[#表紙(表紙.jpg)] アメリカン・ヒーロー伝説 小鷹信光 目 次  まえがき  1 〈探偵小説の父〉が遺した名探偵  2 ダイム・ノヴェルズの先駆者  3 大衆ヒーローの誕生  4 オール・アメリカン・ボーイの夢  5 アメリカ版〈切り裂きジャック〉は女だった  6 大衆作家と犯罪ミステリー  7 探偵小説の黎明期  8 短編ミステリーの揺籃期  9 O・ヘンリーをミステリーとして読もう  10 アメリカのホームズたち  11 聖書を持った辺境の騎士  12 西部の男は、いつハードボイルド私立探偵に変身したか  主要人名一覧 [#改ページ]  まえがき[#「まえがき」はゴシック体]  本書は、『アメリカ語を愛した男たち』(ちくま文庫)のいわば前編に当たり、同書同様とても幸せな本です。なにしろ二十年ぶりの文庫化なのですから。  しかも文庫として再生した年が二〇〇〇年。私も同じように新たな時代に生をうけたような気がします。本書の第6章には、マーク・トウェイン、O・ヘンリーなどその時代の六人の大衆作家が、一九〇〇年の元旦になにをしていたかを追跡した一文があります。それからちょうど百年後に、彼らと彼らが創造したアメリカン・ヒーローの変遷を追ったこの本が甦ったのです。この本が新たに文庫におさめられたのは、あつかっているテーマが、『アメリカ語を愛した男たち』よりさらに古い時代を背景にしていたからでしょう。  読み返してみると、私はその古い時代のアメリカを懐かしみながら、アメリカ発展の歴史をおさらいしているようなところがあることに気づきました。古いけれど、けっして腐ることのない題材です。  この機会に、初版を世に送りだしてくださった草思社の木谷東男さんにあらためて感謝の意を表します。草思社版もまだ絶版になったわけではないのに、こころよく文庫化の申し出に応じてくださいました。そして、『アメリカ語を愛した男たち』と同じように文庫化の編集を担当してくださった打越由理さんにも心から感謝します。二〇〇〇年ベイビーの誕生を祝いましょう。  二〇〇〇年一月  初版(『ハードボイルド以前』)まえがき[#「初版(『ハードボイルド以前』)まえがき」はゴシック体]  本書は、翻訳ミステリー雑誌『EQ』誌上に『EQ・アメリカーナ』という題名で二年間連載した記事に手を加え、一冊にまとめた「私的アメリカ論」である。このことを冒頭に記したのは、掲載誌がミステリー雑誌であったということと、その連載記事のキャッチフレーズに〈アメリカーナ〉という言葉が用いられていたことを明らかにしておきたかったためである。私にかかわりのあるアメリカ、私の興味を惹くアメリカを〈編年史事典〉のていさいで幅広く盛りこみたいというもくろみがこのキャッチフレーズにあらわれている。  その私的アメリカを語るために、私はミステリーを主軸にした大衆読物の発展の歴史を主要な題材にえらび、それを時代を象徴する出来事やセンセーショナルな犯罪事件の記述によって補足する方法をえらんだ。アメリカのミステリーと犯罪実話、この二つのジャンルは、私自身この二十年間最も馴れ親しんできた分野でもある。  そんなわけでこの本は、時流にのったアメリカものとはまったく趣を異にしている。ポーがミステリー史上に登場した一八四〇年代にさかのぼり、そこから一九二〇年代の幕開きまでの遠い昔のアメリカを、私はとりあげた。現代の若い日本人にとっては、アメリカはまさに同時代、同次元の風俗でありファッションであろうが、本書にはいま彼らが信仰しているアメリカはでてこない。アメリカがなぜいまのアメリカになったかを示すヒントだけを提示したつもりだ。  ミステリーに即していえば、その記述はポーにはじまって、アンクル・アブナー物語のポーストでおわっている。私がやりたかったのは、ミステリー史のなかでほとんど無視されている、ポーからポーストにいたる長い空白の時代になにがあったかを掘りおこすことだった。その空白の時代は、忘れ去られた英雄、ニック・カーターや、アメリカのホームズたちの活躍した時代でもあった。読物週刊誌、ダイム・ノヴェルズ、揺籃期のパルプ・マガジン、新聞の日曜版などで活躍したこれらのヒーローたちは、その時代にどんな意味を持ち、どこに消えてしまったのだろう。  この本のなかで私は、アメリカン・ヒーローの源流もさぐってみた。民話のヒーローたちについても触れ、つくりあげられた英雄、バッファロー・ビルについても詳述した。ジェイムズ・フェニモア・クーパーの〈革脚絆物語〉に登場するナティ・バムポーにさかのぼり、ハードボイルド私立探偵の元祖をウェスタン・ヒーローのなかに見出した。アメリカン・ヒーローにとって、精神的にも地理的にもまだフロンティアが存在した時代について、私は語りたかったのだ。  だが、なぜ私はアメリカを語ろうとするのか? それを問われれば、つまるところ答えは一つしかない。アメリカを語るのは、それを通じて私自身の精神形成を語ることなのだ。アメリカン・ヒーローの系譜をたどるのは、私自身の理想のヒーロー観を語ることにほかならない。アメリカの夢が失われ、民話のヒーローたちがとうに過去の遺物となり、アメリカが私にとって巨大なジョークにすぎないことがわかったいまとなっても、なお私はアメリカに心を惹かれ、かかわりをもちつづけようとしている。そのかかわりかたと関心とが、この本のすべてだといってもいい。  アメリカを語るのに、私は低い位置に視点を据えた。俗悪な大衆読物やミステリー、犯罪実話といった大衆の嗜好にあわせた角度から仰ぎ見るアメリカもまた、まぎれもない現実のアメリカであろう。方法としてえらんだだけではなく、これは私にとってつねに唯一正しく思える視点であった。華やかな舞台で演じられる〈アメリカ〉というシリアス・コメディ風の大衆劇を、一段下って眺める一観客の立場が、私にはいちばんふさわしく思えるからである。   一九八〇年七月 [#地付き]小鷹信光 [#改ページ] (画像省略) 〈探偵小説の父〉が遺した名探偵[#「〈探偵小説の父〉が遺した名探偵」はゴシック体] [#地付き]●一八四〇年代[#「●一八四〇年代」はゴシック体]     ——悲運のヒーロー、オーギュスト・デュパン  一八四一年、ニューヨーク[#「一八四一年、ニューヨーク」はゴシック体]  毎年、秋になると、ニューヨークでは恒例の〈エドガー・アラン・ポー・フェスティヴァル〉が開催される。私がニューヨークに滞在していた一九七七年の秋も、この催しが九月十七日に西八十四丁目でひらかれ、俳優のイングル・コンロウが「大鴉」を朗読し、大道芸人や占星術師が店を出し、ブロードウエイからリヴァーサイド・ドライヴまで、ノスタルジックなお祭り気分をかもしだしていた。  もとよりニューヨークは、ポーにとってゆかりの深い街である。ウェスト・ポイント士官学校を追われたポーは、一八三一年にはじめてこの街を訪れ、ブロードウエイ一一一番地に滞在した。そのあと、一八三七年から一八三八年夏まで、ポーは六番街や、義母のクレム夫人がやっていたカーマイン・ストリートの下宿屋に住んでいた。そして、この章で述べるあるセンセーショナルな殺人事件の調査のために、その事件の起こった一八四一年にもニューヨークに足を向けている。一八四四年、病妻ヴァージニアとともに再度ニューヨークに移り住んだポーは、その年の暮、西八十四丁目のブロードウエイとアムステルダム街とのあいだにあるブレナン・ファームで「大鴉」を完成させた。「大鴉」は翌年一月に発表され、六月には有名な短編集『テールズ』が出版された。生涯不遇だったポーにとって、つかのまの栄光の時が訪れた時期でもあった。 (画像省略)  一八四一年は、ポー自身が編集に携わっていた(一八四一年四月号〜一八四二年五月号)フィラデルフィアの『グレアム・マガジン』四月号に、アメリカのミステリー史における最初の里程標となるべき運命を負わされて、「モルグ街の殺人」と名探偵オーギュスト・デュパンが登場した年でもある。デュパンは、この第一作と、同じく『テールズ』に収録された「マリー・ロジェの謎」、一八四五年に発表された「盗まれた手紙」のわずか三編にしか登場しないが、この三つの作品で名探偵の名を不朽のものにし、後年、エドガー・アラン・ポーは〈近代探偵小説の父〉と呼ばれるようになった。ポーには、一八四三年作の暗号小説「黄金虫」や一八四四年作の「お前が犯人だ」のほかにも名作「黒猫」など広義のミステリー・ジャンルの作品が多いが、デュパンの登場するこの三部作に、謎解きを主眼とするパズル・ストーリーのほとんどすべての要素が盛りこまれていたといってよいだろう。 (画像省略)  本書で私は、アメリカの大衆小説、とくにミステリーの変遷をひもとき、それを通じてアメリカン・ヒーローの系譜をたどってみようと考えている。その背景としてアメリカの犯罪史や社会風俗なども側面から語ってみたい。となれば、名探偵デュパンが登場した一八四一年、ポーが、「マリー・ロジェの謎」に挑戦すべくニューヨークの街を奔走したこの年から筆をおこすこともまた順当といえそうだ。  ニューヨークには、百数十年という年月に耐えていまも使用されている建物やホテルが高層ビルの谷間にひっそりととりのこされ、ヴィレッジの一隅には最後のガス燈が淡い光を投げかけている。一頭立て二人乗りの馬車(ハンサム・キャブ)が、物好きな観光客を待ちわびて、セントラル・パーク・サウスの広場で日なたぼっこをしている。めまぐるしい急速な変貌をとげた近代都市のなかで、それら過去の遺物は居心地悪げに奇妙な調和を保っているように見える。  一九七七年秋のニューヨーク滞在中、私はいつもの西二十三丁目のチェルシー・ホテルには泊まらずに、五番街に近い西四十四丁目の古びたホテルをえらんだ。チェルシーは、かつてO・ヘンリーの常宿だったが、そのあたりがしだいにさびれてゆくと、作家やジャーナリストのたまり場は南から北に移動していった。西四十四丁目の五番街の近くには、アルゴンキンやラルストンといった由緒ある古いホテルがいまも建ちならんでいる。  だが私のようにせいぜいがこの十年間のニューヨークしか知らないものには、どっちみちここは肌ざわりをしかとつかむことのできない異国の街である。かつては手動式だったガタピシのエレヴェーターで上に運ばれ、百年かかってすりへらされた敷居が鈍く光って丸みを帯びていることに気づいても、ひとたび部屋に入れば、エア・コンディショナー、カラーテレビ、リフリジレーターが待っている。古いものと新しいもののこの奇妙な調和が、マンハッタンという街をつくっているのだ。  一八四一年というのは、日本の元号でいえばいつごろなのだろうか。それからさらに二十四年後の一八六五年(南北戦争終結の年)が慶応元年であり、一八六八年が文明開化の明治元年。これほどの時をへだてていながら、一八四一年という年が妙に近くも感じられるのは、ポーというあまりにもポピュラーな作家にたいする親近感のせいかもしれない。ちなみに、ポーの「モルグ街の殺人」と「黒猫」が日本にはじめて紹介されたのは、一八八七年、明治二十年のことだった。  だが私には、この当時の古さを知る手がかりとなるもう一つのアメリカのイメージがある。一八四一年といえば、デイヴィ・クロケットやジム・ボウイがアラモの砦で戦死してから五年後、カリフォルニアではまだ金鉱が発見されておらず、一八四九年(ポーの没年)のゴールド・ラッシュもまだはじまっていない。西へ、西へと向かう開拓者たちの幌馬車隊はまだミシシッピー川を越えてさえいないのだ。ビリー・ザ・キッドがニューヨークの裏街で生まれるのは十八年も後のことだし、ジェシー・ジェイムズもバッファロー・ビルもワイアット・アープもまだ生まれていない。もちろん南北戦争ははじまっていないし、リンカーン大統領も暗殺されていない。大陸横断鉄道が開通するのは、それから三十年たった一八七〇年のことである。  ニューヨーク小史[#「ニューヨーク小史」はゴシック体]  数世紀にわたる時間的ギャップをいくぶんたりとも埋めておくために、ここでニューヨークの歴史を簡単にふりかえっておこう。  一六〇九年、先住民のインディアンたちがマンハッタと呼んでいた現在のマンハッタンの西を流れるハドスン川は、この川をさかのぼって踏査したオランダ人、ヘンリー・ハドスンにちなんだものである。マンハッタン島は新オランダと呼ばれ、やがてオランダ人の移民がはじまる。一六二六年、ピーター・ミュニット総督が六十ギルダーのビーズ玉(正確には三十九ドル)をインディアンに与え、この島を手に入れた頃の人口が二百人(新アムステルダムと改名)。一六三五年にアムステルダム砦、一六五三年に城壁《ウオール》が築かれ、これがウォール街の由来となる。この年(人口八百人)、市制が施かれる。壁にかこまれた当時の市街地は、西をグリニッチ・ストリート、東をウォーター・ストリート、北をウォール街でかこまれた小区画で、その後しだいに周辺が埋め立てられていった。  この島で最初に起こった殺人事件(一六四一年)は、毛皮商人クラエス・スミットがインディアンに殺された事件だと記録されている。このインディアンは十五年前の一六二六年に毛皮めあてのオランダ人農夫たちによって叔父を殺され、その報復にスミットを殺したのだが、この事件がきっかけになって小戦闘がはじまり、ニューイングランド各地でくりひろげられたと同じ血なまぐさい大量虐殺がおこなわれた。  先住民族をおいはらったあと、この豊かな自然に恵まれた島をめぐって、白人同士の戦いがはじまる。イギリスとオランダとのあいだに植民地をめぐる争いがつづき、一六六四年、マンハッタン島はイギリス軍の占領と同時にチャールズ二世の弟、ヨーク公爵にちなんでニューヨークと改名された。一六六五年、初代イギリス人市長として、トーマス・ウィレットが選ばれる。一六七三年、この島をとり戻したオランダはニューオレンジと改名するが、翌一六七四年には、ふたたびイギリスに奪回されてしまう。  先住民族虐殺、自然資源収奪、貿易、植民地利権戦争というお定まりの過程を経て、やがて文明の兆しらしきものがこの島に、後を追ってやってくる。一六九三年、最初の印刷機が使用された。一七二五年、ウィリアム・ブラッドフォードが、最初の新聞『ニューヨーク・ガゼット』を発刊したが、これは為政者の御用新聞だった。市政の不正・腐敗をめぐって、これに対抗するジョン・ピーター・ゼンガーの新しい新聞『ニューヨーク・ウイークリー・ジャーナル』が創刊され、弾圧をはねかえし、報道の自由を法廷で争った。この争いは、アメリカのフリー・ジャーナリズムの最初の勝利であったといわれている。一七五三年には、『ニューヨーク・マーキュリー』が創刊された。  一七六二年、マンハッタンにはじめての公共のガス燈が光を投げかける。百年間の植民地時代を経て、この島はやがてアメリカ独立戦争(一七七六〜一七八三年)の一拠点となり、一七七六年七月九日、兵士たちを前にして、ジョージ・ワシントンが独立宣言書を読みあげた。だが、ロングアイランドの戦闘でアメリカ軍は敗れ、同年十一月にアメリカ軍は撤退。マンハッタン島は、戦争終結までイギリス軍に占拠された。  一七八四年、ジョージ・ワシントンがマンハッタンに到着し、一七八九年、連邦ホールで初代大統領に就任した(ニューヨークは、当時アメリカの首都で、一七九七年にその座をフィラデルフィアに譲る)。一七九〇年の人口は三万三千人。このあとニューヨークの人口はこきざみに増加し(一八〇〇年=六万人、一八一〇年=九万六千人)、一八二〇年には人口十二万三千七百人のアメリカ最大の都市に発展した。  この時代に登場した生粋のアメリカ人作家ジェイムズ・フェニモア・クーパーも、一八二一年に『スパイ』を発表後一家をひきつれてニューヨークに移住してきた。『モヒカン族の最後』など、クーパーの〈革脚絆物語〉五部作(第十二章詳述)は、作中の追跡のテクニックに推理的な要素が認められ、アメリカのミステリー史のなかでもしばしばとりあげられている。十八世紀後半の植民地を舞台にした『スパイ』もワシントン将軍の秘密諜報員をつとめるハーヴェイ・バーチが主人公になっており、仕立ては冒険ロマンスであるが、ヒーローの設定に興味がある。クーパーはニューヨークに移住後、〈パンとチーズ〉クラブという文壇サロンを結成(一八二二年)したことでも知られている。  もう一人の同時代の大物作家、ワシントン・アーヴィングは生粋のニューヨーク生まれで、ニッカーボッカー(当時はオランダ系のアメリカ人を指していたが、やがてニューヨーカー全体を意味する呼称になる)という老人が書いたと称して一八〇九年に出版された彼の『ニューヨークの歴史』が評判になっていた。出版前に、この老人が失踪したというまことしやかな記事が新聞に掲載され、これがいわゆる|ペテン出版《リテラリー・ホークス》の嚆矢《こうし》とされている。この二大作家にくわえて、一八一九年にニューヨークを諷刺した『ファニー』を発表した詩人、フィッツ・グリーン・ハレックなどが、当時のニューヨーク文壇の主要な位置を占めていた。  煙草屋の看板娘殺人事件[#「煙草屋の看板娘殺人事件」はゴシック体]  マンハッタンの人口は、一八三〇年に二十万人を突破し、一八四〇年には三十一万人を超えていた。マンハッタンといっても、当時の市内は南端のバッテリー公園から、北はワシントン・スクウェアまでの小さな区域で、通りにはすべて固有の名称がつけられていた。グリニッチ・ヴィレッジは文字どおり町はずれの小さな村で、ブロードウエイ、ナッソー・ストリートがウォール街、アン・ストリートなどと交わるあたりが文明の中心地だった。一八四二年にアメリカを訪れたチャールズ・ディケンズは『アメリカン・ノート』のなかで、乗合馬車が行き交い、華やかな衣裳を競う美しい女性たちが散策する目ぬき通りのブロードウエイをわずか「四マイル[#「四マイル」に傍点]の長さ」と記し、街路に放し飼いされている汚ないブタの群れや悪名高いトゥームズ刑務所、貧困と悪徳の巣だった〈ファイブ・ポインツ〉一帯についても触れている。この前後に彼は、フィラデルフィアでポーと会っている。 (画像省略)  当時の貧しい大衆に日々の娯楽を供給していたのは煽情主義を競い合う五十種近い新聞だった。ミステリーや大衆小説が犯罪を刺激的な娯楽の対象にかえる前に、真偽とりまぜた新聞記事がその代役をつとめていたのである。  古株の『イヴニング・ポスト』はアレギザンダー・ハミルトンによって一八〇一年に創刊され、三〇年代には、ベンジャミン・デイの『サン』と、ジェイムズ・ゴードン・ベネットの『ヘラルド』があいついで刊行され、一八四一年、ホレース・グリーリーの『トリビューン』が後を追った。『ニューヨーク・タイムズ』は一八五一年に創刊されている。これらの新聞社のうち二十社以上が、ブロードウエイの一本東側のナッソー・ストリートに集中し、ここは〈新聞通り〉の別称で呼ばれていた。  そして、この〈新聞通り〉界隈を背景に、ポーに深いかかわりのあるセンセーショナルなある殺人事件が鳴物入りで幕をひらくことになる。  被害者の名前は、メアリー・セシリア・ロジャーズ。一八四一年当時二十一歳だったメアリーは、一八三七年の大不況の年に、ブロードウエイ三二一番地で、煙草商人をやっていたジョン・アンダースン(当時二十五歳)という男の店で店員として働きはじめた。とりたてて美人というほどのこともなかったが、新聞記者、編集者、作家、地元のチンピラなどがしょっちゅう出入りする男だけの店先に若い娘が立ったというだけで、�街の噂�になるような時代でもあった。フェニモア・クーパーやワシントン・アーヴィングもこの店の常連だったといわれているし、詩人のハレックはメアリーをモデルにして詩を発表したとつたえられている。その客の一人にポーがいた、という推測も否定することはできない。近くの下宿屋に住んでいたポーが、このメアリーという娘と面識があった、あるいは親しかったという可能性も大いにあり得るのだ。この事件はラッセル・クラウスの『殺人は発覚しない』にも収録されているが、のちにアーヴィング・ウォレスは、実際の犯罪をもとにしたある小説を分析した評論のなかで、�ポーが犯人�である可能性を大胆に示しているほどである。  ポーがニューヨークを去ってフィラデルフィアに移った一八三八年の十月に、メアリー・ロジャーズは小さな新聞種になった。一週間ほど行方が知れなくなり、「海軍士官と一緒だった」という説をはじめとして、さまざまな噂がながれたのだ。そのなかにはもちろん、根も葉もないでっちあげの記事もまじっていた。この事件のあとメアリーは、若い雇い主のアンダースンと折り合いがわるくなり、一八三九年のなかごろには店を辞めて、ナッソー・ストリート一二六番地の、母がやっている下宿屋に住んでいた。  このメアリー・ロジャーズが、一八四一年七月二十五日の日曜日、いとこの家を訪ねるといいおいて家を出たまま行方不明になり、三日後の二十八日、対岸のホボーケンの岸辺で惨殺死体となって発見された。死体が発見された付近は、当時のニューヨーカーたちの絶好のリクリエーション地で、蒸気船がにぎやかにハドスン川を行き来していた。  メアリーの母の下宿屋に住んでいた、コルク切りの貧しい青年、ダニエル・ペイン(メアリーの婚約者)は新聞に広告を出し、必死に彼女の行方を探していたが、死体が発見された現場に先に駆けつけ、身元を確認したのは、やはり捜索にあたっていたアルフレッド・クロムリンという男だった。一カ月ほど前まで彼も同じ下宿屋に住み、メアリーに求婚していたがはねつけられて、下宿屋をとびだしていた。  発見されたメアリーの死体は、顔がわからないほど傷つけられ、ブルーのドレスは破れ、下着から切りとられたレースが首にきつく巻きつき、手首や腰も縛られていた。  検視官は、単数もしくは複数による性的暴行を受けたあと絞殺された、という検視報告を発表した。当時のニューヨークでは、殺人事件はそれほどめずらしいものではなく、もっと残忍な手口の事件も多かった。メアリー・ロジャーズの死をあっというまに〈世紀の殺人事件〉に仕立てあげたのは、特種を追いつづける当時の新聞ジャーナリズムだったともいえる。検視報告のあと、八月にはいると各社はいっせいに、その後二カ月近くつづくスクープ合戦を開始したのだ。 「マリー・ロジェの謎」の謎[#「「マリー・ロジェの謎」の謎」はゴシック体]  結論を先にいってしまえば、この事件は完全な迷宮入り殺人事件であり、いまもそれは変わらない。この事件の舞台をそっくりパリにおきかえ、新聞記事だけをたよりに名探偵デュパンに謎を解かせるという趣向の、ポーの「マリー・ロジェの謎」も、実際の事件そのものを解決するうえに(多少の混乱はあたえたものの)なんら寄与するところはなかった。そのことをはっきり教えてくれたのはジョン・ウォルシュが一九六八年に発表した『名探偵ポオ氏』(草思社刊)という一冊の本だった。 (画像省略)  おびただしい資料の収集と分析・推理を重ねたうえで、ウォルシュは、「マリー・ロジェの謎」が〈ポーの最大のペテン〉であり、デュパンの推理が正しかったことを証明するために(あるいは読者にそう思わせるために)、ポーがいかなる詐術を用いたかを徹底的に究明している。  実際の殺人事件の経過と、ポーの短編小説と、そしてこのウォルシュのノンフィクション(ある推理小説についての推理小説、とも呼ばれた)を三つ並行して読みすすんでゆくうちに、私は出口のない迷路に迷いこんでしまったような、恐怖に似た感情のとりこになっていた。ポーは、あの作品のなかで、明らかにある推理を読者に信じこませようとしている。ウォルシュはその推理の可能性を実証的に否定し、無数に増幅する新しい謎、結論をひきだしえない可能性の数々を投げかけてくる。推理や判断を、ある時点で、読者の理性と感情にあずけてしまう。  実際の事件の捜査は、その後どのように展開していったのだろうか。一つはっきりいえることは、当時のニューヨークの警察が、満足な捜査活動を期待できない前近代的なものであったことだ。市民の代表や知事や市長が、真犯人究明のために懸賞金をかけ、だれもが素人探偵の真似事をはじめた。数十種の新聞が、最も熱心にその役割を受け持ったことはいうまでもなかった。そしてデュパンがやったように、数多くの読者が新聞記事をもとに素人探偵をかって出たにちがいない。ポー自身も、自分の推論に都合のよいように各種の新聞記事を脚色したり、創作したりしている。  当時、最も有力だったのは、ニューヨークのチンピラたちによる犯行という説だった。物盗り説もあったが、メアリーは数ドルの値打ちの安物のアクセサリーしか身につけていなかった。当然、ごく身近な人間による痴情説も考えられ、婚約者のペインと、下宿人だったクロムリン、煙草商のアンダースンもきびしい取調べをうけた。だがどの線からも、確実な�クロ�は浮かんでこなかった。  八月末に、ホボーケンのすぐ北のウィーホーケンで〈ニック・ムーアの家〉というあやしげなロードハウスをやっているフレデリカ・ロス(ポーの作品ではドゥリュック夫人)という女性が、深い茂みのなかで、メアリーのシルクのスカーフ、白いペチコート、パラソル、イニシアル入りのハンカチを�発見�し、捜査は一歩前進したかにみえた。その茂みが凶行の現場だったのだろうか?  だが実際には、この新しい�証拠�と、その年の暮れに三人の息子の一人が誤って撃った銃傷で息をひきとったロス夫人の臨終の告白は、事件の謎をいっそう深めただけだった。  事件発生の初期の段階から、メアリーの死は堕胎手術の失敗によるものではないかという噂がささやかれていたが(検視官は、「被害者は殺害時まで、明らかに貞節な品行方正な女性であり、妊娠の徴候はうかがえなかった」と述べているが、その報告を信じないものが多かった)、ロス夫人の告白はまさにそれを裏づけるものだった。  生前親交のあった三人の男性についても疑惑はのこっている。のちにアンダースンはメアリーの亡霊にとりつかれた。ウォルシュはクロムリンが堕胎手術のおぜん立てをしたのではないかと推論している。最も不幸な男はダニエル・ペインで、十月八日に、短い遺書をのこして、メアリーの殺された�茂み�の近くで死体となって発見された。  ポーが後年になって洩らしたスペンサーという名の海軍士官は? もしメアリーが堕胎手術を受けたのだとしたら、父親はだれだったのか? そして真犯人は?  真相はいまもって解明されていないが、現実の殺人事件とは別にウォルシュによって提出されている文学上の最大の謎は、事件の翌年、ニューヨークの『レディズ・コンパニオン』誌に三回にわけて掲載されたポーの雑誌原稿と、一八四五年に「注」とともに『テールズ』に収録された「マリー・ロジェの謎」の�改変部分�であろう。ウォルシュの最大の論点は、ロス夫人の告白によってあわてふためいたポーが、フィラデルフィアから急遽ニューヨークに向かい、資料を入手したり、現場を調査した結果、だれにも気づかれぬように元原稿に微妙な修正を加えたという事実に基づいている(このときポーに会ったニューヨークの雑貨商、ガブリエル・ハリスンは、ポーがサディアス・パーリーという偽名を用いたと記している)。  実際にポーは、ロス夫人の告白が正しい場合にそなえて、じつにたくみな改変(オリジナル原稿の削除と加筆)をおこなっている。オーギュスト・デュパンの名推理がけっして損なわれることのないように、その後の捜査の結果判明した新事実をもとにポーは元原稿の改変に涙ぐましい天才ぶりを発揮しているのだ。  ジョン・ウォルシュはそのポーの誇りをかけた狂態を、冷静に、そして分析的に指摘しつくしている。あたかもウォルシュ自身が類い稀な名探偵であるかのように。  ポーは「探偵小説の父」なのか?[#「ポーは「探偵小説の父」なのか?」はゴシック体]  オーギュスト・デュパンが登場する三編は、たしかにパズル・ストーリーの原型であり、ポーを近代探偵小説の父と呼ぶことに私も異を唱えようとは思わない。が、ポーの創案したこの手法——ひとことでいってしまえば、推理と分析のプロセスがすべてに優先する作法が、ミステリーの本流であり、すべてはそのメイン・ストリームにのって語られねばならないとする偏狭な考え方をとることはできない。ごく直接的な例を一つあげれば、この機会に再読したポーの作品のなかで、私がもっとも不気味な感銘を受けたのは『グレアム・マガジン』にはじめて掲載された「群集の人」であり、数多くの参考文献のなかで、もっとも推理・分析の興味を駆りたてられたのは、ジョン・ウォルシュの『名探偵ポオ氏』だった。  都会の雑踏のなかで一人の男を執拗に尾行した結果、なにがわかったか? 不条理な結末とおそろしい余韻をのこす「群集の人」の恐怖の感銘は、ポーの三つのパズル・ストーリーの比ではない。一方、ウォルシュの精密な推理ドキュメンタリには、事実の積み重ねの上に構築されたじつにみごとな推論が展開されていた。そしてそのどちらもが、読後に薄気味悪い余韻をのこすのは、はじめに呈示された謎がいずれの場合にも、論理的な、科学的な、あるいは推論による明白な解答といった楽天的な大団円とともにすっぱりと割り切られていないがためであることは明らかだ。  私は、ポーのいわゆる推理・分析の物語にこれこれしかじかの欠陥があるという綿密な分析に興味をそそられたのではない。ウォルシュに感銘を受けたのは、可能なかぎりのデータを示したうえで、なおも未解決な数多くの謎を、与えてくれているからである。  私がいま述べたような感想は、すでにボワロー=ナルスジャックが『推理小説論』のなかで強調しているし(「……読者は、注意力と厳密な知力によって未知なるものを征服し、支配することができるのだ、と教えられる。最も困ったことは、ポー自身がこの罠にかかっていることだ。彼は、自らの創った遊びのとりこになってしまったわけだ……」)、ジュリアン・シモンズは、「探偵小説の父としての名声は損なわれないとしても、彼はみずから父たらんとしたわけではない。彼は自分の愛人は�芸術�だと考えていたが、実際には彼女は�煽情主義�にほかならなかった」と皮肉まじりにきめつけている。このシモンズの論評は、ジャック・フェルナン・カーンの『アメリカ文学史』にも通じている。カーンはポーについて、「彼は少しもアメリカについて語らなかったから、愛国者たちを喜ばせることはできなかった。その後、アメリカ文学は、写実主義と自然主義の方向へ発達した。ところがポーの芸術理論は、この二つの運動をそれらがあらわれぬ先から早くも非難しているようなものである。おまけに、彼はなんら社会的な関心をもたない」と述べ、たとえポーが陽の目をみなかったとしても、「アメリカの文学はそのためにほとんど変化を受けることはなかったろう」とまでいいきっている。  ヨーロッパ人特有の、この辛辣な見方に対して、アメリカのミステリー作家のなかでは最も文学的造Xの深い現代作家、ロス・マクドナルドは、「卓越した精神力にふさわしい地位を得られなかった代償として」、ポーはデュパンを創造したと述べ、ウィリアム・カルロス・ウィリアムズのエッセイを引用して「新大陸に素裸で立ち震えている、あまりにも自意識過剰な人間のはかり知れぬ精神的覚醒」に関連づけられるポーの恐怖感と罪の意識は、「なんらかの合理的規範によって統御されねばならず、�推理の物語�である探偵小説はその一つの手本を備えていた」のであると記している。  ポーの創りだした名探偵デュパンは、いわば衆愚の対極に立つ知的貴族であり、ドイルのホームズとはちがって、けっして大衆のヒーローとはなり得なかった。デビューと同時に選民の宿命を負わされた悲運の天才だったのだ。  固苦しい結びになってしまったが、口直しとしておすすめしたいたのしいショート・ストーリーをここで一つ紹介しておこう。題名は「パリから来た紳士」、一八四九年四月に、ニューヨークを訪れた一人のフランス人が、サディアス[#「サディアス」に傍点]・パーリー[#「パーリー」に傍点]と名乗る貧相な男のみごとな推理によって、密室のなかで消えた�遺書�の行方を知るというパズル・ストーリーなのだが、作者のジョン・ディクスン・カーはもう一つの意外な結末を最後に用意している。この作品のなかで、安酒場の隅で酒に溺れ、アメリカとアメリカ人を嫌悪しながら、「フランスに行きたい」と悲痛なうめき声を洩らしていた零落の身の安楽椅子探偵の正体は、死期を間近にひかえた天才作家の哀しい姿だったのである。 [#改ページ] (画像省略) [#地付き]●一八五〇〜一八六〇年代[#「●一八五〇〜一八六〇年代」はゴシック体]     ——つくりあげられた西部のヒーロー、バッファロー・ビル  二人のフランシスと読物週刊誌[#「二人のフランシスと読物週刊誌」はゴシック体] [#2字下げ] 一八五〇年代初期のニューヨークは、己れの力にやっと気づきかけた�目覚める巨人�だった。この街の五十万人の住民が、十三マイルの島にひしめき……偉大な富と大いなる貧困が小さな街路に背中を合わせていた……犯罪発生率は、世界中のどの都市よりも高く……。  これは、十九世紀中葉から百数十年にわたって大衆向けの娯楽出版物を刊行しつづけてきた、アメリカ出版界の老舗ストリート&スミス社の歴史を克明に描いた、クエンティン・レナルズの『フィクション・ファクトリー』(一九五五年刊)の書き出しの一節である。  百葉以上の貴重な写真類をおさめているこの本は、後に述べるダイム・ノヴェルズの揺籃期から、アメリカの探偵小説、犯罪小説の歴史をさかのぼるために不可欠なパルプ・マガジンの興亡にいたるまでの大衆読物の変遷史として高く評価さるべき名著である。わが国にたとえれば、江戸時代の黄表紙、瓦版にはじまって、戦後のカストリ雑誌にいたる大衆読物史に匹敵する困難な作業の成果がこの本なのだ。  ハメットやガードナーやチャンドラーを生んだパルプ・マガジンより、さらに半世紀以前に全盛をきわめたダイム・ノヴェルズの時代を語るまえに、まず当時のニューヨークの出版界とストリート&スミス社の二人の創設者の話からはじめることにしよう。  絢爛豪華なフィフス・アヴェニュー・ホテルや最高級レストラン〈デルモニコ〉がお上りさんの目を奪い、悪徳の巣〈ファイヴ・ポインツ〉にひしめきあう売春宿や、犯罪者や娼婦が群がる〈ヤコブの梯子〉〈地獄門〉といった安下宿屋の忌まわしい噂が囁き交わされる当時のニューヨークには、まだこの街を代表する定期刊行物は生まれていなかった。虚飾に満ちた上流社交界と、一八四八年の金鉱発見によって狂気の坩堝《るつぼ》と化したバーバリ・コースト(サンフランシスコ一帯の異名)をもしのぐ悪の温床が雑居するこの街自体が、人口の増加と急速な都市化とともに落ち着きのない変動を続けていた最中だったからである。  ホーソーンの『緋文字』(一八五〇年刊)、メルヴィルの『白鯨』(一八五一年刊)、ホイットマンの『草の葉』(一八五二年刊)、ソローの『森の生活』(一八五四年刊)などに代表される当時のアメリカの文芸活動の中心地は、ニューイングランドのボストンや、ポーを生んだフィラデルフィアだったが、新興都市ニューヨークで一旗あげようともくろむ出版人たちは、知識人や文芸愛好家層ではなく、一般大衆を対象にしたマス・メディアを商売として考えていた。  前出の『ヘラルド』や一八五一年創刊の『ニューヨーク・タイムズ』とは別に、センセーショナリズムを売り物に大部数を獲得した顕著な二つの週刊誌が、ロバート・ボナーの『ニューヨーク・レッジャー』と、その後を追って一八四一年にホレース・グリーリーが創刊した『トリビューン』だった。ことに部数百万部と称したボナーの『レッジャー』誌は、大衆をたのしませることを唯一最大の目標として編集され、血なまぐさい猟奇的な犯罪事件に尾ひれをつけた記事や、メロドラマティックな新聞小説をごちゃまぜに掲載していた。脚色された事実と、実話めかした創作が、ほとんど区別もなく同じ誌面に盛りつけられていたのである。  同誌の売れっ子ライターはファニー・ファーン(本名サラ・ペイスン・ウィリス)という女流だったが、ボナーは高い稿料で、当時の有名作家もあいついで起用した。ヘンリー・ワズワース・ロングフェローの詩が載るかと思うと、そのころのミリオン・セラーだった『アンクル・トムの小屋』(一八五二年刊)の女流作家、ハリエット・ビーチャー・ストウに連載小説を書かせるといった具合だった。ロングフェローは、一編の詩に三千ドルの稿料をもらい、一八五九年に中編クライム・ストーリー「追いつめられて」を同誌のために書き下ろしたディケンズは、五千ドルの稿料を受け取ったといわれている。  アメリカまで出稼ぎにきたディケンズの名前が出たついでに、一八五〇、六〇年代のイギリスとフランスの主だった作家とミステリーに関連のある作品名を記しておこう。  一八四〇年に『バーナビー・ラッジ』を発表したディケンズは、一八五〇年に、警察実話を四編、一八五三年には、バケット警視を『荒涼館』に登場させ、未完の『エドウィン・ドルードの謎』を残したまま、一八七〇年に世を去った。イギリス探偵小説の父と呼ばれるウィルキー・コリンズは、一八五六年に短編集(ポーの盗作まがいの作品もある)、一八六〇年に『白衣の女』、そして一八六八年に『月長石』が刊行されている。『白衣の女』は、最初アメリカの『ハーパーズ・ウイークリー』に前年の一八五九年に掲載されたものだった。アメリカの読者は、これらの作品をむしろ先に読んでいたことになるのだが、一方ではイギリスの犯罪小説をそっくり焼き直した海賊版も数多く出まわっていた。  ルコック探偵を登場させたフランスのエミール・ガボリオの『ルルージュ事件』(一八六六年刊)の翻訳版がアメリカで出版されたのは一八七三年のことである。参考までに付記すれば、ユゴーの『レ・ミゼラブル』は一八六二年、ドストエフスキーの『罪と罰』は一八六六年(英訳一八八六年)に刊行されている。探偵小説の歴史という狭い視点から云々するまでもなく、人間と社会と犯罪とのかかわりをテーマにした小説のジャンルにおいて、すでにアメリカが数十年のおくれをとっていたことは明白である。このことは、歴史の浅さというより、アメリカそのものがやっと目覚めかけていた時代のなかで、世の中があまりにもめまぐるしく移りかわり、新しい刺激や出来事を日々体験すること自体が優先したということを示している。センセーショナリズムを旗印にした、脚色された生々しい報道記事が、文学に先行していた時代だったのだ。  二人のフランシスが、ニューヨークの読物週刊誌業界に名乗りをあげたのはこのころのことである。一八三一年生まれのフランシス・スコット・ストリートと、十二歳年長のフランシス・シュバエル・スミスは、当時、『サンディ・ディスパッチ』という二流週刊誌で働いていた。『トリビューン』の記者だったこともある文筆のたつスミスは編集部で、数字に明るいストリートは営業部で広告と販路拡張を担当していた。『ディスパッチ』の所有者兼編集長のエイモス・ウィリアムスンという人物は、印刷業で儲けたスコットランド人で、この週刊誌を創刊したのも、自分の印刷機をあけておきたくなかったからだった。毎週日曜日に刊行される『ディスパッチ』は部数二万四千部のいわゆる日曜新聞で(そのころは新聞《ペイパー》も週刊誌《ウイークリー》も雑誌《マガジン》もほとんど同じような意味に使われていた)、粗末なイラスト入りの犯罪記事や煽情的な連載読物が誌面を埋めつくしていた。  強力なライヴァル誌の隆盛を横目で眺めながら、二人のフランシスは、いつの日か自分たちの手で編集し、刊行することのできる新機軸の読物週刊誌の創刊を夢見ていた。  黄表紙ダイム・ノヴェルズの誕生[#「黄表紙ダイム・ノヴェルズの誕生」はゴシック体]  その機会は意外に早く訪れた。一八五五年、社主のウィリアムスンが『ウイークリー・ディスパッチ』と誌名を変えたこの週刊誌の実権を二十四歳のストリートと三十六歳のスミスにゆだねる決心をかためたのである。  一万八千部までに部数が低下していた『ウイークリー・ディスパッチ』(年間購読料二ドル)に若い二人のフランシスは、情熱と想像力のすべてを注ぎこんだ。外部のライターに支払う稿料を節約するために、ほとんどの記事はスミスが書きまくった。一八五七年十月十日号の第一面には、スミスの署名入りの連載小説の第一回が掲載された。当時の流行で、小説の題名は「年季奉公のチョッキつくり、あるいは社会の吸血鬼」という長ったらしいものだった。 (画像省略)  この小説が大評判になって、部数は一挙に二倍にはねあがり、『ウイークリー・ディスパッチ』は、一八五七年の大不況を切り抜けた数少ない雑誌の一つとして生きのびることができた(この不況で、ポーの「モルグ街の殺人」などを掲載した伝統ある『グレアム・マガジン』や『ニューヨーク・ミラー』などが休刊を余儀なくされている)。  二人のフランシスは、大衆がなにを読みたがっているかを見抜く鋭い目と耳をもっていた。悪人に襲われる危難の娘、あらゆる障害を乗り越えて富を握る貧乏少年の話などが、くりかえしくりかえし誌面をにぎわした。大衆は、きびしい現実から逃避できる娯楽読物を望んでいたのである。  そのころ評判になった連載小説の内容は、タイトルを見るだけで容易に察しがつく。「やさしい娘、マギー」「ベル・ビンガム、あるいは貧者の危難」「ある引退医師の思い出」——この最後の連載読切小説の筆者名は、ジェイムズ・A・メイトランドとなっているが、おそらくこれもスミス自身が書いたものだろう。〈阿片常習者〉〈ギロチン〉〈死と埋葬〉〈神父の呪い〉〈精神病院の盲目の少年〉といった題名が、毎回つけられていた。 『ウイークリー・ディスパッチ』は、一八五八年三月、『ニューヨーク・ウイークリー』と改称し、部数は八万部に達した。そして、一八五九年五月、二人のフランシスは念願かなって名実ともに経営者兼編集長となり、ストリート&スミス社を創設する運びとなった。 (画像省略)  だが、やがてバッファロー・ビルの冒険譚を売り出し、ホレイショ・アルジャー、ニック・カーターを生みだす『ニューヨーク・ウイークリー』の発展をたどるまえに、もう一つのサクセス・ストーリーに触れておかねばならない。読物週刊誌とは発想を異にする新手の娯楽読物が、とつぜん名乗りをあげたのだ。それが、ダイム・ノヴェルズの登場である。  ダイム(十セント玉)・ノヴェルズという言葉は、現在でも〈安手の三文小説〉という意味で用いられることがあるが、この呼称の起源は、一八六〇年六月にエラスタスとアーウィンのビードル兄弟がシリーズで刊行しはじめた『ビードルズ・ダイム・ノヴェルズ』という紙表紙の廉価本叢書名に拠っている。この叢書は一八七四年までつづき、やがてパートナーにロバート・アダムズが加わり、十九世紀末までの四十年間の〈ダイム・ノヴェルズ時代〉に出版点数三千点を超える帝王として君臨した。  このダイム・ノヴェルズの現物を入手することは不可能に近いが、サイズは四×六あるいは五×七インチ(新書版とほぼ同型)で、ページ数は百から二百五十、ざら紙や新聞用紙に印刷され、全編に黒白の挿絵(カラー印刷は一八九七年以降)のはいっているものもあった。そして読者の目を惹く活劇場面がオレンジ色の表紙に印刷されていた。この表紙の色が、いわゆる〈イエロー・ジャーナリズム〉の語源だという説もある。