新津きよみ 招待客 目 次  プロローグ 1 ドナー        2 レシピエント  第一章 密 室  第二章 発 案  第三章 再 会  第四章 衝 動  第五章 要 塞  第六章 交 錯  第七章 恩 人  エピローグ  プロローグ   1 ドナー  夢だとはわかっていた。わかってはいたが、目覚めているときより意識がはっきりしているような、知覚が過敏になっているような不思議な気分だった。  大海に浮かべた木の葉に、彼は乗っている。いや、それは木の葉ではなく、人間二人が乗れるだけのゴムボートなのだが、上空から俯瞰《ふかん》すれば、緑色をしているせいもあって木の葉のように見えたであろう。実際、彼はゴムボートに乗って大海を漂いながら、自分の姿を高いところから見下ろしているもう一人の自分の視点も合わせ持っていた。  波が穏やかなことにホッとしたのもつかのま、ゴムボートが揺れ始めた。空が暗くなる。いきなりスポットライトが出現し、波間を照らす。  小さな頭が映し出された。 「お兄ちゃん」  小さな頭は、そう呼んだ。  彼が中学校に入った年に病気でなくなった妹だ。おかっぱ頭が波間に見え隠れしている。 「みゆき」  彼は、妹に手を差しのべた。  妹は、泳げなかったはずだ。泳ぎを習得しなかったわけではなく、病弱でプール学習ができなかったのだ。彼の知っている妹は、病院にいる時間のほうが長かった。  ——早く助けないと、みゆきは溺《おぼ》れてしまう。  彼は、夢中でボートを妹のほうへ漕《こ》ぎ進めた。  もう一つスポットライトが現れ、隣に輪を作った。  輪の中に、別の女の顔が浮かび上がった。 「博信《ひろのぶ》さん」  彼女は、悲痛な声で彼を呼んだ。助けを求めているのは明らかだ。両手を使って必死に立ち泳ぎを続けながら、波の上に顔を出そうとしている。  彼女のほうは泳げないわけではない。一緒に海にもホテルのプールにも行ったことがある。化粧がはげるのを嫌がって、水に顔をつけない平泳ぎばかりしていたものだが、その姿は愛《いと》しくて一生守ってやりたい気にさせられた。  しかし、一緒に泳いだのは海は海でも海水浴場だ。海岸も見えない、荒れ始めた夜の海とはまるで違う。 「利佳《りか》……」  彼は、半年前までつき合っていた女の名前を呼んだ。彼女のほうから別れを告げてきたのだ。交際中、ストーカー犯罪についての会話の中で、「未練がましい男なんて最低だよな」というような言葉を言った記憶がある。そのときは、自分がその〈未練がましい男〉になるなんて思ってもみなかった。半年たっても、利佳が「復縁したい」と頭を下げて来ればいつでも応じるつもりでいる。そう……彼は、利佳にまだ未練がたっぷりあったのだった。 「お兄ちゃん、助けて」 「博信さん、助けて」  二人の女——死んだ妹と元恋人——は、同時に叫んだ。  二人とも助けたい、と彼は思った。だが、そんなことは不可能だ。ゴムボートの定員は二名。あと一人しか乗せられない。  ——どちらを助けるべきか……。  当時の医療では命を救えずに死なせてしまった妹か、まだ未練のある元恋人のほうか。彼は逡巡《しゆんじゆん》した。苦しい選択——という言葉が彼を苦しめた。彼は、右手を妹へ、左手を元恋人へ差し出した。二本の手をがっしりつかみ、ゴムボートのへりへと導く。二人の女は、濡《ぬ》れた髪をワカメのように顔に貼《は》りつかせている。妹のほうは艶《つや》やかな黒髪で、元恋人のほうは明るく染めた茶色の髪だ。  彼は、大きさの違う手がゴムボートをしっかりとつかんだのを確認すると、自分は海に飛び込んだ。  思ったより水は冷たくなかった。生温かく、少し粘っこかった。  この液体の感触は、どこかで味わったことがある、いや、実際に味わってはいないが、見た瞬間、味わった気になった経験がある。彼は、身体全体で感じ取った。  ——そうだ、この液体は骨髄液だ。自分の身体から採取されたごく少量の骨髄液だ。  透明な液体を指ですくうと、血と同じ赤い色に変わった。やっぱり骨髄液だ。口を近づけた。飲んでみたい。無性にそう思った。  そこで目が覚めた。  海に飛び込んだときの衝撃が、じんわりと身体に残っている。が、それは飛び込んだ腹のほうではなく、背中のほうにある。  彼は、じわじわと思い出した。自分はいま、麻酔から覚めたところなのだ。  野崎《のざき》博信は、土、日を挟んで三日間の有給休暇を取り、骨髄液採取のために都内のこの病院に入院した。  骨髄バンクに登録したのは二年前のことだった。日本骨髄バンクに電話して、登録日の予約をした。指定された病院に出向くと、まず十五分たらずの説明用ビデオを観せられた。医師の説明と問診を受けたのちに、腕から十�採血されて、第二次検査は終了。あっけないほど簡単な検査だった。しかし、ドナー登録したからといって、それで終わりではない。人の組織の型を決める、HLA抗原と呼ばれる白血球の表面にある遺伝子マーカーが適合する患者が現れなくてはいけない。もっとも、患者側から見れば、「自分のHLAと適合するドナーが現れなければいけない」ということになるのだろうが。登録してすぐに「適合するレシピエント(患者)が見つかった」と連絡がくるケースもあれば、五年待っても音沙汰《おとさた》なしのケースもあるという。野崎の場合は、一年後に「適合者が見つかりました」と連絡があった。  その際、はじめて彼は、交際していた利佳に骨髄バンクに登録している事実を話した。 「そんな大事なこと、どうしていままでわたしに黙っていたの?」  聞き終えると利佳は、にわかに不機嫌になった。骨髄バンクに登録したのを責めたわけではなく、いままで隠していたこと、ただそれだけが許せない、と言った。そして、「わたしも登録したほうがいいって言うの?」と聞いた。野崎は、「それは君の好きなようにすればいい。こういうのは強制するものじゃないから」と答えた。すると利佳は、「あなたのそういう言い方が嫌なの。あなたが登録しているってこと自体が無言の圧力になるのよ。してほしければ正直に言えばいいじゃない。将来のためには、価値観が同じ女のほうがあなただっていいでしょう?」と切り返し、それきり黙り込んだ。  綻《ほころ》びはあのころから生じ始めていたのかもしれない。結局、骨髄液を提供するか否かの最終意志の確認段階で、仕事が忙しかったこともあり、患者にはすまないと思いながらも断ってしまった。そして、断ったことを利佳には話さなかった。しかし、彼女は気づいていたはずだ。野崎が採取のための休暇を取らなかったのだから。 「あなたとはもうやっていけそうにないわ」  それからしばらくたって、利佳は別れを切り出した。 「誤解しないでね。骨髄バンクに登録した博信さんは偉いと思う。うそじゃない。でも、それは……なくなった妹さんのためね。博信さん、あなたには秘密が多すぎるわ。妹さんのこともつき合ってすぐには話してくれなかった。あなたは、自分が大切に思うことを自分の胸にしまっておく人なのよ。大切に思えば思うほど。死んだ妹さんに嫉妬《しつと》しているわけじゃないけど……でも、ときどきふっとそんな気になるの。そういう自分が嫌なの」  確かに自分には秘密が多すぎるのだろう。仕事柄、恋人にも話せないでいる事柄は非常に多い。彼女を引き止めておく言葉が探せなかった。  今回は、二度目のチャンスだった。野崎は、ためらわずにOKの意志を伝えた。女性のコーディネーターがあいだに入り、医師によるドナー適性検査、採血による遺伝子レベルでのHLA適合度を調べる第三次検査と迅速に進められた。最終同意書にサインをしたのち、健康診断を受けた。採取日程には、彼の希望が取り入れられた。  休暇を取るために、上司に打ち明けた。 「野崎、おまえ、骨髄バンクに登録してたのか?」  上司の意外だという表情に、野崎はムッとした。思わず「いけませんか?」と言い返してしまった。  しかし、上司は、野崎が過去に病気で妹をなくしているのに思いあたったのか、「猫の手も借りたいほどの忙しさだが、それは年中のことだ。人助けだ、がんばって来いよ。骨髄液ってやつを目いっぱいとってもらえ」と、おかしな励まし方で送り出してくれた。  中学のときに妹をなくさなかったら、骨髄バンクになど登録していなかっただろう、と野崎は考える。雑誌で、再生不良性貧血にかかっているという女子大生の記事を読んだのがきっかけだった。妹は、骨にできたガンがもとで死んだ。再生不良性貧血とは、簡単に言えば血液のガンだという。その女子大生は、面影が死んだ妹によく似ていた。彼女は、「登録者数が増えれば、わたしたちが生きられるチャンスも増えるんです」と目を輝かせて訴えていた。  病気で苦しむ妹を前に無力だった自分。ところが今度は、骨髄液を提供するだけで患者に生きる希望を与えることができるという。野崎は、目を開かされた気がした。健康で頑強な肉体が自慢の自分である。誰かはわからないが、病気で苦しむ誰かのためになれば、それがなくなった妹の供養にもつながるのではないか。そう考えて、迷わずにドナー登録したくせに、恋人のひとことで、ドナーになる最初のチャンスを自ら逃してしまった。  ——みゆき……。  彼は、骨髄液を採取された腰のあたりにだるさを感じながら、心の中で妹に呼びかけた。妹と遠い昔にした約束を、ようやく果たせたような肩の荷が下りた気分に浸った。  ——俺《おれ》の骨髄液は、誰の体内に取り込まれたのだろう。  男か女か。若い人か中年か。独身者か既婚者か。野崎は想像してみた。提供したドナーと提供を受けた患者は、互いの顔も知らされなければ、名前や住所も知らされない。  ——できれば、女がいいな。それもみゆきと年齢の近い少女。  そんな勝手な願望を抱いたのち、多忙を極める日常へ思いを馳《は》せた。あと二日入院して、日常へ舞い戻っていく。今回の入院は、いい休暇になったのかもしれない。  警視庁捜査一課の刑事としての職務が、野崎を待ち構えている。   2 レシピエント  前略 真新しいカレンダーを病室の壁に眺めていたころから半年あまりが過ぎました。  お元気でしょうか。  突然のお手紙、失礼いたします。私は、貴方のご好意で骨髄液をいただいて治療を受けた者です。  手紙は規則どおりにコーディネーターの方に託しました。名前も住所も知らせないようにとのことで、どう名乗ればいいかわからず、迷っております。  それ以上に、貴方をどうお呼びすればいいのか……とても困っております。あなた……と呼ぶのは、少し失礼な気がするので。  考えたすえ、ここはウェブスターの名著『あしながおじさん』にならって、「あしながおじさま」とお呼びすることにしました。だからといって、私があのジュディ・アボットのように溌剌《はつらつ》とした少女、あるいは女子高生、あるいは女子大生とはかぎりませんよ。もしかしたら、ひげを生やしたいかつい男かもしれません。  むさくるしい男が、にやにやしながらピチピチした女子大生のふりをして手紙を書いている姿を想像してみてください。思わず苦笑いしてしまうでしょう?  あしながおじさま——早速そう呼ばせていただきます——、貴方のほうこそ、若くてみずみずしい年頃の女性かもしれませんね。そのときは、「あしながおじさま」ではなく「あしながお嬢さま」になるのでしょうか。あるいは、すでに結婚されていてお子さんがいらして、「あしながおばさま」とお呼びすべき方かもしれませんね。  勝手な想像をあれこれしてしまうずうずうしい私をお許しください。でも、こうした想像こそが、私に希望と、これからの人生に対する柔軟性を与えてくれる気がするのです。  あしながおじさま、お礼を申し上げるまでにこんなに時間がかかってしまったことも、どうかお許しください。本当は、すぐにでも手紙を書くつもりだったのです。ところが、なかなか気持ちの整理ができないでいました。  遠回しな書き方をしてもあしながおじさまが心配するだけですので、正直に書いてしまいます。  通常、感染症やGVHD(移植片対宿主病)等がなければ、移植後六週から八週間ほどで退院となり、三か月ほどは外来で経過を観察することになります。  私の場合、移植後八日目で、白血球が増える兆候がありました。これは、かなり早いほうです。私は神様に祈り続けました。このまま何も起こらずに無事に退院できますように、と。  けれども、それから二週間後でした。発熱に続いて、恐れていたGVHDが起きたのです。これは、ドナーのリンパ球が患者の身体を攻撃する反応のことです。腕や顎《あご》の湿疹《しつしん》や口内炎に悩まされました。  ——新しい骨髄液が私の身体を受け入れてくれない。  いえ、誤解なさらないでください。けっしてあしながおじさまが提供してくださった骨髄液のせいではないのです。自分の身体の抵抗力のなさに腑甲斐《ふがい》なさを感じ、私はベッドの上で泣きそうになりました。でも、涙が出そうなときは、あしながおじさまの顔を想像して耐えました。貴重な時間を割いてまで、痛い思いをしてまで骨髄液を提供してくださった方がいる。そのやさしさを忘れてはいけない。その方のためにも私はがんばらなくてはいけない。移植のためにいろいろと力を尽くしてくれたスタッフの人たち、友人、家族、同じように病気で苦しむ人たちのためにも踏んばらなくてはいけない。  祈りが通じたのか、奇跡的に危機は脱しました。移植から半年を経た現在は、とても調子がいいのです。ワープロに向かって、こうして手紙を書けるまでに回復しました。  もちろん、いまの段階で「完治した」と宣言できるわけではありません。これからも、定期的に診察を受ける必要はあります。再発の可能性がないわけではありません。  でも、大切なのは元気で動けるいまです。将来を恐れていてもしかたありません。  こうやってワープロのキーを叩《たた》いている瞬間も、視線は近くにある新聞にふと注がれます。そこには、先日、池袋の住宅建築現場で殺された女性の記事が載っています。彼女は、結婚を間近に控えていて、会社を辞める前だったそうです。何とも痛ましい事件です。彼女はきっと、愛する人との将来に胸をふくらませていたことでしょう。  本当に、明日、いえ、あと一分後、十秒後に何が起こるかわからない世の中です。生きているいまこの瞬間を大切にしよう。私は切実にそう思いました。  あしながおじさまの善意に、心より感謝いたします。あしながおじさまのためにも、私は百歳まで長生きしなくては、と考えております。とすると……あとうん年ですね。  今後は、街ですれ違った人を見て、あれがあしながおじさまかな、それともあの人かな、と想像する楽しみが増えました。  あしながおじさまも、どうかお身体を大切にいつまでもお元気で。 草々                 元気になったジュディより  第一章 密 室     1  雨戸のわずかな隙間《すきま》から明かりが漏れているのを見て、彼女は「ああ」と思わず安堵《あんど》の声を上げた。  ——あの子は生きている。  人間らしい普通の生活はしていないかもしれないが、少なくとも夜になれば部屋の電気をつけて暮らしている。それだけの〈文化的な〉生活は送っているということだ。  自分の息子の姿を最後にまじまじと見たのは、いつだったろうか。もう思い出せないほど遠い昔のことのように彼女には思えた。  不意に、七五三のときの息子の姿が脳裏に浮かんで、まぶたの裏が熱くなった。履き慣れない草履《ぞうり》を履き、はかまの裾《すそ》をつまみあげて神社の階段を上がりながら、はにかんだような、だが何か晴れがましいような得意げな顔をしていたものだ。お参りを終えた帰りはぐったり疲れ、父親に抱かれて眠り込んでしまった。  ——あのころは、ひたすら無邪気で可愛《かわい》い子だったのに、どうしてこんなことに……。  紫陽花《あじさい》が満開の庭にたたずみ、彼女は嗚咽《おえつ》した。  自慢の息子だった。  幼稚園のお遊戯では主役を演じ、小学校のときは、読書感想文を書いてクラスの代表に選ばれ、夏休みの自由研究でカビの発生原因と増殖過程を調べたのが県のコンクールで金賞をもらった。運動神経も悪くなくて、決まってリレーの選手に選ばれた。中学校では、交通安全の標語コンクールに入賞したり、愛鳥週間のポスターに卵を抱いた鳩を描いて入賞したりもしたが、何と言っても自慢すべきできごとは、第一志望の高校に入った年に、人命救助で消防署から表彰状を贈られたことだった。大学も、第一志望の国立大学に進学した。  ところが、大学三年の夏休み明けから急に大学に行かなくなったのだ。ちょうど彼の部屋に、エアコンを取りつけた直後だった。彼女が起こしに行くと、息子は最初、「腹が痛い」とか「頭が痛い」とか身体の不調を訴えた。病院に行くように勧めたが、行こうとしない。二、三日寝ていれば治るだろう。彼女はそう考えて、あまり深刻に受け止めなかった。  だが、四日、五日と過ぎてもいっこうに部屋から出ようとしないので、ある日、勤めから帰った彼女は息子の部屋のドアをノックした。応答がなかった。ドアを開けようとしたが、中から鍵《かぎ》がかかっている。 「ほっといてくれよ」  息子の怒鳴り声がした。 「でも……貴明《たかあき》、何か食べたの? 少し食事をしないと、元気が出ないわよ」  冷蔵庫の中のものが減っていなかったので、彼女は心配してそう声をかけたのだ。 「飯はドアの外に置いといてくれ」  ぶっきらぼうな言葉が返ってきた。 「一緒にご飯食べられないの? 熱でもあるの?」 「……」 「貴明ちゃん、何が食べたいの?」 「何でもいい」 「何でもって……。お腹の調子が悪いんだったら、おかゆのほうがいいかしら」 「普通の飯!」  叩《たた》きつけるような勢いで、息子は言った。 「はいはい、わかりました」  彼女はため息をついた。ひとまず引き下がることにしたのだ。この子は、いままでずっと素直なよい子だった。ちょっとばかり反抗期が遅くきたと思えばいいではないか。きっと大学で嫌なことがあって、気分がむしゃくしゃしているのかもしれない。中学や高校で登校拒否を起こされたらパニックになったであろうが、大学である。一週間や二週間講義に出なくても何とかなるだろう。  そこで彼女は、丸盆に握り飯を三つとコロッケの皿を載せて、麦茶を添えて息子の部屋の前に置いておいた。  知らぬ間にそれらは消えていた。翌朝、彼女がようすを見に行くと、空の食器を丸盆に載せて廊下に出してあった。息子はちゃんと食べたのだ。 「食欲、あるみたいじゃない。どう、けさは」 「……」 「お母さん、仕事に行くけど」 「……」 「貴明、いるの?」  彼女は心配になって、ドアを叩いてみた。何かがドアにぶつかる音がした。  息子は部屋にいる。  足がすくんだ。自分の息子が生まれてはじめて示した凶暴さだった。  夕方、仕事から戻って部屋の前に行った。床に紙が落ちていた。  次のものを買って来い。   冷蔵庫   コーラ   ポテトチップス   ベニヤ板   大判の青いシート   角材   金槌《かなづち》と釘《くぎ》   ロープ   ……  そのほかにも、こまごまとしたものがサイズや数量とともに書き連ねてあった。まるで買い物リストだ。どこで売っているのか、店の名前も書いてある。  彼女は、息を呑《の》んでそれらを読み返した。息子の意図がまるでわからなかった。 「貴ちゃん、何なの? これ」 「読めるだろ? 買って来りゃいいんだよ」 「でも、どうして……」 「うっせえな」  ふたたびドアに何か重たいものがぶつかる音がした。苛立《いらだ》った息子が手に触れたものをドアに向かって投げつけたのだ。 「家に火をつけられたくなかったら用意しろよ。ライターだってあるんだぞ」  彼女——母親は、その場にへたりこんだ。理由がわからないが、とにかく息子が〈豹変《ひようへん》〉してしまったのだと思った。夫に相談したかったが、地方公務員をしている夫は、海外研修で出張中である。  部屋に火をつけられては困る。彼女の脳裏を、いままでテレビや雑誌で見聞きした家庭崩壊に至るまでのすさまじい過程がよぎった。何かのきっかけで登校拒否を起こし、それから家庭内暴力に走る子供たち……。自分の家庭がそうなってはいけない。いや、なるはずがない。息子は少しだけ反抗しているだけなのだ。気がすめばまた、いままでどおりの平穏な日常に戻っていくだろう。  そのときは、彼女はまだ自分一人の力で何とかできる、と考えていたのだった。     2  八日後、出張から帰った夫は、庭の異変を見て驚愕《きようがく》した。 「おい、どうしたんだ」  家に入らずに、鞄《かばん》を持ったまま庭に立ちすくんでいる。 「貴明が……」  彼女は口ごもった。自分たちの愛《いと》しい一人息子が、息子に言われるままに彼女が用意した材料を使って、自分専用の〈通路〉を築いてしまったなどと、すんなり話せるわけがなかった。 「何なんだ、これは」  夫は、工事現場で使うような青いビニールシートから妻へ視線を移した。 「それより、ちょっと話があるの」 「貴明はいるのか? まだ大学か?」 「帰ってるわ」  いや、帰っているのではなく、ずっと家にいたのだ。 「まだ明るいのに、雨戸が閉まってるじゃないか」  そこだけぴたりと雨戸が閉められている貴明の部屋を指さして、夫は訝《いぶか》しげな顔をした。  二階に納戸があるだけの、ほとんど平屋に近い、やたらと座敷の多い古い間取りの家だ。玄関から見て右端の部屋が貴明の部屋になっている。彼に個室を与えるときに、本人の意見を尊重して、「勉強するのにいちばん落ち着ける」という部屋を選んだのだった。そこは以前は、彼が小学校一年生のときになくなるまで、彼の祖母が使っていた。もともと土台がしっかりしている家のせいか、何度もそっくり建て直そうか、という話が出たものの、結局、あちこち補修の手を入れただけでいままで何とかもっている。  庭の隅に、独立したトイレと洗面所が昔のうさぎ小屋や道具類をしまった納屋などと同じ棟にある造りは、田舎の旧家特有のものだった。そこも昔は汲《く》み取り式の便所だったのを、外のトイレだけでは雨のときなど不便だからと母屋にもトイレを増築したときに、まとめて水洗式トイレに変えたのだ。  母屋の右端の部屋、すなわち貴明の部屋の東側にある掃き出し窓の軒下から外のトイレの軒下までロープを渡してあり、目にも鮮やかなブルーのシートで覆われている。出入り口の両側には、補強するためかベニヤ板を打ちつけてあるようすだ。はっきりとはわからないが、どこかに角材なども使ってあるのだろう。  誰が見ても異様な光景である。  貴明は、母親が仕事で昼間出かけているあいだに、〈砦《とりで》〉とも呼べる自分専用の〈通路〉を器用に作ってしまったのだ。もともと図画工作や大工仕事の得意な子ではあった。  彼女は、引っぱるようにして夫を母屋に連れ込んだ。貴明の部屋から遠い居間——ここも昔は茶の間などと呼んだものだ——に行き、声を落として夫にこれまでの経過を話した。 「何だと? 突然、大学に行かなくなったって?」  夫が声を張り上げたのを、彼女はあわてて手で制した。広い家だとはいえ、一階と二階ではない。奥の部屋に声が届いて、息子を刺激してはいけないと思ったのだ。 「何があったんだ」  夫は、興奮を鎮めるように手で自分の胸を押さえて聞いた。 「わからないのよ」 「わからん?」 「突然だったんだもの。最初は、風邪か何かだと思ったんだけど」 「それで、冷蔵庫まで買ってやったのか?」 「え、ええ。わたしの貯金があったから。冷蔵庫が運ばれてきたときも、あの子はわたしを部屋に入れてくれなかったわ」 「何で子供の言うなりになるんだ」 「でないと、家に火をつけるって言うんですもの」 「そんなのは脅しだ。あいつにそんなことできるはずがない」 「でも……」  あのときの恐怖がそっくり夫に伝わるわけがない。彼女はもどかしさを感じて、唇を強くかみしめた。 「で、ベニヤ板とかシートとかロープってのは、〈通路〉作りのためか」  妻に渡された息子が走り書きしたメモを見て、夫は言った。「何でそんなことをしなければいけないんだ」 「人の目に触れるのが嫌だから。そうとしか思えない」 「家族の目にもか?」 「そうでしょう? だって、わたしともドアを隔ててしか話そうとしないんだもの。冷蔵庫を要求したのも、食料をためこんでおくためでしょう?」 「本当におまえと何もなかったのか? おまえが何か貴明の気にさわることを言ったんじゃないのか?」 「全然思いあたらないのよ。大学で何かあったとしか考えられない」 「友達は?」  彼女は、かぶりを振った。思えば、息子は、女性はもとより同性の友達を家に連れて来たことなど一度もなかった。息子といちばん仲のよい友達が誰なのかさえわからない。いや、友達くらいいるのかもしれないが、そうした交友関係の情報はすべて彼の個室内にある。そして、その空間には、いま親は一歩も踏み込めないのだ。 「あの子は、冷蔵庫を部屋に置いて、専用のトイレも確保してしまった。食べ物は母親に運ばせて、必要なものはメモに書いて買わせる。トイレに行くのに窓から出て、シートの中を誰にも見られずに行くなんて、そんなの尋常じゃない。外の世界との接触を拒んでるみたいだわ。やっぱりどこかおかしいのよ」 「対人関係……のつまずきか?」  夫は顔を曇らせ、舌を鳴らした。「そうか、やっぱり大学で何かあったんだな」 「でも、誰に聞いていいかわからないわ」 「大体、家から通える距離だからって、大学生になったいい大人を追い出さなかったおまえもいけないんだ。だから、親に、とくにおまえに依存するようになったのかもしれない。わがまま言うのもおまえに甘えているせいじゃないのか? 大学に通うのに疲れて、ストレスがたまってるんだろう。やっぱり一人暮らしを経験させてやればよかったんだ」 「いまさらそんなことを言わなくてもいいじゃないの。いままではうまくいってたのよ。あなただって、東京で一人暮らしするよりは食事の問題もある、金もかかる、このまま同居していたほうがいい、と賛成してくれたじゃないの。それに、大学生になったからって、親と同居している子供は大勢いるわ」 「うむ……」 「病気なのよ」 「何て病名だ」 「わからないわ。でも、こんな状態が普通であるはずない。ちゃんと専門家に見てもらわないと」 「医者か?」  精神科か、とつぶやいて、夫は一瞬、息子を疎んじるような表情をした。彼女はそれを見逃さずに、身を乗り出して訴えた。「早めに治療したほうがいいわ。何でもそうじゃない?」  すると、夫はすっくと椅子《いす》から立ち上がった。 「俺《おれ》はまだ何も話してないんだ」  廊下に出て、息子の部屋へ向かおうとする。 「あなた、待って。言葉に……」  気をつけて、と続けようとしたのを、「おい、貴明!」と呼ぶ夫の大きな声に遮られた。 「貴明、どうしたんだ。何で部屋に閉じこもってるんだ」  中から応答はない。 「このままずっとここにいるつもりか? 大学はどうするんだ。せっかく入った大学だぞ。このままずるずると休んで留年なんてことになったら、いいところへ就職もできない。それじゃいままでの努力が水の泡だぞ」  室内はシーンとしている。  父親は、木製のドアを叩《たた》いた。「おい、聞いてるのか? 貴明。いまならまだ遅れは取り戻せる。どこも悪くないんだったら、早く出て来い。どこか具合でも悪いところがあれば、医者に診《み》てもらえばいい」 「貴ちゃん?」  彼女も、夫の背後から遠慮がちに声をかけた。ご機嫌をとるようなときは、呼び方が小さいころのものになったりする。  すると、即座に反応があった。ドアにものが当たる衝撃音だ。父親は、びくっとしたように身体を震わせて、妻へ顔を振り向けた。彼も生まれてはじめて息子の暴力に出会って、ショックを受けたようだ。  だが、すぐに父親としての威厳を取り戻したのか、「子供みたいに八つ当たりするんじゃないぞ」と穏やかに諭した。 「お母さんもお父さんもおまえを心配してるんだ。何か理由があって、ここに閉じこもってるんだろ? 大学で何かあったのか? 友達とケンカでもしたんなら、あいだに入って話をつけてやろうじゃないか」 「うるせえ!」  ドアを今度は足で蹴《け》った音がした。「おまえが親父に話したんだろ? よけいなことしやがって」  彼女は、息子の怒りの矛先が自分に向いたのに動揺した。 「で、でも、あなたのことをお父さんに話すのは当然でしょう?」 「当然でしょう、だって?」  貴明は、母親の声色をまねてたたみかけてきた。「何かというと、お父さん、お父さんだ。『お父さんに相談してみるわ』、『お父さんに聞きなさい』って、都合が悪くなると『お父さん』だ。そこにいるのは、おまえのお父さんか? 夫だろうが。おまえには自分の意志ってものがねえのかよ」 「やめなさい! お母さんをおまえ呼ばわりするんじゃない」  夫のほうが、妻を侮辱された憤りで顔を紅潮させた。 「いいかげんにするんだ。大学生にもなって、甘えるんじゃない。何があったか知らんが、こっちがとばっちりを受けるいわれはない」 「おまえらのせいだ」  貴明の声が少しひるんだ。 「ど、どうしたの?」彼女は、ドアに耳を押しつけた。息子が泣いている気配がしたのだ。 「おまえらが俺をこんなにしたんだ」  やはり語尾が震えている。 「こんなにって、どんなにだ? だから、大学で何があったか聞いてるんじゃないか」  耳のつけねまで真っ赤にして、夫は言った。 「関係ねえよ」 「関係なくはないだろう。今日で何日目だ? おまえがずっと閉じこもったままでいてみろ。大学だから誰も迎えに来やしないぞ。自然に除籍になる。そしたら、いい条件の就職先も失うんだぞ。お父さんはやがて定年になる。お母さんだって同じだ。親はいつまでもおまえのそばにいるわけじゃない。どんどん年老いていくんだ。おまえは長男で一人っ子だ。お父さんたちは、おまえに面倒を見てもらう気でいるんだぞ。おまえがこんなふうだったら、嫁さんももらえやしない。ずっとこの家で独身でいるつもりか? お父さんたちが死んだら、生計はどうするつもりだ? お父さんの退職金は、この家を建て替えるために使うと決めてるんだからな。公務員の退職金なんてたかが知れてる。年金だけはもらえるが、それをあてにされても困る。しかし、家だけはある。この家は、いずれおまえのものになるんだ。おまえの未来の家族の家だ。東京まで一時間そこそこで行けるところに、最初から一戸建てを持てるんだ。それだけおまえは恵まれてるってことだ。わかってるのか? そのことを。お母さんはおまえには甘いから冷蔵庫なんかぽんと買ってやったがな、これからはおまえの思いどおりにはいかない。知ってるだろ? 昔から、働かざるもの食うべからず、と言うくらいだ。おまえが働かないでここで怠惰な時間を過ごすつもりだったら、こっちにも考えがある」  興奮で、夫の肩は上下し始めた。 「あなた」  彼女は、室内の静寂が恐ろしくなって、夫をたしなめた。そこまで言わなくても……。急に不安に襲われた。 「どうするつもりなんだよ」  貴明がぼそっと尋ねた。  正面から突かれて父親はちょっとうろたえた。ずり落ちた眼鏡を手で上げ、一つ咳払《せきばら》いをしてから答えた。「おまえが餓死しようがどうなろうが知らん。ほうっておく」 「あなた、やめてよ」  何か悪い方向へ進んでいるような気がして、彼女は夫の腕を引いた。  引っ込みがつかなくなったのだろう。夫は、「脅しじゃないぞ。こんなわがままで怠慢な生き方は、男として、いや人間として最低の恥ずかしい生き方だ、と言ってるんだ」と、自分の言葉に酔ったように力をこめて続けた。 「ほら、出て来なさい。立てこもり犯じゃないんだから」  夫がドアノブをがちゃがちゃ回した。が、開かないとわかると、自分の無力に苛立《いらだ》ったように足で蹴《け》り始めた。 「あなた、やめてよ」  息子の暴力に引き続き、夫の感情の爆発も目の当たりにして、彼女はおろおろと夫の手にすがりついた。  ふっと、きな臭さが鼻をついた。嫌な予感が胸を走った次の瞬間、彼女の視線は足下に落ちた。白い煙がドアの隙間《すきま》からこちらに漂い出ている。 「貴ちゃん、何してるの? お父さん、大変!」  夫も煙に気づいたようだ。ハッとしたように、あとずさった。 「早く火を消しなさい!」  彼女は、ドアを叩《たた》きながら夢中で呼びかけた。 「紙を燃やしたんだ。もう一度ドアを開けようとしたら、今度は本気で全部燃やすぞ」  貴明のその声を聞いて、彼女の手はぴたりと止まった。  もう脅しではないとわかっていた。  彼女は夫と顔を見合わせた。そして、今度もその場にくずおれると、すすり泣いた。     3 「ほんのちょっとしたつまずきが原因で自分の部屋に閉じこもり、外界とのコミュニケーションを断とうとすることがあるんです。ええ、家族とのコミュニケーションも一切です」  夫婦で相談に出向いた精神科の医師は、そう言った。  彼らはそこで、「ステューデント・アパシー」という言葉を知った。大学生の不登校を意味する疾患である。息子の症状がけっして特殊なものではなく、いまあちこちで社会問題になりつつある症状であるのも知った。 「しかし、いわゆるステューデント・アパシーには強い葛藤《かつとう》や暴力が伴わないケースが多いとされているんですが、息子さんの場合は違うようですね。ご自分でもいまの状態に不安や焦燥感、激しい苛立ちを抱いているように見受けられます。それから、とくにお母さんに対して暴力的傾向が見られます。まるで、自分の部屋、いえ、この場合、自分の殻と言ったほうがいいのかもしれませんが、そこにひきこもっているかのようです」 「ひきこもり……」  彼女はつぶやいた。その状態がもっとも自分の息子にあてはまる気がした。 「どうすればいいんでしょう。どんな治療法があるんでしょうか」  この一か月でぐっと老け込んだ夫が、医師に救いを求める。 「これがなかなかむずかしいんですね。本人は、他者とのコミュニケーションを拒否していますが、他者の介入なしにまず治療はできません。息子さんは、人に傷つけられることをとても恐れています。しかし、他者との出会いもないままでは、精神的な成長も起こらないのは当然です。したがって、受けた傷からの回復もありません」  医師は、険しい顔で言った。 「『専門のお医者さんに診《み》てもらおうね』、そう紙に書いたり、あの子のためになりそうな本を買って来て置いたりもしたんですが、部屋から出て来ようとしないんです。強引に連れ出そうとしてまた火でもつけられたら困りますし。いいえ、次はもっと違う手段に出るかもしれません。自分を傷つけるとか」  自傷行為。それを彼女はいちばん恐れていた。自分がお腹を痛めて産んだ子が、自分の命を絶つ。それが母親としていちばん悲しいことだと思われた。  息子とのコミュニケーションは、いまではすべて筆談だ。最近では、息子は、話しかけても「うるさい!」と怒鳴ることもなくなっている。沈黙が返ってくるだけなので、彼女のほうも最後は話しかけるのをあきらめて、用件を紙に書いてドアに挟んでおく。彼は法外に高価なものは要求してこないが、両親が共働きなのをいいことに、母親が貯金をおろさなくては買えない程度のものは要求してくる。歩かないので運動不足になるのだろう、ルームランナーやバーベル、エキスパンダーなどの健康器具や、一人で時間をつぶせるテレビやビデオ、ステレオなどだ。  それでも、それらを要求するのは、外界へ出て行こうとする息子の意欲の表れだと思って、彼女は要求に応《こた》えている。まったくの無気力、無関心状態になってしまったら、太りすぎを予防するために健康器具に頼ろうとか、音楽を聴いたり映像を観ようなどとは考えなくなるだろう。  彼女は、息子がいまどんな状態になっているか、想像してみた。閉じこもって一か月半。そのあいだ風呂《ふろ》には一度も入っていない。「汗をかいたでしょう? お風呂沸かしたから入れば?」、「シャワーだけでも浴びたら?」と声をかけるが、待ってみても出て来ない。顔を合わせるのが嫌なのだろうと思い、「お母さん、出かけて来るから」と留守にするのを強調し、念のためにメモをドアに挟んで待っているが、だまされるのを警戒してかやはりドアは開かない。窓を出入り口にして、シートで目隠ししてある外のトイレを使うときに、隣についた小さな洗面所で顔を洗ったり、タオルで身体を拭《ふ》いているのだろうと、彼女は推察する。  そう……気配で推察するだけだ。ひげもそってはいないだろうから、伸び放題のはずだ。髪の毛も同様だろう。  雨戸を閉めきった日も当たらない部屋で過ごしている息子は、きっと青白い顔をしているにちがいない。中での生活の詳細を知られたくないのか、たまに牛乳パックやパンの袋などのゴミが廊下に出されているほかは、ゴミらしきものを出そうとしない。ゴミにあふれた、さぞかし不潔で散らかった部屋にいるのだろう。  太ったのか、やせたのか。顔色はどうなのか。想像するしかない。  ——嘆かわしい。なんてみじめな生活なの。  息子が廊下に出した汚れ物を洗うときに、彼女は涙する。彼専用の汚れ物や洗濯物を入れるかごや、食事を載せるトレイまで用意してしまった。まるで、小さな窓を利用してものをやり取りする囚人のようだ。囚人と違うのは、鍵《かぎ》をかけているのが囚人自身だということである。  彼は、定期的に新しい服や下着も紙に書いて要求してくる。注文どおりのものが届かないと、不機嫌になるのがわかる。無言でドアを蹴《け》ったり、ときには、「メーカーが違うだろ? おつかいもろくにできないのか、おまえは。まったく無能な女だな」と、メモ用紙の中で毒づいたりする。 「筆談ですむからといって、こちらから何も話しかけないのでは症状を悪化させる一方です。部屋の外から根気よく話しかけてください。そして、できれば少しでも行動を起こさなければいけないように仕向けてください。息子さんの場合、いまの状態から一日も早く抜け出さなくてはいけない、と自分を責めておられるようですから。何かのきっかけで心を開くこともあるんです」  医者は続けた。「いちばんいけないのは、お父さんがなさったようなことです。息子さんのような状態に、お説教や叱咤《しつた》激励は逆効果です。過度に感情的な態度をとったり、本人の意見を封じてしまうのも禁物です。いちばん苦しんでいるのは本人だと理解して、受容を基本姿勢に本人に働きかけていってください。そして、本人自身が部屋を出て、治療を受ける気にさせるのです」     4  彼女は、まず仕事を辞めた。もともと子供に手がかからなくなって始めた仕事だ。息子を監視する目的もあった。目を離したすきに衝動的に暴れてものを壊されたり、火をつけられたりしないとも限らない。自分のために仕事を辞めたと思うことが心の負担になりかねないので、息子にはパートの仕事に変わったと話しておいた。パートに出ているはずの時間帯は、家の中で物音もたてずに息を潜めていた。  そして、医師の指示どおりに、彼女は根気よくドアの向こうに話しかけた。栗ご飯を炊いたときは、「貴ちゃんの好きな栗ご飯よ。おかわりしたかったら呼んでね」と言って、わざと少なめに茶わんに盛ったり、初雪が降ったときは「ねえ、雨戸を開けてごらんなさいな。おもしろいものが見えるわよ」と、思わせぶりな言い方をして窓を開けさせようとした。  作戦が成功しなくても、ひたすら話しかけることだけは続けた。中には、ひとりごとに近い内容もあった。  だが、将来の話や貴明と同年代のタレントの話など、彼の社会復帰を焦らせたり、プレッシャーを与えるような内容は避けた。おおみそかには年越しそばを置き、正月にはお雑煮を置いた。  そうやって、翌年の三月がやってきた。  少しずつ変化が現れた。貴明は、母親が出した食事に「あれは、ちょっとしょっぱかったぞ」とか「あれはまあまあうまかった」などと、そっけなくはあるが感想を言葉に出すようになったのだ。甘えた声で愚痴も言うようになった。「小学校の五年のときの授業参観、俺《おれ》が手を挙げたとき、お母さんはよそのお母さんと話していて、ちゃんと見てくれてなかった」、「むずかしいテストで九十点とったのに、お母さんは『何だ、百点じゃないのか』という顔をちらっとした」、「犬に追いかけられて俺が泣きそうになったとき、お母さんは近所の人たちと笑っていた」……など、母親への恨みつらみが主で、ほとんどが息子の記憶力に驚かされるような些細《ささい》な内容だった。彼女は内心、〈そんなことをいままで?〉と思ったが、すべて受け入れてあげるのがいちばん、とひたすら聞き役に回った。  息子の気持ちは、次第に和らいでいくようだった。担当医に報告すると、「いい兆候です」とも言われた。  桜のつぼみがほころび始めたころ、彼女はなるべく穏やかに息子に話しかけた。 「ねえ、貴ちゃん、大学はどうする? 病気ってことで休学扱いにしてもらっているけど、そろそろ行ってみる? 長い人生だもの、一年や二年、遠回りしてもかまわないわ。大学にも相談に乗ってくれる人がいるそうよ」  大学にもカウンセラーがいることを調べて、息子に伝えてあった。今回のようなできごとに大学が関係していたとしたら、心の傷を受けた場所で治療をするのが大切だ、と担当医から聞いてあった。  その場では何も反応は返ってこなかったが、二日後、雨戸が開いた。実に七か月ぶりである。さらに数日後、風呂《ふろ》を焚《た》いておくと、彼女の留守中に入った形跡があった。  徐々に息子は、心を開いていっているようだった。  そして、五月の連休前に、ついに息子は部屋の鍵《かぎ》をはずして、〈外界〉に出て来た。     5  ——あのとき、貴明はさほど変わってはいなかったのに。  すっかり色褪《いろあ》せたシートを見て、彼女はため息をついた。いまが盛りの紫陽花《あじさい》が色鮮やかなだけに、長年の風雨にさらされたシートがいっそう哀れに映る。  あのとき、家族の前に八か月ぶりに姿を現した息子は、確かに顔色は青白かったが、やせも太りもしていなかった。  貴明は、すぐには復学しなかった。彼女も夫も急《せ》かしたりするのはやめた。  最終的に、貴明は大学を中退する選択をした。「もったいない」という言葉が喉《のど》まで出かかったが、親の価値観を押しつけてまたあの閉じこもり生活に戻られてはかなわない。復学しないということは、大学を拒否しているのだ。そう考えて、彼女は笑顔で息子の生き方に賛同した。  貴明は、不気味なほどすんなり仕事を探し始めた。いま思えば、あの段階で、三人そろって一度、医師のもとを訪れておけばよかったのだ。担当医も、「心の傷を受けた場所に戻って、治療を受けるのが大切だ」と言っていたのだから。少なくとも、貴明が部屋にひきこもった原因を突き止めておくべきだった。後悔してもしきれない。  病気が完全には治っていなかったことを、ほどなく彼女は知るのだった。  最初に貴明が就職した先は、夫の知人に紹介された建設会社だった。それも、息子が仕事探しを始めたものの、いい感触を得られないようだったのを見かねて、夫が知人に頼み込む形で得た仕事である。建築資材の仕入れを調整する仕事は、事務職でもあり、中退したとはいえ大学の法学部に籍を置いていた貴明には、ぴったりの知的な仕事だと彼女は思った。  ところが一年もたたないうちに、貴明は親に黙ってそこを辞めてしまった。会社からの連絡で息子が辞めたのを知った夫は、息子を叱《しか》りつけた。 「お父さん、やめて。