TITLE : 素晴らしい日本野球    素晴らしい日本野球   小林 信彦  目  次 W・C・フラナガン 素晴らしい日本野球 W・C・フラナガン 素晴らしい日本文化 サモワール・メモワール 野球につれてって 翻訳・神話時代 到     達 ハーレクイン・オールド いちご色の鎮魂歌 嵐を呼ぶ昭和史・抄 発 語 訓 練 作 者 ノ ー ト W・C・フラナガン 素晴らしい日本野球  この翻訳の原文"Sh冏un's Game"は、ニューヨークの映画研究誌"Cineaste"の一九八〇年五月号(日本映画特集号)に掲載されたものである。同誌編集部からの手紙によれば、筆者のウィリアム・C・フラナガンは、まだ二十代で、日本通をもって任じており、半年まえに日本を訪問したことがあるという。一読したところ、ロバート・ホワイティングの著書『菊とバット』を意識したふしがあり、そのわりに思いちがいが多過ぎるので、訳すべきかどうかをためらったのだが、〈わが日本がいかに誤解されているか〉を知るための一例として紹介することにした。なお、〈原注〉は誤りがあってもそのまま訳し、あまりにも訳《わけ》がわからない部分には訳注を付した。総じて、誤りがあまりにもはっきりしているものは、そのままにしておいた。 訳者   日本は野球狂の天国である。  日本の平均的な野球狂の朝は、テレビのプロ野球ニュースを観《み》ることから始まる。このニュースは、前夜遅くに放送されたものの再放送であるが、野球狂たちは朝食であるスシを食べながら、前日のナイト・ゲームのエキサイティングなシーンを味わいなおす。  彼らはテレビを消し、彼らの〈マンション〉〈原注1〉の近くで打ち出す百八つの鐘の音をききながら、おのおのの勤めに出る。途中の駅の新聞スタンドでは、数多くのスポーツ新聞を売っており、彼らは好みに応じて、それらの中から一紙または二紙をえらんで買う。日刊のスポーツ新聞がアメリカに存在しないことなど、彼らは知る由《よし》もないのである。  会社の昼休みに、彼らはスシやチキテリを賞味しながら、同僚と、その夜のゲームについて、予想を述べ合う。話題の中心は、しばしば、〈読売ジャイアンツ〉の弱さであり、かつてのスーパースター的三塁手で現在は〈ジャイアンツ〉の監督としてわがビリー・マーチン以上の人気をもつシゲオ・ナガシマが〈何を考えているのか〉ということである。  午後五時か六時に退社するやいなや、彼らは電車にとび乗って、東京湾内の小島にある後楽園スタジアムに向う。混雑した駅(たしかスイドーブシといったと思う)でサイズの小さな夕刊二紙を買い、彼らはスタジアムまで突っ走る。  後楽園スタジアムは、グリーンモンスターのないフェンウェイ球場に似ている。グラウンドは合衆国の標準よりもやや小さいが、日本人の身長に合せて作ったものだから、いたし方ない。水に濡《ぬ》れた汚い廊下ぞいに売店があり、日本式ホットドッグを一ドルで売っている。そのほか、海草の粉末(訳注・青ノリ)をまぶしたフライド・ヌードルがあり、日本人は、ホットドッグより、こちらを好む。だが、日本人が本当に好きなのはシャブシャブであり、多くのファンはシャブシャブを食べながら、試合を観ることを好む。  このような熱意に応《こた》えるには、日本の選手はあまりにも数が足りない。  そのために考え出されたのが〈ガイジン〉を呼ぶことであり、じじつ、多くの〈ガイジン〉が日本に呼ばれた。(ごくさいきん、筆者は、ロイ・ホワイトが日本へ行くという噂《うわさ》をきいた。スパーキー・ライルが〈つねに二割八分を打つ、ヤンキースでもっとも安定したバッター〉と評したロイが、読売ジャイアンツに加われば、読売ジャイアンツがペナントレースで抜きん出ることは明白だ。なぜなら、読売ジャイアンツには、すでにミスター王〈原注2〉がいるからである。)  優れた選手が、需要に応じて、二つの球団をかけもちするのは、人材にとぼしい日本では、ごく、ふつうのことであり、ファンも、そのようなことを咎《とが》めたりはしない。合衆国では考えられないことだが、極東の神秘的な国では、しごく日常的なのが、この選手のかけもちである。——たとえば、コージ・ヤマモトは広島東洋カープの四番打者であり、王とならぶほどのヒーローでありながら、時として、読売ジャイアンツの野手をつとめたりする。また、読売ジャイアンツの投手であるスミは、ヤクルトスワローズの打者として優れたバッティング技術を披《ひ》露《ろう》するのを惜しまない。  それでは、読売ジャイアンツとヤクルトスワローズが対戦するとき、スミはどうするのかという疑問を抱く読者がいるかも知れない。アメリカ人ならば、当然、そう考えるであろう。スミが投げたボールをスミが打つ光景を日本のファンはたのしむことができる。日本のファンは、片方のスミが〈影武者〉であることを知り尽しているからである。〈影武者〉という伝統的な存在が、日本のプロ野球を、独特のものにしていることは、なんびとも否定できないはずである。  他の職業の人間が〈助《すけ》っ人《と》〉にくることもある。広島東洋カープ(シンシナティ・レッズのそれに似た赤いヘルメットとCのイニシャルがわれわれを驚かす)のエナツ投手が、スモウ・レスラーであることは、日本の野球ファンなら、だれでも知っている。たとえアメリカ人でも、スモウ好きの人が見るならば、エナツが真のスモウ・レスラーであることに容易に気づくにちがいない。彼はつねに八回ぐらいで登場する〈火消し役〉であるが、登場のさいにゆっくり塩をまき、さらに〈シコ〉を踏んでみせる。その上、マウンドに立ってからの〈シキリ〉が長い。これらはスモウ・レスラーの特徴である。  また高名なロシア文学者(訳注・江川卓氏のことか?)が、なぜか、新人投手として現れ、評判をおとすこともある。彼はプロになる条件として、牧場を経営できるほどの土地を球団に要求して、大衆の反感を買った。東京、および、東京近郊の土地の値段の高さは、われわれの想像を絶しているからだ。  架空の人物が現実の存在となることもある。『鉄腕アトム《アストロボーイ》』で知られたオサム・テヅカのヒットしたTVアニメーション『巨人の星』の主人公タブチクンがそうである。『巨人の星』は、阪神タイガースのリキイシ投手とジャイアンツの若き打者タブチクンの死闘を描いて、日本の少年たちをソニーのカラーテレビ受像機の前に釘《くぎ》づけにした。タブチ人形、タブチ・バット、タブチTシャツといったキャラクター商品が続々と生まれ、遂《つい》には、みずからタブチと名乗る選手が登場するに至った。このような在り方さえ許容するほど、日本のプロ野球ファンは寛大なのである。  ロバート・ホワイティング氏は『菊とバット』の中で、一八七三年、一アメリカ人によって日本にもたらされた野球が、武士道精神と結びつくことによって、〈日本固有のゲーム〉に変質した、と断じている。  この見方は、いちおう、正しいかにみえる。われわれにとって、野球とは、〈一八三九年にアブナー・ダブルデイ少将が考えたもの〉である。すなわち、アメリカ人が考えたゲームであり、これを疑う者はいない。もっとも、一七五〇年以前にイギリスでおこなわれていた〈ラウンダーズ〉というゲームを起源とする説もあったが、これは、とっくに否定されている。  ソ連では、一時、ニコライ・ポポフというロシア人がシベリアでおこなったゲームこそ、野球の始まりであるという説が教科書に採用されていた。ポポフがゲーム〈ポペスコ〉を考えたのが一八三八年——ダブルデイ少将より一年早いというのが、この説の胡《う》散《さん》臭いところであったが、スターリン批判とともに、この説は、ソ連のあらゆる事典・教科書から消えた。  また、中国において〈四人組〉が跋《ばつ》扈《こ》していたころ、〈棒球〉(野球の中国名)は、一八一五年、清《しん》の時代に、広《カン》東《トン》の王《ワン》丹《タン》緬《メン》という男が考えたという説が発表された。だが、文化大革命が批判されるとともに、この説も消された。  さて、以下に私が述べる説は、ポポフや王丹緬のそれのような政治的必要から持ち出された珍説ではない。私はロバート・ホワイティング氏の説をさらに徹底させた。〈日本の野球〉は、アメリカの野球が武士道と結びついて変質したのではなく、武士道そのものなのである。——はっきり言おう。日本には、一八七三年以前から、野球が——げんみつにいえば〈野球によく似たゲーム〉が——存在していたのである。(こだわるようだが、あれほど日本のプロ野球にくわしいホワイティング氏が、なぜ、この事実に気づかなかったのか、私は不思議に思う。)  野球は日本語ではYAKYUと発音される。俗説では、一八七三年以後に、ある日本人がYAKYUなる造語をもって、ベースボールに当てたとされている。しかしながら、私の研究によれば、YAKYUなる名は、はるかに古く、一六〇〇年代にさかのぼるのである。  はるかむかし、ヤマトノクニにYAKYUという一族が住んでいた。(訳注・これはおそらく柳《や》生《ぎゆう》一族であろう。)ヤキュウ家は、トクガワの第一代将軍に仕え、将軍に剣の道を教えたといわれる。だが、それは表面の姿であって、ヤキュウ一族の野望は、彼らの家に伝わるゲーム〈ヤキュウ〉を日本全国にひろめ、普及させ、全国の大名たちにワールド・シリーズをやらせることにあったのである。  剣の道において、ひょっとすると、ヤキュウ家を凌《しの》ぐ天才が現れるかも知れない、というのが、ヤキュウ家当主M・ヤキュウの不安であった。しかし、ゲーム〈ヤキュウ〉ならば、どのチームにも負けない自信があった。(トクガワ第一代将軍は、M・ヤキュウの考えの支持者だった。なぜなら、ゲーム〈ヤキュウ〉には刀が要らない。将軍は〈刀狩り〉をおこない、日本中の刀を江戸の城の奥に隠してしまいたかった。彼はまた、ゲーム〈ヤキュウ〉をSh冏un's Game、すなわち、オイエリュー〈お家流〉と呼んだ。)  野心家のM・ヤキュウは、冷酷な現実家でもあった。弟の(訳注・?)ジューベー・ヤキュウが一六二六年から三七年まで、十一年間、行方不明になっていたのも、実は、〈ヤキュウ〉を普及させるべく、ニンジャとなって全国の大名を説得して歩いていたからだ。北九州のある藩でバッティング・コーチをつとめたさい、ジューベーは彼の命を狙《ねら》う男から死球を顔にぶつけられ、片《かた》眼《め》を失った。  このゲーム〈ヤキュウ〉は、われわれのベースボールと、同じ人数、同じルールでおこなわれる。同じルールのゲームが、海をへだてた米日の二国に、なぜ発生したかは、文化人類学者の考察すべき問題であろう。M・ヤキュウの野望に反対したのは、意外にも二代目将軍ヒデタダであった。ヒデタダは、〈ヤキュウ〉が嫌《きら》いである上に、M・ヤキュウの権力があまりにも大きくなるのを恐れたのである。ヒデタダの考える武士道は刀であり、M・ヤキュウの考える武士道は〈ヤキュウ〉であった。  ヒデタダが〈ヤキュウ〉を嫌ったのは、彼自身がいかに努力しても、〈ボールが見えてこない〉からだったといわれる。(武士道としての〈ヤキュウ〉において、これは重大なことであり、現代のミスター王やコージ・ヤマモトも、しばしば、〈ボールが見えない〉〈見えてきた〉を問題にする。武士道ヤキュウは、このような美的ストイシズムを土台にしており、初球から大振りをする〈ガイジン〉は白眼視される。たとえ、レジー・ジャクソンといえども。)  M・ヤキュウはヒデタダを暗殺し、大坂に逃れて、城にたてこもった。三代目将軍イエミツは父ヒデタダの仇《かたき》を討つために、軍隊をつれて、大坂城を包囲した。これが有名な関ヶ原の戦いである。冬の陣と夏の陣を過ぎて、城は九月に落ちた。Mも、ジューベーも死に、ヤキュウ一族は滅亡した。  しかし、ゲーム〈ヤキュウ〉は不滅であった。M・ヤキュウのチームに入れて貰《もら》おうとして断られた天才バッター、ムサシ・ミヤモトは、自分でチームを作り、十六人の影武者を作った。日本では、この弟子たちを〈十六ムサシ〉と呼ぶ。  ムサシは、OK牧場の決闘にも比すべき有名な〈ガンリュウジマの決闘〉において、長い刀の使い手であるコジロー・ササキと、バットで対決した。正確にいえば、ボートのオールを刀で削り、バットを作ったのである。二つの刀を同時に使うことで有名なムサシが、一生のクライマックスにおいて、あえてバットを使用したところに、ムサシのヤキュウ好きがうかがえる。決闘に勝ったのは、バットを両手で握ったムサシであった。(コジロー・ササキは即死したが、以後、ササキ家の者はヤキュウを学ぶようになった。ササキ家の子孫の一人は、いま、日本でもっとも人気のある〈プロ野球ニュース〉のキャスターである。)  ヤキュウ一族はほろびたが、その精神を継ぐ弟子たちは大坂で〈隠れヤキュウ〉として生きた。将軍の眼をごまかすために、ヤギュウ一族と名を変え、フジイデラ(訳注・藤井寺か?)という寺に閉じこもって、研《けん》鑽《さん》を積んだ。関ヶ原の夏の陣から三百年後の一九四五年、将軍とトージョーをほろぼしたマッカーサー元帥は、日本占領政策の一つとして、ベースボールを日本に普及させようとした。このとき、三百年のベールを脱いで、ヤギュウ一族が登場したのである。  マッカーサーは、封建制度の臭《にお》いのする名を好まなかった。また、YAGYUは、アメリカ人にとって、発音がむずかしいので、司令部の一人が和英辞典を引いてみた。YAGYUは、〈A WILD OX; A BISON; A BUFFALO〉と記されていた。こうして、バッファローズという球団が、一九五〇年に誕生した。彼らは現在でも、フジイデラを本拠地にしている。  バッファローズの監督のニシモトは、日本で、〈古武士の風格〉と形容されるほどのサムライで、勝敗よりも、武士道を貫くこと、立派さ、フェアプレイを重んじる態度で知られる。ニシモトは〈敗《ま》けることによって立派になる〉武士道野球の後継者であり、アメリカ流の野球を身につけた広島東洋カープ(ドン・ブラッシンゲームがコーチをしていたことがある)に、昨七九年度のペナントを奪われた。しかし、バッファローズの野球が武士道そのものであることは間違いないのである。  武士道野球のこのような成り立ちをみれば、日本人の野球が、きわめて特殊であり、エキセントリックでさえあるのが了解されると思う。選手たちは、おのれの所属するチームへの献身を要求され、すすんで、それに従う。西武ライオンズのノムラ捕手は、どこへ行っても——たとえ料亭でも——〈私は一生、捕手で過します〉という誓いの言葉を紙に書きつづけている。(訳注・「生涯一捕手」という色紙であろう。)ホワイティング氏が、日本の選手たちのトレーニングを〈海兵隊の訓練〉と評したのは、当を得ている。  ミスター・ジャイアンツとか〈お祭り男〉と呼ばれたナガシマのようなスーパースターさえ、現役時代には、日本野球独特の神秘的な〈ヤマゴモリ〉をおこなった。ナガシマの〈ヤマゴモリ〉とは、山の中に入り、酒や煙草《たばこ》を絶ち、木の実を食べ、平安時代の偉大な思想家である頼山陽の書にしたしむことであった。シゲオ・ナガシマは頼山陽の『日本外史』をことのほか愛し、それゆえに、いまでは〈ミスター・サンヨー〉と呼ばれている。  ミスター王は、現在でも、〈ヤマゴモリ〉をおこなう。彼は中国産の木の実であるナボナを食べ、カッコーの声と森の詩《うた》に耳を傾ける。彼はリンゴを宙に投げ、落ちてきた瞬間、バットで二つに割り、さらに四つに割り、次に八つの破片にする。一瞬のうちに、バットを三回振るわけだ。青いリンゴを打つときは青色のバット、赤いリンゴを打つときは赤色のバットを用いるので、〈青バット、赤バット〉といえば、それだけで偉大なる王を意味するのである。(王の弟子であるカケフは金色のバットを用いるので、〈ゴールデン・バット〉と呼ばれる。カケフはこのバットで、小さな蚊を二つに切る。) 〈ヤマゴモリ〉のあいだ、王は富士山を見つめ、新たなる活力を得ようとする。そして、夜には、ひとりで小屋に入り、日本で〈インスタント食品〉と称されるツケメンを食べる。そのために、その食品は〈ツケメン大王〉と呼ばれるほど有名になった。王の命を狙うニンジャが日本刀をふるって、ツケメンを鍋《なべ》で煮ている王にとびかかったこともある。その瞬間、王は鍋のふたでニンジャの顔を押えてしまった。このエピソードは王の〈鍋ぶた試合〉として、日本では子供でも知っている神話的出来事だ。  また、ある選手はホッカイドー〈原注3〉の山の中に入って〈ザゼン〉(座禅)をおこなった。そのとき、彼はホッカイドーの白《しろ》熊《くま》が鮭《さけ》を何匹も笹《ささ》に通してかついで歩く姿を見たのである。彼はサトリを開いた。〈あのようにバットをかついでしまえば、タイミングがとり易《やす》い〉と。〈ヤマゴモリ〉のあと、彼はバットを背中にかつぐようにする独特の打法によって、次々とホームランを打ったのである。(訳注・阪神の竹之内のことか?) 「冗談じゃねえ。チームのためなんて、日曜学校のお説教はまっぴらだぜ」 「バント? ふざけるな。おれは女の股《また》ぐらと同じに、ど真ん中をぶち抜いてやるんだ」  こういった自己本位の言葉を吐くのは、アメリカの選手だけであろう。 〈ヤマゴモリ〉や〈千本ノック〉を経た日本の選手たちは——疲労のせいでもあろうが——寡《か》黙《もく》になり、禁欲的になり、サムライ選手らしいきびしさが顔にあらわれてくる。良き選手は、次の十個《かじ》条《よう》をみたしていなければならないとされる。 1 新聞記者に向って、「金のためにプレイするんだ」などと言わない。 2 マッサージ・パーラー(訳注・ソープランド)でサインを求められても断る。 3 両親を球場に呼んで試合を見せる。 4 どのようなピンチにあっても、妻には、テレビでの観戦しか許さない。 5 チームの引退した先輩たちと〈清談〉をする。 6 桜のシーズンには、神社の境内で桜を眺《なが》める。 7 先祖の墓参りをし、まわりを掃き清める。 8 サムライの名刀で盆栽の手入れをする。 9 茶の湯を味わいつつ、一日に俳句を百以上つくる。 10 母校である高校や中学を訪れ、後輩の少年たちを激励する。  日本にも、思ったことをすぐ口にする、しかも偉大な選手がいた。マサイチ・カネダ投手がその代表であり、彼は二十年の現役生活で四百勝という記録を樹立した。しかし、彼は〈アメリカ的〉であり、〈サムライ的ではない〉と考えられている。一般的に言って、日本の選手は物質主義から遠く、金銭についてあれこれ考えることは、自分を汚すと信じている。〈原注4〉  大リーグの一部で〈興奮剤〉が使用されていることは、もはや、否定できない事実である。その多くは、中《ちゆう》枢《すう》神《しん》経《けい》刺《し》戟《げき》剤《ざい》であるアンフェタミンであり、これを使用すると、心臓が破裂するまで全力が出せるといわれる。アメリカのプロスポーツ界において、つねに問題になるのが、この〈興奮剤〉で、引退した選手が過去を告白するたびに、浄化運動の嵐《あらし》が起っている。  さて、東洋の日出《い》ずる国において、事情はいかがであろうか?  ここでもまた、というか、神秘の国だからこそ、というか、異常な〈興奮剤〉が使用されている。日本のあるベースボール通が私にこっそり打ち明けてくれた〈興奮剤〉は、次のようなものである。  東京の読売ジャイアンツの内部に蔓《まん》延《えん》しているのは、オロナミンC〈原注5〉という薬である。ジャイアンツのすぐれた監督としてV9を達成したシゲオ・ナガシマの言動に異常さが見られる——試合に負けているときに急に笑ったり、自宅の庭で木を相手にカンフーを演ずる——のは、このせいだといわれ、オロナミンCは、〈小さな巨人〉と呼ばれて、大衆におそれられている。  横浜大洋ホエールズの場合は、本拠地の横浜スタジアムがチャイナタウンに近いことが問題である。大洋ホエールズに供給されているのは、タイの麻薬地帯からホンコン経由で密輸される〈キヨーケンのシューマイ〉である。俊敏さで知られる日本の税関と警察(とくに港関係)のおかげで、そのシューマイは、しばしば輸入が途絶する。すぐれた打者を多く抱えながら、このチームの戦いぶりに〈不確実性〉(日本人の好きな言葉である)がみられるのは、シューマイがとぎれるせいだと指摘する大洋ファンに私はしばしば出会った。  セントラル・リーグに属する球団について、もう少し、みてみよう。  たとえば、ヤクルトスワローズという球団の場合、チームの代表的存在であるワカマツ選手の名を借りた〈ワカマツ〉という錠剤が用いられている。(念のために記しておくが、ワカマツ選手は薬を用いてはいない。噂《うわさ》にのぼる選手名は、ダイマツである。)この〈ワカマツ〉を溶かしたヴィタミン・ジュースはもっとも中枢神経を刺戟するものであって、選手仲間の隠語で〈ヤクルト・ジュース〉と呼ばれている。  キョウト球場を本拠地とする中日ドラゴンズの何人かの選手が愛好するのは、〈カシワ〉である。外見が鶏に似た珍しい鳥である〈カシワ〉は、セトナイカイのサドという島でしか捕獲できない。〈カシワ〉の肉は神秘的な珍味である、これをモチにはさんでテリヤキにしたものを、〈カシワモチ〉と呼ぶ。〈カシワモチ〉はアンフェタミン以上の効果があると噂されている。  阪神タイガースは、われわれにとって信じがたいことだが、〈オズの魔法使い〉という名の社長によって牛耳られている。この〈魔法使い〉は不可思議な人物であり、〈興奮剤〉については、どうでもよい、という態度をとっている。そのために、選手たちは〈エビスメ〉(海草から作った漢方薬にエビの粉をまぶしたもの)、〈イワオコシ〉(一錠のんだだけで岩を起こすほどのパワーが出る)、〈カヤクメシ〉(〈カヤク〉は火薬《ガンパウダー》を意味する。ガンパウダーとライスを混ぜたもの)、〈ウナギマムシ〉(ウナギとマムシを皿《さら》に盛ったもので、想像するだに気持がわるい)、〈冷シタヌキ〉〈冷シキツネ〉(これは説明の必要があるまい。狸《たぬき》や狐《きつね》を冷やしておいてサシミにするなど、おぞましいことである)、〈スズメズシ〉(雀《すずめ》をライスにのせた野蛮な食べ物)といった奇怪なもろもろを服用している。  広島東洋カープの強さの源は、日本人にとっても大きな謎《なぞ》であるが、そのエネルギーの根源は〈モミジマンジュウ〉にあるとされている。とはいえ、私には〈モミジマンジュウ〉がいかなるものか、見当もつかないのである。東洋カープは、遠征のときに、つねに、〈モミジマンジュウ〉をバッグに入れて携帯するそうである。