値段は叢書名どおり十セント(五セントのものもあった)だったが、読物週刊誌にしろ、この廉価本にしろ、これほどの低価格が可能になった理由としては、印刷機の改良、輸送力の増大、郵便法の改正による郵送料の低下などが挙げられるだろう。これらの諸要素に支えられた大量販売が、ダイム・ノヴェルズ商法の成功の秘訣だった。ビードル社の廉価本は、十年間に七百万部売れたという。 [#ここから1字下げ]  批評家先生がなんといおうと  ビードルの豆本はわが道を往く  小鳥のように、家から家へ  淋しい丸太小屋から兵士のテントへ [#ここで字下げ終わり]  この戯歌にうたわれているように、第一期のダイム・ノヴェルズ叢書は最初の年に十三点が出版され、その年のうちに第一巻『マラエスカ/白人ハンターのインディアン妻』(アン・S・スティーヴンス作)は三十万部、第八巻『セス・ジョーンズ/フロンティアの虜囚たち』(エドワード・エリス作)は四十五万部売れた。バックスキンに身をくるみ、アライグマの帽子をかぶり、ライフルをかまえたハンサムなセス・ジョーンズを鳴物入りで登場させた新進作家のエリスは、やがてダイム・ノヴェルズの流行作家となった。アン・スティーヴンスの『マラエスカ』は、もとは一八三九年に『レディズ・コンパニオン』に掲載された女性向けの物語である。この二作の内容は当然、きわめて道徳的なメロドラマだった。  高潔なヒーロー、純真無垢なヒロイン、残虐非道な悪漢という図式に忠実にのっとった読物小説にとびつく無教養で貧しい大衆読者は、はじめて純アメリカ的な冒険の世界——西部の荒野、バッファロー狩り、ハンター、スカウト、バーバリ・コーストの海賊たちの血わき肉おどるロマンの世界を、わずか十セントで手に入れることができるようになったのである。  このダイム・ノヴェルズが、それまでの読物週刊誌に差をつけた最大の特徴は、そこにアメリカン・ヒーローの原型が登場したということだろう。そして都会人にとっては、同時代のことでありながら、遥かな異国ほど遠かった西部が、ぐっと身近なものとして迫ってきたのである。自分たちの国アメリカを舞台にして、しかもアメリカ人のヒーローが活躍する物語がついに登場したのだ。  ダイム・ノヴェルズは、まず愛国心を刺激し、規律を重んじ、きわめて素朴な形での個人主義をほのめかし、文学性よりもアクションとメロドラマティックな会話を重視して、つぎつぎと書きつがれていった。いま挙げたすべての特質が、たとえば、第二次世界大戦後に登場するミッキー・スピレインのマイク・ハマー物語にそのままあてはまることは一目でおわかりだろう(サディスティックな性描写だけは除外せねばならないが)。  そして、さきほどの戯歌にもあるように、このダイム・ノヴェルズの流行の背景には、南北戦争(一八六一〜一八六五年)があった。現在のペーパーバックに、GIたちがポケットにおさめたアーミー版と呼ばれる小型本があったように、四×六インチのダイム・ノヴェルズは、戦場の無教養な兵士たちによろこんで迎え入れられ、南北戦争中にじつに四百万部が売れたという。  やがてアメリカからフロンティアが消滅するにつれ、これらのヒーローは、都会型のヒーロー(探偵)にとってかわられることになるのだが、それにはまだ長い歳月が必要だった。  ヒーローになれなかったオプ[#「ヒーローになれなかったオプ」はゴシック体]  謎解きを主要な要素とする探偵小説、いってみれば異端の作家ポーの後継者を、埋もれた歴史のなかから発掘する作業を試みたエラリー・クイーンは、「ポーの『テールズ』以後、アメリカには丸十七年間、探偵小説はあらわれなかった」と述べたことがある。ほぼ同じ観点からハワード・ヘイクラフトは、アンナ・キャサリーン・グリーンの『リーヴンワース事件』(一八七九年刊)まで、アメリカの探偵小説の歴史は空白だったと記している。その例証として、クイーンは、一八六三年刊の二冊の本(『ある引退刑事の回想記』と、「地下室にて」という一編が収録されているハリエット・スポフォードの短編集)と、ボストンの『ダラー・マンスリー・マガジン』の一八六一年五月号に掲載された短編小説「ガーネット・リング」(M・リンゼイ作)を挙げているのだが、ヘイクラフトのほうは、この空白の三十数年間を、『娯楽としての殺人』のなかのつぎのような一文であっさりかたづけている。 「ニック・カーターやその同類、ピンカートンの|つくり話《セミ・ノンフイクシヨン》のような回想記などを尊厳な、由緒正しい探偵小説に仲間入りさせようというのでないかぎり、ポーからグリーンまで、この分野のアメリカの畑は耕されずじまいだった」  ヘイクラフトのこの文章は、細部のミスはともかく(ニック・カーターの初登場は、アンナ・キャサリーン・グリーンの小説より八年もあとのことである)、よくある探偵小説史の偏狭な視点をあまりにもあからさまにしているのではないだろうか。  ニック・カーターや、そのまえを行った西部のヒーローたちを素通りして、あの汚れた街を行く高潔な騎士マーロウを語ることができるだろうか。ピンカートン探偵社(一八五〇年創立)の探偵《オプ》たちを知らずに、どうしてハメットを語れるのだろう。  ペンズラー=スタインブランナー編による『ミステリー百科事典』(一九七六年刊)のダイム・ノヴェルズの項目を担当したJ・ランドルフ・コックスは、「アメリカの探偵小説の発展に寄与したダイム・ノヴェルズの意味は、これまであまりにも過小評価され、あるいはほとんど理解されていなかった。近代探偵小説はひょっこり生まれたわけではない。ダイム・ノヴェルズの存在は、いつの時代にも人々が犯罪とミステリーの物語に惹きつけられるという確かな証拠である。そして、その時代があったからこそ、探偵小説は誕生したのだ」と述べている。  この論議はひとまずおくとして、ヘイクラフトにセミ・ノンフィクションときめつけられている数多くの事件簿、回想記を残したアラン・ピンカートンについて、ここで記しておこう。  アラン・ピンカートンは、スコットランド人の警官の息子としてグラスゴウに生まれたが、政治的な暴動に荷担して官憲に追われ、二十三歳(一八四二年)のとき自由の国アメリカに向かった。ところがノヴァ・スコシア沖で船が難破し、インディアンの捕虜となり、命からがら逃げだしてシカゴにたどりついたときには、懐中には銀貨一枚しか残っていなかった。ここで彼は、紙幣偽造団を発見し、逮捕に貢献するという手柄をたて、クック郡の副保安官に任命されるが、二年後の一八五〇年に、十人の腕利きを集めて、鉄道会社の護衛を主要な仕事にする私設探偵社を創立した。これが、〈我々は眠らない〉というモットーを掲げたピンカートン探偵社のはじまりだった。 (画像省略)  大統領選挙が迫っていた一八六一年二月、リンカーン暗殺計画を未然に防いだ功績によって、アラン・ピンカートンの名は全国に知れわたり、南北戦争中、大統領の信任を受けた彼は諜報活動の中心人物として暗躍した。南北戦争後のワイルド・ウェスト時代に、息子のウィリアムとともに、ジェシー・ジェイムズを追跡したエピソードも有名だ。おもな事件簿に、『速達便配達夫と探偵』(一八七四年刊)、『モリー・マガイア党と探偵たち』(一八七七年刊)、『犯罪回顧録』(一八七九年刊)、『スパイと反逆者』(一八八三年刊)、『私立探偵の三十年』(一八八四年刊)などがある。 (画像省略)  父親の死後、後を引き継いだ息子たちによってピンカートン探偵社は世界一の大組織となったが、アメリカの社会運動史のなかでは、つねに労働運動の弾圧者の手先、官憲や企業側のスパイとして�悪役�のレッテルをはられることになる。  アメリカに誕生したはじめての実在の私設探偵、アラン・ピンカートンは、その経歴からも明らかなように、けっして大衆のヒーローにはなれない探偵だった。一匹狼ではなく(官憲と手を結び、徒党を組んだ)、弱者の味方でもなかったからだ。独立独歩の男ではなく、企業の雇われ探偵だった。大統領の命を救っても、スパイの汚名は消えない。大衆にとってのヒーローは、むしろオプたちに追われるジェシー・ジェイムズだった。西部の無法者ジェシー・ジェイムズは、やがて読物週刊誌やダイム・ノヴェルズのヒーローとなるが、アラン・ピンカートンは自分の記した回想記でしか、自己PRをはかることができなかった。ヒーローにはつねに別の語り手が必要なのである。  十九世紀の前半にフランスで名をあげたフランソワ・ユージーン・ヴィドックの場合もこれに似ている。ヴィドックは犯罪者あがりの密告屋で、のちに警視総監にまで出世し、引退後、私設探偵に転じて成功をおさめた人物である。各巻四百ページ全四巻という膨大な回想録『怪盗ヴィドック自伝』(一八二八、二九年刊)ものこしている。  ヴィドックの回想録が後世の探偵小説に与えた影響の大きさは、たしかにピンカートンの事件簿の比ではないが、もしピンカートンが、あのような経歴をたどらずに、自立した私設探偵として成功していたら、おそらくアメリカの探偵小説の歴史は大きく塗りかえられていたにちがいない。  だが、大衆読者はピンカートンを望まなかった。権力をかさにきた、しかもヨーロッパよりはるかに近代化の遅れたアメリカの都市警察の探偵たちもヒーローにはなれなかった。ポーの天才探偵デュパンも同様だった。人々が望んだヒーローは、冒険とロマンスの新天地〈西部〉で、野牛を追い、インディアンを倒し、颯爽と単身、荒野を駆ける西部の正義の騎士だったのだ。  西部の英雄バッファロー・ビル誕生[#「西部の英雄バッファロー・ビル誕生」はゴシック体]  一八六九年はじめのある寒い夜、西へ西へと延びつづけていたユニオン・パシフィック鉄道の線路敷設工事のキャンプで、二人の男が出会った。一人は、工夫たちの食糧補給のために、手あたりしだいに野牛を撃ち倒していた生意気そうな若いハンターだった。四十代半ばの、口ひげを生やした小太りの中年男が、青年の吹聴するほら話にじっと耳を傾けていた。  その夜、そのキャンプで、アメリカの英雄バッファロー・ビルが誕生したのである。二十三歳の青年の名前はウィリアム・フレデリック・コディ、聞き手の中年男は、エドワード・Z・C・ジャドスンだった。  コディをモデルにした新しい民話の英雄バッファロー・ビル誕生の経過を語るには、英雄譚の書き手となったジャドスンのことをくわしく記しておく必要がある。なにしろ、あのトム・ソーヤーの愛読書にこのジャドスンの作品がふくまれているほどなのだが、ネッド・バントラインのペンネームで四百編を超すダイム・ノヴェルズをものしたこの人物の生涯は、彼が書いた創作上のヒーローを十人寄せ集めたよりも波瀾に富んだものだったからだ。 (画像省略)  ジャドスンは、十一歳のときに、船乗りになろうとして家をとび出し、十四歳のとき、ニューヨーク港で溺れかけていた二人の子供を救出。時の大統領、マーティン・ヴァン・ビューレンはこの決死的美談を新聞で読み、若いジャドスンを海軍少尉候補生に任命した。年長の下士官たちはジャドスンの命に服さず、乗り組んだ船の上で彼は、不平をいう相手を一人ずつ拳固で服従させた。  十六歳のとき、海軍を脱け出して陸軍に入隊し、フロリダのセミノール戦争に従軍。中尉に昇進。その後、ノースウェスト毛皮商会で働きながら西部の生活になじみ、テネシー州ナッシュヴィルに向かう。そこで彼は、ある男をピストルの決闘で射殺し、留置場に拘留される。殺された男に同情する暴徒の群れにひきずり出されたジャドスンは、三発撃たれたあと首に繩をかけられて吊るされるが、奇跡的に一命をとりとめ、脱走。ふたたび陸軍にはいって、メキシコ戦争(一八四六〜一八四八年)に参戦する。  戦後、この数奇な半生の経験をもとに、ニューヨークで作家活動にはいり、自分で創刊した『ネッド・バントラインズ・オウン』という読物週刊誌に連載小説を書きまくった。一八四〇年代から一八五〇年代にかけて、外国人の政治的影響力、ことにローマ・カトリック教に反対する秘密結社、無知党《ノウ・ナツシング》(後のアメリカ党)に加わり、一八四九年五月には暴徒を率いてアスター・プレースのオペラ・ハウスを襲撃した。マクベスに扮していた英国俳優マクレディの公演を阻止する目的だったが、この暴動で二十二名の死者が出たため、指導者のジャドスンは有罪を宣告されて服役するはめになった。  そのつぎは南北戦争だった。北軍にはいったジャドスンは、戦場で暴れまわり、体にめりこんだ二十発の鉛の弾を土産に中佐に昇進した。南北戦争後、彼はまた西部を放浪し、詩人の〈キャプテン〉・ジャック・クロフォードやスカウトのワイルド・ビル・ヒコックたちと行動をともにしているうちに、若いコディとの宿命的な出会いとなったのである。  ジャドスンは、コディのほら話を全部信じはしなかったが、コディ自身が、あまりにもなめらかに、口から出まかせの冒険談を語りつづけるので、どこまでが事実で、どこから先がつくり話なのか、その境界さえ定かではなくなってしまった。  十一歳のときにはじめてインディアンを殺し、十五歳でポニー・エクスプレスの騎手になり、伝令兼ガイドとして十七歳で北軍に入隊、戦後、ハンターとして撃ち殺した野牛の数はかぞえきれない、といった話だった。 「この男こそ、大衆が待ち望んでいる新しい民話のヒーローだ!」  直感がひらめいたジャドスンは、コディに冗談半分にバッファロー・ビルというニックネームをつけ、ニューヨークに引き返すと、さっそく創作まじりの冒険譚を、ある雑誌社にもちこんだ。その雑誌社が、ホレイショ・アルジャー(第四章参照)をその年にデビューさせていたストリート&スミス社だった。 [#ここから2字下げ] 〈ネッド・バントラインの偉大な物語〉バッファロー・ビル/国境の王者 私がこれまでに書いた物語のなかで最も荒々しく、最も真実味あふれる冒険譚! [#ここで字下げ終わり]  と題され、キャッチフレーズをつけられて『ニューヨーク・ウイークリー』の一八六九年十二月二十三日号に掲載されたバッファロー・ビル物語の第一話は、彼の生い立ちからはじまっていた。 [#2字下げ] カンザスの平原の緑の木立ちのオアシス——月光の中に流れ、銀色に輝く、美しい溪流——大木の太い枝に守られて建つ丸太小屋——そのなかに、貧しいながらも幸福な一家が住んでいた。  この家の中ですくすく育った小さなビルは編集者にせきたてられるように、あっというまに次の章でたくましい青年に変身する。 [#2字下げ]「さあこい、この赤い悪魔め!」バッファロー・ビルは、姿を見せてはならないというメリット将軍の厳命も忘れて、猛烈な勢いで酋長めがけて突進していった。赤い酋長も、狂暴な叫び声をあげ、ビルに向かって馬を駆りたてた……。 (画像省略)  バッファロー・ビルの冒険譚の成功は、まさに一夜の出来事だった。勢いづいたジャドスンの筆にのって『バッファロー・ビル/最高の一発』『バッファロー・ビル/最後の勝利』があとにつづいた。バントライン=ジャドスンによってつくりあげられたバッファロー・ビルは、この時点ですでに、当のモデルであるコディと訣別して一人歩きをはじめ、大衆の最も望むヒーロー像へと変貌を遂げていたのである。 「六百ページの本を六十二時間で書きあげたことがある。その間、私は一睡もしなかったし、なにも食べなかった——いいタイトルがきまれば、たいていの話は書ける。書いているあいだは、ほかのことはなにも考えない。できあがった原稿に手も入れない。前に書いた話と重複していても気にはしない。書きあげて気にいらなければ、クズカゴに捨てるだけのことだ」  六人の妻を同時に持っていたという奇行で知られるジャドスンは、一八八六年にこの世を去った。大衆のヒーローとして人気が定着したバッファロー・ビル物語は、そのあとプレンティス・イングレイアムなどによって書き継がれることになる。だが本当のヒーローは、バッファロー・ビルでもモデルになったコディでもなく、ネッド・バントラインただ一人だったのかもしれない。  バントラインといえば、一八七七年に彼は、銃身十二インチのシングル・アクション・アーミー・コルトをコルト社に特別注文し、ダッジ・シティの保安官、ワイアット・アープ、バット・マスタースンなどに贈ったが、この銃身の長いピストルを使いこなせたのは、アープだけだったという。 [#改ページ] (画像省略) 大衆ヒーローの誕生[#「大衆ヒーローの誕生」はゴシック体] [#地付き]●一八七〇〜一八八〇年代[#「●一八七〇〜一八八〇年代」はゴシック体]     ——民話の英雄ニック・カーター  フロンティアの英雄群像[#「フロンティアの英雄群像」はゴシック体]  虚構化された西部のヒーローとして、『ニューヨーク・ウイークリー』の誌面にバッファロー・ビルが登場したのは、一八六九年暮れのことだった。ここでやっと私自身の〈アメリカ〉と重なり合う部分が顔をのぞかせはじめる。  その〈アメリカ〉というのは、ごたぶんにもれず、終戦後の日本で公開されたアメリカ映画によって教えこまれた〈アメリカ〉だった。昭和十一年(一九三六年)生まれの私は、思春期をはさんだ六、七年間、アメリカ映画の強い影響をうけ、正直いってその傷痕はいまも完全に治癒していない。  建国二百年の〈アメリカ〉の歴史を、鮮烈なスクリーンに映して、白紙同然の私の頭のなかに焼きつけたアメリカ映画。その教宣的な洗礼を疑うまえに、少年だった私はただ|偉大なる娯楽《エンタテインメント》そのものとしてのアメリカに無抵抗に惹きつけられてしまったのだ。 (画像省略)  数多くの西部劇映画で、開拓時代(植民地戦争=独立戦争、インディアン征伐[#「征伐」に傍点]や大自然との闘い、幌馬車隊の苦闘、独立独歩の輝かしきフロンティア魂)や西部の無法時代(ジョン・フォードの『荒野の決闘』のように美化され、英雄化された保安官とガンマンの対決と友情)の〈アメリカ〉を、私は学ばされた。  一九二〇年代、三〇年代を背景にしたギャング映画や探偵映画は、禁酒法下のアメリカの暗黒時代を私に教え、汚れた街を独り行く|男たち《ヒーロー》の淋しげな雄姿を私の胸に焼きつけた。  そして〈アメリカ〉は、これらすべての苦難や障害を乗り越えて(そういえば、戦争映画というやつもあった)、いまこのように素晴らしい民主主義社会、心暖まる市民生活を築きあげたのだ、と教えてくれたのが、よきアメリカの姿をうたいあげる、中流家庭を舞台にしたホーム・ドラマの数々だった。  たとえ富や地位は得られなくとも、墓碑に名をのこして死んでいった、高潔、孤高の〈西部の騎士〉たちは、まぎれもなく私の英雄だったのである。その英雄たちがいかに変貌していったか、そして〈私のアメリカ〉と私のなかのアメリカン・ヒーローがどう変わっていったか——結局私がいいたいことはその一点に尽きるのかもしれない。 『ニューヨーク・ウイークリー』を筆頭とする読物週刊誌や一八六〇年以降、十九世紀後半に全盛をきわめたダイム・ノヴェルズの歴史をひもとくうちに気づいたことは、バッファロー・ビルやエドワード・L・ホイーラー作のデッドウッド・ディック(一八七七年初登場)の例を引くまでもなく、この時期がアメリカにおいて最も大量に民話のヒーローが生産された時代だったという事実である。読物週刊誌やダイム・ノヴェルズというマス・メディアを介して、民話のヒーローがはじめて世の中に定着したのは、いまからわずか百年まえのことだったのだ。 (画像省略)  もちろんそれまでにも、幌馬車隊や鉄道敷設工事現場や鉱山のキャンプ、酒場の一隅などで語りつがれる〈トール・テイル〉のたぐいは多かったろう。ポール・バンヤンという伝説上の巨人の物語は、一八三〇年代から四〇年代にかけて、フロンティアのほら話のなかから生まれたものだった。西部一帯にリンゴの種子を蒔いて歩いたというジョニー・アップルシード(一七七四〜一八四七年)の伝説は古くからバラードでうたわれ、オハイオ川、ミシシッピー川の勇敢な平底船乗りでライフルの名手だったマイク・フィンク(一七七〇〜一八二三年?)の物語も、死後数年を経ずに活字になっている。ダニエル・ブーン(一七三四〜一八二〇年)の活躍は、すでに虚実とりまぜた英雄譚として定着していたし(シオドア・マシスンの歴史ミステリーに「探偵ダニエル・ブーン」がある)、アラモの砦で花と散ったデイヴィ・クロケット(一七八六〜一八三六年)は、一八三四年に�自伝�と称するものをのこしている。 (画像省略)  時代は少し後になるが、ケンタッキーに生まれ、ミズーリで育ち、第一次フリモント探険隊(一八四一年)にガイドとして参加、一躍全国に勇名を轟かし、〈平原の英雄〉とうたわれたキット・カースン(一八〇九〜一八六八年)の場合は、フロンティアの生ける象徴として、生前からすでに伝説上の巨人の地位を揺るぎなきものにしている。  そして、これら実在の人物の物語を、さらに波瀾万丈のセミ・フィクションに仕立てあげていったのが、ダイム・ノヴェルズの語部《かたりべ》たちだった。やがてそれが、現実とはかけはなれた西部のロマンのなかのヒーローとなっていったのは当然の経緯であったといえよう。純然たる架空のヒーローもふくめて、ダイム・ノヴェルズの数と同じだけの民話の英雄が量産されたのである。  フロンティアのトール・テイルそのものは、いうまでもなく一種の自慢話、ほら話であり、多くの場合、語り手自身がヒーローを兼ねていた。デイヴィ・クロケットの�自伝�などもその類いである。彼らは、自然のなかでの自由な生活や放浪の旅を正当化するために、自分たちの生き方を美化し、誇張して、聞き手であるスクウェアな保守的な人間たち(定住者、都会人)に語ってきかせた。今様にいえば、ドロップアウトによる個人主義の謳歌と、一定の場所に定住することに対する侮蔑と反発の発露でもあったのだ。  信憑性や史実がどうあれ、人びとはこれらの物語に強く惹きつけられ、ダイム・ノヴェルズ・ライターという願ってもない語部を得た虚構のヒーローの姿に、かなえられぬ理想像を追い求めた。  もちろんそれは〈文学〉である必要はなかった。無教養な一般大衆にもわかる平易な言葉で、高潔な騎士の役割をふりあてられたヒーローの活躍を、より雄々しく、よりメロドラマティックに描けばことたりたのである。  西部開拓期を背景に、およそ百年ほどまえに誕生したアメリカの民話の英雄たちは、フロンティアの消滅とともに一時鳴りをひそめるが、今世紀にはいり西部小説の隆盛(端緒となったのは、一九〇二年刊のオーウェン・ウィスターの『ヴァージニアン』)とサイレント映画の出現(短編映画『大列車強盗』は一九〇三年に公開された)によって、ふたたび息を吹きかえした。それ以後、〈アメリカ精神〉の鼓舞と教宣のために、西部小説と西部劇映画がどれほど大きな役割を果たしてきたかはいまさらいうまでもない。  だがやがて、民話の英雄を大量に提供した十九世紀後半の〈西部〉は、時代の流れとともに消滅していった。  南北戦争後の一八六五年ごろに始まった大がかりな家畜輸送(キャトル・トレイル)は一八八〇年ごろにはすでに終わっていた。西部とのあいだに電信が通じ、一八七〇年(明治三年)には、大陸横断鉄道が開通。そして一八八九年のオクラホマの有名なグレート・ランを最後に、アメリカには事実上「辺境はなくなった」のである。 (画像省略)  インディアン征伐[#「征伐」に傍点]もほぼ終わり、西部の無法時代も終焉を告げようとしていた。スー族との戦闘で第七騎兵隊が全滅した一八七六年に、ワイルド・ビル・ヒコック(『平原児』のゲーリー・クーパー)が世を去り、ワイアット・アープ(『荒野の決闘』のヘンリー・フォンダ)がいわゆるOK牧場の決闘で私挽を晴らし、ガーフィールド大統領が七月二日に暗殺された一八八一年には、ニューヨークのスラム街で生まれたウィリアム・H・ボニー(ビリー・ザ・キッド)が、二十一歳の若さでパット・ギャレットに射殺された。その翌年、西部を荒らしまわっていたジェシー・ジェイムズが撃ち殺された。民話の英雄たちのモデルが、あいついでこの世を去っていったのである。生きながらえた�現実�のバッファロー・ビルは、そのころ虚構化された自分の勇姿を再現するために、スー族の酋長、シティング・ブルや射撃の名手、アニー・オークレーを引きつれ、ワイルド・ウェスト・ショーを組んで全国を巡業してまわっていた。 (画像省略)  都市犯罪と〈探偵〉の登場[#「都市犯罪と〈探偵〉の登場」はゴシック体]  移民による急激な人口増とスラム化のなかで、息のつまるような都市生活に縛りつけられることを余儀なくされた人びとが、自由の天地を駆ける西部の男たちを英雄視したのは当然のことだった。たとえ無法者と呼ばれようとも、あるときは、土地成金や鉄道事業王や貪欲な政治家などに一矢を報いる孤独な敵対者として、内なる反逆者の役割さえ果たしてくれることがあったからだ。  だがいまや、その自由の天地も、孤高の騎士たちも姿を消してしまった。犯罪と隣りあわせの貧民街に住む貧しい人びとは、彼らの生活に即応した、新しいタイプの英雄の出現を待ちかねるようになった。  マンハッタンの人口は、一八七〇年に九十四万人、一八八〇年には百十六万人に達し、一八七〇年代には、職業的犯罪者の数が三万人、賭博場が三千軒あったといわれている。一八六八年に試験的に市内に敷設された高架鉄道《エル》(蒸気機関車に牽引され、公害をまきちらした)は、一八七八年に六番街の上を走りはじめ、十階建て以上のビルディングも建ち並びはじめた。良くも悪くも、ニューヨークは、しだいに現在のマンモス都市の様相を呈しつつあったのである。  この急速な都市化のなかで、日常化した犯罪に対する人びとの反応も変化していった。もはやそれは、宗教や道徳や個人の問題としては手に負えない社会現象である、というアメリカ人特有の犯罪観が芽生えはじめた。都会に住む一般市民が、犯罪を情緒的な刺激、娯楽の対象とみなしていたことは、すでに『ニューヨーク・ウイークリー』などの煽情的な読物週刊誌の成功が証明していた。無法者を英雄視し、義賊やペテン師さえもヒーローとみなす心理の根底には、罪とか罰とかの問題ではなく、犯罪の手口や経過や解明に寄せる無責任な大衆の興味と関心がのぞいている。 「何が起こったのか?」「どうしてそうなったのか?」「そして、どうなったのか?」  日ましに増大するさまざまな犯罪の渦のなかで、人びとはこれらの疑問を、彼らにもわかる血まみれの、生々しい言葉で詳細に語ってくれる新しい読物を期待していた。しかもその犯罪は、遠い西部の話ではなく、彼らのすぐ身のまわりで起こっている、新しいタイプの都市犯罪だった。  読物週刊誌やダイム・ノヴェルズの出版社が、無教養な大衆の、この新しい嗜好に気づかないはずがなかった。  だが、犯罪の手口や経過を、そのままセンセーショナルに書きたてるのではなく、それを調査し、追究する�目�となる登場人物が必要になってくる。この単純な方法にはじめて気づいたのが、ビードル社のあとを追って、『シーサイド・ライブラリー』などのダイム・ノヴェルズ叢書を出版していたジョージ・マンローだった。  文献によれば、ダイム・ノヴェルズの最初の探偵小説は、ケンウォード・フィリップの手になる『バワリー探偵』という作品で、一八七〇年にマンローの『ファイアサイド・コンパニオン』という叢書に収録されたものだという。ついで一八七二年、同叢書に、ハーラン・ペイジ・ハルシーの『探偵、オールド・スルース』が連載された。  この二つの作品は、ごく新しい各種の研究書にいたるまではっきりとタイトルが示されているが、残念なことに内容に言及した評論はほとんどみあたらない。クエンティン・レナルズの『フィクション・ファクトリー』のなかにも、オールド・スルース(このスルースという単語が、�私立探偵�の意味で用いられたのは、これが最初だといわれている)の名前はでてくるが、内容にまでは触れられていない。ラッセル・ナイの『アメリカ大衆芸術物語』によれば、変装を得意とし、老人に扮して活躍するこの青年探偵の物語は六百編を超えるという。  このシリーズが、デビュー当時どれほどうけたかは定かでない。一八七〇年代は、まだ都市型の探偵の登場には十年ほど早すぎたのだ。アメリカの探偵小説の歴史のなかで、一八七〇年代の記念すべき年として記されているのは、 [#ここから改行天付き、折り返して6字下げ] 一八七三年 ガボリオの『ルルージュ事件』のアメリカ版刊行 一八七四年 ピンカートン事件簿の第一巻『速達便配達夫と探偵』の刊行 一八七八年 アンナ・キャサリーン・グリーンの『リーヴンワース事件』の刊行 [#ここで字下げ終わり]  の三項目である。話が少しとぶが、現代作家のビル・プロンジーニが、ジャック・フォックス名義で、南北戦争当時を時代背景にした歴史ミステリーのシリーズを、一九七六年に書きはじめたのは興味深い。主人公は、ピンカートン探偵社のファーガス・オハラで、長編第一作は『フリーブーティ』というタイトルである。  アンナ・キャサリーン・グリーン以前にも『死の手紙』(一八六七年刊)なる長編探偵小説を書いたシーリー・リジェスターというアメリカの女流作家がいるが、エビニーザー・グライスという中年の警官を探偵役にすえたグリーンの第一作(日本では、明治二十二年に黒岩涙香が『真暗』という題名で翻案している)があまりにも有名になったために、グリーンには〈探偵小説の祖母〉の尊称があたえられている。探偵役の警官グライスは、一九一七年まで、第一作をふくめて十一作の長編に登場し、いくつかの作品には、アメリア・バターワースという女ワトスン役もでてくる。第一作は、豪華な書斎における老富豪の怪死に始まるメロドラマティックな味つけの謎解き小説である。ポー以後とだえていた謎解き小説の系譜を、三十数年後に、グリーンが受け継いだということだろう。  ただここで一つ気がつくことは、ダイム・ノヴェルズに登場したオールド・スルースのあつかう貧民街の路地裏の犯罪と、豪邸の書斎で死体となって発見された老富豪の怪死事件とのあいだには、このあとの探偵小説の歴史をいみじくも象徴する顕著な差が見いだされることである。  一九二〇年代から三〇年代にかけて台頭したハードボイルド派が、「犯罪をあるがままの現実に引き戻した」と宣言したのとまったく同様の対立が、ここにもすでにうかがわれる。さかのぼって考えれば、第一章で詳述したポーの「マリー・ロジェの謎」と、現実のメアリー・ロジャーズ殺人事件を報道した新聞記事とのあいだにも、この対立はすでに芽をのぞかせていた。クライム・ストーリーの読み方と、パズル・ストーリーを愛好する態度とは、本質的にまったく異なるものだということである。  一八八〇年代の私立探偵[#「一八八〇年代の私立探偵」はゴシック体]  一八八〇年代にはいって、ますます隆盛をきわめるダイム・ノヴェルズ界に、続々と新しい探偵小説叢書が誕生した。  その一番手をうけもったのが、マンロー社の『オールド・キャップ・コリア・ライブラリー』だった。探偵小説専門の最初のダイム・ノヴェルズ叢書といわれるこのシリーズは、一八八三年から一八九九年まで八百編以上刊行された。  この叢書には、叢書名となっているオールド・キャップ・コリアのほかにも、オールド・ブロードブリム(クエーカー教徒探偵)、スパロウ刑事、ギデオン・ゴールト、デイヴ・ドットスン、ディック・デインジャー、オールド・サンダーボルトなどの探偵があいついで登場している。いずれも先輩のオールド・スルースをまねた名前か、姓と名に同じ頭文字をつけたタフな名前の持ち主ばかりだが、現物にあたることが不可能で、素性や特技やあつかった事件の内容まではわからない。オールド・キャップ・コリアもまた変装の名手であり、不死身の男だったようだ。  このあとを追って、フランク・タウジー社の『ニューヨーク・ディテクティヴ・ライブラリー』というライヴァルが登場した。この叢書は一八九八年までつづいたが、ここに登場したのがジェイムズ・〈オールド・キング〉・ブレイディという強者だった。  編集者の要請で、オールド・キング・ブレイディを創造したベテランのダイム・ノヴェルズ・ライター、フランシス・W・ダウティは、フランク・タウジーのために八十五編の長編を書きあげたとつたえられている。〈ニューヨーク・ディテクティヴ〉というハウス・ネーム(出版社の要請による共同ペンネーム)で発表されたこのシリーズには、ダウティ以外にも多数の書き手がいたが(総作品数は千三百編を超える)、読者の目は確かで、ダウティ自身が執筆しなかった号は、部数が激減したということだ。  一八八五年十一月号に掲載された第一作「九十九丁目九九番地——あるいは、ドアのない家」の冒頭の一節で、ヒーローは次のように紹介されている。 [#2字下げ] ほっそりと背の高い、四十がらみのアイルランド人だった。体にそぐわない地味な服を着て、ハンサムとはいえない大きな顔をしていたが、刺すように鋭い目、小さな口、固く結ばれた唇は、この男が並はずれた人物であることを物語っていた。  オールド・キング・ブレイディはけっしてスーパーマンではなかった。美人助手アリス・モンゴメリーを従え、ときには失敗も犯すソフトボイルドの中年探偵であり、卓越した頭脳、犯罪と人間性に関する広範な知識の持ち主として描かれていた。だが推理よりは行動が重視され、調査の対象となる犯罪の特異性と背景になる街は、徹底してリアルに書きこまれている。特筆すべきことは、初期の作品で、ジェシー・ジェイムズを名探偵の宿敵として設定していることだ。 (画像省略)  この二つの探偵小説叢書に対して、先輩格のオールド・スルースも、『オールド・スルース・ライブラリー』に再登場した。一八八五年から一九〇五年までつづいたこの叢書には、このほかに、アイアン・バージェス、変身人間マンフレッド、オールド・エレクトリシティ、レッド・ライト・ウイルといったきわものじみたシリーズ・キャラクターも登場している。  一方、読物週刊誌界で一躍名をあげた二人のフランシス(ストリート&スミス社)の『ニューヨーク・ウイークリー』も、バッファロー・ビルの後釜にすえる新しいヒーローを熱心に物色していた。オールド・スルースの作者ハルシーを起用し、ジャドスン・R・テイラーのペンネームで、探偵ものめいた読物を掲載する試みも行なっていた。 [#2字下げ] 『ニューヨーク・ウイークリー』には、今日の探偵小説に類似した物語が数多く掲載された。この種の物語は、一八八〇年代には比較的新しいタイプの小説だったが、重要な要素が一つだけ欠けていた。特定の�探偵�がいなかったのだ。(クエンティン・レナルズ)  そこに気づいたのが、フランシス・スミスの四人の息子の末っ子、オーモンド・スミスだった。ハーヴァードをでたあと、フランスに留学し、ゾラ、ボードレール、ドストエフスキーなどに傾倒したこの文学青年は、娯楽小説の出版にかけても先見の明があり、父のパートナーだったフランシス・ストリートが一八八三年に世を去ると、すぐさま彼の権利を買いとって、ストリート&スミス社の編集面に積極的にかかわっていった。やがて父の死後、社長の椅子を継ぐことになる若いオーモンド・スミスが目をつけたライターは、従兄弟にあたるジョン・ラッセル・コリエルだった。  オーモンドよりひとまわり年上のコリエルは、根っからの冒険家で、彼自身、ダイム・ノヴェルズのヒーローのような波瀾に満ちた青年時代を経験していた。大学を中退して、父のいる中国に渡るとき、台風で難破し、あやうく一命をとりとめ、二十歳の若さで上海の副領事をつとめながら、殺人や密輸の実話をしこたま仕込んだあと、カリフォルニアにおもむき、サンタ・バーバラで新聞記者になった。ここである地元市民の怒りをかう記事を書いて決闘騒ぎになりかけ、東部に戻り、こんどは豊富な体験をもとに、ダイム・ノヴェルズを乱作しはじめた。 「どんな既成作家よりもうまく探偵小説を書いてみせる」というコリエルの売りこみを信じて、オーモンドは彼に探偵小説の連作をやらせてみた。  コリエルの第一作「アメリカ人侯爵——あるいは復讐の探偵」は上出来だった。そして『ニューヨーク・ウイークリー』の一八八六年九月十八日号に掲載された第二作「老探偵の弟子——あるいはマディスン・スクウェアの怪事件」に、シム・カーターの息子として、若きヒーロー、ニック・カーターが傍役としてデビューすることになったのである。  ニック・カーターの創始者はだれか? という疑問に対する解答はこれまでまちまちだったが、最近の新しい研究書は、いずれもクエンティン・レナルズが『フィクション・ファクトリー』で記したニック・カーター誕生の経緯を部分的に補足しつつ、くわしく解説する傾向になってきている。  コリエル自身は、バーサ・M・クレイという由緒あるハウス・ネームを受け継いで、好評の連載を書きつづけたが、ニック・カーターは、三作しか彼の作品に登場しなかった。ニック・カーターの本格的な登場は、それからさらに数年待たねばならなかったのだ。 (画像省略)  海の向こうでは、この一八八六年に、スティーヴンスンの『ジキル博士とハイド氏』が刊行され、一八八七年にはコナン・ドイルの栄光のシャーロック・ホームズが『ストランド』誌にデビュー、ファーガス・ヒュームの『二輪馬車の秘密』も世にでた。  若き英雄を生みだした男たち[#「若き英雄を生みだした男たち」はゴシック体]  読物週刊誌一誌にしぼってきたストリート&スミス社が、群雄割拠のダイム・ノヴェルズ界に進出したのは、一八八九年のことだった。少年向けのダイム・ノヴェルズ叢書を二つほど出版してみたが、若い社主のオーモンド・スミスは、それだけでは満足できなかった。金鉱がそこにあることを知りながら、掘り当てることのできないもどかしさを感じていたのだ。  一八八九年のある日、オーモンドは、兄のジョージ、作家のフレデリック・ダイと三人で昼食をとることになった。その食事中に、オーモンドは、コリエルが傍役として登場させたニック・カーターを主役にして、全作品に登場させるシリーズを始めたい、と発案した。  フレデリック・ダイは、その場でその条件をのみ、以後十七年間、超人的なスピード(二万五千語の長編を毎週一作)で、ニック・カーター物語を書きつづけることになった。彼は、合計千作以上、二千万語をタイプライターで打ちあげたといわれている。 (画像省略)  ニック・カーター物語の初期の作品は、一八八九年刊の唯一の短編集『探偵の美しき隣人』に収録された十一編のうち、エラリー・クイーンが『EQMM』に再録した「髪ひとすじ」と「宝石を盗む淑女」の二編が邦訳されている。「髪ひとすじ」に付せられたクイーンの解説には、資料的なミスがみうけられるが、探偵小説の諸要素の分析がおもしろい。初期作品の復刻版としては、六編の中編が収録された『探偵、ニック・カーター』(一九六三年刊)と一九〇五年作の「海賊スキュラ——あるいは、ニック・カーターとサイレンの女王」が収録されているE・F・ブライラー編の『八編のダイム・ノヴェルズ』(一九七四年刊)が比較的入手しやすい。  一八九一年に始まったストリート&スミス社の新しいダイム・ノヴェルズ叢書『ニック・カーター・ディテクティヴ・ライブラリー』によって爆発的な人気を得た初期のニック・カーター物語のサンプルを、クエンティン・レナルズの言葉を借りて紹介しよう。 [#2字下げ] ニック・カーターは、いうまでもなく、世界屈指の銃の達人である。また格闘技でも、二、三十人のならずものを単身たたき伏せることができる。変装と言語の名人で、西部の農夫やカウボーイ、シカゴのビジネスマン、フランスの政府高官、ロシアのスパイ、日本人貴族などに一瞬にして変身してしまう。それだけではない。グッド・ボーイのニックは、酒も飲まず、煙草も吸わず、絶対に悪態や嘘をついたりしない。  レナルズはまた、密輸ダイヤの調査にのりだしたニック・カーターのある冒険物語を、次のように簡潔に(やや皮肉まじりに)分析している。 [#ここから2字下げ]  九ページめで、手早い下調べをすませたニックは、助手のチック・カーターをひきつれて、船でフランスに向かう。十五ページめで彼は、ロシアのニヒリスト結社の女虎首領、プリンセス・オルガにあいまみえる。十九ページめで、西部の農夫に変装したニックはニューヨークに帰ってくる。そこで、悪漢リヴィングストン・カルーテルの専用室を捜索するが、ダイヤモンドは見つからない。  第二部にはいって六十九ページめ、助手のチックが薬を打たれて大西洋に投げこまれ、七十六ページめ、ニックが狂人用に設計された鉄製の頑丈な二輪馬車に乗せられて誘拐される。八十六ページめでニックは逆襲に転じ、二人の誘拐者を同時に倒し、ふたたびフランスに向かう。そこで彼は暗殺者の魔手からのがれ、プリンセス・オルガのハートを射とめる。二人は秘密結社の巣窟から秘密の通路を抜けて脱出。  第三部の大詰め。ニヒリスト結社の一員がニックのいるカフェを爆破。ニックは重傷を負いながらも脱出し、蒸気船でニューヨークに向かう。ついに、めざすダイヤを発見。悪漢たちと大乱闘になり、あわやカルーテルの凶弾に倒れかけた瞬間、ウエイトレスに変装して部屋に入ってきたプリンセス・オルガの必殺の一弾にすくわれる。 [#ここで字下げ終わり]  これでめでたしめでたし、というわけだが、ニックとオルガ姫は、けっして結ばれることはない。大衆読者が、彼に永遠の純潔を要求しているからである。いうまでもなく彼は、高潔な西部の騎士の現代都会版だったのだ。だがニックがヒーローになった条件はもちろんそれだけではない。いま紹介したエピソードからもわかるように、逃走と追跡の冒険物語の要素もすべて盛りこまれている。ニックは若く、しかもストイックな、不死身の英雄だ。そして、この世に存在する、ありとあらゆる悪徳と陰謀に、果敢に立ち向かっていく。「疎外された武者修行の騎士でもなく、孤独に悶々とする哲学者でもないニックは、彼自身があっさりいってのけているように、�それが仕事�だから、悪人たちを捕えにいったのだ」(ラッセル・ナイ)。テレビどころか映画さえなかったこの時代に、みじめな日常にうちひしがれていた一般大衆にとって、これ以上の逃避的な娯楽があっただろうか。 (画像省略)  だが現代とはちがって、当時の娯楽読物の語部たちの生涯は、けっして恵まれたものではなかった。フレデリック・ダイもその例外ではない。  オランダの名家の子孫として生まれ(ロウアー・マンハッタンのダイ[#「ダイ」に傍点]・ストリートが、一家の名にちなんだものであることを彼は誇りにしていた)、コーネル、コロンビアで法律を学び、新聞記者になり、当時のニューヨーク警察の名警視、トーマス・バーンズとも親しかったダイは、後年酒と賭博に身を持ちくずし、誇大妄想にとりつかれ、一九二二年にホテルの一室で、悲惨なピストル自殺をとげてしまった。三二口径のオートマティックで、頭を撃ち抜いてしまったのだ。ニック・カーターのキャラクター設定と考えあわせると、まことに皮肉な人生というしかない。 (画像省略)  ハウス・ネームという便宜的なシステムのために、ニック・カーター物語はいまもなお書き継がれている。かぞえきれないほどの原作者がこのシリーズには存在しているのだ。  はじめてニックを登場させたジョン・ラッセル・コリエルの墓碑には、〈ニック・カーターの創始者、世を去る〉と刻まれている。一九二四年に死亡したゴースト・ライターの一人、ユージーン・T・ソーヤーの死亡記事には、やはり〈ニック・カーターの生みの親〉という説明が付せられていた。