[#表紙(表紙.jpg)] 雪 ひ ら く 小池真理子 目 次  お き 火  最 後 の 男  仄暗い部屋  雪 ひ ら く  場  所  パラサイト   文庫版あとがきにかえて [#改ページ]  [#2字下げ]お き 火  深夜、どこかでトラツグミが啼《な》いた。  ヒョー、ヒョー、と女の幽霊がすすり泣いているようなか細い声である。どこで啼いているのか、風に滲《にじ》んだようになって、声は寂しく闇に溶けていく。  桐子は一人、ベッドに仰向けになっている。寝室の明かりはすべて消してある。出窓のレースのカーテンの向こうから、青白い月の光が射し込んでくるのをぼんやり眺める。  月の光は静かに部屋に満ちてきて、ベッドの上の桐子のからだを丸く包む。開け放した窓からは、夏の夜風が吹いてくる。夜露のにおい、樹液のにおい、庭に咲いたサルビアの蜜のにおい、そしてほんの少し、湿った土のにおいがする。  着ている絹のパジャマの下で、自分のからだが動物のように息づいているのがわかる。ゆっくりと息を吸って、吐いている。あたりのにおいを嗅いでいる。なのに頭の中はからっぽである。  なやましいような気持ちになる。どうしてこんなになやましくなるのか、わからない。  生活が、あるいは性欲が、充たされているとかいないとか、そういう種類の問題ではなさそうだ。気がつくとからだ全体が海になっている。恥ずかしいほど漣《さざなみ》だち、うねり、押し寄せる海である。  そのくせ海には猛々しさはない。絶え間なくうねっているくせに、いつも、ちろちろと無数の夜光虫が寂しい光を放っている。それをじっと感じていると切なさがつのってくる。もうどうなってもかまやしない、波がうねり、一切のものを静かにのみこんでしまったとて、それが何だというのか、と思ってしまう。  桐子は年中、からだの具合を悪くしている。寝こむほどではないのだが、朝起きて、夫を送り出してしまうと、微熱が出て、だるさのあまり何もする気が起こらなくなる。食欲が失せ、いつにも増して少食になり、少し食べただけで胃がもたれる。前の晩に食べた食事が、翌朝まで残っているような気がして、朝食の席では吐き気に襲われることもある。  何か悪い病気が潜んでいるのかもしれない、とこれまで数えきれないほどいろいろな病院で検査を受けた。少し早く訪れた更年期と言う医者もいたし、仮面うつ病と言う医者もいた。中には気のせいだ、として片づけられたり、ひどい場合は、ご主人ともう少し夜の生活をなさる努力をされたほうが、と言われたりもした。  夫にそれを言うと、彼は小馬鹿にしたように笑った。十七も年上の俺が、今も暇さえあれば女房を抱いてるだなんて、精力が衰えてるようなへっぽこ医者にはわからんだろうよ、と。  具合が悪くて、死んでしまったほうがよっぽど楽だ、と思うような時でも、桐子のからだの奥底にはいつも不思議な火照《ほて》りがある。微熱がある時でも、嘔吐したその後でも、頭痛がして起き上がれなくなっているような時でも、その火照りは消えない。いつまでも執念深く燃えさかる、暖炉の中の小さなおき火のようでもある。  だから、今でもよほどのことがない限り、夫の誘いは拒まない。拒まないどころか、当たり前のこととして受け入れる。  からだが弱く、子供も産めなかった桐子のことを夫が不憫《ふびん》に思っている様子はなかった。具合が悪い時でも、桐子が性にだけは驚くほどの貪欲さを見せるからであり、夫はそんな桐子を世にも珍しい、貴重な愛玩動物のようにして扱う。舐めるようにゆっくりとくまなく愛撫して、壊れ物を扱うように指先の動きひとつにも気を配る。  この人は他の女たちにもこんな愛撫をしているのか、とふと思う。思ってみたところで快楽の疼きは去らない。心地よいうねりが押し寄せてきて、からだ中を暴れまわり、或る時から、すうっ、と水が引くように消えていく。  終わるとぐったりする。頭がくらくらし、息が乱れ、起き上がることもできなくなる。それなのに、終わってから少したつと、桐子の中には再び火照りが始まっている。ひと通り、夫によって充たされたはずなのに、浅ましいことにまた別のおき火が燃えさかるのである。  夫のいない晩、桐子は男のことを考える。顔のない、名前のない男の時もあれば、見知った男、映画館のスクリーンの中で知っているだけの男、昔、関わった男の顔が浮かぶ時もある。  美醜は関係ない。社会的地位も関係がない。生活の安定、財産、才能、優しさ……そんなものも秘密の遊戯を楽しむ時に何の影響ももたらさない。  桐子には桐子の法則がある。気がつくと桐子は、その時その時、火照りを鎮めようとして頭に思い描く男を秘密の玩具にしながら、誰も知らない、誰も気づきようのない、はしたない想像を深夜、眠れぬままに一人のベッドの中で繰り広げている。  桐子は海になって相手をのみこむ。それはのみこんでものみこんでも、まだ容赦しない、底知れぬ深さの海である。  そして、恥ずかしいほど烈しい自慰の後には、決まって切ない余韻が残される。具体性の何もない、ただふわふわと、その時の気分だけが悲しく浮遊し続けるような余韻である。  ひとたびその余韻を意識するともういけない。眠れなくなる。性を自分で充たすことだけでは解消されない、どうにもしがたい不全感ばかりが残される。たとえ夫に頼んで抱いてもらい、なだめてもらったとしても、それは決して消えることはないのである。  こんなにからだが弱っているのに、どうして、と思う。こんなに具合が悪いのに、どうして、と思う。死にかけていてなお、男を求めて泥まみれになりながら這いつくばる、鬼女のようだと思う。ただのいろぐるいの馬鹿な中年女だと思うこともある。  何故なのか、何のせいなのか。女はみんなこうなのか。それともこうなってしまうのは自分だけなのか。  四十八歳という中途半端な年齢が桐子には悲しい。人並みに元気よく、溌剌《はつらつ》と生き、溌剌と自然に老いていくことができそうにない自分が悲しい。なにごとにつけ、ぎくしゃくしている。なめらかにすべるようにいかない。意識の中では焔《ほのお》がめらめらと立ちのぼって、自分自身を焦がしてしまうほどだというのに、現実にある肉体は枯れ草を踏むような音をたてて軋み始めている。  桐子はよろよろとベッドから起き上がり、ベランダに面した窓を開ける。  消し忘れた誘蛾灯の青白い光が庭を照らしている。叢《くさむら》の虫がいっとき、鳴くのをやめ、それに代わるようにして遠い雷鳴が聞こえた。  七月も半ばを過ぎてから、雨の中を大磯に住むシズエが、北鎌倉の桐子の家までやって来た。  シズエは八十一歳。桐子の夫、手塚の従姉にあたる。若い頃は色街にもいたことがあるそうで、小柄で痩せているが、よく見ると色白の端整な面差しをしている。  最初の夫とも、二度目の夫とも死別した。度重なる堕胎が祟《たた》ったのか、子供には恵まれず、若い頃、家出同然で故郷を捨てて来てしまったものだから、身内もいない。天涯孤独、と呼ぶのがふさわしかったのだが、今は、円満に養子縁組を果たした息子夫婦と大磯で同居している。孫が三人。嵐が吹き荒れた後に与えられた、穏やかで幸福な老後である。  いつもの通り、シズエは小さな黒いリュックを背負い、足元は駱駝《らくだ》色のソックスに白いスニーカーといういでたちである。リュックの蓋には金色の飾りステッチが入っていて、誰もが知っている流行遅れのブランド名が読み取れる。白髪頭の後ろで小さな髷《まげ》を結い、いくらか背中と腰が曲がっていて、民話に登場してくる気のいい老婆そのものといった印象ではあるが、心身ともに健康そうである。  桐子の具合が悪くなるたびに、夫の手塚は家にシズエを呼びつけて手伝い代わりに使っている。シズエもシズエで、老人は足腰使って動きまわってなきゃ、お迎えが早く来る、と言い、声がかかるたびにいそいそと北鎌倉までやって来る。  そのつど手塚がシズエに支払っている給金は高額だ。シズエが内心、給金を目当てにして来ているのはわかっている。八十一にしてなお、生きていくためのぎらぎらとした執念のようなものがシズエにはある。桐子には眩《まぶ》しいほどである。 「はいはい、おばあちゃんがやって来ましたよ」とシズエは嗄《しわが》れた声で言い、桐子の見ている前で、よっこらしょ、とリュックを背から下ろすと、中からてきぱきと白い割烹着《かつぽうぎ》を取り出した。「もう大丈夫だよ。今日からこのおばあちゃんがいるんだから、大船に乗った気で身体を休めてればいいよ」  シズエがいるといないとでは大違いである。実の母親よりも年を取っている人に身のまわりの世話をしてもらうなど、何と情けないことか、と思いつつ、桐子も今ではシズエを頼りにしきっている。シズエが来てくれると安心できる。医者から処方された薬を飲まずとも、眠れるようになる。場合によっては、食欲も増進する。外出もできるようになる。 「ねえ、シズエさん。私、すっかり痩せちゃったでしょう」  桐子が聞くと、早くもエプロン姿で台所の洗い物を片づけ始めていたシズエは、ちらとも後ろを振り向かず、「痩せたりなんかしてないよ。前と全然変わんないよ」と言った。江戸っ子弁である。ちゃきちゃきしている。話し言葉に弾むようなリズムがある。 「桐子ちゃんは別嬪《べつぴん》なんだから、痩せてようが太ってようが、どっちだっていいのさ。それとも何かい、亭主は痩せた女が嫌いになった、ってのかい?」  ううん、そんなことない、と桐子は微笑みながら首を横に振った。「あの人はそれこそどっちだっていいのよ。女であれば」  流しに向かっていたシズエがいたずらっぽく笑いながら振り返り、右手の小指を突き出してみせた。「相変わらず、コレがいるの?」 「知らないわ、そんなこと」 「そうかい。やっぱり気になるかい」 「気にならない妻なんて、いる?」 「どうってこたぁないわさ。助平は病気みたいなもんなんだから、死ぬまで治らないよ。桐子ちゃんも負けずに、いい人の一人や二人、作りゃいいのよ。桐子ちゃんなら今だって大勢、男がついてくるさ」 「だめよ、もう」桐子は笑い返す。「ご覧のとおり、早くもくたびれちゃって。亭主の相手するだけで精一杯」 「女盛りだってのにねえ、もったいない。桐子ちゃんくらいの年になったらね、若い時以上に、男の人にたっぷり可愛がってもらわなくちゃあいけないよ。なあに、相手は誰でもいいんだよ。誰でもいいから、たくさんたくさん、男の人に可愛がってもらわないと、女はね、どんどん涸《か》れるよ。花瓶から放り出された花みたいなもんでね。水がなくなったら、枯れるだけさ。ほんとだよ。怖いくらいだよ。あたしが言うんだから、間違いない」 「じゃあ、私も浮気をしなくちゃいけないわね」 「浮気、っていったらカドがたつけどもさ。そうだねえ、何て言えばいいのかねえ。そうそう、いろごと、っていうことよ。いろっぽい女、ってのはさ、何も赤ん坊を何人産んだか、じゃないんだよ。そういうこととは全然別のことなのよ。いろごともなんにもなく死んでいくなんて、あたしに言わせれば、女じゃないね。女に生まれた意味がない」  そうね、と桐子は曖昧《あいまい》にうなずいて笑う。  いろごと、と聞けば、蓮見のことしか思い出さない。夫の手塚の秘書兼運転手である。  無口でほとんど何も喋らない。都合のいいことも悪いことも、口を開こうとしないのだから、何を考えているのかもさっぱりわからない。  桐子よりも二つ年下で、気楽さも手伝って、主人はゆうべ遅かったけど、どこに行っていたの、と桐子が聞けば、さあ、と仏頂面をしたまま目をそらす。  夫に対する職業的忠誠心が働いているからではなく、もともと寡黙な性格のようで、余計なことは一切喋ろうとしないから、聞くほうも黙ってしまう。  東京下町の小さなマンションに、五つ年下の妻と二人の娘と暮らしている、と夫からは聞いている。絵描きになろうと志して私立大学の芸術学部に入ったが、三年で中退した。以後、葬儀屋に勤務しながら絵を描き続けたものの、芽が出ないことを知って断念。夫の経営する手塚工業が社長付き運転手を募集しているのを知り、応募してきた。  無口で無愛想きわまりないが、いまどき珍しくまじめな男だ、ということで、夫に気にいられ、以後、秘書のような役も果たしながら北鎌倉の家に通って来る。  丸五年間、朝な夕な、それこそ毎日のように会っているというのに、桐子はまだ蓮見のことを何も知らずにいる。知らなくてもいいのである。何も知らずとも、時折、秘かに紡ぐ夢想には何の支障もきたさないのである。 「おや、桐子ちゃん、誰かいろごとのお相手の心あたりでもあるのかい」  シズエのいたずらっぽい声で我に返った。  ないわよ、そんなもの、と桐子は言いながら、あと数時間たてば、夫と共に蓮見がこの家に戻って来る、戻って来て、いつものあの、誰にもわからないほどかすかな視線を自分に投げ、ものも言わずに去っていく、と思い、自分の中のおき火が束の間、めらめらと焔をたてて燃えあがったような気がした。  夫が出張先の札幌で倒れた、と知らされたのは、シズエが来てくれた翌々日のことである。  翌朝早く、夫が運ばれたという病院から、夫本人の声で電話がかかってきた。  いくらかふだんの元気はないが、声には張りがある。少しこもったような声の奥には、桐子にしかわからない、艶めいた響きも健在で、その声を聞くなり、ほっとして桐子は思わずその場にしゃがみこんだ。 「軽い発作だよ。倒れた時は、自分でも脳梗塞か、って思ったけどね。運がよかった」夫は言った。「虚血性脳発作、ってやつらしい。しかもごく軽いやつでね。軽いから、こうやって電話もできる。心配するな」 「大丈夫なの?」 「すぐには動けないが、四、五日ここで静かにしてから東京に戻るよ。蓮見君を連れて来ていなかったのが何かと不便だけど、こっちの支店の連中が何くれとなく気配りしてくれてね。不自由はしていない」 「すぐ行くわ。行ったほうがいいでしょう?」 「いや、いいよ。無理してこっちに来てもらって具合でも悪くされたら、かえって気が休まらない。急にどうなる、っていう病気でもないことがわかっているんだから、家で待ってなさい」  そうだとしても、やっぱり行ったほうがいいよ、と桐子が電話を終えた後でシズエは言った。「桐子ちゃんの飛行機嫌いはわかってるけどもさ、でもこればっかりはねえ。そうだ、飛行機じゃなくて特急を使って行けばどうだろう。海の底にトンネルもできてるんだし、船に乗り換えなくても札幌まで行けるよ。飛行機よりもずっと時間がかかるけど、丸一日かかるってわけでもないんだしさ」  飛行機で行くわ、と桐子は言った。「早く行ってあげなくちゃ。こんな時に飛行機がいやだなんて、言ってられない」  離陸と着陸、あるいは何かの拍子で揺れが続いた時など、桐子は決まって発狂しそうになるほどの恐怖にかられる。だが、そんなことはいくらでも我慢できた。文字通り、死ぬ気でいれば、なんでもできるのだ。  蓮見が札幌まで同行することに話がまとまった。桐子の付添いというよりも、夫の付添い……とりわけ、社長代理で動き回る人間が必要になっていたからである。  一人で飛行機に乗らずに済むことになり、ひとまず安堵したが、それでも旅仕度をしているうちに、案じていた通り、気分が悪くなってきた。気のせいだ、と考えようとするのだが、無駄だった。頭がぐらぐらしてきて、吐き気がし、結局、桐子はトイレに走って、朝食に食べた少量のうどんを全部吐いた。  蓮見から電話がかかってきて、お宅まで迎えに行きましょうか、と言ってきたのはそんな時だった。  思わず、そうしてちょうだい、と言いそうになったが、桐子はこらえた。「いえ、いいの。今からわざわざこっちまで来てもらっても、空港に行くのに道がどれだけ渋滞してるかわからないし、私が羽田まで出て行ったほうが確実だわ」 「わかりました」 「チケットは買ってくれた?」 「はい。ホテルのほうもご用意しました」 「主人のことで、その後、何か新しい報告が会社に入ってる?」 「いえ、今のところは何も」 「ねえ、蓮見さん……私、恥ずかしいことを告白すると、今、ものすごく緊張してるの」 「はあ」 「飛行機に乗るのが怖くてたまらないのよ」 「そうでしたか」 「主人と新婚旅行でヨーロッパを回って以来、乗ってないの。怖いのよ、昔から、飛行機が。何がって聞かれても困るんだけど、ただ、怖いの」 「はい」 「でも、蓮見さんが一緒に行ってくれて助かるわ。ただの旅行ではないし、主人がこんなふうになっている時だし……いろいろな意味で不安で、一人だったらとても乗れなかったと思うから」 「大丈夫です」と蓮見は言った。淡々とした、素っ気ないほどの口調だった。「それでは後ほど」  蓮見と飛行機に乗るのだ、と桐子は思った。肩寄せ合うようにして隣同士に坐り、空を飛ぶのだ。  死ぬ時はもろともだ、と思うと、甘美な蜜のようなものがからだの奥底ににじみ出し、行き場を失って桐子の中で飴《あめ》のように固まっていくのがわかった。  桐子が蓮見の不可解な視線に気づくようになったのは、半年ほど前のことになる。  夫の送り迎えで北鎌倉の自宅にやって来るたびに、蓮見と目が合う。それもたまたま視線が合った、というものではなく、意識して女と目を合わせようとしている時の男の視線である。  おはようございます、と言ったり、ただいま戻りました、と言ったりする時は、決して目を合わせようとしない。夫と桐子が何か他愛のない、日常生活のこまごまとしたことを話している時や、桐子が夫の荷物を車に運ぼうとしている時も同じである。  だが、例えば玄関先で夫が出て来るのを蓮見が待っている時など、トイレに入ったきり長く新聞を読みふけっている夫に業をにやして、桐子が「ごめんなさいね、もう少し待っててね」と言いに行くたびに、蓮見はうなずき、次いで、ちらと桐子を見るのである。それはひどく性的な感じのする、猥雑と言ってもいい視線である。睨むような、釘づけにするような、挑むような視線。かといって相手を不安に陥れるふうでもない、じっと見据えて、無言のうちに何かを訴えかけるような、そんな視線である。  蓮見は美男ではない。少なくとも美男と人が口をそろえて言うほどの容貌はしていない。  面差しは丸く、骨ばったところのない、どちらかというと肉づきのいい顔をしている。目は小さく、無邪気な少年じみた印象を残し、形のいい鼻梁《びりよう》と男らしく結ばれた唇との均衡を明らかに欠いていたが、それが魅力にもなっている。  背は高く、年齢のわりには上背のある夫の手塚と比べても頭一つ分ほど抜きんでている。四十路も半ばを迎え、鍛え抜かれた、というからだつきではないにせよ、大きな体躯《たいく》が女を包みこむようなたくましさを感じさせて好もしい。  そうだとしても、ただそれだけの男なら掃いて捨てるほどいる。何故、蓮見なのか、と何度か繰り返し自問してみた。毎日会っているからか。会っているうちに親しみを覚え、暇をもて余して妄想に溺れているだけの主婦が、情を通じてしまいたいような錯覚にかられているだけなのか。  一瞬のできごとなのである。夫のいない一瞬の、まさしく吹き過ぎていく風のような、束の間のできごとに過ぎないのである。それでも桐子はその目が欲しい、と思う。  どれほど気分が悪い朝でも、腰が痛んだり、頭がずきずきしたり、胸がむかむかしていたりする、死んでしまいたくなるような朝でも、桐子はいそいそと薄化粧をし、小ざっぱりと身なりを整えて、夫を迎えに来た蓮見と顔を合わせる。そして蓮見の目を求める。蓮見に見つめられることだけを考える。  好きになったのかどうかもわからない。第一、好きになるもならないも、まともに口をきき合ったためしがないので、相手がどんな人間であるのかもわからない。好きになるにふさわしい男ではないのかもしれず、ちょっと意味ありげに見つめてやれば喜ぶ、ただの年増女だと思われている可能性もある。どこかの居酒屋で、親しい人間に向かって、俺のところの社長夫人は、ちょっと色目を使ってやっただけで舞い上がって涎《よだれ》を垂らしてきたよ、などと破廉恥《はれんち》な冗談を飛ばしているのかもしれない。  だが、そうだとしても、この半年というもの、桐子にとって蓮見という男は、一人寝の夜の、襲いかかる波のうねりを分かち合う相手であり続けた。蓮見なしには夜の夢想の幕は上がらず、蓮見なしには夢想の翼も開かない。他の男では駄目なのである。役に立たないのである。  馬鹿げたことだ、と思いながら、それでも桐子は蓮見を求め、蓮見の目を求めた。蓮見に見つめられるたびに、からだの奥深くから焦れたようにわきあがってくる生温かなものがある。桐子はそれを後生大事に抱えこんで、夫のいない晩の、秘かな遊戯のために利用し、遊戯を終えるたびにどっぷりと疲れ果てて、淡々《あわあわ》としたまどろみの泥の中にもぐりこんでいくのだった。  羽田空港で会った蓮見は、何ひとつ無駄口を叩かなかった。桐子の手荷物を持ち、桐子を搭乗口まで連れて行くと、出発までの短い時間、蓮見はまるで赤の他人同士のような素っ気なさで桐子の隣に坐っていただけであった。  夫の手塚の話を桐子が始めれば、手塚の急病について、あまり心がこもっているとも思えない簡潔な感想を述べるだけで、取りつく島もない。北海道は確か梅雨がないんだったわね、と言えば、そうです、とうなずく。主人のためにパジャマと着替えを持って来たのよ、と言えば、はあ、そうですか、と言う。元気な人だったから、入院だなんて心臓が止まりそうになるほど驚いたわ、と言うと、よくわかります、と答え、それでも卒中や梗塞の発作じゃなくて本当によかった、と言うと、はい、よかったです、と鸚鵡《おうむ》返しに繰り返す。  かといって蓮見が手塚の急病について何ひとつ感情を動かされていないのか、と言えばそうでもなさそうで、時折、言葉の端々や表情に、病に倒れた人を本気で気づかう様子が滲んでいる。  沈黙が桐子には苦痛ではなく、むしろ心地よい。余計なことを一切口にしない応対ぶりも、いかにも蓮見らしくて、とりたてて気詰まりは感じない。 「薬、持ってきたの」  桐子がそう言うと、蓮見はわずかに視線を動かして桐子のほうを見た。 「精神安定剤みたいなものかな。こういう薬なら、お医者に処方されたものを山のように持ってるのよ。歩く薬箱、って、主人にからかわれてるわ。大概の薬は手持ちのもので間に合うくらいなの。だから……飲んで来ようかしら。出発までにまだ時間、あるでしょう?」 「札幌まではすぐですよ」蓮見は前を向いたまま言った。 「え?」 「すぐですから、そういう薬は……つまり、できれば飲まないほうがいいと思いますが」 「でも、飲むと安心できるの。少しは怖くなくなるのよ」 「……まじないがあるんです」  その日会って初めて、蓮見との間で会話らしい会話が始まろうとしていた。桐子は気持ちがはずんでくるのを覚えた。 「なあに? どんなおまじないなの? 飛行機が怖くなくなるの?」 「大したことではありません。子供だましのようなものですから」 「教えてちょうだい」  それには応えず、蓮見は立ち上がり、「何か飲物でもいかがですか」と聞いた。桐子との馬鹿げた会話をそれ以上続けていたくない、とでも言いたげだった。  桐子はいくらか失望を覚えながらも、笑顔で首を横に振った。  蓮見は再び腰をおろし、それきり何も喋らなくなった。  桐子はその横顔をちらりと盗み見た。閉じた瞼《まぶた》の奥でこの男を思い浮かべ、自分は何回も何回も闇に包まれながら、架空の性行為を繰り広げてきたのだ、と思った。  その淫らな夢の数々を知ったら、この男はうんざりして逃げ出すだろうか。それとも黙ったまま、ああ、とも、うん、とも言わずに、自分を床に組み伏せて、いたぶるような交わりを求めてくるだろうか。  この人は何か知っている、と桐子は思う。何かに気づいている。自分たちの間には、男と女の、不思議な、言葉では説明のつかない、魔法にでもかけられたような瞬間があった。  いつのことだったかはわからない。だが、それは確かにあったのであり、自分とこの人との間には明らかにその瞬間から、何かが静かに芽生え、育ちつつある。他人にはわからない、決して誰にも勘づかれない程度の、かすかな、温度の変化が自分とこの人との間には生まれている。  そろそろ、と蓮見に促され、桐子は反射的に立ち上がった。搭乗アナウンスが場内に響いていて、札幌行きの便の搭乗客たちがぞろぞろと出発ゲートに向かっているところだった。  ふいに恐怖心が桐子を襲った。いつものことだった。飛行機はもとより、乗物と名のつくものに乗ろうとすると、時には膝が震え出すほどの不安を覚える。  何故なのか、と問われても答えられない。意味のない不安であり、自分でもその無意味さはよく承知している。それでも怖いのである。桐子にとって空はもちろんのこと、今自分がいる場所ではない場所、遠い場所、未知の場所は常に恐怖の対象でしかないのである。  搭乗が開始され、桐子は不安のあまり、思わず蓮見の腕を掴《つか》みそうになった。蓮見はふだんとは違って、薄いグレーのジャケットに黒のTシャツと黒のコットンパンツ、というくだけた装いをしている。そのせいか、いつもよりも若く、より逞しく見える。決して自分を守ってはくれないのに、そうわかっていて甘え、寄りかかり、すがりたくなる男のようでもある。  機内では窓際のシートに桐子が、その隣に蓮見が坐った。 「やっぱり、お薬、飲んどけばよかった」  桐子が言うと、蓮見は首を回して桐子のほうを見た。肩と肩とが触れ合うほど近くにいて、そんなふうに見つめられたのは初めてだった。 「ご気分でも?」 「いえ、まだそれほどでもないんだけど、少し息苦しいわ。心臓がどきどきしてる。このままだと、離陸の時に心臓が口から飛び出してくるかもしれない」 「気のせいだ、と言ってもだめなんでしょうね」 「わかってるの。気のせいだ、ってわかってるのよ。でもだめなの」  本当に心臓が強い拍動を繰り返していた。空気が足りないように感じられ、桐子は何度か繰り返して深呼吸した。だが、その息苦しさが飛行機のせいなのか、それとも、身動きひとつしただけで袖が触れ合うほど近くにいる蓮見のせいなのか、わからなかった。  まとまらない頭の中で、自慰に耽《ふけ》る時に必ず思い描く蓮見の裸体が、点滅するストロボのように白く浮き上がった。蓮見は無言のまま桐子の上にいる。大きなからだである。腰のあたり、背のあたりに腕をまわそうとしてもまわりきらない。  桐子の子宮が収縮を繰り返す。うねり狂う海の中に放り出され、もみくちゃにされているようでもある。彼は喘ぎ声ももらさず、ため息もつかない。烈しい腰づかいにシーツがこすれる音だけがあたりに響いて、桐子は自分の喉から迸《ほとばし》る、か細い悲鳴のような声を遠くに聞く……。  ふいに蓮見の左手が伸びてきて、桐子の右手を握った。桐子は咄嗟に我に返り、驚いて蓮見を見た。彼は前を向いたまま、身じろぎもしなかった。 「まじないです」ややあって蓮見は低い声で言った。「多分、効くはずです」  桐子の手は、桐子の太ももの上にある。サマーニットの膝下丈のワンピースを着た太ももである。  その太ももの上で、蓮見の手が桐子の手を包みこみ、わずかに力をこめて握ってくる。太ももに蓮見の体温を感じる。熱くて重い手である。掌はわずかに湿りけを帯びている。  機体が動き始めた。機内に音楽が流れている。正面スクリーンには空港滑走路が映し出されている。何度か繰り返しチャイムが鳴り、シートベルト着用のサインが点滅する。  桐子が窓の外に顔を向けたままわずかに親指を動かし、彼の小指を探るようにすると、彼の手はいっそう強く桐子の手を握り返してきた。まるで汗が湧き出たように、彼の掌はじっとりと粘るように湿り始めている。  桐子は陶然とした思いにかられながら、自分もまた彼の手を握り返した。そして、気がつくと機体は天空に吸引されていくかのような勢いで離陸を始めており、やがて桐子の目にはもう、まばらな薄い雲の下に拡がる海しか映らなくなっていた。  手塚は札幌の病院から都内の病院に移り、一週間ほどで退院した。あらゆる綿密な検査の結果も良好で、脳の血管を詰まりにくくさせる薬を服用しつつ、彼はまもなく仕事に復帰した。  しばらくの間は無理は禁物ということだったが、これもまたとない機会だから、休暇をとって温泉旅行でもするか、と言いだしたのは手塚のほうだった。  手塚の入院中はシズエが家の中のことを万事、抜かりなくやってくれていた。手塚が退院してからも、桐子が疲れから風邪を引いて寝込んだりしたため、シズエは北鎌倉の家に残っていた。  シズエさんも一緒に連れていったら喜ぶんじゃないかしら、と桐子は言い、夫もそれに同意した。その旨告げてやると、シズエは、ありがたいことだねえ、と言い、桐子に向かって両手を合わせた。  手塚が行き先に選んだのは、熱海伊豆山にある老舗《しにせ》の高級温泉旅館である。鎌倉から近く、決して疲れる旅にはならない。なんでも昔、何度か重要な取引先の人間の家族を招待したこともあるそうで、手塚はその宿の女将《おかみ》と顔なじみでもあった。出発は九月最初の金曜日、と決まった。  あれ以来、蓮見とは何の触れ合いもなくなっている。自宅に夫を送り迎えに来る際の、あの意味ありげな視線すら、気のせいか失われてしまったような気がしていた。  考えてみれば、飛行機が離陸する時、怖くないように、と手を握ってくれただけのことなのである。そんなことは誰だってするのかもしれない、と桐子は思った。怖がる子供をなだめるようにして、世間ではこういうことが数知れず、普通に行われているのかもしれない。男が女の手を握ったからといって、それは必ずしも特別の意味を持つことにはならないのである。  誰もが気軽に交わす握手のようなものを、特別のことだと思いこんでいたのは自分だけだったのか。蓮見はただ、社長夫人が心細い声を出して怖がっているのを見て、手を握ってくれたに過ぎないのであり、それは或る意味では、医者が患者の手を握って、大丈夫、安心なさい、と言いふくめるのと似ているのではないか。  手塚の送り迎えで北鎌倉に現れる蓮見は、以前同様、押し黙ったままだった。桐子が親しげに話しかけても、聞いているのかいないのか、小首を振る程度の反応しか見せない。視線を合わせようとすればするほど、逃げて行く。彼の目は桐子を見ていなかったし、桐子を探ろうともしていないように見えた。  嫌われたのだ、と思ったり、また、このささやかな変化は何かの前兆になるのかもしれない、と思ったりした。それでも一人寝の時の夜の夢想は変わらずに続けられた。思い描く蓮見の裸体は、さらに抽象度を増していき、いつしか顔も目も鼻もない、ただの肉の塊と化して桐子をのみこんだ。  それが蓮見なのだ、と桐子は思う。そこに交わされる言葉は何ひとつなく、黙した獣さながらに、彼は桐子を突き上げて突き上げて、ただそれだけで役目を終える。桐子の裸をほめることもしなければ、唇や乳房に優しい接吻を残すわけでもない。夢の中の蓮見は、性器そのものと化して桐子に向かってくる。彼は桐子の火照りを鎮めるための性器でしかなく、それでいいのである。自分が秘かに蓮見に課した、蓮見の役割というのはそれだったのである。  熱海伊豆山の旅館では、シズエが本館の座敷に泊まり、桐子と手塚は離れの部屋に泊まった。本館の座敷よりも離れのほうが宿泊料が高い。長屋のように並んでいる離れではなく、本格的な一戸建て住宅のような離れであり、それぞれに枝折《しお》り戸や玄関、三和土《たたき》、縁先があり、小さいが風情のある庭までついていた。  各部屋にも温泉を引いた個別の檜《ひのき》の風呂があるが、やはり本館にある広い浴場に足を運ぶのがいい、と手塚は言い、到着したその日から、昼となく夜となく、暇さえあれば温泉につかりに行った。  あまり身体を温めすぎると血圧が上がってよくないのではないか、と桐子がいくら言っても聞かない。幸い、温泉の湯の温度はどちらかというとぬるめであり、体調をくずした人間にも安心してすすめられる、と女将から太鼓判を押されていたこともあって、手塚はすっかり湯治客気分でくつろぐようになった。  まだ夏の火照りを残してはいたが、熱海には秋の気配が漂い始めていた。少し丘を上っただけで、ススキの群生を見かけたりもする。温泉気分を満喫している夫を残し、桐子はシズエと散歩を楽しんだ。  黄色い小菊やコスモスの花が乱れ咲いている道をそぞろ歩きながら、シズエはしきりと、「いいねえ」と繰り返した。「こういうところでさ、ずうっと、死ぬまでぼんやりして暮らしていられたらね、どんなにいいだろうね」 「シズエさんにはきっとそういう暮らし、退屈よ。毎日毎日、張り切って動きまわってるようなのが、シズエさんには似合ってるもの」 「性分なんだよね。昔っから落ちつかない。コマネズミみたいに動きまわってないと、だめなのよ。好きな男の人ができたらできたで、その人のまわりでやっぱりコマネズミをやってるの。貧乏性だねえ」 「尽くし型だったのね」 「尽くすってわけでもないんだけどね。男に惚れると、その男のためになんでもやってやりたくなるんだよ。大切なことだけじゃなくて、くだらないこともね。例えばさ、ここのこの花瓶に女郎花《おみなえし》の花があったらいいだろうな、って、惚れた男がぽつんと呟くのを聞いたとするでしょ。そしたら、もう次の瞬間には、あたし、外に飛び出してって、女郎花の花を探してるのよ。どこかにある、きっとある、って思って、そうやって探してるときっと見つかるの。不思議だったよ」  桐子は微笑む。「誰だったの? その男の人。前のご主人?」 「違うよ。でも、いい男だったよ。色男。古いもんが好きでね。目利きだった」 「どうして結婚しなかったの」 「できやしないよ。相手には女房がいたんだから」 「シズエさんもいろいろあったのね」 「いろごとは多かったよ。自慢じゃないけどね。これでも昔はもてたこともあったし。なにしろ惚れっぽかったねえ。今だから言えるけど、ずっと昔は、あんたの亭主のこともちょっと好きだったこともあるくらいだから」  桐子は立ち止まって、目を丸くし、大袈裟《おおげさ》に驚いてみせた。「ほんとなの? 知らなかった」 「ほんとに昔の話だよ。かれこれ五十年近く前。……五十年だってさ。いやんなるね。とにかくすごく年下の従兄弟だったでしょ。あんたの亭主、紅顔の美少年だったからね。親戚の中でも目立っててさ、ずっと憧れてたもんよ。一度だけ、押し花を贈ったわ。ちょうどね、こんな季節だったからね、一生懸命、コスモスの押し花を作ってね。ちょっと色っぽい手紙を添えて」 「返事、来た?」 「来やしないよ。あたしはあんたの亭主よりも十六も年上だろ? あの頃からあたしはババア扱いされてたからね。親戚のババアが変なもの贈ってきた、って薄気味悪がって、ごみ箱に捨てたに決まってるさ」  桐子はくすくす笑った。「今度、聞いてみようかしら。コスモスの押し花って言えば、何を連想する? って」 「無駄だよ、無駄。きれいさっぱり忘れてるよ。でもそれでいいの。そんなこと覚えてられたら、今度はこっちが気色が悪い。あんまり気色悪くて、きっと手塚の家に出入りするのがいやんなるよ」  秋の虫が静かに叢の奥で鳴き続けていて、桐子はふと、蓮見を思った。会いたい、と思った。会って蓮見の肌に触れたい、と思った。昼日中、それほど強烈に蓮見の肌が恋しくなるのはおよそ初めてのことだった。  シズエのせいかもしれない、と桐子は思う。この艶話の大好きな老婆と一緒にいると、ついつい話に引きこまれて、知らずいろごとの世界に足を踏み入れそうになってしまう。  何かの折に、ふと蓮見を思い出させるのはいつもシズエだった。シズエを通して甦る蓮見は、決して一人寝の夢想の中に現れる蓮見ではない、雄の肉体と男の機能をもった、現実の男としての蓮見だった。シズエはその、血肉の通った男としての蓮見を桐子に与え、桐子をそそのかし、執拗に誘惑させようとしてくるのだった。  散歩の後、宿に戻ってシズエと別れた。夫は温泉から戻っておらず、離れの部屋には誰もいなかった。  夕暮れが始まろうとしていた。夕映えの赤い空が、障子のはまった円窓の外に見える。真紅に染められた風景の中を無数のトンボが飛び交っている。西陽を受けて、室内には淀んだようなぬるい空気が満ちている。微熱が出てきそうなひとときである。  ヒグラシが鳴き出した。宿の敷地内にある雑木林の奥深く、どこからともなく無数のヒグラシの声が重なって、円窓も畳も障子も何もかもが夕陽に赤く染まり始めている。外の竹笹が、白い障子に見事な影絵を映し出し、それはそよとも吹かない風のせいで、一枚の水墨画のようにも見えてくる。  床の間の白い電話機が慎ましく鳴り出した。帳場ですが、と言う柔らかな女の声がした。「東京からお客様がおみえになっております」 「どなた?」 「蓮見様とおっしゃる方です。手塚様にお届けものがあるとのことですけれど、いかがいたしましょうか」  胸の奥に甘美な戦慄が走った。一秒の何分の一かの短い間、桐子は逡巡し、答えを模索した。