(アンフェタミン常用の噂のあるピート・ローズは、昨秋、日本のテレビCM出演のため、広島をおとずれたが、そのさい、ヨシヒコ・タカハシから〈モミジマンジュウ〉を貰《もら》った、と日本のスポーツ新聞記者は私に語った。)  これらの危険な薬物、食物が公然と問題にされないのはなぜか、と疑問を抱かれる向きもあろう。わが国であれば、常用者は永久追放ですむのであるが、日本においては、コミッショナーは、残酷な〈ハラキリ〉を申しわたすしか道がない。ただでさえ少い選手を、これ以上、減らしてはならないという、きわめて現実的な配慮がなされていると、われわれは考えるべきであろう。 〈日本のテレビとラジオのアナウンサーたちは、投手と打者とのもっともありふれた対決をも高《こう》尚《しよう》なドラマの一瞬に高める〉と鋭く指摘したロバート・ホワイティング氏は、しかし、それが、日本の大衆によって求められているものだという一点を見逃しているように、私には思える。  ヤキュウ一族のひろめた〈ヤキュウ〉は、奇妙な表現になるようだが、集団と集団の戦いではないのである。それは、一見、集団戦のように見えるが、じつは一対一のドラマの複合なのである。日本人の好きなのは、ベンケイとウシワカマル、ムサシとコジローといった、一対一の対決であり、それが〈ヤキュウ〉においては、〈投手と打者〉、〈盗塁の天才と捕手〉との対決としてあらわれてくる。ムラヤマとナガシマの対決、エナツとミスター王の対決が、まるで西部劇の一対一の決闘のように語り伝えられるのは、日本人の名勝負好き、武士道好き、英雄好きに発している。  こうした大衆の要望にこたえるためには、退屈きわまりない試合、ありふれた対決を、あたかも〈名勝負〉のように語ってきかせる独特のストーリーテラー(日本ではカイセツシャと呼ばれる)が必要となってくる。  このカイセツシャには二つのタイプがある。  一つはアナウンサー以上にはしゃぎまわり、喋《しやべ》りまくるコミックなタイプであり、もう一つは、よくいえば冷静《クール》だが、悪くいえば、あたりまえのことしか口にしないタイプである。  前者の代表は、日本で〈カネヤン〉の愛称で親しまれている中年の人物である。〈カネヤン〉は、前に述べたマサイチ・カネダの息子であり、ウォルター・ジョンソンの大リーグ記録を抜いた父親を誇りに思っている。彼は父親の記録に迫ろうとして、東映、ロッテ、広島といったチームを転々としたが、成功できず、カイセツシャになった。そのとき、父親の名前の偉大さに対する劣等感から、彼はカネダと名乗るのをためらった。古典音楽を愛好するカネダ・ジュニアは、尊敬するカラヤンにちなんで、公衆のまえでは、おのれを〈カネヤン〉と呼んで欲しいと要求した。〈カネヤン〉の放送は騒々しく、日本語をよくききとれない私には、ドナルド・ダックが大地震にあっているとしか感じられなかった。しかしながら、テレビの画面にあらわれる〈カネヤン〉には、父親の威光を嵩《かさ》にきた面と、とうてい父親のようにはなれない絶望をあらわにした道化師的側面とがあって、陽気なニヒリストといった感じをあたえる。なにしろ、私がききとれた彼の言葉は〈ゼニ〉だけであり、ひどく昂《こう》奮《ふん》していることしかわからない。(多くの日本人は、〈カネヤン〉の解説は人生訓が多過ぎると考えているようである。)  また、後者である、冷静《クール》なカイセツシャの代表は〈セキネサン〉と呼ばれる謎の人物である。〈原注6〉 〈セキネサン〉の日本語は、〈カネヤン〉よりは、わかり易い。 「すとらいくヲ、トラナケレバイケマセン」 「ぼーるヲ、振ラナイコトデス」 「モウ、ボツボツ、ピシットシナケレバイケマセンネ」  このように単純かつ深遠な言葉がアナウンサーの問いかけに対して漏らされる。大学を出てから二十年以上も野球中継を担当しているはずのアナウンサーが、「次ハ、ドンナタマヲ投ゲルデショウ、セキネサン?」といった質問を一球ごとに発するのも奇妙であるが、それに立腹することもなく、〈セキネサン〉は答えつづける。  打者が三振すれば、 「ズバット、キマシタネ」  ホームランを打てば、 「彼ハぼーるガ見エテキタノデス」  と答え、「げーむガ始マルマエニ、彼ハ私ニソウ言ッテマシタヨ」と念を押す。あまりにもあたりまえなこれらの言葉は、日本では〈技術論〉として尊ばれている。  サムライ投手の過度の誇りに監督が神経を使ったり、その他もろもろの理由から、日本式野球は大半が三時間を越す。四時間、五時間とつづくのも、ざらである。  しかしながら、テレビでの中継は、八時五十五分ごろに打ち切られる。九回で、同点、満塁、ミスター王がバッターボックスに立った瞬間を見はからったかのように放送が終る。「たいへん残念でございますが、放送時間がなくなりました」というアナウンサーの冷ややかな言葉とともに。  これによってテレビ局が放火された例はまだないそうであるから、日本の野球狂の心理は謎であり、日本の野球もまた本質的に謎めいたものだと、私は考えざるをえないのである。 〈原注1〉誇り高い日本人は、一部屋のアパートをも、〈マンション〉と呼ぶ。〈宮廷マンション〉という驚くべき名のアパートさえ存在する。 〈原注2〉中国人移民の子弟で、〈一九七七年、ハンク・アーロンの大リーグにおけるホームラン記録を抜いた〉と日本人は自慢する。片足を宙に上げる珍しい打法は、中国古来のカンフーに由来するものである。 〈原注3〉日本のカナダとでもいうべき島。囚人の流《る》刑《けい》地《ち》として知られる。 〈原注4〉例外もある。 〈原注5〉オオツカ製薬から〈皮膚疾患・外傷治療剤〉として市販されているオロナインHに秘薬〈どりこの〉を加えたもの。 〈原注6〉この人物の過去は不明である。彼は〈ファースト〉を、なぜか、〈ホワスト〉と発音する。甲高い声だが、老齢者のようにもきこえる。 W・C・フラナガン 素晴らしい日本文化 「素晴らしい日本野球」が多くの反響を呼んだという手紙をウィリアム・C・フラナガンに送ったところ、喜びの手紙とともに、タイプ原稿が訳者あてに送られてきた。(なお、フラナガンは実在しないという説が一部にあるようだが、大きな間違いである。彼はブルックリンに住み、NYの東宝インターナショナルで働いている。ただし、〈日本を訪問したことがある〉というのはにわかには信じがたく、「将軍」テレビ放映以後の米日の文化状況を論じたこのエッセイ"Days of Sh冏un"にも数多くの思いちがいが目立つ。)エッセイは"New York"誌のために執筆されたものであり、日本人のために書かれたものではないが、日本の読者のために、〈まえがき〉が別に付いている。この〈まえがき〉は、池井優慶大教授のフラナガン批判に対する反論である。彼の反論は、なかなか面おも白しろいので、読者に一読をおすすめするしだいである。 訳者   "Sh冏un's Game"(「素晴らしい日本野球」)は、日本でセンセーションをまき起こしたようである。  去る十月の終りごろ、私のアパートの電話は、日本の新聞社からの質問のためにあまりにも忙しかった。それはいずれも、「ナガシマ辞任をどう思うか?」と、「ショーグン」でトシロー・ミフネが演じたトラナガのような不《ふ》明《めい》瞭《りよう》な口調で問い合せてくるものであり、長距離電話であるにもかかわらず、二十分以上も通話することがざらであった。私が奇異に思ったのは、彼らがいずれも社会部記者であり、スポーツ記者でなかったことである。(おそらく、日本には、スポーツ専門の記者が育っていないのであろう。)  どの質問に対しても、私は「ナガシマは、選手としてはすぐれていたが、監督としては不向きであった」と答えた。すると、大部分の記者がむっとした様子で、「ナガシマは卑劣なダマシウチにあった」とか、「これで日本のデモクラシー時代は終った」とか、「ぼくの青春はナガシマとともにあった」といった、ヒステリックで感傷的な言葉を吐いた。ガダルカナル島で生き残ったという或《あ》る記者にいたっては、「山本五《い》十《そ》六《ろく》の死いらいの喪失感に襲われている。ナガシマのためにハラキリをしたい」とさえ言った。そして、〈結局、ガイジンにはおれたちの気持はわからないのだ〉といったニュアンスの言葉をつけ加えるのが常であった。(彼らは夜中に私を叩《たた》き起したことについては遺憾の意を表明せず、せいぜい「ドーモドーモ」というだけなのだ。)  しかしながら、私の知るかぎりでは、野球の監督がやめさせられるときは、たいてい、〈卑劣なダマシウチ〉によるものである。そのように私が口をはさむと、日本の記者たちは、「これは特殊なケースだ。オイエソードーなのだ」という。  ヒステリックな電話の攻撃が終ったあとで私が考えたのは、「日本人はまだショーグンの支配下にある」という一事だった。ナガシマの辞任劇は、ビジネス的必要から始まって、ついにカブキの領域に入ってしまった。このドラマは、日本人のもっとも好む「チューシングラ」に似ているのである。そして、「チューシングラ」は、かつて、わが占領軍総司令部によって規制されたたぐいのドラマであることに注目して欲しい。  日本映画好きのニューヨーカーは、たぶん、イナガキが作ったこのカブキドラマ(訳注・稲垣浩監督の「忠臣蔵」62)を観《み》たはずである。無邪気といえばきこえがよいが、思慮を欠いたタイショーのアサノが、エチケットにくわしい老人のキラによって、侮辱される。アサノは分別を失って、キラを殺そうとする。この狂気によって、アサノは処罰され、ハラキリをおこなう。——ここまでは、なんとか理解できなくもないプロットである。われわれにとって理解不可能なのは、ここから先である。思慮を欠いたアサノの死後、城の経営にあたったオーイシは、部下とともに、キラ老人を殺そうと計るのだ。日本人独特のアダウチ・スピリットに発する行為とはいえ、もともと、そう長く生きるはずのない老人を、四十七人のローニンたちが狙《ねら》うのである。一対四十七といえば勝負はおのずと明らかなのであるが、しかもなお、四十七人のローニンはキラの家に〈バンザイトツゲキ〉を敢行し、野蛮にも老人の首を斬《き》りおとす。日本人が一年の終り(訳注・つまり十二月)に観るのを好むのは、こうした狂気のドラマである。  決して有能な監督とはいえないナガシマは、読売ジャイアンツのフロントによって侮辱されたとたんに、アサノの立場になってしまった。ナガシマのために、ミスター王や、他球団のエナツすら、ローニンになりたがっているときく。キラ老人にあたる〈日本人にとっての悪役〉は、かつて投手としてカネダに迫る人気をもち、ナガシマの前の監督だったカワカミである。(キラとカワカミは、金銭に対する飽くなき貪《どん》欲《よく》さにおいてもよく似ているらしい。)日本の大衆は、かつて前例のない野球カブキにおいて、ナガシマがどのような挙に出るかを見守っている。オーイシが白痴の真《ま》似《ね》をして(訳注・?)キラのニンジャをだましたように、ナガシマもまた頭がぼけたふりをして、アメリカにくるなどと呟《つぶや》いているらしい。  さて——私の"Sh冏un's Game"は日本の読者にあまりにも容易にうけいれられてしまい、まともな反論は、ケイオー大学教授の肩書をもつイケイ氏(訳注・池井優氏)のものだけであり、日本から送られてきた切り抜きは、〈中国新聞〉十月三日づけの「野球文化論=アメリカの日本野球理解度」という短い文章である。  イケイ氏の批判ないし反論は、まったく感情的なものであり、私の"Sh冏un's Game"を、 〈「間違いだらけ」の一語に尽きる。……書いてあることは誤解どころかでたらめである。〉  と言いきっている。  そのように言いきっていいものであろうか。そして、〈でたらめ〉の証拠として、 〈広島の山本浩二と巨人の山本功児を混同し、巨人の投手角三男とヤクルトの野手角富士夫の区別もつかずに「かけもち」が当り前の日本野球と書く神経にはおそれいる。〉  氏は、こう書くのみである。イケイ氏は大リーグの研究家として日本では著名だそうだが、失礼ながら、日本の野球については何も知らないに等しい。  私、W・C・フラナガンはここに改めて記しておく。 〈優れた選手が、需要に応じて、二つの球団をかけもちするのは、人材にとぼしい日本では、ごくふつうのことである。コージ・ヤマモトは広島東洋カープの四番打者でありながら、時として読売ジャイアンツの野手をつとめたりする。また読売ジャイアンツの投手であるスミは、ヤクルトスワローズの打者をつとめることがある。スミが投げたボールをスミが打つ光景を日本のファンはたのしむことができる。日本のファンは片方のスミが《影武者》であることを知り尽しているからである。〉  ここで、前記のイケイ氏の批判を読みかえして頂きたい。——改めて述べるまでもなく、イケイ氏は、この〈影武者システム〉に欺《あざむ》かれている。あるときは山本功児だからこそ、〈影武者〉は成功しているのである。角三男と角富士夫に〈区別〉してみえるのは、〈影武者〉の勝利である。イケイ氏は、二人のコージ・ヤマモト、二人のスミを、頭から別人と考えて、疑う様子さえみられない。飽くまでも別人と考えたいのならば、彼らが別人である証明をしてくれなければ、反論にはならないのである。  イケイ氏の自信のなさは、私への批判を中国の新聞に投じたことでも明らかである。なぜ、堂々と日本国内の新聞にのせないのか? 中国の民衆がこのような論争に興味を抱くとでもお考えなのだろうか。 *     *     *  NBCネットワークが九月に放映したドラマ「ショーグン」がアメリカ人に大きな衝撃をあたえたことは、いまさら述べるまでもあるまい。一般大衆は、十六世紀の物語に登場する〈野蛮な日本人〉を、現在の日本人と錯覚し、英人ブラックソーンに小便を浴びせて恥じぬ男たちが、パナソニックやソニーのメカニズムとどう結びつくかに途《と》惑《まど》ったのである。  テレビ映画になった「ショーグン」に触れるまえに、ジェームズ・クラヴェルの原作について、ひとこと述べておきたい。クラヴェルのストーリーテリングの才能について、私が云《うん》々《ぬん》するのは滑《こつ》稽《けい》であろう。それは正しく素晴らしい。しかしながら、いささか日本を知る私から見ると、固有名詞にかなりの疑問があるように思われる。  徳川家康をモデルにしたトラナガは名前も素晴らしく、よく描けている。先ごろの大統領選挙のさいに、レーガン、カーター両候補に愛想をつかした人々が〈トラナガを大統領に!〉というTシャツを作ったのが正当であると思わせるほど魅力的な人物で、高貴な女性に「トラチャン」と呼ばれるのは当然であろう。また、ザタキ、トトミ・カナ、チキタダなどは、いかにもサムライらしい命名である。  私が疑問を抱いたのは、女性の名であった。ヒロインであるマリコ、サズコ、ゲンジコ、キリツボなどは、日本女性に多い名前である。(訳注・〓)これに反して、不自然に感じた名前は、ツカイコ、ラコ、ヨドコ、ニガツ、ウサギ・フジコ、キキ、ギョーコなどであり、とくに、チンモコ(Chimmoko)などという名の女性は日本にはいないだろう。これに似た女性の名が日本にあるとすれば、チンコかモコか、どちらかである。(訳注——〈侍女の声〉「よろしゅうございますか?」〈マリコ〉「何か用かえ、チンモコ?」——コロネット・ブックス版「将軍」九六〇頁《ページ》より)  さて——テレビ版「ショーグン」に眼《め》を向けてみよう。 「ショーグン」について論じた人々が、だれひとりとして指摘しなかった事実がある。それは、これが、あのアキラ・クロサワの名作「七《セブ》人《ン・》の《サム》侍《ライ》」の後日談だということである。  巻頭、ブラックソーンがアジロ(網代)に漂着し、日本家屋で眼をさます。このシーンに登場してくる老人(訳注・宮口精二)こそ、「七人の侍」の中のもっとも強いサムライであり、日本ではケンゴーと呼ばれる人物だったあの男なのだ。彼はとし老いて、眼つきが優しくなっているが、どこかにサムライの面《おも》影《かげ》を残している。アジロの村長とは、仮りの姿なのだ。だから、トラナガ(三船敏郎)が、ブラックソーンの漂着をいち早く知ったのは、昔の同志である老人の通告によるのである。説明するまでもなく、トラナガは、「七人の侍」のキクチヨ(菊千代)の、のちの姿である。(このような成り行きは日本の観客にとっては自明の理であろう。)  日本映画の通をもって任じるある種の批評家は「ばかな!」と叫ぶかも知れない。「キクチヨやケンゴーは『七人の侍』のラストで死んだではないか!」彼らはイケイ氏と同じ罠《わな》にはまっている。死んだのは〈影武者〉なのである。  私が「ショーグン」の一部を観たのは、今年の六月、ロサンゼルス、ビバリーヒルズのホテルにおける試写のときだが、オーミというサムライが村人の首を斬り落すところで、アメリカ人の記者たちは大きなショックを受けていた。  私ももちろん驚いたが、他のアメリカ人ほどではなかった。それというのも、NYの私のオフィスの近くの日本料理屋のテーブルで、日本の商社につとめる男たちが、「あいつも、そろそろ首を斬られるな」とか「おれも首を斬られそうだ」といった会話を交すのを、しばしば耳にしていたからである。現代日本のビジネスマンは、アジロの村民と、そう異った世界にいるわけではない。たしか、「ナカガワ」というレストランで、中年の日本人が、「これもんですよ」と切腹の手つきをするのを私は目撃している。ハラキリやクビキリは彼らにとって日常的なもののようである。 「ショーグン」の発端部分で、クビキリのつぎに驚かされるのは、ガイジン船員を熱湯の釜《かま》に入れて処刑するシーンである。満月の夜におこなわれる〈カマユデ〉は、十九世紀まで日本ではごくふつうのことであった。〈原注1〉  多くのアメリカ男性がもっともショックを受けたのは、マリコサン(神秘的なヨーコ・シマダが扮《ふん》して、一躍、大スターになった)が、いきなり、入浴しているブラックソーンの浴室に全裸で入ってくるシーンだといわれるが、これもまた、日本ではありふれた風俗に過ぎない。女性が二人で入ってくる場合もままあり、そんなことで驚いていては日本では生活できない。(私はホッカイドーの温泉で男女混浴の光景に接したことがある。ただし、そのときは女性が老人ばかりで、決してこころよくはなかった。)  マリコサンとブラックソーンのベッドシーンは、神秘的かつ暗示的に描写されており、きわめて美しいが、同じ程度にハリウッド的でもある。——なぜなら、日本女性のセックス行為は決してあのようではあり得ないからだ。(訳注・かつて、日本の女性のものは横に裂けているという古典的偏見がGIたちのあいだにあったが、フラナガンは、この差別的冗談を本気にしているらしい。)男性はマリコサンに対して十字架のような形で交らねばならず、そうした上で、初めて行為がおこなわれるのである。〈原注2〉  が、しかし、われわれのように、セックス即ペニス挿《そう》入《にゆう》という風には日本人は考えない。トレヴェニアンの『シブミ』の中には、日本人独特の真の渋みに達したセックスが描かれている。〈キカシ・セックス〉と呼ばれるそれは—— 〈これは双方が第四段階の練達者で、二人とも、とくに体力に自信がある時でないとできない。ゲームは六畳ほどの小さな部屋で行なわれる。プレイヤーは共にきちんとキモノを着て、互いに壁を背にして向い合って正座する。それぞれ、精神を集中することによってのみクライマックス寸前の状態に達し、その状態にとどまっていることが要求される。体の接触は許されず、精神集中と片手による身ぶりだけが認められている。このゲームの目的は、自分がクライマックスを果たす前に相手にクライマックスを起こさせることで、雨の日がこのゲームにいちばん適している。〉(この部分のみ、菊池光氏の訳による。) 「ショーグン」によって急に日本に興味をもちだした私の友人のひとりは、熱狂したあまり、〈バンザイ・ウオッカ〉(訳注・「樹氷」のこと。アメリカではこの名で売られている)を飲みながら、 「いま、ニューヨークは日本なのだ」  と、きわめて独断的な意見を述べた。そして、どうみても、イタリア系にしか見えない顔であるにもかかわらず、こうつけ加えた。 「気分はジャパニーズ……」  彼に言わせると、彼の父親の生まれたイタリアと日本は、風土、人間の気性が似ており、身体《からだ》が小さく、名前が母音で終るところまで、そっくりだ、というのだ。 「見たまえ」  タイムズ・スクエアのコカコーラのネオンを眺《なが》めながら彼は言った。 「コカコーラ以外は、すべて、日本製品のネオンではないか。ソニー、サンスイ、パナソニック、デノン(DENON)——それに左側には、ついこのあいだまで、二人のムスメ(訳注・ピンク・レディー)の大きな看板が出ていたではないか。〈どさんこらーめん〉もあるし、日本レストランは、ワンブロックごとに一軒はある。しかも、東京とニューヨークは気候や街の雰《ふん》囲《い》気《き》が似ているというじゃないか。ブルーミンデールは、〈佛明大〉と音《おん》を合せた日本語の広告を出している」 「あれは中国スタイルだ」と私は評した。「中国と日本はちがう国だ」 「サックスのウィンドウを見たか。マネキンはみな日本人の顔をしている」  私は頷《うなず》かざるをえなかった。 「さいきん、ブレンターノ書店へ行ったか」と彼はつづけた。「ブレンターノには、サムライの甲《かつ》冑《ちゆう》が飾ってある。神秘的な小石(訳注・碁石?)やキモノの下着も売っている。こんな書店が日本にあるだろうか? ないはずだ。つまり、日本にもないものが、ブレンターノにはあるのだ」  私は反論する気を失った。あの桃色のキモノ下着は紛《まが》いものだと指摘して、彼の熱烈な思い込みを打ち砕く必要もないと思った。そして、四十四丁目の角を旧パンナム・ビルのほうに曲った。  私の行きつけの日本レストランは左側の〈サガノ〉であるが、友人は〈サガノ〉の向い側の〈アキタ〉が良いという。私は〈サガノ〉の刺身をあきらめて、友人につきあった。〈アキタ〉は、日本の北部にある州の名であり、店の名物は、日本人ならば、〈秋田〉という文字からただちに連想するであろうところのイシカリナベであった。私たちは、〈トツゲキ・ウィスキー〉(訳注・?)とサケを飲みながら、イシカリナベの中のものに箸《はし》を向けた。 「プラザで上映中の『カゲムシャ』を観《み》たか?」と友人は唐突に言った。「『ショーグン』以上だ。レックス・リードが退屈だなんて批評していたが、とんでもない。『ショーグン』はスペクタクルだが、クロサワの『カゲムシャ』は神と人間の問題を扱っている。ベルイマンの仮《ペル》面《ソナ》ってやつさ。日本映画は、すべて、すばらしい。