貴明にも何か理由があるはずよ。それを聞いてみましょう」  彼女がとりなすと、貴明は無表情なまま口を開いた。 「あれは、俺《おれ》の能力に見合った仕事じゃないよ」  息子の答えが、父親の新たな怒りを誘発した。 「何だ、その言いぐさは。せっかくお父さんが頭を下げてもらった仕事だぞ。おまえ、お父さんの顔をつぶす気か?」 「頭を下げてくれ、なんて頼んだ憶えはないよ!」  吐き捨てるように言うと、貴明はぷいと家を飛び出して行った。 「このまま家に戻らないんじゃないかしら……」  心配した彼女に、夫が言った。 「部屋に閉じこもられるよりはましだ。あいつは、自殺なんかできるようなやつじゃない。あいつなりに自立しようともがいているのかもしれん」  今回は、夫の言ったとおりになった。貴明は、二日後、ふらりと戻って来て告げた。 「俺、仕事見つけたから」  雑誌で見つけた仕事だという。レコード会社のようだったが、カタカナの会社名は、夫も彼女も耳にしたことがなかった。それでも、息子がはじめて自分でつこうという仕事である。彼女は、就職祝いと称して赤飯を炊き、仏壇に供えた。  ——どうか今度は長続きしますように。  しかし、彼女の祈りは通じなかった。  ここもやはり、二年ともたなかった。  ある朝、出勤時間になっても起きて来ようとしないので彼女が起こしに行くと、貴明はベッドから出ようともせずに、「ああ、辞めたんだ、あそこ」とそっけなく言った。 「仕事が長続きしないようじゃ困るわ。どうすればいいの?」 「あいつのどこが悪いのか、職場の人に聞いてみたほうがいいんじゃないか?」  貴明が外出したときに、夫婦は話し合った。  職場には、母親の彼女が出向いた。 「井口《いぐち》君は、そうですね……営業が向かないようです」  上司は、奥歯にものが挟まったような言い方をした。  息子から営業職ではなく事務職だと聞いていたので、彼女は驚いた。 「こういう業界の営業は、人あたりがよくないとだめなんですが……。井口君はその……まじめなことはまじめなんですが、話し下手と言いますか、人の冗談を本気に受け止めるところがありまして。職場でもちょっと浮いている感じがありましたね」  結局、息子が職場を辞めた決定的な原因はわからなかった。辞職するように勧められたわけではないようだったが、上司は「この仕事が自分には向かない、とわかったんでしょう。井口君にはもっと適した仕事がほかにあると思います」と、ちょっと困ったように言った。 「あの子には一体、どういう仕事が向いてるって言うの? このまま定職にもつけなかったら、結婚だってできやしない」  帰宅した彼女は、泣きながら夫に訴えた。責める場所がなかったので夫を責めたのだ。 「大学を中退したのが悪かったのさ」  夫は、ぽつりと言った。「あの時点で、あいつの人生は終わったんだ」 「そんな言い方やめて。それじゃ、あの子が可哀《かわい》そうじゃないの」 「可哀そうなのはどっちだ。どんどん年老いていく俺たちじゃないのか? よーし、もう腫《は》れものにさわるような扱いはしないぞ」  夫は、貴明の部屋の前に立ち、自分の腹にたまっていたものを一気に吐き出した。——おまえはわが井口家の恥、親の顔に泥を塗った、人生の敗北者、何事も中途半端、単なる怠け者、まったく情けない、よく現実を見つめろ、気持ちの持ちようだ、勇気を出せ、しっかりしろ……等。すべて、医師に禁止されていたお説教や叱咤《しつた》激励の類《たぐい》だ。  部屋の中から反応はなかった。  いないのかしら、と彼女は一瞬、訝《いぶか》った。不気味なほどの静寂だ。  不吉な予感にかられ、彼女は、感情を吐露し終えて虚脱状態に陥っている夫の顔を見た。 「まさか、あの子、自殺するんじゃ……」 「ばか言え。そんな度胸があるもんか」  夫は、かすかに表情に戸惑いを見せたが、ほうっておけ、と言い捨ててきびすを返した。  母親の自分までわが子を見放してはいけない。彼女は、必死になってドア越しに呼びかけた。 「貴ちゃん、おかしな気は起こさないで。さっきの、お父さんの本心じゃないのよ。あなたに立ち直ってほしくて、少し厳しい言葉が出ちゃっただけなのよ」  カチリ、とドアの鍵がはずされる音がした。彼女は胸をつかれた。自分の言葉が息子の心に通じたのだ、と思った。  しかし、現れた息子の顔を目にした瞬間、恐怖で背筋が凍りついた。  血走った目をした息子の右手には、バットが握られている。 「貴明……」  腰から下の力が抜けた。彼女は、廊下の壁を背にして、ずるずるとくずおれた。 「おまえは、何でいつも、そうやってドンくさいんだよ。昨日のオムレツには、殻が入ってたぞ。お盆だって汚れてたし、箸《はし》の置き方もぞんざいだった。廊下だって、磨いてありゃしない。もっと気を入れてしっかり掃除しろってんだよ」  何をいきなり言い出すのか……。彼女は、呆然《ぼうぜん》として、いまやこの家の中でいちばん体格のいい息子を見上げた。自分はけっしてきれい好きを自慢できる主婦ではないが、いちおう恥ずかしくない程度に掃除をしているつもりだ。いちばん不潔なのは、家族を立ち入らせようとしない貴明、あなたの部屋じゃないの。お風呂《ふろ》にも入ろうとしないあなたの身体じゃないの。何が不満で、そんなにわたしを責めるの?  口を開こうとした瞬間、バットが振り下ろされた。彼女のすぐ脇《わき》の壁を、床を、バットは砕いた。  妻の悲鳴を聞きつけて、夫が血相を変えて駆けて来た。夫が、ひっ、と喉《のど》を鳴らすのが彼女の耳に入った。 「に、逃げろ」  さっきまでの勢いはどこへいったのか、夫は叫ぶなり、自分は階段のほうへあとずさった。手に触れたほうきを息子に向かって投げつける。 「うおっ」と、貴明は吠《ほ》えた。廊下に転がったほうきを手にし、父親に投げ返す。柄の先が夫の額をかすめた。眼鏡が床に落ちて、レンズが割れた。  ——殺されたら事件になる。そしたら、新聞やテレビで大々的に報道されてしまう。世間に明らかになったら、この子の将来はめちゃめちゃになる。  彼女は、自分や夫の命が脅かされている事実より、そちらのほうをとっさに考えた。膝《ひざ》に力が戻る。立ち上がり、階段のほうへ彼女もあとずさった。壁にかかっていたちりとりを後ろ手につかみ、息子に投げた。母親に反撃されるとは思ってもいなかったのだろう。当惑と怒りで、貴明が目を大きく見開いたのがわかった。  貴明がひるんだすきを狙《ねら》って、夫婦は階段を上がり、納戸へ逃げた。もし追いつめられたら、納戸の窓から飛び降りる覚悟も、彼女のほうはしていた。  ライオンに狙われた小動物のように、二人は納戸の隅で縮こまって震えていた。夫の額からは血が流れている。  貴明は追っては来なかった。部屋に閉じこもったのか、外に出てようすをうかがっているのか、階下で物音はしない。  何時間そうしていただろうか。部屋が薄暗くなり、彼女は電気をつけに立ち上がった。部屋が明るくなる。夫は、静かに泣いていた。結婚してはじめて見た夫の涙だった。     6  あのできごとが夫の死期を早めたわけではなかったろう、と彼女は思う。  しかし、夫が体調を崩して医者にかかったのは、それから三か月後のことだ。  貴明の暴力は、あれきりおさまっていた。というより、ふたたび自室に閉じこもる生活に舞い戻ってしまっていたのだ。  胃がもたれると言って胃カメラの検査をした夫に、医師は胃の組織片の細かな検査を勧めた。検査結果は、夫より先に妻の彼女に知らされた。 「悪性の腫瘍《しゆよう》ができています。それも、かなり大きなものです。一日も早く手術したほうがいいでしょう。ほかに転移している可能性もないとは言えません」  危険な状態だと告げられても、彼女は不思議と現実感が湧《わ》かなかった。息子に負わされた気苦労で、感覚が麻痺《まひ》していたのかもしれない。 「貴ちゃん。お父さん、手術することになったのよ」  ふたたびひきこもってしまったとはいえ、家族の一員で、しかも長男だ。彼女は、病名を告げずにドア越しに息子に報告した。部屋から出て来て、自分の人生を考え直すいいチャンスになればいい、と一縷《いちる》の望みを賭《か》けて。  だが、貴明からは、言葉による返答も文字によるそれもなかった。  夫は入院した。病院通い、ひきこもった息子の世話、と彼女は二人の男の世話に明け暮れた。自分が倒れないのが不思議なくらいだった。  小さいころに両親をなくして児童施設で育った夫は、子供がいなかった井口家に養子として入った。彼女の両親もすでに他界している。一人きりの兄とは昔からうまが合わなかった。兄が親の反対を押しきって東京でホステスをしていた女と駆け落ちし、家を出てしまってから、すっかり疎遠になった。その兄も、だいぶ前に作業中の事故で死んだ。一人息子がいるらしいが、現在、井口家とは音信不通の状態だ。親戚《しんせき》が少ないことで不便を感じた時期もあったが、いまになってみれば干渉する親戚がいなくてかえってよかった、と彼女は思う。この家の秘密をのぞかれずにすむ。子供のころに優秀だった貴明は、中学から私立へ通わせてしまったので、近所には親しい友人もいない。働かないで家にいる貴明にうすうす気がついている者もいるかもしれないが、面と向かって彼女に尋ねる者はいない。聞かれたら聞かれたで、「病気で療養中」とか「海外に留学中」とでも答えればいい。いや、貴明の姿は家族でさえも目にするのが困難な状態なのだ。部屋に閉じこもりっぱなしなのだから、人の目につく恐れなどはなからない。  執刀医は、手術のあとに彼女にこう言った。 「手のつけようがありませんでした。あちこち転移もしています。ご主人はもってあと半年でしょう」  本人に告知すべきかどうか、彼女は迷った。が、希望があれば告知もしただろうが、命を限られていてはそれもできない。 「あなたが一日も早くよくなれば、貴明だって立ち直ると思うわ」  そう言って、病床の夫を励ました。  一方で、貴明には、父親の本当の病名を告げる決意をした。ここまで深刻な状態になっていると知れば、いよいよあの子も覚悟を決めるだろう。 「お父さん、もう長くないのよ。お医者さんにはっきり言われたわ。もう家には戻れないかもしれない。お母さんには貴ちゃん、あなただけが頼りなの。お願いだからわたしの力になってちょうだい」  毎日、病院から戻るたびに、彼女は息子に懇願した。けれども、涙を交えた彼女の言葉も貴明の心には届かなかった。  夫は、医者が宣告したきっちり半年後に、五十八歳のわびしい生涯を閉じた。     7  色褪《いろあ》せたシートが風をはらんでゆらりと揺れた。トイレに行くために、窓から貴明が出て来たのだろう。彼女は、幼児の背丈ほどもある紫陽花《あじさい》の塊に隠れ、かがみこんだ。息子の視野に入ってはいけない。長年、身についてしまった悲しい習性だった。  何度、あのシートをはがし、窓を叩《たた》き割って、息子の〈聖域〉に踏み込もうと考えたであろうか。この家に二人きりなのに、まだ息子は自分を避けている。いや、専門医に言わせれば、彼が拒絶しているのは母親というよりも、世間すべてということになるらしいが、同じ屋根の下に暮らしているのは自分しかいない。  息子をこのままにして、自分がこの家を出て行けばいい。そう決めて、息子に突きつけたこともあった。 「お父さんが死んだのよ。あなた、お父さんのお葬式にも出ないで。ひっそりしたお葬式だったわ。あなたは仕事で海外に行っている、すぐには帰れないところなの。弔問に来た人にはそう説明したけど、みんな、信じたかどうか……」  他人が家に入っているあいだは、貴明はことりとも音をたてないのだった。彼女もまた、極力、人を家に入れないようにしている。 「この家を建て直す話は、もうなくなったのよ。年金をもらえるまではまだ間があるし、入院費や何やらで貯金も目減りしてしまった。家もどんどん古くなるし。車も処分したわ。お母さん一人じゃ、もうどうしようもないのよ。五十を過ぎた女をまともに雇ってくれるところなんてないし。そろそろこのあたりで、あなたに働いてもらわなくちゃね。でないと、お母さんもあなたも餓死しちゃう。お母さん、心細くてたまらないわ。……貴明、聞いてる? お母さん、この家を出て行っていい? どこか住み込みで使ってくれるところを探そうと思って」 「……好きなようにすればいいさ」  思いがけなく、反応が返ってきた。彼女の頬《ほお》は、一瞬、バラ色に染まったかもしれない。いい兆候だ。息子は立ち直りつつあるのかもしれない。母親がはっきり留守だとわかっているときは、部屋から出てシャワーを浴びたりしているようすでもある。結局、そのひとことにすがって、彼女はずるずると決断を先送りにした。  ちょうど仕事も見つかった。スーパーで生鮮食料品を扱う仕事だ。  仕事に慣れたころ、彼女は〈強攻策〉をとる決心をした。〈砦《とりで》〉の中でもっとも手薄な場所を狙《ねら》うのだ。すなわちシートを突き破って、息子に体当たりする作戦だった。目を見て話せば、息子に自分の真摯《しんし》な思いが伝わるだろう、と考えたわけだ。  近所に騒ぎが知れてはいけない。そこで、日が暮れるのを待った。やがて、息子が用を足しに〈通路〉へ出て来た気配を感じた。彼女は、シートへ近づいた。裏庭に、小さな石灯籠《いしどうろう》がある。そこの明かりに照らされて、シート内の人間のシルエットがぼんやり透けて見えた。  ハッとして、彼女は足を止めた。  そこにいるのは、彼女の知っているわが子ではなかった。自分の知らない人間、いや、物体がシート内でうごめいているのではないか。彼女は、そんなふうに錯覚しそうになった。  それほど、わが子は変わってしまっていた。  巨体が歩いている!  不健康な生活——運動不足と、ストレスによる過食が招いた太りすぎだろうか。  体当たりしようなどという威勢は、とうに萎《な》えていた。文字どおり体当たりなどしたら、小柄な彼女は弾《はじ》き飛ばされてしまうだろう。  ——あそこにいるのはわが子で、わが子ではない。  彼女は、息子——貴明の豹変《ひようへん》ぶりに戦慄《せんりつ》を覚えた。いままでは、自分の知っている背格好の息子がいる、それだけで恐怖を感じそうになるのを、どうにか抑えられていたのだった。幼いころの面影をその顔や身体に見出《みいだ》せるかぎり。  ——このままわたしが逃げ出してしまおうか。  そう考えないでもなかった。が、現実にそうすれば、母親に見捨てられたと知った貴明は、自暴自棄になってこの家に火をつけて焼身自殺してしまうかもしれない。別人のように人相や身体つきが変わろうとも、わが子はわが子である。死なれるくらいなら自分が死んだほうがましだ。夫が大切に守り続けたこの家も、燃やすわけにはいかない。  ——自分さえこの状態に我慢すれば……。  彼女は計算した。結婚もせず、働きもせずにいる息子と住む母親は、自分以外にも何組もこの世に存在するだろう。息子の症状を医師に最初に相談したときには定着していなかった「ひきこもり」という言葉も、社会病理としていまや世間に認識されている。この何年か、彼女は「ひきこもり」について書かれた本を読みあさった。思いあたる症状がそこには記されていた。最初の八か月間、貴明が部屋にひきこもったとき、母親に対して幼児のように甘えた口調で愚痴をぶつけたのは、子供返りと呼ばれる「退行」が引き起こされたためらしい。ひきこもりには、しばしば強迫症状が伴うともいう。貴明が廊下の掃除が行き届いていないと母親を責めたのは、いつも清潔でいたいという自分の願望が叶《かな》えられず、その願望を母親に代行させたためらしい。そう言えば、貴明には強迫神経症と思われる傾向があった。トレイに載せるご飯茶わんや箸《はし》の位置を細かく指示したりした。  彼女は必死に、〈この状態は異常ではない。よくあるケースなのだ〉と、自分の胸に言い聞かせ続けた。  肉づきのよいシルエットが〈通路〉を通り、自室へと戻って行く。  彼女——井口|富士子《ふじこ》は、紫陽花の花びらを何枚かむしり取り、庭にまき散らした。一枚が足下に舞い落ちた。  かかとがすり減り、布がぼろぼろに破れたサンダル。もう何年も新しいサンダルを買っていない。服だってそうだ。この家で働ける者は自分しかいないのだから、節約を心がけるしかない。それなのに、一人息子はいろいろなものを要求してくる。CDプレーヤーというものも買い与えたし、彼が好きだという歌手のCDも命令されるままに買って来ている。新聞でチェックするのか、読みたい新刊本も矢継ぎ早に求めてくる。食べ物にもうるさい。  ——ほとほと疲れたわ……。  視線を上げ、雨戸を見つめる。雨戸の隙間《すきま》からこぼれていた明かりが、一瞬消えて、また灯《とも》った。  十年間、ひきこもったままの息子——井口貴明が、あそこにはいる。あの密室に。  第二章 発 案     1  高谷美由紀《たかたにみゆき》は、演台に置いた腕時計をちらりと見た。自分に与えられた時間は、残り五分だ。四十分の予定で、美由紀は講演を頼まれている。  少し早めに切り上げてもよかったのだが、美由紀はふと迷った。  ——残り五分であの話をするべきかどうか……。  壇上に上がった直後は、会場に来ている人たちを隅から隅まで観察するような余裕はなかった。なにしろ講演などはじめての経験である。聴衆に注目されたのは、中学生のときのピアノの発表会以来のことだ。  だが、熱心に耳を傾ける学生たちを前にして、美由紀の気持ちはだんだん落ち着いてきた。自分がなぜここに呼ばれたのか、なぜ若い彼らを前に話しているのか、その理由を改めて自覚した途端に、熱い使命感というようなものにとらわれた。  美由紀は、美術大学を卒業して大手家電メーカーに就職した。そこのデザイン室で、冷蔵庫や電気炊飯器、電子レンジなど、おもに台所に置く電化製品の色やデザインを決める仕事に取り組んでいた。たまには大学の仲間たちと居酒屋で仕事の愚痴をこぼすこともあったが、内心では天職だと思っていたくらい、その仕事に情熱を傾けていたと言っていい。  ところが、三年目の冬に体調を崩した。身体が熱っぽくだるい気がしたのは、単純に残業が続いて疲れたためかと思っていた。一週間たっても微熱はとれず、風邪でもひいたのだろうと、市販の風邪薬を飲んだりしていた。翌週、たまたま会社の健康診断があった。微熱がある旨を告げて受けた血液検査で、白血球が異常に増加しているのが判明した。検査結果の書類に「要再検査」と書かれていたのを見たときの、驚きというより奇妙さを美由紀は忘れられない。自分はそれまで、病気とは無関係な人間だと思い込んでいたからだ。何かの間違いではないか、と思った。  紹介されて出向いた大学病院で、白血球の数値の推移を見るために通院が必要だと言われた。何回か通ったが、だるさや微熱は抜けない。結局、白血球を下げる治療のために入院することになった。  下された診断は、慢性骨髄性白血病。  その病名を、美由紀は、父と義理の母の前で聞いた。  白血病とは、血液細胞を作る骨髄中、あるいは抹梢《まつしよう》血中に異常な白血球が無制限に増加する病気であるが、病気の進行する速度により急性と慢性、異常な白血球の種類により骨髄性(顆粒《かりゆう》球系)とリンパ性に分類される。 「慢性骨髄性白血病は、ゆっくりと進行する疾患ではありますが」  説明する医師は、家族の前で、ややためらいがちに言葉を切った。 「白血球の数は増えていくものの、抗癌剤《こうがんざい》の投与などで比較的、症状は軽いままですみます。ところが、この時期がどれだけ続くかは予測がつかず、大体数か月から数年と言われています。美由紀さんの場合は、一年から三年でしょうか。その期間を経ると、かなり高い確率で急性転化期が訪れます。慢性期と同じような化学療法では、もはや白血球数のコントロールは困難な時期です。したがって、できれば慢性期に骨髄移植を受けられるようにお勧めします。もちろん、骨髄移植をすれば完治するというわけではなく、治癒率《ちゆりつ》は五十パーセントくらいとお考えください。けれども、化学療法を続けたまま、急性転化期を引き延ばす場合に比べれば、かなり高い治癒率ではあります。骨髄移植とは、ご存じかもしれませんが、他人の骨髄を輸血と同じように注入する治療法です。通常は、兄弟や姉妹がドナーになるのが望ましいのですが、すべての患者さんにHLAが適合した骨髄を持つ兄弟姉妹がいるわけではありません。その場合は、非血縁者のドナーからの移植となりますが……。美由紀さんにご兄弟は?」  医師は、美由紀本人がいるのに、なぜか父親——高谷|治郎《じろう》に向いて聞いた。  美由紀は、父親の口元を息を呑《の》んで見つめた。  ——どう言うだろう。 「残念ながら、おりません」  治郎の語尾はかすれた。  隣にいる義母——高谷|玲子《れいこ》は、すがりつくような目で夫を見た。  ——この人は、困ったときに必ず、義理の娘のわたしより先に夫であるお父さんを見る。  自分の病気について説明されているというのに、美由紀はそんなことをぼんやりと思っていた。  そして、慢性期が続くことを祈りながら治療を受ける闘病の日々と、骨髄提供者——ドナーが現れるのを待つ日々が続いたのだった。  美由紀の沈黙が続いたのを訝《いぶか》ったのだろう。会場にいくつか咳払《せきばら》いが起こった。美由紀は決心した。やはり、あの話をしよう。視野の隅には、移植コーディネーターの三森佳世子《みもりかよこ》の姿のほかに、大澤拓也《おおさわたくや》の姿も入っている。彼には講演のことを知らせなかったはずだ。おそらく佳世子が呼んだのだろう。 「最初に、骨髄移植を受けた患者には、生まれた日と移植を受けた日、二つの誕生日があると言いましたが、わたしの場合は……三つかもしれません」  会場に、小さなどよめきが生じた。 「実は、わたしは小学校一年生のときに一度、命を落としそうになったんです。知人の家に遊びに行ったときでした。そこで、増水した川に落ちてしまったんです。助けてくれたのが、近所に住んでいた男子高校生でした。彼がとっさに川に飛び込んで、必死にフェンスにしがみつきながら、わたしが着ていた服をつかんだんです。わたしを引き上げると、彼は一生懸命人工呼吸をしてくれたそうです。そうです……というのは、わたしにそのときのはっきりした記憶がないからです。あとで聞いたら、人工呼吸と心臓マッサージを施す一方で、彼は助けを呼んだそうです。聞きつけた大人が一一九番通報をしてくれました。『あの子が助けてくれなかったら、あなたは死んでいた』と、母は言いました。そのときに、わたしは命をふたたび授かったのだと思います。わたしは本当に幸運な人間です。一度ならずも二度まで、見知らぬ方に命を助けられたのですから。骨髄液をくださったドナーの方に心から感謝しています。移植後、GVHDなどで苦しんだにもかかわらず、奇跡的に回復したのは、わたしがいただいた骨髄液にドナーの方のわたしを救おうとする執念がこもっていたのではないか、そんなふうに考えることがあります。そしてまた、病気と闘う気力を保つことができたのも、わたしの命を救ってくれた方々のご恩に報いるため、と自分を励まし続けてきたためかもしれません。心のどこかで、七歳のときに命拾いした経験を無駄にしたくない、と思っていたのでしょう。  九月現在、骨髄移植を待っている患者さんが、全国に千七百人ほどおります。それに対し、年間の移植数は約五百例にすぎません。移植を受けられる患者さんは、全体の三分の一程度にすぎないのです。  ドナー登録者数が増えることで、より多くの患者さんが移植を受けるチャンスを得られます。わたしのように生きるチャンスを与えていただけるのです」  最後は、聴衆が涙でにじんだ。拍手が沸き起こる。  美由紀は深々と息を吸って、頭を下げた。後ろのほうで、拓也が「よくやったね」というふうに微笑《ほほえ》んだのが、のぞいた白い歯でわかった。     2 「ねえ、さっきの話、初耳だったよね」  中込牧子《なかごみまきこ》が、隣に座った小島恵理《こじまえり》に言った。「美由紀が七歳のときに、川に落ちたのを助けられていたなんて」 「うん、わたしも聞いてない」  恵理も、ちょっと口を尖《とが》らせて言った。 「だって、……聞かれなかったから」  美由紀はそう答えて、はす向かいに座っている大澤拓也を見た。彼もこの話は初耳なはずだ。が、彼は、そ知らぬ顔でアイスコーヒーを飲んでいる。  母校での講演のあと、美由紀は、この講演を企画した大学事務局の中込牧子や、大学の同期の小島恵理、骨髄移植の際、心のケアで世話になったレシピエント・コーディネーターの三森佳世子や、婚約者の大澤拓也とともに喫茶店に入った。 「子供のときのことだし、何だかてれくさかったのよね。ねえ、美由紀さん?」  佳世子が、助け船を出してくれて、美由紀は、「え、ええ」とうなずいた。 「そうか。大澤君に遠慮してか」  恵理が納得したように、美由紀と拓也を交互に見た。 「俺《おれ》に遠慮? 何でだよ」  拓也は、グラスから目を上げて、おどけた口調で身を乗り出してきた。 「だって、大澤君、美由紀のドナーになれなくて、すっごく悔しがってたじゃない」  恵理が笑って言う。「誰だかわからないけど、美由紀のドナーになった人がいる。その人は、いわば美由紀の命の恩人よね。その上に、もう一人、命の恩人が現れたんだから、大澤君、心穏やかじゃないんじゃない? しかも、こっちは男だってわかってる。その上さらに、美由紀の唇まで奪ってる。当然、初キッスよね」 「その上さらにさらに、溺《おぼ》れてた美由紀を助けた恩人だって」  牧子もにやりと笑った。「大澤君には天地がひっくり返ってもできないことだよね」 「悪かったな」  拓也は、ふうっとため息をついて、椅子《いす》の背にもたれかかった。すねてみせたのだ。二つ年上なのにときどき弟みたいな言い方をこの人はする。美由紀は苦笑した。両親のそろった、愛情あふれた家庭でまっすぐに育てられた、という感じがする人だ。何をしても、何を言っても、育ちのよさが顔をのぞかせる。 「それにしても、おかしいよね。大澤君、髪は長いし色は黒いし、一見、遊び人のサーファーみたいに見えるのに……」 「泳ぎが下手なんてね」  牧子のあとを、恵理が引き取った。 「言ったろ? 三歳のときに海で溺れて、それがトラウマになってさ。それから水は苦手なんだよ。七歳より三歳のほうがトラウマをひきずることもあるのさ」 「都合がいい説明」  恵理が首をすくめる。 「その海に、親が持っているヨットで行ったっていうのが、ちょっと普通の家庭とは違うよね」  牧子が言って、恵理と顔を見合わせて笑う。  美由紀は、残暑が厳しい季節だというのにエスプレッソを飲んでいる佳世子を見た。相変わらず寡黙な人だと思った。美由紀の大学時代の友達の中にいて、楽しめないでいるのでは、と少し心配になる。 「そいつも呼んじゃえば?」  いきなり拓也が、美由紀へ顔を振り向けた。 「そいつって?」  美由紀は、ドキッとした。まっすぐに育った拓也は、ときとして屈折したものを抱えた人間が思いもよらない発想をする。 「七歳のときの恩人に決まってるじゃないか。彼をパーティーに呼ぼうよ」  拓也の顔は明るく輝いている。 「まさか、結婚披露パーティーにってこと?」  恵理が素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を上げた。ふたたび、大学の同期生、牧子と顔を見合わせる。  佳世子がかすかに眉《まゆ》をひそめたのが、美由紀の視野に入った。  座が沈黙したと思ったら、恵理が「本当にびっくりするようなこと言い出すんだから、大澤君って」と、衝撃から立ち直ったように肩で息をついて言った。 「入籍だけですませる」と報告した拓也と美由紀に、「わたしたちが手伝うから、結婚披露パーティーを開こうよ」と強引に勧めたのが、恵理と牧子だった。佳世子にも話したら、彼女もパーティーを開くのに賛成だという。 「いいだろ?」  拓也は、屈託なく美由紀に聞く。 「あ、うん。だけど……」 「だけど、何?」  美由紀が黙り込んだのを、「美由紀さんは、あまり派手にならずに内輪だけでしたいのよね。だから、ためらっているんでしょう? いまは体調が落ち着いていると言っても、まだ通院が必要なわけだし。人に気を遣うことが身体の負担になりかねないわ」  と、今度も佳世子が助け船を出してくれた。  佳世子は、人の心理を少ない言葉で的確に説明してくれる人だが、今回はそういう心理とはちょっと違う、と美由紀は思った。それでも、「ええ、まあ」と答えた。 「あら、まったくの他人に会うことが身体の負担になりかねないんだったら、今日の講演だって大変なストレスにならない? でも、三森さんは賛成したでしょう? それとも、そっちのほうは、骨髄バンクの登録者を増やすのにつながるからいいって言うの?」  恵理が、言葉にとげを含ませた。 「そうですよ、三森さん。かえって人との出会いがストレス解消につながることだってたくさんありますよ」  牧子も言った。 「美由紀、せっかくパーティーを開くんなら、いままでお世話になった人に感謝を述べる場にしたい。そう言ってただろ? 恩人を呼ぶならパーティーの主旨にぴったりじゃないか」  拓也は、正論で向かってくる。「それに、俺だってその彼にお礼のひとことも言いたいしさ。俺の花嫁さんを最初に助けてくれてどうもありがとう、ってね。だって、二度目の恩人にはお礼を言いたくても言えないわけだしさ」 「二度目のって……、ああ、ドナーのことね」  牧子はうなずいて、「それにしても、ドナーってどんな人なんだろうか。少なくとも、ここにいるメンバーじゃないけど」 「相当な自信だね、大澤君も」  恵理があきれた顔でからかった。「俺は、花嫁さんを助けてくれた男に感謝こそすれ、嫉妬《しつと》なんかしてないぞ。そういう寛大なところを見せたいってわけか」 「ばか言え……って言いたいけど、まっ、それもあるか」  拓也が舌を出したので、恵理はガクッと肩を落とすまねをした。  正直な人だ、と美由紀は思った。善意の裏に悪意はない、と考えるような人だ。そこに美由紀は惹《ひ》かれたのだが。 「ドナーを招待したくてもできないから、最初の恩人で間に合わせたいって気持ちはわかるけど」と言いかけて、牧子は佳世子へ話を振った。「ねえ、三森さん。レシピエント・コーディネーターの三森さんは、ドナーが誰かわかってるんでしょう? こっそりと招待できないんですか?」 「それはできません、規則ですので」  佳世子は、色気も何もない答えを返した。 「ひょっとして、ドナーがその恩人だったりして」  恵理が言って、「なわけないか」と首をすくめる。 「ねえ、その恩人っていまいくつだろう」  牧子が、ふと計算する表情になった。「美由紀が七歳のときってことは、ちょうど二十年前で、そのとき高校生だから……」 「三十六になっていると思うわ」  美由紀は言った。「高校一年生だったってことは憶えてるの。わたしと九つ違いだとすると、いま三十六よね」 「あっ、若さでは勝ったって顔したね、いま」  恵理が拓也の肩を叩《たた》いた。「だけど、わからないよ。男は年齢とともににじみ出る渋さとか包容力ってのがあるからね。三十六と言えば、ちょうどいいじゃない」 「何がちょうどいいの?」  牧子に突っ込まれて、恵理は「何ってこともないけど」と少しうろたえたが、すぐに「トヨエツみたいにカッコいいやつだったりして」と返した。 「椎名桔平もそのくらいの年だよね。あっ、岸谷五朗とかも」と、牧子。 「高橋克典とか唐沢寿明もいるよ」 「ああ、羽賀研二もそのくらいの年か」  恵理と牧子は、二人で盛り上がっている。昔から、脱線するのが得意の二人だった。 「結婚してるのかな。それともまだ独身?」と、恵理。 「三十六だと、独身者、既婚者ギリギリの線かな」 「何、勝手に想像してんだよ。まっ、トヨエツも椎名桔平も俺《おれ》には劣るけどさ」  拓也は、まだ学生気分が抜けないような女性二人を笑って、ふっと真顔に戻った。美由紀に向く。 「川に落ちた君を助けてくれたほどの人だろ? 彼のその後のこと、何も知らないの?」 「ごめんなさい。全然知らないのよ」  あやまらなければいけない気分になった。「千葉に住んでいた知人っていうのが、母の……知り合いだったし。その人の名前や住所なんて憶えてないのよ。かすかな記憶では、あのあと引っ越す予定になっていた気がするし」 「ああ、お母さんの知り合いね」  納得した顔で、恵理も牧子もうなずいた。佳世子は、真剣な顔でじっと耳を傾けている。  美由紀が小学校二年生の夏に、美由紀の実母が家を出てしまったことは、ここにいる全員が知っている。その母親がいまどこに住んでいるのか、彼女が知らないでいることも。父親は美由紀に話したことはなかったし、美由紀もまた一度も父親に聞いてはいない。実母が家を出た四年後に、治郎はひとまわり年下の玲子と再婚した。玲子は、治郎が開いていた絵画教室の生徒だった。当時、美由紀と玲子が連れだって歩くと、周囲の人は二人を年の離れた姉妹と勘違いしたものだ。若々しく見える玲子は、四十半ばのいまでも三十代に見えるほどだ。 「一度、母がお礼状を出すとき、あなたも何か書きなさい、と言われた憶えはあるけど、それきり」 「お母さんに聞くわけには……いかないか」  美由紀の言葉に、恵理がため息をついた。 「でも、……手がかりがないわけじゃないわ」  美由紀は、ためらいがちに言った。うそはつけない、と思った。 「母が残して行ってくれたアルバムがあるんだけど、そこに当時の新聞記事がスクラップされていると思うの」  思うの、ではない。ちゃんとアルバムに保存されている。恩人の名前も知っている。井口貴明。当時、十六歳だったのを知っている。当時の新聞記事に、そうあるからだ。しかし、その後、〈命の恩人〉であるはずの井口貴明が、どうなったかは美由紀はまったく知らない。 「何だ、ちゃんと新聞記事があるんじゃないか。それを手がかりにすれば、消息だってわかるよ」  拓也が、嬉《うれ》しそうに声を弾ませた。 「そうだね。男の人だったら、名字が変わっている可能性は低いわけだし、本人はもうそこに住んでいなくても、家族の誰かはいるかもしれない。案外、電話帳で簡単に調べられたりしてね」  恵理が言って、すっと牧子を指さした。「そういう調査が得意なのは、ほら、牧子ね。事務処理能力抜群だもの。わたしは子育て中で忙しいからだめ。牧子に任せる」と、勝手に決めつける。 「いいよ。仕事のあいまにできそうなことだし」  牧子は、気軽に請け負った。「で、千葉のどのへん?」 「I市だった……と思う」  思う、ではない。間違いなくI市だった。美由紀は、胸が高鳴るのを覚えていた。この感覚はあのときと似ている。自分に骨髄液を提供してくれたドナーに手紙を書いたときの興奮、胸の高鳴り。ドナーと違って、昔の恩人——井口貴明のほうは、名前がわかっている。けれども、ほとんどその顔が記憶に残っていない、という点ではもう一人の恩人、ドナーと一緒だ。いや、たとえ記憶に残っていようとも、二十年の隔たりがある。当時少年だった彼を二十年という歳月がどう変えているか……。  美由紀は、昔の恩人——井口貴明にたまらなく会いたいような、会うのが怖いような思いでいた。意識が戻ったとき、間近にあった顔を見て、こう感じたことだけを鮮明に憶えている。  ——大人のように大きな人なんだなあ。  小学校一年生のときの美由紀は、平均より小さな少女だった。それでよけい、彼のそのときの存在感に圧倒されたのだろう。身体全体で感じたのは、少年から大人の男へ移行するときの独特の匂《にお》いや色といったものだった。 「なんか、こういうのワクワクするよね。よくテレビでやるじゃない。美由紀に二十年前の恩人を引き合わせる。感動の再会。いまはじめて知る彼女の数奇な運命。そこに立ち会う婚約者と、学生時代の仲間と、レシピエント・コーディネーター。何か劇的なドラマになりそうじゃない?」  恵理の脳裏では、すっかりそのときの〈再現シーン〉ができあがっているらしい。 「あの……」  それまで黙っていた佳世子が、遠慮がちに口を挟んだ。「昔の恩人を呼ぶって話は、パーティーを盛り上げるにはいいかもしれないけど、その彼のことを調べてからでも遅くないんじゃないかしら」 「調べるって?」  恵理が眉《まゆ》をひそめて聞き返す。 「彼がいま、どういう状態でいるかまったくわからないでしょう? 二十年のブランクがあるわ。二十年の歳月は人を変える。ううん、性格的にだけじゃなくて、環境的にも」 「興信所みたいなところに頼んで、調査してから招待しろってわけ?」  恵理がムッとした表情になった。「そんなのちょっと失礼じゃない? その恩人の彼に対して」 「わたしもそう思います。人間のもともとの性格なんて、そう変わりはしないと思うし。二十年前に美由紀を助けてくれた人は、いまもどこかで機会があれば人を助けるような人なんじゃないかしら。それとも、三森さんは、……経済的な事情とかを問題にしてるんですか?」  恵理よりは穏やかに、いちおう年長者に対する口調で牧子が聞いた。佳世子に年齢を尋ねたことはないが、おそらく三十代半ばだろう、と美由紀は思う。 「そういうわけじゃないけど。何かちょっと気になったものだから」 「慎重派で口の固いコーディネーターさんが考えそうなことですね。でもね、これは、ドナーをあれこれ選定するのとは違うんです。最初に、HLAのタイプとか条件なんてないの。恩人がたった一人、いるだけなの」  恵理が、佳世子をいたずらっぽくにらんで、皮肉をぶつけた。  美由紀はハラハラした。もともと恵理は、佳世子のことをあまり好いていないのだ。「仕事柄、しょうがないかもしれないけど、あの秘密主義ってのが鼻につくよね」と言う。恵理と美由紀は、大学時代、いちばん親密だった。拓也と出会うきっかけを作ってくれたのも、恵理だった。恵理が美術教師を辞めて結婚し、双子を産んでからも二人の関係は変わらない。だが、美由紀の前にレシピエント・コーディネーターという職業を持つ佳世子が現れてからは、恵理は何かと佳世子を意識するようになっている。長身を誇る恵理より、佳世子がさらにすらりと長身なのも、恵理のライバル意識をあおっているのかもしれない。 「美由紀はどう思ってるの? 恩人と再会したい?」  牧子が尋ねた。 「そう、美由紀の気持ちがいちばん大切だよ。美由紀の結婚披露パーティーだもん。大澤君に遠慮しないで。大澤君よりいい男だったらどうしよう、なんて心配しないでさ」  恵理が、美由紀の気持ちをほぐすように牧子の言葉を補う。 「わたしは……」  美由紀は迷った。どうなのだろう。自分の気持ちと向き合ってみたが、わからない。 「会って幻滅するような男だったらどうしよう。それが怖いんだろう? 女房と子供二人抱えて、ローンで首が回らず、ご祝儀の出費もきつい。下っ腹が出始めて、額も後退し始めて、女房からは『仕事ばかりじゃなくて、もっと子育ても手伝ってちょうだい』と、しょっちゅう文句を言われてる。恵理さんとこみたいにね。『うるさいなあ。そんなことしてたらリストラされちまう』と、彼はブスッと言い返す。子供たちはピイピイ泣きわめく。『昔、俺が川で助けてやった少女が今度、結婚するってんで招待状がきたんだけどさ』と切り出した途端、女房も子供も大騒ぎさ。『えっ、あなたが人命救助で表彰? パパが人を助けたの? うそでしょう? うそだーい。別人じゃないの? もう一度住所と名前、確かめてみたら?』」  拓也が声色を変え、手ぶり身ぶりを交えて言った。  恵理と牧子が大笑いした。  美由紀の気持ちは、急に緩んだ。二十年後の、現在の井口貴明。何だか拓也が描写した男性像にもっとも近いのでは、と思えてきたのだ。「いやあ、あんな昔のこと、すっかり忘れてましたよ」と、頭をかきながら現れる、三十六歳のごく平均的なサラリーマン。あるいは、同じサラリーマンでも、「忘れもしませんよ。あれは僕の勲章ですから。でも、いまは人助けとはまったく無縁の仕事です」とてれ笑いをし、再会の握手を求めてくる……。 「深刻に考えることじゃないさ。忙しけりゃ来ない。暇なら来る。そのどっちかだよ」  拓也のひとことで決まりになった。 「じゃあ、わたしが連絡つけるから」  牧子が言った。「招待状、同じのでいいよね。そこに美由紀の手紙をつけようか。突然、招待状が送られてきても戸惑うでしょう」 「あ、うん、そうね。わたしが簡単に手紙を書くわ」  美由紀は言った。     3 「ごめんなさいね、佳世子さん。恵理って、悪い人じゃないんだけど」  美由紀は、台所で紅茶をいれている佳世子に話しかけた。 「いいのよ」  佳世子は、ちょっと首をこちらに傾けて微笑《ほほえ》み、戻した。  立ち姿のきれいな人だ、と美由紀は思った。長身だからだろうか。佳世子のスカート姿は一度見たくらいで、ふだんはほとんどパンツ姿だ。  上目黒にある美由紀のアパートの部屋だが、台所に立っているのは佳世子である。「美由紀さん、疲れたでしょう? いいから休んでて。わたしがするわ」という彼女の言葉に、甘えさせてもらった形になった。ほかの人の前では思わず「大丈夫よ」と、から元気を出してしまう美由紀だが、レシピエント・コーディネーターの佳世子には正直に「疲れた」と言える。実際、はじめての講演で思った以上に体力を消耗していた。  喫茶店を出たあと、「佳世子さん、話があるんだけど、わたしのところに来ません?」と誘ったのは美由紀だった。佳世子は、迷わずにタクシーを拾った。「疲れているときは、無理しないほうがいいのよ」と言って。美由紀が出した札を受け取らずに、タクシー代も自分で払った。  佳世子がティーカップをテーブルに置くのを待って、美由紀は切り出した。 「ねえ、佳世子さん。どうして、恩人をパーティーに呼ぶのに反対したんですか?」 「反対したわけじゃないわ」  佳世子は、テーブルに視線を落とした。言葉を選んでいるふうだ。 「でも、二十年の歳月は人を変える、って……。何か心当たりでもあるんですか?」  三森佳世子が独身で、大学で心理学を専攻したのは知っている。臨床心理士の資格を持っていることも。が、それ以上のことを美由紀は知らない。彼女を見ていると、自分より多くさまざまな人生の明暗を見ている人という感じは受ける。 「いいえ、別に。変わると言えば、ほんの三日でも人間は変わるものだわ」  そんな謎《なぞ》めいた言い方をして、佳世子は薄く笑った。 「もしかして、佳世子さんって、霊感みたいなものがあるんじゃ……」 「霊感?」  佳世子が眉をひそめた。 「ふとそんな気がしたの。だから、パーティーに恩人を呼ぼうってみんなが乗り気になったとき、一人だけ気が進まなかったのかなと思って。だって、佳世子さん、ときどき不思議な言い方するんだもの。わたしが最初のドナーに第三次検査の段階で断られたとき、『大丈夫よ。次のドナーはきっと早く見つかるから』って言ったでしょう? そのとおりになった」 「偶然よ」 「佳世子さんには霊感があるんじゃないか。そう思ったの。霊感って表現が嫌なら、直感力がすぐれていると言ってもいいわ」 「なくなった母方の祖母には、霊感があったみたいね。よく人に頼まれて、占いをしてあげてたわ。行方《ゆくえ》不明になった少女の居場所を当てたこともあるし」 「へーえ、そうなんですか」  ふだん、自分のことはあまり話さない佳世子にしては、珍しい肉親の話だ。