新津きよみ 愛読者  プロローグ   1  鏡の中の自分を見て、坂井美佐《さかいみさ》は、ついさっき「茶色い」と言われた髪の毛に指を触れてみた。髪質は、細く柔らかい。軽く天然パーマがかかっている。  ——本当に、茶色いのだろうか。  自分ではよくわからなかった。光の加減で、頭頂部の少し下あたりが白っぽく見えることがあるから、他人の目にはかなり茶色っぽく映っているのだろう。とりわけ、クラスの男子の目には。 「まあ、この子は目が茶色いだいね。外人の子みたいだに」  ここに越して来てすぐ、近所のおばさんに顔をのぞきこまれた。  読んだ本の中に、「色素の薄い子」という表現があった。美佐は、自分のように色白で、小鼻の脇《わき》にほんの少しそばかすが浮き、髪の毛や瞳《ひとみ》の色が茶色い子を指すのではないか、と思った。生まれつき、人よりちょっとばかり髪の毛や瞳が茶色いだけで、からかわれる理由になるのか。理不尽だと憤ったが、理不尽じゃないの、と突きつける勇気は、転校して来たばかりの少女にはなかった。  トイレを出ると、図書室へ続く螺旋《らせん》階段を昇った。いつもこの階段を昇るときはどきどきする。膨大な書物。むせかえるような紙の匂《にお》いが押し寄せてくる。その匂いを嗅《か》ぐと、陶酔感に包まれた。美佐は、言いたいことを喉元《のどもと》で呑《の》み込んでしまうかわりに、自分の内的世界に思いきり吐き出すことを覚えた。  一冊の本との出会いが、一人の上級生との出会いが、彼女を強くした。  図書室のガラス扉が見えて来た。そこには、三年生の仁科柚子《にしなゆずこ》が待っている。本がとてもよく似合う少女。文学少女、という言葉は、彼女のためにあるのかもしれない。  返却期限より二日早く返しに来た本を抱えて、美佐は、〈書物の王国〉へ通じる扉を押し開けた。   2  ——人生を決めたあの本・あの人——   『中学校の図書室で』               仁科|美里《みさと》(作家)  中学時代のわたしは、いじめられっ子だった。どのようにいじめられたのかは……言いたくない。こう書くと、ひどく暗い学校生活を送ったように思われそうだが、けっして嫌なことばかりではなかった。それなりに楽しいこともいっぱいあったのだ。いじめ自体もいま振り返ると、さほどひどいものではない。それなのに、やはり内容は書きたくないのだから、卒業して十六年たっても、人間ってなかなかふっきれないものらしい。 「どうして、そんな悲しそうな顔してるの?」  ある日、図書室で声をかけてきたのが、上級生のYさんだった。  胸の名札を見た瞬間、わたしはどぎまぎしてしまった。とてもよく知っている名前だったからだ。  魅力的な題名に惹《ひ》かれて、何冊か手に取ってみた本の貸出カードの、ほとんどすべてに彼女の名前があった。  ——本好きな人がいるんだなあ。  物語の主人公のような、整った凜《りん》とした響きの名前を、わたしはとても意識していた。だから、不意に話しかけられたときはうろたえた。名前のように美しい、聡明《そうめい》で知的な上級生。 「これ、読んでみたら」  Yさんが勧めてくれたのが、木梨守《きなしまもる》の『第三の扉』(自在社)だった。その人に死期が迫っているのを読める特殊な能力を持つ少女が、さまざまな事件に巻き込まれ、解決するミステリーである。わたしはたちまち、その本のとりこになった。 「ねっ、おもしろかったでしょう?」  読み終えたころ、Yさんは図書室で待っていた。 「本の数だけ世界がある。そう思うと興奮しない?」 「本を読んでると、自分をからかう人たちが、すごくちっぽけな存在に見えない?」  わたしは彼女から、本を読むことで現実から逃避する楽しさを教わったのだ。Yさんとは、図書室で顔を合わせて話すだけの仲だった。話題も本に関することに限られた。家庭や学校で辛《つら》いことがあっても、本の世界へ逃げ込めば大丈夫。そうやって、Yさんが卒業してからの学校生活も何とか乗り切れた。  逃避する遊びの楽しさは、自分の創造した世界で遊ぶ楽しさへと発展していった。  わたしがこうして、まがりなりにも物書きの仲間入りができたのも、Yさん、あなたのおかげです。Yさんは、まさにわたしの恩人である。   3  拝啓 仁科美里様、こんにちは。初めてお便りします。わたしは、仁科美里先生の愛読者の一人です。  ……と書きながら、居心地の悪さを覚えてしまいます。封筒の裏に名前を書きましたが、カンのいいミサちゃんです。もうお気づきでしょう? 柚子なんて名前は、そう多くないですものね。  仁科先生と呼ばずに、ミサちゃんと呼ぶのを許してくれるかしら。仁科……と書くと、背中がむずむずしてくるんですもの。仁科はわたしの旧姓。ミサちゃんが、わたしの旧姓をペンネームに採用してくれたなんて、本当に感激です。  もうおわかりでしょうけど、飯森《いいもり》柚子の旧姓は、仁科柚子です。長野県|上田《うえだ》市立|掛布《かけふ》中学校の三年二組にいたあの仁科柚子です。わたしのことなどとっくに忘れていると思っていたのに、先日、近くの書店で何げなく手に取った『新刊だより』をめくり、ミサちゃんの書いたエッセイを見つけてびっくりしました。  ミサちゃんが小説家になったのは、知っていました。小説雑誌『ベスト・マガジン』の短編コンテストに入賞したのが一昨年《おととし》でしたよね。あそこに、本名と出身地、生年月日が載っていたので、仁科美里がミサちゃんだとわかったんです。それからいくつか短編を書き下ろして、昨年末、受賞作を収めた初の著書『スープが冷めたら』が出版されたのよね。すぐに買って、夢中で読みました。  これがあの「ミサちゃん」が書いた小説なのかと思うと、読みながら何だか涙が出てきてしまって。血なまぐさい殺人が出てこない、ほのぼのとしたすてきなミステリーですね。やっぱりあのミサちゃんだ。幻想的な、夢のあるお話が大好きだったミサちゃんは、清らかな少女の心を持ったまま大人になった。そう思って胸が熱くなりました。  実は、ミサちゃんが受賞した直後にお手紙を出そうかどうしようか迷ったんですが、受賞直後は何かとあわただしいし、次作を書かねばというプレッシャーもあります。ミサちゃんの周辺を騒がせたくなくて、遠くから——と言っても、わたしはいま都内に住んでいます。結婚して名古屋にいましたが、都内に越して来ました——応援するだけにしようと決めました。それに、ミサちゃんにはたぶん、わたしより若い読者からたくさんファンレターがきていることでしょうし、三十三歳のわたしが遠い昔、文学少女だったころを思い出して、好きな作家にしこしこ手紙を書くのが気恥ずかしくもあるんですよ。  でも、あのエッセイを読んで、気が変わったの。思いきってファンレターを出す決心をしました。この手紙は、『スープが冷めたら』の出版元、さくら書房|宛《あて》に出しましたが、無事お手元に届いているかしら。それが心配です。編集者が怪しまないように、封筒の裏に、住所と電話番号、それに年齢も、主婦であることも明記しました。  お暇なときでいいですから、お返事いただけたら嬉《うれ》しいです。本当に、時間ができたらでいいんですよ。わたしに手紙を書くための時間を、無理して割く必要はないんです。何より執筆を優先させてください。  それにしても、「Yさんは、まさにわたしの恩人である」という一文は、胸に深く染み入りました。思わず「いえいえ、めっそうもない。ミサちゃんが作家になれたのは、わたしのおかげなんかじゃないって。ミサちゃん、すべてあなたの実力と努力の結果よ」とつぶやいていました。  本当にそうですよ、ミサちゃん。あなたは才能にあふれたすばらしい人です。わたしは、ミサちゃんが作家になったことを、自分のことのように嬉しく思っています。あのころ、「この人は将来、小説家になるんじゃないかな」という予感があったんですよ。十五歳の自分に見る目があったのを、ちょっと自慢したい気持ちです。  エッセイの近況紹介にありましたが、初の書き下ろし長編に燃えているんですってね。がんばってください。励ますだけじゃなくて、本当は少しでも力になれるといいのだけど。自慢じゃないけど、わたし、本だけはたくさん読んでいるつもりです。助言できることがあれば……と思うのですが。ミサちゃんには頼りになる編集者がきちんとついているでしょうし、専門外のわたしが口を出すのもおかしなものですが、ほしい資料などあれば揃《そろ》えてあげられるものもあるかと思います。遠慮なく言ってくださいね。時間がなくて各地を取材できないときは、わたしが情報を提供します。少なくとも、名古屋だけは、ミサちゃんよりくわしく知っているのではないかと自負していますので。  では、書き下ろし、はりきって書いてください。一読者として、「仁科美里」が押しも押されもせぬ大作家になる日を心待ちにしているわたしです。季節の変わり目ですが、風邪などひきませぬように、どうぞご自愛ください。                      かしこ                       柚子   4  前略 紅葉が美しい季節になりました。仁科先生にあられましてはいかがお過ごしでしょうか。はじめまして。僕は某雑誌に発表される仁科先生の小説を愛読している者です。貪《むさぼ》るように拝読しています。ですから僕の雑誌はもうぼろぼろです。ところどころシミができています。仁科先生に僕のそのシミをお見せしましょうか。乾いてバリバリ音がするんです。甘酸っぱいような匂いもするんです。ああああ仁科美里様仁科先生美里先生美里様。僕この名前が大好きです。あっちの名前はやめてこっちの名前にしたほうがずえったいにいいですよ。超かっこいいです。お願いですぜひぜひカミングアウトしてくださいぜひぜひ。仁科美里様愛しています。先生の小説を読むと僕はボッキします。このあいだなんか三度もイッテしまいました。先生頑張ってもっともっと長い小説を書いてください。そしたら僕は百回もイクことができます。お願いします。僕は先生のその赤い唇がその柔らかそうな茶色い髪が透き通るように白い肌がくびれた腰が突き出たバストが愛《いと》しくてたまらないのです。先生の小説の中で僕はいつも先生と交わっています。そのときの貴女《あなた》はとても素敵です。次作を鶴首《かくしゆ》してお待ちしております。応援しています仁科美里先生。                       草々                       愛読者より     1  仁科美里は、待ち合わせの場所へ急いでいた。約束の時間より十分早く着くように家を出て来たのに、車両故障のために電車が遅れてしまった。デビューして丸二年。「仁科美里」としての著書がまだ一冊の彼女には、会うだけ会ってみようと接触して来る出版社は多い。初対面の相手に、小説以外のことで悪い印象を与えたくはなかった。時間にルーズな人間だと思われて、仕事を得るチャンスを逃してはつまらない。  Kホテルは目の前に見えているのに、歩いても歩いてもたどり着かない。チェーンのはずれた自転車をこいでいるみたいだ。右足首がこきっと音を立てた。嫌な予感がした。見ると、パンプスの踵《かかと》が歩道の溝にはまっている。右足を引き抜こうとしたが、引き抜けない。  時間は刻々と過ぎていく。額に冷や汗がにじむ。  ——靴なんかどうでもいいわ。  美里は、溝に引っかかったままの靴から右足を抜いた。無事なほうの靴も脱いで、裸足《はだし》になると、靴をそこに置き去りにして、Kホテルへ向かって駆け出した。  夢中でロビーに駆け込むと、黒ずくめの長身の女性が背中を向けて立っていた。  彼女と待ち合わせていたんだっけ? 思い出せない。けれども、後ろ姿はぼんやりと記憶にある人物に似ていた。 「柚子さん?」  美里は、自信のない声で呼びかけた。  くるりと女が振り向く。逆光になって、彼女の顔はよく見えない。近づこうとした瞬間、女の首がぬうっと伸びた。  ひっ……。  美里は悲鳴を喉《のど》に張りつかせ、立ち止まった。  女の顔がゴムのように上下、左右に伸び、不思議なオブジェを形作っていく。  鶴《つる》だった。女の顔は鶴で、女の首は鶴の首だ。  金縛りにあったように美里の身体《からだ》は凍りついた。鶴は羽を広げ、大きく羽ばたく。  美里は、総毛立った。鳥類にひどく弱い体質なのだ。  必死に顔を左右に振る。声を振り絞ろうと試みる。  目が覚めた。薄いクリーム色の見慣れた天井が視野に入る。卓上スタンドの電気をつけたまま寝てしまったらしい。右足首のところに、猫のぬいぐるみがのっかっている。何かの拍子に出窓のカウンターから落ちたのだろう。  美里は一つ大きくかぶりを振り、ベッドを降りた。二時間ほど仮眠するつもりだったのに、日頃の睡眠不足のためか四時間も眠ってしまった。もうじき夜明けだ。やっぱり目覚し時計をセットすればよかった、と後悔する。  雑誌の締切が、あさってに迫っている。  洗面所で顔を洗い、机についた。パソコンを立ち上げて、書きかけの画面を呼び出す。  茂み——という文字が、まず目に飛び込んできた。嫌悪感が胸を突き上げた。美里は画面から目をそらし、つぶる。いつもなら即座に頭を切り替えられるのに、今日はそれができない。  何が自分から集中力を奪っているのか、美里はわかっていた。あの不気味な手紙だ。あまりの胸くその悪さに、破っただけでは気がおさまらず、シンクで燃やして、灰を水で流してしまった。排水口に吸い込まれていく最後の灰を見て、一瞬、〈早まったことをしたのかも〉と思ったが、読んだ記憶すら流してしまいたかったのだ。手紙を読んでやったことさえ腹立たしかった。  一昨日、「仁科美里」は、はじめて読者からファンレターを受け取った。しかも二通。  一通は、出版社に届いたものを、担当の編集者が自宅に転送してくれた。もう一通は、直接、美里の住む世田谷《せたがや》区|駒沢《こまざわ》のマンションに届いた。  出版社経由できたものは、差出人がわかっている。飯森柚子、旧姓仁科柚子。美里の中学時代の先輩だ。  不気味なのは、便箋《びんせん》の末尾にワープロ文字で「愛読者より」と打たれただけの、封筒の裏に住所も名前もないやつだ。消えかかった消印は、京橋《きようばし》と読める。  一読して、背筋に悪寒が走った。「愛読者」を名乗る「僕」は、「仁科美里」宛《あて》にファンレターを書きながら、しかし、その思いは明らかに〈もう一人の美里〉に向けられていた。  ——なぜ、わたしの正体がわかったのだろう。 〈もう一人の美里〉を知っている人間は限られている。数人の編集者くらいのものだ。両親にも別名義は知らせていない。  しかし、手紙には〈もう一人の美里〉の名前を記した箇所はない。誰か知っている人間のいたずらではないのか。誰が何のためにこんなことをするのかまったくわからないが。  騒ぎ立てず、しばらく様子を見てみよう、と美里は決めた。とりあえず、いま現在、誰かにつきまとわれているとか、いたずら電話がかかってくるなどといった被害はない。  ——あんな変態愛読者が書いたファンレターのことなど忘れよう。  気持ちを切り替えるには、もう一通のまともなファンレターを読み返すことだ。柚子の手紙を手に取る。こちらは、手書きのきれいな文字だ。  自分の作品をほめてある部分を拾い読みする。「仁科美里」としての自信が湧《わ》き上がってくるのを期待して……。  美里は、もう半年も前に取りかかったものの、長編の書き下ろしがなかなか進まない状態にいるのだった。百枚ほど書いたところで編集者に見せたら、「うーん、どうもね。やっぱり長編向きの題材じゃないのかな、これは」と首をひねられた。「おもしろい」と言われないまま書き進める気力はなかった。プロットを練り直し、編集者に見せる。そんな作業を何度か繰り返している。まだOKはもらえない。  長編を一冊発表しないと、この世界ではなかなか認められない。注文も続かない。美里はあせった。一方で、〈もう一人の美里〉の仕事は増えていき、そちらのほうに時間をとられる。「仁科美里」としての仕事だけに専念したくても、都会の女の一人暮らしにはそれなりにお金がかかる。出版社が近いという理由で都心を離れたくはないし、防犯上、オートロックのマンションに住むとなると家賃も高い。三年半前に、両親が乗り気だった見合いに応じ、婚約まで進んでおいて、「やっぱり結婚できません」と覆した事件以降、美里は親の信用を失い、勘当された形になっている。経済的援助は、意地でも頼めない。 「スランプだわ」  ひとりごちて、美里はふたたびベッドに寝ころがった。  鶴首——という二文字が、天井に浮き上がったように思え、ハッとした。忘れようとしても、やはりあの文面は忘れられない。終わり近くに出現した「鶴首」という言葉。知識として知ってはいるが、美里自身、小説の中では使わない、古めかしい印象を与える言葉。「愛読者」が、若い読者にはおそらくその意味が通じないであろう「鶴首」の二文字を使ったことが、いっそう不気味さをかきたてる。改行なしの、わざとらしく句読点を省いたような文体。一見、丁寧な文章で普通に始まったかに思える手紙は、すぐにその狂気と異常性を露《あらわ》にしている。  柚子に似た女の首が、振り返った瞬間、ぬっと伸び、鶴に変身した夢。なぜあんな夢を見たのかは、専門家の分析を待たなくても明白だ。  手紙には、若い男だと匂《にお》わせるような文章で「僕」と書いているが、本当に若い男なのかどうかわかったものではない。「鶴首」という恐ろしく古めかしい表現を使ったからといって、年配の人間とも限らない。  ——これは、ファンレターなんかじゃない。意図的にわたしに嫌がらせをしてるんだわ。  それは間違いない。美里はそう思った。  ——無視するのよ。  変態愛読者がよこしたファンレターを忘れるために、仁科柚子——結婚して、飯森と姓が変わっているという——へ出す返事の文面を考えた。 「お手紙ありがとうございます。柚子さん、お元気ですか?」  声に出してみたが、先が続かない。  最初に自分にファンレターをくれた人間は、中学時代の先輩だった。  その事実が、心に重くのしかかっている。何か肩すかしを食らったような気分だ。自分宛にファンレターがきたことは、素直に嬉《うれ》しい。けれども、最初のファンレターは、まったく見知らぬ誰かからもらいたかったとも思う。見知らぬ誰かに自作を読まれ、先入観なしに「おもしろかった」と言われてみたい。そんなわがままで勝手な願望が美里の中にあるのだ。  まさか、柚子があのエッセイを読むとは思わなかった。それ以前に、彼女が作家「仁科美里」を知っていたのが驚きだった。新人賞を受賞した雑誌は、一部の人間しか読まないようなミステリーの専門誌だ。たまたま本屋で手に取ったとは思えないから、やはり興味があって以前からミステリー関係の雑誌を購読していたのだろう。  返事を出さないでいたら……と美里は想像した。  柚子は、手紙の中では「わたしに手紙を書くための時間を、無理して割く必要はないんです」と書いているが、返事を期待していないとは思えない。忙しいからとほうっておいたら、〈作家になったら、お高くなっちゃって。返事もくれないのね〉とへそを曲げるだろう。柚子は、ファンレター第一号で、貴重な愛読者だ。失いたくはなかった。しかし、返事を出すとなると、どういう内容にしたらいいのか思い悩む。知り合いでも何でもない一読者になら、「読んでくださってありがとう」と、紋切り型の返事は書ける。だが、柚子くらいの知り合いとなるとむずかしい。  美里は、少し気が重くなった。  エッセイに「わたしの恩人」と書いておいて、と叱《しか》られそうだが、本心ではあそこまで彼女に恩義は感じていなかったのだ。もともと本好きな美里が、謎解《なぞと》きのおもしろさに目覚めたのは、確かにあの本との出会いがきっかけだった。そして、その本を薦めたのは紛れもない、Yさん、柚子だ。だから、エッセイにも取り上げた。けれども、柚子との出会いがなくても、遅かれ早かれ、自分はミステリーと呼ばれる分野に食指を伸ばす運命にあっただろうと思う。 「人生を決めたあの本・あの人」というシリーズ・エッセイに何か書いてほしい、と依頼され、すぐに浮かんだ本が『第三の扉』だった。別に『不思議の国のアリス』でも、二十歳になって読んだカミュの『異邦人』でもかまわなかった。だが、前者では幼すぎる気がしたし、後者では気取りすぎな気がした。何より美里は、思春期のころの自分をエッセイに書き残しておきたかったのだ。  中学時代、友達が少なく、どちらかと言えばいじめられっ子だった自分が、文章で自分を表現する作家という仕事についた。そのことを強調したい気持ちが、心のどこかにあったのだろう。もしかしたら、昔、自分を「パーマかけてるだろ?」「その髪、染めただろ?」「おまえの父さん、本当は外人じゃねえの?」とからかった同級生の何人かを見返したい気持ちがあって、無意識のうちに中学時代のエピソードに言及できる本を選んでいたのかもしれない。  エッセイには誇張とうそがある。それは、自分が作家になり、いくつか雑文を書いてみて、はじめて知った事実だった。  誇張——と言えば、柚子のことを「名前のように美しい、聡明《そうめい》で知的な上級生」と表現したのもそうだ。図書部の副部長をしていた柚子がひどく頼りがいのある先輩に見えたし、自分よりずっと物知りで頭がよさそうに思えた。二学年上だったのだから、当然だろう。いまなら冷静な目でそう思える。だが、当時は、年の離れた弟しかいない美里は、やさしい言葉をかけてくれる柚子を姉のように慕っていた。上級生に目をかけられている存在だとわかると、少なくとも柚子の目の届く範囲内では、クラスの男子にからかいの言葉を投げられることもなかった。柚子と会話を交わせる図書室は、天国に等しかった。  柚子が美人だったのかどうかは疑問だ。中学一年生の美の基準がどこにあったのか不明だが、浅黒い肌の目鼻立ちがはっきりした顔だちの印象は残っている。あのころの美里には、存在感の大きさがイコール美だったのだ。  うそ——と言えば、いじめについては、実はもうとっくにふっきれている。中学時代に受けた心の傷などを思い出している暇がないくらい、美里の関心は作家として生き残れるか否かに向けられている。自分がいじめられっ子だったと、断定して書いたほうが読者に与えるインパクトは強い。そう計算して書いたのである。 「Yさんとは、図書室で顔を合わせて話すだけの仲だった。話題も本に関することに限られた」という部分もうそである。何度か一緒に帰ったりもしたし、柚子は積極的に自分の将来について語った。つき合いの場を、図書室という空間に限定したほうがエッセイが引き締まる。そう考えて、ほんの少し事実に虚構を混ぜたのである。その程度の誇張やうそなら、編集者もわかっていて許している。  柚子と会ったら、エッセイの中のそうした誇張やうそを、誤りや思い違いとしてびしっと指摘されるのではないか。美里は、それを心配したのだ。柚子がどういう性格だったのかよく憶《おぼ》えていない。きびきびとしたしゃべり方の潔癖症の女性だった気もするし、寛容でどこかのんびりしていた気もする。二人のつき合いは短く、本の世界を通しては深かったが、日常的には浅薄だった。要するに、十三歳の美里に、二歳年上の少女の性格を正確に見抜く能力はまだ備わっていなかったのだ。わかっていたのは、本好き、その一点だけだった。 「『ミサちゃん』って呼ぶから、ミサちゃんも『柚子さん』って呼んで」と提案したのは、柚子だった。上級生と名前で呼び合うのは、秘密めいた遊びみたいで胸がわくわくした。 「わたしね、絶対に小説家になりたいの」  柚子は、目を輝かせて将来の夢を語ったものだ。 「ミサちゃんは?」 「別に何も考えてないです」  美里は、小さな声でそう答えたのを憶えている。  ——仁科柚子は、中学三年生の時点で、作家になるのを夢見ていた。  気が重い理由は、そこにあった。  作家になりたい、と公言していて作家にならなかった柚子。なりたいものは別にない、と言って作家になった美里。柚子が自分の果たせなかった夢を果たした美里に対して、嫉妬心《しつとしん》を抱いていないとは限らない。美里は、柚子の屈折した心理と向き合う羽目になるのが怖かったのだ。  フリーライターとして仕事をしていたころ、周囲には作家志望の人間があふれていた。積極的に原稿を出版社に持ち込む者もいた。柚子が作家になる夢を捨てきれずに、美里という細いコネを利用して文壇デビューを夢見ているとしたら、かなり厄介なことになる。  二人のつき合いは、柚子が地元の県立高校へ進学してしまってから途絶えた。柚子は、電車で高校に通うようになった。それでも、町で制服を着た柚子に声をかけられたことはあった。柚子は、中学時代よりおとなびていた。けれども、高校生になって増すはずの存在感や尊敬の念は、美里の中では薄れていた。なぜなのか、美里はわかっていた。柚子は、地元でいちばんの進学校に入ったのではなかった。あこがれの小説家志望の上級生は、聡明で知的でなければならない。成績もつねに上位を占めているのがあたりまえで、受験するのもトップレベルの高校でなければならない。教育熱心な親を持つ美里の考えはそうだった。だが、柚子が入学したのは三番手くらいのレベルの県立高校だった。美里は、自分が抱いていた柚子のイメージが崩れたことに、軽い失望を覚えていたのだ。加えて、生徒数の増加に伴って二年進級時にクラス替えがあり、自分をいじめていた男子と別々のクラスになり、仲のいい友達ができたせいもあって、美里は柚子に救いを求める必要がなくなった。もっとも、住む世界が違えば、助けを求めたくても求めようがないのだが。  柚子とは、したがって、彼女が中学を卒業以来、交流がまったくなかった。製薬会社に勤めていた美里の父は、三年間の予定で上田営業所に出向していた。もともと地元の人間ではない。美里は、実家のある神奈川県内の高校へ進学した。それきり、上田には一度も行っていない。柚子はずっと上田に住んでいるものと思っていた。たとえ結婚しても。だから、都内にいると知ったときは、そんなに近くに住んでいたのか、と驚いた。と同時に、あせりもした。都内であれば、あちらがその気になればすぐにでも会える。柚子との再会が、自分の創作活動のプラスになればいいが、もし妨げにでもなったら……。  ——だけど、まあ、そんなに神経質になることもないじゃない。柚子さんは、懐かしい人だし、何と言っても、わたしの本の愛読者なんだから。会ってもいないのに、意地悪く考えるのは柚子さんに失礼だわ。  肩を回し、軽くこりをほぐすと、机にまた向かった。柚子への返信を書くためだ。彼女の手紙に合わせて手書きにする。  柚子さん、こんにちは。お手紙ありがとうございました。柚子さんからお手紙をいただけるなんて思ってもみなかったので、とても嬉《うれ》しかったです。  ——と書き出した。  拙著を読んでくださってありがとうございます。エッセイに柚子さんとの出会いを勝手に書かせていただき、失礼しました。柚子さんのお目にとまって、本当に嬉しいです。まだまだ駆け出しのわたしですが、精進していきたいと思っています。次の本が出たら、必ずお送りします。いいものに仕上げるつもりですので、楽しみにしていてください。  ——そのくらいしか文章が浮かばなかった。  中学の下級生と上級生の関係から、いきなり作家と愛読者の関係になったのだ。十八年間の沈黙を埋めるうまい言葉が見つからない。近況を伝えようと思ったが、「仁科美里」としての仕事は、四か月に一度雑誌に掲載する短編以外には、いまのところない。美里は、きれいに清書した便箋《びんせん》に、白紙のそれを一枚添えて、白い封筒に入れた。そして、少し迷ったが、一枚、肩書きのない名刺を封筒に落とした。名刺には、自宅の電話番号が刷ってある。  名刺一枚分、気の重さが増した気がした。  いちばん気が重いのは、柚子が「幻想的な、夢のあるお話が大好きだったミサちゃんは、清らかな少女の心を持ったまま大人になった。そう思って胸が熱くなりました」と書いてよこした部分だった。  ——清らかな少女の心……か。わたしのもう一つの顔を知ったら、柚子さんはどう思うだろう。  ため息をついて、「仁科美里」は、つけっ放しになっていたパソコン画面の前に座り直した。そろそろ、無理やりにでも頭を切り替えなくてはいけない。  彼女は茂みに指を伸ばした——と打ち、あまりにも陳腐な表現に我ながら苦笑し、消した。だめだめ。読者が思わず感じてしまうような文章をひねり出さなくては。  ——いま書いているこの文章も、あの変態愛読者が読むのだろうか。  気持ちが萎《な》えそうになるのを、あなたの大切な「仁科美里」を支えるためよ、と自分に言い聞かせ、奮い立たせる。それから、美里は、「雨宮麗《あまみやれい》」になりきって、注文枚数四十五枚の読み切り官能小説を書き進めた。     2 「雨宮麗」のデビューは、「仁科美里」のデビューより一年早かった。フリーライター時代に、知り合いの編集者に穴埋めの形で頼まれ、原稿料に魅力を感じて短編を書いたのが最初だ。掲載された小説は、意外に評判がよく、たちまちいくつかの雑誌から注文がきた。創作でお金をもらえる喜びは格別だった。美里は、身体がきついばかりで実入りの少ないライターの仕事を整理し始めた。気がつくと、ほぼ毎月注文のある短編の仕事と、契約している女性誌とインテリア雑誌のライターの仕事で、生活費は賄えるようになっていた。  だが、官能小説は自分の本領ではない、という思いがつねにつきまとっていた。真に認められたいのは、ミステリーとしてだ。短編なら仕事の合間に執筆する時間はとれた。そこで、目標にしたのが、『ベスト・マガジン』の短編コンテストだった。幸い、一度目の応募で受賞した。賞金は五十万円。その後、『ベスト・マガジン』に何作か短編を発表、書き下ろし数編を加えて、処女単行本を出版したのが去年の秋だ。受賞から一年ちょっとたっていたが、短編賞の受賞者としては早いほうである。それからさらに一年。「雨宮麗」の仕事を断ち切れずにいる新鋭ミステリー作家「仁科美里」は、二冊目を出せずに焦燥感にかられているというわけだ。  雨宮麗の仕事を一つ終え、仁科美里として長編にかかった日のことである。  インターフォンが鳴って出ると、「花のお届け物です」と男性の声が答えた。  警戒心が湧《わ》き起こった。先日、いやらしいファンレターをもらったばかりである。「どなたからですか?」と確認した。 「祐天寺《ゆうてんじ》の飯森様からです」  飯森柚子からと聞いて、美里はエントランスのドアを開錠し、花屋の店員を通した。  花屋が抱えて来た花かごを見て、美里は息を呑《の》んだ。かごは予想していたよりずっと大きくて、色とりどりの気品のあるバラがあふれんばかりに盛られている。  受け取ったものの、部屋の中でしばらく呆然《ぼうぜん》としていた。出窓に置ききれないほどのボリュームがある。仕方なくダイニングテーブルの上に広げっぱなしの資料を片づけて、真ん中にでんと据えた。部屋中にバラの甘い香りが充満して、窒息しそうだった。  添えられていたカードには、こう書いてあった。 『ミサちゃん、ご出版おめでとう   いつも応援している柚子より』  この部屋に花が飾られたことなんて、何か月、いや何年ぶりだろう。美里は、不思議な感慨とともに花かごを見つめた。きれいなバラではあったが、感激や喜びより戸惑いのほうが大きかった。自分が出した返事は、昨日あたり柚子のもとに着いているはずだ。その手紙を読んで、すぐに花を贈る手配をしたのだろうか。  いったいどれくらいしたのだろう。安くはないはずだ。こんな大きな花かごでなくても、もっとこぢんまりした花束でよかったのに……と思っている自分が、貧乏くさく思えた。だが、常識的に考えても、届けられた花は、贈られた美里が気後れするほど豪華すぎ、大きすぎた。デビューから二年がたち、受賞直後のうかれた気分はとうに吹き飛んでいる。  伝票に、柚子の自宅の電話番号が書いてある。お礼の電話をかけるべきか。それとも、ハガキで済ませたほうがいいのか。電話で話すと、一度お会いしましょう、という話に発展するのは決まっている。常識の範囲を超えた贈り物をする柚子は、ひょっとしたらどこか精神のバランスを欠いているのではないか。ふっとそんなふうに感じた。が、まだ会ってもいない段階での直感にすぎない。  いちおう、お礼をひとこと伝えるのが礼儀だろう。受話器に手を伸ばそうとした瞬間、電話が鳴ってドキッとした。 「もしもし、ミサちゃん? 仁科美里さんですか?」  艶《つや》のある弾んだ声は、うっすらと記憶にあるものだった。 「わたし、わかる? 仁科柚子です」  柚子は、当然のように旧姓を名乗った。 「柚子さん? あ……お久しぶりです」  かけようとした矢先である。奇妙な符合に困惑して、間の抜けた応対になってしまった。 「名刺を見て電話したんだけど、そこ、お仕事場? そこでよかったかしら」 「はい、そうです」  仕事場であり、自宅である。 「ミサちゃん、お一人? 雑誌には、本名が坂井美佐《さかいみさ》とあったけど、あれから結婚したのかしら、と思って」 「いいえ、まだ一人です」  話しているうちに、柚子の歯切れのいいしゃべり方が思い出されてきた。 「お忙しいでしょうね」 「ええ、まあ、おかげさまで」  ようやく、花のお礼をいま述べるべきなのだと思いあたった。「立派なお花、ついさっきいただきました。ありがとうございます」 「あら、よかった。ちゃんと時間どおり届けてくれたのね。きれいでしょう?」 「はい、うちにはもったいないほど。すみません、お気遣いいただいて」 「いいの。ほんの気持ちだけだから」  柚子の声に満足げな色合いが混じる。「お会いしたいわ。そちら、駒沢よね。お忙しいようなら、わたしがうかがってもいいんだけど」 「いえ、いいんです。ちょうど探したい本もあるし、出て行く用事がありますから」  短い会話を交しただけで、口調は、中学時代の先輩に対するものに戻ってしまっている。 「じゃあ、今晩はどうかしら」 「今晩……ですか?」  あまりに急なので面食らった。 「少し遅くなっちゃったけど、ミサちゃんの出版祝いも兼ねて、何かごちそうしたいのよ。イタリア料理はどう?」  壁のカレンダーを見るまでもなく、今夜はあいている。差し迫った締切もない。 「ミサちゃん、お酒飲める?」 「たしなむ程度には」  うそだった。いける口だ。 「部屋に閉じこもって仕事ばかりしてると、視野が狭くなるわよ。南麻布《みなみあざぶ》においしいイタリアン・レストランがあるのよ。出ていらっしゃいよ」  柚子は、まるでレストランが自宅で、そこに美里を招くような調子で言った。 「それじゃ、お言葉に甘えて」  柚子は、結婚して名古屋に住み、東京に引っ越して来たという。たぶん、夫の転勤で東京に来たのだろう。何かおもしろい話が聞けるかもしれない。作家としての好奇心と打算が頭をもたげた。柚子との会話が気分転換になって、行き詰まっている書き下ろしも進むかもしれない。 「でも、柚子さん。夜、お家をあけてよろしいんですか? ご主人とお子さんは……」 「子供はいないのよ。主人は帰りが遅いからいいの。あなたのことを話したら、才能ある後輩のためにお祝いの席をぜひ設けなさいって」  即答が、滑らかに返ってきた。  そのとき、ふっと美里の脳裏を暗い雲のようなものがよぎった。子供がいないということは、それだけ時間が自由になるということだ。夫も留守がちで、妻の行動に理解があるらしい。柚子はこれをきっかけに、これからもいろいろと干渉してくるのではないか。 「才能ある後輩」と、彼女がさらりと口にしたのにも引っかかった。柚子と疎遠になってからいままで、一度も柚子の後輩であった事実を意識しなかった。エッセイに何を書こうか迷ったとき、はじめて彼女のことがくっきり意識に昇ったほどだ。「仁科美里」というペンネームを考えたときも、柚子は絶対に信じないだろうが、「仁科柚子」の存在はうすぼんやりとしか念頭になかった。筆名は、美里が学生時代に心酔していたギタリスト、仁科|駿《しゆん》から取ったものだ。実際、「ペンネームの由来は?」と聞かれると、そう答えている。  一通きりの手紙と電話での短い会話から、柚子の押しつけがましさのようなものを、美里は感じ取っていた。そして、そんなふうにひねくれて考える自分に嫌悪感を抱いた。  ——悪く考えるのはやっぱりよそう。せっかくお祝いをしたいと言ってくれてるんじゃないの。彼女の好意を素直に受け入れるべきよ。自分がいまどんな状況にいるかを正確に伝えれば、彼女は暖かく見守ってくれるに違いない。  まだ駆け出しの作家の美里は、出版社に一流レストランや料亭で接待されるような扱いを受けてはいない。高級レストランで食事ができる嬉《うれ》しさもあった。切りつめた生活を心がけていたので、そろそろぜいたくもしたかった。今月は資料代につぎこみすぎて、だいぶ家計が苦しい。作家は、自分が貧しい生活をしていようと、小説の中では金持ちを金持ちらしく描写できねばならない。心まで貧しくなってはだめだ。取材のつもりで彼女の好意に甘えよう。美里は、肩の力を抜いた。     3  七時五分前に指定された南麻布のレストランへ行くと、シャネル風のスーツを着て奥のテーブルに座っていた女性が、満面の笑みで立ち上がった。 「ミサちゃんね?」  外国人の挨拶《あいさつ》のように両手を広げ、美里を迎える。  美里は、さすがにその両手の中に飛び込んでは行けなかった。かわりに深々と頭を下げ、「今日はこんな晴れがましい席を設けてくださって、ありがとうございます」と礼を言った。内心では、スーツを買っておいてよかった、とホッとしていた。柚子が身につけているものは、バッグも靴も宝石もすべて高級そうだ。  彼女の家は裕福だったろうか、とおぼろげな記憶をたどった。お互いの家を行き来するような仲ではなかったのでわからない。美里のように平凡なサラリーマン家庭に育ったとすれば、資産家か何かと結婚したとも考えられる。 「かた苦しい挨拶《あいさつ》は抜きにしましょう。さあ、座って」  ヨーロッパの片田舎の風景が描かれた油絵のかかった壁を背に、美里は座った。柚子は、美里の右斜め前の席だ。 「ああ、向かい合うとお話が遠いから、こういう位置にしていただいたの? お嫌?」  首を横に振る。嫌ではない。ただ、お嫌? と耳慣れない丁寧な言い方で聞かれたことに、違和感を覚える。 「じゃあ、何かアペリティフをいただきましょうか。ミサちゃん、何がいい?」 「柚子さんに合わせます」 「そう。じゃあ、ヴェルモットあたりを。それからお食事を。何か嫌いなものあるかしら」 「いいえ。昔から好き嫌いはないんです」  柚子が顔を振り向けるのを待っていたかのように、ボーイがにこやかに近づいて来る。顔見知りの仲なのだろうか。「オードブルは、刺身マグロのカルパッチョとアボカドあたりで。キャビアを添えて。あとは……お任せするわ」と柚子が小声でささやくと、心得た感じでうなずき、ぴんと背筋を伸ばして去って行く。 「さあ」と姿勢を正して、柚子は身体を美里に向けた。「本当に懐かしいわね。十七、八年ぶり……でいいのかしら」 「そうなりますね」 「あのミサちゃんがこんな立派な作家になったなんて」  感極まったように、柚子はかぶりを振る。気のせいか、目が潤んでいるようだ。ごくりと生唾《なまつば》を呑《の》み込んで、美里は咳払《せきばら》いをした。じろじろ見つめられて気恥ずかしい。  いきなり柚子の右手が伸びて、右手首をつかまれた。美里は、どぎまぎしながら、いくつも指輪がはまった柚子の手を見た。 「これが作家の手なのね」  柚子は、中学時代の後輩の手を、感慨深そうに両手に挟み込み、愛《いと》しげに撫《な》でた。背筋を悪寒と快感が、同時に這《は》い昇った。  美里は、十数年ぶりに金持ちのおばさんにでも再会したような錯覚にとらわれていた。柚子の懐かしがり方ともてなし方には、どこか〈血のつながった人間〉に対するときのような親しさ、気安さがある。  実際、柚子は、美里のおばさんと言っても通用するほどの貫禄《かんろく》を備えている。十五歳のころ、美里に「存在感があって美しい」と思わせた容貌《ようぼう》は、女性の成長期、成熟期を越えて、ゆるやかな老化の時期に突入したいま、年齢より老けた顔となって、腰まわりや二の腕や肩に肉のつき始めた身体に乗っかっている。目や口の造りが大きいだけに、笑うとできる目尻《めじり》や鼻の脇《わき》のしわも深い。  美里はどちらかと言うと若く見られる顔だちで、ジーンズの似合うスリムな体型は二十代のころからほとんど変わっていない。実年齢より三つ四つ上に見える柚子といると、二人のあいだに十ほどの開きが生じる計算になる。  ヴェルモットで乾杯した。白ワインがベースで、何か薬草を溶かし込んだような独特な風味がある。ほどよい酸味と苦みがあり、ふだん飲む白ワインの大衆的な味とは違っていた。美里は、ひとくち飲んだだけで感激し、現金にも、この再会は無駄ではなかった、と思ってしまったほどだ。  フォアグラを上に載せたオマール海老《えび》のソテー、子羊背肉の網脂包み焼きジェノバ風、とメニューに合わせて、柚子はためらうことなく白ワイン、赤ワインと運ばせた。彼女はびっくりするほど酒が強かった。顔に出ない。美里も残しては悪いと杯を進めたが、あまり酔って警戒心がゆるんではまずい。  質問役は柚子、答えるのは美里だった。質問を返す間を与えずに、こちらにたたみかけてくる。柚子は、上田を離れてからの生活を細かく聞きたがった。もちろん美里は、官能作家「雨宮麗」としてデビューした部分はのぞいて、フリーライターの仕事についても話した。「ご家族はみなさん、お元気?」との問いには、「考え方の古い父が、根無し草のような生活をしている娘を許してくれないんです。まだ本も渡していません」と答えた。 「まあ、せっかく推理作家としてデビューしたのに、ご家族に祝ってもらえないなんて」  家族と疎遠になっていると知ると、柚子は眉《まゆ》をひそめた。 「父は、推理小説なんて人殺しの小説だと言って軽蔑《けいべつ》してるんです。母は父の言うなり。父をぎゃふんと言わせるくらい売れっ子になれば別でしょうけど、いまみたいな状態じゃ、フリーライター時代とそう変わらないんでしょう」  自嘲《じちよう》ぎみに言って、美里はつがれたワインを飲んだ。今年五十七歳になる父親は、娘が推理小説を書く一方で、官能小説を書いていると知ったら、卒倒するかもしれない。もともと血圧が高い。そっとしておくのがいちばんの親孝行だと、美里は決め込んでいる。 「二冊目はいつごろ?」 「長編を出したいんですけど、なかなかはかどらなくて」 「そう」  柚子は、ワイン・グラスを置き、深刻な顔つきになってテーブルの上で手を組んだ。「あせらないほうがいいわ。じっくりいいものを書いてね。それまで、精神的にも経済的にも苦しいかもしれないけど」 「あ……ありがとうございます」  拍子抜けした。OLをしている学生時代の友達や、主婦になった友達に、「一冊本を出せば、印税がいっぱいころがりこんでくるんでしょう?」と、的はずれな言い方をされるのに慣れている。デビューして間もない、著書が一冊きりの——それも、ベストセラーになったわけではない——作家がいかに経済的に大変か、説明してもすぐには理解してもらえないのがふつうだ。 