新井 満 尋ね人の時間 目 次  |水  母《くらげ》  尋ね人の時間   第一章 夜の底から聴こえてくる音   第二章 星 の 子 供   第三章 井  戸   第四章 黒いつばひろの帽子  「あとがき」にかえて   グリムと夢二とホックニー [#改ページ]   |水  母《くらげ》  バスが止まった。  最後列のシートでうつらうつらしていた神島は、薄目をあけて前方を眺めた。最前列から一人の少年が立ち上がった。松葉杖をついていた。  奇妙なことだが、神島は松葉杖というものを初めて眺めたような気がした。 〈松葉杖というのは、不思議なかたちをしているな〉  そう思った瞬間、少年の姿が急に希薄になり、松葉杖だけがひとりでこちらの方に近づいてきた。  松葉杖の頭部は、小さな枕カバーのようなもので覆われていて、洗いたてらしく真白だった。視線をおろして行くと長細い逆三角形のかたちが眼に入ってきた。そちらの方は真黒だった。だが、ふつうの黒ではない。何度も塗り重ねられて内側から光を帯びている漆食器のような黒である。地面との衝撃を和らげるためだろうか、松葉杖の先端は白いゴム状のもので覆われている。  上端の白色と下端の白色にはさまれた黒色のつらなり。 〈美術館に展示されたオブジェのようだな〉  その配色とかたちに神島は感心しながら、同時にある違和感を感じないではいられない。部分を見ると美しいのに全体を見ると不安だったからである。 〈なぜだろう……〉  しばらくしてからその理由がわかった。身体の瑕疵《かし》を補うために、松葉杖はある。しかし、それが過剰に補われると、かえってその瑕疵を誇張してしまう。  少年は半ズボンをはいていた。右脚がなかった。  ある筈のものがない、ということを、神島は必要以上に強く見せられているような気がした。 〈だが、ある筈のものとは、いったい何だろう〉  少年は背筋をまっすぐ伸ばして通路を歩いてくる。バスの後部にある自動扉の前でいったん立ち止まり、器用に方向転換する。そのあと、コツコツとかすかな音を立てながらバスのステップを降りて行く。動作は終始正確で危なげなところは少しもなかった。  神島は、松葉杖の少年が立ち上がってからバスを降りるまでの挙動を映画でも観るようにぼんやり眺めていた。はっと我に返った。傍の旅行鞄をわしづかみにして立ち上がると、脚をもつれさせながらバスのステップを降りた。  強く鼻腔を突く排気ガスを吐いてバスが走り去った。バスストップには神島だけが残されていた。蒸し暑い空気が顔の皮膚に襲いかかってくる。粘土のようにやわらかいアスファルトが靴裏にねばりつく。  眼の前を、急な坂道が斜面を這いのぼっている。  坂道をのぼり切った高台の天辺《てつぺん》には大学病院の建物が見えた。ねずみ色のコンクリートを剥き出しにした五階建である。高台の上を横に長く伸びた建物の中央に、時計を配した尖塔があり、それは晩夏の夕空を鋭く突き刺していた。翼を広げてあたりを睥睨《へいげい》する太古の巨鳥のようである。  坂道のちょうど中頃に少年のうしろ姿があった。意外にスピードが速い。二本の松葉杖と一本の脚が陽炎《かげろう》のように揺れている。それは少年の脚のせいなのか、地面から立ちのぼる熱気のせいなのか、神島の眼にはよくわからない。  大学病院のロビーは、がらんとしていた。  待合室の長椅子にはだれもいなかった。薬局にも受付にも、人影がない。奇妙なまでに静まりかえっている。  チン、と音がした。  音のした方を振り返ると、エレベーターの扉が閉まるところだった。扉のすきまから松葉杖の少年の姿が見えた。  階数表示板の光を眺めていると、エレベーターは各階を次々に素通りして、結局、屋上まで行ってしまった。しばらくするとエレベーターだけが降りてきて、人待ち顔に扉をあけた。乗り捨てられた場合は、自動的に一階へ戻る仕掛になっているらしい。  神島は待合室の長椅子に腰をおろし、だれかが通りかかるのを待った。だが、だれも来ない。腋の下を汗が流れて行く。水分を含めるだけ含んだサマーセーターが、素肌にまとわりついて気持悪い。  それにしてもあの松葉杖の少年は屋上へ一人で何をしに行ったのだろう……。その思いが頭の隅に生まれると、すぐ頭全体に広がった。  神島は大儀である。爪の先端まで黒い鉛の疲労が詰まっていて一歩も動きたくない。だがエレベーターは神島を誘うように扉をひらいて待っている。  じっとしていることにこらえきれなくなった神島の意識が、身体を裏切って頭をもたげ、エレベーターの方へ吸い寄せられるように触手を伸ばしていくのがわかった。そうして箱の中に入ると、屋上へのボタンを押そうとするのである。 〈はじまったな……〉  神島は思う。思いながら自分自身に苦笑する。 〈しかたがないな……〉  重い腰を上げ、おもむろに椅子から立ち上がる。だれもいないロビーを横切り、エレベーターのある壁の方向へ、神島は疲労しきった猫背の自分をゆっくり運んで行く。  屋上に出ると、松葉杖の少年がうしろ向きに立っているのが見えた。金網に顔を押しつけるようにして海に落ちる夕陽を眺めている。  少年は口元に煙草《タバコ》をくわえていた。  病院の裏側は、鬱蒼《うつそう》とした松林である。それが西の方角へ数百メートルほどつづいている。松林がつきたあたりには、灰色の蛇のかたちをした海が長々と横たわっていた。蛇の皮膚の上に暗い紫色の島影があり、太陽はちょうど今、島影の向こう側へ沈もうとしていた。  落日の瞬間、太陽の光が放射されて雲の底が朱色に輝いた。埋み火に火がついたように。しかし、すぐに消えた。 「綺麗な夕陽だった……」  神島はだれに言うともなく呟く。その声に、少年が前を向いたまま反応した。 「今日のは、最低だよ」  唇の端に嘲笑の気配がある。 「最低でもかまわない。海に落ちる夕陽を見たのは、久しぶりなんでね」  少年が首をまわして神島の方を向いた。上から下まで見おろし、足元に転がっている旅行鞄をみとめると、「ふん」と言って顔をそむけ、くわえていた唇の煙草を吐き捨てた。  暗い沼沢のような松林の方から、なまあたたかい風が吹き上げてきて、神島の頬を撫《な》でてゆく。 「ぼくは、この街の生まれでね……。君も、そうかい」  少年は押し黙ったままだ。 「ぼくも子供のころは、夕方になるとよく海岸に来たものだ……。夕陽を見にね……」  神島は、自分のことが訝《いぶか》しい。見ず知らずの少年に話しかけている、今日の自分はいったいどうしたのか。一人で屋上にのぼり、海に沈む夕陽見物をする少年の孤独を破る権利はだれにもなかろう。そうと知りながら少年の横顔を眺めていると、無性にしゃべりかけたくなる。同類に出逢ったときのような親しみやすさを感じてしまう。 「君は、ここの患者かい……。そうではなさそうだな。家は、近所にあるのかい……」  少年の顔に、嫌悪の表情が浮かんだ。急に金網の傍を離れると、松葉杖の音を立てながら足早に屋上の入口の方へ歩いて行く。入口扉の前でふと立ち止まり、首だけを神島の方へ向けると、低い声でこう言った。 「もう一度言うけどな、今日のは最低だったよ。たぶん、あんたと同じくらいにさ」  端整な顔には似合わず、凶暴さを隠した歪んだものの言い方である。  あたりが薄暗くなってきた。  大学病院の屋上はもの干し場になっているらしく、何本ものロープが張りめぐらされている。すでに洗濯ものはあらかた取り込まれたあとのようだが、闇をすかして見れば、もの干し場の奥の方に白い大きなひろがりが風にはためいてひらひらしている。眼にしみるその白さが揺れ動くたびに神島の心を不安におとしいれる。  一枚のシーツだった。  緩んだロープから吊り下げられたシーツが床に接するほど垂れているのだ。風に吹かれるたびにそれは、這い、身をくねらせ、空中高く舞い上がり、一刻も静止することがない。  神島は、煙草を取り出して火をつける。彼方に展開する白いダンスを眺めながら、ゆっくり煙を吐く。一本を喫《の》み終わったが、彼の内部に生じた不安は依然として消えていなかった。もう一本を口にくわえてみた。左手で風をよけながら右手のライターに顔を近づけたとき、ふと思いついたのは、 〈このライターであの白いひらひらに火をつけてみる、というのはどうだろう……〉  闇の中で燃え上がる、白いシーツ。  その思いつきは揺れ動いていた神島の心をいっそう波立たせた。うつぶせて眠っていた神島の意識がよみがえり、ゆるゆると触手を伸ばしはじめたのはその時である。 〈また、はじまったな……〉  そうして触手は、シーツの端に火をつける。風と炎に身もだえする白いひろがり。白い肌を静かに犯してゆく炎の赤と煙の黒。その光景は、先刻眺めた落日よりも綺麗だろうか。松葉杖の少年を今から呼び戻してこようか。少年にこれを見せたら、彼は何と言うだろうか。  エレベーターで一階に降りた。  ロビーはあいかわらずがらんとしていたが受付カウンターに若い看護婦の姿が見えた。入院患者の名前を告げると、看護婦は白い指先をコンピュータの端末機に伸ばし、 「その方はただ今手術中です」  と、言った。 「いつ終わりますか」 「予定ですと、その手術は今から二時間前に終わる筈でした。おそらく手術前に予測できなかった問題が手術中に発見されたか発生したものと思われます」  看護婦は顔を伏せたまま抑揚のない声でしゃべる。 「長引きますかね……」 「それはお答えできません」 「手術室の近くで、待てますか」 「あなたのお名前は……」 「神島——」  看護婦の指先が、また端末機の上を走る。 「神島アヤノさんは、あなたの……」 「母です」 「けっこうです、手術室の隣りに患者の家族専用の待合室があります。テレビ受像機によって手術の模様を知ることも可能です。そこへいらっしゃいますか」  神島がうなずくと、 「これは、待合室に至る道順を示した地図です。まず、左手に見えます廊下を直進してください。どの角で曲がるかは地図をよくごらんになって、必ずその指示に正しく従ってください。お大事に」  神島の掌に葉書大の紙片があった。黒い矢印が、直進したり、折れ曲がったり、階段をのぼったり降りたりしながら紙片の裏面にまで伸びている。黒い矢印の行き着く場所は、遥か遠い異国のように思われた。  待合室というよりは、映画会社の試写室のようであった。正面に白色の分厚いカーテンが垂れ下がっており、あるいはその向こう側に硝子《ガラス》窓を接して手術室があるのかもしれないが、実際のところはよくわからない。  カーテンの手前には、二十インチのテレビ受像機が固定されていた。それを扇形に取り囲むように布張りの安楽椅子が二十脚ほど並んでいる。部屋の片隅には珈琲サービス用のカウンターもある。  最前列の安楽椅子の背もたれから、二つの頭がのぞいていた。頭髪の薄くなった頭は兄の一郎だろう。隣りに坐った栗毛染の女は一郎の妻のシゲ子だろう。少女が二人いた。最後列の安楽椅子をベッド代りにして、どちらも眠りこけている。二人の少女は一郎に遅くできた双子の娘の筈だが、名前の方は両方とも忘れた。  正面に置かれたテレビ受像機の画面に、母親の顔が大写しに映っている。右の鼻孔から二本、左の鼻孔からも二本、差し込まれた合計四本のチューブが頬の上を伸び、耳の方へ垂れ下がっている。  音立てず扉をあけて入ってきた神島に気配で気がついたか、シゲ子がうしろを振り向き軽く会釈した。それから、ほら、あなた、と夫の袖を引き、神島の到着を知らせた。一郎は小太りした身体に弾みをつけて立ち上がると、いかにも懐かしげに笑いながら近づいてきて早口でまくしたてる。 「どうだ、迷ったろう。え、迷わなかったのか。俺なんか、ここに来るまで二回も迷ったぞ。最初に行き着いた部屋が霊安室で二度目がボイラー室だ。ひどいもんだ。蛸の脚みたいに建て増しやがって全くこの病院は迷路だよ。と言っても、この病院にお袋を入院させることに決めたのは、この俺だからな。いまさら文句を言えた義理じゃあないが。腕が良いそうなんだ、手術の。設備だってどこよりもいい。そういう評判なんだよ。だからさ、大事なお袋を入院させるのに二流の病院てわけにもいかんだろうが。暑いな、待合室のクーラーが故障中らしいんだ。超一流の大病院がだぜ……。だが心配はするな。手術室の中は大丈夫だ、大丈夫なんだと看護婦が言っとった。ほら、見えるか。あれが、お袋だ。大手術だ。もう六時間もだ。全くひどいもんだ。おい、ともかく坐れ、珈琲でも飲むか」  神島より三つ年上の一郎は、この町でワープロやパソコンなどオフィス専用事務機を卸す商売を手広くやっている。  妻のシゲ子が近づいてきて、「このたびは遠路はるばるご苦労さまでございました」と腰を深く折って挨拶した。彼女はまだ二十代の若さである。一郎が先妻を病気で亡くしたあとシゲ子と再婚し、すぐに双子が生まれた。 「マリ子ちゃんとミエ子ちゃん、もう起きていらっしゃい。おじさまにちゃんとご挨拶するんですよ」  そう言いながらシゲ子がしゃがみ込み、眠りこけている二人の娘の頬を掌で軽く打った。白いスカートをはいて腫れぼったい眼をしたおかっぱ頭の少女がまず立ち上がり、足元をふらつかせながら近づいてくると、あらぬ方角に向かって、「おじさま、こんにちは……」と頭を下げた。  次に、黒いスカートをはいた、やはりおかっぱ頭の少女が近づいてきて、同じ科白《せりふ》を言い、ぺこんと頭を下げた。髪形も顔のつくりも背格好もそっくりで、区別のつけようがない。 「どちらがマリ子ちゃんで、どちらがミエ子ちゃんだっけ……」  神島が、背を低くしてたずねると、 「わたしが、マリ子」  白いスカートの少女が笑う。 「わたしが、ミエ子」  今度は黒いスカートの少女が笑う。 「赤ん坊のころもよく似ていたけれど今はほんとに瓜二つだねえ」 「私たちでも、ときどき間違えることがあるんですのよ……」  シゲ子が口をひらいた。 「マリ子をつかまえてミエ子と呼んだり、ミエ子をつかまえてマリ子と呼んでみたり……。主人なんてもうしょっちゅう間違えてばかりいるものですから、いつもマリ子ミエ子って両方の名前を呼ぶんですの。でも、無理に顔で覚えようとなさらないで下さいな。そんなことってだれにもできっこないんです。だから、もし白いスカートをはいていたら、その子はマリ子。もし黒いスカートをはいていたら、その子はミエ子。そう思っていただけば、たいていの場合大丈夫です。たいていの場合というのはどういうことかと言いますと、この子たちってときどき悪戯《いたずら》でお互いのスカートを取りかえっこするんですのよ」  一人でしゃべり一人で笑っている妻の話を遮るように、一郎が口をひらき、 「どうだ。故里の空気はうまいか。帰省したのは何年ぶりだ」 「三年ぶり、くらいになりますかね……」 「いいえ。マリ子とミエ子が生まれたとき以来ですから次郎さんはちょうど、四年ぶりに帰省したことになりますわ」  そう言うとシゲ子は一人でうなずく。  テレビ受像機の画面を眺めていたら、ある規則的な変化が繰り返されていることに気がついた。まず、手術室の全景が数十秒映る。次に手術台の周辺が数十秒、最後に患者の上半身が数十秒映され、これが何度も繰り返される。レンズをズームさせるタイミングが、あらかじめテレビカメラの自動コントローラーにセットされているらしい。  今、画面には、手術台に屈み込んでメスをふるっている医師たちの姿が映っている。白帽をかぶり、白衣を身にまとっている。白衣の表面に、血痕がある。白いマスクで顔面のほとんどを覆っているので表情はわからない。眼と掌だけがよく動く。ガーゼを持った看護婦が、医師の額ににじみ出た汗をぬぐっている。話し声やもの音は聴こえてこない。映像信号だけを送ってきているのだろう。 「七十歳をこえた老人にこんな手術がよく耐えられるものだな……」  神島が、ふと呟いた。  手術台上に横たわる母親の首に、ざっくりと深い傷口がひらいている。そればかりではない。みぞおちからへそのすぐ上のあたりまで細長い亀裂が走っている。血止めに押しつけられた白いガーゼが真赤に染まっている。  画面に映った手術中の患者はまぎれもなく神島の母親だった。それなのに、不思議なほど現実感がない。テレビドラマでも見せられているようにしか感じられないのである。 「特別なんだよ、お袋は。医者もびっくりしていたぞ。心臓の老化年齢を検査したらだ、まだ五十代だと……」  一郎が汗をふきながら言う。  神島の母親は、つい最近まで現役の助産婦だった。小柄なのに腕っぷしが強く、高齢になってからも足腰が丈夫だった。交差点の青信号が点滅し始めると、赤に変わる前に走って渡ろうとするような老女であった。まだ若い頃、盲腸を患ったことがあったが、それ以外は一度も医者がかりしたことがないというのが自慢だった。そんな彼女が、半年ほど前から急に食が細くなり、やがて寝込んでしまった。食道に黒いかたまりができていた。それは、わずか数ヵ月の間にみるみる肥大した。 「自分が食道癌だってこと、お袋は知っているのかな……」  神島が一郎の方を向いて言うと、 「薄々はな。だからこんな大手術もあっさり承知したんだろう。受けなければ一ヵ月もたんそうだ」  しかし、手術が必ず成功するとは限らない。万が一ということもある。母親の強い希望もあって、わざわざ東京から次男の神島が呼び戻されたのだった。 「手術は、順調なんですかね」 「まあな」 「長引いている様子だけど……」 「いいか。この手術はだな。まず、癌に冒された食道部分を切り取る。その穴埋めに、あらかじめ切り取っておいた小腸の一部分をはめ込む。どうだ、巧く考えたもんだろうが。そのあと、ひらいた喉を糸で縫う。ひらいた腹も糸で縫う。これで一丁終わり目出たし目出たしの予定だったんだが……」 「ほかにも、転移していたんですのよ」  シゲ子が二人の会話に割って入ってきた。  喉を切開してみたら、母親の食道癌は声帯にまで及んでいた。場所が場所である。食道と一緒に声帯も切除してよいか、医師団は手術を一時中断して家族の意向をたずねてきたのである。 「で、どう答えたんですか」 「承諾したさ。仕方ないだろ。しゃべれなくなるのは可哀相だが、死ぬよりはマシだからな。声は失っても、まだ眼がある。耳もある。筆談という手もあるし……。おい、どうした。顔色が悪いぞ」  喉の渇きを覚えた神島は、椅子から立ち上がろうとして足元がふらついた。もう一度腰をおろし、傍にいるシゲ子を見上げ、 「すみませんが、水を一杯いただけますか」 「お前まで病気になってもらっては困る」  一郎が覗き込むように言う。 「大丈夫ですよ」 「仕事は忙しいのか」 「そういうわけでもないけど」 「カメラマンて職業は生活が不規則だっていうからな。それでカオルさんとも巧くゆかなくなったのか」  神島が妻のカオルと別れたのは二年前のことになる。一郎の質問には答えず、黙って前方のテレビ画面を眺めていると、コップの水を運んできたシゲ子がふと大切なことでも思い出したように、 「月子ちゃんは……。ほら、昔、わたしが男の子と間違えた月子ちゃんは、お元気かしら」  今年十歳になる娘の月子は、離婚の際、カオルが引き取って、今はカオルとカオルの新しい夫と三人で暮している。 「ええ。元気のようです」 「わたし、もう一度、月子ちゃんに逢ってみたいわ。大きくなったでしょうねえ」 「月に一度、必ず逢っているんですがね」  カオルとは、そういう約束になっている。 「逢うたびに、背丈が伸びて……」 「おい。再婚する気はないか」  唐突に一郎が口をひらく。 「俺の会社にな、ものすごい美人がいるんだ。歳は多少食っているが、頭のできもいい。どうだ、いっぺん逢ってみないか」  テレビ画面が、母親の顔のアップになった。喉の傷口から血が噴き出ている。白いガーゼがあてがわれ、たちまち真赤になる。  急に眠くなってきた。目蓋がひとりでに垂れてくる。気を利かしたシゲ子が今度は熱い珈琲を運んできた。神島は、手渡されたカップを膝の上にのせ、かすみがかかった眼を凝らして真上から見おろしてみた。白い珈琲カップの輪の内側に黒い泥状のものがよどんでいた。その液面を、たった今そそがれたばかりらしい白いミルクが内側にとぐろを巻きながら沈んで行くところだった。頭がくらくらしてとぐろの内側に吸い込まれそうな気がした。  一郎がさかんに何か話しかけてくる。しかし声がよく聴こえない。シゲ子の声もよく聴こえない。神島は胃の腑の底から込み上げてくる猛烈な吐き気を感じていた。  真夜中である。  待合室には神島だけがいる。椅子に坐ってうつらうつらしている。兄の一郎とその家族は、母親の手術が終わると早々に引き上げて行った。「ここにいても仕方がない。一緒に帰ろう」と兄に誘われたが、神島はそれを断わった。せめて今夜くらいは母親のすぐ傍にいようと思った。彼女を見守りながら、夜を明かそうと思ったのだ。  しかし、神島の願いは聞き入れられなかった。手術が終わると、母親はただちに集中治療室に移され、外界ときびしく遮断された。医師と看護婦以外は肉親といえども近づくことが許されないのである。結局、これまで通り待合室の正面に置かれたテレビ受像機の画面を見つづけることになった。  テレビカメラは、手術室のカメラから集中治療室のカメラへと変換されたらしい。今、テレビ画面には、集中治療室のベッドで酸素吸入を受けながら眠りつづける母親の顔が映っている。手術後の患者はビデオカメラによって二十四時間監視される。おそらく監視センターと同じ映像が、この待合室にも送られてきているのだろう。  テレビ画面に映った母親の顔は、ひからびた葡萄に似ている。もともと小柄であった身体がわずかの間に痩せ細り、水気を失い、もっと小さく萎《しぼ》んでしまった。漂白されて真白になった薄紙のような皮膚が、浮き上がった胸骨にかろうじてへばりついている。 「全力を尽くしました」  医師たちは疲労しきった表情でそう言った。 