美由紀は興味を持った。 「その少女はどこに?」  佳世子は、静かにかぶりを振る。「殺されてたわ。祖母の目に見えたのは、富士山と雑木林と緑色のセーターだった。それが手がかりになって少女の遺体が見つかったわけじゃないけど、何年かして犯人が逮捕されて、少女を埋めたと自供した場所が、富士山の見える雑木林だった。緑色のセーターは、犯行当時、犯人が着ていたのね。……あら、よけいな話、しちゃったわね。こんな話するの、すごく久しぶりよ」 「きっと隔世遺伝だわ。やっぱり、佳世子さんには霊感が備わってるんですよ」 「まさか……。でも、そういうことにしておくわ」  佳世子は、珍しくちゃめっけを出して首をすくめ、紅茶をすすった。 「その佳世子さんが、恩人のことを調べてから招待しても遅くない、と言ったでしょう? 何かちょっと気になる、って」 「ごめんなさいね。水をさすようなことを言ってしまって」 「何か胸騒ぎがしたんですか?」 「いやね、美由紀さん」  佳世子は、今度は大きくかぶりを振った。「わたしは祖母とは違うわ。行方不明の少女の居場所なんて、当てられないわ。ただ、本当に、あなたが気疲れするんじゃないかと心配になっただけ。恵理さんや牧子さんや大澤さんが言うように、美由紀さん、あなたがそうしたければそうすればいいのよ」 「自分で選択するのに、疲れているのかもしれない」  美由紀はつぶやいた。「だから、強引に誰かに決めてほしかったのかも」  その意味がわかったのだろう。佳世子は、小さくうなずいて、紅茶にまた口をつけた。  ——そうよ、確かに大きな選択だったわ。  美由紀は、病気が発見されてからいままでを思い返した。  病気になる前に、もちろん白血病という病名は知っていた。骨髄移植という治療法のことも、骨髄バンクのことも。だが、彼女が考えていた白血病のイメージはこうだ。——ひと昔前は不治の病と言われていたが、骨髄移植が試みられてからは、適合するドナーさえ見つかれば百パーセント完治する。  しかし、現実は違った。  まず、骨髄移植をしても完治するとは限らないという事実を、すぐに知って愕然《がくぜん》とした。移植後に拒絶反応や感染症を起こす可能性も少なくないという。ある医者は、治癒率が三十パーセントと言い、別の医者は五十パーセントと言った。いや、六十まで上がっていると言う医者もいた。化学療法だけでも患者の十パーセント前後は完治する、幸運な場合もあるとも知った。一方、骨髄移植をした場合は、かなり短期間で命を落とすケースも数多くあるという。化学療法だけであと二年、いやそれ以上生きられたかも知れない命を、骨髄移植によって数か月で落としてしまいかねない。  化学療法だけに頼ったときのリスク、骨髄移植をしたときのリスク。二つのリスクを天秤《てんびん》にかけた。そして、美由紀は後者を選択した。  だが、次に移植の時期の問題がある。ドナーが見つかっても、レシピエントの状態が悪くてはだめだ。最初に現れたドナーを見送る場合だってある。ドナーの体調や個人的な問題で、あちらから断られる場合も。  大きな選択と、待つ姿勢の日々に、美由紀は疲れていた。できればもう大きな選択はしたくない。するならかわりに誰かにしてほしい。待つ姿勢はやめたい。積極的に自分の意志で動きたい。  移植から七か月半。少なくとも美由紀の場合は、移植直後の大きな山場は越えたと言っていいだろう。しかし、このまま平均寿命まで生きられるという保証はない。再発の可能性もあるし、小さな風邪や怪我《けが》が命取りになる可能性だって考えられる。  術後の経過を見るために、週に一度の通院は欠かせない。無理はできない身体なのだ。 「佳世子さんは、わたしの恩人がどんな人だと思いますか?」 「美由紀さんの恩人?」  佳世子は一瞬、首をかしげたが、ああ、そっちのほうね、というふうに軽く首を振った。「二十年前は高校生だったんでしょう? どんなふうに変わっているかしらね」 「わたし、あそこでは話さなかったけど、本当は、その子が優秀な子だったってことも憶えてるんですよ。もちろん、名前も。井口貴明、当時十六歳」 「ああ、新聞記事の切り抜きを持っているんだったわね」  佳世子は、思いあたった顔をした。 「新聞には、当然ながら、優秀な高校生、なんて書いてありません。母が近所の人の話を耳にしたんです。『さすが井口さんのとこの息子さんね。勉強もできる子は、人助けもする』、そんなふうにうわさしていたそうなんです。小学生のわたしの耳に、『勉強のできる子』ってフレーズが残っていたんでしょうね」  美由紀は、本棚へ行って、赤い表紙のアルバムを引き出して来た。赤ちゃんのころからの写真が貼《は》ってあるアルバムだ。家を出た母親が、大事に作っていてくれたものだ。これを持たずに母は家を出た。おしまいのほうに、その切り抜きがあった。母の知人が、後日、郵送してくれたのだ。地方新聞の囲み記事らしく、割合大きな扱いである。ページを開いて、佳世子に渡す。 〈高校生男子が小学生女児を救助〉  川に転落し、一時は仮死状態に陥った七歳の少女が、十六歳の男子高校生と六十二歳の男性の連携プレーで救助された。I市西消防署は十一日、二人を人命救助で表彰した。  助かったのは、母親の知人宅に遊びに来ていた東京都|世田谷《せたがや》区に住む高谷美由紀さん(七歳)。四日午後、増水した近くのO川に足を滑らせて転落した。  たまたま自転車でそばを通りかかったK高校一年生井口貴明君(十六歳)が、とっさに下流に走り、フェンスにしがみついて、流れてくる美由紀さんの服をつかんで引き上げた。懸命に人工呼吸や心臓マッサージを続ける一方、助けを求めていたところへ、同市に住む斎藤直道《さいとうなおみち》さん(六十二歳)が通りかかった。斎藤さんが一一九番通報して戻って来ると、美由紀さんは息を吹き返していた。  井口君は、救助体験は今回が初めてだという。「人工呼吸や心臓マッサージの仕方は本を読んで学びました。でも、まさかこんな形で生かせるとは」と、自分がしたことが信じられないといった様子。助けられた美由紀さんの母親は、「感謝し尽くせません。お二人の機転をきかせた救助に心からお礼を申し上げます」と、目に涙を浮かべていた。  何度か佳世子は読み返しているようだった。アルバムから目を上げた彼女は、自分も目に涙をためている。美由紀は、ちょっと面食らった。つねに冷静沈着な佳世子を、涙もろい人とは思わなかったからだ。 「井口貴明君、ね」  もう中年になっているはずの男性なのに、君をつけて、佳世子は呼んだ。そして、「命の恩人って、本当にいるのね。美由紀さん、貴明君をお呼びしなさいよ」と言った。  美由紀の胸に安堵感《あんどかん》が広がった。佳世子に許してもらえたことで、自分の中にあった不安、かすかな迷いが払拭《ふつしよく》された気がしたのだ。 「でも、お友達が言ってたように、大澤さんよりすてきな人だったらどうする?」  佳世子の中の不安や迷いも払拭されたようで、彼女はいたずらっぽく尋ねた。 「どうしようかな。そしたら、ぐらついちゃうかも」  美由紀も、いたずらっぽく受けた。 「そんなふうに言えるのは、絶対大丈夫っていう安心感があるせいね。美由紀さん、自分の気持ちがぐらつかない自信があるでしょう?」  鋭い人だな、と美由紀は思った。拓也を上回るような男性は、今後、世界中どこを捜しても絶対に見つかるはずはない、というおかしな自信が美由紀にはある。「ドナーを選ぶか、俺《おれ》を選ぶか」と拓也に迫られたら——実際は、そんな迫り方をする人ではないけれど——、いちおうは迷うが、結局は拓也を選ぶだろう。ドナーによってあと五十年生きるよりも、拓也と過ごせるあと三年を大切にしたい。 「井口貴明さんが来てくださったら、きっと大澤君も感激するわ。男同士は男同士で親友になれたらいいわね」  佳世子は、さんづけに変えて言った。 「あちらに奥さんやお子さんがいて、家族ぐるみでおつき合いできたらもっと楽しいな。もしかしたら、あのままの住所に二世帯なんかで住んでたりしてね」  美由紀も想像をふくらませた。  佳世子のカップの紅茶がなくなった。それを見て、美由紀は「ねえ、佳世子さん。ワイン、飲みません?」と誘った。 「アルコールは……」  胸をつかれた顔で佳世子が言いかけたのを、美由紀は遮った。「もちろん、わたしは飲みませんよ。佳世子さん、お酒好きでしょう?」 「遠慮しておくわ。帰って読みたい資料があるから。最近は、自宅で勉強する時間を増やすようにしているのよ」 「ガード固いんですね、佳世子さん」  美由紀はため息をついた。子供っぽい気はしたが、ある作戦を立てていたのだった。この人をお酒で酔わせれば、少しは口が軽くなるかもしれない。そしたら、自分に骨髄液をくれたドナーの名前を聞き出せる……。  美由紀が佳世子にドナーへの手紙を託したのが、二か月ほど前だった。佳世子からは、「間違いなく先方に渡しました」のひとことしか報告はない。返事を期待しているわけではないが、相手の正体を知る手がかりくらいはほしい。いまわかっているのは、血液型がO型の自分に骨髄液をくれたのは、B型の人ということくらいだ。  レシピエントがドナーが誰かを知らされないのは、両者間で金銭や物品の授受があっては好ましくない、という見地からのようだ。今後の骨髄バンク推進運動の障害になりかねない。 「もう一人の恩人ね?」  美由紀の意図に気づいたらしく、佳世子は横目でにらむまねをした。 「男性か女性、それくらいは教えてくれてもいいでしょう?」 「……」 「教えてもらった人もいるみたいですよ」 「美由紀さんは、男性であってほしい? それとも女性であってほしい?」 「……」 「ドナーのほうもまた、いろいろ想像するんじゃないかしら。自分の骨髄液は誰にプレゼントされたんだろうって。子供が生まれるときと同じじゃないかしら。男の子が生まれるか、女の子が生まれるか。想像する楽しみを奪いたくはないわ」 「男性……でしょう?」  あたりをつけて言ってみた。佳世子の表情の変化を見る。が、佳世子は微笑《ほほえ》みを崩さずに、「あしながおじさまだから、男性であってほしいの?」と聞いた。 「できれば」  美由紀は言った。「何だかわたし、知ることのできないドナーの分まで、井口貴明さんという恩人に報いようとしているみたい。おかしな話だけど」  そのためにも、できればドナーは男性がいいと思う。「でも、あんまり期待しちゃう自分がちょっと怖いような気もするの。だって、期待って裏切られるものだ、って言うでしょう?」  すると、佳世子は笑った。「井口さんがパーティーに来ると決まったわけじゃないわ。もしかしたら、辞退するかもしれないでしょう?」 「佳世子さんは、辞退したほうがいいと?」  彼女の言い方に、常識のある人なら招待を辞退するはずだ、というニュアンスが含まれているように思って、美由紀は問うた。 「そうは思ってないわ。だけど、自分が招待されるのが場違いな感じがするとか、ほかに親しい人もいないから出るのが気が引けるとか、単純に遠慮する人が多いんじゃないかと思ってね。いわゆる、普通の三十六歳のサラリーマンのイメージからすると。もっとも、高校生のときに優秀な子だったんなら、何か専門職についてたり、エリート・サラリーマンになっているかもしれないわね」  どんなに出世していても、願わくば、拓也よりエリートであってほしくはない、と美由紀は切実に願った。  玄関先で、佳世子は思い出したように振り返った。 「今日、勝手に大澤さんに声をかけちゃって、ごめんなさいね」  初講演に拓也を呼んだことだろう。美由紀は、恥ずかしさもあって婚約者の彼には講演のことを伝えなかったのだ。 「壇上で彼を発見したときはびっくりしたけど、かえって聴いてもらってよかったかもしれない」 「だったらよかったわ。わたし、大澤さんにはあなたのすべてを見せるべきだと思ったから」 「わたしのすべて?」 「そう。いままでどんなふうに苦しんで、どんなふうに感じてきたか。あえて大澤さんには言わないでおいたこともたくさんあったでしょう?」 「それは……」  そのとおりだった。言っても無駄だ、とあきらめて言わなかったときもあるし、よけいな心配をかけるから、と喉元《のどもと》で抑えたときもあった。彼の前では、なるべく笑顔を見せていたかった。 「夫婦になるには、結婚前に素顔の自分を見せておいたほうがいいのよ。そのほうが、長続きするわ。経験者は語る、ね」 「経験者って、佳世子さん……」  佳世子は離婚経験者ということだろうか。 「美由紀さんは、大澤さんに少し遠慮してるわ」 「えっ?」 「病気のときは誰かによりかかってもいい。思いきり大澤さんに甘えちゃいなさいな」  経済的にも、と言っているのだ。美由紀は察した。拓也の父親は大学教授で、母親は、雑誌によく顔を出す著名なインテリア・デザイナーだ。女性だけの設計事務所を構えている。拓也はどちらの影響も受けずに、大学の文学部を卒業後、出版社に就職した。そこを二年で辞めて、翻訳家に転向した。いまは、年間、三、四冊の文芸書の訳書をコンスタントに出せるまでになっているが、本人に言わせれば、「ようやくこの仕事で食えるようになった」ところのようだ。  治療に専念するために美由紀が会社を辞めたとき、高額な治療費の心配をする美由紀に、拓也は言った。「俺《おれ》も大きなことはまだ言えないけど、少しくらいなら貯金はある。君は嫌がるだろうけど、親からも金は借りられる。経済的なことは心配しないで、ゆっくり治療に専念しろよ。治ったら、おふくろの事務所で仕事をすればいい。おふくろもそのつもりでいる。台所のカラー・プランを担当してほしいそうだ」  父親と義理の母には頼りたくない。——美由紀が彼らに反発しているのに気づいていたのだろう。拓也の申し出は嬉《うれ》しかったが、美由紀はけじめだけはつけたかった。高谷家の娘であるうちは、拓也にというより大澤家に負担をかけたくはなかったのだ。  したがって、生活費だけでも賄うために、美由紀は近くのファミリー・レストランで昼間、アルバイトをしている。 「心から甘えられるためにも、大澤さんと早く結婚したほうがいいわ」  佳世子は言って、じゃあ、お大事にね、とドアを開けた。  ——お大事に。  佳世子の挨拶《あいさつ》はいつもそれだ。  ドアを閉めるとき、佳世子はひとりごとのように言った。 「月が出てるわ。でも、月より太陽よね」     4  いい書き出しが浮かばない。  井口貴明あての手紙。  ドナーにあてた手紙は、あんなにすらすら書けたのに、今回は最初でつまずいている。 「わたしのことを憶えていますか?」では、なれなれしすぎる。「拝啓」で始めて時候の挨拶《あいさつ》などを書くのでは、かた苦しい気がする。  ——いっそのこと、招待状だけにしようか。  名前を見て、彼が思い出せば思い出したでいい。思い出さなければそれでおしまいだ。思い出して、来る気になればなったでいい。しばらく迷ったが、美由紀はやはり、それでは彼が来たときに寂しい思いをするだろう、と考え直した。いきなり来て、美由紀の闘病を知らされたときの戸惑いも大きいかもしれない。  何回も推敲《すいこう》したすえ、次のような文面になった。   井口貴明様  私は、小学校一年生のときに川に流されたのを、当時高校一年生だった井口さんに助けていただいたあのときの少女です。  このたび、私と大澤拓也のささやかな結婚披露パーティーを催すことになりました。そこで、いままでお世話になった方々をお呼びし、感謝の意を表す場にしたいと思い、井口さんにもお声をかけさせていただいた次第です。  実は私は、二年前に慢性骨髄性白血病を発症し、闘病生活を続けてまいりましたが、幸運にも骨髄移植を受けることができて、現在は健康な人と同じような普通の生活を送っております。多くの方々の善意に支えられて今日の私があるのを、実感しています。  お忙しい毎日とは思いますが、私の命の恩人の井口さんにはぜひお時間を作って出席していただきたいのです。友人一同もそれを強く望んでおります。  心よりお出ましをお待ち申し上げております。                     高谷美由紀  母校の事務局、中込牧子あてに、新聞記事のコピーとともに速達で送ることにした。  翌日、出勤途中でポストに投函した。封書がポストにぽとりと落ちた瞬間、昨夜、佳世子が残した言葉の意味が唐突に閃《ひらめ》いた。  ——月より太陽。  月はフランス語で女性名詞、太陽は男性名詞だ。佳世子は、ドナーの性別を、なぞなぞの形で教えたにちがいない。拓也の大学での専攻は、フランス語だ。拓也は、小学校から中学まで父親の仕事の関係で海外にいたので、フランス語のほかに英語も得意である。大学二年のときに恵理に誘われて観に行った映画館で、拓也と知り合ったのだった。小さな映画館の場内はかなりこんでいた。拓也は、遅れて来た美由紀たちが二人並んで映画が観られるようにと、席をつめるように隣の人に頼んでくれたのだ。映画が終わって、三人でお茶を飲んだ。それがきっかけで、拓也との交際が始まったのだった。当時、恵理にはすでに交際している彼——現在の夫だが——がいた。あのとき観た映画はフランス映画だったが、内容はよく憶えていない。主人公が前衛画家で、主人公のアトリエを見るのが目的で恵理につき合った記憶だけは残っている。  佳世子は、婚約者の拓也がフランス語に堪能なのを知っていて、わざとフランス語の〈暗号〉を使ったのだろう。  ——やっぱり、あしながおじさまは男だったんだわ。  美由紀の心は浮き立った。  これで、恩人二人とも男性というわけだ。ドナーとして第三次検査まですんなり合格したほどの人だから、健康体の人なのだろう。最初の恩人は現在三十六歳だが、二番目のほうはいくつだろう。それ以下かそれ以上か。ドナーになれる年齢は、日本では二十歳から五十歳までと決められている。  ——わたしに命を与えてくれた、二人の男性。  そして、わたしのことを心から愛してくれている一人の男性、大澤拓也。  自分は何て幸せな女なのだろう、と美由紀は思った。発病したときは、どうしてわたしが? と天を呪《のろ》ったものだが、幸運な出会いがこれほど続くと、自分は何か特別な能力を天から授かっているのではないか、とさえ思えてくる。  生きている、のではなく、生かされている。そんな気が強くした。  アパートから歩いて五分とかからぬ場所にあるファミリー・レストランの店長には、美由紀の病気のことは話してあった。彼も過去に父親を白血病でなくしているので、美由紀の事情は理解してくれていた。「無理しないでちょうだい」、「大丈夫?」などと、何かと心配して声をかけてくれる。ただ、五十代のがっしりした身体つきの男性だというのに、口調が少々女っぽいのが気にはなる。  十一時少し前という時間帯は、比較的すいている。外回り途中のサラリーマンや、ブランチをとる若者、子連れの主婦仲間などがほとんどだ。  さっきから、その若い女性が、コーヒーのおかわりを注ぎにテーブルを回る自分に注目しているのには、気づいていた。三十分ほど前に入って来て、窓側の席にこちら向きに座り、ホットコーヒーだけを注文した。一度、「おかわりいかがですか?」と近づいたが、「まだあります」と言われた。そのときも、じっと自分の顔を見つめていたのだ。  見たところ、大学生といった雰囲気だろうか。茶色に染めたさらさらした長い髪に、わざと不揃《ふぞろ》いにカットしたような前髪。シルバーの二本のピン留めが、いまふうのアクセサリーになっている。頬《ほお》はふっくらしているが、顔は小さい。黒目がちの大きな目が印象的な子だ。  ——どこかで会っている? もしかして、昨日の講演会で?  しかし、こちらの記憶にはない。どこかで見たことのあるような顔だ。  美由紀は、何だかうす気味悪くなって、しばらくしてからまた彼女のテーブルへ近づいた。「おかわりいかがですか?」 「いただきます」  今度は、断らなかった。  注ぎ終るのを見計らったように、彼女は言った。 「昨日の講演、聴かせていただきました」  ああ、と美由紀はホッとした。やはりそうだったのだ。母校の後輩だ。ということは、彼女も美大生なのだろう。  しかし、彼女は続けた。「大学は別なんですけど、友達があそこの大学に通っていて、高谷美由紀さんの講演のことを教えてくれたんです。それで、行きました」  誘われて聴講したということだろう。  ありがとう、と言っていいものか、どう言えばいいのか迷った美由紀に、彼女は若々しい微笑とともに言った。口角がくっきり上がり、えくぼが右だけにできた。 「わたしの、お姉さん……ですよね?」  瞬間、頭の中が真っ白になった。 「お姉さん、でしょう?」  彼女は繰り返した。「悪いと思ったけど、昨日、喫茶店を出た高谷さんのあとをつけたんです。タクシーに乗ったでしょう? それで家を知りました。今日も、九時ころから張り込んでいたんです。あら、張り込むなんて、刑事みたいですね」 「ちょっと、こっちもおかわり」  背後で呼ばれて、我に返る。美由紀は、呼ばれたほうへポットを持って行った。心臓の鼓動が早まっている。背中に彼女——妹かもしれない——の視線が突き刺さる。  コーヒーを注ぎ終えて振り返ると、彼女は席を立ったところだった。レジへ向かう。美由紀は、急いでレジへ回り込んだ。レジ係は、ちょうど席をはずしている。  支払いを済ませた彼女は、美由紀にすばやく小さく折りたたんだ紙を渡した。ガラス戸を押し開けて、出て行く。美由紀は、あとを追わなかった。  紙を開くと、細い字で名前が書いてあった。  一ノ瀬茜  続けて、住所と電話番号が書いてある。  ——一ノ瀬……茜?  母の旧姓ではない。母の旧姓は、新開だった。新開京子。  ——彼女は、わたしの父親違いの妹?  どこかで会っているような気がしたのは、実母の面影が彼女に重なったためなのか。しかし、客観的に見て、自分と彼女が似ているかどうかはまるでわからない。  父と離婚した母は、その後、再婚していたのか。うすうす気づいていたことではあった。治郎に母の話をしたとき、「あっちにも新しい家庭があるから」というようなことをちらと匂《にお》わせたからだ。  母親に捨てられたという思いがあって、美由紀はいままで家を出たあとの母親について、自分から調べようとはしなかった。仕事に自信がつき、自分も新しい家庭を作るころに、はじめて母親を許せるのかもしれない、とも考えた。が、時が熟すのを待っているうちに、美由紀は発病してしまった。  ——母は、再婚して、女の子を産んでいた……。  その事実に、美由紀はめまいを覚えた。  父が知らないはずがない。  ——父は、知っていて、わたしに隠していた。  慢性骨髄性白血病と診断されたときの、医師の言葉を思い出す。医師は治郎に尋ねた。 「美由紀さんにご兄弟は?」  美由紀は、かたずを呑《の》んで治郎の返事を待った。 「残念ながら、おりません」  あのとき父は、はっきりとそう答えたのではなかったか。  苦い感情が胸にこみあげた。HLAが適合するドナーの確率は、血縁者間、すなわち兄弟姉妹では四分の一だという。異父姉妹のあいだでは、どういう確率になるのだろう。  しかし、確率の問題ではない。問題は、義理の妹が存在するという事実を、治郎が美由紀に告げなかったことである。  ——母親にばかりか、わたしは父親にも見捨てられた?  美由紀は、一ノ瀬茜が残して行ったメモを見ながら、呆然《ぼうぜん》としていた。     5  異質な音が音楽に混じった気がして、彼はイヤホンを耳からはずした。  ベッドの上で、のっそりと上半身を起こす。CDプレーヤーの音量を絞った。このプレーヤーも、何年か前に母親にねだって買わせたものだ。  廊下がきしんだ。  ——誰か来た?  足音は、彼の部屋の前で止まった。  ——何か違う……。  彼は、獣のように身構えた。そう、ときどき自分が獣になったように感じるのだ。  母親ならまずノックをする。応答がないとわかっていても、ノックをする。女の柔らかなこぶしが、あきらめと悲しみを含んだ響きを伴ってドアを叩《たた》く。  そして、あの、物心ついたころから慣れ親しんでいる声が続くのだ。「貴明」、あるいは「貴ちゃん」と。  声も年老いていくのだということを、彼は学習した。母親の声は、以前より低音になり、かすれぎみになった。  しかし、本質は変わらない。どんな仕打ちを受けても耐え続ける、恐ろしいまでの柔順さ、忍耐力、根気、そして鈍感さ。耐え続けていられるのは、待ち続けているからだ。待ち続けられていることに、たまらなく彼は苛立《いらだ》つ。頭をかきむしりたくなるほどに。待ち続けているのは、何かを期待しているからにほかならない。  ——期待しても無駄だよ。  俺《おれ》は、俺の殻に閉じこもる。その自由を誰にも侵させない。  十畳の空間が、彼の砦《とりで》、彼の城、彼の宇宙だった。  身体を鍛える道具として愛用していたルームランナーは、とうに見放した。ベルトがどこかに当たってすれて、きいきい音がするのに耐えられなくなった。最近は、バーベルやエキスパンダーで腕や胸の筋肉を鍛えている。なぜそうしているのか、理由はわからない。何のためになのか、いつに向けてのためなのか。  何も考えたくはなかった。死ぬこともできなければ、生きることもできない。彼にできるのは、ただ……あり続けることだ。存在し続けること。人間としてなのか、物体としてなのか、自分でもわからない。  どうでもいい。そうだ、どうでもいいのだ。  あちら側でドアノブをつかむ音がした。彼はベッドを降り、押し入れのほうへあとずさった。  ——ついに来たか。このドアを壊しに?  頭が混乱した。  ——どうでもいいだって? うそつけ。本心じゃないくせに。どうかしなければいけない。現状打破をいちばん考えているのは、おまえのくせに。違うか?  誰かが、笑って問いかける。  自分か?  ドアの向こうに立って、ドアノブに手をかけた誰かか?  彼は、深呼吸をすると、視線をドアから机の上へ移した。  壁に一枚の額が飾ってある。中に入っているのは、表彰状だ。高校一年の夏に、地元の消防署から贈られた表彰状。御守りのようにそこに飾り続けている。  彼が誇れる、唯一の過去の栄光だった。他者とのかかわりを拒否しているくせに、たまらなく人恋しくなるときに、ふと視線を這《は》わせる対象としてそこにあり続ける。  それからまた、彼はドアへ視線を戻した。     6  郵便受けにそれが入っているのを見た瞬間、井口富士子は、その封筒のまぶしいほどの白さときらびやかな切手に頭がくらっとした。  あて名は、井口貴明。息子あてだ。息子に手紙がきたのは、どれくらいぶりだろう。  裏返すと、二人の名前が並んでいた。  大澤拓也  高谷美由紀  ——あの子の大学の同級生だろうか。  封筒の型と切手の華やかさからして、結婚披露宴の類の招待状なのは間違いない。しかし、いままで一度も、貴明あてに披露宴の招待状がきたことはなかった。  ふと、高谷美由紀という名前に憶えがある気がした。古い記憶だが、何かのきっかけで鮮明になりそうだ。  あっ、と思いあたって、玄関へ駆け込む。腰痛の出始めた腰をかばいながら納戸へ上がり、奥にしまったダンボールの中からそれを見つけ出した。  表紙が黄ばんだ家計簿だ。二十年前の家計簿。  新聞記事の切り抜きは、油紙をカバーにした下に貼《は》ってあった。  ——高谷美由紀……。やっぱり、そうだわ。  彼女は、封筒をしっかり胸に押し当てて、貴明の部屋へ向かった。  ノックをして話しかける。 「貴ちゃん。あなたに手紙がきたわ」  声がうわずる。 「結婚披露宴の招待状みたいよ。ねえ、早く開けてみたら?」  いつものように応答はない。 「高谷美由紀さんって、貴ちゃん、憶えてる? あなたが川で助けてあげた子よ。ほら、消防署から表彰状をもらったあれ。あの子があなたを招待したのよ」  相変わらず室内は静かだ。〈ひきこもり〉によく見られる昼夜逆転の生活のせいで、いまはまだ寝ているのだろうか。 「行ってみなさいよ。だって、貴ちゃん、あなたはこの子の命の恩人ですもの。呼ばれて当然よ。あなたがいなかったら、この子は死んでいたんですもの」 「……」  寝ているのではない。いつもの沈黙とも違う、と富士子は思った。何か熟考していると感じさせる沈黙だ。  ——貴明は迷っている。  このチャンスを逃してはいけない。富士子はあせって、たたみかけた。 「そうよ、あなたは人間一人の命を救っているのよ。これはすごいことだわ。なぜ、いままで忘れていたんでしょうね。いいえ、忘れていたわけじゃない。忘れられていたんだわ。ねえ、貴ちゃん、そうじゃない? あのとき、菓子折り一つでお礼を言われて、それでおしまい。まったくどう思ってるのよ、ねえ。恩知らずっていうか……。で、また、思い出したようにこんなものよこして。だけど、よこさないよりましだわ。そうよ、あなた、出席しなさいよ、堂々と胸を張って。貴ちゃんには、招待される権利があるのよ。主賓でもいいくらいよ。礼服だったら、お母さん、買ってあげるわよ」  かすかに中で、息遣いのようなものが聞こえた。  彼女は、ドアノブに手をかけた。無駄だと思って、この十年間、試みなかった方法である。  そして、ドアノブを握る手に力をこめた。  第三章 再 会     1  鏡にタキシード姿の拓也が映って、美由紀はハッとした。鏡の中で、拓也が声を出さずに言う。  ——き・れ・い・だ・よ。  鏡の中のウエディングドレス姿の美由紀が、頬《ほお》を染める。普通の白いワンピースで充分だと思っていたのに、「やっぱり花嫁はウエディングドレスでなくちゃ」と言って、恵理が用意してくれたのだった。二年前に彼女が結婚したときに買ったドレスだという。それを、小柄な美由紀のために自分で裾上《すそあ》げをしてくれたのだった。  胸元と袖《そで》が透けた清楚《せいそ》でシンプルなデザインのドレスは、ポイントが上にきて、背があまり高くない美由紀によく似合った。髪の毛はポニーテールにして、可憐《かれん》なマーガレットの造花を飾った。白いレースの手袋は、佳世子からのプレゼントだ。 「拓也もすっごくカッコいい」  美由紀は、はじめて振り返った。お世辞ではなく、雑誌から抜け出たみたいにカッコよかった。が、その表現は避けた。それを言ってしまうと、「そういうあなたに似合うのは、雑誌から抜け出たみたいに美しい花嫁」ということになりそうな気がしたからだ。自分は本当は釣り合わないのではないか。育った環境のあまりの違いが、美由紀のコンプレックスになっている。  拓也は、美由紀より二つ年上だが、一浪して大学に入ったので、学年では一年違い。つき合いはじめてすぐに、「美由紀」、「拓也」と名前で呼び合う仲になった。誰とでも気軽に話せる拓也は、少し人見知りをするところのある美由紀の心もすぐにほぐしてくれた。  十月三日。恵比寿《えびす》にある、開店してまもないイタリアンレストラン。一時から三時半まで、二人のために貸し切り状態だ。ここに決めたのは、拓也の母親が店内の内装を手がけたからだった。  その拓也の母親は、雑誌の仕事で海外に出ている。彼の父親も、学会があって出席できない。だが、たとえ時間があっても、拓也によれば「彼らは出ないよ」と言う。小さいころから拓也は、大人と子供のけじめをはっきりつけられて育てられたそうだ。あちらの映画でよく見かけるような光景——子供をベビーシッターに預けてパーティーに出るようなことは、しょっちゅうあったようだ。拓也が一人暮らしをするようになってからは、「息子には息子の世界がある」と考えているらしく、今回も彼の父は、「親が顔を出すと、話したい話もできなくなるだろ? 僕らは遠慮したほうがいいのさ」と、拓也に電話で言ったという。  しかし、拓也の両親を交えての食事会は、来週の木曜日に予定されている。  レストランの個室の一つを、控え室として使用していた。 「美由紀、入っていい?」  ドアの外から声がかかった。恵理と一緒に受付をしている牧子だ。  拓也がドアを開ける。美由紀を見るなり、牧子は「すてき!」と声を上げた。 「美由紀、すごくきれいよ」 「ありがとう。次は、牧子の番ね」 「わたしは当分いかないと思う。職場が職場だから」  牧子は首をすくめ、ちょっと怪訝《けげん》そうな表情になった。「さっき受付に、一ノ瀬さんって方がいらしたんだけど、美由紀、呼んだ? リストにはなかったから」  一ノ瀬茜だ。 「ああ、うん。わたしの講演を聴いた子でね、個人的に親しくなったので呼んだの」  一ノ瀬茜の住所には、美由紀が招待状を送っておいた。ファミリー・レストランでの出会いのあと、二人は会ってはいない。茜が住んでいるのは、杉並区井草のマンションらしい。そこで一人暮らしをしているのか、両親と一緒に住んでいるのかはわからない。が、とりあえずは招待状を送ってみた。茜がどう反応するか知りたかったからではなく、その背後にいる母親——美由紀の実母がどう反応するか知りたかったのかもしれない。 「そう、それならいいんだけど」  フォーマル用のブルーのワンピースを着た牧子がドアを閉めかけたのを、「ねえ」と拓也が呼び戻した。「恩人、来た?」 「恩人? ああ、井口貴明さんね。まだみたい。じゃあ」  二人きりになると、拓也は、「まだだってさ」と美由紀に向かって肩をすくめた。「何だかドキドキするよな。どんなやつが現れるのかな、と思って」 「あ、うん、そうね」  緊張の度合いで言えば、美由紀のほうが大きいかもしれない。「井口さんから出席のハガキがきたわ」と、牧子から電話があって以来、ずっとドキドキしっぱなしだ。  牧子の話では、I市内の電話帳を調べたところ、「井口貴明」名の番号は載っていなかったが、井口姓はいくつかあったという。はしから電話をしてもよかったのだが、ふと思いついて、斎藤直道という名前を調べてみたら、見つかった。そこへ電話をした。出たのは、五十代くらいと思われる声の女性だった。自分はM大学の事務局の人間だと名乗り、二十年前に友人が川に落ちたのを井口貴明に助けられ、斎藤直道という男性が救急車を手配してくれたことを話すと、電話口で彼女は「ああ、おじいちゃんのことね」と弾んだ声を出した。大学の同窓会か何かの広報紙にそのときのエピソードを書くのだろう、と勝手に解釈してくれたようだ。牧子が聞きもしないのに、「おじいちゃんは元校長なんですよ。八十二なのにかくしゃくとしていてね。たまにわたしがこうしてようすを見に来るけど、元気なものですよ。昔のことだってはっきり憶えています」と嬉《うれ》しそうに語った。「その友人が井口さんにお手紙を出したいと話しているんですが、住所がわかりません。お宅のお近くでしょうか」と牧子が聞くと、娘か嫁とおぼしきその女性は、「ええっと、あそこは、うちからは近いんだけど、隣の町になっちゃいますね。ぽつんと一軒だけ離れた場所で、S町というところですよ。それで郵便物は届くと思いますけど」と、井口家のある集落の名前を教えてくれたのだそうだ。話し好きの女性は、こう続けたという。「井口さんのとこは、息子さんが一緒に住んでいるのかどうかは、よくわかりません。でも、奥さんがいるのは確かですから、本人の手元に届くと思いますよ」 「まさか、出席の返事をよこすとはな」  拓也が、蝶《ちよう》ネクタイを少し緩めた。 「欠席の返事がきたほうがよかったの?」 「そういうわけじゃないけど、いざ本番となったら、何かこう、心の準備がなかなかできないっていうか、どんな顔していいものかわからないんだよな」  美由紀も同じだった。 「俺《おれ》よりカッコいいやつだったらどうしよう……なんて、心配してたりして」  拓也は笑ったが、美由紀がまじめな顔のままでいるので、「おいおい、そんなわけないでしょう、あなたのほうがカッコいいに決まってるわ、くらい言ってくれよ」とすねた顔をした。 「あ、ああ、そんなの当然じゃない。今日は拓也が主役なんだから」  美由紀は、あわてて笑顔を作った。期待と不安が押し寄せてくる。 「主役は美由紀だよ」  ふたたびドアがノックされる。 「美由紀さん、いる?」  佳世子の声だ。拓也がドアを開け、頭を下げて、うやうやしく手で招いた。 「花嫁さんは、もうおしたくができております」  シックな黒のスーツの胸に、カメリアのコサージュをつけた佳世子は微笑《ほほえ》んだ。恵理や牧子のようには吹き出したりしないのだ。 「美由紀さん、とてもきれいよ。大澤さんも今日はとてもりりしいわ」  佳世子は目を細め、ひとしきり二人をほめてから、声を落とした。 「今日は、ご親族の方がいらっしゃるの?」 「親族?」  拓也が言って、美由紀を見た。美由紀は、無言でかぶりを振った。 「父にも義母にも、今日のことは知らせなかったんです」  一ノ瀬茜が美由紀の前に現れるまでは、それでも二人を呼ぼうかと考えていたのだった。しかし、義理の妹の存在をひた隠しにされていた——確認したわけではなかったが——と知ったいまでは、とても彼らを招く気にはなれなかった。一ノ瀬茜といきなり引き合わせて、彼らを驚かせようと意地悪く考えたこともないではなかったが。 「でも、さっき黒留袖《くろとめそで》の方がいらしたけど」 「黒留袖?」  拓也がすっとんきょうな声を上げる。「何だ? それ」 「結婚した女性が着る婚礼用の着物で、裾模様のある黒地の紋付きのことよ」  佳世子が説明した。  ——もしかして……。  美由紀の胸は高鳴った。母かもしれない、と思ったのだ。自分を産んで、小学校二年生の夏まで育ててくれた母。茜から美由紀の結婚のことを聞いて、一目、娘の晴れ姿を見たいと思ったのかもしれない。  黒留袖というのは、いまでは花嫁花婿の親族や仲人《なこうど》だけが着る格式の高い着物とされている。招待された者が黒留袖を着たのでは、親族や仲人より格が上がってしまうから、という理由で着る者が限定されている。  ——どうしよう。  動揺を隠しきれずに、美由紀はハンカチで口を押さえた。 「美由紀、どうした? 気分でも悪いのか?」  拓也が美由紀へ駆け寄り、顔をのぞきこむ。  そのとき、ドアの外で「あの、ちょっといいかしら」と、遠慮がちな牧子の声が言った。 「もうみんな集まったのかもしれないな」  拓也が、ちらりと腕時計を見る。 「美由紀にご挨拶《あいさつ》したいとおっしゃる方が」  牧子がドアを開けずに続けた。 「ど、どうぞ」  美由紀は、ハンカチを口から離して言った。  ドアが開いた。「どうぞ」と、牧子が後ろにいる女性を促す。  縁がべっこう色の眼鏡をかけた黒留袖の女性が進み出た。  母親ではなかった。二十年近く会っていなくても、それはわかる。アルバムの中で昔の母にはいつも会っている。  ホッとしたような寂しいような気持ちになる。  裾《すそ》に大きな熨模様《のしもよう》が入った黒留袖だ。帯は、金糸や銀糸の刺繍《ししゆう》が施された赤茶色のものだ。一見して、いいものだとわかる着物と帯である。  六十代後半から七十歳前後の女性だろうか。生えぎわにだいぶ白いものが目立つ。 「このたびは、おめでとうございます」  女性は、身頃の前に手を重ね、深々と頭を下げた。  反射的に、美由紀も拓也も佳世子も会釈で応じた。  顔を上げると、彼女の目は潤んでいるようだった。眼鏡の縁から指を差し入れ、涙を拭《ぬぐ》っている。  隣で、拓也が息を呑《の》む気配を感じた。美由紀が顔を振り向けると、「お母さん?」と小声で聞いた。  美由紀が唇の形だけで「違う」と答えるのと、黒留袖の女性がこう言うのと同時だった。 「わたしは、井口貴明の母の井口富士子でございます。今日は、息子の代理でまいりました」     2  結婚披露パーティーは、司会者の牧子の挨拶で始まった。  最初、恵理が「わたしが司会をやりたい」と申し出たのだったが、「あなたは何を口走るかわからないからだめ」と、牧子がはねのけたのだ。  人前結婚式の儀式へと進む。このスタイルを提案したのは、佳世子だった。指輪の交換と誓いの言葉のみで、ケーキカットなどがないシンプルな式だ。  続いて乾杯の音頭は、拓也の大学時代の恩師がとった。美由紀は、決められた花嫁の席で、幸せの絶頂にいていいはずなのに、飲み込めない小さな塊のようなものを喉元《のどもと》に感じていた。隣を見たが、拓也のほうはさっきの女性のことなど忘れたかのように笑っている。  さっきの女性。井口富士子と名乗った、井口貴明の母親の存在が頭に引っかかっている。 「今日は、息子の代理でまいりました。このたびは、わたくしどもにまで声をかけていただいて、誠に嬉《うれ》しく存じます。息子が所用で出られませんので、かわりにわたしが」  控え室の入口でそう続けた井口富士子は、「では、のちほど」と言い、きびすを返した。  それきりだ。向かって右側のテーブルで、井口貴明の母親は、目を細めながら式の進行を見守っている。彼女の席は、美由紀の高校、大学時代の恩師、会社の元上司、看護婦長といった主に年長者たちの中に設けられている。年齢的には違和感がないが、服装では大いに違和感があった。  黒留袖などを着ている女性は、彼女一人しかいない。それで、周囲からちらちらと視線を送られているが、彼女は気にならないようで、口元の微笑を絶やさない。  彼女のまわりには、どこか人を寄せつけないような毅然《きぜん》とした雰囲気が漂っている。場違いな服装で一人だけ浮いているのに無頓着《むとんちやく》なのか、それを当然だと思い込んでいるのか。  歓談のあいだも、井口富士子は顔を右にも左にも動かさず、じっと前だけを見つめている。視線の先に、美由紀がいる。  美由紀は居心地が悪くなって、何度も視線をそらした。拓也の前には、学生時代の友達、出版社時代の同僚と、入れ替わり立ち替わりビールやワインを注ぎに訪れる。彼らに冷やかされ、微笑で応えながらも、美由紀の心の一部は黒留袖の女性にとらわれていた。  井口富士子にも祝辞を頼んである。いや、直接頼んだのは、井口貴明にである。牧子が彼あてに郵送した招待状の中に、「ご祝辞をお願いします」のひとことを添え書きしたのである。  いままでお世話になった人たちに感謝の意を表す——それが、このパーティーの目的の一つである。命の恩人である井口貴明に何かひとこと述べてもらわないわけにはいかなかったのだ。  しかし、やって来たのは彼ではない。彼の母親だ。しかも、非常識とも言える黒留袖を着てやって来た。  美由紀は、嫌な予感に襲われそうになるのを、大丈夫、大丈夫、と口の中で小さくつぶやきながら追い払った。彼女はただ、こうしたこぢんまりしたパーティーに慣れていないだけなのだ。結婚披露宴に招待されたことで、仰々しく、かた苦しく考えすぎているだけなのだ……。  だが、いくら場慣れしていないとはいえ、黒留袖《くろとめそで》を着て来るなんて、という違和感は消えない。  ——まるで、親族みたいに……。  親族?  みぞおちに何か打ち込まれたような衝撃を受けた。美由紀は、ふと、彼女は親族同然のようなつもりでやって来たのではないか、と思った。  ——でも、どうして? まさか、そんなこと……。 「では、ご歓談中ではありますが、みなさまからお二人へのお祝いや励ましのお言葉をいただきたいと思います」  牧子が、ふたたびマイクの前に立った。  祝辞が続く。手紙をもらってはじめて美由紀の病気のことを知り、驚いたという高校や大学の恩師、「優秀な人材を失った。