「作家は軌道に乗るまでが大変、それはわかってるわ」  柚子は、口元に柔らかい笑みを浮かべて言った。「わたしも、作家志望の人たちをたくさん見てきたから。小説の新人賞をとって、仕事を辞めちゃった人もいたわ。その人、一年もしないうちに、会社を辞めたことを後悔してた」  よく聞く話だ。 「わたしね、しばらく小説教室に通っていたのよ。ほら、小説作法を教えるカルチャー・スクールみたいなとこね」  ——やっぱりそうだ。柚子さんは、大人になっても小説家になる夢を持ち続けていたんだわ。  美里は、続く彼女の言葉を予想して、やや身構えた。 「ミサちゃんも憶《おぼ》えてるわよね。あなたに、『将来、絶対に小説家になる』って言い続けていたから」  どういう方向に話を持っていくのだろう。わたし、書きためた作品があるの。誰か編集者に紹介してもらえないかしら。——そんなふうに媚《こび》を含んだ声でお願いされるのではないか。「わたしにはまだそんな力はありません」と答えようか。顔がこわばる。 「まったく、いい時代だったわ」  柚子はため息をつき、笑った。「どんなに途方もない夢を持とうと、自由だったんだもの。小説家になりたい。絶対になれる。だって、こんなに本が好きなんだもの。そう思い込んでたのよ」 「…………」 「でも、なれなかった」 「…………」 「わたしがなれなくて、ミサちゃんがなった」  ひとりごとのように柚子が言う。美里は、「すみません」と反射的に口にした。 「あら、どうしてあやまるの?」  柚子は大きな目を見開いて、「ミサちゃんのせいじゃないんだもの、あやまることなんてないでしょう?」 「すみません」 「ほら、またあやまった」  柚子は笑って、「才能がなかったのよ」と肩をすくめた。  あまりにあっさり言われたので、美里は当惑した。 「才能なんて……」  何だと言うのだろう。言うべき言葉が見つからない。 「でも、柚子さん。小説教室で習作した作品、いくつかあるんでしょう?」  自分で書いた小説に執着しない人間はいない。美里は、おそるおそる探りを入れてみた。 「捨てちゃったわ」 「…………」 「本当よ。だって、才能がないのにやっても無駄でしょう? 潔くあきらめたわ」  ワイン・グラスに伸ばした柚子の指にはまった、大粒のエメラルドがシャンデリアのライトに照らされて、神秘的な緑色に輝いた。柚子の目も輝きを増したように見えた。 「そのかわりね」  光を強くした目を、彼女は中学時代の下級生に向けた。「わたしって、不思議な才能があるみたいなの」 「不思議な才能?」 「才能ある人を見出す才能よ」  どう反応したらいいのか、美里はわからなかった。それは、自分のケースを指しているのだろうか。 「名古屋にいたときに通っていた小説教室でね、受講生の一人をわたしは高く評価してたの。でも、まわりの評価は散々だった。文章が下手だとか、表現が稚拙だとか言ってね。あるとき、講師の先生に『あの人、才能ありますね。わたし、陰ながら応援してるんです。必ず作家になる人です』と言ったら、先生、すごく驚かれて。『へーえ、君はそう思ってるの。ぼくはあの子、伸びる子だと思って実は目をかけてるんだけどね』ですって。ほら、ああいう教室って、嫉妬《しつと》ややっかみが渦巻いてるでしょう? 講師の先生も作品そのものの講評はしても、迂闊《うかつ》にその人の将来性には触れないようにしてるのよ。結局、その人、作家デビューしたんだけどね。それから、わたし、先生に一目置かれちゃって、一時期モニターみたいなことをやらせていただいたのよ」 「モニター?」 「先生はお年を召されていたから、若い子同士の会話やファッション描写に自信がなかったんでしょうね。書き上がった原稿をチェックしてほしい、と頼んできたのよ。それから、若い人の集まる店や流行についての情報も提供するように頼まれたわ。原稿を読んで、ちょっとした間違いを指摘したこともあったのよ。とても喜ばれたわ。わたしの注意力が優れているってね」 「柚子さん、有能な編集者みたいですね」 「編集者とは違うわ」  口調がきつくなり、美里は彼女がムッとしたのだろうかと訝《いぶか》った。 「編集者は、出版社の社員だもの。その本を一冊でも多く売ろうとすることしか頭にない。でも、わたしは違う。先生にも、君は編集者より頼りになるな。そうほめられたのよ」 「…………」 「わたしはね、純粋に小説を愛しているの」  まっすぐ自分に向けられた柚子の顔に凄《すご》みのようなものが加わっていて、美里は息苦しさを覚えた。 「才能ある人が、その才能を開花できずに萎《しぼ》んでいくのを見るのが、忍びないのよ」 「…………」 「だから、できるだけ応援したいの」  どう応援したいと言うのだろうか。応援したい気持ちは、全面的に自分に向けられているように思える。息苦しさが増していく。 「編集者はたくさん作家を抱えている。でも、わたしは違う。わたしはミサちゃんの専属よ」  皮膚が粟立《あわだ》った。  ——人の了解も得ないで、どうしてわたしの専属なんかになるの?  あっけにとられている美里を、感動で黙り込んだと受け取ったのか、柚子は満足そうに微笑《ほほえ》んだ。  デザートが運ばれてきた。イタリア菓子の盛り合わせのようだが、美里はボーイの説明を聞き逃した。さっきの柚子の言葉が気になって、ふだん口にできないようなデザートをじっくり味わう余裕がなかった。コーヒーに口をつけ、流し込むようにする。いったい彼女は、どんなふうに専属になるつもりなのか。  食べ終えた彼女はボーイを呼ぶ。「下げてくださらない? 広げるものがあるから。それからコーヒー、もう一杯ずつお願いね」  ——広げるもの?  何だろう。美里は、胸がざわざわし出した。これから起きることは、自分にとって愉快なことであるはずがない。はっきりと悪い予感がした。  テーブルが片づけられ、コーヒーだけになるのを待って、柚子は、隣の椅子《いす》に置いた大ぶりのケリーバッグを手に取った。中から赤い表紙の小型のファイルを抜き出す。ぺらぺらとめくり、どこかのページから紙を引き抜いた。  その紙に引かれた赤い線や赤い字を見た瞬間、美里はその正体を悟った。サインペンの赤と同じ色の血が、さあっとこめかみに昇った。 『新刊だより』に寄せた美里のエッセイ。ページをコピーしたものを、柚子は持参したのだ! 何が始まるのだろう、とかたずを呑《の》んで見つめる美里の気勢をそぐように、柚子は紙を膝《ひざ》の上に隠すと、柔らかく微笑んだ。「すごく嬉《うれ》しかったのよ。ミサちゃんがわたしを恩人だと思っていてくれたなんて。ミサちゃんとは一年きりしかおつき合いがなかったから、わたしのことなんかとっくに忘れていると思ってたのに。中学時代っていちばん感性が豊かな時期じゃない? その年頃に受けた感銘って、一生残るのよね。そう思わない? わたしの仁科をペンネームに使ってくれたのも、本当に嬉しかったわ。そこまで慕われていたなんて、背中がこそばゆくなるくらい」  わたしの、を強調して、柚子は大きな目を輝かせた。  ——あれは、柚子さんの「仁科」じゃありません。仁科駿の「仁科」です。  そう言うべきかどうか迷ったが、舞い上がっている柚子に向かって言えるはずがなかった。ギタリスト・仁科駿は、熱狂的なファンがいるものの、一般に名が浸透したミュージシャンではない。  柚子は、何か頭を切り替えるように大きく深呼吸して、「恩人と思われているからこそ」と言葉を切り、上目遣いに美里を見た。上まぶたの窪《くぼ》みに影ができた。 「少し厳しいことも言っていいかしら」  みぞおちに突かれたような痛みが生じた。美里は、柚子の視線から逃れて、彼女がテーブルに載せたコピーに目を落とした。赤いサインペンで直した箇所が、目に染みる。  ——もしかしたら彼女は、例の誇張やうそに気づいたのではないか。それを指摘するつもりなのでは。  だったら、間違いなく柚子は気を悪くしている。自分がエッセイのネタに使われたことは嬉しいが、内容に誤りがあるのは断じて許せない。そうきっぱり告げるつもりなのかもしれない。  だが、違った。柚子は、口紅と同じ色のワインレッドのマニキュアを塗った指で、エッセイの最初のほうをさし示しながらこう続けたのだ。 「たとえばここだけど。このエッセイは、千二百字前後よね。原稿用紙三枚。それだけの分量の中に、『こと』って表現が前半と後半に五つも出てくるわ。こことここと、こことこことここ。それから、『から』って表現も後半に三箇所出てくる。こういうのって、何だか気になるのよ。長編小説ならまだいい。だけど、この程度の短いエッセイだとひどく目につくわ。重複する言葉や表現をちょっと変えるだけで、文章って見違えるほど引き締まるものなのよ。ああ、この作家、文章によく気配りしてる。ちょっと目の肥えた読者なら、そう思って感心するはずよ」  聞きながら、美里は頬《ほお》が火照《ほて》った。まるで編集者気取りで、柚子は美里のすでに発表された原稿に赤を入れているのだ。書き込みの毒々しい赤が、ちくちくと目や皮膚を突き刺す。 「偉そうにおまえはどうなんだ、そんなふうに反論されたら困っちゃうけど」  美里の反論を予想して封じ込めるように、柚子は早口で続ける。「わたしの手紙、読んだでしょう? 自分の文才のなさはよくわかってるの。でもね、わたしはそれでお金をもらっているわけじゃないから、開き直ってるの。だけど、ミサちゃん。あなたはプロ。文章でお金をもらっているんだから、気を抜いちゃだめ。ミサちゃん、あなたは書く才能に恵まれてて、わたしは文才に恵まれた人をさらに磨きあげる才能に恵まれている。そこが決定的に違うのよ。それに気づいて、きっぱり筆を折る決心をしたの。わかるでしょう?」  わかるようなわからないような……いや、やっぱりわからない。美里の中で、腹立たしさと苛立《いらだ》ちと、正体のよくつかめない不安が募る。 「どうぞ」  柚子は、美里の動揺など少しも気づかぬ様子で、コピーした紙を美里のほうへ滑らせた。指の震えを悟られないように、美里は手に取った。  そして……驚愕《きようがく》した。書き出しの文章から数行、赤い線でばっさり消され、そこから線を引っ張った先に「トル」と躍るようなカタカナの校正文字が書き込んである。少し先には、彼女の手で訂正した文章が涼しい顔で並んでいる。 「どうして、そんな悲しそうな顔してるの?」  中学一年のある日、図書室で声をかけてきたのが、三年生の柚子さんだった。  仁科美里のエッセイ『中学校の図書室で』の書き出しは、そんなふうに訂正……いや、改竄《かいざん》されていた。 「ほら、そこから書き出すと、簡潔になるでしょう? それから、わたしの名前はイニシャルにしなくて結構よ」  胸の動悸《どうき》がおさまらずに、美里は〈改竄された自分の文章〉を見つめたままでいた。 「ふつうは編集者が手直しするものだけど、小説教室の講師によれば、編集者もいっぱい作家を抱えていて、細かくチェックするような時間がないらしいの。だから、わたしみたいな専任の……何ていうのかしら、モニターがいれば作家はすごく助かるみたいなのね」 「確かに……簡潔ですね」  美里は、ようやくそれだけ言った。それ以上長く話すと、声が震え出してしまいそうだった。簡潔だが、どこか違う。短い文章のあいだに伝えたかった熱い思いが、ごっそり抜け落ちてしまう。全体の文章のリズムが崩れる。柚子さんではなく、やっぱりYさんとしたい。実在の人物に対する筆者の配慮を読者に伝えるためにも。わたしはそう言いたいのだ、と思った。だが、屈辱感が大きすぎて、主張できなかった。愛読者相手に本気で怒っては、あまりにおとなげない気もした。  ——彼女の指摘は、なるほど正論かもしれない。正論に屈辱感を覚えてしまうわたしは、人間が小さいの?  美里は、自分の動揺ぶりに我ながら激しく戸惑っていたのだった。過去に文章に手を入れられたことなど、数えきれないほどある。いや、書いたものがすんなり通るケースのほうが珍しい。だが、それらはすべて、校正者や編集者の手によってだ。彼らにしても、「ここはわかりにくいので、こう直してはどうですか」と意見を求める形でやんわり聞いてくる。ところが、柚子ときたら容赦ない。自分の文章に作り替えてしまう。柚子は、校正者でも編集者でもない。小説教室で小説作法を習っただけの単なる読者だ。美里によこした手紙にも、「愛読者の一人です」と書いてきたのではなかったか。  ——誤りを指摘されるならまだしも、文章に手を入れられるなんて……。  彼女の目的はこれだったのか。プロの作家である美里に屈辱感を与え、うろたえぶりを楽しむ、屈折した形のうっぷん晴らし。  だが、それとは少し違う気がした。彼女の目の奥には、何かにとりつかれたような深い色が潜んでいる。「わたしはミサちゃんの専属よ」と言ったときに現れた、あの恍惚《こうこつ》とした表情。  確かに、あのエッセイにはもうちょっと手を入れる余地があったかもしれない。だが、編集者があれで通したのだから、ひどく目につくほどの重複ではないはずだ。それに、一つのエッセイにかける時間など限られている。ひと月にエッセイを一本だけ書いて、それを延々と手直ししていては食べて行けないのだ。あなたみたいに、趣味で小説と取り組んでいるわけじゃないのよ。仁科美里の長編を進める合間に、雨宮麗の短編をいくつもこなして稼がなければいけないの。わかる? わたしは作家で、あなたは読者なのよ。  胸の奥からふつふつと言葉が湧《わ》いてきて、喉元《のどもと》に達する。もう少しで噴出するというところで、「気を悪くしたのならごめんなさい」と柚子が神妙な口調で言った。美里は、ハッと顔を上げた。 「でもね、ミサちゃんのためを思って、憎まれ役を買って出てるの。ミサちゃんを大作家に育てあげるためにね。編集者がそこまであなたの将来を思っていてくれるかしら。あなたには、それだけの才能があるのよ。わたしの目に狂いはないわ。十五のときにすでにあなたを見出してたんだから」  美里は、柚子との再会が決定的に失敗だったのを知った。千二百字たらずのエッセイに柚子を恩人と書いたことを、猛烈に後悔した。ファンレターの返事を書いたことを、住所と電話番号を知らせたことを。 「柚子さん」  言葉のかわりに心臓が飛び出すかと思うほどどきどきした状態で、美里は呼びかけた。彼女を傷つけないような言葉を選ぶ。「わたしの才能を高く買ってくれるのは嬉《うれ》しいんですけど、やっぱりわたしはまだまだ未知数なんです。あまり買いかぶられると、何だかプレッシャーになっちゃって、かえって書く意欲をそがれ……」 「わかってるわ。ごめんなさい。ミサちゃんの言うとおり、プレッシャーを与えちゃったかもしれないわね」  柚子は、あわてたように遮って、両手をひらひらさせた。 「いえ、お気持ちはありがたいんです。でも、その……つまり……」 「遠慮してるのね? わたしがボランティアとか何とかって言っちゃったから」 「えっ?」 「でも、本当にいいのよ。わたしが勝手にやりたいんだから、ミサちゃんは気にしなくても」 「やりたいって、何を……」  息苦しさで、胸に熱が生じている。 「モニターに決まってるでしょう? 本当に遠慮しないでね。中学の同窓生なんだし」  ——彼女は、「仁科美里」のモニターを務めるつもりになっているのだ。  もう疑いようがなかった。 「こんな言い方すると嫌みに聞こえるかもしれないけど、わたし、自由に使えるお金がけっこうあるのよ。子供もいないし、主人も出張がちで時間がいっぱいあるわ。ミサちゃんの力になってあげられる」 「ちょっと待ってください、柚子さん」 「遠慮しないで。ミサちゃん、生活、苦しいんでしょう?」  あからさまに言われると、さすがにムッとする。「ご心配なく。ライターの仕事も続けていますし……」 「ねえ、ミサちゃん」  柚子は、すっと背筋を伸ばした。「ライターの仕事は思いきって断ったほうがいいんじゃない?」 「…………」 「わたしね、ミサちゃんには書き下ろしに専念してほしいのよ。ライターの仕事を悪く言うわけじゃないけど、時間に追われる仕事をしてると文章が荒れるわ。経済的な余裕さえあれば、じっくり仕事を選べるんじゃなくって? ねえ、そうじゃない?」 「それは理想論ですけど……」  いまのあなたの文章は、経済的な余裕のなさゆえ文章が荒れている、と指摘されたのも同然だ。 「ミサちゃんの筆が荒れていくのを見てられないの。あなたにはいい執筆環境を与えてあげたいのよ」 「お気持ちはありがたいんですが、柚子さんを煩わせるのはすまなくて」 「わたしならかまわない、そう言ってるでしょう?」  柚子は、軽く美里の肩を叩《たた》いた。「ミサちゃんには悪魔に魂を売るようなことを、絶対にしてほしくないの」 「悪魔に魂を売る?」  大げさな表現に面食らう。 「お金のためだけに書くことよ。たとえば、そう、タレント本のゴーストをするとか、テレビ・ドラマのノベライゼーションをするとか、劣情をそそる目的のためだけの言葉を並びたてた小説に手を染めるとか。そんなことをしていたら、精神まで堕落するわ。ミサちゃんには死んでもやってほしくないのよ」  美里はドキッとした。彼女は、わたしが雨宮麗名義で官能小説を書いていることを、知っているのだろうか。いや、知っていたら、はっきり物事を言う彼女の性格だ。臆《おく》さず「雨宮麗を捨てなさい」と迫ってくるに違いない。 「でも、ゴーストライターを経て、いまは売れっ子作家になっている人もいます」  控えめに反論する。 「いるわね。でも」  と、柚子は軽蔑《けいべつ》したように唇を歪《ゆが》める。「そういう人たちの文章って、やっぱりひどく荒れてるわ。品もないし。自分では気づいていないでしょうけど。わたしの目はごまかせないわ」  一瞬、では、わたしの文章も下品で、荒れているのだろうか、と不安になっている自分に気づいて、美里は愕然《がくぜん》とした。柚子の言葉の影響を大きく受けてしまうのは、自分の才能への自信のなさの表れだ。長編を書けずにあせっている証拠だ。 「ミサちゃんはまだ大丈夫。女性誌やインテリア雑誌のライターをしているだけでしょう? それだったら、清らかな精神状態はまだ保てるわ。でも、週刊誌の風俗ライターなんかに堕《お》ちたらだめ。どんどんすれていっちゃうから。自分を安売りすると、そのツケがあとで回ってくるものよ」  美里は、柚子の自信家ぶりに驚いた。彼女は、〈文才ある人間を見出し、磨きあげる才能〉が自分に備わっているものと思い込み、絶対的な自信を抱いている。しかし、その根拠のなさは、彼女が「仁科美里」の作品を読みながら、官能小説家「雨宮麗」と見抜けないことからも明白である。  ——打ち明けたほうがいいのかもしれない。わたしには別の顔があるの。雨宮麗というあなたの嫌いなポルノ作家としての顔が。  カミングアウトという言葉が浮かび、柚子は苦い気持ちになった。変態愛読者の手紙にあった言葉だ。あいつは、早くカミングアウトして、雨宮麗でなく仁科美里の名前で官能小説を書け、と言ってきた。大きなお世話だ、と思う。だが、柚子に対しては、いっそいまの段階でカミングアウトしてしまったほうがいいのではないか。  そのときボーイが滑るように近づいて来て、「いかがでしたでしょう」と柚子に聞いた。 「おいしかったわ、とても」  柚子はわずかにひそめていた眉《まゆ》を伸ばし、最初に美里に見せたような満面の笑みを作った。「ねえ、美里さん」 「は、はい、おいしかったです」  美里は、そわそわと言った。ああ、自分は高級レストランでもてなしを受けてしまったのだ、といまさらに自覚する。 「彼女、作家なのよ。すごいでしょう? わたしたち、中学の先輩と後輩なの。そのころからわたし、彼女は作家になるって見抜いてたのよ」 「さすが奥様ですね」  客あしらいに慣れているのか、ボーイは笑顔で短く応じてから、柚子に耳打ちした。  柚子は大きくうなずいて、巻き舌の早口でワインの名前を発音し、「ええ、それはもう美味だったわ。芳醇《ほうじゆん》な香りで。料理はイタリアンでも、やっぱりワインはフランスでなくちゃね」と、ボーイと笑い合った。  まさか、と美里は思った。いま耳にしたワイン名に聞き憶《おぼ》えがあったのだ。一本三十万はするという赤ワインの高級銘柄ではないか。グラスに注がれるときは、ボトルに貼《は》られたラベルをあまり気にして見てはいなかった。どうせイタリア語やフランス語はわからないのだから。専用のワゴンに載せて、ワイン・クーラーで冷やされているあいだは、ラベルが見えなかったし、柚子との会話に夢中になっていた。  自分は、そんな高価なワインを、頓着《とんじやく》せずに水のように飲んだというのか。もったいなさと畏《おそ》れ多さで、何だか身体が震えてきた。堅実なサラリーマン家庭に育った美里は、分不相応のぜいたくには慣れていないのだ。  顎《あご》のきゃしゃな一人の男の顔が脳裏に浮かんだ。一度は婚約したものの、式場まで予約したあとに破棄した相手だ。もう名前を忘れた……と言いたいところだが、もちろん忘れてなどいない。梶洋平《かじようへい》。いい年をしてフリーの仕事をしている娘を心配した両親が、半ば強引に見合いの席を設けたのだった。美里自身、一度くらい親の言うことを聞いてあげてもいいか、という気になっていた。自分の気持ちを確かめるきっかけになりそうに思えたのだ。フリーライターの仕事に不安がなかったと言えばうそになる。いつか小説に転向したかった。大好きな推理小説で仕事がくるようになれば、どんなにいいか。美里は、ひそかに小説を書くのを理解してくれるパートナーを求めていた。  相手は、一つ年上の男だと聞いていた。見合いで伴侶《はんりよ》を得ようとしている男に、どうせろくなやつはいないだろう。美里は、期待せずに対面した。ところが、案に相違して、梶はなかなかハンサムで、話のおもしろい男だった。何より学生時代、ミステリー研究会にいたというのが気に入った。本屋で待ち合わせてデートしたり、サスペンス映画を観《み》に行ったりしているうちに、結婚するのが自然だと思うに至った。周囲を見ても、似たようなつき合いののちに、結婚を決めていたからだ。 「結婚しても、しばらくライターの仕事は続けたいんだけど」  それとなく結婚後の生活について切り出すと、「君のやりたいようにやるのがいちばんさ」と梶は賛成した。やりたいようにやるのがいちばん。その中には、小説を書く、という行為も含まれていると思った。小説を書きたい、とストレートに言うのも恥ずかしかったので、あえてそれ以上、深く自分の願望については話さなかった。  だが、結納、結婚披露宴の段取り……と進むにつれ、美里は、もっと突っ込んだ話し合いをしておくべきだと考えた。そこで、ウエディングドレスを選びに行った帰り、ビアレストランで梶に告げた。 「ねえ、ライターをしながら、小説を書いてもいいよね」 「いいよ」  黒生のジョッキを握った梶は、即座に賛成はしたが、ビールの泡をつけた唇が「だけど」と動いた。「ミステリーだけはやめとけよ」 「どうして?」 「いろいろと、こっちのプライバシーを侵害してきそうだからさ」 「どういう意味?」 「おとな向けのミステリーなんか書かれてみろよ。殺人なんか書いたら、あそこの奥さんはいつもあんな物騒なことばかり考えてるの? なんて言われるし、ラブシーンなど書かれたら、あれこれたくましい想像をされそうだしね」  ——そんな理由で?  理解できずにいる美里に、梶は言い募った。「童話ならいいよ。児童文学に入る範疇《はんちゆう》の小説ならね。夢のある、害のないものを趣味で書いていてくれよ」  そこまで聞かなくても、美里は梶に失望しきっていた。梶は、妻の生き方を制限する男だ。ミステリーを書かれたくないのは、自己保身の気持ちが強いせいだ。ミステリーはだめ、童話ならいいだなんて、子供向けの小説をなめているとしか思えない。 「そんな制約、あなたに受けたくない。わたしたちの結婚、白紙に戻しましょう」  席を立った美里を、梶は、狂った女でも見るような冷たい目で見上げた。  結婚話が壊れたのは、すべて美里の気まぐれのせい。梶は双方の親や仲人にそう報告したらしい。美里にしても、「価値観が合わないことが、最後の最後になってわかった」としか説明のしようがなかった。小説を書きたい気持ちを理解してもらえなかったから。——そこまでくわしく説明する勇気は、美里にはなかった。  後日、梶家から封書が送られてきた。請求書が束になって入っていた。美里は唖然《あぜん》とした。そこには、結婚披露宴のキャンセル料は仕方ないとして、最初のデートで梶が払ったコーヒー代から映画のチケット代、美里を自宅まで送り届けたときのタクシー代まで、こと細かく数字が並んでいた。タクシー代などは、律儀に折半してあった。  そんないきさつが、美里の父の怒りに拍車をかけた。「おまえのようなわがまま娘、どうなろうと知らん」。置いてあった荷物を実家に取りに行った日、背中に浴びせられた父の言葉だ。マンションに戻った美里は、足りない分は親に借金する形でそれらすべてを支払った。しばらくは、しゃかりきになって仕事をした。仕事を選んではいられなかった。  梶に、小説のジャンルで制約を受けた反動もあったのだろう。彼の保守的な考え方に反発するかのように、美里は、「女性向けのソフトなポルノ小説、書く気ない? いや、ポルノじゃなくて新しい形の性愛小説だと思って書いてくれればいいんだ。君なら文章もうまいし、表現力もあるから、必ず読者に受け入れられるよ」と声をかけてきた編集者に、「挑戦してみます」と答えたのだった……。  あのときの梶の豹変《ひようへん》ぶりを思い出し、美里はゾッとした。柚子が、梶のような性格だったらどうなるだろう。交際期間は気前がよく、美里にやさしく寛大に接していたのに、婚約が破棄されたとなると、投資した分を回収しようと躍起になった。あの男なりのプライドの表れだったのかもしれないが、柚子も相当プライドが高い性格らしい。  豪華な花かご、高級イタリアン・レストランでのフルコースの食事、一本三十万円の高給銘柄のワイン……。  かかった費用を全額返せ、と言われたら、現時点の美里に返済能力はない。  しかし、このとき美里が何よりも恐れたのは、愛読者を一人失うことによる寂しさや痛みだったのかもしれない。「あなたには才能がある」、「もっと大きくなれるはずの人よ」と励まし、ちやほやしてくれる存在が身近にあるのは、何と言っても心強い。 「ねえ、ミサちゃん。本当に心苦しく思う必要はないのよ。わたしができるだけ援助するから」  柚子の言葉に、梶に送りつけられた請求書の乾いた数字を思い出していた美里は、我に返った。  美里は、〈カミングアウト〉するタイミングを完全に逃した。     4 「確かに、厄介な読者だな」  話を聞き終えると、門倉千晶《かどくらちあき》は、顔をしかめた。指先の煙草《たばこ》の灰が長く伸びている。「仁科美里の専属モニターか。まるでマネージャーだな」 「まったく知らない読者にならはっきり言えるけど、柚子さんは中学の同窓生だもの。面と向かって『迷惑です』とは言えない。中学時代、孤立していたわたしを救ってくれたのも事実だし」 「そうだな。本人は善意のつもりでやっているから、よけい厄介だよな」  門倉はため息をつき、いま気づいたように煙草の灰を灰皿に払った。ヘビースモーカーのわりには、よく磨かれた白いきれいな歯並び。ひょろりとした長身。ピアニストのように長い指。彼が描く人間たちも、どこか彼に似ている。線が細く、幻想的で、都会的。  イラストレーター・門倉千晶の作風の特徴は、繊細な線で、リトグラフっぽく描く点である。その名前から、彼を女性のイラストレーターだと思い込んでいる読者は多い。女性だと思って仕事を依頼する編集者もいる。実際、美里も彼に会うまでは、女とばかり思っていた。女性が、わざと中性的なペンネームをつけて仕事をしているのだと。  門倉の本名は、門倉千明。名前の一字をその画風から意図的に女性風に変えたのである。  美里の受賞作が雑誌に掲載されたときに、イラストをつけたのが門倉だった。美里が門倉を指名したわけではない。編集者が選んだのだ。さくら書房の会議室で行われた授賞式のあと、小さな祝賀会が開かれた。その席に門倉が現れ、美里は担当編集者に紹介されたのだった。ミステリーの専門誌の短編賞の受賞パーティーなどに、それほど多くの出席者はいなかった。 「あの挿絵、すごく気に入ってます」  美里は、イラストに似た雰囲気の長身の男が現れたことに、驚きと何だかおかしさを覚えて、門倉に挨拶《あいさつ》した。 「受賞者は美人だと聞いていたけど、こんなに若くてきれいな人だとは」  門倉は、自分の言葉に照れるふうでもなく言った。仁科美里の正体が、それより一年前にデビューした雨宮麗だと知っている編集者らに、頭のてっぺんから爪先《つまさき》までなめるような視線で見られるのに慣れていた美里は、感じのいい人だな、と第一印象で好感を持った。その種の言葉を、いやらしさを少しも感じさせずに発する男はなかなかいない。  その場で名刺の交換をした。美里は少し期待したが、門倉から電話がきて、二人で会ったりするなどという関係には発展しなかった。作家とイラストレーターは、パーティーの席でもなければ、直接会う機会は少ない。昨年の秋、初の単行本化にあたって、カバーイラストを誰に頼もうかという話になったときに、門倉の名前が浮かんだ。門倉の都会的でしゃれた作風が美里の小説に合ったのだろう、担当編集者は希望どおりにしてくれた。そして、ほっそりした髪の長い若い女性が長椅子《ながいす》に座ってコーヒー・カップを持ち、ややけだるそうに首をかしげているカバーイラストの、白い背表紙にコーヒー色のタイトルが入った処女単行本が生まれたのだった。  美里は、ミディアム・ショートと分類される髪型で、けっして長くはないが、なぜか表紙を見た人に「このイラストの女性、作者に似ているね」と言われる。まさか、門倉が自分に似せて描いたのでは……ちらとそんなふうに思ったが、自惚《うぬぼ》れと受け取られかねないので、本人に確かめてはいない。  その後、門倉とは、美里が女性誌の取材で銀座の老舗《しにせ》菓子店を訪れたときに偶然、出会っていた。美里は、ちょうど彼のことを考えていたときだったので、それをシンクロニシティ——意味ある偶然——ととらえた。前日、雨宮麗名義で読み切り連載を書いている雑誌の担当編集者に、「次から少し毛色の違うものを書きたいので、挿絵も変えてほしい」と、意を決して切り出したのだ。ポルノ小説、官能小説にくくられるものではなく、独自の性愛小説に転向したい気持ちが強かった。ミステリアスな性愛小説なら胸を張って書けそうな気がした。「たとえばどんなイラストにしたいの?」と質問され、「門倉千晶」と答えた。だが、「仁科美里の表紙を描いた? だめだめ。あれは品がよすぎる。だいいち、全然いやらしくない」と、即座に却下された。  ——やっぱり、雨宮麗名義では、ミステリーとして書こうと性愛小説として書こうと、すべてポルノ小説にされてしまうんだわ。  美里は、あきらめの思いを強めた。しかし、仁科美里名義で、ミステリアスな性愛小説を書こうとする勇気もなかった。もっとも、書きたいと言っても、「まだ方向転換する時期ではない。仁科美里はどろどろしないさわやかな作風でいくべきだ」と諭されたに違いない。短編集をようやく一冊出した「仁科美里」を、自分の手で消滅させるわけにはいかない。  シンクロニシティを感じた夜、はじめて二人で食事をし、お酒を飲んだ。  気がついたら美里は、ごく自然に、雨宮麗名義でいわゆる官能小説と呼ばれる小説を書いている、と彼に打ち明けていた。誰かから聞いて、もう知っているかもしれないと思っていたが、彼は知らなかった。さして驚いた様子も見せなかったが、「いいんじゃないの? 割りきって書けば」などと、ほかの編集者がよく口にするような慰めともとれる言葉を言いもしなかった。  門倉は、こちらに話す気分にさせる男だった。自分のことは語らず、聞き上手なせいかもしれない。自分のことをべらべらしゃべらないところが、〈口が堅くて、信頼できる男かもしれない〉と思わせた。「業界にはあまり親しいやつはいないんだ。一人、しこしこ描いて、うまくできた、いまいちだった、と喜んだり、落ち込んだりしてる」と白い歯を見せて、自嘲《じちよう》ぎみに語ったのが、いっそう美里に安心感を与えた。美里の正体を知らなかったことからも、彼があちこち首を突っ込む、うわさ好きな性格でないのが知れた。  彼がバツイチだと知ったのも、彼の口からではなく、編集者の口からだった。  それからは、ときどき電話で話す仲だ。いまは、もっぱら美里が相談の電話をかけている。「長編がなかなか進まないの。気分転換に電話したけど、そっちも忙しいでしょう? お仕事、中断させてごめんなさい」  勝手に電話をし、勝手に気分を切り替えて——切り替えたつもりになって、長くても三十分で電話を切る。話の流れで、近々出る用事があると聞けば、「じゃあ、そのへんでお茶でも飲まない?」となる。  今日も、そうやって新宿の三越デパート近くの喫茶店で会っている。このあたりの喫茶店は、作家や漫画家、イラストレーターの打ち合わせによく使われるが、二人が利用する地下の喫茶店は、路地を入ったところの穴場的な店だ。美里は、昼前から外に出っぱなしだった。銀座の洋書店で資料にする本を探したあと、築地《つきじ》にある映画会社に行き、試写会に出た。その後、女性誌に載せるインタビュー記事をまとめるために、その映画の監督に会った。新進気鋭の女性監督だ。そして、最後に門倉と待ち合わせたのだった。 「自己嫌悪に陥っちゃう」  美里は、門倉より深いため息をついた。「おいしいエサにつられてのこのこ出て行ったようなものだもの」 「ワイン、うまかった?」  門倉は、目を見開いておどけたように聞いてから、真顔に戻った。「しかし、自分をそんなに責めることはないよ。うまいワインを飲みたい、うまい料理を食べたい。いい音楽を聴きたい。きれいなものを見たい。作家は、何事にも好奇心|旺盛《おうせい》で、貪欲《どんよく》である必要がある。オレなんかさ、六本木のレストランの前で、泥棒か浮浪者に間違われたんだから」 「どうして?」 「そこは、客が飲んだ空のボトルを表に並べとくところなんだ。珍しいワインが揃《そろ》ってると聞いてね、どうしても作品に使いたくて、深夜、出かけて行った。イメージをつかみたくてね。捨ててあるものなら持って来てもかまわないだろ? 懐中電灯をあててラベルを読んでたら、店から男が出て来て、『何してるんだ』って怒鳴られた」 「ばかみたい」美里は笑った。少し気分がほぐれた。 「二人で二本、開けちゃったのか?」 「両方ともちょっとだけ残ってた。もったいない気がしたけど、彼女を観察するために、わたし、飲みすぎないように気をつけてたの。柚子さん、びっくりするほど強いのよ。彼女なら全部飲めそうだったのに」 「残したのはわざとだよ」 「わざと?」 「店のために残したのさ。一本何十万もするような高価なワインは、スタッフもなかなか試飲できない。だから、注文した客はスタッフの試飲用に少し残しておく。味見するのも勉強だからね。それがエチケットらしい」 「へーえ、そうなの。全然知らなかった」  そんなエチケットがあると知って驚いた以上に、美里は、門倉がそういう知識を持ち合わせていたことに驚き、そして我知らず熱くなった。彼の勉強熱心なところにも惹《ひ》かれている。  イラストレーター・門倉千晶は、ギタリスト・仁科駿に似ている。容貌《ようぼう》がではない。一部に熱狂的なファンはいるが、ファン層が厚くないところだ。彼の作風は男性編集者より、どちらかと言うと女性編集者に好まれる。仕事にこだわり、仕事を選ぶ。したがって、作品数もそう多くなく、がむしゃらに仕事をしているという印象を与えない。創作の姿勢が仁科駿と似通っているところに、自分は惹かれるのだろうか、と美里は思う。  しかし、美里は、彼との結婚を意識していない。いまはそれどころではない、と思っている。そして、門倉もまた、わたしがいまはそれどころではない、と思っていることを知っているだろう、と思っている。  三十一歳。作家としては若いが、女としてはそう若くはない。結婚して子供を産むことを視野に入れれば、三十五歳が一つの目安になるだろう。それまでに、何とか年に二冊は、「仁科美里」として著書が出せるようになればいい、と目論《もくろ》んでいる。それには、何としてもまず最初の長編だ。書き下ろし長編が出せない段階で、結婚など考えられない。 「あんなエッセイを書いたのを後悔してるわ」 「恩人だと書かれて舞い上がる気持ちは、わからないでもない。しかも、金持ちとくれば、物質面でも援助したい気持ちになるのは無理もないかな。ノーブレスオブリージュと言ってね、フランスのことわざにある。位高ければ徳高きを要す。つまり、自らパトロン的資質を美徳としてるってことだ。根は悪い人じゃない。柚子さんは、もともと面倒見がよかったんだろ?」 「それが……」  口が重くなるのを感じながら、美里は、夕方近くになるとほの暗くなった、中学校の図書室の北側の書架を思い出した。「柚子さんがどういう性格だったのか、本当はよく憶《おぼ》えてないのよ。同じクラスだったら、嫌な面もそれなりにわかったでしょうけど、図書室と帰り道でちょっと話す程度だったから。それに、いま思うと、実際以上に、知的な文学少女として彼女を美化してしまっていた気がする。遠慮が混じって、まともに向き合った気がしないの。あちらはそうでもないんでしょうけど」 「わかるな、そういうの。上級生と下級生、力関係ははっきりしてるもんな」  門倉は、遠くを見るような目をして、何度か軽くうなずいた。 「作家が上で、読者が下だなんて絶対に思わないけど、本当にその作家を愛していれば、読者は、好きな作家を傷つけないようにある程度発言に注意するんじゃないかと思う。それなのに、再会した瞬間、とたんに昔の関係に引き戻されちゃった。柚子さんが上級生で、わたしが下級生。柚子さんが『この本がいいわよ』と薦める人で、わたしが『はい、ありがとうございます』と読ませていただく人。そこには、文字どおり、上下の関係があるわ」 「保護者……か」  門倉がつぶやいた。「愛読者には、多かれ少なかれ、そういう面があると思うよ。これから伸びていく作家を発掘し、暖かく応援するのを喜びとする面がね」 「わかってる。でも、それとはちょっと……違う気がする。何かにとりつかれたようなあの目。あれは……」  美里は、自分の見た柚子の目の色をうまく説明できないもどかしさに、声を詰まらせた。 「何か裏があると言うの? たとえば、君に接近して、自分も利益を得るとか。だけど、彼女、自分が作家になるのはきっぱり断念した、そう君に言ったんだろ? わたしのしたいことはボランティアだとも」 「ええ。心の底からわたしが大成するのを望んでいるみたいだった。だからこそ怖いの」  うむ、と門倉は長い指を顎《あご》に当てた。 「彼女が本気でわたしの専属になるつもりでいたら——もっとも専属の意味がまだよくわからないけど——、カミングアウトするしかないのかも」 「カミングアウト? 雨宮麗の小説を見せるのか?」 「柚子さんはポルノ小説を軽蔑《けいべつ》しているのよ。わたしだって、自分が書く小説をポルノ小説とか官能小説とか呼びたくはない。だけど、自分が嫌だと言っても、世間はそう呼ぶ。あの人が忌み嫌うポルノ小説を仁科美里が書いていると知ったら、彼女はわたしに失望して離れて行くはずよ」  愛読者を一人失うのは寂しいが、快適な執筆環境を作り出すためなら仕方ない。 「もちろん、柚子さんに対してだけよ」  わかっているとは思ったが、美里は言った。 「世間的には、雨宮麗と仁科美里は別人格として続けて行くつもりなのか?」 「それは、わたしの中で仁科美里が占める比重がどんどん大きくなって、最終的には雨宮麗を締め出してしまえばいいと思うわ。女性向けの新しいソフトな性愛小説を、なんて言っておきながら、わたしがミステリアスなソフト路線に変更しようとするとためらう。編集部のそんな姿勢を見て、本音がのぞけてしまったし。だけど、仁科美里の二冊目がいつ出せるかわからない状態では、雨宮麗をすっぱり切り捨てられないのよ。『ベスト・マガジン』の短編掲載は年三回。それも、来年くるかどうかわからない。作家って、書くことで鍛えられる部分って大きいでしょう? ライターではなく作家として書ける場が減るのが怖いの。だから、雨宮麗でも何でもいいの。とにかく書かせてさえもらえれば」  門倉の前では素直になれて、自分の思いを吐き出せた。  しばらく門倉は黙っていたが、「君の中の雨宮麗って……そんなに小さなものなのか?」ぽつりとつぶやくように聞いた。  美里は、コーヒー・カップに伸ばした手を止めた。 「仁科美里に締め出されるのを待っていて、自分で出て行く気はない。それは、君が完全には雨宮麗を消滅させたくないからじゃないのかな」 「じゃあ、門倉さんは、わたしに雨宮麗を続けさせたいの? たとえ仁科美里が売れっ子になったとしても」  思わずつっかかる言い方になった。 「仁科美里の中に雨宮麗が住んでいる。そんな気がするのさ」 「それは……仁科美里が、もっと雨宮麗の部分を強調した作品を書けばいいってこと?」 「そうなるかな」 「作風を変えろってことなのね」 「オレにそこまではっきり言う権利はない。君自身がそれを望んでいるんじゃないか。そう思っただけだよ」  ——わたし自身が?  そうかもしれない、と美里は思った。短編では、とりあえず、若い女性に好まれそうな現代のファンタジー的なミステリアスな話をいくつか書き、それなりの評価も得たが、四、五百枚の分量のもので読者を引っ張っていくには、吸引力が弱いと感じていた。柚子にほめられた〈清らかな少女の心〉に焦点をあてたミステリーが処女短編集だとすれば、美里が本当に書きたい長編の核は、もっと別のところにあったのだ。少なくとも、物欲も性欲も食欲も……すべての欲望、野心を抱いた等身大の女を描きたい気持ちに傾いている。 「『これは性愛小説だ』とか、『人がポルノ小説と呼ぼうと、エンターテインメントだから仕方ない』とか、自分に言い訳しないと書けない小説を書いているのは、あまりいい状態だとは思えないね。君には、言い訳せずにすむ小説を書いてほしいんだ」 「はっきり言って」  思いきって美里は尋ねた。「門倉さんは、雨宮麗の小説をどう思ってるの? おもしろい? つまらない?」  門倉は、不意をつかれたように顎《あご》を引いた。しばらくの沈黙のあと、「おもしろいよ」と言った。 「じゃあ、感じる? 感じない?」  君の小説は、女は濡《ぬ》れるけど、男は立たないね。だけど、自分が女だったら、と思うと不思議と立つ。——そう感想を述べた自称「雨宮麗のファン」という初老の編集者の言葉を、ふっと思い出し、美里はストレートにぶつけた。 「感じるよ」  答えた門倉の、頬《ほお》のあたりがぴくりと動いた。「仁科美里が書いていると思うとよけいにね」 「…………」 「オレだけに書いてほしい。揺れる女ごころ、いや、君の心理がわかるからね。だけど、できればほかの男には読ませたくない。それが本音だよ」 「門倉さん……」  彼の目に真剣な光が宿ったように見えて、美里の胸は高鳴った。 「自分の好きな女の裸を、ほかの男には見せたくない。そんな気持ちと同じかな」  そう言って、門倉は緊張を解いたように肩をすくめた。  