海を見る人 小林泰三 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)この界隈《かいわい》の ------------------------------------------------------- そうですよ。わたしは海を見ているんです。 (その老人は僕の問いに答えてくれた)  おたくは見かけない顔だが、旅の人ですか? ああ、やっぱり。そうだと思った。自分で言うのもなんだけど、わたしはけっこう、ここいらでは有名でしてね。いや、毎日ここに来て、一日中、海を見ているだけなんですが、それがもう何十年も続いているものだから、この界隈《かいわい》のやつらは山の者も浜の者もみんなわたしのことを知っていて、今では噂にすらならないぐらいなんでね。だから、こんなわたしにわざわざ声をかけてくるってことは、それだけでここの者じゃないって告白してるようなものですよ。  どうして、夜の海なんか眺めるのか、ですって? ははは。あれを見るためですよ。えっ?何も見えないって? そりゃそうですよ。おたくは遠眼鏡《とおめがね》を持ってないんですから。ほら、わたしの遠眼鏡を貸しましょう。こうすれば、見えるでしょう。  まだ見えない? おかしいな。わたしにははっきり見えるんですがね……。いずれにしても、もうすぐ日が昇りますから、そうすればよく見えるようになります。  いや、海が見えるってわけじゃありませんよ。海面は真っ黒に決まってますから。その真っ黒な海面を背景に朝の超光を受けて、真っ白にきらきらと、とても綺麗に輝くんですよ。 (僕は老人の横に腰をおろした。そして、海面に浮かぶもののことについて詳しく教えてくれと頼んでみた)  おたくは変わった人ですね。こんな老いぼれの話なんかが聞きたいなんて。  ええと。さて。どういう順に話せばいいものやら? この話はもう何十年もしたことがないもんですから、わかりやすい話の仕方というものがわからないんですよ。……考えてみたら、一度も話したことはないような気もしてきました。なにしろ、あの頃は人と話をするような心境ではなかったし、今となってはわたしと話をしようなんて気を起こす者もいないんですから……。  わたしがカムロミと会ったのは、十三歳の夏祭りの時でした。彼女は〈人の子〉たちでごったがえすなかを慣れない足取りで、きょろきょろと珍しそうに道の両脇に並ぶ屋台を覗きながら歩いていました。スキップのような特徴のある歩き方だったんで、わたしは浜から来た娘だって、直感しましたよ。肌は抜けるように白いんですが、それでいてはち切れるような健康的な若さを全身から放射していました。とにかく、それ以前もそれ以降も、カムロミより綺麗な娘には出会ったことはありません。口の悪いわたしの友達連中は、おおかた彼女の着物の着付けが悪くて、大きめに露出した肌にわたしが欲情しただけだったんだろう、と言いますが、けっしてそんなことはありません。おたくも、その日で確かめればわかりますよ。  わたしは子供ながら硬派を自認し、女の子に声をかけるようなことは恥だと考えていたのですが、その時はどうした加減か − その年、初めてだんじりに乗ることになっていて、少し舞い上がっていたこともあったんでしょう − わたしは自分から、カムロミに声をかけてしまったんです。  悟られないように、早足で後ろから近づき、はやる呼吸を噛みころし、友達に話しかけるような調子で、思いきって。 「君、浜から来たんだろ」わたしはなるべく年上に見せかけようと、声に力を入れました。「山の夏祭りに来るのは初めてなんだろ。案内してあげようか?」  カムロミは横目で一瞬、わたしを見ましたが、そのまま無視して離れようとしました。その一暫《いちべつ》がわたしの胸を貫きました。心臓がどきんと音をたてました。  わたしは逃げようとするカムロミにぴったりとくっつきました。 「逃げなくてもいいじゃないか」わたしは自分自身の情けない言動に少し驚きました。これでは、いつも小馬鹿にしている近所の不良たちと、やっていることは同じです。  でも、わたしはどうしても、諦める気にはなれませんでした。このまま、この少女との接点がなくなってしまうことには耐えられそうになかったからです。自分から行動を起こさずに待っているだけでは、永久にこんな綺麗な少女に近づけるチャンスなんかありっこありません。  カムロミは立ち止まりました。 「僕は怪しい者じゃないよ」わたしは必死に説明を始めました。「いつも、こうやってナンパをしているわけじゃないんだ。本当だよ。ナンパなんて、恥ずかしいことだと思ってたんだ。でも、その……なんていうか……今日はちょっとちがったんだ。どうしても、君と話をしなくてはいけないっていう強い思いが湧いてきたんだ」  カムロミは今度は横目ではなく、正面からわたしの顔をはっきりと見ました。そして、不思議そうな表情をして、手に持っていた団扇《うちわ》でばたばたと自分の顔を扇《あお》ぎました。  団扇の風でほんのりと汗ばんだ額にかかった前髪が揺れました。同時に若い匂いがあたりに広がり、わたしの鼻をくすぐりました。 「僕は今年、だんじりに乗るんだ。だんじりって知ってる? 飾りつけをした大きな車で祭りの時に若い者全員で、引っ張りまわすんだ。それも全速力で、あんまり速いんで、目の前を通り過ぎる時、光で見てたら、ちかちかぐにゃぐにゃして何がなんだかわからないぐらいだよ。もっとも、超光で見ていても、ぎゅっと潰れてよくわからないけどね」わたしは少し黙って、彼女の反応を見ました。彼女はあいかわらず、変わったものでも見るかのような目つきで、わたしの口元を眺めていました。でも、心持ち唇が綻《ほころ》んできたような気もします。「それを村中で全部で十台も出して、競い合うんだ。去年の祭りのときなんか、あんまり速く走ったものだから、衝撃波で村中の屋台が潰れちゃったよ。それに、なかなか走り終わらずに、結局三ケ月間も走り回ってたんだ。だんじりを引いていた〈人の子〉の時間だけが何百倍も遅くなってて、ほんの数分間だと思ってたらしいけど」  少女がくすっと笑ったような気がしました。我ながら大袈裟《おおげさ》な話でしたが、効果はあったようです。 「いや。本当なんだよ。だんじりに乗れるのは特別に選ばれた〈人の子〉だけなんだ。なにしろ、準光速で突っ走るだんじりの上で、踊ったり、跳びはねたりしなけりゃならないんだ。それも曲がり角のところで、わざと高く跳び上がるんだ。もう、五人のうち三人までは、遠心力でだんじりから飛ばされて、地面や見物人にぶつかってしまう。