自分がどう返答するか、もう一人の自分が天井のあたりから冷たく見下ろしているような気がした。 「ここに」と桐子は言った。「離れまでお連れしてください」  素早く身なりを整え、手ぐしで髪の乱れを直した。一面鏡に向かい、急いで白粉《おしろい》をはたいた。顔色が悪く、大きく見開いた目のまわりがいくらか赤らんで、唇だけがぼってりと濡れたように光っている。湯殿から夫はまだ帰らない。  次の間の向こう、離れの入口のあたりに人の気配がした。こちらでございます、と言う女の声が、ヒグラシの声に混ざって遠くに聞こえる。やがてしずしずという、滑るような草履の音が遠のいていき、入口の引き戸に軽いノックの音が響いた。  桐子は小さな三和土に立ち、ゆっくりと引き戸を開けた。引き戸の向こうに拡がる、朱色に染まった風景が目に飛びこんでくる。猛々しいほど赤い夕陽である。飾り灯籠《どうろう》も、枝折り戸も、小ぢんまりと設《しつら》えられた生け垣も、庭先の古びた手水鉢《ちようずばち》も、何もかもが赤く染まっている。  そんな中、じっと立ち尽くすようにしてこちらを見ている蓮見もまた、まだらに赤く染まっている。遠く近く鳴き続けているヒグラシの声以外、何も聞こえない。  何か口にしようとするのだが、声が出てこない。夫は今、湯に行っている、用向きは何か、と聞かねばならない、とわかっていても、言葉それ自体が、何か遠い、異国のものであるように感じられる。  蓮見がふいに桐子に近づいて来るなり、自らの姿を隠すようにして後ろ手に玄関の引き戸を閉めた。低い上がり框《かまち》に踵《かかと》をひっかけそうになりながらも、桐子はゆるゆると後ずさりして畳の上に立った。  蓮見は靴を脱ぎ、上がってきた。視線はひたと桐子の顔に向けられていて、桐子はもう身動きができない。  みしりと音がして、桐子の素足が開け放しにされていた座敷の襖《ふすま》の敷居を踏んだ。襖のへりにからだを押しつけられたかと思うと、次に桐子は蓮見の腕の中にいて、彼の唇を受けていた。  何も考えられなかった。何が起こったのか。こうなることがあらかじめわかっていたのか。これは望んでいたことなのか。そうではないのか。  閉じた目の奥で、橙《だいだい》色の火花が散る。かすかな喘ぎ声が聞こえるが、それが自分のものなのか、蓮見のものなのかわからない。  蓮見の接吻が烈しくなってくる。短い時間に桐子のすべてを奪い尽くそうとでもしているかのようである。  唇が桐子の首すじから胸元に滑り降りていく。乳房が揉まれる。手つきは乱暴だが、感触はきわめて柔らかい。腰にかけられた手に力がこめられ、次いで、はいていたスカートの裾が大きくたくし上げられる。桐子は両足を固く閉じて抵抗する。抵抗するふりをしているだけで、桐子はもう、蓮見の前で溶け出している。夜な夜な思いめぐらせてきた、闇の中の秘密の夢想が甦る。燃え尽きることの決してなかったおき火が、ごうごうと音をたてて焔をあげ始めている。  いつのまにか、窓という窓を通して、座敷の中にまで夕陽が射しこみ始めた。薄く開けた桐子の目が、赤々と染まった室内の風景をとらえる。うるんだ赤い視界の中、折り重なるヒグラシの声が聞こえる。寄せては返す波のような、淋しい山間《やまあい》をくぐり抜けてくる、遠い谺《こだま》のような声である。  そのヒグラシの声に混ざって、野太い男の歌声が聞こえてきた。夫の声だった。上機嫌で歌を歌っている。何の歌なのかはわからない。足音がする。からころという下駄の音である。音はどんどん近づいてきて、今まさに、離れの手前にさしかかろうとしている。  桐子は慌ててからだを離そうとした。だが蓮見は力を抜かない。じっと桐子を見据えたまま、桐子を抱き寄せ、荒々しくその唇を吸う。  だめ、と桐子は言う。声になっていない。桐子のからだが再び溶け出す。渾身の力をこめて、桐子は蓮見の手から逃れる。  桐子が座敷の奥に行き、蓮見が居ずまいを正し終えたまさにその時、離れの引き戸が大きく開けられた。  おう、と夫が言った。「来てたのか」  はい、さきほど、と蓮見が応じる。信じがたいほどの冷静な声である。乱れも何もない。狂おしさとは無縁の、落ちつきはらった声。 「例の書類、お届けにあがりました」 「そうか。ご苦労だったね。速達で送ってくれてもよかったんだが」 「お届けしたほうが確実ですから」  夫がちらと桐子を見た。「どうだろう、今夜は蓮見君も一緒に、どこか外で食事をするか」  桐子はうなずいた。知られてしまったのではないか、と思う。この髪の毛の乱れ。なかなかおさまりそうにない、荒々しい吐息。不自然に紅潮しているに違いない頬。顔や唇、首すじ、乳房のあたりに、今しがたの蓮見の接吻の跡がそっくりそのまま残っているのではないか。  だが夫は浴衣の裾をからげながら、「いい湯だった」と言った。「そろそろ秋だな。さっきススキも見つけたぞ。蓮見君もせっかく来たんだから、ひと風呂あびていけばいい」 「いえ、せっかくですが私はこれで……」蓮見はそう言って頭を下げた。 「帰るのか。来たばっかりなのに」 「はい。いろいろと雑用を残してきましたので」  そうか、と夫は言い、それ以上、引き止めようとはしなかった。蓮見から手渡された書類袋をさほど興味もなさそうに一瞥《いちべつ》し、そっくりそのままそれを桐子に手渡すと、夫は赤く染まった畳の上に大の字に寝ころがった。  蓮見は誰にともなく軽く会釈を残して離れを出て行った。桐子に挨拶の一つもなかった。  蓮見が玄関の引き戸を開けた時だけ、いっとき、ヒグラシの声が高まって、閉めると同時に遠のいた。蓮見が去って行く足音はヒグラシの声に混ざり合い、遠くなって、やがて何も聞こえなくなった。  瞬く間に時が流れた。何も起こらない、起こりそうにない、以前と変わらぬ暮らしが続いた。  蓮見は相変わらず、毎日変わらずに夫を迎えに来て、また、夜になると夫を送って北鎌倉の家までやって来た。意味ありげに桐子を見つめてくることは少なくなって、蓮見はどこかしら虚ろに生きているようにも感じられた。疲れているように見えることもあった。  理由はわからなかった。挨拶以外、ほとんど口をきかない相手なのだから、疲れているみたいね、と問いかけるのも憚《はばか》られた。  あれは何だったのだろう、と桐子は繰り返し考えた。初秋の熱海での一件は、夢の中での出来事に過ぎなかったのか。だが、目を閉じれば、夕陽に赤々と染めあげられた座敷の、座卓や座椅子、座卓に載っていた干菓子などを鮮やかに甦らせることができる。あそこに円窓があった、あそこに小さな衣桁《いこう》があった、衣桁には夫が繰り返し使う手ぬぐいがかけられていた、そういうものをすべて視界の中におさめておきながら、自分はあんなふうに蓮見の腕の中で乱れていた……。  一切の記憶が怖いほど鮮明なのに、毎朝毎晩、北鎌倉の家の前に車を横づけにして、夫を送り迎えする蓮見が、遠い男のように感じられる。十年も二十年も……いやもっともっと遥か昔に、短い触れ合いを交わしただけの相手だったようにも思えてくる。  ねえ、あなたはどうなの、私と同じなの、と一度でいい、問いかけてみたいような気もするが、桐子にはそれが言いだせない。まして、あれは何だったの、何のつもりだったの、と質問するくらいなら、死んだほうがましだとも思う。  蓮見は黙って桐子を抱き寄せた。桐子も黙ってされるままになっていた。それでいい。それがシズエの言う、いろごとなのではないか、と桐子は思い、そう思えば妙に納得して、一切が片づいたような気持ちになる。  凄まじい勢いで日めくりがめくられていって、冬になった。小春日和の日曜の午後である。すっかり体調を取り戻した夫は、珍しくくつろいで、縁先に座布団を持ち出し、背を丸めて足の爪を切っている。  シズエはもう大磯に戻っている。相変わらず桐子が具合を悪くすることは多いが、以前ほどではなくなった。少しはからだが丈夫になったからか、あるいは、蓮見とのことがあって、気持ちに張りが出たからか。シズエの出番は少なくなり、あっても二、三日で桐子の体調がよくなるものだから、長く北鎌倉の家に滞在することはなくなっている。 「お茶をいれたの。飲むでしょ?」  桐子が聞くと、「いいね」と夫はうなずいた。  ぷちん、と爪を切る音がして、ぬくぬくと陽射しが注ぐ庭のどこかに、勢いよく白いものが飛んでいった。 「今日はね、夕食にぶりを買ったの。照り焼きがいい? 甘辛く濃い味にして。それともあっさり塩焼きにしましょうか」 「照り焼きだな」  夫は駱駝色のセーター姿である。逆光の中で見るその姿は、ひどく老いぼれた得体の知れない大きな動物のように見える。  桐子は丸盆に煎茶をいれた湯飲みを二つ載せ、自分も縁先に坐って庭を眺めた。 「今年は庭の寒椿、咲くかしらね」 「うん」 「去年は咲かなかったの。一昨年は咲いたけど。一年おきに咲く寒椿ってあるのかしら」 「どうだろうね」  夫は爪切りを中断し、丸盆の上の湯飲みを手に取って、ずるずると啜《すす》るようにして飲んだ。一口飲むごとに、舌を鳴らし、口をもぐもぐさせる。唇の色は薄い。白茶けた陶器のようでもある。  蓮見の唇の色は赤黒かった、と桐子は思い出す。血の色、煮えたぎる欲望の色……。あれは夕焼けに染まっていたせいなのか。  札幌で倒れて以来、ここのところ夫との交わりは少なくなっている。本調子ではないのか、閨《ねや》の中、執拗に桐子を求めてきても、からだの中の螺子《ねじ》が一つ、ゆるんででもいるかのように、愛撫はおざなりである。あげくの果てに疲れ果てて、ほとんど何もしないまま、どっかりと仰向けになってしまうこともある。  夫の年齢を感じる。衰えを感じる。これでいい、自分もまたそうなのだから、と桐子は思う。思うそばから蓮見のことを考える。蓮見と交わした、一度きりの抱擁を思い出す。火照りを覚える。呆れるほど熱くなったおき火を感じる。 「そうそう」と夫が言った。「言うのをすっかり忘れていた。やめることになったよ、蓮見君」  桐子はつと夫を見た。  夫はぼりぼりと首すじを掻きながら、「気の毒な話だよ」と言った。「細君が病気だそうだ。癌だよ。発見された時はかなり悪くなってたらしい。まだ若いからね。確かきみよりもずっと若い。気の毒だが、長くは保たないと思うよ。子供と一緒に、せめて最後まで付き添っててやりたいから、ってね、あの男、涙を浮かべてそう言ってた」  そうだったの、と桐子は言った。  涙を浮かべている蓮見は想像できない。感情の嵐に突き動かされている蓮見は、桐子の夢想の中にはいない。  蓮見はいつでも、無言のまま、無表情のまま、桐子の傍にいる。だからこそ蓮見は、夜半の淫らな夢紡ぎに、似合うのである。感情のない、言い訳の何ひとつない、理由づけもない、内省も反省もしない、前向きに希望を持って生きている、といった様子でもない、そんな男の未知の部分こそが、一人寝の夜の遊戯にはもっともふさわしいのである。 「何もやめることはなかろう、とは言ったんだ。長期休暇っていう手もあるからな。でも聞く耳を持たなくてね。仕方がないよ。気持ちはわからんでもない」 「残念ね」桐子はつぶやくように言った。「あなたも気にいってた人だったのに」 「また探すさ」 「そうね」  夫はまた、思い出したように背を丸くして、足の爪を切り始めた。  胸の奥底で、何かが静かに渦を巻いている。何だったのか、何だったのか、と桐子は自分に問いかける。問いかけるそばから、あらゆる答えは塵あくたのようになって宙に舞いあがり、消えていく。  また別の蓮見を探すのか。運転手としての蓮見を探すのは夫であり、秘かな遊戯の相手としての蓮見を探すのは自分である。別の蓮見を探し出して、またこれまでと同じように、なやましいような気持ちにかられた晩、鎌倉の山々を吹き抜けてくる風を感じながら、閉じた目の奥で海を見ることになるのか。  いつまでこんなことが続くのか、と思う。それほど長くは続かないような気もするし、案外、恐ろしいほど老いさらばえても続いているような気もする。  これもいらない、あれもいらない、といろいろなものを捨てていって、なお、最後の最後に残るものがあるのだとしたら……そしてその最後に残されるものが、自分が抱えもっている、からだの中のおき火だったとしたら……そう考えて、桐子は軽く身震いする。  自分が死んで、柩《ひつぎ》ごと焼かれた時に、誰にも秘密だったはずのおき火がめらめらと焔をあげて燃えさかる様が見えるような気がする。  焔は焔と混ざり合い、絡み合って、見分けがつかなくなる。死者だけがそれを知っている。混ざり合った焔の中、いずれが自分のからだから立ちのぼった焔であるのか、骸《むくろ》と化した自分だけが気づいている。  ぷちん、とまた、夫が切る爪の音がした。それを合図にしたかのように、澄みわたった冬の空に向かい、番《つがい》のヒヨドリがけたたましく啼きながら飛び立つのが見えた。 [#改ページ]  [#2字下げ]最 後 の 男 「サチ?」  すぐに姉の声だとわかった。少し低めで澄んでおり、甘味が含まれた冷たい水を思わせる、そんな声。 「今、どこよ。どこからかけてるの。いったいどこに行ってたのよ。連絡くらいくれたって……」携帯電話を強く握りしめながら、私はそう聞き返した。怒鳴った、と言ったほうがいいかもしれない。  大きなスクランブル交差点の横断歩道の信号が、いっせいに青になった。四方八方から、人が虫のようにわらわらと湧きだしてくる。立ち止まったままでいた私はすぐに虫たちに取り囲まれ、肩を小突かれ、背中を押された。  姉は「ごめん」と言った。「いろいろあってね。バタバタしちゃって」 「人をこんなに心配させて。いい加減にしてよ。電話が鳴るたんびに、お姉ちゃんに関するいやな知らせじゃないか、って神経がどうかなりそうだったんだから。居場所くらい教えてくれたってよかったじゃない」 「ごめん」と姉は繰り返した。「今さっき、あんたのマンションに電話したんだけど。日曜日だし、会社も休みだろうし、買物にでも出たのかな、と思って携帯にかけてみたの。よかった、つながって。ねえ、サチ。私ね、今、病院にいるんだ」 「病院?」私は声を張り上げた。「何なのよ、いきなり。もうほんとに、わけがわかんない。いい年して、どうしていまだにそういう癖、治んないわけ? どうしていつもいつも、いきなり電話かけてきては、人をびっくりさせるようなことばっかり言うのよ」 「そんなにぽんぽん言わないでよ」姉はあまり可笑《おか》しくなさそうに笑った。「入院したの。三日前に。ちょっとね。ここんとこ、具合が悪かったもんだから」 「……具合って?」 「大したことないんだけど、だるいの。食欲もないし。そういう症状が二か月くらい治らないのよ。これまでずっと、身体のことになんか、かまってる暇がなかったでしょ。診《み》てもらったら、この際だから、全身の検査をしましょう、ってことになってね。それもいいかな、と思って。ちょっとした検査入院よ。私も五十三だものね。ほんと、いい年よね。昔だったら、おばあさんだわ。身体にガタがくるの、当たり前よね」  私は黙っていた。風の冷たい、冬晴れの午後だった。見上げれば、東京の空はいつになく澄んでいて、年末の街の喧騒は、夥《おびただ》しく群れている蜂の羽音のようでもあった。 「あんたのほうはどうなの。元気でやってるの?」  携帯を握りしめながら歩いている私の脇から、急ぎ足で通り過ぎて行く若者が飛び出して来た。彼は思いきり私の踵を蹴飛ばして行った。  あいたっ、と思わず叫ぶと、若者は振り返り、すいません、とぶっきらぼうに言った。  私はその、髪の毛を苺のように赤く染めた長身の若者を睨みつけながら、姉に向かって「まあね」と言った。「相変わらずよ」 「お正月休み、どうするの? また海外旅行?」 「ううん。今年は静かにしてる。友達と温泉にでも、と思ってるんだけど、どうなるかわかんない」 「男の友達?」 「お姉ちゃんに関係ないでしょ」  姉に自分の男関係について何か質問されるたびに、どうしてか私は苛々する。尖ったような気持ちになる。  私は姉のようには生きていない、姉のように烈しい恋におち、そのつど相手に溺れ、熱狂するあまり、眠れない夜を過ごしたことなどない……そんなことを考える。  私はただ、風のように自分の傍を吹き過ぎていく男と、いっときの関係をもつだけである。恋は面倒事以外の何物でもない。相手の男に対して、どこかで聞きかじったような幻想を抱いている自分が見えてくると、すぐに厭になってしまう。一切が馬鹿馬鹿しくなってしまう。  私はもともとそういう人間だったし、そういうことを姉にいちいち、詳しく説明したいとも思わなかった。昔から変わっていない。姉と違って、私は物事にさめている。こればかりはどうしようもない。  姉のほうが遥かに世界から逸脱していて、そこには虚栄もなく、モラルもないのだ。姉はただ、男と恋におちるだけである。動物のように、まっすぐ男に惚れ、惚れては別れ、別れては惚れ、そうやって生きてきた女なのである。 「ゴータローさんは?」私は聞いた。聞いてやるべきだと思ったからだった。「元気でいるの?」  元気、元気、と姉は急に勢いづいたように言った。「毎日、朝から晩まで、病室にいてくれるんだ。優しいのよ」  ゴータローの本当の名前は「濠」という。皆からゴータローという愛称で呼ばれていて、姉もそう言うものだから、すっかりその呼び名が板についた。  ゴータローと姉とは、つい半年ほど前、駆け落ちまがいのことをしでかした。ゴータローは姉よりも十三も年下で、まだ四十になったばかりである。  ゴータローには妻がいた。妻は夫の色恋沙汰に逆上して自殺を図った。その妻を病院に入れ、ろくな後始末もせず、ゴータローは姉と逃げた。  そういう男は根が薄情なのよ、自分勝手で冷酷なのよ、やめなさいよ、お姉ちゃんが不幸になる、と私は姉に言った。だが、姉は聞かなかった。  姉は私がゴータローのことを好いていないと知っている。そのことはきっと、姉をどこかで悲しませているのだろうとわかってはいるが、虫の好かない男は好かないのであって、どうしようもない。  だから私はそれ以上、ゴータローの話をしない。黙っている。 「いろいろあったけど、彼とこうなってよかった、って、心から思ってるの。ほんとよ」姉はしみじみと言った。 「はいはい、そうでしょうよ。ごちそうさま。よく言うわよ、こんな時に。そんなことよりもっと……」 「いけない。テレホンカード、もう少しで切れちゃう」 「新しいカード、持ってないの?」 「うん、持ってない。あらやだ。小銭もないわ。わあ、切れちゃう、切れちゃう。ごめん。また今度、ゆっくりかけるからね」  ちょっと待って、と私は慌てて言った。「肝心なこと聞いてなかった。今どこの病院にいるの。どこに住んでるのよ。どこに連絡すれば」  私の言葉が姉に届く前に、電話が切れた。  姉のあの、甘さを含んだ澄んだ水のような声を聞いたのは、それが最後になった。  姉の名はあゆ子という。私は佐知。二人姉妹で、私と姉は十も年が離れている。  私たちの父が死んだのは、姉が十八、私が八つの時だった。家の外に女を作り、父はその女が暮らしていた、蒲田にあるうす汚れたアパートの部屋で頓死《とんし》した。死因は心不全ということだった。  母はその後、誰彼かまわず父の話をする時、醜く目を吊り上げながら「フクジョウシ」という言葉を吐き続けた。幼かった私も、すぐにその言葉を覚えた。  ずっと後になって、姉から「フクジョウシ」の意味を教わった。へえ、そうだったの、としか思わないのが不思議だった。  私に父の面影は薄い。薄い、というよりも、ない、と言ったほうが正しい。  父は遅く生まれた子である私ではなく、明らかに姉のほうを可愛がっていた。口を開けば、あゆ子、あゆ子、だった。理由はわからない。姉のほうが私よりも遥かに美しく、少女めいていて素直だったからかもしれない。  あゆ子、今週は何をしてた、何か変わったこと、なかったか? ん? ちゃんと勉強したか、友達とは何の話をした? お父さんに教えてごらん……。日曜の朝など、縁側の日だまりであぐらをかき、目を細めて姉を見つめながら父はそう問い続けた。幼かった私は、障子の蔭からその光景を眺めていた。  どうしてお父さんはお姉ちゃんばっかり可愛がるの……そう母に質問したことが一度ある。母は困った顔をして、サチのことだって可愛がってるじゃないの、と言っただけだった。  時折、唐突に自責の念のようなものにかられるらしく、父は仕事帰りによく私にプレゼントを買って帰った。ミルクのみ人形だったり、くまのぬいぐるみだったり、ままごとセットだったりしたが、そういう時、父は姉には何も与えなかった。  あゆ子はもう大きいから、こんな子供っぽいもんはいらんだろう、と父は言い、高校生になっていた姉もこっくりと無邪気にうなずく。父と姉に見守られながら私はプレゼントの包みを開ける。浮き浮きしたような表情を作ってみせる。別に物を買ってもらったからといって浮き浮きしていたわけではなく、浮き浮きしているようなふりをしなければならない、と思っただけである。  包みを開け、私が、わあ、可愛い、と声を張り上げると、父は、そうか、と言う。姉が私と一緒になって、可愛いね、可愛いね、よかったね、サチ、と言う。  その過剰な優しさが、私にはうっとうしい。母でもない、姉でもない、ただの年の離れた他人の女のように見えてくる。姉が私に優しくすればするほど、私は余計に傷つけられる。  だが姉はそのことに気づかない。おそらくずっとそんなことには気づかなかったのだろう。  姉は天性、無邪気で天真|爛漫《らんまん》であった。計算とか、企みとか、こうすればああなる、ああすればこうなる、といった考え方は一切しなかった。明日を思い煩うこともなかった。目の前にある愛を素直に受け入れ、自分もまた相手を懸命に愛する……そういう人だった。  だから、と言うべきか。姉の曇りのない優しさ、正直さはいつも私に罪悪感のようなものをもたらした。  姉はいつだって私を妹として愛してくれた。何故、この人を羨んだり、嫉妬したりする必要があるのか、と私はいつも自分に問いかけながら生きていた。とりわけ思春期の頃はそうだった。  私は姉に憧れ、姉を羨み、自分には決して持つことのできない、その魅力について考え続けた。そして、どんなふうに意地悪く考えても、姉を嫌いになることができずに終わった。  その気持ちは今も変わらずに続いている。姉を思う時、私の中にはいつも、春のぬるんだ水のようなものだけが温かく広がっていく。  そこには嫉妬や軽蔑、怒りなどかけらもなく、ただ、懐かしさといとおしさ、唯一の肉親に向けた静かな情愛が、ゆらゆらと日だまりの陽炎《かげろう》のように揺れているばかりである。  父が「フクジョウシ」してから二年後、母もまた、脳卒中で倒れて呆気なく逝った。  父のことがあって以来、母は重度の不眠症に陥り、まるで菓子のように睡眠薬をぽりぽり齧《かじ》っていた時期もある。晩年はアルコール漬けでもあった。  あれは自殺みたいなもんだったんだよ、と言う親戚もいたが、正確なところはわからない。その通りだったのかもしれない。  死の前日まで台所に立ち、日本酒の一升瓶を傍らに置きながらも、にこにこと陽気さを装って私に夕食を作ってくれていた。まさか死ぬとは思っていなかった。学校で母の死の知らせを受け、私はひどく動転した。  通夜の席でも、葬儀の席でも、ものも食べずにただ泣くだけだった。喋ることも人の話を聞くこともできなくなった。  まだ十歳になったばかりだったが、父の経験があったので死の意味することはよくわかっていた。母が恋しかった。母のもとに行きたかった。サチ、と私の名を呼ぶ母の声を探して、深夜、淋しさのあまり私は玄関の戸を開け放ち、泣きながら夜の闇の中に飛び出していこうとしたこともあった。  姉がそれを引きとどめた。私は姉に固く抱き寄せられ、姉の柔らかな唇を髪の毛や耳朶《じだ》のあたりに感じた。私と姉は抱き合って泣きじゃくった。姉が烈しく泣いているのを見たのは、あの時だけだ。  姉は高校を卒業後、地元の川崎にある、大手企業の工場に就職していた。姉にはその頃、すでに毎月定収入があった。  遺産というほどではないにせよ、両親が残した預金が少なからずあり、住む家もあった。何かと援助してくれる親戚もいた。わずか十歳で両親と死に別れ、少なくともみじめな思いをせずに済んだのは、一応の暮らしのめどがたっていて、何よりも、姉がいてくれたからだ、と今も思う。  母が逝ってから、姉はすぐに母親役をかって出た。三度の食事はもちろんのこと、掃除、洗濯、私の学校での宿題やPTAの仕事に至るまで、姉は何ひとつ面倒がらずにやった。  日曜日の午後などに、私がクラスの女の子を家に招くと、姉はドーナッツを揚げ、歓待してくれた。姉は料理が得意で、姉の揚げるドーナッツはどこの菓子屋で買うものよりも美味だった。  サチちゃんのお姉さんって、優しいし、楽しいし、きれいだね、ああいうお母さんだったら、私も欲しい……友達にそう言われるたびに私は「でも、お姉ちゃんは私のお母さんじゃないもん」と言い、さめた素振りをしてみせたが、その実、私は誰かからそんなふうに言われることが嬉しかった。  工場が休みになる日曜日には、姉は私を外に連れ出し、私が学校でみじめな思いをせずにすむように、と世間並みの娯楽を味わわせてくれた。私たちはデパートをまわったり、映画館でポップコーンを食べながら映画を観たり、遊園地でジェットコースターに乗ったりした。  時に、姉の「友達」と称する男が一緒のこともあった。曽根、という名の、姉よりも三つ年上の男で、姉と同じ工場に勤めているという話だった。曽根は結婚していて、あの頃、すでに三歳になる双子の男の子の父親だった。  曽根は私に「僕のことは、おじさん、って呼んでもいいよ」と言ったが、「おじさん」と呼ぶほど、私は彼に親しみを持つことができなかった。私は終始、彼のことを「曽根さん」と呼んでいた。  曽根からはよく、自宅に電話がかかってきた。私が出ると、「曽根ですが」と他人行儀な口調で言い、「お姉さん、いる?」と聞く。  お姉ちゃん、曽根さんよ、と言って受話器を姉に渡すと、姉は目を輝かせた。姉はくすくす笑ったり、電話のコードを指に巻きつけて小首を傾げてみたり、ため息とも吐息ともつかない、悩ましいような息を吐いたりしながら私に背を向ける。  電話を終えると姉は、上気した顔をしながらも、どこか照れたような、すねたような口調で「あら、サチ。まだここにいたの? 宿題、まだ終わってないんでしょ」などと言った。 「お姉ちゃん、曽根さんのこと、好きなの?」と何度か聞いてみたことがある。  曽根に対して恋愛感情があるのかどうか、という意味だったのだが、そのたびに姉はいたずらっぽく微笑み、好きじゃなかったら、お友達になんかなれないじゃないの、と言った。  おかしな話だが、あの頃、私は姉が曽根に恋をしているとは思っていなかった。一方的に恋をしているのは曽根のほうであって、姉は曽根のことなど、ただの友達としか思っていないのだ、曽根に優しくしているのは、姉らしい気遣いと友情があるからであり、それは恋とは別のものなのだ、と考えていた。  何故なのかわからない。相手が誰であろうと、私の母親役をこなしてくれている姉が易々と、世間で言うところの恋に身を焦がすことなどあり得ない、と思いたかったからなのか。あるいはまた、独身の女が、家庭をもっている男と恋におちるわけがない、と阿呆のように信じていたからなのか。  十三歳になった年の夏休み、私と姉は曽根に誘われて、三泊四日の予定で伊豆の海辺の民宿に遊びに行った。曽根と姉が親しくなって、すでに一年ほどたっていた。  私の覚えている限り、それまで姉が夜遅く帰ったことはない。工場の仕事が長引いて、ちょっと残業しなくちゃいけなくなった、と電話がかかってくることもあったが、それでも姉は夜八時過ぎにはきちんと家に帰って来て、変わらぬ笑顔で私に「はい、鯛焼き買ってきたよぉ」などと言った。  休日はたいてい私と一緒だったし、姉が一人で旅行に出たこともなかった。熱海で工場の社員旅行が行われた時も、姉は私が一人になるのを不憫《ふびん》がって、参加するのを断ったほどだった。  だから、伊豆への短い旅行に出るまで、曽根と姉との間に、男と女としての具体的な進展があったとはどうしても思えない。よほど姉が私にうまく嘘をつき、何喰わぬ顔をして工場を休んで曽根とどこかにしけこんでいたのなら話は別だが、そんなことは考えられない。  姉は嘘をつくことができない人間だった。男に向けた自分のあふれる思いを隠し通すことができなかったと同様、誰に対してでも、何に対してでも、姉は怖いほど真っ正直だった。  今から思えば、あの伊豆の民宿に泊まりがけで行った時、姉と曽根との間に育《はぐく》まれてきたものは充分に熟していたのだろう。熟しすぎ、姉も曽根も、互いにこらえきれないほどになっていたのだろう。  民宿は昔ながらの古く黒ずんだ、二階建ての大きな日本家屋であった。八畳ほどの座敷が幾つも並んでいたが、どこにも何の手も加えられておらず、鍵もついていない。海が近いことと低料金だけが取柄の、プライバシーも防犯も何もあったものではない、見事に牧歌的な、開放的な宿であった。  昼の間は三人で海で泳ぎ、浜でお定まりのボール遊びなどをして、くたくたに疲れて宿に戻ってからは、曽根と姉は夕食の前にビールを飲んだ。民宿の決まりで、十時過ぎには消灯してほしい、ということで、だらだらと飲みながら食事を続ける、ということもできず、姉と曽根は、私相手に庭で花火などをしてくれて、十時にはそれぞれの床についた。  私と姉とが一つの座敷を占領し、襖で仕切られた隣の座敷が曽根の部屋だった。暑いので雨戸をたてず、縁側の窓を開け放しにして寝るように言われ、その代わり、座敷にはそれぞれ蚊帳《かや》が吊られた。見たこともないほど巨大な、古くて黴《かび》くさい、緑青《ろくしよう》のような色をした蚊帳だった。  遠くに潮騒《しおさい》が聞こえた。他にも泊まり客がいたが、何の物音も聞こえず、波の音だけが夜のしじまに滲んでいて、時折そこに、夜鳴きの蝉の、ジッ、という湿った羽音が混じった。  二日目の夜、私は深夜になってぽかりと目を覚ました。蒸し暑い晩で、風はそよとも吹かなかった。日焼けのせいなのか、暑さのせいなのか、からだ中が火照っていて、そのせいで眠りが浅かったのかもしれなかった。  月明かりがうす青く座敷の中に射しこんでいた。潮騒の音に充たされた部屋の中に、何かもっと別の、衣ずれのような気配があった。吐息があった。ひそひそとした話し声が聞こえた。  だめよ、と姉が言った。だめ、こんなところで。サチがいる。  たまらないよ。あゆ子さんがこんなに傍にいるとわかっていて、触れることもできないなんて。  曽根の声だった。  私は寝返りをうつふりをして、声のするほうにからだを向けた。  ほら、サチが起きちゃう。  大丈夫。寝てるよ。昼間、あんなに遊んだから、疲れてぐっすりだ。  いけない。ほんとにだめよ。我慢して。ね? そういう約束だったでしょう?  じゃあ、僕の部屋においで。明るくなったらこっちに戻ればいい。  だめ。ほんとにだめ。そんなことしたら……。  それなら僕のほうが中に入っていくよ。いいね?  いけない、曽根さん。ほんとにいけない。  私はからだを硬くさせながら薄目を開けた。  青白い月の光に照らされて、花柄模様のパジャマ姿の姉が蚊帳の内側で正座をしている。蚊帳の外側では曽根が立て膝をつきながら、喘ぐような眼差しでそんな姉を見つめている。  ああ、と姉がため息をつく。そんな目で見ないで。私だって……私だって……。  もっとこっちに。曽根が言った。もっと僕のほうに近づいて。  わずかの沈黙の後、ふいに、軋むような乾いた音がした。吊られていた蚊帳が大きく揺らいだ。蚊帳ごと曽根によってからめ取られ、曽根の腕の中にいる姉の姿が見えた。  ああ、とまた姉が言った。それはもはや言葉ではない、肉体の底の底からしぼり上げられて噴き出した、吐息のような声だった。  曽根が蚊帳越しに姉を抱きくるみ、姉のパジャマの胸のあたりをまさぐり始めた。男のものとも、女のものともつかない喘ぎ声が、潮騒の音に混じった。  緑青のような色をした蚊帳が、みしみしと揺れている。張りつめた蚊帳が今にも吊り手からはずれ、雪崩のように崩れおちてきそうである。  好きよ、あなたが好き、と姉が言っている。僕もだ、好きだよ、きみしかいない、と曽根も言う。蚊帳が揺れ続ける。黴くささが時折、鼻をつく。  私の胸は烈しく動悸を打ち続けている。月の光が、束の間、姉の顔を映し出す。  私はその時、姉の目が恍惚として潤み、忘我の中でぬめるように輝くのをはっきりと見た。  曽根はその後、妻子のもとから飛び出して、姉と私が暮らす家にころがりこんで来た。  工場では曽根と姉とのことが悪い噂となって広まっていたようだった。姉が妻子もちの男をたぶらかした、だの、曽根が姉を手ごめにして、妊娠させてしまった、だの、事実無根の噂話ばかりだった。  親戚連中も、折にふれ、家にやって来ては姉相手に説教をした。「人の道からはずれたことをすると、きっと不幸が倍返しになって戻ってくる」などと言い、彼らは執拗に姉を責めた。  父方の伯母の一人は、死んだお父さんに面目がたたないではないか、と言い、いきなり仏壇の前にひれふして泣き出した。父だって、外に別の女を作ったのに、と私は思った。  だが、姉たちが周囲の雑音を気に病んでいる様子はなかった。姉は工場勤めをやめたが、曽根はそれまでと変わらずに、私たちの家から工場に出勤し、六時になると判で押したように帰って来て、姉の作る料理をうまそうに食べた。  食後は姉と並んでテレビを観て、私の目を気にもせずに、そろって風呂に入った。子供はできなかったが、姉と曽根とは仲むつまじく、いつも一緒にいた。  姉の人生の中で、もっとも静かで、もっとも平和で穏やかな時期があったとしたら、あの頃だったかもしれない。  だが、曽根が別居中の妻子に金を送り続けていたせいで、家計は火の車だった。姉はそのうち、内職と称して、家の近所にあるおにぎり屋でパートとして働き始めた。闊達《かつたつ》で明るく、てきぱきと働いていたせいか姉はたちまち店の看板娘となり、重宝がられて、給金もいつしか倍になった。  曽根と妻との離婚話が円満に解決したのもその頃だ。曽根は慰謝料と養育費を稼ぐために、工場がひけてから、夜間、警備会社でアルバイトを始めた。  週末を除いて、曽根が帰宅するのは十一時を過ぎるようになり、姉は姉で、おにぎり屋で日曜日も働くようになった。  もっとお金がたまったら、正式に結婚しよう、入籍しよう、と曽根が言えば言うほど、姉は憑《つ》かれたように仕事に精を出した。それが姉の性分だった。男の愛に応えようとするあまり、姉はいつも、肝心なことからどんどんはずれていく。愛に愛をもって報いようとするくせに、姉は気がつくと、その愛からはずれたところに立っている。  私は姉たちからの援助を断り、奨学金を受けながら、横浜にある公立大学に進学した。入学と同時に姉たちの家を出て、横浜市内にアパートを借りた。早くそうしたかったので、家を出られた時は心底、ほっとした。  姉と曽根とは、相変わらず未入籍のまま共に暮らしていたが、私が大学を卒業する年、二人は別れた。勤めていたおにぎり屋に出入りする、老舗《しにせ》の海苔問屋の主人と姉とが烈しい恋におちたからだった。  姉よりも十二歳年上の男だった。大橋という名だったと思う。あまり程度のよくない、東京の私立大学を出ていて、いかにも�ぼんぼん�という印象だったが、育ちのよさを絵に描いたかのようにして、大橋はたおやかに姉を愛し、若者のように姉に溺れた。  大橋にはむろんのこと妻子がいた。その妻という人が、姉のところにやって来るなり、「このうすぎたない雌猫!」と怒鳴った、という話を姉から聞いたことがある。  姉はそんな話でも、少し微笑みながら、「やれやれ」という顔をして話す。仕方がない、だって私、何がどうなったって、大橋さんのことが好きで好きでたまらないんだもの……そう言いたげでもある。  姉の無心さが恋する相手の配偶者を深く傷つける。それはわかっている。わかっているのだが、あらゆる世間の規範を越えて、姉の無心さを私は認め、理解してしまう。  しがらみも何もなく、ただ純粋に好きで好きでたまらない男がいる時に、そこから去って行かねばならない時の苦しみは、他のどんな苦しみよりも強いものかもしれない。そんなことも考える。  恋はあくまでも空想の世界の産物なのだ。他人がとやかく介入できることではない。姉の恋には姉の空想があり、大橋の恋には、あるいは曽根の恋には、彼らなりの空想があった。心の中に空想の翼を羽ばたかせることは、万人に与えられた自由である。  