好意を抱き合っているのはわかっていた。だからこそ、電話をしたし、呼び出したりした。だが、ここまで明確に気持ちを聞かされたのははじめてだった。 「仁科美里に徹しろよ」 「…………」  美里は、自分もその気持ちに傾いている、雨宮麗|宛《あて》にあんないやらしい手紙がきたことだし……という文章を心の中で構成していたが、いますぐ彼に相談しなくてもいいのだ、と思いあたった。今夜は、ずっと一緒にいられる予感がある。 「残念だが、君の同窓生ほどの経済力はオレにはない。だけど、君の専属モニターになりたい思いは彼女より強いよ」  これはプロポーズなのだろうか。美里はどきどきしながら彼の口元を見つめた。何かもっとカッコいいことを言ってほしくもあり、もっとストレートに言ってほしくもあった。 「結婚しよう」  門倉は、後者の言い方を選んだ。     5  代々木上原《よよぎうえはら》にある門倉の仕事場兼自宅マンションを出て、タクシーを拾ったときは、午前一時をまわっていた。朝まで一緒にいたかったが、お互い仕事がある。彼がいれてくれたコーヒーを飲んで、エントランスに降り、別れを惜しむように口づけをした。  頬や身体の火照りがなかなか静まらない。はじめて門倉に抱かれた。もちろん、門倉がはじめての男ではない。だが、いままでの男とのセックスはいったい何だったのだろう、と思うほど、門倉とのそれには充足感があった。  タクシーの心地よい揺れが、門倉の愛撫《あいぶ》を思い出させる。何かを創造する、芸術的な才能に恵まれた男の指に愛されたと思うと、たまらなく誇らしく幸せな気持ちになる。自分たちは、巡り合うべくして巡り合ったのだ。三年半前の梶洋平との苦い別れも、こうなるための序曲だったのだ。美里は、そんなふうに受け止め、仕事のほうもうまく進みそうな予感に包まれた。  行為が終わり、コーヒーを飲んでいるときに、例の変態愛読者の手紙のことを話した。門倉は真剣に聞いてくれて、「もしおかしな電話がくるような事態にエスカレートしたら、オレが乗り出してやろう」と言ってくれた。美里は安心した。雨宮麗が〈引退〉すれば、ああした嫌がらせもなくなるだろう、と楽観的に考えられるようになった。  柚子の件に関しては、もう対策ができている。これ以上、干渉してくるようだったら、雨宮麗であることを告白し、彼女の幻想を打ち砕いてやる。  すべてがいい方向に流れていく。長編だって書けるはずだ。「大丈夫。君には才能がある。一冊本を出しているんだ。それが実績だよ」——門倉に励まされ、自信が湧《わ》いてきた。  六階建てのマンションの少し手前でタクシーを降りた。建物の前の道路は工事中で、片側通行になっている。十月も半ばになって、朝晩は肌寒い。手にしたジャケットを着ようかどうか迷ったが、すぐそこだからいいか、と思い直した。思うと同時に、ふっと顔を建物へ振り向けた。  五階の手前から三番目の部屋に、明かりがついている。2LDKの間取りで、独立した二部屋は、一室を寝室に、もう一室を、本棚を巡らして書斎として使っている。  ——あそこはわたしの部屋のはず。  ベランダに面した部屋は、家族で住んでいる者はふつうにLDとして使い、もの書きの美里は、大型机とパソコン机を置いて、仕事部屋として使っている。  もう一度、手前から数えてみる。一、二、三。やっぱり三番目だ。  ——電気を消し忘れて出かけたのだろうか。  そんなことはありえなかった。自宅から火事を出すまい、と気をつけている美里は、外出時にはガスをはじめ、電気類の点検も怠らない。留守番電話機能のついた電話やパソコン、冷蔵庫は仕方ないとして、ほかの電化製品はすべてコンセントを抜いて出かける。電子レンジもだ。美里は、自他ともに認める倹約家だ。無駄な電気を使わないように、光熱費も毎月チェックしている。  ——まさか……。  ある光景に想像が及んだ瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。指先と膝頭《ひざがしら》が震え出す。体温が一気に下がった気がした。  違う、何かの見間違いよ。幸せすぎて、幻覚を起こしているのよ。目をつぶる。一、二、三、四、五、六……十まで数えて、祈るような思いで目を開ける。  明るい。さっきより一段と明るさを増して見える。  背後を自転車が通り過ぎた。美里は我に返り、エントランスの一番目のドアを押し開けた。部屋番号がずらりと並んだプレートの横の穴に鍵《かぎ》を差し込むと、二番目のドアが開くオートロック・システムになっている。その鍵は、部屋の鍵と共通だ。気持ちを落ち着けるために、一連の作業を進める。ホールに立って、ふたたび足を止めた。戻って、自分の部屋番号をプッシュしてみようか。誰が応答するか。その誰かを確認してから入ったほうがいいのではないか。表に出て、電話してみるという手もある。  ——泥棒?  まさか。泥棒がこうこうと電気をつけるわけがない。  ——お母さんが?  こちらも、まさかだ。家族に部屋の合鍵など渡してはいない。  美里が都内で一人暮らしを始めたのは、フリーライターとして仕事を開始した六年前である。大学を卒業した美里は、大手商社に就職した。願いが叶《かな》って、広報部に配属されたときは、一生続けられる仕事だと喜んだ。だが、三年たって、自分の本当にやりたかったこととのギャップが生じた。もの足りなさを感じていたときに、仕事で知り合った出版社の女性編集者が「こういう仕事があるんだけど」と声をかけてきた。出産してもばりばり仕事を続けているやり手の編集者だった。美里は、彼女の生き方にあこがれていた。親にも相談せずに、退職を決めた。辞める前に、貯金を解約して、駒沢の中古マンションの一室を借りた。引っ越し費用には、退職金をあてた。フットワークを軽くするためには、都心の管理のいいマンションである必要があった。事後承諾の形になって、両親……とりわけ父が激怒した。 「一人暮らしも経験せずに、親元から結婚相手のところにすんなりバトンタッチされるなんて、そんな生き方まっぴらだから」  自分から親を切り捨てる形で、家を出た。したがって、合鍵など置いて来なかった。心配した母は、その後、何度か部屋を訪れた。だが、父のほうは一度も現れていない。 「もう一人暮らしも堪能したでしょう? いい部分も悪い部分もわかったはず。そろそろお父さんの言うことにも耳を傾けてみない?」  母が突然現れて、見合いの話を持ち出したのが、三年半前だった。まだ雨宮麗も仁科美里も誕生していないときだ。自分は、親不孝な娘すぎるのではないか。仕事上のミスが続いたせいもあり、美里は気弱になっていた。父の態度が軟化したと知り、見合いを受ける気持ちになったのだった。  ——電気を消し忘れたのでも、泥棒でも、母親でもない。  美里は、ある可能性を考えたくないために、ほかの可能性を数え上げている自分に気づいていた。  指先が痺《しび》れて力が抜けそうになるのを、血の巡りをよくするかのようにこすり合わせながら、集合ポストが並ぶ部屋に入る。こちらは小さな鍵で、自分のポストを開けるようになっている。鍵を差し込み、ふたを開ける。  ない。郵便物がまったくない。  配達されなかったのかしら、と思い、すぐにそんなはずはない、と打ち消した。このひと月、DM一通届かなかった日はないのだ。だいたい、広告も投げ込まれていないのはおかしい。  ——上にいる誰かが……。  もうその誰かは、くっきりと輪郭を作って、美里の脳裏に住み着いていた。怖《お》じ気づいている場合じゃない。握りこぶしに力を入れた。  エレベーターの中で、深呼吸を何度もする。ドアが開くと、美里はためらわずに部屋に向かった。いつもどおりにするのよ、と自分の胸に言い聞かせる。鍵穴に差し込んだ鍵を回す。いつもどおりに、と思いながら、強く回しすぎた。ドアがきしむような音をたてた。  奥の部屋から明かりが漏《も》れている。三和土《たたき》に揃《そろ》えられたフェラガモの靴を見て、美里は確信した。  彼女だ。柚子だ。  熱い憤りと、同じくらい熱を持った不安が、じわじわと胸に広がっていく。反対に、手足は冷えている。 「誰! 誰ですか?」  わかっているのに、そう叫びながら、美里はリビングのドアをばあんと開けた。  こぼれんばかりに生けられたバラのあいだに、柚子の顔がぽっかり浮かんでいた。美里は凍りついた。本当に、首から上が浮かんでいるように見えたのだ。ダイニングテーブルに置かれた花かごの向こうに、彼女は背筋を伸ばして座り、まっすぐこちらを向いていた。 「どこへ行ってたの?」  開きかけた唇が、柚子の質問で封じられた。その目は据わっている。  ——どこへ行ってたの、ですって? あなたこそ、何でここにいるんですか!  戸惑いと怒りと……恐怖が大きすぎて、声にならない。 「こんな時間までどこへ行ってたの?」  抑揚のない低い声だった。明らかに美里を詰問する姿勢だ。 「どうやって入ったんですか?」  勇気を出して、こちらが質問する。一度彼女の質問に答えてしまったら、際限なく問いつめられそうな気がした。 「いつもうちのミサがお世話になっています。そう言って、管理人さんから鍵を貸してもらったのよ」 「うちのミサ?」  確かに耳に届いているのに、意味が理解できない。わたしが専属モニターを務めている作家のミサちゃんの、という意味だろうか。美里は、ポストと表札に本名の坂井と筆名の仁科を併記しているが、自分から管理人に作家であると告げてはいない。しかし、何度か「仁科美里」宛《あて》に届いた荷物を、管理人室で預かってもらったことがある。受け取りに行った美里に、六十歳前後の女性管理人は、「女優さんか何かなさってるんですか?」と聞いた。「いえ、ちょっと雑誌に記事を書いてまして」美里はあいまいに答えておいた。 「ミサちゃん。作家だってはっきり教えてないの? 管理人さんには礼を尽くしておかないとだめよ。いろいろお世話になる方だから」  もしかしたら、彼女は管理人に手みやげでも渡したのかもしれない、と美里は思った。 「郵便物は?」  柚子が、電話台の上の壁にぶら下げてあった小さな合鍵を使って、郵便ポストを開けたのはもう疑いようがない。  彼女は、首を横にも振らなければ、「知らない」とも答えない。かわりに、「どこへ行ってたの? こんな時間まで」と最初の質問に引き戻した。「仕事もしないで」と言い添える。 「仕事もしないで、って……」  頭が混乱した。「柚子さんに関係ないでしょう?」 「関係あるわ」  うっすらと口元に微笑をたたえ、柚子は、座ったまま人さし指をぴんと立て、左右に振った。「仁科美里のためにね」 「わたしのために、無断で部屋に入ったって言うんですか? わたしのために、勝手に郵便物を取ったって言うんですか?」 「管理人に断ったわ」 「ここの住人はわたしです。いつからいらしてたんです?」 「五時ころかしら。そのころなら、いくら何でも帰っていると思ってね」 「ずっとここに?」  背筋が寒くなった。八時間近くも、花の匂《にお》いがたちこめた空間で、息を潜めて自分の帰りを待っていた人間がいたと思うと、身体中をぞわぞわと小さな虫が這《は》い回るような感覚に襲われる。 「水をいただいたわ」  コーヒーくらい出すべきだろうか、とふと思いついた自分が嫌になる。 「ミサちゃん、あなたは自分をちゃんと管理できない人間みたいね」 「えっ?」 「仕事でこんなに遅くなるかしら。あなた、腰を据えて書いていないといけない時期じゃないの? ライターの仕事は夕方には終わるはずだったんじゃない?」  思い出した。一昨日、イタリアン・レストランでの雑談で、次の仕事はいつ? と聞かれ、今日銀座で試写会があること、そのあと映画監督にインタビューする話をしたのだった。 「出版社が銀座あたりのバーを連れ回すわけないわよね。ミサちゃん、まだそこまでの作家じゃないもの」  柚子の顎《あご》が上がってきた。美里は、この部屋の住人が本当は柚子で、自分は単なる間借り人なのではないか、という錯覚に陥りかけた。 「男の人と会ってたんです」  正直に告げたほうがいい。覚悟を決めた。彼女の目を覚まさせるには、一つ一つ事実を告げていくほかはない。 「男の人?」  柚子は眉《まゆ》をひそめ、目にきつい光を宿らせた。 「つき合ってる人です」 「どこの誰?」 「そんなこと、柚子さんに関係ないじゃないですか」 「関係なくないわ。あなたのことは何でも把握しておかないと、わたしが困るわ」 「困るって……」  どこから彼女のねじれた論理を突いていけばいいのか、混乱した頭ではとっさに考えられない。 「どうしてなんですか? なぜ柚子さんが困るんですか?」 「わたしは、仁科美里のモニターだって言ったじゃないの。わかりやすく言えば秘書よ」 「秘書?」  声がかすれ、すっとんきょうな口調になった。「頼んでなんかいません、わたし」 「ミサちゃん、あなた、長編が書けなくて苦しんでいたんじゃなかった? それは、環境が劣悪なせいよ。わたしが整えてあげるわ。わたしにはそうする義務があるのよ」 「劣悪な環境って、義務って、いったい何なんですか? わたしの母親でもないのに」 「ご両親にミサちゃんを守れないからよ。わたしが守るしかないじゃない。ご家族と険悪になってるんでしょう?」  プライベートなことまでべらべらしゃべってしまった自分が、いっそう嫌になる。 「わたしの秘書になることが、無断で……いえ、管理人に断ってもです、無断で部屋に入り、無断で郵便物を取り出すことなんですか? なぜここにいらしたんです」  中学一年のときに二学年上だったというだけで、敬語を使って話しているばかばかしさと虚《むな》しさが胸にこみあげる。 「これを届けるためよ」  用意してあったのか、柚子は背中に右腕を回して、一冊の本を取り出した。仁科美里の処女短編集、『スープが冷めたら』だった。  柚子がページをめくる。白い余白を埋めるように引かれ、書き込まれた夥《おびただ》しい量の赤が、一瞬で目に焼きついた。赤、赤、赤……。 「これはチェック用だから」  短く説明して、柚子は立っている美里のほうへ少し身を乗り出した。「目についただけだけど、ちょっと直してみたのよ。目を通してみてくれる?」 「どうして」  美里は、本を見下ろさないようにし、声を振り絞った。「どうしてそんなことをするんですか? 嫌がらせですか?」 「嫌がらせだなんて……ミサちゃん」  衝撃を受けて唾《つば》を呑《の》み込んだのが、彼女の顎の動きでわかった。 「なぜわたしがミサちゃんに嫌がらせしなくちゃいけないの?」 「だけど、嫌がらせに見えます。それはもう本になっているんです。ミスを指摘してくださるならわかります。ありがたく承ります。でも、柚子さんの場合は違うでしょう? 自分の好きなように文章を作り替えたいだけです」 「落ち着いてちょうだい」 「落ち着いてます」 「でも、声が興奮してるわ」  興奮しているのは充分、承知している。声がうわずっているし、目の端に涙がたまっているのも知っている。 「ねえ、ミサちゃん」  柚子は、ぱたんと本を閉じた。これはあとにしましょう、というふうに脇《わき》へどける。「あなたが書けなくて苛立《いらだ》つ気持ちはわかるわ。逃げたくなる気持ちも」 「逃げる? 何からですか?」 「直面している過酷な現実からよ。わたしの話に素直に耳を傾けようとしないのもそうだし、男の人に逃げようとするのもそう」 「彼とつき合っていることが、現実からの逃避になるんですか?」 「いま男なんて作られちゃ困るじゃないの。ミサちゃん、いまがいちばん大切なときなのよ」 「大切なときだからこそ、彼が必要なんです」  落ち着きが戻った。そうだ、自分には門倉千晶という心強い味方がいたのだ。さっき、一つ一つ真実を告げよう、と決めたではないか。美里は大きく息を吸った。わたしには切り札がある。 「柚子さんの力を借りなくても結構です。わたしには頼れる人がいます。結婚を考えている人がいるんです」  柚子は、鼻をひくつかせた。「寝たの?」ずばりと聞く。  美里はうなずいた。 「結婚なんかできるわけないでしょう、ばかね」  あきれを含んだような口調で、柚子は言い放った。 「どうしてですか?」  どうして、なぜ、と理由を尋ねてばかりいる自分が、滑稽《こつけい》に思えた。 「いま結婚なんかしたら、作家・仁科美里は消えるわ」  あまりに断定的に言われたので、美里はムッとした。 「それがわからないの?」 「ご心配なく。わたしは大丈夫です。門倉さんは理解ある男性です」 「門倉?」  どこかで聞いた名前だわ、といった顔で柚子は視線を宙に泳がせたが、すっと戻して、「甘いわ、ミサちゃん。仕事と家庭が両立できるなんて考えているんだったら、甘すぎるわ。いま結婚したら、あなたの時間のほとんどは、家庭のほうにとられちゃうのよ」 「大丈夫です。門倉さんは、この仕事をよく知っている人ですから」 「門倉……」  ハッと思いあたったように、柚子は置いたばかりの本を取り上げた。最初のページを何枚かめくって、「門倉千晶。絵描《えか》きね」とつぶやいた。カバーイラスト・門倉千晶という箇所を見つけたのだろう。 「イラストレーターです」  絵描きという言い方に侮蔑《ぶべつ》の響きが感じられたので、美里は言い直した。 「ろくな男じゃないわね」 「あなたに言われる筋合いはありません。彼は尊敬できる人です」 「経済力は?」 「柚子さんほどではないかもしれませんが、わたしよりあります。こだわりのある仕事をする人なので、びっくりするほど稼いではいませんけど」 「信用できるの? つき合いはどれくらい?」 「二年くらいですけど……」  つき合いと呼べるつき合いになったのは、ごく最近だ。だが、正確に答える義務もない。「プロポーズされたんです、今夜」 「衝動的ね、まったく。子供みたい」  柚子は、決めつけるように言った。 「子供じゃありません。門倉さんは三十五歳。勉強家で、考え方はわたしよりずっとおとなです」 「プロポーズを受けるあなたが子供だと言ったのよ。本当に、彼を信頼できる? 結婚しても、いまと変わらないくらい執筆の時間が確保できると思う? つき合っているときは小説家でも、結婚してしまえばただのオレの女房よ。彼が暴君夫に豹変《ひようへん》しないと、誰が保証する? ミサちゃん、大丈夫だという確信があるの?」 「…………」  結婚しても執筆時間が変わらない、という自信は残念ながらない。門倉は彼の部屋でおいしいコーヒーをいれてはくれたが、果たして彼が料理を進んで作る男なのかどうかはまだわからないのだ。キッチンにひととおりの調理道具は揃《そろ》っていたように思う。けれども、外食が多いのか、自炊をすることもあるのかは聞いていない。料理が嫌いでもいい、せめて進んで皿洗いを手伝う男であってくれれば……。この期《ご》になって、そう望んでいる自分に愕然《がくぜん》とする。柚子に心の動揺を悟られかねない。 「ほら、心配でしょう?」  柚子は、嬉《うれ》しそうに美里の顔を見上げた。「その顔は、まだそこまで深くつき合っていません、って顔ね」 「…………」 「三十五ですって? そういう男は、バツイチだったりして」  ドキッとする。彼女はまるでわたしの心を見透かしているようではないか。 「そいつじゃないの? これ」  本の下から一通の封筒を引き出し、柚子はすっくと立ち上がった。美里の目の前に封筒を突きつける。 「読んだんですね?」  封筒の上がはさみできれいに切り取られている。見憶《みおぼ》えのある封筒だった。ワープロ文字の宛先《あてさき》をシールに打ち出したものを、表に貼《は》ってあるのも同じだ。 「知ってますか? 柚子さんのした行為は、通信の秘密を侵した罪にあたるんですよ」  柚子の手から封筒を奪い取り、美里は彼女をにらみつけた。 「社長宛の郵便物は、秘書が開けるのがふつうよ」 「わたしは社長じゃありません」 「むきにならないで。たとえよ。スター宛にきた手紙を、マネージャーが開封するようなものよ。かみそりでも入っていて、指を怪我《けが》したら大変だわ」 「わたしはスターでもありません。そんな手紙、くるはずありません」 「こういう手紙はくるってわけ?」  美里は、いまはじめて手紙の内容に気持ちが向いた。変態愛読者からきた二通目の手紙だ。よりによって、こんな手紙を柚子に開封されてしまうなんて。 「もう一通は、ご自宅から転送されてきたものよ。あっちにあるわ」  柚子は、窓側の仕事机を顎《あご》で示した。「長野県上田市立掛布中学校の同窓会の通知。ミサちゃんの卒業年度全員よ。何枚かあったチラシは、仕事に関係ないから捨てたわ」  ——中学の同窓会。  こちらのほうは、美里に戸惑いを与えた。学年の合同同窓会の通知がきたのは、はじめてである。 「ミサちゃんは作家になったのよ。昔のいじめっ子の前で堂々と胸を張ればいいわ」 「…………」 「ああ、やっぱりそういう気持ちになれないのね。『卒業して十六年たっても、人間ってなかなかふっきれないものらしい』ってね」  自分で〈トル〉と削除した箇所のくせに、柚子は美里がエッセイに書いた文章を、そっくりそのまま口にした。 「わたしが同窓会に行こうとどうしようと、やっぱり柚子さんには関係ないじゃありませんか」  きっぱりと言って、ふと気になった。「柚子さんは、ご実家にはお帰りにならないんですか?」  実家が裕福だったのか、結婚相手が資産家だったのかわからないが、とにかくいま柚子は、経済的に豊かな生活をしているようだ。それは間違いない。 「わたしのことなんかいいのよ」  柚子はすばやく話の矛先をこちらに戻し、「こういう手紙、よくくるの?」と聞いた。  美里は、封筒から白い紙を引き出した。一通目と同じ手ざわりのコピー用紙だ。柚子の視線を意識しながら読む。  前略 仁科美里先生お元気ですか? 早く次作を発表してください。でないと僕たまってたまってしかたないんです。本当に一日も早く仁科美里先生の名前で御作を拝読したいです。もっと過激にもっと淫《みだ》らにもっと大胆にもっと足を広げて書いてください。僕はその深くて暗い神秘的な穴に吸い込まれそうな気分でいつも一字一句を味わって読んでいるんです。仁科先生美里先生仁科美里様よろしくお願いします。                    草々                    愛読者より 「いたずらです」  美里は吐き捨てるように言い、一枚きりの、一通目より短い文面の手紙を、テーブルに投げ捨てた。文面が短くなったのは、一通目で美里に与えた衝撃と恐怖の大きさを想像し、満足したからのように思えた。あとは、その衝撃と恐怖をできるだけ持続させようとしているかのようだ。二通届いて、変態愛読者の意図が少し読めた気がした。 「それにしても、ひどいいたずらね」  柚子は、こんな手紙をもらったあなたが悪い、と言いたげな鋭い目で美里を見た。 「手紙を出した人間に、ミサちゃん、心あたりはないの?」 「ないです」 「案外、門倉千晶だったりして」 「やめてください。そんなはずないじゃないですか。わたし、門倉さんに手紙のことを相談したんですから」 「やっぱり前にもきたのね。そっちを見せてちょうだい」 「読んですぐ破り捨てました」 「じゃあ、仕方ないわね」  ふう、と柚子はため息をついた。「門倉って男、相談に乗るふりをして、ミサちゃんの反応をうかがっているんじゃなくって? 相談されるのをきっかけに、あなたと親しくなろうと企ててたりしてね」 「門倉さんは、こんないやらしい手紙を書くような人じゃありません」 「そうかしら」  柚子は、その門倉千晶が描いた表紙に目を落とした。「こんな女みたいな名前をつける人だもの、変態的な要素は充分あるわ。これ、本名じゃないんでしょう?」 「明るいって字を変えただけです!」  ほとんど叫ぶように美里は答えた。 「ここの住所を知らなければ、こうして手紙を送ってこられるはずがないじゃないの。門倉千晶でなければ、ミサちゃん、あなたのまわりにはそんなに大勢、変態男がいるってわけ? それだったら、おかしいわ。あなた、男性にすきを見せているんじゃないの? それじゃ、執筆に専念できるわけがない。ミサちゃんって、よっぽど自己管理能力がないのね。やっぱりあなたにはわたしが必要なのよ」  もうどんなふうに言おうと、この女には通じない。最後の切り札を使うときだ。美里は決心した。煮えたぎるような思いが喉元《のどもと》を突き上げて、ひりひり痛む。これで、彼女の目はぱっちり覚めるだろう。 「この手紙は、仁科美里に宛てられたものじゃありません。雨宮麗に宛てて書かれたものです」 「雨宮麗?」  誰それ、というふうに柚子は眉を寄せる。 「わたしには、もう一つの顔があるんです。柚子さんが大っ嫌いなポルノ作家という顔が」  ふだん自分でも絶対に使わないポルノ作家という言葉を、わざと使う。苦い痛みが胸をちくりと刺した。 「信じられないみたいですね。じゃあ、証拠をお見せしましょう」  美里は、書斎へ走り、本棚の雑誌コーナーのところから『小説イマージュ』を二冊抜き出した。戻ると、柚子は呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしたままでいる。テーブルへどさっと雑誌を投げ出した。 「柚子さん、部屋中調べたんじゃなかったんですか? それだけの時間はたっぷりあったはずです。人の郵便物を勝手にのぞき見てたくせに」 「そんな非常識なことはしないわ。手紙をチェックしたのは、わたしの務めだからよ」  ——非常識ですって? あなたがここにいること自体が、すでに常識からはずれているじゃないですか。 「それじゃ、八時間もここにいて、何をしてたんですか。だいたい柚子さん、こんな深夜にここにいらしてていいんですか? ご主人、心配なさらないんですか?」 「わたしのことはいいって言ったでしょう?」  声に怒気と苛立《いらだ》ちを含ませて言ってから、柚子は低い声で続けた。「ずっと仁科美里の本を読んでたわ」 「えっ?」 「『スープが冷めたら』をずっと読んでた。どうすればもっと文章がよくなるのか、どうすればもっと感動を読者に伝えられるのかと思って。一生懸命、ただそれだけを考えて読んでたのよ」  美里は、柚子の視線の先をたどり、テーブルに置かれた自分の本を見た。文章を直していた、つまり赤を入れていた、ということらしい。その光景を想像して、ますますゾッとした。  ——八時間も繰り返し、繰り返し、ひたすらわたしの本を読んでくれてたってわけ? ううん、読んでたんじゃない、直してたのよ。 「やめてください!」  美里は、両手で強く耳をふさいで、叫んだ。しばらくそうしていて手を離すと、耳の奥で鳴っていた轟音《ごうおん》が遠のいた。  柚子は、魂を抜かれたような顔で、雑誌に手を伸ばした。より表紙がいやらしいほうを手に取る。胸の谷間を誇らしげに見せ、唇を半開きにしている全裸の女の表紙を開き、目次に「雨宮麗」を見つけ、そのページを開く。彼女が射るような目で雨宮麗の小説を読むのを、美里は不安と快感がないまぜになった思いで見ていた。  最後まで読まずに、つっと柚子は顔を上げた。「うそでしょう? ミサちゃん、わたしを驚かそうと思って言ってるのね?」 「うそじゃありません。それを読めば、変態愛読者がなぜあんな手紙をよこしたか、納得できるでしょう? ——一日も早く仁科美里先生の名前で御作を拝読したいです。もっと過激に……」 「やめて! 不潔だわ!」  今度は、柚子が遮り、汚いものにでもさわったように雑誌を床に投げた。「ミサちゃんにこんなおぞましいものが書けるはずない」 「信じたくないんですね? でも、本当です。書いたのはわたしです。——彼は、なだらかな丘のように柔らかく盛り上がった膨らみを、薄い下着の上から……」  自分で書いた小説の、記憶している描写を語り始めると、いきなり柚子はもう一冊の雑誌に手を伸ばした。表紙をびりっと破り取る。その勢いの激しさに、美里は息を呑《の》んだ。 「こんなもの、こんなもの」  つぶやきながら、びりびり破り続ける。柚子の額が汗で光る。浅黒い肌には合わない白すぎるファンデーションははげ始め、ほつれた前髪は額に張りつく。鬼気迫る表情だ。  固く綴《と》じられた雑誌のページは、何枚かまとめて破ろうとすると破りにくい。最後のページにいきつく前に、彼女は猛然と頭を起こし、手を止めた。 「そんなうそをついてまで、あなたは小説より男を選びたいの?」  ずれている。美里は、絶望感でかぶりを振った。 「柚子さん、信じたくないんでしょう? だったら、書きかけの原稿をお見せしましょうか? コンピューターに入ってます」  柚子は、黙って肩を上下させている。その呆然とした姿に、美里は刺激されてしまったのかもしれない。言葉がとめどなくあふれてきた。 「エッセイに書いた内容は、全部でたらめです。柚子さんのことを恩人だなんて、これっぽっちも思ってません。あれは、薦めてくれなくても、もともと読むつもりの本でした。あれ読め、これ読め、とうるさくて仕方なかったんです。柚子さんといたから、よけい男の子たちに煙たがられたのかもしれません。仁科美里の仁科は、柚子さんの苗字から取ったんじゃありません。わたしの大好きなギタリストの仁科駿から取ったんです。柚子さんは知らないかもしれないけど、知らなくて当然です。彼こそわたしが発掘した、天才ギタリストですもの。わたしにだって、埋もれた才能を発掘する才能くらい備わっているんです。いえ、誰にだって、そんな才能は備わっているんですよ。あなたに見出されなくても、みんな自力で出てくるんです。出てきてから、わたしが見出した、と言いたいものなんです」 「うそ……」 「ええ、そうです、うそです。作家は、うそなんか平気で書けるんです」  言ってしまった。ああ、すっきりした。美里の体内を快感が巡った。  柚子の唇が震え出した。生まれたばかりの快感が、美里の中からすっと引いた。 「恩知らず!」  柚子は、花かごから赤いバラを抜き、美里に向かって投げつけた。美里は、殺気を感じてあとずさった。 「赤いバラ。愛情と情熱。ピンクのバラ。わたしはあなたに嫁ぎます。黄色いバラ。愛情のうすらぎ。白いバラ……純潔と尊敬」  ぶつぶつつぶやきながら、柚子は、赤、ピンク、黄色、白の順でバラを引き抜いては、狂ったように投げつける。花弁が舞い落ち、茎が吸い上げた水がテーブルや床に水滴をまき散らす。足下が濡《ぬ》れる。 「赤いバラ。愛情と情熱。ピンクのバラ。わたしはあなたに嫁ぎます。黄色いバラ。愛情のうすらぎ。白いバラ。純潔と尊敬」  それらがバラの花言葉だと知って、美里の腕に鳥肌が立った。最後の一本、白いバラを柚子は引き抜く。とげの痛みなど感じないかのように、強く茎を握り、じっと花を見つめる。口の中では、念仏のように花言葉が繰り返されている。「純潔と尊敬、純潔と尊敬、純潔と尊敬、純潔と尊敬、純潔と尊敬、純潔と尊敬」……。  花かごのむき出しになった深緑色のスポンジに、点々と開いた穴が、鳥肌を連想させた。  柚子は、最後の一本を床に落とした。指先がバラの刺に傷ついて、赤くなっている。血をにじませた彼女の指が、首を絞めるために伸びてきそうで美里はギョッとした。とっさに逃げ出すことを考えた。だが、柚子は気が抜けたような表情で、自分のディオールのキルティングのバッグを拾い上げ、戸口に向かう。美里は身を引き、彼女の通り道を作った。  部屋に立ち尽くして、柚子の後ろ姿を見送った。  ドアが閉まる。遠ざかる足音。パンプスの響き。重苦しいほどの静寂。  こらえていたものがどっと胸の奥からあふれ出た。涙がまぶたを強く押し上げる。  ——あそこまでひどく言うことはなかったのに。  苦い後悔の念がこみあげる。  ——柚子さんは、確かにわたしを応援してくれていた。ただ、彼女のやり方が度を超えていただけだ。応援の仕方をちょっとばかり間違えただけなのだ。  わたしは、何て思い上がったひどい女だろう。読者を一人……立ち直れないほどひどく傷つけてしまった。罪の意識の重さに頭がくらくらした。  少し腐臭が混じり始めたバラの香が漂う部屋で、美里はテーブルにつっぷし、しらじらと夜が明けるまで泣き続けた。     6  横浜の実家から送られてきた封筒には、母親の手紙が同封されていた。ワープロで手紙を書くなんて考えられない、と言う彼女の字は、ときどき近所の人に頼まれて表札や慶弔の表書きを書くだけあって、品があって美しい。ほぼ完璧《かんぺき》な字だ。だが、どこか昔の習字のお手本のようで、保守的な感じがする。夫を支え、妻として母として生きるのが女の生きがい。母親のそうした考え方が字にも反映されている、と美里は思う。  美里は、小さいころから習字を習わされたので、字には自信がある。けれども、直筆にこだわる母親への反発もあってか、小説はもちろん、日記も手紙もワープロ(パソコン)一辺倒だ。  前略 読書の秋、という文字を見るたびに一人でどきどきしている、娘とは違って心臓の弱い、気の小さい貴女《あなた》の母親です。  美佐ちゃんから便りがこないので、寂しい気持ちでいたところへ(用がないと私のほうもおいそれと手紙を書けないでしょう?)、掛布中学校の同窓会のお知らせが届きました。そちらへ送るのを理由に、堂々と貴女にお便りできます。  元気にお過ごしですか? 昼も夜もないような毎日を送っているのではないでしょうね。一日三十品目とは言いませんが、少なくとも二十品目は食べてくださいね。  先日、草月流の先生が、「お嬢さん、作家さんでしたのね。知り合いが何かの雑誌を見て、お嬢さんのことを知ったと言います。知らせてくださればよかったのに。お嬢さんの本、買わせていただきますよ」と、興奮ぎみに私に話しかけてきました。私たちも別に隠しているわけではないのですよ。誇らしいことではあっても、恥ずかしいことではけっしてありませんからね。でも、美佐ちゃん。やっぱり貴女のほうから、自分の本を持って、一度ちゃんとお父さんに挨拶《あいさつ》に来るべきですよ。それからだったら、私たちも堂々と胸を張ってご近所の皆さんにも、貴女が昔お世話になった方々にも挨拶ができるのです。何事にも筋というものがありますからね。お父さんもこのごろは、貴女のことをよく口にします。独り言のように「美佐のやつは、まだ書いているのだろうか」なんてね。  私にしても、本心では、文才に恵まれた娘を持ったことを、自慢したい気持ちがあるのですよ。貴女は信じないでしょうけど、私も小説家にあこがれた時期がありました。熱病みたいなもので、すぐに冷めてしまいましたけど。  昨夜、布団に入ってから、ふと貴女が小さいときのことを思い出しました。この話、美佐ちゃんにはしてなかったですね。三歳のころだったかしら、貴女と公園に行ったとき、鳩《はと》が寄って来ました。美佐ちゃんは怖《こわ》がって、わたしの後ろに隠れました。「大丈夫よ。鳩は突《つつ》いたりしないから」そう笑ったのだけど、貴女はしばらく泣きべそをかいていましたね。ベンチに座って、お菓子を食べ出した貴女が、こんなことを言い出したのです。 「美佐が前に住んでいたおうちは、すごく古かったよね。でも、美佐のせいで、おうちは焼けちゃった。美佐とインコのせいで」  不思議な話をするな、と思いました。貴女は生まれてからずっと横浜の家にいたし、あのころはそれほど古い家でもありませんでした。たぶん夢でも見たのか、誰かに読んでもらった絵本の話と混同していたのでしょう。思えば、美佐ちゃん、貴女は小さいころから空想好きで、夢ばかり見ているような子でした。  それだけの話ですが、昨夜、ふと思い出したので書きました。  そうそう、圭一《けいいち》が近々交際している女性を家に連れて来るそうです。私たちに紹介したいのだとか。それでお父さん、「弟より先に姉が嫁ぐのがやっぱり順序ってものだろう」と言い出して。圭一が結婚するとなれば、貴女を引っ張り出さないわけにはいきませんよ。  本当に、もういいかげん、そろそろお父さんに頭を下げに来てください。電話をしてお父さんが出るのが嫌だったら、私あてに手紙をください。どうぞよろしくお願いします。では、お体に気をつけて。貴女の本が出るのを楽しみにしている母親が横浜にひっそりといるのを、どうか忘れないでください。   かしこ                      奈津子  ——堂々とお便りできます、堂々と胸を張って近所に挨拶できます、か。  美里は、読み終えた手紙を机に置いた。手紙を書くのに、こそこそ書くことないじゃないの。自分が言いたければ、「娘が小説家になった」と堂々と言えばいいじゃないの。あいかわらず世間体を気にし、夫のご機嫌をうかがいながら生きている母親。彼女の性格はもう直らないだろう、と美里はあきらめた。だが、娘への愛情に満ちた文面は、罪悪感を募らせた。お母さん、あなたの娘は、自分が「恩人」とエッセイに書いた愛読者を、こっぴどい目に遭わせてしまったのよ。  ——美佐とインコのせいで?  何のことだろう。三歳のころの記憶など、ひとかけらも残っていない。自分が幼いころから鳥が苦手だったと知って、おかしくなった。母親も見ていないところで、からすか何かに突かれそうになった経験があったのかもしれない。  続いて、追伸を読んだ。  同窓会までもう十日もありませんが、速達でこちらに届いたのは、きっと幹事の方が貴女の実家の住所を探し当てるのに、時間がかかったせいでしょう。なるべく早くお返事してあげてください。  同窓会は、十月二十四日の土曜日。あと八日しかない。この種の案内は、ふつうひと月以上前によこすものだ。きっと、中学を卒業と同時に横浜に戻り、それ以降は疎遠でいる同窓生など、呼ぶ気ではなかったのかもしれない。美里は、意地悪くそう思った。  幹事には、三人名を連ねている。男性二人に女性一人。そのうち一人の男性が、三年間を通じて美里とクラスが一緒だった。  野中武《のなかたけし》、クラス委員をしていた男だ。一学期が始まって、クラスの交友関係が築きあげられてから転入して来た美里が、口の悪い男子数人に、その茶色い髪や茶色い瞳《ひとみ》をからかわれても、われ関せずという涼しい顔をし続けた男。かなり成績はよかったように記憶している。  連絡先として、三人の電話番号が載っているが、ファックス番号も併記してあるのは、野中だけだ。  野中武という名前とは、奇妙な縁があった。美里の受賞作が掲載された『ベスト・マガジン』号の、短編コンテスト予選通過者の中に、「野中武」の苗字をひっくり返した「中野武」という名前が載っていたのだ。見つけた瞬間、〈中学の同級生の野中武が、本名をちょっと変えたペンネームで応募したのかしら〉と、美里は思ってしまった。だが、中野武という名前はありふれている。野中武に結びつけてしまうのは、安易すぎる。  記されている野中のファックス番号は、上田市内のものらしい。  ——出てみようかな。  すっかり忘れられたわけではなく、遅れてもちゃんと案内がきたのが、まず嬉《うれ》しかった。誰かわたしが作家になったのを知っているだろうか、という単純な興味もあった。それから、やはり見返してやりたい、という気持ちも。  久しぶりに上田へ行ってみたい、とも思った。柚子と訣別《けつべつ》し、気持ちがふっきれたいま、はじめて中学校時代を懐かしむことができそうな気がした。取材にもなる。  二、三日のうちに、返事をファックスで野中武に送信しよう、と決めて洗面所へ向かった。鏡をのぞきこむ。泣きすぎて、まぶたが腫《は》れぼったい。 「へーえ、圭一、結婚するの?」  鏡に向かって、ひとりごちる。「だったら、ますます横浜なんかに帰れなくなるじゃないの。ポルノを書いてる姉貴がいるなんて知れたら、あんたの縁談、壊れちゃうわよ」  七つ離れた弟の圭一は、横浜市内の小学校で教師をしている。姉の美里から見ても、もうちょっと遊べばいいのに、と思うくらいまじめな男だ。教師になってまだ二年目、二十四歳の若さで、両親に紹介するために女性を連れて来るという。結婚を前提にしての交際だろう。 「あんたは、まじめすぎるから、ちょっとつき合っただけで、もう結婚を考えちゃうのよ」  結婚という言葉から、自分のそれを連想した。門倉との結婚生活を想像してみる。柚子の言葉が鉛のように、美里の心に重くのしかかってくる。  ——本当に、彼を信頼できる? 結婚しても、いまと変わらないくらい執筆時間が確保できると思う?  不安は、そのまま彼にぶつけたほうがいいのかもしれない。美里は結論を出した。お互いの気持ちをぶつけ合ったほうがいい。彼はわたしの心の支えになってくれる。結婚すれば、経済的にも楽になる、少なくともいまよりは。すべてを自分で背負い込まなくていい、という意味で、気持ちが軽くなる。  ——だけど、それは、自分を甘やかすことにつながるんじゃないの?  もう一人の自分が、内心で問う。結婚して生活が変われば、いまよりはがむしゃらに書かなくなるかもしれない。いや、書かなくなるんじゃなくて、書けなくなるおそれも……ある。 「門倉さんに電話しよう」  不安を吹き飛ばすために、明るく声に出した。深夜の悪夢のようなできごとを、彼に報告しなければいけない。だが、その前に片づけだ。ちょうど今日は燃えるゴミの日である。  半透明のゴミ袋を用意し、室内に散乱したバラの花を広い集めた。指を怪我《けが》しないように、軍手をはめて。破られて無残な姿になった雑誌も、ゴミ袋に放り込んだが、思い直して取り出す。外から中が見えないように、雑誌のほうは大型の茶封筒に入れてから突っ込んだ。茶封筒は、出版社から送られてきた使用済みのものだ。一緒に、くず箱のゴミ——おもにワープロの下書きや台所から出た生ゴミ以外のゴミ——も放り入れた。  ゴミ袋を手に、エレベーターで一階に降りた。掲示板に貼《は》られた『最近、付近で女性の下着が盗まれる事件が何件か発生しています。洗濯物には注意しましょう』という手書きの紙を横目で見て、管理人室の裏手に回る。そこに、ゴミ集積所がある。収集の時間になると、管理人が表に面した網戸の鍵《かぎ》を開けるようにしているのだ。 『ゴミは収集日の朝に出しましょう』  ドアには、大概のゴミ集積場に見られるように、注意事項を書いた紙が貼られている。前夜ゴミを出したとしても、鍵がかかっているので、外部から侵入はできない。放火を心配する必要はないのだが、それでも、オートロックを解除した住人に続いてエントランスから入った不審人物が、ゴミ袋に放火しないとも限らない。  まだ五時だ。いちばん乗りだろうと思って、ドアを開けて入ったら、袋がすでに二つ出されていた。一つの袋に、美里が使っているメーカーの洗濯洗剤の空箱が入っているのが、うっすらと透けて見えた。袋を置き、部屋を出る。エレベーターに乗り込んだとき、ふとあることが引っかかった。  ——変態愛読者から届いた手紙をどうしただろう。どさくさに紛れて、一緒に捨ててしまったのではないか。  記憶があいまいだった。部屋に戻って確認するより、ゴミ袋を持ち帰ってあらためたほうがいい。集積場へ戻る。閉めたはずのドアが、かすかに開いている。誰かが続いてゴミを捨てに現れたのだろうか。  ドアを開けた瞬間、ゴミ袋の前にかがみこんでいた男が、ハッと顔を振り向けた。男の右手は、さっき美里が出したばかりのゴミ袋の口に突っ込まれていた。 「何してるんですか?」  思いがけないものを見た当惑で、声がうわずった。 「いえ、別に。何も」  男は立ち上がり、ジャージのズボンの尻《しり》ポケットあたりに右手をまわした。