ゆうべは、ブリーカー・ストリート・シネマでキヌガサの『シークレット・オブ・ナルト』(訳注・『鳴《なる》門《と》秘《ひち》帖《よう》』)を観た。ブリリアントだった……」  映画好きの知識人らしい会話を交しながらも、私の心は虚《むな》しかった。日本人の表現を借りれば、〈虚無の秋風が心の中心部を吹き抜けた〉のである。「なにかが足りない」と私は呟《つぶや》き、ウィスキーを呷《あお》った。 「偉大なる指導者さ」と友人は自己流に解した。「レーガンでは駄《だ》目《め》だ。われわれに必要なのは、賢明で、抜け目がなく、サトリとシブミを兼ねそなえた——うむ、たとえばトラナガのような指導者だ」 「そういう問題ではない。ぼくには、どうしても、ここが日本だとは思えないのだ」 「要するに女だろう」  友人はサケのトックリをつまんでみせて、「日本の女がサケを注《つ》いでくれればなあ。……マリコサンとまでは言わない。侍女でいい。原作にそういう場面があっただろう。チム——チムなんとかいう女がサケを注ぐところが……」 「チンモコかい」 「そう、チンモコ。この場に美しいチンモコがいればなあ! おれは、『どーもどーも』と言ってやるよ。チンモコって、どんな女だろうねえ。キモノ姿で『おひとつ、どーぞ』。それでさ、おれが風《ふ》呂《ろ》に入ってると、チンモコが真っ裸で浴室に入ってきて言うのだ。『私たち日本人の秘密を教えてあげましょうか?……』、イエー、かわいい、かわいい、チンモコチャン!」  その時、私の心の中を通り過ぎた思いは、ひとりのチンモコによって解決するようなものではなかった。私が思いつめていたのは、ニューヨークに住みながら、日本人が日本で享《きよう》受《じゆ》しているような文化を吸収し、日本人のように生活することが可能だろうか、という問題であった。(「いま、ニューヨークは日本なのだ」といった大ざっぱな感想を抱くには、私は日本についての知識を持ち過ぎているのである。) 「ショーグン」がもたらした狂熱の嵐《あらし》のなかで私は孤独であった。友人たちが「ドーモ」、「ハイ、ワカリマス」、「イソギマス」などと、日本人ごっこをしているのを見ると、たまらない気がした。彼らの日本観の軽薄さ! 私はそうであってはならないのだ。もっと内的に、たとえばオズ(小津安二郎)映画の中の人物のような暮し方を、ブルックリンのアパートですることができないであろうか?  一冊の本と一枚のレコードが、私を新しい生活に導く啓示だった。W・R・シュルトレフの「ブック・オブ・トーフ」第一部とイエロー・マジック・オーケストラのレコード——それが、すべてである。少くとも、私にとっては。  トーフとは、水にひたしたダイズとNIGARIから作られる白いやわらかな食物であるが、日本人にとってそれは単なる食物ではない。それはゼン(禅)の心を表現している。一瞬にして崩れ去るそれはまた、東洋的な無の哲学をも示している。  〈トーフが崩レルトキ/法隆寺ノ鐘モマタ/崩レル〉  という有名なハイク(俳句)があるほどである。  Y・M・Oの音楽に身をひたしながらトーフを食する——これこそ、表面的、浮薄ではない日本的生活である。  しかしながら、日本人ではない読者の大半は、〈Y・M・Oとは何か? トーフとは何か?〉と問われるにちがいない。よろしい。「ショーグン」に出てこない真の日本について、私がご説明しよう。それは、皆さんの知らない日本の姿を呈示するであろう。  Y・M・Oは(この文章が活字になるころには彼らはニューヨーク公演を終えているはずだが)シンセサイザーとコンピュータを駆使することによって世界的存在となったが、それぞれ独立して活動し得るミュージシャン三人より成っている。そして、このような在り方(単独で活動し得る才能をもつ者が寄り集まる)は、日本では長い歴史を持たない。明確にいえば、太平洋戦争以後のことといってよいだろう。いわば、米軍占領下の産物である。  朝鮮戦争によって日本に軍需ブームが起ったとき、それは〈ジンム景気《ブーム》〉といわれた。アメリカ文化の影響を受けた〈モボ〉〈モガ〉が東京のフィフス・アヴェニューともいうべきギンザを闊《かつ》歩《ぽ》した。米軍のキャンプでの日本人のショウに参加していた十六歳のエリー・チエミは「私の妻は髭《ひげ》をもつ」(訳注・「うちの女《によ》房《うぼ》にゃ髭がある」のことか?)というコミック・ソングのヒットを放ったが、同じころ、ヒバリ・ミソラも「ア・ナイト・イン・イヨマンテ」という歌で人気があった。もうひとり、ユーカリ・イトーは日本製ポップス(アメリカのポップスを真《ま》似《ね》たもの)の「トランシルヴァニア6‐5000」で広い人気をもっていた。そして、貪《どん》欲《よく》な日本の興行師は、ソロシンガーとして充分に人気のあるこれら三人を一組にして、〈ムスメ・トリオ〉または〈カシマシ・ムスメ〉の名の下《もと》に、さらに人気を守《も》り立てようとした。〈カシマシ・ムスメ〉を見ようとする大衆があまりにも多いので、ショウは劇場ではなく、東京郊外のセイブ球場でおこなわれた。  一九六〇年代に入ると、日本の興行師は、経済成長期の大衆のために、新しいムスメ・トリオを作ろうと考えた。〈ダッスン・トリオ〉(訳注・脱線トリオか?)がそれである。集められたのは、「東京五輪音頭」で有名なジュンコ・サクラダ、「オリンピック・ツイスト」のモモエ・ヤマグチ、「アジャパー・パラダイス」(訳注・「アジャパー天国」か?)のセイコ・マツダの三人である。彼女らは日本人にアピールする強い性的魅力をもっていたので、ジュンコ・サクラダが若いアクターと結婚するために引退したときには、「ジュンコ」という歌が二つ作られた。(一つはアキラという歌手によって歌われ、もう一つはナガブチというフォーク歌手によって歌われた。)モモエ・ヤマグチは美《び》貌《ぼう》の衰えをおそれて独身のまま引退し、カマクラにある巨大な家に閉じこもって、グレタ・ガルボのようにカメラマンを嫌《きら》っている。現在でも活躍しているのは、セイコ・マツダのみである。  きわめて日本的な〈トリオ〉の伝統は、七〇年代末に復活した。Y・M・Oの前身である〈タノキン・トリオ〉がそれである。タハラ、ノムラ、コンドーの三青年の頭文字をつなげると〈タノキン〉になるのだそうだが、彼らのテーマである〈タンタンタノキンノキンタマハ……〉という歌は、いまやショウ・ビジネス界の女王と化したセイコ・マツダによって(主として宗教的な意味合いで)批判された。この激しい批判によってトシヒコ・タハラがトリオから脱退し、若いオサミ・イイノが加わった。そして、メンバーは——  Yoshio Nomura  Masahiko Kondoh  Osami Iino  となった。彼らの名前を一見すれば、〈Y・M・O〉の由来は明らかであろう。〈イエロー・マジック・オーケストラ〉とは、あとからあてはめた日本製英語である。(Y・M・Oは日本国内をも制圧しているが、すでに日本では、ハルオ・チキダがプロデュースする新しいテクノ・ポップ・グループである〈シンスケ・バンド〉が興隆しつつある。)  トーフの作り方については、シュルトレフの「ブック・オブ・トーフ」第一部に任せておこう。(第一部というからには、この本の第二部もまた存在する。)読者が求めているのは料理の方法ではなく、〈日本の心〉のはずである。読者はただ、豆から作られたコッテージ・チーズのようなものを想像して下さればよいのである。  トーフの食べ方は〈シブミ〉を旨《むね》とする。他の食物がそうであるように、トーフも、冷やしたのと、温めたのがあるが、ニューヨークの日本レストランのメニューに多いのはChilled Tofu(冷ややっこ)である。  レストランで、おそらく一インチ角の立体状にカットして出されるであろうそれには、〈かんな屑《シエービング》のようなもの〉(訳注・削りぶしか、花がつお)がのせてあるが、気にしてはならない。脇《わき》の小《こ》皿《ざら》の上には、おそらく、薄くスライスした日本ネギ、ショウガの根をつぶしたもの、乾燥した海草(訳注・ノリ)などがあるはずだが、それらを好みに応じてもう一つの小皿にうつし、ソイ・ソースをかける。(ソイ・ソースは〈キッコーマン〉が好ましいが、もし無ければ、〈ラ・チョイ〉や〈チャン・キン〉でもよい。)ただし、箸でトーフをはさんで、ソイ・ソースにひたすのは日本人でさえ至難のわざであるから、スプーンを用いたほうが賢明であろう。 〈イキ〉で〈シブミ〉のある Chilled Tofu とは反対に、 Boiled Tofu (湯豆腐)は古い都であるキョートで盛んな料理であり、どちらかといえば、十六世紀的な野蛮さをもっている。ひとことでいえば、これはトーフの〈カマユデ〉である。小さな釜《かま》の中に海草とトーフを入れ、必要に応じて、アイガモ、七面鳥、カシワ、ドジョウ、モグラの肉などを入れる。ところによっては、〈チャンコナベ〉と呼ばれる場合もある。  トーフには、このほか、トーフ・スキ、トーフ・ラーメン、トーフ・パイ、トーフ・中華まんじゅう、カレー・トーフといった食べ方があり、日本人の平均寿命をのばすのに貢献しているが、日本のグルメの夢というべきものは、なんといっても、 Vinegar Tofu (酢豆腐)であろう。   Vinegar Tofu に使われるトーフは特殊なキヌゴシであり、これを作れるシェフは、キョートとヒロシマに一人ずついるだけである。ヒロシマのシェフに至っては、一週間に八オンスしか作らないことで知られている。かりにこの高級なトーフを入手できたとしても、タレとして使われる酢の入手方法がまた困難をきわめる。  この酢は、単純にいってしまえば、香《ホン》港《コン》でフカのヒレのスープを飲むときに垂らすブラック・ヴィネガーであるが、香港での入手は殆《ほとん》ど命がけである。〈原注3〉  運よく入手できたとしても、日本に持ち帰る飛行機内のアイスボックス内で適温で保存されないと、〈味が死んで〉しまう。しかも特殊キヌゴシ・トーフは、シェフの手を離れて三十分以内に食べないと、ばらばらになってしまうのだ。だから、まず、ブラック・ヴィネガーを用意しておき、キョートか、ヒロシマへ行って、シェフの眼《め》の前で食べるのが Vinegar Tofu を効果的に味わう秘《ひ》訣《けつ》である。こればかりはニューヨークにいたのでは、いかんともなしがたいようだ。  しかしながら〈Y・M・O〉の神秘的な音色に耳を傾けながら、蜂《はち》蜜《みつ》をかけた冷ややっこをスプーンで口に運ぶとき、私の心をよぎるのは、次のようなバショーのハイクの精神《こころ》である。 〈モウ秋ノ終リダ/トナリノ人ハ何ヲ企《たくら》ンデイルノカ/ドアノ鍵《かぎ》ヲ三重ニカケテオコウ〉 〈原注1〉〈カマユデ〉は〈カマイリ〉ともいう。日本の歴史上の人物でカマユデにされることによって有名になったのは、十八世紀の怪盗Rat Kid(ねずみ小僧か?——訳者)である。カマユデによって皮膚が裂ける状態を〈カマイタチ〉と呼ぶ。半死半生で助けあげられた状態は〈カマアゲ〉である。この刑のために睾《こう》丸《がん》を失った男性は〈カマオ〉または〈オカマ〉の名で呼ばれる。 〈原注2〉従って、日本の男性は、セックスのさいちゅうにも、女性の乳房などに触れることができず、カシオの電卓で仕事をしている。日本の経済が圧倒的勝利をおさめた原因はここにある。 〈原注3〉〈金の鳩《はと》印ブラック・ヴィネガー〉は、アバディーン地区のどこかで少量つくられているといわれ、入手するためには、新鴻基(サンフンカイ)グループ傘《さん》下《か》の暴力団と接触しなければならない。ヒントは、香港島のコンノート・センタービル内で、ロボ博士という人物をたずねることである。 サモワール・メモワール     Э  私の好みをいえば、ウラジミール通りはもっとも足を向けたくない街だ。  いまから三十七年まえの——つまり、日本がソ連に占領されるまえのウラジミール通りがどのようなものであったか、私はまったく記憶していない。  いや、明治神宮は覚えている。現在は、レーニン宮になっているが、私が子供のころは、たしか、明治神宮といったはずで、二、三度、参拝に行った記憶がある。  プーシキン図書館で、むかしの地図を調べて、わかったのだが、ウラジミール通りは表参道と呼ばれていたらしい。ウラジミールなどという名は、もちろん、進駐軍がつけたものである。  私がウラジミール通りに出かけざるをえないのは、グム百貨店の東京支店があるからだ。グム百貨店と名乗らず、ラフォーリ百貨店と名乗っているのは、日本人の国民感情を考慮に入れてのことだろう。グムというより、ラフォーリという方が、モスクワ的であって、かつ西欧的、という微妙さがつきまとうからだ。噂《うわさ》では、近いうちに、ラフォーリ原宿と改名するらしい。  いずれにせよ、モスクワの直送品を買うなら、ラフォーリがいちばんである。春のセーターや靴《くつ》を買うために、私は家を出た。  地下鉄を神宮前(なぜか、この名前だけはそのままになっている)で降りて、ウラジミール通りを歩いた。  春にはまだ間があるというのに、通りは若者でいっぱいだった。占領が終って、もう三十年になるのだから、これらの若者どもは、ソ連に占領されていた時代を知らない。にもかかわらず、というか、知らない強みからか、占領下の時代をなつかしむ奇妙なムードがあるのはどういうことか。  一九五〇年代を想《おも》わせるバラライカ演奏をしているグループ、コサックダンスに興じている男たち、ビートルズの「パマギーチェ(ヘルプ)」をギターで弾いている娘たちが、道路から溢《あふ》れ出ている。理解できないのは、進駐当時のソ連兵の服装をしている奴《やつ》らだ。私などは、グリーンの服に暗い記憶があり、ぎょっとするのだが、若い奴らにとっては、ひたすらノスタルジックで、恰《かつ》好《こう》がいいことらしい。学校で、本当の歴史を教えないから、こういうことになる。  いつか、息子の教科書を見て、びっくりした。 〈一九四五年、日本は出過ぎた真《ま》似《ね》をしたために、ソ連に占領されました。ソ連は日本人に真の共産主義のあり方を教え、日本の人民は立ちなおりました。一九五二年、日本は独立し、再出発しました。〉  これだけしか書いてない。ソ連が新《にい》潟《がた》と富山に原子爆弾を落としたことなど、きれいに消されている。いちおう、独立はしたものの、経済的、文化的に、日本がソ連の支配下にあることなどは、もちろん、触れられていない。  まだ冬なのに、道端にアイスクリーム売りが出ており、飛ぶように売れている。これもソ連の真似である。レーニンコーラをやたらに飲むのも、ソ連の真似だ。モンゴル共和国直送のモンゴル烏《い》賊《か》の立ち食いもそうであろう。ブリニー(資本主義国でいうクレープ)を焼く店が多いのも、ウラジミール通りの特徴だ。  百貨店が混《こ》んでいるにちがいないので、私はコーヒー店でひと休みすることにした。ジャズレコードを売り物にしている「エルミタージュ」という店だ。  ウディ・ハーマン楽団の演奏をききながら、アメリカン・コーヒーを飲んでいると、ボーイが私に囁《ささや》いた。 「旦《だん》那《な》、秘密テープはいかがですか?」 「なに?」  私はボーイの顔を見た。  ボーイはあたりを見まわしながら、 「アメリカからの輸入品です。エロティックな歌です。オリヴィアって女がうたってるんで」 「ほう。何という歌だ」 「『フィジカル』ってんです」 「肉体の、だな」 「大変な歌詞です。日本での販売は禁じられました」 「ふーむ」  私は興味を覚えた。 「彼女が歌い踊るビデオテープもあります」 「ホームビデオを持っていないのだ」  私は答えた。ビデオデッキはソ連から輸入されていて、大学卒の初任給の二十倍の値段だった。  その時、客のひとりが片手をあげたので、ボーイは走って行った。そのまま戻《もど》ってこないところを見ると、テープを売りつけるのに成功したらしい。  レコードは、グレン・ミラー楽団にかわっていた。この辺りまでの音楽は、公認されている。  当局による音楽の許可基準は、なんとも理解しがたい。アンドリュウス・シスターズの「ラム・アンド・コカ・コーラ」や「ペンシルヴァニア・ポルカ」が〈資本主義的〉という理由で禁じられ、プレスリーが許されているのがわからない。検閲担当者の恣《し》意《い》的なものではないだろうか。ビートルズは、レコードやテープの販売は禁じられているが、個人がうたうのは自由である。リンダ・ロンシュタットは許可されているが、アメリカを賛《たた》えた"Back in the U.S.A."のみは不許可である。一般的に、資本主義社会に生きる男女の苦しさ、悲しみをうたったものは検閲をパスし、勤労意欲を削《そ》ぐもの、幻想的なものは、取り締りの対象になり易《やす》い。つい数日前、若い日本人の「君は天然色」というシングル盤が、〈退《たい》嬰《えい》的〉として、発売まえに禁止措置を受けている。  ラフォーリは、予想通り、込み合っていた。  モスクワ直輸入と謳《うた》っていたが、セーターは英国製であった。英国製なら、まず、三年は着られるだろう。  もっとも混雑しているのは三階の電気器具売り場だった。新型のトースターが売り出されると、今朝の「人民新聞」に大きく出たからだ。セーターとトースターのために、七階建てのデパートが割れんばかりになっている。  念のために、地下の食料品部へ行ってみたが、殆《ほとん》どなにもなかった。米一合を持ってくれば、五目寿司を売る、とは、莫《ば》迦《か》にしている。イナゴの佃《つくだ》煮《に》が少し残っていたが、イナゴは食べ飽きてしまった。  こんな空白状態なのに混んでいるのは、みんなが、ひょっとしたら、という妄《もう》想《そう》を抱くからだ。グム百貨店はソ連の国営だから、物資が出てくるのではないか、と、つい思ってしまう。ところが、店の大半は、わが国の民芸品の笠《かさ》とか馬とか木彫りの熊《くま》とか、どうしようもないものばかりだ。  ラフォーリを出た私は、交差点からウラジミール通りを上り、原宿駅前を抜けて、蜂《ほう》起《き》公園に入った。  公園では、初老の男女たちが踊り狂っていた。永年にわたる筍《たけのこ》生活で頭がおかしくなった連中で、正しくは踊る宗教というのだが、世間では筍族と呼んでいる。べつにデモをしたりするわけではないから、警察は見て見ぬふりをしている。  蜂起公園を突っきって、公共放送の敷地に入った。ガードマンがとび出してきて、身分証明書の提示を私に求めた。  私は身分証明書を示し、さらに、建物の入口で身体検査を受けた。デパートの紙袋はX線によって調べられる。  受付では、声紋を調べられた。コンピュータが太鼓判を押した瞬間、正面のテレビ受像機に山根プロデューサーの顔があらわれ、「第七応接室にどうぞ」と言った。  高校いらいの友人である山根は、応接室で煙草《たばこ》を吸いながら私を待っていた。 「なんだ、買物をしてたのか」  彼は無表情のまま言った。 「ウラジミール通りだ。くたびれた」 「要るものがあるなら……」  盗聴を防ぐために山根はテレビのスイッチを入れ、音量をあげた。 「おれに言ってくれ。おれは組合の仕事をしている。日常品なら、たいてい入手できる」 「横流し品は、あとがこわい」 「それを言ったら、生活できんぜ」  山根は煙草をもみ消した。 「コーヒーを飲むか」 「ついでに、ピロシキもたのむ」  部屋の隅《すみ》の自動販売機に山根はコインを入れた。 「ちきしょう、ピロシキの販売機はこわれている」 「コーヒーだけでいいよ」  と私は言った。  やがて、 「薄くてすまんな」  と言いながら、山根がコーヒーの紙コップを運んできた。 「家に帰れば、ヨーロッパ製のインスタントコーヒーがあるのだが……」 「ヨーロッパ製?」 「うむ。なんでも、ヨーロッパの王室で愛飲されているらしい」 「王室の人間がインスタントコーヒーを飲むのか。召使いにコーヒーを入れさせればいいじゃないか」 「あの辺も、このごろは、すべて、インスタントらしいぜ」と山根はあいまいに言った。     Ю 「ところで、例の『流行歌で綴《つづ》る戦後史』だが、八月の解放記念日に放送することになった。四時間にわたる大番組だから、いまから準備しても遅いくらいなのだ」  山根は大きなノートをひらいて、 「台本は数人で書くことになるが、中心になるのはきみだ。きみが中心になってくれなければ困る。八月十五日の解放から現在までの時代の空気を肌《はだ》で知っているのは、きみだけだよ」 「そんなことはあるまい」 「検閲すり抜け技術や放送禁止用語まで心得ているのはきみだけだ」 「どのみち、台本はズタズタにされるぜ」 「かも知れない。しかし、とにかく、ぼくは四時間の番組を作り、視聴率を八十パーセント取らなければ、局内の査問委員会にかけられる。きみは、ぼくが姿を消すのを好まないだろう?」 「姿を? どこへ消す?」 「シベリアだろうね」  彼は溜《ため》息《いき》をついた。 「昼間でも太陽がぼんやり見えるだけだそうだ。しかも、一日にたった四時間」 「まだ、シベリア行きなんて、あるのか。ハボマイ、シコタンが返還されてから、流《る》刑《けい》地《ち》はあそこのはずだが」 「ハボマイ、シコタンには囚人はいないよ」  と山根は声を低めた。 「〈日本国内でソ連生活をたのしめるツアー〉で、ハボマイ、シコタンへ行ってみたけど、囚人の姿はなかった」 「まあ、大丈夫だ。ぼくに任せてくれ」  私はそう言わざるを得ない。  山根は少し元気をとり戻して、 「とにかく、使えそうな歌を書き抜いてみた。ひとつひとつ、きみと検討していきたいのだが」 「OK、いや、ハラショー」  私は〈赤い稲妻〉印のボールペンをとりあげ、卓上のメモ用紙を引き寄せた。 「『リンゴの唄《うた》』は大丈夫なんだ」と山根が自信を持って言った。「『ああモンテンルパの夜は更《ふ》けて』は駄《ニエ》目《ツト》だ。『ナホトカ帰りのリル』もいかん」 「敗戦といえば、どうしても、『ハバロフスク小唄』が出てくるぜ」 「駄《ニエ》目《ツト》」  山根は自分のノートの題名に×印をつけた。 「『岸壁の母』」 「駄《ニエ》目《ツト》」 「『異国の丘』」 「駄《ニエ》目《ツト》」 「おいおい、全部、駄目じゃないか」 「そういうものばかり、ならべるからだ」  山根の眼《め》つきは変に鋭くなっている。 「もっと安全なものを出してくれ。毒にも薬にもならんやつを」 「『憧《あこが》れのナホトカ航路』……」 「ダー、ダー、こういうのが良いのだ」 「『おばこマドロス』、『シベリアの卵売り』は大丈夫だろう。『お富さん』はどうだっけ?」 