しているがどうだ」 「信じていいと思います」  とだけ、亀山は言った。   3  二月七日。周子は、野崎久美が引っ越しの手伝いに、というより、牧人の子守りに来てくれたことに心から感謝した。  久美がいなかったら、周子は牧人の相手をするだけでせいいっぱいだったろう。引っ越しには、家の細々したことを取りしきる主婦が必要だ。引っ越し業者に指示するためには、周子の体が空いていなければならない。といって、八王子の義母に牧人を預けるのは、気が進まなかった。姑《しゆうとめ》は、頼めば気軽に預かってはくれる。だが、「わたしがしてやってるのよ」という恩着せがましい態度を隠さない人だ。物事をはっきり言う性格でもある。借りを作るのは嫌だった。  だから、久美がベビーシッターの役目をしてくれて、本当に助かったのだった。  引っ越し業者は、てきぱきと仕事を片づけ、三時過ぎにはおおかたの家具や調度品は、あらかじめ決めておいた場所に納まった。あとは、これからが大変なのだが、周子が一週間ほど時間をかけながら、段ボール箱の荷ほどきをし、整理するだけである。だが、すぐに使うものは、すでに荷をほどいてある。 「つくづく、身分不相応なお屋敷住まいをしていたものだと思うわ」  周子は、髪を束ねていたゴムをはずしながら言った。  周子と久美は、食堂と居間が一部屋にまとまった、いわゆるリビングダイニング・ルームのリビングのテーブルについて一休みしている。マンションのこういう間取りには憧《あこが》れたこともあったが、実際に身を置いてみるとひどく狭く感じられる。上鷺宮の家では、ダイニング・テーブルとリビング用の低いテーブルがゆったりと配置できたものだ。  久美が手伝いに来ると知って、それだけ別にしておいたロイヤル・アルバートのコーヒーカップで、コーヒーが出されている。 「あんな広い家に住んでいるって知ってたら、もっと早く遊びに行ってたのに」  と、久美が、花柄のそのカップに口をつけて、肩をすくめた。 「遊びに来ればよかったのに。遠慮なんかしないで。でも、忙しかったんでしょ?」 「うん、すごく忙しかったのよ」  そうは思っていたけれども、そのとおりの答えが返ってきて、周子は少しムッとした。久美の忙しさは、売れっ子の翻訳家としての忙しさだ。今日のような手伝いは、周子にとっては家事の一つとしての忙しさだが、久美には息抜きのようなものなのだろうか。  久しぶりに会う久美は、思ったほど変わっていなかった。「全然変わってないわね」と、お互いに確認し合うような再会の仕方だった。だが、矛盾するようだが、想像したとおりに変わっていた、というのも周子の本音だった。久美は、確かにいきいきとしていた。  いま、周子の目の前でも、ジーンズに黒いニットのアンサンブルという軽装ではあるが、都会の女として洗練され、輝いている。 「ねえ、ご主人、遠慮したのかしら?」  遠慮という言葉から思い当たったのか、久美は声を落として聞いた。直人は、片づけが一段落して、お茶をいれるという周子に、「俺《おれ》、牧人とその辺を散歩して来る。どんな店があるか知りたいからね」と言って、ベビーカーに牧人を乗せて出て行ってしまった。 「かもしれないわね」  とっくに気がついていた周子は笑った。「久美に会ったら、懐かしい思い出話をいっぱいするのよ。あなたに聞かせられないような、って前から主人に言ってたから」 「それで遠慮したの? 悪いじゃない」 「いいのよ」  牧人が同じ空間にいないと、こんなにもゆったりとくつろいだ気分でいられるものか、と周子は驚いていた。ときどきは、直人がそうした配慮をしてくれるべきだ、と思っている。  四か月前のあの電話の一件以来、周子は直人に対して精神的に強気に出ている自分に気づいていた。そんな自分の気持ちが態度に表れているかもしれないと思う。  あの無言電話をかけていたのが、直人の浮気相手なのかどうか、彼の日頃の態度から判断するのは無理だった。直人は、表情が出てきた牧人を前にも増して可愛がる。その意味では、より家庭的になったと言える。 「いいご主人ね」  久美が言った。 「その前に、いいパパかしら」 「それって、子供が生まれると、夫婦より親子が優先するって意味?」 「かもしれないわね」 「子供って可愛いわね」  久美がぽつりと言った。 「可愛いだけじゃないわよ」  そう言ったときだけ、周子は自分が優位に立った気がした。 「大変だとは思うわ。でも、やっぱり可愛いでしょ?」 「そうね」  あっさりと認めるのは口惜しかったが、こんなことで依怙地《いこじ》になるのも幼い。 「わたしも子供、欲しいな」  久美の視線が宙に漂った。 「早く結婚して産みなさいよ。仕事、続けられないわけじゃないでしょう」  仕事も子供も、と欲張られては、わたしのような専業主婦は立つ瀬がないじゃない、と本当は言いたかった。久美には、このまま一生独身でいてもらうか、結婚しても子供は産んで欲しくない。そう切実に思った。 「結婚の予定なんか全然ないのよ」  久美が、ふっと寂しげに笑った。昔より頬《ほお》がこけたせいか、目鼻立ちがはっきりした顔立ちに陰影が生まれ、表情が険しく見える。 「わたしね、一度、子供ができたことがあるの」 「いい人紹介して」と、決まり文句が続くと思ったので、周子は声を失い、久美の顔を見つめた。 「堕《お》ろしたのよ」  久美も、周子をまっすぐ見て言った。 「いつ?」  いちばん先に興味を持ったのがそれだった。 「大学を卒業して次の年」  久美はそれきり黙った。周子も、自分からは質問しなかった。  表を消防自動車がサイレンを鳴らして通った。前の家より外の音が大きく聞こえる。  しばらくの沈黙のあと、「産んでいたらいまごろは、なんて思うのよね」と、久美はまた弱々しい微笑《ほほえ》みを見せて言った。「男の子だったかな、女の子だったかな、とか」 「一度妊娠したってことは、少なくとも、妊娠できる体だってことよ」  と、周子は言った。励ますというより、わざとそっけなく言おうとして、口をついて出てしまった言葉だった。 「そうねえ」  久美はおどけたように目を見開き、「言えてる。発想の転換よね」と、今度は少し楽しそうに笑った。 「産めるような状況じゃなかったの?」  産める状況でなかったから中絶したことは、わかりきっていたが。 「一人で決めたのよ」 「相手には内緒で?」  久美はうなずいた。久美ならありうるだろう、と周子は思った。高校時代から久美には、なんとなく将来、平凡な人生を送らないであろうと予感させるものがあった。 「奥さんとか子供とか、いたの?」 「ううん」 「じゃあ……」  周子は、質問に詰まった。自分が、久美の前ではごくごく平凡なつまらない女にしか見えない気がした。人生にたいしてドラマチックなことが起きない女。……いや、違う。ドラマチックなことは一度、起きた。四か月前に、以前の家で……。 「結婚しようと思ったこともあったけど、その人、その時点ではそう思っていないようだった。彼にはしたいことがあったのね、わたしとの人生を考えるより先に。そりゃあ、打ち明けたら結婚しよう、と言ってくれたとは思うけど。わたしは彼の前だと、ひどくつまらない女に思えて嫌だったの。何か自分に自信が欲しかったのね、きっと。妊娠したのはちょっとした油断だったわ。でも、妊娠したからって、自分の気持ちに妥協して、彼の人生に引きずられるのは耐えられなかったの。迷っていたときに妊娠して、それが気持ちがふっきれるきっかけになったのね」  本当に気持ちがふっきれたように、久美は淡々と語った。  周子は、なんだか久美が羨《うらや》ましかった。周子自身は、自分に自信をつけたいと思ったこともあったが、結局悩みが熟す前に、知人から紹介された男性と結婚し、子供を産んだ。どんな人生のスタートの仕方をしたとしても、いずれ結婚して子供を産むのは同じだ、という諦《あきら》めにも似た気持ちが心のどこかにずっとあったのかもしれない。 「久美の気持ちはわかるような気がするけど……」  と、周子は言葉を切った。「でも、子供は可哀想なことをしたわね」 「本当にそう。若かったから、あんなことができたのね」  久美は、カーペット敷きの床にころがっている牧人の真っ赤なミニカーに視線をやって言った。食器の整理をしていたあいだ、牧人は久美にそこで相手をしてもらっていた。 「きれいごと言っても、結局は、自分がいちばん可愛かったのね。子供が邪魔だった。まだ自分の中にダイヤモンドが潜んでいそうな気がしたから、そんなときに子供なんか産んでいたら人生の障害になるから、だから堕ろした。そういうことなのよ」 「あとになればよく見えてくることってあるじゃない。久美の選択は、その時点では間違っていなかったと思うわ」  そのとき妊娠を理由に結婚していたら、久美は売れっ子の翻訳家にはなっていなかっただろう。 「そのことは確かにひどいショックだった。その傷から立ち直れなくて……。彼を見ていると、どうしてもその傷を思い出してしまう。彼がそんなことお構いなしに将来の自分の夢を語ったりすると、わたし、たまらなく彼が憎らしくなったの。なんて無神経な男なんだろうって。彼に責任はないのに。わたしが自分で決めて、勝手にしたことなのに。でも、どうしてもそれ以上、彼と素直に人生を歩んでいけそうになかった。心の傷を慰めて欲しくもなくて、わたしは彼のもとを去った」  自分は出産するために分娩台《ぶんべんだい》に上がったのに、久美は堕胎するために手術台に上がったのだ。周子は、彼女の心と体の傷を思いやって、久美を見つめた。久美が、〈彼〉と呼んでいる人物の輪郭が、なぜかケイのそれと脳裏で重なってハッとした。 「でも、どうして、そんな話をわたしにする気になったの?」  久美とは、高校時代、うまがあったとはいえ、卒業してから交友関係が途絶えた仲である。 「どうしてかしら」  久美は、ショートボブに切り揃《そろ》えた前髪をかき上げて、「たいしたことじゃなくても、誰にも言わないでおくことで、自分の中でおおげさにしてしまうことってあるでしょ? 秘密でなくしてしまいたかったの。ふっと誰かにしゃべりたくなった。でも、誰でもいいってわけじゃないの。周子ならわかってくれそうな気がしたから」  周子は、首筋がくすぐったくなった。きまり悪くなり、「その人、久美の本、読んでるかしら」と、話題を転じた。 「さあ。もうずっと会ってないから」  ちょっとはずれた答えを返し、久美は溜《た》め息《いき》をついた。 「読んでいるんじゃないかしら。そんな気がするんだけど」  周子は、確信していた。 「偏っていた人だったから、どうかなあ。わたしの訳すような本を読むかどうか」  首をかしげながらも、読んでいて欲しそうな顔をしたのを、周子は見逃さなかった。 「読んでいたとしたら、どう思うものかしら。懐かしく思い出すかしら」 「訳してるだけよ、わたしは」 「でも、本には久美の名前があるでしょう。昔の恋人の名前を見て、何にも思わないはずないわ。複雑な気持ちになるはずよ」  そう言ってもらいたいのは、久美の様子からわかっていた。 「彼が読むとしたら……ああ、そうだわ」  久美は、何か思いついたような弾けた表情をした。 「忘れてたわ。……新刊なんだけど、よかったらどうぞ」と、足元に置いた大きな革のリュック鞄《かばん》から、一冊の文庫本を取り出す。「アメリカで評判になったサイコ・ミステリーなの。来年映画になるらしいんだけど」 「『闇《やみ》を愛した女』。へーえ、面白そうね」  周子は本を受け取り、表と裏表紙を眺めてから、パラパラとめくった。その本のことは知っていたが、知らないふりをしたかった。 「周子、本が好きだったでしょう? わたしが知らないような海外ミステリー、よく読んでいたものね、高校時代。わたし、周子に影響されたのよ」 「あら、そうだったかしら」  そんなときもあったわね、と周子は寂しく笑った。自分が、久美が売れっ子翻訳家になるのに少しでも影響を与えたことが、悔しかった。「叔父《おじ》が好きだったのよ。遊びに行くと、いらないからって、よくどっさりくれたわ。でも、それは昔の話。いまは、のんびりとミステリーなんか読んでいる暇はないわ。夢中になって気がつくと、牧人が煙草を呑《の》み込んでた、なんてことになりかねないから。ミステリーは禁物」 「そうね。いいのよ、暇なときに読んでくれれば」  久美は、手で制するように左右に振った。 「あら、ごめんなさい。久美が一生懸命訳した本だもの。絶対に読むわよ」  ミステリーなど読む暇はない、と言ったことで久美が気分を害したのではないか。そう思って周子は、目次を開き、熱心に見入るふりをした。そして、「面白そうね」と顔を上げた。帯に「わたしは誰? 自分でも気づかないもう二人[#「二人」に傍点]のわたし?」とあり、多重人格者がヒロインだとわかったが、目次のタイトルも十分サスペンスを感じさせ、本当に読んでみたいと思わせられた。 「彼ね、この本だけは読んでいるんじゃないか。そんな気がするの」  と、周子の手元の本を見て、久美が言った。目に濡《ぬ》れたような輝きが灯《とも》った。周子は、久美の美貌《びぼう》に凄《すご》みのようなものが加わったように思った。 「どうして?」周子は聞いた。 「彼は、大学院で犯罪心理学を専攻したのよ。犯罪者の心理にはかなり興味を持っていたわ。とりわけ性格異常者による犯罪」 「じゃあ、いまもそういう関係の仕事を?」  どんな仕事か見当もつかないままに、周子は尋ねた。 「関係なくもないわね」  曖昧《あいまい》な前置きをして、「刑事なの」と、久美は言った。 「刑事?」  思いもよらなかった職業に、周子はドキッとした。 「そういう方面に進みたいとは言ってたわ。でも、実際に刑事になったのは、人づてに聞いて知ったの。捜査一課の刑事だそうよ」  周子の胸は、まだ高鳴っている。刑事と聞いただけで、なぜこれほど動揺するのだろう。この四か月、周子は、今日にでも「警察の者です」と名乗る人間が訪ねて来るのでは、と怯《おび》え続けて来た。 「その人、結婚してるの?」 「さあ、わからないわ」  久美はかぶりを振る。だが、その様子から、まだ独身だと思い込んでいる気配が伝わって来た。 「捜査一課って、殺人とか、凶悪犯罪の捜査をするんでしょ?」 「彼がやりたがっていたことだわ」  久美は、どこか投げやりな言い方をした。 「不思議ね」  周子は言った。 「えっ?」 「だって、昔別れた二人が、それぞれ別々の道を歩いて、結局同じ交差点に出た。そんな感じがするんですもの」 「そう思う?」  久美の目は真剣な光を帯びていた。 「まだ、彼のことを愛してるの? その刑事さんを」  周子の問いに、久美は一瞬、胸をつかれたような顔をした。そして、「わからない」と静かに言った。   4  シンクロニシティという言葉がある。虫のしらせのような意味のある偶然の一致。亀山は、ユングが示したその言葉の持つ魔力に惹《ひ》かれていた。一見偶然に見える事象でも、それは根底で必然によって支えられている、とユングは解釈した。それと少し意味合いが違うかもしれないが、久美の姿を集団の中に認めたとき、亀山はその言葉を連想した。  久美の訳した『闇を愛した女』は読み終えたばかりだった。頭の中に、小説の余韻を引きずっていた。五年間、同じ東京に暮らしていて一度も街角でバッタリなんてことがなかったのに、本を読んだ直後に、その訳者本人を偶然見かけたのだ。  この偶然の裏には、何かしら大きな意志が働いている。神の意志とも呼べるものが……。久美の横顔を見て、亀山はそう思った。  その日、亀山は、銀座のKビルで開かれた臨床心理士学会の月例公開セミナーに出席した。会合が終わり、ホールで一服したときだった。若い女性のグループが出て来て、その中に見覚えのある顔が混じっていた。グループは二手に分かれ、同じ年頃の二人の女性が、亀山の方に話しながら向かって来た。  久美だとすぐにわかった。強い視線は、空気中の粒子に刺激を与える、とつねづね亀山は思っている。久美も、糸で引かれでもしたようにこちらを向いた。立ち止まる。  亀山は、軽く頭を下げた。久美も会釈を返した。隣の女性が、久美を、そして亀山を見た。 「やあ」と小さく声を発し、亀山は近づいて行った。  久美は、亀山の目にひどく洗練されて映った。思ったとおり髪型もほとんど変わっていなくて、ブラウン系のアイシャドウを入れる化粧法もそのままだった。それなのに、洗練された大人の女の雰囲気に圧倒されたのは、五年、歳を重ねたせいなのか、キャリア・ウーマンを意識した仕立てのよさそうなグレーのスーツという服装のせいなのか。  昔から、久美はきりりとした女だった。だが、いまは、甘さが消え、きつさがそれに加わっている。隣にいる女が、ふわっとした柔らかい印象なので、よけいそう見えるのだろうか。 「出てたの? 知らなかった」  亀山は言った。  月に一度の公開セミナーには、一般から出席者を募る。今日の出席者は百五十人あまりだった。 「わたしは気づいてたわ。でも、後ろの方にいたから」  久美がそう言うと、隣の女が、あら、というふうに久美を見た。 「久しぶりだね」  久美の隣の女が、手元の煙草を見ているのに気づいて、亀山は灰皿に手を伸ばして消した。 「ええ、本当に」 「今日はどうして?」 「ちょっと興味があったものだから。新聞で見て、参加しようと……」  久美が言葉を切り、二人の視線が絡み合った。と、久美は、我に返ったように声を高くし、「ああ、ごめんなさい」と連れに言った。「学生時代の友達で、亀山さん」と、亀山を紹介したあと、「こちら、高校時代の友達で、柿沼周子さん」と、彼女を紹介した。  柿沼周子と呼ばれた女は、はにかむような微笑《ほほえ》みを浮かべ、「こんにちは」と言った。亀山の顔をチラと見ただけで、また友達に視線を戻す。友達がこの場をどう切り抜けるか不安そうな表情だ。それを見て、亀山は、久美は自分のことをこの柿沼周子という女に話しているのではないか、と思った。とすれば、親しい仲だ。 「高校時代というと、青森の? どうりで色白なわけだ」  なんとなく久美より連れの方が話しかけやすかった。  柿沼周子は、えっ? と驚いたように切れ長の目を見開き、その色白の頬《ほお》を赤らめた。 「彼女、人妻なの。可愛い赤ちゃんがいるのよ」  からかっちゃダメよ、というふうに、久美が周子の腕を軽く叩《たた》いて言った。  柿沼周子は、金ボタンのついた淡いピンクのカーディガンに濃紺のスカートという清楚《せいそ》な、だがやや野暮ったい服装で、ワードローブの中からいちばん上等なのをしてきました、というようにトリコロールカラーの大判のスカーフを肩にかけて、胸元で結んでいる。小さな赤ん坊のいる主婦だ。あまり外に出ないのだろう、とそのいでたちを見て亀山は察した。 「柿沼さんも、心理学に興味がおありですか?」  と、亀山は聞いた。質問が続けて自分に向けられたのに、周子は少し面食らった表情をした。 「あの、わたしは、野崎さんに誘われて来たんです」  恥ずかしそうに答え、ねえ、と久美に向いた。 「そう、わたしが強引にね。育児ノイローゼにならないためにも、ちょっと息抜きをさせてあげようと思って誘ったのよ」  久美も、ねえ、と周子を向く。変わっていない、と亀山は思った。久美は人づき合いがよい方だった。多少、強引でおせっかいなところもあった。 「赤ちゃんは?」亀山は聞いた。 「実家の母が見てくれているんです。ちょうど青森から出て来て」 「彼女、今度、うちの近くに越して来たの。で、新しい家を見にお母さんが出てらして」 「というのは口実で、本当は孫の顔を見に来たんですよ」  久美の言葉に、周子があわててかぶりを振る。「すごく久しぶりなんです。こうして外に出るの。とても面白かったです。よくわからなかったけど」 「それはよかった、面白かったなら」  亀山は笑った。周子のことを、素直な女性だと思った。久美とは違う魅力がありそうな女性だ。 「読んだよ、君の本」  そして、今度は久美に語りかけた。「一気に読み終えた。それだけ君の訳がすぐれているってことかもしれないが。今日、セミナーに出たのは、ああいうサイコ・ミステリーに関心があるから?」  久美の表情が引き締まった。 「あの、わたし、牧人が心配だから……」  久美と亀山を交互に見て、周子が遠慮がちに切り出した。 「あら、お茶ぐらい飲めないの? いいでしょ、お姑《しゆうとめ》さんじゃなくて自分の母親に見てもらってるんだから、もうちょっとゆっくりしても」  久美が、周子の袖《そで》を持って引き止めた。 「でも……」 「よかったら、どこかでお茶でも飲みませんか」  亀山も言った。 「わたし、やっぱり……」  周子は、頑《かたく》なに辞退した。じゃあ、と数歩後ずさる。 「おかしいわ、周子。あとでお茶を飲んで行こうかな、って言ってたじゃない。遠慮しなくていいのよ」 「でも、その……いろいろ、お話があるでしょうから……」  周子は口ごもった。  久美が、高らかに笑い出した。「やだわ、周子。いろいろお話があるでしょうから、なんて。わたしたち、そんな関係じゃないのよ。気を回さないで」  亀山は、久美の口から、そんな関係じゃない、という言葉がストレートに出たのに、少しショックを受けた。 「でも、本当にわたし、牧人のことだけじゃなくて、母も心配なの。あの辺、よく知らないのに、牧人を連れて散歩に出るようなことを言ってたし。なにしろ田舎者だから。それに膝《ひざ》が悪いから、牧人の相手をするのも大変なのよ、母は」  周子は肩をすくめて言った。うそではなさそうな表情だった。 「あの辺は、迷子になるようなところじゃないと思うけど。上鷺宮より物騒なところじゃないわよ」  と、久美が笑って、周子の腕を突いた。 「上鷺宮?」  亀山は聞きとがめた。 「周子が前に住んでいたところよ」  久美が言った。 「上鷺宮に住んでいらしたんですか?」  亀山は、周子に聞いた。 「え? ええ、つい最近まで」 「この人、広いお屋敷に住んでいたのよ、優雅に」  と、久美が楽しそうに言う。 「お屋敷だなんて。借家です。追い出されて、中野に。偶然、久美のそばに」 「さっき、物騒なところと言ったね」  亀山は、久美に確認した。 「ええ、物騒なところでしょ? コンビニエンスストアの客が殺された事件。まだ犯人は捕まっていないんでしょ?」  ダークな色の口紅を塗った唇を尖《とが》らせ、久美が責めるようなまなざしを、亀山に向けてくる。