私は恋愛映画を観ても何も感じない人間で、戦争映画の、兵士が地雷を踏むシーンや、家族や恋人のことを思いつつ、弾丸を浴びた男が死んでいくシーンを観て、うしろぐらいような感動に身を包んでしまうような、およそ可愛げなどかけらもない女だが、姉の中に湧きあふれる、自由な空想の世界だけは理解できる。それは姉だけにあって、私にはない、一つの大切な大切な、何よりも人間らしい宝物なのである。  自分に与えられた不条理を何とかして処理しようとするのではない。姉は処理などしなかった。不条理を受け入れ、咀嚼《そしやく》し、いとも簡単に、いともゆるやかに自分のものにしてしまった。いつだってそうだった。  大橋の妻が大騒ぎをし、おにぎり屋にいづらくなって、姉は店を辞めた。大橋は姉のために就職先を幾つか用意してくれたようだが、姉は大橋を頼らずに、どういうわけか五反田にある高級スナックに勤め始めた。  後で知ったことだが、その時すでに、姉には新しい恋が始まっていて、その相手というのがスナックやレストランなど、都内に幾つものチェーン店をもっている実業家だった。姉の勤めた店というのも、その実業家の経営する店だった。  そこでも姉は幾つかの烈しい恋愛を繰り返した。くだんの実業家から愛想をつかされ、スナックを辞めてからは、五年ほど銀座のクラブを転々とわたり歩いた。行く先々で、恋愛をし、傷つくことなく姉は甦って、また性懲《しようこ》りもなく次の恋におちた。  一つ一つの姉の恋は忘れてしまった。一緒に暮らしていた曽根は別にして、海苔問屋の大橋のことも、今ではほとんど私の記憶に残っていない。  あれほど恋の遍歴を繰り返し、時には深く傷つけられたことや、苦しんだこともあっただろうに、それでも姉の魂は荒廃などしなかった。曽根に始まって以来、長い間、飽きず繰り返されてきた姉の烈しい恋を間近に見てきて、私は本当にそう思う。  恋は本来、魔力をもった爆弾のようなものだ。その破壊力が凄まじければ凄まじいほど、恋にはさらに拍車がかかる。思いもよらなかった破壊に向けて、人を全力で疾走させることにもなる。  だが、不思議なことに姉に関して言えば、決してそうはならなかった。たとえ自分の恋がそれまで積み上げてきたものを壊してしまったのだとしても、姉は決してそれが破壊であるとは考えなかった。  破壊、ということの意味、恐ろしさを本当に理解するためには世間並みの良識を必要とする。姉には徹底して、それがなかった。ひとたび恋におちると、姉からは良識やモラル、虚栄が小気味いいほど削《そ》ぎ落とされた。姉には目の前にある、その恋だけがすべてであった。  だから姉の魂は荒廃しなかったのだ。姉は最後まで、恋をした相手に惜しげもなく心を開いた。心を開くことが、姉にとっての恋であった。その恋は肉の営みを超えて、終始、精神的な高みにのぼりつめたものだったとも言える。  異性に向けた過剰な情熱を、幼稚なものだとしてあざわらうのは簡単だ。恋に狂っている人を見て、したり顔をし、鼻先で笑ってみせるのは誰もがすることだし、誰にもできる。  だが、世の中で一番くだらなくて、馬鹿馬鹿しくて、非生産的なことが、実は世の中で最も、無垢《むく》なことなのではなかったか。人間的で素晴らしいことなのではなかったか。  私は姉を通じて、そのことを知った。  私自身は恋に身をやつしたことなど、かつて一度もなかったし、これからあるとも思えないけれど、私には姉の切なさがわかる。徹底して馬鹿げた恋物語の中に自分を委ねてきた、その時その時の姉が、他の誰よりも人間らしかったことを知っている。  肉体など、たかだかのものでしかない。触れ合い、交わり合ったらそれで終わりだ。そんなことを繰り返してみても、必ず飽きがくる。  その意味で言ったら、姉は美しく風変わりな淫売だった。姉は男にからだを売ったのではない、心を売ったのだ。惜しげもなく、しかも無料で。そして相手の男もそれに応えた。姉が心を売れば売るほど、男もまた、姉に心を返した。  だから姉の繰り返される恋には終わりがなかった。途切れ目もなかった。  姉の関わってきた男たちは皆、私の興味関心を引かない。中にはゴータローのように、興味がないどころか、別に会いたくもない、と思ってしまった男もいる。  だが、それはそれでいいのだ、と今は思う。姉がどれほど危険な男、馬鹿な男、情けなくて頼りない男と恋におちたのだとしても、それはすべて、姉の無垢の象徴になるからである。  突然、行方がわからなくなったり、ひょっとして心中を企んでいるのではないか、と思って死ぬほど心配させられたり、今度こそあまりにも馬鹿げている、即刻、やめさせたほうがいい、などと考えて、私は姉に数えきれないほど何度も翻弄《ほんろう》させられた。  だが、それでも私は姉が好きだった。  姉の無垢が好きだった。  ゴータローは群馬県前橋市の郊外にある小さな町で、『がらんどう』という名の居酒屋を経営していた。二つ年下の妻と共に店を切り盛りし、その妻というのが、小柄で愛想のいい、よく気のつく女だったせいもあって、店はそれなりに繁盛していたという話である。  姉はその頃、『がらんどう』の近くにある、小さな名もないスーパーマーケットの化粧品売場でマヌカンをしていた。マヌカンといっても、派遣会社から送りこまれた、ただのアルバイト店員に過ぎない。そこのスーパーの店員と同じ制服を着て、少し濃いめに化粧をし、大手メーカーの化粧品を売ったり、新製品の説明をしたり、月に一度、地元の主婦相手に化粧講習会を開いたりするだけの仕事である。  その町のスーパーで働き始める以前、姉は、福島市郊外にあるスーパーで同じ仕事をしていた。化粧品売場の隣に薬屋があり、店長をしていた一つ年上の妻子もちの中年男と、姉はまもなく恋仲になった。封建的な土地柄で、その種の男と女のいっときの恋物語に慣れていない人が多かったせいか、姉のことはすぐに地元で噂になった。  最初っから、派手な女だと思ってた、色気ばかりふりまいて、何かやらかしそうだったよね、などと、スーパーの同僚たちから謂《いわ》れのない陰口をたたかれた。男の妻がたまたま地元の大きな材木屋の娘だったことから、同情票が一気に集まり、差し出し人不明の脅迫状まで姉の許に舞い込む始末だった。  すったもんだのあげく、結局、男は妻の許に戻った。いたたまれなくなった姉は、町から出て行かざるを得なくなった。  確か、花崎、という名の男だった。私はこの男には会っていないが、一度だけ、姉と飲んでいるという花崎から電話がかかってきたことがある。  花崎はべろべろに酔っていて、呂律《ろれつ》のまわらなくなった口で「ねえ、妹さんよ。あんたのお姉さんはなんて素敵なんだろうね」と言った。 「もう俺は夢中なんだ。これが人生最後の恋なんだよ。どうしたらいいんだぁ。どうしてくれるぅ」などとも言った。  私は黙っていた。受話器の奥で、姉が幸福そうに、くすくす笑う声が聞こえていた。  姉は無心に男を愛し、その無心さがたいていの男を強く引きつける。恋の焔《ほのお》はすぐさま燃え上がり、姉も相手の男も桃源郷にいるかのように、無心にその中で酔いしれる。二人を囲んでいる断崖絶壁が、まるで目に入らない。姉の目にも男の目にも、互いの存在以外、何も映らなくなってしまう。  それが姉の恋だった。  花崎と別れ、再び化粧品売場の派遣店員として姉が次に赴いたのが、ゴータローの住む町だった。  スーパーの同僚に誘われて、仕事帰りに『がらんどう』に寄った時、姉とゴータローは運命的な出会いを果たした。姉に言わせれば、それこそ互いに「電撃的なひと目惚れをし合った」のだという。  その後すぐに、ゴータローから姉のアパートに電話がかかってきて、会わないか、という誘いがあった。二度目だか三度目だかのデートで濃密なキスを交わし合い、その次のデートで一泊二日の小旅行に出た。それ以後はもう、片時も離れられなくなってしまって、会わずにいる時の苦しみと切なさは地獄のようだったのだ……というのが姉から受けたいささか大げさに過ぎる説明であった。  十三という年齢の差は初めから念頭にはなかったらしく、姉はただ、こちらが呆れるほどゴータローに夢中になり、頻繁に私のところに電話をかけてきては、彼がいかに頭がいいか、いかに純粋なロマンティストか、どんな言葉で愛を表現してくれたか、切れ目なしに喋り続けた。  だって彼には奥さんがいるんでしょう、と私が聞けば、姉は、そうだけど関係ない、これほど男の人を好きになったことはないし、多分、この恋がこれまでで最高じゃないかと思うのよ、と応えてくる。  お姉ちゃんの恋はいつだって「最高」だったし、そうでなかったためしはない、これからだってまた次の「最高」が現れるに決まってるんだし、そういうことの繰り返しがお姉ちゃんの人生だったはずなんじゃないの……私がそう言っても姉は聞いていない。ふた言目にはゴータロー、ゴータローだった。  姉の気持ちはすべて、ゴータローという居酒屋の男で充たされていて、それ以外のものは目に入らず、耳に聞こえず、その烈しさも私にしてみれば、以前と同じものでしかなかったというのに、姉にはもう、とにかくゴータローしかいないのだった。  姉からその、ゴータローという男を初めて紹介されたのは、一年ほど前にさかのぼる。  その時点で、ゴータローの妻はすでに自分の亭主が、スーパーの化粧品売場にいる年増女と怪しい仲になっていることに気づき始めていた。そのせいで、ゴータローと東京行きの列車に乗るために駅で待ち合わせをした時は、誰かに見られるのではないかと思ってひやひやした、と姉は言った。  とりあえずは二人で上京し、東京でアパートを借りてから今後のことを考えよう、としていたところだったらしい。そのための住まいの下見の意味も兼ねて上京してきた様子だったが、神田にある古い喫茶店で私と会った時、姉はそんな話はおくびにも出さなかったし、私もまさかそんなふうにはなるまい、と思っていた。姉が本当にゴータローと駆け落ちしたことを知るのは、それから半年後のことになる。 「妹のサチ。しょっちゅう話してたから、もう紹介する必要がないくらいよね」  姉がゴータローに向かって陽気にそう言うと、ゴータローはにこりともしないで、うん、とうなずき、上目遣いに私を見た。 「はじめまして」と私は言った。「姉から聞いてました。いろいろと姉がお世話になっています」 「いえ、こちらこそ」 「あの……居酒屋さんをおやりになってるんですってね。がらんどう、っていう屋号だったかな」 「ええ」 「素敵な屋号ですね」 「たいしたことありません。田舎のうす汚い店ですから」  細面で、柔らかな黒い髪を肩のあたりまで伸ばした、端整な顔だちの男だった。からだは引き締まっていて贅肉らしきものがなく、実際の年齢よりも若く見えるが、かといって人を魅了するような存在感があるわけでもない。  切れ長の目は澄んでおり、愁いが漂っている。それが苦悩の果てに行き着いたものなのか、ただ虚無的なポーズを取りたがっているだけなのか、わかりかねる。  あまりものを喋らない男だった。そのせいか、裏に恐ろしいほどの軽薄さと非情さが隠されているようにも感じられる。時折、うっすらと微笑む、その笑みもどことなく、犯罪者めいていて胡散《うさん》臭い。  よりによってどうしてまた、姉は五十を過ぎた今になって、この男に恋をしたのか、と私は訝《いぶか》しく思った。さんざん繰り返してきた烈しい恋の果てに選んだのが、この男だったのか。どうしてこの男でなければならなかったのか。どうしてこの、どこか頼りなさそうな、十三も年下の男に溺れているのか。  醜くはなかった。むしろ美しい。その寡黙さは見ようによっては魅力でもある。姉でなくても、口説かれればころりと参ってしまう女だっていたかもしれない。  だが少なくとも私は彼に、十三も年上の女を夢中にさせるような輝きを何も感じなかった。彼はただ、憂鬱そうに、ひたすら世をすねてでもいるかのようにそこにいるだけだった。そこにはおよそ社会性も協調性も、まだ四十そこそこの壮年期の男としての誇り、野望、生命力……そういったものも何ひとつなかった。 「彼はね、詩人なのよ」コーヒーを飲みながら、いきなり姉が言った。 「詩人?」 「詩を書く才能があるの。前にも言わなかった? 言ったはずだけど」 「そんなんじゃないよ」ゴータローは私と姉を見比べるようにして、いくらかはにかんだように笑った。  ふつうに笑ったに過ぎなかったのだろうが、その微笑み方が私にはどこか卑屈な、うらさびしいものに感じられた。 「彼の手紙にね、私、まいっちゃった」姉はそう言い、少女のように頬にえくぼを作って微笑んだ。「私が彼とこうなったのは、そもそも彼の手紙がよかったからかもしれない。最近じゃ、若い人たちはみんな、パソコンや携帯使ってメールのやりとり、してるらしいけど、彼はね、ちゃんと手紙をくれたのよ、直筆の。その手紙はね、詩になってたの。私にあてて書かれた詩だったのよ」 「その話ね」私は不機嫌な表情にならないよう、気をつけながら言った。「それだったら、前にも電話で聞いたわ」 「まったく自分でも呆れるくらい、私、この人の書く手紙を読むだけで、身体が震えてくるの。今、こうなってからは残念ながら、手紙、もらえなくなっちゃったけど、それでも、時々、前にもらった手紙、読み返したりするんだ。きれいな手紙よ、サチ。透明で、清潔で、ロマンティックで、情熱的。ただのラブレターって呼ぶのも、もったいないくらい」  姉はそれから、かつてのゴータローがいかに文学青年だったか、とうとうと述べたてた。家庭の事情があって大学には行けなかったのだが、その分、ゴータローは本を読み、せっせと自分でものを書き、小説家になりたいと真剣に考えていた時期もあったのだという。  作家では誰が好きですか、と私が聞くと、ゴータローは照れたように目を落とし、ドストエフスキー、と答えた。  わざと意地悪く質問の矢を飛ばしてみたい衝動にかられたが、私は黙っていた。姉を悲しませたくなかった。 「これからどうするの」私は聞いた。  姉は隣に坐っているゴータローと、ちらりと目を合わせ、さあ、と言った。「まだ何も決めてないわ」 「トラブル、起こさないようにね」 「心配しないで」 「一緒に……暮らすの?」  姉はうなずいた。「そのつもりよ」  それまで黙っていたゴータローが、その時、初めて正面からまじまじと私の顔を見つめ、微笑を浮かべながら「考えてみたらあゆ子さんの妹さんは」と言った。「僕よりも年上なんですよね」  そうね、と私は言った。「ええと……それって、何か困りますか」  いえ、別に、とゴータローは言い、微笑を浮かべたまま、右手で軽く、後頭部を掻いた。「あゆ子さんもそうだけど、妹さんもお若く見えるから、あんまり僕より年上っていう感じがしなくって」  精一杯のお愛想だったのだと思うし、あの場合、姉の唯一の身内を前にして、ゴータローはゴータローなりに緊張していたのだと思う。それでも私は、彼が口にする言葉の一つ一つにぬくもりや真実味を感じることができなかった。彼の声は、機械がしゃべっている音のようにしか聞こえなかった。  傍らで姉がしゃべり続けている。ゴータローのよさを私にわからせたいと思っているのか、話の内容は彼の優秀さ、彼の素晴らしさ、彼の優しさ、彼の情熱……そんなものばかりである。  私は話半分に聞いている。耳を傾け、熱心に相槌を打つふりをしながら、その実、姉の顔ばかり見ている。  久しぶりに会った姉は相変わらず美しく、若々しかった。奇跡のような若さだった、と言っていい。姉は輝いていた。あの時で五十二歳だったはずだが、大げさではなく一まわり以上若く見えた。  どこでカットしてもらったのか、形のいいヘアウィッグとも見まがう可憐《かれん》なショートカットにし、ゆるくパーマをかけていた。白髪染めをしていたに違いないが、つややかなオレンジ色に光る髪がよく似合う。胸元が広く開いたシンプルな白いシャツと黒のVネックセーター、黒のジーンズに黒のブーツ、というくだけた装いも、姉をさらに年齢不詳に見せていた。  姉ばかりが光っていた。隣にいるゴータローはそんな姉に、仄暗《ほのぐら》くうしろめたい恋をし続けているだけの、ただのニキビ面の高校生のようにしか見えなかった。  一月も半ばを過ぎた寒い日のことで、喫茶店を出ると、すでにあたりはとっぷりと暮れていた。幾つもの居酒屋や焼鳥屋などの店先では、それぞれの店の人間が忙しそうに仕込みをしているのが見えた。  ゴータローはぼんやりとそれを眺めていた。過ぎ去った自分自身の風景を眺めるような目つきだった。  その気はなかったのだが、私はゴータローにお愛想を言った。「せっかく東京に来たんだし、よかったら夕食でもご一緒しましょうか」  彼はぎろりと人を睨むような視線を投げ、「いえ、今日のところはこれで」と言った。  間髪を入れない言い方だった。不快感はなかったが、拒絶されて私は取り残されたような気分になった。  薄茶色のコートに身を包んだ姉がゴータローの腕に腕を絡ませながら、ごめんね、と言った。「せっかく東京で一泊できるんだから、二人で過ごしたいだけなのよ。ね? ゴータロー」  馬鹿馬鹿しくなってきた。私は「そう」と素っ気なく言った。「じゃ、私はこれで帰るわ。また連絡ちょうだい。会えてよかった。二人とも元気でね」  笑顔を作り、手を振った。姉が泣きそうな顔をして私を見ていた。かまわずに私は背を向け、駅に向かって歩き出した。  駅前の雑踏に近づいた時だった。背後から腕を取られた。振り返ると姉だった。 「びっくりした。何?」 「サチ。ごめん。ここんところ自分のことばっかりに夢中で、あんたの話、全然聞いてなかった」 「そんなこと、別にいいのよ。でも、どうしたの? 彼、あんなところにほったらかしにしといたら、迷子になっちゃうわよ」  姉は私の腕を取ったまま、ふと寂しそうに微笑んだ。「なんだかね、あんたとこのまま別れるの、いやんなっちゃって」 「だから夕食、一緒にしよう、って誘ったのに。でも、いやなんでしょ? 二人だけでいたいんでしょ?」  ねえ、と言いながら姉は私を見た。並んで立つと、姉のほうが私よりもほんの少し背が低い。「……彼、どうだった?」  私は鼻先で笑ってみせた。「どうもこうもないじゃない。お姉ちゃんが好きになった人なんだから」 「気にいってくれた?」 「まあね」 「それだけ?」 「他に何を言えばいいの」  一瞬の沈黙の後、姉は伏し目がちにした目を遠くに転じて、ぼんやりとした表情を作った。「これが最後かな、って思うの」  あの時、姉は確かにそう言ったはずだ。だが、夕方の街の騒音にまぎれ、その言葉ははっきり聞き取れなかった。  私は「え?」と聞き返した。姉は照れたように微笑み、なんでもない、と首を横に振った。 「で、どうなの。あんたのほうは」 「何が」 「誰かおつきあいしてる人、いないの?」 「いないわよ、そんな人」私は笑ってみせた。 「こんなに可愛い子なのに」姉はふざけたように言い、私の額を軽く人さし指で突いた。「東京の男の目は節穴ね」 「いいのよ、それで。めんどくさいもの」 「ずっと一人でいるつもり?」 「そうなるかな」 「でも男友達くらいはいるんでしょ」 「おかげさまでね。よりどりみどりよ」そう言いながら、私は柔らかなコートに包まれた姉の腕を軽くぽんぽんと叩いた。「無茶しないでよね、お姉ちゃん。もう居所がわからない、なんてことにならないでね。心配かけちゃ、絶対いやよ」  姉はうなずき、わかってる、と言った。  乾いた冷たい空気の中、姉の顔には街の色とりどりのネオンがまだら模様となって映し出されていて、その時、私は何故か、姉に会うのはこれが最後になるのではないか、と思った。  ゴータローから私の部屋に電話がかかってきたのは、検査入院しているという姉と携帯電話で話をしてから二十日ほど後のことだった。月曜日の夜で、私はその晩、珍しく仕事から早く帰っており、一人で部屋にいた。 「あゆ子さんが、あゆ子さんが……」と彼は言い、絶句したように言葉を詰まらせた。泣いているようでもあった。  胸騒ぎをおさえつつ、私は「どうしたんです」と聞き返した。「姉に何かあったの? ねえ、どうしたの?」  受話器の向こう側で、大きく息を吸う気配があった。長い長い吐息がそれに続いた。ひどく震えているようでもあった。  ゴータローさん、と私は呼びかけた。ゴータローは口をきかなかった。鼻水をすする音だけが続いた。  口の中が急速に渇き始めるのを感じた。動悸が烈しくなった。  ゴータローが軽く咳払いする気配があった。ふいに落ちつきを取り戻しでもしたかのように、彼はなめらかな口調で静かに、改まったように言った。「……亡くなりました、さっき」  理性的で冷静な言い方だった。テレビのアナウンサーが原稿を読み上げているだけのようにも聞こえた。「あゆ子さんが息を引き取ったのは、二〇〇一年、一月十五日、午後六時五分。主治医によると……」 「何を言ってるの」私は甲高い声で遮った。「気は確か? あなた、いったい何を……」 「すみません」 「え?」 「僕がいけなかった」 「聞いてるのよ。あなたいったい何をしゃべってるの。何なのよ、それ。わからないわ。全然、わからない」 「あゆ子さん、あなたに会いたがってた。頑張ってこらえてたけど、ほんとはものすごく、あなたに会いたがってたんだ」  ゴータローはそう言い、途切れ途切れに息を吐いた。すすり泣きの声が聞こえた。  私は黙って前方にある宙だけ見ていた。目には何も映らなかった。 「そのことがわかってたのに、彼女から絶対、あなたに電話するな、と言われて……。それだけは約束してほしい、って言われて……。彼女はあなたを心配させたくなかったんです。でも……最後は肝性脳症で、急激に意識が混濁しちゃった。どうせ意識がないんだから、あんな約束なんか無視して、僕があなたに連絡しておけば、最後に彼女はあなたと会えたんだ。いや、あなただって、最後にお姉さんと会うことができたんだ」  何を言われているのかわからなかった。カンセイノウショウという言葉だけが、私の頭の中をぐるぐると回った。 「もしもし。聞いてますか」  ええ、と私は言った。息を大きく吸った。気が遠くなりそうになるのを必死でこらえ、気力をふりしぼって私は訊ねた。「姉が……死んだのね?」 「ええ」 「何の……病気だったの」  劇症肝炎、と彼は言った。「あっという間でした。正確な病名がわかった時はもう……手遅れで」  後に烈しく狂おしい泣き声が続いた。  赤ん坊のような、幼児のような、手放しでありったけの悲しみを訴える、そんな泣き方だった。  そして今、私は川崎市内にある火葬場にいる。ゴータローも一緒である。  折悪しく前夜から、東京は雪だった。積雪は三センチになり、そのせいもあったのだろうが告別式の参列者は少なかった。  死んだ私たちの両親の関係者や親類縁者のうち、来てくれた人は半分にも満たず、友達らしい友達もいない。姉がこれまで関わった男たちは誰一人として来ておらず、姉のために泣いてくれたのはゴータローと、そしてもう一人……かつて姉が化粧品を売っていたスーパーの、レジ係のおばさんだけだった。  黒いスーツを着た火葬場の職員に案内され、私とゴータローは、ストレッチャーに乗せられて運ばれてきた姉の、焼きあがったばかりの骨と対面している。  骨はまだほかほかと温かい。近づくと体温のようなぬくもりに充たされていて、姉はもう、乾いた白い、かろうじてヒトの形をとどめているだけの、無機質の物体と化している。  骨壺と箸を手渡され、私はゴータローと二人、骨揚げを始めた。ゴータローは泣いてばかりいる。目がピンポン玉のように腫れあがっており、涙を手の甲でこすってばかりいるものだから、目尻のあたりが赤く爛《ただ》れてしまっている。  悲しいね、と私が言うと、彼は、うん、と子供のようにうなずく。寂しいね、と言えば、彼はまた、うん、とうなずく。そして声をたてずに男泣きに泣く。つられて私も涙がこみあげる。そんなことの繰り返しである。  これが姉の最後の男、と私は思う。  最後に姉が恋をして、最後に溺れた、正真正銘、人生最後に辿りついた男……。  その最後の男は今、放心したかのような顔をして、ストレッチャーの上の姉の骨を見下ろしている。こんなに小さかったか、と思われるほど姉の骨は小さく、華奢《きやしや》である。  頭蓋骨の一部と、大腿骨、そして腰骨……明らかにそれと認められるものはそのくらいしかない。他の部分は白く美しい、細かな灰になってしまっている。  係の男の指示にしたがって、私とゴータローはまず、頸椎の骨を拾おうとする。どれが頸椎なのかわからない。皆きれいに燃えてしまったようにも見える。  室内は静寂に充たされている。時折、すすりあげる私の鼻水の音だけが、ひんやりとあたりに谺《こだま》している。  ゴータローがつと、私を見た。「どうしても、僕に……僕だけに拾わせてもらいたい部分があるんです」  私は顔を上げ、何、と掠《かす》れた声で聞き返した。 「あゆ子さんの……ココロ」  そう言うなり、ゴータローは顔をくしゃくしゃに歪《ゆが》め、手にしていた箸をそっと、姉の、胸のあった部分に近づけた。そこにはもう、胸骨も何も残されていない。ただ、白く細かな灰がさらさらとあふれているだけである。  彼はその灰をひとつまみ、箸でつまみあげると、それを静かに骨壺の中に注ぎ入れ、再び私のほうを見た。  涙で濡れた頬に、束の間、苦しげな微笑が浮かんだ。  私は彼に向かって深くうなずき返し、そうしながら、姉が最後の恋をした男に、およそ自分でも信じられないほど強い、友情に似たものを覚えた。 [#改ページ]  [#2字下げ]仄暗い部屋  濡れ縁越しに庭が見える。塀にそって竹が鬱蒼《うつそう》と生えた、仄暗い小さな庭である。  夕方になって吹き始めた風が、いくらか秋めいた冷たさを孕《はら》んでいる。竹の葉ずれの音がしたかと思うと、木漏れ日がいっせいにきらきらと庭に舞った。  美枝子は仕事の手を休め、目を細めて、ああ、きれい、とうっとりした。  ほとんど光の射さない家である。一年中、薄闇の中に埋もれているような家である。そんな家に暮らして八年。こうして家の中から外の光を覗き見ると、あそこには自分の知らない、まったく別の世界があるのではないか、と思ってしまう。  この家では、光はいつも、ここではなく、あちら側……世界の外側にある。それはまるで細長い筒の、こちら側からこっそり覗き見ている、遠い光のようでもある。  六畳の和室が二間に、八畳の床の間つきの和室が一間。三部屋ある、というと聞こえはいいが、部屋が皆、続き部屋になっているせいか、全体が小さく薄闇の中にまとまって、獣の潜む巣穴を思わせる。  美枝子はそれまで使っていたミシンの電源を切り、畳のそこかしこに落ちていた糸くずや小ぎれを拾い上げた。大きな裁縫箱を片付け、寸法直しのために客から預かっていたワンピースをドレスハンガーに掛けて鴨居に吊るした。  玄関を入って、突き当たりの六畳間が仕事場である。洋服のリフォームや仕立てを頼みに来る客の寸法を計る時も、美枝子はこの座敷を使っている。  得意客にお茶を出してもてなす必要が出た時に、すぐ隣が台所なのは都合がよかった。客が来たら襖を閉じてしまえばいいので、隣に続くプライベートスペースを覗き見られる心配もない。  五時少し前だった。末村との約束は六時。あと一時間ほどある。  風呂場でぬるめのシャワーを浴び、ハーブの香りのするシャワージェルで丹念にからだを洗った。それまで着ていた浅葱《あさぎ》色の、くるぶし丈のゆったりしたワンピースの代わりに、花柄模様のサブリナパンツと黒のノースリーブTシャツを身につけた。軽く化粧もし直した。  奥の、床の間つきの八畳の座敷に行き、姿見の前に立って全身を点検してみる。夏やせしたのか、ウェストのあたりが少し細くなったものの、胸や腰の張りは衰えていない。とりたてて運動らしきものをしているわけでもないのだが、背も腕もすっきりしている。この肉体の張りはきっと、男たちから与えられ、守られてきたものに違いない、と美枝子は思う。  末村は、女が活動的な装いをすることを好んだ。四十四歳の美枝子にも、スカートはあまり勧めてきたことがない。美枝子に限らず、ぞろり、としたロングスカートは論外だ、と彼は言う。  日本人にロングスカートはかえって老けて見える、というのが末村の持論で、美枝子が尻の形が露骨に出るようなパンツをはいていたりすると、いつも「ひとまわりは若く見える」と言ってくれる。若く見える女が好きなら、いっそ、本当に若い女を相手にすればいいようなものを、末村は美枝子がいいのだ、と言う。  どうして、と聞くと、ぴったり嵌まるからだ、と答える。からだが、という意味である。  その種の、衒《てら》いのない言い方が美枝子には嬉しい。愛しているから、などと歯の浮くようなことを言われるよりも、よっぽど真実味がある。  いつ終わるかわからない。いつ、末村に別の女ができるかわからない。いつ、自分が別の男に興味をもつかわからない。出会ってからもう、二年近くたっている。それでもこんなふうに、訪れて来る末村を待ちつつ、胸はずませてしまう。自分は幾つになっても、少女のようだ、と美枝子は思う。  末村は美枝子よりも四つ年上で、今年、四十八になる。銀座にある老舗洋装店の三代目だが、育ちのいい上品なぼんぼん、という印象は薄く、長身に髭をたくわえた逞しい体躯は威風堂々としていて、引退した運動選手のようにも見える。  都内のホテルで催されたファッションショーを観に行った際、美枝子は末村に声をかけられた。見知らぬ女に声をかけようとする時の、その独特のリズムと言い回しには天性のものが感じられた。それは、女に自信のある男にしかできない芸当だった。  喫茶店で向き合ってコーヒーを飲み、一時間後にはもう、次に逢う約束を交わしていた。以来、二年間、美枝子は�浮気�もせずに、末村だけと関わっている。  末村が好きな枝豆を茹でるために、美枝子は軽い足取りで台所に向かった。大鍋に湯をわかしながら、スーパーで買ってきた枝豆をざぶざぶと水道の水で洗った。信楽《しがらき》焼きの小鉢を幾つか用意し、冷蔵庫の中の作りおきの何品かの惣菜を手際よく取り分けた。  逢うのは三週間ぶりである。だが、今夜はあまり遅くまでいられない、と言っていた。理由はよくわかっている。  末村の、十八になる次男がバイクの事故で入院したのが一と月前。生命の危機はなかったものの、以来、妻の神経がぴりぴりと尖っている。徹底した遊び人のくせに、末村は万事において、妻との間で不必要なごたごたが起こるのを恐れているのである。  案外、家庭的なのかもしれない、と美枝子は思う。そういうところが好きなのだ、と言えなくもない。本当の遊び上手……色恋沙汰を楽しめる男は、いたずらに家庭を壊したりしないものだ。  その代わり、その種の男は、ひとたび溺れた女との情事には全身全霊を傾ける。たとえいっときであるにせよ、そのひとときを味わい尽くそうとする。  遅くまでいてくれなくてもかまわなかった。来たい時に来て、帰りたい時に帰ればいい。美枝子はいつもそう思っている。無理をしているのではなく、本当にそう思うのである。  あなたは変に冷めてるところがあるんだな、と末村は言う。「泊まってって、とか、帰らないで、とかさ、俺を引き止めてくれたことが一度もない」  引き止めてほしいの? と聞き返すと、末村はにこにこと笑い返す。「そりゃあそうさ。好きな女に引き止められて、気分、悪いわけがないだろう」 「じゃあ、今度、引き止めてあげる。朝まで帰らないで、って駄々をこねて。お願いだからずっと一緒にいて、って言いながら涙を流して。困るわよ、きっと。それでもいいの?」 「いいなあ、そういうこと、一度でいいから言われてみたいよ」 「ねえ、そろそろ奥さんと別れてほしい、だなんて、わたしが言いだしたらどうする?」 「いいね、それも」 「嘘ばっかり。うんざりして、いやになるわ、きっと」 「美枝子になら、そう言われてみたいよ。ほんとだよ」  だが美枝子は、自分がそんなことを金輪際、口にすることはないと知っている。男をうっとうしがらせることは決してないだろうことを知り抜いている。  相手の立場を尊重している、というのではない。則《のり》を超えた関わりが苦手、というわけでもない。自尊心が強いからでもない。  このひとときが永遠のものであってほしい、と願いながらも、心の奥底でそんなことはあり得ないとわかっている、男と女のそんな切なさこそが好きなのだ。好きで好きで、たまらないのだ。  簡単にくっついて、簡単に同棲だの結婚だの、口にするような関係に美枝子は興味を持たない。現実のものとなった瞬間、色恋は褪せていく。代わりに深い愛が生まれるのだ、とまことしやかに言う人間も多くいるが、美枝子にはいまだに深い愛というのが何なのか、よくわからない。それは色恋とはまったく別のもの、無関係きわまりない、むしろ、真反対のものなのではないのか。  美枝子の欲しいものは、もっと別のものだった。朝、男女が一緒に目覚めて、生活のこまごまとした話をし、同じものを食べ、同じ排泄物を腹に抱え、同じことに苛々しながら生きていくことが深い愛なら、美枝子の求めるものは、それらの実感のまるでない、言わば束の間の愛に過ぎなかった。終わることがわかっている、いずれは終わらせる必要のある、どうしようもない切なさ……からだが引き裂かれていきそうになるほどの、深い悲しみと痛みを伴う愛なのだった。  古い女友達からは、幾度となく忠告されてきた。 「そういうのはね、男にとって都合のいい女、っていうのよ。気をつけないと、そのうち痛い思いをするわよ。男なんて勝手なもんよ。それは女房もちだって、独身だって、みんな同じ。自分の都合のいい性欲のはけ口を見つけたいだけなんだから。好きだ、愛してる、っていうのはね、したい、やりたい、ってこととおんなじなの。好きな時に抱けて、おまけに後腐れがない、だなんて。お金のかからない、ダッチワイフみたいなもんじゃないの。馬鹿にされてると思わないの?」  どうしてそんなふうに考えるのだろう、と美枝子は、心底、不思議に思う。  洋裁の腕があるとはいえ、他に図抜けた才能は何ひとつない。小金をためているわけでもない。おまけにとりたてて美人でもない、若くもない自分の上を、いつも絶え間なく男が通り過ぎていく。それはどれほど素晴らしいことだろう、どれほど感謝すべきことだろう。  男と女は互いを利用しようとして惹かれ合うわけではない。こうなったら、ああなるだろう、と先を読んで関わり合おうとするわけでもない。どうしようもなく惹かれ合ってしまうからこそ、いっとき烈しく身を焦がすのであって、そういうことをいちいち、生臭いような現実の計りにかけて考えるのは間違っているとしか思えなかった。  美枝子は十年前、三十四の時に離婚している。一流企業の会社員だった夫は仕事仕事で、ほとんど家に居つかない男だった。  女ができた、ということは早くからうすうす勘づいていた。金曜日の夜は朝方まで帰って来ない。週末は決まって出張と称し、ボストンバッグを手に出て行ってしまう。  いつしか美枝子との間に、性のまじわりはほとんどなくなった。それでもごくたまに、酔った勢いで手を伸ばしてきて、執拗な、まるで何かを忘れようとでもしているかのような、不自然に濃厚な愛撫を続ける。そのくせ、行為の途中で、ふいに自分のしていることに興味を失ったような顔をし、そっけなくからだを離す。  問いただそうとしたことは何度もあった。だが、怖くて聞けなかった。いや、怖い、というよりも、あれは面倒ごとを先延ばしにしたい、という心理が働いていただけなのかもしれない、と今になって美枝子は思う。  いずれ別れて戻って来るか、そうでなければ早晩、何らかの結論が出るだろうと信じていた。そして結局、その通りになった。  夫の会社が正月休みに入った直後、大晦日の午後だったが、聞いたこともない声の男から夫あてに電話がかかってきた。  夫がつきあっていた女が睡眠薬を大量に飲んで自殺をはかったことを伝える、恨みがましい電話だった。かけてきたのは女の実の弟だった。  女は一命をとりとめたが、弟の話によると、精神的に回復するには長い年月が必要になるだろう、ということだった。  夫は終始、憮然としているだけで、美枝子に向かって、何ひとつ詳しく打ち明けようとはしなかった。入院した女の見舞いにも行こうとしなかったし、胸のうちの苦しみを吐き出そうともしなかった。ただ、電話をかけてきた弟あてに、手切れ金代わりの見舞い金と治療費を送っただけだった。  あの女の人、あなたと結婚してほしかったんでしょ、と美枝子は後になってから聞いた。知らないよ、そんなこと、と夫は吐き捨てるように言った。  嘘でしょう、知らないはず、ないでしょう、結婚してほしくて……わたしと別れてほしくて、あの人、あなたが結論を出してくれるのを待っていたのに、あなたがのらりくらりとしていたから、あんなふうになっちゃったんでしょう、どうしてわたしに話してくれなかったの、こういう状態、続けるのは、わたしに対しても、あの人に対しても失礼だとは思わなかったの? そんなふうに考えたこと、なかったの?