柩《ひつぎ》の中の猫 小池真理子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)猫《ねこ》の鳴く声がした。 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)大の動物|嫌《ぎら》いだった。 -------------------------------------------------------  どこかでひとしきり、猫《ねこ》の鳴く声がした。  由紀子は洗い物の手を休めて、台所の窓から外を覗《のぞ》いた。裏庭の、枝ぶりのあまりよくない桜の木の下に、一匹の薄汚れた猫が座っているのが見えた。舞い落ちる桜の花びらの中で、猫は由紀子を見上げ、澄んだ声でひと声高く鳴いた。  このへんでは見かけない、大人の猫だった。長い間、外をうろついていたらしく、全身が灰褐色《はいかっしょく》に汚れている。耳の後ろの毛には乾いた泥《どろ》がこびりつき、ごわごわの毛玉となってぶら下がっていた。 「お腹《なか》がすいてるの?」由紀子は窓越しに声をかけた。春の日差しの中で、猫は大きな青みがかった目を瞬《またた》かせ、大きな欠伸《あくび》をひとつした。  冷蔵庫から牛乳のパックを取り出し、小皿に注《つ》いで、そっと勝手口のドアを開けた。この家の主人である針生《はりう》雅代が、猫好きであるかどうかはわからなかった。パートタイムで雅代の身のまわりの世話をする仕事を始めてから、丸五年。雅代と猫の話などしたことは一度もない。第一、雅代はいつもアトリエにこもっていたから、およそ世間話らしい話は交わしたこともなかった。  もしこんなところを先生に見られたら、叱《しか》られるかもしれない。由紀子はびくびくしながら、家の奥に耳をすませた。だが、アトリエは静かで、雅代が出てくる気配はなかった。  牛乳の入った小皿を猫の前に置いてやると、猫はしばし、ためらいがちに小皿の匂《にお》いを嗅《か》ぎ、やがて猛烈な勢いで中のものを飲み始めた。どこもかしこも汚れてはいたが、健康そうで、毛艶《けづや》は悪くない猫だった。それに、さほど痩《や》せ細っているというわけではない。シャンプーして首にリボンでも巻いてやれば、このあたりを闊歩《かっぽ》する飼い猫に負けず劣らず、見栄《みば》えのする猫になるかもしれなかった。  牛乳を最後の一滴まで飲み終えてしまうと、猫はしきりと口のまわりを舐《な》め回し、次に何がもらえるのか、確かめるように由紀子を見上げて小首を傾《かし》げた。まるで、フルコース料理の最初に出てくるスープを飲み終えた時のような顔つきだった。  由紀子は苦笑しながら、再び台所に戻った。冷蔵庫を開け、ハムを一枚取り出し、少し考えてから、煮干しの缶《かん》を抱えて外に出た。楽しい気分だった。昔から、野良猫《のらねこ》や野良犬を見つけると、放《ほう》っておけないたちだった。中学の時、車にはねられた血だらけの野良猫を獣医に運び込み、命を救ってやったこともある。  由紀子はエプロンをたくしあげ、猫の前に中腰になると、ハムを細かくちぎってやった。猫はまたたくまにハムをたいらげ、次に煮干しの缶をめざとく見つけて、喉《のど》の奥で小さく鳴いた。  煮干しの缶を開け、五、六匹の煮干しを取り出して小皿に盛った。猫はぴちゃぴちゃと舌を鳴らして、うまそうにそれを食べ始めた。長く形のいい尾がぴんと立ち、リズムを刻むメトロノームか何かのように、左右に正しく揺れ続けた。  飼ってやれないのが残念だった。結婚したばかりの夫と二人で暮らすアパートでは、ペットを飼うことは禁止されている。それに、地元の小さな写真店に勤める夫は、大の動物|嫌《ぎら》いだった。  かといって、一人暮らしを続ける針生雅代が、この汚い猫を飼ってくれるとは思えなかった。雅代はまだ五十四だというのに足のリウマチが悪化して、アトリエを動きまわることすら難しくなっている。猫を飼ってやってください、などと言おうものなら、冷やかな目で一瞥《いちべつ》されるに決まっていた。  由紀子は猫の背中を軽く撫《な》でてやった。その汚れた背に、桜の花びらが、はらはらと間断なく舞い落ちた。風にのって、かすかに潮の匂いが漂ってくる。まどろむような暖かい午後だった。このまま、この汚れきった野良猫と桜の木の下で居眠りができたら、どんなに気持ちがいいだろう。そう思いながら、由紀子は欠伸をかみころした。 「どうかしたの、由紀子さん」  背後で突然、声がした。はっとして立ち上がった途端、由紀子の膝《ひざ》から煮干しの缶が音をたてて地面に転がった。猫はびくっと身体《からだ》を硬くし、後ずさりした。  針生雅代が勝手口に立ち、こちらを窺《うかが》っていた。足が痛むのか、キルティングのロングスカートの上から、しきりと右の腿《もも》のあたりを撫でさすっている。 「なんでもありません」由紀子は、その必要もないのにエプロンの埃《ほこり》を払うふりをし、煮干しの缶を拾い上げた。「猫がいたんで……すぐに追い出しますから」  雅代は黙っていた。野良猫にむやみと餌《えさ》を与えるのはよくない、そのうち猫に居つかれて、気がついたら縁の下は子猫だらけになるんだから……不機嫌《ふきげん》そうな口調でそうした言葉を投げつけられるものとばかり思った由紀子は、空になった小皿をつまみ上げ、大急ぎでそれをエプロンのポケットに押し込んだ。 「野良猫なのね」雅代は首を伸ばして勝手口の外を見た。  汚い猫です、と由紀子は言い、勝手口に戻った。「泥だらけで……雨に濡《ぬ》れながら歩いてたんじゃないでしょうか。すみません。今すぐ洗いものを片づけてしまいますので」  雅代はしばらくの間、じっと猫を見つめていたが、やがてぽつりと言った。「コンビーフの缶詰があったわね」 「は?」 「洗いものは後でもいいから、コンビーフの缶詰を開けておやりなさいよ」 「あの……先生……」 「かわいそうに」と雅代は言い、目を細めて裏庭にいる猫を見下ろした。猫は雅代を見上げ、座布団《ざぶとん》の上で正座しなおす客のようにかしこまって、きちんと座り直した。 「由紀子さん、あなた、猫を洗ってやることができる?」 「洗う?」  雅代はうなずいた。「コンビーフを食べさせたら、洗ってやりなさい。お風呂場《ふろば》を使ってかまわないから」  由紀子は目を輝かせた。「先生、飼ってもよろしいんですか」 「そうは言ってないわよ」雅代は短く笑い、不自由な右足をひきずって台所を横切ろうとした。「生きものはもうたくさん。でも、汚れてお腹をすかせている生きものを見ているのはもっと辛《つら》いの。洗って乾かしてやったら、それでさよならよ。きれいな猫だったら、誰かに拾われるかもしれないわ」  そうですね、と由紀子は言い、まるで会話の内容が理解できるかのようにじっと座っている猫に目をやった。洗ってやるくらいだったら、飼ってやればいいのに、とちらりと思ったが、それは口に出さなかった。  猫を洗うのは慣れていた。実家では祖母が猫好きで、しょっ中、捨て猫を拾ってきては世話をしてやっていた。猫は放っておくと、すぐに蚤《のみ》だらけになる。蚤とりシャンプーで猫たちをこまめに洗ってやるのは、由紀子の役割だった。  中には腕や顔をしこたま引っ掻《か》いてくる凶暴な猫もいたが、それでも、洗いあがったばかりの情けない姿を見れば、引っ掻かれた恨みは消えた。ずぶ濡れになった猫が、日なたで毛を舐めて乾かし、たちまちリンス仕立ての洗濯物《せんたくもの》のようにふわふわとした毛を見せてくれるのも楽しかった。  由紀子はコンビーフの缶詰を開けて猫に与え、猫がそれを食べ終えてしまうと、そっと抱き上げてみた。暴れて逃げ出されるか、と思ったが、猫は思いがけず、終始、おとなしかった。  風呂場に連れていき、シャワーの湯を身体中にかけてやった。猫は少し身体を固くしたが、由紀子の肌《はだ》に爪《つめ》をたてることはしなかった。  石鹸《せっけん》の泡《あわ》と共に汚れが落とされていくに従って、由紀子は目を見張った。猫の毛は真っ白だった。全身がそれこそ雪のように白く、斑《まだら》模様ひとつ、差し毛一本、見えない。乾いた泥のせいで毛玉ができていた耳の後ろの毛ですら、洗い流してみると純白だった。  由紀子は猫がメスであることを確かめてから、「シロちゃん」と呼びかけた。「どこのお嬢様だったの。こんなにきれいな毛をして」  泡を洗い落としてから、タオルで手早く拭《ふ》き、ドライヤーの風をゆるくあててやった。猫はそれでもされるままになっていた。  毛が乾き、純白の雪うさぎのようになった猫を抱き上げると、由紀子はアトリエのドアの前に立った。このきれいな猫を一目、主人に見せたかった。もしかすると、あまりの美しさに目を奪われ、飼ってやってもいい、と言ってくれるかもしれない。  ドアをノックし、「先生」と声をかける。「入ってよろしいでしょうか」  お入り、と中から嗄《しわが》れた声がした。由紀子はドアノブを回し、中に入った。  雅代はいつもの回転|椅子《いす》に腰を下ろしたまま、由紀子に背を向けて、大きな窓の向こうに拡《ひろ》がる、パノラマのような海を眺《なが》めていた。海は春の午後の光を受けて、どこもかしこもキラキラと輝いており、そのたゆたう光の渦《うず》は、ガラスを通してアトリエの壁や天井にたくさんの虹色《にじいろ》の小さな輪を描いていた。  椅子の脇《わき》に、描きかけの絵が巨大なイーゼルに載せられてある。絵筆やパレットなど、油絵の道具が床に散乱していたが、相変わらず、使われた形跡はなかった。  針生雅代は、権威ある美術界の賞をいくつも受けながら、実は、伊豆にあるこの小ぢんまりとした家で日がな一日、ぼんやりと海を見ていることが多い画家だった。ごくたまに……それは年に一度あるかないかだったが……何かに取りつかれたようにしてカンバスに向かい、あっという間に大作を仕上げる。だが、それ以外は、古稀《こき》を迎えた老婆《ろうば》のように、海に日が昇り、山の端に沈んでいく様をじっとアトリエの椅子に座って眺めているだけだった。  絵が描けなくなったのは、リウマチのせいだけではなさそうだった。もともと、どこか翳《かげ》りのある、物静かな婦人だったが、ここ半年ばかりはそれが目に見えてひどくなっている。一日中、一言も口をきかないことも稀《まれ》ではなかった。おそらく精神状態がよくないのだろう、と由紀子は思っていた。五年もそばで世話をし続けてくると、その程度のことはすぐにわかるようになる。芸術に携わる人間には、多かれ少なかれ、そうした傾向があるものだ、ということは母から聞いて知っていた。とはいえ、ここ四、五日のように、三度の食事を半分以上残すようになっては、他人事《ひとごと》ながら、やはり心配になってしまう。  由紀子がアトリエの中に入っても、雅代は身動きひとつしなかった。すでに猫のことなど忘れてしまっているかのようだった。 「先生」由紀子は声をかけた。「猫が……ほら、ごらんください。こんなにきれいになりました」  雅代はゆっくりと、まるでスローモーションフィルムのように、鈍重なしぐさで椅子を回し、由紀子のほうに向き直った。長い間、海を見つめていたその目は、海の色を映し出したかのように青みがかって見えた。  由紀子は雅代によく見えるように、猫を抱え上げ、差し出してやった。雅代の目が猫をとらえ、そして、束《つか》の間《ま》、動かなくなった。  痩せ細った手が椅子の肘《ひじ》かけを握りしめた。雅代は何か固いものでも飲み込んだ後のように、何度も音をたてて唾《つば》を飲み込んだ。その目に死んだような靄《もや》がかかり、やがて靄が白内障患者のように、瞳《ひとみ》全体を白く曇らせた。  由紀子は急に不安を覚えた。子供のころ、自分の舌を飲み込んで窒息死したという老人の話を祖母から聞かされたことがある。話の真偽は定かではないが、雅代の様子は、その時聞いた老人の形相にそっくりだった。  だが、雅代の曇った目には、たちまち一条の光がさし始めた。それは、霧に被《おお》われた森の中に斜めにさし込み、霧を追い出し、金色のスポットライトで森を満たそうとする太陽の光にも似ていた。  ララ……と雅代は口の中で小さくつぶやいた。「ララ。ララじゃないの」  雅代は椅子を軋《きし》ませながら立ち上がると、由紀子の手から奪い取るように猫を抱き取った。雅代が猫の顔を包み込むと、猫は雅代の指をぺろりと舐めた。雅代は洟《はな》をすすり上げ、猫を抱きしめ、その白い背に顔を埋《うず》めた。  由紀子は雅代が泣いているのを知って、少なからず驚いた。雅代は泣くような人間ではなかった。少なくとも、人前で猫を抱きながら涙を見せるタイプの人間ではなかった。 「由紀子さん。あなた、今年で幾つになるの?」雅代は顔を上げると、猫を見つめたまま聞いた。  突然の質問に当惑しながらも、由紀子は「二十七です」と答えた。 「もう、そんなになる?」 「はい。先生のところで働かせていただくようになってからだって、もう五年にもなります。初めのころは、有名な先生のお手伝いをするなんて、あんたじゃ無理だ、って実家の母によく言われてました。ろくに家事もできやしないんだから、って。でも、なんとか五年もやってきて……」 「私が、あなたよりも若かったころの話よ」雅代はやんわりと由紀子の言葉を遮《さえぎ》った。由紀子は口を閉ざした。遠くでかすかに潮騒《しおさい》の音がした。雅代は猫の頭を撫で、小鼻を震わせながら唇《くちびる》を噛《か》んだ。 「私が……二十《はたち》になったばかりの年だったわ。この猫とそっくりの猫がいたの。ララという名前でね。小さな女の子に飼われてたわ。真っ白で、ふわふわしてて、優しくておとなしい猫だった。ちょうどこの猫みたいに。本当にそっくりよ。ララだと思ったわ。ララが生き返ったんだ、って思った。あんまりびっくりしたんで、心臓が止まるかと思った」  雅代は猫を見つめた。猫は窓越しに見える海を珍しそうに眺め、雅代の腕の中でうっとうしそうに身体をくねらせた。雅代が猫を放してやると、猫は軽々と窓辺に置かれたスツールに飛び乗り、窓の向こうの波間に揺れる夥《おびただ》しい光に向かって、じゃれつくようにニャアと小さく鳴いた。  由紀子はその日、夕食の買物に出かけなかった。やりかけの洗いものもしなかったし、洗濯物を取り入れることもしなかった。彼女は五時になってから写真店にいる夫に電話をし、少し遅くなるから、夕食は外で食べて来てほしい、と言った。夫は訝《いぶか》しげに理由を聞いてきたが、彼女は何も答えなかった。  雅代の話は終わることなく続いた。途中、台所に立ってコーヒーをいれたが、二人ともほとんど口をつけなかった。アトリエの大きな窓の向こうで日が沈み、やがて空がラベンダー色になって、群青色の海と見分けがつかなくなっていっても、二つのマグカップに注がれたコーヒーはアトリエの小テーブルにぽつねんと置かれたままだった。  雅代の話を聞き終えてから、由紀子はしばらく言葉を失い、何も喋《しゃべ》ることができなかった。長い沈黙が、二人の女の間に薄闇《うすやみ》のように拡がった。 「生涯《しょうがい》、忘れられないお話になりそうです」由紀子は言った。声が震えているのが自分でもはっきりとわかった。「何と申し上げたらいいのか……わかりません」 「何も言わないでいいの」雅代はやんわりと言った。「いつか誰かに話したかったのよ。それがあなたになるとは思わなかったけれど。ララ、こっちにおいで」  それまでスツールの上で眠りこけていた真っ白の猫は、まるで昔からその名前が自分のものであったかのように、のっそりと身体を起こすと、スツールを降り、雅代の足元に来て、ふわりと純白のドレスを拡げるようにその白い柔らかな身体を床の上に這《は》わせた。雅代は猫を抱き上げ、頬《ほお》ずりをし、疲れ果てた人がやるように、深い溜《た》め息《いき》をついた。 「もう、帰ってもいいわ。ありがとう」雅代は言った。「暗くなってしまったから、気をつけてね」  由紀子はしばらくじっとしていた。外国映画によくあるように、雅代に駆け寄ってその細い肩を抱きしめ、頬に情愛をこめたキス……言葉では表現できない気持ちを表すためのキス……をしてやりたいような衝動にかられた。だが、そんなことをしたら、気味悪く思われるかもしれなかった。 「私が先生の立場だったら」  駆け寄ってキスをする代わりに、由紀子はそう言った。雅代はちらりと由紀子を見上げた。由紀子はひと呼吸おくと、しゃっくりをする時のような途切れ途切れの声で言った。「先生と同じことをしてた……と思います」  雅代はうっすらと微笑《ほほえ》んだ。次に続く言葉を待ったが、彼女は何も言わなかった。由紀子は軽く礼をすると、白い猫と戯《たわむ》れはじめた主人を残して、アトリエを出た。  雅代のために、米をとぎ、炊飯器のスイッチを入れた。一人分の碗《わん》と箸《はし》、それに昼食の残りの煮野菜の皿などを何品か盆の上に並べた。  頭の中は、今しがた聞いたばかりの話でいっぱいだった。ふいに由紀子は自分でも信じられないほど深い情動に突き動かされ、盆の脇に両手をついたまま、声をたてずに泣き始めた。 [#改ページ] [#ここから3字下げ] 一 [#ここで字下げ終わり]  当時、川久保家は、埼玉県との県境にあたる東京板橋区のはずれにあった。  今では高層団地が軒を連ねており、その面影《おもかげ》を探そうとしても無駄《むだ》だが、あのころは建物を探すことすら一苦労するほどの、のどかな田園風景が拡《ひろ》がるところだった。最寄りの私鉄の駅を降りると、小さな商店街があったが、それも生活必需品を揃《そろ》えるのが精一杯、といった程度で、すぐその先にはどこまでも拡がる麦畠《むぎばたけ》と雑木林が続いている。住宅は、ところどころに点在している程度だった。未舗装の道と舗装された道とが交互に連なるバス道路には、さびれた停留所の標識がぽつねんと立っているだけで、あとはどこまで行っても、店一軒、見当たらない。驚くほど人口が少なく、まるで開発されていないその区域は、私が生まれ育った函館《はこだて》の街よりも田舎じみていた。  街には米軍の巨大な専用宿舎があった。戦後、日本に駐留していた米軍関係者とその家族が、街はずれの一角に居留区を設けていたのである。敷地は五十万坪、いや、それ以上あったかもしれない。背の高いフェンスで囲まれた居留区内に日本人の立入りは禁止されており、詳しいことはわからなかったが、フェンス越しにその贅沢《ぜいたく》な暮らしを垣間見《かいまみ》ることは度々あった。  無数に建ち並ぶ白いアーリーアメリカンタイプの家々。芝に被《おお》われた美しい庭。ガレージの奥に見える大型車。花壇。夏には花火が打ち上げられ、クリスマスには着飾った婦人たちが車にいっぱいの買物をして帰っては、互いに何か声高に喋《しゃべ》る風景が見られた。  アメリカ人の家族が、車を飛ばしてどこかに遊びに出かける時、堆肥《たいひ》の臭《にお》いが漂う日本的な田舎の風景は、たちまち、アメリカ映画で見たような華やかなリゾート地に早変わりした。車の中からは、ラジオの陽気な音楽が流れ、子供たちは、白いふわふわの毛をした大きな犬と共に車の窓から顔を出して、金切り声で何かわめき続けた。あるいはまた、カーキ色の軍服を着た黒人が二人、雑木林の近くに車を止め、地面にビニールを敷いて寝ころびながら、通りかかった日本人に「ハロー」などと大声で挨拶《あいさつ》してくることもあった。  同じ街に住む日本人の子供は、アメリカ人の子供に興味を持ち、アメリカ人の子供もまた、日本人の子供が道端でチャンバラごっこなどをしていると、羨《うらや》ましげに遠巻きに眺《なが》めていたものだ。だがどういうわけか、双方の親は、決して、異国の子供と遊ぶことを快しとしなかった。ごくたまに、キャンディなどをもらって、道端でにたにた笑い合っている日本人とアメリカ人の子供たちのグループを見かけることはあったが、それでも日本人は彼らを自宅に招いたりは決してしなかったし、彼らもまた、それ以上の接近を試みようとはしなかった。  深夜、外に出ると、夜空に向かって闇《やみ》を蹴散《けち》らすかのように、宿舎の明かりだけが皓々《こうこう》と黄色い光を放っていた。宿舎の一帯だけが、常に明るく、街は宿舎を中心にパノラマ状に拡がる、ただの仄暗《ほのぐら》い麦畠のようだった。宿舎以外の大地や住宅は、すべて付け足しのようにひっそりとそこにあった。  川久保の家はその宿舎のすぐ近くに建っていた。そして川久保悟郎だけが、あの地域の住人の中で唯一《ゆいいつ》、宿舎のアメリカ人と全く同じ生活を営んでいたのである。  一九五五年五月。二十歳になったばかりの私は両手いっぱいに荷物を抱えながら、N駅に降り立った。東京に来るのも初めてなら、その駅に降り立つのも初めてだった。函館で母や兄、親友のミツコ、ミツコの母親に見送られて青函《せいかん》連絡船に乗り込んでから、一カ月も二カ月もたったような気がしていた。  正直なところ、私はひどく心細かったし、内心、自分が決心して強引に進めた計画を後悔し始めてもいた。  上京し、川久保悟郎のひとり娘の家庭教師をするかたわら、絵の勉強をさせてもらう、という計画は、函館にいた時はむろん魅力のあるものだった。願ってもないチャンスだと思ったし、実際、そうだったに違いない。  話のわかる兄を味方につけ、ミツコやミツコの母親にも協力してもらって、猛反対していた母を説得し続けた。母は川久保悟郎と会って、川久保悟郎が私を住み込みの家庭教師に迎えたい、と言ってくれた後も、まだ何かと悟郎の人となりに難癖をつけ、上京することを許そうとしなかった。 「あの川久保さんって人は、遊び人だよ」というのが、母の口癖だった。「あんたはきっと、あの人に手ごめにされて、泣いて帰って来るに決まってる」  私は、もしも上京を許してくれないのだったら、家を出て、勝手に東京に行く、と宣言した。私を東京に行かせないために、見合い写真を持って来たり、面白くもないお稽古《けいこ》ごとのちらしを持って来たりしていた母も、結局、最後には根負けした形になった。  それだけ苦労して、やっとの思いで函館を出て来たというのに、N駅に着いて、迎えに来てくれた川久保悟郎の顔を見た途端、私はまた母の元に帰りたくなった。悟郎はベージュ色の小粋《こいき》なシャツを着て、私に向かってややぞんざいな口調で「やあ」と言った。  初めて大都会に出て来て、生きている世界、住んでいる世界がまったく違う人に、見知らぬ街の駅前で「やあ」などと挨拶され、心細くならない人がいたとしたら、お目にかかりたいものだ。私は旅の汚れがしみついた汗くさいブラウスを着て、両手に穴の開きかけた紙袋や古びたボストンバッグを山のように下げた、ただの田舎者に過ぎなかった。  だが、悟郎はそんな私の心細さなど関知しない、といった様子でさっさと私の荷物を車のトランクに押し込み、「さあ、乗りなさい」と言って助手席のドアを大きく開けた。私は言われた通り、黙って車に乗った。車は私が函館で見たこともなかった、小豆色をしたどっしりとした車だった。  悟郎は運転席に着くなり、「こいつはルノーっていう車だよ」と教えてくれた。「フランスの車だ。親父《おやじ》に勧められて手に入れたんだけど、色があんまり気にいらなくてね」  そうですか、と私は言った。それ以外、何を言えばいいのか、わからなかった。  車の中で、悟郎はよく喋った。連絡船では酔わなかったか、とか、上野駅で迷わなかったか、といったおざなりの質問をひと通りすませてしまうと、次に私のまるで知らない美術大学関係者の名前を次から次へと持ち出しては、冗談を言い、一人で笑い、次の日曜日には自宅でガーデンパーティーをやるから、雅代ちゃんもせいぜい楽しめばいい、などと言った。  雅代ちゃん……悟郎は初めから私を親しげにそう呼んだ。家庭教師とは名ばかりの、事実上の留守番役として雇っただけの娘をそれほど親しく呼ばなくてもよかったはずなのに、彼はまるでその呼び方が決められてでもいるかのように、そう呼んだ。ただそれだけのことだったが、私は函館の母が悟郎のことを「遊び人」だと言ったのを思い出して、ふと不安にかられた。  不安……そうだったろうか。本当に私は悟郎に不安を抱いていたのだろうか。  いや、それは不安ではなかったかもしれない。いたずらに心の襞《ひだ》を刺激してくる、毒を含んだ甘い匂《にお》いに、私は初めから身を震わせ、身構えていただけなのかもしれない。  川久保悟郎と会うのは、それが二度目だった。初めて会ったのは、その年の一月。東京の美術大学の講師をしている悟郎が、所用で札幌《さっぽろ》に来た時のことである。  紹介役として、わざわざ函館から札幌まで同行してくれたのは、小学校時代からの親友のミツコと、その母親だった。私の母も一緒だった。  悟郎はミツコの母親の甥《おい》にあたる。どうしても東京に出て、絵の勉強がしたい、絵の勉強ができるなら、掃除婦でも女給でもなんでもする、と言い張り、高校のころから母や兄を困らせていた私に、川久保家の事情をこっそり教えてくれたのは、他ならぬミツコの母親だった。川久保悟郎が二年前に妻を亡《な》くし、八つになる一人娘の世話をしてくれる人間がいなくて困っている、今は中年の家政婦が通いで来て、食事の世話などをしてくれているが、どこの馬の骨かもわからない人間に娘を預けるのは、どうしても気が進まない、できれば身元がはっきりした、信頼できる人間に住み込みで来てもらいたいと思っている……というのである。  もしも雅代ちゃんにその気があるのなら、これを機会に上京してみてはどうかしら、とミツコの母親は言った。川久保悟郎の父親、即《すなわ》ち、ミツコの母の兄にあたる人は、戦前からフランスに渡って活躍していた西洋画家の川久保幸吉だった。戦時中に一時帰国し、戦後、占領下となって渡欧することが困難になったため、しばらく東京にいたようだが、講和条約が締結された後、すぐさまパリに戻ったという。  その川久保家に残ったのが幸吉の息子の悟郎だった。川久保家に住みつくことができれば、いずれは川久保幸吉に会うこともできるかもしれない。そして自分の絵を見てもらうことができるかもしれない。私は一も二もなく、その話に飛びついた。  札幌のホテルの喫茶室で紹介された時、背広姿の悟郎はひと目私を見るなり、「よさそうな娘さんじゃないか」と言った。きれいな標準語だった。「早速だけど、二、三、質問させてもらうよ。きみは、家庭教師の経験はある?」 「ありません」と私は答えた。 「でも、小学二年生に漢字や算数を教えてやることはできるだろう?」  私は少し考えてから、「できます」と言った。そう答えたほうがいい、とあらかじめミツコからアドバイスを受けていたからだ。 「OK」と悟郎は満足げにうなずいた。「それじゃ、次の質問にいくよ。きみは料理は得意だろうか」 「悟郎ったら」とミツコの母親がたしなめた。「あなた、雅代ちゃんをお手伝い代わりにするつもり? 雅代ちゃんは、絵の勉強がしたくて、東京に行きたい、って言ってるのよ。家庭教師はいいとしても、家政婦みたいなことをやらせようだなんて、あんまり話が違いすぎるじゃないの」 「家政婦代わりにするつもりはないよ」悟郎は笑った。「家政婦にはこれまで通り、通いで来てもらえばいいんだしね。でも、今来てくれてる婆《ばあ》さんは、あまり好かないんだ。育ちの悪そうな未亡人でね。いずれ辞めてもらいたいと思ってる。だからさ、もしもここにおられるお嬢さんが、簡単な料理なんかが出来るんだったら、それに越したことはないと言いたかっただけさ」  ミツコの母親は、困惑したように私と悟郎を交互に見つめたが、しまいには苦笑したきり、黙ってしまった。  お料理、得意です、と私は言った。東京で絵の勉強ができるなら、料理でも洗濯でも庭掃除でも何でもやるつもりだった。「ねえ、母さん。私、料理ならたいてい何でもできるわよね」  ええ、まあ、と母は上目づかいに悟郎を見ながら、取ってつけたように笑った。悟郎は母の存在など意に介さない、といった調子で「そりゃあ、いいや」と言いながら、パチンと指を鳴らしてみせた。「きみは基本的に娘の家庭教師をし、僕の帰りが遅くなった時なんかに娘が怖がらないよう、そばにいてくれるだけでいい。でも、もし簡単な家事をしてくれるのなら、給金は倍にはずむ。家政婦として雇うわけじゃないんだから、気を使うことはないよ。僕はウィークデイの昼間はたいてい家にいないから、僕の家を自分の家と思ってきれいにしてくれればいい。それなら、気が楽だろう?」  私は顔を上気させながら、うなずいた。話は信じられないほど早くまとまった。悟郎はできる限り、早く上京してほしい、そのための部屋はすでに用意してあるから、と言って私を喜ばせた。  最も気になっていた絵の勉強についての話も、悟郎が「休みの日なら」という条件つきで、絵の先生を引き受けてくれることになった。それに何よりも嬉《うれ》しいことに、イーゼルと簡単な油絵の道具を一式、プレゼントする、と約束してもくれた。  その時の悟郎の印象は、陽気でスマートな都会人といった程度だった。高名な画家を父に持ち、美術大学で油絵を教えている三十歳の男にしては、芸術家気取りのところが見られず、そのうえ、話も楽しくて、一緒にいて飽きなかったが、悟郎を一人の男性として見るいかなる理由も見当たらなかった。私は東京に行ける、ということで、ひたすら興奮していたのだ。  ミツコの父は、函館で老舗《しにせ》のデパートを経営する社長だった。六つの時に戦争で父を失い、生花業を細々と営む母に育てられ、贅沢をした経験が一度もない私が、何故《なぜ》、ミツコのような金持ちの娘と親友同士になったのかは、未《いま》だによくわからない。家庭環境があまりにも違いすぎると、友情の芽も育たない、とはよく言われるが、私とミツコに限ってはそうではなかった。ミツコはしょっ中、バケツに無造作に花束を放《ほう》り込んだだけの、むさ苦しいわが家の店先に遊びに来て、黒いゴムのエプロンをつけた私の母や兄と一緒にお茶を飲み、世間話に花を咲かせていった。  土曜日の午後や、日曜日ともなると、私は決まって彼女の家に招待された。ミツコの家は五稜郭《ごりょうかく》の近くにある巨大な屋敷で、使用人が二人、大型のコリー犬が二頭いた。  家に遊びに行くたびに、私は彼女の父や母に歓待された。一人っ子で身体《からだ》も弱く、他に友達のいなかったミツコの両親にとって、私は唯一無二の存在だったらしい。見たこともないような美しい西洋菓子や甘いミルクティーなどをふるまわれながら、私は心優しかったミツコの両親に向かって、無邪気にはしゃぎ、彼らを笑わせたりした。  ミツコの両親……とりわけ母親のほうは、私をことの他、可愛《かわい》がってくれた。商売で忙しく、夜ともなると、ほとんど会話もせずに眠ってしまう私の母と違って、ミツコの母はなんでも時間をかけて丁寧に私の話を聞いてくれたものだ。後になって考えると、それはミツコに妹や弟を作ってやれなかったことの代償であったような気もする。ミツコが私をかけがえのない友達だと思っていればいるほど、その母親もまた、私のことを実の子供のように扱っていたのだ。  高校生活も終わりかけたころから、私はミツコの母親に将来の夢を語って聞かせるようになった。画家になりたいんです……私は何度もそう言った。高校を出たら、なんとかして東京に出て、自活してでも美術大学に入りたいんです、と。  むろん、ミツコの母親が、あの有名な画家、川久保幸吉の妹であることを知らなかったわけではない。それどころか、川久保幸吉の名は、子供のころから、ミツコにしょっ中、聞かされていた。  だが、私は、川久保幸吉を紹介してほしい、とか、なんとか絵の勉強ができるよう、取り計らってほしい、といったことを申し出ようなどと、これっぽっちも考えていなかった。川久保幸吉のことなど、念頭になかったと言ってもいい。時には、ミツコの母親が画家の血筋を受け継ぐ人間であることすら忘れてしまうこともあった。私はただ、誰かに向かって夢を語っていられればそれでよかったのだ。  