亀山が刑事になったことを知っているのだ。久美が翻訳家になったことを、亀山が知っているように。 「あなたの家の近くだったんですか?」  亀山は、周子に尋ねた。 「え? は、はい。でも、『アップルロード』では、わたし、ほとんど買い物をしたことなかったんです。そんなに……近くもないし」  周子は、亀山から視線をそらせて答えた。  周子が、『アップルロード』とコンビニエンスストアの名前をはっきり言ったことに、亀山は注意を止めた。 「あの事件ねえ」  と、久美が口を挟んだ。深刻そうな光が、大きな目に満ちている。「あとで気がついたんだけど、ちょうどその日に、わたし、周子に電話してたのよね」 「そ、そうだったかしら。よく憶《おぼ》えてないわ」と、周子が首をかしげる。 「あら、そうよ。だって、電話したの、あのときだけだもの。わたしったら、急に思い立ったようにかけちゃって。結局、そのあといろいろと忙殺されて、ご無沙汰《ぶさた》しちゃったけど」 「犯人が住宅街に逃げ込んだこと、知ってましたか?」  亀山は、質問を重ねた。 「あとで……知りました。でも、わたし、ずっと家にいたので。牧人と二人で」  言ってから、周子は二、三度うなずいた。 「ねえ、あの日、誰か来てたんでしょ?」 「誰か? ああ、来てたかもしれない。主人の母だったかしら」  久美の質問にそう答えたのに、 「うそ、お姑さんじゃなかったわ、確か」  と、久美が強い口調で言った。「母親学級の友達とか何とか、そんなふうに周子、言ってたわ、電話で」 「そ、そうだった? じゃあ……そうかもしれない」  周子は、火照った頬《ほお》を手のひらで押さえながら言った。  久美は記憶力が抜群にすぐれていたのを、亀山は思い出した。久美と周子の話に矛盾があるとすれば、それは周子の方の思い違いだろう。 「その日、何か変わったことはありませんでしたか?」  亀山が質問するやいなや、 「それって、刑事としての質問?」と、久美がちゃかすように突っ込んだ。 「刑事さん……」  と、周子がつぶやいた。弓形のやさしげな眉《まゆ》をひそめている。亀山は、自分の職業を聞いたときの相手のこういう反応には慣れていた。 「夢が叶《かな》ったのね。捜査一課のサイコ・セラピストとか」  久美が、ちゃかす口調で続ける。 「叶ったのかどうか。頭で考えるより先に足が出る。分析する暇があるなら足で情報をとってこい。そういう世界だからね」  亀山は、笑って言った。久美も、おかしそうに笑った。そして、「似合ってるわ、あなたの刑事さん」と言い、また笑う。 「というわけで、先ほどの質問ですが」  と、亀山は周子を向いた。彼女だけは笑っていない。少し青ざめている。「その日、何か変わったことはありませんでしたか?」 「さあ……」  首をかしげ、周子は小さく咳払《せきばら》いをした。「別に何もなかったと思いますけど。でも、そんな前のこと、よく憶えていません」  心なしか不機嫌そうな声だ。 「あの日って、確か、土曜日だったわよね。ご主人、家にいたの?」  と、久美が亀山に代わって質問した。 「主人? いいえ、出張で家を空けていたけど」 「どちらの方へ?」 「大阪ですけど、それが……」  周子が、訝《いぶか》しげな視線を亀山に向けた。不安げな、警戒するような色が目の中にある。 「いえ、参考までに。じゃあ、あの夜は、赤ちゃんとお二人でしたか。それともご主人のお母さんか誰かが?」 「ずっと二人きりでした」  ぶっきらぼうに周子が答えた。 「心細かったんじゃありませんか? 近くでああいう事件があって」  亀山は、その日周子が、何か近所で目撃していたかもしれない、と思ったのだ。 「いいえ、別に。事件を知ったのは夜遅くでしたし、それまでわたしたち、どこへも出かけませんでしたから」  周子は強くかぶりを振った。そして、「それに、近くじゃありません。あのコンビニは」と、怒ったようにつけ加えた。「うちは、上鷺宮二丁目だったから。犯人が、うちの方まで逃げて来るはずないんです」 「犯人がどう逃げたのかは、残念ながらまだわかっていないんです。お宅の方に逃げたかどうかも」 「引っ越しのとき、その話をしようと思って、忘れちゃったんだけど。だって、あの時、ご主人が散歩から帰っていらしたから」  久美が口を挟んだ。歯切れのよい早口が、久美の特徴だった。変わっていない、と亀山は思った。対して柿沼周子は、おっとりと遠慮がちに話す女だ。 「あとでわたし、あのコンビニ殺人犯が住宅街に逃げ込んだかもしれないと聞いて、もしかして周子の家の方かしら、と思ったの。わたし、仕事でドキドキするようなミステリーが回ってくることが多いから、つい想像しちゃう癖がついてるのよね。殺人犯が、赤ちゃんのいる周子みたいな家に押し入って、美貌《びぼう》の主婦を脅してかくまってもらう。そんなストーリーを思い描いちゃったの。そこに誰かが訪ねて来たり、わたしみたいに電話をしちゃったり。でも、その主婦は、赤ちゃんを人質に脅されているから、窮地を人に教えられないの」  久美は、夢見るような表情になっている。亀山は、「で、そのあとの展開は?」と促した。想像力が豊かだったところも、久美は変わっていない。 「それは考えてないけど。でも、たいていは助かるのよ。ハッピーエンド。殺人犯とのあいだに愛が芽生えたりしてね。そういうラブロマンスもいいわ。ねえ、周子……」 「やめてよ!」と、思いがけないきつい口調で、周子は遮った。 「あら、ごめんなさい」  久美は当惑したあと、「怒ったの? どうして?」と、心外だという顔をした。 「どうしてって、その……久美には、子育ての大変さがわかっていないからよ」  周子の顔は紅潮している。 「わかってるわよ。でも、そのことと、わたしがちょっとしたサスペンス小説に仕立ててみることと、どう関係あるの?」  久美の顔も火照り始めた。 「久美はいいわよ。そうやって、人を殺したり殺されたり、っていうお話の世界で仕事をしていればいいんだから。そのあいだわたしは、さっき替えたばかりのオムツをまた替えなくちゃならなかったり、掃除したばかりの床にお味噌汁《みそしる》の入ったお椀《わん》をひっくり返されたり……。人の生活を、そんなふうに作り事の中でオモチャにしないで。わたしたちを利用しないでちょうだい」  おっとりした口調だけに、毅然《きぜん》とした響きが怖いほどだ。 「すごい言いがかり」  久美は顎《あご》を上げた。この癖も変わっていない。「自分が育児疲れでクサクサしてるからって、こっちにうっぷんをぶつけられたらたまらないわ。周子は、そんなふうに思っていたのね、わたしのことを。わたしには何も悩みがないとでも思ってるの? 口笛を吹きながら楽しく仕事をしているとでも思って? 高校時代、周子の方が英語の成績がよかったから? それで、面白くないわけ?」  周子は、何か言いたそうだったが、その言葉を呑《の》み込むように口をつぐんだ。肩が上下している。興奮しているのがわかる。 「やめろよ、君の方も言いがかりだぞ」  と、亀山は久美をたしなめた。「同じ青森のリンゴ仲間じゃないか」 「リンゴ仲間?」  と、久美が眉をひそめる。怒りの矛先が亀山に向いたようだ。もっとも、それが目的だったが。「どういう意味よ、それ。リンゴっ子のような女が二人、って意味?」 「そうじゃないよ。リンゴのように新鮮で純粋で、甘酸っぱくてしゃきしゃきしていて……。そういう意味」 「何よそれ、わからないじゃないの」  久美の顔に、ばかばかしいという笑いが広がった。 「わたし、帰るわ」  冷静さを表面上は取り戻したように、周子が二人に言った。 「あの、周子……」  あれほど興奮したことでばつが悪いのだろう。言い過ぎたというふうに、久美は声をかけた。が、周子は手をひらひらさせ、 「いいのよ。また今度、電話して」  と言い、くるりときびすを返した。自分から電話をかける、と言わなかったことで、怒りがまだおさまっていないのだと亀山は思った。   5  久美と亀山は残された。「やっちゃったわ」と、久美が言った。亀山は久美を促して、外に出た。すぐ近くの喫茶店に誘う。何度か一人で入ったことのある店だ。注文をするのは決まっている。本日のサービス、というやつだ。今日は、キリマンジャロだった。  キリマンジャロが二つ、運ばれて来ると、「さっき、どうして彼女はあんなに怒ったんだろう」と、亀山は切り出した。 「さあ、何かイライラしてたんじゃない? 育児ノイローゼの一種かも。うっぷんがたまってるのよ」  怒りがぶりかえしたようだ。久美は口を尖《とが》らせた。 「変わってないね」  その顔を見て、亀山は言った。 「そうかしら。年をとったわ」  ふっと久美は笑い、目を伏せた。やつれたな、と亀山は頬《ほお》のあたりを見て感じた。徹夜をするような仕事をしているのだろう。 「周子のことが気になるの?」 「上鷺宮に住んでいたと聞いてね、ちょっと。事件のことが気になったものだから」  久美の質問の意味合いは、少し違ったらしい。「美人でしょ、彼女。高校時代、男の子によくもてたわ。家庭的で女らしくて、聡明《そうめい》だったし」と、腕組みをしたまま言った。  それには反応を示さずに、「君が電話をしたとき、周子さん、様子がおかしかったのかい?」と、亀山は職業上の質問をした。 「受け答えが、そうねえ、はきはきしていなかったわ。そばに誰かいる感じで。だから、わたし、お客さんが来ていると思ったんだけど」 「友達だったのかな」 「そう言ってたわ、彼女」  昔の恋人と久しぶりに再会したのに、関心が友達にそれているので、面白くないのだろう。久美はそっけなく言い、 「それなのに、忘れているなんて、周子もずいぶんぼんやりね。主婦って、毎日やることが同じだから、昨日も一昨日もごっちゃになっちゃうのかしら。スケジュール表なんてない生活しているでしょうし」  さっきのケンカの続きのつもりなのか、久美は顔をしかめて言った。  亀山は、柿沼周子の色白のうりざね顔を思い浮かべた。古風な顔立ちの女性だった。 「まさか、わたしの言ったようなことが本当にあったと思っているんじゃないでしょうねえ」  しばらくの沈黙のあと、ハッとしたように久美が言った。 「犯人が住宅街に逃げ込んで、どこかで息をひそめていた。自分の寝ぐらでなければ、誰かの家か。そういう可能性はあった、と思っている。周子さんの家に、というわけじゃなくてね」 「その事件の捜査をしてるの?」  そう質問したとき、久美の目に懐かしさがあふれたように思った。 「直接にじゃないけど、かかわっている」 「でも、もしも、誰かの家に犯人が隠れていたとして、そのあと、家の人たちには危害を加えず、犯人は家を出て行った。そういうことになるわよね。だって、もし人質にされていたら、あとで警察に通報するはずだもの」  亀山はうなずいて、「もっとも、上鷺宮一帯の家を、隈《くま》なく調べて回ったわけじゃない」と苦笑した。  久美が想像したような事態を、亀山も想像したことがあった。だが、捜査は、全然別の方向に向かっている。犯人は、車か何かで田無方面に逃走したと、おおかたは見ている。 「彼女は確か、借家だったと言ったね」 「ええ、でも、引っ越しのときに行ったけど、立派な一戸建てだったわ。都会であれだけの敷地は贅沢《ぜいたく》って感じだった。その庭が年季が入っているの。古い庭木がいっぱいでね、塀がわりになってたわ」 「…………」 「変わってないわね」 「えっ?」  顔を上げると、久美は呆《あき》れたような顔で見ている。 「何かに夢中になると、目の前の女のことすら忘れている。そういうところが」  久美は笑っていたが、寂しそうな笑いに見えた。「周子の言ったことが気になるんでしょう。つまり、あなたの頭の中は、捜査のことでいっぱいだってこと」 「…………」 「わたしの本を読んでくれたのも、わたしのことが気になったからじゃなくて、自分の勉強のため。そうでしょ?」 「いや、君が訳していたからだ。君の名前を見て買った」  亀山は、昔の恋人を、関係がなくなったいま、何と呼べばいいのか迷った。あの頃は、久美、と呼んでいた。 「周子の前の住所、知りたいんでしょう?」  いたわるような目を久美は向けた。 「できれば」 「教えてあげるわ」  久美は、バッグから手帳を取り出し、読み上げた。亀山も手帳に書き取る。 「いまの住所も教えて欲しい」  久美は、黙って新しい住所も読み上げた。 「君は? 前のところに?」  書き終え、亀山は手帳から顔を上げた。以前も、久美は東中野に住んでいた。 「住所は同じよ。でも、名前が違うの。前は、『コーポ豊川』だったのが、いまは『トーヨーマンション』よ。大家が木造のアパートをマンションに建て替えたの。そのあいだ、近くに仮住まいしていたわけだけど。住み心地がまるで違うわ」  久美は、顎《あご》を上げぎみにして言った。売れっ子の翻訳家だ。取材を受けた記事も、亀山は雑誌で目にしている。きっとインテリア雑誌に出てくるようなこぎれいで快適なマンションなのだろう。  亀山は、ふと以前の木造アパートを思い浮かべた。久美の部屋は、二階のいちばん手前だった。階段を上がるとき、足を忍ばせたものだ。久美は、警戒心が強かった。そして、ちゃめっけもあった。亀山だとわかっていても、すぐにはドアを開けず、〈合言葉〉を要求したりした。  体の関係ができてある日、久美はアパートの合鍵《あいかぎ》を黙って差し出した。亀山は受け取った。だが、無断で使うことはなかった。つまり、勝手に入りこんでいたりはしなかったということだ。  久美が去って行ってしばらくして、合鍵を持ったままなのに気がついた。送り返すべきかどうか迷った。だが、もともと使わなかったものだ。捨ててしまった方がいいだろう、と池袋駅構内のゴミ箱に捨てた。  いまあの鍵を持っていたら、と考えた。もちろん、建て直した久美の現在の部屋には合うはずがないから、持っていても開けるべき部屋は存在しないのだが。  そう思って、亀山の頭に何かが引っかかった。合鍵? いや、違う。合鍵の線は調査済みだ。多治見香子も青柳美喜の方も。  何かが共通している……。  多治見香子の方は、新築したばかりのアパートに入居した。青柳美喜の方は、入居する前に、大家が防犯上の配慮から、鍵専門の業者に頼んで錠前ごと鍵をそっくりつけ替えた。以前の住人が、余分に合鍵を作って誰かに渡しているおそれもあるからだという。聞くところによれば、新しい住人が入居する際に鍵をつけ替える大家は、良心的な方だという。畳や壁紙を張り替えないように、鍵ももとのままにしておく方が多いのだそうだ。もっとも、表向きは、鍵をつけ替えたことにしておくらしいが。  合鍵を調べるのはもとより、最初に鍵の取りつけを受け持った業者にも、とっくに当たっていた。だが、両者はまったく別の会社だった。  ——だが、二件にかかわった共通の人物がいたら……。 「また何か考え込んでいるようね」  と、久美が言った。  亀山は我に返り、「ああ、ごめん」と身を乗り出した。  久美は、タイミングを合わせたように身を引き、腕時計を見た。 「あら、こんな時間。わたし、これから打ち合わせがあるの」と、腰を上げる。  亀山にしても、ゆっくりはしていられなかった。月に一度のセミナーは、亀山にとって、刑事としても心理学博士としても大切な勉強会であり、捜査の合間に顔を出す特権を、課長に与えられていた。  伝票をつかもうとしたのを亀山に先につかまれて、ちょっと首をすくめ、久美は店を出て行った。   6  翌日、亀山は、上鷺宮二丁目に行った。柿沼周子が住んでいた家は、容易に探し当てることができた。表札は、「戸部」となっていた。低い生け垣のあいだの黒い門扉を入り、呼び鈴を押す。しばらくして、四十代半ばくらいの主婦らしい女性が出て来た。  身分を名乗り、玄関先で聞き込みをする。刑事と知って、化粧っけのない眉《まゆ》の薄い女は、ギョッとしたような顔をした。亀山が、四か月前のこういう事件のことで聞きたいことが、と切り出すと、ホッとしたように「ああ、うちはそのときはまだロスにいました」と言った。わかっていて聞いたことだ。 「前に住んでいたのは、柿沼さんといって、ご主人は洋酒の会社にお勤めになっています。いまの住所は、奥に行けばわかりますけど」  亀山は知らないふりをして、この主婦の言う住所をふたたび書き取った。  そのあいだ、それとなく庭や家のまわりを観察した。八十坪はあるだろうか。建物をこぢんまりと建て、庭を広くとっている。なるほど、生い茂った樹木が、生け垣に沿った形でこの家を外部から覆い隠している。左隣には、さらに大きな一戸建てがあり、こちらの方は高い塀に囲まれている。右隣は、ほとんど道路いっぱいまでせり出した設計の、二階建てのアパートだ。 「その事件、よく知りませんけど、お隣さんから聞きました。犯人って、アパートか何かに住んでいる男なんですか? 一人暮らしの女性を殺した男と同じなんですか?」  主婦は眉をひそめ、アパートの方角にちらと目を向けた。 「全力を挙げて捜査しています。こうして、こちらまで聞き込みを広げたわけで」と、模範的に答え、「お隣とは親しいんですか?」と聞いてみた。 「一戸建て同士ですし、古いですから、なんとなく。ああ、でも、家政婦さんです、わたしが話すのは」  亀山は、続いて左隣の家を訪ねた。「菊地」とある。勝手口の呼び鈴を押すと、その家政婦らしい女性が応答した。用件を伝えると、こちらは「はい、ただいま」と、何だか嬉《うれ》しそうに声を弾ませた。  やがて、勝手口が開き、亀山は招き入れられた。だが、台所先である。七十に手が届きそうな人のよさそうな家政婦は、この家の主人には話を聞かれたくないようだった。 「やっぱり、刑事って来るんですね。こういうところまで」  と、興奮した口調で、家政婦は言う。テレビの人気シリーズのドラマで、好奇心いっぱいの家政婦、というキャラクターを演じる女優にどこか似ている。 「一軒一軒、聞き回っていらっしゃるんですか? でも、ここまで来るのに何か月もかかったんですねえ」  と、感慨ぶかげな声を出す。  そう思わせておいた方が楽なので、亀山は苦笑し、「十月二日のあの日のことは、憶《おぼ》えていらっしゃいますか。何かお近くで変わったことはありませんか。あの頃のことでなくともいいんです。最近、このあたりで気になる人とか……」と、切り出した。  家政婦は、聞いているあいだうずうずしていたようだった。すぐに「犯人を見たとか、そういうことじゃなくてもよろしいんでしたら。結構、あの日のことは憶えているんですよ」と、まだ声を弾ませて言った。 「何でも結構です。どんな小さなことでも」 「わたし、あの日、帰りが怖かったんですよ、本当に。だって、まだ犯人が捕まっていなくて、こっちの住宅街に逃げ込んだなんて聞いたもんですから。駅に行くまでに、変な男に出くわすんじゃないかと思って」  こちらも好奇心の旺盛《おうせい》な家政婦らしい。共通して前置きが長い。亀山は、下手に促さずに黙っていた。 「ええっと、帰りがけにお隣——ああ、そっちの隣で、そのときは違う方たちが住んでいらしたんです。柿沼さんっていう、生まれたばかりの赤ちゃんがいたお宅です。三人で住んでました。あそこの奥さんとわたし、ときどき立ち話したりしてたんですよ。——で、何でしたっけ、ええ、その柿沼さんのおうちの前に洗濯物が落ちていたから、わたし、拾ってさしあげたんです。柿沼さんの奥さん、赤ちゃんと二人きりで留守番なさってました、あの夜は」 「洗濯物?」  いきなり柿沼周子がかかわってきて、亀山は身を乗り出した。 「二階から落ちたとか……言ってたような気がするけど、そうだったかしら」  はたと家政婦は、額に手をやった。何か引っかかる、というように首をかしげている。だが、何かはわからないというように。 「洗濯物ってのは、何だったんですか?」 「ええ、それは、白いふきんでしたよ。台所で使うような」 「家の前に落ちていたんですか」 「ええ、門のすぐ前に」 「二階には、洗濯物が干してありましたか」 「えっ?」  何を聞くの、というふうに顎《あご》を引き、家政婦はまた何か思い出したそうに目を細めた。 「え、ええ。あら、洗濯物、とりこむの忘れたんだわ、と思ったんです。もう夜でしたしね。でも、あそこ、赤ちゃんがいるから、忙しくて忘れることもあるみたいで。ふきんだけ、風に舞って落ちたんでしょう」 「台所で使う白いふきん、ですか。そういうものを二階に干すんですね、ふむ」  ふと疑問に思って、何げなく言ってみた。 「あら、そうですねえ」と、家政婦は、引っかかっていたのがそのことかもしれない、という弾けた表情を見せた。「わたしなんか、流しでささっと洗って、台所に干しときますけどね。漂白するのも流しの中だし」 「洗濯物から落ちたんではないかもしれませんね」  亀山は言った。 「そうかもしれませんね」  家政婦は、はい、はい、とうなずいた。「それに、あんまりきれいじゃなかったし。でも、わたし、雨で汚れたせいだと思って」 「汚れていたんですか、そのふきんは」 「ええ、油じみのようなものがべったりと。どうも泥じゃなかったような気がして、何だかそのあとも気になっていたんです。ああ、そのことだわ、何かおかしかったのは」  そのふきんが〈犯人〉だ、とでも言いたげなほど深刻な顔を彼女はする。「じゃあ、あれ、洗濯物から落ちたものじゃなかったんだわね」 「いや、それはわかりませんが。でも、柿沼さんは、自分のものだと言って受け取ったんですね?」 「ええ、そうなんですよ」  家政婦は、大きく首を縦に振る。 「郵便でも取りに出たときに、落としたとは思えませんか?」 「そう言えば、そう思えないこともないけど。台所仕事の途中で、ふきんを持ってとか……。あら、でも、あの奥さんがうそをつくはずないじゃないですか」  深刻そうだった顔に笑いが生じた。笑いはすぐに引っ込められ、怪訝《けげん》そうなまなざしが亀山に向けられた。 「容疑者はあの日、ここを通ったのかもしれません。通り道に、何か落とした可能性も十分、あるんです。容疑者のものと思われるコートが、実際、新青梅街道沿いで発見されていますからね。どこをどう逃げたのか、まだよくわかっていないんです」  家政婦は、いちいち亀山の言葉にうなずき、うなずき方も深くなっていった。 「柿沼さんが、勘違いした可能性もあるとは思えませんか? どこにでもありそうな白いふきんでしたら。いや、ふきんと思われて、実はハンカチかもしれない。