角川文庫    墓地を見おろす家 [#地から2字上げ]小池真理子      〔1〕 [#地から2字上げ]3月10日  その朝、白文鳥が死んだ。  死ぬ直前によほど暴れたらしい。|鳥《とり》|籠《かご》の中に|は夥《おびただ》しい量の羽が落ちている。 「寿命だったのかな」|加《か》|納《のう》|哲《てっ》|平《ぺい》がしんみりと言った。「何年になる?」  まだ四年よ、と|美《み》|沙《さ》|緒《お》は答えた。「|玉《たま》|緒《お》が生まれてから買ったんだから」 「そうか。寿命にしては早いな。病気だったのかもしれない」 「きっと引っ越しの時、何かに頭をぶつけておかしくなったんだわ」彼女は鳥籠の扉を開け、冷たくなった小さな生き物を手の平に載せた。鼻をすり寄せると、元気だったころの干し草のような|匂《にお》いがかすかにした。目頭が熱くなった。美沙緒は小鳥の硬い身体を静かに|撫《な》で、鼻をすすった。 「|可愛《かわい》かったのに」 「そうだな」哲平は何度もうなずいた。飼い犬の雑種のクッキーがやって来て、そっと美沙緒の|膝《ひざ》に前足をかけ、鼻をひくひく動かした。 「死んじゃったのよ、ピヨコが」美沙緒はクッキーの鼻づらに両手でくるんだ|死《し》|骸《がい》を差し出し、また鼻をすすった。クッキーはさかんに匂いを|嗅《か》ぎ、尾を振り、情けない目で彼女を見た。 「後で外に埋めてやろう」哲平が美沙緒の背中に手を置いた。「皮肉なことにここに越して助かったことがひとつ出来ちゃったな。何しろ目の前が墓地だ」 「いやね。墓地のことは忘れる約束でしょ」  引っ越ししてきた翌朝に、可愛がっていた生き物が死んだということが、美沙緒を|憂《ゆう》|鬱《うつ》な気分にさせた。どうしてなんだろう。昨日までは元気で、トラックでクッキーと共にこのマンションまで運ばれて来た時も、部屋に落ち着くとすぐ、機嫌よさそうに|囀《さえず》っていたというのに。 「ママ?」廊下をへだてた子供部屋から玉緒の声がした。玉緒は眠る時はおとなしく寝てくれるが、起きた時はすぐに不安になるらしく、目を覚ますや否や、見捨てられた子犬のような声を出して母親を呼ぶ。美沙緒は小鳥の死骸を哲平に手渡すと、「おはよう」と普段通りに声を上げた。「起きてらっしゃい」  居間に続くドアの向こうから玉緒が顔をのぞかせた。父親のばっちりした目と母親の彫りの深い骨格を受け継いだ可愛い顔。ウェーブのかかった柔らかな髪。背中に羽をつけたら、そのまま天使になりそうだ、と美沙緒は彼女を見るたびに思う。 「玉緒、ちょっとこっちに来て」美沙緒は幾分、静かな声でそう言い、娘を手招きした。  くりくりした目がいち早く窓際の|鳥《とり》|籠《かご》に向けられ、|怪《け》|訝《げん》そうに光った。「ピヨコ、いないの?」 「ここにいるよ」哲平が静かに両手をかざしてみせた。  小さな足が、積み上げられた段ボール箱を器用によけ、ぺたぺたと音をたてて父親に近寄って来た。哲平が手の平を開けて小鳥を見せた。玉緒はこわごわ中をのぞき込み、次に父親の顔を見た。「病気?」  哲平は首を横に振った。美沙緒が代わりに答えた。「ピヨコはね、死んじゃったの。天国に行ったのよ」  玉緒は一瞬、きょとんとした顔をした。スヌーピーの模様がついたパジャマの胸元が大きくふくらんだ。ピンク色をした小さな丸々とした指が、こわごわ小鳥の|死《し》|骸《がい》を|撫《な》でる。「かわいそう」 「後でパパと一緒にお墓を作ってやろう。立派なお墓を作ろうね。玉緒のいいお友達だったんだからな」  デリケートな子供だった。みるみるうちに玉緒の両目から涙があふれ、|頬《ほお》を伝った。「かわいそう。ピヨコ、かわいそう」  美沙緒はもらい泣きしそうになるのをかろうじてこらえながら、うなずいた。「かわいそうね。だからちゃんとお墓を作りましょうね」  本当に何だったんだろう、と美沙緒はまた|訝《いぶか》しく思った。まるで籠ごと猫にいたぶられたような暴れ方だ。水入れの容器の中にも、たくさんの細かい羽が飛び散っている。ねずみにでも襲われたのだろうか。まさか! こんなピカピカの新築マンションにねずみがいるわけがない。 「変ねえ」疑問をさしはさむことにより、その場の|陰《いん》|鬱《うつ》な空気の流れを変えようと、彼女は首を|傾《かし》げてみせた。 「まさかクッキーがいたずらして脅かしたわけじゃないだろうし」 「クッキーはそんなことしないもん」玉緒が片手で乱暴に涙を|拭《ぬぐ》い、怒ったように言った。「クッキーはおりこうだし、ピヨコともお友達だったんだから」 「そうよね。クッキーはそんなことしないわよね。じゃあいったい何のせいだったのかしら。玉緒はどう思う?」 「わかんない」 「ゆうべはぐっすり眠ってたから、物音にも気づかなかったなあ」哲平が死骸をさりげなく古新聞の中にくるみこみながら言った。「もしかしたら、でっかいゴキブリでも出たのかもしれないぞ。お化けゴキブリだ。玉緒と同じくらいの大きさがあるでっかいやつ。ガオーッ」  まだ涙が残る目を細めて、くすくすと玉緒が笑った。笑わせようとする父親の努力に報いようとしたのか、どこかごまかしのある笑いだった。 「新築マンションの八階で、しかもまだ三月だっていうのにゴキブリが出たの? もしそうだったら、私、すぐにここを引っ越しますからね」美沙緒はふざけて言った。哲平は玉緒を抱き上げ、「ほうら、見たか? おまえのママはあんなちっぽけな虫の話をしただけでヒステリーを起こすんだぞ。ゴキブリなんか怖くない、怖くない……」と、おかしなメロディをつけて歌い出した。  玉緒が笑い、クッキーがあたりをはね回った。座がなごんだ。美沙緒はてきぱきと|鳥《とり》|籠《かご》をべランダに出し、玉緒に洗面を命じてからコーヒーを沸かしにかかった。  南向きの広々としたリビングルームには、朝の日差しがあふれている。小鳥の突然の死による|憂《ゆう》|鬱《うつ》な気分は、今はただちに追い払う必要があった。やらなければならないことが山ほどある。キッチン用品の整理、当座の食料の買物、引っ越しのため|埃《ほこり》をかぶったであろう布団も干したほうがいいだろう。家具の移動や電化製品の取りつけは哲平に任せるとして、洗面室やトイレ、寝室を居心地よくするためには、やはり自分が中心になって動き回らなければならない。うんざりするほどの段ボールの山も片づけなければ……。  それまで住んでいた日当たりの悪い貸家に比べると、ここはまるで海辺の小粋なリゾートホテルみたいだった。八階建て。世帯数十四。ワンフロアーに二世帯しかなく、左右対称に造られた間取りはすべて同じでも、バルコニーの位置をそれぞれ少しずつずらしてあるので、外から見ても平面的な感じはしない。  玄関を入ると南向きに十五畳のリビングルーム、独立したキッチン、廊下の|脇《わき》にバス、トイレ、洗面室が並び、北向きに六畳と八畳の洋室。各部屋には小ぶりの造りつけクローゼットが備えられてあり、収納にも事欠かなかった。  JRの高井野駅から南へ歩いて七、八分。私鉄の南高井野駅までも十二、三分もあれば行ける。高井野駅から都心まで二十分足らず、哲平の勤務する広告代理店まで乗り換えなしで一本。玉緒を入園させるつもりの聖マリア幼稚園までは歩いて十分、先の話ではあるが区立小学校までも子供の足で十分足らず。買物は便利、病院も高井野駅の北口に大きな私立病院がある。それにクッキーを室内で飼うことについても、さしたる問題はなさそうだった。  二LDK、約八十三�、築後わずか八か月、管理人夫婦常駐……平和で健全な暮らしを願う家族にとっては、何もかもが言うことなしであった。美沙緒はコーヒーカップと玉緒用のクマの絵がついたマグカップをテーブルクロスを敷いていない食卓に並べながら、ふとベランダを眺めた。  言うことなし? そうかしら。  彼女は考えまい、と努めた。ベランダの向こうには青々とした三月の空が|拡《ひろ》がっている。視界を遮るものは何ひとつない。  墓地……。  彼女は急いで首を横に振り、微笑した。ほらほら、また気にし始めた。もう、いい加減にしないと。  コーヒーが香ばしい|匂《にお》いをたてている。段ボール箱から取り出したばかりのフライパンをざっと水で洗い、暖めて油をひく。引っ越しの際、割れないよう注意して持ってきたタマゴを三つ、落とし入れる。  言うことなしのこのマンションの南側から西側にかけてぐるりと広大な墓地が囲み、その向こうには寺があった。北側は|廃《はい》|墟《きょ》同然になった、無人の古い都営住宅が雑草の中に埋もれ、東側は空き地だった。おまけにその向こうには火葬場の煙突が見える。火葬場の煙突は時折、もうもうと黒煙を吐く。風向き次第では、その煙が窓から侵入してこないとも限らない。 「縁起がいいぜ」と哲平はここを見学に来た時、美沙緒に言った。「墓地があるだけで、この価格だ。考えてもみろよ。今どき、都内でこんな豪勢なマンションをこの値段で買えると思うかい?」  それに火葬場つきだなんてね、と彼女は鼻を鳴らした。「手まわしのいいことったら!」  仲介に入った不動産業者は、墓地はヨーロッパあたりですと公園と同等にみなされておりますから、などとおかしな説得を始めた。そうでしょうとも、と美沙緒はベランダから眺める風景を見ながら皮肉たっぷりに言った。「あの土の下に人間の骨が入ってさえいなければね」  こんなところに住む気はなかった。いくら値段が安く、部屋が素晴らしく、日当たりもよく、都心まで近いにしても、だ。わざわざ墓地と寺と火葬場に三方を囲まれたマンションを買うなど、正気の|沙《さ》|汰《た》ではない。  だが、初めてこのマンションを見学に来て、墓地を見下ろしたその瞬間からすでに、どうしようもなく現実的な計算が美沙緒に揺さぶりをかけていたのは事実だった。玉緒を出産し、イラストの仕事をやめてしまってから、経済状況は決して楽ではなかった。哲平の稼ぎも不況のせいで頭打ちが続いている。  かといって、真夏でも洗濯ものがなかなか乾かないような、暗い北向きの古びた貸家に、毎月十数万の金を|注《つ》ぎ込むのは馬鹿げていた。うまい具合に現在ある貯えを利用して、|手《て》|頃《ごろ》な|住《すみ》|処《か》を確保する時期は今しかないような気もした。哲平の言う通り、今どき東京で、この値段のマンションなど、どこを探しても見つからないだろう。この広さで三千五百万。交通や生活の便利さから考えると、普通なら六千万、いや七千万してもおかしくない物件だった。周囲に墓地と火葬場があるだけで、半額以下になる。ものは考えよう……そう美沙緒は思った。都会に仕事を持つ平凡な家族が、住居や環境に|完《かん》|璧《ぺき》さを望んだところで|叶《かな》えられない夢に終わるに決まっている。転売する時のことを考えると、この環境では買い手がつきにくいだろうこともわかってはいたが、自分たち一家が次にまた別の住居を探す時のことなど、どうでもいいような気がした。第一、ここが気に入れば、当分、住みついたって構わないではないか。  それにこれまで住んでいた貸家には、いやな思い出もあったし……。 「ママ」と玉緒が走って来た。美沙緒は我に返って思わず、トーストに塗るバターをひとかけら、床にこぼした。 「クッキーの御飯、あたしが作る」 「できる?」 「うん」 「じゃあ、お願いね。お水は入れなくていいから」  ドッグフードの箱を玉緒が持ち出すと、クッキーがやって来て尾を振った。黒く丸い目、|柴《しば》|犬《いぬ》の血が混じった薄茶色の毛並み……そうよね、と美沙緒は思った。この犬の散歩コースとしても、このあたりは申し分ない。少々の|吠《ほ》え声だって、隣が|空《あき》|室《しつ》だから気を遣わなくてもいいし。  彼らが購入したのは801号室で、隣の802号室は空いたままだった。今後、|誰《だれ》かが入居してくる可能性はあったが、その時はその時。よほどの犬嫌いでなければ、大丈夫だろう。それに造りがしっかりしているから、クッキーが遠吠えでも始めない限り、隣に聞こえる心配はなさそうだった。  開け放した大きな窓から、春の|匂《にお》いのする風が入って来て、新調した真っ白のレースのカーテンを波うたせた。午前九時の太陽が、リビングルームの中ほどにまで、暖かい光を投げている。 「御飯を食べたら、ピヨコのお葬式をして、それからあなたは自分のお部屋を片づけるのよ。いい?」 「ピヨコのお葬式、どうやってやるの?」 「お墓を作って、十字架をたてて、そこにピヨコのお墓、って書いてね、みんなでお祈りするの。天国で幸せになれますように、って」 「それだけ?」 「他にも何かしてあげたいの?」 「ほら、ママとパパが時々、お祈りするみたいに、黒くって長細い板を作ってあげなくていいの?」  ああ、と美沙緒は目をそらした。「|位《い》|牌《はい》のことね。あれはいらないわ」 「どうして?」 「人間だけに使うから。ピヨコは鳥だから必要ないの」  ふーん、と玉緒はクッキーが皿に鼻を突っ込んでがつがつと|餌《えさ》を食べるのを見守った。  小型の仏壇を置く場所については、哲平とまだ話し合っていない。昨夜は取り|敢《あ》えず寝室のクローゼットに入れておいたが、いつまでもあのままにするわけにはいかないだろう。“あの人”にも、新しい部屋の新鮮な風を吸わせてやらなければ。  死者に対する美沙緒のそうした古風な礼儀正しさを哲平は常にからかった。たとえそれが自分の死んだ前妻への礼儀であっても、彼はそうした。冷たいからではない。彼は|辛《つら》い記憶であればあるほど、それを合理的に解釈し、笑いとばそうとする|強靱《きょうじん》な、そして同時に痛々しい意志の力を持っている男だった。  今から七年前、美沙緒が二十五で哲平が二十八の夏、ふたりは|伊《い》|豆《ず》に二泊旅行をした。ホテルのプールで泳ぎ、バーベキューを楽しみ、ベッドでたっぷり愛し合って、哲平が東京の自宅に帰ってみると、玄関ホールの暗がりで哲平の妻、|玲《れい》|子《こ》が黙ったまま彼を迎えた。  なんだい、と彼は言った。電気もつけないでずっとそこに立ってたのかい?  玲子は答えなかった。彼は壁のスイッチを手さぐりで探し、電気をつけた。玲子は立っていたわけではなかった。彼女を支えていたのは、床ではなく天井だった。  哲平あての遺書があった。そこには哲平と哲平の恋の相手である美沙緒を|怨《うら》む気はまったくない、と書かれてあった。  ただ、疲れただけです。生きていてももう、何も楽しいことがありません。眠りたいわ。さようなら。幸せになってください。  その短い遺書の文面を美沙緒は今でも暗唱できるほどはっきり覚えている。“生きていてももう、何も楽しいことがありません”……哲平を間にはさんで、玲子と女の争いを繰り広げるつもりは毛頭なかった。哲平に妻がいるという事実を気にしなかったと言えば|嘘《うそ》になる。だが、そんなことを考えて|鬱《うつ》|々《うつ》とするには、美沙緒にはやりたいことが多すぎた。男と女の何たるか、も真剣に考えたことがなかった若い女に、妻のある男との関係が何を意味するのか、事件が起きる前に知ろうとしたところで無理な話だった。  追い討ちをかけるようにして、社内で美沙緒と哲平は|悪《あ》しざまに言われるようになった。美沙緒は立場上、仕事を辞めるのが賢明だと思い、会社を辞めてフリーのイラストレーターになった。  玲子の死後、終わらせるつもりであった哲平との関係は、変わらずに続いた。美沙緒の住んでいた日当たりの悪い小さな貸家で、ふたりは玲子の話をわざと何度もむしかえしては話し合った。むしかえす必要のない、むしかえしたところでどうにもならないとわかってはいたが、ひとりの人間を死に追いやった罪をただ黙って背負うのはいやだった。たとえ死者に|鞭《むち》|打《う》つことになったとしても、共通の罪を背負う者同士、そのことから目をそむけて|馴《な》れ合っていくのはいやだった。  話して話して、もううんざりだ、というところまで話し合って、それでもふたりは別れようという気になれなかった。光が見えた、と美沙緒は思った。  二十七になった時、美沙緒は妊娠を知った。哲平はそれまで玲子と住んでいた部屋を引き払い、玲子の|位《い》|牌《はい》を持って美沙緒のところにやって来た。翌年、玉緒が産まれた。そして……。 「ああ、腹が減ったよ」哲平がタオルで手を|拭《ふ》きながらキッチンに来た。「表札つけてきたぞ。まずは腹ごしらえだな」 「コーヒーとトーストと目玉焼きくらいしかないわよ」 「いいよ、それで。おっ、クッキーはいち早く朝飯か」 「あたしが作ったの、御飯」玉緒が大声で言った。哲平は微笑した。「えらいぞ」 「だってあたし、クッキーのお母さんだもの」 「そうか。じゃあ、パパとママはクッキーのおじいちゃんとおばあちゃんなんだな」 「うん」  哲平が美沙緒の腰に手を回した。「な、おばあちゃん」  美沙緒は笑った。「こんな素敵なおばあちゃんがいる? まだ|皺《しわ》もないし、お|尻《しり》だって垂れてないわよ」 「どれ。ほんとにそうかな」  腰に回した手が美沙緒の尻に回り、ジーンズの上をくすぐって通り過ぎた。「やだったら! コーヒーこぼすじゃないの」 「そう言えば、引っ越し第一日目の朝のキスをしてなかったよ」彼が耳元で|囁《ささや》いた。 「それどころじゃないでしょ」 「冷たいな」 「うーん、しょうのない人ね。じゃあ、ほら」彼女は首を後ろに向けて唇を突き出した。玉緒が面白そうに見ていた。 「あたしにも」  哲平は娘を抱き上げ、そして抱きしめ、ぐるぐる回しをしながら顔中にキスをした。玉緒がかん高い声で笑った。      〔2〕 [#地から2字上げ]3月14日  引っ越して来てから、毎日晴天続きだった。二月の末まで、曇り空の日が多く、みぞれ混じりの風が吹かない日はなかったことを考えると、一挙に春になったと言ってもいいくらいだった。  広大な墓地の周囲を囲んでいる花壇では、|沈丁花《じんちょうげ》がみるみるうちにつぼみを開き、芳香を漂わせた。そのうちチューリップやすみれの花も咲き出すことだろう。花壇の向こう側には桜の木々も見える。彼岸の墓参に人々がやって来るころには、桜も芽吹いていることだろう。墓地は古く、|卒《そ》|塔《と》|婆《ば》が倒れかけているものや、墓石が黒ずんでしまっているものも多かったが、その陰惨さも木々や草花、それに遠くに|拡《ひろ》がるビルの群れなどをとり混ぜて眺めてみると、ただの小さな汚れ、染みのようにしか見えなかった。  八階のベランダから下を|覗《のぞ》き見るたびに、美沙緒は「悪くない」と何度も|独言《ひとりごと》を言った。都会の墓地。それは不動産屋の男が言っていた通り、すでに死者の眠る場所ではなく、生者の憩いの場所になり変わっているのかもしれなかった。ベランダから大きく首を伸ばして左の方を見ると、黒光りする|瓦屋根《かわらやね》の寺が見えた。不気味な煙突をそびえ立たせる火葬場は、寺と真反対の方角に位置しており、マンションが寺と火葬場に囲まれていることを思い知らされるのだが、たとえそうだとしても、夏になってあたりの木々が葉を茂らせれば、そんなことも気にならなくなるに違いなかった。  夏になれば、このあたり一帯に何百という|蝉《せみ》が集まって来て、一日中、鳴き続けるのだろう。秋になれば、紅葉した木々の|梢《こずえ》を楽しむことができるだろう。こうした暮らし……四季折々の自然を肌で感じる暮らしをかつて味わったことがあるだろうか、と美沙緒は思った。悪くない……それは本心だった。  引っ越しのこまごまとした整理があらかた終わったその日、美沙緒は聖マリア幼稚園に玉緒を連れて行き、入園手続きをとった。年少組に入れることに関しては、哲平とも随分、その是非を話し合ったが、結局、独りっ子の弊害を少しでも早くなくすために、早く団体生活に慣れさせるべきだということで意見は一致した。  それに美沙緒は四月からまた仕事をぼつぼつ始めるつもりでいた。いくらイラストの仕事が自宅でもできるとは言え、常に小さな子供に行動を制約されていては何かと不都合が多い。せめて午前中だけでも解放されていれば、仕事に打ち込むこともできるだろう。  大した収入は期待できなかったが、それでも何もしないよりはましだった。そうやって「ましなこと」を探しながら|慎《つつ》ましく生きていくことが、一番いいのだ、と彼女は考えていた。自分だけに都合のいい状態、ベストな状態を望むのは危険だった。必ず何かのしっぺ返しを食らう。昔みたいに……。  聖マリア幼稚園は万世寺の前を走る国道を越えて、少し奥に入った住宅地の中にあった。送迎バスは出ておらず、通うたびに国道を渡らねばならない。毎日、送り迎えしてやる必要があったが、それは仕方のないことだった。  手続きを終え、園長(|犀《さい》みたいにゴツゴツとした大柄の老女だったが)や保母に|挨《あい》|拶《さつ》をすると、美沙緒は玉緒とふたり、幼稚園で指定された制服を購入するため、高井野駅近くの洋服店へ行った。  南口商店街は、北口に比べるとまるで忘れられた|廃《はい》|墟《きょ》のような感じがする。一応は「南口銀座」と銘打ってあり、安っぽいプラスチックの桜の造花やぼんぼりなどが軒先を飾っていたが、いつ店をたたんでもおかしくないような古い店ばかりが軒をつらね、寒々しい感じすらした。 「聖マリア幼稚園制服指定店」という赤茶けた看板の立つ店に入って行くと、初老の夫婦が奥から出て来た。田舎の洋装店でよく見かける人体模型のような男の子のマネキンが、紺色の制服を着て立っている。制服自体はいいとも悪いとも言えない、ごく普通のデザインだった。 「かわいいお嬢ちゃんねえ」女房のほうがニコニコしながら玉緒の頭を|撫《な》でた。美沙緒は|微笑《ほほえ》んだ。 「お帽子は黄色なんですよ。ほうら、ぴったり。ヘルメットみたいで気にいらないっていうお母さんもいるんですけど、これが一番ですよねえ。この間の国道の事故のことを思うと、おしゃれなんかよりも安全第一ですから」 「国道の事故?」美沙緒はおずおずと聞いた。「事故があったんですか」 「あら、ご存じなかったんですか。マリア幼稚園のお子さんが乗用車にはねられて……」 「引っ越して来たばかりなもんですから」 「そうでしたか」女房は悪いことを言った、とでも言うように少し顔を赤らめた。「いえね、おととしだったんですけどもね、秋に小さな男の子が国道の万世寺のお寺さんの前あたりではねられたんですよ。お母さんがちょっとよそ見をした|隙《すき》に、ひとりで渡ろうとしたらしいんですけども……あれはほんとにかわいそうで……」 「やめんか」夫のほうが低い声でたしなめた。「引っ越して来たばっかりの人に、そんな話……」 「あら、ごめんなさい」女房は人のよさそうな顔をますます赤らめた。 「それで、そのお子さん、亡くなったんですか」  即死、と夫が|憮《ぶ》|然《ぜん》とした表情で言った。「それ以来、制帽は紺から黄色に変わったんですわ」  玉緒は黙って立ったまま、寸法をはかるふたりに合わせて手を上げたり、下げたりしていた。話題を変えるべきだ、と思ったらしい女房が明るい声で美沙緒に聞いた。「どのあたりに引っ越していらしたんですか」 「セントラルプラザマンションです。あの墓地のむこうの……」  ああ、と女房はうなずいた。うなずいた後、ちらりと夫と目配せしあったような気がしたが、それは美沙緒の誤解であるらしかった。夫は玉緒のスカート丈をノートにメモしている。 「あそこはずっと空き地だったんですよ。お寺さんの持ってる土地でしてね。立派なマンションができて、華やかになって……」  美沙緒は|微笑《ほほえ》んだ。 「さあ、これでいいですよ」女房は汚れたエプロンで、それが癖なのか手を|拭《ぬぐ》った。仕上がり日を聞き、前金を支払って美沙緒は店を出た。  活気のない果物屋が一軒あり、いちごの特売をしていたが、買う気がしなかった。彼女は玉緒の手を引いて、ぶらぶらと元来た道を引き返した。  玉緒は、心なしか元気のない様子で美沙緒をふと見上げた。 「ねえ、どうしても幼稚園に行かなくちゃだめ?」 「行きたくないの?」 「…………」 「制服が嫌い?」 「そうじゃないけど……」 「お友達ができるし、楽しいわ、きっと。ずっとおうちにいて遊ぶよりも、もっと楽しいことが待ってるのよ」 「お友達はもういるもん」 「|誰《だれ》?」 「クッキーとピヨコ」  美沙緒は微笑んだ。「ピヨコも?」 「うん。昨日も遊んだの」 「あら、夢を見たのね」 「違うわ。夜、ピヨコが来たのよ。元気に飛んで来たの。それでね、お|喋《しゃべ》りしたの。鳥の言葉がわかるんだから、あたし」 「すごいじゃない。それで何のお喋りしたの?」 「ピヨコが今住んでるところのお話。とっても暗いんだって、危ないところだから、来ちゃだめだ、って言ってたわ。一度、そこに入るとなかなか出て来られなくなるんだって。でもピヨコは利口だから、出て来られるの。そこにはね、ママ、悪魔がたくさんいるのよ。おっきくて怖い顔をしてて、悪魔が喋ると風がおこってみんな、穴に吸い込まれちゃうんだって」  空想が|拡《ひろ》がるのはいいことだけど、と美沙緒は|溜《ため》|息《いき》をついた。玉緒の場合、少し過剰なところがある。甘やかして育てた結果だろうか、それとも自分たち夫婦に、何か無意識のうちに|滲《にじ》み出す|陰《いん》|鬱《うつ》さ、過去へのこだわりがあって、それが長い間に少しずつ玉緒に影響を与えてきたのだろうか。 「ピヨコは天国から玉緒のことを見守っていてくれてるのよ」玉緒は童話を読むように優しく言った。「玉緒がちゃんと幼稚園に通って、たくさんお友達を作って、風邪をひいたり事故にあったりしないように、って守ってるの。だから……」 「でもちゃんと来たわ。ベッドのところに。お|喋《しゃべ》りしたんだから」 「夢を見たのよ」 「違うってば。ほんとなんだってば。ベッドの板のところに止まったり、飛んだり、プー助の頭に止まったりしたんだから」  プー助というのは玉緒が|可愛《かわい》がっている白クマのぬいぐるみだった。「わかったわ。そうなんでしょうね」美沙緒は苦々しく言った。 「今日も来るかな」 「さあどうかしら」  玉緒は死んだ小鳥の話を話し続け、美沙緒は熱心に聞いているふりをしながら、別のことを考えていた。幼稚園に入れるのは少し早かったのではないだろうか。寝ぼけて見た夢を現実にあったことのように話して聞かせるのは、あまりいい徴候ではない。いきなり集団生活をさせるよりも、同年齢の子供たちと泥まみれになって遊ばせる環境を作ってやったほうが適当なのではなかったか。  やはり、引っ越して早々、小鳥が死んだことは玉緒にとってショックだったに違いない。美沙緒はふと、|鳥《とり》|籠《かご》をビニール袋に入れたままベランダに置きっ放しにしてあることを思い出した。あれも早く片づけてしまおう。おかしな夢を見ないよう、寝る前にビスケットだのチョコレートだのを食べる癖もやめさせなければ。食後には一切、甘いものを食べさせず、飲物も控えさせよう。そうでなくても、月に一度はおねしょをして、ベッドパッドをぐしょぐしょにしてしまうのだから。  セントラルプラザへ入る細い道……万世寺の奥の、万世寺霊園|脇《わき》の小道にさしかかった時、道端で|佇《たたず》んでいる女が目に入った。頭を|流《は》|行《や》りのベリーショートに刈り上げ、肩パッドの入った黒のロングカーディガンに黒いスパッツをはいている。そばに小さな女の子がおり、子供はしゃがみこんでコンクリートの上にチョークで絵を|描《か》いていた。  マンションの住人か、と思い、美沙緒が軽く会釈して通り過ぎようとすると、女が声をかけた。 「失礼ですが、引っ越していらした方……ですか」 「はい」 「やっぱり」と女はいたずらっぽい笑みを浮かべて、ぺこりとお辞儀をした。 「私、|井《いの》|上《うえ》といいます。井上|栄《えい》|子《こ》。402号室に住んでるの。よろしく」  善意の両親に育てられ、普通の結婚をし、普通に子供を産んだという感じのする女だった。行く先々で簡単に友達を作り、それが自分の|寂《さび》しさが|為《な》せるわざであるとは考えてみたこともないような女……そんなタイプの人だな、と美沙緒は思った。そうしたタイプは決して嫌いではなかった。彼女は出来るだけ愛想よく|微笑《ほほえ》んだ。 「加納です。ご|挨《あい》|拶《さつ》に行かなくてごめんなさい。幼稚園の手続きとか何とか、忙しくて……」 「あらまあ」と井上栄子は目を丸くした。「もしかしてこのお嬢ちゃんはマリア幼稚園に?」  美沙緒がうなずくと、栄子は一挙に親しみを|露《あら》わにしながら、連れていた女の子に声をかけた。「ほら、かおり。こんにちは、は? あんたと同じ幼稚園に入るお友達よ」 「こんにちは」  かおりと呼ばれた子供は、母親によく似た無邪気そうな目を細め、照れくさそうに言った。 「お名前は何ていうの?」栄子が玉緒に向かって聞いた。玉緒は自分の名を答え、栄子に向かってというよりもかおりに向かって笑いかけた。死んだ小鳥の話など忘れてしまったかのように好奇心たっぷりの顔をしている。栄子はうなずき、「かわいいわねえ」と玉緒を褒めた。 「ご兄弟は?」 「ひとりっ子なんです。そのせいか、いろいろと難しくって」 「ひとりが一番よ」と栄子は表情豊かに唇を曲げてみせた。「親にとっちゃね。ふたりも三人もチビどもに追われていたら、はっと気づくと中年のオバサンよ」  美沙緒がくすくす笑うと、栄子は目を細め「|嬉《うれ》しいわあ」と今にも抱きついてきそうな素振りで言った。「うちは去年、ここに引っ越してきて四か月以上たつんだけど、なかなかお友達ができなくて。ツトム……ああ、長男なんですけどね、ツトムの幼稚園の友達のお母さんたちともあんまりつき合いがないし。よかったわあ」  何がそんなによかったのか、美沙緒にはすぐには理解できなかったが、別段、|煩《わずら》わしいという気はしなかった。それは別の土地に引っ越して来た人間が必ず初めに感じる頼りなさ、人恋しさのせいだったかもしれない。  栄子はぺらぺら|喋《しゃべ》り始めた。「以前は|大《おお》|森《もり》に住んでたの。そこでは子供を通じていろいろお友達もいたし、学生時代からの友人もしょっちゅう、訪ねて来てくれたものなのよ。でもねえ、ここに越してからはどうしてだか、さっぱりなの。ここは昼間はいいけど、夜になるとちょっと薄気味悪いでしょ。うちの主人ですら、ここのお寺の|脇《わき》|道《みち》に入るのがこわい、って言うくらいなんですもの。街灯のひとつでもつけてくれればいいんだけど。そんなもんだから、夜に気軽に遊びに来てくれる人もいなくなっちゃったわ。あ、ごめんなさい。越して来たばかりの人にこんな話……」  悪気のある話し方ではなかったので、美沙緒は笑って「いいのよ」と言った。「うちだって、決心して移って来たんですから」 「でもここらへんは墓地のおかげで環境がいいわ。静かだし、緑も多いしね。墓地がなかったら、あなた、|今《いま》|頃《ごろ》はこのへんまでビルが建ってたかもしれないんですものね」栄子は何やらほっとしたような顔をして、愛情深く美沙緒を見た。「それはそうと何か困っていることはない? このへんのことは四か月たって随分、わかってきたから、いろいろ教えてあげられるけど」 「ありがとう」  栄子は毎週月曜日に特売をやるベーカリーショップや、ダイエット用のケーキを売る店、評判のいい歯医者などを細かく教え、教えながら娘がチョークのついた手を口に持っていこうとするのを大声で|叱《しか》った。  美沙緒は、今度ゆっくりお茶でも飲みましょう、と誘い、栄子も同様、美沙緒を誘った。間違いなく自分と同年代だったし、子供のためにも同じマンションにこうした知り合いがいるのは、いいことに違いなかった。  子供を連れ、連れ立ってマンションに入ろうとした時、栄子が立ち止まってひそひそと|囁《ささや》くように言った。 「ここのマンション、なかなか売れないんですって。なにしろまだ入居者が、管理人さん夫婦を入れて七世帯しかないんだから。お宅を入れてやっと八世帯よ。うちひとつは事務所だし。うら寂しいわねえ。どんどん引っ越して来てくれればいいんだけど」  十四世帯のうち半分しか入居していないという話は、不動産屋から聞いて知っていた。美沙緒は無理もない、と思っていた。だだっ広い霊園のことを考えれば、それも致し方ないことだろう。考えようによっては、静かでいいかもしれない。 「やっぱり住んでいる人が少ないと寂しいものかしら」美沙緒が聞いた。栄子は|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》にうなずいた。 「なんだかね。特に私みたいに|賑《にぎ》やかなのが好きな人間にとっては、時々、静かすぎていやになっちゃうこともあるわ。夜なんかシーンとしてるんだもの。|所《しょ》|詮《せん》、おまえは下町の長屋住まいが似合ってるんだ、なんて主人に言われてるんだけど」  玄関のガラス扉を開けると、かおりがいち早く駆け込んで行き、玉緒を手招きした。子供たち同士もウマが合ったらしい。美沙緒はほっとした。  玉緒はかおりが差し出す手をおずおずと握り、迷惑そうな、それでいて恥ずかしそうな目で母親を見上げた。栄子は目を細めてふたりの小さな女の子たちを見ていたが、やがて思いついたように言った。 「ああ、地下に物置があること知ってるでしょう?」 「ええ」 「便利よ、なかなか。がらくたはみんな、そこに突っ込んでおけるから」  地下に住人用の物置があることは、当然、知っていた。栄子が続けた。「うちでもツトムの三輪車とか使わなくなった|椅《い》|子《す》なんかを置いてあるの。見に行ったことある?」  いいえ、と美沙緒は首を振った。不用なもの、当面使わないものはあるにはあったが、何かと忙しくて地下室の探索はまだしていなかった。栄子は「じゃあ、ちょっと見てみない?」と言い、美沙緒の返事も待たずにエレベーターのボタンを押した。 「へんてこな造りだと思わない? 地下があるっていうのに、階段がないのよ。エレベーターしかないなんて。もしもエレベーターが故障したら、地下からどうやって抜け出したらいいのかしらね」  ぶつぶつとそう言うと、栄子はエレベーターの中で、スパッツのポケットから赤い革製のキイホルダーを取り出した。 「|鍵《かぎ》がいるの?」 「ええ。各室専用倉庫のキイよ。お宅も申請すれば後でもらえるわ。鍵なんかかけなくたって、盗まれるようなしろものは入ってないんだけどもね」  彼女は笑った。エレベーターが静かに|停《と》まり、扉が開いた。玉緒とかおりがはしゃいだような声を上げ、外に飛び出した。 「転ばないようにね」栄子が声をかけた。あたりは非常灯がひとつぽつんとついているだけで、薄暗かった。 「待ってね。電気はここなの」栄子がエレベーター|脇《わき》のスイッチを押した。夜のテニスコートのような明るい光がぱっとあたりを|被《おお》った。  |剥《む》き出しのコンクリートの壁、天井を|這《は》っている何本ものパイプ、|塵《ちり》ひとつ落ちていない灰色の床。広々とした空間の中に、白いペンキを塗った安っぽい倉庫が並んでいる。倉庫にはそれぞれ部屋番号が書かれてあった。  昔、雑誌のグラビアで見た|廃《はい》|墟《きょ》のシャワールームに似ている、と美沙緒は思った。かつて女子専用のアパートとして建築された洋館の地下室を写した写真である。ペンキが|剥《は》げ落ち、|蝶番《ちょうつがい》がはずれたシャワールームのウェスタンドア。天井から|鷲《わし》のくちばしのように突き出ているシャワーのノズル……。その昔、女たちがそこで身体を洗った時に落としていっ|た夥《おびただ》しい|石《せっ》|鹸《けん》の|垢《あか》が、タイルの上に|溜《た》まりに溜まって白い土のように見え……。 「意外と使いでがあるでしょ」栄子が部屋を案内した不動産屋のような口調で言った。「この倉庫も、もうちょっと何とかおしゃれっぽくして欲しかったようなもんだけど、まあ、こんなもんよね。ほらごらんなさいよ。二階に健康食品を扱う会社の事務所があるんだけど、そこの会社なんか、売れ残りを全部、ここに置いてるんだから。図々しいと思わない?」  壁の一面を占拠した段ボール箱には「ヘルスジャパン株式会社」と印刷されていた。  美沙緒は聞いた。「何の健康食品?」 「宇宙食から開発したハイカロリービスケットとかって話よ。うちにも買わないか、って事務所の人が訪ねて来たわ。でも、ね。太るのを気にしてる女のところに来たって無駄よ、って言ってやったの。ハイカロリーの健康食品なんていまどき食べる人がいるのかしら」  彼女はからからと笑い、放置されてあった古い自転車の|錆《さび》を|爪《つめ》で引っ|掻《か》いているかおりに向かって「こら。そんなことするんじゃないの」と|叱《しか》った。  その声が壁に反響し、|唸《うな》った。栄子は402と書かれた自分用の倉庫の引き戸の前に立ち、|鍵《かぎ》を開けた。引き戸はするすると開いた。中には裸電球が下がっており、ビールのケースや三輪車、古くなった|椅《い》|子《す》などが見えた。 「こういうのってヨーロッパに行ったらどのマンションにもあるんですってね。ここもかなり進んでいる、って証拠よ」栄子がそう言い、再び引き戸を閉めた。  冷たい|隙《すき》|間《ま》風が吹いて来て、美沙緒の足元を|撫《な》でた。彼女は身震いした。  風?  美沙緒はあたりを見回した。コンクリートの壁が四方から迫って来るような感じがする。 「ママ」と玉緒がやって来て彼女の手を握った。「もう、おうちに帰ろう」  そうね、と美沙緒は言った。「帰りましょう」  また足元を冷たい風が通り過ぎた。美沙緒は栄子に声をかけ、四人は連れだって地下室を出た。  栄子|母子《おやこ》と別れ、八階でエレベーターを降りてドアの前に立つと、中で電話が鳴っているのがかすかに聞こえた。美沙緒は急いで鍵を開け、廊下を走り、リビングの電話機に飛びついた。だが、受話器をはずした途端、電話は切れた。 「あら、切れちゃった」美沙緒は玉緒に言った。「ママのお仕事の電話だったのかもしれないのにね。またかけてきてくれればいいんだけど」  玉緒は興味なさそうに、クッキーとじゃれ合っている。受話器を戻しかけて、美沙緒は電話機の横のメモ用紙の上に目が吸い寄せられた。  淡いピンク色のメモ用紙の束。その上に、ふわりと一本の白い鳥の羽が落ちている。彼女はそれをつまみ上げ、宙にかかげて見つめた。  真っ白の羽は、先が肉眼でやっとわかる程度にかすかに灰色がかっていた。白文鳥がまだ生きていたころ、時折、|籠《かご》の中に落ちていたことのある、見覚えのある羽だった。  どうしてこれがこんなところに……。  美沙緒はそれをつまんだまま、ベランダの向こうに目をやった。|鳥《とり》|籠《かご》はまだそこにあった。籠の中に残された羽が一本、風でここまで飛んで来たのだろうか。しかし、鳥籠はビニール袋で厳重に包みこんであった。万が一、突風が吹いたとしても、どこかに紛れこんでいた羽が室内に飛び込んでくることは考えられない。 「ねえ、玉緒」彼女は声をかけた。玉緒がクッキーから離れ、無邪気な顔で「なあに?」と聞いた。 「こんなものがここに……」  玉緒は首を|傾《かし》げ、よく太った小さな腕を振りながら走り寄って来た。 「あーっ」と、彼女は|嬉《うれ》しそうに言った。「ピヨコの毛」  玉緒が羽をつまみ、鼻の下に当てがった。「ねえ、ピヨコはこのお部屋にも来たのね、ママ」  美沙緒は渋面を作って目をそらし、黙って玉緒の手から羽をむしり取ると、キッチンのダストボックスの中に放りこんだ。      〔3〕 [#地から2字上げ]3月19日 「奥様はご機嫌斜めだ」  電話をかけて戻って来た哲平の弟、|達《たつ》|二《じ》が心ここにあらずといった顔で言った。「ゆうべも飲んで遅くなっちゃったからな」  達二が結婚したのはつい一年前。相手は大学時代、テニスクラブにいたマドンナで、執念で追い回してやっと結婚にこぎつけたせいか、いつでも頭が上がらない様子だった。 「じゃあ、そろそろ引き揚げるか」哲平は腕時計をちらりと見た。十時。弟と会うのは久し振りだったが、近況を報告し終えるともう、話題は何もなくなってしまう。大手の食品会社に勤務する彼と、長い間、広告の仕事に携わってきた哲平とでは、仕事における共通の話題も少なかった。それに妻の機嫌ばかり気にしている男と飲んでいて、面白いことはひとつもない。後になって、達二の妻から「お|義《に》|兄《い》さんたら、また悪い遊びを教えたんでしょう」などとからまれるのもうんざりだった。  だいたいあの女……|直《なお》|美《み》は、虫が好かない。大学教授のひとり娘で、きれいなことはきれいだったが、世の中のことすべて自分中心に回っていると信じて疑っていない。実際、彼女の過去にはどこをどう探そうとしたって、汚点など見つけられるわけがなかった。汚点のない人生を送ってくると、ああいう人間が出来上がるものらしい。 「あらもうお帰り?」哲平が|煙草《たばこ》のパッケージをジャケットのポケットにしまいこむと、そばについていたホステスが、|素《す》っ|頓狂《とんきょう》な声をあげた。「まだいいじゃないの」 「こいつの恋女房が鬼になってるらしいんでね。ネンネのお嬢さんと結婚したばかりなもんで、|旦《だん》|那《な》様を早くお帰し申し上げないと後が大変なんだ」哲平が言った。達二がむくれた。「そんな言い方するなよ」唇がかすかに引きつり、兄に向かって|睨《にら》みをきかせるつもりの視線が、ぎこちなく宙に揺れた。  三十にもなって、達二は時折、不用意にも四つか五つのころの顔を見せてしまうことがある。哲平が小学校のクラスメートと共に土砂|堆《たい》|積《せき》場の探検に行こうとした時、一緒に行くと言ってきかなかった達二に「チビは帰ってな」と言った。クラスメートたちは笑い声を上げ、「チビ、チビ」とはやしたてた。兄としての威厳、クラスのボスとしての威厳を|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に表現したくなって、哲平は意地悪の仕上げをした。「おまえが夜になるとママのおっぱい吸ってる話、ばらしたっていいんだぜ」  |悪《わる》|餓《が》|鬼《き》たちは一層、興奮し、馬鹿笑いをした。達二は唇をかみしめ、涙をにじませたが、泣きはしなかった。「お兄ちゃんのバカ!」と彼は言い、この世の悲劇をすべて背負ったような顔をして、哲平を睨みつけた。  少しかわいそうになったが、哲平は黙っていた。チビの弟を痛めつけるという悪い趣味を自分が持っていること、それ自体が快感だった。  あの時の達二の顔。ふてくされ、敵意を|剥《む》き出しにし、それでもついていきたい欲望を抑え切れない、邪気のない愚かな子供の顔……を哲平は今でも時々、達二の中に見つけることができる。 「ほんとに帰るの?」ホステスがまた聞いた。十時を過ぎると、決まって化粧が|剥《は》げ落ち、目の下の|隈《くま》が目立つ女だった。肝臓かどこかが悪いらしい。 「あと三十分くらいいいよ」達二が不機嫌を丸出しにして言った。哲平は笑った。 「無理すんなって。後がこわいぞ」 「いいんだ、って言ってんだよ。浮気してるわけじゃあるまいし、彼女にも少しは慣れてもらわないといけない」  その芝居がかった口調がおかしくて、哲平はうなずいた。「よし。その意気だ」  |四《よつ》|谷《や》の繁華街から少しはずれた小さなクラブだった。ホステスが三人。客は十人も入れば一杯になってしまう。カラオケがあるにはあるが、滅多に歌う者はおらず、来ている客は皆、自分でも何が面白くて来ているのかわからないといった様子で水割をなめ、十歳も年をごまかしているホステスにくだらない冗談をとばしては、帰って行った。  哲平は仕事関係者に連れられてここに来て以来、何度も足を運んだが、彼自身もいったい何が面白い店なのか、計りかねていた。ただ、酒を飲み、物思いに浸り、気がむくと歌のひとつでも歌って早々に引き揚げる……そうした夜の過ごし方が、もっとも自分らしいと思うこともあったのだが。  その夜、客は哲平らの他にひとりいるだけだった。頭の|禿《は》げ上がった騒々しい男で、ホステスをふたり独占し、さっきから上機嫌でコニャックを飲んでいる。 「歌でも一曲どう?」今に目張りすら流れ落ちてくるのではないか、と思われる顔をして、ホステスが哲平に言った。「もう少ししたら、あちらのお客さんがメドレーでショーを始めるから」 「何のメドレー?」哲平は聞いた。「軍歌に決まってるでしょ」彼女は答え、興味なさそうに肩をすくめた。 「達二、おまえが何か歌えよ。軍歌なんてまっぴらだからな」 「いやなこった」と達二が答えた。「兄貴が歌えばいい」  ホステスが、あいうえお順に並んだ歌の目次を持って来た。一曲歌って帰ろう、と哲平は思った。どこかで飲んでいて、突然、|俺《おれ》はここで何をしているのだろう、と思い始め、肉体がどこにも|繋《つな》ぎ止められていない感覚に襲われてそわそわしてくることが時々ある。その晩もそうだった。  酔っているわけでも、疲れているわけでもなかった。ただ、むしょうにいるべき場所を探したくなる気持ち……そしているべき場所なんてどこにもないのかもしれないという|空《むな》しさ……そんな気持ちが渦を巻く時があるのだ。  ぱらぱらと目次をめくっていて、『霧笛が俺を呼んでいる』というタイトルに目が止まった。|赤《あか》|木《ぎ》|圭《けい》|一《いち》|郎《ろう》。古い歌だ。だが、昔、近所の大学生がよく口ずさんでいたから、そらで覚えている。 「これにするよ」哲平が言うと、達二はくすくすと馬鹿にしたように笑った。 「年くったな、兄貴も。そんな歌を歌ってまわってんのか?」 「カラオケでやるのは初めてさ。うちの|風《ふ》|呂《ろ》で時々、歌ったりするけどな」 「美沙緒さ……」と言いかけて、達二は唇を素早く|舐《な》め、「|義《ね》|姉《え》さんも」と言い直した。「義姉さんも知らない歌だろ」  ああ、と哲平はうなずいた。「彼女は横文字ソングで育った世代だよ」  達二が美沙緒のことを自然に「義姉さん」と呼べないのは仕方のないことだった。達二にとって「義姉さん」と素直に呼べたのは玲子しかいなかった。玲子との結婚生活は美沙緒との生活に比べると、|遥《はる》かに短いものだったが、それでも平均的な儀式をすべてまっとうした結婚には違いなかった。結婚式、|披《ひ》|露《ろう》宴、新婚旅行、両家への|挨《あい》|拶《さつ》……。  達二は玲子になついていた。なついていた、と言うよりは、どこか|憧《あこが》れていたと言ったほうが適当かもしれない。玲子はもの静かな穏やかな印象を他人に与える女で、達二は「|夏《なつ》|目《め》|漱《そう》|石《せき》の小説に出てくる女みたいだ」とよく言っていた。玲子の中に理想の女像を見ていた達二が、どうして玲子と似ても似つかない直美のような女に|惚《ほ》れたのか、哲平にはわからなかった。  玲子はどう考えても、実生活向きの女ではなかったように思える。とらえどころのない|曖《あい》|昧《まい》な|微笑《ほほえ》み方、人の話を聞きながら、実は何も聞いていないように見える不安定な視線、決して感情を激することがないゆえに、どこか人を不安にさせる張り詰めた神経……。もしかしたら、彼女は語る言葉、語る方法というものをまったく知らずに生きてきた女だったかもしれない、と哲平は今になって思う。自分を表現するための訓練を故意に避けてきた女だからこそ、最初で最後の表現の手段に自殺という愚かしい手を使ったのだ。  子供のころ、達二を相手にいたぶり、わざと心ない言葉で傷つけたのと同様に、哲平は何をしようと感情を乱さない玲子に対してサディスティックになっていた。美沙緒に恋をし、美沙緒と深くなればなるほど、一方で玲子が|楚《そ》|々《そ》として変わらぬ態度を保ち続けるのが|疎《うと》ましくてならなかった。  その疎ましさは、彼女が自殺したことを知ったその瞬間まで続いていた。一生、|俺《おれ》はこの女への悔恨とともに生きることになる……そう思うと疎ましさは頂点に達した。彼は周囲が驚くほど冷静そのものだった。自分のせいだ、と思う罪の意識は不思議なことに生まれてこなかった。罪の意識が生まれるのを待ちながら、美沙緒と|関《かか》わり続けた。そうしながら、時間が流れ、すべてが遠い記憶の底に|淀《よど》んでいった。  美沙緒には玲子が持っていたような古典的な印象は薄かった。美沙緒は快活で理性的で表現力が豊かだし、そのうえ情が深い。ただ、哲平の目にすこぶる|真《しん》|摯《し》で都会的だ、と映った美沙緒も、達二の目にはただの凡庸な女としか映らなかったのだろう。玲子を殺した女、という短絡的な見方を|未《いま》だ、達二が|拭《ぬぐ》い去っていないことも含め、弟が妻に心底なじんでいない事実は、哲平が一番よく知っていた。むろん、あの玲子の死以来、兄である自分を許していないということも。 「……哲さん、ほらマイク」  ホステスがマイクを手渡した。前奏が始まった。達二が関心なさそうにそっぽを向き、|煙草《たばこ》を吸い出した。  哲平は歌詞カードを見ながら歌い始めた。|丸《まる》|禿《は》げの男が、騒々しく騒ぐのをやめて、哲平を見つめた。脂ぎった赤いその顔は、明日、頭の血管が切れたっておかしくなさそうに見えた。男はコニャックを大きくがぶりと飲み、葉巻に火をつけた。やることなすことすべて、品がなさそうに見える男だった。目だけが獲物に向かう野獣のように|獰《どう》|猛《もう》に光っている。  