なかには死ぬやつもいるけれど、僕たちはそんなこと全然気にしてない。男だからね」  カムロミは唇を軽く噛んで、横を向きました。わたしはその時、どっと冷や汗が吹き出してくるのを感じました。  ひょっとすると、調子に乗りすぎてしまったんだろうか? 山の村の風習をおもしろおかしく言ってみただけなのに、かえって野蛮な所だという印象を与えてしまったかもしれない。  わたしは焦って、少し強引に会話を続けようとしてしまいました。 「せっかく、ここの祭りに来たんだから、絶対だんじりを見なきゃ意味がないよ。ねぇ、だんじりの上に登ってみないかい? 本当は女はだめなんだけど、大丈夫さ。僕がちょっと口をきけば、簡単だよ」  わたしは体を挟《ね》じり、目を逸らす彼女の顔を覗き込みました。  突然、堰《せき》を切ったように彼女は笑い始めました。しばらく、わたしは耳の奥に広がる鈴のようなくすぐったい感触を楽しんでいましたが、ふと我に返りました。 「どうしたの? 急に笑ったりして?」 「だって」彼女は笑いの下から、なんとか声をふり絞っているようで、さかんに腹を押さえていました。「でたらめばっかりなんだもの」  一瞬、馬鹿なことを言った自分を後悔しましたが、彼女の笑う目から不快感を持ってはいないらしいことがわかって、わたしはほっとしました。 「あなたって、おもしろい子ね」カムロミは微笑みました。 さて、この微笑みをどう判断したものか、とわたしは悩みました。若い女性の男性に対する微笑みに見えなくもなかったのですが、それよりはむしろ年下の男の子を純粋に可愛いと思っているように見えたからでした。実際、その時の二人の年齢差はかなり微妙なものでした。あの時、カムロミは十五歳でした。十三歳の少年が十五歳の少女に恋をすることはごくあたりまえのことですが、逆はどうでしょうか? この年になってもまだわかりません。女の人の心は不思議なものです。 「それで、どうする? 僕が案内してあげようか?」わたしは少女の心を知りたくて、答えを急《せ》かしました。 「そうねぇ」カムロミは少し首をかしげ、切れ長でしかも大きな目でわたしを見つめました。  「山の村のことはあんまりよく知らないから、本当は詳しく教えてもらいたいの。でも、あんまり時間がないわ。今日はもう帰らなくてはいけないの」 「えっ!?だって、だんじりを引くのは明日なんだよ。せっかく夏祭りに来たのにだんじりを見ずに帰ってしまうなんて、もったいないよ」  ふと少女の目線は僕の頭上に移りました。 「カムロミ! どうかしたのか!?」野太い声が響きました。  振り向くと、見るからに浜の者だとわかる服装をした背の高い中年の男が立っていました。少女の名前がカムロミであることをこの時知りました。 「お父さん!」カムロミはやや驚いたように言いました。「宿屋にいたのではなかったの? まだ出発までには時間があるから、ゆっくり温泉に入っているって……」 「ああ。うっかりして忘れていたんだ。二十倍村は夜になると城壁の門が閉じられて中に入ることができなくなるらしい。もちろん、夜といってもずっと暗闇になるわけでもないし、山賊が出るってわけでもないが、門が閉じるまでに辿り着かないと、野宿することになってしまう。まさか、若い娘を連れて野宿するわけにはいかないだろう」カムロミの父はわたしを睨みました。 「うちの娘が何か?」  わたしは何も答えることができませんでした。カムロミの父親の迫力に押されて、眩暈がしたのです。 「わたしが道を尋ねていたの」カムロミが助け船を出してくれました。「それから、だんじりのことも」 「だんじり?」男は眉をひそめました。「そんな危ないものは見にいってはいかんぞ」 「別に引いているところを見にいくわけじゃないのよ」カムロミは父親に甘えるような声で言いました。「ねえ。これから慌てて二十倍村に出発するのは大変だわ。それより、思いきって、出発を遅らせるのはどうかしら? 出発が明日になったからって、浜に着くのが十何分か遅れるだけでしょ」 「ふむ」男はちょっと考え込みました。  カムロミは父親に気取《けど》られないようにちらりとわたしのほうを見ると、素早くウィンクをしました。それが単なる目配せだったのか、別の意味があったのかはわかりませんでした。それどころか、カムロミのウィンクはとても短かったので、本当にあれがウィンクだったのかすら、さだかではありません。わたしは驚いて目をばちくりしました。  すでに、わたしとカムロミの間にはなんとなく楽観的な雰囲気が漂っていました。カムロミの父親は彼女の提案に賛成するように思われました。彼女の提案には欠点はなさそうでしたから。  わたしは二人の間の連帯感を確認しようと思いきってウィンクを彼女に返しました。 「なんだそれは?」父親は見咎《みとが》めました。  わたしは自分の浅はかさを呪いました。 「埃《ほこり》です。目に挨が入ったんです」 「風もないのにか?」 「目が大きいと、よく挨が目に入るのよ」カムロミは父親の袖を引っ張りました。「お父さんにはわからないことでしょうけど」 「なるほど。おまえもよく目に挨が入るって言ってるな」 「わたし、母さんにもう一泊するって言ってくるわよ」カムロミは走りだそうとしました。彼女の体はしなやかに変換を始めます。 「ちょっと待て」父親はカムロミの手を引っ張りました。  カムロミはきょとんとして、父親の顔を見ました。 「だめだ! だめだ!」男は大声で言いました。「つい、騙されるところだった。二十倍村の一日はここでは五日に相当する。明日出発したって、まだ夜のうちに二十倍村に到着しちまうじやないか。二十倍村の朝に着こうと思ったら、出発を二日半も延ばさなきゃならん。二日半っていっても、この村を夜中に出発するわけにはいかないから、結局三日も延ばすことになってしまう。三日も遅れれば、さすがに浜でも四十分以上の遅れになる。出発は今日だ」 「四十分の遅れがなんだっていうのよ!」カムロミは可愛く声を荒らげました。 「時は金なりだ。それに、宿代だって馬鹿にならない。時の金と本当の金の両方が無駄になってしまう」男はカムロミの手を引きました。「さあ、もう行くぞ!」 「ちょっと待ってよ、父さん!」カムロミは身を振りました。「この子に失礼だわ! せっかく、案内してくれるって言ってくれたのに」 「悪かったな、坊主」カムロミの父親はわたしを一瞥してにやりとしました。「どっちにしても、色気づくにはまだ早いぞ」  そして、そのままカムロミを引き摺《ず》っていきます。 「あっ……あの……」わたしは何を言っていいのかもわからず、ただカムロミをじっと見つめるばかりでした。 「来年も来るわ」それは小さな呟きでした。