「駄《ニエ》目《ツト》」 「じゃ、安全なところをならべよう。『ともしび』、『トロイカ』、『カチューシャ』……」 「想《おも》い出すなあ、大学時代を。あのころ、トロイカ風の喫茶店が流《は》行《や》ったろ。トロイカ風ってのは、ソ連風ってことだった。新宿に『どん底』って店があったじゃないか。店の名が反動的だっていうんで、『サモワール』と変えさせられたっけ」 「そうだった」と私も往時を回想した。「ウオッカのサイダー割りってのがあったな。あのころは、あんなものをソ連風だと信じていたんだ」 「仕事をつづけよう」  と山根が促がした。 「『モスクワだよおっ母《か》さん』、『レニングラードで逢《あ》いましょう』、『民衆の街に霧が降る』、『ナホトカの女《ひと》』、『南国ソチを後にして』、『寒い朝』、『バイカル子守唄』、『デカブリスト三度笠』、『革命ドドンパ娘』、『哀愁鉄道』、『嵐《あらし》を呼ぶ労働者』、『ギターを持った労働英雄』、『シベリア番外地』……」  と私が立てつづけに想い出すと、山根はあわてて、 「『シベリア番外地』は使えないんだ。あとは、たぶん、大丈夫だろう」 「ここらで、安全なコーナーを作ろう」と私は逃げ手を考えた。「シベリア帰りの民衆芸術家、三波春夫先生に何曲かうたってもらう。三波春夫なら、当局も、放送局内の考査室の連中も、文句のつけようがあるまい。レーニン勲章を貰《もら》っていることだし」 「次期の芸術大臣の噂《うわさ》もある。ぼくも、その手を考えてたんだ」 「よし、決めたぞ」  私はいくらか元気が出てきた。 「一曲目は、先生の『ちゃんちきタワリシチ』といこう」 「『ちゃんちきタワリシチ』から『雪の渡り鳥』につなげて、『モスクワ五輪音《おん》頭《ど》』、『ヴォルガ川無情』、『ステンカ・ラージン』、『ピョートル大帝土俵入り』、『ナロードニキ月夜』、『民《ナロ》衆《ード》さんよ』かな」 「なんだ、構成ができているのか」と私。 「そうでもないのだ。ラストを『世界の人民こんにちは』で締めるのだけ、できている」 「盛り上るのは、浪曲と台詞《せりふ》の入る『ステンカ・ラージン』だぜ。あれなら、まず、批判されることはあるまい」  と私は言い、浪曲の部分を口ずさんだ。 〓ドン河下流にきてみれば、地主から逃《のが》れし農奴たちが、コサック自由農民と合流して反乱の相談。その時早くかの時遅く、ステンカ・ラージンが雪をけたててサクサクサクサクサクサク 「ステンカ様……」 「おう、自由農民か。ツァーリ政府に反抗する時がきたぞ……」 「いいかげんにしろ」  山根はうんざりした顔をして、 「このコーナーは、できたことにしよう」 「もうひとり、絶対安全保証つきの歌手がいる」  私は冷めたコーヒーを啜《すす》りながら言った。 「坂本九だ。『上を向いて歩こう』、『幸せなら手をたたこう』、『見上げてごらん夜の星を』、彼の持ち歌ではないが『こんにちは赤ちゃん』——この路線ならクレームはつくまい」 「『こんにちは赤ちゃん』は先月、放送禁止になった」と山根が指摘した。「わが国の人口を減らす政府方針に合わないという理由だ。あの歌をきくと、女性は思わず妊娠したくなるらしい」 「これで、一九六〇年ごろまでだ。しかし、ここらまでは、妥協、迎合の余地がある。このあとの流行歌が問題だ。というのは使えるのが、殆どない」 「一時的な雪どけ時代に入ったのだな」 「当局が思想の自由を奨励した。それで、暗い歌が、わっと出た。『ダーシャの夢は夜ひらく』とか『赤色エレジー』とか、今は、まったく、うたえない。それから、ビートルズの影響を受けたグループ・ムーズィカだな。これも、いまとなっては、使えないぞ。……なんとか使えるのは——つまり、勤労者の明日に生きる意欲をかき立てるのは、加山雄三の歌ぐらいだ。あと、無害衛生なのは、『若者たち』とか『バラが咲いた』とか、ほんの少ししかない。だから、この辺は当時のニュース・フィルムで誤魔化してしまおう」 「仕方がないな」  山根はノートに〈フィルム使用〉と書きとめた。 「六〇年代後半から七〇年代前半までがむずかしいのさ」  と私は言う。 「雪どけ時代は本当にむずかしい。ドストエフスキーの全集が出せた時代だからな」  と山根も腕を組む。 「七〇年代半ばからは、また、やり易《やす》くなるよ」  そう言って、私は立ち上った。 「ソ連に対して屈折を持たない若い連中が出てくる。風土や国民性を無視して、ソ連も日本も、若者の心はひとつだ、なんて、平気で言えるようになった。いわゆるニュー・ムーズィカが若者の心をとらえた。もう一度、ソ連への憧れが復活してきた」 「たしかにやり易い。『恋するナターシャ』とか『夢のウクライナ』とか、ああいったニュー・ムーズィカなら、トラブルは起らない。『気分はバルト海』も、当局によって認められている」 「大ざっぱにいえば、ウエスト・ウクライナに憧れる時代だな」  私は自動販売機のコーヒーを紙コップに受けながら呟《つぶや》いた。 「若者の大半がウエスト・ウクライナ指向になった。〈ウエスト・ウクライナ派〉というのが、たしかに存在しているからな。この線でまとめられるだろう」 「俗にいうキエフ・サウンドだな。明るくて、こせこせしない生活がそこにあるという幻想だ」  山根はノートに〈パラダイス幻想〉と記した。 「われわれの生活があまりにも貧しいから、当局としては、ああいう幻想をあたえる必要があったのだよ……」 「アウトラインはできたじゃないか」  と私は言った。テレビ番組は、かくのごとくして作られるのだ。     Я  公共放送の建物を出たのは夕暮れどきだった。  私は原宿駅前からウラジミール通りを抜け、ストロガノフ通りまで歩いた。ストロガノフ通りは、むかし、青山一丁目から渋谷へ行く都電が通っていた通りである。  ストロガノフ通りに出る角に新刊書店ができたので、入ってみた。ベストセラー・コーナーに積み上げてある本を見ただけで、気分が悪くなった。 1位 粋《いき》なロシア人になるための雑学ノート 2位 女ひとりロシアを行く 3位 アメリカ最大の誤算 4位 飽食は悪魔の行為 5位 路地裏の大英帝国 6位 幻の繁栄ドイツ 7位 日本語のルーツはパミール語 8位 間違いだらけの幹部選び 9位 ロシアのファッションが面《おも》白《しろ》くなってきた 10位 ソ連パイロットにミスはない  戦争中と同じだ、と、私は思った。  あのころ、書店には、米英ソ撃つべし、といった本しかなかった。  敗色が濃くなってきたころには、もう、紙がないので、新刊書はなかった。書店の棚《たな》はがらがらで、「円朝」という本がやたらに積みあげてあった。あれはどういうことだろう。  書店を出た私は、散歩にしては遠いのだが、雀《すずめ》が丘《おか》に向った。雀が丘は、むかし、六本木と呼ばれたところだ。  一時間後に、雀が丘の交差点の近くの「ルースキイ」という食堂で、ボルシチ風スイトンを食べた。どこがボルシチ風なのか、とんとわからない。  腹七分目になったので、行きつけのライヴスポット「モテーリ」に寄った。英語だと、ドライヴ・インだが、べつに車に乗ってくる必要はない。 「モテーリ」は値段が高い。きれいな女の子が店にいるからだ。彼女たちは網タイツ姿で、腰に兎《うさぎ》のシッポみたいな毛皮をぶらつかせている。これが、なんとも、色っぽいのである。  私はジントニックを貰った。皿《さら》の上には、鰯《いわし》のマリネがある。マリネというと、きこえがいいが、要するに、南《なん》蛮《ばん》漬《づ》けである。 「お元気?」  と、顔なじみの女が言った。 「お元気じゃないね。ラフォーリへ買物に行って、疲れた」 「混《こ》んでたの?」 「混んでたなんてもんじゃない。セーター一枚買うのに、押し合いへし合いだ」 「あそこは品物が良いでしょう」 「良いもんか。もっとも、セーターは悪くなかった。ラベルを見たら、英国製だった」 「電気ヒーターが輸入されたはずよ。熱風が出てくるやつ」 「あった、あった。あれは値段が高くて」 「……じゃ、いまの臨時ニュース、きいていないわね」 「臨時ニュース?」 「また、やるわよ」  女は店の隅《すみ》の白黒テレビを指さした。ボリショイ・サーカスらしい一団が芸をしているのが、うつっている。 「なんか、あったのか?」 「アメリカの原子力潜水艦が江の島沖に現れたのですって」  私はびっくりした。 「どういうことだ、それは?」 「やたらに出没しているらしいのよ」 「日本を攻撃する気かな」 「さあ。アナウンサーは、日本国内に残っているソ連の基地を狙《ねら》ってるんじゃないかって言ってたわ」 「どういうつもりなんだ」  私は呟いた。  ソ連政府や日本政府の宣伝を、あたまから信じているわけではないが、ジョン・ウェインを大統領に選んでいらい、アメリカが好戦的になっているのはたしかだ。不況、ドル安、失業者の増大、犯罪の増加、黒人の暴動、と、どれをとっても、良いところは、まったく、ない。 「マンモスが くたばるまえの ひと暴れ」  思わず、口に出た。 「なによ、それ」 「べつに……。思いついただけさ」 「核兵器で攻撃されたらたまらないわね」 「まあ、そう莫《ば》迦《か》な真《ま》似《ね》もしないだろう。ところで、今日のショウは?」 「バンドがつかまっちゃったのよ。ひとり、アメリカの煙草を吸ってたんですって」 「そんなことで、つかまるのか」 「それだけじゃないの。ドルをずいぶん持ってたんですって」 「やれやれ……」 「それから、古いアメリカ映画のビデオテープも持ってたの。『鉄のカーテン』とか『引き裂かれたカーテン』とか、そんなの」 「そりゃまずい。……じゃ、今夜、演奏はないのか」 「マネージャーが、いま、ほかを当ってるわ。演奏がなければ、マネージャーが手品をすることになっているの。店の女の子が二人で漫才をやったり……」 「そんなもの、見たくない」  私は、スチェパン大塚バンドのスイングジャズ演奏をたのしみにしていたのだった。歌手のワルワーラ鈴木が、シナトラのヒットメドレーをうたう予定も知っていた。  そのとき、山根が店にとび込んできたので、私は驚いた。 「よく、ぼくの居場所がわかったな」 「きみが外出したときの経路は、だいたい、わかっている」  山根は私の横にすわり、ビールを注文した。 「厄《やつ》介《かい》なことになりそうだ」  山根は声を低めた。 「臨時ニュースをきいたろう」 「たったいま、女の子からきいた」 「あの潜水艦のショックで、新しい文化統制がおこなわれるようだ」 「ふーむ……」  私は驚かない。いちいち驚いていたら命がもたないのだ。 「それで?」 「英米はもちろん、ヨーロッパのクラシック音楽も、すべて禁止になるらしい。家の中でビートルズをきいても検挙される」 「それは問題だ」  私もことの重大さに気づいた。 「そうすると、ソ連の音楽だけ、許されるのか」 「それと、日本の古典音楽、浪曲は大丈夫だ」 「このまえの戦争の時よりも少しきびしいかな。あのときは、ベートーヴェン、バッハは許されていたはずだから」 「ぼくが局次長にきいたところでは、ベートーヴェン、バッハは大丈夫だ」  と山根は小声で言った。 「なぜ?」 「彼らは、実はロシア人だったという発表が近々おこなわれる。だから、ベートーヴェンはロシア音楽なのだ」 「そんなむちゃな……」 「問題は、例の四時間番組だ。あの中には、英米風のサウンドが、ずいぶんある。『バラが咲いた』みたいなフォークソングは、むろん、禁止される」 「残るのは……」 「安全なのは、三波春夫だけだ」  山根はさらに声を小さくする。 「この事態で、三波春夫の芸術大臣就任は早まるにちがいない、と局次長は言っていた。新芸術大臣は、おそらく、浪曲と演歌以外をみとめないのではないか、と、ぼくらは見ている。つまり……」 「あの企画を白紙に戻《もど》すのだろ」 「そうだ。残念ながら……」  山根はビールを飲み干し、ウオッカをくれ、と荒々しく言った。 「うちのおえら方は、このさい、新芸術大臣に胡《ご》麻《ま》を擂《す》ることに決めたらしい。——はっきりいえば、例の時間枠《わく》を、すべて、新芸術大臣にささげて、好きなことを、目一杯、やって頂こうというわけだ」 「気が早過ぎやしないか」 「アフトーブス(バス)に乗り遅れるな、というロシアの諺《ことわざ》がある」  と山根は怪しげな諺を口にした。 「浪曲でもなんでもやってもらおう、と、ぼくは思っている。『乃《の》木《ぎ》将軍と蜆《しじみ》売りの少年』なんて、いいだろう」 「乃木将軍なんて、駄目に決ってるじゃないか」  と私はわらった。 「日露戦争の代表的人物だぜ」 「きみは、まだ、知らんのだ」  山根はにやにやした。 「乃木将軍はロシア軍を破った。これほどの人物が日本人であるはずはない、ロシア軍を破れるのはロシア人のみ、つまり、乃木将軍は実はロシア人だった、という発表が、近々、おこなわれる」  私の頭は混乱してきた。  酔いがまわってきたせいもあって、私は、もし、三十七年まえに、日本がアメリカ軍に占領されていたら、と考えた。……それは、あり得ないことではなかったのだ。だが、もしも、そんなことが起っていたとしたら、私たちの生活はどうなっていただろうか? いまより不幸になっているのは、まず、確かであろうが…………。 野球につれてって     a  他人がいうほどに、この街が変ったとは、私には思えない。  私の記憶にまちがいがなければ、いまから三十年前、私はすでに、暴力的なスピーカーの音に悩まされていた。あのスピーカーは、当時としても最大かつ最悪の音で広告を流していたのだ。——アロー、アロー、コネテヴ、プロヴァンス。(なぜか、ここで、突然、日本語になって)ご存じですか、プロヴァンスを。プロヴァンスは新宿の片《かた》隅《すみ》にある都会人の心のオアシスです。あのころスピーカーから響き渡ったのは、プロヴァンスという恥ずかしくなるような喫茶店の名前と江利チエミの歌う「テネシー・ワルツ」。そうだ、それから、パンナム機が三原山に墜落した臨時ニュースがあった。……いまだに、アロー、アロー、という幻聴が鼓膜にひびくことがある。想《おも》えば、あのころ——戦争に敗《ま》けてから七年もたって、街なかがGIでいっぱいだったのに、フランス語らしきものがスピーカーから流れていたことじたい、悪夢のようでもある。  アロー、アロー、はいつの間にか終ってしまった。ついこのあいだのようであり、はるか昔のようでもある。私が身を置いている闇《やみ》市《いち》の名残りの建物全体は変らないのだが、迷路じみた路地に面した各店舗は、ずいぶん、代がかわった。スーヴェニア・ショップを続けているうちと、GI相手の売春婦の溜《たま》り場である奥のバー、この二軒だけが三十年前と同じなのだ。私についていえば、あのころは、アルバイト学生であり、いまは、いちおう経営者であるのが違うだけで、昼間でも、裸電球を吊《つ》るした路地越しに、明るい表通りを眺《なが》める身であるのは変らない。友人の山根が、私の顔がモグラに似てきた、と言ったとき、怒るよりも、ひょっとしたらそうかも知れないと思い、言葉をかえせなかったほどだ。  スピーカー——それがどこにとり付けてあるのか私はいまだに確認していない、たぶん伊勢丹まえの交番のあたりだろう——から、いま、響いているのは、"Take me out to the ball game"だ。あるGIが、私に、あの歌は第二の国歌だ、と言ったが、その男はとびきりの野球狂であって、アメリカ兵のすべてがそうだとは限らないだろう。それにしても、チリ紙交換屋のスピーカーよりさらにひどい音で、休みなしにくりかえされると、私は気分が悪くなり、アロー、アロー、の方が、音楽がないだけまだましだったと思わざるをえないのだ。  きのうの夕刻だったか、音楽が突然やんで、米ソが軍事同盟を結んだ臨時ニュースが二度くりかえされたが、そのあと、すぐにまた、"Take me out to the ball game"が始まった。ニュースなど、どうでもいいといわんばかりに感じられた。  私は慌《あわ》てて、テレビのスイッチを押してみたが、ニュースをやっていなかった。どのチャンネルも、日本シリーズしか放送していない。大洋と南海が死闘をつづけており、臨時ニュースの影もなかった。  驚いたのは私だけなのだろうか。考えてみれば、こうなる兆候はいくつもあったのだ。半年ほどまえになるか、中学生である長男の教科書から、鉄のカーテン等の表現が消え、スターリンについて老教師が初めて賛辞をつらねたときかされたときに、察知すべきだったのだ。そのように勘を働かせられなかったのは、三十七年もつづいたアメリカの占領によって、私の頭がボケてしまったからであろう。  今朝の新聞は、米ソ同盟の成立が、軍事的にも経済的にも超大国となった中国の脅威によるものと、きわめて当然のような語調で説明を加えていた。それはともかく、チャイナという固有名詞が入る歌が、"On a slow boat to China"から、"Chinatown, my Chinatown"まで、放送禁止になってしまったのは解《げ》せない。しかしながら、かつて、朝鮮戦争が勃《ぼつ》発《ぱつ》したときにも、似たような措置がとられたことを私は記憶しているので、どうせ、一時的なものだろうと考えた。そう考えなかったら、とても、やりきれないだろう。 「ハンテン、ある?」  若い売春婦が店先に立った。 「あの、興奮させるやつ」  私は黙ったままで、ショウウィンドウの裏側の下の抽《ひ》き出しから、真赤な半《はん》纏《てん》をとり出した。背中に、とんでもない英語の台詞《せりふ》が白く染め抜かれているものだ。 「景気がよさそうだね」  と、私は声をかけた。 「よくないよ。だけど、これから進駐軍が増えると思う。みんな、期待してるわ」 「戦争は起らんだろうな。むかしのようにはいくまい」 「むかし?」 「朝鮮事変さ」 「なに、それ」  彼女は知らなかった。昭和三十六、七年の生れだろうから、無理もない。教科書に出ていたとしても、とっくに忘れているはずだ。 「野球、どっちが勝ってる?」  私は十ドル札を受けとりながら、気にしてもいないことを口にした。 「南海。……でも、どうせ、大洋が逆転するよ。いつもの勝ちパターンだもの」  もう、だれも覚えていないだろうが、三十七年まえに、占領軍が3S政策と称するものを打ち出したのを私は想い出した。3Sとは、スクリーン、スポーツ、セックスだ。この政策を考えたアメリカ人が、ここ数日の日本人の熱狂ぶりを見たら、どう思うだろうか。 「大洋が江夏少年を育てたのは正しかったわけよ」  と、彼女は断定的に言った。     b  アメリカ兵にもっとも評判がいい商品は、招き猫《ラツキー・キヤツト》である。ごくありふれた招き猫《ねこ》なのだが、兵隊たちは、サンフランシスコ辺りで売っている偽《にせ》物《もの》とはちがう、と褒《ほ》めてくれる。  飾り棚《だな》の招き猫の下に、今戸焼の小さな猫をならべていると、よう、と声をかけられた。  私はふり向いた。公共放送のバッジを背広の襟《えり》につけた山根が店先に立っていた。 「悪いけど、あずかって貰《もら》えるかね」  沈黙しているときは気難しそうにみえるが、口をひらくと、泣き出しそうな表情になる。なぜそうなるのかと私はいつも考え、答えが見《み》出《いだ》せない。 「まあ、入らないか」  私はショウウィンドウの脇《わき》から彼を招じ入れた。山根は婚礼の引出物めいた白い風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みをさげている。 「お茶でも入れよう」  奥の小部屋に入りながら言った。形ばかりの三点セットと、兵隊から買いとった籐《とう》のソファーがある。 「あいかわらずの騒音だな」  そう言いながら、山根はポケットから中国煙草《たばこ》「紅旗」を出して、私にすすめた。  禁煙中の私は断る手つきをして、「よく手に入ったね」と言った。 「いくらなんでも、あのスピーカーの音はひど過ぎる」 「おたくの局が問題にしてくれると、ありがたいのだが……」  私の言葉に、山根は沈黙した。  煎《せん》茶《ちや》だけは良質なものを絶やさぬようにしているのだった。店にならぶ怪しげな商品群と精神的なバランスをとるためには、そうしなければならなかった。 「昨日の臨時ニュースは驚かなかったか」  茶《ちや》碗《わん》をうけとりながら、山根は念を押すようにたずねた。 「驚いたよ」 「おれは、二日前から知っていた。知らなかったら、びっくりしただろう」 「テレビでは臨時ニュースをやらなかったな」 「うちは、一度、入れたのだが、抗議が凄《すご》かった。入れ方が悪かったのだ。二死満塁で基《もとい》選手がバッターボックスに立った場面だからな。日本で最初の三冠王に輝いた基選手のプライドがかかっているわけだし……」 「そんなに大事なことかね」 「きみは野球に興味がないから、そういう非常識なことを言う」  山根は苦笑して、茶を啜《すす》った。 「夜のニュースでは、野球の結果をトップで報じた。ああしなければ、受信料不払い運動がひろがるだろう」  山根は風呂敷包みをテーブルに置いた。 「たのむよ。夜の十時までには取りにくる」  私は中身についてたずねなかった。だいたいの察しはついていた。 「迷惑をかけることはないと思う」  山根の唇《くちびる》が歪《ゆが》む形になる。  私はなにも聞きたくなかった。だが、実直な相手は、私が気を悪くしていると思ったらしい。 「昭和二十七年秋の屈辱を覚えているだろう。日本が独立しそうになって挫《ざ》折《せつ》したあの日だ……」  私は答えなかった。学生のころの硬直した自分の姿を想い出すのは苦痛である。  山根や私は、どのような形であれ、日本が軍備を持つことに反対であった。……あちこちで暴動が起り、米軍は進駐をつづけることになったのだ。 「今年は、挫折三十周年記念として盛大にやる」 「あの時は、新宿駅前の交番を焼き打ちしたんだったな」 「火《か》炎《えん》瓶《びん》だった。他《ほか》の連中はサイダー瓶を用いたが、ぼくはちがう。ペプシコーラの瓶を使った」  彼は銘《ブラ》柄《ンド》にこだわった。 「また、あの交番をやるのか」 「誤解してもらっては困る。これは純粋な記念行事なのだ。交番には、事前に通報して、ひとりの怪《け》我《が》人《にん》も出さないようにする」 「しかし、爆破はするのだろう」 「川開きのようなものと思ってくれればいい。だいたい、アメリカを愛しているからこそ、交番を爆破するのだ。いつまでも占領がつづいて欲しいからこそ、逆らうのだ」 「本気かい?」  私は相手の眼《め》を見た。 