隣で達二がちらりと腕時計を見た。この野郎、と哲平は歌いながら思った。俺だって帰りたいんだよ。弟と飲んでたって、面白くもなんともない。  |丸《まる》|禿《は》げ男にホステスが何か話しかけた。男は唇をすぼませて笑ったが、目は笑っていなかった。哲平をじっと見つめている。  歌う気が薄れた。哲平は二番を歌い終えるとマイクをテーブルの上に置いた。 「あら三番もあるのよ」ホステスが慌てたように言った。哲平は「いいさ」と微笑した。「古すぎる歌で、途中からいやになった。さ、達二、帰るぞ」  達二はうなずき、「ちょっと」と言ってトイレに立った。|誰《だれ》も歌わないカラオケが勝手に流れ、やがて終わった。丸禿げ男と居合わせたホステスたちが拍手をぱらぱらと返してきた。カラオケがBGMに切り替わる瞬間、一瞬の静けさが店内をおおった。丸禿げ男が葉巻をくわえたまま、誰に言うともなく言った。 「この歌を歌うやつは、みんな死ぬんだよなあ」 「あらひどい」ホステスのひとりが、哲平を気にしてか、低い声でたしなめた。男はどこを見ているのかわからない視線を哲平に投げ、つぶやいた。 「わしの知人で、この歌を歌って死んだのが三人もおる」  哲平は聞こえないふりをした。この手のことを言うやつは、どんな店にもひとりかふたりはいる。  達二がトイレから出て来たので、哲平はそのまま店を出た。 「|俺《おれ》、死ぬんだってさ」哲平は笑いながら言った。「あの歌、歌うと死ぬんだって。あそこにいたジジイが言ってた」 「へえ」と達二がおかしそうに目を丸くした。「事故で死んだ赤木圭一郎のこと言ってんだろ」 「帰って美沙緒に塩まいてもらうかな」  ふん、と達二が鼻を鳴らした。「殺しても死なないくせに。兄貴には|呪《のろ》いだってかかんないよ」どことなく|刺《とげ》のある言い方だった。  ふたりはJRの駅に向かった。別れぎわに「引っ越し祝い持って、そのうち遊びに行くよ」と達二が言った。「|義《ね》|姉《え》さんにも玉緒ちゃんにもしばらく会ってないしね」  ああ、と哲平はうなずいた。「来いよ」 「夜はやめとくけどね。直美が墓地を怖がるんだ」  そんなことを言う女は墓地にひと晩、縛りつけておけ、と言いたくなるのを我慢して、哲平は達二と別れた。      〔4〕 [#地から2字上げ]3月21日  朝起きて、ベランダの外を見ると、墓地は家族連れで|賑《にぎ》わっていた。まるで遊園地の迷路だった。整然と区画整理された墓石の間を子供たちが駆けまわっている|。夥《おびただ》しい数の|卒《そ》|塔《と》|婆《ば》も、八階のベランダから見下ろすと、ただの飾りものにしか見えない。  春分の日。空気は暖かく、風も雲もない行楽日和だった。きっとお昼のニュースではアナウンサーがこう言うだろう。「今日は春分の日。東京地方では雲ひとつない晴天に恵まれ、郊外にある霊園には墓参りに訪れる人たちがどっと繰り出しました……」  いつもそうなのだ、と美沙緒は思う。よく晴れた休日のニュースで使われる言葉は決まっていて、「どっと繰り出す」とか「賑わいました」とかいう言い方以外、聞いたことがない。  |溜《た》まった洗濯ものを南向きのベランダに干し終えると、玉緒と哲平がクッキーの散歩から帰って来た。 「ちょっと走るとこの汗だ」哲平が額に汗を光らせながら言った。「それに寺んところの小道はラッシュアワーのホームみたいだぜ。墓地の入口で、もう、弁当を|拡《ひろ》げてる家族もいたよ」 「ビクニック代わりなのね、最近のお墓参りってのは」美沙緒は言いながら、クッキーに水をやった。ピンク色の舌が勢いよく水をはねあげる。  玉緒が途中で摘んできたと言って、たんぽぽのつぼみを美沙緒に見せた。「お水にいれといたら、お花が咲くかしら、ママ」 「やってごらんなさい。咲くかもしれないわよ」 「うん。コップに入れてくる」  洗面所に玉緒が飛んで行くのを見ながら、美沙緒は何気ない振りを装って聞いた。「ねえ、うちのお墓参りはどうするの?」 「玲子のだろ?」哲平はタオルでごしごしと首を|拭《ふ》きながら言った。はっきりとした物の言い方が美沙緒を|安《あん》|堵《ど》させた。それにならい、彼女はずっと以前、まだ自分が二つか三つのころに死んだ祖母の話でもするように、あっさりと言った。「しばらく行ってないものね。去年の秋だって、あなた忙しくて行けなかったし」 「じゃあ、行くか。おい、弁当持って行こうよ。ついでにうちもピクニックだ」  いいわ、と美沙緒は微笑した。話が決まって哲平も安心したようだった。これでいいのだ、と美沙緒は思った。こうやって少しずつ、過去のものにしていきさえすれば……。  三つになる|可愛《かわい》い盛りの男の子を三輪車ごとダンプカーの下で奪われた知人を知っている。夫婦は泣き暮らし、はたから見ても悲嘆のあまり死んでしまうのではないか、と思われた。父親のほうは仕事も手につかないありさまで、母親になると朝から晩まで仏壇にかじりついていた。そんな夫婦でも、毎月の命日に墓参りを続けていたのは次の子供が生まれるまでだった。墓参りは年に二度となり、やがては年に一度……と減っていった。死者は時間の流れとともに遠くなる。玲子のことだって、おそらく同じだ……。 「……それはそうと、201号室は今日、引っ越しらしいぞ」哲平がクッキーとじゃれ合いながら言った。 「あらそう?」美沙緒は冷蔵庫を開け、何か冷たいものでも作ろうと中をのぞきこんだ。「201って言ったら、オフィスに使ってたところでしょ?」 「ああ。さっき下にトラックが来てた」 「段ボールがたくさんあったでしょ。健康食品の売れ残りが詰まってるやつ」 「あったあった。売れなくて倒産したんじゃないか?」 「まさか。ただの引っ越しでしょ。どこか別のところに移るのよ。ここじゃあんまり……」  ここじゃあんまり……その次に何と言うべきか、美沙緒は急にわからなくなって口をつぐんだ。「ここじゃ、あんまり、都心から離れてるし……ね」彼女はごまかした。「オフィスはこういう場所に置いてもフットワークがきかなくて不便なんじゃない?」  不意に地下室にごっそりと置いてあった段ボール箱を思い出した。売れ残りというよりも、売る気が|失《う》せて放り出されたような箱の山。あれから地下室には一度も行っていない。  玉緒がたんぽぽを入れたコップを持ってきて、ベランダの近くに置いた。「ねえ、見て。こうしとくと今にお花が咲くよね、パパ」 「咲くよ。ここは太陽がいっぱいだしね」 「お花も咲くんだったら、木に果物もできる?」 「ああ、できるよ」 「じゃあバナナもできるかな」 「バナナはちょっと無理だ。あれはもっと暑いところじゃないとできない」 「ふうん。バナナがここにできたら、ピヨコが喜ぶのにね。バナナを食べたいって言ってたもん」  また死んだ鳥の話だ、と美沙緒は|苛《いら》|立《だ》たしくなり、哲平を見た。彼が意に介している様子はなかった。 「ピヨコはバナナ好きのおかしな鳥だったもんなあ」彼は新聞のテレビ欄を見ながら言った。「そうだ。ビヨコのお墓にもお参りしなくちゃいけないな。バナナも持ってくか?」  そうする、そうする、と玉緒ははしゃいだ。  あれから何度となく玉緒が話す死んだ小鳥の話……小鳥が|甦《よみがえ》って深夜、子供部屋に出入りしている話を哲平に聞かせ、何か神経がおかしいのかしら、と|訝《いぶか》ってみた。が、そのたびに彼は笑い、かわいい話じゃないか、と片づけた。「今度、ペット保険ってのができて、広告を任されてるんだけど、それを使おうかな」と彼は言った。「僕の白い小鳥、死んじゃったけど、今夜も僕のお部屋に遊びに来ます。子供の夢に奉仕するペット保険。あなたの|可愛《かわい》いペットを死んだ後までお守りします……ってコピーはどうだい?」  彼の子育ての仕方はダイナミックで、それ自体、不満はなかったが、その分、自分は細かいところにまで神経を配らねばならない。それは時として美沙緒を不安にさせた。こんなに細かいところまで気になるようになったのは、仕事をしていないせいだろうか。仕事を辞め、家庭に入るとそれまで気にならなかったことがすべて気になってくる、といつか女友達が言っていた。当たっているのかもしれない。考えることが定型にはまってきて、そこからずれた考え方を本能的に拒絶するようになってしまう。  昔、子供のころ興じた「いつ、どこで、|誰《だれ》が、何をした」という遊びを思い出す。大勢集まってたくさんの小さな白い紙に、「いつ」「どこで」「誰が」「何をした」と分けながら文意が通る文章をいくつも作るのだ。たとえば、「きのう、学校で、先生が、くしゃみをした」とか「一年前、トイレで、ママが、うんちの掃除をした」とか。できあがった紙片をマージャンをする時のようにごちゃ混ぜにして、再び、好き勝手に読み上げるのだ。そうするととんでもない文章ができあがる。「きのう、デパートの食堂で、先生が、うんちの掃除をした」……というように。  あり得そうもない状況を思い浮かべて大笑いした子供時代の頭の柔軟さ。あの柔軟さが失われてきつつあるのは悲しいことだった。あの遊びと同様、「きのう、玉緒が、子供部屋で、死んだ小鳥とお|喋《しゃべ》りしました」という文章を笑って聞き流したっていいではないか。「七年前、私たちは、加納玲子の家で、彼女を自殺に追いこみました」という文章だって成立してしまったのだから。  美沙緒は肩をすくめ、カルピスを三つのグラスに|注《つ》いだ。  哲平がリビングルームのテレビをつけた。野太い声の女がふたり、上品ぶった語り口調で教育問題について話し合っている。対談番組らしい。  クッキーがやって来て、哲平の横に|坐《すわ》った。ベランダの外から、かすかに人のざわめきが伝わってくる。飲物を運びながら何ということなしにテレビ画面を見て、美沙緒は奇妙なことに気づいた。  画面にはふたりの初老の女性が映っている。ひとりは|皺《しわ》だらけの顔をかつららしいボプカットで包んだ女で、もうひとりは、淡い紫色の大きなめがねをかけた女だった。どちらも美沙緒の知らない顔だった。どこかの大学教授か何かだったかもしれない。  めがねの方が「ですから、家庭における対策といたしましてはですね」と言った時、画面の隅のほうに影が映った。黒いこんもりとした影だった。人の形をしている。それはカメラの動きと関係なく、画面の隅に現れ、もぞもぞと動いた。  美沙緒はテレビに近づいて、画面に指を触れた。ジッという音がかすかにして、微弱な静電気が指を伝った。彼女はすぐに指を離した。 「何?」哲平が聞いた。美沙緒は指をこすりながら、もう一度、画面を見た。「汚れじゃないわ。これ」 「何が?」 「ここに何かついてるみたいでしょ? ほら、黒いもの」  哲平が目を近づけて画面を|睨《にら》んだ。「ほんとだ」彼は言った。「ブラウン管がいかれたかな」  彼はリモコンを使ってチャンネルを変えた。他のチャンネルでは、画面に影は見えない。だが、また元に戻すと同じ場所に人がたが現れる。 「混線してるんだよ、きっと」 「そうかしら。他をもう一度、回してみて」  1チャンネルでは料理番組、3チャンネルでは「糖尿病の食事」という健康番組、6チャンネルでは歌謡番組の再放送、8チャンネルでは古い時代劇、10チャンネルでは美術案内、12チャンネルではアニメをやっていた。そのどれもに、該当するような男の影……影はちょうどのっぺりした影絵のようで、舞台で|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に芝居をする黒タイツの男のように動いていた……は映っていなかった。 「混線じゃないみたいよ。どこにもこんな影が映る番組はないじゃない」  哲平はテレビを消した。画面が消えると、男の影も消えた。 「やっぱり何かの混線だろ」彼はもう一度、テレビをつけた。また影が映り、頭を抱えたり、|膝《ひざ》をついて両手を高く天に突き出したりし始めた。  玉緒がじっと画面を見つめて、つぶやくように言った。「ピヨコが言ってた通り」  え? と美沙緒は玉緒を振り返った。「今、なんて言ったの?」  玉緒はちらりと母親の顔を見ると、悪いことでも告白するかのように、もじもじしながら言った。「ピヨコが言ってたもん。こういう人間たちがうようよしてるんだって。顔がなくって、身体が全部、真っ黒で……」  美沙緒はみるみるうちに自分の顔色が変わっていくのがわかった。何かを怒鳴りつけたくなるような衝動にかられ、それをこらえるのに必死で唇を|噛《か》みしめねばならなかった。先日、電話機の横に落ちていた白い羽が、目の前を飛んでいくような気がする。  ぎこちない沈黙が親子の間を流れた。哲平はテレビを消し、「さあ、その話は終わりだ」と言った。「みんなどうかしてるよ。これはただの混線。いいかい? 混線なんだ。このあたりじゃ、最近、高層マンションも増えてきたし、電波が混線する可能性は大いにある。それだけさ。しばらくしたらまた元に戻るよ」 「でも……」と美沙緒は落ちてきた前髪をかき上げた。「変だったわ」 「これだけ過密状態の東京ではおかしなことが起こるもんさ。この間もうちの会社の|奴《やつ》が言ってたぜ。深夜、ステレオから男の声がするんだとさ。近くを走るトラックの無線を傍受するせいだ。そのことに気がつかなかった間は随分、薄気味のわるい思いをしたらしいよ」 「無線の話ならよく聞くわ。でも、今のは……」 「一時的なものだよ。試しにもう一度、つけてみようか」  哲平がリモコンでテレビをつけると、画面から影は消えていた。「ほうらね」と彼は勝ち誇ったように言った。「ごらんの通り。影も形もございません」  玉緒はクッキーの頭を|撫《な》でながら、画面をじっと見つめていた。「消えちゃった」 「そうよ。消えたわ」美沙緒は少しほっとして、玉緒に近寄り、小さな二本の手を取った。 「いい? 玉緒。ピヨコが何て言ったのか、ママに教えてくれる?」 「うん」 「ピヨコは何をあなたに教えたの?」 「うようよいるお話よ。顔のない真っ黒けの人間がうようよいるんだって。暗いところにいて、それを悪魔が見てるんだって」 「そう。それで?」 「それだけよ」 「その真っ黒けの人間は、今、あなたがテレビで見た影と似ていたと思う?」  うん、と玉緒はうなずいた。「そっくり」 「でも、どうして玉緒はそっくりだって、はっきり言えるの? 前にも見たことがあるの?」 「そうじゃないけど……」 「見たこと、あるんじゃないの?」 「もうやめろよ」と哲平が静かに言った。「玉緒の夢の世界だ。そっとしといてやれよ」 「でも……」 「|俺《おれ》にだってそういう経験はあったよ」彼は|煙草《たばこ》に火をつけた。「五つか六つの時、天井裏にお化けが住んでいると思いこんでいたんだ。本気だったよ」 「どんなお化け?」玉緒が聞いた。「アメーバみたいにぐにゃりとしたお化け」と哲平が答えた。 「アメーバって?」 「水あめみたいな生き物だよ。手も足も顔もないんだ」彼は人さし指を立て、「いいかい?」と、玉緒と美沙緒を交互に見ながら言った。「夜、寝ていると、そのお化けが天井から染みのようにして浮き出てきて、下で寝ている|俺《おれ》の顔をくすぐっていくんだ。ほら、昔の畳の部屋の天井ってさ、ぺらぺらしていて、木目がはっきり見えて、じっと見ていると、それだけでなんだか恐ろしい感じがしただろ? 真っ黒のどろどろしたお化けが、そこから染み出してきたっておかしくないと思ったんだよ。それが怖くて、毎晩、布団にもぐりこんで寝てた。おふくろに言っても信じてもらえなかったけどもね。怖いものは他にもたくさんあった。例えばハンガー」 「ハンガー?」玉緒が聞いた。 「そう。着物を|吊《つ》るすあのハンガーだよ。あれを夜中に廊下の片隅で見つけると、ぞっとした。ハンガーは動くんだ。夜中になるとそっと動いて、子供の顔めがけて襲ってくるんだよ」 「まさか」美沙緒は苦笑した。 「ほんとなんだ。夜中におしっこに起きるだろ。そうすると、廊下のハンガーが生きてるってわかるんだ。そこだけ光ってるようにも見えた。ぞっとして、目をつぶりながらそばを走り抜けるのさ」 「ハンガーがパパを襲って来たの?」玉緒が真剣な顔で聞いた。哲平は笑いながら首を横に振った。 「襲ったりはしなかったさ。ただ、パパの目にそう見えただけなんだ」  死んだ小鳥の話に加えて、次にハンガーが襲ってくる話を玉緒がし始めそうな予感がしたので、美沙緒はきっぱりと言った。「ハンガーが襲ってくるかもしれない、と思ったのは、パパの心がそう思っただけなのよ。ハンガーはただのハンガー。動いたり、襲ったりするわけは絶対にないの。わかる?」  うん、わかる、と玉緒はこくりとうなずいた。 「俺は怖がりの子供だった」と彼は美沙緒に向かって言った。「怖がりはたいてい、想像力が豊かだ。想像があちこちに|拡《ひろ》がっていって、とてつもなく楽しい世界に浸れる。だから僕は立派なコピーライターになれた。想像力のないやつは何をしてもダメなのさ」 「わかったわ」美沙緒は笑い、彼の背中に手を回した。「充分、説得力のあるお話だった。あなた、教育テレビに出て立派に演説できそうじゃないの」  哲平は|微笑《ほほえ》み、美沙緒の手をぽんぽんと|叩《たた》くとソファーから立ち上がった。「さあ、ピクニックの用意をしよう。日の高いうちに出て、夕方までには帰って来たいからね」  玉緒が好奇心に満ちた顔で聞いた。「ピクニック、どこに行くの?」 「お墓参りをして、近くの原っぱでおにぎりを食べるのさ」 「|誰《だれ》のお墓?」  哲平は少しの迷いもなく、さらりと答えた。「パパが昔、仲よくしていたお友達のだ」  言いながら彼は美沙緒を振り返って軽くウインクした。美沙緒はうなずいた。  視線をテレビに移すと、画面にまた黒い影が映っているように見えた。彼女は目をつぶり、「混線」と言いきかせた。玉緒の言う小鳥の話で、どうも神経過敏になっているらしい。 「さあ、おにぎり、作ろうかな」美沙緒がキッチンに行きかけた時、クッキーの|唸《うな》り声がした。クッキーは消えたテレビ画面に向かって、姿勢を低くし、猫のように背中を丸めて唸っていた。 「クッキー?」  美沙緒は声をかけた。犬は彼女に向かってひと声、|吠《ほ》え、また目を画面に|釘《くぎ》づけにした。「クッキー、こっちにおいで」  思いがけず厳しい声で呼ばれた犬は、一瞬、申し訳なさそうな顔をし、尾を軽く振りながらキッチンにやってきた。美沙緒はクッキーの身体を抱き、うぶ毛に包まれた柔らかな耳の中に|囁《ささや》いた。  大丈夫よね、きっと大丈夫よね。      〔5〕 [#地から2字上げ]3月30日  |銀《ぎん》|座《ざ》の大通り。いきなり車のクラクションが激しく鳴り、急ブレーキを踏む音がした。われに返った美沙緒はあたりを見回し、ぞっとした。紺色のワゴン車が、手を伸ばせば届くところで急停車し、運転者がもの|凄《すご》い形相で彼女を|睨《にら》みつけていた。  歩行者用の信号は赤だった。「危ない」とか「もう少しで」といった囁き声が、美沙緒の背後でつぶやかれた。心臓がドキドキと脈打ち、汗が|脇《わき》の下に噴き出した。  運転席の男が、窓から顔を突き出し、「馬鹿野郎!」と怒鳴った。美沙緒はうつむき、そっと唇を|舐《な》めた。  考えごとをしていたわけではなかった。ただ頭の中が、一瞬、空白になっただけだ。何も考えず、何も見ていなかった。眠っている時のような感じ……そんな感じで歩いていた。いったい、どうしたというのだろう……彼女は深呼吸をした。しばらくぶりの銀座で、すっかり田舎者になってしまったのだろうか。  信号が青になり、人々の群れの一番後ろについて、美沙緒は歩き出した。群れの中にいた若い学生ふうの男のふたり連れが、ちらりと彼女を振り返り、くすくすと笑った。美沙緒は彼らをにらみつけた。おかしなことに、彼らがくすくす笑ったのは、自分のぼんやりした行動についてではなく、身なりがおかしいせいではないか、と思った。そして、そう思うといたたまれない気持ちになった。もしかすると、ジャケットの背中に大きな穴でも開いているのかもしれない。  横断歩道を渡り切ってすぐのところに、デパートがあった。彼女はそのまま二階の婦人用トイレに直行した。中では中年の女がひとかたまりになって鏡を占領していた。美沙緒が入って行くと、全員がちらりと彼女のほうを見た。値踏みするような目つきだった。かまわずに彼女は空いている鏡の前に立ち、自分の姿を映してみた。  黒と白のグレンチェックのジャケットにお|尻《しり》にぴったりと|貼《は》りついた黒のパンツ。ジャケットの背中には何も穴など開いていなかった。二、三の白髪は常にあるが、ふわりとおろしたセミロングのつややかな黒い髪。耳の間からゴールドのイヤリングがちらちら|覗《のぞ》いて見える。|小《こ》|皺《じわ》防止用のアイリンクルクリームを愛用しているせいか、笑わないでいる限り、目のまわりには皺の兆しすら発見できない。  別に笑われるような身なりではない……と美沙緒はほっとした。  三十二歳、女盛り、という言葉が頭の中をよぎった。女盛りに考えておきたいこと……という新聞の婦人雑誌広告があったっけ。  老後の準備、夫あるいは女友達との関係の強化、自分自身に磨きをかけること、そしてちょっぴりの恋……それがあなたを光らせます。女盛りのあなたに、新雑誌登場。  婦人雑誌はみな、似たようなものだ、と美沙緒は思う。どれを見ても現実とは似ても似つかない理想を追い、さもなくば、現実とは似ても似つかない、味つけされた他人の不幸をばらまくだけだ。  バッグから化粧ポーチを取り出し、|頬《ほお》|紅《べに》をさっと塗る。鏡の中に、ちらちらと視線を走らせてくる女たちの横顔が見えた。映画の帰りらしい。手に丸めたパンフレットを持っていて、印刷された大きな文字から、それが評判の大人のラブストーリーであることがすぐにわかった。 「お茶、飲んでく?」ひとりの女が聞いた。他の三人が「そうしましょう」と言い、女たちは何やらけたたましく笑い声を上げながら、外に出て行った。  時計を見ると三時だった。イラストの仕事の話で、銀座にある知人のオフィスを訪ねたのだが、お茶を飲んでいるうちに思いがけず時間がたってしまった。三時過ぎには戻る、という約束で栄子に玉緒を預けてきたので、もう、電車に乗る必要がある。  仕事の話は順調だった。約五年近いブランクがあったにも|拘《かか》わらず、以前からつきあいのある仲間たちが回してくれそうな依頼が思っていたよりも多くあった。とりあえず、当面は女性用ビジュアル月刊誌の|挿《さし》|絵《え》を任されることになりそうだった。  その程度の仕事だったら、玉緒の幼稚園の送り迎えにとられる時間を割り引いたとしても、さほどの労力は必要としない。打ち合わせその他で、月に二度ほど銀座に出向けばそれでよかった。  二度? 本当はもっと出て来てもいいんだけど……。家に閉じ|籠《こも》ってばかりいると、横断歩道の渡り方まで忘れてしまいそうだ。  哲平に電話して銀座に来ていることを教えようか、とも思ったが、彼が席をはずしていて、社の人間が出てきたら気まずいのでやめにした。考えすぎかもしれないが、玲子の一件以来、あの会社の人間とは話ができそうもない。  哲平に電話する代わりに、井上栄子に電話した。受話器の向こうから、玉緒とかおりが馬鹿騒ぎしている声が聞こえてきた。かおりの兄、ツトムの声も混じっている。 「大変なご機嫌よ。おチビさんたち」栄子は言った。「さっきまで外をはね回ったり、地下室で三輪車を乗り回したりしてたんだけど、今度はわが家で電車ごっこ。そちらはいかが?」 「ごめんなさい。遅くなって。これから銀座を出るところよ」美沙緒はそう言い、なんでもなさそうに聞いた。「栄子さんも地下室に行った?」 「ううん。うちで掃除機かけてたけど。どうして?」 「え? ええ。ちょっと聞いただけ。じゃあ、私、これから帰りますから。ごめんなさいね。あと少し、よろしくお願いします」  電話を切ってから、不快な気分に襲われた。栄子という女は|雑《ざっ》|駁《ぱく》で、その雑駁さが彼女の魅力でもあったのだが、小さな子供をあの地下室に置いたままにして目を離すとは、どう考えても美沙緒の理解を超えることだった。あの地下室……いつなんどき、外から侵入した頭のおかしい男が潜んでいるかもわからない地下室。そんな中を走り回る子供たちを放っておくなんて。いくらなんでも神経ががさつすぎはしないだろうか。  だいたい、あそこに整然と並べられてある物置といったら! |柩《ひつぎ》みたいな白い馬鹿でかい物置! 柩みたいな……?  彼女はぶるっと身震いした。あそこにあるのはまさしく柩のような物置だった。人間の柩ではなく、何かもっと大きい、得体の知れない生物の|死《し》|骸《がい》をいれておくための柩のような……。  引っ越し後、哲平が地下室を探索し、物置の便利さを美沙緒に説明した時も、美沙緒はあそこを利用する気はない、とつっぱねた。どうして、と理由を聞かれてもうまく答えられなかった。もし、玉緒がひとりでここに来た時に停電でもおこったら、どうする? と彼女は哲平に言った。真っ暗な中で、エレベーターも動かずに、あの子、ずっとひとりでいなくちゃならないのよ。それに痴漢が出没しないという保証はどこにあるの? 小さな女の子ばかり|狙《ねら》う誘拐魔だって、平気であそこに入って行けるじゃないの。  そんな心配をするくらいなら、と哲平は笑った。|俺《おれ》が毎日、電車に乗って仕事に出かけてる間のことを心配してくれよ。交通事故、心臓発作、地震、ビル火災、それにいつなんどき、頭のいかれた男にぐさっと一発、背中を刺されるかわからないんだぜ。  結局、言いまかされて、美沙緒は不承不承、ナンバー801の物置を使用することを承知した。哲平は不用になったわけでもない古い雑誌や捨てればすむだけのビールの空き瓶などを運びこみ、「こりゃあ、便利だ」と悦に入っていた。物置のキイは美沙緒と哲平がそれぞれひとつずつ持ち歩くことになった。哲平は何度か地下室に降りたが、美沙緒はよほどの用がない限り、行かなかった。ウマが合わない、という言葉があるが、美沙緒にとってあの地下室はウマが合わなかった。多分、そういうことなのだろう、と彼女は自分を分析していた。いや、正確に言えば、そう分析すべきであると思っていた。  高井野駅で降り、途中のマーケットで簡単に夕食用の買物を済ませてから、マンションに戻った。402号室の前に立つと、中から子供たちの声が廊下にまで響いてきた。美沙緒はほっとし、ほっとした途端、自分の馬鹿げた妄想を笑いたくなった。  どうかしてる。物置……ただの物置が|柩《ひつぎ》だなんて。子供はどこでだって遊ぶものだわ。倉庫でも、車の中でも、ぼうふらの浮いたどぶの中でさえ……。  チャイムを押すと、栄子が出て来た。家の中全体に、バナナの|匂《にお》いが漂っている。子供たちが走って来た。玉緒の顔が見えた。上気したその顔に、笑顔がぱっと|拡《ひろ》がった。 「ママ。おかえり」 「ただいま。いい子にしてた?」 「うん。いい子にしてた。あのね、おばさんからバナナのジュース、もらったの」 「そう、よかったわね」 「それとね、かおりちゃんがね……」話し続ける玉緒の向こうで、栄子がにこにこしながら美沙緒を手招きした。「上がってかない? 今、ちょうど管理人さんが見えてるの」  奥を|覗《のぞ》くと、管理人の|田《た》|端《ばた》|光《みつ》|枝《え》がダイニングテーブルに向かって、口をすぼませながら急いで口の中のものを|呑《の》みこもうとしているのが目に入った。田端夫妻には子供がおらず、光枝はよほど普段、暇なのか、あるいは特別の理由があって栄子が気に入ったのか、井上家に何かと用事を作っては上がりこんでいた。  美沙緒が入っていくと、光枝は口を|拭《ふ》きながら立ち上がり「まあまあ、これはこれは」と言って頭を下げた。五十代の|筈《はず》なのに、どう見ても六十を超えているように見える。その年にしては派手な顔立ちだった。四角い顔、大きな目、大きな鼻。ちょっと意地悪そうな目つきなど、若かったころはシモーヌ・シニョレに似ていたのかもしれない。が、今や、シモーヌ・シニョレをスプラッタムービーに出演させて、鬼女に変身させたみたいなご面相に|変《へん》|貌《ぼう》していた。 「お仕事ですか? 素敵ですねえ」鬼女版のシモーヌ・シニョレが愛想よく言った。美沙緒はうなずき、まとわりついてくる玉緒の手をぽんぽんと|叩《たた》いた。 「仕事、うまくいった?」栄子がコーヒーを入れながら聞いた。「まあまあよ」美沙緒は答えた。「なんとか来月から定期的に仕事が回ってきそうなの」 「よかったじゃない。ああ、私も何かやりたいな。でも、口ばっかりでね。うちで子供を|叱《しか》りとばしながら、雑誌のグラビアなんか眺めて夢を見てるほうが性に合ってんだけどもね。それはそうと」と、栄子は機関銃のように|噂話《うわさばなし》を始める前の女特有の表情をして、|椅《い》|子《す》に|坐《すわ》った。 「今、田端さんから聞いたんだけど、知ってた? あなた。この二、三か月のうちに、このマンション、|廃《はい》|墟《きょ》同然になっちゃうのよ」 「廃墟?」 「そうなの。あのね、こないだ201号室が引っ越したでしょ。四月になったら、401号室が引っ越すんですって。それから五月になったら、驚くじゃないの。なんと三軒の引っ越しよ。ええとどこでしたっけ」 「502の|原《はら》|島《しま》さんと602の|吉《よし》|野《の》さん、それに701の|八《や》|田《だ》さん」と光枝が答えた。マンション住人の噂をするのが面白くて仕方がない、といった様子だった。「原島さんは|新宿《しんじゅく》でホステスやってる人で、吉野さんはご夫婦そろって高校の先生、八田さんのところはお姉さんと妹さんのふたり暮らしだけど、ふたりともエアロビクスのインストラクターをやってらっしゃるの」 「そう、その三軒」と栄子が、話の主導権を光枝に奪われまいとするように、慌ただしく言った。「つまりこないだ引っ越して行った201号室の事務所と、四月に引っ越す401号室の人を加えると、合計五軒よ。五軒がこの五月には空室になるってわけ」 「401の方は|東海林《しょうじ》さんて言いましてね。ヨガとかインド哲学とか、ほら|瞑《めい》|想《そう》っていうんですか。そういった方面の専門家なんですよ。その関係の学校で教えてらっしゃるの」光枝が口をはさんだ。栄子はそれに構わずに続けた。 「ねえ、ともかく、それで残るのはどこだと思う? うちとあなたのところと、それに管理人さんのところだけよ」 「どうしてまた、そんなに一度に……」美沙緒は聞いた。栄子は|誰《だれ》も聞いていないというのに、声を一段、低くした。「どうやら、ここの環境のせいらしいわよ。なにせ墓地とお寺と火葬場にとり囲まれてるマンションでしょ。長く住む気にはなれないんじゃないの」 「でも、だからと言ってそんなに早く引っ越さなくても……」 「ですからね」と光枝が出されたコーヒーに大量の砂糖を入れながら言った。「賃貸で借りてる人はともかく、買った人は少しでも早く売ってしまいたいと思ってるらしいんですよ。ここはまだ新築の部類ですからね」  そう、と美沙緒は言った。たった三世帯しか残らなくなる時期が来ることを思うと、いやな感じがした。いくら栄子のような|賑《にぎ》やかな女が住んでいるとは言え、ひとつのマンションに三世帯しかいないと想像しただけで、何かと不安が|拡《ひろ》がる。防犯、事故、そして……。 「まったく、とんでもないところに住んでるのよ、私たち。これじゃあ、売る時だって高くは売れないし、買い損をしたってことになるわ」 「まあ、そのうちまた、賑やかになりますよ」光枝がコーヒーを飲み、大きな目をしばたたかせた。「なにしろ、ここは便利ですからね。穴場ですよ。環境だって、墓地なんかを気にしなければ最高ですもの。ご存じないかもしれないけど、昔、高井野駅から私鉄の南高井野駅まで地下商店街を造る計画もあったくらいなんですって」 「あら、初耳」と栄子が目を丸くした。「なんですか、それ」 「高井野駅の北側は今でこそ、すごい繁華街になってるけど、昔は南側のほうが賑やかだったんですって。それに南高井野駅までも歩いていけない距離じゃないでしょ。いっそのこと、地下商店街を造って、二つの駅を結んで、都心の客も呼び込もうという計算があったらしいんですよ」 「へえ。いつごろの話?」 「さあねえ、うちの亭主が駅の近くの古い飲み屋の|女将《おかみ》に聞いてきた話だから、よくわかんないんですけど、なんだか昭和三十年代の終わりころの話だったみたいですよ。実際に穴も掘ってね、途中まで掘ったところで計画が中止になったんですって」 「どうしてですか」美沙緒が聞いた。光枝はあまり詳しく知らないことをごまかすようにして、意味もなく笑った。 「資金不足か何かだったんでしょう、さもなくば、北口の商店街からのクレームがあってゴタゴタしたとかね」 「じゃあ、その途中まで掘った穴は埋めたわけ?」栄子が聞いた。 「さあねえ。穴が開きっぱなしだとまずいから、埋めたんじゃないですか」 「もったいないわね」と栄子が腕を組みながら、太い声を出した。「それができてれば、今ごろはここは土地の価格も上がって、ひょっとしたら、墓地だってさっさと他に移転されてたかもしれないのに」 「ほんとに」光枝がうなずいた。「信じられないくらいにこのあたりも栄えてましたよ、きっと」 「幻の地下街が地下にまだあったりしてね」栄子がいたずらっぽい顔をして美沙緒に言った。「|誰《だれ》もいない。もちろんお店なんかもないまんまに、地下道だけ残ってたりして……。そしたらなんだか面白いわね。ほら、アメリカの下水道には、捨てられたワニやなんかが、大きくなって育ってちゃんと生きてる、って言うじゃない。ここの地下にも、何かが生きて残ってたりしてね。ねえ、ツトム」と彼女は長男を呼んで聞いた。「こないだ見たテレビの映画、なんて言ったっけ。ほら、ワニが恐竜みたいに大きくなって人を襲う話……」 「アリゲーター」ツトムが自慢げに答えた。「アリゲーターってワニのことを言うんだよ。ママ、知らないの?」 「知ってるわよ、そのくらい」栄子が言い、「この子ったら、最近母親を馬鹿にするのよ」と笑った。  幻の地下街という言葉が、美沙緒の中に|淀《よど》んだ|澱《おり》のようにして残った。下水にワニが生息する事実は別にしても、地下街がこのマンションの下に出来ていたかもしれないという話自体、絵空事のような気がした。墓地や寺の真下に地下商店街が栄え、人骨が埋まった天井にバーゲンの広告がぶら下がっている光景は、何か|滑《こっ》|稽《けい》だった。  しばらく雑談をした後で、美沙緒は玉緒を連れて栄子の部屋を辞した。光枝は愛想笑いをしながら見送ったが、まだ帰る気配はなかった。  エレベーターの中で玉緒が声をあげた。 「あ、いけない」 「どうしたの?」 「忘れもの。カーディガン、着てくるの忘れた」 「どこに? かおりちゃんのところ?」 「ううん。地下室」  いいわ、と美沙緒はうなずいた。「ママが後で取ってくるから」  地下室ではなるべく遊ばないように、と言いたくなったがこらえた。口うるさくするのは、哲平の言う通り、玉緒にとっていいことではない。子供は|怪《け》|我《が》をしたり、いやな思いをしたりして育っていくものだ。あらかじめ、大人の感覚に沿ってタブーを作り出すのは避けるべきだ。  玉緒を家の中に入れ、彼女はひとりエレベーターで、地下室に降りた。子供たちが消し忘れたのか、地下は|煌《こう》|々《こう》と明かりがついていた。  三輪車が一台、ぽつんと乗り捨てられている。402号の物置前には、栄子が置いたのか、古新聞が|紐《ひも》でまとめられ、ひとつに束ねてあった。  玉緒の黄色のカーディガンは、その新聞の束の横に落ちていた。小さなポケットにウサギの|刺《しし》|繍《ゆう》がしてある。それを取り上げようとして腰を|屈《かが》めた時、どこか近くでがさりという音がした。  はっとして美沙緒はあたりを|窺《うかが》った。天井を|這《は》う無数のパイプ、整然と並んだ白いペンキ塗りの四角い物置、201が置いていった段ボールの山。 「|誰《だれ》?」そう言ってしまってから、美沙緒は初めてぞっとした。言わなければよかった、と思った。彼女は急いでカーディガンを拾うと、丸めて|小《こ》|脇《わき》に抱えた。  足もとにひんやりとした風がおこった。それは、外の陽光あふれる大気の中に生まれ、芽吹いた木々の|梢《こずえ》を通り過ぎて、ビルの中に吹きこんできた|隙《すき》|間《ま》風とは違う風だった。もっと別の、かすかに|匂《にお》いを含んだ……。  また、がさりという音がした。彼女は頭の|芯《しん》がしびれていくのを感じた。「ねずみなの?」  わざと高らかにそう言い、コツコツと靴音高く倉庫の列という列を|覗《のぞ》いて歩いた。ねずみがいたとしたら、「はい、僕はねずみです」って答えるはずがないじゃないの。でも……。彼女は「いやね」とまた、声を出した。「ねずみがいるマンションなんて」  どの物置の列にも変わったものは見られなかった。ねずみも猫も、まして巣を張った|蜘《く》|蛛《も》の一匹すらいなかった。  風が少し強くなったような気がした。吹いてくる、といった感じではない。空気自体が風に飲みこまれていく、といった感じだった。  エレベーターがゴトンという音をたてた。|誰《だれ》かが上でエレベーターを呼び出したらしい。美沙緒はもう一度、あたりを注意深く|窺《うかが》って、歩き出した。馬鹿みたい、と彼女は思った。何をこんなに怖がっているのかしら。子供たちだって平気でここを遊び場にしてるっていうのに。  エレベーターの前まで来た時、エレベーターは四階で止まっていた。田端光枝が降りて来るらしい。  四階で扉を開けたまま、栄子と長々と|喋《しゃべ》っているらしく、エレベーターはなかなか、降りて来なかった。  今度は遠くでポタリと何か水のようなものが落ちる音がした。地下|の鍾乳洞《しょうにゅうどう》などでよく聞く音に似ていた。美沙緒は後ろを振り返り、天井のパイプに目をこらした。どこかのパイプから水が漏れ出したのだろうか。それとも、誰かが物置の中に置いた液体がこぼれたのだろうか。  背中のあたりに風がうっすらとまとわりついた。彼女は自分が大人であることを悔やんだ。もし子供だったら、ここで大声を上げて恐怖の叫び声を上げられただろうに。  やっとエレベーターが動き出した。三階、二階、一階……。  美沙緒は鼻歌を歌おうとして、口を開いた。何のメロディを歌えばいいのかわからなかったので、でたらめの曲を歌った。  B1のところにランプがつき、扉がゆっくりと開いた。扉の向こうに何かがいた。美沙緒は一瞬、それが誰だかわからずに、キャッと小さく悲鳴を上げた。 「あら、奥さん」光枝がのんびりした声で言った。「ここにいらしたんですか」  美沙緒は不器用に笑顔を作り、「ああ、びっくりした」と言った。「人が乗ってると思わなくて」 「物置にご用?」 「え? ええ。玉緒がこれを忘れたものですから」差し出して見せたカーディガンを光枝は|微笑《ほほえ》ましそうに見つめた。「あら、かわいい|刺《しし》|繍《ゆう》。奥さんがなさったんですか」 「いえ、全然。買っただけで……」美沙緒は笑ってみせた。光枝は|曖《あい》|昧《まい》に物置のほうを指さしながら言った。「今日はね、ちょっと|真《ま》|面《じ》|目《め》に漬物でも漬けようと思ってね、漬物石を取りに来たんですよ。漬物好きなくせに、うちの亭主は私のことぬかみそ|婆《ばば》ぁなんて言うんですからね。ほんとにもう人の苦労を知らないったら」  美沙緒はもう一度、微笑み、エレベーターの中に入った。光枝が地下室の中をぺたぺたとサンダルの音を響かせて歩いていく音だけが、いつまでも耳に残った。      〔6〕 [#地から2字上げ]4月7日  哲平が高井野駅を降りると、夜桜見物の帰りらしい一団がプラットホームにひと塊になって|嬌声《きょうせい》を上げていた。男が五、六人、女が三人。三人の女のうちひとりは、相当酔っていると見え、今にも吐きそうな|蒼《そう》|白《はく》の顔をしながら、それでも若い男の腕にもたれてニタニタ笑っていた。  私電の南高井野駅の近くに小さいながら桜の名所がある。連中はそこに行ってしこたま飲んだ帰り、タクシーか徒歩で高井野駅までやって来たものらしい。  哲平も代理店の仲間に花見に誘われていたが、仕事がたてこんでいるせいもあって断っていた。それに、桜ならマンションのベランダからいくらでも眺めることができた。墓地のあちこちにふんわりと桃色のドームを作っている桜の木々は、|萌《も》え出した周囲の草花の緑と調和して、今が一番、美しい盛りだった。  つい三日前、弟の達二夫婦が訪ねて来た時も、直美は墓地であることを忘れているような口調で「借景ね」と|溜《ため》|息《いき》をついていたものだ。もっとも、あの女は冬枯れの季節に訪ねて来たら、墓地のくすんだ石の群れや針のように伸びただけの木々の枯れた枝を眺めて、「ドラキュラが出てきそうな風景ね」と言い出しかねないのだが。  達二夫妻は引っ越し祝いとして、純白のレースのテーブルクロスとナプキンのセットを持ってきた。それはもともとあったダイニングテーブルにぴったりと調和し、美沙緒を喜ばせた。  美沙緒と直美が、うまくやっていけるのも、美沙緒が利口な女だからだ、と哲平は確信していた。対する相手が、利口か、さもなくば達二のように根っから|の《お》|臆《くび》|病《よう》者でない限り、直美とはうまくやっていけないに決まっている。  ……まあ、いずれにしても|俺《おれ》の女じゃないんだから、どうでもいいが……。  改札口を出ると、人の群れの大半は北口の出口に散っていった。北口は十二時を過ぎたというのに、まだ|煌《こう》|々《こう》とネオンがまたたいている。パブや小料理店、パチンコ屋、ラーメン屋……。出口を出たところでは、たこ焼きやおでんの屋台がしのぎを削るようにして並び、酔いどれたちが帰宅前に立ち寄ってくれるのを待ち構えていた。  一方、南口の出口は静かだった。立ち並ぶ小さな商店街は軒並み、店を閉めており、一、二軒の喫茶店がコカコーラのスタンドネオンを鈍く光らせているだけである。  春めいた夜のなま暖かい風に身をゆだねながら、哲平は南口を出たところで立ち止まり、|煙草《たばこ》に火をつけた。一台のタクシーが彼の目の前で急停車した。ドアが勢いよく開かれ、乗っていた女が|弾《はじ》かれるようにして出て来た。淡いピンク色の和服に身を包んだ女だった。女は外に出るなり、白っぽい|草《ぞう》|履《り》を履いた足でタクシーのボディを|蹴《け》|飛《と》ばした。 「とっとと行きなよ!」  運転手が窓から首を出し、いまにも飛びかかりそうな形相をして「すべた!」と怒鳴った。「乗り逃げする気かよ、え?」  女は持っていた小さなセカンドバッグを慌ただしく開け、札を取り出して窓の中に放り投げた。「くれてやるわよ。金|貰《もら》えば文句ないんだろ。この|乞《こ》|食《じき》野郎!」  くそーっ、と運転手は歯がみし、ドアを開けて外に飛び出して来た。面白いことになりそうだった。哲平は煙草をくわえたまま、見物することにした。近くを通りかかった人たちがぱらぱらと周囲に集まってきた。女は見物人が増えたことに勢いをつけたのか、「何よ。あんた、女を殴る気?」と鼻でせせら笑った。  運転手はちらりと周囲の人垣を眺め、ううーっ、と犬のように|唸《うな》り声を上げた。五十くらいの小太りの男だった。紺色のズボンに、何をこぼしたのか、黄色い染みが点々と光っている。 「やるならやりなさいよ。警察呼んでやるからさ」  女はほつれたうなじの毛をかき上げて、目を|吊《つ》り上げながら言った。しのび笑いが人垣から|洩《も》れた。運転手は両手に固い握りこぶしを作ったが、「くそ!」とひと声、唸ってから、女が支払った金をくしゃくしゃに丸めて路上に投げつけた。 「いらねえよ、こんなもん。とっとと消えな、|売女《ばいた》!」  男は車に戻り、車全体で怒りを表すつもりか、車体を震わせてエンジンをかけた。車はがくんと前後に動き、そのまま猛スピードで走り去ってしまった。  人垣がくずれ、しのび笑いが拡散していった。女はぶつぶつ言いながら、路上に捨てられた札を拾い、丁寧に伸ばして胸元にすべり込ませた。哲平は見て見ぬふりをし、歩き始めた。女が|誰《だれ》に言うともなく「ちくしょう!」とうめくのが背後から聞こえた。  水銀灯の明かりが冷たい光を投げている商店街に入ると、女の草履の音が哲平のあとをつけて来るのがわかった。初めは怒ったようなせかせかとした足取りだったが、やがて小走りに走るようになった。 「ちょっとそこの人」  女が呼び止めた。彼以外、近くを歩いている人間はいなかった。彼は歩調をゆるめて振り返った。女が着物の|裾《すそ》をひらひらさせながら、走って来た。走り方を見て初めて、女がかなり酔っていることがわかった。  女は哲平に近づくと、はあはあと|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に息を切らしながら手を胸にあてがった。 「ああ、苦し。運動不足だから、すぐに息切れしちゃう。ねえ、あんた、ひょっとしてセントラルプラザに住んでる人じゃない?」  そうですが、と言いながら哲平はしげしげと女の顔を見た。さっき、運転手に向かっていった時の険のある表情が消え、その代わりに金をかけてようやくの思いで老化を|喰《く》いとめていると思われる、のっぺりとした表情の乏しい、卵色の顔がそこにあった。美沙緒と同じくらいか、いや、もっと年上だろう。 「よかった」と女は猫があくびする時のようなくしゃくしゃした目で|微笑《ほほえ》んだ。「さっき、見てぴんときたのよ。あなた、いつかマンションの中で見かけたことがあるもの」 「あなたもセントラルプラザに?」  そう、と女は子供のようにうなずき、深呼吸した。「502の原島です。よろしく」  職業的なお辞儀をしてみせたつもりが、酔いがまわったのか、首がふらふら揺れている。哲平は名乗る必要があるかどうか、考え、その必要もないだろう、と思いなおして黙っていた。美沙緒から、502のホステスも五月に引っ越すという話を聞いていたからだ。 「すいません。一緒に歩いて帰ってくださる? あたし、あそこんとこ、ひとりで歩くの怖くって。墓地なんてまっぴら」 「いいですよ」哲平は苦笑しながら言った。タクシーの運転手相手に大立ち回りをやる女が、たかが墓地を怖がるなんて信じられなかった。 「よかったぁ。いつもはマンションの真ん前までタクシーで乗りつけるんだけど、今夜はあのくそったれが……」女は吐き捨てるように言ったが、照れ笑いをし、すぐに口調を変えた。「あのタクシーと|喧《けん》|嘩《か》しちまったもんだから」 「いったい何があったんです」 「つまんないことよ。あいつがあたしに冗談めかして、一発いくらで客をくわえこむのか、って聞くからさ、頭きて、|罵《ば》|倒《とう》してやっただけ。何を言ったか覚えてない。そしたら、駅前でいきなり『降りろ』って言われて」 「威勢がよかったじゃないですか。なかなかカッコよかった」 「頭にきたけど、結局得したわよね。ただで乗せて来てもらったことになるんだからさ。おまけにボディガードも見つけちゃった」  女はよろよろと歩きながら、哲平の腕に腕を回してきた。酒の|臭《にお》いと香水の匂いが一緒になって、耐えがたいすえた臭いが鼻についた。 「今夜はさんざんだったの。お店では喧嘩するしさ。お客とじゃないわよ。店のママとよ。雇われママのくせして、でっかい顔するんだから。いやな女なの。|傲《ごう》|慢《まん》でさ。そりゃあ、こういう仕事してると、お金に汚くはなるわよ。でも、あの女の汚さったらないの。電卓がないと生きてけないのよ。ケチで欲張りで……」  女はえんえんと、その雇われママの悪口を続け、興奮して彼の腕をぎゅっとつねった。 「それでこんな早い時間に帰って来ちゃったんだけどさ。いつもは二時三時にご帰還よ。ねえ、ところであんたは何をしてる人? なんでまた、好き好んで墓地に囲まれたマンションなんかに越して来たの?」 「広告の仕事をしてるんです。あそこに引っ越したのは安かったから」 「わかるわよ、その気持ち。安いもんねえ、あそこは。あたしも、ちょっとお客といい仲になって、あそこを買ってもらったの。というよりは、そのお客の持ち物をあたしがただで借りてる、って言ったほうが正しいけどさ」 「いつから?」 「できてすぐによ」女はしゃっくりをした。「まだ半年ちょっと。でも五月に引っ越すの」 「らしいですね」 「なんで知ってるの」 「うちの女房が管理人さんから聞いてきたので」 「ああ、あのスピーカーばばあ」またしゃっくり。「けたくその悪い|婆《ばあ》さんよね。日曜日なんかさ、会うと話しかけてきて、いろいろ聞き出そうとするんだから」  商店街を抜けたので、遠くにセントラルプラザが見えてきた。哲平はさりげなく、女の腕をほどいた。  万世寺の横の小道を入ると、満開の桜が枝を伸ばし、はらはらと花びらを散らしていた。明かりのない小道は、暗く、静かで、花びらの散る音すら聞き分けられそうな感じがする。 「悪いこと言わないわよ。あんたも……」しゃっくりを飲みこみながら、女が投げやりな口調で言った。「あんたも出てったほうがいいわよ。お子さんだっているんでしょ?」  いる、と彼は答えた。いるどころじゃない。玉緒は|俺《おれ》と美沙緒が、人生をやり直そうと思ってから作り上げた宝だ……。 