「もし、来年来られなくても、再来年にはぜったい来る」  カムロミがわたしと擦れちがいざまに囁いた言葉は甘い息とともにわたしの胸一杯に広がりました。  わたしはすぐさま、僕も待っているよ、と返事をしようとしました。ところが、なんということでしょう。わたしの舌は硬直して、一言も話せなかったのです。わたしの心は二人のあとを追いかけて、カムロミの手を握り締めようとしましたが、体は一歩たりとも動かせませんでした。まるで、光速がいっきに百分の一になったかのようでした。わたしは呆然と二人のうしろ姿を見送ることしかできなかったのです。  彼女は振り向きもしませんでした。  次の年、カムロミは現れませんでした。  わたしは祭りの間、ずっと彼女の姿を求めて村中を歩き回っていました。あれほど、打ち込んでいただんじりにも、興味を失っていました。いずれにしろ、一年前にカムロミのことを考えていてうっかり、だんじりの引き回しをすっぽかしたわたしには出場の資格はなくなっていたのですが。  わたしはただカムロミを探すだけではなく、浜から来たらしい〈人の子〉に出会うたび、カムロミのことを尋ねてもみました。  そのうち何人かはカムロミを知っていました。彼らの話によると、彼女の父親は浜で商売をしており、この前の夏祭りの見物で何日か店を休んだので、しばらく休むはずはないから、今回は来ないのではないか、ということでした。わたしは娘だけが来るということはないか、と訊いてみましたが、彼らの意見は一様にあの男は娘を一人で旅に出すような〈人の子〉ではないと答えました。  そして、祭りの最終日、わたしは灰色の空を見上げて、溜め息をつきました。  この一年間、カムロミのことが頭から離れた日など一日たりとてなかった。カムロミに会えることだけを生きがいにしてきた。でも、どうして今年の夏祭りで彼女に会えるだなんて思ったんだろう?  もちろん、カムロミが来ると言ったからだ。  あの時の彼女の言葉は空耳だったんだろうか? 僕の願望が生み出した幻聴だったんだろうか? 幻聴でなかったとしても、本当にあれは彼女の本心だったのだろうか? 僕をからかっただけかもしれない。からかう気がなかったとしても、がっくりきている僕に同情して、つい嘘をついてしまったのかもしれない。それとも……。  彼女は来年の夏祭りに来る気なのかもしれない。  わたしは親に無理をいって、遠眼鏡を買ってもらいました。この遠眼鏡ですよ。これほど古いものでまだ使えるような遠眼鏡はめったにないはずです。浜から持ってくるようないんちきをしたわけじゃあないですよ。正真正銘、五十年間使い込んだものです。このあたりの〈人の子〉たちに訊いてみればわかります。それでも信じられないのなら、年代測定してもらったっていい。 (僕は老人に、そんなことをしなくても信じますよ、と言った)  ありがとうございます。時々、いるんですよ。昔、誰かが山から浜へ持っていったものを今になって取ってきて、自分の家に伝わる家宝か何かのように言うやつが。そんなもの年代測定をすれば、すぐにばれちまうのに。  ええと。遠眼鏡を買ってもらったって話でしたね。  その頃、わたしは遠眼鏡を使えば、遠くまでよく見えるようになるってことは知ってましたが、まさかこんな見え方をするとは全然思ってもみませんでした。  ところで、これの原理をご存じですか? (いいえ。理科はあまり得意ではないので、と僕は言った)  そうですか。本当のことを言うと、わたしだってはっきり原理がわかっているわけではないんです。しかも、五十年も前の知識なんでかなり怪しいもんですが。この遠眼鏡の原理はこういうことです。 (老人は僕が止める間もなく、遠眼鏡の原理の説明を始めた) 〈人の子〉の先祖がこの世界に来た頃には、まだ超光を感じる力はなかったらしいですな。つまり、遠くのものは光と音でしか、感じ取れなかったわけです。その頃はずいぶんと不便だったでしょう。地面は自分から離れるにつれてせり上がって、まるですり鉢の底にいるみたいで、村全部ですら見渡すこともできないし、空はすぼまってストローから覗くみたいにしか見えないんですから。  さて、今じゃ超光を感じることができるので、誰でも世界を正しく見ることができます。もっとも、自然にここの環境に適応したのか、それとも何か人為的な手段を使ったのかはよくわからないらしいですね。  ところで、超光にもいろいろな種類があるそうです。高いエネルギーを持った遅い超光は光とほとんど同じ振る舞いをします。〈人の子〉が感じることができるのはこれとは逆にエネルギーをほとんど持たない速い超光だということです。 〈人の子〉がいろいろなエネルギーの超光を感じとったとしたら、世界の形を正しく認識できなくなってしまいます。また、世界をもっとも正しく知るためには、まっすぐに飛ぶ低エネルギーの超光が最適なのです。  さて、世界の形がはっきりわかるようになったのはいいんですが、困ったこともあります。直進する超光では遠くにあるものがよく見えないのです。たとえば、ここから見ると、海は水平線の下に引かれた一本の黒い線にしか見えません。  ところで、ここから海までの距離を知ってますか? ここから、海までだいたい二百五十キロメートルほどですが、実際には例の時空変換のおかげで、それよりもかなり短い距離を歩くだけで到達できます。逆に、ここは海抜五キロメートルぐらいですが、実際に浜に降りるには十キロメートルも下らなければなりません。  わたしは一度だけ、浜まで降りたことがあるんですよ。  浜から見れば海は途方もなく広い暗黒の存在だということがわかります。しかし、浜まで降りたとしても、結局よく見えるのは浜に近い海面だけで、遠くの海面はよく見えないんですよ。  さっき、超光にはいろいろな種類があると言ったでしょ。遅い超光は光と同じように重力に曲げられてしまうので遠くまで届かない。速い超光はまっすぐにしか飛ばないので、遠くはよく見えない。けれども、ちょうどいい速さの超光なら、うまく曲がって遠くの景色が空の方向に見えるわけです。それもちょうど空から見下ろすような感じで。  遠眼鏡とはつまりそんなふうな原理になっているらしいんです。  わたしはすぐさまこの村はずれの林にやってきて、浜の村を遠眼鏡で見てみました。ここは当時から海に向けて視界が開けていましたからね。浜の村は海より百キロほど手前にあって、距離はぎっと百五十キロメートルですが、村の様子はわりと詳しく見分けることができました。なにしろ、山の村で一メートルのものは浜の村では百メートルに引き伸ばされるのですから、当然といえば当然です。