「きみに嘘《うそ》を言ったことがあるか」  と、彼は切なそうな声を出した。 「占領軍と戦いながら、ぼくらは、いつも、ぼくらの置かれた状況を、ハリウッド製の映画の一場面と考えていたじゃないか。皇居前広場では、ぼくらはインドの土民軍だった。他のシーンでは、だいたい、叛《はん》乱《らん》するインディアンの役だった……」 「そういえば、妙な暗号を使っていたなあ。大規模な叛乱は〈MGM〉、小規模なのは、〈RKO〉だっけ」 「〈リパブリック〉、または、〈ゲイル・ラッセル〉と言っていた」  山根は記憶力がよかった。 「そうだ、大事なことを忘れてた」  呟《つぶや》きながら、彼は内ポケットから折り畳んだ書類をとり出した。 「よかったら、サインしてくれないか」 「なんだい」  私は警戒的な眼つきになる。 「日本を合衆国の新しい州にして欲しいという嘆願書だ。実現は、むずかしいと思うけどね」     c  叩《たた》きつけるような轟《ごう》音《おん》の連続がスピーカーの音を消した。三越の裏手にあった大きな劇場がとりこわされたあとを、米軍がヘリポートにしているのだ。 「局に戻《もど》らなければならない」  山根は古い腕時計をみて、帰る様子を示した。本当は話していたいのだが、音に閉口したのだろう。 「ジョニー・カースンが『トゥナイト・ショウ』の司会をやるようになって、もう二十年だ。その記念番組を日本語スーパーつきで流すのだが、原音で客を笑わせている箇所は、スーパーでも全部、日本人を笑わせなければいけない、と、娯楽担当の将校が命令を出した」 「むりでしょうが」  私が苦笑すると、山根は腰を落ちつける気配をみせた。  私はポットの湯を急《きゆ》須《うす》に注《つ》ぎながら、 「あの偏執的なユダヤ人の少佐だろう、そんな命令を出すのは」 「言い出したのはあいつだろう。しかし、正式の司令部命令が発せられた。ジョニー・カースンを日本に呼ぶ計画もあるらしい」 「滑《こつ》稽《けい》なはなしだ」  と、私は投げやりな口調になる。 「綿密なスーパーをつけたところで、ぼくらより年長の人には、どこが面《おも》白《しろ》いか、さっぱりだろう。ぼくらより下——戦後生れの三十代の連中は、スーパーなしで、げらげら笑うにちがいない。笑わないとしたら、通俗的なジョニー・カースンを好まないか、ジョークに興味がないか、どっちかだ。冷静に考えれば、スーパーを必要とするのは、ぼくらのような中途半《はん》端《ぱ》な世代だけということになる」 「ぼくらは、どうして、こう英語ができないのかねえ」  山根は嘆息した。 「初めがいけなかったのだ」  と、私は答えた。  疎開先の雪国の教室で、初めて英語に〈遭遇〉したときの困惑を想《おも》い起した。転校の手続きが遅れたために、アルファベットや発音記号の説明は終っており、黒板に白く横書きされているのは、私の理解を拒絶し、しかも敵意をむき出しにした何かであった。  それが、〈丘ノ上ニ戦車ガイマス。アレハ日本ノ戦車デス〉を意味することを理解するのに、二週間かかった。——三カ月後に八月十五日がきて、〈日本ノ〉という部分は墨で塗りつぶされ、〈亜《ア》米《メ》利《リ》加《カ》ノ〉にかえられた。しかし、私は明らかに日本の風景が描かれた教科書の頁《ページ》を眺《なが》めながら、なぜ、そこに〈亜米利加ノ〉戦車がいなければならないのかを、考えつづけた……。 「お子さんの英語はどうかね」  と、山根はさりげなくたずねる。 「上の男の子は、まあまあだと思う」  私は気乗りがしない返事をする。 「ただし、日本語がひどい。いちいち、とがめだてしようもないほどだ。〈見れる〉、〈着れる〉、〈生きざま〉あたりに文句をつけていたころが懐《なつか》しい」 「下の坊やはどうだ」 「これはもう、発想がちがうのだ。近所の遊び相手が日本人じゃないからね。週に二度、日本語の塾へ通わせている」 「小学生だったね」 「一年だよ。きみは、いまの小学校の教科書を覗《のぞ》いたことがあるか」 「ない」 「びっくりするよ」  私はかすかに笑った。 「一頁めだけ、暗記している。——シェルターのなかのテレビで、やきゅうを見ました……と、いうのだ」 「いきなり、シェルターか」 「次は、こうだ。——白いユニホームのせんしゅが、大きくバットをふりました。ホームランです。そういうものです。青い空には、ヘリコプターがとんでいます。せんでんのためです。そういうものです……」 「それで全部か」 「これだけだ」 「〈そういうものです〉ってのが、おかしいじゃないか」 「ぼくも、そう思った。しかし、教科書の日本語がおかしい、と、子供に言うわけにもいかない」 「そうだろうか」 「そうさ。子供は、どこがおかしいか、なぜおかしいか、と、たずねてくるに決っている。納得できるような説明をしなければならない。——この説明は、日本語でも、むずかしいぜ。まして、このぼくが、英語で説得できるとは、とても思えない」 「まあ、そうだな」 「失礼、お客さんだ」  私は店に出て行った。観光客らしい白髪の婦人が七福神の豆人形を買い求め、明治神宮へ行く道をたずねた。〈二十パーセントの英語〉で私は丁寧に答えてやった。 「そろそろ帰らないと、まずい」  山根も出てきて、靴《くつ》篦《べら》を手にした。 「一度、ゆっくり話したいね」 「今度、局までたずねてゆく」 「きみが興味を持つかどうかわからないが、冬に、ブロードウェイ・ミュージカルの一行がくる。米軍慰問用だけど、日本人相手に、うちのホールで、一回だけ、公演をする。よかったら、切符をキープしておくよ」 「観《み》たい気もするが……」と私はためらった。「どさ回りの連中じゃないかね」 「はっきりいえば、そうだ」     d  修復に修復を重ねたとはいえ、所《しよ》詮《せん》は、板とベニヤの建物である。表通りから陽光が消えると、内部の温度は急速に低下する。スピーカーの音は間隔があくようになり、となりのフィリピン料理屋のざわめきが大きくなる。私は冬物のカーディガンを着て、足元から這《は》い上ってくるであろう寒さに備えた。  噂《うわさ》をすれば影、という諺《ことわざ》が、英語にあるかどうか知らないが、私たちが噂をしていたコニグズバーグ少佐の小《こ》柄《がら》で頼りない姿が、店先に現れた。  少佐の日本語のうまさには定評がある。アクセントは、多少、妙なところがあるが、それでも、二十代の日本人にくらべれば、きれいな日本語だ。しかも、彼は漢字を読める。いぜん、私は、〈静《せい》謐《ひつ》〉を、セイオンと読むのか、セイヒツと読むのか、と問われて、感心したことがあった。 「駅前のビルのビデオ・スクリーンに、八十歳の誕生日を祝うボブ・ホープが映写されていました」  と彼は思いつめたように言った。 「私は彼をアメリカの誇り、二十世紀が生んだ奇《き》蹟《せき》の一つだと考えています」 「少佐がボブ・ホープをそれほど評価しているとは意外でした。彼は共和党支持者で、時代錯誤的な芸人の象徴のように思えますが……」 「あなたが言いたいことはわかります。彼は傲《ごう》慢《まん》に見えて、ときとして、聴衆を白けさせることがあります」  私は頷《うなず》いた。 「しかし、それは成功者の悪い一面に過ぎません。彼の発音は明《めい》晰《せき》であり……」  話が長びきそうなので、私は、お茶を飲んでいかないか、と、すすめた。少佐は、行かなければならぬところがあるから、と固辞して、喋《しやべ》りつづけた。 「なによりも、ジョークのタイミングがすばらしい。周囲の状況、自分の置かれた立場を冷やかすスタイルは、彼以後のあらゆるコメディアンを超えています。コメディアンにおいて、もっとも悪いことは、タイミングをあやまることです」  そう言ってから、彼は、ボブ・ホープがジョークをとばしたあとの、片手で腹の辺りを押えて、聴衆の反応を見定める顔つきを真《ま》似《ね》てみせた。 「ビデオ・スクリーンに、スポット広告を流すように命じたのは私です。日本の大衆にも、ボブ・ホープの偉大さを、もっと知らせなければなりません」  コニグズバーグ少佐を私に紹介した山根は、あの男が挫《ざ》折《せつ》したコメディアンであることを忘れてはならない、と、つけ加えた。言語不《ふ》明《めい》瞭《りよう》だからコメディアンになれなかったのさ。せっかく、ユダヤ人に生れついたのに、コメディアンにならないなんて、勿《もつ》体《たい》ない話じゃないか。 「ヴェトナムのジャングルの中でも、私は、古いボブ・ホープ・ショウの再放送を観ていました。いつか、彼が前線慰問にくると信じていたのです」 「彼はきましたか?」 「私が彼に初めて会えたのは一昨年でした。羽田空港に出迎えたのです。彼はゴルフのクラブを一本、持ってきただけです。その身軽さは彼のイメージそのものでした」 「白髪の鬘《かつら》をかぶっていましたか」  からかうように私は言った。 「そんなところまで眼が行きませんね」と彼は真《ま》面《じ》目《め》に応じた。「彼はひたすら輝いていて、眼をあけていられないほどでした」 「実を申せば……」と、私は、にわかに迎合的な口調になる。「私も、ボブ・ホープのファンなのです。来年の春には、ボブ・ホープのお雛《ひな》様《さま》を売り出そうかと思っています」  少佐は初めて、かすかな笑いを浮かべた。 「それが実現すれば、司令部だけで、千ぐらいは買いとれるでしょう」 「努力してみます」 「私は道をたずねるために寄ったのでした」  と、彼は片《かた》掌《て》を胸の脇《わき》まであげた。 「スエヒロという劇場を知っていますか? そんな劇場はない、と言われました。三十分ほど、探したのですが、結局、ステーキハウスに辿たどりつきました」 「わかります」  たぶん、新宿末広亭のことだろう、と察した。 「なにか、イヴェントでもあるのですか」 「必ずしも信用できる情報ではないのですが、その劇場に出ている芸人の中に、アメリカ軍を批判する者がいると教えられました。——軍に対する不満、苦情に、いちいち気を立てているわけではありません。しかし、そうとう過激な批判をしているというので、私の立場上、放《ほう》っておくわけにはいかないのです」  私も、そういう芸人の噂をきいたことがあった。うだつの上らない落語家が自《や》棄《け》になって、罵《ば》言《げん》を吐いているらしい。 「わかりました。でも、少佐が入っていけば、彼は、そのサタイアをやらないと思いますよ」 「私もそう思います」  彼は私を見つめた。 「私は劇場の近くのコーヒーハウスにいます。盗聴マイクを持った日本人が中に入って行くのがベストでしょう」  私に、やれ、と命令しているのだった。しかし、私は、店をあけるわけにはいかないし、手伝う気もない。 「となりの店の従業員にたのみます。忙しい時間ですから、主人にも謝礼を払ってください」 「あなたは、いつも、協力的ですね」  彼は弱々しい微笑を浮べて、売春婦のいるバーに視線を向けた。     e  スピーカーからの騒音は七時にやんだ。ヘリコプターが最後に飛び立つのは、八時前後である。  それでも、街が静かになるわけではない。帝都座という映画館のあとに建てられたPXは、夜遅くまで賑《にぎ》わっているし、都電車庫のあとに作られたアメリカ人専用の映画館(そこでは、新作映画は本《ステ》土《ーツ》と同時封切であり、劇場の軒にアルファベットをならべただけのそっけない題名標示を見てはいつも羨《うらや》ましい思いをさせられるのだが、私が店を閉めて帰るころ、まだ最終回が終っていないのに、従業員がアルファベットを置きかえていることがあって、翌日から上映されるそれが、日本人が永久に観《み》られないであろうと推定されるたぐいの作品名の場合、羨ましさは絶望にかわるのだ)は深夜まで興行をつづけている。アメリカ兵とその家族が出入りしている一画は、不夜城という古風な表現が似つかわしかった。  通り一つへだてた、私のいる辺りも、人通りが多い。PXのパーキング・ビルが少し離れたところにあるからだ。家族づれの将校が路地に入ってきて、私の店で買物をすることもある。酔った兵隊が私の前を過ぎてゆき、バーの女を連れて、外へ出てゆく。  九時をまわると、さすがに人足は少くなる。私は奥に入り、テレビのスイッチを入れた。ニュースが終り、〈ビッグ・イフ〉シリーズが始まっていた。  〈もしアメリカが日本から出ていったら〉  いかにも直訳風のタイトルだった。敗戦直後に、公共放送のラジオ電波に乗った「真相はこうだ」や「真相箱」の直訳ぶりに似ている。おそらく、アレン・スチュアート・コニグズバーグ少佐あたりのアイデアであろう。  アメリカ兵たちが続々と軍用機に乗り、飛び立ってゆく映像がつづいた。ヴェトナム戦争当時のフィルムを流用したとおぼしい。  どこかの国の兵士たちが日本に侵入してくる。どこの国かをあいまいにするために、兵士たちの腰から下しか写らないのだが、ソ連兵には見えなかった。兵士たちの言葉も、どこのものとも知れぬものになっていて、虐《ぎやく》殺《さつ》される男や暴行される女たちの叫びのみが日本語だった。ごく自然に、私は南《ナン》京《キン》での大虐殺を想起していた。  プロパガンダを目的とする番組にしては、笑わせる部分があった。  侵略者によって、野球が禁止され、キャッチボールをしているだけで検挙される光景はギャグに近かった。野球場はすべて爆破され、農場になるか、労働者の住宅になる光景が、ミニチュアで示された。  アメリカのあらゆる音楽は禁じられ、隠れて聴いている人々は手錠をかけられた。彼らは裸にされ、プレスリーからビリー・ジョエルまでの似顔を踏まされる。踏まぬ者は、その場で射殺されることが、スローモーションによる誇張した動きで示された。  アメリカ資本の映画の公開も、すべて、禁止された。フィルムはすべて焼却され、個人が所蔵するビデオテープ類は没収された。侵略軍の兵士たちはビデオテープの扱い方を知らず、ようやく覚えたときには、ポルノのテープをまわして、奇声をあげるのだった。  また、彼らはアメリカ映画の逆利用も考えるのだった。E・Tのまわりに医師たちが集まっているショットに、棺の中のE・Tの姿をつないで、〈アメリカ人は宇宙人さえこのように残酷にあつかう〉というナレーションを入れるのだ。(ナレーションは東洋風な無国籍語であり、スーパーの日本語が笑いと恐怖を誘う仕組みになっていた。)  番組が終り、〈ビッグ・イフ〉のテーマとともにクレジットが流れるあいだ、私は呆《ぼう》然《ぜん》としていた。番組の意図が、冗談か本気か、つかめなかったのだ。本気と受けとるには、冗談の度合いが強過ぎた。私の眼には、冗談のどぎついのとしか映らなかった。  しかし、大部分の日本人は、これを、シリアスに受けとめてしまうにちがいなかった。一度だけならまだしも、公共放送で、こうしたものを再三放送されれば、初めは笑っていた連中も、しだいに本気で信じ始めるだろう。げんに、三十七年前の夏、いかに少年だったとはいえ、私は、日本の男どもがすべて睾《こう》丸《がん》をえぐりとられ、あるいは虐殺され、女たちはすべて犯されるという宣伝を信じきって、怯《おび》えていたではないか。  クレジットには、たしかに、コニグズバーグ少佐の名前があった。挫折したコメディアンとしては、おそらく、〈ビッグ・イフ〉シリーズという枠《わく》を利用して、醜悪なプロパガンダのパロディを試みたのであろう。しかし、推理小説のパロディが、結局、推理小説になってしまうように、醜悪なプロパガンダのパロディが、醜悪なプロパガンダそのものと化してしまうこともあるのだ。  画面には星条旗がひるがえり、アメリカの国歌が流れていた。オイルショックのため、テレビは十時で終了するのである。  私はテレビのスイッチを切った。星条旗は、一瞬にして消えた。  いつもならば、帰り仕度をして、店のシャッターをおろすときだった。しかし、白い風呂敷包みを渡す相手はまだ姿を現さない。  私は湯を沸かし始めた。客には出さない、私専用の玉露を飲もうと思ったのだ。この程度の贅《ぜい》沢《たく》は、私の歳《とし》になれば、許されるはずである。  店の前の路地で、酔ったアメリカ兵が、やきゅうにつれてってー、と、奇妙な日本語で歌い始めるのがきこえてきた。 翻訳・神話時代 敗戦直後には幾つかの翻訳推理小説誌があった。 たとえば「ウインドミル」——昭和二十二年十一月から二十三年にかけて数冊出て廃刊になった。それでも、キング・フィーチャーズ・シンジケートと特約して、ラニヨン、ハメット、ウールリッチらの短《たん》篇《ぺん》をのせた。訳者はいずれも、無名の、はっきりいえば、素《しろ》人《うと》であった。「ウインドミル」のほかに、「マスコット」、「旬刊ニュース」特別号、などがあったことを記憶する読者は、もはや、少数であろう。 これらの雑誌にのった翻訳の断片を紹介してみたい。結果として、誤解・誤訳アンソロジーのようになったのは、小生の意図するところではない。なにしろ、アメリカの商品の固有名詞など、まったくわからない時代だったのだから致し方ない。意味不明のおそれのある部分には、いちおう、注を付し、引用文中の旧カナは、すべて新カナに直した。  暗《くら》闇《やみ》のなかで呼び鈴が鳴った。三度鳴ったとき、ベッドのスプリングがきしんで、男の声がした。「ハロー……おれだ……死んでるって? すぐ行くぜ。十五分で……」(注・電話のベルを呼び鈴と訳したために、やや、混乱あり。)  スイッチがパチッと鳴って、天井の真ん中から三本の金メッキのチェーンで吊《つ》られた電灯の光が、部屋じゅうに溢《あふ》れた。青と白の格《こう》子《し》縞《じま》の寝間着をひっかけたサム・スペイドは、ベッドの縁《ふち》にいた。しかめっ面《つら》で電話機を睨《にら》み、ブラウン印のタバコ紙の束とブル・ダラムの袋を手にとった。あけ放った窓から吹き込んで来る、冷たい湿った空気が、一分間六回の割で、アルカトラズ(豪華客船の名)のにぶい唸《うな》り声を運んできた。テーブルの上に伏せてある、ジョン・ウェイン《デ  ユ  ー  ク》著の『アメリカの極悪犯罪』の上にのっている目ざまし時計は、二時五分をさしていた。  酔っぱらい助平探《たん》偵《てい》のスペイドは紙タバコを巻いた。 以上は、『マルタの鷹《たか》』の発端の部分である。ちなみに、当時の〈不道徳酔っぱらい助平探偵〉とは、なんの悪意もなしに、即《そく》、〈ハードボイルド〉のことであった。当時、『マルタの鷹』は、全体を五十枚に縮めたもの(いま、引用したのが、それである)と、百二十枚に縮めたものと、二種類あり、後者の方が、より完訳に近かったが、こちらは久保田万太郎の弟子にあたる人が訳したために、どうも気分が違っていたように思う。その一部を引用してみよう。  ……ジョエル・カイロは痛そうに歯の間からもらした。 「あたしだって、撃とうと思えば……旦《だん》那《な》を撃てたんでさあ」 「やってみるだけはよ……」  と、スペイドはいった。 「けど、あたしァ、あえて、やらなかった」 「知ってるよ」 「じゃァ、なぜ、武器を取り上げられたあたしを、ご打《ちよう》擲《ちやく》なさったんで?」 「すまねえ、すまねえ」とスペイドはいって、にやり、狼《おおかみ》めいた笑いをみせ、「けど、おめえ、考えてもみねえ。五千ドル出すと言っておいて、そいつが、とんだ与《でた》太《らめ》だと分ったときの、おいらの気持をよ……」 「ふざけちゃァいけない。あの件《はなし》は与《でた》太《らめ》じゃござんせん。正真正銘、首を賭《か》けたって……」 「なに?」 「彫刻が戻《もど》れば、五千ドルお払いする用意があるってこってす。……旦那、あれをお持ちなんでしょう?」  結《けつ》句《く》、話はそこに落ちた。 「お角《かど》違《ちげ》えも甚《はなはだ》しいぜ」 「でも、ここにないとおっしゃるンなら」——カイロは鄭《てい》重《ちよう》だが疑いぶかく、「あたしの探索を妨害するために、なんだって、あんな手荒な真《ま》似《ね》をなさったんで?」 「するてえと、なにかえ? おいらは、ここに、ちんとすわったまま、見も知らねえ人間が乗り込んできて、凶器をつきつけられるのを、待たなきゃいけねえのか?」  といって、スペイドは机の上のカイロの所持品を指さした。 「おめえは、おいらの長屋まで探り出したてえじゃねえか。行ったのか、おい?」 「行かせていただきましたよ、スペイドの旦那……」 「……あの彫刻の持主てえのは、だれだえ?」  カイロはかぶりをふって、微笑した。 「そいつばかりは……ご勘弁を……」 「へえ。そういうもんかね」と、スペイドは前にのり出して、「おいら、おめえの首根っこをつかんでるんだぜ。おめえさんは、ゆんべの殺しについて、お上の気にいるような真似をやり放題ときた。こうなったら、おれと組むか、組まねえか、二つに一つよ」 「恐れ入《いり》谷《や》の……」  と、カイロは首を縮めて、考え深げにいった。 「あたしの誠《まご》意《ころ》の保証《あかし》——手付けの金では如何《いかが》なもので?」 「悪かないねえ……」 もう少し、あとの部分を引用してみよう。極端な抄訳であることを、あらかじめ、おことわりしておく。  スペイドは女に向って、ひょいと頭を下げて、 「オショーネシー嬢、ご紹介しますぜ」  はっきりいった。 「こちら、ダンディー警部補に、ポールハウス部長刑事」  くるッと、ダンディーに向って頭を下げて、「こちらは、オショーネシー嬢——おいらの助っ人で……」  ジョエル・カイロは、むっとしていった。 「そんなこたァない。その尼《あま》は……」  周《は》囲《た》を圧する大声でスペイドはさえぎった。 「ついせんだって、いや、おとついから来てもらってるんだぜ。こっちがジョエル・カイロの兄ィ——サースビーの朋《とも》輩《だち》でして、まあ、知り合いでさ。もっとも、短《たん》筒《づつ》を持ったりした物騒な御《お》仁《ひと》で……」  カイロの顔色は落ちつかなくなった。ダンディーはカイロの顔を見て、藪《やぶ》から棒の質問をした。 「どうじゃ。いまの話に異論はないか?」 「あたしァ、何といったらいいやら」 「真実を吐いてしまえ」と、ダンディーが怒鳴った。 「真実?」  カイロの眼《め》は、警部補の眼から逃れようとして、そわそわした。 「信じて……信じて頂けるものなら……」 「御《ご》託《たく》を並べるんじゃない。此《こ》の二人が、おまえに暴力をふるったことを申し立てろ。そうすれば、お上はおまえを信用して、此の二人をひっ括《くく》ってしまう」 「うし、うし、カイロ」と、スペイドが嗾《けしか》けた。「ダンディーの旦那を喜ばせてあげなよ。おめえが告訴するてえンなら、こちとらも、おめえを告訴するぜ。