私のアトリエは自宅の狭い四畳半の茶の間であり、私の画布は、安物の茶碗が載せられた卓袱台《ちゃぶだい》の上の白い画用紙だった。母の経済状態から考えると、東京の美術大学に入る資金など、ゼロに等しかった。いずれなんとかなる。そう信じながら、高校を卒業し、家業を手伝っていた私に、東京で絵の勉強をするということは、スクリーンの中の夢物語に過ぎなかった。  絵は幼いころから好きだった。もしも才能と呼べるものがあるとしたら、私には絵の才能だけはあったと言っていい。自宅が花屋だったせいか、色彩に対する感覚は子供のころから研ぎ澄まされていた。私は絵の具が好きだったし、クレヨンが好きだった。そして色彩をもつすべてのものが好きだった。函館の空を染めて沈んでいく夕陽《ゆうひ》の複雑な色や、青白く見える雪の吹き溜まり、朱に染まった柿《かき》の実などを、何度、紙の上に表現したかわからない。  母や兄は、私のことを単に「お絵書きの好きな子」としか思っていなかったから、私は書いたものをしょっ中、ミツコの家に持って行って、見せるのを楽しみにしていた。ミツコの両親はいつも口をそろえて褒《ほ》めてくれた。  妻を病気で亡くし、やもめになって、娘の世話に手を焼いている甥のところに、私をもぐりこませ、好きなだけ、美術の香りを嗅《か》いでくることを勧めたのは、他ならぬ親友の母親だった。今から思うと、あらかじめ吉凶とりまぜた糸で織られた、一枚の動かしがたい運命のタペストリーの中に、それとは知らず、私は自分の人生を委《ゆだ》ねていたらしい。  川久保家は、N駅から車で五分ほどの、なだらかな雑木林が続く、小高い丘の上にあった。真っ白のペンキを塗った背の低い柵《さく》が、まるで小さな牧場か何かのように芝生に被われた庭を囲っている。初夏になると芝桜が咲き乱れ、秋になると金木犀《きんもくせい》が芳香を漂わせる広々とした庭には、白いガーデンチェアやテーブルがいつも無造作に並んでいた。  庭の片隅《かたすみ》には池もあった。魚は泳いではいなかったが、睡蓮《すいれん》の浮く池の水は取り替えずにいるというのに、どういうわけか、常に澄んでいた。  その庭の奥に、白壁の平屋住宅が左右に大きく伸びている。くすんだ赤い屋根の家で、佇《たたずま》いはアメリカの住宅そのものだった。網戸がついて二重になっている白い玄関ドア。ロッキングチェアが置かれた白いテラス。内部に和室は一つもなく、すべて洋間で、雑多な舶来品がたくさん並べられた居間には、本物の暖炉までついていた。  私が初めて悟郎の一人娘である桃子を紹介されたのは、その暖炉の前だった。桃子は真っ白の大きな猫《ねこ》を不器用に抱きながら、私を値踏みするような目で一瞥《いちべつ》した。 「こんにちは」と私は微笑みながら言った。「これからずっと桃子ちゃんの傍《そば》にいるのよ。よろしくね」  父親に促された桃子は、聞き取れないほど小さな声で「こんにちは」と応《こた》えた。  口数の少ない子だった。私は、会話の接《つ》ぎ穂《ほ》を探そうとして、彼女の腕の中にいた白い猫を指さした。「きれいな猫ねえ。真っ白だわ。オス? それともメス?」  わずかの沈黙の後、「女よ」とだけ彼女は言った。 「なんていう名前?」 「ララ」 「ララ? すてきな名前ね。桃子ちゃんがつけたの?」  桃子は黙ったまま、瞬《まばた》きひとつせずに私を見上げ、つと顔をそむけてこくりとうなずいた。猫はかすかに頭をもたげ、桃子の両肩に太い手を置くと、その喉《のど》のあたりをぺろりと舐《な》めた。桃子は、私がいることなど忘れてしまったかのように、優しく猫を抱きしめ、長い髭《ひげ》の付け根のあたりに唇《くちびる》を押しつけて何事か囁《ささや》いた。  その名の通り、桃の花のように可愛い女の子だった。光の加減で虹色《にじいろ》に輝くおかっぱ頭。顔色のいい時と悪い時とが、歴然とわかるような白く透明な肌《はだ》。リスに似た大きな目は、神経質な子供によく見られるように、危なげな光を放っていたが、かえってそれは私の中にもあった母性愛を刺激した。  父親に似て無邪気で陽気な子供らしい子供を想像していた私は、以後、何度も桃子の大人びた冷やかさに驚かされることになるのだが、その時は、何も感じないでいられた。わずか二年前……六歳になったばかりの年に母親を失った子供なら、当然、この程度の人見知りはするだろう、とタカをくくっていたのである。  悟郎は大袈裟《おおげさ》な身振りをまじえて、桃子を抱きよせ、「このお姉さんは桃子の先生なんだよ」と言った。「学校の勉強でわからないことがあったら、なんでも質問すればいい。それに先生は、これからずっとパパたちと一緒に住むんだ。本当のお姉さんが出来たつもりになって、安心して遊んでもらえばいいよ」  桃子は疑わしそうに再び私を見上げたが、その目はすぐに、腕からするりとすり抜けて部屋を横切ろうとした猫のララに向けられた。「ララ。どこに行くの」  ララは立ち止まり、まるで人間がするように首を回して、小さな主人のほうを見つめた。そして微笑んでいるかのように目を細め、ニャアと静かに鳴いた。  お散歩なのね、と桃子は目を輝かせて言った。「私も一緒に行くわ。一緒にお散歩よ」 「猫の言葉がわかるのね、桃子ちゃん。すごいわ」私はそう言ったが、桃子はそれには応えなかった。彼女は猫のもとに駆け寄ると、そのまま純白のふかふかとした毛糸玉のような猫と並んで、部屋を出て行ってしまった。 「ララだけが友達なんだよ」悟郎はさも可笑《おか》しそうに言い、センターテーブルの上から煙草《たばこ》をつまみあげて、火をつけた。友達は猫しかいない、という孤独なひとり娘の胸の内など、たいして問題にもしていない、といった口ぶりだった。「しょっ中、ああやって一緒にいるんだ。寝る時も一緒。食事の時も一緒。猫のほうも同じでね。桃子が学校に行っている間は、今帰るか、今帰るか、と言わんばかりに門の上でじっと座って待っている。忠犬ハチ公ならず、忠猫ララ、ってわけさ。きみは猫は好き?」  本当は好きでも嫌《きら》いでもなかった。函館の自宅のまわりには始終、野良猫《のらねこ》がうろついていたから、猫などという動物はあまりに身近すぎて、道路に建つ電柱と同じ程度にしか考えていなかったのである。だが、私は声を張り上げて「大好きです」と答えた。  そいつはよかった、と悟郎は言った。「猫が嫌いだったら、あの子の世話はできないからね。さあ、雅代ちゃんの部屋に案内してあげよう。荷物をほどいて、着替えでもして、長旅の疲れをとったらいい」  私は微笑み返し、悟郎の後について自分のためにあてがわれた部屋に行った。部屋は家の左端……西側に位置する、小ぢんまりとした洋間だった。庭に面した両開きの窓には、真新しいベージュ色のカーテンがかけられており、窓を開けると、遠く雑木林の木々の緑や、庭の芝生の緑が目に鮮やかに飛び込んできた。  家具は簡易ベッドと、骨董品《こっとうひん》のような古ぼけたデスク、それに椅子《いす》があるばかりだったが、造りつけのクローゼットには、新しいハンガーが用意されてあり、床には好きな花を活《い》けられるようにと、大きな白い花瓶《かびん》も置かれてあった。  悟郎はデスクの上に載せられていた包みをバリバリと音をたてて破り、中から出て来たものを自慢げに私に見せた。それは私が欲しくて欲しくてたまらなかった油絵の道具セットだった。 「イーゼルは近いうちに運んでもらうから、心配しないで。まあ、この家ではなんでも自由にやりなさい。規則は何もなし。桃子の相手をして、この家にいてくれさえすれば、僕はきみに給料を支払うし、あとのことはきみの好きにやってくれていい。これまで来てもらってた家政婦には、辞めてもらったよ。だから、きみがこの家をとりしきっていいんだ。休みは週に一度。原則として日曜日ということにしよう。それでいいね」  ありがとうございます、と私は絵の具のセットを抱きしめながら、頭を下げた。「こんなに親切にしていただいて。何てお礼を言えばいいのか……」  悟郎は柔らかく私に向かってウインクし、「土曜日の午後はきみのために時間をあけよう」と言った。「アトリエにおいで。みっちり絵を教えてやるから」 「すみません。わがままばかり言ってしまって」 「いいさ。僕は初めて会った時から、きみのことが気にいったんだから。あ、それから……」  悟郎はつと私に近寄った。「きみは素顔のままのほうがいい」  あまり近寄り過ぎたので、彼の吐く暖かい息がふわりと私の頬《ほお》にあたったほどだった。彼は私の唇を人さし指で指し示しながら、私の顔を間近で覗《のぞ》きこんだ。 「今つけている口紅は、きみにはあまり似合わない。それに白粉《おしろい》をつけるのもやめたほうがいいな。きみは自分を飾りたてたりしないほうが、ずっといい。きみはもともとチャーミングなんだし、ありのままでいたほうが素敵だ」  私がどぎまぎしていると、彼は私のことを頭のてっぺんから爪先《つまさき》まで順繰りに眺《なが》めまわし、ふっと笑った。自分の発言の正しさを再確認するかのような微笑《ほほえ》みだった。そして、優雅な物腰で私から遠ざかると、何事もなかったように部屋を出て行った。軽やかな口笛の音がいつまでも廊下の向こうに響きわたり、やがて聞こえなくなった。  私は耳まで顔を赤らめ、長い間、放心したまま立ち尽くしていた。 [#改ページ] [#ここから3字下げ] 二 [#ここで字下げ終わり]  川久保悟郎が、何故《なぜ》、あれほどまでアメリカンスタイルの暮らしを好んでいたのか、よくわからない。後になって、川久保家を訪れる悟郎の友人から聞いたところによると、悟郎は父親の幸吉に対抗心を抱いていて、ヨーロッパかぶれだった幸吉の向こうを張り、わざとアメリカ文化を暮らしの中にとり入れようとしている、ということだったが、果たしてそれが正しかったのかどうか。時として私の目に映る悟郎は、何かに憑《つ》かれたようにアメリカを意識し、その真似事《まねごと》を繰り返すことによって敗戦の屈辱を忘れ去ろうとしている、一人の痛々しい青年に見えることもあった。  だが、それもひょっとすると、穿《うが》った見方だったのかもしれない。記憶にある限り、私は悟郎から戦争の話や政治的な話を聞いたことがなかった。彼は、私や他の友人たちの前ではいつも、笑顔をふりまく、冗談好きの賑《にぎ》やかな男だった。  だとすると、彼は戦争の記憶をちゃっかりと忘れ去り、楽しいこと、気分のいいことだけを追っていたのだろうか。それとも、敗戦の屈辱、忌まわしい思い出をいつまでも心の中に澱《おり》のように溜《た》めながら、表向き、記憶を失った人間のようにふるまっていただけなのだろうか。  いずれにしても、川久保悟郎の家で私が最も驚かされ、目を見張ったのは、その徹底したアメリカへのこだわりぶりだった。  悟郎は朝食に必ず、パンとオートミール、コーヒーをとった。桃子のおやつはチョコレートかバナナで、親子が日本茶を飲みながら煎餅《せんべい》を齧《かじ》っている光景は見たことがなかった。夕食はさすがに米飯のほうが多かったが、悟郎はパンとビフテキ、サラダというメニューのほうを好んだ。  家の中には四六時中、音楽が流れていた。彼はたくさんのLPレコードやドーナッツ盤を持っており、ジャズはもちろんのこと、ポップス、カントリーウェスタンなど、アメリカで流行した音楽なら、たいてい悟郎の家の居間で聴くことができた。  大学での講義が休みの日などは、悟郎は時々、思いついたように桃子を車に乗せて銀座や新宿に出かけ、買物をし、映画を観《み》て食事をしてから帰って来た。そして帰って来ると、私を相手に観て来たばかりの映画の話をえんえんと話してくれた。中には桃子に見せるのは早すぎると思われるような映画もあったが、そうしたことに彼が頓着《とんちゃく》している様子はなかった。  月に一、二度は必ず、大がかりなガーデンパーティーが開かれた。やって来る客は悟郎の大学の関係者だったり、かつての同級生だったりしたが、一目で水商売の人間とわかるような連中も大勢いた。中にはモデルや女優の卵、あるいはまた、映画関係、音楽関係の人間もいたのだろうと思うが、悟郎はやって来る客人の一人一人をいちいち私には紹介してくれなかった。客がその友達を連れて来たり、その友達がまた別の友達を連れて来たりしていたようだから、悟郎自身も、いったい誰が参加しているのか、わからなかったのだと思う。  パーティーはたいてい昼間から行われた。夏に向かう日差しの強い日の午後、次々と車が川久保家の門の前に停《と》められ、中から色とりどりのドレスを着た若い女や着物姿の小粋な婦人、それに派手な縞《しま》模様のスーツを着た男たちが降り立って、さながら蝶《ちょう》が舞うように庭に向かってひらひらと手を振っている光景は、未《いま》だに忘れることができない。居間の電蓄からは、テンポの早いディキシーランドジャズが大音響で流れ、音楽は風にのって雑木林の木々の小枝に雲のように引っ掛かっては、空の彼方《かなた》にちぎれ飛んでいくのだった。  悟郎はそんな中、さながらハリウッド映画の主人公のように颯爽《さっそう》と庭に降り立ち、客たちに何か冗談を飛ばす。ペチコートでふくらませた腰をくねらせながら、早くも踊り出す女がいるかと思えば、仰々しいレースの手袋をはめたまま、悟郎の首に抱きついて、わざとらしくその頬にキスする女もいた。  女たちは全員、魅力的で、私などが見たこともなかったような流行のファッションに身を包み、誰もが自信たっぷりで、誰もが自分が一番という顔をしていた。  私は桃子と共に台所からビールやジュース、フルーツやお菓子などを運ぶ役をあてがわれた。大勢の華やかな雰囲気《ふんいき》の人々に圧倒されて、盆を手におどおどと伏目がちに庭に降りる私に、客たちはいつも危なげな冗談を飛ばした。  悟郎は私のことを「桃子の家庭教師」として紹介したのだが、住み込みということが彼らの好奇心を誘ったらしい。「悟郎の奴《やつ》、夜になると、何かけしからんふるまいをするんじゃない?」とか「悟郎には気をつけたほうがいいですよ。あいつは天下無敵のプレイボーイだから」などと冗談めかして言われるのはしょっ中だった。そのたびに私が大まじめに、何故、川久保家に働きに来たのか、どのようないきさつで、悟郎を紹介されたのか、を説明しようとするものだから、いっそう彼らのからかいの的になった。  悟郎はというと、そんな時、ただニヤニヤ笑いながらグラスを口に運ぶだけだった。流行のサンドレスを着た乳房の大きな女が、そのたびに悟郎にしなだれかかり、耳元で聞こえよがしに囁く。怪しいわ、悟郎ちゃん。あんなに若い先生を雇ったりして。何か魂胆があったんでしょう。  悟郎は外国人がやるように、大きく肩をすくめてみせる。きみたちの下品な詮索《せんさく》には負けるよ。なんなら、夜、彼女の部屋を調べてみるといい。中からはしっかり鍵《かぎ》がかけられてて、テコでも開かないようになってるから。  へえ、それじゃおまえ、彼女の部屋に入ろうとしたことがあるんだな、と男たちが口々にはやしたてる。笑い声が弾《はじ》け、女の嬌声《きょうせい》が飛び交う。それでも悟郎はニヤニヤ笑いながら、肯定も否定もせずに、手にしたグラスに太陽の光が当たって砕けちる様をゆったりと眺めているのだった。  桃子とララは客たちの人気者だった。誰もが、桃子の頭を撫《な》でたがり、誰もがララの柔らかな身体に触れたがった。ララは時折、客たちからチーズや小さくちぎった鶏肉《とりにく》などを与えられ、うれしがって声高らかに鳴いたり、客の足に身をすりよせたりしていたが、桃子は決して客たちに懐《なつ》かなかった。とってつけたような笑みを浮かべたまま、ひと通り客に挨拶《あいさつ》をすませてしまうと、すぐに家の中に引っ込んでしまう。  桃子ちゃん、ねえ、桃子ちゃん、一緒にお庭で遊ぼうよ、パパが何か面白いことをしよう、って言ってるわよ、などと客たちが大声で呼びかけても、無駄《むだ》だった。彼女は何も聞こえなかったふりをして、そっぽを向き、子供部屋にとじこもり、本など読み始めるのだった。  桃子は幼い年齢の子供にしては、静かな生活を好んだ。規則正しい生活、と言い換えてもいい。朝起きてから夜寝るまでの間に、家の中で何か変わったことが起こるのは決して歓迎しなかった。そんな彼女が、大のパーティー嫌いであったことを知っていたのは、多分、父親の悟郎ではなく、この私だったと思う。  ふだん、彼女は毎朝七時に起きた。寝坊することはなく、たいてい私が起こさなくても、一人で起き出しててきぱきと身づくろいをすませた。それから、父親と一緒にパンを食べ、目玉焼きの黄身の部分だけをつつき、ミルクを飲む。大学に出かける父親の車に乗り、小学校の門の前まで送ってもらう。帰って来るのはたいてい、判で押したように午後二時過ぎだった。友達を連れて来たことは一度もなかった。  そして、おやつを食べ、学校であったことをそれとなく質問する私に曖昧《あいまい》に答えてしまうと、ララを連れて麦畠《むぎばたけ》に飛び出して行った。雨の日以外、その習慣は変わらなかった。  桃子はあの麦畠が大好きだった。麦畠のことなら、なんでも知り尽くしていた。畦道《あぜみち》のこと、案山子《かかし》の数、肥料置き場のこと、その広さ、季節によって移り変わる風景……すべてを細密画のように彼女は自分の頭の中に刻みこんでいた。  私は彼女が外に遊びに行くと、急いで身じたくをして、夕食の買物に出かけるのが常だった。買物をすませ、重い買物|籠《かご》をぶら下げての帰り道、何度、麦畠の向こうに桃子の姿をみとめて、足を止めたかわからない。  麦畠の畦道を駆け抜ける一人の少女と一匹の猫の姿は、絵のように美しかった。沈みかけた太陽が麦畠を一面、なめらかに金色に輝かせている中、桃子とララは、案山子の向こうに姿を隠したり、また現したりしながら、ふざけあっていた。雑木林の木々の間をすりぬけてくる微風が、黄金色の麦の穂をさざ波のように揺らし、やがて桃子のスカートをふくらませて通り過ぎる。桃子はしゃがんだり、立ち上がったり、駆け出したりして、一時もじっとしていない。  ララは時折、狩猟本能をむきだしにして、雀《すずめ》を追いかける。ララが凄《すさ》まじいスピードで走り出すと、雀たちは一斉《いっせい》に金色の畠の中から飛び立ち、黒い無数の点のようになって空の彼方に散っていく。  桃子の笑い声が風にのって聞こえてくる。鮮やかな橙色《だいだいいろ》の夕日が、群青色になりつつある空に滲《にじ》み、次第に彼らの姿を黒く滲んだ影絵のように染めていく。  麦畠の畦道で遊ぶのは、むろん桃子だけに限らなかった。時折、街の子供たちも畦道に入り込んで、遊んでいたようだが、桃子は決してその輪の中に入ろうとしなかった。桃子はいつもララとだけ一緒にいた。ララのいる近くには、必ず、桃子がおり、桃子がいるところには、必ずララの白い柔らかな身体を見つけることができた。  そう。彼らは孤独なつがいの小鳥のようだった。地球が滅び、全人類が滅びた後、世界にたった二つだけ生き残った悲しい命のようだった。  桃子は決まって、空が暗くなり始めると家に戻った。そして、遊び疲れたというよりも、何か途方もない虚《むな》しさを味わった後のような顔をして、洗面所で手を洗い、台所に来て、自分でララの餌《えさ》を作った。  餌はたいてい人間が食べてもおかしくないほど豪華なものだった。彼女は、煮干しや鰹《かつお》ぶしをかけただけの、いわゆる猫御飯を与えようとはせず、決まって鯵《あじ》や鰯《いわし》をまるごと煮たものを与えた。時には自分たちが食べ残した肉がそのまま、ララの口に入ることもあった。  私が川久保家に住み込んでからというもの、悟郎は夕食に間に合うように帰って来ることがなくなっていた。だから、食事はたいてい、私と桃子の二人きりだった。  食事中の会話は、少なかった。桃子は、食事というものが、「いただきます」から始まって「ごちそうさま」で終わるだけのものだと考えていたらしい。質問して会話の発端を作ろうとする私の努力はたいてい虚しく空振りに終わった。  桃子の食は細く、夕食を全部、食べつくすことは稀《まれ》だったが、猫のほうもまた、同じだった。たいてい、桃子の足元でララが餌を半分、食べ、もうげんなり、という顔をするころになると、桃子も胃のあたりを押さえながら、「お腹《なか》いっぱいだわ」とつぶやく。そして、食べ残した皿を大儀そうに、テーブルの向こうに押しやって席を立つのだった。  本来、私にあてがわれた役目である「家庭教師」の仕事をするのは、その後だった。私と桃子は並んで子供部屋の学習机の前に座り、復習や予習、それに宿題をやった。桃子はずば抜けて成績のいい子だった。だから、私は悟郎から与えられた仕事を充分に果たせたとは言いにくい。彼女は私が教えなくても、たいていの勉強は自分でやれたし、しかも手際《てぎわ》がよかったのだ。  彼女にかかると、新しい知識は海綿が水を吸い込むようにたちまち吸収されていった。また、驚くべきことに彼女は、知識を活用して自分なりに応用する術《すべ》も完全に習得していた。私は家庭教師とは名ばかりの、傍にじっと座っている置物のようなものだった。時には私が八歳の少女から、知識の活用法を学ばされたほどだ。  それでも桃子は私がそうやっていることを別段、嫌《いや》がらなかった。彼女は私が悟郎から与えられた仕事をよく理解してくれていて、勉強机に向かっている時は、あくまでも謙虚な生徒の役柄《やくがら》を演じてくれた。  桃子の部屋は、子供部屋にしては大きな部屋だった。十二、三畳ほどはあっただろうと思う。父親の趣味で、室内はアメリカ人の子供部屋のようにペパーミントグリーンの可愛《かわい》らしい花模様の壁紙で被《おお》われ、窓には、動物のプリントがほどこされた賑やかなカーテンがぶら下がっていた。  部屋には、勉強机と桜色のカバーがかけられた小さなベッド、小型の丸テーブル、下着を入れる整理|箪笥《だんす》などがあり、箪笥の上には、悟郎が買い与えたのであろうたくさんの舶来の抱き人形やぬいぐるみがひしめき合っていた。だが、私は桃子がそれらを相手に遊んでいるのを見たことがない。汗ばんだ子供の腕に抱かれたことのない人形たちは、売れないままにウインドウの中で色褪《いろあ》せ、腐ってしまった果物を連想させた。  勉強が終わってから眠るまでの短い時間、桃子はたいてい、ベッドに腰を下ろし、児童向けの絵本を読んだ。彼女が本を読み始めると、ララは決まって主人の傍《そば》に寄り添い、目を糸のように細めてうつらうつらした。  寒い冬の日の夜など、熱いココアを入れて子供部屋に持っていくと、ララを抱きよせながら、うたた寝している桃子を発見することもあった。時として私は、ララのように桃子の傍に丸くなり、桃子と一緒にうたた寝をしてみたくなる衝動にかられた。それは不思議な衝動だった。  私はただの一度も、桃子に対して母親のような気分になったことはない。かといって年の離れた妹を見るような思いを抱いたこともなかった。  私は桃子の可愛らしさ、子供らしからぬ神秘的なその雰囲気に魅了されていたのだと思う。私は無意識のうちに、桃子の下僕になりたい、下僕となったうえで、彼女に寄り添っていたい、と願っていたのかもしれない。  桃子には、人を静謐《せいひつ》な気持ちにさせる何かがあった。たとえそれが、冷やかで、人を突き放す種類のものであったとしても、私は桃子が自分に懐いてくれない、と思って悩んだりしたことはなかった。桃子はそこにいるだけでよかった。それ以上求めても無駄なのだ、ということを暗黙のうちに大人にわからせるような子供だった。  彼女は私を「先生」と呼ばずに「雅代さん」と呼んだ。彼女に「雅代さん」と呼ばれるたびに、私は彼女と自分との間にある途方もない距離を感じたものだ。私が桃子に近づきたいと思えば思うほど、桃子は嘲笑《あざわら》うかのように、私を遠ざけた。なのに、自分は桃子によって、どこかしら受け入れられている、という実感は日毎《ひごと》に高まった。それは、まったく奇妙な実感だった。淡く薄い和紙をはがすように、彼女は私との間の距離を少しずつ少しずつ、縮めていった。  それはたとえば、こういうことだ。時折、彼女は台所で洗い物などをしている私の横につと寄り添うようにして立ち、黙って洗い桶《おけ》の中の泡《あわ》を眺めていることがあった。私が何も話しかけずにいると、彼女はずっと同じ姿勢でそうしている。私が微笑むと、彼女も微笑み返す。それは大人をぞくりとさせるほど魅力的な少女の笑みだった。私は桃子に微笑んでもらえた、ということだけで一瞬、幸福な気持ちになる。そして、そのことを彼女に伝えたいと思って、何か話しかける。すると、彼女の顔から笑みが一斉に消えていき、氷のような無関心が、その際立って整った顔全体に拡がっていく。私は慌《あわ》てて、口を閉ざす。するとまた、安心したように彼女は流し台にふっくらとした両手を置き、私がすることをぼんやりと眺め始めるのだった。  彼女は、遠ざかってはまた近づいてくる振り子のようなところがあった。その振り子の振幅が少なくなっていけばいくほど、私は静かな喜びで満たされた。  私は辛抱強く、彼女の中にある振り子が動きを止めるのを待ち続けた。一切、愛情の押し売りはせず、小賢《こざか》しい方法は用いずに、桃子が自発的に感情の扉《とびら》を私に向かって開けてくれる瞬間を待ち望んだ。  たかだか二十歳になったばかりの小娘が、何故《なぜ》、それほどまでに赤の他人の子供と愛情を分かち合いたい、と思ったのか、説明するのは難しい。確かに私は川久保悟郎に憧《あこが》れ、悟郎に恋をし始めていた。それは事実である。だが私は、悟郎の歓心をかうために、桃子を味方につけようとしていたのではなかった。そんなことをしても、悟郎が自分を女として認め、振り向いてくれるとは、さすがの私も思っていなかった。  私はただ、桃子が好きだったのだ。麦畠でララと遊ぶ孤独な桃子が、好きでたまらなかったのだ。 [#改ページ] [#ここから3字下げ] 三 [#ここで字下げ終わり]  悟郎はあれほど生活様式にこだわっていながら、生活それ自体に対して悉《ことごと》く現実味が希薄な人間だった。彼はインテリアには凝っていたが、自慢の電蓄に埃《ほこり》がかかっていてもいっこうに気にしなかった。台所で生ゴミが腐っていても、汚れた雑巾《ぞうきん》が洗面所に放《ほう》り出されていても、まるで無関心だった。  ララが、どこかで野ネズミや雀をつかまえて来て、無残な死骸《しがい》を居間の片隅《かたすみ》に放り出したままにしているのを見つけても、彼は小さなコオロギの死骸を片づけるのと同じ気安さで、それをスリッパの爪先《つまさき》で蹴飛《けと》ばし、テラスの外に落として、あとはもう、何事もなかったかのように、くつろいで新聞などを読み始めるのだった。  彼のそんな性格が私を気楽にしてくれたことは言うまでもない。私は表向きは住み込みの家庭教師であり、子守であったわけだが、ふつう住み込みの使用人が、どうしてもやらねばならなくなるであろう家の中の細々とした家事雑事のことで、頭を悩ませる必要はなかった。家庭教師としての仕事の他に、私はただ、食料品の買物をし、桃子のために簡単な料理を作り、晴れた日に親子の衣類を洗濯《せんたく》し、たまに気がむいた時に、庭の草むしりや拭《ふ》き掃除をしていればよかったのだ。  函館時代、母を手伝って朝から晩まで立ち働いていたことを思えば、天国のような生活だった。時間は常にあふれるほど私のものだった。私は桃子が学校に行っている間、スケッチブック片手に川久保家の周辺でのんびりスケッチを楽しんだり、電車で都心まで出て、美術館めぐりをしたりした。  悟郎は私が昼の間、何をしようが、どこでどんな買物をしようが、うるさく質問してくることはなかった。他人を管理したり、監視したりすることが、彼ほど似合わない人間もいなかったと思う。彼が私に課した規律は、桃子の世話をするということだけに集約されていた。  悟郎から毎月末に支払われる給金は、驚くほど高額だった。今でも、あれは何かの間違いだったのではないか、と思うほどだ。戦後の復興が著しかったころのこととはいえ、大半の人々がつましい生活を続けていた時代の話である。たかだか、小学生の女の子の勉強を見てやり、留守番役を引き受けるだけで、私は毎月、高価な画材や画集を買いそろえ、函館の母に送金し、それでもまだ使いきれずに残ってしまった金を預金することができた。  不当なほど高額の給金をもらっていることについて、悟郎に何度か、その理由を訊《たず》ねてみたことはある。だが、答えは決まって、柔らかな微笑と共に吐き出される「いいじゃないか」という言葉だった。「僕が支払ってるんだから、きみは黙って受け取っておけばいいのさ」  そんな具合だったから、金はどんどん溜《た》まっていった。画材や画集には大金をかけたが、それ以外に大きな買物をすることがなかったせいもある。  そう。私は、都会に出て来た若い娘なら、誰でも間違いなく欲しがるであろう、多くの装飾品は何ひとつ買わなかった。新しい洋服や靴《くつ》、化粧品、ハンドバッグなどに興味がなかったわけではない。デパートのショーウインドウに飾られた美しいドレスを見て、思わず財布を開きかけたことも度々ある。だが、ほとんどの場合、私は何も買わずにウインドウの前を通り過ぎた。  美しいドレスを着れば、ハイヒールを履いて、流行の四角いハンドバッグを持ちたくなるに決まっている。悟郎のパーティーにやって来る女たちのように、パーマをかけ、香水をつけ、都会の女を装いたくなるに決まっている。そして、それに見合う化粧がしたくなるに決まっている。  だが、私は決して、口紅をつけるつもりはなかったし、白粉《おしろい》を塗る気もなかった。初めて川久保家に来た時、悟郎から言われた言葉は、呪文《じゅもん》のように私を支配し続けていた。  きみには口紅も白粉も似合わない、きみは素顔のままでいるほうが素敵だ……。  彼がそう言うのなら、その通りにしよう、と私は愚かにも自分に誓っていた。私は何度も自室の鏡を覗いて、自分の素顔を眺めまわした。私の素顔は子供っぽくて、女性らしさというものに悉《ことごと》く欠けてはいたが、悟郎がそのほうがいいと言うのなら、それでいい、と考える努力をした。おかげで、私はいつまでたっても、山出しの猿《さる》のように、垢抜《あかぬ》けないままでいた。私が猿のままでいたおかげで、函館の母に送る送金額は増え続け、また、自室には憧れていた画集がどんどん増えていったというわけだ。  当初、私と悟郎との間に交わされた約束……土曜日の午後は絵を教えるというもの……は、彼の不規則な生活のせいで守られた例《ため》しはなかったが、彼は必ず自分のスケジュールをやりくりして、週に一度、一定の時間を私のために割いてくれた。  週に一度のそのひとときが、どれほど待ち遠しかったことだろう。朝、桃子を車に乗せて学校まで送り届けようとしている悟郎を見送りに出た時など、悟郎はふいに思い出したように運転席から私を見上げ、「今夜」と言って片目をつぶってみせる。「今夜は早く帰るから、そうしたら、絵のレッスンだよ」  私は「はい」と大きくうなずく。あまりに嬉《うれ》しくて泣きそうになる。  すると悟郎はにんまりと微笑み、助手席にいる桃子に向かって言う。「今夜、パパはアトリエで雅代ちゃんに絵を教えるんだよ。桃子も来るかい?」  桃子は黙ったまま、父親の微笑に合わせるかのように、にんまりと微笑む。そのなんとも理解しがたい笑みは、川久保親子の間でしか通用しない笑みだった。悟郎は娘にそうやって微笑まれると、まるで意味が通じたとでも言わんばかりに、満足げにうなずく。そして、顔を赤くして「行ってらっしゃいませ」と頭を下げる私に陽気なクラクションをひとつ鳴らし、走り去って行くのだった。  悟郎のアトリエは、私の部屋とは正反対の、屋敷の右端にあった。会議室のように広い板敷のそのアトリエには、何枚もの巨大なカンバスが乱雑に立てかけられており、絵の具の飛び散った跡のある床には、画材やら新聞紙やら、その他いろいろな小物が、足の踏み場もないほど散らかっていた。  