逆に上下には薄っぺらに押しっぶされているわけですが、上から見下ろすぶんにはほとんどわかりません。  低倍率のままでも、奇妙な形の家々が建っているのがわかりました。背の低い建物はそれほどでもないのですが、背の高い建物は奇妙に歪んでいて、何か騙し絵を見ているような気分になってきました。ほとんどの建物は煉瓦《れんが》作りで、歩道は綺麗に石畳で舗装されています。道端には花壇があるようです。  わたしは〈人の子〉たちを見るために倍率を上げてみました。もちろん、家の中の様子はよくわかりませんが、通りを行く〈人の子〉たちの様子はわかりました。といっても、見えるのは頭頂部分と肩ばかりでしたので、性別とだいたいの年格好しかわかりませんでしたが。  向こうはその時、昼だったのでしょうか? たくさんの人が表に出ていました。そして、一人残らず、歩く格好をしながら硬直していました。もちろん、本当に硬直していたわけではありません。注意深く見ていれば、彼らの手足がとてもゆっくり動いていることがわかりました。一歩踏み出すのにたっぶり一分ほどかかっていました。歩く速度だけではありません。すべての動作がとてもゆっくりしているのです。立ち話している二人の人物は挨拶だけに三十分かけていました。長い時にはそのまま十日ほども立ちっぱなしです。大股で歩いているように見える人はきっと走っているのでしょう。跳ねながら転がっている毬《まり》追いかける子供の姿も見えました。毯も子供もゆっくりと進んでいきます。  山の村と浜の村の間は途中、二十倍村、五倍村と渾名《あだな》されている宿場に一泊ずつすれば行き来できます。つまり二日半ほどの距離です。しかし、山の村から旅人を見ますと、山を降りるにつれ、平べったく引き伸ばされるのと同時に速度もどんどん遅くなっていきます。結果として二日半の行程は山の村から見れば、ほぼ四十日ほどになります。だから、山の村から浜の村を訪れることはほとんどありません。行った本人は数日間の小旅行のつもりでも、山で待っている側からすれば往復八十日の大旅行たなりますし、浜の村で二泊ほどすればそれだけで一年間、家をあけることになってしまうからです。  逆に浜の村からすれば、山に登るにつれ細長く素早くなるわけですから、往復にかかる時間は一日にも満たないのです。また、山の上で何泊しようとも、一日あたり十数分間の延長にしか感じません。つまり、二日間の休日があれば、山の村でひと月以上ゆったりと逗留《とうりゅう》することすらできるのです。浜から山への旅人が多いのはそういうわけです。ただ、たびたび山に旅行すると、見かけ上、人より速く年をとってしまうので、年配の女性などはあまり、山に登りたがらないそうですが。  わたしたち山の村の〈人の子〉にとっては夏祭りは一年に一度の大イベントですが、浜の村の〈人の子〉にすれば一週間に二度もあるわけです。山の行事を山の者よりも浜の者が身近に親しめるというわけです。  考えてみれば、わたしにとって長い一年でも、カムロミや彼女の父親にとってはほんの三、四日のことに過ぎません。主観的に十日ほどの旅行をした後、また二、三日で同じ場所に向けて旅立つようなことをするほうが不思議だったのです。カムロミがいくら頑張ってもあの父親がそうやすやすと、連れてきてくれるとは思えません。  わたしは浜の村の隅々まで遠眼鏡を向けて、カムロミを探しました。山の村に来なかったからには、きっと浜の村にいるはずです。  しかし、何日かかってもカムロミの姿は見つかりませんでした。ひょっとすると、見ていたのかもしれませんが、頭頂部だけからどうやって、カムロミを見つけだせばいいのでしょうか?  わたしは一計を案じました。スケッチブックに毎日、浜の村の〈人の子〉たちの様子を記録していくのです。まずスケッチブックの一ページに村全体の見取り図を正確に書きました。次に全ページにまったく同じ村の絵を写します。ここまではかなり骨が折れましたが、あとはたいしたことではありません。ただ、日々の継続が必要なだけでした。  朝早く、林にやってくると、遠眼鏡で浜の村を観測し、正確に記録していきます。といっても、実際にやることは、スケッチブックの上の村にそのまま、見えるとおりに〈人の子〉たちの姿を描いていくだけです。そして、日暮れ前にもう一度、林に来て同じことをします。毎日、これを繰り返すことにより、半日間隔での村の〈人の子〉たちの記録ができあがるというわけです。そして、山の上での半日は浜の村での数分間に過ぎません。スケッチの中のどの人物がその数分の間にどう移動したのかを推測することはちょっとしたパズル程度の難しさでしかありませんでした。  時には何十日もの間、人通りがばったり途絶えることもありました。そういう時、浜の村は夜なのです。また、一週間かそこらの間、人通りが激しくなるのは浜での朝夕です。  こうして、わたしは何ヶ月もするうちに、それぞれの家の家族構成や商売など、浜の村の〈人の子〉たちの様子をほぼ掴むことができました。カムロミ本人と父親の年格好はわかっています。また、家族には母親もいるはずです。そして、何か商売をしている。− 条件に合う家はほんの数軒でした。わたしはそれらの家の娘たちに注目し、何かカムロミの特徴はないかと観察を続けました。  そして、ある日わたしは決定的な光景に出会いました。  その時、山の上では朝だったのですが、浜では夕刻にあたっていたはずです。何日も前から、目標の少女の一人が家から少し離れた草っばらに向かってゆっくりと進んでいたのですが、ようやく辿り着いたかと思うと、腰を下ろし始めたのです。座った状態なら、下半身がよく見えるようになります。それがカムロミだとしたら、何か特徴が見つかるかもしれません。わたしは相手に気取られる心配はないのに、なぜか息をひそめて彼女を凝視しました。  学校に行かなくてはならない時刻はとっくに過ぎていましたが、その日は何も気になりませんでした。  少女は腰を下ろそうとしていたのではなかったのです。  彼女はあお向けに寝転んだのです。  カムロミでした。  わたしの目から涙が溢れ出ました。  ああ、カムロミはなんと美しいのだろう。遠眼鏡の中の風景は小さく不明瞭なものでしたが、カムロミの美しさははっきりとわかりました。その時はカムロミと別れてから一年半もたっていましたが、彼女の姿は寸分たがわず、そのままのように見えました。もちろん、彼女にとっては数日の時間しかたっていないのですから、あたりまえです。  そよ風に揺られて彼女の海のように黒い髪が水面を漂う水草よりももっとゆっくりとなびいていました。眉と瞳は黒く肌も歯も真っ白です。