……美枝子がそう畳みかけると、夫はやおら、頭をかきむしるなり、ああいやだいやだ、何もかもがうざったくていやになった、とわめきちらした。そして、テーブルの上の湯のみ茶碗を力まかせに壁に向かって投げつけ、ほっといてくれ、もうたくさんだ、と、わなわな震えながら仁王立ちになった。  美枝子が夫に見切りをつけたのはその時だった。気持ちがしんと冷めていく、その冷め方が目に見えるようだった。あるかなきかのぬくもりを残していたものが、急速に冷えきった。それは胸のすくような鮮やかな冷め方だった。  夫を責める気が失せた。自分が惨めだとも思わなかった。若気のいたりでそういう種類の、救いようのない愚かな男と結婚してしまっただけのことであり、二度と同じ過ちを繰り返さなければそれでいいのだった。  一人になってから、この光の射さない、湿ったような家を借りた。  光は射さなかったが、影にのまれたようになった家は、意外にも美枝子のささくれ立った気持ちを和らげてくれた。小暗い家の中にこもっていると、ひび割れたもの、乾燥しきっていたものが少しずつ潤っていくのがわかった。ひたひたと水に充たされ、汚れが洗い流されていくような気持ちになった。  ともあれ、生きていかねばならなかった。暮らしていかねばならなかった。美枝子にできることと言えば、若い頃、短大を出た後で手に職をもとうと学校に通って習い覚えた、洋裁の腕を発揮することだけだった。  洋服のリフォームと仕立て、なんでもやります、という看板を外に出してみた。面白いように客が集まり始めた。  私鉄沿線の、住宅地と商業地区にまたがった土地柄が功を奏した様子だった。客の大半は地元の主婦やOL、地元の飲食店関係の女性経営者などで、リフォームはもとより、美枝子が安価で引き受ける洋服の仕立てはデザインもよく、オーダーメイド好きの間で評判になった。  そんなふうにして、なんとなく流れに任せて生きているうちに、いつしか暮らし向きも安定してきた。  昼の間、客が家に出入りするものの、ほとんどは一人の気儘《きまま》な仕事である。慣れるにしたがって時間の使い方も巧くなり、空いた時間を見計らって好きな映画を観に行ったり、コンサートに出かけたり、新聞社主催の各種講座を受けに行ったり、ワインの試飲会などに参加したりするようになった。ツアー旅行にも、一人でちょくちょく出かけた。国内旅行ばかりだったが、温泉、秋の紅葉、山菜摘み……と行くたびに折々の季節を楽しむことができた。  そしていつも、どういうわけか美枝子には男が途切れたためしがないのだった。一人の男との関係が薄らぐと、探していたわけでもないのに、別の男が現れる。順番を待っていたかのように次の男が現れて、古いほうがすんなりと席を交代し、去って行く。  遊んでいるのか、あるいは遊ばれているのか、本気で恋をしているのか、美枝子にもわからない。趣味、と言うこともできたが、それほどあっさり乾いたものでもなく、新しく出現した男のことを思って眠れなくなることもあった。  眠れない、眠れない、自分は恋をしてしまったのか、と驚き、呆れ、新鮮に思いつつも、また数日たてば、いつの間にかぐっすりと朝まで眠っている。  眠り足りていながらも、その男のこと、その男と交わした性愛のひとときが忘れられない。眠れない時の気持ちの濃度と、眠れる時の気持ちの濃度とはどんなふうに違うのか、考えてみれば、どちらも同じとしか言えないのが奇妙でもある。  こんなふうにして、色恋に充たされながら静かに老いていくことができるなら、他にもう、何もいらない、と美枝子は思う。ずっと今のまま、この日の射さない、うすぐらい家にいて、洋服の丈詰めの仕事をし、家と共に朽ちていってもかまわない、と思う。  先のことはわからない。案じていても仕方がない。流れる水に身を委ねて、行き着くところまで行くがいい……そう思って生きてきた。  朽ちるものは朽ちればよく、流れが変わろうとしているものは思いきりよく変えてしまえばいい。光に向かってまっすぐに、わき目もふらずに、たゆまぬ努力を惜しまない、という生き方にはもともと抵抗があった。  美枝子はいつだって、世界の内側の、仄暗い影の中にひっそりと身を隠しながら、遠くきらめく光をそっと覗き見るような暮らしを続けてきたのだった。  さっきまで、隣家の庭先でけたたましく鳴いていたツクツクボウシの鳴き声は、いつの間にかやんでいる。代わりに、路地を駆け抜けて行く子供たちの歓声が遠くに聞こえる。  竹の葉越しに輝いていた金色の光は、早くも消え去り、庭も濡れ縁も座敷の中も、すべて小暗い黄昏《たそがれ》の影の中に沈んできた。軒先に下げた南部鉄の風鈴が、ちりん、と鳴った。  もうじき、末村が乗ってくるタクシーが家の前で停まるだろう、と思いながら、美枝子はどぎまぎし始める。末村の訪問を受ける時、いつまでたっても、胸おどる思いが失せないことが、美枝子には嬉しい。  末村の美枝子の抱き方は、いつだってがむしゃらである。玄関先で靴を脱ぐ間もなく抱きしめられ、接吻されることもある。  果物の皮でも剥《む》くようにして、美枝子は着ているものを次から次へと脱がされる。そして、畳の上に仰向けにされる頃には、もう末村を受け入れてしまっていることさえある。  そんな時、美枝子は、ああ、今日もまた、と思う。意識は妙に冴え冴えとしているのに、からだの奥底で火をつけられたものが、めらめらと燃え拡がっていくのがわかる。もうどうでもいい、と思ってしまう。今この瞬間の、この悦楽さえ貪れば、もう何もいらない、と思ってしまう。  腰くだけになる、という表現を美枝子は末村と出会って初めて知った。本当に腰がくだけてしまうのである。末村の手にかかると、肉体が彼の意のままにとけていくのである。  まず腰のあたりがとけ始め、それは生温かなクリームのようにとろとろと全身に拡がっていく。そしてしまいには、とけ過ぎるあまり、自分の肉体の輪郭の区別すらつかなくなっていくのである。  男から受ける愛撫を失いたくなかった。美枝子が今いちばん失いたくないのは、金でもなく仕事でもなく、深い愛でもなく、ひょっとすると命でもない、男から受ける愛撫、自分のからだを這いまわる男の指、口の中で遠慮会釈なく暴れまわる、熱くやわらかな男の舌なのかもしれなかった。  約束通り、六時を少し過ぎた頃、路地の角のあたりで、車が停まる気配があった。  まだ外は暮れきってはいない。玄関灯を灯し、美枝子が扉を開けると、末村の背後で乾いたような晩夏の残照が弾けた。 「出がけに人が来てさ、あやうく晩飯、一緒にさせられそうになっちゃって。なんとかうまく逃げ出してきたんだけど、危ないところだったよ」 「大丈夫だったの? 仕事関係の人?」 「まあね」 「銀座のきれいなお姐《ねえ》さんだったりして」 「ばか。そんなもんが、いちいち店に来るかよ」  くすくす笑って、奥に引っ込もうとした美枝子の腕が軽く引かれ、次の瞬間、美枝子は末村の胸の中にいた。  その耳元に唇を寄せ、末村は吐息を吹きかけるようにして囁《ささや》いた。「何日ぶりだろう。もう一と月になるかな」 「そんなにはなってないわ。三週間よ」 「鍵、締めておこう。もう、誰も来ないように」 「わかってる」  美枝子はうなずき、末村のからだの向こうに手を伸ばして、玄関の鍵をかけようとした。だが、末村のからだが大き過ぎて、なかなか手が届かない。  ぐいぐいとからだを末村に押しつけるようにしているうちに、胸の底から淡くとろけ始めた何かが、下腹のほうに向かってゆるりと降りていくのがわかった。  玄関灯の黄色い明かりが洩れているだけで、玄関はうすぐらい。薄墨を流したようなくらさである。  末村が美枝子を抱きしめながら、やわらかな接吻を繰り返した。 「喘いでいるな」 「そんなことない」 「嘘をつくなよ、喘いでるじゃないか」 「そんなことより、ほら、少しそこをどいて。ここ、狭いから、そんなふうに立ってられたら、鍵、かけられないじゃない」 「欲しがっているよ。ほら、こんなに」  末村の両腕が美枝子をくるみこみ、末村の唇が、そう囁き続ける。末村の着ているジャケットからは、外の匂いが立ちのぼってくる。それは乾いた干し草の香り……充分、光に充たされたものの香りに似ている。  末村が首すじに唇を這わせてくる。湿った唇である。美枝子は思わず、首を反らしてのけぞりそうになる。  美枝子は目をきつく閉じ、そしてまた開け、軽く息を吸って、笑いながらからだを離した。「鍵、かけておいて。わたしはお酒の用意、してくるから」  末村に背を向け、台所に飛びこんだ。はあはあ、と息を荒げたくなってしまうのをこらえ、まだよ、まだまだ、と自分に言い聞かせる。  本当の悦楽は、少しでも先に引き延ばしたい、と美枝子は思うのである。ふつうの恋人同士のようにして、酒を酌み交わし、小鉢に盛った料理をつつき、逢わずにいた間のよしなしごとを語り合う。そして、ほんのりと酔いがからだに回った頃に、ふいにこらえきれなくなって相手を求めようとする、その瞬間がいい。  いきなり肌を合わせる、というのも悪くはないが、あまり何度も続くと、それ自体が習慣のようになってしまって、新鮮味が失われる。それよりも、ごくふつうに、順を追って徐々に近づいてくる悦びのほうが、いとおしいのである。  今か今か、と待ちわびながら、いつしか、自分がいったい何を待っているのかわからなくなっていく。目の前にはよく知っている男が坐っていて、同じ声、同じ表情で喋っている。  それなのに、自分とその男との間には、いつだって未知の淵が控えているのだ。その未知の淵を渡ろうとする時の、幾度繰り返しても初めての体験であるかのような、あの感覚。それは何と不思議なものであることか。  末村が靴を脱ぎ、中に入って来る気配があった。仕事部屋にしている座敷を通り抜け、隣の六畳間に入って行く。  六畳間には座卓と二つの座椅子が置いてある。座卓をはさんで向かい合わせになって坐り、これから二人で酒を飲むのである。  その部屋に天井の明かりはつけていない。座敷の片隅に、和紙でできた四角く黄色い明かりがひとつだけ。灯せば座敷にはぼんやりとした、微熱を帯びたような黄色い明かりが広がる。  続き部屋になっている、床の間つきの八畳間にも、同じような行灯《あんどん》を模した明かりがひとつ。ふたつの明かりは、それぞれに座敷をうすぼんやりと照らし出してはいるものの、隅々の影は濃く、そこには何か、得体の知れない生き物が潜んでいるようでもある。  美枝子はそんな影を見つめながら座敷に坐り、ひっそりと男と酒を酌み交わすのが好きだった。それは懶惰《らんだ》なひとときだった。その時限りの、何も生まない、何も失わない、ただひたすら切ないだけの悦楽だった。 「枝豆か。この夏最後の枝豆になるかもしれないな。すっかり涼しくなったしね」  ざるに盛った枝豆と小鉢料理、それに冷酒を一本、美枝子が運んで行くと、末村はそう言って微笑んだ。 「あんなに暑かったのが嘘みたいよね。今日はあんまり汗もかかなかったもの。さ、一杯、どうぞ」  冷酒用の小さなグラスに酒を注ぎ、美枝子は末村と軽く乾杯のまねごとをした。 「美味いな。よく冷えてる」 「ねえ、今日は豪華版なのよ。後で松茸、焼いてあげる。駅前の八百屋さんでね、安くしてくれたの」 「もう出回ってるの?」 「国産松茸じゃないわよ。国産なんて、手が出ないもの。韓国産。でも悪くないの。いい香り。焼いてから、かぼすをいっぱい絞って、お醤油をちょっとたらして……」 「なんだかゆっくりしていきたくなった」 「ゆっくりしてってもいいのよ。そうする?」  末村は髭をたくわえた唇に意味ありげな笑みを浮かべ、いたずらっぽいまなざしで美枝子を見た。  そんな目つきが好きだ、と美枝子は思う。それは男の目つきである。男が欲情を隠しながら女を見る時にだけしてみせる、あの特有の目つきである。 「いいね、今日のその恰好。はじけてるよ」 「はじけてる? どういう意味?」 「若い小娘みたいに見える」  美枝子は笑った。「暗いからそう見えるだけよ。これだけ部屋をうすぐらくしてると、年がわかんないでしょ」 「美枝子はまだ若いじゃないか」 「どんどん年はとってくわ」 「美枝子が年をとればとるほど、この部屋、暗くなっていくのかな」 「そうかもしれない。しまいには真っ暗よ、きっと。柩《ひつぎ》の中みたいに」  ばか、変な冗談言うなよ、と末村は呆れたように笑い、冷酒の壜を掲げて飲むように促した。美枝子はグラスを差し出し、背筋を伸ばしたまま、注がれた酒をすうっと飲みほした。  いい飲みっぷりだな、相変わらず、と末村は嬉しそうである。末村は酒に強い女が好きなのだ。美枝子は実にきれいに酒を飲む、と言って、いつもほめてくれる。  末村と飲む酒は、どうして酔わないのだろう、と美枝子は思う。いくらだってするすると、水のように入ってしまう。  この次に始まることを待ちわびているからなのか。そんな時の酒には酔わないものなのか。  末村と出会う数年前につきあっていたのは、亘《わたる》という名の、美枝子よりも十も年若い男……あまり程度のよくない大学を中退してから、役者を夢見て劇団に入った男だった。美枝子が一人で京都の大文字焼きを見に行き、帰京する日の朝、宿泊先のホテルのロビーにデイパックを肩にかけた若者がいた。それが亘だった。  ホテルの精算をすませ、夕方の新幹線に乗るまでにどこに行こうか、とロビーでガイドブックを眺めていると、すみません、と声をかけられた。シャッターを押してもらえませんか、と言う。  感じのいい青年だ、というのが第一印象だった。インスタントカメラを手渡された。記念写真にする、と言うので、ホテルの玄関前に立たせ、シャッターを押してやった。  一人なの? とお愛想に聞いてやると、聞かれもしないのに、失恋したんで感傷旅行に来たんです、と言い、あはっ、と短く笑った。  失恋の相手は、同じ劇団員の若い娘で、自分の他にも二人の男とつきあっていたのだ、という。とんでもないですよね、と亘は言い、若者らしくからからと笑った。  大きななりをして、どことなく学生気分の抜けていない、その、子犬のような無邪気さが旅先の美枝子の気持ちを軽くくすぐった。  おいしいうどん屋があるんです、行きませんか、と誘われ、一緒にうどんを食べてから、大原まで足を伸ばして寂光院を回った。  性の匂いの希薄な、まだ少年臭さを残している、ひょろりと背の高い、痩せた青年だった。屈託なくよく喋るのだが、翳《かげ》りというほどではないにせよ、ふっとおし黙った時の寂しげな横顔に妙に心惹かれた。  これから奈良にまわる、と言う亘と、互いに連絡先を書いたメモをやりとりし、また東京で会いましょうと言い合って、京都駅で別れた。亘が二十八、美枝子が三十八歳の年の夏だった。  東京に戻って十日後、亘から電話がかかってきた。近くまで来てるんです、出て来ませんか、と言う。  ちょうどリフォームの仕事がたてこんでいる時だった。夜にならなければからだが空かない、と断ろうとすると、それまで待ってますから、と屈託がない。  美枝子は、自宅から歩いても行ける商店街の、一度だけ立ち寄ったことのある居酒屋の名を教え、そこで待ってて、と言った。  その日の仕事は急ぎのものが何点かあり、思いがけず長引いた。七時の約束が八時をまわってしまったのだが、慌てて店に駆け込んでみると、亘はちゃんとそこにいて美枝子を待っていた。  ごめんね、こんなに待たせて、と言うと、ちっともかまわないんです、と亘は言い、改まった挨拶も何もなく、メニューを差し出してきた。「お腹、すいてるでしょう? 何にします? ここ、クーラーがよく効いてるから、おでんなんか、いいですよね」  それから幾度も逢うようになった。たいていは外の、安い居酒屋やスナックで飲む程度だったが、そのうち亘は人なつこい子犬のように、美枝子の家に通って来るようになった。  正式に招いたつもりはなかった。一人暮らしの女の家に、男を気安く招くということは、いずれそういうことになってもかまわない、というサインを送っているようなものである。  亘に対しては、初めのうち、年の離れた弟分のような気持ちしか抱いていなかった。したがって、その点は気をつけなければ、と思っていたのだが、そうするのが当たり前、とでも言うかのように、気がつくといつの間にか、亘は美枝子の家に入りこんでいたのだった。  世代の違いや年齢差はさほど感じたことはない。亘の住んでいる世界は、美枝子にとって未知のものだったが、そんな世界の話を聞いているのも楽しかった。  喋って喋って喋りまくって、そのどれもが他愛のない話題、冗談話に過ぎないのだが、会話のどこかが春風のように優しい。とらえどころがない、というのではなく、むしろ甘くて安心できる、穏やかなぬくもりを秘めている。  亘と飲む酒も、するすると、気持ちよく美枝子の喉を通っていった。ビールを飲み、日本酒を飲み、ワインやウィスキーを飲み、自分でも呆れるほど飲んでみても、さしたる酔いは回らなかった。  美枝子さん、酒に強いんだな、と亘にからかわれ、そりゃあ、そうよ、酒屋の娘だもの、と嘘を言う。嘘でしょう、前に聞いたのと違ってますよ、美枝子さんのお父さんはサラリーマンだった、って言ったじゃないですか、と切り込まれ、そうだっけ、とわざとらしく目を丸くしてみせる。  亘が笑いながら肩をぶつけてくる。美枝子も笑う。  美枝子が台所に立つと、亘もついて来る。美枝子が切ったチーズを亘が皿に盛る。亘が洗った食器を美枝子が拭く。まるで十年も前から同居させている、親戚の子のようでもある。  土曜日の晩など、翌日の美枝子の仕事が休みの日には、深夜過ぎまで帰ろうとしない。座布団を折って枕代わりにし、そのまま朝まで眠っていくこともあった。  そんな時、美枝子は仕方なく御飯と味噌汁の、簡単な朝食を出してやった。亘は申し訳なさそうにしながらも、出されたものをぺろりと平らげてしまう。そして、ああ、おいしかった、と言い、幸福そうな小さなげっぷを一つする。  汚れものは台所で手早く洗って片付けてくれた。美枝子のためにお茶をいれ、自分も言葉少なにそれを飲んで、他に何もすることがなくなると、何事もなかったかのように、「また来ますね」と言い、朝の光の中、元気よく出て行くのだった。  自分がどう思われているのか、美枝子にはわからなかった。気安く相手をしてもらえる姉のようだ、と思われているのかもしれず、案外、母親代わりにされているのかもしれない。とはいえ、女として見られていないのだとしても、さしたる淋しさは感じないでいられるのが不思議だった。  あなたにとって、わたしは何? と聞いてみたことはある。  亘は一瞬、困ったような顔をし、少しの間考えてから、「何なんでしょうね」と言った。「僕にもよくわからない」 「無粋な人ね。きれいなお姉さん、とか何とか、お世辞のひとつでも言ってくれたっていいじゃない」 「そんな、ありきたりのもんじゃありませんよ」と亘は言った。  少し怒ったような声でそう言ったのが、美枝子には嬉しかった。 「どうした。何を考えてる」  末村に聞かれ、美枝子は、はっとして居ずまいを正した。「なんでもない」 「何か思い出してたんだろ」 「ううん、別に」 「昔の男のことだな」  まさか、と美枝子は言い、枝豆をひとつ剥くなり、ふざけて末村の口に押し込んだ。  末村は、枝豆ごと飲みこみそうな勢いで、美枝子の指に吸いついてきた。美枝子は笑いながら指を離した。 「いやね、すっぽんみたい」 「すっぽんだったら、指、食いちぎってるよ」 「あなただったら、やりかねないな」 「食いちぎりたいのは指だけじゃないけどね」 「どこ?」 「決まってるじゃないか。美枝子のあそこ」  美枝子は呆れたように天井を仰ぎ見て笑い、笑い終えて座卓に肘をついたまま、遠くを見た。  どんどん近づいて来る、と美枝子は思う。こうしてどんどん、悦楽の時が近づいて来て、のまれるようにしてそれに溺れていくのである。そして、この家のそこかしこにうずくまっている闇と見分けがつかなくなってしまうほど、自分のからだはとけ、かたちをなくしていくのである。 「息子さん、具合はどう?」 「もう心配ないよ。一昨日も病院に寄ったんだけど、まずそうな病院食をむしゃむしゃ食っててさ。食欲は旺盛だし、あとは検査結果がもう一度出て、問題なければ退院だろうな」 「よかったね。心配したでしょ」 「まあな」 「これからはバイク、禁止にしちゃうの?」 「そうするつもりだよ」 「かわいそうじゃない」 「どうして」 「バイクに乗ってる時が一番幸せ、って言ってたんでしょ。昔からずっと、いじめられっ子だったんだし。やっと見つけた楽しみだったのにね。禁止されちゃ、気の毒」 「あいつはただのスピード狂なんだよ。やることに命がかかってないと満足できない。その気持ちは男としてわかる気がするけど、こんな目にあってさ、親としてはそんなこと、はいそうですか、おやりください、とは言えないよ」  美枝子はしどけなく横坐りしながら、小鉢の中の酢の物を箸先でつついた。「死にたくなるほど何かに向かって突き進んでしまいたくなるのって、何となくわかるな。後戻りできないくらい気持ちよくって、このままいったら死んでしまうかもしれない、でも、死んでもいい、って思えるようなこと」 「……俺と美枝子のセックスみたいに?」  美枝子はつと顔を上げた。  座敷の窓は開け放してある。竹の葉がさわさわとそよぎ、風が入って来た。軒先の風鈴が、りり、とたて続けに鳴った。もう外はとっぷりと日が暮れている。  こうして秋になり、やがて冬になる。冬がくれば、この座敷の座卓を押入れにしまい、代わりに炬燵《こたつ》を出す。  今年の冬も、自分は末村と炬燵を囲み、こうして酒を飲んでいるだろうか、と美枝子は思う。  もしかすると、炬燵の向こうにいるのは、末村ではない、別の男かもしれない。あるいは、炬燵にはもう誰もおらず、仕事を終えて炬燵にもぐりこみながら、観たくもないテレビの、惚けたような番組を観ている、疲れた自分がいるだけかもしれない。  先のことはわからない。わかろうとしても、無駄なのである。  あの年の冬、東京に大雪が降った。日曜日だった。降りしきる雪の中、午後になってふらりと亘がやって来た。  相変わらず明るい声で「これ、買って来ました」と言い、美枝子は雲丹《うに》の壜詰めを手渡された。 「昔から、これ、好物なんですよ。本物の雲丹よりも、壜詰めの雲丹のほうが好きで……みんなに馬鹿にされてるんです。いつまでたっても、安物の子供味しかわかんねえ奴だな、って」  わたしもこれ、好きよ、と美枝子は言った。「もしかしたら、本物の雲丹よりも好きかもしれない。わたしも子供味、好きだもの」 「美枝子さんとは気が合うよね」  そう言いながら亘は微笑み、着ていた黒いハーフコートを脱いだ。あたりにふわりと、冷たい雪の、甘いような香りが漂った。  外の雪を映して、家の中の何もかもが仄白く見えた。自分たち二人が、古いモノクロ映像の中で動きまわっているに過ぎないように感じられた。  酒の燗をつけ、焼き海苔と雲丹を皿に盛って炬燵に運んだ。こんな雪の日の午後、男と炬燵に入って早い時間から酒を飲む、というのは、なんと淫靡《いんび》なことだろう、と美枝子は思った。相手が亘でなかったら、とも思った。  かといって、亘ではない、別の男を夢想することはできなかった。美枝子の目の前には亘がいて、彼はその日、何故か白い、大人びた顔をしていた。雪のせいかもしれなかった。  所属する劇団でなかなか芽が出なかった亘が、次に上演される芝居では準主役を射止めた、と喜んでいた時期でもあった。そのせいか、亘はいつにも増して饒舌《じようぜつ》だった。  閉じた窓硝子の向こう、小さな庭に、しんしんと降り積もる雪が見えた。竹の葉が白く染まり、家は静かに雪に埋もれて、仄白い影の中にあった。  亘のお喋りがふいに途切れた、軽やかな音楽を流していたラジオの電源をいきなり断ち切った時のような、ひどく不自然な途切れ方だった。  どうしたの、と聞く前に、美枝子には一切合切が、うねり狂う波のようになって伝わってきた。  亘が炬燵から這うように出て来て、美枝子の傍に坐った。坐るなり、美枝子に手を伸ばし、伸ばしてきたと思ったら、次の瞬間、美枝子は軽々と亘に押し倒されていた。  抵抗はしなかった。どうしてする必要があっただろう。美枝子にはわかっていた。いつかそうなるであろうことがわかっていた。  男とそうなる時、美枝子にはいつも勘が働く。自分の感情が揺れ動く以前に、からだが反応して、あらゆるものを受け入れてしまうのである。  感情は後になって、静かな漣のようにひたひたと押し寄せてくる。恋しい気持ち、いとおしい気持ち、大切に思う気持ち、失いたくないと願う気持ち……。  同時に、いつかは失うのだろう、とも考える。そして、失う前から失った後のことしか考えられなくなる。その悲しみが、その不条理が、美枝子を悦楽の彼方に連れ去ってくれる。  始まってしまったことはすでに終わっているのだ。そしてまた、次が始まる。美枝子の人生は、その繰り返しだったに過ぎない。  だが、それでもいい、と美枝子は思う、思いながら、男に抱かれる。幸福感に充たされて、ああ、これが男なのだ、これが女なのだ、と感じ入る。他のことはどうでもいい。それだけがすべてなのである。  亘の抱き方は、雌を知らない若い獅子を思わせた。烈しくて、自分勝手で、愛撫の手つきも、キスの仕方も、欲情の塊と化した獣そのものである。その荒々しさ。その、果てることのない喘ぎ声。指先は狂ったように美枝子を求め、喘ぎ声は次第にうめき声に変わっていく。  炬燵のある座敷で交わり、さらに奥の、床の間のついた座敷に這うようにして行った。放り投げるように乱暴に敷いたふとんの上で、また交わった。  亘に抱かれ、美枝子は仰向けになったまま、薄く目を開けて自分の暮らしている家、暮らしてきた家を見ていた。  愉楽にうるんだ目に、雪の照り映える灰色の座敷や黒ずんだ欄間《らんま》、妙に白々とした襖が見える。あたりは点描画のようにざらついている。何もかもがざらざらと薄闇にとけ、自分たちの烈しい喘ぎ声だけが、儚《はかな》い命の証のようになって、そこに滲んでいる。  待っていたのだ、と美枝子は思った。この瞬間だけを待っていて、その他には何も求めなかったのだ……そう思っても、別段、自分があさましいとは思えない。  こういう生き方もある、と美枝子は思う。色恋を楽しむだけではなく、色恋の終わりを予感して、切なさに身を震わせる生き方が、性に合っているのである。  果てた後、亘とふとんにくるまりながら、美枝子は掠れた声で聞いた。「今日は泊まっていく?」  いえ、と亘は答えた。「夜、稽古が入ってるから。今週はずっと稽古なんだ。また、来週来ます。……来てもいい?」  いいともいやだとも言えなかった。来たければ来ればいい。若い獅子は多分、すっかり満足し、憑《つ》き物が落ちたようになって、芝居の稽古に励むことだろう。そしてまた、無邪気な顔をしてここに現れ、同じことをして、晴れやかに帰って行くのだ。光の中に。ここにはない外の世界の、燦然《さんぜん》と輝く光の中に。  美枝子に腕まくらをしたまま、亘は軽い寝息をたて始めた。  その日、雪はいつまでもやまなかった。  松茸を焼いて長皿に盛り、美枝子は座卓に運んだ。かぼすを絞ると、あたりに香り高いつゆが霧のようになって飛び散った。 「美味いよ。なかなかいける」  末村が舌鼓を打ち、美枝子に向かって微笑みかける。すでにもう、酒は充分、すすんでいる。酔いがまわっているのかいないのか、色黒の末村の顔にさしたる変化はない。  さっきから末村が話しているのは、イタリア旅行の話だった。以前一度行ってから、末村はすっかりイタリアに魅せられていて、いつか美枝子を連れ、二週間ほどかけながら、あちらこちらを回りたいと言う。 「北のほうがいいんだよ。コモ湖とかさ。マッジョーレ湖とか。湖水地方、っていうんだけど、桁外れに贅沢なヴィラが湖畔に建っててね、この眺めが抜群なんだよ。ヨーロッパのブルジョアってのは、こういうことをいうんだ、って、驚かされる」 「その湖って、人造湖なの?」 「まさか。アルプスのさ、氷河が川に流れてできたんだ。そういうところで、たっぷり贅沢な休暇をとる。いいだろう。な?」 「いいわね」 「いつか行こう」  そうね、と美枝子は笑みを浮かべて熱心にうなずく。「いつかきっとね」  いつか、という言葉は、美枝子にとって、永遠にない、という言葉に等しい。  末村と、いったい幾度、「いつか」の話をしたことだろう、と美枝子は思う。いつか南の島に行こう、いつか北陸の温泉に行こう、いつか蓼科のあたりに秘密の別荘を買って、夏はそこで過ごそう……。  それらすべての「いつか」は夢物語の「いつか」であった。  妻の目を盗んで、末村が長期の旅行に出ることは難しい。まして、自転車操業で仕事を続けている美枝子が、仕事をほったらかしにして、温泉だの別荘だの、と遊び歩くことは不可能だった。  だが、それでいいのだった。末村とはここで逢える。逢って、烈しく抱き合い、求め合って、束の間の男と女の贅沢を味わうことができる。  いつまで続くのかわからない。末村の次にどんな男が現れるのか。あるいは、このままずっと末村と、ここで刹那《せつな》の密会を続けることになるのか。  いつだってこの日の射さない家の中で、美枝子の色恋は、外界の出来事とは無関係に紡がれてきた。これからもそうだろう、と美枝子は思う。自分の肉体が朽ち果てるまで、この仄暗い家の中、外界から閉ざされて、やって来る男を相手に、いつ終わるかわからないような束の間の、虚しくも烈しい情事に身を焦がして生きていくのだろう。  そしてまた、そういう男がいなくなったら、たった一人、それらの記憶を温めながら、影にのまれるようにしてひっそりと老いていくのだろう。  松茸を食べ終えて、お茶漬けの用意でもしよう、と美枝子が立ち上がりかけると、末村はそっとそれを制した。 「あっち」と末村は言う。淫らさを含んだ声には湿りけがある。  末村の手が美枝子の腕をとる。促されるままに、美枝子は床の間付きの隣室に末村とからみあうようにして入って行く。  押入れを開けてふとんを出し、洗濯したてのシーツをかける。枕を並べ、白いタオルケットを二つに畳んでシーツの上に載せる。  末村は待ちかねたように、美枝子の着ているものに手をかけようとしている。脱がせようとしているのか、それともキスをしながら、からだをまさぐろうとしているのか、その指先の巧みな動きに美枝子はすぐさま我を忘れる。  シーツの乾いた感触を背に受けながら、美枝子が片手を上げて、「明かりを」と囁くと、末村はからだごと美枝子の上に乗る勢いで太い腕を伸ばし、和紙の行灯の中の明かりを消した。  座敷に闇が拡がった。ねっとりとした墨汁のような闇だった。  開け放したままの窓の外で、虫が鳴いている。遥か遠くに、東京の街の騒音がある。遠い山間から聞こえてくる川のせせらぎの音のように、それは優しく懐かしい。  風が吹いたのか、風鈴が、ちり、と小さく小刻みに鳴った。竹の葉ずれの音が聞こえた。  この人もまた、いずれここから出て行くのだろう、と美枝子は思う。出て行って、光の中に舞い戻り、日の射さない仄暗い家で交わした情事のことなど、いつしか忘れていくのだろう。  そうするうちに、この人も自分も老いていき、こうした日々があったことを懐かしい過去のアルバムを繰るようにしてしか、思い出さなくなるのだろう。  そうあってほしい、と美枝子は思った。今、この刹那しかない、という悦楽を楽しむためには、それしか方法がないのだった。  外の虫の音を遮るようにして、末村の喘ぎ声が高まった。  聞き慣れたはずの喘ぎ声なのに、それは何か、初めて聞く男の声のように羞ずかしく切なく、同時に、恋しかった。 [#改ページ]  [#2字下げ]雪 ひ ら く  吸い込む空気の中に、かすかな湿りけがある。気温が上がったはずもないのに、妙にあたりが生ぬるい。  外に出てみると、案の定、雪になっていた。  傘、と声に出して言い、玄関に引き返そうとした聡子を父が引き止めた。 「こうするんだよ」そう言って、父は着ていたカーキ色の半コートのフードをすっぽり頭からかぶってみせた。「雪の日に傘なんかさしてたら、足元が危ない。こういう土地では傘はいらないんだ。何度教えても忘れるんだな」  聡子が東京から持ってきたラビットの黒いハーフコートにも、フードがついている。父が焦げ茶色の手袋をはめた手でフードを指さした。うん、そうだったね、と聡子は子供のようにこっくりとうなずき返した。  二、三日前に降って十センチほど積もった雪は、踏みしめると、きしきし、という音をたてる。昼の間に溶けた雪が早くも凍りつき、街灯の明かりを受けて、車の轍《わだち》が青白く光っている。  父の足取りがおぼつかない。転ばないように、と聡子は父の腕を取ってやった。父はおとなしく、されるままになっていた。  父は心臓を病んでいる。よくここまで無事に生きてきた、と医者に驚かれるほど悪くなっていて、手術を勧められたのだが断った。七十を過ぎて身体を切り刻まれたくはない、と父は言った。手術台に上がって意識を失っている暇があったら、新しく一枚、絵を描く、というのが、洋画家である父の口癖だった。  まだ五時半を過ぎたばかりだというのに、夜更けたように闇が濃い。道路に沿って建ち並ぶ家並みの、小さな窓から黄色い明かりが洩れてくる。明かりは雪の路面に四角く滲み、それは溶けた飴のように、とろりとして見える。  雪はさらさらと音をたてて、聡子のかぶったフードの上に降り積もる。父の息が少し荒い。聡子は歩く速度をゆるめる。父が軽く咳きこむ。聡子は足を止め、咳が静まるのを待つ。  風が出てきた。雪が睫毛にあたって、冷たく溶け、一瞬、視界が潤んだ。自分が泣いているような感じがした。 「何かあったのか」  いきなり父が聞いた。聡子は「え?」と聞き返した。「何か、って?」 「いや……東京で何かあったのかと思ってね」 「変なこと聞くのね。どうして?」 「なんとなく、さ。そんな気がしただけだ」  父一人、子一人である。いつものように、早めに年末年始の休暇を取って、父の暮らす北関東のこの小さな町に帰って来た。父の前では明るくふるまい、変わった出来事があった素振りは一切、見せていないつもりだった。  それなのに、何故、わかってしまうのだろう。それが親子というものなのか。血がつながった者同士の、説明のつかない直感なのか。  聡子は「変なの」と言い、小生意気な少女のように、皮肉な笑いをもらしてみせた。「別になんにもないわよ」 「そうか。だったらいいんだ」  風がたち、聡子の唇に幾片もの雪のかけらが舞いおりた。束の間の冷たさが、火照った唇の上で溶けていった。  一と月ほど前、東京で沢木と別れてきた。膝つきあわせて、別れ話をしたわけではない。だいたい、沢木とは別れ話をしなければならないような関係ではなかった。  逢いたくなると、沢木が聡子の携帯電話に連絡してくる。聡子もそうする。沢木は聡子の暮らす2DKのマンションにやって来る。部屋で簡単な食事をとり、酒を飲み、肌を合わせ、数時間を過ごす。  四年の間に、旅行したのは三度だけ。そのうち二度は沢木の旅先での密会、という慌ただしいものであり、旅らしい旅といえば、つきあい始めて間もなく、示し合わせて伊豆の温泉に行ったことくらいで、感傷にふけるような思い出もさほど残されてはいない。  だが、沢木は持前の勘のよさで、聡子の気持ちを言いあてた。もしかして、きみはもう、こういう会い方はしたくないと思ってるんじゃないのかな、と問われ、長い沈黙の後、聡子は静かにうなずいた。泣くまいとしていたはずなのに、涙がにじんだ。  涙を見せるのは癪《しやく》だった。聡子は急須を手に立ち上がり、キッチンに行って湯沸かしポットの湯を急須に注いだ。ぼんやりしていたものだから、煎茶の葉と一緒に湯があふれ出し、台の上をしとどに濡らした。  勢いよく沢木のほうを振り返り、聡子は涙目のまま、微笑した。「お湯、あふれちゃった。びしょびしょ」  沢木は無表情のままでいた。自分が困った状況に立たされると、いつも見せる無表情だった。  どちらかというと、のっぺりとした、めりはりの少ない顔。そこに大きな目がついている。ぎょろりと意味もなく人を睨む時は威圧感があり、猛々しい獅子のように鋭くなるが、笑った途端、文字通り、相好《そうごう》が崩れ、獅子の目は優しい弧を描いた山羊の目になる。  幾度、その目が自分を射抜いただろう。幾度、その目が自分を溶かし、蜜にさせたことだろう。  恋しく思わない日は、一日たりともなかった。フリーのライターとして、四つ年上の脚本家である沢木の雑誌インタビューに行き、知り合って静かな恋におちてから丸四年。聡子にとって、沢木は憎しみや軽蔑の対象になった例《ためし》がない。