新津きよみ 女友達 目 次  プロローグ 1 人形        2 指  第一部 再 生   幕 間  第二部 熟 成   幕 間  第三部 破 壊  エピローグ  プロローグ    1 人形  その人形は、少女が三歳になった誕生日に、父方の祖母から贈られたものであった。  子犬ほどの大きさのある布製の人形。ワインカラーのベルベットのドレスの裾《すそ》から、白いレースがのぞき、襟元を白いフリルが飾っている。  目は黒いが、異国の匂《にお》いのする人形。  はじめて見たとき、幼かった彼女の目にそれは不気味に映った。けれども彼女は、周囲の大人の会話から、その人形がなんだかとてつもなく価値のあるもの、ということだけは感じ取っていて、そのためだけに大事にしていたようなところがあった。  少女はこの春、小学校二年に進級する予定だった。三月に急に、父親の転勤が決まった。盛岡から東京へ引っ越すことになった。「パパは、本社に戻ることになったのよ。おうちも改築してきれいにするのよ」と、家の中でいちばん喜んでいたのが母親だった。  引っ越しにあたって整理を始めた。少女の母親は、父親の使っていた古い機種のタイプライターと革が破れたソファを捨てると言った。 「あなたももう使わなくなったもの、整理しなさい」  使わなくなったもの、古くなったものの中に、その人形も含まれていた。ワンピースには虫食いの穴があき、顔の黒ずんだ汚れは布の内部にまで浸透してしまっていた。 「もうそんな子供っぽいもの、捨てちゃいなさい」  母親はそう言った。  彼女も、もう充分な時間をその人形と過ごした思いがした。贈ってくれた祖母も、昨年、死んだ。  最近は、なんだか嫌悪感まで抱きそうになっていた。それを見ると、三歳からいままでの嫌な思い出の一つ一つが引き出される気がしたのだ。ピアノの発表会で音を弾きはずしたことを母親に叱《しか》られ、部屋で唇を噛《か》み締めたときにこの人形が涼しい顔でじっと見つめていたこと。リレーの選手から漏れた日に、かすかに人形の唇に微笑が宿ったように見えたこと。  少女は、ゴミ捨て場になっていた場所に、その人形を捨てた。    引っ越しの前日、家の中はあわただしかった。人形のことなど忘れてしまっていた。友達にさよならを言いに行きなさい、と言われ、外に出た少女は、あの人形に再会した。  途中の公園で見たことのない女の子が、あの人形を抱いていた。着ているものは違ったけれど、顔の汚れは薄れていたけれど、自分の捨てた人形だと少女は直感した。匂いでわかった。  小学校に上がる前の子供だろう。眉毛《まゆげ》の上で裁ちばさみで切り揃《そろ》えたような髪をした、足の太いずんどうな子だった。背丈はあるが、顔つきの幼さで、少女はその子が自分よりいくつか年下なのを知ったのだ。 「それ、どうしたの?」  少女は聞いた。 「もらったの」  と、人形を抱いた子は言った。 「うそ、拾ったんでしょう?」 「ううん、もらったの」 「誰から?」 「お姉ちゃんから」 「うそ」 「うそじゃない」 「返してよ」  少女は、かつて自分のものだった人形を、女の子の胸から取り上げた。 「返して、それ、あたしの」  女の子は泣きべそをかいた。 「泥棒!」  少女は、女の子の胸をこづいた。女の子はよろめいた。  人形は家には持ち帰らなかった。小学校へ行き、校庭の裏の焼却炉に放り込んだ。胸がすっとしたと同時に、胸の周辺の肉をごっそりそぎ落とされたような痛みを感じた。それが罪悪感と呼ばれるものだとは、このとき少女にはまだわからなかった。  少女は、形ばかり手を合わせた。自分はいいことをしたのだ。大人がみんなしているようなことをしたのだ。ただそれだけだ、と思おうとした。  死んだら焼く——当然のことだ。少女は、最初からこうすべきだったのだ、と思った。これからは、拾われないように捨てるのだということを、七歳の少女はこのとき学んだ。    2 指  一見、それは、ふつうの刺殺死体だと思われた。現場に凶器は残されていない。腹部と胸部に合計、五か所の刺し傷。  現場に入った捜査官は誰でも、怨恨《えんこん》による犯行だと思った。室内からは何も盗まれた痕跡《こんせき》はなかった。財布の中の二万円は手つかずだった。  被害者は、影山緑《かげやまみどり》、二十六歳。看護婦。現場は、練馬《ねりま》区|上石神井《かみしやくじい》の自宅アパート『光風ハイツ』202号室。  死体には、指が一本なかった。左手の薬指が、ほぼ根元から切断されていた。  検死の結果、死後、切断されたものと思われた。  その夜から、被害者と生前、交際のあった菊地哲史《きくちてつし》、二十八歳が行方不明になった。被害者の友人によれば、犯行よりひと月ほど前に、影山緑は菊地哲史と別れることを決心していたという。  別れ話を切り出されて、カッとしたあげくの恋人による犯行として、菊地哲史は指名手配された。現場には、菊地哲史の指紋がべたべたと残り、被害者の膣内《ちつない》からは精液まで検出され、彼の血液型と一致した。   『猟奇殺人、恋人の左手薬指を切断! 容疑者逃走中』  菊地哲史は、三か月後の現在も、依然、行方不明のままである。  第一部 再 生     1  今村千鶴《いまむらちづる》は、使うつもりのないブランド品のティーカップを前に、ため息をついた。二客あるから、いわゆるペアカップと呼ばれるものだろう。  結婚披露宴の引き出物がこれだった。  花柄の白いカップと、揃《そろ》いの柄の受け皿の周囲に、金の縁どりが施されている。千鶴は、この絵付けに金色が入ったものが嫌いなのだった。口の触れる場所にある金は、何度か洗ううちに手前から剥《は》げてくる。少量ずつでも体内に金を取り入れているということだ。そのことには我慢できるが、部分的に色褪《いろあ》せたカップは美的ではない。  使わなければいいじゃないの。飾りにすれば。——そう思って、千鶴は、二客をいろいろなところに置いてみた。  食器棚の一番上の段。本棚の三段目の陶器の人形や花瓶を置いてあるところ。大きな鏡がついたドレッサーの上。カウンターの上。  しかし、やはりそれは浮いて見えた。1LDKの部屋のどこに置いても、しっくり溶け込まない。  それもそのはずだ。この三年間、千鶴が買い揃えた食器の類《たぐい》といえば、白地に青の絵付けがされたものばかりである。一客何万円もするようなマイセンの類はさすがに少なかったが、安いものでもすべて自分のセンスで選んだという自負があった。大皿、取り皿、スープ皿もいずれも英国調の白地に青だ。メイド・イン・イングランドの皿もあれば、中国製や、日本製のものもある。  ブランドにはこだわらない。彼女がこだわるのは、その色合いであった。和食器でも、青や藍色《あいいろ》を基調にしたものを選ぶ。玄関に飾ってある青磁の壺《つぼ》は、たまにのぞく骨董《こつとう》屋で見つけた。掘り出し物ではあったが、買う決意をするまでに一か月かかった。  食器棚やリビングボードのガラスからのぞく白と青の調和を壊さないように、室内のインテリアは同色でまとめている。ダイニングテーブルに敷いたクロスは、日本の藍染めだが、英国風のブルーにぴたりと合っている。ブルーが嫌みだと思われるところは、うるさくないベージュを組み合わせている。たとえば、ブルーのクッションにベージュのそれを並べてみたり。  どこで作られたものだろうと、全体的には、落ち着いた東洋的なムードで統一され、そこに英国ムードがほどよく流れ込んでいる感じだ。どう見ても、白地に鮮やかな花柄の、しかも金色の縁どりのあるティーカップはそぐわない。  千鶴は、ペアカップを箱に戻した。もらったばかりでどこかのバザーに出すのも後ろめたいので、押し入れに眠ることになるだろう。  そう決めたとたん、疲労が彼女を包んだ。披露宴に出ただけで目的は果たしたわけだが、新潟まで日帰りで行って来た収穫がゼロにされた気がして、思わず愚痴をこぼしたくなった。  出費は新幹線の往復代とお祝い金の三万円。これなら、見栄をはって三万円にせずに、相場の二万円にすればよかった。東京の短大を出て、東京で仕事をしている——それだけの見栄のために一万円追加したのだ。  郷里の高校で同級生だった橘教子《たちばなきようこ》の結婚披露宴は、新潟市内の結婚式専門の会館で行われた。和洋折衷の料理。飲み物は、ビールにジュースに日本酒。シャンパンもワインもなし。白無垢《しろむく》で出迎えて、色打ち掛けに替えて入場、お色直しは自前の振り袖《そで》にレンタルのウエディングドレスという、めまぐるしく花嫁の装いが変わる、けれどもあとで聞いたら「これがふつう」だという披露宴であった。  明日の仕事があるから、と二次会に誘われたのを辞退して、六時の新幹線に飛び乗った。 「千鶴、気に入ってくれるかな。だって、インテリア・コーディネーターなんていうカッコいい仕事してるんだもん。選ぶとき、千鶴の顔ばかりちらついちゃって」  帰りぎわ、かさばる紙袋を提げた千鶴に、まじめそうな新郎と並んだウエディングドレス姿の教子は言った。 「でもね、そんなに悪くないと思う。主人と一緒に選んだものだし、ねえ」  主人——教子の夫になった男は、新潟市内では一番大きいデパートに勤務しているという。そういうデパートで選んだものだからセンスのいい品に決まっている、あなたも文句のつけようがないわよ、と教子の目が幸せそうに輝いていた。  そのとおり。けっしてセンスの悪いティーカップではなかったが、色彩鮮やかな花柄、おまけに金を使っているという点で、千鶴の趣味からはずれていた。  パジャマに着替えて、ベッドに倒れ込む。  二十九歳。唐突に、自分の年齢を思った。2と9の数字が、水色のクロスを張った天井に浮き出たかのように見えた。  教子は二十九歳で結婚した。「田舎では、ものすごいプレッシャーなのよ、この年齢って」と、二十八歳の誕生日に教子は電話で言い、二十九歳になる四か月前に見合いをし、二十九歳と二か月で早々と結婚式を挙げてしまった。相手のデパート社員は、三十二歳。  会わなくなって二年になる吉川智樹《よしかわともき》と同い年だ。  吉川の顔が、ぼんやりと頭に浮かんで、千鶴は強くかぶりを振った。自分から見切りをつけたはずの男である。友達の結婚式に出て、表面的にでも幸せを見せつけられ、趣味でない引き出物を新潟から抱えて帰って来たとはいえ、うっぷんを晴らすためや寂しさを紛らすために思い出すべき男ではない。  ——この二年間、誰も男を招き入れていないわたしだけの空間。  桜上水《さくらじようすい》にある1LDKの賃貸マンション。自分の好きなもので埋め尽くされた愛《いと》しい空間。いまは、この空間で孤独を楽しむときなのだ。仕事は充実しているではないか。二十九という数字のマジックに惑わされてはいけない。千鶴はそう思った。  シャワーを浴びようと、千鶴はベッドを出た。帰りが遅くなり、そのまま寝てしまって、シャワーは翌朝浴びる。そんな生活を繰り返してきたが、セットした髪のべたつきが気持ち悪かった。  そのとき、部屋の隅のあのチェストが目についた。「わたしの愛しい空間」の調和を乱しているベンチ型のチェスト。横長の引き出しの上部が物入れになっている。物入れのふたを閉めると、二人掛けのベンチとして使える。だが、実際はベンチとしては使わず、ブルー系の糸で織られたインド綿の布を掛けて、その上に花瓶や写真立てを置いていた。ぬいぐるみなどを入れるために作られたチェストらしいが、子供がいるわけではなく、ぬいぐるみのコレクションの趣味もない千鶴には、物入れとして使うには中途半端な箱であった。  そして、なんと言っても、チェストの色が千鶴は気になって仕方がない。床やほかの家具はすべてダークブラウンなのに、チェストだけが明るいブラウンだ。布ですっぽりくるむのも見た目がうっとうしい。布からはみ出た部分が、ダークな色調の中でいやに目立つ。  ——すぱっと処分しなかったせいだわ。  千鶴は、憎々しげにチェストを見つめた。それは、吉川智樹からもらったものだった。彼の部屋には置ききれなくなったと言って、ある日、突然車で運んで来て、この部屋で自分の分身のように扱いだした。ラブソファを拒否して、ベンチの上に座布団を敷き、そこに座ってテレビを観たり、隣にグラスを置いて、アルコールを楽しんだりとくつろいでいた。  別れるときに送り返すか、捨てるかすべきだったのだ、と千鶴はいまさらながら思う。吉川が持ってきたときはライトブラウンの色さえも、新鮮に感じたものだ。それがいまは、調和を乱す邪魔な存在でしかない。前に進もうとする千鶴の髪を引っぱり、過去に引き戻そうとする厄介な存在だ。  ——やっぱり、捨てるべきね。  吉川がつけたひっかき傷や、ワインか何かをこぼしたしみや、ボールペンでこすった跡もある。  ——贈り主の男とはとっくに別れたんだから、思い出を捨てるためにも……。  粗大ゴミとして処分することに決めて、千鶴は浴室へ向かった。     2 「あの、それ、捨てるんですか?」  後ろから聞こえた声が、最初は自分にかけられたものだとは思わなかった。 「そのタンス、捨てるんですか?」  もう一度声がかかり、はじめて千鶴は振り返った。  同じ年頃の女性が立っていた。Tシャツにジーンズ姿。一見して、近所の住人と思える格好だ。だが、同じマンションの住人かどうかはわからなかった。千鶴は、両隣に住む人間さえも、女だということくらいは知っているが、年齢、職業などはいっさい知らないのだった。 「タンス? このチェストですか?」 「え? あ、ああ、チェストっていうんですか、それ」  彼女ははにかむように言って、「捨てるんですか?」ともう一度聞いた。 「ええ、粗大ゴミに出そうと思って。いいんでしょ? 電話したら、このへんは第二火曜日に集めるというもんだから」  責められているのかと思った。ゴミにうるさい人間は、半年ほど前に越して行った住人の中にもいた。 「あ、ええ、そうじゃなくて、あの……。捨てるのだったら、わたし、いただきたいなと思って」 「えっ、これを?」 「だめですか?」  彼女が生唾《なまつば》を呑《の》み込むのがわかった。拒絶されたときのショックが大きそうな人間だ、と千鶴は直感した。 「あ、いいですよ。だって、捨てるんですから。どうぞどうぞ、お使いください」  思いつめたような真剣な彼女の表情が、千鶴の口調をくだけさせた。一瞬、吉川の顔が頭をよぎったが、まだ未練があると認めたくなくて、言葉数が多くなった。 「本当にどうぞ、遠慮なく」 「よかった。そういうの、ほしかったんです」  彼女は、ホッとしたような顔をして、「見ていいですか?」と聞いた。 「ええ、もちろん。これ、ベンチ型チェストで、わりと便利なんです。引き出しの上に、物入れがついて。ほら」  千鶴はふたを開けてみせて、「ここにいっぱい入りますよ」と販売員のように説明した。 「へーえ、おもしろいですね。こういうの見たの、はじめてです」  彼女は、中腰になって、ライトブラウンのチェストに手を触れた。ぽってりと肉厚の手だった。太り過ぎというわけでもないが、二の腕や腰まわりに肉のついた体格のいい女性だ。背も高い。百七十センチはあるだろう。 「まだ使えるのに、いいんですか?」  ちらと不安げな色を目にのぞかせて、彼女は千鶴を見上げた。 「あ、いいんです。部屋がちょっと手狭になって。だいぶ傷もついたし。誰もいらないと言うものだから」  最初から人にあげるつもりはなかった。だが、まだ充分使えるものを捨てることに罪悪感がなくはないので、千鶴は言い訳した。 「じゃあ、遠慮なくいただきます」  彼女は、両腕を伸ばして抱え込もうとしたが、思い直したらしく立ち上がった。どこをどう持とうか迷っているふうだ。 「意外と重いんですよ。台車に乗せないと運べないと思います」  千鶴は、少し離れたところに置いてあった、マンションに備えつけの台車を取りに行った。玄関に運ぶまでが一苦労だったが、四階の廊下からエレベーターを使いここに来るまでは、台車のおかげで楽だった。 「あの……糸が」  と、後ろからまた彼女の声がした。 「えっ?」と、千鶴は振り向く。彼女の視線をたどり、キュロット・スカートの裾《すそ》に目をやる。裏地の糸がほつれて五センチほど垂れている。 「あら、何かに引っかけちゃったのかしら」 「わたし、やりましょうか」  遠慮がちに彼女は言ったが、両方の手のひらはもうこちらに差し出されていた。  千鶴はとっさには、何をどうやるのか呑み込めなかった。しかし、雰囲気につられてうなずくと、彼女は機敏な動作でかがみこみ、指先で器用に白い糸を操り、みるみるうちに糸玉を作って、丈夫そうな糸切り歯をはさみがわりにして残りの糸をかみ切った。 「これ以上ほつれないと思います。あとはかがってください」 「あ……ありがとう」  放心状態のようになって千鶴は礼を述べた。ふくよかな体格から受けるのっそりとした印象と、指先の器用さがそぐわない気がしたのだ。 「ああ、これ、どうぞお使いください」千鶴は、彼女の前に台車をゆっくりと滑らせた。 「わたし、このマンションじゃないんです。あそこの二階に一人で住んでいるんです」  あそこと彼女が指さしたのは、通りを隔てて建つ古びた木造アパートだった。窓から見るたびに、そろそろ建て替えればいいのに、といつも千鶴が思うその建物だ。  ——あそこの人なのか。  粗大ゴミは、マンションのゴミ置き場ではなく、通りに出すことになっているから、向かいのアパートから目についたのだろう。  戸惑いが顔色に出ないようにとあわてたあまり、気がついたらこう言っていた。 「じゃあ、一緒に運びましょうか」 「えっ? で、でも……」  彼女は面食らっている。 「一人じゃ無理ですよ。階段もあるし」  いいことをした、という満足感が千鶴にそう言わせた。仕事以外の日常の中で他人に感謝されることは、この都会ではそうないことだ。 「そうですか? じゃあ、お言葉に甘えて。すみません」 「ここを持つといいんです」  ベンチのふたの下の窪《くぼ》みにそれぞれ手をかけ、どっこいしょ、と持ち上げ、台車に乗せた。彼女の腕に筋肉が盛り上がった。  二人で台車を押して、通りを渡った。 『白金《しろがね》ハイツ』。  白金にあるわけでもないのに、変な名前。そう思っていたアパートだ。近くで見ると、ますますみすぼらしい。二階建ての建物は、燻《いぶ》したように黒ずんでいる。 「あそこの奥の部屋なんです、わたしのとこは」  彼女が、階段の下で部屋を指さした。 「それじゃ、がんばって上まで運びましょう。いいですか?」  部屋の主の彼女が上になり、千鶴が下になって、呼吸を合わせてゆっくりと階段を昇る。  前かがみになった彼女のTシャツの襟ぐりから、豊かな胸の谷間がのぞき、たっぷりした乳房がゆさゆさ揺れる。それは、ブラジャーでも押さえきれないほどのボリュームだった。  胸が大きいことには、彼女がチェストを持ち上げようとしたときから気づいていたが、こういう体勢になるとよけいに目立つ。最初からそういう色だったのか、洗ううちに色褪《いろあ》せたのか、サーモンピンクのTシャツの襟ぐりが、伸びきっているせいだ。  階段を昇りつめると、二人とも汗が噴き出てきた。  部屋の前まで運ぶ。木のドアの下が腐りかけている。 『重松《しげまつ》』  と表札があった。厚紙に黒いサインペンで書かれた、丸っこい小さな字。 「ありがとうございました。わざわざ運んでいただいて」  額の汗を拭《ふ》きながら、彼女が言った。千鶴が表札に視線を向けているのに気づいて、 「ああ、わたし、重松です。重松|亮子《りようこ》といいます」  顎《あご》を引きぎみにして名乗った。 「わたしは、今村。今村千鶴といいます」  彼女にならって、千鶴もフルネームを言った。 「大丈夫ですか? お部屋まで運ぶの、手伝いましょうか?」  入られるのを嫌がる人間もいる。新築する家の内装の打ち合わせを、絶対に自分の家ではやりたがらない主婦が多いのも、インテリア・コーディネーターという仕事がら千鶴は知っている。 「いいんです。あとはわたしがやりますから。ここまで運んでいただいただけでも助かりました。本当にありがとうございました」  重松亮子は頭を下げた。化粧っけのない彼女の顔が、Tシャツと同じような色に上気している。顔全体の面積のわりに小さな目。右目の涙道の下に、うっすらと小豆大のしみがあった。真っ白いスカートにこぼした墨汁を、一生懸命しみ抜きしたものの、抜けずに残った色のような淡い感じだった。色の白い女性だと千鶴は思った。 「じゃあ、またそのへんでお会いするかもしれませんね」  そう言って、千鶴は踵《きびす》を返した。  階段を降りかけてふと振り返ると、重松亮子は、軽々と一人でチェストを持ち上げていた。開け放しておいた玄関ドアに、重心をかけた右肩から先に滑り込ませるようにして消えた。  ——一人で持てたんじゃないの。力持ちなのね、彼女。  ——見かけによらず敏捷《びんしよう》で器用な人ね。  ちょっと不思議な女性。千鶴はそんな感想と印象を、同時に抱いた。    その夜、カーテンを閉めるときに、何げなく目の前の『白金ハイツ』を見た。二階の左端が重松亮子の部屋だ。玄関ドアの左に台所の窓がある。電気がついていた。カーテンはすでに引かれている。  こんな近くに住んでいて、彼女と顔を合わせたのは今日がはじめてだった。いや、すれ違う程度はあったかもしれないが、記憶にないということは、印象も薄かったのだ。生活サイクルが違えば、ほとんど顔を合わせることはない。彼女はあのチェストを、どこにどう置いたのだろう。  ——あの部屋に、けさまでここにあったチェストがあるんだ。  そう思うと、不思議な気がした。吉川智樹が、幾度となくその上に尻《しり》を載せ、ワイングラスやビアジョッキ、ウイスキーグラスを置いたベンチ型チェストである。  彼の愛用していたものを、とうとうこの部屋から追放してしまった。わたしは、〈彼〉をすべて捨てきった、ということなのだ。粗大ゴミとして捨て、見も知らぬ女にくれてやった。  彼の〈元所有物〉を邪険に扱ってやったことが、千鶴にサディスティックな快感を与えていた。  ——これでもう、いまごろ彼は何をしているんだろう、とも考えなくなるわ。  千鶴は、一抹の寂しさと、それを吹き飛ばすような解放感のようなものを味わって、その夜、とっておきのワインを一人、藍色《あいいろ》切子のグラスで飲んだ。     3  次に千鶴が重松亮子に会ったのは、一週間後の火曜日だった。桜上水の駅前のパン屋に入ったら、亮子がいてレジで精算しているところだった。背後からのぞくと、彼女のトレイには、袋詰めになったロールパンが載っていた。たしか五つ入りのもので、バラで買うよりお得なはずだ。  声をかける前に、亮子が店員に言った。 「それ、もらっていいですか?」 「ああ、どうぞ」  亮子の手に渡されたのは、こちらも袋詰めのパンの耳だった。ただしこちらは、店の名入りでない透明なビニール袋に入っている。レジの横の棚の上に、『ご自由にお持ちください』と書かれて、つねに何袋か並べてある。サンドイッチを作ったときに出る食パンの耳だろう。  ——こういうの、誰がもらって行くのかしら。  いつもそう思って、その光景を眺めていた千鶴である。手を伸ばした人間をいままで見たことがなかった。  見てはいけないものを見た気がして、声をかけそびれた。  亮子が振り返った。千鶴に気づき、どことなく鳩《はと》を思わせる小さな目をいっぱいに見開いた。「あ……こんにちは」 「あら、どうも。後ろから見て、似ているな、と思っていたんだけど」  千鶴は、わけもなく当惑して、そう言った。「いつもここでお買い物を?」 「ええ、たまに」  亮子は顔を赤らめ、ロールパンと食パンの耳が入った袋を、せかせかした様子で手に持っていた布の袋に押し込んだ。 「このあいだはどうも……」  先日の礼を言いかけて、亮子の視線がガラス張りのドアの外に向いた。「雨だわ」 「ああ、降るかもしれないと言ってたのよ、朝」  外を見ると、出がけにはぽつりとも当たらなかったのに、大粒の雨が降り出していた。 「どうしよう。帰るまではもちそうと思っていたのに」  亮子は、恨めしそうに言った。通りのあちこちで、傘の花が広がる。 「傘なら、わたし持ってるわ。入って行かない? 家に帰るところ?」  ひょっとしたら雨に遭うかも、と思って折り畳みの傘を携えてきた。 「いいんですか? このあいだも今度もお世話になっちゃって」 「同じ方向だし、どうぞ」  千鶴がいつも買うクロワッサンを買ってから、二人は店を出た。  雨は勢いを増してきたが、どしゃ降りというほどではない。千鶴は傘を広げ、亮子にさしかけた。長身なので、背伸びする格好になる。それに気づいたのか、亮子は「わたしはいいんです」と言って、傘の柄をそっと千鶴のほうへ押す。亮子の右肩が濡《ぬ》れる。千鶴はまた傘を傾ける。傘が押し戻される。そんなことを繰り返しながら、最初の交差点まで歩いた。 「ねえ、重松さん。急いでる?」  信号待ちのときに、千鶴はふと思いついた。 「えっ? あの、別に」  亮子は、かがみこむようにして顔を振り向けた。千鶴は傘を高く掲げた。 「この近くにちょっとおしゃれなカフェレストランがあるの。よかったらお茶、飲んで行かない?」 「カフェレストラン……ですか?」  亮子は、少しうろたえたようだった。「あ、あの、別に、かまいませんけど」と、別に、を繰り返してから、「でも、わたし、このへんのレストランには入ったことありませんから」と、やや的はずれなことを言った。 「住宅街にぽつんとあって目立たないお店だけど、中の雰囲気はすごくよくて、フレンチローストのコーヒーと手作りのケーキがおいしいの。洋梨《ようなし》のタルトなんか最高よ。わたしは、たまにそこで息抜きするんだけど」 『モンココ』というそのレストランには、吉川と入ったことも何度かあった。「甘いものは嫌い?」 「いえ、嫌いじゃありません。でも……」  女の一人暮らし同士だ。即座に応じてくれるものと思っていた千鶴は、少し気落ちしたが、もじもじしている彼女を見て思い当たった。都会の一人暮らし。よけいな出費を抑える質素で堅実な生き方もある。 「わたしが誘ったんだから、わたしがごちそうするわ。本当は、遅めのブランチをそこでとろうと思っていたの」 「ブランチ?」亮子が、怪訝《けげん》そうな顔をする。 「朝食と昼食のあいだの食事のこと。重松さんは、もちろん、朝ごはんは食べたでしょ?」  時計は、十一時十分を指している。 「え、ええ。でも、お茶くらいなら別に」  気が進まないのかと思ったが、紅潮させた頬《ほお》を見るとそうでもないらしい。「本当にいいんですか? わたしがおつき合いして」と、亮子は小さいが、弾むような声で言った。 「わたしがおつき合いしていただくのよ。行きましょう」     *  千鶴は、十一時から受けつけるランチセットを、亮子は、千鶴が勧めたとおりに洋梨のタルトとフレンチコーヒーを頼んだ。ランチセットには、メインディッシュのすずきのワインソース煮に、カボチャのポタージュスープとプチサラダとガーリック味のフランスパン、デミタスのコーヒーがつく。ウエイトレスが去ると、 「へーえ、こんなところにこんな素敵なレストランがあったんですね」  もの珍しそうに亮子は、籐《とう》の椅子《いす》とピンクのテーブルクロスが掛けられたテーブルが並べられた店内を見回した。二人のほかに、客は一組しかいない。四十代くらいの主婦らしい女性が二人。一人は、シルバーグレーのサマーニットのアンサンブルに貝パールのネックレスとイヤリング。もう一人は、ノースリーブのAラインの白いワンピースに黒真珠を胸まで垂らしている。お茶を飲みに近所に出かけて来たにしては、着飾りすぎている。だが、この店は、高級品好きなおしゃれな主婦たちを主な顧客としている。付近には、高級な造りの一戸建てが目立つ。暇と金を持てあました有閑マダムたちのたまり場になっているのだ。 「ここは、穴場なのよ。そんなに混んでないし、のんびり本も読めるしね。でも、駅へ行く途中じゃないから、あんまり目にはつかないかもね」  白い壁に、ゆるやかな間隔で飾られたモディリアーニの複製画を見ながら、千鶴も言った。自分の住む町の、住宅街に見つけたおしゃれなレストランに本を読むために入るような人間は、よほど暇人なのかもしれない。だが、そんな心のゆとりを千鶴は愛していたし、知り合ってまもない亮子にさりげなく自慢したかった。  席数を増やさず、背もたれと肘掛《ひじか》けのついたゆったりした椅子を使っていることや、色数を抑えたシックなインテリアも、千鶴の趣味に叶《かな》っていた。 「このあいだ会ったのも、火曜日だったわね」 「えっ?」 「でしょ?」 「あ、ああ、そうでしたね」 「わたしは、火曜日がお休みなんだけど……」  千鶴は、それとなく自分の境遇を話し始めた。目の前の重松亮子は、肌の張り具合からいっても三十前後だろう。都会で一人暮らしとなれば、どこかに勤めているのがふつうだ。 「そうですか」  けれども、亮子は軽くうなずいただけだった。自分のことに話が及ぶのが嫌なのか、と千鶴は察した。よっぽど警戒心が強いのか、何か話したくない事情があるのか。 「あのチェスト、どうですか?」  それで、話題を出会いの原点に戻した。「使いごこちは?」 「ああ、すごくいいです。重宝しています。本当にいただいてよかったんでしょうか」 「どうぞどうぞ。使ってもらってこちらこそ嬉《うれ》しいわ。お嫁入りさせた身としては。でも、出戻り娘をもらっていただいたみたいで心苦しくて」  自分の表現が気に入って、千鶴は微笑《ほほえ》んだ。が、亮子には通じなかったのか、少し顎《あご》を引いたような顔のまま千鶴を見つめて言った。 「あんな高価なものをいただいて、本当にありがとうございました」  千鶴は、亮子を誘ったことを少し後悔していた。自分が同年代の人間に接するような友達言葉を使い、相手が目上の人に対するような丁寧な言葉を使っている。それに気づいて気詰まりな思いがした。  チェストをあげた人間。チェストをもらった人間。そこに上下関係はないはずなのに、なんとなく彼女の態度が卑屈ぎみに感じられる。たかが捨てるつもりだったチェストではないか。  ——わたしの中にも、あの古ぼけたアパートの住人だ、と蔑《さげす》むような感情が眠っていて、無意識のうちにどこかににじみ出ているのだろうか。  そこからくる傲慢《ごうまん》で高圧的な態度が彼女を遠慮がちにし、丁寧語を使わせているのではないか。千鶴は、亮子が同年代でもあるようだし、自分の使う言葉に相手が順応してくれるものと期待していたが、どうやらまだうちとけるには時間が足りないらしい。  とはいえ、いまさらこちらが相手に合わせるのもぎこちない気がする。自分のつき合いの仕方を否定されたようで気分のいいものではない。  そんなことを気にしている自分に気づき、吉川の言葉が思い出された。千鶴が、別れ話を持ち出したときに、彼からぶつけられた苦い言葉の数々だ。  ——「君にはね、いままで言わないようにしてきたけど、表面的なやさしさとは裏腹に、ひどく残酷なところがある。自分の美意識や、育った環境に培われた価値観を絶対とし、それらにすごくこだわって、ほかを認めようとしない。いや、認めているふりをして、心の中ではあざ笑っている。結局、俺《おれ》も君の美意識にそぐわなくなったってことだろう。それで捨てようって言うんだな? 違うかい? 千鶴は俺に、不満があっても会社を辞めてほしくなかった。そうだよ、世間的には一流会社さ。エリートかもしれない。だが、その中で俺がどれだけ耐えて、自分を抑えてきたか君は考えようともしない。ただ、いまの美意識、価値観から恋人がはずれていくのが我慢ならないんだ。しょせん、君にとっては俺もきれいな青磁の壺《つぼ》やマイセンのカップと同じレベルだったんだろうよ。俺がマイセンのカップでいることを止めて、五客で千円の安いカップに身を落とすことを決めたから、自分の愛《いと》しい空間に置いておくべき男じゃないと思ったんだろう。  いいか? 自分とは価値観の違うほかの世界を認める寛大な心、弱い人間に対する慈愛の精神がなければ、人間、成長していかないと思うよ。家の内装だって、心の装いに通じるものがあるだろ? きれいなクロスを貼《は》って、センスのいいカーテンや照明をつけ、高価な家具を置けばいいってもんじゃない。美しく飾りつけた空間に、心がなくちゃね。器ばかりよくても、そこに納まる心が温かくなければ、いつかきっと君の仕事も行きづまる……」——。 「そんなつもりはないわ!」  即座にそう叫んだ千鶴だった。恋人から別れを切り出された男の、腹いせのセリフよ、と思った。 「確かにわたしは、自分の美意識、価値観にそれなりの自信はあるわ。それだからこそ、インテリア・コーディネーターって仕事をしていられるのよ。でも、お客はみんなそれぞれの価値観で暮らしている人ばかり、わたしは自分の価値観、美意識を押しつけているつもりもないし、ちゃんと尊重して認めているわ。問題をすり替えないで。わたしはね、智樹さん、あなたの将来を思って言っているのよ。三十過ぎて、いつまで夢ばかり追ってるの? 現実に満足できない人なんて、いっぱいいるわ。それをどこかで折り合いをつけてやっているんじゃないの? リストラだと騒がれている世の中で、みんないまの仕事にしがみついて失うまいと必死になっている。あなたは人に羨《うらや》ましがられるほど立派な仕事についている。そんな職場に早々と見切りをつけちゃうなんて。会社を辞めて、しばらく充電し、昔からの夢に賭《か》けるんですって? 家具職人だなんて笑わせないで。あなたにその方面の才能があるのはわかるけど……わたしはそういう不安定な将来につき合いたくはないわ」  結婚を意識し始めていた千鶴は、きれいごとを言う気分にはなれなかった。  吉川への対抗意識が、千鶴に亮子をお茶に誘わせたのかもしれなかった。  ——わたしは美意識、価値観の合わない人間とうまくつき合えない人間ではない。ほら、このとおり、あの古ぼけたアパートに住む、同年代の一人暮らしの女性とふとしたことで知り合い、こうやって気軽にお茶を飲んでいるじゃないの。わたしの交友範囲は広いのよ。そういう心の広い女なのよ。あなたの思っているような許容範囲の狭い偏屈な女じゃないわ……。  そう言いたかったのかもしれない。少なくとも、重松亮子の部屋は、ダークブラウンのフローリングと淡いブルー系のクロスに囲まれた、洋風の部屋ではないだろう。あのアパートは、六畳一間にぎしぎしきしむ板張りの台所のはずだ。外から見るかぎり、お風呂《ふろ》もないようだ。いつだったか、あそこの住人が夜、洗面器を抱えて一階の一室に入るのを見たことがある。日に焼けた畳と破れたふすまとしみの浮き出た壁紙。インテリア雑誌に載ったことのある千鶴の部屋とは比べものにならないだろう。 「ねえ、今村さん」  亮子に呼ばれて、彼女の部屋を想像していた千鶴は我に返った。 「本当に、あんな高価なものいただいてよかったんでしょうか」  まだ彼女はこだわっている。謙虚さを越えて嫌みにさえ聞こえた。千鶴は苛立《いらだ》ちを覚えた。 「何言ってるの。わたし、捨てるつもりだったのよ。だから、本当にこちらこそもらっていただいて感謝してるの。いまはゴミ問題を真剣に考える時代だし、あちこちで資源の再生利用が叫ばれてるわ。本当は、粗大ゴミなんか増やしちゃいけなかったのよ。引き取ってくれた重松さんこそ、消費社会ではありがたい貴重な存在なのよ。胸を張っていいのよ」  ばかみたいに、熱っぽい口調になった。 「胸を張っていいなんて……」  亮子は困ったように首をかしげ、膝《ひざ》の上で手をこすり合わせて言った。「ただ、ああいうのがほしかっただけです」  千鶴にはカボチャのスープとパンが、亮子にはケーキとコーヒーが運ばれてきた。  気まずい空気が流れた。千鶴は、小さなカップに入ったカボチャのスープをひたすらすすった。しばらく食べることに専念しようと思っていたら、タイミングよくメインディッシュがサラダと一緒に出された。  食べながらそれとなく亮子の手の動きを見ると、彼女は千鶴の食べる速度に合わせようと気遣っているのか、タルトを少しずつフォークで切り取りながら食べている。指が太く長かった。フォークを持つ右手の人差し指がとりわけ太く見えた。爪《つめ》の甘皮が剥《む》け、指の側面の皮膚がふやけたように荒れている。  ——何か手を使うような仕事をしているのかしら、水仕事でも。  千鶴は、そんなふうに考えた。 「おいしいです、とても」  亮子がぽつりと言った。千鶴はハッとして、亮子の指先から目を離した。 「そ、そうでしょ? 病みつきになるのよ、ここのケーキ」  千鶴は、洋梨《ようなし》のタルトのほかにもお薦めのケーキをいくつか挙げた。 「よく来るんですか?」 「よくってほどでもないけど、月に一、二度くらいかな」 「そうですか」  どういう意味なのか、亮子はそう言って微笑んだ。どこか曖昧《あいまい》な感じのする微笑だった。 「あそこのマンション、ときどきすごいものが捨ててありますね」 「すごいものって?」  千鶴は、サラダに伸ばしたフォークを止めた。亮子の話が、そういう方向へ続くとは予想しなかったのだ。 「テレビとか冷蔵庫とか」 「ああ、引っ越すときに、もう古くなったから捨てて行ったんじゃない?」  その光景は、千鶴も何度か見ている。「壊れたのかもしれないわ」 「電気製品だけじゃなくて、机なんかもありましたね」 「子供の? 成長して使わなくなったのかもね」  よく見ているなこの人、と思って、千鶴は言葉をついだ。「あそこは、部屋数が少ないから、子供が生まれたり大きくなったりして、よそに家を建てたり、買い替えたりして、出て行く人が多いのよ。独身か、新婚か、子供が生まれたばかりか、でなければ老夫婦か、そんな世帯ばかり入ってるみたい」 「そうなんですか。でも、越して来てまだ二か月のあいだに、ずいぶん大きなゴミが出ているのを見た気がしたものだから」 「二か月? ここに来て二か月ってこと?」  それで、こんな近い距離に住んでいて、先週まで顔を合わせなかった理由がわかった。両隣の住人とも、一年に数回、廊下でばったり顔を合わせるくらいだから、近所なら二か月会わずにいるのも不思議ではない。 「その前はどこに住んでいたの?」 「練馬のほうです」  亮子は短く答え、「あそこにお住みなら、すごくいいお部屋なんでしょうね」と、面食らうほど早く千鶴のことに矛先を変えた。 「あ、ああ、わたしの部屋? いいお部屋ってほどでもないけど……」 「でも、あんなすてきなチェストが納まってたわ。ほかにもいろいろいい家具があるんでしょう?」 「寄せ集めの家具よ。たいした家具じゃないわ」  想像で、部屋を実物以上に賛美されるのは、背中がむずがゆい気持ちになるし、うっとうしい。 「わたし、インテリア関係の仕事をしてるから」  それで、自分の仕事を明らかにした。 「インテリア関係というと、デザイナーとか?」  亮子の目にぱっと光が灯った。 「いいえ、インテリア・コーディネーター」 「インテリア・コーディネーターなんですか? わあ、すてきだわ。わたしのあこがれの職業です」  亮子は、肉厚の手を祈るような形に合わせた。「わたし、インテリア関係の本って、大好きで、ときどき読んでいるんです」 「そうなの? どんな本?」  だんだん話が弾んできたのが、素直に千鶴は嬉《うれ》しかった。こういう光景を、「自分の美意識にこだわりすぎ、自分の価値観を絶対視しすぎる」と決めつけた吉川に見せたいくらいだと思った。あの男は、千鶴を「交友の幅も狭い人間」と評したのだ。 「『マイ・ベスト・ルーム』、あれを毎月、読んでいます」  亮子の小さな目が、きらきらと輝く。 「『マイ・ベスト・ルーム』……ね。知ってるわ」  動揺が顔に出ないようにと千鶴は微笑《ほほえ》んだ。「インテリア関係の中では、よく読まれている雑誌よね」  実際は、インテリア・コーディネーターやデザイナーのあいだでは、「少女趣味丸出しの素人雑誌」としてほとんど評価されていない雑誌であった。つい先日も、「ここに載ってるこんな感じで娘の部屋のコーディネートをお願い」と、建て主の主婦に『マイ・ベスト・ルーム』を差し出されて閉口した千鶴であった。 「わたしは、『マイ・ベスト・ルーム』も読むけど、『ザ・空間』のほうがよく目を通すかしら」  千鶴は、専門家ぶりが鼻につかないようにさりげなく言った。 「やっぱり、プロは違いますね。そういう専門的なものを読むんですね。わたし、『ザ・空間』は図書館で見ますけど、なんだかすごくきれいすぎて。わたしには夢のような世界です。でも、見るのは好きです、とても」 『ザ・空間』そのものが、高級志向で、年収一千万円以上の世帯の読者を対象にして作られた雑誌である。千鶴が日頃、接する客にその生活レベルの人間が多いので、自然といちばん参考にするようになったのだ。千鶴のセンスにもっとも合う雑誌でもあった。 「インテリア・コーディネーターというと、照明器具を選んだり、カーテンや壁紙を選んだりするんでしょう?」  亮子が、やや身を乗り出しぎみに聞いた。 「まあ、そんなようなものだけど、お客さまにイメージがよく伝わるようにパース、ああ、デザイン画ね、パースを描いたり、実際に現場に行って、タイルの貼《は》り方を大工さんに指示したりもするわ」 「へーえ、おもしろそうだけど、大変そうですね。ふつうの住宅が多いんですか、それともお店とかの内装?」  もともとその仕事にあこがれの気持ちがあった亮子は、いろいろと質問を重ねてきた。実際に改装を手がけた住宅の話などを混ぜて、それに答えるうちに、皿の中のものがきれいになくなった。亮子のケーキもなくなり、飲み物も減っていた。 「コーヒー、おかわりいかが?」  千鶴は、亮子のカップを見て聞いた。 「えっ?」亮子は、千鶴の手元をちらと見て、「じゃあ、お願いします」と言った。千鶴がコーヒーを飲むのにつき合ったのだ。千鶴は、そんな彼女の気配りが嬉しかった。亮子という女性は丁寧すぎるきらいはあるが、気配りのある女性だ。気配りに欠ける人間ほど一緒にいて腹が立つ人間はいない。  コーヒーを飲むあいだに、店内は混雑してきた。十二時に近づいたせいだろう。もともとテーブル数が少ないので、ランチタイムは外に客が並ぶこともある。もっともランチタイムを避ければのんびりできる店ではある。 「じゃあ、そろそろ帰りましょうか。雨も小降りになったみたいだし」  千鶴は、二人のカップが空になったのを見て言った。外がさっきより明るくなっている。  化粧室に立って、戻って来た千鶴は、テーブルに伝票がないのに気づいた。 「あら……伝票、どうしたのかしら」  亮子がすっと席を立ち、かしこまった様子で、「支払い、済ませましたから」と言った。 「えっ? だって、ここはわたしがごちそうすると言ったはずよ」 「で、でも、い、いいんです。このあいだ、あんなすてきなチェストをいただいたし、今日もおつき合いしていただいて、だ、だから……」  布の手提げ袋を胸に抱え込むようにして、亮子はつっかえながら言った。袋から、緑色のがま口タイプの財布がのぞいた。 「困るわ。わたし、こんなにいっぱい食べちゃったし……。だめよ、やっぱりそれは、わたしが誘ったんだから」  千鶴は顔が熱くなった。洋梨のタルトとフレンチコーヒーを亮子に勧めたのは自分である。ランチにつき合わせて、強引に食べさせたようなものだ。おまけにコーヒーのおかわりまでさせてしまった。ここは、ファミリー・レストランではないのだ。コーヒー一杯が六百円もする。もちろんおかわり自由ではない。  ——支払いは、彼女の分まで入れてトータルで……。  気が急《せ》いているので、とっさに計算できない。だが、千鶴のランチだけで千五百円はする。  亮子は、千鶴が化粧室に席をはずしたすきにさりげなく精算した。そんな「スマート」なやり方を、奢《おご》るつもりでいた相手にされたことが、千鶴にはなんだかひどく間が抜けて屈辱的に思えたのだ。彼女は、あのアパートの住人ではないか。しかも、最初に千鶴が誘ったときに躊躇《ちゆうちよ》した。おそらく収入だって、千鶴ほど多くはないだろう。  ——つつましやかな生活をしているらしい彼女に奢られた……。  プライドが傷ついて、千鶴は半ばパニック状態になった。 「本当に困るってば」  声が大きくなって、ウエイトレスや店内の客たちがこちらを見た。 「いいんです」  亮子は、小走りに出口に向かい、ガラス扉を押し開けた。千鶴は、あわててあとに続いた。 「待って」と、亮子の腕をつかむ。彼女が逃げるわけはないのだ、と気づいて、千鶴は手を離し、バッグから財布を取り出した。千円札を四枚引っ張り出し、亮子の胸に押しつけた。 「ねえ、とっといて」 「いいんです」亮子は、手を出そうとしない。 「お願いだから、ねえ」  千鶴は、亮子が胸に抱え込んだ袋に、太い指の隙間《すきま》からお札をねじこもうとしたが、彼女がいやいやをするように体を揺すったので、成功しなかった。 「じゃあ、割り勘にしましょう。わたしの分とっといて。ほら」  千円札を二枚だけ差し出した。ところが、亮子はかぶりを振る。  頑固な女だ、と千鶴は腹が立った。 「あのね、あのチェスト、粗大ゴミの処分料が三百円。つまり三百円の価値だったの。それで、重松さんにブランチセット、ごちそうされちゃあなたが損するわ」 「いいんです。わたし、とても嬉しかったから」  うつむきかげんに亮子が言った。顎《あご》が二重になった。 「えっ?」 「だって、誰かとレストランに入ったことなんて、東京に来てはじめてなんですもの」 「で、でも、だからって……」  通行人が怪訝《けげん》そうな目で、店の出入口につっ立ったままの二人を見て行く。店先の庇《ひさし》からはみ出た二人の肩を、庇からしたたり落ちる雨のしずくが濡《ぬ》らしている。 「じゃあ」  急に千鶴は力が抜けた。こんな些細《ささい》なことにこだわるのがバカらしくなった。「今度はわたしが何かごちそうする。そう決めればいいわね」 「そんな……お気遣いなく。いいんです、本当に」 「わかったわ。どうも、ごちそうさま」  千鶴は、仕方なくにっこりした。快く奢られてやれ、と気持ちを切り替えた。自分よりランクが劣る住まいにいる女性に奢られたからといって、負担に思いすぎるのもかえって相手に失礼ではないか。たかが三、四千円程度のことである。  ——彼女に花を持たせてあげればいいのよ。こんなわたしの、柔軟性のある友達とのかかわり方を見れば、智樹さんも「君の交友範囲は狭くて、つき合い方のバラエティに乏しい。友達を選ぶ基準がマイセンのカップを選ぶそれと変わらない」とは二度と口にできないはずよ。  千鶴は、自分にそう言い聞かせた。だが、気持ちがすっかり楽になったわけではなかった。奢られたら奢り返す。奢られた以上のものを相手にお返しする。礼は欠かない。それが、千鶴の、働く女としての交際の基本だった。  途中で雨はあがった。並んで歩きながら、千鶴は、どんなことで彼女にお返ししようかしらと、そればかり考えていた。     4 「横川《よこかわ》さんの奥さんから、担当を替えてくれ、と言われてね。君が、その……横川さんのご主人に色目を使っている、と言うんだよ。媚《こび》を売るような視線を送っているとね」  インテリア事業部二課の園田《そのだ》課長から切り出されたとき、千鶴は思いがけないことを言われたショックで、頭がくらくらした。 「そ、そんな……。わたし、そんなことしてません!」 「わ、わかってるよ、それは」  園田は渋い顔をし、まあ、まあ、となだめにかかった。「今村さんがそんなことするはずないとはね、こちらもわかってる。しかし、こういうのは……人間相手の商売だしね。建て主に気分を害されると、まとまる話もうまくいかなくなる。だから、その……」 「横川さんの奥さんに弁明させてください。今度の打ち合わせは確か……」  千鶴は、システム手帳を開いた。 「いや、それじゃ、ますます事が大きくなって面倒になる。納得のいかない君の気持ちもわかるが、ここは引いてくれないか」 「でも、もう照明のプレゼン、できているんです」  横川家の二世帯住宅の照明プランを、千鶴は任された。カーテン、クロス、家具と、まだまだプレゼンテーションをしなくてはいけないのだ。 「それがね……横川さんの奥さんは、君のセンスとも相性が悪い、と言っているんだよ。まあ、本当にそう思っているかどうかは疑わしいが。建て主からそう言われてはね」 「……」 「プレゼンは、辻《つじ》さんに渡してほしい」 「辻さんにですか?」  少し離れた場所にあるカーテン生地のサンプル・コーナーから、その辻|洋子《ようこ》がこちらを見ている。もう彼女には話がついているのだろう、とその雰囲気から千鶴は理解した。 「……わかりました」  腹の中は煮えたぎる思いだったが、千鶴は引き下がった。デスクに戻りかけて、ふたたび課長の前に進み出た。「でも、これだけはわかってください。わたし、本当に、横川さんのご主人に色目なんか使ってませんから」  わかってる、と園田はうなずき、大きなため息をついた。椅子《いす》を回転させながら、「女は怖い」と小さくつぶやいた。  女——それは、横川夫人を指したのだろうが、千鶴は自分のことを言われたように思った。自分と、同僚のインテリア・コーディネーターの辻洋子のことを指しているように。 「今村さん。横川さんのプレゼン、いただけますか?」  辻洋子が、カーテン生地のカタログ見本を抱えて、千鶴のデスクに来た。「うるさそうな奥様ね、横川さんの奥様って」と、耳元でささやく。 「よろしくお願いします」  千鶴は、横川家関係のプラン一式を、手早くまとめて辻洋子に渡した。声が震えた。  洗面所に駆け込んだ。個室に入り、水を流しながら泣いた。悔し涙だった。久しぶりに腕を発揮できる仕事だと意気ごんでいたのが、こんな些細《ささい》なことで担当をはずされてしまった。原因は、女の嫉妬《しつと》だ。建て主の妻が、担当になったインテリア・コーディネーターの女に嫉妬する。まったくないことではない。が、これほど露骨に嫉妬されたのもはじめてであった。  辻洋子は、四十七歳のベテラン・コーディネーターで、子持ちの主婦だ。彼女なら気難しい横川夫人ともそつなくやっていけるだろう、と園田は考えたに違いない。横川夫人より年上で、髪の毛を短くし、内面はどうであれ、外見はさっぱりとした雰囲気を持つ女性である。  だが、千鶴は、営業部の女子社員から、「辻さん、なんだか今村さんにライバル意識持っているみたいね。今村さんが、若くてきれいだからかな。陰ではあなたのことを、若いばかりであんまり頼りにならないインテリア・コーディネーターだと言ってるみたいよ」と聞かされたことがあった。彼女が自分に好感を抱いていないことは、端々で感じていた。照明器具を選ぶメーカーに偏りがあるから考えたほうがいいとか、打ち合わせのときにあまり薄いブラウスを着ないほうがいいとか、彼女にそれとなく忠告されたことはある。しかし、千鶴の直接の上司は、園田である。辻洋子に横から口出しされたくない、と思っていた。  千鶴と彼女とは、年齢は違うが、インテリア・コーディネーターとしてのキャリアは同じであった。辻洋子は、専業主婦でいたのが、一念発起して学校に通い、二級建築士とインテリア・コーディネーターの資格を取得し、この『五木《いつき》ホーム』に中途採用された。一方、千鶴は、短大の建築デザイン科を出て、赤坂にある小さなリフォーム専門の会社にインテリア・コーディネーターとして就職。四年勤めたあとに、大手の住宅メーカー『五木ホーム』に引き抜かれる形で移った。現在、社内には、契約社員を含めて、七人のインテリア・コーディネーターがいる。  鏡に向かって化粧を直しながら、千鶴は横川夫人の冷ややかな目を思い出した。打ち合わせしたのはまだ二回だが、初顔合わせのときから横川夫人の態度はおかしかった。建て主が、四十六歳の大手商社員と四十四歳の専業主婦と知ったとき、千鶴は〈いちばんやりにくい年代だな〉とは思った。若い夫婦だと、二十九歳の千鶴とセンスが近く、会話が弾むし、もっと年配の夫婦だと積極的に若い感覚を取り入れようとし、素直に千鶴の言葉に耳を傾ける。ところが、四十代の夫婦というのは、自分の意見をはっきりと持ち、家にかける執念も半端でないから、インテリア・コーディネーターの言葉にだまされてはいけない、と懐疑的になる。  とりわけ、横川夫人がそうだった。夫のほうは千鶴に好感を抱いたらしく、自分の好みをいちおうは主張したあと、「そちらのアドバイスを」とにこやかに聞く姿勢をとった。ところが妻のほうは、「あなた、結婚してないんでしょう? 当然、子供もいないわよね。そんな人にキッチン・プランなんて任せて大丈夫かしら」と、仕事をする前からストレートに不満を訴えた。 「いろいろなお客様のお宅を手がけて、奥様がたにも喜んでいただいていますから」と千鶴は言い、とくに台所や洗面所など水回りの照明に神経を配って、与えられた予算内で希望に叶《かな》ったプレゼンテーションを提出したつもりだった……。  ——もともと、わたしみたいな女が嫌いだったんだわ。  思い当たることはある。夫が千鶴にお世辞を言った。「ほう、こんなきれいなインテリア・コーディネーターさんに当たるとは、ぼくたちも運がいい」と。それがまず、妻をむくれさせたのだろう。怒りは夫に向かわず、千鶴に向かった。千鶴が、二度とも、辻洋子が言うようにノースリーブのブラウス姿で打ち合わせに出席したのも、お気に召さなかったに違いない。  千鶴は、仕事のときは腕を動かしやすいものを着ることにしている。フレンチスリーブのTシャツや、袖《そで》まわりのきつくないブラウスなど。そんな服装も、〈自分の夫に媚を売っている〉とその妻に誤解された原因だろう。たしかに千鶴は、好感を持たれたいと意識して、営業用の笑顔をたくさんふりまいたかもしれない。だが、それは誰に対してもしていることだ。とくに横川に対して笑顔が多かったわけではない。  ——まるで、芸者の置き屋みたいね。  鏡に映った自分がくすんで見えた。指名制ではないが、口コミで、「腕がいい、センスがいい」と伝わって、新しい仕事のときに指名されることもあるのが、インテリア・コーディネーターという仕事だ。接客業みたいなものだから、相手に不快な思いをさせては失格だ。  午後は、笑顔で仕事を続けるのが苦痛だった。二件の打ち合わせを済ませて、プレゼンテーションボード作りに専念するふりをした。  退社後、課長に誘われたのを「用がありますので」と断って、千鶴は一人で新宿の街に出た。会社は、新宿西口の高層ビル街の一角にある。園田課長が、今日のことで千鶴が傷ついたのを心配して、辻やほかの女子社員に声をかけて、飲みに誘ってくれたのだとはわかっていた。心遣いは嬉《うれ》しかったが、みじめな気持ちで辻洋子と同席したくはなかった。  ビアホール、パブと回り、三軒目に吉川とよく入ったことのあるバーに行った。バッティングセンターのそばにある『かえで』という店だ。「お久しぶりね」と、カウンター内にいたママが千鶴に声をかけた。 「わたし、智樹さんと別れちゃったの。だから、この二年、ご無沙汰《ぶさた》してたの。わかるでしょ? 別れた男が来る可能性のあるところへは、ふった女のほうからは行けないのよ」  呂律《ろれつ》の回らなくなった声で、千鶴は言い、ブランデーの水割りを三杯飲んだ。この女、何かおもしろくないことがあったらしい、こういうのとつき合うとあとが厄介だ、と本能的に思ったのかどうか、その店では声をかけてくる男はいたが、しつこくはされなかった。 「もういいかげんにしなさい」  ママに追い出される形で、千鶴は店を出た。梅雨の始まる前の蒸し暑く感じられる夜だった。駅へ向かって歩いているつもりだったが、ぼんやりした頭で〈まっすぐに歩いていない〉と感じていた。  とても電車に乗ってなど帰れない。千鶴はタクシーをとめ、「桜上水まで」と運転手に告げた。タクシーの中ではなんとか持ちこたえられた。けれども、降りて、マンションを見上げたとたん、胃の底から酸っぱいものがこみ上げてきた。『ロイヤルノヴァ』の六階建ての建物が、左右に揺れて見えた。  千鶴はしゃがみこみ、胃の中のものを吐いた。酸っぱいものは鼻の奥を刺激し、涙と鼻汁が一緒になって出てきた。嗚咽《おえつ》が漏れた。自分のしていることが、頭の片隅でははっきりわかっているのに、意識を曖昧《あいまい》にさせたがっている自分がいるのにも気づいた。  自分に腹が立った。『かえで』にふらりと寄ってみたのも、ひょっとしたら吉川智樹が来るのでは、と期待していたせいではないか。この二年間、男気のない生活をしてきた千鶴である。仕事で嫌なことがあったときに、思いきり愚痴を言い、最後はその胸で泣く男がいないのだ。見切りをつけて別れたはずの男なのに、わたしの前には、まだ吉川智樹以上の男が現れていない。  そのことが悲しくて、悔しくて、そしてたまらなく寂しかった。 「今村さん? 今村さんじゃないですか?」  声がふり降りてきた。千鶴は、頭を上げなかった。いや、上げることができなかったのだ。頭の芯《しん》に痺《しび》れと鈍痛がある。 「そうでしょ? 今村……千鶴さん、ね?」  名前のほうを呼ばれて、そろりと千鶴は顔をふり向けた。目の前がぼんやりかすんでいる。それでも、街灯に浮き上がった輪郭に見憶《みおぼ》えがあった。  重松亮子だった。  折り畳んだバスタオルと巾着《きんちやく》型の布袋を載せた、ピンク色の洗面器を抱えている。 「大丈夫ですか?」  亮子は驚いた声で言い、千鶴の肩に手を置いた。 「ほっといて」  千鶴は、その手を振り払った。 「今村さん……」 「何よ、あなた。ほっといてよ」 「ごめんなさい。でも、すごく酔っているみたいだから」 「酔ってなんかいないわよ」  よろよろと千鶴は立ち上がった。「ほっといてちょうだい」 「でも……足下が危なっかしいわ」  亮子が注意したそばから、千鶴はエントランスへ向かう階段につまずいた。 「ほら、言ったでしょう? だめよ、一緒に行きます、わたし」 「一緒に? わたしの部屋に? あなた、まるで保護者みたいな言い方するのね」  おかしくもないのにひとりでに笑い声が出た。笑い声はすぐに泣き笑いに転じた。  エレベーターに乗ると、「何階ですか?」とボタンに伸ばした亮子の手を払って、四階のボタンを押した。「ほら、大丈夫でしょ? 酔っててもね、わたしはちゃんと家に帰れるのよ。だから、ほっといて」  ところが、鍵《かぎ》を差し込んでドアを開け、玄関に入るなり、千鶴はその場にくずおれてしまった。亮子が壁を探り、照明のスイッチをつけた。 「だめよ。こんなところで。奥までがんばってください」  亮子が必死で千鶴を立たせようとする。その光景が涙で曇った視界を通して、千鶴にはとても滑稽《こつけい》なものに見えた。 「何してるのよ、あなた、わたしの部屋で」 「今村さん……」 「どきなさいよ」  かすかに残っていた理性が、ソファのある人間らしい空間までたどりつけ、と教えている。それに従って、千鶴は千鳥足でリビングルームまで行った。ソファにどっと倒れ込む。 「上着、脱いだほうがいいです。汚れてるから」  背もたれにぐったり身を投げ出した千鶴から、亮子は上着を脱がせにかかった。千鶴はされるままになった。何もしたくない。ここにあるソファのように意識のないただの物体になりたい、そう願っていた。一瞬、ソファの柔らかさに陶然となった。  が、ほんの一瞬だった。喉《のど》の奥に焼けつくような渇きが生じた。 「お水、ちょうだい」  亮子へ向かって、千鶴は右手を高く掲げた。「早く、お水!」 「は、はい」  亮子が対面式のキッチンへ飛んで行く。「あ、あの、コップ、どれでしょうか。どれを使えば……」 「どれって、そのへんのものでいいわよ。早くお水ってば!」  千鶴は怒鳴った。  食器棚の扉が開く音。水道のレバーを動かす音。水の音。亮子の足音……。 「はい、どうぞ」  目の前にグラスが差し出された。千鶴は、グラスから水がこぼれ、喉を伝わり落ちるのもかまわずにごくごく飲んだ。  グラスが空になる。——シーリングライトの絞った照明に、グラスをかざした。ダイヤモンドのような透明な輝き。複雑なカットのウイスキーグラスだ。  おかしさがこみ上げてきた。千鶴は笑った。グラスを持ったまま、身をよじって笑い続けた。 「どうしたの?」と、亮子のおどおどした声が、笑い声を止めた。 「だって、あなた、これはバカラよ」  千鶴は、ほら、と亮子の目の前でグラスを揺すってみせた。 「バカ……って……」  亮子が、千鶴の隣に座り、グラスをまん丸い目で見つめた。 「バカじゃないわよ。バカラ。あなた、いくらすると思ってるの? すごく高いグラスなのよ。あのへんに、ビールについてきた景品か何か、あったでしょ? そういうのでいいのに。ほら、貴乃花の結婚式の引き出物の花瓶。あれがバカラ。そんなので水汲《く》んでくるバカがどこにいるのよ。あら、バカだって。バカラとバカ。わたしこそバカだわ」  千鶴はまた笑った。 「そ、そんな高価なものなんですか?」  ハッとしたように亮子は、千鶴の危なげな手からそれを包み込むようにして取り上げた。「わたし、そんなこと知らなかったから、ご、ごめんなさい。で、でも、どれで水を汲んでいいのかわからなかったから」 「水を飲むためのコップなんて、そのへんに置いてやしないわよ。わたし、そういうの大嫌いなの。まな板を立てかけたり、お玉やフライパン返しをいっぱいぶら下げたり、お醤油《しようゆ》さしや楊枝《ようじ》入れをテーブルに並べたり、シンクのまわりにゴタゴタものを置くのが。キッチンがいくら料理の場だと言ってもね、使ったあとは生活感を匂《にお》わせたくないのよ」  千鶴は、きっと背を起こした。亮子とあの横川夫人がだぶって見えた。 「何よ。結婚してないから、子供がいないから、キッチン・プランを任せられないですって? バカ言うなってのよ。あんたたちが所帯じみたおばさんになりきってるから、亭主どもに愛想つかされるのよ。えっ? わたしが色目を使ったですって? 媚《こび》を売るような視線を送ったですって? ふざけんじゃないよ。あのババア」  ババアと吐き捨てたとたん、また酸っぱい液体が胃壁を這《は》い上ってきて、口いっぱいに広がった。両手で押さえたが、間に合わなかった。亮子があわてて、持って来ていた洗面器で受けた。 「大丈夫? 吐きたければ全部吐いていいんですよ」 「もう……吐けないわ」  身を二つ折りにして、千鶴は咳《せき》こんだ。目がつんと痛い。脇《わき》から差し出されたティッシュペーパーで鼻をかんだ。  酔いが少し醒《さ》めてきた。 「おかしいわね。吐きたければ全部吐け……なんて。刑事みたい、あなた。わたしは犯人。何か悪いことをやらかしたのね、きっと」 「今村さん……」  洗面器を絨緞《じゆうたん》の上に置き、亮子は千鶴の背中をやさしくさすった。 「あなた、重松さんよね? 重松亮子さん。わたし……酔ってなんかいないわ。本当よ。ううん、酔ってる。酔ってるけど、でも……わかってることはちゃんとわかってるの。ごめんなさい」 「いいんです。あやまらなくても」 「ありがとう、こんなときにいてくれて」  ふいにこらえていたものが、涙とともに溢《あふ》れ出てきた。  千鶴は、亮子の胸に顔を埋めた。石けんと汗の匂いがした。厚い胸だった。柔らかくもあり、固くもあった。  吉川の胸の中のような錯覚を覚えた。  しばらく亮子の胸で泣いた。背中に感じる指のリズムは一定で、心地よかった。 「何があったか知りませんけど、あんまり飲むと体によくないですよ」  涙がおさまったと思ったのか、亮子が言った。 「そうね、ホントよね」  千鶴は顔を上げた。化粧していないピンク色の肌がすぐ目の前にあった。艶々《つやつや》光っている。 「亮子さん……って呼んでいい?」 「えっ? あ、ああ、別にかまいませんけど」  亮子は、面食らったように目をぱちぱちさせたが、別に、と繰り返した。 「別に、か。あなたって、いつも別に、なのね。で、気が進まないのかと思えば、『誰かとレストランに入ったのは東京に来てはじめてです』なんて、頬《ほお》をその洗面器みたいにピンク色にして喜んじゃって。おかしな人」 「あ、あれはうそじゃありません。本当に嬉《うれ》しかったんです」 「そう……わたしも嬉しかったわ。……一人だったから。ねえ、今村さん重松さん、なんて呼び合うの、よしましょうよ。千鶴さんと亮子さん、いいよね、それで」  千鶴は、涙をためた顔で微笑《ほほえ》みながら、亮子の胸からくねくねと離れた。上半身の力が抜け、おもちゃのガラガラ蛇のようだった。  亮子が小さくうなずくのが、ぼんやりと見えた。  ——そう、一人だったのよ、わたしは。会社に行けば、そこにいるべき人が必ずいる。満員電車に乗れば、ひしめき合うように人がいる。でも、わたしは、いつでもどこでも一人ぼっちだったのよ。  