恥ずかしくなるような白さです。どんな美しい少女の彫像も絵画も風の中の彼女にはとうていおよばなかったでしょう。  それから何日もの間、彼女は草の上に寝転がり続けていました。僕は学校にも行かず、毎日朝早くから、夜遅くまで林の中でカムロミを眺め続けます。夜になれば、浜の村のものはほとんど何も見えなくなってしまいますが、わたしの目にはカムロミだけがはっきりと見えていました。理屈ではそんなことはありえないんですが、本当に彼女は暗闇の中で輝いて見えました。  三日目の朝、わたしは驚くべきものを見てしまいました。カムロミはフリルの付いたかわいらしい洋服の懐から、小さな機械を取り出して、顔にあてたのです。それはわたしの持っているものとは全然ちがう形をしていました。でも、遠眼鏡であることは直感でわかりました。角度から見て、どうやら山の上を見ようとしているようでした。  カムロミがこっちを見ている。  わたしはうろたえてしまいました。カムロミがわたしを見ようとしているという根拠は何もありません。ましてや、その時、彼女がわたしを見ていたということは絶対にありえません。浜の村から見れば、山の村の〈人の子〉はあまりに素早く動くため、遠眼鏡を使ってもその姿をとらえることはとても難しいはずです。わたしが日がな一日、林の中で微動だにせず彼女を見ていれば、あるいは見られることになったかもしれませんが、彼女が遠眼鏡を覗いたのはほんの数秒前です。彼女にすればそれは認識することすら難しい一瞬にしか過ぎません。その瞬間に山の村の全体を見渡し、林の中のわたしを探しだすことは絶対に不可能です。  にもかかわらず、わたしはカムロミと視線があったかのような錯覚を覚えてしまいました。そして、遠眼鏡をポケットに突っ込むと、全速力で林から飛び出しました。  なんだか、わたしはとてつもなく恥ずかしいことをしていたような気がしたのです。  次の年の夏、仲間たちからもすっかり浮き上がった存在になっていたわたしはもう夏祭りにもほとんど興味はもっていませんでしたが、もしかするとカムロミに会えるかもしれないという一縷《いちる》の望みを抱いて、縁日をぶらぶらとしていました。  あの日から遠眼鏡は一度も覗いていませんでした。毎日のように林の中に入りはしたのですが、遠眼鏡を目にあてることはどうしてもできなかったのです。もちろん、遠眼鏡でカムロミを見たいという気持ちはありました。特に夏祭りが近づくにつれて、こちらへ向かって登ってくる彼女の姿を確認したいという欲求はとても強いものになりました。  浜の村の中を何日もかけてゆっくりと進み、村のそとに出る。無数の旅人たちが往来する街道を進みながら、パンケーキのような彼女の姿は真上から見ると徐々に小さくなり、かわりに垂直方向に厚みを増し始める。速度も速くなってくる。やがて二十日余りで、五倍村に到着する。ここで一泊。つまり、山の上から見て、十日ほど滞在する。ここを出発して今度は五日ほど歩き続けて、第二の宿場二十倍村に到着する。ここでの逗留は二、三日しかない。五倍村や二十倍村での宿泊は時間調整の意味あいもあって、旅人たちはちょうど夏祭りに山の上に到着できるように見計らう。そして、最後はいっきに一日余りの行程で山の村までやってくる。−遠眼鏡を使えば、その最後の行程で見る見る旅人の姿が変形していくのがわかるんですよ。潰れた饅頭か、厚すぎるお好み焼きのようなのろのろした姿がちゃんとした〈人の子〉の姿に変わるのは圧巻です − 彼女のそんな様子を見ることができれば、どんなにか楽しいことだったでしょう。  しかし、林の中まで行くことはあっても、遠眼鏡を目にあてることはどうしてもできなかったのです。わたしは恐れていたのです。  いやしくも夏祭りの見物に来るのなら、少なくともだんじりの引き回しが行われる最終日から数えて四十日前には浜の村を出発しなければならないはずです。だから、そのデッドライン以降、浜の村にカムロミの姿があったとしたら、それは今年も彼女は来ないということを認めざるをえないわけです。そして、カムロミの不誠実さも認めなければなりません。彼女はあの時、確かに来ると言ったのですから。  もし、カムロミが不誠実だとしたら、自分が生きている意味はない。まったく、根拠のない非論理的な思い込みでしたが、わたしは真剣にそう考えていました。カムロミの姿を浜の村に見ることは絶対に避けなければいけなかったのです。 (それなら、どうして縁日に行ったりしたのですか? 遠眼鏡で浜の村にカムロミを探すのも、縁日で彼女を探すのも同じことじやないですか)  いいえ。それはちがいます。もし、わたしが縁日に行かなかったとしたら、必ず来ると言ったカムロミの言葉を踏みにじることになってしまいます。カムロミの誠実さを望むとともに、わたしは自分自身の誠実さをも守りたかったのです。  そして……  わたしはカムロミと再会できました。  彼女は二年前とまったく同じ姿をしていました。さっき言ったように、これはとりたてて驚くべきことではありません。わたしにとっては二年間でも彼女にとっては十日余り前 − 山を降りるのに二日半、浜の村に一週間、山を登るのに二日半 − のことに過ぎないのですから。  驚くべきことは、わたしの心の中のカムロミの心象《しんしょう》と実際のカムロミの姿が寸分たがわず一致したということです。わたしはその時、すでに人の心は思い出を美化するものだと知っていました。わたしはカムロミの写真すら持っていませんでしたから、二年前に会って以来、カムロミの姿は小さく不鮮明な遠眼鏡の中でしか見ておらず、半年前からはその遠眼鏡すら覗いていなかったのです。だから、カムロミの美しさは自分の心の中で膨らんでしまっているのだろうと勝手に諦めとも開き直りともつかない思いを持っていました。  なのに、どうしたことでしょう。わたしの記憶の中でカムロミの姿は少しも美化されていなかったのです。カムロミの美しさが完壁すぎて、それ以上の美化が不可能だったのか。それとも、わたしの想像力が貧弱すぎて実物を越えることができなかったのか。 「久しぶりね」カムロミはやさしく微笑みかけてくれました。「あなた、少し見ない間に変わったのね。なんだか逞しい感じよ」 「そりや、変わるよ」わたしはカムロミの浴衣《ゆかた》姿に微笑み返しました。「二年もたてば誰でも変わってしまうんだ」 「ごめんなさい」カムロミは戸惑ったような表情を見せました。「うっかりしてたわ。ここではもう二年もたっていたのね。ずいぶんと待たせてしまったわ」 「いいんだよ。もうそんなこと」僕はうっとりとカムロミを見つめました。