「だったら悪いこと言わないって。こんなとこ、すぐに引き払うべきよ」 「どうして? けたくその悪い|婆《ばあ》さんがいるから?」 「そんなんじゃなくて……」女は唇を|舐《な》め、自分の身体を両腕でくるみこむしぐさをした。 「ここはよくないマンションなのよ。あたし、自慢じゃないけど霊感が強くてね、どうも不気味な感じがするのよ」  ははは、と哲平は笑った。「幽霊でも見たんですか? 墓地の近くだから、ポルターガイストかな? それとももっとSF的なやつ? エイリアンとか」  女は笑わなかった。真剣な顔つきをしているのだが、しゃっくりが止まらないので、様にならない。「何かを見たわけじゃないのよ。でもさ、なんかこう、住んでいて居心地が悪い感じ、ってあるでしょ。そんな感じがするの。腰がすわらない、って言うか、なんかそわそわさせられる、って言うか、特に最近、その感じが強くなってね。時々、深夜、じっとしていると、いたたまれないくらい怖くなるの。馬鹿みたいと思うでしょうけど、ほんとなのよ。|誰《だれ》にもこの話、してないのよ。信じてもらえないし、それにうまく説明できないからさ」  おおかた、パトロンと|喧《けん》|嘩《か》でもして、追い出されることが決まったのだろう。そう哲平は思った。女というものは、霊とか|呪《のろ》いとかいった言葉を使ってすべてを片づけてしまう傾向がある。子供を流産すれば「水子の|祟《たた》り」、不幸が続けば「先祖の呪い」……だ。理屈がまるで通らない。ばかばかしいにもほどがある。  墓地の|卒《そ》|塔《と》|婆《ば》が月明かりに照らされて、前方左側に見える。ははは、ともう一度、哲平は笑った。ばかばかしくはあるが、深夜、墓地の横を歩いている時の話題としては、なかなか|洒《しゃ》|落《れ》ているじゃないか。 「ま、そのうちにね」と哲平は言った。「金がたまったら、もっといいところに越しますよ。墓地も火葬場もないところにね」 「早いほうがいいわよ。ほんとにさ。あたし、なんでこんなに酔っぱらってるか知ってる? 別にいやなことがあったからじゃないのよ。でも毎晩、こうなの。わかる? シラフじゃここに帰って来る気がしなくなるからなのよ」  マンションの玄関が見えてきた。ふと見上げると、八階のベランダ越しに黄色い光が|洩《も》れていた。美沙緒がまだ起きているらしい。暖かい光。安全で日の光の|匂《にお》いに満ちた自分の家……。  エレベーターホールに立ちながら、女は渋面を作って哲平を見上げた。「それにさ、あたしなんか、ここの地下室、使ったことないのよ。あんたんとこ、使ってる?」 「物置を使ってますけど」 「よく使えるわね。感心しちゃう」  ふたりは降りてきたエレベーターに乗り込んだ。5のボタンを押しながら、女はしゃっくりと共に言った。「この地下室はなんかおかしいのよ」 「おかしいって何が」 「だからさ、うまく説明できない、って言ったでしょ。ただ、行くとあたしにはわかるの。何か騒々しいのよ」 「ねずみ?」彼は|微笑《ほほえ》んだ。 「そんなんじゃない。生きてるものなんかいやしないわ」 「じゃあ、お化けだ」 「なのかしらね。わかんない。とにかく、あそこは怖いところよ。このマンションの中でも特にね」  エレベーターが五階で止まり、扉が開いた。「寄ってかない? って言いたいところだけど」と女は外に降りてから、腰をくねらせて言った。「同じマンションに奥さんのいる人じゃ、誘っても無駄ね。今夜はどうもありがとう。助かったわ」  哲平は軽く手を振り、「おやすみなさい」と言った。「楽しい話だった」  皮肉にとられるかもしれない、と一瞬、思ったが、哲平の声は女のしゃっくりの音にかき消された。エレベーターは八階に向かった。  たちの悪い冗談だ、と彼はひとりでうなずいた。間違っても、こんな話を美沙緒や玉緒の耳に入れないようにしなければ。ただでさえ、美沙緒はこのマンションの地下室を嫌っている。酒のせいで少しまともじゃなくなった女の言う妄想を妄想とわかっていながら、信じてしまう可能性がないとは言えない。今すぐマンションを売却しようなどと言い出されたら、たまらない。せっかく……。  エレベーターが八階に止まり、すべるようにして扉が開いた。  せっかく落ち着ける、明るい住居を構えたんだ。そう、自分たちはもう、昔の自分たちではない。  ふと唐突に、彼は学生時代、自殺者が出たとわかっているアパートの一室を格安の値段で借りた友人のことを思い出した。その友人と|同《どう》|棲《せい》相手の女は、見事な合理主義者で、自殺者が生前、使っていた食器棚(なぜか部屋に置きっぱなしになっていたのだが)をもったいないから、という理由でそのまま使い出した。  哲平も何度か遊びに行ったが、明るい、日当たりのいい、清潔なアパートだった。友人カップルはそこで平和に暮らし、やがて卒業と共に結婚した。  そんなもんさ、と哲平は昔を思い出して、懐かしさと共に優しい気持ちになった。あのアパートの、前の住人が失恋で首を|吊《つ》ったという問題の部屋に集まって、よくマージャンをしたものだ。|誰《だれ》もその部屋で誰かが首を吊ったことなど思い出さなかった。遊ぶこと、金をひねり出すこと、恋の悩みなどに忙しく、死者に|関《かか》わっている暇はなかったのだ。  そんなもんさ、と彼はまた思った。恐怖を誘うものは自分の病んだ心の中にこそある。現在への不満、弱まった生命力、|歪《ゆが》んだ神経……。  801号室のチャイムを押す。高らかに澄んだ音が鳴り響き、インタホンを通して美沙緒の声がした。「はい?」 「|俺《おれ》だよ」  |内《うち》|鍵《かぎ》が開き、ドアチェーンをはずす音がした。「おかえりなさい」  美沙緒が少し眠たそうな顔を|覗《のぞ》かせた。哲平は|微笑《ほほえ》み、中に入った。家の|匂《にお》い、彼らが日々の生活の中で産み出し、壁や天井に染みついた匂いがする。 「あったかい夜ねえ」美沙緒がイラストの製図類の散らばったテーブル越しに言った。 「窓を開けても寒くないわよ。きっと」  彼女はベランダに向かった窓に近づき、サッシ戸に手をかけた。哲平はふざけた足取りで彼女にしのび寄り、後ろから抱きすくめた。美沙緒はキャッと言って笑った。 「どうしたのよ、いきなり」  彼は彼女の首筋に前歯をたてた。「君を襲いに来たドラキュラだぞ」  彼女の腕に力がこめられた。「ちょっと待ってよ、今、窓を開けるんだから」  笑いながらそう言った後で、彼女は「あらやだ」と舌打ちした。「どうして開かないのかしら」  哲平は彼女を抱きすくめたまま、ガォーッ、と|唸《うな》った。「ドラキュラのパワーを思い知ったか」  ふざけないで、と美沙緒は真剣な声を出した。「ねえ、ほんとに開かないわよ」  哲平はつと美沙緒から身体を離し、両手をサッシ戸に当てがった。戸はぎしぎしと音をたてながら、レールの上をぎこちなくすべっていった。 「安普請だな、まったく」彼は|溜《ため》|息《いき》をついた。「明日、|蝋《ろう》|燭《そく》を塗っておかなくっちゃ」  ふたりを顔を見合わせ、軽く肩をすくませてから、何事もなかったように外の空気を吸いこんだ。      〔7〕 [#地から2字上げ]4月20日  幼稚園の年少組の帰宅時間。迎えに行った美沙緒は、門から出て来た玉緒の頭が砂だらけなのを見つけた。小さなカールのかかっている柔らかな髪に、点々と砂がこびりついている。  玉緒はそうなった理由を何も言わなかった。ただ、いつもよりけたたましい感じで笑い、スキップをし、母親に気づかれないよう、そっと砂をはらうだけだった。  団体生活の儀式が始まったようだわ、と美沙緒は内心、くすくす笑った。いじめられたに違いない。泣いた|痕《こん》|跡《せき》がないのは立派だった。彼女はとりたてて何も聞こうとせず、玉緒のほうから告白し出すのを辛抱強く待った。  帰宅後、玉緒はケチャップをたっぷりかけたスパゲッティとトマトサラダの昼食をわざとらしくもりもりと食べ始めたが、途中でフォークを置くなり、いきなり泣き出した。手放しの泣き方だった。ケチャップの混じった|涎《よだれ》が、小さな口から落ちた。 「いったいどうしたの? ママに話してごらんなさい」 「砂、かけられたの」玉緒は泣いているわりには、はっきりとした物言いで言った。「砂場で遊んでたら、男の子が来て、砂かけたの。かおりちゃんにもよ」 「その男の子は大きい組の子?」 「うん」 「どうしてあなたとかおりちゃんにだけ、砂をかけたの?」 「わかんない。墓地マンションの子、墓地マンションの子、って言ってたくさん砂をかけるの」 「墓地マンション?」 「うん。ねえ、ママ、墓地マンションって何?」  墓地の真ん中にぽつんとマンションが建っているからだろう、と美沙緒は思い、にわかに腹だたしくなった。きっとその子の親がこのマンションのことをそう言ったに違いない。あれはまるで墓地みたいなマンションだ、とかなんとか……。 「お墓の近くに建っているマンションだから、そんな変な呼び方をしたのよ」美沙緒は感情を乱さないよう気をつけながら言った。ろくでもない親がいるものだ。自分もいつかは世話になる墓地。その墓地を|軽《けい》|蔑《べつ》するよう、小さな子供に教えこむとは……。 「うちはお墓の前に建っているでしょ? 玉緒たちをいじめた子は、きっとお墓が怖いのよ。怖いから、よくそんな怖いところに住んでるんだね、って言いたくて、うまく言えないから砂をかけたりしただけよ。泣くことなんかないわ。今度そう言われたら、お墓はちっとも怖くなんかない、って言ってあげなさい」 「砂、かけてやった」と玉緒は涙を|拭《ふ》きながら言った。「かおりちゃんは、石を投げたの。それで三人とも先生に|叱《しか》られた」  ふふふ、と美沙緒は苦笑した。いいぞ、玉緒。そのくらいの強さがなくっちゃ。 「やだな」と玉緒は美沙緒が差し出したクリネックスで鼻をかみながら言った。 「何が?」 「お墓の近くに住んでるの、やだな」  美沙緒は何と答えようかと迷った。 「いじめられたから?」 「ううん。前から思ってたの。いやだな、って」 「玉緒はここが嫌いなの?」  玉緒はしばらくの間、考えていたが、やがて大きなくりくりした目を上げて美沙緒を見つめた。 「ママは好き?」  そうねえ、と美沙緒は玉緒が残したトマトをひと切れ、フォークの先でつつきながら言った。 「好きよ。静かだし、緑がきれいだし。桜が咲いても、わざわざお花見に行かなくたっていいし。電車に乗って桜を見に行かなくても、自分のおうちの窓からたくさんの桜が見られるなんて素敵じゃない。クッキーだって喜んでるわ。お散歩が楽しいものね」 「そうね」と玉緒はひどく大人びた口調でうなずいた。「ほんとのこと言うとあたしもここが好き。前のおうちよりずっと面白いもん」彼女はうっすらと|微笑《ほほえ》んで、ダイニングの|椅《い》|子《す》から降りた。クッキーが飛んで来て、ケチャップと涙がついた玉緒の指を|舐《な》めた。  井上栄子とかおりが玄関のチャイムを鳴らしたのは、それから一時間ほどたってからである。栄子は美沙緒の顔を見るなり、「聞いた?」と|眉《まゆ》をひそめた。「砂かけられた、って話、聞いた?」  ええ、と美沙緒はなんでもなさそうにうなずいた。「かおりちゃんもうちの玉緒も大したものよ。やり返してやったみたいだから」 「らしいわね。でも」と栄子は小鼻をふくらませた。「ひどいじゃないの。墓地マンションの子だなんて。こんな侮辱ってある? ツトムに聞いたらね、その男の子、おばあちゃんっ子でね、いつもおばあちゃんが送り迎えしてるんですってよ。どうせ古くからこのあたりに住んでる人たちなのよ。そのおばあちゃんってのが、何かろくでもないことを吹き込んだんだわ」  |所《しょ》|詮《せん》、子供同士の|喧《けん》|嘩《か》なのに、と美沙緒はまくしたてる栄子を苦々しく思った。ほじくればほじくるだけ、自分たちが不愉快になる。笑って聞き流せばいいものを。  エレベーターがごとんと音をたてて八階で止まり、ツトムが降りて来た。手にお気に入りのいつものおもちゃのピストルを持っている。 「また、うちを開けっぱなしにして!」栄子がツトムを|睨《にら》みつけた。ツトムは意に介した様子もなく、へらへらと笑った。「玉緒ちゃんちに遊びに来たんだもん」 「何言ってるの、この子は。外で遊びなさい。玉緒ちゃんのママは忙しいのよ」 「いいのに」と美沙緒は言った。急ぎの仕事が詰まっていて、ちっともよくはなかったのだが、そう言ってみるのが子供を通したつき合い上の礼儀だった。 「おばちゃん」とかおりが美沙緒に向かって言った。「玉緒ちゃんと遊んでもいい?」  いいわよ、と美沙緒が答えると栄子が、雌牛のように大きな声で命令した。「外で遊ぶのよ。よそのお家の邪魔をしちゃいけません」  玉緒が飛び出して来て、無邪気にかおりと手をつないだ。クッキーも出て来た。 「ねえ、ママ。クッキーも連れて行っていい?」 「鎖をはずしちゃだめよ。外で遊ぶんなら、どこかに結わえつけておかないと」 「うん。わかった」  三人の子供たちは、犬を連れてエレベーターに乗り、ふたりの母親に向かって小さな手をひらひらさせた。 「いつもうちの子たちがうるさくってごめんね」栄子が言った。「私までが邪魔しに来てるけど、でもさ、さっきから頭にきちゃって。湯気が出てるのよ。腹がたつったら。その|婆《ばあ》さんの顔を見てやりたいわ」 「いじめられたらいじめ返せ、ってうちでは教えてるの。もっぱらうちのダンナがそう言うんだけど。ビービー泣いて帰ってこられるよりは、ずっとましでしょ?」美沙緒は笑った。 「まあ、そうね」栄子はにんまりとし、「おかげで今日のお昼はさんざんよ」と肩をすくめた。「かおりはギャーギャー言うし、ツトムはわけのわかんないことを説明しようとするし……」 「そして栄子さんが怒り狂ってたら、お昼御飯どころじゃないわね、確かに」 「チビどもが消えてくれたから、これからゆっくりコーヒーでも飲むわ。あなたは仕事でしょ?」 「そう。明後日までに片づけなくちゃならないのに、ちっとも進んでないの」 「残念。一緒にコーヒーを飲もうかと思ったんだけど。またね。誘いに来るわ。二千円もするコーヒー豆買ったのよ。ブルーマウンテンと何か他の種類をブレンドしたやつ。おいしいから、今度ご|馳《ち》|走《そう》するわ」 「ありがとう」  栄子がエレベーターの呼び出しボタンを押した時、B1にランプがついているのが見えた。  子供たちは地下室に行った……。  栄子が「仕事、頑張ってね」と言った。「美沙緒さんの絵が載った雑誌、買わせてもらうわよ」 「恥ずかしいから見ないで」美沙緒はエレベーターのランプに気をとられながら言った。「大したことない絵なんだから」  栄子は|微笑《ほほえ》み、エレベーターは降りて行った。そのまま、またエレベーターを呼び出して、地下室に行ってみたい、という衝動にかられたが、結局、やめにした。B1のランプがついていたからといって、何を不安になる必要があるだろう。地下に降りたのは子供たちではなく、管理人か|誰《だれ》かかもしれない。仮に子供たちが降りたとしたって、それが何だというのだ。地下で遊んで何が悪い。表の大通りに出て遊ぶことを考えたら、ずっと安全ではないか。雑種とはいえ、身体つきのしっかりした利口な犬も一緒なのだし。  美沙緒はドアを閉め、|内《うち》|鍵《かぎ》を掛けた。ダイニングテーブルの上の食器を片づける時、ケチャップの瓶が手からすべり落ちた。  赤い染みがカーペットの上に|拡《ひろ》がった。点々と飛び散った血液のように見えた。  彼女はクリネックスでごしごしと|拭《ふ》き取り、それでも消えない赤い染みに|苛《いら》|立《だ》ちながら、住宅用洗剤を上からばらまいた。|雑《ぞう》|巾《きん》でカーペットがすり切れるほどこすり取った。赤い色が次第に消え、淡いピンク色の染みになった。カーペットはごわごわにけば立ち、使いものにならなくなったかに見えた。  血を拭き取ると、やっぱりこんなふうになるんだろうか……。  美沙緒は染みの上に|椅《い》|子《す》を置き、目に触れないように隠した。  電話が鳴ったのは、それから三十分後。仕事にとりかかって間もなくのことである。  受話器を取るやいなや、栄子の声が飛び込んできた。それは声というより、絶叫に近かった。 「玉緒ちゃんが大変! すぐに行って!」  激しい不整脈が起こった時のように、美沙緒は|床《ゆか》がぐらぐら揺れた感じを覚えた。「どこ? どうしたの?」 「地下室で、|怪《け》|我《が》して……今、ツトムだけが上に上がって来たのよ。よくわからないの。ツトムは泣いてるし……かおりはまだ地下室にいるし……」 「すぐに行くわ」美沙緒は電話を乱暴に切り、玄関を飛び出した。エレベーターは四階で止まったままだ。ボタンをいくら押しても動き出さない。栄子が乗り込もうとしているに違いなかった。早く! と彼女はうめいた。何をやってるの。どうしてエレベーターを止めてるの! 一台しかないエレベーターなのに、どうして私を先に行かせてくれないの!  長い時間がたったような気がした。エレベーターは四階でランプをつけたまま、一向に上がって来ない。  階段! どうして気がつかなかったのだろう。美沙緒は非常階段へ出るドアのロックをはずし、外に飛び出した。中からだけ開けられるようになっている非常階段である。  八階から地下まで降りるのにどのくらい時間がかかるものか、考えたくもなかった。美沙緒はひたすら、走り降りた。途中でサンダルが片方、脱げたが、構わずに走った。馬鹿みたいに、「落ちるな、落ちるな」とだけ唱え続けた。今ここで自分が階段から落ち、|捻《ねん》|挫《ざ》して動けなくなったら玉緒はどうなる。  一階まで降りて来て、初めて気づいたことに|茫《ぼう》|然《ぜん》となった。地下室には非常階段は通じていない。どうあってもエレベーターでしか行くことができないのだ。  玄関ホールには|誰《だれ》もいなかった。エレベーターの表示はまだ四階で止まったままだ。故障? どうしてこんな時に!  彼女は管理人室のドアをこぶしでドンドン|叩《たた》いた。田端|末《すえ》|男《お》が、|醤油《しょうゆ》のついた|串《くし》だんごを片手に口をもぐもぐさせながら顔を|覗《のぞ》かせた。 「エレベーターが……」と美沙緒は言い、次に「救急車を呼んで」と叫び、何を言っているのか自分でもわからなくなりながら、田端末男の腕を引っ張った。 「どうしたんです」奥から光枝が走り出て来た。 「玉緒が……地下室で……|怪《け》|我《が》したらしくて」  田端夫妻は口々に何か騒ぎたてながら、エレベーターの前に飛び出して来た。夫妻が代わる代わるエレベーターのボタンを押した。四階の表示は依然として消えない。 「なんてこと! ここには地下に降りる階段がないんですか」 「ともかく救急車だ」と田端末男がわめいた。光枝があたふたと部屋の中に走って行った。それとほぼ同時に、足音が響き、栄子とツトムが外の非常階段から降りて来た。美沙緒を見ると栄子は唇を震わせながら、大声を出した。 「エレベーターが動かないのよ。四階で止まったままなのよ。ツトムが知らせに来てくれたっきり、動かなくなっちゃったのよ」  自分よりも動転している人間を目の前にして、美沙緒にかすかな理性が戻ってきた。彼女はツトムの手をとり、「教えて」とできるだけ落ち着いた声で聞いた。「玉緒はどこを怪我したの」 「足だよ」とツトムは答えた。怖かったのだろう。涙のあとが|目《め》|尻《じり》にこびりついている。「何かが玉緒ちゃんの足を切ったんだ」 「何かって何なのよ」栄子が怒鳴った。「知らないよ」ツトムは顔を真っ赤にして母親を|睨《にら》みつけた。「何もないのに、玉緒ちゃんの足が切れたんだ」 「それで? 玉緒は泣いてるの?」  泣いていないと答えられたらどうしよう、と思いながら美沙緒が聞いた。泣いていてくれればまだ、元気な証拠だ。ツトムはこっくりうなずいた。「泣いてるのね」また、こっくり。そして、この小さなメッセンジャーボーイは自分が玉緒を傷つけ、大人たちに|叱《しか》られてでもいるかのように、大声を上げて泣き出した。  田端末男がエレベーターのボタンをガチャガチャ鳴らし「こりゃあ、駄目だ」としわがれ声で言った。「すぐに修理屋を呼ばないと」 「何を悠長なこと言ってるんです」栄子が怒鳴った。「そんなに待てないでしょうが。子供が怪我して倒れてるんですよ。なんとかしてよ。うちのかおりだって、中にいるんだから」  ああ、神様、と美沙緒は胸に手を当てた。ともかく玉緒の命だけはお守り下さい……。  困ったわ、困ったわ、と栄子はあたりをうろうろし、末男は「ともかく」と言い残して、エレベーターのサービスセンターに電話をかけに行った。  ひとりの男が入って来た。|髭《ひげ》をたくわえた中年の男だった。男は騒ぎを見つけ、控え目な口調で「どうかしましたか」と聞いた。光枝が飛び出して来て、「ああ、|東海林《しょうじ》さん」とかん高い声を出した。「今、地下でお子さんが怪我したらしくて……。なのにエレベーターが動かないんですよ」  東海林と呼ばれた男は、持っていた大きな茶色の封筒を床に置くと、エレベーターに近づき、ボタンを押し、扉に耳をつけてじっと目を閉じた。 「なんとかなりませんか」美沙緒は東海林ににじり寄った。修理屋でもあるまいし、何ができるものか、という|諦《あきら》めの気持ちは確かにあったが、男の動作はどこかしら、美沙緒に期待を抱かせた。男は驚くほど落ち着いていて、その上、人を安心させる何かを持っていた。 「こんなことを言うのも妙ですが」と東海林は言った。「故障ではないような気がします」 「じゃあ、何?」栄子がまた怒鳴った。「エレベーターの故障の原因を聞いてるんじゃないのよ。早く、なんとかしないと……」 「少し待って下さい。騒がないで。まもなく動き出すでしょう。静かに」  居合わせた全員が互いに顔を見合わせた。この男は何を言っているのか。頭がおかしいのか。それとも……。  東海林はエレベーターの前に直立不動の姿勢で立ち、両手を扉に軽く当てがって目を閉じたまま何やらぶつぶつ言い始めた。それは念仏でもなく、かといって外国語でもなかった。聞いたことのない言葉だった。栄子が叫んだ。「何をしてるんです。そんなことしてる暇があったら……」 「しーっ」と東海林は静かに言った。栄子が口をつぐんだ。まもなく驚くべきことが起こった。ごとんという耳慣れた音が遠くで|轟《とどろ》き、エレベーターが下降し出したのだ。田端夫妻と栄子が歓声を上げた。|遥《はる》か遠くから救急車のサイレンの音がする。東海林は疲れたような顔をして、その場から離れ、床に置いた封筒を取り上げた。  一階で止まったエレベーターに東海林を除く全員が乗り込み、地下へ直行した。地下でエレベーターが開くなり、美沙緒は駆け出した。泣き声……二種類の泣き声が壁に反響している。一番奥の物置の陰にクッキーのしっぽが見えた。足音を聞きつけてか、かおりが物置の陰から飛び出して来た。 「ママ! ママ!」  栄子がかおりを抱きとめた。クッキーが顔を|覗《のぞ》かせた。静かな、表情のない、まるで狂ったような目をしている。犬は美沙緒を|一《いち》|瞥《べつ》し、また視線を元に戻した。 「玉緒!」  物置の陰で、玉緒が上半身を起こした形で|坐《すわ》っていた。顔は信じられないほど青く、時折、弱々しい泣き声が口から|洩《も》れている。哲平に|叱《しか》られ、げんこつを食らった時の泣き方と同じだった。ただひとつ、|膝《ひざ》から下が血まみれなのを除いては。  栄子や光枝が小さく叫び声を上げた。美沙緒は震えながら玉緒を抱き寄せ、傷口を見た。右足の膝が、ぱっくりと割れている。血がどくどくとあふれ、流れ出し、まるで血だまりの中で転んだみたいに見えた。 「救急車が来た!」田端末男の声がした。「こっちです。こっちです」  白衣を着た男が三人、担架を担ぎながら走って来た。簡単に傷口を調べると、ひとりが美沙緒にきっぱりと言った。「大丈夫でしょう。この程度なら、心配はいらないと思います」 「でもこんなに血が……」 「心配いりません」と男は白いマスクをかけたまま繰り返した。「しかし、いったい何で切られたんです」 「わかりません」  男たちが玉緒の小さな身体……ドラム缶の中に捨てられた人形のような身体を抱き上げ、そっと担架に移した。美沙緒は気分が悪くなり、くらくらした。栄子が美沙緒を支えた。「私も一緒に行くわ、病院へ」 「いいの」と美沙緒は言った。「ひとりで大丈夫」  担架に乗せられた玉緒の後を追いながら、ふと振り返ると、クッキーの後ろ頭が見えた。クッキーはさっきと同じ壁の一点をじっと|睨《にら》みつけていた。人々の慌ただしい動きに興奮することなしに。いや、もっと興奮すべきものがそこにあるかのように。      〔8〕 [#地から2字上げ]4月23日  美沙緒が食後の薬を玉緒に飲ませているのをぼんやり眺めながら、哲平は娘が足に受けた傷のことを考えていた。  出血のわりに傷自体は大したことはなかった。救急車で運ばれた近くの外科医院の担当医師は、ていねいに傷を縫い、薬をくれて、入院の必要はまったくない、と言い切った。玉緒はひどく痛がり、泣いてばかりいたが、翌日にはもう、顔に赤みがさすまでになった。傷口の|化《か》|膿《のう》も心配なかった。あとは栄養のあるものを食べさせ、足を動かさないようにし、きちんと薬を飲んでさえいれば、十日ほどで全治することになっていた。幼稚園にもすぐに行けるようになるだろう。縫った跡も、成長とともにきれいになくなるはずだ、と医師は言った。  問題は何もないはずだった。少なくとも玉緒に関しては、何の心配もいらないはずだった。  だが……。 「まずーい」無理矢理、口の中に水薬を放りこまれ、思わず飲み下した玉緒が目に涙をためながら言った。 「甘いお菓子みたいなお薬なんかないのよ」美沙緒が少し厳しい顔をして言った。「これをきちんと飲まないと、傷口からバイキンが入って、また痛い思いをしなくちゃいけなくなるんだから」 「どんなバイキン?」 「痛いところをちくちく刺すバイキンよ。バイキンは玉緒の体の中に住みついて、熱を出したり、おなかをこわさせたりするの」 「歩けなくなっちゃう?」 「そういうこともあるわ。そうなったら大変でしょう? だから、もうしばらくは静かにして、お薬を飲んでなくちゃいけないの」 「遊びたいのに」 「治ってからね。そしたらまた幼稚園にも行けるわ」 「お口の中が苦くって気持ち悪い」 「我慢我慢」  玉緒はリビングルームのソファーに|坐《すわ》り、|怪《け》|我《が》をしなかった左足をばたばた動かしながら「チキショー」と言った。  美沙緒が顔をしかめた。「|誰《だれ》から聞いてきたの? そんな言葉」 「ツトムくんがよく言ってるもん。チキショーって。かおりちゃんだって言うわ」  美沙緒は肩をすくめて、助けを求めるように哲平を見たが、哲平は別のことを考えていたので無視した。  彼にはどうにも|解《げ》せないことがあった。三日前、玉緒が怪我をしたという報告を受け、すぐに外科医院に駆けつけた時のこと。ちょうどその時、美沙緒は玉緒の汚した衣類を洗うため、廊下に出て行っていなかった。 「やはり切り傷、と考えていいんでしょうか」と哲平はざっくばらんに聞いた。「物置にある何か鋭利なものが、たまたまこの子の足に触れたとか……」 「厳密に言うとそうじゃないんですよ、お父さん」医師は少し笑いながら言った。まだ四十くらいのその医師は、白衣を脱がせたら、道行く女すべてを口説いてまわりそうなほど好色な感じに見えた。 「そうではない、とおっしゃいますと?」  医師は哲平を正面から見た。やけに|艶《つや》のいい|頬《ほお》が目立った。「状況から考えて、ここまでの傷を負うとなりますとね。鋭利なもの……たとえば古くなった包丁やステンレスなどが、足に触れた程度じゃ、これだけの傷にはなりゃしません」 「子供同士、|喧《けん》|嘩《か》か何かしたんでしょうか」いやな質問だった。もし、その通りだとすると、同じマンションに住む井上一家と気まずいことになるかもしれない。  だが医師は再びにっこりし、「そんなことはなかったようですよ」と答えた。「奥さんもそうおっしゃってました」 「では、何が原因で……」 「私は……」と医師は軽く首をこすりながら、ゆっくり言った。「いわゆる、かまいたちにやられたのでは、と思うんですがね」 「かまいたち? 突然、理由もなくすぱっと体が切れるというアレですか」 「理由なく、ということでもありません。春先などに、突風が吹くことがあるでしょう。その突風が一時的に小石や鋭くとがった木片などを巻き上げ、そこにたまたま、手足を突っ込んだりするとスパッと切れてしまう。実は私の姉も昔、やられました。やはり足でしたよ。足首。ばっさりと見事に切れましてね」 「そうでしたか」と哲平はもごもごと言った。「不運としか言いようがないですね。そうした|怪《け》|我《が》というのは」 「でもね、かまいたち現象が室内でおこるはずがありません。お子さんは本当に室内にいらしたんでしょうかね」 「そのはずですが、マンションの地下室にいたはずで……」 「外でやられたんですよ、きっと。なのに切れたことに気づかないまま地下室に入り、遊んでいるうちに出血がひどくなって気づいた……そんなところじゃないですかね」 「そんなはずは……」  いやいや、と医師はそうした勘違いはよくあることだと言いたげに笑った。「子供は驚くほど痛みや熱に鈍感なことがあるものなんです。私の知ってる患者で五歳の男の子などは、すべり台から落ちて足の骨が折れたというのに、それからしばらくの間、近所を駆け回っていたくらいでね」  美沙緒が部屋に入って来たので、哲平はその先を続けるのをやめた。  美沙緒と一緒にタクシーで玉緒を家に連れ帰ってから、哲平はひとりで地下室を点検に行った。管理人か、さもなくば井上栄子がやってくれたのだろう。玉緒の流した血の跡はきれいに洗い流され、掃き清められて、どこで事故がおこったのか、ほとんど肉眼ではわからないほどだった。  美沙緒から聞いた一番奥の、|誰《だれ》にも使われていない物置の前に立ち(そこは玉緒が倒れていた場所で、水を流した跡があった)、彼はあたりを点検した。物置には|鍵《かぎ》がかかっていて、開かなかった。周囲のどの物置もそうだった。物置の角の部分に手を触れてみた。間違って頭でもぶつけたら切れる可能性はなくはなかったが、それもよほどの力で投げつけられない限り、切れるには至らないように思えた。まして、|膝《ひざ》だけがぱっくり切れるなど、どう考えてもあり得ない。  自分の家の物置から古くなった|椅《い》|子《す》を持って来て、その上に上がり、見回した。立ち並ぶ物置の上には|埃《ほこり》がうっすらと|溜《た》まっているだけで、人を傷つけるものなど何も見つけられなかった。  井上ツトムの乗り回している三輪車が転がっていたので、それも子細に観察してみた。三輪車にはどこにも曲がったり、切れたりした部分はなかった。まして血の跡も。  どうやら……と彼はほっとした。殺人三輪車ではなかったようだな……。  他に鋭利なもの……たとえば古くなって誰かが不注意にもそのまま捨て置いたカミソリとか、ナイフ、包丁のたぐい……も何も見つけられなかった。地下室に他にあるものは、新聞紙の束、201が引っ越して行ったきり、誰も引き取りにこない健康食品の段ボール箱が幾つかあるだけである。  目に見えないガラスでも落ちているのでは、と思い、床に目をこらして歩いてみたが、そんなものは何もなかった。天井の蛍光灯が割れた形跡もない。パイプが折れて崩れかかっている気配もない。  やはり医師が言った通り、子供たちは外で遊んでいて、玉緒だけがいわゆるかまいたちに|遇《あ》い、地下室に来て気づいたのだろうか。  玉緒の話、それに居合わせてそれを目撃したツトムやかおりの話を総合すると、事故当時、子供たちはてんでんばらばらに遊んでいたらしい。ツトムは三輪車を乗り回していたし、かおりはクッキーの綱を引きながら、散歩のまねごとをしていた。玉緒はツトムの持っていたおもちゃのプラスチック製ピストルを手に、物置の扉ひとつひとつを|叩《たた》いて、玉緒が普段、言うところの「ごめんくださいごっこ」をしながら遊んでいたのだという。  だから誰も玉緒の足が切れた瞬間を見た者はいなかった。おかしなことに、当の玉緒本人ですら、何が自分の足を切ったのか、わからないと言い張る。玉緒の言葉を借りれば、「さーっと冷たい感じがして」ふと足を見ると、もう血が噴き出していた。痛いという感覚、ショックの感覚はずっと後になってからおこったもので、初めは何なのか、何がおこったのか理解できなかったらしい。ぼんやりと立ち|竦《すく》んでいると、クッキーがものすごい勢いで走り寄って来た。犬の綱を手離してしまったかおりも、驚いて走って来た。  クッキーが|吠《ほ》え、|唸《うな》り、狂ったように暴れ出した。それを目のあたりにしたツトムの言葉を借りると「急になんかの病気になったんじゃないか」と思ったほどで、かおりとツトムはまず、犬の様子がおかしいのに|怯《おび》えた。|噛《か》まれるのではないか、と思ったのだ。  ツトムが兄らしい心遣いを見せてかおりを抱き寄せ、ついで玉緒を呼びよせようとした時、初めて玉緒が血だらけになって立っているのを見つけた。玉緒は突然、ことの次第を悟ってか、火がついたように泣き出した。それでツトムはすぐにエレベーターに乗り、母親の栄子のもとへ知らせに走った……。  いくら子供たちから聞き出しても、それ以上の答えは返ってこなかった。美沙緒はもちろんのこと、井上栄子や管理人夫妻にも様々な質問をぶつけてみたが、誰もが口をそろえて、何がなんだかわけがわからない、と答えた。これでは、原因探しも何もあったものではない。|怪《け》|我《が》をした本人ですら、キツネにつままれた思いでいるのだ。  子供たちが|嘘《うそ》をついているとはどうしても思えなかった。外で遊んでいたのなら、正直にそう言ったはずだ。あの子たちは、初めからこの地下室にいて、一歩も外には出なかったのだ。  このマンションはなんか変なのよ、と言っていた五階のホステスの言葉が何度か哲平の頭をよぎった。地下室が特にね、あそこを使うなんて、気が知れない……。悪いこと言わないから、早く引っ越したほうがいいわよ。ほんと、悪いこと言わないからさ……。  馬鹿げた話だ、と彼は大きく息を吸い、読みかけの新聞に再び、目を落とした。|俺《おれ》は何を考えているんだろう。偶然だ。偶然の事故なんだ。かまいたち現象が、室内でおこるはずがない、と医者は言うが、じゃあ、何だって言うんだ。突然、空気が刃物になって玉緒の足を切りつけたとでも? ふん、馬鹿馬鹿しい。あれは何らかの空気の異常対流によって起こった現象なのだ。地下室では空気が|淀《よど》んでいるから、どこかから別の空気が絶え間なく流れこんできたとすると、奇妙な現象がおこるのかもしれない。そうに違いない。  美沙緒はこの事故のことを医者が言うように一種のかまいたち現象である、と信じている様子だった。いや、少なくとも、そう信じたいと思っているようだった。哲平はとりたてて、その話をむし返すつもりはなかった。玉緒が無事なら、深く考える必要もないだろう。そう、深く考えて結論を出すまでもないことだ。 「ねえ」と美沙緒が少ししゃがれた声で言った。彼は新聞から顔を上げた。玉緒はソファーに|坐《すわ》ったまま、テレビでアニメを見ている。その玉緒にちらりと視線を走らせながら、美沙緒は彼に近づいた。 「401号室の|東海林《しょうじ》さんに、お礼と報告に行くべきじゃない?」  口調が怒ったような、あるいは事務的な感じがするのは、疲れているせいだろう、と哲平は思った。彼は「そんなことする必要があるかな」と言った。「もう引っ越してしまうんだろ」 「ええ。でも、今日のところはまだいるみたい。午後、出かけて行くのをベランダから見たわ。あれっきり、一言も|挨《あい》|拶《さつ》に行ってないんだもの。ちょっと気になってるの」 「しかし、挨拶といったって、何て言う? その節はエレベーターを動かしていただいて、どうもありがとう、って言うつもりかい? まさかね。それじゃあ、まるで超能力者に対する感謝の言葉だ」 「でもあの時は私、そう思ってしまったわ。栄子さんもそう言ってた。あの人がエレベーターに両手を当ててしばらくしたら、突然、動き出したんですもの。あなたにも見せたかったわ。みんなが|呆《あっ》|気《け》にとられてしまったほどなんだもの」 「偶然さ」哲平は幾分、|苛《いら》|々《いら》し始めるのを感じながら言った。なんだってこう、|近《ちか》|頃《ごろ》はどいつもこいつも……いやこの|俺《おれ》自身も含めて、おかしなことばかり考え出すんだろう。中学生の修学旅行で、ありもしない怪談話や怪奇現象にキャーキャー騒ぐガキみたいじゃないか。 「偶然なんだよ。ちょうどその瞬間に何らかの電気系統の故障が直ったんだ」 「そうかしら」 「そうさ。どうせ、その東海林って男はくだらない|瞑《めい》|想《そう》だの何だのをやって|儲《もう》けてるやつなんだろ? |恰《かっ》|好《こう》のデモンストレーションになる、と判断したんじゃないのか。現代人はそういうのに引っかかりやすいんだ。非科学的な得体の知れない、もっともらしいものにね。そしてそのうち、幽霊を見たとか、死んだ人間と交信したとか言い始める。寝ても覚めても、あの世のこと、この世ならざるものにしか興味を示さない。死んだやつは死んだやつなんだ。そう認めてやるのが、死んだ者への愛情なんだ。問題は常に今、ここにしかないし、あらゆる問題は生ける者の問題でしかない」  わかった、わかったわよ、と美沙緒は優しくたしなめるように言った。「言いたいこと、よくわかるわ。あなたも私も、そう信じてここまでやってきたんだものね。昔のあの……」  哲平は静かにうなずき、その先を言わせまいとして、大きく深呼吸した。 「わかってくれれば、それでいいんだよ。僕は基本的に認めたくないんだ。死者の世界やその他もろもろの分析不可能なものの存在をね」  こっくりと美沙緒はうなずき、ダイニングテーブルの上でゆっくりと両手をこすり合わせた。「でも、それはそれとして、やっぱり、このまま東海林さんっていう人に黙ってるのは失礼じゃない? 大騒ぎもしたことだし」 「|挨《あい》|拶《さつ》に行くかい?」 「ええ。一緒に行きましょう。少なくともそれが礼儀だわ」そして美沙緒は正面から哲平を見据えて、きっぱりと言った。「玲子さんのことと、メディテーションをして、偶然にしろエレベーターを動かした人がいることとは、話が別。そうでしょ?」  哲平はちょっとの間、考えていたが、|微笑《ほほえ》み、うなずき、「そうだ」と言って彼女の手を握った。 「君の言うとおりだ」  美沙緒は心もち背筋を伸ばし、笑った。ぽきぽきとした感じのする笑顔だった。      〔9〕 [#地から2字上げ]4月23日夜  玉緒を部屋に残したまま、哲平と美沙緒は401号室の|東海林《しょうじ》を訪ねた。東海林は家におり、愛想よく彼らを迎えた。 「おかげさまで」と美沙緒は玄関先で頭を下げた。「傷の処置もうまくいきました。本人も元気でおります。いろいろご心配をかけてしまって、申し訳ありません」  廊下の奥からうっすらと香の|匂《にお》いが漂ってきた。東海林は目をぱちぱちさせた。|髭《ひげ》の中に埋もれた赤い唇が、軟体動物のように不規則に動いた。「大したことがなくて本当によかった。お力添えできて私もほっとしています」  その言い方は、やや尊大とも受け取れた。哲平はそばでじろじろと東海林を見ていた。後できっと言うに決まってるわ、と美沙緒は思った。|奴《やっこ》さん、すっかり奇跡のスーパースター気取りだぜ、あの調子じゃ、今にテレビのワイドショーにでも自分を売り込み始めるんじゃないか、奇跡の超能力パワーで私は子供を救出したとかなんとかさ……。  実際のところ、美沙緒にもそう思えた。  目の前にいる男が、あの時の男だとはどうしても信じられなかった。玉緒のことで気が動転していたせいだろうか。あの時、この男は神、聖人、いや、神話に出てくる超人に見えた。しかし、今、目の前にいるのは、ただの中年男……しかも妄想にかられて自分を神だと信じている頭のおかしい男にしか見えなかった。  ごわごわと生やした口髭に、ビスケットか何かの|滓《かす》がくっついている。そのくせ、男はいかめしい顔をして、何度も意味もなさそうにうなずいた。  超能力者だなんて、とんでもない誤解だったのかも……と美沙緒はがっかりした。|瞑《めい》|想《そう》家と称して得体の知れない仏像だの、金のペンダントだのを売りつける、ただの詐欺師なのかもしれない。エレベーターの一件を根掘り葉掘り|訊《たず》ねて、そんなものを売りつけられでもしたら、たまらなかった。  ありきたりの|挨《あい》|拶《さつ》を交わしてしまうと、もう他には何も|喋《しゃべ》ることがなかった。美沙緒はちらりと哲平を見上げ、「じゃ、これで」と小声で言った。  ふたりが引き揚げようとすると、東海林が「あのう」とためらいがちに言った。「参考までにお伺いしますが、お嬢さんの|怪《け》|我《が》の原因は何だったのでしょうか」 「医者の話では」と哲平が美沙緒が何か言いかけるのを制して言った。「かまいたち現象にあったらしい、と言うんですがね」 「ほお」東海林が黒く奥まった目を見開いた。「珍しいですね。地下室でかまいたちとは……」 「いや、珍しくはないでしょう」哲平はいくらか力みながら言った。「ここの地下室には|隙《すき》|間《ま》風が流れこんでいて、おそらくは一か所で渦を巻いていたんだと思います。今のような春先には、そうしたことがおこっても不思議ではないですからね。なにしろ、ここんところ、ひどい突風も吹いていたことだし」 「考えられなくはないですね。建築物の構造|如何《いかん》によっては、そうした現象もあり得ます」 「地下室には他に人を|怪《け》|我《が》させるようなものは何ひとつないですし、まあ、運が悪かったと言いますか……」 「あそこは危険ですよ」  東海林はつぶやくように言い、哲平の顔を|舐《な》めまわすようにじろじろと見た。「危険だから、お子さんにはもう、あそこで遊ばないよう言ったほうがよろしいですね」 「どういう意味でしょう」哲平が半ば、むっとした様子で言った。 「いえ、ただ、そう申し上げておきたいだけです。あそこは邪悪なものが集まっている場所ですから」 「邪悪?」と哲平は苦笑した。「悪魔でもいるんですか」 「悪魔なんていう生やさしいものではありません。私自身、驚いているほどです。これまで様々な場所で邪悪なものと接してきましたが、これほど強い霊気を感じた場所は初めてなのです」  ははは、と哲平は力なく笑い、ふっと美沙緒を見た。「この方の言ってることはなかなか想像力に訴えるところがあるよ。墓地と寺と火葬場に囲まれていちゃ、こんなファンタジーもリアリティを帯びてくるな」  東海林は肩をすくめ、|可愛《かわい》らしい子供の反抗を見守るように哲平を見つめた。 「私は明後日、引っ越します。もう一日たりともここに住んでいたくありません。初めのうちはまだよかった。地下室では気になるほどの騒ぎはおこっていなかったし、このマンション自体も静かでした。でも、もういけません。私は……非常に疲れました」  玄関先で近所の者同士が話すような会話ではなかった。美沙緒はうろたえながら、精一杯、|微笑《ほほえ》んだ。東海林は彼女を見、弱々しく表情を和らげた。 「奥さんはおわかりでしょう。おわかりのはずです。あの日、お嬢さんが怪我をなすった時、エレベーターがいきなり|停《と》まった。偶然なんかじゃないんです。あれは、あれは……|素《しろ》|人《うと》の方に何と説明したらいいのかわかりませんが、ひと口に言うと一種の霊的存在が仕掛けた|罠《わな》だったんです」 「おっしゃることがピンときませんな」哲平が失礼でない程度に鼻で笑った。「あなたは、そういった心霊学の専門家でおられるんですか」 「いいえ。私はただの|瞑《めい》|想《そう》家ですよ。二十代のころ、大半をインドで過ごしましてね。ヨーガを学び、瞑想法をマスターしました。それをもとに学校を開き、生活の|糧《かて》にしているだけの人間です」 「瞑想でエレベーターを動かした、というわけですか」 「私の手は“気”を引き寄せるのです」そう言って東海林は両方の手の平をふたりに見せた。顔に似合わず、なめらかな女性的な手だった。 「自分の手から“気”を発生させることによって、宇宙の“気”を吸収するのです。そしてまた、“気”を送り出す。ただし、これを霊的存在に向けて使用すると、たちまち、疲労|困《こん》|憊《ぱい》してしまいます。時によっては病気になってしまうことすらあります。実は私も」と彼は恥ずかしそうに目をそらした。「あの日、エレベーターを動かした後で、完全な忘我状態になってしまいましてね。ちょっと参りました」  それはどうもすみませんでした、と言うべきなのだろうか。美沙緒は口の中がからからに乾いていくのを覚えながら|訊《たず》ねた。 「どうしてこのマンションにそんな現象がおこるんでしょう」 「はっきりしたことは私にもわかりません。私は予知能力者でもなければ、霊媒でもない。ただ、私には修行によって自分のものにしたある種の能力があります。その能力でわかることがすべてです。ここは危険な場所です。地下室はもう、お使いにならないほうがよろしいでしょう。本当は住人の方みんなにそのことをお知らせしたいんですが、頭がおかしいと思われる可能性がありますからね。やめました」  東海林は笑い、「コーヒーでもいかがです」とふたりに聞いた。「なんなら詳しいお話でも……」  哲平が真先に頭を横に振った。 「子供をひとりで置いてきていますので、これで失礼します」 「そうですか。残念です。また何かあったら……と言いたいところですが、私はもうここの住人ではなくなることですしね。もうお目にかかることもないと思いますが、まあ、ともかく」と東海林は美沙緒を静かな慈悲深いまなざしで見つめた。「ご一家のお幸せを祈ります」  |呆《あっ》|気《け》にとられているふたりの目の前でドアがそっと閉じられた。  エレベーターの中で哲平が言った。「インチキさ」 「そう?」 「違うかい? あれをインチキと思うか、思わないかで、|俺《おれ》たちの銀行預金は大幅に狂ってくる。インチキと思えば、これまで通り。思わなかったら、災難だ。君は必ず、ここを売ってまた別のマンションを探そうって言い出すに決まってる。願い下げだな」 「あなたは気にならないの?」 「何が」 「……このマンションのことよ」 「エレベーターが突然、|停《と》まったり、地下室でかまいたちが起こったりすることかい?」 「それにテレビにおかしな影が映ったり、ここに越してからすぐ、小鳥が死んだわ」 「おいおい」と哲平はひょうきんな顔をした、「ホラー映画の見すぎだぜ」  彼は笑ったが、笑いはひどくぎこちなく、まるで引きつれを起こしているように見えた。美沙緒は地下室に吹いている奇妙な風や、地下室に行くと感じるぞっとしたものを彼に説明すべきかどうか迷った。が、結局、うまく話せそうにないのでやめた。  実際のところ、そんな話を哲平とつきつめてしたが最後、取り返しのつかないことが起こりそうな予感がしていたのである。  区立図書館は、JRの高井野駅からさらに北に歩いて十五分ほどのところにあった。国道に面した区役所の裏手にある何の変哲もない三階建ての建物で、車がひっきりなしに走る国道の騒音を考えると、とても静かに読書にふける環境ではなかった。  美沙緒が区の歴史や行政についての資料が見たいと言うと、受付にいた白髪の男は黙って指を三本突き出しながら、聞き取れない声で「三階」と言った。図書館で|喋《しゃべ》るのは罪悪であると思っているらしかった。  三階の行政資料室には人がまばらにいるだけだった。隅の大きな本棚に「N区関係資料」と書かれた黄ばんだカードが|貼《は》ってある。  さほどの量があるわけではなかった。『N区政世論調査』と題された小冊子が幾つかと、『地域防災計画』『N区の公害現状』などの地図や数字ばかりが並んだ本、『わが街いまむかし』といった故人の書いた随筆、それに布張り装丁の分厚くてそっけない『区史』などの本……。  美沙緒はまず、『高井野駅地下商店街設置計画の調査と経過報告書』と題されたおそろしく長いタイトルの小冊子を取り出し、机に向かった。発行は昭和三十八年三月になっている。黄ばみかけたページの一番初めに、次のような一文があった。 『この報告書は、昭和三十七年に地域開発センターが、東京都都市開発本部の委託を受けて、高井野地区の再開発に関する施設需要予測調査の結果と、その後の動きをまとめたものである』  続いて、高井野地区の再開発基本方針が箇条書きになっていた。 『㈰昭和三十九年より、高井野駅から南へ約一キロメートルの地点……現在、万世寺および同霊園のある約六万平方メートルの敷地に、公営高層アパートを建設する計画があり、それに伴うN区の人口増加、商業区域の活発化を|狙《ねら》い、同駅より南へ大地下街を設ける方向で検討する。  ㈪同地下街は、国電高井野駅地下中二階より始まり、公営高層アパート地下まで、とする。  ㈫従来の駅周辺商店街の雰囲気を決して損なうことなく、地下商店との一体化を図って、国電沿線の住人を呼べるような新しい街造りを目指す。  ㈬この際には、安全性の確保が重要な条件となる。