失礼ですが、拾ったものをよくご覧になりましたか?」  亀山の言葉に、家政婦は大きなあやまちを犯していた、というようにおおげさにかぶりを振った。 「暗かったんですよ。傘もさしていたし。たとえば、犬を飼っているお宅の前で、犬のフンを見つけたら、誰でもその家の犬の不始末だと思うものでしょう。そんな感じだったんですよ。てっきり柿沼さんのお宅のものだと。柿沼さんの奥さんも、ありがとうとおっしゃられて。だけど、奥さんもはっきり見なかったのかしら。そういえば、奥さん、赤ちゃんがかぜぎみだとかで、落ち着かない様子だったけど。……あら、でも、あのふきん、というかハンカチですか、犯人、いえ、容疑者? その人の落とし物だったんでしょうか」 「いえ、そういう可能性もあると申し上げているだけで。しかし、それは、柿沼さんの奥さんに聞けばわかることですから」 「はあ、なるほど。あっ、柿沼さん、中野の方に引っ越されたんですよ。わたしのとこにはがきがきました。住所、手帳にありますけど……」  亀山は、ここでも柿沼周子の現住所を書き取った。 「お隣は、赤ちゃんと二人きりだったんですね。ほかには何か気づかれませんでしたか」  さりげなく亀山は質問を進めた。 「ご主人は出張中とか。わたし、外に出ない方がいい、と申し上げたんですよ。もっとももう夜だったし、赤ちゃんが一緒ですからね、出かけると言っても……」  そこで、家政婦はハタと思いあたったというように大きくうなずいた。「それが、出かけたんですよ、次の日」 「次の日? 柿沼さんの奥さんがですか?」 「ええ、珍しく車を出されて」 「いつですか?」 「お昼過ぎだったかしら。まだ、ご主人、帰ってらっしゃらなかったはずだけど」 「柿沼さんの奥さんが運転するのは、珍しいんですか?」 「わたしは見たことありませんでしたから」 「赤ちゃんと二人で出かけたんでしょうか」 「いえ、それが、ほかにも乗っていたような気がするんです。はっきりとは見えなかったんです、後ろからでしたから。買い物から戻って、ちょうどそこを入るときに、柿沼さんとこの車が出て行くのが見えて。……後ろに男の人の頭が見えたように思ったんですけど、赤ちゃん、後ろにいたのかしら。じゃあ、あれはご主人だったかもしれないですね」 「柿沼さんの奥さんには確認されました?」 「いえ、そのことは。でも、あとでスーパーで行き会ったとき、『奥さん、車の運転できるんですねえ』と話しかけたんです。柿沼さんの奥さん、『ええ、でも、あんまりしたくないんですよ、下手だから』とかおっしゃってました」  家政婦から聞き込みを終えると、亀山はいったん捜査本部に戻り、滝本刑事と『オカハチ工務店』に向かった。多治見香子が住んでいたアパートの建築を請け負った業者だ。ドアの鍵《かぎ》もそこで扱った。  当時、鍵のとりつけにかかわった人間も含めて、建築に携わった社員のリストの提出を以前に頼んだ。調べたかぎり、疑わしい人物はいなかった。  だが、あとで聞くと、アルバイトで何人か出入りしていたという。それを見落としていた。調べてもらった結果を、今日聞きに行ったのだ。  事件のあった時期に雇ったアルバイトは三人。松浦公雄と、田川洋一と、長谷川祐也。さっそく、事件当時の三人のアリバイを調べに、捜査員を当たらせた。  次に、滝本と亀山は、『鍵と錠前の「ハシモト」』に行った。青柳美喜が住んでいたアパートの大家が、つけ替えを頼んだ鍵の専門店である。西池袋にある社員が七名の小さな会社だ。大家がつけ替えを頼んだ当時に勤めていて、その後辞めた社員が一人いた。  藤森隆二だ。青柳美喜のアパートの仕事を終えた直後に、アメリカの西海岸にフラッと放浪の旅に出たとかで、事件のあったときも現在も、日本を留守にしている。アルバイト社員は、この二年間雇っていないという。 「鍵に狙《ねら》いを定めたのは、どうだったのかなあ」  店を出て、滝本が言った。「はずれていたのかもしれん。やっぱりガイシャは二人とも、自分からドアを開けたんだろうよ」  亀山は、久美のことが頭から離れず、自分の直感を信じたい気持ちになっていた。久美のような女性が特殊でないとすると、都会の女の一人暮らしは意外に用心深いものである。よっぽどでなければ不用意にドアを開けはしない。宅配業者を装ったりすれば、近所で誰かに目撃されてもよさそうなものである。  ——留守中に合鍵で忍び込み、帰りを待ちぶせしていたか、在宅のところへ合鍵を使って入りこんだか。  そう、亀山は推理したのだった。留守中の可能性が大きい。ドアの内側からチェーンがかけられないからだ。  それで、両方の被害者のアパートの鍵にこだわった。合鍵を作れた可能性のある人物を、徹底的にピックアップしようと考えた。  頭のもう片隅に、柿沼周子のことが引っかかっている。家政婦の言った柿沼周子の一連の行動には、何かしら不明瞭《ふめいりよう》なものがある。  だが、亀山は、いまの段階では滝本にも、誰にも、胸のうちのもやもやした形をなさない疑惑を口にしないでおこうと思った。   7  あんなところに行くんじゃなかった、と周子は後悔していた。久美に「心理学のお勉強会だけど、面白そうなのよ。つき合う気ない? 周子も家で赤ちゃん相手にくすぶっていないで、たまには外の空気も吸った方がいいわよ」と誘われ、ついふらっとその気になったのがいけなかった。ちょうど母親が上京していたので、牧人をどうするか心配する必要がなかったのも手伝った。  だが、結局、みじめな思いだけが残った。  セミナーそのものは、確かに面白かった。もともと周子は、好奇心もあり、向上心も強い。精神科医でもある大学教授が、交流分析の基礎理論について話した。わかりやすく言えば、自分自身を知り、人間関係をよくする方法についての講義である。  人間関係をよくするどころか、壊してしまった。久美との関係も、あの亀山という刑事が出現するまではうまくいっていた。彼と顔を合わせてから、ぎくしゃくし出した。久美の表情の変化から、すぐに亀山が例の昔の恋人だとわかった。  ——久美は、あの亀山という刑事に会えるかもしれない、と知ってわたしを誘ったのではないかしら。  周子は、そう勘ぐった。別れた男に一人で会うのは気恥ずかしいからと友達を誘い、もっともらしい理由をつけた。その友達は、子育て中で、社会から隔絶された世間知らずの主婦。そういう主婦と一緒の方が、同じキャリア・ウーマンといるときより自分が引き立つ。  周子は、そこまで意地の悪い勘ぐりをした。久美に投げかけられた言葉が、胸に深く刺さった。傷となってジクジク痛んでいる。言い返せなかったのは、真実をずばりと言い当てられたからだった。  ——久美は、専業主婦としてくすぶっているわたしを哀れんでいるのだ。優越感を抱いているのだ。  昨日一日、久美から電話はなかった。周子も、自分から電話するのは敗北のようで、する気にならなかった。母親は昨日、青森に帰った。  牧人が昼寝をしたりすると、ふと空虚な気持ちに襲われることがある。青春時代を共にしたせっかくの友達を、自分は失ってしまった。これからは、子供を通しての友達しかできないのではないか。そう思うと、たまらなく寂しくなった。  その一方で、久美からは離れた方がいいのでは、とも思った。久美の昔の恋人が刑事だと知り、しかもその刑事が、あの事件の捜査にかかわっているかもしれないと知ったからだ。  久美は、よりによってその刑事の前で、コンビニ殺人事件をもとにしたストーリーを披露した。それを聞いたとき、周子は思わず叫んでしまいそうになった。それは、想像などではなかった。真実そのものだった。  周子は動揺した。動揺のあまり、久美に食ってかかった。久美は、負けずに応戦した。醜い女の言い争いだった。だが、恥じる余裕などなかった。否定しなくては、という必死の思いだけだった。——うちには、殺人犯など逃げ込んで来ませんでした、と。  一部始終を、あの若い刑事は見ていた。周子の理不尽に見える憤り方を、どう受け取っただろうか。  話の様子からすると、亀山刑事は、大学で心理学を専攻し、いまも捜査に役立てているらしい。ああした勉強会にも出ている。久美は、サイコ・セラピストと呼んでいた。心理分析家、といったところだろうか。  自分の表情や態度に、何かしら不安がにじみでていたのではないかしら、と周子は思った。それを、亀山刑事は巧みに読み取ったのではないかとも。  だが、人の心がそう簡単に読めるわけでもあるまい。神様ではないのだ。  ——大丈夫よ。わたしが秘密にしてさえいれば、絶対わからないわ。  いや、もう一人いる。ケイが……。  刑事との唐突な出会いが、周子に不吉な前兆を感じさせた。あの日のことが発覚する、これは前ぶれではないのか。  昨夜はよく眠れなかった。一日のうちでわずかの一人だけの時間を、周子は居間のソファに座って過ごしていた。朝刊は取って来たが、目を通す気にならなかった。  気配を感じて、周子は振り返った。パジャマにカーディガンをはおった直人が、首をすくめ、「今朝は、寒いね。おはよう」と言った。 「あら、早いのね」  読んではいなかったが、テーブルの上の新聞を脇《わき》にどけて、周子は「おはよう」と返した。まだ六時半だ。いつも直人が起きるのは、七時半前後である。慌ただしく朝食を済ませ、牧人にじゃれついてから、八時には出て行く。 「何だか目が覚めちゃってね。いい天気だし、たまには早起きもいいかと思って」  洗面所に行かずに、直人はソファに来た。新聞を広げ、「牧人はまだ?」と聞く。無理して早起きしたような充血した目だ。 「寝てるわ」  昨夜も周子は添い寝をした。あの事件以来、ベッドで眠る回数がぐっと減った。夜泣きを理由に、周子は牧人につききりになった。数えてみたら、この四か月間に、夫婦生活があったのは一度きりだ。何度かは「牧人、もう寝た? 寝たなら来ない?」と寝室に誘われたものの、「疲れちゃったから、わたし、このまま一緒に寝るわ」という断り方をした。直人は、意外にあっさりと引き下がった。  後ろめたいことがあるせいだわ、と周子は直人の顔を見るたびに、疑惑の念を大きくする。あれから、無言電話はこない。直人が家を空けたこともない。休みの日には、遅く起きて来ても、「どこか公園にでも行こうか」と、家族サービスを心がける子煩悩《こぼんのう》で真面目《まじめ》な父親で夫である。だが、一歩外に出たあとのことは、周子にはわからない。夫にどんな女性関係があるのか……。  しかし、無言電話の最後に混じった「電話? どこ?」というあの夫の声が、脳裏から離れないのだ。それを思い出すたびに、肌に触れられるのが嫌になる。それでもやんわり断るのにも限度がある。一度応じたとき周子は、夫に抱かれながら、夫以外の男性の顔をまぶたの奥に思い浮かべている自分にドキッとした。  ケイの顔だった。彼のほっそりした、それでいて筋肉だけの手足。がっちりした太い首の直人と対照的なケイの長い首。現代的な青年を代表するキュッと締まった顎《あご》。そして、薄ピンクがかった厚い唇。それが周子の唇に重なったときの柔らかく甘い感触。牧人を抱きあやしていたときの、ちょっと困ったような、けれども幸福そうな表情……。  あの部屋で、四か月前に、確かに周子はケイと向き合っていたのだ。だが、いまはすべてが夢のように思われる。  周子自身も、直人に後ろめたい感情を抱かないわけではなかった。夫以外の男と、あの家で一昼夜を過ごしたのだ。あそこであったことすべてを正直に話せば話すほど、直人の疑惑も大きくなるような気がする。  ——なぜ、誰かに知らせようとしなかった?  ——なぜ、俺《おれ》が電話したときに、ふつうにしゃべった。  ケイの存在が、牧人が生まれてようやく築かれ始めた家庭を、壊してしまいそうで周子は怖かった。周子にとって何より大切なのは、牧人を暖かく包み込む家庭そのものだった。そこには、父親がいて、母親がいて、子供がいる。どれ一つ、欠けてもいけない。 「もうご飯にする?」  立とうとした周子に、「コーヒーだけくれ」と直人は言い、「牧人はまだ起きそうもないかなあ」と続けた。 「朝方、起きて泣いたのよ。聞こえなかった? だから、まだ眠いはずよ」 「ちょっと話がある。……コーヒーのあとでいい」  周子は直人に背を向け、コーヒーを用意した。そのあいだ、さまざまな思いがよぎった。女がいる、と切り出すつもりか。それとも、最近のわたしのそっけなさをなじるつもりか。夫が求めたら応じるのが妻だ、とでも説教するつもりか。  濃いめにいれてしまったコーヒーを、ジュンコ・コシノの色違いのマグカップに注いで、テーブルに置く。マグカップは結婚したときから使っているものだ。  不安にかられながらもさりげなさを装って、直人の前に座った。 「大阪に出張したときのことだけど」  コーヒーをすすって、顔を上げずに直人は言った。 「洋酒フェアのこと?」  わかってはいたが、周子は言い換えた。声がかすかに震えた。 「あのときは、散々だったなあ」  と、直人は顔をしかめて、苦笑する。 「えっ?」 「かぜだよ。苦しくてさ、かぜで」 「ああ、そうだったわね」  はぐらかされて、少しホッとする。 「あの日、こっちでは殺人事件が起きていたんだよな」  その話は、もう何度も二人のあいだで交わされている。 「そんな事件、もう誰も覚えていないみたいね。あんなことがあったからって、『アップルロード』に行くのやめたなんて話、わたし聞いてないわ」  だが、周子自身は、金輪際そこに出入りするつもりはない。 「犯人、捕まらないのかな」 「警察が何もしていないとは思えないけど」  一度見ただけの亀山という刑事の顔が浮かんだ。長身で、肩幅が広い。ハンサムな男だ。すっきりした顎の現代的な容貌《ようぼう》は、どこかケイに似ていた。  直人は、煙草に火を点《つ》けた。一口吸う。何か言い出しにくいことを言うときの癖だ。 「つき合っていた女がいた」  あまりに単刀直入に言われて、周子は面食らった。顔が強張《こわば》るのがわかった。  自分でも思いがけないほど動揺している。首筋のあたりがカッと熱く燃えた。直人が過去形で言ったことなどわからなかった。 「いつからなの? 誰なの? その人のこと好きなのね。わたしと別れて、その人と直ちゃん、結婚するつもりなの?」  ヒステリックに、半ば泣き声になった。生まれたばかりの牧人はどうするのよ、と言いたい気持ちをようやく抑えた。そこまで言えば、自分がひどくみじめになる気がした。 「いや」  きっぱりと直人は否定した。 「好きな女がいる」 「大阪の人ね、あのときの……。そうでしょ?」 「目の前に」 「えっ?」  それが自分のことだと気づくまでに、わずかな時間を要した。当惑と混乱が、憤りと憎しみの感情に流れ込んだ。 「別れた」  唇を噛《か》むようにして、短く直人は言った。 「好きだったんでしょ、その人のこと。家庭があるからって、無理しなくていいのよ。牧人だって、わたし一人で……」  気持ちの収拾がつかなくなった。周子は涙声で言い、ソファを立った。 「待ってくれ。聞いて欲しい。大切なことなんだよ」  声に、けじめのようなものが混じっていた。本能的に周子は、直人がまだ自分の側にいるのだと悟った。ソファに座り直したが、顔はそむけていた。 「俺たちお互いに、いままでの空気と違うものを感じていなかっただろうか。何か腫《は》れ物《もの》にさわるように君も俺も接して来た。君が、あのことに気づいているらしいとは、君のあのうそからわかった」 「うそ?」  そのときだけ、周子は顔を向けた。目尻《めじり》にしわのある人なつこそうな瞳《ひとみ》が、周子を見つめていた。 「あの夜、周子、電話があったと言っただろう」  点《つ》けたばかりの煙草をもみ消し、直人は続けた。 「俺が電話する前にさ。いや、あとだと言ったっけ、君は。それがうそだった」 「無言電話のことね。それがどうしたの?」  周子は、横を向いたまま聞いた。視線を合わせたら、自分の方のうそがばれそうな気がした。 「本当は、俺の電話の前にあったんじゃないのか?」 「どうして?」 「あのとき、俺がそばにいたからさ。無言電話は、彼女がかけたんだ。俺の声がたぶん……入ったはずだと思う。そうだろ?」 「……ええ、はっきり聞こえたわ」  周子は、視線を夫に戻して言った。あの夜、自分は幼い牧人と二人、ケイと向き合って不安な夜を過ごしていた。その一方で、夫の方はどんな夜を、どんなふうに過ごしていたのか、妻としてだけではない興味が頭をもたげた。 「あの夜、大阪は雨だった。坂本と飲んでいたっていうのは本当だよ。彼女……大阪営業部の堀部みさとという女性だけど、彼女も同席していた。彼女の友達もね」 「四人で飲んでいたけど、最後は二人になったってわけね」  最初の興奮が鎮まっていた。テレビのドラマでよく見るようなシーンだわ、とどこか冷めている自分に気づき、周子は驚いた。  衝撃的な告白であるはずなのに、自分の側の〈秘密〉の大きさが、そのショックを和らげてしまっているのだろうか。 「いや、そうじゃない。俺はかぜで調子が悪かったからさ、早めに切り上げさせてもらったんだ。雨が降り出したのは、ホテルに着いたときだったよ。部屋でくつろいでいると、チャイムが鳴って、出てみると彼女だった。『もっと飲みたいの。入っていい?』そう彼女は言った」 「それで、入れてあげたんでしょう」  なぜ追い返さなかったのよ、と責めるより前に、諦《あきら》めに似た気持ちが生じた。直人ならそうするだろう、とすんなり納得できたのだ。困っている人がいたらほっとけないようなところが、直人にはある。面倒見がいいので、男女を問わず、頼られてしまう性格だ。そこに周子は惹《ひ》かれたのだし、もし夫婦のあいだに亀裂が生じたとしたら、それは直人のそうした寛大さ、やさしさに起因するものだろう、とどこかで予想していた。 「戸惑ったけど、入れる気になったのは、雨でびしょ濡《ぬ》れだったからかもしれない。ほっとけなかった。とりあえずバスタオルを、と思って部屋に入れた。彼女はベッドに座ってうつむいていた。俺はバスルームに行った。タオルを持って出て来ると、彼女がナイトテーブルの上の電話をかけていたんだ。いや、受話器を持っていたのが見えただけだけど。どこかへ電話しているのかな、と思った。でも、まさかここにかけているとは思わなかった」 「どうして、その女、そんなことしたの?」 「わからん。前に一度、坂本にお膳立てされて、大阪でデートしたことがある。彼女にどうしても、と頼まれたという。が、それっきりさ。一度きり。それがあのとき、いきなりやって来て、『わたし、結婚するの。その前にもう一度、柿沼さんと二人きりになりたかったから』と言った」 「愛の告白ね」  言葉にしてしまうと、それは皮肉に聞こえた。「よく使う手だわ」 「電話をかけたのは、君の声が聞きたかったからだと言ったよ、彼女」  周子は、喉《のど》の奥にコーヒーの苦さとは別の苦いものがこみ上げてくるのを感じた。そういう種類の女が、いちばん始末におえない女だ。結婚する前は、そういう不安定な女性心理に共感できたはずだったのに、結婚してから妻の座を脅かすものを本能的に嫌悪するように体質が変わったらしい。 「あなたを困らせたかったのよ。その堀部さんって人は。それで、直ちゃんは、彼女のそういう魅力にまいっちゃったのね。彼女に振り回されたのね」  静かな怒りが、ふたたびふつふつと内に沸いてきた。  直人が黙っているので、「追い返せなかったってことは、そういうことでしょ?」と決めつけるように言った。 「弁解はしないよ。ごめん。すまなかった」  直人は、膝《ひざ》をぐっと開き、ぺこんと頭を下げた。心をすべて見せた少年のようなしぐさだった。それがよけい、周子の気持ちを苛立《いらだ》たせた。 「いいのよ、別に、わたしは……」  直人がもう自分と牧人の側に完全に戻ってきているとわかっていながら、周子はサディスティックな衝動にかられていた。ホッとした気持ちの反動だったのかもしれない。直人の関心は、あの夜の自分自身の身に起きたできごとにすべて向いている。もう一つの妻の身に起きたできごとなど、ちらとも想像だにしないであろう。  何も言わず夫を許すことで、あのことまでをも清算できるのではないか……。 「でも、誓ってもいい。あの夜だけのことで、彼女とはもう別れたんだ」 「そのあとも会っていたんでしょう?」 「もともと彼女は、結婚が決まっていた子だ。わりきっていたつもりだったんだろうけど……」 「現実は、そう都合よくはならなかったってこと?」 「出張から一週間後、彼女は休みをとって上京して来たんだよ。電話で呼び出されて、外で会った」 「まだ彼女の方は、あなたに未練があったってことじゃないの」 「結婚しても、ときどき会いたい。そう彼女は言ったよ。お互い、相手にわからなければいいじゃないの、とね」 「そのとおりじゃない」  そっけなく周子は言い放った。 「そのとき、俺ははっきり言ったんだ」  はっきり、と強調したので、直人の口から唾液《だえき》が飛んだ。身を乗り出し、両手をついた膝がぐっとまた開く。 「俺は、カッコ悪かったかもしれない。ずいぶん世間体にとらわれているのね、とか、なんていう自己保身なの、一度はあたしを抱いといて、なんて彼女にののしられたよ。だけど、俺は、君のようにスマートな恋愛ごっこはできない。何をしていても、妻と息子の顔がちらついてきてしまうとね。情けない人ね、とまで彼女に呆《あき》れられたよ。わからなければいいじゃない、とね。でも、俺は頼み込んだ。頼むから、家庭をかき回さないでくれ。抱いたのは事実だから、君の気がすまないんだったら、慰謝料を払う。ただ俺は、どんなことがあっても、家庭を手放したくはない。最愛の妻と可愛い子供。君と何度寝たって、それだけは絶対に変わらない。頼むから俺の家庭をほっといてくれってね」 「直ちゃん……」  周子は、唖然《あぜん》として直人を見つめた。直人の表情が、それほど真摯《しんし》なものだったのだ。 「本当に、そう言ったの?」 「ああ」 「彼女はどう言ったの?」 「アホらしい、そのひとことさ。それっきり会社に電話はかかってこない」 「うそ……」  思わず周子は、かぶりを振った。そこまであなたは卑屈になったの? そう言いたい気持ちだった。 「でも、なぜわたしに告白したの? 黙っていればわからなかったのに」  黙っていれば、そう……黙っていれば、わからない。 「だって、電話があっただろ? 知ってたんだろ、周子」 「電話?」  周子はハッとした。