旦那方としては、おれっち全部をほうり込めるてえ寸法だ」 「さて、役所へ行こうか」  と、ダンディーは、その気になった。 「ちょい待《ま》ち草《ぐさ》……」  スペイドはダンディーを嘲《ちよう》弄《ろう》するように見《み》下《おろ》して、 「引っ張れるものなら、引っ張ってみねえ。……その代り、桑 港《サンフランシスコ》じゅうの新聞が、おたくを嗤《わら》いものにするぜ。おれと女とカイロは口《くち》裏《うら》を合わせ、おたくを担《かつ》いだのさ。そいつを真《ま》に受けちゃ、洒落《しやれ》にならねえぜ」 「戯《じよう》談《だん》で済むと思うか」  ダンディーは、かっとなったが、スペイド相手では旗色悪しとみて、くるりと背を向け、カイロの肩をつかんだ。 「おまえは逃がさんぞ。大声をあげて助けを求めたんだからな。銃器不法所持でパクることも出来る」 「ダンディーの旦那、その短筒も洒落の一つで、実は、おいらのものでさ」  スペイドは笑った。 「あいにくと、三十二連発(注・三十二口径の誤訳)でしてね。ヘッヘ、そうでなかったら、旦那のこった、サースビーやマイルズを撃ったピストルと、おっしゃるでしょうがね」 この訳者の調子が、もっとも、ぴったりしているのは、ボガートとメリー・アスターが映画で演じて有名になったラストシーンであろう。  スペイドは優しくいった。 「おめえは天使だぜ。運に見離されなけりゃ、二十年ぐらいで、サン・ケンチンから出てこられようさ。そうしたら、おいらのとこへ、おいで」 「まさか……」 「おいらは、おめえを、司直の手に委《ゆだ》ねるつもりだぜ」  オショーネシー嬢はスペイドにほほえみかけた。 「いやだわ、サム。……あたし……あたしって、うっかり者だから、すぐ本気にしてしまうじゃないの。……よくってよ。たんと戯《じよう》談《だん》をお言いなさい……」 「おあいにく様。おめえにゃ、獄へ行ってもらわにゃなるまい。それだけの別《べつ》嬪《ぴん》さんなら、寛大なご処置がとられて、娑《しや》婆《ば》に戻れるかも知れねえしな……」 「でも……でも、サム……そんなこと、できないはずだわ。あたしたち、わりない仲になっているってのに……」 「フム、できないはず、か」 「じゃ、あたしを玩《おも》具《ちや》にしてたのね。……そんな……そんな酷《こく》な仕打ちってあるかしら。……まさか……でも——」 「…………」 「あたしが、心《しん》底《そこ》、惚《ほ》れ抜いていたことを、内《ひそ》心《かに》、知ってらしたはず。——それも知らないというのなら、嘘《うそ》つきよ……」 「知っていたかもしれねえ。——しかしな。三人の男を次々に裏切ったおめえを信用しろてえのは、無理さ。おいら、遠慮さしてもらうぜ」 「助けてくれなくてもいいわ」と彼女は囁《ささや》いた。「そのかわり……あたしを……あたしを……」 「どうしろてえんだ?」 「このまま、逃《のが》してください」 「さ、それは……」 「あたしの顔を見て。……それから、答えてちょうだい」 「…………」 「ねえ、おまえさん……」 「ヘッ、おめえのために、莫《ば》迦《か》になりたかァねェやい」 この時代には、〈翻案〉も目立った。困難な翻訳権をとることなしに海外の作品を紹介するためには、これしか、手がなかったのである。つまり——そっくり、そのまま、日本の話にしてしまうのだ。 J・M・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の最初の訳は、昭和二十八年に、ようやく世に出たのであるが、実は、昭和二十二、三年に抄訳——いや、翻案があった。どのような翻案かは、実物をごらんいただきたい。文体は、意外に、原作の乾いたタッチを伝えているように思う。  丁度昼に、復員列車を降りた。線路際《ぎわ》に落ちていた煙《しけ》草《もく》をひろい、食い物を探して歩き出した。 「二本木」という外食券食堂にぶつかった。闇《やみ》市《いち》の外れにある、安っぽい食堂だ。店では、雑炊しか出さないが、裏にまわれば、トンカツ、親子丼《どんぶり》から酒まである、といったたぐいだ。おれは店に入った。脂《あぶら》ぎった親《おや》父《じ》が顔を出したので、外食券を無くしたんだが、と言った。その代り、左手首のウォルサムを、ちらと見せた。親父は黙って、雑炊を出した。英字新聞のきれっぱしが丼にへばりついていた。 「食うまえに言っておく。金もねえんだ。腕時計を渡そうか」 「まあ、いいって。食えや」  親父はどうでもよさそうだった。実は、肚《はら》に一《いち》物《もつ》あったのだ。 「仕事はあるのか?」 「復員してきたばかりだ。これから探す」 「幾つだね?」 「二十四だ」 「若いな。……おれの商売に若い男が要るんだがね」 「危険な仕事か?」 「皆がやってることだ。米の運搬だよ」  闇屋か。おれはひろった煙草に火をつけた。こいつは闇屋の親分らしい。 「考えさせてくれ」  女を見たのはその時だ。奥の調理所にいたのだが、おれの丼を片づけに出てきたのだ。もんぺの下の脚の形は想像するしかないが、とびきりの美人というほどではなかった。おれを無視して、皿《さら》小《こ》鉢《ばち》を片づけている。 「わしの女《によ》房《うぼう》だ」 「いやだわ、パパ」(注・原作のギリシャ人ニック・パパダキスがパパになっているのが、なんとなく、おかしい)  女はおれを見ようともしなかった。  三時頃《ごろ》、おれは調理所へ入った。案の定、米軍の青スタンプ入りの闇肉やジョニ赤が山のようにあった。 「これを床《ゆか》下《した》に隠すのよ」  女は言った。 「まだ、正式に傭《やと》われちゃいねえんだ。それに、名前ぐらい名乗るのが礼儀じゃねえか」 「千《ち》歳《とせ》よ。呼びたかったら、そう呼んで」 「千歳か。わかった。おれのことなら、三郎とでも呼んでくれ」  床下に肉を落すとき、女はおれに寄りそう形になった。白《おし》粉《ろい》の香りがした。おれは囁《ささや》くように言ってやった。 「なにを好き好んで、あんな爺《じじ》いと一緒に住んでるんだ」 「あんたに関係ないでしょ」 「おれは気になるね」  それ以上は言わなかった。おれの狙《ねら》いに狂いはない。痛いところを突いてやったのだ。女が欲しいのは、爺いではなく、銀シャリ(注・白米のこと。いや、いまや、白米にも注が要るのか)と肉だ。そのために、肉体を提供したってわけだ。しかし、これから先は、女とおれの問題だ。  夕食のあと、親父はバクダン(注・強い酒の一種)を飲んで、「東京の花売り娘」を歌い出した。歌うだけではなく、岡晴夫独特の鼻にかかる声を張り上げた。おれは吐き気を催した。  女はおれを外に連れ出した。 「いつも、ああなのか」 「ええ」 「もう、いい。放《ほ》っといてくれ」  女は中に入り、おれは胃の中のものを地面にぶちまけた。芋茎《ずいき》とサツマイモとバクダンが混っていた。歌声は、田端義夫の「かえり船」にかわった。  翌朝、酔客が看板をこわしたので、親父は修理屋を呼びに出かけた。「二本木」という看板が、よほど、大事とみえる。  親父が出かけると、おれは店の戸に鍵《かぎ》をかけ、カウンターの汚れた皿をつかんで、調理所に入った。 「あら、親切ね」  と女は笑った。 「気分はどう?」 「まあね」 「よくあることよ、復員したての人には」 「あの歌には参ったぜ」 「なにかしら、あれ?」  だれかが店の戸を叩《たた》いている。 「戸がしまってるの?」 「しめちまったらしいな」  女はおれを見た。顔が蒼《あお》ざめている。 「帰ったらしいわ。あけとかなきゃ」  店へ行こうとする女をおれは抱きとめた。 「いいじゃねえか、放っとけよ」 「いけないわ」  おれは女を抱きしめて、ぐみの実に似た色の唇《くちびる》に触れた。 「××て、あたしを××て! 思いきり、××まで××て!」 ケインのこの傑作は、ジョン・ガーフィールド主演の映画(本邦未輸入に終った)が日本でも評判になっていたせいか、もう一つ、翻案がある。これが、また、例の、久保田万太郎の弟子にあたる人の翻訳なのである。題名は『三河屋はいつも二度鈴を鳴らす』。内容は、落語の師匠、内儀、出入りの三河屋の若い者の三角関係に作り変えてあり、『マルタの鷹』の訳のときよりは、久保田万太郎色が濃くなっている。  お上さんは寝《ね》間《ま》にいた。丸窓の傍《そば》に坐《すわ》って、外の稽《けい》古《こ》三《じや》味《み》線《せん》の音《ね》色《いろ》に耳を傾けている。 「いかがで?……」  お上さんは答えようとしない。あたしは部屋から退散しようとした。 「出てお行きとは言わなかったよ」  あたしは腰を落とした。お上さんは疳《かん》がたかぶっているようだ。 「私を裏切ったね、源さん」 「いえ、その……」  ははッとあとに退《さが》ったあたしは、ピタリと畳に手を突いた。 「誤解でございます。……裏切りとおっしゃられては……あまりにも……情《なさけ》のうございます」 「お巫戯《ふざけ》でないよ」 「お疑いはごもっともでございます。きれいに、はめられちまったので。……決して、決して、裏切りなんて」 「およし。おまえの眼《め》に書いてあったよ」 「…………」 「返事をしたら、どうかね」 「……面目ございません。お上さんのおっしゃる通りで。あっしァ、ブルっちまって……それだけでございます。我《われ》ながら、何が何だか、判《わか》ンなくなって……」 「そう思ってたよ」 「ただいままでの無礼の段々……」  あたしはつづけた。……どこまでも芝居がかりの、とんだ寺子屋の松王である。 「まあ、ね。……私だって……私だって、おまえを裏切っちまったんだからね。こうなりゃ、五《ご》分《ぶ》と五《ご》分《ぶ》さね」 「とんでもない。お上さんだって、罠《わな》にはめられたんでしょう」 「自分からやったのさ。あのときは、芯《しん》から、おまえが憎かった」 「……憎い?」 「そうとも。カーッと、しちまってさ」 「もう、やめましょう。あっしが、やりもしなかったことをお憎みになったので……もう、よろしいじゃありませんか」 「よかないよ。おまえが実際にやったことを憎んだんだもの……」 「あっしは、これッぽッちも、本気で憎みはしなかった……」 「もう、おまえを憎んじゃいないよ。憎たらしいのは弁護士と検事でね。あいつらのお陰で、私たちは引き裂かれたんだもの」 そして、終盤のクライマックス——。ハッピーエンドになるかと見えて……。 「話したかったことがあると言ったろ、源さん」 「へえ」  お上さんは、切《きれ》の長い、いい加減色っぽい目を、一《いつ》層《そう》トロリとさせて、 「赤ン坊が出来たんだよ」 「ええ?」 「以《ま》前《え》から気になってたンだけど、おッ母さんが死んだあと、すぐに確かめたのさ」 「すげえ……いや、ありがたいこッてす。あっし風《ふ》情《ぜい》のものの」 「景気づけに、逗《ず》子《し》に泳ぎにゆこうよ」 「……それよりも……明日、こっそり祝言をいたしましょう」 「それもいいけどサ……そのまえに、泳ごうじゃないかえ」 「よござんす」  三河屋の旦《だん》那《な》に世帯を持つ許可を貰《もら》ったあと、院線に乗って逗子へ向った。  海は凪《な》いでいた。お上さんが大層美しかったので、砂の城でも作りたかったのに、あのひとは、すぐに海に入って行きなすった。 「泳ぐわよ」  お上さんが先になり、あたしが後《あと》を追った。あたしが追いついたところで、お上さんは仰《あお》向《む》けになり、もったいなくも、あたしの手をつかんだ。あたしたちは眼を見交した。あたしが芯《しん》から惚《ほ》れ抜いていることが、あのひとにも判ったらしい。  お上さんは咳《せき》こんだ。 「発作だよ」 「大丈夫ですか」 「流産はイヤだよ。そんな話をきくじゃないかね」 「暴れちゃいけません。あっしが引っ張っていきます」 「だれかをお呼びよ」 「いえ、ここは、あっしが……」 「ああ、死にたくない」  逗子の町まで戻《もど》れば病院がある。あたしは海の家《いえ》の馬車を借りて、町に向った。ごみ屋の大きな馬車を追い抜こうとしたとき、お上さんが悲鳴をあげた。片方の車輪が道ばたの溝《みぞ》に落ちたのだ。石《いし》垣《がき》に激突し、眼の前が真暗になって、それっきり——。 最後にご紹介するのは、マイケル・レイモンドという作家の『ああら不思議やな』という短《たん》篇《ぺん》である。当時の習慣として、雑誌では、原題もなにもわからない。おそろしく漢字の多い訳——いまから三十五年まえにはふつうだったが——であるが、一人称を用いたお色気ハードボイルドが原作の味だろうと思われる。  乃《お》公《れ》は、着《き》馴《な》れぬ 猿 服 《モンキースーツ》を脱ぐと、灰《はい》皿《ざら》に置いた煙草《たばこ》を咥《くわ》えた。  宴席《パーテイー》なんて柄《がら》に合わぬ乃《お》公《れ》だ。汗が冷えたのか、嚔《くさめ》が立て続けに出る。乃《お》公《れ》は短い煙草を窓の外に投げてから、 宝 石 箱 《クリネクスボツクス》にしまってあった 薄 葉 紙 《テイツシユペーパー》をとり出して、洟《はな》を拭《ふ》いた。ブロードウェイの騒音が、はるか下の方から湧《わ》いてくるようだ。  寝室のドアが開いていた。ほんの数センチだが、この乃公様の勘は馬《ば》鹿《か》にならない。  乃公は、拳《けん》銃《じゆう》を四十五度にかまえ(注・四十五口径の拳銃の誤訳ならん)、ドアを左足で蹴《け》った。  なんと!! ——。  乃公の寝室には、乳当て《ブラジヤー》と下穿き《パンテイー》だけの金髪の美女が立っていたのである。 「これは、これは」  と、乃公は恭《うや》々《うや》しく言った。 「麗人の御入来」  ラナ・ターナーがセーターを脱いだ姿を見たがっている輩《やから》は、ジーンの姿を見たら、熱くなるにちがいない。然《しか》し、乃公は違っている。乃公はジーンの正体を熟知しているのだ。——ジーンが、悪党団《マフアイア》の一員で、乃公の親友の首を、トミーの銃(注・トミー・ガンの意か)で吹っ飛ばした事実を、充分に記憶しているのである。 「赤ちゃんよ《ハ イ ・ ベ イ ビ ー》」  と、乃公は歯を見せてやった。 「大西洋岸の街《アトランテイツク・シテイ》から、どうして、こんなに早くこられたのだ」 「分らないの?」  ジーンは息を吸い込んで、乳当て《ブラジヤー》をふくらませ、揺さぶった。 「T字鳥に乗ってきたのよ」(注・Tバードは、サンダーバードならん) 「T字鳥とは豪勢だな。それじゃ、先まわり出来たのも当然だ」  悪党団の一員であることを告白しているようなものだ、と乃公はほくそ笑んだ。 「煙草ある?」  乃公はラッキー・ストライクを一本、ふり出してやり、ホテルの名の入った本《ブツク》マッチを擦《す》った。ジーンは二重寝台《ダブルベツド》に艶《なま》めかしく腰かけたまま、深《ふか》々《ぶか》と吸い込み、吐き出した煙が窓からブロードウェイの上空へと流れてゆくのを見やった。 「乃公の寝室でお医者さんごっこは願い下げにしたいぜ」  乃公は、思わず、そう言った。  女が煙草を吸った瞬間、童女のような表情になったのが、乃公にショックをあたえたのだ。鳩《みぞ》尾《おち》に強烈なパンチをくらったように、乃公は息苦しくなった。 「何を考えているの?」 「きみのような美人が、どうして、こんな端《はし》たない真《ま》似《ね》をするのかね」  ジーンの深い泉のような色の眼が乃公を見詰めた。 「一《ちよ》寸《つと》でも、そう考えて貰えて嬉しいわ」  乃公は黙って、布《ぬの》椅《い》子《す》にもたれた。 「お金よ……」  彼女は唾《つば》でも吐き出すように答えた。 「それだけかね」  金という文字が、乃公の五《ご》臓《ぞう》六《ろつ》腑《ぷ》を駈《か》けめぐった。乃公を“薄汚れた私立探《たん》偵《てい》”にしたのも、金という悪《デイ》魔《モン》の仕業だった。 「それに、聖林《ハリウツド》……。中西部の田舎娘にとって、美人コンテストから聖林《ハリウツド》での銀《スク》幕《リー》試《ンテ》験《スト》ってコースが、どういう意味を持つか、お分り?」 「乃公の妹も聖林へ行ったから、分っている積りだ」 「妹さんはどうしたの?」 「聖林は聖林でも、近くの休日荘《ホリデイ・イン》という宿屋で働いているらしい」  乃公は話題を変えたかった。 「テストは三度あったの……」 「あとは聞かずとも分る」  おれは苦々しげに言った。 「お偉方が厭《いや》らしい言葉を囁《ささや》いたのだろう」 「私は駐車場《ドライヴ・イン》で働くことにしたの。そこに……」  救いの神、黒《くろ》装《しよう》束《ぞく》のサンタクロースの御入来だろう、と、乃公は呟《つぶや》いた。  ジーンの笑顔には、なにかしら奇妙な翳《かげ》があった。性の女神の仮面が落ちて、無邪気ではあるが、謎《なぞ》めいた微笑が現れている。 「きみは乃公を殺しにきた……」  乃公は急に立ち上り、くるみ熊《テ デ イ ベ ア》をどけて、枕《まくら》の下に手を入れた。予想通り、獅子っ鼻《スナブノーズ》が一つ、枕の下にかくされていた。乃公は弾丸を抜き取り、獅子っ鼻をテーブルの抽《ひき》斗《だし》におさめた。 「……気が変ったのよ……」  ジーンは乃公の眼を見詰めた。 「ねえ、私を救い出して! 私が陥っている罠から!」  乃公はジーンの顎《あご》に手をかけ、顔を上向かせた。瞳《ひとみ》は熟しきって、霞《かす》みがかかっている。赤い唇は乃公を求めて突き出され、全身が乃公を待ち受けている。豊満な肢《し》体《たい》がかすかに震えていた。  乃公は敗北者にはなりたくなかった。彼女が脱ぎ捨てた衣服を彼女の前に差出した。ひらきかけた彼女の唇が停止した。 「思いきり抱いて、私を……」  乃公は、ほんの一寸、抱きしめてから言ってやった。 「そんなに長く」(注・「あばよ《ソー・ロング》」の誤訳であろう) 到  達     一  若いころには、眼《め》が覚めると、殆《ほとん》ど同時に起きあがることができた。  六十代の初めに長い病気をして以来、眼が覚めてから少くとも三十分は床《とこ》の中にいる。  艶《つや》っぽい妄《もう》想《そう》が頭に浮ぶことはめったにない。それどころか、もう三十年近くもむかしの新宿駅前の風景だとか、伊勢丹の増築現場(だと思う、終戦直後に都電の定期売り場になっていたところだ)に連れ込まれて進駐軍に殴られたときの口《く》惜《や》しさだとか、同人雑誌時代の仲間に思わぬ苦杯をなめさせられた記憶とかが、脈絡もなく想《おも》い出されて、すぐに一時間程経《た》ってしまう。  口惜しさといっても、三十代、四十代のころのような生なものではなく、淡彩画に近い。口惜しさや苦さは付けたりであって、そのころの自分の姿を想い出すことが、たぶん、たのしいのであろう。そうでなければ、三十分、一時間、と、時を過すのがおかしい。  起きあがるのは苦痛である。身体《からだ》が硬くなり過ぎている。  枕《まくら》に片《かた》肘《ひじ》ついて、眼鏡を探す。十代の半ばから近眼なので、眼鏡がなくてはいられないのであるが、眠るときには眼鏡をケースに収めておく。だが、近眼が強度のために、眼覚めたとき、すぐには、眼鏡の在所《ありか》が判《わか》らぬのである。  ようやく、ケースを探りあて、眼鏡をかけてみると、どこか違う。掛け軸の文字がぼんやりしている。読書のための老眼鏡をかけてしまったのだ。  近眼鏡と老眼鏡を、ともに枕元に置くので、こうしたことがおこるのは二六時中だ。不便といえば不便だが、失明の危機を二度乗りこえたのだから致し方ない。それでも、老眼鏡をかけることによって、視界がややはっきりしたので、戦前の漢和大字典の上にのっている近眼鏡のケースを見つけることができた。  私は銘《ブラ》柄《ンド》にはまったく興味がない。嫁にいった娘がラコステがどうのこうのと言っていたのを、ステテコと間違えて、妻に笑われたほどである。だから、眼鏡の枠《わく》にもこだわらない。近眼の眼鏡のふちに関していえば、以前はローデンストックを用いていたが、最近、マルウィッツに代えた。ただ、メタルフレームは、もはや、時代遅れに感じられるので、近々、ラルフ・ローレンのポロにしようかと考えている。  ようやく起きあがってはみたものの、雨戸を繰るのが大儀である。起きるということは、とりもなおさず、来年から刊行される私の全集の校正にとりかかることだからだ。おのれの若書きにつき合うのは、辛《つら》いというより、苦痛である。  寝巻きのまま廊下に出て、曇空であるのを知った。私好みの天候である。根が暗いせいか、私は晴天を好まない。いまにも降り始めそうなこうした天候が、私の心にふさわしいのである。  階下に降りたものの、だれもいない。妻は近くのスーパーマーケットへでも出かけたのだろう。虫《むし》除《よ》けの網戸越しに庭を眺《なが》めると、郵便受けから郵便物がこぼれ落ちているのが見えた。  古《ふる》下《げ》駄《た》を突っかけて庭に出る。気温が低いせいか、虫の声に力がない。まだ九月半ばなのに、秋の終りのような鳴き方をしている。  こぼれ落ちていたのは不動産屋のダイレクトメイルだった。私には無縁のものである。いや、郵便受けに押し込んであった、紙《かみ》紐《ひも》で括《くく》った郵便物の大半が私に無縁のものであった。紙袋を見ただけで判った。一度だけ随筆を書いたためにずっと送られるようになった若い娘向きの週刊誌やら、探偵小説や空想科学小説の雑誌である。蛸《たこ》の化物のような怪物の絵を表紙にしたこの種の雑誌が、なぜ、私のような作家あてに送られてくるのか見当もつかない。  私に必要なものは葉書二通だけだった。  一通は目黒にある菩《ぼ》提《だい》寺《じ》からの彼《ひ》岸《がん》会《え》法要の通知である。すでに出かける心づもりがあるものの、このように鄭《てい》重《ちよう》な通知を檀《だん》家《か》の一軒一軒に送っているのかと思うと、その気持は、当節、格別なものに思われる。  もう一通は、私が卒業した中学の出身者で〈マスコミ〉に関係している人々が、一夜集ろうという呼びかけの往復葉書である。幹事の中には、懐《なつか》しい名前も、いくつかあったし、ひと月も先のことなら、考えてみてもよいと思った。——ただ、私は、〈マスコミ〉関係者ではない。文面を見つめているうちに、〈マスコミ〉なる語に、不純なものを感じたので、とっさに、葉書を引き裂いた。     二  私の住居のある辺りは、ふたむかしまえであれば、郊外と呼ばれたであろう。げんに、そのころ、家探しに歩いた私自身、ずいぶん草深いところだと感じた記憶がある。  草深い感じは、今も残っている。近くに大きな公園があるせいか、庭にくる鳥の数が多い。烏《からす》や堂《ど》鳩《ばと》は私にも判別できるが、その他の鳥は殆ど判らず、鳥類図鑑をひもといて調べるほどである。  