「僕らはこうして会えたんだから」  カムロミも僕を見つめてくれました。気のせいだったのかもしれませんが、その目の中には二年前とはちがう光があったように思います。年下を愛《め》でる気まぐれではなく、若者に対する思いのようなものが。  わたしはカムロミが愛しくて仕方なくなりました。彼女のすべてが知りたくなりました。 「カムロミ、君の村はどんな感じなの? この山の村と同じようなところ?」 「全然、ちがうわ。浜の村では何もかもがずっと重いの。〈人の子〉の体もそうよ。ここでは体はふわふわしていて団扇でだって飛べそうだけど、浜の村ではじっと立っているだけで疲れてくるのよ」 「へえ。時間の進み方がちがうのは知ってたけど、重力の強さがちがうとは知らなかったよ」 「だから、光で見える範囲はここよりもずっと狭いの。ここなら、光だけでも縁日全体を見渡せるけど、浜の村では隣近所を見るのが精一杯よ」そして、周りを見回して溜め息をつきました。 「ああ、ここは本当に光が綺麗」  わたしもあらためて、周りの様子を見てみました。夜なので空からの超光はほとんどなく、見えるのは屋台、灯されている明かり、それに照らされている〈人の子〉たちです。光で見る空は小さく見栄えはしませんが、屋台の明かりは赤、橙、黄、緑、青、藍、紫と色とりどりで、わたしたちをすっぽりと取り囲んでいます。そして、頭の上からわたしたち二人を祝福するかのように優しく光を投げかけてくれていました。その時まで気がつきませんでしたが、言われてみれば縁日の光はとても印象的なものでした。星というのはこんな感じだったのかもしれませんねぇ。  わたしは縁日の光から目を下ろし、七色の光に照らされるカムロミに見とれました。歩くと、カムロミの肌を照らす光の色もゆっくりと変わっていきます。息をのむような美しさでした。 「時間や空間の歪《ゆが》み方もここよりもずっと大きいの。家の一階と二階でもちがうのよ」  わたしは我に返りました。カムロミの話は続いていたようです。 「なんだか、不便そうだね」 「ちがうといっても、二十分の一ぐらいだけどね。二階の窓から見ると、下を歩く人はみんな本当より背が低く、太って見えるの。自分もああ見えているかと思うとぞっとしちゃうわ。でも、二階の〈人の子〉は逆に背が高く、スマートに見えるのよ。一階と二階は同じ広さのように見え るんだけど、実際に入ってみると、二階のほうが一割ほど広くなってるってことも知ってた?厳密にいうと、床と天井の広さもちがうのよ。だから、浜の村の家は山の村の人に言わせると、ちょっぴり歪んで見えるそうよ」カムロミは鈴の声で話し続けます。「時間だってそう。一階に比べると、二階の時間は速く過ぎるから、急ぎの仕事は二階でやると効率がいいの。わたし、睡眠不足の時は二階で眠ることにしてるし、宿題が溜まっている時やテストの前も二階で勉強するの。そんな時、三階以上ある家の子がとっても羨《うらや》ましいわ」 「なんだか、いいことばかりのような気がするね。ずっと、二階にいればいいんじゃないのかい?」 「そうでもないのよ。二階に長くいるとそれだけ年を取るのも速くなっちゃうもの。わたしのクラスにとても成績のいい子がいるんだけど、その子の勉強部屋は四階にあって、ずっと閉じこもってたらしくって、すっかり老けてしまってるのよ」  僕は思わず、吹き出してしまった。 「ここにいると、そんな浜の話は不思議な感じがするよ。でも、そうやってどんどん高くなると、ついには山の村になってしまうんだね。君たちからすれば、僕たちはあっという間に老いさらばえていく存在なのかもしれないね」  カムロミから見ると、わたしは一年も生きていられない。草花のようなはかない命なのです。そんな実感が湧き上がってきて、不覚にも涙が出そうになってしまいました。 「あっ、そうそう」カムロミはわたしの暗い表情に気がついたのでしょう。努めて明るい声で言いました。「わたし、遠眼鏡であなたのことを見たのよ」  一瞬、心臓が縮み上がりました。 「それはいつのこと?」わたしは平静を装いました。 「そうね。ここへ来る少し前よ。出発の前の日だったかしら」  日付はあっている。ではあの時、彼女を覗き見していた僕の姿は見られてしまったのだろうか? 「ここから浜の村を見ると、さほど高低差はないけど、とても遠くに見えるでしょ。でも、浜の村から見ると連なの。距離はたいしたことはないけど、ここはとてつもなく高く見えるのよ。見上げると首が痛くなるぐらい。でも、遠眼鏡の調節の具合によって、村を真上から見たり、真横から見たりできるのよ。ただ、遠眼鏡を真上に向けないといけないから、わたし草の上に寝転がっちゃった」 「この村はどんなふうに見えるの?」 「真上からは普通の村に見える。でも、とても小さいの。拡大しないと建物すらも見えないわ。それで横からの景色にすると、何もかも細長くなって針のようよ」 「〈人の子〉も?」 「〈人の子〉はほとんど見えないわ。みんなものすごい速さで動いていて、ちらちらしているんだもの。ただ、眠っている人なんかはぼんやりと見えることもあるわ」 「じゃあ、どうして僕は見えたのかな。それになぜそれが僕だってわかったの?」 「林の中にぼんやりとした人影があったの。時々、一分くらい見えて、また何分か見えなくなることを繰り返していたから、きっと毎日そこに行くのが日課なんだろうって思ったの。本当のことを言うと、あなただってはっきりわかったわけではなかったんだけど、あなただって思うことにしたの。そして、あなたも遠眼鏡でわたしのことを見てるんだともね。そのほうがなんだかロマンチックなんだもの。……ねぇ。あなただったんでしょ」  なんということでしょう。わたしはカムロミを覗いていたことにあれほど疚《やま》しさを覚えていたというのに、彼女は互いに見つめ合っていると感じていたのです。これは男と女の差なのでしょうか? それともカムロミが特別に純粋だからなのでしょうか? 「想像に任せるよ」わたしの心がふっと軽くなったのがわかりました。  カムロミとのひと時は瞬く間に過ぎていきました。その年は父親に見つかることもなく、本当に楽しい日々でした。  そして、ついにカムロミが浜に帰る日、彼女は突然、驚くべきことを言いだしました。 「そうだわ」彼女は日を輝かせました。「この法被《はっぴ》、貸してちょうだい」 「えっ?」  だんじりの引き回しに参加しない者が法被を着ている必要は本当はなかったのですが、カムロミへの見栄《みえ》でわたしは法被を着ていたのです。そして、山の村の習慣では女性が男性に法被を貸してくれと言うことは求愛を意味するのです。わたしは呆然と法被を脱ぎ、彼女に手渡しました。 