アトリエに入ると、私はまず、その一週間の間に描き上げたスケッチや水彩画、小さな油絵などを彼に見せた。絵を前にすると、彼は人が変わったようになった。普段の陽気さが影をひそめ、口数が少なくなる。眉間《みけん》に皺《しわ》が寄ることもしばしばだった。そして絵を論評するにあたって、彼はびっくりするほど手厳しかった。デリケートな言葉使いは一切せず、気にいらないものは気にいらない、とはっきり言った。そう言うことが、どれほど私を傷つけることになろうとも、そう言った。  代わりに、滅多にないことだったが、褒《ほ》めてくれる時は、賛辞を惜しまなかった。彼の褒め言葉を一時間にわたって聞いたこともある。一時間! 酷評するのに一時間かけたのではない。悟郎は他人を褒めることに、一時間かけても惜しまない人間だったのだ。  芸術と呼ばれる分野において、褒め言葉を操るというのは非常に難しい。いい作品と悪い作品との差が曖昧になりやすい分野であればあるほど、褒めるという行為は何にも増して難しくなるものだ。だから人はたいてい、相手に感動を伝えようとする時、子供のような感嘆符だけで済ませてしまう。素敵、素晴らしい、見事だ……等々。それ以外の言葉を模索する努力をしなくなってしまう。  なのに悟郎は褒め言葉を無限に知っていた。彼は私の作品が気にいると、何故、気にいったのか、どこがどう自分に感動を与えたのか、について、丁寧に説明してくれた。彼自身の画風と比較したり、高名な画家の作品と比較してみたり、あるいはまた、詩的な言葉、観念的な言葉、実際的な言葉を駆使して、私にいかにそれが素晴らしいか、伝えようとした。  私は悟郎を信じていた。悟郎の言うことがすべてだった。たとえ私が悟郎に恋をしていなかったとしても、その気持ちは変わらなかったに違いない。悟郎に対する気持ちと、絵における師であった彼への気持ちは、また別物だった。私はアトリエでは、彼の教えに従おうとする、純朴《じゅんぼく》な一人の生徒だった。  だが、アトリエでの「講義」が終わり、二人差し向かいでコーヒーを飲み出すころになると、私はたちまち、つかみどころのない恥ずかしさと興奮に包まれ始める。それまで乾いた熱情だけが潜んでいたアトリエの空気が、何か甘ったるい湿った夜気の匂《にお》いを含んで、私と悟郎との間にできたわずかの空間を意識させにかかる。  私は、正面のスツールに座った彼の膝《ひざ》が、私の膝と触れ合わんばかりになっていることを意識し、また、彼の視線が、ブラウスの上で小山を作っている私の乳房のあたりで停止し、さらに色褪せたフレアースカートから飛び出した足に移っていくのを必要以上に意識したりした。  そんな時でも彼は饒舌《じょうぜつ》で、友人の楽しいエピソードを紹介したりしながら、私を笑わせてくれていたのだが、私は自分の笑い声のひとつひとつが、どのようにアトリエの壁に反響し、どのように彼の耳に届いているのか、自分の笑った顔がどのように彼の目に映っているのか、ということまで意識していた。  暇さえあれば私は、自分が彼にどのように思われているのか、必死になって考えた。彼は私を年の離れた妹のように扱うこともあったし、愛弟子《まなでし》のように扱ってくることもあった。また、娘の桃子を預けて安心していられる人間として、信頼をこめた目で私を見ることもあれば、あくまでも他人同士として、私との間に明らかな一線を画してくることもあった。だが、そのころの彼が実際に私をどう思っていたのか、私にはわからない。  彼は決して私の肌《はだ》に触れようとしなかったし、ふざけて頭を小突いたり、腕をつねったりもしなかった。彼はあくまでも紳士的だった。それでも私は、彼はひょっとすると自分に性的な好奇心を抱いてくれているのかもしれない、と思うことがあった。  私にそうした錯覚を抱かせたのは、彼の視線、彼の目つきだった。時折、彼の視線は無遠慮に私の身体《からだ》の線をなぞって通り過ぎていった。アトリエで筆を持ち、カンバスに向かっていると、ブラウスの胸のあたりに視線が張りつくのが感じられた。台所で食器を洗っていると、腰のあたりに彼の視線が彷徨《さまよ》うのが感じられた。  それはただの勘違い、おめでたい錯覚にすぎなかったのかもしれない、と思う。彼は単に私のブラウスについていたコーヒーの染《し》みを見ていただけなのかもしれないし、私のお臀《しり》にこびりついた枯れ草を取ってやろうか、どうしようか、と迷っていただけなのかもしれない。第一、当時の私の身体は幼かった。どう贔屓目《ひいきめ》に見ても、彼の性的好奇心をあおるほど魅力的な身体ではなかったのだ。  だが、私は自分の抱いた錯覚、自分が作り出した想像の世界にすぐに夢中になった。  想像はふくれあがり、肥大化し、隠微な化け物のようになって私の中に拡《ひろ》がっていった。風呂《ふろ》あがりに寝巻姿のまま、台所に立ち、水を飲んでいる時など、私は悟郎が後ろに立って、しげしげと自分を見つめている幻影を見た。自室のドアに鍵をかけ、ベッドにもぐり込む時、悟郎が廊下づたいにやって来て、私の部屋のドアをそっとノックする幻の音を聞いたこともあった。  夢の中で、悟郎は私の恋人であり、夫であり、情夫だった。私は悟郎に関する淫《みだ》らな夢をしょっ中、見た。恥ずべきことだとは思わなかった。淫らな夢を見ることを恥ずかしく思うほど私は子供ではなかった。剃髪《ていはつ》し、仏門に入った尼僧《にそう》とて、淫らな夢を見るという。私は夢の中、想像の中だけで、悟郎と接吻《せっぷん》し、悟郎と交わり、悟郎の愛の言葉を聞いていた。それで充分だった。  おかしな話だが、もしも、深夜のアトリエなどで、実際に悟郎が私の肌に手を触れたりしたら、私は大声をあげ、川久保家を逃げ出していたかもしれないと思う。告白すると、私はそれまで、ただの一度も恋愛をしたことがなかった。恋愛は常に私の想像の中で行われる行為にすぎなかった。想像の中の恋愛で、私は自分を娼婦《しょうふ》にしたり、浮気する金持ちの人妻にしたり、男たちの間を飛び交う小悪魔的な少女にしたりしてみせることができた。なのに、現実の男性を前にすると、私はいつも逃げ腰になった。生身の男性が持っている、その途方もない異質の魅力に、どうやれば一人前の女として関《かか》わることができるのか、私には見当もつかなかったのだ。  とはいえ、まだ三十だった彼に結婚経験があるということは、私に何かとてつもない安心感、安全なロマンティシズムを抱かせるところがあった。もしも彼が、結婚経験のない、子供のいない、ただの独身男だったとしたら、私は彼にあれほど熱烈な恋をしなかったかもしれない。警戒心と自尊心の強い、田舎出の娘が、彼にあれほど夢中になれたのは、彼の人生経験が豊富で、決して自分などには振り向いてもくれないだろう、という甘酸《あまず》っぱい諦《あきら》めがあったせいだと思う。  彼は二、三度だったが、雑談の中で、亡《な》くした妻の思い出話を語ってくれたことがあった。妻の名は百合子《ゆりこ》といった。彼と同年だったその女性は、彼の思い出話の中では常に、質素で慎《つつ》ましやかな愛らしい女性だった。  庭に花壇の跡があるだろう、と悟郎はアトリエの窓から外を眺《なが》め、闇《やみ》に包まれた庭を指さしたものだ。「今ではもう、手入れが悪くなってしまったけど、百合子が生きていたころは、あそこに花がいっぱい咲いてたもんさ。垣根《かきね》代わりに蔓薔薇《つるばら》を咲かせたこともある。彼女は花を育てるのがうまかった。花だけじゃない。子供を育てるのもうまかったし、猫《ねこ》の世話をするのもうまかった。ララは彼女が病気に倒れる前に、彼女が拾って来たんだ。汚れて痩《や》せっぽちだった子猫を彼女はあっという間に、桃子の友達にしてしまったよ。ララは彼女に懐《なつ》いてた。彼女に懐かなかった奴《やつ》なんかいないだろうな。みんながすぐに彼女に心を許した。そんな女だったよ」  私は言った。「きれいな方だったんでしょうね」  悟郎は、ほろ苦い記憶を噛《か》みしめるような顔をして、目を閉じ、ゆっくりとうなずいた。「地味だったけど」と彼は言った。「きれいだったことは間違いない」  私は時折、想像の中で、悟郎がかつて愛し、結婚した女性の姿を蘇《よみがえ》らせてみた。繊細で物静かで、美しく、慈母観音のような微笑をたたえる女性。そこにいるだけで、周囲をやわらかな輝きで満たす女性。花に囲まれて柩《ひつぎ》に横たわるその女性を前にして、悟郎が男泣きに泣きくずれている様子を想像しては、ロマンティックな悲劇の物語に陶酔してみたりした。  悟郎が亡くした妻のことを気も狂わんばかりに愛していた、とする私の想像は、私の悟郎への恋ごころに拍車をかけることになった。私の中で、悟郎はいつまでも、死んだ妻のことを愛していなければならなかった。死んだ妻のことが忘れられない男でなければならなかった。賑《にぎ》やかなことが好きで、家に大勢の人を招いて派手などんちゃん騒ぎをやらかすのが、妻を亡くした悲しみの裏返しであるような男でなければならなかった。そして、想像の中で、悟郎は常にその通りの男であり続けた。  私は見たこともない百合子という女性のことをたちまち好きになった。桃子の面差《おもざ》しの中に、百合子という女性の面影を探し、勝手な想像でひそかに楽しんだこともある。桃子がもしも百合子とそっくりであったなら、百合子は確かにぞっとするほど美しい人であったに違いなかった。嫉妬《しっと》はなかった。本当にまったくなかった。それどころか、甘ったるい好奇心だけが、際限なく拡がっていき、私を興奮させた。  だが、だからといって、幼い桃子を相手に死んだ母親、百合子のことを質問したり、百合子が作った花壇を再生して悟郎の気をひこう、などと考えたことはない。私は悟郎や桃子が自分から百合子のことを話してくれない限り、一切、質問の矢は飛ばさなかった。  桃子が私に、死んだ母親のことを話してくれたことは一度もなかったと思う。彼女の部屋には、百合子を思わせる物……たとえば手縫いのジャンパースカートや手編みの毛糸のマフラー、くまのアップリケが施された弁当袋、手作りのお手玉などが数多く残っていたが、私がそれらを手にして、「これ、お手製ね」と言っても、彼女はうっすらと微笑《ほほえ》んで、かすかにうなずくだけだった。  桃子のその反応は、一見、冷淡にも見えた。ひょっとして桃子は、死んだ母親のことなど、とうの昔に忘れてしまったのではないか、と思われることもあった。仮りにもしそうだったとしても、私は別段、驚かなかったに違いない。私自身、幼いころに亡くした父を思い出すことはなくなっていたからだ。  桃子が死んだ母親の思い出を捨て去っているのなら、いっそのこと、私のことを母親のように思ってくれないかしら、と何度も考えた。桃子が私を母親のように思ってくれれば、悟郎と自分の関係は変わるかもしれない。それは馬鹿《ばか》げた幼稚な想像ではあったが、私をのぼせ上がらせるに充分だった。  悟郎が私を「桃子のお母さん」として扱ってくれる時のことを夢見ながら、私は日毎夜毎、そのどこかしらエロティックな想像に身を委《ゆだ》ね続けた。そのくせ、悟郎の妻だった百合子という人のことを美化し、悟郎が自分に何ら積極的な求愛をしてこないことを嬉しく思っていたのである。今から思えば、二十歳だった私は、いったいどれほど子供だったことだろうか。  あの夜のことはよく覚えている。私が初めて、桃子と親しくなれた夜のことだ。  十二月に入ってまもなくのことだったと思う。その冬一番という寒波が襲来し、夜になると、木枯らしが荒れ狂い出して、気温はぐんぐん下がっていった。  そのころになると、悟郎が早く帰宅することは稀になっていた。帰って来るのは九時か十時が普通で、時には深夜を過ぎなければ帰らないこともあった。  彼の帰宅が遅いのは、住み込みで桃子の世話をしている自分の存在が、彼自身にとてつもない安心感を抱かせているからだろう、と私は考えようとしていた。むろん、夜になって、彼がいったいどこで誰と何をしているのか、あらゆる想像をめぐらせたことは言うまでもない。だが、まだ年若い魅力的な男が、夜な夜な、どこで何をして過ごすのか、具体的に想像をめぐらせてやきもきできるほど、私は経験豊富ではなかった。  父親の帰りを待つでもなく待って、いつまでも居間の暖炉の前に座っていた桃子は、十時を過ぎたころ、諦《あきら》めたように子供部屋に戻った。私がララを抱き上げ、ベッドの中に入れてやると、桃子はいつものように「おやすみなさい」と言い、自分でスタンドの明かりを消した。私は自室に引き取った。  十一時をまわり、零時になっても、悟郎は戻らなかった。遅い時は先に休んでいてもかまわない、と言われていたのだが、私は頑張《がんば》って起きていた。外から玄関の鍵《かぎ》を開けて中に入って来る悟郎を出迎え、「おかえりなさい」と言わなければ、私は眠れないようになっていた。それはささやかな私だけの儀式、私だけの愛情の表現だった。  外では木枯らしが吹き荒れていた。その時、ふいに、木枯らしの中を美しい女と寄り添いながら歩く悟郎の姿が脳裏をよぎった。私はそれまでめくっていた画集を閉じ、自室を出て台所に立った。  考えすぎよ、と私は自分に言い聞かせた。悟郎は一見、プレイボーイに見えるし、実際、大勢の魅力的なガールフレンドに囲まれてはいたが、溺愛《できあい》する一人娘を家に置いたまま、夜毎、美女とデートを繰り返すような男ではないはずだった。  だって、彼は百合子さんを愛してたんだもの。私はそう言い聞かせながら、冷え冷えとした台所で薬缶《やかん》に水を満たした。あんなに百合子さんを愛してたんだから、他の女性にうつつを抜かすことなんか、あるわけがない。きっと大学の友達や、教え子たちと、どこかの酒場で絵の話でもしているんだ。  ガス台の炎で暖をとりながら一人分の湯を沸かし、紅茶を作ってカップに注《つ》いだ。悟郎が時々やっているように、紅茶にブランデーをたらしてみる気になったのは単なる偶然だった。  ブランデーは居間のサイドボードの中にあった。私は台所を出て、廊下を横切り、居間に入ろうとした。  桃子の部屋は、居間の隣にあり、廊下続きとはいえ、私の部屋とはかなり離れていた。もしあの時、私が紅茶にブランデーをたらそうなどと思わなかったら、桃子とのその後の関係がどうなっていたか、想像もつかない。桃子の部屋からすすり泣きの声がもれているのを知ることができたのは、私がブランデーを取りに居間に入ったからだ。  私が居間に入ろうとしなかったら、私と桃子とは、あのまま幸福なすれ違いを続けて、終わったかもしれない。いや、そればかりか、あんな恐ろしい事件を起こすことはなかったかもしれない。そう思うと不思議な気がする。  桃子の部屋からもれてくる、かすかなすすり泣きの声は、居間に入りかけた私の足を止めた。私はカップをダイニングテーブルの上に置くと、しのび足で廊下に出て、彼女の部屋の前に立った。  子供が闇を怖がって枕《まくら》に顔を押しつけて泣いている時のような、くぐもった泣き声が間断なく続いていた。そしてその泣き声が途切れた時、はっきりと「ママ」と言う桃子の声が聞こえた。 「ママ……桃子、淋《さび》しいの。こわいの」  哀れな気持ちを抱いたことは確かだ。だが、桃子のその表現は、さほど私を動揺させはしなかった。六歳の時に母親を失った子供が、木枯らしの吹き荒れる冬の夜、ベッドのぬくもりの中で母を思って泣くのは、至極、自然なことと言えた。  そんなことよりも、むしろ、その時の私は、桃子がやはり死んだ百合子を思っていたことに、諦めに似た実感を味わっていた。やっぱりね、と私は心の中でひとりごちた。やっぱり、本物のお母さんがいいに決まってる。私なんかじゃ、代役はできないんだ。  大きく深呼吸してから、私は軽く目を閉じた。放っておくほうがいいのかもしれない、と考えた。聞かなかったことにしておいたほうが、桃子の気持ちを刺激せずにすむのかもしれない。  ママ……とまた桃子が言った。ベッドシーツがこすれるような音がした。「桃子を助けて。お願いよ、ママ」  すすり泣きがそれに続いた。いとおしさがこみあげた。私は自分の身体を両腕でくるみ込んだ。桃子の気持ちが痛いほど理解できた。悟郎だったら、こんな時、どうするだろう、と考えた。やはり、ドアを開け、中に入って淋しがって泣いている彼女の小さな身体を抱きしめ、なだめ、寝入るまでそばについていてやろうとするだろうか。  私は家の外の物音に注意を向けた。悟郎が運転して帰って来る時に必ず聞こえてくる車のエンジンの音は聞こえず、梢《こずえ》を揺さぶって激しく吹き荒れる風の音がするばかりだった。  悟郎の代わりを勤めなければならない、と私は思った。桃子が求めているのが、死んだ母親であったとしても、そして彼女の前で自分がどれほど無力な役立たずの人間であったとしても、今、彼女をなだめてやれるのは自分しかいない。そう思った。  私は軽くドアをノックし、出来るだけ静かにドアノブを回した。スタンドの小さな電球の明かりがぼんやりと室内を照らし出している中、ベッドの中で桃子が泣くのをやめた。そして、首をめぐらせて、むくんだ顔を私のほうに向けた。 「桃子ちゃん」私はやさしく呼びかけた。「泣いてるのね。風の音がこわいの?」  桃子は応《こた》えなかった。布団《ふとん》の中でもぞもぞと両足を動かすと、彼女は身体を海老《えび》のように丸め、私に背を向けてしまった。  私は後ろ手にドアを閉め、桃子のベッドの脇《わき》に膝をついて布団の乱れを直してやった。 「しばらくここにいてあげる。安心して眠っていいのよ。いい子ね。桃子ちゃんが眠ってしまうまで、ここにいる。だから……」  桃子の寝乱れたおかっぱ頭が、わななくように震え始めた。それと同時に、花模様のネル地のパジャマを着た偏平な背中が、嘔吐《おうと》する時のように大きくせり上がった。  低い嗚咽《おえつ》があたりに響きわたった。 「ママ……」桃子は押し殺した声でつぶやいた。「ママ、ママ……」  布団のへりがかすかに波うった。そしてそこから、白い柔らかな毯《まり》のように見えるものが顔を覗《のぞ》かせた。ララだった。桃子の両腕の中にしっかりと抱かれていたララは、むっくりと頭を上げ、大きな緑色の目を開けて私を一瞥《いちべつ》した。  私とララの視線が一瞬、交錯した。だが、ララはすぐに私に興味を失った。ララは桃子の首に太い足を置き、目を細めて彼女の顔を舐《な》め始めた。  ママ……と桃子はララを抱き寄せたまま繰り返した。ララは息苦しさから逃れるように、一瞬、身体を突っ張らせたが、逃げ出す素振りは見せなかった。長い桜色の舌が桃子の鼻や頬《ほお》、首すじを舐め回し、桃子はそれに甘えるようにいっそう強く猫を抱きしめた。  私は何か言いかけて、口をつぐんだ。猫を母親代わりにして甘えている桃子の後ろ姿が、成長しすぎた大きな子猫のように見えたからだ。  あの時、桃子が人間に見えていたら……二年前に母親を失い、木枯らしの夜に飼い猫を抱いて泣いている淋しがり屋の少女に見えていたら……私はただ、哀れに思って涙ぐむだけだったかもしれない。だが、おかしなことに私にはどうしても、その時の桃子が人間には見えなかった。  桃子は子猫だった。助けを求めて母猫の柔らかな腹に顔を埋《うず》め、泣き続ける、人間の形をした子猫だった。  いっぽう、ララは、母猫が子猫をなだめるように桃子を舐め続けていた。桃子にぬくもりを与え、桃子の苦悩を慰めようとしていた。ざらついた桜色の舌が、傷ついて戻って来た子猫を必死で舐め続ける母猫の舌のようにピチャピチャと湿った音をたてた。  私の中に何かがふくれあがり、やがてこらえきれない衝動となって爆発した。私はベッドの上に被《おお》いかぶさるようにしながら、猫と桃子とを腕の中にかき抱いた。猫は身体を硬くし、桃子は驚いたように泣きやんだ。警戒心と好奇心の混ざった四つの瞳《ひとみ》が、薄闇の中でまっすぐ私に向けられた。  私は何も言わなかった。私は黙ったまま、桃子の頬を撫《な》でてやり、ララの頭を撫でてやった。硬くなっていた猫の身体が次第に柔らかくなった。猫は喉《のど》を鳴らし始めた。  私の頬に桃子の吐息が触れた。私は桃子の頬を撫でてやった。桃子は気持ちよさそうに目を閉じた。三つの呼吸が布団のへりのあたりで一つに交わり、小さな暖かな空間を作り出した。  ララは喉を鳴らしながら、私の指を舐め始めた。ララにそんなことをされたのは初めてのことだった。人見知りをする猫ではなかったが、ララには頑《かたく》なな習性があり、私のみならず、桃子以外の人間の手を舐めることは決してなかったのである。  桃子は目を丸くして私を見た。私は桃子に微笑みながら、そっとララの豊かな白い腹に顔をつけてみた。ララは身動きひとつしなかった。羽毛のような感触が頬をくすぐり、日向《ひなた》の匂いのするぬくもりが私を包んだ。そうしていると、ゴロゴロと喉を鳴らす音は、母体の心音のように聞こえた。私は自分が胎児になったかのような錯覚を抱いた。 「ママよ」しばらくたってから桃子がかすれた声で言った。  そうね、ママね、と私は言った。そして猫に向かって「ママ」とつぶやいてみた。猫は白い腹を私と桃子に差し出したまま、欠伸《あくび》をし、桃子と私の顔を交互に舐め始めた。  その晩、私は桃子のベッドで桃子とララと一緒に眠った。ベッドは暖かく、優しくて、このうえなく安全だった。よほどぐっすり寝入っていたのだろう。悟郎が帰って来た物音にも私はまるで気がつかなかった。  朝起きてみると、ララはもういなかった。子供部屋のカーテンに、風のおさまった穏やかな朝の光が満ちていた。私と桃子はベッドの上で寝起きの顔をつきあわせながら、共犯者同士のように微笑み合った。  憎郎には私たちが一緒に眠ったことは喋《しゃべ》らなかった。朝食の席で、私と桃子とが、いつになくなれなれしく微笑み合っているのを見て、悟郎は怪訝《けげん》な顔をした。 「おいおい」と彼はおどけて言った。「わが家の女王様とその家庭教師の先生は、今朝はばかに御機嫌《ごきげん》がいいんだね。何かいいことがあったのかい?」 「別に」と桃子は大人びた口調で言い、私を見てくすっと笑った。私も笑い返した。 「女性軍は僕に秘密を待ったらしい。これは困るな。何といっても、この家では猫までがメスときてる。女性軍が結託すれば、僕は孤立無援だ」  悟郎はそう言って、桃子ではなく、私を見て大袈裟《おおげさ》に肩をすくめてみせた。  悟郎の中に、ある説明しがたいかすかな変調の兆《きざ》しを感じたのは、おそらくその時が初めてだったと思う。その朝の彼は、私がそれまで知っていたどんな彼よりも魅力的に見えた。前の晩は、相当、遅く帰って来たはずなのに、彼は睡眠不足の人のような赤い目はしていなかった。そればかりか、その顔はもぎたてのつややかな果物のようになめらかな光沢を帯びて輝いており、表情の中には、ふつふつと湧《わ》きあがる興奮がひそんでいるようにも見えた。 「コリツムエン……って何?」桃子が食パンにたっぷりバターを塗りながら聞いた。 「ひとりぽっち、ってことさ」悟郎は身を乗り出し、桃子に顔を近づけて言った。「誰も助けてくれない、ってこと」  彼は桃子のうなじを指で撫でた。桃子はくすぐったそうに笑いながら身をよじり、大きく口を開けてパンにかじりついた。「パパが毎晩、遅く帰るからそうなるのよ。早く帰ってくれば、ひとりぽっちにはならないわ。ねえ、雅代さん」  私は内心の動揺を悟られまいとして、せかせかと笑ってみせた。悟郎の口から、毎晩遅くなる理由を聞けると思ったのだが、彼は何も言わなかった。彼はタータンチェックの派手なガウンに包まれた背中を椅子《いす》の背にどしんと押しつけ、コメディアンか何かのように目を白黒させて、桃子を笑わせただけだった。  その日は土曜日で、桃子は午後になるとすぐに学校から帰って来た。私たちはテーブルに向かい合いながら、オムライスと味噌汁《みそしる》の昼食をとった。共犯者同士の笑みは、まだ続いていた。私たちはあまり喋らなかったが、時折、顔を見合わせては、微笑みを交わし合った。  食事が終わりかけた時、桃子がふとスプーンを置き、私に向かってぱちぱちと目を瞬《またた》いてみせた。 「雅代さん、麦畠《むきばたけ》に入ったことある?」  もちろん、ある、と私は言った。「でも、遠くまでは行ったことはないわ。迷子になりそうなくらい、広いんですもの」 「連れてってあげようか」 「麦畠に?」 「うん。私がついてれば迷子になんか、ならないから。私、全部、知ってるの。遠くまでだって行けるわ」  毎日の買物帰りに、いつも遠くから桃子とララの姿を見ていることは言わなかった。私は目を丸くしてうなずいてみせた。「案内してくれる?」 「いいわ」桃子は嬉《うれ》しそうに言い、待ちきれないといった様子で、食べかけのオムライスの皿をテーブルの向こうに押しやった。  晴れわたった小春|日和《びより》の午後だった。風が冷たかったので、私は桃子に赤いオーバーを着せ、首に白いマフラーを巻いてやった。  葉を落とした木々が針のように細い枝を伸ばしている雑木林を抜け、私たちは並んで麦畠の畦道《あぜみち》に出た。ララもすぐに後をついて来た。ララは元気いっぱいだった。畠の中から飛び出して来たと思ったら、またどこかに走って行き、いなくなったと思ったら、案山子《かかし》の蔭《かげ》から顔を覗かせたりする。そんなララを見ながら、私と桃子は大声で笑い合った。  ララがあまり遠くに走って行ってしまうと、桃子は声を張り上げて猫の名を呼んだ。「ララ! そっちに走って行ったら、井戸に落っこっちゃうわよ!」 「井戸?」私は聞いた。「こんなところに井戸があるの?」  うん、と桃子は誇らしげにうなずいた。「誰も知らない井戸よ。見たい?」  井戸なんて、本当はどうでもよかった。だが、私は童心にかえったようにわくわくしながら、「見たいわ」と言った。桃子が言うのなら、井戸だろうが、スズメ蜂《ばち》の巣だろうが、なんだって見に行くつもりでいた。  桃子は私の手を取った。「連れてってあげる」  私はしっかりと彼女の手を握り返した。前日の晩、降り続いた雨のせいで、道はどこもぬかるんでいた。水溜《みずた》まりの泥《どろ》の中に、十二月の弱々しい太陽が光の渦《うず》を作り、柔らかく反射して私の睫《まつげ》に虹色《にじいろ》のプリズムを描いた。  刈り入れの終わった麦畠は、でこぼことしたただの荒れ地のようになっていたが、そのせいで見晴らしは夏よりもよくなっていた。遥《はる》か彼方《かなた》に山並みのごとく拡《ひろ》がる米軍の居留区域が見えた。川久保家の白いフェンスと白い建物も、雑木林をはさんだ丘の上に、ぽつりと浮かぶ綿雲のように見上げることができた。  桃子と手をつないでいる、ということが、私を信じられないほど幸福な気持ちにさせていた。実際、私は幸福だった。それまで心を開いてくれなかった桃子が、その前の晩、初めて私と大の親友になってくれたのだ。  しばらく歩くと、背の低い灌木《かんぼく》の茂みが密生するあたりに出た。畦道はそこで終わっていた。茂みの向こうは人の手がつけられていない草ぼうぼうの空き地で、誰が乗り捨てたのか、錆《さび》ついた自転車が一台、動物の死骸《しがい》のように転がっているばかりだった。  桃子は私からそっと手を放し、小さな指で前方を指し示した。 「あれよ。あれが井戸なの」 「どれ?」 「あそこに立て札が立ってるでしょ。『井戸あり。きけん』って」  日当たりの悪い茂みの手前の、雑草に被われた部分に、一枚のひしゃげた立て札が立っているのが見えた。五十センチほどの長方形のその札は、雨ざらしになっていたせいか、文字は読みとりにくくなっており、遠くから見ると、ただの捨てられた看板にしか見えなかった。  私は札に近づき、おそるおそる雑草の中を覗きこんだ。直径一メートルほどの丸い穴が開いている。穴には金網が張りめぐらされ、金網の上には申し訳程度に板が打ちつけてあったが、板も金網も長い間、補修されていないらしく、ぼろぼろに苔《こけ》むしており、金網は腐って崩れかけていた。  水を汲《く》み上げるためのポンプもなければ、滑車台もない。石垣を張りめぐらせてあるわけでもなかった。かつて事故防止のために設置されたらしい囲い柵《さく》の跡はあったが、それらも風雨にさらされ、もはや大地に散らばる白骨同然に、雑草の中に埋もれてしまっていた。  野井戸と呼ぶものには違いなかったが、何のために掘られた井戸なのかは、わからなかった。戦前、付近の農家の人間が農作業のために掘った井戸だったのか。それとも、進駐軍が自分たち専用の飲料水を確保するために掘った井戸だったのか。  いずれにせよ、井戸はあまりに原始的だった。私は腐りかけた金網や板に注意しながら、そっと穴の中を覗きこんでみた。  穴の中は真っ暗で何も見えなかった。どのくらいの深さなのか、見当もつかない。 「深いのよ、ここ」桃子が私の後ろに来て言った。「いい? こうやって石を投げてみればわかるの」  彼女は地面に転がっていた小石を拾い上げ、崩れた金網の隙間《すきま》から穴の中に投げ入れた。私たちは耳をすませた。数秒後、地の底にある巨大なバケツに、石が当たって落ちるような音がした。  ほらね、と桃子は言った。「深いでしょう」 「もう水はないのね」私は言った。  ないの、と桃子は言い、大胆にも穴の縁に仁王立ちになり、腰に手をあてたまま中を覗きこんだ。「中はただの穴よ。カラカラに乾いてるの。でも、トカゲはいっぱい住んでるのよ。一度、ララがトカゲを見つけて、もう少しで穴に落っこちそうになったんだから」  今にも桃子が足をすべらせ、悲鳴をあげて井戸に落ちていきそうな気がして、ひやひやした。ここに落ちたら、運がよくても重傷を負うだろうし、打ちどころが悪ければ、即死してしまうに違いない。  だが、私は黙っていた。子供は決まって、危険な場所、罠《わな》がありそうな場所で遊ぼうとする。そんな時、大人に「危ない」と注意されることほど、うっとうしいことはないものだ。  桃子に、口うるさい大人だと思われたくなかった。私は桃子の保護者ではなく、桃子の一番の友達、桃子の下僕でありたかった。  私は精一杯、感心したように微笑んでみせた。「トカゲだけじゃなくて、いろいろな動物も住んでそうね。蝙蝠《こうもり》もいるかしら」 「さあ、蝙蝠は見たことない。いないんじゃないかな」 「パパにはこの井戸のこと、教えたの?」 「教えてない。誰にも教えたことないもの」 「桃子ちゃんだけが知ってる秘密の場所なのね」  そうよ、と桃子は胸を張った。そしてぴょんと身軽に井戸の縁から降りると、照れくさそうに近くにあった雑草をむしり取った。「雅代さんだけに教えてあげたんだから」  私は桃子以上に照れていた。教えてくれてありがとう、と私は言った。「ふたりだけの秘密ね」 「いけない。ララもこのことを知ってたんだ」桃子は晴れやかに笑った。「だからララと私と雅代さんだけの秘密」  私たちを遠くから窺《うかが》っていたララの長く美しい尻尾《しっぽ》が、畦道の向こうの草の中で揺れた。私と桃子は再び手をつなぎ、歩き出した。  私が再び井戸に行くのは、一年後のことになる。その後の一年間、私は一度も井戸には行かなかった。私の知る限りでは、桃子もまた同じだったと思う。  だから、桃子と私が連れ立って井戸に行ったのは、その時が最初で最後だったことになる。 [#改ページ] [#ここから3字下げ] 四 [#ここで字下げ終わり]  悟郎には多くの係累《けいるい》がいた。母親は悟郎が小学生だった時に死亡していたが、父親の妹弟たち……つまり悟郎の叔父や叔母は、函館のミツコの母親を除けば、全員、東京およびその近郊に住んでいた。また、悟郎には姉がおり、その人は結婚して逗子《ずし》に住んでいた。  彼らの多くは、絵か音楽か、映画制作、さもなくば翻訳関係の仕事に携わっており、いわゆる会社勤めの人間、商売をしている人間は一人もいなかった。  それらのことは悟郎の口から直接、聞かされたのではない。