また同じ一九二四年に、トーマス・C・ハーボーが死んだときも、そのあと、ジョージ・チャールズ・ジェンクスが世を去ったときも同様だった。いずれも、貧困のなかでのみじめな死にぎわだったという。 [#改ページ] (画像省略) オール・アメリカン・ボーイの夢[#「オール・アメリカン・ボーイの夢」はゴシック体] [#地付き]●一八九〇年代——その㈰[#「●一八九〇年代——その㈰」はゴシック体]     ——サクセス・ストーリーの元祖ホレイショ・アルジャー  フレッド・ダネイのふるさと[#「フレッド・ダネイのふるさと」はゴシック体]  一九〇五年(明治三十八年)生まれのフレデリック・ダネイ(エラリー・クイーンの二人の生みの親の一人)が、はじめてシャーロック・ホームズにめぐりあった十二歳の時の感激を語っているエッセイがある。「シャーロック・ホームズに始まる」と題されたこのエッセイのなかでダネイは、「選挙権を得る年になるまで、ニック・カーター物語の一編すら読んだことがなかった」と記し、かわりに読んでいたのは、ターザン、三銃士、ジュール・ヴェルヌ、オズの物語、ヴァイキング伝説、そして、ホレイショ・アルジャー、フランク・メリウェルなどだったと、照れ臭そうに白状している。  十九世紀末から今世紀初頭にかけて幼年時代を過ごした多くのアメリカ人の記憶の隅に刻まれているこの最後にでてきた二人の人物とはいったい何者だったのだろう。  一八八六年に登場し、いまもなお新しい作家たちによって語り継がれているアメリカの民話の英雄、永遠の青年探偵ニック・カーターについては、前章で紹介した。ここでは、このニック・カーターの冒険のあとをさらに追いながら、十九世紀末の大衆読物のヒーロー、ホレイショ・アルジャー、フランク・メリウェルの二人に焦点をあててみたい。  廉価な読物週刊誌やダイム・ノヴェルズ界のヒーローであった彼らは、一八九〇年代という大きな社会的変動のあった�暗い時代�をけっしてそのまま象徴してはいない。現実をありのままに映しだす鏡にもなっていない。アメリカ人は、いまこれらのヒーローを、失われた夢のシンボルとして回想するのだろうが、それはこのヒーローたちが、一八九〇年代という苛酷な時代を裏面から照らしだす反面教師であるからだ。  私にとってこの時代が、暗い苛酷な時代として映るのは、アーヴィング・ストーン著の弁護士クラレンス・ダロウ伝『アメリカは有罪だ』の訳出過程におけるささやかな追体験のためにほかならない。  一八八六年五月、シカゴのヘイ・マーケット暴動にはじまる労働運動弾圧の激化、社会主義運動の台頭のなかで、理想と情熱に燃えるオール・アメリカン・ボーイであったクラレンス・ダロウは、大企業家の支配と搾取に虐げられた労働者の側に立ち、さまざまなフレーム・アップ裁判で孤軍奮闘した。ダロウ自身は直接かかわりをもたなかったが、一八九二年、ピッツバーグのカーネギー鉄鋼所のストライキでは、資本家側に雇われたピンカートン社の雇われ兵三百人とのあいだに血なまぐさい戦闘がくりひろげられ、双方の死者数は十八名をかぞえた。そして、ダロウがのりだした一八九四年のプルマン・ストライキがそのあとにつづいた。「富と力こそ正義なり」とするアメリカの大実業家の立志伝(十二歳のとき、週給一ドル二十セントで鉱山で働きはじめたアンドルー・カーネギーは、半世紀後、年商五億ドルの鉄鋼王に出世しました!)を痛快な講談本のように読んできた私にとって、ストーンのダロウ伝は、まさに衝撃の書だった。 「まるで、ホレイショ・アルジャーの物語のようだ」という常套句は、〈幸運な立身出世物語〉を意味している。だが、このホレイショ・アルジャーの百数十編の少年出世物語が、この時代に驚異的なベストセラー(三億部という説もある)となりえたのは、なぜだったのか。  一八九〇年代は、読物週刊誌、ダイム・ノヴェルズについで、大衆読物の世界にパルプ・マガジンが登場(一八九六年)した画期的な時代でもあるのだが、そのはじめてのパルプ・マガジン(粗悪な紙に印刷された廉価雑誌)である『アーゴシー』(ギリシャ神話に出てくる最古の船 Argo に由来する。巨大な商船あるいは軍船のこと)の前身、『ゴールデン・アーゴシー』の創刊号(一八八二年十二月九日号)が、いま私の手元にある。もちろんこれは復刻版だが、小さな活字で印刷された挿絵入りの三本の連載小説を柱に〈少年少女のために宝物を満載〉したこのタブロイド版八ページ(五セント)の読物週刊新聞が原型のまま再現されている。 (画像省略) 「人口五千万人を超えるこの偉大な国に、十代の少年少女を対象とした上質の出版物がほとんどない」ことに目をつけたフランク・A・マンジーが創刊した、この『ゴールデン・アーゴシー』の第一ページを飾った連載小説が、ホレイショ・アルジャーの『為せば成る——あるいは、ある勇敢な少年の富をめざす闘い』だった。マンジーは、当時最も人気のあった少年読物の第一人者、アルジャーの書下ろし小説を創刊号の巻頭に掲載したことを、編集後記のなかでひかえめに自慢している。三本の小説のうちもう一本は、『セス・ジョーンズ』を書いたダイム・ノヴェルズの流行作家、エドワード・エリスのものだった。  実地検証を試みよう。〈勇敢な少年の富をめざす闘い〉という副題(当時の読物小説にはこういう長い説明的な副題がつくのが通例だった)のついた巻頭小説とは、いったいどのような内容の物語なのだろうか。  五歳のときから息子のハーバートを女手一つで育てあげてきた未亡人の母親が、村の実力者の差し金で唯一の収入源である郵便局の仕事を追われようとしている。第一章では、この母子の会話と、直談判にでかけた息子が軽くあしらわれて追い返されるところまでが描かれる。  母親の収入が年間四百ドル(=貧困)にも満たないことが強調され、しかもそれをとりあげようとしている実力者(=悪役)は、自分の従兄弟にその職を与えようとしている(=策謀)ことがわかる。だがいくら若いヒーローがあがいても、ワシントンの政界に有力なコネ(=権力)をもつ村の実力者には太刀打ちできない。「ぼくの父は、あなたのかわりに戦争へ行き、片腕を失い、病気で死んだ」とかけあっても相手にもされない。  この物語がこのあとどう展開するかは、連載の先を読まなくてもおおよそ見当はつく。息子ハーバートは、「今に見ていろ!」と、勤勉に、清く正しく努力をつづけ、天の配剤のごとき一つの試練に遭遇し、それをみごとに克服して大きなチャンスをつかみ、横暴な悪役を打ち負かして、めでたしめでたしとなるのだ。  ヒーローである少年たちは、貧しい靴みがきや使い走りや街の物売りである。腹をすかし、見かけはみすぼらしいが、陽気で、確固とした信念と行動力をもっている。母親はたいていの場合やもめ[#「やもめ」に傍点]で、町や村の実力者や地主や家主にいじめられている。やがて若いヒーローは見知らぬ男に出会い、危難に陥っている彼の子供を救う(溺れかけていたり、狂犬やあばれ馬に追われていたり)。その礼として、男は少年に新たな使命を与え、それを立派に達成したヒーローを養子に迎え(あるいは娘の婿とする)、富と地位を約束する。  これがホレイショ・アルジャー物語のほぼ全作に共通した作法である。一言でいってしまえば、日本の昔話「わらしべ長者」にあるような幸運ずくめの立身出世物語なのだ。このような他愛もない千篇一律の物語(彼の伝記を書いたハーバート・R・メイズは、アルジャーが百十九冊の本を書いたと記しているが、実際には一冊の本を百十八回書き直しただけである=クエンティン・レナルズ)によって驚異的なベストセラー作家となったホレイショ・アルジャーとは、何者だったのか。彼の成功の理由とその意味をさぐってみよう。  サクセス・ストーリーの成功者[#「サクセス・ストーリーの成功者」はゴシック体]  一八三四年、ホレイショ・アルジャーは、マサチューセッツ州のきびしいピューリタンの家に生まれた。一八五二年、ハーヴァードを卒業。学生時代は聖人ホレイショと呼ばれ、「下宿の女主人が誘惑しようと丸裸で部屋に入ってきたが、冷たく拒絶した」と日記に記しているほどの堅物で通っていた。だが一説によると、卒業したのではなく、スキャンダルで放校されたともいう。いずれにしろホレイショは、このあと両親に反抗してパリに向かい、気ままなボヘミアン生活を送る。日記には、「いままでこんなに長く待っていた私は愚かだった。セックスは思っていたほど唾棄すべきものではなかった」と記している。  やがて彼は病気のため故郷に帰り、父親の望みどおり、厳格なユニテリアン派の牧師になるが(一八六四年)、その生活にあきたらず、二年後に、作家を志し、刺激と成功を求めてニューヨークへ向かった。ここで彼は、オリヴァー・オプティックという少年ものの人気作家(本名ウィリアム・T・アダムズ)にはげまされ、一八六七年、デビュー作『おんぼろディック』を書きあげた。 (画像省略)  この作品の成功がきっかけになって、ホレイショは、デュアン通りとウィリアム通りの角にあった〈ニューズボーイズ・ロッジング・ハウス〉を本拠地とし、教宣・慈善活動と同時に創作活動にはいった。そこに寝泊まりしている貧しい新聞少年たちから実際の体験談を取材し、「貧困と誘惑に打ち勝って努力すれば必ず富と名声を得られる」という夢物語を書きまくったのである。大衆読物とは、結局のところ、自分で夢さえみることのできない貧しい人びとに、あらかじめパックされた大量販売の既製品の夢を運ぶ媒体なのだ。  一八九〇年代は、強者が生きのびるというダーウィンの進化論どおり、社会的な貧富の差、力の差がはっきりと極端な形をとりはじめた時代でもあった。鉄道や鉄鋼で大儲けした実業家が�|陽気な九〇年代《ゲイ・ナインテイーズ》�を享受する一方、たとえばニューヨークのスラムの施設には、家のない孤児たちが三十万人(一八八九年)も収容されていた。ホレイショ・アルジャーが本拠地とした下宿屋も、ほぼ同じようなものであったのだろう。 (画像省略)  十歳から十五歳までの就労少年は百万人を超し(一九〇〇年)、この少年たちは都会だけでなく、工場や鉱山でも酷使されていた。できあいの夢を大量に売りつける下地はじゅうぶんにできていたのである。ホレイショ・アルジャーの大部分の読物小説の題名がそうであるように、当時の少年向けのダイム・ノヴェルズにも、『勇敢・大胆』とか『労働と成功』などという叢書名が見られ、疲労と空腹で倒れかかっている少年たちに『目を覚せ』とはっぱをかける週刊読物叢書まであらわれた。  ホレイショ・アルジャーはデビュー作のあと、『幸運と勇気』(一八六九年)、『おんぼろトム』(一八七一年)などのシリーズでますます人気を博した。だが、これらのシリーズの少年ヒーローのようには、高潔でも、道徳的でもない彼の人間的一面を如実に示すエピソードもある。  汚濁と喧噪の街をのがれて郊外のピークスキルに住んでいたころ、ホレイショはある残酷な殺人事件にまきこまれ、犯人とまちがえられて留置場にぶちこまれた。五フィート二インチ、やせてハゲあがった小男というさえない人相風体がそっくりだったのである。やがて真犯人が自首し、被害者の未亡人はつぐないのために彼を夕食に招いた。その席でホレイショは、未亡人の妹(セールスマンの妻)に一目惚れし、二人はニューヨークに駆け落ちしてしまう。だが人妻はすぐ夫に連れ戻され、パリに追いやられる。  ホレイショは、評判のよかった第一作を、一カ月間で二冊の新作に書き直し、その原稿料をもって女の後を追ったが、彼女はパリでとっくに別の男を見つけており、傷心のホレイショはひとりニューヨークへ帰る。小説のなかで少年たちに説きつづけてきた倫理観とは正反対の一面が、彼のなかに幼いときからひそんでいたのだ。  物語中の若きヒーローの母親がいつもやもめ女であるのは、厳格な実父を生涯憎んでいたからだともいわれているが、作品中の悪役は実父のイメージと重なりあっていたようだ。しかも彼は、めでたしめでたしの結末で、富と名声のほかに、新しい父親まで得るのである。  ホレイショ・アルジャーの全著作数は、いまもって不明だが(百三十四作とする説もある)、出版社は数社にわたり、ストリート&スミス社の読物週刊誌『ニューヨーク・ウイークリー』にも『浮浪児テリー』など十八作が連載された。同社は、クロス装丁の全百二十八巻の全集も出版している。『八編のダイム・ノヴェルズ』に復刻されている一八八九年作の「ニューヨークに漂う」という作品は、お定まりの内容とは別に、当時のニューヨークの街を生き生きと描写している点で興味深い。馬車や街頭の物売り、日常茶飯事のような都会の犯罪、バワリー界隈や移民たちの生活が克明に記されている。 (画像省略)  彼の書いた読物中のいかなるヒーローにも劣らない成功をおさめたホレイショ・アルジャーは、一八九九年七月十八日、多くのダイム・ノヴェルズ・ライターと同じように、振り出しに戻ってほとんど貧困に近い生活のなかで死んでいったと伝えられている。印税制度が確立されておらず、大半の長編小説が一編百ドルから百五十ドルで出版社に買い切られていたためである。  死後、残されていた原稿に別のライターが手を入れて出版されたものもいくつかあるが、ホレイショ・アルジャーの物語はほぼ全作が彼自身の手によるものだった。何人かの評判になったシリーズ・キャラクターもいたが、作中人物より作者名のほうが有名になった特異な例であったともいえる。  これとは逆に、ニック・カーターやフランク・メリウェルは、いうまでもなくシリーズ作品のヒーローであり、作者名より作中人物のほうがずっと広く知られている。作者の匿名性こそ、大衆ヒーローの条件であったのかもしれない。  一八八六年、『ニューヨーク・ウイークリー』に登場した青年探偵ニック・カーターは、一八九一年、ダイム・ノヴェルズのヒーローとして再デビューし、この『ニック・カーター・ディテクティヴ・ライブラリー』(一八九一〜一八九六年)は、『ニック・カーター・ウイークリー』(一八九七〜一九一二年)、『ニック・カーター・ストーリーズ』(一九一二〜一九一五年)として受け継がれ、最後は『ディテクティヴ・ストーリー』(一九一五〜一九四九年夏)にまでいたった。ニック・カーターは六〇年代にプレイボーイ諜報員としてペーパーバックに返り咲くが、この長い人気の記録を破るアメリカン・ヒーローは、これまでも存在しなかったし、今後も生まれないだろう。 (画像省略)  オール・アメリカン・ボーイの誕生[#「オール・アメリカン・ボーイの誕生」はゴシック体]  ホレイショ・アルジャーの少年立志伝は、現実にはかなえられることのない夢物語という意味で、貧富の差が決定的となった時代の屈折した産物だったといえる。これに対して、オール・アメリカン・ボーイという明るい呼称が最もぴったりする若きヒーロー、フランク・メリウェルの場合は、よりよい教育をうけ、よりよい職業につく道としてのカレッジ・スポーツ、プロ・スポーツの流行という、かなり現実性をおびた社会的背景が考えられる。  ギルバート・パットン作のフランク・メリウェル物語は、ニック・カーター同様、ストリート&スミス社の二代目、オーモンド・スミスの緻密な出版企画のなかから生まれたものだった。  大衆読物のヒーローは偶然に生まれるのではなく、慎重に考えぬかれた出版社の�読み�のもとに誕生することを示すもう一つの好例は、文明開化の十九世紀末に誕生し、やがてサイエンス・フィクションの世界につながってゆく、いわゆる発明型ヒーローである。ニューヨークではブルックリン・ブリッジの架橋工事が始まり、高架を電車が走り、まもなく地下鉄が登場しようとしていた(一九〇四年)。自動車があらわれ、最初の映画が公開され、蓄音機が鳴りはじめた。ディーゼル機関(一八九五年)が発明され、X線(一八九五年)、ウラニウムの放射能(一八九六年)、ラジウム(一八九八年)が発見された。殺人犯がはじめて電気椅子で処刑されたのは、一八九〇年代がはじまった年の八月六日のことだった(ニューヨーク、オーバーン刑務所)。  発明型ヒーロー、『フランク・リード・ウイークリー』には、傘をつけた空飛ぶ機械や蒸気を吐くロボットや奇想天外な鉄の戦車が登場したが、このような珍奇な機械がごく近い未来に必ず実生活にあらわれるだろうことを、人びとは信じて疑わなかったにちがいない。  現実的な夢物語としてのホレイショ・アルジャーやニック・カーターと、非現実的な実用物語の主人公、フランク・リードとのちょうど中間に位置しているのが、万能スポーツ・ヒーロー、フランク・メリウェルだった。  一八九六年にはじまったこのシリーズの作者、ウィリアム・ギルバート(ギル)・パットンは、大工の息子としてメイン州に生まれ、ホレイショ・アルジャーと同じようにはじめは牧師になろうと考えていたらしい。ギルの人生を狂わせたのは、十五歳のときに読んだ、一冊のダイム・ノヴェルズだった(バッファロー・ビル・シリーズを書き継いだプレンティス・イングレイアムの冒険小説『コリンナ』)。すっかり病みつきになったギルは、二つの短編を書いて、ダイム・ノヴェルズの老舗ビードル社に送った。稿料は二つで六ドル。ついで少し長めのものを書き送ると、これが五十ドルで採用された。 (画像省略)  これに励まされた若いギルは、故郷を出てニューヨークへ向かい、ビードル社の編集者オーヴィル・ヴィクターの紹介で、イングレイアムやエドワード・L・ホイーラー(黒マスクの西部のヒーロー、デッドウッド・ディックの作者)と知り合い、四年のうちにドル箱ライターの一人にかぞえられるようになった。  だがドル箱といっても、大衆作家に対する支払いは微々たるもので、原稿とひきかえに一作百ドルというのが常識だった。一八九四年に、ビードル社に百ドルの先払いを求め、十日後に刊行される新作をかた[#「かた」に傍点]に小切手を切ってもらったギルは、その額面を見て唖然とした。十日分の先払いとして一日一ドルが天引きされ、額面は九十ドルとなっていたのだ。  腹にすえかねたギル・パットンはその足でストリート&スミス社にでかけ、ライター兼編集者のエドワード・ストレイトマイヤー(ローヴァー・ボーイズやトム・スウィフト・シリーズの作者として有名)に、二週間で書きあげた中編読物を百五十ドルで売りこむことに成功した。ギルに目をつけたオーモンド・スミスは、新しいスポーツものを書けとすすめ、こまかな執筆上の指示をくだした。  一八九六年四月に創刊されたストリート&スミス社の新雑誌『ティップ・トップ・ウイークリー』に掲載されたフランク・メリウェルのデビュー作「ファーデイル入学の日々」は予想を上回る大当たりをとった。新鮮で魅力的なオール・アメリカン・ボーイが一夜にして誕生したのである。同誌の部数は発刊三カ月で七万五千部に達し、ギル・パットン(バート・スタンディッシュ名義)は、そのあとこのシリーズを毎週書きつづけることになった。 (画像省略)  総販売部数一億二千万部、作品数は千点ともいわれるこのシリーズが、アメリカ文学史のなかで無視されていることは許せないといったのは、高名な評論家ジョージ・ジーン・ネイサンである。ネイサンはH・L・メンケンと共同で編集していた文芸誌『アメリカン・マーキュリー』に発表した記事(一九二五年)のなかで、「マーク・トウェインのハックルベリー・フィンやトム・ソーヤーを読む読者一人に対して、フランク・メリウェルの読者は一万人もいる」と記している。おそらくネイサンも、少年時代にフランク・メリウェルを読みふけった一人だったのだろう。  勇敢で正直、あけっぴろげで陽気、頭がよくてユーモアを解するスポーツ少年、フランクは、ファーデイル・ミリタリ・アカデミーで四年をすごし、そのあとイエール大学にすすみ、フットボール・チームを結成、宿敵ハーヴァードに常勝する。もちろんいつも最後の長距離独走で逆転勝ちをおさめるのだ。彼はまた、イエールを一時去ったり、長い休暇(頭がいいのでめったに講義にでなくてもよかった)をとったりしながら、都会や海外でもさまざまな冒険に遭遇する。なにしろパリにあっては、ドレフュス事件(一八九四年にスパイ容疑で有罪になったドレフュス砲兵大尉は悪魔の島に流刑になるが、この事件は人種差別によるフレーム・アップだとするゾラやクレマンソーのキャンペーンによって、一八九九年に再審され、一九〇六年に無罪となる)にまきこまれたりもするのだ。  フランク・メリウェルの人気によってイエール大志望者が激増したとまでいわれるこのシリーズの魅力は、彼がスーパー・ヒーローのひな型でありながら、人間的な弱点(ギャンブル好き)も備えていたことにあるだろう。だがもちろん彼は、その誘惑に打ち勝つ。飲む、打つ、買うは、当時の大衆読物のヒーローにとって、きびしいご法度だったのだ。そして皮肉なことに、これら民話の英雄の語部たちは、見果てぬ夢を追いながら、貧困のなかで生涯を終える例が多かった。  編集者の敷いたレールの上を突っ走り、大衆に偉大なるアメリカン・ボーイの理想と夢を与えつづけたこれらの作家たちこそ、失われたアメリカの夢に最初に気づいた人たちであったのかもしれない。  フランク・マンジーの雑誌商法[#「フランク・マンジーの雑誌商法」はゴシック体]  一八九〇年代は、大衆読物の分野にはじめてパルプ・マガジンが登場した時代でもあった。一八九六年に、タブロイド版の『ゴールデン・アーゴシー』から変身したフランク・A・マンジーの小説雑誌『アーゴシー』は、発刊後まもなく部数八万部に達し、今世紀初頭には早くも五十万部雑誌に急成長していた。マンジーは同時に、写真や記事を満載した『マンジーズ』というドル箱雑誌も発刊していた。  こちらのほうは一八八九年に創刊され、一八九一年に月刊誌となり、一八九五年にははやくも部数五十万部、十九世紀末には〈世界最大の雑誌〉にのしあがっていた。  一八五四年、メイン州マーサーで、貧しい大工兼農夫の子として生まれ、ウェスタン・ユニオン社の電信技師などの職を転々としたあとニューヨークにやってきたマンジーは、ダイム・ノヴェルズ全盛の時期に、内容的には老舗の『ニューヨーク・ウイークリー』を見習った大衆向けの廉価な絵入り雑誌の刊行を思いついた。二十五セントで売られていた各種の高級誌に対抗して、定価は十セントに決めた。低所得の無教養な読者が対象だった。当時の工員の平均収入は、週六日七十時間労働でわずか七ドル。彼らが望んだのは、上流社会や金持ちたちのゴシップ記事ではなく、ごく身近に感じられる単純な娯楽だった。  蒸気印刷機の発明や紙の製造法の改良ということも廉価多売方式を成立させた理由にあげられるが、マンジーの成功は、雑誌の編集を大衆の嗜好にあわせて、敏感、忠実にすすめていったことだった。『マンジーズ』はのちに『オール・ストーリー』と改称し、やがてここにターザンがデビューする。『ブラック・マスク』と並ぶパルプ探偵雑誌の一方の雄、『ディテクティヴ・フィクション・ウイークリー』もマンジーの社から出版されるのだが、これはまだ先の話である。  タブロイド版の従来の読物週刊誌やダイム・ノヴェルズをおしやって新しい流行となった読物パルプ・マガジンは、汽車やフェリーのターミナル、キャンディ・ストア、街角のニューズ・スタンドなどにあふれでていった。  そのころ富裕な知識階級が読んでいたのは、『ハーパーズ』とか、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』(一八九一年刊)を掲載した『リピンコット・マガジン』とか、シリアスな小説や記事を載せる『センチュリー』『アトランティック・マンスリー』『ネーション』などの高級誌だったが、これらの雑誌はめったに部数十万部を超えることはなかった(その後教育の向上によって、売れ行きは若干のびはじめる。アメリカにおける文盲率は、一八八六年に一三・三パーセントだったものが、一九〇〇年には一〇・七パーセントにまで減少した)。広く読まれていたシリアスな小説は、たとえば戦場と兵士を非感傷的に描いたスティーヴン・クレインの『赤い武功章』(一八九五年刊)などだった。  こういった文化状況と、一八九三年のきびしい不況のなかで新しく生まれたのが、『マンジーズ』や、貧しいアイルランド移民、S・S・マクルアの創刊した『マクルア』(一八九三年創刊、十五セント)、鉄鋼業者ジョン・B・ウォーカーが買収して誌面刷新をはかった『コズモポリタン』(一八九四年に四十万部、定価十二・五セント)などの大衆雑誌だった。すでに成功していた『レディズ・ホーム・ジャーナル』(一八九三年、七十万部、十セント)や、サイラス・カーティスが内容の一新をはかった『サタディ・イヴニング・ポスト』といった強力なライヴァルもひかえていた。  きびしい生存競争のなかで、フランク・マンジーはつぎつぎに画期的な戦術(定価値下げ、中間搾取を排し、ディーラーに直送)をくりだし、ついに『マンジーズ』を〈世界最大の雑誌〉にまでおしあげたのである。原価を割る定価でなおかつ莫大な収益をあげた秘訣は、いうまでもなく巨額な広告収入だった。これは当時としては、まったく新しい出版コンセプトだった。 『マンジーズ』と『アーゴシー』を両輪にして、大衆読物雑誌界を席捲したマンジーは、得意の絶頂期につぎのようなことを公言している。 「われわれが欲しいのは物語である。スケッチ風の地方文芸や、人間の無力性についてのお題目や、虫唾のはしる感傷や、�お上品な�文章ではなく、ただ単純に、パワーのあるおもしろい物語が欲しいのだ。良い文章ならそのへんにいくらでもころがっているが、おもしろい物語は、まともな政治家と同じほど数少ない」  このマンジーが出版界の成功者として世を去ったとき、ウィリアム・アレン・ホワイトは、「マンジーは、肉屋の才能と、両替屋の良心と、葬儀屋の礼儀作法とによってアメリカのジャーナリズムに貢献した」という辛辣きわまりない墓碑銘を献じている。  一方、ストリート&スミス社のオーモンド・スミスは、「四百人のためではなく、四百万人のための娯楽」という旗印をかかげ、父親譲りの雑誌づくりに邁進していた。四百人というのは、いうまでもなく当時の特権上流階級四百家系へのあてこすりである。世相や大衆の嗜好を見ぬく才に長けたスミスは、陸・海軍の青年士官をヒーローに仕立てあげ、アメリカン・ボーイの血をわかせる愛国主義的な読物雑誌をつぎつぎと市場に送りだした。一八九六年創刊の『赤・白・青』叢書や翌年創刊された『陸海軍週報』などがそれで、ウェスト・ポイントのマーク・マロリー、アナポリスのクリフ・ファラディなどが若きヒーローをつとめた。 (画像省略)  やがてスペインの圧制下にあったキューバの独立を援助するという名目でアメリカの侵攻がはじまった。米西戦争(シオドア・ルーズヴェルトに率いられた有名な志願部隊ラフ・ライダーズ参戦)が勃発すると(一八九八年)、陸軍士官ハル・メイナードが活躍する『星条旗週報』がさっそく創刊されるという具合だった。この陸軍士官シリーズの何編かを書いたのが、当時二十歳のアプトン・シンクレアだったという逸話もある。  シンクレアの『ジャングル』が刊行されたのは一九〇六年だが、パルプ・ライターだったころの彼は、まだそれほど強く社会主義的な立場に立っていなかった。 「たしかに書いたよ。恥ずかしいとは思っていない。無害な、おもしろい物語だった」と、後年シンクレアは述懐している。 [#改ページ] (画像省略) アメリカ版〈切り裂きジャック〉は女だった[#「アメリカ版〈切り裂きジャック〉は女だった」はゴシック体] [#地付き]●一八九〇年代——その㈪[#「●一八九〇年代——その㈪」はゴシック体]     ——血まみれのヒロイン、リジー・ボーデン  フォール・リヴァーの惨劇[#「フォール・リヴァーの惨劇」はゴシック体]  一八八八年秋、霧の都ロンドンのイーストエンドでおこった連続殺人事件の姿なき立役者〈切り裂きジャック〉に匹敵する、同時代のアメリカにおけるセンセーショナルな殺人事件の主人公といえば、俗謡にまでなって後世に伝えられた、あの悲劇のヒロイン、リジー・ボーデンをおいてほかにない。日本ではあまり馴染みのない名前だが、この章では、〈アメリカが愛したヒーローたち〉に匹敵する唯一人の〈ヒロイン〉、リジー・ボーデンについてくわしく述べてみたい。  切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)については、真犯人を推定する各種各様の新説がいまもってあとをたたないが、この事件のフィクション化ということでは、マリー・ベロック・ラウンズの古典作品『下宿人』(一九一三年刊)と、トーマス・バークの有名な短編小説「オッターモール氏の手」(一九三一年作)がよく知られている。短編小説としては少しもおもしろ味のないバークの作品がいまも�名作�としてあげられているのは、意外な真犯人の指摘という事件小説的な興味によるのだろう。現代作家では、ロバート・ブロックに「切り裂きジャックはあなたの友」(一九四三年作)があり、この事件の謎にシャーロック・ホームズが挑戦したという二重の趣向を凝らしたエラリー・クイーンの『恐怖の研究』(一九六六年刊)も有名である。  では、アメリカ版の〈世紀の犯罪〉、リジー・ボーデン事件のほうはどうか。そのまえに、日本では〈切り裂きジャック〉ほど�知名度�の高くないリジー・ボーデン事件のあらましをかいつまんで説明しておく必要がありそうだ。  一八九二年八月四日、マサチューセッツ州フォール・リヴァーの二番街九二番地にあるボーデン家の室内で、老実業家アンドリュー・ボーデンと後妻アビーの無残な死体が発見された。いずれも鋭利な重い斧のようなものでめった打ちにされ、当主のアンドリューは一階の居間の長椅子にあおむけに、後妻のアビーは二階の寝室にうつ伏せになっていた。死体を発見した次女のリジー(三十二歳のオールドミス)が、メイドのブリジッド・サリヴァン(貧しいアイルランド移民)に事態を告げ、警察と医師が現場に駆けつけた。姉のエマは友人の家に泊まりがけで遊びに行っており、ボーデン家を訪ねていたリジーの叔父、ジョン・モースも外出中だった。一週間後、いくつかの状況証拠をもとに次女のリジーが殺人容疑で逮捕され、翌一八九三年六月、ニュー・ベドフォードでセンセーショナルな公判がひらかれたが、結局、彼女は証拠不充分で無罪を宣告され、釈放された。 (画像省略)  これがこの事件の登場人物と起こったことのあらましである。だが、その八月の猛暑の日、ボーデン家で実際に何が起こったのか、斧をふるったのが誰だったのかは、未だ解明されていない。にもかかわらず、当時も現在も、ほとんどのアメリカ人が、父親と義母を殺したのは、リジー・ボーデン自身だったと固く信じている。両親を残酷にも手斧で打ち殺し、しかも罪をまぬがれた血まみれのヒロインが、アメリカの民話のなかに誕生したのである。 [#ここから1字下げ]  リジー・ボーデンは手斧をとって  母親を四十回めった打ち  リジーはそれをみとどけて、今度は  父親を四十一回めった打ち [#ここで字下げ終わり]  作者は不明だが、広く人々にうたわれるようになったこの俗謡は、いまでもアメリカ人の心のすみに焼きついている。おびただしい量の報道記事のあとを追って、犯罪実話や小説が書きつがれ、バレエがつくられ、ラジオ劇やテレビ劇も登場した。では、なぜリジー・ボーデンは、アメリカ犯罪史上の〈世紀のヒロイン〉になりえたのだろうか。その後の顛末を追ってみても、なお充分には理解できない不可思議な要素が存在するように感じられる。そこには、民話の主人公を生みだす大衆の嗜好の暗い一面がひそんでいる。  リジー・ボーデン事件は、著名な犯罪写真史のなかにも例外なく収録されている(アレン・チャーチルの『アメリカの犯罪写真史』、ジュリアン・シモンズの『犯罪写真史』、クール&モーゲンセンの『マーダー・ブック』など)。著名犯罪事件を報道した『ニューヨーク・タイムズ』の紙面をそのまま編年史的に復刻、編纂した貴重な縮刷版(一九七六年刊)を見ると、この事件が全国的な注目をあつめたのは、事件の報道そのものではなく、翌年ひらかれた公判の過程においてだったことが推察される。生の事実やその報道ではなく、裁判劇というまぎれもない一つの〈虚構化〉を経て再構築されたドラマが、大衆の面前に示されたのだ。  この裁判で検察側は、姉妹と義母との不仲、リジーが凶事を予知する夢をみたとほのめかしていたこと、彼女のあいまいな証言、地下室で発見された壊れた手斧、外部から賊が押し入った形跡がまったくのこっていないことなどを理由に、リジー・ボーデンの犯行を証明しようとした。 (画像省略)  だが、決定的な証拠はなにひとつあらわれなかった。死体が発見された現場は血にまみれていたが、血痕が付着した衣類は最後まで発見されなかった。最も煽情的な推測は、リジーが全裸で斧をふるい、返り血を洗い流したあと衣服を身につけたというものだった。地下室で発見された手斧も凶器とは断定できなかった。  ありとあらゆる推測にもとづく有罪説が、法廷に持ちだされ、人々のあいだで大っぴらにささやかれたが、ついに決定的な決め手はあらわれず、リジー・ボーデンは釈放され、故郷のフォール・リヴァーに戻った。彼女は十七万五千ドルの遺産を姉のエマと分け、生涯をその地で独身で通し、一九二七年六月一日、ぬぐいがたい血まみれの汚名を着せられたままひとり寂しくこの世を去った。奇妙な偶然だったが、事件のあと、リジーと顔を合わせることを生涯避けつづけた姉のエマも、妹の死後数日を経ずに遠い別の土地で死亡したという。重要な関係者の一人であったメイドのブリジッドも、一九四八年、八十歳を超す高齢で世を去っている。  関係者が口を閉ざしたまま、それ以上事件の真相を一言も語らずに死んでいったあと、血ぬられた民話の語部たちがつぎつぎに登場する。この事件について、たいして関心はなさそうに言及したレイモンド・チャンドラーの私信中の言葉を借りれば、彼らは「極端なまでに尊厳的な背景に対する極端な陰惨性」に魅せられたのだろう。  〔『レイモンド・チャンドラー語る』の「有名な犯罪について」の項のなかで、チャンドラーは、エージェントのカール・ブラントへの手紙(一九五一年十二月十四日付)と評論家のジェイムズ・サンドーへの手紙(一九五二年一月十六日付)に、この事件に対するコメントを記している。〕  事件をめぐるさまざまな推理[#「事件をめぐるさまざまな推理」はゴシック体]  リジー・ボーデン事件をアメリカ人好みの血まみれの民話に仕立てあげた最大の貢献者は、古手の犯罪ノンフィクション・ライター、エドマンド・レスター・ピアスンだった。ウィリアム・ラフヘッドやF・テニスン・ジェスなどと並ぶこの分野の草分け的な存在であるピアスンの名前は、日本ではあまり知られていない。保守的で、強硬な死刑賛成論者だった彼は、アメリカでもそれほど高く評価されていないが、感傷性を極度に排した論理的でハードな文章のスタイルによって、犯罪ノンフィクションに新しい形式をもたらした先駆者だったといえる。  マサチューセッツ州ニューベリポートに生まれ、ハーヴァードを卒業後、ニューヨークのパブリック・ライブラリーで司書をつとめたり、ボストンの新聞に定期コラムを書いていた学究派のピアスンは、一九二四年に刊行された初の犯罪実話集『殺人の研究』に収録された「ボーデン事件」のなかで、はじめてリジー・ボーデン事件について言及した。もちろん彼は、リジー・ボーデン有罪説の熱心な信奉者だったが、アメリカの女流作家、ミリアム・アレン・デフォードがいっているように、「彼にとって本質的に殺人事件は、鋭い頭脳と入手可能なすべてのデータをもとに解明さるべきパズルであった」のである。世間を騒がせた迷宮入り事件を掘り出し、断定的な推論を展開することになによりの関心をいだいたのだろう。このスタイルは、ある意味で、当時隆盛をきわめた本格謎解き小説の愛好者にも大いによろこばれたにちがいない。  ピアスンは、当のリジー・ボーデンの死の直後、「ボーデン事件の顛末」を発表し、これを彼の五冊の犯罪実話集のなかで最も有名な『五つの殺人事件』(一九二八年刊)に収録した。さらに彼は、一九三六年刊の『新・殺人の研究』でもこの事件に触れ、没年の一九三七年には『リジー・ボーデン裁判記録』が刊行されている。ある時期までピアスンは、リジー・ボーデン事件の最高権威であった。  たまたま私の手元には稀覯本の『五つの殺人事件』があるが、ピアスンの古典的犯罪実話は、五冊の実話集からとった二十一編と〈リジー・ボーデン事件論争〉などを収録したジェラルド・グロス編の復刻版、『殺人教書』(一九六三年刊)によって、現在でも比較的容易に読むことができる。  だが、ピアスンの死後、彼の推論を真っ向から否定するエドワード・D・レイディンの新説があらわれた。それにさらに反論し、死者の名誉を守るために、ジェラルド・グロス編の復刻版が、編者の解説やミリアム・アレン・デフォードの序文入りで刊行されたのだが、そのまえにリジー・ボーデン伝説にまつわるそのほかの数多くの民話を紹介しておこう。  まず小説では、事件直後の一八九五年に刊行されたといわれるメアリ・E・ウィルキンスの『長い腕』や、その十年後にでたリリー・ドゥーガルの『サミット・ハウスの謎』などの古い作品、リジーの死後に刊行されたジョン・コルトンの三幕劇『パイン街九番地』(一九三四年刊)、エドワード・H・ビアスタットの『悪魔は男だった』(一九三五年刊)などがある。いずれも原書の入手は困難だが、ほとんどがリジー有罪説に傾いているものと思われるが、ビアスタットの作品は、題名から判断して、男の犯人を推定しているのかもしれない。いまあげた諸作は事件小説としてもそれほど高く評価されていないが、小説仕立ての作品のなかで最も有名なのは、前記『下宿人』の英国女流作家マリー・ベロック・ラウンズの『推論の研究』(一九三九年刊)だろう。プロローグとエピローグだけを現実から借り、動機を狂気の情熱として、リジー・ボーデン真犯人説を強く打ち出した作品である。  リジー・ボーデン事件は、一九三三年にすでにドラマ化が試みられたということだが、歴史ミステリーや犯罪実話の分野でも高名なアメリカ女流劇作家、リリアン・デ・ラ・トーレは、一九四八年に『さよなら、ミス・リジー・ボーデン』という一幕物の戯曲を発表している。デ・ラ・トーレは、この事件をかなり自由に脚色し、姉のエマを真犯人に擬している。  リジー・ボーデンは、創作バレエのヒロインにもなっている。リジーに扮したのは高名なダンサー、アグネス・デミルで、『フォール・リヴァーの伝説』と題されたこのバレエは、一九四八年にバレエ・シアターで公演された。彼女はのちに、自分自身でこの事件を調査し、『死の踊り』(一九六八年刊)という本をまとめている。  リジー・ボーデンはドナルド・ヘンダースンのラジオドラマにも登場した(一九四五年)。オペラにもなった(一九六五年)。一九六七年に、同じフォール・リヴァー生まれの女流作家ヴィクトリア・リンカンが発表した『個人的不名誉』は、アメリカ探偵作家協会の伝統ある〈犯罪実話賞〉を受賞している。リジーの生まれ育った土地と環境がいちばんよく描かれているこの犯罪ノンフィクションのなかで、彼女はリジーの精神病理を分析し(器質的には、てんかんと偏頭痛に悩まされていたらしい)、憎しみのファンタジーのなかに住んでいたリジーが、義母を殺し、それを知られまいと父親も殺してしまったと推理している。  だが、事件発生の七十年後に、最も大胆な新説を唱えて波紋を投げかけたのは、エドワード・D・レイディンだった。犯罪実話ライターとして名高いレイディンは、一九六一年に刊行された『リジー・ボーデンの語られざる物語』のなかで、ピアスンの推理を偏向的なでっちあげときめつけ、真犯人はメイドのブリジッドだったと断定したのだ。これに対して、リジー有罪説派がピアスンの古典復刻で対抗したことは前にも述べたが、復刻版の編者、ジェラルド・グロスは、リジーとメイドの共犯説を新たに提起した。  こうなると人々は、もう何を信じていいのかわからなくなってしまう。論争のための論争が続出し、〈真実〉そのものの影さえ薄くなってくる。真実がどうであったかということより、どの話がいちばんおもしろいかということにさえなりかねない。ケネディ大統領暗殺事件と同じように、アメリカ人好みの〈論争的〉な要素が、血ぬられた民話の誕生にとって不可欠な条件なのだともいえる。  根強い人気を持つリジー・ボーデン伝説[#「根強い人気を持つリジー・ボーデン伝説」はゴシック体]  だがそれにしても、なぜこの事件が八十数年を経た現在もなお、アメリカ人の心のすみにしつこく残影をとどめているのか、私にはよくわからない。ロンドンの〈切り裂きジャック〉に対抗する本国産の残酷な立役者を、彼らは求めつづけてきたともいえる。あるいは先の手紙のなかでレイモンド・チャンドラーが言及しているように、「本当の謎は、誰が殺人を犯したかではなく、なぜあんなことが起こったのかということ」であるのだろうか。  リジー・ボーデン事件は、いまの世の中でいえば、ごくありふれた家庭内の惨劇である。濃い霧のなかをさまよい歩く〈切り裂きジャック〉の身辺にただよう神秘性などどこを探しても見あたらない。殺人者の汚名を着せられた血まみれのヒロインが、絶世の美女であったというわけでもない。それこそ偏見といわれるかもしれないが、写真で見ればおわかりのとおり、リジー・ボーデンは素手で熊でも殺せそうな女丈夫、しかも明々白々な醜女である。だが逆にいえば、作家やバレリーナなどのエリート女性たちがリジーに惹かれた理由はそこにあるのかもしれない。ある意味でリジーは、祭壇にささげられたいけにえとなったのである。  このあともまだアメリカ人は、リジー・ボーデンの民話をくりかえし語り継いでいくにちがいない。一九七五年には、ABCネットワークで放映されたテレビ劇『リジー・ボーデン伝説』(脚本はウィリアム・バクスト)が、アメリカ探偵作家協会のテレビ脚本賞を受賞した。ミステリー研究誌『アームチェア・ディテクティヴ』の一九七八年四月号には、ヴィクトリア朝文学を専攻する英語教授、メアリ・D・スミスが、「伝説への哀歌」というエッセイを寄稿している。  彼女の新解釈は、交換殺人説(メイドが母親を殺し、リジーが父親を殺して、たがいにアリバイを証明しあった)という奇想天外なものだが、本気で主張しているのか、なかば茶化しているのか、真意のほどはわからない。本来ならば、このエッセイを冒頭に紹介すべきだったのだが、あまりにも�専門用語�が多く、予備知識がなければ解読不可能な部分もある。  こんな文章が、たとえミステリー研究誌上とはいえ、なんの注釈もなしに通用するのも、アメリカにおけるリジー・ボーデン伝説の根強い人気を物語っているといえる。  メアリ・D・スミスはこう書いている。 [#ここから2字下げ]  ドロシー・パーカーや私自身をふくめて、多くの読者が、無罪釈放になったリジー・ボーデンは有罪である、と感じていたとしても不思議はない。エド・レイディンは、アメリカの民話にはなんら貢献しなかった。私たちは、あの暗いドラマが大好きだったのだ。私たちのものである、あのオニール風のヒロイン、大安売りのクリュタイムネストラ(ギリシャ悲劇にでてくる不貞の妻)を倒錯的に誇りにもしていた。フォール・リヴァーの暗い家のなかに渦巻く、邪悪な情熱の雰囲気が好きだったのだ。