人肌に触れたら、なんだか急激に眠くなった。安心したせいかもしれない。千鶴はひたすら眠りたかった。 「だめよ、こんなところじゃ風邪ひきます。ベッドに」  亮子が腕を引いたが、千鶴は「いいのよ、ここで」とうるさそうに手を振り払い、子猫のように小さく丸まった。  最後にまぶたの裏に見えたのは、明かりにかざしたときのバカラの高貴な輝きだった。     5  重松亮子は、千鶴が吐いたものを片づけ、バカラのグラスをキッチンに持って行った。  インテリア雑誌ではよく見るが、対面式キッチンというのをこの目で見たのははじめてだった。  カウンター越しに、リビングダイニング・ルームと、左手に続く寝室が見渡せる。寝室との洋風引き戸は、開け放たれてあった。奥のベッドに眠る千鶴の横顔が見える。  静かな夜だった。四階のせいか、密閉度の高いマンションのせいか、うそのように外の音が聞こえない。向かいのアパートの二階とは大違いだ。  亮子は丁寧にグラスを洗い、後ろの食器棚に戻した。システムキッチンと言うのだろう。レンジやシンクのあるカウンタートップの色と、食器棚の色が同じブルーがかったグレーだ。  ——バカラ、か。  揃《そろ》いのグラスがいくつも並んでいた。切り込み模様の多い、厚みのあるクリスタルガラスだ。安物でないのは亮子にもわかった。  戻したばかりのバカラのグラスに、亮子は手を伸ばした。持ってみて、高級感のある重みを確かめた。蛍光灯の明かりにかざし、しばらくその高貴な輝きを見つめていた。  寝室で「うーん」とうなる声がした。 「……千鶴さん?」  亮子はドキッとして、呼んでみた。千鶴は寝返りを打ち、壁を向いた。起きる気配はない。  亮子は、すばやくバスタオルでバカラのグラスを包んだ。お風呂《ふろ》帰りに、アパートの少し手前で、道端にかがみこんでいた千鶴を見つけたのだった。  洗面器の上に持ち物を載せると、亮子はもう一度、室内を点検した。玄関に向かいかけて、ふと足を止め、部屋へ戻った。     6  水道の前に行列ができている。誰もが洗面器を手にし、水を汲む順番を待っている。千鶴は、猛烈な喉の渇きを覚えていた。もどかしい思いで、列が減るのを待つ。いざ自分の番となったときに、蛇口がすぽっと抜けた。水が出ない! 「どうしてなの? ねえ、水をちょうだい!」  叫び声がかすれて声にならない。  そこで目が覚めた。自分の状態を把握するのに、少し時間が必要だった。  徐々に、昨夜のことが思い出されてきた。とはいえ、断片的にだ。ビアホールのウエイトレスの制服、バッティングセンターの看板、『かえで』のママのエラの張った怖い顔。青いタクシー。手のひらに受け取った小銭の感触……。そこから空白の時間が続く。そして、バカラのウイスキーグラス。繊細なハンドカットのバカラのクリスタルガラスだ。 「亮子さん……」  彼女がここにいた!  思い出した。彼女からグラスを手渡され、水を飲んだ記憶がある。  頭がずきずきしている。完全なる二日酔いだ。こめかみを押さえ、痛みが去らないとわかると、後頭部を拳《こぶし》で叩《たた》いた。  自分はベッドに寝ている。よくここまで来られたな、とまず思った。酔い潰《つぶ》れてソファで寝たことは三度あった。三度とも、この二年間のできごと。つまり、吉川と別れてからのことだ。  顔をしかめて、ソファまで行った。クッションとクッションのあいだに、昨日、千鶴がしていた髪止めが落ちていた。眠くなって横になったときに、無意識にはずしたのだろう。  ——じゃあ、やっぱりソファで寝ちゃったんだわ。まさか、彼女がベッドまで運んで行ってくれたのでは?  亮子がぐったりした自分を抱きかかえ、ベッドまで運ぶ姿を想像した。彼女なら、違和感はなかった。先日、チェストを軽々と一人で持ち上げた光景と重なった。  スリップの上に、パイル地のガウンを着せられている。無意識のうちに、自分で着たのだろうか。それとも、彼女がガウンをパジャマ代わりに着せたのだろうか。あとのほうだと千鶴は思った。ガウンは、たしかベッドの上に置きっぱなしになっていた。亮子は、千鶴の服を脱がせ、目についたガウンを着せたのだろう。  寝室に戻ってよく見ると、ブティックハンガーの後ろのほうに、昨日着ていたスカートとブラウス、ジャケットが掛かっていた。ジャケットの胸ポケットのところが汚れている。パンティストッキングとガードルもきれいに畳まれて、ナイトテーブルの上に置いてある。  ハッとして玄関に飛んで行った。ドアには鍵《かぎ》がかかり、たたきの新聞受けの下あたりの位置に鍵が落ちている。千鶴が昨夜、ここに入るときに使ったものだろう。新聞受けのふたは開いていた。  そういえば……と、千鶴はぼんやりと思い出した。路上で吐いた記憶がある。そこで誰かに声をかけられた。あれが、亮子だったのだ。そして、亮子に連れられて部屋まで来た……。  タクシーの運転手につり銭をもらってから、バカラのグラスまでの空白の時間に、記憶の断片が生まれつつあった。  リビングルームに戻ったとき、ダイニングテーブルの上にメモ用紙が載っているのが目に入った。家でプレゼンテーションなどの仕事ができるようにと購入した、大型の机だ。 『千鶴さん 鍵は新聞受けから投げ入れておきます。亮子』  丸っこい小さな字で、それだけ書いてあった。その字は、彼女の鳩《はと》のように丸い目にどこか似ていた。  やっぱり重松亮子は、この部屋にいたのだ。  千鶴は、その書き置きに違和感を覚えた。「千鶴」「亮子」と名前が書かれている。名前を呼び合うほど、親しくなったということだろうか。  ——そういえば、さっきわたしは、無意識のうちに「亮子さん……」とつぶやいたではなかったか。  ひどい醜態を彼女にさらしたのではないか。一方が恥部を見せてしまったので、二人の距離が縮まったということも言える。  バカラのグラスで水を飲んだときから、目が覚めるまでの記憶がすっぽり抜け落ちている。  千鶴は不安になり、自己嫌悪に陥った。吉川の言葉がよみがえる。 「君って、おもしろくないことがあるとすぐ酒に逃げる。しこたま飲んでひどく荒れる。そんなときの口癖が、『ほっといてよ』だ。こっちは親切に介抱してやろうとしてるのに、酔ったあげく『ほっといて』だからいい迷惑だよ、まったく」  ——同じように昨夜も荒れたのではないか。彼女に当たり散らしたのではないか。  部屋に残った痕跡《こんせき》から、自分が〈しでかした〉ことを探ろうとしたが、室内はどこも朝、出かけたときのままだった。  バカラのグラスのことが脳裏に浮かんだ。千鶴はあわててキッチンへ行き、食器棚を点検した。あの記憶に間違いなければ、自分はバカラのウイスキーグラスで水を飲んだはずだ。  ところが、揃いで四つあるはずのウイスキーグラスは、三つしかなかった。  ——戻さなかったのかしら。  シンクをのぞいてみたが、グラス類は一つもない。千鶴は、水を飲むためのコップやグラスの類《たぐい》を、シンクのまわりには置かない主義なのだ。  ——もしかして、割ってしまったのでは? 「ほっといてよ!」と、亮子の手を振り払った拍子に、グラスが床に落ちて割れ、それを亮子が始末したのではないか。あるいは、亮子自身があやまってグラスを取り落としたとか……。  キッチンの床、グレーのカーペットを敷き込んだリビングルームの床、寝室の床と見て回ったが、どこにもガラスの破片一つ落ちていない。 「どこに行っちゃったのかしら」  バカラのグラスが一つ、消えてしまった……。  ——まさか、わたしが寝ているあいだに彼女が?  胸がドキリと脈打った。なぜ、亮子が持って行ってしまうのか。  目をつぶり、両方のこめかみに指を当てて、必死で昨夜のことを思い出そうと試みた。だが水を飲んで空になったグラスを明かりにかざしたところで、ぷつりと記憶が途絶えている。  朝の五時半だった。夜はすっかり明けている。  千鶴はリビングルームの掃き出し窓のカーテンを少し開け、正面の『白金ハイツ』を見た。二階の左端。残念ながら見えるのは、玄関の腐りかけたドアとその左側の台所の格子窓だけだ。中の様子は少しもわからない。  先日の奢《おご》られたお礼と、昨夜のお詫《わ》びを兼ねて、彼女の部屋へ出向かなくてはいけない。そのときにバカラのこともそれとなく聞いてみるのだ。彼女に合わせる顔はないが、こんな近くに住んでいて永遠に逃げ続けるわけにもいかない。  千鶴はそう思って、首の後ろを揉《も》みながらシャワーを浴びに行った。     7  インテリア・コーディネーターとしての仕事は、本社ショールームでの打ち合わせばかりではない。  その日、千鶴は、調布《ちようふ》に建築中の家を見に行き、会社には直帰する旨を電話で伝えた。百坪の敷地に建築中の一戸建ては、建坪六十三の大きな家で、建て主は時代小説で売れっ子の作家だった。仕事部屋に造りつけの机をと依頼され、千鶴がデザインしたものを設置する日であった。こういうときは、インテリア・コーディネーターが立ち会い、納まり具合を見る。「思いどおりに仕上がった」と作家に喜ばれ、胸を撫《な》で下ろした千鶴だったが、すぐに次の〈仕事〉に頭を占められた。  新宿へ戻り、行きつけのデパートのインテリア館に入った。重松亮子へのお詫びとお礼の品選びである。四階のギフト・コーナーへ向かう。キッチン関係のもの、ベッドまわりのもの、スリッパ、クッションと細かく売り場が分かれている。  ——何にしようかしら。  贈りものを選ぶほどむずかしいことはない。それは、贈られたもので気に入ったものがあったためしがない自分でわかっている。吉川が千鶴の誕生プレゼントを選ぶときは、必ず千鶴もついて行ったものだ。  合計三回、顔を合わせているとはいえ、亮子のことは何も知らないに等しいことに気づいた。知っているのは、重松亮子という名前と住んでいる場所。年齢も職業も知らない。  ——彼女は、どういうものを贈られたら喜ぶのかしら。  だが、手がかりはあった。雑誌『マイ・ベスト・ルーム』だ。亮子は、あの雑誌を愛読していると言った。趣味に合うからだろう。  あの『マイ・ベスト・ルーム』に出てくるような部屋の雰囲気に、ぴったり合うものを選べばいい。千鶴はいちおうその道のプロであるから、手がかりがあれば、自分の見る目に自信はあった。  実用品ではなく、部屋の飾りになるようなものがいいだろう。でなければ、いくつあってもいい消耗品。たとえばスリッパやエプロンなど……。そのエプロンも、ピンクのフリルのついた少女趣味的なものが『マイ・ベスト・ルーム』の愛読者には合っている。あそこには、手作りのもので埋めつくしたような夢のある可愛《かわい》らしい部屋がいっぱい登場する。  スリッパのコーナーに行こうとしたとき、前方のエスカレーターを降りて来る男女が目に入った。  男は、吉川智樹だった。  二人は、三階へ下るエスカレーターには乗らずに、四階のフロアをこちらに歩き出した。モデルの男女のように見えた。吉川は百七十三センチほどで、長身というほどでもないが、顔が小さく手足が長い。その吉川が、グレーのスーツに黄色に紺の水玉のネクタイ、連れの女性が、黄色いワンピースに濃紺のボレロと、まるでペアルックのような服装だ。  エプロンを飾った棚の陰にいた千鶴は、後ろ向きに歩き出そうかどうか迷った。が、足が動かなかった。とっさに、はめていた右手薬指のファッションリングを、左手の同じ指にはめ替えた。  吉川と千鶴の視線が合った。吉川は、連れの女性に何か言い、一人でこちらに歩いて来た。彼女は千鶴より若いだろう。髪の毛の長い細面の、いかにもお嬢さんといった感じの女性だった。彼女は千鶴のほうをちらと見て、軽く会釈をすると、踵《きびす》を返し、ベッドスプレッドのコーナーへと向かった。 「やあ、久しぶりだね」 「ええ、二年ぶりかしら」  間が抜けた応じ方だと思って、千鶴は急いで言葉をついだ。「お元気そうね」 「まあね。君のほうは?」 「まあ、何とか」  千鶴は首をすくめた。仕事でつらいことがあって、やけ酒を飲み、ようやく二日酔いから脱却したところよ、とは言えるはずがなかった。  吉川の視線が、千鶴の左手に降りた。千鶴は、指輪を隠すようにわざと手を組み合わせた。 「結婚したの?」  吉川の目は、一瞬にして指輪をとらえたのだろう。 「えっ? あ、ああ、これ? ちょっともらい物」  千鶴は、左手を手のひらを内側に向けて、ひらひらさせ、曖昧《あいまい》に言った。婚約指輪かもしれない、というニュアンスを匂《にお》わせて。今日はめているのは、ルビーを芥子粒《けしつぶ》ほどのダイヤが取り囲んだファッションリングで、半年ほど前に、ボーナスで自分への褒美として奮発したものだった。社内割引で、二十二万円。三十近くの独身女が、少し高めの宝石を買いたくなる気持ちなど、吉川とつき合っていたころの千鶴は、話は聞くけれども理解することはできなかった。ところが、いまの千鶴は、寂しさを宝石で紛らわせ、高い宝石によって自分の価値を確かめて安心するような女になっている。 「そう……か。君ほどの女が、一人でいるはずないよな」  皮肉で言ったのかと思ったが、吉川の口元に歪《ゆが》みはなく、真顔だった。 「や、やめてよ。誤解しないでよ。まだ……ちゃんと決まったわけじゃ」  わたしは何を言っているのよ、一体。そう思いながらも、婚約者に近い存在のいる女を演じてしまう。 「商品の研究?」  吉川は、千鶴が見ていたエプロンの陳列棚を顎《あご》でしゃくった。 「あ、ううん。友達へのプレゼント」 「ふーん。君の趣味とは合わなさそうだけど」  ハート型のポケットと白いレースのついたピンクのエプロンを指さして、吉川が言う。 「近所の友達。ほら、あなたも知ってるでしょ? うちのマンションの前の……古いアパート。あそこに越して来た女友達にちょっとね」  ボロアパートと言いそうになってあわてた。 「へーえ、あそこの?」  吉川の目に意外そうな光が宿ったのを見て、千鶴は満足した。  ——わたしはね、あんなボロアパートの子と、ちゃんと友達づき合いができるのよ。しかも、こういう少女趣味のエプロンが好きそうな子と。 「楽しくやってるようだね」  と、吉川が言い、ため息をついた。これでよし、というときや、さあやるぞ、という景気づけのときに、ため息をつくのが彼の癖だった。 「お陰さまで」  何がお陰さまなのだろう。心にもないことを口にする自分に、もう一人の自分が腹を立てて、苛立《いらだ》っている。 「あなたこそ」  苛立ちが千鶴にそう言わせた。「彼女?」と、ベッド・コーナーへと視線を向ける。彼もつられてふり返る。黄色いワンピースに濃紺のボレロ姿が、手持ちぶさたそうにゆっくり一角を巡っている。千鶴と目が合った。今度は会釈をせずに、そらす。 「違うよ。クライアントのお嬢さんだ」  向き直り、吉川は言った。うそをついている表情ではなかった。 「クライアント?」 「うちの事務所のね」 「事務所?」  吉川は、大手の自動車メーカーで新車のデザインを手がけていたが、「自分の以前からの夢を叶《かな》えたい」と言い、千鶴の反対を押し切って会社を辞めてしまったはずだ。そのあとのことは、彼からはもちろん、どこからも情報を得ていない。『かえで』のママは口が固いので有名だから、あえて千鶴に話さなかったのか、それとも吉川から聞かされていないのか、彼もまた千鶴と別れてからあの店には寄りついていないのか。  二人の出会いは、千鶴が『五木ホーム』に移ってまもないころ、幕張《まくはり》メッセで開かれた国際家具フェア会場だった。巨大な会場に圧倒され、迷子になった千鶴は、吉川にめざす展示コーナーを尋ねた。彼が、胸元にエンブレムのついたブレザーを着ていたので、係員だと思ったのだ。だが、彼もまたフェアに訪れた一人と知って、思わず笑ってしまった。たまたま二人とも同じコーナーをめざしていたので、その後はずっと一緒だった。千鶴は、仕事の参考にするために、絵画展めぐりをしたり、伝統工芸品などの美術品に触れる機会を積極的に求めていた。そして、そういうときは、雑音が入らないように、一人で観ることを信条にしていた。このときも、一人でいたのが幸運をもたらした。  二人は、フェア会場をめぐったあと、新宿に出て食事をし、吉川の行きつけの『かえで』に顔を出した。千鶴は桜上水、吉川は阿佐谷《あさがや》と、それぞれの住所が新宿を拠点にした場所にあったのも幸いした。それからデートを重ね、三回に一度の割合で『かえで』に寄った。  体の関係ができたのは、家具フェアからひと月後。交際は三年あまり続き、「会社を辞め、新しい可能性に賭《か》ける」という吉川の決断で破局を迎えた……。  事務所とはどこのだろう、と思っていた千鶴に、吉川は名刺を差し出した。 『(株)工房・遊  家具デザイナー 吉川智樹』  繊細な字体でそう印刷されていた。住所は、原宿のビルのワンフロアだ。 「『工房・遊』って、空間デザイナーの濱田耕司《はまだこうじ》がいるところ?」  業界ではかなり有名な設計事務所だ。個人の住宅より、公共の図書館、児童館、文化会館、公園、ニュータウンの街並の設計デザインなどを手がけることが多く、建物の内部のみでなく、周辺の環境を含めた総合的な美を追求することで有名だ。そのための専門的なスタッフをたくさん抱えていると聞く。 「ああ、濱田さんのところだ」 「車のデザイナーからどうしてまた? 珍しいじゃないの」  てっきりどこかの山奥で、家具職人の修業でもしているかと思ったら、こんな近くに、それも都心のど真ん中にいたとは……。 「二年近く家具を勉強して来てね。最近、濱田さんに誘われた」  濱田さん、と有名なデザイナーの濱田耕司を呼んだのが、千鶴の胸をざわつかせた。一住宅メーカーのインテリア・コーディネーターが近づこうとしても近づけないくらいの人なのだ。 「そう、よかったわね。いい職場じゃないの」  執着していると思われるのもしゃくなので、千鶴は名刺をバッグにしまった。 「待たせると悪いわよ」そして、顎《あご》で黄色いワンピースに濃紺のボレロ姿の彼女を示した。 「あ、ああ」  吉川は、唇をなめて、ちょっと躊躇《ちゆうちよ》するそぶりを見せた。言葉を探しているふうだった。 「大事なクライアントのお嬢さんなんでしょ?」 「じゃあ……元気で」  また、と言わずに、元気で、と言って、吉川は連れの彼女のほうへ歩いて行った。  千鶴はすぐにエプロンへと関心を移した。だが、それもふりでしかなかった。最初に目についたピンク色のエプロンを手にすると、レジへ行き、さっさと精算した。一刻も早くこのフロアから離れたかった。  ——あなたからもらったチェストは、もう捨てたのよ!  千鶴は、心の中で叫んだ。     8  なぜあんなことをしてしまったのだろう。千鶴は、吉川と別れてすぐに右手にはめ直した指輪を見て、自分のついたうそに悲しくなった。婚約指輪でも、親しい男性からの贈りものでもない。自分で自分のために買ってやった指輪よ、とどうして言えなかったのか。わたしは、そんなに見栄っぱりな女だったろうか。あなたと別れても、すぐに言い寄って来る男がいる、それだけの価値のある女よ、と言いたかったのか。  千鶴は指輪を抜き取り、宝石箱の引き出しにしまった。当分、はめる気にはなれなかった。  吉川からもらった名刺を、バッグから取り出し、ダイニングテーブルに載せてしばらく見つめていた。二年ぶりに会った彼は、どことなく自信に満ちて見えた。この名刺のせいだと思った。濱田耕司に目をつけられるほどの実力を、彼がつけたということなのか、この二年間に。  彼のほうは、現在の自分のポストを鼻にかける様子もなく、さりげなく名刺を出した。そのやり方が、とっさに指輪を左手にはめ替えた自分を小さく、つまらないものに見せたように思った。  美人の女性を連れていたことを、自慢するでもなかった。あの二人は、恋人同士と言ってもいいくらいだった。本当に、クライアントの娘なのだろうか。  似合いの二人だった。  吉川が近々、『かえで』に顔を出すようなことがあったら、昨日、千鶴が酔って荒れたことをあのママは彼に告げるだろうか。千鶴は少し不安になったが、あのママの口の固さからいってその心配はないだろう。いや、たとえ話したとしても、新しい恋人とトラブルを起こしてうさ晴らしをした、と彼は受け取るに違いない。  帰宅後、一度、亮子の部屋を訪ねたが、不在のようだった。それで、ときどきカーテンの隙間《すきま》からのぞきながら、二階の左端の部屋に電気がつくのを待っている。  明かりが灯ったのは、八時半頃だった。千鶴はリボンをつけた包みの入った紙袋を提げて、玄関を出た。 「ゆうべはご迷惑かけて、ごめんなさい」と、まずあやまろうと決めている。その次に、先日のごちそうされたお礼だ。そして……聞きにくいが、バカラのグラスのことを聞く。  千鶴は念のためにけさ、出勤前に下のゴミ捨て場をのぞいてみた。マンションの裏の自転車置き場の手前で、ガラス、瓶類、缶類、金属類、と細かく仕分けがされ、それぞれにポリバケツがある。そのガラス類のバケツをのぞいてみたが、バカラのグラスの破片と思われるものは捨てられていなかった。  割れたとしたら、その破片がどこかにあるはずだが、ひょっとしたら亮子が持ち帰って処分したかもしれない、と思った。その場合は、彼女自身が割った可能性が高くなる。いずれにせよ、質問の仕方は考えてある。  鉄錆《てつさび》の目立つ階段を、音を立てないように上がる。左端のドアのブザーを鳴らした。ジィーという懐かしい音だ。 「はい」かなり近い場所で、亮子のくぐもった声がした。「どなたですか?」 「わたしです。今村です」 「あっ、千鶴さん……」  意外な驚きと、親しげな思いのこもった声が、名前を呼んだ。 「ゆうべのことで、お詫《わ》びにうかがったの。お帰りになったと思ったから。よかったかしら」  早口に言った。薄いドアは、小声でもよく通した。 「お邪魔なようだったら、出直す……」  言い終わらないうちにドアが開き、珍しく口紅をつけた亮子が、「かまいません」とややあわてたように言った。Tシャツにジーンズ姿。いちおう着替えは済ませたようだ。 「どうぞ。お恥ずかしいほど狭いところですけど」 「本当にいいの? 外で話してもいいんだけど」  彼女が自分を部屋に入れたがっていないのかもしれない、と思って千鶴は言った。 「そんな。せっかく来てくれたんですから。どうぞ」  意外に亮子は、自分の粗末な部屋を見せるのを気にしない女性なのかもしれない。思っているよりさばけた性格なのかも。千鶴はなんだかホッとした。昨夜の無礼を謝罪しやすくなる。  目に飛び込んできたのは、色とりどりにつながったパッチワークの布だった。下駄箱隠し用らしい。申し訳程度についたたたき。靴脱ぎスペースといった感じで、三足も並べておけないほどだった。大きめのサンダルが一足。その隣に千鶴は靴を並べ脱いだ。  下駄箱がカウンター代わりになり、その向こうが四畳ほどの台所。奥が六畳の和室。間取りは想像したとおりだ。台所の右にトイレ。やはり浴室はついていない。  だが、一目できれいに住んでいることがわかる部屋だった。整理|整頓《せいとん》がきちんとされ、天窓や押し入れがパッチワークの布をレールで吊《つ》って隠されている。和室にはやはりパッチワークの大判の敷物があり、傷んだ畳がほとんど見えない。 「狭くてびっくりしないでね、千鶴さん。でも、いちおう椅子《いす》はあるんです」  亮子は、六畳間の椅子を勧めた。椅子のクッションにも、パッチワークのカバーが掛かっている。  部屋に引き戸はなく、アコーディオンカーテンが片側に寄せてあった。一つの空間として使っているので、さほど狭い感じはしない。  千鶴が驚いたのは、狭さにではなく、家具の少なさにであった。台所に幅の狭い食器棚、小型冷蔵庫、六畳間に小さなテーブルと椅子が二脚。小型のテレビに、そして千鶴が捨てようとしていたのをもらったあのチェスト。そのチェストにも千鶴は驚いた。それは、すぐにはそれと認められなかったほど変わっていた。 「すごい変身ね」  昨夜の謝罪から切り出すことなど忘れて、千鶴は、台所との仕切りに置かれたチェストを見て言った。それは、白いペンキできれいに化粧直しされていた。傷も塗り込められている。 「亮子さんが塗ったの?」  さっき彼女は、千鶴のことを名前で呼んだ。やはり昨夜、二人の距離が縮まったということだ。それで千鶴も名前で呼ぶことにした。 「あ、ええ。下手ですけど。この椅子も。テーブルも」  そう言われて見ると、白地に水色のギンガムチェックのテーブルクロスの下も、二人が座っている椅子も、パイン材に白いペンキを塗ってある。 「あまりじろじろ見ないでください。同じじゃないんです、その椅子。別々に拾って来たんですよ」 「拾った?」  千鶴は、自分の座っている椅子ともう一つを見比べた。背もたれのデザインが違う。 「粗大ゴミに出されていたんです。前のアパートで拾ったんですけど」 「テーブルも?」 「ええ。恥ずかしいんですけど、拾い物だらけの部屋です、ここは」  亮子は、台所に行き、ガスレンジでお湯を沸かし始めた。「お茶、いれます」 「あ、いいのよ。おかまいなく」  千鶴は、椅子に座ったまま、ぐるりと頭を回して部屋を観察した。「へーえ、亮子さんって手先が器用なのね」 「そんなことありません」 「だって、このパッチワーク、全部、亮子さんがやったんでしょ?」 「あ、ええ。端切れを見つけると、なんとなく縫い合わせたくなって。自己流です。たまに『マイ・ベスト・ルーム』を見てまねしたりはしますけど」 「それに、ペンキ塗りまで。よく塗れてる。ムラがないわ。ペンキ職人に手本にするように見せたいくらい」  千鶴は笑った。台所で亮子もくすりと笑い、「褒めすぎです、千鶴さん。千鶴さんこそ、インテリア関係のお仕事ですもの。手先は器用なんじゃないですか?」と言った。 「わたし? わたしはだめよ。大体ね、みんなインテリア・コーディネーターって聞くと、創造的な仕事だから、縫い物も料理も何でも器用にこなせると思うのよね。でも、わたしはだめなの。料理も得意じゃないし、縫い物も苦手。というより嫌い。カーテンのサンプルくらいは仕方なく縫うけどね。パースや見取り図を正確に描く才能とは、全然別のものなのね」  亮子が、おもちゃのようなプラスチックの丸盆に、筒状の湯飲みを二つ運んで来た。ほうじ茶だった。  真っ赤なプラスチックのトレイを見ていた千鶴に、「これも、拾いものです。東京はまだ使えるものをどんどん捨てちゃうんですね」と言い、思い出したように「ああ、すみません」と顎を引いた。 「あやまるのは、わたしのほうよ。ごめんなさいね、ゆうべは」  千鶴は頭を下げた。「本当は、あんまりよく憶《おぼ》えてないの。でも、醜態をさらしたということはわかってるのよ。さぞかしあなたにひどいことを言ったんじゃないかと思うと、わたし、合わせる顔がなくて」 「いいんです。わたしはただ、千鶴さんをお部屋に連れてっただけですから」  亮子は、ぶるぶるとかぶりを振った。 「でも、介抱してくれたでしょ? 水を飲んだ記憶はあるのよ」  話を核心に近づけた。まず昨日のお詫びの品、と言って、紙袋の中のエプロンを出すべきだろうが、気がかりなことは先に片づけておきたかった。紙袋は足下に置いてある。 「あ? え、ええ、千鶴さん、わたしに『お水ちょうだい』と言って……」  亮子が台所のほうへ目をやる。不安げなまなざしだ。千鶴もその視線を追った。  食器棚の二段目に、見憶えのあるグラスを発見した。ドキッとした。千鶴は、視線を亮子に戻した。おどおどしたような光が目の奥で揺れている。  しばらく二人は見つめ合った。千鶴は、亮子が何か言うのを待った。言い訳でも謝罪でも何でもよかった。沈黙が重く、見つめられている顔の皮膚に突き刺さるようで痛かった。  千鶴は、亮子に視線をとどめたまま、ゆっくりと食器棚まで後ずさった。亮子は制止しなかった。  食器棚ではじめて向きを変えた。ガラス扉越しにまっすぐに、そのグラスを見た。間違いない。千鶴の部屋から消えた、あのバカラのウイスキーグラスだ。愛着のある品だから、見間違えるはずがない。 「亮子さん……」  千鶴は振り返った。 「それは……」  亮子は、あの小さな目を見開いて、そろそろと立ち上がった。  ——告白するつもりなのね。持ち出して、ううん、盗んでごめんなさい、と。  千鶴は息を呑《の》んで、亮子の言葉を待った。 「やっぱり」と、亮子はつぶやいた。 「えっ?」 「やっぱり、そうなんですね。千鶴さん」  亮子の太い眉《まゆ》が下がり、悲しげな顔になった。 「やっぱりそうって?」 「わたしにくれるつもりなんかなかったんですね?」 「えっ……あなたにあげるって、どういう……」  亮子が駆け寄って来た。無言で食器棚の扉を開け、バカラのグラスを取り出した。それを両手に包み込んで、千鶴の胸に押し出すようにした。どうぞ、どうぞ、あげます、という意味らしい。その動作に違和感を覚え、千鶴は「どういうことなの?」と聞いた。 「返します」亮子は、強い力でさらに押しつける。 「返す?」 「千鶴さん、ゆうべ、わたしがこれに水を汲《く》んで持って行ったら、飲んだあとこう言ったんです。『これは、すごく高いクリスタルガラスなのよ。バカラのグラスなの。あなたにあげるわ。迷惑かけたお詫びと、このあいだのお礼に』って」 「……」 「わたし、いらないと言ったんです。だって、千鶴さん、酔っていたし、勢いでそう言ったのかと思って。でも、千鶴さん、どうしてもあげるってきかなくて。もらってくれないのなら、割ってしまうわよ、と怖い顔をして……。そんな高価なものを割ってしまうなんて、わたし耐えられなくて。それで、持って来てしまったんです。千鶴さん、酔っているけど自分はわかっていることはちゃんとわかっている、とはっきり言いました。名前で呼び合いましょうよ、とも」  亮子の声は、震えていた。「でも、やっぱり、そんなことしちゃいけなかったんです。どうぞ、お返しします。持って帰ってください。千鶴さん、酔いが醒《さ》めたらたぶん憶えていないだろう、とは思ったんです。だから……」 「い、いいのよ」  なんと言えばいいかわからなくて、それだけ言った。  ——わたしは、そんなことを彼女に言ったのだろうか。わたしなら言いかねない。過去に記憶を失うほど飲んだことは、何度かある。そんな前科者のわたしなら、ゆうべも……。  千鶴の頭は混乱していた。言った記憶はないが、言わなかった記憶もない。言われてみれば言った気もする。しかし、彼女がそう聞いたと言うのだから、やっぱりわたしはそう言ったのだ。でも、なんてことを……。いくら気が大きくなったからといって、よりによって自分の大切にしていたものを……。 「いいのよ。亮子さんにあげるわ。ご、ごめんなさい。わたしったら、ゆうべのこと、すっかり忘れていて」  穴があったら入りたいほどだった。酔って醜態をさらしたどころではない。 「やっぱり返します」  亮子は硬い声で言うと、テーブルまで戻った。テーブルにグラスを置き、両手に挟んでそっと押し出した。「お持ち帰りください」というしぐさに見えた。 「できないわ、そんなこと。あげたものを返されるなんて」  千鶴もテーブルに行き、グラスを片手で取り上げた。食器棚の元の場所へ戻した。 「だめです」  亮子が食器棚に手を伸ばしかけたのを、千鶴は彼女の前に立ちはだかるようにして阻止した。 「いらないってば。とっといて」  ほっといて、ではなく、とっといて、と強い口調で千鶴は言った。恥ずかしさのせいで声が裏返り、顔が火照っていた。「お願いだから、とっといて。わたしにこれ以上、恥ずかしいまねさせないで。友達なら……お願い」 「千鶴さん……」 「わたしはね、酔って言うことは、本音なの。だから、あなたにバカラをプレゼントしたかったのよ。一つで悪いけどね」  微笑《ほほえ》もうとしたが、頬《ほお》が強張《こわば》った。 「そこまで言うのなら……いただいておきます」  ようやく亮子も承知した。軽く頭を下げる。 「あ、ええ、そうしてくれる? お友達になれた印に」  千鶴はホッとして、食器棚から離れた。友達という言葉を改めて使うことによって、自分を救いたかった。 「あ、ああ、それからこれはエプロン。亮子さんが何が好きなのかわからなかったけど、こういう可愛《かわい》いの、たぶん好きだろうと思って勝手に選ばせてもらったの」  強張った笑顔のまま、千鶴は急いで紙袋を取って来て、リボンのついた包みを渡した。 「そんなぁ、いいです。だって、あんな高価なグラスをいただいたのに」  滅相《めつそう》もない、というふうに亮子は少し後ずさった。 「あ、あれは別よ。わたしが使っていたものだし……。これは、亮子さんのためにわたしが選んだの。お古じゃなくて新品よ。遠慮なく使って」  受け取ってもらわないと気がすまない。あのバカラのグラスの〈とんでもないプレゼントの仕方〉を帳消しにするためにも。 「そうですか? じゃあ、いただきます。開けていいですか?」 「どうぞ」  がさがさと紙を開ける音がし、中から箱入りのピンクのエプロンが現れた。箱の中心部に透明なセロハンを貼《は》り、きれいな色が見えるように包装してあるのだ。 「わあ、きれい」  亮子は子供のように喜んで引き出し、エプロンを広げた。胸もとにハートの刺繍《ししゆう》。両サイドにハートのポケット。袖《そで》ぐりと裾《すそ》に同色のピンクのフリル。『マイ・ベスト・ルーム』の愛読者が好きそうなデザインだ。  亮子はエプロンを掛けて、「エプロン負けしてませんか、わたし」と千鶴に聞いた。 「ううん、よく似合うわ。よかった。喜んでもらえて」  長身で筋肉質の彼女には、お世辞にも可愛らしいデザインのエプロンは似合っているとは言えない。デニムのような固い生地のほうがよっぽど似合うだろう。色白の肌にだけピンク色はマッチしていた。けれども、褒めることで、あの不快な失態を忘れたかった。一度人にあげたものを返して、と言うほど人道的にはずれる行為はない。 「ゆうべのことは……忘れて、とお願いするのは無理ね。でも、実を言うと、仕事でおもしろくないことがあって、お酒でうさ晴らしをしたの。そしたら、度を越しちゃって」 「そうだったんですか。そういうこと、ありますよね」  亮子がうなずいた。  それで、千鶴は、〈ああ、そこまでは酔っていても話さなかったんだな〉と安心した。ところが亮子は、「むしゃくしゃすることって、仕事上のことだったんですか? 千鶴さん、わたしを見て『本当はね、彼に慰めてもらいたいくらいなの。でも、あなたでいいわ』と言ったんですよ。もしかしたらボーイフレンドとケンカでもしたのかな、と思ったんですけど」と、饒舌《じようぜつ》になった。 「彼?」  ——そんなこと、この自分が言ったのだろうか。だとしたら、よっぽどわたしは見栄っぱりだ。彼などいはしないのに、いまは。 「ご、ごめんなさい。そんなことまで亮子さんに愚痴ったのね、わたしったらしょうもないわね」  千鶴は動揺した。それで、探りを入れてみた。「で、でも、まさか、彼のことなんて話してないわよね。話したとしたらお恥ずかしいわ」 「それは言いませんでした。『彼もね、仕事で忙しいのよ。なかなか会えなくて苛々《いらいら》するわ』とだけ。千鶴さん、酔ってても、口が固いんですね。わたし、恋人がどんな人か聞き出そうとしたんだけど、千鶴さんは引っかからなかったんですよ」  亮子は、いたずらっぽく笑った。  すべて記憶にないことだった。何を聞かれたのか、どう答えたのか。亮子が憶《おぼ》えている千鶴の発言の一字一句を彼女から聞き出したかったが、それは恐ろしくてできなかった。酔ったときの醜態は、知らないほうが幸せということもある。何度か過去に経験している。しらふになったときの相手の態度から察する以外にないのだ。相手も、気遣って話さないこともある。 「わたし、本当に亮子さんに失礼なことしなかったかしら。泣きわめいたり……」  おそるおそる尋ねてみる。 「大丈夫ですよ。千鶴さん、可愛かったです」 「可愛かった?」  思いもよらなかった表現に、千鶴は面食らった。 「たまにはいいんじゃないですか? ストレスのたまる大変なお仕事しているんだし。女だって、お酒を飲んでストレス発散させたいことってありますよね」 「そ、そうよね。よかった、亮子さんもそういう考えで」  亮子も、案外、話のわかるごくふつうの女なのだ、と千鶴は思った。そう思いたかったのかもしれない。 「だって、わたしたち、二十九歳。とても微妙な年ですよね。いろいろと」 「えっ?」  年齢も教え合ったのだろうか……。 「千鶴さんが、『わたし、もう二十九になっちゃったのよ。田舎の友達は結婚しちゃうし、なんだかあせるわ』と言ったので、わたしも同じ年だと言ったんです。そしたら千鶴さん、わあ、嬉《うれ》しい、なんてわたしに抱きついて、『わたしたち、いいお友達になりましょう』って」 「そ、そう……だったの。そ、そうよね。二十九歳同士、仲よくしましょう」  記憶にはなかった。記憶にあるのは、あのバカラのグラスだけだ。けれども、亮子も同じ二十九歳だとわかって、ホッとする気持ちが千鶴の中に生じている。だからこそ、昨夜のような醜態も彼女は快く許してくれたのではないか。二十九歳同士、共鳴する部分があって。 「本当にわたしってだめね。そんなふうに言った気もするし……。憶えてないのよ」  千鶴は首をすくめて、「じゃあ、あまり長居をしても悪いから。ああ、電話番号、教えてくれる? 今度、何か映画でも一緒に観に行きましょうよ。近いと言っても、いちいち誘いに来るのも面倒だから、電話するわ」と、なるべくあっさりと誘った。重々しく荒れた雰囲気で始まったつき合いを、なんとか軽く弾んだものにしたかったのだ。  電話機がチェストの上にあるのには気づいていた。留守番電話やファクスの機能のない、一昔前のデザインの電話機。ただし、ダイヤル式ではない。これも聞けば、「拾って来たの」とでも言うのかもしれない。  亮子がメモ用紙を取りに行った。靴を履きながら、ふと見ると、下駄箱の横にピンク色の洗面器がある。何かがよみがえってきそうだった。  ——石けんの匂《にお》い。それから……。  だが、どうしても思い出せない。  戻った亮子が、千鶴の視線に気づき、「ああ、ゆうべはわたし、お風呂《ふろ》帰りだったんですよ。千鶴さん、タクシーから降りたと思ったら、いきなりしゃがみこんで」 「わたし、亮子さんの洗面器に吐かなかった?」  あれだけ飲んで気分が悪くならないはずはない。上着も汚れていた。それで、千鶴は推理したのだ。 「え? ええ、でも……気にしないでください」 「ごめんなさいね。本当に自分で自分が嫌になるわ」  千鶴は、ゲンコツで自分の頭をぶつまねをした。「亮子さんの服、汚さなかった?」 「いいえ。全然、そんなことありません。本当です」 「迷惑かけたわね。バカラのグラスとエプロンじゃ、足りないくらい」  亮子は笑顔で「いいんです、お互いさまですから」と言った。  千鶴は、玄関からもう一度室内を見回した。視線が、あのチェストで止まる。白いペンキで塗られたチェスト。パッチワークの敷物の上に電話がぽつんと置いてある。  ——わたしには落ち着かない空間だわ。  そう思って視線を戻すと、亮子の顔がふっと曇ったように見えた。 「返してほしい、なんて言わないですよね」  そして、やや低めの声でぼそりと言った。 「えっ?」  何を聞かれたのか、とっさに理解できなかった。 「あのチェスト。返してほしい、なんて千鶴さん、言いませんよね」 「も、もちろんじゃないの。どうして? バカラのグラスが……あれだったからと言って。そんなこと、言うわけないじゃないの」  驚いたあまり、言葉をうまく探せなかった。第一、チェストは、千鶴の部屋にあったときとは似ても似つかぬ姿になっている。 「べ、別に、どうってことないんです。ただちょっと気になって。ごめんなさい」  亮子は、中途半端な笑顔を作って、小刻みに首を振った。  そのとき、ブーンとうなるような地響きの音がし、建物全体が揺れた。思わず千鶴はよろめいて、下駄箱に手をついた。カバーになっていたパッチワークの布がふわりと滑り落ちた。棚が傾いた。  棚から、ごろん、と何かがころがり落ちた。 「きゃあっ!」千鶴は悲鳴を上げた。  艶《つや》やかな長い髪の頭が、ごろりと横たわった。  生首だった。  千鶴は、たたきに尻餠《しりもち》をついた。立てなかった。腰が抜けた経験ははじめてだった。  亮子が、ハッとしたように口に手を当てた。しまった、という表情に見えた。 「り、亮子さん……」声がかすれた。 「ふふふふ」  深刻ぶった亮子が、次の瞬間破顔した。手をすっと伸ばし、生首の豊かな髪の毛をぐいとつかんで、千鶴の鼻先に突き出した。  長い髪からぶら下がった、滑らかな肌の整った女の顔。  それは、ゆさゆさと千鶴のすぐ目の前で揺れた。  ぱっちりと黒い目を開けた、引き締まった唇に、高い鼻を持つ、小麦色の肌の女性。 「驚きました? 安普請だから、大型トラックが通ると、このアパート揺れるんです」  亮子は、おかしそうに言った。アパートの裏に水道道路が走っている。 「あ、悪趣味ね。そ、そんなの、こんなところに置くなんて」  もう、それが人間ではない、と気づいていた。それでも、胸の動悸《どうき》はおさまらない。自分を驚かした人形と、その持ち主に、千鶴は怒りを覚えていた。亮子は、千鶴を驚かしたことを楽しんでいる様子だ。 「ごめんなさい、千鶴さん。狭くて、置き場所がなかったものだから」  いたずらっぽい目をして、亮子は言った。亮子がはじめて見せた茶めっけある表情だった。が、それは茶めっけを通り越して、悪ふざけの域に達していた。愉快ではなかった。けれども、バカラのグラスのことで引けめを感じていた千鶴に、亮子の悪ふざけをとがめることはできなかった。 「なんでそんなの置くのよ。新種の押し売り撃退グッズとか?」  スカートの裾《すそ》を払いながら、千鶴は無理やり微笑《ほほえ》んで聞いた。度胆を抜かしたことがきまり悪かった。 「違いますよ。これは、仕事で使うんです。ほら、髪の毛、すごく長いでしょう?」  亮子は生首を抱き、愛《いと》しそうに髪を撫《な》でて微笑んだ。 「仕事で使うって?」 「モデルウィッグです。これで、髪を結ったりして練習するんです」 「じゃあ……」 「わたし、美容師なんです」  亮子は言った。     9  練馬西署に設置された『看護婦殺人事件』の捜査本部。事件から三か月以上たってようやく、膠着《こうちやく》状態の捜査に一筋の明るい光が当たった。本庁の捜査一課から派遣された刑事の津本近夫《つもとちかお》と、ペアを組んだ地元署の西岡弘道《にしおかひろみち》とが、その情報を入手した。  被害者の影山緑が、行方不明になっている恋人の容疑者・菊地哲史のほかに、勤務先の医師・寺塚裕平《てらつかゆうへい》ともつき合っていたことは、かなり前の段階で調べがついていた。寺塚には妻子がいるから、被害者とは不倫関係にあったことになる。  その寺塚医師が、ついに「指輪を彼女に盗まれたらしい」ことを白状したのだった。  ——影山緑の切り取られた指に、指輪がはめられていたのではないか。  この推理は、捜査会議ですぐに出されたものだった。津本と西岡は、このヤマを正式名では呼ばずに、『指なし殺人事件』と呼んでいた。最初にそう呼んだのは津本のほうだったが、それだけ遺体から指が一本切り取られていたことに重要な意味を感じ取ったと言える。  ——容疑者は、指輪を見て嫉妬《しつと》し、殺したあとも指輪に憎悪を覚えて指ごと切り取ってしまい、持ち去ったのではないか。  だが、被害者がどんな指輪を所有し、当日、どんな指輪をはめていたかは、同僚や友人や郷里の家族に聞いても、はっきりとはわからなかった。看護婦は医療器具を取り扱うなど手を使う作業が多いので、仕事中は指輪をはめないようにしているらしい。彼女の日常をいちばん知っていそうな菊地は行方不明のままだし、寺塚医師も「指輪など買った憶えはない」と言い張った。  そんなはずはない。おかしい、と最初にぴんときたのは、西岡だった。「被害者に指輪を贈っているはずだ」と、彼は寺塚医師の動揺ぶりから推理し、津本は「いや、恐妻家の彼は自己保身の気持ちも強そうだ。花や食うものなど消えるものは贈ったかもしれないが、指輪など形が残るものはどうかなあ」と、懐疑的な態度を示した。  ある意味で二人の着眼は当たり、別の意味ではずれた。  寺塚医師は、指輪を、結婚十年目の奥さんに贈るつもりで買ったのだという。  購入した先は、ふらりと入った新宿の店で、定価三十万円ほどのダイヤの指輪だった。いまよくCMで流れているテン・スイートダイヤモンドというやつらしい。寺塚は妻の指のサイズを知っていたので、妻には秘密で購入した。妻にプレゼントするはずの指輪を、愛人の影山緑が彼の鞄《かばん》の中に見つけてしまった。妻への嫉妬にかられ、彼女はそれを盗んだ。帰宅して寺塚は、鞄から指輪の入った箱がなくなっているのに気づき、影山緑を問い詰めたが、彼女はしらをきった。寺塚は、妻にも内緒で買ったものでもあるし、騒ぎを大きくしたくなかったため、黙っていたという。当然、事件のかかわりになるのも恐れたのだろう。  寺塚は、あくまでも家庭を壊したくはなかったのだ。影山緑とのつき合いも、彼女から誘われる形でひっそりと始まった。影山緑の若い肉体に溺《おぼ》れそうになった寺塚だったが、あくまでもこれは遊び、と自分に言い聞かせて、慎重に密会を重ねた。影山緑のほうも、最初は、割り切ってのつき合いのようなことを言っていたという。寺塚は、彼女が実は、寺塚の離婚と、自分との再婚を真剣に望んでいたとは思いもしなかったらしい。  たまたま二人の密会を目撃した同僚の看護婦がいたため、事件のほんの少し前にうわさが広がった。そのうわさを耳にした菊地が、嫉妬にかられて恋人を殺したのではないか、と推理したのだ。影山緑が、恋人の菊地に満たされなかった部分を、医師である寺塚に求めたという見方もできる。  ——彼女は、〈妻の座〉を夢見て、寺塚が妻に贈るはずだった指輪を、そっと自分の左手薬指にはめてみたのではないか。それを婚約指輪に見立てて、複雑な思いで眺めながら。  津本と西岡の推理は、ここでは一致した。同い年同士でペアを組まされた効用と言えるかもしれない。  影山緑が指輪をはめているのを見た菊地が、うわさは本当だったと気づき、彼女を問い詰めたところ、「ほかに好きな人がいるの。その人、結婚しているけど、奥さんよりわたしを愛しているのよ。奥さんとは別れてもらうわ。わたし、彼と結婚したいの」と告白されてカッとなって……という状況が想像できる。  寺塚の妻の薬指のサイズは九・五。影山緑のほうは十だった。それは、彼女の部屋に残されていたファッションリングの類《たぐい》から判明した。  ——本来十ある彼女の指に、サイズ九・五の指輪がはめられていたとしたら……。  かなり強引に押しこまなければ指輪ははまらない。そして、強引にはめた指輪は、簡単にははずれない。ましてや、死んだあとの指では。  犯人は、遺体の指から指輪を抜こうと試みたものの、死後硬直も始まって成功しなかった。そこで、持っていた刃物(凶器?)で、指ごと切断したのではないか。 「菊地哲史が、影山緑を刺し殺し、指輪がはまった指を切り取った。凶器とともに指を持ち去り、どこかに潜んでいるか、あるいは自責の念にかられて、どこかですでに自殺しているかもしれない」  この見方に、待ったをかけたのが、津本だった。 「指を切り取るという作業は、考えるほど容易ではない。時間がかかる。カッとなった犯行のあとにしては、何か冷静すぎる気がする。それに、殺したあとで、それほど指輪に執着するものだろうか、と疑問もわく。指輪への異常なまでの執着心は、なんだか女の仕業のようにも思うんだが」  最初は、津本の偏見にすぎないと思っていた西岡も、一緒に住む二十五歳の妹・由紀子《ゆきこ》の話を聞いて、考えが津本寄りになった。由紀子は、「わたしもその場にいたら、死体からダイヤの指輪を抜き取ろうとするかもしれないわね」と言ったのだ。  だが、影山緑を殺したのは菊地である可能性が高い。被害者の死亡推定時刻前後に、被害者の部屋で争うような物音がしたのを、同じアパートに住む者が聞いているし、菊地が被害者の部屋に入る姿は、たまたま通りかかったそのアパートの大家に目撃されているのだ。  もちろん、被害者にいちばん憎悪を抱きそうな立場にいる寺塚の妻のアリバイは、ちゃんと裏がとれている。寺塚にしてもそうだ。 「死体を発見した者が、指輪だけ欲しくなって、指を切断したという推理はどうだろう」  と、西岡は会議にかける前に津本に言ってみた。  死体の第一発見者は、勤務先の同僚の看護婦である。その日、無断欠勤をしたのが気になった婦長が、影山緑の家に電話をかけたが誰も出ない。そこで、同僚看護婦に様子を見に行かせたという。  死亡推定時刻が、前夜の午後九時から十一時。発見されたのが、翌日の午前十一時。  菊地哲史が重要容疑者として浮上したのは、被害者と寺塚との関係が明らかになり、三角関係のもつれという動機ができたこと以上に、その前夜、自宅に帰った形跡がなく、そのまま行方不明になってしまったからだった。菊地の静岡の実家をはじめ、潜伏しそうなところは隈《くま》なく調べたが、彼が立ち寄った形跡はなかった。 「まあな、それだけ空白の時間があれば、誰かが出入りしなかったとも言えない。その場合は、なぜ死体を発見したのに通報しなかったか、という疑問が残るが。殺した人間と、指を切断した人間が同一とは断定できないし、指を切断するのに、犯行に用いた凶器を使ったとも断定できない。ほかの指に残された細かな傷は、確かに刃物によるものと思われるが、それだけで凶器と同一とは言えない」  津本が言った。  被害者の部屋に、鍵《かぎ》はかかっていなかった。菊地は部屋に鍵をかけずに逃げてしまったと思われた。 「ドアノブの指紋は拭《ふ》き取られていた。それもおかしい。菊地が拭き取ったとするなら、なぜ部屋にあった鍵でロックしていかなかったのだろう。施錠されていれば、死体の発見も遅れ、それだけ逃げる時間が稼げる。指紋は拭き取り、鍵はかけない。どこか間が抜けた犯行だ。第三者が犯行後に部屋に入り、指を切断、部屋を出たときにドアノブから指紋を拭き取った、と考えたほうが自然だ」  西岡も言った。「しかし、そんな恐ろしいことができる人間が、あの近くにいただろうか」  約十二時間のあいだに被害者の部屋に出入りできた人間すべてに、ひそかに当たることになった。その人物が、行方不明のままの菊地哲史に何か関係があるかもしれないからだ。菊地哲史は、現場からいなくなった。逃走を助けてもらうために、誰かに接触した可能性も充分に考えられる。  三十三歳同士のこのペアは、すべてに意見が一致したわけではなかったが、最初から不思議と気が合った。互いの第一印象がよかったせいもあったのだろう。違う見解を述べながらも、事件の核心へと迫りつつあった。共に独身で、津本は一人暮らし、西岡は妹と二人暮らしと、妻子がいないため、日夜を問わずに捜査に打ちこめる利点も共通していた。 「同期だな、俺《おれ》たち。本庁から来たと言って、気を遣わないでくれ。言葉遣いもふだんのとおりにしてくれ」  最初にそう提案したのは、津本である。これが反対だったら、津本は気を悪くしただろうと西岡は思う。「おまえが本庁の刑事だからって、俺は気を遣わんぞ。『聞き込み、いたしましょうか』なんて死んでも言わないからな」と宣言したとしたら、どんな言葉が返ってきたことか。  とにかく、津本の提案は、西岡にはありがたかった。捜査に傾ける分の情熱や配慮を、相方への言葉遣いに割くようでは気が重い。ありがたかったが、慣れるまでには多少の時間を要した。  西岡はそうは思わなかったが、周囲からは二人の雰囲気がよく似ていると言われた。確かに背格好や髪型は似ている。似ているから「気が合うのだろう」と判断された。同年齢で一方が警視庁、他方が所轄署ということで、ライバル意識を持ち、反発し合うのが当然と思われがちだが、「双子のように似ているから性格も似ているんだろう」と短絡的に判断されたことも、仕事がやりやすくなった要因であろう。  もっとも、二人とも、性格が似ているとはちっとも思っていない。  同年齢コンビの彼らのつかんだ情報がきっかけとなり、「殺した人間と、指を切り取った人間は別かもしれない」という可能性を考慮して、捜査は新しい局面を迎えることになった。     10  重松亮子が美容師と知ったときから、千鶴には彼女との距離が縮まったように思えた。  酔ったときに彼女に、「名前で呼び合いましょう」と提案したかどうかは憶《おぼ》えていない。けれども、〈名前で呼び合う〉という形式から入ったことも、二人の関係にいい具合に作用した気がする。もちろん、千鶴にとって重松亮子は、自分の属する世界——仕事を通じての世界や学生時代の仲間——の中から選んで友達になった人間ではない。ふつうならまったく接触のない世界に属する人間だったかもしれない。したがって、親友とまでは発展しそうにない予感は、現時点ですでにあった。  それでも、〈彼女と友達でいる〉のだと思うと、千鶴は一種、不思議な心地よさにとらわれた。同情と優越感が入り混じった、しかし豊かで柔らかい気持ちになれるのだった。  それは、吉川智樹を意識しての感情でないはずがなかった。自分の友達を選ぶ目に偏りがないことを、これで彼に証明できたと思っている。先日、偶然、彼と再会したことで、いっそう彼を意識するようになっていた。あのとき、短い会話の中で、亮子の話題を出し、彼女を吉川にちらとでも印象づけるのに成功した。その成果を、これから保っていかなくてはいけない。  千鶴の中に、〈ひょっとしたら、またどこかで智樹さんに会うかもしれない。そのときに、なんだあの友達との関係は途絶えてしまったのかと思われてはいけない〉、という気持ちがあるのは否定できない。せっかく千鶴を見直した彼を幻滅させることになる。  捨てた男なんか意識してないわよ、と思いたい一方で、先日の〈成功を匂《にお》わせる彼の姿〉を目にしてから、彼をまた男として意識せざるをえなくなった。認めたくはないが、ふった男が惜しくなったのである。よりを戻そうとまでは思わなくても、あちらから誘われれば会ってもいいくらいは思っている。彼がいまどんな仕事をしているか、濱田耕司にどれほど評価されているか、気になってならない。  亮子の休日は、美容院だから火曜日と決まっている。そのほかに、第三月曜日が休みで、連休になるという。対して千鶴は、いちおう完全週休二日制で、火曜日のほかの曜日に一日休みがとれる。それは大体、前の月の終わりにインテリア事業部内で調整して決めることになっていた。  亮子の勤務先の美容院は、下北沢《しもきたざわ》にあるチェーン店らしい。 「北口から歩いてすぐの『カットハウス・コージー』って店です。わたしはまだ、そこは四か月くらいですけど……。その前は、世田谷《せたがや》の船橋ってとこの住宅街にぽつんとある小さなお店で、先生のお手伝いをしていたんです。でも、先生が突然、交通事故で亡くなっちゃって、お店畳まざるをえなくなって……。お客さまの紹介で、『コージー』で働くことになったんですけど、美容師が十五人もいるような大きなところで、昔の職場とのあまりの違いに、何から何まで戸惑うことばかりで。わたし、どちらかというと、カットよりセットが得意なんです。それも和装用。着物を着るようなことがあったら言ってください。……あ、いえ、お店なんかに来てくれなくても、個人的に結いますから。千鶴さんのセミロング、とてもきれい。それなら充分、きれいなアップにできますよ。着付けも得意なんですよ、わたし」  あの〈生首事件〉で、自分の職業を明かしたのが、亮子をふっきらせたようだった。彼女にしては、よく話してくれた。ただ聞きながら千鶴は、〈ああ、いまの職場、あんまり彼女には合わなそうだな〉という気がした。美容師を十五人抱える、典型的な都市型美容院だ。そういうところは、カットの腕で客が集まる。都会では、着物を着る人間も少なくなっている。銀座や六本木など、客にホステスが多い店ならともかく、若者に人気のあるような街に、髪をアップにと注文する客はそういないだろう。  大体、彼女のような控えめなおとなしい性格で、女の園を生き抜いて行けるのだろうか。千鶴は心配になってくる。毎日の仕事の中で、きっと自分のように、やけ酒を飲みたくなるような嫌なできごともあるだろう。それをどう解消しているのか、笑いながら話してくれるようになれば、友達としてもう一歩、段階が上がったことになるかもしれない。そんな日がくるのが楽しみだ、と千鶴は思った。学生時代の友達も、郷里に帰ったり、結婚して夫の転勤で遠くに行ったりと、もうほとんど会う機会もなくなっている。職場には、同僚はできても、友達などできるはずがない、と思っている。そんな千鶴だからこそ、ふとしたきっかけで知り合い、誰にも見せたことのない醜態までさらしてしまった亮子に、いままで誰にも感じたことのない種類の親しみを抱いていた。あんな姿まで見せてしまったのだからいまさら……という開き直りの気持ちからくる安心感があったのかもしれない。  そして、いままで自分のテリトリーにはいなかった種類の友達ゆえに、新鮮でもあった。  千鶴はその週の休日の土曜日まで、ときどき亮子の住む『白金ハイツ』を気にして過ごした。千鶴のほうが帰宅が遅かったのが、木曜日。亮子のほうが遅かったのが水曜日と金曜日。帰宅して、マンションのエントランスに入る前に、『白金ハイツ』の二階の左端に、明かりが灯っているかどうか何げなく見る。灯っていないときは、部屋に入って入浴したり、くつろいでから、またカーテン越しに見てみる。すると、明かりがついていることもある。水曜日は十時にのぞいたときに明かりがついていて、金曜日は九時頃明かりがついていた。帰宅したばかりなのか、一度帰宅したのちに銭湯に行った帰りなのかはわからなかった。 「土、日に休みをとるのは無理なんですよね。稼ぎどきだから」  帰りぎわ、しょんぼりした顔でそう言った亮子に、「火曜日のお休みが一緒だなんて、すごくラッキーじゃないの。映画館もデパートもどこも空いてるし。今度の火曜日、映画に行きましょう」と千鶴は、自分でもはしゃぎすぎと恥ずかしくなったほどの弾んだ声で誘った。 「いいんですか? 彼とデートとか?」  亮子は遠慮がちに言った。 「あ……ほら、あの人はね、休みは土、日なの」  思わず、そう答えてしまった千鶴だった。  それで、来週の火曜日は、亮子とデートすることに決まった。  来週の予定を書き込んだシステム手帳を開き、改めて千鶴は、いままで休日を女友達と過ごすことがいかに少なかったかに気づいた。東京に住んでいた学生時代の友達が、夫の転勤で北海道に行ってしまった去年から、女友達とのデートは一度もない。一度、仕事でつき合いのできた同じ年代の主婦に誘われて、鎌倉《かまくら》散策につき合ったことはあるが、顧客だと思うと、気が抜けずに楽しめなかった。会社からも、顧客との個人的なつき合いはほどほどに、と釘《くぎ》をさされている。  吉川と別れてこの二年間、休日も、依頼主に提出したプレゼンテーションとは別のプランを作って勉強してみたり、英会話の教室に通ったり、美術展、絵画展めぐりでスケジュールを埋め、わざと寂しさを感じないように忙しいふりをしてきた。誰かに無性に会いたくなっても、会う人間などいはしなかった。  家族は懐かしいと同時に、うっとうしい存在だった。新潟の実家には、兄が結婚して二世帯住宅に建て替えてから、千鶴はふらりと帰りにくくなった。帰ると一時間は母は喜ぶが、その後は、「あなたももうそろそろね」と始まるのだ。嫁が千鶴より一つ年下でもあるので、よけい姑 《しゆうとめ》としては意識してしまうらしい。  都会にはこれほど人が溢《あふ》れているのに、映画につき合ってもらう人もいない。その事実に気づくたびに、千鶴の脳裏に吉川の面影と、彼の厳しい言葉がよみがえった。「君は自分のその美意識にこだわるあまりに、友達の幅も狭めてきた」——だから、気がついたら女友達がいないという状況に陥っているのさ、と彼に言われているように思えた。  たしかに千鶴は、同じようなマンションに住み、同じようなクリエイティブな仕事をする人間とのほうが、共通の話題があるし、お互いを高め合えると思ってきた。好きな映画も似ていれば、好きな洋服のブランドも似通っている。生活レベルが同じだから、休日の過ごし方も大差なくて気楽だ。だが、そういう人間は数が限られるし、またプライドも高いので衝突も多い。以前、インテリア関係の仕事に就く女性が集まるサークルで友達ができたが、彼女と些細《ささい》なことでケンカ別れした経験があった。それも両方のプライドがかかわっていた。 『ぴあ』をめくりながら、観たい映画をチェックしていたら、チャイムが鳴った。  一瞬、千鶴はドキッとした。ドアの前に立つ吉川智樹の顔が、映像として頭に流れ込んできたからだ。先日、再会したばかりである。そんなはずはない、と思い、インターフォンを受けると、「お届けものです」と聞き憶えのある男性の声が言った。この周辺を担当している宅配便会社の社員だ。  いちおうドアスコープで確認してドアを開ける。細長い箱が千鶴の腕に手渡された。デパートから直送のものではなく、宅配便の会社の紙袋にガムテープを貼《は》ってあるところなど素人が包装したもののようだ。  差出人は「横川|喜久男《きくお》・恵美子《えみこ》」とある。千鶴のことを「主人に色目を使っている。千鶴のセンスとも合わない」と、はっきり言いきったあの横川恵美子からの贈りものだった。千鶴の住所は、会社に問い合わせでもしたのだろう。  紙袋の中に、カードが入っていた。   『拝啓  今村千鶴様  今回のことでは、貴女《あなた》がお気を悪くなさったのではと思い、とても気にかかっておりました。貴女にはどう伝わっているかわかりませんが、貴女のように独身を謳歌《おうか》なさっている素敵な若い女性に、どっぷりと主婦業に漬かっている私のような者が動き回る、せせこましい拙宅《せつたく》の台所などをコーディネートしていただくのが、とても心苦しくまた恥ずかしくも感じましたので、上司の方にその旨を率直に申し上げたところ、担当を替えるなどという騒ぎにまで発展してしまいました。私としては、ただもう驚くばかりで……。  でも、そちらの社としての対応がそうなっていらっしゃるのであれば、私は何も申し上げることはございません。ただ、貴女がひょっとしたら、今回のことで私を恨んでいるのではないかと思うと、何も手につかない状態がつづきました。主人にも、「おまえが余計なことを言うからだ」とずいぶん叱《しか》られました。私のせいで担当から降りることになったのであれば、お詫《わ》びいたします。でも、わかってくださいね。私は本当にそんなつもりはなかったのですから。  先日、信州のほうに旅行しましたら、おいしい佐久鯉《さくごい》に出会いました。あらいにしても、うま煮にしても、鯉こくにしても、天下一品の味です。主人も気に入りましたので、少し多めに買ってまいりました。ぜひ、今村さんにも召し上がっていただきたくなって、お裾分《すそわ》けのような形で申し訳ないのですがお送りしました。どうぞ、みなさまでお召し上がりください。  ほんの気持ちばかりのお詫びの品です。これからも生き生きと輝く素晴らしいキャリアウーマンでいてくださいね。  では、お元気で。                 敬具  横川喜久男(内)』  読み終えたときには、横川恵美子の目的がわかっていた。千鶴は、手紙を破きたくなって思いとどまった。  ビニール袋に包まれて、頭と尾のついた立派な鯉が現れた。千鶴はそれをキッチンのカウンターに置き、ため息をついた。信州の冷たい水で身が引き締まり、そのへんでは食べられない美味であることは想像できた。だが、上手に調理できればの話である。  ——お詫びの品なんて言って、彼女の嫌がらせだわ。  そうとしか考えられなかった。独身のキャリアウーマンにおろしていない魚の贈りもの。うま煮でもよし、あらいにしてもよしという。「台所のコーディネートも専門になさっている貴女なら、こんな魚を料理するのは朝飯前でしょう?」と言いたいのだろう。横川恵美子には、雑談の合間に尋ねられて、「東京で一人暮らしです」と答えた憶《おぼ》えがある。家族と一緒でないと知っている以上、恋人とでも召し上がれ、という嫌みな意味で書いたに違いない。  横川恵美子の、巧みな逃げの表現にも千鶴は腹が立った。自分は直接、担当を替えてくれとは言っていない、会社が勝手に先回りしてやってしまったことだという。だから、悪く思わないでほしい、か……。  専業主婦としての彼女の、千鶴への対抗意識も端々にのぞいている。自分で書いた手紙なのに、手紙の書き方のマニュアル通りに夫の代理に甘んじるのを美徳とするところなど、主婦の座に安住している者の優越感や狡滑《こうかつ》さが漂う。  