もしかして、あの無言電話のことではないのか。 「彼女が告白したよ。君んとこに昼間、何度か嫌がらせの電話をしたってね。奥さんも気づいているはずよ。気づいていてあなたを責めないのは、妻としての知恵よ。やっぱり、それも保身よ。家庭を乱したくないせいよって、そう言った。すまなかったね、嫌な思いをさせちゃって。電話でひどいことを言われたんじゃないのか?」 「えっ?」  その堀部みさとという女は、うそをついている、と周子は思った。無言電話しか自分は受けてはいない。 「忘れたわ」  だが、周子はかすかに笑ってそう言った。 「ありがとう」  直人が照れ臭そうに言い、頭を下げた。 「子供はやっぱりいいよな。子はかすがいって言うけど、本当にそうかもしれない。でも、それだけに、夫婦で面と向かって解決しなくちゃいけない問題を、子供にかこつけてそのままにしてしまいがちになる。言いたくないこと、触れたくないことはすべて、子供の後ろに隠してしまう。それじゃいけない、と俺は思う。この四か月、俺はそうだった。君とのあいだに気まずい空気が流れたりすると、『ほらほら牧人、遊ぼうぜ』などと言って、いち早く子煩悩《こぼんのう》な父親という仮面をつけて、君に悟られまいとしてきた。よくないに決まっているんだ、そういうことは」  自分に言い聞かせるように、直人は語った。周子は、息苦しくなった。それはそのまま、周子がしてきたことでもある、この四か月のあいだ。 「直ちゃん……」  夫が打ち明けてくれた。今度は、自分の番かもしれない。打ち明けるチャンスがあるとしたら、いまなのだ。いましかないのかもしれない。  直人が顔を上げ、周子を見た。  早く言うのよ。あの同じ日、上鷺宮の家で、何があったのか。  引き戸を閉めた隣の和室から、牧人の泣き声が聞こえてきた。 「あ、起きたみたいだぞ」  直人が、ほら、と顎《あご》をしゃくり上げ、周子は我に返った。目がさめたとき、誰の姿もそこにないと、不安にかられて赤ん坊は泣く。甘えるような呼ぶような泣き声。お腹がすいたときとははっきり違うその泣き方を、周子はもう聞き分けられた。空腹に気づいたらしく、泣き声は変化していく。  周子は、三分の一も飲まないコーヒーを残して、あわてて椅子《いす》から立ち上がった。   8  夫の言葉を信じよう、と周子は思った。直人が出かけてから、その思いは強くなる一方だった。少なくとも、あの話のあいだ、直人は目をそらさずにいた。視線をはずしていたのは、自分の方だった。  これからの人生は長い。牧人を一人の人間に育てるまで、わたしたちは力を合わせていかなければならない。これは、夫婦の関係でいろいろあるうちの、ほんの最初のつまずき、試練なのよ。いちばん目のハードルを飛び越えたところなんだわ、と周子は前向きに考えてみた。夜には離婚を考えていても、次の朝には、またやり直せるわよ、と楽観的に思い直せるのが人間だ。  家事をしていても、牧人の世話をしていても、直人が堀部みさとという情緒不安定な女に突きつけた言葉が、耳に心地よくよみがえる。家庭にしがみつく男は、確かにカッコよくは映らなかったかもしれないが、そんな直人が周子は好きだ。  ——結局、直ちゃんがいちばん大切なのは、この家庭なのよ。わたしと牧人がいる。わたしがそうであるように……。  夕方の五時頃。夕飯のしたくをしていたところに、電話が鳴った。牧人の離乳食も一日三回になり、大人の食事の時間にだんだん近づいてきた。夕飯どきになると,母親を独占したがってむずかるので、周子は牧人を背中におぶっていた。  電話に出ると、か細い女性の声が「もしもし、柿沼さんのお宅ですか?」と言った。すぐには久美だとわからなかった。 「周子、助けてぇ」  力のない、疲れきった声だった。わずかに媚《こ》びたような甘えが混じっている。その声に、直感的に、友達へのいたわりの気持ちがよみがえった。ほんのさっきまで、憎しみに似たものを引きずっていたのに。 「動けないのよ。かぜみたい」 「具合、悪いの?」  具合が悪いのは、声で十分わかった。 「三十八度五分くらいあるの。体が熱いんだか寒いんだか、わからないくらい。寝てたら治ると思ったんだけど、どんどんひどくなるみたいだし……」 「いつから?」  牧人が後ろから手を伸ばし、口に当てている受話器を取ろうとする。それから逃れるために、くるくると回りながら、周子は聞いた。 「寒けがしたのは昨夜から」  昨夜は、少し雪がちらついた。それが今朝は抜けるような青空で、放射冷却のためかぐっと冷え込んだ。 「じゃあ、ずっと寝てたの?」 「うん、外になんかとても行けない」 「薬、あるの?」 「バファリンだけ飲んだ」 「何もないんでしょう?」  一人暮らしで仕事が忙しい久美のことだ。たっぷりと買い置きしているとは思えない。久美の住むマンションは、歩いて五分ほどのところだ。入ったことはないが、外観はよく見ている。すぐ近くにコンビニがあるが、そこさえも行けないくらい熱があるのだろう。 「待ってて。すぐには行けないけど、何か持ってってあげる。かぜ薬も買って行くわ」 「でも、牧人君は? ご主人、帰りが遅いんでしょ?」 「暖かくして、一緒にいくから。心配しないで」  電話で話すのも苦しそうな様子だった。 「わたし、バチが当たったのかもしれないわね」 「バチ?」 「だって、周子にあんなひどいことを言っちゃったんだもの」 「ああ、あれはわたしもいけなかったのよ」  素直にその言葉が出た。あっけない仲直りだった。一方が体力的に弱ると、こんなにも心を開けるものなのか、と周子は驚いた。  牧人にご飯を食べさせてから行くことを約束し、電話を切った。慌ただしく離乳食を与え、おかゆを作る。離乳食用によく作るキイウイとみかんのヨーグルトあえを作り、タッパウエアに詰めた。冷凍庫から適当に、グラタンやピラフなどの冷凍食品を出し、買い置きしてあった蒸しパンと一緒に、スーパーの袋に入れた。  牧人のことが片づくと、今度は夫の方だ。肉じゃがとサバの味噌煮《みそに》を温めるだけにしておいて、テーブルにメモを残す。牧人をおぶったまま、ママコートを上から着た。玄関まで行きふと思い出し、台所に戻る。冷凍庫からアイスノンを取り出した。ずっと看病できるわけではないから、氷枕《こおりまくら》などより手軽だ。ついでに、解熱剤も薬箱から出した。  外に出る。よく晴れた夜だけに、澄んだ空気が皮膚にひんやりと感じられた。ベビーカーで来なくてよかったと思った。風をまともに受けるベビーカーでは、冬の夜は寒い。  住宅街を東中野方面に五分も行くと、久美の住む三階建ての『トーヨーマンション』が見えて来た。古ぼけた高層マンションが、駅の方へと何棟か続いている。背中が重くなった。牧人は寝てしまったのかもしれない。  すぐそばのコンビニエンスストアで、一リットル入りの牛乳と、ついでにオレンジ果汁を買った。レジの中には、鉛筆みたいな細い体型の二十歳そこそこに見える青年がいた。レジで支払いを済ませるとき、ここでいきなりナイフか何かを突き出してお金を要求したらどうなるだろう、とふと想像した。女だからとねじ伏せられてしまうだろうか。店内に五人はいる客たちに、バラバラと取り押さえられてしまうだろうか。いずれにしても、背中に赤ん坊を背負った女のコンビニ強盗に、みんな驚くことは間違いない。  買い物をしながら、周子はなぜかうきうきしている自分に気づいた。親友が高熱を出して寝込んでいるというのに、まるでどこかにピクニックにでも行くような、だが、目的地が秘密めいた場所であるような、そんな気分だ。長いあいだこういう気分は味わっていなかった。  他人に必要とされているという快感は、牧人で得られていたけれども、対等の立場の赤の他人にというのはまた別の快感がある。それに、この時間帯に子供をおぶって他人の家を訪問することは、いままでなかったことだ。日常をはずれた行為は、スリルとときめきを伴うものである。  周子は、久美が自分にSOSを求めたことに、優越感を覚えていた。結局、彼女には、仕事を離れたら、頼れる女友達などいはしないのだ。いくら新進気鋭の翻訳家だろうが、利害関係抜きで親身になってやろうとする殊勝な人間は、そうそういやしない。あの亀山という刑事に助けを求めなかったとすれば、一昨日の再会で、昔の恋がふたたび燃え上がったわけではなさそうだ。それとも、刑事はなかなかつかまらない多忙な人種なのかもしれない。  マンションの裏側に出た。一階には、狭いながらも庭が個別についている。二、三階はベランダだ。久美の部屋は、二階の三号室。外から見上げ、久美の部屋にあたりをつける。その部屋にも、両隣にも電気は点《つ》いていない。上の階と一階のいくつかの部屋には、明かりが灯《とも》っている。  庭の両端に、傘を逆さに立てたような形の背の低い庭園灯が立っているので、足元はさほど暗くない。  六時半。勤め人ならまだ帰宅していない時間だろうし、久美は、電気を消して眠ってしまったのだろう。  庭園灯を右に見て、建物の表に回ろうとしたときだった。建物の脇《わき》から黒い人影が飛び出して来た。 「あっ……」  思わず棒立ちになり、体を斜めに縮こまらせた。防衛本能かもしれない。背中の牧人を守ろうとしたのだ。本能的に、目もつぶったかもしれない。  人影は、やはり瞬間、立ち止まった。そして、周子の頬《ほお》に巻き起こした風を当てて、スーパーの袋をかすって走って行った。  後ろで、牧人が「いたいた」と弾むような高い声を上げた。起きていたのか、さっきの衝撃で起きたのか。誰かがいた、という意味ではもちろんない。最近、気に入ってよく発する喃語《なんご》であった。 「ねえ、危ないよね、牧人君」  周子は、動揺を鎮めるために声に出して言った。胸がドキドキしている。ケイが大学生をあやまって刺したとき、きっとこんな具合だったのかもしれない、と思った。いきなりこちらの胸に飛び込んで来て、そのときたまたまナイフの刃を向けていて……というふうに。  ケイのことをそろそろ忘れてもいいのに、ふとした拍子に思い出してしまう。ここまで来るまでに、すでに二回、彼を思い出している。マンションの玄関を入り、階段を上がり始めたら、まぶたの奥に何かの残像のようなものが浮かんできた。  光……人の目……男の目だ。  さっきぶつかりそうになったのは、男だった、と鮮やかに思い出した。よく光る、怯《おび》えたような、射すような目だけを、とっさにとらえた。すれ違ったとき、男の目の位置が周子の目線と同じ位置にあったように思う。 「何だか不気味よね」と、思わず小さくつぶやいた。それに答えるように、牧人がまた「いたいた」と言った。  203号室。野崎。ワープロ文字の紙のプレートがはめこまれている。  呼び鈴を鳴らす。しばらく待ったが応答はない。また鳴らす。「久美」と、両隣に支障がない程度に呼びかけてみる。応答はない。  ドアノブに手をかけた。かしゃりと下がる。ドアは開いた。中は真っ暗だ。 「眠っているの? 久美」  声をかけてから、玄関まわりの壁にスイッチを探し、電気を点けた。  パッ、と視野が生じた。前方にもう一つドアがある。 「久美?」  靴を脱いでフローリングの床に上がる。ドアを開けて、部屋の明かりを点けた。広々とした部屋だ。右手が少し奥まっていて、キッチンカウンターが見えた。突き当たりにカーテンが引かれている。横の長さのたっぷりある机が、ベランダ側に据えてある。  久美の姿はなかった。だいぶよくなって、外に買い物にでも出たのだろうか。だが、変だ。鍵《かぎ》が開いているなんて……。  室内に、何かのぬくもりが残っている。人のぬくもりが。そして、すえたような匂《にお》いも漂っている。  左手のベランダ寄りに、ドアが一つ見えた。白いペンキで塗られた木のドアだ。部屋の雰囲気作りのためか、下の方が格子になっている。そこから明かりがもれている。  周子はドアに近づき、頭の中にベッドでぐったりと寝ている久美を想像しながら、そっと開けた。  そこも暗かった。電気を点けた。  久美は、頭を右にしてベッドに寝ていた。だが、寝ていたのではなくて、横たわっていた。  尋常でないのは、その左腕がだらりと下方に伸び、布団を掛けていない姿ですぐにわかった。ギンガムチェックのネグリジェの裾《すそ》が割れて、ほっそりした二本の足が妙な形に開いている。 「久美!」  ベッドに駆け寄り、久美の腕に触れる。  と、背筋が凍りついた。目に入った久美の顔は、血の気が失《う》せていた。首筋には、黒ずんだ細い紐《ひも》が巻きつき、紫色に濁った太い線が描かれている。  死んでいる……。そのほかのどんな状況でもありえない。そのくせ、その目はこれから目薬をさすというふうに大きく見開かれているのだ。  牧人が足をバタつかせ、周子の背中に衝動を与えた。それで我に返った。ベッドの周辺には、クッションやぬいぐるみや衣類の類《たぐい》が散らばっていた。   9  昔、自分と関係のあった女が死んだ——その衝撃はまだ、亀山の中に定まった形をもって位置付けされていなかった。  しかし、自分の体の一部が死んだ——その感覚だけは、これからずっと、どれほど生きるかわからないが、けっして変わらないだろう、と亀山は思った。  駆けつけたとき、柿沼周子は思いのほか取り乱していなかった。だが、すぐに、それは放心していたせいだとわかった。ベッドのそばにペタリと座り込み、背中では赤ん坊が、その姿勢では不快だ、と訴えたげにのけぞりながら泣いていた。小さな靴下を履いた足の先が、カーペットの床を蹴《け》っていた。テディベアのぬいぐるみのそばに、スーパーの袋がころがり、牛乳パックの先がのぞいていた。  周子は捜査員に促され、背中の子供を下ろした。その子供は、帰宅していた夫に引き取られ、周子は一人、中野N署で発見当時の状況などについて聴取を受けた。 「かぜで苦しそうだったんです。五時頃電話がきて、子供の食事やらいろいろ済ませてから——あんまり待たせては彼女もつらいかと思ったんですけど——、子供と一緒に行きました。途中、コンビニエンスストアに寄って、牛乳などを買って……。マンションに着いたのは、六時半頃だったと思います。うちから行くと、マンションの裏側に出るんです。表に回ろうとしたとき、いきなり飛び出して来た男の人にぶつかりそうになりました。顔は……よく見ていません。ただ、あんまり背が高くなかったような……気がします。それで、ちょっと腹立たしく、なぜかドキドキしながらマンションに入りました。……鍵が開いていました。電気は点《つ》いていなくて……外から見たときも、部屋は暗かったんです。寝室のドアを開けたら、ベッドに久美が……」  時間をかけて、それらの状況を細かく聞き出した。  ぶつかりそうになった男というのに、捜査員たちは注目した。その男を中心に、聞き込みを始めた。現場の状況は、四か月あまり前の二件の殺人事件と似ていた。とくに、殺害の手口が酷似していた。麻縄で首を絞めたあと、死体に暴行して欲望を遂げている。太腿《ふともも》付近にべったりとついていた精液から、血液型がA型だとその夜のうちに判明した。  亀山は、翌日の午後、周子を家に訪ねた。子供は八王子に住む義母に預けたとかで——というより、彼女の様子から、義母が強引に連れて行ったという感じだった——、姿はなかった。  一人きりで柿沼周子という、最初に会ったときから何か謎《なぞ》めいたものを感じた女と対面したかったのだ。  亀山の前に柿沼周子は、一児の母や妻ではなく、一人の女として存在していた。  昨夜、よく眠れなかったのだろう。化粧っけのない顔はやつれ、目の下にうっすらと隈《くま》ができている。だが、薄くオレンジ色の口紅だけはつけている。子供を引き離され、心のよりどころがなくなった、というような魂の抜けた人間のような表情だ。  そろそろと一人分の紅茶をいれ、亀山の前に置いて、じっと自分の組んだ手の指を見ている。 「殺されたのは、六時から六時半のあいだ。つまり、あなたが訪ねたほんの少し前だったことになります」  亀山は言った。言ってから、久美の死を客観的に語っている自分に違和感を覚えた。本当なら、少なくとも二十四時間は、どこか海が見えるところで一人きりになりたい精神状態だった。病院のベッドで死にかけている自分を、体から抜け出した自分の霊が見下ろしている。——久美の凄惨《せいさん》な死体を見てから、それに似た感覚を引きずっていた。  周子は顔を上げ、恐怖のためか唇を震わせた。それは、自分の到着がもう少し早ければ、どうなっていたのだろう、という恐怖かもしれなかった。 「表でぶつかりそうになったという男のことですが……」  亀山は、言葉を選びながら切り出した。ある効果を狙《ねら》ってのことである。「いかがです、昨日は思い出せなかったことで何かありましたか。近所で聞き込みをしているんですが、目撃者はまだ現れていないんです」  周子は眉根《まゆね》を寄せ、「昨日お話ししたとおりで、ほかには何も思い出せません。というより、よく憶《おぼ》えていないんです」と、少し煩《わずら》わしげに答えた。翌日になって、亀山が一人きりで訪問したことに、本能的な警戒心を抱いている様子である。 「本当に、誰かとぶつかりそうになったんですか」  亀山は穏やかに言った。だが、反応は、ヒステリックに跳ね返ってきた。 「わたしが、うそを言ったとでもおっしゃるんですか」  周子は顎《あご》を上げ、組む指に力をこめる。 「いや、うそではないかもしれません。ですが、周子さん——こうお呼びしていいですか? 野崎さんがあなたをそう呼んでいたので——、あなたはよく憶えていないと言った。ぶつかったこと自体も、本当は現実ではなかったかもしれませんよ。人間には、ときどきあるんです、幻覚を見やすい精神状態になっていることが」  後半を語り始めたときに、すでに周子の顔色は変わっていた。何か理不尽な暴行を受けた、というように口を開け、声を失っている。  しばらくの沈黙のあと、周子は言った。「亀山さん、でしたわね。あなたは本当に刑事さんなんですか? いえ、その前に、本当に人間心理に精通している方なんですか? あなたのおっしゃること、どういうふうに受けとめたらいいのか……。幻覚症状にしてしまうなんて、とても信じられません。おまえは狂っている、と言われたようなものです」  憤りと呆《あき》れと軽蔑《けいべつ》が、口調にこめられていた。 「信じられないようなことが起きるのが人間ですからね。いや、正確に言いましょう。人間の心です」  言って、亀山ははじめて紅茶を飲んだ。二人分の葉っぱを入れたらしく、頭がすっきりするほど濃かった。冷めていたので、飲み干した。 「繰り返すのもバカバカしいくらいですが、でも、本当です。わたし、とっさに背中の子供をかばったんですから」  声に、冷静さが戻っていた。「男の人だった。それだけは間違いありません。瞬間的にでも、雰囲気でわかります。とくに、あの目は忘れません。下からのライトの中で、光って見えたんです。射るような鋭い目でした」 「眼鏡はかけていなかったということになりますね」  周子はうなずいて、「亀山さんは、捜査に心理学を役立てようとなさっている、そういう刑事さんなんでしょう? わたしをお試しになったんですね。幻覚だなんて言って、わざとわたしを怒らせてみたかった。そうですね」と、やや挑戦的な口調で言った。 「あなたを怒らせてどうするんですか」 「何事も疑うのが刑事だ、と聞いたことがあります」 「推理小説かテレビのサスペンスでですか」 「一般論です」  周子は、ムッとしたように言った。「それで、亀山さんは、わたしを一応疑ってみた。そうではありませんか? 確かにわたしは、三日前に久美とケンカをしました。言うまでもありませんね、亀山さんがその場にいらしたんですから。でも、女同士にはよくある感情のぶつかり合いです。あんなことで、久美を殺すわけがないじゃないですか。久美から電話があったんですよ。友達が困っているときに助けるのは当然です。かぜをひいている久美を、お見舞いに行ったからって、わたしが……。亀山さん、本気でそんなことを思っていらっしゃるんだとしたら、前の事件が解決しない理由がわかる気がします。形式的な質問だとおっしゃられたところで、わたしは許せません」 「あなたが殺したなんて、これっぽっちも思っていませんよ」  亀山は、右の親指と人差し指で、わずかな隙間《すきま》を作ってみせた。かつてこの二本の指が、久美の体の感じやすい部分に触れたことがあったと思うと、爪《つめ》をたてて壁をかきむしりたい衝動に襲われた。  周子はあっけにとられたような顔を向けている。 「でも、あなたが何かしらうそをついている、そうは思っているんです」 「どんなうそです」  見つめられて、顔を向けたまま、周子は亀山から視線だけはずした。 「さあ、それを知りたいんです」 「やめてください。禅問答をしているわけじゃないんですよ。刑事って、いつもこんなやり方なんですか? 久美を殺した男を、早く見つけてください! あの男ですっ!」  周子はきっとなって言い、もう何もしゃべらないというふうに横を向き、唇を固く結んだ。 「ぼくには、その人がうそをついているかどうかがわかるんです。そう言ったらどうします?」  唇を固く結んだくせに、周子は顔を前に戻し、「わたしの顔に、うそ、とでも文字が浮き出ているんですか。たとえばどんなうそです」と切り返した。 「そうですねえ」  亀山は腕を組んだ。「お子さんをお姑《しゆうとめ》さんに預けたと言いましたが、あれは、お姑さんが半ば強制的に連れて行かれたんでしょう。ご主人もその方がいいと言って。お義母《かあ》さんにしてみれば、あなたのお友達が殺されて、あなたがこうして巻き込まれている。そんな物騒でまがまがしい環境に大切なお孫さんを置いてはおかれないでしょうからね。それなのにあなたは、自分の意志で預けたような言い方をした。違いますか?」 「たとえそうだとしても、些細《ささい》なうそです。円満に生活をするための知恵です」 「なるほど」 「亀山さん。あなたは久美の話では、まだお独りのようですね。結婚生活に、いえ、夫婦のあいだにうそを作らないのがベストだ、そうお考えになっていらっしゃるのね。でも、それは、それこそうそですよ。相手のためを思っての、思いやりのようなうそだってあるんです、世の中には」  優越感のようなものが口調に混ざった。 「そうかもしれません」  あっさり亀山がうなずいたので、周子は拍子抜けしたような顔をした。 