十二年前に、私としては多額の借金を背負って現在の住居を求めたのは、文学のためと言ってよいであろう。列島改造計画などというものが始まるまえで、私程度の収入の作家でも、住宅ローンを用いれば、なんとか家が入手できた時代である。  ことの起りは、当時、渋谷に近い公団住宅に住んでいた私に、同年輩のある評論家(故人)があたえた忠告であった。 「きみのように身辺の些《さ》事《じ》を描くことを信念としている作家が、こんな殺風景な場所に住んでいてはいけない」  と、彼は言った。 「歩きまわる庭がなければいけない。草花を自分の手で植え、いじらなければならない。だいいち、この部屋では、四季の変化があまり感じられないだろう」 「そんなことはないさ」  私は笑ったが、彼の言葉に、一理も二理もあることは認めざるを得なかった。  公団住宅に住んでいるから季節感がない、などということはあり得ない。しかしながら、描く世界が狭《きよう》隘《あい》なものになるのは否《いな》めなかった。そのことは、私に対して好意的な若い批評家さえ夙《つと》に指摘しつづけていたのだった。 「猫《ねこ》のひたいほどの庭でも、広大な天地のイメージになることは、きみのほうがご存じのはずだ」  評論家は笑った。  今にして思えば、軽率な感なきにしも非《あら》ずなのだが、息子や娘が大きくなっていて、住いをなんとかしなければ、という焦《あせ》りもあった。しかし、なんと言おうと、主たる動機は、文学のため、であった。優れた私小説家は庭のある家に住んでいる、という評論家の指摘は、私にとって、頂門の一針だったのである。  ローン返済のために私は働き続けた。想い出したくない大きな病気があった。手術をしてから四年たつが、完治したかどうか、まだ判らない。しかし、ローンはあと八年残っており、完済するまで、私はどうしても生きていなければならないのである。婦人雑誌の雑文のたぐいも引き受けねばなるまい。  住宅ローンといった〈次元の低い〉ことを筆にするのは愚か者だという嘲《ちよう》笑《しよう》が私の耳に響いている。病気以前の私だったら、それを気にしただろう。  しかし、病気を経て、そうした懸《け》念《ねん》、気兼ねは私のなかから消えた。怖いのは病気だけであり、とりあえず、それが遠のいた以上、他《ほか》に怖いものはない。  病院のベッドで、私は家から運ばれてくる文芸雑誌に丹念に眼を通した。そして、一つの疑問を抱いたのである。そこには現代のあらゆる恐怖、悩み、苦しみが描かれていたが、ただひとつ、現代の日本の都市に住む者の最大の問題ともいうべき〈住宅事情に関する卑俗な悩み〉を発見することができなかったのである。(まったくなかったわけではない。また、私が丹念に眼を通したのは、わずか、数カ月ぶんの雑誌である。あるいは、それを主題にした長《ちよう》篇《へん》が書下し出版の形で発表されているかも知れないのだが。)  退院してから、私は、一部の批評家に〈ローン返済もの〉とからかわれたたぐいの連作を発表した。私は罵《ば》詈《り》嘲笑を恐れなかった。恐れていたら、あれらの作品はあり得なかったはずだ。  私は今でも疑問に思うときがある。  多くの作家が〈高《こう》尚《しよう》ではない悩み〉として切りすててしまっている部分は、本当に主題とする価値がないのであろうか、と。  ——氏は、卑俗なるものに固執する、と言いつつも、その〈卑俗なるもの〉がきわめて狭い範囲(はっきりいえば住宅問題だけ)に限られているのに気づいていない。最後の私小説家と呼ばれるゆえんだ……。  右の批評文は、拙作についての切り抜きを集めたスクラップブックから書きうつしたものである。  いくらなんでも(私の頭が古くても、だ)そんなことには、とっくに気づいている。しかし、私の小説作法は、大正時代の私小説に影響されたものであって、いまさら、方法を変えるわけにはいかない。もっとも、評者も、そこらは承知の上で発言しているのだろうが。     三  正《ひ》午《る》をまわっても、妻は戻《もど》らなかった。スーパーマーケットが混《こ》んでおるのか。  粗食を旨《むね》とする私は、冷蔵庫からキャビアを出し、薄く切って炙《あぶ》ったパンに乗せた。紅茶はホテルオークラのティーバッグを用いた。  全集第一巻の校正をしなければならない。老眼鏡を用いても、字引きのこまかい活字を見るのは苦痛である。拡大鏡は三つあるが、いずれも重たい。高齢化社会が云《うん》々《ぬん》されるわりには、こうした道具は便利にならぬ。  仕事にかかろうとすると、虫歯が痛くなった。常備薬でとりあえず押えたものの、次に腰《よう》痛《つう》がきた。  私は不《ふ》機《き》嫌《げん》になっていた。妻から電話が入り、ブラックベリーのジャムが欲しいか、と言う。それは何だ、ときくと、黒いちごだというので、黒いちごでも、赤いちごでもいい、と言ってやった。三十分ほどで帰る、と妻は念を押した。  電話を切って、手洗いに入ろうとすると、電話機が鳴り出した。  この電話機は感情を持っているようにみえる。それも、かなりの悪意である。私がしばしば電話機について愚痴をこぼすのを聴いているのかも知れない。とにかく、手洗いに入っているときや、シャワーを浴びたあとでヘアートリートメントをしているといった状態のときに限って鳴り出す。  私は受話器をとった。どこか鈍そうな男の声がきこえてきた。  ——……について、先生のお話をうかがいたいのですが……。  ——なに!  耳が少し遠くなっている私は大声をあげた。  ——なにについてだと?  ——住宅ローンですよ。  青年の声は思いなしかせせら笑うようである。  ——ご存じかと思いますが、私どもの週刊誌の読者はサラリーマンでして、住宅問題は欠かせない読物で……。  ——私には関係がないことだ。  決然として答えた。  ——関係がありますよ。  相手は絡《から》むように、  ——〈ローン返済もの〉で知られた先生が、その言い方はないでしょう。先生の連作は〈ローン返済文学〉という、日本文学に今までにないジャンルを開拓して、もはや古典の座を獲得したのですから。——先生は、読者に対して、住宅ローンのノウハウを明らかにする義務があります。  私は情なくなった。 〈ローン返済もの〉なる表現は、心ない批評家による揶《や》揄《ゆ》である。その揶揄がほんらい持っていた毒やら悪意がいつの間にか抜き取られて、〈ローン返済文学の古典〉という肩書きだけが残った。これは、およそ面《おも》白《しろ》くない肩書きである。かつて、私小説には、〈病気もの〉〈借金もの〉〈病妻もの〉といったレッテルがあって、貼《は》られた作家にとっては不快だったであろうが、〈ローン返済もの〉にくらべたら、数等響きが良い。  ——と申しますのは、一般のサラリーマンが銀行から借金をするのは、非常にむずかしいのです。  ——それは、おのおの、勝手に考えるべきことだ。作家が発言すべき筋合いのものではない。  ——わかります。まあ、そうなんです。  相手は世慣れた口調で受け流した。  ——しかしですね。読者の側から見ますと、先生の小説に書いてない部分が知りたいのです。こちらが知りたい情報は、ぼかしてあるといいますか……。  ——当然だろう。私は文学を書いたのだから。  ——わかります。仰《おつ》しゃる通りです。  ——少しもわかっていないじゃないか!  私は電話を切ろうとした。  ——あと一分、きいてください。  男は哀願するように言う。  ——先生のお話をうかがうのは諦《あきら》めます。失礼いたしました。で、改めてお願いなのですが、先生のお知り合いで、ローンの問題に詳しい方がいらっしゃいましたら、ご紹介ねがいたいのです。  ——私は知らん。関知せぬことだ。  ——その言い方はないでしょう。先生のお知り合いで、どなたか、いるはずです。それでなかったら、あんな小説、書けないと思うのです。「〈ローン返済文学の古典〉を書いた作家に知識を授けた人」が見つかれば、私どもの特集は、もう、でき上がったも同然ですからね。     四  受話器を置いたあと、私は茶の間にうずくまっていた。下腹部の力が抜けてしまったのだ。  たしかに私は〈ローン返済もの〉と他人が名づけた連作を書いた。しかし、からかう批評家にしても、それらの作品だけが私のすべてと考えていたのではないと思う。〈ローン返済もの〉という評語を造ったある批評家は——私自身、意味がつかめないでいるのだが——私に空想科学小説を書け、と言った。戦後、わずかなあいだではあるが、幻想的な短篇を書いたことがあり、そういう作品において私の資質が生かされていると言いたいらしいのだ。  ともあれ、私は私の道を歩いてきた。そして、先達の高い心境には及ばぬにせよ、私なりのある境地に到達し得たと固く信じている。少なくとも、私が想い描いている私自身のイメージは、そのようなものである。  私が衝撃を受けたのは、私について〈住宅ローンに詳しい人〉というイメージしか抱いていない者が存在していた事実である。週刊誌記者の言葉に、いつになく、かっとなって、言いかえすうちに、「だって、世間では、先生をそう思っていますよ」とさえ彼は言った。——むろん、一週刊誌記者の放言と笑い去ることは可能だが、私の性格では、そのように、きれいさっぱりとはいかないのだ。  電話が鳴った。私は仕方なく立ち上り、受話器を手にした。  ——ブラックベリーのジャムは売り切れました。  と、妻の声が言った。  ——まだ、スーパーマーケットにいたのか。  私の声には棘《とげ》があった。  ——あれから、ずっと電話してたのです。いつまで待ってもお話中で……。  ——わかった、わかった。  私は疲れていた。説明する気にもならなかった。  ——ジャムならなんでもいい。  私は受話器を置いた。  私の作品の中の〈私〉は、このようなとき、庭の草花を眺《なが》めて、心の傷を癒《いや》すことになっている。そうすることによって、作品の形が〈決まる〉のである。  縁側に出て、私は庭を眺めた。しかし、手入れが行き届いていないことのほかに感想はなかった。  私は草花の名を殆《ほとん》ど知らないのである。小説の中に書き入れるときは、妻にきくのだが、原稿用紙に書いたとたんに忘れてしまう。だから、妻が不在の現在、〈一見、羊《し》歯《だ》のような植物を私は見つめた〉とか、〈羊歯のように見えるが羊歯ではないかも知れないある植物を見つめた〉とか、〈羊歯のように見えて、よく見つめると、やはり羊歯だった植物を見つめた〉という具合にしかならない。  また電話が鳴った。私は暗い八畳をゆっくりと横切り、受話器をとりあげた。  ——国産のいちごジャムを買って外に出ようとしたら、輸入物のブラックベリーのジャムが入荷したのです。どうしましょう?  ——買ったらいいだろう。  私は苛《いら》々《いら》してきた。  ——めんどくさいから三つぐらい買ってしまえ。  ——荷物が重くなって……。  妻は吐息をした。  ——ペリエをまとめて買ったので、とても重いの。  ——一度、帰ってきて、出直したらいいだろう。  ——そうしてもいいのですが、ブラックベリーのジャムはまた売り切れてしまうかも知れません。たぶん、売り切れてしまうでしょう。  ——どうして、そう、ジャムにこだわるのだ。  この問いに対しては、納得できる答えが帰ってきた。  ——わたしが好きだからです。  ——とにかく、一度、帰ってきなさい。  ——そうしたいのです。  私がもっとも嫌《きら》う翻訳調の言葉だった。  ——どういう意味だ、それは?  思わず、私は気色ばんだ。  ——踏み切りのシャッターがなかなか上らないのです。上りの電車が通ったあとに、下りの急行がきます。そのあと、下りの電車が通ったと思うと、すぐに上りの急行がきます。いつまでたっても、そのくりかえしで。  ——毎度のことじゃないか。  私は嘆息した。電話線の向うでは、たしかに、ちんちん、という音が続いている。     五  書斎のソファーで転《うた》た寝《ね》をした。あまりにも涼しいので、タオルケットを掛けて寝たのが丁度よかったらしく、眼《め》覚《ざ》めたときは周囲が暗くなり、デジタル時計の数字だけが青白く光っていた。  ソファーは英国製であるが、戦前のもので、二度ほど修理している。発《スプ》条《リング》の具合が身体《からだ》に馴《な》染《じ》んだせいか、このソファーに横になり、クッションに頭をのせると、深い眠りの穴に吸い込まれてしまう。こればかりは、敷布団でもベッドでも味わえぬ悦楽である。  茶の間に出て行くと、妻はまだ戻っていないらしく、深閑としている。夕刊が取ってないから、まだ戻っていないとみるべきだろう。暗くなると自動的にともる庭園灯が白色の光を発している。虫の声がやや大きくなったように感じられた。  今年の夏は冷夏との予報だった。温《うん》気《き》と湿気にきわめて弱い私にとっては朗報であったが、現実は逆であり、異常な暑さがつづいた。夏が終らないのではないかとさえ思った。——九月初めに大きな台風が過ぎると、一転して気温が平年より低くなり、明け方には寒ささえ覚えた。  医師の話では、私の肉体は〈赤ん坊と同じ過敏さ〉を有しているのだそうだ。外界の急激な変化についていけない、というわけである。  そうした肉体だから、クーラーを使用しても、気温そのものが低くなっても、腸をやられてしまう。鼻孔と喉《のど》をつなげている部分(正確になんと呼ぶべきか知らぬのだが)が腫《は》れ上がる。起きているのが苦痛になってくる。……かつては、サルファ剤を用いて、腫れをひかせたものであった。それが——百円硬貨ができた年か、その翌年のフラフープが流《は》行《や》った年辺りであったと思うが——私の肉体に異変をおこさせた。一《いち》物《もつ》の粘膜が爛《ただ》れてしまい、肉体がサルファ剤アレルギーをおこしたのである。  そんなこんなで、私の肉体を正常に保つためには、コンピュータで一定の温度に管理された部屋の中に閉じこもっているしか道はなさそうだ。とはいえ、私の資力でそのような部屋を作れるわけがない。たった一度、私は箱根にある某ホテルで、そうした〈完《かん》璧《ぺき》にコントロールされた部屋〉に宿泊したことがある。それはきわめて快適な滞在であったが、欠点がないわけでもなかった。部屋の中にいる時はよいのだが、一歩廊下に出ると、当然のことながらかなりの(あるいは若干の)温度差があるので、たちまちにして、アレルギー性のクシャミが呼び起されるのである。老いたる肉体が、過敏さにおいてのみ、赤ん坊のそれと同質とは、グロテスクであり、因果でもある。しかし、私の過敏さは肉体のみだろうか。  夕刊をとるために庭に出た。飛び石の上に親子らしい二匹の蛙《かえる》がいて、動こうとしない。私は草を踏んで郵便受けに近づいた。  縁側に戻り、新聞をひろげてみた。一面にはこれといった事件が見られない。イランの要人がテロリストに暗殺された事件が小さく出ている。頁《ページ》をめくっても、マンションの広告ばかりで、見開き二頁にわたってFM放送とやらの週間番組表が出ている。私には関係のないものだ。  空腹を覚えた。  冷蔵庫の扉《とびら》をあけたが、食料品は殆どない。ないから妻は買い出しに出かけたわけだが、それにしても極端である。バターとかチーズはあるのだが、パンがもうない。といって、自分で飯を炊《た》くのは億《おつ》劫《くう》である。  そば屋か鮨《すし》屋《や》に電話をして、なにかとりよせようか、と思った。とりよせるとしたら、一人分である。たぶん配達はしてくれるだろうが、出前がくるまえに妻が帰ってきたら気を悪くするのではないか。瓶《びん》詰《づ》めのペリエを何本か抱えたら、そうとう重いはずである。そういう思いをして帰ってきたところに、そばが配達されるのは、どうもうまくないと思う。  考えた挙句、散歩に出ることにした。散歩をするぶんには、べつに不自然ではない。そして、その途中で、そば屋に立ち寄ったとしても、ごく自然なことではないか。  私は着物を着て、帯をしめた。鏡を覗《のぞ》いてみると、〈私が考えている私のイメージ〉に近い姿だった。白《しら》髪《が》が増えているから、髪をもっと短くした方がいいかも知れない。眼鏡は早々にかえる必要があろう。メタルフレームは軽薄に見えていかぬ。だれが見ても、〈きびしさ〉〈誠実さ〉〈ほどほどの屈折〉〈にじみ出る人《ひと》柄《がら》〉、はては〈清《せい》冽《れつ》さ〉という言葉まで、いやでも想《おも》い出すような、そうした姿で私はありたいのだ。     六  妻と顔を合せるおそれのない道を私は選んだ。  はじめは、ターミナル駅の近くにある本屋を覗いてみるつもりだったが、俗悪な文庫本が積みあげてある光景を想像すると、そこで自分が不快感を覚えるのではないか、と思った。低級なものに不快さを感じるのはあたりまえとはいえ、そのような自分をそのまま認めるのは快くなかった。  道にそってある数すくない商店はいずれもシャッターをおろしている。それらの中で一軒だけ暖《の》簾《れん》を出して、灯《ひ》をともした鮨屋があった。先月だったかに開店した新しい店で、外壁のモルタルの色の鮮かさが、鮨の味への危《き》惧《ぐ》を感じさせる。  馴れぬ店に入るのを面白がる趣味は私にはなかった。私は行きつけの店にしか入らず、すわる位置さえ決っていた。が、しかし、自分のそうした性癖を少々窮屈に感じだしていた折りでもあり、おそらくは壁の臭《にお》いが抜けきっていないだろう店内に足を踏み入れた。  ほぼ察した通りだった。民芸調を装った店内と、真新しい招き猫《ねこ》、テレビ役者の色紙が、しっくりいっていない。古い鮨屋の多いこの辺りでの新規開店は苦労が多いはずで、苦戦は眼に見えていた。なぜ、こんな場所で開店したのかと不思議な気さえした。  カウンターに肘《ひじ》をついた私は、 「ビールをくれないか」  と、色の白い、三十代半ば位の主人に声をかけた。 「はい」  優《やさ》男《おとこ》の主人は、奥に向って、おビールだよ、と言った。  私のほかに客はひとりしかいなかった。斜め向い側、直角になったカウンターに向っている中年のサラリーマン風の男だ。  男には目立って変ったところはなかった。なにかの理由でひとりで夕食をとる羽目になった、としか見えなかった。ただ、鮨の食い方が微妙に早かった。そして、思い出したようにビールのグラスを口に当てたが、形だけで、まったく飲み込んでいないのに私は気づいた。  私の直感は、この男(のように見えるもの)が地球の生き物でないのを私に告げた。写経によってのみ得られる透徹した精神の働きがそれを可能にしたのだ。私の凝視に気づいたらしい男は、茶を飲むふりをすると、早々に店を出て行った。  私はビールを舐《な》めてみた。べつにおかしいところはない。が、この店の雰《ふん》囲《い》気《き》にはなにかしらおかしいものがあった。 「今《いま》頃《ごろ》は、なにが旨《うま》いのかね」と、私はさりげなくたずねた。  主人は細い眼で私を見て、 「どういったものがお好きですか」 「光り物だ」 「シンコが旨いですよ」  主人はケースの中を指した。 「シンコ?……」 「コハダの小さいやつです。少々季節とずれてるんですがね。酢で召し上っても、握っても、イケると思いますが」 「酢で貰《もら》おうか」  私は言った。この主人はふつうの人間だと確信した。おそらく、なんらかの事情で、この店が、先刻の男たちの地球での前進基地になっているのだ。まず、間違いはない。 「ここらは、商売としてはどうかね」  あいまいにたずねた。 「え?」 「住むには静かだが、人通りがすくないだろう」 「夜、遅くなってからのお客さんがけっこうあります」 「ほう、そうかね」 「会社におつとめの方が、宴会の帰りに寄られるのです。十時過ぎてからのお客さんが多いもので……」 「先刻出て行った人はよくくるのかい」  さりげなく言ってみた。主人はすぐには返事ができず、今までにない上目遣いをして、 「初めての方です」  と小声で答えた。  明らかに嘘《うそ》であった。異星の者たちの連絡場所として店が作られたのは明白である。主人は雇われたに過ぎないのであろう。  次の瞬間、私のなかに衝《つ》きあげてきた怒りは、私が低俗な娯楽読物が好みそうな世界にかかわったがためではなかった。かりにそのような事が実在するとしても、私の文学世界には関係がなかった。私の怒りは主人が虚偽を口にしたことに発しており、口調は思わず、時《とき》任《とう》謙《けん》作《さく》のそれに似てしまった。 「それは嘘だ!」と、私は怒鳴った。 「どうしてですか」  主人は声をふるわせ、青い顔をした。 「そんな見えすいた嘘を言っても駄《だ》目《め》だ」  私たちは睨《にら》み合った。そのうち、主人は怯《おび》えた表情になり、平《ひら》蜘《ぐ》蛛《も》の姿勢をとって、 「ご内聞に願います」と言った。あまりの変り方に私は、一瞬、呆《あつ》気《け》にとられた。  どうでもよいことに気を立てた自分を反省し、莫《ば》迦《か》莫《ば》迦《か》しく思った。主人には彼の生活があり、扶養家族もあることだろう。そうした思いやりを見失い、自分の静かな気分をも害したことを私は痛感した。 「言い過ぎた」  私はビール瓶を右手に持ち、主人に勧めた。 「さあ、一杯いこうか」 ハーレクイン・オールド ——むかしむかし、宇宙の果ての小惑星の片《かた》隅《すみ》に、ひとりの歳《とし》老《お》いた私小説家がいた。八十を過ぎた私小説家にしては稀《まれ》なことであるが、彼は新境地を開拓しようと心がけ、新しい海外小説に遭遇した。それらはハーレクイン・ロマンスとか、ハーレクイン・イマージュと呼ばれる作品群であった。その結果、珠玉の虚構小説が生れたと伝えられるが……。     1  日影絵利香は現代風ではないソファーの隅に縮こまっていた。この家の家具は、ひとつひとつが大正時代の香りを保っている。  六十七歳の絵利香は、べつに若造りをしなくても、五十代にしか見えなかった。この日のために特上の入れ歯をはめているので、見方によっては四十代の終りにしか見えないかも知れない。入れ歯に注意しながら彼女は溜《た》め息をついた。デリケート過ぎるのが自分の欠点だ、と、ひそかに思った。  社会的に有名な税理士の秘書は魅力的な仕事だった。彼女は人気イラストレーターやミュージシャン、作家、コピーライターたちと食事をともにする機会が多かった。彼らは絵利香の魅力に気づくよりも、税金の高さを嘆くことが多く、夜明けまで税制の不公平を憤《いきどお》るときさえあった。彼女にしてみれば、男と女の深い関係に陥るよりも、〈さっぱりした〉つきあいのほうが有《あり》難《がた》かった。