法廷にもちだされた頭蓋骨に関する記述、居間の壁にとび散った血痕のうつっている写真——そういった無気味なディテールのすべてが好きだったのである。そしてなによりも、私たちはリジーを愛していた。彼女がまんまと罪をまぬがれたからだ。  ところがレイディンを読んだ私たちは、心ならずも宗旨がえをし、〈リジー・ボーデンの友の会〉を結成し、あの罪もない娘の人格を傷つけたピアスンを絞り首にしてしまった。だがそのときにもまだ、リジーの有罪を信ずることのできた懐かしい邪悪な時代を心ひそかに思いおこすことはあった。そこに、ヴィクトリア・リンカンがあらわれ、殺ったのはもちろんリジーよ、とまた触れまわった……だが、彼女は、オニールの暗いヒロインを返してはくれなかった。リジーはてんかんと頭痛もちの哀れな娘にかわってしまったのだ……姉のエマを犯人に仕立てたリリアン・デ・ラ・トーレのみごとな推理、Q・パトリックの共犯説、義母を殺した父親(妻の太りすぎに嫌悪感をいだいたため)をリジーが殺した(裁判で苦しめたくなかったから)という新説もとびだした……このミステリーにまだ人気がある証拠は、リジーのことを書いた脚本がエドガー賞を受賞したことをみてもよくわかる。そこで私もおよばずながら、新しい推理を展開させてみることにしたのだ。 [#ここで字下げ終わり]  そして、この前置きのあとに披露されたのが、新奇な交換殺人説だったのである。この新説の登場によって、リジー単独犯行説、リジーとメイドの共犯説(交換殺人)、メイドの単独犯行説(レイディン)、エマの単独犯行説(デ・ラ・トーレ)、父親が義母を殺し、その父親をリジーが殺したとする二重殺人説、と五つの推理が出そろったわけだが、そのいずれもがもっともらしく、しかもどれ一つとして実証的な裏づけはない。いかようにも都合よく解釈できるのだ。  アメリカには、〈犯罪実話〉の長い伝統があるが、ここに詳述したリジー・ボーデン事件は、それ自体が〈犯罪実話史〉の様相を帯びている好見本といえそうだ。ボーデン夫妻の無残な死体と生涯被告席につかされつづけた醜女のリジーは、過去九十年間にわたって、犯罪ジャーナリストの絶好のネタにされつづけてきた。当時の『ニューヨーク・タイムズ』の記事のあつかい方も、イエロー・ジャーナリズムと五十歩百歩である。『ニューヨーク・タイムズ』でさえこうなのだから、読物週刊誌の誌面はさぞにぎやかだったことだろう。  そのあとにオーソドックスな犯罪実話がつづき、評論が書かれ、小説が生まれ、リジー・ボーデン事件の場合は、ラジオやテレビや舞台劇だけではなく、バレエやオペラにまでとりあげられた。血なまぐさいもの、残虐なもの、おそろしいものに対する大衆の嗜好をここではっきりとうかがい知ることができるだろう。  現実の犯罪を題材にとった数多くの有名作品も、同様にアメリカ人の〈犯罪実話〉嗜好を示している。そして、シオドア・ドライザーの『アメリカの悲劇』(一九二六年刊)、サッコ=ヴァンゼッティ事件をあつかったアプトン・シンクレアの『ボストン』(一九二八年刊)、サンノゼでおこった誘拐およびリンチ事件を描いたミリアム・アレン・デフォードの『帰郷』(一九三五年刊)、ローブ=レオポルド事件にとりくんだメイヤー・レヴィンの『衝動』(一九五七年刊)などの事件小説の延長線上に、やがてトルーマン・カポーティの『冷血』(一九六六年刊)や、エド・サンダースの『ファミリー』(一九七一年刊)、トーマス・トンプスンの『血と金』(一九七六年刊)といった新しい犯罪ノンフィクションが姿を見せてくる。犯罪はいつの時代にあっても、作家の創作力をかきたて、大衆の嗜好を満足させるなによりの糧であるのだ。 [#改ページ] (画像省略) 大衆作家と犯罪ミステリー[#「大衆作家と犯罪ミステリー」はゴシック体] [#地付き]●一八九〇年代——その㈫[#「●一八九〇年代——その㈫」はゴシック体]     ——新世紀を迎えた六人の作家  アメリカの夢を追って[#「アメリカの夢を追って」はゴシック体]  本章では、十九世紀末から今世紀にかけて広く大衆に親しまれ、いまなお多くの人々に読みつがれている高名な六人の作家について、おもに犯罪=推理小説ジャンルとのかかわりに焦点をあわせて話をすすめてみたい。まず生年順に、その六人の作家の名前をあげておこう。 [#ここから2字下げ] マーク・トウェイン(本名、サミュエル・ラングホーン・クレメンス、一八三五〜一九一〇年) ブレット・ハート(一八三六〜一九〇二年) アムブローズ・ビアス(一八四二〜一九一四年?) O・ヘンリー(本名、ウィリアム・シドニー・ポーター、一八六二〜一九一〇年) メルヴィル・デイヴィスン・ポースト(一八六九〜一九三〇年) ジャック・ロンドン(一八七六〜一九一六年) [#ここで字下げ終わり]  この六作家について抱くイメージは、関心の持ちようによって各人様々だろうが、一言でいえば、トム・ソーヤーとハックルベリー・フィンの生みの親であるトウェイン、〈地方色《ローカル・カラー》〉派の始祖でもあり、人情話風の西部小説を得意としたハート、怪奇小説と『悪魔の辞典』のビアス、卓抜なオチのついた短編小説の名手、O・ヘンリー、アンクル・アブナー物語のポースト、『野性の呼び声』『海の狼』『白い牙』のジャック・ロンドンということになるだろう。これだけの予備知識をもとにしただけでもはっきりといえることは、彼らのいずれもが、アメリカ国産の新しい大衆文学の道を独自の方法で切りひらいた作家たちだったということである。  トウェイン、ハート、ビアスの三人は、生年からいってもほぼ同時代の作家で、きわめて近接したサークルのなかで活動した時期があった。いずれも南北戦争のあと一旗あげようとカリフォルニアをめざし、その地で名をあげることに成功した。トウェインもハートも印刷工の経験があり、文筆活動のスタートはジャーナリストだった。ハートには、トウェインの協力を得た未刊行の戯曲『ああ、罪よ』(一八七七年作)もある。後述するように、若き新聞王、ランドルフ・ハーストと因縁の深かったビアスは、ハーストの『エグザミナー』を舞台に辛辣な諷刺文をものし、一時期カリフォルニアの文学界を席捲した。この新聞にはトウェインも何度も寄稿している。  一八七〇年にはウェスト・コーストの開拓時代はほぼ終わりを告げ、サンフランシスコを中心地とした�カリフォルニア・ライター�たちの新しい文化が花開こうとしていた。一八八〇年代には、オスカー・ワイルドやロバート・L・スティーヴンスンもこの地を訪問している。トウェイン、ハート、ビアスの三人が、どこかで親しく出会ったことがあったとしたら、もちろんその街はサンフランシスコだったろう。そして、三十年おくれてその街で生まれたジャック・ロンドンは、その荒々しくも華やかな、生き急いだ短い生涯のなかで、日露戦争取材のため満州に赴き、一九〇四年五月、ハーストの新聞に特種記事を送っている。 (画像省略)  O・ヘンリーもまた、作家としてだけでなくジャーナリストとしての人間観察の鋭い目をもっていたが、アンクル・アブナーのシリーズを書きはじめる前のメルヴィル・デイヴィスン・ポーストもふくめて、この六人の作家が、一九〇〇年一月一日という大きな歴史の変わりめをどう迎えたかを、ここでふりかえってみよう。  マーク・トウェインは六十四歳の新年をヨーロッパ(スイスかスウェーデン)で迎えた。後年にのこる傑作のすべてを書き終え、世界的な名声を博していたが、底ぬけの明るさも、冒険好きな少年の心もすでに失せ、シニカルで厭世的な苦渋に満ちた晩年を過ごそうとしていた。一九〇〇年にアメリカに帰ったトウェインは、その年に、後述する短編「ハドリバーグの町を腐敗させた男」を発表している。アメリカの夢を追いつづけたあげく、トウェインが新しい世紀に予知したものは、人間性不信の時代の到来だったのである。  トウェインより一歳年下のブレット・ハートは、一八七七年以後目立った作品はなに一つ発表せず、過去の名声を背負って安逸なヨーロッパ生活を送っていた。一八七八年に、プロシアのアメリカ領事に任命され、一八八〇年からの五年間はスコットランドのグラスゴーのアメリカ領事、一九〇〇年の新年は、余生を過ごしたロンドンで迎えたものと思われる。故国アメリカよりうけ[#「うけ」に傍点]のよかったイギリスでの生活が性にあっていたのかもしれない。ブレット・ハートは、結局最後まで帰国せずに、一九〇二年五月、イギリスのサリーで生涯を終えた。アメリカ土着の西部作家として華やかに世にでた青年時代とはうらはらに、皮肉な幕切れだったといえよう。  サザーン・パシフィック鉄道の独占企業体制をたたくためにハーストとともに東部に進出したビアスは、一九〇〇年の五十七歳の新年を首都ワシントンで迎えた。この「鉄道を打ちまかした新聞記者」の鋭い諷刺は円熟の域に達し、高い稿料を払ってくれるハーストに歩調をあわせて、新たな攻撃目標を再選をねらう共和党のマッキンレー大統領に向けていた。 [#ここから1字下げ]  ゴーベルの胸を貫いた弾丸は/西部中を探しても見当るまい  さもありなん、弾は猛スピードで飛来し/マッキンレーを棺の上に打ち倒せり [#ここで字下げ終わり]  これは一九〇〇年のゴーベル・ケンタッキー州知事暗殺事件を諷刺したビアスの有名な四行詩だが、この予告どおりマッキンレー大統領は再選後まもない一九〇一年九月、バッファローで、レオン・チョルゴッシュというアナーキストの手にかかって暗殺された(レオンは十月二十九日、電気椅子で処刑された)。ハースト系の新聞記事に挑発されて凶行におよんだという声明を発表すれば、大金を支払うともちかけた競争紙もあったというほどだから、ハースト=ビアスの攻撃がいかにはげしいものだったかがわかる。ハーストは一九〇四年の大統領選に民主党から立候補して敗れている。  当時のビアスは、二つの短編集の作家としてよりも、辛辣きわまりないジャーナリストとして知られ、一八八〇年代からそのおりおりに吐いた時局的な警句やあてこすりを『悪魔の辞典』としてまとめる構想を練っていた。だがそのビアスもアメリカの政治や文明に嫌気がさし、一九一三年十月、「東にも西にも北にも、もはや逃げ場はない」という言葉をのこして、動乱のメキシコをめざして謎の失踪をとげてしまった。  アメリカに夢を見失ったこの三人の十九世紀の作家たちにくらべると、ジャック・ロンドンの二十三歳の新年は、希望と明るさに輝いていた。ジャック・ロンドンの伝記小説『馬に乗った水夫』の中で、著者のアーヴィング・ストーンは、ロンドンの抱負を次のように代弁している。 [#2字下げ] 新たな世紀が来ようとしている! 生きていることがすばらしい時代が! 資源、機械、科学技術、そのすべてが人類を奴隷化するものではなくなり、人類への奉仕に役立ってくれるのだ……自分は、いままさに終りを告げようとしている暗黒の世紀の足かせを、投げ棄ててやろう……決然として二十世紀に当面しよう……現代的なアメリカ人になろう。(橋本福夫訳)  いくつかの短編がすでに売れていたが、もちろんまだ『野性の呼び声』(一九〇三年刊)も『海の狼』(一九〇四年刊)も『白い牙』(一九〇六年刊)も世に出ていなかった。やっとこの年に第一短編集『狼の息子』が陽の目をみようとしていたジャック・ロンドンにとって、二十世紀は無限の可能性を秘めて、目前に横たわっているように思えたのだろう。  青年ジャック・ロンドンが、サンノゼに住む愛する女性のもとに駆けつけようと、夜道を自転車で走っていたころ、三十七歳のO・ヘンリーは公金横領の罪に問われて、獄房の中で元旦の朝を迎えようとしていた。前年、このペンネームで発表した短編小説がはじめて商業誌に掲載されていたが、中年男のポーターにとっては暗い夜明けだったにちがいない。  そして、ウェスト・ヴァージニア生まれの三十歳のポーストは、法の欠陥をたくみにつく悪徳弁護士、ランドルフ・メイスンものの二つの短編集を発表したあと、彼自身も開業弁護士として独立をはかっていた。だがそのまま弁護士稼業で成功していたら、探偵小説の歴史のなかで今日の地位を得ることはなかったはずだ。  マーク・トウェインの探偵小説[#「マーク・トウェインの探偵小説」はゴシック体]  ミズーリ州に生まれ、ミシシッピー川の蒸気船の発着地ハンニバルで育ったトウェインは、貧困の少年時代、青年時代を渡りの印刷工、水先案内人として過ごし、南軍の義勇兵として南北戦争に加わり(二週間で退役)、そのあとネヴァダの金鉱地に向かったり、ヴァージニア・シティやサンフランシスコで新聞記者となって見聞を広めた。マーク・トウェインというペンネームが、水先案内人の「水深二尋《すいしんにひろ》」(Mark Two Fathoms) というかけ声からとられたものであることはよく知られている。 (画像省略)  このペンネームで、『ニューヨーク・サタディ・プレス』に掲載された「噂になったキャラベラス郡の跳ぶ蛙」(一八六五年作)が彼の名を一躍有名にしたのだが、この作品はコン・ゲーム(ペテン)を題材にした名作である。このあとトウェインは、『赤毛布外遊記』『西部旅行綺談』の二つのルポルタージュで名声を博し、『トム・ソーヤーの冒険』(一八七六年刊)にとりかかった。 『トム・ソーヤーの冒険』とその続編『ハックルベリー・フィンの冒険』(イギリスでは一八八四年刊、アメリカ版はその翌年)には、いずれも探偵小説的な要素が数多くふくまれている。いいかえればそれは、冒険的な少年がつねに心にいだく不可解な謎への挑戦精神ということだろう。それこそミステリー愛好者の共通の心だといえる。  この二作と並んでトウェインの三大傑作にあげられている『ミシシッピーの冒険』(一八八三年刊)には、エラリー・クイーンが指摘しているように、身元確認のための指紋の応用をあつかった一章(「拇指紋とその結末」)が、独立した短編の形でおさめられ、これは探偵小説の小道具としての指紋の初登場とされている。  トウェインの長編小説の中で、探偵小説的な要素が全編に流れている作品に『まぬけウィルソンの活躍』(一八九四年刊)があるが、彼はこの中でも、指紋を重要な推理の小道具として用いている。物語は、大金持ちの息子として生まれたトムと、奴隷女の息子チェンバースが、赤子のときにすりかえられたことに端を発し、トムとして養子に迎えられたチェンバースが養父の判事を殺害するという悲劇に発展する。凶器となったナイフの所有者であるイタリア人が容疑者と目されたが、うだつのあがらないウィルソンという弁護士が、ナイフの指紋をもとに、真犯人をつきとめる、という筋立てはいかにもミステリー風だ。  この作品は全体的にメロドラマティックな味つけがされているが(賭博好きで、根性のいやしいチェンバース青年が、自分の素姓を知ったあと生みの母親を奴隷として売りとばす)、トウェインが最もストレートな手法で探偵小説を書きあげたのが、トムとハックの最後の冒険談である中編「探偵トム・ソーヤー」(一八九六年作)である。探偵小説として首尾一貫した作品に仕上げようとしたあまり、のびのびとしたユーモラスな筆のはこびが見られないうらみはあるが、このなかでトム・ソーヤーは、殺人罪を法廷で認めた叔父のサイラスを救って真相をつきとめる探偵と法廷弁護士の二役を堂々と演じ、並行して進行していた盗まれた高価なダイヤモンドもとりかえして、賞金の二千ドルをハックと仲よく山分けする。法廷で、死者が生き返ったり、盗まれたダイヤモンドが発見されたりという大詰めのシーンは、ペリー・メイスン物語そこのけの意外性といえるだろう。トウェインは、トリックのいくつかを古いデンマークの短編小説からとったといわれているが、死体のすりかえによって被告が殺人を犯したと信じこむプロットは、新しいミステリー小説のなかでも何度となくくりかえされている。  物語の語り手であるハックがいうように、目の前にミステリーとパイを並べられたら、(ハックならまちがいなくパイにとびつくのだが)かならずミステリーをえらぶにちがいないミステリー狂のトム・ソーヤーは、謎解きのあと得意そうに判事に告げる。 [#2字下げ]「証拠を観察し、あれこれ寄せ集めて、組み立てただけさ。探偵稼業の初歩にすぎませんよ、裁判長。だれにだってできたことです」  このトムのセリフからもわかるように、マーク・トウェインは探偵小説への強い関心と、軽いからかいの気持ちを同時にもっていたのだろう。いま読み返してみても笑いがとまらなくなる探偵小説パロディの傑作「盗まれた白象」(一八八二年作)では、現代作家ジョイス・ポーターが生みだしたドーヴァー警部の先祖ともいうべきニューヨーク警察のブラント警視の無能ぶりが、徹底的にからかわれている。さらに一九〇二年になって書かれた中編「二連発探偵物語」は、ホームズのパロディ形式をとった西部探偵小説で、ここでもトウェインはいわゆる名探偵をこっけいにこきおろしている。  ストックトンの「女か虎か」風のリドル・ストーリーも二作知られている。一作は、一八六八年ごろに書かれたきわめて初期の作品「中世ロマンス」で、公爵の地位を得るために男の子として育てられたヒロインが、彼女に恋をした娘を宮廷で裁かねばならなくなる。その娘は、妊娠しており、子供の父親は裁判官であるヒロインだといいはる。無実を証明するためには、自分が女であることを白状せねばならない。だがそれがわかればヒロインは死罪をまぬがれない。さて、この結末は? とトウェインは、あとを読者の想像にまかせてしまうのだ。もう一作の「絶体絶命」のほうは、軽いコント風の作品で、求愛している娘とその母親の前で、人助けのためにどうしても膝かけをはずさねばならなくなった青年のピンチをからかっている。なにしろ彼は、膝かけの下は丸裸なのだ。  このほかにも、十六部無断で出版したニューヨークの書店主が遺族に訴えられる(一九四五年)といういわくつきの『殺人とミステリーと結婚』とか、一九六三年に未完のまま刊行された『探偵サイモン・ホイーラー』(一八七七年作)という戯曲(ピンカートン社の探偵を諷刺したもの)などがトウェインの探偵小説としてあげられる。もう一つ書き落としてはならない作品は、前出の「ハドリバーグの町を腐敗させた男」(一九〇〇年作)であろう。トウェイン独特のおおらかな笑いのかけらもみられないシニカルな作風だが、人間の虚偽と欲望を極限まで追究したこの作品には、近代短編小説の精髄がたしかに感じられるのである。  ブレット・ハートとビアス[#「ブレット・ハートとビアス」はゴシック体]  西部を舞台に、方言を駆使した地方色豊かな短編小説ジャンルではトウェインの師ともいえるブレット・ハートは、ニューヨーク州オルバニーに生まれ、教師、薬剤師、鉱夫、浮浪者などの職業(?)を転々としながら、一八五四年、カリフォルニアの新天地をめざした。当時サンフランシスコでは二十二の新聞、雑誌が刊行されていた。一八六〇年、印刷工としてサンフランシスコに居を定めたハートは、タイプ工として勤めていたカリフォルニアの最初の英文週刊誌『カリフォーニアン』(一八四六年創刊)や最初の文芸誌『黄金時代』(一八五二年創刊)などに寄稿し、二つの詩集のあと、一八六七年に有名作家(ディケンズ、デューマ、ユゴー、クーパーなど)の諷刺パロディをまとめた第一短編集『コンデンス・ノヴェルズ』が刊行された。一九〇二年刊の第二集『ニュー・バーレスク』は内容的に劣るが、このなかにヘムロック・ジョーンズという迷探偵が登場する「盗まれた煙草入れ」というホームズ・パロディの傑作が収録されている。 (画像省略)  一八六八年、ハートは新たに創刊された文芸誌『オーヴァーランド・マンスリー』の初代編集者としてむかえられ、この雑誌を中心にカリフォルニア物語の名作を、次々に書きはじめた。鉱夫や開拓者の生の口語体や、粗野な方言をそのまま取り入れたハートの短編小説は、既成の洗練された文学のきどった文体への力強い挑戦となり、大きな衝撃をあたえた。そして同誌一八六八年八月号に掲載された「ローリング・キャンプのラック」(ラックと名付けられた、売春婦の私生児と逃亡者の村の荒くれ男たちの物語)と、一八六九年一月号の「ポーカー・フラットの無法者たち」(雪の山小屋にとじこめられた賭博師とあばずれ女、清純無垢な娘とその婚約者)の二作が、ハートの名声を不動のものにしたといえるだろう。  ハートの作風はトウェインより感傷的だといわれるが、けっしてお涙頂戴式のメロドラマティックな人情話ではない。いまあげた二作の古典にしても、きわめてシニカルな、暗い結末が用意されている。  この二作をおさめた第二短編集が一八七〇年に刊行され、一躍全国的な有名作家となったハートは、勇んで東部にでかけ、『アトランティック・マンスリー』と十二本、一万ドルの破格の契約を結んだ。皮肉なことにこの短い一時期が、ハートの絶頂期でもあったのである。めったに人をほめないアムブローズ・ビアスまでが、「ハートの初期の作品は、彼をアメリカ文壇の最高峰に位置づけた」と評したほどだった。  一九五〇年代の後半、エラリー・クイーンは、犯罪と推理をあつかったハートの埋もれた短編小説を六編発掘し、『EQMM』に紹介している。  参考までに作品名を列挙し、簡単に内容を記しておこう。 「シエラの乙女」(駅馬車に乗った可憐な娘を利用して、まんまと砂金を手に入れる山賊の首領の妙計) 「シエラの幽霊」(ゴースト・ストーリー) 「シー・ヤップの物語」 「私の静かな友の正体」(キャラヴェラス郡のシェリフに追われる謎の男はディケンズを愛読している) 「フォンダで何が起こったか」 「寝台車での体験」(プルマン車での旅行中に、死体に修整を施し、顔に笑みを浮かべさせる葬儀屋の話をふと耳にする。そのために、ある女が三人めの夫を毒殺したことが発覚する)  この六編のなかでは、クイーンも指摘しているとおり、「フォンダで何が起こったか」(フォンダは宿屋のこと)が近代的な探偵小説に最も近い構成をとっている。ある大佐の落馬事故をめぐって、探偵役をかってでた小新聞社の編集長と助手が、二百年前の迷信や、情熱的なスペイン女、彼女の嫉妬深い夫などにふりまわされながら、ついに真相を解明する物語。犯人は悪魔でもなかったが、人間でもなかったという意外な結末がついている。  オハイオ生まれのアムブローズ・ビアスも、南北戦争従軍後、トウェイン、ハートと同じようにジャーナリストを志し、一八七六年、『ファン』誌のスタッフとして活躍していた四年間のイギリス生活のあと、サンフランシスコに戻り、鋭い機知と辛辣な諷刺を武器に本格的な執筆活動にはいった。 (画像省略)  一八八七年、ハーヴァードを中退し、父から譲られた小さな新聞『エグザミナー』の社主兼編集長となった若き日のランドルフ・ハーストが、このビアスに目をつけ、高い稿料で自由に書かせてくれたことも大いに力となった。  ビアスの伝記には、ハーストとの出会いが次のように記されている。 [#ここから2字下げ]  一人の青年がおずおず部屋に入ってきた。「なにか?」と、ビアスはいった。若い男はききとれないような声で、「サンフランシスコ・エグザミナーのものですが」とこたえた。 「ほう、すると、ミスター・ハーストのところから?」ビアスがききかえした。青年は目をあげ、消えいるような声でこたえた。 「ぼくが、そのミスター・ハーストです」 [#ここで字下げ終わり]  約二十歳の年齢のひらきがあるこのコンビの交友は、前述したようにそのあと新世紀にいたるまで二十年近くつづいた。周囲に、ハーストがつくった以上の敵をもった男は、ビアスをおいてほかにないだろう。 (画像省略)  最後までジャーナリストとしての目を失わなかったビアスは、「怪物」などの作品でよく知られているように、超自然ものやブラック・ユーモア、ポーを思わせる恐怖小説も数多く書いている。一八九一年に刊行された第一短編集『兵士と市民の物語』には十九編の短編小説がおさめられ、陰うつな物語が鮮烈な描写で語られている。このなかで最も有名な作品は、「アウル・クリーク橋の一事件」で、南軍の兵士に首を吊られかけている男の一瞬の幻想が、みごとに、生き生きと描かれている。首に繩をかけられながら、彼は運よく逃走する夢を見る。その瞬間、彼の体は宙に浮き、首の骨が折れるのだ。  また、同じ短編集に収録されている「ギルソンの遺産」という作品も興味深い。首を吊られた馬泥棒が、彼に死刑を宣告した男に財産をのこし、混乱をひきおこすという皮肉な設定は、明らかにトウェインの「ハドリバーグの町を腐敗させた男」の先鞭となっている。  一八九三年に刊行されたビアスの第二短編集『ありうべきことか』には、南北戦争とカリフォルニアの辺境を舞台にした超自然もの、心理スリラー、ホラー、ブラック・ユーモアなど二十四編が収録されている。  このなかでは自分を殺した夫を恐怖におとしいれ、決闘で死にみちびく女の幽霊譚「右足の中指」や、奇怪な自動チェス人形がでてくる「モクソンの主人」などがおもしろい。  このほかにもビアスはブラック・ユーモアがかった殺人物語を数多く書いている。一九一一年に刊行された短編集『取るに足らぬ物語集』には、「底なしの墓」やポーの「黒猫」風な設定に皮肉なオチをつけ加えた妻殺しの物語「謀殺の果て」がおさめられている。また自選全集第八巻に〈親殺しクラブ〉として収録されている四編、「わが会心の殺人」「焼け残り」「犬の油」「催眠術師」はいずれもかなり毒気のつよい殺人ユーモアである。  ロンドンの犯罪小説——O・ヘンリーの受難時代——ポーストの悪徳弁護士[#「ロンドンの犯罪小説——O・ヘンリーの受難時代——ポーストの悪徳弁護士」はゴシック体]  ジャック・ロンドンの波瀾に満ちた荒々しい生涯と彼の繊細な感性は、アーヴィング・ストーン著の『馬に乗った水夫』のなかにあますところなく描かれている。この伝記小説は、ジャック・ロンドンという悲劇の英雄個人だけではなく、十九世紀から今世紀初頭にかけて大きく変動したアメリカ社会そのものを知るうえでも欠かすことのできない一冊である。  彼にはまた、社会派小説、告発文学のジャンルで話題になった同時代のすぐれた作家が多い。『街の女マギー』(一八九三年刊)と『赤い武功章』の二作で知られるスティーヴン・クレイン、貪欲な悪魔のごときアメリカの鉄道資本家を告発した『オクトパス』(タコの足のような鉄道網のこと)を一九〇一年に発表したフランク・ノリス、『ジャングル』(一九〇六年刊)のアプトン・シンクレアなどが、社会主義文学者としてのジャック・ロンドンの強力なライヴァルだった。  一連のクロンダイクものや海洋冒険物語、社会主義思想が色濃くでているシリアスな小説の著者として知られるロンドンはまた当然のことながら、犯罪につながる人間の欲望や葛藤を描いた短編小説を数多く書いている。  このジャンルのロンドンの作品として、クイーンは、一九〇六年刊の短編集『ムーン・フェイス』のほかに、『EQMM』のためにみずから選んだ十編ほどのクライム・ストーリーをあげているが、この短編集には、表題作のほかに、「獅子使いの男」「ミダスの寵児」がおさめられ、いずれも殺人がテーマになっている。 『EQMM』のために特にえらばれた作品群のなかには、「若い娘たち」「予期せざるもの」「キーシュの物語」などのすぐれたクライム・ストーリーがふくまれている。  また一九六三年に、現代作家のロバート・L・フィッシュは、ロンドンの未完のスパイ小説『殺人株式会社』を完成させた。ジャック・ロンドン記念州立公園が、ソノマ郡のゆかりの地〈月の谷〉(ヴァリー・オヴ・ザ・ムーン)につくられたのは、死後四十数年たってからのことだったが、最近アメリカでは新しい伝記が刊行され、ロンドンの再評価、再ブームの波が起こっている。  三百編近い短編小説を死ぬまで書きつづけたO・ヘンリーの不遇の中年時代は、一九〇〇年の元日をオハイオ州立刑務所で迎えたことに、はしなくも象徴されている。  そもそも彼が有罪を宣告されて服役することになった公金横領罪についても、有罪説と無罪説があるのだが、月給百ドルで出納係をつとめていたオースティンのファースト・ナショナル銀行で、帳簿に五千数百ドルの穴があいていることが発見され(一八九四年)、責任を追及されて起訴された彼は、保釈中にニュー・オーリーンズ経由で中米ホンデュラスに逃亡してしまった。ところが妻の重態のしらせをきいた彼は、ふたたびオースティンに戻り(一八九七年)、一八九八年の裁判で懲役五年の刑を宣告されたのである。  服役前にも、彼は『ザ・ローリング・ストーン』という小さなユーモア週刊誌を発行したり、新聞記者をやりながら、ユーモラスな短編小説や人情話を書いていたが、刑務所内でも一ダース近い作品を執筆し、前述のように、O・ヘンリーのペンネームが一八九九年にはじめて世に知られた。模範囚として刑期を三年三カ月に短縮されたO・ヘンリーの新しい人生が、やがて急速にひらきはじめるのである。「警官と讃美歌」「赤い酋長の身代金」「とりもどされた改心」「賢者の贈物」「二十年後の再会」「最後の一葉」などの数多くの名作や、詐欺師ジェフ・ピーターズの連作については、第八章、第九章で詳述する。  ポー以後のアメリカの探偵小説の歴史のなかで、最も古く、最も重要な作家、メルヴィル・デイヴィスン・ポーストのアンクル・アブナー物語については第十一章で詳述するので、ここでは、初期の二つの短編集に登場する悪徳弁護士、ランドルフ・メイスンにのみ触れておこう。  一八九六年に刊行された第一短編集『ランドルフ・メイスンの奇計』には、七編の短編がおさめられ、いずれも罪を犯した犯罪者を、弁護士メイスンがいかに狡猾な、不法すれすれの方法で救いだすかという趣向がこらされている。後年、E・S・ガードナーが生みだした名弁護士ペリー・メイスンの名前は、この先人にちなんだものといわれる。 �罪体�に関する不備な法律を逆用して、二重殺人者に三つめの殺人を犯させようとしたり、共同経営に関する法律の抜け穴を利用して一万五千ドルせしめたり、ギャング一味の依頼をうけて脱獄をはかったり(「いかさま師たち」)、メイスン弁護士の手口はかなり悪辣だ。  この趣向は、五編をおさめた第二短編集『最後に頼る男——あるいは、ランドルフ・メイスンの依頼人たち』(一八九七年刊)でもかわらない。ポーストは開業弁護士という職業上の知識をいかして、法律の欠陥を問題にしながら、知的な悪漢小説《ピカレスク》をめざしたのだろう。みずからの手で裁きを下す正義の士、アンクル・アブナーとの対比がおもしろい。 [#改ページ] (画像省略) 探偵小説の黎明期[#「探偵小説の黎明期」はゴシック体] [#地付き]●一九〇〇年代——その㈰[#「●一九〇〇年代——その㈰」はゴシック体]     ——世紀の殺人事件集  遅れをとったアメリカの名探偵たち[#「遅れをとったアメリカの名探偵たち」はゴシック体] [#2字下げ](ポーストの登場をのぞけば)ポーが生みだした土地にこの小説形式が花開くのはまだ遠い先のことであった。  ハワード・ヘイクラフトは、一八九〇年から一九一四年のアメリカの探偵小説史の一時期を〈ロマンティック時代〉と呼び、その時代を概括した一章を、この一文でしめくくっている。シャーロック・ホームズのライヴァルたちと呼ばれる名探偵が陸続と登場していた同時期の英国とくらべれば、たしかにアメリカのミステリー界は十年も二十年もたちおくれていた。  ミステリー史の年譜をひもといても、一八九五年、M・P・シールのザレスキー公爵の登場(最初の安楽椅子探偵)、一八九九年のE・W・ホーナング(ドイルの義弟)の泥棒紳士ラッフルズの登場、一九〇一年、バロネス・オルツイの〈隅の老人〉の登場、そしてフリーマンのソーンダイク博士の「赤い拇指紋」(一九〇七年)でのデビューや、フランスでのガストン・ルルーのルールタビーユ、モーリス・ルブランのアルセーヌ・ルパンの登場など、ミステリー史上記念すべき重要な出来事は、すべて大西洋の向こう側で起きている。アメリカ産の唯一人の名探偵といえば、ジャック・フットレルが生みだした〈思考機械〉の鳴物入りのデビュー(一九〇五年)があるのみである。  ホームズのライヴァルたちが、『ストランド』『ピアスン』『キャッセル』『ロイヤル』といった絵入りの読物雑誌のなかから誕生したように、アメリカにももっと古くからストリート&スミス社の『ニューヨーク・ウイークリー』のような読物週刊誌や読みすてのダイム・ノヴェルズがあったが、後世に名を残す古典的名作、名探偵はと問われれば、やはり首をかしげざるを得なくなる。ニック・カーターやその同輩たちのように、その時代の大衆の圧倒的な支持を受けながらも、けっして正当に評価されることのない私生児としての宿命を、不運なアメリカン・ヒーローたちは負わされてきたのだ。  純粋な推理、論理のゲームをたのしむ謎解き小説の誕生は、フットレルの〈思考機械〉の登場を待たねばならないが、一九〇〇年代のアメリカの探偵小説の黎明期を代表する作家となれば、アンナ・キャサリーン・グリーン、メアリ・ロバーツ・ラインハート、キャロリン・ウエルズの三人の先駆者的女流作家の名前をあげぬわけにはいかない。  だが彼女たちの長編小説はいずれもロマンティックなムードが濃厚なサスペンス・ミステリーであり、描写も冗漫、だらだらと長いばかりで、いまさら読みかえす気にもなれない、といったところが現代の読者の正直な感想だろう。毎年何十万人と移住してきた無教養な移民青年や女子供をおもな読者対象にしていたことは明らかだ。英国産ミステリーとの差も、そのあたりから生じていたのである。  アンナ・キャサリーン・グリーンについては第三章でも述べたが、一九〇〇年代に入っても、彼女はまだ精力的に書きつづけていた。第一作『リーヴンワース事件』に登場した探偵役の中年警官、エビニーザー・グライスは、最後の作品『ヘイスティ・アロウの謎』(一九一七年刊)まで、全部で十一作にでてくるが、一九〇〇年代にも二つの作品がある。 (画像省略)  グリーンは、一九二三年ごろまでミステリーを書きつづけ、一九三五年に世を去ったが、グライスもの十一作をふくめて生涯に三十四作の長編ミステリー(短編集六冊)を残した。短編では、グライスが登場する名作「医師とその妻と時計」が邦訳されている。グリーン自身がお気に入りの長編としてあげているのは、やはりグライスが事件を解決する『手と指輪』(一八八三年刊)だが、世評の高い作品は、非グライスものの『囁く松』(一九一〇年刊)と『透かし細工の玉』(一九〇三年刊)の二作である。 (画像省略)  ラインハート女史のすぐ後を追ってデビューしたもう一人の女流作家、キャロリン・ウエルズは、幼時に猩紅熱にかかり、生涯耳が聞こえなかったという不運な境遇にもめげず、おそるべき多作家で、五人のシリーズ・キャラクターを駆使し、八十二作の長編ミステリーを書いている(普通小説をふくめると百七十冊)。最も有名な探偵役であるフレミング・ストーンは、一九〇九年作の長編『手がかり』に登場し(短編初登場は一九〇七年)、六十作以上の長編で活躍している。有名な探偵小説論のほか、探偵小説アンソロジーをいくつも編纂し、戦前『新青年』に短編が紹介されたこともあるが、現在ではほとんど忘れられた存在になっている。  ラインハートの『螺旋階段』[#「ラインハートの『螺旋階段』」はゴシック体]  グリーン、ウエルズの二人にくらべれば、メアリ・ロバーツ・ラインハートの名前は、長編『螺旋階段』によって、日本でも比較的親しまれている。くわしい考証をおこなえば、ラインハートには『螺旋階段』以前、一九〇六年に雑誌に掲載された『ロウアー・テンの男』という長編があり、単行本刊行は『螺旋階段』の翌年の一九〇九年だった。もともとこの『螺旋階段』というゴシック風サスペンス・ミステリーも、はじめは雑誌に掲載されたものだった。掲載誌は、パルプ・マガジン出版の雄、フランク・A・マンジーが、まもなく密林の王者ターザンを生みだそうとしていた『オール・ストーリー』の一九〇七年十一月号。この雑誌は、『アーゴシー』とならんで、やがて到来するパルプ・マガジン時代の先駆けとなった雑誌である。いずれも部数は五十万部を突破していた。 『オール・ストーリー』に掲載された『螺旋階段』の出だしはこうだ。 [#ここから2字下げ]   第一章 明かりが消えて 『螺旋階段』というのはどうも良い題名ではない。たとえば『ミス・レイチェル・イネスの狂気』といった題名のほうがまだしもマシかもしれない。なぜならこの物語は、中年の(そう、五十歳はまだそれほどみてくれのわるくない中年だろうから)やもめ女が、正気を失い、街の生活を棄て、ひと夏を過ごすために郊外の別荘を借り、新聞社や探偵社を繁昌させている謎めいた犯罪の一つにいつしかまきこまれてゆくお話なのだから。 [#ここで字下げ終わり]  ラインハートは、恐怖小説仕立てのこの二つのクライム・サスペンス小説で、ミステリー作家としての名声を確立した。苦しい家計のやりくりをいくらかでも楽にするために小説を書きはじめたと、自伝『わたしの物語』にも記しているが、こういう本音が女流作家のおもしろいところだ。 (画像省略)  『螺旋階段』は、この自伝の抜粋や詳細な書誌とともに、一九七七年に『ミステリー・ライブラリー』の一冊として復刻された。ほとんど忘れられかけていたラインハートの『螺旋階段』に新たな光を投げかけたのは、この復刻版だった。このシリーズはミステリー復興運動の一環でもあり、埋もれかけている古典や古い作家を発掘し、意欲的に紹介、再評価しようとする試みが熱心につづけられている。  この新版に序文を付しているロマンティック・サスペンス・ミステリーの女王、フィリス・A・ホイットニーは、そのなかでいくつか興味深い指摘をおこなっているが、「ラインハートはミステリーのパロディを書くつもりだった。それが大マジメにうけとられ、いつのまにか評価が定まってしまったのではないか」という趣旨の発言をしている。この指摘はなかなかおもしろい。そういえばいま紹介した『螺旋階段』の書きだしの部分にもそれが感じられる。ことに雑誌に掲載された原型のほうは、まるでこれから物語ろうとする自作を頭から茶化しているようなふし[#「ふし」に傍点]もあるのだ。  この第一章でもう一つ興味深いのは、「新聞社や探偵社を繁昌させている謎めいた犯罪の一つ」という文章だ。ラインハートは、アメリカの大衆がセンセーショナルな犯罪をいかに愛好しているかを、いくらか皮肉っぽく観察していたのだろう。個人的な関心はいだいていたにちがいないが、ラインハートは、現実に起こった生々しい犯罪を、自作の素材にするということはほとんどなかった。一九二〇年代のはじめに起こった〈ホールズ=ミルズ事件〉について、新聞社から意見を求められたときも、「わたしはミステリー作家にすぎません」と、かたくなに取材を拒絶したという逸話が伝わっている。  ロマンティック・ミステリーを得意とした女流作家たちも、そのあとに登場するパズル・ストーリーの作家たちも、個人的関心とは別に、自作を〈問題小説〉にすることは避けてきた。パロディにしたり、ヒントや素材にすることはあっても、それを通して、当時の社会を写しとろうとすることはほとんどなかった。ミステリーが、いっときの楽しみをあたえる〈逃避文学〉と呼ばれてきたのはそのためだ。  だが、ミステリー作家が現実の社会にそっぽを向いているあいだにも、水泡のようにはかなく消えていった無数の読物小説(読物週刊誌やダイム・ノヴェルズ、そして初期のパルプ・マガジン)がおそらく絶好の題材とばかりにとびついていたにちがいない著名犯罪が、この時代にいくつも発生し、犯罪ノンフィクション分野の記録に残っている。大衆をひきつける力において、犯罪実話がはるかに犯罪小説を上まわり、優位に立っていた時代でもあったのだ。  一九〇〇年代を明白に象徴するセンセーショナルな犯罪事件の実録は、この時代に書かれたどのミステリーよりもおもしろく、しかもいつまでも尾を引く不可解な謎を秘めている。それらの実在の事件のなかから、とりわけ著名な三つの殺人事件を紹介してみよう。  二輪馬車の娘事件(一九〇四年)[#「二輪馬車の娘事件(一九〇四年)」はゴシック体]  一九〇四年六月に、マンハッタンのブロードウエイで起こった事件は、容疑者である美しい踊り子と犯行現場とにちなんで、〈二輪馬車の娘事件〉と呼ばれている。この呼称は、ヒュームの『二輪馬車の秘密』をすぐに連想させるが、御者が後尾のステップに立って手綱をあやつる一頭立て二人乗りのハンサム・キャブは、夜霧のロンドンの街並みだけでなく、マンハッタンのどまんなかも走っていたのである。  この粋な二輪馬車はいまも観光客相手に商売をしている(たしか、セントラル・パーク半周で十ドルとべらぼうに高い)。マンハッタンの古いタウンハウスに住む金持ちのなかには、いまもこの馬車を愛用している人種がいるらしい。ブロードウエイの劇場がはねたあと、ごったがえす群衆を尻目に、馬蹄の音も高らかにさっそうと夜更けの路上を駆っていく、黒いコートの御者にあやつられた黒塗りの二輪馬車をかつて私も見かけたことがある。あの馬車には、どんなカップルが乗っていたのだろうか。  さて、いまから約七十五年前のニューヨークの華やかな〈|偉大な白い道《グレイト・ホワイト・ウエイ》〉、ブロードウエイの朝靄のなかを、波止場に向かって走っていた問題の二輪馬車だが、それに乗っていたのはナン・パタースンという二十歳の可愛らしい踊り子と、連れの英国紳士、シーザー・ヤングだった。英国紳士といってもピンからキリまである。スポーツマン・タイプのシーザー・ヤングは、身持ちのあまりよくないプロのギャンブラーだった。彼は、六月四日の午前九時半に出港するヨーロッパ航路のジャーマニック号に、二人分の船室を予約していた。その朝シーザーは妻と二人でヨーロッパに旅立つことになっていたのだ。ナンにとっては、愛人シーザーとの悲しい別れの朝でもあったのだ。  フロロドラ・セックステットの愛称で当時人気のあった歌うダンシング・チームの新メンバーだったナンは、いつの日か幸運に恵まれ、百万長者の玉の輿に乗ることを夢見ていた。シーザーと知りあったのは二年前。はげしい恋におちた二人の姿は、昼は競馬場やリゾートの賭博場、夜は高級クラブや豪勢なホテルのロビーで見かけられるようになった。お定まりの成り行きで、ナンは結婚をせまったが、シーザーはのらりくらりとごまかしつづけた。妻が滞在するホテルと同じ一角にナンを住まわせ、せわしなく器用にかけもちをつづけていたのだ。金持ちの妻に財布の紐をにぎられていることもあって、どうしても離婚には踏みきれなかったらしい。 (画像省略)  結婚をせまるナンから逃れるためにヨーロッパ行きを決心したシーザーは、出港の前夜ナンに会い、酒を飲みながらなだめすかしているうちにはげしい口論になった。妊娠四カ月だといいはるナンの言葉にとりあおうともせず、シーザーはナンを罵り、手切れ金の百ドルを投げつけた。ナンのほうはそれほど酔っていなかったらしい。このケチな手切れ金を、さっさとストッキングのバンドにはさみこんでしまった。  別れの朝、シーザーはナンをもう一度電話で呼びだし、朝食がわりのブランディを飲みながら説得につとめた。そのあと二人はコロンバス・サークルから二輪馬車に乗って波止場に向かった。この年の十月に開通予定の地下鉄はまだ走っていなかったが、いずれにせよシーザーは最後まで英国紳士らしくふるまおうと、彼女を馬車に乗せたのだろう。