何があろうと……たとえ沢木に好きなように振り回され、神経をずたずたにされている時でさえ、常に恋しく、常に欲してやまない相手。それが沢木だった。  だが、そろそろ潮時だった。宿命的な出会いだったと、無邪気に思いこんでいた時期は過ぎ去った。最近ではもう、聡子は倦《う》み疲れるためだけに沢木と逢い続けてきたような気がしている。  沢木に妻子がいるからではない。年を重ねるごとに沢木の名がさらに世間に知られるようになり、あれやこれやの仕事に忙殺されて、以前のように自由に逢瀬のひとときを持つことができなくなったからでもない。  沢木の自分に対する気持ちと、自分が沢木に向けている気持ちとの間には、もともと千里の距離があった……そう認めるようになったせいだった。  世間で恋などと呼ばれているものから、永遠に自由でいられれば、どれほどいいか、と聡子は思う。恋ばかりではない。何ものからも自由でありたかった。いたずらに何かに囚われ、振り回されることから逃げ続けていたかった。  どれほど絶望の淵に落ちようと、それが自分一人で背負う苦悩と孤独であれば、なんとか受け入れ、飲みくだすことができる。結局のところ、自分で自分を操ることは可能なのだ。だが、恋をすると、そこに他者が関わってくる。他者を好きなように操ることなど、できるはずもない。他者はいつだって、他者である限り、無限の距離がある。  そうした不幸な感覚から、逃れていたかった。二度と、永遠に、そうしたものに囚われることなく、人生を生きてみたかった。呻き声をあげてしまいそうになるほどの曖昧模糊《あいまいもこ》とした不全感は、もう御免だった。  聡子は大きく息を吸った。かすかな甘さを含んだ、冷たい雪の匂いが肺を一巡していった。 「一年なんて、あっという間ねえ」と聡子は賑やかな口調で言った。「お父さんも今年は入院しなかったし、光子さんも相変わらず元気いっぱいだし。私もまた、こうやって年末年始を過ごすのに、お父さんのところに来ることができたし。いつもと同じ年の暮れを過ごせるのは何よりね」 「そうだな」 「去年もこうやって、お父さんと光子さんのお店、何度も一緒に行ったわね。一緒に行って、光子さんが作ってくれる御飯食べて、お客で店が混み合う前に、また一緒に帰って来て……」 「ああ」 「来年もまた、元気でいなくちゃね。お父さんにも、まだまだ長生きしてもらって、絵をたくさん描いてほしいし、光子さんにも張り切ってもらわなくちゃいけないし。私は私で、仕事とか遊びとか、やることがいっぱいあるし」 「聡子は次の誕生日で幾つになるんだ。四十四? あ、違うか。四十三か」 「娘の年を忘れたの? 四十五よ。いやんなっちゃう」 「四十五なんて、まだまだ若いよ」 「そう思う?」 「ああ、若い」 「まだいけるかしら」 「いけるよ」 「ほんと?」 「ああ、本当だ」  微笑と共に、ため息のように言った父の口から、ふわりと白い息が立ちのぼった。父はそれきり黙りこくった。  光子の経営するスタンド割烹『みつ』は、父の家から歩いて七分ほどの距離にある。県道とは名ばかりの、めったに車が行き交うこともない道を横断したところに、路地がある。路地の突き当たりに、細長い平屋建ての、バラックのように建てられた安普請《やすぶしん》の建物が見えてくる。居酒屋やスナックが四軒ほど、長屋のように並んでいる。その右端が『みつ』である。  その時間、『みつ』ばかりではなく、他の店の明かりもまだ灯されていなかった。窓のない建物なので、中に人がいるのかどうかもわからない。 「準備中」と書かれた札の下がる薄い扉を開けると、暖房やら煮物の湯気やらで充分に温められた空気が、柔らかく身体を包んだ。カウンターの向こうにいた光子が元気よく振り返り、「来たね」と言ってにっと笑った。 「また積もりそうだねえ。今日はおでんにしたよ。それと豆腐の味噌汁。なめこおろしもあるし。あと、いただきものでね、新巻き鮭もあるんだけど、どうする? 焼こうか」 「おでんだけでいいよ」と父は言い、カウンターの左端のスツールに腰をおろした。「そんなにたくさん喰えない」 「史郎さんも少しは身体を動かさないと」光子はそう言い、ほら、聡子ちゃんもお坐りよ、と聡子を急かして、ざあざあ、音をたてながら流しで勢いよく皿を洗い始めた。「一日中、部屋ん中にとじこもって、絵を描いてるだけじゃ、お腹も空かなくって当たり前よ。時間を決めて、そのへんをぶらっとひと歩きしてくれればいいんだけどねえ。病院の先生からも、いつもそう言われてるのに。心臓をかばってじっとしてるのは、一番よくないって」 「毎日、ここまで通って来てるじゃないか」 「こんなもん、散歩のうちに入んないさ」 「往復、十五分はかかるんだ。俺にしてみれば、立派な散歩だよ」 「生まれたての子猫だって、こんな距離、あっという間に歩いて来ちゃうって。そうだ。春になって陽気がよくなったら、犬を飼おうか。犬飼ったら、史郎さん、散歩させるのに少しは歩くようになってくれるかもしれないよ」 「犬の散歩のお伴は御免だね。こっちが引きずられて、俺なんか、あっという間にあの世行きだ」 「そうだよね。史郎さんの散歩のお伴をしてくれる犬、ってのが欲しいよね。史郎さんの体調に合わせて、歩いてくれる犬よ。盲導犬がいるんだから、そういう散歩犬がいてくれてもいいのにね」  光子は真っ赤に塗った皺の多い唇をゴムのように伸ばして豪快に笑い、てきぱきと食事の用意を始めた。  父が光子と一緒になってから十五年ほどたつ。光子と父は二十も年が離れている。入籍はしていないが、仲良く夫婦同然の暮らしをしていて、地元では夫婦ものとして扱われている。この土地に生まれ育った光子のきっぷのよさと、人づきあいの柔らかさは、口さがない人々の、愚にもつかない噂話を易々と封印してしまった。  聡子の母が病死したのは十九年前。聡子は大学卒業と同時に都内に部屋を借り、すでにその頃、一人暮らしをしていた。  仲のいい夫婦ではなかった。父の女道楽は烈しかったし、母は母でそんな父に見切りをつけていた。だが、互いに割り切った関係だったせいか、家庭内でさしたる波風は立ったことがなかった。  思いがけず急に伴侶を失って、一人暮らしをしなければならなくなった淋しさと、思うように父の絵が売れない時期とが重なった。酒に気をまぎらわせ、荒れた生活を続けていた時に、父は東京の場末のクラブで働いていた光子と知り合ったのだった。  当時、父は五十四歳、光子が三十四歳。光子は都会的な美しさや洗練、教養とはまるで無縁の女だった。小太りで背が低く、店に出ている時以外、着るものにも頓着しない。容姿に関しても、何故、父があの人をと思うほどの平凡さだったが、いったん男に惚れると、なりふりかまわず相手に尽くすようなところがあった。  光子はそのうち、父のアトリエのみならず、自宅にまで頻々と出入りするようになった。父の家やアトリエの掃除、洗濯、料理……と甲斐甲斐しい世話が続いた。父をよく知る人の中には、ああいう女は危ない、何を企んでるかわかったものではない、と忠告してくる人間も現れた。だが、父は笑うばかりで耳を貸さなかった。  光子は父がしてもらいたいこと、父が望むことを動物的な勘のよさで察知した。光子のいてくれるところが、父にとって唯一絶対の安息所と化すのに長い時間はかからなかった。  すでに心臓を悪くしていたせいで、父の身体は思うように動かなくなることが多くなっていた。絵筆を握ることもままならず、収入にも事欠くようになると、光子は「私に任せて」とばかりに東京での暮らしにさっさと見切りをつけ、郷里に戻ってスタンド割烹の店を開くことを決めてきた。  光子の古くからの知人が貸家にしていた古い大きな家を安価で借り、引っ越しの荷物を父の分までまとめたのも光子なら、父の家を人に貸して、定期的な収入が父に入るよう手続きを踏んでくれたのも光子だった。父はただ、黙って光子に従って動いていればよかった。  新しく始めたスタンド割烹『みつ』は、光子の人柄でたちまち、地元の固定客をつかんだ。光子は材料の仕入れから、料理の下ごしらえ、店の掃除、酔っぱらった客の相手、何もかも一人で切り盛りし、加えて家の中のことも、病気がちで時折寝込むことのある父の世話も、万全にやってのけた。  店を開けるため、毎日、夕方の四時過ぎには家を出なければならない光子は、父に店まで来させ、店で夕食をとらせることを思いついた。そうすれば、毎晩、父に温かい家庭料理を食べさせてやることができる、というわけだ。  だから父は、毎晩、食事の時刻になると歩いて光子の店まで行く。雨の日も雪の日も、よほど身体の具合が悪くならない限り、そうしている。もう、光子以外の人間が作ったものは口に入れることができない。たとえ娘である聡子が、何か作ってあげようか、と言い出しても、決まって首を横に振る。  客がたてこんでくるまでに食事を終え、光子がいれてくれる熱いほうじ茶を飲み、父はまた歩いて家に帰る。そして風呂に入り、身体が冷えないよう、早々に布団に入る。  寝つけない晩は本を読む。読んでも読んでも、眠気は襲ってこない。枕元のトランジスタラジオを聴く。また本を読む。そうこうするうちに、玄関の鍵を開ける音がして、光子が帰って来る。隣の部屋で、父が脱ぎちらかした服や下着、靴下を光子が拾い、丹念に畳んでいる気配がする。  そのうち、光子が風呂を使い始める。風呂場から、光子の鼻唄が聞こえてくる。その、あまり上手くもない鼻唄を聞いていると、決まっていつもうっとりと眠くなり、いつの間にか寝てしまうんだ……そんな話を聡子は父から聞いた。  酔った勢いで、客の一人が「みっちゃんの亭主、画家だっていうけど、そんなの嘘だろ。結局はヒモじゃねえか」などと絡んでくることもあった。そんな時、光子はその客の顔にウィスキーの水割りを勢いよくぶちまけ、「今すぐ、ここから出て行きな」と怒鳴る。  水割りをひっかけられ、腹をたてた客に光子がカウンター越しに胸ぐらを掴まれて、殴られたこともある。唇の端を切り、片方の目のまわりに青あざを作り、家に戻った光子は、父に向かって「あの野郎」と男言葉を使う。その目には涙がにじんでいる。「ぶっ殺してやる。見てな。いつか絶対、ぶっ殺してやるから」  そんな話をしてくれたのも、父だった。父はいつも淡々と、その種の話を語り、最後にふっと力なく笑う。 「いい人ね」と聡子が言うと、父は、うん、とうなずく。少年のような素直さである。  そんな時、父の目はどこか遠くを見ている。ここでもあそこでもない、目に見えないどこか……彼方の幽玄、彼方の夢まぼろしを見ているような目である。  この人は、いったい何を見ているのか、と聡子は思う。烈しく自分を揺さぶってくる感情から、手垢のついた俗から、いつも逃れて生きてきた父。決して手に入らないものだけを求め、それが死ぬまで手に入らないことをよく知っていながら、なお、それだけを求め続けている父。静かに生き、静かに微笑んでいる父。病に冒され、肉体の終焉《しゆうえん》を予感し、それでもなお、今ここにある俗ではない、彼方の夢まぼろしを見ている父……。  光子の作ってくれたおでんを食べ、聡子は自分だけ熱燗を頼んだ。父はもくもくとおでんを食べ続けている。ほとんど何も喋らない。  光子がカウンターから身を乗り出し、胸と腰をくねらせるようにしながら「おいしい?」と聞く。そんなふうに聞く時だけ、光子は女になる。  父は目を細めてうなずく。「うまいよ」と言う。  調理台のガス台の上で、おでんがぐつぐつと煮立っている。残ったおでんは、客のものになる。光子は「さて、これでよし」と言い、新聞紙にくるんであった真紅のチューリップを安物のガラス瓶に活《い》け始めた。  きれい、と聡子が言うと、光子は北関東|訛《なま》りの抜けない口調で「安かったんだよぉ」と言った。「これだけまとめて七百円。大まけにまけてくれたのよ。幼なじみがやってる花屋だからさ。青っ洟《ぱな》たらしてた頃から知ってんだ。セーターの袖んとこで、こうやって洟をぬぐうもんだから、袖がいつも、てらてらに光っててさぁ。きったない悪ガキだったけど、今じゃ、あんた、花屋の社長におさまって、ふんぞりかえってるよ」  ふふ、と聡子が笑う。父も微笑んでいる。  不精髭に囲まれた父の横顔は、年齢よりも若く見える。若さというよりも、それは年齢を超えた、神々《こうごう》しさに近いものでもある。  父に全部、話してしまいたい、とふと聡子は思う。沢木のこと。沢木と関わった濃密な四年間。そればかりではない。二十代の終わり頃からこの仕事を始め、今に至るまでの自分のこと。その間、恋にも似た気持ちを抱き、いたずらに肌を合わせてきた数人の男たちのこと……。何故、結婚しなかったのか。何故、子供を作らなかったのか。そして自分が何を考え、これからどこに行こうとしているのか……。  父はただ、静かな微笑みを浮かべつつ、じっと聞いているだけだろう。何の感想も口にしないだろう。「そうか」と言うだけだろう。まして、父自身、どのようにしてここまで辿り着いたのか、一切口にすることはないだろう。  チューリップを活け終えた光子が、ふいに顔を上げた。店の扉が開き、外の冷たい空気がおでんの温かな匂いを勢いよく攪拌《かくはん》するのが感じられた。 「あらぁ、勇作さんじゃないの。お久しぶり。ううん、いいの、いいの。もうとっくに、店、開けてんだから。寒かったでしょ。さあ、早く中にお入りよ」  聡子がそっと振り返ると、細く開けた扉の向こうに、見覚えのある顔が気づまりな様子で中を覗いているのが見えた。  どうも、と聡子は言った。勇作は黙ったまま会釈を返した。  端整な面差しだが、男にしては小さな顔である。雄の子鹿を連想させる。背丈もさほどではないが、そのわりには鍛え抜かれた逞しい身体つきをしている。  勇作が店に入って来た。黒っぽいスキーウェアを着ている。登山用の靴をはき、紺色の毛糸の帽子をかぶっている。たった今、山から下りてきた、と言わんばかりのいでたちである。聡子の隣のスツールに坐った彼の身体からは、尖ったような冷たい雪の香りが放たれ、それはたちまち、店に漂う数々の料理の匂いの中に溶けていった。 「お久しぶりです」勇作が帽子を脱ぎ、聡子に向かって、ぺこりと頭を下げた。「御無沙汰しました。今年はいつからこちらに?」 「五日前からよ。あなたは?」 「僕は一昨日、着きました。お元気でしたか」  なんとか、と言おうとして、聡子は「とっても」と言い替え、屈託のなさを装って笑いかけた。「そちらは?」 「おかげさまで」  勇作の微笑は冷静そのものだった。自分の微笑もそう見えるのだろう、と聡子は思った。  一年前の年の暮れ、この店で聡子は勇作と知り合った。アウトドア専門の写真家で、冬山の撮影を得意としている。その世界ではかろうじて名前が売れつつあるらしい。  東京生まれの東京育ちだが、弟がその町の小さなカルチャースクールで英会話を教えている。学校が冬休みに入ると、弟は恋人のいるカナダに出かけて行く。戻って来るのは年明けの七日頃になるので、留守中、弟の部屋に住みこませてもらっては、冬の山々を撮影して歩くようになった。二つ年上の女房と幼い息子が一人いるが、女房は亭主の仕事に理解がある。年末年始、家庭を離れることにも文句を言われたことはない……そんな話を聡子は知り合ったばかりの勇作自身の口から聞いた。  聡子よりも十も年下だが、初めから妙にうまの合うところがあった。さんざん飲んで、冗談を連発し合い、光子に「さあ、そろそろ店じまいよ」と言われて、もつれ合うように席を立った。  会計を頼むと、光子は「今日はいいよ」といたずらっぽい口調で言った。「あたしの奢《おご》り。それより今夜は少し楽しんできたら? 聡子ちゃん、仕事仕事の一年だったんでしょ? たまには気晴らしもいいもんだよ」  何を言われているのか、よくわからなかった。わからないままに外に出て、送りますね、と言う勇作の腕にしなだれかかるようにしながら、夜更けた雪道を歩いた。  皓々《こうこう》とした青い月明かりが、こんもり盛り上がった路肩の雪の塊を照らしていた。県道を渡った先の電信柱のあたりまで行き着いた時、どちらからともなく足を止め、奥の茂みの中に入りこんで抱き合った。足の爪先は冷えきっていたが、顔は恐ろしいほど火照っていて、合わせた唇の熱さがあたりの雪を溶かしてしまいそうだった。  いったん、唇を離し、互いにまじまじと見つめ合い、ふっ、と微笑み合った。 「酔っぱらってるから、二人とも忘れちゃうわね」 「何を?」 「今ここでキスしたこと。一晩寝たら、記憶にないのよ、きっと」 「聡子さんってそういう人だったんですか」 「あなたは違うの?」 「違いますよ。ずっと覚えてる」  妙に生真面目な口調でそう言うと、勇作はもう一度、聡子を強く抱きしめてきた。氷点下の空気の中、烈しく合わせた二人の口から白くもうもうとした息が立ちのぼり、互いの頬にまとわりついた。  勇作がわずかに喘ぐ声が聞き取れた。その手が聡子の着ていたブルゾンを不器用にたくし上げてきた。セーターに包まれた乳房に、太い指の感触が伝わった。 「こらこら」と聡子は冗談めかして言った。わざと大げさに身悶えしながら身体を揺らせ、腰を離そうとした。だが、勇作は力まかせにセーターの中に手をすべらせてきた。 「だめよ。今夜初めて逢ったばかりだっていうのに」 「それがどうしたって言うんです」 「みんなにこういうこと、してるんでしょ」 「してない。あなただからだ」 「嘘ばっかり。ただの酔っぱらいのくせして」  聡子は両手で強く、彼の身体を小突いた。勢いあまって、転びそうになりながら後じさった。はいていたスノーブーツが雪を踏みにじる音がした。その音に反応したかのように、近くにあったイチイの木の梢から、積もり積もった大きな雪の塊がどさりと崩れ落ちてきた。  一瞬、雪煙があたりを被った。それは月の光を浴びて、一面に青い輝きを放った。  聡子は荒い息を吐きながら、勇作を見据えた。深刻な状態になるのを避けようとして、笑いかけようとした。だが、できなかった。  そうじゃないのよ、と聡子は低い声で言った。何度でも言いたかった。そうじゃない、そうじゃない、そうじゃない……。  自分が求めているのはこれではない。もっと違うもの。違っているのに、これに似たもの。似過ぎていて、自分でも区別がつかなくなっている、そういうもの……。 「すみません」と勇作は急に大人びた口調で言うなり、姿勢を正してうなだれた。「許してください。どうかしてました」  あやまることはない、と言いたかった。そういう問題ではないのだから、と。だが、説明するのは面倒だった。聡子は黙っていた。  勇作はやおら怒ったような顔をして歩き出した。怖いほどの早足だった。聡子は息を切らせながら、後に従った。  父の家の前に着いても、彼は歩き続けていた。聡子は呼び止め、ここよ、と言った。  彼は振り返り、父の家の、灯されたままになっている玄関灯を見上げた。「おやすみなさい」と言う声が聞こえた。  彼はもう、聡子の顔も見ていなかった。 「そろそろ行くよ」と父が言った。  ほうじ茶を飲み、光子がデザートに出した山盛りの苺をほんの二粒ほど食べ終えたばかりだった。「まだここにいるのなら、いればいい。俺は一人で帰るから」 「私も帰るわ」聡子はスツールから立ち上がった。  光子が「あらあら、せっかく……」と言いかけて、勇作と聡子を見比べるようにし、慌てたように口をつぐんだ。勇作は聞こえなかったふりをしていた。 「それじゃ、また」と聡子はコートに袖を通しながら、勇作の背に向かって声をかけた。「よいお年を」 「はい、ありがとうございます。そちらもよいお年を」  勇作は半分だけ振り返り、横顔を見せたまま事務的に言って軽く頭を下げた。  外に出ると、風が強くなっていた。風にあおられ、雪が白い粉のように舞い上がった。  聡子は再び父の腕を取り、家に向かって歩き始めた。   をんなは多淫   われも多淫   飽かずわれらは   愛欲に光る  かつて沢木が歌い上げてくれた高村光太郎の詩を聡子は今も時折、思い出す。  寝床の中、沢木は裸のまま、うつぶせになって煙草を吸いながら、ふいにその詩を口にしたのだった。 「いい詩ね」 「いいだろう? 無駄な文句がひとつもない。見事だよ」 「あなたもそう思う?」 「そう思う、って何が?」 「女は多淫だと思う?」  沢木は、仰向けに寝た聡子の顔を伏し目がちに見ながら、「思うね」と言った。「でも、それでいいじゃないか。多淫の何が悪い」  そうね、と聡子がうなずいた。「全然悪くないわよね」  それから沢木にもう一度、その詩を教えてもらった。明かりを消した部屋の中、茫々と広がる闇に向かって、聡子は沢木と共に、幾度も飽きずにその詩を繰り返した。  そうしながら、沢木は聡子の身体に手を這わせ、気づけば聡子もまた、沢木の肌に唇を寄せている。これが愛欲というものなのか、と考える間もなく、聡子はそこに囚われていく。壊そう、壊さねば、と思うからこそ、囚われていくことの悲しみに、どっぷりと浸かっていく。  夢物語を聡子に話して聞かせるのが、肌を合わせた後の沢木の癖だった。  年をとって、僕も家族から離れることができるようになったら、一緒に暮らそう。鎌倉あたりに小さな家を買って、庭でちょっとした野菜なんかを作ってさ。天気のいい日は湘南の海辺を散歩して……そうそう、墓も作っておこうよ。聡子と入るための墓。やっぱり鎌倉がいいね。日当たりのいい、小高い丘の上あたりのさ、小ぎれいな霊園の一区画を買っておいて。聡子と一緒にそこに入るぞ、っていう遺言も残しておいて。そうすれば心おきなく死ねる……。  そんな老人の繰り言のような夢想を語ったかと思えば、次に逢うと、また言うことが変わってくる。  今度いつか、ヨーロッパをまわろうよ。レンタカー借りてさ、幾つもの国境を越えるんだ。そうだな、二か月もあればいいかもしれない。行く先々で、気にいった土地があったらしばらく滞在する。何も考えないで、行きあたりばったりに突き進んで、うまいもの食べて、ワインを飲んで、夜は星を見ながらセックスするんだ。宇宙とひとつになるようなセックスをして、ぐっすり眠って、目を覚ませばやっぱりそこは異国なんだよ。そういう感覚ってのはいい。聡子と一緒に味わいたい……。  わざとらしく「その相手が私でいいの?」などという、そこらの安手の女のような質問をしてみたりはするものの、実のところ、聡子にはそんなことはどうだっていいのである。ほんのいっとき、無邪気な夢想に耽《ふけ》っている男の中に、自分という女の肉体が不動のものとしてあるのを感じとっていることが、楽しくてならないのである。 「そうしたい。そうしましょう」と聡子は言う。目を輝かせながらそう言って、沢木に抱きついていく。  そのくせ、自分が抱きついている肉体には実体が感じられない。口にされた途端、霞のように消え去っていく夢物語と同様、沢木の肉体にはそれが沢木のものである、という実感がないのである。  これではない、あれ。あれではない、これ。そんなふうにして、男たちと関わってきた。求め続けてきたものが、結局、何ひとつ手に入らぬまま、それでも再び貪欲に手を伸ばしつつ、生きてきた。  指先に触れるか触れないか、のものが感じられると、背伸びをしてさらに手を伸ばし、ひと思いに掌中に握りしめる。だが、時間がたつと、ああ、やっぱりこれではなかった、と思ってしまう。そう思ったが最後、せっかく掌の中でぬくもっていたものを、聡子はあっさりと握りつぶしにかかる。  そして今もまた、相変わらず同じことを繰り返しているのである。慌ただしい年の暮れ、自分はまたしても男と別れ、父の暮らす、この雪に被われた、凍りついたような町に戻って来た。  帰るところはいつも同じなのに、帰るたびに、握りつぶした恋の骸《むくろ》が増えていく。そんな気もする。  沢木の前は誰だったろう。関わった男たちとの、愚にもつかない日常のちょっとした会話、彼らの笑顔、戯れに過ぎない愛の応酬……その一つ一つは、ぱっと鮮やかに思い出すことができるのだが、男たちの順番はもう、定かではなくなっている。  そんな繰り返しの中で、長い長い月日がたってしまった。これからもまた、時は流れ、新たな出会い、新たな別れを繰り返し、知らず何かが変わっていくのか。そして相変わらず自分は恋の骸を抱えながら、この凍《い》てついた土地に戻って来るのか。老いた父のもとに。老いさらばえながらも、しっかりした眼差しで、何か別のものを見ているに違いない父のもとに。 「聡子」と呼ぶ父の声がする。  行ってみると、老眼鏡をかけた父が、どてらを肩にかけ、背中を丸め、うずくまるようにしながら炬燵で本を読んでいる。黄色くぼんやりとした明かりが室内を照らしている。  つい今しがた、光子の店から帰り、聡子が沸かしてやった風呂からあがったばかりである。異変は何も感じられない。 「なあに?」と問いかけた聡子に、父は抑揚のない声で「足が攣《つ》った」と言った。  痛みに耐えかねたような表情はしていない。父はいつもの表情のまま、本に目を落としているだけである。 「大丈夫? もんであげようか」 「いや、いい。それより、薬を取って来てくれないか」 「苦しいの?」 「少し」  発作が起こりそうになった時のための薬は、父の常備薬である。どこに置いてあるのかも、聡子はよく知っている。大慌てで、父の寝室から薬を取って来て、台所でコップに水をくみ、炬燵の父に差し出した。  父は無表情のまま、落ちついた仕草でそれを飲み、ふう、と小さくため息をついた。  苦しくなくなったのを見届けて、聡子はそっと炬燵の中に両手を入れ、パジャマのズボンの上から、父の足をさすってやった。思いがけず、父の足の骨は太かった。がっしりとして、青年のそれのようにいかつい。脛毛《すねげ》も硬く、ごわごわしている。 「楽になった」と父は言った。「ありがとう。もういいよ」  光子の留守中、こんなふうに足が攣って動けなくなった時、発作を起こしかけたらどうなるのか、という不安を覚え、聡子は息苦しくなる。かといって、東京での暮らしや自分の仕事を捨て、この町に来て父の面倒をみながら一生を終えることはできない。  できない、ということにうしろめたさはなかった。できなくて当たり前だった。当たり前のことで悩む必要はなかった。聡子は父の人生を生きてきたわけではない。父もまた、聡子の人生を生きてきたわけではない。 「お父さんの足の骨、太いのね」聡子はつぶやくように言った。「立派な骨」 「俺が死んだら、焼き場で足の骨だけが残るんだろうな」 「ふつうは頭蓋骨が残るのよ」 「俺の頭蓋骨は燃えかすになってるさ」 「どうして頭蓋骨が燃えかすになるの?」 「脳みそがとっくの昔に使い物にならなくなってるから」  聡子は笑ってみせた。父も、あまり可笑しくなさそうに笑った。  父の足の骨のいかつさは、父自身の弱った肉体を裏切っていた。命の力の偉大さがそこに宿り続けていて、それは信じられないほどの弾力を伴いながら、聡子の指先を弾き返してくるのだった。 「寒い中、歩いたせいよ。私なんかの年齢でもね、寝てる時に足が攣っちゃって、うめき声をあげる人、いるのよ。はい、おしまい。そろそろ、寝れば?」 「ああ、そうしようか」 「さっき、お布団の中に湯たんぽ、入れといたから」 「ありがとう」 「立てる?」 「大丈夫だよ」  父は少しよろけながらも、聡子の手を借りずにしっかりと立ち上がり、寝室に向かって行った。その大きな背中は、かつて若かった頃の父の背中と寸分も変わらないように見えた。  ごう、と音がして、雪まじりの風が雨戸を叩いた。聡子は炬燵の脇に横坐りになったままでいて、長い間、そこから動けずにいた。  大晦日の晩も、光子は張り切って店に出て行った。毎年、大晦日の除夜の鐘は店で客と一緒に聞く、というのが光子の習慣になっている。  それでも、父を残していく家の中に、正月らしい用意をすることを怠らない。父の寝室の小さな床の間には南天の枝と黄色い小菊が形よく活けられ、茶の間の茶箪笥《ちやだんす》の上には黄水仙と鏡餅とが飾られている。元日の朝、父や聡子と囲む炬燵で食べるための雑煮の下ごしらえもされてある。聡子に簡単な年末の掃除を頼んだだけで、後のことはすべて、手抜かりなく整えられている。いつものことながら、その仕切り方は見事であった。  早い時間から客がやって来て騒々しくなる、というので、その晩、父は『みつ』には行かなかった。聡子と差し向かいで光子が用意してくれた年越し蕎麦をすすり、二人で観るともなくテレビの紅白歌合戦を観た。  前日まで晴れていた空がにわかに曇り、風が強くなったかと思うと、午後になって烈しい雪が降り始めた。天気予報では、深夜から元日の朝にかけて、北関東一帯に大雪警報を出していた。テレビの音量をしぼると、外を吹き荒れる風の音しか聞こえなくなった。  ぽつりぽつりと、どうでもいいような会話を交わし、父が寝室に引き取った後も、聡子は一人、炬燵でテレビを眺め続けた。途中で台所に立ち、徳利に酒を注ぎ、電子レンジで燗をつけた。  店においでよ、一緒に飲もうよ、と光子から誘われていたのだが、行く気にはなれなかった。もしかすると勇作も来ているかもしれない、と思い、彼とならまた、飲んでもいいと思うものの、着替えて化粧をし、雪の中を出かけて行くのは億劫である。  それまで父が坐っていた座布団の、父が作った大きな窪みに腰を落とし、ぼんやりと一人、熱燗を飲んだ。テレビから流れてくる歌を耳にすると、自分自身の古い過去の記憶が甦ってきたが、それも束の間のことだった。悲しいとか、寂しいとか、懐かしいとか、そういったあからさまな感情は、聡子の中で、すっかり影を潜めていた。  沢木のことも、ほとんど考えていない。思い出すこともない。  別れて間もなくは、沢木が吹き込んでくれた留守番電話や、沢木が送ってくれた携帯メールに気づかずにいたのではないか、という思いを捨てることができなかった。日に何度となく携帯電話のディスプレイを覗いた。だが、今ではもう、そんなこともしていない。  茫々とした静かな暗闇が自分の中にある。そんなふうに聡子は思う。そしてその静けさが自分を救ってくれている、と思う。  紅白歌合戦は延々と続いている。リモコンのチャンネルを替えて衛星放送にしてみた。何が観たい、というわけでもない。部屋の中に音が欲しい、ただそれだけでテレビをつけている。  アフガニスタンの首都、カブールの、一つしかない動物園が映し出された。何故ともなく、聡子はそこでリモコンを止めた。  埃《ほこり》にまみれた、およそ動物園とも思えない、薄汚れた施設である。目を和ませる樹木一本、生えておらず、白茶けた檻《おり》が並んでいるばかりである。人の姿も少ない。  貧しいなりをした親子連れが、一頭の老いたライオンの檻の前に佇《たたず》んでいる。大きな黒い瞳をもつ男の子が、父親に抱かれたまま、嬉しそうに檻の中を覗きこんでいる。  男の声でナレーションが入る。内戦が烈しくなり、動物園も幾度か被災して、今では六種類の動物を残すのみになった。だが、子供たちのために、動物園を廃園にするわけにはいかない。中でもこの雄ライオンは人気者。すでに四十八歳。人間の年齢でいうと、百歳を超えている。八年前、内戦状態にあった時、手榴弾をまともに受け、失明してしまった。餌は一日に一度しか与えられていない。それでも、ライオンは生きている。生きて、子供たちの人気を集めているのである……。  画面いっぱいに映し出されたその動物は、ライオンとは名ばかりの、たてがみも尾も牙も、何もかもがぼさぼさに乾き、痩せ衰え、朽ち果てようとしている、一頭の不思議な獣に過ぎなかった。失明したという両目は、眼球を失って落ち窪み、そこが目である、ということしかわからない。嗅覚だけを頼りに動いているのだが、足取りはおぼつかなく、四肢をふんばって立っているのがやっとである。  檻の中は黄色い埃にまみれている。何もない。仲間もいない。すり減ったコンクリートの床が広がっているだけで、草一本、生えていない。光も闇もなければ、潤いを感じさせる水場もない。あるのはただ、埃と錆ついた檻ばかり。  それでも雄ライオンは生きていた。全世界の孤独を一身に背負いながら、生きていた。生きている、ということすら忘れて、生きていた。  眼球を失い、歯を失い、衰え果て、声も出なくなってなお、生きている生命の強靱さ。その気高さ。高貴さ。何ものをも説明しようとしていない、それは無垢の塊であった。静謐《せいひつ》な孤独の象徴であった。  知らず、聡子の頬に涙が流れた。  涙があとからあとから溢れてきて、聡子は洟をすすった。四十八歳、とつぶやいてみた。私よりも年上じゃないの。  笑いたいような気持ちになった。ティッシュペーパーで洟をかみ、涙をふいた。  番組が終わり、リモコンを使ってテレビを消したのと、炬燵の脇に置いたバッグの中の携帯電話が鳴り出したのはほとんど同時だった。  びくり、としながら聡子は一瞬、沢木を思った。咄嗟に、馬鹿げた期待だ、と自戒した。それでも、バッグの中をひっかきまわすようにして携帯を取り出した。  発信者を確認した。非通知になっていた。 「もしもし? もしもし? 聡子さんですか」  聞き覚えのない男の声だった。はい、と聡子は言った。「どなた?」 「よかった。一年前に教えていただいた番号だから、もう変わっているかと思いました。僕です。『みつ』でお逢いした、カメラマンです」  一年前、キスを交わしたあの晩、『みつ』のカウンターで勇作と携帯の番号を教え合ったことを思い出した。メモをした紙をなくしてしまい、それきり忘れてしまったが、勇作は覚えていてくれた様子だった。 「誰かと思った。びっくりしたわ」 「初日の出を撮影しに行くつもりでいたんですが」と勇作は明るい調子で言った。「この雪でしょう? 難しくなっちゃって。あのう、これから何かご予定、ありますか」 「そんなもの、ないわよ」聡子は柔らかい口調で言った。「ぼんやりテレビを観ていたところ。お酒を飲みながら」 「お父さんもご一緒に?」 「ううん、父はもう寝たわ」 「よかったら、ドライブしませんか。大丈夫。僕は雪道運転には慣れてますから」 「これから?」 「はい、これから」 「でも、すごい雪でしょう?」 「だからいいんですよ」 「車、持ってるの?」 「もちろん。商売道具ですからね。でかい四駆です」 「『みつ』で飲んでるのかと思ってた」 「そうしようと思ったんですが」と勇作は言ったが、後の言葉を濁した。 「いいわ」と聡子は言った。気持ちが温かくなったのを感じた。「迎えに来てくれる?」 「行きます。今からでもすぐ行けますけど」 「すぐじゃだめ。支度するから。そうね、三十分後。十一時ちょうどに」  携帯をバッグの中に戻し、自分用の部屋として使わせてもらっている、廊下の突き当たりの部屋に行った。厚手の白いセーターを着こみ、化粧をして、首に温かなウールの白いマフラーを巻きつけた。いつも着ている黒いラビットのハーフコートを着、黒革の手袋をはめた。  父の寝室を覗くと、父はまだ起きていて、寝床の中に仰向けになりながら、トランジスタラジオから流れてくる紅白歌合戦を聴いていた。 「お父さん、ちょっと出かけて来るね」 「そうか。どこに?」 「勇作さんっていたでしょう? この間、光子さんの店にいたカメラマンだけど。あの人から誘われたの」  父はうなずき、病人のように仰向けになったまま目を閉じた。「気をつけて楽しんでおいで」  紺色の大きなRV車の運転席に坐ったまま、勇作は屈託のない笑みを浮かべて聡子を迎えた。後部座席には、カメラの機材や着替え用の衣類などが山のように積まれてある。車内には、低くけだるいジャズピアノの旋律が流れている。 「すみません、めちゃくちゃ汚い車でしょう? 聡子さんを乗せるとわかって、これでも少し、掃除してきたんですけど」 「そんなこと、気にしないでいいのに」 「いつもこれに乗って、全国あちこち、撮影してまわってるんですよ。嵐の中を走ったり、雪道を走ったり。動くマイホーム、って感じですね」  雪はいっそう烈しくなっており、積雪はすでに二十センチを超えていた。大晦日の雪の町に人影はなく、行き交う車も少ない。 「チェーンも巻いてあるし、準備万端です。この車だったら、積雪が四十センチあってもOKですよ。さて、どこに行きますか」  勇作がハンドブレーキを戻し、静かに車を発進させながら聞いた。どこにでも、と聡子は答えた。  行きたいところはなかった。辿り着いたところが行きたかった場所だった、と考える。そういう考え方がしみついてしまっている。  雪は風であおられ、舞い上がり、吹きつけるように車のフロントグラスにあたって砕ける。車内にはヒーターの音が低く響いている。ワイパーが忙しく左右に揺れ続ける。それらの音をかいくぐるようにして、ピアノの音色が聞こえてくる。  勇作は饒舌だった。今年一年、どんな写真を撮ってきたか、どの山に登ったか、どんな人間と出会ったか、そんな話ばかりをしている。