人と車の分離を図り、高井野駅付近には大型の駐車場およびバスターミナルを設け、また、火災その他の災害対策を万全とする』  美沙緒はその箇条書きの㈰を丹念に読み返した。万世寺霊園の六万平方メートルの敷地が公営高層アパートに?  霊園をまるごとどこか他の場所に移し、そこに高層アパートを建てたら、確かに人口は増えるはずだった。例えば十四階アパートを十棟建てたとして、一棟当たりの世帯数は約百世帯、合計千世帯で、一世帯四人家族としたら単純計算でも四千人の人間が新たにこの地区に居住することになる。その分だけ駅周辺は|賑《にぎ》わうことになるだろうし、確かに地下商店街を建設する意味はありそうだった。  彼女は、ぱらぱらとページをめくった。高井野駅周辺住民の消費行動や居住年数、家族人数などが細かく列記された後、地下街の商店数や売場面積など、配置構想図まで掲載されていた。  決して大規模ではないが、コンパクトにまとまった地下街だった。おそらく、出来上がっていたら、アットホームな感じのする庶民的な店が並ぶ地下街になっていただろう。高層アパートに住む人々が、気軽にサンダル履きで買物に出かけたり、日曜日の午後、家族そろって遅いブランチを食べに行けるような……。月に二度の大バーゲン。食料品専門店での威勢のいい呼び込み。あるいは、「センスのいいファッションを安く売る」店。あるいは安心して子供たちを連れていける居酒屋。  安全で快適で、しかも庶民的な地下。  だが、それは実現されなかった。|何《な》|故《ぜ》?  美沙緒は机の上にその小冊子を開いたまま、再び陳列棚の前に立った。高井野地区の再開発計画に関する区議会発行のパンフレットや小冊子は他にもいくつかあったが、どれも似たような内容だった。  棚の隅にひと束にまとめられた古いスクラップブックが積んである。|誰《だれ》の|手《て》|垢《あか》もつけられないままに、|埃《ほこり》をかぶってしまった無用の長物といった感じのする茶色のスクラップ帳で、開くと|綴《と》じ部分の金属がぎしぎしと鳴った。  中は昭和三十年代後半から四十年にかけての広報紙や、臨時発行された薄いパンフレットなどがいっぱい詰まっていた。年代順に綴じられた紙の束を一枚ずつめくっていくと、『万世寺霊園をすみやかに移転させましょう』と印刷されたぺらべらの小冊子が見つかった。  それには詳細な霊園と寺の地図があり、次のように記されてあった。 『万世寺および万世寺霊園は、N区高井野駅から南へ一キロ、南高井野駅から北に二キロの地点にあり、約六万平方メートルの敷地を有しています。現在、東京都はこの敷地に高層団地を建設する計画をたてており、それに伴って高井野駅から地下街を設ける構想も着着と進行しつつあります。  そのため、都は万世寺と万世寺霊園に移転を申請しました。移転先としては|小《こだ》|平《いら》方面の霊園との合併や|武蔵《むさし》|野《の》市郊外の広大な山林地区などが検討されています。  しかし、万世寺側では、大正時代からの歴史をもつ霊園であること、土葬の習慣があった|頃《ころ》からの霊園で、その遺骨移動は極めて難しい……等々を理由に移転を受け入れず、高層団地の建設計画は|頓《とん》|挫《ざ》しているような状態です。  都では霊園側の細かい要求をすべて受け入れ、万全の準備をした上で移転を行うと強調しており、誰の目から見ても、何ら遺族たちに差し支える事態はおこるはずもありません。  私たちの地域に新しい街を造ろうとしている時のこうしたトラブルは、実に残念なことです。霊園の移転に反対することなく、住民のみんなが力を合わせて新しい街づくりに協力してくださることを祈ってやみません』  発行先は「万世寺移転推進運動協会」となっていた。おそらくは住民運動をしている小さなグループなのだろう。  彼女は机に戻り、しばらくの間、ぼんやりしていた。どうしてこんなことが、これほど気になるのか、自分でも説明のしようがなかった。今から三十年以上も前に、公営アパート建設計画と駅からの地下街建設の計画が同時に練られ、そのために移転を申請された霊園が抵抗した……ただそれだけのことだ。こんな話だったら、掃いて捨てるほど転がっている。別に珍しいことでもない。  なのに、|何《な》|故《ぜ》、気にかかるのか。第一、何故、自分はこんなところにまでやって来て、小耳にはさんだだけの地下商店街のことを調べる気になったのだろうか。  美沙緒は腕時計を見た。十一時。あと三十分もしたら、玉緒を迎えに幼稚園まで行かなくてはならない。今日からまた通い始めたばかりなので、|怪《け》|我《が》のことが気にかかった。転んで傷口をぶつけたりしていなければいいが。  窓の外は曇り空が|拡《ひろ》がっていた。枝ぶりの悪い桜の木が、どんよりと眠たげに三階まで枝を伸ばしているのが見える。  部屋には|誰《だれ》も人がいなかった。さっきまでうろうろしていた学生ふうの男のふたり連れも、とうにどこかに行ってしまった。美沙緒は軽い頭痛が始まるのを覚えた。  この地下街建設計画は結局は徒労に終わった。結局、地下街は造られず、駅の南側はさびれていった。あるのは幾つかの小ぢんまりとした商店と、そして巨大な霊園墓地だけだ。  土葬? 美沙緒はさっき読んだ、人を|喰《く》った感じのする|慇《いん》|懃《ぎん》無礼な文章を思い出した。大正時代からある霊園。土葬の習慣。  マンションのベランダから見える広大な墓地の何か所かに、焼かれずにそのまま埋められた人間の死体がある、と思うといやな感じがした。土葬された遺体は、もし移転するとしたら、いったいどのようにして運び出すものなのだろうか。六十年も七十年もたった、|朽《く》ち果てた|柩《ひつぎ》は、空気に触れた途端、ぼろぼろに砕けてしまうのではないか。  彼女はそっと席を立ち、持って来た小冊子を棚に戻した。もう一度、棚にある資料の数数を眺めてみたが、地下街建設計画が途中で変更になった記録は見当たらなかった。  こんなことをしにわざわざ図書館に出向いたと知ったら、哲平は何と言うだろうか。笑うだろうか。それとも……|苛《いら》|立《だ》ちを隠せずに「いい加減にしたらどうだ」と言うだろうか。  多分、後者のほうだろう、と彼女は思った。玉緒の怪我以来、彼もまた、口には出せない何か奇妙な幻影と闘っているように見える。  頭痛がひどくなりそうな気配がした。帰ったらアスピリンを|呑《の》もう、と美沙緒は思った。  階段を降りて一階に行くと、受付のところにさっきいた初老の男がじっと前を向いて|坐《すわ》っていた。あまり動かないので石像のように見えた。彼女はふと思いたって、男に近づき、「あのう」と声をかけた。男はまばたきもせずに彼女をふり向いた。 「妙なことを伺いますが……」 「は?」 「失礼ですが、このあたりのことにお詳しくていらっしゃいますか」  男は|憮《ぶ》|然《ぜん》とした顔をしたが、「そりゃあね」とくぐもった声で答えた。「ここに勤務して三十二年になりますからね」  よかった、と美沙緒はにこやかに言った。「実はこの地域の歴史をまとめようとしているのですが、ちょっとわからないことがありまして」 「なんですかな」と男は興味を持っているにも|拘《かか》わらず、関心のなさそうな顔をして再び、前を向いた。 「以前、高井野駅からの地下街建設予定というのがありましたよね。ご存じですか」 「ああ、あれね。知ってますよ。昭和四十年ころだった」 「その計画は万世寺霊園の移転が難しくなって実現しなかったんですよね」 「ああ、そうですよ。穴を掘っくり返したっていうのにね。もったいない話です」 「穴を?」美沙緒はどぎまぎしながら聞き返した。「地下道を掘った後で、計画が中止になったんですか」 「らしいですよ。お寺さんと大もめにもめましてね。目茶苦茶をやったんです。先に地下道を掘ってしまおう、ってね。なにしろ、アパート建設は都でも大きな期待をしていたことですからね。まずお寺さんを説得しなくちゃいけなかったのに、だめとわかると先手攻撃に出た」男はぺらぺらと|喋《しゃべ》り始めた。声が高くなり、ホールの壁にかすかにこだました。 「無茶な話ですよ。先に穴を掘るなんて、正気じゃないですよ。毎日、工事中の看板が立ってたもんだが、いつのまにかなくなった。無駄なことをしたもんです」 「その資料、ありますかしら」 「さあね。ないんじゃないですか、ここには。臭いものには|蓋《ふた》……式ですからね。みっともない結果になったものは、あまり公表しませんよ。あんた、そのこと何かに発表する気なの?」 「いえ、別に」美沙緒は慌てて首を振った。男は娘を|牽《けん》|制《せい》する時の父親のような目をして腕を組んだ。 「あまり穏やかな話じゃないですからね。取材しよう、ったってあまり話したがらない人が多いんじゃないかな」 「取材だなんてとんでもない。別に書くつもりもありませんから。ただ……そういった問題に興味があるもんですから。それで……その掘った穴は後でどうしたのかしら」 「そりゃあ、あんた」と男はひと目で入れ歯とわかる不自然に白い前歯を見せて笑った。「もぐらじゃあるまいし。埋めたんじゃないの?」  そうですよね、と美沙緒も笑った。お手数をかけました、と言って頭を下げると、男も軽く会釈を返した。美沙緒は外に出た。 「幻の地下道」と栄子が言った言葉を思い出した。軽い|戦《せん》|慄《りつ》が背中を走った。      〔10〕 [#地から2字上げ]5月6日  自分専用のパイン材の作業机に向かいながら、美沙緒は窓のほうを見て|欠伸《あくび》をひとつした。  連休明けの水曜日。暖かいというよりは、むっとする熱気が室内にこもっている。外は今にも雨が降りだしそうだった。まだ午後二時半だというのに、明かりが欲しくなるほどあたりは薄暗い。  連休は哲平の新しいジャケットを買いに三人でデパートに出かけ、その帰りに|青《あお》|山《やま》のイタリアンレストランで食事をした他は、とりたてて何もしなかった。哲平は新しく始まった大きなCM制作の仕事で、四日間の連休中、二日間は撮影に出かけていたし、うち一日は|伊《い》|豆《ず》の実家から美沙緒の母が出て来て泊まって行ったためにつぶれた。  ほとんど一年ぶりに会う母は墓地を見るなり|眉《まゆ》をひそめたが、別段、何も言わなかった。それが昔からの母の流儀だった。何かを言った途端、醜い蛇のような言葉が口から|洩《も》れ出すことを自分でもよく知っているからだ、と美沙緒は考えていた。  かつて哲平の前の妻が実は自殺であったことを告白した時、母に|罵《ののし》られた言葉は|未《いま》だに美沙緒の心の深いところに|澱《おり》のように|溜《た》まっている。それは本当に醜い蛇のような邪悪な言葉の渦だった。 「恥ずかしい娘を産んだもんだ」と母は怒鳴った。「これまであんたに言わなかったけども、あんたはものごころついてから不潔な娘だったよ。ずっと不潔だった。男に|媚《こ》びてきたんだろ。お父さんにまで媚びただろ。全部、知ってるよ。いやらしい子だ。あんたは地獄に落ちる。死んだ玲子さんとやらに|呪《のろ》い殺される。呪われればいいんだ」  普段から口うるさかった父は、その時だけ何も言わなかった。以来、もう七年にもなるというのに、父は連絡もくれなければ、会いに来ようともしない。  母が来た日、たまたま哲平は仕事で出ていて留守だった。母は遠回しに哲平の悪口を言った後、|猫《ねこ》|撫《な》で声を出して「玉緒とふたりだったら、いつでもうちに帰って来ていいんだよ」と言った。もう、腹も立たなかった。腹をたてて母を刺激し、またあの醜い言葉を聞く羽目になると思うと、どれほど理不尽な言葉の群れでも黙って聞き流せる気がした。  美沙緒は頭をぼりぼりと|掻《か》き、次にぶるんと振って再び、机の上に目を落とした。母や、じっと伊豆に引き|籠《こも》ったまま、強情を張り続けている父のことなどを考えている余裕はなかった。今は他に考えることがありすぎる。  今回、依頼されたのは、化粧品会社のPR誌の挿絵だった。「都会のポエム」という見開き二枚のページに、都会を連想させるパステルカラーの絵を描かねばならない。  詩そのものは、読者の投稿作品である。美沙緒はあらかじめ手渡されていた詩のコピーを読み返した。 [#ここから2字下げ] 土の|匂《にお》いに|憧《あこが》れて さえずる鳥の声に憧れて それでもわたしは コンクリートの上に住む 土の匂いも鳥の声もないけれど それでもここには太陽がある 夜がある あなたがいる [#ここで字下げ終わり]  作者は二十九歳の一児の母だった。「あなた」というのが、子供のことなのか、夫のことなのか、それとも他の男性なのかわからない。うまい詩なのか、そうでないのかは判断がつきかねた。ただの少女趣味、底の浅い決まり文句のようにも思えた。だが、美沙緒には作者の気持ちがわかるような気がした。  あなたがいる……。  玲子の死を乗り越えてきた仲間意識に近いものが、自分と哲平を深く結びつけていることを美沙緒はよく知っていた。  哲平には図書館で調べてきたことに関する話はしなかった。するつもりもなかった。こんなことはいずれ、笑い話になるのかもしれない。そう思うといくらか気が楽になった。  だいたい、いますぐにここを売ってどこか他を探したいと言ったら、哲平でなくても|呆《あき》れ果てるに違いなかった。たかが、地下室ひとつのことだった。いやなら、あそこを使わなければいい。妄想は一番、人を堕落させる。ないものをある、と信じこませるのは妄想なのだ。  電話が鳴った。栄子だった。開口一番、彼女は「ヤッホー」とふざけて言った。つい三時間ほど前、幼稚園の出迎えに行った時に栄子には会っている。連休の間、千葉にいる姉の家に遊びに行き、ディズニーランドでさんざん金を使ってきたのだ、という話を聞いたばかりだ。 「元気?」と栄子は聞き、それが場違いな聞き方であることを照れるようにしてくすくす笑った。笑い声の中には、神経質な、いまにも爆発しそうな、かすかな粘りが聞き取れた。 「元気よ。どうかしたの?」  栄子はまた笑い、「ああ、いやだ」と自分を|嘲《あざけ》るように|溜《ため》|息《いき》をついた。「私ったら、どうかしてるのよ」 「何が?」 「ごめんね。仕事の邪魔して」 「いいのよ」|誰《だれ》にでもいい。邪魔をされたいような気分だった。彼女は誘うように言った。「どうせ、イメージがわかなくて、やめようかと思ってたところなの」 「じゃ、そっちに行っていい? 今、かおりとツトムは幼稚園の友達の家に行ってるの。玉緒ちゃんは?」 「昼寝させたわ。|怪《け》|我《が》をして以来、よく寝てくれるの」  じゃ、行く、と栄子は短く言い、電話を切った。せかせかとした切り方だった。  コーヒーをいれて待っていると、栄子は幾分、青ざめた顔をしてやって来た。淡いグレーのスウェットシャツに同色のジョッパーズパンツをはいている。化粧がいつもより薄い。顔色が悪く見えるのはそのせいだろうと美沙緒は思った。 「ああ、あなたの顔を見るとほっとするわ」栄子はそう言い、やたらと元気さを装おうとする子供のように乾いた笑い声をたてた。 「いったいどうしたの」 「どうもこうもないのよ。私ったら、すっかり年をとっちゃったみたい。耳が悪くなったらしくて……」 「耳?」  栄子は美沙緒が注ぎ入れたコーヒーを大きくひと口、飲み、飲んだ後で初めて熱さを感じたように|喉《のど》を軽く|掻《か》きむしる|仕《し》|種《ぐさ》をした。 「耳が悪くなったってどういうこと?」 「変なものを聞いちゃってね。まったくどうかしてるわ。地下室に行ったのよ。さっき、ほんの三十分くらい前かな。ツトムが三輪車を外に放り出したままにしてたんで、それを戻しに行ったの。ほら、あの子ったら、なんでも使いっ放しでしょ。しつけが悪かったもんだから。それで私、よっこらしょ、って三輪車を担いで地下室に降りたのよ。そしたら……」  急に真顔になった栄子は、カタリと音をたててカップをテーブルに置くと、笑っているような泣いているような、|歪《ゆが》んだ表情をして美沙緒を見た。美沙緒は口に持っていったカップを黙って元に戻した。 「壁の向こうから人の話し声がしたのよ」  栄子は抑揚のない声でそう言い、しばらく沈黙した後、突然、ははは、と笑った。「馬鹿みたいね。馬鹿みたいだと思うでしょ? まさかね」  美沙緒は唇を|舐《な》めた。「壁の向こう、ってどういうこと?」 「耳がおかしくなっただけなのよ、きっと。壁……ほら、こないだ玉緒ちゃんが倒れてたあたりだと思うわ。その壁の後ろからね、ぼそぼそと人の話し声が聞こえたような気がしてね。何を|喋《しゃべ》ってるのかはわからなかったけど、何だかたくさんの人の声がしたの。背中が急にぞーっとして……。髪の毛だって逆立ちそうになっちゃった。いやあな、ほんとにいやあな声だった……」 「どんな……声?」 「どんな、って……。ざわざわと人が喋ってるようなね。ほら、劇場なんかに行って、映画が始まる前に、なんとなく客たちがざわざわするでしょ? あんな感じ。きっと風の音よね。さもなければ、一階のエレベーターホールに|誰《だれ》かたくさんの人が来て喋ってたんだわ」  風? エレベーターホールに人がいた? 「壁の向こう側から聞こえたの?」 「そうだけど……。いやあね。美沙緒さんたら、真剣な顔しないでよ。耳のせいだって言ってよ。そう言われたくて来たんだから」  栄子は笑い、少し赤みの戻った|頬《ほお》を手で|撫《な》でさすった。 「でも、ぞっとしたのよ。もう、動けなくなっちゃったのよ。すくんで動けないの。声も出ないのよ。どうしてだろう。ただの人の話し声だっていうのにね。ああ、馬鹿みたい」  栄子は玉緒の|怪《け》|我《が》の一件以来、ツトムやかおりに地下室で遊ぶことを禁じていた。禁じる理由は何もなかったのだが、彼女がそうした措置をとったことが地下室に対する|捉《とら》え方をよく表していた。美沙緒は鳥肌が立ち始めた腕をさすった。 「ほんとなのね?」 「ほんとよ。聞き違えだったとしても、人の話し声だけはほんとに聞こえたのよ」 「気味が悪いわ」  ええ、と栄子はうつむいた。「正直な話、怖くて怖くて。腰が抜けそうだった。うちに戻ってからも……ほら、今日はこんな薄暗い日でしょ。ね、電気、つけない?」  美沙緒がうなずく前に、栄子はさっさと立ち上がり、壁のスイッチを押した。柔らかな黄色い光がぱっと室内を明るくした。部屋の隅々までが鮮明に見え、あまり明るいのでソファーの下に転がった玉緒の絵本がきらきらと光った。  栄子はほっとしたように席に戻り、コーヒーをすすった。 「いてもたってもいられなくなって、あなたに電話したのよ。ツトムたちを迎えに行かなくちゃいけないんだけど。雨も降りそうだし……ねえ、あれ、何だったのかしら」 「さあ」と美沙緒はカップを両手で握りしめた。手が急激に冷たくなり、いくら暖めてももとに戻らないような気がした。ボーンチャイナのカップの縁が少し欠けている。欠けてるわ、欠けてるわ、と彼女は心の中でそう繰り返した。今度は奮発して、|伊《い》|万《ま》|里《り》焼きのコーヒーセットでも買おうかしら。哲平は無駄遣いするなと言いそうだけど、でも、きちんとした住まいを持ってみると、日常、使う食器のひとつひとつに至るまで見すぼらしさが目につく。だから……。  そう考えてでもいなければ、栄子相手に自分がたてた仮説を暴露してしまいそうだった。  掘った地下道がもし、万世寺の真下まで通じていたとしたら、というのが彼女の仮説だった。その穴は霊園の下を通って、このマンションの地下と通じることになりはしないか……。 「もぐらじゃあるまいし」と笑った図書館の受付の男を思い出した。埋めたに決まってるでしょうが。  そうだろうか。もし、埋めていなかったら……。少なくとも霊園の下を掘り進んだ穴が埋められずにそのまま残っているとしたら……。そしてその穴がここのマンションの地下室のどこかとつながっていたとしたら……。  すでに引っ越して行ってしまった|東海林《しょうじ》という男に言われたことが頭にこびりついて離れなかった。あそこは邪悪なものが集まっているんです、あんなに霊的なものを感じたのは初めてなんです……。  霊園の地下に残った地下道とそれは何か関係しているのではないだろうか。 「何を考えてるの?」栄子が不安げに聞いた。美沙緒は「ううん」と首を振った。「地下室にはもう、行きたくないって考えてたの。物置も使いたくないわ」  そうね、と栄子はうなずいた。「私、ほんとに今日からあそこに行くのをやめる。ほんとよ。冗談じゃない。薄気味悪いったらありゃしない。ねえ」と彼女は美沙緒をまじまじと見つめた。「ここの地下室で|誰《だれ》かが自殺したか何かしたのかしら」  その言い方があまりに|真《ま》|面《じ》|目《め》くさっていたので、美沙緒は思わず首すじに鳥肌がたつのを覚えた。自分で言ったセリフにぞっとしたらしく、栄子もまた、両腕で体をくるみこみ、ぶるっと震えた。 「ああ、いやなこと言っちゃった。でもさ、そういう話ってよく聞くでしょ。新築の家の床下に何十年も前の死体が埋まっていたとか……。空き地だったころにすでに埋められていたとか、さもなければ、建てられた直後に誰かがしのびこんで来て自殺したとか……。それを不動産屋が口を|拭《ぬぐ》っていて……。だからここも……」  窓のレースのカーテンが揺れた。風がおき、雨が降り出したようだった。美沙緒は立ち上がって大型のラジカセをつけた。普段、聴くたびにうんざりする騒々しい声の男が、その日もべらべらと|喋《しゃべ》り続けていた。  さあ、そこのお母さん、お名前をどうぞ。おや、お母さん、今日はまたいやに赤い口紅を塗ってるねえ。さてはキンツマしてるのかな。ほらほら、白状しちゃいなさいよ。え? おとうちゃんが一番だって? バッカバカしいね、ほんとうにもう。結局、これだもんね。さ、じゃあ、お母さん、クイズですよ。いい? 時間がないからすぐに答えてね。一発で当たれば一万円、二発目で当たれば五千円、当たらなければ僕からのキス……。  スタジオの笑い声が部屋に響き渡る。栄子がふっと笑った。 「相変わらず、馬鹿なこと言ってるわね、この男。午後中、こんなこと喋ってんでしょ?」 「十時から四時までこんな具合よ」美沙緒も笑った。「でも今日は、この人のお喋りを聴いてもいい気分だわ」  美沙緒はコーヒーを温め直すためにキッチンに立った。キッチンで|腹《はら》|這《ば》いになり、犬用の骨の形をしたガムを|噛《か》んでいたクッキーが尾を振り、ひと声、親しげに|吠《ほ》えた。 「いい子ね。静かにしてて。まだ玉緒はお昼寝中なのよ」 「うちも犬を飼おうかしら」栄子が言った。「犬じゃなくてライオンにしたいわ。ここが怖くなくなるように」  美沙緒はガスを点火し、深呼吸した。 「それよりも、気のせいだと思うようにしなくちゃ。うちもお宅も当分ここに住むつもりで買ったんだから」  ガスの炎は青々として、威勢がよかった。ポテトチップスの缶が目に入ったが、それを|籠《かご》に入れても自分も栄子も食べないだろう、と思った。代わりにいつもは吸わない|煙草《たばこ》をカウンターの引き出しから取り出した。  |沸《わ》いたコーヒーポットとともに煙草をテーブルまで運んだ。栄子は黙って煙草を一本、くわえた。ふたりはそれぞれマッチで火をつけた。 「こんなところ、買って損したのかしらね」栄子が煙を吐き出しながら言った。「おとなしく賃貸で借りてればよかった。そうすれば、他の人たちみたいに、さっさと出て行けたのに」 「出て行きたいの?」 「わかんない」栄子は疲れたように笑った。「私って弱いの。こういうことに」  こういうこと、というのが何を意味するのか美沙緒にはよく理解できた。子供部屋のドアが開き、「ママ」と玉緒の声がした。雨が強くなった。美沙緒はベランダの窓を閉めた。そして墓地が水滴の中に煙っていくのを理由のない憎悪を抱いて|一《いち》|瞥《ぺつ》し、寝起きの|腫《は》れぼったい顔で走って来た娘を抱きとめた。      〔11〕 [#地から2字上げ]5月17日  夕方、哲平が玉緒を連れてクッキーの散歩から帰って来ると、玄関ホールで田端末男がエレベーターの扉を磨いていた。  管理人室に通じるドアは開いており、レースのカーテン越しにキッチンを横切る光枝の姿が見えた。 「お散歩ですか」末男は愛想よく聞いた。哲平は|微笑《ほほえ》み、「犬がいると、運動不足にならずにすみますよ」と言いながら、クッキーの頭を乱暴に|撫《な》でた。クッキーは散歩をした後特有の小ざっぱりとした顔をして哲平を見上げた。  光枝がサンダルをつっかけて出て来た。|挨《あい》|拶《さつ》をするためではなく、何かを言いたくて出て来たのだということは、その、どことなくせわしげな動作ですぐにわかった。 「いいお天気の日曜日でしたねえ」光枝は油の染みがいくつもこびりついた青いエプロンで、さかんに手の平をこすりながら言った。「玉緒ちゃん、パパとどこに行って来たの?」 「ずーっと向こう」と玉緒は舌ったらずの口調で答えた。早く家に帰ってカルピスを飲みたがっていたせいで、いつもよりもそっけなかった。光枝は造作の大きい顔を縮ませるかのようにして|微笑《ほほえ》み、次いで哲平の顔と亭主の顔とを見比べるように視線を左右に流した。  哲平がエレベーターのボタンを押すと、光枝は慌てたように「あのう」と声をかけた。 「は?」 「いえね、つまんないことなんですけども」と彼女は笑った。 「なんでしょう」 「ゆうべね、地下室でおかしなことがあったもんで……」  地下室の話はもうたくさんだ、と彼は思ったが、黙っていた。光枝はもう一度、末男をちらりと見、確認するような|仕《し》|種《ぐさ》をしてから|喋《しゃべ》り始めた。 「ゆうべ、夜中の二時過ぎだったかしら。私、物音がするんで目が覚めたんですよ。なんかこう、地下が騒がしいんです。がりがりと物を削るような音がするし、ばたんばたんと何かを投げつけてるみたいな音がしましてね。泥棒でも入ったか、と思って主人を起こしたんですよ。ね」と彼女は末男に同調を求めた。末男は|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔をしてうなずいた。 「そうなんです。|凄《すご》い音だったんですよ」末男が言った。「遠くからしか聞こえないんですけども、ばたばたしてるんですわ、これが。そいでもって、もう、びっくりしましてね。泥棒だ、ってね。こりゃあ、警察を呼ばなくちゃいけない、ってんで、電話をかけようとすると、うちのやつに怒られましてね。ひょっとすると|誰《だれ》かが物置の荷物を片づけてるのかもしれないって。それで私、下に降りてみたんですよ」  その|頃《ころ》、すでに602の吉野夫妻と701の八田姉妹は引っ越しして、いなかった。残った住民は哲平一家と井上一家、それに502のホステスの原島の三世帯。原島という女もそろそろ引っ越すのだろう。彼女がその引っ越しのために深夜、地下室で物音をたてた可能性もある。  だが、と哲平は|訝《いぶか》しく思った。あの女……地下室だけには行きたくない、と真顔で言っていたあの女が、深夜、地下室へ行ったりするだろうか。普段、使ってもいない物置に用があるはずもない。 「下に降りてはみたんですが」と末男は困ったような顔で続けた。「それが、だぁれもいないんですよ。物が散らばった様子もないし。本当になんにも変わったことはなかったんです。猫一匹侵入した気配だってなかったんですから」 「ほう」と哲平はクッキーの手綱を持ち替えた。「じゃあ、何だったんでしょう」 「わかりません」と光枝は|眉《み》|間《けん》に|皺《しわ》を寄せた。「でも聞き違いなんかじゃなかったんですよ。確かに物音はここの地下から聞こえたんです。上で寝ている私どもの目が覚めるほどの物音だったんだから」 「なんでしょうね、いったい」  そう首を|傾《かし》げながら、哲平はふと、忘れていたはずの言葉……あの|東海林《しょうじ》という男が言った言葉を思い出した。  ここの地下には邪悪なものが集まっている、邪悪な霊が……。  井上栄子が聞いたという壁の中の話し声を美沙緒から聞かされた時、彼はもう少しで「それ以上、地下室に関する話は言うな」と怒鳴ってしまいそうになった。怒鳴りそうになったことなど、美沙緒と結婚して以来、一度だってなかったというのに。  美沙緒は明らかにこの地下室を怖がっている。あれから……玉緒が|怪《け》|我《が》をして以来、彼女は一度だって下には降りていない。合理的に物事を考え、きわめて自然に自己コントロール装置を作動することのできる女、玲子の自殺さえ、けなげにも乗り越えてきた女……哲平はむしろ、自分は美沙緒のおかげでここまでやってこられたと信じているところがあった。その彼女が、今、たかが地下室ひとつにこだわり、主婦向けに作られた怪奇特集番組の影響を受けたかのようにして、理不尽な動揺を見せている。それが哲平には|何《な》|故《ぜ》か許しがたい行為のようにも思えるのであった。  毎日毎日、ラッシュの電車に揺られ、|罵《ば》|声《せい》と皮肉とけちなプライドばかりが渦まいている仕事の現場で闘っているこの|俺《おれ》が……。|羊《よう》|頭《とう》|狗《く》|肉《にく》のコピーを作り、企業の仮面の下の汚らしさを隠してやることにより、金を稼いでいるこの俺が、そんなことを信じ、一緒になって怖がったり動揺したりすると美沙緒は本気で思っているのだろうか。 「ものは相談ですが」と末男が一歩、哲平に近づきながら声をひそめた。 「今夜にでも地下室を一緒に点検してはいただけませんでしょうか」 「点検?」  光枝がころころと笑い声をたてた。 「この人、ひとりで行くのが怖いってんですよ。まった|く《お》|臆《くび》|病《よう》者でしてね。井上さんのご主人か加納さんのご主人に頼んで、一緒に行ってもらう、ってきかないんですよ」  哲平は鼻白んだ。「しかし、点検と言っても何を調べるつもりですか」 「いや、何をって言っても、特に考えつくことは何もないんですけどもね」と末男が頭を|掻《か》いた。羽を抜かれた鶏のような頭にわずかに残った白い毛が揺れた。「ほら、お宅のお嬢ちゃんも|怪《け》|我《が》をなすったことだし、目につかない何か危険なものが奥のほうにあったりするといやだなと思って……」 「いいですよ」と哲平は面倒くさそうに言った。「調べてみましょう。女房も井上さんの奥さんも、必要以上にここの地下室をいやがってることだしね。原因をはっきりさせないといけないって僕も思っていたところです。なんにせよ、借金をしてここを買った身の上ですからね。地下室騒動もここらでケリをつけてほしいもんですよ」  まったくねえ、と光枝が|微笑《ほほえ》んだ。末男は夕食の後で何時でもいいから管理人室に来てください、と言い、哲平も承知してその場を離れた。  エレベーターの中で玉緒は「地下室に行くの? パパ」と聞いた。そうだよ、と彼は答えた。玉緒はしばらくの間、黙って父親の顔を見上げていたが、やがて子供らしくない|溜《ため》|息《いき》をつき、「ママが反対するよ」とぽつんと言った。 「反対なんかしないさ」と哲平は笑った。「パパは強いんだ。もしお化けがいたら、退治してきてやる」 「お化けがいると思う?」 「いないよ。そんなもん。お化けなんてもんはお話の中にしかいないんだ。ここの地下室にいるのは、ただの大きなねずみか、それともどこからか入りこんで来て、黙ってホテル代も払わずに眠っていくおうちのないおじさんか何かだよ、きっと」 「おうちのないおじさん、ってどんな人?」 「やさしい人さ」哲平は玉緒の手を取った。「だからお化けなんかじゃないのさ」  食事の後で管理人と一緒に地下室の点検に行く、と言うと美沙緒は急に光を失ったような目で彼をじっと見た。 「本気なの?」 「いけないかい?」 「点検なんかする必要はないじゃないの。どうせうちも栄子さんのところもここの地下室は使わないことにしたのよ。今、このマンションの住人は管理人さんを入れて四世帯。たったの四世帯よ。わざわざ地下の物置を使わなくたって、不用なものは廊下にでも積んでおけばいいんだわ」 「それとこれとは問題が別だよ」哲平はなだめるように言った。「君や栄子さんが気味悪がっているものの原因を突き止めれば、これから先、なあんだ、そんなことだったのか、って思えるようになるだろ? |所《しょ》|詮《せん》、ばかばかしいことが原因なんだよ」 「そうかしら」 「そうさ。だから調べる。簡単なことだ」  だが美沙緒は譲らなかった。 「あそこは危険よ」 「東海林とかいうイカサマ野郎の言うことを|鵜《う》|呑《の》みにするなんて、君らしくもないぜ」 「でもあなただって、少しはおかしいと思ってるんでしょ? 私にはわかるわ」 「|俺《おれ》が?」彼は大笑いした。そうすべきであると思ったからだ。「学生時代、合宿先の|肝《きも》だめし大会で優勝するのはいつも俺だけだったんだよ」  玉緒はリビングでテレビを見ていた。新番組のディズニー漫画である。豚のようなピンク色をした子グマが何かを|喋《しゃべ》るたびに、何がおかしいのか玉緒は笑いころげた。  美沙緒はふーっと溜息をつき、食卓の上のブラックペッパーの小瓶をいじりまわした。何か言いにくいことを言おうとする時の彼女の癖だった。 「もしも私が、ここを売って他を探そうなんて言ったら……あなた怒る?」 「怒る」哲平はきっぱりと言った。 「やっぱりね」 「いい加減にしてくれよ。仮にだよ、仮にここの地下室にさ、浮かばれない亡霊が出没していたとしたって、それがどうしたっていうんだよ。こっちは生きてる現世の人間だ。あっちに勝ち目はないさ。そうだろ? 死んだやつにかまってる暇なんかないんだ。そうさ。いつだって俺たちはそうやって生きてきた。あの世に行っちまったやつは、それでおしまいなんだ」  美沙緒は冷やかに彼を見た。「死んだやつにかまってる暇なんかない、ですって?」 「そうだよ」 「冷たい言い方ね。冷たすぎるわ」 「どうして」 「玲子さんのことを言ってるのね。いくらなんでも……そんな言い方……」  美沙緒は声を震わせてブラックペッパーのラベルを|爪《つめ》で引っ|掻《か》いた。 「誤解だよ」哲平は声を落とした。「そんなつもりで言ったんじゃないんだ」 「そうでしょうね。“そんなつもりで”言ったんだとしたら、私、いくらなんでもあなたのこと|軽《けい》|蔑《べつ》するわ」 「言い方が悪かった。あやまるよ」  ふたりはしばらくの間、黙りこくった。玉緒がじっとふたりを見ていた。  いったい全体、これは何なんだ、と哲平は思った。美沙緒の神経はぴりぴりし過ぎている。たかが地下室ひとつのことで。たかが墓地の真ん前のマンションを買ったということだけで。  問題が超自然的なものから、急に現実的なものになったような気がした。何か|煩《わずら》わしい感じが彼を襲った。昔、よく感じた煩わしさの|片《へん》|鱗《りん》が頭をもたげ、彼は急いでそれを|叩《たた》きつぶした。 「さて」と彼はいつも通りの元気な声を張り上げた。「そろそろ行くよ。徹底して調べて君を安心させてやるからな。なんなら君も来るかい?」 「いやよ」と美沙緒は唇を|噛《か》んだ。彼は苦笑し、彼女の顔をのぞきこんだ。 「平気さ。なんでもないことなんだ、これは」  美沙緒は顔を上げ、大きく息を吸って、また吐いた。「うん、わかってる」 「俺はただ、今の俺たちのほうが大事だ、って言いたいだけなんだよ」 「それもよくわかってるわ」彼女は力なく|微笑《ほほえ》んだ。彼は乱暴に美沙緒の頭を|撫《な》で、「奥さん、もっとしっかりしてくれよな」とふざけて言った。  管理人室に行くと、田端末男はさっぱりとした白のポロシャツに着替えて彼を待っていた。光枝がエプロンをはずし、いそいそとついて来た。手には大型の懐中電灯を持っている。哲平は、こんな|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》な探索をする必要があるのだろうか、と内心、思っている自分を見せたくて、末男相手にプロ野球の話をしながらエレベーターのボタンを押した。  食事の間、見るともなしに見ていた野球中継では、先発の巨人が早々とホームランを打っていた。その話をすると、末男は|嬉《うれ》しそうに笑った。巨人ファンであるらしかった。 「すみませんねえ」光枝がエレベーターに乗りながら言った。「野球、ご覧になってたんでしょう?」 「いや、いいんですよ。どうせ、うちはチャンネル権が子供にあるんですから」  地下に着くと、末男は天井の明かりをつけた。外気温が上がってきたためか、それとも利用する人間がいなくなって空気が|淀《よど》んでいるためか、中は少し息苦しく感じられた。  物置が整然と並んでいる。井上家の使っていた402号の物置の前から、いつものツトムの三輪車がなくなっていることを除けば、どこといって変わりのない見慣れた風景が|拡《ひろ》がっていた。  健康食品会社が置いていったカロリービスケットの段ボール箱は、依然として片隅に積まれてある。その箱のどこを調べても、ねずみが噛んだような形跡はなかった。 「きれいなもんでしょう?」末男が言った。「こうして見ると、おかしなところなんか何ひとつありゃしないんですよ」 「掃除もちゃんとしてますしね」と光枝が誇らしげに言った。「週に一度は必ず、私がやるんですよ。床に掃除機をかけるだけですけども、手抜きしたこともないしねえ」  美沙緒や井上栄子から、|芳《かんば》しからぬ|噂《うわさ》を耳にしてなお、たったひとりでここに来て、掃除をしていく光枝の神経の図太さが、哲平には頼もしく思えた。  それでいいんだよ、と彼は思った。問題は常に現実の中にしかないんだ。現在の科学と矛盾する現象がおこったとしても、それは、今後、さらにまた別の、客観的な法則性の中で解明できるはずだった。人がひとたび、主観でものごとを解釈し始めると、ろくなことにならない。混乱し、真理を見失うのだ。管理人として地下室の掃除をしに来る光枝は、その意味でとても客観的な行動をとっていることになる。それでいいのだ。そうしなければならないのだ。  哲平たち三人は地下室を目分量で三つの区域に分け、手分けして点検を始めることにした。末男は入口付近の一角、光枝は真ん中のあたり、そして哲平は奥の一角を受け持った。  ちょうど玉緒が原因不明の|怪《け》|我《が》をした場所である。彼はまず、使われていない物置の裏を見た。いくらかの|埃《ほこり》が綿状になって落ちている。光るものが見えたが、よく見ると何かの塗料のかけらだった。  床、天井、物置の箱の上……以前、玉緒の一件があってから入念に調べた時と同じやり方で彼は見て回った。未使用の物置もひとつひとつ開けてみたが、中はからで、美沙緒や栄子が期待しているような、得体の知れないお化けの|片《へん》|鱗《りん》など見つけられるわけもなかった。 「そっちはどうですか」彼は光枝に声をかけた。光枝は腰が痛むのか、背中のあたりをとんとんとこぶしで|叩《たた》きながら、「別になんにも……」と答えた。末男はエレベーターの出入り口に目を近づけたり離したりしていたが、「立派なもんですわ」と大きな声で言った。「しっかりした造りで、まだ出来たてのほやほやですよ、この建物は」  哲平はジーンズのポケットに片手を突っ込みながら軽く口笛を吹いた。曲は『君の|瞳《ひとみ》に恋してる』。CAN’T TAKE MY EYES OFF YOU。  どうしてこの曲を突然、口笛で吹きたくなったのかはわからない。学生時代、よくディスコで踊った曲だった。ずっと後になって美沙緒と見に行った映画『ディアハンター』の中でも使われていて、映画の帰りに美沙緒とふたり、口ずさみながら渋谷の街を歩いたものだ。  玲子とは一度もこの曲を聴いたことがなかったな、と彼は思い出した。玲子は騒々しいことが一切、嫌いだった。自分の生き方も含めて、変遷していくもの、瞬間的に人を高揚させるもの、|賑《にぎ》やかなもの、そのすべてを嫌悪していた。  彼は栄子が言っていたという「人の話し声がした壁」に近づき、耳をつけてみた。さわさわと鳴る音が聞こえたように思ったが、それは彼自身の髪の毛が壁に当たって鳴る音だった。  ノックするように|叩《たた》いてみる。軽くくぐもったような音が返ってきた。コンクリートが薄いのかもしれないな、と彼は思った。  目を凝らして壁を子細に点検してみたが、ひびもなく、セメント塗装は|完《かん》|璧《ぺき》に見えた。もう、いい加減、うんざりだった。ばかばかしいよ、と彼は小声で|独言《ひとりごと》を言った。いい年をした大人が、こんなことをやっているなんて。まったく恥ずかしくて人には言えない。  彼は振り返り、声をかけた。 「こっちは何もないですよ」 「こっちもです」光枝と末男が声を合わせるようにして答えた。 「女房に言ってやりますよ。物置をちゃんと使え、ってね。こんな立派なものを捨てておくのはもったいない」 「やっぱりゆうべの物音はどこか他から聞こえてきたものだったんですかねえ」末男が首を|傾《かし》げながら、照れ臭そうに言った。「何かの関係でこの建物自体が外の物音を反響させるのかもしれませんねえ」 「でしょうね」と哲平はうなずいた。「だってその証拠にここにはほら、なんにもおかしな物はないじゃないですか。ねえ、奥さん、奥さんはここに掃除に来てぞっとする気持ちになることがありますか」  いいえ、別に、と光枝は口に手を当てて|微笑《ほほえ》んだ。「いたって怖がりじゃないもんですからね。強盗や火事や銀行口座の目減りのほうがよっぽど怖い」  三人はくすくすと笑い、エレベーターの前に来た。末男は、早く戻って野球中継の続きを見ましょうや、と哲平に言いながら呼び出しボタンを押した。光枝は「うちは好きな番組の趣味が全然、違うんですよ」と口をとがらせた。「この人は野球にプロレス、それに|相撲《すもう》でしょ。私はドラマが大好きでね、ほら今、毎週やっている女優シリーズのサスペンスがあるでしょう? あれが……」  その時、哲平はエレベーターを見ていた。おかしい、と気づくまで時間がかかったような気がした。エレベーターの扉が開かない。ランプはB1のところで点灯されたままだ。  末男がボタンを押したと思ったのは見違えだったのか、と思い、哲平はもう一度、ボタンを押した。扉は開かなかった。  女優サスペンスドラマの話をしていた光枝が「あらま」と|素《す》っ|頓狂《とんきょう》な声を上げた。「どうしたんでしょ。開かないわ」  末男が腕を伸ばし、ボタンを強く何度も押した。扉は三人をあざけるように、どっしりとびくとも動かなかった。  哲平の首すじに冷たい風が当たった。冷たい、湿った、それでいて鋭利な感じのする風だった。彼は物置の列のほうを振り向いた。その途端、天井の電気が激しく点滅を始め、やがてふっと消えた。あたりは突然、真っ暗になった。|煌《こう》|々《こう》と太陽が照りつける海辺から、いきなり暗い室内に連れ戻された時のように、目の奥にオレンジ色の残像が何本か残った。 「なんだ」と叫んだのは、光枝ではなく末男のほうだった。哲平は自分も叫び出したい欲求にかられた。|喉《のど》の真下で脈が激しく打ち始めた。 「停電かしら」光枝はきんきんとした声で言うと、慌てた様子で持っていた懐中電灯をつけた。「非常灯まで消えちゃった」 「やだよ、やだよ、なんだい、これは」と末男が繰り返し、妻の懐中電灯を奪い取った。丸い光の輪がぼんやりとあたりを照らした。冷たい風が少し強くなり、哲平の着ていたTシャツの下にもぐりこむようにして入ってきた。 「今夜、停電するという知らせはありましたっけ」哲平が聞いた。落ち着いた声を出せるのが不思議だった。いや、聞いてない、と末男が答えた。 「停電じゃないわよ、これは」と光枝が言った。「ほら、エレベーターの明かりはついてる」  見るとその通りだった。動転していて気づかなかったが、B1の明かりは確かについていた。末男が狂ったようにしてエレベーターのボタンをガチャガチャと鳴らした。いまにボタンを押しつぶしてしまうのではないか、と思われるほどの勢いだった。 「やぁねえ。また故障したのかしら」光枝が言った。そのわざとらしいのんびりした言い方が、かえって哲平の恐怖心を誘った。風がまた強くなった。外にいると汗ばむほどの陽気なのに、いま哲平は自分が頭の中にまで鳥肌をたてていることを知った。冷凍庫のドアを開けて中に首を突っ込んだ時のような……。雪の中でかき氷を食べている時のような……。 「どうしましょう」彼は|誰《だれ》に言うともなく言った。「変だな」  助けてくれーっ、と末男が叫んだ。その声は地下室全体に反響し、不気味にこだました。「誰かーっ!」 「寒くなってきた」と光枝が|剥《む》き出しの腕をさすった。「何なんでしょう、これ」 「どこかから風が吹いてるんです」哲平が答えた。後ろを振り向いた。懐中電灯の明かりが届かない地下室の隅の|暗《くら》|闇《やみ》の中で、何かが動いたような気がした。ほんのつかのま、彼はその動いたものが、おそろしい光を発して自分たちを威嚇したような気がした。だが、それは気のせいだった。彼はおびえる自分をふるいたたせ、注意深くあたりを見回した。 「エレベーターの故障時にここから上に連絡する方法はないんですか」  末男はぶるぶる震えながら、首を横に振った。光枝が代わって答えた。 「ないんですよ。欠陥マンションなんです。前からおかしいと思ってたんですが」  サンダルをつっかけただけの足首に、まとわりつくような風が|這《は》い上がってきた。哲平は|蚊《か》を払いのけるようにして足をばたばたと|叩《たた》き、息苦しさから逃れようと大きく息を吸った。息を吸い込むだけで、胸が小刻みに震えた。 「なんてこった」末男がかん高い声で|吼《ほ》え、ふたつのこぶしでエレベーターの扉をがんがん叩いた。「こないだ玉緒ちゃんの|怪《け》|我《が》の後で、エレベーター会社に点検しに来てもらったんだ。こいつはただの故障じゃない!」 「ねえ、三人で思いっきり叫びましょう」光枝が提案した。「誰かに聞こえるかもしれない」 「誰かって誰だ」末男が恐怖にぎらぎらした目で聞いた。「四階の井上さんとこに、声が届くと思ってんのか!」 「怒鳴んなくたっていいでしょ!」光枝は吐き捨てるように言った。二重にも三重にも|拡《ひろ》がる懐中電灯のぼんやりした光の輪の中で、三人の顔は不気味に陰影がつき、何か恐ろしい魔物のように見えた。  哲平はエレベーターの扉に両手をかけ、合わせ目のかすかな|隙《すき》|間《ま》に指を突っ込んで左右に引いてみようと試みた。だが、隙間はあまりに狭すぎて、小指一本、すべりこませることができない。 「寒い」末男がささやくように言った。実際、寒いという言葉以上にそこは寒かった。哲平は歯ががちがちと鳴り出すのを感じた。  何かの間違いだ、と彼は必死になって思おうとした。こんな馬鹿なことがあるはずがない。 「助けてくれよーっ!」末男が叫んだ。光枝は声を失ったかのようにじっとしている。哲平は懐中電灯の明かりの中で、腕時計を見た。八時二十五分。ここに来てからまだ三十分ほどしかたっていない。美沙緒が帰りが遅いのを|訝《いぶか》って、八階からエレベーターのボタンを押し、故障に(あるいは故障ではない、何か他の信じられない事態がおこったことに)気づき、外部と連絡を取ってくれるためには、まだ時間が早すぎた。 「風がおこるのはきっと、掘っくり返した地下道のせいだわ」光枝がぽつんと言った。 「なんです、それは」 「高井野駅からここらあたりまで地下商店街を造る計画があったらしくてね」  それとこれと何の関係があるのか、と怒鳴りたくなるのをこらえ、哲平は「ほう」と言ったままエレベーターに手をかけた。光枝は|独言《ひとりごと》を言うように続けた。 「いやだねえ。地下道がここと通じてたりなんかしたら」  哲平は聞いていなかった。風がまた一段と強く吹いてきたからだ。それはもう、ほとんど強風と言ってもよく、髪の毛が舞い上がるのがはっきりとわかった。光枝はつぶやくのをやめ、夫にしがみついた。  やがて、音が始まった。どこから聞こえてくるのかわからない。不吉な不快な、得体の知れない音だった。風が電線に当たってヒューヒューと鳴る音、バイオリンの弦を子供がいたずらして鳴らしたような音、沼の泥の中を巨大な|爬《はち》|虫《ゆう》類が動きまわる時のようなベチャベチャとした音、人が大勢、ざわざわと|喋《しゃべ》っているような音……あえて形容するとしたら、そんな音だった。  哲平は口を開けたまま、突っ立っていた。ジーンズからはみ出したTシャツが風ではためき、少したるみ出した腹が丸見えになった。 「やめろ! 助けてくれ!」末男が光枝を抱きかかえたまま|坐《すわ》りこんだ。風が光枝のはいていたギャザースカートを舞い上がらせ、巨大なブルマーのような淡いブルーのパンティをむきだしにさせた。  恐怖のために頭がぼんやりとし始めた。大地に足をつけて立っていられること自体が信じられなかった。  気を失う時というのはこういうことを言うんだな、と哲平は思った。彼はもう限界にきていた。美沙緒にあやまりたい、と思った。こいつは何かとてつもない、非常識な、非科学的なことなんだ。人の意志などではどうしようもないほどの……。  光枝が握りしめていた懐中電灯がごろりと床に転がった。哲平は足がすくんで動けなくなっているのを感じた。|闇《やみ》の中に、|蠢《うごめ》くものがあった。それは確かに蠢いていた。もやもやとした無数の何か……。 「やだーっ!」と光枝が叫んだ。はっと息をのむ末男の|喉《のど》の音がした。