いつでも戻って来てほしい」という会社の元上司など、温かい励ましの言葉に美由紀は胸が熱くなった。  病院関係者では、仕事の都合で出席できなかった移植医もいたが、闘病生活から移植に至るまでお世話になった看護婦長やコーディネーターの佳世子には、祝辞をもらうことができた。「高谷さんは、けっして弱音を吐かない人でした。患者さんのかがみのような人です」という看護婦長の言葉には、褒めすぎだと背中がむずがゆくなった。佳世子の祝辞は、立場上よけいなことを言わない彼女らしく、簡潔に短くまとめられていた。闘病時代の思い出というより、拓也との将来へのはなむけが中心で、最後に「骨髄バンクの現状にご理解をいただきたい」と締めくくった。  拓也の大学時代の登山部仲間らによるバンド演奏で盛り上がったあと、しばしの歓談を経て、牧子がやや改まった口調でついに言った。 「みなさま、美由紀さんが骨髄移植を受けて元気になったことは、彼女をご覧いただければ一目瞭然《いちもくりようぜん》のことと思います。美由紀さんにとって、ドナーになっていただいた方は、命の恩人です。けれども、彼女にはもう一人、命の恩人と呼べる人がいるのです。先日の母校での講演でわたしもはじめて知りましたが、美由紀さんは小学校一年生のときに川に流されたのを、当時高校一年生の男の子に助けられています。今日は、そのもう一人の恩人、美由紀さんの人生最初の恩人、井口貴明さんをお呼びする予定だったのですが、ご都合により出席できませんので、かわりにお母さまにお越しいただいております。  では、井口富士子さま、どうぞよろしくお願いいたします」  井口富士子は、呼ばれるなりものおじもせずに、自信にあふれたような足取りでやや前かがみになり、新郎新婦の前のマイクに進み出た。  美由紀と拓也に、きっちりお辞儀をする。頭頂部にも白いものがかなり混じっている。  美由紀は、ドキドキしながら会釈を返した。隣の拓也は、一般的な祝辞を期待するときの紅潮した顔でいる。もっとも赤いのは、アルコールがかなり入っているせいかもしれない。男の彼には、一般招待客が黒留袖を着て来たことの違和感がうまく伝わらないのだろう。  ふわりと何かが鼻をついた。防虫剤の匂《にお》いだ。匂いのもとは、井口富士子の着物のようだ。長年たんすの奥にしまっておいたのを、引っぱり出してきて、あまり風を通さなかったのだろうか。 「美由紀さん、このたびはおめでとうございます。また、闘病生活、誠に大変でございましたね。よく耐えてこられました。さすが、生命力のお強い美由紀さんと言いますか、わたしは何かとても運命的なものを感じます」  富士子は、そこで言葉を切り、少しうつむいた。次の言葉を探しているのかと思ったら、感極まったらしく、控え室でのように眼鏡をそっとずり上げて涙を拭《ぬぐ》っている。会場に静かな驚きが波のように生じたのが、美由紀には感じられた。 「本来なら」  声のトーンを変えて、富士子が続ける。「わたしの息子、さきほど司会者の方が、美由紀さんのもう一人の恩人、人生最初の恩人とおっしゃってくださった井口貴明がうかがうべきところですが、残念ながら息子はいま遠いところに行っており、出席できません」  ——遠いところ、とはどこだろう。  海外か? それとも、単純に仕事で来られないのを、招待者に配慮してそう表現したのだろうか。  美由紀は訝《いぶか》った。そっと隣を見たが、拓也はまっすぐ富士子を向いている。控え室に顔を出した彼女が「では、のちほど」と下がったあと、「何だか拍子抜けだよな」と言いながらも、ホッとしたような顔をしていた拓也である。恩人自身ではなくその母親ならば、何をどう言われても平気とでもいうように、のんびりしきった表情で耳を傾けている。ふと、いつだったか佳世子が拓也を、「いい意味での鈍感、いい意味での単純」と評したことを思い出した。 「こちらにうかがえないことを、息子は大変残念に思っています。息子に頼まれて、ずうずうしいとは思いましたが、今日は母親のわたしがまいりました」  そこで、富士子は客席のほうへ身体の向きを変えた。  富士子の背中が美由紀に向く。後ろ身頃の真ん中の紋がくっきり見えた。向かい合っていたとき両胸のあたりにも紋が見えた気がしたのだが、着物のしわに隠れてはっきりわからなかった。井口家の家紋だろう。美由紀は家紋についてはそれほどくわしくはないが、自分の家の紋とも大澤家の家紋とも違うのはわかった。白い丸に、何かの花がシンメトリーに図案化された紋様。藤の花だろうか。上部の中心に、やじろべえの形に葉が三枚描かれ、葉の軸は十字架のようにも見える。  至近距離で見ると、富士子の着物も帯もだいぶ古いもののようだった。刺繍《ししゆう》のところどころが色褪《いろあ》せているし、しみ抜きや虫干ししても取れないような白い斑点《はんてん》に似たしみや汚れが袖口《そでぐち》や裾《すそ》に見える。 「貴明が高校一年生のときに地元の消防署より表彰されたあのできごとは、わたしも鮮明に憶えております。あのときわたしは、ちょうど外出しておりました。帰ってみると、息子は英雄になっていました。川に落ちた小学生の女の子をあの子が助けたというじゃありませんか。びっくりしました。あの子は、けっして運動神経の鈍い子ではありませんでしたけど、中学に入ったころから、どちらかと言えば運動より勉強のほうに力を入れるようになっておりましたので。女の子は、近所の子ではありませんでした。東京から遊びに来た子ということでした。わたしが帰ったときには、すでにその少女は病院に運ばれていましたので、対面することはできませんでした。  対面したのは、翌日、その子——もちろん、美由紀さんですが——、その子がお母さんに連れられて、わたくしどもの家へ挨拶《あいさつ》にいらしたときでした。とても可愛《かわい》らしくて聡明《そうめい》な女の子でした。その面影は、すっかり大人の女性になられたいまでもまったく変わられておりません。菓子折りを差し出されるお母さんの隣で、その子は『助けてくださって、どうもありがとうございました』と、はっきりお礼を言われましたよ。きっと、お母さんと何度も練習されたんでしょうね、頬《ほお》を赤く染めてとてもほほえましかったですよ。夏休みで家にいたはずの貴明は、恥ずかしかったんでしょう、部屋からのそっと顔を出しただけで、きちんと応対しなかったように思います。  それだけのできごとですのに、今回、こんな華々しい席に恩人としてお呼びいただけるなんて、光栄と申しますか、気恥ずかしいと申しますか。息子は、あのとき通りかかった者として当然のことをしたまでですので。……ああ、わたしは息子の代理でうかがったわけでしたわね。ですので、息子のことを少しお話しします。あの子は、当時、新聞には書かれてはいませんでしたが、K高校に通っていました」 「進学校じゃないか」  拓也が、美由紀の耳元でささやいた。あきれたような驚いたような声だ。 「そして、T大学にストレートで合格いたしました」  富士子の声が、ややうわずってきた。美由紀の心臓も、喉元《のどもと》へとせり上がりつつある。  おかしな方向へ話が流れている。 「T大だってよ。すごい秀才じゃないか」  拓也がまたささやいた。  会場でも、顔を見合わせて目を見開く者、ささやき合う者がいる。だが、富士子は気にするそぶりも見せない。 「貴明は、やさしくて正義感が強くて、成績もよく、わたくしどもの自慢の一人息子でした」  富士子は、何かに取りつかれたように告白口調で言った。 「おいおい、とうとう言っちまったぜ」  拓也は、今度はあきれが勝った声で言う。  牧子が、富士子の後ろで、困惑したように髪をかき上げた。 「自慢の一人息子でしたのに、大学三年の夏に……あることがきっかけで、挫折《ざせつ》したんです」  富士子はそう言って、目を伏せた。  美由紀は、拓也と顔を見合わせた。美由紀が青ざめていたのだろう。拓也は、〈しょうもない、思わせぶりなことを言うおばさんだよな。挫折だってさ、何だろうな〉と言うように、おどけた感じで首をすくめてみせた。美由紀に微笑《ほほえ》ませたかったのだろう。だが、美由紀はそれどころではなかった。 「あの子は、突然、すべてのことにやる気を失ったんです。勉強にもサークル活動にも。いちおう山歩きみたいなサークルに入っていたんですよ。テニスも割合好きでやっていたんです。ところが、夏ごろでしたか、身体が自分の思うように動かない、右腕が上がらない、そんなふうに言い始めました。最初は病気かと思いましたが、どうもそうではないようです。右腕の筋肉が痛むのはテニスのやりすぎかと思って医者にも診《み》せたんですが、原因はテニスではないようでした。あちこちで診てもらっているうちに、原因は昔の古傷ではないか、ということになりまして……。  結局、すべてにやる気を失って、誠に不本意ながら大学は辞めざるをえなくなりました。その後、元気だった主人が突然病気になりまして、半年たらずの闘病の末になくなり、現在は息子と二人暮らしです……。  すみません。こんなおめでたい席では、これ以上、息子の話をするのが憚《はばか》られます。美由紀さん、ごめんなさいね。どうかここまでで息子の話はお許しください」  富士子がくるりと振り返る。頬《ほお》が涙で濡《ぬ》れている。美由紀は、心臓が止まりそうなほどのショックを受けた。嫌な予感が当たったという思いより、予想もしなかった話の展開に打ちのめされた混乱が大きい。  ——古傷とは何なの?  古傷という言葉が、美由紀自身のそれのように、胸の奥でうずく。  ——わたしを助けたことに関係しているのではないのか。  美由紀は、いまこの場で富士子に聞きたい気持ちをかろうじて抑えた。会場の雰囲気が一転してしまっている。 「でも、美由紀さん。貴明が美由紀さんの命の恩人なのは事実ですし、その事実は未来|永劫《えいごう》変わることはありません。わたしはその輝かしい息子のかつての栄光にすがって、自分自身を励ましながら毎日生きているのです。美由紀さんこそ、井口貴明という人間に……普遍的な……絶対的な価値を与えて……くださった恩人なんです。あの子の母親として、こちらこそ……心からお礼を……申し上げます」  最後は、声を詰まらせた。  会場が静まり返った。美由紀の心臓も、氷のように冷えている。  牧子が、我に返ったように拍手をした。招待客たちも、その音で胸をつかれたように一斉に拍手を送った。美由紀も拓也も、機械的に手を叩《たた》いた。空疎な響きに、美由紀には聞こえた。 「わたしたちも知らなかった心温まるエピソードを、井口富士子さま、どうもありがとうございました。命の恩人、とひとことで申しましても、本当にいろいろな形の恩人があるものだということを、教えられた気がいたします」  司会者の牧子が、そう締めくくった。いまの富士子の挨拶を聞いてとっさに考えたのではなく、あらかじめ考えていた言葉なのは明らかである。それに気づいたのか、牧子はとってつけたようにこう言い添えた。 「貴明さんに助けていただいた美由紀さんが、今度は貴明さんの何かお力になれるかもしれません。人間というのは、そういう形で助け合い、支え合って生きていくものではないでしょうか」     3  美由紀と拓也は、レストランの出入口に立って、一人一人招待客たちを見送った。井口富士子の挨拶で異様な雰囲気に彩られはしたが、そんなことは忘れたかのようにみんな明るく励ましの言葉を残して行ってくれた。  美由紀は、牧子に「井口さんをちょっと引き止めておいて」と頼んであった。あそこまで聞いて、彼女を帰すわけにはいかない。  二次会用に、拓也と今夜を過ごす新宿のホテルのレストランに、恵理が予約を入れてある。 「ねえ、まさか、あの人を二次会に呼ぶわけじゃないでしょうね」  牧子から話を聞きつけた恵理が、美由紀のところへ駆けて来た。ちょうど、一ノ瀬茜が帰るところだった。茜のピンク色のミニのドレスは、会場で彼女の若さを引き立てていた。 「そうじゃないけど、ちょっと話があって」 「さっきの方、美由紀さんのお義母《かあ》さんかと思っちゃった。あんな着物、着てるんだもの」  茜が横合いから言った。  彼女のなれなれしい口調に、恵理が驚いたように目を見張り、美由紀へ顔を振り向けた。 「美由紀さんって、ずいぶんドラマチックな人生を送ってきたんですね。じゃあ、また」  茜が帰って行く。 「ねえ、さっきの人、わたしたちの大学の後輩でしょう? 美由紀の講演を聴いた子で、親しくなったとか。美由紀とどういう……」  講演を聴いた女子大生は大勢いる。なぜあの子だけを特別に招待したのか、と不思議に思ったのだろう。恵理が質問してきたのを美由紀は遮った。 「それより、井口さんのことよ」  着替えを済ませて、井口富士子を待たせている近くの喫茶店へ駆けつけた。  牧子だけがいるかと思ったら、佳世子も一緒にいた。拓也と恵理は、二次会に出席するメンバーたちの世話で——拓也の学生時代の仲間が中心だが——、先にホテルのレストランへ行っている。 「すみません。お待たせしてしまって」  牧子が奥まった席を選んだのだろう。コの字形に置かれたソファに、井口富士子を挟む形で牧子と佳世子が座っていた。三人の前には、ホットコーヒーが置かれている。  もちろん、富士子は着替えはしていない。ナフタリンの匂《にお》いを漂わせた黒留袖《くろとめそで》姿のままだ。 「いいお式でしたわね」  富士子が言った。 「今日はお越しくださって、本当にありがとうございました」  いちおう礼を言って、美由紀は迷った。すぐにでも本題に入りたい。だが、富士子の隣にいる佳世子の存在が、黙っていても何かしら圧力をかけてくる。 「美由紀さんは何? コーヒーより紅茶になさいな。ミルクティーがいいわね」  やって来たウエイトレスに、佳世子が美由紀の分を頼んだ。 「拙《つたな》い司会でしたでしょう? 人前結婚式なんてのも、井口さん、はじめてじゃなかったですか? わたしもはじめてでしたけど」  牧子も、美由紀の気持ちを落ち着かせるように、富士子に雑談を持ちかける。 「いいえ、とても立派な司会ぶりでしたよ。美由紀さんの大学のお友達だとか。いいですね、卒業してもおつき合いがあるというのは」  富士子の口調がしんみりとして、美由紀はハッとした。彼女の息子、井口貴明は、T大学まで進みながら、三年の夏で辞めているという。 「あの……さきほど、貴明さんは、大学三年の夏に、突然、身体が自分の思うように動かなくなった、右腕が上がらなくなった、というようなことをおっしゃいましたが、原因が昔の古傷ではないか、というのは具体的にどういうことでしょうか。わたし、ちょっと気になったもので」  美由紀は、牧子と佳世子の視線を痛いほど頬《ほお》に感じながら、そう切り出した。 「あ、ああ、お気になさらなくていいんですよ」  富士子は、ぶるぶるとかぶりを振り、てのひらをひらひらさせた。「おめでたい席ですのに、わたしったら、うっかり口を滑らせてよけいなことを」 「もしかして、貴明さんの古傷というのは、わたしを助けたことに関係しているのではありませんか?」  すると、富士子は、曖昧《あいまい》な微笑を見せた。恵理も佳世子も、かたずを呑《の》んで富士子の返事を待っている。  ミルクティーが運ばれてきた。ウエイトレスが去るのを待って、「お願いです。どうか遠慮しないで話してください。わたしは貴明さんに助けていただいたんです。うかがう権利はあると思います」美由紀は頼み込んだ。 「そうおっしゃるなら」  富士子は、ふうっとため息をついて、コーヒーを一口飲んだ。 「実は、美由紀さんを助けたあのとき、貴明は右腕の筋を痛めたようなんです。何でも、右腕をめいっぱい伸ばして、流れて来た美由紀さんの服をつかんだんですってね。そして、自分も流されまいとして踏んばったとか。それから、力のかぎり引き上げた。いくら体格がいいとは言っても、まだ高校一年生でしたからね。身体も充分にはできあがっていなかったんでしょう。何しろ、女の子一人を右手一本で引き上げたんですから。左手のほうは、必死にフェンスにしがみついていたと言うじゃありませんか。  でも、あの子はとても我慢強い子なんですね。本人は筋を痛めてつらかったんでしょうけど、親にもひとことも『痛い』と言わなかったんですよ。あのくらいの年の子の身体は一体どうなってるんでしょう、一時的に痛みは消えたようなんです。勉強のほうが忙しくなって、貴明は腕のことなどすっかり忘れてしまったんでしょう。  なぜ、大学三年になってから、その古傷が痛み出したのか、わたしたちにもよくわかりません。いえ、最初に古傷という言葉を使ったのは、わたしたちではなく、診《み》てくださったお医者さんなんです。あれこれ調べたあげく、はっきりした原因がわからないようで、『昔、何かこのあたりに怪我《けが》でもしましたか?』と尋ねてきたんです。貴明は、ようやく高校一年のときのできごとを話しました。びっくりしましたよ。わたしもそのときはじめて、あの子が筋を痛めていたのを知ったんですから。お医者さんは、『うーん、それかもしれない。そのときの古傷が原因かも』とおっしゃったんです。  いえ、そうは言っても、わたしたちがそう思っているというわけではないんですよ。あくまで医者の見方で。けっして、美由紀さんを恨んでいるわけではありません。あなたを助けたことは、貴明の輝かしい勲章ですもの、あの子もわたしも少しも後悔などしておりません」 「あの……」  佳世子が、身体を斜めにして口を挟んだ。「そのお医者さんは、貴明さんの腕の痛みが心理的な要因で起きたかもしれない可能性について、何かおっしゃっていませんでしたか?」 「心理的な要因?」  富士子が眉《まゆ》をひそめた。まばらな眉をくっきりペンシルで描いて埋めているが、あまり上手な描き方ではない。粒子の粗いペンシルも安物のようだ。 「腕の痛みは気のせいではないか、そうおっしゃるんですか?」  少し佳世子に突っかかるような口調だ。 「そういう意味ではありません。ただ、身体の痛みに心が原因している場合もあるので、もしかしたら、と思ったんです」 「三森さんとおっしゃいましたよね。あなた、お医者さん?」 「いいえ」 「じゃあ、看護婦さん?」 「いいえ」 「何とかコーディネーターとかおっしゃるのは……」  富士子は、佳世子のレシピエント・コーディネーターという肩書きにうさんくささを感じているらしい。 「骨髄移植の際に、ドナーの方や関係者との連絡をしたり、患者の相談にのったりする仕事です。大きな手術や移植などのときには、患者の心は不安定になるものなんです。これからますます需要が増える仕事だと思います」  美由紀がかわりに説明した。 「そうですか。でも、お医者さんでも看護婦さんでもないんですね?」  富士子は、唇に微笑をたたえて、確認するように聞いた。 「それは、まあ……」  牧子が、不満そうにちょっと口を尖《とが》らせて答える。 「それで、いま、貴明さんは?」  美由紀がいちばん気にしているのは、それだった。 「右手があんなふうですので、思ったように仕事ができないようで、いくつか職場を変えています。いまは……」  富士子が口ごもる。 「いまは、どうなさってるんですか?」美由紀は促した。 「見た目は普通なので、会社の人も理解してくれないんでしょうね。効率よく仕事ができないのを、本人が怠けているせいだと決めつけて、何度かトラブルが起こりました。いまは、建築関係の仕事について、東北のほうへ行ってますけど、この仕事もいつまで続くか……」 「失礼ですが、身障者の手当てなどは受けられているんでしょうか」  牧子が聞いた。 「ですから、さきほど申し上げたように、見た目は普通なので、人に理解してもらうのが大変なんです。傷跡が残っているわけではありませんし。そのお医者さんも、診断書にどう書けばいいのか迷ったらしくて。『金ほしさにうそをついている』、『親子そろって楽して暮らしたがっている』、そう後ろ指をさされるのが嫌で、わたしたちさえ耐えればいいのだ、と思っていままできました。主人の治療費や入院費にだいぶかかりましたし、わたしももう六十五です。いつまで元気で働けるかわかりません。この年になるとあちこちガタがきて、腰痛もかなりひどいんです。一人息子の貴明もあんなふうですし、正直申し上げて、心細くはあるんですよ」  富士子は眼鏡をはずし、白いハンカチで涙を拭《ぬぐ》った。目尻《めじり》のしわの多さから、七十歳を超えていると言っても通用するくらいだ。  泣いている富士子にかける言葉がない。三人ともただ見つめていた。  すると、富士子はつっと顔を上げ、泣き笑いのような表情を作った。 「あのころの貴明は、将来が光り輝いていました。主人とわたしは、あの子が将来、どんなに立派な人間になるか期待でいっぱいだったんですよ。あの子が結婚したら、古い家を建て替えて二世帯住宅にしよう、などと話していました。そのために、あちこち直しながら、だましだまし大切に大切に住んでいたんです。孫の顔も想像していました」  結婚、という言葉が出て、美由紀の胸は押しつぶされそうになった。その後、恩人がどうなったかも知らずに、もう一つの重大事に気をとられていままで生きてきた。その罪悪感に胸の中がかきたてられている。 「すみません、何も知らずに」  美由紀は、頭を下げた。「すべて、わたしのせいです、ごめんなさい……」 「美由紀!」  牧子が、遮るように、きっとした口調で呼んだ。ここでそんなに安易にあやまってはいけない、と注意した声だった。  美由紀はそれに気づいたが、謝罪せずにはいられなかったのだ。自分は、人に助けられてばかりいる。助けられて、きちんとお礼も言わずに人生をやり過ごしてきた。なんて薄情な人間なのだろう。もう一人の恩人——ドナーには、礼状を書いたが直接渡したわけではない。感謝の気持ちが相手にどう通じたのか、反応を知ることができないのでわからない。もしかしたら、ひとりよがりのなれなれしい文面に腹を立てているかもしれない。それに思いも及ばずに、礼状を託しただけで満足してしまっている。  美由紀は、目の前のこの初老の女性——最初の恩人の母親——に、間接的に感謝し、謝罪することで、自分のいままでの非礼をすべて許してもらえるような気がしてきた。 「貴明さんにお会いして、あやまりたいのですが」 「えっ?」  富士子の上げた顔には、戸惑いの色があった。「貴明はいま、ちょっと遠いところにいるもので……」 「お帰りになられてからでも結構です。いえ、わたしのほうからうかがっても」 「それは、困ります」  富士子がぴしゃりとはねのけたので、美由紀はビクッとした。 「あ、いえ、困るというのは……、あの子が困るだろうという意味です。助けてあげた美由紀さんには、いつまでも強くてたくましいお兄ちゃんのままで居続けたいんだろうと思います。美由紀さんの夢を壊したくはないはずです。あの子の気持ちをどうか、汲《く》んでやってください」 「で、でも、それでは、わたしはどうすれば……」 「お気になさらずに。わたしがさきほど申し上げたことなど、すべてお忘れになってください。年寄りが将来を悲観して愚痴を申し上げた、と受け取ってください」  富士子は、ハンカチをビーズのバッグにしまい始めた。だいぶ古い型のバッグだ。  見捨てられたような気持ちになり、美由紀は救いを求めて、牧子を見た。が、彼女は〈同情しちゃだめ。これでいいのよ〉というふうに、首を横に振る。続いて佳世子を見たが、佳世子もかぶりは振らないまでも、目に拒絶を表す強い光をたたえていた。  席を立った富士子の腰は、腰痛がひどい、と言っただけあって、やや曲がっている。 「あの子に謝罪なんて、本当に結構ですのよ」  富士子は、寂しげに微笑《ほほえ》んだ。 「そのお気持ちだけで充分です。でも、美由紀さん、わたしとはこうしてときどき会ってくださいな。あなたとお話ししていると、あの子がもらうはずだった可愛《かわい》いお嫁さんと話しているような気分になって、とても楽しいんですよ。今日の美由紀さんは、とてもきれいでした。あなたの写真を見せたら、あの子もきっと喜ぶと思います。  美由紀さん、実のお母さんとはいま、ご一緒にお住みじゃないんですって? お父さんも義理のお母さんも、結婚式にはお呼びしなかったようだし。……ああ、会場にいた若い女の子が教えてくれたんですよ。ピンクのドレスを着た足のきれいな子が。結婚するのに、母親が不在じゃさぞかし美由紀さんも心細いでしょう。どうぞ、わたしをもう一人の母親だと思って、何でも相談してくださいな」     4  富士子と別れて二次会の会場へ向かう途中、タクシーの中の空気は重かった。  牧子が一人でしゃべり、美由紀と佳世子はそれぞれの思いに沈んでいた。 「井口富士子の目的って、何なんだろう」  寒けがするのか、両腕で身体を抱え込んで、牧子が言う。 「もう一人の母親だと思って、何でも相談してください……なんて、言うことがおかしいよね。それじゃ、黒留袖《くろとめそで》を着て来たのも、まるで美由紀の母親がわりで……ってことにならない? お金を要求するわけじゃないし……、あっ、でも、はっきり言わないだけで、本当はお金がほしいのかも。……だって、息子がちゃんと働けないんじゃ、生活、苦しいだろうし。……でも、どうして、美由紀を息子に会わせまいとするんだろう。ちょっと変だよね」  少し黙って、また牧子がひとりごとのようにしゃべる。 「青いものが……」  ホテルが近づいたころ、佳世子がぽつりとつぶやいた。 「何?」  牧子が、佳世子へ顔を振り向ける。 「あ、ううん、何でもないの」  佳世子は、我に返ったような顔でかぶりを振った。  ホテルのロビーへ入ったとき、佳世子がふと足を止めた。 「佳世子さん、どうしたの?」  美由紀が気がついた。牧子は、気づかずにエレベーターへと向かう。  佳世子の視線は、数人のグループに注がれていた。佳世子くらいの年代の男女のグループだ。中に、長身の男がいる。仕立てのよさそうなスーツを着た、甘いマスクの男だ。佳世子の視線は、彼に注がれていたらしい。彼のほうも佳世子に気づき、ハッとした顔をした。 「先行くわよ」  牧子が、エレベーターに乗り込んで、顔だけ出して告げる。  長身の男が佳世子に近づいて来た。二人は微妙な距離を開けて、立ち話をしている。美由紀は、立ち入れない雰囲気を感じて、エレベーターへ一人、向かった。牧子の姿はもうない。 「ああ、美由紀さん。待って」  話は終わったらしく、佳世子が追いついた。 「お知り合い?」  それには答えず、佳世子はエレベーターに乗ってから答えた。 「別れた夫よ」  二次会の途中で美由紀は退席し、部屋へ行った。佳世子が「美由紀さんは通院中だから、あまり疲れさせるといけないわ」と、気遣ってくれたのだ。  部屋はスイートルームだった。贅沢《ぜいたく》だとは思ったが、予約したのは拓也だ。美由紀はふと、結婚したら、拓也の、いや、拓也の家のしきたりですべて進むのだろうか、と少し不安になった。自分が贅沢だと思うことを、拓也はそう思わない環境で育っている。それだって、価値観の違いには含まれる。いや、いちばん大きな価値観の相違ということになるのかもしれない。 「佳世子さん、どうしてご主人と別れたんですか?」  ベッドの一つに足を投げ出して、美由紀は聞いた。佳世子の前だと、お行儀の悪い姿勢も「くつろぐため」という理由で安心してできる。 「これが決定的な原因、というのはないのよ。でも、表面的には、彼の暴力が原因ってことになるかしら。でも、それも、彼に言わせれば、わたしの何かが彼の中の凶暴性を誘発した、ってことになるんでしょうね」 「あの人が佳世子さんに暴力を?」  さっきの男性は、スマートでやさしそうに見えた。すらりとした佳世子よりもまだ長身の彼が暴力を振るったとしたら、佳世子の恐怖は計り知れなかっただろう、と美由紀は思った。 「このあいだ佳世子さん、ほんの三日でも人間は変わるものだ、そう言ったでしょう? あれって……」  別れたご主人のことを、と続けようとして、美由紀はやめた。  椅子《いす》に座って外の景色を眺める彼女の横顔に、寂しさと同時に険しさを感じたからだ。離婚しても乗り越えられない何かを見つめるときの険しさ。  しばらく二人とも黙っていた。黙っていても苦にならない心地よさというのも、佳世子には備わっている。  ——直感力のすぐれている彼女でさえ、自分の将来は予想できなかったのか。  美由紀は、複雑な思いに浸った。佳世子の持っているのは、予知能力とは別種のものかもしれない。 「井口富士子さんとは、もう会わないほうがいいわ」  窓の外を見つめたまま、佳世子が唐突に言った。  美由紀は、ドキッとした。佳世子に言われると、ほかの人に言われる数倍の重みを感じる。 「どうして?」 「……」 「牧子は、井口さんの目的が何だろうって気にしてたけど、わたしは彼女の言葉に深い意味はないように思うんです」 「青い何かが……見えたのよ」 「青い何か?」  そう言えば、タクシーの中で佳世子が「青いもの……」とつぶやいたのを、美由紀は思い出した。 「大きな布のようなもの。その青い布のようなものに覆い隠されている何かがある。スピーチをする井口富士子の背後に、突然、それが現れたの」 「じゃあ、佳世子さん、お祖母《ばあ》さんのように見えたんですね?」  彼女にも、やはり特殊な能力が備わっているということだろうか。透視能力? いや、それともまた別のものだろう。 「わからない。でも、見えたのは確かなの。いいものであるはずがないわ。だって、うちの祖母も、見ようと努力しないで自然に見えたもので、いいものであったためしがないもの。医学的な仕事に携わっているわたしが言っても信憑性《しんぴようせい》がないかもしれないけど、そう……何か邪悪なもの、そんな気がしてならないの。ねえ、美由紀さん」  佳世子は、きっとこちらを向いた。目の奥に、恐怖の光が宿っている。「お願いだから、もうあの人とかかわり合わないで」 「でも、井口さんは、何も要求しなかったわ。ただ、わたしとときどき会いたいって……」 「あの人が怖いのか、あの人の背後にいる何かが怖いのか、よくわからないけど、とにかく井口富士子は危険な人物なのよ」     5  ところが、拓也の考えは、佳世子とはまた違ったものだった。 「井口さんがほしいのは、金じゃないかな」  拓也はそう言いきった。 「遠回しにでも、いまの生活の苦しさを訴えたんだろ? そりゃ、一人息子が腕が痛いの何のと言って、ろくに仕事もしないんじゃ、生活は大変だろうよ。息子さんの治療費や諸々ってことで、まとまった見舞い金を渡せばそれであちらの気がすむんじゃないかな」  美由紀は、拓也があっさりと、井口富士子がほしいのは金、と決めつけたことに驚いた。 「でも、それって、弱みにつけこまれることにならない?」  久しぶりにヒールのある靴を履いて疲れた、と靴を脱いで足をもんでいる恵理が言った。  いつものメンバーがスイートルームに集まり、井口富士子にどう対処したらいいか、話し合っているところである。 「こんな言い方したくないけど、美由紀の結婚相手がお金持ちだと知って、どんどんお金を要求してくるとか」 「でも、後ろにヤクザがついているわけじゃないだろ? 俺《おれ》が見たかぎり、井口富士子はごく普通のおばさんだったぜ」 「黒留袖《くろとめそで》なんか着てても?」  と、恵理が突っ込む。 「そのあたりはよくわからないけど、ミセスの第一礼装なら着ていけないってこともないだろう」 「いけないわよ。やっぱり非常識よ」  牧子がすっぱりと言った。「わたしは、あのときの井口富士子を間近で見ているから、彼女のまわりに漂っていた妖気《ようき》みたいなものをしっかり感じ取ってるわ。あのおばさん、普通じゃなかった。とくに美由紀を見るときの、眼鏡の奥の細めた目。わたしをもう一人の母親だと思え、なんてずうずうしすぎるわよ。それに気づかない鈍感さが、何だか怖いじゃないの」 「佳世子さんはどう思う?」  恵理が、黙っている佳世子の意見を求めた。 「井口貴明は、本当に遠くへ行っているのかしら」  佳世子は、自分がその遠くを見るような目をして言った。 「どういうこと?」と、恵理。 「美由紀さんが、貴明さんにお会いしてあやまりたい、と言ったとき、彼女はおかしなほどうろたえたわ。自分の息子と美由紀さんを会わせたくないようだった。井口貴明は、いま、東北のほうで建築関係の仕事をしているという。でも、それはうそで、本当はずっと家にいるんじゃないかしら」 「家にいてどうしてるの?」  牧子が質問する。 「ただ何もしないで家に閉じこもっている。だから、パーティーにもかわりに母親が出席した」 「閉じこもってるって……」  佳世子の直感力は優れている。美由紀は、彼女の言葉の重みに声を失った。 「何かのきっかけで挫折《ざせつ》し、家や自分の部屋にひきこもってしまう人たちが増えてるのよ。彼らは自活すべき年になっても、家を出て行こうとしない。親は、自分の育て方が悪かったのではないか、と責任を感じて老いても養い続ける。外界との接触がほとんどないから、治療の場も人間性を鍛える場も得られず、彼らはどんどん退化していく。ひきこもり生活が十年続くと、精神年齢が小学生、いえ、幼児にまで戻ってしまう。そう唱えている学者もいるくらいよ。人間関係の中でもまれることで、自分の欲望を抑えたり、協調性を養ったりするわけだから、当然と言えば当然かもしれないけど」 「井口貴明がその……ひきこもりだと?」  牧子が、おそるおそるといった調子で聞く。 「その可能性もあるわ」 「何だかよくわからないけど」  と、恵理が怒ったように言った。「そんな得体の知れない状態に井口貴明がなっているんだったら、美由紀、いくら昔の恩人だからって、かかわらないほうがいいよ。母親も同じ」 「そうね、自分が助けてもらったからって、今度はわたしが彼を助けよう、そんなふうに考えちゃだめよ。……ああ、わたしがそんなふうに言っちゃったのも悪かったけど」  牧子も真剣な顔で言う。 「美由紀は、誰かに恩を返したい、マジでそう思っているところが怖いのよね」  恵理が言った。 「ねえ、佳世子さん。大体、高校一年のときに痛めた腕の筋がもとで、大学三年で腕が上がらなくなるものなの? それで、仕事もできない状態になるの?」  今度は、牧子が佳世子に尋ねた。 「医者じゃないからはっきりとはわからないけど、臨床心理士として仕事をしていると、病は気から、という症状にたくさん出会うわ。うるしにかぶれる体質の人が、うるしと思い込まされた桜の枝に触れて顔がかぶれた、そういうケースに似たようなものね。本人が昔の怪我《けが》にこだわっていたら、ふたたび痛み出す場合もあるかもしれない」 「仕事ができなくなるまで症状がひどくなるわけ?」  恵理が唇を尖《とが》らせて聞く。 「ないとは言えないわ。ほかの要因も関係しているんでしょうけど、きっかけは腕の筋を痛めたこと、って場合もないとは言いきれないわね」 「やっぱり、わたしがいけないんだわ」  美由紀は、唇をかんだ。あのときの勇気あるお兄ちゃん——井口貴明が、すっかり別人になってしまったなどと信じたくなかった。 「自分を責めるなよ」  拓也が、いらいらしたような口調で言う。 「それにしても、井口富士子によけいなことを言う人もいたものね。両親が来ていなかったのは、会場を見ればわかったかもしれないけど、実の母親と一緒に住んでいないことまで教えるなんて。でも、美由紀、そんなことまであの子にしゃべったの? ミニのドレス着てたあの子でしょう? 誰なの? あの子」  牧子が眉《まゆ》をひそめた。 「わたしの妹……かもしれない子よ」  美由紀の言葉に、四人はそれぞれ顔を見合わせた。 「彼女のほうから?」  佳世子が短く聞いた。  美由紀はうなずいた。「でも、母には会っていないわ」 「いろいろ、複雑だよね。美由紀のまわりって」  恵理がため息をついた。 「ごめんなさい」 「ばかね。あやまってもらおうと思って言ったわけじゃないよ」  恵理が、どぎまぎしたように言う。 「自分を責めるなって言ってるだろ? だから、いちばんいいのは金だよ。見舞金って形ですっきり決着をつけよう。そうすれば美由紀の肩の荷も下りる」  拓也が言い、美由紀の肩に手を置こうとした。それを美由紀は振り払った。井口貴明が昔の彼ではなくなっているかもしれないと知って、拓也が内心、少しばかりほくそ笑んでいるように見えたのだ。 「拓也さんは、お金、お金って、何でもお金で解決しようとするのね」 「そ、そうじゃないよ。井口富士子が、息子が挫折《ざせつ》した理由に古傷を持ち出してきたんだ。だったら、それにかかった治療費、慰謝料などを含めて、まとまった見舞金ってことで合理的に解決しよう。そう言ってるだけだよ。それだって、誠意を見せることになるだろ? 俺《おれ》は、美由紀の心理的な負担をどうにかして軽くしたいだけなんだ。美由紀が後ろめたさを感じなくてもすむようにしてやりたいんだよ」 「そんなのお金じゃできないわ」 「わかったよ」  拓也が、あきらめたように両てのひらを天井に向けた。「パーティーに君の恩人を呼ぼう、なんてよけいなことを言っちまったから、俺だって責任を感じてるのさ。あんなこと言い出さなきゃよかったってね。だから、どうにかならないものかと考えているんじゃないか。しかし、それじゃ君の気がすまないなら、好きなようにすればいいさ」  気まずい雰囲気が、豪華な調度品に囲まれた高級スイートルームに漂った。     6  ドアを叩《たた》く音に、彼は目覚めた。知らぬまに眠り込んでしまったらしい。 「新居浜《にいはま》さん、いらっしゃいますか?」  苛立《いらだ》ったような男の声がドアの外で上がる。  室内はうす暗い。彼は電気をつけずに、狭い勝手口へ出た。そこが玄関でもある。寝起きで頭がぼおっとしている。 「何ですか?」  ドア越しに低い声で問う。 「新聞の集金です。先月分なんですけど」  住人がいてホッとしたような声が、短く告げた。  彼は、ポケットをまさぐった。五千円札があった。  細くドアを開け、集金人に五千円札を渡す。 「すみません。騒がせちゃって。これ、壊れてるんですかね」  集金人の男は、顎《あご》でチャイムのほうをしゃくり上げ、彼におつりを渡した。 「今月からは……」 「わかってます。契約、更新していただきたかったんですけどね」  ドアを閉めると、彼はまた部屋に戻って、畳の上に大の字に寝ころがった。  そして、しばらく天井のしみを見つめていたが、ハッと起き上がった。  第四章 衝 動     1  ベンツを所定の位置に駐車すると、岸本園美《きしもとそのみ》は、買ったものでふくらんだ袋を抱えて車を降りた。袋から香ばしく焼き上がったフランスパンの先端がのぞいている。袋は、高級スーパーとして知られる店のもので、フランスパンは、焼き上がりの時間に合わせて並ばないと買えないという有名店のものだ。  園美は、自分が客観的にはどう見えるだろう、と想像して、思わず笑いを漏らした。この秋、流行するというノースリーブのニットにソフトレザーのジャケット、ボトムはスリムなパンツだ。足には、ブーツを合わせている。まだ残暑の記憶を引きずっているころに季節を先取りした格好をする。それがおしゃれというものだ。そこまでちょっと買い物というときでも、バッグと腕時計は、もちろんブランド品だ。耳にも小さなダイヤのピアスをつけている。  専業主婦でもぬかみそ臭くならず、自分のライフスタイルを大切に、経済力に恵まれた夫に支えられながらも、養われているという後ろめたさを持たずに堂々と優雅に暮らす。園美のような生き方をする女は、三十代——トランタンの読者を対象にした女性誌に、毎月必ず、読者モデルとして載っている。園美自身、インタビューしたいんですが、と街頭で雑誌記者に声をかけられたことがあった。  園美は、そのときの男性記者の揶揄《やゆ》するような口調を思い出して、おかしくなった。 「あなたの今日の服装は、上から下まで合計していくらぐらいですか?」 「さあ、いくらかしら」 「その時計は、カルテェですよね」 「カルティエです」 「バッグは、エルメスですね」 「ええ」 「あなたが働いて?」 「いいえ」 「専業主婦ですか?」 「そうです」 「優雅ですねえ。うらやましい。最近、あなたのように、都会派ライフスタイルを楽しむ主婦が増えているようですが、どう思われますか?」  記者は、続けて質問した。優雅、という言葉を、お気楽、と置き換えたいのだ、と園美は察した。 「どうって?」 「夫にはきっちりこづかいを決めて渡し、自分たちはあれこれブランド品を買いそろえるような主婦たちを、です。夫が稼いだお金でね」 「家庭を守る人が家にいるのは大切です。子供もいますし」 「お子さんは?」 「一人。小学生です」 「どこの学校に?」 「A学院初等部です」 「ほう、有名私立小学校ですね。では、お受験が大変だったでしょう?」 「いえ、そんなことはありません」 「失礼ですが、ご主人のご職業は?」 「外科医です」 「やっぱり、リッチですね。じゃあ、あなた自身もどこか、お嬢さま短大なんかのご出身なんですね」 「T大学の法学部を出ましたけど。それって、お嬢さま大学かしら」 「……」  絶句した記者の顔を思い浮かべると、園美は頬《ほお》が緩んでしまう。小気味よかった。あれは、自分より偏差値の高い大学をこのいけすかない女が出ているという事実を知って、動揺した表情だった。お気楽な専業主婦、と軽蔑《けいべつ》していた女の学歴の高さに恐れ入った顔だった。  記者は、二つ三つ、どうでもいい質問をして、うろたえたまま去って行ったが、園美はこう質問が続けばちゃんと答えてやってもいいと思っていた。 「あなたは、T大学の法学部を出て、なぜ専業主婦でいるんですか? 学んだことを何か生かそうと思わないんですか? それとも、子育てが一段落してから、何か始めようと思っているんですか?」 「専業主婦でいちゃいけませんか? 学んだことを生かさなくてはいけませんか? 子育てが終わってからも、外に働きに出るつもりはありませんけど、それが悪いですか?……」  もともと園美は、女が男性社会の中で、男に伍《ご》してバリバリ仕事をするのをナンセンスだと思う女だった。女が男に伍せるのは、大学までだ。勉強の点では、女は男に負けない。実際、小さいころから成績のよかった園美は、まるでゲーム感覚で勉強をして、模擬試験の順位を上げたものだ。めざす大学に入ってからは、適当に勉強して、適当に遊んだ。園美にとっては、大学に入った時点でゲームは終わったようなものだったが、試験があるとなると張りきってしまう体質は抜けきっていなかった。  だが、一歩社会に出れば、そこは男社会だ。長年、男の論理で動いてきた社会が、そうそう女の居心地のよい場所になるはずがない。男だって戦っているのだ。女だって戦わねばならない。戦うことは、髪を振り乱し、肌を荒らし、自律神経を失調させることにつながる。「才色兼備」と言われ続けてきた自分の「色」のほうを失うことになる。  最初から負けがわかっている戦いを、園美はするつもりなどなかった。そこで、まずは大学名を汚さないレベルの大きな商社に就職し、総合職転換制度ができてからも、それを無視し続けた。そして、若さだけではちやほやされなくなったころに、友達の結婚披露宴の二次会で見つけた外科医と結婚した。