「もっと前に言わなきゃならないのに、すっかり忘れていたわ。本当は次の日、洗って返すのよね。でも、わたしこのまま浜に帰らなければならないの。だから、返すのは来年でいいかしら? ひょっとすると、再来年になるかもしれないけど」  わたしは声を出すこともできず、ただ首を縦に振るばかりでした。  あの時、カムロミは意味もわからず、あんなことを言ったのかもしれません。でも、わたしはあれがカムロミのわたしへの求愛だったと信じることにしました。わたしだって、そのぐらいの自惚《うぬぼ》れを持ってもかまわないでしょう。  それから、わたしの待つだけの日々が始まりました。  次の年、カムロミは夏祭りに来ませんでした。  わたしはさらに一年を耐え忍びました。  その次の年もカムロミは現れませんでした。  わたしは待つことをやめました。  わたしは書き置きもなしで、村を飛び出しました。わたしが浜に行こうとしていることを知られたくなかったのです。  わたしを連れ戻しに誰かがわたしょり一日遅れで出発したとして双方一定の速度で進んだとしたら、浜の村の直前で時間差は十四分にまで短縮することになります。わたしは山を下りるのは初めてでしたから、慣れたものが追った場合、途中で追いつかれてしまうことは目に見えています。出発時点で少なくとも一週間は追っ手を引き離さなければ、浜の村に辿り着ける公算はとても低いように思われました。  山道は思っていたほど険しいものではありませんでした。時空の変化は最初はたいしたものではないように思えましたが、半日もたつとさすがに目に見えてきました。海がどんどん近づいてきます。それに比べて山頂はいっこうに遠くならないのですが、急速に高くなっていきます。二、三時間で夜が来てまたすぐに朝が来ます。わたしは徐々に愉快になってきていました。この調子なら、すぐにでも二十倍村に着きそうだと思ったのです。もちろん、宿場に逗留する気はなく、いっきに山を下りるつもりでした。追っ手はすでに出ているのかもしれず、悠長なことはしていられなかったからです。  わたしは甘かったのです。山道など誰の案内もなく進めるものだと思っていました。夏祭りの前後なら、通る〈人の子〉も多く、迷う気遣いはなかったのですが、季節外れの頃では通る者もまばらで、どこが道なのかすらもわからなくなってしまい、わたしは簡単に遭難してしまったのです。  時間のたつ速さから推測して、二十倍村よりは重力ポテンシャルは低そうでしたが、時計を持ってきていなかったので、それも確実ではありません。  家出をする時に少し、金を持ってきてはいましたが、森の中ではなんの役にも立ちません。わたしは空《すき》きっ腹《ぱら》をかかえて木の実を齧《かじ》りながら、何日も森の中で過ごしました。そして、もう生きては山の上にも浜にも行けはしないだろうと覚悟を決めて眠った夜が明けた時、目覚めたわたしの前に父がいました。 「おまえの気持ちはわかる。しかし、こっちは山の村。向こうは浜の村だ。どだい、付き合うのは無理だよ」父は山道を登りながら、諭《さと》すように言いました。 「そんなはずはないよ。浜の村から来て、山の村の〈人の子〉と結婚した者はたくさんいるじゃないか。僕を子供扱いしないでよ」 「そう。それが問題だ。おまえはまだ子供なんだ。そして、相手も子供だ。子供は親元で暮らすしかないんだよ。恋愛は大人になってからでも遅くはない。あと、何年かして学校を出れば、おまえも一人前だ。そうすれば、誰もとやかく言ったりはしない」 「僕が大人になっても、カムロミはまだ子供のままなんだよ。そして、カムロミが大人になるのを待っていたら、僕は年寄りになって死んでしまうんだよ」僕は啜《すす》り上げた。 「おまえは子供なんだ。仕方がないんだ。……諦めろ」  わたしは連れ戻された後、何ヶ月も学校にも行かずくよくよと過ごしていましたが、ある時素晴らしい解決策を思いつきました。そして、親と話をすることも、学校に行くことも苦痛ではなくなりました。  学校を卒業したら、わたしは浜の村に移住することに決めたのです。そして、そこでカムロミが大人になるのを待っていればいいのです。二人の年齢差は多少開きますが、たいしたことではありません。 「女は心変わりするかもしれない」父は心配そうに言いました。「そうなってから帰ってきても、山の村に知り合いは誰もいないぞ」 「年に一度は帰ってきてくれるんだろうね」母は悲しそうに言いました。 「そんなに頻繁にこっちに来ていたら、僕だけが年をとってしまうじゃないか。そんなには帰れない。でも、十年に一度は帰るからさ。それとも、僕と一緒に浜の村に行くのはどうだい? そうすれば、いつも会っていられるよ」 「この年になって新しい土地で一から出直すのは大変だ。わしらはここに残るよ」 「年をとって動けなくなったらどうするの? その時になって山を下りても、まだこの子は浜の村では新米のままじゃないの!」母はヒステリックに言いました。 「そんなに騒ぐな。こいつが学校を卒業するのはまだ先だ。大人になれば分別もつくだろうさ」父は楽観的な様子でした。  わたしはといえば、そんな二人のことはたいして気にかけてはいなかったのです。いざとなれぼ、両親だってなんとかするだろうと高《たか》を括《くく》っていましたから。  それからはただただ大人になるのが待ち遠しい日々を過ごしていました。学校を卒業するまで待てば、いくらでもカムロミに会えるのだからと自分を慰めながら。  遠眼鏡は封印しました。カムロミの姿を見てもせつなくなるだけだと思ったのです。  あと一年で卒業だという時、浜の村から使いが来ました。  事故だったのか、覚悟の飛び込みだったのかはわからなかったそうです。  カムロミは運河に落ち、あっという間に海へと流されていったのです。最初に見つけたのは彼女の同級生でした。海面の少し上を流れに乗って沖に進みながら、どんどん広がっていく姿に驚いてすぐに両親に伝えたとのことでした。彼女の両親はすぐ助けに行こうとしましたが、村人たち全員でなんとか押しとどめました。  海面は事象の地平線です。海面への道は一方通行なのです。どんなものも二度と帰ってくることはありません。発見された時、カムロミはゆっくりと海面に向かって落下していました。もうほとんど静止状態に近く、海面に近づきすぎていたのは明白でした。時間は極度に引き伸ばされ、彼女の一呼吸は浜の村の一年、山の村の一世紀になっているだろうとのことでした。今からでは誰が助けに行っても、道連れになってしまうだけだというのが全員の共通した意見でした。