汗ばむのか、そこで手を拭《ふ》いている。 「それ、わたしが出したゴミですけど」 「口が開いていたので、縛ろうとしただけです」 「そんなはずありません。ちゃんと縛っておきました」  いつもの習慣だから、忘れるはずがない。心臓がどきどきしてきた。  ——この男が……。  男はそろそろと立ち上がり、「じゃあ」と、美里の脇《わき》をすり抜けようとした。小柄な男だ。もみあげだけを残し、さっぱり刈ったような髪型。見憶《みおぼ》えがあるようなないような顔。美里と同年代だろうか。 「待ってください。あなたがあんな手紙を送ってきたんですね?」 「手紙? 何のことだかぼくは……」  男はかぶりを振ったかと思うと、突然、美里を突き飛ばした。ゴミ袋につまずき、美里は網戸に背中を打ちつけた。  ——逃してはならない。あいつだ。あいつが変態愛読者だ。  美里はいつも、下書きのワープロ原稿や印刷に失敗した紙を、シュレッダーなんてものにかけずに、丸めて紙袋に詰め、捨てている。仁科美里の原稿も、雨宮麗の原稿もだ。外から見えなければいいだろう。そう思い、わざわざハサミで切り刻んだりはしない。  誰かが美里の部屋から出されたゴミ袋の中を点検すれば、美里の正体は容易にばれるのだ。  ——迂闊《うかつ》だった。こんなに身近にいたなんて。  悔しさと恥ずかしさでいっぱいになる。ゴミ袋には、買ったまま忘れて腐らせたトマトを捨てたこともあるし、古くなった下着を捨てたことだってあるのだ。  急いで追いかけた。エレベーターの前で表示を見る。二基とも動いてはいない。そのとき、通路の奥でばたんとドアが閉まるような音がした。あわててそちらへ向かう。  105号室だ。表札には、「渋沢《しぶさわ》」とある。チャイムを押した。応答はない。もう一度押す。応答なし。今度は、ドアを叩《たた》いた。二度ずつ三回叩くと、反応があった。 「どなたですか?」  明らかにうろたえた声が、ドアを隔てて応じた。 「マンションの住人です。ゴミのことでちょっと」  細くドアが開く。チェーンがかかっている。のぞいた顔は、さっきの小柄な男だった。一人暮らしなのだろうか。一階には、ちょっと広めのワンルームも何室かあると聞く。 「何ですか」  自分の〈陣地〉に逃げ込んでしまったという安心感からか、男の声には落ち着きが宿った。 「わたしのゴミを調べて、あんな手紙をよこしたの、あなたですね?」 「何のことですか?」  渋沢は顎《あご》を上げた。落ち着き払って見える。 「とぼけないでください。さっき、わたしが出したゴミをあさっていたじゃないですか」 「言ったでしょう、口が開きかけてたんですよ」 「じゃあ、どうして逃げ出したんですか?」 「あなたが変だったからですよ。おかしな言いがかりをつけられそうだったから」  美里はあせった。集積場で見せたうろたえた表情は、すっかり影を潜めている。 「昨日も変な手紙が届いたんですよ」 「変な手紙? どういう内容ですか? それをぼくが出したって言うんですか? 何か証拠があるんですか?」  証拠——という言葉を出されて、美里は、渋沢が開き直ったのを知った。残念ながら一通目は灰にして、下水に流してしまっている。二通目はあるが、彼がこれほど自信を持って言うのだから、封筒にも紙にも指紋などつけないように細心の注意を払ったに違いない。 「具体的に、変な手紙ってどんなのですか?」  渋沢の顎がますます上がり、小柄なわりに大きな喉《のど》ぼとけが美里を威圧した。 「どんなって……恥ずかしくてとても言えません。おわかりでしょう?」  渋沢は、迷惑そうな顔になり、舌をちっと鳴らした。 「被害妄想ってやつですか? いいですよ、警察にでもどこにでも届けて。恥をかくのは、あなたですから」  彼の勝ち誇った表情で、美里は自分の負けを悟った。たとえ、警察に届けたとしても、警察が来る前に、渋沢は証拠となる手紙の下書き——もし、まだ残っていたら、の話だが——などを処分してしまうだろう。美里が「ゴミ袋に手を突っ込んでいた」と訴えても、「あなたの見間違いです」と言われたら、証明のしようがない。「捨ててはいけないものを捨ててしまった。自分の出したゴミ袋がどれだかわからずに、はしから調べていた」と、彼が警察に話したら、警察は彼の話を信じてしまうだろう。  その前に、仁科美里が雨宮麗であることが住人に広がってはまずい。  ドアが開く音がして、右隣の住人が顔を出した。怪訝《けげん》そうに隣室の前に立つ美里を見ている。さっきのドアを叩く音で、目を覚ましたのだろうか。  すみません、というふうに、美里は住人に会釈をした。騒ぎが大きくならないうちに、ここはひとまず引き下がったほうがよさそうだ。ゴミのことは自分が今後、気をつければいい。  美里は、気がおさまらなかったが、「また改めて」と短く言って、きびすを返した。     7 「雨宮麗を引退したいですって? ねえ、何で何で。ねえ、どうしてどうして。丘《おか》ちゃんから聞いてびっくりしちゃったわ」  山口《やまぐち》編集長は、身をよじって聞いた。おネエ言葉だが、女ではない。妻子ある、四十七歳のれっきとした男である。丘というのは、美里の、いや、雨宮麗の担当編集者だ。  源流社ビルの『小説イマージュ』編集部が入っているフロアの応接間に、美里は通されている。去年移ったばかりで、まだ新しいビルだ。社長の趣味だとかで、皮張りのソファには腰が沈み込みそうなほど柔らかいクッションを使っている。美里は、膝《ひざ》を揃《そろ》えて、ソファに浅く座っている。ミニスカートをはいて来たことを後悔した。おネエ言葉を使うものの、山口編集長は大の女好きだ。 「すみません、山口さんには言葉に表せないくらいお世話になっておいて。そろそろ、仁科美里の小説に専念したいんです」 「長編の書き下ろし、出せそうなの?」  と聞いて、すぐに美里の顔色から読み取ったらしく、「まあね、あせることはないわ」と肩をすくめた。 「しばらくは、ライターとの二本立てでやっていくつもりです」 「ふーん」  山口は腕を組んだ。言葉遣いに似つかわしくないほど、筋骨隆々とした腕だ。 「もしかして、結婚するとか?」 「えっ?」美里は、ドキッとした。 「図星……みたいね。違う?」 「まだ、具体的には」 「やっぱりね。結婚するとなると、誰でもうちみたいなところからは足を洗いたくなるもんよね」 「足を洗うだなんて……」 「表現悪かった? でも、ほら、あの子もそうだったし」  山口は、一人の女性編集者の名前を口にした。美里をフリーライターの世界に引きずり込んだ女性だ。彼女は、いわゆるできちゃった結婚をした。 「前はうちの雑誌でおもしろいコラムを書いてくれてたのに、結婚するとなったら、すっぱりやめちゃって。ああ、もったいない」  彼女は、ペンネームを使って、『小説イマージュ』に風俗コラムを書いていたのだった。 「いいのよ。自分の妻には、エロ雑誌になんか関係してほしくない。男はみんなそう思うもんですもの」  山口は、大きな鼻の穴からため息を吐き出した。 「雨宮麗が嫌いになったわけじゃないんです」 「わかってるわよ。うちも、あんたの頼みを全面的に聞き入れてあげられなくて、悪かったと思ってるわ。ソフトな路線って言ってもねえ。やっぱ、うちの読者は大半が男だし。でも、雨宮麗の小説が載らなくなったら、寂しがる読者、いっぱいいると思うわ。枕《まくら》がわりにしてた孤独な独身男なんか、残念がって身悶《みもだ》えしながら枕を濡《ぬ》らすかもよ」  両手を合わせて枕の形にし、寝るまねをしてみせた彼の格好が、あまりにおかしかったので、美里は笑った。 「あんたの文体から、作者は絶対に女、しかも若くて美人。そう見破ってた読者は多かったみたいだから」  ふと、あの変態愛読者の手紙のことを編集長に話そうか、と迷った。だが、やめておいた。自分で突き止めた。あとは、あいつ——渋沢を追及するか、これ以上、事を荒だてずに警戒するにとどめておくか、だ。 「でも、麗ちゃん」  麗ちゃん、と山口は美里を呼ぶのだった。「結婚したら、書かなくなっちゃう子って多いのよ、すごく。お願いだから、麗ちゃんはそんなふうにならないでね」  美里は、「ありがとうございます。心がけます」と頭を下げた。  建物を出ると、秋風が頬《ほお》に冷たかった。ビルを見上げ、心の中で雨宮麗に別れを告げる。そしたら、無性に、雨宮麗のお別れ会がしたくなった。     *  雨宮麗のお別れ会のために買ったワインは、三千円のボルドーの赤だった。それを持って、美里は門倉の部屋へ押しかけた。 「雨宮麗よ、さようなら」  自分で言い、グラスを門倉のグラスに当てた。 「さようなら」  門倉も言って、乾杯した。 「来年から、もう仕事を受けないことにしたの」  口にしたら、深い喪失感に襲われた。 「仁科美里の中に、もう一度雨宮麗を呼んであげればいいのさ」  門倉は、美里の肩に手を回した。ラブチェアに並んで、座っている。 「ねえ、門倉さん。お料理は好き?」 「料理? ああ、作るよ。簡単なものだけどね。酒のツマミは得意だ」 「たとえばどんな?」 「冷奴《ひややつこ》にツナとおかかを載せて、しょうゆで味つけしたり、缶詰のなめ茸《たけ》や瓶詰のやわらぎメンマを載せたり。なすを焼いたのなんかも最高だな。あとはサンマとか、たらこかな」 「ずいぶん簡単なのね」 「基本的に和食党。フレンチだとかイタリアンだとかは苦手なんだ。体質にあんまり合わないみたいだな」 「じゃあ、肉じゃがとかハスのきんぴらなんかは?」 「見よう見まねで何とか。だけど、そこまでいくと作るのが面倒なんで、冷奴にツナを載せて我慢してる。忙しいときは、レトルトのカレーとか、うーん、カップラーメンだな」 「よかった」  ん? と、門倉が美里の横顔を見た。 「わたし、肉じゃがくらいならけっこうおいしく作れるのよ。母が作るのを見て育ったから。お手伝いするの、わりと好きだったの」 「へーえ、ぜひ味見してみたいもんだ」  ふふっ、と美里は笑った。 「何だよ、含み笑いなんかしちゃって」 「だって、安心したんだもん」  本当にホッとしていた。心配する必要はなかったのだ。確かめてみれば、門倉が食べ物にうるさくない男であることは、すぐにわかったのに。 「電話でちょっと話したけど、柚子さん、女は結婚したら執筆の時間が減るって。結婚した途端、暴君になる夫がいるって。門倉さんがそうでないっていう保証はない。そう脅されて、わたし……」 「心配になったのか? オレがそんなわがままな男に見えたのか?」  門倉は、抗議するように口を尖《とが》らせて、グラスを持っていないほうの指で美里のおでこを突《つつ》いた。 「しかし、とうとう君も柚子さんの前でキレたか」 「ひどいキレ方だったわ。まだ自己嫌悪に陥っている」  枯れかけたバラの花の匂《にお》いが思い出されて、美里の声は沈んだ。 「仕方ないさ。そこまではっきり言わなければ、彼女にはわかってもらえなかったんだから」 「門倉さんが変態男みたいなことを言われて、わたし、カッとしちゃったの」 「変態男、か。そうかもしれないな」 「えっ、そうなの?」  美里は、身体《からだ》をそっくり彼に向けた。 「どこがそうか試してみる?」  門倉の顔が近づいてくる。美里は、グラスを宙に浮かした格好で、目をつぶる。唇が彼の唇にふさがれた。ワインの味がした。  顔が離れると、「引っ越して来いよ」と彼が言った。「このマンション、空いてる部屋があるらしい。近いほうがいいだろ?」 「そうだけど」 「一階に変態愛読者が住んでるんだろ? そんなところ、早く引き上げちゃったほうがいいに決まってるさ」  そのとおりだと思うが、美里は、自分が逃げ出すようで何だか釈然としないのだ。結婚する前に、同棲《どうせい》という形をとりたくない、という思いもあった。しかし、何よりも、結婚となれば、親に報告しないわけにはいかない。それをすませてから、今後の二人の生活設計を考えたかった。     8  翌日の土曜日、昼近くになって、美里は横浜の実家に行くための準備をした。父も弟も、家族全員が休みで家にいる日を選んだのだ。土曜日で、圭一も午後は家にいるはずだ。出がけに前もって電話をかけておいたほうがいいか少し迷ったが、結局、黙って帰ることにした。家族も自分も身構えない状態のほうが、スムーズに事が運ぶ気がしたのだ。  部屋を出る前に、野中武のところに、同窓会に出席する旨を伝える返信ハガキを、ファックス送信した。出席か欠席かどちらかを丸で囲め、とあるあとに、「近況をお知らせください」と印刷されている。美里は、あえて空欄にしておいた。  無事、送信されたのを確認して一階に降りた。掲示板には、例の下着泥棒に注意、という内容の紙が貼《は》り出されたままだ。管理人室の小窓をのぞいた。管理人夫婦は、一階の手前の部屋を住居としているが、平日は五時半まで、土曜日は二時まで専用の小部屋に詰めている。夫のほうが仕事をしているのは見たことがない。 「503の坂井です」  茶封筒に入れた本を抱えて挨拶《あいさつ》すると、人のよさそうな管理人のおばさんは、「ああ、坂井さん。小説家なんですってね」と、親しみがこもった口調で言った。 「いままで黙っていてすみません。仁科美里の名前で書いています」  つまらないものですが、と続けそうになって、美里はあわてた。つまらない本を渡すつもりはない。「これ、お暇なときにでも、どうぞお読みください」 「いいんですか? すみませんねえ」  管理人のおばさんは、パッと表情を明るくし、本の包みを受け取った。「お姉さんからうかがって、はじめて知ったんですよ。推理小説、書いていらっしゃるんですってね」  ——姉?  柚子は、美里の姉と偽って部屋に入れてもらったのか。 「とてもご丁寧なお姉さんですね。結構な羊羹《ようかん》をいただきました。ありがとうございます」 「あ、いいえ」  やっぱり、手みやげ持参で来たのか。 「あの……105号室の渋沢さんって、何をなさっている方か、ご存じですか?」 「渋沢さん? ああ、髪の短い小柄な方ね。リゾート地の不動産を扱う会社に勤めていたんじゃなかったかしら」 「そうですか。コンピューター関係……ではなかったんですね?」 「そう言えば、前に排水管の点検で部屋に入ったとき、立派なパソコン……っていうんですか、何か機械が置いてあったような。お互い独身で、気になるとか?」 「いいえ」  美里は、あわてて手をひらひらさせた。「パソコン・ショップで、渋沢さんを見かけた気がしたので、そちらの関係かなと思って。わたしのパソコン、いま調子がおかしいので」  うまくごまかして、美里はその場を去った。  ——渋沢の部屋にはパソコンがあるのか。  それなら、あの手紙を印字できたはずだ。もっとも、いまは、ワープロやパソコンの類《たぐい》を持っている独身男は多い。彼の部屋に侵入できたら、マシンの印字の書体を調べることはできる。だが、警察でもなければ、そんな捜査はできない。警察にしても、あの程度の疑惑では、手出しができないはずだ。  ——やっぱり、変態愛読者のことは忘れよう。わたしはもう雨宮麗ではないんだから。  門倉の言うように、住むところを変えて、自分から遠ざかったほうがいい。男性と住んでいると知れば、もうあんな嫌がらせもしないだろう。美里は、楽観的に考えることにした。  横浜の青葉《あおば》区にある自宅まで、電車を乗り継いで行く。秋晴れという表現がふさわしい好天だ。先週は、あちこちの学校の校庭で運動会が開かれていたらしく、マイクを通した放送や声援が風に乗って耳に入ってきたものだが、今日はひっそりとしている。秋の深まりを感じた。  ——来週、上田に行くころは、紅葉がきれいかしら。それとも、見ごろを少し過ぎているかしら。  ゆったりした気分に浸るのは、久しぶりな気がした。変態愛読者からも、柚子という熱狂的な愛読者からも、これで解き放たれる……。  住宅街の一角に、白い外壁の一戸建てが数軒、塊として見えてきた。四年前、外壁を塗り直す話になったときに、美里は「薄い紫とかグリーンとか、クリーム色もいいんじゃない?」と勧めた。だが、父と母は、口を揃《そろ》えて言った。「このあたり、白い外壁が多いから、ご近所に合わせないと。うちだけ浮くわけにはいかない」  美里は、「個性を強調しなくちゃ」と反論したが、母は「強調じゃなくて、協調が大事なのよ」と、首を横に振った。「それに、いずれここは、二世帯住宅に建て替えて、圭一の家族が住む。圭一の意見も聞かないことにはね」  親に逆らわないいい子で育った圭一は、考え方が両親に酷似している。  やや薄汚れてきた外壁を見ながら、美里は門扉の横のインターフォンを押した。門柱にはめこんだ表札の「坂井」が、他人の苗字のように見えた。  ——門倉美佐  ふっと、その名前が脳裏に浮かび、頬《ほお》がゆるんだ。  だが、幸せな気分は長くは続かなかった。  迎えに出た母に、「お久しぶり。手紙、ありがとう。同窓会の通知、受け取ったわ」と告げると、母の奈津子《なつこ》は、「そう」と気もそぞろなふうに答えただけで、すぐに家の中を振り返った。心なしか顔色が青白い。 「あの……来ちゃ悪かった?」  家に寄りつかなかった娘が、突然現れたので驚いているのだろう、と美里は母の動揺を受け取った。 「それとも、圭一の彼女でも来てる?」おどけて、小指を立ててみせる。 「ううん、そうじゃないけど……」  奈津子は、何か迷いをふっきるようにかぶりを振り、「いいわ」と言った。 「いいって?」 「ちょうどよかったのかもしれない。あなたが来てくれて。美佐ちゃん、いいわね。どういうことかちゃんと説明してちょうだい。みんないるから」 「ちょ、ちょっと待って。どういうことって?」 「何やってるんだ、玄関先で。美佐が来たんだろ? 早く来い」  奥から父の怒鳴り声が聞こえてきた。  ——何があったんだろう。  母のうろたえぶり。父の怒声。いいことであるはずがない。  居間のソファに、父の尚夫《ひさお》と弟の圭一が、並んで座っていた。二人のあいだは、少し離れている。まるで、父親の怒りが爆発して腕を振り回しても、自分に被害が及ばないように、とでもいうように圭一の腰は引けている。 「そこに座りなさい」  尚夫は、美里に向かって顎を上げた。覚悟を決めて、父親の前の一人掛けのソファに座った。隣に母も座る。何度も布を張り替えた、見慣れたソファだ。 「いったい、どうしたの?」  まるで家族会議だ。男二人を見比べ、母に視線を戻した美里に、奈津子が「変な手紙がきたのよ」と、あきらめがこもったような低い声で言った。「それで、みんなでため息をついていたところ」 「これだ」  尚夫があとを引き取り、美里はそちらへ顔を振り向けた。テーブルに白い封筒が載っている。速達の赤い判子と、ワープロ文字の宛先《あてさき》が目に入った。実家の住所のあとに、「坂井様」とある。消印は、横浜市内。 「読んでみろ」  封筒を取り上げる指先から力が抜けた。  ——まさか、そんなはず……。  美里は、衆人環視の中で身体検査をされる密輸の容疑者のような気持ちで、封筒から手紙を引き出した。  お嬢様の坂井美佐様は雨宮麗の名前でポルノ小説を書いています。  それだけの文面だった。だが、美里に与えた衝撃は大きかった。いや、受けた衝撃は、美里の家族——尚夫、奈津子、圭一のほうが大きかっただろう。 「本当か?」  尚夫が聞いた。ほかの二人の視線が、美里の口元に集中する。 「いつきたの?」 「お昼ごろ、速達で届いたのよ」奈津子が答える。  美里は、天井を見上げた。何てタイミングが悪いのだろう。自分の不運を呪《のろ》う。が、いまはこの事態をどう切り抜けるかだ。手紙と封筒をテーブルに戻した。 「あなたに電話したけど、出なかったわ。ここに向かってたのね」  そう言いかけて、奈津子はハッとしたように、「ねえ、美佐ちゃん。あなたのほうは何か用事があったの? 急に帰って来るなんて……。お母さんの手紙を読んで、あなた、ようやくその気に……」 「それよりまず、手紙だ」  尚夫が、強い語調で妻の言葉を遮った。「おい、どうなんだ。ここに書かれているのは、本当なのか? おまえは、仁科美里って名前で、推理小説を書いていたんじゃないのか?」  推理小説を書いていた——と、父が過去形で語ったことに、美里は、場違いにも笑いたくなった。 「挨拶《あいさつ》が遅れました。去年、わたし、仁科美里が出したはじめての本です」  美里は、バッグから本を取り出し、あちら向きにして、父親に差し出した。受け取ろうとしないので、テーブルの中ほどに置く。しばらくみんなの視線が、表紙の門倉千晶のイラストに注がれる。奈津子も圭一も、尚夫に遠慮してか、本を取り上げようとはしない。 「本当です。雨宮麗の名前でも、仕事をしていました」  美里は告白した。 「仕事だって?」  尚夫がすっとんきょうな声を上げる。「ポルノを書くのがおまえの仕事か?」 「ポルノじゃないわ。性愛小説よ」 「セイアイ? どっちも似たようなもんじゃないか」  尚夫の顔は真っ赤になった。そんな言葉を口にした自分を恥じるように。「仁科美里はやめて、雨宮麗になったのか? まともな仕事の注文がないもんだから……」 「あなた、そんな言い方はやめて。美佐ちゃんの話を聞いてあげて」  隣で、奈津子がおろおろしてとりなす。圭一は、その座り方が示すように、家族から少し距離を置いているようだ。傍観者のような顔をして、何も言わない。だが、そのまなざしに、姉への静かな抗議や批判があるのを、美里は感じ取っていた。  怒りを抑えるように大きく深呼吸をして、尚夫はソファの背にもたれかかる。 「確かに雨宮麗の名前で、世間でポルノ小説と言われる小説を、雑誌に発表していました。でも、もうやめました。書かないことに決めたんです」 「書いていたのは本当なんだな? いつからだ」 「仁科美里で新人賞をとる前、ライターをしていたころからよ」 「あなたが雨宮麗だと知ってる人は?」奈津子が質問を挟んだ。 「編集者数人」 「でも、現実に、こういう手紙が送られてきてるんだ。しかもおまえの実家に。知ってるやつは、大勢いるんじゃないか?」 「編集者がこんなばかみたいなこと、するわけないよな。まともじゃないもん、これ」  はじめて圭一が言葉を発した。  ——まともじゃない?  そうよ、そのとおり。まともじゃない。だって、これは変態愛読者がよこしたんだもの。ひどいわ。家族を巻き込むなんて。正気じゃない! 心の中で、そう叫びかけて、美里は胸をつかれた。  もう一度、手紙と封筒を手にする。印字の字体は、変態愛読者——渋沢がよこしたものに似ている気はするが、まったく同じだという確信はない。読点のない文体も、やはり美里が受け取った二通と同じだ。しかし、今回は、前略も草々もない、一文だけの短い文章である。読点をわざと省いたのか、記号のようなつもりでそうしたのか、それとも手紙を書くときの癖なのか、差出人の意図がつかめない。  それに、渋沢が美里の出したゴミ袋をあさっていたのは、昨日の早朝だ。速達は今日の昼に、横浜の自宅に届いている。しかも、横浜市内から投函《とうかん》されている。速達は、日本国内なら一部の地域をのぞいて翌日に配達される。渋沢は昨日、美里に抗議を受けたあとで横浜に行き、この手紙を投函したと考えるのがふつうだ。もっとも、美里とゴミ集積場で出くわす前に、横浜にいたと考えられなくもないのだが。しかし、昨日の朝の彼の格好は、外出から戻った格好とは思えなかった。少なくとも、横浜から戻ったばかりだったとは考えられない時間帯だ。  美里に疑惑を持たれた直後に、こんな手紙を、しかも美里の実家に送りつけるだろうか、という疑問も持ち上がる。  ——それ以前に、彼がわたしの実家の住所をどうやって知り得たのだろう。  母から送られた手紙の類《たぐい》を捨てたことなど、記憶にあるかぎり一度もない。  ——まさか、ほかの誰かが?  バラの香りが一瞬、あたりに漂った気がした。  柚子。彼女かもしれない。彼女なら、美里の実家の住所を知っている。同窓会の案内を同封した母の手紙を、彼女は読んでいる。封筒の裏には、母の端正な字で書かれた住所があった。柚子がその住所を記憶すれば、手紙は出せる。変態愛読者——渋沢の手紙も、彼女は無断で開封し、読んでいる。読点のない文体も、自分の目で見て知っている……。 「どうしたの? 美佐ちゃん。誰か心あたりあるの?」  奈津子に腕を突《つつ》かれて、美里は我に返った。 「ないわ。でも、いまの世の中、狂ってるから。個人情報が信じられないところから漏《も》れるし、ストーカー犯罪なんかもたくさん起きてるわ」 「怖いじゃないの」奈津子が身体を縮めた。 「狂ってるのは、おまえだろ? 結婚前の娘が、欲情をそそる小説なんか書いて。そういうすきを見せるから、こういうストーカーだか何だか、変なやつに手紙を送られたりするんだ」 「そうよ、美佐ちゃん。もう小説なんか書くの、やめなさい。心配だわ、お母さん。うちに帰ってちゃんと……」 「結婚するわ」  娘の、姉の唐突な言葉に、三人が同時に息を呑《の》んだ。 「結婚したい人がいるの」 「誰だ」尚夫が尋ねた。 「お母さんたちが知ってる人?」と、奈津子。 「いま、みんなの目の前にいるわ」  圭一が隣の父親から母親へ視線を移し、顔を見合わせた。 「わたしの本の表紙を描いてくれた人」 「表紙を?」  奈津子がテーブルの本に手を伸ばそうとして、尚夫が注視しているのに気づき、引っ込めた。 「装丁って言うんだろ?」  圭一が代表して本を取り上げた。ページをめくり、門倉千晶の名前を探す。 「カバーイラスト、門倉千晶だって。女みたいな名前だな」  そう言って、本を尚夫に渡した。 「門倉さんって、いくつなの?」 「三十五」美里は、母親へ答えた。 「こういうお仕事って、どうなのかしら。その……収入とか、仕事の仕方とか。あなたと同じで、生活が不規則になりがちなんじゃないの? 仕事も不定期で」  門倉の人柄より先に、収入を聞いた母を、美里は哀れんで、「大丈夫よ、お母さん。わたしよりずっと有望な人だから。とてもやさしい、いい人よ」 「初婚なのか?」  本をめくりもしないで、尚夫が聞いた。美里は、ときどき驚くほど勘が冴《さ》える父を、怖いと思うことがある。 「前に一度、結婚してるわ」 「離婚したのか?」 「ええ」 「理由は?」 「知らないわ、そんなの」 「何だ、そういう話はしてないのか?」 「いいじゃない。彼が過去に誰と一緒にいようと。いまは一人で、わたしと結婚しよう、と真剣に言ってくれたのよ」 「また、いつものおまえの悪い癖か」  尚夫がため息をついた。「よく確かめもせずに、誘われたら誘いに乗る。ライターなんて世界に飛び込んだのもそうだし、小説を書き始めたのもそうだ。文章がうまい、なんて誰かにおだてられたんだろう。今度もそうだ。どんな男かも深く確かめもしないで、結婚しよう、と言われたらほいほいと承知する」 「違うわ!」  美里が叫ぶと、隣の奈津子の身体がびくっとした。 「わたしなりに、ちゃんと彼がどういう人かわかったつもりよ。だから、結婚しようと決めたの」 「おまえに男を見る目などない」と、尚夫。 「そこは賛成」圭一が言い、余計なことを言いました、という顔で首をすくめた。 「門倉さんって方、一度お会いしてみてもいいけど、でも……」  奈津子が口ごもる。 「会う必要はない。気まぐれなおまえのことだ。そのうち、どうせ、やめたなんて言い出すに決まってる。おまえには前科があるからな」  梶洋平との婚約破棄のことを言っているのだ。 「でも、あなた。美佐が結婚したい、と言ってる人なんだから」 「イラストレーターだか何だか知らんが、ちゃらちゃらした絵を描いている男と、仕事がなくなるとポルノも書く女。そんなうわついた自由業同士が結婚して、うまくいくと思うのか」  尚夫は、娘をにらみつけていた目を妻に移した。 「ええ、まあ、わたしも、できることなら美佐ちゃんには、堅実なサラリーマンか公務員と結婚してほしいとは思うわ。お父さんや圭一や……」  あとに続く「梶さんみたいな」という部分を、母は呑み込んだのだろう、と美里は思った。梶洋平も、大手広告代理店に勤めるサラリーマンだった。 「圭一が今度、交際している娘さんをうちに連れて来る」  尚夫が言い、息子をちらりと見た。圭一は、きまり悪そうに目をそらし、咳払《せきばら》いをした。 「いいのよ、圭一。わたしに気を遣わなくても。姉より先に弟が結婚しちゃいけないっていう法律はないんだから。で、彼女ってどういう人?」 「同業者」  圭一は、ぶっきらぼうに答えた。 「わたしと同じじゃないの」 「おまえとは違う」  即座に、尚夫が首を振る。「公務員同士の結婚と、自由業同士の結婚のどこが同じなんだ」 「どこが違うの?」  美里は、父親を無視して、圭一に尋ねた。 「たとえば、姉貴んとこはさ、子供ができたらどうすんの? 子育てのあいだ、仕事続けられんのか? 保育園に預けるって言っても、〇歳児の空きはほとんどないらしいよ。その点、教師はいいよ、福利厚生の面で恵まれてる。産休、育休も充分とれる。この家を改築すれば、いずれ母さんにも子供の面倒、見てもらえるし」 「何言ってるの、圭一」  奈津子が、少しはお姉さんに遠慮した口をききなさい、という顔でたしなめた。 「現実的ね。感心するわ」  皮肉ではなく、美里は言った。「圭一、わたしに感謝しなさい。親に反抗ばかりしている姉を反面教師として持ったから、あんたはそういう賢いいい子に育ったのよ。お父さんもお母さんもよかったわね。一人はまともな親孝行できる子がいて」 「そんな言いぐさがあるか!」  尚夫がまた怒鳴った。「ここを建て直したら、美佐、おまえの部屋はなくなる。圭一は、坂井家の長男なんだからな」  潮時だろう。美里は席を立った。「大丈夫よ、圭一。あんたのフィアンセが来るときには、わたし、姿を現さないから」 「美佐ちゃん」  玄関へ向かう美里を、奈津子が追って来た。 「やめなさい、そんな娘はほうっておけ!」  尚夫の声が古い家に響き渡る。 「お母さん、いいのよ。しばらくここには来ないようにするから。それが、血圧の高いお父さんへのいちばんの親孝行なのよ」  美里は、涙をためて自分を見つめる、老いていく五十七歳の母親に言った。美里の天然パーマの髪は母親譲りだが、色はまるで違う。若いころは「緑の黒髪」と呼ばれたというその髪に、ちらほら白いものが交じり始めている。  門を出て、両隣の家とほとんど同じ色の外壁の生家を振り返った。もうここには自分の帰る場所はないのだ。美里は悟った。     9  家族に見放された形になってかえってさっぱりした。負け惜しみでなく、美里はそう思った。門倉に報告すると、彼は言った。「時間をかけて理解してもらうしかないよ。オレは君のお父さんにどう言われようがかまわない。君が望むなら、いつでもご挨拶《あいさつ》にうかがうよ」  彼が気にしたのは、実家に送りつけられた手紙の件だった。 「それにしても、ひどいことをするやつがいる。変態愛読者と同一人物だろうか。つまり、渋沢って男と」  美里は、渋沢でないかもしれない、という自分の推理を伝えた。 「うーむ、そうだな。君に疑惑を持たれてすぐに起こす行動にしては、危険すぎる。だけど、カッとなって腹いせに、とも考えられる。どっちにしても、確かに君の実家の住所を知っているのは不思議だ」  続いて、〈もう一人〉の人間かもしれない可能性について言及すると、門倉は絶句した。そして、少し考え込んでから言った。 「その可能性もないとは言えない。君があんなキレ方をしたんで、何らかの仕返しを考えたのかもしれない。だが、たとえそうは思っても、彼女にはこちらから接触しないほうがいい。刺激を与えず、じっとしているのがいちばんだよ」  美里は、愛する人の忠告に従った。いまのマンションには契約の切れる年末までいるが、年が明けたら門倉のところへ引っ越そうと決めた。経済事情もあるので、当分は門倉と一緒に住むことになりそうだが、手持ちの本を少し整理すれば彼のところに納まるだろう。そのうち、もっと大きな3LDKか4LDKくらいの、二人で住める家を探せばいい。  将来に思いを馳《は》せたら、気がかりなことの比重がどんどん軽くなっていった。郵便ポストをのぞくときに、差出人名のないおかしな封書が入っていないだろうか、とどきどきするくらいだ。  渋沢のことは……気がかりと言えば気がかりだが、自分さえ注意すれば、新たな被害はないだろうと思えた。印刷した原稿や小説のメモ書きなどのゴミは、はさみで細かく切って袋に詰め、面倒でも外出時に駅のゴミ箱やデパートのゴミ箱に捨てるようにした。  雨宮麗も柚子も、自分の内部から追放した。家族というしがらみからも、たぶん決定的に解き放たれた。わたしには、門倉千晶という心強い理解者がいる。いまこそ快適な執筆環境ではないか。長編の書き下ろしに本腰を入れるならいまだ。美里は奮起した。  しかし——。  二十一日の水曜日。午後八時五分。  久しぶりに原稿が進んで気分をよくした美里が、そろそろ夕食にしようと、レトルトのたらこスパゲッティを電子レンジにかけ終えたときだった。  玄関のチャイムが鳴った。階下のインターフォンではなく、直接503のドアについたほうだ。  ——門倉さん……のはずないか。  彼には先日、合鍵《あいかぎ》を渡そうとしたが、「オレが君のところへ行って、変態野郎に見られでもしたら、やつを刺激するかもしれない。どうせ今年いっぱいの辛抱だ。会うときはオレの部屋にしよう」と言って、受け取らなかった。管理人か、マンションの住人か。ひょっとして、105の住人?  かすかな不安を覚えて、「どなたですか?」と聞くと、女の声が答えた。 「柚子です」  やけに明るい声。  ——どうしてまた……。  急に周囲のものが色を失って見えた。もう二度と来ない、来るはずがない、と思っていたのに、なぜ? 頭が混乱する。開けないでおこうか。いや、だめだ。わたしのキレ方もすさまじかったが、彼女のキレ方だってそれに匹敵するくらい、いやそれ以上にすさまじかった。あれは、まるで何かの病気の発作のようだった。もし、また彼女がああなったら……。  想像するだけでうんざりだった。美里は、観念してドアを開けた。 「どうやってここまで?」 「こんばんは」  それより挨拶が先でしょう、というふうに柚子はにっこりと挨拶した。「このマンション、いまの時間帯、出入りが多いのね。503を押そうとしたら、会社帰りって感じのサラリーマンが、『奥さん、鍵持ってますからどうぞ』ですって。親切な人、多いのね、ここ」  ——この女は、ほんの一週間ほど前に、二人で演じた〈修羅場〉を忘れたのだろうか。  ふたたびやって来た目的がわからない。ひどい言葉を浴びせられた侮辱への仕返しに来たのか、皮肉を言いに来たのか。 「何かご用ですか?」  美里は、警戒心をゆるませずに聞いた。 「これ」  柚子は、手に提げた布製のトートバッグを持ち上げてみせた。「おいしいお惣菜《そうざい》、作って来たのよ。ミサちゃん、どうせひどいものを食べていると思ってね」  あっけにとられている美里にかまわずに、柚子は靴を脱いで、ずんずん奥へ入って行く。 「ま、待ってください」美里が追いかける形になる。  柚子は、たちまち、キッチンの入口付近にある電子レンジの中で、保温状態のまま皿の上で回転しているレトルト食品を見つけた。 「ほら、思ったとおりじゃないの。こんなお粗末なものを食べて」  たらこスパゲッティの容器を取り出して、柚子は得意そうに掲げた。「こういうの、あんまり身体によくないのよ。添加物が多いし、塩分過多になりやすいわ」 「わかってます。でも、忙しいときは手抜きも必要なんです」  いつもこうではない。スパゲッティをゆで、冷蔵庫のたらこをほぐして混ぜ、のりをまぶす。今日は、たまたまレトルト食品に頼っただけだ。 「これじゃ、じっくりいいものなんて書けないわよ」  柚子は、勝手に食器棚を開ける。「このへんのお皿、使っていいかしら。里芋を煮たのと豚肉と大根の煮物、それにワカサギのあんかけ。保存食として焼き豚も持って来たわ。家庭の味に飢えているんじゃないかと思って。ちょうどよかった、これからご飯なのね。タクシーを飛ばして来たから、まだ充分温かいわ」  ——わざと明るくふるまっているのだろうか。  美里は、舞台の上で演じている女優を見るような気分で、半ば放心状態で柚子の動きを追っていた。それとも、あまりにひどい侮辱を受けたため、精神のどこかのたががはずれてしまったのだろうか。 「柚子さん、このあいだはごめんなさい。失礼なことを言いすぎたと思って、反省してるんです」  タッパに詰めて来た手料理を、いそいそと皿に盛りつける彼女の姿が、美里の目にはいじらしく映った。 「いいのよ、気にしてないから」  手を動かしながら、こちらを見ずに柚子は答える。 「でも……」  ——違うんです。全然、気にしてないのも困るんです。わたしが言いたいのは、そうじゃなくて、前回の無礼な態度だけを詫《わ》びたくて……。  彼女が、自分の言葉をどう受け止めたのか、確かめなくてはいけない。美里は、ダイニングテーブルにつき、柚子が用意を終えるのを待った。  美里の前に、いくつか料理の皿が並んだ。たらこスパゲッティは、いちばん端に置かれた。 「飲み物は?」  柚子が聞く。ビールが飲みたかったが、仕事をまだするつもりもあったし、柚子の前では飲みたくなかった。 「じゃあ、お茶でいいわね」  美里の顔色から察して、柚子はふたたびキッチンに立った。お茶っぱや急須《きゆうす》の場所などを尋ねながら、きびきびとお茶をいれる。  柚子が座るのを待って、美里はさっきの言葉にどう補足しようかと思案した。とりあえずは、いれてもらった熱いお茶を飲んで、「あんなきつい言い方をして、柚子さんが傷ついたんじゃないかと、猛烈に反省してるんです。あのエッセイに書いたことは、全部でたらめだなんて」 「だから、いいのよ、もう」  柚子は目を細めて微笑《ほほえ》み、ゆっくりかぶりを振る。「わたしだってわかってるわ」 「えっ?」 「作家はうそを書くものだってね。ミサちゃんは小説家。ノンフィクション・ライターじゃないもの。創作するのがお仕事。そうでしょう?」 「え、ええ、そうです。でも、わたしが言ったのはそういう意味じゃなくて……」 「誰でも創作に行き詰まったら、いらいらするものよ。心にもないことを、つい口走っちゃうものだわ」 「…………」 「だから、ほら、いらいらしないためにも、カルシウムをたっぷりとってちょうだいな」  柚子は、いたずらっぽく左の人さし指で、ワカサギのあんかけが入った皿を示した。先日まではまっていた結婚指輪が薬指にないのに、美里は気づいた。  ——この人、冗談を言っているのか。  よけい苛立《いらだ》ちの感情が湧《わ》きそうになるのを、美里はこらえた。彼女は、あれほどはっきりと言われて、まだわからないのだろうか。  噛《か》んで含めるように説明しなければいけないのか。どう言葉を選ぼう。暗澹《あんたん》たる思いにかられたとき、「この一週間ほど、時間をもらってじっくり考えて、ようやくわかったのよ」と、美里が希望を持ちそうになるような言い方を柚子がした。 「一週間、何を……」  考えていらしたんですか? 喜びと期待で、しまいまで声にできなかった。 「やっぱり、ミサちゃん、雨宮麗の悪い影響をずいぶん受けてるわ」  ——雨宮麗の悪い影響?  希望の光が消えかかる。 「仁科美里の文章と雨宮麗の文章、二つを読み比べてみたのよ。そしたら、やっぱりそうだわ。仁科美里の荒れてる部分が、雨宮麗の品のない表現や、書き急いだり手を抜いた描写に、すごくよく感じが似てるのよ。ほら、このあいだわたしが直した文章——ミサちゃん、だいぶ興奮してたから捨てちゃったかしら——、あれを見れば、なるほどとうなずくと思うわ。わたしが直したのが、仁科美里の荒れてる部分。それで、こっちのほうが……」  お願い、お願い、と美里は心の中で祈っていた。お願いだから、わたしが恐れているような展開にならないで。お願いだから、あなたのバッグの中から、雨宮麗の小説が載った雑誌なんか取り出さないで。  ところが、現実は、美里の悪い予感どおりになった。バックナンバーを取り寄せたか、どこかで入手したのだろう、柚子は『小説イマージュ』の最新号を、バッグから軽やかな手つきで取り出した。どこか、うきうきしている。人の小説を——しかも発表された小説を、赤を入れながら読むのが、あなたはそんなに楽しいの? ぐいぐい胸が締めつけられる。 「たとえば、ええっと……」  柚子がページを開きかけ、直しの赤い線が目に入った瞬間、美里は雑誌を力いっぱい押しやった。 「柚子さん、ご親切にありがとう。でも、もういいんです」 「あら、どうして?」  押し戻された雑誌を、両手に抱え込むようにして、柚子は首をかしげた。 「雨宮麗は引退したんです。もう書かないんです。来月掲載されて、それが最後なんです」 「本当なの?」  拍子抜けしたようにも見える、気が抜けた表情で確認する。 「はい。編集長に聞いてくださっても結構です」 「そう。それはよかった」  柚子は、身を乗り出すと、美里に握手を求めた。反射的に美里は応じた。 「本当によかったわ。お金のためだけに書く虚《むな》しさに、ようやく気づいてくれたのね」 「だから、もう、あんないやらしい手紙がくることもないと思います」 「あれからは?」 「いいえ、ここには。でも……」  顔のしわの動きの一つも見逃すまいと、美里は柚子の表情をうかがった。「実家に送られてきたんです」 「ご実家に?」  怪訝《けげん》そうに寄った弓形の眉《まゆ》のほかは、とくに表情の変化はなかった。 「宛名《あてな》は『坂井様』となっていて、中にはコピー用紙らしい白い紙が一枚。そちらのお嬢さんは、雨宮麗の名前でポルノ小説を書いています。そんな内容でした」 「ひどいわね。ワープロ文字だったの?」 「そうです」 「じゃあ、このあいだきた手紙と同じ男が?」  男、と柚子が断定したことに引っかかった。 「男とは限らないと思います。手紙には、僕とありますけど、男に見せかけようとしてわざとそうした、とも考えられるでしょう?」 「さすが、推理作家。いろんな可能性も検討するのね。でも、それは的はずれだと思うわ。絶対にあれは男よ」 「どうしてそう思うんですか?」 「常識じゃないの。過去の犯罪を見ても、あの種の手紙を書くのは、九割がた男よ」  柚子は、ちょっと笑った。柚子のような女に、常識、という表現を出されて、美里は憤慨した。 「それに、女だとしたら、ミサちゃん、あなたのまわりには男だけでなく、女にもこういう変態——とは言わないのかしら、女の場合は——、危ない女がいるってわけ?」  ——危ない女は、柚子さん、あなた自身でしょう?  喉《のど》まで出かかったが、彼女に伝えるには前回のように、一点の曇りもないほどはっきりした表現でなくてはならない。 「怪しいと思われる男を、突き止めはしたんです。105号室に住んでいる独身男です。わたしが出したゴミ袋の中に、手を突っ込んでいたのを目撃したんです」 「ゴミ? だったら、その中に原稿が?」 「そうだと思います」 「105号室の男ね。名前は?」 「表札には渋沢とありました」  何か考え込むように、柚子の視線が宙に注がれた。 「柚子さんは言いましたね。門倉さんのしわざかもしれないって。そんなわけ、絶対になかったんです」 「…………」  柚子が言葉を返さなかったので、美里は、溜飲《りゆういん》を下げたような思いがした。 