しばらく、鯉のぼりの鯉の目にも似た黒々とした目を見つめていたが、これしきのことに傷ついていてはやっていけない、と千鶴は気持ちを奮い立たせた。いままでにも、ここまではされなくとも似たような腹の立つできごとはあった。依頼主からも、同僚からも、上司からも、現場の建築関係者からも、嫌な思いを味わわされたことはあった。  しかし、それを乗り越えてきたからこそ、いまの千鶴がいる。インテリア事業部内で、主任の肩書きもこの春もらったばかりだ。 「東京ではとても食べられないくらいのおいしい鯉でした。隣近所にもお裾分けさせていただきました。お気遣い、とてもうれしく思います。ありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます」  ほんの少し皮肉をこめるのがせいいっぱいの、淡々とした礼状を書くべきだろう。  千鶴は、料理屋に卸しても喜ばれそうな佐久鯉を、大型冷蔵庫の冷凍室へしまった。     *  冷凍室の中でこちんこちんに凍った佐久鯉は、何かの拍子にふと思い出され、千鶴を憂鬱《ゆううつ》にさせた。いつかは処分しなければいけない。捨てるには惜しい逸材だが、かといってずっと凍らせておくわけにもいかない。  冷凍佐久鯉に悩まされていた千鶴だったが、二日後の月曜日、一気にそれが解凍されてしまうようなできごとがあった。まずは課長の園田に呼ばれ、次にインテリア事業部の部長席に呼ばれた。  部長の山根《やまね》は、「七月から三か月間、ニューヨークに行ってくれないか」と千鶴に切り出した。Mデパートに入っているインテリア・コーナーでの研修を中心に、在米の日本人宅の改装を手伝いながらデザインの勉強をしてほしいという。  ——ニューヨークなんて……。  夢のような話だった。 「ほかに『タチオカ』から一名派遣されるが、うちからは君が適役だと思って推薦したんだが、どうだろう」 『タチオカ』というのは、高級カーテン生地のメーカーである。『五木ホーム』のような住宅メーカーばかりでなく、家具、カーテン生地、照明器具メーカーにも同様にインテリア・コーディネーターがいる。 「はい、行かせていただきます」  千鶴は、即座に誘いを受けた。夫や子供のいない身軽な立場である千鶴に、この話がまっすぐにきたのは想像できた。主婦コーディネーターは、まず家に帰って夫におうかがいをたてなければいけない。 「それに、君はほら、語学も勉強してただろ?」  山根は目を細めた。インテリア・コーディネーターの統率は、すべて園田任せの山根である。女性ばかりのインテリア・コーディネーターに多大な期待もかけなければ、過小評価もしない。今回も、派遣要員の要請が自分のところに来たから引き受けたまでだ、という消極的な態度ではあったが、千鶴にはそんなことはどうでもよかった。  ニューヨークに行きたい。はくをつけたい。ただ黙々とルーティンワークをこなすだけの日常に、少々飽き始めていたのを打開したい。それだけの単純な動機に、またもや吉川の影がちらついた。短期間ではあれ、ニョーヨークで研修して来た自分を、吉川に見せたいという、不純な動機が加わり、熱に浮かされた気分になった。  週に一度、新宿駅の近くの英会話学校で個人レッスンを受けている。その自己投資もものを言ったのだ。横川恵美子にされた嫌みなど吹っ飛んでしまいそうに嬉《うれ》しかった。  園田課長には、いま抱えている仕事の調整と引き継ぎを六月末までにするように言われた。     11 「ニューヨークに行くなんて、千鶴さんすごい」  亮子に話したのは、映画を観終わってからだった。有楽町のマリオン。サスペンスタッチの恋愛映画に、たまたまニューヨークが出てきて話がつながった。  ニューヨーク行きを最初に知らせたいのは、もちろん吉川にだった。しかし、実際には知り合って五度目の顔合わせになる亮子にである。皮肉な話だった。家族にもまだ今日の時点で電話をしていない。これは転勤ではない。ほんの三か月の研修だ。けれども、単身ニューヨークに行く、それだけのことで田舎の母親が大騒ぎするのは目に見えていた。父は好きなようにしろ、と言うだろう。だが、母は「あなたがニューヨークに三か月行けば、結婚が三年遠のく」というわけのわからぬ論理で反対するはずだ。昔から、千鶴が何か人と違ったことをしようと思うと、危険性やマイナス要因を挙げて一度は反対するのが、母親の性分だった。 「たった三か月よ。あちらの空気をほんの少し吸うだけ。それで何がどう変わるってこともないわ」 「でも、すごいじゃないですか。選ばれたんだから」  最後はハッピーエンドで終わったロマンチックなラブストーリーだったせいもあって、余韻を引きずって亮子は興奮した口調で言った。 「転勤でもないし、長期出張扱いでもない。滞在中は出費も多いし。それでも、いちおうは会社のイメージアップにつながるから、女性コーディネーターに定期的に振り分けられるのよ。女性がそれだけ優遇されて、活躍している会社に見えるでしょう? そのくせ本当は何も期待してないのよ」  日常から脱却できるという喜びとは別に、それは不満としてずっと持っていた。会社は、通産省の資格を有して入って来たインテリア・コーディネーターらを、専門職として尊重はするが、それ以上の扱いもしない。それは、この数年、社員としては採用せずに、一年契約でおもに主婦を採用しているのを見てもわかる。契約社員のほうが安くつくのだ。 「一見、華やかに見えても、いろいろあるんですね。契約スチュワーデスの世界みたいに」  亮子は、褒めるばかりでなく話を合わせた。 「お昼は、わたしに奢《おご》らせてね。いつかのお返しで」  時計を見ると、午後一時半を回っている。少し遅めの昼食をどこかでゆっくりと、と計画していた。 「いいんです、お返しなんて。だって、このあいだほら、エプロンもグラスもいただいちゃったし」  亮子はかぶりを振って、肩に掛けていたビニールの黒いリュックを肩から滑らせて、両手に持った。「お弁当、作って来たんですよ」  今日の亮子は、白い小花を散らした黄色いフレアスカートに、スクエアカットのブルーのTシャツに、甲が隠れるブーツ。背中まである髪の毛を束ね、短めに切った前の毛をピンでとめ、Tシャツと同色のガラスの細長いイヤリングをしている。そこそこおしゃれなスタイルだが、Tシャツが盛り上がった胸を強調し、筋肉のついた腕や太目のウエストが目立つのが、少し野暮ったい雰囲気だった。頬《ほお》や顎《あご》のラインも曖昧《あいまい》だ。美容師だというのに、顔や足の無駄毛を処理したり、眉毛《まゆげ》を揃《そろ》えないのが致命的なのかもしれなかった。それでも、最初に会った化粧もしないときよりは、ずっときれいに見えた。  彼女といると、千鶴は、自分の都会的に洗練された細さが引き立つような気がした。 「……お弁当?」  冗談で言ったのかと千鶴は思った。「お弁当、持って来たの?」 「ええ、天気もいいし、どこかで食べようと思って」  当然、というふうに亮子は弾んだ声で言った。ジョークではなさそうだ。  外で何かおいしいものを食べよう、と考えていた千鶴は拍子抜けした。彼女はあくまでも貧乏性なのだろうか。それにつき合わされる自分が恥ずかしく、そのことに無頓着《むとんじやく》な彼女に少し腹が立った。 「亮子さんの手作り? だって、朝早かったでしょ?」  映画を観る予定で家を出て来たのだ。 「簡単なものです。サンドイッチにゆうべの残りもの」 「で、でも……どこで食べるの?」  思わず千鶴は、周囲を見回した。二つのデパートをつなぐ巨大通路を、思い思いの服装をした人々が行き交う。その中の誰が、背中にお弁当をしょって歩いているだろうか。 「どこか、公園でも」 「公園といっても、このへんじゃ……日比谷《ひびや》公園あたりに行かなくちゃ」  そのへんの公園では、人目が気になってとてもお弁当など広げられない。 「日比谷公園、行きましょうか。歩くのわたし、かまいません。千鶴さんは?」 「え? ええ、いいけど」  汗ばむ陽気の中を、二人はゆっくりと日比谷公園まで歩いた。  公園には、人も鳩《はと》もいた。花も水もあり、カップルも親子もいた。会社をさぼっている感じのサラリーマンも、杖《つえ》を片手に散歩する老人も、ジャージー姿の者もいた。昼休みを過ぎたせいか、顔ぶれはまるで休日と変わらない。  ここまで来たら、千鶴は、都会のど真ん中でお弁当を開いて食べることにあまり抵抗がなくなっていた。第一、ここは平日、OLやサラリーマンのランチルームになる場所なのだ。今日は火曜日、平日には違いない。  目についた自動販売機で缶ジュースを買い、噴水の見えるベンチに座った。亮子の作ったサンドイッチには、さまざまなものが挟まれていた。レタス、ツナ、ロースハム、カツ、パセリ入りの卵、きゅうり、アスパラ、トマト……。 「これ、安い豚肉にしそを挟んで巻いて、衣をつけて揚げただけなんです。ちょっとからしをつけて。立派なヒレカツサンドに見えるでしょ?」  カツを挟んだパンをつまんで千鶴に渡し、亮子はにっこりした。 「亮子さん、工夫するの上手ね。とても経済的」  千鶴は感心して言った。 「ケチと言ってくれていいんですよ」  亮子は、横目で睨《にら》むような目をして言った。〈生首事件〉のときとは違う、爽《さわ》やかさの感じられるいたずらっぽい表情だった。「パン粉にするために、パンの耳をもらって来るような人間ですから」 「ケチとは言わないけど、そうね、使えそうなものは拾って再生するのが上手だから、再生利用家、倹約家ってとこかな」 「再生利用家、倹約家。いい言葉ですね」  二人は笑った。周囲の誰も、遅めのランチを食べているOL二人としか、千鶴たちのことを見ていないようだった。ちらと目にとめて、すぐに通り過ぎて行く。千鶴は、自分が一人、あるいは亮子が一人なら、かなり人目を惹《ひ》く光景だろうに、二人でいることで、まるで風景の一部のように自然に溶け込んで見えることが嬉しかった。  女友達と映画を観、公園でお弁当を食べる。いままでなかったことだ。いや、前者はあっても、後者はなかった。この先も、亮子以外の人間とは経験できそうにない心弾むことに思えた。それだけに、新鮮で、愉快で、何か特別の意味のある関係に感じられた。  亮子のことを、貧乏性だとほんの少しでもののしり、彼女といることを恥じた自分が、情けなくなった。高級なものを外で食べる楽しみを奪われた虚《むな》しさを、彼女の無邪気で新鮮な行為は補ってあまりあるものだった。 「こうやって食べると、おいしいわね。あ、ううん、どこで食べてもおいしいんだけど。亮子さんの料理はもともとおいしいから」  ツナサンドをほおばって、千鶴は言った。なんだか言い訳めいたのが恥ずかしかった。 「そう言ってもらうとすごく嬉しいです」  相変わらず丁寧語で彼女は言う。だが、その言葉遣いももう苦痛には感じられなくなっていた。一方が友達言葉で、もう一方が丁寧語や敬語を使う友達関係があってもいいではないか。こだわるほうがおかしい。そう思った。  亮子という人間は、映画を観るのにお弁当持参で来るのを恥じない。捨ててあるチェストを拾うのを恥じない。人の目を気にしない、世間体にとらわれない。自由な生き方のできる貴重な人間なのかもしれない。見栄っぱりなところのある自分とは違う。そんな素朴な性格の女友達は、千鶴にははじめてであった。  ——わたしと彼女は似ていない。  似すぎていないことが、友達関係を長続きさせる最大の条件のような気が、千鶴にはしていた。過去の衝突は、両者の性格が似すぎていることから起きた。  意地っぱり、見栄っぱり、高級もの好き、洗練されたもの好き、流行に敏感、野心家、自意識過剰……。自信家である一方、どう評価されているか人の目を極端に気にする性格。  弁当持参でのデートも、非常識の範疇《はんちゆう》には入らないであろう。彼女は、社会的な常識は備えている人間だ。人通りの多いマリオンで堂々とお弁当を広げるような人間なら、友達には御免こうむりたいが、日比谷公園で食べるつもりで作って来たのなら正常な感覚だ。危険人物ではないだろう。  ——わたしね、映画を観た帰りに日比谷公園で友達とお弁当を食べたのよ。彼女の作ったサンドイッチ。えっ? 誰とですって? 彼女よ。あの古ぼけたアパートに住む女友達の重松亮子さん。  またもや千鶴の心に、吉川が顔を出した。次に彼に会う機会があったら、この言葉を投げかけようと思っている自分がいる。「お・ん・な・と・も・だ・ち」と一語ずつ区切って誇らしげに言うのだ。 「ユニークな友達だね。ぼくの見方が間違っていたのかもしれない。君って案外、受け入れる幅の広い、間口の広い人間だったんだね。そういう友達をおもしろがれる感性、大切にしたい気持ちが君にあったとは、見直したよ」  吉川から返される言葉まで、自分の頭で作り上げてしまっている。 「千鶴さん、本当は映画、彼と観たかったんじゃありません?」  缶から口を離して、亮子が言った。酔ったときに口走ったという〈幻の彼〉だ。 「そんなことないわよ。映画は女友達と観たほうが気楽よ。観たあとであの男ってひどいやつだったよね、とか気軽に言えるし、いい男の品評会もできるし」 〈幻の彼〉の話題などしてほしくなくて、千鶴は矛先を戻した。「そうだ、亮子さん。料理が得意でしょ? 鯉《こい》一匹、料理できるかしら」     12  亮子の手は魔法の手だった。  一匹の鯉は、解凍したあと、一部はあらいになり、一部はうま煮になり、一部は鯉こくになって、残りわずかが生ごみになった。  その日の夕食は、急遽《きゆうきよ》、千鶴の家での佐久鯉料理になった。亮子は、冷蔵庫の中にあった残りものと鮭フレークを見つけて、鮭ちらしも作ってくれた。千鶴も海草サラダくらいは作った。  食卓に、手作りのごちそうが並んだ。千鶴は、いざというときのために買い置きしておいたドンペリニョンをワインクーラーに入れ、ボヘミアンのシャンパングラスを二つ、飾り棚から取り出した。シャンパン用は二つだけ、飾りのために買ってあった。来客用のブルーのランチョンマットを敷き、魚の形の箸置《はしお》きに塗り箸を載せる。 「きれい。まるでインテリア雑誌に出てくる部屋みたい」  亮子は目を輝かせて、千鶴が選んで盛り合わせた皿が置かれたテーブルを見渡した。「写真に撮っておきたいくらいですね」 「あっ、撮ろうか? 自動で撮れると思うから」  その思いつきに手を叩《たた》いた千鶴に、亮子はわずかに狼狽《ろうばい》した表情を見せたが、ええ、とうなずいた。  ドンペリを開け、グラスに注いだところで、千鶴は亮子の肩に手を回し、「はい、チーズ」とカメラに向かってにっこりした。微笑《ほほえ》んだのはレンズに向かってだったが、レンズの先に吉川の顔があった。写真を吉川に見せたいと思った。  カメラを片づけたところで、乾杯をした。  亮子が素早く作った酢みそも、あらいにちょうどよく合った。うま煮も鯉こくもどれも身がたっぷりついて汁が染みこみ、おいしかった。 「こういうのもいいわね。鯉料理をドンペリで祝うなんて。意外に合うわ」  千鶴は自分のグラスに、ドンペリをつぎ足して言った。 「あら、すいません、気づかなくて」  亮子が、ボトルに手を伸ばす。 「いいのよ、気にしないで。自分のペースでやりましょう」  千鶴は亮子のグラスが減らないのに気づき、「お酒、弱いの?」と聞いた。 「ふだん、あまり飲まないので。でも、おいしいです。口当たりよくて酔っちゃいそう」  そう言って、亮子はぐいっと飲んだ。目の縁が赤く染まった。「わたし、赤くなってます?」と、頬に手をやったときに、Tシャツの中の胸が揺れた。 「鯉って、おっぱいにいいんですってね」  亮子の豊かな胸を見て、唐突にその知識が引き出された。「栄養たっぷりで、お乳が出やすくなるとか。雑誌に書いてあったわ」 「ええ、知ってます。よくおっぱいの出がよくないお母さんが、鯉を食べていました。うちの田舎でも……」  言いかけて、亮子は視線をそらした。 「亮子さんの田舎って、どこ?」  彼女の出身地について何も知らないのに気づいた。確か、東京の人はまだ使えるものをどんどん捨てる、と言っていた彼女である。 「育ったのは盛岡ですけど、生まれたのはもっと田舎です。でも、疎遠になっているので」  亮子は、小さく首をすくめ、グラスに手を伸ばした。飲みほしているのに気づき、千鶴はドンペリを彼女のグラスに注ぎながら、「そうなの」と言った。「ご両親、盛岡にいらっしゃるの?」 「いえ、父と母は、わたしが小さいころに死んでしまったんです」  わざと軽い調子で亮子は言い、「よしましょう。せっかくの豪華な食卓に、わたしのつまらない身の上話なんて似合いません。辛気《しんき》くさくて」と、ボトルを手にした。  死んだ身内の話に触れてほしくないのなら、触れないべきだ。千鶴は、この若さで両親のいない彼女に興味を持ったが、それ以上は聞けなかった。いつか話してくれるときがくるだろう、と思った。友達づき合いには、段階がある。  シャンパンを飲みほし、また彼女に注いでもらう。不幸な生い立ちなのだろうか、と感じたのと同時に、しがらみがなさそうなのが羨《うらや》ましいな、と思っている自分に気づいた。 「亮子さんって、おっぱいがたくさん出そうね」  触れてほしくない話題を出してしまった責任を感じて、千鶴は話題を柔らかくした。 「えっ?」  亮子は少し驚いた顔をし、顎《あご》を二重にして自分の胸を見下ろした。 「いいなあ、胸が大きくて。最初に会ったときから、そう思っていたのよ。わかった?」  千鶴は、照れ隠しの意味もあって、子供っぽく言った。 「太ってるだけですよ」  亮子は困ったように両肘《りようひじ》をすぼめた。よけい胸が盛り上がって見えた。 「うそよ。ちゃんとアンダーとトップの差がある。ええっと、目算で八十八ってとこかな」 「九十あります」  亮子は、はにかむように答えた。 「すごい、巨乳の部類よね。あっ、ごめんなさい」 「いいんです。本当にその通りですから。牛のお乳みたいでしょ?」 「羨ましいわ。わたしなんか、ほとんどないもの」 「そうですかあ?」  亮子は、目を丸くし、小刻みにかぶりを振った。「そんなことないですよ。千鶴さんの胸、ちゃんとあります」  そう言いながらも、真正面から胸を見るのが眩《まぶ》しそうだ。まばたきを繰り返す。 「嬉《うれ》しいわね。そう言ってくれて。でもね、裸になるとこれが全然ないの。洗濯板みたいに」  千鶴は笑って、自分の胸を両手で押さえてみせた。 「ほらね」  亮子は、戸惑いの目で返答に詰まっている。 「うそじゃないのよ。本当に小さいの。見た人は……」  口を滑らせて千鶴はハッとした。吉川のことをもう少しでばらすところだった。——わたしの胸を見た男はこう言ったんだもの。冗談めかしてだけど、冗談でも言ってほしくないわ。「君って小学生の胸みたいだ。一度でいいから、深々とした胸の谷間に顔を埋め、巨大なおっぱいに両側から責められてみたい。巨大なおっぱいに押し潰《つぶ》されるような形で果ててみたい」って。  なぜ、ここまで自虐的になるのか、千鶴はわかっていた。胸が小さい。それが千鶴の最大のコンプレックスなのだった。吉川の言葉に傷ついただけではない。流行に敏感な仕事を誇りにしている千鶴が、どう頑張ってもその流行にのることができないのが、胸の大きさという点であった。体型はスリムでも胸は大きい。それが最近のトップモデルの条件である。そのために胸の整形をする者さえいるという。やせるのは努力でできても、胸を膨らませるのは手術でもしないかぎり簡単にはできない。  流行を追えない悔しさ、あせり、虚《むな》しさの入り交じった感情は、「わたしって小さいのよ」と、諦《あきら》めたように明るく言い放つことでしか慰められない。 「触ってみる?」  自虐的な感情はエスカレートした。ドンペリを何杯も飲んだせいかもしれない。千鶴はブラウスのボタンをはずし、タンクトップをたくし上げた。七十のAカップのブラジャーにこぶりなバストが納まっている。 「千鶴さん……」  亮子が、千鶴の胸を見て、どぎまぎしたように息を呑《の》むのがわかった。口紅がはげて、顔の輪郭がいっそう曖昧《あいまい》に見えた。  千鶴は笑った。「見ただけでわかるよね。じゃあ、ショータイムはおしまい」と、タンクトップを元に戻した。ブラウスのボタンははめずに前を開けておく。 「今度は、亮子さんのおっぱい見せて」 「えっ?」  亮子の身体が、ピクンとなった。 「触らせて。だって、亮子さんのって、弾力がありそうなんだもの」  どう彼女が答えるか、千鶴は興味深くもあり、怖くもあった。自分は酔ってはいるが、理性は持ち合わせている。自分にないものを持つ亮子を困らせて楽しむ。それは、屈折した形のコンプレックスの解消法の一つだった。  亮子の顔から笑いが消えた。一瞬、一回り体が小さくなったように見えた。と、いきなり、彼女は周囲の空気を動かすような勢いで、両肘を横に突き出し、ブルーのTシャツをたくし上げた。下着をつけず、直接ブラジャーを当てていた。顎でシャツを押さえ、両手を彼ろに回してホックをはずす。  ぶるるんと胸が布から飛び出した。まさに飛び出すという表現がぴったりだった。  今度は、千鶴が息を呑んだ。「立派ね」とつぶやいた。  少し垂れぎみの真っ白い乳房。乳輪は薄い茶色で、親指の先ほどもある乳首は、まっすぐ前に突き出ている。乳首のまわりに鳥肌が立っていた。青い静脈が白い肌に透けて見える。  千鶴は、テーブルを回って、そのたっぷりした乳房を指の先で押した。ゴムマリのように弾力があり、思ったより硬さがあった。  亮子は、されるままになっている。千鶴の指先が乳首に移動した。ひんやりと冷たい感触。少し強く押した。  それは、すぐに硬く尖《とが》った。  亮子が、かすかに吐息を漏らした。耳元のガラスのイヤリングが揺れた。下半身は硬直しているのか銅像のように動かない。  千鶴は、彼女の右手を取り、自分のタンクトップの裾《すそ》から乳房へ導いた。亮子の指が、千鶴の小さい乳首に触れた。すでに芯《しん》が硬くなっているのを千鶴は感じていた。  亮子の目に、畏《おそ》れと不安と期待の光が宿っている。  千鶴は高笑いをし、くすぐったいと身をよじった。亮子の指が、千鶴の乳房から離れた。 「ああ、くすぐったかった」  亮子も、それを見て我に返ったように強張《こわば》った表情を崩し、「へ、変な気分ですよね、なんだか」と小さな声で言った。 「こんなこと、女同士じゃなくちゃできないよね」  女同士でも感じるものは感じる。さっき乳首に触れられたときに体の奥に、はっきりと疼《うず》きが生じた。「男にやらせちゃ、本気になっちゃう。ねえ、亮子さん」 「あ……え、ええ」 「うん。想像したとおりだった。亮子さんの大きくて触りごこちがよかった。サンキュー」 「サンキューだなんて……千鶴さん、おかしい。なんだかわたし……」  亮子は、眉《まゆ》をひそめて泣きそうな顔で笑おうとしている。自分の大胆な行為を正当化する言葉が見つからないようだった。 「いいじゃないの、酔った勢いの遊びよ、遊び。こういうの女友達でなきゃ、できないのよ」 「千鶴さん……」  はだけた胸にいま気がついたように亮子はハッとして、あわてて身繕いをした。「そうですよね。わたしもちょっと酔ったみたい。ふらふらしてる。こんな高いお酒、飲んだことないから」 「じゃあ、乾杯しましょう」  何事もなかったかのように、千鶴は言い、グラスを高々と掲げた。「わたしのニューヨーク行きに乾杯」 「あ、ああ、そうでした。千鶴さん、ニューヨークで頑張って来てください」  亮子もグラスを掲げた。 「亮子さんって、大好きよ」 「えっ?」 「わたしの強引さにつき合ってくれて。胸をバッとはだけたときのあなた、すごく潔かった。思い出すとおかしい」  笑いがこみあげてきた。あのときの思いつめたような彼女の表情は、〈遊び〉が過ぎてしまうと滑稽《こつけい》に思える。もちろん、あれは〈遊び〉という一言で片づけるレベルのものではなかったかもしれない。しかし、千鶴が遊びと言えば、遊びになってしまう。この場の主導権は、最初から千鶴が握っていた。 「だって……胸なんか、お銭湯でいつも見せているし」  千鶴は吹き出した。「そういえばそうか。お銭湯でね。そういう亮子さんのちょっとはずれた反応、大好きよ」  まるでからむように彼女をからかうのは、自分が酔い始めている証拠だ、と千鶴は頭ではわかっていた。だが、彼女が怒るはずがないという安心感が大胆にさせる。 「わたし、はずれてます?」  亮子は、真剣な表情で聞いた。 「いい意味よ。すれていないってこと」  本当にそう思った。亮子は、にこりともせずに聞いている。自分の気持ちが伝わらないのがもどかしくて、千鶴は「うそじゃないってば」と怒ったように言い、亮子の手を強く握った。冷たいのか暖かいのかわからない、生温かな手だった。 「それより、パッチワークよ!」  亮子が千鶴に遊ばれたのだと誤解したら困る。そう思って千鶴は、はしゃいだ声を上げた。「なぜ気づかなかったのかしら。亮子さん、パッチワークが趣味だったよね」 「ええ」 「布を集めるの、大変でしょ?」 「いえ、たまに駅の近くの手芸屋さんで端切れをもらったりするから」 「格好のがあるのよ、うちに。待っててね」  千鶴は、寝室のクロゼットの奥から、ぶ厚いカーテン生地のサンプル・ファイルを引っぱり出し、抱えて持って来た。「これ、もう古くなった品番ばかりなの。生産中止のものもあるし。どうぞ」 「えっ、こんなに?」  亮子の目が輝き、千鶴がめくったサンプルにぱっと視線を移した。 「フィスバのもあるのよ。スイスの高級カーテン。パッチワークにこういうのが向いているかどうかわからないけど、使えるものもあるでしょ?」 「向いていないどころか……どこにもないすごいものができますよ。これだけあれば。でも……」 「本当にいいんですか、でしょ? いいのよ、捨てるつもりだったんだから。でも、このままじゃゴミに出せそうもないからもてあましてたのよ。遠慮しないでどうぞ。再生利用家さん」 「千鶴さん……」  感激したのか、アルコールがきいたのか、亮子の目は潤んでいる。  千鶴は、自分でもおかしいくらい気分が高揚していた。胸を見せ合った直後のせいかもしれない。中学生の女の子同士が「どっちが膨らんでいる?」と見せ合ったのではない。二十九歳の大人の女同士。非日常的な行為には違いなかった。日常からはずれる倒錯した行為は、遊びの範囲でも人間を興奮させるものなのだ。 「あっ、まだ亮子さんにあげるものがあったわ」  自分でもわけがわからぬほどに、なんでもかんでも亮子にあげたくなっていた。それは焦燥《しようそう》感を癒《いや》す行為にも似ていた。ストレス解消でいっぱいものを買い込む反対の行為である放出。人にものをあげることで、彼女とのつながりを強く意識したいという欲求。その結果、ますます親密な女友達になるのではという期待。そして、そうした衝動の大半は、胸を触り合ったことからくる羞恥《しゆうち》心、罪悪感を覆い隠すためだった。  もらったまま使う気のなかったもの、買ったものの似合わないのがわかって見る気もしなくなったアクセサリー、捨てるつもりでしまいこんでおいたもの……。  デザインの古くなったピンブローチ、細面の顔を寂しく見せる金の鎖のイヤリング、一人では飲みきれない紅茶、食べきれない海苔《のり》、そして、あの引き出物のペアカップ。 「だって、これは……」  千鶴が、教子からもらった花柄のペアカップを、箱から取り出して見せたとき、さすがに亮子はかぶりを振った。「お友達からもらった大事なものでしょ?」 「あら……」  そんなことを彼女に言っただろうか。 「ああ、千鶴さん。酔ったときに言ってました。田舎の友達が結婚しちゃったんだけど、引き出物が気に入らないのよ、って。花柄のペアカップだとか……」  例の、酒のおかげで記憶をなくした夜だ。自分はあのとき、そんなことまでしゃべってしまったのか。千鶴は、アルコールの威力と自分の弱さを感じた。 「そうそう、あれなのよ。使わないで永遠にしまわれているよりは、誰かに使ってもらったほうがこのカップも幸せでしょ? それとも、亮子さん、こういうの趣味じゃない?」  趣味でないはずがない、とはわかっていた。  いいえ、と案の定、亮子は首を横に振る。 「じゃあ、使って」 「いいんですか? なんだかわたし、すごく図々しい女みたい。あれもこれも、千鶴さんから吸い上げていくようで」 「わたしが押しつけているのよ。気にしないで。再生利用家さんですもの、胸を張ってもらってくれればいいのよ」  しばらく亮子は、そわそわと落ち着かないそぶりを見せていたが、「そうですね。大きな胸を張ります」と覚悟を決めたように言った。 「たくさんあげたかわりに、っていうわけじゃないんだけど……」  千鶴は言いよどんだ。  これもおかしなことだが、お互いの胸をこの目で確かめて、最終的に決めたことだった。  ——わたしたちは似ていない。わたしたちの胸も似ていない。彼女は大きくて、わたしは小さい。  ばかばかしいと笑われるかもしれないが、たとえば胸の大きさ一つとっても、似すぎていないこと、正反対なことが、相性のよさを天から授かっていることの証明のような気がしたのだ。 「ニューヨークに行っているあいだ、ここの管理お願いできない?」 「ここの管理って?」  亮子は面食らったように、顎《あご》を引いた。 「ここ、管理人さんはいるけど、郵便物をお部屋に入れたりまではとても頼めないわ。そんなことしてる人、誰もいないし、だから亮子さん、下の郵便受けにたまったものを、たまに玄関に入れてくれるだけでいいの。溢れていたら誰かに見られるかもしれないから。このへん、一人暮らしの女性が多いでしょ? 公共料金の引き落としの通知で、電話番号がわかって、いたずら電話されてた人もいたみたいだし、お願いできないかな」 「それだけでいいんでしたら」  亮子は、郵便受けのものを玄関に入れておくだけでいいんですね? と念を押した。 「ありがとう。鍵《かぎ》は郵便受けのと玄関のと、二つ預けて行くわね」  ——胸の大きさで、あなたを信頼することにしたわ。あなたに頼む気になったの。  そんなふうには、とても亮子には言えなかった。言ってもまっすぐに伝わりそうにも思えなかった。     13  六月は、あわただしく過ぎた。  ニューヨーク行きが吉川に伝わるかもしれない、という望みをかけて、一人、『かえで』に顔を出したのが、出発の一週間前だった。ママは相変わらず口が固く、「彼、来ます? このあいだ、ばったりデパートで会ったけど」と千鶴が水を向けると、「最後がいつだったか、よく憶《おぼ》えてないわ。仕事忙しいんじゃないの」と言っただけで、すぐに話題を変え、吉川のことをべらべらしゃべり出すようなことはしなかった。  亮子とは、表で顔を合わせる以外に、五回会った。全部が千鶴の家でだった。  出発の三日前、午後八時頃、『白金ハイツ』の亮子の部屋の前に、男性が二人立っているのを、千鶴はカーテン越しに見つけた。顔はわからなかったが、上着を手にした格好や雰囲気から三十代くらいに見えた。  背格好のよく似た二人は部屋の中に消えた。誰だろう、と訝《いぶか》しく思った。が、かかってきた電話に出ているうちに、そんなことは忘れてしまった。電話は、ニューヨーク行きを心配する母親からだった。  出発する日の早朝、亮子は千鶴の部屋に来て、髪を結ってくれた。ニューヨークへ行くぞ、という緊張感が、シニョンにまとめた髪を連想させ、どうしてもその髪型にしたくなったのだ。幸先のよい髪型という気がした。亮子の手は魔法の手だった。ドレッサーの鏡の中で、千鶴は亮子の手によって、刻々と変えられていった。肩に力が入ったスタイルではなく、後れ毛を垂らして柔らかくまとめた知的な髪が、さりげなさを感じさせた。  そのとき、あの男性二人のことを聞いてみた。「あ……ああ、あれは、不動産屋の人。住みごこちはどうですか、とかそういうアンケートみたいだったけど、適当に答えておいたんです」と、亮子は戸惑いながらも答えた。  亮子とはアパートの前で別れた。「気をつけて行ってらっしゃい」と、亮子は手を振った。 「おみやげ買って来るからね」と、千鶴は手を振り返した。  それが千鶴が亮子を見た最後だった。  いや、正確に言えば、その亮子を見た最後だった。眉《まゆ》を揃《そろ》えず、長い髪を束ねただけの、薄化粧の、ぼんやりした印象の顔と、肉づきのよい体つき。鈍重そうに見えて意外に機敏で、羨《うらや》ましくなるほど器用な指先を持つ女性。  ニューヨークで千鶴が手紙を書くときに思い描いた亮子は、そのままの亮子であった。  幕 間  二年四か月ぶりに降りた駅だった。駅からめざす建物への道順は、忘れようと思っても忘れられはしない。 『ロイヤルノヴァ』の白い建物に、二年四か月分の月日の経過を読み取ることはできなかった。  吉川智樹は、エントランスに入りかけて躊躇《ちゆうちよ》した。電話をしないままに来てしまったが、彼女はいるだろうか。今日は火曜日だ。会社は休みのはずだが、家にいるとはかぎらない。だが、電話をかけずに来たのは、吉川なりの一種の賭《か》けだった。  いなければいないでいい。それも自分の運の一つだ。たとえ、家にいたとしても、拒否されるかもしれない。それならそれでいい。  しかし、これだけは伝えたかった。自分は、あんな別れ方は不本意だったのだ、と。本当に理解し合った恋人なら、どんな決断をしても無条件に賛成してくれるもの、と吉川は思いたかった。ところが、千鶴はそうではなかった。わかっていたことではあったが、彼の甘えを容赦なく突き放した彼女の言葉は、胸に鋭く突き刺さった。  吉川にはやはり、昔の職場から逃げ出したい気持ちがあったのだった。上司との衝突が直接の原因だった。自分の才能を認めてくれない上司など、いくら言葉を尽くしてぶつかってもだめだ……と、とことん闘う前に土俵を降りてしまった。自分を丸ごと認めてくれる職場は、もっとほかにあるはず、と根拠もなく思った。隣の芝生が青く見えたのだろう。  もう少し踏んばればよかった、という後悔は会社を辞めてすぐに生じた。前から目をつけていた輸入家具の会社に、知人を頼って声をかけた。「あなたの経歴ではうちなんか物足りないんじゃないですか?」とやんわりと断られたときには、目の前が真っ暗になった。少しばかり自信があったのが、鼻をもぎ取られた感じだった。大学の同期でライバル視していた男が、経済誌にその活躍を取り上げられていたのを見たのも、彼の落ち込んだ気分に追い討ちをかけた。自分の不甲斐《ふがい》なさや粘りのなさを痛感した。弱い人間だと思った。  誰かに慰めてもらいたいと思い、浮かんだのは千鶴の顔だった。  いまになれば、千鶴の気持ちは理解できる。もう少しいまの職場で我慢したら? と勧めた彼女の気持ちは。とことん闘って泥まみれになり、体や経歴を汚すことを嫌う彼の性格を見抜いていたせいだろう、と思う。だから、「どこへ行っても、いま以上の職場はないわよ」と諭したのだろう。だが、そのときの吉川は、彼女に彼の才能の限界をはっきり指摘された気がして頭に血が昇った。そして、「一流企業に勤める男の妻」でなければ価値がない、と暗に言われたように思って傷ついたのだ。  本当のことをずばりと指摘された動揺を隠すために、吉川は千鶴に日頃感じていたことをすべてぶつけてしまった。「君という女は……」という説教だった。本音ではあったが、あそこまで言うことはなかった。見栄っぱりで意地っぱりで、その美意識が世間を狭めている、というようなことを言ったと思う。  しかし、実は、意地っぱりなのは、自分のほうだ。彼女もそうかもしれないが、自分だってそうだ。いまの吉川は素直にそう認めることができる。自分と彼女とは、似た種類の人間なのかもしれない。だから惹《ひ》かれ合い、反発し合った。  とにもかくにも二年間、信州の山奥で汗まみれになって家具の修業に打ち込めたのも、すべて千鶴のおかげだった。彼女への意地があったからこそ、なにくそ、と頑張れたのだ。かっこ悪い失敗などどうでもよくなっていた。幸運は、無心になったときに訪れた。その信州の工房・ヴィレッジ安曇野《あずみの》を訪れた濱田耕司が、以前は車のデザインをしていた男がいると聞いて、吉川に興味を示したのだ。そして、彼の原宿の会社に誘ってくれた……。  ——いまなら、千鶴は、俺《おれ》を認めてくれるだろうか。  デパートで出くわしたときに、名刺を見て少なからず驚いたようだった。吉川は、そういう期待を持って、迷ったあげくに千鶴のマンションを訪ねることに決めたのだった。  千鶴に未練があった。  だが、「いまさら何しに来たのよ」と、冷たく拒否されることへのおそれも抱いていた。それでも、アタックしないでうじうじ悩んでいるよりはいい。 「大学出てもなあ、こんな初歩的なことも知らないんじゃ」「都会育ちのおぼっちゃんにはねえ」……などと、嫌みを言われ、鍛えられた安曇野での日々。吉川は、確実に自分が雑草のように強くなった、という自信だけはつけていた。  四階のフロアに降り、千鶴の部屋の前に立って、吉川は深呼吸をした。  チャイムに手を伸ばしたときに、ドアノブが内側から回った。  ——千鶴はいた。  ドキッとして後ずさる。  しかし、中から現れた顔は、千鶴ではなかった。  千鶴と同じ年頃の女性は、吉川を見つけて、びっくりしたように「あっ」と小さい声を上げた。 「あ、あの……」  吉川もどぎまぎした。「ここは、今村さんのお宅では?」  表札は、今村になっている。 「そ、そうですけど」  女性は訝《いぶか》しげに眉《まゆ》をひそめ、ドアノブを握ったまま、いつでも内側に逃げ込めるような体勢をとっている。 「僕は吉川といいます。今村さんの……友達です」 「吉川さん?」  女性は何か思い出すような目をし、ああ、とうなずいた。 「吉川さんですね? 千鶴さんから聞いたことがあります」 「そうですか」  彼はホッとした。どうやら友達らしい。友達とのあいだで自分のことを話題にしているということは、明るい兆候だなどと思った。 「ああ、わたしは重松亮子といいます。近所に住んでいる千鶴さんの友達です」  彼女の表情から、警戒の色が消えた。 「もしかしたら、そこのアパートの?」 「え、ええ、そうです。千鶴さんが?」 「ええ、彼女から聞きました」  あの古いアパートに住む女友達というのは、この人だったのか。吉川は、なんとなく親近感を覚えた。 「そうですか……」  重松亮子は、ちらとドアノブを持つ自分の手を見て、視線を上げた。「千鶴さんは留守なんですよ。いまニューヨークにいるんです」 「ニューヨーク?」 「あら、ご存じなかったですか?」  重松亮子の口元に、はじめて弱い微笑が浮かんだ。 「え? はい」 『かえで』のママからもそんな話は聞いていない。もっとも『かえで』には、最近、足が向いていない。いつだったかママが、「ああ、千鶴さん、ふらりと来たわよ、一人で。ずいぶん荒れてたわ。新しい彼がいるようなこと言ってたけど、あれはうそね。まだあなたのことを忘れられない感じだったわよ」と教えてくれた。彼がそれとなく指輪のことを聞くと、「左手の薬指に指輪? そんなのはまってなかったわよ。見間違いじゃない? それか彼女のポーズね。とにかく彼女はまだあなたに未練があるわ。わたしのカンは鋭いのよ」と、励ますような口調で言った。それもあって、吉川は、ふたたび千鶴にアタックする勇気を奮い起こしたのだった。 「いつからですか?」 「もう一週間になります。旅行じゃなくて、会社の仕事で。研修みたいなもの、と言ってましたけど。三か月の予定だそうです」 「そうですか」  三か月というと、九月末までだ。近づいたと思った彼女が、また遠くへ行ってしまった気がした。仕事でニューヨークへ行く。彼女の活躍ぶりがわかるというものだ。喜ぶ気持ちもあるが、よりを戻したいと願って来た彼にとっては、チャンスを失ったことが残念で寂しくもあった。 「ああ、わたし、留守中の管理を千鶴さんから頼まれているんです。郵便物を入れておくようにと」  そう言って、重松亮子は廊下に出た。鍵《かぎ》を掛け、それをポケットにしまう。手に何も持っていないのが、すぐ近所の友達という親しみを感じさせた。  二人は、エレベーターに向かう形になった。千鶴がいないのであれば、帰るよりほかにない。吉川は、この重松亮子が自分の存在をどう千鶴から聞いているか、気になった。ニューヨーク行きも知らずにのこのこやって来た自分は、この女友達の目にさぞかし奇妙に映っているだろうと思うと、みじめな気がした。  エレベーターに乗ると、重松亮子が言った。 「わたし、最初、吉川さんのことを、千鶴さんのいまの恋人だと思ってしまいました」  ——千鶴のいまの恋人?  吉川は衝撃を受け、彼女の横顔を見た。彼女は、まっすぐ表示板のほうを見たまま、言いつのった。 「だって、千鶴さん、よくわたしにのろけているから」  ガーンと頭を殴られた感じだった。なんておめでたいやつなんだ、俺は、と思った。千鶴が一人でいたはずがなかったのだ。二年四か月という歳月は、千鶴が新しい恋人を作るには充分な期間ではないか。『かえで』のママにも腹が立った。なんというお門違いなことを言うのだ。無責任な女だ。それを鵜呑《うのみ》にした自分にも腹が立った。やっぱり、あの指輪は、特別な意味のある指輪だったのだ。 「わたしと千鶴さんが仲良くなったのも、千鶴さんが酔って彼のことをしゃべったからなんですよ。わたし、介抱してあげたんです、あのとき。千鶴さんたら、『ほっといてよ』とばっかり」 「ほっといてよ」——それは、酒癖の悪い千鶴の口癖だ。吉川は、胸に空いた穴が広がっていくのを感じていた。 「いまの彼というのは?」  屈辱的な質問だが、つぶやくように吉川はぶつけた。 「さあ。千鶴さん、くわしくは教えてくれないんです。でも、ときどき来ているみたい、ここに。わたしはまだ、紹介されてはいないんですけど」 「……」 「吉川さん、とおっしゃいましたよね? あのチェストの元の持ち主の?」 「えっ?」  唐突に出されたチェストという言葉が、脳裏で形を作るまでに時間がかかった。  吉川に向けられた重松亮子の丸くて小さな目に、媚《こ》びるような柔らかい輝きが見えた。 「あれ、いまわたしの部屋にあるんです」  彼女は言った。目の高さがほとんど同じだった。肌の白い、少しふくよかな女性だ。Tシャツの胸が盛り上がっている。 「千鶴さんが粗大ゴミに出したのを、わたしがもらったんです。それが出会ったきっかけでしたけど」  吉川は、前より大きな力で、ふたたび頭を殴られた思いがした。 「見ますか?」 「えっ? あ……」 「すごく重宝しています、あれ。わたし、自分でペンキを塗ったんです。千鶴さん、わりとぞんざいに使っていたらしくて、あちこち傷もついていたし。元の持ち主に会ったら、あの子も喜ぶと思いますよ。あら、わたしったらおかしいですね、あの子なんて。でも、自分が修理したり手を加えてよみがえらせたものって、自分の子供みたいに愛《いと》しく思えるんです」  重松亮子は、「そういうことってありません?」と聞いて微笑《ほほえ》んだ。  第二部 熟 成     1  影山緑を殺害した疑いで指名手配中の重要参考人、菊地哲史に似た人物が、岐阜市内で目撃されたという通報があったのは、津本と西岡が重松亮子のアパートを訪ねた翌日だった。  ——菊地哲史は、やっぱり自殺などしていなかったのか。潜伏していたのだ。  捜査本部は色めきたち、しばらくはその目撃情報の確認に躍起になった。  しかし、岐阜市内のパチンコ屋に、二か月前から住み込みで働いていた男を突き止めたものの、結局は容疑者によく似た別人とわかって、このセンは消えた。  徒労に終わった内定捜査のあとの会議では、誰もが苛立《いらだ》ちを抱えていた。そんなときに、「指を切り取った人間は、容疑者とは別ではないのか」という点を強調しすぎた西岡は、みんなのうっぷん晴らしの格好の対象となってしまった。 「殺したのが菊地哲史なのは間違いないんだろ? だったら、指を切り取ったやつなんかどうでもいいじゃないか。菊地哲史を捜すのが先だ」  そんな乱暴な意見を言うやつが出てきたと思ったら、 「殺人者と、死体損壊者が別だと思い込むのは、かえって危険だ。捜査の方向をあやまるぞ」 「推理だけで根拠なし」 「被害者の指に、寺塚から贈られた指輪がはまっていたかどうかもわからない。誰もはめているのを見た者がいないのだから」  等、次々と……。  西岡は、推理だけと言われるとそのとおりなので、反論できなかった。自分のほうの捜査も進んでいない。事件後、『光風ハイツ』を引き払った者が二名いた。彼らに当たることで何か手がかりが得られるかもしれないと一縷《いちる》の望みを託したが、これといって収穫はなかった。  それにしても、会議で、津本が擁護してくれなかったことに腹が立った。もとはといえば、「指を切り取るという行為は、何か冷静すぎる気がする」と言い出したのは、彼である。会議で、西岡の意見が二人を代表しての意見だと受け取られたように感じたのも、腹立たしさに拍車をかけた。自分の言葉でしゃべっているのに、周囲は彼の言葉に津本の口調をだぶらせて聞いている。それならそれで、重複しようが、別の言葉で援護射撃をしてくれればいいではないか。あとでそのことをなじると、「みんなの気が立っているときには黙っているにかぎる」などとしらっと言ってのけた。こういうところは、断じて俺《おれ》に似てなどいない。俺はこれほど薄情ではない。というよりポーカーフェイスを決めこめない。さすが本庁から来ただけあって、ずる賢いやつだ、と西岡は思ったが、不思議に憎めなかった。 「あの生首には驚いたよな」  コーヒーを飲みながら、津本が言った。最近は、署内でも出がらしのお茶ばかりでなく、カセットコーヒーくらいは飲めるようになっている。 「あ、ああ、重松亮子のことか?」  西岡も思い出した。重松亮子は、以前、事件のあった『光風ハイツ』の201号室に住んでいたが、事件からひと月たたないうちに、桜上水のアパートに引っ越している。その彼女の部屋に、長い黒髪の〈生首〉があった。いや、すぐに人形だとわかったのだが、それを見つけたときはさすがにギョッとした。津本も同様だったらしく、「これは何ですか?」と思わず聞いていた。  重松亮子のほかにも事件後に引っ越した女性がいた。彼女たちには事件直後に一度、聞き込みの形で当たっていたが、指輪のことが発覚してから、再度追跡調査してみたのである。だが、いずれも最初のときと同じで、「被害者とは挨拶《あいさつ》する程度で、部屋にも入ったことがない。どんな指輪をはめていたかも知らない」と首を振るばかりであった。その報告も、会議の席上、済んでいた。 「美容師って、みんなあんなもので練習するものなのか?」  津本が言った。 「とくに彼女が勉強熱心だからだろ? 妹も美容師じゃないが、着付けの免状をもらうと言って教室に通っていたときには、なんだか胴体の模型のようなものを使っていろいろ巻きつけてた。美容師だって、模型を使って髪を結ったりするんだろうな。モデルウィッグと呼ぶそうじゃないか」 「しかし無気味だ。どこかにしまっておけばいいものを、飾っておいたりして」 「ああ」  あの〈生首〉は、通された六畳ほどの部屋の、ベンチのような高さの物入れの上に、電話機と並べて置いてあった。 「あの重松亮子はこう言ってたな。『最初は、玄関に置いといたのですが、友達が来て腰を抜かしました。それを見て、防犯に使えるかもしれないと思いました』って。人を驚かすのが趣味なのかな、あの女」 「いや、言葉どおり、都会で一人暮らしをする女の生活の知恵かもしれないぞ。入って来た泥棒が、あの生首を見てびっくりしたすきに逃げるという手もある」  西岡は言った。  部屋にあったあの〈生首〉で、重松亮子が印象づけられてしまったが、ほかに金森好美《かなもりよしみ》という女性にも、事件後引っ越した人間として接触していた。万が一、彼らのうちのいずれかが、被害者の指を切り取ったとしたら、一刻も早く嫌な思い出の残る場から逃げ出したいという心理になるであろう、と推理してのことだった。  二人とも、事件の夜、十時から十二時のあいだに帰宅している。金森好美は被害者の下の部屋、102号室。被害者の右隣の部屋の重松亮子と同様、事件に関係したらしい人物を目撃してはいない。ただ、その時間、103号室に住む畑田均《はただひとし》という学生がCDをかけていたことは、二人だけでなく、ほかの部屋の住人も聴いて知っていた。日頃、管理人に注意されるくらいの音量にしていたというから、その音のせいで事件のあった影山緑の部屋の物音が聞こえなかった可能性も考えられる。  金森好美と重松亮子は、「殺人事件のあったアパートには住んでいたくなかったので」と引っ越しの理由を語った。とくに金森好美は、郷里の親に転居するように口うるさく言われたようだった。  金森好美は、同じ練馬区内の似たような家賃のアパートに移ったが、重松亮子は、引っ越しによって住居のグレードが落ちた。風呂《ふろ》付きの部屋から風呂なしへ。桜上水という若者に人気のある場所とはいえ、建て替えどきの古い木造アパートである。それとなく、世間話から聞き出したところ、家賃も前より少し安くなっていた。 「いまにも壊れそうなアパートだったなあ」  西岡は言った。裏の道の交通量が多いせいか、建物全体がじいんと揺れた。「あそこのほうがよっぽど治安が悪そうだったが」 「だけど、彼女、『近くに女友達が住んでいて心強いから、ここに越して来たんです。職場も近いし』そんなふうに語ってたな。女友達がそばに住んでいる。それは、引っ越しを決める上で重要なことかもしれない」  津本も言った。 「友達は近くに住んでいるんですか?」と聞いた西岡に、重松亮子は、「そこです。そのマンション」と答えた。アパートに入る前に気づいたマンションは、そのアパートをよりみすぼらしく見せているようなおしゃれな白い建物だった。 「かなり住まいのレベルの違う友達のような気がするが、かえってそのほうが気が合ったりするんだろうな」  少し奇異には感じたが、こだわるほどではなくて西岡は言った。 「いずれにしても、重松亮子という女性は、堅実な生き方をしているふうに見えた。少なくとも、高価なダイヤの指輪などに興味を示さない。部屋の中はきれいに片づいていたし、ほとんど手作りのもので質素に飾られていた」  津本は、部屋をよく見ていた。「万国旗をつなげたようなのは、あれ、パッチワークというんだろ? 端切れを縫い合わせるとか」  パッチワークを趣味にしている女性が多いことは、西岡が由紀子から聞いて報告した。 「部屋には見回したところ高価なものはなかった。工夫してつつましやかに暮らしている三十近くの女。美人でもなくブスでもない、肉感的な女。結婚したら、ちょっとのろまそうだが、やりくり上手のいい女房になるタイプ。しかし職場が職場だから縁遠い。そんな感じかな」  津本が、さらにそんなふうに重松亮子を分析した。  高価なもの——という言葉で、ふっと西岡は思い出した。板敷きの台所と六畳間の彼女の部屋。あの部屋を一望したときに、ふと生じた違和感。ダイヤ……のイメージが違和感を喚起した。 「食器棚に、一個だけ輝きの違うグラスがあったように思うんだが」  西岡は言った。 「輝きの違うグラス? 何だそれは」 「いや、そのときは近づいて確かめるまでは思いつかなかったから、細かなところまでは憶《おぼ》えていない。だが、よくカタログで見るようなグラスだったんだな。こういう手に収まるようなウイスキーグラスで、切り込みがいくつも重なっていて……」 「それは、精巧なカットの高級品、と言うのさ」 「そう、精巧なカットの高級なグラスが一つだけ、ぽつんとあった」 「だからどうだと言うんだ?」 「彼女の趣味じゃないような……気がした。それだけだ」  津本ほど綿密に部屋を観察したわけではない。自信はなかったが、しかし、何か引っかかるものはあった。     *  重松亮子を含む転居した二人をはじめ、『光風ハイツ』の住人全員に、被害者との個人的なつながりや菊地哲史との関係を匂《にお》わすものは浮かんでこなかった。  アパートから周辺へ捜査の手を伸ばすことが考えられたが、「生きているにせよ、死んでいるにせよ、菊地を捜すのが第一だ。死体でもいいから早く見つけ出して来い!」という捜査本部長の一声に、西岡は気をそがれそうになった。     2  帰りの便は、成田に火曜日に到着する便になった。そのことを千鶴は決まった時点で、手紙で亮子に知らせた。三か月のニューヨーク滞在中、亮子に電話はかけなかった。職場に国際電話をかけるのは大げさすぎる気がしたし、美容院はふつうの会社とは違う。なんとなくかけにくかった。それに、彼女が自宅にいる時間もはっきりつかめない。なによりも、たった三か月間。電話をかけるまでもないか、と思えたのだ。亮子自身も、「お金を使ってまで電話なんかしないで。きれいな絵ハガキで充分」と言った。  電話をかけたのは、新潟の実家にだった。「ニューヨークなんかに行けば銃で撃たれる」と短絡的に考えていた母親を安心させるために、週に一度は電話をした。  観光気分で過ごしてはいけない、と行く前から思いながら、実際には、観光気分で過ごした三か月だった。ニューヨークにあるインテリア学校での勉強、Mデパートのインテリア・コーナーでの研修よりも、日本人の建築家が設計した住宅と、郊外にある日本人宅の二軒を、ニューヨーク在住の日本人インテリア・コーディネーターの補佐役として担当した経験が大きかった。  彼女は紀美子《きみこ》パッカーといい、アメリカ人の建築家を夫に持つ、四十八歳の女性だった。仕事上ではほとんど役に立たなかった語学だったが、彼女が通訳がわりになり、本当に親身になってくれた。後輩を育てることが楽しくてたまらないという女性で、千鶴は人に恵まれたことに感謝した。苦しむより楽しんでしまった三か月。「たった三か月なんて。会社は何もわたしに期待していない」と、すねた気持ちで臨んだことが恥ずかしくなった。  留守宅については、正直、心配にならなかったわけではない。けれども、亮子を信頼していた。信頼はしていたが、鍵《かぎ》を預けている以上、見られて困るものは目につかない工夫をそれなりにして出て来た。手紙や日記の類《たぐい》は、鍵のかかる引き出しにしまってきた。日記の中には、吉川の名前が頻繁に登場するし、手紙には彼からのがたくさん含まれている。  千鶴は、吉川と別れた時点で、彼からもらった手紙を処分はしなかった。チェストは捨てられたが、手紙はそうできなかった。〈愛された〉事実を否定するようで、自分のプライドが許さなかったのかもしれない。昔の自分を否定すれば、いまの自分はどうなるのだ、という不安な気持ちもあったのかもしれない。  亮子には、郵便物の管理を頼んである。公共料金の引き落とし額など、彼女に見られて恥ずかしいことはない。だが、封書はともかく、ハガキであれば読まれてしまう。読まれてまずいものにとくに思い当たらなかったので、その点は気にしていなかった。  けれども、封書の中に〈現在の恋人〉からの手紙がなかったら彼女はどう思うだろう。そこまで千鶴は考えていなかったことに気づいた。手紙を出し合うような仲ではないと思ってくれるか、本当はそんな恋人などいないと察してくれるか。  いずれにしても、早く本当のことを彼女に言ったほうがいいのかもしれない。そう千鶴は考えた。  留守番電話には、九月末まで留守にすることを吹き込んできたから、メッセージを入れる物好きはいないと思っている。  もう少し長く滞在したい思いを残して、千鶴はニューヨークを発《た》った。三か月のあいだ、髪の手入れはほとんどしないに等しかった。自分で伸びてきた前髪を切っただけである。美容院に行く暇などなく、またはじめての地でその勇気もなかった。  成田に着き、税関を通過して、自動ドアから出る。そんなことはありえないとわかっていながら、瞬間、吉川の顔を捜してしまった。彼が『かえで』に行き、ママから千鶴のニューヨーク行きを聞いて、会社に問い合わせ、帰りの便を聞き出して待ち伏せする。そして、「もう一度やり直せないか?」と真剣な目で切り出す……。そんなドラマチックな情熱的な場面を思い浮かべ、吉川への未練を断ち切るためにも日常から飛び出したはずなのに、またすぐに日常に舞い戻ってしまった自分に失望した。  出迎えの顔をざっと見渡したときには、亮子の顔が捜せなかった。 「千鶴さん」  カートに荷物を積んでリムジンバス乗り場に進もうとしたところを、亮子の声に呼ばれて千鶴は振り返った。  別人がいた。  いや、よく見ると、それは亮子だった。  だが、別人に見えた。  スラリと背の高い細みの大人の女性が立っていた。肩にかからぬ、外にはねたいまふうのヘアスタイル。細く描いた眉毛《まゆげ》、眉のクラシックな雰囲気に合わせた化粧——ブラウンの口紅、同色のアイシャドウ、鋭角に入れた頬紅《ほおべに》。黒いタンクトップにベージュのパンツスーツに、以前は履かなかった黒いヒールのバックベルトのサンダルが、縦のシルエットをより長細く見せていた。顔が一回り小さくなって見え、全体のプロポーションが引き締まり、手足の長さが強調された。千鶴があげた鎖をいくつもつなげた金のイヤリングが、シャープになった頬と顎《あご》のラインを際立たせている。 「千鶴さん、お帰りなさい」  声は亮子のものだった。 「亮子……さん?」  近づいて来る彼女を、放心したようにつっ立ったまま、千鶴は迎えた。「迎えに来てくれたの?」という言葉も忘れた。 「疲れたでしょう? 持ちますよ、荷物」  亮子は、千鶴の手から鞄《かばん》を取り上げた。 「驚いたわ。亮子さん、すっかり変わって」  ようやく声に出した。 「そう? そうかしら。そんなに変わってませんよ。ちょっとやせただけ」  亮子は首をすくめてみせた。猫背ぎみだったのも直り、いまは背筋がぴんと伸びているように見える。ちょっとだけとは思えなかった。 「ほら、わたし、ちょっと太りぎみだったでしょ? 夏だし、ちょうどいい季節だと思って、ダイエットしたんです。そしたら少し効果があって」  少しばかりではなかった。 「でも、髪型とかも変わったでしょ? お化粧も。だから、まるで別人みたいに見えちゃったわ」 「あ、ああ、これは、ちょっとしたアドバイスがあってね。眉もぼさぼさだったし、ほら、わたし美容師だから、本当はこういうふうにおしゃれしてなくちゃいけなかったのよね。髪も短いほうが楽だし、こうしていたほうがお客さんは喜ぶ。前々から先輩たちに言われていたんだけど、田舎者だからいいとあきらめていたんですよ」  言葉の雰囲気も前と微妙に変わっている。千鶴に対して、丁寧語や敬語に混じって、友達言葉が出てきたせいだと気づいた。 「バスに乗りません? 千鶴さん、疲れたでしょ? わたしも待ちくたびれちゃった」  促されるようにして、千鶴は荷物を預け、バスに乗った。後ろのほうの席に、亮子と並んで窓側に座る。  千鶴は、なんだか拍子抜けしていた。胸がざわついてもいた。ニューヨーク帰りの自分を、日本のうだるような暑さの中でじっと待ち続けていた亮子が、昔と寸分違わぬ姿で迎えてくれるのを想像していたのだ。「ニューヨーク帰りなんですね?」と憧れのまなざしを向けられるのに、自分はあなたより流行の先端の空気に触れていたわ、といった涼しい顔をして応じる。そんな光景を何度も思い描いた。  ところが現実は、見違えるようにやせてきれいになった都会的な女が、千鶴を出迎えた。  亮子は三か月前も、太りすぎていたわけではないし、いま、とびきりの美女になったわけでもない。  だが、そのモデルのような長身、外巻きにカールした流行の髪型、クラシックな化粧法、細身だがタンクトップの上からでもその大きさがわかる突き出したバストが、いまという時代に叶《かな》った個性美を感じさせた。一緒に立つと、たしかに千鶴のほうが個々の造りとしては美人であろう。だが、どちらが現代ふうの雰囲気のある個性的な美人かと言ったら、亮子のほうに分がありそうに思えた。その証拠に、バスに乗り込むときも、その長身と胸の大きさ、洗練された髪型から、人の目を集めたのは彼女のほうだった。  千鶴は、落ち着かない気分で、上の空で話を進めた。亮子は、自分を鏡で見て、本当に〈そんなに変わっていない〉と思うのかどうか。ニューヨークでの生活ぶりについて、一方的に無邪気に質問をぶつけてくる。それに答えながらも、千鶴は〈どうして彼女はこんなに変わったのだろう〉とばかり考えていた。  千鶴自身の話が途切れたところで、「ねぇ、どうしてそんなにやせたの?」と聞いた。  亮子は、ふふふと笑い、横目で千鶴を見た。その表情は、ぞくっとするほど色っぽいものだった。三か月前には考えられなかった表情だ。顔の贅肉《ぜいにく》が落ちたので、表情に鋭さが生まれたせいだろうか。やせても太ったときの印象を残したままの女性が多いが、彼女はそうではなかった。鼻筋は通り、高くなり、肉に埋もれぎみだった頬骨は、目の近くのほうに頂上を現し、頬と顎のそげ落ちた肉とともに逆三角形の現代ふうの顔が生まれた。小さな目も細くなった顔のせいで、前よりくっきり見える。大柄な彼女から愛らしさを感じるとしたら、鳩《はと》のようなその目だ。立派なチャームポイントになっている。  宝塚の男役のような容姿からバタ臭さをとったような雰囲気。それがいまの亮子の魅力の中心と言えた。 「最初は、体調を崩したのがもとだったんですよ」  と、亮子は手をこすり合わせて言った。指先にもブラウン系のマニキュアが塗られ、その色のためか、手の荒れは前ほど気にならない。三か月間、体と一緒に手の手入れもしたのかもしれない。 「わたし、毎年、夏バテするの。それを春までに取り戻しちゃう。そんな生活を繰り返してたんですよ。やせたり太ったり、ホント、不経済な人間よね」  気のせいか、声の調子まで軽やかだ。丁寧語と友達言葉が入り交じり、後者のほうが多くなっていくのが、三か月前の亮子が彼女の中からだんだん消えていくのと歩調を合わせているかのように思えた。 「じゃあ、去年も?」 「去年は五キロ。でも、四キロ戻っちゃって。で、今年はねえ」  と、亮子は思わせぶりに言葉を切った。 「十キロくらいやせたの?」  少し多めに千鶴は言ってみた。 「ブー」  亮子はおどけたように、かぶりを振った。こんな茶めっけも以前には見せなかったものだ。 「十三キロでーす」 「十三キロ? 三か月で?」  驚異的だ。ダイエットの本が書けるかもしれない。 「わたし、百七十センチの六十三キロもあったんですよ」  それでも、太りすぎというほどではない。 「じゃあ、いまは五十キロね?」  五十キロというと、百六十二センチ、四十七キロの千鶴と三キロしか変わらない。いまも亮子は、やせつつある途中なのだろうか。彼女があと三キロやせて自分に追いついたら……と考え、胸の奥に焦げるような感情を生じさせているのに気づき、ドキリとした。  ——わたしは、いったい何を恐れているっていうの? 彼女がやせてきれいになったからと言って、どうだっていうの? 「で、でも、夏バテがきっかけでダイエットに踏み切ろうなんて、すごいわね。かなり強靱《きようじん》な意志がなくちゃできないわ。わたし、ダイエットを試みて挫折《ざせつ》した友達、いっぱい知ってるから」 「最近は食欲も出てきて、体調いいのよ。体が軽くなったらいろんなことが楽しくなって」  亮子は、千鶴の肩越しに窓の外へ視線を向け、一瞬、遠くを見る目をした。 「楽しくなったって、何か始めたの? エアロビとか水泳とか?」 「えっ? あ、いえ、別に」  そのときだけ亮子は、昔——と言っても三か月前にすぎないが——の亮子に戻り、控えめな表情を目の奥に浮かべた。 「体が軽くなると、階段上がるのも楽だ、ってそういうことです」 「胸もやせた?」  なるべく軽い調子で聞いたつもりだったが、声が少しうわずった。 「そう、そうなの。胸もやせるのよね。これも脂肪だから。ウエストが七センチ細くなったのは跳び上がるほど嬉《うれ》しかったんだけど、胸も四センチ縮まったの。うわーん」  亮子は泣くまねをしてみせた。大柄な彼女の、小さめの、だがぽってりと厚い唇が尖《とが》った、その子供っぽい表情はアンバランスな不思議な魅力をかもしだした。 「四センチ縮まっても、八十六センチでしょ? 充分じゃない。贅沢《ぜいたく》、贅沢」  千鶴は、わざとぞんざいに言った。「やせたら服も合わなくなったでしょ?」それとなく着ているものに矛先を向ける。スーツもタンクトップも見たことのないものだった。 「靴は、仕事場の先輩からのもらいもの。サイズが合わないんですって。このスーツは何だと思います?」 「まさか、拾ったなんて言わないでしょうね」 「ブー」  ふたたび亮子は、そんな形で答えた。千鶴は苛々《いらいら》した。