突風が吹き、耳が遠くなった。何かに足を|掬《すく》われたような気がした。哲平はよろよろと倒れ、何かにしこたま頭を打ち、そして気を失った。      〔12〕 [#地から2字上げ]5月17日夜  哲平が地下室に出かけてから一時間が過ぎた。美沙緒は落ち着かない気分で夕食の後片づけをし、玉緒と一緒にテレビの前に|坐《すわ》っていた。テレビでは嫁と|姑《しゅうとめ》のトラブルを扱ったホームドラマをやっていた。  気分を和らげるために料理雑誌の「三分で出来上がる献立特集」を眺めていた美沙緒は、テレビに出てくる嫁役の女優の声がキンキンと耳についてうるさいので、音声をしぼった。  それまでクマのぬいぐるみと遊んでいた玉緒が、目をしょぼしょぼさせ出した。玉緒は眠くなると決まって自分の耳をぼりぼりと|掻《か》く癖がある。すでに彼女の耳は掻きむしったために赤くなっていた。美沙緒は玉緒の|尻《しり》を軽くたたき、「パパが帰ってくるまで待ってなさい」と言った。「日曜日だから、パパと一緒にお|風《ふ》|呂《ろ》に入る約束でしょう?」 「お風呂、入らなくちゃだめ?」 「汗をかいたでしょ。入ったほうがぐっすり眠れるわ」 「いやだぁ。もう眠い」  美沙緒は時計を見た。いったいいつまで地下室にいるつもりなんだろう。何か見つかったのだろうか。それならそれで、いったん、ここに戻って来てもよさそうなものなのに。  廊下を|覗《のぞ》くと、クッキーが両足を大きく前に伸ばして眠っているのが目に入った。  視線を玉緒に戻そうとした時、テレビ画面が視界に入った。嫁役の女優の顔が大アップになっていたが、その顔は水面に映った顔のようにゆらゆらと揺れていた。斜めに何本もの線が入っている。  美沙緒は立ち上がり、チャンネルを変えてみた。どの局に回しても画面は同じように揺れていた。 「変ねえ。玉緒、テレビがおかしくなっちゃったわ」  玉緒はいくらか興味を示したが、すぐにまた耳を|掻《か》き出した。  テレビの調整つまみを幾つか回してみた。だが、画面は怪電波を受信した時のように揺れ続けた。  美沙緒はいやな予感がした。彼女はぐずる玉緒にかまわず、キッチンカウンターの上の電話機に向かった。田端光枝の電話番号をプッシュホンで押す。  コール音が何度も続いた。|誰《だれ》も出ない。  ねばねばした汗が額に浮き出た。狭い地下室を三人で調べに行って、果たしてこれほどの時間がかかるものだろうか。  玉緒を見ると、もうこっくりこっくりと船を|漕《こ》いでいる。美沙緒は大型クッション|を《ま》|枕《くら》代わりにして玉緒の頭の下にねじこみ、子供部屋から持って来たタオルケットをかけてやった。泣き出しそうな顔をしたまま、玉緒は早くも寝息をたて始めた。  玄関に出るとクッキーがついて来た。「しっ、だめよ、来ちゃ」と追い払い、ひとりで外に出た。エレベーターの明かりはB1で止まったままだった。美沙緒は震える指先で呼び出しボタンを押した。いつもなら、ごとんという音と共に作動し始めるのに、何の音もしなかった。  まさか、と彼女は血の気が引いていくのを覚えた。エレベーターは玉緒が|怪《け》|我《が》をした時と同様、びくとも動かなかった。下で止めているのだろうか。しかし、いったい何のために……?  そのまま、非常階段のドアを開け、駆け降りた。あの時と同じだ、と彼女は思った。外の空気は生ぬるく、吸い込むとべとべとした感じが肺の中に|拡《ひろ》がった。  一階に着いて、もう一度エレベーターを見た。動いた気配はない。ボタンを何度も押した。だめだった。  血の味のする|唾《だ》|液《えき》が口の中にあふれてきた。管理人室のドアチャイムを押す。誰も出て来ない。ドアには|鍵《かぎ》がかかっていた。  涙が出そうだった。美沙緒は震える足取りで再び、非常階段を駆け上がった。息が切れ、|膝《ひざ》ががくがくと鳴った。心臓は張り裂けそうだった。  自宅に戻ると、玉緒は軽く寝息をたてながら眠っていた。つけっぱなしのテレビ画面の揺れがひどくなっていた。もう、ほとんど、画像の見分けもつかない。  テレビを消し、つんのめるようにして電話に飛びついた。栄子の電話番号を覚えていたのが不思議だった。「もしもし」と言うと、栄子はまるで美沙緒からの電話を待っていたかのように、低い警戒するような声で言った。 「ねえ、お宅、いま、テレビがおかしくない?」 「おかしいわ」美沙緒は答えた。「揺れてるのよ」 「でしょう? うちもよ。変だわ。故障でもないのに」  それより、と美沙緒は言った。「主人が田端さんたちと一緒に地下室に行ったきり、戻らないの。地下室を調べてくる、って言って……もう一時間以上も前のことよ。今、気になって行ってみようとしたら、エレベーターが地下で止まったまま、動かないのよ」  ほんと? と栄子が叫んだ。「玉緒ちゃんの時と同じじゃないの! ほんとに動かないの?」  慌ただしく栄子の夫、井上が電話口に出てきた。「どうかしましたか」 「わからないんです。エレベーターが地下で止まったままで……。もう一時間以上になるのに戻ってこないんです」 「ちょっと待って」と井上は言い、ガタンと受話器をどこかに置く音が響いた。子供たちがばたばたと走りまわる音が聞こえた。  しばらくたってまた井上が出てきた。 「止まってます。動かない」 「どうしたらいいんでしょう」そう言いながら、美沙緒は涙があふれてくるのを感じた。視界がぼやけ、|喉《のど》が|嗚《お》|咽《えつ》のために激しく上下した。 「エレベーターの管理会社の連絡先、知ってますか」井上が聞いてきた。 「知りません。田端さんしか知らないと思います」 「じゃあ、警察に連絡したほうがいいかな。それとも消防署のほうがいいか……。いや、困ったな。どうしたもんか……」  受話器に息を吹きかける音、衣類がざわざわ鳴る音がし、続いて栄子が出てきた。 「ねえ、ともかく美沙緒さん、こっちに来なさいよ。非常口のドアを開けて待ってるから。階段でいらっしゃいよ。玉緒ちゃんはどうしてるの」 「眠ってるわ」 「じゃあ、そのままにしたほうがいいわね。しっかり|鍵《かぎ》をかけてね。今すぐよ」  わかった、と美沙緒は答え、キイホルダーをつかんで外に飛び出した。エレベーターは相変わらず同じ位置のままだ。  非常階段で四階まで降りると、中に向けてドアがさっと開いた。栄子が青ざめた顔で立っていた。その向こうに栄子とは対照的な、線の細い感じのする井上の姿が見える。ツトムが飛び出して来て「おばちゃん」と声をかけ、美沙緒の手を握った。 「やっぱり警察に連絡したほうがいいわ」栄子が言った。「管理会社を調べても、多分、だめよ。今日は日曜日だもの」 「でも、本人たちには異状がないのかもしれないし」そう言いながら、美沙緒はぶるっと震えた。井上が激しく首を振った。 「そりゃあそうだろうけど、ともかくなんとかしないといけませんよ。このまま、ひと晩中、エレベーターが動かないのかもしれないし、だとすると、五階の人だって不便だ」 「不便だなんてどころの話じゃないでしょっ」栄子が低く怒鳴った。「なによりも今は加納さんや田端さんの無事を考えなくっちゃ」  かおりが出て来て不安そうに大人たちを見上げた。美沙緒は大きく息を吸った。  ツトムがエレベーターの呼び出しボタンをカチャカチャと鳴らした。「やっぱりダメだよ、ママ」 「わかってるわよ」と栄子がうるさそうに言い、美沙緒の腕に手をかけた。井上がエレベーターの扉に耳を当てがった。父親が死に、そっくりそのまま父が経営していた工場を受け継いだという彼は、哲平とそれほど年が違わないというのに、どこかしら|老《ふ》けて見えた。後頭部が|禿《は》げているからかもしれない、と美沙緒は思った。二、三度しか会ったことがないので、井上を後ろからじっくり眺めるのは初めてのことだった。  あとで哲平に言おう、と彼女は思った。井上さんって後ろが禿げてたわよ、と。それに、あなたよりもずっと老けてみえるわね。すると彼は自慢げに言うことだろう。|俺《おれ》はまだまだ若いんだぞ。他の男を見ると若さがわかるだろ。  もしできることなら、と彼女は思った。そんな会話を交わしたい。そうだ。もしも無事に戻って来たら、言いたいことがたくさんある。|喋《しゃべ》り足りないことがたくさん……。  井上が|窪《くぼ》んだ目で妻の栄子を見た。「もし、下で|誰《だれ》か叫んでいるとしたら、ここまで聞こえてもいいはずなんだが」 「電話しましょうよ。警察でも消防署でもどこでもいいわよ。おお、いやだ。ここに住むのはもう、たくさん」栄子が両手を|頬《ほお》に当てがった。「テレビがおかしいのも、きっとこのマンションがおかしいせいなのよ。ここは|呪《のろ》われてるわ。何かが取りついてるのよ。霊よ。霊が取りついてるのよ」 「やめなさい」井上が静かに言った。「そんなことは今はどうでもいい。子供が聞いてるじゃないか」  部屋の奥からばたばたと足音が響き、「ママ、ママ」と呼ぶかおりの声がした。 「なんなの」 「テレビ、なおった。揺れなくなったわ」  かおりがそう言うのとほとんど同時に、ツトムが「あーっ!」と大声を上げた。ごとんという聞き慣れた音が遠くから聞こえた。「見て! 動いたよ。エレベーターが動いたよ」  エレベーター表示板の明かりが、B1から1、2……と上がってくるのがはっきり見えた。 「よかった……」美沙緒は栄子と手を取り合った。井上が口もとに|歪《ゆが》んだ微笑を浮かべた。するすると巨大な箱が上に近づいてくる音がする。 「ただの接触不良だったんですな、きっと」と井上が、ちっともそうは思っていないような顔をして美沙緒に言った。誰もうなずきはしなかった。  4の数字に明かりがつき、扉がゆっくりと開いた。栄子はツトムとかおりに部屋に戻って|鍵《かぎ》をかけているよう、命じ、「いやだ、一緒に行く」と叫ぶツトムの背中を強く玄関の中に押し戻した。「ママの馬鹿!」と叫ぶツトムの声が廊下に響いた。  美沙緒と栄子、それに井上はエレベーターに乗り、B1のボタンを押した。扉が閉じ、箱はごとんと音をたてて下降し始めた。  3、2、1……B1……。軽い振動と共に箱は停止し、扉がするすると開いた。  まず目に入ったのは、いつもの蛍光灯の明かりの中で|坐《すわ》りこみながら、|茫《ぼう》|然《ぜん》と目を見開いている田端夫妻の顔だった。美沙緒は外に飛び出した。光枝のスカートの下に|水《みず》|溜《た》まりがあった。失禁したらしかった。  田端夫妻から一メートルほど離れたところに、哲平が倒れていた。美沙緒は彼に飛びつき、強く揺すった。 「救急車を呼ぼう」と井上が叫んだ。美沙緒は「待って。そこにそのままいてください」と声を上げた。救急車を呼びに井上がエレベーターを上に移動させ、このままここに残されるくらいだったら、死んだほうがましだ、と彼女は思った。  哲平がうっすらと目を開けた。彼はまず、長い昼寝から目を覚ました時のように深呼吸をし、何か聞き取れない言葉をぶつぶつ言い、次に美沙緒を見て「わーっ」と声を上げながら身体を起こした。 「どうしたの! 私よ!」  彼は目を丸く見開き、しばたたかせたが、やがて心底、ほっとしたような顔をして美沙緒に抱きついた。 「寒い」と彼は言った。「ここはひどく寒いんだ」 「もう、大丈夫よ」美沙緒は震えながら、言った。井上夫妻が田端夫妻を抱き起こし、エレベーターに運んでいる。誰も何も言わなかった。何も聞こうとしなかった。聞かなくても、答えなくても、居合わせた人間全員が、この恐ろしい現象について疑いのひとつも持っていないことはすでに明らかだった。 「行きましょう」井上が静かな声で言った。栄子は光枝の腰を支えながら、「さ、早く」とヒステリックに怒鳴った。哲平はうなずき、よろよろと立ち上がった。美沙緒はその腕を取りながら、勇気を奮いおこして物置の列を見た。  物置の配列には何ら変化は見られない。だが、列の一番奥の壁……玉緒が|怪《け》|我《が》をし、栄子が「人の話し声」を聞いた、という壁に何か黒いものが見えた。それは巨大な染みだった。  吐く息が白かった。空気が冷たく、立っていられないほど足もとがぞくぞくした。  美沙緒は哲平を助けてエレベーターに乗せると、祈りをこめてボタンを押した。扉がしゅるしゅると閉じ、ごとんと音がした。  ほっとした途端、吐き気が襲ってきた。彼女は口に手を当て、食道の奥のほうからこみ上げてくる苦い液体を飲み込んだ。      〔13〕 [#地から2字上げ]6月6日  四階へ降りるのに、美沙緒はどうしようかと迷い、決心してエレベーターの呼び出しボタンを押した。この|頃《ごろ》ではもう、エレベーターに乗って移動するのには決死の覚悟が必要になっていた。  五月十七日夜の事件以来、管理人の田端末男は二度も三度もエーベーター管理会社に頼んで、故障の有無を調べさせたが、原因は何ひとつ見出せなかった。末男は次に修繕屋を呼びよせた。各階の非常階段へのドアの自動ロック装置を取り外させるためである。自動ロック装置を取り外せば、外からも中からも自由に非常口のドアを開けることができる。防犯上は問題があることではあったが、それどころではない、というのが残された住民……井上一家、加納一家、それに管理人夫妻……の一致した意見だった。  実際、非常階段から空き巣が入ると仮定して、それがなんなの、と全員が思っていた。ことにあの夜、地下室で何か恐ろしい体験をした田端夫妻と哲平は、エレベーターで昇降するのを極度にいやがった。 「あれに乗って、一階に行こうとしてボタンを押すとするよ」と哲平は言う。「一階で扉が開かず、そのままB1まで連れて行かれたら……そしてまた、エレベーターが動かなくなったら……いったいどうすればいいんだ」  だが、八階に住んでいて、エレベーターを利用しないわけにはいかない。  美沙緒は上がって来た箱に乗り込み、4のボタンを強く押した。扉が閉じ、ごとんという音がした。目をつぶり、祈る。また、ごとんという音。しゅるしゅると扉が開く音。目の前には見慣れた四階のフロアが|拡《ひろ》がっていた。  ほっとして外に出た。井上家の玄関ドアは開きっ放しになっていた。段ボール箱が玄関口に散乱している。型通りチャイムを鳴らしながら中を|覗《のぞ》くと、リビングルームで栄子が受話器を握っているのが見えた。 「そう。セントラルプラザマンションの402。ざるそば四人前、もう一時間前に頼んだんですよ。え? そう? 早くしてくださいね。うちは今日、引っ越しなもんですから」  受話器を置くと栄子は|微笑《ほほえ》み、「いらっしゃいよ」と美沙緒を手招きした。井上がリビングの天井のペンダントライトを取り外しながら、「さあ、どうぞ」と声をかけた。 「べつに用はないんだけど、どうしているかな、と思って」 「ごらんの通りよ。もう、荷造りなんかどうだっていい感じ。壊れものだけは丁寧に包んだけど、あとはそのまんまよ」 「トラックはいつ来るの?」 「そろそろだと思うわよ。頼んだおそばが来てからにしてほしいんだけど」  栄子は腕時計を見て、心ここにあらず、といったふうに遠くを見つめた。  外は曇り空だった。照明器具を取り外してしまっているので、室内は薄暗い。  井上一家が、セントラルプラザマンション402号室を売りに出したのは、あの事件があった翌週のことだった。言い出したらきかない栄子の主張を夫が|呑《の》んだ、という形ではあったが、夫のほうでも、早晩、そうするつもりでいたらしかった。  買い手がつく、つかないは別にして、栄子はまず、|板《いた》|橋《ばし》にある彼女の実家と話をつけ、敷地内に以前から建てられていた二DKのプレハブ住宅をしばらくの間、借りることに決めていた。なんでも栄子の母親が、近所の主婦たちに着付けを教えるために建てられたプレハブで、母親が体調を悪くしてからはほとんど使っていないのだという。  二LDKの広々としたマンションから、一挙にトタン屋根のプレハブ住宅に移るということに関して、栄子も井上も、子供たちすら文句を言わなかった。 「しばらく休んでからね」と栄子はそれを決めてきてから美沙緒に言った。「休んで命の洗濯をしてから、他を捜すわ。ここが売れてくれれば一番、いいんだけど……」  たかだか一週間から十日の短い間に、それだけの決心を栄子にさせたものが何だったのか、|誰《だれ》もがわかっていた。栄子はほとんど、他の人間が見たら病的とも言えるほどに、このマンションを怖がっていた。昼間の外出が多くなったのも、引っ越しのためだけではなさそうだった。栄子は自分の家にいる時も落ち着かない、と美沙緒に言った。  むろん、それは美沙緒や哲平とて同じことだったのだが……。  哲平はあの夜におこったことをすぐには美沙緒に話さなかった。それは美沙緒を怖がらせるという気づかいや、自分がそれまでずっと地下室に対し、あるいは世の中の超常現象に対し、頑固なまでもの合理主義を通してきた照れ臭さのせいではないことは、美沙緒はよく知っていた。人は恐ろしい体験をすると、そのショックが大きければ大きいほど、誰にも語りたくなくなるものだ。彼は見たのだ、と美沙緒は思った。あそこで。この世のものではない何かを……。  初めて彼が体験を口にしたのは、五日ほどたってからのことである。 「寒かった」と彼は言った。「凍える感じがした。風が……風自体が生きていた」  そして彼は|闇《やみ》の中に|蠢《うごめ》く無数の「何か」についても語った。「何か」としか言いようのないしろものだったこと、だが、闇の中をざわざわと蠢いている気配は確かに感じたこと……そして、不吉な音がそれに伴い、また寒くなり、頭がぼんやりとし、|俺《おれ》は、俺は……気を失ったんだ。  美沙緒はずっとひとりで考えていたこと……図書館で調べてきたことを彼に語った。彼は納得しなかったが、否定もしなかった。 「わからない」と言うのが哲平の口癖になった。「わからないよ。まったくわからない。あれは何だったんだ」  玄関のチャイムが鳴って、そば屋の出前の威勢のいい声がとどろいた。ツトムが小さな手に千円札を二枚、握りしめて飛び出して行った。 「あなたの分も頼んでおけばよかったわね。なにしろ朝食抜きだったから、慌てて注文しちゃった……」栄子が言いながら、玄関に走った。いいのよ、と美沙緒は笑った。 「遅かったのね」栄子が玄関先で、彼女特有の|厭《いや》|味《み》を言う声が聞こえてきた。出前の若い男が「すみません」と答えた。「でも、ここのマンションの玄関のドアが閉まってたんで、管理人さんを呼ぶのに手間取ったんですよ」 「閉まってた?」 「はあ」 「|鍵《かぎ》がかかってたの?」 「さあ。開かなかったんですよ。がんがんノックしてたら、管理人さんが気づいて出て来て、開けてくれたんです」  ざるそばが四つ載った黒い盆を持ちながら、井上がぷりぷりした顔で戻って来た。 「田端さんたら、いくらなんでもやり過ぎよ。玄関に鍵をかけることはないじゃないのねえ。うちが今日、引っ越すって知ってるのに。トラックが到着したら、困るとこだったわ」 「ご主人があれ以来、ぴりぴりしてるから」と美沙緒は言った。「思わず鍵をかけちゃったんでしょう」 「やり過ぎよ。第一、郵便屋さんや新聞屋さんが入れなくなっちゃうじゃない。ねえ?」  井上一家は美沙緒の見ている前で、つるつるとそばをすすり始めた。エアコンが必要なほど、室内はむし暑かった。美沙緒はベランダに向かいながら言った。 「郵便屋も新聞配達も、うちと管理人さんのところだけなのよ。寂しくなるわね。マンションに二世帯しか人が住んでないなんて……信じられない」 「お宅も……」と栄子がそっと|箸《はし》を休めて美沙緒を見た。「考えてはいるんでしょう?」 「引っ越すこと?」 「そう」  美沙緒は目を伏せた。「考えてるわ。かなり真剣にね」  こんな会話を引っ越して来てからわずか三か月後に交わしている自分が信じられないような気がした。三か月前、期待に満ちてここにやって来たばかりだというのに。  井上が気の毒そうに美沙緒を見た。「引っ越し先のことでは、いろいろ大変でしょうね。もっともうちだって同じですが」 「お互いの親とだけは住まないでおこう、って、私たち、結婚した時から決めてたのよ」栄子が|顎《あご》に飛ばした|蕎《そ》|麦《ば》つゆを手の甲で|拭《ぬぐ》った。「だからこそ、ここを買うまでは|鰻《うなぎ》の寝床みたいな小さなアパートで我慢してたっていうのにね。いったい何のために、けちけちと|溜《た》め込んでたのか、こうなってみるとお笑い草よ」 「そのうち売れるわよ」美沙緒が儀礼的に慰めた。井上も栄子も力なく|微笑《ほほえ》んだ。  かおりがにこにこしながら美沙緒を見ていた。美沙緒は笑顔を返し、「遊びに行くわね、かおりちゃん」と言った。「玉緒と一緒にきっと行くわ」  かおりは大きくうなずき、「今度のおうちにはレイが出ないよ」とけたたましい声で言った。「レイが出ないから引っ越すの」  そうよね、と美沙緒は|相《あい》|槌《づち》を打った。井上も栄子も黙ってそばをすすり続けた。ベランダに大粒の黒い染みがいくつもつき出した。 「雨……」そう美沙緒が言うと、栄子は|眉《まゆ》をひそめて「いやあねえ」とつぶやいた。「早くトラックが来てくれないかしら」  土曜日で会社を休んでいた哲平に玉緒の幼稚園の出迎えを頼み、ふたりが帰って来たのは十二時半ころだった。玉緒はフードがついた淡いピンク色のビニールコートを着ていて、突然の雨に|濡《ぬ》れずにすんだが、哲平は|傘《かさ》を持たずに出たため、頭からずぶ濡れだった。 「パパ、ずっと走ったの」と玉緒が興奮して言った。「ずーっとよ。幼稚園のところから、おうちまで、ずーっと玉緒をだっこして走ったの。すごかったんだから」 「いつからそんなにスーパーマンになったの?」美沙緒は哲平をからかった。「でぶったお|腹《なか》を気にし始めたってわけ?」 「六月の雨の中を我が子を抱いて走る、っていう快感を女は知らないな。気の毒に」哲平がバスルームに走って行きながら笑った。元気を装っている感じのする笑いだった。彼は廊下で振り返って言った。 「トラックが到着してたぞ。荷物はどんどん積みこまれてるけど、雨だから大変そうだ。栄子さん、ぼやいてた」 「あとで|挨《あい》|拶《さつ》に来るって言ってたわ。だから早く、シャワーを浴びて着替えてちょうだい」  はいはい、と彼はバスルームに飛び込んだ。勢いよく流すシャワーの音がし、同時に|鼻《はな》|唄《うた》まじりの声が聞こえた。  玉緒がコートを脱ぎっ放しにしたので、美沙緒は「ちゃんと片づけなさい」と|叱《しか》った。「ハンガーにかけてベランダに出しておくのよ。お部屋が|濡《ぬ》れちゃうでしょ」 「ふぁーい」と、どこで覚えてきたのか、妙な返事の仕方をし、玉緒はコートを不器用にハンガーにかけた。うさぎの顔がついているクリーム色のハンガーだった。クッキーが尾を振って、玉緒相手にじゃれかかった。玉緒はくすぐったそうに笑い、クッキーは親愛の情をこめて「ウウッ」と|唸《うな》った。  何もかもが、芝居がかっている、と美沙緒は思った。私たちはふたりとも……いいえ、玉緒やクッキーまでが、やることなすことそのすべてを芝居にしているようにしか思えない。|滑《こっ》|稽《けい》な芝居。平和な家庭生活という芝居。何の心配も不安もない、広々としたマンションでの平和な家庭生活、という芝居……。  キッチンに行き、昨夜の残り御飯でチャーハンを|炒《いた》めた。中華|鍋《なべ》は、ジャージャーと軽快な音をたてた。彼女は、わざと|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》に鍋の中のものをかき混ぜながら、手を伸ばしてキッチンカウンターの上のトランジスタラジオをつけた。  道路交通情報を|喋《しゃべ》る若い女の声が流れてきた。  ……首都高速道路四号線は、|信濃《しなの》|町《まち》付近で二キロの自然渋滞です。環状八号線は|芦《ろ》|花《か》|公《こう》|園《えん》付近でトラックの横転事故のため、全線にわたって渋滞中。なお、午前中に事故のため不通になっていた高速一号線は、さきほど正午過ぎに解除されました……。  あちこちで車の事故が起こったり、道路が渋滞したり、それに|苛《いら》|々《いら》しながらドライブを続ける人がいたりすることを思うと、なんだか不思議な感じがした。この小さな新築マンションの地下室で起こったこととは、あまりに次元が違い過ぎる……。  三人はわざとらしく騒々しい会話を交わし合いながら、昼食をとった。雨はますます激しくなっていた。  井上一家が挨拶に来たのは、二時をまわったころだった。かおりとツトムは、「これ、玉緒ちゃんに」と言って、水玉模様の紙にくるまれた棒つきのキャンデーと、色とりどりのビー玉をいくつか、それにプラモデルの小さなサイボーグ人形をくれた。  お茶を飲んでいかないか、と誘ったが、栄子は残念そうに首を振った。「予定より遅れちゃってるんで、実家では今か今かと待ってるみたいなのよ」  栄子の笑顔をもう、ここでは見られなくなると思うと、美沙緒は突然、ひどく寂しい気持ちに襲われた。古いつきあいだったわけではない。ウマが合ったとはいえ、たかが隣人の引っ越しだ。そんなことに、これほどまで感じ入る自分が惨めな気がした。きっと、神経ががさがさしているのだ。いろいろなことがあり過ぎて……。  哲平は決して儀礼的にではなく、井上や栄子に向かって「寂しくなります」と言い、その後で「もう気軽に新しい広告コピーの出来不出来を聞けなくなるんですね。僕はいったいどうしたらいいんだろう」とおどけた。痛々しい感じのおどけ方だったが、全員がくすくす笑った。  一家と一緒に美沙緒と哲平、玉緒、それにクッキーは、がやがやと|喋《しゃべ》りながらエレベーターに乗った。|誰《だれ》もがB1のランプを見ないように、視線を上げ気味にしているのがはっきりわかった。  一階に降りると、田端夫妻も出て来た。クッキーは大勢の人々に囲まれて興奮したのか、さかんに|吠《ほ》えた。  井上夫妻は田端夫妻に向かって型通りの挨拶をし、田端光枝はかおりやツトムの頭を|撫《な》でながら、昔ふうに和紙に包んだ菓子をふたりに与えた。誰も地下室のことは口にしなかった。  玄関のガラス扉越しに、墓地のフェンスが見える。井上一家の乗用車、グレーのシビックは玄関前に横づけになっていた。雨が激しい。 「お別れだと思うと、ここにも突然、愛着が|湧《わ》いてくるわね」栄子が言いながら、美沙緒を見た。「元気でね。遊びに来てね」 「もちろんよ」言いながら、美沙緒は玉緒とともに玄関のガラス扉に手をかけた。何か重苦しい感じ、うっとうしいような感じが手の平に伝わった。 「さ、出発するか」井上が大声で言った。美沙緒はもう一度、扉を押した。  開かなかった。 「あら」と栄子が田端光枝を振り返った。「|鍵《かぎ》をかけたんですか。さっきも|蕎《そ》|麦《ば》屋の出前の人が……」  最後まで聞き終わらないうちに、いいえ、と光枝は答えた。居合わせた人々の顔に浮かんでいた笑顔が、急に凍りついたようになった。末男が小走りに駆け寄って来て、扉をぐいぐいと押した。 「いったい、どうしたんだ!」彼は叫んだ。  哲平が黙ったまま、末男のわきから手を伸ばし、ガラス扉の|把《とっ》|手《て》を今度は手前に引こうとした。まるでだめだった。 「何よ、これ」栄子が唇を震わせた。「どうしたっていうのよ」 「また始まったのか」末男が静かな声でつぶやき、全員の顔を見回した。美沙緒はぞっとした。  クッキーの様子がおかしかった。それまで柔和な、笑ってでもいるかのような顔であたりをはね回っていたというのに、突然、目付きが凶暴になった。手綱を握っていた玉緒が、|怯《おび》えたように綱を離した。 「開けて! 開けてよ!」栄子がガラス扉を手の平でがんがん、|叩《たた》いた。彼女の手の跡がくっきりとガラスに残った。かおりがべそをかき出した。 「こわい、ママ」  美沙緒はかおりを抱きよせた。男たちは途方にくれた様子で、立ち|竦《すく》んでいた。哲平がわなわな震えながらも、精一杯、冷静さを装う声で末男に聞いた。 「出入り口はここしかないんですか」 「そ、そうですよ」 「そんなことないわよっ」と光枝が目をぎらぎらさせながら叫んだ。「うちは一階なのよ。うちの部屋の窓からだったら出られるじゃないの」 「そうだった」と末男は|大《おお》|袈《げ》|裟《さ》なほどほっとしたように同調した。井上がツトムの手を握りながら「そうするしかないな」と言った。「裏に出てから、こっちに回ろう」  その時、耳をつんざくような絶叫が玄関ホールに響きわたった。栄子だった。 「何なの! これは何なの!」  全員が栄子の指差したあたりを凝視した。美沙緒はそのあまりのおぞましさに、口を押さえた。  ガラス扉一面に、何個もの白い手形がついている。手形はまるで、スタンプでも押すかのようにして、人々が見ている中で、次から次へと増えていった。  ペた、ぺた、ぺた……。  その音が耳に聞こえてくるような感じがした。光枝が叫び声を上げた。子供たちが泣き出した。クッキーは狂犬にでもなったかのように、口から白い泡を噴き出しながら|牙《きば》をむき、|吠《ほ》えまくった。  この世のものではない光景だった。美沙緒は玉緒とかおりを抱き寄せながら、後じさった。末男は腰が抜けたらしく、扉の真ん前で|坐《すわ》りこんでいる。  よく見ると、手形には小さいものや大きいもの、指を大きく|拡《ひろ》げているもの、いないもの、など様々な種類があった。どれもが白かったが、ミルクのような白さではなく、透明感のある白……ちょうど、車のフロントガラスに子供がいたずらしてペたぺたとなすりつけた手形が、日の光の加減で映し出された時の、あのべっとりした感じのする白さだった。  絶叫が美沙緒の口から|洩《も》れた。|喉《のど》の奥からか細く洩れている叫びは、長い間、途切れることなく続いた。  哲平がほとんど無意識といった感じで美沙緒を抱き、奪いとろうとでもするかのように、玉緒の腕をつかんで自分のほうに引き寄せた。  玉緒はしゃくり上げ、ぜんそくを起こした子供のように喉を詰まらせた。  どれくらいの時間がたったのか、わからない。手形が消え出した。いくつもの手形の向こうに、ぼんやりと雨にけぶる墓地のフェンスが見えた。  栄子の歯が、がちがちと鳴る音が聞こえた。クッキーが大きくジャンプしてガラスに飛びかかり、いやというほど鼻をぶつけて「キャン」と鳴いた。  ぺた、ぺた、ぺた……。  消えていくたびに、それに近い音がかすかにした。美沙緒は目をつぶった。  助けて。彼女は心の中で叫んだ。お願いよ。この人たちは、ここから出て行くし、私たちだってそのうち出て行くわ。それがどうして、気にいらないの。  いったい、|誰《だれ》にそうつぶやいているのか、自分でもよくわからなかった。背中に氷の塊でも当てがわれたように、全身に悪寒が走った。  再び目を開けると、ガラス扉はもとに戻っていた。井上が、わーっと叫んで扉に飛びついた。扉は難なくするりと開いた。勢いがあまって、井上が外につんのめるようにしてはじき出された。 「早く!」と彼は叫んだ。「いまのうちだ! 早く!」  栄子が我にかえったようにして、ツトムとかおりの手を引っ張った。開け放された扉から、湿った生ぬるい雨まじりの風が吹き込んだ。クッキーが外に飛び出して行き、一目散に走り出した。 「クッキー!」と玉緒がしゃくり上げながら声をあげた。「どこに行くの!」  井上はシビックにエンジンをかけた。栄子と子供たちが車のそばに駆け寄った。  子供たちを後部シートに押し込むと、栄子はくるりとマンションを振り返り、泣き出しそうな顔をして、美沙緒や哲平を見た。 「ごめんね」彼女は声にならない声で、怒鳴るようにして言った。 「行くわ」  雨の音が激しくなった。美沙緒はぼんやりと前を向いたまま、かすかにうなずいた。井上がエンジンをふかした。クッキーがびしょ|濡《ぬ》れになりながら、駆け戻って来た。野性に戻ってしまったかのような、近寄りがたい|獰《どう》|猛《もう》な表情で犬は人々を|一《いち》|瞥《べつ》し、ウウッ、と低く|唸《うな》った。      〔14〕 [#地から2字上げ]6月14日  日曜日。哲平は自分の|喘《あえ》ぎ声で目を覚ました。死んだ玲子がやって来て、彼の耳元で何かを|囁《ささや》いた夢を見たのだった。夢の中で大きく口を開け、わーっと叫んだはずだったのに、起きてみると唇はねばねばした|唾《だ》|液《えき》でぴったりとくっついたままだった。  額にびっしょり汗をかいている。時計を見ると九時半だった。リビングからかすかに玉緒の声が聞こえる。  彼は仰向けになったまま、しばらくじっとしていた。  なんだい、この夢は、と彼は呼吸を整えながら考えた。玲子がついさっきまで現実にここの、このベッドのそばにいて、シーツに手をつきながらじっと彼を見下ろしていたような気がする。何か言いたげな、白い顔をしてじっと……。  哲平はおそるおそる手を伸ばして、夢に現れた玲子が手をついていた場所を探ってみた。そこにかすかなぬくもりや、湿り気を感じ取ったとしても不思議ではないような気すらした。  だが、シーツは彼の寝ているところ以外、どこも乾いていて冷たかった。  彼はのろのろと身体を起こし、頭を軽く振った。頭の|芯《しん》がずきずき痛んだ。毎朝のことだったが、その朝は特にひどかった。前夜、飲みすぎたことだけは確かだった。  朝だけではなく、昼間もずっと軽い頭痛がするのは、|煙草《たばこ》の本数が増えたせいだろう、と彼は思っていた。そればかりじゃない。酒の量だって、これまでの二倍は軽く増えた。おまけに引っ越し先を探したり、外出から帰るたびに美沙緒と玉緒が無事に家にいるかどうか祈りつつエレベーターに乗るのだ。これじゃ、神経が休まるひまがない。  パジャマのままリビングに行くと、玉緒が朝食のデザートのフルーツヨーグルトをスプーンですくっている最中だった。おはよう、と美沙緒がぶっきらぼうに言った。 「ゆうべはベロンベロンだったわね」 「らしいな」 「私がベッドまで引きずって行ったのよ。覚えてる?」  覚えてない、と彼は正直に言った。夕食の時から飲み続け、美沙緒に何か乱暴な口のききかたをしたことまでは覚えているが、それ以後、いったい何を|喋《しゃべ》ったのか、まったく記憶にない。 「気持ちはわかるわ」彼女がコーヒーメーカーのスイッチを入れた。がりがりという音が響き、玉緒が「うるさーい」と声をあげた。 「気持ちはわかるけど、もう少し控えてもらわないと……」 「気をつけるよ」彼はむっつりと言った。  気をつける? 何を? 酒をか?  彼は内心、ふざけるな、と言いたい気分になった。仕事のない日の、長い、途方もなく長い夜をいったいどうやって過ごせばいいというのか。プロ野球を見て、食後にコーヒーを飲んで、|風《ふ》|呂《ろ》で翌日の会議のことを考え、妻を抱き、満足して平和な眠りにつけとでも言うのか。そうやっていて、目を覚ましたら、不動産屋から電話が入り、「お宅のマンションの買い手がつきました」とでも報告してくれると言うのか。墓地の真ん前に建ち、地下室ではおかしなことがおき、エレベーターがしょっちゅう停止し、おまけに玄関ドアにぺたぺたと人の手形がつく|廃《はい》|墟《きょ》同然のマンションを買ってくれる物好きが、今すぐに現れるとでも……。  顔を洗い、歯を磨きながら、彼は昨晩、美沙緒相手に何を|喋《しゃべ》ったのか、必死になって思い出そうとした。何か、地下商店街や霊園の移転について喋っていたような気がする。美沙緒がひとりで図書館に行って調べて来たとかいう、あれだ。  霊園の地下に大きな地下道が埋められずにそのまま残っていることが、何かこのマンションに科学では割り切れない現象を引き起こしている、という美沙緒の説にさんざん、絡んだことまでは思い出せるが、何をどう絡んだのかは思い出せない。しまいには腹をたて、テーブルの上に水割の入ったタンブラーを投げつけたのだ。タンブラーは割れなかったが、中のものがこぼれて、レースのテーブルクロスの上に大きな染みを作った。  彼は何かわめき、美沙緒を|罵《ののし》り、勝手にしろ、と怒鳴った。覚えているのはそれだけだ。あとは眠ってしまったらしい、  修復をはからねばならないな、と哲平は思った。|俺《おれ》たちをこうするのが、あいつらの目的なのかもしれない。あいつらは、俺たちの関係を壊してここから出て行かせようとしているのかもしれない。その手に乗ってたまるか。  あいつら……?  彼は鏡に映る|隈《くま》の出来た自分の顔を眺めながら、鏡に向かって憎々しげに|唾《つば》を吐いた。あいつらってのは、いったい何なんだ。手形をくっつけて回る透明人間か。それとも、ここにいる、老けた顔をした俺の頭に巣くっている魔物なのか。  リビングに戻ると、美沙緒がコーヒーを入れ、ハムトーストと一緒に持ってきた。彼はもじもじしながら、彼女に|微笑《ほほえ》みかけた。 「ごめんよ」 「あら、何が」美沙緒はそっぽを向きながら、関心なさそうに聞いた。 「ゆうべは悪かった。どうかしてたんだ」 「そうらしいわね」 「すまない。本気じゃなかったんだ」 「そうでしょうよ。本気で言ったのなら許せない発言だったもの」 「……何か、ひどいことを言った?」 「いろいろね」美沙緒は軽く鼻を鳴らした。「数えきれないくらいよ。よくもまあ、あれだけ言えたものね」 「たとえば、どんな……」  頭ががんがんした。哲平は|肘《ひじ》をついて頭を支えた。美沙緒は肩をすくめた。 「きわめつけを教えてあげましょうか。そんなにここを出たいなら、玉緒とふたりで勝手に出てってくれ、って言ったわ。|俺《おれ》はひとりで残ってやる、君たちは好きにしろ、ってね」  彼は|溜《ため》|息《いき》をついた。「そんなこと言ったか」 「ええ」 「ひどいことを言ったな」 「|他《ひ》|人《と》|事《ごと》みたいな言い方ね」 「すまん。覚えてないんだ。それで……君は何て答えたんだい」 「それも覚えてないの?」美沙緒はあきれた顔をした。哲平は弱しくうなずいた。 「もう一度、聞きたい?」 「聞きたい」  美沙緒は大きく深呼吸をし、半が照れくさそうに、半ばいまいましげに、「じゃあ、繰り返してあげる」と言った。「あなたが残るのなら、私もここにいる、絶対に出て行かない、って言ったのよ。言っとくけど、|優《やさ》しく甘ったるく言ったんじゃないのよ。怒鳴ったのよ」  ああ、と哲平は突然、優しい気持ちになって彼女を見つめた。彼女が聖女か何かのように見えた。同時に自分がひどく浅ましい、愚かな人間のように思えた。 「今、それを聞いて安心したよ」彼はつぶやくように言った。「取り返しのつかないことを言われたのかと思った」 「私を見くびらないで」美沙緒はつんと|顎《あご》を上げたまま言った。「もうちょっと、ましな人間よ」 「引っ越しのことは真剣に考えてるよ」彼はコーヒーをひと口、飲み、|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔をして言った。「ここを売りに出したのがつい一週間前だ。売れるまでにどれくらいの期間が必要なのか、見当もつかないしな。売れなくても、出て行こう。小さなアパート住まいでもいい。そのうち、なんとかなるさ」  美沙緒はしばらくの間、彼をじっと見つめていたが、やがてほっとしたように小さくうなずいた。 「前からあなたもそう考えていたってことは知ってるわ。はっきりそう言ってくれて|嬉《うれ》しい」 「|俺《おれ》は強情だからな」彼は首を振って|溜《ため》|息《いき》をついた。「俺にとって、ここを買ったということは、その……新しい……つまり、まったく新しい出発だったんだ。過去を振り返らないで生きるための……」 「もういいの」美沙緒はさえぎった。「私だって同じ思いだったんだから」  クッキーがベランダに向かって、ひと声、|吠《ほ》えた。見ると外は雨が降り出していた。 「洗濯もの、取りこんでおこうか」  いいのよ、と美沙緒が哲平に|微笑《ほほえ》んだ。「私がやるわ。あなたはコーヒーを飲んで目を覚まして。二日酔いはもう、ごめんよ」  その日の夕方、哲平が駅前の書店で賃貸マンションの情報誌を買ってこようと玄関先で靴をはきかけた時、チャイムが鳴った。弟の達二夫妻だった。 「車で通りかかったの」と直美がいつものキンキン声で言った。「突然でごめんなさい。よかった? お出かけするところだったんじゃないの?」 「いや、散歩に行こうと思っただけだよ」哲平は愛想笑いをした。直美はけばけばしい黄色い麻のスーツを着て、どの雑誌のグラビアでも決まって見かける流行のセミロングヘアをかき上げながら、自信たっぷりに微笑んだ。きつい香水の|匂《にお》いがし、哲平は、せめてこの匂いだけでも薄めてくれさえすれば、この女に対する印象が変わるのに、とふと思った。 「夕食前には帰るからさ」休日のサラリーマンそのものといった感じのゴルフウェアに身を包んだ達二が、走って来た玉緒の頭を|撫《な》でながら言った。「しかし、なんだい、ここのマンション。いやに静かじゃないか。人が住んでるの?」 「引っ越したんだよ」哲平はなんでもなさそうに言った。「偶然、引っ越しが重なってね。また夏にはどっさりと越して来るらしい」 「へえ。金持はいいねえ。売ったり買ったり引っ越したり……。自由にできる」 「まあな」  ふたりはきわめて友好的にうなずき合い、リビングに行った。  美沙緒は直美からおみやげと称して手渡されたケーキの箱を片手に、寄って来るクッキーを追っ払っていた。「幼稚園は楽しい? 玉緒ちゃん」と直美が玉緒に話しかけた。わかんない、と玉緒が答えた。「あら、わかんないの? 楽しくないの?」  玉緒はうふふ、と大人びた笑みを返し、達二のほうへ寄って行った。いやな子、とでも言いたげな不快そうな表情がちらりと直美の顔をよぎったが、すぐに消えた。 「元気そうね。達二さん」美沙緒がキッチンでコーヒーと紅茶を同時に沸かしながら声をかけた。紅茶は玉緒のためでもあり、直美のためでもあった。直美は肌に悪いと言って、決してコーヒーを飲まない。 「おかげさまで」達二が答えた。「|義《ね》|姉《え》さん、仕事を始めたんだって?」 「ええ。ぼつぼつね。余暇みたいなものよ。チビさんがいるから、あんまり外出もできないし……」 「ああ、相変わらず墓地ねえ」ベランダ越しに外を眺めていた直美が口をはさんだ。「前に来た時よりも、なんだかうっそうとした感じね。雑草のせいかしら。それよりも、ねえ、ここのマンションの人たち、どうしていっぺんに引っ越して行ったりしたの?」  一瞬、ぎこちない空気が流れたが、達二が偶然、それを救った。「値上がりしたから、ここを売ってもっといいとこに越したのさ。みんなこの経済苦境を逃れるために、いろいろと知恵を絞ってるんだよ。売れるもんはどんどん売って、次にさらに値上がりしそうなものを買っておく。女房の親が提供してくれる家でのほほんと暮らしている|阿《あ》|呆《ほう》は|俺《おれ》ぐらいだよ。これで離婚されたら、もう生きる知恵がなくって野垂れ死にだ」 「だったら離婚なんて考えないことね」直美がくすくす笑いながら、目だけらんらんと光らせて哲平を見た。「達二ったら、時々ふざけて言うのよ。離婚したら直美よりもいい女と巡り合えるかもしれないな、って。バッカみたいね。できないくせに、言うことだけは世間並みなんだから」  五人はリビングのセンターテーブルを囲んでお茶とケーキを楽しんだ。哲平はケーキなど見るのもうんざりで、皆に気づかれないよう、テーブルの下にいたクッキーに食べさせた。  達二が玉緒に幼稚園のことや友達のことを|訊《たず》ね始めた。玉緒はあまり気乗りがしないよう顔でそれに答えていたが、やがてケーキの最後のかけらを口に粘っこく放り込むと、質問から逃れるように哲平をのぞき込んだ。 「ねえ、パパ。いつ、引っ越しをするの?」 「引っ越し?」直美が|素《す》っ|頓狂《とんきょう》な声を上げて、哲平を見た。「何のお話?」  直美が手にした紅茶のカップにはベっとりと口紅の跡がついていた。哲平はその口紅の跡を見つめながら、ははは、と笑った。 「なんだい、兄貴。引っ越すって」達二が聞いた。ちらりと美沙緒を見ると、困ったように目をそらした。哲平は|煙草《たばこ》に火をつけた。 「いや、まだ決まったわけじゃないんだが、この夏にでも別のマンションに行こうかと思ってるんだよ」 「別のマンションって……ここを売るつもりなの? まだ移って来てから四か月しかたってないじゃないの」直美が目を丸くした。「どうしてまた……」 「別に大した理由があるわけじゃないよ。気が変わったのさ」  そう言いながら、これはまったくうまくない説明の仕方だ、と哲平は苦々しく思った。玉緒は紅茶の入ったマグカップを両手で握りながら、真剣な顔をして哲平を見ている。今にも何かを言い出しそうな表情だった。  頼むよ、と彼は内心、玉緒に懇願した。頼むから、地下室の話やガラス扉についた手の跡の話をしてくれるなよ……。 「でも、せっかく玉緒ちゃんだって幼稚園に慣れたんだしねえ。ねえ、玉緒ちゃん」直美が玉緒に向かって首を|傾《かし》げてみせた。玉緒はこっくりとうなずき、口を開いて何か言いかけた。 「ほら、玉緒。紅茶がこぼれてるわよ」美沙緒がわざとらしく玉緒のマグカップを取り上げた。「こぼれてないってば」と玉緒はふくれっつらをした。 「いったい、どうしたって言うんだよ」達二が言った。「正気かよ。こないだ大騒ぎして買ったばっかりだっていうのにさ。まだローンがたんまり残ってんだろ」  哲平はゆっくりと唇を|舐《な》めながら、|嘘《うそ》を考えた。「目の前にある万世寺霊園が、このマンションの土地を買いたがっているらしくてさ。霊園を拡張したいそうだ。それで……」 「地あげ屋が絡んできたのか?」達二は|眉《まゆ》をひそめた。 「いや、それはない。でも、いずれはそういう事態になるだろうな。ここの住民が早くも引っ越して行ったのはそれもあるんだよ。まずい場所を買っちまったって後悔してるのさ。面倒なことにならないうちに、次を探したほうがいいと思ってるんだ」 「そうなの」と美沙緒が、素早く哲平と目くばせし合いながら後をついだ。「ここの万世寺は古くからあるお寺でね。もともとはこのマンションが建ってる土地もお寺のものだったらしいわ。土地を奪い返そうと|狙《ねら》ってる人間のいる所で暮らすのって、あんまり気分のいいものじゃないし……」  わかるわかる、と直美が同調した。現実的な話……ことに損得の問題になると途端に|膝《ひざ》を乗り出してくる女だった。 「それにそのお寺側がここも買い取ってくれるわけでしょ。損はしないわね」 「しかしなぁ」と達二が不審そうに首を傾げた。「ここは去年、建ったばかりなんだろ。これから引っ越して来る連中だっているはずだし……。妙な話だな」 「ま、そればかりじゃないさ」哲平は首筋をぼりぼりと|掻《か》いた。「窓を開けると墓地……っていう環境に嫌気がさしたってのが正直なところさ。他の連中だって少なからず、そう感じて引っ越してったんだと思うよ」 「そらみろ。言ったじゃないか。今ごろ気づくなんて鈍すぎるよ」 「哲平さんが嫌気がさしたんじゃないのよ」美沙緒が|微笑《ほほえ》んだ。「嫌気がさしたのは、この私。何日も議論し合って、それで彼が根負けしたわけ」 「引っ越し先は見つかったの?」直美が聞いた。まだよ、と美沙緒は目を細めた。「不動産屋に頼んであるの。そろそろ見つかると思うわ」 「引っ越すほうがいいよ」達二は哲平と美沙緒の顔を等分に見比べながら、言いにくそうに言った。「人が住んでないマンションに住むのは、何かと厄介だからな」  達二が言いたいのはそのことではなく、墓地や寺や火葬場のことだろうと思ったが、哲平は黙っていた。 「引っ越しが決まったら教えてくれよな。手伝ってやれないこともないからさ」  ありがとう、と美沙緒が哲平の代わりに答えた。  達二夫妻が帰る時、直美が玄関先で白いハイヒールについたゴミを指先で払いながら言った。 「ここのエレベーター、おかしいのね。さっき、来た時、確かに八階のボタン押したのに地下に行っちゃったのよ」  哲平は美沙緒と顔を見合わせたが、すぐに笑ってみせた。 「またか。時々、おかしくなるんだ。故障続きでね」 「地下は真っ暗だったぜ」達二が自分の肩をだるそうにトントン|叩《たた》いた。「それに|黴《かび》くさくてさ」 「|誰《だれ》も使ってないから」と美沙緒はかた苦しい微笑を返した。 「ねえ、あそこで大々的にディスコパーティーでもやったら素敵ね」直美が子供っぽい舌ったらずの口調で声を張り上げた。「いま、そういうのが|流《は》|行《や》ってるのよ。ロフトや倉庫でのロックコンサートとかさ」  そうね、と美沙緒はうなずき、「今度やりましょうか」と気がなさそうに言った。      〔15〕 [#地から2字上げ]6月20日 「いらっしゃいませ」  |渋《しぶ》|谷《や》駅近くの不動産屋のドアを開けた途端、中にいた五、六人の社員が機械的な口調で声をそろえた。まるでハンバーガーショップのカウンターみたいだ、と美沙緒は思った。サービスの押し売りを企んでいるような視線が、一斉に束になってドアのほうに向けられた。  二十畳ほどのワンルーム二部屋を事務所にしているその不動産屋は、いくつかの情報誌に広告を載せ始めた新しい不動産屋グループのひとつだった。学生ふうの男と、ひと目で水商売とわかる中年の女、それに陰気な顔をした若いカップルひと組が、それぞれの手続きを交わしている。