「ありがとうございます。参考にします」  沈黙が続く。周子の目に、警戒の色が濃くなった。  相手に聞こえるほど大きな溜《た》め息《いき》をついて、亀山は核心に触れた。 「ご存じですね、先日おうかがいしましたから。四か月前、上鷺宮でコンビニ強盗殺人事件がありました。事件のあった夜、さっきあなたがおっしゃった二件の殺人事件のうちの一件が、起きているんです。新聞にも一部出ましたから、お読みになったかもしれませんね。まだ報道は控えていますが、その二つは同一人物の犯行の可能性が高いんですよ」  もちろん、かまをかけてみたのだ。 「えっ?」 「指紋が一致しましたからね」 「指紋って……レジのカウンターの指紋と、ですか?」 「ええ」 「そんな……うそだわ……」周子は、視線を宙に向け、一点を見つめた。 「うそ、と言いましたね。なぜ、うそだとわかるんです」 「…………」 「周子さん」  すると、周子はきっと視線を戻し、亀山を睨《にら》みつけた。 「聞き違いじゃないんですか? 人間に幻覚があるように、幻聴もあるでしょう」 「とぼけたいんですね。あなたは、うそにうそを重ねて生きていけるタイプですか。いや、そうじゃない。ぼくにはわかる」 「占い師みたいなこと言わないでください。刑事なら刑事らしく、合理的に、理性で物事を考えて欲しいものですわ」 「一つうそをつくと、一つ前のうそがしゃしゃり出てくるものです。うそには、顔が、意志がありますからね」 「…………」 「あなたは、ご主人が出張から帰るまでどこへも行かなかった、買い物に出かけなかった。そう言いました。だが、隣の家政婦さんは目撃しているんです。事件の次の日、昼すぎでしたか、あなたの運転で自家用車で出かけたのを。後ろの座席には、男性が乗っていたそうですよ。……やっぱりあなたは、うそをついている。違いますか? それとも、家政婦さんの見間違いだ、幻覚だ、そう言い張るつもりですか?」 「う、うそです! 見間違いです!」  周子は、明らかに動揺していた。が、言葉には勢いがあった。 「ふきんのことはどうです。家政婦さんが家の前で拾ったそうですね。あなたは、何か目的があって、そこへ落としたのではありませんか? たとえば、そこにメッセージを書くかどうかして。誰かに助けを求めるために」 「な、何のことです。メッセージとか、助けとか、いったい何なんです。ヒデさんがそう言ったとしたら、思い違いです。……うそです! うそです!」  最後は、叫びになった。 「ふざけるんじゃない!」  叫び声に負けないくらい大きな声で、亀山は遮り、ソファを立った。  弾かれたように周子は口をつぐんだ。驚きと怯《おび》えの色が、その瞳《め》に生じた。 「久美は俺《おれ》にとって、大切な女だった。現在進行形で関係があったかどうか、そんなことは問題じゃない。俺の一部だった。愛していた。その女が殺されたんだよ。俺は、こんなところでケツを暖めていたかないんだよ、本当は。やみくもに走り回って、久美をあんな目に遭わせたやつを捜し出し、ひっつかまえてやりたい。八つ裂きにしてやってから、そしらぬ顔で、『正当防衛でした』と言って上司に突き出してやるね。あんたがついているうそで、俺のやろうとしていることの足を引っ張られちゃたまらん。ほんのわずかの手がかりでも、あんたの家庭の都合で燃えるゴミに出されたんじゃ、俺たちの執念はどうなる。いや、俺たちじゃない、俺の執念だ」  まぶたの裏が熱くなった。亀山は、子供の頃、泣き虫だったのを、いまになっても母親にからかわれる。よく近所の女の子たちに泣かされたそうだ。泣かした女の子の何人かは、結婚してまだ下町に住んでいる。  けれども、ここ最近、いや、ここずっと涙を流したことはない。人の死に無関心になっているのか、それが自分とは直接関係ない〈被害者〉でしかないからか。  事情聴取で泣く刑事は見たことがない、と深沢警部なら言うだろう。だが、それがどうしたと言うのだ。刑事が感情的になって何が悪い。俺の体の一部だった女だぞ。ほくろとなって、俺の体のどこかに残っている。 「別れたあとも、好きだったのね、久美を」  興奮した亀山を目のあたりにしてかえって肝《きも》がすわったかのように、周子は静かに言った。亀山は否定しなかった。 「亀山さんは、とても素直な人だわ」  興奮がやや引いて、亀山はソファに座った。自分がどう気持ちを高ぶらせていたのかは、よくわかっているつもりだ。だが、ときとして計算以上に興奮してしまうことがある。自分の感情をコントロールするのは、それだけ難しいということだ。 「でも、わたしが、たとえ何かを隠しているとしても、それが久美の事件と結びつくとは思えないわ」  はっきり何かを隠していると認めた、と亀山は周子の顔を正面から見つめた。すっかり冷静さを取り戻し、涙は引っ込んだ。周子は、意志的にか視線をそらさなかった。 「主人に言うと、わたしを脅迫するつもりですか? 出張中に、主人以外の男性を家に招いていた。その男と、車でどこかへ出かけた。わたしとその男とは親しい関係にある、そう主人に告げ口するおつもりですか?」 「いいえ、人の家庭に波風を立てる気は毛頭ありません。で、あなたは、ご主人以外の男性を家に招いていらしたんですか?」 「…………」 「どなたです、それは」 「刑事さんに、プライベートなことを言う義務があるんでしょうか」  亀山はまた溜《た》め息《いき》をつき、腕を組んだ。 「それより、わたしがぶつかりそうになった男を捜してください。彼が犯人に違いないんですから」  亀山は軽くうなずいた。確信を得られた、という印だった。彼女は、コンビニ強盗殺人犯と久美を殺した人間が、明らかに違う男だ、と確信している。確固たる証拠があるのだ。これほど強い確信は、その同じ時間帯に自分と一緒にいた、という以外何もないではないか。 「亀山さん。わかっていただけましたか? 確かにわたしはうそをついていました。でも、そのうそはどんな事件とも関係ないんです。わたしが自分の家庭を守るためについた、愚かなうそなんです。もし、コンビニで人を殺したその男が、上鷺宮のあのわたしの家に逃げ込んだなどとお考えでしたら、まったく的はずれもいいところです」  毅然《きぜん》とした口調だが、かすかな震えを隠すのには成功していない。  亀山は、黙っていた。 「わたしは見たんです。幻覚なんかじゃなくて」  自分の言葉の効果を知って安心したのか、周子はさらに言いつのった。「あの男は違います。ぶつかったのは、わたしと同じくらいの背丈でした。目線が一瞬、すぐ近くで合ったんですから。あの目は、異様に光っていました。違います、あの目は」  何が違うんですか、という言葉を、あえて亀山は返さなかった。周子は、ホッとしたあまり、自分がミスを犯したことに気づかないでいる。  ——あのコンビニ事件の男と久美を殺した男とは、背丈と目の光が明らかに違っています。だから、あの男は犯人じゃないんです。  亀山は、周子の言葉を脳裏で正確なものに翻訳した。  ここまでだな、と諦《あきら》めに近い、しかし、かなりの収穫を得た、という満足感で、亀山はソファを立った。  そこへ周子が見上げて言った。「久美があなたにうそをつかなかったと思っているんですか? なぜ彼女があなたから去ったか、本当の理由をご存じですか」   10  牧人のいない家。上鷺宮ほどの広い家ではないのに、空間がやけに広く寒々と感じられる。  亀山が帰ったあとも、周子はソファに座り込んでいた。刑事が飲んでいたロイヤル・アルバートのティーカップが、下げられずにテーブルにある。刑事は、周子が見たかぎり、一度しか口をつけなかった。それも、冷めた頃をみはからって飲み干したというふうに。  あの刑事は、どこまでわかっただろうか。二人の会話を、周子は脳裏で再現してみた。だが、感情のほとばしりを抑えきれずに口から出た言葉を、すべて憶《おぼ》えているわけではなかった。  亀山は、周子より興奮していた。感情をもろにぶつけてきた。だが、いま振り返ると、それも計算した上での演技だったように思える。  いや、そうではない。あれはやっぱり、演技などではなく、感情をストレートに吐露したのだ。  ヒデさんに、車で出かけたところを見られていたとは知らなかった。あのあと、何度か、スーパーでヒデさんと会っている。が、そのときには、何もそのことに触れなかった。夫の出張中の妻の不倫現場、とでも思ったのだろうか。  周子は、あんな酷い死に方をした久美だったが、それでも彼女が羨《うらや》ましい気がした。あれだけ、亀山という刑事に愛されている。 〈真実〉を伝えたときの、彼の一瞬、凍りついたような驚きの顔が、まぶたの裏に残っている。久美がなぜ自分にうそをつかねばならなかったのか、あの刑事はそのことに無頓着《むとんちやく》すぎたようだ。他人の心理分析はできても、愛する女の心理分析は苦手な男だと、周子は思った。犯罪捜査のときだけ、その能力を抜群に発揮する男にすぎないのだろう。  何とか切り抜けた、と安心してはいられない。ケイがこのまま永遠に捕まらないという保証はないのだ。  警察は、もしかすると、あの指紋一つで、本当にケイを連続婦女暴行殺人事件の、そして久美を殺した真犯人として、追うつもりでいるのかもしれない。  ——わたしは、どうすればいいの。  電話のベルが、考えをめぐらせていた周子を、現実に引き戻した。  以前の家とほぼ同じ位置に電話を置いている。姑《しゆうとめ》からかもしれない、と思って受話器を取る。 「はい、柿沼です」 「…………」 「柿沼ですが」  無言だ。ハッとした。うかつだった。あまりにも不用心だった。この電話の向こうには、あの男——久美のマンションの下でぶつかりそうになった男が、息をひそめて様子をうかがっているのではないか。 「どなたですか」声が震える。 「柿沼周子さん?」 「えっ?」  聞き憶えのある声。太すぎず低すぎない、わずかに甘さと照れを含んだような、澄んだ響きの声。  ケイの声だ。  ちょうど、彼のことを考えていたところだ。なんという偶然だろう。周子は、喉《のど》の奥にこみ上げるものを感じた。  恐れていた瞬間がきた。普通なら緊張して身構えてもいいはずなのに、刑事から解放された安堵《あんど》感が体の中に残っている。 「わたしです。あなたは……」  名前は知らない。ケイと呼ぶのは、周子の心の中だけだ。 「わかっただろ?」 「……ええ、でも……」 「誰かいるのか」 「いえ、誰も」 「旦那《だんな》は会社だろ。そう思って電話したんだ。子供は? 牧人君だったね」 「主人の母に預けてあるの」 「どうしてだよ、病気か?」 「いいえ、元気よ、牧人は」  答えてから、ケイは自分のことを聞いたのだ、と気づいた。「事情があって、一時的に預けているの」 「そうか」  周子は、不思議な懐かしさにとらわれていた。四か月の隔たりを感じぬ声だった。海外に行っていた弟から、ふいに電話があったようなそんな気分だ。 「どうしてここがわかったの?」  ケイはその質問には答えずに、 「引っ越したんだね。そういえばそんなことを言ってたっけ。もっと先の話かと思っていたけど」 「どうしてここが?」もう一度聞く。 「前のところに電話をしたんだ。電話番号、変わってなかったからね。ああ、電話番号は、あんたのところにいたときに、置いてあった手帳で見たんだよ。柿沼さんへのお届け物ですが、と適当な運送会社の名前を言ったら、転送してください、と言ってそっちの住所と電話番号を教えてくれたのさ」 「どこにいるの?」 「…………」 「わたしの隣に刑事がいると言ったら、どうする?」 「いるのか?」 「さっきまで……いたわ」 「まさか……」  まさか、がどういう意味を持つのか、周子は推し量った。だが、言葉は続かない。 「一昨日、わたしの友達が殺されたの。ここから五分のところよ。わたしが発見したの。それで、刑事がいろいろ聞きに」 「まさか、そんな……やっぱり、そうか」  受話器から溜《た》め息《いき》がもれた。 「やっぱりって?」 「その事件は知っている。写真入りで、結構大きく取り上げられていたからね。売れっ子の翻訳家だとか。だけど、まさか、そんなことあるはずない、そう思っていた。確か、野崎久美だったね。名前に聞き憶えがあった」 「よく憶えているのね。昔の友達よ」 「俺《おれ》がいたとき、電話がかかってきたよな。高校の同級生だったっけ」 「記憶力、いいのね」 「あんたの顔も憶えている。赤ちゃん、大きくなっただろうな。一歳までって、人間が一生のうちで一番成長する時期なんだってね」  その牧人の顔はもう想像できない、と言うようにケイは寂しげに笑った。 「犯人はまだ捕まらないのか」 「ええ。……でも、わたし、見たの」 「えっ?」 「絶対、彼が犯人よ。マンションの外でぶつかりそうになった男がいたの。久美の部屋から逃げ出して来たんだわ」 「どんなやつだった?」  ケイは息を殺した。 「あなたよ」 「…………」 「うそよ」  自分は何を言っているのだろう、と周子は思った。上鷺宮の家で一昼夜、恐怖にさらされたことへの復讐《ふくしゆう》のつもりか。いや、違う。復讐するつもりなど、そのときもいまも、考えたことはないし、考えてはいない。いま、もっとも心が通い合うのはこの男なのだ。二人だけの秘密が、電話線を通して二人の心をつないでいる。 「でもね、警察は、あなたの犯行じゃないかと見ているようよ。前に二件、同じような事件があったでしょう。そのうちの一件とあなたの事件、指紋が一致したの。ニュースでもやったから、知ってるでしょ?」  あなたの事件、と周子は表現した。「わたしがぶつかりそうになった男も、あなたじゃないか。そういうことにしたいらしいわ」 「冗談じゃない。俺じゃない。あの事件があったとき、俺はあんたの家にいた」 「ええ、知ってるわ」  ふと、この電話を誰かが盗聴していたらどうしよう、と思った。だが、あの亀山という刑事が、そこまでするとは思えなかった。単独で、自分の疑問を解決するためにやって来た、彼の訪問の目的はそれらしかった。 「知ってるけど、でも、言えないわ」 「なぜ言わない」 「…………」 「周子さん、あんたはなぜ、俺のことを言わなかった、刑事にも旦那にも。旦那にも言ってないんだろ?」  周子さん、とケイは名前を呼んだ。耳元がくすぐられた気がした。  沈黙が肯定だと、ケイは受け取ったようだ。 「俺が捕まったら、あんた困るのか?」  困る、と答えるかわりに、「逃げとおしてね」と周子は言った。 「俺が捕まって、あんたのことを言うと困るんだな」  困る、とはやはり答えられなかった。困ると言えば、ケイがその困ることをする羽目になるような不安を感じた。 「どうして、いま、電話してきたの? わたしは、あのあとも上鷺宮にいたわ」 「あそこは危ねえ、危ねえ。いつ刑事と出くわすかわかんねえところだからよ」  意識的にかぞんざいな口調で、ちょっと愉快そうに言った。だが、かなり無理しているのが周子にはわかった。 「でも、ハンカチは送ってよこしたじゃない。そんな必要なかったのに」 「借りたものは返す。それが俺の主義でね」 「あのあと電話した?」 「いや」  それではやはり、しばらく続いたあの無言電話は、堀部みさとがかけていたのだ。 「電話したのは、あんたの声を聞きたかったからさ」 「電話しない方がいいと思うわ」 「わかってる」  言って、ケイは電話口で考え込んだらしかった。「あんたは、その男を見たんだろ? だったら、相手もあんたを見ているんじゃないか」 「暗かったし、一瞬だったから、よく見てないの。でも、あなたとは違った。それははっきりわかったわ」 「それはよかった」  ケイは笑ったが、すぐに笑いを引っ込め、緊張感を声にこめて言った。「だけど、相手はわからないじゃないか。あんたをはっきり見ているかもしれない」 「それはわからないけど。赤ちゃんをおぶっていたくらいは、わかったかもしれない」  どちらの方が相手を見やすい位置にいたか。あの時間で、どれだけ相手の顔を記憶にとどめることができたか。  自分とあの男とでは、条件に違いがあったかもしれない、と思って、背筋にまつわりつくような恐怖を覚えた。 「気をつけた方がいい。あんまり外を出歩かない方がいいよ」 「あなたにそう言われるのは、複雑な気持ちだわ」 「…………」 「誰かがいきなり飛び込んで来ることが、世の中にはあるから」 「悪かった」  と、ケイはぽつりと言った。「あんたにあやまってなかった、俺」 「あやまるために電話をかけてきたんじゃないでしょう」 「…………」 「亀山っていう刑事よ。ここに来たのは」  周子は、矛先を変えた。悠長に話してはいられないと気づいたのだ。彼には、逃げとおして欲しい。そのための情報を与えるのが、いまの自分の役目だ。 「捜査一課の刑事なの。久美と一緒に会ったことがあるけど、ずいぶん鋭い人だわ」 「なぜ刑事なんかと会った」 「彼女と、昔、つき合っていたのよ」  刑事との結びつきが、すぐに呑《の》み込めないのか、ケイは沈黙した。 「心理学の博士号を持った異色の刑事らしいわ。若いけど、それだけに怖い。テレビでも小説でも出会ったことのないタイプの刑事だった」  自分の受けたショックと動揺の大きさを伝えようと、周子は早口になった。「わたしが外でぶつかりそうになった男、あれはわたしの幻覚ではなかったか、と言うの。そんな男、本当はいなかったんじゃないかって。彼に言わせれば、わたしはうそつきなんですって。あの日、車で出て行くのを隣の家政婦に見られていたのよ。後ろにあなたが乗っていたのも見ていた。そのことをわたしが否定したものだから、疑いを持たれてしまったわ」  ショックと動揺は、電話の向こうのケイにも伝染したらしい。言葉を失っている。 「わたしは久美と、何日か前にその刑事の前で、言い争いをしているの。それで、わたしにも殺意があったのでは、と思ったみたい。もっとも、そうやって揺さぶりをかけるのが目的だったらしいけど」 「ばかな」  と、ようやく吐き捨てるようにケイは言った。「あんたに人を殺せるはずがない」  その言葉は、周子の中に、悲しくて切ない複雑な感情の渦を巻き起こした。もう時間は元に戻せないけれども、ケイだって殺人まで犯す必要はなかったのだ。たった何万円かと引き替えに。 「どこまで気づいているんだろう、その亀山って刑事」  そわそわした声で、ケイは救いを求めるように聞く。 「鋭い人だから、ヒデさん——家政婦さんだけど——、彼女が見たっていう男が、万が一コンビニ殺人犯だったら、と推理したでしょうね。犯人は、住宅街に逃げ込んで、どこかに潜んでいた。そう思っているようだから」 「…………」 「それに、久美が実際にあったとおりのことを、架空の話として、わたしと亀山刑事の前で披露してみせたのよ。いま思うと、わたしはおかしなほど動揺して、強く否定してしまった。あの様子が、心理学博士の目にはどう映ったか」 「黙っていたら、俺をかくまったと思われて、あんたも罪に問われるんじゃないのか?」 「かもしれない。でも、言えないわ。わたしには……家庭があるもの。牧人がいるもの、主人も」  直人のことは、ほんのつけたしのようになってしまった。 「家庭、か」  ケイは、溜《た》め息《いき》をつく。「俺にとっては、はるか昔に崩壊したようなものさ」 「こんなことを言ってたわね。あなたのお母さん、いないいないバアをしているうちに、本当にいなくなっちゃったって」  その意味を、何通りか周子は考えてみた。 「おふくろは死んだのさ」  ケイは、あっさりと言った。感傷的になりたくなかったのかもしれない。 「俺が三歳のときに。憶《おぼ》えているのは、いないいないバアをしていた母親の姿だけでね。もっとも、そんなのはまわりに言わせると幻想だとさ。三歳の記憶なんか残っているわけないってね。だが、俺ははっきり憶えている。親父は厳格なやつでね。家具造りの職人だった。酒好きで女好きでもあった。線香の匂《にお》いがまだしているうちに再婚したよ。だけど、その再婚相手が、やな女でね。しょっちゅう親父と金や酒や娘のことでケンカしてた。ああ、俺より一つ年下の娘を連れて再婚したのさ。だから、俺にはいきなり血のつながらない妹ができたってわけ。ガキにとっちゃ、けっこうな戸惑いだったぜ。けど、俺の妹、母親に似ず、素直そうなはにかみやの女の子だった。兄弟ができたのははじめてだったからね、俺はどうつき合っていいのかわからなかった。心の中じゃ、可愛いやつだな、やさしくしてやろう、と思うものの、態度に現れるのはその反対でね。まつわりつくあいつを、人が見ていないときは黙って相手にしてやるものの、誰かが見ていると恥ずかしさもあったのか、あっちへ行け、と冷たくあしらっていた。  だけど、兄弟はどうあるべきか、なんてそう悩む必要もなかったな。その子は——みゆきって名前だったけど——交通事故で、あっけなく死んじまった。小学校二年のときだよ。だから、一緒に暮らしたのは、三年足らずってことになるな。ようやく俺も、妹という存在の手ごたえのようなものをつかみかけたときだったから、……ショックだった。だが、それよりショックだったのは、もちろんみゆきの母親で、その事故をめぐり、親父とママハハの、罪のなすり合いが始まった」  ママハハ、とくっきりと発音して、ケイは身の上話を続ける。「というのもさ、親父が、自分の道楽にみゆきをつき合わせていたときに起きた事故だからなんだ。パチンコに熱中しているあいだに、みゆきは退屈して駐車場に出た。そこで、ちょうど出て行こうとした大型トラックに巻き込まれたのさ。ちっちゃい子でね、死角に入っていたらしい。  みゆきが死んでからは、家の中は、口ゲンカで始まって、最後は手が出るケンカで終わる毎日だったよ、親父とママハハが。それなのに不思議なもんだな、それから二年もあの女は家にいたんだぜ。新しい男ができて、出て行くまで。あの女がいなくなっちまってから、親父はひげを抜かれた年寄り猫みたいになった。黙々と仕事をし出したよ。けれども、酒だけはやめなかったな。俺が高校を出たと同時に、肝臓をやられて逝っちまった。  それから、俺は天涯孤独さ。ああ、この言葉、俺は好きだぜ。仕事はいろいろやった。高校の先輩に紹介してもらって、電気屋に勤めたり、自動車の整備をしたり、ハンバーガー屋で『いらっしゃいませ』と言ってみたり、宅配ピザの出前をやったり……。俺、数字に強いんだ、これでも。売上の計算を任されたことだってある。