「でも、渋沢って男が、実家に手紙を送りつけた人間と同じとは断定できないと思うんです」 「そいつに決まってるわ」柚子は、きっと顔を上げた。 「その男が、横浜の実家の住所を知っているとは思えないんです」 「ミサちゃんが捨てたゴミの中から見つけたんじゃないの?」 「そう何度も、ゴミ袋を点検できるものでしょうか。それに、わたし、実家の住所が書かれたものを捨てた記憶なんて、まったくないんです」 「それはミサちゃんが忘れてるだけよ。実家の住所なんて、調べようと思えば調べられるんじゃないかしら。そうだ、あの親切そうな管理人の女性は?」 「むやみやたらに他人に実家の住所など教える人じゃありません」  言いながら、美里は自分の言葉の効力のなさに虚しさを覚えた。管理人は、いとも簡単に柚子を美里の部屋に入れた前科があるのだ。菓子折り一つで買収された。実家の住所は、緊急連絡先の一つとして届けてはある。  違う方向から彼女をやんわり問いつめよう。そう美里は決めた。 「女でも可能な人がいるのに気づいたんです」 「あら、誰なの?」 「わたしの実家の住所を知っていて、変態愛読者がよこした手紙の文章をまねて書ける人。そして、わたしを憎んでいる人」 「誰?」  本当に心あたりがないのか、それとも、とぼけているのか。美里には見極められない。 「柚子さんじゃないんですか?」  心を氷にして問う。  二人の周囲の空間が、瞬間的にひんやりした。  じわりじわりと沈黙の時間が過ぎていく。  すぐにでも反応が感情的な言葉になって跳ね返ってくると思っていたので、美里は戸惑った。 「柚子さんは、わたしに送られてきた二通目の手紙を読んでいます。だから、文章の癖も知っています。一緒に届いた母からの手紙も読んでいます。封筒の裏には、横浜の実家の住所が明記されていました。母は、字を崩して書いたりはしません。ああ、母は、昔、書道を習っていたんです。いまでも、書道教室を開けばいいのに、とまわりに言われてます」  沈黙が痛くて、つい余計なことまでしゃべってしまった。 「わたしがミサちゃんを憎んでいる……ですって?」  恐ろしく低い声で、柚子は問い返す。 「いまは違うかもしれません。でも、少なくともあのときは、そう見えたんです。だって、わたし、あまりにひどい言葉を柚子さんに浴びせちゃったし。柚子さんが怒って、一時的にすごくわたしを恨んだとしても無理もない、と思ったんです」 「わたしがミサちゃんを憎むはずないわ。ミサちゃんはわたしの大事な人。ミサちゃんはわたしの……」  彼女が苦しそうに喉に手を当て、言葉を止めたので、美里はうろたえた。 「だ、だから柚子さん。わたしは可能性を言ったまでです。こういう仕事をしているので。違うなら違う、と柚子さんははっきり否定してくださればいいんです」  自分でも、柚子を疑っているのかいないのか、わからなくなってきた。 「ご実家にそんな手紙を送って、わたしに何のメリットがあるって言うの?」  柚子の目に涙がにじんだ。抗議の涙……か。美里は、ごくりと唾《つば》を呑《の》み込んだ。 「そんなことをすれば、ご家族との確執がいっそう強くなる。ミサちゃんの心配事が増えて、仕事に専念できなくなる。あなたにいい小説を書いてほしい。ただそれだけを願うわたしが、なぜそんなまねをしなくちゃいけないの?」 「わ、わかりました。すみません、ですから柚子さん。可能性の一つとして挙げたんです。柚子さんがやったのでなければ……」  柚子の頬《ほお》をつつっと涙の粒が流れたので、思わず美里は言葉を切った。たとえ疑ったとしても、口にすべきではなかったのか。わずかに後悔したが、だが、どうしても口にしなければならない言葉も存在する。快適な執筆環境を取り戻すためにだ。  美里は、自分が同性の涙にこれほど弱かったのか、と思った。涙に惑わされてはいけない。はっきりさせることははっきりさせるのだ。 「違う、と否定していただきたかったんです」 「違う、と言っても、ミサちゃんは信じるかしら」 「信じます」 「…………」 「門倉さんとの交際を報告しに行ったときだったんです。イラストレーターなんて不安定な仕事をしている男はだめだ、と家族全員に反対されました。弟が結婚するんで、両親は、わたしのようなポルノ作家の姉がいては困ると思ったんでしょうね。もう二度と実家の敷居はまたがないと決めて、帰って来たんです。家族との不和が決定的になって、かえって気分がすっきりしました」  柚子は黙っている。  逆効果だったろうか。美里は、ふっと不安になった。まるで、あなたがあんな手紙を送ってくれたから、かえってわたしと門倉さんの絆《きずな》が深まった、そう感謝しているようなものではないか。つまり、犯人はあなた、と決めつけているようなものだ。  食卓のおかずが冷めかかっている。柚子の前に置かれた湯飲みの中のお茶も、たぶん冷めてしまっているだろう。沈黙に耐えきれずに、美里は立ち上がった。「お茶、いれかえましょうか? それとも、コーヒーにします?」 「コーヒーを」  低い声ながら、反応があったので、美里は安心した。  キッチンに立つ。引き出しから紙のフィルターを取り出す。コーヒー豆が入った容器のふたを開ける。背後で物音がしたように思った。同時に、耳に風を感じた。振り返る。キッチンのカウンター越しに、ダイニングルームが見える造りだ。  座っていた場所に、柚子がいなかった。  ——どこへ行ったのだろう。トイレ?  だが、トイレに行くには、キッチンの横を通らねばならない。彼女が通れば、美里の視野の片隅にでも入るはずだ。  高まる心臓音を感じながら、視線を左に移す。リビングルームの隣に寝室があり、リビングルームの向こうには……ベランダがある。  そのベランダへ出る掃き出し窓が、人ひとり通れる分だけ開いている。カーテンとカーテンのあいだの黒い闇《やみ》が、細長く切り取られている。  ——まさか、そんな……。  一気に、全身から血の気が引いた。 「うわあっ」  いままで自分の耳で聞いたことのない叫び声を上げ、美里はベランダへ走った。足がもつれた。冷たい風がレースとその上のモスグリーンのカーテンを揺らした。  柚子が、ベランダの手すりを乗り越え、夜の闇に飛び出そうとしている。柄物のスカートがめくれあがり、白い太腿《ふともも》が露《あらわ》になっている。  美里は、夢中で彼女の腰にしがみついた。 「離して!」  柚子の足に蹴《け》られ、みぞおちを打った。息が止まりそうになり、瞬間、手をゆるめた。柚子の身体がずり上がる。あわてて、丸太のような太腿を抱え込んだ。渾身《こんしん》の力をこめて、引きずり下ろす。死んでも離してはいけない、死んでも……。 「離してよ。ミサちゃんに疑われたままでは、生きてられない」 「やめて。柚子さん、やめて!」 「身の潔白を証明するには、こうするしかないの」 「やめて。お願いだから。お願いだから、やめてください。死なないで」  美里は、柚子の身体にむしゃぶりついて懇願した。 「うそなんです、うそをついたんです、わたし。ごめんなさい」  気がついたら、とっさにあやまっていた。「犯人は渋沢なんです。知っていて、わざとあんなふうに言ってしまったんです」  柚子の動きが止まった。美里は、柚子を手すりから引き離した。柚子の肩が大きく上下に揺れている。 「部屋に入りましょう。すべて話しますから」  これ以上長くベランダにとどまっているのが怖かった。  柚子の背中を押し、先に部屋に入れると、美里は窓を閉めた。椅子《いす》まで戻る気力はなかった。体力をどっと消耗した気がした。  カーペットにぺたりと座り込む。手を引くと、同じように柚子も座った。いつどうやって破れたのか、柚子のスカートの膝《ひざ》のあたりにかぎ裂きができている。  向き合って、二人ともしばらく荒い息を落ち着かせる。 「話して」柚子がうながした。 「何日か前でした。近所で渋沢を見つけたんで、『実家にへんな手紙を送ったの、あなたでしょう?』と、厳しく問いつめたんです。あいつは開き直ったように、『ぼくが書いたとしたらどうなんだ?』と聞き返してきました。『ゴミを調べて、わたしが仁科美里で、雨宮麗であることがわかったんでしょう? あんな手紙をよこして、わたしが怯《おび》えるのを近くで見て楽しんでたんでしょう? それで実家にまで手紙を送ったのね?』、わたしの質問に彼は答えませんでした。でも、彼の顔色を見て、あいつが犯人だと直感したんです」  ——ああ、ひどいうそだ。  胸の苦しみに耐え、渋沢を犯人にでっちあげる。しかし、こうでも言わなければ、柚子はまたベランダへ飛び出しかねない。ベランダがだめなら、ほかの手段を使ってでも、自分の身の潔白を証明しようとするかもしれない。  美里は、「自分が犯人ではない」と認めさせるためには死をも恐れなかった柚子という女が、想像を超えた行動に走る彼女が、ひたすら怖かったのだ。あれは、ポーズではなかった。美里が足をつかむ力をゆるめたら、彼女は飛び降りかねなかった。こんなところで死なれてはたまらない。美里は、スポーツ新聞を飾る派手な見出しを想像した。 『女性推理作家の部屋から、愛読者の女性が飛び降り!』  !の隣に?が並ぶかもしれない。  読者は、推理作家の女が、愛読者として部屋を訪れた女性を、口論の末、ベランダから突き落とした、と受け止めるかもしれない。そんな羽目になったら、わたしの将来は絶望的だ。門倉さんも、もうわたしを救えないかもしれない。 「そう、ひどい目に遭ったわね」  柚子の右腕が伸び、手のひらが美里の頭を撫《な》でた。「わたしがついてるから。わたしが守ってあげるから」 「柚子さん」  ついさっき目の前で起きた〈事件〉のショックで、美里は自分が涙を流しているのに、いま気づいた。下着の中も湿っぽい。衝撃が大きすぎて、尿《によう》が少し漏れたようだ。 「わたしが願うのは一つ。前にも言ったでしょう? ミサちゃんが作家として大成すること。そのためには何でもするわ。完璧《かんぺき》な執筆環境を用意してあげる」 「…………」 「門倉さんとのことね。あれ、応援するわ」 「えっ?」 「ミサちゃんが、前向きな気持ちになれるのなら、そのほうがいいに決まってるじゃないの」 「…………」  ——何なのだろう、この女は。自分の行動はすべて、わたしを不快にし、わたしに恐怖を与え、わたしから書く意欲を奪うものだと、どうして気づいてくれないのだろう。  気づいていて、気づかないふりをしているのか。それとも、本当に気づかないのか。  自分を見つめる美里の生気をなくした目が、柔順な生徒のもののように映ったのだろうか。柚子は、「わかってくれたみたいね」とにっこりした。 「それで、わたし、門倉さんにお会いしてみようと思うの」  新たな、質の違う恐怖が、体内に湧《わ》き起こった。 「会ってどうするんですか?」 「ミサちゃんを託す人なのよ。一度会っておかないと」 「彼は、明日から、親しくしている年配の作家について、取材旅行に出かける予定です。本人は、スケッチ旅行と呼んでますけど」  それは本当だ。三泊四日の予定で九州へ出かけるのだが、行き先は彼女に告げないほうがいい。 「じゃあ、戻ってからにするわね」 「まるで、家族……みたいですね。わたしを託す、だなんて」  おそるおそる言った。 「あら、家族でしょう? ミサちゃんの横浜のご両親は、あなたを見捨てたんですもの」  そう決めつけられて気分を害したが、美里は言い返せなかった。確かにそうだ、自分は家族に見捨てられた形になるのかもしれない。 「ああ、それから、そこに並んでる料理のレシピ、書いて来たの。いちおうミサちゃんは、奥様と呼ばれる立場になる人だから。簡単なものは、習っておいたほうがいいでしょう? でも、まあ、そんなに神経質になる必要はないけどね。だって、わたしがするんですもの」 「何を……するんですか?」 「決まってるじゃないの。家事全般をよ」 「…………」 「ミサちゃんが仕事に専念する。そのためには、誰かが家事を引き受けるしかないじゃないの。わたしのほかに誰がいて?」     *  一人になった空間で、美里は呆然《ぼうぜん》としていた。柚子の足音が消えてから三分はたっただろうか。  ——あの女は、どこまでもわたしについて来るつもりでいる。わたしの新しい家庭にまで入り込もうとしている。彼女がいるかぎり、わたしは……。  殺すしかないのだろうか。殺す? ぞわぞわと悪寒が背筋を這《は》い昇った直後、笑いが続いてこみあげてきた。そうか、わかったぞ。人間はこんな単純な理由で、人を殺したくなるのか。単純? これのどこが単純なの? ものを書く人間として、自分を客観的に見つめる妙に覚めた自分と、推理作家なら何とか彼女を〈追放〉できるかもしれない、いや、しなくてはいけない、という使命感や闘志のようなものに燃える自分がいる。あなたなら殺せる、殺すのよ。彼女は邪魔物。明らかに危険人物よ。殺してもいいわ。だってこのケースは正当防衛にあたるもの。——そんなふうにそそのかす。  ——ばかね、殺せるはずないじゃないの。  美里は、痛くなるほどかぶりを振り、その考えを追い払った。  ふっと、柚子の何かの言葉が記憶の領域から呼び出された。奥様——その言葉だ。  ——そうだ、柚子さんこそ奥様じゃないの。人の妻……なんだわ。  なぜ、そんな明白な事実を忘れていたのだろう。家庭の主婦だからこそ、あんなにちまちまとしたおかずを簡単に作って持参したのだ。  美里は、電話に飛びついた。いまならまだ間に合う。近くでタクシーをつかまえたとしても、柚子は祐天寺の自宅へは到着していないはずだ。  柚子からきた手紙にあった住所と電話番号は、住所録に書き写しておいた。番号をプッシュする。  呼び出し音が鳴る。一回、二回、三回……十回を数えて、美里はあきらめた。柚子の夫は出張が多いらしい。今晩も留守なのかもしれない。夫の留守を狙《ねら》って、彼女は手料理を持って訪ねて来たとも考えられる。  戻したばかりの受話器を、思い直して取り上げ、ふたたび番号を押す。番号を間違えた可能性もある。そうであってくれ。柚子の夫、飯森 某《なにがし》は、本当は自宅にいるのだ。夜分、家をあけた妻をいらいらしながら待っているところだ。——祈るような気持ちで、そんなふうに想像してみる。  今度は、二回で受話器が上がった。一瞬、美里はためらった。早すぎるとは思うが、万が一、超特急で帰宅した柚子だったら、電話をかけた説明に窮する。  黙っていると、「もしもし?」と男の声が言った。 「……飯森さんですか?」 「そうです」 「飯森柚子さんのご主人ですね?」 「そうですが」  相手の声に、訝《いぶか》しげな色合いと警戒のそれとが混じる。 「夜分遅くに申し訳ありません。わたし、仁科美里といいます。奥さんの中学時代の後輩で、本名は坂井美佐です」 「ああ、小説を書いていらっしゃる……。いつも家内がお世話になっています」  ごくふつうの話し方。声には恐縮した感じがある。この人はまともだ、と直感した。胸に安堵《あんど》が広がる。 「さきほど、電話をくださったの、お宅さまですか?」 「あっ、はい。そうだと思います」 「外出しようとしていたときにかかってきたもので。すみませんでした」 「いいんです、そんな」  ——妻がいまから帰宅するというときに、夫が外出?  少し違和感を覚えたが、関心はすぐに電話をかけた用件に戻った。 「柚子さんのことでお話があるんですが。お会いできないでしょうか」  ちょっとの間があった。どんな、と問われたら、どう答えようか迷ったが、飯森は、「わかりました」と言ってくれた。 「明日、お時間とれませんか? そちらのご都合に合わせます」  飯森は、池袋のMホテルのティーラウンジを指定した。時間は午後二時。どうやら、勤務先がその近くらしい。  電話を切って、美里は我知らず「ああ」とため息をついた。すがるのは彼、柚子の夫しかいない。ほんの少し救われた気がしたのだった。     10  時間どおりに現れた飯森は、電話の声の印象と同様、見かけもごくふつうの、まともなサラリーマンに見えた。スーツを着、派手すぎないネクタイを締めている。七三に分けた髪、ひげをはやしてもいなければ、髪にメッシュも入れていない。きちんとした格好はしているが、彼が資産家の息子なのかどうかは、背格好からはわからなかった。三十くらいだろうか。思ったより若かったことに、少し驚いた。彼と一緒にいたら、確実に柚子は姉さん女房に見える。 「お忙しいところ、お呼びたてして申し訳ありません」 「いいえ、そちらこそ、お忙しいんじゃありませんか?」  飯森は微笑《ほほえ》もうとしたらしいが、緊張のためか頬《ほお》がひきつった。 「失礼ですが、お勤め先はこの近くですか?」 「えっ……はあ、そうです。そこのデパートの外商部に」  家内から何も聞いていないのだな、という驚きと戸惑いの反応を見せたあと、彼はデパートの名前を省いて答えた。 「お話というのは何でしょう」  飯森がちらと腕時計を見たとき、彼の注文したミルクティーが運ばれてきた。カップに口をつけずに、彼は聞く態勢に入る。勤務中で急いでいるのだろう。美里は、「実は」と切り出した。 「大変申し上げにくいんですが、柚子さんのことで困っていることがあるんです」  単刀直入に、困っている現状を先に伝えたほうがいい。  わずかに飯森が、眉《まゆ》を寄せた。男にしては、濃すぎない形の整ったきれいな眉だ。デパートの外商だというから、顧客に接するときのために手入れをしているのかもしれない。 「昨夜、柚子さんがうちにいらしたことはご存じですか?」 「すみません、お邪魔したようですね」  飯森は、何かはにかむような微笑を口元に浮かべた。笑うと口が歪《ゆが》む癖が彼にあるのを、美里は知った。 「柚子さんには、大変お世話になっているんです。遅くなったけど、出版祝いだからと、豪華なバラの花かごを贈っていただいたり、レストランでおいしい料理をごちそうになったり、高価なワインをふるまっていただいたり、わたしの本をとても丁寧に読んでくださり、モニターを務める気になってくださったり、本当に感謝しているんです。でも、柚子さんったら、わたしが結婚したら——今度、一緒に住む予定の人がいるんです——、わたしが執筆に専念できるようにと、自分がかわりに家事をするつもりだとまでおっしゃるようになったんです。お気持ちはとてもありがたいんですが、そこまでされるのは心苦しいし、だいいち、そちらの生活を壊すことにもなりかねません。できたら、ご主人から柚子さんを説得していただけると嬉《うれ》しいんですが」 「そうですか」  飯森は、深いため息をついた。爪《つめ》が短く切られた人さし指を唇に当て、考え込んでいたが、つっと顔を上げた。それほどショックは受けていないらしい。美里の話をたぶん、予想していたのだろう。その様子に、美里は希望の光を見た気がした。 「結婚なさるのなら……彼女から離れたほうがいい」  彼の言葉は、まるでつぶやきだった。 「ええ、そうしたいんです。ですから……」 「残念ながら、わたしに説得できるかどうか」飯森は、ゆるくかぶりを振る。  美里はあせった。「でも、ご主人から諭していただくしかないんです。柚子さん、いくらわたしが訴えても、聞いてくださらないんです」 「はっきり迷惑だ、とおっしゃったんですか?」 「迷惑だとは言っていません。でも、それに近いことは、いえ、もっとひどいことも言いました。わたしには、よき理解者がいる。あなたに面倒を見ていただかなくても、彼に力になってもらうから結構。そのような話はしました。でも、柚子さん、わたしの考えが甘すぎると言って……」  美里は、自分の伝えたいことをまとめるために、コーヒーに口をつけた。「最初は、結婚そのものにも反対していたんですが、ゆうべいらしたときは、考えが変わっていて、この結婚を応援すると。でも……」 「あなたの新婚家庭に、家政婦として住み込みたい、ですか」  そう、まるで家政婦だ。美里は、我が意を得たり、といったうわずった声で、「え、ええ、そうなんです。そういう形になります」と言った。「それも、まだわたしの婚約者の許可も得ていない段階で、なんです」 「激しい思い込み、ですね」 「そうです」  ここまで飯森が事情をわかっていてくれたら、あとは彼に何としてでも説得してもらう以外にない。美里は熱っぽく訴えた。「柚子さんを説得できる人間は、ご主人しかいないんです」  ——あなたの愛情で、柚子さんを引き戻して!  美里は、自分の心の中の悲痛な叫び声を聞いた。 「残念ですが、わたしにはもうできません」  飯森は、断定的に言い、首を振った。 「もう……?」 「彼女はもう、飯森柚子ではありません」 「それは……」  美里はハッとした。離婚した、ということではないか。そう言えば、柚子の左薬指から指輪が消えていた。だが、どこかおかしい。 「で、でも、ゆうべあなたは、おうちにいらした。電話におでになった」 「離婚届を取りに行ったんです。帰ろうとして玄関を出たとき、電話が鳴り始めたんです」 「…………」  予想外のことを言われた驚きで、言葉にならない。  ——柚子さんは、現在、仁科柚子なのだ。わたしのペンネームと同じ苗字の仁科柚子。 「昨日の昼間に、『離婚届、書いといたから、いつでも取りに来て』と電話があったんです。残業を終えて、仕事の帰りに寄りました。彼女はいませんでした。台所で何か料理したらしく、いろんなものが混じった匂《にお》いがしてました。もうずいぶん彼女の料理を食べていないことに、そのとき気づいて、複雑な気分になりましたね。テーブルの上に離婚届の用紙が載っていたんです。その隣には、『ミサちゃんのところへ行きます。さようなら。柚子』とメモ用紙が。帰るときに、ドアの外から郵便受けに鍵《かぎ》を投げ入れて、返しておきました。離婚届は、今日、区役所に提出して来たところです」 「飯森さんが祐天寺の家を出られたんですか?」 「ええ」 「いつごろからお二人は……」  聞きにくい質問だった。 「半年ほど前からでしょうか。わたしが彼女に離婚してほしい、と切り出したんです」 「あなたから?」  とすれば、飯森もまた、柚子の中の〈狂気〉の芽に気づき、それが大きく育っていくのに耐えられずに、破滅する前に別れを決めた、ということだろうか。 「表面的には、ぼくに好きな女性が現れた、ということになっています」  飯森は、呼び方をわたしからぼくに変えて、やや穏やかな口調を取り戻して続ける。「でも、柚子がぼくをそこまで追い込んだ一面は否定できないと思います。彼女がようやく離婚に応じてくれたのは、おそらく、仁科さん、あなたが出現したせいでしょう」 「わたしが?」 「ぼくからあなたへ、彼女の関心が移ったんです」  どういうことだろう。こめかみがずきずきして、うまく思考できない。  飯森は、はじめてミルクティーに口をつけ、唇を湿らせた。彼のほうも、どう言葉を選べば効果的に相手に伝わるか、考えているようだ。 「辻堂《つじどう》 京介《きようすけ》……って、ご存じですか?」  カップをソーサーに戻すと、飯森は聞いた。名前を発したとき、何かためらいがある気がした。 「辻堂京介? 存じあげませんが」 「そうでしょうね。当然ですよ」  飯森の目が下がり、口元が歪んだ。奇妙な笑いだ。 「失礼ですが、その方と柚子さんが何か関係が?」 「柚子が昔、愛した男ですよ」 「えっ?」 「昔のぼくです」  どういう意味か、理解できなかった。 「あなたを見ていると、昔のぼくを見ているようだ」 「もしかして……」  美里は、ハッと思い至った。 「そうです。ぼくは、辻堂京介のペンネームで小説を書いていました」 「…………」 「もっとも、書いていた、と表現するには、短すぎる期間でしたけどね」  美里は、一生懸命、記憶の底を探った。辻堂京介——ぼんやり憶《おぼ》えている名前の気もするが、どんな作風で、どんな題名の本を書いていたのか、まるで思い出せない。 「憶えてないのも無理もないですよ。ぼくが出した本は、一冊きりしかないんですから」  一冊きり。いまの美里と同じだ。 「名古屋の大学にいたころ、ぼくは小説を書いていました。作家になる気などなく、ほとんど趣味でしたね。地元の大手の自動車メーカーに就職してからは、仕事に追われて、小説を書く暇などありませんでした。ところが、あるとき、猛烈に小説が書きたくなったんですね。きっかけは、学生時代の小説仲間の名前を、ある小説誌で目にしたからなんです。新人賞の中間発表のところに、太い字で。結局、二次通過で落選したわけですが、それがきっかけで発憤しましてね。何かにとりつかれたように三日で仕上げた短編を、純文学系の新人賞に応募しました。でも、かすりもしなかった。鼻をもぎとられたような感じでした。しかし、めげずに手当たり次第にいろんな雑誌に出しました。そのうち候補までいったのが、ジャンルで言えば冒険ファンタジー。ぼくは、まるで大学入試をめざす受験生みたいに、受賞することだけを目的にがんばりました。でも、あるときはたと気づいたんです。小説にもテクニックはある。プロとしてデビューし、書き続けるためには、独学じゃいけない。それで、入ったのが小説教室でした。そこで、少し前から教室にいた柚子と知り合いました」  美里は、思い出していた。柚子は以前、小説教室に通っていたと言っていた。それは、名古屋にいたときだったのか。そう考えて、ある点に引っかかった。柚子は、「結婚して名古屋にいた」と手紙に書いてきたのではなかったか。あれは、新婚生活を名古屋で始めた、という意味に解釈していたのだが……。  訝《いぶか》しげな表情に気づいたのだろう、飯森は、美里の疑問を解くかのように、「そのころ、柚子には夫がいました」と言った。 「じゃあ、柚子さんは、前のご主人と離婚なさって、飯森さんと?」  その飯森とも、ほんの今日、離婚したという。 「離婚ではありません。柚子の最初の夫は、死にました。自動車事故でした」 「死んだ?」  聞いた瞬間、美里の脳裏を、柚子の笑顔がよぎった。微笑《ほほえ》んでいるのはなぜなのか。それは、とりもなおさず、美里自身が、柚子の最初の夫の死因に疑問を持っているせいではないのか。 「ぼくは、柚子のご主人が亡くなったとき、本当は……」  そこで飯森は、苦しそうに口をつぐんだ。 「どうなさったんですか?」 「本心では、彼女を疑ったんです。ぼくと再婚するために、ご主人が邪魔だったのではないか、と。でも、ぼくは疑問を彼女に問いたださなかった。自分の将来のためにね」 「…………」 「小説教室には、文章の達者な人たちがいっぱいいました。この人がなぜデビューできないのだろう、なぜ十年も書き続けているのだろう、と首をかしげるほど小説がうまい人も。教室仲間のぼくの評価は、かなり低かったですね。文章が荒削りだ、構成がめちゃくちゃだと。講評はけっこうよかったんですが、そうすると、『あの講師の目は信用できん。あんたの小説をほめるなんて』と、講義が終わったあとでとばっちりがこっちにきます。そんな中で、『あなたの感性はピカ一。文章なんて書けば書くほどうまくなるものよ。あなたは絶対に作家になれるわ』と嬉《うれ》しい声をかけてくれたのが、柚子でした」  仲間の評価は散々だったが、講師の受けがよく、自分もその才能を高く買っていた受講生がいる。——柚子はそう言っていたが、それが飯森だったのか。 「彼女とは、講義を終えると、二人でお茶を飲む仲に発展しました。彼女は熱っぽく言いました。『あなたは作家になれる。わたしの目に狂いはない。次に応募する作品ができたら、見せてちょうだいね』と。あまりに熱心に言うので、ぼくは書き上がっていた小説を見せました。はじめて手がけた長編です。すると彼女は……」 「原稿に赤を入れて返してきた?」 「ええ、そのとおりです。的確だと思う部分もあれば、ムッとなるような直しもありました。けれども、ぼくはその作品にさほど期待していなかったので、八割がた彼女の指摘どおりに直して、応募したんです。そしたら……」 「受賞してしまったんですね」 「それが、辻堂京介のデビュー作でした。すぐに単行本になり、あなたは知らないでしょうけど、新聞に『冒険ファンタジーの世界に驚異の新人誕生!』なんて、けっこう大きな広告も載ったんですよ」  言われてみれば、そんな広告を目にした気もする。だが、毎年、似たような才能を持った新人作家は続々と生まれる。 「彼女は舞い上がらんばかりに喜んで、ぼくたちは祝杯をあげました。お恥ずかしい話ですが、そのときまでぼくは彼女が独身だとばかり思っていたんです。彼女との結婚は具体的には考えていませんでしたが、彼女はぼくにとって間違いなく幸運の女神でした。選考委員の作家の一人に、『君は若いけど、感性だけに引きずられずに、文章への気配りができている』とほめられたのは、彼女のおかげです。ああ、ぼくは彼女より四つ年下なんです」  ということは、今年二十九歳。美里より二つ年下だ。 「彼女といればどんどん自分の運が開けるのではないか、と思えたんです」 「それで柚子さんにプロポーズしたら、夫がいることがわかったんですか?」 「いいえ、プロポーズは彼女からでした」 「結婚していた彼女から?」 「自分と夫との仲は冷えている。だいぶ前から離婚を考えていた。夫と別れるから、結婚しましょう、とね。こうも言いました。『作家として書き続けていくのは大変。浅はかな人は、執筆に割く時間がほしくて、すぐに仕事を辞めて後悔する。経済的な基盤さえあれば、当分、書くことだけに専念できる。わたしにはあなたを援助する力があるの。あなたを作家として大成させることが、わたしの使命なの』ってね」  同じだ、と美里は思った。柚子は美里にも、似たようなことを言った。 「彼女の申し出は、実に魅力的でした。ぼくはすっぱり仕事を辞める決心をしました。時間さえあれば、いくらでも書けそうな気分になっていたんです。退職届を出したちょうどその日、彼女のご主人が交通事故で亡くなりました。高速道路でガードレールに激突したんです。雨の日でスリップしたようですが、警察は高齢者に多い事故として処理したようです。高齢になると、とっさの判断力が鈍りがちですからね」 「高齢って……」 「柚子の死んだ夫は、彼女の父親、いや、祖父と言ってもいいくらい年が離れていたんです。高校三年のときに父を亡くしたから、父親のように頼れる人に惹《ひ》かれたのよ。彼女は最初の結婚を、そんなふうに語っていました」  中学校を卒業した美里は、上田を離れてしまったので、その後の柚子がどういう生活を送ったのかは、まったく知らなかった。 「大学の文学部への進学も、父親の急死であきらめたようでした。柚子が進んだのは、看護学校です」 「じゃあ、柚子さんは……看護婦に?」  いままで爪《つめ》の先ほども思い浮かばなかった職業だったが、柚子に看護婦という仕事はぴったり合う、と美里は思った。 「死んだ夫は、彼女が勤めていた病院の入院患者だったんですよ。心臓が弱いくせに、まわりの忠告に耳も傾けずに、高級外車が好きで、乗り回していた男だといいます」 「資産家なのは、その男性だったんですね?」  飯森はうなずき、ちょっと口を歪《ゆが》めた。「あちこちに不動産を持った資産家だったようです。おそらく彼は、柚子の献身的な性格に惚《ほ》れ込んだんでしょう。彼女の中に打算があったかどうか知りませんが、柚子は一途《いちず》になる性格ですからね。彼は退院して、すぐに柚子に看護婦を辞めさせ、自分の後妻に迎えたんです」 「でも、柚子さんは、通い始めた小説教室で、あなたに出会ってしまった。あなたの才能に惚れて、そばにいて応援したいと思った」 「資産家の夫は、妻をカルチャー・スクールに通わせるような気分だったんでしょう。ぼくたちの仲はご主人にはばれていなかったと思います。ばれたら、たぶん、ご主人のほうから柚子に離婚を突きつけたでしょう。かなりプライドの高い、気むずかしい男だったようですから」 「柚子さんにしてみれば、離婚したいときに、ちょうど都合よく夫が死んでくれた、というところでしょうか」  そんな言い方で、美里は離婚したばかりの柚子の〈前夫〉の心中を探った。 「疑いの目を向けた人は多かったでしょうね。ぼくでさえそうだったんですから。夫の死によって、彼女には莫大《ばくだい》な遺産と、おまけに夫の生命保険金がころがりこんできた」 「そして、それはあなたを作家として大成させるための資金にもなった」  わずかに皮肉をこめて、美里はその先を続けた。 「でも、いくら金を積んでも、二冊目の本は出せません」  飯森は肩をすくめた。「仕事を辞めたぼくは、『心機一転したほうがいい』という柚子の勧めに従って、東京で新婚生活を始めました。東京のほうが、編集者とも会いやすいですしね。祐天寺のマンションは、柚子の名義です。でも、金持ちの女房というパトロンがいても、書けないものは書けない。『すごいものが書けたわ』と彼女がほめてくれても、編集者が首をかしげたらおしまいです。そのうち彼女は、編集者を無能だとなじり出しました。ケンカした相手も一人、二人じゃありません。ぼくに対しては、『自信を持つのよ。わたしがあなたの才能を見出したんだから、絶対に大丈夫。必ず大作家になれるわ』と、励まし続ける。だんだんぼくは、彼女の励ましが重荷になってきたんです。オレはおまえに見出されたんじゃない。自分の実力で、ここまできたんだ。何度そう口に出かかったか。ときには、母親にはっぱをかけられる受験生のような気分にもなりました。『アフリカあたりに取材に行って来なさいよ。旅費はいくらでも出すから』と言われたとき、ついに頭に血が昇ってしまったんです。わたしが援助する、彼女の態度はいつもそれなんです。夫として、男として、ぼくがどれだけ歯がゆい思いをしているかなど、彼女は全然|頓着《とんじやく》しない。『しばらく一人になって書いてみたい』、そんなふうに彼女に切り出そうと考えていた矢先、妊娠がわかったんです」 「柚子さんが妊娠?」  彼女にいま、子供はいない。 「さすがに妊娠した妻を置いて、家を出て行くわけにはいきません。ぼくとしても子供が好きだったし、子供が生まれれば何か新境地が開ける気がしたのも確かです。それに賭《か》けてみようと思いました。柚子も、もともと子供が大好きでしたからね。本当に幸せそうでした。毎日、お腹をさすっては、『ミサちゃん、ママよ』とやさしく話しかけてました」 「ミサちゃん?」 「彼女は、生まれてくる子は絶対に女の子、と決めつけていました。漢字はまだ考えていませんでしたが、名前はミサ。そう、あなたと同じ音ですね」 「柚子さんは、わたしの名前を?」 「さあ、それはどうかわかりませんね。名前の由来を聞いても、彼女は答えようとしませんでしたから。ぼくは、彼女の精神状態さえよければそれでいいと思ってました。干渉されなくなると気分が楽になって、心なしか筆も進みましたしね。短編もいくつか、雑誌に載るようになりました。彼女の関心は、ぼくから子供へ完全に移ってしまったんですね。彼女がお腹の子にこう語りかけるのを、立ち聞きしたことがありますよ。『ミサちゃん、大きくなったら、必ず小説家になろうね。ううん、なるのよ。あなたならなれる。パパとママの子で、作家になれないはずがない。ママの果たせなかった夢を、必ず果たしてちょうだいね』、そう彼女は何度も何度も繰り返していました」  その光景を想像して、美里は腹部がひんやりした。 「ところが、八か月に入ったころでしたか、突然、柚子は流産してしまったんです。病院で流産を知った彼女は、気が狂わんばかりに嘆き悲しみました。退院して、しばらくは放心状態でいました。ぼくなりに力になり、励ましたりもしたんですが、彼女はまるで魂が抜けたみたいになって」 「目標を失ってしまったんですね」 「ええ。気がつくと、真夜中なのに彼女の姿が消えている、なんてことがよくありました。ぼくは仕事にも身が入らなくなって……。とうとう短編の締切を落としました。数少ない仕事なのに、です。長編のほうは、何度最初の一章を書き直して持って行っても、OKが出ない状態でした」  いまのわたしのような状態だ、と美里は思い、飯森に親近感を覚えた。 「編集者には愛想をつかされ、仕事はまったくなくなりました。そろそろ見限ったほうがいいのではないか。ぼくは考えました。目をかけてくれていたベテラン編集者が、定年退職してしまったせいもあります。そこで、自分の気持ちを正直に打ち明けました。『仕事を探そうと思う。いつまでも、君のヒモのような生活をしているわけにはいかない』とね。柚子は、ぼくに女ができた、と思ったようです。不倫相手として、出版社でアルバイトをしていた女性の名前を挙げました。柚子は思い込みが激しい女なんです。彼女だと思い込んだら、いきなり電話をかけて問いつめてしまって。ぼくは彼女のところにあやまりに行きました。おかしな話ですが、そこから本当に始まってしまったんです。彼女は言いました。『いま無理して小説を書く必要はない。書きたくなったらまた書けばいい。書きたい気持ちがじわじわ湧《わ》いてくるのを待っていればいいんじゃないかしら』とね。彼女の言葉に救われた気がしました。それで、学生時代の先輩の紹介で、いまの仕事に就きました。小説は書いていません。でも、将来も書かないかどうかはわかりません」  次に書くときは、過去の実績——辻堂京介としてデビューしたことは忘れて、一からの出直しだろう。美里は、彼が再デビューする可能性はもうほとんどないだろう、とぼんやりと考えた。 「あなたから柚子さんに、『離婚してほしい』と切り出したんですね?」 「はい」と答え、飯森は小さくかぶりを振る。 「すんなりとは応じてくれなかったんですね?」  応じるはずがない。夫を手放すことは、〈才能ある人を磨きあげる才能が自分になかった〉と証明することになる。 「ぼくはアパートを借りて、一人で暮らし始めました。けじめをつけてから新生活をスタートさせたかったので、彼女と一緒ではありません」 「柚子さんの気が変わったのは……」  なぜなのか、もう理由はわかっていた。それでも、美里は別れた柚子の夫の口から語ってほしかった。 「仁科さん、あなたがエッセイで彼女を『恩人』だと書いたからです。あの日のことは鮮やかに憶《おぼ》えています。いつまでもこんな状態では、みんな不幸になる。離婚話をきちんと進めよう。話し合いの場を持とうと、彼女をホテルのロビーに呼び出しました。彼女の身体が回復したころです。約束の時間を過ぎても柚子は現れない。いらいらしていたところへ、頬《ほお》を上気させた彼女が、小冊子を手にしながら駆け込んで来ました。『見て見て! わたしが十五のときに目をつけていたあのミサちゃんが、わたしのことを『恩人』って書いてくれたのよ!』って、うわずった声で言いながら。興奮した彼女は、一方的にしゃべりまくります。『わたしの旧姓をペンネームにしてくれたのよ。ミサちゃんが、そんなにわたしのことを必要としてくれてたなんて。ねっ、ほら、やっぱりわたしには才能を見出す力があったでしょう? わたしがミサちゃんを作家にしたようなものよ。いえ、したのよ。今度は、彼女を磨きあげて、一流の作家に育ててみせるわ』。ぼくにはこう聞こえました。『あなたに期待して果たせなかった夢を、今度は中学時代の後輩に実現してもらうわ』とね。その瞬間から、彼女の関心はそっくりあなたに移ってしまったんですよ」  お気の毒に、という意味なのか、これでおわかりでしょう? という意味なのか、飯森は弱く笑った。 「でも、まさか、彼女があなたをここまで苦しめているとは」  彼の笑いはすぐに引っ込んだ。 「柚子さんは、わたしの本を読んでいたんでしょうか」  ——わたしが彼女の狂気を、千二百字たらずのエッセイで、引き寄せてしまったのだ! 「あなたが作家になったのは知っていたと思います。ドレッサーの引き出しに、カバーをかけたあなたの本を隠すようにしまってありましたから。たぶん、ぼくの目に触れさせないようにしたんだと思います。彼女は、小説雑誌もよく読んでいましたね」  では、美里が新人賞を受賞し、デビューしたのは知っていた、という柚子の言葉は本当だったのだ。けれども、大作家にするために全身全霊を傾ける相手は、一人でなければならない。そこは、夫に配慮して、自分と「仁科美里」が知り合いであることを黙っていたのだろう。美里は、そう理解した。 「わたしはどうすればいいんでしょう」  別れてしまった男だ。相談しても仕方ないとわかっている。だが、ほかにすがりようがない。 「婚約者がいらっしゃるのなら、彼の力を借りるしかないでしょう」 「柚子さんは、彼にも一度、会っておきたい、と言ってました。でも、わたし、彼には会わせたくないんです。会わせるのが怖いんです」  柚子が昨夜、自分に対してしたような爆発の仕方をしたら、男の門倉は困惑するだろう。昨夜の柚子の行動は、一種の〈脅迫〉だ。どこまでも美里を追って来ようとする彼女の執念深さに、門倉が脅威を覚え、彼女から逃れるために美里からも離れようとするかもしれない。 「お気持ちはわかります。しかし、あなたのことを真剣に愛していたら、力になってくれるはずですよ」 「ええ。個人的なことですが、わたし、家族とは縁が切れているような状態なので、相談できないんです」  ——家族……。  じわりと恐怖がよみがえった。 「そう言えば柚子さん、まるで、わたしの母親であるかのような言い方をしたんです」 「本当に、あなたの母親のつもりなのかもしれませんよ」 「えっ?」 「柚子はミサと名づけた子供を亡くしている。生まれなかった娘を、あなたにだぶらせて見ているのかもしれません」  美里は、昨夜、彼女に頭を撫《な》でられたときの感触を思い出した。「いい子ね」というふうに、やさしく、けれども、じっとりと撫でられたあの感触を。 「流産したとき、胎児はもう大きく育っていたそうです。柚子の言うとおり、女の子でした」  飯森は、生まれなかった子の性別を、ぽつりと語った。  別れぎわ、彼は美里に名刺を渡した。渡そうか渡すまいか、いままで迷っていた様子だ。「何かあったら、ここにお電話ください。何もないように祈っていますが」     11  飯森と会ったことを柚子に言ったほうがいいのかどうか迷っていると、その夜、柚子のほうから電話があった。 「ミサちゃんに黙っているのもおかしなものだから、報告するわね」  柚子は、弾むような早口でそう前置きした。「わたしね、仁科姓に戻ったのよ。だからもう、正真正銘の仁科柚子よ」 「離婚……したんですね?」  前夫・飯森|憲明《のりあき》——名刺ではじめてフルネームに出会った——から聞いて、すでに知っている。 「新しい生活をスタートさせるためには、思いきった決断も必要でしょう?」  彼女が描く新しい生活。それは、常識ある夫を切り捨て、一生、美里につきまとうことだ。 「だってミサちゃん、わたしに夫がいることを気にしてたでしょう? 夜も夫に気がねして家をあけられない、と心配したんじゃない? これでわたしは完璧《かんぺき》に自由よ。たっぷりミサちゃんにおつき合いできる」 「でも、柚子さん」  彼女の感情という可燃性の劇薬に火をつけないように、遠慮がちに呼びかける。「門倉さんの意見も聞いてみないことには」 「いま旅行中なんでしょう? 戻ったら一度会ってみる、そう言ったはずよ」 「だけど、門倉さんが何て言うか……」 「彼なんかどうでもいいじゃないの。大事なのは、ミサちゃん、あなたの気持ちだもの」  ——そうだ、そのとおりだ。  