からかわれている気がした。自分はやってもいいけど、彼女はやらない。そんな友達関係が、暗黙のうちにできあがっていた気がしたのは自分の勝手な思い込みだったのか。容姿の変化が、二人の関係を微妙に変えるなど、認めたくはなかった。 「近いけど違います。リサイクルショップで買ったんです。もとの値の三分の一だったの、これ。でも、まあ、拾ったのとほとんど同じかな。だって、もとの持ち主が不用品だからってお店に引き取ってもらったわけでしょ? 捨てたのがゴミ捨て場じゃなくて、ちょっとこぎれいなお店だった違いかな。あっ、お金が介在してるから全然違うか」  そう言って、亮子は笑った。お金が介在する——使う言葉も表現も、容姿の変化とともに微妙に変わっている気が千鶴はした。知的に、都会的に、そして、少し軽率に、理屈っぽくなっている。彼女が意識的にそうしているのか、無意識に、彼女の容姿の変化がそうさせているのか。 「似合うわ」  千鶴はそっけなく言った。自分はといえば、ファッションに費やす時間の余裕も経済的余裕もなかったので、持って行った服をそのまま着ている。おまけに、仕事を離れての楽しみが食べることだったので、ひょっとしたら体重が増えているかもしれない。怖くてすぐに体重計にのる気にはならないが。 「これも、千鶴さんからもらったのよね」  亮子は、自分のイヤリングを指で揺らして、ふと千鶴の髪に目をやった。眉《まゆ》をひそめて千鶴のサイドの髪をつまむ。 「あっ、千鶴さん、だめじゃないですか。ニューヨークで、ほったらかしにしてたでしょ?」 「あ、ああ、髪の毛? そんな暇なかったのよ」  プロの美容師が見れば、髪の傷みは一目|瞭然《りようぜん》だ。 「環境が変わると髪って傷むんですよ。皮膚の延長ですからね」  プロの口調になって、丁寧語で言う。「とくに水が変わるのがよくないんです、髪には。その風土に合ったシャンプーってあるんですよ。ちゃんとそういうのを使わなくちゃ。ほら、枝毛がこんなにいっぱい」 「いいのよ」  思わず邪険な口調で、千鶴は亮子の手を振り払った。「枝毛なんて気にする暇なかったのよ。こっちは仕事で行ってたんだから。おしゃれなんかに気を配ってられなかったのよ」 「そうですよね」  素直に亮子はうなずいた。「大変でしたでしょ? 千鶴さん。手紙には、思ったより研修は楽で、楽しい毎日を送っています、なんて書いてあったけど、環境が変わると気苦労が多いですよね。わかります」  安易にわかります、と言われたことで、また苛立《いらだ》ちがつのった。 「わたし、さっそくカットしてあげます。傷んだ髪を切り揃《そろ》える程度に。あっ、でも、いっそのこと、短くしちゃいますか? 千鶴さん。わたしは、残念ながら、あまりこういうカットは得意じゃないけど、お店の先輩にやってもらえばバシッと決まります。ああ、わたしのをやってくれた人」 「結構よ」  自分でも、冷たい響きに聞こえたほどの言葉だった。なぜわたしがあなたと同じ髪型にしなくちゃいけないのよ、と言いたかった。なぜこんなことで自分が腹を立て、苛立っているのかわからずに、不安な思いが増した。 「そうか。千鶴さんが髪を短くしちゃ、わたしの楽しみが奪われちゃう。またいじらせてくださいね、髪の毛」  千鶴は曖昧《あいまい》にうなずいて、「留守中、どうもありがとう」と話を変えた。 「手紙、ときどき中に入れておきました。新聞はちゃんととまっていました。あっ、これ、お預かりした鍵《かぎ》」  千鶴に鍵を二つ手渡して、考え込む。「ええっと、それから……何か伝えなくちゃいけないこと、あったかしら」 「亮子さんに任せたから、全然、心配してなかったの。いろいろありがとう」  千鶴は言った。〈留守のことを頼んだのは、いまのやせたあなたにではなく、ふくよかで遠慮がちに話す重松亮子さんによ〉と内心でつけ加えた。 「留守のときに、誰か訪ねて来た様子はなかったかしら」  さりげなく千鶴は尋ねてみた。 「誰かって?」  亮子はきっと顔を振り向けて——こういう機敏な動作も太ったときにはなかったものだった。以前の彼女はただ力持ちで手先が器用なのがとりえの女性だった——、「恋人ですか?」とにやっとして聞いた。 「ううん、そうじゃなくても……」  ここでも、吉川の顔が脳裏に浮かんでいた。 「千鶴さんの恋人、あっ、ボーイフレンドかな。彼は彼で、個人的に電話したり、手紙書いたりしてたんじゃないんですか? あっ、そうでしょ? そういう表情だ、千鶴さん」  千鶴をからかうのも板についている。三か月のあいだに、何が彼女を変えたのだ、と千鶴は訝《いぶか》った。やせてついた自信から生まれたものだけとは思えなかった。 「まあね、ニューヨークにいるあいだは、雑音になるから連絡しないで、とは釘《くぎ》をさして来たんだけど」  心にもないことが口をついて出てしまう。本当は、帰国したら亮子に真実を言おうと思っていたのにだ。「わたしにはね、恋人なんかいないの。前はいたけど、いまはいないのよ」と。彼女が見違えるような洗練された女になっていたことが、千鶴の計算を狂わせた。素直になることを拒ませた。  ニューヨークから洗練されて帰って来たはずの自分が、より洗練された女友達に迎えられたことの戸惑い。屈辱感。焦燥《しようそう》感。洗練度という点では、亮子のほうがずっと大きい。 「亮子さん、きれいになったわね」  意識的に呑《の》み込んでいた言葉を、ついに吐き出した。 「そんな。千鶴さんのほうがずっとずっときれいですよ」  ふたたび、物言いが以前の亮子に戻った。が、表面的にだけだ。 「誰か、いい人ができたんじゃないの?」  千鶴は水を向けた。胸がどきどきしている。亮子につき合う男ができたからと言って、自分が胸を高鳴らせることはないのだと思う。それより何より、三か月前の彼女に恋人がいなかったかどうかも、はっきりとは自分は知らない。考えてみたら、亮子は、〈自分のこと〉を何も千鶴に話してはいなかった。郷里が盛岡で、職業が美容師で、勤めている美容院がどこにあるのか程度しか。生い立ちも、恋人のことも、聞いた憶《おぼ》えはない。千鶴が〈酔って記憶をなくしたときに話した〉のでないかぎり、聞いていないとはっきり断言できる。 「そんな人、なかなかできないわ」  と、亮子ははにかむように言った。が、すぐに、「でも……そういう人がちゃんとできたら、そのときは……ちゃんと千鶴さんに紹介します」と、表情を引き締めた。  ちゃんと、を二回使ったことに、千鶴は引っかかった。ちゃんとしない人であれば、いまでもいる、と言っているのではないか。考えすぎだろうか。 「紹介してよね。わたし、見たいわ。亮子さんのいい人っていうのを」  しかし、千鶴は内心の動揺を隠して、ふつうの女友達同士の会話をつなげた。  三か月で十三キロもやせ、髪型も化粧も変えて、イメージチェンジする。そんな偉業をなし遂げた亮子を、千鶴は驚異のまなざしで見た。これからの二人の関係の変化を予感させ、千鶴の心はかき乱された。     3  その情報は、『光風ハイツ』の隣のアパートの一室にたまたま遊びに来ていた女性から得られた。『光風ハイツ』と並行して建つ『スカイコーポ』の二階の一室に、相良千枝《さがらちえ》という薬剤師が住んでいる。ちょうど西岡と津本が聞き込みに行ったときに、相良千枝の女友達が来ていた。 「隣のアパートで起きた殺人事件のことですが。事件から半年以上たちますが、まだ手がかりがつかめていないんです。その後、何か思い出したことはありませんか? あのアパートに関することなら何でもいいんです」  事件直後は、恐怖や興奮のために忘れていた事柄も、時間がたてば見えてくることがある。そう質問した彼らに、一緒にいた水城佐知子《みずきさちこ》という友達が言った。 「事件に直接関係したことでなくていいんですか?」と、相良千枝と顔を見せ合ってためらってから、「前にここに泊まりに来たときに、窓からあっちのアパートを見たんです。夜でしたね」と切り出した。 「女の人が殺されたのは、あの真ん中の部屋でしょ? あそこから女の人が出て来て、隣の部屋に入るのをわたし、見ました」 「真ん中と言えば、202号室です。そこから出て来た女性は、どちらの部屋に入ったんですか?」  刑事の質問に、水城佐知子は答えた。 「ええっと、右隣の部屋でしたね。わたし、ああ、同じアパートで、部屋を行き来するような仲よしがいるんだ、と感心した憶えがありますから」  右隣といえば、重松亮子がいた201号室だ。 「それはいつですか?」 「事件のずっと前。三、四か月前かしら」  三、四か月前なら、201号室に住んでいたのは紛れもなく重松亮子だ。  西岡と津本が、重松亮子の写真を見せて「彼女でしたか?」と聞くと、水城佐知子は首をかしげた。「さあ、夜だったし、ここからだから、顔ははっきり見えませんでした。でも、髪が長くて、体格のいい人でした。隣に住んでた人じゃないんですか?」 「重松亮子は、隣の影山緑とは、会釈を交わす程度の仲だった、と言っていました。部屋に入ったこともない、と。だが、水城佐知子が目撃したのが彼女だったとしたら、重松亮子はうそをついていたことになります。被害者との関係を知られたくなかった。アパートの隣人の部屋から出て来た、ということは、いまの都会での平均的なつき合いからすればかなり親しい部類に入ります。目撃した状況からいって、玄関口での立ち話ではなく、部屋にあがりこんでいたようですから。なぜ重松亮子はうそをついたのか。もう少し彼女を追及してみる必要があるかと思います」  会議で、津本が強調した。「重松亮子が、被害者の部屋に出入りしていたとなれば、殺害後にも入った可能性があります」  もう一度、重松亮子の転居先の『白金ハイツ』に行く必要が生じた。     4  亮子は変わったが、亮子の部屋は変わっていなかった。  千鶴は、少しばかりホッとした。——やせるのにお金はかからない。でも、部屋をレベルアップさせるのにはお金がかかる。やっぱり彼女は、生活が豊かになったわけではないのだ。そんなふうに考えて安堵《あんど》を覚える自分に、千鶴は軽蔑《けいべつ》も感じたが、いまはそう思うことでしか心の安定を得られないのは確かだった。  亮子がやせてきれいになったことで、経済力のある男性が寄って来て、彼女の身の回りに変化をもたらす。亮子を豪華なマンションに住まわせ、高価なもので身を飾らせる。——そんな事態になったら、千鶴は嫉妬《しつと》のあまり、昔の野暮ったいころの亮子の写真を彼に見せたであろう。昔といっても、ほんの三か月前のことだが。 「亮子さんらしい、とても心安らぐ部屋ね」  ニューヨークのおみやげを持参して訪ねた千鶴は、〈これ以上、変わらないでね〉という願いをこめて言った。 「無事に帰還したお祝いは、やっぱりわたしのところでするべきよ。はりきって手料理作るわ。和食がいいよね? ニューヨークで恋しかったんじゃない?」と、弾む声で言い出したのは亮子だった。  夕方、三か月あけていた家に着いて、荷物を半分整理してから、おみやげを持って亮子の部屋へ行った。亮子は、予定していたのか、手巻き寿司《ずし》を作って待っていた。ひのきの鉢《はち》に盛ったすし飯に色とりどりの具が小皿に並んでいる。もらいものという冷酒も置いてあった。 「わたし、千鶴さんのいないあいだに、少し強くなったのよ、お酒」  冷酒用でないグラスに冷酒をついで、亮子は言った。 「誰かと飲みに行ったんじゃないの? そういう人ができたとか」  千鶴はかまをかけてみた。バスの中からずっと、彼女がきれいになったことがほかの要素——たとえば異性——に関係しているのでは、と疑っていた。 「ち、違いますよ。先輩とかに訓練されて」  亮子は、ほんの少し頬《ほお》を染めて、そわそわと視線を動かした。そして気をそらすように、「じゃあ、乾杯しましょう。冷酒で、っていうのもおもしろいでしょ?」とグラスを掲げた。  ほんのり甘口の冷酒だった。ボトルを見ると、山形の酒だ。銘柄に憶えがある気がして、千鶴はもう一口飲んだ。吉川が冷酒好きだった。夏になると、一軒目はビアホールなどにも行くが、二軒目は冷酒が飲める店を選んだ。『かえで』でも夏には冷酒を頼んでいた。だが、銘柄はまちまちだった。  この三か月のあいだに亮子につき合う男性ができたとして、彼が冷酒好きなのかもしれないと思った。いや、三か月前からつき合いは続いていたのかもしれない。ようやく酒を一緒に飲めるような仲になったということなのかも。そんなふうに千鶴は思い、亮子が勧める具で手巻き寿司を作った。  食事が終わり、千鶴はニューヨークみやげを渡した。シャネルの香水と、あちらのインテリア・コーディネーターに紹介された店で買ったブレスレット。蛇皮を貼《は》ったようなデザインの三連のブレスレットだ。以前の亮子には奇抜すぎる気もするが、いまの彼女ならぴったりだ。 「わあ、香水とブレスレット? 嬉《うれ》しい、千鶴さん。こういうの欲しかったの」  喜び方も、前とは微妙に異なっていた。顔を紅潮させて喜びを表すのは一緒だが、「いただいていいんですか?」などという類《たぐい》の言葉は、彼女の口から出なかった。それだけ親しくなったといえばそう思えなくもないが、三か月の空白がある。関係は一時中断したあと、元に戻ったところから再スタートするのがふつうではないか。それなら、「いいんですか、もらっても」という遠慮がちな言葉が出てもいい。  亮子は、さっそくブレスレットをはめて、トイレのドアの横にかけられた鏡まで行き、姿を映した。「どう? 似合います?」 「似合うわ。今日着ていたスーツなんかによく合うんじゃない?」  亮子はいまは、Tシャツにワイドパンツに着替えている。パンツの腰を紐《ひも》のベルトで絞っているのが、めりはりのある肉体を強調して見せている。Tシャツは前にも着ていたもので、急激にセンスアップしたとも思えないが、同じものでも前よりセンスがよくなって見えるから不思議だ。 「わたし、先輩たちに言われたんです」  亮子は、鏡から視線をはずさずに言った。「あなたは、大柄だから、柔らかめのものより固い感じのもののほうが似合うって。ピンクのフリルつきのフレアスカートなんかじゃなくて、綿のロングタイト。髪型も短めにビシッと決めたら、アクセサリーも大ぶりなもの、個性的なものをつけたほうがいいって。背が高いのなんか気にしないで、背筋をぴんと伸ばし、ヒールのある靴を履いて堂々としていたほうが素敵だよ、って」  先輩たち、と複数形にしたのに、千鶴はちらと引っかかった。 「そんなことを言ってくれる人が、職場にいたの?」 「えっ? あ、ああ、あなたって田舎者よね、この美容院に合うように、もっとちゃんと洗練されなさい、ってきついことを言う人たちがいるんです。わたし、反発してたんですけど、素直に耳を傾けるのもいいかな、と思い始めて。人間って、変わらなくちゃいけないときってあると、千鶴さん、思いませんか?」  急に話をふられて、千鶴は戸惑った。 「あ、う、うん、そうね。意識的に変わらなくちゃいけないときって、あると思うわ」 「千鶴さんにも、そういうときってありました?」  亮子は、興味を持ったらしく、ふたたび椅子《いす》に座り、聞く姿勢をとった。 「はっきりわかる区切りはないけど、たとえば、仕事で行きづまったときとか、そうね……」 「いまの彼とつき合い始めたときはどう? 変わろうと意識したことってあります?」 「いまの彼?」  千鶴は笑って、「あのね。彼、彼って、亮子さん、何か勘違いしてない? そんな特別な人じゃないわ」と言った。こういう軽い言い方から始めて、真実に導いたほうがいいと思った。 「あら、特別な人じゃないんですか?」  亮子が、疑わしそうに眉《まゆ》をひそめる。 「飲みにつき合ってくれる人とか、映画を一緒に観たりする人はいるわよ。でも、結婚を意識するような特別な仲の人はいないわよ」 「飲みにつき合ってくれる男性は、特別な仲ではないんですか?」 「まあね、ただのボーイフレンドよ。お友達」 「でも、そういう人が、いつ結婚を意識するような仲になるかわからないですよね」 「そりゃ、わからないけど、いまは……違うわ」 「向こうもそう思っているかどうかはわからない。違います?」 「えっ?」 「千鶴さんが、特別じゃないと思ってても、あちらは特別だと思っているとか。千鶴さんに夢中になっているんじゃないかな。そんな気がする。だって、千鶴さん、すごく魅力的だもの」 「だから……そんなことないって」  そんな人はね、最初からいないの。吉川智樹と別れてから、わたしはいま〈空き家〉の状態なの、と内心ではあきれたように言ったものの、実際には、言葉としては出なかった。「千鶴さんは魅力的だから、特定の男性がいないはずがない」と亮子に言われた以上、いないと宣言することが、魅力のない女だと認めるようで悔しかったせいもある。だが、それ以上に、話し出すと、吉川との交際、破局にも話が及びそうで、ためらわれた。  彼からもらったチェストをあげた本人を目の前にして、過去の傷を話す気にはなれなかった。亮子が、吉川の持ち物だったチェストを、まったく別物に作り替えてしまったのと逆に、千鶴としては、昔のままの吉川を大事に自分の中に保存しておきたかった。吉川のことは、触れられたくない聖域だった。彼に未練があることを明かしたくはなかったし、ボロを出して悟られてしまうのも嫌だった。 「そのボーイフレンドにも、もちろん、おみやげ買って来たんでしょ?」 「えっ?」 「特別な仲じゃなくても、お友達なら、おみやげ買って来てもおかしくないよね」 「え、あ、ああ、適当にね」  吉川に渡せるかどうかわかりもしないのに、彼をイメージしてネクタイを買って来てはある。その抽象柄を頭に描いて、千鶴は曖昧《あいまい》に答えた。 「千鶴さんからおみやげもらったら、その人、すごく喜ぶんじゃないかな。特別なプレゼントだと思い込んじゃったりして」 「だから、そんな仲じゃないってば。ニューヨークみやげを渡したからって、彼は、自惚《うぬぼ》れやしないわよ」 〈彼〉などいないのに、つい話を合わせてしまう。こういうことは、はっきりと〈いない〉と言いきらないとわかってもらえないのだ。しかし、ここまできた以上、千鶴はもう面倒くさくなっていた。 「わたしたちの年って、むずかしいわね。結婚を意識しちゃうから、ある程度から先は踏み込めないし。ねえ、そう思わない、亮子さん」  そんなふうに、話を二十九歳の女性一般論に帰結することしかできなかった。  亮子は、思い当たることがあるのか、真剣な表情でうなずいた。千鶴はその表情にドキッとした。彼女のほうこそ、やはり〈特別な存在になりつつある男性〉がいるのではないか、と思った。 「ああ、デザートがあったわ」と言って、亮子が席を立った。「フルーツポンチ作ったのよ」  千鶴は何げなく、あのチェストを見た。閉めたふたの隙間《すきま》から、生成り色の毛糸で編んだ十センチ平方の塊がのぞいている。 「ねえ、亮子さん。ひょっとしてセーター編んでいるんじゃないの?」  器を持って戻って来た亮子に、千鶴は聞いた。 「えっ?」と、亮子が目を見開いて、千鶴の視線の先を見た。 「あ、ああ、これは……」  一瞬、狼狽《ろうばい》したように口ごもり、亮子はチェストのふたを電話機がずり落ちない程度に持ち上げて、毛糸の先を押し込んだ。 「見られちゃった、ああ恥ずかしい」  動揺したのにばつのわるさを感じたのか、彼女は首をすくめてこちらを向いた。「千鶴さんってカンが鋭いのね」 「男物でしょ?」  千鶴は編み物はしない。だが、ちらと見たときのざっくりとした編み方で直感した。 「わかります? でも、うまくできなかったら、自分のにしちゃいます。わたし、男物って意外に似合うの。うふふ」  何が楽しいのか、亮子は首をすくめる。編んでいる時間が楽しくて仕方がないのだ、と千鶴は思った。 「やっぱり、いるんじゃないの、亮子さん。早くわたしに紹介してよ」 「違いますよぉ」  と、亮子は口を尖《とが》らせた。「セーターでも編むと、彼が現れるかな、と思って。いわばおまじないみたいなもの。変でしょ?」 「ちゃんとした人ができたら、ちゃんと紹介してよね」  千鶴は、亮子が使った言葉で念を押した。亮子は、セーターを編んでいると告白したくせに、編みかけのものを見せてはくれなかった。得体の知れない不安に、じわじわと全身が包まれていくような気がした。     5  西岡と津本が、そのアパートを視野に入れたとき、ちょうど二階の重松亮子の部屋のドアが開いた。「じゃあ、またね」と声が聞こえ、重松亮子と同年代の女性が姿を現した。重松亮子の顔がのぞき、別れの挨拶《あいさつ》をしている。ドアは閉まった。  その女性が階段を降り、通りを渡って、向かいのマンションに入って行くのを見て、津本は西岡に目配せした。西岡はその女性のあとをつけた。四階の一室に入ったのを見届けて、津本のところへ戻る。  二人は、重松亮子の部屋へ向かった。チャイムを鳴らすと、すぐに彼女の声で応答があった。ドアのそばまで来て、「千鶴さん?」と小声で聞く。 「いいえ、先日お邪魔した警察の者ですが」  ドアの向こうで、緊張した気配があった。少し間があり、ドアが開く。  西岡は、一瞬、別人かと思った。津本も同じ驚きを感じたらしく、「重松亮子さんですね」と確認した。 「そうですけど、何でしょう」  と言い、やせた重松亮子は、ドアの外をちらとうかがうそぶりを見せて、「どうぞ」と玄関の中へ入るように手で促した。  狭いたたきだ。今日は、玄関先での応対をされそうだ、と西岡は思った。彼女に心の余裕がないのか、ふたたび訪れた刑事に警戒心を抱き、敵対視しているのは明らかだった。 「殺された影山緑さんとは、挨拶する程度と言ってましたね」  ここでの質問役は津本だ。 「ええ」 「事件の何か月か前に、近所の人が、影山さんの部屋から出て来るあなたを見かけた、と言っているのですが」 「わたしを?」  重松亮子は、眉をひそめた。その細く描いた眉の形は、記憶にある彼女のものとはまるっきり違っていた。仕事柄、人の顔を脳裏に焼きつける訓練はされている。 「人違いじゃありませんか?」 「いえ、影山さんの部屋から出て、右隣に入るのを見たと言いますから、あなたの部屋でしょう」 「いつですか?」 「事件の三、四か月前の夜だったと言います」 「あ……」  重松亮子は、何かに思い当たった目をした。丸い小さな目に光が現れた。「もしかしたら、郵便物を届けたときかもしれません」 「郵便物?」 「間違ってわたしのところに入っていたので、持って行ってあげたんです」 「誤配ですか」  西岡はつぶやいた。しかし、戸数の少ないアパートである。誤配なら、彼女の郵便受けに放り込めば済むことではないか。刑事たちの怪訝《けげん》げな表情に気づいたのか、 「下の郵便受けに持って行けばよかったのでしょうけど、もう帰っているみたいだったし、読むのが遅れると可哀想《かわいそう》だと思って直接届けたんです」 「そのとき、影山さんの部屋にはあがられましたか?」  津本が聞いた。 「わたしが? いいえ、どうしてですか? 玄関で用事が済みましたから」  重松亮子の目に、不安げな色が宿った。 「そうですか。このあいだおうかがいしたときに、なぜそのことを……」 「そんなこと忘れていたんです。そんなことが、あの人が殺されたことに関係あるんですか? 犯人は、恋人だった男性でしょ? 前にも言いましたけど、ときどき隣に訪ねて来る男の人を、わたし見ていたんですよ。それが恋人だったんでしょ? まだ行方がわからないんですか? わたしの引っ越し先まで調べに来るなんて、なんだか変じゃないですか? わたしを疑っていらっしゃるんですか?」  彼女は、不安を顔に表しながらも、抗議した。 「申し訳ありません。どんな情報でも確認するのが、わたしたちの仕事ですので」  津本は言い慣れているセリフを機械的に繰り返し、あっさりと引き下がった。  階段を降り、マンションの裏手に回ったところで、西岡は言った。 「もっと突っ込まなくていいのか?」 「いや」  短く言って、津本は考え込んだ。「それにしても驚いたな。女は変われば変わるもんだ」 「ああ、俺も驚いた。ダイエットでやせたんだろうか。化粧も変わった。髪型も。別人のように見えたが、よく見ると彼女だった。あの丸っこい目や唇の形が同じだ。整形したわけじゃなさそうだ。しかしな、口調まで変わった気がするが、気のせいか?」 「いや」  と、また津本はつぶやき、「前のアパートも、さっきのところと変わらないくらい玄関が狭かった。玄関での立ち話となると、ドアを開けたままの状況が多いはずだ。中からドアを開けた住人が、届け物を受け取っておしまい、というような。だが、目撃者の話では、玄関ドアが全開して女性が出て来て、隣の部屋へ入ったという。部屋にあがりこんでいたと見るほうが自然だ」と、一気に言った。 「そうだな」 「とにかく、重松亮子の友達だ。ここの403号室へ入って行ったんだろ? その女友達とやらに聞いてみよう。今度は西岡、おまえが質問役だ。ああ、それから例のグラス。複雑なカットの高級品ってやつ。台所だからすぐに見えたよ。確かにあった」     6  玄関のチャイムが鳴ったとき、千鶴はまだ荷物の整理をしているところだった。亮子のところに行ったので、中断していたのだ。  ニューヨークから帰ったばかりである。千鶴はハッとした。帰国する日を知った吉川が訪ねて来たのでは、と思ったのだ。しかし、それは都合のいい期待というものだった。どうせ、亮子が何か言い忘れたことでも思い出して、やって来たのだろう。  ところが、インターフォンの声は、よく通る男の声だった。「警察の者ですが」  すぐに浮かんだのは、留守にしていたあいだの郷里のこと、そして吉川のことだった。「あなたの親しい人が交通事故に遭って」「事件に巻き込まれて」……そんな不吉な知らせを想像した。まだ家には電話をしていない。  ドラマで観るように、二人の男性が立っていた。ドラマのとおりに、二人は黒い警察手帳を見せた。 「何か?」  胸を高鳴らせて千鶴は聞いた。 「そこのアパートに住んでいるお友達のことで、少しうかがいたいのですが」  右の男が言った。 「亮子さんのことで?」  何だろう。通路に足音がした。千鶴は、外に声が漏れないようにと、二人をリビングルームに案内した。刑事たちは、ここで、と言ったが、玄関で話す声は、意外に通路に漏れる。  右側にいた男が練馬西署の西岡と名乗り、もう一人は警視庁の津本と名乗った。今度会ったら、混同してしまいそうなほど刑事たちはよく似ていた。いや、よく見ると、片方は目が丸く大きいが、片方は切れ長だ。どちらも鼻筋が通っているが、片方は小鼻が目立つ。だが、なんとなく二人が放つ雰囲気が似ていた。肩幅、鳩胸《はとむね》、背の高さ、鍛えているような体つき、そしてもっとも似ているのはその声だった。二人とも三十代前半くらいだろう。 「どこかお出かけだったんですか?」  津本という刑事が、リビングの床にふたを広げた格好で置かれているスーツケースをちらりと見て言った。 「あっ、すみません、散らかしてまして。今日、ニューヨークから帰ったばかりで」  千鶴は、あわててふたを閉め、脇《わき》へ移動させた。荷物が溢れているので、ふたはきちんと閉まらない。 「ご旅行ですか?」 「いえ、仕事で」 「そうですか」  それ以上、津本は突っ込まず、質問役を相棒に委《ゆだ》ねるように隣を見た。  インスタントのアイスコーヒーを用意するあいだ、沈黙があった。背の高いグラスに入ったアイスコーヒーに口をつけて、西岡が質問を始めた。 「そこのアパートにおられる重松亮子さんですが、以前は練馬のアパートにいたのはご存じですか?」 「え、ええ。三月頃にここに越して来たんじゃないかしら」  刑事たちはすぐに質問を重ねずに、顔を見合わせた。  千鶴は不安になって、「亮子さんがどうかしたんですか?」と聞いた。何の根拠もないことだが、亮子があれほどの変身を遂げたことに、刑事の訪問が関係しているのでは、などと思った。 「前のアパートで殺人事件があったことは、重松さんからお聞きですか?」 「殺人……?」  思いもよらない言葉に、千鶴は声を失った。我に返って、かぶりを振る。 「重松さんの隣に住んでいた女性が殺されましてね。容疑者の男は指名手配中です」  千鶴は、ただ機械的にうなずいた。 「そうですか。重松さんからお聞き及びじゃなかったんですか」  西岡はひとりごとのように言い、こちらもうなずいた。 「あの……その女性が殺されたことに、亮子さんが何か関係しているんですか?」 「そういうわけじゃありません。ただ、容疑者がまだ捕まっていないので、何か手がかりを得ようと調べているんです。重松さんは、あの事件のあとにこちらに引っ越しています。それで、当時のことで何か思い出したことはないかと、またおうかがいした次第で」 「あっ」千鶴は、小さく叫んだ。 「どうかしましたか?」  西岡が眉《まゆ》をひそめた。 「いえ、別に」  千鶴はごまかして、ぎこちなく微笑《ほほえ》んだ。三か月前に見た映像がよみがえってきたのだ。亮子の部屋の前に二人の男が立っていた。同じくらいの背の高さ。あの二人が目の前にいるこの二人ではないか。では、刑事は三か月前にも亮子のもとを訪れていた?  ——なぜ、亮子さんは、あのとき「不動産会社のアンケートだ」なんてうそをついたのだろう。刑事という言葉に、わたしが敏感になりすぎるのを恐れたのか。 「どうしてここが?」  前にも亮子さんのところに来ましたか? と質問する代わりに千鶴は尋ねた。 「さっき、あちらを訪ねる前に、アパートの部屋からあなたが出て行かれるのを見て」  と、西岡は短く答えた。  それでは、刑事たちは、亮子には秘密にしてここに来たのだ。千鶴はそれがわかって、心の中に黒い雲が広がるのを感じた。 「こちらのマンションにお友達がいることは、前に重松さんから聞いてはいたので」  と、西岡が言い添えた。 「そうですか」  千鶴は少しホッとし、少し違和感を覚えた。 「重松さんのところに、誰か訪ねて来るようなことはありませんか?」 「い、いいえ。この三か月間、留守にしてましたのでわかりませんが、その前は」  千鶴が首を横に振ると、 「念のため、この写真を見ていただけますか?」  と、西岡がジャケットの内ポケットから、セロファンのかかった写真を取り出した。  写真には、二十代半ばと思われる女性が写っていた。ベンチに座っている写真で、背景に西洋のお城のような建物があった。海外か、観光地で撮った写真らしい。 「この女性に見憶《みおぼ》えありますか?」  いいえ、と千鶴は首をかしげ、「これが殺された女性ですか?」と目を上げた。  西岡が「ええ」と言った。  千鶴は、ふたたび写真に目を落とした。夏のものらしく、黄色い半袖《はんそで》のワンピースを着て、媚《こ》びるように微笑んでいる。髪の毛は長く、背中に垂らしているようだが、形のいい耳は出している。  その耳を見て、千鶴はドキリとした。ガラスの棒を二本つなげたような、ブルーの涼しげなイヤリングをしている。  そのイヤリングに見憶えがあった。有楽町で映画を観て、日比谷公園でお弁当を食べたときに亮子がつけていたイヤリングにそっくりだった。  千鶴はイヤリングだけもう一度見て、写真を返した。「知らない人です」と言った声にかすかに震えが混じった。 「重松さんは、あなたのような友達が近くにいるのが心強くて、こちらに引っ越されたんですね?」  津本が横合いから違う質問をした。 「えっ? 亮子さんがそう言ってたんですか?」 「違うんですか?」  刑事たちは、顔を見合わせた。質問役が西岡に戻った。「事件のあと、急に引っ越したのは、殺人があって怖かったためと、女友達がいる近所のほうが心強いと思ったから、と重松さんは言ってましたが」 「わ、わたしが……」  無意識のうちにどもってしまった。「亮子さんと知り合ったのは、彼女がそこに引っ越して来てからです」 「本当ですか?」 「はい」  胸の中に広がった雲が、渦を巻いている。脳裏に焼きつけられたさっきのイヤリングが、渦の中に巻き込まれていく。  知り合ったのが、亮子が越して来てからなら、写真を見せてもわかるはずがなかったのだ。刑事はそう思ったのかどうか、写真をしまった。  千鶴の中に違和感が膨れ上がっていく。「でも、刑事さん。そんなことが前のアパートで起きたという殺人事件に関係あるんですか? 亮子さんは、殺された女の人の隣に住んでいただけでしょう?」  自分の隣人——女だということはわかっている——が殺されても、わたしはこうやって刑事に追いかけ回されるのだろうか、引っ越し先までも。そう思って千鶴は怖くなった。 「重松さんは、殺された女性とつき合いがあったらしいので。被害者と親しい関係にあった男が、容疑者として指名手配されていますが、その男についても何か知っていることがあるかと思いましてね」 「亮子さんは、どう言っているんですか?」 「つき合いはなかった、指名手配中の男についても知らない、と言っていますが」 「それならそうなんじゃないですか」  つっけんどんな言い方になった。言ったあと胸をつかれた。それならそうとは言いきれないことに気づいたからだ。亮子はうそをついた。刑事の訪問についても、千鶴と友達になったいきさつについても。  ——亮子さんが、うそをついている可能性がある。このあいだつけていたイヤリングも、殺されたこの隣人からもらったものかもしれない。  しかし、もらったイヤリングを亮子がつけていたとして、どうだと言うのか。何だと言うのか。 「さっき、容疑者は指名手配になっていると言いましたよね。その人を殺した男はわかっているってことじゃないですか。こうやって亮子さんのところまで聞き込みに来るのは、その男と連絡を取り合っているかもしれないからですか?」 「被害者と同じアパートにいて、直後に引っ越した方は重松さんのほかにもいます。その方たちにも同様に聞き回っています。ですので、これは形式的なことです。お友達として気分を害されたのならお詫《わ》びします」  津本が、言い慣れた口調で言った。お詫びします、というセリフにもあまり心がこもっているとは思えなかった。 「亮子さんは、事件になど全然、関係ないと思います。出入りするような男性もいないし。亮子さんが犯人の男をかくまっていると考えているとしたら、見当違いもいいとこです」  千鶴の知っているのは、三か月前までの亮子だ。そして、ここに越して来てからの亮子だ。知らない部分もいっぱいある。けれども、知らない部分を刑事たちに暴露されたことが、千鶴のプライドを傷つけた。不安の裏返しだったのかもしれない。男二人に、自分たちが「見せかけの友達」だと非難されたようで、千鶴は我知らず、亮子を擁護するような言葉をぶつけていた。     7  翌日から会社に出た。千鶴は、昼休みになると、すぐに中央図書館に行った。昨日、刑事たちから聞いた殺人事件というのを調べるためだった。  今年の二月頃、練馬区内で起きた殺人事件らしい。殺されたのは、一人暮らしの女性で、犯人は指名手配中。亮子から以前住んでいたアパートの名前を聞かされていなかったし、被害者の名前もわからなかったが、事件発生を告げる記事も、続報も、それほど時間を費やさずに見つけた。  死体が発見されたのは、二月七日、水曜日。練馬区上石神井の『光風ハイツ』の202号室に住む影山緑というのが、被害者だった。二十六歳の看護婦だという。丸い顔写真が載っていた。死因は、胸部と腹部を刺されたことによる出血多量。被害者の左薬指が切断されており、現場に見当たらないという。  ——指が一本、切断されていた?  猟奇的な事件として報道されている。千鶴は、背筋が寒くなった。死後、切断されたものらしいが、そうする犯人の心理に何か深い闇《やみ》のようなものを感じる。  ——薬指?  自分の指を見た。もちろん、左手の薬指は〈空き〉の状態だ。今日も、いつものように右手の薬指にファッションリングをはめている。二万ちょっとの安物だ。  ——切断された指には、指輪がはまっていたのかもしれないわね。  ふとそう思った。薬指と言えば指輪、と千鶴の脳裏にインプットされている。しかも、左手だから重要な意味を持つ。はまっていたのは、殺した男が贈った指輪かもしれないし、別の男が贈った指輪かもしれない。前者の場合は、憎い女から取り返そうと思ったため。後者は、嫉妬《しつと》にかられて、と推測できる。  猟奇的ではあるが、日々の事件に紛れて小さな記事でしかないその事件を、千鶴は推理作家のような目で深読みした。実際、彼女も見たかもしれないが、記憶にない事件であった。  当然、警察も死体に指輪がはまっていた可能性を考えて、切断の動機を推理しているのだろう。  五日後の新聞記事に、『被害者と親しい関係にあった男性、菊地哲史(28)を指名手配した』とあった。  ——指名手配中の男というのは彼だったのね。彼が刺し殺したあと、指を切り取った?  記事には、別れ話のもつれから刺殺したらしい、とあるから、殺したあとも憎しみと怒りが収まらずに、死体を傷つけたのだと思われた。  ——亮子さんは、201号室か203号室に住んでいたのか。  千鶴は、その新聞記事をコピーした。何のためかと問われれば、自分でもよくわからなかった。亮子に見せるためでも、親や知人に知らせるためでもない。無意識の自己防衛本能かもしれなかった。亮子という人間が、その隠れていた輪郭を露《あらわ》にしていくようで不気味だったのだ。ちょうど、ふくよかなころの曖昧《あいまい》な顔の輪郭が驚くほどシャープになったように、亮子は「重松亮子」という人間の輪郭を現してきた。  ——自分からは、あまり自分のことを語らない人だった……。  とはいえ、自分が亮子だったらどうするだろう、と千鶴は考えた。引っ越し先で、新しくできた友達に、以前、身近で起きた殺人事件のことを積極的に話すだろうか。  ——自分に何にも関係ないことだったら、興味本意で話すわよ。  と、一人の千鶴は答え、  ——ちょっとした友達づき合いをしていた程度で、警察に「犯人の逃走を手助けしているのでは」と疑われたのでは、誰にも話さないだろうな。変に気を回されたら嫌だし。  と、もう一人の自分が答えた。 「ねえ、警察が殺人事件のことでうちに聞き込みに来たのよ」  少なくとも亮子は、いまの時点で、そんなふうに気軽に千鶴に話してくれてはいない。隠しておきたいということだ。  友達が意識的に隠したいことに触れるだけの勇気が、千鶴にはなかった。  イヤリングのことを刑事に言わなかったのは、友情を大切にしたかったためか。友達を裏切るのが嫌だったのか。いや、違うと千鶴は思った。「友情を大切にする自分」を大切にしたかったためのような気がした。  吉川がここでも影響していた。「君が自分の意志で選んだ友達なら、最後まで信じてやれよ」と、彼の声が耳の奥でこだまする。  ——そうよ。亮子さんが殺人事件に関係しているはずないじゃないの。刑事も言っていたように、あれは形式的な捜査だったのよ。  イヤリングのことにしても、被害者がたまたま亮子と同じものをつけていただけかもしれない。亮子が以前の隣人だった被害者からもらったもの、とする根拠など何もないのだ。  自分でも確信の持てないことで刑事に情報提供することは、「友達を売る」ことになる。  千鶴は、同じ二十九歳同士、地方出身者で一人暮らし、という点で亮子に共感を抱いていた。職場や知人のところに刑事が聞き込みに訪れたことの影響が、亮子の生活におかしな形で出ないともかぎらない。  亮子も、ある意味で千鶴と同じ接客業だ。美容師は指名制のところもある。信用第一だ。亮子の周辺を刑事が嗅《か》ぎ回っている、などという評判がたったら、どんなつらい思いをすることか。千鶴は、あの横川夫人で懲りていた。自分は無実でも、一度変なうわさがたったらおしまいだ。人のうわさは、生活を破綻《はたん》させるほどの恐ろしい威力をもっている。  午後は、マンションの改装に立ち会うために、荻窪《おぎくぼ》に行くことになっていた。千鶴は、中央線の車内で、亮子のことを考えていた。そのうち、彼女のほうから「実はね」と話すときがくるかもしれない、と思った。やせてきれいになった亮子。容姿の変化が彼女の内面にも変化をもたらした。自信が生まれ、明るくなった。  おどおどしていたころの亮子であれば、話せなかったようなことも、いまなら率直に話す気になるかもしれない。そのときを気長に待ってあげればいいじゃないの。  車窓から、校庭で走り回る運動服姿の子供たちが見えた。運動会シーズンなんだわ、練習しているのね。そんなふうに思いながら、千鶴はもう少し亮子の周辺をそっとしておいてあげることに決めた。  芸術の秋だ。亮子を誘い、美術館や絵画展に行こう。バラエティに富んだつき合いを重ねていくうちに、素直に心を開いてくれるようになるだろう、友達ならば……。そう思った。     8 「今度の火曜日? あの……ごめんね。都合が悪いの、わたし」  亮子が両手を合わせて首をすくめ、もう一度、ごめんね、と言ったとき、千鶴は冷水を浴びせられたような気がした。  断られる場合など、予想もしていなかった。  亮子が、残り物だけど、と言って、皿に入れた肉じゃがを届けてくれたときのことだった。 「あ、ううん、いいのよ。仕事?」  ショックを悟られないように、千鶴は軽い口調で聞いた。 「ううん、そうじゃないんだけど……」  亮子は、はにかむように言い、目をぐるりと回した。いたずらっ子が言い訳を考えているときのような表情だった。 「いいのよ、都合が悪ければ。ただ、暇だったら、一緒に絵画展、観に行かないかなと思って誘っただけだから」  亮子に断られたくらいで、何をこんなにうろたえ、傷ついているのだろう、わたしは。千鶴は自分に憤って、「いやあ、彼が空いていれば誘ったんだけどね」と心にもないことを滑らした。そして、「あっ、ごめん。亮子さんがその穴埋めってわけじゃないのよ」と笑った。 「ほら、やっぱり」  と、亮子は、睨《にら》むような目をして微笑《ほほえ》んだ。「千鶴さんも、本当は彼と過ごしたかったんじゃないの」  千鶴さんも、という表現に、千鶴は引っかかった。 「亮子さんも、デートなんでしょ? だったら、はっきりそう言ってくれればいいのに」 「あ、う、ううん、デートなんかじゃ……」  亮子は赤くなった。色白なので表情の変化がよくわかる。 「ねえ、セーター、もう編み上がった?」  千鶴は、からかうような口調で聞いた。きれいになれば恋人だってできる。恋人ができた女は、女友達より男を優先させる。そんな決まりきったことに、自分が嫉妬するのはどうかしている。応援してあげればいいじゃないの、と気持ちを切り替えた。 「相手は、同じ美容師さん?」 「いやだぁ、千鶴さんって聞き出すの、うまいんだから」 「やっぱりいたのね。わたしのいないあいだに、関係が深まったとか?」 「そんな……まだまだ」  と言いながらも、亮子ははじめて肯定の表現をしてはにかんだ。 「えっ? まだそういう……関係になってないの?」 「そういう……って、いやだな、千鶴さん、尋問みたい」  亮子は、口を尖《とが》らせて、いやいやするようにかぶりを振った。 「もったいないな、亮子さんのその巨乳を披露しないなんて。男はその胸見るといちころよ」  千鶴は、自分の陳腐な表現に吹き出した。  亮子もつられて笑った。 「セーターは編み上がったの」  と、亮子は言った。「でも、渡すかどうかはまだ……」 「決めてないの? 編んでおきながらもったいないわね」  千鶴は、亮子の肩を励ますように叩《たた》いた。「亮子さん、そんなにきれいに変身したんだから、自信持たなくちゃ」 「そんな……恥ずかしいわ。千鶴さんったら」  長身をくねらせて亮子は言う。 「あのね、さっきの彼のことだけど、誤解しないでね。いまは死語になってるけど、ちょっと前のアッシー君みたいなものだから」  うそをついたことに気がとがめて、千鶴は言い訳した。 「はいはい、そういうことにしときます」  信じていない口調だった。    その火曜日。結局、千鶴は、誰も誘わず、一人で絵画展に出かけた。現代絵画をたくさん鑑賞し、知識を仕入れておくことは、仕事の上でも役立つ。部屋にどんな絵を飾ればいいか、インテリア・コーディネーターの意見を求める依頼主も多い。そんなときに美術品を見る目を養っておくのも仕事の一つだ。  午後に出かけて六時頃帰った。亮子を誘って出かけたら、夕食をどこかで食べて来たか、スーパーで買い物をして家で二人で作ってワイワイ食べたかもしれない。二十九歳の女が、喫茶店程度なら別として、一人でレストランや定食屋で夕飯を食べる姿は、美しいものではない。第一、楽しくない。二十九歳という年齢は、女が一人で食事することが平気な年でありながら、はた目にはしたたかな女に見える。夕飯は簡単に、冷凍のシーフードミックスを使ったスパゲッティ、と決めた。安い白ワインを飲みながら、テレビを見ながら、自由気ままに食べるのだ。  着替えをするために寝室に入り、窓辺に寄った。通りの向こうの『白金ハイツ』の階段を、長身の女性が弾むような足取りで降りて行く。  亮子だった。  ショルダーバッグを肩にかけ、ヒールのあるあの靴をはいている。ロングタイトのスカートに、千鶴を成田に迎えに来たときに着ていた丈の短いジャケット。手には、こぎれいな紙袋を提げている。明らかに外出着だった。  ——なんだ、昼間はうちにいたんじゃないの。出かけるのはこれからなの?  なんだか裏切られた気がした。  夜に先約が入っていたのなら、千鶴が誘ったときに、「昼間ちょっとくらいなら時間あるわ」と、つき合ってくれてもよかったではないか。  それとも、その夜の外出のために、昼間から心の準備をしておかねばならないような〈大事な約束〉だったのか。  そう考えたら、体が熱くなり、心臓の鼓動が早まった。大げさかもしれないが、だまされた、罠《わな》にはめられた気がしたのだ。  千鶴がニューヨークに行く前の亮子は、何をおいても千鶴を優先させた。いや、千鶴以外に東京に友達と呼べる人間はいなかった。職場の同僚は、千鶴と同様、ライバルだった。だから、千鶴が誘えば頬《ほお》を上気させて喜んだ。誘いを断ることなど考えられなかった。  それが、今日はじめて千鶴より〈誰か〉を優先させた。  ——わたしはその〈誰か〉に負けたのだ。  気がついたら、ソファに投げ出したままになっていたバッグをつかみ、玄関を飛び出していた。なぜそんなことを思いついたのか。亮子のあとをつけよう、という衝動に千鶴は突き動かされた。  恋人ができたら、女友達より恋人を優先するのは当然、と一度は納得したはずなのに、心の中に湧き上がったこの醜い感情は何なのだ。 「わたし、誰かとレストランに入ったことなんて、東京に来てはじめてです」と、小声ではにかむように言った亮子の言葉、肉づきのよい頬を赤らめた亮子の顔がよみがえる。  ——わたしは、昔の亮子さんを懐かしんでいるの?  いや、違う。自分を追い越しそうないまの亮子に、脅威を感じ、嫉妬《しつと》しているのだ。千鶴には恋人はいない。亮子には、どうやら恋人と呼べる男性ができつつあるようだ。千鶴が日本を留守にしていた三か月のあいだに、その芽は生まれたらしい。  彼女に追い越されたらどうしよう。とんとん拍子に行って、婚約、結婚となれば、「お友達として披露宴に出てね」と幸せそうな顔で告げられるのだろうか。その相手が、ひょっとしたら、千鶴も驚くほどの条件のいい男である可能性もある。ハンサムで経済力があって、やさしい男……。  ——だめよ、そんなの。亮子さんなんかに追い越されたくない。いつもわたしのあとを、憧《あこが》れのまなざしでついて来ていた彼女。それがいつのまにか、わたしの先を軽快な足取りで歩いているなんて、そんなの許せない。  相手の男をこの目で見よう、という明確な目的があったのかどうかわからない。ただ、急《せ》かされるような思いで、千鶴は亮子のあとをつけた。焦燥《しようそう》感が彼女を駆り立てたのだ。  亮子の気持ちは、これから会う〈誰か〉にしか向いていないらしい。後ろなど振り返りもしない。けれども、千鶴は用心して少し距離をとって尾行した。  京王線の桜上水の駅に入る。千鶴も定期券を使って、改札口を通り抜けた。  亮子は、ホームの中ほどに立っている。同じジャージーの上下を来た学生の団体がいた。そのそばに紛れ込むようにして立ち、千鶴は亮子から目を離すまいとした。  上りの列車がやって来る。ちらと腕時計を見て、亮子は新宿行きの列車に乗り込んだ。ラッシュ時ほどの混雑ではない。千鶴は、隣の車両に乗り、連結部分のそばまで進んだ。戸口にたたずむ亮子の後ろ姿が見える。  人の陰になりながら、千鶴は彼女の姿をうかがった。ふっと彼女は、こちらを向いた。千鶴はギクッとして陰に隠れた。見つかったのか、と思った。背中を冷や汗が流れた。見つかったとしても尾行とは見破られないだろう。そのときの言い訳を考えた。しばらくして視線を向けた。と、何事もなかったかのように彼女は車窓の外へと目を向け、横顔を見せていた。  千鶴はホッとした。どうやら気づかれなかったようだ。が、次の瞬間、血の気がすうっと引いた。  亮子が微笑んだ。幸せそうな微笑だった。抑えていても、自然に頬が緩んでしまうというような微笑に見えた。  一人笑いを恥じたのか、口に手を当て、彼女は真顔に戻った。そして、あの紙袋をのぞきこみ、何か確認するように一つうなずいた。  ——あの紙袋には、編み上がったセーターが入っているんじゃないかしら。  そう直感した。それを渡す日なのだ。だとすれば、間違いなく、やっぱり相手は男だ。恋人になりつつある男。いや、もう恋人なのかもしれない。もったいぶって、千鶴にはまだ打ち明けないだけなのかもしれない。  引いたはずの血が頭に昇った。亮子は、「編んでおいて渡さないなんてもったいないじゃないの」という千鶴の言葉にしたがって、今日、手編みのセーターを彼に渡すつもりなのかもしれない。それなら、「その巨乳を披露しないなんてもったいない。男はその胸見るといちころよ」というもう一つの千鶴の言葉にも、素直にしたがってしまう可能性もある。  今日、亮子とその男とは結ばれる。より深い関係になって、そして亮子は……。千鶴の手の届かない遠いところへ行ってしまう。  そんなのだめよ! と、千鶴は心の中で叫んだ。亮子とのつき合いは、日数から見れば浅い。無二の親友と呼べる間柄ではない。亮子を失うことが悲しくて、彼女に執着しているのでは決してなかった。ただ、亮子に先を越されること、彼女が〈恋人ができた〉というその点において、千鶴より優位に立ってしまうことを恐れたのだった。  終点の新宿駅で、吐き出されるようにして亮子は降りた。千鶴も隣の車両から乗客と一緒に吐き出された。またたくまにホームに人が溢《あふ》れた。長身の亮子ではあったが、男性に混じればそうでもない。彼女を見失うのはたやすかった。  千鶴は「すみません」と人をかき分けながら、もどかしい思いで階段を昇った。デパート方面の改札口にも、反対側にも、亮子と思われる姿は見つからなかった。  しばし立ち止まったのがよくなかった。「こんなところで邪魔だろう」と、不機嫌そうな若い男の声がし、後ろからどんと押された。千鶴はよろめいて、足をひねった。急いだあまり、玄関に脱ぎっぱなしになっていた十センチヒールの靴を履いて出て来てしまったのだ。  痛さをこらえて、人混みから逃れた。挫《くじ》いてはいないようだ。それでも痛みがおさまるまで、しばらくは動けなかった。  情けなかった。みじめだった。いったい何してるのよ、わたしは、と思った。  なぜ、重松亮子ごときにこんなに執着するのよ、ばかじゃないの、いいかげんにしなさいよ、と自分をあざ笑った。  亮子は、新宿のどこかで恋人と会い、食事をしながら、手編みのセーターを渡すのだろう。料理、編み物と家庭的なことに男は弱い。その男は感激するだろう。  ——智樹さんもそうだったわ。  吉川の顔が浮かんだ。彼は、千鶴が、意識的に料理や編み物を得意とする家庭的な女になるのを拒否していたのを知っていて、雑誌で手編みのセーターを着ているアイドルを見ると、「手編みのセーター、俺《おれ》も着たいな」と言って甘えた声を出したものだ。そして、千鶴は、よけいそうなるものか、と意地を張ったものだ。  新宿から『かえで』を連想した。こんなむしゃくしゃした気分のときには、あそこで飲みたい、と思った。だが、やめておいた。ママの勘は鋭い。最初のときはだませても、今日あたり行けば、「男がいなくて荒れている」ことを見抜かれてしまいそうな予感がした。  駅構内にあるビールを飲ませる店にふらりと入り、カウンターに座った。小ジョッキを注文する。たまらなく喉《のど》が渇いていた。一人でいる女性は店内に千鶴だけだったが、そんなことはかまわなかった。ビールを飲み、足をさすった。痛みは徐々に引いていく。  興奮がややおさまり、冷静さが戻ると、亮子への嫉妬の正体が見えてきた。嫉妬の中には、怒りが含まれていると思った。亮子はうそをついた。うそをついた相手は、大胆にも刑事だ。 「友達が近所にいるから心強くて、引っ越して来た」と言ったという。  なぜ、そんなうそをつかねばならなかったのか。  彼女のうそに利用されたことへの憤りがあった。  亮子への不信感が、刑事の訪問によって芽生えた。刑事相手にうそをつくくらいだから、恋人のことでもうそをついている可能性は考えられる。本当はかなり進んだ仲になっているのを、千鶴には話してくれないだけかもしれない。「ちゃんとしたら話します」などと言って、本当はすでにちゃんとした仲になっているのかもしれない。第一、相談くらい持ちかけられてもいいはずだ。友達なのだから、そうしないのは水くさい。亮子にとって自分は、東京に来てはじめてレストランに入った女友達だというのにだ。  ——それだけ、わたしを信用していないってことなんだわ。  推測にすぎないが、亮子への不信感は募った。  冷たいビールが喉元を過ぎ、胸に染みわたる。心臓が一瞬、きゅんと縮まった。  ——もしかしたら、亮子さんは本当に、殺されたあの女性とつき合いがあったのかもしれない。イヤリングをプレゼントされる仲だったのかもしれない。  不意に、その考えが閃《ひらめ》いた。  たとえば、自分のようにだ。気に入って買ったのに、ある日突然嫌いになったイヤリングを、「わたしのお古だけどいい?」と言ってあげるような仲だったのでは……。  ——じゃあ、亮子さんが殺人事件にかかわっていると言うの?  しかし、犯人はその男だとわかっている。  指名手配中の恋人。別れ話。切断された左手薬指。隣の部屋。事件後の引っ越し……。  それらが何か一本の糸でつながりそうで、つながらない。  とにかく、と千鶴はスツールから立ち上がった。〈昔の重松亮子〉をわかっているかぎりの手がかりで調べるのだ。     9  空腹など感じなかった。千鶴は、西武新宿線の列車に乗り、上石神井駅を目指した。いつも持ち歩いているシステム手帳に、新聞記事の写しがある。事件のあった『光風ハイツ』の正確な住所はわからないが、上石神井二丁目とあった。以前、近くの一戸建ての改装を担当したことがあったので、最寄りの駅はわかる。  こんなことならパンプスを履いてくればよかった、と後悔したが、行動に移さずに帰ればもっと後悔する。歩いているうちに、ふたたび左足首に痛みが生じてきた。  二丁目は、駅の北側だ。そちらに降りて、目についた不動産屋に飛び込んだ。システム手帳を取り出し、部屋を探しているふりをして、「ところで、このあたり、二月頃に殺人事件があったでしょ? アパートで一人暮らしの看護婦が殺されたとか」と切り出した。二軒目の主人が「ああ、『光風ハイツ』ですね」と思い出した。 『光風ハイツ』がどのあたりか聞き出し、間取りや環境について尋ね、あとは適当なところで「また来てみます」と話を切り上げて、外へ出た。小学校のすぐそば、と目印を教わったが、それでも行きつ戻りつしてようやく『光風ハイツ』を探し当てた。 『白金ハイツ』よりは、ずっとましだった。二階建てなのと通路が外から見えるのは同じだが、階段の造りはしっかりしている。各部屋に出窓がついた、女性が好みそうな白い建物で、こちらに『白金ハイツ』とつけたほうがぴったりする感じがした。不動産屋の主人の話では、ユニットバスつきで、間取りも『白金ハイツ』よりは広いらしい。  ——こんなに住みやすそうなところから、亮子さんはなぜいまのところに移ったの?  隣室で殺人事件があったアパートだから。いまのほうが通勤しやすいから。——と、理由はいろいろ考えられる。だが、引っ越しにはお金がかかる。千鶴が見たかぎりでは、亮子の生活はカツカツではないけれども、余裕がある感じではない。出費のかさむ引っ越しを、なぜあえてしたのか。彼女のもともとの性格が〈倹約家〉だとしても、切り詰めなければいけない生活が、彼女にものを拾わせたり、再生利用させている気がする。  余裕がなかったからこそ、住まいのランクを落とさざるをえなかったのではないか。  けれども、引っ越すには、それなりの理由が必要だ。犯人が指名手配中で、捜査中の事件ならば、なおのこと引っ越す理由が大事になる。殺人事件のあったアパートを、みんながみんな引き払う世の中ではない。亮子は、「職場に近いところに越します」と、いちおうは周囲を納得させたのかもしれない。  千鶴は、階段を上がった。事件のあった部屋は、202号室だ。表札は出ていない。  ——事件以来、誰も入っていないんだわ。  当然かもしれない、と思った。しかも、犯人は逃走中なのだから、ふらりと現場に戻って来る可能性だって考えられる。そんな場所には、誰だっていたくない。  このドアのほんの先で人が殺されたかと思うと、足が震えた。胸と腹部を刃物で刺されたという。一面に広がった血だまりの匂《にお》いが、ふっと鼻をついた気がした。  向かって右隣の201号室にも、プレートを差し入れる枠があるだけだった。左隣の203号室には『中野《なかの》』とプレートがはまっていた。  事件のあとに両隣が引っ越し、のちに左隣の203号室にだけ新しい住人が入ったとは思えないから、亮子が住んでいたのは201号室であろう。彼女が出て行ったままになっているのだ。  六戸しかないアパートの二部屋が空室で、やっていけるのかしら、などと千鶴は思ったが、大家の事情などいまは関係ないことだった。  亮子が住んでいたアパートを見たからといって、どうなるものでもなかった。千鶴は刑事ではない。住人の誰かに当時の亮子の評判を聞くつもりもなかった。そんなことをすれば、彼女の耳に入ってしまうおそれもある。  けれども、亮子の住んでいたアパート、殺人事件のあったアパートをこの目で見たことで、亮子に対して抱いていた得体のしれなかった脅威が、実はそれほど恐れるに足りないものであることがわかったのも事実だった。  亮子も、ひょっとしたら、本当に隣で起きた殺人事件が怖かっただけなのかもしれない。一刻も早くここから逃れたかったのかもしれない、と思った。千鶴でさえ、少しドアの前に立っていただけで寒けを覚えたのだ。亮子が居続けたくなくなっても当然かもしれない。  階段を降りる。目の前に壁のように人が立ちはだかっていた。小太りの六十歳くらいの女性だった。 「何かご用ですか?」 「あ、いえ、あの……」  千鶴は狼狽《ろうばい》した。 「わたしはここの大家ですけどね」  きつい口調だ。「上の階に何か用でも?」 「いえ、ちょっと……」 「中野さんにご用?」 「いえ、違います。下見に……うかがったんです」 「下見?」  大家は眉《まゆ》をひそめ、「どこのお店から紹介されたんですか?」と聞いた。  お店というのは、不動産屋のことらしい。 「どこなんですか?」  千鶴が言葉に詰まっていると、 「うちに連絡してもらってから、来てもらうことになってるんですよ。違うわね、あんた」  と、つっけんどんな言い方になった。「さっき見てたら、上をウロウロと」 「殺人事件があったんですよね、上で」  先回りして千鶴は言った。不審がられるよりはよかった。「このへんで部屋を探そうと思ったんですけど、そういううわさを耳にはさんでちょっと来てみたんです」 「ちょっとぉ、そういうのやめてくださいな」  と、大家は語気を強めた。「変なうわさをたてられて、うち、困ってるんですよ。こんなふうにのぞきに来られるようじゃ」 「すみません」  しおらしく頭を下げた。大家の視線が千鶴の手先に向いている。赤いシステム手帳を脇《わき》に抱えたままなのに気づき、急いでバッグにしまった。 「あの部屋は……ともかく、お隣はきれいになってますからね」  店子《たなこ》になるかもしれない人間を邪険に扱ってしまった、と気づいたのだろう。大家は穏やかな口調に戻ったが、千鶴はその場を立ち去った。    家に着いたときは、靴を脱げないほど足がむくんでいた。とくに足首を痛めた左足がひどかった。亮子の部屋はまだ暗いままだった。  千鶴は、シャワーを浴びて、足首を湿布した。何も食べていないことを思い出し、冷凍の焼きおにぎりをレンジで温め、ビールで流し込んだ。  十五分おきに、窓から『白金ハイツ』を見た。十二時二十分に見たときには明かりがついていた。気のせいか、黄色みを帯びた暖かみの感じられる明るさだった。幸せに光り輝いている、そんな明かりの色に見えた。     10  重松亮子が住んでいた『光風ハイツ』の201号室からは、被害者・影山緑のものと思われる血痕《けつこん》のルミノール反応は出なかった。201号室は、重松亮子が出て行ってから、ずっと空き部屋になっている。  西岡と津本は、重松亮子の友達の今村千鶴と会って話を聞き、「重松亮子のついたうそ」を知ってから、彼女への不信感をつのらせた。会議でそのことを報告し、「空き部屋を調べさせてほしい」と訴えた。根拠はこうだった。  ——重松亮子が、影山緑が殺害されたあと、部屋を訪れ、死体を発見し、その死体から指輪がはまったままの左手薬指を切断したとする。使った刃物は、自室から持ち出したものかもしれないが、現場で切断し、自室に持ち帰ったとすると、室内に被害者の血液が付着した可能性がある。被害者の血痕が見つかれば、重松亮子にもう一歩踏み込める。事件解決への突破口となるかもしれない。  だが、201号室からは、何も発見できなかった。 「もっとも、ビニール袋か何かを持参して、切断した指を入れたのなら血はにじみ出ない。指を切り取った刃物は、処分したのだろう」  という推理もできた。  現在、重松亮子が住んでいる『白金ハイツ』の部屋から、被害者がはめていたと思われる指輪が出てくれば、文句なしに彼女と被害者とを結びつけられる。行方が知れない菊地哲史とも結びつくかもしれない。  だが、「重松亮子が、事件後、転居した」、「重松亮子は、被害者の部屋を訪れたことがあったらしい。目撃者がいる」、「重松亮子は、引っ越してから友達になった今村千鶴のことを、前々からの友達だったかのように言った」という状況証拠程度では、彼女の部屋に踏み込むわけにはいかない。 「俺《おれ》はどうしても、あの今村千鶴という友達が、影山緑の写真を見て、一瞬、表情を変えたように思えてならないんだが」  ふたたび、捜査会議のあと、しばしのコーヒー・タイムを作って、西岡は津本に言った。 「写真から目を上げて、また目を戻したときに、じっと一点を見つめていた気は俺もする。だが、彼女ははっきりと『知りません』と言った。うそをついたわけじゃないだろう。友達をかばってうそをつくのなら、前々から友達ではなかったことを俺たちに正直に言ったのは、なぜなんだ」  津本は、いつものようにブラックのままコーヒーを飲んで言った。ホットコーヒーがおいしい季節になってきた。 「どうしてうそをついたんだ、と重松亮子に迫ってみようか」 「いや、それは早い。警戒されて、持っているかもしれない指輪を処分されたらおしまいだ。またどこかに引っ越してしまうかもしれないしな」  津本は首を横に振った。 「しかし、本当に彼女は、指輪を持っているのかな。突拍子もない推理に思えて、自信がなくなってきた。だって、あのアパートはおんぼろ。質素な部屋だったじゃないか」  と西岡は言ったものの、高価な輝きを放っていたグラスが、その質素な部屋にあったことの違和感は忘れなかった。 「前の重松亮子だったら、俺もそう思っただろう。だが、いまの重松亮子を見ていると、そうとも言いきれない気がしてきた」 「ん?」 「変身願望だよ」 「変身願望?」 「ああ、重松亮子は、やせてきれいになった。髪型も眉《まゆ》の形も変えた。変身願望があったってことだ。美容師だというから、そういう機会はないことはなかっただろうが、それにしても短期間にすごい変わりようだ。いまは、若い女性のあいだでダイエット・ブームだというが、美への飽くなき憧《あこが》れがあるってことだ。重松亮子にも、美への憧れがある。美は人間だけに追求されるものじゃない。