「この四、五日が山でしょう」 「痰さえ、詰まらなければ……」  言葉少なに挨拶すると、彼らは帰るべき場所へ帰って行った。  手術は成功したのか失敗したのか、本当のところはよくわからない。ともかく一つのまつりが終わり、真白な部屋に老婆一人だけが残された。古びた縫いぐるみを修繕するように喉と腹にメスを入れられ、再び縫合された彼女は、食道と声帯を失ったのと引き替えに今、万に一つの新しいいのちを掴もうとしている。  ときどき母親は、固く閉じた目蓋をびくんと痙攣させる。眠りは浅いようである。薬によって無理矢理眠らされているせいだろうか。唇が動いて、うわごとを言う。その声は聴こえないが、もしかしたら夢を見ているのだろうか。それは、どんな夢か……。  どんな、夢か……。  草原に神島が立っている。  地平線までつづく草原である。  あたりに人影は、ない。ふと見上げると、頭上に青空が広がっている。だが、晴れているのに奇妙なほど薄暗い。空気の層が幾重にも重なっていて、空一面ビニール膜を張り付けたようである。  やがて、空がもっとも暗く深みになっている円筒形の奥の方から、小さな白いものがにじみ出てきた。  何だろう……。紙片だろうか。そうではない。ハンカチーフか。そうでもなかった。だんだん近づいてくる。そうして空中の一点で、ぱっと止まった。白い一輪がひらき、たちまち大きく膨らんだ。今度はゆっくりと妙に思わせぶりな速度で音もなく降りてくる。  落下傘であった。  ふつうの大きさの落下傘ではない。天空全体を覆いつくすほどに巨大な白い落下傘であった。 〈だれだろう……〉  見上げると、落下傘の下には一人の女がぶら下がっている。どうやら自分の母親らしい。まだとても若かった頃の母親であるらしい。しかも、全裸である。母親は沈黙したまま表情ひとつ変えず、神島が立っている場所を目がけてまっすぐに降りてくる。  尻が、あらわになっている。  眩しいくらいに白く光る大きな尻だ。そのまん中には暗い井戸が口をあけている。それがものすごいスピードで近づいてくる。大きく迫ってくる。  恐怖が神島の顔面を打った。叫ぼうとしたが、声が出ない。身体が硬直して身動きもできない。まるで自分が一本の棒になってしまったようだ。草原に打ち込まれた灰色の杭だ。  頭の上に円筒形の闇がのしかかり、その中へ吸い込まれそうになったその瞬間、脳天から腰にかけて白く甘苦い電流が走り抜けた。  気がつくと、下半身が夢精していた。  テレビ画面に映っている母親の目蓋が、またひくひくと痙攣した。  翌朝、待合室の外の廊下で神島が煙草をふかしていると、双子が駈け寄ってきた。 「おじさん、遊ぼ」 「おじさん、遊ぼ」  いきなり左右の腕を掴み、口々に言う。 「ずいぶん早いんだね」 「うん」 「うん」 「お父さんたちは、どうした」 「パパとママは、お医者さまのところ」 「お医者さまのところ」 「君たちは行かなくていいのかい」 「お医者さまと大事なお話があるから、わたしたちはおじさんと遊んでいなさいって」 「いなさいって」  双子は、顔ばかりでなく、しゃべり方も、しゃべる言葉もそっくりだ。 「白いスカートをはいているから、君がマリ子ちゃんで、黒いスカートをはいているから、君がミエ子ちゃんだね。いや、待てよ。君たちはよく悪戯でお互いのスカートを取りかえっこするという話だからな……。今朝はどっちがどっちなんだろう」 「わたしが、マリ子」  白いスカートをはいた少女が胸をそらして元気な声で言う。 「わたしが、ミエ子」  負けずに黒いスカートをはいた少女も言う。 「よろしい。では、マリ子ちゃんとミエ子ちゃん。このおじさんと何をして遊ぼうか」 「かくれんぼう」  白いスカートが叫んだ。すぐに、 「かくれんぼう」  黒いスカートがつづけた。  じゃんけんをしたらグーを出した神島が負け、どちらもパーを出した双子の方が勝った。  裏庭に出た。  ひょうたん形の池の傍に小高い丘がある。丘を迂回《うかい》しながら細い散歩道が松林の方へ延びている。松林の彼方から、かすかに潮騒の音が聴こえてくる。 「もういいかい」  神島がいきなり大きな声を張り上げると、 「まだあ——」 「まだあ——」  双子が口々に叫び、歓声を上げながら散って行く。鎖を解かれた二匹の小犬のように。 「こらあ、海の方は、危ないぞ」  だが双子は言うことを聞かない。松林の中の小道を一目散に駈けて行く。手に手を取って、わざとのように悲鳴を上げて。  神島が、双子のあとを距離を取って歩きながら、再び「もういいかい」と叫ぶと、 「まあだだよ」 「まあだだよ」  弾《はじ》けるように駈けて行く。  そのうち、双子の姿が見えなくなってしまった。もはや「もういいかい」といくら叫んでもどこからも反応がない。松林の中を行く小道は網目のように細かく交差しているのだ。  松林がつきて、急に視界が広がった。  海岸を見おろす段丘の縁に立っていた。仕方なく神島は、ポケットから煙草を取り出し口にくわえた。そのとき、 「おうい、おじさん」  渚の方で声がした。 「サイテーの、おじさん」  声のする方を眺めると、昨日、病院の屋上で出逢った松葉杖の少年が砂丘の上に立っている。 「おう、君か。また逢ったね」 「俺にも、一本くれよ」  上目遣いに少年が叫んだ。 「子供のくせに、生意気だな」 「今、切らしているんだ」 「煙草の味が、君にわかるのか」 「それじゃあ、あんたには、わかるのか」  神島は苦笑して、砂丘へつづく階段を降りた。少年の傍に近寄り、顔のすぐ前で煙草の袋を上下に振った。飛び出した一本を、少年の唇が器用に捕らえた。ライターで火をつけてやると、少年は満足そうにうなずき、やがて鼻腔から、長い白煙を吐き出した。 「お礼に、いいもん見せてやろうか」  少年の口元に薄い笑いが浮かび、すぐに消えた。 「何だい」 「いいから、ついて来い」  二人は、渚の上をしばらく歩いた。  廃船が見えてきた。砂の中に半ば埋もれている。肉を殺《そ》ぎ落とされて骨だけになった魚のようである。朽ちた木材の表面を小指ほどの船虫が這いずり回っている。 「見ろ」  感情のこもらない低い声で少年が言った。  少年の視線の先をたどると、波打際から数メートル離れた砂の上に白く丸いものが見える。細かなあぶくを吹き散らしながらひくひくと蠢《うごめ》いている。  水母《くらげ》だった。  砂丘に打ち上げられた無数の水母が帰るに帰れなくなり身もだえしているのである。  水母の皮膚は、石鹸を水で溶かしたように白濁している。神島がしゃがみ込み、ぶよぶよしたその表面を人指し指で触ろうとすると、 「馬鹿、刺されるぞ」  尖った声で少年が制した。  神島が思わず少年の顔を見上げると、その眼球の奥を瞬間、残忍な光が走るのがわかった。 「陸《おか》に上がった水母はな、こうやってな……」  少年は、おもむろに片方の松葉杖の先端を持ち上げた。それから、足元に横たわる一匹の水母の頭めがけ全身の力をこめて強く突き刺した。ぶすり、と音がした。また、突き刺した。何度も何度も突き刺した。  水母の頭にあいた傷穴から、透明な漿液のようなものが盛り上がってきた。皮膚の表面を、どろりどろりと零《こぼ》れ落ちて行く。  憑かれたように少年は、なおも水母の頭を刺しつづけている。松葉杖の先端が漿液で濡れて、白く光り始めている。それでも少年は突き刺すのをやめようとしない。  松林の方角で、子供の甲高い声がした。 「もういいよう」 「もういいよう」  双子の声が、だんだん近づいてくる。 [#改ページ]   尋ね人の時間   第一章 夜の底から聴こえてくる音  午後遅く目ざめた。  自動車メーカーが来春発表する新車ポスターのスタジオ撮影が、夜明け前まであった。朝日が昇る頃、部屋に戻り、シャワーを浴び、寝た。浅い眠りで様々な夢を見たが、目ざめと共にあらかた忘れてしまった。かたちも色も不鮮明な夢の残滓《ざんし》だけが、神島の頭の芯に今も消え残っている。  神島が棲み暮している部屋の特徴は、壁が目立つことである。訪問客はごく少ない。しかしたまに訪れる者があれば、部屋に入るなり、「なんにもないんだねえ……」と必ず言う。台所に置かれた冷蔵庫と少量の食器、あとめぼしい家具と言えば大型のベッドくらいのものだ。テレビやステレオやビデオ装置のたぐいも、ない。部屋の中に溢れていた多くの家具やモノたちは、二年前、妻のカオルと別れたとき、すべて持っていかせた。以来、極力買わないことにしている。たとえ買ったとしても、用が終わればすぐ処分する。  ベッドの下にある電話のベルが鳴った。この部屋の電話番号を知っているのは、ごく限られた少数の人間である。 「お母さんの具合、どう」  カオルの声がした。彼女は別れたあとも、ふと思い出したように電話してくる。 「うん」 「うんじゃ、わからないわよ」  日本海に面した郷里の町にいる神島の母は、二ヵ月前、食道癌の手術を受けた。 「ようやく退院できるそうだ」 「良かった。あたし、あなたとは別れたけど、お母さんと別れたつもりはないの。あなたのことはともかく、あなたのお母さんは大好きよ」 「ありがとう。お袋になり代って礼を言うよ」 「お見舞いに行きたいけど、遠いし、それに今、長いやつに取りかかってるの」  カオルは、イギリスやアメリカの小説の翻訳をしている。 「だからさ、せめて何か送ってあげようと思ってるの。何がいいかな」 「何もいらないと思うよ」 「食べるものは駄目よね」 「ああ。まだ流動食らしい」 「あたしの訳した本なんか読みたくないだろうし」 「まあね」 「月子は、おばあちゃんに絵を描いて送るって言ってたわ」 「それはきっと喜ぶと思う。お袋はぼくが撮って送ったヌード写真だってずいぶん喜んでくれたからね。息子の作品だと言って。昔の話だけれど」  二人の間にできた娘の月子は、今、十歳になる。カオルが引き取って育てている。 「ねえ」とカオルが言った。 「え」 「今あなた一人なの」 「どうして」 「ねえ一人なの」 「ああ」 「なんだ」 「どうかしたのか」 「あなたの隣りにだれか寝ているような気がしたの。音もしたし」 「寝返りを打ったんだ」 「そう」 「君が出て行ってから、このベッドはずっと一人きりさ」 「進歩ないのね」 「ないね、全く」 「少しは努力したら」 「二度としない。する気もない」  カオルがしばらく黙った。 「ねえ」 「うん」 「英語であなたのような男の人を何て言うか知ってる」 「いや」 「off the wall」 「初耳だな」 「壁に飾った額縁なんかが、ちょっとかたむいたりゆがんだりしているときがあるでしょう」 「うん」 「つまり、ズレてるのよ」 「なるほど」  電話の向こうでため息する声が聴こえた。それから「お母さん、お大事に、またかけるわ」と言って電話が切れた。  掌の黒い受話器をしばらく眺めた。できそこないのオブジェを眺めているような気がした。腕を伸ばしてベッド下の電話機におさめた。世界中の音という音が、その小さな黒光りするかたちの中に押し込まれてしまったような不思議な気分になった。天井から透明な沈黙が降りてきた。部屋の隅々まで行きわたり、ベッドのまわりを囲んだ。ベッドに寝転んだまま、周囲を見回してみた。だが、神島を取りまいている灰色の壁には、ズレを直すべき一枚の絵画も飾られてはいない。  夕方、出かけることにした。神島のポケットには山田から送られて来た秋の写真展の案内状が入っている。  カメラマンの山田は、神島と同じころデビューした。世の中に知られているいくつかの大きな賞を取ったのもほぼ同時期で、神島が受賞したすぐ翌年に山田が受賞したり、その逆だったりした。コマーシャル・フォトの撮影によって普段の生活をまかない、年に一、二度、自分の好きなテーマを決めて個展をひらく。そういうライフスタイルにも共通するところがあった。年格好も似ているのでよくライバル視されるが、競いあって相手に勝とうとする気持はお互いに希薄である。ここ二年ほどのあいだ沈黙していた山田が、久しぶりに個展をひらくという。そのテーマが�背中�と聞いて、珍しく出かけてみる気になった。  海岸通りに面した大きな倉庫の前で車を降りた。六〇年代で使命を終えて以来、空《あ》き家《や》になっていたその倉庫は、最近になってブティックや放送局にスペースを貸すようになり蘇《よみがえ》った。天井が高く床面積が広い割には家賃が安いという。  靴音がよく響く鉄製の階段を四階までのぼると貸画廓があり、そこが個展会場にあてられていた。入口わきに、出版社や広告代理店やスポンサー筋から届けられた花束や盛り花が並べられている。  招待者名簿に記帳を済ませ、会場内に入った。薄暗い部屋のあちらこちらに何台ものテレビ受像機が床の上にじかに置かれていた。  人々は、思い思いの姿勢でテレビ受像機に映る画像を眺めている。立って見おろしている者。しゃがみ込んで両手の上に顎《あご》をのせて眺めている者。床に寝そべって見上げている者。ブラウン管から漏れる光が、それに見入っている人々の顔を青白く照らし出している。画像はどれも無音だが、部屋のどこからか耳にやっと聴こえる程度のかすかなピアノ曲が流れていた。  肩を叩く者があり、うしろを振り返ると山田だった。大きな薔薇が一輪、胸に飾られている。 「わざわざありがとう」  山田は、笑うと愛敬がある。 「写真スチール展ではなかったのか」 「このごろはビデオの方が面白くてね。外国へロケしに行ったとき、悪戯《いたずら》にビデオも回していたんだが、そいつを集めてみた。ところで飲みものは何がいい」  部屋の隅には即席のバーカウンターが作られていた。黒いタキシードを着たバーテンダーの姿も見える。神島があまり甘くないカクテルの名前を言うと、山田がそれを運んできて手渡した。山田自身の手にも同じものがあった。 「なぜ今、背中なんだ」 「さあてね、俺にもよくわからんのだが」  二人の足元のすぐ前に置かれたテレビ受像機には男の背中が映っている。 「彼はポルトガルの酒場で知り合いになった漁師で……、一晩飲みあかしたんだ」  男は酒場のテーブルに張りつくようにうつ伏せになっている。よれよれになった古い皮のジャンパーが規則正しく上下しているところを見ると、どうやら眠っているらしい。男の頭のわきに、空《から》になったワインの酒瓶が五、六本と数個のグラス。ときどきほかの酔客たちが足をふらつかせながらレンズ前を横切る。カメラはズームもパン(移動)もせず、ただひたすら男の背中を撮りつづける。 「こっちのは、シベリアの農夫で……」  山田にうながされて数メートル場所を移動すると、テレビ受像機に別な男のうしろ姿が映っていた。枯木のように痩せこけている。足元には小犬がうずくまっている。男は平原に落ちる夕陽を眺めているらしい。 「当時、八十五歳の老人でね、老人は昨年の秋、亡くなったそうだ」  隣りのテレビ受像機にはプールが映っていた。青い水の上に、長方形の浮マットが浮いている。その上に中年太りした全裸の男がうつ伏せに寝ている。両腕を、だらりと水の中に垂らしている。くっきりと海水パンツの跡がわかる尻の白さが生々しい。カメラは真上から、その光景を撮りつづけている。 「ビバリーヒルズの大金持でさ……」  男が両腕を動かすと、プールの表面が少しだけ波立つ。そのたびに太陽の光線を反射して眩しいくらいだ。注意深く眺めると、男の背中にうぶ毛がはえている。プールの上を風が通ると、いっせいに金色に輝く。次第にもの憂くやりきれない気分になってくる。 「なるほど……。背中にも表情があったというわけか」  グラスを飲み干すと、神島が言った。 「化粧しない分だけ、正直でもある」  山田が応じる。 「だが、滅入るな。背中というのは」 「当然だ。これから何かが始まるのが正面で、何かが終わるのが背中だからだ。映画のファースト・シーンとラスト・シーンの違いくらいは、ある」 「ラスト・シーンが見えてきたのか」 「ただし、他人のラスト・シーンがな」  そう言うと山田は笑った。 「男の背中が多いね」 「いや、男ばかりさ。女は一人もいない」 「どうして」 「女は本質的に正面的な生きものらしい。口や眼でしかしゃべれない。だから女の沈黙は、ただの沈黙。ところが、男の沈黙は裏返しの沈黙である場合が多い。背中でけっこう、しゃべっていたりする……」  出版社の編集者らしい数人の女たちが駈け寄ってきて山田を取りかこみ、口々に祝いの言葉を投げた。花束を手渡す者もいた。声高に笑う者もいた。それがきっかけで、個展会場を支配していた静寂な緊張が破れ、人々のざわめきが波のように広がった。  バーカウンターで新しいカクテルグラスをもらうと、神島は一人で非常階段に出た。人いきれで熱くなった顔を夜風で冷やしたかった。非常階段の踊り場に立ち鉄柵にもたれると、夜の東京湾が見渡せた。黄色くともった埠頭のあかりが点々と並んでいて、暗くよどんだ水を港のかたちに切り取っている。  突然、扉がひらいた。  振り返ると、くるぶしまで隠れそうな長いグレーのワンピースを着た若い女が、足元をふらつかせて近づいて来るところだった。女は鉄柵に寄りかかろうとして神島の腕に強くぶつかった。その拍子に、神島の掌からカクテルグラスが零れ落ちた。透明なかたちが一瞬白く輝き、闇の底にすっと沈んで見えなくなった。  神島と女は、条件反射のように鉄柵から身を乗り出して覗き見た。予想したよりも長い時間が経過したあと、硝子《ガラス》の割れる音がした。小さく華奢《きやしや》なものが堅牢なものにぶつかって粉々に砕け散る、はかなげな音だった。 「ごめん、なさい」  上手にメイクされた眼を大きく見ひらいて女が神島の方を見た。歳は二十歳くらいだろうか。 「わたし、今日は、ぜんぜん、駄目、なんです。何をしても、巧くゆかなくて、失敗、してばかり、なんです……」  彼女は口をひらいたが、表情が苦しそうだった。言葉が途切れがちで、聞きづらい。彼女はついさっきも、個展会場の床に寝そべってビデオを眺めていた男客の頭を思いきり踏みつけてしまい、ひどく怒られたばかりだったという。しかしそれは別に眼が悪いわけではない……。彼女のしゃべる口元がときどき奇妙にゆがんだ。そのたびに驚いたときのように肩が上下して、喉の筋肉がひきつった。 「今朝、とても、哀しいことが、あったんです……」  それを無理に忘れようとして急に酒を飲んだら胃腸がびっくりしたらしい。つまりしゃっくりが出て止まらなくなってしまったのです、と最後に彼女はつけ加えた。 「それは災難だね」 「しゃっくりが、こんなに、苦しいものとは、知りま、せんでした。もう、死んで、しまいたい、くらい……」 「いっそ、さっきのカクテルグラスのようにここから飛び降りるか」苦笑しながら神島が言った。「そうすれば、しゃっくりも確実に止まるよ」 「もう、他人事だと、思って」  彼女がぷいと横を向き、ふくれ面をしてみせた。その仕草には、男の視線を計算に入れた多少演劇的なものがあった。神島の心に、ふと職業的な興味が湧いた。彼女の髪はショートにしてある。額から鼻筋、鼻の下、唇から顎、そして首筋へと流れ落ちる線に曖昧なところが一つもなかった。美しい少年の顔のブロンズ像を眺めているようである。魚釣りに行ったのに一匹も釣れずに帰ってきて自分に腹を立てているギリシャの少年……。 「止めてほしいかい」神島が言った。 「しゃっくりの、止め方を、知って、いらっしゃるんですか」半信半疑の顔で彼女が問い返してくる。 「まず、右手をまっすぐ伸ばして、高く持ち上げてごらん」 「こう、かしら」 「もっと高く、耳にくっつく位に」 「こう、ね」 「そのまま大きく息を吸って、止める。眼をつぶり、ゆっくり二十まで数えてごらん」  彼女はうなずき、深呼吸をした。それから左手で鉄柵をしっかり掴むと、恐る恐る目蓋を閉じ、頭の中で一、二、三、四、と数え始めた。数え終わると、ふうっと大きく息を吐き出し、ゆっくり右手をおろした。不安げな表情で黙ったまま海の方を眺めていたが、しばらくたってから神島の方を向き、 「不思議だわ。治ったみたい」  と、言った。 「大した効き目だろう」 「でも、どうして止まったのかしら……」 「横隔膜が痙攣して声門がひらくからしゃっくりが出る。一時的に呼吸を止めて横隔膜の緊張を和らげてやればしゃっくりは止まる。簡単な原理さ」 「しゃっくりの止め方なんかを、よくご存知でしたね」 「何だって知ってるさ。心臓の止め方だって知ってるよ。教えてほしい?」  彼女の眼が丸くなった。それから上目遣いに相手の顔をにらみつけながら、おもむろに、 「それ、嘘でしょう」 「嘘だ」  神島が笑った。つられて彼女も笑った。笑うと幼い少女の顔になる。 「あんまりからかわないでください。わたし、すぐに信じてしまう性《たち》ですから」  波止場の方から風が吹き上げてきて、彼女の額にかかった髪を揺らした。少し肌寒くなっている。 「あのう」と彼女が口をひらいた。「よかったら、ここを出ませんか。わたし、気分を変えようと思います」 「いいだろう。ぼくもそろそろ帰ろうと思っていたところだ」 「しゃっくりを止めてもらったお礼もしたいし……」 「お礼、どんな」 「さあ、どんなお礼かしら」  彼女の顔から微笑が消えると、急に大人びた顔になった。  個展会場には戻らず、そのまま非常階段を降りることにした。二人の靴が鉄板に触れるたびに、かわいた音が夜の倉庫街に木霊《こだま》した。  彼女がよろけそうになり、危うく神島の腕にしがみついた。立ち直ったが腕を離そうとせず、そのまま娘が父親にぶらさがるようにして階段を降りて行く。  彼女は、自分のことを圭子と名乗った。職業はモデルだという。神島も自分の名を名乗った。 「どうぞよろしく」彼女が言った。 「こちらこそ」  彼女の横顔を眺めながら、モデルになってからまだ日が浅いな、と神島は思った。プロのモデルならば神島の顔と名前を知らぬ筈がない。 