聡子にとっては未知の世界の話だったが、空や星、夜景、雪の朝のダイヤモンドダスト、山道で出会うリスや野うさぎ、熊の気配の話は子守歌のように優しい。  聡子は黙って聞いている。時折、相槌を打ち、そうだったの、とどうでもいいような言葉を返す。  小高い山々に囲まれた、小さな町である。少し走っただけで目抜き通りを過ぎ、民家の明かりもまばらになってくる。間断なく降りしきる雪の中、白い闇をぬうようにして、車は前へ前へと山道を走り続ける。ヘッドライトが照らしだす小さな光の舞台に、雪が夥しい白い羽虫のようになって飛びこんでくる。  まるで、雪の緞帳《どんちよう》がひらかれていくような感じがする。雪の向こうに闇があり、闇はやはり雪に埋もれているのだが、それでもそこはひらかれていく。光が闇をひらき、雪をひらいていくのである。ひらいた先には同じものしかない。だが、同じものがさらに、さらに永遠に途切れることなく、続いているのである。 「さっきね、あなたから電話をもらった時、テレビを観てたの」聡子はその、ひらかれていく雪を見つめたまま、言った。 「紅白ですか?」 「ううん、違う。アフガニスタンのね、カブールにある動物園の話。老いぼれの雄ライオンが出てきたわ。四十八歳ですって。両目を手榴弾でやられて、目が見えないの、牙も抜けちゃってて、毛づやなんか、何にもなくて。おまけにひどい飼育環境なのよ。餌も一日一回だって。仕方ないわよね。人間だって生きてくのがやっと、って所なんだから。でもね、そのライオン、生きてるの。孤独だけど、ぼろぼろだけど……何のために生きてるのかわからないくらいだったけど……でも、生きてるのよ」  うん、と勇作はうなずいた。「いい話ですね」  話が途切れた。車がどこに向かっているのかわからない。知りたいとも思わない。雪はどんどん深くなる。吹きつけてくる雪をかき分け、がくがくする振動に耐えながら、車は走り続けている。 「好きだった人と別れてきたの」聡子は言った。  言う必要のないことだった。言うつもりもなかったことだった。だがその言葉は、水のように唇からあふれてきた。勇作は黙っていた。  聡子は、目を細めて目の前の雪を見つめたまま続けた。「すごく好きだったのよ。どうして好きだったのか、自分でもよくわかんないけど。四年くらいつきあったの。つきあってる間中、その人のことばっかり考えてた。信じられる? 四年もの長い間、ずっと恋してたのよ。でも、とにかくその人とは別れてね、別れてから父の家に帰って来たわけ。そしてこうやって大雪の中、十も年下の男の人とドライブしてるんだわ。人生にはいろんなことが起こるのね。こんな大晦日を過ごしたの、生まれて初めてよ」  しばらく待っていたのだが、相変わらず勇作は何も言わなかった。それきり、聡子も口を閉ざした。  闇の中に幾枚もの白く薄い扉があって、車が進むにつれ、次から次へと、その扉がひらかれていくようである。じっと見つめていると、眩暈《めまい》がしてくる。  父はこれを見て生きてきたのか、と聡子は思う。何もない、何も見つけられるはずがない、とわかっていて、それでもひらかれていく雪の扉が、父の中にはあったのか。そしてそれらの扉は今もなお、静かに音もなく、ひらかれ続けているのだろうか。  勇作がカーステレオに手を伸ばし、CDをとめてラジオに切り替えた。落ちついた男の声が、どこかの寺についての説明を続けている。  勇作は路肩に車を停め、ハンドブレーキを勢いよく引いた。「もうすぐカウントダウンが始まりますよ。僕らも新年を祝わなくちゃ」  シートベルトを外し、大きく身体をくねらせて、勇作は後部座席から小さな箱を取り出した。保温され、まだ充分温かい缶コーヒーが二缶、中に入っていた。  見ている前でプルタブを抜き、一缶を聡子に手渡すと、勇作はカーラジオのボリュームを上げた。まもなくラジオを通して、新年を祝う除夜の鐘の音色が聞こえてきた。美しく澄んだ、まるですぐ近くにある寺から聞こえてくる音色のようだった。 「あけましておめでとう」勇作が言った。「今年もよろしく」 「こちらこそ」聡子は笑顔でうなずき、缶コーヒーを掲げ、乾杯のまねごとをしてから言った。「ねえ、新年のキス、しましょうよ」 「いいんですか」 「忘れたの? 私たち、これが二度目のキスよ」  勇作は笑みを浮かべた。聡子も微笑み返した。  勇作がそっと、聡子の手から缶コーヒーを取り上げた。二本の缶コーヒーは、運転席側のドアポケットに押しこまれた。  車内に衣ずれの音があふれた。気がつくと聡子は勇作に軽く抱き寄せられ、唇にキスを受けていた。それは幼いキスだった。挨拶のような純朴なキスだった。  身体を離し、勇作の首に両手を巻きつけたまま、聡子は聞いた。「気にしてたの?」 「何をですか」 「去年のこと」 「気にしてたわけじゃない。ただ照れてただけですよ」 「嘘。照れてただけだったら、この一年、音沙汰がなかったはずがないじゃない」 「そうだな。認めます。気にしてたんだ」  聡子は笑みを浮かべ、手袋をはめたままの指先で彼の唇をなぞった。 「何か言ってあげたいんだけど」と勇作は目を伏せながら囁くように言った。吐く息には健康な、甘いような香りがあった。「さっきの話……でもやめます。多分、あなたは何も聞きたくないだろうから」  それには応えず、聡子は晴れやかに微笑みながら、勇作の唇に軽く自分の唇を押しつけた。「さあ、新年のキスはこれでおしまい。行きましょ」 「もう?」 「ええ。どんどん走らせて」 「このまんま行ったら、峠越えになっちゃいますよ」 「かまわないじゃない。行けるとこまで行って。お願いだから、停まらないで」  勇作がうなずき、シートベルトをつけた。ハンドブレーキがはずされる。車は雪の中、軋み音をたてながら静かに動き始める。  山道には車の轍は一つも残されていない。新雪の路面に、勇作の車だけが、長く延びる一条の跡を残し、ゆっくりと走り続ける。  車体の振動で身体が左右に揺れる。カーラジオからは相変わらず除夜の鐘が流れてくる。ヘッドライトの光の中に、雪が舞い上がり、虚ろに煌《きらめ》いては散っていく。  そして雪は、さらにさらに、とめどなくひらかれていき、その奥には闇ばかりが続いていて、聡子はいつのまにか、ひらかれた雪の向こうの、静まり返った闇と溶け合っている。 [#改ページ]  [#2字下げ]場  所  六本木のはずれにある終夜営業のスーパーは、深夜零時を過ぎたというのに賑わっていた。  何のためにそんな時間にたくさんの買物をする必要があるのか、ショッピングカートにトイレットペーパーやシリアル食品、瓶詰めのジャム、インスタントのキムチ鍋、箱入りドッグフードなどを積み上げ、忙しそうに店内を歩きまわるハイヒール姿の若い女がいる。酒の匂いをまき散らしながら、あんパンやクリームパンを吟味しているスーツ姿の中年の男もいる。男の目は酔いのせいで赤くなっている。  東南アジア系の、髪の毛を背中まで長く伸ばした年齢不詳の女が、パンティストッキングを選んでいる。どれにするのか、なかなか決められない様子である。虎毛模様のニットキャップをかぶった白人青年が、チュウインガムを噛みながら女の腰に手を回し、時折、女のこめかみのあたりにキスをしている。  週刊誌コーナーにたむろして、漫画週刊誌を立ち読みしている若者たちがいる。もうすっかり暖かくなったというのに、襟元にフェイクファーのついたジャケットを着た、厚化粧の中年の女がいる。女は、鶏の唐揚げが入ったパックを手に、あくびを噛みころしている。  水を入れて火にかければすぐにできる、かきあげうどんの容器をじっと見下ろしているのは、紺色のセーターを着た痩せた老人である。老人は首から紐をつけた財布を垂らしている。財布は黒革製だが、端のほうがすり切れてぼろぼろになっている。  世界中のあらゆる人間が集まっているような感じがする。あらゆる階層の、あらゆる年代の。いないのは赤ん坊と子供だけだ。  そんな店の中を、早希子はいつものようにゆっくりとひと回りした。買うものは決まっている。何も店を一周する必要はないのだが、ここに来るといつもそうしてしまう。何故なのかはわからない。自分と同じ感情を引きずっている人間を見つけて、安心したいと思っているのかもしれない。  早希子は今年、三十九歳になる。夫の高野との年齢差は十六歳。早希子が若く見えるからか、高野が老けて見えるからか、並んでいるといつも親子のように見られる。  そのことをどう思っているのか、高野は口にしたことがない。無口というのではないが、もともと余計なことは喋らない男だった。言葉にして情感を表現するのが下手らしい。とはいえ、情感は言葉だけでは伝わらないこともある。黙っていてくれたほうが伝わってくる優しさ、というものもある。  自分はその優しさにほだされたのだ、と早希子は思っている。だから結婚したのである。恋焦がれることと結婚とは、別のものだ、という思いが若い頃から早希子の中にはある。そしてそれは今も変わっていない。  店内をざっとひと回りした早希子は、ペットボトル入りのコーヒーや紅茶が並べられているコーナーに向かった。早希子の深夜の買物には一定の法則がある。それが破られたためしはない。まずミルクティを買う。そしてバナナ。今夜は煙草を持って来るのを忘れたので、マルボロライトをひと箱。そして忘れずに百円ライターも。 「無糖」と表示のある、ペットボトル入りのミルクティに手を伸ばす。買物籠は使わない。ミルクティを片手に、次はまっすぐに果物野菜コーナーに行く。  バナナが一本だけで売られるようになったのは、いつからなのか。ずいぶん昔から売られていたのに、早希子が最近、そのことに気づいただけなのか。スティックバナナと称してフィリピン産バナナが一本ずつ、恭《うやうや》しくセロハンでくるまれて売られている。特別に甘い、高級バナナだという触れ込みで値段も高いが、早希子はあまり甘さを感じない。甘いから買うのではなく、バナナを一本だけ食べたいから買うのである。  それらを手にレジカウンターに行き、カウンター脇に並べられている百円ライターをひとつ加えてから、財布を取り出した。いつも来ているので、その時間帯、レジ係として働いているスーパーの従業員の顔も覚えてしまった。今夜の係は三十代半ばとおぼしき猪首《いくび》の男である。店長の下で働いていて、この時間になるとレジに立つ。醜男ではないが、どこかしら好色そうな顔つきをしている。  客の顔はいちいち直視しないが、視野の片隅で女の身体を盗み見ているような感じもする。男の指は太く、肉づきがいい。関節の皺がほとんど目立たず、まるで五本の白茶けたソーセージが並んでいるようでいやらしい、と早希子は思う。  会計を済ませると、ポリエチレンの小さな袋を一枚、手渡された。早希子は無言のうちにそれを断って元に戻した。  男は目の端で早希子の胸のあたりを素早く、ちらと窺《うかが》った。薄手の、襟ぐりが深く開いた黒いセーターである。胸の形がくっきりと浮き上がって見える。V字の切れ込みの間からは、少しだけだが胸の谷間が覗いて見える。  かつて沢田と会う時に着て行って、「素敵だね」と褒められたものだった。品のいいデザインでないことは確かだが、沢田はあの時、このレジ係のような好色そうな目つきはしなかった。  時が流れ、セーターは古くなり、流行遅れになってしまった。沢田が褒めてくれたものだから、と捨てる気になれず、箪笥の奥にしまっておいた。  だが、今夜はこれを着たかった。何が何でもこれを着て、沢田のことを思いながら長い夜を過ごそう……そう決めて、早希子は家を出てきたのだった。  その日、昼近くなってから、自宅に電話がかかってきた。  聞き覚えのない女の声が「高野さんのお宅ですか」と聞いてきた。「そちらに早希子さんという方は、いらっしゃいますか」  私ですが、と早希子が言うと、女は安堵したような短いため息をもらした。「初めてお電話さしあげます。私、札幌の沢田と申します。沢田千佳子です。あの……覚えてらっしゃるかどうか……以前、東京におりました沢田雅史の妹です」  早希子は押し黙った。沢田に妹がいることは知っていた。兄と妹にしては仲がいいほうだと思うよ、と言った時の、沢田の表情まで思い出すことができた。過ぎてきた時間の流れが逆流し、音をたてて渦を巻き始めたような気がした。  沢田千佳子と名乗る女は、早希子の沈黙に動じた様子もなく、「実は」と切り出した。少し慌ただしいような言い方だった。「兄が先日、札幌市内で交通事故にあいました。信号無視で交差点を暴走してきた酒酔い運転の車が、兄の車に側面衝突したんです。運転席は大破していて、よく命が助かったと言われました。手術を受けて、いったんは小康状態を取り戻したんですけど、二、三日前から急に容態が悪化しました。でもまだ、意識はあります。兄は……兄は……早希子さんに会いたがってます。ものすごく会いたがっています。ごめんなさい……それで私、こうやって……」  最後は涙声になって聞き取れなかった。早希子はコードレスホンを握りしめ、もしもし、と繰り返した。心臓の鼓動が大きくなった。相手が何を言っているのか、よくわかっているはずなのに、自分の頭が理解していないような気がした。 「すみません……」と千佳子は言った。小さな咳払いがそれに続いた。「私、兄が早希子さんとおつきあいしていたこと、知ってるんです。三年前、札幌に戻った兄が、少し後になってからですけど、私に打ち明けてくれたんです。その頃、私は結婚に失敗して実家に戻ったところで、兄とはしょっちゅう、顔を合わせてました。いえ、だからといって、無理やり、兄の私生活を聞き出したわけじゃないんです。ぽつりぽつりと私が別れた夫のことを話し始めた時に、なんとなく兄も早希子さんのこと、打ち明けたくなったらしくて……ごめんなさい、こんな話。もしも気を悪くされたら……」 「そんなこと、いいんです。全然かまわないんです」と早希子は話を遮るようにして言った。「それより彼の容態はどうなんですか。交通事故? 側面衝突? そんなに悪いんですか。それは危篤という意味なんですか」 「いえ、医者はまだ、今のところ危篤という言葉は使っていません。ただ、誰の目から見てもよくない状態が続いていて……。あんまり兄が早希子さんの名を口にするので、私、会わせてあげたくてたまらなくなったんです。兄の携帯は事故の際に壊れてしまって、携帯から早希子さんの連絡先を調べることができなかったんですけど、アタッシェケースに入っていた手帳だけは無事でした。早希子さんの、この連絡先は、そこにちゃんと書いてありました。東京都港区の高野早希子さん。住所も電話番号もわかりました。結婚をされている方だということは知っています。そういう方に、今更、こんな話、ご迷惑だろうと思って、どうしようか、と一晩中、迷いました。早希子さんはもう、兄のことなんか、何とも思っていないかもしれないんだし……でも、でも……兄のために、ひとことお伝えしておきたくて……」  どう応えればいいのか、わからなかった。すぐに飛んで行く、と言えばいいのか。どこの何という病院の何号室に入院しているのか、聞き出せばいいのか。死なないで、と見知らぬ女相手に絶叫すればいいのか。彼のことは本当に好きだったのよ、と涙ながらに訴えればいいのか。  別れて三年。いつだって、折にふれ思い出すのは沢田のことばかりだった。  自分から言いだした別れだった。それなのに別れてしまうと寂しさがつのった。こんなことなら出会わなければよかった、沢田など知らずに生きていればよかった、と後悔に似た気持ちだけが残された。  若い頃からの持病だった不眠症には、いっそうの拍車がかけられた。眠れぬままに、なすすべもなく、早希子は時折、深夜、夫が眠っているマンションの部屋を抜け出すようになった。  アルコールが飲めれば、どこかに飲みに行ったかもしれない。だが、早希子は一滴も酒を受けつけない体質である。病院で処方された入眠剤も、効果があったのは最初だけで、次第に量を増やさなければならなくなった。自分が飲んでいる入眠剤の量をつくづく眺め、恐ろしくなった。早希子はいつしかそれを飲むのをやめた。  眠れないのなら起きていればいいのだった。無理して眠る必要はないのだった。眠れないことが原因で死んでしまった人の話など、聞いたことがない。  初めのうちはマンションの近所をあてどなく歩いたり、小さな児童公園のベンチに坐ってぼんやりしたりしているだけだったが、或る夏の晩、警官の職務質問を受けた。近所のマンションの住人が、警察に「怪しい女が公園にいる」と通報した様子だった。  聞かれるままに住所を口にし、眠れなくてこうしているんです、と言うと、ひどく怪訝《けげん》な顔をされた。家族は、と聞かれたので、夫がいます、と答えた。  へえ、と年若いその警官は言った。「こんなところでこんな時間、一人でいて、ご主人、心配してるんじゃないの」  主人は寝てますから、と早希子は言った。  警官は、じろじろと早希子を眺めまわし、煙草の吸い過ぎはよくないよ、と言った。早希子の足元にはマルボロライトの吸殻が何本も落ちていた。  すみません、と言い、吸殻を手でかき集めた。乾いた土が爪のすき間に入りこんできた。警官は気の毒そうに早希子を見下ろし、去って行った。  そんなことがあったせいか、やがて早希子は、たまたま入った終夜営業のスーパーの店先で、道行く人々を眺めながら夜を過ごす、という方法を編み出した。  そのスーパーの建物と舗道との間には、狭いながらも休憩コーナーのような一角が設《しつら》えられていた。緑色のパラソルがついたプラスチックの白い丸テーブル、それに二脚の椅子がセットになったものが二組。テーブルにはアルミの灰皿まで用意されていて、買物帰りの人々が、買ったばかりのものを食べたり飲んだりしながら、寛《くつろ》げるようになっている。  あたりには街のネオンがあふれている。皓々とした店の明かりに照らされて、周囲は隅々まで明るい。出入りする客たちはたいてい皆、自分の世界に引きこもったまま買物をし、帰って行くだけなので、早希子が何時間も同じ場所に坐ったままでいても、誰も何も言わなかった。  声をかけてきそうな男はいたし、実際に声をかけられ、どこかに遊びに行こうと誘われたことは何度かあった。だが、早希子が仏頂面をして黙って首を横に振るだけで、男はそれ以上執着せず、あっさりと引き下がった。  いい場所を見つけた、と早希子は満足した。そこに坐って、舗道を行き交う人々を眺めながらペットボトル入りのミルクティを飲む。小腹が空いたら、バナナを食べる。煙草を吸う。またミルクティを飲む。  そうやっているうちに、じわじわと快い疲労感が全身に満ちてくる。舗道に落ちている明かりが膨張して、視野からはみ出し、ふわふわとした光の雲のようになっていくような感覚にとらわれる。  眠くなった、という自覚はないものの、けだるさが全身に満ちてくる。夜が明ける頃、早希子は歩いてマンションまで戻る。パジャマに着替え、歯を磨き、顔を洗って、キングサイズのダブルベッドに眠っている夫の隣に横たわる。夫は「ううん」と唸り、薄目を開けて、軽く早希子の腰を抱き寄せる。  夫の腕は温かい。少し汗ばんでさえいる。布団の中に夫の匂いが嗅ぎ取れる。生温かな生き物の匂いである。  その匂いを嗅いでいると、不思議と気持ちが安らいで、やがて待ち望んでいた眠りが訪れる。それから早希子は眠る。三時間ほど眠る。ぐっすり眠る。たった三時間でも、貴重な眠りである。それは一切を忘れ去ることのできる三時間なのである。  そんな暮らしが板について久しかった。そうやっているうちに、いつかは沢田のことも、自分の中に長い間、澱《おり》のようになって溜められてきたものについて考えることも、少しずつどうでもよくなっていくに違いない、と思えるようになった。千佳子から沢田の事故を知らせる電話があったのは、そんな矢先のことであった。  それにしても、沢田が死んでしまうなど、早希子には到底、想像できない。  沢田は早希子よりも二つ年上。学生時代から登山が好きで、あちこちの山に登っていた。肉体はよく鍛えられていて、見た目も実際にも、頑健きわまりなかった。  彼が風邪をひいていたのを見たことがあっただろうか、と早希子は思い返した。よく食べ、よく飲み、大きな声で喋り、よく笑う男だった。  かといって賑やかなだけだったのではなく、芯の部分には生真面目なほどの静けさがあった。離婚した妻のもとに幼い双子の女の子を残してきたことを悔やんでいて、外で似たような年齢の幼女を見かけると、口数が減った。早希子が何の気なしに夫の話をした時も同じ反応を示した。とりとめもない悲しみに浸っているかのように、静かに遠くを見ていることもあった。  そんな時、早希子がそっと手を握りしめると、沢田はその手を同じ力で握り返してきた。ただそれだけで、すべてが通じ合うような気がしてしまうのが不思議だった。  彼は自分に飽きたのだろう、と早希子は思いこんでいた。それをいち早く察知して、自分から身を引いたつもりでいた。死の床にあってなお、会いたがってくれているのだったら、どうしてあの時、力強い言葉で自分を引きとめてくれなかったのだろう。どうして、訳知り顔をしたまま、大人ぶった言い方で「わかった。そうしよう」などと言ったのだろう。  すぐにそちらに行きます、と言いかけて、早希子はその言葉を慌てて飲み込んだ。そんなことができるのか。夫にどう言えばいい。札幌は遠い。三年前に別れた恋人が死にかけているから会って来るの……そう言いおいて、飛行機に飛び乗ればいいというのか。 「この先、何か変わったことがあったら、いつでも遠慮なく連絡してください」  早希子は千佳子にそう言った。口調は落ちついていたが、声はひどく掠れていた。少し汚れた窓ガラスの外に、四月の光が満ちていた。札幌にはまだ雪が残っているのだろうか、と思った。 「連絡をいただく時は、この電話でもいいんですけど、あの……つまり……夫が家にいる時だとお話ししにくくなってしまうかもしれないので……できれば私の携帯のほうにかけてもらえますか」  わかりました、と千佳子は言った。「そうですよね。もちろん、そうします。気がつかなくてごめんなさい」  千佳子が早希子の携帯の番号を聞いてきたので、教えてやった。電話の向こうで、千佳子がそれを書きとめる気配があった。紙を破るような音が響いた。 「兄にはこのこと、黙っています」と千佳子が言った。「私の勝手な判断でご連絡しただけですから」  はい、と早希子は言った。それ以上、何を話せばいいのか、わからなかった。二人の女はどちらからともなく、曖昧な挨拶をし合って電話を切った。  長い午後だった。頭の中が混乱し、ものごとを整理できないまま、日が暮れて、夜になった。  携帯を肌身離さず持ち歩いた。夜になって夫の高野が帰宅した後も、携帯をマナーモードにしたまま、部屋着にしているデニムのパンツのポケットにしのばせておいた。腰のあたりが隠れる、ゆったりとしたセーターを着ていたので、夫に気づかれた様子はなかった。  だが、千佳子から連絡はなかった。連絡がないのは、容態が安定した、というしるしなのか。それとも、早くも危うい状態に陥ってしまっていて、連絡どころではなくなっているのだろうか。  スーパーの出入口付近には、煙草の自動販売機がある。大きな販売機である。国産煙草はもちろんのこと、外国製の煙草もほとんどすべてそこで買える。早希子は販売機の前に立ち、マルボロライトを一箱買ってから、外に出た。  店の外には、緑色のパラソルのついたテーブル席が二組、いつもと同じように並べられている。不思議なことに、そこに誰かが陣取っているのを早希子は見たことがない。たいてい席は空いている。塞がっていたとしても、わずかの時間で、携帯で誰かと声高に話をし終えた人間が、そそくさと立ち上がっては去っていくだけである。  早希子はパラソルの下の椅子に腰をおろし、バナナとミルクティをテーブルに置くと、マルボロライトの封を切った。煙草をくわえ、火をつけようとして、あたりが雑音にまみれていることに気づいた。携帯が鳴り出しても気づかずにいてしまうかもしれない。  急いで小さなトートバッグから携帯を取り出し、それもテーブルの上に載せた。そして煙草に火をつけた。  夫と一緒に夕食をとりながら観た夜七時のNHKニュースでは、桜が見頃を迎えている、と伝えていた。夕食に何を作ったのか、どうしても思い出せない。夫と何を喋ったのかも思い出せない。花見の話をされたような気もするが、定かではない。明日にでも一緒に行くか、と言われたのだったか。そうではなくて、夫が会社の従業員たちと共に明日の夜、花見に行く、というだけの話だったのか。  花見客が大勢繰り出しているらしく、その晩、六本木の街を行き交う人の流れはひときわ多かった。  花見帰りの学生らしき男ばかりの一団が、丸まった団子のようにひとかたまりになって、高笑いを残しながら舗道を通り過ぎて行く。全員、酩酊《めいてい》状態で、足取りもおぼつかない。さくら、さくら、やよいのそらは、と歌っている。誰かが「やよいって何だ」と聞く。「馬鹿。三月のことじゃんか」と誰かが答える。笑い声が弾ける。  パーティー帰りとおぼしき、着飾った白人の中年カップルが通る。ひと目でサラリーマンとOLだとわかるグループが通る。酔って奇声を発しているのは男ばかりで、女たちは全員、しっかりしている。幼稚園の園児を見守る、保母のような顔をした女ばかりだ。  長髪に革ジャン姿の若い男と、ミニスカートをはいた長身の若い女が通る。二人は、道端でタンゴでも踊り出しそうにぴったりと身体を寄せ合いながら歩いている。二人が通り過ぎた後、濃厚な麝香《じやこう》の香りが残される。どちらがつけていた香水の香りなのか。男なのか、女なのか。  その香りをさらうようにして、風があたりを吹き抜けていく。だが、花の香りはしない。鼻孔をくすぐってくるのは、四月のなまぬるい夜の街を走り抜けて行く車の、排気ガスの匂いだけだ。  早希子は煙草を深々と吸い、アルミの灰皿に灰を落とした。ペットボトルの蓋を開け、ミルクティを一口飲み、また蓋を閉める。  考えはまとまらない。自分がいったい何を考えようとしているのか、何を感じているのかも、はっきりしない。  感傷に浸ろうとしているのか。沢田に近づいているのであろう死を嘆こうとしているのか。札幌に行くべきかどうか、逡巡しているのか。行くとしたら夫にどんな作り話をするべきかと、うしろぐらい嘘を編み出そうとしているのか。  別れてから丸三年、一度も連絡は取り合わなかった。携帯に電話してみようと思ったことは幾度かあったが、実行に移すのは恐ろしかった。万一、冷やかに応対されたら、それだけで自分たちが関わった二年間が藻屑のように消え去ってしまう、と思うからだった。  死、ということの意味がよくわからなかった。肉体の死であることは間違いない。だが、三年前、自分にとって沢田は死んだも同然の存在になり変わった。その時の死と、今、彼に近づいているのであろう死との間に、いったいどんな違いがあるというのだろう。  そっと腕時計を覗く。午前一時十分。  舗道を歩く人の流れは変わらない。車道にはまだたくさんの車があふれている。時折、クラクションが鳴らされる。車のヘッドライトと街の明かりが四月の夜の闇を蹴散らして、そこかしこに人工的な光の渦を作っている。  首都高速道路をはさんだ向こう側に、オレンジ色にライトアップされている東京タワーが見える。湿った闇に浮かぶ、巨大な寺院の尖塔のようでもある。  二本目のマルボロライトに火をつける。酒を受けつけない分だけ、煙草の量が増えてしまう。それでも精神安定剤や入眠剤の量を増やすよりはましだ、と早希子は思う。  沢田と別れた直後、安定剤と入眠剤を飲み過ぎて、呂律《ろれつ》がまわらなくなったことがあった。ちゃんと喋っているつもりなのに、言葉にならない。頭の中はおが屑がいっぱい詰められたようになり、目を開けたまま眠っているような状態が続いて、家事もままならなくなった。  さすがに夫の高野に様子がおかしいことを勘づかれ、いったい全体、どうしたんだ、と詰問された。あんまり眠れないんで、ちょっと薬を多く飲んじゃったのよ、と早希子は答えた。  薬を飲むのはやめなさい、と高野は言った。命令、というのではなく、単に呆れたような、諦めたような口ぶりだった。どうしようもないことを前にして、どうしようもないことを口にしている、といった感じだった。高野にはもともと、そういうところがあった。どんな場合でも、高野はあるがままの早希子を尊重しようとしてくるのだった。  高野と知り合ったのは、早希子が二十七になる年の夏だった。その頃、早希子は『アンクルキャット』という名の、赤坂にあるスナックバーでアルバイトをしていた。  カウンターの他にボックス席が二つあるだけの小さな店だった。高校の頃から親しくつきあっていた女友達の母親が経営していた店で、美大在学中の女子学生にバイトを辞められてしまい、人手が足りなくなって困っている、と相談されたのがきっかけだった。  どうせ親のところにいても面白くないことばかりだった。早希子の母親は早く死に、長い間、継母に育てられていたが、父はその継母とも別れ、当時は三度目の結婚をしていた。二人目の継母は早希子よりも一つ年下だった。  当時、『アンクルキャット』の常連客だった高野の相手をしながら、早希子はその話をした。母親が自分より年下だなんて信じられない、笑っちゃいますよね、と言い、本当に笑ってみせた。「それなのにママハハは、私が彼女に懐かないから、って、時々、泣くんですよ。ばかみたい。嘘泣きに決まってるんだけど、父親はその涙におろおろしちゃって、おい、早希子……ああ、サキコっていうのが私の本名なんですけど……早希子、おまえ、もう少し彼女に優しくしてやれないのか、なんて言いだす始末。呆れるでしょう? うちはね、家族そろって一日中、ばかばかしい喜劇を演じてる芝居小屋みたいなところなんです」  高野は黙って話を聞き、うなずき、唇の端を軽く上げて悲しそうに微笑んだ。つまらない励ましや感想を述べずにいてくれたことが、早希子には嬉しかった。  それから高野は毎晩のように店にやって来て、時折、早希子を食事に誘った。筋肉質ではあるが、太り気味の大きな身体に大きな顔、大きな手。何もかもが大きいのに、目だけが小さく、象のそれのようにつぶらで、じっと見つめられると、柔らかく吸いこまれていくような安堵感にかられた。初めて高野に抱かれた時、早希子は春の草萌える大地に包まれている気分になった。  三十代の前半で年上だった妻と死別して以来、高野は独身を通していた。結婚を口にされた時はたいそう驚いたが、店のママに打ち明けると、「それはいまどき珍しい玉の輿《こし》よ、早希ちゃん」と真顔で言われた。高野は小さいながらも安定した経営状態の、リース関連の会社を経営していた。 「こんなに年の離れた男がいやじゃなければ」と、高野は慎ましくも熱心に求婚してきた。  早希子は「全然、いやじゃない」と答えた。その時すでに、早希子の中には高野との間にできた赤ん坊が育っていた。  もしも、あの子が無事に生まれていれば、と早希子は今も思うことがある。いろいろなことが変わったかもしれない。沢田と出会うこともなく、不眠に苦しむこともなく、今頃は子供の進学のことばかり考えていたかもしれない。深夜過ぎてから六本木のスーパーの前で煙草をふかしている女を、心の底から軽蔑するような人間になっていたかもしれない。  高野と簡素な式を挙げた十日ほど後、早希子は流産した。  学生時代、つきあっていた男との間に子供ができて、堕胎したことがあった。産むか産まないか、さんざん迷ったあげく、手術可能なぎりぎりの時になってから冷たい手術台に上がった。  堕ろした赤ん坊はすでに立派なヒトの形をしていた、と後になって聞かされた。しばらくの間、身体がなかなか元に戻らず、気持ちの悪い出血が続いた。もしかすると、あの時の手術が原因で流産してしまったのかもしれない、と早希子は思ったが、そのことは高野には言わなかった。  高野との間に、その後、赤ん坊はできなかった。別に欲しいとも思わなかったし、高野も子供を作ろうとは言い出さなかった。  今夜は朝までここにいることになるのかもしれない、と早希子は思った。あまり食べたくはないが、いつもの習慣でセロハンにくるまれたバナナに手を伸ばした。セロハンを剥がし、少しだけ皮をむいて、ひと口、バナナを齧《かじ》った。  携帯電話は鳴り出さない。圏外になっていないことを確かめてみる。何度確かめても同じである。携帯は意味のない、ただの小さな箱のようにしてそこにあるだけである。  少し風が出てきた。頬を撫でて吹き過ぎていく風の芯の部分に、かすかな冬の名残があるようにも感じられた。遠い遠い、北のほうから吹いてくる風なのだろう、と早希子は思った。  札幌のことを考えた。札幌という街にはまだ一度も行ったことがない。札幌出身の沢田に、一緒に行こうよ、と誘われ、実際に彼が飛行機のチケットを手配してくれた時もあった。だが、結局、早希子は高野に嘘をついてまで、東京を離れることができずに終わった。  早希子にはこれといった友達がいない。喜んで共犯者をかって出てくれそうな人間など、どう考えても浮かんでこない。それは自分の人生そのものを象徴しているようにも思える。  離婚したとはいえ、独身でいた沢田は、早希子が帰る時間を気にしたり、小旅行に行くことを拒んだりすることを、半ば冗談めかして責めたてたものだった。 「ほらほら、また早希子は良家の奥様になろうとしてる」と彼は笑みを含ませながら言った。「都合が悪くなると堅物を決めこむんだね。困った人だな。たった一泊の旅行なのに。一ケ月間、ヨーロッパを回ってくるって言ってるわけじゃないんだよ。友達と行く、って言えばいいんじゃないのかな。一人旅に出る、と言ったっていい。子供じゃないんだから、そのくらいできるはずだと思うけどな」  その種の策を講じないでいる早希子の、自分に向けた情熱の度合いを計ろうとしているような口ぶりだったが、果して本当にそうだったのかどうかはわからない。 「嘘がつけないのよ」とその時、早希子は言った。「そういう性分なの。嘘が顔に出ちゃうのよ」 「なんだかんだと言って、きみはご亭主が誰よりも大事なんだよな」そう言って、沢田は早希子が左手の薬指にはめている、銀色のマリッジリングをわざとらしく爪で弾いてみせた。本気でそう言っているわけではない、これはただの冗談、ちょっとしたお遊び……そう言いたげに沢田は、マリッジリングに指をかけ、ぐいと力をこめてはずそうとしてみせながら、にっこりと笑いかけた。  話が深刻なほうに流れそうになると、沢田は決まってそういうことをした。どこまで本気でどこまで冗談なのか、見当もつかない。案外、本気だったのかもしれない、と思ったのは別れた後になってからであって、深く関わっている頃、早希子は彼の、恋の演出とも呼べる幾つかの言動の真意がわからずにいた。そして、わからないからこそ、かえって強く惹かれていくことになったのだった。  沢田と出会ったのは五年前のことになる。あれはもう、五年も前のことなのだ、と思うと、懐かしいというよりも不思議な気持ちにかられる。  ただの不眠症の主婦でいることに、嫌気がさし始めた頃だった。『アンクルキャット』のママは、まるで早希子がそんな気分に浸っていることをどこかで見知っていたかのように、時々、電話をかけてきた。  早希ちゃん、またうちで働かない? と何度か言われた。「高野さんの手前もあるだろうからね、週に二日だけでもいいのよ。七時から十一時まで。どう? それなら問題ないでしょう? うちで働くんだったら、高野さん、なんにも文句は言えないはずだもの。何たって、この店は高野さんと早希ちゃんの結びの神になったところなんだものね」  高野は、早希子がまた元の古巣に戻りたいのなら、そうしてもかまわないよ、と言ってくれたが、早希子にその気はなかった。酒の匂いは嗅ぎたくなかった。したくもないのに、男たちにいい顔をしてみせるのもいやだった。  ちょうどその頃、聞いたこともない翻訳事務所が、翻訳者募集の広告を出しているのを雑誌で見つけた。  英語には学生時代から自信があった。外国で暮らした経験もなく、特別に勉強したわけでもない。それなのに、英語だけは他の科目に比べて、図抜けた成績を収めていた。大型書店でペーパーバックの洋書を見つけると、買って来て辞書片手に読みふけってしまう。もしかすると自分は、日本語よりも英語のほうが好きなのかもしれない、と思ったことさえある。  おそるおそる、住所を頼りに翻訳事務所を訪ねてみた。恵比寿の雑居ビルの中にある、小ぎれいなオフィスだった。ただ単に、詳しいことを知りたいと思って出向いただけだったのに、いきなりその場で面接試験が始まった。さらに英訳のテストを受けさせられた。面接では好印象を与えることができたかどうか、疑問だったが、英訳のほうはうまくいった。  