水商売ふうの女は、口紅を塗っていない血色の悪い分厚い唇に|煙草《たばこ》をくわえたまま、怒ったような顔をして何かの書類に乱暴にサインしていた。 「賃貸物件のご希望ですか?」  ひとりの若い男が、ものなれた調子で美沙緒と哲平のほうに歩み寄って来た。哲平がうなずいた。男は深夜クラブのホストのような、作りものめいた笑みを唇の端に浮かべて「ありがとうございます」と言った。「どうぞこちらへ」  ふたりは窓ぎわの簡易ソファーへ案内された。 「どういったお部屋がご希望でしょうか」  言うことがいちいち、台本通りにしか聞こえてこないタイプの男だった。男は、哲平と美沙緒が何か答える前に、大量の物件リストを持って来て、どさりと机の上に|拡《ひろ》げた。やることなすこと、何かしらせわしない感じがする。  仕方ないわ、と美沙緒は思った。何も一生の住居を決めるためにここを選んで来たわけじゃなし。極端に言えば、どこだっていいんだから。あそこの、あのマンション以外の部屋を紹介してくれる不動産屋なら、どこだって……。  哲平がかいつまんで希望を述べた。交通の便がいいこと。近くに幼稚園があること。家族三人に犬がいるので、出来たら庭つきの貸家があればいいのだが……。 「ご予算はいかほどで?」  男はちらっとふたりを見た。値踏みするような目つきだった。  哲平は「安いに越したことはないよ」と言って笑った。「だいたいの相場は知っていますがね」  男は愛想よくうなずいた。うなずきながら、もう、手は物件リストをものすごいスピードでめくり始めている。 「確か、昨日、入ったばかりの貸家があったはずなんですが……。なかなか条件のいいところなんですよ。えーっと、どこへいったかな」  男は音をたててリストを元に戻すと、勢いよく後ろを振り返って「ねえ、昨日入ってきた物件のさ、ほら、一戸建てがあったでしょ。あれ、どこにある?」と聞いた。紺色の事務服を着て、髪の毛を赤く染めた女が、だるそうに立ち上がって数枚のチラシを持って来た。 「これなんです」男は手の切れそうな新札でも渡すように、うやうやしくチラシを哲平に手渡した。美沙緒は一緒になってそれを|覗《のぞ》きこんだ。  二DK。庭つき。不鮮明な写真もついている。まるで資材置き場のために野原に建てられたプレハブ倉庫みたいに見えた。  だが、賃貸料と場所が美沙緒の関心を引いた。月十万。場所は高井野駅のひとつ先の駅から徒歩二十分。バスなら五分。停留所のすぐそばだ。 「見てくれはそれほどよくないかもしれませんが、この場所で、このお家賃というと、なかなかの掘り出しものですよ」男は再び、別のリストをめくりながら言った。「大家さんは、近くにお住まいの方でしてね。以前、息子さん夫婦が住んでいたものを貸してるんですよ。犬を飼ってらっしゃるんでしたら、このぐらいの庭があるのがいいんじゃないですか」 「悪くないな」哲平が言った。「ちょっと狭いが」  狭い? そんなものはどうにでもなるわ、と美沙緒は思ったが黙っていた。六畳二間と六畳のダイニング。入りきらない家具は、どこかに預けておけばいい。 「すぐに入居できるんですか」美沙緒が聞いた。男は、はい、とうなずいた。「今、空き家になってますからね。いつでもお好きな時に。何でしたら、見るだけでもごらんになっていらしたらいかがですか。ご案内しますよ」 「他には何かないですか」哲平が聞いた。 「気にいらないの?」と美沙緒は哲平の|膝《ひざ》をつついた。「今の家から近いし、ここでも悪くないじゃない?」 「うん。でも、もう少し別のところも見てみないと……」 「そんな余裕はないじゃないの」美沙緒は顔をしかめた。「どこだっていいわ」  私たちは今、|同《どう》|棲《せい》を始めようとしているのでもなければ、満足できる新居を探しているのでもない。ただ、あそこから逃れるための、避難所を探しているだけなのだ……とそう言いたい気持ちを抑えるのに苦労した。 「そうですねえ」男は再びちらっと美沙緒に視線を走らせた。「どこだっていいとおっしゃられるのが、一番、困るんですがね」  職業柄、立ち入った質問は許されないと自戒している分だけ、好奇心のかたまりがその顔に渦巻いているように見えた。美沙緒は少し顔が赤くなるのを覚えた。 「これなんか、どうでしょうか」男は身を乗り出した。「さっきの貸家と同じ駅ですよ。二DK。東向き。駅から徒歩七分。マンションの三階。十三万円。ああ、これはまだ人が住んでますね。でも七月中には|空《あ》くようですよ」  バインダーにはさまれたままの広告を男は取り出し、ふたりに見せた。哲平はじっと眺めてから「これも悪くないな」と言った。 「商店街にも近いですしね」男は、早くも案内のための支度でもするかのように、上着の内ポケットから車のキイを出して、そっと手の平でもてあそんだ。手っ取り早く決めてしまいたがっている様子がありありとうかがわれる。たかだか十万そこそこの物件に、時間を取られるのは馬鹿げているとでも言いたそうだった。 「お値段はちょっと高くなりますけど、ここはいいですよ。明るい白塗りの壁のマンションでしてね。新婚さん向きです」 「うちは新婚じゃないわ」美沙緒はうっすらと笑ってみせた。男は「似たようなものでしょう」と言って、歯を|剥《む》き出し、目を細めた。笑うと途端に品が悪くなる顔だった。 「ペットは禁止なんだろうね」哲平が聞いた。男は片方の|眉《まゆ》をぴくりと上げ、わざとらしく周囲を気づかうふりをした。 「ここだけの話」男は小声で言った。「相談に応じさせますよ。ここの管理人さんとうちは親しいもんですからね。マンションの持ち主に内緒で飼うことは、いくらでもできます」  ペットを持ち込みたがる住人と裏で何か不正な取引をしているようにも見受けられたが、美沙緒はそれならそれでもかまわないと思った。  よかった、と美沙緒は言った。「ねえ、この二件、これから案内してもらわない?」 「そうだな」哲平はまだ何か物足りないのか、しばらくの間、チラシを眺めていたが、やがてのっそりと目を上げた。「そうするか」  男の案内でふたりは不動産屋の車に乗り、まず一戸建てのほうを見に行った。  実物は写真で見るよりずっと|小《こ》|奇《ぎ》|麗《れい》だった。安っぽい印象は変わらないが、塗り替えられたばかりのモルタルの壁は真新しかった。手入れ次第ではなじめる家のように思える。  ここにマーガレットの花をたくさん植えたら、きっとかわいい家になるわ。美沙緒はあれこれ想像した。庭も思ったより広く、日当たりがいい。前に住んでいた人が引っ越す際に掘り起こして行ったのだろう。いくつかの植物が植えられた跡がある。庭の隅には、形よくまとめられた小さな花壇もあった。 「いいじゃない」美沙緒は哲平に言った。哲平もうなずいた。管理人の田端夫妻に預けてきた玉緒のことを思い出し、一緒に連れて来るべきだった、と彼女は思った。あんな危険なマンションに置いてきたりして……。今すぐにでも玉緒を呼び出し、ここへ引っ越して来られたら、どんなにいいか……。  内部はさすがにくたびれてはいたが、畳はきちんと新しいものに替えられており、青々としたい草の|匂《にお》いが漂っていた。 「ご夫婦の寝室をこの六畳になさって、もうひとつの六畳をお子さんの部屋になさって……」不動産屋の男はわけ知り顔をしながら説明した。「居間はこのダイニングルームで充分でしょうね。庭がけっこう、ありますから、あまり狭苦しい感じはしないと思いますよ」 「これで十万か。安いな」哲平が言った。男は大きくうなずいた。「大家さんが値上げしたがらない人でしてね。気のいい人なんですよ」  気のいい人、という言い方が|何《な》|故《ぜ》ということなしに、美沙緒の気に入った。男はそれまで見せなかったような好色そうな笑みを浮かべて美沙緒を見、「奥さんは満足されたようですね」と言った。美沙緒は目をそらしながら「とっても」と答えた。男はそばに寄って来て、歩いて二、三分のところにあるコンビニエンスストアや酒屋や病院について彼女に教え、何の意味があるのか、産婦人科医院も確か近くにあったはずだ、と言ってニタニタと笑った。  次に案内されて行ったマンションのほうは、高井野駅の次の駅から延びている|賑《にぎ》やかで庶民的な商店街から一本、裏に入っただけのゴミゴミした場所にあった。どちらかと言うと狭苦しい印象のある建物で、お世辞にも豪華とは言えなかったが、ささやかなベランダに満艦飾になった洗濯物や、マンション前で立ち話をしている主婦たちは、その建物が少なくとも安心して住めるものであることを強く物語っていた。  男は管理人室のブザーを鳴らした。出て来たのは、ごましお頭の、人のよさそうな老人だった。 「おじさん、三階の例の部屋、電話しといてくれた?」 「しましたよ。お待ちしてるはずです。行きましょうか」  老人はにこにこと美沙緒と哲平を交互に見ると、「こっちです」と言ってエレベーターへ案内した。  エレベーターの中には子供が落としていったのであろうアイスクリームの包み紙や、マーケットのプライスカードなどが隅のほうで|埃《ほこり》をかぶっていた。老人はさりげなくアイスクリームの包み紙を拾うと、三階のボタンを押した。 「子供が多くってね」老人は美沙緒に向かって笑いかけた。「賑やかなマンションですわ」  三階の305号室。チャイムを押すと若い女が顔を|覗《のぞ》かせた。「どうぞ。ちらかってますけど」  ショートカットにした、色が黒い健康そうな女だった。女は|裾《すそ》をまくり上げたジーンズの、丸くせり出した|尻《しり》を横に振りながら、奥に消えた。それまでがなりたてるようにして鳴っていたテレビの歌番組が、プツンと切られた。管理人の老人と不動産屋の男を含めた四人は、遠慮がちに中に入った。 「どうもすみません」美沙緒は女に声をかけた。「お休みだったんでしょう?」 「いいんです」女は人なつこく笑った。「私も来月の引っ越しで、何かとざわざわしてますから。お互いさまです」笑うと、ねずみのように小さな前歯がせり出して、幼く見える。 「来月、結婚なさるんですよ、この人」老人が言った。女は耳まで顔を赤らめて「いやだぁ、おじさんたら」と照れた。不動産屋の男は関心なさそうにそっぽを向いたが、哲平と美沙緒は型通り、おめでとう、と言った。女は一層、顔を赤くしてうつむいた。  室内はキッチンに続く小さなリビングルームに二間続きの和室があるだけの、何の変哲もない、ごく平凡な間取りだった。どこといって説明してもらうような所はない。  リビングに置かれた白木の安っぽいふたり掛け用ソファーと、その上に並んだふたつの赤いハート形のクッションを|微笑《ほほえ》ましい思いで見た後で、美沙緒は女に「どうもありがとう」と言った。「参考になりました」  女はうなずいた。「悪くない部屋ですよ。結構、日当たりもいいし、それに収納場所が多いから……」 「そうみたいですね」美沙緒は微笑んだ。哲平はその顔つきからすると、気に入らない様子だった。この狭さ、ごみごみした場所……というのが、我慢できないのかもしれない。  無理もない、と美沙緒は思った。あの広々とした二LDKの今の住まいを考えると、ここは寝るためだけに帰る、ただの箱みたいに見える。  部屋にいたのは、ものの二、三分だった。若い女に丁寧に礼を言って外に出ると、美沙緒は不動産屋に聞かれないよう、哲平に近づいて声をひそめた。 「私は断然、さっきの貸家のほうがいいと思うわ」 「そのようだな」 「値段のわりには、あっちのほうが広く使えるわよ。庭があるのが何といっても魅力だし……。それに今すぐ入居できるわ。あと一か月もあそこに住んでなくちゃならないなんて、考えられないでしょ」 「ただ、あの貸家は駅から遠いな」 「何を|贅《ぜい》|沢《たく》言ってるの」美沙緒は彼の|脇《わき》|腹《ばら》をつついた。「私は、一刻も早く、あそこから出たいだけよ」 「わかってる」彼はつぶやき、|眉《まゆ》をひそめた。  ふたりは男の車で不動産屋の事務所に戻り、内金を支払って貸家のほうの仮契約をした。本契約は翌々日、銀行から金を引き出してきた時に取り交わす予定で話がまとまった。  翌二十一日の日曜日、朝早く、電話が鳴った。不動産屋の男からだった。 「困ったことになりました」重大な異変を知らせる時に決まって人がやるように、男はささやくような低い声でそう切り出した。「あの家、燃えてしまったんです」 「何ですって?」 「お宅さまが仮契約なさった、あの一戸建て。ゆうべ、突然、どこからか出火して全焼ですよ」  美沙緒は口に手を当てながら、そばにいた哲平と目を見合わせた。 「きれいさっぱり」男はさらに低い声で続けた。「きれいに燃えてしまったらしくて。ここだけの話、出火原因はわからないらしいんです。電気もガスも切ってあったはずですしね。放火だったんじゃないでしょうか」 「あの家だけが燃えたんですか」  哲平が立ち上がってそばにやって来た。受話器の向こうで、男が低い声で答えた。「はあ。そのようです。困りました。私もさっき連絡を受けたばかりでして。せっかくお気に召していただいたって言うのに。どうします」 「どう、って……」美沙緒は口ごもった。背筋に冷たい虫が|這《は》い上ってくるような寒気を覚えた。「どうする、って言っても。燃えてしまったところには住めないでしょう」 「内金もいただいていることですしね」男は慌ただしく計算するように言った。「どうでしょう。もうひとつご覧になったあのマンションになすったら。お手続きのほうは何もいりません。貸家の分をそちらに回しておきますけれども」 「考えさせてください」美沙緒はしどろもどろになりながら言った。「主人と相談して、後ですぐにお電話しますから」  電話を切った後、美沙緒は哲平をじっと見つめた。「火事だって?」哲平が聞いた。美沙緒はうなずいた。 「燃えちゃったんですって。あの家。全部」  ふたりはそれぞれ、胸の中で渦を巻き出した不吉な思いと戦いながら、黙ったままでいた。 「仕方ないな」哲平は静かに言った。「あのマンションのほうにするか」 「それがいいわね」美沙緒は不器用に|微笑《ほほえ》んだ。「あそこも悪くないわよ」 「どこだって、ここよりはましさ」  哲平はそう言って、落ち着かなげに|煙草《たばこ》に火をつけた。      〔16〕 [#地から2字上げ]7月1日  田端末男が、心臓の具合を損ねて|床《とこ》に|臥《ふ》すようになってから、妻の光枝は連日、外出を続けていた。  セントラルプラザマンションの管理人という立場を正当に放棄し、精神的ショックのために体調を崩した夫と、決して若くはない自分が今後、安心して暮らせる新しい住居、もしくは新しい職業を探すためには、気が遠くなるほどの煩雑な手続きが必要だったが、それをやれるのは自分しかいないという現実が光枝の神経を|強靱《きょうじん》にさせていた。  マンションの管理会社では、残った住民が一世帯しかなくなった、という事実を重く見て、今後の対策に苦慮していた。そのせいか、管理人が辞職願いを出したところであまり驚かず、簡単に受理してくれた。  その際、いくつかの質問……|何《な》|故《ぜ》、辞める気になったのか、といった|類《たぐい》のごく常識的な、|誰《だれ》でも聞くような質問……をされたが、光枝は相手が納得するような形でしか答えなかった。  いったい誰が「あのマンションは|化《ばけ》|物《もの》屋敷だ」と言われて信じるだろう。「あそこを引っ越して行った人たちは、全員、そのことに気づいていたからだ」と言われて、どこの誰が本気にするだろう。  住人も一世帯だけですし、と彼女は答えた。私どもがいる必要性もなくなったようですし、それに主人が心臓を悪くして空気のいいところに行きたいと申しておりますので……。  光枝を引き止める理由は管理会社のほうでも何も持っていなかった。  三、四日続けて知人を訪ね歩いたり情報を集めたりしているうちに、ある企業が|伊《い》|豆《ず》の社員寮の常駐管理人を募集していることを知った。光枝は本社に履歴書を送り、面接日に指定された日に末男をタクシーに乗せ、ふたりで出向いて行った。  結果が出るまで四、五日かかった。採用連絡を受けた時、光枝は|嬉《うれ》しくて十数年来、したことのなかったことをした。末男の首っ玉に抱きついてみせたのである。  採用は八月からだったが、それまでに引っ越して来られるのなら、それでも構わない、ということになった。光枝は七月一日のこの日、運送屋を雇い、さほど大きくない小型トラックをマンション前に横づけにさせた。  やって来た運送屋はふたりとも無愛想だったが、そんなことは気にならなかった。梅雨の合間の、よく晴れた日だった。末男はすっかり元気を取り戻し、張り切って陣頭指揮をとった。  いざ出て行くとなると、どれほどいやな思い出が残る場所でも、何らかの感傷に近い反応がおきるのが常だった光枝に、今回は何も気持ちの揺れが起こらなかった。彼女は出て行くことの喜びをかみしめ、次に住むことになる新しい住まいのことばかり考えていた。  そこには霊園もなく寺もなく火葬場の黒い煙もない。故障するエレベーターもなく、突然、電気が消えたり、かまいたちが起こったりする地下室もない。あの、おぞましい、思い出すだけで吐き気がするエントランスドアの手形もないのだ。  あるのは緑の木々と、遠くに聞こえる海のざわめき、新鮮な魚、太陽……。  末男は一瞬、地震の多い土地であることに懸念を持ったようであったが、ここで起こったことと比べたら、地震のひとつやふたつ、何も怖くはないように光枝には思えた。  後に残される形になる八階の加納一家のことが気になってはいたが、それも結局はどうでもいいことのように思えた。  残される、ったって、たったの一週間かそこらじゃないの。  光枝は指折り数えて、そうつぶやき、軽く鼻を鳴らした。たったの一週間。なんとかなるだろう。いや、なんとかなるものだ。出て行くことが決まってさえいれば、しのぐことは可能だろう。  借りるつもりでいた庭つきの貸家が火事で燃えてしまったため、仕方なく二DKのマンションに決めて、それで引っ越し日が延びたというが、延びたと言ってもたったの一週間かそこらの話だ。  それに……と光枝は|喉《のど》の奥で渦巻いている言葉を正直に反復した。今、私らは他人にかまっている余裕なんかありゃしないんだ。  いつになく、そうした割り切った考え方をする自分の中に、同性として、美沙緒を|妬《ねた》む気持ちがあることも、彼女は否定しなかった。  幸福そうな……何の問題もなさそうな恵まれた結婚をし、|可愛《かわい》い子供に恵まれ、まだ充分に若く、そのうえ仕事まで持っている美沙緒のような女は、本当のところ、光枝には|疎《うと》ましい存在だった。  末男との間にはどういうわけか、子供ができなかった。今のように不妊症の研究が進んでいる時代ではなかったせいもあり、子供は授かり物であると信じて待ち続けながら、何ら対策をたてないままにここまできてしまった。  子供がいないことで、夫婦の間に溝ができたことは一度もなかったし、末男はかえって気楽でいい、と思っていたらしい。しかし、光枝は始終、そのことで寂しい思いをしていた。  女として、人間として、何か半人前のような気がする。子供がひとりでもいれば、|今《いま》|頃《ごろ》は時々、訪ねて来てくれて、老夫婦が抱える様々な現実的な問題を簡単に解決してくれたに違いない。そして、その子供は、両親がこのセントラルプラザマンションの管理人を始めると言った時から、何かを見抜き、反対してくれていたかもしれない。  何かが欠けている、という意識を持ちながら生きてきた光枝は、美沙緒のような完全無欠に見える生活をしている女には近寄りがたいコンプレックスを持っていた。  しかし、だからと言って意地悪をしたり、|噂《うわさ》を|捏《ねつ》|造《ぞう》してばらまいたりするのはいやだった。醜悪な自分は見たくない。そんなことをしたらかえって自分が惨めになることはよく承知していた。そのへんの老いた女のように、他人を|妬《ねた》み、愚痴を言う人間にだけはなるまい、というのが光枝の信条だった。  荷物を全部、積み終え、運送屋にチップを包んで送り出してから、光枝と末男は手早く用意しておいた外出着に着替え、管理人室にきっちりと|鍵《かぎ》をかけて八階の加納一家を訪ねた。  水曜日だったので、哲平は仕事で不在だったが、美沙緒はいた。 「お先に出て行くことになりまして」そう言って愛想よく光枝がお辞儀をすると、美沙緒はやつれた顔を神経質そうにほころぼせ「よかったですね。いいところが決まって」と言った。 「是非、そのうち遊びにいらしてください。夏休みに玉緒ちゃんと一緒に」末男がはずんだ声で言った。「海まで歩いて五、六分なんですよ」 「ありがとう。是非、寄らせてもらいます。少し上がって行きません? お茶でも……」  光枝は残念そうに首を振った。このマンションには一分だって長くいたくなかった。「トラックよりも先に向こうに着いていたいんで……。少しでも早く出発しないと……」  そうね、と美沙緒はうなずいた。それまで気がつかなかった細かい|皺《しわ》が目の回りに浮いて見えた。 「まったく、とんだことになっちまって……」末男が、もじもじしながら言った。「まさかね。こんなふうにして全員がいなくなっちまうとはね。|誰《だれ》もその理由を信じてはくれないでしょうね」 「心細いわ」美沙緒が唇の端をかすかにひきつらせながら言った。「ねえ、本当に少しだけでいいですから、上がっていきません? お願いします。たった今、いやな電話が入ったばかりで、私、とってもひとりではいられなくって……」  美沙緒の顔はみるみる白くなり、それと反比例するかのように、白目の部分が血走り始めた。呼吸が荒くなり、ブルーグレイのたっぷりとしたサマーセーターの胸のあたりが、大きく波打った。光枝は思わず夫と顔を見合わせた。 「どうなすったんです、奥さん」  美沙緒は泣き出しそうな顔をしながら手を額に当て、息を吸った。「さっき、不動産屋から連絡が入ったんです。今週、引っ越す予定になっていたマンションのことで……」 「なんかあったんですか」 「ええ」 「引っ越し日が延びた……とか」  彼女はまた大きく息を吸いながら、ゆっくりと頭を横に振った。「死んだんです」 「死んだ?」  光枝は息をのんだ。「|誰《だれ》が……死んだんです」 「信じられません」美沙緒はチック症にかかったように|頬《ほお》の肉を震わせた。「私たちが住むことになっていた部屋の女の人が、突然、亡くなったんです」 「どうしてまた……」 「さあ……」 「ご老人でしたの?」 「まさか」美沙緒は弱々しく不自然な笑みを浮かべた。「私よりもずっと若い、健康そうな元気なお嬢さんでした。二十三、四歳って感じでした。私たち、部屋を見に行った時、会ってるんです。結婚するので、部屋を引き払うんだ、って張り切ってたわ。なのに、突然、亡くなったんですよ」 「いやですよ、そんな話」光枝はぶるっと震えた。「そんな……そんな話、いやですよ」  ええ、と美沙緒は力なくうなずいた。「引っ越しどころじゃなくなったわ。死因がわかるまでは、しばらく部屋はそのまま、残されるでしょうし、それに第一、人が亡くなったすぐ後に住むなんて、どう考えたって……」美沙緒は言いかけ、つと目を遠くにそらした。「ねえ、田端さん。私、恐ろしくて恐ろしくて……」  うんうん、と光枝は夫とともに大きくうなずいた。|喉《のど》まで出かかり、危ういところで呑みこんだ言葉が、光枝ではなく美沙緒の口から|洩《も》れた。 「まるで、私たちがここから出て行くのを、何かが邪魔してるみたいだわ。私たちが出て行こうとすると……何かがおこるのよ」  光枝が黙ったまま夫を見上げると、末男は肉眼でもはっきりそれとわかる大粒の鳥肌を首のあたりにたてて、彼女を見返した。美沙緒がひとり、続けた。 「あの、借りることになっていた貸家が、火事になったことも、偶然とは思えない。そのうえ、人が死ぬなんて、こんな恐ろしいことがあるかしら」  美沙緒は光枝にすがりつくようなまなざしを投げ、ああ、と吐息をつきながら前髪をかき上げた。「ごめんなさい。せっかく出ていける|嬉《うれ》しい日なのに、お引き止めしちゃって。つい……」 「いいんですよ」光枝は彼女の腕を両手でつかんだ。「|諦《あきら》めないで、次を探すんですよ、奥さん。頑張って。今回のことは、ほんの偶然かもしれないんだから。そうよ。偶然だったんですよ」  そう言いながら、こんな励まし方は間が抜けている、と光枝は思った。偶然? 借りようと思っていた貸家が偶然、焼け落ち、借りようと思っていた部屋の住人が、結婚を前にして偶然、原因不明の死を遂げるだろうか。  美沙緒はうん、うん、とうなずいていたが、やがて、思い直したように姿勢をただし、玄関のシューズケースの上からきれいなピンク色のリボンに包まれた箱を取り上げた。犬がそばにやって来て、ふたりに向かって尾を振った。 「お|餞《せん》|別《べつ》のつもりです。甘いものがお好きだったから、マドレーヌの詰め合わせ。汽車の中ででも召し上がって」  まあ、と光枝は顔をほころばせた。太刀打ちできないほど、この女性は|完《かん》|璧《ぺき》だ、とふと思った。ずっとここにいられたら、もっと心を通わせる近所づきあいが出来ていたかもしれない。こんな時に、こんな心配までしてくれるなんて……。 「じゃあ、奥さん。お元気でね」光枝はもう一度、美沙緒の腕をとって言った。「しっかりするんですよ。どうしようもなくなったら、私たちのところまで連絡ちょうだいね」  まるで我が子を案じる母親みたいだ……そう思っただけで、光枝は美沙緒|憐《あわ》れさに涙が出そうになった。美沙緒は|罠《わな》にはまった小動物のような、半ば|諦《あきら》めた、悲しい目をして夫妻を交互に見ていた。  さぞかし心細いことだろう、と光枝はいたたまれなくなった。自分がこの人の立場だったら、気が狂っていたかもしれない。  末男が黙ってエレベーターの呼び出しボタンを押した。扉が開き、光枝は末男に促されながら中に乗った。美沙緒が軽く手を振り、ふたりとも手を振り返した。  扉が閉まり、ごとんという音と共にエレベーターが下降し始めた。光枝はそっと末男の腕をとった。 「いやな話を聞いてしまったもんね。ほんとにあの人たち、無事でいてくれるかしら」 「わからん」 「あんた、偶然だったと思う?」 「何が?」 「突然、それまで元気だった人が死んだり、火事になって家が燃えたりしたことよ」 「偶然なんかじゃないさ」彼は小声で言い、じっと妻を見つめた。「とにかく静かにしろ。|俺《おれ》たちだって、まだ危ない……」  光枝は震え上がった。井上一家が引っ越して行った時の、あのおぞましい手形が脳裏に〈よ〉|甦《みがえ》った。  祈る思いで目を閉じていると、エレベーターは当然と言いたげに一階で停止した。ホールに飛び出すと、入口のガラス扉は開いたままになっていた。  光枝はすべるようにしてそこを通り抜け、夫が幾分、神妙な顔をして外に出て来るのを確認すると、初めて真綿のような柔らかな|安《あん》|堵《ど》に包まれた。全身の緊張が少しずつ緩み、それに伴って毛穴が徐々に太陽に向かって開いていくような感じがした。  日ざしが強く、空気は湿って蒸し暑かった。美沙緒からもらった|餞《せん》|別《べつ》の箱を大きなバッグに入れ、光枝は深呼吸をした。  墓地のほうから、線香の|匂《にお》いが流れてくる。たくさんの墓石を横目で眺めながら、もう二度とこんなところで暮らさないでもいいことを思うと、足取りが軽くなった。  しばらく歩いてふと振り仰ぐと、セントラルプラザマンションの建物が、太陽を受けてきらきら輝いているのが見えた。  あんまり輝いているので、|眩《まぶ》しく、八階の加納家のベランダは光の渦の中にまぎれてはっきり見えなかった。光枝は目を細め、額に手をかざした。  長く見つめていると、|眩暈《めまい》がしそうだった。太陽を受けて反射しているのではなく、建物自体が輝きを発しているようにも見えた。  だが、光枝はそのことを夫に言わなかった。ふたりは黙って肩を並べて墓地の|脇《わき》を抜けた。  国道に出てタクシーを拾った。ふたりは中に乗り込み、末男が「東京駅まで」と言った。自動ドアが閉まるか閉まらないうちに、一瞬、タクシーのリアウィンドーに射るような光が当たって車内に砕け散った。何かが|炸《さく》|裂《れつ》した時のような白い光だった。映画で見たことのあるレーザー光線のような……。  光枝は驚いて目をつぶったが、運転手がその光に気づいた様子はなかった。  車は発進した。光は消え、車内はもとに戻った。末男はしきりに目をぱちぱちさせていた。  今、ものすごい光を感じなかった? と聞こうとして口を開きかけた時、運転手が場違いなほどのんびりした口調で話しかけてきた。 「いいお天気になりましたねえ。このまま梅雨が明けてくれればいいんですがねえ」 「そうね」と光枝は調子を合わせた。 「今年の梅雨は去年よりも雨が多かったからね。晴れてくれるとほっとするね」 「ほんとにね」 「東京駅からどこかに行くんですか? ご夫婦そろって旅行?」 「いえ、旅行じゃないんだけど……」  光枝は心の底に|沈《ちん》|澱《でん》して消えない恐怖心を追い払おうと、必死の思いで運転手に|喋《しゃべ》り始めた。 「引っ越しなのよ。伊豆高原に。ううん、家を建てたわけじゃないのよ。そこにある会社の寮の住み込み管理人をやることになって……」そう言うと、四十がらみとおぼしき運転手は「へえ」と興味深そうにバックミラーを|覗《のぞ》いた。 「ご夫婦ふたりで?」 「そうよ」 「いいですね。伊豆の海は|湘南《しょうなん》よりずっときれいだしね。夏も涼しいだろうし」 「空気もいいし、老人には向いてるのよ」 「お孫さんたちも喜んで行くだろうしね。楽しいだろうね」 「孫はいないのよ。私たち子供がいないから」 「そう? じゃあ、さっき見送ってた人たちはお子さんたちの家族じゃないのか」 「見送ってた?」光枝はバックミラーではなく、運転手の背中に向かって聞いた。「|誰《だれ》が?」 「誰だかは知らないけど、立ってたよ」 「どこに?」末男が低い声で聞いた。運転手は前をのろのろと走るトラックに舌うちして、エンジンをふかし、軽々と追い抜いた後、またバックミラーを|覗《のぞ》いた。 「あそこにお寺があったでしょ。その前に人がたくさんいたじゃないですか。十人くらい。ちっちゃな子供とかその両親とか何かがさ」  末男はちらりと光枝を見た。「そんな見送りはいなかったよ。我々ふたりだけで乗ったんだから」 「そう? じゃあ、あれは別のグループだったのかな。でも変だな。お客さんたちに手を振ってたように見えたけどな」  手を振っていた?  光枝は音をたてて|唾《つば》を飲みこんだ。さっき、あそこの国道に出たところには、自分たち以外、グループ連れの人間はひとりもいなかった。確かだ。誰かがいたとしても、決して自分たちのそばにいたわけじゃない。まして子供連れの人間が大勢いて手を振っていたなど、断じてあり得ない。 「お子さん一家じゃないのなら言うけど、なんだか陰気な顔をした連中でしたよ。寺で葬式でもあったのかもしれないね。黒っぽい服を着てたもの」  光枝と末男が口を閉じると、運転手は今度は、二年前の夏に伊豆の海に|潜《もぐ》りに行ったという話を始めた。 「よかったよぉ。あれは一度やったらやめられないね。|俺《おれ》、ダイビングのライセンス持ってないんだけど、初めてやってすぐに潜れたよ。簡単、簡単。もともと水が怖いと思ったことはないしね。潜った後のめしがまたうまいんだよ。新鮮な魚ばっかりだしさ。いいなあ。俺も今年また行こうかな」  光枝は窓の外に目をやったまま、何も聞いていなかった。      〔17〕 [#地から2字上げ]7月25日 「あたしのお部屋は二階なの?」  玉緒がわくわくした口調で聞いた。美沙緒は大きくうなずいた。 「ねえ、このおうち、とんがりお屋根なのね」  美沙緒は|微笑《ほほえ》み、またうなずいた。こんな会話を交わせるようになったことが、未だに信じられない思いだった。今も、突然、何かがおこって、すべての引っ越し計画が|破《は》|綻《たん》に至るのではないか、と心ならずもびくびくしている。だが、それも今夜だけ。翌日は、もう、ここに引っ越して来られるのだ。  新しくするつもりで買ってきたトイレカバーやスリッパなどをひと抱え、どさりと音をたてて転居先の貸家のがらんとした居間に置くと、美沙緒はふーっと|溜《ため》|息《いき》をついた。  その貸家は、高井野駅北口から歩いて十五分ほどのところにある、二階建ての家だった。あの火事と女性の死があってから、引っ越しはもう不可能なのではないか、と思っていた矢先、偶然、哲平の仕事先のコピーライターに紹介されたものだった。持ち主が美沙緒のイラスト仲間とも間接的な知り合いだったことがわかって、美沙緒も哲平も飛びついた物件である。  木造の、とんがった屋根がついた家だった。一階に十畳のリビングと五畳のキッチン、四・五畳の和室。二階に六畳の洋室が二部屋。屋根裏には|納《なん》|戸《ど》までついている。三角屋根のせいで、遠くから見ると、小さな積み木の塔が立っているように見えた。  部屋数も造りも、ほとんど文句のつけようがなかった。持ち主はニューヨークに三、四年住む予定になっており、その間、加納一家に住んでいてもらうのは、こちらこそ有り難い話だ、と喜んでくれた。  猫の額ほどの庭には、芝生が植えられていた。室内練習用のゴルフのグリーンみたいに人工的でちっぽけな感じがしたが、よく手入れされており、どこかほっとする、家庭的な眺めだった。  美沙緒は玉緒に手伝わせてリビングの|床《ゆか》を|拭《ふ》き、買ってきた小物を各所に設置した。カーテンはこれまで使っていたものでも間に合いそうだったし、家具も全部、なんとか押し込むことができる。ただ、ひとつ、大きな乾燥機つきの洗濯機を置く場所がなかったが、それも当面は化粧室の前の廊下に置いて使えばよさそうだった。  日当たりの抜群にいい南向きの家は、あれだけ続いた|梅《つ》|雨《ゆ》の後だというのに、驚くほど乾いていた。クローゼットの奥に乾いた綿ぼこりを見つけた時、美沙緒はその明るさ、陽気さ、健全さのようなものに対し、思わず|安《あん》|堵《ど》の溜息を|洩《も》らした。  また新しくやっていける。|所《しょ》|詮《せん》、自分たちはマンションを買うなどということから縁遠かったのかもしれない。初めから、条件のいい貸家や貸しマンションを選んで転々と気ままに移り住んでいればよかったのかもしれない。結局は人にはそれぞれ、その人に見合った住居の選び方というものがあるのだ。  火事のことと、とりわけ、あの若い女の子が突然、死んだことは美沙緒の頭から離れたことはなかった。おかしなことだが、幸福そうな顔をした女の子の、あのまくったジーンズから|垣《かい》|間《ま》見えた小麦色の足首と、ふたり掛け用のソファーの上に転がっていた赤いハート型のクッションが、いつまでもまぶたに焼きついて離れない。  死因は結局はっきりしないままだった。後になって何かわかったのかもしれないが、見知らぬ女の子の死因について、美沙緒のところに連絡が入ろうはずもない。  偶然だったんだ。美沙緒はそう思うよう努力した。そう思っていなければならない、と信じた。何があっても、そう思わねばならない。ともかく、今はそうやって、|逞《たくま》しく時間を乗り越えていかねばならないのだ。 「このおうち、好きよ、ママ」玉緒が庭に降りて、四角い芝生の上を|裸足《はだし》のまま飛びはねながら言った。「ねえ、ママも好きでしょ?」  どこからか巨大なアゲハ|蝶《ちょう》が飛んで来て、芝生の上をゆらゆらと舞った。「大好きよ」美沙緒は答えた。答えながら、アゲハ蝶は黒くて不吉だ、と思った。彼女はそっと、手を振って|漆《しっ》|黒《こく》の大きな蝶を追いやった。蝶はしばらくの間、家の周りを|嗅《か》ぎまわるかのようにゆらゆら羽ばたいていたが、やがて塀の向こうに飛んでいった。 「明日の今ごろは、もうクッキーもパパもこのおうちにいるわね。クッキー、お庭で寝るの?」 「そうね。でもクッキーは甘えん坊だから、ひとりで寝られないんじゃない?」 「そんなことないよ。クッキーは強いのよ。勇気がある犬なんだから」 「勇気?」美沙緒は|微笑《ほほえ》んだ。次から次へとたくさんの言葉を覚えてくる玉緒は、日一日と成長していくような気がする。もう、ピヨコの話はしなくなった。忘れたのか、それともあの話をすると母親がいやな顔をするとわかっているからか。いずれにしても、何かを判断して、自分の中で処理していく能力が芽生え始めたのは|嬉《うれ》しいことだった。  翌日、越してくることになっている家の玄関に|鍵《かぎ》をかけ、美沙緒は玉緒と手をつなぎながら駅までの道を歩いた。静かで清潔な道は、狭いながらも趣向を|凝《こ》らした家々に囲まれ、一ブロックごとに公園や雑貨屋などがあった。 「ねえ、玉緒。最近、ピヨコは来なくなったの?」  美沙緒は歌うように|訊《たず》ね、玉緒のかぶっていた白い帽子のつばを直してやった。玉緒は|訝《いぶか》しげに、試すような視線を美沙緒に投げたが、やがて「来るよ」とぽつんと言った。 「来るの?」 「うん。毎日じゃないけど。やっぱり来るよ」 「それで? ピヨコ、何て言ってた? 玉緒が引っ越してしまうことを知ってるんでしょ?」 「早く引っ越したほうがいいよ、って教えてくれた。あそこんとこのマンションはもう、住んでちゃだめなんだって」  そう、と美沙緒は言い、空を振り仰いだ。|眩《まぶ》しい日の光がまぶたにあふれ、顔に当たってはね返った。 「どうしてピヨコはそう言うのかしらね」 「わかんない。ピヨコはずっと前からそう言ってたよ」 「ピヨコは何か知ってるのね」 「うん。でも鳥だから、上手にお話ができないの」  こんな会話を交わすことは玉緒に何か欠陥があるのだ、と思っていたころの自分が美沙緒には懐かしくさえあった。今では別段、何の動揺も感じない。あれだけのことを経験してしまうと、死んだ小鳥が子供の魂に語りかけてきたって、何の不思議もないことのように思えてくる。 「今夜が過ぎれば、もう大丈夫」美沙緒は誰に言うともなくつぶやいた。「きっともう、ピヨコも来なくなるわ。玉緒が心配だったから来ていたんでしょう? 明日からは、もう、心配することがなくなるんだもの」  明日からは……?  その明日という日は間違いなくやって来るだろうか。そう案じている自分を知って、美沙緒はぎょっとした。玉緒は小さな手に粘り気のある汗をかきながら、母親を見上げ、心もとない目をしてうなずいた。  小さな子供を連れたいい大人が、こんな上天気の夏晴れの午後に、いまだ振り切れずにいる不安を抱えていることは、許されないことだ、と彼女は思った。|角《かど》を曲がり、あと少しで駅が見えてくる場所にさしかかったところに、一軒のアイスクリームショップがあった。美沙緒は元気のいい声を出して「玉緒、アイスクリーム、食べようか」と言った。  玉緒は「わーい」とはしゃいだ。「チョコレートのアイスクリームがいい」 「ママはラムレーズンにしようっと」  ふたりは制服姿の女子高校生たちでごった返す店の中に、手をつないだまま軽い足取りで入って行った。その足もとに巨大な一羽のアゲハ|蝶《ちょう》が一瞬、まとわりつき、やがてふっとどこかへ消えた。  その日の夜に達二夫妻がやって来た。直美はもともと義理の兄夫婦の引っ越しなど手伝いたくはなかったらしい。これから海辺のテラスにでも出かけるような派手な花柄プリントのサマードレスを着て、手首にじゃらじゃらとブレスレットを下げている。おそらくは夫の達二に言われて、不承不承、やって来たに違いなかった。  達二に運転してもらい、哲平が居間のカーテンを新居に取りつけに行っている間、美沙緒は直美と共に簡単な夕食を用意した。なるべく食器を使わないでおきたかったので、カレーライスにし、冷蔵庫の中身も整理する必要があったため、ありあわせのサラダも作ってボールにひとつ盛りにした。  直美は始終、ファッションの話や旅行の話をし、合間に用心深げな様子で「今度、マンションを買うのはいつごろになりそう?」とか「経済状態のほうはいかが?」とか聞いてきたが、美沙緒は笑って相手にしなかった。直美という女が、非常に育ちのいいお嬢さんで、そのために人と自分の距離を保つことが下手な人間に育ったことはよく知っていた。人と親しくなりたいと思うと、直美は必ず、|詮《せん》|索《さく》するか、さもなくば自分の意見を押しつけにかかってくる。  五年前の自分だったら、許せないタイプの女だったろうけど……と美沙緒は|微笑《ほほえ》ましく思っていた。直美は内心、美沙緒と仲よくできればいい、と本気で思っているに違いないのだ。 「でもよかったわね、美沙緒さん。今度の家はとても素敵だそうじゃない」 「おかげさまでね」 「ほんとに私、墓地とかお寺とかって、昔から苦手なの。ここに越したって知ってから、美沙緒さんもよく承諾できたな、って不思議に思ってたのよ」 「私は別に墓地やお寺はかまわないと思ってたし、今でもそうよ。そりゃあ、気分のいいものじゃないし、墓地じゃなくて公園だったらよかったのに、って思ったこともあったけど。これから都会で生きようとする人間は、たとえお化け屋敷だって平気で住めるような神経の太さを持ってなくちゃね。|贅《ぜい》|沢《たく》を言ってたら、住める場所なんかなくなっちゃう」 「まあね。そりゃそうだけど」直美は着ているドレスを汚したくないのか、ほとんど何も手伝おうとせずにキッチンカウンターに寄りかかりながら言った。「全員、引っ越して行っちゃうなんて、なんだか薄気味悪い話よね。今夜だって、ここにしか人がいないわけでしょ」 「私たちなんか、管理人さんが引っ越してからずっと二十日以上もここにいたのよ。今夜は直美さんたちもいるし、いつもより|賑《にぎ》やかなくらいだわ」 「こわくなかった?」 「こわいって何が?」 「墓地の真ん前で、たった三人の家族で住んでるって、こわいことじゃない?」 「直美さんもテレビの見すぎね」美沙緒はからからと笑った。「うちは誰もそんなこと、気にしなかったわよ。引っ越し先を見つけるのに、それどころじゃなかったもの」 「強いのね」直美が感心したように目を丸くした。「私だったら逃げ出してたわ」  私だってよ、と美沙緒は内心つぶやいた。  男たちが帰って来て、全員が食卓につき、がやがやと|喋《しゃべ》り合いながら食事をした。食事の後は哲平と達二がテレビのプロ野球中継を見ながら、キッチンの食器類を包むのを手伝い、直美は玉緒の部屋のぬいぐるみやおもちゃを箱に詰めるのを手伝った。  エアコンは翌日、取り外しに来てもらうことになっていたので、室内は充分、涼しかった。直美と達二が一緒に仲よく|風《ふ》|呂《ろ》に入った後で、美沙緒は哲平とともに弟夫妻のための|布《ふ》|団《とん》を玉緒の部屋に敷いた。玉緒は両親の寝室で寝かせればいい。 「今日はパパたちと一緒に寝るのね」  玉緒がぬいぐるみのクマのプー助を抱きながら中に入って来た。「プー助も一緒に寝るのよ」 「じゃあ、四人で寝るわけだ」哲平が玉緒の頭を|撫《な》でた。「なんだか旅行してるみたいで面白いね」  玉緒は楽しそうに笑い、やって来たクッキーの首輪を握りながら出て行った。 「近くに引っ越しだと気が楽だよ」哲平が敷き終えた布団をぽんぽんと手で|叩《たた》いて言った。 「達二さんたち、ほんとによかったのかしら」 「来たいって言うんだから、いいんだろ。どうせやつらは暇なんだ。せいぜい世話になるさ。それにしても直美のあの|恰《かっ》|好《こう》はなんだい。明日、あれで引っ越しを手伝おうっていうのかね。おひきずりのお姫様みたいな恰好で来てさ」 「いいじゃないの」美沙緒は苦笑した。「やってもらうようなことは少ないし、玉緒をみていてくれるだけでも助かるわ」  哲平はうーんと声を出して背伸びをし、ごろりと布団の上に横になった。 「ここを出ていくことになるとは思わなかったな、ついこの間、引っ越して来たばかりだ」 「誰だって思わなかったわよ。仕方ないわね。安全じゃないところにはいられないもの」 「俺たち、気が狂ってると思われるだろうな。もしこんな話を他で喋ったら……」 「喋らないことね。いずれ|噂《うわさ》はたつでしょうけど。明日からこのマンション、完全な空き家になっちゃうんだもの」 「わけがわかんないよ」哲平は天井を|睨《にら》みつけながらつぶやいた。「今でも俺は自分が見たものを信じられないでいる」 「夢だったのならいいのにね。起きてみたら、全部、夢で……ほっとして。昔よくそんなことがあったわ。もう絶体絶命の夢を見て、大声で泣いて、自分の不幸を|呪《のろ》って、それでぱっと目が|醒《さ》めると、いつもの自分のベッドがあって、窓からは朝日がさしこんでて……。|嬉《うれ》しくて嬉しくて……。あなたと一緒になってからもそんなことが何度かあったわ。起きてみるとあなたが隣に寝てるの。あの嬉しさったらなかった」 「でもこれは現実に起こってることなんだ。夢なんかじゃない」哲平はいくらか冷やかに聞こえる声で言った。  そうね、と美沙緒はうなずいた。しばらくの間、ふたりは黙っていたが、やがてどちらからともなく|微笑《ほほえ》み合った。 「つまり明日からは新しい生活が始まるってことさ。今はそれだけを考えていればいい」 「わかってる。ねえ、あなたは玉緒とお|風《ふ》|呂《ろ》に入る?」 「そうするよ。でもなあ、最近、玉緒は俺のおちんちんを見て必ず言うんだぜ」 「なんて?」 「あ、パパったらバナナ下げてる、って」 「それで?」と美沙緒はくすくす笑った。「それであなたは何て答えるの?」 「ばか。答えられたら立派だよ。赤くなって、湯船の中でうつむいてるんだ」  美沙緒は笑い声をあげて哲平の肩を|叩《たた》いた。「見間違えにしては、度が過ぎてるわね」 「からかってるんだよ、親を。とんでもない娘だ」  ふたりは笑いころげ、引っ越ししたら娘相手にまともな性教育を行わねばならない、と言い合った。  達二夫妻が風呂から出て来て、代わりに哲平と玉緒が入った。美沙緒は寝室の小間物を整理し、クローゼットの中にしまってある小型仏壇の中の玲子の|位《い》|牌《はい》を丁寧に布にくるんで手荷物のボストンバッグの底に置いた。  バッグの底に置いた時、位牌が少し動いたような気がした。くるんだ布地がめくれ、玲子の戒名がのぞいて見えた。美沙緒は一瞬、ぎょっとしたが、なんでもないことだ、と自分に言いきかせた。何かの加減で布が自然にめくれただけだ。  いずれにしても、明日からはこんなことでいちいち恐怖にかられるような馬鹿げた精神状態とはおさらばしなくちゃ、と彼女は思った。仕事をいくつかキャンセルした分だけ、また取り戻さねばならない。金はいくらあっても足りないほどだった。頑張らねば……。  達二が顔をのぞかせて「|義《ね》|姉《え》さん、ビール飲んでいいかい?」と聞いた。 「どうぞ。いくらでも。ただし二日酔いにならない程度にね。明日は朝が早いから」 「わかってますよ」 「ごめんね、達二さん。こんなことまでさせちゃって」 「いいの、いいの」と彼は笑った。「直美と合宿に来てるみたいで、なんだか楽しいよ」  ふたりは微笑み、おやすみと言い合った。      〔18〕 [#地から2字上げ]7月26日  脈絡のつかない夢ばかりを見て、熟睡しないまま朝を迎えた美沙緒は、身体のだるさを覚えながらやっとの思いでベッドに起き上がった。  七時半だった。頼んでおいたトラックが来るのは十時ころの予定になっている。あまりぐずぐずしてはいられない。彼女は隣で死んだように眠りこけている哲平の大きな背中を揺すぶった。 「ねえ、起きて。もう起きないと……」  哲平は不機嫌を丸出しにしたような顔で、半分目を開けると、その不機嫌の理由は君に対してではないんだよ、と言いたげに、美沙緒の腰に抱きついてきた。ふたりの間にいて眠っていた玉緒がぱっちりと目を開けた。 「おはよう」美沙緒は言ったが、玉緒は黙っていた。なんだかずっと起きていたみたいに見える。引っ越しで興奮しているせいだろう。 「さあ、みんな、ちゃんと起きて。まだやることが残ってるんだから」  はいはい、と言った後、哲平はくぐもった声で「天気はいい?」と|訊《たず》ねた。  カーテン越しに差し込んでくる光を見ながら、美沙緒は「上天気よ」と答えた。「夏晴れ。今日も暑くなりそうだわ。さ、玉緒も起きるのよ。着替えて顔を洗ってらっしゃい」  ゆるめにエアコンをつけておいたので、室内はまだ涼しかった。美沙緒はベッドから降り、手早くジーンズとTシャツを着た。少し動くと、うっすらと汗が出た。相当、暑い日になりそうだった。  玉緒がびっくり箱から飛び出てきた人形のように、がばっとはね起きた。 「ママ」 「なあに?」 「大丈夫?」  美沙緒は首を|傾《かし》げながら、立ったままもう一度「なあに」と聞いた。「何のこと?」  パジャマの前をはだけたまま、起き上がって来た哲平が、目だけぎょろぎょろと動かして美沙緒と玉緒を見た。  玉緒は、眠り足りた後というよりも、まったく眠らずにいた子供特有の、不自然に涼やかな目をして、美沙緒を見つめた。 「玉緒、あなた、ちゃんと眠ったの?」  うん、と玉緒はうなずいた。 「本当? パパとママが寝相が悪くて眠れなかったんじゃないの?」 「今朝はいやにさっぱりとした顔をしてるのね、玉緒お嬢さんは」  美沙緒はおかしくもないのにくすくす笑い、玉緒のそばに行って額にかかった巻き毛をかき上げてやった。 「どうしたのよ、玉緒。