「モデルは、いつから」 「本当のことを言うと、まだ卵なんです」  彼女はモデル事務所に登録してから二週間目で、まだ一度も写真の仕事はしていないという。 「有名なカメラマンの個展だから行っておきなさいって事務所の人に言われて、わざわざ見にきたのに、つまらないんですね、男の背中ばかりで……」 「そうかな、ぼくは面白く見たが」 「山田先生とは初対面でしたが、思い切って売り込んでみたんです。どうぞわたしの背中も撮ってくださいって」 「ほう、それで」 「ただ、笑ってました」 「女の背中は駄目なんだそうだ」 「あら、どうしてかしら。神島さんも写真家なんですか」 「一応はね」 「どんな写真を撮るんですか」 「いろいろさ」 「どう、いろいろ?」 「白からスタートして黒にゴールするまでの、この世界に存在するありとあらゆるいろいろさ」 「途中、灰色も通るのかしら」 「ちゃんと灰色も通る」 「パーフェクトな写真家なんですね」 「ありがとう」神島は苦笑する。 「どういたしまして」 「ただし、自分の顔だけは撮らない」 「なぜ」 「嫌いなものは撮らない主義なんだ」  彼女が顔を近づけてきて、真剣な表情で神島の顔を覗き見ようとした。 「でも、わたしはあなたの顔、好きだけどな」 「もう一度ありがとう」 「もう一度どういたしまして」 「笑わないでくださいね」彼女はつづけて、「あなたにそっくりな人を一人だけ知っているんです。顔かたちもしゃべり方も猫背の歩き方も。ちょっぴりシニカルで淋しそうに笑う笑い方まで。あんまり似てるんでわたし、さっきから驚いていたんです。嘘じゃないんですよ」 「ボーイフレンドか」 「わたしを生んだ人」  言い終わると彼女は、自分で自分の言葉にはにかんだように、そっと眼を伏せた。  金網で仕切られた駐車場にドイツ製の黒い大型のセダンがぽつんと置かれてあった。葬儀場の玄関に横づけされたならばもっと似合いそうなタイプの車だった。 「大げさな車だなあ」 「父のを借りてきたんです」  エンジンをスタートさせながら彼女は少し肩をすくめる。 「わたしを生んだ方の父じゃなくて、育ててくれた方の……」 「君はまだ学生かい」  彼女はうなずき、都内にある女子大学の名前を告げた。三年生だという。 「あなた、車は……」 「運転するか、ということか」 「ええ」 「車はやめた」 「珍しいんですね。なぜ」 「くれてやったんだ」 「だれに」 「別れた女房にさ。二年前だ。以来、面倒になって買う気にも運転する気にもならない」  圭子が運転する車は海岸通りを都心に向かって走っている。 「なぜ写真を写すんですか」  前方を見つめたままの姿勢で圭子が言う。 「はて」と助手席の神島は、「なぜ写真を写すんだろうね」 「珍しい風景に出逢って、それを記録するためですか」 「むしろ逆だね。懐かしいと思うからだ」 「懐かしい……」 「例えば……、今ぼくらが乗ったこの車が宇宙船だとしようか。ハンドルが故障して、宇宙船にハンドルがあればの話だけどさ、どこかの天体に漂着したとする」 「したとする」 「ハッチをあけて船外に出たら地球にとてもよく似た風景が広がっていた。そのとき君はどう感じる」 「懐かしいと思うでしょうねきっと」 「カメラのシャッターを押すのはそういうときさ」  圭子は黙ったまま車を走らせている。 「しかし、その天体は、地球にとてもよく似てはいるが本物の地球ではない。だからいつまでも居つづけるわけにゆかない」神島がつづけた。「故障が直ったら我々は出発するだろう。後方の窓から眺めていると、天体がどんどん小さくなってゆく。そうして最後に宇宙の闇《やみ》の中にふっと消えてしまう。もう二度とその天体に出逢うことはないだろう。写真で見る以外はね」 「淋しいお話ですね」  しばらくしてから圭子は思い切ったような口調で、 「神島さん。たった今この宇宙船はハンドルが故障してコントロール不能になりました。だからどんな星に漂着してもびっくりしないでくださいね」  圭子が運転する車は海岸通りを走り抜け、若者たちがよく集まる都心の繁華街にさしかかった。やがて繁華街のはずれにある角まで来ると、男のドライバーがするように両腕を大きく回しながら急カーブを切り、タイヤをきしませて薄暗い路地の奥へ突っ込んだ。住宅街のまんなかにあるマンションのようなホテルが見えてきた。その駐車場に滑り込むと、エンジンが止まった。  フロントわきに、裏側からランプをあてた案内板があった。二十個ほどの様々なタイプの部屋がカラー写真によって紹介されている。天井がアーチ形になっている、一見、地中海ビラ風の部屋があった。圭子が人指し指で案内板の下にある赤いボタンを押すと、がたんと音がして部屋の鍵が飛び出してきた。その間、圭子は終始無言だった。有無を言わさぬ表情で、ちゅうちょする様子は少しもなかった。  鍵をあけて中に入ると、部屋の中はふつうのマンションのようだが奥の方に円形の大きなベッドがある。その上を真紅のベッドカバーが覆っている。壁際に緑色のフードをのせた照明スタンドと籐で作られた長椅子、その前に硝子製のテーブルが置かれている。 「これが、お礼か」  長椅子に腰をおろすと、神島は言った。 「ええ」  圭子は部屋の中央に立って、神島を見おろす位置にいる。 「しゃっくりを止めてもらったお礼にしては少し重過ぎはしないか」 「そうでもありません」 「初めて逢った男をその日のうちに、よくこういう場所へ連れてくるのか」 「気に入った相手ならば……」 「相手の都合もかまわずに、か」  その問いには答えず、圭子はくるりと横を向くと腕をひねってうしろへまわし、背中のファスナーを引きおろしながら、 「わたし先にシャワーを浴びてきます」  と、言った。  神島が二本目の煙草《タバコ》に火をつけたところへ、浴室から圭子が出てきた。胴体にバスタオルを巻きつけている。細くしなやかに伸びた二本の脚、意外に発達している胸の膨らみ。幼ない少年が発する無垢な香りと、成熟した女の肌から分泌される粘りけのある匂いとがアンバランスに同居している。  神島は指先の煙草を灰皿に置くと、まっすぐ圭子の身体を見つめた。 「わたしのこと、綺麗だと思います?」  圭子が不安げな表情でたずねてくる。 「ああ、とても綺麗だよ」 「抱いてもいいです」 「抱かない」 「なぜ」 「いいから、ここに坐りたまえ」  神島が腰を浮かし、場所をあけてやった。部屋の隅にある籐製の長椅子の上に、裸の女と服を着たままの男が並んで腰かけることになった。 「わたしのことが嫌いなんですか」 「嫌いじゃないさ」 「だったら、なぜ」 「女とは寝ないことにしているんだ」 「どうして」 「できないからさ」 「いつから」 「もう五年ほどになる」 「努力してみたんですか」 「もちろん、最初のころはね。でも駄目だった。今では諦めている」 「傍に裸の女がいても、感じないんですか」 「ああ」 「信じられない……」  圭子が、急に黙った。前方の壁を見つめたままの姿勢で身じろぎもしない。しばらく時間が過ぎたころ、彼女の唇の端に自嘲の笑いが浮かび、ゆっくり広がった。やがてそれが消えると、 「わたし、煙草をのみます」  と、言った。  眼の前の硝子テーブルの上に煙草の袋が置いてある。圭子は袋を掴み、一本を口にくわえる。神島がそれに火をつける。  深い息を吸い込んだ圭子は、胸を反《そ》らし顎を上げ、天井に向かって長い白煙を吐いた。一度吸い終わっただけで、その煙草を灰皿の上に置くと、 「今日は、ひどい一日でした……。朝から晩まで……」  ため息まじりに言った。 「朝、哀しいことがあった、と言ったね」  その言葉が圭子の耳に届くまで数十秒かかったように思われた。圭子はゆっくりと首をまわし、神島の顔を見つめた。彼女の表情がみるみるゆがんでゆくのがわかった。見ひらいた両方の眼から大粒の涙があふれてきて裸の太股の上に零《こぼ》れ落ちた。首をうなだれ、両腕をこわばらせたまま、何かを必死にこらえようとしている。だが、次第に肩の震えが増し嗚咽が高まってきた。そうしてついにたまりかねたように上半身を神島の膝の上に投げ出すと、今度はいきなり大声で泣きじゃくり始めた。 「どうした」  神島がたずねると、圭子は嗚咽の間から、今朝ジェラールが病気で死んだと言う。ジェラールとは恋人のことか、恋人に死なれたのかとたずねると、そうだと言い、すぐにそうではないと打ち消す。神島の膝にうつ伏したまま、小さな子供がいやいやでもするように激しくかぶりを振るばかりで、一向に要領を得ない。いったい、どういうことなんだとなおも問いつめると、彼女が少女のころから共に棲み暮し、夜はベッドで寝るときも離れたことがなかったおすの三毛猫が死んでしまった、と言うのである。  神島の眼下に女の背中がある。張りつめて少しのたるみもないみずみずしく若い肌だ。あらわになった肩から腋下を経てわき腹に至る豊かなカーブは、アール・ヌーボーの絵画を見るようである。バスタオルがほどけかかっている。背中のくぼみと腰のくびれが垣間見える。そのあたりから、甘い官能の匂いが立ちのぼってくる。  遠くの方でサイレンの音がした。  何台もの消防自動車がけたたましい音を響かせながら夜の街路を走り抜けて行く。その不安な音は、波が遠浅の海岸をゆっくり打ち寄せてくるように近づいて来て、また、同じ時間をかけて遠のいて行く。それが何度も何度も繰り返される。  サイレンの音が止むと、部屋の中の沈黙はさっきまでより濃密になっていた。神島の身体の中で、欲情した血液が逆流していた。鼓膜を、内側からじんじん鳴らしていた。頬がだんだん紅潮してくるのがわかった。  部屋の奥で、円形の大型ベッドはけだもののように息をひそめてこちらをうかがっている。その上を覆っている真紅のベッドカバーが眼に映り、急に肥大して近づいてくるように思われた。  まだベッドカバーは一度もめくられてはいない。しかし、めくるのは至極かんたんなことだ。真紅のベッドカバーを剥ぎ取ったその下には、シーツの真白な広がりがあるだろう。その白色を、存分に汚してみたい……。  神島の身体の底の方で蠢《うごめ》くものがあった。はじめそれはかすかだったが次第に渦を巻き、衝《つ》き上げてきた。  腰を浮かして立ち上がりかけたときである。神島の網膜に、硝子テーブルの上に置かれた灰皿が飛び込んできた。灰皿の左右から中央に向けて、二本の吸いさしの煙草が差し込まれている。それは、煙草の原形をそっくり残したまま、灰になっている。  神島の頭の中で蘇る記憶があった。  指先から、白く透明なカクテルグラスがゆっくり零れ落ちる。闇の中の裂け目を、すっと沈んで行き、見えなくなる。しばらく時が過ぎた。夜の底の方で、何かが壊れる音がした。かすかだが、取り返しのつかない哀しげな音だった。その音が鼓膜を震わせた瞬間、神島は萎《な》えた。  籐椅子に腰をかけた神島は、ぼんやり前方を眺めている。部屋の隅には、大型の円形ベッドがうずくまっている。それはさっきより、いくらか小さく見える。真紅のベッドカバーは、覆われたままだ。 「今日はツイていなかったね」  神島が隣りに坐っている圭子に言う。彼女の眼は泣きはらして真赤だったが、表情の方はすでに冷静さを取り戻している。 「可愛がっていた飼い猫に死なれて酒を飲んだらしゃっくりが止まらなくなり、男を誘って気分を変えようと思ったら不能者だった……。だがそんな不運な日はそう長くはつづかないものさ。明日は、きっと良い日になると思うよ」 「なぐさめてくれてありがとう」 「どういたしまして」 「でもわたしが悪いんです。こういう失敗をよくやるんです……」  そう言うと圭子は電話ボックスの話をした。 「電話ボックスの話をします」圭子はおもむろに一呼吸置くと、「街のどこにでもある公衆電話のボックスのことです」  彼女はよく、新宿や渋谷あたりの雑踏の中を歩いているときに、突然わけもなく群衆から逃げ出したくなるのだという。あたりを見回し、一番近くにある公衆電話ボックスの中へ駈け込む。動悸が激しく息苦しい。扉を固く閉じた狭い空間の中で何度も深呼吸をする。空気が足りない。しかし扉の外よりはまだマシだ。扉の外には一人分の空気も残されてはいないような気がするから。  しばらくすると彼女は、今いる場所が電話をかける場所だったのだということに気がつく。つまりコインかカードを入れ、ダイヤルすれば、どこかのだれかとおしゃべりすることができる、そういう便利な場所でもあったのだということに気がつく。しかし、とりたてて電話をかけたい相手も用事も思い浮かばない。  冷静になって考えてみると、電話機を眼の前にしながらいつまでも電話をかけないというのは何となく妙な感じだ。第一、扉の外で順番を待っている人々に対して格好がつかない。彼女はバッグの中から小型の黒い電話手帖を取り出し、AからZまでめくってみる。いない。もう一度AからZまでめくってみる。やっぱり、いない。今度はもっと念入りに、老眼鏡をかけたお婆さんが針の穴に糸を通そうとするときのようにゆっくりとめくってみる。  やっとのことで、その一人を見つける。昔のボーイフレンドだ。一時期、親密につき合っていた。一緒に旅行に行ったこともある。寝たこともある。なんとなく疎遠になり、今ではほとんど逢わないが、別に喧嘩別れしたわけではないから今でも友だちであることに変わりはない。久し振りに電話して、「お元気かしら」とか、「今、何してるの」とか、「今度、お茶でも飲みましょうよ」とか大して意味のない会話をかわしたとしても別に文句は言われないだろう。  そうだ、彼にしよう。彼に電話をかけよう。彼女はバッグの中からサイフを取り出しチャックをあけ中を覗き込む。しかし、そんなときに限ってサイフの中には、ただの一枚のコインもカードも入ってはいないのだ。 「今日のわたしたちって、かわいそうですね」と圭子は肩をすくめて、「せっかく電話ボックスに入ったのに、わたしはコインを忘れ、たぶんあなたは電話帖を失なくしてしまったんですね」  大儀そうに圭子が籐椅子から立ち上がった。 「わたし少し眠ることにします。すみませんが、一時間ほどたったら起こしてくれますか。おやすみなさい……」  彼女はベッドカバーをつけたままのかけ布団を少しだけめくり、その中へ裸の身体をするりと滑り込ませた。  圭子一人だけを呑み込んだ真紅の円形ベッドは今、遥か彼方にある。それと入れ替わったように灰色の壁が神島のすぐ眼前に立ちはだかっている。  圭子とはいったいどういう女だろう。彼女はここで何をしているのだろう。神島は考えてみたがよくわからなかった。いや、わからないのは彼女の方ではない。自分の方だ。こんなところで見知らぬ女と、いったいおれは何をしているのだろう……。  遠くで、またサイレンの音が響いた。  その音は、熱帯の薄暗い密林の奥に棲む一羽の鳥が長く尾を引き鳴いているように思われた。しかし今度は、一向に近づいてこないまま、夜の沈黙の中へ消えて行った。   第二章 星 の 子 供  月子は無口な少女だが、たまに口をひらくことがあれば、自分のことを�ぼく�と言う。 「|ぼく《ヽヽ》は、行かないよ」  六年前の春だった。明日、幼稚園の入園式という日の夜、憮然とした表情で月子が言った。ふだんの彼女はスカートやブラウスのたぐいを決して着ようとせず、ジーンズやTシャツといった男の子のような服装ばかりを好んで着ている。それが今日は、胸に花模様の刺繍のついた真赤なベスト・スーツとフリルのついた白いブラウスを着て畳の上に立っている。そのよそ行きは、郷里のおばあちゃんが入園の祝いにと、わざわざ送ってきてくれたものだ。 「やっぱり、女の子ねえ……」  カオルが、感心したような声で言う。 「頭にはリボンをつけましょう。もっと可愛らしくなるわ。リボンは、ママのを貸してあげる」 「リボンなんか、いらない」  月子の眼は、部屋の中の空気を眺めている。  カオルは化粧箱の中から特大のリボンを取り出してくると、それを月子の頭の上にちょんと置く。あざやかな緑色をしている。ピーマンのお化けのようである。 「ぴったりだわ。どう、似合うでしょ」  と、さっきから黙って二人の様子を眺めている神島に同意を求めてくる。 「ちょっと大き過ぎないか」 「あら、このくらいの方がかえっていいのよ。どうせ目立つために、リボンつけるんだから」 「おまつりみたいだね」 「幼稚園の入園式は、立派なおまつりです。思いきりおしゃれしなくちゃ」 「|ぼく《ヽヽ》、おまつり、嫌いだ」  だれに言うともなく、また月子がぽつりと呟く。彼女の眼は、あいかわらず空気を眺めている。カオルは少し苛立《いらだ》ってきた。娘の態度ははっきりと拒絶的だし、娘の父親の態度はすこぶる曖昧である。「ま、いいからこっちへいらっしゃい」と、棒立ちしている月子の背中を押し押し、玄関わきの壁の前まで連れて行く。そこには等身大の鏡がぶら下がっている。鏡に向かって月子、その背後にカオルと神島が並んで立つかたちになった。 「どう……。自分の衣裳、素敵だと思わない」  娘の両肩に掌をそえながら、カオルが鏡の中でこちらを眺めている月子に向かって言う。 「思わない」  月子は、一度言いだしたらなかなかあとへ引こうとしない頑固なところがある。 「あなた、少しは何とか言ってくださいな月子に」 「そうだな……」  と言ったまま神島はあとをつづけない。頭の上にのせられた緑色のかたまりがピーマンならば、真赤な胴体は唐辛子だろうか、などと内心は思っている。 「月子、鏡に映っている自分のこと好きじゃないのかい」 「好きじゃない」 「だって、これも月子だろ」 「これは、月子じゃない」 「月子じゃなかったら、だれさ」 「|ぼく《ヽヽ》の知らない、よそのだれか……。こんなやつ、見たくもない……」  鏡の中の少女が急に黙った。見ひらいた両方の眼が潤み始めている。 「別に泣かなくたっていいじゃないの。せっかく田舎のおばあちゃんからもらったお洋服だっていうのに、どういうつもり」  甲高い声を立てながら、カオルは娘の上腕のあたりを両手でぎゅっと掴む。 「おばあちゃんはまだ、月子のことがよくわからないのだろう」  神島は少しだけ月子の肩を持つ。 「わからないって、何がよ」  カオルが白い顔を向けてくる。 「月子の趣味だとかさ、いろいろなことが……。まあ、離れて暮しているからな」 「でも、せっかくのプレゼントなのよ」 「そりゃそうだが」 「じゃあ明日はおばあちゃんの服を着て行かせなくていいの」 「月子がどうしても嫌だっていうなら、仕方ないじゃないか」 「月子、おばあちゃんに悪いと思わないの」 「お袋にはおれから話しておくよ」 「月子、あんなにかわいがってもらってるおばあちゃんの服なのよ、それでも嫌なの」 「お袋の方は大丈夫だって」 「月子……」  鏡の中に立っている少女の眼から涙が溢れ出てきた。ふだんの月子なら、男の子と喧嘩してなぐられたくらいでは決して泣いたりしないのだ。今、両眼を真赤に腫《は》らして声も立てずに涙を流している鏡の中の少女は、いつもの月子とは、別人のように見える。  月子が生まれた頃、神島とカオルはまだ公団のアパートにいた。手狭になったので、しばらくしてから駒沢公園の近くに借家を見つけ、そこへ引越した。戦前に建てられたらしい木造のぼろ家であるが、それでも二階建だった。小さいながら庭もある。冬は雨戸を立てても家の中をすきま風が吹き通って寒かったが、夏はそのぶん涼しく棲み暮すことができた。 「薄暗くて、陰気だわ」  カオルはよく苦情をもらした。家の採光が悪く、良く晴れた日中でも電灯をつけなければ翻訳の仕事をつづけることができない。だが、文句は言えなかった。関西へ転勤した知人の家を、帰ってきたらすぐに出るという約束で安く借りたのだ。神島は、一階にある板の間の十畳を仕事場にして、そこに撮影機材を置いたり、暗室を作って現像したりした。  三歳になると、月子は寝室を移され、独り寝するようになった。それがカオルの育て方だった。二階の四畳半が月子の部屋にあてられた。部屋は、西向きに硝子窓があいていた。月子は、窓のすぐ傍に自分のベッドを置いた。ベッドの端に腰かけて窓の外を眺めると、彼方に駒沢公園の森をのぞむことができた。  三歳の春から七歳の春までの四年間を、月子はこの部屋で寝起きしたことになる。たいてい一人だった。近所の遊び仲間や幼稚園の友達を連れてくることはまずなかった。朝起きる。幼稚園へ行く。昼過ぎに帰宅する。「ただいま」を言って、まっすぐ二階へ上がり、自室に入り、夕方まで出てこない。母親の「ごはんですよ」の声を聴いて階下に降りて来るが、あまりものをしゃべらずに、ただ黙々と食事を済ませると、また二階へ上がり、ベッドに腰かける。絵本を読んだり、たまにはラジオを聴いたりすることもあるらしい。そうして眠くなると、一人でベッドにもぐり込んで眼を閉じる。 「手のかからない子だわ」  カオルが言う。カオルは、せいぜいアルバイト程度と思って始めた翻訳の仕事が、最近になって急に増えだして家事も思うようにこなせない。子供の遊び相手になってやる時間など、どこにもないのだ。親にくっついて離れないような子供であったなら、それが悩みの種にもなったろうが、いつも独り遊びしている月子の場合には、そういう心配がいらない。 「少し放任し過ぎてはいないか……」  神島はときどき、そう考えることがあった。しかし、彼は彼で撮影のために家を留守にすることが多く、ことに大きな写真賞を受賞してからはそれが頻繁になった。長期間、海外へ出かけることも何度となくあった。たまに帰宅して月子を見ると、その成長ぶりに驚くのである。 「口数の少ない子だな」  神島は、食卓をはさんで坐っているカオルに言う。 「あなたに似たのよ」 「顔は、君似だがね」 「性格はあなたにそっくりよ。