ナンは菫色のドレスに、赤いバラを飾った菫色の帽子をかぶっていた。  不倫の愛人たちのための絶好の密室である二人乗りの馬車が、ウェスト・ブロードウエイとフランクリン通りとの角にさしかかったとき、馬車のなかで一発の銃声がとどろき、「どうしてこんなことをしたの、シーザー!」と泣き叫ぶナンの声が聞こえた。  すべては密室のなかの一瞬の出来事である。凶器がシーザーのポケットから発見されるという奇妙な事実があったが(どうやって死人がピストルをポケットにしまったのだろうか)、センセーショナルな公判がくりひろげられるなかで、ナンは終始、シーザーの自殺説をいいはった。なんど評決をおこなっても陪審員の意見は対立したままで、結局ナン・パタースンは釈放された。あどけない不運な娘という印象が、ナンの味方をしたのだろう。フロロドラ・セックステットのほかの娘たちの多くは、首尾よく百万長者を射とめて結婚したが、ナンだけはついにその機会に恵まれず、やがて人々から忘れさられてしまった。 (画像省略)  有名建築家殺人事件(一九〇六年)[#「有名建築家殺人事件(一九〇六年)」はゴシック体]  この事件の犯行現場は、ニューヨークのマディスン・スクウェア・ガーデンの屋上に設けられたきらびやかな特設シアターだった。  被害者は、その屋上劇場やマンハッタン名物のワシントン・スクウェア・アーチなどニューヨークの五十以上の有名建築物を設計した著名な建築家、スタンフォード・ホワイト。  殺人犯は、変態性欲者の若いプレイボーイ百万長者、ハリー・ケンドール・ソー。  そして、犯行の原因となったのは、売れっ子モデルでありコーラスガールでもあったハリーの美貌の若妻、イヴリン・ネスビット。  これだけお膳立てがそろえば、当時のジャーナリズムがこの事件に早くも〈世紀の犯罪〉のレッテルをはって騒ぎたてたのもむりはないだろう。よく考えてみれば新世紀がやっとはじまったばかりだというのに、これぞ〈世紀の犯罪〉と騒ぎたてるのも妙な話だが、たしかにそう呼ぶだけのセンセーショナルな要素を備えた事件だった。  入り組んだ謎解きミステリーの愛好者は、あまりにも生臭い〈情痴犯罪〉に顔をそむけたろうが、イエロー・ジャーナリズムは放っておかなかった。  法廷での証言内容を「汚らわしい」ときめつけたシオドア・ルーズヴェルト大統領の報道自粛勧告にもかかわらず、これでもかこれでもかと好奇心を煽りたてる記事が連日紙面を埋めつくし、人々は先を争って読みふけった。  この〈愛欲ドラマ〉で、三人の主役はどんな役柄を演じたのか?  赤毛で精力的な、五十三歳の高名な建築家ホワイトは、ショーに出演していた当時十五歳の少女モデル、イヴリンを見染め、名声と金を武器に口説きおとして数年間囲っていた狒々《ひひ》おやじの役どころ。運命の六月二十五日の夜は、自分の設計した屋上劇場で上演されていたレヴュー『マドモアゼル・シャンペーン』を観劇していた。 (画像省略)  ピッツバーグの鉄道王のドラ息子である三十四歳のハリー・ケンドール・ソーは、金にあかせて若い娘たちをモノにし、鞭打ってよろこんでいる変質者。なんのはずみかイヴリンにいれあげたハリーは、彼女を誘ってヨーロッパ旅行に出かけた。この旅先で悪癖が高じ、若いイヴリンの体に鞭をふるう。そして帰国後、スピード結婚。変態亭主となったハリーは、イヴリンの過去の性生活をことこまかに問いただして性的に興奮していたらしい。話が彼女のかつての愛人、狒々おやじのホワイトとの一件におよぶと、ハリーはホワイトをBではじまる悪態語 (Bastard) で罵ったという。六月二十五日の夜は、マディスン・スクウェア・ガーデンの近くの〈ルイス・マーチンの店〉で、イヴリンと一緒に夕食をとっていた。 (画像省略)  ロリータのような娘だったのか、いくぶんマゾっけがあったのか、夫のハリーとけっこうたのしくやっていた二十二歳のイヴリンは、夕食中に近くのテーブルに坐っていたホワイトの姿を見かけた。だしものが退屈だったので、ホワイトは劇場をぬけだして食事をとっていた。 「れいのBがあそこにいるわ」  イヴリンがなにげなく夫の耳に囁いた。この一言で頭に血がのぼったのか、劇場に戻るホワイトの後を追ったハリーは、つかつかとにっくき狒々おやじの正面に近づき、数百人の観客の面前で、隠しもっていたピストルを発砲した。三発の弾丸は、ホワイトの赤ら顔に命中した。  衆目をあつめたスキャンダラスな法廷でのやりとりのなかで、イヴリンは愛人と夫との性生活の一部始終を声をひそめて証言した。だがいくら声をひそめても、マスコミには筒抜けである。ホワイト・ハウスの大統領は眉をひそめたが、人々はフロイトの性心理学を読む以上の関心をもって、イヴリンの打明け話に耳をそばだてた。  長い裁判のあと、精神錯乱を理由に無罪となり、州立精神病院に収容されたハリーは、こんどは息子の�正常�を立証しようと巨額の金をつぎこむ母親の差し入れで優雅な病院収容生活をすごすことになった。高級レストラン〈デルモニコ〉からとりよせた豪華な夕食をとる収容所内のハリーの写真まで残っている。 (画像省略)  この間にイヴリンはヴォードヴィルに出演しながら、男の子を出産。「病院から抜けださせてもらって、ハリーとは毎夜、たのしくやっていた」と主張したが、ハリーはその子を認知しなかった。母親の釈放活動が功を奏さず、しびれをきらしたハリーは、一九一三年に病院を脱走。カナダでとらえられるが、やっと�正常�を認められて自由の身となった。だがほどなく、ティーンエイジャーの娘を誘拐し、鞭で暴行を加えた罪に問われて有罪。一九二二年に釈放されたあともたえず新聞の大見出しをにぎわす生活を送ったが、一九四七年にマイアミで死亡した。  ショー・ビジネスの世界ではたいした成功もせぬままにウェスト・コーストに移り住んだイヴリンは、ひっそりと長い孤独な余生を送ったといわれている。  アメリカの悲劇(一九〇六年)[#「アメリカの悲劇(一九〇六年)」はゴシック体]  一九〇一年九月に暗殺されたウィリアム・マッキンレーのあとを追って大統領に就任したシオドア・ルーズヴェルトは、一九〇九年まで、二期余にわたってホワイト・ハウスの主の座を守った。一九〇〇年代は、このシオドア・ルーズヴェルトの時代であり、戦争のない〈平和と繁栄〉の時代、文明開花の時代だった。  大陸横断鉄道の開通三十三年後の一九〇三年には、サンフランシスコ(五月二十三日出発)からニューヨーク(八月一日到着)まで、自動車による初の大陸横断が達成された。一九〇〇年の登録自動車台数はわずかに八千台にすぎなかったが、自動車時代はすでにはじまろうとしていた。  この年に、飛行機もはじめて飛んだ。有名なライト兄弟が、北カロライナ州キティ・ホークの南にある〈キル・デヴィル〉の丘のふもとで、自分たちの作った飛行機を飛ばしたのだ。記録によると、弟のオーヴィルがまず百二十フィート(十二秒)飛び、日暮れに兄のウィルバーが八百五十二フィート(五十九秒)飛行したとある。またニューヨークの街では、一九〇二年に高架鉄道が電化され、一九〇四年には地下鉄が開通している。  一九〇六年七月、閑静なリゾート地の湖で起こった悲しい殺人事件は、この〈平和と繁栄〉の時代の反面教師でもあった。  登場人物は、立身出世の野望に燃える青年、社交界の美しい花形女性、そして工場につとめる田舎出の貧しい娘。彼女が妊娠の事実を告げ、結婚してくれなければ世間にふれまわるといったとき、青年の胸には冷酷な殺意がめばえていたのである。  お気づきかもしれないが、この図式的な三角関係は、一九二五年に発表されたシオドア・ドライザーの名作『アメリカの悲劇』にそっくり移しかえられている。この小説は一九二六年に劇化されたあと、一九五一年にはジョージ・スティーヴンス監督で映画化され、日本では『陽のあたる場所』の邦題名で公開された。三人の主要人物を演じたのは、モンゴメリー・クリフト、エリザベス・テイラー、シェリー・ウィンタースの三人である。  現実の事件では、青年の名前はチェスター・ジレット。説教師だった両親に捨てられたチェスターは、十四歳のときに故郷を去り、各地を放浪してまわった。二十歳のとき、ニューヨーク州コートランドで成功したスカート工場をやっている叔父を頼って上京、週給十ドルの薄給ではじめて定職についた(ちなみに、一九〇〇年当時、アメリカの労働者の平均週給は十二ドル七十四セントだった)。  叔父の工場(ドライザーは、主人公のクライド・グリフィスを、やはり叔父が経営するシャツやカラーの製造工場につとめさせている)で熱心さを認められたチェスターは、地方の社交界にも顔をだすようになり、ここで美しい令嬢と知り合い、求婚する。だがその一方では、工場につとめる十八歳の貧しい娘(週給六ドル)、グレイス・ブラウンとも一時の恋仲になり、まもなくグレイスは妊娠。  これ以上グレイスにつきまとわれては出世のさまたげになると非情な計算をしたチェスターは、七月八日、彼女を誘って�死のハネムーン�に出発。ユーチカのホテルに夫婦の名前で宿泊したあと、アディロンダックスの湖に向かい、タッパー湖で一泊、翌七月十日の夜はビッグ・ムース湖畔のグレンモア・ホテルに泊まった。悲劇的な死が待ちかまえているとも知らず、グレイスはこの三日間の逃避行を無邪気にたのしんでいた。  七月十一日の昼前、ピクニックの用意をした二人は小舟を借りて湖に乗りだした。小舟にはテニスのラケットも積みこまれていた。だがその夜、イーグル・ベイに帰りついたのはチェスターただ一人だったのだ。  顔面に醜い傷痕を残したグレイスの水死体が浮かび、チェスターは殺人容疑で逮捕された。ドライザーの描いた『アメリカの悲劇』と同じ長い裁判がつづき、同年十二月四日、チェスターは死刑の判決を宣告された。  この裁判では百人を超す証人が証言台につき、チェスターはあくまでも事故説を主張したが、検察側のきびしい追及を受けた彼は、水中に転落した泳げないグレイスを救う意志がなかったことを認めさせられた。  テニス・ラケットが凶器だったのではないかという推測もされたが、その日、湖上で何が起こったかを知っているのは、チェスター・ジレットただ一人だった。この裁判は、犯行の実際を立証することより、殺意の立証に重点がおかれたといえるだろう。  話題の人となったチェスターは、貴公子然としたハンサムな自分のポートレイト写真を一枚五ドルで獄内から頒布し、必死に控訴や助命嘆願運動をおこなったが、一九〇八年三月三十日、ニューヨーク州オーバーン刑務所の電気椅子で処刑された。  事件当時、ストリート&スミス社の高級誌『エインズリー』に寄稿したり、同社の新雑誌『スミス』の初代編集長をつとめた新聞記者出身のシオドア・ドライザーが、そのころの資料をもとに『アメリカの悲劇』を書きあげたのは、チェスターの死後十七年たってからのことだった。この問題小説でドライザーが裁こうとしたのは、もちろん青年チェスター・ジレットではなく、アメリカの社会構造そのものだった。 [#改ページ] (画像省略) 短編ミステリーの揺籃期[#「短編ミステリーの揺籃期」はゴシック体] [#地付き]●一九〇〇年代——その㈪[#「●一九〇〇年代——その㈪」はゴシック体]     ——〈思考機械〉とO・ヘンリーの登場  O・ヘンリーとジャック・フットレル[#「O・ヘンリーとジャック・フットレル」はゴシック体]  本章では、後世の短編ミステリー作家たちに大きな影響をあたえたほぼ同時代の二人の作家、O・ヘンリーとジャック・フットレル(正しくはフートレルあるいはフュートレル)を中心に話をすすめたい。  O・ヘンリー(本名、ウィリアム・シドニー・ポーター)は公金横領の罪で服役していたオハイオ州立刑務所Ohio State Penitentiary(この Oh, en, ry をつないでペンネームにしたという説もある)を一九〇一年七月に出所したあと、一九一〇年六月五日、ニューヨークで過労、深酒による肝硬変、糖尿病などの併発によって死亡するまでの約十年間に、三百編近い短編小説を新聞の日曜版や大衆雑誌に書きつづけた当時の流行作家だった。 (画像省略)  O・ヘンリーをマスコミの花形作家にのしあげたのは、後述するストリート&スミス社の『エインズリー』という月刊誌だったが、この雑誌の表紙には、The Magazine ThatEntertains という有名な惹句が刷りこまれていた。雑誌の売り口上にこの単語が用いられたのは、おそらくこれが最初だろう。〈エンタテイナー〉O・ヘンリーは、もちろんこのほかの雑誌にも精力的に書きまくったが、作品の質と発表した短編の数からいって、最盛期は新聞に毎日曜日、読切小説を書いていた一九〇四年から一九〇七年までの四年間にしぼることができる。ほぼ同時代の作家といったが、ジャック・フットレルの純粋なパズル・ストーリー〈思考機械〉シリーズがはじめてボストンの小さな新聞に登場したのは一九〇五年のことだから、フットレルのデビューは、爆発的な人気によって読物短編小説の市場を開拓してくれた先人に負うところが大きいといえるだろう。フットレルのほうは、一九一二年四月十五日未明、処女航海中、氷山に衝突して北大西洋の藻屑と消えた悲劇の豪華客船タイタニック号とともに生涯を終えるまで、約七年間に〈思考機械〉の登場するパズル・ストーリーを五十編ほど残している。 (画像省略)  タイタニック号の惨事(犠牲者千五百三人)については、ジャック・ウィノカー編『SOSタイタニック』に詳しい。同書によると、右舷九号の救命ボートで脱出した妻のメイに別れを告げたフットレルは、沈みゆく船とともに英雄的な死をとげたと記されている。  O・ヘンリーが広い読者層に支持された一流雑誌や、一流紙のポピュラーな作家、いわばマスコミの寵児であったのに対して、〈思考機械〉の活躍の場は地方紙『ボストン・アメリカン』や日曜版の新聞の付録のようなものにかぎられていた。それでも、本国産の謎解き探偵小説のシリーズとしては、クイーンがいうように、〈思考機械〉はたしかに「アメリカの新聞・雑誌で最も人気を博した探偵」といえるだろう。しかし、もちろん大衆的な人気という点で、フットレルはO・ヘンリーに遠く及ばない。  ジャック・フットレルには〈思考機械〉シリーズのほかにも、冒険小説や歴史小説の長編があるが、O・ヘンリーは連作形式の『キャベツと王様』(一九〇四年刊)以外短編小説しか書かなかった。最も長い「運命の道」にしても、八十枚前後の長さにすぎない。フランスを舞台にしたこの中編小説は一九〇三年に発表されたもので、大正九年(一九二〇年)に創刊された雑誌『新青年』の同年十月号に翻訳が紹介された。大正から昭和初期にかけて、同誌には再訳をふくめてO・ヘンリーの作品が約三十編掲載されている。一方、同誌に翻訳されたフットレルの短編は、デビュー作「十三号独房の問題」一作のみで、紹介されたのは昭和十四年(一九三九年)のことだった。  O・ヘンリーの数々の名作がいまも読みつがれているのは、たとえ楽天的な結末であっても、彼の作品には〈人の心〉が謳われているからである。それにくらべて、ポー以来はじめて純粋な国産パズル・ストーリーを生みだしたフットレルの作品にあるのは、技巧的につくりだされた〈人の意表をつく謎々〉だけである。古今東西の傑作ミステリー・アンソロジーに必ず収録される「十三号独房の問題」が、ただそのトリックの秀抜さのみによって名作と評価されること自体が、まさしく探偵小説の悲劇なのだ。  いずれにしろ、同列に論じるにはあまりにかけはなれているこの二人を後世のミステリー作家への影響という一面であえてとらえれば、二人に共通していることは、長編探偵小説の黄金時代に先がけて、短編小説という明確な形式をこのジャンルにおいて確立した点にあるといえる。次項ではこの二人の短編集をふくめて、この時代のすぐれた短編小説集のいくつかをひろってみることにしよう。  今世紀初頭のミステリー短編集[#「今世紀初頭のミステリー短編集」はゴシック体]  ミステリー作家としてだけでなく、精力的な収書活動を必要とする正確な書誌学に裏づけられた「解説」の分野でも、数多くの業績を築いたエラリー・クイーンの研究書の一つに有名な『クイーンズ・クォーラム』がある。副題に〈探偵・犯罪短編小説の歴史〉とあって、#1のポーの『テールズ』にはじまる里程標的な短編集が数回にわたる補遺とともに、編年史的にリスト・アップされている貴重な文献である。短編ミステリーの歴史をひもとく際に、絶対に欠かすことのできない重要な手がかりといってよいだろう。この『クイーンズ・クォーラム』からアメリカ国産の短編集を順にあげてみよう。  #20『ランドルフ・メイスンの奇計』The Strange Schemes of Randolph Mason(ポースト、一八九六年刊)  #24『決定的証拠』Final Proof(ロドリゲス・オットレンギ、一八九八年刊)  #25『探偵の美しき隣人』The Detective's Pretty Neighbor(ニコラス・カーター、一八九九年刊)  #31『コンデンス・ノヴェルズ』Condensed Novels(ブレット・ハート、一九〇二年刊)  前にも記したが、#20のポーストの短編集は、法の網をたくみにくぐりぬける悪徳弁護士、ランドルフ・メイスンを主人公にした第一短編集である。だがメイスン弁護士は、怪盗ルパンや義賊ラッフルズと同じように、大衆の要求にこたえて、一九〇九年刊の第三短編集『運命の修正者』では法と秩序の側に立つようになる。そのあと一九一〇年代に登場するのが、ポーストの代表作といえるアンクル・アブナー物語である。  #24のオットレンギは、日本ではほとんど知られていないが、南部チャールストン生まれのニューヨークの歯科医で、同郷のオクテイヴァス・ロイ・コーエンの遠縁にあたり、一八九二年から一八九八年にかけて四作の長編ミステリーと、クイーンのあげた短編集を発表している。長編のうち三作には、私立探偵ジョン・バーンズとワトスン役のロバート・ミッチェル(金持ちのアマチュア)が登場し、この短編集の巻頭におさめられている中編「犯罪の不死鳥」にもこのコンビがでてくる。オットレンギ自身がX線応用の開拓者といわれる医師であったが、この作品は〈科学的探偵小説〉のはしりともいえ、ソーンダイク博士よりも前に歯科のデンタル・チャートを火葬された死体の身元確認用にもちいている。  #25のニック・カーター・シリーズの唯一の短編集については第三章で触れた。同じく#31のブレット・ハートのミステリー・パロディ小説集についても第六章で紹介した。そのあと『クイーンズ・クォーラム」には、#37の『怪盗ルパン』(一九〇七年刊)につづいて、次に記す三つの短編集の名があがっている。  #38『思考機械』The Thinking Machine(ジャック・フットレル、一九〇七年刊)  #39『一攫千金のウォリングフォード』Get-Rich-Quick Wallingford(ジョージ・ランドルフ・チェスター、一九〇八年刊)  #40『おとなしい詐欺師』The Gentle Grafter(O・ヘンリー、一九〇八年刊)  フットレルの〈思考機械〉初短編集については後述するが、オハイオ生まれのジャーナリスト、大衆作家として知られているジョージ・R・チェスターのこの有名な短編集には、ジェイムズ・ルーファス・ウォリングフォードという憎めない、大金持ちの天才的ペテン師が、相棒のブラッキー・ドウを従えて登場する。  O・ヘンリーの『おとなしい詐欺師』にでてくるお人好しのジェフ・ピーターズも、もとより隠れもない有名な詐欺師である(The Gentle Grafter を�やさしい継ぎ木師�と訳してある古い解説を見かけたことがあるが、新版でも、この大胆不敵な翻訳がまかりとおっているのだろうか?)。  西部のほら話にはじまり、マーク・トウェイン、O・ヘンリー、ジョージ・R・チェスターを経て、たとえば現代作家のドナルド・E・ウエストレイク、グレゴリー・マクドナルド、トニー・ケンリック、ローレンス・ブロック、エドワード・D・ホックなどの諸作品にいたる憎めない犯罪者や、詐欺師物語の系譜をたどるのも興味深いだろう。もちろんその中間には、E・S・ガードナーやフランク・グルーバーの数々のパルプ・ストーリーのヒーローたちがいる。  鼠小僧にしたところで、貧者に施しを恵む義賊などというのは、実際にはまゆつばものだろうが、アメリカ産の愉快な悪党たちは、少なくともおためごかしの大義名分などふりかざさない。詐欺師もペテン師も、まずまっさきに自分の利益を考える。その明快さがかえってアメリカ人にはうけるのだ。  アメリカ版〈ホームズのライヴァルたち〉[#「アメリカ版〈ホームズのライヴァルたち〉」はゴシック体]  今世紀初頭の短編ミステリーの趨勢を知るために『クイーンズ・クォーラム』の先をもう少し追っておくと、アメリカ勢三人のあと登場するのは、#41のバロネス・オルツイの〈隅の老人〉、#42のオースチン・フリーマンの〈ソーンダイク博士〉の各短編集、#43のJ・S・フレッチャーの『アーチャー・ドウの冒険』といずれも一九〇九年組。チェスタートンの#47〈ブラウン神父〉の初短編集は一九一一年に登場する。その前後にまたアメリカ勢がつづいている。  #46『ルーサー・トラントの功績』The Achievements of Luther Trant(エドウィン・バールマー&ウィリアム・マクハーグ、一九一〇年刊)  #48『アヴェリッジ・ジョーンズ』Average Jones(サミュエル・ホプキンス・アダムズ、一九一一年刊)  #49『無音の弾丸』The Silent Bullet(アーサー・リーヴ、一九一二年刊)  #50『ミステリーの名人』The Master of Mysteries(ジェレット・バージェス、一九一二年刊)  アメリカ版のホームズのライヴァルたちもなかなか頑張っているといえるだろう。いまあげた作家とこれらの短編集については第十章で詳述するが、#46はエドウィン・バールマーとウィリアム・マクハーグの合作による短編集で、犯罪捜査に心理学の最新の研究を導入し、短編「お偉方」には嘘発見器が用いられている。  #48のアダムズは、もちろん十八世紀のアメリカの政治家、サミュエル・アダムズとは別人で、暴露記事を得意としたジャーナリスト作家。『マクルア』『コリアーズ』などの雑誌に寄稿。初期の単行本では『偉大なるアメリカのペテン』(一九〇六年刊)が有名である。  この短編集はアドリアン・ヴァン・ライペン・エガートン、通称アヴェリッジ・ジョーンズという名前のPRマンを探偵役にした連作をまとめたもので、「アイディア、スタイルともに当時の短編小説の水準をはるかに超えている」(ヘイクラフト)と評価されている。  #50のジェレット・バージェスも、アダムズと同様探偵小説作家ではない。ジャック・フットレルとも親交があったバージェスは、マサチューセッツで生まれ、サンフランシスコで名声をあげた文芸作家で、地方小説『ハート・ライン』(一九〇七年刊)で知られている。ナンセンス詩や絵も得意としたが、本短編集には通称〈千里眼アストロ〉という水晶球占い師を装った名探偵が登場する。  これらの顔ぶれを見ると、内容と語り口のおもしろさとで読ませる、いわばO・ヘンリー調の短編ミステリーがもてはやされる一方、〈思考機械〉やロドリゲス・オットレンギ、バールマー=マクハーグなどの推理と科学的捜査法を駆使した謎解きミステリーも、しだいに一派を形成するようになってきたことがわかる。  フットレルの〈思考機械〉よりわずかにおくれて登場したアーサー・リーヴの、〈アメリカのホームズ〉と呼ばれる探偵クレイグ・ケネディのシリーズについては第十章で触れたい。最近、このクレイグ・ケネディ・シリーズは再評価をうけているが、彼の活躍はポーストのアブナー物語同様、一九一〇年代に入ってからで、#49の初短編集が刊行されたのは一九一二年のことだった。  この時代のアメリカの短編ミステリーは、海の向こうのホームズと、そのライヴァルたちには一歩も二歩もたちおくれていたが、そのなかで一人気を吐いたのは、フットレルが創造した〈思考機械〉こと、オーガスタス・S・F・X・ヴァン・ドゥーゼン教授だろう。Augustus Dusen はポーの Auguste Dupin(オーギュスト・デュパン)のもじりだとよくいわれるが、似通っているのはもちろん名前だけではない。二人とも論理を最優先し、警察の無能を嘲笑する。フットレルは、パズル・ストーリーの必然的な欠陥もすべてふくめて、始祖ポーが創造した名探偵デュパンの再現を試みたのである。  伝統的な短編パズル・ストーリーの特徴は、ポー以来ほとんどかわらない。なによりも重要なことは、冒頭に提示される奇抜な謎の設定であり(名探偵と読者への挑戦状)、捜査の過程であり(ワトスン役とレッド・ヘリング)、いうまでもなく大詰めの謎解き場面である。「小説の心」などは明らかに二の次で、奇想天外なトリックやアクロバティックな「推理」の曲技、そしてエキセントリックな名探偵の登場となるわけだ。 「十三号独房の問題」——読者への挑戦状[#「「十三号独房の問題」——読者への挑戦状」はゴシック体]  あまりにも有名な〈思考機械〉のデビュー作「十三号独房の問題」を、もう一度ざっと読みかえしてみよう。まず冒頭に、異様に大きな頭、広い額、針のように鋭い目をした、小柄でやせた、猫背の�世俗を避けた学究�、ヴァン・ドゥーゼン教授(哲学博士、法学博士、医学博士、歯学博士、王立学会会員)が紹介される。名前が示すとおりドイツ系で、父親も優秀な科学者だったということだが、年齢・経歴・日常生活はまったくわからない。ワトスン役の新聞記者、ハッチンスン・ハッチが、難事件、怪事件の謎をもって駆けつける場所は、いつもきまって、昔の錬金術師の実験室を思わせる、異臭の漂う化学実験室である。  その実験室がどこにあるのかも定かでない。教授にチェスの試合で敗れた名人が「あなたは人間じゃない。脳だ。機械だ——考える機械だ!」と叫んだことから〈思考機械〉と呼ばれるようになったこの名探偵と、「わたし」(作者)が出会ったのは、ボストン公園となっている。当時の街の風景が記述されることは皆無といってよいが、ほかの作品の背景からもわかるように、〈思考機械〉の活躍の舞台は、アカデミックな学園都市ボストンである。「十三号独房の問題」は、めずらしく教授の自宅を訪れた二人の客と〈思考機械〉との論争が口火となり、ミネソタ州のチッザム刑務所の死刑囚監房から一週間以内に脱獄が可能か否かというゲーム的な賭けに発展する。  世の中に不可能などということはあり得ないというのが持論の教授は、「精神は物質(刑務所の厚い壁)に優先する。思考能力はすべてを支配できる」と主張する。このやりとりの中で相手が飛行船《エアシツプ》は可能かとたずねると、教授は「必ず近い将来に発明される」と予言する(ライト兄弟がはじめて空を飛んだのは、この二年前の一九〇三年だった)。  脱獄不可能と思われていた石造りの刑務所の死刑囚監房から、約束どおり一週間以内に教授がまんまと脱獄してみせるこの逆手の�密室犯罪�物語のからくりは?  教授の条件は、歯磨粉と五ドル札一枚、十ドル札二枚を監房内に持ちこむことと、靴を毎日磨いてほしいという二点だった。奇抜な謎の提示という条件にはまさに適っていたといえる。この作品は、前記のように『ボストン・アメリカン』の一九〇五年十月三十日付から五日間紙上に連載され、賞金つきで解答を読者に挑戦するという趣向がとられた(フットレルの解決編は十一月五日付の日曜版にのった)。パズル・ゲームとしての商品価値が認められ、この企画は大当たりをとり、〈思考機械〉の名前は広く知られるようになった。 (画像省略)  蛇足ではあるが、この作品をよく読めばわかるように、教授が挑戦をうけた自宅はボストンとは考え難い。ボストンからミネソタ州のチッザム刑務所まで一時間で行くためには、それこそ�空飛ぶ船�を利用せねばならないはずだ。  たしかにある意味では、〈思考機械〉ヴァン・ドゥーゼン教授はスーパーマン(超人)である。日常生活とはまったくかかわりをもたないし、数々の事件の渦中で遭遇する人たちの悩みや問題に、感情的にまきこまれることもない。要するに〈考える機械人間〉なのである。このシリーズにそれ以上のものを求めるのはないものねだりというべきだろう。作者のフットレルも、まさしく〈思考機械〉としての名探偵の創造に徹しきっており、それが本シリーズのすべてでもあるのだ。 (画像省略)  だが、「この世に不可能はない」「精神は物質に優先する」「二プラス二は、つねに四である」という十八番の名セリフにふさわしい難問題が、全作まんべんなく提示されているかというと、残念なことにその成功の頻度はホームズ物語に遠くおよばない。「謎の凶器」「赤い糸」などの仕掛けや、「ルーベンス盗難事件」「茶色の上着」などの隠し場所トリックなどによって名作といわれる諸編も、現在も鑑賞にたえるものだとはいいかねる。トリックのみに重点をおいた謎解きミステリーの短命さは、自明のことというべきだろう。だがそこをあえてつつかずに、最初に考えつかれたトリックであると珍重することが、パズル・ストーリー愛好家の美徳なのかもしれない。 「なんというバカなんだ——あの程度のことが推察できなかったとは、われながら愛想がつきる。もちろん、それに相違ない! 最初から、そこに気がつくべきだったのに……」 「情報洩れ」のなかで〈思考機械〉自身がこんな繰り言を口にしているのだ。  この〈思考機械〉の連作はおおよそ次の四期にわけて書かれた。 [#ここから1字下げ] 第一期 一九〇五年からの十作。そのうち七話が『思考機械』(一九〇七年刊)に収録された。 第二期 長編形式をとっている『思考機械、捜査に乗りだす』(一九〇八年刊)に収録された十三作の連作。 第三期 一九〇七年一月から『サンディ・マガジン』に掲載された十八作。 第四期 一九一二年までに書きためていた十作。このうちロンドンに残してきた四作だけがあとに残り、六作はタイタニック号とともに海に沈んだ。 [#ここで字下げ終わり]  このほか、『サタディ・イヴニング・ポスト』に連載され(一九〇六年)、のちに単行本となった冒険犯罪小説『黄金の延板を追って』の最終章の解決編、同じく長編『ダイヤモンド・マスター』(一九〇九年刊)の一章として、一九一二年に新たに挿入された中編「呪われた鉦」にも〈思考機械〉が登場する。そのほかにもメイ夫人が書いたゴースト・ストーリーに、夫のフットレルが後編を書き継ぎ、〈思考機械〉に超自然現象を論理的に解明させるという趣向の「幻の家」(一九〇七年)がある。〈思考機械〉の事件簿は現在出まわっている二種類の邦訳短編集によってほとんど読むことができる。  ニューヨークを描いた短編小説の名手[#「ニューヨークを描いた短編小説の名手」はゴシック体]  南部ジョージア州に生まれ、かつてポーが『南部文芸メッセンジャー』誌の編集長をつとめていたゆかりの地、ヴァージニア州リッチモンドでジャーナリズムの道に入ったジャック・フットレルが、懸賞つきのパズル・ストーリー「十三号独房の問題」を連載した『ボストン・アメリカン』は、フットレル自身が編集者の一員として働いていた新聞だった。ほとんど街や風俗を描かなかったフットレルの短編小説に、株式市場のからくりとか公金横領(「消える男」)といったジャーナリスティックな題材がときたまみられるのはそのためだ。  一方、O・ヘンリーは、マスコミとの密接なつながり、街と風俗の描写の二点を度外視しては語れない作家である。そして、彼が描いた街は、いうまでもなくニューヨークだった。悲喜こもごもの人生の小さなドラマ、O・ヘンリーの描いたニューヨーク人生模様が、リング・ラードナー、デイモン・ラニアン、あるいはマッカレーの〈地下鉄サム〉や現代コント作家のヘンリー・スレッサーなどにあたえた影響は計り知れない。  O・ヘンリーを人気作家に仕立てあげた当時のマスコミ界の動きをここで簡単に追ってみよう。今世紀に入ってもニック・カーター、『ティップ・トップ・ウイークリー』のフランク・メリウェル、ホレイショ・アルジャーの立身出世物語のヒーローたちが登場するストリート&スミス社の五セント本の叢書シリーズは次々に発刊され、ジャック・ロンドンばりにアラスカに金を探しに行く青年をヒーローにした『クロンダイク・キット』(一八九八年創刊)、アメリカ少年の夢である鉄道技師を主人公にした『コムラッド』(一九〇〇年創刊)、ついに西部の無法者がヒーローに昇格する『ジェシー・ジェイムズ』叢書(一九〇一年創刊)、シオドア・ルーズヴェルトに率いられる勇名とどろく志願部隊にちなんだ『若きラフ・ライダーズ』(一九〇四年創刊)などがあいついで誕生した。これらの週刊誌形式のダイム・ノヴェルズ叢書はほとんどが少年向きの立身出世物語や冒険物語だが、具体的な金儲け術を教える『名声と富』叢書や、市井の犯罪に敢然と挑戦する熱血青年をヒーローにした『バワリー・ボーイ』叢書なども創刊された。ニューヨークの街に憧れる少年たちに捧げられたこの叢書の第三十四号(一九〇六年六月九日号)、『ブロードウエイのバワリー・ビリー』の著者は私立探偵《プライヴエツト・デイテクテイヴ》ジョン・R・コンウェイとなっている。これらのダイム・ノヴェルズのうち、いわゆる探偵ものが占める比率は十分の一程度で、悪は滅びるという大前提のもとにかなりどぎつい暴力描写がおこなわれていた。 (画像省略)  ストリート&スミス社はニック・カーター物語を主軸に成人向けの探偵小説叢書『マグネット・ライブラリー』もだしていたが(一八九七年創刊)、パルプ・マガジンや絵入りの読物月刊誌の台頭におされ、しかも日刊紙にまで挾撃されはじめた。  いずれ週刊誌形式の出版物は日刊紙に追いぬかれると予見したストリート&スミス社のオーモンド・スミスは、大衆の新しい好みにあわせた、新しいニューヨーク派の月刊クラス・マガジンの発刊を考えた。そして、一八九八年二月に創刊されたのが、九十ページ、五セント(すぐに十セントになり、一九〇二年には百六十ページ、十五セントに値上げになる)の『エインズリー』だった。  この『エインズリー』とO・ヘンリーには密接な結びつきがある。O・ヘンリーの掌編「金の迷路」がはじめて同誌にのったのは一九〇一年五月号だった(稿料五十ドル)。「ピッツバーグが住みづらいので、稿料の前借りをさせてもらえるなら上京したい」という手紙を、彼は編集長のリチャード・ダフィあてに認めている。一九〇二年の春、O・ヘンリーははじめてニューヨークにあらわれ、安ホテル暮らしをはじめた。この年は『エインズリー』に一編七十五ドルで六編の探偵小説を売った。一九〇三年には「運命の星」「自動車が待っているあいだに」を発表した。  本格的な作家活動への道をひらいてくれたのは『エインズリー』だったが、流行作家への大きなきっかけとなったのは、ジョゼフ・ピュリッツアーの『ワールド』紙の日曜版に毎週一編ずつ(各六十ドル)寄稿する契約を結んだことだった。この『サンデー・ワールド』に掲載された合計百十三編の作品が、O・ヘンリーのニューヨークものの大部分を占めている。  彼の作品をオムニバス風につないだ映画『人生模様』(一九五三年日本公開)の第一話「警官と讃美歌」(刑務所で越冬をたくらむ老浮浪者)、第二話「ラッパのひびき(天の声)」(警官対殺人者として再会した二人の旧友)、第三話「最後の一葉」、第五話「賢者の贈物」はいずれもこの『サンディ・ワールド』紙上で、五十万読者を笑わせ、涙させた名作だった。  浮浪者、詐欺師、犯罪者、警官、貧しい青年や娘たちといった市井の人々を生き生きと描き、みごとな結末をつけるO・ヘンリーのニューヨーク人生模様の世界が、街の響きを背景に鮮やかに描かれてゆくのである。 [#改ページ] (画像省略) O・ヘンリーをミステリーとして読もう[#「O・ヘンリーをミステリーとして読もう」はゴシック体] [#地付き]●一九〇〇年代——その㈫[#「●一九〇〇年代——その㈫」はゴシック体]     ——ニューヨーク人生模様  人気作家の誕生と当時の雑誌出版界[#「人気作家の誕生と当時の雑誌出版界」はゴシック体]  前章でも述べたように、O・ヘンリーは、今世紀初頭、一九〇〇年代に最も広範囲な読者を獲得したアメリカ随一の人気作家だった。そしてO・ヘンリーは今も読み継がれ、多くの作家が手本にしてきた。いったい彼の短編小説は、なぜそれほどまでに受けるのだろう。  まず第一に考えつくことは、民話の語部としての親しみやすい語り口である。格式ばった文学形式を笑うかのように口語や俗語をふんだんにとりいれ、じかに人々の心に語りかけてくる説話形式をとっている。どうすれば大衆の心をつかむことができるか、そのコツを天与の才能のごとく身につけていた。  作中人物のほほえましい善意が、貧しくみじめな境遇にある大衆のすさんだ心をあたたかくくるみ、笑わせ、涙をさそい、結末に用意されている意外なオチが人々をおどろかせる。エンタテイナー作家としての資質は、先人であるマーク・トウェインをもしのいでいるといえる。  新聞の日曜版や読物雑誌の巻頭を飾るという制約のなかで、どの作品もきわめて短い語数でまとめられている。しかも、どんなに短い掌編のなかにも人生の一幕のドラマが盛りこまれている。病床に臥し、生きる希望を失いかけている娘のために「最後の一葉」を描いて死んでいくヴィレッジの老画家、若いカップルがたがいに相手をよろこばせようと身を切る思いでクリスマスに買い求めた「賢者の贈物」。どこにでもころがっていそうな題材や人物が、簡潔に、生き生きと描かれている。そして、びっくり箱のなかから最後にとびだしてくるのは、いつも楽天的な人生讃歌なのだ。これもまたO・ヘンリーの成功の要因だった。  だが作品の質とはべつに、彼のデビューの時期が、大衆向けの読物雑誌の隆盛期と重なりあっていたことも見逃せない。いくつもの新聞・雑誌が部数百万部獲得をめざしてしのぎをけずっていた時代でもあったのだ。  O・ヘンリーの三百編近い短編小説のうち、じつに百十三編を掲載した『サンディ・ワールド』は、ジョゼフ・ピュリッツアーが一八八三年に傘下におさめ、センセーショナリズムで売りまくった『ニューヨーク・ワールド』(一部一セント、一八八七年に夕刊発刊)の日曜版である。一八八六年にニューヨーク進出をはかったランドルフ・ハーストの『ニューヨーク・ジャーナル』の急追をうけたピュリッツアーは、ジャーナリズム史上に残るはげしい部数拡張競争のあと煽情的な編集方針をハーストに譲り(このためにブルー・カラー族の広範な読者層を失った)、フリー・スピーチや個人の自由を謳うリベラルな紙面づくりに路線を変更した。そして『ワールド』は、一九一一年十月にピュリッツアーが死ぬ前に、朝刊三十万部、夕刊四十万部、日曜版六十万部の大新聞に成長していたのである。  O・ヘンリーの短編小説がこの『ワールド』の日曜版にはじめて載ったのは一九〇三年十二月のことだったが、彼はこれ以前にすでに『マクルア』(一八九三年創刊)、『エインズリー』(一八九八年創刊)、『エヴリボディ』などのポピュラーな読物雑誌や高級文芸誌『スマート・セット』(一八九〇年創刊)にも数編の作品を売っていた。  一八九八年四月から一九〇一年七月までの三年三カ月の服役期間中に、O・ヘンリーは一ダースほどの作品を書いたといわれているが、そのなかの一編「口笛ディックのクリスマス・プレゼント」をはじめてO・ヘンリーのペンネームで掲載したのが『マクルア』だった(一八九九年十二月号)。 『マクルア』は部数三十六万部(一九〇〇年)、『エヴリボディ』は七十三万部(一九〇四年)、いずれも大雑誌であり、それに載るだけでも幸運に恵まれたといえるだろう。そして、前にも触れたように、彼の才能を高く評価し、常連作家として起用したもう一つの雑誌が、ストリート&スミス社の『エインズリー』だった。この雑誌には、ドイル、キプリング、ロバート・バー、ザングヴィル、ホーナング、ジャック・ロンドン、ブレット・ハートなどが執筆し、O・ヘンリーは創刊四年めに当時の流行作家たちとくつわ[#「くつわ」に傍点]を並べることになったのである。同誌にはスティーヴン・クレインや女流ミステリー作家のキャロリン・ウエルズも筆をとり、やがてウィットに富んだ辛辣なブロードウエイ評でドロシー・パーカーがコラムに顔をだすようになる。  これらの多彩な人気作家たちが彩りを添え、アメリカの雑誌ジャーナリズムは華やかな隆盛期を迎えつつあった。一つの数字をあげれば、当時全国で三千五百種の雑誌が総部数六千五百万部のシェアを分けあっていたという(一九〇〇年)。O・ヘンリーの作品を載せたそのほかの主だった雑誌をみてみると、『マンジーズ』(一八八九年創刊)は一八九五年にすでに五十万部を突破し、最初の百万部雑誌をめざしていた。一八二一年創刊の老舗『サタディ・イヴニング・ポスト』は、一九〇八年に百万部に達した。一八八八年創刊の『コリアーズ』は、一九〇九年に五十万部、一九一二年に百万部を超えた。『コズモポリタン』(一八八五年創刊)は、一九〇〇年に三十万部、『ハムプトン』は一九一一年に四十四万部を超えた。そして、これらの雑誌すべてにO・ヘンリーの珠玉の名編がつぎつぎに掲載されていったのである。O・ヘンリーをアメリカ文学史上に残る短編小説作家として、だれよりも正当に的確な評価を下したのは、これら雑誌の百万読者だった。  ちなみにわが国では、没後十年たった大正九年(一九二〇年)、その年創刊された雑誌『新青年』の十月号に、「運命の道」が紹介されている。  誘拐、殺人、失踪、捜査小説[#「誘拐、殺人、失踪、捜査小説」はゴシック体] 『新青年』以来、O・ヘンリーの作品はわが国でも人気を得、かなりの数が翻訳され、教材にも用いられてきた。だが実際には、三百編近い全作品のやっと三分の一弱が翻訳されているにすぎず、未訳のなかにも埋もれた傑作が数多い。たしかに�名作�と目される主要作品の大半は、現在出まわっている各種の文庫本で手軽に読むことができるが、�名作集�だけに重複がめだち、五種類の文庫本を合計してのべ百四十五編にのぼる収録作品の実数は五十五編にすぎない。  私が架空の短編集を編纂してみたくなったのは、そんな歯がゆさのためである。かけだしのO・ヘンリーアンにすぎない私が埋もれた名作をどれだけ発掘できるかわからないが、未訳作品の紹介もなるべく多く盛りこみながら作業にとりかかろう。だが、名作集というだけではおもしろみがない。どうせ編纂するのなら、それなりの新味をだす必要がある。となれば、この架空短編集のタイトルは、もちろん『O・ヘンリー・ミステリー傑作選』である(以下、各作品名の後に付した*印は新潮、角川、講談社、旺文社、岩波の各文庫本未収録作品を示す)。  ミステリーの概念をいくらかゆるやかに拡大解釈してO・ヘンリーの作品をジャンル別に分けてみると、この分野においてもじつにヴァラエティに富んでいることがわかる。まず、殺人、誘拐、強盗、金庫破り、詐欺師などをテーマあるいは主人公にした作品を数えあげることができる。私立探偵まがいの新聞記者が行動的に事件の謎を追う捜査小説や暗号小説、復讐譚、ゴースト・ストーリー、宝探しの物語もある。警官、犯罪者、浮浪者、西部の無法者、街のチンピラ、リンチ、遺産などをあつかったクライム・ストーリーも多い。