悟郎は親戚《しんせき》づきあいをすることが嫌《きら》いで、滅多に葉書も書かず、連絡を取り合っている様子もなかった。悟郎の親戚にどんな人間がいるのか、私に教えてくれたのは、ガーデンパーティーにやってくる客……噂話《うわさばなし》やゴシップがあれば生涯《しょうがい》、楽しんで暮らせるタイプ……の着飾った女たちである。 「芸術一家なのよ、川久保家って」と、或《あ》る中年女性は私に耳打ちした。かつて川久保幸吉の絵のモデルをしたことがある、というのが自慢の、けばけばしい身なりのその女性は、悟郎の係累について自分だけが何もかも知らされている、と言わんばかりの口調で、不器用に上品言葉を操ってみせた。 「お父上は今や世界に名を轟《とどろ》かせてるし、悟郎さんの叔父さまにあたる方は音楽家で、戦後、イタリアに行って声楽の勉強をしたことがおありだそうよ。それに、逗子に住んでらっしゃる悟郎さんのお姉様は、ご主人ともども、日本画をやってらっしゃるの。皆さん、インテリで、外国語もペラペラ。噂では、お父上の幸吉さんは、五カ国語が喋れるって話よ。まったく、川久保家ってのは凄《すご》いのよ。あなたも、ここに来て働けるなんて、幸せだと思わなくちゃ」  私は、そうですね、とうなずいてみせた。働いているつもりはない、自分は悟郎さんに絵の勉強をさせてもらってるんだ……そう言いたかったのだが、我慢した。悟郎が開くパーティーにやって来る客たちと、つまらないことで議論するつもりはなかった。それに、仮りに私が悟郎の叔母……函館のミツコの母親……と実の親子のように親しくしていた、という話をしたところで、客にしてみれば、やっぱり私はただの田舎くさいお手伝いにしか見えなかったろう。  上京して何カ月もたつというのに、化粧ひとつせず、新しいドレスの一着も買おうとしない田舎娘が、みんなの憧《あこが》れの的だった悟郎のまわりをうろちょろし、悟郎や桃子の身のまわりの世話をしているからといって、私のことを本気で気にとめようとする人間は、一人としていなかったと思う。私が絵の勉強をするために東京に出て来た、ということすら、川久保家に出入りする客の間では、いつしか忘れ去られていたに違いない。  悟郎が開くパーティーに招かれる幾多の女性たちの中には、およそ私のような経験不足の人間ですら見分けることができるほど、明らかに悟郎に首ったけと思われる女も何人かいた。女たちは悟郎に取り入ろうとして、時折、大胆な、きわどい冗談を言ったり、わざとらしく酔っぱらったふりして彼にしなだれかかったりしながら、抜け目なく悟郎の自分に対する気持ちを確認しようとしていたものだ。  それは時には、我慢ならないほど不潔に思える光景として私の目に映った。女たちは、桃子が見ている前でも、平気で悟郎に寄り添い、大きく開いた胸の谷間を見せつけながら、唇《くちびる》を尖《とが》らせて彼の耳に何事か囁《ささや》いたりした。  そんな時、冷静だったのは、私ではなく、桃子のほうだった。桃子は客の誰かが、父親に向かって媚《こび》を売り始めると、そっとカーテンを閉めるように瞳《ひとみ》を閉ざし、ララを抱き上げながら、ゆっくり家の中に入って行く。父親の悟郎が彼女を呼びとめても、振り返ってにっこりと笑顔を作るだけだった。  私はと言えば、煮えくりかえるほどの不潔感を覚えながら、それでも必死になって、無関心を装う努力をした。他の客に飲物やサンドイッチを運び、テーブルの上の灰皿を取り替え、てきぱきと、いつも通りに庭の中を動きまわった。  だが、そんな時、私の全神経は、鋭利な針になっていた。悟郎がどんな反応をするのか、悟郎が何を言うのか、一つ残らず、見逃したくなかった。私の耳は巨大なマイクロフォンだったし、私の目は巨大なレンズだった。  悟郎はたいていの場合、すべての女に平等に優しかった。それが私にとっての唯一《ゆいいつ》の救いだった。彼はわけへだてすることなく、誰に対してでも、同じような冗談を言い、同じような芝居がかった気障《きざ》なセリフを使い、同じようにさりげなく身体《からだ》をかわして、女の元から離れた。  とはいえ、彼は女から離れようとする時、一瞬、女の腰に手を回したり、肩を抱いたりしてやることを忘れなかった。それは悟郎一流のサービスだったに違いないが、そのサービスは私を常に嫉妬《しっと》させた。悟郎のしなやかな手が、たとえ一瞬であれ、女の肩や背中、腰のあたりを柔らかく愛撫《あいぶ》するように動きまわる時、私はぎゅっと目を閉じて、見てしまったものを視界から追い出そうとした。  だが、閉じた目の中で、悟郎の手の動きは奇妙な白い残像となっていつまでも残った。誰にも触れないでほしい、触れるとしたら、私だけにしてほしい、などと、とんでもないことを願いながら、私はその残像を深夜、瞼《まぶた》の裏に再現させて、結論の出しようのない嫉妬心と戦う羽目になった。  今から思えば、それがいかに他愛のない嫉妬心であったか、いかに、見当はずれの嫉妬心であったか、苦笑させられるところがある。私は後に自分が体験することになる、あの激しく惨《みじ》めな嫉妬心をそのころまだ知らずにいた。私の嫉妬は単なる想像の遊戯にすぎなかった。名前も知らない、厚化粧の女たちに言い寄られた悟郎が、彼女たちを面白そうにあしらっているのを見て、嫉妬すると同時に、彼の禁欲主義的な一面を発見し、それなりの甘い喜びに浸っていたのだと思う。  これだけははっきり言えるのだが、悟郎はどんな時でも、自分に言い寄ってくる女たちに隙《すき》を見せなかった。彼は女を眺《なが》め、女と視線を交錯させながら、女のことなど見てもいなかった。彼は何か別のものを見ていた。それが私ではなかったからと言って、何故《なぜ》、私が悲しく思う必要があっただろう。私は、悟郎が見ているものは、何か自分には理解しがたい、抽象的な世界なのだと信じていた。本当に、そう思い込んでいたのだ。  その人……小柴《こしば》千夏が、初めて川久保家に現れたのは、私が上京してから約一年後の四月のことである。土曜日で、悟郎は例によって午後から十名ほどの客を集め、庭でパーティーを開いていた。  会もたけなわになった午後三時ころだったろうか。悟郎は私を手招きし、「ちょっと駅まで行ってくる」と言った。  お買物ですか、と私は聞いた。ちょうどビールが足りなくなっていた時だったので、てっきり悟郎が駅前の酒屋まで行き、ビールを買って来るものとばかり思ったのだ。  だが悟郎は「違うよ」ときっぱり言い、「人を迎えに行かなくちゃならないんだ」とつけ加えた。「初めてここに来る人なんでね」 「それでしたら、私が行って来ます」私は張り切ってそう言い、つけていたエプロンをはずしにかかった。「なんていう名前の方ですか」  悟郎はさも可笑《おか》しそうに苦笑し、「いいんだよ」と言った。「車で迎えに行くと約束したんだ。それとも雅代ちゃん、きみ、僕の代わりに車の運転をしてくれるのかい?」  まさか、と私は目を丸くし、首を横に振った。悟郎は再び晴れやかに笑った。「すぐに戻るよ。それはそうと、桃子はどこに行ったのかな」  桃子はララを連れて麦畠に遊びに行っていた。私がそう伝えると、悟郎は安心したように頷《うなず》き、そのまま踵《きびす》を返してガレージのほうに歩いて行った。  おかしな話だが、私は悟郎が迎えに行ったのは男の客だと思い込んでいた。初めて自宅に招く客……しかも、年輩の男の客だからこそ、悟郎は礼を尽くして、わざわざ駅まで車で迎えに行ったのだろう、と思っていた。  だから、千夏が、あのクリーム色の美しいドレスを着て、優雅に悟郎の車から降り立った時、私は目を疑った。おそらく、その時グラス類の載った盆を手にしていたら、グラスの一つや二つ、盆から落として割ってしまっていたかもしれない。  とびきりよく晴れた日だった。春の午後の柔らかな日差しを浴びながら、彼女は細く尖《とが》ったクリーム色のハイヒールを軽やかに地面に降ろし、少女のように無邪気な微笑を浮かべて悟郎のほうを振り返った。  素敵なおうち。なんて素敵なの。彼女がそう言うのが、庭にいた私の耳に届いた。鈴を鳴らした時のような弾みのある、澄んだソプラノの声だった。  それが作り物の声のように聞こえたのは、おそらく彼女自身、頭の先から爪先《つまさき》まで、何もかもが作り物のような印象を与える女だったせいもあるかもしれない。  彼女は映画雑誌のグラビアに出てくる外国の女優のようだった。あるいは、こんな比喩《ひゆ》は平凡すぎるかもしれない。だが、私はその時、本当にそう思ったのだ。  耳の下あたりで大きくカールされた焦《こ》げ茶《ちゃ》色の柔らかそうな髪。ピンク色の口紅が塗られたふっくらした唇。細くて長い形のいい眉《まゆ》。日本人離れしているとしか言いようのない黒い大きな目。適度にしゃくれた小さな顎《あご》。  彼女は美しかったには違いないが、それ以上に、可愛《かわい》らしくもあった。年齢を推し量るのは難しかったが、おそらく二十五、六だろう、と私は思った。実際、あの時、千夏は悟郎と同じ三十歳だったわけだが、若々しく、弾むような足取りと、何事にも興味を持ち、笑顔と驚きを絶やすまいとするその表情の豊かさは、明らかに彼女を年齢よりも若く見せていたと思う。ただ一点だけ、すべての動作、すべての表情がどこかしら作り物めいて見えることを除けば、彼女は完璧《かんぺき》な女優……しかも国籍不明の……だったし、どこから見ても、非の打ちどころがなかった。  彼女のウエストは驚くほど細かった。そのウエストの細さが、吐き気がするほど締め上げられたコルセットのせいでないことは、一目でわかった。幾重にもギャザーがつけられたスカートのふくらみから伸びている足がもし太かったら、私は彼女のウエストが細いことを人工的なものと判断して、馬鹿《ばか》にしていたかもしれない。  そう。彼女はさながら、バービー人形のようだった。細いウエストの上に形よく盛り上がった二つの乳房は、ドレスの中にぴたりと収まっており、布地がその乳房の動きに合わせて、伸縮を繰り返していくのが、はっきりとわかった。品よくV字型にカットされた襟《えり》は、一分の隙も狂いもなく、正確に彼女の肉体をなぞっているように見えた。  車から降りて来た悟郎は、彼女をエスコートするようにぴたりと隣に寄り添い、庭にいた客たちに大きく手を振り上げた。驚きと称賛と溜め息と、そしてほんの少し悪意の混じったひそひそ声とが、庭全体に彼のように拡がった。 「いったい全体、その美女は誰なんだい」しょっ中、川久保家を訪れていた悟郎の親しい友人が大声で聞いた。「掃き溜めにツル……って感じじゃないか」 「ひどいわね」居合わせた女性客の一人が笑いながら眉をしかめてみせた。「あたしたち、どうせ、掃き溜めですよ」  別の女性客が、しげしげと悟郎を眺め、腕組みをして感心したように言った。「どこに行ったのかと思ったら、美女をお迎えに行ってたってわけか。川久保悟郎はやっぱり、すみにおけないわね」 「よう、プレイボーイ!」男たちが口々にからかった。「なんでもいいから、早く、その美女を紹介しろよ」  悟郎は別段、照れる様子もなく、バービー人形のような女性を人の輪の中心に立たせ、「小柴千夏さんだ」と紹介した。「僕の友人だよ」 「友人?」誰かが素《す》っ頓狂《とんきょう》な声をあげた。「便利な言葉があるもんだ。秘密の関係もみんな友人ですませられる」  悟郎はくすくす笑った。何か弁解めいた言葉を期待していた私は、悟郎が次に何を言うのか、ドキドキしながら彼を見守った。だが、彼は何も言わなかった。  男客の一人が、千夏のために飲物を取って来た。千夏は「ありがとう」と短く言ってビールの入ったグラスを受け取り、それを人々に向かって軽く掲げてみせた。長い睫《まつげ》が、細めた目に緩やかな弧を描いた。恥じらいも戸惑いもない、自信たっぷりの、それでいて、不気味なほど厭味《いやみ》のない表情が、小作りの可愛らしい顔に拡がった。居合わせた者は、悟郎と千夏を交互に眺めまわしながら、どこから会話の口火を切ったらいいのか、考えあぐねた様子で、ただ、にこにこと微笑《ほほえ》んでいた。  もともと悟郎の友人たちには、他人の関係を詮索《せんさく》しない、という都会人特有の利点があった。詮索する時は、常に冗談の形がとられる。ひと通り、形式的な挨拶《あいさつ》のような詮索ごっこが済んでしまうと、もう何事もなかったかのように、新しい仲間を受け入れる……といった具合だったのだが、その時もまったくその通りだった。  誰かが……確か、女性客だったと思うが……千夏の着ていたドレスの素晴らしさを褒《ほ》め、それをきっかけにして、まず女どうしの他愛のない話に花が咲いた。千夏は何を聞かれても、率直にそれに答えた。ドレスをあつらえた店のことや、素敵なデザインが載っている服飾雑誌のこと、生地《きじ》の値段がいくらだったか、ウエストを細く見せる方法、に至るまで、初対面の人間たちを相手に話をしているとは思えないほど、あけすけだったが、誰もが彼女の話にひき込まれ、誰もが、彼女の華やいだ表情にうっとりしているのはひと目でわかった。  悟郎の友人たちが、一人残らずさばけた自由主義者だったせいか、それとも、千夏自身が西洋ふうの社交を心得ていたせいか、千夏が川久保家の招待客たちと、十年来の仲間どうしのように打ちとけるのに、ものの十五分もかからなかった。私は今でも、あの川久保家の広い芝生の庭で、午後の長い日差しを浴びた千夏が、客たちと冗談を飛ばし合い、笑い、アメリカ人がやるように大きく肩をすくめたり、身振り手振りを加えて、何か楽しいエピソードを紹介している光景を忘れることができずにいる。  千夏の回りには、金色に光るオーロラが輝いていた。千夏のような女性を見たのは初めてだった。彼女は躍動的で、子鹿《こじか》のように何に対してでも興味を持ち、誰彼かまわず、弾《はじ》けるような笑顔を振りまいたが、同じ表情を十秒続けていることはなかった。彼女の顔は、不思議なほど微妙な変化を繰り返した。そう。それはまるで、小刻みに揺れる湖面に映し出された顔のようだった。  私は目をこらして彼女固有の表情を見出《みいだ》そうとしたが、無駄《むだ》だった。おかしなことに、未《いま》だに私の中に蘇《よみがえ》る小柴千夏の面影《おもかげ》は、絶えず変化し続けている。笑っている千夏。淋《さび》しげに遠くを見つめる千夏。不機嫌《ふきげん》な千夏。男を誘うように目を細めてみせる千夏。怒っている千夏。小賢《こざか》しく頭を働かせている時の千夏。そのどれもこれもが、別人のそれのように、統一性を欠いている。  千夏はそんな女だった。彼女が作り出す表情の数々は、いかようにも変化しうる、儚《はかな》い夢の中の表情に過ぎなかった。十枚の写真を撮ったとしたら、十枚が十枚とも、まったく異なった千夏を映し出したに違いない。それが彼女だったし、それが彼女の魅力だったのだ。  彼女の魅力がどこにあるのか、私は最後までよく理解できなかったが、今になっても、結論が出ないままでいる。彼女は自分の中にある核のようなものを決して他人には見せなかった。本心を隠すために、魅力的な演技の数々を披露《ひろう》し続けることのできる人間は、たいてい、どうしようもなく他人を眩惑《げんわく》してしまうものだが、まさしく小柴千夏はそんな女だった。彼女と接する人間は、間違いなく、彼女の魅力に降参した。魅力は、それ自体、説明不可能な輝きであると言える。誰もが……悟郎ですら……千夏がどんな人間なのか、分析しようと試みたことだろうと思う。そして、悟郎を含めた誰もが、千夏が実際に何を考え、何を求めて生きていたのか、最後までわからなかったに違いない。  千夏を中心に会話の輪ができてしまったので、悟郎は手持ちぶさたの様子だった。彼はそれまでかかっていた電蓄のモダン・ジャズのレコードをエディ・フィッシャーのレコードに替えた。『オー・マイ・パパ』の甘ったるいメロディーが庭いっぱいに流れ始めた。  私はそっと彼の傍《そば》に近づいた。居間のテラスの白いデッキチェアに座っていた彼は、私のために空いている椅子《いす》を勧めた。私は礼を言って、そこに腰を下ろした。 「きれいな方ですね」私はできるだけあっさりと聞こえるように言った。「先生のお客様の中でも、一番きれい。びっくりしました」  彼は煙草《たばこ》に火をつけた。煙を避けようとして眉をひそめるその仕草は、どこかしら、湧《わ》き出てしまう感情を隠すためのもののように思われたが、あるいは錯覚だったかもしれない。 「あの方、女優さんか何かなんでしょうか」私は好奇心にかられた女学生のような口振りで聞いた。  悟郎はゆっくりと煙を吐き出しながら、「違うよ」と言った。「皆がそう言うけどね。違うんだ。彼女は女優もモデルもやったことがない。通訳だったんだよ。進駐軍のね」 「通訳?」 「そう。といっても、進駐軍相手に片言の英語を喋《しゃべ》ってたわけじゃないんだよ。彼女は津田塾《つだじゅく》女子大に行った才媛《さいえん》でね。在学中から本格的な通訳の仕事を一手に引き受けてたんだよ。今は外人相手に観光ガイドのような仕事をしてるけど」 「独身……なんですか」  彼は目を細め、ふと私のほうを見た。「そうだけど、どうして?」 「いえ、何でもありません」私は不器用に笑った。「結婚してらっしやるのかな、と思っただけ」  彼は別段、不審そうな顔もせず、私から目をそらした。彼の視線が、庭で笑いさざめいている千夏のほうに向けられた。彼の目に、束《つか》の間《ま》、切ないような光が浮かんで消えた。  私はつけていたエプロンの裾《すそ》を握りしめながら、次の言葉を探した。「あんなにきれいな方なのに、独身だなんて、不思議ですね」 「亭主に死なれたのさ」悟郎は、視線を千夏からはずし、ふふっ、と笑って、煙草の灰をテラスに落とした。いろいろな意味に受け取れる笑いだった。皮肉、諦《あきら》め、意地悪、単なる愛想笑い……。 「元の亭主はアメリカ人だったんだよ。雅代ちゃんにも、この意味はわかるだろう?」  戦争花嫁という言葉が浮かんだが、あたっていないような気がした。私は黙っていた。 「よくある話さ」と悟郎はまたしても、曖昧《あいまい》に微笑んだ。「進駐軍相手に通訳の仕事なんかしてると、必ず色恋が絡《から》んでくる。彼女が熱をあげた相手は将校だった。なかなかのハンサムだったよ。そのうえ、殺しても死なないような頑丈《がんじょう》な男だった。二人は小説や映画にあるみたいな熱烈な恋をして、彼の郷里だったアメリカの地方都市に移り住んだ。でもね、その男、二年前に、ぽっくりと死んでしまったんだよ」 「そうだったんですか」私は小声で言った。「それで日本に戻って来たんですね」 「そういうこと」 「じゃあ、先生とは、ずいぶん、古くからのお知り合いだったんですか」 「そりゃあ、古いよ」悟郎は何が可笑しいのか、げらげらと笑った。「古すぎてカビが生えそうだ」  私は自分でも呆《あき》れるほど子供だった。千夏と悟郎が古くからの知り合いであり、千夏が未亡人だと知った瞬間、私は悟郎が千夏をパーティーに招いたのは、単なる友情……一人ぽっちで淋しがっているであろう古い女友達を元気づけるためだったに違いない、と信じ込んだ。恋はすべて初対面の人間を相手に生まれるものであり、古くからの友人同士が恋をしあう、ということなど、ありえないと信じていた自分のおめでたさは、今から思い返してみても赤面するほどだ。  私はそれ以上、千夏に関する質問をするのをやめた。詮索好きの娘だとして、悟郎にうっとうしく思われたくなかったせいもある。  桃子がララを抱きながら、庭に入って来るのが見えた。次の話題をどう切り出せばいいのか、戸惑っていた私は、半ばほっとしながら、「桃子ちゃんだわ」と言って立ち上がった。「先生。桃子ちゃんが帰って来ましたよ」  悟郎はうなずき、吸っていた煙草をテラスの上で踏みつぶした。客たちが、桃子の姿を見つけ、口々に「桃子ちゃん」と声をかけた。だが、桃子は振り向きもせず、まっすぐ前を向いたまま、急ぎ足で悟郎と私の元に駆け寄って来た。ボタンをはめていないピンク色のカーディガンがリズミカルに揺れ、その振動で、ララが彼女の腕から白い毛糸玉のようになって、芝生の上に転げ落ちた。 「ほら、見て、パパ。畠《はたけ》の畦道《あぜみち》に、シロツメ草がこんなにいっぱい咲いてたのよ」  桃子は弾んだ息の中で、束にしたたくさんのシロツメ草を父親に差し出した。ほう、と悟郎は目を輝かせた。「もうそんな季節になったんだな」 「ララったら、お花の中で転げまわるの。お腹《なか》を見せて、ごろごろするのよ。おかしかった」  桃子はくすっと笑い、テラスで身体を舐《な》め始めた猫《ねこ》のほうを見つめた。悟郎は目を細めて桃子を見下ろしたが、その目に、何か落ち着かない緊張のようなものが一瞬、走ったのを私は見逃さなかった。 「ねえ、桃子」と悟郎はゆっくりと中腰になりながら、娘の両腕に手を回した。「桃子に紹介したい人がいるんだけど、会ってくれるかな」 「だあれ?」桃子は半ば、うわの空で手にしたシロツメ草の匂《にお》いを嗅《か》いだ。悟郎はわざとらしく、娘と一緒になって、花に顔を寄せ、くんくんと音をたてて匂いを嗅いだ。桃子は可笑しそうにくすくす笑った。 「パパのお友達なんだよ。初めてパーティーによんだんだ」  そう、と桃子はちらりと悟郎を見上げた。桃子特有の、疑わしげな、それでいて無関心を装おうとする上目づかいの視線が、父親をまっすぐ刺し貫いた。  悟郎はいつもの悟郎らしからぬ、かすかな動揺、かすかな狼狽《ろうばい》のようなものを見せたが、それは私にしかわからなかったかもしれない。彼はすぐにいつもの彼に戻り、わざとらしく聞こえるほど大きな声で千夏の名を呼んだ。千夏ちゃん……と彼は言った。「ちなつちゃん」とは聞こえなかった。私の耳には、「ちなっちゃん」と聞こえた。ちなっちゃん……それは、口にした途端、なめらかなゼリーのように舌の上に転がる、慣れ親しんだ名前、習慣づいた呼び方のように思えた。  それまで庭の中央で、二、三の男を相手にしながら、時折、興味深そうにこちらを窺《うかが》っていた千夏は、悟郎に呼ばれると、ゆっくりした足取りでテラスに上がって来た。これから起こることをすべて予期していたような、彼女のその落ち着いた動作は、悟郎とあまりにも対照的だった。 「紹介するよ」と悟郎は気の毒なほど顔を強張《こわば》らせ、むやみと両足をテラスの上で動かしながら千夏に向かって言った。「桃子だ」 「はじめまして」千夏は中腰になりながら桃子に微笑みかけた。「パパのお友達の小柴千夏です。よろしくね」  華やかな微笑が、千夏の顔いっぱいに拡《ひろ》がった。あんまり華やかすぎて、桃子が手にしていたシロツメ草の花がかすんで見えたほどだ。  彼女は桃子が何か言ってくれると思ったらしく、じっと我慢強く、桃子に向けて笑顔を作り続けた。だが、桃子はかすかに唇の端をお愛想程度に曲げただけで、何も言わなかった。 「桃子、挨拶はしないのかい?」悟郎は軽く桃子の肩を抱き寄せた。「お行儀が悪いぞ」  桃子は父親を見上げ、意味もなさそうに自分が手にしていたシロツメ草を見つめると、淡々とした口調で「こんにちは」と言った。それは誰の耳にも、警戒した小動物が発する、一種の唸《うな》り声のようにしか聞こえなかった。だが、千夏は意に介した様子もなく、桃子の肩にそっと手を置いた。 「きれいなお花ね。どこに咲いてたの?」 「麦畠よ」桃子は低い声で言った。  麦畠? と千夏は聞き返した。「そうよね。このあたりは麦畠で囲まれてるんですものね。いつも、麦畠では何をして遊ぶの?」  桃子は口をへの字に曲げ、「いろいろ」とだけ答えた。 「いろいろ、って何? お友達とおままごとをするの? それともかくれんぼかしら」  桃子は冷やかに鼻を鳴らし、「何もしないわ」と吐き捨てるように言った。  悟郎がその場をとりなすように、豪快に笑った。「おかしな奴《やつ》だなあ、桃子も。何をそんなに緊張してるんだい?」 「緊張なんかしてないわ」桃子は吐き捨てるようにそう言うと、くるりと千夏に背を向け、私のほうにやって来た。ねえ、雅代さん、と彼女は不自然にかん高い声で言った。「シロツメ草で首飾りを作ろうか。桃子、首飾りを作るのがうまいのよ」  その時、悟郎と千夏の顔に浮かんだ一瞬の当惑を、私はどれほど意地悪い勝利の感覚と共に味わったことだろう。桃子は千夏に何の興味も示さなかったどころか、ほとんど無視したのだ。そして私のところにやって来た。桃子と親しいのは自分だけなのだ。悟郎以外、誰も桃子と親しくなんかなれない。そんな思いが、いっそう私を勝ち誇った気持ちにさせた。  私は桃子に手渡されたシロツメ草をテラスのデッキテーブルの上に置き、電蓄から流れてくる音楽に合わせて鼻唄《はなうた》を歌いながら、花の首飾りを作り始めた。すごいのね、雅代さん、と桃子は歓声をあげた。「首飾りを作るのが、うまいのね」 「明日は縄飛《なわと》びを作ってあげる」と私は言った。「素敵な縄飛びができるわよ」 「縄飛び? 縄飛びなんかもできるの?」 「できるわ。ただし、桃子ちゃんにも手伝ってもらわなくちゃ」 「手伝うわ。ねえ、何時ごろから始める?」 「御飯を食べたら、すぐ。いい?」 「いいわ、もちろん」  悟郎はその場の気まずい空気をなんとかして緩和しようとしたらしく、慌《あわ》てた様子で私のことを千夏に紹介し始めた。千夏は桃子に見せた微笑みと何ひとつ変わらない華やいだ顔つきをしながら、私に向かって優雅に会釈《えしゃく》した。 「よろしく。小柴千夏です」 「こちらこそよろしくお願いします」私は立ち上がり、形ばかり会釈を返した。  千夏は悟郎と、秘密めいたように感じられる視線を交錯させた後、私に向かって訊《たず》ねた。「桃子ちゃんの家庭教師の先生なんですってね。悟郎さんから伺ってるわ。あの……ご出身はどちら?」  悟郎が私のことを桃子の家庭教師としてしか千夏の耳に入れていないことが、意味もなく私を不愉快にさせた。「函館です」と私は花の首飾りを作る手を休めずに言った。あら、同じ北海道だったの、と千夏はわざとらしく驚いたように言った。「私は小樽《おたる》で生まれたのよ。ねえ、悟郎さん」 「そうだったな。二人とも港町生まれってことになる」  私は悟郎をちらりと見た。悟郎は私を見ずに、千夏の横顔を見ていた。  千夏は私と桃子とを交互に見比べるようにしながら、桃子の冷淡さなど子供にありがちなことだ、とでも言わんばかりに、「じゃあね、桃子ちゃん」と陽気に言った。「首飾りができたら、私にも見せてね」  桃子は聞こえなかったふりをして、私がシロツメ草を紡《つむ》ぐ手を見つめていた。  その日、夕方になって客が帰った後も、千夏は川久保家にひとり居残った。いつもは私が夕食の買物に出かけることになっていたのに、悟郎は千夏を車に乗せて、二人で駅前まで肉を買いに行った。  ビフテキは悟郎が焼いた。夕食の席で、悟郎と千夏は饒舌《じょうぜつ》だった。だが、二人が桃子のことをたいそう気づかっているのだ、ということは理解できた。彼らは、自分たちが話題にしている話の内容をわかりやすく桃子に向かって説明し、桃子がほんの少しでも笑うと、いかにもほっとした、といった様子で、互いに顔を見合わせ、聞こえない程度の溜《た》め息《いき》をついた。  食事が終わって、デザートになると、悟郎は千夏に何枚かのお気にいりのレコードをかけてやった。千夏は悟郎相手にアメリカでの体験を喋り続けた。ほとんどが、取るに足りない冗談話だった。悟郎は陽気に笑い、時折、桃子と私に向かって、まるで千夏の話を通訳するかのように、同じことを喋って聞かせた。私は形ばかり笑ったり、感心したりしてみせたが、桃子は黙ったままだった。  小一時間ほどしてから、千夏は名残り惜しそうにハンドバッグに手を伸ばした。 「楽しかったわ」彼女は本当に楽しそうにそう言い、私や悟郎や桃子が見ている前で、コンパクトを取り出し、白粉《おしろい》を塗り直した。そして、塗り終えると、しみじみとした顔をしながら、桃子を見つめた。 「もっと遊んでいたいけど、もう帰らなくちゃ。また遊びに来るわね、桃子ちゃん」  桃子は、ふふっ、と大人びた含み笑いをし、傍に寝そべっていたララを抱き上げた。きれいな猫ね、と千夏は言った。その日、千夏がララに関心を持ったのは、それが初めてだった。「なんていう名前?」 「ララ」  そう、と千夏はうなずき、「ララ」と猫に向かって呼びかけた。縁もゆかりもない他人の赤ん坊の名を呼ぶ時のような、儀礼的な呼び方だった。桃子はララを強く抱きしめ、猫の口に自分の唇《くちびる》を押しつけた。ララは桃子の口のまわりをぺろりと舐めた。 「桃子の一番の友達なんだ」悟郎が言った。「いつも猫相手に遊んでるんだよ」 「学校でのお友達とは遊ばないの?」 「どうなんだい? 桃子」  父親に質問された桃子は、きっぱりと首を横に振った。 「だめだめ」千夏は人さし指を立て、車のワイパーのように桃子の前で左右に揺らした。「お友達は大勢、作らなくちゃだめよ、桃子ちゃん。猫をお友達にするのはかまわないけど、人間のお友達もたくさん作らなくちゃ」 「ララがいるわ」桃子はかすれた声で異議を唱えた。「ララがいるから、いいじゃないの。お友達なんて、いらないもん」  そしてそう言うなり、彼女はララを抱きしめたまま、駆け足で自分の部屋に引き取ってしまった。 「気にさわったのね、きっと」千夏は軽く溜め息をついた。ショックを隠せない言い方だった。「悪かったわ。悟郎さん、後であやまっておいて」 「明日になれば、忘れてるさ」悟郎は朗らかに言い、千夏の腕を取った。「さあ、行こうか。駅まで送るよ」  千夏はうなずき、立ち上がった。私は二人を玄関まで見送りに行った。車に乗るために車庫に入った二人が、どんなふうに寄り添い、どんなふうに互いの身体に触れるのか、確かめたかった。私はそっと玄関から外に出て、暗がりに潜んだ。だが、車庫の中は暗すぎて、何も見えなかった。  千夏を車で駅まで送り届け、戻って来た悟郎は、すぐに台所にやって来た。そして、桃子が食べ残したデザートの苺《いちご》をぽいと口に放《ほう》り込むと、流しで洗い物をしていた私に声をかけた。 「今夜はすまなかったね」 「どうしてですか」 「千夏ちゃんを夕食に招待するつもりはなかったんだが、なんとなく、なりゆき上、そんな形になってしまった。それならそうと、きみにあらかじめ教えておくべきだったと思って」 「いいんです。そんなこと」私はうつむいたまま、洗い物を続けた。  悟郎は咳払《せきばら》いをした。「彼女が言ってたよ」 「は?」私はそっと振り返った。 「きみのこと、なかなかチャーミングな人だ、って」  それが悟郎の精一杯の私に対するお世辞であり、突然、見知らぬ女に夕食をふるまって、私の一日の予定を狂わせたことに対する陳謝の言葉である、と知っていながら、私は意に反して赤くなった。 「からかわないでください、先生」私は小声で言った。「あんなきれいな方にそんなふうに言われると、かえって自信をなくします」 「雅代ちゃんが自分に自信がなかったら、他の若い女はみんな、自分に自信がないことになる。きみは彼女が言う通り、チャーミングだよ。お化粧も何もしないで、それだけきれいでいられるのは難しい」  この人は私に向かって、単なる礼を言おうとしている。千夏という人に対する気持ちをさらしてしまったために、照れ臭くなって、私に対して何か償いをしようとしている。そう思うと、むしょうに腹が立ってきた。  私は黙ったまま、乱暴に水道の蛇口《じゃぐち》を閉め、布巾《ふきん》で食器を拭《ふ》き始めた。悟郎はしばらくの間、台所に立っていたが、やがて「どうしたんだろう」ととぼけた口調でつぶやいた。「今夜の女性軍は、みんな機嫌が悪いようだな。桃子やララまでが、なんだか、僕を避けている」  私はそれには応《こた》えず、つと彼を振り返って聞いた。「お風呂《ふろ》、お入りになりますか」  ふふ、と悟郎は可笑《おか》しそうに笑い、つけ加えた。「怒ったついでに風呂のことを聞くなんて、二十年間連れ添った女房みたいだな」  私は一瞬、身体を硬くした。彼は笑いながら、「風呂はいらないよ」と言った。