応募者が他にも数人いたようなので、多分、無理だろうと思っていた矢先、採用通知が舞い込んだ。正社員として採用されたわけではなく、アルバイト採用に過ぎなかった。給料も安い。それでも毎日、オフィスに出向き、こつこつと英文の資料を訳すなどして、新しい生活が始まると思うと嬉しかった。  勤め始めて一と月ほどたってから、オフィスに沢田がやって来た。沢田は英語の教材を売る会社の営業マンをしていた。名前を聞けば誰もが知っている大手出版社の関連会社でもある。信用と実績は折り紙つきだ、という話で、翻訳事務所とは以前から深いつながりがある様子だった。  事務所の代表者のみならず、主だったスタッフが留守だったため、早希子が応対に出た。沢田は「初めてお見かけする顔ですね」と愛想よく言った。晴れやかな笑顔が似合う男だった。  ライトグレーのスーツに洒落た桜色のネクタイを締めていた。髪の毛は無造作に長めに伸ばしていて、営業マンというよりも、どこかの品のいいブティックの、オーナーか何かのように見えた。  長身でほっそりしている。目ばかりがぎょろぎょろと大きく、美男とは言いがたいが、人を見るその視線には引き寄せるような力がある。表情も豊かで魅力的である。  それから沢田は仕事でしょっちゅう、事務所を訪れ、そのたびに早希子と顔を合わせるようになった。会うたびに弾けるような笑顔を早希子に向けた。短い会話も交わした。沢田と会えた日は、一日中、幸福だった。  外から事務所に電話がかかってきて、食事に行かないかと誘われた時、早希子は内心、この人は私のことを何も知らない、と思った。自分もまた、この人のことを何も知らない。何も知らない者同士、こうやって誘い誘われ、互いに密かな好感を抱きつつ、逢瀬のひとときを持とうとしている。  その結果は目に見えているような気がした。あっさり失望させられるか、いっそう情熱に拍車がかけられるか……。  そして結果は後者であった。  時刻は午前三時になろうとしている。ペットボトルの中のミルクティは、あとわずかしか残っていない。  人の流れはさすがに少なくなった。それでも車の流れは途絶えず、人々は舗道を行き交っている。不良外人としか言いようのない白人のグループが、露骨な視線を早希子に投げつつ、口笛を吹いてくる。ヘイ、ソコノカワイコチャン、とたどたどしい日本語で呼びかけてくる。  早希子は目をそらす。近づいて来ないように、と願いつつ、携帯を手にして、誰かと喋っているふりを装う。  品のない笑い声が少しずつ遠ざかっていく。早希子は携帯を耳から離し、元あった場所に戻す。  沢田は死んでしまうのだろうか、と考える。死んだら自分は泣くだろうか。泣くとしたら、何のために? 三年も前に失ったと思いこんでいた男が、実は自分を思い続けていてくれたことがわかったから? その男が死んだとわかって、改めて喪失の悲しみに溺れるから?  三年前、沢田に転勤の辞令が出た。札幌支店だった。  はっきりとは口にしなかったが、郷里に戻れることを彼が嬉しく思っているであろうことは早希子にも、うすうすわかっていた。  沢田ほどの男なら、女はすぐに見つかるはずである。沢田が声をかけなくても、女のほうから寄って来るはずである。  札幌に帰って、そういう女と知り合い、恋愛のまねごとをしたあげく、結婚したのだろうか。子供はいるのだろうか。ひとり? ふたり? 別れた妻との間にできた子供と同じように、双子の女の子がいるのだろうか。それとも、未だに妻も子供もいないからこそ、沢田の妹はああやって自分に電話をかけ、沢田に死が近づいていることを知らせてきたのだろうか。  すべてがわからない。三年の空白は、文字通りの虚ろな塊になって早希子の中に沈んでいる。今、早希子が知っていることといえば、沢田が不幸な事故にあい、生死の境をさまよいながら自分に会いたがっている、ということだけである。  沢田との蜜月時代を早希子は思い返す。  沢田はありふれてはいるが、よく手入れの行き届いた国産車を持っていた。つきあい始めて間もなく、うまい蕎麦を食べに連れて行くよ、と突然、言われた。向かったのは、奥多摩の渓流沿いにある蕎麦屋だった。  梅雨時だったせいか、客はほとんどおらず、貸切り状態で蕎麦を食べた。渓流の水音に雨の音が混じっていた。水の音に囲まれた、静かなひとときだった。  蕎麦屋を出て、駐車場に停めておいた車に乗りこんだ時、早希子は沢田のキスを受けた。そうなることはわかっていたような気がした。沢田の口からは、蕎麦つゆの香りが漂った。早希子は自分から沢田の首に手をまわし、唇をせがんだ。沢田は呼吸を荒らげて小さく喘いだ。  沢田は黙ってイグニッションキイを回し、車を発進させた。気がつくと早希子はモーテルの一室にいた。  沢田の身体はよく引き締まっていた。肌に鼻を押しつけて匂いを嗅ぐと、甘いアーモンドの花のような香りがした。  好きだよ、と沢田は早希子の上に乗ったまま、早希子を見下ろしながら囁いた。ものすごく好きなんだ、と。  大きな目が濡れたように光っていた。あまりにしっとりと濡れているので、そこから涙があふれてくるのではないか、と思ったほどだった。  それからは幸せな不眠状態が始まった。一睡もできずにいる晩もあった。だが、眠らずにいることが、早希子にはいとおしく感じられた。意識を保っていれば、沢田のことをずっと考え続けていられるからだった。  愛されている、と信じていたわけではない。どんなに情熱的な関係も、長続きすることはない。そういうことを早希子は知っていた。いつかは終わる。終わってしまうことがわかっている。  だが、だからこそ、いっときの夢の中を漂うことを早希子は求めた。夢をさまようのなら、覚めるとわかっていてさまようほうがずっといい。覚めないで、とは思わない。覚めるからこそ、夢は夢であり続ける。  沢田との関係ができてから、早希子は翻訳事務所のアルバイトを辞めた。理由は「一身上の都合」とした。いい仕事をしてくれていたのに、と上司からは残念がられたが、仕方がなかった。事務所のスタッフの間で、沢田との関係についての噂が囁かれ始めていた。そういう雰囲気の中で仕事を続けていく自信が、早希子にはなかった。  仕事を辞めたことはしばらくの間、高野に黙っていた。沢田と会う時間を捻出《ねんしゆつ》するためには、そうしておく必要があった。  沢田は離婚してから独り暮らしをしていた。三軒茶屋の駅の近くにある2LDKのマンションだった。沢田は平日に休暇をとるたびに、早希子を部屋に招いた。彼は煮込み料理が得意で、ポトフやシチューをよく作ってくれた。  沢田の口にする冗談は、いつも気がきいていた。早希子はよく笑った。心から笑った。作り笑いなどひとつもしないで済むのが嬉しかった。  早希子が笑うと、沢田はその笑顔が好きだ、と言った。「笑うと、きみは少女みたいな顔になるんだね」と言って、本当の少女を見るような目で早希子を見つめた。  家に帰って、夫が寝た後、鏡に顔を映してみた。鏡に向かって笑いかけた。若い頃から、あまり笑うことがないような生き方をしてきた。鏡の中に自分の笑顔がある、というのは不思議な感じがした。自分ではない、別の人間の顔のようでもあった。  沢田はこの顔が好きなのか、と思いながら、しげしげと角度を変えて眺めてみた。笑うと頬がせり上がり、あまり眠らずにいるせいで取れなくなってしまった目の下の隈が薄らいで見えた。自分の中にもこんな無邪気な表情が残っていたのか、と驚いた。  何度も何度も鏡に向かって微笑みかけた。手鏡を手に、窓辺に立った。静かな夜明けが始まっていた。遠くの空に放射状に拡がった光が見えた。光はまっすぐに、大都会のビルの群れを突き抜け、早希子が立っていた部屋の窓ガラス越しに射しこんできた。鏡が光に満ち、笑顔がその白い光の中に埋もれた。  もうペットボトルのミルクティは空である。アルミの灰皿の中に、マルボロライトの吸殻が六本。少し寒さを感じる。ジャケットか、せめてマフラーを持ってくればよかったか、と早希子は思う。  胸の開いたセーターの首のあたりに、春の明け方の冷気がしのび寄ってくる。早希子はそこに掌をあてがい、冷たくなった自分の肌をひと撫でする。  夜明けが近いというのに、スーパーに出入りする人はあとを絶たない。朝まで開けている店での勤めを終えたばかり、という風体の女たちの姿が目につく。皆、疲れた顔をしている。誰とも一言も口をききたくない、と言わんばかりに、周囲には目もくれず、怒ったような足取りで店の中に入って行く。  化粧は崩れ、脂さえ浮いている。逆毛をたてた赤い髪は艶を失い、トウモロコシの髭を束ねたように乾いて見える。  車道に空車タクシーが目立つ。絡まり合うようになりながら、酔った女を抱きかかえ、タクシーに向かって手を上げている背広姿の男がいる。男の顔にも疲れが滲み出ている。  高野は心配しているだろうか、とふと思う。夜中に家を出て行っても、三時過ぎには戻っていることが多かった。ふと目を覚ました高野が、ダブルベッドの中で手を伸ばし、傍らに早希子が寝ていないことに気づいて案じ始めているかもしれなかった。  帰らねば、と思う。午前五時。携帯電話は鳴り出さない。自分は何を待っているのだろう、と早希子は思う。沢田の死の知らせを待っているのか。すでに自分の中で死んでいたはずの沢田が、本物の死を迎えたことを確認しようとしているのか。  尿意を覚えた。スーパーの奥にもトイレがあり、頼めば貸してくれることはわかっている。だが、もう帰ろう、と早希子は思った。  トートバッグの中に携帯電話とマルボロライトの箱、百円ライターをすべらせる。空になったペットボトルとバナナの皮を近くの屑籠に捨てる。バナナは一本、食べきれなかった。まだ半分、残っている。実を残したまま、それは清涼飲料水のパッケージやストロー、紙屑、空になった弁当のパックなどが積み上げられた屑籠の奥深く、沈んでいく。  沢田の態度にかすかな変化が見られるようになったのは、つきあい出して二年目の二月のことだった。  携帯に電話をしても、留守電になっていることが多くなった。仕方なくメッセージを残すのだが、なかなか電話はかかってこない。携帯メールにメッセージを送っても、返信は届かなかった。  もともと筆まめな男ではなかった。メールに返信がないというのはうなずけるにしても、聞いているはずの留守番電話のメッセージに何の応答もない、というのは解せなかった。  急に不安になり、たて続けに電話をかけた。やっと電話に出てきた沢田は、ごめんごめん、と機嫌よさそうに言った。「電話しようと思ってたとこだったんだよ。ここんとこ、仕事で大きなプロジェクトを組まされててさ、徹夜続きで大変だったんだ。でもちゃんと留守電は聞いてたよ。メールも読んでた。早希子からのメッセージはいつも励みになってたよ。今日明日にも余裕ができそうだから、ゆっくり電話するつもりだったんだ。どう? 元気?」  いつもと変わらぬ陽気な口ぶりだった。元気よ、と早希子が言うと、彼は「そりゃあよかった」と言った。なんだか馬鹿にされているような気がした。  独身の沢田が、早希子とは違う、時間も何も気にしなくていい、旅行にも気軽に行くことのできる独身の女とつきあい始めたのだとしても、何の不思議もなかった。不思議ではないどころか、これまでそうしないほうがおかしかったのだ、と早希子は考えた。  二週間に一度の割合で会っていた沢田を早希子は自ら遠ざけるようになった。電話もかけず、メールも送らなかった。時々、沢田のほうから連絡があり、探るような言い方で「どうしたの」と聞かれたが、なんでもない、とごまかした。  夢が覚めかけていることを感じた。思っていた通り、夢は覚めるのだった。覚めない夢はないのだった。  三月も半ばを過ぎた頃、沢田から連絡があった。改めて報告したいことがある、と言われ、指定された青山の喫茶店に出向いた。  札幌支店に転勤の辞令が出た、と久しぶりに会った沢田は、いつもとは打って変わったぶっきらぼうな言い方で言った。  そう、と早希子はうなずいた。「それは昇進っていうこと?」 「いや、違う。違うけど、札幌は郷里でもあるし、妹や親がいるところだからね。悪くないかな、と思ってる」 「だったら、おめでとう、を言わなくちゃね。おめでとう」  沢田は黙っていた。睨むような目つきで早希子を一瞥しただけだった。  その晩は食事を共にした。いつ行っても、どうしようもなく混み合っているイタリアンレストランだった。  周囲は大勢の若いカップルで賑わっていたが、ふたりのテーブルは静まり返っていた。会話は弾まず、刺《とげ》のある言い方を避けようとすると、早希子の表情はますます硬くなった。少女のような笑顔を作ることなど、到底、できそうになかった。  デザートに出てきたカシスのシャーベットをスプーンですくいながら、早希子は「これっきりにしましょう」と言った。  その言葉はするりと、難なく口からこぼれ出てきた。悲壮な覚悟を決めた上で口にした言葉だったというのに、まるで天候の話でも始めた時のように口ぶりは自然だった。  早希子は顔を上げ、その日、初めて笑みを浮かべてみせた。何故、そんな時に、笑みなど浮かべていられるのか、わからなかった。  沢田の片方の眉がぴくりと上がるのがわかった。彼は聞いた。「どういう意味」 「どう、って、そういう意味よ。ずっと考えてたの。そうするほうがいいんだと思う。でもこれだけは言わせてね。あなたと知り合えて、本当によかった。一生の、いい思い出にします」  泣きたい気分だったが、笑みはくずれなかった。スプーンですくったカシスのシャーベットを口に運んだ。その冷たさに、思わず笑みが凍りつきそうになったが、早希子は危うくそれをこらえた。  沢田は瞬きひとつせずに早希子を見ていた。忙しく何かを考えているようだったが、やがてつと視線を外すと、「そうか」と言った。あっさりした言い方だった。「わかった。じゃあ、そうしよう」  そう言って、彼もまたカシスのシャーベットをスプーンですくった。何事もなかったかのような、流れるような仕草だった。その時の沢田の、うつむき加減になった額に、ひと房の柔らかな髪の毛がこぼれたことを早希子は今も覚えている。  東の空が明るくなり始めている。早希子はトートバッグを手に、夜明けの街を歩く。  どこに向かって歩いているのか、ふとわからなくなる。早希子は空を仰ぐ。こぼれた群青《ぐんじよう》色のインクが、空いちめんに拡がっているように見える。首都高速道路が長々と延びている。水銀灯の明かりが夜明けの空に映えている。車が行き交う音がくぐもって聞こえてくる。  高野と暮らすマンションは、スーパーから歩いて五、六分の距離にある。白い煉瓦貼りの、瀟洒《しようしや》な八階建てのマンションである。  鍵を取り出し、木製のオートロックの扉を開け、廊下を進んでエレベーターに乗る。身体の芯が鉛のように重たい。なのに頭は冴え冴えとしている。  最上階で降り、「高野」という表札のかかったドアの鍵を開けて中に入る。遮光カーテンが下りている室内は夜中のように暗い。高野が起き出している気配はない。  寝室のドアを細く開け、中を覗く。高野はぐっすり寝入っている。軽い寝息が聞こえる。  ほっとする。この人はいつ、どんな時でも、寝ていてくれる。私を放っておいてくれる。  早希子はその場で着ていたものを脱ぎ始める。もう何もする気がしない。歯を磨くのも、顔を洗うのも着替えるのも面倒である。  どのみち沢田は自分の中ではとっくの昔に死んでいる、と早希子は思う。私の居場所はここしかない。この、よく眠る夫の横の、生温かいぬくもりに満ちた布団の中……。  下着だけの姿になって、早希子はしばらくの間、眠る夫をじっと見下ろしている。頭頂部がかなり薄い。枕の上で寝乱れた髪の毛の中に、たくさんの白髪が見える。  何が欲しかったんだろう、と考える。あの頃、自分は沢田に何を求めていたんだろう。愛? 恋愛感情? 友情? それとも、ただ単に日常から逃れること?  そのすべてが当たっていて、同時に、すべてが違うような気もする。  ベッド脇に転がしておいたトートバッグの中で、ふいに携帯が鳴り出した。着信メロディはショパンの「別れの曲」にしている。タイトルがいかにも自分らしいと思い、沢田と別れた時から変えていない。  高野が、ううん、と唸って寝返りを打った。闇の中で慌てて携帯を耳にあてがう。心臓がせり上がってきて、喉から飛び出してきそうな感じがする。 「高野早希子さん……ですか。沢田千佳子と申します」消え入るような女の声。十数時間前に耳にしたばかりの、その声を早希子ははっきり覚えていた。 「ついさっき」と千佳子は言った。「兄は亡くなりました。危篤状態になってから、あっという間でした。もっと早くお知らせすればよかったんですけど……できませんでした。ごめんなさい」  いえ、と早希子は言った。さしたる衝撃を感じないでいるのが不思議だった。あれほど烈しく繰り返していた鼓動が、少しずつ鎮まっていくのが感じられた。  深呼吸し、軽く唇を舐め、早希子は聞いた。「最後はどんな……でしたか」 「苦しまなかったみたいです。夕方くらいから意識が混濁し始めて、そのまま眠るように……」  早希子はうなずき、掠れた声で「そう」と言った。「ずっと電話がなかったので……もしかするとそうなるのかな、と思っていました」 「こんな朝早くにすみません。お休みだったんでしょう」 「起きてました。ゆうべからずっと」  束の間の沈黙の後、千佳子は震えるようなため息をつき、次いで大きく鼻をすすり上げた。泣いている様子だった。早希子は黙っていた。  すみません、と千佳子は言った。もう一度、鼻をすすり上げる音が響いた。「余計なことをお知らせしたことになるのかもしれませんが、でも……早希子さんと、こうしてお話しできてよかった。兄は札幌に戻って、一度結婚して、半年で別れて、仕事のほうもあんまりうまくいかなくなって……いろいろあったものですから……きっと早希子さんとのことだけが、最後まできれいな思い出になって残っていたんだと思います」 「そうですか。そうだとしたら、私も嬉しいです」  沈黙が拡がった。耳にあてがっている携帯電話の奥からは、漣のような音が聞こえてくるだけだった。  もしもし、と早希子は小声で呼びかけた。「大丈夫ですか」 「え? あ、はい。大丈夫です。すみません、ぼんやりしていて。あの……では、私はこれで」 「お元気で」と早希子は言った。「知らせてくださって、ありがとう」  千佳子が何か言ったような気がしたが、携帯の雑音のほうが大きすぎて、聞き取れなかった。早希子は静かに携帯の電源を切り、トートバッグの中に戻した。  高野が「ううん」ともう一度、唸った。大きく寝返りを打った。ベッドのスプリングが軋み音をたてた。 「どうしたの」と高野が聞いた。「何かあったの」 「うん、ちょっと」と早希子は言った。「私の古い知り合いが亡くなった、っていう知らせ」  そうか、と高野は言い、仰向けになったまま、ごしごしと両手で顔をこすった。「病気?」 「ううん、事故みたい」 「気の毒に」 「ええ」  高野は目を薄く開け、早希子を見上げた。「パジャマも着ないで、風邪をひくよ」 「平気。このまま寝る」 「今、帰ったのか」  それには応えず、早希子は布団をそっとめくって、ダブルベッドの中にもぐりこんだ。両手で高野の胸をまさぐるように求めていくと、高野は赤ん坊でもあやすようにして早希子を軽く抱き寄せた。 「なんだ。身体が冷えきってるじゃないか」 「うん」 「風呂であったまってくればいいのに」 「いいの。このままのほうがいい」 「あったかい?」 「うん」 「ぐっすりおやすみ」 「うん」  涙があとからあとからあふれてくる。それは頬を伝い、高野が着ているパジャマに吸いこまれていく。鼻が詰まってくる。だが、早希子は嗚咽《おえつ》をもらさない。もらさないままに、高野に抱かれ、高野にしがみつきながら涙を流し続けている。 [#改ページ]  [#2字下げ]パラサイト  目の前を並んで歩いていた若い女の二人連れが、互いに一つの携帯電話を覗きこみながら大きな声で笑っている。「ぎゃーっ、マジかよ、これ」「だから言ったじゃん。ひどいんだってばぁ」「これってアリぃ? キモイよぉ。見たくないよぉ。超サイテー」  二人とも、似たような白いカットソーに膝丈のフレアースカートをはき、腰のあたりに似たような銀色のチェーンベルトを巻きつけている。茶色く染めた髪の毛を肩のあたりまで伸ばし、裸足にしか見えないような、ヒールの高いヌードサンダルをはいているのも同じである。  地下鉄の構内である。郷子《きようこ》はその娘たちと同じ地下鉄に乗って、向かい合わせに坐り、同じ駅で降りた。乗っている間中、娘たちはわがもの顔で興奮気味に、大声で何か喋り続けていた。興奮すると足をばたばたさせる癖があるらしい。片方の娘は時折、車輛全体に響きわたるほどの音をたて、サンダルのヒールで床を鳴らした。かと思えば、バッグの中から化粧ポーチを取り出して、手鏡を手に二人、口紅の交換をし合ったり、アイシャドウの品評会をしたり、互いがつけているブラジャーのストラップを、人目もかまわず覗き合ったりした。  改札口が近づいたあたりで、左側の女が籐製の大きなトートバッグを持ち替えた。はずみで、それまで小脇にはさんでいた薄桃色のバインダーから、白い紙がはらりとすべり落ちた。紙ははらはらと舞って、郷子の足もとで止まった。二つ折りにされた、何かの印刷物のようだった。  郷子はそれを拾い上げ、「あの、ちょっと」と娘たちの背に向かって声をかけた。「落ちましたよ」  聞こえなかったらしい。二人連れはそのまま改札口に向かおうとしている。相変わらず右側の娘の手には携帯が握られていて、何がそんなに可笑しいのか、二人は身体をぶつけ合うようにして笑ったり、奇声を発したりしている。  仕方なく郷子は小走りに近づいて、左側の娘の肩を軽くたたいた。「これ、落としましたけど」  二人は同時に立ち止まって郷子を振り返った。それまで甲高い声でわめき続けていた檻の中の二匹の猿が、ふいに口を閉ざした時のような顔つきだった。光のない四つの目が、威嚇《いかく》するように郷子を包んだ。  だが、郷子が差し出した紙を見て、二人は口々に「あ、それ……」と言った。  左側の女が表情を和らげ、「どうもすみませんでした」と言って、紙を受け取った。「申し訳ありません。わざわざ、ありがとうございました」  右側の女が、それに合わせるようにして会釈してきた。肩まで伸ばしたストレートの茶色の髪の毛が、会釈の中でさらりと優雅に揺れた。  同じ人間とは思えない。この娘たちの中には別の人間が寄生していて、つい今しがたまで、宿主を無視しながら、そいつが勝手に喋りまくっていただけなのかもしれなかった。宿主は実にまともで、常識的、難癖のつけようもない。タガをはずすのは、きっと、寄生しているほうの何かであり、宿主ではないのだ。  とはいえ、自分も似たようなものだ、と郷子は思う。いろいろなことを使い分けている。別に必死になって装おうとしているわけではなく、恰好をつけているわけでもない。本能的にそうなってしまうだけのことで、さしたる努力もしないのに、必要とあれば宿主の顔に戻ることができる。簡単なのである。  自分の中にも、別の何かが寄生しているのかもしれない。そしてそれは昔からずっと、自分と共に生きていて、もう、どちらが本当の自分なのか、どちらが本当の宿主なのか、区別がつかなくなっているのかもしれない。  いつも家に荷物を届けに来ていた宅配便の男と、ダイニングルームの床で性交してしまった日の夜も、夫や娘に対して、ふだんと変わらない顔をしていられた。夕食もいつも通りに作ったし、性交した数時間後の、同じダイニングルームで食後のテレビを娘と一緒に見ていられた。頭がぼんやりすることもなく、まして、罪の意識に苛《さいな》まれたり、自己嫌悪にかられたり、自分と性交した男を憎んだりすることもなかった。  それは、宅配便の男と性交しなかった幾多の夜と寸分も違わない夜だった。寝る前に風呂に入った時だけ、男に強く揉まれた乳房が赤みを残しているのを眺めて、ふと男のことを思い出したが、思い出したのは数秒のことで、すぐに忘れた。  男はコンドームをつけてくれた。いつも、そんなものを持ち歩いてるの、と聞きたかったが、聞いても意味がないと思った。誰かと性交するチャンスを狙ってはいても、男は案外、神経質なのかもしれなかった。あるいは、定期的にこういうことをやる女友達がいて、その晩は女のところに行くつもりでいたから、たまたま持っていた避妊具を郷子に使っただけなのかもしれなかった。  改札口を出ると、娘たちの姿は人ごみにまぎれて見えなくなった。郷子は腕時計を覗いた。十二時十三分。野上との約束は十二時半だから、ちょうどいい。  野上と会うのは十九年ぶりになる。最後に会った時、郷子は二十三だった。それまではいつも野上がホテルの部屋をとり、会うのはベッドの中、と決まっていたが、最後の日だけはそうしなかった。銀座の鮨屋で鮨を食べ、その後、老舗のバーのカウンターで少し飲み、送られて帰った。  車を降りる時に、野上の唇がそっと頬に触れてきたのを覚えている。だが、それだけで、キスも交わさなければ握手もしなかった。さよなら、とも言わずに、じゃあ、とだけ言って郷子は野上に背を向けた。涙ぐんでいるのを見られたくなかったからだった。  もう手紙も書かないし、電話もかけないよ、と野上はバーで水割りを飲みながら言った。ほんとに一切、連絡はしない、辛くなるからね、と。  少し怒ったような口調ではっきりそう言われてしまうと、心底、悲しくなった。野上は郷子を見てはおらず、その目は正面のボトルが何本も並んでいるカウンターの壁を睨みつけていた。  世間でよく言う、男に捨てられる、というのはこういうことなのか、と郷子は思った。野上のことは好きだった。誰よりも、とつけ加えてもいい。野上にはなんでも包み隠さず、正直に話すことができた。正直に話し過ぎた結果、こうなったのかもしれなかった。  ひと晩に三人の男と寝たことがある、という話を郷子は野上に教えた。それを聞いた野上が、ひょっとして俺は今夜、この娘にとって四人目の男なのか、と思わないはずはなかった。  野上は頭がいいから、そういう、胸をよぎったつまらない想像の一つ一つを郷子にもらすようなことはしない。「郷子は精神の冷感症なのかもしれないな」とつぶやいただけである。だが、内心、野上が何を思っていたか、郷子にはわかっていた。心の中で感じた本当のことを正直に伝えてほしい、と思ったのだが、うまく言葉にできずに終わった。  もっと素直に腹をたてたり、心底、呆れて、そういう生き方はよくない、と厳しく説教したりしてくれていたら、どうなっていただろう、と思うこともある。たとえどんなに見当違いのことを言われたとしても、野上が言うのなら、自分はそれを受け入れていたかもしれなかった。一方で、そんなふうにされたら、ばかばかしくなってきて、自分のほうから野上に愛想をつかしたかもしれない、と思うこともあった。  野上には妻と二人の息子がいた。十八も年が離れている野上が、家庭を捨てるつもりなど毛頭ないままに、自分とつきあっていたことを郷子は知っていた。  奥さんとは別れないの、と郷子は何度か質問した。野上が「別れてほしい?」と聞き返してくるたびに、郷子は口をへの字に曲げて「別に」と言った。  本当だった。野上を一人占めしたいわけではなく、結婚に対する憧れがあったわけでもなかった。ただ、野上が妻や子供の話を始めたり、野上が妻とも同じことをしている、と思うと、時々、意味もなく不愉快になっただけだった。  二人の間が何となくぎくしゃくしてきたのは、野上が東京のオフィスをたたんで新潟に帰る、と言いだした頃からだった。本当に自分のことが好きなら、そんなことはしないはずだ、と郷子は思った。私たち、どうなるの、と聞いてみた。野上は答えなかった。深追いはしたくなかった。お別れね、と郷子は言った。それでも野上は黙っていた。  野上は今年、還暦を迎える。さぞかし老けてしまっただろう、と郷子は思うが、自分も今年で四十二だった。野上が見たら、さすがに年をとったと思われるのかもしれないから、お互いさまだった。  地上に出るための長いエスカレーターに乗っても、さっきの二人連れの姿は見えなかった。あの子たちは、十八歳も年上の男とつきあったことがあるのだろうか、とふと思った。それどころか、案外、父親や祖父ほど年の離れた男とつきあっている可能性もあった。そういう男から金や高価な贈り物を受け取っていたとしても、不思議ではなかった。  複数の男からブランドもののバッグや腕時計をプレゼントさせて、それを売り飛ばし、会社勤めをしながら豊かな暮らしをしている若い女をテレビで見たことがある。娘の顔には紗《しや》がかけられていて、表情は見えなかったが、音声を変えていなかったので、声だけははっきり聞こえた。  娘は、質問されたことに対して、正しくきれいな言葉を使いながら、はきはきと答えた。その中に「異端」という言葉が聞き取れた。「わざと異端を気取ってる、って意識は全然ないんです。私、自分はごく凡庸な人間だと思ってますので」  イタン、ボンヨウ……などという難しい言葉を使いこなしながら、娘はあっさりと男たちに金品を貢がせて、優雅な暮らしをしているのだった。画面に映し出された女の部屋には、オーク材で作られた書棚があった。中には郷子も知らないような、外国の著者による厚手の評論集や画集などが並べられていた。時折、映される娘の手は手入れが行き届いていて、どんなハンドクリームを塗ればそんなにつややかになれるのか、と聞きたくなるほど光り輝いていた。長めに伸ばした爪には、銀色の小さなクロス模様が入ったネイルアートが施されていた。  エスカレーターを降り、地上に出ると、平日の午《ひる》どきのせいか、近隣のビルから吐き出されてきたOLやサラリーマンの姿が目立った。六月の雨が降っている。気温はそれほど高くはないのだが、湿度が上がっているらしく、変にむしむしする。  小花模様の傘を拡げ、郷子は歩き出した。宅配便のコンテナ車が、ハザードランプを点滅させながら車道の脇に止まっているのが見えた。車体には、郷子が寝た男が勤めていた業者のマークが読み取れた。  車の中から出て来た制服姿の男が、伝票の束を手にして、コンテナの中から荷物を下ろし始めた。背が高くてがっちりとした体格だった。あの男に似ている、と思ったが、よく見ると、郷子が寝た男よりもずっと年をとっていた。  宅配便の男は、「ずっと前から奥さんのことが好きだった」と言った。好きで好きでたまらなかった、一度でいいから、こうしてみたかった……囁くように言ったのはそれだけで、その直後に、野菜の皮でも剥くようにして、郷子が着ていたものをするすると脱がせ始めた。終わった後で、会話らしい会話も交わさず、男はすぐに帰って行った。  男とそうなるきっかけになったのは、切り傷だった。四月半ばの平日の午後、いつものように男が郷子のところに宅配便を届けに来た。  郷子が印鑑を手に出てみると、男の左手には白いタオルが巻かれていて、そこに血が滲んでいるのが見えた。  担当地区が決まっているらしく、ここ一年ほど、その業者の宅配便は、たいてい同じ男が届けに来ていた。余計な会話を交わしたことはないが、すっかり顔なじみになっていた。 「どうしたの、それ」と、思わず声をかけたのは、そのせいでもある。  あやまって、カッターで指を切ってしまった、と男は答えた。まいったな、と言いたげに渋面を作り、「血がなかなか止まらなくって」と言って苦笑してみせた。  小さな切り傷でないことは、白いタオルに滲んだ血のしみが、見る間に拡がっていくことですぐにわかった。いやだ、大変、ちょっと待って、なんとかしなくちゃ、と郷子は言い、急いで奥に走って行った。とりあえずキッチンの引き出しからバンドエイドの箱を取り出してみたが、そんなもので血が止まるとは思えなかった。 「平気ですよ、奥さん。大丈夫です」と玄関先で男は大声で言った。「水で洗い流せば平気です。前にも同じようなこと、ありましたから。あの……すみません、ちょっとだけ上がって、水を使わせてもらってもいいですか」  郷子はためらわずに「どうぞ」と言い、男を洗面所に案内した。玄関先で対面している時と違って、宅配便の制服姿の男が部屋の中に入ってくると、異物がそこにある、という感覚に襲われた。男は背が高いばかりではなく、身体も大きかった。  キティちゃんがプリントされている娘用のクッションだの、繊細な葉を繁らせたアジアンタムの鉢だの、洗濯したばかりの白いレースのカーテンなどで囲まれたダイニングルームを横切り、男は洗面所に入って行った。歩き方も、身のこなしも、ひどく男くさくて、男が通り過ぎた後には、石鹸と汗が入り交じったような匂いが残った。  田舎の祖母の家の近くに、自衛隊の演習場がある。昔、祖母の家に遊びに行った時、近所の花畑に突然、自衛隊の制服をまとった大柄の男が入って来て、いきなり用足しを始めたのを見たことがあった。宅配便の男は、その時感じた強烈な違和感に似たものを郷子に与えた。  男はしばらくの間、洗面所の水を流しっ放しにしていたが、やがて出て来ると、郷子が手渡した古タオルで傷口を被い、「もう大丈夫です」と言った。「すみませんね。ご迷惑かけちゃって」  いいのよ、と郷子が言うと、男は郷子の前に立ちはだかるようにして彼女を見下ろしてきた。男と郷子の間には三十センチほどの距離しかなかった。あまりに近くに立っていたので、男の吐息が感じられた。  適度に日に焼けていて、端整な顔だちをしてはいたが、男の表情にはどこか品性というものが欠けていた。三十か三十五か、そのくらいの年齢のように見えた。結婚しているのかどうかは、わからなかった。帽子をかぶったままだったので、どんな髪形をしているのかもわからなかった。  あの時、男が下卑た口調で「奥さん」などと言い、じろじろと身体をなめまわすようにして眺め始めたら、きっと自分は男を叩き出していただろう、と郷子は思う。だが、男は「お邪魔しました」と言って一礼し、玄関に向かった。スニーカーをはいて外に出て行く時は、すっかりいつもの顔に戻り、「失礼しまぁす」と言う声がいつまでも玄関先に残された。  郷子の夫は、通信販売で化粧品を売る会社を経営している。郷子は夫を手伝って、経理の仕事をしていたが、会社に出向くのは午前中だけだった。ひとり娘の綾香はまだ中学二年になったばかりである。夫は綾香が家に帰った時、母親がいないのはよくない、と常日頃、言い続けていた。平日の午後、郷子が在宅しているのはいつものことだった。  それから四日ほどたった日の午後、似たような時間帯に、また宅配便の男が荷物を届けに来た。夫の郷里から送られてきた、よもぎ蕎麦と味噌のセットのようだった。  さして重い荷物でもなかったのに、男は玄関先で郷子が差し出した印鑑を無視しながら、そのまま荷物を持って中に入って来た。玄関の三和土の脇のシューズボックスの上にそれを載せたので、てっきり郷子は、親切にそうしてくれているのだ、とばかり勘違いした。 「ありがとう」と郷子が言うと、男は「どういたしまして」と不自然に大きな明るい口調で言った。「奥さん、この間はどうも。おかげで助かりましたよ。お客さんたちの大事な荷物にさぁ、血の痕なんかつけちゃったら、大変だもんねえ」 「傷、よくなった?」 「ええ、もうすっかり。ほら」  そう言って男は左手を掲げてみせた。大きな浅黒い手だった。傷があった人さし指のつけ根のあたりには、茶色の絆創膏が貼られていた。  にこやかなその笑顔が、ふいに凍りついたようになった。男は後ろ手に玄関のドアを閉めた。一人ですか、と聞かれた。低い声だった。声は少し震えていた。  反射的に郷子は「ええ」と答えた。  マンションの狭い玄関ホールに、郷子は男と向かい合わせになって立っていた。ちょっと、と男は言い、奥のほうに視線を走らせた。抜目のなさそうな、品のない視線があたりを一巡した。「ちょっとだけ、入ってもいいですかね」  これから何が始まるのか、男が何を求めているのか、その時点で郷子にはわかっていた。だから、男が郷子の腕に触れ、奥に行くよう、目で促してきた時も、恐怖心は感じなかった。  男は郷子の腕をやわらかくつかみながら、はいていたスニーカーを脱いだ。郷子は「鍵」と小声で言った。「鍵、かけて」  男は咄嗟に何を言われているのか、わからない顔をしたが、すぐに気づいたらしく、ドアの鍵を閉め、さらにチェーンをかけた。  ダイニングに入ると、男は少し喘ぎ始めた。喘ぎながら、かぶっていた帽子を脱いだ。帽子の下の短く刈られた髪の毛は漆黒で、いかにも硬そうだった。  抱きしめられ、乳房を強く揉まれた。奥さんのこと、好きで好きでたまらなかった、と耳元で囁き声がした。いつか、こうやって……と男は続けたが、喘ぎ声が烈しくなって、何を言っているのか、よくわからなくなった。