ヘンリイ・スレッサーあたりがそっくり手本にしたがるような気のきいたオチのある話も多いし、リドル・ストーリーやフランスのヴィドック、イギリスのホームズを模した名探偵パロディもある。いまあげたそれぞれのジャンルから少なくとも一編ずつ収録作品を選んでいってみよう。   〈誘拐小説〉  ここにはいるのはもちろん「赤い酋長の身代金[#「赤い酋長の身代金」はゴシック体]」である。流れ者の二人組が、アラバマ州のサミットという田舎町で、けちん坊の高利貸しの十歳になる一人息子を誘拐し、新商売の資金稼ぎをたくらむ。身代金は千五百ドルだが、ことは計画どおりに運ばない。十歳のわるガキは、外に連れだしてもらって大はしゃぎ。家に帰りたがらないばかりか、大の男二人をきりきりまいさせる。息子をさらわれたオヤジもオヤジで、厄介ばらいができたと大喜び。あげくのはてには、身代金を逆に払えば引きとってやってもいいと無理難題をふっかけてくる。誘拐には成功したものの、人質の処理に手を焼いた二人組は、カネを払ってほうほうのていで逃げだすというお話。この手のヴァリエーションはドナルド・E・ウエストレイクが『ジミー・ザ・キッド』でちゃっかり使っているし、日本のミステリーにも、人質の老婆が逆に主導権を握る『大誘拐』(天藤真)という愉快な誘拐物がある。「赤い酋長の身代金」のなかで〈木が動くから風が吹くのか?〉〈どうして穴の中はがらんどうなのか?〉などと質問する腕白小僧は、いたずら好きだった少年時代のO・ヘンリーを連想させる。  誘拐をあつかった作品には、ほかにも「いたずら神の人質*」というのがあるが、これもすてがたいおもしろさがある。トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』にヒントを得たドタバタもので、大金持ちだと思って誘拐した鉄道王の銀行主に、まぬけな二人組が逆にさんざんたかられるという趣向である。   〈殺人〉  新聞の日曜版の読切小説ということを意識したのだろうが、O・ヘンリーはニューヨークを舞台にしたものではほとんど〈殺人〉をとりあげていない。だが西部ものでは、「一ドルの価値」や「ブラックジャックの売渡し人」などに殺人が描かれている。前者では、西部の無法者が登場したり、裁判ドラマが並行する。裁判ものの一型ともいえそうだ。後者は、賭博に狂っておちぶれた名家の男の最後のプライドをテーマにした味わい深い作品である。  同じ西部ものでは、O・ヘンリーがかつて勤めていたテキサスの土地管理局の建物のなかで、土地の所有権をめぐって完全犯罪(冷酷な殺人と死体隠匿)がおこなわれる「ベグザー証書二六九二号*」がある。この作品は一種の倒叙ものといえる。「都市通信」という作品も、殺人をあつかったミステリーとして読めば、作法上に興味ある点がみうけられる。  物語の舞台になりうる都市は、ニューヨーク、ニュー・オーリーンズ、サンフランシスコの三都市しかないといいきったフランク・ノリスの言葉に挑戦して、O・ヘンリーは、テネシー州ナッシュヴィルを背景にこの物語を書いたという。前半三分の一はたしかに退屈で、全体に少し長すぎるきらいがあるが、いわくありげな黒人の馭者と、気高い老女アゼイリアの登場のあと、一転して物語は謎解き小説めいたミステリーとなるのだ。  O・ヘンリーはおそらく無意識のうちにだろうが、パズル・ストーリーの形式を借りて物語をすすめ、死体の手に握られていた上着のボタンの謎を解く作業は、注意深い読者にゆだねられる。  ケンタッキーの山奥で殺し合いをつづけてきた二つの家系の最後の生きのこり同士がニューヨークで再会する復讐譚「地獄で敵に[#「地獄で敵に」はゴシック体]*」にもなかなか味のあるオチがついているが、これはいうなれば殺人未遂である。  数は少ないが、ニューヨークもののなかにも〈殺人〉が背景として描かれている作品はいくつかある。〈強盗〉の項で触れる「あやつり人形[#「あやつり人形」はゴシック体]*」には未必の故意ともいえる医師の手による殺人がでてくる。「天の声[#「天の声」はゴシック体]」で実直な刑事と対決する旧友の悪党も殺人犯という設定になっているが、ここでは殺人そのものはあまり重要なテーマになっていない(いまあげた「天の声」という作品は、従来「ラッパのひびき」という邦訳名がつけられていたが、私は原題名の The Clarion Call を、天の配剤を暗喩する高らかにひびく澄んだ呼び声と解し、あえて新解釈の邦題名を採ることにした)。  ニューヨークを舞台にして殺人を描いた作品にはこのほかに未訳の「罪ある者*」もあるが、この作品は妄執や天国の裁きがでてくるファンタジー形式をとっている。〈死〉そのものをテーマとしてとらえるなら、二人の男女を死に導く悲惨な結末とシニカルなオチのついた名作「家具つきの貸部屋」をあげるべきだろう。   〈捜査小説〉  これには、きわめつきの題名、きわめつきの内容の作品がある。タイトルは「女を探せ[#「女を探せ」はゴシック体]*」(犯罪の陰に女あり、という意味)。ニュー・オーリーンズの二人の新聞記者が、修道院の競売会の告示をみて、二年ほど前に起こった怪事件のことを思いだすところから話がはじまる。篤志家で知られる宝飾品職人が原因不明の死をとげ(この真相は解明されない)、二万ドルの大金が消える。彼を信じて投資のためにこの大金を預けていたクレオール系のマダムの依頼をうけ、二人は私立探偵もどきの調査にのりだす。  なにはともあれ、「女を探せ」というわけで、二人は死んだ男の女関係を洗う。だが浮いた話はなにひとつ出てこない。  預かっていたカネを競馬かなにかにつぎこんでしまったのではないか。「女を探せ」の諺どおり牝のレース馬をかたっぱしから当たってみるが、これも空振り。考えあぐねた二人は、陰の女性は修道女ではないかととんでもない推理をはたらかせて修道院におしかける。だが、そこのシスターのなかには、そのような不信心ものは一人もいない。  捜査は完全に行き詰まってしまう。そして二年たち、移転のために修道院がそっくり処分されることになる。当然、宝飾品なども競売に付されることになる。 「女を探せ!」二人の探偵は同時に叫び声をあげる。死んだ宝飾品職人が、だれにも見られずに完成させ、修道院に寄進した金色に輝く聖母マリア像のことを思いついたのだ。  二人は競売で自腹を切ってついにマリア像を手に入れる(その必要もないのに二人でせりあって値をつりあげてしまう茶番劇が挿入される)。だが像の表面を削ってみると、中身はただの鉛だった。意気消沈した二人は、昔の依頼人だったマダムの部屋を訪れる。  そして、消えた二万ドルが、ポーの「盗まれた手紙」さながら、意外な場所で発見され、消えた大金の行方をついにつきとめた二人の探偵は、「女を探せ!」と意気高らかに声を張りあげ、〈ケンタッキー美女〉という女性名の上等のバーボンで祝盃をあげる。アマチュアながら私立探偵きどりの二人組が、いくぶんドタバタ調に頭と足をつかって調査をすすめるという趣向で、現代風捜査小説の元祖といえそうだ。  捜査ものの変型としてもう一編あげておきたいのは、やはり土地管理局勤務時代の経験を生かした宝探し小説「隠された宝[#「隠された宝」はゴシック体]*」である。偶然にたよったオチが玉にキズだが、可憐な美女をめぐる二人のライヴァルの争いや、大学教育への反感(O・ヘンリー自身はほとんど正規の教育をうけていない)などがおもしろく、宝探しの興味も最後に肩すかしをくわされるまで持続する。  捜査小説とはいえないが、ある日とつぜんかき消すように蒸発してしまった男の行方を、二人の旧友が偶然つきとめる「平和の衣[#「平和の衣」はゴシック体]*」という掌編もすてがたい味わいのある〈失踪小説〉である。何不自由ないエリート階級で衣裳道楽だった男が、なぜそれまでの人生を捨て、修道院の粗末な衣にくるまれた第二の人生を歩みはじめたのか。結末は愉快なオチで終わっているが、なぜか奇妙な余韻をのこす掌編である。  はっきりジャンルわけができない、いわば〈オフビート〉な作品には、このほかにも、「リンチ異聞[#「リンチ異聞」はゴシック体]*」とか「よごれた十ドル札の物語[#「よごれた十ドル札の物語」はゴシック体]*」などがある。前者では、暴徒化した市民の〈リンチ〉の心理が語られているが、この作品のおもしろさは、当時非難の的になっていた市街電車の無謀運転ぶりをからかっているところにある。後者では、十ドル札の目から見た市井の出来事が短いエピソードをつないで語られ、注意深く読むと、日常茶飯事になっていた警官の〈収賄〉行為などがさりげなく描写されていることに気づく。  殺人、誘拐、失踪といった現代ミステリーの主要テーマのあとにつづくのは、いささか古めかしい金庫破りやケチな強盗たちの物語である。このジャンルには傑作が多い。   〈金庫破り・強盗〉  改心した犯罪者が花嫁を前にして、旧悪が露見することを覚悟で金庫破りの腕をふるわねばならない窮地においこまれる「とりもどされた改心」をまず第一にあげておこう。男は金庫の中にとじこめられた幼い少女の命を救うために、金庫破りの名人でなければあけられない扉に挑戦する。が、じっと見守っている人垣のなかに、ずっと彼のあとを追いつづけていた刑事がまじっている。  のちに劇化されて大当たりをとったこの物語は、O・ヘンリーが服役中に囚人仲間のアル・ジェニングズという男から聞いた話をもとにしたもので、作中のジミー・ヴァレンタインのモデルになったのは、実在の金庫破りの名人だった。さりげなくジミーを見逃してやる刑事も、実在のテキサスの私立探偵をモデルにしたといわれているが、それよりも前に思いつくのは、ユゴーの名作『レ・ミゼラブル』だろう。冷酷なジャヴェール警視に、O・ヘンリーは一矢報いたかったのだ。  マンハッタンの二十四丁目通りと高架鉄道《エル》が交差するあたりのひとけのない深夜の街角の描写からはじまる「あやつり人形[#「あやつり人形」はゴシック体]*」にもきわめてユニークな金庫破りが登場する。泥棒仲間に�イカすギリシャ野郎�と呼ばれているこの金庫破りの名人は、れっきとしたオフィスをかまえる開業医。夜更けの街角でパトロール警官の不審尋問をうけた彼は、チャールズ・スペンサー・ジェイムズ医学博士と印刷された名刺と黒い診療鞄を警官に示し、難なく検問をくぐりぬける。だがジェイムズ医師の黒鞄のなかに入っていたのは、金庫破りの最新式七つ道具、仲間うちでは�オイル�と呼ばれているニトログリセリン、そしてその夜の獲物だった。  ニトログリセリンの溶液がまだわずかに残っていること、その夜金庫を襲って手に入れた二千五百ドルを二人の仲間と三等分したことの二点がさりげなく伏線として記されている。  オフィスに帰る途中、とりみだした黒人女が待ちかまえている。若主人が持病の心臓発作で倒れたというのだ。黒人のメイドに案内されて駆けつけてみると、かなり豪勢な邸宅で、美しい若い夫人が倒れている夫の体におろおろととりすがっている。  ここで主人公は、二つの職業意識を同時にはたらかせ、重症の患者を診察しながら、いずれ忍びこむときのために部屋の下見をはじめる。だが、みかけとはうらはらに高価なものはほとんどない。ひどく貧乏しているらしい。失神した夫人を別室で休ませたあと、メイドに処方箋をわたして薬を買いに走らせ、医師はニトログリセリンをとりだす。それを強心剤に用いて応急処置をほどこしたのだ。意識をとり戻した患者はうわごとのように、「二万ドル……妻のカネ……」と意外なことをつぶやく。医師は泥棒に変身して金庫をみつけだし、造作なく扉をあけるが、大金どころか中は空っぽだった。「酒と馬と放蕩三昧のあげく、たいせつな妻のカネをのこらず使いはたしてしまった」と告白して、夫は息をひきとってしまう。医師の正体を見ぬいた患者との最後のやりとりもおもしろいのだが、この物語のオチはもうちょっと先にある。  若い未亡人が意識をとり戻すと、「ご主人の遺言で金庫をあけたら、このおカネが入っていました」といって八百三十ドル[#「八百三十ドル」に傍点]の現金を渡し、医師は悔やみの言葉をあとに立ち去るのだ。こんなお人好しの金庫破りが、今の世の中に絶対にいないことだけは確かだろう。  この強盗医師には殺人をも辞さない冷酷な一面があるが、その他のO・ヘンリーの作品にでてくる強盗たちには、どこかまのぬけた憎めないキャラクターが多い。 「少年と泥棒[#「少年と泥棒」はゴシック体]*」という作品にでてくる押し込み強盗は、マセた少年の応対にタジタジとなる。この話は当時流行していた類型的な少年読物のマンネリ化したプロットをからかったもので、そのおふざけとして読むとおもしろい。被害者と強盗のこっけいなやりとりがたのしめる作品には「リューマチ強盗」というファルスもある。おふざけといえば、後で述べるホームズ・パロディの一編にも、名探偵の後をしつこく追跡する人殺しの強盗がでてくる。 〈列車強盗〉ものには、O・ヘンリーがアル・ジェニングズの話をそのまま聞き語りしている西部の冒険話「ある列車強盗の告白[#「ある列車強盗の告白」はゴシック体]*」や「黒鷲の失踪」、未訳の「われらが道*」などがある。O・ヘンリーが服役中に書き、初めてそのペンネームで活字になった記念すべき作品「口笛ディックのクリスマス・プレゼント[#「口笛ディックのクリスマス・プレゼント」はゴシック体]*」にも、ニュー・オーリーンズの大農園を襲う五人組の強盗団の襲撃を未然にくいとめる風変わりな浮浪者の物語がある。  手柄をたてクリスマス・イヴの客としてあたたかい食事とベッドと風呂を与えられた浮浪者が、ベッドと風呂は拒否して床で寝るユーモラスな描写や、「浮浪者は物盗りでもなければ、労働者でもない」という信条、さらには報酬として与えられた職をなげだし、高らかに口笛を吹き鳴らしながら自由の大地を歩き去っていく結末がいい。この作品に私が心惹かれるのは、後期の作品群とはちがって、物質文明や消費社会にふりまわされない自由な男の生き方を、O・ヘンリー自身が誇らかに謳いあげているからである。  詐欺物語、パロディほか[#「詐欺物語、パロディほか」はゴシック体]  いま紹介した口笛ディックは、アメリカ各地を流れ歩く放浪者だが、街に住みついた浮浪者や犯罪者、警官などは、O・ヘンリーのニューヨーク物語の常連といえる。彼らが主役をつとめるクライム・ストーリーとして、甘いオチと苦いオチが好対照の二編、「虚栄と毛皮[#「虚栄と毛皮」はゴシック体]*」「二十年後の再会[#「二十年後の再会」はゴシック体]」を私の架空短編集におさめたい。刑事と犯罪者の対決という設定は、かつて逃亡生活をつづけていたO・ヘンリー自身の妄執のようにも思える。このパターンは「とりもどされた改心」「天の声」「心と手」などでもくりかえされている。  警官対浮浪者のやりとりは名作「警官と讃美歌」にもでてくるが、もう一つ浮浪者を主人公にした「感謝祭の二人の紳士[#「感謝祭の二人の紳士」はゴシック体]*」という愉快な小品もある。この話から犯罪の匂いを嗅ぎとるとすれば、〈暴食〉と〈慈善の押し売り〉の罪ということになるだろう。   〈詐欺〉  詐欺物語は、O・ヘンリーのミステリー・ジャンルへの最大の貢献を示す分野である。かつてO・ヘンリーが編集していたユーモア週刊誌『ザ・ローリング・ストーン』の一八九四年十月二十日号に掲載されたとぼけた味のペテン物語「X嬢の告白[#「X嬢の告白」はゴシック体]*」や「詩人と農夫」「女とペテン」など単発作品も多いが、O・ヘンリーの創造した唯一のシリーズ・キャラクター、お人好しの詐欺師ジェフ・ピーターズの一連の詐欺物語は、『O・ヘンリー・ミステリー傑作選』の最大の呼び物になりそうだ。  既訳の三編「催眠術師ジェフ・ピーターズ」「結婚精密科学」「腕くらべ*」もおもしろいが、ここでは未訳のなかから思わず吹き出してしまう愉快な話を二つ、三つ選んでみよう。「孤島の事業主[#「孤島の事業主」はゴシック体]*」は、西部の小さな町が洪水で孤立するとみてとったジェフが、三軒の酒場をいちはやく買いとり、ひと儲けたくらむ話である。思惑どおりになり、ほかに何もすることのない町の連中がジェフの酒場の前で長い行列をつくるほどの繁盛ぶり。数日で元をとり、一週間で大富豪になれそうだったのだが、酒を飲むと説教好きになる相棒が、とんでもないことをしでかしてジェフの独占企業は大失敗というお話。 「豚の教え[#「豚の教え」はゴシック体]*」は、この連作のなかの最高傑作といえる。みかけの正直そうな相棒を探していたジェフが田舎町でうってつけの男にめぐりあう。その田舎者をつれてある町に乗りこんだジェフは、クルミの殼の下の豆を当てさせるケチな街頭詐欺をはじめる。ひと仕事終えてホテルに帰ってみると、サクラをやらせた相棒の部屋を一頭の白豚が占領している。田舎者が拾ってきた厄介ものの迷い豚に音をあげながら一夜を明かしたジェフは、朝刊を見てびっくりする。見世物小屋から逃げだした珍芸を得意とする白豚に大枚五千ドルの賞金がかかっていたのだ。その〈尋ね豚広告〉を隠したまま、ジェフは田舎者の相棒から豚をまきあげる算段をする。だが頑固一徹な田舎者は、なぜか豚を手放そうとしない。ジェフは買い値をつりあげられ、結局八百ドル支払う羽目になる。それでも差し引き四千二百ドルの手軽な金儲けだ。  豚を手に入れたジェフは喜び勇んで見世物小屋に駆けつけるのだが……。  めずらしくニューヨークにやって来たジェフとお馴染みの相棒、アンディ・タッカーがあるニューヨーカーに徹底的に信用され、五千ドルの大金を預かることになる「ブロードウエイのお人好し[#「ブロードウエイのお人好し」はゴシック体]*」も皮肉で愉快な話だ。アンディは濡れ手に粟とばかりに逃げだそうと提案するが、「何か名目をつけなければペテンはできない」と頑張るジェフは詐欺師の良心にかけて五千ドルをまきあげる方法を考える。まずカードにさそって大勝をねらうが、かえって負けてしまう。ほかにもあれこれ手を考えるがどうしてもうまくいかない。そこで一計を案じたアンディが妙案を思いつく。 (画像省略)  詐欺師ジェフ・ピーターズが登場する連作を、O・ヘンリーは全部で十四編書いているが、そのうち十一編を書きおろし、旧作一編とあわせて同時収録した一九〇八年刊の短編集『おとなしい詐欺師』には、そのほかにも「詐欺師の良心[#「詐欺師の良心」はゴシック体]*」「狼の毛を刈れ[#「狼の毛を刈れ」はゴシック体]*」などの佳作がおさめられている。   〈暗号小説・パロディ〉  前者には、レイモンド・ボンド編の『暗号ミステリー傑作選』(一九四七年刊)にも収録されている「キャロウエイの暗号[#「キャロウエイの暗号」はゴシック体]*」がある。新聞用語の常套句を逆手にとった暗号の解読(日露戦争の特種電報)が中心になっていて、O・ヘンリーはお気に入りの言葉遊びをここでも十二分にたのしんでいる。  O・ヘンリーのミステリー・パロディには、フランスの名探偵ヴィドックを模した名探偵ティックトックものの三作もあるが、私の『ミステリー傑作選』には、迷探偵シャムロック・ジョーンズが登場するパロディ三編を同時収録したい。古いホームズ・パロディとしては、R・C・レーマンのピックロック・ホールズ(一九〇一年)、ロバート・バーのシャーロウ・コムズ(一八九四年)、ブレット・ハートのヘムロック・ジョーンズ、マーク・トウェインの中編パロディ「二連発探偵物語」(いずれも一九〇二年)に次ぐ珍品といえる。  O・ヘンリー版のホームズ・パロディの第一作は「シャムロック・ジョーンズの冒険[#「シャムロック・ジョーンズの冒険」はゴシック体]*」。この作品では、ワトスン役のホワッツアップ(Whatsup = どうした? なにが起こった?)に対してなんとか名探偵の体面を保ったシャムロック・ジョーンズも、つぎの「シャムロック・ジョーンズ対名探偵[#「シャムロック・ジョーンズ対名探偵」はゴシック体]*」では、もう一人登場する名探偵ジャギンズの前で赤恥をさらし、最後の「怪盗、名探偵を捜す[#「怪盗、名探偵を捜す」はゴシック体]」では、ホワッツアップと賭をした殺人犯にとうとう逆に後を追われる。このアイディアは秀抜だ。  ここまで編纂活動をつづけてきたが、この短編集の掉尾を飾るべき一編は、ある「死刑囚の夢*」を非情に描いた未完の掌編ということになりそうだ。刑の執行を分刻みで待つ死刑囚に、いったいO・ヘンリーはどんな夢を見させようとしたのだろう。  O・ヘンリー自身は、半年間重い病いの床についたあと、一九一〇年六月五日、ニューヨークの東三十四丁目通りの総合病院で息をひきとった。先輩マーク・トウェインも、同じ年の四月二十一日に世を去っている。私たちに、いまも人生の喜怒哀楽の物語を親しく語りかけてくれる、この二人の偉大な作家が、最後に見たのはどんな夢だったのだろうか。 【付記】 本章で私が編纂した架空の『O・ヘンリー・ミステリー傑作選』は、うれしいことに、同タイトルで河出書房新社から刊行される運びになった。同書に翻訳収録した二十七編の題名は、文中に太字で示してある。 [#改ページ] (画像省略) アメリカのホームズたち[#「アメリカのホームズたち」はゴシック体] [#地付き]●一九一〇年代——その㈰[#「●一九一〇年代——その㈰」はゴシック体]     ——忘れられた作家群像  アメリカの熱中時代[#「アメリカの熱中時代」はゴシック体]  めざめかけた巨人アメリカが、第一次世界大戦(一九一四〜一九一八年)というはじめての大きな国際的試練や数々の社会的変革に直面させられた激動の一九一〇年代を、たとえば〈狂乱の一九二〇年代〉にならって象徴的に名づけるとすれば、〈変動と改革の熱中時代〉ということになるだろう。  一九一四年に火ぶたが切られ、やがて全ヨーロッパに戦火がおよんだ第一次世界大戦にそれまでの孤立政策をすてたアメリカがようやく参戦の決意をかためたのは、一九一七年のことだった。大学教授出身の学究派、ウッドロウ・ウィルスン大統領の対独宣戦布告によって、アメリカとアメリカ人は否応なく〈世界のなかのアメリカ〉という意識にめざめさせられたのである。  軍需産業が好景気を迎えるのは一九一八年以降のことだが、一九一〇年代はアメリカ資本主義が隆盛期にさしかかった時期にあたり、国民総生産はこの十年間に二・四倍の七百二十億ドルに達した。裏返しにいえば、貧富の差がますます顕著になっていった時代だったのだ。いわゆるアメリカ的な�|良き生活《グツド・ライフ》�を謳歌する風潮が消費生活をいっそう拡大させ、当然そのための各種のひずみが生じてきた。低額所得者層の約半数は、休日なしの一日十二時間労働を強いられ、スラム街の住人や黒人による暴動、労働争議の悪化が表面化した。資本主義の利潤のおこぼれにありつこうとする大衆の欲求不満が、皮肉なことにいつの時代にも、まやかしの繁栄の原動力となるのだろう。  官憲や州兵による武力介入、企業側に雇われたスト破りの暴力団などによる弾圧が各地で激化し、九千人が参加したコロラドの鉱山ストライキ(一九一四年)では二十一人の死者が出た。資本家と労働者のこのはげしい対立は各地でくりひろげられ、一九一六年上半期には全国で二千件以上のストライキを数えるにいたった。戦時中のヒステリー状態のなかで労働運動の弾圧やフレーム・アップはいっそうはげしさを増し、反戦ビラをまき、社会主義武力革命をめざす過激派が何百人となく逮捕され、有罪の宣告をうけた。そして、愛国主義の名のもとに表現の自由が抑圧され、やがてヒステリックな�赤狩り�の時代へとなだれこんでいくのである。一九二〇年一月には、全国で五千人の�危険分子�がいっせいに逮捕され、強制収容や本国送還に処せられた。  犯罪史上には、少女殺しの容疑をうけた二十九歳のユダヤ系青年レオ・フランクが刑務所からひきずり出されて暴徒に私刑されるという悪夢のような事件(一九一三年)や、過激な黒人差別テロ集団KKK(クー・クラックス・クラン)の復興が記されている。FBIは一九〇八年に発足。また、一九一〇年代末に各州で順に施行されはじめた禁酒法を背景にマフィアの血を引く犯罪組織がしだいに勢力をのばし、シカゴでは〈狂乱の一九二〇年代〉の前触れとなる血なまぐさい流血騒ぎが頻発しはじめていた。  ヒステリックで暴力的な暗い側面とは対照的に、この時代を華やかに彩るきわめてアメリカ的な社会現象や大衆文化を代表したのは、科学万能の消費生活を背景に登場した自動車王ヘンリイ・フォードによる大衆車T型フォード(愛称ティン・リジー)とハリウッドに本拠地をかまえたサイレント映画の二大ブームであった。一九〇八年にはじめて市場に出たT型フォード(八百五十ドル)は、「一ドル安くするたびに千人の客がつく」というヘンリイ・フォードの信条のもとに大量生産、低価格の方針をつらぬき、一九二六年には一台二百九十ドルまで値下げを断行、一九二七年までの二十年間に千五百万台を売りつくした。  一方、一九一〇年にはロサンジェルス郊外のひなびた田舎町にすぎなかったハリウッドは、数年のうちに年間七億ドルを売り上げる巨大産業と化し、マック・セネットのドタバタ喜劇、パール・ホワイト主演の連続活劇『ポーリンの冒険』(一九一四年作)、D・W・グリフィスの大作映画『国民の創生』(一九一五年作。南北戦争を背景にした一大叙事詩。KKK団が愛国主義者結社としてあつかわれている)、『イントレランス』(一九一六年作)などの作品を生みだし、チャップリン、メリー・ピックフォード(いずれも一九一六年当時、週給一万ドル)、エルモ・リンカンのターザン、ウィリアム・S・ハートの西部のヒーローなど、つぎつぎに大衆の人気者が登場した。  政治面では、やっと性差別にめざめた女性たちが十年間のデモを通じて、ついに一九一九年、参政権を獲得した。この時代は、車と映画と女たちというアメリカ的産物が一大勢力と化した時代でもあったのだ。  科学的探偵小説の元祖[#「科学的探偵小説の元祖」はゴシック体]  社会的にも文化的にもはげしく揺れ動いたこの激動の一九一〇年代という時代に、不運なことにアメリカのミステリーはほんのわずかなかかわりしかもっていない。娯楽という面だけからみても、映画や車といった新しい刺激にとうてい太刀打ちできなかったのだともいえるだろう。また、暗い過酷な現実から架空の謎解きの世界にのがれる逃避文学としてのパズル・ストーリーの形式もまだ充分に熟していなかった。  第八章で紹介した〈思考機械〉シリーズのジャック・フットレルのあとを継ぐ純アメリカ的な探偵小説作家をあげるとすれば、それは一九一一年からアンクル・アブナー物語(全二十二編)を書きはじめたメルヴィル・デイヴィスン・ポーストと、一九一〇年にはじまった科学者探偵クレイグ・ケネディのシリーズによって熱狂的な人気を集めたアーサー・B・リーヴの二人にしぼられるだろう。だが、ポーストのアブナー物語がむしろ後世になって高く評価されたのに反して、一方のリーヴの名前は現在ではほとんど忘れられている。  その第一の理由としてあげられるのは、発表当時リーヴが作中に盛りこんだ最新の科学捜査技術(声紋、筆跡・タイプライター文字鑑定、盗聴・盗視装置など)があっというまに手垢にまみれ、SFまがいの数々の疑似科学技術さえもすぐに古めかしいものになってしまったことだろう。ミステリー作家の科学的想像力が、実際の科学の急速な進歩に追いつかなかったのだ。  アーサー・B・リーヴは、アメリカにおける科学的探偵小説の元祖ではない。第八章でも紹介したように、ロドリゲス・オットレンギというニューヨークの高名な歯科医が、このジャンルのはしりといえる四作の長編ミステリーと、『クイーンズ・クォーラム』に選ばれた短編集『決定的証拠』(中短編十二編収録)をすでに十九世紀末に発表していた。  ホームズ登場の一八九一年から第一次世界大戦までのあいだに活躍した古典的名探偵たちを発掘し、復刻出版したイギリスの著名なジャーナリスト、ヒュー・グリーン卿は、その第四集『シャーロック・ホームズのアメリカのライヴァルたち』(一九七六年刊)のなかに、このオットレンギの短編を二作選んでいる。一つは同書の表紙を飾った「モンテスマのエメラルド」で、探偵役の副主人公である美術家で大金持ちの冒険家ロバート・リーロイ・ミッチェルが、替え玉の死体をつかって死んだように見せかけたり、乞食に変装したりして活躍する。もう一つの「名前のない男」では、主役のニューヨークの職業的私立探偵ジョン・バーンズが、記憶を失ったと称する男の正体を見破る。この事件は、じつはミッチェルがバーンズ探偵の推理力と探偵術を試そうと図ったお芝居だった。このように、プロの私立探偵とアマチュアの助手のどちらがホームズであり、どちらがワトスンなのかわからない趣向がとられているところにこのシリーズのおもしろさがある。  トニー・グッドストーン編の大判の挿絵入りアンソロジー、『パルプ』(一九七〇年刊)に収録された「別名泥棒氏」では、盗聴装置や隠しカメラを用いたミッチェルが逆にバーンズとの知恵くらべに勝つ結末になっている。この短編は、一九一六年に、前年ストリート&スミス社から創刊された探偵小説専門のパルプ誌『ディテクティヴ・ストーリー・マガジン』創刊号に掲載されたと記されているが、あるいは旧作の再録だったのかもしれない。また、クイーンは、盗まれた千ポンド紙幣の謎を二人が解く「凍った朝」(気温記録機が推理のきめ手となる)を、創刊まもない『EQMM』に再録している。  以下、本章では、当時輩出したアメリカ版ホームズたちのプロフィールを簡単に紹介していこう。  クレイグ・ケネディ教授[#「クレイグ・ケネディ教授」はゴシック体]  原作者は、アーサー・B・リーヴ。  一九一〇年に、〈アメリカのホームズ〉とまで謳われた科学者探偵クレイグ・ケネディ教授(ワトスン役は新聞記者のウォルター・ジェイムスン)を世に送り出したアーサー・B・リーヴは、一九三一年までにアメリカで二百万部、イギリスで百万部の単行本が売れた、当時のミリオン・セラー作家だった。  リーヴはニューヨーク州ロングアイランドのパチョグに生まれ、一九〇三年、プリンストン大学を卒業後、弁護士を志したが、ジャーナリストに転身、犯罪、政治、スポーツ、科学分野など幅広い領域をカヴァーした。その間の経験がのちの多作な作家活動に大いに資するところがあったのだろう。第一次世界大戦中には、政府の諜報活動および犯罪捜査研究所設立に顧問として招かれている。  身につけた知識の一つであった科学的犯罪捜査の技術を探偵小説に応用することを思いついたリーヴは、さっそく「ヘレン・ボンド事件」という短編を書きあげた。これが『コズモポリタン』の一九一〇年十二月号に掲載され、科学者探偵クレイグ・ケネディ(コロンビア大学教授)の連作が好評のうちに開始されることになった。 (画像省略)  「ケネディの論理」「無音の弾丸」「科学的金庫破り」「細菌探偵」「死のチューブ」「サイズモグラフの冒険」「ダイヤモンド・メイカー」「黒手組」「人工楽園」「鋼鉄の扉」など、いかにもそれらしい十三編を収録した第一短編集『無音の弾丸』(イギリス版題名は『黒手組』)は一九一二年に刊行され、これはのちに『クイーンズ・クォーラム』に選ばれることになった。  この第一短編集に収録された作品のうち、イギリス版の表題となった「黒手組」という作品では、名探偵ケネディが、秘密結社〈黒手組〉に誘拐されたと思われるテナー歌手の娘を救出するために、ミルクの中から毒物を検出したり、怪しげな賭博場に盗聴装置をしかけたり、誘拐犯と大立回りを演じたりの大活躍をする。マンハッタンのヴィレッジ周辺の風俗描写も興味深い。  ヒュー・グリーンは、アンソロジー『シャーロック・ホームズのアメリカのライヴァルたち』のなかに、リーヴの第二短編集『毒ペン』(一九一三年刊)のなかから「選挙運動ペテン師」を選んでいるが、この作品ではグリーンの好みもあって、いかにもアメリカ的な犯罪(不正選挙と選挙資金の横領)のからくりがあばかれ、科学者探偵ケネディは、壁に隠したピンホール・カメラで悪人たちの犯罪現場の証拠写真を写す。  一九一二年から一九一三年にかけて、『ハースト・マガジン』と『コズモポリタン』に掲載された作品を十二編集めた第三短編集『夢の医者』(一九一四年刊)の表題作は、大正十年に『新青年』に翻訳が紹介されている(その前に同誌には、クレイグ・ケネディものと思われる「眠れる死人」が初紹介された)。  リーヴのケネディものは、一九三五年刊の最後の短編集『クレイグ・ケネディ登場』まで、短編集が十二冊以上、長編が十作以上ある。『アームチェア・ディテクティヴ』一九七八年一月号に詳細なチェックリストを掲載したJ・ランドルフ・コックスは、『コズモポリタン』『エヴリボディ』『ハムプトン』『ハースト』『マクルア』などといった一般読物雑誌だけでなく、二〇年代から三〇年代半ばにかけて、主だったミステリー雑誌のほとんどすべてに顔を出しているおびただしい数のクレイグ・ケネディ物語を追跡調査しているが、正確な作品数はまだつかんでいないようだ。 (画像省略)  科学捜査や精神分析を犯罪事件の解決に応用する一方、ときには変装したり、拳銃を片手に活劇を演じたりする行動的な科学者探偵クレイグ・ケネディは、市民の英雄というにはいささか知識人でありすぎるが、けっしてヨーロッパ的な貴族探偵ではなかった。そのあたりの役柄が、当時のアメリカ大衆にうけた要素でもあったのだろう。  一九一〇年代には、このクレイグ・ケネディを筆頭に、いまでは忘れ去られた異色探偵や怪盗たちが、それぞれ趣向を凝らして登場した。  私立探偵、ルーサー・トラント[#「私立探偵、ルーサー・トラント」はゴシック体]  ウィリアム・マクハーグとエドウィン・バールマーの合作。  一九一〇年代に、いくつかの貴重な貢献をミステリー・ジャンルに残したこの合作チームの一人、ウィリアム・マクハーグは、ニューヨーク州生まれ、ミシガン大学出身、新聞記者あがりの当時の流行作家で、『サタディ・イヴニング・ポスト』や『コリアーズ』といった一流誌にひんぱんに寄稿していた。一方のエドウィン・バールマーは、シカゴ生まれ。ひとまわり年上のマクハーグと『シカゴ・トリビューン』で知り合い、マクハーグの妹キャサリンと一九〇九年に結婚。二人の結びつきはいっそう親密なものになった。  マクハーグ=バールマーの最初の合作は、『クイーンズ・クォーラム』に選ばれた『ルーサー・トラントの功績』という短編集だったが、この連作に登場するシカゴの私立探偵ルーサー・トラントも、一風変わった科学者探偵といえるだろう。ヒュー・グリーンも『シャーロック・ホームズのアメリカのライヴァルたち』に、トラントものを二作収載するほどの気の入れようで、おかげで私も「ミステリー史上はじめて嘘発見機を捜査に用いた」として知られている有名な「お偉方」という短編に接することができた。  この作品でトラントは、ニューヨークの波止場で起こった殺人と謎の失踪事件の調査を依頼され、国税局の潜入捜査官Tメンと協力して、密輸がらみの企業犯罪の陰謀をあばく。そのあたりは当時の三面記事を賑わしていたにちがいないセンセーショナルなアメリカ的犯罪の告発としておもしろいが、やはり興味深いのは、心理学に造Xの深いトラントが、尋問に嘘発見機を応用するくだりである。その結果、この心理学者探偵は、企業のトップの地位にいた意外な黒幕をつきとめる。  この合作チームは、高名な盲目弁護士ベイジル・サントワンと、彼の目となって協力するベイジルの娘と秘書というトリプル探偵が、ロッキーの雪で立ち往生した列車内での殺人事件を解決する長編ミステリー『盲人の目』(一九一六年刊)も残している。マクハーグは三〇年代に、お人好しの警官オマリーの短編シリーズで再度人気をあつめ、バールマーはのちに、ミステリーだけでなくSF分野でもいくつかの作品を書いた。  水晶球占い師〈千里眼アストロ〉[#「水晶球占い師〈千里眼アストロ〉」はゴシック体]  原作者のジェレット・バージェスは、マサチューセッツで生まれ、サンフランシスコで小雑誌『ひばり』を編集、同地を背景にした地方小説『ハート・ライン』で有名になった文芸作家。ミステリー研究家のアレン・J・ヒュービンは、バージェスの長編ミステリーとして、『白猫』(一九〇七年刊)、『女を見つけろ』(一九一一年刊)、『二時の勇気』(一九三四年刊)、『箱の中の女たち』(一九四二年刊)の四作をあげ、そのほかにウィル・アーウィンとの合作短編集『ピカルーンズ』(一九〇四年刊)と一九一二年に匿名で刊行された短編集『ミステリーの名人』をあげている。  この最初の合作短編集は多彩な悪人たちの登場するピカレスクものだが、全部で二十四編が収録されている。もう一つの短編集では、〈千里眼アストロ〉として知られるオカルトの大家アストロゴン・カービイというアメリカ生まれのアルメニア人が、妻のヴァレスカを助手に、ヨギの魔術、手相、水晶球などを駆使して名探偵ぶりを発揮する。  白トカゲをペットに飼い、絹のローブをまとい、頭にターバンを巻いた通称〈千里眼アストロ〉の冒険は、「ジョン・ハドスンの失踪」が邦訳されている。このユニークな名探偵は、通信販売詐欺のからくりをあばく同作でも明らかなように、〈千里眼アストロ〉の占い師としての派手な外見はあくまでもハッタリで、実際の捜査法はきわめて地道な裏付け調査と合理的な推理にたよっている。 (画像省略) 〈千里眼アストロ〉は「後に親友のマクグラウ警部の紹介でニューヨーク警察の顧問をつとめ……殺人光線の研究に凝りだし……ついにその研究の犠牲となって、一九一四年、数奇を極めた生涯を閉じた」ということだが、オカルティストが科学的研究のために命を失うというのも皮肉な運命だ。 〈千里眼アストロ〉の短編集を『クイーンズ・クォーラム』に選んだクイーンは、これとは別に、バージェス自身も自作の中で最高の探偵小説と自認している中編「ドームの殺人」を『EQMM』に再録し、高い評価を与えている。  PRマン、アヴェリッジ・ジョーンズ[#「PRマン、アヴェリッジ・ジョーンズ」はゴシック体]  原作者のサミュエル・ホプキンス・アダムズは、ニューヨーク州ダンカーク生まれのジャーナリスト作家。一九〇六年、医療、公衆衛生、薬剤問題に関する鋭い暴露ノンフィクション、『偉大なるアメリカのペテン』を発表して有名になった。没年の翌年に刊行された『テンダーロイン』(十九世紀末のニューヨークの売春街の異名)などの長編小説、ハーディングやウェブスター、同世代の文芸評論家アレグザンダー・ウルコットなどの評伝のほか、ユーモラスなショート・ストーリーも数多く書いている。クラーク・ゲイブルとクローデット・コルベールが共演したロマンティックな喜劇映画『或る夜の出来事』の原作も彼の作品の一つである。  アダムズには長編ミステリーも二作あるが(一九〇八年刊の『空飛ぶ死』と一九一二年刊の『淋しい入江の秘密』)、この分野で最も有名な作品は、『クィーンズ・クォーラム』に選ばれた短編集『アヴェリッジ・ジョーンズ』(一九一一年刊)である。ジョーンズは若いPRマンで、高級社交クラブ〈コズミック・クラブ〉に出入りし、奇妙な事件を聞きつけては調査にのりだす。  作品は全部で十編しかないが、そのうちの一編「ラテン語を話す男」はクイーン編の名アンソロジー『エンタテインメントの百一年』(一九四一年刊)の〈名探偵〉の項に収められ、ヒュー・グリーンも『シャーロック・ホームズのアメリカのライヴァルたち』に収録している。ここではジョーンズは、記憶を失ってラテン語しか話せなくなったという奇妙な人物の調査にボルティモアに赴き、ラテン語の稀覯本盗難事件を解決する。ただし、他の作品と同じようにユーモラスなオチがついていて肩すかしをくわされる。ヘイクラフトが「アイディア、スタイルともに水準をはるかに超えている」と評したとおり、言葉遊びや凝った文章が多く、なかなか一筋繩ではいかない。  多芸多才なアダムズは、ミステリー・ジャンルにさらにあと一つ貢献している。一九三五年にフランクリン・ローズヴェルト大統領が書いた探偵小説として知られている奇書『大統領のミステリー計画』(E・S・ガードナーが最終章を書いて一九六七年に単行本として刊行された)のなかで、アダムズもアントニー・アボット、S・S・ヴァン・ダインらとともにこの連作ミステリーの一章を受け持っているのである。  辺境探偵、ノヴェンバー・ジョー[#「辺境探偵、ノヴェンバー・ジョー」はゴシック体]  原作者、ヘスキス・プリチャードはインド生まれのイギリス作家だが、クイーンが「短編ミステリーにおけるおそらく唯一の辺境探偵」と呼んだフロンティアの男、ノヴェンバー・ジョーという異色探偵を生みだした。一九一三年刊の短編集『辺境探偵、ノヴェンバー・ジョー』(アメリカ版のほうがイギリス版より一カ月早く刊行された)は、『クイーンズ・クォーラム』に選ばれ、そのうちの一編「七人のきこり」が邦訳されている。 (画像省略)  この短編では、キャンプのきこりたちがつぎつぎに給料を奪われ、ジョーが捜査をはじめる。偽の手がかり(ブーツの足跡など)や無実の容疑者があらわれるが、優秀なガイドでありハンターでもあるジョーは、きこり仲間のなかにまぎれこんでいたごく身近な真犯人をつきとめる。プリチャードは開拓地の男たちや森の生活についてくわしいようだが、旅行者としての体験だけでなく、伝統的なアメリカの開拓者小説の愛読者でもあったのだろう。  この作品には出てこないが、ジョーにはケベックの実業家の後楯があり、地元の警察とも密接な関係がある。そのあたりの設定は、平民のなかから生まれた私立探偵の元祖とはいえない。しかし、最後の作品では危難から救った富豪の娘と恋におち、将来の地位も約束されるが、どちらも振り切ってふたたび森の生活に戻っていくという結末になっている。  未亡人の母親ケイトとともにイギリスに戻ったプリチャードは、このノヴェンバー・ジョーの連作をはじめる前に、母親と合作したスペイン人の盗賊ドン・Q物語(デビューは一八九八年)で大当たりをとり、二つの年代記短編集と長編『ドン・Qのラヴ・ストーリー』(一九〇九年刊)を残した。  怪盗ゴダール[#「怪盗ゴダール」はゴシック体]  イリノイ州生まれのジャーナリスト作家、フレデリック・I・アンダースンは、O・ヘンリーが日曜版で脚光をあびていた『ニューヨーク・ワールド』紙で一九〇八年まで花形記者として活躍していた。やがて『サタディ・イヴニング・ポスト』や『マクルア』といった一流誌にショート・ストーリーを寄稿するようになり、前者に掲載された稀代の怪盗ゴダールの冒険物語が評判になった。一九一四年に六編が短編集としてまとめられた『百発百中のゴダールの冒険』のなかから、クイーンは「盲人のもみ皮」を『エンタテインメントの百一年』の〈大盗賊〉の項に収録し、ヒュー・グリーンは表題作の短編を『シャーロック・ホームズのアメリカのライヴァルたち』に収めている。  グリーンが絶賛しているだけあって、この作品はツイストや手のこんだ趣向が凝らされた楽しい読物になっている。しばしばアンダースンの短編ミステリーの語り手として登場する作家のオリヴァー・アーミストンが、彼の創造したはずの架空の怪盗ゴダールにまんまとだしぬかれるという設定だが、二転三転するめまぐるしい変化と語り口のおもしろさは、一九五〇年代以降のアイディア・ストーリーにひけをとらない新鮮な魅力に満ちている。  