「今夜は垢《あか》にまみれて眠ることにしよう」  私は黙ったまま、彼を見つめ返した。彼は二つ目の苺を頬張《ほおば》ると、「おやすみ」と言って片手をあげた。「雅代ちゃんも、後片付けなんかしなくていいから、ゆっくりおやすみ」  その夜、私は千夏が悟郎と手をつなぎ、深い森の奥へ奥へと入って行く夢を見た。悟郎は私と桃子のほうを向いて、しきりと手を振る。桃子がぷいとそっぽを向き、私の手を取る。「ねえ、雅代さん。シロツメ草で縄飛びを作りましょうよ」  遠くから、かすかに悟郎の声がこだまする。「二十年間、連れ添った女房みたいだったのは、きみのことじゃないんだよ。誤解しないでくれ」  千夏の哄笑《こうしょう》が森の中で響きわたる。森は黒々としていて、膨大な数のカラスが千夏の笑い声に合わせて舞い上がる。  雅代さん、雅代さんたら。桃子の声がする。縄飛びを作りましょうよ。  私は桃子の手を握り返し、森に背を向ける。パパが連れて行かれたわ。私がそう言うと、桃子は大袈裟《おおげさ》に肩をすくめる。「いいじゃない。私があとで、パパを連れて帰るから」  どうやって? どうやって連れて帰るの。  おばけ殺しをしたらね、と桃子は大人びた声で言う。あれはおばけなの。千夏なんていう名前じゃないのよ。  桃子の声が軋《きし》み始め、幽霊のような声になる。あれはおばけなの。千夏なんていう名前じゃないのよ。あれはおばけなの。あれはおばけなの。  私は叫び声をあげ、ベッドの上に起き上がった。その晩は、それ以後、一睡もできなかった。 [#改ページ] [#ここから3字下げ] 五 [#ここで字下げ終わり]  千夏は翌週から、週に一度は必ず、川久保家を訪ねて来るようになった。来るのはたいてい土曜日の午後で、みんなで夕食を食べ、八時過ぎに帰って行くのが常だった。  千夏が来る日は、悟郎は朝からそわそわし、家の中の片づけものをしたり、買物に出たり、いっときもじっとしていることがなかった。そして午後になると、必ず、駅まで千夏を迎えに行く。その後、二人は、車でどこか遠回りをして来るらしく、決まって一時間近く、戻って来なかった。  千夏は、来るたびにますます美しさに磨《みが》きがかかったように見えた。彼女は、一度として同じ服装をしてきたことはなく、常に人の意表をつく見事なセンスを披露した。夏を思わせる暑い日差しの照りつける日に、彼女が巨大なストローハットをかぶり、真っ白な袖《そで》なしのワンピースを着て来た時は、そのあまりの見事さに眩暈《めまい》がしたほどだ。腰をぴっちりと被《おお》った細身のワンピースは、はちきれんばかりの彼女の肉体の線をあからさまに映し出し、こんな恰好《かっこう》で電車に乗ったら、誰かが女優と勘違いして、サイン帳を突き出すのではないか、と思ったものだ。  かと思うと、黒っぽいサブリナパンツに、男物のシャツを裾結びにして着る、という、くだけた恰好をしてくることもあったし、女学生が着るような紺色のプリーツスカートに清楚《せいそ》な白のブラウス……という時もあった。贅沢《ぜいたく》と質素、ロマンティシズムとエロティシズムとを交互に取り替えている、といった感じだったが、いずれの場合でも、彼女は人をはっとさせる魅力をふりまき、着ているものが何であったのか、その印象すら遠ざけてしまうのだった。  悟郎は次第に、私や桃子の前で大胆な行動をとるようになり、そんな千夏の腰を抱き寄せたり、時には、明るいうちに庭の片隅《かたすみ》にある池の木陰で、千夏の唇に軽いキスをしたりした。千夏はいつも、悟郎にされるままになっていた。はしたない声も出さなかった代わりに、憤《つつ》ましく避けることもせず、素直に風にそよぐ木の葉のようにして、悟郎の愛撫《あいぶ》を受け入れた。  そんな二人の関係が何を意味するのか、私にわからなかったはずはない。妻を失い、まだ三十だった悟郎と、アメリカ人の夫を失ったばかりの千夏とが、情熱的な恋に落ちたことは疑いようがなかった。  私は、千夏が川久保家に現れるようになるまで、悟郎がどんな変化を見せてきたか、必死になって思い返してみた。彼は私が住み込みで桃子の世話をするようになっても、しばらくは、夕食を必ず自宅でとった。ごくたまに、金曜日の夜や土曜日の夜、戻って来ないこともあったが、それでも九時を過ぎて戻ることは稀《まれ》だった。  彼が十時十一時を過ぎても家に戻らなくなったり、しかもそれが連日のように続き始めたのは、いつごろからだったろう。そのことを思い出そうとするたびに、私の中には、あの冬の日の朝のことが蘇《よみがえ》る。  私が桃子と初めて心を通わせた、あの嵐《あらし》の晩……私と桃子がララを母親のように思って、子猫のように寄り添い、一つの布団《ふとん》で眠った木枯らしの吹き荒れる夜のことだ。悟郎はおそらく、あの日は、明け方近くまで戻らなかったのだろう。そして、おそらく一睡もしていなかったに違いないのに、彼は翌朝、朝食の席で、タータンチェックのガウンを着たまま、若々しい、元気あふれる表情を私と桃子に見せた。  かすかな違和感を悟郎に感じたのは、あの朝が初めてだった。友人づきあいの多かった悟郎は、普段から、つきあいで外食をしたり、飲んできたりすることが多かったが、そんな時は、決まって翌朝、いささか疲れた表情をしていたものだ。だが、あの朝だけは違った。彼は元気いっぱいで、おまけに、いつも以上に性的魅力にあふれていた。  あの前の晩、何があったのか。千夏と銀座で食事をし、その後、嵐にも拘《かか》わらず公園を散歩していたのだろうか。千夏の部屋に招かれ、寄り添いながら窓の外を眺《なが》めていたのだろうか。それとも、箱根あたりまでドライブし、隠れ家のような鄙《ひな》びた旅館で一晩中、浴衣《ゆかた》を着たまま抱き合っていたのだろうか。  すべてはあの晩を境にして、大きくうねるように変化していったような気がする。悟郎はあの晩以来、連日連夜、遅く帰るようになった。そして、どれほど遅く帰っても、翌朝の食卓で、いつも以上に輝きを帯びた小麦色の頬に満足げな微笑を浮かべ、丸一日、眠っていた人のように、眠り足りた澄んだ瞳《ひとみ》で私や桃子に向かって冗談を連発した。  悟郎はあのころ、明らかに千夏に恋をしていたのだ。私が千夏を知るよりもずっと以前から、彼は千夏と恋におちていたのだ。私が、亡《な》き妻である百合子のことでロマンティックな想像に耽《ふけ》っていたころ、すでに彼は百合子のことなど忘れ去り、あのバービー人形のような千夏のことを夜も日も明けずに、考えていたのだ。そう思うと、私は解決の糸口が見つからないほど激しい嫉妬《しっと》にかられた。  唯一《ゆいいつ》の救いは桃子だった。桃子は千夏に懐《なつ》かなかった。懐こうとする素振りすら見せなかった。  桃子が、当初、千夏のことをどう思っていたのか、私にはわからない。ある意味では、彼女は至極、単純に千夏のことを嫌《きら》っていたのかもしれない、とも思う。千夏が、父親と自分との居心地のいい関係の中に、突然、割り込んできた異物だったとしたら、彼女が千夏を嫌い、千夏を排除しようとかかっても不思議ではない。  だが、本当のところはどうだったのか。桃子が千夏に冷淡だったのは、最初の出会いの時だけだ。その後、頻繁《ひんぱん》に千夏が川久保家に出入りするようになってからは、桃子は吐き捨てるような言葉も、憎々しげな言葉も投げつけなかった。彼女はいつも淡々としていた。そう。パーティーにやって来ては、悟郎にしなだれかかる女客に対するように、だ。  時にそれは、千夏に対する無関心の表れのようにも見えたが、また、別の時には、父親に対する幻滅の表れであるかのように見えることもあった。  私は桃子と二人きりになっても、決して千夏の悪口を言ったりしなかったし、まして、桃子が千夏をどう思っているのか、問いただそうともしなかった。私は桃子が怖かったのだと思う。桃子が社交にたけた賢い大人のような口ぶりで、「千夏さんはパパのお友達じゃない。どうして、そんなに嫌うの?」などと言ってくることを思うと、怖くて、とてもそんな質問はできなかったのだ。  私が黙っていたせいで、桃子のほうでも、密《ひそ》かに私の真意を知りたいと思っていたのか。それとも、千夏を排除し、無視しようとする桃子の無意識の願望が、私と結託するという形をとったのか。千夏の出現以来、桃子と私の仲はそれ以前と比べて、さらに深いものになった。  桃子はたいてい私と一緒にいた。私たちは暇さえあれば、ララを連れて麦畠《むぎばたけ》に遊びに行き、畦道《あぜみち》に咲く草花を摘んだり、並んで座りながら、スケッチブックを拡げたりした。悟郎から、食べることをきつく禁止されているアイスキャンディを買いに、駅前まで行く秘密の楽しみを分け合ったのも、そのころのことである。私たちは、駅前でキャンディボックスを拡げる、衛生観念のまるでない、小汚いキャンディ売りの老人とすっかり顔なじみになり、時折、怪しげな色をした出所不明の飴《あめ》などをおまけにもらったりした。アイスキャンディはおそろしく甘く、冷たく、食べ終えると、舌にオレンジ色の色素が残った。私たちは、キャンディを食べ終えるごとに、互いに舌を出し合い、ほら、やっぱり舌が染まってる、などと言って、笑い合った。  何かが激しく渦《うず》をまき、不吉な予感がひたひたと押し寄せていた時だったはずなのに、あの年の夏を思い出すたびに、私は涙が出るほど懐かしくなる。あの年の夏はおよそ、それまで私が経験した夏の中でも、もっとも美しい夏だった。晴れた日は、雑木林で蝉《せみ》や小鳥たちが鳴き続け、雨の日は、麦畠一面に暖かい天のシャワーが無数の細かい斜線を描いた。道端には草花が緑色の帯のように咲き乱れ、いたるところにヒマワリやサルビアが鮮やかな花をつけている光景が見られた。  どこに行っても、夥《おびただ》しいほどの光とむせかえるような草いきれがあった。喘《あえ》ぐほどの暑さだったにも拘わらず、私は桃子と共に、日中は麦畠を見下ろせる林の中に腰を下ろし、素足をくすぐって通り過ぎる蟻《あり》を指先で払いのけながら、獰猛《どうもう》な太陽が傾き、オレンジ色の夕焼けが空一面に拡がっていく様を飽かず眺めていた。  とりわけ、土曜日になり、昼食を食べ終えると、私たちは待ちきれずに、競うようにして外に出た。土曜日の午後、私たちが家にいることはほとんどなかった。  私たちはララを連れて、麦畠をあてどなく散歩した。疲れると、小高い丘の木陰に腰をおろし、画用紙に絵を描いたり、他愛のないお喋《しゃべ》りに興じたりする。そうやっていると、やがて遠くからかすかに車の音が響き渡る。遥《はる》か彼方《かなた》に見える未舗装のバス通りを、一台の小豆色をした乗用車が埃《ほこり》をたてながら走って来る。乗っている人間は見えない。乗用車はゆっくりと麦畠の向こうの道を通り過ぎ、川久保家に通じるなだらかな坂道を上がって行く。  照りつける太陽が、車のリアウインドウに反射して白く砕け散る。車はさらにスピードを落としながら、坂道を上がり、川久保家の白いフェンスの前に静かに停車する。  私は画用紙の上の絵に熱中しているふりをしながら、小さな牧場のように見える川久保家のフェンスを凝視する。マッチ棒ほど小さく見える人間が、二人、車から降りて来る。帽子をかぶった千夏が、フレアースカートをたなびかせながら、弾む足取りで川久保家の門をくぐる。悟郎が後を追う。二人は並んで庭に入る。そして、テラスから家の中を覗《のぞ》くような恰好をしてみせる。  桃子も私もいないとわかると、二人はやがて玄関ポーチのほうに戻って来る。ポーチに佇《たたず》んだまま、悟郎と千夏は、束《つか》の間《ま》、向かい合う。そして二人の姿は木立の蔭《かげ》に隠れて、まもなく見えなくなる。  悟郎が、私と桃子の微妙な変化に気づかなかったはずはない。彼は表面上、常におどけたボードビリアンを装いたがる男だったが、他人の心の動きを感知する能力は人一倍、すぐれていたはずだった。彼に風変わりな部分があったとしたら、それは、人に対して、その心の動きを質問しようとしなかったところだろう。  実際、私は彼が真面目《まじめ》な顔をして人の心の中を覗き込もうとするのを見たことがない。人が何を感じたか、何故《なぜ》、動揺しているのか、何が不安なのか、について、彼は何ひとつ、聞こうとしなかった。他人の心の動きに、彼ほど無関心を装いたがる人間に、私は以後、出会ったことがない。彼は自分も含めてすべての人間に心理の綾《あや》などない、と思っているかのような態度を取り続けていた。彼がもし、何か他人に向かって質問することがあるとしたら、それはいつも、目の前で起こったことを茶化して、時には気障《きざ》に、時にはふざけて、それを表現する時に限られた。  それは彼の流儀だったと言うこともできる。だが、一方で、彼はひょっとすると、おそろしく自己防衛本能の強い男だったのかもしれない、と思うこともあった。彼が他人と深く関わることを避け続けたのは、彼の中にある、彼自身、気づかなかった恐怖心のせいだったのかもしれない。彼が守りたかったのは、彼がこうあってほしい、と望む世界だけだったのだ。そしてそれが壊れかけると、いたずらにそっぽを向いて、何も見なかったふりをする。彼は確かに魅力的な男だったが、彼を魅力的に見せていたのは、もしかすると、その幼児性だったのかもしれない。今となっては、そんなふうに思うこともある。  だが、幼稚な自己防衛本能も、彼にかかれば、魅力的な演出によって、洋画に出て来るハンサムな主人公のごとき言動に早変わりした。私をのぼせ上がらせたのは、彼のそうした演出の見事さだった。実際の彼は、大人になりきれない、恐怖心の強い、自尊心ばかりが肥大した少年に過ぎなかったのかもしれないというのに、私は、千夏の一件で、自分と桃子に何も質問してこようとしない悟郎のことを、自分の知らない大人の世界を知っている男だとして、ますます美化して考えようとしていた。  ともかく、そんなふうにしてその夏は過ぎていった。千夏が毎週土曜日、川久保家を訪れる、ということ以外、事件と呼べるほどの変化は何ひとつ起こらなかった。千夏が土曜日の夜、悟郎に送られて帰ってしまうと、再び、日常が舞い戻った。悟郎は相変わらず、ウィークデイの夜は遅く帰って来たが、週に一度の私の絵のレッスンを休むことはなかった。  千夏がいない時の悟郎は、いつも通りの悟郎だった。彼はアトリエで熱心に私のスケッチを鑑賞し、意見を言い、アドバイスをしてくれた。お定まりの冗談を連発することも忘れなかったし、レッスンの後でコーヒーを飲みながら、二、三の友人の楽しいエピソードを紹介してくれるのもいつもながらのことだった。  彼は千夏に関する話を一切、しなかった。かといって千夏の話を避けていた様子でもなく、話のいきがかり上、千夏の名を出さざるを得なくなると、あの、ものなれた習慣づいた言い方で「千夏ちゃんがね」などと、さりげなく彼女の名前をさしはさむのだった。  そんなふうに悟郎が表面上、目立った変化を見せなかったからといって、私が安心したわけではない。安心するどころか、私は猜疑心《さいぎしん》の塊になりつつあった。  千夏が悟郎の単なるガールフレンドではないことは、明らかだった。悟郎が一時的に恋をした相手でないこともわかっていた。彼らは三十歳だった。独身だった。だとすると、次に何が起こるのか、目に見えているではないか。  悟郎が千夏と結婚する……私はその可能性が日毎《ひごと》に拡《ひろ》がっていくのを予感し始めた。悟郎は千夏と、ある意味で真面目な関わり方をしていると言えた。娘の前に恋人を連れて来る日を毎週、土曜日だけ、と決め、それ以外はふだん通りの生活を心がけているように見えた。確かに桃子の前で千夏相手に大胆な愛情表現をしてはいたが、それも桃子に自分の千夏に対する気持ちを実際にわからせるための行為と言えなくもなかった。  それに千夏は千夏で、桃子に対して傍目《はため》からもわかるほど念のいった気配りをしてみせるようになった。土曜日にやって来ると、彼女は必ず、おみやげと称して苺の載ったショートケーキや美しい砂糖菓子、バナナやチョコレートなどの食べ物を桃子に手渡す。時には、おみやげはデパートで買った舶来の高価な人形だったり、小学生の子供には不用だと思われる細身の万年筆だったりすることもあった。  桃子は儀礼的に喜んでみせてはいたが、決して千夏の見ている前で、もらったお菓子を食べ始めることはなかった。千夏は「食べてみて」と勧める。桃子はうっすらと笑いながら、「今、お腹《なか》がすいてないの」と言う。すると千夏は納得し、食べ物のことなど忘れてしまったかのように、桃子に熱心な質問をし始める。  学校は楽しい? どんなクラスメートがいるの? 放課後は何をして遊ぶの? 担任の先生は、どんな人? 科目ではどの科目が好き? 算数? 国語? 今日はどんな宿題があるの?  桃子がぽつりぽつりとそれに答えてしまうと、次に千夏は彼女を誘い出して庭に出る。ねえ、桃子ちゃん、何して遊ぼうか。石けり? 縄飛《なわと》び? それともボールを買って来て、キャッチボールをしましょうか。  たいていの場合、桃子は千夏と遊ぶことをやんわりと拒否し、ララを呼んだ。ララ、ララ、どこにいるの。こっちにおいで。  ララは桃子に呼ばれると、どこからともなく現れ、桃子の細い足に身体《からだ》をなすりつける。  桃子はララを抱き上げ、頬ずりをする。千夏はそんな時でも、桃子に向かってお愛想を言った。本当にきれいな猫《ねこ》ね。目もこんなにぱっちりしてるし、上品な感じがするわ。  桃子は曖昧《あいまい》に微笑《ほほえ》み、千夏に背を向ける。そして、ララを固く抱きしめたまま、猫の耳に何事か囁《ささや》き、そのまま家の中に入ってしまう。千夏はそれでも笑いながら、桃子の背に声をかける。仲がいいのね。桃子ちゃんの一番のお友達はララなのね。  私はそんな光景をいつも家のどこかで盗み見ていた。そして、桃子が千夏の前で頑《かたく》なに心を閉ざしているのを知ると、幸福な気持ちに包まれた。  千夏に桃子を奪い取れはしない、と私は信じていた。千夏がもしも猫好きだったら、あそこまではっきりと信じることができなかったかもしれない。  千夏は猫が嫌いだった。はっきりとそう聞かされた覚えはないのだが、千夏のララに対する態度を見れば、それはすぐにわかった。彼女はララのことを小さな忌《い》まわしい獣としてしか見ていなかった。桃子のいない時にララが室内に入って来ると、千夏は無視するばかりか、ララから遠ざかろうとした。ララの白い毛がソファーにこびりついているのを見ると、すかさず眉《まゆ》をしかめてそれをつまみ上げ、庭に捨てた。間違ってララが千夏の足に身体をこすりつけようものなら、悲鳴を押し殺しながら、後ずさりした。  ララと一つベッドで眠ることもできないくせに、と私は思った。ララを「ママ」と呼ぶこともできないくせに。桃子が欲しいなら、ララとベッドに入り、ララのお腹に顔を埋《うず》めて、子猫のような気持ちにならなければならないというのに。  桃子はララを通してしか、他人に気持ちを開かない子だった。その桃子を自分に振り向かせようとして、せっせとケーキを買い、舶来のおもちゃを買い、桃子にお愛想を言って取り入ろうとしている千夏が、私には滑稽《こっけい》に思えた。  桃子が千夏に心を許さない限り、悟郎が千夏と結婚を決意することはあり得ないはずだった。私は桃子の千夏に対する態度に、何ひとつ変化が見られないことを安堵《あんど》の気持ちと共に眺めた。悟郎は桃子を愛している。だから、桃子が千夏に懐かないのなら、悟郎も千夏を諦《あきら》めるかもしれない。そう信じた。少なくとも、そう信じる努力をした。  小さな事件が起こったのは、八月も半ばを過ぎたむし暑い夜のことである。その日も土曜日で、千夏は午後から川久保家に遊びに来ていた。私は夕食の後片づけをした後、ベッドシーツを替えてやるために桃子の部屋に行った。  桃子は窓辺で外を眺めていた。私が入って行くと、ベッドの下に寝そべって毛づくろいをしていたララが、ニャアと一声、鳴いた。桃子はあどけない微笑を浮かべ、「さっき、蛍《ほたる》がいたわ」と言った。「火の玉かと思ったけど、やっぱり蛍だった。怖くなかったもの」  そう、と私は微笑み返した。  ねえ、雅代さん、と桃子は言った。「蛍ってほんとに甘い水が好きなの?」 「さあ、どうかしら」と私は言い、桃子のベッドシーツを引っ張り上げた。「今度、甘い水と苦い水を置いといて、蛍がどっちに来るか確かめてみようか」  うふふ、と桃子は笑った。「甘い水はジュースにして、苦い水はビールにする?」 「いい考えね」私は笑った。  本当に暑い日だった。夜になっても気温はちっとも下がらず、開け放した窓からはそよとも風が入って来ない。悟郎は居間で千夏と共にディキシーランドジャズを聴いており、そのなんとも暑苦しい音楽は湿度の高いベタベタした床に、這《は》うように響いてきた。  桃子の部屋のドアに軽いノックの音があったのは、私が新しいシーツをベッドの上に拡げた直後のことだ。てっきり悟郎が入って来るものとばかり思った私は、顔を上げ、桃子に「パパよ」と言った。桃子がうなずき、大声で「入っていいわ、パパ」と言った。  そっとドアが開けられた。顔を覗かせたのは、悟郎ではなく、千夏だった。 「パパはレコードの整理をしてるわ」千夏はうちわで顔を扇《あお》ぎながら言った。プリント模様のヘアバンドの下で、ほつれ毛が柔らかく揺れた。「桃子ちゃんが何をしてるのか、見に来たの。入ってもいい?」  桃子は「どうぞ」と言った。千夏はヘアバンドと同じ模様のサンドレス姿で、室内に入って来た。ああ、暑い、と彼女は言い、桃子と並んで窓辺の椅子《いす》に腰を下ろした。私は黙ったまま、ベッドメイクを続けた。 「可愛《かわい》いお部屋ね」千夏は部屋の中を見回しながら言った。「私も子供のころ、こんなお部屋に暮らすのが夢だったわ。でも昔は、子供がこんな素敵なお部屋を持つなんてこと、あり得なかったわね。桃子ちゃんは幸せだわ。いい時代に生まれて」  ふふ、と桃子は含み笑いをした。開け放された窓の向こうで、コオロギが鳴き始めた。しばらくの沈黙があった。千夏がうちわを使う音だけが聞こえた。 「ねえ、桃子ちゃん」千夏は言った。どこかしら、思いつめたような、ひどく言い出しにくそうな口調だった。「ひとつだけ、聞きたいことがあるんだけど」 「なあに」 「桃子ちゃん、ママが欲しくない?」  桃子の枕《まくら》カバーを取り替えていた私の手が止まった。全身の汗がひき、全身の毛穴が一瞬にして凍りついたように感じられた。  沈黙が始まった。コオロギの声だけが、闇《やみ》の中に滲《にじ》んだようにして拡がった。桃子はまた、ふふ、と笑った。 「欲しくないわ」  私は思わず振り返った。桃子は私のほうを見なかったが、千夏の目が私を一瞬、威嚇《いかく》するかのように捉《とら》えた。彼女は私に同席するのを遠慮してほしい、と言いたかったに違いない。個人的な話をしてるんだから、あなたは席をはずしてくれない? と。  だが、私はわざと何も気づかないふりをしてベッドメイクの作業を続けた。千夏は、重大な質問を発してしまった手前、私がいようがいまいが、その先を続けるしかなくなった。 「どうして?」千夏はかすかな当惑を含んだ甘い声で聞いた。「どうしてママが欲しくないの?」 「ママだったら、もういるもの」  私はクマの模様がついた枕カバーをとりつけ、後ろの紐《ひも》を丁寧に結わえた。静かな気持ち、落ち着き払った気持ちだった。私には桃子が何を言うのか、わかっていた。  桃子は続けた。「ララが私のママなのよ」  千夏は突然、笑い出した。それはからかうような、いとおしそうな、それでいて信じられないとでも言いたげな笑い声だった。面白いことを言うのね、桃子ちゃん、と彼女は笑い声をにじませながら、優しく言った。「猫がお母さんだったの?」  そうよ、と桃子はきっぱり言った。「おかしい?」  千夏はむせかえりそうになりながら、やっとの思いで笑うのをやめた。「おかしくはないわ。笑ったりしてごめんなさい。そうなの。ララが桃子ちゃんのママだったの」 「ララは優しいママよ。いつだって優しいわ。怒ったことなんかない」 「わかるわ。ララは優しそうですものね。それに柔らかいし。あったかいし」千夏はそこまで言うと、言葉を探るように軽く咳払《せきばら》いしてみせた。「ララはいいお母さんかもしれない。でも、ララは……その……猫よ、桃子ちゃん」 「知ってるわ」 「お喋りすることもできないし、桃子ちゃんのお世話をすることもできないんじゃない?」  桃子はいくらかむきになった。「そんなことない。ララはちゃんと私とお喋りできるのよ。それに私の世話だってしてくれるわ」 「そう?」 「そうよ」 「わかるけど……でも、お母さんっていうのは、ふつうは人間のことを言うのよね」  桃子は黙っていた。私はカバーをつけ終えた枕をベッドに置き、次にサマーケットを畳み始めた。 「桃子ちゃん」と千夏はためらいがちに言った。「本当の人間のお母さんが欲しいと思ったことはない?」 「ララがママなのよ。他に誰がママになるって言うの?」  間髪を入れずに答えた桃子の口調には、かすかな棘《とげ》が感じられた。私は心の中で拍手を送った。そうよ。ララがママなのよ。あなたなんかに、桃子のママが務められるわけがない。  千夏は窓の外の闇を眺め、かすかな微笑をたたえながら、そっと椅子から立ち上がった。 「わかったわ、桃子ちゃん」彼女はそう言いながら、桃子の腕に手を触れた。「ララがママなのよね。おかしなこと聞いたりして、ごめんなさい。怒らないで」 「怒ってなんかないわ」桃子は沈んだ声で言った。「全然、怒ってなんかない」  それまで私の足元に四肢《しし》を伸ばして横たわっていたララが、むっくりと起き上がり、室内に入り込んでいた一匹の黒蟻《くろあり》を見つけて匂《にお》いを嗅《か》ぎ始めた。私はその蟻をスリッパで踏みつぶし、「さあ、桃子ちゃん」と言った。「ベッドができたわ。お風呂《ふろ》に入る?」  入るわ、と桃子は言い、明らかに意識的だと思われる冷やかな視線を千夏に送りながら、朗らかにつけ加えた。「お客さんが帰ったら、すぐに入る」  その時、千夏のことを気の毒だと思わなかったか、と言ったら、嘘《うそ》になる。千夏はその美しい顔に、困惑と絶望と羞恥《しゅうち》と自己|嫌悪《けんお》とをごちゃまぜにしたような表情を作り、小刻みに震え始めた唇《くちびる》に笑みを浮かべようとして必死になっていた。愛する男と結婚し、その一人娘の母親になろうとしていた女が、小学校三年になったばかりの少女に「お客さん」と呼ばれたのだ。しかも、少女はただの猫を自分の母親だと言い切ったのだ。猫以外、母親は必要ない、と言い切ったのだ。  千夏がどうやって感情を隠そうとするのか、意地悪く見届けてやりたいという気持ちもあったが、それとは別に、自分が彼女の立場だったら、この場で泣き出していただろう、と私は思った。  だが、千夏は泣かなかったし、泣きそうになる素振りも見せなかった。彼女は即座に感情をたてなおし、「長居しちゃってごめんね」と言った。「そろそろ、帰らなくちゃ。また来週、会いましょうね」  彼女は背筋を真っ直ぐに伸ばし、落ち着いた足取りで部屋を出て行った。私はそれからしばらく、桃子と他愛のない話をした。今しがた千夏との間に交わされた会話については、一切、触れなかった。そして、ひと通りのお喋りが済んでしまうと、ララの頭を撫《な》でてやってから、子供部屋を出た。  電気を消したままの、仄暗《ほのぐら》い廊下の向こうで、すすり泣きの声が聞こえてきた。私は足を止め、耳をすませた。  すすり泣きの声に悟郎の低い声が混じった。 「時間がかかるよ」と彼は言った。「焦《あせ》っちゃいけない。いいね?」  私は自分の中に始まった感情の嵐《あらし》と戦いながら、長い間、身動きひとつせずに廊下に立ち尽くしていた。 [#改ページ] [#ここから3字下げ] 六 [#ここで字下げ終わり]  猫に限らず、人がある特定の動物が嫌いだった場合、その動物と同居することはおそらく想像を絶する苦痛であるに違いない。朝、起きると、世界中で一番嫌いな動物が目の前にいる。相手が何を表現しているのかわからないから、目つきや身のこなし、そのすべてが恐ろしくなる。逃げても逃げても、相手は家の中のどこかにいる。部屋に鍵《かぎ》をかけても、気配がする。声が聞こえる。時には部屋のドアの外に、それが寝そべっていたりする。そうした生活は多分、拷問《ごうもん》に等しい。耐え続けていくためには、ノイローゼになる覚悟をしなければならないのかもしれない。  千夏がそこまで猫嫌いだったとは思えないが、できるなら一つ屋根の下で暮らしたくないと思っている動物が猫だったことは確かだ。それなのに、あろうことか愛する男のひとり娘……自分がいずれは母親になってやろうとしていた娘……が描に執着し、母親代わりにしていたわけである。彼女の苦しみも理解できなくはない、と思ったこともあった。  あの八月の小さな事件があった後、しばらくの間、彼女はララに対してとても好意的だった。優しい視線を送り、時には自分からすすんでララの頭を撫でてやったりした。おっかなびっくりといった形だったが、千夏が必死になってララに取り入り、桃子の機嫌《きげん》を損ねないよう努力していたことは鮮やかに思いだせる。  だが、桃子は千夏がどれほどララを可愛がっても、嬉《うれ》しそうな素振りは見せなかった。それに、これは本当に不思議なことなのだが、猫のほうでも、千夏に甘い声で名前を呼ばれたりすると、あたかも面倒臭そうに、ふん、と小さく鼻を鳴らして、そっぽを向いた。時には、千夏に身体を撫でられると、ウウ、と小さく聞こえない程度に唸《うな》り声をあげ、今にも歯を剥《む》きそうになることもあった。  一度、千夏が何を思ったのか、決死の覚悟でララを抱き上げたことがあったのだが、その時はいっそう、悲惨だった。ララは千夏のふくよかな胸の上で身体を鉄のように固くし、耳を下げ、白目を剥いてフゥーッと唸った。それでも千夏は無理をして笑っていた。ほらほら、ララちゃん、そんなに怒らないで。  猫は長い尾を左右に激しく振った。悟郎が苦笑しながら、「ララ」とたしなめた。「そんなふうに唸るなんて、失礼だよ」  悟郎がそう言い終わらないうちに、猫は「ハアーッ」という威嚇の声を出し、千夏の顔めがけて鋭い爪《つめ》の一撃を加えた。あっという間の出来事だった。千夏は顔をのけぞらせ、叫び声をあげ、猫を手放した。猫は一目散に逃げ出した。  運よく目を引っ掻《か》かれることは避けられたが、彼女のこめかみには、たちまち細く長い引っ掻き傷が浮き上がった。そこに血が滲み始めた。千夏は一瞬、顔をしかめて指先で血を拭《ふ》き取った。  悟郎は慌《あわ》てて千夏を抱きかかえた。だが、千夏はそれでも微笑みを絶やさなかった。大丈夫よ、と彼女は気丈にも言った。「こんなことくらい、何でもないわ」  猫は犬よりも好き嫌《きら》いの感情が激しい、とはよく聞く。だが、ララが人間に、あれほど攻撃的な態度をとったのを私は初めて見た。ララはいつだって……初対面の人間にすら……およそ表面上の社交は忘れない猫だった。パーティーに集まって来ては、しこたまビールを飲み、酒臭い息を吐きかけながらララをもてあそぶ男たちを相手にしていても、ララは常に機嫌よく応対していた。いよいよ、うっとうしくなると、逃げ出していたものだが、それでも誰かから名前を呼ばれると、一応、目を細めて、遠くから友情あふれるまなざしを送ることを忘れなかった。  それほどおっとりとして、友好的だったララが、何故、千夏に対してだけ、あんな態度を取り続けたのか、私にはわからない。千夏が猫嫌いだったせいなのか。だが、悟郎の友人知人の中にも猫嫌いの人間はいた。自分が猫だという、ただそれだけの理由で嫌われたとしても、ララは決して人間に手出しをしたことはなかったのだ。  悟郎と千夏との関係には、その後、いささかの変化も見られなかった。