医学部を出ている相手なら、結婚相手の女の学歴の高さにひるむ心配もない。  勤務医の夫は、園美が手抜きに見えない程度に子育てや家事をしているかぎり、とても寛大だ。彼女が自分の信念どおりに子供を第一志望の小学校に進ませてからは、妻の力を信じきっているのか、すべて任せきりだ。子供のことだけではなく、家計のことも。彼女がブランドもののバッグを買おうが時計を買おうが、まったく何も言わない。買ったことすら知らずに、妻の誕生日に似たような時計をプレゼントしてくれたりする。  園美は、最近、高学歴なのに働かないでいる快感、に酔っている自分に気づく。それもまた、選ばれた者だけに与えられた特権には違いない。エリート街道を突き進んで来た園美は、専業主婦層の中でもエリートにならなければ気がすまないのだった。  袋を抱えてエレベーターへ向かう。このマンションは、駐車場のある地下からそのままエレベーターに乗り込めるようになっている。地下の出入り口も、もちろんオートロックだ。  エレベーターに乗って、五階を押す。箱が動き出すと、園美は夕食の献立を考えた。鶏肉のトマト煮込みに決めている。雑誌に載っていた高級輸入オリーブ油も買ったし、トマトも無農薬の完熟が手に入った。彼女は、料理は素材で決まる、ということを学習していた。品質のよいバターを使っただけでオムレツは格段においしくなるし、値は張っても生産者のわかる旬の野菜を使えば、少々揚げ方を失敗しても天ぷらはそこそこおいしく揚がる。卵一つ買うのにもスーパーのチラシを見比べて一円でも安いところに行くという、家のローンを払うために倹約を心がけている主婦をテレビで見て、その愚かなほどのつつましさに失笑したものだ。あんなことするなんて、時間の無駄じゃないの。  一階でエレベーターが止まった。乗る人がいるのだろう。珍しいことではない。が、彼女はやや身構えて、一歩あとずさった。  ドアが開く。背丈と横幅のある男が乗り込んで来た。すぐに彼は背を向け、七階のボタンを押した。  まともに男の顔を見たわけではなかったが、全体の印象から居住者ではないのはすぐにわかった。  ——七階の住人を訪ねて来たのだろう。  園美は、男を意識すまいとしたが、狭いエレベーター内に見知らぬ男と二人というのは、やはり気づまりである。息苦しい。男の体格がこちらに圧迫感を与えるのかもしれない。  しかし、もう少しの辛抱だ。自分は先に降りる。五階に着いたときに、入口をふさぐように立つ男に「失礼します」と言って、スペースを開けさせるのが面倒な気もするが、それも一瞬のことである。  二階、三階、と表示が切り替わる。息苦しさが増した。男の身体から何かが匂《にお》ってくる。園美は眉《まゆ》をひそめ、鼻をかすかにすすった。  不意に、男は振り返った。園美は、ビクッとした。あんなかすかな音が彼の耳に入るとは思わなかったのだ。 「匂いますか?」  男は尋ねた。見たことのない男だ。太った大きな男。 「い、いいえ」  あわてて園美はかぶりを振った。少なくとも、このマンションの居住者に用があるような類の男ではない、と感じ取った。正体のはっきりつかめない恐怖が、身体の底からじわじわと沸き上がってくる。  男はまた口を開いた。今度は、口元に締まりのない笑みを浮かべて。だが、園美は恐怖のあまり、その音声を耳にとらえることができなかった。  最後に彼女がかいだのは、男の体臭でも何でもなく、自分の身体からほとばしり出る血の匂いだった。     2  愛する家族を失った人間の顔を見るのは、何度経験しても嫌なものだ。野崎博信の前には、妻を殺されて呆然《ぼうぜん》自失している岸本|郁夫《いくお》がいる。  外科医だという。年齢は三十九歳。殺された妻の岸本園美より三つ年上だ。そして、野崎は岸本園美と同い年だ。  白金《しろかね》二丁目のマンション『ニュー・グランテラス』のエレベーター内で、居住者らしい女性が刺殺されている、という一報が警視庁に入ったのが、午後三時十五分だった。発見者は、同じマンションの住人である主婦で、通報したのは管理人だった。  現場の鑑識作業が終わってだいぶたってから、夫の岸本郁夫が駆けつけて来た。病院側が連絡を受けたときは、岸本医師は手術の最中だったらしく、事件のことは手術が終わるまで知らせなかったようだ。  岸本家は、夫婦と小学校三年生の娘の三人暮らしだという。都内に住む被害者の母親が孫を迎えに来て、「孫にショックを与えたくない」と言って連れ帰った。夫以外の遺族からの聴取は、明日以降行なうことになっている。  遺体は、司法解剖に回されている。 「奥さんが、どなたかに恨まれていたというようなことはありませんか?」  居間のクッションのきいたソファで、野崎は尋ねた。 「園美を……」  岸本郁夫は、魂が抜けたような顔を上げた。何を聞くのだ、という顔だ。この外科医は、患者自身、あるいは患者の家族に病名を告げるときに、どんな顔をするのだろう。博信は想像した。きっと、いまの自分のような顔だろう。 「思いあたりません」  岸本郁夫は、かぶりを振って、抑揚の乏しい声でつけ加えた。「園美はとても明るい性格で、人に恨まれることなんか……」 「奥さんが今日、誰かに会われたということは?」 「ないと思います。園美は、そういう日は朝、僕に言いますから」  夫の答えを、野崎の隣で一課の同僚、弓岡《ゆみおか》が手帳にメモしている。野崎は、ちらりと弓岡の手元を見た。まだ二十代の弓岡は、字が汚くて大きいのが特徴だ。本人は、「ふだんはワープロばっかりなんで、字を書くのが苦手なんです」と弁解している。いつだったか、参考人の事情聴取をしているときに、参考人の家族に手帳の字を読まれてしまった。そこに、家族の気分を充分に損ねさせるような内容が書いてあったので、怒りを買い、その後の捜査にかなりの影響が生じた。それ以来、「メモは小さな字でとれ。誰にも見られるな」とことあるごとに注意されている。 「強盗のしわざじゃないんですか?」  岸本郁夫は、あんたたちにしか怒りのぶつけ先がない、といったふうに身を乗り出してきた。 「奥さんが持っていた財布は、盗《と》られてはいませんでした」  野崎は、その質問にはこう返す、と半ばマニュアル化されている答えを返した。  財布の中身は、現金が七万七千円。普通の主婦が買い物に持つには多すぎる気もするが、夫が外科医で高級マンションに住んでいるとなれば、それほど大金でもないのだろう。被害者のグッチの財布には、ゴールドのクレジットカードも二枚あった。マンションの間取りもゆったりしていて、家具調度品も高価そうなものばかりだ。被害者が乗っていた自家用車も、ベンツの中でも女性好みと言われるタイプだった。 「鑑識のほうの調べが済んだら、念のためお確かめください」  野崎は言った。「買い物したものやレシートから、奥さんが立ち寄った店はほぼ特定できています」  続いて野崎が口にした有名スーパーの名前に、岸本郁夫は機械的にうなずいた。  オリーブ油と鶏肉にフランスパンにトマトにセロリにパセリ……。野崎は、それらで何が作れるのだろう、と思った。殺されたとき、被害者の足下にころがっていたものだ。破れた袋からころがり出たものもあったし、血に染まったもの——フランスパンだ——もあった。凶器となった刃物は、現場にはなかった。 「買い物をした店では、奥さんは一人だったようですね。車で行かれて、車で帰られたようです。地下から乗ったエレベーターの中で凶行に遭われたんでしょう」 「園美は、誰かにあとをつけられたんでしょうか。それとも、ここで待ちぶせされて……」 「それは、いまの段階では何とも言えません。このあたりで、不審人物を見た人はいないかどうか、聞き込み捜査を始めています」  野崎は言った。このマンションは、一階のエントランスにオートロック方式を採用している。地下からエレベーターホールに出るドアも、居住者が知っている暗証番号を押すと開く仕組みになっている。だが、管理人がこうこぼしていたのを野崎は聞いていた。「オートロックだからって、完璧《かんぺき》に不審者を排除できるわけじゃないですからね。ここは世帯数が多くないから、住人のあとに続いて入り込む、なんてまねはあまりできないかもしれませんが、いまは防犯意識を高めるためと言って、泥棒に手口を教えるような情報番組がいっぱいありますからね。ドアの隙間《すきま》に異物を挟んでセンサーを誤作動させる方法だとか、いろんな手口を本に書いて売っていたりする世の中です。わたしにずっと見張っていろと言っても、こっちもいろいろと用事があるんで」  妻を突然奪われた夫には、一人になる時間も必要だろう。一人になったからといって、ショックが簡単に癒《いや》せるわけではないが。  ひとまず岸本郁夫の聴取を終えて、野崎と弓岡は、高輪《たかなわ》東署に最初の報告に向かった。所轄署に捜査本部が設置されるころだ。できればこのまま聞き込みに回りたいところだが、事件が発生したとなるや、捜査の指揮官がそれぞれの分担を決めるのが恒例だ。  ちょうどバスが来たので、それに乗る。席は空いていたが、近いことだし、二人とも手すりにつかまって立つ。刑事は、いつでもとっさに動けなければいけない。乗り物に乗っても立つ癖がついてしまっている。  ——岸本園美は、骨髄バンクに登録していただろうか。  事件のことからふわりと心が離れ、そんなことを考えている自分に気づく。 「野崎さん。ドナー先輩」  弓岡に呼ばれて、我に返る。 「何だ、ドナー先輩ってのは」 「だって、野崎さん。ドナーになった話、有名ですよ」  弓岡は笑った。  報告書の記入でうっかりミスをしたときに、「おい、そこのドナー」と野崎を自席に呼びつけたのは、上司の平井《ひらい》だった。それから野崎は、ときには「ドナー」と呼ばれるようになったのだ。骨髄バンクに登録していたことを知らない人間にまで、野崎が提供者になったことを知らせたようなものである。刑事のくせに守秘義務違反じゃないか。野崎は、内心で平井に抗議している。 「それで弓岡、おまえも刺激されて登録する気になったとか?」 「いえ、僕は……」  弓岡は首をすくめた。「何だか痛そうで。骨髄液ってやつは、腰のところから抜くんでしょう? 結婚前なもんで、そのあたりをいじられるのは怖くて」 「バカ」 「大体、僕は、どうも血液が薄いみたいで。いままでに二度ほど、献血ではねられています。骨髄バンクに登録するときも採血するんですよね」 「いいよ、おまえには期待してない」 「すみません」  弓岡は顎《あご》を突き出した。彼なりの謝罪の仕方らしい。  弓岡は、刑事としては体格が貧弱で、ひ弱な印象さえ与えるが、しかし、期待されていないわけではない。とにかくカンがいいのだ。それは主にゲームの場で発揮されるが、ババ抜きで最後の一枚を引くときにババに当たったためしがない。あみだくじで景品を決めるときも、大体、毎回お目当ての景品を引き当てる。カンがいいのではなく運がいいのだ、と言う者もいるが、野崎は、カンがいいのだと思っている。追いつめられたときに、何かピンとくるものがある。そういう人間は存在するものだ。  ——骨髄バンク、か。  野崎は最近、事件現場に駆けつけ、殺された被害者を見るたびに、彼らが骨髄バンクの登録者だったかどうか気になってしまう。もし、登録者であったら、彼らは永遠に提供者になる機会を失ったことになる。そして、骨髄移植を待っている患者たちの移植を受ける機会が確実に減ったことになる。  それが残念でならないのだ。胸元のポケットに入れた手紙に思いを馳《は》せる。彼が骨髄液を提供したレシピエントからもらった手紙だ。もちろん、直接もらったわけではない。先方のコーディネーターである、三森佳世子に渡された手紙だ。三森佳世子とは、移植の前に顔を合わせている。したがって、ドナー・コーディネーターでもあるわけだが、なぜか呼び名は「レシピエント・コーディネーター」だという。  医者も看護婦も、野崎にレシピエントの名前は教えてくれなかった。規則だからとあきらめたが、それでも三森がちらりと見せた笑顔に希望を抱いた。が、三森は医者や看護婦以上に毅然《きぜん》とした態度を示した。 「せめて、レシピエントの性別や年齢だけでも教えてください」と頼んだ野崎は、「野崎さんも職業柄、秘密にしなければいけない事柄があるのはご存じでしょう?」と、やんわりと切り返された。  礼状の中で「あしながおじさま」と呼びかけているから、おそらく若い女性だろう、と推察できたが——そういうちゃめっけは、素直に表出されるもので、ひげ面の中年男が悪ふざけをする余裕があったとは思えない——、そこには多分に彼自身の願望が含まれている。  野崎は、手紙の文面に妹の面影を重ねた。みゆきが年頃まで生きていたら、たぶんあんな手紙を書いたのではないか。そう思われた。  ワープロで打たれていたのが残念な気がしたが、筆跡を隠そうとしたためかもしれない。  しかし、野崎も、十年あまり刑事畑を歩いて来た男である。推理能力には自信があった。  ——レシピエントは、二十七歳前後の女性。  そう推理していた。根拠はある。レシピエントが手紙の後半に書いていた、今年の一月に池袋で起きた殺人事件。暴行されて殺され、財布を奪われたのは、二十七歳のOLだった。婚約者もいた。被害者は、住宅の建築現場の青いシートの中に引きずり込まれて暴行、殺害されたものと思われた。犯人はまだ捕まっていない。  ——なぜ、レシピエントが、あの殺人事件に目をとめたのか。  殺人事件は、毎日のように起きている。レシピエントはこう書いている。 「明日、いえ、あと一分後、十秒後に何が起こるかわからない世の中です。生きているいまこの瞬間を大切にしよう。私は切実にそう思いました」  決意を固めた例として引用するなら、何もその事件でなくてもいい。その事件が、よっぽどレシピエントの心に衝撃を与えたのではないか。なぜなら、被害者が自分と同年齢、もしくは同年代だから……。  野崎は、そう考えたのだ。  そして、また、彼女自身も——野崎は、レシピエントがほぼ「彼女」と断定していた——、ドナーが男性だと思っているように野崎には伝わってくるのだ。男性だと断定して「あしながおじさま」と呼びかけているニュアンスが、文面のあちこちから立ち上ってくる。  ——移植を受けるときも、ある意味で追いつめられた瞬間かもしれない。  そういうときは、感覚がとぎ澄まされるはずだ、と野崎は確信していた。麻酔から覚めたときに憶えていた夢も、自分に何らかの啓示を与えていたように思う。  一種の御守りのようなつもりで、彼はつねに〈彼女〉の手紙を持ち歩いているのだった。 「岸本園美って、いま流行《はや》りのシロガネーゼですね」  弓岡が耳元で言った。 「何だ、シロガネーゼって」 「知らないんですか、野崎さん。白金あたりを拠点におしゃれを楽しむ、小マダムのことですよ。別に白金に住んでいなくてもいいんですけど。ファッションは、イタリアのミラノのものが中心で、女性誌が流行らせた言葉らしいですよ」 「ふーん、くわしいんだな。彼女の影響か?」  弓岡につき合っている女性がいるらしいのは、気配でわかる。 「違いますよ。アンテナを張りめぐらせているだけです。これも仕事につながりますからね」  弓岡は、先輩への皮肉とも受け取れるような発言をさらりとして、「あんな場所で殺しているのは、ずばり、恨みですね。心臓を一突きにしていますし」と続けた。 「亭主が外科医だというから、患者の恨みを買っていた可能性もある。しかし、まあ、普通に考えれば被害者のセンだろう」  財布が盗まれていないことから見て、まず物盗りの犯行とは思えない。 「誰かにストーカーされてた人妻、いや小マダムってことですか」  弓岡がひとりごとのように言い、ため息をついた。     3 「貴ちゃん、見て見て。美由紀さんの写真よ」  井口富士子は、手にした写真を大げさに振りながら、ドアの向こうに話しかけた。こんなはしゃいだ声は久しぶりに出した気がする。 「お母さんはカメラを持って行かなかったんだけど、……ああ、貴ちゃんが嫌がると思って。でもね、会場に親切なお嬢さんがいたの。『お写真、お送りしましょうか?』って。『お願いします』と言って、住所を知らせておいたら、ほら、送ってくださったのよ。ねえ、見てごらんなさい。美由紀さん、とってもきれいよ」  部屋から応答はない。 「貴ちゃんったら、恥ずかしがってるの?」  富士子は笑った。「ウエディングドレス姿の美由紀さん、あなただって見たがってたじゃないの」  まだ、応答はない。 「清楚《せいそ》で可憐《かれん》な花嫁さん。貴ちゃん、あなたにぴったりだわ」  部屋の中は静かだ。  富士子はドアを叩《たた》いた。やはり応答はない。  彼女は眉《まゆ》をひそめ、小首をかしげた。こめかみにちくりとした痛みが走った。  ——ああ、そうか。  彼女は、ようやく思い出した……。     4  美由紀は、ダンボールに本を詰める手を止めた。いま、自分がしようといることをじっくり考えてみる。荷造りだ。このアパートを引き払い、婚約者の拓也のマンションに移るための荷造り。まだ婚姻届けは出していないとはいえ——日のいいときということで、彼の両親との会食の日に提出する予定になっている——、先日、結婚式を挙げたのだから、実質的にはもう夫だ。  普通ならば、喜びがこみあげてくるはずなのに、なぜこんなに気持ちが沈んでいるのだろう。井口富士子のせいか。いや、それだけではない。彼女の出現で二人のあいだに生じた隙間風《すきまかぜ》のせいだ。  自分が気まぐれで発案したことが美由紀を困らせたから……という拓也の気持ちは、よく理解できる。だが、お金で解決しようとする彼の態度は、美由紀には不快に感じられるのだ。いや、正確には少し違う。お金で解決できる、と思い込んでいる彼の楽天的な性格に、ついていけないものを感じるのだ。  拓也には悪気はないのかもしれない。いや、たぶん、ないのだろう。彼が育った環境が、何かトラブルがあったときにすんなりお金を出せる恵まれた環境であったにすぎない。そうした環境に美由紀もあこがれ、自分もその中にすっぽり入りたいと望んだのは本当だ。  美由紀の家庭は、けっして裕福とは言えなかった。父の高谷治郎が、画家を専業として生きるのを本望としていたからだった。美由紀が小学校に上がった年に、治郎は中学校の美術教師を辞めた。もともと周囲に自分を合わせるのが苦手な性格だったようだ。母の京子は、夫が教職を退くのを強く反対したらしい。らしい、というのは、美由紀がのちにそう推測できたということだ。夫婦げんかが絶えないのは、家にいてわかった。京子は、まもなく仕事を始めた。保険の外交のような仕事だった、と美由紀は憶えている。千葉の知人の家というのも、京子の仕事関係者の家だったかもしれない。  美由紀が二年生のときだった。二学期が始まってすぐに母親はふっといなくなった。治郎に母の行方を尋ねると、「お母さんは、この家が嫌いになって出て行ったんだよ」と言った。治郎の言葉に美由紀は深く傷ついた。そして、黙って出て行った母を恨んだ。まだ存命だった治郎の母親——祖母が家に来て、美由紀の面倒を見てくれた。祖母は裁縫が上手で、こたつにあたって内職をしていた姿を、美由紀はぼんやりと憶えている。教師を辞めた治郎は、小さな絵画教室を開いた。その祖母が病死するのを待っていたかのように、治郎は教室の生徒だった玲子と結婚した。 「結婚相手によって、運勢ってこんなにも違うものなんだな」  酒が入って上機嫌の治郎が玲子にそう言ったのを、中学二年の夏に、美由紀は廊下で立ち聞きした。風景を描いた「高谷治郎」の油絵が、中央の大きな絵画展で入選した直後だった。 「入選で箔《はく》がつく。個展の声もかかるし、生徒も増える。みんな君のおかげだよ。君が強運をもたらしてくれたんだ」 「よかったわね。おめでとう」  グラスがぶつかり合う音で、二人が乾杯したのがわかった。  ——父は、これで一生、義母から離れられない。  制服を着て、髪を二つに結んだ美由紀は、そう思って胸が締めつけられた。それは、嫌悪感に似ていた。二人のいる居間から、淫《みだ》らな空気が漂ってくる気がしたのだ。  その瞬間、何があっても父は自分よりこの女を選ぶ、と直感したのかもしれない。上昇志向の強い父だ。自分の運勢が上向きになったのはすべて新しい妻のおかげ、と信じ込んでいる姿は、哀れで滑稽《こつけい》にさえ見えた。  治郎の絵が売れ出して、生徒も増え、生活は楽になっていった。が、美由紀は、少しでも早く彼らのもとを出たい、と思っていた。早く自立したい。それには、手に職をつけるのがいちばんだ。そこで、美大に進学した。父に反発しながらも、その才能はしっかり譲り受けていたのである。父と同じ道には進みたくなかった。美大で学んだのは油絵ではなく、商業デザインだった。  ——母はわたしを捨て、ほかの家庭を選び、父もまたわたしを捨てて、義母を選んだ。  自分が父に捨てられたという思いは、再婚した母に子供がいた事実を隠していたことで強まった。  結婚式の準備を進めていたころ、治郎からかかってきた電話に美由紀はこう宣言した。 「わたしはもう、高谷家の人間じゃなくなるから、わたしのことは気にしないで」 「気にしないで、って言っても美由紀……」 「……妹がいたんじゃないの」  ハッと息を呑《の》む気配が、電話線の向こうから伝わってきた。 「黙っていたのね。そんなに自分を捨てた妻が憎かったの?」 「……」 「娘の命より、自分のプライドのほうが大事だったってわけね」 「……」 「あなたはエゴイストよ」  電話を切って、それきりだ。彼らの家から自分の荷物は持って来ている。帰る必要はない。自分から彼らに会いに行くつもりは、美由紀には微塵《みじん》もなかった。  実家とは訣別《けつべつ》した。だが、それでは大澤家にしっくり溶け込めるかと言えば、ためらいを覚える美由紀である。  荷造りを休めた手を手紙に伸ばす。昨日、一ノ瀬茜から届いたものだ。封筒の中には、手紙と一緒に結婚披露パーティーの写真が入っていた。 「お姉さん」と、茜のほうはごく自然に呼びかけている。  先日のパーティーは、とても楽しかったです。お姉さん、お疲れになりませんでしたか? 輝くばかりにきれいな花嫁さんを見て、「ああ、こんなにきれいなお姉さんがいてよかった」と心の底から思いました。ある程度の年になるまで、自分は一人っ子だとばかり思っていたんですよ。  お姉さんのほうは、わたしのことを聞かされていなかったようですね。あのときの反応でわかりました。年下のわたしが言うのも生意気かもしれませんが、お父さんたちはきっと、それなりの理由があってお姉さんには黙っていたのだと思います。  母がお姉さんに会おうとしなかったのも、やはり理由があってのことだと思います。母には、わたしがお姉さんの結婚式に出たことは話していません。写真を見せたらきっと驚くでしょう。ああ、母とは一緒に住んでいないのです。  きれいに撮れているでしょう? わたし、カメラにはちょっとばかり自信があるんです。記念に何枚かお送りします。  そう言えば、会場で、わたしがカメラを持っているのを見て、「花嫁さんをお撮りになったら、お写真送ってくださいません?」と話しかけてきた女性がいたんです。ほら、あの黒留袖《くろとめそで》を着ていたおばさまです。最初、お姉さんか大澤さんのご親族の方かと思いました。でも、違ったんですね。お姉さんの恩人のお母さんだとか。井口富士子さんとおっしゃるんですね。  あのおばさまのスピーチで、少し会場の雰囲気が変わっちゃいましたね。でも、ああいうハプニングもいい記念になるものですよ。なんて、無責任なことを書いちゃったかしら。すみません。  とにかく、その方にも写真をお送りしました。お姉さんの住所も尋ねられたので、教えてしまいました。あの挨拶《あいさつ》を聞いたあとだったら、ちょっと危ない人だと思って、警戒して教えなかったかもしれませんが。 「住所を控えた紙、なくしちゃったの。花嫁さんに贈り物をしたいんだけど」とおっしゃったので。それから、「今日は、ご親族の方、いらしていないようね。複雑な事情がおありだとうかがっているけど」と水を向けられたので、ああ、あのことだろうと勝手に解釈して、お姉さんのいまの母親が本当の母親でないことを話してしまったんです。言い訳になるかもしれませんが、あの方、人に話す気にさせるのがすごくうまいんですよね。  いけなかったですか? でも……大丈夫ですよね。そんな危ない人をお姉さんが結婚式に招くわけがないし。  司会の方が、「お二人は、来週あたりから新婚生活をスタートさせる予定でいます」と言ってましたよね。だから、まだお姉さんはそちらにいるんじゃないかと思って、手紙を出しました。引っ越していても、たぶん転送されるでしょうから。  新居に越したら、お姉さんのほうから連絡ください。新婚家庭にわたしのような立場の女が、どかどかと踏み込んで行く度胸はありませんので。  お身体大切に。すてきな旦那《だんな》さまとお幸せに。                     一ノ瀬茜  拓也と美由紀が並んだ写真が多い。拓也の笑顔は屈託がない。美由紀のほうは、目を伏せがちにしていたり、頬《ほお》に手を当てたり、どこか寂しげな微笑だ。が、事情を知らない人間が見れば、楚々《そそ》とした花嫁に見えるかもしれない。  一枚だけ、井口富士子が写った写真がある。彼女を正面から撮ったのではなく、新郎新婦を撮ったときに写真の隅に入ったという感じだ。斜め後ろからのアングルだが、彼女がどういう表情をしているのかは、頬や口元の形で把握できる。笑顔ではない。身じろぎもせずに美由紀を見つめていたその一瞬をとらえた写真だ。  黒留袖を着た、周囲から明らかに浮いている女。  正面の写真ではないだけに、鬼気迫るものを美由紀は感じ取った。  ふっとあの家紋が脳裏に浮かび上がった。写真では、椅子《いす》の背もたれで隠れている家紋。古い家のしがらみを連想させる、あのシンメトリーの古風な紋様。  寒けに襲われて、美由紀は写真を封筒に戻した。  玄関のチャイムが鳴った。  美由紀が住んでいるのは、オートロックのマンションではない。よくあるアパートだ。女の一人暮らしである。エントランスで訪問を拒めないこの住居に、不満を持たないでもなかった。が、家賃を考えると高望みはできない。  拓也と結婚したら住居のレベルが上がる。——そんなつまらぬ打算が美由紀を結婚に走らせた理由の一つなのも、また真実なのだった。  午後五時半。早朝からの仕事を終え、帰宅したばかりだ。訪問者を警戒するような時間帯ではない。結婚するまでという条件で始めた仕事も、今日で終わった。気持ちが緩んでいたところに鳴ったチャイムは、美由紀に緊張感を与えた。  インターフォンに出た美由紀に、「井口です。貴明の母親です」と、年相応にかすれた、だがどこか弾んだ調子の女の声が応答した。  井口富士子だ。さっき写真で見たばかりである。腕に鳥肌が立った。茜は富士子に美由紀の住所を尋ねられ、教えたという。  そして、彼女は早速、やって来た。シンクロニシティという言葉が脳裏をよぎって、美由紀は頭がくらくらした。あの写真が井口富士子を呼び寄せてしまったかのようだ。 「先日はどうも……。あの……」  どういうご用ですか、と聞くことを拒絶する雰囲気があった。ドアの前まで来てしまったのだ。開けないわけにはいかない。見ていた手紙を急いで本のあいだに差し込み、見られたくないものを押し入れに隠す。 「ああ、美由紀さん。お元気そうね」  現れた井口富士子の顔は、パーティーの日より若やいで見えた。もちろん、今日は黒留袖姿ではない。肩にパットが入り、襟の大きな古い型のワインカラーのスーツだ。先日は着物に合わせて、白っぽい化粧をしていたのかもしれない。それで、しわが目立ったのだろうか。 「このあいだは贈り物をする時間がなかったでしょう? だから、今日、お持ちしたの」  富士子は銀歯をのぞかせて微笑《ほほえ》み、提げていた大きな紙袋を少し持ち上げた。藍色《あいいろ》のしっかりした生地の風呂敷《ふろしき》がのぞいている。  まるで着物でも包んであるようだ。  ——着物?  背筋を悪寒が走った。 「どうぞ。いま荷造り中で散らかってますけど」  美由紀は、富士子を部屋に招き入れた。台所のほかに一間きりしかない空間だ。ベッドもなければ、ダイニングテーブルもない。ローテーブルの前の座布団を富士子に勧めた。  きちんと正座した富士子は、美由紀がお茶をいれるために台所へ戻ろうとしたのを制止し、「これ、見てちょうだいな」と言い、風呂敷包みをていねいに開いた。  黒いものが現れた。  半ば予想していたとはいえ、だからといって衝撃が減じたわけではない。美由紀は、胃のあたりがぎゅっと縮むのを感じた。 「このあいだはお贈りしたくてもお贈りできなかったの。わかるでしょう?」  富士子は、絹の肌ざわりを楽しむようにそれを撫《な》でて、顔を上げた。  きれいに折りたたまれた着物。黒留袖。  ナフタリンの匂《にお》いに、美由紀は鼻をわずかにうごめかせた。後ろ身頃を表にしてあり、あの紋が目に飛び込んでくる。 「結婚したら、女は、黒留袖の一枚くらいは持っていないとね。これは、姑《しゆうとめ》から譲られたものなの。井口家の家宝のようなもの。なくなった主人は、幼いころに井口家に養子に入った人でね、井口家には恩義を感じていて、一生懸命尽くしたわ。わたしもね、自分の母を早くになくしたもので、嫁入りのときは何もしてもらえなかったの。そのかわり、井口の義母がよくしてくれたわ。これは、とてもいい着物なのよ。豪華な京友禅で、わたしにはもう派手だけど、美由紀さんのような若い方にはぴったりの柄だわ。美由紀さん、黒留袖、持ってらっしゃる?」 「いいえ」  思わず、正直に答えてしまった。しかし、持っていると答えても、あれこれ着物にケチをつけて、井口家の家宝という黒留袖を押しつけようとするだろう。 「でも、そんな大切な家宝のようなものを、いただくことはできません」  美由紀は、きっぱりと断った。 「だからこそお贈りしたいんじゃないの」  富士子は、しみの浮いた手の甲を口に当てて笑った。「うちの貴明が命を救った大事な方ですもの。幸せになってもらわないと困るわ」  どうしてそういう論理になるのだ。美由紀は、苛立《いらだ》ちと不安が入り混じった感情で胸が締めつけられるのを、短く息をすることでかろうじて抑えた。 「記念に、とおっしゃられてもいただけません」  そこで、そんなふうに言ってみた。  富士子はちょっと首をかしげたが、何か思いあたったように、ああ、と言った。たたまれていた着物を、たもとのところをつまんで無造作に畳に広げる。防虫剤の匂いと、絹のしっとりした質感が拡散した。 「家紋を気にしてるのね」 「家紋?」 「大丈夫よ。いまはそんなに家紋にはこだわらないものだから。実家の家紋のままの人もいるし、気に入った紋をつけちゃう人もいるし」 「この紋……何ですか?」  ふと気になって聞いてみた。 「藤の花よ。下り藤。わたしの名前が富士子でしょう? 嫁いだ先が下がり藤。字は違うけど、同じフジで、何か運命的なものを感じたわ。……あら、ずいぶん昔の話なんかしちゃったわね」  富士子は、いとおしがるように背中の家紋を指でなぞった。たわんだ藤の花のぎざぎざした模様と三枚の葉が組み合わさってできた丸みを帯びた形は、どこか女性器を思わせる。見つめていると、遠い過去に引き戻されそうで怖くなる。美由紀は着物から目をそらして言った。 「やっぱりいただけません。高価で意味のあるものですし。いくら貴明さんに助けていただいたからって……」 「美由紀さん、お願い。もらってやってちょうだい。貴明がそれを望んでいるのよ」  貴明の名前が出て、美由紀はハッとした。 「貴明さん、何かおっしゃったんですか? 仕事からお帰りになったんですか?」  佳世子は、井口貴明は本当は遠くへなど行っておらず、自宅に閉じこもっているのかもしれない、と言った。本当のところはどうなのだろう。 「あなたの写真を見て、『少女のころの面影がある』、そう言ってたわ」 「じゃあ、お帰りになったんですね? 貴明さんに会わせてください。会って、直接お詫《わ》びしたいんです。腕の怪我《けが》のことを」  美由紀がたたみかけると、富士子は少し困ったように眉《まゆ》を寄せ、苦笑を浮かべた。 「まだ帰ってないのよ。あなたの写真を速達で送っただけよ。ほら、パーティーにいらしてたあの若い女性が送ってくださった写真を。それを見て、あの子が電話をよこしたの」 「じゃあ、電話でも結構です。貴明さんとお話しさせてください」 「どうしてそんなにあの子に会いたいの? 会ったからって、あの子の調子がよくなるわけじゃないでしょう?」  富士子がややムッとしたように思えて、美由紀は胸をつかれた。そのとおりだ。会って謝罪したからといって、貴明の古傷が完治するわけではない。  ——誠意を見せる?  ホテルで拓也が言った言葉が、耳元によみがえった。  どんなに言葉を尽くして謝罪しても、相手が納得しなければ、誠意が届いたことにはならないのだ。 「じゃあ、わたし、この着物を買わせていただきます」  言うなり、美由紀は立ち上がった。決意が揺るがないためにも、すばやく行動したかった。戸棚の引き出しから封筒を出す。 「お着物の価値を考えると、見合わない金額かもしれません。でも、どうか受け取ってください」  封筒には十六万円入っている。もらったばかりの給料だ。 「ちょ、ちょっと、美由紀さん。着物代だなんて……」  富士子は、中腰になって手をひらひらさせた。 「着物代が嫌であれば、貴明さんの治療費として受け取ってくださってもいいんです。いえ……いままでのご家族のご苦労やかかった費用に比べたら、治療費としてはほんのわずかですけど。すみません、いまはこれくらいしかないんです」 「だめよ、受け取れないわ」 「でも、わたしは助けていただいたんです。山で遭難して捜索してもらったら、家族が捜索費用を出すじゃないですか。怪我をしたら治療代だって。大金を落としたのを拾ってもらったら、お礼として一割をお渡しするじゃないですか。法律だって認めています。いえ……それとはちょっと違うかもしれません。でも、死ぬところを助けていただいておいて、お礼の言葉だけですますなんて、そんなの……申し訳なくて。すみません、あのときは、わたし、まだ子供だったんです。申し上げにくいんですが、その……家の中もごたごたしていて。本来なら、母が日をあらためてちゃんとお礼にうかがわなければいけなかったんですが、そんな精神的な余裕もなかったんでしょう。父としっくりいっていなくて。母は、次の年の夏に家を出てしまったんです」 「そうだったの」  富士子が、深いため息をついた。 「ですから、大人になったいま、遅すぎるかもしれませんが、当人のわたしにできるかぎりの誠意を示させていただきたいんです。といっても、わたしの力なんて本当に微々たるものですけど。どうぞ、受け取ってください」 「あなたの気持ちはよくわかったわ。でも、やっぱり受け取れないわ。貴明だって嫌がるわよ、きっと」 「貴明さんにではありません、お母さまに」  受け取ってもらうために、とっさに美由紀は続けた。「お母さまに受け取っていただきたいんです。すごく失礼な言い方かもしれませんが、お母さまのおこづかいとして」 「わたしのおこづかい?」  富士子は、遠くを見るように眼鏡の奥の目を細めた。  気分を害しただろうか、と美由紀は不安になった。だが、富士子の顔は、ぱあっと輝いた。 「美由紀さんがそう言ってくれるのなら……。じゃあ、いただいておきます。嬉《うれ》しいわ」  みるみる涙があふれた。富士子は眼鏡をはずし、しょぼしょぼする目を指でこすった。そして、封筒を受け取るとそれをうやうやしくおしいただいた。  富士子の急変ぶりに、美由紀は戸惑った。どう解釈すればいいのだろう。彼女の目的は、やはりお金だったのか。わずかでも生活費のたしになるお金が、やはり必要だったのか。着物代とか治療費といった名目では受け取れないが、〈おこづかい〉としてなら受け取れる、ということなのか。 「帰って、すぐにあの子に報告しますね」  目を潤ませたまま、富士子は帰って行った。     5  指で触れてみると、上質な絹はひんやりと冷たかった。が、その墨よりもまだ深い黒色は、何やら恐ろしげに迫ってくる。美由紀は、藍染《あいぞ》めの風呂敷《ふろしき》で着物を覆った。  電話が鳴った。電話機を見るために目を上げたとき、時計が目に入って、はじめて美由紀は自分が三十分もぼんやりしていたのに気づいた。空腹は感じない。だが、体力維持のために決まった時間に食事をとらなければいけない。 「美由紀? はかどってる?」  拓也だった。三日の夜にホテルに泊まり、四日の午後に別れてから、一度電話をよこしている。 「ぼちぼちね」 「どう? あさっての日曜日にでもこっちに来ちゃえば? 引っ越しなんか業者に任せちゃえば半日で終わるよ」 「予定どおり、来週にするわ」 「まだ、けじめとか何とかにこだわってるのか?」 「そういうわけじゃないけど……」  風呂敷がかぶさった着物をちらりと見て、美由紀は言った。「言ったでしょう? 女は、新生活をスタートさせる前って、精神的に不安定になるものだって。わたしだって、この部屋に愛着があるのよ。自分の手で片づけさせて」 「美由紀がしんどくなければ。だけど、来たかったらいつでも言ってくれよ。明日からだって、一緒に住めるんだしさ。ベッドはもともとダブルだしね」  拓也は笑った。  美由紀も彼につき合って笑ったが、ふとむなしくなった。自分の気持ちをごまかしている。そう思った。「もう少し時間をちょうだい。自分の本当の気持ちを見つめてみたいの」——そのひとことを言うのをためらっている。拓也の愛を失うのを恐れている。いや、自分が恐れているのは、愛を失うことなのか、それとも、拓也がもたらしてくれる豊かな生活力を失うことなのか。今後、自分の身体に何が起きても、少なくとも経済的にはうろたえないですむだけの財力を失いたくないのか。父と義母を見返せるだけの大きな愛と財力。そして、幼い自分を残して出て行った母を見返すだけの……。 「何か変わったことない?」  拓也の聞き方はやさしすぎる。そのやさしさは、自分だけに向けられたものか、恵まれた環境で育った者に特有の慈善的なやさしさか。 「井口富士子のほうとかは?」 「……」 「どうしたの? 何か言ってきたのか?」  美由紀の沈黙で、拓也は察したようだ。 「さっき、わたしに贈り物と言って、着物を持って来たの」 「着物?」 「あのとき着ていた黒留袖よ。結婚してミセスになったからって」 「驚いたな」  拓也のため息が受話器から漏れた。「それだけか? ほかには?」 「贈り物だけよ」 「まあな、嫁入りに着物は必需品と考える人は多い。井口富士子もそういう人なんだろう。お節介すぎる気もするけど。うちのおふくろなんかは、そんなのナンセンスって笑い飛ばす女だけどさ。古いしきたりとかが大嫌いでね。で、息子のほうは?」 「まだ帰ってないと言ってたわ。本人に会って謝罪する必要もないって」 「よかったじゃないか。言葉どおりに受け取れよ。贈り物は着物だったんだろ? 美由紀が受け取ったんならもう来ないさ」  簡単に納得しすぎる拓也が、何だかもどかしい。 「それじゃわたしの気がすまなくて、お金をあげたの」 「お金?」 「着物代とか治療費とかいう名目じゃ受け取ってもらえそうになかったから、とっさに『おこづかいとして』なんて口走ってしまったの。すずめの涙みたいな退職金とともにもらった十六万。そしたら、井口さん、涙まで流して喜んでくれて……」 「……」 「拓也、聞いてる?」  拓也の沈黙が、今度は怖くなった。ほら見ろ、やっぱり金じゃないか、などと言い返されるのを恐れているのかもしれない。 「あ、いや。よかったじゃないか、受け取ってもらえて。それで、少しは美由紀の気持ちも楽になったんだろ?」  しかし、拓也はどこまでもやさしかった。 「あ、え、ええ。井口さん、喜んで帰って行ったけど」 「そうか。そりゃよかった」  拓也は、おどけたように声のトーンを引き上げた。 「何なんだよ。あんまり心配する必要もなかったじゃないか。俺《おれ》たち、三森さんにあんなふうに脅かされてさ。明日は病院に行く日だろ? 検査に引っかからないように、早く寝たほうがいいぞ」     6  井口富士子は、ドアの前に正座して息子に語りかけた。 「貴ちゃん、美由紀さんがね、わたしにおこづかいをくれたのよ。嬉《うれ》しいじゃないの。おこづかいなんて、はじめてだわ。『お母さんのおこづかいとして』ですって。あんなに小さかった子が、おこづかいをもらって飴玉《あめだま》を買っていたような子が、一人前に親におこづかいをくれるまでになったなんて、本当に偉くなったものね。何を買おうかしら。半襟? 帯留? 帯締? 足袋? だめよ、もういい着物なんか一枚もありはしないもの、花嫁衣装の打ち掛け以外。そうね、何にしようかしら。あなたも一緒に考えてちょうだいな……」  第五章 要 塞     1 「まあまあ、こんな遠いところまでわざわざいらしてくださるなんて」  井口富士子が台所から出て来て、座布団に座っていた拓也は、ひくひくさせていた鼻をぴたりと止めた。  丸盆に茶托《ちやたく》つきの湯飲み茶わんを載せている。それを拓也の前に置くと、富士子は正面に座った。いまではあまり目にしない古風な袖《そで》つきのエプロン——割烹着《かつぽうぎ》と呼ぶのだったか——をつけている富士子は、気さくな居酒屋の女将《おかみ》のように映る。だが、その内面は、すこぶるしたたかな女だ。 「遠くなんかありませんよ。このあたりは東京への通勤圏ですし」  世間話など抜きに、用件だけすませて早く辞去したい。この家は、人を落ち着かない気分にさせる。家の間取りといい、空気といい……。 「でもね、開発が進んでいるのは駅の近くだけで、このへんは取り残されたような寂しい場所ですよ。うちも畑の中にぽつんと一軒って感じでしょう?」 「えっ? ええ、まあ」  野中の一軒家というわけではないが、隣家までは距離がある。拓也は、カーナビをたよりにここまで来たが、思ったより時間を費やしてしまった。「外では、往来の邪魔になる、とこのへんの人がうるさいので、庭の中に入れてください」と富士子に言われ、庭の隅に乗り入れて駐車した。  ふたたび、すえたような何かを燻《いぶ》したような匂《にお》いが、家のどこからか漂ってきた。わずかにうごめかした鼻の動きを富士子はとらえたのだろう。 「この家は建ててからもうだいぶたつんですよ。あちこち修理しながら住んできましたけどね、主人が死んでからは修繕する費用もなかなか捻出《ねんしゆつ》できなくて。白蟻《しろあり》にやられたり、つばめに巣を作られたりで、虫の匂いって言うのかしら、そういうのがしみついているようですし、昔から漬けている糠床《ぬかどこ》やら薪《まき》や灯油をたいた匂いやらも柱にしみついてしまってね。古い家独特の匂いなんでしょうね。お気になります?」 「いいえ、そんな……」  拓也はぶるぶるとかぶりを振り、居ずまいを正した。今日来た目的は、すでに井口富士子も承知しているはずだ。  昨夜遅くに、拓也は富士子の家に電話をした。住所と電話番号は、招待客のリストを見ればわかる。美由紀が電話で話した内容が気になったからだ。  