彼女はわかっている。まともな部分はまともな部分として、ちゃんと機能しているのだ。人の文章を読んで、けっして的はずれな指摘はしないように、確かにある種の〈読む力〉はある。それなら、人の心を〈理解する力〉だってあるはずだ。言うならいまだ。はっきり言うのよ。そしたら、まっすぐ彼女の心に伝わるはずだ。わたしの気持ちはこうです。あなたになんか、一秒たりともそばにいてほしくありません。恐ろしく自分勝手で、わがままで、衝動的で、激昂《げつこう》しやすい女なんかに。  心の中であふれんばかりになっている言葉の数々を、声帯にのせる勇気が振り絞れない。こちらがストレートに感情をぶつけた直後の柚子の反応に想像が及ぶと、尻込《しりご》みしてしまう。電話をがちゃんと切った柚子は、ナイフを手に、目を血走らせて乗り込んで来るかもしれない。発作的に何をするかわからない女なのだ。 「何度も言ったでしょう?」  柚子の口調は、まるで娘を諭す母親のようなそれだった。「わたしはね、ミサちゃんの執筆環境を最上のものに整えること、それだけを願っているの。だって、それが作家として大成するための必要不可欠な条件だから」 「あ、ええ、わたしも一般的にはそうだと思っています。気がかりなことがあったら、書くのに専念できないし」  ——何を言ってるのよ、あなたが本当に言いたいのは違うでしょう? わたしの執筆環境を最悪なものにしているのは、柚子さん、あなたそのものなのよ。  直接口頭で伝えるのが無理なら、意を決して手紙で伝えようか。美里が、本気で考え始めたとき、 「だから、門倉さんとの結婚も許したのよ」  柚子が、得意そうに言った。  許した——まさに、それは、母親が使う言葉だ。手紙で気持ちを伝えようという決心が、急速に萎《しぼ》んだ。 「でも、まあ、籍を入れるのは少し待ったほうがいいかもね。しばらく一緒に暮らしてみて、相性がいいかどうか、快適に仕事ができるかどうか、見極めてみたほうがいいかもしれない。それからでも遅くないでしょう?」 「え、ええ」  実際に、そのつもりだ。美里の仕事場が見つかるまで、あるいは、二人で住める部屋が見つかるまで、門倉のところに同居させてもらうつもりでいる。籍を入れるか入れないかは、美里にとってどうでもいい問題だった。  美里は、ふっと閃《ひらめ》いた。住居スペースの狭さを理由に、彼女に遠慮してもらえばいい。 「わたしたち、わたしがここを引き払って、当座は門倉さんのところに住む、って決めたんです。そこは、けっして広いとは言えないマンションなんです。だから、柚子さんがお手伝いに来てくださっても……」 「じゃあ、祐天寺に住めば?」 「祐天寺?」  自分の住まいのそばに部屋でも借りろ、ということなのか。 「わたしのところなら、部屋はたっぷりあるわ。主人の部屋もあいたし、本が入りきれないんだったら、本だけ置くところも都内にあるし」 「…………」  脳天をつかれたようで、一瞬、頭の中も目の前も真っ白になった。 「それからミサちゃん。小説家には、ときどき静かな環境も必要なのよ。別荘くらい持たなくちゃ」 「別荘……ですか?」  どこからそんな発想が生まれるのか、柚子の思考回路が理解できない。 「たまには都会の喧騒《けんそう》から離れて、自然の中でゆっくり過ごす。そうやって充電して、はじめて活力が体内に満ち満ちてくるものよ。余裕のない生活をしてちゃだめ。いるのよね、貧乏性が身体に染みついちゃっているような人間が。たとえば、冒険小説を書くのなら、アフリカ縦断旅行くらい決行しなくちゃいけないのに、飛び立つだけの勇気と決断力のないやつが」  別れたばかりの夫、飯森憲明が、その飛び立つだけの勇気と決断力のないやつだと言いたいのだろう。 「別荘を持つ余裕なんて……」  言いかけて、虚《むな》しさに襲われてやめた。柚子がどう言うか予想がつく。——あら、わたしが持っているわよ。そこにいらっしゃいよ。 「別荘の件は、また改めて。わたし、ちょっと急いでるのよ」  それで、早口になっていたのか。 「どこか出かけるんですか?」  何をいきなり思いつくかわからない女だ。怯《おび》えた声で美里は聞いた。 「まだ残ってるのよ」 「残ってるって、何が?」 「わたしがしなくちゃいけないことよ。ミサちゃんの執筆環境を最高の状態にするためにね」 「何のことですか?」  美里の〈執筆用の別荘〉でも探しに行くのだろうか。 「ミサちゃんは心配しなくていいの。それよりちゃんと書いてる?」  こんな最悪の環境で、仕事がはかどるはずがない。雨宮麗の仕事が減った分、肩の荷が下りたくらいで、内心では依然としてあせり続けている。 「二、三日、家を留守にするから」 「旅行ですか?」 「そんなところね。ミサちゃん、土曜日、上田へ行くの?」 「ええ、同窓会には出ることにしました」 「じゃあ、同窓会が終わるころ、迎えに行くわね。ミサちゃん、上田には新幹線で行くんでしょう?」 「はい、でも、迎えって……」  はたと気づいた。柚子は、同窓会が開かれる会場も時間も、案内状を見て知っているのだ。  ——わたしの予定は、これからずっと彼女に管理されるの?  深海の底へ果てしなく引きずり込まれていくようで、ずんと気が遠のいた。     *  旅行先の門倉から夜中に電話が入ったときも、美里は、柚子のあの狂気じみた行動については話さなかった。「わたしの部屋から本気で飛び降りようとした」と言ったら、門倉は驚愕《きようがく》してすぐにでも帰ろうとするかもしれない。興奮状態のまま柚子に会ったら、彼女のやや勢いを弱めていた感情という炎に、油を注ぐ事態になりかねない。仕事として行っている彼に、余計な心配をかけたくない、という思いもあった。 「柚子さん、離婚したのよ。仁科柚子に戻ったら、何だかわたしの本当の母親みたいな話し方をするようになったの。門倉さんとの結婚を許す、なんてね。別れた夫によれば、念願の子供を流産したあたりから、精神的に不安定になったみたいだけど。彼女、お腹の子を女の子と決めつけて、『ミサちゃん』と呼びかけていたそうなの。絶対に作家にするつもりでいたそうよ。自分が果たせなかった夢を、子供に果たしてもらいたかったのね。生まれなかった子は、彼女が予言したとおり、女の子だったらしいわ」 「それで、君に異常なほど執着している理由がわかった」 「わたしの結婚を応援する気になったのも、そのほうがわたしが快適に仕事ができるから、ですって。すべて、わたしを作家として大成させるため、だそうよ」 「君のため、と言いながら、本当は彼女自身のためなんだろうな。自分の手で大作家を一人育てあげた、という自分自身の満足感を達成させるためにね」  ——自分自身のため。  そうかもしれない。美里は、門倉の分析に目が開かれた気がした。柚子は、自分自身の欲望の成就のためには、何をするかわからない人間なのだ。小説教室で知り合った飯森と結婚するために、高齢の夫を事故死させたように……。いや、柚子のしわざかどうかはっきりしたわけではない。だが、当の飯森が柚子に疑問を持ちながらも、彼女の資金力に目がくらんで結婚したのだ。偶然すぎる事故死に、誰もが柚子に疑惑の目を向けるに違いない。しかも、夫の死で、柚子には夫の遺産と生命保険金がころがりこんできた。 「門倉さんが帰ったら、一度、話をしたいそうよ。わたしを託す母親がわりとして。大丈夫かしら」 「心配しなくてもいいさ。彼女が、結婚したら美佐の負担が増える、と言うのなら、家事でも育児でもオレがすべてやります、と言い返してやればいいんだろ? あんたの力なんて借りません、ってね。ああ、育児はまだ早いか」  門倉は、関係を持ってから、美里を「仁科さん」ではなく、「美佐」と呼ぶようになっていた。  電話を切って、彼の楽観ぶりに、美里は不安をかきたてられた。誰も理解できやしない。柚子がそこのベランダから手すりを乗り越えて、本気で飛び降りようとした、その瞬間を見ていないかぎり……。  美里は、いまはきっちりと閉められたカーテンに目をやった。  ふっとカーテンが揺れたように見え、心臓が跳ね上がった。思わず駆け寄り、息を一瞬止めて、さっと開く。  誰もいない。  胸を撫《な》で下ろした。誰もいるはずないではないか。じわりと柚子の発したある言葉が、闇《やみ》の中に浮かび上がってくる。  ——まだ残ってるのよ。  ——わたしがしなくちゃいけないことよ。ミサちゃんの執筆環境を最高の状態にするためにね。  彼女は、そう言った。いったい、何が残っていると言うのだろう。  ときおり皮膚を突き刺すようにも感じられるほど冷気を帯びてきた風にあたりながら、美里は思い巡らせた。     12  翌日の金曜日、午後いちで、いくつかまとめたインタビュー記事を出版社にファックス送信したあと、銀行に出かけた。二十五日が日曜日なので、良心的な社は前々日の金曜日に原稿料を振り込んでくれる。短編の原稿料と合わせて、二十万程度だったが、それでもちゃんと振り込まれていただけで涙ぐむほどありがたかった。いつになったら、月が変わってはじめて前月の七|桁《けた》の印税の振込に気づく……というような恵まれた状態になるのだろう。門倉と一緒なら、苦労も分かち合える、と美里は思う。次に原稿料が入るまで、カップラーメンをすするような生活もまた楽しいだろう。  ——だけど、柚子さんがいる。  脳裏にちらと、彼女の姿形や手ぶりや身ぶり、口調の片鱗《へんりん》が浮かぶと、途端に気が重くなる。  現金の入ったバッグを抱え、マンションのロビーに戻る。管理人室の小窓の前に、スーツを着たサラリーマン風の男が、腰をややかがめるようにして、管理人のおばさんと何か話している。男が口にした「渋沢」という名前が、美里の耳に入った。歩調をゆるめた。  管理人が部屋から出て来る。美里の姿を認め、少し顔をこわばらせた。その手には、鍵《かぎ》の束が握られている。 「どうかなさったんですか?」  美里は、何かしらの不吉な予感を覚えて聞いた。男性がハッと顔を振り向けた。渋沢と同年代くらいだろうか。目と目が離れているところが、緊迫感の中にいてもどこかのんびりした印象を与える。 「ええ、ちょっとね」  管理人は、話そうかどうか躊躇《ちゆうちよ》したようだったが、「105の渋沢さんがね」と言って、男の反応をうかがった。 「渋沢とはお知り合いですか?」  男が美里に尋ねた。手には、新聞を持っている。日付が見えた。今日の朝刊だ。 「五階に住んでますので、面識はありますが」  まさか、自分が出したゴミ袋をあさっていたのが彼だ、とは言えない。 「実は彼、今日、無断欠勤しましてね。電話をしても出ないので、外出のついでに様子を見て来ようと思いつきましてね」  聞いているうちに、美里は胸のあたりが苦しくなってきた。  ——渋沢がいなくなった? まさか、柚子さんが……。 「まあ、電話にも出られないくらい熱を出して寝てるとか、何となく会社に行くのが嫌で、家の中で息を潜めているとか、どこかでさぼってるのかもしれませんけどね。新聞もそのままにして」  同僚は笑ったが、すぐに真顔に戻った。「不吉なことは考えたくありませんけど、以前、心臓発作で倒れてそのまま……という友達がいたので。やはり一人暮らしでした」  管理人が、寒けがするというふうに身体をブルッと震わせた。 「立ち会っても……いいですか?」  美里は、どきどきしながら聞いた。  管理人は何も言わず、鍵の束から見つけた105の鍵を親指と人さし指でつまんで、青白い顔で渋沢の部屋へ向かう。同僚が続き、距離を置いて、遠慮がちに美里は続いた。  渋沢の部屋の前。管理人がまずチャイムを鳴らす。応答はない。二度繰り返す。管理人は、鍵を鍵穴に差し込み、いいですね、というふうに同僚を振り返る。一気にドアを開けた。その瞬間、何かがはらりと落ちた。ドアの隙間に挟んであった紙らしい。同僚が拾い上げ、ちらりと見ると、ポケットにしまう。 「どうなさったんですか?」美里は気になった。 「あ、いえ、何でも。……おい、渋沢、いるか?」  彼は声をかけながら、入り込んで行く。管理人も、ためらいがちに「渋沢さん」と呼び、家にあがる。三和土《たたき》に大きな靴と、管理人のサンダルが残った。渋沢のものらしい革靴は見当たらない。外に出ているのは、くたびれかけたサンダルだけだ。会社に履いて行くような靴は、靴箱にしまってあるのかもしれない。  美里は、玄関で、二人がゆるくかぶりを振りながら戻って来るのを待った。 「いませんね」管理人が言った。  ホッとした。そんなはずはない、と思ったが、部屋の中で殺されている渋沢が発見されたらどうしよう、と胸が高鳴っていたのだった。  ——やっぱり、ばかばかしい想像だったのよ。だって、昨日の夜、電話をくれたばかりの柚子さんが、ここに来て渋沢を殺せたとは思えないもの。  渋沢は小柄な男だったが、女一人にやすやすと殺されるとも思えない。  ——柚子さんが渋沢を殺す、ですって? 何てばかな想像をするのよ。  電話の謎《なぞ》めいた柚子の言葉——ミサちゃんの執筆環境を最高の状態にするために、わたしがしなくちゃいけないこと——の意味を、拡大解釈しすぎた自分を美里は笑った。美里は、柚子が美里にとって邪魔な人間の一人として渋沢を憎んでいるかもしれない、と思ったのだ。だから、彼を〈処分〉してしまうと。何とも現実離れした推理だ。 「お手数おかけしました。案外、映画でも観てさぼっているのかもしれません。大騒ぎするほどのことじゃなかったですね」  同僚は、ばつが悪そうな顔で、首をすくめた。 「けさは、自転車置き場の掃除をしていて、渋沢さんがお出かけになるのは見ていないんですよ。いつもなら、朝、出勤するときの様子で、だいたいその人の体調がわかるんですけどね」  管理人も、すまなさそうに言った。 「あの……渋沢さんの車は?」  彼が自家用車を持っていたかどうか、美里は知らない。このマンションの駐車場スペースは狭いので、近くに駐車場を借りている人はけっこういるようだ。 「さっき見ました。ちゃんとあります。車では出かけていないようですね」  同僚は答え、管理人へ向いた。「最近、渋沢を訪ねて来た人はいませんか?」 「えっ?」  管理人は一瞬、息を呑んだようだったが、「いえ、わたしの知るかぎりはいませんけど」とそわそわしたように答えた。「でも、わたしも出入りする人を全員、監視しているわけじゃありませんからね。オートロックとはいっても、住人がエントランスの鍵を開けたら、後ろに続いて入れてしまいますし」     *  渋沢のことが気になって、仕事が手につかなかった。八時ころ、階下に行き、彼の部屋のチャイムを押してみたが、応答はなかった。十時にも行ってみた。やはり応答はない。依然として留守のようだ。柚子の家にも電話をしてみたが、受話器はあがらない。留守番電話にもしていないようだ。旅行すると言っていたから、留守なのは当然だが、美里の不安は募った。  渋沢と柚子。時間がたつにつれ、美里の中で二人の結びつきが強くなっていく。  十二時にもう一度、渋沢の不在を確認した。上田へ行く用意をし終えて、美里はベッドに入った。なかなか寝つけなかった。  翌朝、肩掛け用の長い紐《ひも》がついた黒い鞄《かばん》を持ち、玄関を出ようとした美里は、思い直して部屋に戻った。たった一冊きりの自分の著書、『スープが冷めたら』を鞄にしまう。同窓会でみんなに見せびらかすつもりはなかった。ただ、誰かが「仁科美里」の話題を持ち出したら、説明するより本を見せたほうが早い、と思っただけだ。  一階に降りて、管理人室をのぞいた。 「渋沢さん、お帰りになったようですか?」 「それが、まだみたいなんです。さっきもチャイムを鳴らしてみたんですけど」  管理人は答え、「あの、仁科さん」と、行きかけた美里を筆名のほうで呼び止めた。振り返った美里に、彼女は何か言いたそうにしていたが、「いえ、いいんです」と出かかった言葉を引っ込めた。  美里は少し気になって待ってみたが、管理人は奥へ入ってしまった。  ——行方不明?  大のおとなが、しかもまだ若い男性が、あっけなく誰かに拉致《らち》されるものだろうか。そんなはずはない。彼は自分の意志で、どこかへ行ってしまったのだ。一時的に厭世《えんせい》観にとりつかれたのかもしれない。もしかしたら、美里に〈犯行現場〉を目撃されたのがショックで、立ち直るために少しのあいだ、気分を変えようとぶらりと旅に出たのかもしれない。案外、気の小さい男とも考えられる。子供とは違う。おとなが一日、二日いなくなったとしても、あの同僚が言うように、大騒ぎするほどのことではないのかもしれない。  ——旅行と言えば、柚子さんはどこへ出かけたのか。  柚子は、美里の質問にあいまいに答えた。しかし、同窓会が終わるころ、迎えに行くと言っていたから、午後五時には上田にいられるような場所の近くに、彼女は旅行に出たということだろうか。朝も電話をしてみたが、やはり彼女は留守だった。  東横線で渋谷に出て、JRで東京駅へ向かう。長野新幹線を利用するのは、今回がはじめてだった。上田までは、所要時間一時間半弱だ。新幹線ができて、一気に長野方面との距離が縮まった気がする。  上田駅に到着したときは、昼をまわっていた。柚子は、ずいぶん洗練された感のある駅ビルと、その周辺の変容ぶりに驚いた。  駅ビルの中の喫茶店で、サンドイッチとコーヒーの昼食をとる。  ——美佐ちゃん、今度ね、お父さんのお仕事の都合で、長野県の上田ってところに、急に行くことになっちゃったのよ。  横浜市内の中学に入ってまだ二か月もたたないころ、五月の連休の直後に、突然、母親に突きつけられた言葉を、美里は思い出した。間髪を入れずに美里は、「お父さん、一人ででしょう?」と聞き返した。単身赴任という言葉をまだ知らないころだった。小学校時代の親しい友達がともに進学した中学校を離れるなど、考えもしなかった。ところが、家族はつねに一緒にいるべき、という考え方の奈津子は、当然のようにかぶりを振った。「入学まもなくて悪いけど、新しい学校に慣れてちょうだいね」  美里が「上田」について知っていたことといえば、城下町であること、長野県内では、長野市、松本市に次いで人口の多い市であること、市内を千曲《ちくま》川が流れていること、その程度であった。  まだ小学校に入る前の圭一は、「山があるところに行くのよ。かぶと虫がいっぱい採れるかもしれない」と言われて、「わーい」とはしゃいでいた。圭一の性格は、郷に入ったら郷に従え、の主義でいる母親のそれと似ている。奈津子もまた、「上田と言えば、紬《つむぎ》が有名なんでしょう? 一枚くらいほしいわね」と、さっそく夫に甘えていた。  中学生というもっとも多感な時期。一学期の半ば、という中途半端なときに、転校せざるをえなかった美里の気持ちを、本当の意味でわかってくれた家族はいなかったのかもしれない。  茶色い縮れた髪で、茶色い瞳《ひとみ》、長いまつげ、すらりとした細みの身体《からだ》、小作りだが整った都会的な容貌《ようぼう》は、田舎の中学校では目立ちすぎたのかもしれない。肉体的ないじめを受けたわけではないが、美里は、おもに男子による言葉でのからかいの対象になった。いま思えば、彼らは美里の関心を惹《ひ》こうとしていたのかもしれない。だが、そうすることによってしか女性の関心を惹く能力のない男は、おとなになっても好きになれそうにない。美里はそう思う。  ——わたしは、いったい何のために同窓会に来たのか。  いまもあなたたちが嫌いよ。ふっきれてはいるけど、許してはいるけど、絶対に好きになれそうにないわ。そう告げたいためではないのか。  昼食を済ませて、バスに乗った。  千曲川を渡り、掛布中学校の最寄りの停留所で降りた。  美里の家は、学校の裏門側の坂道を十五分ほど下ったところにあった。最初に、そのあたりまで歩いてみる。美里たちが借りていた一戸建てはすでになく、まわりに何軒かあった家と一緒に取り壊されており、横文字の名前のついたこぎれいなアパートが二棟建っていた。アパートの近くには、ブランコと滑り台と鉄棒のある小さな公園が作ってあるが、子供の姿はなかった。美里は、しばらくブランコを揺らしていた。  学校へ行くときは、ゆるやかな昇り坂になる。ゆっくりと歩を進めた。  昔そうしていたように、裏門から敷地内に入った。校庭の周囲を土手が巡っている。春にはたんぽぽや菜の花が咲き、一面、目に染みるような黄色に塗りつぶされたものだ。土手のある学校など、そう言えば、都会ではあまり見かけないな。ふとそう思い、懐かしさが胸に満ちた。土手の上には、桜並木が続いている。年季の入った桜の中には、朽ちかけたものもある。切り株だけになったものも。校庭の四隅に植えられたかえでも、色づいた葉をつけている。  美里は、いま自分の視野に新鮮に映るそれらが、当時は、存在しているのに見えないもの、であったことに気づいた。  校庭に人気はない。第四土曜日で休みのせいなのか、たまたまサッカーなどの練習が行われない日なのか。  図書館は、三つ並んだ校舎の真ん中にあった。螺旋《らせん》階段を昇って、二階……。  ——いまはどうなっているのだろう。  自分が手にした本は、もうとっくになくなっているだろうか。それとも、二十年近くを経ても、大事に保管されているだろうか。  自分の指紋が、あの校舎のどこかについているかもしれない、と思うと、めまいに似た感覚に襲われる。入ってみたいが、休みの日の校舎だ。誰か人が中にいるものなのかどうか、少しもわからない。 「仁科さん」  背中に声がかかり、美里はドキッとして振り向いた。  茶色いセーターを着た男が、照れくさそうに微笑《ほほえ》んでいる。額がやや後退し始めた頭と、せり出し始めた下腹部は、三十代後半くらいの中年体型に見えるが、美里と同年代のはずだ。目元や口元に、中学時代の彼の面影が残っていた。 「野中君?」  男はこくりとうなずき、言われる前に自分から言っちゃうよ、というふうに早口になって、おでこに手を当てた。「お久しぶりです。変わっただろ?」 「う、ううん、変わってないわ」 「うそつけ。そう思ってる目だよ、それは」  野中は笑い、美里もつられて笑った。その瞬間、この十数年、彼に対して持っていたわだかまりが、一気に氷解した。 「元気だった? いまどこにいるの?」  美里は、『ベスト・マガジン』短編コンテストの予選通過者の中にあった名前——中野武(東京都)——を思い出しながら、尋ねた。 「ずっと地元さ」  野中は、どこか自嘲《じちよう》ぎみに答える。「大学も信大なら、職場も市役所。山の中に閉じこもったきり、外に出て行かない。まさに、井の中の蛙《かわず》、信州の山猿だよ」 「親孝行ってことじゃないの。結婚もこちらで?」 「高校の同級生とね」 「お子さんは?」 「女二人に男一人。親父《おやじ》とおふくろも一緒だよ」 「賑《にぎ》やかでいいわね」 「賑やかと言えば賑やかだけど、うるさくてたまらんときもあるね」  野中は首をすくめた。垂れ下がった目元は、やさしい父親そのものだ。中学のときに冷たそうに見えた顎《あご》の細い、頬《ほお》に陰ができた顔だちは、年齢とともに肉がついて柔らかな印象を与えるそれへと変化したのだろう。  ——やっぱり、「中野武」は、野中武ではなかったのだ。  いま目の前にいる男は、どこにでもいる人のいい公務員であり、夫であり、父親である。少なくとも、二年前に小説家をめざしてしこしこ原稿用紙のます目を埋めていたような男には見えない。 「さっき、家の前を通ったのが見えたんで、来てみたんだ。同窓会にはまだ早い時間だろ? 母校を見てみる気になったわけ?」 「あら、野中君の家って、こんなに近かった?」 「忘れた? すぐそこだよ」  野中は、右手のほうを指さした。いくつか民家が並んでいる。古い蔵がそのままな家も、明らかに建て直したばかりと思われる新しい家もある。 「仁科美里さん、だろ? 取材も兼ねてこのへんに足を延ばしてみたの?」  筆名をフルで言われて、ああ、そうか、さっき彼は「仁科さん」と呼んだのだった、と思い出した。美里の中で、「仁科美里」の占める比重が本名の「坂井美佐」のそれよりも大きくなっている証拠だ。 「野中君、知ってたの?」 「知ってるよ。こっちの図書館にも、仁科美里の『スープが冷めたら』は置いてある。うちのやつ、喜んで読んでたよ」  思わず肩に掛けたバッグをつかむ手に、力がこもった。本など持って来る必要はなかったのだ。恥ずかしさと嬉《うれ》しさで、背中がくすぐったくなる。  二人は、どちらからともなく土手を歩き出した。 「おかしな言い方だけど、あのころは、ここがこんなにきれいなところだとは思わなかった」  美里は、つぶやくように言った。 「離れてみて、はじめてよさに気づくのかもしれないな。上条《かみじよう》もそう言ってたっけ」  野中は、視線をなだらかな裾野《すその》を見せる東の山に向けたが——美里はもう、山の名前さえ記憶になかった——、胸をつかれたように美里に戻した。まずい名前を口にした、という顔だ。  ——上条。  彼こそ、中心になって、美里の容姿をいちばんからかった同級生だった。上条……何と言ったか、フルネームを思い出せない。簡単な名前だった気がするが。彼のことなど思い出したくなくて、十六のころから美里が意識下に封じ込めてしまったせいか、それとも単純に、美里の記憶力が悪いのか。いや、横浜の小学校や高校での交友関係のほうが、ずっと濃密だったせいだろう。それで、中学時代の同窓生たちの名前が記憶から薄れてしまったのだ。苗字はかろうじて全員、思い出せても、下の名前までは思い出せない者が何人かいる。三年のうちにクラス替えがあったのも影響している。  四角い顔。黒々とした太い眉《まゆ》。剛毛そうな髪の毛。名前は忘れても、上条の顔つき、身体つきははっきり憶《おぼ》えている。 「上条君、今日、来るの?」 「それが、はっきりしないらしい。ハガキに、都合がついたら出ます、と書いてあったけど。彼、いま東京にいるんだよ」 「へーえ、そうなの」  上田を出て東京へ行く人間は、珍しくない。だが、上条が、自分とほぼ同じ生活圏内で暮らしていたと知って、美里の胸はざわついた。 「上条君とは、ときどき会うの?」 「いや、全然。高校は違うし、大学からあいつは東京だしね。地元にいる人間だけで正月に開いている同窓会に、一回だけ出席したことがあったっけな。そのときは、新聞記者をしているとか言ってたな。だけど、あいつの母親の話を聞くと、小さな業界紙の記者みたいだったね。まあ、みんな、東京ではでかい仕事をしてると言いたがるものだけどね。……あっ、坂井さんのことじゃないよ。坂井さんは立派な作家だよ」  野中は、昔の呼び方に変えて、あわてたように言う。「仁科先生、って呼ばなくちゃいけないのかな」 「やめてよ。先生なんて呼んだら怒るから。わたしの実家の住所を調べるの、大変だったでしょう?」 「ああ、ごめん。名簿が揃《そろ》ってなくて、そっちへ送るのがだいぶ遅れちゃって。そう言えば、と思いあたったんだ。坂井さん、卒業文集にこう書いただろ? 『みんな、横浜へ遊びに来てね』って。そこにちゃんと住所が書いてあった。そのおかげで、案内状が出せた」 「あっ、そうか」  横浜の高校への進学が決まっていた美里は、たったの二年十か月の滞在だったとはいえ、上田でできた友達との別れがつらくて、卒業文集に感傷的なひとことを書いた憶えがある。——みんな、忘れないでね。横浜へ遊びに来てね。わたしの生まれた家は——そんなような内容だった。  本当に、何もかも忘れていた。中学時代だけわざと記憶の彼方《かなた》に追いやっていた、と言ってもいいほどだ。二年進級時にクラス替えがあったので——野中とは三年間、同じクラスだった——、卒業文集は、学年全員のものを一冊作ったのだった。 「坂井さん、まさか、あの文集、捨てちゃったりして」 「捨てはしないわよ。実家にあると思う」  一人暮らしを始めたときは、まるで家出をするように、父親の留守を狙《ねら》って引っ越してしまったので、実家から持ち出せたものは少なかった。アルバム数冊と大学の卒業証書と名簿くらいのものだ。 「嫁入り道具にちゃんと持ってってくれよ」 「あたりまえよ」  とは答えたが、中学の卒業文集一冊のために、ふたたび実家の敷居をまたぐ勇気はなかった。  ——卒業文集、か。  そこに、美里自身が横浜の実家の住所を書いたとしたら、基本的に同じ年の卒業生はすべて、美里の実家の住所を調べようと思えば調べられたことになる。  ハッとした。実家にあんな手紙を送りつけたのは、渋沢か柚子だろうと疑っていたが、中学校の同窓生という可能性も生じる。 「上条のやつ、坂井さんが好きだったんだよな」  上条の名前が出たので覚悟はしていたが、それでも、はっきり言われて戸惑った。 「坂井さんだって、気づいてただろ?」 「…………」 〈傍観者〉でいた野中は、美里が書いたエッセイ『中学校の図書室で』を読んでいるだろうか。美里は、ふと気になった。「わたしはいじめられっ子だった」と断定的に書いた自分を、クラス委員だった優等生の野中は、どう思うだろう。あのエッセイから、クラス全員が共犯だ、というニュアンスを感じ取ったとしたら、あまりいい気はしないに違いない。 「あの年代って、感情表現がひどく下手なんだよね。客観的に見て可愛《かわい》かった坂井さんを、髪が茶色い、縮れてる、なんてからかったりして。坂井さん、完全にあいつを無視してたよな。偉いと思ったよ」 「怖かったのよ。言い返したら、言葉が倍になって返ってくる気がして。『ブス』なんて言われたら傷つくもの」 「坂井さんのような可愛い子でも?」 「あのころって、女の子は誰でも自分の容姿に自信を持てないものなのよ。顔や身体のことなんて、ひとことも男子に言ってほしくない。『可愛い』とも『ブス』とも、ほめてほしくもなければ、もちろんけなしてほしくもない。だから、こっちも挑発するような言葉は返さない。殻《から》に閉じこもって、傷つかないように耐えてる。そういうものなの」 「へーえ、そうだったの? 男子がしてたのは、一種のセクハラか」 「そうよ。おとなの職場でセクハラが問題になって、どうして教室でならないのか、不思議でならないわ」 「そう言えばそうだな。ぼくはてっきり、君が上条みたいなやつを軽蔑《けいべつ》していて、相手にするのも嫌だと思っているとばっかり」 「それほど強くないわ。思春期の少女の心は……揺れっぱなしだったのよ」  ふふふ、と美里は笑った。ああ、いま完全に、わたしはふっきれた。そう感じた。 「それで、坂井さんは、小説家になったんだね。仁科美里に」  野中は、何度もうなずいた。「時間あるだろ? ぼくは幹事だから早めに会場に行くけど、それにしてもまだ早い。うちに寄ってお茶でも飲んで行かない?」 「ありがとう。でも、ほかに見たいところがあるの」 「さすが作家だなあ」  野中は感心したようにかぶりを振り、「じゃあ」ときびすを返した。     13  ほかに見たいところとは、柚子の家があったあたりだった。  放課後、美里は図書館で柚子と待ち合わせ、一緒に帰ったことも何度かあった。柚子の家のほうが学校から遠かった。坂道の途中で、柚子が左へ折れ、そのまま振り返りもせずにぐんぐん歩いて行った後ろ姿が、まぶたの裏に浮かぶ。こうと決めたら、迷わず突き進む。いま思えば、彼女のそんな性格を如実に表していた。中学三年生だった柚子の後ろ姿をぼんやり思い浮かべながら、左へ曲がる。あとは、まったく知らない道だ。上田に住みながら、歩いたことのない道など限りなくある。  五分も歩くと、額が汗ばんできた。美里は、上着を脱いで、手に持った。息も切れてきた。日頃の運動不足を痛感する。バッグからのど飴《あめ》を出してなめた。柚子の家はまだ先のほうだろうが、このあたりで誰かに聞いてみよう、と思った。通行人よりは、住民のほうが土地の事情にくわしいだろう。  棟が三つ続いている大きな屋敷が、右手に現れた。手前に蔵が立ち、蔵の前のちょっとした広場ほどのスペースで、エプロンをした主婦らしい女性が三人、大樽《おおだる》の横にかがみこんで、何か作業をしている。水道の蛇口から青いホースが伸び、冷たそうな澄んだ水が、広めの洗い場に流れている。 「すみません」  石の門柱のあいだを抜け、美里は声をかけた。いちばん近くにいた三角巾《さんかくきん》をかぶった女性が、そろりと顔を振り向ける。あとの二人は、流しっぱなしの水道の音で、美里の声が聞こえなかったらしい。漬物にするための白菜を洗っているらしい。 「このあたりに、仁科さんというお宅はありませんか?」  三角巾の女性が、どっこいしょ、と言いながら立ち上がった。ほかの二人も手を止めて、美里を見上げた。 「そのお宅に、柚子さんっていうお嬢さんがいたはずなんですが」 「ああ、ユズちゃんかね」 「ご存じですか? どの家でしょう」 「仁科さんとこは、もう誰も住んでないだいね。空き家のまんまで、ときどき隣町から親戚《しんせき》が見に来てるだに」  七十代くらいの女性は答えた。 「ユズちゃん、大金持ちになったとか」  デニムのエプロンをつけた一人が、こちらを見上げて言った。ゴム手袋をはめた手は休めずに、パリッと音がしそうな白い葉を洗っている。「お宅、ユズちゃんのお友達?」 「え、ええ、名古屋にいたときに。確か、実家がこちらのほう、とうかがったので、旅行に来たついでにお母さまにご挨拶《あいさつ》を、と思って」  中学の同窓生であることは隠しておきたかった。 「そうそう、ユズちゃん、名古屋で結婚したんだってねえ。スエさんが自慢してたっけね。ユズは大金持ちと結婚したとか、って」  三角巾の女性は、片方の手をこぶしにして腰を叩《たた》いた。 「でも、いくら娘を金持ちに嫁がせたからって、ああいう末路を送るんじゃねえ」  デニムのエプロンが眉《まゆ》をひそめる。「あなた、知らなかったですか?」 「えっ?」 「スエさん、ああ、ユズちゃんのお母さんですけど、スエさん、亡くなっただいね」  いちばん年配らしい三角巾の女性が、この話はわたしが代表して、という深刻そうな顔つきで続ける。 「柚子さんのお母さんが?」  柚子の父親が高校時代に死んだことは聞いていたが、母親については何も聞かされていない。 「わたしたちも、ユズちゃんの代理人っていう人が実家の整理をしに来てわかっただけんどね。スエさん、伊豆《いず》のほうにあるケアつきの何とかいう超豪華老人ホームに入っただいね。と言っても、まあ、娘に言い含められて入れられたようなもんだけどね。そこで亡くなって。ユズちゃんは、こちらを引き上げるのに、挨拶にも来ませんでしたよ。代理人がそれこそ、お墓まで整理して行っちゃってね。お墓も全部、自分の住んでいるところに移したかったんだろうね。まるで、故郷を捨てちゃうみたいに。親戚にも何の相談もしないで」 「お墓って、柚子さんが高校生のときに亡くなったお父さんのですか?」 「お父さんと妹さん、二人のずら」 「妹?」  柚子には、妹がいたのだろうか。まったく記憶にない。 「小さいときに千曲川に落ちて死んだ妹だいね。ユズちゃんが、小学校の三、四年だったか。まだ小学校にあがる前の妹と一緒に河原で遊んでてね、妹のほうが足を滑らして落ちただいね。地元の消防隊が捜したけど、一時間ほどして、下流のほうで変わり果てた女の子の姿を……」 「確か、ミサちゃん、っていったいね」  いままでひとこともしゃべらなかった一人が、ぽつんと言った。 「ミサちゃん?」  美里は、ハッとした。どういう字を書くのか知らないが、自分の本名と同じ名前だ。 「ミサちゃんが死んでから、ユズちゃんが河原で寂しそうにしているのを、何度も見かけたっけね。ユズちゃん、一緒にいて、助けてあげられなかった自分を責めていたんじゃ……そんな気がしたっけね」  美里は、彼女たちに礼を言って、その場を立ち去った。     *  千曲川のほとりを、美里は歩いてみた。手にしていた上着をふたたび着たほど、川を渡る風は冷たかった。川の流れは穏やかで、二十数年前に、小学校にあがる前の少女を一人、呑《の》み込んだ川には見えない。柚子は郷里を捨てたのだ、と美里は思った。だが、捨てられないものがあった。それは、柚子が小学生のときに川に落ちて死んだ妹、ミサの思い出だったのではないか。  ——だから、柚子さんは、自分のお腹の子に「ミサ」と名づけたんだわ。  その「ミサ」は、美里の「美佐」ではなく、柚子の死んだ妹の「ミサ」だったのだ。  ——妹の死に姉として責任を感じた柚子さんは、罪悪感を募らせていたのかもしれない。  妊娠がわかったとき、柚子は女の子だと信じ、死んだ妹の生まれ変わりのような気持ちで、「ミサちゃん」とお腹に呼びかけていたに違いない。子供を一生懸命育てることが、救えなかった妹への贖罪《しよくざい》であり、癒《いや》しにつながると考えたのだろう。子供に大きな夢も託していた。自分が果たせなかった作家になる夢を、子供には実現してほしかった。だが、不運にもその子を流産してしまった。二度の喪失が、彼女の夢と希望を奪い、精神のバランスを崩させたのではないか。そこへ、美里が現れた。子供に注がれるはずだった愛情と、子供の将来へかけていた期待が、エッセイに自分のことを「恩人」と書いた中学時代の後輩へ、まっすぐ向かってしまったのだ。しかも、美里のペンネームは「仁科美里」、ニシナミサトである。自分の死んだ妹、ニシナミサと一音しか違わない……。  ひょっとしたら、中学校の図書室で、「どうして、そんな悲しそうな顔してるの?」と話しかけてきたときも、すでに美里の名前を知っていたのかもしれない。貸出カードを見れば、名前はわかる。死んだ妹と同じ名前の美里に、柚子は親近感を覚え、図書室で見かけるたびに、気になっていたのではないか。  いくつかの偶然と不運が重なって、柚子の中にもともとあった——小説好きで空想好き、思い込みが激しく、一つのことに熱中しやすく、献身的で、世話好き——などの性格が狂気をはらみ、その狂気がじわじわと増大していったとも考えられる。  ——柚子さんに会ったら、妹の「ミサちゃん」のことを聞いてみよう。  子供のときに失った妹、流産した子供。その二人の幻影を美里の中に色濃く見出してしまっているために、美里に異常に執着している事実に気づいたとき、柚子は目を覚ましてくれるかもしれない。いや、目を覚ましてほしい。美里は、そう願った。     14  掛布中学校の同窓会は、上田市内のホテルで三時から始まった。  受付で名前を言い、名札をもらう。立食パーティー形式の会場は、ふだんは結婚披露宴が行われる場所らしく、パネルで仕切ってあった。  誰もわたしのことなど憶《おぼ》えていなかったらどうしよう。どきどきしながら会場に入る。とたんに「あっ、坂井さん!」と女性の声に呼ばれた。二年、三年とクラスが一緒だった旧姓・下平《しもだいら》さつきだ。美里が横浜に戻ってからも年賀状のやり取りくらいはしていたが、一人暮らしを始めたころから、昔の交友関係を維持する情熱を失った。新しい生活を守るのに必死だったのだ。フリーライターとして、仕事の上で築かれる現在の人間関係に、すべての関心が注がれてしまっていた。転居先の住所も、仕事関係者以外には通知しなかった。そんな自分を、美里は冷たい人間だと思う。下平さつきからは、実家のほうへ「結婚しました」というハガキが届いていた。だが、彼女の新しい姓は忘れたままだ。いま、彼女の胸についた名札で、旧姓と併記された新しい姓「増岡《ますおか》」を知ったところである。  だが、下平——増岡さつきは、美里のつれなさをなじるでもなく、懐かしそうな笑顔で、手を上げながら近づいて来た。 「美佐さん、元気? わあ、美佐さんに会えるなんて……」  増岡さつきは、感極まったように声をうわずらせた。「無理して出て来てよかった。わたしね、結婚して須坂《すざか》にいるの。今日はもう、わがまま言って、子供を主人に押しつけて、強引に出て来ちゃったのよ」  小柄だった中学生は、そのまま小柄で、少し太目の主婦で母親、になっていた。 「美佐さん、作家になったんですってね。知らなくてごめんなさい。いつだったか、野中君に聞いて」  説明するより早いだろう、と美里はバッグから本を取り出した。 「どうぞ。さつきさんに、と思って持って来たのよ」  小さなうそにわずかに心が痛んだが、誰にプレゼントするかとなれば、いちばん仲のよかった彼女に、とは思っていた。 「えっ、いいの? わあ、ありがとう」  彼女の声を聞きつけた同窓生の女性たちに、美里は取り囲まれた。顔を見た瞬間、下の名前を思い出した人間もいれば、すぐに名前が出てこない人間もいた。一学年だけ同級生だった顔も、三年通してクラスが違った顔もあった。しばらくのあいだ、同窓生たちのあいだを美里の本が回覧された。「次はいつ出るの?」と聞かれて、「なかなか出ないのよ。それで、フリーライターなんてやってるわけ」と、素直な気持ちで答えられた。  誰もが、美里の仕事に興味こそ持っても、やっかみや嫉妬《しつと》の類《たぐい》の感情など、少しも持っていないように見えた。それぞれが、いまの自分の生活に、大満足とまではいかなくともおおよそ満足しているように思える。だが、野中の話を聞いて、美里の実家へあの嫌がらせめいた手紙を送ったのが、中学校の同窓生という可能性も生まれたのだ。したがって、今日の同窓会は、観察の場でもあった。  ——ああいう手紙を書いてよこすのは、やっぱり男性だろうか。  同窓会では、男性同士、女性同士と固まる傾向がある。少し離れたところで談笑していた野中と目が合うと、彼は男友達の集団を引き連れて来た。 「同窓生で活躍している人がいるのは嬉《うれ》しいな。そういう話をしていたところだよ」  野中が言い、「やあ、どうも」「お久しぶり」と、賑《にぎ》やかな挨拶《あいさつ》が始まった。家業の酒屋を継いだ者、同じく衣料品店を継いだ者、スーパーの店員、オルゴールを作る会社に勤めている者、トラックの運転手、銀行員、教師、と職業もさまざまだった。美里の手元には、たちまち何枚もの名刺が集まった。 「ねえ、仁科センセ。上田のことも小説に書いてよ」  上目遣いににやにやして言ったのは、林《はやし》という男だ。家業のクリーニング店を手伝っているという。酒が入って、鼻の頭を赤くしている。美里はちょっと身構えた。林は、いつも上条とつるんでいた男だった。彼の言葉に美里は傷ついたこともある。 「小説に書くほど、あまりよく憶えてないのよ」  顔がこわばらないように注意して、そう答える。 「それで、今日、取材も兼ねて、わざわざ東京から出て来てくれたんだよな」  幹事の野中が、明るい声で割り込んだ。 「ほら、真田幸村を出すだけでいいからさ。上田と言えば、やっぱ真田一族だよな。ねえ、仁科センセ」  林は、上田にこだわる。 「それじゃ、時代小説になっちゃうじゃないか。仁科センセのは、推理小説だぞ」  横にいた友達に突っ込まれて、「あっ、そっか」とグラスを持たない手で、額を叩《たた》く。そして、何か思いついたように目を輝かせた。「じゃあ、こういうのはどう? オレ、すごいトリック考えついちゃったんだけど。雪の密室殺人事件。母屋から離れた庭のプレハブ小屋で男が殺されている。小屋のまわりの雪の上に足跡は一つもない。さあ、犯人はどうやって逃げたんでしょう?」 「どうやって逃げたの?」  参考にはならないだろうという予感はあったが、美里は質問してあげた。 「母屋と小屋にロープを張って、それを伝わって逃げたんでした。