月子といると、あなたといるような錯覚にとらわれることがときどきあるわ」 「そういうものか」 「あの子、子供部屋にこもって、いつも何してると思う」 「さあ、何をしてる」 「ただ窓の外をじいっと眺めているのよ」 「彼女は観察しているのかもしれない。何かを観察するのは、哲学の第一歩だそうだ」 「私、心配だわ」 「何が」 「いろんなことがよ」 「たとえば」 「あの子は大きくなったとき、あたりまえな結婚ができないのじゃないかしら」 「どんな結婚があたりまえで、どんな結婚があたりまえでないのかね。いや、そもそもあたりまえな結婚なんてものが、この世の中に存在するんだろうか」 「するわよ」 「どこに」 「ここじゃないどこかによ」 「赤の他人同士が一緒に暮すなんてことは、最初から無謀なことだったんだ」 「そんなふうに悟りきったところが、あの子にもあるのよ。たった五歳で、もう大人みたい。いいえ、それ以上だわ。あの子、ときどき老人みたいな表情をするときがあるわ」 「ほう」 「何ていうかな……、たった一人で、静かに絶望しているとでもいうのかしら」 「子供は未来があり過ぎて静かに絶望する。老人は過去があり過ぎて静かに絶望する。ちゃんとバランスは取れている」 「子供でも老人でもない人間は、どうなるの」 「宙づりさ。ロープが切れて墜落するのを待っているんだ」  神島は、自分の首のまわりを取りまいている姿の見えないロープをたどり、徐々に両手を頭の上に差し伸べて行った。やがて、うっと窒息したような声をあげると、カオルの方に向けてわざと白眼をむき出した。 「あなたっていつもそんなふうにして、世間を嘲笑うのね」 「違う。世間がぼくを嘲笑っているんだ」  カオルが黙り、眼を伏せた。視線の先には両手で掴んだ紅茶茶碗があったが、その仕草に特別な意味があるわけではなかった。彼女は、古い記憶を必死にたどろうとしていた。しかし、たどりついたその記憶は、両手で掴んだ紅茶茶碗ほども鮮明ではなかった。 「私、わからなくなったわ」  ゆっくり顔を上げると、カオルは呟くように言う。 「何が」 「私がなぜ、あなたを好きになったのか」  言い終わると、再び紅茶茶碗の中に視線を落とした。  ある冬の日の午後である。  冬には珍しく暖かな陽光が射していた。長期の撮影旅行から帰宅した神島が子供部屋のふすまをあけると、ベッドに腰をかけて窓の方を向いている六歳の月子の背中が見えた。 「月子」  神島が声をかけても、何かに熱中しているらしく月子の返事がない。すぐまうしろまで近寄って見ると、月子は膝の上に大判のスケッチブックをのせ、クレヨンを握りしめてさかんに絵を描いている。  背中ごしに覗いてみると、それは二本の樹木と一羽の鳥の絵であった。画用紙の左端に白い樹木。右端に黒い樹木。樹木にはさまれたまんなかに、樹木と同じくらいの大きさの白い鳥。白い鳥は左端の白い樹木の方を向いて横向きに描かれている。白色と黒色、あとは薄い緑色のクレヨンだけを使って描かれた抽象画のような絵だった。  白い鳥のモデルは、ひらかれた窓の桟の上に止まっていた。体長は二十センチほどで、背面に灰色の斑点がある。下腹のあたりにいくらか群青色が浮き出ているほかは全身が真白である。鳥の前方に、楕円のかたちをした陶製の餌入れが置いてあり、中に青菜をきざんだものが入れてある。ベッドわきのテーブルの上には、扉が半びらきになった丸形の鳥かご。 「大人しい鳥だね」  神島が言うと、月子がうしろを振り向き、 「あ、お父さん……」  小声だが驚いたような顔で言う。 「帰ってたの」 「うん。今帰ったところだ」 「もう少しで描き終わるから、少し待ってて」 「インコか」 「そう。ホワイト・セキセイ・インコ」 「そんなところに置いて、逃げ出さないのか」 「うん」 「どうして」 「飛べないから」  ふだんの月子は、親にモノをねだったりするようなことをめったにしない。それが何を思ったか、急に鳥を飼いたいと言いだした。カオルはデパートのペット売場へ月子を連れて行き、結局、インコを買うことに決めた。暑さ寒さに強く、粗食にも耐えられる。意外に丈夫で初心者でも育てやすいと店員にすすめられたからだ。  ペット売場には、羽色あざやかな何十種類ものインコがいた。その中で、もっとも地味な白色のインコを月子は選んだ。カオルは、どうせ買うならもっと色の綺麗なのにしたらどうだ、と言ったが、月子は、これがいいと言い張って譲らなかった。カオルは店員を呼び、そのインコをかごから出しても飛んで逃げて行かないように処置を頼んだ。羽の、ある部分を切り取ると、鳥がいくらはばたいても飛翔できなくなるのだという。 「鳥が飛べないなんてかわいそうじゃないか」 「ママが子供の頃飼っていた鳥が逃げ出したんだって。それがとても悲しくて、今でも思い出すんだって。だから……」  窓のインコは、ときどき餌入れに嘴《くちばし》を突っ込んでは青菜をついばんでいる。ついばみ終わると再びポーズを取り、鳥の置物のように動かなくなる。まるで自分が絵に描かれていることを知っているようである。 「名前は、何て言うんだ」 「サヨナラ」 「え」 「この鳥はね、サヨナラとしか言えない鳥なの……。だからサヨナラ」  デパートにいたときから鳥は、はっきり「サヨナラ」と発音し、それを連発していたらしい。しかし家に連れてきてから、それ以外のどんな言葉を教え込もうと努力しても一向に覚えてくれなかったのだという。 「お父さん、鳥に向かってサヨナラって言ってごらん」  神島が言われた通りにすると、窓の鳥は横を向いたまま、しゃがれた甲高い声で「サヨナラ」と言った。 「ほう」  神島が興に乗り、もう一度言うと、鳥は二呼吸ばかり黙って考え深げな表情を作った。それからいかにも仕方なさそうな調子で、また「サヨナラ」と叫んだ。 「コンニチハは言えないのかい」 「言えない」 「変な鳥だねえ」 「朝から晩までサヨナラばっかしなの」  冬の陽がかげってきた。  月子は、スケッチブックの中の白い鳥と白い樹木を描き終え、もう少しで黒い樹木も完成しようとしている。眼を上げて神島が窓の外を眺めると、十メートルほど先に朽ちかけた木製の柵がつづいている。その向こう側に鬱蒼《うつそう》とした公園の森が見える。どうやら月子は、森の中から特長のある二本の樹木を選び出して絵に描いているらしい。黒い樹木のモデルになった木は柵のすぐ傍にはえていた。たしかに葉が黒々としげっていて全体の印象が影のようである。 「あの木の名前、知ってる?」  月子が窓の外の黒い樹木の方を見ながらたずねた。 「いや」 「かしわの木だって」 「ほう」 「かしわの葉で包んだのが、かしわ餅」 「月子はよくそういうことを知っているね」 「教わったんだ」  月子はわざわざ公園の管理事務所まで行き、樹木を管理している老人に樹木の名前を聞いてきたのだという。 「おめでたい木なんだって」 「へえ、どうして」 「落葉樹なのに、新芽が出るまで葉っぱが木から落ちないから、だって」  言われてみればなるほど、今は冬だというのに、彼方に見えるかしわの木には茶色に変色した葉がついている。かしわの葉は枯れたあとも枝にしがみつき、一冬を越そうとしている。それは、寒風から新芽を守るためだという。春、新芽が出るのを見届けて、ようやく枝から落下する。そういう木の母性的ないとなみを指して、公園管理人の老人は、めでたい木と教えたのだろうか。 「|ぼく《ヽヽ》はあの木が嫌いなんだ」月子が言った。 「どうして」 「どうしても……」  月子は言葉をにごして嫌いなわけを言わなかった。だがすぐに、 「でも、あっちの方の木は、好き」  と、言った。  月子が眺めている視線の先をたどると、かしわの木から二十メートルほど左ななめ後方に、幹が灰白色をした木がはえていた。まわりの樹木より抜きん出て背が高い。 「あれは、何という木だろう」  神島が呟くように言うと、月子は悪戯っぽい顔を向けてきて、 「ナンノ木っていうのよ」 「え」 「管理人のおじいさんも知らないんだって。外国の珍しい木らしいんだけど、くわしいことはよくわからないって……。いろんな人から、あれは何の木ですか? あれは何の木ですか? ってたずねられるものだから、それで、あの木の名前は、|ナンノ木《ヽヽヽヽ》になったの」  月子の言うナンノ木の枝には一枚の葉も残ってはいない。白い竹箒《たけぼうき》の先端をばらばらに広げて逆さに立てたような不思議なかたちをしている。 「|ぼく《ヽヽ》は、ナンノ木が好きだよ」  月子が口をひらき、 「サヨナラも、ナンノ木が好きらしいよ」  とつづけた。  西日がさしてきた。  逆光に照らされた裸木の、空に接した先端のあたりが、あぶり出し絵に描かれた赤黒い毛細血管のようにくっきり浮かび上がってきた。その風景は、ついさっきまで見ていた風景とまるで印象が違って見える。月子はいつも一人でこのような、時の流れと共に刻々とその表情を変える森の姿を何年も飽きずに眺めてきたのだろうか……。そういう思いで神島が改めて娘の横顔を見ようとしたそのとき、森の方でしわがれた鳥の鳴き声が木霊《こだま》した。  声のした方を見ると、ナンノ木の天辺《てつぺん》に近い枝に、一羽の鳥が止まってこちらの様子をうかがっている。逆光に照らされシルエットになっているので羽の色はわからないが、小さな雀のようなたぐいの鳥ではない。  ナンノ木に止まった鳥が、もう一度しわがれた金属的な声を立てて鳴いた。すると、窓でポーズを取っていた月子のインコが、喉のあたりの羽をびくっとふるわせナンノ木の方を眺めた。そうしていきなり羽を広げ、窓の外に向かって飛び上がった。あっという間のできごとだった。しかし月子のインコは、何度か空気をむなしく切っただけで、羽をばたばたふるわせながら、ゆるい弧を描いて下の地面にすとんと墜落してしまった。 「あぶないっ」  持っていたスケッチブックを空中に放り投げると、月子は部屋を飛び出した。足音を立てて階段を降り玄関をあけ、ものすごい勢いで庭を駈けて来る。裸足だった。そうして窓のななめ下の地面に落ちて転がっている自分のインコを両手でそっとすくい上げると、恐る恐る覗き見た。 「大丈夫か……」  二階の窓から神島が声をかけると、 「うん、大丈夫みたい。ちゃんとまだ生きてる……」  そのとき、ナンノ木に止まっていた見知らぬ鳥が、ばさばさと羽音を立てて枝から飛び立った。しわがれた声で一声鳴いたあと、西の空に向かってゆうゆうと飛んで行く。やがて見えなくなった。 「ほら、サヨナラって言いなさい」  月子が怒ったときのように語気を強めて、しかし顔の方は、ひどく哀しげな表情で、インコに向かって言った。 「おまえの友だちなんだろ。サヨナラって言ってやりなさい。サヨナラって……」  しかし、白いインコは何も言わない。ただ月子の掌の中で身をすくませている。いつまでも、怯えたように羽を震わせるばかりなのだ。  駒沢の借家を引き払ったのは今から三年前、月子が小学校一年生のときであった。関西に転勤した家主である知人が戻ってきたからではない。カオルが強く希望したのだ。ある時期からカオルは、横浜方面の不動産を熱心に物色していた。  新しい引越し先は、横浜にも近い私鉄沿線の、駅から十五分ほど歩いた丘の斜面に建つマンションの四階だった。 「広い割には安いし、ほんの少しだけど、海だって見えるわ」  カオルがそう言った。中古の空室であるから特に買得とも思われなかったが、カオルの決心は予想以上に固い。 「それに……、環境が変われば、あなたのびょうきだって治るかもしれないし……」  カオルの言う�びょうき�とは、夫婦の夜のことである。この二年ほどのあいだ、神島はカオルを抱いたことがない。努力して抱こうとしても思うように事が運ばないのだ。たしかに、環境が変われば気分も変わるだろう。もしかすると失われた神島の男性も回復するかもしれない。それは、ありえないことではない。  しかし、そういうことをカオルが心底から信じているのだろうか、と神島には首をかしげるところがあった。びょうきとは、二人の心の両方にかけられたコンクリートの棒のようなものである。神島が近づこうとすれば、カオルの心も同じだけ遠のいてしまう。びょうきを根本から治すには、環境を変えることよりも、まず、二人の心の中で凍結している様々な言葉たちを解凍してやるべきだろう。そうするなら、コンクリートの棒は橋に変わるかもしれない。それは容易なことではないが……。神島はそう考えていた。だが、カオルにとって大切なのは言葉よりも環境であるらしかった。 「君が、それほど言うなら……」  神島はカオルに同意し、その部屋を買うことにした。月子は駒沢の小学校に一年間通っただけで、横浜の新しい小学校に転校することになった。  引越しが終わり、数ヵ月が過ぎてから、カオルがあれほどまで熱心に転居を希望した、ほんとうの理由がわかった。彼女の新しいボーイフレンドの家が、歩いて三十分ほどの距離のところにあったからだ。  離婚が成立して、カオルは家を出て行くことになった。月子は、カオルが引き取って育てるのである。その養育費は神島が支払う。 「ここには一年も住まなかったわ……」  引越しの朝、部屋の中を見回しながらカオルが言った。 「今度の家は、どんな具合だ」 「マンションの八階」  線路を越えた海側の丘陵の上に、その新しいマンションは建っている。部屋の広さは、今いる部屋の二倍以上あるという。 「海が、すぐそこに見えるの……」  引越しても月子は、今回は小学校を転校する必要がなかった。同じ校区内だったからだ。 「家財道具一式、何もかも君に進呈するよ」  神島は、カオルに言った。 「ありがとう。喜んでそうさせていただくわ」 「ただしベッドだけは置いて行ってくれ」 「大丈夫よ。向こうにもっと大きいのがあるから」  そう言うとカオルは、まず最初に化粧品セットを詰めたトランクを玄関の外に運び出した。  引越しは、大型トラックを二回往復させて行うことになった。一回目のトラック便が荷台に家財道具を満載し、助手席にカオルと月子を乗せて出発した。しばらくすると、荷台を空《から》にしたトラックが戻ってきた。助手席にカオルの顔が見えた。その隣りにいる筈の月子の顔が見えず、代りに、神島より五歳ほど若い見知らぬ顔の男が乗っている。トラックから降り立つと、見上げるほど背が高い。体格もがっしりしている。 「はじめまして」  男が丁寧に腰を折り、スポーツジャケットの胸ポケットから名刺をさし出した。その声に、神島は聴き覚えがあった。一年ほど前からカオルのところへ頻繁に電話をかけてきたボーイフレンドの声である。  名刺には大手の建設会社の名が刷られていた。海外の、主に東南アジアの各地で石油精製工場をつくる、その企画段階から設計管理までのいっさいを任されているという。 「僕も神島さんと同様、海外出張が多くて……」  男は、すでに神島のことをよく知っている様子である。神島の方は、男のことを声以外に何も知らない。スポーツ選手のように浅黒く肌が焼けているのでたずねると、男は趣味でヨットに乗っているという。いや、そもそもカオルさんとは、ヨット仲間が集まるパーティで知り合ったのですよ、とも言う。 「もうカオルのことは、よくご存知のようだが、どうかよろしくおねがいします」  神島が男に向かって頭を下げた。 「ご安心ください」  男が言った。 「でも、結婚すると、女は変わるよ」 「大丈夫です。たとえカオルさんがどう変わろうと何が起ころうと、僕はカオルさんを死ぬまで愛しつづけるつもりです」 「ほんとうにそう思っているの」 「もちろんですよ」  男が強くうなずいた。 「君は、真剣に嘘をつくんだね」  神島がそう言うと、男はけげんな顔で見返してきた。 「月子のことも、どうかよろしく」  神島は部屋の壁際に立って、男を見ている。 「ええ」 「あの子は少しデリケートなところがあるが、とても素直ないい子です」 「なあに、そのうちヨットにでも乗せてやれば、すぐになつくでしょう」 「そういうタイプの子供ではない。なつかせようとすれば、かえって反発する。彼女の孤独な面をわかってやってください」 「と、いうと……」 「愛情の押し売りをしない、ということ。月子はそういうのが一番嫌いです」  カオルは自分のことを月子に「ママ」と呼ばせている。神島は神島で自分のことを「お父さん」と呼ばせていた。 「君は、月子に何と呼ばせるつもりですか」 「やはりパパと呼ばせましょう。そうでないとちぐはぐでおかしい」 「月子にもそう言ってやってください。ところで月子はどうしましたか」  さきほどから月子の姿だけがどこにも見当たらない。 「月子ちゃんは、僕の家からこの家まで歩いてみたいと言って一人で出かけたんです。しかし、もうそろそろ着くころでしょう」  引越し会社の男たちが最後の荷物を運び出して行った。部屋の中が急にがらんとなった。 「カオルは、君のどこに惚れたのかな……」  煙草をふかしながら神島が、床の上のごみをほうきで掃いている男に向かって言った。 「健康、でしょうね」  男はほうきの手を休め、神島の眼をまっすぐ見つめて言った。 「健康……」 「そうです僕の健康にです。失礼ながら神島さん。あなたは少々不健康過ぎるようなところがある。いいえ、身体のことではありません。考え方とか心の持ち方とか、つまりそういうことが、です」 「ほう」 「もっとはっきり言わせてもらえば、あなたはいつもうしろ向きに歩いているのではありませんか。いや、カオルの一方的な話だけで、他人のあなたを判断するのは止《や》めておこうとこれまでひかえてきたのですがね。実際のあなたに逢ってみて、僕は確信が持てましたよ。あなたは生きることに積極的じゃない。なんだかいやいや生きているようなところがある。どうか腹を立てないでください」 「かまわない。つづけて」 「僕はあなたと違って、精神も肉体も健康です。そして、いつも前を向いて歩いています」 「君がそれほど健康でいられる理由は、いったい何だろうな……」  神島が自問するように言うと、男が一瞬眼を伏せ、考える表情をした。それからおもむろに顔を上げると、 「理由の一つ目は、太陽、だと思います」  毎朝、日の出と共に男は目覚め、陽光を浴びながら約五キロメートルのジョギングを欠かしたことがないという。週に一度の水泳とテニス、それに月に一度のヨットも自分の生活を健康的に維持する要素である、とも言う。 「そういう理由を君にたずねたわけではないんだよ。つまり……」  神島の言葉をさえぎって、 「二つ目の理由は、食事でしょうか」  と、男が言った。  食事は人生の手段であると同時に目的でもある。そのために、自分の胃腸は常に健全な状態に保たれなければならない。だから自分は、就寝前に、 「こうするんですよ」  いきなり、男が壁に向かって逆立ちをした。 「こうやって、ゆっくり三十まで数えるんですよ」  一日に一回、内臓を逆さにしてやることによって慢性化しやすい胃下垂の防止をはかるというのである。 「どうです神島さん、あなたも今夜から、ためしにやってみませんか……」  逆立ちしている男の頭に血がのぼり、その顔が次第に赤く上気してきた。神島は男の顔を見おろしながら、思わず苦笑した。それから、低い声で言葉を吐き出すように、 「ぼくに惚れたカオルの気持も今となっては大きな謎だが、君のような男に惚れたカオルの気持は、もっと謎だな……」  と、呟いた。  エレベーターを降りるとマンションの玄関前に荷物を満載した大型トラックが横づけされていた。二回目の便が、もうすぐ出発しようとしているのである。  トラックの前でカオルとカオルの新しい夫が並んで立ち、それを神島が見送るかたちになった。そこへ月子があらわれた。右手に一本の棒きれを握りしめている。その先端には、白い蝋石が細いヒモでぐるぐる巻きにしばりつけられている。神島が「何をしていたのだ」とたずねると、線路向こうにある丘の上の新居からこの古いマンションまで、道路に白い線を引きながら歩いて来たのだという。 「変な子ね」  カオルが言い、掌で娘の頭をぽんと叩きながら、念を押すように、 「では月に一度、土曜の午後に月子を迎えに来てください。帰すのは日曜日の夕方。よろしいかしら」  離婚のときの協議事項でカオルとはそういう約束になっている。  トラックの助手席にカオルとカオルの夫、そして月子が窮屈そうに乗り込んだ。神島が小さく手を振り、「それじゃあ元気で……」と言うと、窓ぎわにいた月子だけが振り返り、神島の顔をじっと見つめ、黙ってうなずいた。それから、おもむろに視線をはずし、いつもの空気を眺めるまなざしになった。  クラクションを鳴らしてトラックが出発した。坂を下って行き、すぐに見えなくなった。  神島は部屋に戻り、床のまんなかに立って周囲を見回してみた。何もかも見事になくなっていた。がらんとして壁だけが目立った。  ベッドに仰向けに寝転がり天井を見上げ、そっと眼をとじてみた。頭の中に地図を広げたように、この町の街路が浮かび上がってきた。線路の向こうに丘がある。海が見えるという、その丘の上に建つ高層マンション。今、玄関扉をあけて月子があらわれる。右手に蝋石のついた棒きれを持っている。丘を下り、テニスコートのわきを抜け、線路沿いの小道をしばらく歩いて踏切を渡る。商店街に出る。交差点を渡る。中学校の正門前を通り、坂道をのぼり、だんだんこの古いマンションに近づいて来る。  月子が歩いて来るそのうしろには白線が引かれている。離ればなれになった父と母、その二人が住む二軒の家を結ぼうとして、月子が大地の上に描いた不思議な模様。灰色のアスファルトの上を細く長くどこまでも、まるで奇蹟のように伸びつづける哀しげな一本の白い線。神島の胸の底から熱いものがこみあげてきた。  マンション前の坂道を下って伸びている白い線は、しばらくのあいだそのままになっていた。やがて人々の足に踏まれ、車のタイヤの下敷になり、雨に打たれて流された。そうしていつのまにか地面の色と区別がつかなくなり、消えた。  