単刀直入に会いたい理由を告げると、黙って聞いていた富士子は、「さすがに頭のいい方ですわね」と言って笑った。そして、今日の昼過ぎに千葉の自宅に来てほしい、と続けたのだった……。 「今日、いらっしゃることは美由紀さんには?」  目の前の富士子は聞いた。 「いいえ、話していません。僕の独断で。それに彼女は今日、受診日ですし」  今月から二週間に一度の通院に変わった。土曜日は午前中の受診だから、もう終わっているだろう。前回の血液検査の結果を知らされたはずだ。拓也は、彼女の検査結果が気になった。あとで美由紀に聞いてみよう。 「そうですか」  富士子は、軽く何度かうなずいた。 「美由紀さんって、とてもまじめで責任感の強い方だわ。いくら夫婦になったからって、自分の問題を自分で解決せずに拓也さんに肩がわりさせたと知ったら、どうお感じになるかわかりませんものね」 「……」 「あなたのように頭のよろしい方だと、お話が早くて嬉《うれ》しいわ。わたしの言い方が婉曲《えんきよく》にすぎたらしくて、どうも美由紀さんにはうまく伝わらなかったようね。でも、頼もしいご主人がいてくださって助かったわ」  富士子は微笑《ほほえ》んだ。  拓也は唇をかんだ。このうそつきめ、と思う。が、罵倒《ばとう》はできない。この女は、まがりなりにも美由紀の恩人の母親だ。  ——この野郎、やっぱり金が目当てだったんじゃないか。  昨夜、電話を切ったあと、拓也は受話器に向かって毒づいた。美由紀がこづかいだと言って渡した十六万円を嬉々《きき》として受け取って帰って行った、という話を聞いて、拓也はピンときたのだ。  井口富士子のほしかったのは金だ。しかし、十六万円で満足するわけがない。治療費、慰謝料となれば、三百万円あたりが妥当だろうか。拓也はそう考えて、自分から三百万という数字を提示した。もっと引き上げられる場合も覚悟していた。すると、富士子は「それで結構ですわ」と言った。 「あなたの息子さんが美由紀を助けたときの怪我《けが》と、いまのように体調が悪いことの因果関係がはっきりとは証明できないと思うんです。何なら、わたしのほうで知っている医者にあらためて診《み》てもらってもいいですが」  強気に出た拓也に、富士子はこう告げたのだった。 「わかってますわ。金輪際、あなたの美由紀さんには近づきませんから」  金で解決した事実に変わりはない。このことは、井口富士子と自分の秘密として、一生守り通す気でいる。  拓也は、大きなため息をついて、傍らの鞄《かばん》を引き寄せた。封筒に入れた現金が入っている。封筒を取り出して、テーブルに置く。 「三百万あります。これでよろしかったですよね」  富士子は眉《まゆ》一つ動かさずに、封筒を取り上げた。中をちらりとのぞき、「あとで数えます。拓也さんを信じていますから」と言って、封筒ごと割烹着のポケットにしまう。 「お茶をどうぞ」 「いえ、結構です」 「毒なんか入ってませんよ」  毒、という言葉に拓也はドキッとした。 「どうなさったんですか? 怖い顔なさって。でも、水道管も古いから、水がサビくさくてうちのお茶はあまりおいしくないかもしれません」  拓也は、湯飲みを手にした。茶わんに口だけつけて、飲まないようにする。もちろん、毒が入っているなどとは思っていない。玄関に一歩足を踏み入れた瞬間に、この家の中では飲み食いをしたくない気分に襲われたのである。  目的は果たした。だが、どうせここまで来たのなら、聞いてみたいことがあった。 「息子さんは、こちらにおられるんじゃないんですか?」  いいえ、遠いところに仕事に行っていて、まだ帰っておりません。——そういう答えが返ってくるものと予想していたのだったが、富士子は「よくおわかりですね」と答えた。 「えっ、こちらにいるんですか?」  では、三森佳世子が言ったように、家の中のどこか人目につかないところに、ひっそりと隠れるようにして閉じこもっているのだろうか。座敷牢《ざしきろう》のようなところに。  そう言えば、と拓也は思った。広い庭の右隅に洗面所か納屋と思われる、壁が朽《く》ち始めた建物があったが、そこから母屋にかけて青いシートに覆われていた。そのシートもところどころ苔《こけ》むしたようになっていたから、覆ってからかなり日がたっているのだろう。修繕中というようすでもなかった。シートは目隠しで、その奥に〈座敷牢〉へ通じる地下か階上への隠し階段でもあるのだろうか。シートの向こう側から、かすかにクーラーの室外機らしいモーター音に似た音が聞こえてきていた。クーラーをかけるほどの陽気ではないはずだが、だとするとあの音は何だろう。  外から見たかぎり、井口家はほとんど平屋に近かった。二階があっても、小さな屋根裏部屋であろう。  ——あの部屋だろうか。  シートがかかった母屋の右端の部屋には、真っ昼間だというのに雨戸が閉まっていた。が、二階のベランダに面した二つの部屋の雨戸も、ぴったりと閉ざされていた。女の一人住まいだと思われては物騒なためか。それで、用心しているのか。  それにしても、何とも暗くて、陰鬱《いんうつ》な家ではある。 「さっきは、そっちの庭に出ておりましたけど」  富士子は、拓也の肩越しに背後を指さした。  拓也は振り返った。どこかの山の墨絵が描かれたふすまが、わずかに開いている。 「いいですか?」  開けてもいいか、という意味で聞くと、富士子は黙ってうなずいた。  にじり寄って、ふすまを開ける。八畳間ほどの続き間があって、奥のすりガラスがはまった窓に、半分だけ障子が引かれている。障子も日に焼けて黄色がかっている。  ——美由紀を助けた井口貴明ってのは、一体どういう男なんだ。  拓也は、強烈な好奇心にかられた。ぜひとも会ってみたい。美由紀には言わなかったが、彼の中ではそれなりの葛藤《かつとう》があったのだ。恩人だという貴明をライバル視し、彼に嫉妬《しつと》した。少なくとも、T大学に入るほどの学力があった男だ。どこで挫折《ざせつ》したのかは不明だが、小さいころから優等生で通っていたということだ。  そこが拓也とは違った。拓也は、たまたま両親の仕事の都合で、海外生活が長かったために、語学力だけは自然に身についたものの、とくに成績がよかったわけでも、何かに秀でていたわけでもなかった。美意識を大切にする母親が、「本物をたくさん見なさい」と、美術館や芝居やコンサートやオペラなど、あちこち連れ回してくれたおかげで、さまざまな知識はひととおり備わった。が、それも広く浅くだ。翻訳の仕事をするには、確かにいいかもしれない。  彼自身は、本当は父親譲りの学究肌だとか、母親譲りの芸術的センスなどがほしかったのだが、一つを深く極めるような根気もなく、絵画や音楽などの芸術分野で開花させるような才能の片りんもなかった。  美由紀に惹《ひ》かれたのは、彼女が自分の母親にセンスが似ていたせいだった。デッサンのタッチがよく似ている。色の組み合わせ方が似ている。美由紀は、画家の父親の芸術的才能を確実に受け継いでいる。父親を嫌っていようがいまいが、それは事実だ。男なら嫉妬もしただろうが、美由紀は女だ。自分のそばに置いて、彼女の才能を共有し、慈しみたいと思った。  美由紀とつき合う前に深い関係になった女がいなかったわけではない。「あなたってひどいマザコンね」と吐き捨てて、去って行った女もいた。拓也の家より資産のある家の娘だった。  ——結婚するなら、センスがおふくろに似ていて、守りがいのある素直な女がいいな。  そう、美由紀は守りがいのある女だ。壊れやすく繊細。つねに身体の中に爆弾を抱えている。骨髄移植が成功したと言っても、予断を許さない日々がずっと続くのだ。ガレやドームなどのアールヌーボーのガラス細工のようだ。彼の母親もまた、誰かを守ってあげたい、と望む包容力のあるたくましい女である。女性だけの事務所を作ってしまったのも、自分がボスとなって女性スタッフを守りたいからだろう、と息子の目から見て思う。  彼の母親は同時に、ボランティア精神にも富んでいる。「わたしはパトロン体質」と言って憚《はばか》らない面もある。資産家の家柄に生まれた母親は、その才能に惚《ほ》れこんで貧乏学生だった夫を養っていた時期もあったという。一流の学者に育て上げたいまは、恩に着せるそぶりも見せない。  拓也は、母親の芸術的センスは譲り受けなかったが、そうした彼女のボランティア精神、パトロン体質だけはしっかり譲り受けていた。守るだけの、援助するだけの財力はたっぷりある。いまは親のものだが、いずれ彼のものになる。  拓也は障子に近づき、開けるために桟に触れた。  そのとき、すぐ背後の空気が動いたように思った。  振り返ろうとした瞬間、脳天にすさまじく熱い衝撃を感じた。手足の指が痺《しび》れる。衝撃は二度、三度と続いた。  彼の目の前からふつりと光が消えた。     2 「白血球の数値は、安定しているな。血圧がやや低いようだけど、まあ、問題ないだろう。少しやせたかな?」  主治医は、歯切れのよい口調で言い、カルテから美由紀へ視線を戻した。 「え、ええ、このところちょっと食欲が……」  美由紀は、両|頬《ほお》をてのひらで挟んだ。肉が薄くなった気がする。結婚披露パーティーの夜以来、食欲があまりないのだ。身体のためにと食べる努力をしているが、どうしても胃に入っていかないときは、ビタミン剤やドリンク類で間に合わせている。 「ファミレスの仕事は、今週で終わったんだったよね」 「はい」 「食欲の秋が始まったってのに、どうしたんだ?」  四十歳前後の働き盛りの外科医は、穏やかな笑みを見せた。佳世子が「あの先生は信頼できる」と太鼓判を押した医者だ。 「まあね、結婚もストレスになるからね」 「えっ、そうなんですか?」 「何だ、そんな真剣な顔をして」 「いえ……」 「きれいな花嫁さんだったそうじゃないか」 「そんな……」  美由紀は顔を赤らめた。医学部時代、ラグビー部にいて活躍していたというこの主治医を見ていると、自分に骨髄液を提供してくれた男性を連想してしまう。 「新しい生活ってのは、慣れるまでに時間がかかる。何事もあせらずに、ゆったり構えてやりなさい」  診察を終えて、薬を受け取ると、美由紀は拓也のマンションへ電話をかけた。検査結果を少しでも早く知らせたい。だが、留守を知らせる拓也の録音された声が応答した。またあとで電話してみようと思い、佳世子のいる「相談室——カウンセリング・ルーム」へ行く。佳世子は仕事中だったので、事務員に喫茶室で待っていると伝え、院内の喫茶室へ行った。  佳世子は、十五分ほどしてやって来た。院内にいるときは、医師と襟と袖《そで》のデザインの違う白衣を着ている。白衣の下は、オフホワイトの丸首のシャツにグレーのパンツだ。すらりとしたプロポーションが美しい。  前回の血液検査の結果、今日の受診の結果を知らせると、佳世子は「よかったじゃないの」と微笑《ほほえ》んだあと、微笑を引っ込めてにらむような目をした。 「だけど、その顔は、最近ちゃんと食べてませんって顔ね。頬がこけてるわ」 「食欲、ないんです」 「だめよ、無理しても食べなくちゃ。大体、美由紀さんはもう少し太っているくらいのほうがいいのよ」  ある程度の体重を維持していたほうがいいのは、治療や移植を経験してみて身体でわかっている。少しつらいと思われる治療に入ると、すぐに一キロやそこらは体重が落ちてしまう。  佳世子は、水を運んできたウエイトレスにミックスサンドイッチとミルクティーを二人分、注文した。栄養素をとっさに計算したのだろう。 「あれから大澤さんとは?」  佳世子の目に、今度は不安そうな光が宿る。 「二人のあいだでは、一時的に井口富士子さんの話はタブーになっていました。でも、拓也さん、心配していたみたいで電話はくれていたんです。夕べも電話がありました」 「何かあったのね?」  佳世子が聞く。たちどころに美由紀の顔色の変化を読み取ったのだろう。 「昨日、井口さんがうちに来たんです」 「井口富士子が?」  佳世子は、かすかに目を細めた。美由紀の背後に現れた何かを確かめるかのように。 「わたしに贈り物があると言って、あの黒留袖《くろとめそで》を置いて行ったんです」 「黒留袖……ね。母親が嫁入りじたくに持たせるものだわ」 「それで、わたし……」  美由紀は躊躇《ちゆうちよ》したが、叱《しか》られるのを覚悟で佳世子には話したほうがいいと思った。いや、この人には秘密にしておけない。 「手元にあったお金を渡したんです。はじめは着物代と言って。でも、受け取ってもらえなくて、次は治療費のたしにと。それでもやっぱりだめで、最後はつい『お母さんのおこづかいとして』なんて言ってしまって。そしたら、彼女、ちゃんと受け取ったんです。感激したらしく、涙まで流して」 「そう」  佳世子は、それほど驚いたようすもなかった。が、目を細めたままでいるのは、自分の考えに浸っているのかもしれない。 「ほんの少しだけど、肩の荷が下りたのも本当です。でも、今日になったらまた不安になってきて……。あんな中途半端な額でよかったのかな、って」  言ってしまって、美由紀はハッとした。「いえ、違うんです。お金で解決しようと思っているわけじゃないんです。ただ、拓也が言うように、ある程度のお金を渡すのも、確かに誠意の一つだと思ったんです」  サンドイッチが運ばれてきた。しばらく二人は、食べるのに専念した。「しっかりかんで。パセリもちゃんと食べなさい」と、佳世子が姉か母親のように世話を焼く。 「ところで佳世子さん、青いものが何か、わかりましたか? 大きな青い布のようなものって……」  砂糖を少しだけ入れたミルクティーを飲んで、美由紀は聞いた。スピーチに立った井口富士子の背後に見えたという〈青いもの〉が、心に引っかかっている。 「いいえ、あのときふっと現れただけだから。祖母みたいに強い霊感があればよかったんだけど」 「こんなこと聞いて、佳世子さん、気を悪くするかもしれないけど」  美由紀は、遠慮がちに前置きした。「別れたご主人との結婚を決めたときには、何かピンとくるようなものはなかったんですか? たとえば、咲き乱れるお花畑が見えたとか」 「残念ながら」  佳世子は、弱く笑った。「祖母の結婚生活だって、山あり谷ありだったし。祖父はかなりの浮気者だったのよ。よく言うじゃない。人の将来は占えても自分の将来は占えないって。でも、それとはちょっと違うわね。確かに、あの人にプロポーズされたとき、何かが見えた気がしたわ」 「何が見えたんですか?」 「うまく表現できないけど、あの人の背後に放射状に伸びた虹色《にじいろ》の光って感じだったかしら。それをわたしは、あの人が発散するエネルギー、パワーみたいなものととらえて、強い意味を持たせてしまった。でも、それが本当は、暴力に通じるパワーだったなんて……。皮肉なものでしょう? だから、人間、少しばかり霊感があったって、自分の将来なんて思いどおりにならないものなのよ」 「このあいだ、佳世子さんが別れたご主人の凶暴性を誘発したかもしれない、って言ってましたよね。それはどういう……」 「彼は繊細で、性格的に脆《もろ》いところがあったわ。わたしに『そんなことない、大丈夫よ』と言ってほしくて、わざと悲観的な話を仕掛けてくるような人だったのよ。わたしは、自分の直感に従って、彼の仕事がうまくいかなくなったときでも、『自分を信じてやっていれば大丈夫』と励ました。それが、最終的には彼を苛立《いらだ》たせたのね。『おまえは、ただ、占い師みたいに、大丈夫、信じたようにやりなさい、とばかり言っている。いい気なもんだよな。少しは一緒に頑張りましょう、くらい言ったらどうなんだ。具体的にどうしろと言ったらどうなんだ』ってね。わたしが指図をしたら、あの人のプライドを傷つけることになると思ったの。ある日、『おまえのその自信たっぷりの態度が気に食わない』と言って、お皿が飛んできたわ。『おまえは魔女かよ!』って。それからは……」  話さないでもわかるでしょう、というふうに佳世子はうなずいた。 「でも、ホテルで二人が話していたときは、わりといい雰囲気に見えたわ」 「夫と妻でなくなったせいよ。でも、それがあの人にはわからないのね。よりを戻したがってるわ」  佳世子の顔が曇った。 「佳世子さんにその気はないんですね?」 「同じことを繰り返したくないの。見えてしまう自分が怖いの。だけど、彼は、『君と一緒のときは、自分が幸運に恵まれていたことに気づかなかった。別れてからツキが落ち始めた。君はやっぱり幸運の女神だった。別れてみてわかった。やり直したい』って、電話をかけてきたの。ホテルでばったり会ってからよ」  父と義母の関係と同じだ、と美由紀は思った。治郎は自分の画家としての成功が玲子のおかげだと信じて、彼女から離れられずにいる。 「ほら、ハムサンド、残さないで」  佳世子が美由紀の皿を指さした。 「ここの喫茶、割高だけど、無添加のハムを使ってるのよ。残さず食べなさい」  佳世子と別れて、美由紀はもう一度拓也の自宅へ電話をしてみた。相変わらず留守番設定がされている。あまりかけたくはなかったが、番号を教えてもらってある携帯電話のほうへもかけてみた。だが、何度コールしても拓也は電話に出なかった。     3  白い割烹着《かつぽうぎ》が返り血を浴びて、真っ赤に染まっている。もともと返り血を浴びることを予想して、つけていた割烹着であった。  ぼんやりと畳に座っていた井口富士子は、弾かれたように顔を上げた。そうだ、報告に行かなくてはいけない。  きしみが激しくなった廊下を進む。 「ねえ、貴ちゃん、邪魔者をやっつけたわよ」  ドアの前に立って報告する。 「飛んで火に入る夏の虫……あら、もう秋かしら。こんなにうまく誘い出せるとは思わなかったわ」  中から返事はない。が、かすかにうなるような音が聞こえてくる。機械音のようなものが。 「これで、あなたが本当の夫よ。美由紀さんと結婚できるのよ。お金も入ったから、割れた瓦《かわら》やたてつけの悪い戸くらい直せるわ。そしたら、新生活が始められるわ。三人で一緒に……」  富士子は興奮した口調で言い、一呼吸おいてドアを開けようとした。  居間のほうで何かが鳴った。何だろう。あれはうちの電話のベルの音ではない。もっとも、電話など最近めったにかかってこないが。オルゴールの音でもない。細く高く、こちらの神経を逆撫《さかな》でするように執拗《しつよう》に鳴り続ける。  富士子は怪訝《けげん》に思って、居間へ戻った。  音の発信場所は、さっき彼女が殺した男の鞄《かばん》のようだった。  彼女は、音がやむまでそこに立ちつくしていた。     4  身体が揺れて、彼は目を覚ました。天井から吊《つ》り下がった電気の傘《かさ》が揺れている。  地震だ。震度三くらいだろう。  冷蔵庫を開け、何か食べられそうなものを探す。賞味期限から四日たった牛乳と、先っぽが乾いたチクワがあった。彼は、牛乳をパックのまま飲み、チクワをぼそぼそとかじった。  ——こんなところにいてはいけない。  誰かがささやいた気がして、部屋を見回す。  六畳一間に二畳ほどの台所がついた空間だ。  部屋中からかき集めたのが、二千三百円。それが彼の全財産だ。 「こんなところにはいられない」  そうつぶやいて、彼は鍵《かぎ》を手にした。     5  自宅に帰るまでに何度か電話をしてみたが、拓也は留守だった。携帯電話のほうは、次にかけたときには、「留守番電話サービスです」というメッセージに切り替わっていた。拓也が電源を切ったのか、自然に電源が切れたのか、それとも留守番電話サービスに切り替えたのか。美由紀自身は携帯電話を持っていないのでよくわからない。入院していたとき、病院内は携帯電話の使用が禁止されていた。各種の医療機器の電波による誤作動を防ぐためだ。心臓にペースメーカーを埋め込んだ人などは、電車の中で携帯電話が鳴り出すと生きた心地がしないという。ペースメーカーもまた、携帯電話の電波で誤作動を生じる可能性があるからだ。  病気は違っても、美由紀は、大病を経験した同じ人間として、携帯電話を使わないことにこだわっているのかもしれない。「外出先で何かあったら困るから、持ったほうがいいよ。プレゼントしようか」と、拓也に何度勧められても断っていた。  実家に帰っているのかもしれない。そう思って、奥沢の拓也の自宅に電話をしてみたが、拓也の母が出て「こちらには来ていないけど」と言った。拓也の母は、「あの子は高校時代から一日、二日家を空けることなんてざらだったわ。入籍前は、男友達と羽を伸ばしたくなるものよ」と電話口で笑い、まったく心配していないようすだった。そして、話題をすぐに来週の会食のことに転じた。 「美由紀さん、本当にフランス料理でいいの? そりゃ、あの子はこってりしたものが好きだけど、今回は美由紀さんの好みに合わせるのが筋なのにね。和食でいいお店も知ってるのよ。遠慮しないで。あなたの身体のためには何がいいかしら」 「本当に、お母さまやお父さま、拓也さんのお好きなところでいいんです。わたし、もう何でもいただけますから」  あれこれ気を遣うのが楽しそうな母親の話につき合って電話を切ると、どっと疲れが出た。家族で高級な店で食事をする機会がなく育った美由紀は、何料理だろうと、選択するだけの材料に乏しかったのだ。  六時まで待ってみたが、美由紀は心配になってきた。相変わらず自宅は留守番電話で、携帯電話は通じない。拓也から電話がかかってこないのもおかしい。拓也は、今日の美由紀の検査結果を知りたがっていたのに。  胸騒ぎが生じている。美由紀は、いてもたってもいられなくなって、上着を持って外に出た。油断して風邪などひいてはいけない。生活費が心もとないので、タクシーは拾えない。電車を乗り継いで、東中野の拓也のマンションへ行ってみた。  七階建てのマンション。エントランスはオートロック式だ。何度も呼び鈴を鳴らしてみたが、応答はない。どうせ来週は一緒に住むのだから、と合鍵《あいかぎ》もあえて受け取らなかった。管理人室の窓はもう閉まっている。窓を叩《たた》いて、鍵を貸してもらおうかとも考えたが、それでは騒ぎすぎのような気もした。一昼夜いない、というわけではないのだ。もう少し待ってみてもいいだろう。念のために駐車場ものぞいてみた。なかった。拓也のブルーグレーのきれいな色のボルボがない。  ——どこかへ出かけたんだわ。  自宅に着くころには、風が出てきた。上着を持って出てよかった、と思った。襟を立てて、階段を上る。  部屋に入ってすぐに電話機へ目をやったが、留守録音を知らせるランプはついていない。  ——わたしの受診日は、必ず電話をくれるのに。  たとえ、彼の母親が言ったように、男友達とどこかで羽を伸ばしていたとしても、電話一本くらいはかけるはずだ。美由紀の身体が心配ならば。  ——女?  唐突に、その言葉が浮かんで、美由紀は「ばかばかしい」と笑った。が、すぐに口元が引き締まる。なぜ、ばかばかしい、と笑い飛ばせるのか。拓也に関しては、女にもてる条件がそろっている。何もわたしのようにトラブルを抱え込んだ女を選ばなくても、女性はよりどりみどりのはずだ。それなのになぜ? と、美由紀自身、何度考えたことか。  誰か女と、どこかドライブでもしているのだろうか。それだって、結婚前の羽の伸ばし方の一つとして、週刊誌などによく書いてある。  気がつくと、今日もまた夕飯を忘れそうになっている。スパゲッティをゆで、冷蔵庫のあまりものを炒《いた》めてケチャップで味をつけた。半ば義務のようにして、そんなふうにおざなりに作った料理を口に運ぶ。  食べ終えても、電話は鳴らない。佳世子の名前が自然に脳裏に浮かんできた。勉強家の彼女は、なるべく自宅で勉強する時間を増やすようにしている、と先日話していた。 「病院を離れても相談したいときがあったら、いつでもどうぞ」  移植を終えたあと、佳世子は自宅の電話番号を美由紀に教えてくれた。  佳世子は自宅にいた。 「拓也がまだ帰っていないみたいなんです。電話もこないし」 「彼から電話がないなんて、おかしいわね」  佳世子は言った。自分の不安がストレートに伝わる相手を得られて、美由紀は涙が出そうになった。 「大澤さん、どこか行くようなこと、言ってたの?」 「いいえ」 「昨日、電話で話したんでしょう? そのときには?」 「別に何も。……ああ、井口さんが突然、訪ねて来たことは言いましたけど」 「彼、何か言ってた?」 「驚いたみたいだったけど、でも、よかったな、ってホッとしていました」 「お金を渡したことを言ったのね」 「ええ。『少しは美由紀の気持ちも楽になったんだろ?』って」 「そう」 「お金を渡したの、いけなかったんでしょうか」  佳世子の声が沈んだように思って、美由紀は聞いた。 「ううん、それはそれでよかったのかもしれない。でも……」 「でも、何ですか?」  玄関のチャイムが鳴った。  美由紀は胸をつかれて、台所のほうへ顔を振り向けた。 「あら、誰か来たみたいじゃないの」 「拓也さんかもしれません」  美由紀は、息を弾ませて言った。「またあとで電話しますね」  急いでドアを開けたが、立っていたのは拓也ではなかった。全身の力が抜ける。 「お姉さん、こんばんは」  一ノ瀬茜だ。首回りがだらんとしたニットにジッパーつきのジャケットをはおっている。下は今日もタイトなミニスカートだ。厚底のブーツをはいているところなどは、いまふうの女子大生の格好だ。 「よかった、まだここにいて。電話したんだけど、いないみたいだったから、直接来ちゃったんです。よかったですか?」 「よかったも何も、来ちゃったんじゃないの」  美由紀は、茜を部屋に請じ入れた。 「どうしたんですか? お姉さん、何だか機嫌悪そう」  茜は、もの珍しそうに部屋を見回す。手には、デパートの袋を提げている。 「狭い部屋よ。見るものなんかないでしょう?」  コーヒーをいれるために台所に立ったついでに、流しにつけたままになっていた皿を洗う。「ああ、写真ありがとう」  不機嫌なままでいるのも大人げないと思って、茜のほうへ向いた。茜が住所を教えたせいで、井口富士子があんな贈り物を持ってやって来たのだ。けれども、どうしてもプレゼントしたいものであれば、どんな方法を使っても美由紀の住所を調べたであろう。茜のせいではない。新居へ来られるよりはましだった、と気持ちを切り替えた。 「きれいに撮れてたでしょう?」 「まあね。あの写真、井口さんにも送ったの?」 「井口……ああ、黒留袖《くろとめそで》のおばさんね。送ったけど、何かお姉さんに言ってきたの?」 「いいえ、別に」  井口富士子のことは、茜にはあまり話したくない。まだ妹と認めたわけではないし。 「今日はね、お姉さんに結婚祝いを持って来たの」  茜は、持参した袋から包装された箱を取り出した。 「ペアのマグカップなんて珍しくもないかな。でも、結婚したらすぐに必要になるでしょう?」 「いま使うわ」  美由紀は、箱を茜から奪うようにして取り上げ、びりびりと包装紙を破いた。ブランドものらしいマグカップを二つテーブルに並べ、インスタントコーヒーを入れて、沸いた湯を注ぐ。同じ柄の色違いだ。ミルクと砂糖を入れて、部屋へ持って行った。 「どうぞ」赤いほうを渡す。 「あ……ありがとう」  茜は、あっけにとられたような顔で美由紀を見て、自分が選んだマグカップに口をつけた。一口飲むと、「お姉さんの機嫌が悪いのがなぜか、わたし、知ってるわ」と言った。 「どうして?」 「わたしだけ、父親違いの姉がいることを聞かされていたからでしょう? おもしろくないんだ」  美由紀は答えずに、自分も苦めのコーヒーを飲んだ。 「どうしてお母さんがお姉さんを家に置いて来たか、知りたいんでしょう?」  知りたくないわけがなかった。すがるような視線を、茜に投げかけてしまったらしい。 「あなた、知ってるの?」と美由紀は、上目遣いに尋ねた。 「お母さんに聞いたわ。でも、わたしは言わない。本人の口から聞いたほうがいいと思う。お母さんもそれを望んでいるし」  茜は、テーブルに小さくたたんだ紙を載せた。 「じゃあ、帰るわ。ごちそうさま」  茜が台所に出る。 「ねえ、お金貸して」  美由紀は、茜の背中に言った。茜がハッとしたように振り向く。自分でも驚くほどすんなり言えて、美由紀はあきれていた。やはり、心のどこかで妹だと認めているのかもしれない。恵理や牧子にだって、お金を借りたことはないのだ。 「当座の生活費がないのよ」  茜はしばらく美由紀の顔を見ていたが、「いいよ」と言って、バッグから大型の財布を抜き出した。若い子がよく持っているブランドの財布だ。 「四万でいい?」  あるかぎりの一万円札だろう。それを茜は振ってみせた。 「ありがとう。すぐ返すわ」 「いいって、いつでも」  通路に出て、茜は八重歯をのぞかせて微笑《ほほえ》んだ。「だって、姉妹だもん」  部屋に戻るなり、会話が中断した形の佳世子に電話をかけた。「でも……」と言いかけた話の続きが気になっている。  しかし、受話器は上がらない。茜と話していた短いあいだに、どこかへ外出でもしたのだろうか。  茜が置いて行った紙を広げてみた。目になじんでしまった可愛《かわい》い筆跡で、住所が書かれている。   一ノ瀬京子 山梨県甲府市湯村××  母は、一ノ瀬という男と結婚して、一ノ瀬京子なんていう名前になったのか。半分他人で、もう半分は依然として自分の母親。そんな中途半端な名前のように思える。番地だけが書かれているから、集合住宅ではなく一戸建てのようだ。  甲府には行ったことがない。だが、山梨と知って、葡萄《ぶどう》を連想した。母は、ワインが好きだった。 「ねえ、美由紀。葡萄酒の色ってきれいよね。赤はもちろんだけど、白もいろんな表情があってきれいなのよ」  娘を寝かしつけるときに、京子はそう話したものだった。もちろん、母の言葉を一字一句、正確に記憶しているわけではないが。父との関係がぎくしゃくし出してから、母の酒量は増えていた気がする。  少なくとも、父と離婚したのち、母がそれまでより裕福な生活を手に入れたらしいことは想像できた。親元を離れて東京で学生生活を送っている娘の茜に、充分な仕送りをしているように見える。茜の持ち物を見ればわかる。  その夜の眠りは浅かった。目が覚めるたびに、拓也のところへ電話をかけてみたが、留守のままだった。  明け方、うとうとしたところに弱い地震が起きた。それからは、まったく眠れなくなった。  朝になっても、拓也は帰らなかった。  かわりに、佳世子から電話がかかってきた。 「佳世子さん、どうしたんですか? あれから電話したんですよ」 「ちょっとごたごたしててね。で、そっちのほうは? 誰だったの?」 「拓也じゃなかったんです。一ノ瀬茜……、妹でした」 「妹さん? そう」  佳世子は何か考え込んだようだったが、気が急《せ》いたような口調で、「これから行かなくちゃいけないところがあるの。あとでまた」と言った。 「行かなくちゃいけないところって、どこですか?」 「それは……いいの。個人的なことだから。あとで電話するわ、必ず」  電話が切られた。  第六章 交 錯     1  風に運ばれてこびりついた泥や砂が、雨に打たれて筋のような模様を作っている。もともとは、目の覚めるような鮮やかな青色だったのだろう。  ——これだったのね。  三森佳世子は、青いビニールシートの前に立って深くうなずいた。建築中のビルや家などを風よけや防犯などのために覆うあのシートだ。  しかし、これは、建物を覆っているわけではない。ベニヤ板や角材らしきもので補強はされているらしいが、シート自体が主役のように見える。まるで何かの〈通り道〉を作っているかのようだ。  佳世子は、あたりを見回し、誰もいないのを確かめると、右の建物に近づいた。母屋でないのは一目でわかる。住居でないのも。小さな窓と換気用の煙突から見て、外に設けられたトイレと、その昔、動物を飼ったり、作業道具を置いたりした納屋だろうと推測できる。  庭に面した白壁は、ところどころはがれ落ちている。 〈通り道〉は、二つの建物をつないでいる。右側の納屋つきトイレと、左側の母屋。  外から見ると、母屋は留守のようだ。雨戸という雨戸が閉まっている。  留守らしいのはわかっている。車が通り抜けられそうな広い門の、門柱につけられたチャイムを何度も押してみたが、返事はなかった。休日だから富士子は在宅していると思って来たが、休日に休めないような仕事をしているのかもしれない。息子が働いていないとすれば、彼女しか仕事をする人間がこの家にはいないのだから。 〈心の目〉で見えたのが、予想したとおり、井口富士子の家にあったものだと知って、佳世子の胸の鼓動は早さを増した。不吉な予感がぐいぐい押し寄せてくる。  ——この家のどこかに井口貴明はいる。そして、たぶん、この母屋の右端の部屋だ。  佳世子は、通り道、すなわち青いシートで作られた通路の左の終点の部屋にあたりをつけた。ここに彼がいるのだ。  雨戸のわずかな隙間《すきま》を抜けて、ある独特の匂《にお》いが漏れ出ている。香を焚《た》いたような匂いに混じって、いま流行《はや》りのアロマテラピーの西洋的な匂いも漂っている。その上、はっきりと感じられる腐臭。  ——この家は、腐っている。井口富士子も……腐っている。  何とかしてこの家に入らなければ……。  佳世子は、反対側の庭に回ってみた。ブルーとグレーの中間のような色の車が停められているほうだ。  ふと、車に見憶えがある気がした。古ぼけた家には似つかわしくないほど、よく磨かれた高級車。ボルボだ。  ——大澤さんの車だわ。 「拓也と海にドライブに行ったんです。あの人、泳げないくせに海は好きなの。おかしいでしょう?」  美由紀が嬉《うれ》しそうに見せてくれた写真の背景に、この車種でこの色の車が写っていた。  ——やっぱり、彼はここに来たのだ。  車もある。家のどこからか、何かを回しているような音、そう、モーター音みたいなものも聞こえてくる。それなのに、この家全体から漂う〈無人〉の気配は何なのだろう。  いや、無人ではない。誰か……いる。何か……いる。  佳世子は、自分が祖母譲りの〈心の目〉で見た青いものが、井口富士子の家にあるのではないか、と考えた。それで、連絡もせずに富士子の家を訪れたのだった。大澤拓也のことが心配だった。  大澤が美由紀に電話一本よこさずに、出歩いているはずがない。電話ができない状況にいるのだ。昨夜、美由紀に聞いた話の内容から佳世子は推理した。——大澤は、やはり自分の考えが正しかったことを確信したのだろう。井口富士子の目的は金だ。彼女を満足させるだけの金を与えておけば、これ以上美由紀に接触してはこないに違いない。そうすれば、美由紀の不安の種は消える。美由紀に精神的な被害が及ばなければ、自分は彼女を救ったことになる。恩人になれるのだ。そう考えて、彼は美由紀に黙って富士子の家に行った……。  昨夜、美由紀と電話で話している最中に、美由紀の部屋のチャイムが鳴って話が中断した。美由紀は、訪問者が「拓也さんかもしれません」と言った。それならそれでいい。それでも佳世子は、もう一つの気がかり——〈青いもの〉の正体を確かめたかった。  しかし、電話を切った直後、佳世子のほうにも訪問者があった。  別れた夫だった。  インターフォンで「話したくないわ。帰って」と告げた佳世子に、元夫は「お願いだ。少しでいいから俺《おれ》の話を聞いてくれ」と泣き落としにかかった。それでも応じないとわかると、「開けないとドアを蹴破《けやぶ》るぞ」と脅した。仕方なく佳世子は部屋を出た。マンションの中で騒がれては困る。少し歩いて、ファミリー・レストランに入った。 「よりを戻したい」という元夫と「やり直せない」という佳世子。話は平行線のままで三時間がたった。 「今日のところはこれで帰って。また日をあらためて必ず会うわ。わたし、疲れているの」  むずかる子供をなだめるようにして帰し、ただちに佳世子は病院へ向かった。調べたいことがある。  救急の出入り口から入って、相談室へ行く。パソコンを立ち上げる。「ひきこもり」というキイワードを打ち込んで検索する。ひきこもりという社会病理についてのさまざまな事例が、たちどころに画面に現れた。一つ一つを目で追っていく。目が乾いて痛くなったころ、気になる症例を見つけた。 「家族からも自分を隔離したくて、シートで覆って屋外の便所まで自分専用の通路を作ってしまった男子学生」  ある精神科医が診《み》た症例が出ている。もちろん患者は匿名だ。十年以上前の症例。医師が直接、大学生を診たわけではなく、彼の両親が相談に来た旨が書かれている。  ——シートで覆った?  自分専用の通路を作るとは、かなり特異で異常な行動である。報告書には、「七、八か月ほどで男子学生は部屋から出て、家族と接触するようになった」とあるが、「その後、家族からの連絡は途絶えた」ともある。家族と接触するようになった時点で、本人を医師のところへ連れて行くべきだった。一度ひきこもった経験を持つ人間は、ふたたび何かのきっかけで容易にひきこもってしまう可能性が高い。大学生の場合は、それが就職というケースが多いのだ。就職によって社会と接触したときに、期待が裏切られたり、人の言葉に簡単に傷ついたりしてしまう。  ——もし、井口貴明がそうやって、十年以上ひきこもったままの状態でいるとしたら……。  母親の富士子が、息子あてに届いた結婚披露パーティーの招待状を見て、息子の代理で自分が出ようと思いたったとしてもおかしくはない。  十年も最愛の一人息子にひきこもられた母親は、精神に変調をきたしてしまったおそれも充分考えられる。T大学まで進んだ自慢の息子なのだ。相談しようにも、夫は早々と先立ってしまった。自分が生活の糧を得なくてはいけないという重圧と、息子の将来への不安。彼女は、それらに押しつぶされそうになっていたのではないか。恩人として招待された息子の代理で出席した結婚披露パーティーに、黒留袖《くろとめそで》などという場違いな格好で出席した彼女は、やはり尋常ではなかった。もしかしたら、息子の結婚式に着られなかった黒留袖を着るという代償行為によって、自分の欲望を満たしていたのかもしれない。  息子が美由紀を助けたときの古傷がもとで体調がおかしくなった、という彼女の話も作り話である可能性が高い。なぜ彼女はうそをついたのか。美由紀の中に罪の意識を生じさせ、自分と息子に惹《ひ》きつけようとしたからではないか。  精神が不安定になった彼女は、次に何を考えるのか。  どう行動がエスカレートしていくのか。  ——井口富士子の最終目的は何か……。  想像したら、佳世子はじっとしていられなくなった。  相談室で朝まで仮眠して、美由紀が起きたと思われる時間を見計らって電話をした。  昨夜の訪問者は、大澤ではなかったという。一ノ瀬茜という美由紀の異父妹らしい。佳世子の不安は増した。それで、急いで、千葉のI市にある井口富士子の自宅へ向かったのだった。富士子の自宅の住所は、パーティーのときに牧子に教えてもらっている。いつか富士子の家を訪ねなければならない事態がくると予想していたわけではなかったが、あのときすでに強烈な胸騒ぎを覚えていたのは事実だった。  しかし、富士子の家へ行くことを、美由紀に知らせてはいけないと思った。大澤の身を案じた彼女は、すぐにでも富士子の家へ向かいかねない。病み上がりの美由紀まで、危険に巻き込みたくはなかった。  ——大澤さんは、この家を訪ねた。車もある。だったら、この家のどこかにいるはずだ。そして、井口貴明も……。  佳世子は、シートのほうへ戻った。薬草を燻《いぶ》したような匂《にお》いや腐臭が増している。  シートに手をかけたとき、目の前が不意にまぶしくなった。  何かが見えた。太い木のようなもの。丸太を切断したものか? いや、もっと細いものだ。木の枝より太いもの。  野球のバット。そう、それだ。  しかし、なぜいま、そんなものが見えたのだ。〈心の目〉で見たのは確かである。  ——見ようと努力しないで自然に見えたもので、いいものであったためしがない。  美由紀に言ったそんな言葉が脳裏をよぎる。青いものもそうだった。そして、今回も。 「そこで何をしている」  背後で声がした。  心臓が胸を突き破って出てきそうなほど、佳世子は驚いた。  その瞬間、彼女は悟った。  佳世子は、ある種の覚悟を決めて、ゆっくりと振り返った。  しかし、その人物の背格好をはっきり確かめる暇もなく、彼女の視野は、突然幕が降ろされたようにばっさりと閉ざされた。     2 「世間は連休で浮かれてるってのに、こっちは殺人事件の捜査かよ。皮肉なほどの行楽日和《こうらくびより》ときてる」 「こっちは、子供の運動会だぞ。『どうせあなたなんか数に入れてないから』なんて、女房に嫌み言われちまってさ」  高輪東署に設けられた捜査本部。捜査会議の開かれる部屋に、ぼちぼち捜査員たちが集まって来ている。まだ指揮官の面々がそろわないうちは、緊張が緩んでそんなぼやきがあちこちで上がる。  家族を持たない野崎は、その点気楽だった。野崎は、両親をそれぞれ六十代という若さで病気でなくしている。肉親を奪われた遺族の胸中を思うと、一刻も早く犯人を捕まえたかった。病気で死ねば病気を恨むしかないが、殺されたとなれば憎む相手は存在する。具体的な目的の有無が野崎を燃え上がらせるのだ。  しかし、野崎と弓岡が担当している地区からは、犯人逮捕につながるような情報はまだ得られていない。 「被害者が着ていたジャケット——レザーと言っても合革らしいが——、ジャケットの右ポケットのあたりに付着していた指紋の件ですが——」  会議が始まってすぐに、捜査一課から派遣されてきた司会役の平井が切り出した。 「目下、鑑識で犯歴者の指紋と照合しているところですが、一致する指紋は出てきていません。もっとも、膨大な量ですので、まだしばらく時間はかかると思いますが」  被害者の衣類やバッグ等から検出された指紋のうち、九割ほどは本人や家族、知人のものと判明している。エレベーター内から検出された指紋についても同様に、被害者のもの、居住者のもの、と特定できるものを取り除いていくと、誰のものか不明な指紋がいくつか残った。それらを、通常の捜査と同じように犯罪歴のある者の指紋と照らし合わせる作業を行なっている。 「被害者の商社時代の友人、学生時代の友人をあたった感触では——」  次に、被害者の交友関係に移る。 「岸本園美が誰かに恨まれていたというような話は、いまのところ得られていません」  交友関係を中心に捜査にあたっている班が、そう報告する。 「ガイシャは、T大学を出てるんですからねえ」  弓岡が、隣で首をすくめて小声で言う。「T大学出のシロガネーゼ。野崎さん、すごいと思いませんか?」 「殺されたのと学歴が関係あればな」  野崎も小声で返した。  最初の捜査会議で、被害者、岸本園美の経歴が披露されたときは、捜査員たちのあいだに驚きの声が上がったものだった。白金在住で夫は外科医、住居が高級マンションで車はベンツ、と聞いて、誰もが容易に彼女の日頃の優雅な生活スタイルを想像できた。 「夫の関係からも、患者に嫌がらせを受けていたとか、変な電話が病院や自宅にかかってきていたというような話も入っていません」  続いて、被害者の夫、岸本郁夫の捜査班たちからも報告があった。  会議が終わり、捜査員たちはぞろぞろと部屋を出て行く。