ロープは母屋からたぐり寄せて回収。犯人はサーカスの綱渡り名人」 「おまえ、使えないよ。そんな子供だましみたいなやつ」 「ほら、坂井さん。困ってるじゃないか」  林はみんなに笑われ、首をすくめた。美里も、おかしくなって笑った。林に抱いていた警戒心が解け、緊張がゆるんだ。林の表情をうかがうかぎり、美里を皮肉るつもりも、からかうつもりもないようだ。  ——みんな、おとなになったのね。  美里は思った。読者にインパクトを与え、全体を引き締めるためとは言え、中学校時代に受けた心の傷をまだ引きずっている、ようなことを書いてしまった自分が、ふと恥ずかしくなる。  ——清純な、けれども、残酷な少年少女の心。  そんなフレーズが、唐突に脳裏に浮かんだ。  ビールを注ぎ、注がれながらの、他愛《たわい》のない話が続く。誰も美里に「雨宮麗」の話題は持ち出してこなかった。知っていて避けているのなら、彼らの演技力に美里は脱帽したいほどだった。  美里は、たまたま三学年通して担任が同じだったが、学年主任を務めていた美里の担任は、体調を崩しているとかで、出席しなかった。美里は、当時の担任が欠席して、正直ホッとした。担任が教えていた科目は国語だったので、作家になったかつての教え子に何をどう説教するかわかったものではない。  何人か在籍中に世話になった教師に挨拶し終え、入口付近のテーブルに戻りかけたときだった。 「あれ? 上条、おまえ来たの?」  という林の高い声にハッとして顔を向けると、入口に、ひげをはやし、縁なしの眼鏡をかけた四角い顔の男が立っていた。上条、と呼ばれなければ、美里は彼に気づかなかったかもしれない。  上条は、軽くうなずき、照れくさそうに林のほうへ行く。美里は、反射的に顔をそらした。彼が来るのを待っていた、と思われるのが嫌だったのだ。 「ねえ、上条君って、何て名前だったっけ?」  小声で、増岡さつきに聞く。 「上条マサオよ。忘れちゃった?」 「マサオ? どういう字?」 「政治の政に夫。わたしの実家、あいつの家のそばだったんだ。幼稚園のころから、あいつって、女の子を泣かして喜んでたのよ」  増岡さつきは、口をへの字にした。  ——政夫、か。  そう言えば、そんな名前だったな、と美里は思い出した。が、たいして感慨はない。 「はいはい、坂井さん。ほら、連れて来ましたよ」  いきなり野中に背中を叩《たた》かれて、美里はビクッとした。振り向くと、野中と林に挟まれて、上条がばつが悪そうに立っている。わずかに色のついた眼鏡、洗いざらしのジーンズに登山シューズに似た頑丈そうな靴、ポケットのいっぱいついたベスト、と格好だけ見れば、まるでカメラマンのようだ。 「上条が来るかどうか、気にしてただろ?」野中が言った。  美里は、言葉に詰まった。気にしていたのは本当だ。しかし、誤解されては困る。上条政夫に対してだけは、まだ何らかのわだかまりが解消されずに残っているのに美里は気づいた。  一瞬、眼鏡の奥の上条の目に、うろたえた表情が走ったように見えたが、彼はすぐに満面笑顔になって、「えっ? 坂井さん。オレのこと、待ってたの?」と、頭に手をやった。「いやあ、照れるなあ。こんな美人にうわさされてたら」 「別に、うわさしてたわけじゃないわよ」  美里のかわりに、増岡さつきがぴしゃりと言った。「上条君、いま東京にいるんだってね」 「オレのことなんて、どうでもいいじゃん。それより、さっき聞いたけど、坂井さん、推理作家としてご活躍中だって? さすが坂井さんだよな。あのころから、オレたちとは雰囲気が全然違ってたもんな。どういうの書いてるの? オレ、そっちのほう、疎くてごめん。今度、読むからさ。どんな本、出してるの?」  上条は、早口でたたみかけた。 「上条君、不勉強ね。わたしも人のことは言えないけど。でも、わたしはいいの。上条君は東京にいて、記者だかルポライターだか何だかやってるんでしょ? 仁科美里を知らないなんてモグリだよ」  増岡さつきは容赦ない。 「ルポライター?」  美里は眉《まゆ》をひそめた。「上条君、ルポライターなの?」 「まあ、いろいろだよ。新聞社や出版社の便利屋みたいなもんさ」  上条は、ややうろたえぎみに答える。  美里は、上条が作家・仁科美里を知らなかったことが寂しいような、悔しいような、複雑な思いにかられた。自分の知名度の低さは自覚してはいるが、出版・マスコミ業界の一角で仕事をしている彼に知られていなかったことは、かなりショックだった。 「仁科美里はね、ええっと、一昨年、『ベスト・マガジン』短編コンテストを受賞して、作家デビューしたのよね。それで、去年、『スープが冷めたら』を出版したのよね」  増岡さつきが、美里に確認しながら説明し、「ほら、これよ」と、茶封筒から本を取り出した。美里がさっき彼女にプレゼントしたものだ。 「へーえ、すごいじゃん。本、出しちゃうなんて。さすが坂井さんだよな。田舎者のオレたちとは違ってた」  上条は本を手にし、表紙に見入ったあと、ページをめくった。 「『ベスト・マガジン』……だって? それって、雑誌?」  林が、何か思いあたったように眉を寄せた。 「ミステリーの専門誌なの。大きな本屋にしか置いてないわ」  美里が答えると、「上条、おまえ読んでたよな」と林は、視線を上条に戻した。 「えっ? よ、読んでねえよ」  上条は、あわてた様子で手をひらひらさせた。節の目立つ大きな手。手首まで毛がはえている。もともと毛深い男なのだ。美里は、息苦しくなった。一つの映像が、まぶたの奥にちらついている。 「あれ、そうだっけ? 一昨年《おととし》だったよな。仕事でオレが東京に行ったとき、新宿で会ったじゃんか。あのときおまえが読んでたのが、『ベスト・マガジン』じゃなかったか? あれって、いまごろだったっけ?」  一昨年のいまごろと言えば、美里の受賞作が掲載されたころである。  ——上条君が、わたしの受賞作を読んでいた? 「何言ってんだよ。勘違いじゃないのか? そんなの読んでねえよ」  否定する上条の顔がこわばっている。 「おまえがトイレに立ったとき、こっそり見ちゃったんだ。鞄《かばん》に何か雑誌が突っ込んであったんで、どういうのかな、と思って引き出した。確か、『ベスト・マガジン』ってあったぞ。悪い悪い」 「何でそんなことすんだよ!」  上条は真っ赤になって、林を怒鳴りつけた。周囲の空気が張りつめた。林は、たいして反省するでもなく、首をすくめてへらへら笑っている。上条は真っ赤な顔のまま、会場を逃げるように出て行った。 「おい、もう帰っちゃうのかよ……と、どうでもいいけど」  上条が消えると、林は真顔になった。「あいつって、昔から、カッとなる性格で怖かったよな」 「林君。どうして、あんなにしつこくしたのよ」と、増岡さつき。 「あまりに見え透いてるからさ。あいつ、坂井さんが作家になったのを知ってて、知らないふりをしたんだぜ。嫌味なやつだと思わないか?」  林が言い返すと、増岡さつきも野中も、美里を遠慮がちな目で見た。 「わたしは……」  どう答えていいのかわからない。上条の反応より、林のそれのほうにあっけにとられてしまっている。 「オレ、あいつが苦手だったんだよ。いつもあいつに振り回されてた。身体が大きかったから、歯向かうと何されるかわからない。弁解するわけじゃないけど、あいつに従わないと怖いから、一緒になって坂井さんをいじめてた。ごめん……なんて、いまあやまられてもそっちが困るか」  林は、ぺこんと頭を下げたかと思ったら、勢いをつけて起こした。 「みんなの前で上条君に恥をかかせたかったってわけ?」  増岡さつきが、あきれたように言った。「三つ子の魂百まで、じゃないけど、中学生の恨みおとなになるまで、か。おお、こわ」  最後まで聞かずに、美里は会場を飛び出した。  ——みんな、おとなになった。……それはそのとおりだった。でも、それは、自分の感情を顔に出さない訓練が身についた、という意味でのおとな、なのかもしれない。  おとなになっても、誰でも残酷な部分は持ち続けている。林が、みんなの前で上条に恥をかかせたのが彼なりの〈復讐《ふくしゆう》〉であるなら、上条が美里の小説を読んだことがない、作家になったのも知らない、と言ったのは、上条なりの〈復讐〉だったのではないか……。  表の通りを歩く上条政夫の後ろ姿が、通行人に混じって見えた。 「中野さん」  美里は、広い背中に呼びかけた。  上条政夫が振り返り、足を止めた。近づいて来る美里に気づいて、表情が凍りついたようになる。 「中野武さん……でしょう?」  上条は、何のことだ、というふうに眉をひそめる。 「ペンネーム、中野武でしょう?」美里は補足した。  しばらく上条は、厚い唇をなめるようにして黙っていた。鼻の下のひげが、汗で光っている。やがて口を開いた。「ご満足?」 「…………」 「ご自分の推理が当たって、さぞかしご満足でしょうよ。何しろ、推理作家だからな」 「どうして、あんな手紙を送ってよこしたの?」 「…………」 「上条君……が書いたんでしょう?」  こちらの推理は、はずれているだろうか。美里は、賭《か》けを試みたのだった。 「別に、ふつうのファンレターじゃん」  知らないと言い張ってもいいのに、上条はあっさり認めた。そこに彼の何らかの意図が働いている気がして、美里はゾッとした。 「一読者がどんなファンレターを作家に書こうと、それって読者の勝手じゃないのか?」  上条の表情は、開き直って見えた。「一度活字になったものは、どう読まれても仕方ないんじゃないの? 仁科美里の小説だろうと、雨宮麗の小説だろうと」 「雨宮麗は、もういないわ。なぜ、仁科美里が雨宮麗だとわかったの?」 「そんなの、どこからでも漏《も》れるさ。いちおう、出版界の末席を汚しているからね、オレも」 「…………」 「まさか、編集者全員に口止めしてたってわけじゃないんだろ? 漏れたくらいで驚かれちゃ困るね。筆一本で生きている強気のあんたが」  読者がどんなファンレターを作家に書こうと、一度活字になったものは、どう読まれようと仕方がない。それは、彼の言うとおりだ。美里に反論はできない。 「じゃあ、どうして実家にも送ったの?」 「そうか、やっぱりね」 「やっぱり……って?」 「雨宮麗という顔を、家族に隠してたんだな? へーえ、あんたでも、恥ずかしいって感情はあるのか」  ——なぜ、彼はわたしを「あんた」などと呼んでいるんだろう。  上条の口調にこめられた憎しみの刺《とげ》の鋭さに、美里は面食らった。 「お望みどおり、実家でひと騒動起きたわ」  さっきの言葉を、そっくり投げ返してやった。「さぞかしご満足でしょうよ」  上条は、頬《ほお》の筋肉をぴくりと動かした。 「でも、最低」 「最低?」 「そうでしょう? 同じ『ベスト・マガジン』のコンテストに応募して、自分が落ちたからって、受賞したわたしを嫉《ねた》んであんな手紙を送るなんて……」  上条は顎《あご》を上げ、ははーん、というふうに大きくうなずいた。「そういう推理できたか」 「中野武。予選通過者の中にその名前を見つけたとき、どこかで見かけた名前だと思った。ああ、そうか、中学校で一緒だった野中武君の苗字をひっくり返しただけだわ、と気づいた。よくある名前。そう思って気にもしなかった。だけど、今日、ここに来て、林君の話を聞いてわかったわ。中野武はよくある名前じゃない、誰かが作ったペンネーム。そう、上条君、あなたが、中学の同窓生の中から適当に選んで、それを少し変えた名前で応募したのよ。そうでしょう?」 「さすが推理作家……と言いたいところだけど、残念ながら、全部正解ってわけじゃないね。ペンネームの由来はあんたの推理どおり。ありふれたペンネームにしたかったしな。だけど、考えてもみろよ。仁科美里が受賞したのが二年前。自分の小説が落ちて、あんたのが入選したから、オレがあんたに嫉妬《しつと》しただって? それで嫌がらせの手紙を送った? それだったら、とっくに行動を起こしてるよ」 「…………」 「自分の推理の弱さに気づいた、って顔だな」  そのとおりだった。 「自惚《うぬぼ》れもいいかげんにしろよな。あんな小さな短編賞に落ちたくらいで、あんたを恨んだり、やっかんだりしないよ。狙《ねら》うなら、もっと大きな賞を狙うね。受賞作がすぐに単行本になって、もっと売れて、もっと注目されて、もっと仕事がばんばんくるような賞をね」  皮肉を言われて、美里はムッとした。あんたのような小粒なデビューの仕方ならデビューしないほうがまし、と言われた気がしたのだ。 「あんたが苦しんでいるのは、手に取るようにわかるさ。オレだって、作家になるのを夢見てしこしこ書いていた時代があったからな。実情くらい知ってる。いまは、ちょっと充電期間さ」 「じゃあ、なぜなの?」  上条はもう、犯人が自分だと認めている。あと知りたいのは、動機だ。 「とぼけるのか?」 「とぼける……って?」 「オレの名前を使ったからだよ」 「あなたの名前を? 上条……」  確か、政夫だった。小説に「上条」とか「政夫」などという名前の人物を登場させたことがあっただろうか。まるで憶《おぼ》えがない。 「とぼけるなって。名前のほうに決まってるだろう」 「政夫、でしょう? さっき同窓会で増岡さん——ああ、下平さんよ——、さつきさんに聞くまで忘れてたわ」 「うそつけ!」上条は、声を荒らげた。 「うそじゃないわ」 「ほほう」  舌を鳴らして、上条は笑った。「昔の復讐《ふくしゆう》、か」 「何でそれが、昔の復讐につながるのよ」 「あんたのことなんか眼中になかった。その証拠に、名前なんかとっくに忘れてた。そう言いたいんだろ?」  美里は、ため息をついた。「信じてくれないかもしれないけど、本当よ。上条君とは一年きりのつき合いだったし、名前の印象は薄かったのよ。正直言って、わたし、横浜が好きだったから、ここでの二年十か月はただ我慢して過ごしてたって気がするの。あなたのことを潜在意識で忘れたがっていたのかもね」 「都合のいい精神分析だよな」  上条は唇を歪《ゆが》めた。「潜在意識で忘れたがっていて、オレの名前も忘れたか。まあな、マサオなんてよくある名前だろうけどな。田舎者には」 「田舎者?」 「そこまでとぼけるのは、オレの口から言ってほしい、ってことだろうから言ってやるけどさ」  上条は、ふうっ、と大きなため息をついた。「仁科美里の小説に出せば、中学校の同窓生に読まれるおそれがある、と思ったんだろうけど、よりによって、豪勢に雨宮麗のポルノ小説に登場させてくれるとはな」  ——雨宮麗の小説の登場人物に、「政夫」という名前をつけたことがあっただろうか。  記憶をたどってみたが、やはりまるで憶えがない。 「主人公は、トップモデルの東大寺桐子《とうだいじきりこ》、彼をつけ回すストーカーは、田舎者丸出しの月岡《つきおか》マサオ。月岡マサオは、最後、自分の仕掛けた罠《わな》にはまって自滅する。……忘れたとは言わせないぞ」 「思い出したわ」  美里は、笑いたいような、泣きたいような不思議な気分に浸って言った。九月発売の『小説イマージュ』に書いた短編だった。確かに、雨宮麗が、いや、仁科美里が創作したストーリーだ。 「思い出したけど、やっぱり憶えてないわ」 「何だと?」 「マサオっていう字、どういう字を使ったのか憶えてないのよ」  いったい、いままでに何十人、いや、端役まで数えると何百人、小説の中で人物を作り出し、彼ら彼女らに名前をつけたことか。苗字だけの者も、ニックネームだけの者もいた。思い入れのある名前以外、記憶にとどめてはいない。とりわけあの短編は、締切が迫っていたので、充分な推敲《すいこう》もしないまま原稿を渡してしまったものだ。  上条は、はははは、と乾いた声で笑った。「今度はそうきましたか」 「…………」 「あなたの名前を使ったことは思い出した。でも、漢字は変えたはず。そう言いたいんだろ?」 「…………」 「確かにそうだよ、漢字は違ってた。オレの名前は、政治の政に夫。でも、それじゃ、オレに気づかれないとも限らないからな。で、あんたは、字をちょっと変えた。月岡マサオは、月岡正夫だ。正しい夫。そのほうがよりありふれてるからな。ほら、図星だろ? オレの推理も捨てたもんじゃない」 「…………」 「ずばり当てられたんで、動揺してるな」  違う、違う、という意味で、美里はかぶりを振り続けた。神に誓ってもよかった。小説に「月岡正夫」を登場させたとき、本当に、「政夫」という名前を持つ上条政夫のことなど、ちらとも脳裏をよぎらなかったのだ。  けれども、「違う!」と何度声を涸《か》らして訴えても、信じてもらえないだろう、と悟っていた。  ——何て自意識過剰な男なんだろう。  美里は、彼の中にある自意識という〈狂気〉に慄然《りつぜん》とした。 「思い過ごしよ、自意識過剰ね、被害妄想よ。そう言いたそうな目だな」  美里の心中を読んだのか、上条が勝ち誇ったように言った。「あんたがそう言い逃れするだろう、とオレはとっくに推理してたよ」 「…………」 「作家の復讐って怖いよな」 「…………」 「小説という手段に訴えて、うっぷんを晴らす。エッセイにまで、中学校時代にいじめられっ子だったなんて、大げさに書きやがって。たかが、いまの言葉で言えば、『茶髪!』って、からかわれた程度だろ? 本当は、オレのことが実名で書きたくてうずうずしてたんだろうな。それができないもんだから、小説に名前をちょっと変えてひどいキャラクターで登場させ、ぶっ殺す。まったく陰湿な復讐の仕方だよな」 「大げさ……じゃないわ」  美里は、声を絞り出した。「確かに、いまの中学校のいじめに比べたら、可愛《かわい》いものかもしれない。でも、あのころは、心という小さな炎がいつも強風にあおられているみたいに震えていた。消されまいとして、じっと耐えていた。転校生のわたしは、新しい中学にちゃんと受け入れてもらえるか、不安だった。上条君は、わたしにわざとぶつかった。持っていた手提げ袋が、廊下に放り出された。うさぎの模様がついたピンクの手提げ袋だった。中から生理ナプキンが一個、飛び出た。わたしは、恥ずかしさで真っ赤になった。それが何か知ってたくせに——知ってたんでしょう?——、上条君はそれを足で蹴《け》った。まわりに何人か人がいた。みんな、好奇心いっぱいの目で見ていた。女子は『可哀《かわい》そう』という目で、男子は『こいつ、どういう反応をするだろう』という目で。わたしは、屈辱感でいっぱいになって、それを拾おうとした。そしたら、上履きで踏みつけられた。足跡のついたそれを、わたしは唇をかんで拾い上げた。上条君は笑ってた。殴られたり、こづかれたり、お金をとられたり、死ね、と言われたりしたわけじゃないけど、それでも、わたしにはいじめだった。わたしの心は揺れて、震えて、泣いてたのよ」  上条は、うっ、と言葉に詰まったようだった。一瞬、顎《あご》を引いたあと、押しきられまいとするようにまた突き出した。「そういう、何だ、揺れる女の心理とか繊細さとか、そういうのを商売にしているくせに。過去に経験したすべてがネタになる。過去に自分をいじめた嫌なやつを小説の中でなぶり殺しにする。社会的に認められた立派なストレス解消法だよな」 「そういう見方もできるかもしれないけど、ストレス解消だけで、小説は書けないわ」 「オレはどうすればいいんだよ」 「えっ?」 「オレはどうストレスを発散すればいいんだよ。あんたには発表する場がある。しかも、金までもらってだ。オレには何もない。書かれっぱなし、復讐《ふくしゆう》されっぱなしで、ただじっと耐えてろってわけか?」 「復讐なんてしてないわ」 「ここまできて、しらを切ることはねえだろう。あんたの得意そうな顔を見てやろうと思って来てみた。あんたは、自分の本を見せびらかしに来たんだろ? とくにオレにな」 「違うわ」  どう言えばわかってもらえるのだろう。 「おまえはオレのマサオを殺した。勝手に名前を使いやがって」  上条の目は血走っていた。「筆でやられたことは、筆で返してやる。だから、ファンレターを送ってやった。たかがファンレターだぞ? あんたの目にしか触れない。オレのマサオは、何千人の目に触れたかしれないんだ。ちくしょう。いまはオレも書かれっぱなしだがな、いつか必ず筆でかたきをとってやる」  上条は、きびすを返した。前のめりになったバランスを崩したおかしな歩き方で、ずんずん遠ざかって行く。  ——筆が凶器……になった?  美里は、彼の後ろ姿を見送りながら、ぼんやりとそんなフレーズを思った。  仁科柚子と、上条政夫。二人は似ている。自分の苗字をペンネームに使われたと思い込み、作者へ異常な執着心を抱く柚子と、小説の中の「正夫」が自分だと思い込み、自分自身が抹殺されたと作者へ憎しみを抱く上条。  ——でも、彼らの自意識をわたしは責められない。  美里自身も、人一倍鋭く、とぎ澄まされた自意識を持っている。  ——わたしは無意識のうちに、自意識の強い一人の作家志望の男の心を傷つけたのだ。  自意識のぶつかり合い。小説家と読者……。  自意識について思い巡らせていた美里は、クラクションの音に我に返った。車道に停《と》まった紺色の大型車の運転席の窓から、柚子が顔をのぞかせている。高級輸入車らしく、運転席が左側についている。 「同窓会、もう終わったの?」  柚子の声は、晴れ上がった秋の空と同じくらい、高く、澄んでいた。美里は、彼女の妙に明るい声の調子に不安を覚え、駆け寄った。 「柚子さん、あのね……」  105号室の渋沢がいなくなったことを、彼女に伝えなければいけない。息せききって伝えようとした瞬間、柚子が微笑《ほほえ》んで先に口を開いた。 「ミサちゃん、これで執筆に専念できるわよ」 「…………」 「残ってた問題が片づいたのよ」  美里は、心臓が口から飛び出さんばかりになって、彼女の唇の動きを見つめた。時間が停止してほしい、と思った。だが、柚子の唇はゆっくり動いて、言葉を発した。 「渋沢のやつ、ようやく白状したわよ。あなたにあんないやらしい手紙を送ったの、やっぱり彼だったわ。実家に送ったのもそう。ミサちゃんが言ったとおり。だから、こらしめてやったのよ」 「こらしめた……?」  やめて、やめて。そんなはず、そんなはず、もしかして、やっぱり、だめだめ。——さまざまな言葉が脳裏をぐるぐる巡る。 「これで、わたしもすっきりしたわ。ミサちゃんに疑われないですむ。ミサちゃん、あなたの目で確かめてちょうだい」  柚子は、満足そうに微笑んだ。     15 「渋沢を殺したんですか?」  助手席に腰を沈めると同時に、美里はかすれた声で聞いた。  柚子は、アクセルを踏み込もうとした足を止めた。「ばかね、殺すわけないじゃないの。ミサちゃん、わたしを殺人犯にしたいの?」  彼女の顔がほころんで、美里は、ああ、救われた、と思った。安堵《あんど》感が身体の隅々までいき渡った。  ——柚子さんの精神状態は、完全に常軌を逸しているというわけではないんだわ。備わるべき理性は、まだ備わっている。  おかしな考え方だが、美里は彼女のその理性に賭《か》けようと決めたのだ。  柚子は、車を発進させた。ハンドルを握る指が、一つのことを成し遂げた喜びと満足感に弾んでいるように見える。 「渋沢さんは、いまどこにいるんですか?」 「あんなやつ、さんづけで呼ぶ必要ないわ」 「渋沢は……どこに?」  柚子の感情に火をつけないように、指示に従う。 「軽井沢《かるいざわ》の別荘よ」 「柚子さんの?」 「正確に言うと、最初の主人のだけどね。わたしに遺してくれたの」  柚子が最初の結婚のことを口にしたのは、これがはじめてだった。彼女の半生に対して、猛烈な好奇心が湧《わ》いた。美里は、〈わたしにあんな手紙をよこした犯人は、彼じゃないんです。上条政夫という中学時代の同級生だったんです〉という言葉を、喉《のど》の奥に押し戻した。 「最初のご主人は、病気で死んだんですか?」  柚子の前夫・飯森憲明に聞いて知っているが、彼女がどう説明するかに興味があった。 「交通事故よ。東名高速でジャガーを飛ばしていて、ガードレールに激突したのよ。もともと心臓が弱くて、まわりからも『運転しないほうがいい』と忠告されてたのに、頑固なあの人は聞く耳を持たなくて」 「運転中に、発作でも起こしたんでしょうか」 「さあ、どうかしら。でも、直接の死因は、心臓|麻痺《まひ》だったから、たぶんそうなんでしょうね」  柚子は、前を向いたまま言った。 「柚子さんも、ご主人の運転をやめさせたかったんですか?」  どうしてそんなあたりまえのことを聞くの、という顔でちらと助手席へ顔を振り向けてから、柚子は「もちろんよ」と顎をわずかに上げた。「あの人には長生きしてほしかったから。ああ、わたしたち、四十以上も年の差があったのよ」  四十以上の年齢差とは驚きだった。 「でもね、あるとき、『どうして、そんなにまでして好きなことがしたいの?』と聞いたら、あの人、こう言ったの。自分は、小さいころから人よりちょっとばかり心臓が弱かったから、いろいろと行動に制約を受けてきた。ある意味で慎重だった。その性格が功を奏して仕事では成功した。財産も築いた。だが、余生は、身体を気にせずに思いきり好きなことをしたい。一度でいいから自分の限界まで挑戦してみたいんだ、と。それが好きな外車の運転だったのよ。わたし、あの人の好きにさせてあげたい、と思ったわ。残念ながら、彼の命を奪う結果になってしまったけど、後悔はしていない」  ——そうでしょう、後悔はしていないはずよね。  美里は、確信していた。最初の夫の死には、絶対に柚子がかかわっている。過去にいくつか読んだ推理小説の中から、運転中に事故死に見せかけて夫を殺すのに成功した妻の話を拾い出す。——虫嫌いの夫の愛車に、ゴキブリやかまきりなど夫が毛嫌いしている虫を潜ませておく。運転中にいきなりベルが鳴り出すように、出張鞄《かばん》に入れた目覚まし時計をセットしておく。運転中に眠くなってハンドル操作をあやまるように、夫が常用している栄養剤の錠剤の中に睡眠薬を紛れ込ませておく……。それらは、可能性の犯罪、と呼ばれる。心臓の弱い夫は、突然のゴキブリの出現やベルの音に驚いて、心臓発作を起こすかもしれないし、起こさないかもしれない。それで死に至るかもしれないし、至らないかもしれない。死ななくても、すぐには妻に疑いの目が向けられはしない。成功しなかった場合は、妻は次のチャンスを狙《ねら》う。 『ベスト・マガジン』を愛読していた柚子のことだ。推理小説の類《たぐい》も、よく読んでいたに違いない。 「でもね、そろそろすっきり整理しようと思うの」 「整理?」 「管理しきれない不動産を手放して、こぢんまり暮らすの」  新しい生活への地盤固めのためだろうか。美里抜きの新生活であるはずがない。 「いくつか部屋や土地を人に貸してるの。家賃収入さえあれば、堅実に暮らせるでしょう? 祐天寺のマンションと軽井沢の別荘、わたしたちが使うのは、それだけでいいわ」  ——わたしたち……。  背筋がひんやりとした。 「いずれ、ミサちゃんのものになるんだし」  どういう意味だろう。一緒に使う、という意味ではなかったのか。美里は、涼やかな顔で運転を続ける柚子の横顔を見た。 「ミサちゃんとわたしは家族。わたしに何かあったら、ミサちゃんに遺すことになるんですもの」  ——やはり、彼女は、わたしの中に死んだ妹の「ミサ」と、流産した女の子の「ミサ」の幻影を見ているのだろうか。  このあたりで、思いきって……彼女を自分の生活から切り離さなくてはいけない。美里は、焦燥感にかられた。だが、いまは、彼女の妹の「ミサ」の話題を切り出すときではない、とも直感していた。ファンレターを送りつけた犯人だと信じ込んで、渋沢を別荘に監禁してしまった柚子だ。その実行力には圧倒される。渋沢の安否を知り、彼を解放するのを最優先させなければならない。 「本当に、渋沢……は、白状したんですか?」 「あら、ミサちゃんが問いつめたら、自分がやったようなことをほのめかしたって言ったじゃないの」 「で、でも……」 「さすがに、わたしの前ではっきり認めたらおしまいだと思ったんでしょうね。だいぶてこずったわ」  喉がひりひりし、こめかみがきーんと鳴る。「柚子さん、さっき、こらしめた、って言いましたよね。渋沢をどういうふうに……」 「地下の食品庫に閉じ込めてやったの。食品庫と言っても、何にも入ってないけどね」  そう答えたとき、柚子の目がサディスティックな光を帯びた。 「い、いつから?」 「昨日の早朝からかしら」  食品庫に閉じ込めたきり、食べ物も飲み物も与えていないのだろうか。美里の頭は混乱をきたし始めた。ついさっき、まだ柚子には備わるべき理性が備わっている、とホッとした自分を、何て楽観的でおめでたい人間なのだ、と思った。 「そんなことしたら、死んじゃいますよ」 「大丈夫よ。水はあげておいたから」  柚子は、まるで花に水をくれたような軽い口調で言った。  美里は、自分の耳にも響くほどのため息をついた。だが、まだ安心はできない。 「ねえ、柚子さん。もういいんです。確かに、腹が立つようなひどい内容の手紙だったけど、それでも、あれはファンレターなんです。書くのは読者の自由。これからも、読んで気分が悪くなるような手紙は、読者からたくさん送られてくるかもしれません。でも、作家として耐えていかないといけないと思うんです」  そのたびに、「あなたが執筆に専念できないから」と、手紙を送りつけた犯人を突き止めて脅されては、たまったものではない。美里は、上条の言葉を反芻《はんすう》しながら必死になって言った。ファンレターを書くのは、そう、読者の勝手だ。読者の自由だ。書く自由は、作家にも読者にも、等しくあっていい。 「それに、わたし、もうじきあのマンションを出て行くんです。渋沢と顔を合わせなくなれば、おぞましい手紙のことも忘れられます。彼をすぐに解放してあげてください」  訴えながら美里は、卑怯《ひきよう》な自分に気づいて、虚《むな》しくなった。渋沢を〈犯人〉に仕立てたまま、この場を切り抜けようとしている。 「だめよ、それじゃ」  柚子は、あっさりと拒絶した。「あなたの前でしっかり誓わせなくちゃ。二度とあんな手紙は書きません、実家にも送ったりしません、ってね。念書を取ってもいいわね。被害を受けたのはミサちゃんなんだから、彼の謝罪を自分の耳ではっきり聞くまでは、安心できないんじゃなくって?」 「わたしはもういいんです。謝罪の言葉なんかいりません」 「ミサちゃんがよくても、わたしの気がすまないわ」 「…………」 「渋沢は、仁科美里の小説を侮辱したのよ。わたしたちの絆《きずな》を壊しかねなかったのよ。あの男のせいで、わたしはミサちゃん、あなたに疑われたのよ。許せないわ」  それが本音なのだ、と美里は悟った。柚子にとって、自分がどっぷり入れ込んでいる作家「仁科美里」を侮辱されることは、自分自身を侮辱されるのと等しい意味を持つのだ。 「仁科美里の前で、あいつに土下座させるのよ」  あなたのやったことは犯罪です、正気の沙汰《さた》じゃありません。——いま、そう彼女にぶつけてみたところで、通じるわけがない。とにかく別荘に行って、渋沢を救い出すことが先だ。自分の不用意なひとことが原因で、彼が窮地に陥っている。美里は、頭を切り替えた。 「どうやって渋沢を連れ出したんですか?」  教えたのは、渋沢の部屋番号だけだったはずだ。 「管理人に教えてもらったのよ」 「管理人さんに?」  けさ、美里の姿を認めて、何か言いたそうにしていた彼女の顔が思い出された。 「ミサちゃん、一昨日の午後、出かけてたでしょう? わたし、マンションに行ったのよ。あの管理人さんって、虎屋の羊羹《ようかん》が好きなのね。また持って行ってあげたら、愛想よく渋沢の勤務先の会社を教えてくれたのよ。住人が提出した書類をめくってね。緊急連絡先として控えてあった。縁談の調査を匂《にお》わせたら、簡単に信じてくれたみたいね」  身なりのきちんとした奥様風の柚子である。柚子の話術と外見にだまされて、簡単に高級和菓子で買収されてしまったのだろう。 「いちおう、口止めしておいたんですね?」 「口止めだなんて、人聞きの悪い」  柚子は、けらけらと笑った。「渋沢の会社は、ちょうどリゾート地の別荘を売り出してたの。新幹線の軽井沢駅から歩いて十五分のマンション。客のふりをして、電話で彼を指名して、『物件を見せてほしい』と頼んだのよ。昨日の明け方に待ち合わせて、わたしの車で向かったわ」 「彼は昨日、会社を無断欠勤しています。同僚が様子を見に来ました」 「会社にはしゃべれないんじゃない?」  柚子は、愉快そうに語尾を上げた。「お金に困っているらしいのは、すぐにわかったもの。ドアに金融業者のものらしい紙が挟まってた。督促状に決まってるわ。それで、彼にこう言ったの。『別荘を売りたいんだけど、会社を通さないで仲介してくれたら、マージン払うわ』ってね。それに、不動産を管理してくれてた人と大ゲンカして、困ってたところだったの。あの子、おこづかいがほしかったのね。会社に内緒で、わりのいいバイトをしたがってた。車も無理して派手なのを、ローンで買っちゃったみたいだし」 「お金で誘ったんですね。柚子さんの別荘を見せておいて、何か取って来てもらうふりでもして、食品庫へ突き落としたんですか?」  柚子の実行力にも圧倒されるが、彼女の運の強さにも驚異を感じる。 「ミサちゃんの小説のため、わたしたちの固い絆のため。そう思ったら、不思議ね。何だかものすごいパワーが湧《わ》いてくるような高揚した気分になるの。そう……まるで、ミサちゃんと一体になって、小説を書いているみたいな気分に」  柚子は言って、その興奮状態がたまらない、というふうに身体をブルッとさせた。     16  おとぎ話に出てくるようなこんもり茂った森を抜けると、美術館と見間違えるほどきれいな白亜の建物が見えてきた。陽《ひ》はだいぶ陰ってきたが、道路に立った標識に『NISHINA』とローマ字で表示されているのが、ヘッドライトに映し出されてぼんやりと読める。風雨にさらされておらず、新しい標識だ。 「ほら、仁科って出てるでしょう? そのまま、仁科美里の避暑用の書斎、として使えるじゃない。取材用にもいいわね。著者近影の写真、このあたりで撮ったらどう?」  道路から建物のエントランスまで、紅葉した木立の合間を軽い散歩ができるくらいの距離がある。柚子は、愛車のベンツを敷地内に乗り入れながら、うきうきして言った。  美術館のような清潔そうな建物の食品庫に、男を一人閉じ込めておいて、どうしてそんなにはしゃいでいられるのか、美里には彼女の神経が理解できない。だが、彼女をそうした行動に走らせた責任の一端は、間違いなく自分にある。彼女の興奮を静めるためだったとはいえ、渋沢を〈犯人〉にでっちあげてしまったのだから。 「こんなところで仕事をしたら、すごくはかどる気がしない?」 「あ、ああ、ええ」 「門倉さんだって、絶対に気に入るわよ」 「そ、そうですね」  美里は、うわのそらで言った。食品庫にいる一人の男のことに関心が向いている。彼がどんな状態でいるのか。一刻も早く確かめなければいけないとわかっているのに、この目で見るのが怖い。三か月も前に冷蔵庫に突っ込んだまま、すっかり忘れていた腐った刺身の映像が、野菜室でどろどろに溶けかかっていた茄子《なす》の映像が、まぶたの裏にちらつく。人間を丸一昼夜、わずかな水しか与えずに暗室に監禁しておいたらどうなるのか。体力を消耗しないはずはない。  木立のトンネルを抜けたら、さっきよりぐっと暗くなった気がした。車から降りたら、夜の帳《とばり》に包まれ始めていた。  突然、目の前を何かがかすめ飛んで行った。「キャッ」美里はうずくまり、頭を抱えた。 「こうもりよ」  柚子が、空を見上げた。「このあたりは、夜になるといっぱい飛ぶのよ」  美里は、しばらく動けなかった。羽のはえた生き物を見ると、身体が硬直してしまうのだ。「ミサちゃん、子供みたいね。そう言えば、鳩《はと》も嫌いだったわね。学校から一緒に帰るとき、鳩がいるとミサちゃん、わたしの後ろに隠れたじゃない」  柚子は、懐かしそうな目をして、中学時代の下級生の手を取った。「ほら、大丈夫よ。もういないから」  美里は、木立の上を見ないようにして、そろそろと立ち上がった。細長い石段を柚子に続いて上がる。柚子が頑丈そうな白い木の扉を開けた。建物の中に入る。玄関に、うっすらと緑色がかった大理石が敷きつめられている。いわゆる三和土《たたき》、靴脱ぎスペースがない。 「そのままでどうぞ」  柚子が優雅な口調で言って、もう一つの木枠の扉を押した。薊《あざみ》の花がエッチングされたステンドグラスがはまったガラス扉だ。 「死んだ夫が、いつかギャラリーにしようと思って作ったらしいわ。本来なら、夫の遺志を継いで、ギャラリーにすべきなんでしょうけど、わたし、美術品にあんまり興味がないの。全部、売り払っちゃったわ」  柚子は、すっきりしたという顔で言う。  彼女はそうやって、夫の遺産と家賃収入で、優雅に気ままに暮らして来たのだろう。そして、自分が〈その才能を見出した〉として目をつけた文才ある人間を、パトロン気取りで援助することに、至上の喜びを感じてきたのだろう。  がらんと広い空間。一部が吹き抜けになった造り。丸みを帯びた高い天井。宮殿にあるような豪華なシャンデリア。天井の中心に描かれたバラ窓模様。奥に細長い通路、中心に階段、部屋の隅には暖炉。暖炉の前の床には、レンガがはめこんである。  美里は、唐草模様の繊細な織りが美しいペルシャ絨緞《じゆうたん》を、靴のまま踏んだ。足がすくんだ。小説の参考にするために開いた図鑑でしか見たことのない最高級のイスファハンが、五十畳はあると思われる床いっぱいに、無造作に敷かれている。空間に漂う宗教色の濃さに、美里はめまいを覚えた。罪悪感にじわじわとさいなまれる。  恐ろしいほど静かな、そして、冷え冷えとした空間だった。  人の声は……聞こえない。 「渋沢はどこ?」  美里はハッとした。死んでしまっているのではないか。ふとそんな気がして、心臓が氷を当てられたようにぎゅっと縮んだ。 「キッチンよ」  柚子が指さしたほうを美里は見た。奥に伸びる通路の中間が、かすかに明るくなっている。吹き抜けの高い窓から、キッチンに西日が差し込む設計になっているようだ。  八畳ほどの正方形のキッチン。床はフローリング。シンクと調理台とレンジ台が、コの字形に配列されている。中心に作業用にもなるダイニングテーブルがあった。天井に近いところにある横長の窓から、昼間ならたっぷり自然光が降り注いでいるはずだ。夜には星が見えるに違いない。  柚子がキッチンのドアを閉め、電気をつけた。ダイニングテーブルの横に、異様に大きな物体を見つけて、美里はギョッとした。大理石の色に近い薄い緑色の四角い箱だ。 「旧型の冷蔵庫よ」  柚子が言った。「重しにしといたの」 「重し……」  その意味がわかって、美里の縮んでいた心臓は、跳ね上がった。板張りの床の一部が、家庭の台所の床下を掘って作られた食品庫のそれのように、正方形に切り取られ、収納できる把手がついたふたになっている。家庭用の食品庫より、十センチ四方ほど大きい。 「窒息死しちゃうわ!」  美里は叫んだ。真っ暗闇《くらやみ》の狭い空間の中で、息絶えている男の姿が透視できた気がしたのだ。 「大げさね」  柚子は笑い、冷蔵庫にゆっくり手をかける。美里はあせった。ぐずぐずしていたら、取り返しのつかない事態になる。自分で冷蔵庫を押した。勢いがあまって、冷蔵庫は横倒しになった。ほこりが舞い上がる。大きな音が、建物内に響き渡る。  足下で何か音がした。床を叩《たた》く音、握ったこぶしで床を突き上げる音だ。 「ほら、生きてたでしょう?」  柚子が、靴で床を踏み鳴らした。 「このままじゃ死んじゃうわ」  のんびりしている柚子に苛立って、美里はしゃがみこむと、把手《とつて》の金具を引き出した。ふたを手前に引き上げようとした瞬間、あっ、と息を呑《の》んだ。狭い空間で身を縮めていた渋沢が、ふたが開いた途端に、びっくり箱のバネ仕掛けのように勢いよく飛び出して来る可能性に気づいたのだ。  渋沢は弱っているかもしれないが、反撃するだけの体力はまだ温存しているかもしれない。小柄な男とはいえ、体力のある若い男だ。  ——反撃されたら、危険だ。  美里は手を止めた。ふたは五センチほど持ち上がっただけだ。床材に無垢《むく》材を使っているせいだろう。床板が厚く、想像以上の重さがある。 「どうしたの? 開けないの?」  柚子が聞きながら、隣にかがみこんだ。「開けるのが怖いの? ミサちゃん、出してあげたかったんでしょう?」  ふたの陰から、何か白いものがぬっと現れた。脱ぎ捨てられた白いゴム手袋のような物体。 「わっ」  美里は悲鳴を上げ、思わずふたを持つ手を離した。ぐしゃっ、と何かがつぶれる音がして、男のうめき声が湧き上がった。そう、それは、まさに地の底から湧き上がる、という感じのうめき声だった。  男の手首が、七十センチ四方ほどある床板の下敷きになっている。横からおそるおそるのぞくと、人さし指がもぞもぞと動くのが見えた。不気味で、痛々しい動きだ。美里は、ゾッとして目をそらした。 「開けるときは、こうやって一気に開けるのよ」  柚子は、やれやれ、というふうにため息をついてから、両手で把手を一気に引き上げた。美里は、あとずさった拍子にしりもちをついた。  ふたは九十度持ち上がると、簡単にはずれた。柚子がふたを足下に置いた瞬間、美里は目をつぶった。渋沢の動きを目の当たりにしたくなかったのだ。 「出してくれ」  男のうなるような低い声が言った。ハッとして美里は目を開けた。  はずしたと思ったふたの下に、さらに鉄格子がはまっている。端に錠がはまっている。そして、その鉄格子の隙間《すきま》から、男の手首が片方、突き出ていた。右のほうだ。左手は、鉄格子を握っている。隙間は、手首は通るが、人間の頭は通らない大きさだ。 「ここの食品収納庫、ミサちゃんが思っているより深いのよ。おとな一人、背伸びして床板に届くくらいの高さね。ふたは小さいけど、奥行きもそれなりにあるのよ。どうして鉄格子なんかつけたのか、不思議でしょう? 教えてあげる。死んだ主人の趣味でね、子供を誘拐してここに閉じ込めるためだったの」 「柚子さん……」  しりもちをついた格好のまま、美里はかぶりを振った。お願い、やめて、そんな恐ろしいことは言わないで……。懇願が声にならない。  鉄格子がはまっていたからこそ、柚子は渋沢の逃亡を恐れなかったのだ。 「ミサちゃん、信じたの?」  柚子は、笑って首をすくめた。「冗談に決まってるじゃない。でも、たぬきや鶏、きじくらいは、閉じ込めたことがあったみたいね。あの人、昔、たぬき汁が好物だったようだから。暴れさせてから食べたほうがおいしいんですって。あら、気味悪そうな顔ね。もちろん、わたしと結婚する前よ。料理人を呼んで、ここで作らせていたって話ね」  ——たぬきを閉じ込めた床下収納庫。  それも冗談であってほしい、と美里は思った。 「出してくれよ。おい、出してくれ。出せってば」  渋沢の声が、怒気と苛立《いらだ》ちとを含んで、かん高くなった。声に疲労がにじみ出ている。  はじめて、美里はしっかりと鉄格子の中をのぞきこんだ。男の足下がぼんやり見える。中にみかん箱でもあったのだろうか、それを台にして上に乗っている。コンクリートの打ちっぱなしの床にも壁にも、何も置かれていないようだ。