両親たちは毎日、海岸に出向いて沖へと流されながら薄く引き伸ばされていく娘に悲痛な叫び声で呼びかけ続けました−いや、いまでも、きっと呼びかけているのでしょうね。  カムロミの両親や知人たちに聞いたところによると、彼女が運河に落ちる前日の夜、彼女は両親と口論をしたそうです。彼女の両親はどういうわけか、わたしとカムロミが夏祭りの日にデートしたことを知っており、夏祭りに行くことを禁じたのです。 「早くしないと、あの人は年をとってしまう。誰かに取られてしまう。お願い。わたしを山に行かせて」彼女は泣きじゃくりました。 「おまえを山にやるわけにはいかない。おまえは山でどんどん勝手に年をとって、わたしたちを置いていってしまう」母親は娘の願いを激しく拒絶しました。 「おまえにとっては何日か前のことに過ぎないが、あいつにとっては二年も前の話だ。とっくに、おまえのことなんか忘れてしまっているさ」父親はなだめすかそうとしました。 「いいえ。まだ、あの人はわたしのことを忘れてはいないわ。わたしは山に行って、法被を返すの」 「カムロミ、前にはあいつはおまえのことを遠眼鏡で見ていたんだろう。 − 覗き見をするような男は虫が好かんが、今はそのことは置いておこう − それで、今もあいつはおまえを見ているのか? もし、まだおまえのことを思っているのなら、おまえを見つめ続けているはずだが」 「わからない。わからないわ」 「わからないはずはない。おまえは毎日、遠眼鏡で山を見ているじゃないか。知らないとでも思っていたのか!? あいつがぼうっとおまえを見ていたとしたら、必ず残像が見えるはずだ。あいつはもうおまえのことを見てはいない。そうだな!」父親はカムロミの肩をつかんで揺すったそうです。 「もういいわ。わたしを放っておいて!!」彼女はそのまま家を飛び出しました。  わたしは彼女を遠眼鏡で見続けるべきだったのでしょうか? そうすれば彼女の運命は変わったのでしょうか? 今となってはわかりません。  わたしは浜の村に急ぎました。カムロミの両親からは恨み言を聞かされると覚悟していましたが、二人はわたしの顔もはっきり見ず、ただ法被はもう返せなくなったとぽつりと謝ってくれただけでした。  海岸に出ると、海面上を遥か彼方にまで広がったカムロミの姿を見ることができました。あまりに広いので、肉眼では全体を正しく認識することすらできません。ただ、白く美しいものが海に広がっていることはわかりました。わたしは彼女を助けるために海に飛び込むことはできませんでした。命が惜しかったわけではありません。  わたしが海岸に立っているかぎり、カムロミの時間は凍ったままです。しかし、わたしが彼女を追えばどうなるでしょう。彼女の時間はたちまち溶け出して、海面下に落ちていくことになります。− もちろん、それはわたしの主観の中の話ですが、別にかまわないですよね。なにしろ、わたしの恋物語なんですから。 (老人は微笑んだ)  でも、時々思うんですよ。あの時、そうしていれば − カムロミを追って海に飛び込み、彼女と一緒に海面下の世界に行っていたとしたら、どうなっていただろうかってね。  伝説では〈人の子〉は太古に海面の下から這い出してきたといいます。海の下には人間の世界が広がっていて、そこで二人は幸せに暮らせたのではないかと。  でも、そんな夢想も今では意味がありません。わたしはこんなに年をとってしまいました。あの可愛いカムロミには不釣り合いです。  今でもカムロミはゆっくりと動いています。そして、さらに広がり、薄くなり、時間が伸張されていきます。今ではわれわれより百万倍も、あるいは一億倍もゆっくり生きているのでしょう。 それでも生きていることにはかわりありません。  ある人たちは言います。もはや、彼女が生きているとは思えないと。しかし、その言葉には何の根拠もありません。われわれにとって、それがどんなに長い時間でも − 永遠に思えるような年月さえ、彼女にとっては一瞬でしかないのです。〈人の子〉は一瞬では死なないのです。  また、別の人は言います。特異点ではすべての物理量が発散してしまう。とうてい人間の住める環境ではないだろう。そこでは重力ポテンシャルが負の無限大になり、降り注ぐ放射線も無限のエネルギーを持っているのだと。  これもナンセンスです。特異点など数学的な概念でしかありません。〈人の子〉の物理学がどんな状況でも有効だと思うのは傲《おご》りです。特異点に至る以前に別の力がカムロミを守ってくれるにちがいありません。現にカムロミの姿はだんだんと暗くなって薄らいでいきます。物理学者の言い分が正しければ、ずっと同じ明るさでなければならないはずなんですが。  わたしの両親は浜に住んでもいいと言ってくれました。しかし、わたしは山の村に住むことにしました。そのほうがカムロミの時間が長くなるからです。もちろん、カムロミにとってはどっちでも同じことですから、わたしの自己満足に過ぎません。  でもね。こうやって、天空いっぱいに広がったカムロミを見ていると、本当に心が休まるんですよ。海の下の世界にあった星座というものはきっとこんな感じだったんでしょうねぇ。  ああ、日が昇ってきました。これでおたくも見ることができるでしょう。 (老人は空に向けた遠眼鏡でしばらくうっとりと海面を眺めた後、ぽつりと言った)  わたしの一生は幸福でした。 (幸福ですって?)  ごらんなさい。カムロミは永遠にわたしの法被を着続けてくれるんですよ。 ----- 初出 SFマガジン1998年2月号 底本 早川SFシリーズJコレクション「海を見る人」2002年5月31日 初版発行 より 「あの年の夏祭りの夜、浜から来た少女カムロミと恋に落ちたわたしは、1年後の再会という儚い約束を交わしました。なぜなら浜の1年は、こちらの100年にあたるのですから」 − 場所によって時問の進行が異なる世界での哀しくも奇妙な恋を描いた表題作、円筒形世界における少年の成長物語「時計の中のレンズ」など、冷徹な論理と奔放な想像力が生みだす驚愕の異世界七景。日本ホラー小説大賞受賞作家による初のSF短篇集。 小林泰三《こばやしやすみ》−1962年京都府生まれ。1995年、「玩具修理者」が第2回日本ホラー小説大賞短編賞を受賞してデビュー。以後、SF、ホラー、ミステリのジャンルを問わず、緻密な論理に貫かれた構成とグロテスクなイメージを特徴とする短篇の名手として評価を確立した。1998年、「海を見る人」でSFマガジン読者賞を受賞。また、特積ヒーローものをハードSF的に再構築した2001年の長篇「AΩ」で日本SF大賞候補となる。おもな作品集に、『人獣細工』『肉食屋敷』など。 カバーイラスト 鶴田譲二