野崎と弓岡は、聞き込みの担当地区を広げての捜査続行を命じられた。 「こっちの捜査も長引くとなれば、検挙率低下でまた上からおこごとを言われそうだな」  野崎がため息をつくと、「聞いてませんか?」と弓岡が少し声を弾ませた。 「一月に起きた例の、建築現場OL暴行強殺事件、あっちのほうはどうやらホシの目星がついたみたいですよ」 「本当か?」  自分を〈あしながおじさま〉と呼んだレシピエントが、手紙の中で触れたあの強盗殺人事件である。そちらのほうの捜査には、野崎も弓岡も捜査員として組み込まれてはいなかった。 「現場に落ちていた、ほら、犯人の遺留品と思われるキーホルダー。あっちのほうからのセンらしいですよ。通販で買った人間を中心に十数人にまで絞り込んでいるといいます。いま、手元にそのキーホルダーがないやつとか、人にあげたやつとかですね」  靴べらの形をした緑色の革製のキーホルダーは、金具をとめていたと思われる部分の縫い目がほどけていた。金具やキーは見つかっていない。靴べらの部分だけ現場に落ちていたのだった。それがキーホルダーであることは、早い時期にわかった。革に彫られていた英文字から、英国製の手製のものと判明。続いて、大量に通信販売で扱ったこともわかった。だが、通販以外で買った可能性もないとは言えない。残念ながら、そこからは不完全な指紋しか検出されなかったのだ。 「うちのほうも早く解決したいよな」  野崎は言った。一月のほうの事件は、女性に背後から殴りかかった上、バッグに入っていた財布を奪い、騒がれるのを恐れてか首を絞めて殺している。今回の事件では、真正面から刃物で一突きにしている。財布も盗《と》られていない。同一人物の犯行とは思えない。  野崎は、自分を〈あしながおじさま〉と呼ぶ彼女もまた、一日も早く二つの事件の解決を望んでいるような気がしてならなかった。病気で死の淵《ふち》に近づいた彼女である。人間の命が不条理に、暴力的に奪われる事件には敏感になっているはずだ。そう野崎は思った。     3  振り替え休日の十一日になっても、拓也の母親はのんびりとしたものだった。 「連休ですもの、黙ってどこかへふらりと出かけたのよ」  拓也の母親、大澤|曜子《ようこ》が所長を務めているデザイン事務所に顔を出すと、モダンなイタリアン調の家具でまとめられた応接室に美由紀を通した曜子は、そう言って笑った。ショールームを兼ねた曜子の事務所は、休日でも開けていることが多い。 「マンションには、車もなかったんでしょう? どこかへドライブに行ったのよ。事故に遭ったら、連絡がくるはずだし」 「携帯電話も通じないところですか?」 「あえて持って出なかったのかもしれないわね」  笑顔だった曜子が、ふっと表情を引き締めた。「一緒に住む前に、一人になっていろいろ考えてみたくなったとしても不思議じゃないわ」 「……」 「美由紀さん、何か心あたりない?」  曜子の質問は、含むところがありそうだ。美由紀は、身体を固くした。女性としても魅力的で、実業家としても有能な曜子の前では、いつも緊張してしまう。 「パーティーのあとだったか、拓也、うちに来てわたしにこんなことを言ったわ。『美由紀は本当に俺《おれ》を必要としているんだろうか』ってね」 「……」 「美由紀さん、あなたはばかばかしいと笑うかもしれないけど、あの子は何にも悩みがないように見えて、あれで結構、あれこれ気にする子なのよ。のほほんと育ったのがコンプレックスになっているようなところがあってね。あなたには、恩人が二人、いるんですってね。骨髄移植のドナーになってくれた人のことは、もちろん、わたしも知ってるわ。あのときも拓也は、どんなにか悔しがったことか。なぜ俺がドナーになれないんだろう、なぜ俺の血液の型があいつのと合わないんだろう、ってね。もう一人は、あなたが小学校一年生のときの恩人だというじゃないの。川に落ちたあなたを助けてくれた高校生ですって? いまは三十五、六になっているとか。拓也は、『あーあ、俺も美由紀の恩人になりたいもんだよな』って、冗談混じりにため息をついていたけど、でも、あれはあの子の本音だと思ったわ。あの子は、泳ぎがあまり得意じゃないだけに、よけいに川のほうの恩人ってのを意識したのね。『結婚することが美由紀さんの恩人になることじゃないの』、わたしは拓也にそう言ったのよ。そしたらあの子は、真剣な顔で聞き返してきたの。『お母さん、本当にそうだろうか』ってね」 「お義母さま……」 「経済的に援助する恩人もいていいんじゃないかしら。拓也は、あなたがそうされるのに後ろめたさを覚えている。最初は遠慮しているのかと思っていたけど、もしかしたら本当は俺のことが嫌いなんじゃないだろうか。それで、お母さんの事務所を手伝う話を持ちかけたときも、それを断ってファミリー・レストランなんかの仕事を見つけてきたんじゃないか。そんなふうに言ってたわ。『俺のことを、いつまでたっても親の庇護《ひご》から抜け出せない甘ったれのお坊ちゃん、っていうふうに見ているんじゃないか』と……」  拓也の本心がわかった事実よりも、彼が自分に言わずに母親に相談していた事実に、美由紀は打ちのめされた。 「拓也は、どんな形でもいいから、とにかく美由紀さん、あなたの恩人になりたかったのよ。あの子も恩人の仲間入りをしたかったのよ」 「……」 「少し頭を冷やしたら、明日にでも帰って来るわよ。あの子、男友達は多いから。明日でなくとも、十四日にはちゃんと戻っているわよ」  十四日は、拓也の両親を交えての会食日だ。 「あの子が戻って来たら、美由紀さん、暖かく迎えてちょうだい」  佳世子からもまた連絡はなかった。彼女の自宅に電話したが、留守だ。 「行かなくちゃいけないところがあるの」と電話で言ったきり、連絡がないのが気になっている。ごたごたしている、と言っていたから、復縁を迫るという元夫とのあいだのトラブルだろうか。  別れた夫に危害を加えられたり、最悪の場合は殺されてしまうケースがあるという。美由紀は心配になって、何とかして佳世子と連絡を取ろうと思い、病院に電話をしてみた。が、今日は休みだという。元夫の住所など、知るよしもない。  自分にとって大切な二人の人間、拓也と佳世子がいなくなった。  二人を知る人間にはしから電話をしてみようか。そう思いついたが、連休を利用して牧子は旅行に出かけると言っていたし、子持ちの恵理も「亭主が休みだからたまには子供を押しつけて、実家で羽を伸ばして来ようと思うんだ」と話していた。たぶん、留守だろう。電話が通じたところで、よけいな心配をかけるだけだ。拓也と佳世子が、自分より先にあの二人に連絡をしているとも思えなかった。  部屋で二人から電話が入るのを待ちながら、美由紀は落ち着かない休日を過ごした。  夜が明けて、十二日。まずは、拓也のマンションに電話をしてみた。相変わらず留守だ。何日も留守をするのでは、仕事もたまるであろう。九時になるのを待って、佳世子の病院にも電話をした。まだ出勤していないという。一時間後に再度、電話してみた。「おかしいんですよね、休むとも何とも連絡がないので。今日は午前中にカウンセリングが入っているんですが」という事務員の返答を受けて、美由紀の不安はピークに達した。  ——警察に捜索願いを出そうか……。  しかし、何と言えばいいのだろうか。 「新婚生活をスタートさせる前の精神状態が不安定な〈夫〉が、車ごといなくなってしまいました。彼は、わたしの〈恩人〉になりたがっているんです。彼の母親は心配していないようですが、わたしはなぜか胸騒ぎがしてならないんです」 「レシピエント・コーディネーターの佳世子さんも、『行かなくちゃいけないところがあるの』と言ったまま、どこかへ消えてしまいました。電話もよこしません。……ええ、佳世子さん、別れた夫が電話をよこすのを嫌がっていました。元の夫のほうは彼女とよりを戻したがっているそうです」  警察は、すぐに二人を捜すべく行動を起こすだろうか。美由紀が望んでいるのと違う方向に、捜査が進んでしまうのではないか。  ——わたしの大切な二人がいなくなったのよ。それがわたしに関係していないはずがないじゃないの。  わたしに共通する何か……。そう考えたとき、美由紀は身体の奥から悪寒が這《は》い上るのを感じた。  ——井口富士子が……?  彼女の名前が、漢字の形で脳裏に浮かび上がった瞬間、電話が鳴った。  美由紀は、電話機に飛びついた。 「はい、高谷です」  うわずった声で応じる。 「あら、美由紀さん。いらしてよかったわ」  やけに落ち着いた声。神経を苛立《いらだ》たせるような間延びした口調は、井口富士子のものだった。 「あの……」  拓也と佳世子さんがいないんです、と続けようとしたのを、富士子の勢いが制止した。 「あの子がね、貴明がね、あなたに会うって言うのよ」 「えっ?」  美由紀は絶句した。思いがけない言葉だった。 「お待たせしてごめんなさいね。ようやくあの子もあなたに会う気になったらしくて」 「……帰っていらしたんですか?」 「ええ、まあね。美由紀さん、いらしてくださる? あの子、よっぽど自分の家が好きなのね。あなたに来てほしいって」 「うかがいます」  拓也と佳世子のことを聞きたい気持ちがふくらんでいたが、二人の〈失踪《しつそう》〉に井口富士子が関係していたとしたら、警戒されるおそれがある。動悸《どうき》が激しくなるのを抑えながら、平静を装って答えた。 「ああ、よかった。貴ちゃん、喜ぶわ」  貴ちゃん、というはじめて耳にした呼び方に、美由紀はゾッとした。何かに取りつかれたような響きを伴っていた。     4  井口富士子の家を、門の手前に立って見たとき、美由紀の中で鮮やかに記憶がよみがえってきた。  ——わたしはこの光景を何度も見ている。夢の中で……。  それは、母の思い出と重なる。二十年前の夏、母に連れられてこの門をくぐった。口の中で一生懸命、覚えたての〈お礼の言葉〉を繰り返しながら。そのとき着ていたワンピースの柄も記憶している。ひまわりの花柄だった。  駅で降りて、タクシーに乗った。運転手に井口富士子の家の住所を書いた紙を渡すと、運転手は、寂しい場所、寂しい場所へと美由紀を連れて行った。民家が少なくなり、田畑が多くなる。  不思議なことに、自分が落ちたという川の記憶は、かけらもないのだった。  十五分ほど乗って停まった場所は、柿の木が瓦《かわら》屋根に覆いかぶさるように生い茂った一軒の民家だった。農家と呼んでもいい。昔は、農業を営んでいたのだろう。母屋の屋根の中ほどには屋根裏部屋が、母屋の右側には作業小屋のような建物が見える。納屋だろうか。田舎の旧家によく見られる造りの家だ。紫陽花《あじさい》があちこちに植えられている。初夏のころはきれいだろう。  自分が想像していたとおりの家だ。門を入ったところで足を止め、美由紀はそう思った。  しかし、想像もしなかった点が、何点かあった。左側の縁側と思われる場所をのぞいて、目につく雨戸のほとんどが閉まっていたこと。納屋と母屋を青いシートの囲いがつないでいたこと。そして、予想もしなかった独特の匂《にお》い。放置していた湿った草が腐ったような、その中に小動物の死骸《しがい》も混じっているような、そして、お香も同時に焚《た》いたような匂い。タクシーで来るときに、庭先で落ち葉を燃やしている光景をいくつか目にしたが、その種の匂いだろうか。  ——青いシート。  美由紀が着眼したのは、そこだった。佳世子は、スピーチをする富士子の背後に、大きな布に似た青いものが見えた、と言った。それが、建築現場で使うようなこの青いビニールシートではなかったのか。  ——とすると、やっぱり佳世子さんは、ここに来たんだわ。  こめかみからすうっと血の気が引いていく。  ここに来て、それからどうしたのだろうか。怖いが、確かめなければいけない。  美由紀は、玄関の前を素通りし、縁側のほうへ向かった。地面に自動車の轍《わだち》がうっすらとついている。門のあいだを通って、庭に車を乗り入れたということだ。しかし、いま、どこにも車は見当たらない。一見したところ、裏庭へ動かそうにも、家の両側を車が通れるだけのスペースがない。  ——拓也の車?  胸が締めつけられた。そんなふうに考えたくはない。拓也の母親の言葉を思い出す。——あの子も恩人の仲間入りをしたかったのよ……。  美由紀にとって大切な存在の二人が、井口富士子の家を訪れた直後に消えたとしたら、それは何を意味するのだろう。  縁側に面した障子が開いた。人が現れた気配に、美由紀はハッと顔を上げた。  井口富士子が、縁側の掃き出し窓に手をかけたところだった。 「美由紀さん、いらっしゃい。ようこそおいでくださいました」  富士子は、紬《つむぎ》のような地味な紺色の着物を着て、えんじの帯を締めている。この家のたたずまいにぴったりの格好に美由紀には見えた。 「すみません。黙ってお庭を拝見してしまって」 「いいんですよ」  富士子は、にこやかに笑った。 「でも、いまは紫陽花も咲いていないし、殺風景な庭でしょう? 柿がどんなになっても、鳥くらいしか突かないしね」 「貴明さんは?」 「まあまあ、美由紀さんってせっかちなのね。とにかくお入りなさいな。ちゃんと準備はできてるのよ」  ——準備?  何の準備だろう。自分を客として迎える準備ということだろうか。それとも、貴明自身のしたくのことを指しているのか。 「貴明さんは、いつお帰りに?」 「いつだったかしら。わたしが留守のときにふらりと帰って来たのよ。男の子なんて、そういうもんじゃない? ふらりといなくなって、ふらりと帰って来る。まったくいい気なものよね」  富士子は、しょうがないというふうに首をすくめた。そんな一人息子が愛《いと》しくてたまらないというような楽しげな笑顔。しかし、貴明は三十六歳だ。親元を離れて、所帯を持っていていい年である。 「わたしがうかがうことは……」 「いやね、美由紀さん。もちろん知ってるわよ。どうぞ、あちらへお回りになって。……あら、ここからでよかったら」  美由紀が縁側まで来てしまっているのを見て、富士子はその場にかがみこんだ。広縁の中ほどに、真ん中が磨り減った踏み石が置いてある。美由紀は、そこに靴を脱いで、広縁の床に足を載せた。ぎいっと床がきしんだ。ギクッとして思わず息を呑《の》む。 「大丈夫よ、床は抜けやしないから。これでも昔の大工さんが、丈夫に、丈夫に作ってくれたのよ」  そんな美由紀を見て、富士子は口元にたもとを当てる。  広縁の向こうに、座敷が二つ並んでいる。障子の数で、美由紀は間取りを理解した。広縁の右の突き当たりには節目のついた木製の扉がある。その向こうが、おそらく玄関なのだろう。  富士子は、玄関寄りの座敷の障子を開けた。電気がついているが、何だかうす暗い部屋だ。奥は台所らしく、引き戸が片側に寄せられている。普通に考えれば、ここが居間なのだろう。使い込まれた感のある民芸調の戸棚や、骨董品《こつとうひん》と言ってもいいくらいの古い型のテレビも置いてある。  これもだいぶ年季の入った固い木の座卓——胡桃《くるみ》か桜だろうか——の、ふすまを背にしたほうに、こちらはふかふかの綿入りの座布団が置いてある。座布団は新調したのだろうか。 「こんな狭苦しい部屋で申し訳ないけど、ここのほうが落ち着くと思ってね。どうぞそこへお座りになって」  戸惑いぎみの美由紀に富士子は言い、台所へ入って行く。躊躇《ちゆうちよ》しすぎるのも変だと思い、美由紀は座布団をお尻《しり》に敷いた。気分が悪くなるほどクッションがきいている。腰を落ち着かせると、あの匂《にお》いが気になった。庭にいたときより、当然ながら香の匂いが強くなっている。家の中のどこかで香を焚《た》いているのだろう。が、この部屋には仏壇は見あたらない。  じきに富士子が、丸盆に客の分だけのお茶を持って戻って来た。「どうぞ」と美由紀の前に置く。茶托《ちやたく》は漆塗《うるしぬり》で、湯飲み茶わんは有田焼のようだ。井口家で昔から大切に使っている、由緒あるものだろうか、と美由紀は茶わんを見つめながら思った。  一口緑茶を飲む。おいしくはいっている。それで、「おいしいです」と言って顔を上げた。富士子と目が合った。ずっとこちらを見ていたらしい。美由紀は居心地の悪さを覚えて、咳払《せきばら》いをした。 「今日は、なくなった主人の月命日でね。それで、いつもよりたくさんお線香をあげているの。気になるかしら」  美由紀は、かぶりを振った。他人の家に入って、その家の匂いを露骨に嫌ってはいけない。この期に及んで、おかしな倫理意識が働く。 「あの……貴明さんは、こちらに来られるんですか?」  美由紀は、ちらりと背後のふすまを見て聞いた。この部屋は、台所への出入り口を加えれば、開口部が三方向にある。美由紀の座っている位置から見て、左右と後ろだ。 「自分の部屋にいるのよ」  富士子は、目を細めて答えた。 「自分の部屋?」  奇異な感じを受けた。客が来たというのに、自室に閉じこもって挨拶《あいさつ》にも出ようとしないのか。それでは、やはり井口貴明は、他人と接触するのを嫌がって、自室にひきこもったままの〈ひきこもり〉人間なのか。 「そんなにわたしと話すのがお嫌?」  富士子は、ちょっとすねたように唇を尖《とが》らせた。 「そういうわけじゃありません」 「それなら、もう少しわたしと二人でお話ししませんこと? 世代は違っても、女同士ですもの、共鳴し合う部分は多いと思うの」  ——何を井口富士子と共鳴し合わねばならないのだ。  強烈な違和感が喉元《のどもと》にせり上がってくる。違和感の背後には、恐怖が控えている。  しかし、美由紀は、必死にそれらに耐えた。富士子に不信感を与えたり、怒らせたりしたくはない。拓也と佳世子が、ここに来たのちに行方《ゆくえ》を絶ったとしたら、二人を捜す手がかりを失ってしまいかねない。  ——二人はもう……。  考えるな、そんなふうに考えるな。自分の胸に強く言い聞かせ続ける。 「この家に嫁いで来たとき、わたしは一生懸命、井口家の家風に溶け込もうとしたわ。料理の味つけも、掃除の仕方も何もかも。でも、お 姑 《しゆうとめ》さんは厳しい人だった。掃除したあと、わざと障子の桟を指で拭《ぬぐ》って、『富士子、これは何だや?』と聞くの。わたしに『はい、お義母《かあ》さん、ほこりです』と言わせたいのね。そんなつまらぬ仕打ちで時間をつぶしたくないから、わたしはこみ上げる怒りや不条理な思いをぐっとこらえて、『はい、ほこりです』と答える。すると、お義母さんの顔が満足そうに輝くの。わたしになかなか子供ができなかったことも、姑を苛立《いらだ》たせていたのよ。ねっ、思いきり性根の曲がった嫌な女でしょう?」 「で、でも、お嫁入りのときにお義母さんは、井口さんによくしてくれたんじゃなかったんですか?」  黒留袖《くろとめそで》をプレゼントする、と持って来たとき、確か彼女はそう言ったはずだ。 「それは、あの人の見栄のためよ。婚礼が貧相じゃ、井口家の恥になるでしょう?」  富士子は、鼻の先で笑った。 「貴明のおじいちゃんは、脳溢血《のういつけつ》で倒れて、そのまま眠るようにあっさり死んでくれたけど、性根の曲がった女のほうは、寝たきりになってもしぶとく何年も生きてたわ。寝たきりになって下の世話をしたのは、当然のように嫁のわたし。夫は自分の養母のくせに、くさいからと言ってよりつかなかったわ。そして、座敷からなるべく離れた部屋に移せって言うの。それで、あそこの十畳の部屋に移したのよ。あそこなら雨戸もぴったり閉められるしね」 「あそこ……?」  それが、表から見て母屋の右端の部屋。青いシートのかかった部屋ではないのか。美由紀は直感した。 「わたしは、呼ばれるたびにせっせとそこへ通ったわ。食事を運んで、下げて、しびんを持って、おしめを替えて。昼間はお父さんはいない。わたしの苦労なんてわかりはしない。夜だって、起きるのはわたし。いちばん近い、隣の四畳半に寝起きしてね。まるで召し使いよ。幼稚園から帰って来た貴明は、なぜかおばあちゃん子で、まっすぐに姑の部屋に行くの。枕元《まくらもと》でいろんな話をしてもらってね。姑は貴明の頭を撫《な》でては、同じ言葉を繰り返していたわ。『おまえはお母さんに似ないで、本当に素直ないい子だね』って……。  それを見て、復讐《ふくしゆう》したい、と思ったわけではないの。明確な復讐心というようなものはなかったわ。だけど、どこかで発散したかった。自分の仕事を認めてもらいたかった。それで、あんな意地悪をしたのだと思う。姑は、下の世話をしてほしいときでも、少しもすまなさそうな声を出さない女だったわ。『富士子、おい、富士子!』と、犬や猫を呼ぶみたいに呼びつける。『はいはい、ただいま』、わたしはすぐに返事をして、駆けつける。だけど、下の始末はすぐにはしてやらない。姑の股間《こかん》に当てたオムツを開いて、思いきり鼻をつまんでやってから、おもむろに聞くの。『お義母さん、これは何ですか』とね。答えるまで替えてやらないのよ。姑は、気持ち悪いもんだから、とうとう根負けして、唇をかみながら悔しそうに、情けなさそうに答える。『ウンコだよ』。わたしは声を荒らげる。『何、聞こえないよ、お義母さん。それに、世話を焼いてもらっている人間に、その言い方はないだろ? はい、くらい言ったらどうなのさ』ってね。何度も繰り返して、ようやくお義母さんは答える。涙で目をしょぼしょぼさせて、顔を真っ赤にして。『はい、ウンコです』。いい気味だ、と思ったわ。胸がすっとした。  姑は、自分の息子や孫が帰るなり、大声で呼びつけてわたしの悪口を言いつける。『富士子が意地悪をするんだよ』と、わんわん泣くのよ。だけど、動けない人間なんて弱いものさ。『お義母さん、何だかぼけてきたみたいでね。いちばん面倒を見てあげているわたしが鬼のように見えるらしくて、憎まれ口ばかり叩《たた》くのよ』、わたしがお父さんにそう訴えると、お父さんは大きなため息をついて言う。『こらえてくれよ、富士子。昔から嫁姑の関係なんて、そんなもんさ。もう先は長くないんだから。貴明が素直に育っていて、できがいいのがせめてもの慰めだと思って、どうか耐えてくれ』、それもそうだと思ったわ。姑は、貴明が小学校に上がった年に、貴明の名前を呼びながら息を引き取った。  そして、姑のいた部屋は貴明の部屋になった。あの子があそこがいいと言ったから」 「お姑さんがいた部屋っていうのは……」  聞かなくても、もうどの部屋かほぼわかっていた。 「でもね、美由紀さん。それはもう昔の話。いまは、嫁と姑がいがみ合って生きる時代じゃないのよ。姑に虐げられたからこそ、わたしはあなたにだけはつらい思いをさせたくないの。美由紀さん、あなたには自分の本当の娘のようにやさしくしてあげたいのよ」 「自分の本当の娘?」  ——何を言っているのだ、この富士子という女は。  美由紀は腰が引けた。実際、腰を浮かせて、わずかにあとずさった。 「あなたに見せたいものがあるのよ」  富士子は、ふすまのほうへいざると、いそいそと丸い把手《とつて》に手をかけた。隣の座敷にその〈見せたいもの〉があるらしい。  ふすまが敷居を滑る音と、衣《きぬ》ずれの音がした。その音を聞いて、美由紀は顔を座敷へ振り向けた。  きらびやかな布が目に飛び込んできた。衣桁《いこう》に、鳥のように羽——袖《そで》を広げた形で掛けられた着物。金糸、銀糸の刺繍《ししゆう》を施された鶴が大空を舞っている朱赤の華やかな打ち掛けだ。 「美由紀さん、あなたが着るのよ。貴ちゃんもあっちで待ってるわ」     5  彼は、流しで何度も何度も手を洗った。血の匂《にお》いが手にしみついている。ひりひり痛むまで手を洗い続けたが、血の匂いはとれない。  廊下に足音が響いて、ようやく水道を止めた。  奥の部屋を振り返る。小さなテーブルに、さっきこの部屋の押し入れの奥で見つけたものが載っている。白い布に包まれた黄色い財布だ。女物の財布。中身が入っているかと思って、急いで中を調べたが、一円も入っていなかった。空の財布。  足音が部屋の前で止まった。チャイムが鳴る。彼は身構えた。訪問者が少し待つ気配があった。  彼は急いでベランダへ行き、外を見た。中年の男が二人、こちらを見上げている。  ——刑事? 「新居浜さん」  ぶしつけにドアが叩《たた》かれた。「新居浜さん、いますね? 警察の者です」  いますか? ではなく、いますね? だ。在宅を確認してからチャイムを鳴らしたという雰囲気だ。  彼は混乱した。ドアの向こうには、数人の刑事がいるらしい。  ——刑事が俺《おれ》に用事があるはずがない。大丈夫だ。 「はい、お待ちください」  ドア越しに彼は言った。  ——大丈夫だってば。だって俺は……。  彼は、肩を揺らせながらドアを細く開けた。  刑事が、すばやくドアの隙間《すきま》に足を差し入れてきた。後ろに二名、同じようにスーツの男たちを従えている。 「新居浜|敏樹《としき》さんですね?」  ドアを大きく開けて、先頭の刑事が聞く。 「……そうです」 「今年の一月、東池袋で起きた強盗殺人事件のことでお話をうかがいたいんですが」 「殺人事件?」  彼がひるんだのにつけこむように、刑事はドアを全開した。 「あれは……」  と、後ろにいた刑事が部屋の奥を指さした。「財布じゃないか?」 「あれを見せていただけませんか?」  先頭の刑事が彼の腕をつかんだ。逃げないようにしたのは明らかだった。 「家宅捜査令状を取ってもいいんですがね」  彼——新居浜敏樹は、自分に強盗殺人事件の容疑がかかっているのを、そのときはじめて知った。  第七章 恩 人     1  富士子が、着物の内側から袖口《そでぐち》に両腕を通して、持ち上げながら広げてみせる。空気を送り込まれた着物は、命を与えられたように堂々と輝き出す。たっぷりした質感を持つ裾回《すそまわ》りも、誇らしげに畳に垂れている。 「ほら、見事な打ち掛けでしょう? わたしもこれを着て井口家の人間になったのよ。だから、美由紀さんも……」 「ちょ、ちょっと待ってください」  美由紀は、ふすまに手をついて、弾む息を落ち着かせた。 「わたしはもう、結婚したんです。籍はまだ入れていませんが、大澤拓也の妻になったんです。井口さんだって、お祝いしてくれたじゃないですか」 「わたしがあなたたちを?」  富士子は眉《まゆ》をひそめた。ずっと昔のできごとでも思い出す顔だ。やがて、破顔した。 「あれは、あの子と美由紀さんの結婚式じゃないの。打ち掛けをちゃんと着せてあげられなかったから、今日、あらためて。あのとき、貴明もそばにいたのよ。美由紀さん、気づかなかった?」  ——そばに?  どういうことだろう。 「たもとの中にあの子がいたのよ」 「……」 「笑顔のあの子が」  ——写真をたもとにしのばせていた。そういうことだろうか。  ということは、遺影?  ——井口貴明は、ひきこもっていたのではなく、死んでいたのか……。  美由紀は総毛立った。 「さあ、これをはおってみて」  たっぷり生地を使った豪華な打ち掛けを広げながら、富士子が近づいて来る。打ち掛けで獲物を捕らえる何かの猟のように。美由紀の後ろに回り込む。ふわりと肩に着物が掛けられた。その場に美由紀は凍りついたようになった。着物は人肌にぬくもりを帯びている。まるで生きているかのようだ。 「貴ちゃんに見せに行きましょう」  何かに操られているように、美由紀は打ち掛けを肩に掛けたまま広縁に出て、ぎしぎし鳴る廊下を富士子のあとに従った。  突き当たりは、収納部屋だろう、扉のついた小部屋で、右手に木製のドアがあった。そこから肉が腐ったような匂《にお》いが、焚《た》いた香やハーブに似た匂いとともに漂ってくる。 「待ってね。いきなり入ってはあの子が気分を害すわ」  ドアの前で富士子が足を止め、ゆるやかに振り返った。顔を戻し、部屋にいる〈誰か〉に語りかける。 「貴ちゃん、美由紀さんが来たのよ。あなたがあんなに待ち望んでいた美由紀さんが。とってもきれいな花嫁さんよ」  そうよね、というふうにふたたび富士子が顔を振り向ける。  ドアの内側からは、人の声のかわりに、機械音に似た音が漏れ出てくる。モーター音か。  ——中を見なければいけない。  なぜだかわからないが、猛烈な欲求にかられた。拓也のために、佳世子さんのために。  富士子は、柔和な表情で〈息子〉の返事を待っている。 「返事なんか……」  言いかけて、美由紀はごくりと生唾《なまつば》を呑《の》み込んだ。 「あるはずないじゃないですか」  残りを言い終えると同時に、ドアを勢いよく押し開けた。  強烈な腐臭がどっと押し寄せてきた。美由紀は思わず口を押さえた。打ち掛けが肩からつるりと滑り落ちた。  モーター音の発信元は、フル回転している状態の、壁に取りつけられた旧型のクーラーだった。  扉が開かれた状態の冷蔵庫。その両|脇《わき》に、壁に沿ってずらりと並べられたお香の容器類やいろとりどりのアロマキャンドル。冷蔵庫の開いた扉に頭をもたせかけるようにして、人間の形をした物体が座っている。両足を伸ばして、両手をだらりと垂らして。  かすかにローズマリーらしき香りが、強烈な腐臭に混じっている。  彼は……腐っていた。その股間《こかん》のあいだに、額に収められた賞状が置かれている。  吐き気をこらえるために口を押さえたまま、美由紀はそれに近づいた。それは、I市の消防署から井口貴明あてに贈られた表彰状だった。 「見てあげてちょうだい。ほら、貴ちゃん、誇らしそうな嬉《うれ》しそうな顔をしているでしょう?」  富士子は、鼻も口も手で押さえずに、〈息子〉に近づいた。かがみこんでやさしく語りかける。 「来てくれたのよ。あなたを恩人にしてくれた、あの美由紀さんが」  ずるり、と音がして、富士子の〈息子〉の頬《ほお》のあたりについていた肉が形を崩した。崩壊したというより、溶けたのだ。夥《おびただ》しい数のうじ虫が、美由紀の足下めがけてもぞもぞと這《は》ってくる。  悲鳴が、美由紀の喉《のど》の奥に張りついた。     2 「この財布はどうしたんだ、と聞いてるんだ!」  さっきは猫なで声を出したと思った刑事が、今度はふたたび怒鳴った。  新居浜敏樹は、正直に言った。 「気がついたら、部屋の中にあったんです」 「うそつけ!」  刑事がテーブルをてのひらで叩《たた》く。新居浜敏樹は、反射的に目をつぶった。 「おまえは夢遊病者か、二重人格者か。自分の気づかぬうちに、殺人まで犯すのか? これは、被害者の財布だろ? おまえが殺した女性の、おまえが暴行した女性の。おまえが盗んだんだ」 「俺《おれ》は、盗んでなんかいません」 「しらばっくれるな」  刑事はまた、てのひらでテーブルを叩いた。今度は力を入れすぎたらしく、痛さに顔をしかめる。 「被害者がこのタイプの黄色い財布を持っていたことは、家族も、会社の同僚たちも記憶しているんだ。財布からも被害者の指紋は出ている。まさか、どこかに落ちていたのを拾ったって言い訳するつもりじゃないだろうな」 「気がついたら、部屋の中にあったんです」 「バカの一つ覚えみたいに言うんじゃない!」 「本当ですよ」  取り調べの刑事は渋い顔をして、そうか、そうか、とうなずいた。別の作戦に出るつもりらしい。 「死んだ両親が、さぞかし天国で悲しんでいるだろうよ。いまのおまえの姿を見たらな」  刑事たちは、いつのまにか家族関係まで調べたようだ。 「これは、おまえが通販で買ったキーホルダーだってことも、わかってるんだ。業者のリストをはしから調べた。当日のアリバイだって、あやふやじゃないか。仕事もろくにしてなかったんだろ? 金がほしくて、つい夜道を歩いていた女性を……」 「……」 「これをどこかでなくしただろ?」  緑色の靴べらの形をしたものを、刑事は敏樹の前に突き出した。 「……」 「現場だよ。殺人現場に落ちてたのさ」 「どういうことか、俺には……」 「全部、吐いちまったほうがいいぞ」  刑事は、敏樹の顔を下からなめるように見上げた。  そこへノックがあった。後ろにいた刑事がドアを開けに行き、二言三言話している。そしてギョッとしたようにこちらに向き直ると、「おまえは……」と、敏樹のほうを見た。 「三年前に、ひったくりで捕まっているだろ?」  敏樹は、両てのひらを天井に向け、首をすくめた。そんな記憶はなかった。 「警察だから、そんなことはわかってんだよ」  立ったままの刑事が苛立ったように言い、同僚の刑事に報告するために声を落とした。 「そのときの指紋とやつのを照合したところが……一致しないそうです」 「何だって?」  敏樹の前に座っている刑事が、すっとんきょうな声を上げた。「本当か?」  取り調べ室全体に緊張が走る。 「おまえは……誰なんだ」  刑事がうわずった声で、敏樹に尋ねる。顔にははっきりと焦りの色が現れている。 「俺は、殺していない」  新居浜敏樹は、ぽつりとつぶやいた。  刑事たちが彼の口元に視線を集中させた。 「俺が殺したのは……」  敏樹は、自分の置かれた状況が滑稽《こつけい》に思えて笑った。「俺自身だよ」 「な、何言ってるんだ、こいつ」  刑事たちがうろたえたように、顔を見合わせる。 「あの女、俺をばかにしやがった。あんた、そんなに一生懸命勉強したって、しょせん田舎者でしょう? って顔でいつも笑ってた。俺が気があるのを知っての上でだ。いつも俺は、かつかつだった。目いっぱい勉強して、ようやくトップに追いつける成績を維持していたのに、あの女ときたら、きゃあきゃあはしゃぎながら、適当に勉強して余裕で俺と肩を並べてたのさ。女のくせに。『あんたなんてダサイ』って顔で俺を見るんだ。まったく鼻もちならんやつだよ。クラスに女は少なかった。少ない女たちは、卒業したら上級試験を受けるだの、弁護士になるだの、親の会社の後継者になるだの、将来の夢を語っていた。選ばれた者、エリートとしての。ところがあいつときたら……」  彼は、舌を鳴らすために言葉を切った。言葉が頭の中にあふれている。 「卒業したら腰かけ程度に就職して、若くなくなったら即結婚よ。そう言って憚《はばか》らない女だったのさ。軽蔑《けいべつ》してつき合わない女もいるかと思えば、そういうあいつがおもしろくて、友達になるやつも結構、多いのさ。現に女友達は多かった。いつもあいつは誰かに囲まれていた。そんな女なのに……なんで俺は惹《ひ》かれたのか。自分が許せない。いや、……俺はわかっている。あの女を最初に見たとき、あの子の面影を見た気がした。それで、あいつから目が離せなくなったんだ……。  夏期スクーリングの日だった。そんなのに出る必要がないくせに、あいつはちゃんと来るんだ。あのとき、俺はぎょうざを食べたあとだった。俺がそばを通ったら、あいつは露骨に口に手を当てやがった。通りすぎて振り返ると、あいつが女友達とこそこそしゃべってた。俺と目が合ったら、わざとらしく笑ったんだ。やっぱり、俺の口はくさい。ぎょうざのせいじゃない。口臭がひどいのにはうすうす気づいていたが、あんなに露骨に知らされるとは思っていなかった。口臭だけじゃない。俺の顔が変なんだ。鼻筋が曲がっている。おふくろは『気にするほどじゃない』なんて言ったが、親だからそう思うだけさ。  それから人生が暗転した。俺は……家から一歩も出られなくなった。いや、部屋からだ。口臭のことを黙っていた家族とも顔を合わせられなくなった。おやじもおふくろも、うそつきだ。とりわけおふくろときたら……、『あなたみたいにできのいい、親孝行の息子はいないわ』なんて言っといて、口のくさい、鼻の曲がったおかしな子供を産んだ責任を、一瞬たりとも考えたことがないんだ。まったくおめでたいやつだよ。それでいて、根拠もないのに『あなたは大物になれる』なんておだてて、期待しやがって。おふくろなんか、どんなにいじめてもかまわない。おばあちゃんをいじめたバチが当たっただけなんだからさ。俺の人生は、あいつとおふくろのせいで、めちゃめちゃになったんだよ!」  今度は、彼のほうがテーブルをこぶしで叩《たた》いた。 「誰のことを言ってるんだ?」  呆然《ぼうぜん》としていた刑事が、我に返ったように問う。  新居浜敏樹は答えずに、自分の話を続けた。 「俺の顔は誰にも見せられない。見せてはいけないんだと思った。そしたら、いろんなことが気になり出した。壁の額が曲がっている、お盆に置いてある箸《はし》がずれている、肉じゃがのじゃがいもの大きさが不ぞろいだ、ドアを開けたときに見える廊下に、うっすらとほこりがたまっている……。俺は、どうしてもあの部屋から一歩も出て行かれなかった」 「ど、どの部屋だ?」  刑事がひるんだような口調で聞いた。  答えはなかった。  刑事は、覚悟を決めたように、次の質問をした。 「君は、……新居浜敏樹じゃないのか?」     3 「だから、言ったじゃないの。確かめてから来ればよかったって」 「悪かったよ」  男は、とっとと歩いて行く女のあとを、重い足取りで進んだ。  久しぶりのデートだったのに、彼女を怒らせてしまった。お目当ての美術館が休館していたのだ。いちおうガイドブックで調べてはあった。ところが、月曜休館と書いてあったので、火曜日の今日は開いていると思っていたのだ。  しかし、月曜日が連休にあたっている場合は開館し、翌日、かわりに閉めるらしい。  彼も彼女も美容師である。世の中が連休で浮かれていても、自分たちの定休日は火曜日と決まっている。 「せっかくここまでドライブに来たのに」 「美術館じゃなくてもいいだろ? どこか遊園地、行こうか」 「遊園地なんて子供っぽい。芸術の秋って言うでしょう? たまには美術鑑賞したっていいじゃない。美容師だってね、職業に美がつくくらいだから、美に関するいろんな感性を磨かなくちゃいけないのよ」 「うん。わかってる」  二人は、彼の愛車を停めていた駐車場まで来た。車に乗り込むと、「さあ、どこへ行こうか」と、彼はおそるおそる助手席の彼女を見た。  彼女は不機嫌そうに顎《あご》を上げて、窓の外を見ている。 「芸術の秋は、食欲の秋とも言うよ。きのこ、採りに行こうか」  彼は、遠慮がちに提案した。 「……」 「俺《おれ》さ、山育ちだから、小さいころよくきのこを採ったんだよ。だから、毒きのこかどうかくらいわかる」 「……」 「わかんなければ、保健所とかに持ち込めばいいのさ。毒かどうかちゃんと教えてくれる」  ふっと、彼女がこちらを向いた。アーモンドの形をした瞳《ひとみ》に好奇心の光が宿っている。 「本当に、保健所で教えてくれるの?」 「そうだよ」 「へーえ」  よくそんなこと知ってるわね、と感心したように彼女の瞳が輝いた。 「松茸《まつたけ》も採れる?」 「松茸は無理かもしれないけど。今年は猛暑で、雨が少なかっただろ? 松茸の当たり年じゃないんだ。でも、運がよければ、見つかるかもしれない」 「おもしろそうね。行こうか。たくさん採ってよね。今夜はきのこ鍋《なべ》にするんだから」  彼女の顔に笑顔が戻った。  すぐにふくれるが、機嫌が直るのも早い。気持ちの切り替えがうまいのだ。彼女のそんなところも、彼はたまらなく好きだった。  彼の知っている山に入って、雑木林に車を乗り入れた。  きのこが採れなかったらどうしよう、と彼は不安になった。彼女がきのこを探すことだけを楽しんでくれればいいのだが、採れなくてまた機嫌を損ねたりしたらと思うと、憂鬱《ゆううつ》になる。 「ねえ、先客がいるわ。やっぱりこのへん、採れるのよ」  先に降りた彼女が、少し先の林を指さして言った。  ブルーグレーの車が駐車してある。  おかしい、と彼は直感した。普通は、出しやすいところに駐車するものだが、あの車は出しにくい場所に駐車してある。まるで、乗り捨てられているかのようだ。  嫌な予感を覚えた彼は、「ちょっと待って」と彼女の腕をつかんだ。彼女にその場にいるように指示し、慎重にその車に近づいた。  黒い頭が二つ見えた。運転席と助手席にいる。  ゆっくりと回り込んで、彼は見た。  運転席には男が、助手席には女がいた。男の顔面には乾いた血がこびりつき、女の首筋には紐《ひも》のようなものが巻きついていた。二人とも死んでいるのは、一目瞭然《いちもくりようぜん》だった。 「きゃああああ!」  背後で、彼女が叫んだ。気になって、あとをついて来てしまったらしい。  彼は、叫んだ彼女を抱きかかえた。彼もまた、全身が震えていた。     4  雨戸を開けると、無数のほこりの粒子が舞い上がり、差し込んだ太陽光線に照らされてきらきら輝いた。富士子は、掃き出し窓の片側だけを閉め、レースのカーテンを引く。カーテンが風ではためいた。アロマキャンドルの小さな炎も、はかなげに揺れた。  左側の掃き出しの窓には雨戸が閉まっていないが、外はうす暗い。青いビニールシートが窓を覆っているのだ。まるで外側につけられたビニールのカーテンのように。  ——ここから出入りしていたのかもしれない。  美由紀は、ふと、外の納屋に併設されているのは、洗面所かもしれない、と思った。この部屋に閉じこもっていた井口貴明が、誰の目にもつかないように洗面所を行き来していたのではないか……。 「ずいぶん長いあいだ開けなかったから、滑りが悪かったわ」  富士子が振り返る。戸口の美由紀に言ったのではなく、座ったままの息子に話しかけたようだった。 「死んでいるんですね?」  美由紀は言った。わかりきったことではあったが、この母親に認識させるために口にせざるをえなかったのだ。死んだ息子と結婚式は挙げられない。いや、それ以前に、美由紀はすでに結婚式を挙げている。 「貴明が死んでいるですって?」  富士子はまぶしさに目を細めるようにし、首をかしげた。そして、口元を引き締めると、低い声で言った。 「死んでなんかいないわ、わたしの貴明は」 「でも……」  美由紀は、とても直視できないそれから顔をそむけて言った。死因は想像できる。首を吊《つ》ったのだろう。茶色いベルトが首に巻きついたままになっている。ベルトは、白っぽい骨がのぞいた首のまわりで緩んで、どこかの種族がつける太い首飾りのように見えている。  いくらクーラーを最強にしても、冷蔵庫の扉を開けて冷やそうとしても、つい先日まで残暑を引きずっていた時季である。死体の傷み方も激しいだろう。  ——井口貴明は、自殺したのだろうか。  母親が殺したのでなければ、自殺だろう、と美由紀は考えた。一生、この部屋にひきこもった状態でいられるわけがない。将来を悲観して、自殺してしまったのではないか。寝入りを襲わないかぎり、女の力で男の首を絞めて殺すのはむずかしい。母親が、この堅牢《けんろう》な砦《とりで》に簡単に入れたとも思えない。長年の習慣になっているのか、さっきもドアの前で声をかけて、許可を得てから入ろうとしたではないか。 「息を吹き返したのよ」 「えっ?」 「この部屋にはね、不思議な魔力があるの。最初、貴明が大学に行かなくなったときは、自分のせいかと思ったわ。姑 《しゆうとめ》の怨念《おんねん》のせいかとね。それからずっと、怨念に支配されてきたと思っていた。でも、義母《はは》は、やっぱり貴明を愛していた。貴明を生き返らせてくれたわ。もうじき、ちゃんと動き出すわ」  富士子は、祈るように両手を合わせて、変わりはてた息子をいとおしそうに見つめた。 「だって、一度、動いたもの」 「本当に……動いたんですか?」 「そうよ」 「いつ……ですか?」  胸の動悸《どうき》が痛いほど増した。聞いてはいけない、ともう一人の自分が内心で言う。聞きたくない、と美由紀も思う。