ああ、それからさ、渋谷《しぶや》を歩いていたときに、スカウトされたことがある。メンズ雑誌のモデルやりませんか、って。スーツを着たお兄ちゃんにね。結構、しつこかった。けど、俺、モデルやるほど背が高くないからね。モデルといっても、いかがわしいやつじゃないか、と雰囲気でわかったね。俳優養成所へも誘われたことがあったよ、二十歳のときだったか」  ケイの声に、やや得意げな響きが感じられた。自分には存在価値があるんだ、と自己主張しているような響きだった。  ケイなら、モデルにも、俳優養成所にも誘われただろう、と周子は思った。磨けば光るようなダイヤモンドの原石を、彼は内に感じさせる男だ。 「真面目《まじめ》に働いていたのに、どうしてコンビニなんかに?」 「その質問は、二度目だな。前には、真面目に働いていたのに、ってのがつかなかったけど」  と、ケイはそこで笑って、言いつのった。「たいした理由はないさ。流行《はや》っていたから……ってのは、あながちうそじゃない。銀行強盗より手っとり早そうだったからかな。バイクを買い替えるのに、五万円足りなかった。ただそれだけさ。俺にとっては、バイクがたった一人の心を許せる友達なんだ。孤独を感じないですむというか、走っているときだけ、顔も憶えていない母親を近くに感じていられるというか」  口調がしんみりした。それを隠すように、声のトーンを上げた。 「でも、できるなら、三十万くらいはもらってやろうと思っていたのにさ。計算違いで、とんでもなく高くついちまった」  もう取り返しがつかない、と悟りきっているようだ。 「計画も何もなかったの?」 「あったといえばあったし、なかったといえばなかった。下見のつもりで行った、とは話してあったよな。あそこは、バイクでよく通っていた場所だった。夜なら、どこかにバイクを停めておいて逃げきれそうな気がした。だけど、あのときはもちろん、バイクでなんか行きはしなかった。計画どおりにやらない、それが俺の昔からの悪い癖でね。焦って、とんでもないことをやらかしちまう。慎重にやれば、指紋なんかつけなかったのにさ」 「あなたの指紋、どうして殺されたOLの部屋についていたの?」  ケイが、何でも話す気になってくれていそうに思い、機会を逸せずに聞いた。 「ああ、あれか」  と、ケイは、舌を鳴らした。「すぐにはピンとこなかったけど、いろいろ思い出してみたんだ。で、わかったのは、あそこにピザを届けたらしいってこと。どこかのアパートに届けたことがあって、わりときれいな女が玄関に現れたのを憶えている。その女、『あの、ちょっと見てくれません? 換気扇のところの電球が、うまく入らないの』と言って、俺に電気屋になれ、と要求してきたんだ。頼まれたら嫌とは言えない性格だし、配達のついでだからね、やってやったよ。そのとき、ガスレンジのまわりに触ったりしたかもしれない。まあ、よく憶えてないけどさ、そんなことなんて」 「そうだったの」  亀山刑事も知らないことを、自分は知ってしまった。周子は、そのことが不思議でたまらなかった。現実なのに、夢の世界で起きていることのように思える。一つの事件の背景なんて、そんなに複雑なことはないのだ。人々は、思いがけないところで、それとは知らずに、それぞれかかわり合っている。影響を及ぼし合っている。それは、ところてんの筒のようなものだ。こちら側を押せば、押した分だけ、あちら側が飛び出る。 「俺の自供、全部、その亀山博士とやらにチクるかい? 旦那には知らせないことを条件に」  周子にその気がないとわかっていて、ケイは軽口を叩《たた》く口調で言う。  そのとき、玄関で物音がした。ノブが動くような音だ。 「誰か来たみたい。主人かしら」  ハッとして早口に言い、送話口を手で押さえた。  耳をすませる。鍵《かぎ》はかけてある。直人であれば、チャイムを鳴らすか、持っている鍵で開けるか、のはずだ。確かに、ドアノブが回るきしむような乾いた音がした。 「誰か来たのか?」  受話器を耳に戻すと、ケイが聞いた。 「わからない。でも……もしかしたら、刑事かもしれないわ」 「…………」 「注意してね。電話も危険だわ。かけない方がいいかもしれない」 「あんたの方は?」  ケイの声が、不安な色を帯びた。「誰が来たんだ、いったい。なあ……」  もう一度、ドアのレバーノブが動く音がした。さっきより高く響いたその音に、周子は口から心臓が飛び出るかと思った。  思わず受話器を下ろしてしまった。胸が脈打っている。刑事が、こんなことをするはずがない。誰かが、様子をうかがっている?  周子は、スリッパを脱いで玄関に向かった。足音を外に知らせるのも怖かった。   11  野崎久美という女を、いったい自分はどこまで知っていたのだろう……。柿沼周子から聞いた話は、亀山に衝撃を与えた。  久美が自分から去って行った理由を、亀山は自分なりに考えたつもりだった。そして、自分なりに理解して、ふっきれたつもりだった。もっとも、そこまで到達したのは、刑事として仕事を始めてだいぶたってからだったが。  亀山が大学院に進み、久美が就職してまもなく、二人のあいだに人生に対する価値観のずれが生じた。亀山が自分の道を迷わず決めて進み出したのに、もともと独立心と自尊心の強い久美が、仕事への迷いもあって模索を続けていた。彼女なりに遅れを意識し、焦りを感じていたのだろう。それに気づかずに相談にのってやれなかった自分に、久美は失望したのだと、亀山は思っていた。  だが、もう一つ大きなきっかけが久美の側にあったとは、まったく知らなかった。  ——久美は、俺《おれ》の子供をみごもっていた?  なぜ、久美は黙っていたのだ。自分だけで結論を出してしまったのだ。  亀山は、激しい後悔に襲われた。久美が発していたサインを見逃していた自分に、腹が立った。自分は、二人の生命を助けられなかったことになる。 「亀山、どうした。大丈夫か」  滝本の言葉で、我に返る。 「いや、別に、何ともありません」  感情を隠すのがなんて下手なんだろう、と自分でも思った。  青柳美喜の部屋の鍵のつけ替えを行った『鍵のハシモト』に、二人は来ている。西池袋駅の近く、雑居ビルの二階だ。「鍵のことならなんでも——取りつけ・交換・診断」と看板に出ている。  応接室にいる。五時を回り、女子社員が二人、「お先に」と高いソプラノで挨拶《あいさつ》をするのが、それに「お疲れさま」と何人かが答えるのが、薄いドアを通して聞こえた。 「そうか? ガイシャが知り合いだったのが、こたえているんじゃないのか」  滝本は、先輩らしく亀山の心中を察して言った。「昔の恋人か?」 「…………」 「深沢さんなあ、姪《めい》ごさんを亡くしている」  滝本が、唐突に深沢の話題を出した。 「深沢さんが?」  初耳だった。 「通り魔に刃物で切りつけられて、可哀想に翌日死んだ。おまえが刑事になる何年も前のことだよ」 「知りませんでした。深沢さんにそんな過去があったなんて」  あの豪快に笑う深沢だが、ときどきチラとのぞかせる寂しそうな影が、気になっていた亀山である。 「深沢さん、人前では涙も見せなかった。あそこは女の子がいないから、自分の娘のように可愛がっていた姪ごさんだったのに。だけど、とうとう自分で犯人をひっつかまえたよ。もっとも、目撃者は大勢いたんだけどね。二週間、東北地方を逃げ回っていたらしい」 「そうですか」  胸の奥から、苦くて温かい液体がこみ上げてきた。内心で、俺も久美を殺したやつをひっつかまえます、と深沢に誓う。  応接室のドアが開き、えらの張ったがっしりした体格の男が入って来た。 「藤森です」  と名乗り、会釈をして、二人の前に座る。  聞いていた話では、藤森隆二は、二十六歳。青柳美喜のアパートの仕事を終えたあと、会社を辞め、アメリカ西海岸に放浪の旅に出かけた。半年の予定だったが、家の都合で少し早めに帰って来たという。帰国したのは、ほんの昨日だったようだ。 「放浪の旅とはいいですね」  滝本が多少皮肉をこめて言ったのに、 「いましかできませんからね。結婚したらやってられない。だから、思いきって行って来ました。いやあ、金なんか、アルバイトをしながら何とかしのげるもんです」  と、意に介さずといった調子で、あっけらかんと聞かないことまでしゃべった。 「で、気になることというのは何ですか」  と、滝本がさっそく本題に入る。  藤森隆二は、自分の留守中、以前の会社が仕事を頼まれたアパートで殺人事件があったことを、すぐに家族から聞かされたという。彼は犯行があったとき、日本にいなかったのだから、事件とかかわりがないのは明白である。 「告げ口するようで嫌なんですけどね」  顔をしかめて前置きをする。 「情報を提供する、と思ってください」  と、亀山は、藤森の心の負担を和らげた。 「そうですね」と、藤森はホッとしたような表情になって、次のように語った。 「僕の専門学校の——ああ、僕は東京工学学院で、機械工学をちょっと学んだんですけど——、そこの同期のことなんです。そいつと、会社を辞めるちょっと前にばったり池袋で会いましてね。その日は、休日だったんですが、整理のために会社に出る予定でいました。鍵《かぎ》関係の会社に勤めていると言うと、彼は、電子錠だのカード型のキーだのの開発研究に携わる仕事がしたい。それでいま、アルバイト中だ、と言うんですね。懐かしくなって、酒でも飲もうという話になって、整理が終わるまで待っててくれと僕は言いました。そしたら彼は、さしつかえなければ会社で待つよ、と気軽に言ったんです。で、連れて来ました。ちょうどその前の日、あのアパートに仕事に行ってました。その関係のリストが、僕の机のまわりにあったような気がします。一度、僕は席を外しているんです、荷物のことで。……普通は、顧客関係の資料のある場に、外部の人間を入れないんですが、その……いや、彼を信用してましたし……。もしかしたら、その、一部屋分の鍵をコピーする時間はあったんじゃないかと……。いやあ、でも、まさかそんなことはないと思いますけど。でも、気になることがほんのひとつまみでもあると、気持ちが悪くてたまらん性格なんで、僕は」  亀山と滝本は顔を見合わせた。滝本の目が、じゃあ、その男が、もしかして青柳美喜の部屋の鍵を持ち出すか、その場で、粘土かチューインガムのような柔らかいもので型取りするかしたんじゃないだろうか、と疑問を投げかけてきた。 「その男の名前は?」滝本が聞く。 「田川です」 「田川……何です?」  ハッとして、亀山は聞いた。『オカハチ工務店』で、一時アルバイトをしていた三人のうちの一人に同じ名前があった。 「田川洋一ですけど」  田川洋一、同姓同名だ。  アルバイトをしていた三人に関しては、昨日の時点で、松浦公雄だけアリバイ確認ができていた。長谷川祐也は、当時のアパートを引き払い、和歌山の郷里に帰っていた。捜査員が、昨夜、和歌山に飛んだ。田川は、アパートにも不在で、勤め先も一昨日から欠勤していた。 「紛失した鍵はなかったんですよね」  冷静さを失わずに滝本が確認した。 「ええ、だから、田川がどうのこうの、とは……。僕の思い過ごしかもしれません」 「その田川洋一さんは、どんな性格の人間でしたか」  亀山の興味は、刑事から心理分析家寄りに傾いていた。 「どんなって、おとなしい男でしたよ。当時、アパートが近かった関係で、何となく話すようになっただけで。うちには来たけど、こっちが行くのは嫌がるような、自分に見せたくない部分を作るというか、孤独を好むというか、変わったところがありましたね。本人は、隠していたけど、ほかから聞こえてきたことがあったんですよ」  藤森は、ちょっと言いにくそうに言葉を切って、「学院にいた頃、映画館で痴漢騒動があったらしくて、その女子大生からうちの学院に抗議が入ったらしいんです。持っていたテキストがうちので、一緒にいた友達と追いかけてとっちめたそうなんですよ、女は怖いというか勇ましいというか」 「それが、田川洋一さんだと言うんですか?」  亀山に藤森は、ええ、とうなずき、「とてもそんなことやりそうな男には見えないんですが、魔がさしたんでしょうか。……あっ、でも、だからってあいつが、ということには……」と、困ったように言葉を濁す。 「ともかく」  と、滝本は、藤森に微笑《ほほえ》みかけた。「情報をくださって、ありがとうございました」  藤森が部屋を出て行こうとしたのと、残っていた社員の一人が顔を出したのと、ほぼ同時だった。 「電話が入っていますが」  と、いちばん若そうな社員が言った。  応接室の隅にある電話まで行き、滝本がとる。滝本は、ふむふむ、と受話器を握りながらうなずいていたが、「えっ? そうか」と驚きの声を上げてから、また何度かうなずいて電話を切った。そして亀山を向く。 「野崎久美は、一週間ほど前に、鍵をつけ替えているらしいんだ。さっき管理人が、自分の預かっている鍵と合わないんでわかった」  久美の部屋から二つ、部屋の鍵は見つかっている。 「普通は、管理人を通すことになっているのだが、勝手につけ替えたらしい。二、三日のうちに届け出て、管理人に鍵の一つを預けるつもりだったんだろう」  滝本の言葉に、亀山は、あっ、と思った。 「久美は、とても用心深い女だったんです」〈合言葉〉遊びのことが頭に浮かんだが、もちろんそんな話はできない。「だから、あの二つの殺人事件が解決していないのを不安に思って、念のためつけ替えたんだと思います」  ドアチェーンを外してあったのは、まもなく周子が見舞いに来てくれることになっていたからだろう。 「用心のためにやったことが、こんな結果になるなんて……」  亀山は唇をかんだ。若い女性が暴行されて殺される、という身も凍るほどの事件を気にかけていたから、〈鍵〉に注意が向いたのではないか。なんという悲劇だ。後悔してもしたりない。が、思考回路をストップするな、と頭の中で命令があった。 「滝本さん、じゃあ、彼女がつけ替えを頼んだ業者を当たれば……」   12  直人の帰りが遅い。八時を回っている。いつもならけっして遅い時間ではないのだが、こういう状況である。「残業なんか勘弁してもらって、すぐに帰るよ」と言って出て行ったのに。  六時に姑《しゆうとめ》から電話があり、「これから牧人、ご飯を食べるところよ」と、嫁が殺人事件にかかわっているというのに、なんだが弾んだ嬉《うれ》しそうな声で電話をしてきた。「周子さん、外に出ちゃだめよ。わかってるでしょ? 刑事さんにもそう言われたんだから」と、家にさえいれば大丈夫、と別段心配もしていない様子だった。「牧人の声を聞かせてください」とは、自分の心細さや寂しさを見せてしまうようで、口に出せなかった。「あら、元気よ。全然、泣かないし。おばあちゃんで十分なんじゃない、牧人は」などと皮肉を言われそうな気がした。案の定、「牧人、お腹すいてて、電話に気が向いてないみたい。じゃあ、また電話するわね」と、電話を切られてしまった。  周子はといえば、夕飯をきちんと食べる気にはなれなかった。もらいもののカステラを少しつまんだ程度だ。  ドアチェーンはしっかりかけてある。ケイとの電話の最中に、玄関でした物音。ドアノブがきしむような音。周子はおそるおそる玄関のドアに近づいて行って、ドアスコープから通路をのぞいた。狭い視野には、何も飛び込んでこなかった。ドアを開けて確認する勇気はなかった。  あれから、誰かがドアノブに触れ、動かす気配はまったく感じられない。  ドア一枚隔てた向こうが、外だというこころもとなさに周子は怯《おび》えていた。オートロック方式でない家族向けの中古マンションの暮らしとは、そういうものだ。が、周子はそれに慣れていない。庭があって、門があって、というように外に到着するまでいくつかクッションがあった暮らしが懐かしい。もっとも、だからといって他人が侵入して来ないとはかぎらないのだが。  怖いので、玄関の照明は点《つ》けたままにしてある。  周子は、一人暮らしをしたことがない。結婚までは青森で暮らしていた。高校を出て、市役所に勤めた。居心地は悪くなかった。が、五年もいると、婚期を逃すよ、と周囲がうるさく言うようになった。煩《わずら》わしいと思ったけれども、そうかな、という気にもなった。二十代も後半になって、仙台の営業所で仕事をしていた直人を、父親の知人から紹介された。いずれは東京に転勤になる、とプロポーズのときに直人は言った。都会への憧《あこが》れの気持ちがなかったといえばうそになる。  周子の生活は、いつでも誰かに頼れるという安心感で支えられていた。高いところの照明器具の電球が切れれば、「あなた、替えて」と、直人に頼める。ベビーカーの車輪のネジがとれれば、自分でできそうだと思っても、帰りを待って夫に修理してもらう。  その点、久美は……と、久美の生活ぶりを想像した。  一人で心細い夜があっただろう。ドアの外で物音がカタンとしただけで、耳に神経が集中し、眠れずに恐怖で震える夜を過ごしたこともあっただろう。  ——鍵《かぎ》は開いていた。久美が自分で開けたのだろうか。いいえ、久美がそんな不用心であるはずがないわ。誰かが合鍵を持っていたんじゃないかしら。拾ったか、作ったかして。それとも、久美はわたしが来る頃だからと思って、勘違いしてドアを開けてしまったのかしら。  どう考えても、あの状況は、久美が自分から犯人を部屋に入れた感じではなかった。電気が消えていたのは、犯人が逃げるときにすべて消したのだと思われた。久美がベッドで横になっていたところへ、チャイムも鳴らさずにいきなり犯人が押し入った、そんな状況を想像させた。  電話が鳴った。ビクッとして、電話台を見る。直人であってくれればいい。いま駅だけど、これから帰る、という電話であってくれないかしら。祈るような気持ちで、受話器を取った。 「……もしもし?」 「あの、柿沼さんのお宅ですか?」  晴れやかな男性の声だ。そう、いつかかかってきたことのある外車のセールスマンの声に似ている。声が近くに聞こえる。 「はい、そうですけど」 「ご主人、お帰りになりましたか?」  直人でなかったのにはがっかりしたが、直人の知り合いらしいと知って、少しホッとする。 「いえ、まだですけど。どちらさまですか」 「あ、いえ、お帰りになっていらっしゃらなければ結構です。また、会社の方にでもお電話させていただきますから。夜分、失礼しました。では」  営業的なていねいな口調で、男は電話を切った。  受話器を置いたとたん、また電話がかかった。出てみると、今度こそ直人からだった。 「ああ、直ちゃん、遅いじゃない」  安心したあまり、甘えるような口調になった。 「ごめん、ごめん。いやあ、トラブッちゃってさ。お得意さんへの納入、間違えちゃって。俺《おれ》の責任だから、あとしまつで大変だよ」 「そんな……。時間かかるの?」 「ちょっとつかまらない人がいて。でも、すぐに片づけて帰る。大丈夫? そっち。亀山って刑事が言うには、家の中から一歩も外に出なければ大丈夫だろうって。鍵をかけてチェーンをかけて。かけてるだろ?」 「もちろんだけど」 「俺、ボディガードでもつけてくれ、って警察に頼もうかと思ったんだけど、そこまでやるのもなあ、なんだかおおげさだし。そいつ、ああ、君がぶつかったやつ、犯人だって決まったわけじゃないだろ? あっちだって、たとえ君の顔をチラと見たとしたって、どこの誰だかわかったはずがないしね」  偶然知ってたらどうするの? と言いたかったけれども、意外なほど楽観的な直人の言葉に、言い返す気力も失《う》せてしまった。 「誰が来ても、絶対に開けるなよ。そうだなあ、夜遅くに来る宅配便とか郵便屋とか、そう米屋とか酒屋ってのもあるな」 「お米なんか頼んでないわよ」 「いまのはたとえだよ。ああ、さっき八王子に電話したら、牧人、もう寝てるって。お風呂《ふろ》に入ったら、おふくろを手こずらさずに寝ついたって。いい子になったって、おふくろ感心してたぞ」  自分のところより先に、八王子の義母のところに電話をしたと知って、周子は面白くなかった。 「心配なら、俺の後輩、そっちに行かせるよ。一人じゃまずいから、女友達でも誘ってもらって。なあ、周子……」 「結構よ。それより、あなたが早く帰って来てよ!」  他人になどそばについていて欲しくはない。直人に不安な気持ちを素直に伝えられないままに、その言葉を遮るようにして、周子は受話器をガシャリと置いてしまった。  妻の不安な心理状態も理解できないような鈍感な男だったのか、と腹が立った。  すぐにまた電話が鳴った。直人だと思い、一呼吸おいてから、受話器を取る。 「あの、周子。怒ってるの?」  やっぱり直人だ。ご機嫌をうかがうような猫なで声を出している。 「別に」 「やけになって外に出る、なんてことはしないよな」 「あたりまえでしょ!」 「あの刑事に、誰か見張りをつけてくれって、本当に頼んでみようか。なあ、周子」 「結構よ」  周子は溜《た》め息《いき》をついた。「直ちゃんは、お母さんの方がいいんでしょ? せいぜい甘えなさいよ」 「えっ? どういうことだよ。何だって?」  外かららしく、電話に雑踏の物音が混じる。直人は、声を張り上げた。 「何でもないわよ」  スムーズにいかない会話に、周子は苛立《いらだ》った。直人が本当に心配ならば、妻に意見を求めずに、独断で警察にでも誰にでも「女房を守ってください」と頼めばいいのだ。 「そんなにブスッとするなよ。ねっ、大丈夫だろ?」 「何が大丈夫なのよ。大丈夫よ」  意味のつながらない言葉を投げて、周子は電話を切ってあげた。直人は、仕事をどう処理するかに気をとられていたらしく、落ち着かない声の調子だったから、まさに切ってあげたという感じだった。 「忘れちゃったじゃないの」  電話を見て、周子はひとりごちた。直人に、男性から電話があったことを伝えるのを忘れてしまった。仕事でミスをしたというから、その関係の電話だったのかもしれない。 「でも、名乗らなかったんですもの。そんなに急ぎの用事じゃなかったんでしょうよ」  と、気やすめに声を出してみた。一人でいる心細さは、声を出すことによって軽減するどころか増大した。自分の声の意外な大きさに驚くというふうに。  ——ちょっと可哀想だったかしら。だけど、マザコンぶりを見せつけた直ちゃんがいけないのよ。  内心で夫を責め、周子は、膝掛《ひざか》けで足をくるむようにしてソファに丸まって座った。  テレビをつける。いちばん賑《にぎ》やかな番組を流してくれるチャンネルを探したが、周子の気を紛らわしてくれるような番組は何もなかった。