千夏は相変わらず、土曜日ごとに川久保家を訪れ、夕食を食べて帰って行った。ごくたまに、悟郎と千夏が桃子を連れて、都心のレストランに出かけたり、桃子のために遊園地や動物園に連れて行ってやることもあったが、そんな時は必ず、桃子は途中でお腹が痛くなったり、気持ちが悪くなったりした。  桃子は身体の弱い子ではなかったが、神経の動揺が肉体に表れやすいところがあり、気にいらないこと、不愉快なことをしたりされたりすると、決まって腹痛や嘔吐《おうと》を起こした。私は青い顔をして帰って来る桃子を見るたびに、勝ち誇った気持ちになった。自分がいかに、千夏との外出を嫌っているか、桃子は肉体を通して表現していたのだ。  そんな時、千夏は桃子の身体の具合を心配し、家に戻ってからも、しばらく子供部屋のベッドの傍《そば》を離れなかった。ララもまた、同じだった。ララは桃子が昼日中からベッドにもぐりこむと、どこからともなく現れて、ベッドの上にぴょんと飛び乗った。そして、前足で布団《ふとん》を掻き、中に入れてくれ、とせがむ。桃子はどれほど身体の具合が悪い時でも、ララを布団の中に入れてやった。ララを抱きしめ、ララの匂いを嗅ぎながら、桃子は千夏に向かって他人行儀に言う。 「もう大丈夫よ、千夏さん。ここにいてくれなくてもいいわ」  千夏がそんな桃子とララをどんな思いで見つめていたのか、私には知る由《よし》もない。いずれにせよ、あの大事件が起こる直前まで、千夏が一人、何を思い、何を考えていたのか、今となっては想像するしかないのだ。私はただ、桃子と友好関係を築きあげようとして必死になっている千夏の涙ぐましい努力を蔭で冷笑していた。そして、悟郎が千夏と結婚することに、今ひとつ、ためらいがある、ということを悟郎の顔色の中に探し出そうとしていた。千夏の心の中のことなど、考えようともしなかったのである。  それが起こったのは、その年の十二月のことだった。夏が例年よりも暑い年は、冬もまた、寒くなる。夏が暑く、美しかった分だけ、その年の冬は寒くて、晴天の日の少ない、陰気な冬だった。  やはり土曜日で、千夏はいつも通り、午後から川久保家にやって来た。朝から凍りつきそうなほど寒い日だった。雪でも降りだすかと思われる、どんよりと曇った空が拡がっていたが、千夏はそうした陰気な天候を蹴散《けち》らすかのような鮮やかなオレンジ色のオーバーコートを着て、来た時からたいそう陽気だった。 「今夜は私がお料理を作るわ」と彼女は言った。「メニューも決めてあるのよ。寒いから、暖かいポトフか何かにしようと思って」  そいつはいい、と悟郎は言った。ポトフという名前の料理がどんなものなのか知らなかった私は、黙って微笑んだ。どのみち、千夏が台所に立てば、私も手伝わざるを得なくなる。何を作ってくれようと、私の労力は変わらないから、好きにすればいいんだわ、と内心、毒づきもした。 「ねえ、雅代さん。悪いけど、冷蔵庫に何があるか、見せてくださる?」千夏は言った。断る理由は何もなかった。私は先に立って彼女を台所に案内し、悟郎自慢の大型冷蔵庫の扉《とびら》を開けてやった。  当時、冷蔵庫はまだ一般の家庭に普及していなかった。あったとしても、氷の塊を入れただけの原始的な箱のようなものであり、川久保家のように、アメリカ製の大きな本物の冷蔵庫がある家庭は珍しかったと思う。 「じゃが芋もあるし、玉ねぎもあるわね。足りないのは、お肉だけみたい」千夏は冷蔵庫の中を覗《のぞ》き込みながら、誰にともなく言った。「それにしても、この家の冷蔵庫は魔法の箱ね。いつだって飲物や食べ物がひしめいてるんだから。まるでアメリカの家の冷蔵庫みたいよ」 「お肉でしたら、私が買って来ましょうか」私は言った。だが、千夏は即座にその必要はない、と首を横に振った。 「悟郎さんに車で買いに行ってもらうわ。そのほうが早いでしょう」  居間で煙草《たばこ》をくゆらせていた悟郎は、千夏のその頼みを快く受け入れた。千夏はついでに買って来てもらう材料のいくつかを紙にメモして彼に渡し、「お願いね」と言った。よしきた、と悟郎は言って立ち上がった。  その時、千夏はまだ、あの企《たくら》みを実行するつもりはなかったのだと思う。それどころか、企みというもの自体、彼女の中に意識されていなかったのかもしれない。というのも、買物を頼まれた悟郎が、桃子を一緒に連れ出そうとするとは、私ですら想像しなかったからだ。  千夏にあの恐ろしいことを決行する決意をさせたのは、単なる偶然だった。それは確かだと思う。桃子があの家にいる限り、あんなことは実行不可能だったのだ。  桃子は暖炉の前でララを相手に遊んでいた。暖炉にはくべたばかりの薪《まき》が黄色い炎をあげており、桃子のふっくらとした頬《ほお》は薔薇色《ばらいろ》に輝いて見えた。  悟郎は「ねえ、桃子」と呼びかけた。「パパと一緒に行くかい?」  千夏も一緒であったなら、桃子は決して首を縦に振らなかっただろう。だが、千夏が家に残り、自分だけが父親の車に乗れる、と聞いて、桃子は即座にうなずいた。 「お菓子屋さんで風船ガムを買いたいの。買ってもいい?」 「あの、噛《か》んでいるうちにベロが真っ赤になるやつかい?」  桃子は可笑《おか》しそうに笑い、ちらりと私を見た。私は軽く片目をつぶってみせた。ベロがオレンジ色になるアイスキャンディを夏の間、たっぷり食べた私たちは、互いに秘密を共有している楽しさを分かち合った。 「あんなものを噛んでると、そのうち歯まで真っ赤になっちまうぞ」悟郎は苦笑しながらそう言い、桃子にコートを取って来るように言った。桃子は子供部屋から通学用に使っていた紺色のコートを取って来ると、腰をかがめてララの鼻に自分の鼻を近づけた。 「行ってくるわね、ララ」  それは彼女が出かける時の、いつもの挨拶《あいさつ》だった。ララもまた、いつものように、ぺろりと彼女の鼻を舐《な》めあげた。  悟郎がガレージから車を出し、エンジンをかけていると、ララは開け放してあった玄関から外に飛び出し、車の傍をうろうろし始めた。危ないよ、ララ、と悟郎が窓から顔を出して注意した。「そんなところにいると、轢《ひ》かれちゃうぞ」  千夏が玄関にあった悟郎のサンダルをつっかけて、外に見送りに出た。私は庭に面したテラスに出て、その光景を眺《なが》めていた。千夏は白いカーディガンに焦《こ》げ茶《ちゃ》色のタイトスカート姿だった。男物のサンダルをはき、寒そうに両手をこすり合わせている彼女の姿は、ごく平凡な家庭の主婦のように見えた。  バイバイ、ララ、と桃子が助手席の窓から顔を出して言った。バイバイ……私は未《いま》だに、あの時の桃子が猫に別れを告げた時の様子を忘れることができずにいる。灰色にたれこめた曇り空の下で、桃子が「バイバイ」と言ったのは、千夏に対してではなく、ララに対してだった。  小さな白い手が、猫に向かってひらひらと振られた。ララは助手席の窓の下で、きちんと座り直し、桃子を見上げた。 「行ってらっしゃい。桃子ちゃん」  千夏はそう言った。だが、桃子は千夏には目もくれなかった。  悟郎が軽くクラクションを鳴らした。車は高らかなエンジン音と共に、あっという間に遠ざかって行った。排気ガスを嗅《か》がされたララは、小さなくしゃみを一つした。  私はテラスに面した窓を猫のために細く開け放してやりながら、ララの名を呼んだ。猫はちらりと私の方を見たが、再び、車が去って行った方を見つめ始めた。そうやってじっとしているララの後ろ姿は、枯れた芝生の上に置き忘れられた、白い陶器の猫のように見えた。  時々、桃子が学校に出かけると、ララは同じようにじっと庭に座っていることがあった。だが、それもしばらくの間で、やがて諦めたように家に戻って来る。私は別段、ララのことは気にとめず、台所に立った。昼食の後片付けが済んでいなかったからだ。  千夏がその時、まだ門の外に立っていたことは覚えている。だが、彼女がララを見ていたかどうかは知らない。彼女がその時、何を思っていたのかも、私は知らない。  居間の電蓄からは、悟郎がかけっ放しにしていた賑《にぎ》やかなアメリカンポップスが流れていた。私は台所の流しに向かって、食器を洗い始めた。  どのくらいたってからだろうか。電蓄にかけられていたレコードが終わり、シュルシュルという乾いた雑音をたて始めた。千夏が家に戻っているのなら、すぐにレコードアームを上げ、プレーヤーの回転を止めるはずである。私はエプロンで手を拭きながら、居間に行った。  居間に千夏の姿はなかった。私は電蓄のレコードアームを持ち上げ、空回りしていたレコードを止めた。あたりは急に静かになった。テラスに面したガラス窓が閉じられているのに気づいたのは、やはりララのことを心のどこかで気づかっていたせいだろうか。 「ララ?」私は小声で呼んだ。「どこにいるの?」  猫のために細く開けておいた窓ガラスが閉まっているということは、ララが室内に戻り、千夏がガラス戸を閉じたとしか考えられなかった。私はソファーの後ろや、廊下の向こうの桃子の部屋、それに風呂場の中など、寒い時にララがいそうな場所を探しまわった。だが、ララの姿はなく、千夏の姿も見えなかった。  再び居間に戻り、テラスに向かう窓から外を覗いた。初め、庭には誰もいないように見えた。木の葉が舞い落ちた庭は、ひっそりと凍えるように灰色の空気の中に沈み込んでいた。冬枯れの木々の向こうに、白いフェンスが連なっているのが見え、そのフェンスの一本に、大きな枯れ葉が死んだアゲハ蝶《ちょう》のように、黒々とへばりついているのが見えた。あたりは森閑としていた。風の音ひとつ聞こえなかった。  千夏がどこに行ったのか、ということよりも、私は急にララのことが気になり始めた。それはある種の予感だったのかもしれない。  私は窓を細めに開けて、そこから首を突き出した。ララの名を呼ぼうとしたのだ。  あの時、何故《なぜ》、池のことが気になったのか、自分でもうまく説明できない。無意識のうちに、千夏と池、それにララ……という三つの不吉な要素が私の中で警報を鳴らしていたのだろうか。  川久保家の庭の端……ちょうどテラスから見て右端の隅《すみ》にあたる小さな窪地《くぼち》には、池があった。ララが金魚を食べてしまうというので、池には魚は一匹もいなかった。代わりに、かつて百合子が睡蓮《すいれん》を咲かせていたようだが、百合子の死後、誰も手入れをしなかったせいか、花が咲いているのは見たことがない。池の水は汚れてはいなかったが、中では伸び放題伸びた睡蓮の葉が、左右に腕を伸ばしていた。  その日は特別に寒かったので、池にはうっすらと氷が張っていた。朝、桃子を学校に送り出した後、この寒さでは池に氷が張ったに違いないと思って、わざわざ見に行き、確認していたのだから、記憶に間違いはない。  私はララの名を呼ぼうとしながらも、どういうわけか、声を出すことができなかった。私の目は、庭の隅にある木立に囲まれた池のほうに向けられた。  葉を落とした木々の向こうに、後ろ向きに奇妙な姿勢をとってうつむいている千夏の白いカーディガンが見えた。こちらに背を向けたまま、じっと動かずにいるその後ろ姿は、まるで突然、気持ちが悪くなって、吐き戻そうとしている人の恰好《かっこう》にも似ていた。  もしもその時、千夏のはいていたサンダルが片方、芝生の上に脱ぎ捨てられているのを見つけなかったら、私は彼女が、単に池の中を覗きこみ、そこに何か異様な虫でも見つけて、それが何なのか、おそるおそる確かめているのだ、とでも思っただろう。というのも、彼女のその時の後ろ姿は、単に氷の張った池を覗いているだけのものだとは、とても思えなかったからである。うつむいている彼女は、全身を緊張させ、身体《からだ》のどこかに不自然な力をこめているように見えたのだ。  千夏がはいていたはずのサンダルは一つだけ、池から二メートルほど離れた芝生の上に転がっていた。転がったサンダルは裏返しになっていた。何かとてつもなく急いでいて、思わず脱げてしまったサンダルのように。  声をかけようとして、ためらわれたのは何故だったのだろう。わざと大きな音をたてながら窓を開け、テラスに立ち、彼女に向かって「どうかしましたか」と聞くことだってできたはずだ。  だが、私は何も言わなかった。私の頭の中は空っぽだった。千夏の脱ぎ捨てられたサンダルを見た途端、今しがた池で行われたことが何だったのか、私にはわかってしまったのだ。同時に、それが取り返しのつかない事態になっている、ということも。  数秒後、千夏は立ち上がった。彼女が立ち上がると、池の水面がよく見えるようになった。池の上は茶色の板のようなもので被《おお》われていた。  その茶色の板のようなものが、つい十日ほど前、業者に取り替えてもらった裏庭の古い物置の戸板……暖炉の薪にするつもりで、そのまま裏庭に放置しておいた戸板……だとわかった時、私は思わず口を押さえた。不快な嘔吐の前兆のようなものが、胃の奥で渦巻《うずま》いた。  千夏は朽ちかけた戸板を両手で持ち上げ、池の中を覗き込んだ。池の中に何があるのか、私のいる場所からは見えなかった。私はカーテンをねじるようにしながら、しがみつき、よろよろと崩れ落ちた。千夏が戸板をそそくさと裏庭に戻しに行く気配がした。私は必死になって深呼吸を繰り返した。  どうすればいいのか、わからなかった。叫び声をあげ、失神してしまえばいいのか。それとも千夏を呼んで、今、何をしていたのか、詰問《きつもん》すべきなのか。  だが、私はいずれの行動も取らなかった。私は気がつくとテラスから裸足《はだし》のまま庭に飛び下りていた。千夏は裏庭に戸板を戻しに行ったまま、庭に帰って来なかった。おそらく、私の気配に気がついて、恐ろしくなり、出て来ることができなくなっていたに違いない。  池の前まで全速力で走り、縁に手をついて中を見下ろした。何かの間違いであってほしい、と思った。中に浮いているのが青大将の死骸《しがい》であれば、どんなに嬉しいだろう、と思った。  だが、私の目に映ったのは、目を大きく見開き、苦悶《くもん》の表情で氷の破片の中に浮いている、ララの白い身体だった。  その後、何をしたのか、正確な記憶はない。私は猫を水から引き上げ、抱きしめ、どうすればいいのか、わからないまま、庭の中を歩きまわった。猫が死んでいるのか、まだ息があるのか、それすらも確かめる勇気がなかった。私は泣き出し、わけのわからない言葉を叫び、濡《ぬ》れそぼった小さな箒《ほうき》のようになってしまったララに顔を押しつけては、その小さな口に酸素を送り込もうとした。  だが、ララは二度とあの愛くるしい鳴き声で鳴いてくれなかった。大きく見開かれた目は、そのまま死んだ魚のようにうつろになっていった。氷の張った池に浮いていたというのに、その小さな身体はちっとも震え出さなかった。  いつ、千夏が家の中に入ったのか。私が庭にいてララを相手に取り乱しているのをいいことに、そっと裏口から中に入ったのか。気がつくと、千夏は玄関から裸足のまま、庭に飛び出して来た。  彼女の演技がどれだけ見事だったか、私は今でもその見事さに殺意をこめた拍手を送りたくなるほどだ。彼女は途切れ途切れの細く短い叫び声をあげ、途中で立ちすくみ、両手を口に押しあてた。 「雅代さん」千夏は震える声で言った。「まさか、まさか……ララが……」  私は千夏を睨《にら》みつけた。ララを殺したのはあなただ。あなたなんだ。あなたが、ララを池に落とし、板をかぶせて上がってこられないようにしたんだ。そう言いたかったのに、私は何も言えなかった。私は千夏に背を向け、ララをかき抱いたまま、門の外に走り出した。  混乱しきった頭の中で、私が考えていたのは、ただひとつ。桃子のことだけだった。桃子がララの死にどのように応じるか、私には想像もつかなかった。もうすぐ桃子と悟郎は帰って来る。否応《いやおう》なく、自分は桃子にララが死んだことを伝えなければならなくなる。  誰がララを殺したのか、そんなことはどうでもよかった。私は泣き叫びながら、川久保家の横のゆるやかな坂道を駆け降り、麦畠《むぎばたけ》の中央を走る道路に出た。ララ、ララ……と喘《あえ》ぎながら声に出しているうちに、「ララ」という言葉が「ママ」になった。私はいつのまにか、「ママ」とわめきながら、狂ったように道の真ん中を走り続けていた。  裸足のままだったはずだが、足の痛みも寒さも何も感じなかった。私は心臓が止まるかと思われるほど、走り続けた。  遥《はる》か彼方《かなた》から車が近づいて来るのがわかった。その車が悟郎と桃子の乗った小豆色のルノーであることを認めた途端、急に意識が遠のいていった。私は道ばたに座り込んだ。  半ば薄れかけていく意識の中で、必死に言いきかせた。ララは死んでいない。ララはまだ生きている。死んだと思ったのは間違いで、今、ララは自分の腕の中で息を吹き返し、あの可愛《かわい》い声でニャアとひと声、鳴くに違いない。  私のすぐそばで、車がタイヤを軋《きし》ませながら急停車した。ドアが開く音がした。桃子の声、悟郎の声がした。私の腕の中の冷たくなったララが、ぐにゃりとなったまま誰かに抱き取られていく気配があった。桃子の叫び声が聞こえた。それは九歳の少女の声とは思えないほど、濁った、か細い、絶望的な叫び声だった。  悟郎の低い声が耳もとで唸《うな》った。私は強くがっしりとした悟郎の腕に支えられながら、車の中に運ばれた。  千夏が桃子を見て、どんな顔をしたのか。家に戻った桃子と悟郎が、千夏とどんな会話を交わしたのか。結局、私は知ることができなかった。私はひどい貧血を起こしていた。そのため、車が川久保家の門の前に急停車してからも、起き上がることができず、車の中にしばらく横たわっていなければならなかった。 「ごめんよ、雅代ちゃん」と悟郎は慌ただしく車から降りながら私に言った。「すぐに来るからね」  桃子はララを抱いたまま、玄関のほうに走り出した。そして、途中で大きくつまずいて転んだ。悟郎は慌てて彼女に駆け寄り、もう一度、車の後部座席に横たわっていた私に、声をかけた。 「すぐに戻るよ」  起き上がろうとしたのだが、上半身を起こしただけで、ひどい吐き気がした。私は泣きながら、目を閉じ、がたがたと震えながら、再びシートの上に横になった。  家の中でどんな大騒ぎがあったかは、たやすく想像できる。ララを抱いた桃子が気も狂わんばかりに泣き叫び、おそらく千夏もまた、桃子と一緒になって取り乱し、泣き出してみせたに違いない。悟郎は愛する娘の友達を救おうと、すでに冷たくなってしまっている猫を毛布で温めたり、ミルクを飲ませてみようとしたり、無駄《むだ》と知りながら、あらゆる手段を尽くしたのだろう。  だが、ララは息を吹き返さなかった。そんなことがあるはずがなかった。ララは氷のはった池に落とされ、戸板をわたされて、そのままいやというほど冷たい水を飲みながら、短い生命を閉じたのだ。私が水からララを引き上げた時、ララはすでに死んでいたのだ。  どのくらいの時間がたってからだろう。悟郎がやって来て、車の後部座席のドアを開けた。彼の顔は青く、唇《くちびる》はかさかさに乾いていた。 「だめだった」悟郎は私を見るなり、つぶやくように言った。「もう死んでたみたいだ」  私は起き上がった。まだ軽い吐き気が残っていたが、そんなものはどうでもよかった。 「雅代ちゃん。大丈夫? きみもショックだったんだろうね。かわいそうに」 「桃子ちゃんはどうしてるんですか」私はかすれた声で聞いた。  悟郎はドアに手をかけ、外に立ったまま、悲しげにうなずいた。「ベッドで泣いてるよ。かわいそうだが、どうすることもできない。ララは死んでしまったんだ。そのことを桃子が受け入れてくれるまで、待つしかない」 「先生」と私は泣きながら手を伸ばし、悟郎の腕を握りしめた。黒いセーターを着ていた悟郎の腕のぬくもりが、ほんのりと私の手の中に拡《ひろ》がった。 「大丈夫だよ」悟郎は私がそんなふうにしたのは、ショックと不安のせいだと勘違いしたらしく、あやすように、私の手をぽんぽんと軽く叩《たた》いた。「桃子もいつかは受け入れるよ。どう考えたって、桃子よりもララのほうが先に死ぬ運命にあったんだから。しかし、それにしても」と彼は片手で私の手をふわりと包みこみながら言った。「どうしてララのやつ、池なんかに落ちたんだろう。今まで落ちたことなんか、一度だってなかったんだ。それに、もし、間違って落ちたとしても、あいつは猫なんだよ。すぐに上がってこられたはずじゃないか」 「誰がそんなことを言ったんですか」私はかすかに声を震わせながら聞いた。悟郎は怪訝《けげん》な顔をして私を見下ろした。 「誰が、って……どういう意味だい?」 「ですから」と私はごくりと生唾《なまつば》を飲み込んだ。「誰が、ララのことを池に落ちたなんて、言ったんです」 「違うの?」悟郎は声を張り上げた。「池に落ちて溺《おぼ》れたんじゃないのかい? 千夏ちゃんがそう言ってたけど」 「嘘《うそ》だわ」私は唇を噛み、正面から悟郎を見つめた。悟郎の肩越しに、川久保家のフェンスが見え、その向こうに拡がる冬枯れた庭、テラス、ぼんやりと明かりの灯《とも》った居間の窓が見えた。人影が動く気配はなかった。 「ララは殺されたんです」私はゆっくりと、一言一言、噛みしめるように言った。「私、見てしまったんです。千夏さんが、池の縁にしゃがんでました。千夏さんは……裏庭に置いてあった板を池の上に押しつけて……じっとしてました」  悟郎は顔色を変えなかった。彼の顔はあたりの空気と同じ、透明な灰色の気体のように見えた。私はかまわずに続けた。「先生と桃子ちゃんを車で見送った後、千夏さんはしばらく家に戻って来ませんでした。電蓄のレコードが終わっても、千夏さんが戻っている気配がなかったんです。私、何かいやな予感がして……居間のテラスから外を見てみたんです。そしたら、千夏さんが池のところにいて……」  悟郎はゆっくりと身体を動かし、それまで握っていた私の手を放した。それはどこか、よそよそしい、冷やかな動作に感じられた。彼の手が遠のいた途端、彼のぬくもりが消え、冷たい空気が身体中の毛穴から体内にしのびこんできた。  彼は軽く目をそらした。疑問、怒り、憎しみ、謎《なぞ》……そんなものがこめられた複雑な溜《た》め息《いき》を期待していたのだが、彼は溜め息もつかず、また、私を質問攻めにすることもなかった。  私は急に怖くなった。悟郎が私の言ったことを嘘だと思ったのかもしれない、と思った。千夏がそんなことをするはずがない、きみは頭がどうかしてる、もしかしたら千夏にやきもちを焼いているんじゃないか……そんなふうに悟郎に言われるかもしれない、と思った。私は脅《おび》え始め、どうすればいいのかわからなくなって、すがる思いで悟郎を見つめ続けた。  長い、途方もなく長い時間が過ぎたように感じられた。私は目を落とし、「すみません」と言った。「先生にとっては、聞きたくないことだったと思います。でも、本当のことなんです。ララは千夏さんに殺されたんです」 「わかった」彼はぽつりと、しかし毅然《きぜん》とした口調で言った。そして千夏や桃子がいないことを確かめるように、そっと後ろを振り返って見てから、私に向かって低い声でつけ加えた。「今、きみが言ったことは誰にも言ってはいけないよ。桃子はもちろんのこと、そのことを千夏ちゃんの前で口に出したりしてはいけない。いいね?」  私は身動きひとつせず、悟郎を見つめ返した。 「どうして?」私はうわずった声で聞いた。「どうしてなんですか。こんな……こんなひどいことをしたっていうのに、どうして黙ってなくちゃいけないんです。千夏さんは桃子ちゃんがララのことをお母さんのように思ってることを知って、やきもちを焼いたんです。ララがいなくなればいいと思ったんです。そんなひどいことをした人のことをどうして、桃子ちゃんに知らせてはいけないんですか」  涙があふれ、頬を伝った。自分でも何故、泣くのか、わからなかった。私はしゃくりあげ、片手で乱暴に涙を拭《ぬぐ》い、また、しゃくりあげた。 「今だから言うよ」悟郎は私が泣いているのも構わず、低い声で言った。「僕と千夏ちゃんは結婚することに決めたんだ」  私はしゃっくりをして泣きやんだ。予測していたこと、わかっていたはずのことなのに、私には悟郎の告白がにわかには信じられなかった。  悟郎は私を情けない目で見つめながら、一言一言、噛みしめるように続けた。「千夏ちゃんは桃子の母親になる人なんだよ。そして千夏ちゃんは、桃子のことを深く愛してる。多分、僕以上に」  私が黙っていると、彼はゆっくりと瞬《まばた》きをしてから私の腕に軽く触れた。「僕が何を言いたいか、わかるだろう。僕はきみを責めるつもりはないよ。きみは多分、見聞違えたんだ。よくあることさ。千夏は小さな命を自分の手で殺すような人間じゃない。彼女はいろいろな意味で難しい人だけど、そんなことが出来る人間じゃないんだ。第一、愛する桃子が可愛がっている動物を殺すなんて、どうして千夏にそんなことができる」  私は抗議もしなかったし、首を横に振ることもしなかった。何をどう、説明すればいいのか、見当もつかなかったのだ。 「気にすることはないよ」彼は優しく言った。「きみとは理解し合ってきたつもりだし、僕はきみがどんなに見当はずれのことを言おうが、いつもきみの味方になるよ。きみを誤解したり、信用しなくなることは絶対にないんだ。だから何も気にすることはない」  悟郎はしばらくの間、私をじっと見つめていたが、やがて弾《はじ》かれたように目をそらすと、足早に玄関のほうに歩き去って行った。  悟郎は桃子のために、庭で一番、日当たりのいい落ち着いた木陰を選んで、ララの墓を掘ってやった。柩《ひつぎ》は桃子が夏休みに作った千代紙を張ったボール箱だった。ララは死んだ翌日、桃子の手によって、大地に返された。  桃子は泣いてばかりいた。翌週の月曜日は二学期の終業式だったが、彼女は欠席した。悟郎は大学での講義が休みに入っていたので、その日、一日中、桃子と共に家にいた。  火曜日はクリスマスだった。アメリカ人の居留区では、朝から花火が打ちあげられ、車の出入りが激しく、川久保家の庭にも、クラッカーを打ち鳴らす音や、子供たちの歓声が響きわたってきた。  千夏は夕方になってから川久保家に現れ、桃子のためにクリスマスケーキと贅沢《ぜいたく》なローストチキンの丸焼きを持って来た。悟郎は庭にあった樅《もみ》の木を思いきって切り倒し、居間に運びこんで念入りな飾りつけをした。夜になると、日頃《ひごろ》、川久保家のパーティーに招かれている悟郎の親しい友人たちが夫婦連れで二組ほどやって来た。彼らは、桃子に絵本やら文房具やら、たくさんのプレゼントを手渡し、ダイニングテーブルに蝋燭《ろうそく》を灯し、電蓄で『ホワイトクリスマス』のレコードをかけて、桃子相手に優しい冗談を連発した。  誰も彼もが桃子の気を引き立てようとして必死になっていた。誰も彼もが、ララの死を悼《いた》んでいた。千夏でさえ、そんなふうに見えたほどだった。  だが、桃子はクリスマスの御馳走《ごちそう》にまるで手をつけようとせず、悟郎が買って来たアイスクリームにほんの一口、スプーンをつけただけで、子供部屋に引き取ってしまった。 「いいんだ」と悟郎は低い声で客たちに言った。「今は好きなようにさせておくのが一番いいんだよ」  居合わせた人々は、互いにしたり顔でうなずき合い、やがて大人たちは、いつしか桃子のこともララのことも忘れて、クリスマスの晩を楽しみ始めた。  私は台所で片づけものをするふりをして、悟郎の目を盗み、桃子の部屋に入った。桃子は服のままベッドに横になり、丸くなっていた。  私がベッドに腰をおろして彼女の身体を布団《ふとん》の上から撫《な》でてやると、彼女はむっくりと起き上がった。目尻《めじり》に涙の跡があったが、彼女は泣いてはいなかった。  居間のほうから、千夏の笑い声が聞こえてきた。私は桃子の手を取り、両手の中にくるみ込んだ。  自分がそうするであろうことは、私にもわかっていた。私はいつでも悪魔になれた。悪魔になってもいいから、桃子と仲良くしていたかった。悪魔に心を売りわたしてもいいから、悟郎の傍《そば》で暮らしていたかった。 「今まで黙っていてごめんね」私は自分でも驚くほど、落ち着きはらって言った。「真っ先に桃子ちゃんに教えなくちゃいけなかったのに」  桃子の目に、わずかに鋭い光が走った。「何のこと?」 「ララのことよ」 「ララ?」  私はうなずき、ごくりと音をたてて唾を飲み込んだ。「ララは……池に落ちたんじゃないの。落とされたのよ。そして、上がってこられないように、上から板をかぶせられたの。それが原因で死んだのよ」  私の手の中にあった桃子の小さな手の平に、じわりと冷たい汗が滲《にじ》み出すのがわかった。その汗と、自分の手の汗とが、ひとつになり、共犯者同士の陰湿なぬめりと化していくのを感じながら、私はひと思いに続けた。「ララを殺したのは、千夏さんよ。あの人は、いずれあなたのパパと結婚することになってたの。あなたのお母さんになるつもりだったのよ。それなのに、桃子ちゃんがいつまでもララとばかり仲よくするものだから、やきもちを焼いたんだわ」  桃子の小鼻がひくりと動いた。「見たのね?」 「何を?」 「雅代さん、あの人がララを殺すところを見たのね?」  ララを池に落とすところは見なかったけど、と私は言った。「でも、池の上に板をかぶせてじっとしてたところは見たわ。その後で慌《あわ》てて池に行ってみたけど……もう遅かった」  桃子は私をじっと見つめた。彼女の口もとがかすかに震え、熟しきらない小さなプラムのように見える青みがかった唇が半開きになった。 「死んじゃえ」桃子は吐き捨てるように言った。「千夏なんて、死んじゃえ」  そう言ったかと思うと、桃子の目に大粒の涙があふれた。  私は心の中で快哉《かいさい》を叫んだ。 [#改ページ] [#ここから3字下げ] 七 [#ここで字下げ終わり]  それからの一カ月間が、いったいどのようにして過ぎていったのか、いくら思い出そうとしても思い出せない。季節は冬の真《ま》っ只中《ただなか》で、クリスマスの後は大晦日《おおみそか》、正月……と、世間が賑《にぎ》やかになる行事がいくらでもあったはずなのに、私は川久保家とそこに住む私たちが、どんな形でその季節をやり過ごしたのか、本当にまったく思い出せずにいる。  覚えているのは、庭に設《しつら》えたララの墓に霜がおりたり、冷たい雪まじりの雨が降ったりするたびに、桃子と二人、十字架の上に傘《かさ》を立てかけてやったことだ。ララが好きだった魚をままごとのように小皿に入れ、桃子は墓の前に置いた。麦畠に遊びに行かなくなった代わりに、私たちは毎日のように、ララの墓の手入れをし、ララ、と呼びかけ、桃子が泣き出すと、私も一緒になって泣いた。  桃子は、ボール箱の柩に入れたララは、いまごろ腐ってしまってるのかしら、と時々、神妙な顔をして私に訊《たず》ねた。腐ってなんかないわ、と私は答えた。ララはきっと、真っ白できれいなまんま、柩の中で眠ってるのよ、と。  起こしちゃいけない? と桃子は聞く。ララに会いたいの。もう一度、だっこしてあげたいの。  多分、だめだと思うわ、と私は答える。ララはもう、起きたくないのよ。眠ったまんまでいたいのよ。  ララが死んじゃった。桃子は時折、そんなふうにぽつりとつぶやいた。ララが死んじゃった。いなくなっちゃった。もう会えない。  そんな時、私は必ず、桃子よりも先に涙ぐんでしまったのだが、それは必ずしも桃子のことを不憫《ふびん》だと思ったせいではない。私にとっても、ララは言葉で尽くせぬ愛情を分かち合った相手だった。あの白いふわふわの毛をしたララの腹に顔を押しつけて、子猫《こねこ》のように甘えてみた夜のことや、桃子以外、おそらく誰とも共有しなかったであろう優しいまなざしを私に向けてくれた時のことなどを思い出すたびに、私はララの死が信じられなくなり、あふれる涙を止めることができなくなった。  私がララを思って泣けば泣くほど、桃子はこの世の最後の信頼を託すかのように、私に向かって甘えてきた。私たちは姉妹のようでもあり、親友同士のようでもあった。  