マンハッタンを本拠地とする怪盗ゴダールが、たとえばラッフルズのような従来のヨーロッパの貴族泥棒たちとはっきり一線を画している特徴は、彼が論理と確率をもとにしたきわめて緻密な科学的計算のもとに獲物を狙うことである。この点は現代作家、エドワード・D・ホックの怪盗ニック・ヴェルヴェットも似ているが、ニックがあくまでも普段は一市民の生活を過ごしているのに反し、ゴダールは五十人の百万長者による特別会員制のペガサス・クラブの一員におさまっている。盗みのテクニックは科学万能時代のアメリカ産だが、やはりヨーロッパ風の選民意識をもった貴族泥棒の血筋を引いているのかもしれない。  怪盗ゴダールをたえずつけ狙っているニューヨーク警察のパー警視補は、のちに若い美人の女宝石泥棒ソフィ・ラングとも一戦を交えるが(一九二五年刊の『悪名高きソフィ・ラング』)、ここでもむなしく敗退。そのあとパー警視補は素人探偵役のアーミストンと組んでやっと手柄をたてる(一九三〇年刊の『殺人の本』)。この最後の作品は、パズル・ストーリーの流行にあわせて、警視補の持ってきた難事件をミステリー作家のアーミストンが安楽椅子に坐ったまま解決するという趣向がとられている。  詐欺師、ウォリングフォード[#「詐欺師、ウォリングフォード」はゴシック体]  オハイオ生まれのジョージ・ランドルフ・チェスターは、ジャーナリスト、映画シナリオ・ライター、演劇作家としても知られている。『サタディ・イヴニング・ポスト』や『マクルア』などの一流誌にもひんぱんに寄稿していたが、ミステリーの分野で最も有名な作品は、人当たりのいいデブの詐欺師、ジェイムズ・ルーファス・ウォリングフォードの登場する連作である。�一攫千金�(Get-Rich-Quick) の異名をもつウォリングフォードと相棒のブラッキー・ドウは、『クイーンズ・クォーラム』に選ばれた『一攫千金のウォリングフォード』(一九〇八年刊)および、『若きウォリングフォード』(一九一〇年刊)、『絶頂期のウォリングフォード』(一九一三年刊)、『ウォリングフォードとブラッキー・ドウ』(一九一三年刊)の四短編集に登場し、ほかに一九二一年刊の長編『ウォリングフォードの息子』がある。ウォリングフォードの専門は信用詐欺で、カモをみつけてはあやしげな事業に投資させ、まんまとペテンにかけて素早く儲けたカネを美酒と美食と高価な衣服にさっさとつぎこんでつかいはたしてしまう伊達男という設定がおもしろい。 (画像省略)  この種の詐欺師物語は、マーク・トウェインにはじまるアメリカの伝統的な民話の流れをくみ、いまでも変わらずに語り継がれている。ウォリングフォードの若い美人の細君ファニーが、夫の本職にかすかな疑惑をいだいているあたりは、現代の怪盗ニックと恋人グロリアの関係を思わせる。  チェスターのウォリングフォード物語は、一九一〇年にブロードウエイで大当たりをとり、一九一五年には連続映画として登場した。トーキー時代に入って、一九三一年にも、サム・ウッド監督で再映画化されている(MGM。ウィリアム・ヘインズ、アーネスト・トレンス、ジミー・デュランテ共演)。  これらの異色探偵のほかにも、古くはヘイクラフトやクイーン、新しくはヒュー・グリーンなどが発掘し、紹介している一九一〇年代の〈ホームズの忘れられたライヴァルたち〉は多い。  また〈ヴィクトリア朝時代から一九四〇年代までの十五人の女探偵〉という副題がつけられたミッシェル・B・スラング編のアンソロジー『女たちの犯罪』(一九七五年刊)には、ちょうどこの時期に活躍したアメリカ産の三人の女探偵、マデリン・マック(ヒュー・C・ウイア作)、ヴァイオレット・ストレンジ(A・K・グリーン作)、コンスタンス・ダンラップ(A・B・リーヴ作)の登場作品が並んでいる。いずれも男顔負けの行動的で頭のいい才色兼備の女性たちだが、その彼女たちでさえ、当時は選挙の投票権すら与えられていなかった。おそらく彼女たちも、ミステリーにおける活躍を通じて、女性の地位向上に寄与したことになるのだろう。  一九一〇年代の中ごろまで、咳止めの薬などと称して自由に売られていたヘロインやコカイン系の薬物がついに販売禁止になり、その混乱にまぎれて麻薬を売る悪徳医師や悲惨な中毒者を題材にした時局的なミステリーなどもまじっていて、当時の風俗を知るうえでもおもしろい。  一九一〇年代のミステリー作家といえば、もう一人、本命のメルヴィル・デイヴィスン・ポーストがいる。アメリカ主義を推進する近代アメリカの揺籃期であった一九一〇年代に、ポーストは、あえて南北戦争前のウェスト・ヴァージニアを物語の舞台に設定し、アンクル・アブナーという古風なヒーローを創りだした。ヒュー・グリーンは、時代背景の古さゆえに、アブナーをホームズのアメリカのライヴァルの一人とみなすことはできないと明言し、アンソロジーからはずしているが、あるいはアブナー物語こそ、激動の一九一〇年代に最もふさわしい、同世代人への寓意を秘めた黙示録だったのではないだろうか。 [#改ページ] (画像省略) 聖書を持った辺境の騎士[#「聖書を持った辺境の騎士」はゴシック体] [#地付き]●一九一〇年代——その㈪[#「●一九一〇年代——その㈪」はゴシック体]     ——アンクル・アブナーの世界  アブナー物語の舞台と時代[#「アブナー物語の舞台と時代」はゴシック体] [#ここから2字下げ]  アブナーは馬をとめ、アレゲニーからオハイオ川に向かって広く西にひろがる広大な斜面を見おろした。  斜面は巨大な弧をなして下っている。  その土地を、山裾が弓状に囲んでいる。尾根は、わずかに傾斜した幅の広い台地になっている。その台地が鋭くとぎれるあたりから、長くつづく草地が急勾配で川に達し、その先の草原へとつづいている。  ここは、アメリカで最も古い牧牛地帯である。  百年も前から柵で区切られてきた放牛地である。  開拓者は、この大陸がまだ若かった頃、ここを切りひらいた。当時、この西の土地はイギリス国王の直轄植民地で、不明確な境界線に囲まれたヴァージニアは、広大な一帝国をなし、アレゲニーが、西部の赤い掠奪者の群に対する万里の長城の役割を果していた。 [#ここで字下げ終わり]  これは、おもに一九一〇年代に、短編ミステリーの分野で独自の世界を切りひらいたメルヴィル・デイヴィスン・ポーストが創造した純アメリカ的な探偵ヒーロー、アンクル・アブナー物語の最後の作品と推定される中編小説(「〈ヒルハウス〉の謎」)の冒頭部分である。二十二編のアブナー物語の背景となっている土地を、まず大ざっぱに理解するには格好の一文だろう。 (画像省略)  このあたりの地図をひろげていただけばわかるのだが、ここでいうアレゲニーというのは、現在のヴァージニア州とウェスト・ヴァージニア州を境しているアレゲニー山脈のことである。さらに大きな地勢図をながめると、アパラチア高地の西にぴったり沿って、ヴァージニアからさらに北北東へニューヨーク州北西部に長くつづくアレゲニー台地が目につく。かつてエマースンが、「アメリカはアレゲニーをもって始まる」と名言を残したこのアレゲニー台地は、ニュー・イングランドをふくめた東部植民地をインディアンから守る自然の砦であったと同時に、西をめざす開拓者たちが乗り越えねばならない難関でもあったのだ。  ポーストは、アブナー物語の背景となるべき土地(「神が自分の楽しみのために創造した新世界」)を、このアレゲニーの西に設定した。 [#2字下げ] ヴァージニア州庁は、はるかアレゲニー山脈の東にあり、まるで世界の壁のように遠くそばだつ山に囲まれたこの広大で肥沃な土地では、自分自身の手で治安を守っていかねばならないのだ。そして、それを守るのはアブナーのような鉄の男だった。この土地をイギリス国王から与えられて以来、祖先はこれを野蛮人の手から守り、そしてのちには国王の手からも守りぬいてきたのである。(「金貨」)  大西洋に接するヴァージニアは、イギリスの植民地として最も古い歴史をもっている州である。十七世紀初頭にヴァージニア植民地が生まれ、独立戦争ではマサチューセッツ議会とともにリーダー格を務め、ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファースンなどのすぐれた人材を送っている。いうまでもなく、ワシントンは、連邦軍指揮官を経てアメリカ合衆国の初代大統領となり、独立宣言の起草委員の中心となったジェファースンは、国務長官、副大統領を経て第三代大統領の椅子についた人物である。  そして一七八八年、ヴァージニアはアメリカ合衆国の十番めの州となった。〈騎士の州〉の別名をもち、州花は、ポーストの文中にひんぱんに出てくるハナミズキ、モットーは「暴君には常にかくのごとく」である。  アブナー物語の時代背景については、これまで、いわゆるジェファースン時代と呼ばれる十九世紀初頭だとする説が多かったが、ポーストの評伝『数多くの謎をもつ男』(一九七三年刊)を著わしたチャールズ・A・ノートンなどが指摘しているように、南北戦争前の十九世紀中葉とみるほうが妥当であろう。  アブナー物語にはインディアンとの争いは昔話としてしか出てこないし、ノートンが指摘している以外にも、十九世紀中葉説を裏づける間接的な証拠は多い。たとえば、一八二四年に四十前の若さで死んだメキシコの革命家、アーグスティン・デ・イトゥールビテとかつて行動をともにした人物とか、十九世紀後半に世を去ったイギリスの経済学者、ジョン・スチュアート・ミルの書物などが文中に出てくる。  黒人奴隷が当然のごとく出てくるところから、南北戦争以前であることはすぐにうなずけるが、それに関連してもう一つ重要なことは、物語の舞台がアレゲニー山脈の西に設定されながら、当時はまだその土地がヴァージニアの一部であったという事実である。  ヴァージニアは、一八六一年に連邦を脱退し、アラバマ、ミシシッピー、テキサス、ルイジアナ、フロリダ、テネシー、アーカンソーなどとともに十一州からなる南部連盟に加わった。このとき、最初の独立十三州のなかで、ヴァージニアとともに南部連盟についたのは、ジョージア、サウス・カロライナ、ノース・カロライナの三州だった。  だが、アレゲニーの西に位置する四十の郡は連邦脱退に反対し、ヴァージニアはアレゲニーを境に二分され、一八六三年、ウェスト・ヴァージニア州が、分離・独立した。  しかし、ポーストは、南北戦争を予見する物語を一編残したのみで(「血の犠牲」)、このヴァージニア州の分裂についてはほとんど触れていない。とはいえ、おそらく私の印象では、ポースト=アブナーのヴァージニアは、あくまでもアレゲニーの西に限定されるのだろう。ちなみに、ウェスト・ヴァージニア州の別名は〈山の州〉であり、「山の住民は常に自由である」をモットーとしている。  故郷で死んだポーストの生涯[#「故郷で死んだポーストの生涯」はゴシック体]  なぜ私は、アブナー物語の背景となっている土地と時代にこだわるのか。それはたんに、この二十二編の連作が、都会を離れた地方ミステリーであり、また時代をさかのぼった歴史ミステリーであることを裏づけるためだけではない。アブナー物語は、〈辺境の開拓者たちの時代とその土地の物語〉そのものであるからだ。先祖伝来の土地への執着が、あるときは探偵役アブナー自身の切実な利害関係ともかかわりあって(「悪魔の足跡」)、この連作の多くに描かれている犯罪の核となっていることを見逃してはならない。 [#2字下げ] ヴァージニアでは、土地を所有することが社会的地位の象徴である。ジョージ三世が授与した爵位をジェファースン大統領が無効にしてからは、身分、地位の象徴は土地だけになった。(「ナボテの葡萄園」)  土地争いが原因となって殺人にいたる物語は、いまあげた「悪魔の足跡」「ナボテの葡萄園」のほかにも、「手の跡」「第十戒」「奇跡の時代」などがあげられる。遺産相続をめぐる近親間の葛藤や争いのなかにも、「養女」「藁人形」「アベルの血」など、土地の相続権をめぐる殺人事件がひんぱんに物語られることはいうまでもない。  土地争い、相続権争いについで多くみられるのは、「天の使い」(「神の使者」)、「黄昏の怪事件」(「私刑」)、「禿鷹の目」「闇夜の光」「〈ヒルハウス〉の謎」などに出てくる牛泥棒や、牛を売った代金を狙って相棒を殺す事件である。これもまた、この時代の、この土地に特有な犯罪といえるだろう。  著者ポーストの生涯に触れる前に、アブナー物語の舞台となっている土地について、あと一つ気づいたことを記しておく。  壮大な自然や、放牛地、廃屋、先祖伝来の墓地、山の男たちや旅人が集まる旅篭屋や居酒屋、巡回裁判所などの細かな描写に接する読者は、この連作物語を読みながら、広大なヴァージニア西部地方をありありと頭に思い描くことだろう。だが、くわしく作品にあたってみると、ポーストは、具体的な町の名前や地名を文中に記述することを極力避けていることがわかる。  かろうじて私が発見した実在の地名は、「死者の家」に出てくるロスト・クリークという名前ただ一つだった。くわしい地図を調べると、この地名は、ウェスト・ヴァージニア州の北西部の中ほどに位置するハリスン郡の南端に見つかった。ポーストの生まれた土地のごく近くにあたるのだろう。ハリスン郡の中心である、人口三万ほどのクラークスバーグ(ポーストの墓がある)の南十キロほどのところにあり、ポーストが一九一四年以来妻とともに住んでいた大邸宅も、多分このあたりにあったにちがいない。  具体的なくわしい地名をいっさい記さずに描いたために、逆にアブナー物語の舞台はヴァージニアの西部一帯に大きくひろがっていった。おそらくこれは、著者ポーストが意図的に狙った効果のあらわれだろう。  作品解題の前に、ここで、メルヴィル・ディヴィスン・ポーストの生涯について簡単に触れておく。  生年は一八六九年(四月十九日)、三年前に結婚した父、アイラ・カーパー・ポーストと母、フローレンスとのあいだの二人めの子供として、クラークスバーグの近くのロミネス・ミルズで生まれた。厳格な信心家であった父(アブナーのモデルといわれる)を助けて、一年間(十五歳ごろ)、放牛地で牛を育て、一八八七年、ウェスト・ヴァージニア大学に入学。法学部を卒業後、ホイーリングで共同法律事務所を開業。法曹界、政界で精力的に活動するかたわら、悪徳弁護士ランドルフ・メイスンを主人公にした短編を書きはじめる(第六章参照)。メイスンものの第一短編集(一八九六年刊)、第二短編集(一八九七年刊)があいついで刊行され、ついで一九〇一年、ウェスト・ヴァージニアを舞台にした西部冒険小説『丘の住人たち』を発表し、作家としての地位を確立した。 (画像省略)  一九〇三年、ヴァージニアの魅力的な未亡人、アン・ブルームフィールド・ギャンブルと結婚。やがて男児をもうけるが、腸チフスのため一歳半で死亡。ポースト夫妻は悲しみをまぎらすためにヨーロッパに旅立ち、大半をイギリスで過ごした。  一九〇八年、善人となったメイスン弁護士の第三短編集が刊行され、帰国後、ポーストは短編小説を一流読物雑誌のために多作するようになる。アブナー物語の第一作「天の使い」は、『サタディ・イヴニング・ポスト』一九一一年六月三日号に掲載された。初期十八編のアブナー物語を収録した短編集は、一九一八年に刊行された。  一九一九年、夫人が肺炎で死亡。一九二三年、父アイラが死亡。ポースト自身は失意と孤独の晩年を送り、一九三〇年、落馬が原因となり、六月二十三日に六十一歳でこの世を去った(その十四日後に、イギリスでは、コナン・ドイルが他界している)。  ポーストは、アンクル・アブナーのほかにも、初期のメイスン弁護士を筆頭に、ロンドン警視庁のマーキス犯罪捜査部部長、アメリカ諜報部のウォーカー部長、パリ警視庁のヨンケル長官、弁護士ブラクストン大佐など多彩なシリーズ・キャラクターを創造したが、いずれも私にとっては、アンクル・アブナーほどの魅力の感じられない探偵ヒーローたちにすぎない。生まれ故郷を舞台に、作者自身が最もよく知っている山の男たちを描いたアブナー物語の連作には、地方ミステリー、時代ミステリー、パズル・ストーリー、宗教探偵といった各種のレッテルを超越した不可思議な魅力が満ちあふれているのである。  アブナー物語をどう読むか[#「アブナー物語をどう読むか」はゴシック体]  紹介が前後してしまったが、全二十二編のアブナー物語の連作は、二種の文庫本(早川、創元)によって、すべて邦訳に接することができる。  一方の『アンクル・アブナーの叡知』には、初期十八編が一九一八年刊の原典と同じ配列で収録されている。これのリプリント版には、アントニー・バウチャーの序文が付せられたコリア・ブック版(一九六二年刊)と、エドマンド・クリスピンの序文のついたイギリスのステイシー版とがあるが、この後者のステイシー版の刊行(一九七二年)が、アブナー物語のイギリスにおける初お目見得であったという事実は特記しておかねばならない。ジュリアン・シモンズなど一部の評論家やミステリー愛好者をのぞいて、ポーストのアブナー物語は、それまでイギリスでは、ほとんど読まれていなかったのである。そのシモンズ自身も、この連作に言及して、「物語の背景とテーマがきわだってアメリカ的であるために……アメリカ人を惹きつける魅力が他国人に対しては欠如しており……アンクル・アブナーは、現実味のないかけはなれた人物に思える」と記している。この高飛車な論理にはうなずけないところもあるが、要するにイギリス人の好みには合わないということだろう。 (画像省略)  他方、『アブナー伯父の事件簿』には、最初の短編集には未収録の後年発掘された四編をふくむ十四編が、推定執筆年代順に収められている。ということは、残りの十編が前者と重複しているということである(重複している作品名には、カッコ内に後者の邦題名を付した)。また、原典に関心のある方には、『ミステリー・ライブラリー』の一巻として一九七七年に刊行された『完本・アンクル・アブナー』という完璧なテキストがある。これには、クロノロジカルに配列された二十二編がすべて収録され、ほかにも貴重な文献や資料が収められている。  この二十二編のアブナー物語を、全編を通じて再読した私自身の感想を、以下に簡潔に記していこう。便宜的に各編には推定執筆年代順に㈰から(22)まで番号を付した。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈰「天の使い」(「神の使者」)The Angel of Lord  アブナー物語の語り手である甥のマーチン少年(ここでは九歳)が、牧牛の代金を支払いに行く道中で大金をならずものの牛飼いに狙われ、危ういところをアブナーに救われる。聖書をつねに持ち歩く信心家でありながら、軍神を信ずる戦う教会の一員であるアブナー伯父のたのもしい姿が、少年の尊敬と畏怖の念を通して描かれている。殺人を決意した男の形相がしだいに変貌してゆく描写がすさまじい。アブナーは殺人者の犯行を推理したあと、裁きは下さずに見のがしてやる。 〔名言〕 人間はいまだに盲目だが、いつまでもそのままでいるべきではない。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈪「手の跡」The Wrong Hand [#ここで字下げ終わり]  山に住む男が、自分に土地の分割を要求していた弟が剃刀で自殺したから、調べて埋葬してくれという。テーマは相続権をめぐる偽装殺人。死体についていた血まみれの手の跡が、死人のものでないことをアブナーは知る。稚拙だが意表をつくトリック。 〔名言〕 死者の意志は、生きている人間の要求によって無効になる。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈫「死者の家」The House of the Dead Man [#ここで字下げ終わり]  郡税を預かっていた保安官が強盗に襲われ、税金を奪われたうえ、家に火をつけられる。アブナーは、「神以外の者が奪ったのなら武器を手にして追跡し、奪いとられたものをとり返さねばならぬ」といい、事件の真相をつきとめる。だが彼は、奪われた大金をとり返しただけで、犯人を逃がしてやる。初期のアブナーは非常に寛大だった。 〔名言〕 不運などで人の名誉は汚されない。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈬「第十戒」The Tenth Commandment [#ここで字下げ終わり]  登記の不備につけこんで土地を入手した男とアブナーの〈法と正義〉論議がつづく。アブナーは、「法のもとでは、弱き者や無知な者はそれゆえに損をし、抜け目のない者や狡猾な連中はそれゆえに得をする」といい、法は必ずしも正義ではないと主張する。だが彼は、法的なトリックを用いて男をペテンにかける。それが、男の殺人行為を未然に防ぐ手段だったという情けの裁きがおもしろい。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈭「黄金の十字架」(「悪魔の道具」)The Devil's Tools [#ここで字下げ終わり]  本編以降、一種のワトスン役をつとめるランドルフ治安判事の娘が、先祖伝来の高価な宝石を失い、アブナーが消えたエメラルドの謎を解く。O・ヘンリー調のいい話。全二十二作のうち、殺人(および殺人未遂)事件が出てこない話は、わずか四編にすぎない(本編と㈫㈯㈲の三編のみ)。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈮「黄昏の怪事件」(「私刑」)A Twilight Adventure [#ここで字下げ終わり]  二人組の牛泥棒を山の男たちが私刑にしようとしている現場に通りかかったアブナーが、巧みな弁舌によってリンチを中止させる。いわゆる名推理を逆手にとっているのがおもしろい。レトリックの妙とツイストのきいたオチだけでなく、内容的にも深みのある物語だと思う。ついでながら、ウェスト・ヴァージニア州にはリンチバーグという名前の中都市がある。 〔名言〕 標識というものは、妙なことに、自分の進もうとする方向しか指し示さない。踵を返して出発点に戻ってみないかぎり、このことはけっしてわからないものだ。  失われたユートピア[#「失われたユートピア」はゴシック体] 『完本・アンクル・アブナー』に同時収録されている、これまで未紹介だったポースト自身の「短編ミステリー論」を読むと、先駆者ポーの確立したミステリー作法に彼が明白に異を唱えていたことがわかる。ポーストの論を要約すると、ミステリーの謎解きや説明は、物語の進行と平行してすすめられるべきであり、物語が終わったあとに無用な説明(名探偵の謎解き)がついているミステリーは失敗作である、ということになる。「物語が終わると同時に謎解きも完全に終わっていなければならない」とするこのポーストのミステリー作法は、いまでもなお新鮮な意味を持つように、私には思える。  作品解題の先をつづけよう。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈯「魔女と使い魔」(「地の掟」)The Hidden Law [#ここで字下げ終わり]  娘と二人で暮らしていたケチな老人が隠していた金貨が消え、アブナーが真相をつきとめる。金貨消失の謎を解く手がかりや伏線が、作法どおり物語の進行と同時に示され、アブナーは真犯人の動機を知って見のがしてやる。ミステリー評論家のアントニー・バウチャーは本編をアブナー物語のベストにえらんだが、私はそれほど感銘はうけなかった。 〔名言〕 大地から得たものは、これを三等分せねばならぬ。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㉀「金貨」The Riddle [#ここで字下げ終わり]  アブナー物語に描かれる殺人事件の重要な特徴は、被害者がきまって男であり、しかもその多くが高齢の老人であることだろう。この作品でも、ひとり暮らしの老人が殺され、大金が奪われる。アブナーは、田舎医者を相手に名推理をはたらかせるが、めずらしく彼の推理には一つだけ重大な欠陥があった。追いつめられた犯人の自殺を暗示するシーンで余韻をのこす幕となり、佳作の一つにあげられる。なお、本編に登場する老医師ストームは㉂14などにも顔を見せている。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈷「神のみわざ」(「不可抗力」)An Act of God ㉂「ナボテの葡萄園」Naboth's Vineyard ㉃「ドゥームドーフ殺人事件」The Doomdorf Mystery [#ここで字下げ終わり]  以上三作は、一九一四年前後に書かれた作品で、いずれも名作の誉れ高く、各種アンソロジーに収録されている。  ㈷では、共進会で見世物をやっている老人のナイフに当たって男が死ぬ。事故か殺人か。筆跡の偽造を見破ったアブナーは真相を知り、断罪はせずに殺人者を見のがす。㉂では、ある老人が殺され、作男とその恋人がたがいにかばいあって有罪を自供するが、アブナーは法廷で意外な真犯人を指摘する。11は有名な密室殺人。短編ミステリーとしては重要な意味を持つが、トリックの設定に重点がおかれすぎているきらいがある。「この世には不思議な偶然もあるもんだ!」というランドルフに対して、アブナーが口にする結びの名セリフ「この世には神の裁きが満ちみちているのだ」が有名である。  なお、11の作中に、ポースト自身の独白ともいうべき次の興味深い挿入句がある。 〔名言〕 物語らぬこと——それが物語作者の芸の常道である。物語るのは聞き手のほうだ。語り手は暗示を与えさえすればよい。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈹「宝さがし」(「海賊の宝物」)The Treasure Hunter [#ここで字下げ終わり]  偽装殺人。放蕩者の兄が遺産分割めあてに弟にいやがらせをする。オチが秀逸。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈺「奇跡の時代」The Age of Miracles [#ここで字下げ終わり]  銃の暴発で死んだ男の死体にはめられていた手袋からアブナーが真相を知り、真犯人を見のがすかわりに取引を申し出る。 〔名言〕 死者なんぞ、わしの知ったことじゃない。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈱「養女」The Adopted Daughter [#ここで字下げ終わり]  兄が死に、美しい奴隷娘も弟が遺産としてひきとろうとする。毒死でもなく、外傷もまったくない死体の謎をアブナーが見ぬく。陰惨なオチがついている。 〔名言〕 きみはわれわれに信じこませようとした以上の真実を語ってくれた。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈾「藁人形」The Straw Man [#ここで字下げ終わり]  広い屋敷で老人が殺され、二人の甥(盲人と弁護士)のなかからアブナーが真犯人を指摘する。14同様、犯人はアブナーにおそいかかり、格闘のあととらえられる。前期から中期にかけての作品では犯人に寛大な心を示したアブナーは、このあたりから後期にかけてしだいに苛酷さをまし、容赦なく罪人を罰するようになる。 〔名言〕 目の前に真実がぶらさがっていても神ならぬ身のわれわれには、それが見えない。あれこれ模索したあげく、ようやく真実に到達するのだ。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈴「血の犠牲」The Edge of the Shadow [#ここで字下げ終わり]  奴隷廃止論者の偽装自殺。騒ぎをおこす引き金になろうとしたという動機が興味深い。作中に、ポーストのヴァージニア主義というか、ニュー・イングランドへの根強い対抗意識がうかがわれるやりとりがある。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈲「偶然の恩恵」(「神の摂理」)The Mystery of Chance [#ここで字下げ終わり]  めずらしく、ミシシッピーの源流オハイオ川の河岸の居酒屋が舞台になり、荷をとりにきたアブナーが船長の偽装放火を見破る。 〔名言〕 神を出し抜くだと! あなたは、このわたしすら出し抜くことができないじゃありませんか——神の創り給うたもののなかで最も弱いわたしすらも。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈻「禿鷹の目」The Concealed Path [#ここで字下げ終わり]  挙式の席でアブナーが花婿の罪をあばく。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ㈶「悪魔の足跡」The Devil's Track ㈳「アベルの血」The God of the Hills (21)「闇夜の光」The Dark Night (22)「〈ヒルハウス〉の謎」The Mystery at Hillhouse [#ここで字下げ終わり]  ㈶〜(22)の四作は、一九二〇年代後半に雑誌に掲載された作品で(書かれたのもそのころか?)、内容的に前十八作と類似しているものが多い。きわだった特徴は、アブナーが結びで真犯人を指摘し、相手をとりおさえるというパターンがくりかえされていることである。四人の殺人容疑者の無実をつぎつぎに推理していく中編「〈ヒルハウス〉の謎」では、死についてのポースト自身の諦観が静かに語られ、�意外な犯人�とともに、この連作の掉尾を飾るにふさわしいフィナーレが待っている。  アブナー物語の精神を知るには、実際の作品に接していただくことがなにより近道だろう。ある時代の、ある土地の物語と私は記したが、ポーストのアブナー物語は、古き良き時代へのノスタルジーをこめた、たんなる昔話ではない。自由な大地というロマンティシズムに彩られた〈失われたユートピア〉を背景に、土地や相続権争いにまつわる、近親間の醜い葛藤を描かざるを得なかったところに、このアブナー物語の悲劇性を見るべきではないだろうか。それはとりもなおさず、フロンティアを国外に求めざるを得なくなった帝国アメリカの悲劇にも通じていたというべきだろう。 (画像省略)  個人の尊厳や自由が奪われ、帝国主義、資本主義の悪しき影響が国と人の心に重くのしかかりはじめた一九一〇年代への虚しい警鐘を込めて、ポーストは同時代人への二十二編の黙示録を記したのではなかったか。 [#改ページ] (画像省略) 西部の男は、いつハードボイルド私立探偵に変身したか[#「西部の男は、いつハードボイルド私立探偵に変身したか」はゴシック体] [#地付き]●一九一〇年代——その㈫[#「●一九一〇年代——その㈫」はゴシック体]     ——ウェスタン・ヒーローの伝統  危険をおそれず死に挑む男[#「危険をおそれず死に挑む男」はゴシック体]  一九二〇年代、パルプ・マガジン誌上に生を受けるハードボイルド私立探偵の原型は、ほんとうに〈西部のヒーローたち〉だったのか。もしそうなら、ウェスタン・ヒーローはいかにしてハードボイルド・ヒーローに変身したのか。  レイモンド・チャンドラーの世界をみごとに分析した名評論『男は独り卑しい街を行かねばならない』の第六章〈ザ・ヒーロー〉の冒頭でフィリップ・ダラムは、フロンティアの男たちとハードボイルド・ヒーローの血縁関係について、つぎのようなことをさらりと記している。  ——彼はけっして創造的人物ではなく、一八三〇年代にフロンティアについて書かれたアメリカ文学の中で生まれ、いまもつづいている伝統の一部である——。  ここでいう「彼」とは、当然フィリップ・マーロウのことだが、同時に「アメリカ文学におけるハードボイルド・ヒーロー」の代名詞と理解してもよい。いまの一節と、そのあとにつづく数節をくわしく分析することによって、的をしぼるべき突破口がひらけてくるだろう。  このあとダラムは、十九世紀前半のフロンティア文学の作家たちの名前を、『スケッチ・ブック』のワシントン・アーヴィングを筆頭に五人あげている。アーヴィングとあわせて第一章で触れたジェイムズ・フェニモア・クーパーの名前は見あたらず(周知の事実として省略したのだろう)、そのかわりに次の四人の作家の名前があげられている。  ハードボイルド・ヒーローの原型がこれらの作家の作品の中にあるといわれれば、放ってはおけない。持ちまえの考証癖が頭をもたげ、『オックスフォード・アメリカ文学事典』を当たってみることにした。  ●オーガスタス・ロングストリート  一七九〇年生まれのジョージアの法律家、教育者、作家。古い南西部の生活をユーモアをまじえてリアルに描いた。一八三五年刊の『ジョージア素描』が有名で、マーク・トウェインなどにも影響をあたえた。  ●チャールズ・ウェッバー  一八一九年、ケンタッキー生まれの冒険家。テキサス警備隊に入隊。ニューヨークで有能な新聞記者をつとめ、フロンティア探検に参加して、けばけばしいワイルド・ウェストの物語を多数発表。ニカラグアで戦死した。『老ガイド、ヒックス』(一八四八年刊)、『ヒーラの金鉱』(一八四九年刊)、『南の国境』(一八五二年刊)などの作品がある。  ●ジョゼフ・ボールドウィン  一八一五年生まれの南西部の法律家。一八三〇年代から一八四〇年代にかけて、アラバマとミシシッピーに住み、のちカリフォルニアに移住。スケッチ風の『アラバマとミシシッピーの熱狂時代』(一八五三年刊)が知られている。  ●アルフレッド・アーリントン  一八一〇年に生まれ、生涯の大半をフロンティアで過ごした弁護士作家。チャールズ・サマフィールドのペンネームで『南西部の無法者たち』(一八四七年刊)、『タナハの警備隊と司法官』(一八五六年刊)などを書いた。前者ではリンチの掟がリアルに描かれている。  有名な文芸事典にも載っている十九世紀前半の著名作家の名前を、ダラムが思いつくまま列挙したとは思えないが、それにしても私には、あまりにも馴染みの薄い作家名である。共通していえることは、この四人の作家がフロンティアで実生活を過ごし、そのときの体験をもとに同時代のフロンティア生活をリアルに描写したということだ。このなかでは、三十七歳の若さで戦死したチャールズ・ウェッバーという冒険家作家に最も興味をそそられる。  ダラムは、この四人の作家がスケッチや小説のなかで描いたヒーローたちについてはほとんど触れていないが、ただ一人、アルフレッド・アーリントンの作中人物について、「危険をおそれず、苦痛を笑いとばし、死に挑む男」と紹介していた。これが、ウェスタン・ヒーローに課せられた第一条件ということだろう。  J・F・クーパー〈革脚絆物語〉五部作[#「J・F・クーパー〈革脚絆物語〉五部作」はゴシック体]  十九世紀前半のフロンティア文学のなかに登場したヒーロー像をさらにくわしく知るために、ジェイムズ・フェニモア・クーパーが創造したナティ・バムポーというフロンティアの男の生涯を、もう一度おさらいしておこう。 (画像省略)  十八世紀後半のアメリカのフロンティアを舞台にした一大叙事詩ともいえる〈革脚絆物語〉五部作はクーパーの代表作であり、完結までに二十年近い歳月が費やされている。発表年代は前後するが、プロットの年代順にこの五部作を並べかえると、白人の文明社会に背を向け、荒々しいフロンティアの大自然のなかに生きた一人の白人スカウトの波瀾と冒険に満ちた生涯が雄大に物語られていることがわかってくる。 ㈰『鹿殺し』The Deerslayer  一八四一年に刊行されたこの最後の作品の時代背景が五部作のなかで最も古く、オステゴ湖周辺におけるフランス軍とインディアンの闘いが物語の背景になっている。デラウェア族のあいだで〈鹿殺し〉の異名で知られる三十代半ばの白人ナティ・バムポーが、友人の大男ハリーとともに、猟師のハッターとその二人の娘をイロコワ族から救出する話が主軸となっており、人質と交換につかまった主人公が期限つきで釈放されたあと、約束を守って引き返し、拷問をうけたり、二人の娘が猟師の実の子でないことがわかったり、主人公に恋をした娘の一人が悲劇的な死を遂げたり(この娘は主人公にインディアンとの約束を破らせようとするが、バムポーは名誉を守るために死地に引き返す)、作者お得意のメロドラマティックなお膳立てがふんだんに盛りこまれている。主人公をたすける重要な助っ人として、モヒカン族の最後の酋長チンガチグックも活躍する。  禁欲的で(主人公に恋した娘は死なねばならなかった)、名誉を重んずる男という性格づけが明白になされていることに注目すべきだろう。 ㈪『モヒカン族の最後(の者)』The Last of the Mohicans  五部作中この一作だけが邦訳されている。発表順では二作め(一八二六年刊)。日本での初訳は一九五〇年。発表後、一世紀と四分の一たっていた勘定になる。時代背景は一七五七年。主人公の白人スカウト(ここでは〈|鷹の目《ホーク・アイ》〉と呼ばれている)が、英国将校の二人の娘を護衛して、フランス軍とインディアンに包囲されているイギリス軍の砦に向かうところから物語がはじまる。一行のなかにまぎれこんでいたイロコワ族の青年マグアがじつはフランス軍側のスパイで、マグアは娘の一人コーラを妻にしようと娘をさらい、主人公の追跡行がはじまる。物語は、モヒカン族の酋長の息子アンカスと白人娘コーラの悲劇的な死(主人公はマグアを撃ち倒す)によって幕をおろす。このメロドラマティックな設定こそ、クーパーの十八番というべきだろう。 ㈫『案内人』The Pathfinder  発表順では四作めにあたり、時代背景は一七五九年。四十代の男盛りのスカウトになっている主人公は、イギリス軍砦に向かうメイベルという娘に同行している。一行のなかには、娘の叔父、インディアンの夫婦、チンガチグック、若い水夫などがまじり、砦には娘に求愛する若い士官が待っている。裏切者の手引きによって砦が襲われ、主人公は娘と父親を守る。裏切者はだれかというミステリー的要素と、娘をめぐる三人の男の対立がテーマになっている。娘は、父の命を守ってくれたら結婚してもいいと約束するが、主人公はいさぎよく娘を若い水夫に譲って砦を去る。  自分の生き方をかたくなに守り通し、なによりも定住と束縛(結婚)を嫌うフロンティア・ヒーローの信条が最もわかりやすく謳われている作品である。 ㈬『開拓者たち』The Pioneers 〈革脚絆物語〉の第一作として一八二三年に刊行された。時代背景は独立戦争後に設定され、六十代半ばにさしかかったナティ・バムポーは、ここでは〈レザー・ストッキング〉(革紐で巻きあげた靴下)の異名で呼ばれている。物語は、主人公の若い相棒オリヴァーと美しいヒロインのラヴ・ストーリーが中心になっており、老インディアン、チンガチグックが死ぬ山火事がハイライト。青年にインディアンの血がまじっているかどうかという�人種問題�が若い二人の結婚の障害となり、老インディアンの最後の証言によってハッピーエンドを迎える。 ㈭『大平原』The Prairie  発表順では三作め(一八二七年刊)。時代は十九世紀に移り(一八〇四年)、忠実な猟犬へクターと愛銃キルディアとともに西部の大平原で猟師(この作品では〈トラッパー〉と呼ばれている)をやっている主人公は、まもなく九十歳になろうとしている。インディアンに襲われかけていた移住者の群れをすくった主人公は、若い士官と一緒にスー族にさらわれた娘を助けたあと(平原の火事や野牛の暴走といったスペクタクル・シーン)、平和な大往生を遂げ、それと同時にこの五部作の一大叙事詩も終幕を迎える。  虚構の中の民話ヒーロー[#「虚構の中の民話ヒーロー」はゴシック体]  ジャンル上では一種の蔑称ともいえるロマンス小説の名で呼ばれ、文学的にはけっして高い評価をうけているとはいえないジェイムズ・フェニモア・クーパーのこの五部作は、むしろその通俗性ゆえにその後のフロンティア物語に大きな影響をあたえたといえる。単純で強固で自分だけの掟をもち、冷徹な神経と比類のない知恵を武器に、なによりも名誉を重んじ、束縛を嫌ったフロンティア・ヒーロー、ナティ・バムポーこそ、すべてのアメリカン・ヒーローの原型といってよいだろう。  だが、一つだけ明確にしておかねばならないことがある。それは、自然の男として生涯を貫きとおした主人公が、天寿をまっとうして平和な死を迎えたことである。「彼」にはまだ、主義を通しつづけて安らかな死を選べる自由が残されていたのだ。  十八世紀後半のアメリカのフロンティアを舞台にしたクーパーの五部作は、十九世紀の前半に刊行されている。このときアメリカには、まだたしかに未開のフロンティアが残されていた。この五部作にも、自然と文明の荒々しい衝突が描かれているが、それでもなお、自由な大地への夢はアメリカ人の前にひらけていたのだ。  ナティ・バムポーは、失われゆくフロンティアへのアンチテーゼとしてではなく、自由な生き方そのものの象徴として大衆のヒーローとなり得たのだということを、はっきり再確認しておく必要がある。と同時に、フロンティア・ヒーローからウェスタン・ヒーローへ、ウェスタン・ヒーローからハードボイルド・ヒーローへと大衆ヒーローの系譜をたどる作業が、夢の消滅と絶望的な荒廃への道を跡づけする作業になるだろうというまぎれもない予感もある。  話を振り出しに戻して、ダラムの評論の先を追ってみよう。実体験をもとにした南西部の地方文学に登場したヒーローにとってかわって登場したのがダイム・ノヴェルズのヒーローたちだったと、ダラムは記している。このダイム・ノヴェルズについては、本書の前半で詳述したが、その一例として、一八六〇年にスタートしたビードル兄弟の廉価本叢書の一作、エドワード・エリス作の『セス・ジョーンズ/フロンティアの虜囚たち』が四十五万部売れたという記録を再述するだけで充分だろう。セス・ジョーンズの強力なライヴァルが、ネッド・バントラインの手によって華々しくフィクション化されたバッファロー・ビル(一八六九年初登場)であり、エドワード・L・ホイーラーのデッドウッド・ディック(一八七七年初登場)だった。最も大量に民話のヒーローが生産されたこの時代のことは、第三章でくわしく触れた。  新しい大衆ヒーローとなったこれらフロンティアの男たちは、センセーショナルなダイム・ノヴェルズの書き手たちによって確実にある役割をふりあてられ、虚構のヒーローに変身していった。彼らは放浪者でありドロップアウトであり、定住者に対するアンチテーゼの使命を担った自由な騎士たちだった。その傾向は、十九世紀末にかけて、アメリカからフロンティアが消滅する速度に逆比例して顕著になっていった。  二十世紀に入って登場したオーウェン・ウィスターやゼーン・グレイの西部小説のヒーローたちは、すでに型のきまった既製品的人物にすぎず、やがてそのプロトタイプ・ヒーローが、私立探偵の姿を借りて再登場したのである。  