それでも、クイズ番組に合わせた。  CMになって、ドキッとした。画面の音に何か異質な外界の音が混じったような気がしたのだ。思わず廊下へ通じるドアを見る。  いまにでも、誰かがドアを蹴破《けやぶ》って飛び込んで来そうに思えた。悪寒が背筋を上ったり下りたりしている。そんなシーンはホラー映画の中だけだ、と頭ではわかっていながら、いま現実にそうなっても不思議でない気にもとらわれている。  テレビを消した。静けさが戻る。密閉度の高いサッシ窓だ。外からは、自転車の走る音も聞こえてはこない。どうやら、異質な物音は気のせいだったようだ。周子は、耳の機能をたえず働かせておくために、テレビをつけないことにした。怖いときには、音で気を紛らわせない方がいい、といつか読んだ推理小説の中に書かれていたのを思い出す。それでも、光は十分恐怖を和らげてくれる。玄関から廊下まで、明るくしてあった。  牧人が一緒だったら、と思った。赤ちゃんを頼りにできるわけではないけれども、周子の心の強い味方にはなってくれる。自分よりか弱い存在がいることで、火事場のバカ力が発揮できるのではないかと思われた。  チャイムが鳴った。一瞬、心臓がピクンと跳ね上がるほど驚いたが、次には、ホッとしたような暖かい空気が胸に広がった。少なくとも、何の前ぶれもなくドアノブが動く気配を感じるよりはずっといい。  それでも、心臓の鼓動は通常以上に早さを増している。夫の言葉を思い出した。夜遅くに来る宅配便だとか郵便屋、米屋や酒屋の配達などに気をつけろ、という言葉だ。そんなものは、こういう状況でなくとも警戒する。しかし、いままでにそういった類《たぐい》の人間が、夜遅くに訪ねて来たことはない。 「どなたですか?」  インターホンを受ける。直前に、もしかしたら新聞の勧誘かもしれない、という考えが頭をよぎった。一軒家よりマンションの方が勧誘が多い、と久美が話していた。 「巡回している者ですが」  低い男の声が応答した。わざと声を落としているらしい。巡回、と聞いて、すぐに警察官の姿がまぶたの裏に鮮やかに浮かんだ。 「警察の?」と、確認する。 「はい、そうです」 「じゃあ……」  胸にとどまっていた暖かい空気が、ふわっと喉元《のどもと》に上昇した。肩や背中の力が、急速に抜けていった。緊張がほぐれていく。  ——直ちゃんがやっぱり、警察に頼んでくれたんだわ。巡回してくれるように。 「主人からいったんですね?」  声に明るさが加わった。電話のあと、直人はすぐに警察に身辺警護を要請したのだろう。ただちに巡回中の警察官に、無線で連絡が入ったとしたら、ちょうど現れる時分だ。 「えっ?」  相手は瞬間、声を詰まらせたのち、 「ああ、ええ、そうです」と、意味を理解したのか、やはり小さな低い声で言った。「何か変わったことはありませんか」 「いえ、別に。でも……正直言うと、ちょっと怖いんです。一人ですから」 「わかります」  警察官は言った。「どうも、このあたりをうろついている男がいるようですね。注意してください」 「うろついている男がいるんですか? 誰か見たんですか?」  外から下げられた、ドアノブのきしむ不気味な音が耳によみがえって、思わず声がうわずった。 「何人かが見ています」 「あの男かしら。わたしがぶつかりそうになった男……」 「かもしれません」  警察官は言い、いっそう声を落とす。「実は、私服で巡回しているんです。刑事が奥さんのところに出入りしていると犯人に知れたら、まずいですからね」 「え? あ、ああ、そうですね」  周子は、そこまで考えていなかった自分に気づき、改めて怖くなり、ちょっと身震いした。犯人は、もしかしたら、久美のマンションの近所に見当をつけ、姿を見られた女を探しているのかもしれない。制服姿の警察官がこのマンションに出入りしていたら、そこから周子の存在を気づかれてしまうおそれは確かにある。 「この辺をうろついている男の似顔絵を、奥さんに見ていただきたいと思って。もしかしたら、その男が……」 「久美を殺した犯人かもしれないんですね? そうなんですね」  不安と恐怖のあまり、決めつけるような口調になった。「思い当たることがあるんです。六時頃だったか、誰かが玄関の外で様子をうかがっていたんです。ドアを開けようとしたんです、誰かが」 「ドアを、ですか。指紋がついているかもしれない」 「そ、そうです。指紋がついていたら、そ、そしたら、わかりますね」  興奮して、舌がもつれた。なぜ気づかなかったのだろう。 「鑑識を呼びましょう。奥さん、電話を貸してください」 「は、はい」  ケイとの電話の最中に、ドアノブの動く気配を感じたのだ。だから、ノブについている指紋は、ケイのものではありえない。自分を脅かすものの正体を一刻も早く知りたい。その思いが指の先まで満ち、周子は、玄関に駆け出ると、もどかしい気持ちでチェーンをはずした。  ドアを開ける。聞いていたとおり、制服姿でない警察官が立っている。声から受けた感じより若い気がした。  警察官はチラと通路を振り返り、頭を戻すと、すばやく玄関に入り、後ろ手でドアを閉めた。  周子に顔を向けたまま、その手で鍵《かぎ》も閉めたので、周子はふと、固い食べ物を飲み込んだときに感じる胸の痛みに似たものを覚えた。警察官が中にいれば、鍵をかけずとも大丈夫。なんとなくそんなふうに考えていたのだ。  小柄な警察官だ。顔がアンバランスなほど小さく、そのせいで肩幅が広く見える。目はギョロ目の方だ。  ずっと一人で持ち続けていた怯《おび》えや不安が、周子からのりうつったかのように、警察官も呼吸を荒くし、胸を弾ませている。大きな目に、恐怖とも呼べそうな色が宿り、涙で潤んででもいるように光って見える。  黒っぽいズボンに、白い丸襟のセーター。襟元には、幾何学模様の柄のシャツがのぞいている。グレーのジャケットのボタンは、中ほどの一つしかはまっていない。  便利屋のアルバイトが、電話を受けて、粗大ゴミの回収に参上した。そんないでたちに周子には見えた。 「物騒ですから。ええ、危険ですから」  鍵をかけたことの言い訳をそわそわした口調でし、せわしげに何度もうなずく。 「あの……中野N署の方ですか?」  さっき感じた違和感が消えずにいる。言葉と一緒に、喉元からチリチリした痛みが吐き出された。  この感じは、前にも経験している。ちょっと油断して玄関に入れてしまった幼児向けの教材のセールスマン。インターホンでは、感じのいい、少し気の弱そうなほどの印象の男だったのに、いざ招き入れたら、こちらのすきに即座につけこんでくる、しつこい男だった。気の弱そうに見せるのが演技だった、と気づいたときは遅かった。  事態はそのときより深刻なのは、すでに周子の身体が直感していた。 「はい」とだけ、警察官は答える。 「亀山さんという刑事さんはご存じですか」 「はい」 「あの、失礼ですが、そちらは……」 「鈴木です」 「鈴木さん? 中野N署の?」  確認していいですか、奥の電話で——という言葉が、渇いた喉に張りついていて出てこない。 「そうです」 「警察手帳を……見せていただけます?」  声を振り絞るようにして、周子は聞いた。膝頭《ひざがしら》がガクガクし始めた。 「そんなものは、ねえよ」  確かに警察官だと言ったはずの男は、すげなくそう答えた。   13  田川洋一は二十三歳で、板橋区|成増《なります》四丁目のアパートに住んでいる。成増団地のすぐそばで、隣はもう埼玉県だ。  捜査員が彼のアパートを訪ねたとき、田川はいなかった。大家から彼の現在の勤め先を聞き出した。新宿区百人町《ひやくにんちよう》にある『柳ロックチェーン』という鍵専門店が、彼の勤務先だった。そこに電話をすると、田川は一昨日からかぜを理由に欠勤しているという。だが、アパートの部屋で休んでいる気配がないのはおかしい。  大家によれば、田川は男性としては小柄で、ちょっと驚いたような大きな目をしている。顔を合わせれば会釈程度はするものの、なんとなく陰気な感じのする青年だという。彼の部屋に誰かが出入りするのをまったく見たことがないらしい。  やはり久美は、そこに鍵のつけ替えを頼んでいた。ほんの二週間前のことである。田川が犯人だとすれば、久美の部屋のつけ替えた鍵を、ひそかにコピーして持っていたことになる。田川は、〈鍵〉に異常なまでに執着し、興味を示す人間だと思われる。  滝本が、『鍵のハシモト』から『柳ロックチェーン』に向かった一方で、亀山は、鍵の確認に久美のマンションに向かった。頭の隅に、まだほかに何かが引っかかっていた。  マンションに着き、久美の部屋に入ったとき、引っかかっていた何かがわかった。  久美のベッドの周囲には、ぬいぐるみや着替えたらしい服などが散乱していた。どれが最初から脱ぎ捨ててあったもので、どれが犯人が投げつけたもので、どれが抵抗したときに散乱したものか、それだけの状況からでは判断できなかった。  だが、ボールペンが一本、ベッドの右横に置かれた小さなテーブルの下に落ちていたのを、亀山は憶《おぼ》えている。そのテーブルの上には、コードレステレフォンの子機が載っていて、親機はリビングの大型の仕事机の上にあった。  ——久美は、このテーブルで何かを書いていたのではないか。  亀山は、そう推測した。とすれば、ボールペンのほかに、何か日記帳とかメモ帳とか、そういった類《たぐい》のものがあってしかるべきだ。  鑑識が入って調べたかぎりでは、リビングからも寝室からも、久美が日常的に使っていたと思われるスケジュール帳や住所録などは発見されていない。銀座の喫茶店で、久美が赤い手帳を取り出したのを、亀山は憶えている。その赤い手帳が、どこにも見当たらないのだ。  電話は、すぐに調べられたものの一つだった。再ダイヤル・ボタンを押して、久美が最後に電話をしたのが柿沼周子だったことは、すでに確認済みである。変わり果てた姿の久美を発見した周子が、ベッドのそばで放心状態になっていた横で、再ダイヤル・ボタンを押してみた。——はい、柿沼です。ただいま留守にしております。ご伝言をうけたまわります——というメッセージが、電話口から流れてきた。二度目に電話をしたときには、周子の夫がちょうど帰って来たところで、留守番電話は切り替えられていた。  ——犯人は、再ダイヤル・ボタンを押して、留守番電話に録音されていた柿沼周子の声を聞いたのではないか。  いや、そんなことをする必要がどこにあるのだ。  ——久美は、犯人に抵抗しながら、すきを見て電話を手に取ったのではないか。番号を押す暇はなかったかもしれないが、ボタン一つならとっさに押せる。それが、再ダイヤル・ボタンだったのでは……。  犯人は、どこかに電話をされては大変、と久美から子機を奪うと、通話を中断させた。そして、久美を殺してから、改めて再ダイヤル・ボタンを押し、久美がどこに電話をして助けを呼ぼうとしていたのか確認した。  亀山は、推理を突き進めた。  犯人は、自分の痕跡《こんせき》を消して逃げようとしただろう。とっさに、ベッドの横にあった久美の手帳や日記帳の類を持ち去った可能性も考えられる。  マンションを出たところで、いきなりぶつかりそうになった女。——その女と、柿沼周子とが一致するまでにそう時間はかからなかったかもしれない。再ダイヤル・ボタンで確認した名前と、久美の手帳にあった友達らしい名前。両者をつなぎ合わせて、自分の姿を目撃した女が、〈柿沼周子〉だと知る。もしかしたら、久美が、殺される前に、犯人に何か手がかりになるような言葉をぶつけていたかもしれない。「やめて! これから、わたしの友達が来ることになっているのよ。早く出てって!」と、久美は機転をきかせながら、窮地から逃れようと必死になっていたのではないか。  ——犯人が柿沼周子の顔をはっきり見たのなら、彼は危険を察知しているはずだ。  建物の裏側での検証の結果、周子の立っていた位置からより、ぶつかった男が立っていた位置からの方が、照明の関係で、相手の顔を見分けやすい、と出ている。  柿沼周子には、鍵を厳重にかけて家から一歩も出ないように、と言ってある。周子は、昼間、亀山が彼女の家から帰るときに、「夫は仕事が終わったらまっすぐ帰ると言ってましたから、大丈夫です」と、思いのほか気丈そうな声で話していたが……。  警察官が、この付近と周子の家の付近を定期的に巡回はしているが、周子の家を常時見張っているわけではない。  亀山は、胸騒ぎを覚えた。   14 「誰なの?」  聞かなくても、目の前の男が誰であるかは、わかりきっていた。  久美を殺した男だ。久美のほかに、周子が知っているだけで二人の女性を殺している。 「おばさん、俺《おれ》の顔、見たよね。だろ?」  男は言った。ケイのときも感じたが、この種の犯罪を犯す男を自分が以前想像していたより、ずっと普通の声で、年齢よりずっと幼い口調だった。さっきまでの低い声は、わざと作っていたものだ。  その声に聞き覚えがあった。もっとトーンを高くし、流暢《りゆうちよう》にすると、あのセールスマンの声になる。電話で直人に用事があると言ったあの声だ。あれは、周子が一人きりでいるかどうかの確認の電話だったのだろう。  ああ、ごまかせばよかった。家に一人きりでなければ、この男はいまがチャンスだ、などとは思わなかったはずだ。周子は後悔したが、遅すぎた。 「知らないわ」  周子は後ずさった。鈴木と名乗った男は——鈴木であるはずがない——、靴のまま廊下にあがりこんでいた。相手が後ずさった分だけ、進み出て来る。  絶望的だ、と周子は思った。ここは、マンションの五階だ。上鷺宮の家のように、裏口があるような造りではない。 「あそこで会ったじゃないか」 「あそこって?」 「とぼけないでよ、おばさん」 「おばさんじゃないわ」  思わず口をついて、場違いな抗議の言葉が飛び出した。この男から、おばさんと呼ばれるほどの年齢ではない。 「おばさんじゃん」  男はムッとしたように言って、笑わなかった。笑う余裕などないのだ、と周子は思った。彼は袋小路に追い詰められている。そこでは、敵を殺すことしか逃げる道が残されていない。その敵とは、周子なのだ。 「わたし、あなたの顔なんかはっきり憶えてないのよ」  いまさら言っても遅いことはわかっていた。顔はいま見ても思い出さないが、全体の雰囲気は、彼以外の誰でもなかった。背の高さも、周子と同じくらいだ。甲状腺の病気かしらと思わせるほどに眼球の突き出た大きな目が、あの薄暗闇《うすくらやみ》の中で不気味に光ったのだろう。 「あんただよ」  自分がはっきり見たから、あんたも見たはずだ、とこの男は思い込んでいるようだ。ひょんなことで思い出されるのが怖いのだろう。それが、殺人犯の心理というものだ。  十秒ほど沈黙が続いた。男はもうしゃべろうとはしない。何かしゃべっていなければ、時間は稼げない。周子は焦った。すでに三人もの女性を殺している男である。事を早く済まそうと、彼の頭の中では、どう周子を〈処理〉するか段取りができているのだろう。  数歩また後ずさる。男が距離を縮める。緩慢な時間の流れもここまでだった。男が、素早い動作に出ようとした瞬間、周子もきびすを返し、居間の方に逃げた。だが、悲しいかな、狭い空間である。すぐに、ベランダまで到達してしまった。  男が飛びかかって来た。周子は、とっさに身をかがめ、近くに置いてあった背丈二メートルほどのドラセナの鉢を両手で押し倒した。ステンレスの鉢は、フローリングの床で乾いた音をたてた。中から、サラサラした小粒のウッドチップスがこぼれ出た。  男は、すばやく身をかわした。小柄なだけに、小回りがきく。  階下に響けばいい、と周子は願った。物音に口やかましい老人でも住んでいてくれたらいいのだが、階下からはいままで何の苦情もきたことはなかった。今回も、期待薄であろう。  故意に物音をたてられて、男はカアッと頭に血が上ったらしかった。一瞬細めた目を、めいっぱい見開くようにして睨《にら》むと、「何すんだよ」と、だだっ子のように口を尖《とが》らせた。  身体つきも、言葉づかいも、そのしぐさ、表情も、どこかひどくバランスを欠いた男だ、と周子は思った。いっそう不気味さが増した。 「どうして、ここがわかったの?」  カーテンの端を強く握り締めて、周子は聞いた。  男は答えるかわりに、かぶりを振った。殺す前に、口数を多くする必要はないだろう、と言わんばかりだ。  あてがはずれた。昔読んだミステリーや、テレビの推理ドラマでは、こうではなかった。犯人が、長々と、殺害方法やら動機やらを、これから殺そうとする人間に語って聞かせていた。それが、時間稼ぎになった。逃げる方法を考え出す貴重な時間を与えてくれた。  しかし、現実は違う。いつ夫が帰って来るかわからない。いつ電話の割り込みがあるかも、新聞の勧誘が来るかもわからない。だから、よけいなおしゃべりなど省いて、ただ目撃者の口を封じ、一刻も早くずらかることに専念するのだ。  男が、周子の動きを読んだかのように、左手へ逃げようとした周子の右腕を、一瞬早く、自分の右腕でつかまえた。背後から、激しい力で、引き寄せる。肩甲骨の下あたりに激痛が走り、周子は思わずうめき声を上げた。  容易に引き寄せられ、ねじり上げられる。  痛い! 声にならない痛さだ。  周子はもがいた。だが、腕の痛みが、周子の動きを本能的に抑えた。男の汗ばんだ手が、喉元《のどもと》を絞め上げた。  息苦しさに、目の前がふっとかすんだ。わたしは殺されるのだ、と思ったとき、閉じたまぶたの裏に浮かんだのが牧人の顔だった。笑顔、泣いた顔、寝顔というように、これまで接してきた表情が次々と現れた。  いま死んだら、一歳の誕生日を迎えた牧人の顔を見ることはできなくなる。周子は、そのことの無念さよりも、母親の顔を知らずに成長していく牧人が不憫《ふびん》に思われてならなかった。母親を失わせてなるものか。  必死だった。左の肘《ひじ》で思いきり男の胸を突いた。みぞおちにはまった手ごたえがあった。男が、ぐっ、と小さくうなり、両方の腕にこめていた力を弱めた。そのチャンスを逃さず、周子は右腕をふりほどいた。すかさずその手を後方に伸ばし、男の股間《こかん》あたりをギュッと握った。  いきなり急所を責められて、男はひるんだ。そのすきに、周子は男から身体を離した。テーブルに回り込み、台所の方に逃げる。ゴミ入れのポリ容器の横に、殺虫剤が見えた。かがんで殺虫剤をつかむ。すぐ背後に、男の気配を感じた。振り向きざまに、男の顔に殺虫剤を吹きつけた。  ひいっ、と男は両手で顔を覆った。まともに目に入ったようだ。どんな痛さか周子には想像もつかなかったが、しかし、致命的なダメージを与えたとも思えなかった。男は目をこすりながら何かうめき声を上げたようだったが、周子ははっきり聞き取れなかった。男がひるんでいるあいだに、玄関へと逃げる。  ドアに飛びつき、右に半回転させるタイプの鍵《かぎ》を開けたときだった。左手を、後ろにぐいっと引っ張られた。心臓が飛び上がった。背中に、氷を放り込まれたような感覚が走った。  こんなに早く、男が体勢をたて直すとは思わなかった。周子の右手は、むなしくドアノブから離れた。  チャンスを逃してしまった。今度こそ、本当に殺されるのか。  ほんの一瞬だが、この場に牧人がいなくてよかった、牧人を巻き添えにせずにすむだけ不幸中の幸いだ、という救いの気持ちが心の奥底に生じた。  かすかな諦《あきら》めの気持ちが心の襞《ひだ》に入りこんだとき、外側からドアノブが動かされた。周子はハッとし、息を呑《の》み込んだ。顔のすぐそばで、男も息を呑み込むのを感じた。  ドアが開き、飛び込んで来たのは、周子の予想に反して、刑事ではなかった。  ケイだった。四か月ぶりに会うケイだ。  三人は、わずかな時間、動きを止めた。ケイは、玄関先で棒立ちになった。男は、周子を引き寄せ、盾にするような形で、居間へと逃げた。 「助けて!」  引きずられながら、周子はケイに向かって叫んだ。  ケイは、弾かれたように追いかけて来た。男がふいにかがみ、周子は台所の床に倒れ込んだ。肩と胸をしこたま打ちつけた。  胸部を圧迫された痛みに顔が歪《ゆが》んだ。戸棚をバタンと開ける音に恐怖を覚えて顔を上げると、男の手に包丁が見えた。周子が日常よく使っている肉切り用のものだ。  男が包丁を素早く取り出し、そろそろと起き上がりかけた周子の首筋に突きつけようとしたのと、ケイが低い姿勢で男に挑みかかっていったのと同時だった。  何が起きたのか、すぐにはわからなかった。周子は、半分、ケイの身体に弾き飛ばされる形で、あと半分は、自分の意志で居間の方にころがった。とっさに出た護身術だった。 「ひゃっ!」  奇怪な叫び声は、ケイのものではなく、男のものらしかった。  上半身を起こした周子に、男にのしかかったまま、ケイは顔だけ振り向けた。不思議な表情だった。泣いているような笑っているような、ちょっとはにかんでいるような困惑したような。こういう表情を前に見ている、と周子は思った。 「逃げろ」  振り絞るような声で、周子に言う。口が言ったのではなく、目がそう言ったように見えた。それほど真剣な目の輝きだった。  つられるようにして、周子はうなずいた。そのくせ、身体はすくんで動かなかった。何かケイの身に異変が起きているように思えてならなかった。まぶたの裏が熱くなる。 「どけよ、どけってば」  ケイの身体を押しのけようと、男がもがいた。幼児が友達にプロレスごっこをしかけて自分の旗色が悪くなったときのような、情けなさそうな間の抜けた声だった。  男の脇腹《わきばら》の下あたりの床に、血だまりができ、次第に大きくなっていく。  まさか……。  胸が騒いだ。全身から血が引いた。  そのとき、玄関が騒がしくなった。チャイムの音と同時に、ドアが開き、何人かがなだれこんできた。  だが、周子の目は、そちらへは向かなかった。一人の男の全体重を受け止め、潰《つぶ》れた蛙のようにぐしゃっとなっている小柄な男と、その上にうつぶせになって動かないケイの横顔を見つめていた。  ケイは、まるで眠っているように見えた。寝顔が、牧人に似ている、と周子は感じた。赤ちゃんに、ふとした拍子にのぞく大人の顔があるように、大人の男にも赤ちゃんの表情はあるのかもしれない、そんなことを考えながら、その〈寝顔〉に見入っていた。   15 「周子さん、あなたが『ケイ』と呼んだ男は、谷村真紀夫といいます。オートバイの免許証からわかりました」  亀山は、髪の毛のほつれを直そうともしない周子に言った。 