私たちが千夏の話をむしかえしたことは一度もない。千夏はララが死んで以来、三日に一度は川久保家にやって来て、遠くから桃子の様子を窺《うかが》うようになっていたが、私や桃子が千夏を相手に、ララの話をしたこともなかった。  私と桃子は、喪に服しながら、ひっそりと暮らしていたように思う。千夏が家にいる時、私は時折、耐えられなくなって、桃子の通う小学校の正門まで桃子を迎えに行った。桃子はランドセルを背負って正門から出て来ると、私を見つけて顔をほころばせる。晴れている日は、私たちはそのまま連れ立って枯れ野のようになった麦畠や、踏みしめるとカサカサと枯れ葉の音がする雑木林を歩き回り、ララの思い出話をし、時には手をつなぎ合って歌を歌ったりした。  悟郎が千夏と結婚すれば、自分は川久保家を去ることになる。どれほど桃子と親しくなっていても、自分が川久保家にいる理由は何もなくなる。そう思うと、桃子と手をつなぎ、歌を歌いながら、涙で視界がぼやけてくることもあった。  桃子は私が洟《はな》をすすりあげると、可愛い瞳《ひとみ》で私を見上げながら、「泣いてるの? 雅代さん」と言う。「ねえ、泣かないで。私まで泣きたくなっちゃうから」  私はあの時、二十一歳で、少なくとも大人と見なされていたはずだ。私は一生に一度とも言える、苦しい恋もしていた。私は一応、自活し、田舎の親に送金もしていた。将来、画家になりたくて、それなりの努力もしていた。それなのに、私はたった九歳の少女と小春|日和《びより》の野山を歩きながら、声をそろえて泣きじゃくったのだ。しかも一度だけではない。そんなことは何度もあった。  未熟だった私の精神は、千夏の出現によって、混乱の極みに達していた。私は自分を見失っていた。私は桃子と同じ、九歳の少女、いや、それ以下だった。  元来、身体《からだ》だけは丈夫だった私がひどい風邪をひいて寝込んだのも、気持ちのバランスが大きく崩れていたせいかもしれない。一月の終わりころ、私は四十度近くの高熱を出して倒れた。目にするものすべてが、炎の中に揺らいでいるように見え、起きていると天井が斜めになり、自分を直撃してくるように感じられた。  悟郎はかかりつけの医者を呼んでくれた。医者は流行性感冒という診断を下した。アメリカ人居留区の子供たちの中にも、同じ感冒に罹《かか》って寝込んでいる者が大勢いるらしい、という話だった。  私は桃子にうつすことを恐れて、入院を考えたが、悟郎は笑って取り合わなかった。病気一般に対する悟郎の考え方は鷹揚《おうよう》だった。ただの風邪なんだから、寝てれば治るよ、と彼は言った。桃子のことは心配しないでいいから、ゆっくり養生しなさい、と。  千夏が毎日のようにやって来て、私の代わりに台所に立ち、桃子の世話をし始めた。そのことは気にいらなかったが、さすがに千夏のことでやきもきできるほど私は元気ではなかった。私は熱のために眠ってばかりいたし、目を覚ましていても、意識が朦朧《もうろう》としていて、ものを考えることができなくなっていた。  悟郎に言われていたのか、桃子は私の部屋に入って来ることはなかった。一度だけ、ドアの外で「雅代さん、大丈夫?」と声をかけてきたことがあったが、返事をする間もなく、廊下を走って来たらしい千夏によって桃子は連れ去られた。 「だめよ、桃子ちゃん」と言う千夏の声が聞こえた。「雅代さんの部屋に入ったらだめ。雅代さんはまだ治ってないのよ。黴菌《ばいきん》をうつされたら、大変でしょ」  廊下を歩き去って行く桃子は何か言い返したようだったが、何を言ったのかは、聞き取れなかった。  私の世話をしてくれたのは、千夏だった。千夏と悟郎の関係性を考えれば、私が病に伏した時、私の看病をしてくれるのは悟郎ではなく千夏になるのは当然と言えたが、そのことも私には気にくわなかった。とはいえ、千夏が作ってくれるお粥《かゆ》は食欲がなくて殆《ほとん》ど食べられなかったし、始終、うつらうつら眠ってばかりいたから、千夏の手を借りなければならないこともあまりなかった。千夏もまた、私の前では口数が少なかった。だから、あの数日間、自室で自分が千夏に対してどのように応対していたのか、記憶に残っていることは殆どない。  三日たち、四日が過ぎるころから、熱はぐんぐん下がっていき、気分も楽になった。五日目の午後、往診してくれた医者は「もう大丈夫」と言った。「あとは栄養のあるものを食べて、二、三日、寝たり起きたりの生活をしていればすっかり治りますよ」  医者と悟郎の許しが出たのか、その夜、早速、桃子が私の部屋にやって来た。外では雪が降り始め、ラジオの天気予報では大雪になる恐れがある、と報じていた。  桃子は少し痩《や》せたように感じられたが、それは私自身が衰弱していたせいだったのか。  元気だった? と私は聞いた。まあね、と桃子は大人びた口振りで言った。「早くよくなってね、雅代さん」 「もう大丈夫よ。すぐに元気になるわ」 「雪が降ってるの。知ってた?」 「ええ」 「ララのお墓に傘をさしてあげないといけない」 「明日にしたほうがいいわ。桃子ちゃんまで風邪をひいちゃうもの」  そうね、と桃子は素直にうなずいた後、じっと私の顔を見上げた。 「私、淋《さび》しかった」桃子はそう言いながら、ベッドの中にいた私におずおずと手を差し出した。私は桃子の手をきつく握り返してやった。小さな湿った暖かい手だった。  家の中には、その時も千夏の気配がしていた。千夏のひきずる軽快なスリッパの音。悟郎の名を呼ぶ時の匂《にお》いたつような甘い声。台所の流しで何かを洗う水の音。冷蔵庫を開ける音。そしてまた、軽快なスリッパの音……。  あの人は何なのだろう、と私は思った。ララを殺せば、桃子が自分のものになり、悟郎と結婚して幸福な家庭を築けるとでも思っていたのだろうか。ララ殺しを誰にも目撃されなかったと信じているのだろうか。そして、悟郎も桃子も共に、ララを殺したのが彼女であると知っていることに、未《いま》だに気づかずにいるのだろうか。  雅代さん、と桃子は消え入るような声で言った。「どこにも行かないでね。行っちゃいやよ」  私は目頭が熱くなるのを感じながら、大きくうなずいた。  雪は翌朝になって止《や》み、太陽が顔を覗《のぞ》かせたが、午後になると、再び空模様が怪しくなってきた。熱はなかったが、まだ身体がだるかった私は、その日も自室のベッドで横になったまま、本を読んでいた。  いつものように、昼食後、薬を飲むための水を持ってきてくれた千夏は、長年、住みなれた家の窓を見るように、私の部屋の窓から外を眺《なが》め、「また降り出したみたいね」と言った。 「いやになっちゃうわ。夕方になったら出かけなくちゃいけないというのに」  千夏はそのころ、悟郎の家から自分の家に帰ることを「出かける」という言い方で表現していた。「帰る」とは言わないようになった彼女と悟郎が、結婚話をどのあたりまで具体的に進めていたのか、想像するにあまりあるところがある。 「どこに出かけるんですか」私はわざと意地悪く聞いた。千夏は窓から降りしきる雪をぼんやりと眺めたまま、「ちょっとね」と言った。「ちょっと私の部屋まで戻って、片づけなければならないものがあるのよ。でも安心して。雅代さんの今夜の御飯はちゃんと用意しておくから」  すみません、と私は形ばかり言った。「すっかりお世話になってしまって」 「いいのよ。風邪をひくと誰でも辛《つら》いものだわ。気にしないで。それよりも一日も早くよくなって、また桃子ちゃんの遊び相手になってあげてね」 「ララの代わりに、ですか」  千夏はわずかに眉《まゆ》をつり上げたように見えたが、微笑を浮かべた表情には変化はなかった。そうね、と彼女は言いながら、さりげなく話題を変えた。「桃子ちゃんにはお友達が必要だわ。本当はもっともっとクラスメートや町の子供たちと泥《どろ》まみれになって遊んでほしいんだけど」 「子供にはそれぞれ性格があるんじゃないでしょうか」私は生意気だと思われてもかまわない覚悟で言いきった。「友達づきあいの好きな子もいれば、嫌《きら》いな子もいます。私も昔は友達が少ない子供でした。それでも別に生きるのに苦労をした覚えはありません」  あなたと議論するつもりはない、とでも言いたげに、千夏は聞かなかったふりをして、カールした髪の毛の下の小さなパール色のイヤリングをいじり始めた。「いやだわ、このイヤリング、きつすぎて耳たぶに穴が開きそう」  彼女はイヤリングを取りはずし、それを着ていたダークグレイのセーターの裾《すそ》で軽く拭《ふ》いた。「さあ、ゆっくり休んでね。私は桃子ちゃんが学校から帰ったら、一緒におやつを食べて、それから出かけますから。悟郎さんは今夜は早く帰って来ると思うわ。雪で帰れなくなったら大変ですものね。それから、夕食の下ごしらえはお台所にしておくけど、雅代さんは無理することはないのよ。悟郎さんがやってくれるわ、きっと」 「明日もいらっしゃるんですか」私は聞いた。聞いてしまってから、すぐに後悔した。そんな質問をするつもりはなかった。だが、私は長く続いた熱でどうかしていたようだ。  千夏は何の苦労もしたことのない少女のような笑みを浮かべて、無邪気に「ええ」と言った。「どうして? 来ちゃいけない?」  そんな意味じゃありません、と私は口ごもった。「全然そんな意味じゃ……」  千夏は優雅に微笑《ほほえ》んだ。私以外の誰かに同じ皮肉を言われても、彼女は同じように微笑んだに違いない。 「明日は土曜日だし」と彼女は歌うように言った。「お昼前にこちらに着くように来るわ。桃子ちゃんのお昼を作ってあげなくちゃいけないしね」  お願いします、と私は力なく言った。  薬のせいで、それからしばらくの間、うとうとした。桃子が学校から帰った気配にも気づかなかったのだから、熟睡していたのかもしれない。目をさますと、廊下の向こうの居間のほうから、桃子の話し声がかすかに聞こえてきた。  ひどく喉《のど》が乾いていたので、私はベッドの上に起き上がった。起き上がると少しふらふらし、ベッドから床に足をおろすと、雲の上を歩いているような感じがした。だが、コップ一杯の水を持って来てもらうのに、千夏の手を煩《わずら》わせるのはいやだった。  カーディガンをはおり、そっとドアを開け、私は台所のほうに歩いて行った。桃子の声はいっそう大きく響いてきた。  可笑《おか》しかったのよ、パパったら、と桃子は言った。だって、全然知らないおじさんの帽子を黙ってかぶっちゃうんだもの。おじさんは困った顔して、パパのこと追いかけて来たのに、パパは気がつかないで、私をだっこしながら、どんどん歩いて行くの。  それでどうしたの? と笑いを含んだ千夏の興奮した声。ずっと気がつかなかったの?  ううん、私が気づいて教えてあげたの。パパ、それ、違う人のお帽子よ、って。そしたら、パパ、やっと気がついたんだけど、遠くに来すぎてて、もう、おじさんは見えないの。かわいそうなおじさん。パパがその時かぶってた帽子って、ボロボロで汚いやつだったの。おじさんはそれを代わりにかぶって帰ったんだわ、きっと。  千夏が大袈裟《おおげさ》とも思える声で笑い転げた。桃子の笑い声がそれに重なる。陶器のカップがテーブルに置かれる音に次いで、何かの袋を開ける時のガサガサという音がした。私は居間のドアの手前で立ち止まった。  腕にはめたままにしていた腕時計を覗くと、三時半だった。桃子は千夏と二人でおやつを食べているんだ、と思った。仲良く、差し向かいで。暖炉に火をたいて。ぬくぬくとした暖かな部屋で、笑顔を向け合い、ミルクを飲み、千夏が買って来た上等のお菓子か何かを食べている。  たったそれだけのことが、どうして私をあれほど動揺させたのか、わからない。桃子が笑っている。桃子が陽気にはしゃいでいる。桃子が千夏に笑顔を向けている。私の知らないところで、私の知らない話をしている。そう思うと、全身に不快な汗が滲み始めた。冷えきった廊下に、素足のままでいたというのに、再び高熱に冒されたように身体中が熱を帯び始めるのがわかった。 「雪がひどいわねえ」と千夏の声がした。「こんな時に駅まで歩いて行くなんて、いやだわ」 「バスに乗らないの?」 「次のバスは四時三十五分でしょう? それを待ってたら間に合わないもの」 「じゃあ、何時に出るの?」桃子が無邪気に聞いた。そろそろ出なくちゃ、と千夏。「五時に私の家に手伝ってくれる人が来ることになってるのよ」 「手伝うって何を?」 「荷物の整理なの」千夏はそう言ってから、くすっと笑った。カチリとスプーンを置く音がした。「パパから聞いてるかしら? 桃子ちゃん。私ね、来週になったら、このおうちに引っ越して来るつもりなの」  ふうん、と桃子が言った。「そうだったの」 「引っ越して来るといっても、家具なんかはそのままにしておくのよ。お洋服とか、靴下《くつした》とか、身のまわりのものだけを先に運んでしまおうかと思って。だって、私、毎日このおうちにいるでしょう? いちいちお洋服を替えるのに、自分の家に帰るなんて、面倒臭いわ」  しばしの沈黙があった。千夏が先に口を開いた。「桃子ちゃん、私と一緒に暮らすの、いや?」  ふふ、と桃子は含んだように笑った。「どうしてそんなこと聞くの?」 「いやだと思わないでほしい、と思ってるからよ」 「いやじゃないわ。千夏さんだって、ここでみんなと暮らしたいんでしょ」 「もちろんよ」千夏の声は潤《うる》んでいた。「桃子ちゃんやパパと一緒に三人で暮らしたいと思っているわ」 「雅代さんは?」  私は目を閉じた。熱いものがこみあげてくるのが感じられた。桃子はもう一度、聞いた。 「雅代さんも一緒に暮らさないの?」 「もちろん、かまわないわ。でも、雅代さんは桃子ちゃんの家庭教師の先生でしょ。桃子ちゃんの家族ではないし、ずっと一緒に暮らすのは多分、無理じゃないかしら」  桃子が何を答えるか、私は息を殺して待っていた。だが、桃子は何も言わなかった。 「ねえ、千夏さん」と代わりに桃子は言った。言い方にはかすかに芝居がかったものが感じとれた。「これからお散歩しない?」 「お散歩?」 「そう。私、いいところを知ってるの。秘密の場所なのよ」 「あら、素敵ね」千夏はかん高い声で言った。「どこ? どこにあるの?」 「すぐ近くよ。麦畠《むぎばたけ》のほう」 「麦畠? もしかして、桃子ちゃんが、そこに宝物を隠してあるの?」 「そうじゃないけど……でも、千夏さんを連れて行きたいのよ」 「こんなに雪が降ってるのに?」 「お散歩、したくない?」 「もちろん、したいわ」千夏は哀れなほどへりくだって言った。「桃子ちゃんにお散歩に誘われるなんて、初めてだもの」  千夏が椅子《いす》から立ち上がる気配があった。私は急いで、小走りに廊下を走り、自分の部屋に飛び込んだ。心臓がドキドキしていた。何故《なぜ》、そんなにドキドキするのか、その時はわからなかった。だが、私は桃子が千夏を散歩に誘ったことに対して、嫉妬《しっと》など微塵《みじん》も感じていなかった。そんなことよりも私は得体の知れない不安にかられ始めていた。  千夏が居間から出て、台所に行く気配があった。桃子が子供部屋に走り、コートを取って来る音。そしてまた、千夏が居間に戻る音。  私は自分の部屋のドアに耳を押しつけた。居間の出入り口あたりで、千夏の声がした。 「ねえ、桃子ちゃん。ちょっと待ってよ。そんなに急がないで。パパにお手紙を残しておくから」 「どうして? 何を書くの?」 「桃子ちゃんと楽しくお散歩してから帰ります、って書いておくのよ」 「どうしてそんなこと書くの?」 「だって……」と千夏は口ごもり、恥ずかしそうにつけ加えた。「あなたのパパに、伝えておきたいのよ。私が桃子ちゃんにお散歩に誘われたことを」 「だめよ」桃子は大声で言った。 「どうして?」 「どうして、って……でも、だめなの」  いいじゃないの、桃子ちゃん、と千夏は可笑しそうに言った。「パパだって喜ぶわ、きっと。私が桃子ちゃんとお散歩に行ったことをメモで読んだら……」 「だめだったら、だめ」桃子は激しく千夏を遮《さえぎ》った。「だって……あそこは秘密の場所なんだもの。千夏さんだけに教えてあげるのよ。パパには教えられないの。だから、私とお散歩に行った、ってこと、パパに教えちゃだめ」  千夏はくすくす笑った。「わかったわ。秘密の場所なんですものね。パパはかわいそうだけど、教えてもらえないってわけだわ」 「そうよ」と桃子はほっとしたように言った。「ねえ、だったら、こう書けばいいわ。千夏さんが一人でお散歩して、それから帰るんだ、って」 「桃子ちゃんたら、楽しそうね」千夏はからかうように言った。 「ねえ、そう書いて。一人でお散歩してから帰る、って」  千夏はまた笑った。「仕方ないわね。いいわ。じゃあ、そう書いておきましょう。私と桃子ちゃんだけの秘密をもらしたら、つまらないものね」  桃子が何か言い、千夏はパタパタとスリッパの音をたてながら動きまわり、やがてテーブルに鉛筆を置く音がしたかと思うと、二人は何事か笑い合いながら、玄関のほうに出て行った。  五分ばかりの間、私は同じ姿勢でじっとしていた。これまで感じたことのない恐ろしい予感が、私の身体をマヒさせていた。  頭の中に、かつて桃子に連れられて行った、あの朽ちかけた井戸のことが蘇《よみがえ》った。地面にぼかりと穴を開けた井戸。立入り禁止の立て札も、穴を被《おお》う網も、何もかもが黒ずんで錆《さ》びて使いものにならなくなってしまっている井戸。  窓の外では湿ったぼたん雪が降りしきり、家の中は奇妙な静けさに包まれていた。わずかに体重を前に移動させると、床板がみしりと音をたてた。その音は、井戸を囲っている石垣《いしがき》が体重の重みで崩れ落ち、深淵《しんえん》な闇《やみ》の底に身体を引きずり込まれようとしている時の音に似ていた。  喉元に恐怖感がこみあげた。私は足をもつれさせながら、ひと思いに寝巻を脱ぎ捨て、クローゼットの中から目についたセーターとスカートを引っ張り出した。まだ風邪が治りきっていない、ということは考えもしなかった。気がつくと、私は紺色のオーバーコートをはおり、傘を片手に、素足のまま玄関にあった長靴をはいて、外に飛び出していた。  たった一度だけ桃子に連れて行かれたことのある、あの井戸が、どの方角に行けばあるのか、はっきりと記憶していたわけではない。だが、私の足は麦畠のほうへ向かい、そこからさらに、雪に埋もれた畦道《あぜみち》を分け入って行った。桃子と千夏の姿はなかった。声もしなかった。すでに暮れかかっていた外は、雪のせいで奇妙に仄白《ほのじろ》く見えた。広大な麦畠は白一色に塗られ、その向こうに見える雑木林では、雪をかぶった木々が白く細い枝をもつれ合う棘《とげ》のように伸ばしていた。  未舗装のバス道路は、雪のせいで、見事にコンクリート舗装されたかのように見え、車はおろか、人影も自転車の影も見えなかった。湿りけを帯びた雪が、傘にぽとぽとと音をたてて落ちてくる。喘《あえ》ぐような不規則な自分の呼吸の音だけが、耳もとで轟音《ごうおん》のような唸《うな》り声をあげる。  何かの間違いであってほしい、ということしか考えられなかった。井戸なんかに桃子が行くわけがない。こんな寒い雪の日に、桃子があんなところに行くわけがない。しかも千夏を連れて。  麦畠のはずれまで辿《たど》り着くと、私は自分が来た方角が間違っていなかったことを知った。雪のために周囲の景色の印象は違っていたが、目の前には見覚えのある空き地があった。捨てられた自転車が雪をかぶり、錆びたハンドルを斜め上に突き出しているのが遠くに見えた。  どこかでかすかに笑い声がした。私は立ち止まり、呼吸を整えた。大地を見ると、二組の足跡が並んで真《ま》っ直《す》ぐに空き地の向こうに伸びているのがわかった。小さな可愛《かわい》い足跡と、そしてやや、大きめの足跡……。  足跡の先には数本の樅《もみ》の木があり、木のまわりは低い灌木《かんぼく》の茂みで被われていた。木々も茂みも雪をかぶっていたので、その一角は巨大なクリスマスケーキのように見えた。  茂みの向こうで、赤いものがちらついた。それが桃子の着ているいつものオーバーコートであると知った時、私は熱のせいではない悪寒《おかん》が背中を走りまわるのを感じた。  足が勝手に動き出した。あのクリスマスケーキのように見える一角には井戸がある。そして千夏は今、そこにいる。桃子と共に。  そのことが何を意味するのか、私は瞬時にして悟った。桃子の声が蘇った。  千夏なんて、死んじゃえ。死んじゃえばいい。  灌木の茂みの手前まで来ると、私は口を押さえながら、茂みの向こう側を覗き見た。オレンジ色のコートを着た千夏が、腰を屈《かが》め、子供のように足を拡《ひろ》げて、雪だるまを作っている。桃子がそれを見ている。桃子は白い毛糸の帽子をかぶり、首に同色のマフラーを巻いている。その手には黄色いミトンがはまっている。桃子は千夏をじっと見ている。千夏は一人ではしゃぎまわり、コートの裾を翻《ひるがえ》しながら、息を弾ませて雪だるま作りに励んでいる。  千夏の吐く息が白く空中を舞い、仄白い雪景色の中に湯気のような模様を作った。彼女の足もと近くには、壊れかけた立て札の残骸《ざんがい》が雪に埋もれて転がっているのが見えた。井戸あり、きけん。  だが、それはもう、立て札のようには見えない。ただの捨てられた板、何の意味もない黒ずんだゴミにしか見えない。  井戸のまわりを囲っていたはずのわずかな石垣も、雪に埋もれて見えなくなっていた。そこに井戸があることにいったい、誰が気づいただろう。知っていたのは、桃子とそして私だけなのだ。  それまでじっと佇《たたず》んでいた桃子が、一歩前に進み出た。そこ、と彼女は抑揚をつけずに言った。「そこの雪がきれいよ、千夏さん」 「どこ?」千夏は聞き返した。桃子の小さな可愛いミトンが、白一色で染まった大地の一角を指し示した。 「そこよ。そこの雪」  千夏は井戸の真上の雪に注目した。雪に詳しい人間だったなら、あんなふうにこんもりと盛り上がって積もった雪の下には、必ず何かがある、とわかったはずだ。穴がある、とまではわからなくても、その下に倒木か何かが埋もれているかもしれない、と思ったはずだ。  なのに、千夏は何も気づかなかった。井戸の上をおおう腐りかけた板の上に積もった雪は、他のどこに積もった雪よりもふんわりと柔らかく盛り上がり、そのうえ、真新しく見えた。 「あら、ほんと」と千夏は白い息を吐きながら言った。「きれいな雪」  彼女は雪まみれになった黒いアンクルブーツをはいた足を大きく動かした。彼女の足が、井戸に近づき、井戸の上に乗り、そして束《つか》の間《ま》、止まった。  一秒の何分の一かの短い時間、彼女は怪訝《けげん》な顔をした。足もとに違和感を感じたせいなのか。それとも、一瞬のうちに、得体の知れない恐怖を感じたせいなのか。上気した美しい顔が、凍りついたように動きを止めた。  次の瞬間、彼女の身体《からだ》は雪崩《なだれ》にまきこまれたスキーヤーか何かのように、ゆっくりと白い雪の中に吸い込まれていった。最後に見えたのは、彼女の右腕だった。彼女は黒いキッドの革手袋をはめた手で、宙をつかむような恰好《かっこう》をした。  叫び声がした。だが、その叫び声は、果たして千夏の声だったのかどうか、確信がない。もしかするとそれは私の叫び声だったかもしれない。あるいは単なる幻聴だったのかもしれない。  地の底に響きわたるような轟音《ごうおん》がした。パラパラと木屑《きくず》のようなものが落ちる音がした。雪がすべての音を飲み込んだ。あたりはたちまち、静けさを取り戻した。あとには、千夏のいない、美しい雪景色と、作りかけの雪だるま、そして、無表情のまま立ち尽くしている桃子だけが残された。  桃子を呼ぼう、そして、今しがた起こったことが、すべて恐ろしい事故であったことを確認し合い、警察を呼び、何らかの措置をとってもらおう……そう思った。本当にその時は、そう思ったのだ。だが、私は声を出すことはおろか、身体を動かすこともできなくなっていた。  ぼたん雪は相変わらず降り続いていた。千夏を飲み込んだ井戸の穴……黒々とした口をさらしている穴にも、雪が間断なく降りしきった。  桃子はゆっくりと踵《きびす》を返した。ミトンをはめた手が落ち着いた動作でコートについた雪を払い落とした。彼女はふと振り返り、井戸を見つめて、唇《くちびる》を噛《か》んだ。そして、わずかに目を細めると、次に猛烈な勢いで走り出した。  赤いコートが白い風景の中をみるみるうちに遠ざかっていった。それは雪の中を走る、一匹の可愛い、邪悪な小鬼のようだった。  小鬼は遠ざかっていくにつれ、小さな一つの黒い点のようになった。風にのってたなびく白いマフラーが、まるでララの長い尾のように揺れて見えた。桃子の動き方は素早かった。ララのように。  そう、あれは確かにララだった。柩《ひつぎ》の中のララが、いつのまにか桃子に形を変え、千夏に復讐《ふくしゅう》を遂げた……私にはそうとしか思えなかった。  初めのショックが去ると、私は激しい痙攣《けいれん》に襲われ始めた。全身が電流を流された時のように震え出し、歯の根が合わなくなって、顎《あご》がぎしぎしと音をたてた。  穴の中に吸い込まれていった千夏が、今、あの遥《はる》か奥深い地の底で、どんな形になって横たわっているのか、と想像すると、胸がむかついた。ひしゃげた手足の上で、恐怖にひきつった美しい顔がだらりと首を落としている様が想像できた。  まだ生きているかもしれない、とは思わなかった。死んだとも思わなかった。その時、私の頭の中にあったのは、一刻も早くこの場を離れ、家に戻り、あの暖かいベッドにもぐってじっとしていたい、ということだけだった。  胃が突然、ひっくり返ったようになった。私は身体を海老《えび》のように折り曲げて嘔吐《おうと》した。黄色い胃液が雪の上に染《し》みを描いた。吐き出せるだけ吐いてしまうと、喉の奥からか細い悲鳴がこみ上げてきた。私は声にならない声で叫び出しながら、小鬼になった桃子が走り去った雪原の上を川久保家に向かってよたよたと歩き始めた。 [#改ページ] [#ここから3字下げ] 八 [#ここで字下げ終わり]  勇気を出して、語らねばならないことがある。それは私自身が、あの後、何をしたか、ということだ。  私が家に戻り、おそるおそる居間のテラスから中を覗《のぞ》いてみると、そこにコートと帽子を脱ぎ捨て、ミトンを脱ぎ捨て、暖炉の前でじっと膝《ひざ》を抱えてうずくまっている桃子の姿があった。桃子はすぐにテラスにいた私を見つけ、顔を上げた。彼女の顔に恐怖が走った。彼女は弾《はじ》かれたように立ち上がり、窓辺に走り寄って来て、大きく窓を開け放った。 「何をしてるの? そんなところで」桃子は怒ったような声で聞いた。困惑し、不安にかられている様子が一目でわかった。彼女は私が自分の部屋で眠っているとばかり思っていたのだろうから、無理もない。  ちょっとね、と私は言った。「元気になったから、そのへんをひと回りしてきたの」 「雪が降ってるのに?」 「あったかくしてるから平気よ」 「ひと回りしてきた、って、どこまで行ったの?」  子供でなければ、そんな馬鹿《ばか》な質問はしなかったはずだ。だが、桃子はまだ九歳だった。彼女は私が井戸のあたりまで行ったのではないか、と不安になり、事実を確認しようとして焦《あせ》ったに違いない。 「すぐ近くまでしか行かなかったわ」私はぎこちなく微笑《ほほえ》みながら言った。「おうちの裏のほうを少し歩いただけ」 「遠くには行かなかったのね」 「ええ」と私はうなずいた。 「麦畠のずっと向こうのほうまでは行かなかった?」 「行くわけがないでしょう?」私はしんみりと笑いながら言い、「ほんとのことを言うとね」とつけ加えた。「さっき目をさまして窓からお庭を見てたら……ララにそっくりな猫《ねこ》が走って行ったような気がしたのよ。それでびっくりして、外に飛び出してみただけ。でも、錯覚だったみたい。そんな猫、全然、いなかったもの」  そう、と桃子はうなずき、初めてほっとしたように表情を和らげた。「どうしてそんなところに立ってるの? おうちに入らないとまた熱が出るわよ」  そうね、と私は言い、玄関にまわって家の中に入った。  私が玄関でコートを脱ぎ、長靴についた雪を払っている間に、桃子は脱ぎ捨てたコートやミトンをどこかにしまい込んでしまったらしい。居間に入って行った時には、すでに暖炉の前には濡《ぬ》れたコートもミトンもマフラーも見えなくなっていた。  ダイニングテーブルの上に、一枚のメモが載っているのが見えた。私はわざとテーブルのまわりをうろうろし、「あら?」と言った。「これ、何かしら」  桃子は振り返った。唇の端にわずかにひきつれが走った。 「パパへのお手紙」と彼女は不自然なほど陽気に言った。「千夏さんが……書いたの。さっき、帰る前に。ねえ、千夏さんはもう帰ったのよ。知ってた?」 「そうだったの。買物にでも行ったのかと思った。ちっとも知らなかったわ」私はメモ用紙を取り上げながら言った。「よっぽどぐっすり寝てたみたい。なんにも気がつかなかったもの」  桃子は私に背を向けたまま、黙っていた。暖炉の火が彼女の濡れた髪を赤々と照らし出した。  メモにはこうあった。 『悟郎さんへ。これから出かけますが、あんまり雪がきれいなので、一人で少しこのへんを散歩してから駅に行こうかと思います。今度、天気がよくなったら、あなたと桃子ちゃんと三人でこのあたりを探索しましょう。そのための下見の散歩よ。それじゃ、また明日』  メモの末尾には、英語で「あなたに千回のキスを」と書かれてあり、それに千夏のサインがしてあった。  私はそのメモを再びテーブルの上に置き、灰皿の重しを載せ、しばらくじっとしていた。身体の芯《しん》には、永遠に治まることのなさそうな震えが残っていたが、その時の私は、少なくとも冷静さを取り戻していた。いや、というよりも、とてつもなく大きな問題を通り過ぎた後の満足感すらあったかもしれない。 「千夏さんがいなくなったから」と、私は桃子を見つめて言った。千夏さんが帰ったから、とは言えなかった。私は正直だった。いなくなったから、としか言えなかった。「今夜は三人だけで、夕御飯が食べられるわね」  桃子は私を見上げた。白く透明な頬《ほお》に、さっと刷毛《はけ》で掃いたような赤みがさした。 「ララが生き返ってくれればいいのに」私は目を落とし、小声で言った。「そうしてララも一緒に私たち三人と暮らせたら、どんなによかったかしら」  桃子はわずかにうなずいた。暖炉の中で薪《まき》がはぜた。私はうなずき返し、そっと桃子の足もとを指さした。「靴下が濡れてるわ」  桃子は暖炉に向けて大きく投げ出していた両足をつと引っ込めた。私は静かに微笑んだ。「はき替えてらっしゃいな」  桃子は瞬《まばた》きひとつせずに、真っ直ぐ、正面から私を見つめた。時間が止まったような気がした。私は表情を変えずに、もう一度、深くうなずき、優しく繰り返した。「はき替えてこないと、風邪をひくわ」 「知ってたの?」桃子が低い声で聞いた。「雅代さん、見たの?」  何のこと? と私はとぼけた。「さあ、靴下を替えて、一緒にお台所を手伝ってくれる? 私はまだ、少しふらふらしてるから、桃子ちゃんに手伝ってもらわなくちゃ」  桃子は私から視線をはずさなかった。暖炉の中で、再び薪がはぜた。桃子の真っ直ぐな視線は、ララが時折、人を見つめる時の表情のない、そのくせ、何かを暗に訴えかけるような視線に似ていた。  私は暖炉に近づき、桃子の隣に腰をおろして、彼女の手を取った。「ずっと一緒よ」と、私はかすれた声で言った。「大丈夫。桃子ちゃんのことは、私が守るわ。ララの代わりに」  桃子の目が一瞬、緊張感を失い、潤《うる》み、やがて正気を取り戻した人のように、あふれんばかりの表情をたたえ始めた。私は黙って彼女を抱きしめた。私たちは互いの身体にしみついていた雪の匂《にお》いを胸いっぱい嗅《か》ぎながら、長い間、じっとしていた。  翌日になって、千夏と連絡が取れなくなった悟郎は、千夏が住んでいた大久保のアパートに出かけてみて、彼女が前日、部屋に戻っていないことを知った。