カオルと別れてから二年が過ぎた。  初冬の、ある土曜日の午後である。  神島がカオルの家のブザーを押すと、待ちかまえていたように扉があき、月子が顔を覗かせた。奥の方からカオルがあらわれ、「いってらっしゃい。でもあまり外を連れ回さないで。今日はお天気だけど風が寒いし、風邪でも引かれたら困るわ」と言う。カオルの夫が奥の部屋にいるらしいのは雰囲気でわかったが、彼は玄関に出て来なかった。  坂道を下りながら「今日はどこへ行こうか」とたずねると、月子は「港が見たい」と言う。  私鉄に乗り、横浜港の近くの駅まで行った。そこで車を拾い、埠頭まで走らせ、橋のたもとで降りた。鉄道の引込線が通っている。線路の先に、赤い煉瓦造りの大きな倉庫が見える。  いきなり月子が駈け出した。白い運動靴、つなぎのブルー・ジーンズをはき、上は長袖の白いトレーナー。濃紺のハーフコートのボタンはわざとかけず、前をひらひらとはだけさせ、少年のように風を切って駈けて行く。  倉庫街の広場にはだれもいない。石畳の広場のまわりを月子はぐるぐる駈け回る。彼女は、廃墟の倉庫が建つこの広場に来るのが大好きだ。倉庫の出入口は駅のプラットホームのように地面から一メートルほど高くなっている。月子はその上から何度も飛び降りたり、またよじのぼったりして遊んでいる。  倉庫の鉄扉は赤く錆びついていて、様々な落書が残されている。異国の見知らぬ言葉の落書に、月子は顔を近づけ思案げに首をひねったりしている。かと思えば、石畳の上に転がっている煉瓦のかけらを運動靴の先で蹴飛ばしては一人ではしゃいでいる。何もない無人の倉庫街で、月子は飽きることがない。 「田舎のおばあちゃんに絵を送ったよ」  石畳の上をけんけんしながら近づいて来た月子がそう言った。 「そうらしいね」  神島はプラットホームの縁に腰をかけ、煙草をふかしながら月子を眺めている。 「どんな絵を描いて送ったんだい」 「ゾウクジラ」 「え」 「ゾウとクジラが結婚して生まれた子供」  月子は両手を空中にひらひら泳がせながら、ゾウクジラのかたちを説明した。長い鼻と大きな耳とヒレと身体を持ち、海の中を泳ぐことができる白と黒、まだらの動物。世界で一番大きく強く、しかも優しい。 「君の発明か」 「ほんとにいるんだよ」 「どこに」 「あっちの方」  月子が右手を上げて天を指した。 「ああ、よその星か」 「そう」 「おばあちゃん、喜んだろう」 「うん。だから、これ送ってくれた」  月子は、自分がはおっている濃紺のハーフコートを広げてみせた。 「ほう。おばあちゃんも、だいぶ月子の趣味がわかってきたようだなあ」 「|ぼく《ヽヽ》、このコート好きだよ」 「ちゃんとお礼は言ったか」 「だから電話をかけたの。でもおばあちゃんて、ウーウーウーッて言うばかりでうまくしゃべれないの」 「食道といっしょに声帯も取ったからな」 「でもなんとなくおばあちゃんの言いたいことは、|ぼく《ヽヽ》わかったよ」 「へえ」 「また新しい絵を描いて送れって」 「どんどん描いて送ってあげなさい。おばあちゃんは、月子の描く絵が大好きなんだと思うよ」 「今度はどんなのがいいかな」 「どんなのがいいかね」  税関の裏を抜けて大桟橋の方へ向かった。埠頭はからっぽで、船は一せきも停泊していない。海岸公園を左に眺めながらなおも歩いて行くと、塔の下に出た。 「のぼるか」  神島が声をかけると、月子は首を横に振る。彼女は、観光名所や人が集まるような場所を好まない。 「それよりも、ねえ、またあそこへ行こうよ」  と、月子には珍しく甘えたような声で言う。  あそことは、本牧埠頭の一番外れにある桟橋のことだろう。釣り人たちのために、細長い桟橋が海のまん中まで突き出ている。しかし、こんな季節のこんな時刻にわざわざ訪れるような場所ではない。 「寒いぞ」 「大丈夫だよ。おばあちゃんのコートも着てるし」  塔の下からバスに乗った。  バスは繁華街を抜け、港湾の縁をぬいながら走る。貯木場を過ぎると、急にあたりがひっそりしてきた。 「お父さん」  座席に並んで坐った月子が、窓|硝子《ガラス》から顔を離すと、 「一度聞いてみたかったんだけどさ」 「何だ」 「月子はなぜ月子って名前なの」 「そうだな……」  一呼吸置いてから神島は話をつづけた。 「あれは、お父さんと君のママがまだとても若くて、仲も良かった頃のことだが」 「うん」 「君がママのお腹の中にいて、もうすぐ生まれそうな頃、お父さんは仕事でアフリカへ行ったんだ」 「遠いね」 「遠いな」  アフリカ大陸を南北に流れるナイル河の源流は、中央アフリカにそびえるムーン・マウンテンにあると言われている。即ち、�月の山�である。神島はロケ隊の一行と共にナイル河をさかのぼり、月の山のふもとにたどりついた。そこでテントを張り、月の山にのぼる月の写真をねらって一週間あまりもねばったのである。 「それで、月の写真は撮れたの」 「撮れなかった」 「どうして」 「雲が厚くてね。月はのぼったのかもしれないが、とうとう顔を出さなかった」  撮影を断念してテントをたたみ、カイロのホテルまで引き上げ、日本に国際電話をかけたら娘が生まれていたことがわかった。ちょうど月の山のふもとで月の出を待っていた頃に生まれたので、月子《ヽヽ》と名づけた。 「|ぼく《ヽヽ》は、見えなかった月の代りの月子か」 「そういうことになるな」 「月の写真が撮れなくて、お父さんはよっぽど残念だったんだね」 「うん。もう死んでしまいたいくらい残念だったよ」 「もし月が出ていたら、月子の名前は月子じゃなかったのかな」 「もしかするとね」 「ふうん」  月子は考えぶかげな表情をする。 「月子は、自分の名前が嫌いかい」  すぐに月子はかぶりを振り、 「嫌いじゃないよ、|ぼく《ヽヽ》は」 「それは良かった」 「だってほら、月子ってさ、お月さまとなんだか感じがよく似てるじゃない」 「そうか」  神島は、闇の中に白く浮かぶ天体の孤独を思った。それから、一人っ子で育ち、両親に離婚された少女の孤独を思った。月子はそれ以上何も言わず、黙って窓の外を眺めている。  陽が落ちて、あたりが暗くなった。  バスは、水銀灯に白く照らされた港湾の広い道路を走っている。停留所に止まるたびに一人降り、二人降りて、だんだん乗客が減っていった。今は車内に数えるほどしかいない。  遠くに、赤や青のイルミネーションに縁どられた巨大なクレーンが見えてきた。その華美な人工の樹木は、子供のいない家庭のクリスマス・ツリーのように、ポツンともの淋しげに立っている。  埠頭の入口でバスを降りた。  セメント工場の灰色のタンクがそびえ立っている。コンテナ基地のわきの道路を海に向かって歩いて行く。巨人国の幼児が積木で遊んだあとのようである。何百何千もの様々な色の直方体が積み重ねられたり、置き去りにされたりしている。二人は並んで歩いて行く。小学校四年生になった月子の背丈は、並んで歩くと、ちょうど神島の肩のあたりにとどく。  埠頭の先端は海釣り公園になっていた。白く塗られた細長い桟橋が、真暗な海に向かってコの字形に突き出ている。  狭い桟橋である。右を向いても海、左を向いても海。足元から三メートルほど下方に海面がある筈だが、今は暗くてよくわからない。滑り落ちて、海にはまる危険もある。大人でも思わず怖《お》じ気《け》づきそうな無人の桟橋を、月子はわき目もふらずスタスタ歩いて行く。  やがて行き止まりになった。 「海のようじゃないね」  月子が、桟橋の突端にある鉄柵から身を乗り出すようにして言う。 「ランドセルみたい」  海は暗々とよどんでいて波一つない。たしかにそれは、液体というよりは、ランドセルの黒い光沢のある皮革を薄く引き伸ばして張りつけたように見える。粘り気のある海面がゆっくりとうねっている。 「怖くないか」  神島がたずねると、 「平気さ」  月子は首を振り、ぶるっと武者ぶるいする。海風がまともに吹きつけてきて、肌寒い。  月子が夜空を仰ぎ、 「月は、どこかな」  と、言う。  頭上に巨大な黒い天蓋があった。その内側に無数の星の小さな光が白く点滅していた。しかし今夜は、空のどこにも月は見当たらない。 「お父さんがいると、月はやっぱり出ないんだね」 「お父さんのせいか」 「そうだよ。だから月の代りに、月子がここにいるんじゃないか」  突然、月子が小さな声で叫んだ。夜空の一角を、長い尾を引いて星が流れて行った。 「ねえ、お父さん。流れ星って何」 「星のかけらだな」 「どこから飛んで来るの」 「遠い宇宙の果ての果てからだな」 「月も、遠い宇宙の果ての果てから、飛んで来たの」 「そういう説もある」 「月は星の子供だね」 「どうして」 「だってかけらよりも大きいでしょ」 「なるほど」 「だから月子も、星の子供」 「星の子供か……」  眼下の海面から冷たい風が吹き上げてきた。コートの裾《すそ》が音立ててはためいた。 「そろそろ帰ろう」  神島が月子の肩を叩いて歩きかけたとたん、 「あ」  月子がまた叫んだ。  振り返って空を見上げると、白い細長い光線が二筋、前後して闇の中へ消えて行くところだった。 「今夜は流れ星が多いな」  神島の言葉に、月子はまじめな顔で、 「きっと、風が強いせいだね」  と、言う。  思わず神島は笑ってしまった。  しかし、あるいはほんとうにその通りかもしれない……。そう思いながら、月子と手を結んだ。見回すと、海の上は暗く、陸はもっと暗かった。黒々とした埠頭の方角に向かって、細長い桟橋だけがかすかに白く伸びている。   第三章 井  戸  神島と山田は、ある出版社が主宰する写真大賞・新人賞部門の審査委員をしている。二人は、年に一度年末に行われる審査会が終わったあと、街に出て酒を飲みながら雑談をする。それがここ数年のならいになっていた。その日も審査が終わり、山田が、もう一人の審査委員である岡崎を誘うと、彼はいったんオフィスに戻り、小さなインタビューを済ませてから二人に合流しようと言い残し、雑踏の中に消えた。  山田は背丈も低く顔もハンサムとは言えないが、人づき合いが良く気持にもあたたかなところがあって、異性からよく好かれる。名の知られた女優やファッションモデルと一緒にいるところを写真週刊誌に撮られては、何度かスキャンダルめいた目にも会った。だが、本人はいたって平気な顔で、今の歳になるまで独身を通している。  山田の店は都心の繁華街のはずれにあった。住宅街とも商店街とも見わけのつかぬ路地を行くと次第に薄暗くなった。やがて闇の中で蛍でも見るように、そこだけぽつんとあかりのついた鉄筋二階建の小さなビルの前に車が止まった。看板も出ていなければ、店名もしるされてはいない。  中へ入ると無人のロビーがあり、その奥に地下へ降りる階段が丸い口をあけていた。円筒形の暗がりの中を、鉄製の階段が螺旋状に地底の方へ伸びている。足元を照らす黄色のあかりが内側に渦を巻きながら点々とつらなり、闇の底に消えている。 「酔っぱらいは、転げ落ちるな……」  階段を降りながら、神島が眼下で揺れている山田の頭に向かって言うと、 「転げ落ちるような酔っぱらいは、最初からこんな店にはこないよ」  と強く言い返してくる。山田の声が、がらんどうの中に充満する沈黙を震わせる。 「帰りにこの階段をのぼるのも、苦労だな。途中でへたばるやつもいるだろう」 「そうなる前に、きりあげて帰るさ」  しばらくのあいだ二人の足音だけが木霊《こだま》したが、急に山田が立ち止まり、神島の方を見上げて笑いながら、 「どうだ、地球の芯まで降りて行くようだろう……。もっとも岡崎を連れてきたら、あいつはわざと地球を子宮と言い換えたがね」  ビルの五、六階分ほどの階段を降りた頃、店の戸口をしめす白いあかりがぼんやりと見えてきた。  店の中は意外に広く、大きなテーブル席が三つ、カウンター席が二十ほどある。あけたばかりらしく、二人のほかに客の姿はない。カウンター席に坐ると、黒いタキシードを着た中年のバーテンダーが近寄って来て、まず山田に挨拶をし、次に神島に頭を下げたあと、「お久しぶりでした」と言った。顔に見覚えはなかったが、その服装と声質から、三ヵ月ほど前、海岸通りの倉庫で山田が個展をひらいた折に見かけたバーテンダーの一人であることがわかった。  神島が話のきっかけを個展の方に向けると、 「背中の写真展はさんざんだった……」  山田が珍しく愚痴をこぼす。 「ぼくは、面白く見たがね」 「男の背中より、昔のように女の顔を撮れ、だとさ」 「それはそれでやればいいじゃないか」 「女の顔には飽きた」 「どうして」 「饒舌だからさ」 「以前は反対のことを言ったね」 「考えが変わったんだ」  山田は苦笑する。 「黙っていてもか」 「うん。女は口をとじても顔でしゃべりかけてくる。それが、うるさい」  山田は二杯目のオンザロックを注文しながら、 「いや、しゃべるどころか、追いかけて来る。どれほど綺麗な女でも、追いかけられたら逃げ出したくなる、これは人情だろう」  そう言うと一人で笑った。 「困るな。君まで、そんなことでは」 「まで……」  神島はまるで他人事のような声の調子でたんたんと、自分が女の顔にも身体にも興味を失ってから、かれこれ五年になることを告げた。 「医者には、みせたのか」 「もちろん」 「原因は何だ」  あれこれ検査してみたが原因はわからずじまいであった。はっきりしていることは、それが五年前のある晩、妻との行為中にふと始まったということ、それだけだった。神島の頭の中に突然、白いスクリーンがあらわれ、その中に裸体を重ねた妻と自分の姿が鮮明に映し出されたのだ。共にすごした五年の歳月が、二つの肉をすみずみにいたるまでなじませ、触れ合った皮膚と皮膚のあいだから同じ匂いの汗をしたたらせている。二つの肉が向き合っているのは相手の肉ではない。その背後に広がる闇だ。からみ合うことによってよけい孤独の影をます二つの肉体の不気味なかたち。  いったい何をしているのだろう……。不思議な疑問が湧いてきた。無論、行為がしめす意味は、わかる。わからないのはその理由であった。生殖のためではない。快楽のためでもない。では、何のためだ。答を見出せぬまま、彼はスクリーンの映像を見つづけていた。 「どうしたの……」  だれかの声がした。神島がわれにかえり、下を見ると、さっきまであえぎながら苦悶の表情を浮かべていた妻が、白い顔をさらしている。 「ねえ、何を見ているの……」  なおもかわいた声で問いただしてくるのだった。 「似たようなことが俺にもあったよ」  黙って聞いていた山田が口をひらいた。 「ついこのあいだの話だ。薔薇の花を百本贈ったんだ。それがまずかった……」  名の通ったファッションモデルであるその女とは、これまで二、三度交渉はあったものの今では終わった関係である、そう山田は考えていた。だから女の誕生日に贈った百本の薔薇は、山田の写真オフィスとモデルとのビジネスを円滑に運ぼうとするそれ以上の意味はなかったのである。ところが女の方は、それ以上の意味に受け取ってしまった。誕生日の翌日、女から電話が入り、今夜、遊びに来ないかと言う。  女の部屋を訪れたのは数年ぶりのことであった。部屋の中の調度は何も変わっていなかった。窓際のレースのカーテンも、人間の子供よりも大きな動物のぬいぐるみたちも。少女趣味はあいかわらず昔のままで、ただ女の顔だけがかなり変わっていた。つまり、過ぎた歳月のぶんだけ正確に老いていたのだ。  女の仕草のはしばしには、子供が大人に甘えているようなところがあった。昔はそれが可愛らしかった。今では鬱陶しく思われるだけだった。女はわざと舌たらずなしゃべり方をした。昔はそれにも微笑んだものだった。今ではただ耳にうるさいばかりであった。 「ほら、見て……」  山田は、女のベッドルームに通された。ベッドわきに白いシルクをかぶせたサイドテーブルがあり、その上に豊満な乳房を連想させる丸形の白い花瓶が置いてあった。百本の真赤な薔薇は、その中に生けられていた。部屋の中は壁紙も家具もみな真白で、ただ花だけが赤かった。氷の世界に閉じ込められ、燃え上がったかたちのまま凍結した炎のようであった。 「馬鹿なことをしたと心底、俺は後悔したよ」  髪をかき上げながら山田が言う。 「どうして」 「情熱もないくせに薔薇の花なんか女に贈っちゃいけなかったんだ」  女が出した夕食は手づくりで心がこもっていた。ワインも上等なものだった。食事が終わると女は、「ゆっくりしていらっしゃい」と言い、「先に浴びるわ……」と言ってシャワールームに消えた。その言葉は、山田の心をいっそう後退させた。シャワールームの中から女がお湯をつかう音が聴こえてくる。ときどきハミングしたりして、いかにも楽しそうである。以前なら、女が立てるもの音の一つ一つに、どんなにか胸躍らされたことだろう。今では死刑囚に執行の時が近づくのを報らせる時計の音と同じだった。どうやったらこの場から逃れられるか……。そればかりを山田は考えた。  やがて、白いバスローブを身にまとった女があらわれた。白いベッドカバーをめくり、それよりもっと白いシーツの上に身体を投げ出した。仰向けになり、両手を大きく広げ、 「さあ……」  と、微笑みかけてくる。  山田は窮地におちいった。高ぶった気分に少しもならないのである。努力すればするほどますます沈んで行くのである。  そのとき電話のベルが鳴った。 「あら……」  受話器を取ると、女は一瞬嬉しいような哀しいような複雑な表情をした。自分の感情をどうあらわしたらよいのかとまどっている様子である。 「つまり、電話は男からだったんだ」  ウィスキーを一口飲むと山田が言った。 「どうしてそれがわかる」 「女のしゃべり方や言葉の選び方でさ。部屋の中に男がいるとき、もう一人の男から電話がかかった。女は、部屋の男に電話の男のことを悟られたくない。電話の男にも部屋の男のことを悟られたくない」  女の心が激しく揺れているのがわかった。綱渡りのバランス棒のように、左端にも男、右端にも男。片方を持ち上げると、もう片方が沈み、あわてて体勢を立て直そうとすると、かえってバランスが崩れる。両方の男に気を配りながらしゃべる女の声の演技力は大したものだった。だが、そのことにのみ女の注意がそそがれたために、身体の方に隙ができた。白いバスローブの裾が割れて、その間からほっそりとしたかたちの良い脚が無防備に伸び出ている。湯上がりのせいか、ほんのり赤く恥ずかしくなまめかしい。瞬間、山田の身体の中で忘れられていた感情が満潮《みちしお》のように押し寄せて来るのがわかった。 「助かった、と俺は思ったよ」 「ほう……」 「どうやらできそうな、そんな予感がしたんだ」  女はベッドの上に仰向けに寝転んだまま、受話器を耳にあてている。その身体の上に、山田は覆いかぶさって行った。女は左手に受話器を握っているから、自由になるのは右手しかない。右手で必死に払いのけようとするが、山田はかまうことなく女のバスローブを左右にひらこうとする。女は抵抗して両足をばたばたさせ、自分の下半身に頭を押しつけてくる山田を蹴飛ばそうとする。それも、できるだけ音を立てぬように……。  女の瞳が潤み始めた。女の声も上ずり始めた。それでも女は受話器を耳からはずせない。電話を切ることができない。今、唐突にそんなことをすれば、電話の男に怪しまれてしまうからだ。女は必死だ。右手で抵抗し、左手で平静を装う。しかし、女の顔が次第に赤らんできた。泣きそうな顔になってきた。 「で、どうなった……」 「それがな……」  山田は口ごもる。  衣服を脱ごうとして山田が女の身体から身を離し、ベッドわきに立ったそのとき、女が上手に話を切り上げ電話を切ったのだ。曇っていた女の顔がぱっと明るくなった。そうして満面に微笑をたたえ、両手を広げ求めてきたのである。  一瞬にして、山田は萎《な》えた。 「俺も歳を取った。昔は、こんなことになるとは考えもしなかった」  山田が呟くように言う。 「好きでもない相手とも、ちゃんとできたということか」 「ああ、いくらでもできた」 「ようやく正直になったわけだ。身体が心に……」 「君も、その口か」 「違う」 「どう、違う」 「嫌いな相手にも反応しない。好もしく思う相手にも反応してくれない」 「せつないな」 「せつないね」  神島は掌に包まれたグラスの中を見た。氷が溶けて、琥珀色の液体がにじんで行くところだった。山田は「おかわり」と叫んで、三杯目のオンザロックを注文した。  扉がひらいて岡崎がもっそりと姿をあらわした。巨体である。この身体で、あの螺旋階段をのぼり降りするのは並大抵のことではなかろう。しかし、岡崎は見かけによらず、いったんカメラを持つと身のこなしが軽い。俊敏に動き回って、およそ身体の印象とはほど遠い切れ味の鋭い写真を撮ってくる。 「どうかな、まだ完全な焼きではないが……」  椅子に坐るなり岡崎は、抱きかかえてきた黒い大判の写真袋の中からつぎつぎに十数枚の写真プリントを引っ張り出すと、カウンターの上に並べて行く。どれもみなB4判ほどの大きさでモノクロームである。 「なんだ、爺《じ》じいと婆《ば》ばあばかりじゃないか」  写真の一枚を手に取った山田が、ライトにかざして見ながら言う。 「フランスの爺さんと婆さんでね……」  岡崎は二ヵ月間ほどヨーロッパ各地を撮影して回り、さきごろ帰国したのである。  見ると、たくさんの老人たちが手に手に松明《たいまつ》を持って踊っている。一本の細長い行列をつくり、奇妙な振りをしながら……。フランスはプロヴァンス地方の山の中にある小さな村である。その村の石畳の広場で年に一度ひらかれる秋のまつり。その晩になると、近郷から六十歳以上になる老人たちが互いに声を掛け合い寄り集まって来ては不思議なダンスを踊るのだという。夜を徹して朝までも。  老人の顔をアップに撮った写真が数点あった。顔面に深く刻まれたしわの一つ一つまでくっきりと見ることができる。