服飾品、絵画、芸術品、とさまざまだ。部屋の中が質素で、つつましやかに暮らしているからと言って、宝石への憧れがないとは言えないだろう。  それに、彼女は手作りが好きだ。あのパッチワークの座布団カバーも、敷物も、彼女が作ったものだ。最初に部屋に通されたとき、彼女が『麦茶を』と言って冷蔵庫を開けた。あのとき、冷凍室には小さなタッパや、フリージング用のパックがきちんと整理されて詰まっていた。一人暮らしにしては、残り物を出さない、無駄のない食生活をしているように見えた。そして、玄関の脇《わき》には、牛乳パックが壊して一枚にした形で積み上げられていた。再生利用のためにスーパーにでも持って行くのだろう。もう一度よく見ないとわからないが、俺たちが座った椅子《いす》も、揃《そろ》ったものではなかったから、拾い物かもしれないし、椅子もテーブルも、あの物入れも、白いペンキが塗られていた。あれだけバラバラなものに白いペンキというのは、ひょっとしたら彼女自身が塗ったとも考えられる。いずれにしても、手先の器用な女なのは間違いない。もっとも、職業が美容師だからね。  それから、なんとなくアンバランスな印象を受けた。どこかの景品についてきたようなグラスが並んでいる中で、あの高級なカットのウイスキーグラス。一点豪華主義とも思えない。たぶん、もらいものだろう。もらえるものは拒否しない。インテリアの全体的なバランスよりモノを優先する。雑多なものが並んでいても平気な感覚。  つまりね、重松亮子は、もったいながり屋なんだ。ものを捨てない。ものを拾ったり、もらう……のが好きなのかもしれない。もったいながり屋の性格と美へ憧れる気持ち、それが一緒になったとき、どうなるか。死体の指にはまったダイヤの指輪に、文字どおり食指を伸ばす気にはならないだろうか。ふつうの女は、そんな恐ろしいことができるものではない。しかし、一見ふつうに見えてふつうでない人間たちを、俺はたくさん見てきた。あるきっかけで、ふつうでなくなった人間もね。短絡的な推理だろうか、なあ、西岡」  津本は一気にそうしゃべると、一口飲んで、ブラックコーヒーのためか苦い顔をした。 「さすが、よく見てるよ、おまえは」  と、西岡は言った。心底、感心していた。冷蔵庫の中など、西岡はのぞく気にもならなかった。「さすが本庁の刑事だよ」  まわりからは〈似ている〉と言われる二人だが、その点は違う、と西岡は素直に脱帽した。 「場数を踏んでるだけさ」  津本は照れずに言った。 「あの大家の話だと、重松亮子は、いまの美容院に勤める前は、世田谷の小さな美容院に勤めていたと言っていた」  西岡は、おさらいをするように手帳を見て言った。大家は、いちおう住人たちの勤務先を、緊急時のために聞いておくのだという。 「少し、重松亮子について、俺たちだけで調べてみる必要があるな」  津本も言った。捜査本部は相変わらず、全体の方針としては、菊地哲史の関係者に当たって、彼の行方を追うのを第一にする姿勢でいる。     *  重松亮子が去年の暮れまで勤めていた、世田谷区船橋の『さわ美容室』は、すでに閉店していた。岡林《おかばやし》さわ江《え》が、一人で切り盛りしていた個人美容院だった。彼女は、夫を二年前に病気で失い、遠縁に当たる重松亮子を盛岡から呼び寄せて、店を手伝わせていたらしい。  岡林さわ江は、去年の暮れも押し迫った三十日、都内で事故死していた。自家用車を運転していて、ガードレールに激突したという。視界が遮られるほど激しい雨の降った日だったようだ。  ——重松亮子は、岡林さわ江が死んで、いまの美容院に移った。  その事実を知ったときに、西岡と津本は、岡林さわ江の事故死の背後に、何か不穏なものを感じ取った。     11  亮子にはじめて誘いを断られた日から、千鶴は臆病《おくびよう》になっていた。また断られたらみじめになる。それで先手を打った。「ほら、ニューヨークから帰って来たら、留守していた分の仕事をどっと押しつけられちゃって。休みの日もうちでやらなくちゃいけないくらいたまってるの」と。暗に、「休日、一緒に過ごせないわ」と宣言したのだ。  そのとき、亮子の目になんとなくホッとしたような色が浮かんだのを、千鶴は見逃さなかった。  ——彼女はわたしを避けている?  そんな気がした。けれども、確信はなかった。そんな気がするだけかもしれない。その証拠に、亮子は次の火曜日にふらりと来て、「ああ、邪魔しないからご心配なく。出かける暇ないと思って、これ、どうぞ」と、手作りのいなり寿司《ずし》を差し入れ、玄関先の立ち話だけで帰って行った。  千鶴は、先手を打ったものの、亮子を監視する意味もあって、疎遠になったままでいるのは嫌だった。ときどきは相手の懐を探り、〈恋人との関係がどこまでいっているか〉を聞き出す必要があった。  それで、亮子の部屋に明かりがついているのを見て、今度は自分がふらりと訪れた。こちらも邪魔する気はなく、会社から持ち出した古いカーテン生地のサンプルや、インテリア雑誌の古くなったものを届けたり、買いすぎた焼き鳥をお裾分《すそわ》けしただけで、帰って来た。立ち話の中で、それとなく「セーター渡した?」と恋人の話に水を向けてみたら、「あの……」とちょっとためらって「まだ」と短く答えた。千鶴はプライドもあって、「まあね、クリスマスまでに間に合えばいいじゃないの」と軽く言って、それ以上は詮索《せんさく》しなかった。本当は、「いつかのあの紙袋の中に、編み上がったセーターが入っていたんでしょ?」と聞きたかったのだ。  亮子はたまには、「お茶飲んでいかない?」と誘ったが、千鶴は彼女に執着していると思われるのが嫌で、「あっ、ごめん。明日までにしなくちゃいけないことがあるから」と断った。  敵陣を静かに探るような一か月半が過ぎた。  十一月も中旬。おしゃれに敏感な人間は、早々と秋色の薄いコートをはおる季節が訪れた。  部屋の窓から亮子の部屋を見る回数が増えていた。千鶴は、週に一度の割合で、亮子の帰りの遅い日があるのがわかった。月曜日の夜が多かった。  ——翌日、休みのせいだわ。  そんなふうに思い、千鶴はシステム手帳に書き込みこそしなかったが、亮子の行動を鋭くチェックした。  十六日。久しぶりにとった土曜日の休日だった。  ニューヨークでお世話になったインテリア・コーディネーターの紀美子パッカーが、二日前から日本に滞在している。今日、彼女と新宿で会うことになっていた。  千鶴は、彼女からアドバイスを受けるつもりで、現在手がけている家の照明プランを何枚か持って行った。紀美子パッカーが予約しておいてくれたパーク・ハイアットで食事をし、ティーラウンジで少し仕事の話をした。  話が一段落したところで、紀美子パッカーが言った。 「ねえ、千鶴、義理の姪《めい》の誕生プレゼントを一緒に選んでくれないかしら。あの子、アメリカ人のくせに日本のものが大好きでね。とくに和装の小物が」  アメリカ人を夫にもつ彼女は、出会った当初から「千鶴」とファーストネームを呼んだ。夕食は予定が入っていると聞いていたので、できれば夕方まで一緒に過ごしたい、と思っていた千鶴は、一も二もなくOKした。  デパートへ行き、古代ちりめんの風呂敷《ふろしき》と巾着《きんちやく》を買った。デパートの中でお茶を飲んでいるとき、紀美子パッカーがちらと腕時計を見、「もう一軒つき合う気ない?」と聞いた。ニューヨーク暮らしが長いので、物言いがストレートだ。 「わたしはかまいませんけど」 「じゃあ、原宿に行かない? 濱田耕司の会社があるの。知ってるでしょ? 建築デザイナーの濱田耕司」  吉川智樹がいる会社ではないか。千鶴は困惑した。 「え、ええ、知ってますけど、でも……」 「彼と会うことになってるの。あいつったら、会社に来いですって。仕事熱心なやつだとは思っていたけど、おまえから出向け、とはね」  紀美子パッカーはずいぶん親しげな口調だ。 「ああ、濱田君とは大学で同期だったの。彼、とても優秀できれる学生だったわ。でも、嫌味な男でもあったわね」  彼女は、大きな目のまわりに小じわを寄せて笑った。「わたしたち、ちょっといい仲になったことがあったのよ。でも、彼ったら、『君は贅沢《ぜいたく》にできてる女だ。俺《おれ》と苦労するなんて似合わない』なんて言って……。ようするにわたし、ふられたのよ、あいつに。その後、同窓会で顔を合わせてね。彼は言ったわ。『ほら、俺の言ったとおりだったろ? 君は経済力のあるアメリカ人の建築家と結婚し、ニューヨークで夫の仕事を手伝いながら、インテリア・コーディネーターとして着々と力をつけていった。そういう優雅な仕事ぶりが似合う女なんだよ』って。悔しいけどよく見抜いていたものだと思ったわ。そういう彼は、日本女性の典型みたいな控えめで家庭的な美しい奥さんをもらったのよ」 「そうなんですか。紀美子さん、濱田耕司と大学が一緒だったんですか?」  ニューヨークでは、吉川のことを思い出すまいとして必死に頑張っていたので、濱田耕司の話題に触れるまもなかった。 「思ったとおり、彼は日本の建築界で頭角を現してきたわ。あのころから都市工学の勉強に熱心だったから」 「で、でもわたし、そんな有名な建築家と会うなんて……」 「何言ってるのよ。わたしの気のおけない友達よ。あなたのこと紹介したいのよ。とても可愛《かわい》くて鍛えがいのあるインテリア・コーディネーターとして」 「……」 「会っておいて損なことはないわよ。チャンスは逃さない。それが大きな仕事をつかむ秘訣《ひけつ》だって言ったでしょ?」  ニューヨークで彼女から教わった中には、日本人特有の遠慮を美徳としてはいけない、という教訓も含まれていた。  彼——吉川智樹に会ったらどうしよう。千鶴はドキドキしながら、しかし、そういう場合も望んでいる自分に気づいた。  表参道に面したビルの七階に、濱田耕司の会社『工房・遊』は入っていた。コの字形の建物で、一階はレストラン、パティオには白いテーブルがいくつか並んでいる。夏の天気のいい日などには、ここでビールが飲めそうだ。  ビルの中は、はっかの匂いがした。エレベーターの中で、「あなたみたいな可愛い子を連れてったら、濱田君、びっくりするわ」と、紀美子パッカーは、いたずらを考えている子供のように目を輝かせて言った。  七階でドアが開いた。千鶴はそのときまだ、気持ちの準備ができていなかった。「あっ」と声を上げてしまった。降りたところに、まるで出迎えに来ていたかのように吉川がいた。外出するところらしい。  吉川は、無言で目をわずかに見開いた。セーターに革のジャケットをはおったラフなスタイルだ。  二人の視線が絡み合ったのを、紀美子パッカーは目ざとく見つけたのだろう。「なんだ、お知り合いがいたの?」と、千鶴を見た。 「えっ? いえ、あの……」 「どうもお久しぶり。いま、ここにいるんです」  と、吉川がその場を救った。紀美子パッカーに目を向け、会釈した。 「あの、昔の会社の同僚です。吉川智樹さん。こちら、わたしがニューヨークでお世話になった紀美子パッカーさん。インテリア・コーディネーターとしては大先輩です」  千鶴は、そう言って切り抜けた。 「社長からおうわさはうかがっています」  吉川が紀美子パッカーに握手を求めた。 「あら、いやだ。変なうわさじゃないの?」  紀美子パッカーは、派手な声をたてて笑い、「ちょっとお二人で話してたら? わたし、先に行ってるから」と、千鶴に耳打ちしてドアを入ってしまった。 「驚いたよ」  と、吉川は言った。 「偶然ね」  と、千鶴も首をすくめた。が、デパートでばったり出くわしたときとは違う。ここは吉川の会社なのだから、出くわしてもおかしくはないのだ。 「週休二日じゃないの?」 「そう優雅にはやってられないんだ、いまは。『シネマ村』のオープンが迫っていて」 「ああ、そうね」 『シネマ村』というのは、恵比寿《えびす》のビール工場の跡地にできた大規模娯楽施設の一つである。マンション、デパート、レストランなどが集まる一角に、濱田耕司の設計で、良質の映画や演劇を見せる建物を建築中だということは知っていた。 「大変ね」  そんなそっけない言い方しかできない。千鶴の目は、吉川の胸元に止まった。よく見ると、凝ったデザインの生成り色のセーターだ。この季節には早いが、あちこち動き回るにはいいかもしれない。 「手編みのセーター?」  千鶴は、からかうような口調で聞いた。 「えっ?」  吉川は自分の胸元を見て、「あ、いや、これは……」と言葉を濁した。 「隠さなくてもいいじゃない、別に」  余裕ある受け答えを心がけなければ、と千鶴は思った。「よくお似合いよ。……行かなくちゃ」千鶴は、じゃあ、と言い、踵《きびす》を返した。  もう少し時間があれば、と悔やまれた。このあいだは彼に連れがいて、今日はわたしに連れがいる。  ドアに手を伸ばしかけたときに、「千鶴……」と背後から声がかかった。  ドキッとした。久しくそう呼ばれることはなかった。懐かしくなって、千鶴は振り返った。何かをはっきり期待していた。「何か言って」、「続けて」と欲していた。  吉川は、口を開きかけたが、そのときエレベーターが開いて、数人が降りて来た。一人が吉川に声をかけた。  邪魔が入った。彼は何を言いたかったのだろう。自分にとって都合のいいことか、それとも悪いことか……。そんなこといまさら考えてみても、どうにもならないことなのに。  千鶴は苛立《いらだ》ちをつのらせて、部屋に入ってしまった。言いたいことがあるのなら、人目を気にせずに言えばいい。     12  あこがれの濱田耕司に会えたというのに、千鶴は話のあいだ上の空だった。濱田と紀美子パッカーに夕食に誘われたが、「仕事が残っていますので」と断り、会社を出て来た。  上の空だったのには、もちろん吉川と再会してしまったせいもあった。だが、それだけではなかった。何万円も出せば手編みのセーターも買えなくはないが、吉川はそうする男ではなかった。あのときの彼のうろたえぶりから、〈つき合っている女性からもらったセーター〉かもしれない、と直感したのだ。  新宿駅で降りた。土曜日だが、気まぐれな『かえで』のママは、たまに店を開けることがある。 「あら……」  開けているくせに、客が入って来たのが迷惑だという感じで、ママは不機嫌そうに顔を上げた。愛想のよくない女経営者ではある。 「今日は、くだをまかないからご心配なく」  最初に千鶴は言い、カウンターに座った。ほかには誰もいなかった。  ママは、千鶴の前にビールの中瓶を置いた。珍しく自分のグラスも出し、二つに注いで、乾杯した。 「ママ、わたしみたいな女、嫌いでしょう」  千鶴は、グラスに口をつけずに言った。くだをまかないと宣言した以上、飲む前に言っておくことがあった。 「あら、今日はしらふでからむのね」  ママは、おどけたように首をすくめる。いつものようにブラウンの口紅だけをつけた薄化粧。客からは年齢不詳と言われているが、千鶴はたぶん、五十七、八歳くらいだろうと思っている。 「だって、ママはわたしに冷たいわ」 「……」 「来るたびに、いつも冷ややかな目で見ている。わたしには隠しごとしているみたいだし」 「隠しごと?」 「智樹さんのことを聞くと、ママはすごくそっけない。『いつ来たかしら。忘れたわ』みたいな答え方しかしないじゃないの」  アハハ、とママが高笑いをした。 「何がおかしいの?」 「ごめんなさい」  ママは、笑いすぎて涙が出たのか、目頭を押さえて言った。咳払《せきばら》いをし、真顔になって、「だってね、あなたを見ていると、昔のわたしを思い出すから。よく似てるわ」と言った。 「昔のママに?」  この人に、自分と同じ若いころがあったことなど、いままでに何回も店に通って来ていて、一度も想像しなかったことに気づいた。生まれたときから、無愛想だが、なぜか集客力のあるバーのママのような顔をしていた気がする。 「負けず嫌いで意地っぱり。その性格を押し通したからこそ、こんなふうにこの店と心中するしかない生き方になっちゃったのよ」 「……」 「そりゃね、わたしにだってチャンスはそこそこあったわ。でも、こういう性格から逃してきた。いまさら後悔はしないけど、あと十五年若かったら、別の道を選ぶわね」 「……」 「まだ、吉川さんに未練があるのね?」  ズバリと言われて、千鶴は面食らった。即座に、ない、と答えれば、無理しているのが悟られてしまうし、躊躇《ちゆうちよ》すれば認めたことになる。 「わたしたち、別れたんです。ママだって知ってるはずよ」 「じゃあ、なぜ、いまでも彼のことを気にするの? ここに来るのは、わたしから彼の様子を聞き出すためね?」  ママは、カウンターに両手をついて、カウンセラーのように穏やかに言った。 「ち、違います」 「そうね」  ママは、いきなり手を動かし始めた。千鶴が店に入って来たときの作業に戻り、グラスを拭《ふ》いている。 「わたし、あなたに冷たいかもしれないわね。あなたにうそをついたわけじゃないのよ。でも、吉川君にはあなたのこと、正確に伝えたわ。いつだったか、一人で酔っ払って荒れたことも。『まだ、あなたに未練があるんじゃないかしら、彼女』とも言ってやったわ」 「ママ……」 「一目でわかったわよ。会社でむしゃくしゃしたことがあっただけじゃなくて、あなたは自分を慰めてくれる存在がいないことに荒れていた。失ったものの価値を思い知って嘆いていたって感じだったわね。だから、そのとおりに彼に言ったのよ」  千鶴は、ママの素顔をはじめて見たように思った。 「最近は、彼……来ます?」  ママはかぶりを振った。「本当よ。うそじゃないわ」 「智樹さん……誰か女の人とここに来ました?」  千鶴の質問に、ママはため息をついて、「来たわ」とあっさり答えた。 「どんな女性ですか?」  脳裏には、デパートで吉川が連れていたあの美女の姿形が輪郭づけられている。 「三週間くらい前だったかしら。あのときはそう……とてもきれいな女性を連れてたわね。髪が長くて目の大きい、いいところのお嬢さまといった感じの子。わたしには仕事の関係の人だと紹介してくれたけど」  ——やっぱり、あのデパートの女だ。  胸が熱く苦しくなった。吉川は、千鶴にはクライアントの関係者だと説明したが、年齢的にも釣合のとれた男女だ。いつ親密な関係になってもおかしくはなかった。良家の令嬢風の女性。料理はもちろん、編み物も花嫁修業の一つとして当然、たしなんでいそうな女性だった。 「親しそう……でしたか?」 「そうね。言葉遣いはそうでもなかったと思うけど、あなた、自分で確かめたら? そうすべきよ」  千鶴は、ママの視線を避けた。いまそうする勇気はなかった。  吉川に恋人が、しかもあんなきれいな恋人ができていたとしたら、いまさらよりを戻そうとするのはみじめなだけだ。あの女が相手なら、自分はとても太刀打ちできない。 「冷たいようだけど、わたしは、男と女の仲に口を出すつもりはないの。あなたがあまりにも昔のわたしに似ていたから、吉川君が……あまりにも寂しそうに見えたから、ちょっとよけいなことを言いすぎた。わたしね、昔、男の子を亡くしたことがあるの。二十代のころよ。未婚の母になるつもりでいたんだけど、産んですぐに……」  ママの過去ははじめて聞いた。千鶴は返す言葉がなかった。  ぬるくなったビールを飲みほすと、「ありがとう」と言って店を出た。     13  岡林さわ江の交通事故死の裏には、やはり不可解なものがあった。西岡と津本は、その事故を扱った中野の野方《のがた》署を訪れ、事故の詳細について調べた。 「ワイパーが壊れていましてね。ガードレールに衝突したときは、たぶん機能していなかったんじゃないかな。子供がいたずらしたのか、何かの拍子にそうなったのか、ワイパーの下のところに木の枝の切れ端が挟まっていました。それで、横なぐりの雨にもかかわらず、ちゃんと作動しなかったんでしょう。女性は、視界を遮られてハンドル操作を誤ったものと思われます。それから、車内にも空き缶がころがってましたね。運転席の下にも。店では几帳面《きちようめん》な人だったらしいんですが、それ以外ではルーズなところもあったらしく、車内には煙草の吸い殻やコーヒーの空き缶などが放置されていました。ブレーキを踏んだあとはありましたが、かなり弱い踏み方でした。ひょっとしたら空き缶が邪魔して、ブレーキをうまく踏み込めなかった可能性もありますね。それが思わぬ大事故につながったのかもしれません。車の破損がひどくて、はっきりしたことは言えませんが」  事故を担当した警察官が、報告書を見て説明した。捜査一課の刑事が連れ立って来たことで、緊張した様子がうかがえた。 「単純な事故だろうか」  警察署を出ると、津本はそう信じていない口調で言った。 「ワイパーとブレーキに、ひょっとしたら細工された可能性がある、か。誰かが故意にやったとしたら、間違いなくその人間は殺人が目的だったろうな」 「可能性の犯罪」  西岡の言葉に、津本はつぶやいた。 「えっ?」 「プロバビリティの犯罪、と言えないだろうか。天気予報を聞いて激しい雨の降りそうな日に、誰かがワイパーに木の切れ端を挟んでおく。運転者は、運転中にワイパーが動かないのに気づいて、運転をやめるかもしれないし、間に合わずに事故を起こしてしまうかもしれない。同様に、空き缶にしてもそうだ。車内の散らかりぶりに無関心な運転者が、飲み残した缶などを放置しておく習慣を知っていて、床にころがしておいた。それがブレーキの下にころがっていくかもしれないし、別の場所にころがっていくかもしれない。とにかく、自分の行動にはっきりした殺意さえ読み取られなければいい。失敗したら、次のチャンスを狙《ねら》う。それが可能性の犯罪だ」 「じゃあ、前にも、岡林さわ江は危険な目に遭ったことがあるかもしれないな。重松亮子のしわざだとしたら、亮子が岡林さわ江に殺意を抱くようなきっかけがあったに違いない」 「岡林さわ江の周辺を聞き込む必要があるな」     * 「あの家、どうするんでしょうね」 『さわ美容室』には月一度顔を出していたという隣に住む六十代の主婦は、顔をしかめた。 「なんでも、うわさでは処分して土地を売りに出すとか。あの夫婦、子供がいなかったでしょう? さわ江先生のお兄さんが横浜にいらして、その方がいろいろとあの家の処分を決めたようですけど」  西岡は、ここへ来るまでに津本と交わした会話を思い出した。 「ああいう住宅街の美容院の将来というのはどうなんだろう。美容師が一人で切り盛りしている店というのは、町医者と同じで、近所の顧客の憩いの場になっているんだろうな。だが、おしゃれに敏感ないまの若者たちは、駅前にある大型美容室のほうを好みそうだ。美容師を十人、二十人抱えているようなところが。髪型には流行があるし、新しい技術の習得も必要な業界らしい」 「そうだな。個人美容院の将来は暗い、か」 「手伝っていた若い美容師のほうはどうでしたか?」  津本が主婦に尋ねた。 「ああ、あの子ね。亮子さん。さわ江先生が、よく『亮子さん、亮子さん』って呼んでらしたから。まあね、さわ江先生が死んじゃったら、無理ですよ。あの子は店長になる器じゃなかったし。わたしも、さわ江先生がいなくなって、実は困ってるんですよ。ほら、見てください、この髪。こんなにちりちりにかけられちゃって」  初老の主婦は、パーマがきつくかかった頭に手をやった。「やっぱり、慣れた人じゃないとだめね。いいところ、早く見つけなくちゃ」 「若い美容師さんのほう……亮子さんには、やってもらったことはないんですか?」  津本は、そういう方向から質問に入った。 「あ、ああ。セットが上手な子でしたけどね。でも、わたしは前々から、さわ江先生オンリーだったから。でも……」  と、くだけた答え方をして、主婦はちょっと口ごもった。「本当は、セットは亮子さんのほうがうまいくらいでしたよ。一度、着物を着たのでアップにしてもらったことがあったんですけど、そのとき先生の手があいてなくてね。亮子さんにやってもらったら、これがびっくりするほど上手なの。主人にも娘たちにも人気でね。わたし、そのときの髪型が気に入って、次もやってほしかったんだけど、先生の手前、やっぱり言いにくくて。先生が死んじゃったいまだから言えるんですけどね。先生もそれに気づいていて、なんだかんだ言ってもあの子を手放したくなかったんじゃないのかしら」  髪をアップするのがうまいか。あの手先の器用そうな重松亮子なら、西岡はわかる気がした。 「二人の仲はどうでした?」  津本がストレートに尋ねると、彼女は「いいほうじゃなかったわね」と首を横に振った。「先生が、口うるさくてね。お客たちの前でも、パッパッとものを言いつけたり、ビシビシ叱《しか》ったり厳しすぎるくらいでしたよ。でも、亮子さんって人も、おどおどしているかと思うと、そうでもなくてね。『はい』と言ってすぐにやらなかったり。彼女なりの抵抗だったのかしら。……あの、さわ江先生が亡くなったいま、どうして先生のことを? 亮子さんはいまは、どこか大きな美容院に勤めているんでしょ? もともと亮子さんという人は、さわ江先生の東北だかの親戚《しんせき》に紹介されて来た人なんですよ。親戚の家でも美容院を開いているとかで。だから、亮子さんがあそこにいたのは三年ちょっとね。もっとも、さわ江先生が、一人じゃとても力仕事や家のことができなくなって、誰でもいいからよこしてくれ、と頼み込んだらしいけど。あの、先生の事故で何か?」 「事故原因に不明なところがあるので、調べているんですよ」  津本が答えて、西岡を見た。その目は、〈結局、岡林さわ江は、安い労働力がほしくて親戚の知り合いから力のありそうな重松亮子を送ってもらったのか〉と語っていた。 「やっぱりそうなんですか。保険会社でも、事故のあと、いろいろと調べていたようでしたけどね」  主婦は、大変ですね、というふうにかぶりを振った。「さわ江先生は、わたしにこうこぼしてましたよ。『いまの子は苦労を嫌がる。最初は、住み込みで来てほしかったのに、あの子がそれじゃよその美容院に行くと言ってね。しょうがないからアパートを探してやって、その面倒まで見てやってるのよ』って。いま思えば、先生は家事を全部、若い亮子さんに押しつけたかったんでしょうね。住み込んでもらえば、早朝のセットなどもできるし、夜も遅くまで営業できる。それでも亮子さんは、お昼や夕飯の用意などしていたようでしたけどね。お休みの日まで一緒というのは、亮子さんにしてみれば監視されているようで気づまりでしょう。あの二人は血がつながっていないんだし。いまの人はそういう昔ながらの封建的な働き方、嫌がるの当たり前ですよね。うちの娘たちもそうです」  女の話は横道にそれる。西岡たちは、この話好きの主婦に辛抱強くつき合った。 「先生が事故で亡くなるひと月ほど前だったか、夜、先生の怒鳴り声が聞こえてきたんです。『どろぼう猫!』ってね。わたし、びっくりしまして、窓を開けました。だって、どろぼう、ですからね。それからも何か怒鳴るような声がしてましたけど、怖くなって家に引っ込んでしまいました」 「重松亮子さんの声は?」と、津本。 「それが、先生の声だけで。でも、亮子さんに向かって怒鳴っているのはわかりましたね。『あんたは恩知らず』という声が聞こえましたから」 「怒鳴り声はそのときだけですか?」 「それからも二度ほど。あそこは七時まで営業していたんですけど、亮子さんが片づけなどをして帰るのは八時。遅いときには十時過ぎてました。でも、先生も客商売ですからね。そのあと店に行ったときには、何事もなかったように愛想よくしてました。亮子さんもいつもどおりの、口数少なく控えめな感じで。あまり仲が悪いと知らせてしまっては、店のためにもよくないですものね。わたしが隣にいたから気づいたことで、ほかの人は気の合う二人だと思っていたんじゃないんですか?」  隣人の主婦から得られた情報で、岡林さわ江と重松亮子の仲があまりよくなかったことがわかった。西岡と津本は、とくに岡林さわ江が亮子に向かって「どろぼう猫!」と怒鳴ったという証言に注目した。 「どろぼう猫とは、ふつうに考えれば、自分の男をとられた女に向かって言う言葉だ。妻が亭主を愛人にとられたときなどに。だが、岡林さわ江に男っけはなかった。この場合、すきを見て人のものを盗む猫みたいな女、という意味で使った気がする。猫がすきをうかがってコンロの上からサッとサンマを横取りするようなニュアンスだ」  と、二人になってから、津本が言った。 「重松亮子は、『さわ美容室』に通っていた。亮子は、文字どおり、岡林さわ江の家から、すきを見て何かを盗み出したのかもしれない。それを咎《とが》められた」  西岡は言った。 「岡林さわ江としては、亮子が盗む現場を見ていなかった。だが、自分の家からものがなくなれば、泥棒が入ったと思われない以上、家に出入りしている者の仕業と考える。それで、証拠はなくても、日頃、態度が横柄だと快く思っていなかった亮子を疑って、『どろぼう猫』と怒鳴りつけたのかもしれない。亮子は濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だと否定した。だが、さわ江の疑いは晴れない。わだかまりを抱えながらも、亮子は貴重な労働力で、店には必要な人間だから、追い出せない。そんなときに、あの事故が起きた。亮子は、岡林さわ江を憎んでいたのかもしれない。あの店に嫌気がさして、よそに出たかった。けれども、さわ江は『よそへは行かせない。ここを出て行くなら、あんたが盗人《ぬすつと》だといううわさをたてて阻止してやる。どこでも働けないようにしてやる』というようなことを言って脅迫した。亮子はさわ江がいる以上、自分は自由な身になれないと感じて彼女に殺意を抱いた……」  津本が、亮子が岡林さわ江を殺したとして、その動機をまとめた。だが、それは、やはり状況証拠でしかなかった。  事故車もすでに廃棄処分されており、たとえ亮子の指紋が車についていたとしても検出できない。 「重松亮子は、なぜ、盛岡からさわ江の美容室に出て来たんだろう。周囲に勧められたからとはいえ、嫌なら断ればいい」  西岡は言った。 「彼女には、何か複雑な生い立ちを感じさせるものがあるな。東北の片田舎も、彼女には過ごしにくい場所だった。都会への憧《あこが》れもある。彼女は、自由になるために東京へ来た。そんな気がしてならない。ところが自由になれると思った場所は、より自分を束縛する場だった……」  津本も、どこか遠くを見るような目で言った。     14  ——智樹さんの恋人は、あの女性だった?   千鶴は、『かえで』のママから聞いた女性の背格好から、そう推察してあきらめの気持ちに包まれた。  デパートでちらと見ただけのあの美しい女性。千鶴より若い雰囲気だった。  あの女性が、千鶴とは正反対の控えめでしとやかな性格で、家庭的な女性だとしたら、もう千鶴に勝ち目はない。吉川は迷うことなく、彼女を選ぶだろう。 『かえで』に連れて行くということ自体が、すでに特別な女性になっているという意味ではないか。手編みのセーターをプレゼントされ、それを着ていることが愛情を受け入れた証《あか》しだ。  ——あのとき、「千鶴……」と自分を呼び止めたのは、彼女との結婚を決意したことを告げるためだったのではないか。  千鶴はそう思った。吉川の目にふっと浮かんだ躊躇《ちゆうちよ》の色は、千鶴との過去を思い出して、一時の感傷にとらわれたものかもしれない。  ——なんておめでたい人間なの、あなたは。すべて自分の都合のいいように考えて。  千鶴は、自分を笑いたくなった。あのとき一瞬でも、期待してしまった自分を。吉川の口から次のようなセリフが飛び出すのを千鶴は期待したものだった。「いろいろ考えたんだけど、やっぱり君でないとだめだ。俺《おれ》も再出発を切った。もう一度、やり直せないか」と……。  亮子のつき合っている相手など、もはやどうでもよくなっていた。それから一週間、千鶴の目についたのは、吉川が好きだったものや、彼を思い出させるものばかりだった。デパートの地下食料品売り場に入れば、山菜おこわ、ガーリック味のミニフランスパン、バレンタインデイにあげたゴディバのチョコレート。ビデオ屋に入れば、彼と一緒に観た『ダイ・ハード』のパッケージばかりが目につく。本屋に入れば、彼が好きな作家の本に、街を歩けば彼が好きな茶系やグリーン系の服を着た男性に目を奪われる。  そして、千鶴の鼓膜には、『かえで』のママの言葉がこびりついていた。——あなたは自分を慰めてくれる存在がいないことに荒れていた。失ったものの価値を思い知って嘆いていたって感じだった。  ——そうよ、わたしは逃がした魚の大きさにいま気づいて、子供みたいに惜しくなって泣いているのよ。  認めたくはないが、失ってはじめて吉川智樹の価値に気づいたと言っていい。 『ぴあ』の演劇情報の欄でその芝居に目を止めたのも、三年前に彼と観た芝居だったからである。  吉川は、演劇が好きだった。千鶴も嫌いでなかったから、歌舞伎《かぶき》やミュージカルや翻訳劇を彼とよく観に行った。とりわけ彼は『T』という劇団が好きで、『T』が催すオリジナル劇は見逃すまいとしていた。  千鶴が目に止めたのは、劇団『T』の新作だった。六本木の俳優座劇場で今月末から四日間公演する。二、三日迷ったが、プレイガイドでそのチケットを二枚買った。  なぜ二枚買ったのか。彼女の中に、吉川とよりを戻したい、という気持ちがなかったと言ったらうそになる。匿名で一枚を彼に郵送するという仕方も考えてみた。だが、かえって警戒されそうな気がした。やっぱりストレートに「あなた、この劇団好きだったわよね。チケットがあるんだけどどうぞ」と書いて送ったほうがいいのではないか。  あれこれ考えているうちに、ある日、郵便物の中に『シネマ村・オープニングパーティー』の招待状を見つけて、千鶴は自分の少女じみた発想が甘かったことを知った。  招待状は、紀美子パッカーから紹介された濱田耕司から郵送されてきた。十二月七日のオープンに先駆けて前夜、関係者を招いて披露される。招待状がきたことは嬉《うれ》しかったが、吉川がその準備で芝居どころではないかもしれない、と気づいた。  ——チケットは送らないほうがいいかもしれない。  送ったとしても、もし彼がつき合っている彼女を誘い、二人で観に行く予定にしていたらみじめだ。ピエロ役になるのは、千鶴には耐えられない。  かといって、余分なチケットを亮子に渡す気にもなれなかった。「チケットが二枚あるの。観に行かない?」と誘った瞬間、「もう一枚欲しいわ。本当は彼と観に行きたいのに」という残念そうな顔をちらとでも見せられるのは御免だった。     *  チケットの行く先のないままに当日を迎えた。二十五日の月曜日は、休日にあてた。  朝、カーテンを開けたとき、出勤して行く亮子の姿が見えた。いつもより早い出勤だ。  彼女の姿を見て、千鶴はふと人恋しくなった。この一か月、彼女を避けるように過ごして来たが、彼女に恋人で先を越されることにあまり拘泥《こうでい》するのも、大人げないと思えてきたのだ。  恋人のことを打ち明けてくれないのは水くさい、と亮子を内心で責めていたが、それは彼女の性格によるものかもしれない。東京に来てからできた友達が少ないので、つき合いの仕方がぎこちないせいだ。より親密なつき合いを心がけていけば、自然とうちとけてくれるのかもしれない。自分がその努力をせずに、こうして避けるようにしているのは逆効果だ。彼女のことを知りたいのなら、以前のようにもっと彼女に近づくべきだ。  おかしな意地のために、この上亮子まで失うことになったら、千鶴は完璧《かんぺき》に孤独になってしまう。  彼女が自分を避けているように感じるのは、実は、自分のほうにわだかまりがあって、その裏返しでそう思えてしまうのかもしれない。  デパートで見かけたあの女が、吉川とつき合っているとしても、二人が結婚するような仲に発展すると決まったわけではない。壊れる可能性だって大いにある。そんなときのためにも、亮子との糸はつなげておきたかった。いや、亮子と友達でいることが、吉川の気持ちを翻意させる唯一の手段のように思われた。  とにかく前向きな気持ちでいることだ。千鶴は、そう気持ちを奮い立たせた。  亮子の店へ行こうと思いついた。髪をきれいにセットし、おしゃれな装いで、舞台を観に行くのだ。  下北沢の駅から歩いてすぐのところに、『カットハウス・コージー』はあった。  薄いピンク色のロールスクリーンが半分ほど降ろされた店内は、大きなガラス越しにのぞけた。間口はさほどでもないが、奥行きのある広い店だ。白いブラウスに黒いジャンパースカート姿の美容師たちが、きびきびと手を動かす姿が見えた。大半の椅子《いす》が埋まっている。  ひときわ長身の美容師が奥のほうにいた。亮子だ。  千鶴は、ドアを押し開けた。受付の女性が、「いらっしゃいませ」とにこやかに言い、その声につられたように制服姿の美容師たちがいっせいに振り返ったり、鏡の中をのぞき見たりした。  客の髪をドライヤーで乾かしていた亮子が、緩やかに振り返った。視線が合った。亮子の目に驚きの色が走る。が、すぐに微笑《ほほえ》んだ。前に向き直り、作業を続ける。 「お客さま、カードはお持ちでしょうか」  受付の女性に聞かれ、「いいえ、はじめてなんです」と千鶴は答えた。「シャンプー、セットをしていただきたいんですけど」 「では、お荷物を」  バッグとコートを受け取ったあと、「そちらでお待ちください」と指示した女性に、千鶴は「重松さんにお願いしたいの」と言った。 「あっ……重松ですね。はい、わかりました」  はじめての客なのに、とちょっと怪訝《けげん》げな顔をしたものの、女性はかしこまって頭を下げた。仕事中の亮子のところに行き、耳打ちする。亮子は千鶴を見てうなずいた。  ブローセットが終わるところだったのだろう。二十分待たされただけで、亮子が急ぎ足でやって来た。 「お待たせしました」 「お願いします」  中二階のシャンプー・コーナーへ向かうときは、ふつうの客と美容師の関係を互いに心がけた。シャンプー中も、無駄話はいっさいしなかった。「お湯かげん、いかがですか?」「どこかかゆいところはありませんか?」などと、一般的な問いかけとそれに答えるだけだった。そんな形式的な会話を楽しんでいた。  亮子のシャンプーの仕方は、力を入れすぎず弱すぎずで、とても気持ちよかった。もともと腕の力のある美容師でなければ、こうした加減は難しい。  顔にかけられたガーゼ越しに亮子の息遣いを感じ、体温を感じるのは、不思議な気分だった。出会ってからいままでの彼女とのことが思い出された。あのときはよく憶《おぼ》えていなかったが、酔っ払った晩、彼女の胸で泣いたときの懐かしい暖かさがうっすらとよみがえった。異性からは得られない穏やかな快感だった。  ここに来てはじめて、亮子が自分と同じ〈職業を持つ女性〉だと実感し、彼女へのわだかまりが徐々に氷解していくのを感じた。  一階の奥の席に案内された。皮張りの椅子《いす》に座る。鏡の中に濡《ぬ》れ髪の自分と、長身の亮子がいる。濡れ髪の自分は、どこか間が抜けた印象だ。化粧を念入りに施し、シャネルふうのスーツできめてきたせいでよけい滑稽《こつけい》に見える。  千鶴は、妙に素直な気持ちになった。きれいな格好でいても、髪を濡らされたら自分の地が見える。どんなに気取っていても、相手は裸の自分を透かし見ている。  それが、美容師と客の関係だ。大げさにいえば、客は椅子に座ったとたん、生殺与奪の権を美容師に握られたようなものだ。  千鶴は照れて笑った。亮子も笑った。  わだかまりが消えた気がして、千鶴は鏡の中の亮子ではなく、本物の彼女を見上げた。 「驚いたわ、千鶴さん」  亮子は言い、椅子の高さを自分の長身に合わせてセットした。「来てくれるとは思わなかった。でも、嬉しかった」 「一度、来ようとは思ってたの。いいところじゃない。すごく盛ってるわね」 「ええ、場所がいいから」 「腕がいいから、と言いなさいよ」  右隣の小太りの美容師が、探るような目をちらとこちらに向けたが、すぐに自分の担当の客に向き直り、にこやかに話を続けた。 「わたし、あまりお客さまと話さないの。話うまくないし、引っ込み思案だから。みんな驚いてるんじゃないかしら」  と、亮子が耳元でささやいた。そして、いきなり改まった声の調子に変え、「今日はどんなふうになさいますか?」と聞いた。 「お任せするわ、亮子さんに」 「今日は千鶴さん、とてもきれいだわ。どこかお出かけ?」 「ちょっとね。上品に、色っぽく、アップにしてほしいの」 「はい。かしこまりました」  仕事中の亮子は、よけいなことは言わなかった。  ドライヤーで髪を乾かし始める。亮子の大きな手は、客に安心感と信頼を与えた。無駄な動きはなかった。  ここの営業時間は七時までだ。芝居は六時からだから、亮子は誘えない。チケットのことをぼんやり考えていた千鶴に、亮子が何か話しかけた。 「えっ?」  ドライヤーの音にかき消されて聞こえなかった。亮子が少し声を張り上げた。 「よかったわ。千鶴さん、早く来てくれて」 「えっ?」 「今日はね、わたし早引けする日だったの」 「早引け? どこか行くの?」 「ちょっと……病院に」 「病院? どこか悪いの?」  思わず声が高くなったのを、亮子が耳元に口を近づけて制した。 「職業病よ。立ち仕事でしょ? 腰痛がひどいの」 「そう。大変ね」  仕事中はしんどそうな顔を少しも見せない亮子が、千鶴は可哀想《かわいそう》になった。病院へ行くための早退ならば、芝居のチケットを渡しても無駄だ。 「千鶴さん、やっぱり髪の毛切らなくて正解でしたね。わたし、腕のふるいがいがあるわ。すっごくきれいにしてあげますからね」  ドライヤーでひととおり乾かすと、亮子が腰をかがめ、千鶴の両肩に手を置いて言った。ピンクと黄色の太さの違うカーラーを前髪とサイド、毛先に巻いていく。  熱風で形作るあいだ、亮子はよそへ呼ばれて、中年女性のパーマのためのカーラーを巻く作業をしていた。  タイマーが鳴って、戻って来る。カーラーをはずすと、ブラシで思いきりよく膨らんだ髪を梳《と》かした。髪全体にボリュームが出る。それをサイドを編み上げて、後頭部の中心に巻き込んでいく。亮子の顔は真剣だ。口数も少なくなった。  周囲に亮子の同僚もいる。とても「セーターの送り主」について質問はできない雰囲気だった。  それ以上に、千鶴は、鏡の中の自分に目が釘付《くぎづ》けになっていた。魔法の手によって作り変えられていく自分の姿にワクワクした。  同じ鏡に、自分と亮子とが映るのを見れば、どれほど亮子が変身しようとやっぱり自分のほうが美人だ。十人中九人がそう言うだろう。そのことに千鶴は優越感を覚え、ホッとした。亮子のことできりきりしていた自分が、浅はかな人間に思えた。  こんな自分を吉川に見せたいと思った。彼は、ヘアスタイルにはこだわらない男だった。それが似合っていさえすれば、長かろうと短かろうと。だが、概して、作りすぎない髪型が好きだった。けれども、それはそう見えないだけで、実は女性の目から見ると、かなり手を加えた髪型である場合が多かった。今日のような髪型がそうだ。三つ編みを交えてふわりとまとめ上げ、後れ毛を垂らし、うなじにもさりげなくほつれ毛を見せた髪型。  前髪を立ち上げて、櫛《くし》で押さえる。鏡の中の千鶴をきりりとした目で見て、亮子は言った。 「どう? お気に召しました?」 「ええ、すごく気に入ったわ。わたしじゃないみたい」  千鶴は、手鏡で後ろもチェックした。いかにもセットしました、という固い感じでないのがいい。かといって、すぐに崩れるような髪型でないのは、ニューヨークへ旅立つ朝のセットで経験済みだ。  クロークまで亮子が送り、千鶴の一重仕立てのカシミヤのコートとグッチのバッグを取ってくれた。 「千鶴さん、素敵」  コートを着せながら、亮子が小声で言った。「彼、きっと喜ぶわ」 「今日……コンサートなの」  思わずそう言っていた。これだけ着飾って、髪をセットまでして、一人寂しく、昔別れた男が好きだった芝居を観に行くとは言えない。 「わあ、クラシック?」  亮子が目を輝かせた。 「え? まあね。たまにはいいでしょ?」  千鶴は、全身の映る鏡でもう一度自分をチェックした。 「わたしもあと一時間ほどで出るの」  亮子が、壁の時計を見て言い、ガラス扉を開けた。 「じゃあね、ありがとう」  千鶴は、ドアを押さえてくれている彼女に言った。自分が恐ろしく、寂しくもあった。今回も本当のことが言えなかった。もっとも亮子の職場だから、ひそひそと打ち明け話などできる雰囲気ではなかったのだが。 「千鶴さん……」  外に出た千鶴の背中に、亮子が呼びかけた。ためらいの響きがあった。 「何?」  振り返ったが、亮子は「う、ううん、別に」とぎこちなく微笑んだ。  ——この表情、誰かに似ている。  ふと、千鶴はそう思った。そうだ、原宿のビルの廊下で、自分を呼び止めた吉川の目の表情に似ている。 「来てくれて、ありがとう」  亮子は言い、小さく胸のへんで手を振った。     15  左隣の席は、当然のごとく空いていた。右隣の席もその隣も、後ろの席も前の席も埋まっている。この二、三年間にぐーんと人気が出た劇団である。館内は満席状態だった。観客は若者と女性が多い。  もともと吉川が好きな劇団で、その影響で千鶴も興味を示すようになった程度である。主演があまり好きな俳優ではなかったせいで、千鶴は芝居にのめりこめなかった。舞台をまっすぐに見ながら、思い出すのは吉川とデートで行った場所、一緒に見たもの、一緒に食べたもの、話題にした映画や本や店のことだった。  途中、休憩が入った。左隣の席をちらりと見て、腕時計を見る。誰に見せるでもなく、〈約束した男性が仕事で忙しくて来られない女〉を演じてから、席を立った。飲み物を買うためにロビーに出た。  階段を降りようとして、千鶴の足は止まった。  思い思いに雑談したり、ビールやワインを飲んでいる人たちの中に、吉川の姿を見つけた。  一人だった。丸テーブルに肘《ひじ》を突いて、白ワインを飲んでいた。  ほんの少しでも期待する気持ちがなかったといえばうそになる。吉川の好きな劇団の公演だから、彼が来る可能性はある。ただ、いまは『シネマ村』のオープン前で忙しい時期だから、芝居を観る時間はとれないだろうな、と諦《あきら》めていた。  ——智樹さん……。  仕事の合間に、これだけは観ておこう、と抜け出した感じに見えた。彼の背中には緊張感が張りついていた。しばしの余暇すらもあまりゆっくりとは楽しめない、という雰囲気だった。  千鶴は、彼に向かおうとしてハッとした。いま一人だからといって、一人で来たとはかぎらないではないか。連れを待っているところかもしれない。たとえば、あの女性。デパートで見かけたあのお嬢さまっぽい美女。二人で来ていて、彼女が中座しているところかもしれない。  千鶴は、それとなく吉川の周囲に目を配った。  人だかりのしているカウンターに目がいった。すらりと長身の女性が目に入った。短めの外にはねた髪型が、てっぺんにだけ葉っぱが密集したやせた熱帯の樹木のように見える。  見間違いかと思った。千鶴は目をこらした。  亮子だった。制服姿ではない。黒いセーターに黒いタイトのロングスカート。襟元で結んだ赤いバンダナ。シックな装いの亮子……。  ソーサーに載せたコーヒーカップを持って、吉川のテーブルまで慎重に運ぶ。テーブルに置くと、はにかむように微笑《ほほえ》んで、ひとこと、ふたこと彼に向かって口を開いた。  ——亮子さんが、どうしてここに?  気配が呼んだのか、亮子が顔を上げた。千鶴を認めて、驚いたように小さな口を丸い形に開けた。それに気づいて、吉川も視線の先に顔を振り向けた。  千鶴の足は、張りついたように動かなかった。頭の中では、「ここを出るのよ。二人の前から姿を消すのよ。あなたは、一瞬で悟ったでしょ? これがどういうことか」ともう一人の自分に急《せ》かされ、それに応じようとしていた。  けれども、千鶴のプライドがそれを許さなかった。自分は着飾りすぎている。ここで帰ったら、一人で来て、吉川と亮子の姿にショックを受け、そこから逃げたことにされてしまう。  行かずとも、向こうからやって来た。亮子が先に、遅れて吉川が。階段を昇って来る。 「千鶴さん、ここに来てたんですか? 知らなかった」  亮子は、遠慮がちに話しかけてきた。 「病院に行ったんじゃなかったの?」  千鶴も言った。不思議な挨拶《あいさつ》だった。 「観に来てたのか」  亮子の肩越しに、吉川も言った。ますます奇妙な挨拶になった。  亮子が千鶴の周囲に視線を走らせたのに気づいて、千鶴は先回りして言った。 「抜け出せなかったらしいわ。隣、空いたままなの」 「残念ですね」  昔のおどおどしたころの亮子に戻って、丁寧語で彼女は言った。 「ええ、まあね。でも仕方ないわ。仕事ですもの」  千鶴はわずかに顎《あご》を上げて言い、その顎を吉川に向けた。「知らなかったわ、全然」 「あの、千鶴さん……」  亮子のほうが言い訳を口にした。千鶴は彼女へ向き直った。悔しいが、見下ろせないほどの長身だ。ヒールのある靴を履き、ほぼ吉川と肩を並べているか、ちょっと高いくらいだ。 「ごめんなさい。わたし……」 「なぜ謝るの?」 「えっ?」  亮子は、救いを求めるようなまなざしを、肩一つ分後ろに下がっている吉川に投げかけた。  吉川が、生唾《なまつば》を呑《の》み込むのがわかった。 「ちょっと驚いたけど、不思議じゃないわ」  千鶴は、意識的に吉川を無視し、亮子に向かって言った。「ううん、ちょっと不思議な感じはするけど、でも不自然ではないわ、こういうの。ただね、亮子さん、正直に言うと、黙っていてほしくなかったわね」 「ごめんなさい。わたしはただ……」  ふたたび謝罪の言葉を口にしてしまい、あっと思ったのか、亮子は口に手を当てた。  吉川は、何も言わず、惚《ほう》けたように突っ立っているだけだった。そのことも腹立たしくて、千鶴は吉川へぶつける分の皮肉をすべて亮子にぶつけた。 「腰が痛いから病院へ行くなんて、そこまでうそつくことないじゃないの。早引けするのはデートのため。ちゃんと言えばいいでしょ? うそつきね、亮子さんって」 「千鶴さんだって……」  驚いたことに、亮子は遠慮がちにでも、反論してきた。「彼とコンサートへ行くと言ったじゃない」 「似たようなものでしょ、コンサートもお芝居も。こんなお芝居、あなたに言ってもわからないと思って、クラシックのコンサートと言ったまでよ。わたしのうそなんか、あなたのうそに比べたらずっとましでしょ?」  思わず千鶴は声を荒らげた。周囲の何人かの注目を集めた。  空気がぴんと張り詰めた。  開幕五分前のベルが鳴った。 「行くわ。彼、遅れて来るかもしれないから。もっともね、いまから観ても、何が何だかわかりはしないと思うけど。へんてこなお芝居だから」  最後は、亮子に向かってせいいっぱい微笑んでみせた。この劇団の芝居を好きだと言った吉川への、あてつけの意味もあった。  席に戻った。前から三番目の席。あの二人はたぶん、後ろの席だろう。背後に強烈な視線を感じながらも、千鶴は芝居が終わるまで、ついに一度も振り返らなかった。  ——誰でもいいから隣に座って、間違いでもいいからお願い。  必死に祈ったが、左隣の席は最後まで空いたままだった。  芝居の筋など頭に入っていなかった。拍手が聞こえているあいだに千鶴は席を立ち、頭を動かさないようにしてホールに出た。呼ばれても振り返るものか、と心に決めていた。  だが、呼ばれはしなかった。  劇場を出ると、外はすっかり冬の色に包まれていた。まだ十一月だというのに、街にはクリスマスの飾りつけが溢《あふ》れていた。  幕 間  その夜、亮子が訪ねて来た。千鶴が帰宅して三十分もたっていなかった。芝居を観たあと、デートの予定を切り上げ、千鶴を追うようにして帰って来たのがわかった。  インターフォンで彼女だとわかったとき、千鶴は居留守を使おうかどうか迷った。「ほっといてよ」と内心で吐き捨てた。だが、ドアを開けなければ、彼女はおそらくこう判断するだろう。「千鶴さんは傷ついている」と。そして、そのとおりのことを吉川に告げるはずだ。それが千鶴には我慢ならなかった。 「何か用?」  千鶴はドアを開けた。「どうしたの? そんな顔して」 「千鶴さん、わたし……」  外気で頬《ほお》を赤くした亮子が身をすくめている。 「寒いでしょ? 入ってよ」  久しぶりに部屋へ招き入れた。ピエロ役は続けたくなかった。「紅茶でもいれるわね」千鶴はそっけなく亮子に言い、キッチンに入った。  叱《しか》られるのを覚悟する子供みたいに、亮子はソファで硬くなっている。  千鶴は、ティーバッグを二つ浸したポットとマグカップを二つトレイに載せ、持って行った。紅茶など丁寧にいれたくない気分だった。 「黙っていて悪かったわ」  ソファに座るのを待っていたように、亮子は身を乗り出した。「でもね、千鶴さん。吉川さんから『ぼくから話すから。君は何も言わなくていい。黙っていてくれ』と言われていたの。だから、わたし……。ごめんなさい」 「謝らないで、って言ったでしょ? もうとっくに別れた人なのよ、彼は。それなのに、亮子さんがなぜ謝るのよ。新しい男とつき合うときには、前の彼女の許可をもらってからつき合わなくちゃいけない、っていう法律でもあるの?」  自分はヒステリックになっている。それは、亮子が「吉川さん」と呼び慣れた口調で呼んだからだ。千鶴はそうわかっていた。  亮子は、うなだれて黙っている。「君は何も言わなくていい。黙っていてくれ」という吉川の指示を忠実に守っているつもりなのか、と思ったら、よけい腹が立った。彼も彼だ。「ぼくから話す」と言うのなら、自分が来ればいいではないか。 「セーターも渡したんじゃないの」 「えっ?」  亮子が顔を上げた。 「あら、聞かなかったの? 彼の会社で見たわよ。手編みのセーター、着てたわ」  亮子は視線をわずかにさまよわせた。  あのセーターを編んだのは、この亮子だった。そういえば、彼女は生成り色の毛糸でセーターを編んでいた。プレゼントする相手は、ほかでもない吉川智樹だったのだ。千鶴は、自分の鈍感さに、想像力のなさに腹が立った。悔しさと恥辱に切れるほど唇をかんだ。  なぜ、亮子を除外視していたのか。彼女だけは安心、と心の奥底で楽観していたのか。  亮子は昔の亮子ではない。きれいに生まれ変わった亮子なのだ。そして、その上に魔法の手。〈家庭的な女〉に通じる魔法の手。自分は、あまりにも彼女の昔のイメージにとらわれすぎて、彼女を見くびっていた、と千鶴は思った。 「千鶴さんに会社で会ったなんて……吉川さん、そんなこと言ってませんでした」  亮子は、焦点の定まらない目をして言った。  千鶴は、一瞬だけ優越感を覚えたが、すぐに虚《むな》しくなった。亮子という人間が、わからなくなってきていた。素直なところがあるかと思えば、強情そうでもある。おどおどしているかと思えば、遠慮しながらも言うべきことは言う。東京に出て来て、巡り会わなかったタイプの人間だ。そのことにはとっくに気づいていたはずなのに、以前はユニークで新鮮だなどと思ったものだが、改めて考えると御しにくい、得体の知れない人間に思えた。 「そう、じゃあ、彼は秘密が好きってことじゃないの?」  千鶴は、突き放すように言った。そして、こう言い添えることを忘れなかった。「彼もあなたもね」 「……」 「二人して、わたしに秘密にしているのを楽しんでいたんじゃないの? とくにあなたは」 「そ、そんなことありません」  亮子が、何度もかぶりを振った。 「うそ。こんなに近くに住んでいて、今日気づくか、明日気づくかと、心待ちにしてたんでしょう」 「違います。わたし、千鶴さんの顔をまともに見られなくて……。こんなに親切にしてもらったのに。でも、千鶴さんと吉川さんのことは過去のこと。千鶴さんには、新しい恋人がいる。わたしがこだわる必要はないのだと思うんだけど、秘密にしている以上、心苦しくて……」 「それで、わたしの顔を正面から見られなかったってわけ?」 「……」 「新しい恋人なんかいないわよ」 「えっ?」 「聞こえたでしょ? ボーイフレンドだっていやしないわ。デートしてるふりしてただけよ」 「……」 「気づいてたくせに。今日でわかったでしょ?」 「いえ、わたしは……」 「わたしの隣がずっと空いてたのは、気まぐれでチケットを二枚買ったからよ。ダミーの恋人のためにね。あなたが、わたしに恋人がいるって決めつけたからよ」  吉川に未練があって、彼用のチケットを買ったのだとは言えるはずがなかった。 「どう? わかった? わたしに恋人などいやしない。智樹さんと別れて以来、わたしは一人なのよ。そのあいだにできた新しい友達は、あなただけよ」 「……」 「ねえ、亮子さん。これで、なおさらわたしの顔をまともに見られなくなった? わたしに新しい恋人がいたら、後ろめたさも消えて、晴れ晴れとした顔で彼とつき合えたのに残念ね。もっともあなたは、わたしに恋人などいやしないことに気づいていたんでしょ、本当は。髪をセットしながら、わたしのことを傲慢《ごうまん》で見栄っぱりな女だとあざ笑ってたんじゃないの? あなたは知っていて、わたしを冷やかした。それは、自分が彼との将来に希望を持ちたかったから。違うかしら」 「ごめんなさい」  と、亮子はふたたび口にした。「やっぱり、吉川さんに口止めされていたとはいえ、千鶴さんに秘密にしていてはいけなかったんですね。わたし、そんなことしたら友情が壊れると思ったんです。わたしにとって千鶴さんは、とても大切な友達だった……。でも、いまわかりました。千鶴さんといい関係を続けていくためには、正直に打ち明けるべきでした」  彼女の目に怖いほどの真剣な光が灯って、千鶴は背筋がぞくっとした。 「すみませんでした。黙っていて。では、はっきり言います。わたしは、吉川さんとおつき合いしています。彼のことが好きです」  ——開き直った!  こうもはっきりと宣言されるとは想像もしていなかったので、千鶴の頭に血が昇り、一時的に何も考えられなくなった。 「吉川さんから聞きました。千鶴さんから別れを切り出されたって」 「あ……」  そうよ、と間抜けな答えをしそうになって、千鶴はあわてた。 「捨てた、ということですね?」  捨てた、という残酷でストレートな表現が、千鶴に答えさせるのをためらわせた。 「そうでしょ? 千鶴さん。あのチェストのように、吉川さんを捨てたってことですよね。所有権を放棄したってこと。だったら、わたしが拾ってもいいんですよね」  亮子は、すっくと立ち上がった。ここに来たときとは別人のようだった。 「わたしが、吉川智樹さんをいただきました」  亮子は一礼すると、玄関にすたすたと歩いて行った。千鶴は、ばかみたいに座ったままでいた。  ドアが閉まる音を聞いて、我に返った。急いで玄関に行き、ドアを開けながら言った。「待って。チェストのように……って、亮子さん、あのチェストのことを彼に……」  だが、その声はもう亮子には届いていなかった。エレベーターを使わず、階段から降りてしまったらしい。通路に亮子の姿はなかった。  第三部 破 壊     1  日がたつにつれ、亮子に対する憤りより、吉川へ対するそれのほうが増してきた。亮子からはもちろん、吉川からも電話はない。自宅へも会社へもだ。  彼の立場に立てば電話などかけられるはずがないではないか、と思うものの、ほうっておかれる気分はいいものではなかった。何もかもに見放された気持ちがした。仕事でつまらぬミスが続いたのも、大事に使ってきたマグカップの把手《とつて》が割れたのも、自分につきのないせいだと思われた。  亮子に「あなたが捨てた男をわたしが拾っただけ」という意味のことを言われたとき、千鶴には返す言葉がなかった。そのとおりだったからだ。おそらく彼女は、吉川にチェストのことも話したに違いない。「千鶴さんが粗大ゴミに出したチェストを、わたしがもらったの。それがきっかけで友達になったのよ」と。それを聞いた吉川が平常心でいられたとは思えない。彼はこう思ったであろう。——そんなにあいつは俺《おれ》のことが嫌いだったのか。俺が嫌いだから、俺がくれてやったチェストまで目障りになったのか。 「違うのよ」と、千鶴はひとこと彼に言いたかった。できればそれだけのチャンスはほしかった。「違うのよ。あのね、チェストを捨てたのは、あなたへの未練を完全に捨て去るためだったの。それだけまだあなたに執着していたってことなのよ。わたしだって悩んでいたのよ」  しかし、いまさらそれを言ったところで、二人の関係は修復できそうにない。  彼の心を新しい女性——亮子が占めているのならば……。  そうはいっても、亮子の言葉を鵜呑《うのみ》にしてしまったであろう吉川が、千鶴は歯がゆくてならなかった。  いま千鶴が亮子を責められるのは、「秘密にされた」ことに対してだけである。したがって、秘密でなくなったいまはなす術《すべ》がない。「秘密にしろ」と命じたのが、吉川本人であるとなれば、よけい亮子を責める理由はなくなる。彼女はただ、〈愛する男〉の言いつけに従っただけなのだから。  そう思ったら、いっそう吉川への憎しみや腹立たしさが増した。よりによって、なぜ亮子などを選んだのか。そもそも、いつ二人が出会い、つき合い出したのか。  冷静になって考えてみれば、あの夜、亮子にもっと聞きたいことはあった。 「いつからなの?」 「わたしのことを、彼はあなたにどこまで話したの?」 「彼の部屋で会ってるの?」 「あなたたち、結婚するつもり?」  …………  いちばん聞きたいことは、二人がすでに男と女の仲になっているかどうかであった。ふつうに考えれば、関係あると考えたほうが自然だ。だが、吉川とあの亮子とがどうしても千鶴の頭の中では結びつかなかった。許せなかったのかもしれない。彼があの亮子の豊かな胸の谷間に顔を埋める場面を想像しただけで、千鶴は気が狂いそうになる。〈いまごろひょっとしたら二人は〉などと想像して、眠れなくなった。  千鶴に関係を知られてしまった二人は、肩の荷が下りて、かえって気分的に楽になったのではないか。  けれどもやはり千鶴は、心のどこかで〈これは何かの間違いなのではないか。彼のほうに何か事情があるのではないか〉という疑いも持っていた。デパートでばったり会ったとき、ビルの廊下で出くわしたとき、吉川の目の奥でちろちろ揺れていたのは、単なる懐かしさの感情ではなかった。まだ千鶴に気持ちの一部を残しているような、未練のこもったまなざしだった。  三年前、吉川に別れを告げたのは自分のほうだ。あの時点で、吉川は千鶴のことがまだ好きだった。その思いを三年間で断ち切れたはずがない、と自惚《うぬぼ》れたい気持ちが千鶴にはあった。断ち切るだけのできごとがあったのなら、それはほんの三か月前のことであるはずがない。もっとずっと前に断ち切っていたはずではないか。たとえば、あのデパートで会った美女に心奪われるかして……。  千鶴は気づいた。吉川を、亮子に拾われるくらいなら、ほかの女に拾われたほうがまし、と思っている自分に。  あまりにも近い距離に亮子を感じながら、時間だけが過ぎていった。千鶴は、自分が部屋にいるときは窓辺に近づかないようにした。一度、会社帰りに銭湯に行く亮子の姿を見かけたが、あわてて道を変えた。あちらは気づかなかった。  十二月に入った。『シネマ村』のオープニングパーティーの日が近づいた。コルクボードに貼《は》った招待状を見て、千鶴はひょっとしたら、と閃《ひらめ》いた。  ——智樹さんが何も言ってこないのは、この日を待っているからではないか。  仕事の関係者だけが招待されるパーティーである。亮子が来るとは思えない。吉川は、濱田から招待者リストを見せられているかもしれない。そこに千鶴の名前を見つけて、その日を待っているのではないか。濱田と千鶴の関係は、紀美子パッカーを通じて知っているはずだ。  千鶴はその日に賭《か》けた。  十二月六日の土曜日。  この日、会社にスーツを着て行った千鶴は、帰りぎわ、更衣室でパールのネックレスとイヤリングをつけた。パーティーのために髪をセットするなどという発想は、もはや生まれなかった。着飾った自分を吉川に見せたくなかった。仕事のできる女として行く自分を見せたかった。あの夜、凝りすぎのヘアスタイルで精一杯のおしゃれをして芝居を観に行った自分を、できることなら彼ら二人の記憶から消してしまいたいと望んだ。あのとき千鶴は、穴があったら入りたいほどの羞恥《しゆうち》心に包まれたのだった。  会場は、濱田耕司がデザインした、ドーム型の屋根をした劇場の二階の大ホールだった。一階ロビーに受付があった。長椅子《ながいす》を三つほど並べた受付は、招待客の分野別に色分けされ、芳名帳が並べてある。千鶴は、招待状に押されたピンクの色のところに並んだ。  吉川が左端で受付係をしているのには、すぐに気づいた。が、気づかぬふりをして、千鶴は淡々と名前を書いた。渡されたリボンを胸につける。