友人知人をあたってみても、千夏を見かけた人間はおらず、悟郎は二日後、警察に届けを出した。  千夏の残していったメモが最大の決め手になった。警察は川久保家の周辺を中心に捜索にあたり、麦畠のはずれにある野井戸の中から、千夏の遺体を発見した。  解剖の結果、千夏は事故死と断定された。降り続いた雪のせいで、私や桃子の残した足跡はもちろん、すべてかき消されていた。  何故、千夏が雪の降る日にわざわざ麦畠のはずれまで歩いて行ったのか、悟郎は最後まで納得がいかない様子だったが、現場近くに残された作りかけの雪だるまは彼に生涯《しょうがい》、忘れることのできない悲しい記憶を残すことになった。 「千夏ちゃんは、僕や桃子にでっかい雪だるまを作ってみせて、翌日、驚かせるつもりだったんだ」と彼は後になって私に言った。「時々、そういうことをして人をびっくりさせるのが好きな人だった。きっとそうさ。彼女は雪だるまを作りに行って、井戸に落ちた。僕や桃子をびっくりさせるために、あんなに遠くまで行って、そして死んだんだ」  私はその話を聞いた時、黙ってうなずいた。ある意味では彼の言うことはあたっていた。千夏は雪だるまを作りに行って、井戸に落ちたのだ。そばには誰もいなかった。いたのは、一匹の小鬼……柩から蘇《よみがえ》ったララの化身だけだった。 [#改ページ] [#ここから3字下げ] 九 [#ここで字下げ終わり]  川久保悟郎にまつわる話がこれで終わっていたのなら、どれほど私は救われていたことだろう。私は多くの人間と同様、自分の中にも悪魔を飼っていた。私は自分が見てしまったことを見ないふりをして過ごすことができる人間だった。とりわけ、それが自分のためになることであれば、贖罪《しょくざい》の念を忘れ去ることが可能な人間だった。生きていくために、いくつかの恐ろしい事実をいいように解釈して納得してしまうことができる人間だった。  もしも、あの後、悟郎が深夜、私の部屋のドアをノックしなかったら、私はおそらく生涯、これほど深い後悔に悩み続けることはなかったろうと思う。  千夏が死んで、一カ月ほどたった二月末の寒い日の夜だった。悟郎は食後、ずっとアトリエにこもっていた。私は桃子が眠ったのを見届けてから、台所を片づけ、居間のこまごまとしたものを整理し、暖炉の火を消してから、そっとアトリエのドアをノックした。 「先生」と私はドアの外で言った。「何か暖かい飲物でもお持ちしましょうか」 「いや、いい」悟郎の声がした。疲れ切ったような声だった。  ドアの向こうで悟郎が何をしているのか、見てみたい欲望にかられたが、我慢した。愛するフィアンセを失った彼が、そのころ深い悲しみに包まれているのを誰よりもよく知っていたのは私だった。彼が亡《な》き千夏を思い、千夏との思い出に浸り、千夏を思ってひとり涙を流していることに嫉妬《しっと》するほど、私は馬鹿ではなかった。もう千夏はいないのだ、と思うと、それだけで幸福感を覚えるようになっていた。毎朝、毎晩、千夏が悟郎を見つめて微笑んだり、寄り添ったりする仕草を見ることがなくなっただけでも、私は充分、嫉妬から解放されていたのだ。 「それでは、おやすみなさい」と、私は言った。「先生もあまり無理をなさらないように」 「ありがとう」悟郎は言った。「おやすみ」  私は自室に戻り、しばらくの間、ベッドに腰をおろしたまま、じっとしていた。千夏が死んでから、いわゆる不眠症の兆候が出始め、そのころにはもう、明け方近くまで眠れないようになっていたのだが、覚醒《かくせい》していることは私に一種の安らぎを与えていた。私は眠ることが怖かった。眠っている時は、たいてい恐ろしい夢ばかり見た。井戸に落ちて血だらけになった千夏が出てきたり、生き返った千夏が悟郎と結婚式をあげている夢を見たりするくらいなら、疲れきった身体をだましだまし、起き続けていたほうが、まだましだった。  机のスタンドの明かりの下で、ブリューゲルの画集を拡《ひろ》げていると、廊下の端のアトリエのドアがかすかな音をたてて開き、またそっと閉められる音が聞こえた。私は顔を上げ、耳をすませた。廊下を歩く足音がし、それは寝室のドアの前でも、居間のドアの前でも立ち止まらなかった。  心臓がコトリと鳴った。足音はゆっくりと私の部屋のほうに向かってきた。私は画集を閉じ、ドアのほうを見つめた。  足音がドアの手前で止まり、しばらく躊躇《ちゅうちょ》するような静寂があった後、ドアに軽いノックの音があった。私は返事をせずに、椅子《いす》の背に片手をかけたままじっとしていた。 「雅代ちゃん」悟郎は囁《ささや》くように言った。「まだ起きてるんだね」 「起きてます」私は言った。ドアノブがそっと回された。仄暗《ほのぐら》い廊下を背にした悟郎が、黒いカーディガンの前ボタンを開けたまま、ドアの向こうから顔を覗《のぞ》かせた。  彼は不精髭《ぶしょうひげ》をはやした顔に、力ない笑みを浮かべながら私のほうを見た。「何をしてた?」 「画集を……」と私は言い、言ってから音をたてて唾《つば》を飲み込んだ。「ブリューゲルの絵を見てたんです」  彼は率直だった。率直ではない彼を見たことはなかったが、少なくともその時の彼は、圧倒されるほど率直な態度をとった。 「入るよ」と彼は言った。「きみと一緒にいたくなったんだ」  はい、と私はうなずいた。間がぬけた答え方だと思ったが、それ以外、言いようがなかった。  彼はためらう様子もなく私の部屋に入って来て、後ろ手にドアを閉めた。私はベッドカバーをはずしたままにしておいたベッドのほうをちらりと見た。花柄《はながら》プリントの小さな枕《まくら》が、ひどく猥雑《わいざつ》なものに見えた。  脅《おび》えのようなものはなかった。あの時、私の中にあったのは、いくらかの戸惑いと、そして、恥ずかしくなるほどの期待だけだった。  彼はベッドに腰をおろし、潤《うる》んだような目を瞬かせながら、私のほうを見た。私はぎこちなく微笑んだ。 「なんだか、とても寒い」彼はつぶやくように言った。私は滑稽《こっけい》にも、部屋の中央に置いてあった石油ストーブのほうを見た。 「もう少し、火を強くしましょうか」  彼は微笑んだ。「いいんだ。寒いと言ったのは、そういう意味じゃないんだから」  私は顔を赤らめた。雅代ちゃん、と彼は言い、軽く息を吸った。「寒いんだよ。どこかが冷えきってて、全然、あったまらないんだ。僕はどうしたらいいのか、わからない」  彼は今にも泣き出しそうに見えたが、彼の口もとには、決して消えることがなさそうな微笑があふれていた。 「きみがいてくれてよかった」彼は私を見つめたまま言った。「きみがいてくれなかったら、僕はもっと苦しんでいたに違いない」  何と答えればいいのか、わからなかった。私は黙って、彼の足もと……黒っぽい靴下《くつした》をはいた彼の足を見ていた。 「こう見えても、僕は淋《さび》しがりやなんだ。困ったものだね」彼はそっと私に向かって手を差し出した。「雅代ちゃん。こっちにおいで」  私は顔を上げ、彼を見た。彼はうなずいた。「こっちにおいで」  行ってはいけない、と私は思った。彼が私を求めているのは、千夏を失った悲しみのせいであり、愛情がつのったせいではないのだから……そう思った。だが、私はそう思った直後、すでに椅子から立ち上がっていた。  彼が座っていたベッドと私が座っていた椅子との距離はわずかしかなかった。椅子から立ち上がってしまうと、私は悟郎と目と鼻の先で向かい合う形になった。  悟郎はそっと私の腕をとって自分の隣に座らせると、ごく自然に私の身体を抱き寄せた。心臓は恥ずかしいほど激しく鼓動を続けていたが、私は自分が、この世でもっとも望んでいた状態にはまったことを喜ぶあまり、慎みというものを忘れ去った。 「先生」と私は悟郎の肩に頬を埋《うず》めた。悟郎が着ていたカーディガンからは、うっすらと彼の体臭が漂ってきた。私はその匂いを胸いっぱいに吸い込み、両手を彼の身体にまわして、子供のように彼にしがみつこうとした。  彼はしばらくの間、私の頭を撫《な》でたり、背中をさすったり、私の頬にかかる髪の毛を払いのけたりしていたが、やがていくらか力をこめて私の顎《あご》を自分のほうに引き寄せた。  生まれて初めてのキスだった。暖かく乾いた彼の唇は、私の唇の上を何度もなぞり、やがて耐えきれなくなったとでも言うように、やや乱暴に口の中に押し入ってきた。  私は目を閉じ、息を止め、じっとしていた。涙がにじみ、目尻《めじり》からあふれ出た。愛されてはいない、ということはわかっていた。千夏がいなくなったからといって、彼が自分を愛してくれるとは思っていなかった。たとえ、充分な愛情表現をされたところで、私と悟郎との関係に何か変化が起こることなど、決してない、と思っていた。  なのに私は、彼が自分を求めるのなら、いくらでも喜んでそれに応じようと思った。それは、私がかつて、桃子の下僕になりたい、と思った時の感情に似ていた。私は悟郎の下僕になりたいと思った。愛されはしなくても、悟郎と何かを共有していくためなら、喜んで悟郎の下僕になろうと思った。  彼は私の着ていた安物の海老茶《えびちゃ》色のセーターの上から、私の固い乳房を愛撫《あいぶ》し始めた。私は、されるままになっていることを彼に伝えたくて、出来るだけ身体を柔らかくしながら、彼に全身を預けようとした。彼は私の首筋や耳たぶに小さなキスを繰り返し、「雅代ちゃん」と小さな低い声で私の名を呼び続けた。  雅代ちゃん……雅代ちゃん……その声は次第にかすれ、喘《あえ》いでいるのか、笑っているのか、わからなくなっていった。やがて彼が私の乳房に触れた手の動きを止めた時、私は彼が泣いているのを知って愕然《がくぜん》とした。  悟郎は私から身体を放し、がっくりと首を落として背中を震わせ始めた。洟《はな》をすする音がし、嗚咽《おえつ》をこらえる音がした。先生、と私は呼びかけた。愛撫の途中で、男に泣かれた場合、普通の大人の女だったら、どうするだろう、と必死になって考えた。だが、結論は出なかった。私は放心したまま、じっとしていた。 「桃子に母親ができるところだったんだ」彼は顔を被《おお》い、嗚咽しながら言った。「桃子に両親をそろえてやりたかったのに」  わかります、と私は小声で言った。たとえその場で、悟郎が千夏をどれだけ愛していたか、語り始めても、自分は冷静に聞いてやることができるだろう、と思った。悟郎がいくら千夏のことを愛していても、千夏は死んだ人間だった。その意味で、千夏は百合子と同様、悟郎の思い出に生きるだけの女……私にとって現実の嫉妬の対象とはなりえない女になっていた。 「先生のお気持ち、よくわかります」私は言った。「わかりすぎて、何て言ったらいいのか……」 「雅代ちゃん」悟郎はふと顔を上げ、私を見つめた。泣き顔を見せまいとして、小刻みに痙攣《けいれん》させた瞼《まぶた》が、彼の目を異様に大きく見せていた。 「千夏は……桃子の本当の母親だったんだ」  夢を見ているような不確かな気分、というのは、あのような状態を言うのだろうか。私は初め、自分が何かの聞き違いをしたか、あるいは、彼の説明不足のせいで、そんなふうに聞こえただけなのだろう、と思った。私は彼を見つめ、黙っていた。  悟郎は繰り返した。「桃子を生んだのは、千夏だったんだ」  意味が通じないまま、私はじっと動かずにいた。頭の中は空白だった。  悟郎は私から目をそらし、洟をすすり、深呼吸した。「つまらない話だけど、聞いてくれるかな。もう十年以上前の話だよ。戦後まもなくのことだ。僕は、自分の専攻を生かして、進駐軍相手にアルバイトを始めたことがあった。彼らの使うクリスマスカードに日本の美人画の絵を書く仕事や、みやげ用の絹地に富士山や舞妓《まいこ》の絵を書く仕事なんかがあってね。それほど悪くない収入になった。千夏とはそんな時、知り合ったんだ。彼女は前にも言ったように、通訳をしてた。進駐軍の開くパーティーなんかにも、しょっ中、顔を出しててね。僕が彼らのパーティーの招待状をデザインしてやったことがあって、その時、千夏が受付にいたんだ」  彼は顔を上げ、じっと石油ストーブの炎を見つめた。「恋愛が始まって、しばらくたってから、彼女は妊娠に気づいた。僕は結婚するつもりでいたから、プロポーズした。彼女はそれを受けてくれた。そのころ、まだ東京にいた親父《おやじ》にその話をすると、好きにしろ、と言われた。親父は親父でパリに残してきたフランス人の恋人のことで、頭がいっぱいだったみたいだ。僕と千夏は、子供ができてから盛大に結婚式をあげ、しばらくして落ち着いたら、親父を頼ってフランスに行き、パリで暮らそう、なんて話し合ってたもんさ。あのころの千夏には、僕しか見えていなかったと思う。それは確かだよ」  胃の奥深くに戦慄《せんりつ》が走り始めた。私は片手でげんこつを作り、それを口に押しあてた。 「千夏の性格については、きみに言っても仕方ないだろうけど……彼女はもともと奔放な女性でね」彼は皮肉たっぷりに微笑んだ。「妊娠して半年くらいたってからかな。千夏は、GHQの将校だった男の話をさかんにするようになった。時々、他の通訳と一緒に食事を奢《おご》ってもらったり、海を見にドライブに連れて行ってもらったりしていたらしい。おかしい、と思ったんだけど、疑いはしなかったよ。あたりまえだろう。自分と結婚の約束をして、しかも自分との間に子供まで作った女が、妊娠中に他の男に心を移すなんて、ふつう、考えられることじゃないからね。それからしばらくは何事もなく過ぎた。子供も無事に生まれた。僕らは子供に……千夏によく似た可愛《かわい》い娘に……桃子と名づけた。ちょうど、桃の花の咲くころに生まれたから、桃子さ。簡単な名づけ方だったけど、僕らはそれが気にいってた」  私は悟郎に見られないよう、握りしめたこぶしを前歯できつく噛《か》んだ。そうしていなければ、叫び出してしまいそうだった。 「桃子が生まれて、小樽から彼女の母親が出て来て、桃子の世話の大半はその母親がやってくれた。千夏は育児に無頓着《むとんちゃく》だったな。母親がいてくれるのをいいことに、すぐに通訳の仕事を始めて、夜遅くまで帰らないようになった。それでも僕は疑わなかったよ。それで、ある時、僕は大真面目《おおまじめ》に結婚式の話を持ち出した。いろいろ計画があったんだ。どこでどんなふうに式をあげるか、ハネムーンはどこに行こうか、新居はどこにするか……ってね。でも、その話を持ち出すと、千夏はごめんなさい、と言った。何故《なぜ》、あやまるのかわからなかったよ。千夏は泣き出して、それから三十分ほど、話にもなんにもならなかった。僕が怒り出して、わけを言え、って怒鳴ったら、彼女は白状したよ。あのアメリカ人の将校を愛してしまった、ってね。そう彼女に言われた時、僕は咄嗟《とっさ》に返す言葉がなかったよ。で、どうするつもりなんだい、と僕は聞いた。彼女は結婚するつもりだ、と言った。桃子のことは将校に話してある。一緒にアメリカに連れて行く、ってね。それから起こったことは……」と、悟郎は背を伸ばし、溜《た》め息《いき》をつき、私を見た。「あんまり思い出したくないよ。僕は若くて、無鉄砲だった。将校の部屋に乗り込んで、奴《やつ》をぶん殴ろうとして、逆に殴り返された。ナイフを持ち出して暴れたこともある。何度か、そんな大立ち回りをやったあげく、僕は桃子を奪い取る計画をたてた。桃子を奪えば、千夏が戻ってくる。今から思うと馬鹿馬鹿しい話だが、そう信じてたんだ」 「桃子ちゃんのお母さんは、百合子さんじゃなかったんですか」私は震えながら言った。「信じられない」 「信じられないことは世の中にたくさん起こるもんだよ。結局……」と悟郎は額に垂れた前髪をかき上げた。「結局、千夏は桃子のことを諦《あきら》めた。愛のさめた男との間に生まれてきてしまった子供だったんだ。やっかいものとでも、思ってたのかもしれないね。彼女は桃子を僕に預け、将校と結婚していった。いつか必ず、引き取りに来る、って泣いてたけど、僕は信用しなかった。小樽の彼女の実家では、親戚《しんせき》一同が騒ぎ始めて、桃子を引き取るの引き取らないの、とうるさく言ってきたけど、僕は彼女の実家とは縁を切った。さすがに僕の親父も困ってたみたいだよ。そのころ、親父はまだこの家に住んでて、日本人の愛人が通って来てたけど、僕と桃子にこの家に来るように、と言ってくれた。親父の世話にはなりたくなかったよ。でも、仕方なかったんだ。だって、そうだろう。桃子はその時、まだ生まれて半年ちょっとだったんだから。親父のところに来ていた家政婦に任せなければ、僕はなんにも出来なかった。ある時、親父は一人の女を家に連れて来た。空襲で家族全員を失い、天涯孤独になった人だった。その人は僕が何も言わないのに、いつのまにか、僕のところに通い始めて、桃子の世話を焼き始めた。それが……百合子だったんだ」 「私……私……」私は口の中でつぶやき続けた。「私は、百合子さんが桃子ちゃんのお母さんだとばっかり……まさか、千夏さんが……」  悟郎が私の様子のおかしいことに気づいた気配はなかった。彼は続けた。「僕は百合子と正式に結婚した。そして桃子と一緒にこの家で暮らし始めた。親父は昭和二十六年にパリに戻ったから、その後はずっと三人暮らしだった。百合子は優しい天使のような女だったよ。桃子のことをわが子同然に可愛がった。一度、僕との間に子供ができたんだが、流産してしまって、それ以来、子供はできなかった。できないままに、死んでしまった」  悟郎はそこまで言うと、はは、と力なく笑った。「僕は死に神みたいな男だな。僕とくっつく女はみんな、死ぬ」  私は息苦しくなって、ベッドから立ち上がり、窓辺に立った。カーテンの向こうの窓ガラスには、水滴がつき、幾重にも襞《ひだ》を作ってガラスの上を流れ落ちようとしていた。 「おととしだったな」と悟郎は続けた。「ちょうど雅代ちゃんが、この家に来た年だ。アメリカでさんざん苦労したあげく、亭主に癌《がん》で死なれた千夏が日本に戻って来た。共通の知人を通じて、僕らは再会した。千夏はずいぶん、人間が変わってた。苦労を重ねたせいか、すっかり大人になっていた。多分、この僕もね。アメリカで子供ができなかった彼女は、桃子のことばかり考えて暮らしていたらしい。不思議なんだけど、僕は、千夏と再会してみて、自分が千夏を恨んではいなかったことを知ったんだよ。僕たちは静かな話し合いを続けた。桃子のためにも、一緒になるべき時がきた、ということを確認し合った。桃子は難しい年頃《としごろ》だから、少しずつ少しずつ進めていこう、ということになった。そして、僕たちが結婚し、桃子が千夏を母親のように思う時がきたら……初めて本当のことを打ち明けるつもりでいたんだ」  桃子が殺した人が、実の母親であったこと、そして、そうとは知らず、桃子が母親殺しをするのを目撃しながら、救おうともせず、桃子と共犯者になって、千夏排除に一役かった自分のことを考えると、私はいてもたってもいられなくなった。私は激しく首を横に振り、両手で頬を押さえ、泣き出した。泣いてすむことではないのは、わかりきっていた。だが、泣くしかなかった。泣かなければ、その場で狂ってしまいそうだった。 「どうした」悟郎は驚いたように立ち上がり、私の傍《そば》にやって来た。「いったい、どうしたんだい、雅代ちゃん」  私は、なんでもない、と言い続け、洟をすすり、嗚咽をこらえ、私を抱き寄せようとしてくる悟郎の手を払いのけた。なんでもない……繰り返されるその言葉は宙を舞い、私への罰として神が与えた最初の責め苦のようにして、部屋いっぱいに化け物のように拡《ひろ》がった。なんでもない、なんでもない、なんでもない……。  私は口を押さえながら、部屋を飛び出した。悟郎が追いかけてくる気配があったが、立ち止まらなかった。私は廊下を走り、いくつかのドアをすり抜け、玄関に出て、外に飛び出した。  凍てついた冬の空に、わななくように瞬《またた》く星が無数にちらばっていた。川久保家の白いフェンスは、闇《やみ》に溶け、その向こうでは米軍宿舎の明かりが遠い街の灯《ひ》のように侘《わび》しげな光を放っていた。冬の匂い……乾いた冷たい干し草のような匂いがした。黒々と冷たく拡がる夜の真ん中に立ちながら、私はこれから始まる自分の人生が、その夜と同様、ひんやりと重苦しく暗いものになるであろうことを予感して、震えながらその場にうずくまった。 [#改ページ]  あれから三十年以上が過ぎた。三十年の間にはいろいろなことがあった。私は二十九歳になった時、画家への登竜門《とうりゅうもん》として有名な、ある権威ある美術界の賞を受賞した。私はずっと独身を通し、家庭には恵まれなかったが、絵描《えか》きとしてのその後の人生は、順調だった。私の画風は一部専門家の間だけにとどまらず、美術に縁のない人々の間でも人気が出て、ワインのラベルやコースター、あるいは毎年のカレンダーにまで私の絵が使われるようになった。  おかげで経済的には苦労をしたことはない。私は金持ちの絵描きだったし、今もそうだ。数年間、一枚も絵を描かなくても、私の絵はいつのまにか、どこかの商品の何かのイメージに利用され、使用料がどっさりと銀行口座に振り込まれ、感謝状が届き、また、次の商品化の相談がもちこまれる、といった具合だった。  そのことで同業者から、あれこれやっかみまじりの悪口を言われたことも二度や三度ではない。商業主義に走った愚かな画家として、週刊誌に面白おかしく取り沙汰《ざた》されたこともある。だが、私はいっこうに気にしなかった。私は自分の絵がどのように使われようと、かまわなかった。私は気が向いた時に、自分の好きな絵を描ければそれでよかった。  人は、私が努力家であり、努力がことごとく実っていく幸運な星のもとに生まれた、とことあるごとに言ってきたが、必ずしもそうではなかったことは私自身が一番よく知っている。私の絵に対する情熱は、あの年の冬を境にして失われてしまった。私は二度と、あの川久保家で日々、描き続けたような、ひりひりする色彩、不器用な構図、情熱だけが先走ったもどかしさのある絵を描くことはできない。完璧《かんぺき》さから程遠い、ぎくしゃくとした、それでもどこかに光るものがある絵を描くことは絶対にできない。  悟郎が褒《ほ》めてくれた私の絵は、あのころの私だからこそ描けたものだった。私はあの年の冬を最後に、自分の中にあった素直な感覚をまるごと失ってしまった。  永遠に失い、二度と手にすることができないとわかっている感覚を取り戻そうとして、芸術家気取りで無駄《むだ》な努力をするのは馬鹿《ばか》げている。私が商業主義に走ったからといって、それが世間に何の悪影響を及ぼすというのだろう。心の風景を描くことのできなくなった小説家が、性愛小説を書き始めるのと同様、私もまた、自分の絵を世間が求めてくる形に従って、黙ってばらまいただけだ。  私が川久保家に別れを告げたのは、あの冬の日から二週間ばかりたった春浅い三月中旬のことだった。川久保家の庭では芝生が青々と色づき始め、木々の新芽がふくらみ、フェンスのまわりでは、芝桜の柔らかい葉が生え始めていた。  突然、家庭教師の仕事を辞めさせてもらいたい、と言い出した私のことを悟郎がどんなふうに誤解したのか、私にはわかっている。彼はおそらく、あの晩、自分が私を抱きしめ、キスをし、何やら複雑な過去の出来事を告白したことで、私がひどいショックを覚えたと思ったのだろう。彼にしてみれば、私はただの世間知らずの、熟しきらない青い林檎《りんご》のような娘だったに違いない。彼は深夜、私の部屋を訪れてあんなふるまいをしたことで、私に嫌《きら》われ、恐ろしがられたのだと勘違いしていた。 「申し訳なかった」私が出て行く直前、アトリエに入って行くと、彼は低い声でそう言った。「忘れてほしい」 「何のことでしょうか」と私は陽気に言った。悟郎は私を見て、神経質そうに微笑《ほほえ》んだ。私はじっと彼の顔を見つめた。アトリエの窓からさしこんでくる春の日差しが、彼の顎《あご》に生えた不精髭をタンポポの綿毛のように白っぽく浮き上がらせた。  この世で一番、愛していた人の顔、二度と忘れることのない人の顔を胸のつまる思いで見つめていたというのに、彼はすぐに私から目をそらした。 「雅代ちゃんのことは大好きだったよ」彼はいつもの彼に戻って、わざと大袈裟《おおげさ》に、半ば冗談めかして言った。「今度、会ったら、プロポーズするかもしれない」 「してください」と私は言った。「私も先生のことが大好きでした」 「別れるのは残念だな」彼は上唇《うわくちびる》を軽く舐《な》め、笑みをたたえ、遠くを見つめた。「残念だけど、仕方がない」  そうですね、と私も言った。  悟郎は私を駅まで送ると言ってくれたが、私はそれを断った。荷物はさほどあるわけではなかった。持ちきれない荷物は、あらかじめ小包にして、函館の実家に送ってあった。  悟郎に別れを告げ、ボストンバッグを下げて玄関から外に出ると、ポーチに桃子が立っていた。桃子はくすんだ朱色のセーターを着て、灰色のスカートをはいていた。 「もう行くの?」桃子は聞いた。私はうなずいた。 「本当に行っちゃうのね」 「ごめんね、桃子ちゃん」と私は言い、彼女の手を握った。彼女はそっと私の手を振り払った。桃子は怒ったような顔をして私を見上げ、何か言いたそうにしていたが、やがて諦めたのか、何も言わずに、先に立って歩いて行った。  門の外に出た桃子は、つと立ち止まってこちらを振り返った。その目には涙が浮かんでいた。 「桃子ちゃんのこと、忘れないわ」私は桃子に近づくと、静かに言った。「麦畠《むぎばたけ》で遊んだことや、雑木林で絵を書いたことや、他にもいろいろ。楽しかった。一生、忘れない」 「ララのことも忘れないで」桃子は突然、顔を歪《ゆが》ませ、泣き出した。「ララのこと、絶対、忘れないで」  私の目に涙が滲《にじ》んだ。だが、泣くのはこらえた。泣いたらすべてが変わってしまいそうな気がした。私は桃子から離れなければならなかった。そうしなければ、私まで小鬼になってしまう。一生、小鬼として生きなければならなくなってしまう。 「ララのことはもちろん忘れないわ」私は深呼吸しながら言った。「いつも心の中でララは生きてるのよ。私と桃子ちゃんとララは仲がよかったんだもの。本当に仲好《なかよ》しだったんだもの」  桃子は激しく唇を噛んだ。遠く、麦畠のあたりで雲雀《ひばり》がかん高く囀《さえず》った。  さよなら、と私は言った。「さよなら、桃子ちゃん。元気でね」  桃子は片手で乱暴に涙を拭《ふ》き、首筋に血管が浮き出るほど強く奥歯を噛みしめると、かろうじて弱々しい笑顔を作ってみせた。 「さよなら」桃子は言った。  桃子の態度は立派だった。桃子は最後まで、私と共犯者であり続けた。そして私と別れた後も、たった一人、罪の意識と戦い続けようとしていたのだ。  私は桃子に手を差し出した。私たちは簡単な握手をし、別れた。  それが最後だった。  長い間、私が悟郎と桃子のその後について耳にすることがなかったのは、私自身が函館と疎遠《そえん》な生活をしていたせいだ。私は川久保家を出て、いったん函館の実家に戻ったものの、その後、半年ほどたってから再び上京した。函館にはほとんど帰らなくなり、そのせいで、唯一《ゆいいつ》、悟郎の消息を知る手がかりだったミツコやミツコの母親とも、次第に音信不通になった。  悟郎の噂《うわさ》を聞いたのは、私が四十歳になった年のことだ。ミツコは函館の老舗《しにせ》の呉服屋の長男と見合い結婚し、子供を三人も作って、たくましい中年婦人になっていたのだが、そのミツコから十数年ぶりに突然、電話があった。あの覚えのある気の弱そうな、それでいて甘えたような口調は変わらなかったが、ミツコは私が長い間、居所も教えずにいたことに対して、たいそう不服を並べたてた。 「立派な絵描きさんになっちゃって」と彼女は言った。「もう私のことなんか、忘れちゃったんでしょう。この電話番号だって、あなたのお母さんに聞いたのよ。少しはおうちに帰ってあげたらいいのに。お母さんもすっかりお年をとって、気が弱くなってるわ」  そのころ私の母は、兄の元に身をよせて、隠居生活をしていた。兄は結婚し、子供が二人いた。  私はミツコに連絡しなかったことについて、曖昧《あいまい》に弁解を続けたが、それでも彼女から電話をもらえたことは私をとてつもなく嬉《うれ》しがらせた。私たちは互いの近況を時間を忘れて喋《しゃべ》り合った。 「桃子ちゃんって子がいたでしょう?」とミツコは話の途中で、思い出したように言った。「ほら、あなたが昔、家庭教師をしてやった子よ、うちの母の甥《おい》の川久保悟郎の娘」  いたわね、そんな子が、と私はどぎまぎしながら言った。あの子ね、とミツコは声をひそめた。「亡《な》くなったのよ」  私は黙ったまま、受話器を握りしめた。ミツコは続けた。「悟郎さんがパリに行った話はあなた、知ってるわよね」  知らない、と私は言った。あら、知らなかった? とミツコは言い、「ともかく、パリに住んでたのよ、あの人」と再び声をひそめた。「桃子ちゃんが小学校五年になった年だったかしら。突然、板橋の家を売り払って、二人でパリに行ったの。その後、何の連絡も寄越《よこ》さないようになって、うちの母もずいぶん、腹を立ててたわ。いくらなんでも葉書一枚寄越さないなんて、非常識だ、って。まあ、そんなことはどうでもいいけど、桃子ちゃんは……その……何て言うか、精神状態をおかしくしたらしいのね。長い間、病院に入ってたみたいだけど、そのうち亡くなったの。もう五年になるわ。まだ二十三だったっていうのにね」 「自殺?」私はかすれた声で聞いた。それは知らない、とミツコは言った。「本当に知らないの。悟郎さんは何も詳しいことは知らせて来なかったし、以来、うちの母にも他の親戚《しんせき》にも何の連絡も寄越さなくなったから」  そう、と私は言った。言葉が続かなくなった。悟郎がその後、日本に帰っているのかどうか、聞こうと思ったが、聞けずに終わった。私が電話口で黙りこくってしまったので、ミツコは怪訝《けげん》に思ったようだが、別段、何も聞いてはこなかった。私たちはいつか会いたい、必ず会おう、と約束し合って、電話を切った。  その数カ月後、函館の母が亡くなった。しばらくぶりに函館に戻った私は、ミツコと会い、懐《なつ》かしい話に花を咲かせた。だが、そこで悟郎や桃子の話は出なかった。私も何も聞かなかった。  母の死後の後始末を終えて東京に戻った私は、引っ越しをした。そして、そのことを函館の誰にも知らせなかった。そのせいでミツコとも再び縁が切れた。だから私に悟郎の消息を教えてくれる人間は、誰ひとりとしていなくなった。  長い間、私には桃子が死んだということが信じられなかった。桃子が異国の病院でひっそりと息を引き取ったなどと、どうして信じることができよう。桃子がこの世にもういないなどと、どうして信じることができただろう。  今でも目をつぶると、麦畠で風にスカートをふくらませながら、歓声をあげて走りまわっていた桃子の姿を思い出す。思いつめた顔をして、子供部屋の窓から外を眺《なが》めていた桃子の横顔を思い出す。  同時に、悟郎があの川久保家の花が咲き乱れる芝生の上で、バービー人形のようだった千夏を相手に冗談を飛ばしている姿や、パラソルをさした千夏の肩を抱いて、ふざけている姿、そして開け放された居間の窓から、電蓄にかけられたジャズのレコードが絶え間なく流れていた様子をまるで昨日のことのように思い出す。  そしてその風景の中には、常に一匹の真っ白な猫《ねこ》がいる。ララ……その名を口にするたびに、私はあの川久保家の光に満ちあふれた庭、笑い声、スノッブな生活のすべてを思い出し、決して癒《い》えることのない後悔を覚える。  だが、不思議なことに、記憶の中にある風景に、私の姿はない。いるのは悟郎と桃子と千夏とララだけで、私はフェンスのこちら側から、その痛々しいほど偽善的な幸福の風景を不幸な顔をした悪魔のように眺めているだけなのだ。 [#改ページ] 単行本 一九九〇年九月 白水社刊 底本 新潮文庫 一九九六年七月一日 第一刷