亀の甲羅のようにひびの入った額と干からびた唇、抜け落ちた歯、痩せこけた頬の肉と落ちくぼんだ眼窩。しかしどの老人も、眼光だけは異様に輝いている。  奇妙なことに、老人たちの個性豊かな顔はどれも一人一人違うのだが、男女の区別がつけにくい。生まれたばかりの赤児のように、老人たちの顔は男のようにも見えれば、同時に女のようにも見える。彼らには男女性をあらわにする肉体的な特徴が見事に失われているのだ。男女性を区別する包装紙を一枚一枚はぎ取って行った果てに、再び赤児の匿名性へ還ろうとするかのように男でもなく女でもない、ただ老いたヒトとしか言いようのない者たちが影のように踊っているのである。 「爺さん婆さんたちが踊っているのは、リゴドンダンスと言ってね」  岡崎が口をひらくと、 「リゴドン……」  山田と神島は同じように問い返す。  もともとは中世南フランスに起源を持つ民俗舞曲なのだという。踊りのかたちは平凡だが、踊りのリズムと方向性には他に見られない独特なものがある……。 「じらすな。どんな踊りだ」  山田が言うと、 「一歩歩いて、二歩下がる」  岡崎が答える。 「何だって」 「つまり、こうさ……」  軽い身のこなしで椅子から飛び降りると、岡崎はリズムを取りながら酒場の床の上を踊り始めた。頭の上に両手を高く持ち上げている。左手は一本のマドラーを握りしめている。松明のつもりなのだろう。右手だけをひらひらと空中高く泳がせている。その微妙な動きが一匹のヒトデのように見える。 「リゴドン、リゴドン」  岡崎が、奇妙な節回しで歌うように叫ぶ。 「一歩歩いて……」  左足を一歩前に出し、それに右足を追随させ、両足の足先をそろえるかたちですとんと地面に停止する。 「二歩下がる……」  次に、左足そして右足の順序で二歩ぶん後退し、左足のかかとを右足のかかとにそろえるかたちで地面にすとんと停止する。その瞬間、首は前方に向けたまま、「リゴドン、リゴドン」と叫ぶ。これを何度も繰り返す。一歩前進して二歩後退したわけだから、一歩ずつじりじり後退して行くことになる。 「リゴドン、リゴドン  一歩歩いて……  二歩下がる……  リゴドン、リゴドン  どうだ、君たちもひとつやってみないか」  カウンターの前から一歩ずつあとずさりして行き、酒場の扉に背中をくっつけたまま、もうそれ以上後退できなくなった岡崎が、白い歯を見せて笑いかけてきた。  老人たちが踊るリゴドンダンスの特徴は、うしろ向きに一歩ずつ進むところにある。 「つまり、背中から近づいてくる未来。眼の前に広がっている過去、というわけだ」  岡崎が微笑をまじえて言う。 「これは未来の方から写したやつ」  うしろ向きになって背中を見せた老人たちが、長い列をなして遠くまでつづいている。 「これは過去の方から写したやつ」  しわだらけな老人の顔が列をなして闇の彼方に消えている。 「いい写真を撮ったじゃないか」  山田が他人の写真を誉めるのは珍しかった。その言葉に皮肉な感じはなく、本当にそう思っているらしい。 「背中の写真展のことをパリで聞いてね、帰国したらまっ先にこれを君に見せようと思っていたんだ」  岡崎は再び微笑する。 「だが、うしろ向きに一歩前進二歩後退とはどういうことかな」  椅子に坐ったまま、山田は先刻の岡崎の踊りを手だけで真似ながら首をひねっている。 「老人たちが、あまり前方を見たがらないということだろうかね……」ぼそりと岡崎が言う。  老人たちの前方とは未来のことだ。未来とは、確実に近づきつつある�死�のことだ。それを見ないで済ませられるものならば見ないで済ませたい。だから、うしろ向きになる。そうして、できることならば、自分が生きてきた�生�の方へ、つまり過去の方へ一歩でも戻りたいと願う。しかし、そんな思惑とは無関係に、非情なる時の流れは老人たちをじりじりと一歩ずつ未来(死)の方へ押しやろうとする。 「でも仕方がないよな。そうしなければ、そもそもあのダンス自体が成立しないわけだから……」  岡崎が笑うと、 「妙なダンスだなあ」  山田は独り言のように呟く。 「うん。妙なダンスなんだ」 「さっきから黙っているが神島はどう思う」  山田が水を向けてきた。神島はふと苦笑しながら、 「昔、他人から言われたことがある。お前はいつもうしろ向きに歩いているようなところがある。生きることに不熱心過ぎる、とね」 「ほう」 「だからこの爺さんは、おれの身代りだと思う。いや、何年か後のぼく自身の姿かもしれない……」  神島の手に一枚の写真があった。灰色の服を着た一人の小柄な老人をななめうしろから写したものだ。ちぢんだような短い脚、弓なりに曲がった腰、小さくしぼんでしまった背中、ひび割れた細い首、貧相な耳。表情はわからなかった。だがその老人が、自分のすぐ眼の前で踊っているもう一人の老人の背中を見つめているであろうことはあきらかだった。またその老人は、前方で踊るもう一人別の老人の背中を眺めているだろう。つぎつぎに連続する老人の凝視と老人の背中。  写真の一番手前にあって灰色の背中をさらしている老人は、前方にいる老人の背中を見つめながら、自分の昨日の姿を思い描いてはいないだろうか。さらにまた、昨日の背中は一昨日の背中を夢見てはいないだろうか。そうして老人たちの思いは、どこまでも途切れることなく過去に向かってさかのぼりつづけ、闇《やみ》の奥の暗がりへ消えているのである。  どこまでさかのぼれるものだろうか……。神島は思った。またそのことに、どれほどの意味があるのだろうか、とも。  三人は思い思いの姿勢でカウンターの椅子に坐っている。さっきから会話は途切れたままだ。三人ともただ黙って前方の空気を眺めている。山田のグラスの氷が溶けて、かちっとかすかな音を立てた。  深夜、部屋に戻った。  神島の全身に酔いが回っていた。だが、不思議に不快な感じはない。がらんとした部屋の見えない空気、その冷たさが心地良いくらいだった。ベッドの端に腰をかけ、しばらくぼんやりした。何かの気配を感じ、ふと顔を上げ前方を眺めると、灰色の壁が立ちはだかっている。その表面に影が映っている。  振り返ると、光源はななめ後方にあった。部屋の一方の隅に置いた電気スタンドのあわい光が、神島の姿をぼんやり照らし出しているのだ。もう一度壁の方を眺めた。いくらかななめにゆがんだ首と背中がそこにあった。神島は、灰色の壁に映ったその黒い影の背中を瞳を凝らして見つめてみた。珍しい生きものを発見して眼を丸くする幼児のように。 「リゴドン」  頭の中でだれかが叫ぶかすかな声がした。 「リゴドン」  また別のだれかが叫んだ。その叫び声はつぎつぎに反復され、次第に大きな木霊となって頭の中に充満した。 「リゴドン、リゴドン……  一歩歩いて、二歩下がる……」  頭の上に両手を高く上げてひらひらと、岡崎の真似をしてみた。すると、壁に映った影も同じ真似をした。神島の身体が左に揺れると、影も左に揺れる。神島の身体が右に揺れると、影も右に揺れるのである。  なお眼を凝らして見ると、壁に映った影は一つではない。影の向こうに、もう一つの小さな影が揺れている。そのまた向こうに、もう一つ別の小さな影……。無数の黒い影の背中が同じように揺れながら、灰色の壁の奥へ奥へとつらなっている。一本の細長い列をなし、だんだん小さくなって闇の中に消えているのである。  井戸があった。  井戸の縁にぼんやりとたたずんでいる少年は、四歳の神島である。少年は半ズボンをはき、上半身は裸である。うしろ向きに立って背中を見せている。暑い。真夏の太陽光線が少年の全身にじりじり照りつけている。額から汗が吹き出ている。大粒の汗が背中をつたい落ちて行く。  向日葵《ひまわり》が群生している。少年の背丈をはるかに越えて生長した黄色のお化けのような向日葵だ。荒れはてた裏庭を渡る一つの微風もない。眩し過ぎる陽光に打ち負かされて、何もかもが沈黙し、ただうなだれている。  井戸の向こう側に立ってこちらを向いている三歳の少女は、かすみである。神島とは年子の妹だ。少女が、固く閉じていた小さな両掌をゆっくりひらいて行き、中のものを少年に見せようとする。  紋白蝶であった。  向日葵の葉陰で死んでいた紋白蝶を少女が見つけ、拾ってきたのだ。 「よし、おそうしきをだしてやる」  少年が言った。  少年と少女の父親はその年の春、腎臓を病んで、死んだ。しかし少年は、父親が死んだから悲しい、という気分には少しもなれなかった。少女はなおさらであった。死ぬ、ということの意味がよくわからなかったからである。死ぬことは苦しいことなのか。死んだらどうなるのか。どこへ行くのか……。微笑みながら病院へ行った父親は、長い箱の中に寝かされて帰ってきた。土色の顔をしていた。指でつついても動かなかった。その日から、死者を弔う様々な行事が何日もつづいた。その一部始終を少年と少女は好奇のまなざしをもって見守った。 「えいっ」  少年が力をこめて井戸の重い木蓋を押しやり、それを井戸の縁に立てかけた。つぎに、欠けた茶碗を左手に持ち、子供部屋から拾ってきた紫色の色鉛筆を右手に持つと、 「では、はじめるよ」  と言った。 「うん」  緊張した顔で少女がうなずいた。  少年が嘘の経《きよう》を詠み始めた。少女は真剣な表情でその声に聴き入っている。目蓋をぎゅっと閉じ、少年の真似をして唇の中でぶつぶつと経らしきものを唱えている。やがて、嘘の鉦《かね》がチンと鳴らされ、読経が終わった。二人は、井戸に向かっておもむろに頭を下げた。  少年がうながし、少女がそれにこたえた。少女は、閉じた自分の両掌をおそるおそる井戸の中心へ伸ばして行った。そうして井戸のまんなかあたりに達すると、両掌をぱっと左右にひらいた。少女の小さな掌の中から白いものが零れ落ちるのが見えた。  井戸は空《から》井戸であった。  底知れぬほど深く、暗々としていた。照り輝く太陽光線も井戸の底までは届かぬようであった。  少年と少女は、これまでにも何度となく、近寄ることを禁じられていた井戸の蓋をあけ、様々なものを投げ入れていた。たいていは色紙や折紙のたぐいであった。赤や青や黄や緑やだいだい色や金色や銀色の折紙を、指でこまかくちぎっては井戸の底へ投げ入れるのである。そうすると、色々なかたちにちぎれた原色の折紙たちは、熱帯に群棲する小さな鳥のように旋回しながら井戸の底へ舞い降りて行く。  その光景を眺めるのが面白くて仕方がない。母親に見つかって叱られても、二人は止《や》めなかった。母親の目を盗んでは、そっと井戸に近づき、また様々なものを投げ入れるのだった。手元に折紙がなければ、デパートの包装紙をちぎることもあった。新聞紙のこともあった。だが今日、井戸の中に投げ入れるのは折紙や色紙のような紙ではない。しかばねとはいえ、ほんものの紋白蝶なのである。  少年は、井戸に覆いかぶさるようにして井戸の中を覗き込んだ。井戸の向こう側から少女も同じ真似をした。少年の眼下に、円筒形の暗闇が地底の方までつづいていた。今、その中を紋白蝶のしかばねは、雪のひとひらが静かに舞い落ちるように、ゆるやかな螺旋を描きながら沈んで行くところだった。 「きれいだね、おにいちゃん……」  少女がうっとりしたような声で言う。 「きれいだね」  一呼吸置いて少年がそれにこたえる。 「いきてるみたいだね、おにいちゃん……」  少女がまた言うと、 「うん、でも、しんでるんだ」  そのときである。  ごうっと、井戸の底の方で奇妙な音が響いた。と、思うまもなく、頭をつき出して覗き込んでいる少年の首筋を冷たく撫でながら、一陣の風がものすごい勢いで吹き上げてきた。 「あ」 「あ」  のけぞりかけた少年と少女が、そのまま釘付けになったのは、真暗な井戸の底から不思議なものが立ちのぼってきたからであった。赤や青や黄や緑や金色や銀色や、模様のついたものや漢字や仮名の活字がしるされたもの……、様々なかたちにちぎられた無数の小さな紙片がゆっくりと舞い上がってきたのである。太陽光線に煌《きらめ》きながら、まるで生きた小鳥のように。  空中に舞い上がった無数の紙片は、ちょうど向日葵くらいの高さに達すると、それ以上、上昇する力を失い、地面に降り落ちてきて、二人の足元にむなしく散らばった。 「あっ、おにいちゃん、みて……」  少女が再び叫んだ。  その声にうながされて、もう一度井戸の中を覗き込んだとき、少年は思わずぞっとした。瞬間、見てはならないものを見てしまったような気がした。闇の底からひらひらと、白い翅をこまかに震わせて、先刻とは逆の螺旋を描きながら舞い上がってくるものがあったからだ。  紋白蝶のしかばねであった。 「ねえ、いきかえったんだね、おにいちゃん、ねえ、いきかえったんだね、おにいちゃん……」  両眼を大きく見ひらいて少女が何度も叫んだ。  見ると、少女は満面に笑みをたたえてこちらを眺めている。疑いの影は一つもない。だが、すぐに少年は思わず声を上げそうになった。少女の顔が笑顔のまま急に暗くなり、すうっと遠のいて行くような気がしたからだ。  少女の顔は、円い。その円い内側だけが、みるみる黒く塗りつぶされたように影になり、笑っているのか泣いているのか、もはや表情の区別もつかない。ただ、少女の顔の、円い輪郭だけが茫と白く氷のように冷たく輝いている。ああ、日蝕のようだ……、と少年は思った。この世のものとも思われない円形の白い、幻のような煌き。 「かすみ……」  少年が叫び、手を差し延べようとした。だが少女の身体には、どうしても手が届かない。 「ほら、あんなに、たかく……」  少女が黒い顔のまま空を振り仰いだ。その声に誘われて、少年も空を仰いだ。今や、紋白蝶の白いしかばねは中天にあった。気流に乗って上昇し、なおも空の高みへ舞い上がろうとしていた。空はどこまでも青く晴れ上がり、明かるい光に満ちていた。眩し過ぎて、かえって暗かった。だがそのとき、少年の瞳に、大気の中をつらぬいて天に向かって伸びて行く一本の深い井戸のかたちが見えた。天に掘られた井戸の底めざして、紋白蝶のしかばねはゆるゆる落ちて行くのである。  その光景は少年の心を強く打った。全身が硬直して身動きがとれなかった。紋白蝶のしかばねはなおも上昇し、やがて小さな白い点となり、最後は、闇の向こう側へ吸い込まれるように、ふっと消えた。  気がつくと、もう頭上には何もなかった。ただ真夏の陽光が激しく降りそそいでいるばかりだった。それでも少年は同じ姿勢のまま、あいかわらず天を仰いでいた。言いようのない深い寂寥《せきりよう》に包まれながら、少年はいつまでも天の一角をじっと見つづけていた。  少女が、父親と同じ腎臓病に倒れ、血尿を出しながら苦しんで死んだのは、この日から四ヵ月あとのことである。  少女の棺は、とても小さかった。  葬式の日、少年は、妹と共に深い井戸の底を覗き見た夏の日のことを、ふと思い出した。  やがて少年は成長し、大人になった。数え切れないほど多くのことを体験し、いつか忘却した。  庭にあった空《から》井戸は埋められて、今はあとかたもない。しかし井戸の記憶だけは、身体に刻まれて消え去らない傷のように、彼の胸に深く残った。   第四章 黒いつばひろの帽子  スクランブルの横断歩道というのがある。  ふつうの交差点を真上から眺めると、横断歩道の白線は正方形を描いている。スクランブルの場合、この上に四隅から十文字を引いて重ねることになる。三角形の二辺を通るよりは一辺を通った方が速いにきまっているから、道を急ぐ者は斜めの線上を行くだろう。そのとき、四方向から来た人間同士が中心点で四重に衝突し、混乱を生じることはないのだろうか……、それを考えるたびに神島はいつも不安になる。  年が明けた、ある日の午後である。  神島は数寄屋橋の交差点に立って信号が変わるのを待っていた。やがて信号の赤が青に変わり、人々がいっせいに歩き出した。前方に三角屋根の交番があり、その前の舗道で待ちかまえていた人々が群れをなして近づいて来る。はたしてあの群れを、うまくかわして向こう岸へ渡れるだろうか……。そう思いながら右手を見るとそちら側からも人々の群れ、左手を見ると、やはり人々の群れ。神島の足がにぶり、ちょうど交差点のまんなかあたりで、ついに立往生してしまった。  神島のすぐうしろを歩いていた若い男は、背中にぶつかりそうになり危うく身をかわし、舌打ちしながら通り過ぎて行く。眼前に迫っていた中年の女は露骨にいやな顔をする。右方から走って来た少年と左方から小走りに歩いて来た若い女は、リズムが狂ってよろけそうになる。人々の流れが停滞し、神島のまわりに渦をつくった。  だが、神島は足がすくんで一歩も前へ動けない。かっと顔が熱くなり、思わず足元を見ると、灰色のアスファルトの上に白いだんだらの線が引かれている。灰色の河にかけられた白い梯子《はしご》のようである。その梯子の上を、人々が少しの危なげもなく渡って行けるのが不思議でならない。  やがて信号が赤に変わった。まわりから人影が消えた。ななめ後方から甲高い金属質の爆裂音を立てて、何かが近づいて来るのがわかった。 「危ない」  だれかが影のように駈け寄り、神島の肩のあたりをどんと押した。力まかせに押されたので、神島は倒れそうになった。それを影は抱きかかえようとするのだが重さに耐えられず、二人とも足をもつれさせよろめいて行き、舗道にたどりつくと同時に尻もちをついてしまった。圭子だった。  うしろを振り返り、たった今、自分が立っていたあたりを見ると、数台のオートバイと大型トラックが驀進《ばくしん》して行くところだった。 「もう、ほんとに危ないんだから……」  神島に向けた圭子の眼が怒っているように見える。交差点に面して立つビルの三階の喫茶店に二人は坐っている。 「スクランブルってやつは、どうも苦手でね……」神島が言うと、「あら、どうして」と圭子は首をかしげる。 「鏡に向かって歩いているような気がするんだ。ぼくが右へ寄れば相手も右へ寄る。左へ寄れば相手も左へ寄る。それが東西南北、二重に重なってしまう。どうあがいても正面衝突するような気がして足がすくんで歩けなくなる……」 「相当、重症なんですね」 「君は、そういうことはないか」 「ありません」  圭子は呆れた顔になって神島を見ている。  初めて圭子に逢ったのは山田の個展の夜だから、四ヵ月ぶりということになる。圭子は今、赤いセーターに同色のミニスカートをはいて坐っている。靴は黒い皮のブーツ、腰のまわりには黒色の太いベルト。傍の椅子の背に暖かそうなオーバーコートをもたせかけている。そのコートの色も、黒。  以前に逢ったときは邪気のない少年のようなところがあったが、今日の圭子は全体の印象が上手に歳を取った大人の女のようにさりげなく落ち着いて見える。職業的な体験が、わずかな間に彼女の生理を変えたのだろうか。 「モデルの仕事は面白いか」  神島がたずねると、 「ええ、とても。わたしファッションショーにも出してもらえたんですよ」  圭子が告げたヨーロッパに本拠を持つ婦人服のファッションショーは、毎年、秋にひらかれる。一流のモデルか、よほどの抜擢でもなければ、そのショーに出演するのはむずかしい。 「素質があったんだね」 「いいえ。わたしが着ると服がはえるんですって。わたし、空気みたいなんですって。そこにいながら、そこにいない」  圭子はおもむろに脚をもたげ、それをななめに組んだ。硝子《ガラス》のテーブル越しに、二本のほっそりした黒皮のブーツがかたち良く交差するのが透けて見えた。脚の組み方ひとつを取ってみても、モデルとしての力量をうかがい知ることはできる。流れるように自然な彼女の動作に感心していると、 「わたし、あなたにもう一度逢いたいと思っていました」  圭子が唐突にそう言った。真顔である。社交辞令を言っているような様子ではない。 「あのときは、あなたがそんなに有名な写真家だなんて全然知りませんでした。でも今はあなたの写真集を何冊も持っているんですよ」  神島は黙って彼女の顔を眺めている。 「どれもみな好きだけど、一番好きな写真集は、�尋ね人の時間�」  それは、数年前に出版したものである。公園のベンチや石畳の舗道や公衆電話、電信柱、非常階段、廃屋の破れた硝子窓、石塀、煉瓦の煙突、クレーン、川べりの砂利道、雲、原っぱ、水たまり……、そんな何でもない都市の風景を気の向くままに写したモノクロームの写真集である。それぞれの写真にはタイトルが付けられていない。解説の文章も、ない。共通点はどの写真の風景も無人だ、ということである。小さな出版社だったので、ろくに宣伝もしなかった。大して評判にもならず、そのうち絶版になってしまった。 「よく見つけたね」 「ずいぶん捜しました。やっと神田で……」 「ありがとう。礼を言うよ」 「あの本の終わりの方に、火の見やぐらを写した写真があったでしょう」 「ああ、あったね」 「わたし、あれを見て、泣きました」  そう言うと圭子が黙った。  会話が途切れたまま、しばらく時が過ぎた。  やがて神島は、吸いかけの煙草《タバコ》を灰皿にもみ消すと、テーブルの上の伝票を掴んで立ち上がり、 「助けてもらった礼をしよう」  と、言った。 「あら、どんなお礼かしら……」  神島を見上げる圭子の眼が光った。一瞬の沈黙があり、そのあと二人は同時に笑った。四ヵ月前に逢った夜、二人が同じ会話をかわしたことを思い出したからである。ただし、そのときとは立場が逆転している。 「安心したまえ。変な場所へ君を連れ込んだりはしない。何でも欲しいと思うものを言ってごらん」  神島がそう言うと、圭子は意外に素直に、 「はい」  と小さくうなずいて立ち上がった。  二人は腕を組んでスクランブルの横断歩道を渡り、向かいのデパートに入った。圭子は、ちょうど今着ているこの服装に似合う黒のベレー帽が欲しいと言う。だが、デパートの帽子売場に彼女の目当てのものはなかった。仕方なく他の店を捜すことにした。  