大丈夫、って何のこと?」  わかんないけど、と玉緒は言った。「なんだか怖い」 「怖いって何が」  玉緒はぷっくりとしたピンク色の唇をぎゅっと閉じると、目を大きく見開いて激しく首を横に振った。 「何が怖いの、玉緒? 言ってごらん」  今にも泣き出しそうな顔をして、玉緒はそばに転がっていたぬいぐるみを抱きしめた。美沙緒は、いまや完全に目を覚ました様子の哲平と視線を交わし合った。哲平は不器用に笑顔を作り、娘の肩を抱いた。 「怖い夢でも見たんだろ」  玉緒は上目遣いに哲平を見て、「夢じゃないもん」と言った。「でもなんだか怖いの」  一瞬、背中にぞっとするものが走ったが、彼女は努めてそうした不安を追い払った。こんなに天気のいい日に怖いことなど起こるはずがない。今日は引っ越しで、あと数時間もすればトラックが来てみんなを新しい家に連れて行ってくれる……そんな言葉をやんわりと玉緒に聞かせてやりながら、まるで自分に言いきかせているようだ、と改めて寒気を覚えた。  哲平が寝室のカーテンを開けた。サッシの出窓にぱっと朝の光が満ちた。家族が起き始めたことを知ったクッキーが、ドアの外で鼻を鳴らし始めた。  いつもと変わらない朝だった。そして、いつもと変わらないうえに、新しい家に行けるという記念すべき朝でもあった。そのことをなんとかして玉緒に伝えようと、美沙緒はうーんと伸びをした。 「さあ、玉緒。クッキーがお|腹《なか》をすかせてるし、早く起きて御飯を作らなくっちゃね」  玉緒は急に興味を失ったようにしてぬいぐるみを|枕《まくら》の上に放り投げると、さっさとベッドから降りて来た。 「早く行こう、ママ」 「どこへ?」 「新しいおうちに」  そうよ、と彼女は|微笑《ほほえ》んだ。「決まってるじゃないの。早く行きましょう」  洗面をすませてからリビングに行き、コーヒーを作っていると、達二夫妻も起きてきた。直美は白の、身体にぴっちりとしたコットンパンツをはき、|襟《えり》ぐりが大きく開いた派手なプリント模様のシャツをウェストのあたりで無造作に結んでいた。 「眠れた? 直美さん」 「ええ、もうぐっすり。涼しくて気持ちよかったわ」  達二がトランジスタラジオをつけた。FM放送で、十時開店のデパートの宣伝をやっている。今日の催しものは、屋上でのドッグパレードです、と落ち着いた女の声が言った。セントバーナードからアフガンハウンド、秋田犬、それに小さな可愛いテリアやポメラニアン、チワワまでが勢ぞろい。ご家族そろってお越しください。会場では子犬の展示即売も行われます……。  直美が達二の横に立って、ふざけた調子でラジオのチューニングをぐるぐる回した。民放から流れて来る音楽やらDJやらが、テープを早送りした時のように目茶苦茶な騒音となって響いた。 「やめろったら」達二が笑った。「ばか。何してんだよ」  あはは、と直美は大きな口を開けて笑い、「テレビのほうがいいじゃない」と言ってラジオを切った。「日曜日だから、『世界の旅』をやってるはずだもの。美沙緒さん、テレビつけてもかまわない?」 「どうぞ」と美沙緒は答えた。内心、何か手伝ってくれればいいのに、と思ったが、それを口にするのは、はばかられた。頼んだところで、すんなりとやってくれるとは思えない。 「うちの奥さんは、海外旅行が好きでねえ」達二が肩をすくめた。「僕が連れて行ってやらないもんだから、最近では旅行番組ばかり見てるんだ。まあ、見るだけなら安上がりで結構な話なんだけども、そのうち連れて行かされる羽目になりそうで……」  テレビの前に行ってスイッチを入れた直美は、しばらくたってから「あら」と小さく叫んだ。 「ねえ、何よ、これ。なんにも映らない」 「ほんとだ」達二が言った。「アンテナ、はずしちゃったの? |義《ね》|姉《え》さん」 「はずしてないわよ」  トーストの間にハムをはさみながら、美沙緒はカウンター越しに顔を出した。テレビ画面はジャージャーと音をたてて斜めの線が幾つも走っているだけだった。  黙ってテレビに近寄り、チャンネルをいくつか換えてみた。どのチャンネルも同じだった。 「変ねえ」美沙緒は達二の顔を見た。「何もいじってないのよ。運送屋にまかせようと思ってたから」  達二はテレビの向きを変え、アンテナが入っているかどうか確かめた。  直美が「故障よ」と言った。「突然、故障しちゃったのね」 「まさか。ゆうべはちゃんと映ってたのに。突然、こわれるなんてこと、ある?」 「変だな」達二が言った。美沙緒は何かとてつもなくいやな感じがして、テレビから目をそむけた。  洗面をしていたはずの哲平が部屋に入って来た。彼は怒ったような足取りでリビングルームを横切ると、ベランダに面したサッシ戸に手をかけた。  それまでテレビを|叩《たた》いたり、チャンネルを換えたりしていた達二夫妻が、哲平を振り返った。誰も哲平に向かってテレビの故障のことは言い出さなかった。哲平の顔つきは異常に|強《こわ》|張《ば》っていた。彼は重々しくぼつりと言った。「おかしい」 「どうしたの」美沙緒は|喘《あえ》ぎそうになるのを極力、押さえながら聞いた。哲平は美沙緒を|睨《にら》みつけた。一瞬、美沙緒は怒鳴られるのではないか、と思った。 「開かないよ」 「何が?」 「窓だよ。窓が全部、開かない」 「馬鹿だねえ」達二がおどけて笑った。「|鍵《かぎ》をはずしてないんじゃないの? 鍵をかけたままいくら引っ張ったって開きゃしないよ」 「こっちに来てみろ」  哲平は達二の腕を引っ張った。達二がにやにや笑いながら、美沙緒に向かって目配せした。 「まだ寝ぼけてるみたいだね、この人」  美沙緒はそれに答える余裕もなく立ち上がり、サッシ戸に走り寄った。鍵は確かに開いていた。なのに、戸はびくとも動かなかった。 「開かないわ」 「寝室の窓も、玉緒の部屋の窓もみんな開かないんだ」  美沙緒は哲平をじっと見上げた。達二がぐいぐいと力をこめてサッシ戸を引こうとした。まるで壁を引きずりだそうとでもしているみたいに見えた。 「何なのよ!?」直美が叫んだ。誰も聞いていなかった。美沙緒は走り出し、玄関に向かった。祈る思いで玄関の扉を思いきり引っ張った。扉は難なく開いた。エレベーターがいつもと変わりなく横のほうに見えた。 「ここは開くわ」  駆け寄ってきた哲平は、ほっとした顔をして、ドアノブを握った。 「どうして窓だけ開かないんだろう」 「突然、誰かが外から窓を打ちつけたわけじゃあるまいし、だってここは八階よ」 「行って調べてみるといい。開かないんだよ。全部……」  よく見ると哲平は、誰かに殴られでもしたかのように目のまわりを青黒くしていた。 「顔色が悪いわ」 「君もだよ」  直美が寄って来て何かをわめきたて始めた。その横を黙って通り抜けながら、美沙緒は寝室に入った。朝の光がガラス窓越しに生暖かく注ぎこんでいる。乱れたままのベッドに熊のぬいぐるみが放り出されてあった。  |鍵《かぎ》が開いているのを確認してから、窓を引いた。開かなかった。開きにくいというのではない。窓は完全に、セメントで塗りこまれでもしたかのように、びくとも動かなかった。窓のむこうに、早くもぎらぎらとした太陽に照りつけられた|街《まち》|並《なみ》が見えた。空は澄みきっていた。青いというよりも紺色に近い空の色……。  玉緒の部屋も同様だった。直美は一緒になって窓に指をかけながら、「|嘘《うそ》でしょう」とわめいた。「嘘よ、こんなこと。信じられない」 「気象の関係かもしれないわ」ちっともそうは思っていなかったが、美沙緒は皆を安心させるためにそう言った。「湿度の関係か何かで、サッシのすべりが悪くなっただけよ、きっと」 「そうかな」達二が|嘲《あざ》|笑《わら》うように言った。「湿度で窓がまったく開かなくなるなんてこと、ある?」  そう思うようにしてよ、と美沙緒は心の中で叫んだ。そう思うようにしないと、あんたたちだって怖くてここにいられなくなるんだから!  玉緒はクッキーにしがみつきながら、目を大きく開けて皆の動きを見ていた。廊下は段ボールの山で、直美は箱のひとつにつまずき、|悪《あく》|態《たい》をつきながら足をさすり始めた。 「ま、考えていても仕方ない」達二がごまかしのある笑顔をみせた。「コーヒーでも飲んで、それからゆっくり窓開け作業にかかるとするか」 「どういうことなんだろう」哲平が低く|唸《うな》るように言った。「気味が悪い」 「だからさ」と達二は直美の足を一緒になってさすりながら、|苛《いら》|々《いら》したように言った。「墓地の前のマンションなんか買うとろくなことがない、ってことだよ」 「おまえは黙ってろ」 「怒鳴ることないだろ」達二は|軽《けい》|蔑《べつ》したようにふくみ笑いを浮かべた。哲平は深呼吸をして美沙緒を見た。美沙緒は何と答えたらいいのかわからず、玉緒のそばに行って小さな頭を抱き寄せた。      〔19〕 [#地から2字上げ]午前9時  全員が重い気分で朝食をとっている間、つけっ放しにしておいたラジオからはアメリカのポップスベストテンが次々に流れていた。直美が時々、気がなさそうに「この曲、知ってるわ」と言うと、達二は子供じみた対抗心を|剥《む》き出しにして「俺だって知ってるよ」と答えた。皆がコーヒーばかりを飲み、ハムトーストのお代わりを申し出る者はいなかった。  十時まであと一時間以上もある。それまでにやるべきことはたくさんあったが、一時間以上もここにいることを思うと、美沙緒は鳥肌がたった。 「ねえ。運送屋に電話して、もっと早く来てもらうことにしましょうか」  美沙緒が哲平に言うと、彼も即座に同意した。「今すぐでもいいんじゃないか。駅前の運送屋だから、融通がきくだろう」  美沙緒は、見積りに来てもらった時に運送屋が置いていった名刺を自分のショルダーバッグから取り出すと、電話の受話器を取った。  異変に気づいたのは、受話器を耳に当てがったすぐ後だった。何度もフックを押してみた。彼女は冷水を浴びたような感じがして、受話器を握りしめたまま、低い声でつぶやいた。 「通じない」 「電話番号が間違ってるんじゃないか?」  美沙緒はゆっくりと首を横に振った。「電話自体が通じてないのよ」  居合わせた全員が互いに顔を見合わせた。誰も何も言わなかった。達二が持っていたコーヒースプーンを乱暴に皿の上に|叩《たた》きつけた。 「どうしたっていうんだい、このうちは。テレビは壊れる、窓は開かない、お次は電話だ。お化け屋敷じゃあるまいし……」  直美が両手を口に当てた。真っ青にアイシャドウを塗った目が左右に大きく動いた。 「ちょっと下を見てくる」哲平が|椅《い》|子《す》を|蹴《け》るようにして立ち上がり、廊下に走り出た。 「下、って? 何を見るの?」美沙緒が慌てて後を追った。「あなた、まさか、地下室を……」 「違うよ。ただ、外を見て来るだけだ」 「ねえ」と彼女は哲平の着ていた黒のTシャツを握りしめた。「何なのかしら」  わからない、と彼は小声で言った。 「私も行くわ。ねえ、達二さんの車で運送屋までひとっ走りして、早く来てくれるよう頼んできたら?」 「それがいい」哲平は玄関を開けて外に出た。ママ、と玉緒が追って来たが、美沙緒はそれを手で制した。「ママはどこにも行かないわ。それより達二おじさんを呼んできて」  玉緒が呼びに行くよりも早く、達二が玄関先に現れた。「運送屋を呼びに行くんでしょう? 俺が行ってくるよ。場所はどこ?」  わざとふてくされたような物の言い方をしたが、その顔には不安が宿っていた。 「あとで教える」哲平はむすっとしてそう言うとホールに出てエレベーターの呼び出しボタンを押した。  美沙緒は直美に玉緒を見ていてくれるよう頼み、男たちふたりと一緒にエレベーターに乗った。  達二はズボンのポケットから車のキイを出して、じゃらじゃら鳴らした。「やんなっちゃうな」と彼は顔中に苦笑を浮かべた。「|真《ま》|面《じ》|目《め》な話、いったい何なんだい? 兄貴たちのところが引っ越す前に、もう無人化したマンションだと思われてたんじゃないの? 電話まで切られちゃってさ」  哲平が答えなかったので、達二は美沙緒に同意を求める目つきをした。美沙緒は力なくうなずいた。 「えらい面倒な引っ越しになっちゃったな。まいるよ、まったく」不自然にかん高い声でそう言うと、達二は車のキイをお手玉のようにして宙に投げた。  哲平は黙って表示板を見つめていた。5……4……3……2……。明かりが1のところにくると、エレベーターはかすかに振動しながら止まった。ゆっくりと扉が開いた。  哲平が先に飛び出し、続いて美沙緒が出た。わーっと哲平が叫んだのと、美沙緒が立ち止まったのはほぼ同時だった。  入口のガラスドアは真っ白だった。ペンキでも塗ったかのように真っ白で、外がまったく見えない。 「何なんだい、これは」達二が目を見開いて、哲平と美沙緒を交互に見た。「ひでえ、いたずら……」  哲平は黙ってドアの近くに寄った。彼の|喉《のど》の奥から、笛のような、悲鳴のような、かすれた音が|洩《も》れた。美沙緒は達二と顔を見合わせた。哲平が人差し指をまっすぐにドアのほうに突き出して、ふたりを振り返った。  指さされたほうを見るためには超人的なエネルギーが必要のような気がした。美沙緒は息をとめたまま、そろりそろりとドアに近づいた。  ペンキを塗ったように見えたのは見間違いだった。  それは、無数の……まったくの話、馬鹿げたほど無数の、人の手形の集合体であった。  白い粉末のようなものをそれぞれの手の平に当てがいながら、べたべたとガラスに押しつけたような……。ぺたぺた……。|一《いち》|分《ぶ》の|隙《すき》もないほど手形はびっしりとガラスを埋めていた。小さい手、大きい手、ごつい手、なめらかな手、|皺《しわ》の寄った手、……指紋までがはっきりとわかった。中には指が一本、欠けているものもあった。  欠けている……。  そう思った途端、美沙緒はさっき飲んだコーヒーが胃液とともに|喉《のど》にこみ上げてくるのを覚えた。達二が突然、発狂でもしたかのようにドアに飛びついて、体当たりした。ドアは、頑丈な金庫か何かのようにまったく動かなかった。 「何かでここを|叩《たた》き割るんだ!」哲平が叫んだ。「そうしないと俺たちはここから出られない!」 「何なんだよ! こいつは何なんだよ!」 「説明してる暇はないんだ。とにかく、一刻も早くここから出なくちゃいけない」  達二は唇の端から|唾《だ》|液《えき》を泡のように噴かせた。「だって、兄貴。こいつは……こいつは……人の手の跡だぜ」 「知ってるよ」 「いたずらなんだろ。な? 誰かのいたずらなんだろ?」  哲平は答えずに美沙緒の腕をとった。まぶたが激しく|痙《けい》|攣《れん》していたが、声は冷静で|優《やさ》しかった。「|金《かな》|槌《づち》を取って来てくれないか。見つからなかったら、頑丈な|椅《い》|子《す》でもなんでもいい。とにかく何かここを壊せるようなものを持って来てくれ」 「壊す?」そう聞いたつもりなのに、声にならなかった。美沙緒は渇ききった喉を必死で|潤《うるお》してから、「今取ってくるわ」と言った。  エレベーターで八階に行き、ドアを開けて中に飛び込むと、直美が走り寄って来た。 「いったいどうしたの?」 「金槌を捜すのよ」 「金槌? 何に使うの? 達二と|義《に》|兄《い》さんはどうしてるの?」 「下にいるわ」  金槌やドライバーのたぐいのものは、引っ越してからすぐに使うだろうと思って、まとめてビニール袋に入れておいたはずだった。美沙緒は|埃《ほこり》をたてながら、あちこちの封をしていない段ボール箱の中をひっかき回し、やっと見つけた大きな金槌を片手にまた、外に飛び出そうとした。 「ママ!」と玉緒が走り寄って来た。「一緒に行く」  美沙緒は玄関先で、片足だけサンダルをつっかけながら、ふと立ち止まって娘と義理の妹の顔をじっと見つめた。玉緒は微熱でもあるかのような、むくんだ平べったい顔をして、心細そうに美沙緒を見上げた。 「大丈夫。なんとかなるわ」 「何がよ。何がなんとかなるって言うの」直美が叫んだ。「下で何があったの?」  美沙緒は目をそむけた。説明のしようがない。説明のしようはないが、何か言わなければならない。 「マンションの出入り口が開かないのよ」彼女は持っていた|金《かな》|槌《づち》を掲げてみせた。「だからこれで|叩《たた》き割るの」 「何てこと!」直美が目を|吊《つ》り上げた。「開かないですって? ここの窓みたいに? 冗談でしょ?」 「現実にそうなのよ。すぐにガラスを割って外に出なくちゃ」  あははは、と直美が突然、酒に酔った時のように大声を上げて笑った。 「美沙緒さんたら。それじゃあ、私たち、ガラスの破片をくぐり抜けてからじゃないと外にも出られないって言うの? 冗談じゃないわ。そんな……悪ふざけをしないでよ」 「冗談なんかじゃないのよ」美沙緒は冷ややかに言った。「ここにいて。すぐに戻るから」  目をぱちくりさせて黙りこんだ直美をそのままにして、美沙緒は玉緒に微笑すると、振り返らずに再びエレベーターに乗った。  一階に着くと、達二が目に涙を浮かべ、腕を押さえてあたりをよろよろしていた。 「どうしたの?」 「体当たりを食らわせた時に|肘《ひじ》を打ったんだ」哲平が低い声で言い、美沙緒の手から金槌をもぎ取った。「下がってろ。叩き割ってやる」  美沙緒が達二と一緒に後ずさると、哲平は切り株に|斧《おの》でも突き立てるような勢いで金槌をかざした。 「こいつめ!」|罵《ののし》りの言葉と共に、金槌はガラス目がけて振り落とされた。ごつーんという音が響き、美沙緒は一瞬、目をつぶった。同じ音が何度も繰り返された。「畜生!」哲平が獣のような声を上げた。「畜生! 畜生!」  うっすらと目を開けると、哲平が狂ったように金槌をガラスに打ちつけ、そのたびに彼の首のあたりから汗が水しぶきとなって飛び散るのがはっきり見えた。  長い時間が過ぎたように思えた。いや、ほんの一分かそこらだったのかもしれない。美沙緒の目はガラスドアに|釘《くぎ》づけになった。  強化ガラスであったとしても、|蜘《く》|蛛《も》の巣状に拡がるひび割れくらいは出来てよさそうなものだった。だが、ガラスには何の変化も起きなかった。  哲平は何度か金槌を打ち、打った跡を足で|蹴《け》|飛《と》ばした。鬼のような形相だった。 「やめろよ、兄さん」達二が抑揚のない声でつぶやくように言った。「無駄だよ」  哲平はふと我に返ったように激しい動きを止め、美沙緒を振り返ると、「他に何かないか」と聞いた。 「他って?」 「こんなもんじゃ壊せない。何かもっと他にないか」 「でも……」と美沙緒はほとんど絶望的な気分になって哲平を見た。大の男が|金《かな》|槌《づち》で力任せに|叩《たた》いてもひび割れひとつできないガラスを、いったい他の何を使って壊せると言うのだろう。 「ねえ、それよりもうちに戻ってベランダに向かった窓を試してみたら? あそこさえ開けば、トラックが来た時に合図も送れるし、何か方法が見つかるかもしれない」 「おい、見ろよ」達二が震える声で言った。「なんだかさっきよりも増えたみたいだ」 「何が」哲平は聞き返したが、美沙緒には何が増えたのか、聞かないでもわかっていた。ガラスドアには、彼らが見ているその目の前で、次々と新しい手形がつき始めていた。まるでドアの外に何十何百という人間がいて、列を成しながら次々に手形を押しつけてでもいるかのように。 「助けてくれ」弱々しく叫ぶと達二は泣き出した。「|化《ばけ》|物《もの》だ。ここには化物がいるんだ」 「頼むから冷静になってくれ」哲平が静かに言った。「わけは後で話す。さあ、上に行こう。そして美沙緒の言う通り、窓をぶち割ってやろう」  小学生のように泣きじゃくる達二を両側から支えて、美沙緒と哲平は八階に戻った。エレベーターが平常通りに動いてくれることだけが、せめてもの慰めだった。  玄関の前に心配そうな顔をした直美と玉緒が立っていた。何かを言いかけた直美は、自分の夫が赤ん坊のようにしゃくり上げているのを見るなり口をつぐんだ。玉緒が恐ろしげに達二を|一《いち》|瞥《べつ》し、美沙緒のジーンズを小さな手で握りしめた。  哲平はどしどしと音をたてて部屋に入ると、真っ直ぐにリビングルームに行き、ベランダに向かった窓ガラス目がけて|金《かな》|槌《づち》を振り下ろした。クッキーが|吠《ほ》えた。 「みんな、危ないから下がってろ」  あまり強く打ちつけたため、哲平の手にしびれが走ったらしい。彼は顔をしかめて金槌を放り出すと、近くにあった丸|椅《い》|子《す》を逆さに持って脚の部分でガラスを打ちつけた。  木製の椅子の脚は、何度も打ちつけられている間にひび割れ、ついにポキリと折れた。  彼は椅子も放り出し、|苛《いら》|立《だ》ちまぎれにクリスタルの灰皿を投げつけた。灰皿は|鈍《にぶ》い音をたてて室内にはね返った。中の|吸《すい》|殻《がら》が飛び散ったが、灰皿そのものは無傷で|床《ゆか》に転がった。 「まるでゴムだ」と哲平は息を切らせながら言った。「ゴム板だ。なんでもはね返してしまう」 「やめてよ、やめてよ」と直美が叫び出した。「どうなるのよ。私たちどうなるのよ」  達二は|茫《ぼう》|然《ぜん》とした様子でソファーに|坐《すわ》っていた。美沙緒は玉緒を抱き上げ、窓から目をそむけた。クッキーが吠え続け、その吠え声だけが、部屋中にこだました。 「今、何時だ」哲平が力尽きたように両手をだらりと下げたまま聞いた。 「九時四十五分」美沙緒は答えた。「トラックがもうすぐ来るわ」 「頼みの綱だな。もしかすると、外からなら下の入口のドアは開けられるかもしれない。開けられなかったら、不審に思って電話してくるだろう」 「でも電話は通じないのよ」 「通じなかったらなおさらおかしい、と思ってくれる」 「私たちがいい加減なことを言って別の日に引っ越してしまったと思うかもしれないわ。そうしたら、彼らは……」 「ともかく」と哲平は|喉《のど》を震わせながら息を吸った。「待つしかない。彼らが来てくれるのを」  美沙緒の首すじに唇を当てがったまま、玉緒がしくしく泣き出した。小刻みに震える背中をさすってやりながら、美沙緒は何を言って慰めてやったらいいのか、見当もつかなかった。  直美が達二の横に|坐《すわ》り、「ねえ」とヒステリックに言った。「あなた、何を見たのよ。下でいったい何を見てきたのよ」  達二はゆっくりと、肉眼ではそれとわからないほどのゆっくりとした動きで視線をずらすと、妻の顔にふたつの穴のような目を向けた。「手形だよ」 「え?」 「手の跡さ。ガラスドアにべたべたと人の手形がついているんだ。見ている目の前で増えていくんだ。誰もいないのに……手形でドアは真っ白になって……。外はなんにも見えないんだ。手の跡だけがどんどん増えて……」  直美は表情を失ったような顔で達二を凝視した。「もうたくさん」と彼女は激しく頭を振った。「みんな狂ってる! もう、こんなところいやよ。帰るわ、私。冗談じゃないわよ。電車ででもひとりで帰るわよ」  彼女の手がそばに置いてあったグッチの小型ボストンバッグをつかみ上げた。|物《もの》|凄《すご》い勢いで立ち上がり、リビングルームのドアのところまでつかつかと歩いた。誰も止めはしなかった。達二だけが、|虚《うつ》ろな目をしてその後ろ姿を追っていた。  玄関がバタンと大きな音をたてて閉まった。達二は気の毒なくらい、大きな|溜《ため》|息《いき》をついた。 「戻って来るわよ」美沙緒は慰めた。「いくらヒステリーをおこしたって、今、ここからは出られそうにないんだから」  哲平が「おい」と美沙緒に声をかけた。 「どうしたの?」 「トラックが入って来た」  美沙緒も達二も慌てて窓辺に走り寄った。霊園の|脇《わき》の道を一台の大型トラックがゆっくりとこちらに向かってやって来る。銀色のアルミ箱に太陽が当たり、鏡に反射したように光った。 「助かった」哲平が顔を輝かせた。「これでなんとかなるかもしれない」 「あの人たちがドアを開けてくれるの?」玉緒が哲平に聞いた。そうだよ、と哲平は自信たっぷりを装って答えた。玉緒は疑わしそうな目付きをしたが、すぐにそれは消え、「よかったね、ママ」と美沙緒に笑いかけた。 「直美のやつが下にいる」達二が急にそわそわしながら言った。「ドアが開いたら、またここに戻って来るように言いに行かなくちゃ」 「ともかく俺たちも下に行くんだ」  全員がクッキーだけを残して、玄関を飛び出した。エレベーターは一階で止まっていた。それを呼び出し、全員が乗り込み、また一階まで降りるのに、途方もなく長い時間がかかったように思われた。  一階に着くと、ホールの真ん中で直美がうずくまっていた。遠くにエンジンの音がし、玄関前で、何度かハンドルを切って車を駐車させる気配がした。 「どうした」達二が直美に寄り添うと、直美は今にも呼吸が止まるかと思われるほどの不規則に荒い息をしながら、達二にすがりついた。 「何なのよ、あれ」 「もう、見るな」達二は直美の目を手の平でおおった。 「だって、だって……手の跡があんなに……。ほら、見てよ。あれは誰がやってるのよ!」  バタンとトラックのドアを閉める音がした。美沙緒は薄気味の悪いガラスドアに近づき、こぶしでドアをどんどんと|叩《たた》きながら「助けて!」と叫んだ。外に男の話し声がした。 「何階だったっけ」と聞く男の声が近づき、「八階さ」と答える別の男の声が間近に聞こえた。  美沙緒は「助けて!」と声を張り上げた。  聞こえているに違いなかった。男たちは、今、一枚のガラスを隔てた目と鼻の先にいるはずなのだ。 「おーい」哲平が大声を出した。「聞こえますか」 「なんだ、こりゃ」とひとりの男が|素《す》っ|頓狂《とんきょう》な声を上げるのが聞こえた。「真っ白けだ。ペンキでも塗ったのかな」 「おい、おまえ、そこ……」  その時だった。ガラスドアの向こう側で、「ぐっ」というくぐもった|呻《うめ》き声が、相次いでした。それはぞっとする、まるで手術室で手当ての|甲《か》|斐《い》もなく死んでいく|怪《け》|我《が》人の最後の呻きのように聞こえた。  美沙緒と哲平は顔を見合わせた。 「おーい!」哲平はこぶしでドアを叩き、次に足で|蹴《け》り続けた。「どうかしたのか」  外からは何の物音も聞こえない。何も。人の歩き回る気配すら……。  達二や直美も寄って来て、一緒になってドアをがんがん叩き続けた。叩けば叩くほど、手形が更に厚みを増していくような気がしたが、そんなことに気を取られている余裕はなかった。  背後で玉緒が泣き出した。美沙緒は振り返り、「お願い。泣かないで」とたしなめた。 「どうしたんだろう」達二が叩くのをやめて言った。「物音ひとつしなくなった」 「車の音もしないじゃないの。どこに行ったのかしら」直美がドアから目を放しながら哲平を見た。わからない、と彼はいまいましそうに言い、ドアに耳を近づけた。 「何の音もしない」 「さっきの変な声、何だったの」美沙緒がおずおずと言った。「みんな、聞いてた?」 「聞いたよ」と哲平が答えた。「|呻《うめ》き声みたいだった」 「ねえ、このマンションには屋上があるんでしょ」直美が叫んだ。口紅が|剥《は》げ落ちて、血色の悪い唇に何本もの|縦《たて》|皺《じわ》が入っているのが見えた。 「屋上……」哲平がつぶやいた。 「そうよ。屋上よ。屋上に出て下を見てみればいいわ。そうすれば、運送屋たちがどこで何をしているか、わかるじゃない」 「行こう」  哲平がエレベーターのボタンを押し、全員が中に乗った。エレベーターは屋上では|停《と》まらないようになっていたので、八階で降り、あとは非常階段を使って上に昇った。  屋上へ通じるドアは難なく開いた。美沙緒は玉緒の手を引くことも忘れて、|鉄《てっ》|柵《さく》目がけて走り出した。空は雲ひとつなかった。ぎらぎらと照りつける太陽が肌を刺した。  巨大な墓地が眼下に拡がり、その向こうにかすかに高井野の|街《まち》|並《なみ》が見えた。火葬場の煙突からは、もうもうと煙が上がっている。  祈る思いで下を|覗《のぞ》いた。  マンションに来るには道が一本しかない。それに、先が行き止まりになっているので、マンション前からどこかに抜ける道はまったくない。屋上に上がって来るまでの間にどこかへ走り去ったとしても、トラックをバックさせ、Uターンしてから発進するのに手間がかかるので、そう遠くには行っていないはずであった。  だが、万世寺の|脇《わき》|道《みち》に車の影はなかった。マンション前にもなかった。あるのは達二の車だけ。トラックが停車していたと思われるあたりには、からからに乾いた灰色のコンクリート道路が、何かガラスの破片を太陽に反射させているばかりだった。  トラックどころか、人影もまったくなかった。美沙緒は鉄柵の周囲をぐるぐる回り、死角になりそうな箇所にもくまなく目を|凝《こ》らしてみた。エントランスの小さな|生《い》け|垣《がき》にも、管理人が植えていった朝顔の|蔓《つる》のあたりにも、北側の溝の付近にも、人はおろか、猫一匹、見えなかった。  直美がそっと美沙緒の|脇《わき》|腹《ばら》をつついた。美沙緒は振り返った。 「あれ、何?」  直美が指さしたのは、エントランス前にある石段だった。三段ほどの石段に、大きな不定形をした黒い染みがあった。石油か何かをこぼした時のような大きな染みがふたつ。いや、コールタールのようにも見えた。たった今、熱したコールタールがばらまかれたように、染みからは湯気が上がっていた。  湯気……。  美沙緒は長くか細い悲鳴を上げ、柵の前でよろよろと崩れ落ちた。      〔20〕 [#地から2字上げ]午前11時  目の前で気を失いかけた妻を支えるのも忘れ、哲平は|茫《ぼう》|然《ぜん》としてその黒い染みを見つめていた。  真っ先に思い出したのは、以前、原爆資料館で見たことのある一枚の写真だった。石段に、ちょうどダリの絵のように、黒い染みがだらりと|扁《へん》|平《ぺい》に影を落としていたあの写真……。確か、爆心地に近いビルの石段だった。説明には、そこに立っていた人間が被爆し、一瞬のうちに溶けて影と化してしまったのだ……とあった。  あの写真とそっくりだ、と彼は思った。染みは、どう見ても、人の形にしか見えなかった。ひとつは、両手を開き、大の字になっている。もうひとつは、|海《え》|老《び》のように身体を丸め、片手だけを伸ばしていた。  よく見ると、湯気の中にかすかにカーキ色の衣服の切れ端のようなものが見えた。湯気はその切れ端をも溶かそうとしているかのように、次々と発生した。硫酸の中に溶けていく布地のように、カーキ色の物体はいつのまにか消えてなくなった。 「兄貴……」達二が、気を失う寸前のような声でつぶやいた。「彼らなんだろ? あれは」 「そうらしい」哲平は額に手を当てた。  横のほうで、|喉《のど》を詰まらせるような、ごぼごぼという音がした。直美が身体をふたつに折って、朝食べたものをすべて吐き戻していた。 「連れてって寝かしてやれ」哲平が|顎《あご》をしゃくった。「美沙緒と玉緒のことも頼む。そして、すぐに部屋から何か紙と書くものを持って来てくれ。メモをたくさん書いて、ここから飛ばすんだ。|錘《おもり》になるようなものを探して、それも持って来い」  わかった、と達二は弱々しく言い、直美を抱きかかえ、残った手で玉緒の手を引いた。美沙緒は白い紙のような顔をして、哲平を振り向いた。何か言葉をかけてやりたかったが、何を言えばいいのか、まるでわからなかった。哲平は、黙って美沙緒たちが屋上から出て行くのを見守った。  火葬場の煙突の黒い煙は、風のないことを証明するかのように、真っ直ぐに空に向かって伸びていた。|遥《はる》か彼方の万世寺の向こう側を走る国道には、ひっきりなしに行き交う車の流れが小さく見える。それがこの世のものであったとしたら、ここにいる自分は何なのだろう、と彼は思った。まるで、あの世から現世を眺めている亡者みたいではないか。  寺の境内にも、墓地にも、人の姿はなかった。訪ねる人もない墓の前で、しおれた花が真夏の太陽を浴びて|朽《く》ちかけていた。手を拡げるように枝を伸ばしたヤツデの木や、こんもりとした植えこみが、白っぽい墓石を際立たせている。|楡《にれ》の巨木のあたりに、たくさんの|御《み》|影《かげ》|石《いし》造りの墓石があり、そのひとつが日の光を反射して、鏡のように光った。  ここは何なんだ……。彼はつぶやいた。もしかすると、考えていた以上に恐ろしいところなのかもしれない。  やつらがいる。やつら……。何者かは知らんが、ともかくここはやつらの|巣《そう》|窟《くつ》だ。やつらは、|俺《おれ》たちをここに閉じ込め、いたぶり、恐怖で心臓が止まるまで、なぶりものにする気でいやがる……。  屋上には、換気装置のパイプがあちこちに突き出していた。そのパイプの列をくぐり抜けながら、彼は北側の|鉄《てっ》|柵《さく》まで行き、|錆《さび》が浮き出た柵に手をかけた。  北側には、風景と呼べるものは何もなかった。無数に点在する小さなかつての都営住宅は、全戸が空き家になっていて、伸び放題に伸びた雑草の中でマンションの影に隠れながら、ひからびた化石のように見えた。恐らくは、この都営住宅も、以前は家族向きの住宅として人々が住みつき、庭の花壇の上には真っ白な洗濯物がひしめいていたのだろう。子供たちが駆けまわり、女房たちが午後の井戸端会議に興じ、飼い犬が|吠《ほ》えまくる|賑《にぎ》やかな光景を連想して、哲平は背中が寒くなった。  どうしてこの都営住宅が全戸、空き家になったのか、考えてみるまでもなかった。ここは、不吉な場所なのだ。やつらが支配している、どうにも説明がつかないほど不吉な場所だったのだ。  屋上のドアが開いて、達二が姿を見せた。手には、見覚えのあるレポート用紙を持っている。新しい家、今日、まさに、今日の今ごろ、引っ越す予定でいた家の間取り図を書いておいたレポート用紙だった。美沙緒とふたり、それを|覗《のぞ》きこみながら、家具の置き場所などを決め合っていた時もあった。そう思うと、哲平は絶望的な気分にとらわれた。 「直美をソファーに寝かせてきたよ」達二がぼそっと言った。「冷蔵庫に冷やしたコーラがあったから、それを飲ませた。|錘《おもり》にするのはこれでいいかな」  達二がレポート用紙とともに、コーヒースプーンを何本か手渡した。ありがとう、と哲平は言った。言った後で、弟相手にありがとうなどという言葉を吐いたのは生まれて初めてだ、と思った。 「もうすぐ、電話局や電機屋の連中が来るはずなんだ。電話とエアコンの取りはずしを頼んであるからな。彼らが来るのをここで待っていて、来たら大声で助けを求めよう。同時にこのマンションが危険であることも教えなければならない。だから、メモも同時に投げるんだ」 「届くかな」 「風がないから、真っ直ぐ下に落ちてくれると思う」  達二は生気のない目をしてうなずいたが、それきり何も言わなかった。  哲平は達二が持ってきたフェルトペンで、レポート用紙に大きく「助けてください」と書いた。「801号室の加納一家とその弟夫婦の計五人が、このマンションに閉じこめられています。警察を呼んでください。お願いします」  書きながら、信じられない文章だ、と彼は思った。これでは、強盗殺人犯か、もしくは頭のおかしい連中に軟禁されているみたいではないか。  彼は付け加えた。 「このマンションは危険なエネルギーを帯びているようです。入口の石段に気をつけて下さい」  いかん、と哲平はそれをまた破り捨てた。「こんな文章、誰かが拾ったとしても、ただのいたずらだと思われる」  達二は気がなさそうにコンクリートの上にへたりこみ、ぼんやりと空を見ていた。哲平は改めて、別のページに「助けてください。セントラルプラザマンション801号室の加納です。警察を呼んでください。わけがあってこのマンションには入れません。警察が来るまでは、決して中に入ろうとしないでください」と書き、同じ文章を幾つも作って、それぞれを細長く折り、スプーンに結んだ。 「このマンションで何がおこったのか、兄貴たちは知ってたんだろ」  達二が両手で、動物のように顔をこすりながら言った。「なんであらかじめ、教えてくれなかった」 「まさか、こんなことになるとは思っていなかったんだ。すまないと思ってるよ」 「すまない?」達二が両手の動きを止め、指の間から哲平を|睨《にら》みつけた。「すまないと思ってるだと?」 「何が気に|喰《く》わないんだ」哲平は静かに聞いた。達二は能面のような冷ややかな顔をしたまま、唇だけを動かした。 「巻き添えだ。俺と直美は巻き添えを喰ったんだ。ここはもともと、|化《ばけ》|物《もの》屋敷だったんだろ。え? どうして、はっきりそう言わない」 「俺たちだって、何が何だかわけがわからなかった。だから引っ越そうとした。それだけだ。だが、遅かったらしい。おまえや直美さんには、こんなこと、教えたくなかったんだよ」  太陽がシャツの縫目から容赦なく背中や肩を|焦《こ》がし続けていた。汗が額からこめかみに向かって流れ落ちる。  達二がはね起き、仁王立ちになった。はいていたチノパンツから、白いシャツがだらしなく外に飛び出した。 「どれだけ人に迷惑をかければ気がすむんだよ」  哲平は苦笑した。「どうしたんだよ」 「大きなツラをするなよ。これで二度目だ」 「何が二度目だ」 「人を馬鹿にしやがって。玲子|義《ね》|姉《え》さんの時と同じだ」  哲平は静かに首を上げ、弟を見上げた。太陽が目に飛び込み、弟の顔はよく見えなかった。彼は低い声で聞いた。 「玲子の時と同じ、ってどういう意味だ」 「そうだろうが。これまで我慢して言わなかったが、俺はあんたを許してないんだぜ。ひどいやつだよ、あんたは。いい加減で、人のことなどこれっぽっちも考えてない。あの時、俺は葬式の手配から、あんたの仕事先への連絡、それに玲子さんの実家への弁解、あらゆることをやってあんたの|尻《しり》ぬぐいをした。言っとくが、あれをやったのはあんたのためじゃない。かわいそうな玲子さんのためだったよ。あんたがいい気になって、女の尻を追っかけたあげく……」 「黙れ!」コーヒースプーンが一本、チャリンと音をたてて屋上のコンクリートの上に転がった。  達二はわなわな震えながら、哲平を見下ろした。哲平は転がったスプーンを拾い上げると、それにメモを結びつけ、もう一度、達二のほうを見た。 「いいか。正義漢づらをして二度とそんなことは言うな。玲子のことは、俺や美沙緒の問題だ。おまえには関係ない。いくら弟でも、おまえはあの一件に関しては他人なんだ。忘れるな」  しばらくの間、ふたりは|睨《にら》み合っていたが、やがてどちらからともなく目をそらした。達二は疲れたような足取りで|鉄《てっ》|柵《さく》にもたれかかり、深く長い|溜《ため》|息《いき》をついた。 「話してくれよ」 「え?」 「このマンションで何があったのか、話してくれよ」 「聞いても理解できんだろう。誰にもわからないことなんだ」 「知りたいんだ。こうなったら知る権利くらいあるだろうが」  哲平はメモを巻きつけたスプーンを束ね、両手で持ちながら、達二の隣に立った。ここに引っ越して来てから起こった不可思議な現象を説明するのには手間はかからなかった。哲平はテレビにおかしな影が映ったくだりから始まって、地下室で玉緒が原因不明の|怪《け》|我《が》をしたこと、五階に住んでいたホステスの話、それに管理人夫妻と一緒に地下室を調べに行って|遭《そう》|遇《ぐう》した恐ろしい出来事に至るまでを、簡単に聞かせてやった。しかし、引っ越して来てすぐに文鳥が死んだことには触れなかった。あれは、今回のことには関係なかったのかもしれない……。 「美沙緒は図書館に行って、このあたりの過去の歴史を調べて来たんだ」哲平は達二の反応をうかがわずにつけ加えた。 「昭和三十年代の末に、この霊園を移転させて、跡にでっかい高層団地を建てる計画があったらしい。団地があれば、人口が増える。駅から、ちょうどこのあたりまで地下商店街も作る予定だったようだ。ところが、霊園側が移転を拒否した。都では、黙殺して穴を掘り進んだ……」 「それとこれとに、どういう関係があるんだよ」達二は|苛《いら》|々《いら》した口調で聞いた。  わからんよ、と哲平は答えた。「何の関係もないのかもしれない」  しばらくの間、またふたりは黙りこんだ。遠くで|蝉《せみ》が鳴いているのが聞こえた。 「さっき言ったこと、悪かった」達二が低い声で言った。  いいさ、と哲平は言った。「おまえがそう考えていることは、前から知ってた」 「俺は玲子さんが好きだったんだ。かわいそうだった、と今でも思ってるよ」 「俺を責めるのはかまわんが、美沙緒まで責めるなよな」哲平はちらりと達二を見た。「彼女だって、苦しんだんだ」  達二は小さくうなずいた。「知ってるよ。美沙緒さんを責めようなんて思ってない」  その時、どこかから車の音が聞こえた。哲平は立ち上がり、南向きの|鉄《てっ》|柵《さく》に向かって駆け出した。  万世寺の横の道を一台のバンが走って来る。どうやら、電話局の車らしい。 「来い! 車だ!」  達二が駆け寄って来て、「車だ!」と同じように繰り返した。 「いいか。彼らが真下に着いて車から出て来たところを目がけて、こいつを投げるんだ。頭に当たるかもしれないが、かまうもんか。怪我はしないだろう。相手が上を見上げたら叫ぶんだ」  達二にメモを結んだスプーンを何本か渡すと、哲平は祈る思いで車が近づいて来るのを見つめた。頼むよ、と彼はつぶやいた。こいつを読んで、冷静に行動してくれ。  バンはあまり性能がよくないのか、がくんがくんと車体を震わせながらエントランスの前に停車した。石段の上には、まだ大きな黒い染みが見てとれたが、もう湯気は上がっていなかった。  運転席のドアが開き、紺色の制服を着た四十歳くらいの男が降りて来た。ひとりらしかった。  男は降りた姿勢のまま、車内に首だけ突っ込み、何か探している様子だったが、やがて、小型の黒っぽいケースを手に、また外に出て来た。 「今だ!」哲平は叫んだ。「投げろ!」  達二と同時に、彼はスプーンを下に落とした。二本のスプーンが日の光を受けてきらめきながら、真っ直ぐに落下していった。  思わぬほど大きな音をたてて、スプーンは石段の手前に落ちた。男がふっと上を見上げた。 「おーい!」と哲平は手を振った。男は|怪《け》|訝《げん》な顔というよりも、こんな危ない|真《ま》|似《ね》をして、と怒りをにじませた目付きで上を|睨《にら》んだ。 「それを読んでみてくれ!」  男は「え?」と耳に手をかざすしぐさをし、次に目の前に落とされたスプーンを興味深げに見つめた。スプーンを取り上げ、メモを開く。  読み終えた男は、たじろいだようにもう一度、上を見た。「何があったんです!」男は大声をあげた。 「警察を呼んでくれ!」哲平と達二は口々に言った。 「え?」 「警察! け・い・さ・つだ!」 「わかった」と男は言った。慌てふためいて、今にも転んでしまいそうな様子だった。  その時、また遠くから車の音が聞こえた。寺のほうを見ると、一台のハッチバック式の白っぽい乗用車がこちらに向かっているのが見えた。 「あれは多分、電機屋のおやじの車だ」哲平は言った。  乗用車は見る見るうちに近づき、今やバンに乗り込もうとしている電話局の男の真後ろで停車した。  電話局の男が、何かを口早にわめきながら、屋上を指さして乗用車のほうに走り出した。乗用車の運転席から、中年の太った男が降りて来た。エアコンの取りはずしを頼みに行った時、客がいないのをいいことに店の中で鼻くそをほじくっていたおやじだ。  おやじは屋上を見上げた。哲平は手を振った。「助けてください!」  電話局の男がおやじにメモを見せた。おやじは、水から上がったばかりのカバのようにぶるぶると身体を震わせ、電話局の男に向かって何かをわめいた。  ふたりの男はそれぞれ、自分の車に乗った。エンジンがかけられた。  ひときわ強い太陽光線が、二台の車のリアウィンドーに当たって砕けた。車|に夥《おびただ》しい光の渦が起こり、目もくらむほどの乱反射をおこした。すさまじい光だった。太陽の光を吸収し、はね返す巨大な鏡を目にしているみたいだった。  一瞬、運転席にいたふたりの男の姿が見えなくなった。わーっ、と叫ぶ恐怖の声だけが聞こえた。だがそれもすぐに途絶えた。  |茫《ぼう》|然《ぜん》と見つめる哲平の目に、白く立ちのぼる煙が見えた。じゅうじゅうという不気味な音が|轟《とどろ》いた。硫酸の中に何かを浸した時のような音だった。  ものの五、六秒の間の出来事だった。気がつくと、二台の車とふたりの男が立っていた場所に、もうもうと白煙が上がり、その煙の合間にどす黒い染みが見え出した。達二が哲平の腕をつかんだ。氷のように冷えきった手だった。  哲平はショックのあまり、全身の体温がいっぺんに下がっていくような感じにとらわれた。|眩暈《めまい》がし、息が詰まった。じりじりと|焦《こ》げつくような太陽が、体温を失った頭皮を焼きつくそうとしている。 「戻ろう」彼は言った。言ったつもりだったが、声にならなかった。腰を抜かさないでいられるのが不思議だった。  ふたりはのろのろと屋上を横切り、たったひとつの安全な場所に向かって階段を降り始めた。達二が階段の途中で|坐《すわ》りこみ、暴れ、叫んだ。何を言っているのかわからなかった。哲平は弟の腕を持ち上げ、力ずくで引っ張った。達二はほとんど、正気を失いかけていた。      〔21〕 [#地から2字上げ]午後2時  停電していることに気づいたのは、玉緒が|喉《のど》の渇きを訴えたため、みんなにも何か冷たいものを出そう、と美沙緒が冷蔵庫を開けた時だった。ドアを開けると|点《つ》くはずの電気は点かなかった。随分、前から停電していたらしい。庫内の温度が上がったせいで、ジャムの瓶には早くも水滴がつき始めている。  達二はまださっきのショックから立ち直っておらず、リビングの|床《ゆか》で|膝《ひざ》を抱えたままじっとしていた。|蒼《そう》|白《はく》の顔でぼんやりしている直美の横をすり抜け、エアコンの様子を見に行くと、通電を知らせるランプは消えていた。  美沙緒はそっと哲平に合図を送り、廊下に連れ出した。 「電気が切れてるのよ」 「え?」 「冷蔵庫もエアコンも……」 「そういえば、なんだか蒸し暑いな」 「調べてみてくれない?」  哲平はうなずき、玄関にあるブレーカーの|蓋《ふた》を開けて中を|覗《のぞ》いた。ブレーカーはおりていなかった。ショートした形跡もない。  何度かブレーカーを倒したり、元に戻したりしてみたが、変化はなかった。次に彼はドアを開けて外に出、エレベーターの呼び出しボタンを押した。ドアはするりと開いた。 「電気が通じていないのは、うちだけらしい」 「どうしてそんなことが……。あり得ないじゃないの」 「やつらのせいさ」哲平はこともなげに言った。 「どうしたの?」玉緒がそばに来て不安げな表情で聞いた。美沙緒は「電気の様子がおかしくて……」と言ったきり、絶句した。この暑さで窓も開かないまま、どうやってここにいればいいのだろう。冷蔵庫には、いくらか食べ物や飲物も残っているが、停電となると急速に腐り始めていくに違いない。 「どうすればいいのかしら」美沙緒は誰に言うともなく言った。「暑くなるわ、すぐに。それに食べ物だって……」  哲平は|憮《ぶ》|然《ぜん》とした面持ちで額の汗を|拭《ぬぐ》った。「今に水も止まるかもしれない」 「|嘘《うそ》でしょ」 「あいつらは、俺たちを干乾しにする気だ」 「……水が止まったら……」 「わからないよ。やつらは何をするかわかったもんじゃない」  もうたくさんだ……美沙緒は涙がこみ上げてきたが、かろうじてそれをこらえた。幼い玉緒に必要以上の恐怖心を与えるべきではない。 「食べ物は何が残ってる」哲平が小声で聞いた。 「あまり残ってないと思う。ハムに梅干し、チーズが少し、今朝、食べた食パンの残りは三枚くらいあるわ。冷蔵庫の中のものは全部、整理しちゃったから氷くらいしか入ってないし、あとは、いちごジャムとかお|味《み》|噌《そ》とかドレッシングとか……」 「飲物は?」 「缶コーラとビール。冷やしていないものだったら二ダースほどあるわ。引っ越してから冷蔵庫に入れようと思ってたから」 「缶詰はどうだ」 「少しね。コンビーフ、ツナ、ベジタブルスープ……」  もともと缶詰やインスタント食品はあまり食べないほうだった。こんなことなら、もっと|揃《そろ》えておけばよかった、と彼女は後悔した。 「それっきりか。まさかそれっきりだ、って言うんじゃないだろうな」  哲平がなじるように言った。気持ちは痛いほどわかったが、美沙緒は|苛《いら》|々《いら》した。 「それっきりよ。こんなことになるってわかってたら、もっと揃えておいたわよ。誰が予想できた?」  こらえきれずに涙が目の縁ににじんだ。哲平はすまなそうに目をふせた。  二時だった。窓は相変わらず開かず、一階の玄関もぴったりと閉じたままだった。運送屋のほうでは美沙緒たちの引っ越しの後に何か次の仕事が入っていたに違いなく、じりじりしながらトラックの帰りを待っているだろう。あちこちに電話して心あたりを|訊《たず》ねているかもしれない。ひょっとすると、美沙緒たちの新しい住居を訪ね、荷物のひとつも届いていないことを知り、不審に思って、このマンションにやって来るかもしれない。  だからといってどうなる、と美沙緒は思った。別の人がこのマンションに近づけば、同じ現象が起こるのだ。その繰り返し。人が次々に消えていって、死体も乗っていた車も発見されずに終わる……。  