吉川の前を通り、会場の入口へと向かう。彼の前には三人ほどが順番を待っている。  とっくに千鶴の存在には気づいていたのだろう。前を通るときに、吉川はちらと顔を上げた。視野の隅に彼の顔が入ったが、千鶴は無視した。胸が高鳴っていた。  会場はだだっ広い。だが、ホテルの宴会場のような殺風景な広さではなく、中二階へ続く階段が広間の二か所にあり、中二階のホールは画廊のように油絵が飾られて、変化に富んだ空間になっている。  案の定、着飾っているのは、招待された女優や文化人だけで、仕事関係の女性たちはかっちりしたスーツ姿が多かった。  立食パーティー形式である。千鶴は入口でカンパリソーダのグラスを取った。  六時半きっかりに司会者の挨拶《あいさつ》が始まった。濱田耕司の挨拶、来賓の挨拶と続く。乾杯の音頭のあと、こういうパーティーではおなじみの歓談となる。  見回しても、知り合いはいなかった。著名な女性服飾デザイナー、女性照明デザイナーの顔もあったが、話しかけてまでネットワークを広げる気力はなかった。招待してくれた濱田に話しかけたいが、彼のまわりには当然ながら人だかりができている。食欲もなかった。目についたサンドイッチを一つ、二つ皿に取ってつまんだが、砂をかむような感じだった。神経がすべて吉川といかに話す機会を持つかに向いているので、関心がよそにいかない。  その吉川は、遅れて来る招待客たちの対応に追われているのか、まだ会場に姿を見せない。化粧直しに行くふりをして様子を見よう。そう思って、出入口へ向かいかけて、足を止めた。彼が年配の男性と話しながら、会場に入って来た。  吉川は千鶴を認めて、わずかに目を見開いたが、男性との会話は続けていた。話に割り込む雰囲気ではない。千鶴は、こんなに近い距離にいながら二人になれないもどかしさを感じて、急ぎ足で会場を出た。化粧室に飛び込む。  鏡に、悲壮な顔をした自分が映った。何か思いつめたような表情だ。化粧はきれいにのっているのに、顔に華やかさと明るさがない。  しばらく気持ちを落ち着けて化粧室を出た。会場の手前に、吉川がいた。千鶴を待っていたようだった。  ——彼のほうから来てくれた……。  深いグリーンのスーツに、同色の地に黄色い水玉模様のネクタイ。スーツをきっちり着こなした肩幅のある彼の姿を至近距離で見て、千鶴は涙が溢《あふ》れそうになった。  彼のスーツ姿が千鶴はいちばん好きだった。仕事で輝いているときの彼が最高だった。 「オープン、おめでとう。盛況でよかったわね」  招待客としての形式的な挨拶から始めた。 「ぼく自身は何もしてないからね」  吉川は自嘲《じちよう》ぎみに言い、会場のほうを見た。そして、「ここではゆっくり話せない。あとで時間とれないか?」と聞いた。 「あとでって……」  ずっとほうっておかれたことで、千鶴は意地悪を言いたくなっていた。「何の話?」 「このあいだはびっくりした。まさか君が観に来てるとは……。重松亮子さんのことで話がある」  重松亮子さん、とさんづけで呼んだ。他人行儀な響きがあった。千鶴は救われた気持ちがした。短い期間でも、呼び捨てになる密度の濃い関係はある。そこまではいっていないということだ。そう考えて、果たしてそうなのか、と疑いも抱いた。自分の前でそう呼んでいるだけで、彼女の前では自分を「千鶴」と呼んだように「亮子」と呼び捨てにしているのではないか。  しかし、こうしてようやく彼を目の前にしてみると、何かが違う、と千鶴の直感に働きかけていた。少なくとも彼の心は、すっかり亮子に奪われているわけではない。まだ自分に思いを残している。彼の目の中に自分への愛《いと》しさを見てとった。 「今日、わたしがここに来なかったらどうするつもりだったの?」 「来ると思った。君は、仕事で不義理はしない」  千鶴は苦笑した。三年たっても、自分の性格はよくつかんでいると思った。つき合っているときも、千鶴のほうの都合でデートをキャンセルする、ということはたびたびあった。 「十時には身体があく。『かえで』で待っていてくれないか」     2  九時半に『かえで』に行った。吉川の姿はまだなかった。パーティーは八時半にお開きになった。それから後片づけに取りかかっているのかもしれない。  十時を十五分過ぎて、吉川がドアを開けたとき、ママは胸をつかれたような顔を千鶴に向けた。千鶴はカウンター越しにママに顔を近づけ、「彼と大事な話があるの。奥いいかしら」と聞いた。ママは軽くうなずいて、観葉植物で遮られた奥のボックスを顎《あご》で示した。土曜日だが、カウンターはほとんど埋まっている。千鶴は、ブランデーの水割りのグラスを持って、移動した。 「ごめん。急いで来たんだけど」  吉川は腕時計を見て、十五分遅刻だな、とつぶやいた。脱いだコートをアタッシェケースの上に丸めて置く。彼はデートのときも時間に几帳面《きちようめん》な男だったのを、千鶴は懐かしく思い出した。つき合いが長くなるにつれ、五分や十分の遅刻に平気になったのは、千鶴のほうだった。 「よかったの? 抜け出して来たんじゃないの?」 「いや、ぼくは準備係だったから、後片づけはいいんだ」 「そう」 「濱田さんと話していたね」 「ええ」  化粧室の外で吉川と話したあと、気分的に楽になった千鶴は、会場内で濱田に接近して話しかけた。紀美子パッカーのことで会話が弾み、主役の彼を十分も引き止めてしまった。それでいちおう、パーティーに招待された義理は果たせた。  会話が続かない。吉川がバーボンを飲み、ため息をついた。景気づけのため息。本題に入ろうとする姿勢だ。千鶴は緊張した。 「ずるいと思われるかもしれないが、今日を待っていた。君の家へ行くのは、亮子さんの家へ行くようなもので近づけなかった。オープニングパーティーが終わる今日まで気持ちが落ち着かなかったんだ」  吉川は、そんなふうに言い訳した。千鶴は、劇場で二人に出くわした日から、自分がどんな精神状態でいたかをいちおう案じてくれていた彼の思いやりが嬉《うれ》しかった。 「あれから亮子さんには……会ったんでしょ?」 「いや」吉川は首を横に振る。  意外だった。 「とにかく今日が終わるまで落ち着かなくてね、誰にも会いたくなかった。あの芝居も行く予定ではなかったんだ。だけど、彼女がチケットを取ってくれた。それで、無駄にしては悪いと思ってつき合った。しかし、実は上の空だったんだよ。正直に言って、『T』の中ではできの悪い脚本だったね。君の言うとおり」  先日観た芝居のことなどどうでもよかった。千鶴が引っかかったのは、「亮子がチケットを取った」という点だった。 「智樹さんが『T』の芝居を好きだって、亮子さんに言ったの?」 「ああ。いつだったか、芝居のことを聞かれたものでね。以前君とよく観た『T』のことを話した。彼女はそれを憶《おぼ》えていたんだろう」 「あなたの好きな劇団のチケットをこっそり二枚取る。彼女の情熱が感じられるわね」  千鶴は、なるべく感情を表さないように、グラスを見つめて言った。「それだけのことが、二人のあいだにあったってことね? そう解釈していいのね?」 「それは……」  吉川は、苦しそうに顔を歪《ゆが》めた。「いや、違うんだ」と即座に否定してほしかった千鶴は、胸に冷たい氷の塊を押し当てられたような衝撃を受けた。 「彼女と……寝たの?」 「……」 「わたしがニューヨークに行っているあいだね? 智樹さん、わたしのところに来てくれたんでしょ? わたしがいなくて、かわりに亮子さんがいた。そうなんでしょ?」 「彼女から聞いたのか?」 「彼女は何も言いはしないわ。あなたが口止めしたんでしょ?」 「確かに俺《おれ》は、自分から話す、と言った。そうすべきだと思ったんだ」  彼は、昔のように呼び方を「俺」に戻した。時間が巻き戻ったように思えた。 「あのとき、チャイムを押そうとしたら、中から人が出て来た。君じゃなかった」  やはり自分の推理したとおりだった、と千鶴は思った。 「もう一度聞くわ。彼女と寝たの?」 「寝てはいない。しかし、そんなのは言い訳にならない」  吉川は、はずしていた視線を、意を決したように千鶴に戻した。「彼女のほうは、そう思っているかもしれない」 「どういうこと?」 「彼女は言った。『わたし、男の人にこんなことされたのはじめてです』ってね」  千鶴は背筋がゾッとした。その言葉は、自分にも以前、向けられた。「わたし、東京に来て誰かとレストランに入ったのははじめてです」と。はじめてだからこそ、あなたは特別。自分にとってかけがえのない存在になったのよ、いいわね、と控えめながら責任を押しつけているような響きだ。 「寝た……んじゃないの」  声に怒気がこもり、うわずった。 「いや……信じてくれ。君にこんな告白するのは恥ずかしいが、いつまでも黙っていられるものでもない。恥を覚悟で言おう。彼女の胸に触った」 「亮子さんの胸に触ったですって? どういうことよ」  いっそう声がヒステリックに裏返った。亮子の豊かなバストに指を触れたときの感触を思い出した。 「いや……わかってもらえないかもしれない。彼女が突然来て……」 「あなたのところに? 亮子さんに住所を教えたの?」 「いや。彼女のところに定期券を忘れて来た。それで、彼女が俺のところに届けてくれた」 「でも、定期には最寄り駅はあっても、住所は書いてないでしょ?」 「君から聞いたと言っていた」 「わたしから?」  氷をまた一つ、胸に押し当てられた気がした。「だ、だって、わたしはニューヨークにいたのよ。あっちから電話もしていないわ。彼女に話せるわけないじゃない。第一、あなたと彼女の関係を知らされたのは、あのお芝居のときがはじめてよ」 「酔った勢いで、君がべらべらしゃべりまくったそうだ」 「う……」  うそ、と言いかけて、千鶴は言葉に詰まった。うそ、と言いきれない。不本意なことを亮子に言われたという悔しさで頭の中が蒼白《そうはく》になっている。 〈そんなこと言ってないわ〉  その言葉を呑《の》み込んで、千鶴は胸の動悸《どうき》を抑えた。理性のあるもう一人の自分が、〈最後まで聞くのだ〉と告げている。何か得体の知れない敵に包囲されている気がして、皮膚があわだった。 「そういうことがあったのか? いつだったかママが言ってた。君が一人で来て、ひどく荒れていたって。仕事でおもしろくないことがあったらしいけど、それだけじゃない雰囲気だったって」  吉川は、カウンター内で常連客の相手をしているママをちらりと見た。ママはこちらを見ようともしない。 「ええ、あったわ。あの夜、タクシーを降りたわたしは、気分が悪くなってその場にしゃがみこんでしまった。亮子さんが通りかかって、わたしを部屋まで連れて行ってくれた。水を汲《く》んで来てくれて、やさしく介抱してくれたわ」  何度思い返しても、あのときの記憶はぼんやりとしかよみがえらない。そして、いつもクリスタルの眩《まぶ》しい輝きが一緒だ。バカラのグラスの高貴な輝きだ。 「でもね、あの夜のことはよく憶《おぼ》えてないの。親切にしてくれた亮子さんに、ひどいことを言ったような憶えはあるの。でも、何と言ったのか、本当に……憶えてないのよ。彼女は……あなたにどう言ったの?」  まさか、という思いで胸が高鳴っている。自分には遠慮して言わなかった醜態を、彼女は吉川には話したのではないか。とすると、彼女の真意はどうなるのか。考えるまでもない。彼女は、好きな男には洗いざらい話しているということだ。千鶴が酔ってどんな醜態を演じたか、女友達にはそよとも気遣いを見せずに。〈ひどいじゃないの、亮子さん〉という言葉が、何度も胸の奥からせり上がってくるのを生唾《なまつば》を呑み込みながら千鶴は抑えた。  吉川はまたため息をついた。今度のは、諦《あきら》めと照れが混じったような複雑なため息だった。 「自分の口からはあまり言いたくない内容だけど、仕方ないね」  彼は首をすくめて、舌打ちしてから、声のトーンを少しだけ上げて続けた。それはそのまま、亮子が語った〈千鶴の言葉〉だった。 「仕事でむしゃくしゃすることがあったのに、愚痴を聞いてほしかった目当ての彼が仕事で抜けられなくて、慰めてくれなかった。一人でやけ酒を飲んだ。場所は、昔、わたしが捨てた彼とよく行った場所。その彼というのが……屈折していて女々しい男で、エリート社員の地位をあっけなく捨て去った。そんな男にわたしを幸せにする資格などない。こっちからさっさと別れてやったのに、よりによってそんな思い出の場所に行ってしまったのが悔しい。それで、よけい荒れてしまった。あなたにこのあいだあげたチェストも、その捨てた男が置いて行ったものだったのよ。あまりに目障りだから捨てようと思ったら、あなたが物好きにも拾ってくれたってわけ。助かったわ。わたしが捨てた男もまとめてのしをつけて、あなたにあげたかったくらいよ。ああ、彼の住所、知りたかったら教えてあげるわよ。わたしのかわりにつき合えば? いまの恋人のほうがあの男よりずっとましだけど、いまの彼もね、どんな男か本性を見極めようと様子を見ているところよ。もう二十九だからって、あまりあせって決めてババをつかんでもいけないから。わたし、結婚相手はじっくり見つけたいの」  そこで吉川の言葉は止まった。  胸に押し当てられていた氷の塊は、すっかり溶けて熱湯になって煮えたぎっていた。それでも千鶴はこらえた。「ほかには?」と、かすれた声で促した。 「グラスのことを言っていたね。亮子さんは、バカラのグラスで水を汲んだんだろ? 君はそれを見て笑ったそうだ。『とっても高価なグラスなのよ? そんなもので水を汲むバカがどこにいるのよ』って。そしてこうも言った。『ほしければあげるわ。ただし一つだけよ。お近づきの印にね。大事に使ってちょうだい』と」 「待って……」  限界だった。「言ったかもしれない。でも、違うの。言ったかもしれないけど、言ってないわ、そんなこと。矛盾してるかもしれない。そうね、わかってる。でも、違うの。わたしの本当の気持ちはそうじゃないの。仕事でむしゃくしゃしたことはあったわ。わたしね、建て主の奥さんに『主人に色目を使っている』って言われて、担当をはずされたの。悔しくて切なくて、どこにも怒りのぶつけ場所がなくて、ここに来てしまった。ママに止められるまで飲んだわ。智樹さんもわかってるわよね、わたしのそういうところ。誰かにかまってもらいたくて暴れているのに、いざ慰めてもらったりやさしくされたりすると、邪険にしてしまう厄介な性格。嫌われて当たり前よね。でもね、グラスのことは……ぼんやり憶えている。彼女を笑った記憶もある。嫌な女だと思う、自分でも。でも、そのほかは、本当に記憶がないのよ。あなたのことをべらべらと彼女にしゃべったなんて、本当に憶えがないの。そんなことするはずない、と自分では思いたい。でも、そうも言いきれない。だって、あなたのことが頭の隅に引っかかっていたから、お酒でどこかのたががはずれてしゃべってしまったのかもしれないし。どうかしてたのよ、あのときのわたし。彼女がわたしと同じ二十九歳だとわかって、共鳴したのかもしれない。でも、共鳴したからって、彼女にそんなことまで話したなんて……。彼女と会ったのは、あのとき三回目だったのよ。それなのにあなたの名前や住所、そんなプライベートなことまで、いくら酔っていたからって……。わからないわ、自分が。怖いの、とても」  吉川は、黙って見つめている。 「ねえ、どう思う? 智樹さんはどう思う? わたしがそんなことを本当に言ったと思う?」  震える声で、彼に下駄を預けた。 「信じられなかった。だけど、あのときは……信じるしかなかった。彼女の部屋でチェストを見せられて。真っ白いペンキを塗られたまるで別人のような俺のチェストを。君は、『どうぞどうぞ、お使いください』と言ったそうだね」 「え、ええ」  それは、残念ながらしらふのときのセリフだったからよく憶えている。 「でも、わかって。わたし、智樹さんのことを忘れようと思ったの。あなたの置いて行ったものが目障りだったわけじゃなくて、その反対だったの。あなたとの思い出がありすぎて、忘れられなくて、前に進めないと思った。それで……」  彼を目の前にして、それ以上は言えず、千鶴はブランデーをあおった。そして弱々しく笑った。「嫌ね、わたしって見栄っぱりで意地っぱりで。まったくあなたに言われたとおりだわ。本心と正反対のことを言ったりやったりする。グラスにしてもそう。亮子さんに見栄を張って、気が大きくなったあげく、プレゼントするなんて。自分でも信じられないくらい。もうわかってるでしょ? 恋人なんていやしないのよ。あれも、亮子さんに冷やかされた手前、引っ込みがつかなくなってついたうそ。でも、このあいだチケットを二枚取ったのは、ちょっと違う。どこかで智樹さん、あなたのことが頭にあった。あなたの好きな劇団だと思って、ついふらっとチケットを予約してしまった。デパートで偶然会ってから、わたしの頭の中にはずっとあなたがいたのよ」 「千鶴……」  名前を呼ぶ吉川の口元が、かすかにほころんだ。  千鶴は、胸いっぱいに懐かしさが広がるのを感じた。むず痒《がゆ》いような感覚に似ていた。 「亮子さんにどう聞かされているか知らないけど、うそじゃないわ。本当にボーイフレンドさえいないのよ。あなたと別れて以来」  ほら、と言って、千鶴は左手の甲を向けて見せた。まぶたに涙が盛り上がった。「薬指に指輪なんてないでしょ? あれはうそ。わたしの拙《つたな》いお芝居。だって、智樹さんがあんなきれいな女の人と一緒にいるんだもの。わたし、悔しくなってとっさにお芝居してたの。バカみたいね。でも、あのあとすごく落ち込んじゃって、みじめになったわ」 「彼女は」  と、吉川はおどけたように目を見開いた。「話したじゃないか。濱田さんの遠縁に当たる人の娘さん。あのときは、クライアントの知り合い、と言ったかもしれないけど、うそじゃないよ。ちゃんと婚約者もいる。一度、ここに連れて来たが、彼女にフィアンセのことでちょっとした相談を受けたからだ。結婚前の女性は精神的に不安定になる。そう言ったのは君だよね。彼女が……そうだった。いまはもう、だいぶ落ち着いているようだけど」 「信じるわ」  涙を拭《ぬぐ》って、千鶴は言った。「だから、智樹さんも信じてほしい。でも、無理ね。記憶をなくすほど酔っ払っておいて、しゃべったことは全部うそだから取り消させてほしい、なんて。ずいぶん勝手な言いぐさよね。智樹さんは許してくれないでしょ?」 「いや、おかしい」  吉川が顔を引き締め、つぶやいた。 「えっ?」 「本当に、君があんなことを言ったのだろうか」 「……」 「バカラのグラスのことだよ」 「バカラのグラス?」 「俺《おれ》の知っている君は、そんなことはしなかった」 「……」 「たとえ、酔っていても、自分の大切にしているものを簡単に人にあげたりするような女じゃなかった」 「本当?」  彼の真剣なまなざしの中に、希望の光を見つけた気がした。 「俺もどうかしてた。君に会ってこうして話を聞くまでは、疑心暗鬼になっていた。だけど、いまはっきり思う。俺は誰よりも千鶴のことをよく知っているって」 「智樹さん……」 「憶えてるかい? 君が酔い潰《つぶ》れた夜、タクシーに乗った。俺のマンションの前で降りたとき、君は『わたし、忘れ物してないかしら』と言って、もう一度シートをのぞきこんだ。あのときのドキッとするほどまじめな顔。一瞬しらふに戻ったかと思った。君はどんなに酔っていても、自分の大切にしているものへの執着は忘れない。あのバカラのグラスは、君がとくに大切にしてたものだろ? いまは四つしかないけど、少しずつ揃《そろ》えていきたいと言って。そういうものをいくら酔っていたからって、知り合ってまもない女性にポンとあげてしまうものかな」 「おかしい? ねえ、そう思う? 智樹さん、やっぱりそう思う? おかしいわよね。わたし、酔っ払ってもちゃんとすべきところはちゃんとするよね。わたしってそういう女よね? 別れた男のことをべらべらとしゃべるような節操のない女じゃないよね?」  千鶴は、安心感を得るためにたたみかけた。  吉川は、無言でうなずいた。 「じゃあ、どうなるの? わたしが亮子さんにグラスをあげていないんだったら、亮子さんの部屋にあったあのバカラは……」  ——寝ているあいだに彼女が盗んだ?  吉川にも気軽に口にできない表現だ。しかし千鶴は、亮子の部屋にバカラのグラスを見つけた瞬間、同じことを思ったのだ。彼女が、〈ほんのできごころで盗み出した〉ことを正直に打ち明けてくれると思ったのだ。あの直感を信じてもよかったのだろうか。 「亮子さんの名誉もある。うかつなことは言えない」  彼のほうが慎重になって言った。「だが、こうは考えられないかな。彼女が、酔っ払って眠りかけている君に、『これほしいわ』と言った。君は眠くてたまらなくてつい『どうぞ』と答えてしまった。それで彼女はもらった気になって……」  千鶴は首を横に振った。「それも憶えがないわ、残念ながら」  しばらく沈黙が続いた。二人のグラスに入った酒は減らない。カウンターから客が二人去り、また新たに二人連れが「寒くなったね」という挨拶《あいさつ》とともに入って来た。  同じことを考えている、と千鶴は吉川の顔色から読み取った。 「亮子さんがうそをついた、とは考えられない?」  千鶴は、おそるおそる言った。「あなたが言ったとおり、亮子さんの名誉もあるから、憶測だけで言うのは可哀想《かわいそう》だと思う。でもね、根拠がないわけじゃないの」  先を聞くよ、というふうに吉川は眉根《まゆね》を寄せ、少し怖い顔をした。 「うちに刑事が来たの」 「刑事?」  彼は、すっとんきょうな声を上げた。「彼女のことで……か?」  千鶴は、亮子が越して来る前に住んでいた上石神井のアパートで起きた猟奇的な殺人事件のことを、かいつまんで話した。 「亮子さんは、隣で殺人事件のあったようなところは怖くて住めなかったのね。わたしと知り合ったときは、越して来て二か月だった。でもね、おかしいのは、刑事にうそをついたこと。事件のあと引っ越したのは、近所に友達がいるところのほうが安心できるから、と言ったそうよ。順序が逆よね。彼女が引っ越して来てから、わたしたちは友達になったんだもの」 「なぜ、彼女はそんなうそをついたんだろう」  吉川が腕組みをして考え込んだ。 「その気持ちはわかる気がしたの。わたしだって、隣で殺人事件が起きたあと引っ越したからって、刑事につきまとわれたくはないわ。よけいな疑いを抱かれたくない」 「しかし、刑事相手にうそをついたら、よけい疑いをかけられるんじゃないのかな」 「そうね」  それもそうだと思った。あのときは、友達を信じることだけに神経を集中させていたが、いま冷静に考えれば、亮子の行動にはおかしな点が多い。 「気になったことがあるの。殺された女性の写真を刑事が見せてくれたんだけど、その女性がつけていたイヤリングが、亮子さんの持っているものにそっくりだったの。もしかしたら、亮子さんがその女性からプレゼントされたんじゃないかしら、とも思ったんだけど、どうやら彼女は、被害者とは親しい間柄ではなかった、と刑事には言ったらしいの」 「似てるな」  吉川がつぶやいた。「イヤリングとバカラのグラス。どちらも持ち主が使っていたものだ。亮子さんが殺された女性からプレゼントされたものだとしても、中古品だろ?」 「えっ? あ、ああ、そういう意味ね」 「こっちにも思い当たることはある」  吉川は、ウイスキーグラスを手で包み込み、琥珀色《こはくいろ》の液体を見つめて言った。 「えっ?」 「彼女のうそにさ」  周囲の空気がひんやりした気がした。千鶴は、寒けを覚えて脇《わき》に置いたコートをつかみ膝《ひざ》に載せた。 「虚言癖」と、吉川はつぶやいた。 「虚言癖?」 「君にも俺にも、彼女はうそをついている。それもまったく別のうそを用意して」 「どういうこと?」 「彼女は俺に、『千鶴さんが怖い』と言った。君が自分を誘惑したと言った。君が『わたしって男の人に満足できないの』と言い、彼女の胸に手を伸ばしてきたそうだ。そして、胸に触り、乳首をつまんで……。そんなことは俺には信じられない」 「やめて!」  千鶴は耳をふさいだ。ママをはじめ、カウンターの全員が、千鶴の声に驚いて二人に注目した。両手を離すと、耳の奥に渦を巻くような音が残っていた。一瞬、平衡感覚を失ったように思った。 「智樹さんがいけないのよ。全部、あなたがいけないの」  千鶴は、吉川に向けてぶつけた。彼の端正な顔だちも何もかもが憎らしかった。 「あなたが、『一度でいいから、巨大な胸の谷間に顔を埋めてみたい』なんて言うから。別れたあとも、わたしの耳からその言葉が離れなくて、胸の小さいことがひどいコンプレックスになっていて……。わたしは自分の苛立《いらだ》ちを解消するために、彼女をからかった。そう……あれは、一種のいじめだった。わたしは何をしても怒らない彼女をいじめたのよ。陰険な女だと笑ってちょうだい」 「千鶴、じゃあ……」  吉川は、呆然《ぼうぜん》とした顔でいる。 「それは、うそじゃないわ」  千鶴は、挑戦するように顎《あご》を上げて言った。「わたしは彼女と乳繰りあったのよ。自分のブラウスのボタンをはずして彼女の手を胸に導いた。わたしの乳首は敏感に反応して尖《とが》ったわ」  涙が溢《あふ》れた。「だからどうだって言うの? 智樹さんのせいよ。智樹さんが、わたしの力ではどうにもならないことを望んだから、だからわたし、自分にないものをもつ亮子さんをいじめてみたくなった。いじめたくなるところが彼女にはある。あの人ったら、ばかみたいに、されるままになって。きっと気持ちよかったのよ。わたしがそうだったように。お互い、男っけがなくて慰め合って。おかしいでしょ? こんな話。わたしのほうがおかしいよね。わたしのほうがどうかしてる。でもね、亮子さんは何の抵抗もしなかった。嫌な顔一つしなかった。仕掛けたのはわたしだけど、彼女は受け入れたのよ。ひどいわ。あの人ってひどい。胸を触りっこしたのは本当だけど、わたしは『男の人に満足できないの』なんてひとことも言ってないわ。誓ってもいい。彼女はうそつき。うそつきだわ」  興奮のあまり胸が苦しくなった。  吉川は、思いがけない告白をされたショックのためか、そうだね、とうなずいてくれない。 「わかったわ。彼女がなぜうそをついたのか。あなたに……一目惚《ひとめぼ》れしたのよ、彼女は。あなたに恋したのよ、会った瞬間に。だから、あなたを完全にわたしから引き離すために、わたしから奪うために、わたしを侮辱するようなうそをついたんだわ。あなたを失いたくないためよ、すべて」  ——完全にわたしから引き離すために? わたしから奪うために? いや、違う。わたしは、彼を一度、捨てたのではなかったか。あのチェストのように。そのことを亮子さんは指摘した。  千鶴は、亮子に真正面から向かってこられたら、反論できない立場を痛感していた。 「場所を変えよう。あとは俺の部屋で」  吉川が立ち上がり、千鶴の手を引いた。     3 「亮子さんの部屋で、あのチェストを見たとき、俺は強い力で頭を殴られた気がしたんだ。足下がぐらついて、何も考えられなくなった。操り人形のようになって、『千鶴さんからもらったチェスト、ご覧になります?』という彼女の言葉のままに行動していた。彼女の部屋に入った。そこには、もとの姿が想像もできないほど変身した俺がいた。大げさだと思われるかもしれないが、あのチェストは俺の分身だった。君の部屋に使いごこちのいい枕《まくら》を置いておくようなものだった。それがすっかり姿を変えていた。彼女のものとして、彼女の部屋にあった」  吉川は、クッションを背に当てて言った。  彼の部屋は変わっていなかった。昔のままだった。家具も増えていなければ、壁に掛けた絵もポスターも替えていなかった。  2Kの間取り。一つは寝室。もう一部屋には、低いテーブルに座|椅子《いす》を二つ置いて、食卓にしている。シンプルで過ごしやすい部屋だ。ファンヒーターの熱で、部屋全体がすぐに温まる。 「俺は、あのチェストを見て、ああ、やっぱり本当だったんだ、と悟った。千鶴はチェストを、ではなくて、俺を捨てたんだ。すっかり捨て去ったんだ、と思った。そして、いま思えばひどく不思議な感情なんだが、化粧直しされ、別の場所で新しい命を吹き込まれ、大事にされている俺の分身を見て、泣きたいような切ないような感動も覚えたんだ。冷たくあしらわれた俺の分身が哀れで、愛《いと》しくなった。怪我《けが》をした俺を、彼女……亮子さんがやさしく手当てしてくれたような。彼女が美容師だと知ったのは、そのあとだったが、そのときはそう……まるで慈愛に満ちた看護婦のような気がした」 「看護婦でも充分通用するでしょう」  千鶴はそっけなく言った。一時的にでも感傷的になった彼を、理解はできたが、そのやさしさに苛立ちもした。 「亮子さんは、すごく力持ちなのよ。あのチェストを一人で軽々と持ち上げたのをわたしは見たわ。そして、あの魔法の手。看護婦は体力のいる仕事。手を使う細かな作業もあるし、献身的な性格じゃないと務まらないから、彼女には適職かもしれないわね」 「彼女のことは君からちらと聞いていた。留守を預かるような仲だから、信頼が厚いと思った。そしたら、なんだか彼女のことが身近に感じられた。彼女から君のことをいろいろ聞き出したかった。新しくできたという恋人のこと、仕事のこと。俺と別れてからの君のことを、彼女が知っているかぎりすべて聞いてみたかった。その上で覚悟を決めようと思ったのさ。まだ期待する気持ちも残っていたのかもしれない。『かえで』のママの直感を俺は信じていたからね。どこかで自惚《うぬぼ》れていた。君に尊敬してもらえるような仕事をつかんだ、という手応《てごた》えもあった。『千鶴さんはまだあなたに思いを残している』というママの言葉にすがりつきたかったんだ」 「でも、亮子さんの言葉が、あなたの願いをことごとく潰《つぶ》したのね?」  そう聞くことは、千鶴には快感だった。 「ああ。彼女は、君に恋人がいると言い、ニューヨークから国際電話をかけているはずだと言い、『かえで』で話したように、君に聞いたという俺と別れるに至ったいきさつを『捨てた』という表現を使って、くわしく話してくれた。黙って聞いている俺にしてみれば、残酷すぎるほどの間接的な告白だった」 「でも、それで彼女に心を動かされもしたんじゃないの?」 「いや」  と否定を口にしたくせに、そのあとは間があった。クッションを背から引き出し、そこに複雑な思いを吐き出すようにぎゅっと抱え込んだ。 「彼女のことは……好きなのかどうか、わからない。わかっているのは、君に対する気持ちとは全然違うってことだ。料理もうまいし、編み物もうまい。家庭的なことが得意そうな女性だ。よく気もつく。いい奥さんになるタイプかもしれない。ただし、俺《おれ》以外の男のね」 「でも、彼女のほうはそう思っていないかもしれないわ。一度でも自分を受け入れてくれたことで、恋人同士になったと思い込んでしまっているかもしれない。思い込みの激しい女性なら……恋愛に慣れていない女性なら……ありえないことじゃないわ」  口にすることがどんどん現実になっていくようで怖い。「自分が編んだセーターを受け取ってもらったことで、芝居につき合ってくれたことで、あなたが好意を受け入れてくれている、と思い込んでいるかもしれない」 「自分の弱さにはほとほと呆《あき》れた」  と、吉川は言い、クッションにパンチを入れた。「彼女の部屋にあがるべきじゃなかった。そして、彼女をこの部屋にあげるべきじゃなかった。定期券を届けてくれた彼女は、ケーキを買って来たと言った。そのまま帰すのも冷たい気がした。彼女が『ニューヨークの千鶴さんからはがきがきたんです』と言ったせいかもしれない。そう言った彼女が、見憶《みおぼ》えのあるイヤリングをしていたせいだったのかもしれない。あれは、確か、君がしていたイヤリングだった。一瞬だが、俺は錯覚してしまった。君が来たかと思った。彼女が君の名前を出したので、思わず『どうぞ』と部屋にあげてしまった。彼女はいそいそと台所に立ち、紅茶をいれた。俺は君のはがきを読ませてもらった。ニューヨークでの生き生きした仕事ぶりが目に見えるようだったね」 「そのとき、亮子さんの胸に触ったの?」  十三キロ体重を落とし、腰がくびれた分、バストアップした彼女の豊かな胸が目の前にちらついた。 「『暑いですね』と言いながら、彼女は部屋に入って来た。上着を脱いだ。着ていたのは、襟ぐりの大きく開いたブラウスだった。第二ボタンまで彼女ははずしていた。アイスティーをグラスに入れて持って来た彼女が前かがみになった。ノーブラだった。たっぷりした乳房がゆさゆさ揺れているのがのぞいた。俺は息を呑《の》む音が彼女に聞こえなかったかどうか気になった。気がつかないふりをして、ケーキを食べ、アイスティーを飲んだ。俺は彼女を部屋に入れたことを後悔していた。しかし、とにかく気まずくならないようにと、沈黙を作らないようにしゃべり続けた。何のことかって? 君の話題しかなかった。それでしか俺と彼女はつながっていなかったんだからね」  この部屋で起きたことだ、と思い、千鶴は部屋を見回した。自分を亮子に置き換えた。 「そのとき彼女が言った。『わたし、自分が田舎っぽくて嫌いなんです。職場でもばかにされるし、自分でも思います。千鶴さんにももう少しどうにかすれば、と言われました』とね」 「そんなこと言ってないわ」  わかっている、というふうに吉川は軽くうなずき、話を続けた。「いまになれば、おかしいと思える。だが、そのときは、彼女のペースに完全にはまってしまっていた。君の不在が大きかったのかもしれない。最初に感じた違和感も影響していたんだろう。君とあの亮子さんとがどうしても結びつかなかった。君の友達にはいないタイプだった。なぜ、留守のあいだ鍵《かぎ》を預けるほど心を許したのか、正直に言ってわからないくらいだった」 「それは……」  千鶴は、吉川をじっと見つめた。「智樹さんのせいじゃないの。あなたは、わたしが自分の美意識にこだわるあまり、友達の幅も狭めてきたと言ったわ。わたし、自分の世界を広げるのも大切だと思ったのよ。どこかであなたを意識していたせいね。あなたとの失敗もそれが影響していたのだと反省したのよ。変わらなくちゃいけない、と決めた。彼女があの古ぼけたアパートに住む人だと知って彼女を切り捨てるのは、冷酷なようでできなかった。いままで友達になりそうもなかった世界の女性だったからこそ、よけい彼女に接近し、執着してしまった」  吉川は、かすかにうなずき、かすかに微笑《ほほえ》んだ。わかった、という印だった。 「彼女は、君とは反対に、胸が大きいのが自分のコンプレックスになっていると言った。ばかっぽく見えるから、田舎っぽく見えるから嫌なのだと言った。彼女も、自分を変えたい、と言った」 「やさしいあなたは、『そんなことはない。君はもっと自分の魅力に自信を持つべきだ』とでも言ったんでしょ?」  千鶴は、皮肉をぶつけた。 「そんな照れるようなセリフは口にしてないよ。ただ、人それぞれ個性がある。それを大事にすべきだ、とは言った。とにかく彼女がここに来た日、お茶を飲んで少しおしゃべりしただけで、俺は帰したかった。予定があるからと彼女を玄関に追い立てるようにした。ところが、玄関で、彼女はめまいがしたのかよろめいた」  どういう展開になるか予想がついて、千鶴はうんざりした。亮子という人間の本性が、ぼんやりと見えてきた。腹が立った。 「俺はとっさに手を差し伸べた。その手が彼女の胸に……当たってしまった。彼女は言った。『男の人にこんなことされたのはじめてです』とね」  ——なんて人なの? そういう本性を隠してわたしとつき合っていたの? その本性をわたしは見抜けなかったの?  今度は、自分の鈍感さに腹が立った。 「俺はあやまった。誤解しないでほしい、とも言ったと思う。だが彼女は『いいんです』と微笑んだだけだった。しかし、まだ彼女がどういう人間なのか、俺にはつかめていなかった。彼女を知る手がかりは唯一、君だった。君が信頼して留守を任せる女性なら、おかしな人間ではないだろう。君がつき合っている友達だから安心だという気持ちが、根底にあった」  それは自分も同じだ、と千鶴は思った。自分と亮子とを結びつけていた唯一の絆《きずな》が吉川であった。 「亮子さんは、自分の都合のいいように解釈して……いつのまにか、そう思い込んでしまったのかもしれない」  腕に鳥肌が立つのを覚えた。いま現在、彼女がどんな誤解をしているのか、考えると恐ろしい。 「次に来たときは、スーパーの袋を提げていた。『吉川さん、一人暮らしでしょ? ろくなもの食べていないんじゃないんですか?』と言ってね」 「陳腐なテレビドラマの脚本みたいね。ドラマじゃないんだから、あなたははねのけるべきだったのよ」 「そのときもまた、君の名前が出た。『ニューヨークから国際電話がきたんです。千鶴さん、おもしろいこと言ってましたよ』と」 「国際電話なんか、一度もしていないわ」  亮子の〈うそ〉が次第に明らかになっていく。 「うそだと見抜けるわけないじゃないか、そのときは」  吉川も、少し怒気を含ませて言った。「とにかく君の話を聞きたくて、またあげてしまった。というより、彼女が強引に入って来た」  そんな積極的な人間だったのか、と千鶴は驚いた。が、吉川に一目惚れしてしまったとなれば別だ。千鶴の不在のときに一気に……と彼女が考えたであろうことは想像できる。 「びっくりしたのは、彼女の変身ぶりだった。髪型や化粧を変え、ペッタンコの靴からヒールのある靴に替えていた。服装も少女趣味的なものから大人っぽいものに変わっていた」 「あなたがアドバイスしたんじゃないの?」  不機嫌な声は隠せなかった。 「いや、すぐには思い出せなかった。だけど、そういえば、と思い当たったことがあった。前に来たときに、『わたしって背が高いから、どうしても低い靴を履いて背中を丸めて歩いてしまうんです』と彼女が言った。俺は『それも一つの個性なんだから、長所にしちゃえばいい。背を伸ばして堂々と颯爽《さつそう》と歩けばいい』くらいは言ったかもしれない。求められるままに、自分の好みの髪型や、背が高い女優の中で好きな女優を言ったり、そうはっきりとは答えられないから、『ヒラヒラしたものよりは、固い感じの服のほうが似合うんじゃないかな』程度は答えたと思う」 「やっぱり、あなたの言葉だったのね」  あまりの符合に、怒る気力もなくして、千鶴は笑った。「それで、彼女はあなたの理想に近づくために、どんどんやせてきれいになっていったってわけね。亮子さんの言葉を真に受けたわたしも大ばか者よ。職場の人たちのアドバイスだなんて大うそ。大好きなあなたの言葉に従っただけだったんだわ」 「君にあやまらなくてはいけない」  吉川はため息をつき、肩をすくめた。「君の言うとおり、最初にはねのけなかったら、次からはしにくくなる。彼女はどんどん俺の領域に踏み込んできた。そして俺は、もう拒否できなくなっていた。作って出された料理に手をつけずに彼女を追い返す勇気はなかった」 「そんなもの、生ごみ入れに捨てちゃえばよかったのよ」  語気を強めた千鶴の言葉に、吉川はさすがにムッとした表情を作った。 「君は、男というものがわかってない」 「何ですって?」 「残念ながら、彼女の料理はうまかった。俺の味覚が誘惑に勝てなかったのさ」 「……」  返す言葉がなかった。悔しくて涙が出た。 「とりたててすごいご馳走《ちそう》でもなかった。きんぴらや肉じゃがやごま和え、といった家庭料理の類《たぐい》だ。だが、彼女はてきぱきと何品も作り、そのへんの皿に体裁よく盛りつけて出してくれた。酒のつまみ、といった品も多かった」 「そう。それはよかったわね。じゃあ、あなたの好きな冷酒によく合ったでしょう? 二人で乾杯でもしたんじゃないの? それでわかったわ。亮子さん、だいぶお酒が強くなったようよ。あなたの家で酒の肴《さかな》を作って、練習したのね」  それには答えず、吉川は千鶴を悲しそうな目で見て言った。 「男は、うまい料理を出されると弱い。そういう単純な生き物だ。そう言いたかっただけだ」 「ひどいわ。どうせ、わたしは料理が下手よ。あなたを喜ばせられるようなものは作ってあげられなかったわ。でも、だからって……」  屈辱感に耐えられなくて、千鶴は顔を覆って泣いた。 「しかし、家庭料理という名の料理に惑わされるのも、一時的にだけだ。君が言ったとおり、彼女の手は魔法の手だ。うまい料理も作れば、プロ並みにセーターも編む。だが、そういうものに感動するのも一時的なものだ。そんなことはすぐにわかった」 「勝手よ、そんなの」  千鶴は、背中からクッションを引き出し、吉川に投げつけた。そのクッションも昔、自分が使っていた黄色に紺色のロゴの入ったものだった。彼はそれを、投げられたことが快感のような表情で受け取り、膝《ひざ》に置いた。 「君には新しい男がいると聞かされていたからね。彼女にのめりこむことで、君への未練を捨てきれるかもしれない、と考えたこともあった。だけど、やっぱり君にとってかわれるものじゃない」 「亮子さんは、魔法の手からさらにいろいろ生み出す気よ。あなたのために」 「次は、セーターと同色の毛糸でベストを編むと言った」 「ほら、ご覧なさい。あなたは女をわかっていない。最初に思いきって突き放さないと、女はどんどん自惚《うぬぼ》れるのよ」 「次こそは言おう、そう思って彼女の誘いに応じてきた。が、いざ会うと、彼女のペースにのせられてしまう」 「……」 「君がどう言いたいかはわかっている」 「どう言いたいの?」 「それは、やさしいんじゃなくて、優柔不断なだけよ。そう言いたいんだろ?」 「わかってるじゃないの。ずるい男ね」  千鶴もため息をついた。「智樹さんって、年上のくせに、どこか母性本能をくすぐるところがあるのよね」  彼が、幼いときに母親を亡くし、祖母に可愛《かわい》がられて育ったことも影響しているのかどうか。だが、その話は露骨にすると彼が嫌がるので避けていた。 「しかし、優柔不断なのも今日までだ。決断したよ。俺から彼女にはっきり言う。期待を持たせるのはやっぱり悪い」 「そうよ」  自分でも現金なものだと思うほど、声に明るさが戻った。 「彼女の数々のうそがわかった以上、つき合いは続けていかれない」 「わたしもそうよ」  千鶴はきっぱりと言った。「うそをつくような人と、これ以上友達ではいられない」 「これは推理にすぎないけど」  吉川が声を落とした。「君の留守中、彼女は君の部屋でいろんなことができたはずだ。たとえば日記や手紙を読むというような」 「それは違うと思う」  千鶴はかぶりを振った。「大事なものは鍵《かぎ》のかかる引き出しにしまって行ったわ。鍵は持って行ったし、何かが動かされた気配もなかった。亮子さんがわたしの日記や手紙、システム手帳などを読むチャンスがあったとしたら、あのときしかない。わたしが酔い潰《つぶ》れて寝てしまったあの夜」  スケジュールなどを書き込んだ住所録つきのシステム手帳は、バッグの中に入っていた。机の上も整理しないままだったから、なんでも目についたものを見ることはできたはずだった。日記帳には、教子の結婚披露宴に招待されたことや仕事上の悩みやあせり、吉川からもらったチェストを処分することが未練を断ちきることにつながるかもしれない、などと心情を書き綴《つづ》ってあった。 「彼女が全部、話をでっちあげて、酔っ払ったわたしから聞いた話にしてしまうことはできたわ。実際、わたしにはあの晩の記憶が断片的にしかないもの。ひょっとしたら、定期券のことも彼女が意図的にやったことじゃないかしら。慎重なあなたが定期券を置き忘れてきたというのはおかしいわ。あなたの持ち物から彼女が抜き取った可能性もあるんじゃない? あなたにまた会うチャンスを作ろうとして」 「それが本当だったら、とても……恐ろしい女だ」    その夜、千鶴は二年十か月ぶりに吉川に抱かれた。吉川は、千鶴のこぶりの乳房を大きな手のひらにおさめ、「可愛いよ」とささやいた。そして、乳首を口に含み、離し、また含みを何度か繰り返してから、「すごくきれいだ」と言った。  行為が終わっても、しばらくは彼の腕をまくらにしていた。この感覚が恋しかったのよ、と千鶴は思った。この汗の匂《にお》い、この筋肉の力強さ、肌のぬくもりが恋しかったのだと。  だが、そのだるさを伴う心地よさを電話のベルが破った。不吉な音に感じられた。  千鶴と吉川は顔を見合わせ、電話機を見つめた。電話の存在など部屋に入ってから忘れていた。留守番設定になったままだった。四回コールして、吉川の留守を知らせるメッセージに切り替わった。発信音のあとに続いたのは、亮子の声だった。 「打ち上げで遅くなってるんですか? オープニングパーティー、どうでした? 終わってホッとしたんじゃないですか? ベスト、編み始めたんですけど、デザインでちょっと聞きたいことがあって。胸のところにポケット、あったほうがいい? それともポケットはいらない? じゃあ、また」     4  一人暮らしでも、朝帰りにはなんとなく後ろめたさがつきまとう。インテリア・コーディネーターの世界は女の世界だ。至るところで目が光っている。千鶴は着替えと身だしなみを整えて出勤するために、早朝、マンションに戻った。  エレベーターを降りて、ひっ、と声を漏らしてしまった。  千鶴の部屋の前に、亮子が立っていた。  千鶴に気づき、「お帰りなさい」とつぶやくように言った。住人は起きているのか眠っているのか、マンション全体が静まり返っている。素顔で、髪を後ろで束ね、男物のような黒いダウンジャケットを着て、手には紙袋を持っている。 「朝帰り?」 「えっ? あっ、ちょっとね」  そう答えて、いいじゃないの、彼女に遠慮することはないんだわ、と思った。「亮子さんこそ、どうしたの? こんなに早く」  本当は、顔を見るなり、「うそつき」と言ってやりたかったが、感情的になるのは逆効果だという気がした。自分は彼女に勝ったのだ。吉川の心を勝ち取ったのは自分のほうなのだ。これから吉川と自分には〈試練〉が待っている。彼女に本当のことを打ち明けるという試練が。優位に立っている自分が、せめてもの思いやりを彼女に示さなくてはいけない。 「あのときから、千鶴さん、わたしを避けているでしょ? このままじゃいけないと思って。なんとか千鶴さんと話したかったの」 「でも、今日は時間がないわ。着替えて出勤しなくちゃ」  千鶴は、鍵を鍵穴に差し込んだ。 「朝ごはんは用意して来たの。食べながらでいいから、聞いてくれない?」  亮子は、手に持っていた紙袋を差し出した。サンドイッチが入っていた。 「近々、吉川さんのほうから話があると思うんだけど。わたしたち、真剣におつき合いしているの。もうご存じよね」  亮子の優越感の混じった、自信に満ちた言葉遣いに千鶴はぎょっとして、ドアノブに伸ばした手を止めてしまった。 「彼は、自分から話す、と言ったけど、わたしたち友達でしょう? ずっとこのままでいるのもよくないと思って。わたしからもお話ししておきたいの。ショックが少ないように」 「わかったわ。わたしもお話があるの、亮子さん」  彼女の高飛車な物言いに湧き上がった怒りと、これから自分が話すことで彼女が傷つくのを恐れる気持ちとが、複雑に絡み合った。  部屋に招き入れ、千鶴はコーヒーをいれた。いちおう朝食のために食卓を整える。とっておきのマイセンのカップ&ソーサーを使った。一客二万八千円もするものだ。  マイセンのカップに香ばしいかおりのするコーヒーを注ぎ、席についた。  亮子は、千鶴が先にコーヒーに手をつけるのを待っている。いよいよだわ、と千鶴は緊張した。コーヒーを飲んだ。いつもより苦くはいっていた。亮子もコーヒーに口をつけた。 「苦いけどおいしいわ」  亮子が微笑《ほほえ》んで、カップをソーサーに戻した。ダウンジャケットの下は、Vネックの黒いセーターに黒いパンツだった。彼女の肌の白さがいっそう際立った。 「わたし、智樹さんのところから朝帰りしたのよ」  千鶴は言ってやった。  周囲の空気が凍りついた。頬《ほお》に氷柱《つらら》が突き刺さったような痛みを覚えた。 「うそ」  ひと呼吸おいて、亮子が言った。 「うそじゃないわ。なんなら電話してみたら? 智樹さんのところに。わたしが行ったかどうか聞いてみたら?」 「わかったわ」  あまりにあっさり亮子がうなずいたので、千鶴は拍子抜けした。だが、次の言葉で、亮子の強気がわかった。 「吉川さんに呼ばれたんでしょう? わたしとのことをはっきり聞かされたのね?」 「あなたとの別れ話よ」 「何言ってるの、千鶴さん」  亮子は、眉毛《まゆげ》を下げて呆《あき》れたように笑った。 「うそじゃないわ」 「強がり言わなくていいのよ。わたし、知ってるわ。千鶴さんは、まだ吉川さんに未練があった。捨てたくせにわたしが拾ったので惜しくなった。うす汚れた人形を捨てたら、その人形がほかの女に拾われて、あまりにきれいに変身したのでまたほしくなった。そうでしょ?」 「人間は、人形とは違うわ。捨てたり拾ったりするものじゃない」 「でも、実際、千鶴さんは吉川さんを捨てたじゃない。吉川さんだって、彼女に捨てられた、と表現したわ」 「それは……」  言葉の綾《あや》だが……そんな瑣末《さまつ》な表現をめぐって、議論したくはなかった。 「吉川さんは、『千鶴にはぼくから話す』と言ったわ。だから、そうしたのよ。千鶴さんにはもっとほかの男のほうがふさわしい。彼は冷静に考えてそれがわかったんだわ」 「ほかの男なんていないって言ったでしょ? このあいだのことでわかったくせに」 「捨てた男が惜しくなったから、いまの男に執着しなくなっただけよ」 「智樹さんはわたしに、あなたとのつき合いについて話してくれたのよ。あなたは〈話〉の内容を誤解していたんだわ」 「千鶴さんは言ったじゃない。わたしが前の彼女だったからって、とっくに別れた男よ。つき合うのにわたしの許可などいらない、って」 「そんなふうに言ったかもしれない。でも、それは……」  話がかみ合わなくなってきている。 「吉川さんのことは終わったこと。新しい恋が芽生え始めている。そう受け取ったわたしがいけないっていうの? 誤解だっていうの?」  亮子の頬がピンク色に染まってきた。 「それは……勢いで、恋人がいるみたいに言ったかもしれない。でも、わたしなりに葛藤《かつとう》して……思わずついたうそだった。本当は……まだ彼のことを忘れてはいなかった。忘れられなかった。チェストを粗大ゴミに出したのも、自分の気持ちにふんぎりをつけるためだった。同じ女なら、そういう複雑で不安定な女の心理が少しは理解できるでしょ?」 「うそつき」  亮子が、吐き捨てるように言った。肉のそげ落ちたこめかみがぴくりと動いた。  その言葉が、千鶴の神経を針で突いた。千鶴のこめかみも動いたかもしれない。 「うそつきはどっちなのよ」  千鶴は立ち上がり、テーブルをばんと両手で叩《たた》いた。マイセンのカップが音を立て、中の液体が飛び跳ねてテーブルクロスを汚した。  亮子は何も言わず、千鶴の顔を見上げている。千鶴は、机のところへ駆け寄った。引き出しから茶色い皮のカバーをかけた日記帳を取り出した。そして、バッグの中からシステム手帳を引き出すと、その二つをテーブルに並べ置いた。 「読んだでしょう?」  亮子の小さな目が、二つを交互に追った。三度繰り返し、「どういうこと?」と聞いた。ひどく低い声だった。 「とぼけてもだめよ。智樹さんと話し合って、それしかないと結論を出したの。わたしを介抱してくれた夜、あなたはわたしの日記や手帳を見たでしょう? 引き出しの中には手紙だってある。智樹さんからもらった手紙を、まだわたしは処分してなかった。わたしのプライバシーをのぞき見たのね?」 「千鶴さんったら……ひどい」  亮子の唇が震えた。一瞬で涙が目を覆った。が、声はしっかりしていた。「わたしがそんなことする人間だと思うの?」 「で、でも……いろいろ思い返してみて、そうとしか考えられないことがわかったの」  亮子の涙に、千鶴はひるみそうになってあわてた。 「見てたの?」 「えっ?」 「わたしが、千鶴さんの日記や手帳や手紙を読むのを、千鶴さん、見てたの?」  亮子が顎《あご》をぐいっと上げた。 「い、いえ……見てはいないわ。でも……」 「寝てたわよね、酔い潰《つぶ》れて」 「……」 「わたし、千鶴さんの服がしわになっちゃいけないと思って、一生懸命脱がせたわ。吐いたもので汚れてもいたし。部屋にあったガウンを着せた。千鶴さんは重かった。でも、抱きかかえて必死にベッドまで運んだ。千鶴さんは、気持ちよさそうに眠っていた。この世のうさを、お酒で晴らしてせいせいしたっていうふうに。バカラのグラスで水を汲《く》んだのを怒られて、笑われて……。それでもわたしは耐えた。千鶴さんは女王さまでわたしは奴隷。命令されたとおりに動いたわ。洗面器を差し出して吐いたものを受け止めて。千鶴さんは、べらべらとよくしゃべりまくったわ。自分がいかに仕事で頑張ってきたか、仕事の上での誘惑をいかにうまくかわしてきたか、二十九歳という年齢にあせってばたばたと結婚を決めてしまった友達がいかに愚かか……。自分から見切りをつけてやったという吉川さんのことも含めて、それこそ口にボロぞうきんでも突っ込みたくなるくらいよくしゃべったわ。  でも、わたし、嬉《うれ》しかった。女友達ができた、と思った。遠慮なく言いたいことを言ってくれる人が、この東京でほしかった。さわ江先生のところでは、いつも監視されていた。移ったばかりの職場では、一見、みんな親切にしてくれるようで裏ではわたしを田舎者と笑っていた。女だけの陰湿な職場だった。ちょっと気を許したら、がつんとやられたわ。わたしが顧客をとったと言っていじめられた。でも、それはわたしのほうがセットがうまかっただけなのに。確かに千鶴さんの言うとおり。職場で心からうちとけられる友達なんかできやしない。ようやくできた同年代の友達。すごくきれいで、知的な友達。嬉しかった。誇らしかった。千鶴さんの天使のような寝顔を見て、安心して、それで戸締まりして帰ったのに、こんなひどいことを言われるなんて。あんまりだわ。わたし、こんなひどいこと言われたのはじめて」  感情を押し殺しているのだろうか。亮子は、低い声のままでよどみなく言いつのった。  聞きながら肩が上下していた千鶴は、自分も興奮を抑えるべきだと思って言った。 「そう……はじめてなの。その言葉、そのまま返してあげるわ。わたしも、あなたみたいにうそつきの友達ははじめてよ」  亮子がまばたきをした。千鶴には、それが見つめ合ってはじめて見た彼女のまばたきのように思えた。 「たぶん、あなたは、わたしが酔ったときにしゃべったことを憶《おぼ》えているはずがない、と思ったんでしょうね。ええ、そうよ。録音したりビデオに撮ったわけじゃないから、証拠はない。でもね、わたしは『男の人に満足できないの』と言った憶えなんてないわ。絶対にない。ニューヨークからあなたに国際電話もかけてないわ。かけたとしたら別人よ。あなたのことを田舎者呼ばわりした憶えもないわ」  彼女に言い返せるはずはない。千鶴は、亮子がどう出るか、じっと口元を見つめた。ところが、亮子は悪びれた様子もなく視線をそらさずに言った。 「それは、ついてもいいうそじゃないの?」 「ついてもいいうそ? 何よそれ」 「さっき千鶴さんも言ったでしょ? 同じ女ならそういう複雑な女性心理がわかるんじゃないの?」 「……」  思いがけない方向から攻めてこられて、千鶴は面食らった。 「千鶴さんから離れた彼の心を、しっかり自分のものにしたい。そういう女のずるい気持ちです」 「……」 「千鶴さん、いままでにそういう目的のためについたうそ、なかったと言える? 吉川さんをつなぎとめておくためについたうそ、一つもなかったと宣言できる?」  突きつけられた質問の矢の鋭さに千鶴は怖じけづいた。それに気づいて、その矢をもぎ取って投げ返した。 「話をすり替えないで。わたしはね、あなたと出会う前のことを問題にしてるわけじゃないの。あなたのは、わたしと友達になってからついたうそ。それも一つや二つじゃない。彼の心を獲得するためには、わたしとの友情などどうなってもいいってことじゃないの。女同士の友情も大切にできないような人に、男の人に本当に愛される資格はない。そんなこともわからないの?」  勝った、と思った。胸がすっとした。友情より好きな男を優先した、という点では、真実なので反論できないのだろう。亮子は、唇を固く結んでいる。 「あなたのうそを見破ったのは、わたしじゃない。智樹さんよ」  千鶴はさらに言った。キッチンへ回り込む。バカラのウイスキーグラスを食器棚から取り出して、カウンター越しに亮子に突き出して見せた。 「彼は言ったわ。君はたとえ酔っていても、自分の大切にしているものを簡単に人にあげるような女じゃない、ってね」  吉川の名前を聞いて、亮子の顔に動揺の色が走ったように見えた。そこで、千鶴は突っ込んだ。「やっぱり、だてに三年もつき合っていなかったと思った。彼の言葉にわたし、勇気づけられたの。もっと自分の直感を信じていいんだと思ったわ。亮子さん、智樹さんの言葉もうそだというの? 彼がうそをつく理由なんてないわよね」  グラスをカウンターに載せ、千鶴はテーブルに戻った。そして、立ったままで言った。「あなたは、盗んだんだわ」  亮子の首が、ぐらりと後ろに傾いたように見えた。 「どうしてそうしたのかわからない。ほしかったのなら言ってくれればよかったのに。……あなたは、泥棒でうそつきよ」  亮子が、いきなり立ち上がった。椅子《いす》がガタンと音を立てた。千鶴は息を呑《の》んだ。 「信じないわ」  彼女は、ぽつりとつぶやくように言った。  何を信じないのか、文脈がつかめずに千鶴は戸惑った。 「直接、吉川さんから聞くまでは、わたし、信じない」 「どうぞ」  そういうことか、と千鶴は納得し、余裕のある声を出した。「彼に確かめてみれば?  彼も、今度こそはちゃんと話す、と言っていたし。あなたに期待を持たせるのは悪い、と言ってたわ」 「うそよ」 「亮子さん、本当はこんなふうにこじらせたくなかったの。あなたを傷つけたくなかった。でも……仕方のないことだったのかもしれない」 「吉川さんに抱かれた、わたし」  唐突に亮子が言った。抑揚のない口調だった。「うそじゃない。何度も何度も、わたしをいかせてくれた。彼はわたしの胸に顔を埋めて、『ああ、なんて豊かなおっぱいなんだ。ぼくは一度でいいから、こんなふうに巨大な胸の谷間に顔を埋めてみたかった。両側から巨大な山に徹底的に責められて、押し潰されるようにして果ててみたい』と、かすれた声で言った。わたしの胸を愛《いと》しそうに揉《も》んで、『大きめだけどきれいなピンク色してるね』と言って、わたしの乳首を……」  言いながら、亮子はセーターをたくし上げ、ブラジャーの上から自分の対の乳房をぎゅっとつかんだ。 「吸って吸って、舌の先で転がして、指でつまんで……」  手の動きにつれ、吐息が荒くなる。亮子は顔をのけぞらせ、うっとりと目をつぶる。長い首筋がぬめるように光って見えた。  鬼気迫るような光景だった。 「亮子さん、やめて」  我に返り、千鶴は声をかけた。「抱いてなどいない、と智樹さんは言ったわ」  亮子の手がぴたりと止まり、目を開けた。ゆっくりと頭の位置を戻す。 「わたし、智樹さんにゆうべ抱かれたのよ。彼は居留守を使ったわ。あなたから電話がかかってきた。……ポケットをつける必要はないわ」  胸に手を当てた格好で、亮子はわずかに首をかしげた。 「ベストはいらないそうよ」  亮子は、ごくり、と生唾《なまつば》を呑み込んだらしかった。長い首筋が動いた。自分に言い聞かせるように、「編んでるわ、いま胸のところを」と言い、また「信じないわ」とつぶやいた。  機械的にセーターをおろし胸を隠す。足下に置いたダウンジャケットを拾い上げる。長身が玄関に向かう。 「わたしたちだけじゃない」  その背中に千鶴は言った。思いのたけをここまで吐き出してしまったことが、気まずく思え、彼女が哀れになった。自分がけっして感情的になっているのではない、と知らせねばと急迫した思いに駆られた。 「亮子さん、刑事にもうそをついたでしょ?」 「刑事?」亮子が振り返った。 「ここに来たのよ。警視庁と練馬西署の刑事が。友達がいるからここに越して来たなんてうそ、どうしてついたの?」  亮子は眉《まゆ》をひそめて、頬《ほお》に手を当てた。それは微笑であるはずがなかったのだが、千鶴にはかすかに亮子が笑ったようにも見えた。  十五秒ほど、亮子は黙って千鶴を見つめていた。  そのうそについての弁明はなかった。その代わりに彼女は、何かに取りつかれたように無表情な声で言った。 「千鶴さんはいらないと言った。バカラのグラスもあのチェストも。グラスを返すと言ったら、千鶴さんは『わたしにそんな恥ずかしいまねさせないで』とはっきりと言った。チェストのときも、わたしは『返してほしいなんて言わないですよね』と念を押した。千鶴さんは、呆《あき》れたような顔でうなずいた。千鶴さんは、わたしの胸を触った。こんなことができるほどわたしたちは親しいのよ、と言われた気がした。いい気持ち……だった。人の指に触られると、こんなにも快感なのかと思った。でも……いま、わかった。あなたも同じ。わたしをからかった。わたしをもてあそんだ。友達にする気もないのに、寂しかったから、気まぐれを起こしてそばにいたわたしにちょっかいを出して、遊び尽くし、飽きたから捨てる」  それは、言葉というより、記号だった。 「違う」という言葉が声にならないうちに、亮子はドアを開けて出て行った。  玄関に、千鶴は呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。どれほどそこにいたであろうか。「もてあそんだ」という言葉が胸の奥深く沈んでいる。実際、そうなのかもしれない、と思った。壊れることがわかっていて無理やり作った友達関係のようではないか。  脳裏を、亮子が残したある言葉が駆けめぐっている。千鶴はハッとした。急いで部屋に戻り、日記帳の最初のほうをめくった。去年の春からこのノートに移した。  その箇所を見つけた。「智樹のバカ」と踊ったような字で書いてある。去年の夏、インテリア事業部内で暑気払いと称して、ビアガーデンで飲み会を開いた夜の日記だ。  ——わたしって欲求不満なのかもしれない。満員電車の中で、薄着になった女性の胸元に目がいく。「あっ、わたしより大きい」と思ってうらやましくなったり、「あっ、この人小さい」とホッとしたり、なんだかとっても変。智樹さんの言葉を思い出してしまう。「俺《おれ》は一度でいいから、巨大な胸の谷間に顔を埋めてみたい。両側から巨大な山に徹底的に責められ、押し潰《つぶ》されるようにして果ててみたいな」だって。ばっかじゃないの、アホ男。今度会ったら殺してやる。でも、こんなに彼のことを意識してるわたしって、一体どうしちゃったんだろう。とっくに別れた男なのに——。  もう間違いない、と千鶴は思った。  亮子はやはり、千鶴の日記を盗み読みしたのだ。吉川と彼女は寝ていない。吉川は、あの豊かな胸の谷間に顔を埋めてなどいないということだ。千鶴の日記を読まないかぎり、酷似した表現が出てくるはずがない。  亮子は、この日記から、千鶴の別れた恋人の名前を知り、その吉川智樹という男が、芝居好きなことを知ったのだろう。住所は、システム手帳の後ろを見ればわかる。どういうつもりで「吉川智樹」に注目したのかわからないが、千鶴という女の私生活に並々ならぬ興味を持ったのは間違いない。日記には、吉川と観に行った芝居の思い出も随所に書かれていた。     5  日曜日のショールームは、訪問者たちで賑《にぎわ》う。打ち合わせは、建て主の仕事が休みの土、日、祝日に集中するからだ。  仕事中も、千鶴は亮子のことが気になって仕方なかった。美容院も日曜日は稼ぎどきだ。彼女はあれから出勤したのだろう。千鶴は、亮子が帰ってから気をとり直して着替えをし、家を飛び出て来た。わざと亮子の住むアパートのほうは見ないようにした。  出勤前に、新宿駅の西口の構内から吉川に電話をかけてみた。午後から休日出勤すると言っていた彼はまだ家にいた。亮子に待ち伏せされていたこと、彼女との話し合いが和やかに終わるはずもなく、いくところまでいってしまったことを話すと、吉川は電話線を通じてはっきり聞き取れるほどのため息をついた。そして、「まあ、仕方ないことだろう。俺の責任だ」と重苦しい声を出した。 「俺が彼女に話す。なるべく早いほうがいいかもしれない。二人だけのほうがいいだろう」 「でも……わたし、なんだか心配なの。亮子さん、ちょっとおかしいっていうか……」  人通りが激しい西口通路で、あまりこみいった話はできなかった。騒音もひどくて、声を落とせない。ましてや、亮子が自分の胸を揉《も》んで恍惚《こうこつ》とした表情を見せた、などとは電話では言えなかった。 「大丈夫だよ。