画廊のとなりに帽子店があった。種々様々な色のベレー帽はあるが、黒色だけがない。女主人は申しわけなさそうに、ベレー帽の中で黒色がもっとも人気があり、毎年、秋に入荷するとまっさきに売り切れてしまう……、と言った。  やむをえず圭子をうながして店を出ようとした神島の眼に、硝子ケースの中の黒い帽子が映った。上質のフェルトを使ったつばひろのよくあるタイプの帽子だが、つばの反《そ》り加減に独特のものがある。 「こいつはどうだ」  たわむれに圭子の頭にかぶせてみると、 「あら、すてき……」  と圭子も満更でもなさそうである。  足もとの方から徐々に視線を上げて行くと、黒のブーツ、黒のオーバーコート、胸もとからわずかに覗いているセーターの赤、そして頭につばひろの黒の帽子。鏡に映った圭子のたたずまいは色も全体のかたちもバランス良く整っていて、初めからその姿で歩いて来たように見える。 「しかし、君が欲しがっているベレー帽ではないな」 「そうね……」  少し惜しい気もしたが、彼女の最初の希望をかなえてやりたかった。  その店を出て、銀座の通りを歩き回った。デパートと数軒のブティックを見たが、やはり目当てのものは見つからない。最後に帽子専門店として名の知られている店にもないことがわかると、圭子はふっ切れた表情になって、 「いいわ、やっぱり、あれにします」  と、言った。  再び画廊のとなりにある帽子店まで引き返し、それを買った。店の外に出ると、すでに夕方である。西の空が赤く夕焼けていて、通りの向かいにある小学校の教室の硝子窓が黒い矩形の列をなしている。  舗道の上に立った圭子が深呼吸を一つすると、 「わたし、おなかが減っちゃった」  と呟く。 「ぼくもだ。何か食べよう。しかし、何がいいかな」  店を決めかねている神島の肩に、 「ちょっと歩くけれど、いいかしら……」  と、圭子が顔を寄せてきた。  銀座の表通りを横切り、裏通りをしばらく行くと、ビストロ風のレストランがあった。テーブルが四つ、カウンターの椅子席が五つほどのこぢんまりとした店である。  圭子は初老の店の主人と顔馴染みらしく、メニューも見ずにつぎつぎと料理を注文して行く。貝と野菜のサラダ、スープ、魚、最後にステーキが出た。とりたてて凝った食器を使っているわけではないが、味の方はどれもみな申し分がなかった。食べながらワインの白と赤を一本ずつ空《から》にして、今は食後酒に少し甘い酒をなめている。これも口当たりが、良い。 「ね、おいしいでしょう」  圭子が上目遣いに神島の顔を見て言った。 「ああ。うまいステーキを、久しぶりに食べたよ」 「おいしいから値段の方も高い、と思っているんでしょう」 「うん」 「でも、安いんですよ、この店」 「へえ」 「さっきのステーキ、いくらだと思います?」  あてずっぽうに数字を言うと、その三分の一にも満たない値段だという。 「だから、ちゃんと食べたいと思ったときは、一人で来るんです」 「一人で」 「ええ」 「今日は」 「今日は、例外。帽子のお礼に、わたしの一番秘密の場所を教えてあげたんですよ」 「だれに、教わった」 「父」  圭子の実父が経営している会社の一つがフランスにあるという。二十数年前、彼がパリで、その会社を作る準備をしていた頃、日本から料理の修業に来ていた男に出逢った。男は、帰国してから銀座に店を出した。 「昔は、よく家族で、来ました」 「家族、というと」 「父と母と娘のわたし」 「今は」 「今は、ばらばら」  圭子の両親は、彼女が中学一年生のときに別れた。圭子は母親の方に引き取られ一緒に暮したが、大学入学と共に、その再婚した母親とも別居し、今は一人で生活している。 「月子と、似ているな……」  神島が呟くように言うと、 「だれですか。その方」  両手で頬杖をついている圭子が、たずねてくる。 「娘さ。今は別れた女房のところにいる」 「どんなお嬢さんかしら」 「小学校の四年生で、無口で、絵が好きで、いつもつなぎのジーンズをはいて、自分のことを|ぼく《ヽヽ》と呼ぶ」 「あら、可愛い……」  圭子の顔がほころんで、少女の顔になった。 「月子も大きくなったら、君のような女になるのかな」  煙草の煙を吐き出したあと、神島が感慨にふけっていると、 「なるわ、きっと。交差点で男を拾って、帽子を買ってもらって、ステーキをごちそうになって、それから……」  苦笑する神島の耳もとに、急に身を乗り出した圭子が顔を近づけてきて、 「ホテルへ、誘うの」  と、甘い声でささやく。  神島が、圭子の顔をまっすぐに見つめ、 「何が言いたい」  と、強く聞き返すと、 「ねえ、行きましょうよ」  哀願するような表情をつくる。 「だめだ」  小声だが、ためらいのない調子で言いはなつ神島の顔に、 「ね、もう一度だけ」  圭子はなおも言う。  ふつうの男女とは立場が逆で、しかもねじれている。猟色家の男が言いそうな科白《せりふ》を女の方が言い、それに対して男の方が応戦している。仮にもし男の不能を女が承知の上で言っているとするならば、その誘いはかなり悪質と言えるだろう。 「君はもうこのあいだのことで十分に懲《こ》りた筈だがな……」  神島が相手の眼をうかがうように言うと、圭子はかぶりを振り、 「おねがい……。だってわたし�尋ね人の時間�を見たときに決心したんです。もう一度あなたに逢って、それから……」 「どうしてそんな決心なんかしたんだ」 「ええ」  彼女は小さくうなずくと、 「あなたの尋ね人になれそうな気がしたんです」 「ぼくの尋ね人に……」 「それに……」  圭子はなおもつづけて、 「わたしにだって尋ね人はいるんです。もしかすると、それがあなたかもしれない、と思ったから……」  そう言うと彼女は眼を伏せた。  圭子の目尻から頬にかけた皮膚の表面がほんのり赤く染まっている。軽くひらいた上唇と下唇のすきまからもれる息には、豊潤な果実のような匂いがまじっている。その表情を美しいと神島は思った。彼女の言う通り、抱きしめられるものなら抱きしめたいとも思った。しかしその思いは波紋となって身体のすみずみへ伝わろうとはしない。砂の底へ吸い込まれるようにたちまち消えてしまうばかりなのである。  神島は、不能のままですごした五年の歳月を考えてみた。それはたとえようもないほど苦しく長い歳月だったのか……。そうでもあり、そうでもなかった。  五年前のある晩、それはカオルとの行為の最中に突然始まった。だが神島はタカをくくった。どうせ一時的なものだろう。疲労がたまっていたせいだ。明日になれば治るさ。そうに決まっている……。しかしその次もそのまた次のときも神島は失敗した。妻と何度ためそうとしても巧くゆかないのである。 「心配するな。だれにでもあることだ」とデザイナーをしている友人は言った。「どんな好物の料理でも毎晩出されたらうんざりするだろう。治すのは簡単さ。気分を変えたらいいんだ。つまり相手を変えたらいいんだよ」  友人が教えてくれた何軒かの店へ通《かよ》ってみた。色々な顔かたちをした女たちはどれもみな美しかった。常に優しい微笑をもって迎えてくれた。しかし巧くゆかなかった。 「これでも駄目ならお手上げだな」  数ヵ月が過ぎると友人は苛立《いらだ》った声でそう言い、切札の店を紹介してくれた。その店には八十五歳の老人を回復させたという中年の女がいたが、巧くゆかないのはこれまでと同じことだった。  カオルと結婚する前につき合っていた昔のガールフレンドたちと久し振りに再会した。やはり駄目だった。新薬から漢方薬にいたる数え切れない種類の薬品を飲み、鍼《はり》や灸や指圧のたぐいもためしてみたが効果はなかった。 「あなたの外陰部には奇形も病気もありません。脳、脊髄にも内分泌腺にも疾患は見られません。つまり医学的に観察するかぎり、あなたの身体には全く異常がないのです」  大学病院の医師は、検査報告書の山から眼を上げると最後にそう言い、精神科医か、信頼できるカウンセラーに逢うことを示唆した。 「ふつうの不能の原因を分析してみますと、過労や多忙、性交に対する迷信や罪悪感、性病の伝染に対する恐怖、妊娠の心配、不成功に終わることへの不安などいろいろありますが、どうやらあなたの場合はそのどれにもあたりませんね」  銀髪の綺麗な初老のカウンセラーは、微笑をまじえながら神島に言う。 「ええ、自分でもそう思います」 「もしやあなたは、いつか自分が不能におちいるときを心の底で待ち望んでいたようなことはありませんか」 「まさか……」 「もっとはっきりと言いましょうか。あなたには不能になってほっと胸を撫でおろしているようなところがある。やれやれ、これでようやくだれともかかわりを持たずに済ませられる、気が楽だ、とね」 「そんなつもりはありません」 「しかしあなたの仕事ぶりを眺めていると、それがよくわかりますよ。不能になってから発表した作品の方が、以前のものよりも評価は高まりましたね。受賞数も増えましたね。つまり世間は今のあなたを歓迎しているし、あなたご自身も今の状態を良しと考えているふしがある」 「そんな……」 「いいですか神島さん。われわれ人類はいつのまにかずいぶん遠くまで歩いてきてしまいました。だれも予想できなかったくらい遠くにね。その間、実に多くのものを獲得し実に多くのものを失いました。その中で最大の喪失は�自然�でしょう。自然の中には今あなたがお悩みの性交本能も含まれるわけです。わかりますね」  神島はうなずく。 「ときどき考えることがあります。あなたのような、時代の先端を生きておられる方々に、なぜこれほど不能者が増えているのだろう……。原因があれば治すのはたやすい。しかし原因がなければ治しようがない。不能を招来しているのは、私たちカウンセラーが予測しているものより、もっと根が深いのではなかろうか」 「と、言いますと」 「これはもちろん冗談ですがね。この地球という惑星がですよ、これ以上の人口爆発に歯止めをかけようとして無意識の知恵を働かせ始めたのではなかろうか……」  初老のカウンセラーが笑い、つられて神島も笑った。 「話が脱線しました。ではいつもの通り�物語�に入りましょう」  カウンセラーは立ち上がり部屋の照明を薄暗くした。神島は長椅子に横たわり、眼を閉じた。静かな起伏の少ない旋律の音楽が流れ始めた。神島は呼吸をととのえ、頭の中を空白にした。十五分ほど過ぎた頃、カウンセラーが、「では物語をどうぞ……」と言った。 「今日は地平線が見えました」  目蓋を閉じたまま神島は呟く。 「けっこうです。つづけてください」  カウンセラーは落ち着いた声で物語の先をうながす。  三百六十度見渡すかぎりの荒地で、それが地平線までつづいていた。一本の樹木も見えなかった。水気を失った背の低い雑草がところどころに生えているだけだった。その間を一本のまっすぐな道が走っていた。それは東の地平線から走ってきて、西の地平線に消えていた。 「あなたは、どこにいますか」  カウンセラーがたずねてくる。 「空中ブランコに乗ってぼんやり地平線を眺めています。眼下にバスストップが見えます。そのまわりに数人の男たち……」  神島と数人の男たちは、いつ来るかわからないバスを待っているのだった。  地平線のあたりで、ときどき砂ぼこりが舞い上がった。そうすると男たちは一斉に立ち上がりバスを待ちかまえた。しかしそれはただの砂嵐でしかなかった。  バスを待つ男たちは何度も腕時計を見つめたり、不安な表情でもう一度古ぼけた時刻表を見直したり、せかせかと意味もなくバスストップのまわりを歩きまわったりした。聞きとれない文句をぶつぶつ吐きながら貧乏揺すりをしたり、やたらに煙草をふかす者もいた。  しかし、バスは来なかった。  まっすぐな一本道と荒地を吹き渡る風。そして砂ぼこり。  男客の一人が突然、「もう待てない」と叫んで立ち上がった。衣服のほこりを両手で叩き落とすと、西の地平線に向かってスタスタ歩き出した。すぐに、もう一人の男があとを追った。また、もう一人。気がつくと、いつのまにかバスストップのまわりから人影が消えていた。 「あなたは、歩き出さないのですか」  カウンセラーがまたたずねる。 「ええ……」神島は呟く。「ぼくはあいかわらず空中ブランコに乗って遠くの方をぼんやり眺めています」  地平線の上にはときどき竜巻が起きたり、ものすごい嵐が来て雨を降らしたり、晴れると空に虹がかかって綺麗だったりした。それはちょうど隣り町にある映画館のスクリーンを焦点距離の合わせにくくなった古い望遠鏡で眺めているような感じだった。竜巻、ものすごい嵐、雨、虹、そしてまた竜巻。来る日も来る日もこの繰り返し。  歩いて行った男客の中には電車にも間に合い、飛行機にも間に合った者もいた。大成功だ。しかし神島だけは、以前と同じ�地平線観察人�で何もしないまま時を過ごした。 「退屈ではありませんか」とカウンセラーが言う。 「そりゃあ退屈です」と神島は答える。  だが、荒地を吹き渡る風はときどきその方向を変えた。神島が腰をかけている空中ブランコは風が吹けば揺れ、風が吹き止《や》めば止《と》まった。大げさなことでは少しもないが、それなりに変化があり気もまぎれた。  そしてときどき考えた。  男たちが歩いて行った行き先とはいったいどこだろう。そこには何があるのだろう。それから、いつまで待ったとしてもバスはもう本当に来ないのだろうか……。 「今日はここまでにしましょう」  カウンセラーが椅子から立ち上がり部屋の照明を明るくし音楽を止めた。そのあと神島の眼をまっすぐ見つめながら最後にこう言うのである。 「私のカウンセリングは簡単です。バスは必ず来ます。そう信じなさい。それ以外にあなたのコンディションを回復させる方法は、ない。いいですね」  初老のカウンセラーが自信ありげに吐いたその言葉を今、神島は思い出している。彼の言葉を信ずるべきだろうか。これまで待っても来なかったバスは本当に来るのだろうか。自分の眼の前に坐って熱心に誘いかけてくる圭子という女が、そのバスなのだろうか。待ちつづけてきた最終便のバスとは彼女のことを言うのだろうか……。  テーブルの向こうから圭子がまたほほえみかけてくる。  タクシーを二十分ほど走らせて、歓楽街の裏手にある十字路で降りた。路地に入ると、たちまち前後左右どちらを眺めても奇妙なかたちをした原色のネオンが煌いている。それが薄暗い路地の奥までつづいている。  人通りは少ないように見えて、ある。たいていは男女の二人づれだが、必ず一定の距離を保って歩いている。まるでそれがこの街の法律でもあるかのように。そんな男女と、身体を触れなければすれ違えないほど細い路地で顔を合わせたときも、圭子は一向にひるむ様子がなかった。軒を接して並んでいるホテルの玄関を覗き込んでは、「ここは、だめ」「ここも、もう一つだわ」と、繁華街でウインドウ・ショッピングでもするように軽快に歩いて行く。名前のつけ方や玄関まわりの雰囲気で、そのホテルの部屋の内容や趣味の程度が、一瞬のうちに判断できるらしい。  最初に圭子が入ろうとしたホテルは、満室だった。次のホテルでも断わられた。 「しょうがないですね、時間が時間だし……」  恋人たちがいっせいにベッドへ殺到する、今がそういう時間だというのであろう。四軒目のホテルの前でしばらく思案していたが、自分だけ小さくうなずくと、神島にかまわず、さっさと中へ入って行く。  圭子が選んだ部屋は二十畳ほどの広さであった。毛足の長い絨毯が床一面に敷かれている。その上に多くの調度品が置かれていた。六、七人は坐れそうな布張りの応接セット、テレビ受像機、マイクやスピーカー、カラオケセット、冷蔵庫、珈琲サービス用のセット、暖炉、観葉植物……。ソファーとは反対側の壁際に大型の四角いダブルベッドが置いてあり、それを取り囲む壁は四面とも硝子張りである。 「この部屋、わりと気に入ってるんです」  ベッドの端に腰をかけると圭子が言った。 「よく来るのか」  神島は部屋の中央に立って周囲を見まわしている。四方の壁が鏡なので、前後左右に数え切れないほどの自分が同じ姿勢で立ってこちらを眺めている。 「たまにですけど、落ち着けるから」 「決まった男、とか」 「ここには大勢で来るときが多いみたい」 「大勢」 「よその学校のクラブの男の子たちと、よくミーティングするんです」  圭子が女子大の三年生であったことを神島は思い出した。 「男女は、同数か」 「そういうときもあるし、そうでないときもあります。女がわたし一人のときもあります」 「それで」 「食べたりしゃべったり歌ったりテレビを見たり……」 「それから寝るのか」 「そうなるカップルもいます」 「男女の数が合わなければ、組み合わせにあぶれる者が出るだろう」 「ええ」 「そういう場合は、どうする」 「先に帰るだけです」  あっけらかんとしゃべる圭子の顔を眺めているうちに神島は不思議な気分になってくる。圭子たちの屈託のなさを、健康的と言うのか不健康と言うのか。そのことに感心したり首をかしげたりしている自分とは何なのか。 「二人でも、来るのか」  そう言い終えてから神島は、自分が言った言葉のおろかしさに苦笑してしまった。 「今が、それ」  圭子が微笑してうなずき、 「見ててくださいね」  と、ベッド脇にあるボードのスライドボタンを両方の手で操作した。部屋のあかりがだんだん暗くなって行き、代りに、天井に埋め込まれていた無数の豆電球に灯がついた。赤や青や緑や黄や……、その豆電球の群れは、夜空に横たわる天の川のように、黒色に塗られた天井をゆるやかに蛇行している。 「綺麗でしょう」  圭子の手の操作で、部屋のあかりが完全に消えた。それとは反対に天井の豆電球の光が次第に強まり、やがて暗黒の中で燦然《さんぜん》と煌いた。その光が四方の鏡に反射し、無限回数、光が増殖した。置きざりにされた宇宙飛行士が宇宙空間で浮遊しているような気分である。 「月子が喜びそうな部屋だなあ」  上下左右のバランスの感覚を失い、足元をもつれさせた神島が言った。月子は、夜空の星と流れ星の絵を描いて郷里のおばあちゃんに送ったのだ。おばあちゃんはそれを喜び、ブルー地に白い点々の模様が入った暖かそうなセーターを送ってきてくれた。月子はそれを星座のセーターと呼んで、いつも着ている。 「この次はその月子ちゃんとかいうお嬢さんも連れて三人で来ましょうか」  そう言うと圭子は笑うのである。  一時間が過ぎた。  二人は薄暗い部屋の中央に向かい合って立っている。四方の壁に張られた鏡に無数の二人が映っている。 「抱いてください」  呟くように言う圭子の身体からバスタオルがするりと滑り落ち、足元の絨毯の上にうずくまった。眩しいほど白い圭子の裸身が、手を伸ばせばすぐに届く距離にあった。 〈バスは来るのだろうか……〉  神島の頭の中にあるスクリーンに地平線の風景が投射された。神島の肌は荒地を吹き渡る風を感じた。空中ブランコに腰かけながら神島はぼんやり遠くを眺めている。  東の地平線の一角で、ふと砂ぼこりが舞った。 〈あれがバスだろうか……〉  空中ブランコからロープをつたい、するすると地上へ降りながら神島は思う。 〈あれが最終便のバスなのだろうか……〉  砂ぼこりはだんだんバスストップの方へ近づいて来る。  神島の身体の奥底で眠っていた意識が頭をもたげ、圭子の方に向かって触手を伸ばして行くのがわかった。しかし足の方は床に釘付けされたように一歩も前へ動かない。  神島の意識だけがなおも伸びつづけ限りなく圭子に近寄り、ついに彼女の身体をすっとつらぬいてしまった。圭子の背後にある壁の鏡にまでたどりつくとようやく止まった。そこにもう一人の神島がいた。いや、何百何千というもう一人の神島が、途方に暮れた顔で神島自身を見つめていたのである。  バスストップのすぐ前の道を東から西へ、灰色の砂ぼこりが渦を巻きながら通り過ぎて行くのが見えた。 〈バスはやはり来なかった……〉  仕方なく神島は再び空中ブランコの人になる。風が吹き寄せてきてブランコが少し揺れた。その風は神島の頬をひんやり撫でたあと、眼下の枯草を徐々にふるわせながら荒地の上を音もなく吹き渡って行く。だんだん遠のいて小さくなる風のかたちが見えるようだった。 「抱いてください……」  眼を伏せた圭子がほとんど泣きそうな声で、また呟いた。神島の耳にかろうじて届いたその声は、今や地平線上に舞う砂ぼこりよりも遠くかすかだった。  二時間が過ぎた。  さっきから二人は黙ったままダブルベッドの上に距離を置いて仰向けに寝そべっている。  天井の天の川が薄暗く青白い光を放っている。街の方で、かすかにサイレンの音がした。 「君といると、よく火事が起こるね……」  神島が呟く。 「違うわ、あれは救急車の方です」 「そうか」 「わたし、サイレンの音には敏感なんです」 「ほう」 「あなたの写真集の火の見やぐらを見て泣いたって話をしたでしょう」 「ああ」 「子供の頃、近所に消防署があったんです」  それは、消防自動車を一台しか置けないくらい小さな消防署であった。幼稚園が終わると、圭子は必ずその消防署に寄り道した。そうして消防自動車に塗られた真赤な色を飽かず眺めつづけた。  ある年の冬、風の強い午後だった。いつものように圭子が消防署に寄ると、その日に限って消防自動車が影もかたちも見えない。消防士の姿も、ない。消防署の中はもぬけのからなのである。コンクリートの床の上を歩くと、靴音が洞窟の中のように木霊《こだま》した。 「からっぽの消防署の風景は、とてものどかに見えました」 「へえ」 「なぜこんなに間が抜けているんだろう、とも思いました」  しかし、平和そうに見えた風景の裏側で、地獄のような惨劇が刻々と進行していたのだった。その数十分前に市役所で発生したボヤは、不運にも折からの強風に煽られ、飛び火をかさねながら市内全域に広がり、結局、一昼夜も燃えつづけることになった。