柚子が言ったように、かなり広い空間だ。畳三畳分ほどはあるだろうか。しかし、人間が閉じ込められるとなると、ひどく息詰まる、狭すぎる空間だ。刑務所の独房を連想させる。  ふたが閉まると光が遮断される暗闇で、渋沢の目だけが異様にぎらぎらと輝いている。 「あんたは……?」  見上げる渋沢が目を細めた。声に憶《おぼ》えがある、といった顔だ。鉄格子のあいだに突き出た右手首。爪《つめ》のいくつかに血まめができている。  彼は、顔をしかめながら、その手首を引っ込めた。柚子の足に踏まれでもしたらたまらない、と思ったのだろう。 「連れて来る、って言ったでしょう?」  と、美里にかわって柚子が言った。「ほら、連れて来てあげたわ。あなたの愛《いと》しい仁科美里先生よ」 「渋沢さん……」  美里は、鉄格子の上に身を乗り出した。冷気と一緒に、獣が発散するような臭気が立ち昇ってきた。 「あんたが頼んだのか?」  渋沢の声に、怯《おび》えと驚きの色合いが加わった。汗とほこりで汚れた髪、突然の理不尽な暴力への怒りと恐怖で乱れた服装、二日分の不精ひげ。水しか与えられていないせいか、先日見たときよりも頬《ほお》がこけ、まぶたが落ち窪《くぼ》んで見える。憔悴《しようすい》が激しくなる前に、解放してあげなくてはいけない。  ——どう答えようか。違う、とはっきり言うべきか。それよりまず、柚子さんに彼の身の潔白を告げるべきか。  美里は躊躇《ちゆうちよ》して、柚子へ視線を向けた。 「ミサちゃん、何をためらってるのよ。あなたの前ではっきり誓わせなさいよ」 「柚子さん、もういいの。やめて」  やはり、彼女に本当のことを打ち明けるべきだ。そう決めて、美里は生唾《なまつば》を呑み込んだ。だが、用意した言葉を柚子のそれが封じた。 「この男は、一度、白状したのよ。ミサちゃん、あなたが出したゴミの袋を調べて、ポルノ小説を読んだって」 「えっ?」  美里は、視線を渋沢に戻した。「わたしが、雨宮麗だと知ってたの?」 「知ってたからどうだって言うんだよ」  渋沢は、顔をくしゃくしゃにして首を振り、こぶしで鉄格子を叩いた。爪《つめ》は内出血し、甲にはすり傷ができている。新たに出現した人物の理性に、救いを求めようとしている目だ。 「あなたが小説家だろうと何だろうと、オレには関係ない」 「関係ないですって? ミサちゃんにあんな吐き気がするような手紙を送っておいて」  柚子は、パンプスのかかとで渋沢の指を踏みつけた。渋沢が痛さに顔を歪《ゆが》めた。 「あなたはね、ミサちゃんの小説を汚したのよ」 「違うの、柚子さん。渋沢さんは……」  美里は、深呼吸を一つした。が、今度は、その渋沢本人の言葉に遮られた。 「確かに読みました、捨ててあった原稿を。チェックしました、あなたの出したゴミを。あれを部屋に持ち帰りました」  顔をしかめながら、彼は告白する。 「何……を?」  美里は尋ねた。心臓が奇妙なリズムで、鼓動を打っている。 「捨ててあった、あなたの下着です」  渋沢は答えた。柚子の足が彼の指を解放した。渋沢は、すべての体力と気力を使い果たした、というようにコンクリートの床にどっとくずおれた。     17  美里と柚子は、顔を見合わせた。柚子は、肩すかしを食ったような呆然《ぼうぜん》とした表情でいる。 「わたしの下着?」  美里は、壁にもたれかかってぐったりしている渋沢を見下ろした。 「あなたが捨てたのを、拾っただけですよ」  彼は、ふて腐れたような声で言った。「ピンクのやつで、ひらひらのレースがついていて……」 「やめて!」  美里は、羞恥心《しゆうちしん》で真っ赤になって遮った。そのパンティなら憶えている。ハイレグ・カットのかなり気に入っていたものだったが、レースがほつれてきたので、紙袋に入れた形で捨てたのだった。 「ちゃんと告白しましたよ。これでいいでしょう? 出してくださいよ。腹ペコで死にそうだ」  頭を大儀そうに動かしながら、渋沢は絞り出すように言う。 「本当に、ミサちゃんの下着を盗んだだけなの?」 「拾ったんですよ」 「手紙は出してないの?」 「手紙なんて知りません」 「うそおっしゃい」 「うそじゃないです。ボクのクロゼットを見ればわかる。そこには……いろんな女性の下着がしまってあって。ピンクのは貴重なんだ。だから、いちばんいい場所に……」 「あなたなのね」  二人の会話に、美里は割り込んだ。「近所で女性の下着が盗まれる事件が続いてたわ。あなたは、そっちのほうの犯人なのね?」  薄暗い穴蔵の底で、男は弱く頭を動かした。  美里は、そろりと視線を柚子に移した。「わかったでしょう? 柚子さん。この人は、犯人じゃないの。手紙を書いたのは、別の男なの」 「ミサちゃん、知ってるの?」  柚子が眉《まゆ》を寄せて、美里の横に膝《ひざ》をついた。 「中学校の同級生よ」  名前は言えない。いや、言ってはいけない。彼の身の安全のために。 「じゃあ……」 「ごめんなさい。この人が手紙を書いたと認めた、そう言ったのはうそだったの」 「うそ?」柚子は、すっとんきょうな声を上げた。  しばらく沈黙があった。穴蔵から、男がぶつぶつひとりごちる声が上がってくる。念仏のようだった。ずっと閉じ込められていて、何かしゃべっていないと、気が狂いそうになっているのかもしれない。 「ミサちゃん、どうしてわたしにうそついたの?」  いきなり柚子に肩をつかまれ、美里は強く揺さぶられた。  抑えていた感情が噴出した。気がついたら、柚子の胸を突き飛ばしていた。「だって、ああでも言わなければ、柚子さん、ベランダから飛び降りていたでしょう?」  柚子は床に後ろ手をつき、荒い息遣いで美里をにらんでいる。 「怖かったのよ。柚子さんがすごく怖かった」 「ねえ」  足下から渋沢が、遠慮がちに呼んだ。「そいつ、変でしょう? そう思うでしょう? あなたはまともみたいだ」ささやくように、早口で言う。  まともで居続けられるのかどうか、美里は自信がなかった。 「ごめんなさい、柚子さん。あなたを死なせたくなかったのよ」  ——いや、違う。本当は、わたしの部屋であなたに死んでほしくなかったのだ。 「それで、つい、あんなでたらめを。……ごめんなさい。あなたに濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せてしまって」  美里は、続いて渋沢に謝罪した。 「もういいから出してくれ。変になりそうだ」  渋沢は、ゆるくかぶりを振り続けている。  美里は、ハッと思いついて、ポケットに手を差し入れた。確かのど飴《あめ》が入っていたはずだ。あった。鉄格子の隙間《すきま》にすばやく投げ入れた。コンクリートの床に当たった音で、渋沢は弾《はじ》かれたように顔を上げた。すぐにころがった飴に気づき、飛びついた。紙をむくのももどかしそうに、口を近づける。  彼の姿が哀れで、涙があふれた。「ねえ、出してあげましょうよ。鍵《かぎ》はどこ?」美里は、柚子に手を差し出した。 「正気なの?」柚子は背を起こす。 「えっ?」 「正気か、と聞いたのよ」  柚子の声は乾いていた。彼女の口から、〈正気〉という言葉が紡ぎ出されるとは思いもしなかったので、美里は面食らった。 「彼がここを出たら、どうなると思う?」 「…………」 「わたしたちのことを警察に話したらどうするの?」 「わたしたちって……柚子さん……」  ——ここに彼を閉じ込めたのは、柚子さん、あなたなのよ!  驚愕《きようがく》のあまり、言うべき言葉が続かない。名状しがたい恐怖が胸を締めつける。 「わたしたちは男を拉致《らち》して、監禁した。これは、犯罪なのよ」  わたしたち、わたしたち、わたしたち……。その言葉が脳裏で反響して、気が狂いそうだ。「じゃあ、柚子さんは、彼をどうするつもりだったの? わたしの前で謝罪させて、自分の疑いが晴れれば、それで本当に気がすんだの?」  柚子がかすかに目を細めた。その瞬間、彼女の魂がふっと肉体から離れたように思った。さっき自分で口にしたばかりの〈正気〉の世界から、ふたたび彼女の世界へ戻って行く。そんな気がして、美里の胸はざわざわした。 「こういう男がいたら、あなたは安心して小説が書けない。わたしたちの絆《きずな》を壊そうとした彼の罪は消えない」  うっすらと微笑《ほほえ》んで、柚子が淡々と言う。 「それが……答えなの?」  美里は、柚子から少し身を引いた。同じ空間で同じ空気を吸っていることに、生理的な嫌悪感が生じた。何かが感染《うつ》ってしまいそうな気がした。 「最初から殺すつもりだったのね? それなら、門倉さんだっていつか……」  言葉にしたら柚子の決心をうながすことになりそうで、美里はやめた。門倉も殺されかねない。いますぐにではないかもしれない。新婚生活が始まるや否や、柚子という闖入者《ちんにゆうしや》がどかどかとあがりこんでくる。彼女は二人の生活をかき乱し、やがて門倉を〈邪魔者〉として排除にかかるに違いない。どんな手段を使っても。また事故死に見せかけて殺すかもしれない。最初の夫を殺したように。  ——この女ならやりかねない。  美里は、立ち上がり、通路のほうへあとずさった。 「行くなよ!」  穴の底から、男の悲痛な声が止めた。飴を一粒与えられて、明らかに活力を取り戻した声だ。まともなほうの女に行かれちゃ困る、とその声が救いを求めている。 「ミサちゃん、推理小説、書いてるんでしょう? だったらよく考えてみなさいよ」  柚子もすっくと立ち上がり、美里に向いた。その存在感の大きさに、美里はたじたじとなった。柚子は、もはや自分の愛読者ではなく、上級生だった。口答えが許されない、敬語を使ってしか話せない先輩だった。 「この男がいまさら何を言っても、それは本心じゃないわ。パン一つのために言ってるだけよ。解放されてごらんなさい。彼が警察に訴えれば、わたしたちは犯罪者という烙印《らくいん》を押されてしまう。ミサちゃん、あなたはもう小説が書けなくなるかもしれない。それでもいいの?」 「…………」 「下着泥棒と、拉致監禁暴行罪。二つを比べてみなさいよ」 「…………」 「わかった?」  柚子の唇の端が、きりりと持ち上がった。ねっ、だから、片づけるしかないでしょう? 彼女の内心の声を、いま美里ははっきりと耳にした。美里にはもう、柚子の精神のどこのたががゆるみ始めていて、どこのたががまだかろうじて閉まっているのか、わからなくなっていた。「ねえ、ミサちゃん。二人で物語を作りましょう」  美里は耳をふさぎかけた。これ以上聞くと、自分のほうもどこかのたががゆるんでしまう。 「この男は変態。女の下着を盗んでは、クロゼットにきちんと整理しておく倒錯したコレクター。借金もある。男は、財産家の中年女に目をつけた。女が売りたがっていた別荘の下見に、彼女の車で出かけた。そこに女を監禁、脅迫して、お金を引き出させようとした。女は応じない。いまの季節、このあたりは夜になるとストーブが必要になるくらい寒いわ。暖炉に薪《まき》はない。男はストーブをつけようとして、あやまってガソリンを給油してしまった。炎に包まれる。女は逃げる。ちょうど待ち合わせていた女流作家の友達がそこへ……。そんな筋書きはどうかしら」  耳をふさいでも、完全犯罪を成し遂げるには穴だらけのその脚本は、指の隙間から勝手に耳に入ってきた。 「小道具もちゃんと用意してあるのよ」  そう言って、柚子は食器棚の裏へ回る。両手に提げ持って来たのは、オレンジ色のポリタンク二缶だった。中身は聞くまでもない。ガソリンだ。 「お、おい。何を持って来たんだ。冗談だろ?」  気配で察したのだろう。穴の中で、渋沢がガバッと立ち上がった。台の上に乗り、鉄格子に鼻をすりつけるようにするが、彼の位置からポリタンクは見えないらしい。 「ろうそくもあるの」  柚子は、ロング丈のニット・カーディガンのポケットから、蝋《ろう》でできた貝殻の形の燭台《しよくだい》がついた、黄色い小さなろうそくを取り出した。「これに火をつけて、床に立てておくの。わたしたちが逃げる時間は稼げるでしょう?」  ——男を一人、食品庫に閉じ込めたまま逃げようというのか。  美里が下ろした視線に気づいたのか、柚子は、大丈夫、というふうに微笑んだ。「鍵は開けておくわ。上に、そう、何か燃えるものを置いておけばいいでしょう? 重しにね」  その瞬間、渋沢が奇妙な叫び声を上げた。獣の遠吠《とおぼ》えに似ていた。遠吠えは低くなり、すすり泣きに変わった。 「だめよ、柚子さん。彼を解放して。正直に警察に言いましょう。それしかないわ」  美里は、覚悟を決めた。そうだ、すべてが公になったほうがいい。警察が、社会が、柚子という女の〈狂気〉に気づいてくれたほうがいいのだ。すべてが公になったとき、自分が彼女とともにどういう制裁を受けるのかはわからない。作家として活躍する場は、ことごとく奪われるかもしれない。  それでもいい、と思った。ただただ、焼きごてを胸に押し当てられているような耐えがたい苦痛から、一刻でも早く逃れたかったのだ。 「ねえ、お願い、柚子さん。わたしの小説のことなんか、もういいのよ。書けなくなってもいいのよ!」  涙声で、美里は懇願した。足下からは、男のすすり泣きが湧き上がってくる。 「ミサちゃん。自分が何を言ってるかわかってるの?」 「わかってるわ。もう書かなくていいのよ」 「何てこと言うの?」  柚子の眉《まゆ》が吊《つ》り上がる。「あなたは書かなくちゃだめなのよ。あなたは、神様に選ばれて小説家になったんだから」 「作家を辞めるわ」 「ばかね、ミサちゃん。自分が何を言っているか、わかってないのよ」 「わかってます。こんな怖い思いをするくらいなら、書かないほうがましなんです。どうしてわかってくれないんですか?」  顔を覆って、美里は泣いた。穴蔵の男と一緒に泣きじゃくった。どれくらい時間がたっただろう。 「わたしは、小説家になりたかった」  柚子のつぶやきで、ハッと顔を上げた。柚子が、手にした燭台を見つめている。そこには、火が灯《とも》っていた。 「自分の手で産み出した人間を、自分の手で作った世界で、自由に羽ばたかせたかった。本が好きだった。あの匂《にお》いが、あの紙の肌ざわりがたまらなく好きだった。でも……書くのが怖かった。小説教室に入って、はじめて書いたのよ。自分ではうまく書けたつもりだった。わたしの作り出した人間たちは、心から笑ったり、泣いたり、喜んだりしていた。それなのに……先生は、『あなたの描く人間は、そうだなあ、どこか人形のようで血が通っていない感じがするんだな』なんて言うのよ。わたしが不満そうな顔をすると、先生は『でも、これはぼくだけの見方かもしれないからね。一度、どこかの賞に応募してみるといいよ』とおっしゃった。だけど……やっぱり怖かったのよ。小説を読むのも一つの才能でしょう? そうそうみんなに与えられているとは思えなかった。万が一通らなかったら、自分のすべてが否定されるような気がしたの。でも、そのうちにわたしは気づいたのよ。小説を書く才能が、成長するにつれ、いつのまにかほかのものに形を変えただけなんだってね」  それが、才能ある人を見出し、その才能を磨きたてる能力、と言いたいのだろうか。 「わたしは、小説家になりたかった。でも、なれなかった」 「…………」 「ミサちゃんが、わたしのかわりに小説家になった」 「柚子さんのかわりに、じゃありません!」  叫んでみたが、虚《むな》しさで声がかすれた。 「ミサちゃん、大丈夫よ」  やさしく言って、柚子は燭台を足下の床に置いた。「あなたが書けなくなることなんて、絶対にないの。わたしがいるかぎり、大丈夫なの。だから、何も心配しないで」 「柚子さん……」 「安心して、すべてわたしに任せて」  ポリタンクの把手《とつて》をつかむ柚子の表情は、何かにとりつかれていた。「昔のミサちゃんに戻ってちょうだい。ほら、ミサちゃん、いつもわたしのあとをくっつき回っていたじゃないの。寝る前に本を読んで、とうるさくまつわりついてきたっけ。毎晩毎晩、読んであげたじゃない。小学校の四年生って、けっこう宿題が多くて大変だったのよ。それをあとまわしにして、あなたにつき合ってあげたんだからね。感謝しなさいよ、お姉ちゃんに。今夜は何がいいの? あかずきんちゃん? 白雪姫? それとも人魚姫?」  ゾッと血の気が引いた。彼女は、わたしを幼くして死んだ妹の「ミサちゃん」だと思い込んでしまっている。 「彼を片づけたら、読んであげるからね」  タンクのふたをはずし、柚子は鉄格子に近づいた。タンクを傾ける。 「やめて!」  美里は、柚子にぶつかっていった。どっと二人とも倒れる。風が巻き起こって、ろうそくの炎がふっと揺れた。が、消えずに、炎は勢いを盛り返した。ポリタンクが横倒しになり、中からガソリンが流れ出た。とくとくとく、と流れ出て、こぽっ、こぽっ、こぽっ、ぬたーり、ぬたーり、と鉄格子のあいだを滴り落ちていく。 「ひえっ、うわあ、何だ……」  渋沢が、意味不明の言葉を発しながら、気が狂ったように手足をばたつかせた。  美里は起き上がった。腕に鈍い痛みが生じている。柚子のほうは、起き上がる気配はない。 「柚子さん」  心配になって呼びかけると、彼女は、うーん、とうなり、頭を左右にわずかに動かした。美里はホッとした。一時的に脳震盪《のうしんとう》を起こしただけらしい。  鉄格子と床が、こぼれたガソリンでぬめっている。その鉄格子の一部に、柚子の右足がかかっている。黒いパンプスは脱げて、少し離れた場所に転がっていた。  ろうそくの火を消そうと、美里が身をかがませたとき、柚子が「ギャッ」と叫んで、身体を硬直させた。  鉄格子から突き出た男の手首が、柚子のパンティストッキングをはいた右足首を、がっしりつかんでいる。 「離して!」  足を引き抜こうと、柚子はもがく。生き延びようと必死の男は、渾身《こんしん》の力で女の足首をつかんだままだ。美里は、惚《ほう》けたようにただ見ていた。  柚子は、とっさに頭についていた髪どめを、右手ではずした。そして、ピンの部分を思いきり男の手の甲に突き刺した。針のように尖《とが》ってはいないが、護身用の凶器にはなりえたようだ。「ギャアッ」とうめいて、渋沢は柚子の足首を離した。 「よくもやったわね」  鉄格子の上に身を乗り出し、柚子は、穴蔵をのぞきこんで憎々しげに言った。髪どめをはずしたので、両サイドの髪が頬《ほお》に降りかかる。その姿は、昔話に出てくる「鬼婆」を連想させた。 「あんたを火あぶりの刑にしてやるわ」  そう吐き捨てて、柚子がろうそくの方向へ顔を振り向けたのと同時だった。鉄格子から男の左手首がすっと突き出て、柚子の垂れ下がった髪をぐいとつかむのを、美里は見た。 「痛いっ、離して」  柚子は、長い爪《つめ》で渋沢の手の甲をひっかいた。だが、髪を引っ張る力は弱まらない。柚子の頬がぬるぬるした鉄格子に当たって、ひしゃげて見える。襟足の髪は、ガソリンを吸って濡《ぬ》れている。 「ミサちゃん、助けて」  助けを求められて、我に返った。柚子の髪を引っ張る渋沢の手に飛びつこうとした瞬間、蛇のようなものが、ひゅる、ひゅる、と穴の奥から伸びてきた。思わず美里は、腰を引いた。  それは、ベルトだった。渋沢が身につけていたものだろう。二日間、水のほかは、さっき飴《あめ》を一個与えられただけである。どこにこれだけの力が残っていたのだろう、と首をかしげさせるほどのすばやさと強さで、彼は右手に握ったベルトを宙でたわませた。次の瞬間には、ベルトは柚子の首にかかっていた。渋沢は、髪をつかんだままの左手でベルトの一方の端をつかみ、全体重を両手にかけ、下へ引っ張った。  革のたわむ音に続いて、ぎゅっ、ときしむ音がした。柚子の首は、ベルトと鉄格子に挟まれ、固定された。 「ちくしょう。おまえこそ縛り首にしてやる」  渋沢の手に力がこめられる。柚子が、足をばたつかせ、ベルトをゆるめようと必死に両手で喉元《のどもと》をかきむしる。めくれあがったスカートから、ガードルがのぞき、ガードルから太腿《ふともも》の贅肉《ぜいにく》がはみ出ている。 「やめて!」  美里は、柚子の首の後ろに回ったベルトに手をかけた。首から引き離そうとする。だが、全体重で下に引っ張る重力にはかなわない。ガソリンの匂《にお》いが鼻をついて、吐き気が起きた。 「いいのか、あなたは」  渋沢が、荒い息に声を弾ませて言った。「この狂った女に、一生、とりつかれたいのか?」  美里の指先から、わずかに力が抜けた。歪《ゆが》んだ柚子の顔が横向きになった。渋沢が引っ張る力を強める。柚子の顔が苦痛にさらに歪む。その目が、力を弱めた美里の視線をとらえた。顔も目も赤黒く充血していた。  彼女の視線から逃れるために、美里は、ドアのところまでひと息にあとずさった。床に立てられた貝殻の燭台《しよくだい》、揺れるろうそくの火。 「ろうそくを消せ」  渋沢が、地の底から命令した。そうすべきだ、とわかっているのに、美里の身体は動かない。 「何してんだよ。早く、この女を縛ってくれ。何かそのへんにあるだろ?」 「え、ええ」 「そしたら、鍵《かぎ》を探して開けてくれ。それから、警察に電話だ」 「…………」 「何してんだよ、早くしろよ。こいつ、死んじまうぞ。死んでもいいのか?」  美里は、せかされて、ドアのノブをつかんだ。  ——死んでしまう?  その言葉が脳裏《のうり》に焼きついた。  ——柚子さんが死ねば。  ふと思った。わたしがいちばん望んでいたのは、それだった。彼女がいるかぎり、自分は一生彼女につきまとわれる。それだったらいっそ……と、何度か考えたではないか。  ——助けて、ミサちゃん。  柚子の声が、脳裏にこだまする。  ——彼女を助けたら……。  どうなるか、想像してみた。彼女はまた、渋沢を殺そうとするかもしれない。殺してしまったら、いや、殺さなくても、自分と彼女は、殺人未遂、あるいは、拉致《らち》・監禁・暴行の共犯者だ。  ——共犯者は厄介な存在、危険な存在。  という言葉が、連想ゲームのように頭に浮かぶ。逮捕されて口裏を合わせるのも大変なら、一生秘密を守り通すのも大変だ。いつ一方が他方の脅迫者になるかしれない。共犯者などいないほうがいい。  ——しかし、いま、渋沢を助けても同じだ。彼に対して柚子さんが与えた暴行の共犯者、としてのわたしの罪は消えない。助けられた彼は、どううそをつくかわかったものではない。彼もまた歪んでいる。わたしが身につけていた下着を……大事にクロゼットにしまっておくような性的倒錯者なのだから。このまま力を弱めずに柚子さんを殺して、ここを出たあと、「正当防衛だと証言してくれ。秘密を共有しよう」と持ちかけてくるかもしれない。  短い時間で、美里はあわただしく計算した。  ——いま、ほら、そこにある燭台を倒してしまいなさい。  悪魔が美里の耳元でささやいた。床にはガソリンがこぼれている。ろうそくの火が燃え移れば、一瞬で、あたりは炎に包まれるはずだ。閉じ込められて逃げられない渋沢はもちろん、ベルトで首を絞められた柚子も……。  美里は、爪先から数メートルのところで灯《とも》っているろうそくの炎を見た。見つめていると、炎に吸い込まれそうだ。  ——ばかな考えはやめなさい。  美里は、激しくかぶりを振り、次々に生まれてくる考えを追い払った。 「おい、早くしろ」  その声が合図になって、美里はドアを開けた。  部屋の外から冷気が入り込んできた。ふわっと耳元が涼しくなった。  ぼわっ、と背後で音がした。  背中に熱を感じた。その熱が、氷のような冷たさに変わったとき、美里は息を止めて振り返った。  あたり一面、炎に包まれていた。  夢中できびすを返した。 「ミサちゃん」  炎の中に柚子の声を聞いた気がした。  広間に置いてあったバッグをつかんで、玄関から逃げ出す。外に避難したときには、吹き抜けの窓から炎が噴き出していた。驚くほどの早さで建物に火が回ったのだ。  燃え盛る様子を呆然《ぼうぜん》と見ていた。ああ、早く警察に、消防に知らせなくては。そう気がついて、携帯電話を取り出そうとバッグの中を探ったとき、すぐ上で鳥の羽ばたきがした。  身がすくんだ。指が止まった。  ——わたしは、これに似た光景を以前、目にしている。  美里は、不意に感じた。いや、感じたのではなく、ようやく思い出したのだった。  エピローグ   1  門倉美佐は、娘の二歳の誕生日にどんなケーキを焼こうか、リビングルームのソファに座ってぼんやり考えていた。  娘の里央《りお》は、テーブルで一生懸命、お絵描《えか》きをしている。一歳の誕生日を迎える前から、彼女のオモチャはクレヨンだった。クレヨンと紙さえあれば、ご機嫌な子なのだ。 「蛙《かえる》の子は蛙、ね」  美佐は、目を細めて娘を見た。わが子の成長に、彼女は満足していた。よその子に比べて言葉を話すのも早ければ、絵や文字に関心を示したのも早い。絵は二歳前の子とは思えないくらい、デッサン力が優れている。 「イラストレーターの父親の血と、小説家の母親の血」  対になる言葉を無意識に口にした自分に気づき、美佐はふっと懐かしさと寂しさにとらわれた。  小説家の母親、のほうは、いまはもういない。  門倉美佐は、娘を妊娠する一年前に、筆を折っていた。そのころはまだ入籍しておらず、彼女の本名は、坂井美佐、筆名は「仁科美里」だった。それより少し前に、「雨宮麗」という筆名とも縁を切っていた。  里央は早熟で、いまから「大きくなったら、絵描きになるの」と勝手に決めている。絵描きであって小説家でないのが、母親としては嬉《うれ》しいような、悲しいような複雑な気分だ。  けれども美佐は、娘に早期教育を施すようなまねはしたくなかった。ひらがなが読めるからといって、字を書く練習をさせたくはないし、数字が読めるからといって、たし算やひき算を二歳の子に教えるつもりもなかった。そんなことは不可能に近いのだが、美佐は、できることなら娘を家の中に閉じ込めておきたかった。そして、毎日、彼女の好きなことだけをやらせてあげたかった。  里央は、緑色に染まった小さな指を、一心不乱に動かしている。昨日、描いていたのは赤いチューリップだった。その前の日は黄色いチューリップ。さらにその前の日は、ピンク色のバラ。里央は、なぜか一日中、黄色い花なら黄色い花、ピンクのドレスならピンクのドレス、と同じものばかり熱心に描き続けるのが癖だ。  緑のクレヨンを使っているのなら何だろう。木々の生い茂った森か……。 「何描いてるの?」  美佐は、膝《ひざ》に乗せていた料理の本を脇《わき》に置いて、わが子のそばへ行った。  里央が描いていたのは、花でも森でもドレスでもなかった。  緑色の蛙のような、カブト虫のような不思議な形の虫を描いていた。蛙でないとわかったのは、彼女がそれに触角のようなものを書き加えていたからだ。 「それ、何?」 「お薬よ」 「お薬って、風邪のときに飲んだりする?」 「うん」 「でも、それ、虫みたいだけど」 「これをつぶして、お鍋《なべ》でぐつぐつして、冷まして飲んだの」  ——飲んだの。  と、里央が過去形で語ったことに、美佐は引っかかった。そういう奇妙な夢でも見たのだろうか。が、不気味な夢を見たにしては、表情があっけらかんとしている。 「葉っぱも入れたけどね」  そう言って、里央は、蛙に似た虫の隣に、大きな葉っぱを描いた。虫が食っているところなど、とてもリアルな画風だ。 「里央ちゃんが飲んだの?」 「うん」 「いつ?」 「里央が魔女だったとき」 「魔女?」  心臓が脈打った。魔女なんて言葉を、この子はいったいどこで覚えたのだろうか。教えた記憶はない。いままで読み聞かせた本には、「魔法使い」という表現は出てきたが、「魔女」という言葉はなかったはずだ。  ——きっとテレビで聞いたか、誰か遊びに来たおとなにでも聞いたんだろう。  美佐は、無理やりそう思い込もうとした。里央が魔女だったときっていつ? とも、魔女だったときは何をしていたの? ともあえて質問を重ねなかった。  ふつうのおとなであれば、興味を持って、根掘り葉掘りわが子に聞いたかもしれない。だが、美佐はそうしなかった。自分の娘が、自分のように前世の記憶を持った子であってほしくなかったのだ。  ——あと何年かすれば、そんな記憶、忘れてしまうはずだわ。  それまで、なるべく彼女を刺激しないようにすればいい。彼女の前世に触れる話題など出さなければいいのだ。  前世の記憶を語る子供は、ほとんどが二、三歳児で、大きな子でも五歳児までに限られるという。  美佐は、〈生まれ変わり〉について書かれた本にあった記述を思い出した。人間には、前世で心に刻み込まれた記憶が備わっていて、二、三歳のころまではその記憶が残っている子が多いという。しかし、子供たちが前世について語り出しても、両親が子供の想像力の産物として片づけてしまい、真剣に話を聞かないケースがほとんどだ。学校にあがる前までには、前世の記憶は薄れ、やがてまったく思い出さなくなる。覚えなくてはいけない事柄が増えていくにつれ、誕生前の記憶は心の後ろに追われ、潜在意識へ押しやられてしまうから、というのがその理由のようだ。  美佐は、自分がいまの人生を送る前の生涯で、どんな死に方をしたか、燃え盛る炎を前に、あのときはっきりと思い出していたのだった。  彼女は、前世で、火事で焼け死んでいた。六歳の誕生日を迎える前のことだ。——家族の留守中、飼っていたインコを家の中に放した。そのインコは、仏壇のところへ飛んで行った。仏壇には、遺影が飾ってあり、線香の匂《にお》いが漂っている。ろうそくには火が灯《とも》されている。美佐が、いたずらしてつけたのだ。玄関のほうで、がたんと音がした。美佐は驚いて振り返る。インコも音に驚いて、舞い上がった。その拍子に、ろうそくが傾いた。仏壇に供えてあった和菓子を包んだ紙に火がつく。火は、隣の供花に燃え移り、そして……。五歳の美佐は、なすすべがなかった。家族の留守中に叱《しか》られる、大変なことになる。逃げることよりも、インコを救い出さなければ、という思いでいっぱいだった。インコは部屋の中を、ばたばたと羽ばたきを響かせながら飛び回っていた。やがて、煙が充満し、美佐は息苦しくなって……。  たぶん、自分は過去の人生で焼死という最期を迎えたのだろう。どういう時代にどこで生まれ、どういう家族に囲まれ、何ていう名前を持っていたのかの記憶はないが、自分が迎えた最期だけは、あの火事ではっきりと記憶が呼び覚まされた。三歳のころ、母親に語ったという内容——美佐とインコのせいで、おうちは焼けちゃった——と合致する。自分がなぜ、あんなに鳥が嫌いだったのか、とりわけ羽ばたきを嫌悪していたのか、その理由が納得できた。  記憶がよみがえった瞬間の苦しさを、美佐は忘れてはいない。人間は、前世の記憶など、すっかり消し去って、次の新しい人生をせいいっぱい生きるべきなのだ。そのほうが幸せなのだ、と思っている。  ——だから、あなたも早く、前世の記憶など忘れてしまったほうがいいのよ。  緑色のクレヨンをしっかり握った里央に、美佐は内心で語りかけた。里央の場合は、前世では魔女だったというから、記憶しているにしても、ずっと昔の時代の人生に違いない。しかも、日本の地ではない。そのことに美佐は安堵《あんど》を覚えていた。人間の魂は、宿る肉体を変えて、何度も生まれ変わりを繰り返すものだ、と本にあったからだ。死んだ魂は、次の人生の計画をたてたのち、両親となるべき人の結婚や母となるべき人の妊娠を待って、ふたたび胎児の中へ入っていくというのだ。その際、なぜか妊娠三か月ごろの妊婦が選ばれやすい。前世で死んでから生まれ変わるまでの期間は、数年から十数年、二十年程度が多いようだ。  里央が「昔、絵描きだったの」とか「看護婦だったの」と言ったら、美佐はもっと驚いていたに違いない。魔女などという現実離れした〈職業〉でよかった。子供の空想、で片づけようと思えば、片づけられる。  ——あの子に、一つ前の前世を記憶されていたりしたら……。  美佐が恐れていたのは、そこだった。前世の記憶を突然、語り出す子供は、前世で悲劇的な死に方をしている場合が多い、というのだ。美佐のケースもそれにあてはまる。そして、仁科柚子のケースも同じだった。ろうそくの火がガソリンに引火し、それが彼女の髪や衣類に燃え移って、彼女は焼死した。もちろん、食品庫に閉じ込められていた渋沢もだ。  当時、美佐は、まだ作家の仁科美里だった。警察に事情を聞かれて、正直にすべての経過を話した。推理小説を書いている人間として、事故や事件の場合は、「うそをついたり、創作したりせず、ありのままをしゃべったほうがいい」と知っていたからだった。ありのままを話したからこそ、信用してもらえた。仁科柚子の狂気については、彼女の元夫の飯森憲明と、当時はまだ婚約者だった門倉千晶が証言してくれた。マンションの管理人も、柚子に渋沢の勤務先を尋ねられて教えたことを証言した。柚子に口止めされ、もらった菓子折りの底に一万円札が何枚か入っていたことも。105号室の渋沢|秀行《ひでゆき》の部屋からは、夥《おびただ》しい数の女性の下着が出てきた。彼が数百万の借金を作っていたことも明らかになった。  火災の原因について、美佐はこう語った。 「ろうそくがどうして倒れたのか、わかりません。ただ、一刻も早く警察に連絡しなくては、と思い、電話をかけようと部屋を出たんです。電話の場所は知りませんでした。でも、たぶん、玄関を入った広間にあるだろうと思いました。なかったら、広間に置いてあったバッグから、自分の携帯電話を取り出すつもりでした。部屋を出た瞬間、背後で炎が燃え上がりました」  坂井美佐に刑事責任は問われなかった。問われたのは、「なぜ、あんな悲劇的な事態を迎える前に、仁科柚子を制止できなかったのか」という点であった。美佐は、民事上の責任を痛感し、その責任を果たす意味で、柚子から受け継いだ財産——柚子が遺産相続人に美佐を指定していた——の一部を現金化して、被害者の渋沢の遺族へ慰謝料として払った。そして、残りをすべて社会福祉施設に寄付した。  作家・仁科美里は、自分がかかわった事件の制裁を受けた。小説が一行たりとも書けなくなってしまったのである。パソコン画面の前に座り、文字を打とうとすると、どういうわけか指が震え出してしまうのだ。料理や洗濯など、家事にはまったく支障がないというのに。  美佐は、これが自分が受けた報いなのだ、と冷静に受け止めた。それだけの罪を、自分は犯してしまった。  それからしばらくして、美佐は門倉と結婚した。一年後に妊娠。生まれたのが、いまから絵描きになると言っているこの里央である。いまはもういない作家・仁科美里の一字を取って、里央と名づけた。  その里央は、あいかわらず緑色の虫を描き続けている。一つ描き終えると、もう一つ。紙がいっぱいになると、次の紙。  美佐は、娘の白桃のような頬《ほお》を穴が開かんばかりに見つめた。どう見ても、わが子の中に、柚子の面影など見出せはしない。  ——そんなはず、ないわよね。  美佐は、自分の胸に強く言い聞かせた。  もう一つ、恐れていたことがあったのだ。ソウル・メイト——という言葉である。  一つの生涯で親密な関係にあった魂は、次の生涯でも出会う可能性がかなり高い、というのだ。学者が子供たちを調査した中には、曾祖母《そうそぼ》が娘として生まれ変わったケースや、過去に殺した男が現世では自分の母親になっているケースなどが報告されている。信じられないような話ではあるが、自分も三歳のときに前世らしき記憶を母親に語った事実のある美佐は、そんなばかな話、と一笑に付せなかった。  ——過去に殺した女が、自分の娘になって……。 「やっぱり、そんなはずないわよね」  気がついたら、美佐はつぶやいていた。 「ママ、どうしたの?」  里央が顔を上げた。下を向きすぎていたためか、柔らかそうな頬が紅潮している。 「ううん、何でもないの。いっぱいお絵描きしなさい」   2  娘が三歳になった一週間後。 「なあ、今度の休み、みんなでキャンプに行かないか?」  釣具の手入れをしていた夫が、キッチンにいた妻に言った。 「キャンプ? まだ里央には早いんじゃないの」 「早くないよ。子供にはいまからいろんな体験をさせておいたほうがいいのさ。だいたい、君は、里央を家の中に閉じ込めておきすぎるよ。あの子、友達だってほとんどいないし。あれじゃ可哀《かわい》そうだよ」  自分が娘の行動範囲を狭めているのは、充分わかっている。美佐は、里央を外に連れ出して、いろいろな刺激に触れさせるのが怖かったのだ。とくに、火と水には近づけないように気をつけていた。火事、たき火、キャンプファイア、プール、海、川……。  門倉は、とても子煩悩な父親である。美佐が妊娠したと知ると、「部屋の空気を汚すと、胎児に悪影響を与えるからな」と言い、すっぱり煙草《たばこ》をやめた。結婚してはじめて、彼に釣りの趣味があるのを知った。暇があると釣りに出かけるのだが、「ねえ、みんなで一緒に行かないか?」と誘われても、そのたびに美佐は「あなたが釣りをするのを、里央と二人、ただ見てるなんてつまんないわ」と言って断ってきた。だが、子供が成長すれば、外界に興味を持つようになる。友達もできる。いつまでも、家庭で一人遊びさせておくわけにはいかない。山に海に、ドライブに出かける機会もあるだろう。  ——この子が、前世の記憶を思い出しさえしなければいいのよ。  美佐は、自分が心配しすぎているのではないか、と思った。一年前のあの日以降、里央は、自分の前世を匂《にお》わせるような発言は一切していないし、魔女に関する絵も一枚も描いていない。やはり、あれは、彼女の空想話かもしれなかった。何も里央が前世の記憶を持つ子供だとわかっているわけではないし、たとえ前世の記憶を持っていたとしても、それが「仁科柚子」時代の記憶だと決まっているわけでもない。  里央はいま三歳。あと二年くらいは、なるべく外界の刺激を受けないような生活をさせたいが、ここは山奥の一軒家ではない。里央も自然と友達がほしくなるだろうし、幼稚園にも行きたがるかもしれない。  ——仁科柚子が生まれ変わって娘になった、という発想をすること自体がおかしいんだわ。  なぜ、そんな突拍子もない考え方をしてしまうのか。仁科柚子が自分に対して抱いていた、あの異常なまでの執着心のせいだ。美佐はそう気づいて、怖くなる。死んでもまだ、柚子は自分を追いかけて来る。もしかしたらわたしの身体《からだ》は、彼女の幻影を追い払うために、作家であることを無意識のうちにやめてしまったのではないか。作家でなくなれば、柚子は自分に執着しなくなる。なぜなら、美佐が「仁科美里」という作家の座を降りた瞬間に、柚子は愛読者ではいられなくなるからだ。 「ねえ、キャンプって何? 里央も行ってみたい」  ドアのところで弾んだ声が上がって、柚子のことを考えていた美佐は我に返った。寝かしつけたと思ったのに、里央が起きて来て、リビングルームのドアからちょこんと顔をのぞかせている。 「おう、おもしろいぞ。はんごうでご飯を炊いて、外で食べるんだ。おかずは、パパがおいしい魚でも釣ってやろう」 「わあっ、おもしろそう」  里央は、父親の胸に飛び込んできた。門倉は、嬉《うれ》しそうに娘を抱き上げた。   3 「ねえ、ママ」  小さな手で幼児用の包丁を握り、カレーに入れるじゃがいもを切っていた里央が、ふっと美佐に顔を振り向けた。  その瞬間、美佐は嫌な予感に襲われた。自分を見る娘の目に、いままで見たことのない真剣な色が宿っていたからだ。そして……何かにとりつかれているようにも見えた。 「パパ、お魚、釣れると思う?」  あわてて、美佐は娘の関心をそらした。「釣れるわけないよね。いままで、ちゃんと釣って来たためしがないんだもの。まあ、だからこうして、カレーなんか作ってるんだけどね」 「パパは川が好きなんだね」  里央は、母親の話などまるで聞いていないようだった。つぶやくように言って、視線を前方の川に向ける。  イラストレーターの門倉は、平日に休みをとろうと思えばとれる。東京郊外にある多摩《たま》川べりのオート・キャンプ場。平日ゆえにすいている。天気に恵まれ、風はない。絶好の行楽日和だ。 「里央は……川が嫌いだったんだよ。里央は、本が大好きだったんだよ」  娘の唐突な言葉に、美佐の心臓は脈打った。川と本。なぜ、この二つでなければならないのだ。なぜ、彼女は過去形で語っているのだ。  母親の動揺などおかまいなしに、里央の可愛《かわい》い唇からはするすると言葉があふれ出てきた。「里央ね、ずっと昔、川のそばを歩いていたの。そのとき、本を持っていたの。本には、名前が書いてあったんだ」 「何て?」恐怖より好奇心が勝って、美佐は聞いた。 「むずかしい漢字の横に、ひらがなで、ゆずこ、って書いてあった」  ——柚子。  どくどく、とこめかみを打つ脈の音が耳に響く。上田で、柚子について聞いた話を思い出す。柚子には妹がいたが、千曲川の河原で遊んでいて、足を滑らせて溺《おぼ》れ死んでしまったという。もしかしたら、いま里央は、そのときの状況について語っているのではないか。  ——でも、そんなことが……。 「里央がその本を破いちゃったの。お姉ちゃんは怒って、本を取り上げた。お姉ちゃんの本だったから」 「お姉ちゃん?」  柚子は姉で、妹は「ミサ」だった。  ——じゃあ、もしかしてこの子は。でも、まさか……。 「お姉ちゃんが憎くて、里央はお姉ちゃんにぶつかったの。そしたら、お姉ちゃんもまたどんとぶつかって来て。里央、川に落ちちゃった。泳げなくて、水をいっぱい飲んで」 「死んだの?」  喉《のど》が渇いて、うまく発音できなかった。  里央は、こくりとうなずいて言った。「それで、すごく明るいところに行って、ちょっとたったら、今度は暗いところに行って……。で、気がついたら、ママのお腹の中にいたんだ。いろんな音が聞こえてた。お皿がガシャガシャぶつかる音や、きれいな音楽や、ガガガガッていう音や」  妊娠中に、マンションのすぐ前で長期間、水道工事が行われていた。 「それは、里央がママの子として生まれて来る前の話ね?」  美佐は、目線を子供の高さにして聞いた。 「うん。前も里央、女の子だったんだよ。ママと同じ名前だった。お姉ちゃんがいて、お姉ちゃんは毎晩、里央に本を読んでくれてた。お姉ちゃんは言ってたよ。『大きくなったら、小説家になるんだ』って。だけど、お姉ちゃんはときどきすごく怖くて、里央がお姉ちゃんの本を読んだりすると怒った。『勝手に持って行かないで』って。本を汚したときもすごく怒られた。だから、お姉ちゃんは里央を……」  それ以上言わなくていい。美佐は、娘の唇を手のひらで軽くふさいだ。  ——わたしも柚子さん、あなたと同じなのね。犯した罪の大きさに、押しつぶされそうになっていたのね。それで、あなたの心は……。  涙がまぶたに盛り上がるのを感じながら、美佐は柚子にあやまった。  ——このドアを勢いよく開けたら、風が巻き起こるかもしれない。風が床に立ったろうそくの炎を消すかもしれないし、消さないかもしれない。その風がろうそくを倒し、ろうそくの火が床にまかれたガソリンに届いて引火するかもしれないし、引火しないかもしれない。  ある可能性を願って、キッチンのドアを開けた瞬間の自分の心こそ、何よりも怖いのだと、美佐はいま知った。  美佐は、二十数年前に「ミサ」だった里央を、柚子のかわりにきつく抱き締めた。 角川文庫『愛読者』平成10年12月10日初版発行          平成11年11月30日5版発行