いつか、こうやって抱きたかった、と言ったように聞こえたが、あるいはもっと卑猥なことを口にしたのかもしれなかった。  着ていたカーディガンが、中の薄手のセーターと共に脱がされた。スカートの下から手を突っ込まれた。ごめん、と男は言った。言いながら、自分のズボンを下ろした。郷子の身体は男に押し倒されるようにして、ダイニングの床に仰向けになった。  早くしないと、と郷子は思った。綾香が帰って来る。今日は部活のない日だから、いつもよりもずっと早めに帰って来る。  思ったのはそれだけだった。  雨の中、郷子は歩いた。オフィスビルの前の舗道を、紺色の制服姿の女たちが連れ立って歩いている。一様に片手に財布か、小さなポーチのようなものを持っている。うどん屋の店先には、色とりどりの傘をさした女たちが行列を作っている。  野上に指定されたのは、ホテルの中にあるレストランだった。個室を予約しておいたから、着いたら店の人間に野上の名を言って案内してもらいなさい……そう言われている。  ホテルは新館と旧館に分かれているが、新館ができたのは十年ほど前だ。郷子は若かった頃、何度か旧館のほうに来たことがあった。大正時代の貴族の邸宅を改装して、バーとレストランに使っている。  昔、一階の奥にあるバーで、男と飲んだことがあったのを思い出した。新聞記者をしていた男だった。芸能界の連中はみんなクズだ、と男は言い、有名なタレントの名を出して、あいつはろくに字が読めない、英語のスペルですら正しく発音できない、というような話ばかりしていた。  郷子はそのタレントのことが別に嫌いではなかったので、黙っていた。男は郷子をちらりと見て、きみとこうやって飲んでいると楽しい、いやなことを忘れていられる、と言った。  帰りがけ、えび茶色の古めかしい絨毯《じゆうたん》が敷きつめられたホテルの廊下を並んで歩いていた時、今日、ここに泊まろうか、と言ってきた。高いんじゃない、と郷子が言うと、いいよ、僕が払うよ、と男は言い、言ったすぐ後で、でも、ここじゃなくて、別のところに行こうか、仕事で徹夜した時なんかに、時々泊まるホテルがあるんだ、と郷子の肩を抱き寄せた。  その後、男は郷子をなじみのホテルに連れて行った。男は郷子を抱きながら、なんだか人形を抱いてるみたいだ、と言った。感じない? と郷子が聞くと、いや、そんなことはない、感じるよ、すごくいいよ、だってきみのこと、大好きだから、と答えて、郷子の首すじを強く吸った。あまり強く吸われたものだから、キスマークの痕がなかなか取れず、夏だというのに郷子はそれからしばらくの間、首にネッカチーフを巻いていなければならなかった。  男とは三度ほど会って、そのつどホテルに行き、朝まで過ごした。四度目に会う時、旅行しようと誘われていたのだが、それができなくなったのは、郷子との関係が男の妻にばれて、騒がれたためだった。男の管理が悪いせいで、郷子の連絡先を妻に突き止められてしまい、郷子のところに妻が押しかけてきた。  あの人は子煩悩なんです、と妻は言った。あなたは知らないかもしれないけど、休みの日なんか、ずっと子供と遊んでるのよ、私たち、彼が休みの日はいつも夜、三人で外に御飯を食べに行くの、忙しくて、徹夜徹夜で家に帰らない人だけど、帰って来れば、あなたなんかが想像もつかないほど家庭的で、私の誕生日も忘れないでいてくれるし、次の誕生日までには二人目の子供を作ろう、って約束してくれてるし……。  何が言いたいのかわからなかったが、郷子は、はい、とうなずいた。  自分よりも十歳ほど年上で、神経質そうな感じがしたが、自分よりもはるかに美人だ、と素直に思った。ほっそりした身体に、エレガントな感じのする紺色のスーツがよく似合っていた。  もう会いません、と郷子は約束した。妻は納得して帰って行った。男とはそれ以来、連絡を取っていない。  ホテルの旧館は昔のまま、そこにあった。コテ塗りの白壁は煤けていたが、雨に煙った周囲の樹木の陰の中にあって、それ自体が時間を遡っていくまぼろしのように見えた。  石畳の並ぶ車寄せのあたりまで行くと、ボーイが恭しく出迎えて、いらっしゃいませ、と言った。傘をたたんで傘立てに入れるのをボーイが手伝ってくれた。小暗い感じのするロビーに、人の姿はあまりなく、数人の客が所在なげに椅子に坐って、新聞を読んだり、人待ち顔に外を眺めたりしているだけだった。  内装が少し変わってはいたが、昔の雰囲気はそのままである。雨のせいもあって、どこもかしこも、うす闇の中にひっそりと閉ざされているようである。レストランとバーに通じる廊下の絨毯は、えび茶色ではなく真紅になっていた。以前よりも少し明るい感じがするのは絨毯の色のせいだろう、と郷子は思った。  思っていたほどの緊張感はなかった。十九年ぶり、と言っても、野上はずっと郷子の胸の中で生き続けてきた。一緒に肩を並べて年をとってきた。一度も連絡を取り合わなかったというのに、この空白の期間を埋め尽くしてあまりある気持ちが、自分の中にはあるような気がした。だからこそ、改まった気持ちにはならないのだろう、昨日、別れた相手とランチを共にするようにして、気軽に会いに来ることができたのだろう、と郷子は思う。  廊下を進み、レストランの入口に立って、野上の名を告げた。黒いスーツを着た中年の男が、ご案内します、と言い、先に立って歩き出した。  入口の奥の右側に個室が二部屋並んでいて、男はその、手前の部屋の白いドアをノックした。はい、と中から声がし、開かれたドアの向こうに野上の立ち姿が現れた。  やあ、と野上が言った。どうも、と郷子は言い、軽く礼をした。  黒いスーツの男が伏し目がちにドアを閉めて去って行った。さほど広くない個室に、野上と郷子は向かい合わせになって立ったまま、残された。純白のクロスが掛けられた楕円のテーブルと、二脚の椅子があった。フランス窓の向こうには、雨に濡れた木立と、咲き誇る紫陽花《あじさい》の繁みが見えた。 「変わらないね」と野上が言った。「昔のままだ」 「嘘ばっかり」 「嘘じゃないよ。ほんとだよ」 「子供はもう十四歳になるのよ」 「そんな大きな子がいるようには見えないよ。昔の郷子がそこに立ってるみたいだよ」  野上は白い麻のシャツに、若々しいキャメル色のスーツ姿で、ネクタイは締めていなかった。姿勢がいいのは昔と変わらない。小柄であることにコンプレックスを持っているようだったので、昔、野上と会うたびに郷子はヒールの低い靴をはいて行ったものだった。  やつれたまま太った、という印象で、首のあたりの幾筋もの横じわが目立っている。少し薄くなった髪の毛は染めているのか、全体が赤茶けている。日に焼けた様子もないのに、顔全体が黒っぽくくすんでいて、張りを失っているのが、彼の隠しようのない年齢を物語っている。  だが、それは野上だった。どれほど年をとっても、どれほど衰えても、かつて愛した野上はいつまでたっても、郷子にとっては同じ野上なのだった。 「ま、坐ろうよ」と野上が言った。「会えてよかった。この日が来るのを本当に楽しみにしてたんだ」  私も、と郷子が言うと、野上はおどけたように「なんだかドキドキするなあ」と言った。「初恋の人に会ってるみたいだよ」  郷子は微笑み、私も、とまた同じ言葉を繰り返した。  野上と知り合ったのは郷子が二十一の時で、野上はその頃、フリーランスでイベントプロデュースの仕事をしていた。もともとは新潟の資産家の息子で、何もしなくても食べていける恵まれた境遇にある男だった。仕事は、趣味でやっていたようなもので、彼は妻子と別居して、東京にオフィスを構え、週末だけ新潟に帰る、という生活をしていた。  そのころ郷子は高校時代の先輩の引きで、小さな劇団に入り、役者になるための勉強をしていた。劇団の公演チケットを売る際に、仲間から野上を紹介され、野上のオフィスに訪ねて行ったのが出会いだった。  食事に誘われ、酒を飲みに行き、何度か会っているうちに野上に惹かれていった。野上は、流されるようにして生きていた郷子を現実に戻し、つなぎ留め、そのうえで可愛がってくれた。  ベッドを何度、共にしたかわからないが、郷子にとって快楽など、どうでもよかった。愛の言葉もいらなかった。野上に抱きくるまれ、あやされ、可愛がられているだけでよかった。  野上は郷子と別れた後、予定していた通り、新潟に戻った。しばらくは新潟で妻子と共に暮らしていたが、二人の息子が成人して結婚した頃、再び定期的に東京に出て来るようになった。去年の暮れ、上京した際、たまたま再会した共通の知人と話していて、郷子の話題が出た。連絡先を聞き出してはみたものの、結婚して子供もいる郷子に電話をかける決心がつかず、しばらくそのままにしていた。先月になって、やっと覚悟を決め、おそるおそる電話をしてみた、というのが、今回の再会のいきさつだった。 「結婚はいつしたの?」  席について、若いウェイターに飲物のオーダーをした後、野上はテーブルの上で手を組みながらそう聞いてきた。シャツの間から覗いて見える手首には、ロレックスの腕時計がはめられていた。 「婚姻届けを出したのは、二十八の時だったかな」 「郷子にしてみれば早かったね。もっと遊んで、三十も半ば近くなってから結婚するんだろうとばっかり思ってた」 「妊娠しちゃったのよ。つまり、�出来ちゃった婚�」 「郷子らしいね」 「でも私、結婚したかったの。言っとくけど、そのためにわざと妊娠したんじゃないのよ。妊娠したのはほんとに偶然だったんだけど、結婚はまじめに考えてたから、ちょうどいいかな、と思って」 「ご主人は幾つ?」 「私よりも九つ年上だから、今、五十一かな」 「ずいぶん年上なんだね」 「あなたほどじゃないわ」  野上は鷹揚に微笑み返した。「お子さんは女の子?」 「ええ。この春、中学二年になったとこ。私と同じで勉強はさっぱりだけど、スポーツ大好き少女でね。今はテニス部に入ってるわ。成績を上げたら、携帯を買ってあげる、って約束してみたんだけど、ほんとに成績上げちゃってね、びっくりよ。約束だから、仕方なく買ってやったの。成績を上げさせるためには、物量作戦でいけばいい、ってことがよくわかった」  野上は楽しそうに笑った。笑うと、大きな目が糸のように細くなり、目尻に深い皺が刻まれた。 「ご両親は元気?」 「母は元気よ。幾つになったんだろう。七十かな。相変わらずよ。でもね、父は亡くなったの」  そう、と野上は言った。「確か、お母さんよりも少し年下だったよね」 「二つか三つね。でも、亡くなったのはずいぶん前よ。私があなたと別れて少したってから。たちの悪い悪性腫瘍だったの。だから、気がついた時は遅くって、あっという間」  知らなかった、と野上は言い、瞬きを繰り返しながら郷子を見つめた。「お幾つで?」 「五十二だったと思う」 「若すぎたね」  ドアにノックの音がし、ウェイターが飲物を持って来た。キール・ロワイヤルの入った細長いグラスが、野上と郷子の前にそれぞれ置かれた。会話が途切れ、ウェイターが出て行ってしまうと、窓の外で降りしきる雨の音が室内を包んだ。静かに噴き上げている噴水の音のようだった。 「再会を祝して」と野上はグラスを手に取った。「会えてよかったよ。会いたかった。ほんとだよ」  何か気のきいたことを言おうとしたのだが、思いつかなかった。郷子はうなずき、黙って微笑み、グラスを掲げてみせた。  喫茶店を経営していた母は、父に対して冷淡だった。本当は冷淡だったのではなく、あれもまた、母なりの甘えだったのかもしれない、と今は思うが、郷子が若かった頃は、単に冷たい態度だとしか思えなかった。  母はその年代の女にしては背が高く、彫りも深くて、目が西洋人のように大きかった。ガイジンと間違われたことが何度もある、というのが母の口癖だった。自慢げな口ぶりだった。  への字に結ばれた唇には、縦の線が刻まれていた。あまり笑わなかった。いつも不機嫌そうな、不満げな口調で話した。口の中いっぱいに棒きれが詰まっていて、話すたびにそれがぽきぽきと折れていく音が聞こえるような話し方だった。  母は父に対して、妻らしい態度を取ったことがなかった。優しい言葉をかけたことがなかった。店の仕事の大半を父に押しつけて、自分は昼間からパチンコに行ったり、仲間と踊りの稽古に励んだりした。父が風邪をひいて寝こむと、咳きこむ音がうるさい、鼻をかむ音を聞きたくない、と言って寝室を別にした。  郷子のための食事は手を抜かなかったが、母が父のために、あえて食事を作ってやることはめったになかった。一人で深夜、台所のガス台に向かい、残り御飯にわかしたばかりの湯をかけて、お茶漬けをすすっていた父の、半纏《はんてん》をまとった後ろ姿を郷子はよく覚えている。  売上げが落ちると、母は父のせいにした。店は母の店、母が所有している店だった。父はそこの従業員のようなものだった。  気が弱かった父は、母の言いなりで、いつだって母の機嫌をそこねないよう気をつかい、ぺこぺこしていた。外で遊んで酔って帰って来ると、母は「ああ、いやだ。このうちは辛気臭くていやになる」と大声を張り上げた。父はいやな顔もせずに、終始、弱々しく笑っていた。  かつて、郷子がそんな両親の話を打ち明けた時、野上はしたり顔をして、「それで少し謎がとけたような気がするな」と言った。「郷子はお父さんが大好きなんだね。お母さんに強いことが言えなくて、いつもお母さんに遠慮して生きているお父さんの悲しみがわかるんだよ。だから、きみは不特定多数の男と、平気で寝るのかもしれないな。きみが関わってるのはさ、男じゃなくて、お父さんなんだよ、きっと」 「気持ちの悪いこと言わないで。私が父と寝たいと思ってる、ってわけ?」 「違うよ」と野上は言った。「深層心理の話をしてるんだ。心の奥底で父親がかわいそうだ、かわいそうだ、って思ってきたからこそ、きみはきみとセックスしたがる男たちを簡単に受け入れてやれる人間になったんだよ。郷子にとって、男という生き物は全員、イコール父親なんだ。かわいそうな父親なんだ。あんまりかわいそうだから、せめて自分が慰めてやらなくちゃ、と思って受け入れる。相手を選ばない。誰だっていいんだ。だって、きみに迫ってくる男は全員、きみから見れば、かわいそうな�父親�なんだから。そして、受け入れてやることによって、きみは自分の本物の父親を救ったような気分になれる。……多分、そういうメカニズムになってるんだろうと思うけどね」  わかったようでわからない話だった。当たっているような気もしたし、まるで見当はずれのような気もした。第一、私は男とセックスしようとする時に父のことなど、これっぽっちも考えない、と郷子は思った。だが、頭のいい野上が言うのだから、そうなのかもしれなかった。  ランチのコースが運ばれてきた。前菜の小さなフォアグラのソテーを食べながら、野上は夫について質問してきた。仕事は何をしているの、と聞かれ、通信販売専門の化粧品会社をやっている、と答えた。でも、全然、金持ちなんかじゃないから、とつけ加えた。本当だった。 「不況だから大変なのよ。私も経理の仕事、手伝ってるし、人件費を節約してるから、いろんな雑用も引き受けなくちゃいけないの。結婚したての頃は、バブル真っ盛りだったからよかったけど、今はもうだめ。うかうかしてたら、うちもつぶれるね、っていつも言ってる」 「そのわりには心配事なんか、なんにもないような顔をしてるよ」 「昔っからそうだったでしょう?」郷子はフォアグラに添えられたやわらかい蕪《かぶ》を、フォークでおさえながら小さく切った。野上はそんな郷子を目を細めたまま、じっと見ている。「いつもあなたに言われてたじゃない。きみは悩み事なんかなんにもない顔をして、死ぬほど退屈そうに見える時がある、って。だから、男に言い寄られるんだ、って」 「今も?」  郷子はふと目を上げ、「今って?」と聞き返した。 「結婚して子供を生んでからも? 昔と変わらない生き方、してるの? ご亭主の他に男がたくさんいるの?」野上はいたずらっぽく笑った。 「まさか」と郷子は短く笑い返した。「昔と同じだったら困るでしょ? これでも人の子の親なんだし。こんな年になっちゃったし。主人の会社は不安定だし。生活していくことだけで精一杯だし」  頭の中を宅配便の男のことがよぎった。男に押し倒された時、頬に感じた冷たいリノリウムの床の感触が思い出された。あれは何だったんだろう、と思った。あれも、野上が言うように、かわいそうな父親を慰めるような気持ちがあって、したことだったのだろうか。  宅配便の男は、あれ以来、来なくなった。たまたま担当が替わる時期で、あの直後に別の地区に配属されたのか、それとも、あのことがきっかけで、郷子と顔を合わせるのが気まずくなり、自ら会社に申し出て担当地区を変えてもらったのか……そのあたりの事情はわからなかった。  新しく来た男は、小柄で小太りの中年男だった。郷子が「あら、前の人は?」とさりげなく訊ねると、前って、津田のことですか、と聞き返してきた。あの男が、津田、という名前であることは初めて知った。  津田は別の地区に替わったと思うけど、どうだったかな、と新しく来た男は言った。この間、入ったばっかりなもんで、あんまり詳しいこと、わからなくて……。  津田、津田、と男の名前を胸の中で繰り返してみた。新聞の三面記事の中に見る名前のように、縁のない、徹底して自分とは無関係な、生涯、すれ違うことすらない人の名のように感じられた。  野上はあまり食べない。フォアグラにほんのひと口ふた口、手をつけただけで、ブルゴーニュ産の赤ワインばかりを飲み続けている。郷子と目が合うと、微笑みかけてくる。好々爺《こうこうや》のように、すべてを受け入れようとする笑み……或る意味では無責任きわまりない笑みでもある。だが、郷子にはその笑みが懐かしい。  ウェイターが二人やって来て、一人が前菜の皿を下げ、もう一人がメインディッシュの皿を並べ始めた。これは何、と野上がウェイターに聞いた。駿河産の天然真鯛のソテーでございます、とウェイターが答えた。かかっているソースはスモークしたマッシュルームのソースでございまして、こちらはシャルドネライトの……。  ありがとう、よくわかった、と野上は言い、長く続きそうなウェイターの説明をにこやかに遮った。  窓の外では、まだ雨が降り続いている。レストランの個室は適度に冷房が効いていて、心地よい。昼間から飲むワインはまわりが早く、郷子は少し、ぼんやりする。  ぼんやりしながら、ひと晩に三人の男と寝た時のことを思い返した。二人ではない。三人だ。まるで娼婦だった。娼婦のようなことをしているのに、娼婦のような気持ちのささくれが何もないのが不思議だった。  一人は劇団所属の役者。もう一人はフリーランスで演劇関係の雑誌社に出入りしていた男。残る一人は大学生だった。役者とライターは郷子よりも少し年上だったが、大学生は郷子と同い年の、親から多額の仕送りを受けて都内のマンションに暮らしている金持ちの息子だった。  どの男とも、それなりの愛を交わし合った。終われば、おやすみのキスをし合って、にこやかに別れた。誰も郷子を深追いしなかったし、郷子もまた、同じだった。  どうやれば、そんなことができるんだろう、とあの晩、野上に聞かれた。正直に打ち明けた時のことだ。 「どうやれば、って?」 「つまり……その……同じ部屋で三人と時間差をつけて会ったわけじゃないんだろう? 別々の場所で会ったんだろう?」 「そうよ」 「じゃあ、一回一回、シャワーを浴びて、服を着て、次の場所に向かった、ってこと?」 「ええ。お化粧もし直して、身だしなみ整えて、タクシー使って行ったの」 「疲れない?」 「私、まだ若いもの。平気」 「どうして、そのうちの一人を選んで、他の二人は別の日に替えてもらおうとしなかったのか、僕にはわからないけどね」 「断れないわ。だって約束してたんだから」 「約束を替えてもらえばいいことじゃないか」 「会うの、楽しみにしてるよ、って言われたら、断れない。断ったりしたら、せっかくの人の楽しみを壊すことになる」  野上は呆れたように唸り声をあげた。「どうしてもその三人と、その晩にセックスしなければならない理由があったんだとしたら別だよ。でも、ふつうはそんなこと、考えられない。セックスなんて、いつだってできるじゃないか。翌日でも一週間後でも、まして、相手に合わせてやる必要もない」  でも、と郷子は言った。「その日、私と会ってセックスすることを楽しみにしててくれてる人に、直前になって予定変更させるのって、私、いやなのよ。たまたま、三人の予定がその晩になってしまっただけなんだもの。私がそれに合わせてあげられれば、いいわけでしょう?」  野上は黙っていた。郷子は精神の冷感症なのかもしれない、と言われたのはその時だった。  違う、と郷子は今、はっきりそのことを否定できる。精神の冷感症なのではない。自分の中には、別の生き物が寄生しているのだ。その生き物が宿主をさしおいて、喋ったり、動いたり、感じたりするのである。三人の男との約束を守らせ、一人と終われば、情事の痕跡をシャワーで消して、次に向かわせるのである。  そこに感情は何もない。義務感も、計算も、羞じらいも、嫌悪も後悔も何もないまま、寄生している生き物が、飄々《ひようひよう》と涼しい顔をして宿主を動かしていくだけなのだ。ついさっき、地下鉄の構内で見かけた若い女たちと同じように。  真鯛のソテーを食べ始める。淡白な味で、おいしいのかそうでないのか、よくわからない。炊きたての御飯を塩でむすんだおむすびが食べたい、と郷子は思う。綾香は今日、何時頃、帰って来るだろう。部活のない日だから、早めに帰って来るはずで、帰ったら食べられるように、とカップ麺をダイニングの食卓の上に載せておいた。  そんなものばっかり食べさせてちゃ、身体に悪い、と夫は言うが、仕方がない。綾香は母親手作りのものよりも、カップ麺のほうが好きなのだ。 「十九年か」と野上が言った。相変わらず、皿の中の真鯛に手をつけていない。ずいぶんワインを飲んでいるはずなのだが、顔色に変化はない。かえって青黒くなっていくようである。「十九年なんて、考えてみたらあっという間だったね。時間は煙のように消えていって、思い出だけが残される」 「ほんとね」と郷子はしみじみうなずき、ワインを口に含んだ。「でも、みんなそうなのよ、きっと。みんな平等に年をとっていくし、いつまでも若くないし、平等におじいさん、おばあさんになって、お迎えが来て、あっちの世界に行くんだわ」 「郷子がそういうことを言うと、なんだか年をとることも、楽しいことのように聞こえてくるから可笑しいね」  郷子は微笑みながらうなずいた。「どんな十九年だった?」 「可もなく、不可もなし、ってとこかな。息子たちはわりと早く結婚してね、すぐ子供ができたから、僕が孫をもつジジイになるのも早かった。とはいっても、東京での仕事も再開してたから、しょっちゅう、こっちに来てたし、けっこう、なんだかんだと忙しかったよ」 「仕事は何? 前と同じ仕事?」 「うん。似たようなものだよ。といっても、演劇やコンサート関係のイベント屋じゃなくて、今やってるのは、アート関係。死んだ親父が骨董に詳しかったものだから、老境にさしかかって、そっちのほうもやってみようと思ってさ」 「骨董のイベント?」 「早く言えば骨董関係の展示会のプロデュースだよ。最近ではけっこう、若い連中の中にも詳しいやつがいたりするから、なかなか面白くてね。まあ、地味と言えば地味だけど」  そう、と郷子は言った。真鯛のソテーはあらかた食べ終わってしまった。食べた気がしない味で、そのわりには重たいような満腹感がある。ひと晩で三人の男と寝た時もこうだっただろうか、と思い返そうとしたが、何も思い出せない。性交した、ということだけしか覚えておらず、それぞれの男の性器はもちろんのこと、愛撫の仕方、囁かれたことなど、何もかもが霧にまかれていて、ひとつも現実感が伴わない。 「食べないのね」と郷子は野上の前の皿を指さして言った。「飲んでばっかり。昔より飲むようになった?」 「かもしれないね。あんまり食べないんだ、最近。というか、食べることに欲望がなくなった」 「どこか悪いの?」 「ちょっとね、糖が出てる、って言われてる。でも大したことはないよ。この年になれば、誰だって持病の一つや二つ、持ってるのがふつうなんだから」 「治療、受けてるんでしょ?」 「まあね。郷子は? 身体のほうはどうなの? 見たところ、健康そうだけど」 「主人のね、会社のほうで健康診断、年に一度受けてるけど、今のところはまだ異常なし。でも、その健康診断、あやしいのよ。形ばっかり。去年だったか、社員が一人、クモ膜下出血で急死したんだけど、健康診断では異常なし、だったのよ」 「クモ膜下は健康診断だけでは判断しにくいよ」 「そうなんだろうけど、なんだか納得いかない、って主人が言ってた」 「郷子が、主人、って言うの、なんか不思議な感じがするね」 「おかしい?」 「いや、似合うよ」  ドアにまたノックの音があり、ウェイターが入って来た。野上は皿を示し、「すまないね。とてもおいしかったんだけど、美女を前にしていると胸がいっぱいで食べられない。下げていいよ」と言った。  ウェイターは、かしこまりました、と言い、手慣れた仕草で野上の皿を下げた。この人は私たちのことをどう思っているだろう、と郷子は思った。給仕の合間に、会話のはしばしを耳にしているはずだった。旧知の間柄であることはわかっても、今はもう若くないこの男と、この女とが、かつて週に一度、ホテルで会って、相手が服を身につけているのを見るよりも、裸でいるのを見ているほうが長いような時間の過ごし方をしていたことを想像できるだろうか。そして、この女が、ひと晩に三人の男と寝たことを平気で打ち明けるような女で、結婚してからも、ちょくちょく浮気をし、つい二か月前も、宅配便の男とダイニングのリノリウムが敷きつめられた冷たい床で、性交したことを少しでも思い描くことができるだろうか。  デザートが運ばれてきた。温かいチョコレートケーキとエスプレッソのアイスクリームでございます、とウェイターが説明した。白い大きな皿には、レッドベリーソースか何かで、繊細な模様が描かれていた。  自分と野上はまた、寝ることになるのだろうか、と郷子は考えた。そうはならないような気がした。そんなことよりも、また野上に会いたいと、思った。会って、こんなふうに食事をして、いつでもいい、いつか、自分の中に寄生している別の生き物の話を聞いてもらいたかった。  但し、宅配便の男と寝た話はしない。するつもりもない。宅配便の男だけではなく、結婚してからこれまでに性交した男の話も一切、しない。ただ、野上に可愛がられながら、ぼんやりと自分が考えていることを聞いてもらえれば、それでいい。 「いつか郷子とヨーロッパをまわりたいね」野上がいった。「一か月……いや、二か月くらいかけて、レンタカー借りてさ。端から端までまわるんだ。気にいった土地があったら、しばらく滞在して。海辺の街に行ったり、地中海をクルージングしたり、標高の高いところまで足を伸ばしたり。古城をホテルに使ってるようなところに泊まって、うまいものを食べて、うまいワインを飲んで、ずっと一緒にいるんだ」  郷子は真顔でうなずく。決して現実化できない夢の話をするのは、若い頃から嫌いではなかった。なまじ、現実化できそうなことを話して、どうやればそうなれるか、と具体的な方法を講じようとするよりも、どうひっくり返っても絶対にできるわけもないような話をして、どんどん夢をふくらませていくほうが好きだった。  夢は夢でよかった。好きな男と夢を語っていると、なんだか身も心も洗われていくような気がする。  野上が着ていたジャケットの内ポケットで、マナーモードにした携帯が震え出したらしい。野上は「ちょっと失礼」と言って携帯を取り出し、着信のディスプレイにちらりと目を走らせた。  仕事関係の人間からの電話だったようで、野上は「え? そうなんですか」と、さも煩わしそうに聞き返した。「今日だったの? 確か、この間の話では、まだはっきり決まってない、って言ってたはずじゃ……。弱ったな。僕は今、ちょっと外せない会食に出てるところで、すぐに、と言われても……。いや、それはそちらの都合でしょう? 聞いてないことは聞いてないんだから、いきなり言われても……」  郷子はショルダーバッグを手に、そっと立ち上がった。化粧室に行ってくる、と言うつもりでドアの外を指さし、会話を続けている野上を背に、部屋から出た。  化粧室は店の外になっている。真紅の絨毯の上を郷子は歩く。ワインの酔いのせいで、絨毯の赤がうるんで見える。  廊下には誰もいなかったが、化粧室に入ると、女が二人、鏡に向かって化粧直しをしていた。二人とも五十くらいで、めかしこんでいる。このホテルで、何かのパーティーがあったのか、それとも、何かの会合にこれから出ようとしているのか。結婚披露宴の帰り、とも思われない。一人はひと目でシャネルとわかる、短めの丈のピンク色のジャケットスーツを着ている。もう一人は、淡い紫色の、胸が大きく開いたブラウスに白っぽいバギーパンツをはいている。  郷子が用を足し終え、手を洗い始めても女たちはまだ、鏡に向かっていた。郷子は女たちと並んで、バッグから化粧ポーチを取り出した。  だからね、言ってやったのよ、私、とシャネルが口を「O」の字に開けて、オレンジ色の口紅を塗りながら言っている。なんのために税金払ってんのか、知ってんの、って。こう言っちゃなんだけど、面倒みきれない老人を、そこまで頑張って、共倒れすることもないでしょう、って。夜中に数えきれないくらい、起こされるんですってよ。呼ばれてるのがすぐわかるように、おばあちゃんの手に紐を握らせて、その紐を長く延ばして、鈴をたくさんつけてるんですって。いわば、ナースコールよね。おばあちゃん、その紐を何度も引くわけよ。何事か、って思うじゃない。で、行ってみると、おしっこだったり、喉かわいた、だったり、最悪の時は、あんたら私を殺そうとしてるね、なんて言い出して、なだめてもきかないんだって。  わかるわかる、とバギーパンツがうなずく。うちの実家の父も亡くなる前、そうだったもの。寂しいのよ。でもさ、こっちは一日二十四時間、老人のことばかり考えてられないじゃない。自分の時間もほしいしね。父なんか、汚い話だけど、わざとウンチをもらして、パンツを汚して、もらしたもらした、って大声あげて、母の注意を引こうとしてきたこともあるわ。  やだやだ、年はとりたくない、とシャネルは言い、その後で、ねえ、この口紅、ちょっといいのよ、ぷるんとするの、唇が、と言った。どれどれ、とバギーパンツがシャネルの顔を覗きこみ、ほんとだ、と言って何が可笑しいのか、大声で笑った。  郷子は簡単に化粧直しをしてから、化粧室を出た。女たちはまだ、鏡に向かっている。  レストランに向かって歩きながら、自分はこれからも、宅配便の男と寝るのだろうか、と思った。たまに行くカラオケボックスの店長と飲みに行って、誘われるままに寝るのだろうか。夫の会社の営業担当の男と寝るのだろうか。  カラオケボックスの店長とは二回きりだったが、寝たことがある。店長は妻と別居していて、六本木の近くにワンルームマンションを借りていた。性交したのは、二度とも、その部屋だった。営業担当の男とは、綾香が小学校に入った頃のことだったが、一度だけ、仕事がらみで一緒に車で遠出して、帰りにモーテルに入ったことがある。男は今も、夫の会社に勤めていて、時々、顔を合わせる。互いにうしろめたいことなど何もない、という顔をして、よく子供の話をし合っている。男にも、綾香と同じ年の女の子がいるからである。  でも、そんなことはどうだっていい、と郷子は思う。本当にもう、どうだっていい。  自分に寄生している別の生き物はいつかくたびれて、元気をなくし、やがて死んでいくだろう。宿主よりも先に死ぬのは間違いない。先に死んでくれれば、宿主だけが残されて、そうしたら、私は生まれて初めて、私に戻ることができる。  その時こそ、もう一度だけ、野上に抱かれたい、抱いてほしい、と郷子は思った。  個室のドアを開けた。野上は電話を終えて、食後の葉巻を吸い始めている。室内に葉巻の香りが漂っている。  野上が郷子を見て、やわらかく微笑んだ。郷子もまた、微笑み返した。 「何か急用だったんじゃない?」 「いや、大丈夫。あとでちょっと寄ればいいだけにしてもらった。なに、むこうが連絡してこなかったのがいけないんだから、いいんだよ。郷子は? まだ平気?」 「うん。あと一時間くらいなら。ねえ、少し外、歩こうか」  言ってから、少し後悔した。もう少し低いヒールの靴をはいてくればよかった。野上と並んだら、自分の背のほうが高くなってしまうかもしれない。十九年前までは、そういうことにも神経をつかっていたのに。これから野上と会う時は気をつけよう。  野上は葉巻を消しながら、弾んだ声で「いいね。そうしよう」と言った。  窓の外が少し明るい。  雨はあがったようである。 [#改ページ]   文庫版あとがきにかえて  二〇〇〇年秋から二〇〇三年夏にかけて『オール讀物』に発表した短編六本が、二〇〇四年一月に単行本化され、本書はその文庫版である。  こうして改めて読み返してみると、あの日あの時の作者の心の内を、見えない風のように吹き過ぎていった何か(それは、作者個人の私生活に関することだったり、文体や作風へのこだわりや嗜好の変化だったりする)が、それぞれの作品にささやかながら、投影されているのがわかる。ページのそちこちに、自身の精神の流れを見るような思いがする。  さて、文芸誌に発表する短編小説には、厳格な締め切り日が与えられる。今回はもう、書くことが何もない、空っぽになってしまった……と焦っている間にも、刻々と締め切り日は迫ってくる。  そんな時に、文学的企みなどという悠長なことは言っていられない。とにかく時間がないのだから、書き始めるしかないのだが、その場合、自分の中に蜉蝣《かげろう》のようになって浮かび上がってくる、おぼろげなイメージだけが頼みの綱となる。それこそが、小説の突破口を開く契機になってくれるからである。  本書の表題作になっている「雪ひらく」を書いた時が、まさにそれだった。  軽井沢の厳寒期。夜ともなれば、氷点下十五度になることも稀ではない。その日、路面には、昼の間に降り積もった雪が轍《わだち》を作り、凍りついていた。  夜間、所用があって車高の高いRV車を運転していたのだが、ふと、フロントガラスに吹きつけてくる雪が、ある一定のリズムを伴ってヘッドライトに映し出されているのを意識した。まさに無限に連なる雪のカーテンが、次から次へと開かれていくような感覚にとらわれたのである。  あたりには街灯も家の灯も何もない。自分が運転する車のヘッドライトの明かりだけが、闇に降りしきる雪をかきわけていく。雪のカーテンがどんどん開いていく。そして自分はその奥へ奥へと、闇の彼方へと、妙に勇ましく、気負ったように突き進んでいこうとしている……。  よし、これだ、と思った。そしてそれが一編の小説になった。  しかし、それにしても、私は添い遂げることのできない男と女の話ばかりを書いているな、と改めて思う。何故、不倫を描くのですか、どうしてふつうの恋愛を描かないんですか、と読者から質問されることもたびたびある。  言わずもがな、であるが、意識して「不倫」を書いているわけではない。そもそも不倫という言い方は好まない。気がつけば、男と女の叶わぬ夢を書いているにすぎないのだが、きっと私は、男女のそうしたかかわりを描くことによって、人生の不条理、わからない部分をこそ、なんとかして表現したいと試みているのだろう。  実際、人生はよくわからない。いい年をして、わからないことが若かった頃よりも増えてきた感すらある。  学んでも、体験しても、考えても、それでもなお、わからない。かろうじてわかったかなと思うと、もう次の「わからない」が始まっている。まったく手に負えない。  わからないから小説を書く。そして書けば書くほど、なお、わからなくなっていく。  それにしても、すべてがわかりきって清々しく、隅々まで見渡せる人生を送っている人が、いったいどこにいるだろう。だからこそ小説は、時として、人の気持ちを大きく揺り動かすのかもしれない。  本書が、読者の気持ちの中に、少しでも寄り添ってくれることを願って。 [#1字下げ]二〇〇七年一月 [#地付き]小池真理子   初出誌(すべて「オール讀物」)      おき火 二〇〇〇年十月号      最後の男 二〇〇一年二月号      仄暗い部屋 二〇〇一年十月号      雪ひらく 二〇〇二年二月号      場所 二〇〇三年二月号      パラサイト 二〇〇三年八月号  単行本 二〇〇四年一月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十九年三月十日刊