そうして鎮火したときは、圭子の家はもちろん、市内の三分の二以上が全焼するという大火事になっていた。街中を一晩中走り回る消防自動車のサイレンの音は、今も圭子の耳に焼きついていて忘れることができない。 「消防自動車のいない消防署って非力ですね。火の粉一つ消せないんだもの」  圭子が寄り道をして眺めた、あのからっぽの消防署の屋根に火がついたのは朝の四時頃だったという。  翌日の午後、圭子は消防署の建物があった場所に立ってみた。何もなかった。見事なまでに燃えつきていた。 「火の見やぐらだけが残っていました」  白煙がくすぶる瓦礫の山の向こう側に、鉄製の火の見やぐらが見えた。赤黒く焼けただれたそれは、一本の卒塔婆のようにポツンと立っていた。 「ねえ……」  圭子が神島の耳にささやく。 「赤い車は消防自動車でしょ」 「うん」 「白い車は……」 「救急車だろうね」 「黒い車は……」 「霊柩車」 「それじゃあ、青い車は……」  しばらく考えたが、思いつくものがない。 「青い、そんな車があったかなあ」 「あるわ」 「どんな車だろう」 「夜汽車」 「え」 「ブルー・トレイン」  思わず苦笑する神島に、 「疲れたわ。少し眠らせてください」  そう言うと圭子は背中を向けてくるりと寝返りを打つ。  枕元にある電話のベルが鳴った。  受話器を取ると、感情のこもらない中年の女の声がした。 「十二時を過ぎるとお泊まり料金になりますが」  腕時計を覗くと、その時刻まで、あと五分ほどしかない。すでに圭子はかすかな寝息を立てて眠っている。 「泊まることにする」  神島が言うと、 「わかりました。それではおやすみなさいまし……」  と言って電話が切れた。  神島は今、夢を見ている。  呼吸が浅く、不規則に速くなったり遅くなったりしている。うなされているようである。脈絡のない無数の雑念や妄想が神島の頭に襲いかかっては絡み合い縺《もつ》れ渦を巻いている。そのたびに苦しげな呻き声を立てる。  夢の中で神島は、画廊の中にいる。  床から天井まで大小様々な絵画が壁面をうめつくすくらいびっしりと飾られている。肖像画が専門の画廊のようである。  最初の部屋に入ると五十号ほどの大きさの油絵が眼に止まった。小太りの男が胸を反《そ》らし正面を睨みつけている。その顔は郷里にいる兄にどこか似ている。「再婚しろ」と言われそうなので、視線を合わせぬように足早に絵の前を通り過ぎる。  百号の大作があった。中年の女の肖像画だ。自信ありげなその顔は別れた妻のカオルに似ている。 「off the wall」  絵の中の女が苛立たしげな声で呟く。  次の部屋には絵がなかった。がらんとして灰色の壁だけが空気をとりかこんでいた。いや、たった一枚だが絵はあった。松葉杖の油絵だった。白色と黒色に塗りわけられ細密に描かれていた。だが、人間の姿はなかった。絵の中の松葉杖が神島の心に突き刺さってきた。自分の姿を見せつけられているような気がした。松葉杖の持主は、お前だ。不能者である、お前だ……。女の尖ったような金切り声が空気をふるわせて画廊全体に木霊した。恐怖が、神島の全身を包んだ。逃げ出そうとしたが足が言うことを聞いてくれない。ぐにゃりとした床の表面に足を取られて滑りそうなのだ。下を見ると、思わず悲鳴を上げそうになる。画廊の白い床はいつのまにか無数の死んだ水母《くらげ》で覆いつくされているのである。  神島の夢はまだつづく。  次の部屋に逃げ込むと、画廊主がにこにこ笑い顔で手招きをしている。彼の指さす壁の方を見ると一枚の少女像が飾られていた。二十号ほどの大きさである。  少女は大型のクッションの上に腹這いになって寝そべっている。放心したような横顔に、すがるような瞳となじるような唇が同居している。 「恋する女、でございます」  画廊主が言った。その顔は夕食を食べた銀座のレストランの主人の顔に似ている。 「恋しているとなぜわかる」  神島がたずねると、 「女は恋すると腹這いになって頬杖をつきたがるものでございます」  少女の顔は、どこか圭子の顔に似ているように思われた。神島はその絵を買うことにした。  やがて絵は、神島のベッドのすぐ脇に立てかけて置かれることになった。寝そべった姿勢のままで少女と対面することができる。  ある日のこと。  絵の中の少女を眺めていると、画廊で見たときより髪が伸びているような気がした。眼を近づけてなおよく見ると、短髪だった髪が今では肩まである。そのうち背中まで伸び、腰まで伸び、足先まで伸び、ついに額縁をはみ出して神島が寝ているベッドの上まで伸び広がってくるではないか。  少女の髪にすっかりおおわれた神島のベッド。  黒真珠のきよらかさと暗闇のやさしさとを同時に持った、こんなにも冷たく暖かなベッドをほかに知らない。ほのかに匂う懐かしい花のかおり。  神島は、無数の髪が海草のようにゆらめいている湖の底へ静かに沈んで行く。  ああ、沈んで行くな……、と思った瞬間、身体の奥底の方から甘いしびれが込み上げて来て、激しく夢精した。  少女の黒髪を、白髪に染めてしまった。  ゆっくり振り返った少女の顔を見ると、いつのまにかカオルの顔になっている。  いやな夢を見た……、と神島は思った。眠っている圭子を起こさぬように、そっとベッドから降り、シャワーを浴びて戻ると、圭子が薄目をあけて、 「どうなさったの」  と、たずねてくる。  神島は、今しがた自分が夢精したことを正直に告げた。  すると圭子の眼に一瞬、咎《とが》める光が走った。 「夢の中でなら、できるんですか」 「夢の中でしか、できないのだ」  苛立ちながら、神島が答えると、 「ひどい……」  低い、けもののような呻き声が圭子の唇から漏れた。それから両手で、自分の顔を覆った。  早朝である。  神島がフロントで料金を支払っていると、先に玄関扉をあけようとしていた圭子が、 「あ」  と、小さな叫び声を立てた。  ホテルを出ると、外はまだ薄暗い。その下の方がぼんやり白く光っている。  雪だった。  五センチほどの雪が積もっていた。夜のうちに降り積もり、夜明け前に止んだらしい。  細い路地の奥から大通りに出ると、街は一面、白く覆われている。昨晩来たときとは別の世界に迷い出てしまったようである。舗道の上に人影はなく車の走る音も聴こえない。風も、ない。何もかもが死にたえて無音になってしまった白い世界に、男と女が立っている。 「�尋ね人の時間�の中に……」圭子がふと口をひらいた。「井戸の写真があったでしょう」 「うん」 「雑草に覆われて置き去りにされたような古い井戸の写真……」 「あれは空《から》井戸でね。田舎の実家の裏庭にあったんだが、今は埋めたててしまった」 「わたし、あの写真が好きです」 「ありがとう。生まれて初めて撮った写真が、実はあれなんだよ」  古いアルバムに貼り付けてあったプリント写真を引き剥がし、複写して写真集の一頁に加えたのである。 「あの写真の尋ね人は、どなた」 「妹、ということになるかな」 「今はどこにいらっしゃるの」 「よその星さ」 「死んだの」 「三歳でね」 「そう……」  圭子が黙り眼を伏せた。しばらくしてから、「サドルの壊れた自転車を写した写真も、好き」と言った。 「へえ」 「あの写真の尋ね人は……」 「父、だろうな」 「お父様もよその星にいらっしゃるのね」 「ああ、ぼくの四歳の頃からね」  二人は無人の街路を歩いている。前方に十字路が見えてきた。死にたえた街に交通信号機だけが唯一の生きもののように点滅を繰り返している。 「ねえ……」と圭子が言った。「あなたの尋ね人はみな死んでしまった人たちばかりなのね」  神島は黙って信号機の赤い色を眺めている。 「生きている人を尋ねてはもらえないんですか」 「自分でもよくわからないんだ」 「いつかあなたが生きている人を尋ねたいと思うようになったとき……」圭子は神島の眼をまっすぐに見つめながら、「まっさきにわたしのことを思い出してくれますか」 「もちろんさ」 「約束する?」 「約束するよ」 「ありがとう」 「どういたしまして」  二人が歩くたびに靴の裏で新雪がきゅっきゅっとかすかな音を立てる。十字路の手前で圭子が急に立ち止まり、神島の方を向いて呟くように言う。 「とうとう一度も抱いてくれませんでしたね」 「あやまるよ。ごめん」 「違うんです」圭子は強くかぶりを振る。「悪いのはわたしの方です。無理に誘ったわたしが悪いんです。わたしの方こそあやまります。ごめんなさい……」  急に圭子が背中を見せて道の上にうずくまった。立ち上がり振り返ると掌に小さな雪玉があった。 「あそこに電信柱が見えますね」と圭子は思いつめたような表情で、「もしも、この雪玉をあの電信柱に一発で当てることができたら、わたしを抱いて接吻してくれますか」  二十メートルほどななめ前方に電信柱が立っている。  神島が口をひらくその前に圭子はピッチャーのふりをして「えい」と雪玉を空中に放り投げた。早朝のまだ薄暗い空気を切って白い雪玉は弧を描いて飛んだ。それはしかし、わずかに外れて砕け散った。  圭子はすぐに地面にしゃがみ込み、また両手で雪をすくい玉を作って投げた。二球目は遠くはずれた。三球目はすれすれに飛び、四球目はあらぬ方角に飛んだ。圭子は必死だ。しかし何度投げても雪玉を電信柱に命中させることができない。  神島の眼下に、道の上にしゃがみ込み、肩で息をしながらなおも両手で雪をかき集めようとしている圭子の背中があった。思わず神島は背後から圭子を抱き寄せた。立ち上がらせ正面を向かせてその顔を覗き見ると、圭子は声を立てずに泣いている。神島は圭子の肩を両手で強く抱き締め、唇を合わせた。かすかに涙の味がした。  二人は長い間抱き合っていた。白い街路の上に氷結した一つの影のように動かなかった。やがてどちらからともなく二つに分かれ、距離を置いて向き合った。 「また逢ってくれますか」  泣きはらした眼を見ひらき、濡れて光っている睫毛《まつげ》を眩しそうに瞬かせながら圭子がそう言った。  だが、神島は何もこたえない。ただ黙ったまま、いつまでも圭子の顔を見つめている。  沈黙の時が流れた。  先に視線をそらしたのは圭子の方だった。おもむろに眼を伏せ、うなだれて小さくひとつうなずくと、かすれた声で一語一語をしぼり出すように、 「さようなら……」  と、言った。 「さようなら……」  神島がそれにこたえた。  交差点の信号が青に変わった。  横断歩道を渡り向かい側の舗道に着いた圭子が、急に足を止め神島の方を振り返って微笑すると、大きな声で叫んだ。 「帽子を、ありがとう」  圭子は右手でかぶっていた帽子を取り、頭の上に高くかかげて左右に振った。地平線までつづく真白な雪原の上を一羽の黒い鳥がはばたいているように思われた。その黒い鳥は左右に揺れながら、地平線に向かってだんだん小さくなって行く。  神島の胸の底からこみあげてくるものがあった。〈追いかけるか……。今ならまだ間に合う……〉道路に一歩を踏み出そうとしたその瞬間である。神島の背後で、 「リゴドン」  と、低くささやくような声が響いた。  恐る恐るうしろを振り向いて見たが、そこにはだれもいない。ただ雪に覆われた無人の街が広がっているばかりなのである。  神島はひねった身体を元に戻し、もう一度彼方の街路を歩いている圭子のうしろ姿を捜そうとした。しかし圭子の黒い影は、もうどこにも見えなかった。 [#改ページ]   「あとがき」にかえて    グリムと夢二とホックニー     1  消しゴムをよく失《な》くした。  子供のころ、丸いのや三角のや四角いのや色々なかたちの消しゴムを集めては机の上に並べ、空想の戦争ごっこやチャンバラごっこをして遊んでいた。消しゴムたちは、私がちょっと眼をはなすそのスキをねらって机の上をコロコロ転がる。机の下に墜落すると今度は大きくジャンプしながら、あっという間に姿をくらましてしまう。捜しても、なかなか見つからない。しかし、失くした消しゴムを補充するのに困ることはなかった。実家が文房具店を経営していたので、文字通り売るほどあったからである。 「あんたは、消しゴムを失くす名人だねえ……」  母は、よくそう言った。  ある日、消しゴムの隠れ家を発見した。子供部屋の隅の思いもかけないとんでもない所にそれはあった。アフリカに象の墓場というのがあるらしいが、ちょうどあんなふうに、数えてみると合計十三個の消しゴムたちが肩を寄せ合うようにうずくまっていた。私が顔を近づけて覗き込むと、行方不明だった消しゴムたちは、 「あ、お久しぶり……」  という感じで、少し恥ずかしそうに笑うのだった。     2  昔、NHKラジオに�尋ね人の時間�という放送番組があったことを覚えておられる方がいるかもしれない。 「終戦直後、満州の何々という町で何々をしていた元陸軍二等兵何野何夫さんのその後の消息をご存知の方はいらっしゃいませんか。もしいたら、どこそこにいる友人の何々までご連絡ください……」  NHKに寄せられる、おおむねそういった内容の呼びかけを一日に何度も繰り返すのである。しかも連日……。面白くもなんともないその番組が始まるたびに私は不思議でならなかった。大《だい》の人間も、あの小さな消しゴムたちのように行方がわからなくなってしまうことがあるのだな……。どうして人はこんなにも、誰かを捜すのが好きなのだろう……。自分にも、誰か尋ね人はいないものだろうか……。あるとき、母にこう言った。 「ねえ、ぼくもラジオに、たずねびと、してみようかな」 「うん? どんな」 「ぼくのお父さんのそのごのショウソクをごぞんじのかたはいませんか……」 「馬鹿なッ」  母は即座に、しかも吐き捨てるようにそう言うと、急に今度はとても哀しげな表情になって私の顔を見つめた。     3  父があっけなく病死したのは、私が四歳になるかならないかのころだったというから、もの心ついたとき既に父はこの世の人ではなかった。したがって思い出せる記憶は一つもない。顔も知らない。のこされた数枚の写真によって、ああ自分の父とはこういう顔の人物であったのだなあ……と、まるで他人のように思うだけである。  父は最初からいないのも同然であったから、その不在を悲しんだりコンプレックスを抱いたりする、ということもなかった。まだ小さな子供であったので、この世とあの世の区別もよくわからなかった。あの世とは、どこにあるのか……。簡単に戻ってはこられないくらい遠い所にそれはあるのか……。だから私は、こんなふうに考えたのかもしれない。ラジオ放送の�尋ね人の時間�に投書した私の呼びかけを聴いて、父はもしかするとあの世という所から手紙をくれるかもしれない……。あるいは電話をかけてくれるかもしれない……。そうして私が会いに行くと、父はとんでもない場所にじっと息をころしうずくまっていて、私の顔を見上げながら微笑してくれるかもしれない。 「ああ、よく来てくれたねえ……」  と、失われたあとで再会したあの消しゴムたちのように。     4  十年以上も昔、まだ私がシンガー・ソングライターなどと呼ばれていたころのことである。山口洋子さんから、�五木ひろし 日本近代叙情詩を歌う 何処へ——�というLPレコードの企画と作曲を依頼されたことがあった。明治以降に発表された膨大な詩作品の中から独断と偏見によって私が好きな作品だけを選びメロディーを付ける、というのだ。  私は、図書館から日本詩人全集といったたぐいの書物を何十冊と借り出してきては、およそ半年ほどかけて全部で十二篇の詩作品を選んだ。詩人で言えば、石川啄木、中原中也、室生犀星、立原道造、竹久夢二、北原白秋、ということになる。  いよいよレコーディングすることになった。五木さんは快調に歌い込んで行き、最後に夢二を歌うことになった。それは次のような短詩である。     花をたづねて ゆきしまま     かへらぬひとの こひしさに     岡にのぼりて 名を呼べど     幾山河は ほのぼのと     ただ山彦の かへりきぬ     ただ山彦の かへりきぬ  歌入れを終えてスタジオからミキシングルームに戻ってきた五木さんは、「これ、いい歌だなあ……」と呟くように言った後、「でも、あそこん所は、どういう意味なんですかねえ」と、思案げな顔を向けてくる。彼は、�花をたづねて ゆきしまま�という冒頭の一行をさして言っているのだ。  しばらく考えてから私はこんなことを言った。花とは、文字通りの花なのかもしれない。あるいは何かの象徴なのかもしれない。それはどちらでもかまわないが、ともかくはっきり言えることは、人が意思的に自分の消息を断つのに大した理由はいらない、ということ。たった一輪の花を捜しに行く……そんなひどく馬鹿馬鹿しい動機でも、人はふっといなくなってしまうものなのではなかろうか。 「でもねえ」と五木さんは言う。「もし、恋人に置き去りにされる方の側になったとしたら、ちょっとこれはたまりませんよねえ……」 「うん。たまらないねえ……」  同じように私もうなずいた。それから二人とも、黙った。     5  あれから十年以上の歳月が過ぎた今、夢二のあの歌に対する私の解釈はいささか変わったようである。即ち、花を尋ねて旅に出たまま行方不明になってしまった人とは、恋人でもなんでもない、実は自分自身のことではなかったのか……。そういうことである。  私も歳を取ったが、日本というこの国も歳を取った。かつて誰一人として予測できなかったくらい世の中は変貌し、都市生活者の�生�も変容してしまった。豊饒《ほうじよう》な物質と過剰な情報の洪水の中で、私たちは今、ひどく疲れている。  ある日、気がつくと、自分の内部に昔はたしかにあった筈の主体としての|われ《ヽヽ》が失われていたのだ。わが心のうちなる岡にのぼって、いくら自分の名を呼んでみても、いたずらにただ山彦がかえってくるばかり。|われ《ヽヽ》に置き去りにされて抜け殻になった|われ《ヽヽ》のがらんどうの中を、うそ寒い風が通り過ぎて行くばかり。そうは思いませんか。     6  小説�尋ね人の時間�とは、自分捜しの物語なのかもしれない。  失踪した鳥を捜し求める鳥籠のように、失われた|われ《ヽヽ》を求めて尋ねさすらう哀しくも滑稽な人々の物語である、と言ってもよいかもしれない。  この小説は、第九十九回芥川賞を受賞したが、選考会が行われた夜、私は自宅で待ちつづけることをよしとせず、街に出た。  できることならば、人間が一人もいない場所で待ちたかった。だがそれは、大都会にあっては無理な注文だった。街を歩き、地下鉄に乗り、JRに乗り換え、いつか山手線の車中に私は、いた。秋葉原から、時計まわりで一周していたのである。  芥川賞を主催する日本文學振興會の人々は、当選が決まり、ただちに私と連絡を取ろうとしたのだが取ることができず、一時は相当にうろたえたのだという。行方不明になった受賞者というのは、初めてのことだったらしい。  私は、どこにいたのか……。  そのころ、私は、群衆と雑踏の中に一人いた。だから、午後九時のNHKテレビで芥川賞決定のニュースが流れたことも、無論、知る筈もなかった。  群衆の誰一人として、私を知る者はなく、私もまた、群衆の誰一人をも知ってはいなかった。無意識のうちに、人間が一人もいない場所で待ちたいというその願望にもっとも近い空間に、自分の身を置いていたことになる。  私は山手線の車窓を走り過ぎる都会の夜の風景をぼんやり眺めながら、 〈ああ、自分は今、いったい何をしているのだろう……〉 〈なんと無意味な時を、すごしているのだろう……〉  などと考えていた。それから、 〈山手線の終着駅とは、いったいどこになるのだろう……〉  とも。あれこれ考えては自分で自分の馬鹿さ加減に腹を立て、しまいには呆れはてていた。そうしていつか、東京の大地に巨大な零《ゼロ》(円環)を描きながら、その内側に広がる空洞を見つめていた。同じかたちのものが、自分の内部にもあった。深い井戸のような空洞がポッカリと口をあけていた。しかし、中を覗き込んでも何も見えない。ただ夜のように暗い闇があるばかりだった。     7 �尋ね人の時間�が単行本として出版されることになった。  本の表紙にふさわしい絵はないかと、文藝春秋出版部の高橋一清氏といっしょに東京中の美術館と画廊を歩きまわった。だが、なかなか見つからない。  二人の脚がほとんど鉛の棒になりかけたころ、ようやく銀座にある小さな画廊の一隅でホコリをかぶっている一枚の絵に出会った。絵は、私たちを見上げながら、 「やあ、よく見つけてくれましたねえ……」  という感じだった。  表紙の装画に使うことになったそのデイヴィッド・ホックニーのエッチングには、 �おそれることをおぼえるために旅に出かけた男の話�  というタイトルがつけられている。  原典は、グリム童話にある。     8 �尋ね人の時間�と�水母《くらげ》�の両方に初出誌発表のあと若干の加筆と訂正を施した。  今回もまた、数個の消しゴムのお世話になった。私の愛する消しゴムたちは、少年のころと同じようにあいかわらず行方不明になるのが好きらしい。  机に向かって原稿を書きながら、ふと想像することがある。 〈この瞬間にも、世界中の少年たちの机の上から、いったい何個の消しゴムがコロコロと転がり落ち、失われるのだろうか……〉 〈そうして少年たちはいつの日か、その失踪した消しゴムたちと上手に再会することができるのだろうか……〉     9  最後になってしまったが、小説執筆にあたっては、「文學界」編集長の雨宮秀樹氏に大変お世話になった。心から感謝したいと思う。 [#地付き]一九八八年 夏  新井 満 初出誌   「水母《くらげ》」     文學界 一九八八年九月号   「尋ね人の時間」 文學界 一九八八年六月号 単行本   一九八八年八月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成三年八月十日刊