警察が出動してこのマンションを調べに来るかもしれないが、玄関に|鍵《かぎ》がかかっていたとなると、住人はすべて引っ越したものとして考えるだろう。いや、そうなる前にここに近づいた警官たちもまた、消えてなくなるに違いない。|忽《こつ》|然《ぜん》と、煙に巻かれたようにして……。  リビングに戻った哲平は、達二と直美を前にして重々しく言った。 「聞いてほしい。どうやら停電になったらしいんだ」  直美がうつろな目でエアコンを見上げた。「どうりで暑いと思ったわ」  哲平はすまなそうに続けた。「暑さは玄関のドアを開けたり、屋上に上がったりして、なんとかしのぐとしても、食料のことが心配なんだ。これから家にある食べ物をすべて点検し、リストを作ろうかと思う」  達二が目をむいた。「リスト? ここで楽しくキャンプでもしよう、ってのか」 「一応、長期戦になる覚悟を決めておかなくちゃいけない。そのための食料だ。大切に分けて……」 「食欲なんてゼロよ」直美が最後まで聞かずにつぶやいた。「皆さんで食べて」 「いいかい?」哲平が息を吸い込みながら言った。「今日明日中になんとかしないといけない。それ以上は一日だって待てない。救援を期待する前に、考えられる出来る限りのことはやってみよう。そのためのエネルギーとなる食料が、実を言うと極端に少ないんだ」 「ここで|餓《が》|死《し》するってわけか。上等だ」達二がげらげらと笑った。「都会の真ん中のマンションで、外に出られなくなって餓死するなんて、新聞社会面のトップを飾る|華《はな》|々《ばな》しいニュースじゃないか。結構なことだ」  達二が立ち上がり、怒ったような足取りでキッチンへ行くと、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、リングプルを抜いて飲み始めた。美沙緒はメモ用紙を持って来て、達二を押し退け、冷蔵庫を開けて手早く食料をリストアップした。  食パン三枚、ジャム、|味《み》|噌《そ》、梅干し、ナチュラルチーズ半分、バター、ハム三切れ、レタスの葉が少々、きゅうりが一本……。奥のほうに食べ忘れたウィンナーの袋があったが、もう古くなっていて、とても食べられるしろものではなかった。  キッチン用品をしまった段ボール箱を開け、|缶《かん》|詰《づめ》を調べてみる。ツナが一缶あったと思ったのは錯覚で、コンビーフが二缶とベジタブルスープが一缶あるばかりだった。  あとはベイキングパウダーとか、小麦粉、玉緒の好物のホットケーキのもと、パック入りのかつおぶし……など。小麦粉を大量につけてチーズをフライにすれば、なんとかボリュームが出せるかもしれない、と美沙緒は暗い気持ちで考えた。  リストを書き上げ、哲平に渡すと、彼はそれをちらっと見てから力なくうなずいた。 「あとはお米があるわ」美沙緒は言った。「明日、引っ越し先に届けてもらうつもりでいたから、五合くらいしか残ってないけど、いざとなったら、塩をまぶしたおむすびで|喰《く》いつなげるわよ」 「お茶だってある」哲平は調子を合わせた。美沙緒は微笑した。  お腹がすいた、と言う玉緒に牛乳や卵を使わないホットケーキを焼き、シロップを大量にかけて食べさせた。達二はそれを横目で|睨《にら》みながら、三缶目のビールを飲み出した。  部屋は次第に我慢ならなくなるほど暑くなってきた。クッキーは元気なく赤い舌を垂らして玄関の前に寝そべっている。クッキーに水をやることをすっかり忘れていた美沙緒は、慌てて|器《うつわ》に水を満たし、鼻の先に置いてやった。犬はいっぺんに器のほとんどの水を飲みほし、再び、横になった。  ベランダに向かった窓からは、熟したトマトのような真っ赤な太陽が西の方に沈んでいくのが見えた。五人の人間の吐く息で空気が|淀《よど》みきった部屋の中は、すえたような|匂《にお》いがし始めた。  何度か美沙緒は電話の受話器を耳に当てがってみたが、通じているはずもなかった。だが、エレベーターだけは相変わらず動かすことができた。  哲平は午後の間中、しばしば一階に降り、|金《かな》|槌《づち》や|椅《い》|子《す》を使ってドアガラスに抵抗を試みてみたが、結果は同じだった。管理人室に侵入して、そこから外に向かった窓を試してみようともしたが、管理人室の受付専用の窓自体、破ることはできなかった。  各階に降り、すでに空き室となっているドアを引いたり、押したりした。開くはずもなかった。  建物全体が強烈な夏の日ざしを浴び続けて熱しきっているような感じがした。どこに触れても生暖かかった。  午後六時。玉緒が息苦しいと訴えた。美沙緒は娘の着ていた黄色のパイル地のシャツを脱がせ、裸にした。汗にまみれた小さな胸に唇を押しつけ、彼女は|囁《ささや》いた。 「|諦《あきら》めないわよ。ママは諦めない」 「|餓《が》|死《し》だ。名誉の餓死だ」達二がわめきちらした。彼が飲んだ缶ビールが|空《むな》しく、汚らしく|床《ゆか》に転がった。 「今夜のディナーは何なのかな、美沙緒さん。|鴨《かも》|肉《にく》のローストに冷たいコンソメスープ? いいじゃないか。結構なメニューだ。|化《ばけ》|物《もの》どもにも|喰《く》わせてやれ!」 「お願い」と美沙緒は|溜《ため》|息《いき》をついた。「静かにしていて」 「わーお」達二が腰の下までずり落ちたチノパンツをずるずると引きずりながら、両手を高く上げて部屋中を飛び回った。「俺は見たぞ。人が溶けていくのを見た。煙を上げてさ。人が溶けてくのを見た。ざまあみろ」 「誰かこの人を黙らせて!」直美が顔中に嫌悪の色を浮かべて怒鳴った。「ついでに言ってやってよ。頭がおかしくなったんなら、さっさと屋上から飛び下りればいい、って」  そう言ったあと、直美は胸を押さえて激しく|咳《せき》こんだ。「吐きそう」彼女は哀願するように美沙緒を見、次に深い吐息をついて再び、ソファーに横になった。  食欲はなかったが、美沙緒は炊飯器で二合半の米を|炊《た》き、塩をまぶしたおむすびを作った。おかずは残ったハムと梅干し。ハムは翌日までとっておきたかったのだが、この暑さでは腐る恐れがあるので、早めに食べておくことにした。クッキーにはドッグフードを与えた。ドッグフードは残り少なくなっており、いずれは犬とも食べ物を分け合う運命にあることを思い知らされた。  夜になっていくらか暑さはしのげるようになったが、それでも室内は|蒸《む》し|風《ぶ》|呂《ろ》のようだった。暗くなってきたので、哲平が懐中電灯を持ってきて|点《つ》けようとしたが、美沙緒はそれをやめさせた。夜の間に何がおこるかわからない。電池が切れないよう、懐中電灯は使わず、代わりにろうそくを使うべきだった。  |梱《こん》|包《ぽう》した箱の中からろうそくを探しだすのは大変な作業だった。やっと小物入れから見つけ出した時には、すでに部屋の中は真っ暗になっていた。  ろうそくの明かりはかえって恐怖心を誘った。誰もが黙っておむすびを食べ、生ぬるい水で|喉《のど》の奥に流しこんだ。  食事を終えると、達二はやっと、長い興奮状態から|醒《さ》めたようで、しばらくの間、絶望と闘っているような、|陰《いん》|鬱《うつ》な表情で黙りこんでいたが、やがて、口を開いた。 「いったい今後、どれだけ脱出の可能性があると思う?」 「二割かな、いや一割だろう。しかしゼロじゃない」哲平は答えた。ひとすじの汗が彼のこめかみを伝って流れた。 「どうやって? どんな方法がある?」 「わからない。やれることはすべてやってみたが、まだ方法は残っているかもしれない」 「屋上にみんなで上がって大声で叫ぶのはどう?」直美が梅干しの種を口の中で転がしながら、投げやりな調子で言った。  叫ぶ? と哲平が彼女をうつろな目で見た。「叫んで誰かが来て、それでまた、同じことが繰り返される。また人が死ぬんだ」 「それに」と美沙緒はつけ加えた。「このマンションのまわりには誰も人が住んでないのよ。見たでしょ? 北側は空き家になった元の都営住宅がずらっと並んでるだけだし、南側は墓地。あんまり広くて、墓地に誰かが来ていない限り、万世寺までは聞こえないわ。東側は、知っての通り、空き地だし。叫んだところで喉が|嗄《か》れるだけよ」 「アドバルーンでも打ち上げないとダメってわけね」直美が|嘲《あざ》|笑《わら》うように唇を|歪《ゆが》めたが、誰も相手にしなかった。 「何か方法はないんだろうか」達二が腕組をした。「一階から屋上まで全部、試してみた。それ以外、何か……」 「地下室!」直美が手を打ち合わせた。「地下室があるじゃない」  達二がせせら笑った。「窓も出口もない地下室なんか、最初から問題外だ。それにここの地下室は何か知らんが、化物どもの|住処《すみか》らしい」 「そうなの? ほんと?」  哲平は美沙緒と顔を見合わせ、「わからんよ」と言った。「そうだと決まっているわけじゃない」  玉緒が大人たちを順番に見つめながら、裸の胸に浮き出る汗をぽりぽり|掻《か》いた。 「あたし、地下室で|怪《け》|我《が》したもん」玉緒は言った。「急にお|膝《ひざ》のところが切れたの。血がたくさん出て、救急車に乗ってお医者さんのところに行ったの。ね、ママ?」  全員が美沙緒を見た。美沙緒はうなずき、直美に向かって言った。「原因不明だったのよ。医者はかまいたちだ、って言うんだけど……」 「悪い夢よ。これはきっと、悪い夢を見てるに違いないんだわ」直美が化粧の|剥《は》げ落ちた黄色い|頬《ほお》を|撫《な》でた。「そして夢の結末は決まってる。全員がここで汗にまみれて醜く死んでいくんだわ」  全員の顔がろうそくの明かりに揺らいだ。壁に巨大な影ができた。がらんどうのような素っ気ない室内は、そうやって眺めると、隅々まで悪魔に占領されているように見えた。 「おい」と哲平が美沙緒を見た。「例のビスケット、まだあるかな」 「ビスケット?」 「真っ先に引っ越して行った事務所が地下室に置きっぱなしにしていったビスケットだよ」 「何だい、それは」達二が|膝《ひざ》を乗り出した。 「ハイカロリービスケットなのよ」美沙緒が、達二にというよりも直美に向かって言った。「ダイエットビスケットじゃなくて、その逆なの。カロリーが高いから、それだけを食べていても栄養分が補給される、ってやつ」 「|痩《や》せたい人が多いご時世に、変わったものを作る人がいるのね」直美がふてくされたように笑った。 「しかし」と哲平が言った。「あれがあれば、当座の食料に悩まなくてもすむ」 「地下に行って取って来るっていうの? こんなことがあったっていうのに?」  美沙緒は反対の意を唱えたが、達二は賛成した。「いいアイデアじゃないか。食料が確保できれば、生きのびる可能性も出てくる」 「そうだよ。たしか段ボール箱一杯分はあったと思う。今ある食料が底をついても、あれがあれば、しのげる。第一、腐らない」 「でも、エレベーターがまた動かなくなったらどうするの」 「一か八か、だ。命をつなぐためには、あれを頼みの綱にするしかないじゃないか」 「そして、そこでふたりの男が死ぬ」直美が鼻先で笑いながら言った。「残された女たちは未亡人になり、保険金ももらえないまま、あとを追う」  美沙緒が|睨《にら》みつけると、彼女は「冗談よ」と言って髪の毛をかき上げた。 「明日の朝、起きたら早速、決行しよう」哲平が達二に向かって言った。「おまえ、一緒に来てくれるな」 「行きたくはないけど、仕方ないさ」達二は皮肉っぽく言ったが、すぐに|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔をして哲平にうなずいてみせた。「行くよ。行こう。もう、何があっても驚かないぜ」  クッキーがやって来て、ダイニングテーブルの下で美沙緒の足をぺろりと|舐《な》めた。彼女は運命共同体となったその気の毒な犬の頭を愛情こめて|撫《な》でてやった。      〔22〕 [#地から2字上げ]7月27日早朝  リビングにベッドマットレスを並べて敷いて、その上に五人が並んで横になったものの、玉緒以外は全員、眠れなかった。  ろうそくを消すと室内は|漆《しっ》|黒《こく》の|闇《やみ》と化した。開け放したままの玄関から時折、侵入してくる得体の知れないかすかな風が、廊下やドアをみしみしと鳴らす。  哲平は美沙緒を抱きしめてやりたい、という衝動にかられたが、なんとか押しとどめた。いくら抱きしめても、|空《むな》しいに違いない。美沙緒もひとり、絶望と闘っているに違いなく、肌を触れ合わせた途端に、ふたりともいっぺんにこらえきれなくなって、号泣してしまう恐れがあった。  美沙緒はショートパンツに薄いタンクトップ一枚で横に寝ていた。|溜《ため》|息《いき》と|洟《はな》をすする音が聞こえた。彼は手を伸ばした。タンクトップの布を通して、柔らかな乳房に手が触れた。彼はそれを手の平で|玩《もてあそ》び、しばしの現実の喜びに浸った。彼女は洟をすすりながら、じっと、されるままになっていた。  外が明るくなるまで待ちきれなかった。哲平ははめていた腕時計が午前三時五十分を指すのを|枕《まくら》もとの懐中電灯で確認すると、起き出した。 「達二。起きろ」  眠っていなかった様子の達二は首をのっそりと上げた。かすかな外の明かりの中で、達二のふたつの目が光った。 「この建物をもう一度、調べてから地下室に降りるんだ」 「わかったよ」  直美が溜息をつきながら、上半身を起こした。玉緒が目を覚まし、しくしく泣き出した。 「どうしたの? お|腹《なか》でも痛いの?」  玉緒は答えずに美沙緒の横に|這《は》って行き、顔を母親の胸に埋めた。自分もできることなら、そうやって美沙緒の胸に顔を埋めたい、と哲平は思った。本気で、気が狂いそうになるほど、そう思った。  彼は妻と娘から目を離し、立ち上がってろうそくをつけた。ベランダの窓のむこうに肉眼で確認できる朝焼けが認められた。もうすぐ夜が明けるだろう。また暑い日差しが戻ってくるだろう。  窓のサッシ戸に手をかけてみた。相変わらず、開かなかった。  俺は男だ……わけもなくそんな言葉が脳裏をよぎった。子供のころに見た漫画映画のヒーローを思い出した。俺は男だ。背中にマントをつけたそのヒーローはいつもそう言うのが口癖だった。  俺は男だ。哲平は内心、つぶやいた。つぶやきながら、もし、無事に現実の世界に戻ることができたら、この言葉……言い古されて|手《て》|垢《あか》がついているとはいえ、実に深い響きをもつこの言葉を何かの宣伝コピーに使おう、と決めた。  キッチンの水道の蛇口をひねってみた。水はいつも通り、勢いよく流し台にはね返ってきた。だが、冷蔵庫の中はもはや、水滴だらけで、まるで湿って腐り始めた箱を|覗《のぞ》きこんでいるようだった。  キッチンの流しで顔を洗い、そのへんにあったタオルで|拭《ふ》いた。|金《かな》|槌《づち》やナイロンの|紐《ひも》、それに懐中電灯を手に玄関に行くと、美沙緒が追って来た。ショートパンツから伸びた足がまぶしかった。 「一緒に行くわ」 「いいんだ。達二とふたりで充分だ」 「でも……」  彼は彼女の腕を取り、静かに抱き寄せた。「大丈夫だ」 「ねえ」と彼女は言った。「私、本当はヒステリーを起こしかけているのよ」 「それにしちゃ冷静だ」 「そう見える?」  ああ、と彼は言った。「君がいてくれなかったら、俺だって冷静になれなかったよ」  達二がやって来たので、ふたりは離れた。  まずエレベーターで一階に降りてみた。懐中電灯で照らしてみると、ガラスドアは手形がついたまま、何やら分厚い白い油絵具でも塗りたくったように、昨日よりもさらに重たく、暑苦しく見えた。  哲平は金槌を振り回し、ガラスを|叩《たた》いた。ドアはまるでゴムだった。達二は黙ってそれを見ていた。 「……というわけさ」達二は鼻を鳴らした。「何も変わっちゃいないよ」 「地下室に行こう」 「直美と別れのキスをしてくるべきだったな」 「馬鹿を言うな」  ふたりはエレベーターに乗り、B1のボタンを押した。久しく誰も手を触れていないボタンだった。魔物どもがうようよと地下を占領している光景を思い浮かべようとして、哲平は身震いした。やつらは姿を現し、自分たちを攻撃してくるだろう。それにしても、どんな姿をしているのか。黒い|頭《ず》|巾《きん》をかぶった黒ミサ集団みたいなやつらか。それとも、透明なアメーバみたいな連中か。  ごとんと音をたててエレベーターは地下で止まった。するすると扉が開いた。非常灯がついていて、中はうっすらと明るかった。哲平はおそるおそる壁のスイッチを入れた。  見たところは何も変わりがないようだった。物置は以前、見た通りに並んでおり、壁も天井を走る無数のパイプも、|床《ゆか》も、何もかもが、忘れ去られた|廃《はい》|墟《きょ》のように、|埃《ほこり》を浮かせたまま、静かにそこにあるだけだった。 「あれが例のビスケットの箱だ」哲平が地下室の奥のほうに見える茶色の段ボール箱を指さした。達二はうなずいた。 「別にどうってことないじゃないか」 「何が?」 「ただの地下倉庫って感じだぜ」 「まあな」  ふたりはあたりを見回しながら奥のほうまで歩いた。警戒してきたわりには、何か不吉なことがおこる前兆のようなものは感じられなかった。哲平はほっとした。早くこの箱を持って上に上がってしまえばいい。  箱は哲平の腰のあたりまでの高さがあった。中にそれぞれ|梱《こん》|包《ぽう》された小箱が一ダースほど入っているに違いない。ちょっと手をかけてみると、ずるっと音をたてて難なく動いた。 「引きずっていこう」彼は達二に声をかけた。達二は後ろを向いていた。 「おい。何してんだよ。早くこいつを引きずって……」 「これは、何だい」達二の声には、恐怖も不安も、かといって新しい発見をした喜びのようなものも感じられなかった。声というよりは、ただの信号、ただの音、だった。  哲平は箱に置いた手をそのままにして、達二が立っている壁のほうに目を向けた。達二がふっと身体の位置をずらした。  それまで達二の影になっていて見えなかった壁……一番、奥の、かつて玉緒が|怪《け》|我《が》をして倒れていたという場所に近い奥の壁に、小さなギザギザの黒い穴が見えた。  哲平は黙ったまま、そっとその穴に近づいた。コンクリートがその部分だけ、何かで壊されたように穴が開けられていた。五センチ四方くらいだった。おそるおそる|覗《のぞ》くと黒い|闇《やみ》が見えた。何か湿った土の|匂《にお》いがする。 「なんだろう」哲平は首を|傾《かし》げた。「こんなもんは前はなかった」 「やけに薄い壁なんだな。見ろよ。厚さは二センチもないんじゃないか」達二が人さし指を穴の周囲にめぐらせながら言った。「これなら簡単にぶち破れる」 「しかし、どうしてこんな穴が……」  達二が哲平と同じように穴に目をつけて、奥を覗いた。  陰謀かもしれない、と言おうとして、哲平は口をつぐんだ。何のために! もうたくさんだ! 哲平は段ボール箱のところに戻り、達二に声をかけた。 「ともかく、こいつを持って上に戻ろう」  達二は反応しなかった。 「おい、聞いてんのか。早く……」  しーっ、と達二が唇に指を当てた。「静かに。何か聞こえる」 「え?」  達二は穴に耳をつけ、目だけぎょろぎょろ動かした。「何だろう。あの音……」  哲平は再び、穴のところに戻り、達二に言われるまま、壁に耳をつけた。  確かに何か音がしていた。遠くにではあるが、かすかに階段を上り降りするような人の足音がする。急いではいない。ゆっくりとした足音だった。何かものを運んでいる、といった感じもした。ひとりなのか、ふたりなのか、わからない。話し声もしなかった。 「この奥はどこに通じてるんだ」達二が低い声で|囁《ささや》いた。「どこかの家の地下室か何かと……」  |咄《とっ》|嗟《さ》に哲平は、美沙緒が調べてきたという幻の地下道の話を思い出した。そんなことが現実にあり得るのだろうか。地下商店街を建設するために穴だけを掘り、そのまま霊園の移転が決行されなかったといって埋めずに残しておくなんてことが……。 「大きな地下室だったのを、マンションが建ってから区切ったんだよ、きっと」達二は興奮し始めた。  まさか、と哲平は否定した。「そんな話は聞いてない。それにもしそんなことがあったとしても、このマンションを建てる時に埋めたに決まってるじゃないか」 「だって、現に……」  そう言いかけた達二はまた、穴に耳を強く押しつけた。「聞こえる。人の話し声がする」  信じられないことだったが、哲平はこの達二の一言に|一《いち》|縷《る》の希望を見出した。彼は達二をおしのけて、自分も穴に耳を当てがった。  何を言っているのかまるでわからなかったが、遠くに、|遥《はる》か遠くに人の声が聞こえた。同時に何かガラス瓶のようなものをまとめてどさりと床に置いたような音がした。  イメージが|嵐《あらし》のようになって哲平の頭の中に渦を巻き出した。地下のワインセラー、酒屋の貯蔵庫、さもなかったら秘密の地下組織、いや、万世寺が使用している地下の納骨堂……。なんでもいい。ともかく人の話し声は確かに聞こえる。  |哄笑《こうしょう》が響いてきた。男の笑い声だ。中年過ぎの男の……。  続いて何かを声高に|喋《しゃべ》りまくる、かん高い女の声も聞こえた。都会の雑踏でよく聞くことができる、平和な、屈託のなさそうな人々のさざめきに似ていた。  哲平は指を軽く|舐《な》めて湿らせてから、穴の奥に突っ込んだ。かすかな冷たい風が指をおおった。  達二が気でも狂ったように哲平を追い払い、穴に口をつけて「おーい」と叫んだ。「おーい、助けてくれ! 誰かいるのか!」  もう一度、耳をすます。相変わらず、遠くの話し声は聞こえていたが、特別な変化はなかった。 「|金《かな》|槌《づち》を貸せ!」達二が哲平の手から金槌をもぎ取った。金槌がコンクリートの壁に打ち下ろされた。|鈍《にぶ》い音が地下室全体に反響した。壁は次から次へとぼろぼろの粉となって崩れていった。まるで、土塗りの壁を壊しているみたいに、たやすい作業だった。  穴はあっという間に大きくなった。哲平は以前、ここを調べに管理人の田端夫妻と来た時に、この壁のあたりが、他と異なっていたことを思い出した。コンクリートが薄いのだろうか、と思ったのは、まさしく当たっていたのだ。  達二の顔に玉の汗が光った。穴は一〇センチ四方になり、やがて面白いようにぼろぼろと崩れ落ちて人の頭がそっくり入るほど大きくなった。冷たい風がしみいるように地下室に吹きこんできた。  達二は金槌を|床《ゆか》に放り投げると、穴に首を突っ込んだ。 「おーい!」彼は叫んだ。「誰かいるか!」  信じられなかった。壁に耳を当てて反応を|窺《うかが》っていた哲平の耳に人々の声がざわざわと響き、やがて鮮明な言葉となって戻って来たのだ。 「どうしたーっ?」と、その声は聞いた。「おーい」と女の声が響いた。  首をいったん、元に戻した達二の顔は汗と興奮でぐしゃぐしゃに|歪《ゆが》んでいた。「助かったよ。助かったんだ、俺たち」  彼は再び、穴に首を入れ、「助けてくれーっ」と叫んだ。「閉じ込められてるんだ! ここはセントラルプラザの地下なんだよーっ! 大人が四人に子供が一人いる! なんとかしてくれーっ!」  穴の奥のさざめきがちょっとの間、途切れた。達二が穴の向こうで、「兄貴、懐中電灯を貸してくれ」と怒鳴るのが聞こえた。哲平は懐中電灯を手渡してやった。  達二は首をひき抜くと、穴に懐中電灯を差し込み、中を|覗《のぞ》きこんだ。「おい、見てみろよ。こいつは本物の地下道だ」  哲平は穴ににじり寄り、覗いてみた。目の前にあった風景を現実のものとして|捉《とら》えるまで、かなり長い時間がかかった。そこには大人が何人も立っていられるだけのほら穴が拡がっており、穴は万世寺方向に向かってどこまでも真っ直ぐに伸びているようだった。その先は懐中電灯の光が届かないのでなんとも言えなかったが、途中で途切れているようにはどうしても思えない。  むっとする古びた土の|匂《にお》いが鼻をついた。哲平は達二の顔を見つめ、「こいつは……」と言葉を濁した。|罠《わな》かもしれない、と思うのだが、それがうまく言葉になって出てくれない。 「助かったよ。兄貴が言ってたことは本当だったんだ。そうだろ。駅からの地下道とかいう話さ。あれは本当だったんだ。理由なんか知ったこっちゃない。ともかくこの穴のずっと向こうに人がいるんだ」  達二は喜びのために|唾《だ》|液《えき》があふれてきたのか、唇の端から糸を引いた液体を流し、うち震えるようにして哲平を見た後、また穴に首を突っ込んだ。 「おーい」 「おーい」また声が返ってきた。今度は男が三人くらいで叫んでいるように聞こえた。 「助けてくれーっ」 「こっちに来ーい!」と男の声が叫んだ。「来れるだろーっ?」 「そっちは何なんだーっ? え? 地下の物置か何かなのかーっ?」  また声が途切れた。けたけたと笑っているような、かすかなざわめきが伝わってきた。女の声が、まるでオペラでも歌っているようにかん高いソプラノで何かわめいたが、何を言っているのか聞き取れなかった。  哲平は壁に耳を当てがったまま、達二の腕を引っ張った。「ちょっと待て」 「どうしてだよ」達二は穴から半分、顔を戻した。 「何か変だと思わないか」 「何がだよ。馬鹿言うなよ。あれは人間の声だぜ。|化《ばけ》|物《もの》なんかじゃない」  |唾《つば》をとばしながらそう吐き捨てるように言うと、達二は穴の奥に向かって「どうすればいいんだーっ?」と聞いた。ざわざわとたくさんの人の声が響いた。金属音やガラスを打ち鳴らすような音、それに|鎧《よろい》を着たまま地面を|這《は》いつくばるような音がそれに混じった。  哲平は震え上がった。あれは、あれは人間じゃない。何か、もっと、違うものだ……。  だが、達二がそれに気づいた様子はなかった。「こっちに来てくれーっ」と彼はわめいた。「すぐに来て助けてくれーっ。ここはセントラルプラザマンションの地下室なんだーっ」 「おーっ」というどよめきに似た大勢の男の声が返った。何だ、あれは。あんなにたくさんの男たちが、どうして地下の穴倉にいるんだ。  達二は紅潮した顔を引き戻すと、「みんなを連れて来よう」とそそくさとエレベーターに向かって走り出した。哲平は後を追った。覚えのある、あの冷たい湿った風が地下室の床を這いまわっていた。 「達二!」と彼は叫んだ。「俺はやめたほうがいいと思う」  達二はエレベーターに乗り、八階のボタンを押しながら、「助かるんだぞ」とわめいた。「助かるってのに、何を怖がってるんだよ。いやなら俺と直美だけ、先に行くぞ」 「おまえ、あの壁の小さな穴をどうやって説明するんだ。あんなもんはなかったんだぜ。記憶の限りでは、あんな穴が地下室の壁に開いていたことなんかなかったんだぞ」 「兄貴たちが気がつかないうちに、誰かがしのびこんで穴を開けたのさ」 「いったい何のためにだ」 「知るかよ!」達二はエレベーターの中で足踏みした。「今、重要なのは人がいた、ってことじゃないかよ。あとの説明は助かってから、誰かにしてもらうさ」  エレベーターが八階に着くと、達二はつんのめるようにして玄関の中に飛び込んだ。すでにすっかり外は明るくなっており、室内にいつもと変わらない朝の光があふれ始めていた。 「直美! 直美! 助かったぞ。人がいたんだ」 「えっ? どこに?」廊下に駆け出して来た直美は、ジーンズにブラジャーだけ、といういでたちで髪の毛を振り乱した。達二はリビングに置いてあったふたりの手荷物を拾い上げると「さあ、服を着て」と直美に命じた。「地下室にこれから救援が来る」  美沙緒が心配そうな顔をして哲平を見上げた。 「地下? 救援?」 「違うんだ」哲平はつぶやいた。「多分、あれは救援なんかじゃない」 「どういうことなの?」  説明している暇はなかった。派手なプリント模様のシャツをはおり、急いで手鏡に向かって口紅を塗っている直美に向かって、哲平は「行くんじゃないぞ!」と叫んだ。あまりに大きな声だったので、クッキーがううっ、と|唸《うな》った。直美は口紅を途中まで引いたまま、|唖《あ》|然《ぜん》として哲平を見た。 「あれは救援じゃないんだ。わかるんだ。あれは……そんな……そんなものではない」  ははは、と達二が乾いた笑い声を上げた。「兄貴は頭がどうかしてるんだよ。俺は聞いた。はっきり言葉を交わしたんだ。ねえ、|義《ね》|姉《え》さん、ここの地下には埋められていない地下道があるかもしれないんだろ?」 「どうして知ってるの」美沙緒は聞いた。 「兄貴から聞いた」 「あれはただの|臆《おく》|測《そく》よ。証拠は何もないんだから」 「しかし、実際に地下道があったんだよ。いいかい。壁に小さな穴が開いててさ、ためしにそこを|金《かな》|槌《づち》でぶっ|叩《たた》いてやったら、簡単に崩れたんだ。そこから見たら、立派な地下道があったんだよ。遠くから人の声がした。助けてくれって言ったら、向こうも答えたよ。そうだろ? 兄さん」  哲平は仕方なくうなずいた。達二は続けた。「玉緒ちゃんがかまいたちに|遇《あ》ったというのは、あの地下道から流れこんでくる風のせいだったのかもしれないよ。あれを伝っていけば、必ずどっかに出られる。伝っていくうちに、助けが来るしさ」  ほんとなの、と美沙緒が哲平に聞いた。哲平はそっと目をそらした。 「行くぞ」と達二は直美に向かって言った。「化粧なんかしてる場合かよ。ほら、早く!」 「|義《に》|兄《い》さんたちはどうするの?」直美は達二から手渡されたヴィトンのボストンバッグをわしづかみにしながら、やや不安そうに聞いた。哲平は美沙緒を見た。呼吸が荒々しくて、ブラジャーをしていない胸が、小さな乳首と共に激しく上下しているのが見えた。  美沙緒も哲平を見た。達二の言うことなど、根っから信用していない目つきだったが、少なくともこの新しい状況に興味は持っているようだった。 「確かめに行く?」美沙緒はくぐもった声で哲平に聞いた。「確かめるだけなら……」  |藁《わら》にもすがりたいと思っている気持ちは哲平にも理解できた。|何《な》|故《ぜ》なら、自分自身もそうだったのだから。しかし……。 「確かめてどうする?」 「わからない」と美沙緒は言った。「でも黙ってここにいるよりはましでしょ」  その言葉は正しかった。人は行動の自由を|阻《はば》まれた時にこそ、初めて絶望する。するべきこと、してみるべきことが残されている間は、たとえそれが|妄執《もうしゅう》であったとしても、いっとき、絶望から逃れることができるのだ。  達二と直美、それに哲平、美沙緒、玉緒はエレベーターに乗った。ドアが閉じかけた時、玉緒が叫んだ。「クッキーを置いていっちゃいや!」  犬はもう、エレベーターの真ん前まで来ていた。哲平は開いたドアを手で押さえながら、クッキーを中に入れてやった。      〔23〕 [#地から2字上げ]午前7時  地下室に着くと、突然、クッキーが激しく|吠《ほ》え出し、獲物めがけて突進する猟犬のようにジャンプしながら壁の穴に向かって走り出した。 「クッキー!」玉緒が呼んだ。「こっちにおいで! クッキー!」  犬はぐるぐると壁の周囲を回り、|匂《にお》いを|嗅《か》ぎ、|唸《うな》ったり吠えたりを繰り返した。達二は大声で「ほら、あれだ」と穴を指さした。 「あの向こうに地下道があるっていうの?」と直美が不安げに聞いた。  見てみろよ、と達二が彼女の腕を引いた。 「寒いわ、ここ」美沙緒が哲平に言った。「どうしてこんなに……」  穴の向こうを懐中電灯で照らしながら、直美が「すごーい」と感嘆の声を上げた。「ほんとに地下道になってる。美沙緒さん、見て見て。何なの、これ」  中を|覗《のぞ》きこんだ美沙緒は、ぶるっと身体を震わせたきり、何も言わなかった。  達二が美沙緒と入れ替わり、穴に首を突っ込んで「おーい!」と叫んだ。「全員、ここに来てるぞーっ!」  クッキーが達二の叫び声に合わせるかのようにけたたましく|吠《ほ》えた。 「黙れ! 誰かこの犬を黙らせろ!」達二が怒鳴った。「何も聞こえないじゃないか」  哲平はクッキーを黙らせるために首輪を握り、強く後ろに引いた。白いあぶくのようなものを口のまわりから吹き出させて、犬は目を白黒させながら後ろ|脚《あし》を踏んばった。 「おーい!」達二は繰り返した。「誰かいないのかーっ!」  直美も美沙緒もコンクリートの壁に耳をつけていた。達二が舌打ちした。「おーい! どこに行ったんだーっ」  彼は穴から首を戻し、「返事がない」と腹だたしそうに言った。「誰かを呼びに行ったんだろうか」  誰か?……哲平は胃の底のほうが縮み上がる思いにとらわれた。誰かって誰だ。さっき、あんなにたくさんの人の声がしたじゃないか。  直美が達二に代わって叫んだ。「助けてくださーいっ! お願い!」 「ここをぶち壊そう」達二が真っ赤な顔をしてわめいた。「すぐに壊れるはずだ」  |金《かな》|槌《づち》を手に壁に向かう達二に向かって、直美が「私も手伝う」と言った。懐中電灯を持ち上げて振り回そうとしたので、達二がそれを止めた。「馬鹿! それを壊したりしたら、この先、中を歩けなくなるじゃないか」  哲平は思わず美沙緒のほうを見た。美沙緒はいっぺんに|老《ふ》けこんだ年寄りのように生気のない顔をして哲平を振り返った。  ねえ、パパ、と玉緒が寄って来た。「あの穴の向こうに何があるの?」 「|洞《どう》|窟《くつ》みたいな道があるんだよ」彼は玉緒の|頬《ほお》に手を当てた。 「そこを通れば外に出られるの?」 「わからない。出られるかもしれない。だからやってみようとしてるんだ」 「真っ暗なんでしょう?」 「そうらしいね」 「いやだ」玉緒はみるみるうちに目に涙をあふれさせた。「怖いもん。行くのいやだ」  哲平は黙って玉緒を抱きよせた。クッキーがそばで相変わらず|唸《うな》り続けている。  達二は金槌を手に、壁をどんどん壊していった。一回叩くごとに、穴は見事に変形していき、|残《ざん》|骸《がい》がぼろぼろと床に崩れ落ちた。それがコンクリートであったことなど、到底、信じられなくなるほど、壁は|脆《もろ》かった。  人が一人、通り抜けられるだけの穴が完成するのに、十五分もかからなかった。達二は全身、汗でずぶ|濡《ぬ》れだった。彼は、汚れた灰色の汗の染みが浮いたシャツを乱暴に脱ぎ捨てると、上半身裸になって、肩で息をした。 「これでいい」こめかみにぽつんと血の跡がある。破片で切ったらしかった。  直美が懐中電灯でおそるおそる中を照らした。哲平と美沙緒も奥を|覗《のぞ》いた。驚いたことに、地下道はこの地下室の穴の部分がいわば終点ともいうべき形になっていて、向かって左側には厚い土の断層が見えた。道は真っ直ぐに右側に伸びている。何か湿った|生《なま》|臭《ぐさ》い|匂《にお》いが鼻をついた。 「こうもりとか、ねずみとかがいるんじゃないかしら」直美が地下道のあちこちを光の輪で満たしながら不安そうに言った。  いたって構うもんか、と達二が額の汗を腕で|拭《ぬぐ》いながら言った。「それにしても、さっきの連中はいったいどこに行ってしまったんだろう」 「もう、すぐそこまで来てるのかもしれないわよ」  哲平は、何気なく言ったのであろう直美の言葉に、わけもなくぞっとした。すぐそこまで……。すぐそこまで来ている……。 「ともかく」と言ってから、達二は深呼吸し、「行ってみようじゃないか、諸君」と精一杯、おどけてみせた。 「ほんとに行くのか」 「行くよ、俺は」 「私も行く」直美が言った。達二をひとり行かせるわけにはいかない、という彼への情愛と、そして何が何でもここから逃げ出したいとする自己愛とがごちゃまぜになっている様子だった。 「やっぱり、やめたほうがいいんじゃないかしら」美沙緒がおずおずと言った。 「どうしてだい? 方法がひとつ見つかったというのに、黙ってここにとどまってるつもりなのかい?」と達二。 「だってもし、人が助けに来てくれるんだったら、ここにこのままいて、待ってるほうが利口なんじゃないの? 地下道がどこでどうなっているのか、私たちにはまるでわからないんだもの」 「|臆病《おくびょう》なんだな、美沙緒さんは」達二は|嘲笑《ちょうしょう》と|苛《いら》|立《だ》ちを唇に浮かべた。「もし救援が来たとしてもだよ、どうせ、一階の玄関から入って来ようとするに決まってるじゃないか。そうしたら、その人たちは気の毒だが、全員、溶けて消滅してしまうんだ。その繰り返しをここにいてぼんやり見守ってるわけにはいかないだろうが」 「どうも|腑《ふ》におちない」哲平は低い声で言った。 「何がさ」 「さっきの人の声だよ。助けを求めてると知ったはずなのに、ちょっと俺たちが上に上がっている間にいなくなってしまうことがあり得るだろうか」  そう言いながら、哲平はそんな論理的な話はもうどうでもいい、と心の中で叫んでいた。論理なんて通用しないんだ。ここではもう、何もかも、現実の論理は消滅してしまっているんだ。 「いやだ、行きたくない」と玉緒が泣きじゃくった。クッキーが|唸《うな》るのをやめ、小さな主人のそばに寄り添って、さかんに涙を|舐《な》めまわした。  美沙緒は玉緒に「泣かないのよ」と|優《やさ》しく声をかけた。「いつだってママやパパは一緒よ」 「行くのか、行かないのか」達二が目をらんらんと光らせて言った。「行って調べてみるのか、それともここでこうやって一日中、議論してるつもりか」  直美がボストンバッグをつかみ上げた。「行きましょう」  それですべてが決まった。  まず達二が勇敢にも穴に足を踏み入れた。脱いだシャツを腰に巻きつけている。昔と逆になったな、と哲平は思った。昔はいつだって俺が先頭に立っていた。近所の|餓《が》|鬼《き》どもを集めて、いつだってこの俺が……。 「変な|臭《にお》いがする」後に続いた直美が、不器用な|恰《かっ》|好《こう》で穴をくぐり抜けながら言った。「それに寒い」 「|俺《おれ》から離れるな」達二の声はもう、随分、遠くからしか聞こえなかった。  直美が「キャッ」と小さく叫んだ。「何かある」 「石だよ。気をつけろ」  どうするの、と美沙緒が聞いた。「私たちも行くの?」  哲平は黙っていた。どうして、これほど簡単な選択に迷うのか、自分でもわからなかった。行ってみて途中で引き返したっていい。ずっと先まで行けるのなら行ってみたっていい。自然に出来上がった|洞《どう》|窟《くつ》ではない。何らかの形で人間が掘り上げたに違いない地下道なのだ。想像もつかない落とし穴などはあろうはずもない。  しかし、と彼は口の中がからからに乾いていくのを必死になって残り少ない|唾《だ》|液《えき》で湿らせながら思った。こんなことが現実にあるのだろうか。ごく普通の住宅地の下を誰も知らない地下道が通っているなどということが。 「兄貴! 早く来いよ! ずっと奥まで道が拡がってるぞ!」達二の声が遠くから響いた。  クッキーが今まで聞いたこともないような、恐ろしい|唸《うな》り声を発したかと思うと、じりじりと後ずさりを始めた。目はじっと穴のほうに向けられている。それは飼い犬の目ではなく、|闇《やみ》を駆け抜ける野獣の目だった。 「クッキー?」美沙緒が小声で呼んだ。「いったいどうしたの?」  ある説明しがたい直感が哲平を|衝《つ》き動かした。彼は美沙緒に向かって「こいつの首輪を握ってろ。離すんじゃない」と怒鳴ると、穴に上半身を突っ込んで「達二!」と叫んだ。「戻って来い! 戻るんだ!」  一瞬の静寂があたりを包んだ。遠くで、どこか|遥《はる》か遠くのほうで、ひたひたと何かがこちらに向かって|一《いっ》|斉《せい》に|這《は》ってくるような音がした。  ひたひた。ひたひた。  全身が|粟《あわ》だった。哲平は歯が、がちがちと鳴りだすのを覚えた。 「直美! 達二! どこにいるんだ!」  その直後だった。地下道の奥のほうで「ギャーッ!」という悲鳴が|轟《とどろ》いた。悲鳴自体が恐怖の|凄《すさ》まじさを物語っていた。続いて「助けてくれーっ」という声。  がさがさという土をはねる音。けたけたという笑い声。背中が凍りつくようなしのび笑い。  突然、悪臭が|鼻《び》|腔《こう》に拡がり、息が詰まりそうになった。魚屋の裏口あたりで、真夏に魚の内臓を|樽《たる》に入れ、それがみるみるうちに、腐っていく時の|臭《にお》いを|嗅《か》いだことがある。悪臭はその臭いを百倍強くしたような、すさまじい臭いだった。  美沙緒が何かをわめいた。クッキーが身体ごと美沙緒の手から逃れようとして暴れた。玉緒が金属をすり合わせたような鋭い悲鳴を上げて泣き出した。 「達二!」哲平は狂ったように何度も叫び、穴に片足を突っ込んだ。 「やめて! 行かないで!」と美沙緒が怒鳴った。  ちゅるちゅるという、何かをすすりあげるような音がした。しのび笑いが続いた。その笑い声は地下に反響して、この世のものとは思えないぞっとする音となってはね返った。 「達二! 返事をしてくれーっ!」顔にまとわりつく液体が涙なのか汗なのかわからなかった。返事はなかった。懐中電灯がないので、いくら目をこらしてみても一寸先も見えない。  |漆《しっ》|黒《こく》の|闇《やみ》の中で、何かがもぞもぞと|蠢《うごめ》き、そしてその気配が次第に遠のいていくのが感じられた。ひそひそという|喋《しゃべ》り声、くすくす笑いも、それと一緒に消えていった。  |茫《ぼう》|然《ぜん》自失に陥りそうになるのをかろうじて助けてくれたのはクッキーだった。クッキーは美沙緒の手がゆるんだすきに一目散に走り出し、哲平の身体の上を飛び越して中に入ろうとした。彼は慌てて犬の首に腕をかけ、力一杯、身体ごと地下室の床に|叩《たた》きつけた。クッキーは「キャン」と鳴いた。 「早く、エレベーターに乗れ!」彼は叫んだ。「早く!」  美沙緒は|蒼《そう》|白《はく》の顔をしたまま立ち尽くしていた。哲平は片手で犬の首輪を握り、残ったほうの手で玉緒の手を引いた。|生《なま》|臭《ぐさ》い|臭《にお》いが冷気とともに地下室全体に|漂《ただよ》い始めていた。  しばらく行って振り返ると、美沙緒はまだ|茫《ぼう》|然《ぜん》とした顔で穴のほうを見つめていた。来い、と哲平は叫んだ。「何してんだ!」 「だって……」と美沙緒は震えながら言った。「達二さんたち……」  彼は気を失いそうになるのをこらえながら、一瞬、美沙緒を見て立ち尽くした。「もういいんだ」彼は首を振った。「助けられない」  言った途端、涙があふれた。彼は唇を震わせ、ひとしきり泣いた後、駆け寄って来た美沙緒と共にエレベーターに向かって歩き出した。      〔結び〕  三日たった。事態は何も変わっていない。毎日、毎日、太陽は建物を焼きつくそうと|狙《ねら》ってでもいるかのように昼の間中、照り続けている。部屋の中はまるでオーブンだ。黙って横になっていると、熱波が鼻や口から熱い泥のようになって侵入してくる。  水道は止まることはなかったが、それでも日一日と水圧が低くなっていくらしく、水の出が悪くなった。シャワーのノズルからはちょろちょろとしか水が流れてこない。それでも、親子は三人で、日に一度、水を浴びている。そうでもしなければ、身体中が溶けていきそうな気がするのだ。  テレビはつかなかったが、ラジオからは|明瞭《めいりょう》な音で放送を聞くことができた。歌謡番組もプロ野球もニュースも天気予報も、いつもと何ら変わりなく流れてきた。ニュースではさしたる目立った事件報道はなく、連日の異様な暑さと夏休みの水の事故に関するものが主な内容だった。東京では連日三十六度を越えているらしい。  食料は次第に底をつき始めた。残っているのは米が二合ばかりと、梅干しが六粒、ひからびたレタスの葉が数枚……。哲平が地下室に再度、行ってハイカロリービスケットを運んだのがせめてもの収穫だった。  哲平の話によると、地下室の例の穴は、気のせいかひと回り、大きくなったように見えたらしい。まるで残りの三人が侵入してくるのを待ってでもいるかのように。  地下室全体に|悪臭《あくしゅう》が満ち、ビスケットにも少し、その|臭《にお》いが移っていた。食欲を失わせる臭いではあったが、仕方ない、と美沙緒は思った。今はこのビスケットに頼って生き永らえるしか方法がない。これがダイエット用のノーカロリービスケットではなくて本当によかった、というのが哲平と美沙緒の言う|唯《ゆい》|一《いつ》の冗談だった。  暑さと恐怖のせいで玉緒はぐったりしているが、それでもまだ元気だ。時には笑顔すら見せてくれる。笑顔。玉緒が笑顔をみせてくれるたびに、美沙緒も哲平も|微笑《ほほえ》みを返す。  哲平の笑顔は痛々しい。美沙緒には彼が何を考えているのかよくわかる。時折、夜になって玉緒が寝た後などに、彼は子供時代のことを飽くことなく彼女に語って聞かせた。そのすべてが、達二との思い出話だった。 「あいつは俺にコンプレックスを感じていたんだろうな」彼は何度もそう言った。「だから俺とは正反対の生き方ばかり選んだ。堅実な会社に勤め、堅実なサラリーマンとなり、堅実な結婚をし、その結婚相手に直美のような、世間知らずのわがままな女をわざと選んだ。玲子のことをいつまでも根にもっていたのは、それが俺を攻撃できる唯一の材料だったからなんだろう」  午後三時。時計は休むことなく動き続けてはいるが、もはや、今日が何日なのかわからなくなっている。考えればすぐにわかるのに、考えるのは|億《おっ》|劫《くう》だった。  クッキーが廊下で赤い舌を垂らし、はあはあと荒い息をしながら、寝そべっている。玉緒はリビングと廊下のつなぎ目のあたりで横になり、うとうとし始めた。氷の入った冷たいジュースが飲みたい、とわめいた後だったので、余計に哀れな感じがする。  汗をたっぷり吸い込んでべとべとになったマットレスの上に横になりながら、美沙緒は手を伸ばしてラジオをつけた。いつも聞いていた男の声が元気よく流れてきた。 「さあ、好評をいただいております一万円プレゼント。今日は誰に当たりますかな。電話番号下|二《ふた》|桁《けた》が96の方、今すぐにお電話ください。一万円ですよ。一万円。今度の日曜日に家族四人でプールに行ける。一万円。奥さん、なんたってこの暑さだからね。プールにでも行ってなきゃ、やってられないよね、まったく。さあ、早速電話が鳴り始めました。いってみよう。一万円に挑戦。最初の方からどうぞ……」  電話が通じてればな、と哲平が残り少なくなったビールの缶を飲みほしてから言った。「電話して一万円もらって、おまけに助けてもらえる」 「でも、うちの電話番号、下二桁が96なんかじゃないでしょ」 「そうだったな」彼はくすっと笑った。「いったいうちの電話番号は何番だったっけ」 「忘れた」美沙緒は言って弱々しく|微笑《ほほえ》んだ。  ベランダに向かった大きな窓の向こうに、青い、雲ひとつない空が果てしなく拡がっているのが見える。あの空の下で、人々はいつもと変わりなく忙しく生きている、と思うとなんだか不思議だった。明日も明後日も、人々はそうやって生きていくだろう。笑ったりお金の計算をしたり、|嫉《しっ》|妬《と》にかられたり、健康を案じたりしながら……。 「あと何日、生きられるかしら」美沙緒が言うと、哲平はそばに寄って来て、やさしく彼女の|剥《む》き出しの肩に指を|這《は》わせた。 「あと何日? 計算するのはやめよう」 「あなたは結局、ものすごく強い人だったのね」 「どうして?」 「いつも最後には冷静だわ」 「偶然さ」 「後悔してない?」 「何を?」 「私と出会わなかったら、あなた、きっと……」  彼は乾いた唇を彼女の肩に押しつけた。手がタンクトップの胸をまさぐった。 「愛したいの?」 「ああ」  彼女はじっとしていた。彼の手は手品師の手のように、彼女の身体を柔らかく|愛《あい》|撫《ぶ》し続けた。弱っていたはずの身体が、目まぐるしく生命の鼓動を打ち始めた。透明な汗が、額に、うなじに、肩に、背中に流れ落ちる。 「後悔なんかしてない」彼は次第に荒くなる息の下で言った。「俺はまだ生きている」  俺はまだ生きている。生きている。  彼女はひからびたはずの肉体が|潤《うるお》い、みるみるうちに息づいていくのを感じた。  そうよ、と彼女は思った。私たちはまだ生きている……。  遠からず、もっと残酷な目に|遇《あ》うとしても、私たちは、今、こうして生きている……。  開け放した玄関ドアの向こうで、かすかにごとんという音がした。切ない陶酔のただなかにいた美沙緒と哲平は、その音に気づかなかった。  ごとん。しゅるしゅる。  誰もいない、熱く粘りけのある外廊下のエレベーター表示板に、ランプがついた。  2、3、4……。  箱が上がってくる。クッキーは眠りこけたままだ。  5、6、7……。  玉緒が寝返りをうった。  ごとん。  8の数字に明かりが灯り、箱が止まった。中からざわざわと大勢の人間の声がする。声というよりは、念仏のような低いざわめき。  しゅるしゅる。  エレベーターのドアが開いた。|生《なま》|臭《ぐさ》い風がおこった。しのび笑いが|洩《も》れた。  クッキーがむっくり頭を上げた。 |墓《ぼ》|地《ち》を|見《み》おろす|家《いえ》  |小《こ》|池《いけ》|真《ま》|理《り》|子《こ》 平成12年9月1日 発行 発行者 角川歴彦 発行所 株式会社角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp (C) Mariko KOIKE 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『墓地を見おろす家』平成5年12月24日初版刊行