誠意を示せば、必ず彼女に伝わると思う。わかってもらえると思う」  電話は短い会話で終わった。  ——亮子さんは、ひょっとしたら現実と幻想の区別がつかなくなっているのかもしれない。  そう言おうかどうか迷ったのだが、思いすごしかもしれないという気がした。彼女の行為が常軌を逸している、と決めつけてしまうのは、時期尚早であるし、充分に傷ついた彼女の心を思いやれば可哀想《かわいそう》な気もした。少なくとも彼女は、千鶴にものを投げつけたり、罵声《ばせい》を浴びせかけたりなど、取り乱した様子はなかった。亮子は、「彼の口から聞くまでは信じない」と言ったのだ。その気持ちは痛いほど理解できた。ある程度、真実に勘づいたであろうに、真実から目をそむけたい彼女の気持ちはよくわかる。  愛する人から直接、〈本当の気持ち〉を打ち明けられたら、最初は立ち直れないほどのショックを受けるであろう。だが、時間が解決してくれる。亮子のほうには、数々のうそによって千鶴を裏切ったという弱みもあるのだから、少し頭を冷やせば、自分の思い込みや早合点が見えてくるかもしれない。  その期待に千鶴は賭《か》けた。  午後、部長席に呼ばれて、昨日のオープニングパーティーの様子を聞かれた。濱田耕司から招待状がきたことは課長に報告してあったが、部内で唯一、千鶴に招待状が送られてきたことで部長が千鶴に一目おき始めたのがわかった。同僚の辻洋子の羨望《せんぼう》のまなざしも感じた。けれども、評価された喜びに素直に浸る気持ちにはなれなかった。  三時半に、吉川の会社に電話をかけてみたが、彼は外出中だった。いちおう会社には出たということだ。千鶴はなんだか安心した。亮子のあの様子から、すぐにでも吉川に電話をし、今日の昼にでも会う約束を取りつけたのでは、と考えていた。しかし、考えてみれば、亮子も仕事がある。そうそうすぐには行動を起こせないだろう。  それでも、あれだけの痛手を受けて、ふつうの顔をして職場に出るのは拷問に近い苦痛だとも思えた。美容師は、他人を美しくする仕事だ。自分の内面が醜く乱れて荒れ狂っているのに、にこやかな顔で他人の髪をきれいにセットすることなどできるのだろうか。亮子という女は、それほど強い女だったのか。  ひょっとしたら彼女は、千鶴の言葉に少しも傷ついていないのではないか。千鶴はそんなふうにも考え、別の心配に襲われた。亮子は、本当に、吉川以外の言葉を信じないつもりでいるのかもしれない。なぜなら、自分自身がうそつきだからだ。千鶴も同類と考えているのかもしれない。「愛する男の言葉以外、絶対に信じない」と決めているのではないか。だとすると、ひどく強情で偏屈な女だということもできる。  しかし、やはり彼女はひどく打ちのめされたと考えた場合はどうか。仕事も何も手につかず、家にこもりっきりでいるか、どこかにフラッと旅に出てしまうか。  ——自殺?  ふっとその言葉が浮かんで、千鶴は寒けを覚えた。亮子が、失恋しただけで自殺を選ぶ女かどうか、正直に言ってわからない。それほど亮子という女は、千鶴がいままでに出会ったことのない、思いがけない反応を返してくる、性格のつかみにくい女なのだった。  とにかく、亮子の自宅に電話をしてみた。呼び出し音が鳴るばかりだった。留守番電話ではない。居留守を使っているのかどうかはわからない。続いて、下北沢の『カットハウス・コージー』に電話をかけた。 「今日、重松さんはいらっしゃいますでしょうか」 「重松ですか? はい、出勤しておりますが」  ああ、よかった、彼女の日常は正常に流れているんだわ、と思い、千鶴はホッとした。 「どちらさまでしょうか? ご予約ですか?」 「あ、いいえ、そのへんに行く用事があるので、時間があったらシャンプー、セットに寄ろうかと思って。はっきりした時間がわかりませんので」  その電話のあと、今度は吉川の自宅にかけた。留守番電話にメッセージを吹き込む。 「千鶴です。亮子さん、ちゃんと仕事場に行ったようです。わたし、なんだか変な想像をしてしまって。とにかく、彼女と会う約束が決まったら連絡してください」  こんな日にかぎって、残業が入る。親戚《しんせき》の法事や結婚式だとかで、二人、主婦コーディネーターが休んでいるのも影響した。飛び込みでショールームに見学に来た、家の改築を計画中の初老の夫婦の相手をしているうちに、七時半を回ってしまった。  会社を出るときにまた吉川に電話をしてみたが、まだ留守番電話になっていた。会社に電話すると濱田ではない男性が出て、「吉川ですか? もう帰りました」と言った。千鶴の自宅の電話には、何もメッセージは吹き込まれていなかった。亮子のほうは、美容院はもう終わっただろうが、時間的にまだ帰宅していないだろうと思われた。それでも自宅に電話してみた。やはり呼び出し音が虚《むな》しく鳴るばかりだった。  ——どうしたんだろう。いつ会うことにしたのかしら。  千鶴は、ちょっと胸騒ぎを覚えた。あの二人が、まだ何の連絡も取り合っていないとは考えられなかった。吉川には、会う日時が決まったらすぐにでも知らせてほしい、と言ってある。  亮子は亮子で、冷却期間を置いているのかもしれない、と千鶴は思ってみた。すぐに吉川に会って問い質《ただ》すよりは、少し時間をおいたほうがスムーズに話せると考え直したのかもしれない。  もしかしたら、吉川のほうが怖じけづいて、連絡するのを延ばし延ばしにして逃げ回っているのかも、という可能性も考えたが、一度、きっぱりと物事を決断したときの彼の性格から、それはありえないことだった。  空腹を感じたので、新宿駅近くのファーストフードの店で、ハンバーガーを食べた。最近、人目をはばからずにいちゃつくカップルが増えた気はしていたが、店内にも、その手のカップルは目についた。店の外に目を向けると、男性が女性の腰どころか、ヒップを撫《な》で回しながら密着して歩く二人がいる。  ——智樹さんは、腕を組んで歩くことさえ照れるタイプだったわ。  ガラス越しに、三年前の二人の姿が見えた気がした。かといって吉川は、千鶴から組んだ腕を恥ずかしそうには見るものの、嫌がってはずしたりはしない男だった。ありふれた表現を使えば、女性から積極的に迫られると弱いタイプ、と言えるかもしれない。そのくせ彼は、二人きりになると大胆になった。千鶴が恥ずかしくなるようなことを、「恥ずかしがるなよ」と言って求めた。部屋を飾りたてるような派手な生活は好きではなく、少数の好きなものに囲まれた生活を愛していた。  ——わたしたちは、すごくよく似ていたんだわ。  感性が、美意識が、価値観が、似ているのだ。だから、一度は反発し合ったが、こうしてまた惹《ひ》かれ合って、よりを戻した。  ——今度こそうまくいくわ。  千鶴は目をつぶり、二人の未来像を思い描いた。どちらの職場にも近いところに八十平米以上の広さのマンションを借りる。結婚しても、妻は仕事を続ける。三十五までに子供を産み、一年間の育児休業のあと職場に復帰する。子供は一人か、できれば二人。女の子と男の子。女の子二人でもいいが、絶対に女の子が一人はほしい。夫は家事と育児に協力的。たまにインテリア雑誌の取材を受ける。雑誌を手に取った読者は、「夫は家具デザイナーで、妻はインテリア・コーディネーターか。やっぱりセンスが違うわね」とため息をつきながら、『心地よい空間に住む』などというその記事を見る——。  二十畳ほどもあるリビングルームで、夫婦と子供二人が談笑している。それは、吉川と千鶴と未来の二人の子供だった。  その光景にいきなり、一人の女が飛び込んできた。千鶴は、ドキッとして目を開けた。  血相を変えた亮子だった。亮子のことをしばし忘れていた。  彼女のことを何とかしなければ、幸せな未来はこない。彼女が黙って身を引くという保証はない。彼女が巨大なバリアとして二人の前に立ちはだかっていると思うと、暗澹《あんたん》たる気持ちになる。  千鶴は、少し自分が楽天的に考えすぎていたことに気づいた。心の片隅から送られてくる危険信号に耳を傾けてみる。虚言癖や盗癖のある女。自分のついたうそを真実だといつのまにか思い込んでしまう女。うそをつくことや盗むことに対して、罪悪感の薄い女。そういう女には、まともな論理が通用しないのではないか。  底のほうに残っていたコーヒーをすすった。胃のあたりに収縮するような痛みを感じた。  いったん悲観的な方向に傾くと、いろいろな場面が次々とよみがえってきた。介抱してくれた亮子に礼を言いに行ったとき、真っ白に塗られたチェストをちらりと見た千鶴に、「返してほしい、なんて言いませんよね」と、不安と警戒心のこもった目で聞いた亮子。映画を観に行った日に、嬉々《きき》として手作り弁当を持参した亮子。吉川の部屋でよろめいた亮子。その豊かな胸に吉川の手が当たった瞬間、「わたし、男の人にこんなことされたのはじめてです」と微笑《ほほえ》んだという亮子。千鶴の前でいきなりセーターをたくし上げ、ブラジャーの上から乳房をつかみ、陶然とした表情で揉みしだいた亮子……。  どう考えても、ふつうの感性や常識を備えた二十九歳の女性が、やったり言ったりすることではない。時間がたてばたつほど、千鶴には亮子に取りついた不気味なものの正体が見えてきた。  ——わたし、男の人にこんなことされたのはじめてです。  亮子の口から吐き出されたそのフレーズが、別の光景に重なる。吉川に抱かれている亮子の光景だ。  ——彼女は、もしかしたら、自分の想像の世界で、何度も何度も智樹さんに抱かれたのかもしれない。胸を触られた感触を思い出して……。  それはとりもなおさず、亮子が想像しながら自分を慰めていたということではないか。  吐き気を覚えた。  想像の世界で吉川に抱かれたことを、現実の世界で抱かれたように思い込んでしまっているのではないか。妄想が膨らんで、彼女の内部では現実になってしまったのでは……。  ——ひょっとしたら彼女は、わたしが思っている以上にしたたかな女なのかもしれない。智樹さんに胸を触らせたのも計画的だったのではないか。  自分が言ったことが、既成事実になるように仕向けたとしたら、本当にしたたかな一筋縄ではいかない女である。  千鶴は、亮子が吉川から〈真実〉を告白されたあとどう反応するかが、心配でたまらなくなった。いまはまだ、彼を信じているかもしれない。だが、吉川の気持ちもまた、千鶴が話したとおりだとわかったとき、亮子はどういう行動に出るか。  諦《あきら》めるか、逆上するか。  千鶴にとって亮子は、〈どう行動するかがまったく読めない〉女であった。それだけに恐ろしかった。  店を出るときは、楽観的な要素は千鶴の中に一つも残っていなかった。不吉な予感に支配されていた。  家に帰るまでにも、目についた公衆電話で何度か吉川に電話をかけた。いつも四度の呼び出し音のあと、留守を知らせる彼の声が応答するばかりだった。千鶴が吹き込んだメッセージが入ったままになっている可能性が高いということだ。  亮子の部屋に、電気はついていなかった。それを確認して、千鶴は自分の部屋へ向かった。  九時。九時半。十時。十時半。十一時。十一時半。何度かけても吉川は電話に出なかった。電話のあとにきまって窓辺に寄り、亮子の部屋を見た。電気はついていない。  ——いまごろ、二人はどこかで話し合っているの?  それならば、電話の一本くらいくれてもいいではないか。千鶴は苛々《いらいら》しながら待った。不安が増していく。とんでもない光景まで想像した。「君への気持ちは特別なものではなかった。ぼくはまた千鶴とつき合うことにした」と切り出された亮子が、隠し持っていた刃物をいきなり吉川の腹に突き刺し、自分も命を絶って、無理心中を遂げる。  ——ばかなことを……。  救急車のサイレンが、しんと冷えた空気を震わせて響いたので、よけい恐怖で体が縮こまった。  時計の針が十二時に近づいた。千鶴は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プルリングを引こうとして思い直した。ビールではこの気持ちの高ぶりは鎮めることができない。ブランデーグラスにひと月前から手をつけていないコニャックを注いだ。オンザロックで一口飲む。胃の中にじわじわと熱が生じ、いくらか気分が楽になった。  電話が鳴った。千鶴は、受話器に飛びついた。 「もしもし?」 「千鶴か、俺《おれ》だ」  待ち望んでいた吉川の声だった。 「待ってたのよ。亮子さんと会ったの?」 「ああ」  コードレスの受話器を握りながら、寝室に入る。カーテンをわずかに開けると、向かいのアパートが見えた。二階の左端の部屋に明かりはまだない。 「電話くれればよかったのに」  安堵《あんど》感に包まれたあまりに、千鶴はすねた口調で言った。「心配したのよ。亮子さんに刺し殺されでもしたんじゃないかと思ったわ」 「ばかだな」  吉川は笑った。その笑いで千鶴は、彼の報告が〈吉報〉に分類されるであろうことを直感した。いい感触があった。 「それが……彼女が、突然、会社に来たので予定が狂った。会社の外で俺を待っていたんだ」 「じゃあ、そのままどこかに行ったの?」 「すぐに本題に入れなかったから、その前に食事をした。切り出したのは二軒目の店だよ。静かに話ができそうな店を選んだ」 「もう……終わったのね?」 「ああ、いまは家だよ」 「途中で電話くれればよかったのに。すぐにでも」 「なんだか落ち着かなくて。一人になってホッとした気持ちで、この部屋からゆっくりかけたかった」  続いて、吉川のため息が受話器から漏れた。明るさを伴ったため息だった。 「わかってくれたよ」 「本当?」 「ああ、あんなに心配することはなかった。話したらわかってくれた。俺の話すあいだ、ずっとうつむきかげんで黙って聞いていた彼女だったけど——まあ、そのせいで、俺は必要以上にべらべらしゃべってしまったかもしれない——、つっと顔を上げて、『わかりました。吉川さんにはやっぱり、千鶴さんがいちばんお似合いです』ってね」 「……」  彼女の引き下がり方が、あまりにあっけない気がして、千鶴は声を失った。本当にこんなに簡単に納得してもらえていいのだろうか。 「考えてみれば、俺は彼女の誤解の一つ一つを説明したからね、冷静に聞く耳を持てば、目を覚ましてくれたのは当然だと思う」 「そう……」 「あれ? あんまり嬉《うれ》しそうじゃないね」 「そんなことはないけど」 「ああ、わかるよ。両手を挙げて喜ぶってわけにはいかないよな。だって、君との友情は壊れたも同然なわけだし、俺は俺で、男として彼女に気を持たせるようなつき合いをしてきたことの責任を痛感する」  吉川の声が沈んだ。「一つだけ、完璧《かんぺき》に俺に非があるのは、あのセーターのことだ」 「セーター?」 「あれは、本当は受け取る気はなかったんだ。手編みのセーターってのは、なんだかひどく重苦しい意味があるように感じられるからね。だけど、彼女が『いらないのなら捨ててくださって結構です』と言って、押しつけるようにして置いてったんで仕方なく家に置いといた。ああいうのは、人にあげられるものじゃないだろ? 捨てるわけにもいかないし、そのままにしておくのも可哀想《かわいそう》な気がして、というより、単純にもったいなく思えたのと、単純に興味を持ったのとで、袖《そで》を通してしまった。ふらっと会社に着て行ったのを、君に見られた。土曜日で人が少なかったし、打ち合わせも入っていなかった。ついラフな格好をして行った」 「あのセーターのことでも、彼女はうそをついたわ。あなたに渡したくせにまだ渡していないって」  ハッと思い出した。「わたしが、彼女にセーターのことを言ったんだわ。あなたが着ていたことを」  あのときの驚いたように見開いた亮子の丸い目、さまよわせた視線を思い出した。彼女としては、吉川が好意を受け入れてくれたことが予想外で、とてつもなく嬉しいことだったのだろう。それがまた誤解を生んだ。彼女の思い込みに拍車をかけた。 「わたしもばかだったわ」  千鶴は言った。「あなたが黙っていたのに、それをわざわざわたしから……」 「君のせいじゃないさ。俺の単純さを笑ってくれ。彼女の魔法の手にほだされた俺を。素早く作るうまい家庭科理。ざっくりと編んだ暖かそうな手編みのセーター。まあな、そういうのは俺の憧れでもあったからね」 「セーターくらい、わたしも編めるわよ」 「……」 「編んでほしいなら編んであげるわよ」  亮子が身を引いてくれたという喜びと、身を引いてもなお彼女の影がちらついている悔しさとで、涙声になった。 「無理するなよ。君らしくもない」 「でも、わたしだって……」  亮子という女友達は失ったが、いい意味で自分の中で彼女が生きていく気がちらとした。彼女への対抗心から千鶴はしゃべっていた。「いちおう手先を使うインテリア・コーディネーターよ。編み物だってその気になればできるのよ。料理だって……。ただ、いままでは仕事優先できただけ。そんなことに割く時間が惜しかったのよ。でも、これからはわたし……あなたの好きなこともちゃんとするわ」 「千鶴……」 「意地を張るのはやめたの」 「それこそ君らしくない」  電話の向こうで、吉川は小さく笑った。「俺、気づいたんだよ。俺たち、すごく似ているなって。俺もすごく意地っぱりだった。見栄っぱりだった。だからこそ、もう少し踏ん張るということができずに会社を辞めた。あんなひどいことを君に言ってしまった。美意識がどうとか価値観がどうとか、いまの性格を変えないと必ず行きづまるようなことを言ってしまった。だけど、そのこだわりこそを俺は愛していたんだ、と気づいた。いまのままの千鶴でいい」 「智樹さん」  いますぐ抱き締めてほしかった。千鶴は甘えた声で言った。「もっと早く気づいてほしかったわ。こんなに長いあいだほったらかしにされて、わたし……寂しかった」 「ほっといてよ、は君の口癖だろ?」  二人は笑い合った。  電話を終えて千鶴がカーテンの隙間《すきま》からのぞくと、亮子の部屋にはまだ明かりが灯っていなかった。     6  真っ暗な部屋に、カシャカシャという音だけが響く。空気を切る音。闇《やみ》を切る音だ。  彼女はそれを持って、玄関のドアを開けた。もう高いヒールを履く気はない。  階段を降りる。巨大な壁のようにその建物がそそり立っていた。「こんなところに住んでいる女なんて大嫌い」とつねに思い、見上げてきた建物だった。  黒いセーターに黒いパンツをはいたペンシルのようなほっそりしたシルエットが、闇に溶け込んでいる。  雲の切れ間から月がのぞいた。半月だ。師走《しわす》の冷えきった空気をかいくぐって、彼女の手にしたものに半月の光が届いた。  刃先がきらりと光った。  親指と薬指を指輪と呼ばれる輪の中に入れ、人差し指を立て中指を軽く曲げ、小指を指置きに添える。それぞれの指が覚えているその心地よい場所。  美容師・重松亮子は、愛用のはさみを握って、今村千鶴の住むマンションヘ向かった。  シャキシャキ……カシャカシャ……     7  千鶴は夢を見ていた。  夢の中で、亮子はにこやかに笑っていた。千鶴は鏡の前に座り、肩には花柄のケープをかけている。亮子は千鶴の後ろに立ち、鏡の中の千鶴に向かって微笑《ほほえ》んでいるのだ。 「どんな髪型がいい?」 「そうねえ」  千鶴は、軽くカールのついた髪の先を指にくるくる巻きつけた。 「お任せするわ」 「ねえ、千鶴さん」  亮子の目がいたずらっぽく輝いた。「イメージチェンジしない?」 「イメチェン?」 「千鶴さんって、仕事ができる女って感じだもの。ショートカットにして軽快な雰囲気にしてもすごく似合うと思う」 「そお? じゃあ、やってみようかな」  これは夢なのだ、と皮張りの椅子《いす》に座っている千鶴は、頭の隅で思っている。夢ならば、いくらでも髪をカットしてもいい。覚めればまた髪の長い自分がいるのだから。 「好きなように切って」 「はい、承知しました」  亮子はおどけたように言って、はさみを使い始めた。  カシャカシャ……シャキシャキ  リズミカルな気持ちのいい音がする。  髪に強い力が加わったように感じた。 「痛い」と、千鶴は言った。「引っぱらないで」 「引っぱってなんかいないわ」  亮子の声は、異様に低かった。鏡の中で亮子の顔が、みるみる膨らんでいく。あっという間に、目が血走り、口が耳元まで裂け、鬼のような形相に変わった。 「やめて」  千鶴は椅子から立ち上がろうとしたが、張りついたように動かない。  亮子が手にしたはさみも巨大化し、その刃先から鮮血がしたたり落ちている。 〈亮子さん、やめて!〉  夢だということも忘れて、千鶴は無駄な叫びを振り絞った。たいていこういう場合は、声になどならないのだ。  そして、たいていの怖い夢のように、ふつりと目が覚めた。  枕元《まくらもと》の時計は、四時半をさしている。夜明け前で室内は暗い。遮光カーテンから朝陽が遠慮がちに注ぎ込むまではまだ間がある。  ——なんて嫌な夢なの。  背中や額に冷や汗をかいていた。やはり深層心理で、亮子をまだ恐れているということだ。彼女があっさりと身を引くはずがない、とどこかで思っているせいだ。  千鶴は、スタンドの明かりをつけた。密閉度の高いマンションだが、師走の外気の冷たさがわずかな隙間から忍び込んでくる。リモコンを使って、暖房のスイッチを入れた。  と、ふっと耳元に冷気を感じた。左のほうだ。左のほうだけ、耳元が嫌に涼しい。  ——まさか……。  手を動かす前に、心臓が高鳴り始め、耳に触れる寸前にはあまりの鼓動に張り裂けそうになっていた。  ——ない!  そこにあるはずの髪の毛がない。  いつもなら、何げなく手を伸ばし、そのあたりにあるうるさいほど多い量の髪を耳にかける。その分の髪の毛がないのだ。  動くのが怖かった。けれども、いつまでも凍りついたようにベッドに居続け、真実に目をそむけ続けるわけにもいかない。  千鶴は、氷の塊のように感じられる心臓のあたりを右手で押さえ、左手は左の耳元に当てた格好で、おそるおそるドレッサーの鏡に近づいた。  瞬間、空間が傾いたかと思った。異様にねじれた格好の女が、ぱっと映った。ねじれて見える原因は、左右の髪がアンバランスなせいだ。  右の——いや、鏡では右に映るが、実際は左だ——髪が耳の下の線でぷっつりと断ち切られている。 〈うそ……〉  目をこらし、次に目を細めた。目の錯覚であることを祈った。が、髪の長さは変わらない。  弾かれたように鏡に身を乗り出した。首をよじり、後ろのほうを見た。左の耳の下から後頭部の中ほどまでばっさりと髪が断たれている。横一直線にだ。太い三つ編みをするために指でつまみ取った束ほどの量。  自分の右半分が、洗練された大人の女で、左半分がおかっぱ頭の少女のようだ。なんとも滑稽《こつけい》で奇妙な光景だ。 「嫌っ、嫌っ、嫌っ!」  千鶴は、狂ったように叫び、狂ったようにかぶりを振った。短く切られた髪の先が、びしびしと左の頬《ほお》や目を打った。  頭を抱え込んで、ドレッサーにつっ伏した。涙がどっと湧《わ》き出てきた。もうどうにもならない。元には戻らない。わたしの髪はこのままだ。大正時代のおかっぱ娘みたいな頭ではどこへも行けない。もう何もできない。 「返してよ。どうにかしてよ。嫌よ、こんなの」  泣き続けた。涙が涸れるほど泣きじゃくった。  玄関でポトリと音がした。朝刊が配達されたのだ。  その音で、千鶴はようやく正気に戻った。切られた髪を嘆いていても、どうにもならない。  ——亮子……。  心の中でその名前を呼び、おぞましさに身悶《みもだ》えしそうになった。鳥肌が立った。もう、さんづけでなどとても呼べやしない。  夢などではなかった。亮子はここに来たのだ。その手に、カット用のはさみを持って。この鋭利な断ち口は、プロの使うはさみを用いたとしか考えられない。  吉川から電話があったことで安心し、その内容にかすかに不安を覚えたものの、想像していたような修羅場が避けられたことに肩の荷を下ろした千鶴は、ブランデーをもう一口飲んで、一時半ごろベッドに入った。亮子は、千鶴が熟睡したころを見計らってこの部屋に忍び込んで来たのに違いない。あんな夢を見たのは、彼女が持参したはさみが耳元で立てた音に影響されたせいかもしれない。  ニューヨークに行っているあいだ、千鶴は亮子に鍵《かぎ》を預けた。その気になれば、いくらでも合鍵は作れた。  ——亮子は合鍵を作ったんだわ。  何のためにかわからない。こういうときのためか、単なる彼女の盗癖を満足させるためか。  震える手で、カーテンを開けた。夜がしらじらと明け始めている。向かいのアパートはまだ薄暗い影の中にいた。亮子の部屋を見ても、どこも何も変わってはいなかった。  千鶴は、カラーゴムで髪を束ねた。左の短くなった部分の髪が耳にばさりと被《かぶ》さる。だが、ほんのわずかでも、左右がアンバランスなことの苦痛が軽減した。  リビングルームに行き、受話器を取り上げた。吉川に電話しなければいけない。——ねえ、あなたの考えは甘かったわ。亮子は、わたしたちが考える以上に恐ろしい女だったのよ。わたしを見ればその意味がわかるわ……。  彼に言おうとする言葉が、頭の中から溢《あふ》れ出しそうになっている。  だが、受話器を耳に当て、最初の数字を押した瞬間、千鶴の指先からすうっと血が引いた。  何の反応もなかった。かしゃかしゃと、数字をいくつも押した。やはり手応《てごた》えはない。  ——通じない!  電話機をどかし、後ろの壁を見た。電話線のモジュラーが抜けている。抜いた憶《おぼ》えはない。ざわざわと不吉な予感が彼女を襲った。  コードの先を見つけたとき、千鶴は「やめてよ」と情けない泣き声を出していた。それは、無残に切断されていた。 「亮子よ。亮子がやったんだ。なんて女なの。ひどい」  言いながら、切断されたコードの先を壁に何度も叩《たた》きつけた。どこかに怒りをぶつけなければ、気が変になりそうだった。  ハッと手を止めた。このまま終わるはずがない、という不安がじわじわと背中を這《は》い上ってきた。  就寝中に合鍵を使って忍び込み、起こさぬように一束の髪の毛だけを切り取り——右側を下にして寝ていたのだろう——、ついでに電話線も断ち切って出て行く。——正常な神経の人間にはとてもできない行為。犯罪行為だ。  ——犯罪行為?  亮子のことを聞きに訪れた二人の刑事の顔が浮かんだ。印象の似通いすぎた二人。やはり彼女は、あの殺人事件に何らかのかかわり方をしていたのではないか。いや、あの殺人事件だけではなく、ほかにも……。彼女に不穏なものを感じ取ったからこそ、刑事たちはここまで、そしてその友達にまで調査に来たのではないか。  ——彼女が以前に犯罪行為を犯していて、警察の目を容易に逃れられたので、それで大胆になって次の犯罪行為に出た?  いや、亮子自身の中にもともと眠っていたある性癖が、失恋という痛手を受けて、目を覚ましてしまったと考えてはどうか。それほど、吉川への愛が大きかったということだ。それは、多分に彼女のほうの思い込みが大きかったのだが……。  ——わたしにも責任がある。  千鶴は、部屋を見回した。この部屋に亮子が来た。佐久鯉《さくごい》を立派に調理してみせてくれた。あの夜。千鶴は、彼女の乳房に触った。あれは、あやまって手が触れたなどというものではない。千鶴が自分の意志で触ったのだ。あのとき、亮子の官能が呼び覚まされたのではないか。  ——人に触られると、こんなに快感なのか。  ——こんなことをされたのははじめて。  ——こんなことを男の人にされたのははじめて。  あれは、とりも直さず、彼女が処女《バージン》だったことを意味するのではないのか。二十九歳という年齢は関係ない。  同性の千鶴に胸を揉《も》まれ、官能の味を覚えた彼女は、愛する吉川とそういう状況になるように計画的に作り出した。官能の入口に立った彼女は、さらに奥に突き進んで行こうとした。満たされない部分は、自分の想像の世界で自分の手で慰めて……。 「わたしのせいでも……あるんだわ」  千鶴はひとりごちた。力が抜けて、椅子《いす》に倒れ込んだ。  不法侵入。傷害罪? 殺人未遂?  ——れっきとした犯罪行為に違いないのだから、通報しなさい、千鶴。  その声を、もう一人の自分が押しとどめる。  ——一人の男をめぐっての三角関係のもつれ。痴話げんか。彼女がしらを切れば、どうなるの? 「わたしは合鍵なんか作ってません。彼女の家で話し合いを持ち、口論になって、包丁を持ち出されたので、はさみで応戦しただけです。そのとき髪の毛を少し切ってしまいました」とでも言い訳されたら。警察は、男女間のトラブルには介入したがらない。  胸の大きさの違いを天から授かった相性の良さだと解釈してしまったおめでたい自分に、何の責任もないと言えるのだろうか。「彼女は、わたしの胸に触るなどのレズ行為をしかけてきました。彼もわたしの家に来て、胸に触りました。これは、わたしたち三人の問題です」——彼女のあのおちょぼ口から、その種の言葉が淡々と語られる様子を想像するうちに、あの双子のような刑事たちの姿が脳裏から薄れていった。  ——ともかく、智樹さんに知らせるのよ。  千鶴は、気持ちを奮い立たせた。あれだけ親しい友達づき合いをしてきた彼女なのだ。まだ話し合う余地は残されているだろう。今度は、一人ずつではなく、二人して熱意と誠意をもってぶつかるのだ。そうすれば、きっとどうにか道が開ける。  こんな頭では外に出られない。千鶴は、クロゼットからもうかぶるつもりのなかった毛糸の帽子を探し出した。前髪だけのぞかせて、すっぽりと髪を包み込む。急いで身じたくを整えて、外に出た。     8  電話のベルが吉川智樹を目覚めさせた。  手を伸ばしたが、電話機には届かない。いつものことだ。電話機は、製図用の机の上に置いてある。その机は、ベッドからあと三十センチで届く距離にある。  まだ五時だ。こんなに早くにかかってくる電話は……と思い、眠気が飛んだ。急を要する電話に違いない。  ——千鶴だ。  亮子の家は、千鶴のすぐ目の前だ。昨夜帰宅した亮子が、電話のあとで千鶴の家に〈殴り込みに行った〉可能性も考えられる。二人は何らかの話し合いを持った。が、互いに激昂《げつこう》し、傷つけ合うような修羅場に発展した……。  想像がエスカレートした。傷ついた千鶴が、助けを求める電話を、こんな早朝によこしたのかもしれない。 「もしもし」受話器を耳に押し当てた。 「亮子です。こんなに朝早くにごめんなさい」 「あ、ああ、君か」  亮子のほうだった。吉川は、なんとなく違和感を覚えた。 「ゆうべ一晩、じっくり考えたんです、わたし」 「え? あ、ああ」 「わたしにはやっぱり……とてもショックだったんですよ」  ショックと言いながら、亮子の声はどこか明るい。そのことに吉川は安堵《あんど》も覚えた。二人のあいだに、自分が想像したような事態は起こらなかったのだ。 「だから、一晩、眠らずに考えたんです。でも、いくら考えてもやっぱり、吉川さんには千鶴さんしかいない気がして」 「あ……」  まあね、とも、そうだね、とも何とも答えようがなかった。 「ふっきらなくちゃ、と思ったんです。でも、なかなかそうできなくて」 「……」 「それで、わたし、田舎に帰ることにしました」 「田舎って、確か東北のほうでは?」 「ええ、盛岡からさらに田舎です。雫石《しずくいし》って知ってます?」 「あ、ああ、いつだったか、飛行機が落ちたところ?」 「あの少し手前です」 「そう。……じゃあ、いまの美容院を辞めるってこと?」 「そうです。もともと、親戚《しんせき》に勧められて世田谷の美容院に助人《すけつと》みたいな形で呼ばれただけですから。そこが閉まっちゃったら、戻ればよかったんです。もうちょっと東京に住んでみようかな、と好奇心や野心や欲を出したわたしが間違いでした。それに、いまのアパート、取り壊しの話が進んでいるようですし」 「帰るのか? でも、両親はもういないとか」 「話しませんでしたっけ? わたし、子供のころに両親を亡くして、叔父《おじ》の家で育てられたんです。そこは盛岡市内ですけど、生まれたのはずっと田舎です」 「じゃあ、親戚の家に?」 「いえ、そこにはもう帰るつもりはありません。でも、この腕がありますから、あっちのほうでも仕事は見つかります。市内にアパートを探します。東京より物価が安くて住みやすいですし」 「そうか、君のためにはいいかもしれない」  帰ることに大賛成というふうに聞こえないように、吉川は注意した。しかし、声にはホッとした気持ちが表れてしまった。そこで、こう言い添えた。 「東京に……嫌な思い出しかなかったとしたら、すごく責任を感じる。すまない」 「そんな、吉川さんの責任なんかじゃありません。わたし、楽しかったんです。千鶴さんみたいなお友達もできたし」  やっぱり昨夜は、千鶴の家になど向かわずに、自室でじっくりと自分の将来について建設的に思いめぐらしたということだ。吉川は、ホッとした思いで胸が暖かくなるのを感じた。 「それで、吉川さんにお願いがあるんです」 「お願い?」  暖かくなったばかりの胸に、小さな氷の塊が投げ込まれた。 「わたしの決意を固めるために、一緒に生まれ故郷の山を見てほしいんです。わたし、本当は……一度でいいから、あなたと行ってみたかった」  呼び方があなたに変わって、吉川はドキリとした。 「見てほしいって、亮子さん……」 「そのくらいのお願い、きいてくれますよね。わたし、ずっと耐えてきたんです。本当は涙が涸《か》れるほど泣いたんです、あれから。一人きりで」  さっきまで明るかったと思った声が、震え出した。 「ぼくはどうすれば……」 「六時か七時頃の新幹線で盛岡に行きます。盛岡の駅で待っています。新幹線の改札口で。一緒に懐かしい生まれ故郷を見て、わたしの再スタートを祝ってください。それでわたし、心新たに頑張れるかもしれないんです」 「しかし……」 「お願いです。もう二度と、二度と、東京には来ませんから」  二度と、を二度繰り返し、亮子は涙声になった。思いつめたような声だった。 「二度と来ないって、まさか……」  その表現に、吉川は不吉な意味を嗅《か》ぎ取った。  ——来てくれなければ、二度とあなたの前に姿を現さない。  そういう意味ではないのか。死、を連想した。深読みにすぎるだろうか。 「わたし、本気なんです。あのとき、わたし……嬉《うれ》しかったんです」  吉川の全身から血の気が引いた。深読みではなかったことを知った。 「来てくれますよね、吉川さん」  声がわずかに低くなった。 「わかった。わかったから……おかしなことは考えないでくれ」  吉川はそう言って、電話を切った。  ——俺《おれ》は、彼女の願いを拒否できるはずがない。  彼は、頭を抱え込んだ。  ——彼女は気づいている。  さっきの、彼女のあのドスのきいたようなセリフではっきりした。  ——そうだ、あのときだ。あのとき、彼女がよろめいたのは意図的にだったろう。俺の手が彼女の胸に当たってしまったのは、俺が意図したものではない。だが、しかし、俺は自分の指を動かした。確実に動かした。彼女のはちきれそうなほどの膨らみに興味を持ち、欲望に抗《あらが》えなくなって手のひらを強く押しつけ、そして指に力を入れて、揉《も》むように円を描いた。  あの感触。あの感触を自分の体は憶《おぼ》えているし、彼女の体も憶えているのだ。そうに違いない。  ——俺は、千鶴にうそをついた。  亮子の意志で胸に触らされたが、感触を楽しんだのは自分の意志でだ。「男の人にこんなことされたのはじめてです」という彼女の言葉は、うそではなかった。  ——うそをついたのは、俺のほうだった。  それを亮子にはっきりと悟られた以上、自分の責任は免れない、と吉川は思った。いまここで彼女に自殺でもされたら、千鶴との明るい未来は永遠にやってくるはずがない。  とにかく彼女の願いをきいてあげるのだ。盛岡には行かねばならない。  吉川は、千鶴の電話番号をプッシュした。だが、呼び出し音は聞こえなかった。二度かけてみたが通じなかった。  ——いたずら電話でもあって、モジュラーを抜いているのだろうか。  胸騒ぎがした。が、とりあえずは着替えだ。吉川は、身じたくを整えるために洗面所に駆け込んだ。     9  千鶴は『白金ハイツ』の前で、ふと足を止めた。ふたたび、ふつふつと怒りがこみ上げてきた。無残な頭にされた自分が、哀れでならなかった。屈辱感にさいなまれた。  気がついたら階段を駆け昇っていた。玄関のブザーを強く押した。二度、三度。  応答はない。  ドアを叩《たた》いた。二度、三度。  やはり応答はない。 「開けなさいよ」  板のドアを手荒く叩いた。居留守を使っているのかも、と思った。  それでも、中から人の声も返ってこなければ、物音さえもしない。  隣の部屋のドアが開き、髪の毛をくしゃくしゃにした水商売ふうの中年女性が半身をのぞかせた。それだけで充分、あなたを威圧したわよ、というふうにすぐに顔を引っ込めた。  千鶴に、一般人の常識が戻った。居留守を使われているのなら仕方がない。使い続ければいい。どうせ自分は、このざまだ。今日は会社には行けない。どこか近くの美容院でせめて見苦しくないようにカットしてもらわなければならない。髪の毛が伸びるまでヘアウイッグを使う手もあるが、女性が多い職場では見抜かれてしまうおそれもある。  ——いいわよ、そっちがその気ならこっちにも考えがある。あなたが出て来るまで、見張っているからね。  千鶴は、ドアに向かって内心で脅しに近い言葉を吐くと、階段を駆け降りた。  そこから二十メートルほど先にある、コンビニエンスストアの前の公衆電話ボックスに入る。吉川の家に電話をかけた。  四回のコールで、受話器が上がった。 「智樹さん? 大変なの。怖い女だったの、亮子って。あのね……」  だが、彼はただ一方的にしゃべるだけだった。流れてきたのは、「ただいま留守にしております」という留守を告げる録音テープの声だった。     10  東京駅からふたたび千鶴に電話をしてみた。だが、やはり電話線の向こうは、何の反応もない。呼び出し音すらも聞こえない。不可解だ。  いったいどうしたんだ。恐怖と不安に駆られて東京駅に来てしまったが、千鶴の電話のことを思って吉川は躊躇《ちゆうちよ》した。だが、その躊躇を発車を告げるメロディが断ち切った。時刻はまだ七時前だ。吉川は「やまびこ」に飛び乗った。  亮子はこの列車に乗っているのか、もっと前の新幹線で盛岡に発《た》ってしまっているのか。彼は、いちおう車内を捜し歩いた。だが、彼女らしい姿は見当たらなかった。  ——ひょっとしたら、俺を試しただけかもしれない。  そう期待を抱いてみた。どこか物陰から自分を見ていて、東京駅に駆けつけて新幹線に乗った場面を見て、彼女は満足したのではないか。  だが、それは淡い期待というものだった。電話の彼女の声には、切迫感がこもっていた。「絶対に来てほしい。来てくれないときは何をするかわからない」というような脅迫めいた響きがあった。  吉川は自席に戻り、途中で買った缶コーヒーを飲んだ。九時になるのを待ち、会社に電話をかけた。『シネマ村』のオープンの準備や後片づけのため、この二か月、休日出勤が続いた。濱田からも「そろそろ休めよ。ゆっくり休暇をとって英気を養うのも必要だ」と言われていたこともあり、休みをとることに後ろめたさはなかった。が、親戚《しんせき》の法事ということにした。仙台にも一軒、母方の親戚がいないことはない。ただとっくにつき合いが絶えていた。  続いて、再度、千鶴の家にトライしてみたが、電話はつながらない状態のままだった。NTTに電話して故障かどうか調べてもらったほうがいいのでは、と思いついた。その前に、新宿の勤務先に電話をしてみた。 「今村は、今日はお休みをいただいております」  と、インテリア事業部内の女性が電話に出て言った。 「あの、今日、お出になるとうかがっていたのですが」  仕事の関係者を装った。 「そうですか、申し訳ありません。けさ、急に連絡が入りまして、今日一日、お休みをいただくことになりまして」  後ろでビジネスマンが、苛々《いらいら》した顔で電話の順番を待っている。吉川は、NTTに問い合わせすることを諦《あきら》めた。第一、ここは新幹線の中である。自分の電話に千鶴から何かメッセージが吹き込まれていないかどうか聞いてみたかったが、それもいまは諦めた。盛岡に到着してからでも遅くない。  ——休んだのか?  土曜日に休みをとったばかりである。昨日は、明日欠勤するなどとは話していなかった。おかしい、と吉川は思った。しかし、いちおう彼女は、自分で欠勤する旨を会社に伝えている。電話連絡をしたということだ。外からは通じないが、自分の電話は使えるということか? それとも、何らかの事情で家の電話が使えなくなっていて、外から電話をしたのかもしれない。  仕方なく自分の席にまた戻る。斜め右前のビジネスマンが携帯電話を耳に当てているのを見て、そろそろ俺にも必需品かな、と考えた。ビジネスマンばかりの中で、厚手のパーカーとズック靴という吉川のいでたちは、まるでフリーカメラマンのようだ。  どちらにしても、いまは千鶴より亮子をどうするかが問題だ。〈死ぬ〉ことをほんの少しでも考えているとしたら、そちらを救うのが先決だ。吉川はそう思った。朝食がまだなのに気づき、車内販売でサンドイッチと缶ビールを買った。ビールは景気づけのためだった。アルコールでも少し入れておかねば、亮子という女と渡り合えそうにないと思えた。これから行こうとしているのは、敵陣と言ってもいい。  十時半前に盛岡駅に着いた。ホームに降り立って、すぐに電話機を探したが、混雑していて目に入らなかった。  電話機を探すために階段に向かおうとしたとき、「吉川さん」と背後から呼ばれた。  心臓が跳ね返り、足が硬直した。亮子の声だった。 「や、やあ。い、一緒の新幹線だったの?」  吉川は振り返った。電話するために奔走していた自分がきまりわるくなって、気が抜けたような聞き方をした。 「いえ、違います。そろそろ来るころだろうと待っていたんです」 「そ、そう」  互いの気分を和らげようと思って、吉川はぎこちない微笑を口元にたたえた。 「びっくりしたよ。あんなに早く電話くれて、こんなところに呼び出されるとは。あ、ああ、ごめん。こんなところというのは、思いもよらなかった場所という意味で、こんな田舎という意味じゃ、全然ないんだ。盛岡ってとこは、いつか来てみたかったんだよ。本当だよ」  おかしなほど言葉数が増え、おかしなほど愛想がよくなってしまった。 「そうなんですか、吉川さん、盛岡がお好きだったんですか」  気のせいか、亮子の目が潤んで見える。黒いハーフコートの下から黒いパンツがのぞき、足下はヒールの低い黒いブーツ。黒ずくめのいでたちだ。髪の毛は後ろで束ね、今日の亮子は薄化粧だ。化粧によって顔色がよくなるタイプらしく、頬紅《ほおべに》のない顔色は青白かった。 「ああ、千鶴さんには電話しておきました。心配するといけないから」 「千鶴に?」 「ええ。なかなかつながらなかったんですけど、さっきようやくつながりました。千鶴さんったらそそっかしいんですね。ゆうべブランデーを飲んで寝たそうなんですけど、あわてていて電話のコードに手が引っかかって抜けてしまったようなんです。ようやく気づいたらしくて」 「あ、あの、千鶴は、今日、会社を休んでいるらしいんだが」  やはりここでも、わずかに違和感を覚えた。千鶴は、そんなにそそっかしい女だったろうか、と思った。しかし、最後に電話を切るときに、「今日は、興奮していて寝つけそうにないわ。ブランデーを睡眠薬がわりにして寝るつもりよ」とは言っていた。 「あっ、そうなんです。千鶴さん、精神的にかなり不安定だし、とても会社に行ける状態じゃないので休んだの、と言っていました。わたしに対する罪悪感もあったんでしょうか。わたし、吉川さんに話したようなことを、千鶴さんにも電話で伝えたんです。潔く田舎に引っ込み、そこで自分の店を持つことを目標にバリバリ頑張ること。やっぱりわたしには田舎の水がいちばん合うこと。いずれ、同郷の男の人とお見合いでもして、仕事と両立できる幸せな家庭を作りたいと思っていることなどを、ちょっと照れくさかったけど素直に打ち明けたんです。吉川さんは、しょせんわたしには過ぎた男の人だった、と言ったら、千鶴さんってやさしいのね、さすがに『そんなことないわよ』と言ってくれましたけど、彼女とのあいだには何のわだかまりもまったくないんです。田舎に引っ込んでからも、彼女との友情は大切にしたいし。吉川さん、本当はびっくりしたんじゃないんですか? けさのわたしの電話。わたしが自殺でもするんじゃないかと思ったんじゃありません? 違います? あっ、そう思った顔だ」  亮子は、いたずらっぽく上目遣いに彼を見た。ヒールのほとんどない靴を履いているので、いくらか彼より目線の位置が低い。  吉川は面食らい、「い、いやあ、そんな……。だけど、正直言って驚いた」と、こちらもいたずらっぽく答えるしかなかった。 「本当にわたし、一日だけ吉川さんを千鶴さんからお借りしたかっただけなんです。一日だけ。そしたら、ちゃんとお返しするつもりだったんです。千鶴さんに……ちゃんと……お返しします」  いっそうの違和感に彼はとらわれた。借りるだの返すだの、自分をモノのように扱う彼女の表現への違和感らしかった。 「千鶴さんも承知しています。『わかったわ。一日だけ亮子さんにお貸しするわ』と言ってくれました」  本当だろうか、本当に千鶴がそんなにあっさりと「お貸しする」などという表現でOKするだろうか。しかし、電話機のコードが抜けていたことは、そうかもしれないとうなずけたので、彼女の言葉を信用する気にも傾いていた。 「ねえ、行きましょう」  亮子がさっさと階段を降り始めた。吉川は、半ば疑いを持ちながらも足が動いた。  階段を降りきって、「あっ、ちょっと待ってください」と目についた電話機のところに彼女は駆けて行った。背中をこちらに向け、どこかにかけている。後ろから見ても、指の動きがすばらしく早かった。  きっと振り返り、早く、というように手招きする。吉川は、差し出された受話器を耳に当てた。 「今村は、ただいま外出しております。戻りましたらこちらからお電話さしあげますので、お名前と電話番号、ご用件を吹き込んでください」  千鶴の留守番電話のメッセージの声だ。  ようやく千鶴の声が聞けた。だが留守電ではないか。喜びと不審の感情に同時に襲われた吉川の手から、亮子が受話器を取り上げ、わかったでしょ、というふうににこっとしてフックにかけた。けたたましい音とともにテレフォンカードが吐き出された。 「千鶴さんのとこにかけてみたのよ。お休みといっても、病気ってわけじゃないから、どこかに買い物に行ったんでしょう。千鶴さん、冷蔵庫に何もないからコンビニにでも行かなくちゃ、と話していたしね」 「あ、ああ。そうか」  さっき聞いた声は、録音されたものとはいえ紛れもない千鶴の声で、そのテープは彼も聞き慣れたものだった。懐かしさもあいまって、彼はやや安心した。そして、次の亮子の言葉で、残っていた不安も吹き飛んでしまった。 「また、どこかからかけてもいいですよね。千鶴さん、もしかしたら心配してるかもしれないから。わたしに一日、恋人を貸してくれたものの、返してくれないんじゃないかと不安になって。でもね、わたしたち、本当にうちとけあったんです。わたしがついたうそも、吉川さんの気を惹《ひ》くためだったと白状して許してもらったの。許し合うことも友情よね、って言ってくれて」  亮子が、肩をすくめて鼻をすすった。おどけた感じの泣く演技だった。「それで最後にこう言ってくれました。『わかったわ。今日一日、あなたたちをほっといてあげる』って」 「ほっといてあげる、か。千鶴らしい」  吉川は笑った。千鶴なら、なるほどそう言いかねない。彼女だけの表現という気がした。  改札口を出る。亮子はタクシー乗り場に向かう。吉川は「雫石の手前って? そこに君の生家があるの?」と、彼女の背中に尋ねた。くるりと振り返り、亮子は答えた。 「もう家はありません。両親は、小さな牧場の手伝いをしていたんです。収入にならないので、父は出稼ぎをしていました。出稼ぎ先の事故で父は死にました。長野のほうの崖崩《がけくず》れでした。母は、そのあと病気で死にました。土地の買い手がつかなくて、家は壊しましたが、小屋が残っています。干し草を入れておいた小屋が。二束三文の土地ですから、叔父《おじ》も処分するのが面倒だったんでしょう」     11  農場で有名な小岩井を抜けると、人家の数がめっきり少なくなってきた。東北|訛《なま》りの運転手によれば、二日前に降ったという雪が奥へ行くほど残っているという。民家の屋根にも十センチほどの雪が積もり、道路の脇《わき》には一メートルほどに堆《うずたか》く積まれている。だが、道路はからからに乾いており、痛いほど冷えた空気をきしませるタイヤの音が響くばかりだった。  タクシーの中にいても、外の温度が低くなっていくのがわかった。吉川は、中綿のたっぷり入ったパーカーを着て来たことが正しい選択だったと思った。外出時にとっさにはおったのだが、頭の隅に「冬の東北」のイメージがあった。 「寂しいところでしょ?」  窓外に目を向ける吉川の心中を読んだのか、亮子が黒い手袋をはめて両手を空に向けて言った。 「え? あ、ああ」  彼が考えていたのは、はたしてこの先、公衆電話があるかということだった。コンビニエンスストアなどあろうはずもないから、雑貨屋の一軒でもあれば、そこに電話が置いてあるかもしれない。しかし、ここで亮子に尋ねるのは、彼女を信用していないことを告げるようで憚《はばか》られた。この期に及んで、という気持ちもあった。  男と女が一人ずつ。男にとっては、はじめての地だが、いざとなれば女より力がある。万が一、彼女が無理心中をしかけてきたとしても、身をかわすだけの自信はある。  ——何を考えているんだ。彼女が無理心中などしかけてくるはずがないじゃないか。あんな明るい声を出し、千鶴の家に率先して電話までかけてくれた彼女が。  不安はすべて、はじめての土地への畏《おそ》れと、想像以上に寂しい土地だったことの驚きからくるのだ。ふつうの言葉が通じる彼女を、必要以上に恐れる必要はない、と吉川は自分の胸に言い聞かせた。  ——少なくとも、ほんの少し前まで彼女は自分を愛していた。いや……実際は、いま現在も愛しているかもしれない。愛を断ち切り、自分の気持ちにふんぎりをつけるために、俺《おれ》を誘い出したのだから。彼女の中に残っている愛が、好きな男の望まない形を絶対的に回避するはずじゃないか。  そう思った。思い込みたかったのかもしれない。 「そこで停めてください」  さっき人家を一つ通り越した、と思ってから三百メートルほど走ったところで、亮子が運転手に言った。  何もないところだ。「ここでいいんですか?」運転手は、訝《いぶか》しそうな声で聞いたが、「いいんです」ときっぱりと亮子は言った。  二人きりになった。道路の右手にうっそうとした森。左手は牧草地なのか、開けているが、いまは白一色の雪景色だ。森の手前にぽつんと、想像していたより大きな廃屋がある。凹凸のまるでないコンクリートの土台の高い木造の建物。上部に明かり取りのための小窓があるだけだ。もとは赤いペンキを塗ってあったのか、横に張り組まれた板は、ところどころ赤黒い色を残している。 「これが、干し草を入れておいた小屋?」 「ええ。そうよ」  亮子は、冷気で頬の静脈をうっすらと浮き上がらせて、建物を見上げた。吐く息が白い。 「小屋っていうより、なんか倉庫って感じだな」 「かもしれない」 「いま、使ってるの?」 「ううん」  亮子は、かぶりを振った。鼻の頭も赤い。「でも、不審者が入るといけないから、いちおう鍵《かぎ》をかけてあるの」 「叔父さんが管理してるのかい?」  彼女が、幼いころに両親を亡くして、叔父のところで育てられたらしいのは彼女の話でわかっている。 「叔父はもういないわ。叔母がするわけない。寄りつきもしない。ただのような土地だし」 「じゃあ、鍵は……」  妙な胸騒ぎがした。 「ええ、わたしが管理してるの」  そう言って、彼女はかすかに微笑《ほほえ》んだように見えた。「だって、誰か浮浪者でも入り込んだら怖いでしょ? もっとも、こんな田舎の山奥にやって来る物好きなんていやしないけど」 「夏に来ると、いいところだろうね」  関心をよそに向けようと、吉川はとってつけたように言った。「いまの季節は、寒くてしょうがない。俺、寒いの弱いし」  亮子は何も言わなかった。吉川をちらと見てから、前に向き直り、雪の中に足を踏み出した。ずぼり、と足が雪にはまり込んだ。誰も寄りつかないような場所ゆえに、小屋までは当然、雪かきはされていない。 「あ、あの山、あれは何ていうの?」  吉川は、亮子を引き戻させたくて矛先を景色に向けた。「ほら、あれ。岩手山?」  亮子は立ち止まり、彼が指さした方向を見た。「知らないわ」 「し、知らないって、君……生まれ故郷を一緒に見たかった……んじゃなかったのか? 故郷の山を見て、雪を見て、そして、心洗われて、心新たに……再出発を……って、そういう気持ち、わからないでもないよね、何て言うか、俺も……ここみたいな山奥じゃないけど、沼津の出身だし、不意にたまらなくふるさとの海を見たくなったりするし……」 「わたし、故郷を偲《しの》ぶとか懐かしがる、とかそういうの大嫌いなんです。ふるさとのことは忘れようとしてましたから。思い出なんか少しもほしくないんです。だから、山の名前も忘れました」  亮子は、そう言って、ゆっくりと視線を吉川に戻した。黒いコートが彼女の異様に白い顔色を浮き立たせている。 「で、でも、だってさ、亮子さん、君がここに来た目的は……」 「そう、あなたと一緒にここに来たかったんです」 「……」 「一緒に来てください」 「だけどね……」  ——あの倉庫のような建物の中で、彼女は何をするつもりなのか。  吉川は、本能的な危険を感じて、足を動かさずにいた。 「あそこに千鶴さんがいると言ったら、行きます?」 「えっ?」  ——千鶴が? 千鶴がなぜいるのだ、あそこに。 「だ、だって亮子さん、君は千鶴のところに電話を……」 「留守番電話になってましたよね」 「じゃあ……」  頬《ほお》を刺す冷たい外気が、胸のあたりを集中的に攻撃した。 「千鶴さんの声でしたよね、録音テープの声。でも、かけたのはわたしの電話。わたし、留守番電話にしたんです。千鶴さんの声をお借りしたの」  亮子は、建物に向かってふたたび歩き始めた。ずぶりずぶりと、雪にブーツを踏み入れながら、その足取りは慣れている。雪国で育った者の足の運びだった。  正面のドアへのステップが何段か雪に埋まっている。雪からのぞいたステップに彼女は足をかけた。五段上がって、ドアに手をかけた。こちらを振り向く。 「どうしたんですか、吉川さん。千鶴さんがいるかもしれない、と言ったでしょ?」 「本当……なのか?」  本当だったら何を意味するのか。その先を想像するのが恐ろしくて、吉川の足は凍りついてしまったかのように動かない。 「干し草の中は意外に暖かいんですよ」 「まさか……」 「ほら」と、亮子がハーフコートのポケットから何かを取り出した。黒い手袋の上で、それはよく見えなかった。 「千鶴さんの髪の毛です」  亮子は、右手を高く掲げ、その位置から雪の上にぱらぱらと何かをこぼした。細長い紐《ひも》のように見えた。純白の雪に、黒々とした絹糸を束にしたようなものが、何束か降りかかった。 「うそだっ!」  吉川は、ズック靴を雪の深みに取られ、何度も倒れ込みそうになりながら、気持ちだけは建物に突進して行った。  亮子は、ばたんと扉を引いた。するりと内側に入る。  半開きの扉から暗黒の空間がのぞいた。  ようやくステップにたどり着く。吉川は、純白の雪の上にふり撒《ま》かれた黒い髪の毛を指にすくい上げた。細くしなやかな髪の毛だ。千鶴のものだという確信はない。だが、顔に近づけると、記憶にある千鶴のシャンプーの匂《にお》いがした。さらさらと髪が指の隙間《すきま》からこぼれた。 「千鶴……」  最初のステップに蹴《け》つまずいた。息をぜいぜい言わせて、ドアに手をかけた。 「千鶴! いるのか?」  声をかけるのと同時に、中に飛び込んだ。  真っ暗だった。いや、背後からくる薄明かりだけでは、何も見えないに等しかったのだ。入った瞬間は、目が闇《やみ》に慣れていなかった。  がたん、と音がした。あっ、と胸をつかれて振り返る。薄く切り取られた白い空間が閉じていた。亮子が閉めたのだ! 「亮子さん、何なんだ、これは」  建物に、ぐわあん、と声が反響する。がらんとした吹き抜けの造りなのだろうか。皆目見当がつかない。 「千鶴さんがね、髪の毛を切りたいと言ったの。冬は、コートを着るでしょ? 短いほうが襟元の邪魔にならなくていいのよ。彼女、自分自身も新たな気持ちでスタートしたいと言ったの。でも、千鶴さんったら、半分で気が変わっちゃったの。左側しか切らせてくれなかったのよ。友達として、全部きれいにカットしてあげたかったんだけど……それがとても残念」  どこからか亮子の声が響いてくる。 「どこだ?」  吉川は、壊れたオルゴール人形のようにくるくるとその場で回った。 「ここよ」  耳元で亮子の声がした。手を伸ばそうとした瞬間、背中を誰かの手で強く押された。亮子以外の手であるはずがなかった。 「わっ……」  空気を切るひゅんという音のあとに、ごおっと空気が流れる音がした。音が消えたときには、吉川は、湿ったマットのような地面に腰から叩《たた》きつけられていた。  空間を落下したのだ、と悟った。  ——地下があったのか? 干し草をためておく地下?  だが、青々とした草いきれの香りなど、少しもしない。干し草の腐った匂い、泥水を含んで湿った匂いが鼻をついてくる。 「亮子さん、上にいるのか?」  吉川は声を振り絞った。腰をしこたま打った痛みと、右足首をひねった痛みで、意識が遠のきそうになっている。 「千鶴をどうしたんだ? 髪を切ったってどういうことだ。千鶴は……」 「返してあげるわよ」  はるか上から声が降り注いできた。 「千鶴さんに、あなたを返してあげるわ。お約束どおり」 「千鶴はどこにいるんだ。いますぐ、ここから出してくれ」 「心配しなくてもちゃんと返してあげるってば」  亮子は、すねたように言い、笑った。「壊してからね。あの人形のように」 「壊す、人形? 何を言ってるんだ、君は」 「わたし、とてもきれいな人形を拾ったの。少し顔は汚れていたけど、洗えば汚れは目立たなくなったわ。服の破れもちゃんと繕った。でも、あの子が来て、『返して』と言ったの。わたしはとっさにうそをついた。これはもらったものだって。でも、あの子には通用しなかった。自分が捨てたものだと見破った。あの子は、わたしから人形を奪い上げて、焼却炉に放り込んだ。そして、焼けこげてぼろぼろになった破れぞうきんみたいな人形を、『ほら、あげるわ』と言ってわたしにくれた」  彼女の声から抑揚が消えていた。 「あの子……って、その子と千鶴が関係あるわけじゃないだろ? 亮子さん、こんなばかなことはやめるんだ。君はわかってるのか? 自分が何をしているのか……」  遠く、高いところで、重い扉が閉まる音がした。その虚《むな》しい響きに、彼の意識は薄れていきそうになる。雪に濡《ぬ》れたズボンの裾《すそ》の冷たさが、体にしみる。頭を強く左右に振った。鈍痛がある。すえたような腐ったような匂いのせいだ。  目が闇に慣れてきた。頭上はるか上に小さな四角い窓がある。そこから、斜めに明かりが差し込んでくる。ほこりの細かな粒子が空間に舞っているのが見えた。  ぎゅっと手に力を込めた。何かをつかんだ。腐りきった湿った草だ。取り出されず放置された干し草。いつからここにあるのか想像もつかない。自分の居場所を確かめるように、彼は尻《しり》の下あたりを手でまさぐった。  何か固いものに指の先が触れた。メモ帳に添えられた紐つきの鉛筆ほどの長さだ。もっと細くて、もっと冷たい。そして、節がある。  ——何だろう。  吉川は、それを明かりにかざしてみた。  最初は、鶏の骨かと思った。犬でも食い散らかして放っておいたものが、干し草に紛れて運び込まれたのだと。  しかし、形状が少し違っていた。それが何かに思い当たった瞬間、彼は叫び声を上げて投げ出していた。  それは、人間の指の骨らしかった。     12  ——智樹さんは、早起きするような人じゃなかったんだけどな。  二度、かけてみたが、電話は留守番設定になったままだ。どこかへ外出中なのだろうか。もう出勤したあとなのか。それとも、寝たふりをしているのか、亮子のように居留守を使っているのか。  しかし、居留守の可能性も考えて、「わたしです。千鶴です。電話線を切られたので、外からしかかけられません。亮子にやられたんです。わたしたち、甘かったかもしれません。なんとか電話を復旧させます。だから連絡くださいね。今日はうちにいます」  フックを指で押して、すぐに別の番号を押した。亮子の電話番号だ。居留守を使っているのなら、この電話の呼び出し音が彼女の耳に届くはずだ。  亮子は、家にいるのかいないのか。ここは、駅への通り道になっているが、少なくとも電話をかけているあいだは彼女は通らなかった。  だが、四度呼び出し音を数えたあと、受話器が上がる音がした。千鶴は身構えた。亮子の声を息を呑《の》んで待った。 「はい、今村です。お電話ありがとうございました。今村は、ただいま外出しております。戻りましたらこちらからお電話さしあげますので、お名前と——」  かけ間違えたのか、と思った。聞こえてきたのは、自分の声ではないか。留守番電話に応答メッセージとして吹き込んだ録音テープの声。  時間をおいてまたかけてみた。やはり、番号は亮子の家のもので、流れてくる声は自分の声だ。  ——どういうことなの、これは。  わけがわからなかった。なぜ彼女が、自分の電話に千鶴の声を応答メッセージとして入れているのか。第一、彼女の電話には、留守番機能はなかったはずではないか。  ——何かの仕掛けだと考えたらどうなるの?  胸をつかれた。亮子が何かの目的のために、計画的にやったものだとしたら、それは千鶴と吉川に関係したものに違いない。 「智樹さん」  得体の知れない不安が千鶴を取り巻いた。近くの喫茶店で、時間をつぶした。モーニング・サービスを流し込むようにして食べ、九時を過ぎるのを待った。  まず吉川の会社に電話をした。 「今日はお休みをいただいております」  きびきびとした若い女性の声が言った。 「今日、会うお約束になっていたのですが」 「それが、親戚《しんせき》に不幸がありまして。申し訳ありません」  ——親戚に不幸?  電話を切って、千鶴は愕然《がくぜん》とした。そんな話は聞いていなかった。ゆうべの今日で、そんな急な事態になったのだろうか。それとも、けさ早くに電話で呼び出されでもしたのか。彼の実家は沼津にあるが、親戚もその地にいるとはかぎらない。  不安な思いを指にのせて、次に、亮子の勤務先の美容院にかけた。十二月は休まず営業いたします、という貼《は》り紙を思い出した。今日も営業しているはずだ。 「重松は……ええっと、忌引をいただいております」  電話に出た女性が、吉川のケースと似たような理由を告げて、休みを伝えた。 「忌引って、どなたかが?」 「あの、失礼ですが、どちらさまですか?」 「いつもセットしていただいている者です。重松さんは盛岡のほうの出身でしたよね?」 「はい、そうですが」 「住所、わかりますか?」 「あの……どちらさまでしょう。くわしいことは、わたしどもでは……」  答えかねるなどともごもご言っていたが、千鶴は引き下がって電話を切った。  ——おかしい。  はっきりと感じ取っていた。自分の電話のコードを断ち切られたのも、吉川と亮子の〈急な欠勤〉につながっている気がしてならない。千鶴がすぐに吉川と連絡を取れないようにするために、電話のコードを切断し、髪を切ったのかもしれない。  ——亮子が、智樹さんをどこかへ連れて行ったんだわ。  千鶴はそう確信した。でも、どこに? 何のためにだろう。  わかっていることは、亮子が追いつめられている、ということだった。  片側だけばっさり切られた髪の毛を、見苦しくないようにセットしに行くどころではなくなった。電話を復旧させ、家で待機するのだ、と千鶴は決めた。それしかないと思えた。  亮子は、合鍵《あいかぎ》を使って夜中にこっそりと忍び込み、千鶴の髪の毛を切った。それは、彼女が自分に残したメッセージと考えてもいいのではないか。 「あなたの髪の毛をもらって行くわよ」  彼女は、そう言いたかったのだ。髪は女の命という。彼女は、わたしの命を断ったのだ。  自分の電話にも細工した。  ——それならば、ふたたび亮子はメッセージをよこすはずだわ。  開いているならどこでもいい。電気屋でもNTTの相談室でも、便利屋でも。