が、聞かねばならない。 「昨日、パートの仕事から戻ったら、あれがなくなってたわ。車ごと。貴ちゃんが片づけてくれたのよ。この子、わたしがいないときしか行動しようとしないのよ。まだ、わたしの目に触れるのが怖いのかしら。この家に二人きりになって久しいのにね」 「何を……片づけたんですか?」  胸が締めつけられて、息ができなくなりそうだ。 「大澤拓也に決まってるじゃないの」  富士子は、にっこり笑った。 「いやああああ!」  美由紀は、両耳をふさぎ、その場にしゃがみこんだ。     5  野崎が本庁から捜査本部に戻ると、弓岡が待ち構えていた。捜査一課では、つねに複数の事件を複数の係が捜査している。設置された本部の場所も、所轄によってまちまちだ。互いの捜査状況を報告し合ったり、情報を交換するために、定期的に本庁で顔を合わせる機会を持っていた。 「どうですか? 強盗殺人事件のほうは」 「それが、振り出しに戻ったようだな」 「振り出し?」  弓岡が眉《まゆ》をひそめた。 「逮捕状を出す前で、やつらホッとしてた。誤認逮捕なんてことになったら、マスコミからも世間からも集中攻撃を浴びるからな」 「まあ、そうですね。それでなくても、警察官の不祥事が続いてますからね」  きまじめな顔で弓岡が言う。祖父も父親も警察官だったので、自分も警察官を選んだという弓岡は、弓岡家に代々伝わる「警察官は正義感を持て」をモットーにしている。警察官向きの体格を親から受け継がなかったかわりに、第六感と正義感を天から授かったと言えるだろう。 「重要参考人として引っぱった男の指紋が、本人のではなかった」 「マエがあったんですか?」 「ああ、三年前にひったくりだ」 「しかし、本人だと確認してから引っぱったわけでしょう?」 「本人が本人だと言えば、連れて来るだろうが。おまえだってそうだろ?」 「まあ、そうですが。じゃあ、誰かが身がわりになって?」 「そういうわけでもないらしいが、よくわからん。男の話がおかしいそうだ。自分自身を殺したとか、あの女と母親のせいとか。こっちが混乱しそうだ」 「あの女って、被害者のことじゃない、ってことになりますよね」 「べらべらしゃべっといて、ふっつり口をつぐむと、それからはまるで貝だそうだ。何時間でも黙っている。黙っていることが苦痛でないような男、取り調べたやつはそんな印象を受けたという」 「しゃべった内容ってのは?」  野崎は、手帳を取り出すと、それを見ながら報告した。「男の大学時代の話のようだな。鼻もちならない女だったらしくて、エリートのくせにどうとかこうとか……」  聞き終えると、弓岡は「それって、あの女に似てませんか?」と腕を組んで、天井を見上げた。カンが閃《ひらめ》く前にとる彼の行動だ。 「あの女って誰だ」 「うちのほうのですよ。岸本園美。こうやって目をつぶると、僕が描いていた岸本園美のイメージどおりの女が浮かぶんですよ。大学までは一生懸命お勉強して、社会に出てからは女を売り物にしておいしい結婚相手を選ぶ。その男、自分を殺したってのは、昔の自分を自らの手で抹殺したっていうたとえ話で、殺したのはその女なんじゃないですかね」 「岸本園美、か」  野崎は、自分に何らかの啓示が訪れるのを待ってみたが、閃きそうにないので身を乗り出した。「弓岡、おまえ、カンがよかったよな」 「ええ、まあ」  弓岡の辞書には、謙遜《けんそん》という二文字がないらしい。 「じゃあ、間違いない。うちのほうの指紋とそいつの指紋を照合するんだ」     6  ——いやああああ!  自分の悲鳴が、耳をふさいでも響いている。どのくらいそうしていただろうか。太腿《ふともも》のあたりがもぞもぞするので目を開けると、ストッキングにうじ虫があとからあとから這《は》い上ってきている。涙でそれらがかすみ、膨張して大きく見えた。  たたき落とそうとして、美由紀は手を止めた。生きている。どんなに小さな虫でも、たとえ死体に群がる虫でも、生きている。命がある。  きっと顔を上げた。井口富士子と、死体となって腐りかけたその息子、貴明がいる。遺体の状態から見て、死んでからひと月近くたっていると思われる。彼が拓也を殺せたはずがない。動かせたはずもない。  拓也を殺したのは、井口富士子だ。そして、貴明は、その富士子の息子で、美由紀の恩人だ。殺人者でも、やはり恩人の母親なのだ。 「どうしたの、美由紀さん。怖い顔して。花嫁さんは笑顔でいなくちゃ」  富士子が、美由紀に近づいて来る。足袋が畳をこする。衣ずれの音がする。 「さあ、その打ち掛けをはおって、よおく貴明に見せてあげてちょうだい」  美由紀はかぶりを振って、あとずさった。が、開いたままのドアを通り抜けた瞬間、床に落ちていた着物の絹のしなやかさに足をとられて転んだ。 「さあ、早く」  富士子の顔が近づく。 「やめて!」  後ろ手をついて、美由紀はずるずると後退した。  ぐらり、と空間が揺れたように思った。地震? 美由紀は、ハッと身を硬くした。  信じられない光景を、美由紀は目の当たりにした。  それが動いたのだ。動くはずのないものが。骨がむき出しになった死体の右手がぬっと伸びて、母親の足袋をはいた足首をがっしりとつかんだ。 「ひえっ」  富士子が小さく悲鳴を上げて、振り返る。そして、「おまえは……」と言い、苦しそうに胸をかきむしった。  最後に美由紀が耳にしたのは、「お義母《かあ》さん」という富士子のか細い声だった。  美由紀は、裸足のまま玄関から外に飛び出した。  いちばん先に目に飛び込んできた家をめざして、美由紀は夢中で走った。石ころを踏んで爪先《つまさき》に痛みが生じたが、後ろを振り返らなかった。  どっしりした石の門柱のあいだに駆け込む。広い敷地だ。二階建ての建物が、距離を開けて二棟並んでいる。  斎藤直道という墨で書いた木製の表札が掛かったほうへ、美由紀は走って行った。  玄関の引き戸に手をかけると、がらりと戸が滑った。 「すみません。誰か、誰かいませんか?」  あがりがまちにつまずきそうになり、美由紀は声を振り絞った。 「ど、どなたかね?」  右のほうの障子が開いて、老人が現れた。老人は、息せききってやって来た若い女性に驚いたらしく、口をふがふがさせた。 「助けてください。早く警察に。人が死んでいるんです。あそこの家です」  美由紀は、この老人に視線を固定したまま、富士子の家のほうを指さした。 「あそこって……」  老人の、梅干しのようにしわが寄って突き出た喉仏《のどぼとけ》が動いた。 「井口富士子さんの家です」 「おじいちゃん、どうしたの?」  美由紀が答えたのと同時に、表から中年のふくよかな女性が走り込んで来た。 「井口さんちがおかしいようだ」  老人が言った。中年の女性は、どたどたと表に駆け戻る。「ひゃっ、嫌だ、大変。井口さんちが燃えている」  胸をつかれて、美由紀は顔を振り向けた。  富士子が雨戸を開けたあの部屋の窓から、真っ赤な炎が噴き出していた。     7  逃げようともがいたが、足は動かない。手錠が足首にがっちりとはまっているかのようだ。  おそるおそるそちらを見る。水分をすべて吸い取られたミイラのような義母が、背中を丸めて座って笑っている。寝たきりで死んでいった姑だ。骨と皮だけの手首に、なぜこれだけの力が残っているのか。 「貴明……」  煙を吸って咳《せ》き込みながら、井口富士子は息子の名前を呼んだ。  ——やっぱりお義母さんは、……あなたのおばあちゃんは、わたしを井口家の嫁とは見なしていなかったのね。  薄れゆく意識の中で、彼女は自分の旧姓が「新居浜」だったことを、ようやく思い出した。     8 「一致しました。岸本園美を殺したのは、あの男です。新居浜敏樹、いや、新居浜敏樹を名乗っている男です」  岸本園美が着ていたジャケットに付着していた指紋と、「新居浜敏樹」の指紋とが一致した、と連絡を受けた野崎は、すぐに捜査本部に報告した。 「本名は何なんだ? 呼びようがないじゃないか」  平井が怒ったように言う。 「それが、わかってないんですが」 「うちのホンボシだぞ」 「新居浜敏樹は、運転免許証か何かを持っていたんでしょう? だったら、その写真で本人でないことがわかったのでは? アリバイの確認のためにも、前に一度会っているんでしょう?」  会議室の隅で、疑問が上がった。 「それだけ酷似していたってことでしょう。二人を並べて見たわけじゃない。前回は任意でしたしね。本人がいるはずだ、という先入観が邪魔したんでしょう。まあね、手術も取り違えてするご時世ですからね。  写真を見るかぎりでは本人のように見えるそうです。どちらも太ってますし、写真と顔だちも似ています。ひげを生やしているのと長い髪が写真とは違うと思ったらしいですが、運転免許の写真なんてあてにならんものでしょう。私だって、実際より醜男に撮れています。免許の写真が嫌いなために、髪を伸ばしたりひげを生やしたり、やせたり太ったりするやつもいるくらいで。前回、撮った写真も、ちょうど本人が顔に怪我《けが》をしていたとかで、頬《ほお》が腫《は》れ上がって写っています。大体、警察で撮った写真なんて、ふだんとかけ離れた人相に撮れるもんですが」 「よけいなことを言うな」  平井がたしなめて、隣にいた弓岡がちょっと笑った。 「ニセ新居浜とでも呼ぼうか。とにかく、そのニセ新居浜を連れて来て、うちのほうで吐かせてやろうじゃないか」  平井が言って、両|膝《ひざ》をぽんと打った。     9  消防車が何台も駆けつけたが、井口富士子の木造の家は全焼した。それだけ火の回りが早かったのだ。  焼け跡からは、二体の遺体が収容された。二体とも、同じ部屋で発見された。一体は、死んでから焼かれたもの、もう一体は生きたまま煙に巻かれて焼死したもの。検死の結果を待たなくても、遺体の状況からわかっていた。  美由紀は、千葉県警I署へ連れて行かれた。刑事たちは、火事に至るまでの状況について矢継ぎ早に質問を浴びせてきたが、美由紀の頭の中は、拓也がどうなったか、佳世子がどうなったかで占められていた。少なくとも、拓也のほうは……もう生きているという望みは薄い。  だが、この目で見るまでは、その生存を信じたかった。それで、「拓也と佳世子さんの行方《ゆくえ》を先に調べてほしいんです」と、誰かれかまわず泣きじゃくりながら訴えた。 「拓也は、あの家へ行って殺されたんです。佳世子さんも、たぶん、あそこへ行ったんでしょう。だとしたら、拓也と同じように殺されています」 「なぜ、あなたがあそこへ行ったのか、それを聞かなければ、二人の行方を調べようがないじゃないですか」  そう刑事に言われて、はじめて我を取り戻した美由紀だった。  美由紀は、語り始めた。一つ一つ思い出しながら、順番に。話すことで、すべてが事実ではなく物語になってしまえばいい。いや、そうなるかもしれない。そうなってほしい。そう願って、とぎれとぎれに話を続けた。  三十分、いや一時間は話しただろうか。  I署に連絡が入った。成田山付近の雑木林で、二人の男女の遺体を乗せた車を、カップルが発見したというのだ。拓也の愛車、ボルボのナンバーは刑事に伝えてあった。 「大澤拓也さん、あなたのご主人の車ですね。女性は、三森佳世子さん。あなたの捜していた女性です。持ち物から判明しました。大澤さんは、背後から鈍器のようなもので殴られたのが致命傷となったようです。女性のほうは、鈍器で殴られたあと、絞殺されていますね」  刑事の報告を聞いて、美由紀はテーブルにつっぷした。     10  高輪東署に移送されて来た男は、確かに、写真の「新居浜敏樹」とよく似ていた。データにある身長もこの男——ニセ新居浜敏樹と、ほぼ同じくらいのようだ。  刑事が容疑者と目される新居浜のアパートに行ったら、新居浜に酷似した男が本人だと認めて、応対した。偶然、被害者のものと思われる財布が彼の部屋にあった。——新居浜敏樹だと思ってしまったとしても当然だ。彼を引っぱった刑事を責められない。  だが、「この二人は違う」という目で見ると、写真の新居浜とニセ新居浜が微妙に違うのも事実である。ひげを生やし、髪が伸びた分を差し引いてもだ。 「なぜ、おまえが新居浜敏樹の家にいたんだ?」  野崎は、呼びようのない男——ニセ新居浜に質問した。岸本園美殺しのほうから攻め落とそうとしたものの、聞いていたとおり貝のように口を閉ざしてしまうので、あきらめて矛先を変えたのだった。  ニセ新居浜は答えない。 「まあな、新居浜敏樹の交友関係などを調べていけば、いずれわかることだと思うが。しかし、おまえ本人の口から聞くのがいちばんいいと思うんだ」  容疑者の取り調べには、閃《ひらめ》いた者の役得として、野崎と弓岡が指名された。 「新居浜敏樹には、兄弟は……いなかったよな」  野崎は、新居浜敏樹に関する過去のデータ——犯歴者として登録されている——を見て、言った。池袋西署でニセ新居浜がべらべらしゃべったという〈供述〉は、そっくりこちらに回されてきている。 「ということは、双子の兄か弟がいるってことでもないわけだ」  ニセ新居浜は、じっとテーブルを見つめたままだ。 「本物の新居浜敏樹は、どうしたんだ?」 「……」  ふう、と野崎はため息をついた。容疑者に黙っていられるよりは、激昂《げつこう》されるとか、わめかれたほうがまだましだ。  シロガネーゼ。ふとそんな言葉が脳裏をよぎり、野崎は口にしてみた。 「岸本園美さんは、いま流行《はや》りのシロガネーゼだったそうじゃないか」  ニセ新居浜の眉《まゆ》が、わずかに動いた。その言葉を知っていて反応したのか、まったく知らずに興味を惹《ひ》かれて反応したのか。 「T大学を出ているそうだ。大学まで一生懸命お勉強して、社会に出たら女を売り物にしておいしい結婚相手を選ぶ……。まわりの友人の話では、そういう女性だったらしい」  弓岡の受け売りだ。その弓岡が、後ろで抗議の咳払《せきばら》いをした。  はっきりと男の目と口元に、憎しみの表情が現れた。この男は、岸本園美を殺した〈動機〉に近いものを池袋西署で淡々と語っている。もう一押しすれば、陥落しそうな気がした。  野崎は、傍らの壁にある鏡に視線をやった。あちらの小部屋からは、こちらのようすが見える。岸本郁夫をあの部屋に呼んで、確認させる準備を整えている。妻につきまとっていた男だとしたら、一度くらい目にしているかもしれない。 「おまえは、岸本園美さんの大学時代の友達じゃないのか?」  男は、ぷいと横を向いた。不快な感情を表しただけ、動揺しているということだ。  何か低いうなりのようなものが聞こえた。男は、薄く笑っているのだった。 「同級生か?」  弓岡が突っ込む。 「そんなもんじゃない。少なくとも、あっちはそう思ってやしない」  男は、ここに来てはじめてまともに口を開いた。  野崎と弓岡は顔を見合わせた。弓岡が「ちょっと」と野崎に言い、ドアのほうを顎《あご》でしゃくった。  ほかの刑事にニセ新居浜を任せ、野崎は弓岡と部屋の外へ出た。 「何だ、もう少しで吐くかもしれんのに」 「二つのルートから攻めましょう。大学名簿を当たるのが早いか、新居浜の関係者を洗うのが早いか。新居浜には兄弟はいないそうですね……。では、従兄弟《いとこ》はどうでしょう」  腕を組んで天井を見上げた弓岡が、野崎に視線を戻して言った。 「従兄弟?」  妹と二人だけの兄妹だった野崎には、もう兄弟と呼べる人間はいない。それ以上に、従兄弟と呼べる存在とは最初から縁がないのだった。母の兄は独身のままなくなっているし、父の妹は結婚したが子供はいない。 「僕は従兄弟が多いんでわかるんですが、ときどきすごく似たやつがいるんですよね。ときとして、兄弟より似たやつが。どういう遺伝子のいたずらだろう、と首をかしげるくらいにね」 「じゃあ、新居浜敏樹の従兄弟?」  今度も、野崎自身はピンとくるものがない。 「弓岡、おまえカンがよかったよな」 「はい」 「じゃあ、それだ。新居浜敏樹の従兄弟を当たれ!」  新居浜敏樹の運転免許証に登録されている本籍のデータから、彼の両親の実家が判明した。群馬県沼田市。両親はすでに他界している。実家は処分されていた。が、そばに住んでいる「うちら、親戚《しんせき》じゃないんですが」と前置きした新居浜姓の人間が、「あそこの娘が千葉のほうに嫁いでいるはずです。兄のほうも東京へ出ましたが、仕事中の事故でとっくになくなっています」と電話で教えてくれた。「古い手紙を探すから」と、一時間待たされたあと、あちらから電話がきた。新居浜敏樹の父親、新居浜一郎の妹は、富士子といい、嫁いだ先が千葉県I市だという。彼女には、新居浜敏樹と同じ年頃の一人息子がいるらしい。その息子が自慢らしく、疎遠になっていたはずの彼女が手紙を送ってきたというのだ。とはいっても、もう十年以上も昔の話らしいが。  早速、千葉県警を通じて、新居浜富士子の嫁ぎ先——井口富士子の家に連絡を取ってもらった。 「何だって?」  電話を受けた弓岡が、呆然《ぼうぜん》としたように受話器を耳から離した。 「井口富士子の家が……燃えちまったそうです。ほんの今日。焼け跡からは、富士子と思われる女性の遺体と、成人男性と思われる遺体が発見されたそうです。一人息子の、井口貴明でしょうか。男のほうは、かなり前に死んでいると思われるとのことです。自殺なのか、殺されたのか、事故なのか……」  弓岡は、わかりません、というふうにかぶりを振った。     11  新居浜俊樹と井口貴明は、入れ替わっているのかもしれない。とすると、死んだのは井口家にいた新居浜俊樹のほうで、目の前にいるのは井口貴明だ。  取り調べ室に戻って、野崎は横を向いたままの男に突きつけた。 「おまえは……井口貴明だな?」  男は、視線を宙にさまよわせた。 「なぜ、入れ替わったんだ?」  男は答えない。  野崎は、ちらりと腕時計を見た。彼女——高谷美由紀が到着するまではまだ少し時間がかかりそうだ。岸本郁夫には確認させたが、見たことのない男だと言った。妻の持っている写真の中にも見当たらないという。  実家が燃えてしまったこと、その焼け跡から二人の遺体が見つかったことは、まだ男に話していない。電話で彼女に「わたしが井口貴明に会うまで、言わないでほしい」と頼まれたからだったが、野崎としても男がショックを受けて混乱してしまう事態を恐れた。  出火原因は、直前に現場を逃げ出した彼女の話によると、遺体が発見された部屋にあった何本ものアロマキャンドルらしい。それを井口富士子は、お香とともに死体の匂《にお》い消しのために使っていたらしいというのだ。富士子が雨戸と窓を開けて、久しぶりに部屋の空気を入れ替えたとき、風が起きてアロマキャンドルの炎がカーテンに……という推理を、現場の状況から見て消防署員や県警署員たちもしているらしい。  高谷美由紀は、電話で奇妙なことも言った。 「もしそこにいるのが井口貴明だとしたら、彼はわたしの恩人です。会えばわかります」と。  井口貴明の実家は全焼してしまっている。この男を井口貴明だと認識する手がかりが、いまのところ何もないのだ。彼自身が自供しないかぎり。  ——みゆき……。  野崎のなくなった妹と、同じ名前だ。野崎がいちばん、高谷美由紀の到着を待ち望んでいるのかもしれなかった。  夜中に到着した高谷美由紀は、泣きはらしたように目が赤かった。まず男の顔を確認するために隣の小部屋に入った。が、「正面から目を見なければわからない」と言う。「ひきこもっていたあいだに、あんなに太ったんですね」とも驚いていた。 「直接、容疑者と会わせるのは……」  接見をためらった平井に、「家族もいなければ、家も消失したんですよ。彼を井口貴明とする決めてが何もありません。彼女と会わせたら、動揺して自供する気になるかもしれません。焼けこげた遺体のほうは、たとえ新居浜敏樹だとしても、指紋が採取できません。本人かどうかの確認にかなりの時間がかかるんじゃないでしょうか」と、野崎は強く言って押しきった。 「おまえに会いたがっている女性がいるんだが」  野崎は、取り調べ室のドアを開けて、男に言った。  ふっと彼は頭を起こした。 「おまえのことを恩人と言っている。小学生のころ、川に落ちたのをおまえに助けられたそうだ。高谷美由紀さん。憶えがあるか? もっとも、おまえが……井口貴明ならば、の話だがな」  彼は、不安に満ちたようにも、期待に満ちたようにも見える、不思議な表情を一瞬作って、唾《つば》を呑《の》み込む。  高谷美由紀が、弓岡に連れられて入室した。  野崎は、自分が取り調べのために座る、男の正面の椅子《いす》を勧めた。  美由紀は、男の真正面に座った。肩が震えているのが、後ろから見てわかる。「愛する人を二人、失ったばかりで、かなり憔悴《しようすい》しているようです。無理なことはさせないように」と、I署からの申し送りがあった。 「お久しぶりです」  美由紀は、肩と同様に震える声で言った。「井口貴明さん……ですね? 二十年前、あなたに助けていただいた高谷美由紀です」  男が目を見開いた。 「大人になってから、ひとことお礼が言いたかったんです。いままでできなくて、ごめんなさい」  男の見開かれた目が、涙で潤んだ。それを見せまいとするかのように、彼は強くかぶりを振る。何度も何度も。 「本当に……俺《おれ》がわかるのか?」  男は聞いた。 「はい」  美由紀は言った。「忘れるはずがありません。あなたに助けられなければ、わたしは死んでいました」  沈黙がたっぷり一分ほど続いた。  突然、男が「うわあ!」と叫んで、頭を抱え込んだ。野崎は危険を感じて、とっさに美由紀をかばって抱えた。その瞬間、美由紀の身体からどこか懐かしい——妹に似た匂《にお》いが立ち上った。  男は、暴れたりはしなかった。ただ、テーブルにつっぷして、号泣していた。 「おふくろを犯罪者にはしたくなかった。だから、俺は……部屋にあった死体を片づけてやったんだ。……女のほうは、俺の聖域に入ろうとしていた。だから……」 「もういいでしょう。行きましょう」  野崎は、美由紀の腕を取った。彼女も静かに泣いていた。     12  実家が全焼し、母親ともう一人、成人男性と思われる死体が発見された、と知らされたあとの井口貴明は、堰《せき》を切ったようにすべてを自供した。  新居浜敏樹がうちに来たのは、偶然なんかじゃない。あいつは、自分に従兄弟《いとこ》がいると母親から聞かされていたんだ。うちの住所もね。しかし、新居浜の家とはつき合いなんてまったくなかった。だから、俺は知らなかった。俺がT大学に入って浮かれたおふくろが、知るかぎりの親戚《しんせき》や知人に、ハガキの一枚でも送りまくったんだろう。  あの日、いつものように俺はぼんやりと部屋で過ごしていた。おふくろが出かけているのは気配でわかる。廊下に足音がした。おふくろの足音じゃない。  ——泥棒かもしれない。  この家は、雨戸を閉めっぱなしで、留守だと思われて当然だ。俺はとっさに鍵《かぎ》を開け、ドアの陰に隠れた。護身用のバットを持ってね。体力は結構、つけていたつもりだったけど、いかんせん外に出ない。ストレスから食べすぎて、別人のように太ってしまっていた。 「誰だ?」  俺がバットを振り上げて聞くと、あいつは腰を抜かしそうになった。 「ど、泥棒じゃないよ。あんたの従兄弟だよ。新居浜敏樹。勝手口が開いていたから入って来ちゃったのさ」  あいつは、こうやって手で自分の顔をかばいながら、しどろもどろになって答えた。おふくろの旧姓が新居浜なのは、俺も知っていた。  あいつの姿を見て驚いたよ。鏡に自分が映っているかと思うくらい、背格好がよく似ていた。思わず、二人で笑っちゃったくらいにね。あいつのほうは髪が少し短かったが、ひげは生やしていた。  いちおう、あいつに運転免許証を見せるように言ったが、俺は警戒していた。本当に勝手口が開いていたから入ったのか。しかし、たとえ開いていたとしても、黙って入るのは泥棒だ。従兄弟だからって許されるものじゃない。  ——こいつは、金目のものを盗みに来たな。  案の定、あいつは「金を貸してくれないか」と言ってきた。「金なんかない」と俺は答えた。するとあいつ、新居浜は、部屋を物色するようなまねをし始めた。そして、にやにやしながらこう言ったのさ。「自分の部屋に、冷蔵庫だのテレビだの置いてさ、真っ昼間だってのに雨戸も開けないで、そっちの窓にはへんてこなシートなんかかけて、ドアの前には椅子《いす》なんか置いちまって、まるでここは要塞《ようさい》じゃないか。ほこりはたまっているし、何だかくさいし。これがT大出たエリートの部屋か? オタク学生と変わらないじゃないの。それとも、ひょっとしてあんた、いま流行《はや》りのひきこもりか何か?」  部屋がくさい、と言い、あいつは口に手を当てて笑った。それで、俺はカッとなった。あいつを突き飛ばした。 「おまえみたいな不良は帰れ!」  あいつも応戦して来た。思いきり突き飛ばされた弾みで、あいつは後頭部をバーベルに打ちつけて……。  どう始末しよう。こいつがここに来たのは誰も知らない。俺たちは背格好がよく似ている。顔に傷でもつければ、微妙な顔の違いもわからなくなるかもしれない。  俺は、自分を殺せる、と思いついた。無意味な自分の存在を抹殺してしまえる。その思いつきに、俺の胸は弾んだ。ついに、この部屋から出て行かれる。不思議な勇気が体内に湧《わ》いた。  首を吊《つ》ったように見せかけるために、ロープをやつの首に回して、梁《はり》から吊した。古い家だからできることさ。ぎゅうぎゅう首を絞めたら、顔が赤から紫色になって、人相もすっかり変わった。  おふくろはどうするだろう。息子が自殺したと思って、しばらくは悲しむかもしれないが、厄介払いができたと思って、意外に早く立ち直るかもしれない。葬式を出すだろうか。それとも、母親だ。いくら長年、まともに顔を見ていないとはいえ、息子ではないと見抜くだろうか。  半ば期待するような気分で、俺は新居浜が持っていた免許証の住所へ行くことにした。外にはあいつの車らしい小型車が停まっていたよ。アパートの鍵と一緒に車のキーも、あいつのズボンのポケットに入っていた。どこかで盗んだのか、万札も何枚か突っ込んであった。  高田馬場のアパートだった。しばらくは息を潜めていた。新居浜敏樹でないと、誰かに気づかれるかもしれない。だが、新聞配達員に気づかれなかったことで自信がついた。不思議な解放感に包まれた。その解放感が、俺を別人のように行動的な人間にしてくれたんだ。井口貴明という呪縛《じゆばく》から俺は解き放たれた。それで、気分がハイになって、何でもできるような錯覚に陥ったのか。あの女への憎しみが募り、殺意が高まって、とうとう実行してしまったのさ。  岸本園美は、俺を十年以上も幽閉する原因になった女だ。 「俺を憶えているか?」  そのひとことを突きつけたかったのかもしれない。  しかし、あいつは……。あんたみたいな人種、知ってるわけないじゃないの、という顔をした。おまけにまた、鼻をすすりやがって。  そうか、そんなに俺《おれ》がくさいのか。じゃあ、二度と匂《にお》わないようにしてやるよ。  岸本園美の住所は、どうやって調べたかって? 同窓会名簿だよ。T大法学部のね。名簿を調べるために、いくつか業者に当たったよ。ひきこもっていた俺が、一転、探偵業だ。笑っちゃうだろ、これも。園美って名前は珍しいから、案外、簡単にいまの住所が調べられたよ。旦那《だんな》も「東京在住の外科医リスト」ってのに載っていた。  ナイフは、新居浜敏樹の部屋から持ち出したものだ。山の中に捨てた。  持っていた金はすぐに尽きた。部屋の中から金をかき集めたが、わずかしかない。家に調達しに行こうか、と思った。笑っちゃうね、まったく。今度は、新居浜敏樹になった俺が、井口貴明の家に忍び込むのさ。まあね、鍵はもともと持って出たけどさ。俺の死体をおふくろがどうしたのかも気になった。普通に考えれば、首吊り自殺した息子の葬式を出すところさ。  だが……。おふくろは狂っていた。俺が徐々に、長いあいだかけて、おふくろを狂わせてしまったんだ。死体が腐らないように、匂わないように、考え得るかぎりの処置をして、俺がまるでそのうち生き返るかのように祀《まつ》っていた。そう、あれは……祀っていたのさ。死体に、俺が大事にしていた額を添えてね。高校一年生のときに消防署から贈られた表彰状を入れた額だよ。  おふくろには、あれだけが誇りだったのさ。心のよりどころだった。俺が大切にしていたのを知っていて、あのときの少女——高谷美由紀への妄想をふくらませてしまったんだ。すべて……俺のせいだよ。おふくろが、本当に自分の息子だと思い込んでいたのか、うすうす別人だと気づきながら、自分の息子だと思い込もうとしていたのか、いまとなっては知るすべはない。  どうしようもなかった。あの家に〈俺の死体〉があることを警察に通報したかったが、そんなことができるわけがない。迷っているうちに、どんどん時間がたっていく。新居浜敏樹としての生活もある。幸い、あいつは当時は失業中のようだったけどね。  次にうちに行ってみたら、見かけない車が敷地内に停まっていた。おふくろはいないはずだ。おふくろがいつ家にいて、いついないかは、長年の習慣でわかっている。家に入ると、新居浜の死体の腐臭とは違う、もっと新鮮な腐臭が漂っていた。奥座敷に入ってそれを発見し、仰天したよ。男の死体があった。それが、高谷美由紀の夫だったなんて、思いもしなかった。  ——大変だ。殺《や》ったのはおふくろに違いない。俺ばかりか、おふくろまで殺人者になっちまった。どうしよう。  迷っていたら、庭のほうで物音がした。気づかれないように後ろから近づいた。用心のため、バットを手にしてね。  女がシートの中をのぞこうとしていた。  ——こいつは何か探っている。このままだと、死体が発見されてしまう。  俺は夢中で、バットで女の頭を……。  そして、停めてあった車で二人の死体を運んだのさ。  新居浜敏樹も俺も、結局は同じだったんだな。同じように汚れている。  だが、違う点が一つある。俺のほうがやっぱり頭がいいのさ。凶器や犯人の持ち物は、ちゃんと捨てるもんだよ。俺は捨てた。が、やつは財布を部屋にしまっておいた。捨てる場所がなかったのか、単純に横着しただけなのか。  しかし、やっぱり同じ穴のムジナか。俺も指紋を残した。  …………  俺が昔、少女を川で救ったことを裁判に、だって? 高谷美由紀がそう言ってる?  バカ言っちゃ困りますよ。そんなので情状酌量だなんて、まっぴらですよ。  あれは……昔の話です。俺はもう、あのときの俺じゃないんです。少女を助けた井口貴明は、とっくに死んだんですよ。あの密室の中でね。  エピローグ     1  ヨーロッパの片田舎にあるような落ち着いたたたずまいのレストラン。赤と白のギンガムチェックのクロスがかかったテーブルについて、美由紀は待っていた。壁の時計は、木製の丸い鳩時計だ。チェストには小花がペインティングされた色とりどりの皿が並び、花瓶には野に咲く可憐《かれん》な花が生けられている。店内はすべて、カントリー調のインテリアでまとめられている。  インテリア・デザイナーの大澤曜子なら絶対に選びそうにないプランだわ、と思って美由紀は店内を見回した。彼女は、食事をする空間にチェック柄を使うのを少女趣味だと言って嫌うのだ。しかし、美由紀自身はこちらのほうが好きだった。  開店直後で、店内にはまだ美由紀しかいない。  拓也の四十九日を終えたばかりだ。 「四十九日までで、それ以降は遠慮してちょうだい。お墓参りするな、とまでは言わないわ。でも、わたしの目に触れないようにしてね」  大澤曜子には、そうはっきり言われた。「大事な一人息子をあなたのせいで殺された」と……。反論はできなかった。自分が原因と言えばそうなのだ。ひたすら詫《わ》びて、許しをこう以外にない。大事な息子を奪われた喪失感と悲しみが、そんな形で少しでも癒《いや》されるのなら、美由紀はどんなに憎しみをぶつけられてもかまわなかった。拓也を通してしかつながっていなかった二人の女の関係を、美由紀は実感させられた。  いまとなれば、拓也がなぜ井口富士子の家へ行ったのか、想像するしかない。佳世子の場合は、彼女の直感に従ったのだろう、と美由紀は推理する。実際、あの焼けてしまった富士子の家には、青いビニールシートがあった。佳世子はそれを確かめに行ったのかもしれない。カンのいい佳世子のことだ。もしかしたら、拓也の行方《ゆくえ》を追って乗り込んで行ったのかもしれない。  大きめのグラスでペリエを飲んでいると、この店の女主人が現れた。美由紀は席を立ち、「こんにちは」と言った。  十九年ぶりに再会した母親、一ノ瀬京子だった。 「こんにちは。よく来てくれたわ」  顔を見た瞬間より、声を耳にした瞬間に、美由紀は懐かしさで胸が詰まった。くっきりと耳に残っている母の声だ。 「母を訪ねるのなら、お店のほうがいいわ。甲府でレストランをやってるのよ」  そう教えてくれたのは、茜だった。京子は、勝沼のほうにもレストランを持っているという。再婚した夫が実業家で、ワインの店やレストランを手広く経営していたが、数年前になくなって京子がすべて引き継いだのだという。女一人では背負いきれないと思われた部分を潔く処分し、いまはこぢんまりと経営しているらしい。 「茜からあなたの講演を偶然聴いたことは、聞かされてたわ。でも、『お姉さんのほうからそのうち、絶対に来るわ。それまで待って』と言われていたし、わたしも待っていたの」  ——母は、こんなに年を取っていただろうか。  客商売だからきれいに化粧はしているが、目の下には隈《くま》ができ、肌もくすんでいる。美由紀は、母の女盛りを知らずに過ごした十九年を、たまらなく取り戻したい気持ちにかられた。それは、それらを知っている茜への嫉妬《しつと》にも通じた。 「一つだけ聞きたいことがあって、来ただけです」  それで、そっけない言い方になったのかもしれない。  京子は、不安そうに眉《まゆ》を寄せた。 「どうして、わたしを置いて出て行ったんですか?」  当時の京子には、生活力がなかったわけではない。保険の仕事が軌道に乗ったころで、子供一人くらい連れて出て行く余裕はあったはずなのだ。現に、そうやって子供を連れて出る母親はたくさんいる。  質問を予想していたのか、京子は吐息を漏らして、小さくうなずいた。 「お父さんのところにいたほうが、あなたのためだと思ったからよ」 「……」 「あの人のそばにいたほうが、あなたの芸術的な才能が伸ばせると思ったの」  ——そんなことで、子供を手放すの?  という言葉が喉元《のどもと》まで出かかったが、京子の毅然《きぜん》とした勢いに気圧《けお》されたようになって、美由紀は黙っていた。 「美由紀、あなたはいつも一人で絵を描いていた。タッチはお父さんにそっくりだったわ。自分のわがままで、あなたの才能をつぶしたくなかったの。お父さんの才能も」  あのまま一緒にいたら、夫の才能までつぶしてしまったということなのか。 「あのころのわたしは、ひどく俗物だったわね。曲がりなりにもいまはオーナーだから、よそと違う特色を出すためにアイディアや閃《ひらめ》きがいかに大切かがわかる。偉そうに聞こえるかもしれないけど、創造の楽しみというのかしら。でも、あのころは、生活を安定させ、充実させることがすべてだった。それなのに、お父さんは、美由紀が小学校に入ったと同時に教師を辞めてしまった。安定した基盤を失うのが、どれほど怖かったか。でも、お父さんはお父さんで、教師をしながら画家としての才能を伸ばすことに限界を感じていたんだわ。それを、若かったわたしはわかってあげられなかったのね」 「……」 「冷酷な母親だと恨んでいるでしょうね。自分でも、なぜあんなふうにすべて捨てられたのか、不思議に思ったくらいよ。あなたのことは目に入れても痛くないくらい可愛《かわい》かったのに。でも……捨てられた。あなたの才能を引き出して伸ばす自信が、なかったせいもある。だけど、それだけじゃない」 「それだけじゃないって……?」 「あの事故のおかげよ」 「事故?」 「小学校一年の夏、わたしが連れて行ったところで、あなたは川に落ちた。ちょっと目を離した隙《すき》にあなたの姿が見えなくなったのよ。あのとき、わたしは離婚の相談で、古い知り合いを訪ねていた。深刻な話になったんでしょうね、ふっと心に隙が生じた。そのあいだのわずかなできごとだったわ」  離婚の相談? そんな事情は、いまはじめて知った。 「知り合いもあと半年ほどで、家を建ててよそへ引っ越すと話していたときだったわ。だから、もう二度と訪れる予定もない場所だった。そんな場所で、あなたは……。奇跡的に高校生の男の子に助けられた。どんなにその子に感謝したことか、どんなに幸運に驚き、神に感謝したことか。とにかく美由紀、あなたは助かった。それで、私の決意が固まったのかもしれない」 「……」 「どんなことがあっても、わたしがいなくても、この子は大丈夫。類稀《たぐいまれ》な強運の持ち主だ。この子は、まわりに助けられて何とか一人でやっていける。言い訳に聞こえるかもしれないけど、わたしは自分の胸に言い聞かせた。そして、一年待って家を出た。いろいろ準備することもあったしね」 「再婚した一ノ瀬さんとは、家を出る前からつき合っていたの?」  京子は、首を横に振った。 「甲府に来て、レストランを手伝うようになってからよ。いつか雑誌で見たワイナリーの記事が頭の隅に残っていたのね。まるで少女じみた夢だけど、わたしにもやりたいことがあったのね。ワインに囲まれた仕事がしてみたかったの」  京子は、テーブルの上で指を組み合わせた。両手の指にいくつも宝石がはまっている。レストランのオーナーにふさわしい指輪だ。 「わたしが思ったとおりだったわ。美由紀、あなた、大変な病気になったんですってね。骨髄移植を受けたそうね。知っていたら、どんなことでもしてあげたのに……。でも、元気そうじゃない? 今度も、天はあなたを見放さなかった」 「いちおう移植は成功して、あとは通院でようすを見ているわ」 「そう」  京子は、泣き笑いのような表情を作った。心配だけど、寂しい顔を見せたくないから微笑《ほほえ》む、というふうに。自分が風邪をひいて寝込んだとき、お母さんはこんな表情で枕元《まくらもと》にいたっけ……。遠い記憶から、一場面が切り取られたようによみがえってきた。 「あのときの高校生のことは?」  井口貴明のことを聞いてみたかった。 「家を出る以上、過去を引きずっていては捨てて来た家族に失礼だと思ったのね。アルバムも何もかも置いて来てしまった。だから……忘れたわ。確か、タカ何とかっていう名前じゃなかったかしら」  名前を思い出す瞬間、京子の瞳《ひとみ》が輝いた。 「貴明」  美由紀は言った。 「そう、そうだったわね。美由紀、あれからお手紙出したの? お母さん、新聞の切り抜きも全部、アルバムに貼《は》って置いて来てしまって、何も知らないのよ」  わたしのために思い出はすべて置いて出たのだろう、そして、そのうち本当に忘れてしまったのだろう、と美由紀は思った。 「手紙は出さなかったわ。何だか恥ずかしかったし、向こうもてれくさがるだろうと思って」 「そう。薄情な母娘よね」  京子は笑った。「恩人なのにね」 「恩人、か。恩人は、……いつも、そばにいてくれる人のことを言うのよ」  いてくれる、のではない。いてくれた、のだ。拓也と佳世子。大切な恩人を二人、美由紀は失ってしまった。  食事をして行きなさい、と引き止められたのを、美由紀は辞退して店を出た。とうとう最後まで、事件のことについてひとことも話さなかった。井口貴明の名前を忘れている京子である。新聞で事件の報道を目にしたとしても、よほど注意して読まなければあのときの〈恩人〉だとは気づかないだろう。記事には、美由紀の名前は登場していない。茜が話していないのだから、美由紀と大澤拓也の関係など知るよしもない。 「さようなら」  歩き出すと、京子が「美由紀」と呼び止めた。  せっぱ詰まったような顔で、京子は立っていた。 「何か困ったことない? 遠慮しないで言ってちょうだい。お金のことでも何でも。いまなら……一緒に暮らせるのよ」 「心配しないで。わたしは一人で大丈夫。デザイン会社の仕事も見つかったし」  美由紀は、腕を上げて力こぶを作るまねをしてみせた。「だって、強運の持ち主なんだもの。お母さんがそう言ったじゃない」  十九年ぶりに呼んだ「お母さん」だった。     2  墓参りを終え、八王子から乗った列車内で、野崎は見知った顔を見つけた。  高谷美由紀だった。  胸が高鳴る。話しかけようかどうかしばらく躊躇《ちゆうちよ》した。  ——彼女……かもしれない。  高谷美由紀と殺された三森佳世子の関係を知ったときから、野崎は、美由紀が自分が骨髄液を提供したレシピエントかもしれない、と思っていた。  今年のはじめに骨髄移植を受けている。そして、二十七歳という年齢。あの手紙の内容とも、自分の推理とも合致する。  しかし、レシピエント・コーディネーターの三森が担当していたケースは、高谷美由紀だけではないだろう。  ——みゆきという名前から、勝手に妄想をふくらませているだけかもしれない。  これじゃ、井口富士子と変わりはない。  だが、話しかけるだけならいいだろう。 「お久しぶりですね。どちらへ?」  野崎は、空いている彼女の隣の席に座った。  ハッとしたように美由紀が向く。口元がほころんだ。 「野崎さんこそ、どちらへ?」 「休みをとって、妹の墓参りに」 「妹さんの?」 「子供のころ死んだんです。骨にできたガンがもとでね」 「骨のガン……。それはお気の毒に」  美由紀の表情が曇った。彼女の言葉に、同じようにつらい病気を体験した人間としての同情や共感が含まれているような気がした。 「高谷さんは、お仕事ですか? それとも……」  ご旅行ですか、と聞こうとして、彼女の荷物の少なさに気づいた。 「列車に乗って、ぼんやり景色を見てみたかったんです。途中、雪景色が見えたんですよ。もう十二月ですものね」  野崎さんもごらんなさいよ、というふうに、美由紀は窓の外へ顔を戻した。 「時間が忘れさせてくれますよ」  野崎は、彼女の横顔に言った。  わずかに首をかしげて、美由紀が野崎を見た。 「わたしのことを心配してくださっているんですか? 大丈夫です。わたしは……」 「わたしは?」 「いえ、何も」  何を言いかけてやめたのだろう、と野崎は気になった。  すると、しばらくたって「楽天家ですから」という答えが返ってきた。 「楽天家というと……血液型はB型ですか?」  胸の高鳴りが強まってくる。 「わたしは、お……いえ、そう、B型です」  美由紀は言って、首をすくめた。「野崎さんは?」 「僕もです」  おかしなほど、はしゃぎたい気分になっている。たかが、血液型が一緒なくらいで。  骨髄移植を受けたレシピエントは、大体半年から一年かけて、ドナーの血液型に変わっていくものだという。美由紀が移植を受けてから、あとひと月で一年になる。  ——高谷美由紀が俺《おれ》のドナーだったら……。  野崎の血液型のB型に変わったことになる。だが、もともと彼女がB型だった可能性も、もちろんある。  野崎は、あの手紙を取り出すために、上着の内ポケットに手を伸ばした。 角川文庫『招待客』平成11年12月10日初版発行          平成12年12月20日4版発行