「マキオ?」  胸をつかれたような顔を、周子は上げた。 「牧人君、でしたね。お子さんは」  マキオにマキト。よく似た名前だ。その偶然に、何か特別な感慨でもあるのか。柿沼周子は、焦点の定まらない視線を宙に漂わせた。  亀山は、周子の家の台所で、思いがけない光景を目にした。包丁を持ち、あおむけに倒れた男と、そこにうつぶせに覆いかぶさっていた男。ケイ! と呼びかけながら駆け寄ろうとした周子……。 「谷村真紀夫が、あなたに『ケイ』だと名乗ったんですか? 四か月前に、あの上鷺宮の家で」  この女は、やはりうそをついていた。うそをつかれていた腹立たしさより、うそを見破っていた快感の方が、亀山の中では勝っていた。 「いいえ、そうじゃありません」  抑揚のない声で、周子は言った。何かを悟ったような、何かをふっきったような声の表情だ。 「名前など教えてくれませんでした。知っていたら、警察に届けていました」 「でも、あなたは『ケイ』と呼んでいたじゃありませんか。やっぱり知っていた。指紋は一致したんですよ。谷村真紀夫は、コンビニ強盗殺人犯だったんです。ビデオの男と背格好もそっくりです」  こういう女——何のとりえもない普通の主婦です、という顔をした女が、いちばん手ごわい。そう思って、亀山はうつろな目をした周子を見つめた。 「わたしが考えた呼び名です。着ていたシャツの胸に、アルファベットのKが印刷されていたので、そう呼んだだけです」 「そうですか。じゃあ、僕も『ケイ』と呼びましょう」  亀山は身を乗り出した。捜査本部内にあるこの一室は、あまり暖房がきいていない。周子は、家からはおって来たベージュのハーフコートを着たままでいる。 「そのケイは、あなたを助けに行ったようですね。住所は、板橋区大谷口北町です。そこのアパートからバイクを飛ばして、あなたの家まで行ったんですね。どう連絡し合っていたんですか、いままで」  亀山は切り込んだ。 「いままで?」  周子は形の整った眉《まゆ》を寄せ、しばらく亀山を見据えるようにしてから、きっぱりと言った。「わたしたち、連絡し合ってなんかいません」 「でも、彼、ケイは、実際にあなたのところに行った。住所を知っているってことじゃありませんか」 「前に住んでいた上鷺宮の家の人に、ここの住所を教えてあります。理由をつけて聞き出せないわけじゃないと思いますけど」 「ケイが、あなたの住所をそうやって聞き出したと言うんですね」  周子は視線をそらして答えなかった。また、うそをついている、と亀山は思った。現実に、ケイ——谷村真紀夫が、そうやって新しい住所を聞き出したことを、彼女自身が知っているのだ。 「なぜ、ケイは、いきなりやって来たんでしょうね、いまになって。まるで、あなたの窮地を知っていたかのように」 「わかりません」 「住所を聞き出したなら、電話もわかったでしょう。あなたのところに電話がかかってきたんじゃありませんか?」 「いいえ」  顔色を変えずに、だが、視線をそらしたまま周子はかぶりを振る。 「そうですか。偶然、連続殺人鬼に出くわした。そういうことですか。あなたはそういうことにしたいわけですか」  さすがに冷静さは保ちきれず、亀山はやや声を荒らげた。  すると、周子は、上目遣いに亀山を見た。はじめて会ったときのやさしげな目元の印象は、いまは消えている。強い意志の光が灯《とも》っている。 「確かに、あの男は、わたしと牧人のいる家に、いきなり入りこんで来ました、あの日」  あの男、と呼び方を変えたことに、柿沼周子の強い意志の現れが見えた気がした。 「刑事さんの推理なさったとおりです。わたしたちは、ずっと怯《おび》えていました。次の日、あの男が出て行く気になるまで」 「なぜ、谷村が出て行ってから、すぐに通報しなかったんですか。あなたの運転で、谷村のアパートのそばまで送って行ったんでしょう。それは大きな手がかりになったはずです。すぐに知らせてくれていれば」  周子が黙っているので、亀山はさらに言った。 「アパートがどこかなんて知りません。わたしが送って行ったのは、環七通りのどこだったか、よく憶《おぼ》えていません」 「答えになっていません。なぜ、すぐに知らせてくれなかったん……」  最後まで言わないうちに、いきなり周子は机につっ伏した。長い髪が乱れ、細い肩が揺れた。  しばらく泣くがままにさせておいた。数分後、周子は、つっと顔を上げて言った。 「あの男に犯されたんです」 「えっ?」  亀山は声を詰まらせた。可能性がないことではないと思っていたが、それでも思いがけなかった。 「わたし、あの男の顔しか知らないことに気づいたんです。どこの誰かもわからない。もちろん、教えてなどくれませんでしたから。顔を見ているのに命が助かったことさえ、不思議でならなかったほどです。あの男は、車から降りるときに言いました。『俺《おれ》は絶対に捕まりはしない。だが、おまえたちのことはずっと見張っている。どこにいてもだ。ガキを散歩させるときも、買い物に行くときも、どこかで必ず目を光らせて見ている。警察に言ってみろ。警察に知らせたかどうかは、ニュースに目を通していればすぐにわかる。知らせたとわかったら、捕まる前におまえのガキを殺す』……。そう、脅されたんです。わたし、もしかしたら公園で牧人がさらわれるんじゃないかと、そこまで想像して怖くなって……。とても警察には言えませんでした」  訴えるような目で、周子は一気に告白した。淡々とした口調でさえあった。  亀山は、少し身を引いた。距離を置いて見た方が、相手の表情が読み取れる場合がある。しかし、わからなかった。周子がどこまで本当のことを言い、どこからうそをついているのか。 「正直言いますと、あの男が捕まって、本当のこと、が世間に知れるのが怖いせいもありました」  本当のこと、と周子は言葉を区切った。「名前を伏せてはくれるでしょうけど、でも、やっぱり情報はどこからか伝わってしまいます。わたしは、家庭を守りたかったんです。主人には……知られたくなかったんです。命が助かっただけでもよかった、あの子が無事だった。それだけで十分で、あれは悪夢だったんだ、と済ませたかったんです。刑事さん、強姦《ごうかん》は、親告罪だと聞いたことがあります。違いますか? それとも、こんなことにこだわるわたしって、おかしいですか? 相手が殺人犯であれば、わたしが受けた恐怖や屈辱や羞恥《しゆうち》や……諸々《もろもろ》の感情は、とるに足らない感情にされてしまうんでしょうか。捜査の報告書を完璧《かんぺき》にするために、一人の主婦の感情なんか切り捨てられてしまうのでしょうか」  涙の乾かない切れ長の目で、たたみかけるように切々と訴えられて、亀山は不覚にも困惑の色を隠せなかった。  世間の常識からはずれたところで生きている人間を相手にするのは得意な亀山でも、柿沼周子のような〈幸福な家庭〉に執着する一主婦となると別だ。 「理解できないとおっしゃるんですか?」  亀山の沈黙を、自分への反発だと受け止めたようだ。周子は言いつのる。「でも、現実に、警察の検挙率は低下しているじゃありませんか。名前も知らないあの男が、わたしが届け出たからって、すぐに捕まったという保証はないんじゃないですか。捕まるまで、わたしたちは恐怖にさらされ続けるんです。見えない監視の目に怯えながら」  周子の言葉は、亀山の耳に痛かった。わたしたち、に彼女の赤ん坊のほかに亭主が含まれているのかどうか、亀山はふと考えた。 「しかし、奥さん」  と、亀山はなるべく穏やかに言った。周子が〈家庭の幸福〉を第一に持ち出してくるのなら、奥さん、と呼ぶ気にさせられた。 「谷村真紀夫——あのときは、名前はわからなかったわけですが——は、大学生を一人、殺しているんですよ。被害者は、あなたの近所に住んでいたはずです。剣道をやってて、立派な体格の持ち主でした。ですが、刃物の前には強靭《きようじん》な筋肉も太刀打ちできなかったんでしょうね。もう一つ、悲劇の生まれた家庭もあるってことです。谷村は、そういう家庭を生んだ張本人なんですよ」  すると、周子の顔がひきつった。瞳《ひとみ》から強い光がふっと消え、悲哀を帯びた色合いになった。 「彼だって、殺そうと思って殺したわけじゃありません」  あの男から彼へと、呼び方が変わった。 「あの人は、母親を早くに亡くし、新しい母親を迎えた家庭で親の愛情に恵まれなかった可哀想な人なんです。コンビニを襲ったのだって、バイクを買い替えるお金欲しさに、急に思いついたことだったんです。コンビニ強盗が流行《はや》っている、ただそれだけの理由で。あそこは、バイクでよく通るところだったようです。そういうの、短絡的だとおっしゃるんですか? そうかもしれません。でも、彼のまわりには、彼のことを親身になって考えてあげる人が、不幸なことにいなかったんです。ふとした弾みで、犯罪に手を染めた。それが、予想もしなかったほど大きくなってしまった。小さいときに受けた心理的な外傷が、癒えないままに大人になっている人間は、いっぱいいるはずです。そういう人間は、どこかバランスを欠いているんです。非常に頭がきれるかと思えば、とんでもない幼い面をふとのぞかせる……。  亀山さんは、人間心理の専門家でいらしたんですよね。だったら、ご存じないはずないでしょう。人間心理は複雑なものだ、そうおっしゃったのは亀山さんです」  自分が犯されたはずの殺人犯を弁護していることに、周子は気づいていない。その目は、亀山を責めていた。 「お宅にいるあいだ、彼に自首を勧めなかったんですか? 地球より重い生命を育んでいるあなたのような健全な市民が」  もう少し感情的にさせておいた方がいい。そう思って亀山は、いっそうあおるような言葉を注いだ。皮肉に聞こえてもかまわない。 「勧めました」  怒ったように周子は言う。「でも、彼は、人を死なせてしまったショックから立ち直れなくて、半ば自暴自棄になっていました。逃げようとしたときに、自分の胸につかみかかってきた大学生が無謀だった、と言っていました。自分が持っていたナイフめがけて飛び込んで来たようなものだと。人を殺したことの実感がなかったようでした。だから、警察に自首するという発想に結びつかなかったんでしょう。悪いのは自分じゃない、あの大学生だ。そう言って頭を抱え込んでいました。彼は後悔して、とても苦しんでいました。その気持ちが、わたしにはよくわかりました、一緒にいて。誰でも、ちょっとしたことで殺人者になりうるものだ、とわたしは彼に言ったんです。本当にそう思ったから」  慰めのつもりじゃありませんでした、と周子はつけ加えた。 「谷村が、上鷺宮の家で、あなたにそう話したんですね?」  周子はうなずいて、「わたしたち、それだけのことを話す時間は十分ありましたから」 「逃げようとは、一度も試みなかったんですか?」  亀山の質問に、周子は大きく溜《た》め息《いき》をついた。 「しました、もちろん。SOSと書いたふきんを門の外に落としたのも、誰かに気づいて欲しかったからです。一人なら……逃げられたかもしれません。でも、できませんでした。なぜできなかったんだ、と不思議に思う人もいるでしょう。でも、わたし、気がどうかなりそうだったんです。でも、乗り越えられたのは、牧人がいたからだと思います」 「逃げなかったことを責めているわけじゃありませんよ。あの日、近くの薬局でミルクを買い求めたことも、調べてわかっています」  そこの店員が、コンビニ強盗殺人事件のあった翌日、と日付けを憶《おぼ》えていた。「でも、いつも一緒にいる赤ちゃんがいなかった、と店員は証言していました。牧人君は、おうちにいたんでしょう。谷村に人質にされて」  そのときのことを思い出したのか、周子は目をぎゅっとつぶり、どういう意味か両耳をふさいだ。 「同じことが起きたんですね」  煙草に火を点《つ》け、一口吸って亀山は言った。えっ、と周子が耳をふさいでいた両手を離した。 「谷村は、田川洋一が握っていた包丁めがけて飛び込んで行った。そして、命を落とした。谷村が殺した大学生と同じです。違うのは、大学生は正義感から谷村を捕まえようとしたのに、谷村は、あなたを守るという目的のためだったってことです」  周子は目を伏せた。 「うそですね、周子さん」 「えっ?」  周子は、不安げな目をして顔を上げる。 「谷村に犯されたというのは、うそですね」 「…………」 「彼にそういう傷を受けたとしたら、あなたはそんな話し方をするはずがない。いや、はずがない、などという言い方はどうでしょうかねえ。僕も自分のみたてに自信がなくなってきましたよ。……人間心理、いや、女性心理は複雑ですからね」 「…………」 「あなたが何かをひどく警戒してうそをついたとしたら、その必要はありません。たとえばそのうそが、家庭を守るための知恵から出たのでしたら」 「わたし……」  言いかけて、周子は口をつぐんだ。 「もしも、谷村がたてこもっていたあいだ、あなたが彼に何らかの共感や同情といった感情を抱いたとしても、そのことにあなたが後ろめたさのようなものを感じているとしても、責められるべきことじゃないと、僕は考えます。でも、ご主人には話しません」  安心してください、という意味で、亀山は言った。  周子は、亀山を潤んだ目で見、小さくうなずいた。そして、視線を床へと落とした。決心したように口を開く。 「彼から、今日、はじめて電話がきました。夕方の六時頃でした。電話の途中で、玄関で物音がしたので、怖くなって切ったんです。きっと、田川というあの男だったんでしょう。様子を探りに来たのかもしれません。電話の様子がおかしかったので、わたしのことが心配になって、迷った末に、彼はバイクを飛ばして来てくれたんだと思います。ここに来るのは、彼にとってとても危険なことだったのに、彼は来てくれたんです。助けてくれたんですね、わたしを」 「あなたと、あなたの家族を、です。牧人君のためにも母親を守ったことになりますね」  亀山は言った。 「いまでもまぶたに浮かぶんです。彼は、後ろの席で、牧人をあやしていました。自分が牧人くらいだった頃を思い出しているような表情で。彼は、赤ちゃんの頃の記憶があると言っていました。母親が、いないいないバアをしてあやしてくれた、その記憶があるんだそうです。誰も信じてくれないけど、はっきり憶えていると言いました。わたしには、信じられる気がします」  信じられる、と言ったとき、周子の目元が和らいだように亀山は思った。 「彼は、わたしの作ったご飯を食べました。残り物だったのに、おいしい、と言ってくれました。あのときは、こんな人のために作るなんてしゃくだ、と腹立たしかったのに、いまになれば、もっと手のこんだおいしいものを作ってあげればよかったと思います。家庭料理なんてものから、彼はずっと遠ざかっていたでしょうから。そういえば、左手にお箸《はし》を持って食べていましたね。それを見て、わたし、牧人がもう少しして自分でご飯を食べられるようになったとき、左ききだったら直さなくちゃいけないかしら、と思ったことを憶えています」  思い出す目で、周子は続けた。あの一昼夜を思い出すとき、恐怖の方が上回っているのか、懐かしさの方が上回っているのか、彼女の表情から読み取るのは難しかった。 [#改ページ]   エピローグ  文庫本を閉じると、ページのあいだからふっと甘いバラの香りが立ち上ったように思った。久美がよくつけていたオーデコロンの香りに似ていたが、気のせいかもしれない。  亀山勇気は、もう三日も敷きっぱなしの布団の枕元《まくらもと》に文庫本を置いた。  二十九歳の息子の部屋には、掃除のためといっても、母親もあまり入りたくないようだ。とんでもないものを発見してしまいそうで怖いのだろう。そんなものは、もちろん母親の目には触れさせないように注意しているのだが。 『闇《やみ》を愛した女』  文字通り、久美は、闇の中に消えて行ってしまった。  あの見かけは成人した、だが、精神年齢は小学生よりも幼いあの男——田川洋一が、久美をこの世から抹殺してしまった。そして、亀山は、二人の女性がその前に殺されていながら、新たな犯行を未然に防げなかった。  取り調べのときの、異様な光を発していた田川の目を、亀山は忘れない。あいつは、アメリカの心理学者の言葉なんかを持ち出してきた。彼のアパートの六畳間には、心理学や大脳生理学などの本が何冊も並んでいた。 「人間の最高の欲求は、自己実現欲求であると、マズローは言っている。だから僕は、その欲求を満たしただけだよ」  どうしようもないやつだ。下手に、心理学の理論だけは頭に詰め込まれているものだから、追及されて都合が悪くなると、「よく憶《おぼ》えていない。自分が本当にやったことなのか、夢の中でもう一人の自分がやったことなのか。なんだか現実感が薄くてピンとこない」などと、〈離人症〉に近い症状を並べたてて、自分が神経症にかかっていると主張する。しかし、亀山は、そんな手にはのらない。精神鑑定が必要なら、この俺《おれ》がやってやる。深沢警部にも、そう宣言してしまった。「やつは正常です。罪を償う能力は、十二分にあります。俺が保証します」と。大体、犯罪者に責任能力があるかどうかを問う世の中になったのがおかしい、と亀山は言いたくなるときがある。犯罪心理学を学んだ彼としては、とてもそんな発言は公けにはできないのだが……。  田川洋一は、多治見香子を、青柳美喜を、野崎久美を、それぞれの方法で手に入れた合鍵《あいかぎ》を使って、彼女たちの部屋に侵入し、暴行の末、殺害した。多治見香子と青柳美喜の場合は、合鍵で忍び込み、帰宅を待ちぶせしていた。そして、帰ったところをいきなり襲った。久美の場合は、外から見たら電気が消えていたので——周子が見舞いに来る前に、久美はベッドで眠ってしまったらしい——、留守だと思い、侵入したところを、寝室にいた久美に気づかれて殺した。  犯行の動機について田川は、「恐怖というものの正体を知りたかった」と言った。「女が上げる悲鳴とか、必死に抵抗する姿とか、ビデオを観たり本を読んだりして知ってたつもりだった。だけど、実際には、全然違っていた。女が、僕の手の中でぐったりしたときだけ、僕は自分というものが現実に感じられた」と、犯行時の心理について、実に哲学的に、だが、天才的に巧みな逃げ方で、語ってくれた。  亀山は、田川洋一の犯罪心理について分析を頼まれた。くわしい分析には時間を要するでしょう、と亀山は答えた。生い立ちから現在に至るまで、彼の全人格をあらゆる角度から分析し尽くすのは、容易ではない。それは、学問としては楽しいかもしれないが、亀山に楽しむ心のゆとりなどなかった。彼がどういう人間か、知ったからといってどうなる。久美は帰って来ない。自分の身体の一部は失われたままで、どんなものでも補えない。  ただ、柿沼周子が言ったことは、あながちはずれてはいないだろう、と直感している。彼女は、谷村真紀夫の口から、彼の幸せとは言えない生い立ちの一部を聞かされたらしい。 「小さいときに受けた心理的な傷が、癒えないままに大人になっている人間は、いっぱいいるはずです」と彼女は言った。谷村も、田川もそういう人間の一人なのだろう。  田川洋一は、中流の家庭に生まれたが、父親は愛人を持ち、そちらにも家庭を作った。彼の母親は、七歳のときに、彼を道連れに無理心中をはかった。発見が早かったので、彼だけは助かった。しかし、そのとき母親に首を絞められた恐怖の体験が、心理的な深い傷となって残った。夜の埠頭、車の中での出来事だったらしい。暗闇《くらやみ》の中で、部屋の主《あるじ》が帰るのを待ちぶせしていた彼は、実際は、子供の目に鬼のような形相に映った母親が帰って来るのを待っていたのではないか。  その後遺症は、母親に愛されたかったという精神的な飢餓感に引きずられ、母親が投影された女性一般への憎悪と、自分を殺そうとした母親への復讐《ふくしゆう》という屈折した形となって現れた。殺されることの恐怖から、攻撃的な自己防衛本能が過度に刺激された、という見方もできるかもしれない。  田川が表現した〈自己実現〉とは、自分の生命を否定しようとした母親の姿を、女性の中に見出《みいだ》し、その全存在を支配することによってしか追求できないことだったのだ。すなわち、生命をコントロールする——殺すことによってしか……。  可哀想といえば可哀想なやつだ。  子供時代に受けた心理的な傷の癒えない人間は、どこかバランス感覚を失っている。そう指摘したのは、周子だった。田川洋一も、強すぎるほどの警戒心と、幼稚なほどの無防備さとを、交互にのぞかせる男である。第二の犯行と第三の犯行とのあいだに四か月あったのは、彼なりに警戒し、息を潜めていた時期だったのだろう。それに、彼にはこだわりの美学のようなものがあったようだ。気に入った女性しか、〈全存在を征服する〉——彼の言葉を借りれば——気にならなかったという。だが、性的な犯罪は、一度成功をみれば、弾みで習慣性がつく。捕まっていなければ、久美のあとも、残虐な犯行は重ねられた可能性は十分あっただろう。  事件以来、鍵を扱う会社の安全性が問題にされた。とくに、都会で一人暮らしをする女性たちは、神経質になった。鍵をいくつつけても、すぐに開けてしまうプロがいるのではないか。鍵の業者そのものが信用できないのではないか、と。鍵の作り方を教えます、なんていう鍵の専門店も現れた。 「一人でいるのが怖いから、二人で住みたい。その願望が結婚願望に結びつき、今年は結婚ブームが巻き起こるかもしれません」と、マスコミでもてはやされている心理学者が女性誌で語っていたのを見て、亀山は笑えなかった。  非番の日、亀山は、久美が住んでいたあたりを歩いた。学生時代、デートの帰りに、久美を送って何度も東中野の駅で降り、何度もそのままアパートに泊まったものだ。  偶然、公園をベビーカーを押して歩く周子の姿を見かけた。ジーンズにからし色のトレーナー、低い靴を履いて、黒い革のリュックを背負っていた。中には、紙オムツやタオルなどが入っているのだろう。幼児連れの母親がよくする格好だ。横顔をちらと見ただけだったが、幸せそうに輝いていた。  亀山は、声をかけずにおいた。久美と一緒にいたときの服装より、こちらの方がはるかに彼女に似合っていた。  何事もなかったかのように、穏やかな時間が、彼女のまわりを流れていた。 本書は、一九九三年十二月刊の角川文庫『震える家』を改題したものです。 角川文庫『訪問者』平成14年1月10日初版発行