千鶴は、電話を通じさせるために師走《しわす》の街を走った。     13  全身のきしむような痛みで目が覚めた。自分の置かれている状況を把握するまでに、十秒ほどかかった。ひたひたと水の落ちる音が聞こえる。頭上のほうだ。 「気がついた?」  亮子の声がして、吉川はハッと身を起こした……つもりだったが、体はぴくりとも動かなかった。両手、両足が縛られている。気を失っていたあいだに、亮子に縛られたのだろう。 「ごめんなさいね、痛かった?」  蝋燭《ろうそく》の炎が作り出す丸い明かりの輪の中に、ほの白く揺れる亮子の顔があった。 「出してくれ」  亮子は、静かにかぶりを振った。蝋燭の炎が左右にぐらりと揺れた。 「返してあげる、と言ったじゃないか。出してくれ」  不本意だが、情けない哀願口調で吉川は言った。 「ええ、返してあげるわ。千鶴さんに引き取りに来てもらおうと思って」 「千鶴はここにいないのか?」  地下室の広さはそれほどないことはわかったが、建物の全容がつかめない。 「来てもらうと言ったでしょ?」 「ここは……どういうところなんだ」 「どうって? ご覧のとおりよ」  亮子は、燭台《しよくだい》を持って、ゆっくりとかがみこんだ。干し草の敷かれていない平らな地面に燭台を置いたようだ。 「ほら、言ったとおりでしょう。そんなに寒くないわ、ここは」 「ああ、そうだね」  吉川は、ため息をついた。いや、寒い。寒くてたまらない。歯の根ががちがち震えている。その寒さを感じない君は、おかしい。化け物だ。そう言いたかったが、化け物の神経を逆撫《さかな》でするようなことは避けたかった。 「お願いだ。出してくれ。俺《おれ》は、君の願いどおりに一緒にここに来たじゃないか」 「まだ一日たってないわ。わたしは、一日借りると言ったのよ。一日たったら、あなたを返す。千鶴さんに返してあげる。何度言ったらわかるのよ」  亮子は、ヒステリックに眉《まゆ》を上げた。千鶴に返す——というフレーズが彼女を苛立《いらだ》たせ、興奮させるらしい。 「あなたは、わたしをもてあそんだのよ、千鶴さんと一緒に。その罪も忘れて清々とした顔で、元のさやに戻ろうなんて図々しいにもほどがあるんじゃないの?」  亮子は、少女のように膝頭《ひざがしら》を抱え込み、ころがされた吉川の顔をのぞきこんだ。 「そんなつもりじゃなかった。もてあそんでなんかいない。千鶴にしたってそうだ」 「うそおっしゃい」  ぴしゃり、と亮子は彼の頬《ほお》を張った。うっ、と彼はうめいた。暗い空間に火花が飛んだ気がした。 「あなた、わたしの胸を触ったじゃないの。このおっぱいを揉《も》んだじゃないの」 「それは……」 「ただ、手が胸に当たっちゃっただけだと言いたいの?」 「いや……悪かった。そんなつもりはなかったんだ。だが、手が当たった瞬間、弾力のある柔らかさを指先に感じて……」 「思わず揉みたくなったってわけ?」 「悪かった。君にはすまないことをした。だが、だからと言って、こんなことをするなんて、あんまりだと思わないか? 冷静になってみてくれ。お願いだ……」 「うるさいわね」  亮子の手が、また頬に飛んだ。吉川は、口の中に鉄錆《てつさび》の味を感じた。どこかが切れて血が出たようだ。  彼女は、黒いセーターをいきなり脱ぎ捨てた。下には何もつけていなかった。真っ白い陶器のような肌。ゴム風船を二つ、膨らまして張りつけたような、目が痛いほど大きな乳房がぶるんと現れた。 「わたしね、すごく気持ちよかったのよ。千鶴さんにこうやって胸を揉まれて、あなたにもこうやって揉まれて、あんなうっとりするような快感は、自分では得られなかった。わたし……あんなことされたの……はじめてだった」  あんなことされたの、と言いながら、彼女は右の手で右の乳房を、左の手で左の乳房を揉みしだいた。顔をのけぞらせ、目を閉じ、大きな口を半開きにし、唇の端から唾液《だえき》をしたたらせた表情は、官能に酔ったものだった。吉川は、目をそむけた。その顎《あご》を、亮子の長い指がとらえた。自分へ向かせ、「お望みどおり、やってあげるわ」と言った。  亮子は、あおむけになった吉川の胸に、どすんと馬乗りになった。衝撃を受けて、吉川はうっとうなった。 「ほら、どう? いい眺めでしょう?」 「やめてくれ」  目をつぶろうとしたのを、彼女が親指と人さし指でまぶたを強引に開かせた。目の玉がひっくり返るような痛さだった。 「ちゃんと見るのよ」  亮子は顔をぬっと近づけ、低い声で命令した。腰をくねらせる。顔が遠のき、また近づく。重力に従っておかしな格好に垂れ下がった、熱帯に棲息《せいそく》する巨大な木の実のような双《ふた》つの乳房が、すぐ顔の上でゆさゆさと揺れた。乳首が鼻の先でこすれた。それこそ、草いきれの匂《にお》いがした。 「あ……ああ……」  亮子の口から恍惚《こうこつ》とした声が漏れた。「いいわ、とても……ああ……吸って……吸ってちょうだい」 「やめて……くれ」  巨大な乳房に押し潰《つぶ》されそうになりながら、吉川はかすれぎみに言った。その邪悪な口をふさいでやるというふうに、亮子が乳房をぎゅっと顔に押しつけた。風船なら潰れるが、彼女の乳房はたっぷりと肉厚で弾力に富んでいた。 「うぐっ……」  窒息しそうになって、吉川は渾身《こんしん》の力で顔を左右に動かそうとした。 「こうされたかったんでしょう? 両側から巨大な山に責められて、押し潰されるようにして果ててみたいって。あなたのお望みどおりにしてあげるわ」  耳元で彼女はささやく。吉川の口を片手でこじ開け、むずかる乳飲み子にふくませるように乳首を押し入れた。  獣が放つようなむせ返る匂いと汗に、彼は吐き気を催した。あまりの不快感に腹の底からぐぐっと息が逆流したが、ふたの代わりをした乳房のわずかな隙間《すきま》から、風船の空気が抜けたような腑抜《ふぬ》けた音が漏れただけだった。  亮子の耳にその音は届かない。彼女は顔をのけぞらせ、左右に前後に揺れている。自分の世界に浸りきっている。 「ああ、いい、いい……もっと、吸って、口を動かして、舌を使って……ああ、そうよ、そうよ、いいわ……」  舌など使ってはいなかった。彼女の乳首が勝手に吉川の舌先に、歯先に当たってくるだけだ。そして、乳首の周囲のあずき色のぶつぶつが彼の鼻先をこする。それが乳輪と呼ばれる部分であることを彼は忘れたかった。  早くこの悪夢のような時間が去ってくれ。それだけを願っていた。  ——この女は、自分の欲望の処理に俺の体を使っている。  気が狂うほどの屈辱と汚辱の嵐《あらし》に、彼は翻弄されていた。 「ああ、いい、いくわ、いく……もう少しよ」  腰の動きが早くなった。息づかいが荒くなり、あえぎ声がかすれ、高まった。  すっぱいような何かが腐ったような匂いが漂ってきた。彼女の股間《こかん》の茂みから、その匂いが放たれているのは明らかだった。見たくはなかった。吉川は固く目をつぶり、そこを見まいとした。が、彼のデザイナーとしての想像力には勝てなかった。粘っこい透明な体液。男を受け入れる体勢になったことを示す、愛情を含んだ液体。とめどなく溢《あふ》れ出る蜜《みつ》。獲物を捕らえ、じわじわとゼリー状に固めてしまうしたたかな凶器。  まぶたの裏に、琥珀色《こはくいろ》の松脂《まつやに》の中に手足を縛られて閉じ込められた、哀れな自分の姿が浮かんだ。  ——嫌だっ! やめてくれっ! 「ああ……ああ……いいわっ……そう……もっと……もっと」  あえぎ声は強くなる。彼女の極みが迫っている。 「ああ……あっ……うっ……ああっ」  断末魔のような叫び声が一つ。  そして、唐突に声がとぎれた。舞台の黒幕がばっさり落とされたかのように。  潮が引いていくように徐々に彼女の動きが弱まっていく。  乳房が離れた。  吉川は咳《せき》こんだ。 「どう?」  馬乗りになったまま、ぞっとするほど低い声で亮子は言った。恐ろしいほどの素早い切り替えだ。 「ちゃんと見てた?」  吉川は、首も振れず、ただ口で息をしていた。 「よかった? ええっ、どうなの?」  息継ぎの音が返事だった。  亮子の手が飛んできた。叩《たた》かれる準備をしていなかったので、鼻のあたりにつんと痛みと熱を感じた。鼻血が出たようだ。鼻血が咳を誘発した。絶頂に達したあとに一時的に訪れる虚無感に、彼女は苛立っているのだろう。 「これでも、あなたは千鶴さんのほうがいいの?」  咳こみ続けた。涙が出た。 「千鶴のところに返してほしいっていうの?」  咳こみながら、彼はかすかに首を縦に振った。 「そう」  すうっと彼女の声が遠ざかった。立ち上がったらしかった。  吉川には、彼女の姿が涙でかすんでよく見えなかった。 「あんなペチャパイがいいっていうのね。うそつき」  上半身裸のままの亮子が、蝋燭の近くにいる。地べたに座り込んで、足を組み、腕を組んでいる。 「あなたも、あの女も、同じだわ。人形を焼き殺したあの子や、強欲な叔父《おじ》さんや叔母《おば》さん、ぞろぞろいた従兄弟《いとこ》たちや、人を人とも思わないあのさわ江のように」 「何が……同じなんだ」  口の中に生温かいものを感じながら、吉川は聞いた。 「貪欲《どんよく》で、ずる賢くて、うそつきで、吝嗇《りんしよく》で、思いやりのひとかけらもない」  吐き捨てるように彼女は言った。 「さわ江のやつは、ハンドルに胸を強く打ちつけて、内臓破裂で死んだ。『あんたをどこにも行かせない。どこでも働けないようにしてやる。東京は怖いのよ。あんたに思い知らせてやる』——そう言ったせいよ」 「さわ江というのは、前にいた『さわ美容室』の先生だろ? 君が……殺したのか?」  喉《のど》がからからに渇いていた。血の味が渇きを増した。 「殺したんじゃないわ。運よく死んで……くれたの。それでようやく、わたしは、自由になった。でも……やっぱり一人だった。寂しかった。そんなときに、友達になってくれたのが千鶴さんだったのに。彼女だけは、あの強つく張りな叔父さんや叔母さん、ずる賢そうな顔の従兄弟たちとは違う、もっと洗練されて知的で美しい、あこがれの女性だと思っていたのに。でも……同じだった」  亮子は、黒いパンツを穿いた足を組み替えた。上半身が眩《まぶ》しいほど白い裸身なのが異様だ。 「わたしにはね、叔父の家に預けられて以来、自分のものなど、何一つとしてなかったのよ。手先が器用に生まれつかなかったら、もっと邪険にされたかもしれない。でも、たまたまこの幸運な指があったおかげで、あの家でのわたしの存在価値があった。祖母が死ぬまではまだましだった。量の少ない細くて白い髪をおだんごにまとめてあげるだけで、すごく喜ばれた。でも、祖母が死んでからは、地獄だった。叔母はおしゃれとはほど遠い女だった。わたしに与えられる文房具、日用品、洋服、靴、帽子、鞄《かばん》の類《たぐい》は、何一つ自分のものにはならなかった。従兄弟のあいだではわたしがいちばん小さかった。最初は、みんなお下がりだった。わたしで使い終わるのがふつうだと思った。でもそうじゃなかった。叔母さんは信じられないほどのケチで、自分が不器用なせいで、わたしをとりわけ目の上のこぶのように扱っていた。下に続けて二人、子供が生まれたら、上の従兄弟たちから下がってくる衣類や靴を、わたしに与えながら彼女は言ったわ。『あなたで終わりじゃないからね。汚さないように、壊さないように使うのよ』ってね。わたしにくるすべてが誰かが使った中古品で、わたしのものにはならない。わたしを通過するだけ。一度、靴紐《くつひも》をなくしたら、真冬の夜に外に出されたわ。凍え死ぬかと思った。していたマフラーで体をくるんで思った。『ああ、このマフラーに穴をあけたらまた怒られる』と。悲しいじゃないの。子供のくせにそんなことを気遣って。汚さないように運動着を使い、穴をあけないように靴下を穿く、それが子供にとってどれだけ苦痛であり、難しいことか。わたしは、頭を使って自分のものにすることを覚えた。誰かが捨てたものを、この生まれもった器用な手先でよみがえらせることを覚えた。そう、再生することを覚えたのよ。そうやって自分のものにした。一度自分のものになったものを捨てることが、どんなにつらく悲しいことか、あなたにわかる?」 「あ、ああ……」  吉川は、間が抜けたようなかすれた声を漏らした。わかるよ、という意味だった。叔父さんの家で、何一つ自分の所有物ではなかったことが、どれだけ君にストレスを与えたのか、それはよくわかるよ、と言いたかったのだ。だが、切れた唇がひりひりして、言葉を形作るのが苦痛だった。 「叔父さんの家は、なんとクリスチャンだったのよ。笑わせるじゃないの。そのせいか、まわりはみんな、子だくさんは当たり前、貧乏なのも慈愛と清貧を大切に暮らしているせい、つつましやかに暮らすのも美徳、そんなふうに見ていたわ。宗教を隠れみのにして、堂々と貧乏でケチでいられる怠慢な生き方をしたかっただけなのに」 「し、しかし、君は、立派な美容師になったじゃないか。叔父さんの家から解放されたじゃないか」  口をあまり開けぬように、低い声でやっと言う。 「手に職をつけさせたほうがいいと考えただけよ。でも、わたしの夢と一致したのは幸運だったと言うべきね。だけど、就職させられたのは盛岡市内の叔父の知り合いの店だった。大きかったけど、典型的な田舎のパーマ屋よ。わたしの夢とはかけ離れていたわ。どこへ行っても、わたしは体格のよさを利用された。『ほら、そこのビールの箱運んでおいてちょうだい』、『椅子《いす》、こっちに移動させといて』、『さっさとみんなの食事を用意するんだよ』とね。小間使いや奴隷のように扱われた。自由になりたかった」  蝋燭《ろうそく》が残り半分になった。吉川の手や足は、寒さと縛られて血が流れないために麻痺《まひ》してきた。 「いまでも目をつぶると思い出すわ、叔母さんの言葉を。『あんたが使っているのは、全部、あたしたちが貸してやってるものだよ。あとでちゃんと返しておくれよ。貸したときのままでね。パンツ一枚もだよ』おかしいでしょう? パンツ一枚、貸したときのままで返せ、なんて。生理用品もいちいち申請した。今日はいくつ。明日はいくつ。まるで刑務所ね。刑務所のほうがまだましかもしれない。まわりから家族と思われないだけ」 「亮子さん、千鶴と俺《おれ》は……」  言いかけて、考えがまとまらずに彼は口をつぐんだ。千鶴と俺は違う、彼らとは違う、と反論してみたところで、即座に「同じよ!」という叫びとビンタが返されるのが想像できた。 「千鶴は、『あなたにあげる』と言ってくれたのよ。心からの言葉だと思えた。チェストも返せとは言わなかった。それなのに、あなたを返せ、なんて」 「返せ、と言ったんじゃない。俺たちは……互いの気持ちを確かめ合ったんだ。それには、時間がかかった。結果的に君を傷つけるようなことになってしまったかもしれない。だが……」 「俺は一人だ。二人の女の所有物になれるわけがない。すまない、ってことなの?」 「人間の心は、モノとは違う」 「千鶴と同じようなことを言うんじゃないわよ!」  亮子が、靴の先で吉川の腹のあたりを蹴《け》った。固いブーツの先が肉にめりこんだ。一時的に息ができなくなり、彼は必死で鼻の穴を動かし、空気を取り入れようとした。 「し、しかし、君は……彼女のものを盗んだ。バカラのグラスを。けれども彼女は、返してくれ、とは言わなかったじゃないか。気づいても彼女は……」  ようやく言った。 「そうよ」  亮子は、両手を地面につき、ぬっと身を乗り出した。乳房がたわんだ。「盗んだのよ。あんなケチで高級品好きな女がわたしにくれるわけないじゃない」 「そうやって……君は、いろんなところでうそをついて、いろんなところで……」 「盗みを重ねてきたっていうの? 穏やかじゃないわね。盗んだわたしが悪いっていうの? 盗むようにしむけた人間の責任はどうなるの?」  彼女の論理は狂っている、と吉川は思った。 「千鶴の日記も盗み読んだんだな?」 「酔いたいほどショックなことがあったようだったから、心の中をのぞいてあげたのよ」  亮子は、罪悪感など少しも感じられない楽しげな声で言った。「新潟の友達が結婚してしまい、さすがにあせったようなことを書いてあったわね。『もう二十九歳、まだ二十九歳。もう? まだ? どっちだろう』なんて、まるで多感な文学少女の日記。二十九歳? わたしと同じじゃないの、ふん、と思ったわ。仕事のこと、音楽やファッションや行きつけの店のこと。文学少女の悩みは、優雅で幼稚なものだと思ったわ。『かえで』という店のことも書いてあったわね。『かえでには行きたいけど、どうしても足を向けられない。智樹さんのことを思い出すのが怖いせいかしら。わたしはまだ彼に未練があるのだろうか。わたしからさよならしたくせに』そんな文章があった。ああ、『智樹さんが会社を辞めなければ、わたしたちはうまくいったかもしれない』、『彼からもらったチェストを何とかしなくちゃ。やっぱりあれも捨てるべきかしら』、『新しい恋人はできただろうか。その彼女は、大きな胸の持ち主だろうか』というのもね。ほかにはそうね……」 「もうやめてくれ」  それ以上聞くのは耐えられなかった。亮子は、千鶴が酔い潰れて寝ているあいだに、日記や手紙やシステム手帳などを盗み読んだに違いない。 「前のアパートでも、隣人のイヤリングや指輪を盗んだのか? 指輪は、死体の指にはまっていたものだろう。どこかに投げ込んでしまったからもうわからないが、そのへんにあるはずだ。説明しなくても、君はとっくに承知だろうけど」 「このこと?」  どこに置いてあったのか、彼女は左手を後ろのほうへ伸ばすと、何かをつまみ上げた。蝋燭の弱い明かりに、クリスタルの輝きがきらりと光った。それを左手の薬指にはめた。 「ほら、きれいでしょ? ダイヤの婚約指輪よ」 「死体から盗んだんだな?」 「抜き取れなかったわ、ちっとも。影山緑の部屋に、手作りのマドレーヌを持って行ったのよ。前に郵便を届けに行ったときに、お菓子作りの本があったのを見て、それとなく話をしたら、彼女が『わたし、マドレーヌってうまく作れないの』と言った。だから、自慢のマドレーヌのお裾分《すそわ》けよ。応答がなかったけど、ドアに鍵《かぎ》はかかっていなかった。ドアを開けたら……あの死体よ。その前に、男と言い争う声が聞こえていた気がしたから、殺したのはいつも出入りしている恋人だとピンときたわ。でも……わたしは逃げなかった。ふふふ、おかしいでしょう? お宮みたいにダイヤに目がくらんだのか、と思われても仕方ないわね。気がついたら、横たわった彼女の指に飛びついていた。でも、指輪はきつくはまっていて取れなかった。業を煮やして部屋に戻り、包丁を持って行った。ようやく切り取ったのはいいけど、今度はどうやっても指から抜けない。腐って骨になるまで待つしかない、と思ったのよ」 「東京では危ないから、ここに置いておいたってわけか。被害者がしていたイヤリングも?」 「あれは違うわ。わたしが誤配された郵便物を届けたときに、影山緑っていうあの女が、部屋にあげてくれたのよ。大家からわたしが美容師だと聞いたらしくて、『ちょっと後ろの三つ編みを直してくれないかしら』と図々しくも頼んできたの。隣人ですもの、やってあげたわ」 「じゃあ、そのお礼に?」 「ばかね。違うわ。あの女もケチな女よ。『ありがとう』のひとことでおしまいよ。それで、帰るときにそのへんにあったイヤリングを失敬させてもらったわ」 「泥棒じゃないか」 「わかりゃしないわよ。散らかった部屋の中からイヤリングの一つや二つ、なくなったって、人間の記憶なんて曖昧《あいまい》だから、どこに置いたのかも忘れてるわ。どこか外でなくしたんだろう、くらいにしか思わない。それに、人間、『あなた、盗んだの?』なんて面と向かって聞くような大それたこと、そうそうできやしないわよ」 「そうか。君はそういう人間心理のすきにつけこんで、盗みを繰り返してきたのか。チャンスがあれば自分のものにしてきたのか。あのバカラのグラスのように」 「そうしなければ、何一つ自分のものにはならなかったのよ」  亮子の声が低くなった。「わたしは、上手にうそをつくことを覚えたわ。五歳のころ、ゴミ捨て場で拾った人形を、もらったと言ったようにね。人の関心がよそに向いているときにくすねて、本人がなくなったのに気づいて騒ぐと、『どこかで落としたんじゃないですか』と言ってやったわ。記憶は不確かなものだから、そういうのはうやむやに終わったわ」 「しかし、そんなことが君の周囲で続くと、みんなの君を見る目が変わるんじゃないのか」  ふふん、と鼻の先で亮子は笑った。 「そうね。さわ江にはばれたわ。被害妄想の強い女だったからね。現場を押さえたわけでもないのに、とにかくヒステリックに騒ぎたてる女だった。もっとも、わたしという労働力に逃げられたら明日から困る、という頭があったんでしょうね。客の前ではにこにこしてたけど。やたらにいばり散らす自己中心的な嫌な女だったわ」 「千鶴のところに刑事が来たという。君のことを聞いて行ったそうだ。影山緑という女性を殺して逃げたまま、行方不明になっている男を、君は知っているのか?」  血と一緒にごくりと生唾《なまつば》を呑《の》み込んだ。血のほうが明らかに多かった。まさか、その男は、この建物に死体となって隠されているのでは、と思うとおぞましさに全身が震えた。 「さあ、どうかしら」  そんな男への興味はなくしたというふうに、亮子は立ち上がった。「あいつはね、わたしが死体の指から指輪を必死にはずそうとしていたときに、ふらりと舞い戻って来たのよ。自首でもするつもりだったのか、本当に殺したかどうか確かめに来たのか、とにかく放心状態だったわね。それでわたしは取り引きをもちかけたの。見逃してほしい、そのかわりあなたの逃亡を手助けするってね」 「どうやって手助けしたんだ」  答える代わりに彼女は微笑《ほほえ》んだ。ここに来たからわかるでしょ、と言いたげな顔だった。 「一日だけ、という約束は、とにかくちゃんと守るつもりよ、わたし」  そう言って、彼女は数歩後ずさった。顔をこちらに向けたまま、しゃがみこみ、床にあった何かを手に持った。  シャキリ、と空気を刻む音がした。 「何だ?」  吉川は、皮膚をあわだたせて首をそらせた。  気を失う前に降り注いできた彼女の言葉が、じわりと脳裏によみがえった。——壊してから返す、というあれだ。 「はさみよ。わたしの大好きな、わたしの愛《いと》しいはさみ」  亮子は、二つの大きさの違う輪に、太くて長い右手の親指と薬指を突っ込み、あまった三本のうち長い二本をそらせるように刃の上の部分に添え、小指を輪の横に突き出た細長い棒の上に置いた。 「美容師の使うはさみって、じっくり見たことないでしょう」  彼女はそう言って、はさみを蝋燭の炎にかざした。表と裏を交互に見せる。「わたしたちの使うはさみってね、ふつうのはさみとは違うのよ。こうやって親指と薬指を使うの。そうすると、親指と中指を使うより、疲れにくくて刃先が軽いの。切れ味もいいし音もいいわ。小指は疲れるから指置きで休ませる。軽くこの棒に添えるだけよ。指を入れるところは指輪といい、指輪の内側にぽつんとあるのが接点突起、刃が交わっているところは支点。支点の上のここが柄。刃のこっちが、そう……切れ口よ。英語で言えばエッジね。そして、先端が小刃、カッティングエッジよ。リズミカルにこうやって……ほら、いい音がするでしょ?」  亮子は、手の一部のようにはさみを自在に扱い、銀色の細長い二つの刃をシャキシャキと鳴らした。蝋燭の弱々しい炎の中で、そのエッジが鈍く光る。 「ど、どうする気だ」  恐怖に縮み上がった。 「だから言ったでしょ? そのままでは返さない、壊してから返すって」  耳元で刃をカチャカチャ、シャキシャキさせながら、亮子は楽しそうに言う。 「千鶴さんのように髪を切ってほしい? 女にとっては、髪は命だけど、残念ながら男にとっては命というほどのものじゃないわ」  ——彼女は、何を、何を切ろうとしているんだ!  顎《あご》ががちがちと音を立てた。その音が耳に響く。 「よくね、美容師って、あやまってお客さまの耳を切り落としちゃうことがあるの。手が滑って。これがまた、よく切れるのよ。ホント、耳って邪魔なのよね。美容師にとっては耳って厄介者なの」  何かに取りつかれたように言いながら、亮子は、はさみの刃先ではなく腹を吉川の頬《ほお》に押し当てた。冷たい痛みが走った。  ——ばかなことはやめろ!  声にならなかった。吉川は、必死に首を左右に振った。首のつけ根の皮膚がひきつれた。 「まだ盛岡の美容院にいたころよ。わたしはいまよりずっと太っていて、野暮ったくて、ブスだった。女の客には『胸が大きくてシャンプーのとき邪魔ね』なんて嫌みを言われて。夫の転勤で仕方なく盛岡に住んでいるという主婦がいた。美貌《びぼう》を鼻にかけている女で、なぜかわたしを気に入って、いつも指名した。彼女はセットのたびにこう言った。『あなた、いいわね。わたし、一度でいいから美容師になって、自分の髪を後ろから見てみたい。鏡じゃはっきり見えないでしょ? どんなにきれいなヘアスタイルなのか、あなたの目になって自分を見てみたい』って。気取り屋のナルシストな女だった。そのくせセコくて、『あら、今日はシャンプーしたかしら』なんてとぼけて、シャンプー代をごまかそうとしたり」  亮子は、はさみの面をひっくり返して、吉川の頬にさっきより強く押し当てた。  ——そ、その女と俺《おれ》とがどう関係するんだ。  吉川は、少しでも彼女の手から顔を遠ざけようと、首をのけぞらせた。 「耳ってね」  亮子が、左手で彼の顎をぐいっと押さえこんで自分に向かせて言う。「やっぱり、自分じゃよく見えないのよ。裏側はとくにね。自分の耳の裏が見たくない?」 「や、やめてくれ」 「見せてあげましょうか」  ゴム風船のような乳房をたわわに実らせた亮子が、顔のすぐ真上で艶然《えんぜん》と微笑んだ。 「やめてくれ」 「遠慮しないでいいのよ」  ——狂ってる、この女は。 「君は……俺のことを……愛してくれていたんじゃないのか?」  少しでも希望の持てる方向に彼はもっていった。残された方法はそれしかない。 「そうよ」 「だったら、やめてくれ。お願いだ」 「好きだから……愛しているからこそよ」  亮子は、刃の背でピシピシと吉川の頬を叩《たた》いた。そのあたりの皮膚が恐怖で感覚を失いつつある。 「自分が大事にしていたもの、好きでたまらないものを手放さなくちゃいけないときの気持ちって、あなたわかる?」  彼女の目に、きっと強い光が宿り、ちろちろと揺れた。  ——わかるさ。俺だって、千鶴と別れるとき、どんなに苦しんだか……。 「めちゃめちゃにしてから、『はい』と返してやりたかった。一度でいいからそうしたかった。あの欲ばりでデリカシーの一かけらもない、醜い守銭奴。あの鬼のような叔母《おば》に」  ——その叔母ってのと俺とを混同しているのか、この女は。 「俺を見てくれ。俺は、そいつとは違う。俺は、君のことを理解したつもりだ」  うんうん、とうなずきながら、亮子は、必死に助けを求める吉川の顔を、愛しそうに撫《な》で回した。そして、悲しげに言った。 「あなたが、わたしを変えてくれると思ったのに。変わることによって、すべてから逃れられると思った。刑事の追及もかわしてくれると思った。あなたが救ってくれると思ったのは、わたしの錯覚だったのね。残念だわ」 「話せばわかる。三人で話し合おう」  彼女は、黙ってかぶりを振る。 「そ、そうか。じゃあ……」  ひっ、と喉《のど》の奥から声が漏れて、言葉がとぎれた。 「じゃあ、どうするの?」と、亮子が促す。 「わかった。別れる。千鶴とは別れる。いいだろ? だから助けてくれ。ここから出してくれ。ばかなことは考えないでくれ」 「だめよ。あなたはまた、いつか千鶴さんのところに戻りたくなる。そしたらわたしは、また手放す苦しみを味わわなくてはいけない。苦しむのは一度きりで充分よ」  ねえ、そうでしょ? と亮子は首をかしげた。顔を撫で回していた左手が、ふたたび顎の骨をがっしりとつかむ。想像していた以上に、力のある女だ。生まれつきなのか、手を使う、体力を使う仕事で培われたものなのか。  しかし、そんなことはもう吉川にはどうでもよかった。彼の望むことはただ一つ。耳を切り落とさないでほしい。いや、正確にはそうではない。  ——ああ、考えるのもおぞましいその苦痛を、俺の肉体に与えないでほしい。  それだけだった。痛み、痛み、痛み……。  しかし、頭のどこかで、彼は考えている。想像している。待ち構えている。それが、どんな種類の痛みなのか。突き刺すように鋭く強烈か、じりじりと焼けこげるように熱く猛烈か。瞬間的か永続的か。断続的か間断なくか。  ——ああ、やめるんだ。考えるのは、予想するのはやめるんだ。待つのはやめるんだ。  すぐ目の前で、はさみの刃が、柔らかい少女の足のようにぱっくりと開脚した。  吉川は目をつぶった。もうだめだ、と覚悟した。いま願うことは、意識を失うことだった。けれども、彼は意識を失うこともなく、右の耳たぶに熱い刃の感触を受けた。そう……それは、冷たくはなく熱かった。  ザックリ……ジョキッ……ゾリッ……グリッ……ジョキッジョキッ……。  彼は、音を待ち望んだ。     14  千鶴は、電話の復旧した自分の部屋で、吉川から連絡がくるのを待っていた。もう昼に近い。二人同時に、仕事を休んでいるのがもはや偶然だとは思えない。  二人でどこかに行ったのだ。ひょっとしたら亮子の故郷なのでは……と当然、千鶴は考えたが、「育ったのが盛岡、生まれたのはもっと田舎」という彼女の言葉しか憶《おぼ》えていない。  ——こんなことをしているうちに、大変な事態になっているのでは。  千鶴は、さまざまに思いをめぐらした。亮子が無理心中を企てて吉川を誘い出した、という想像がいちばん彼女を苦しめた。亮子という女は、合鍵《あいかぎ》を使って人の家に忍び込み、恋敵の髪の毛を切ることのできる恐ろしい女なのだ。それ以上のことをするかもしれない。  しかし、一方で、それでも亮子は千鶴の友達だった。ふつうに喫茶店で話し、ふつうに映画を観、ふつうに食事をした仲だった。そういうのを「友達」と呼ぶのだ。  ——あなたは、まだ彼女を信じるというの?  千鶴は自問自答した。悩み続けた。亮子の周辺で起きたいくつかの不可解なできごとを思い返してみた。自分にとって何がいちばん大切か、考えてみた。  そして、結論を出した。吉川智樹だ。千鶴がいちばん大切なのは、彼だ。  彼の安否を第一に考えるべきではないか。たとえ、「大人同士の問題でしょう。大人二人が失踪《しつそう》したと言ってもね。欠勤届けを出したのなら心配ないんじゃないの?」と、警察に軽くあしらわれようとも。——わたしの女友達は、日記を盗み見たんです。グラスを盗みました。合鍵をこっそり作って侵入し、寝ているあいだにわたしの髪を切りました。電話のコードもです。わたしの恋人をどこかに誘い出して何かするつもりでいます。——そう訴えるのだ。  時計の針は十二時で重なった。吉川から電話はきそうにない。  千鶴は、受話器に手を伸ばした。練馬西署の捜査本部に電話するつもりだった。あれほど似ている刑事なら、どちらにつないでもらってもいい。  と、ベルが鳴った。反射的に手を引っ込めた。  ——彼からだわ。  はやる気持ちを抑えて、受話器を耳に当てる。 「智樹さん?」 「亮子です。ごめんなさい、あなたの好きな智樹さんじゃなくて」  遠くから亮子の低い声が流れてきた。アパートの部屋から聞こえる声とは明らかに違う。 「どこにいるの、亮子。あなたの電話、おかしいじゃないの。かけてみたのよ。なんでわたしの声がするのよ。智樹さんは欠勤してるわ。変よ。あなた、合鍵を使って入って来たわよね、わたしの髪を、電話を、切ったわね」 「そんなふうにたたみかけないで。せっかちな千鶴。ああ、あなたが呼び捨てにしたから、それに合わせたの。わたしたち、本当の親友になったみたいね。ねえ、千鶴」  亮子は笑った。 「彼をお返しするわ」 「えっ?」 「聞こえなかった? 愛《いと》しい智樹さんをお返しするわ」 「返すって、どこに? どこにいるの?」 「受け取りにいらして」 「ど、どこに?」  受け取り、という表現に、胸のあたりがざわざわと騒いだ。「あなた、智樹さんに何かしたの?」 「ご心配なく。ちゃんと返してあげるわよ。二人でまた、楽しい将来を語り合えばいいわ。しゃべる口はあるから。そして、聞く耳もあるから。一つはね」 「口って、耳って、一つって、亮子、あなたいったい……」 「遠慮したの。バカラのグラスを一つだけにしてあげたように」 「……」  ——いやっ、やめて、含みのある恐ろしいことは言わないで。ストレートに言って。あっ、だめ、ストレートに言わないで。だめだめ、何も言わないで。  千鶴の胸は、不吉な予感で、早鐘のように鳴っている。 「わたし、仕事柄、切るのは得意なの。でもね、やっぱり髪の毛とは勝手が違うわ」  ——な、何を切るの? ま、まさか……やっぱり……ああ、だめよ。やっぱり……なんて思ってはだめ。思えば、それが現実になってしまう! 「はさみじゃ、あんまりよく切れないわね」 「うそ」  ようやく言葉になったのは、悲しいことにそれだけだった。 「確かめればいいわ」  ふっと亮子は、ため息をついた。「じゃあ、いいわね。住所を言うわ。盛岡駅から車で来るのよ」  亮子が、すらすらと住所を言った。それは、タクシーに乗った場合に告げる行き先の手がかりらしかった。千鶴の頭は真っ白い状態になっていた。ただ機械的にそばにあったメモ用紙に、亮子の言葉を書き取った。すべてひらがなだった。盛岡、という漢字さえも思いつかなかった。  亮子は二度繰り返し、「書いた?」と聞いた。千鶴は、惚《ほう》けたように「書いた」と答えた。 「じゃあ、智樹さんが待ってるわ。さようなら、千鶴」  電話が切れた。  メモ用紙に書き取った「しずくいしのほうこう」という小学生のような文字が、紙から浮き上がって見えた。     15  そば屋のレジで、一人ずつ千円札を出し、つり銭を受け取ったときに、西岡のコートのポケットベルが鳴った。西岡も津本も大のそば好きだ。毎日そばでも構わないと津本が言うのを聞いて、「食べ物の好みも似ているな」と思ったものだ。だが、いまだに鏡をのぞいても、顔つき、体つきは人が言うほど似ているとは思えない。 「ああ、そこにあるぞ」  ポケットベルを取り出し、本部からの電話だと確認した彼に、津本が電話のほうを顎《あご》で示した。  西岡は、急いで本部に電話をした。看護婦が殺された事件のことで、今村千鶴という女性から電話がはいったという。折り返し電話がほしいとのことで、電話番号を伝えられた。 「例の女友達からだ」  津本に告げると、すぐ電話しろ、というふうに彼の指がダイヤルを回す形に動いた。  しかし、電話機はプッシュ式だ。西岡は、桜上水のあのマンションを思い出しながら、その番号を押した。電話の前で待っていたかのように、受話器がすぐに上がった。 「練馬西署の西岡ですが、お電話いただいたそうで」 「あの刑事さんたちですね?」  西岡がかけているのに、まるで二人で一人のような言い方を彼女はした。その反応に、彼は、彼女の緊迫した気持ちを直感した。 「何があったんですか?」思わずそう聞いた。 「一刻を争うんです。彼女、あっ、重松亮子です、彼女は美容師です。だから……だからじゃないわ、わたし、何を言ってるんだろう」 「いいですか? 落ち着いてください。深呼吸して」  津本が受話器に耳を近づけた。深呼吸が漏れた。 「彼女は、はさみを、はさみを持っているんです。それで、彼を……わたしの恋人です、吉川智樹を傷つけたらしいんです。さっき、ほんのさっき、電話がきました。引き取りに来い、と言うんです。さようなら、とも」 「はさみであなたの恋人を傷つけた、と言うんですね?」  津本が、西岡の言葉にハッとしたように顔を上げた。 「重松亮子は、どこにいるんです。どこから電話をかけてきたんです」 「盛岡です。いえ、盛岡からもっと奥。雫石の手前です」  ——雫石の手前?  雫石といえば、重松亮子の生家のあった場所だ。四歳までそこにいて、両親を失った彼女は、盛岡の叔父《おじ》の家に引き取られて育てられたという。盛岡の叔父はすでに病死しており、叔母《おば》が二人の娘と一緒に暮らしていたが、「この三年、亮子はうちには寄りついていませんよ。東京の美容院に出したきり音沙汰《おとさた》なしです。うちとはもう関係のない子です」というそっけない返事が返ってきただけだった。亮子の周辺を調べるために、西岡と津本は、盛岡まで一度行っていた。けれども、叔母の口から「あの子の生家はありません。処分しました」と聞かされていたのだった。彼女にしてみれば、夫の死後は亮子と無関係を通したかったのだろう。 「そこにある小屋に、智樹さん、監禁されているらしいんです。早く、早く、行ってください。いえ、もう、もう間に合いません。だから、わたし、警察に。だから、早く、早く、岩手の警察に……お願い」  泣き声で最後が聞こえなくなった。 「わかりました。くわしい場所はわかりますか?」 「え、ええ」  泣き声で震えながらも、今村千鶴は、とぎれとぎれに住所を告げた。  電話を切って、西岡は津本に言った。 「畜生、やっぱりあの女、恐ろしい牙《きば》を隠し持っていたか。岩手県警に出動要請だ。救急車も一緒のほうがいいかもしれない」     16  羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……。  いくつまで数えたかわからなくなり、また最初から吉川智樹は数え始めた。  羊を数えたら眠くなる、なんてうそだ。眠ることは意識を失うことだ。ああ、俺《おれ》の意識はまだあるぞ。こんなに頭の片方、顔の片方に熱を感じ続けている俺は、意識があるってことじゃないか。  吉川は、意識を失わない自分を呪《のろ》った。「その瞬間、彼は意識を失った」と表現していたすべての小説、ドラマ、映画の類《たぐい》を呪った。うそつきめ。  じりじり……じりじり……。  右耳のところに油蝉《あぶらぜみ》がとまっている。その蝉がけたたましく鳴いている。明日死ぬことがわかっている蝉が、この世の最後の鳴き声とばかりに声のかぎりに鳴いているようだ。  彼は理解した。痛みには音が伴うのだということを。  そして、ときどき全身の骨がきしむような叫び声を上げる苦痛の中で、ほんの耳かき一杯の安堵《あんど》を覚えた。  ——ああ、俺の耳は生きている。機能している。蝉の声が聞こえる。  いまは、夏なのか。  しかし、俺の耳はどうしたのだろう。どれだけ切り取られ、どこにあるのか。ああ、せめて手が触れることができたら、その形状のほどがわかるというのに。  女は消えた。あの女はいない。風船の化け物はいなくなった。暗い。暗い。暗黒だ。蝋燭《ろうそく》の炎が消えてから、ここは暗黒の世界、闇《やみ》の世界だ。今日はたぶん、どんよりした曇天だ。明かり取りから光が差さない。いや、もしかしたら夜なのかもしれない。  彼は考えた。頭の中に、思いつくかぎりの言葉を並べた。手も足も自由にできぬ彼には、そうすることしかできなかった。そうやって、痛みを散らした。痛みと感じぬように、言葉で紛らした。  だが、ときどきそれはやってくる。  ずっきん。  背中をそらせるほどの激烈な衝撃が。熱し直した焼きごてを、容赦なく押し当てられるときの衝撃。  ずっきん、のあとは、また、じわじわじわ、だ。そして、どくどくどく、と血液が行き場をなくしてさまよう様と、心臓が自分の送り出す血液の量を忘れてパニックになる様が続く。  ——ああ、なんてことだ。なんてざまだ。ぶざまだ。阿鼻《あび》地獄だ。  ——阿鼻地獄だって?  ——なぜ、不意にこんな言葉が浮かんできたのだろう。俺は、記憶にあるかぎり、こんな語彙《ごい》を話し言葉で使ったことも、書いたこともなかったのに。なぜ突然、生まれてきたのだ。 「それは、おまえがもうじき死ぬからさ」  左の耳元で誰かがささやいた。  もう頭を動かす気力も残っていなかった。 「誰だ? その声には聞き憶《おぼ》えがあるぞ」  彼は声に出した。 「当然じゃないか。おまえの声だよ」  左の耳元で、自分が答えた。  笑い声が闇に轟《とどろ》いた。それは、自分の笑い声ではなかった。女の笑い声。  ——あいつだ、あいつだ。俺の耳にはさみの刃を入れたあの女。  しかし、それが誰だったのか、吉川は思い出せなくなってきた。  ——恨んでやる。憎んでやる。あの女。地獄に落ちろ、おまえなんか。俺と一緒に落ちろ。  ふわりとまぶたの奥を、衣のようなものがよぎった。  白いワンピースを着た、緩やかにパーマのかかった美しい髪の女だった。  ——千鶴……。  今村千鶴。その名前は憶えている。なぜ憶えているのか。  ——そうだよ、俺は、彼女のために、いや、彼女のせいで、ここにいるんだ。  吉川の体内に、むらむらと熱い怒りが湧き起こった。  ——おまえが、あんな女と友達にさえならなかったら、俺は……。  ビデオテープが巻き戻るように、彼の脳裏で画像が巻き戻った。千鶴が、吉川のものだったあのチェストを粗大ゴミ置き場に放置し、あっさりと踵《きびす》を返す姿が映像となって現れた。「それ、いただいてよろしいですか?」千鶴の背中に声をかけたのは亮子だ。「どうぞ、どうぞ、捨てるつもりのものでしたから」と、千鶴は初対面の女ににこやかに答える。亮子は、「じゃあ、いただきます」と、はにかむように言い、軽々とそのチェストを持ち上げる……。  ——おまえが、あのチェストを捨てさえしなければ、おまえはあの女と知り合うこともなかった。  吉川の怒りは、ためらうことなくまっすぐに千鶴に向いていた。自分と亮子との出会いも、千鶴が仕組んだことのように思えてきた。  ——畜生、すべておまえのせいじゃないか。おまえがあの女と友達でいようなどと気まぐれを起こしてくれたおかげで、俺は、形がいいと自慢だった耳を一つ失った。いや、それだけじゃない。俺はこんな暗いところに閉じ込められている。誰も助けに来てはくれない。俺はやがて死ぬ。俺は……千鶴、おまえのせいで死んでいくんだ。 「おまえが憎い、おまえが憎い。千鶴、千鶴、おまえが憎い。おまえのせいだ。おまえさえいなければ俺は、おまえと出会いさえしなければ俺は……」  吉川は、闇の中で、ぶつぶつと念仏でも唱えるようにつぶやき続けた。  どれだけそうしていたであろう。目の前の景色がぷつりと消えた。彼の脳裏から千鶴の姿が消えた。  意識を失ったのだが、そのことに吉川智樹は気づいていない。次に彼が何かを考える瞬間は、継続した時間の延長に存在するのだった。     17  千鶴が吉川と対面したのは、盛岡市内の救急指定病院の中でだった。彼は、集中治療室にいた。意識を失った彼の頭には、雪のように真っ白い包帯が巻かれていた。  集中治療室から廊下に出た。 「命に別状はないそうです。止血手当てがされてましたからね。切り取られた右耳は……現場にはなかったようです」  一緒に駆けつけた練馬西署の西岡が、岩手県警の刑事とふたことみこと話したあと、千鶴のところに来て言った。指定された新幹線の中で会ったとき、彼が西岡と名乗らなかったら、千鶴はこの刑事をもう一人の津本とかいう刑事と間違えてしまうところだった。もっとも、どちらの刑事であろうと、そんなことは千鶴にはもうどうでもいいことだった。 「亮子が持って行ったんだわ」  千鶴はつぶやいた。「智樹さんの耳を」 「重松亮子の行方は、全力を挙げて追っています。必ず捕まえますよ」  西岡の声は、千鶴の耳には届いていなかった。  エピローグ     1  半年が過ぎた。  千鶴は、桜上水のマンションから千歳烏山《ちとせからすやま》のマンションに引っ越した。新築なので家賃は少し高くなったが、出費を抑えてなんとかやりくりすることに決めた。ほぼ同じ広さだ。けれども、部屋の様子は以前とはずいぶん違う。もう食器類にこだわることもなくなった。飲み口に金色の縁どりのあるコーヒーカップを並べるようになったし、益子《ましこ》焼でも有田焼でも九谷焼でも伊万里《いまり》焼でも、もらいものは何でも並べた。賑《にぎ》やかな個性を無理やり楽しもうとした。意識的に、以前と違う生活スタイルにしたかったのだ。  忘れたかった。変わりたかった。  それには、引っ越すのが一番手っ取り早かった。亮子の住んでいた『白金ハイツ』を見ながら暮らすことなど、一日たりともできそうになかった。  怖かった。亮子の行方はまだ知れない。  殺人、死体遺棄、殺人未遂などの容疑で指名手配された重松亮子は、忽然《こつぜん》と姿を消した。警察は、すぐにも行方を追って捕まえるようなことを息巻いていたが、百人で追っても彼女を捕まえることはできなかった。  吉川智樹は、事件のあと三か月ほど、実家の近くの大学病院で静養していた。精巧な人工外耳を作るためもあった。その病院さえもマスコミは嗅《か》ぎつけて、一時はレポーターがどっと押しかけた。『はさみを持った女殺人鬼』の話題は、週刊誌やワイドショーに派手に取り上げられたのだった。千鶴は、音沙汰《おとさた》がなくても吉川の思いやりを感じた。彼は、ひとことも千鶴の名前を出さなかった。つまり、三角関係に陥ったために亮子という女性の狂気が増幅したのだということを、明かさなかったのだ。警察ももちろん発表は控えた。  ——恋人の驚くべき犯行に気づいた彼を、重松亮子は郷里に呼び出し、すでに一人男を殺している小屋に監禁した。殺すには忍びなくて、愛する人の〈一部〉だけ持って姿を消した。罪の清算をするつもりで、自殺するにふさわしい地を求めて消えたのかもしれない。  マスコミの大方は、そういう推理を下していた。そして、「重松亮子はすでに死んでいるのではないか」との見方をしていた。菊地哲史の白骨化した死体は、小屋のある敷地内に埋められているのを発見された。 「女性の殺人鬼」というこの猟奇的な事件には、視聴者の多くも興味をそそられたらしく、犯罪の特集を組んだ番組などに続々と情報が寄せられた。 「美容師が使うようなはさみが、十和田湖畔に落ちていたのを見た。そこに身を投げたのではないか」とか「阿蘇《あそ》山の噴火口に向かう百七十センチくらいの女性を見た」とか……。「富士山の樹海で、びしょ濡《ぬ》れになった黒ずくめの女を見た」というような幽霊話に近いような目撃談まで含めると、数十件はあった。  どれも警察がひととおりは確認するのかどうか、千鶴にはわからない。だが、「何か進展がありましたらご連絡します」とあの西岡という刑事に言われたきり、いまだに千鶴のもとには電話がない。  千鶴は、事件後、吉川とは会っていない。最初の見舞いのときに病室の前で、母と祖母が死んでから一時期、母親がわりのようになっていた吉川の姉から「これは、弟の言葉ですけど」と前置きされて、「見舞いには来ないでほしい」ときっぱりと言われた。「落ち着いたら、こちらから連絡します。それまでどうかそっとしておいてください」と。  吉川の気持ちは、痛いほどわかった。時間しか彼の傷ついた心を癒《いや》せるものはないのだ。     *  その吉川から、うっとうしい梅雨の合間に、待ち望んでいた手紙がきた。彼の筆跡の封筒を見た瞬間、胸に熱くこみ上げるものがあった。許してくれた、と思った。ようやく恐怖の体験から立ち直ってくれたのでは、と期待した。  だが、手紙の内容は期待したようなものではなかった。   『拝啓 千鶴、元気ですか?  引っ越し先の住み心地はいかがですか? 僕もそろそろ仕事に復帰するつもりです。欠損した部分の人工外耳もできました。もともと耳の機能には支障がなかったのですが、切断の具合が複雑だったので、時間がかかりました。  最近では、こう思うようにしています。指ではなく耳でよかったと。しかも耳の一部で。指を一本でもなくしていたら、僕のようなデザイナーは図面を描くのも難しくなります。耳なんてたいしたものではないのだ、と思えるようになりました。  それでも、まだ、君の顔は見られそうにありません。君に会いたくないというのではなく、君に会わせる顔がないと言うべきかもしれません。  あの日のことは、思い出したくもありません。あれから、暗いところや草の匂《にお》いのするところは、まるでだめになりました。夜でも明かりをこうこうとつけて寝ています。芽吹く春も苦手な季節になりました。 「わたしと会うと、あの日のことを思い出してしまうからいやなの?」と君は聞くかもしれません。それは少し違います。  僕は、自分が許せないのです。僕は、あのとき、あの闇《やみ》の中で、ずっとずっと君のことを恨み続けていました。重松亮子のことなど、最後はすっかり頭から抜け落ち、ほとんどを君が占めていました。それは、君への愛ではありません。憎しみです。はっきりとそうでした。  僕は彼女から、君の髪の毛を見せられました。あのときは君のことが心配でたまらなくて、この身を投げ出しても救い出そう、と真剣に思ってあそこに飛び込んだのは本当です。けれども、あの闇の中では、君が一体どうなっているのか、身に危険が迫っているのか、どうなのか、すっかり考える余裕を失っていました。それどころか、君のせいで僕がこんな目に遭うのだと君を非難する言葉ばかりが浮かんできました。すべての責任を君に押しつけたのです。  僕は君にうそをつきました。そんなことも忘れて、僕は君を恨み続けていたのです。  そんな自分が許せないのです。極限状況にいたから仕方ない、とは誰にも言ってほしくないです。僕がしたような体験をしていない人間には誰にも。  自分の心が癒されるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。癒されるものではないのかもしれません。たとえ癒されても、僕の重松亮子への罪は消えないと思います。彼女がいまどこにいるのか、わからないから恐ろしいのではありません。彼女が僕に残した思い出が恐ろしいのです。僕たちに。  彼女の指にはまっていたダイヤの指輪を僕が見たことで、彼女の犯した罪がほぼ特定されました。彼女の歪《ゆが》んだ物欲に、恵まれない生い立ちが影響していたのだとか、都会での孤独と失望がより彼女の心を屈折させたのだとか、テレビでは心理学者と評される人たちがあれこれ分析していましたね。でも、本当に彼女の心を理解できるのは、この世に二人しかいない気がします。僕と千鶴の二人です。  重松亮子は僕に、「壊してから返す」と言いました。その彼女は、僕たちと出会ったとき、すでに人間として壊れかかっていたかもしれません。しかし、彼女を完全に壊してしまったのは、いま思うと、僕たち二人なのかもしれません。その意味でも僕は、彼女への贖罪《しよくざい》の気持ちを消すことができないのです。  あの小屋の近くに、看護婦を殺した男が埋められていたことには、僕はさほど驚きませんでした。彼女に告白されたわけではありませんが、もうわかっていたのです。彼女が逃亡を助けると言って、男を小屋にかくまい、あの地下室に突き落とす場面を、僕は何度も夢で見ました。並の男以上に力のある女性です、彼女は。どうやってあそこから死体を引き上げて、庭に埋めたのか。いまでは、一つの謎《なぞ》になっていますね。  しかし、それほどの恐ろしい女だから、罪の意識を感じる必要はない、という意見には僕はうなずけません。僕は自分なりに、彼女への償いの仕方を考えていきたいと思います。  どうかいままでどおり、ばりばり仕事に励んでください。  君の精進と幸せを心より祈っています。                         敬具   千鶴へ                       吉川智樹』     2 「マンションの内装なんだが。君に頼みたい」  園田課長に渡された図面を見て、千鶴は、あっと声を上げるところだった。  住所は、桜上水。以前、亮子が住んでいた『白金ハイツ』のあった場所だ。 「そういえば今村さん。君もあの辺に住んでいたんじゃなかったか?」 「えっ? あ、はい」  この仕事は担当したくない、と言うと、理由をあれこれ詮索《せんさく》されそうだった。  千鶴と吉川とのつき合いを、職場ではっきりと知っていた者はいなかった。重松亮子が三角関係のもつれで男性を監禁し、暴行を加えた、と報道されたときも、吉川の名前を聞いて直接、千鶴に問い質《ただ》す者はいなかった。だが、吉川が濱田耕司の会社にいたとどこかから噂《うわさ》を聞きつけ、うすうす千鶴との関係に勘づき始めたのは、やはりカンのいい辻洋子だった。 「今村さん。髪型をがらりと変えたのも、やっぱり事件のショックから?」  男の子のようなベリーショートのヘアスタイルにもようやく慣れたころ、給湯室で辻洋子がそう話しかけてきた。 「いえ、別に深い意味はありません」  千鶴は、そう答えておいたのだが……。 「それがね、この物件は厄介でね。もともと急《せ》かされた仕事なんだよ」  園田は、もう千鶴が担当するものと決めつけて、顔をしかめた。「あとは内装を手がけるばかりになっているんだ。ふつうこういう状態で、うちには回されてこないだろ? だがね、建て主と『Sホーム』が、内装関係で意見を衝突させたらしくてね。お宅のセンスでは、うちのはたとえきれいに建ったとしても売れないでしょう、と言い出して。予算的にも折り合いがつかなくなったらしい。そこで、わが社の『サンク・システム』を入れたい、となってね」 『サンク・システム』というのは、『五木ホーム』のオリジナルのシステム家具の商品名である。部屋の間仕切りに使うクロゼットや、引き出しつきのベッド、造りつけの机や本棚、食器棚、オーディオボードなど、手頃な値段で見栄えのいいシステム収納家具の開発に力を入れてきたおかげで、若い学生相手の高級アパートのオーナーなどにはとても好評である。販売率も上がってきている。 「でも、収納家具などは、設計の段階で選んでもらわないと、こちらもいろいろ大変じゃないですか」 「そこは、それ、ほら、こちらも先方の条件に合う部品だけ出すってことで」  部品といっても、ベッドや机などの大きなものを指す。 「とにかく、今村さん。現場に行って見てきてくれないか。今日は、幸い雨も上がったことだし。どこにどう部品を納めたらいいのか、うちので入れられる部品は、いくつあるのか。図面だけじゃわからんからね」  改装のときなどは、現場に行くのも珍しくはない。断る理由がなくて、千鶴は気がすすまないながらも引き受けてしまった。   『白金ハイツ』のあったところは、隣にあった二台ほどのスペースの駐車場も入れて、三階建てのマンションが建ち始めていた。もう外壁を塗るばかりになっており、外からは住める状態に見えた。外壁は、淡いクリーム色だという。  千鶴は、去年の末まで住んでいた自分のマンションと見比べた。コーナーに三角出窓を持つ真新しいクリーム色のマンションに変身したら、その姿は『ロイヤルノヴァ』と比べて少しも遜色《そんしよく》ないだろうと思われた。  千鶴は、預かった鍵《かぎ》を使って建物の中に入った。図面を見て、部屋のタイプに三種類あるとわかっていた。一階と二階が同じ間取りで、三階の真ん中の部屋をのぞいた両脇《りようわき》の二部屋がちょっと違う。  最初に、一階と二階のひと部屋ずつをチェックして、三階へ向かった。左端の部屋に入った。玄関ドアの向きは、以前の建物と同じだ。千鶴は、玄関の前の通路で、向かいの自分が住んでいたマンションを見た。そそり立っていた。威圧感があった。胸苦しさを覚え、千鶴は目をそむけた。自分が住んでいたときには感じなかった感覚だった。  ——亮子が住んでいたのは、この真下あたりだったろうか。  思い出すまい、想像すまい、と千鶴は事務的に部屋を見て回った。以前とまったく違う顔をした部屋であることに安心し、怖がる必要はないのだと思った。  第一、亮子が生きているはずがない。これほど長く、誰にも目撃されずに生き延びていられるわけがないのだ。あのとき電話で「さようなら」と言ったのは、彼女が自殺することをほのめかしたのだ。わたしも「さようなら」と返してあげるべきだった、と千鶴はあとで何度も考えた。  部屋の中心に立ち、携帯したカメラで四方を撮影した。床にはシートが敷かれ、壁紙はまだ貼《は》られていない。照明器具も配線のみだ。これならまだコンセントも増やせるだろう。千鶴は図面に感じたことをいろいろと書き込んだ。  次は洗面所だ。真ん中の部屋と違って、トイレとは別室になっている。ドアには汚れぬように厚紙が貼ってある。そのドアを開くと、正面は洗面台の鏡だった。  ——この洗面台、撤去し忘れたのね。  ほかの部屋には、洗面台すらもなかった。建て主がインテリア関係に文句をつけて、別の会社に頼む気になったのなら、洗面台も『五木ホーム』の勧めるものに替えるのがふつうだ。  ——連絡しなくちゃ。  千鶴は、カメラを肩にかけ、図面を脇に抱えた格好で、大型のショルダー鞄《かばん》からシステム手帳を取り出した。そこに洗面台のことを書き入れる。  ふっと後ろで空気が動いた気がした。振り返った。何もない。リビングルームの窓も開いていない。風が入り込んだのではなさそうだ。  ——気のせいか。  前に向き直った。  ぬっ、とそれは突然、肩越しに現れた。鏡に姿を映した。 「りょ、亮子……」  千鶴は、ハッと振り返った。カメラと図面を落とした。  亮子がいた。黒いセーターに黒いパンツ、黒い編み上げのブーツにパンツの裾《すそ》を突っ込んだ長身の彼女が、わずかに首を右側に傾け、口を歪《ゆが》めていた。突き出した右手には、見憶《みおぼ》えのあるはさみが握られている。美容院で彼女が愛用していたものだ。体の一部のように器用に使いこなしていたあのはさみだ。 「い、生きてたの?」  亮子は答えない。 「やめて。来ないで!」  亮子は黙っている。黙って近づいて来る。音も立てずに、ずずっと。歩いて来るのではなく、近づいて来る。人形の背を後押しするような動きで、ずずっと近づいて来る。 「来ないで」  千鶴は後ずさった。が、そこは洗面脱衣場だ。隣が浴室で、逃げ場はない。  刃物が空気を切る。亮子が、振り上げたはさみを、千鶴に向かって宙に振り下ろしたのだ。  シャワーカーテンをつかんだ。浴槽に逃げ込み、千鶴は体を縮めた。  シュワッとビニールを裂く音がした。次の瞬間、水色のシャワーカーテンに、ざっくりと斜めの切り込みが入った。  ——亮子に殺される!  千鶴は、シャワーのノズルをつかんだ。蛇口をシャワーに合わせ、いっぱいにひねった。冷たい水がほとばしり出た。亮子に向けて水をかけた。ビニールカーテンに水の跳ね返る音が響く。跳ね返った水が、千鶴の全身を濡《ぬ》らした。  亮子が、ザザッとカーテンを一気に開けた。その顔目がけて、千鶴は水をかけた。 「やめて。亮子、やめて。こ、殺さないで」  口に水が入る。ごぼごぼ音を立てる。  視野に水の膜がかかって、ぼんやりかすんだ。ぴったりと閉じたはさみの刃先が、顔をかすめた。ピュッと血が飛んだ。ちくりとした痛みが頬《ほお》に走った。間をおかずに、またそれは振り上げられた。今度は、千鶴の胸をめがけて力いっぱい振り下ろされた。     3 「おいおい、どうしたこんなところで。インテリア工事姉ちゃん?」  ——インテリアコージネーチャン、だなんてひどい。そう呼ぶのは、この仕事の専門性を理解しようとしない現場のたたき上げの大工だろう。  千鶴は、ぼんやりとした頭でそう思った。目が覚める。薄暗い空間にいた。パステルピンクのタイルが目に入った。  窮屈だ。体のあちこちが痛い。  浴槽の中にいた。千鶴はあわてて跳ね起き、浴槽から出た。 「のんびりと昼寝でもしてたのかい?」  一目でとび職人とわかる格好をした、だぶだぶズボンの若い男が浴室の戸口に立っていた。 「あんた、『五木ホーム』の人だろ?」 「インテリア・コーディネーターです」  千鶴は、きまりが悪くなって下を向いて言った。どこも水に濡れていなければ、胸元に刃物で刺されたような跡もない。  ——あれは、夢だったのか。  そうとしか思えない。しかし、それにしてもひどくリアルな、そしてとても恐ろしい夢だった。 「カメラ、壊れちゃったみたいだよ」  とび職人は、千鶴が持って来た小型のカメラを手にして、首をすくめた。 「まさか、シャワーでも浴びようと思った、なんて言うんじゃないだろうな。水、出ないよ。作業が終わって帰るときには、水道管、締めて行くからね」 「え? ええ、すみません」  ゾッとして千鶴はシャワーを見た。使った形跡はなかった。ブルーの人工大理石の浴槽は乾ききって、水滴一つない。もちろん、水色のシャワーカーテンなども掛かっていなかった。 「そこで、誰かに会いませんでした?」 「誰かって、誰?」 「女の人です。黒い服を着た女の人」 「会わねえよ」  彼は、顔をしかめてかぶりを振った。「ここは、無断で入れないようになっている。知ってるだろ? あんただって許可をもらって入って来たんだろうよ」 「は、はい」 「幽霊でも見たんじゃないの?」  おーい、と通路で男を呼ぶ別の声がした。男は、それに「ほいほい」と返事をして行ってしまった。「困ったインテリア工事姉ちゃんがいてさ」と、あちらで、笑いながら仲間と話している。  ——本当に夢だったのかしら。  亮子の形相が、生々しくまぶたに焼きついている。だが、夢としか思えぬ状況であった。  恐怖が恐怖を呼ぶのよ、と千鶴は思った。誰の言葉だったか忘れたが、確かにそうだ。亮子のことを忘れていないから、彼女が姿を現すのだ。まるでまだ生きているように。  ——亮子は、死んではいない。彼女は生きているのよ。わたしの中に。  千鶴は、ふと少女時代の一場面を思い出した。新潟に幼なじみのサキちゃんがいた。大好きな女の子だった。ある日、千鶴は祖母から人形を二つもらった。同じ形の同じ服を着た人形。祖母は、「一つ、サキちゃんにあげるんだよ」と言った。千鶴はサキちゃんに一つをあげた。ところが、しばらくして千鶴は、その人形を川に落としてしまった。それは流されていった。千鶴は、サキちゃんのところに行き、「あげた人形を返して」と迫った。サキちゃんは「嫌だ、あたしのだもん」と首を振った。千鶴はサキちゃんの母親に言った。「あたし、あの人形、サキちゃんに取られたの」サキちゃんの母親は、娘の腕から人形を奪い上げ、千鶴の手に渡した。あのときのサキちゃんの恨めしそうな泣き顔を、千鶴はいまでも思い出す。サキちゃんは、小学校に入るときにどこかへ越して行った。  ——わたしも、亮子と同じなんだわ。うそをついて、好きなものを奪い返したわたしは、彼女と少しも違わない。  懐かしいような切ないような思いがこみ上げてきた。  わたしは、一人の恋人と一人の女友達を失ったのだ、と改めて悟った。喪失感がじわじわと体を包んだ。鼻の奥がつんと痛んだ。自分だけが無傷でいられたことは何かの奇跡としか言いようがない、と思えてきた。  カーンカーン、と近くで鉄骨を打つ工事の音がする。  気をとり直して、図面を手にした。近くのコンビニエンスストアで、インスタントカメラを買って来なくてはいけない。いまはただ、仕事に打ち込むだけだ。仕事があって本当によかった。  玄関に向かいかけて、千鶴は足を止めた。シートを敷いた床に髪の毛が一本落ちている。拾い上げた。長い髪の毛だった。少し茶色がかった細い髪。いまの千鶴の髪から抜け落ちたものでないのは明らかだ。匂《にお》いを嗅《か》いだ。千鶴の使っているシャンプーの香りに似ていた。亮子が切り取った千鶴の髪の毛……。  ——亮子は、やっぱりここに来た?  ドアの外で女の笑い声がした。亮子の笑い声のようにも、録音された自分の笑い声のようにも聞こえた。  ——あのドアの向こうに、彼女がいる?  不意に、泣きたいほどの懐かしい感情が胸を満たした。出会ったときの亮子に会いたがっている自分に、千鶴は気づいた。なぜか、さっきまでの凍りつくような恐怖感は薄れている。  ——智樹さんの言ったとおり、わたしが亮子を壊したんだわ。  出会ったとき、すでに亮子は犯罪者として崩れかかっていたとはいえ、彼女の内面に耳を傾けさえすれば、救いを求める彼女のか弱い声が聞こえたかもしれない。彼女の傷ついた人生から立ち直らせてあげることができたかもしれない。  ——友達なら、友達なら、それができたはずなのに……。  後悔の念に似たものが、懐かしさの中に混じった。  千鶴は、震える指先をドアノブにかけた。  ドアを開けたとたん、霧状の生暖かい空気が押し寄せてきた。  霧の中に、昔の亮子がいた。中途半端に伸ばした髪。揃《そろ》えない眉毛《まゆげ》。鼻の下の産毛。ふくよかな体つき。長身だが、足下はぺったんこの靴だ。  はにかむような笑顔で、のっそりと立っていた。 「亮子」  千鶴は、彼女の名を呼び、操られるように両手を伸ばした。  涙でこの女友達の顔がかすんだ。 角川文庫『女友達』平成8年12月10日初版発行          平成12年12月20日17版発行