ウェスタン・ヒーローの定型『ヴァージニアン』[#「ウェスタン・ヒーローの定型『ヴァージニアン』」はゴシック体]  前出の南西部の作家たちの影響を強くうけているマーク・トウェインと彼の『西部旅行綺談』や、カリフォルニアの辺境を舞台にしたブレット・ハートの諸短編(いずれも第六章で触れた)も、新しい西部小説の始祖としてあげておかねばならないが、アメリカ文学史のなかでほとんど無視されているに等しい今世紀初頭の西部小説作家たちも数多くいる。  ダイム・ノヴェルズ・ヒーローたちの架空の活躍がはじまるまで、フロンティア物語の多くはリアリスティックな実録ものだった。たとえば、ロバート・モンゴメリ・バードは、クーパーのセンチメンタリズムを批判する意味合いをこめて、インディアンとの苛酷な闘いを描いた『辺境のニック』という作品を一八三七年に発表している。このほかにも、ウィリアム・ギルモア・シムズの『イェマシー』(一八三五年刊)と『スカウト』(一八四一年刊)、アーヴィングと親交の厚かったジェイムズ・K・ポールディングの『西へ!』(一八三二年刊)、マサチューセッツの神父、ティモシー・フリントの『ショショニーの谷』(一八三〇年刊)や一八三三年刊のダニエル・ブーン伝、フランシス・パークマンの実録『ララミーへの道』(一八四九年刊)など、すぐれた作品が多い。これらに共通していえることは、前出のダラムがあげた南西部作家の作品同様、フロンティアの苛酷な生活をありのままに描いたことである。  だが、もちろんそれだけでは、大衆の人気を得ることはできなかった。その点にかけては、ダイム・ノヴェルズのプロの書き手たちの腕前のほうが数段上だった。そして、この西部講談ともいうべき伝統をうけて今世紀初頭に登場したのが、オーウェン・ウィスターの『ヴァージニアン』(一九〇二年刊)だったのである。  オーウェン・ウィスターは、一八六〇年、ペンシルヴェニアの名家に生まれ、ハーヴァードを卒業した生粋の東部人だが、級友のシオドア・ルーズヴェルトと同じように健康のために西部への転地をすすめられ(「贈りものの馬」という短編に作者自身と思われる東部人が出てくる)、ワイオミングの放牧地で療養生活を送っているうちに、そこでの体験をもとに西部小説を書くようになった。三つの短編集のあと、はじめて書いた処女長編『ヴァージニアン』がベストセラーとなり、いまも読みつがれている西部小説の古典がここに誕生したのである。 (画像省略)  この物語は、そのあだ名どおり、ヴァージニアのどこかからワイオミングに流れてきたヴァージニアンという、騎士道精神に富み、冒険的気性をもつハンサムな牧童の冒険ロマンス仕立てになっている。彼は、いっとき腰を落ち着けた牧場で牧童頭として働くようになり、そこで旧友と再会したり、美しい女教師モリーに恋をしたりする。町はトランパスという無法者のボスに牛耳られており、酒場の踊り子をかばったヴァージニアンは、トランパスを殴り倒し、うらみをかう。やがて主人公は、裏切者の牛泥棒となった旧友を吊し首にせねばならない窮地に追いこまれる。そのことを恋人に責められるが、それでもやっと結婚式にこぎつけた日、ヴァージニアンはトランパスから「陽が暮れるまでに町を出て行け」という挑戦状をつきつけられる。  町の人間と無法者の中間の立場に立つ流れ者ヒーロー、町を支配するボスとの対決、悪の道に走った友人との葛藤、主人公をめぐる二人の女性(清純なヒロインと根は純真なあばずれ女)、そして一対一の対決——ウェスタン・ドラマのすべての要素が、この物語に盛りこまれている。  法と無法、悪玉と善良な市民の中間に独り立つ流れ者ヒーローが、ハードボイルド私立探偵の原型であることは、これでほぼ明確になった。  西部小説の世界では、ヒーローは宿敵を倒したあと恋人と結婚し、町に定住するか、あるいは『シェーン』や『真昼の決闘』の老保安官のように、町に背を向けて漂泊の旅に出るかの二者択一をせまられる。フェニモア・クーパーのナティ・バムポーは生涯文明に背を向けつづけたが、ヴァージニアンは�結婚�と�定住�の道を選んだ。それがはたして、自由な男にとってのハッピーエンドであったか否かは、読む者に負わされた課題である。  オーウェン・ウィスター自身は、この処女長編一作きりで西部小説に背を向け、その後は青春小説やロマンス小説、伝記などで小さな成功をおさめただけだった。  ある西部劇映画ファンの告白[#「ある西部劇映画ファンの告白」はゴシック体]  いくぶんうしろめたい気持ちで白状すると、映画によって〈アメリカ〉の洗礼をうけた私にもご多分にもれず、ハリウッド製の西部劇映画に首までつかって過ごした青春時代があった。古いメモをひっぱりだして確認したところ、一九五四年から一九六〇年ごろまでの約七年間に、私は二百五十本近い西部劇映画を見ている。西部劇映画の新聞広告と一緒に丹念に記録されているそのメモには、たとえば〈一九五七年、三十八本〉、〈一九五八年、三十一本〉などと記入され、再上映される旧作を執拗に追いかけて、一九五九年三月には、戦後公開された三百十九本の長編西部劇映画のうち、二百六十七本(約八四パーセント)を見たと記している。かなりマニアックなファンだったらしい。  ジョエル・マクリー扮するヴァージニアンが、黒ずくめの衣裳に身を固めた宿敵トランパス(ブライアン・ドンレヴィ)を倒す『落日の決闘』が、ゲイリー・クーパー主演の『ヴァージニアン』の再映画化であることはもちろん知っていたが、原作者ウィスターについてはもとよりなにも知らず、関心もなかった。ただただクーパーの『ヴァージニアン』を見られないくやしさでいっぱいだったのだ。  私もそのくちだから大きなことはいえないが、一口に「ウェスタン」といった場合、西部小説を思い浮かべる人はほとんどいない。たいていの人が想像するのは昔懐かしい西部劇映画であり、マカロニ・ウェスタンであろう。ミステリー、ロマンスと並んで古くからの大衆読物の三本柱である西部小説は、日本では奇妙なことに熱烈な西部劇映画愛好者たちにさえも、まるで存在しないもののように無視されている。  逆にいえば、すべての大衆娯楽のなかで、明らかに「ウェスタン」だけがエンタテインメントとして、映画が小説の世界を圧倒しているジャンルだということだ。まれに、ジャック・シェイファーの名作『シェーン』(一九四九年刊)のように訳本が広く読まれることもあるが、めったに翻訳されることもない。オーウェン・ウィスターの『ヴァージニアン』には邦訳があるのだが、日比谷図書館や国会図書館をあたっても発見できなかった。これまでに翻訳されたものも、ひところの西部劇映画ブームに便乗して映画化作品が評判になったものに限られている。だが、いまさら古典をあたるまでもなく、洗練された技巧をもつ現代作家が書いた新しい西部小説、たとえばいまあげたシェイファーの『シェーン』一作を読めば、西部小説のすべてがわかるようなところもたしかにある。語り継がれる講談本のように、プロットも登場人物もぴたりと型にはまっているのだ。ある意味では、そのあたりもハードボイルド私立探偵小説ときわめて似ているといえるだろう。  ウェスト・コーストが行き止まり[#「ウェスト・コーストが行き止まり」はゴシック体]  オーウェン・ウィスターと相前後して、今世紀初頭に西部小説やカウボーイ物語を書いた作家たちの大半は、いまではほとんど忘れ去られている。申し分のないメロドラマ仕立てになっていた『ヴァージニアン』一作にもののみごとにしてやられたともいえるだろう。参考までにウィスターの同時代作家を生年順に列挙しておこう。  ●エマースン・ハフ  一八五七年、アイオワに生まれ、西部のニューメキシコで弁護士を志したが作家に転向。『カウボーイ物語』(一八九七年刊)、『無法者物語』(一九〇七年刊)、『フロンティアの情熱』(一九〇八年刊)など、西部を舞台にした歴史ロマンスを得意とし、一九二二年に発表した『幌馬車』がよく知られている。  ●アルフレッド・ヘンリイ・ルイス  一八五八年、オハイオに生まれ、弁護士をやっていたが、そのあとカウボーイとなって南西部を放浪。ダン・クインの筆名で、牧童と鉱夫の話をリアルに描いたブレット・ハート風の短編集『ウルフヴィル』物語(一八九七年から全六巻)が有名。  ●アンディ・アダムズ  一八五九年、インディアナに生まれ、カウボーイになるためにテキサスに向かい、鉱山ブームのコロラドで牧童の話を書きはじめた。テキサスからモンタナへ向かう一八八二年のキャトル・ドライヴを半自伝風に描いた『カウボーイ日誌』(一九〇三年刊)などがある。  ●ユージーン・マンラヴ・ローズ  一八六九年、ネブラスカ生まれ。青春期の大半をニューメキシコで過ごしたカウボーイ作家。『善人と真実』(一九一〇年刊)、『西部は西部』(一九一七年刊)の二作が写実的なカウボーイ物語として評価されている。  ●スチュワート・E・ホワイト  一八七三年、ミシガンに生まれ、カリフォルニアに長く住んだ。一九〇一年刊の『西部の男』と、河の男や鉱夫やきこりたちとの生活を実録風にまとめた短編集『アリゾナの夜』(一九〇七年刊)が有名である。  これらの作家たちの後を追って登場するのが、大衆向け西部小説の雄ともいうべき、ゼーン・グレイ、マックス・ブランド(本名、フレッド・ファウスト)、名短編「駅馬車」で知られるアーネスト・ヘイコックス、さらにはリューク・ショート、ウィリアム・マクレオド・レイン、フランク・グルーバー、A・B・ガスリー・ジュニアといったヴェテラン西部小説家たちである。西部小説のスーパー・ロマンティック派と呼ばれたゼーン・グレイは、ダイム・ノヴェルズの正統な後継者でもあり、第一作『ベティ・ゼーン』(一九〇四年刊)、最初のヒット作『砂漠の遺産』(一九〇八年刊)、代表作『パープル・セイジの騎手』(一九一二年刊)を含む六十作以上の長編を書き、これまでに千三百万部以上売れているといわれている。 (画像省略)  第一作『飼い馴らされざるもの』で、一九一八年にデビューしたマックス・ブランド以降の作家の活躍は一九二〇年代以後のことである。やがて到来する西部小説ブームを予見するように、ストリート&スミス社から初の西部小説専門誌『ウェスタン・ストーリー・マガジン』が創刊されたのは、一九一九年七月のことだった。 (画像省略)  同社は、一九一五年に初の探偵小説専門誌『ディテクティヴ・ストーリー・マガジン』を世に送りだしていた。そのあとを追って『ブラック・マスク』が創刊されたのが一九二〇年。フィリップ・ダラムの言葉を借りれば、「既製品的なウェスタン・ヒーローが、私立探偵の姿を借りて登場した最初の人物が、キャロル・ジョン・デイリイのレイス・ウィリアムズであり、ハメットのコンチネンタル・オプであった」ということになる。犯罪実話の世界に生きたハメットに一足おくれてレイモンド・チャンドラーが書きはじめたころには、ハードボイルド・ヒーローの理想像化はいっそう明確になっていた。ダラムがあげているその資質とは、「勇気、肉体的な力、不屈の精神、危険や死をおそれない態度、騎士的ふるまい、禁欲主義、暴力性、そして正義感」などだが、これらはすべて、フェニモア・クーパーにはじまり、ウィスターやゼーン・グレイによって肉づけされたウェスタン・ヒーローの必須条件と合致している。 (画像省略)  ハードボイルド小説の私立探偵ヒーローは、「中間に独り立つ男」として都会のジャングルによみがえった。六連発のコルトは自動拳銃に、カウボーイ服はトレンチ・コートに、馬は車に変じたが、己れに課したきびしい掟と名誉を重んずる心は不変であり、西部の男と同じように寡黙で禁欲的な騎士であった。  だが彼には、定住を嫌い、町に背を向けて放浪の旅に向かうべき自由な大地は、すでになかった。西へ西へとさすらいながら行きついたウェスト・コーストが、自由な男の行き止まりの街だった。そこで、フロンティアは閉ざされていた。誕生と同時に負わされていたこの悲劇性から私立探偵ヒーローを解き放つ力が、一九二〇年代以降のアメリカにあったろうか? どうやらそれが、〈私のアメリカ〉と私自身に課せられた新たなテーマであるように思える。 [#改ページ]   文中に出てくる主要人名一覧[#「文中に出てくる主要人名一覧」はゴシック体] *は架空の人物名[#「*は架空の人物名」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ア[#「ア」はゴシック体] アーヴィング Washington Irving (1783〜1859) アダムズ Andy Adams (1859〜1935) アダムズ Samuel Hopkins Adams (1871〜1958) アップルシード Johnny Appleseed (John Chapman) (1774〜1847) アープ Wyatt Earp (1849〜1929) アブナー* Uncle Abner アーリントン Alfred W. Arrington (1810〜1867) アルジャー Horatio Alger, Jr. (1834〜1899) アンダースン Frederick Irving Anderson (1877〜1947) イングレイアム Prentiss Ingraham (1843〜1904) ヴァージニアン* Virginian ヴァン・ダイン S. S. Van Dine (Willard Huntington Wright) (1888〜1939) ヴァン・ドゥーゼン教授* Prof. Augustus S. F. X. Van Dusen ウィスター Owen Wister (1860〜1938) ヴィドック Francois Euge`ne Vidocq (1883〜1963) ウィリアムズ William Carlos Williams (1883〜1963) ウィリアムズ* Race Williams ウィルキンス Mary E. Wilkins (1852〜1930) ウェッバー Charles W. Webber (1819〜1856) ウエルズ Carolyn Wells (1869〜1942) ウォリングフォード* James Rufus Wallingford ウォルシュ John Walsh ウォレス Irving Wallace (1916〜1990) エリス Edward S. Ellis (1840〜1916) オットレンギ Rodrigues Ottolengui (1861〜1937) オルツイ Baroness Orczy (1865〜1947) オールド・キャップ・コリア* Old Cap Collier オールド・スルース* Old Sleuth カ[#「カ」はゴシック体] カー John Dickson Carr (1906〜1977) ガスリー・ジュニア A. B. Guthrie, Jr. (1901〜1991) カースン Christopher メKitモ Carson (1809〜1868) カーター* Nick Carter ガードナー Erle Stanley Gardner (1889〜1970) ガボリオ ƒmile Gaboriau (1832〜1873) クイーン Ellery Queen(フレデリック・ダネイとマンフレッド・リーの合作ペンネーム。主人公名でもある) クーパー James Fenimore Cooper (1789〜1851) クラウス Russel Crouse (1893〜1966) クリスピン Edmund Crispin (1921〜1978) グリーリー Horace Greeley (1811〜1872) グリーン Anna Katharine Green (1846〜1935) グルーバー Frank Gruber (1904〜1969) グレイ Zane Grey (1872〜1939) クレイン Stephen Crane (1871〜1900) クロケット Davy Crocket (1786〜1836) ケネディ* Craig Kennedy コーエン Octavus Roy Cohen (1891〜1959) ゴダール* メInfallibleモ Godahl コディ William Frederick Cody (1846〜1917) コリエル John Russell Coryell (1848〜1924) コリンズ Wilkie Collins (1824〜1889) コルトン John Colton (1889〜1946) コンチネンタル・オプ* Continental Op サ[#「サ」はゴシック体] サッコ = ヴァンゼッティ Nicola Sacco (1891〜1927), Bartolomeo Vanzetti (1888〜1927) サントワン* Basil Santoine シェイファー Jack Schaefer (1907〜1991) ジェイムズ Jesse James (1889?〜1958) ジェス F. Tennyson Jesse (1889?〜1958) ジェニングズ* Al Jennings 思考機械* The Thinking Machine(ヴァン・ドゥーゼン教授) シティング・ブル Sitting Bull (1834?〜1890) シムズ William Gilmore Simms (1806〜1870) シモンズ Julian Symons (1912〜 1994) ジャドスン Edward Zane Carroll Judson (1823〜1886) ショート Luke Short (Frederick Glidden) (1908〜1975) ジョーンズ* Average Jones (Adrian Van Reypen Egerton) ジョーンズ* Shamrock Jolnes ジョーンズ* Seth Jones ジョーンズ* Hemlock Jones シンクレア Upton Sinclair (1878〜1968) スタンディッシュ Burt L. Standish(G. パットン) スティーヴンス Ann Sophia Stephens (1813〜1886) ストウ Harriet Beecher Stowe (1811〜1896) ストックトン Frank R. Stockton (1834〜1902) ストリート&スミス Francis Scott Street (1831〜1883), Francis Shubael Smith (1819〜1887) ストレイトマイヤー Edward Stratemeyer (1863〜1930) ストーン Irving Stone (1903〜1989) ストーン* Fleming Stone スミス Ormond Smith (1860〜1933) 隅の老人* The Old Man in The Corner 千里眼アストロ* Astro The Seer(アストロゴン・カービイ) ソーヤー* Tom Sawyer ソロー Henry David Thoreau (1817〜1862) タ[#「タ」はゴシック体] ダイ Frederick Marmaduke Van Rensselaer Dey (1861〜1922) ダウティ Francis W. Doughty (1850〜1917) ダラム Philip Durham (?〜1977) ダロウ Clarence Darrow (1857〜1938) チェスター George Randolph Chester (1869〜1924) チェスタートン Gilbert Keith Chesterton (1874〜1936) 地下鉄サム* Thubway Tham チャンドラー Raymond Chandler (1889〜1959) ディケンズ Charles Dickens (1812〜1870) デイリィ Carroll John Daly (1889〜1958) デッドウッド・ディック Deadwood Dick (Richard W. Clarke) (1845〜1930) デフォード Miriam Allen Deford (1888〜1975) デ・ラ・トーレ Lillian De La Torre (1902〜1993) デュパン* Auguste Dupin ドイル Conan Doyle (1859〜1930) トウェイン Mark Twain (Samuel Langhorne Clemens) (1835〜1910) ドゥーガル Lily Dougall (1858〜1923) ドライザー Theodore Dreiser (1871〜1945) トラント* Luther Trant ドン・Q* Don Quebranta Huesos ナ[#「ナ」はゴシック体] ネイサン George Jean Nathan (1862〜1958) ノヴェンバー・ジョー* November Joe ノリス Frank Norris (1870〜1902) ハ[#「ハ」はゴシック体] バウチャー Anthony Boucher (1911〜1968) パーカー Dorothy Parker (1893〜1967) バーク Thomas Burke (1886〜1945) バージェス Gelett Burgess (1866〜1951) ハースト William Randolph Hearst (1863〜1951) バーチ* Harvey Birch パットン William Gilbert Patten (1866〜1945) バッファロー・ビル Buffalo Bill(W. F. コディ)(1846〜1917) ハート Bret Harte (1836〜1902) ハフ Emerson Hough (1857〜1923) ハマー* Mike Hammer バムポー* Natty Bumppo ハメット Dashiell Hammett (1894〜1961) ハルシー Harlan Page Halsey (1839?〜1898) バールマー Edwin Balmer (1883〜1959) バーンズ* John Barnes バントライン Ned Buntline(E. Z. C. ジャドスン) ビアス Ambrose Bierce (1842〜1914?) ピアスン Edmund Lester Pearson (1880〜1937) ヒコック Wild Bill (James Butler) Hickok (1837〜1876) ピーターズ* Jeff Peters ビードル Erastus Beadle (1821〜1894), Irwin Beadle (1826〜1882) ピュリッツアー Joseph Pulitzer (1847〜1911) ビリー・ザ・キッド Billy The Kid (William Bonney) (1859〜1881) ピンカートン Allan Pinkerton (1819〜1884) フィン* Huckleberry Finn フィンク Mike Fink (1770?〜1823?) フットレル Jacques Futrelle (1875〜1912) ブラッドフォード William Bradford (1590〜1657) ブランド Max Brand (Frederick Faust) (1892〜1944) プリチャード Hesketh Prichard (1876〜1922) ブレイディ* James メOld Kingモ Brady ブーン Daniel Boone (1734〜1820) ヘイクラフト Howard Haycraft (1905〜1991) ヘイコックス Ernest Haycox (1899〜1950) ヘンリー O. Henry (William Sydney Porter) (1862〜1910) ポー Edgar Allan Poe (1809〜1849) ホイットマン Walt Whitman (1819〜1892) ホイーラー Edward L. Wheeler (1854?〜1885) ボウイ Jim Bowie (1790?〜1836) ポースト Melville Davisson Post (1869〜1930) ホーソーン Nathaniel Hawthorne (1804〜1864) ボーデン Lizzie Borden (1860〜1927) ホーナング Ernest William Hornung (1866〜1921) ホームズ* Sherlock Holmes ボールドウィン Joseph Baldwin (1815〜1864) ホワイト Stewart Edward White (1873〜1947) マ[#「マ」はゴシック体] マクハーグ William MacHarg (1872〜1951) マクルア S. S. McClure (1857〜1949) マスタースン William Barclay メBatモ Masterson (1853〜1921) マッカレー Johnston McCulley (1883〜1958) マンジー Frank A. Munsey (1854〜1925) マンロー George P. Munro (1825〜1896) メイスン* Randolph Mason メリウェル* Frank Merriwell メルヴィル Herman Melville (1819〜1891) メンケン Henry Louis Mencken (1880〜1956) ラ[#「ラ」はゴシック体] ラインハート Mary Roberts Rinehart (1876〜1958) ラウンズ Marie Belloc Lowndes (1868〜1947) ラードナー Ring Lardner (1885〜1933) ラニアン Damon Runyon (1884〜1946) ラング* Sophie Lang リーヴ Arthur B. Reeve (1880〜1936) リジェスター Seeley Regester (Metta Victoria Fuller Victor) (1831〜1886) リード* Frank Reede ルイス Alfred Lewis (1858〜1914) ルブラン Maurice Leblanc (1864〜1941) ルルー Gaston Leroux (1868〜1927) レイディン Edward D. Radin (1901〜1966) レナルズ Quentin Reynolds (1902〜1965) ローヴァー・ボーイズ* Rover Boys ロジャーズ Mary Cecilia Rogers (1820?〜1841) ローズ Eugene Manlove Rhodes (1869〜1934) ローブ = レオポルド Richard Loeb (1907〜1936), Nathan Leopold (1906〜1971) ロングストリート Augustus Longstreet (1790〜1870) ロングフェロー Henry Wadsworth Longfellow (1807〜1882) ロンドン Jack London (1876〜1916) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   文中に出てくる主要書名一覧[#「文中に出てくる主要書名一覧」はゴシック体] *は未訳作品(日本題は仮題)[#「*は未訳作品(日本題は仮題)」はゴシック体] †は短編集、アンソロジー[#「は短編集、アンソロジー」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ア[#「ア」はゴシック体] 『ああ、罪よ』 Ah Sin* 『アヴェリッジ・ジョーンズ』† Average Jones* 『赤い武功章』 The Red Badge of Courage 『赤毛布外遊記』 The Innocents Abroad 『悪魔の辞典』 The Devil's Dictionary 『悪魔は男だった』 Satan Was a Man* 『悪名高きソフィ・ラング』 The Notorious Sophie Lang* 『アーチャー・ドウの冒険』† The Adventure of Archer Dawe* 『アメリカ大衆芸術物語』 The Unembarrassed Muse : The Popular Art in America 『アメリカの犯罪写真史』 A Pictorial History of American Crime 1849〜1929* (Allen Churchill) 『アメリカの悲劇』 An American Tragedy 『アメリカは有罪だ』 Clarence Darrow for the Defense 『アメリカン・ノート』 American Notes* 『アラバマとミシシッピーの熱狂時代』 The Flush Times of Alabama and Mississippi* 『アラン・ピンカートン伝』 Allan Pinkerton : America's First Private Eye* (Sigmund A. Lavine) 『ありうべきことか?』† Can Such Things 『アリゾナの夜』† Arizona Night* 『ある引退刑事の回想記』 Strange Stories of a Detective, or, Curiosities of Crime* 『アンクル・アブナーの叡知』† Uncle Abner ; Master of Mysteries 『アンクル・トムの小屋』 Uncle Tom's Cabin 『暗号ミステリー傑作選』† Famous Stories of Code and Cipher (ed. Raymond T. Bond) 『偉大なるアメリカのペテン』 The Great American Fraud* 『一攫千金のウォリングフォード』† Get・Rich・Quick Wallingford* 『五つの殺人事件』† Five Murders* 『ヴァージニアン』 The Virginian 『ウォリングフォードとブラッキー・ドウ』† Wallingford and Blackie Daw* 『ウォリングフォードの息子』† The Son of Wallingford* 『馬に乗った水夫』 Jack London, Sailor on Horseback 『海の狼』 The Sea-Wolf 『ウルフヴィル』† Wolfville* 『運命の修正者』† The Corrector of Destinies* 『SOS タイタニック』† The Story of the Titanic as told by Its Survivors (ed. Jack Winocour) 『エドウィン・ドルードの謎』 The Mystery of Edwin Drood 『エンタテインメントの百一年』† 101 Years' Entertainment* 『黄金の延板を追って』 The Chase of the Golden Plate* 『狼の息子』† The Son of the Wolf* 『丘の住人たち』 Dwellers in the Hills* 『オクトパス』 The Octopus 『オックスフォード・アメリカ文学事典』 The Oxford Companion to American Literature* (James D. Hart) 『男は独り卑しい街を行かねばならない』 Down These Mean Streets a Man Must Go* 『おとなしいペテン師』† The Gentle Grafter* 『O・ヘンリー全作品集』† The Complate Works of O. Henry* 『女たちの犯罪』† Murder on Her Mind* 『女を見つけろ』 Find the Woman* 『おんぼろディック』 Ragged Dick* 『おんぼろトム』 Tattered Tom* カ[#「カ」はゴシック体] 『開拓者たち』 The Pioneers* 『怪盗ヴィドック自伝』 Me`moires 『飼い馴らされざるもの』 The Untamed* 『カウボーイ日誌』 The Log of a Cowboy* 『カウボーイ物語』 The Story of the Cowboy* 『数多くの謎を持つ男』 Melville Davisson Post : Man of Many Mysteries* (Charles A. Norton) 『完本・アンクル・アブナー』† The Complete Uncle Abner* 『帰郷』 Homecoming* 『クイーンズ・クォーラム』 Queen's Quorum 『草の葉』 Leaves of Grass 『苦難の道』 Struggling Upward* 『クレイグ・ケネディ登場』† Enter Craig Kennedy* 『下宿人』 The Lodger 『月長石』 The Moonstone 『決定的証拠』† Final Proof* 『幸運と勇気』 Luck and Pluck* 『荒涼館』 Bleak House 『個人的不名誉』 A Private Disgrace* 『娯楽としての殺人(探偵小説——成長と時代)』 Murder for Pleasure 『コンデンス・ノヴェルズ』† Condensed Novels and other Papers* サ[#「サ」はゴシック体] 『最後に頼る男——あるいは、ランドルフ・メイスンの依頼人たち』† The Man of Last Resort, or, The Clients of Randolph Mason* 『囁く松』 The Whispering Pines* 『殺人株式会社』 The Assassination Bureau Ltd. 『殺人教書』 Masterpieces of Murder (ed. Gerald Gross) 『殺人とミステリーと結婚』 A Murder, a Mystery, and a Marriage* 『殺人の研究』 Studies in Murder* 『殺人の本』 The Book of Murder* 『殺人は発覚しない』† Murder Won't Out* (Russel Crouse) 『砂漠の遺産』 The Herritage of the Desert* 『淋しい入江の秘密』 The Secret of Lonesome Cove* 『サミット・ハウスの謎』 The Summit House Mystery* 『さよなら、ミス・リジー・ボーデン』 Goodbye, Miss Lizzie Borden* 『シェーン』 Shane 『鹿殺し』 The Deerslayer* 『ジキル博士とハイド氏』 Strange Case of Dr. Jekyll and Mr. Hyde 『思考機械』† The Thinking Machine 『思考機械、捜査に乗り出す』 The Thinking Machine on the Case 『死の踊り』 Lizzie Borden : A Dance of Death* 『死の手紙』 The Dead Letter* 『ジミー・ザ・キッド』 Jimmy the Kid 『シャーロック・ホームズのアメリカのライヴァルたち』† The American Rivals of Sherlock Holmes* (ed. Hugh Greene) 『ジャングル』 The Jungle 『衝動』 Compulsion* 『ジョージア素描』 Georgia Scenes* 『ショショニーの谷』 The Shoeshonee Valley* 『私立探偵の三十年』 Thirty Years a Detective* 『白い牙』 White Fang 『白猫』 The White Cat* 『新・殺人の研究』† More Studies on Murder* 『スパイ』 The Spy* 『スパイと反逆者』 The Spy and the Rebellion* 『推理小説論』 Le Roman Policier 『推論の研究』 A Study in Conjecture* 『スカウト』 The Scout* 『透かし細工の玉』 The Filigree Ball* 『西部の男』 The Westerners* 『西部は西部』 West is West* 『西部旅行綺談』 Roughing It 『セス・ジョーンズ/フロンティアの虜囚たち』 Seth Jones, or, The Captives of the Frontier* 『絶頂期のウォリングフォード』† Wallingford in His Prime* 『善人と真実』 Good Men and True* 『速達便配達夫と探偵』 The Expressman and the Detective* 『空飛ぶ死』 The Flying Death* タ[#「タ」はゴシック体] 『大統領のミステリー計画』† The President's Mystery Plot* 『大平原』 The Prairie* 『ダイヤモンド・マスター』 The Diamond Master* 『タナハの警備隊と司法官』 The Rangers and Regulators of Tanaha* 『探偵サイモン・ホイーラー』 Simon Wheeler, Detective* 『探偵トム・ソーヤー』 Tom Sawyer, Detective 『探偵、ニック・カーター』† Nick Carter, Detective* 『探偵の美しき隣人』† The Detective's Pretty Neighbor and Other Stories* 『血と金』 Blood and Money 『手がかり』 The Clue* 『手と指輪』 Hand and Ring* 『テールズ』† Tales 『テンダーロイン』 Tenderloin* 『毒ペン』† The Poisoned Pen : Further Adventures of Craig Kennedy* 『トム・ソーヤーの冒険』 The Adventures of Tom Sawyer 『取るに足らぬ物語集』† Negligible Tales 『ドン・Qのラヴ・ストーリー』 Don Q's Love Story* ナ[#「ナ」はゴシック体] 『長い腕』 The Long Arm* 『南西部の無法者たち』 The Desperadoes of the Southwest* 『二時の勇気』 Two O'clock Courage* 『西へ!』 Westward Ho !* 『ニュー・バーレスク』† New Burlesques* 『ニューヨークの歴史』 A History of New York* 『二輪馬車の秘密』 The Mystery of a Hansom Cab ハ[#「ハ」はゴシック体] 『パイン街九番地』 Nine Pine Street* 『白衣の女』 The Wowan in White 『白鯨』 Moby-Dick 『箱の中の女たち』 Ladies in Boxes* 『ハックルベリー・フィンの冒険』 The Adventures of Huckleberry Finn 『バッファロー・ビル/国境の王者』 The King of Border Men* 『バッファロー・ビル/最高の一発』 Best Shot* 『バッファロー・ビル/最後の勝利』 Last Victory* 『八編のダイム・ノヴェルズ』† Eight Dime Novels* (ed. 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Chris Steinbrunner & Otto Penzler) 『南の国境』 Tales of the Southern Border* 『無音の弾丸』† The Silent Bullet* 『無法者物語』 The Story of the Outlaw* 『ムーン・フェイス』† Moon-Face and Other Stories* 『名探偵ポオ氏』 Poe the Detective 『盲人の目』 The Blind Man's Eyes* 『モヒカン族の最後 (の者)』 The Last of the Mohicans 『森の生活』 Walden ; or, Life in the Woods 『モリー・マガイア党と探偵たち』 The Molly Maguires and the Detectives* ヤ[#「ヤ」はゴシック体] 『野性の呼び声』 The Call of the Wild 『夢の医者』† The Dream Doctor* ラ[#「ラ」はゴシック体] 『螺旋階段』 The Circular Staircase 『ララミーへの道』 Oregon Trail 『ランドルフ・メイスンの奇計』† The Strange Schemes of Randolph Mason 『リーヴンワース事件』 The Leavenworth Case 『リジー・ボーデン裁判記録』 The Trial Book of Lizzie Borden* 『リジー・ボーデンの語られざる物語』 Lizzie Borden : The Untold Story* 『ルーサー・トラントの功績』† The Achievements of Luther Trant* 『ルルージュ事件』 L'Affaire Lerouge 『冷血』 In Cold Blood 『レイモンド・チャンドラー語る』 Raymond Chandler Speaking 『ロウアー・テンの男』 The Man in Lower Ten* 『老ガイド、ヒックス』 Old Hicks, the Guide* ワ[#「ワ」はゴシック体] 『若きウォリングフォード』† Young Wallingford* 『わたしの物語』 My Story* [#ここで字下げ終わり] 小鷹信光(こだか・のぶみつ) 一九三六年、岐阜県に生まれる。早稲田大学英文学科卒業。日本推理作家協会およびアメリカ探偵作家協会会員。著書に『探偵物語』、訳書にロス・マクドナルド『一瞬の敵』、ジェイムズ・クラムリー『明日なき二人』、ダシール・ハメット『マルタの鷹』など多数。 本作品は一九八〇年七月、『ハードボイルド以前/アメリカが愛したヒーローたち』として草思社より刊行され、二〇〇〇年二月、ちくま文庫に収録された。