それでなくても、税理事務所長の倉持にプロポーズされて、三年以上も返事をのばしているのだから。そして、七十九歳の倉持所長は彼女の心の動きにうすうす気づいているらしく、「私の八十歳のバースデイまでには良い返事を貰《もら》えるだろうね」と冗談めかした催促をする。「十二も歳の差があるので、きみは気にしているのではないか」  十二ちがい! 彼女が十六歳のとき、結婚を約束したのは、二十八歳の青年だった。二人は神戸から船で上海《シヤンハイ》に駆け落ちするつもりだったが、汽笛の音があまりにも鼓膜にひびき過ぎたので、デリケートな彼女は駆け落ちをやめた。満州事変が起った年だったと記憶している。  彼女ははげしく咳《せき》込《こ》んだ。浅《あさ》田《だ》飴《あめ》を舌にのせて、入れ歯に触れぬように口の中で転がした。彼女を孤児院から連れ出してくれたあの青年は、たった一度、彼女のひたいにキスをしただけで、中国大陸で消息を絶っている。  突然、絵利香は、だれかが入ってきているのに気づいた。耳が遠くなっているので、よくあることだった。その男は大《おお》柄《がら》で、銀色の髪を長めにカットしており、浅黒い、男の色気に溢《あふ》れた顔に皮肉な笑いを浮べていた。 「なにを考えているのかね、シンデレラさん……」  男の声は八十三歳とは思えぬほど若かった。  息がつまりそうになった彼女は、「あ……」としか言えなかった。 「名乗らなければいけませんかな」  男はニヒルな表情になる。  見つめられて、絵利香は顔を赤らめた。自分はたんに使いで来ているのだと思っても、恋する気持は隠せなかった。 「伊集院貴《たか》彦《ひこ》です。この名前が私には重荷になっている」  男はしずかに首を横にふった。 「せめて、与作とか田《た》吾《ご》作《さく》といった名前だったら救われるのですがね」  そう言って、安楽椅《い》子《す》に腰をおろした。 「あの……」彼女はやっと言えた。「税金の書類が不備なので、お忙しいところをお邪魔しました」 「ご苦労様。……本当は、私は、金に関する話はしたくないのですがね」  男は広い肩をすくめて、 「煙草《たばこ》を吸ってよろしいでしょうか」 「は、はあ」  嫌《けん》煙《えん》主義者の彼女は、男の眠たげな茶色の瞳《ひとみ》に魅せられて、つい、そう答えてしまった。伊集院貴彦はテーブルのケースから葉巻を抜き出して、ディスコのマッチで火をつけた。 「まず、必要経費でございますけど」  小さくなった浅田飴が彼女の唇《くちびる》から飛び出して、ドレスデン製の灰《はい》皿《ざら》の中に落ち、ぐるぐるとまわった。彼女は身体《からだ》を小さくし、消え入りそうになる。  男は浅田飴が眼《め》に入らぬ気くばりを示しながら、 「金の話は疲れますね」  と優しく笑った。 「恋の話、旅の話なら、夜中まででも平気です。イギリスの田舎に持っている競走馬の話も悪くない。しかし、金は……。率直に言って、金など、どうでもいいのです。そうそう、フリオに、貸した金はもう要らないと電話しなきゃ」  フリオ、とは、フリオ・イグレシアスだろうか、と絵利香は思った。 「あなたは三月いっぱいは忙しいでしょうな」  男の眼に炎のようなものが燃え上っていた。 「どうですか。四月に入ったらニューヨークへ行きませんか。JALのファースト・クラスの席が一つ余っているのです。倉持君には私から了解を求めます。なんたって、おたくの税理事務所のあるビルは、私の持ち物ですからね」  なんということだろう! この人は私の気持を見抜いている。それにしても、こんな、考えようによっては危険な、甘い提案があるだろうか。この人は、私より若い五十代の女性に、いつも、こんな風に声をかけているにちがいない。ぞっとするほど危険ななにかが、彼女の心を痺《しび》れさせた。     2  ニューヨーク行きの便は、ファースト・クラスから埋まってゆくといわれる。日米間のビジネスマンの往復がはげしいからである。ビジネスマン——それも大物たちがファースト・クラスを占拠するのだ。 「オードブルは、何がよろしゅうございますか」  スチュアーデスが絵利香にほほ笑みかけた。  絵利香は困惑した。ファースト・クラスでの旅は初めてであり、これほど愛想のいいスチュアーデスにめぐりあったのも初めてだからだ。紺の制服の美女が押すワゴンの上には、パテ、フォアグラ、キャビアのたぐいが溢《あふ》れんばかりにのせてあった。 「あの……そうですね……」  彼女はどぎまぎした。 「ひととおり、少しずつ、とってあげてください」  貴彦のベルベット・ヴォイスが心地よく響いた。それまで眼にあてていた睡眠用のマスクを外して、スチュアーデスを優しく見ると、相手は貴彦の容《よう》貌《ぼう》に気づいて、顔をあからめた。 「伊集院先生……」 「今月もお逢《あ》いしましたね」と貴彦は飴色の歯を見せて、「私は搭《とう》乗《じよう》すると同時に、あなたの存在に気づいたのですが、わざと寝たふりをしていました」 「まあ、意地が悪い」 「眼をあけていると、つい、観察してしまいますからねえ。これは、作家の業《ごう》でして」  貴彦は窓の外に眼を向け、スチュアーデスはその横《プロ》顔《フイル》をうっとりと眺《なが》める。 「では、少しずつ、ください」  絵利香は妙にとげのある口調になり、この若いスチュアーデスにはなんの罪もないのに、と反省した。悪いのは、彼女の左側のリクライニング・シートにいる男なのだ。 「私はキャビアだけでいい。それから、シャンパンを貰おう」  そう言ってから、貴彦は低い声で絵利香に囁《ささや》いた。 「本当は私の口に合うものはないのですが、それでは彼女が傷つきますからねえ。たった一度、私が機内食を批判したために、ある航空会社の重役の首が飛んだことがあるので……」 「よくはわからないのですけど、私小説家って、こんな贅《ぜい》沢《たく》ができるものなのですか」 「一般的にいえば、ノーでしょうな」  貴彦はシャンパンのグラスを受けとりながら答えた。 「しかし、往年の私小説家の実家は、おおむね、資産家でした。資産家の子供が東京に出て、貧乏したり、女で苦労したりしながら小説を書く、というのが、よくあったパターンです。結核とか、そういった病気で苦しむのも、読者に受けたのです。戦後、結核その他が治るようになってからは、主人公すなわち〈私〉が病気になるのではなく、〈私〉の家族が病気になるのが流行しました。つまり、〈私〉は、その家族が死んでゆくまでを冷酷なまでに凝視する、というスタイルですね。これで、いちおう、緊張感が持続できたのです」 「で、いまは?」  絵利香が知りたいのは、貴彦の私生活であった。夫人がいるはずだが、姿を見たことがなかった。倉持も、その話題になると、口を固く閉じるのだ。 「現代で私小説を書くとなると、別な困難をともないます。たとえば、庭で焚《た》き火をするとか、子供と遊ぶとすれば——そういう場面を描かなければ〈私小説〉は成立しませんし、描くためにはそうした家に住まなければなりません——百坪弱の土地を必要とします。土地だけで少くとも、一億円は必要でしょう」 「でも、団地や……せめて、マンションなら……」 「あなたはマンションで焚き火をするつもりですか。焚き火ができる庭付きのマンションだと、二億円はしますよ」  絵利香はがっかりした。そんなことはどうでもよいのだった。 「ひとことでいえば——ある程度の資産がなければ、私小説家にはなれないのです。家族を病院に入れたら——むろん個室に入れるのですよ、相い部屋では私小説にふさわしい言い争いや静かな会話ができませんからね——莫《ばく》大《だい》な費用を要することはお解りでしょう。そうした生活を営むためには、ものすごいお金がかかります。私のように、父親から巨額の遺産をうけついだ者だけが、現代的かつ前衛的な私小説を書ける、と、言いきってもいいでしょう」 「先生はベストセラー作家ですから特別ですわ」 「なるべく本を売らないで欲しい、と、出版社に頼んでいるのですがね」  絵利香は二冊のベストセラーを読んでいた。どちらも、昭和初期の、伊集院らしい青年の乱れた私生活を描いたもので、現在の話ではなかった。 「アメリカで翻訳が出てしまいましてね。よせばいいのに、ポール・ニューマンが映画化したいなんて言うものだから、あの男にも会わなければならないし……」  貴彦はシャンパンをお代りした。 「毎月、ニューヨークへ行ってらっしゃるのですか」  絵利香は不審に思った。いったい、何のために? 「え、まあ……」  たずねて欲しくないように、貴彦はうつむいた。彼の浅黒い肌《はだ》の下には、現代人には珍しい野性的ななにかが秘められているようにみえた。     3  貴彦が用意してくれたホテルは、セントラル・パークの東南にあるプラザだった。ヨーロッパ風の優雅さをもつこの最高級のホテルは絵利香を満足させたが、貴彦のスイート・ルームと彼女の部屋が離れ過ぎているのが、不満だった。  シングルとはいえ、彼女の部屋は広かった。孤児院にいたころの六人部屋を思えば、それはもう、天国だ! 「私は弁護士やらなにやら来客が多くて、あなたの傍《そば》に、ずっと、いっしょにはいられない」  貴彦の言い方には、仕事ができる男特有の冷めたい響きがあったので、デリケートな彼女は思わず涙ぐんだ。涙は眼の下の深い皺《しわ》にたまり、唇の脇《わき》の抉《えぐ》ったような凹《くぼ》みに流れた。 「安心したまえ。今日だけのはなしだよ」  貴彦は、あわてて、言いそえ、口調を変えた。 「明日は、メトロポリタン美術館とユダヤ博物館とウールワースへ行ってみましょう」 「私は、一日、部屋にいて、窓の外を眺めるだけかしら」  彼女はスヌーピーのハンカチで音を立てて洟《はな》をかんだ。 「セントラル・パークの動物園にでも行ってごらんなさい。道の向う側です。案内役とボディガードは、ホテルの者がやってくれます」  貴彦が、いかに、このホテルの馴《な》染《じ》み客であるかは、紅茶を飲むために一階に降りたときにわかった。  絵利香がティー・ラウンジに入ってゆくと同時に、バンドが、「スター・ダスト」をやめて、「ここに幸《さち》あり」を演奏し始めたのである。曲は、さらに「サクラサクラ」に変り、彼女のテーブルには、サムライの形をしたケーキが届けられた。  翌日、貴彦は約束を守った。  メトロポリタン美術館、ユダヤ博物館、ロックフェラー・センター、近代美術館、ダイヤモンド通りを見てから、タイムズ・スクエアの辺りを歩き、近くのウールワースでローレルとハーディの安っぽい人形を買ってくれた。貴彦のような金持ちにとっては、安っぽい下《げ》手《て》物《もの》のほうが珍しいらしい、と絵利香は感じた。  夕方にはグリニッチ・ヴィレッジを散歩し、小さなイタリア料理屋に入った。 「ニューヨークのイタリア料理と中華料理はちょっとしたものですよ」  メニューを見るために老眼鏡をとり出しながら、貴彦は無邪気に笑った。 「まあ、家庭料理ですがね」 「おなかが空《す》きましたわ」  そう答えたものの、絵利香の心は充《み》たされなかった。昨日いちにち、貴彦はなにをやっていたのだろう? 出版社との打ち合せでも、ポール・ニューマンの代理人との打ち合せでもなさそうだった。ニューヨーク在住の日本人弁護士をちらりと見かけたが、ひどく暗い顔つきをしていた。 「ピザを少し食べておいて、夕食はミュージカルを観《み》たあとで、ゆっくりとりましょう」  貴彦の口調の明るさには、どこか、無理があった。心の内側を圧しているなにかから逃れようとして、わざと楽しげにふるまっているらしい。 「疲れませんでしたか?」  八十三歳の男の言葉としては驚くべきものであった。絵利香ときたら、近代美術館で入れ歯を吐き出すわ、ぎっくり腰になりかかるわで、へとへとだったのだ。できれば、ミュージカル「ドリーム・ガールズ」は遠慮して、ホテルに戻《もど》りたかった。  日本人を見下したようなイタリア人のボーイがいた。貴彦がワインの味がおかしいと首をひねると、いきなり、イタリア人特有の洪《こう》水《ずい》のような勢いで反論してきた。中には、「経済的動物め《アニモ・エコノミカ》!」という、明《めい》瞭《りよう》な罵《ば》声《せい》も混じっていた。 「待ちなさい……」  ウォールストリート・ジャーナルで顔をかくしていた男が、イタリア訛《なま》りの強い英語で声をかけた。 「その日本人の味覚に狂いはない。新しい瓶《びん》を持ってきなさい」  初老の小《こ》肥《ぶと》りの男は、鼻下に気《き》障《ざ》な髭《ひげ》をたくわえ、グリーンの背広を着ていた。 「J・Bだ……」  貴彦が呟《つぶや》いた。 「アトランティック・シティの暗黒街の大物ですよ」 「ごぶさただった《ロング・タイム・ノー・スイ》」  小肥りのイタリア人は、宝石を鏤《ちりば》めたタイピンを軽く押えて、立ち上った。 「安心しなさい、シニョール伊集院。今日は、ボディガードをつれていない。この店は、わしの親《しん》戚《せき》なのでね」 「お久しぶりです」 「丁度二年まえだな。そう、ポトマック河畔のサクラがテレビにうつっていたころだ。きみは、ひとりで、アトランティック・シティのカジノに現れた。ホテルのバーにいたわしは、一目で、きみを天性のギャンブラーと見抜いた」 「女性の前ですから、お手やわらかに」 「きみも、わしの正体を見破った。南仏を含めて、カジノを六つ破産させたこのわしをな」 「五つでしょう」と貴彦は苦笑した。「あなたほどの大物がさばを読む必要はない」 「あの夜は、わが生《しよう》涯《がい》の最大の汚点だったよ、シニョール伊集院。きみにバカラの勝負を挑《いど》んだのは、J・Bらしくなかった。着ている服以外は、すべて、毟《むし》りとられた」 「勝負をしかけたのは、あなたですよ」 「わかっとる。じゃが、J・Bの誇りは傷つけられ、復《ふく》讐《しゆう》を心に誓ったのだ。きみはニューヨークから生きては出られまい」     4  貴彦はひどく忙しそうであったが、午後には必ず時間を作って、世界貿易センターや町角の小さな教会に絵利香を連れて行った。彼らはコニー・アイランドまでドライヴし、二日に一度はミュージカルを観た。  ある夜、劇場を出たあと、アルゴンキン・ホテルのローズ・ルームで食事をすませた貴彦は、「煙草《たばこ》を吸ってもよろしいでしょうか」と絵利香にたずねた。 「どうぞ……」  ジェット機で禁煙席にすわっていらい、貴彦は煙草を絶っていた。そして、さほど辛《つら》そうでもなかったのだ。意志の強いこの紳士が、葉巻を吸いたくなったというのは、よほど苛《いら》々《いら》することがあるからにちがいない、と絵利香は察した。 「なにか、心配ごとでも……」 「大したことじゃありません」  貴彦は微笑してみせた。 「あのJ・Bとかいう男のことかしら?」 「J・Bですか。まったく無視しているといったら、嘘《うそ》になりますな」 「では、ほかに……」  そのとき、バーの方で、けたたましい叫びがきこえた。観たばかりの舞台について辛《しん》辣《らつ》な意見をかわしている劇評家や記者の群れは、一瞬、あっけにとられたようになる。日本語の叫び声は、ふたりのテーブルに近づいてきた。 「ユダヤ人の大プロデューサーの奥さんです」と、貴彦は早口で言った。「純粋の日本女性だけど、騒々しい人でして」 「そのまま、そのまま! いま、迎えの車に乗るところなの!」  六十歳前後の白いドレスの女性が、けたたましく言った。 「ひょっと見たら、伊集院さんに気づいたもので、ひとこと、ご挨《あい》拶《さつ》しておこうと思って……」 「それは、どうも。ごていねいに」  貴彦は当らずさわらずの答えをかえした。 「そういえば……」  女性は声を低めたが、あとの言葉を、耳が遠い絵利香は読《どく》唇《しん》術《じゆつ》で読みとっていた。 「奥様のお具合はいかが?」  ホテルの近くでタクシーを降りたふたりは、グランド・アーミー広場からセントラル・パークに入った。  夜のセントラル・パークは危険きわまりない。たちまち、銃声が闇《やみ》に響き渡ったが、絵利香には、自転車のパンクの音ぐらいにしかきこえなかった。 「あなたは私を苦しめている秘密の一端を知ったのですね?」  貴彦は鋭くたずねた。 「ふぁい」  入れ歯を固定させようと努力しながら絵利香は答える。勘の鋭い人だ、と、彼女はおそれを感じた。 「妻は病気です。もう十年近く、このニューヨークの病院に入っています」 「毎月、ニューヨークへいらっしゃるのは、そのためなのね」 「それだけではありませんが……」  貴彦は襲いかかってくるチンピラのナイフを片手で叩《たた》き落しながら呟いた。 「もし、あなたが愛について語っているのならば、愛という感情は、私と妻のあいだでは、とっくに消えているというべきでしょう。十数年前に、妻が私の見知らぬ男とベッドにいるのを見た時から……。忘れもしない、ウィーンの夜でしたよ」 「なぜ、すぐに離婚をしなかったのですか?」 「話し合いに入ったとき、彼女が発病したのです。口にできないほど、おそろしい病気でした。日本ではどうしても治らないので、ニューヨークの専門医にあずけたのですが……」 「要するに——あなたは結婚してるってわけね」  彼女は冷ややかな口調になった。 「結婚だって! あなたは、ぼくのこの十数年の状態を結婚と呼ぶのですか!」 「そうは思わないけれど……」 「ぼくだって健康な男性です。健康な男性が、美しい女性と闇の中を歩いていて、なにかを感じてはいけないのですか。むらむらっと——いや、原始的な本能に目ざめてはいけないのでしょうか?」 「さあ……」  よろけた彼女は、かたわらの木にしがみつきながら答えた。 「よろしかったら——お星様にきいてみて」 「ぼくは、きみが欲しい……」  彼女を抱きしめようとして、貴彦もよろめいた。持病の痛風が出たのだ。そのために、貴彦を刺そうとした強盗のナイフは脇にそれて、もう一人の仲間の腹部を貫いた。 「愛してる……」  貴彦はようやく絵利香を抱きしめ、唇《くちびる》を押しつけた。二つの入れ歯が触れ合い、がちがちと音をたてた。  キスされることがどんなものか、絵利香は初めて知ったのだった。躰《からだ》じゅうが溶けてゆくようで、すべてを忘れてしまった。 「いけない……」  貴彦はわれにかえった。 「ぼくには解決しなければならないことが山ほどある。妻は離婚の条件として、ぼくの全財産を要求している」 「いいじゃないの。私たちには愛があるんですもの」  はしたないことを口走った、と彼女は後悔した。 「失礼だが、きみは家庭というものをロマンティックに考え過ぎている。孤児だったことと関係があるのかも知れないが……」     5  翌朝、絵利香は貴彦のスイート・ルームに呼ばれた。  観葉植物の鉢《はち》があちこちに置かれた広い部屋には、ユダヤ系らしい白髪の老人がいた。 「きみには、すべてを知っておいて貰《もら》ったほうがいいと思ってね」  と、貴彦はきびしい表情で絵利香を見た。 「こちらが妻を治療しているドクターだ。ドクターは日本語を解し、話すこともできる。——どうぞ続けてください、ドクター」 「病状をひとことで申しますと……」  ドクターは激しく咳《せき》込《こ》んで、ポケットから小さな箱をとり出した。スロート・ディスクを一錠、口に入れると、 「かなり、快方に向った、と確言できます。入院されたころは、髪の色が連日、変化しました。週に七色も変る奇病だったのです」 「まさか!」  思わず、絵利香は叫んでいた。 「本当です。赤、グリーン、黄、ブラウン、グレイ、紫、白、と、七色ありました。他の患者の色盲検査に使用したほどです。——先月から、ようやく、五色に減りました」 「二色、なくなったわけですな」 「その代り、ということもないでしょうが、ディスコ通いがはげしくなりました。しかも、評判の悪いプレイボーイどもとの噂《うわさ》が、いろいろ、立ちまして……」 「少しは知っております」  貴彦の表情が険《けわ》しくなった。 「しかも、私の離婚には数多くの条件がついている。彼女は私の全財産だけでなく、いま、執筆中の大河私小説『七色の妻』の印税、映像化権まで取り上げるつもりです。これは、いわゆる〈病妻もの〉でして、テレビの長時間ドラマになり、ベストセラーになるのも間違いないのですが……」  そのとき、ドアがあいた。  濃紺のスーツを着て、同じ布地で作った帽子を目《ま》深《ぶか》くかぶった、小肥りのJ・Bが入ってきたのだ。 「失礼——わしは元《もと》鍵《かぎ》屋《や》なのでね。どんな部屋にでも入れる」  貴彦は危険を感じたようだった。絵利香は怯《おび》え、倒れそうになった。  J・Bは、にやっと笑って、 「ソファーに腰かけていいかね?」と、たずねた。いやらしく濡《ぬ》れた唇には自信が溢《あふ》れている。 「……どうぞ」 「きみは夫人と離婚したいそうだね」 「どうして、それを?」 「まあ、きけよ。わしはきみの希望をかなえてあげられる」 「なにを言いたいのだ」と貴彦は用心深くたずねた。「私は妻を殺してくれとたのむほど堕落してはいないぞ」 「殺す、だと……」  J・Bは、かっとなった。 「見損なってはいかん。わしは、きみの奥さんを愛しとる。もともと、東洋の女性が好きなのだが、髪の色が毎日変るひとには、初めて会った。——いうまでもないことだが、奥さんもわしを愛しとる」 「じゃ、ディスコで?……」  貴彦はドクターの顔を見た。ドクターは大きく頷《うなず》いてみせた。 「まさか、きみの奥さんとは知らなかったのだ。ところで、金の問題じゃが、五十万ドルでどうだ? 五十万ドルで、手を打とう」 「悪くはない」と貴彦は抜け目なく言った。「しかし、妻が承知をする保証があるのか」 「奥さんにきくことだ」 「妻に!? じゃ、ここにきているのか」  貴彦がそう叫んだとき、真紅のロングドレスを華やかに着た、色の白い老女——とても七十五歳には見えなかった——が、両手をあげて入ってきた。紫色の髪の毛は染めたものとしか見えなかった。 「ドアの蔭《かげ》で、ぜんぶ、きかして貰ったわ、ダーリン!」 「なんという紫《ポル》色《ポラ》」  J・Bはうっとりして叫んだ。 「まさしく東洋の神秘じゃ!」  ——問題は、すべて、解決したのです。  胸を弾《はず》ませながら絵利香は受話器を握っていた。長距離電話の向うで、がっかりしている倉持の顔を思い浮べると心が痛んだが、報告しないわけにはいかないのだった。  ——おめでとう……。  倉持の声は、予期したよりは明るかった。  ——新しい秘書を探さなければならんようだな。それはいいが、J・Bとかいう悪党はどうしたのだ?  ——シチリア島へ新婚旅行に出かけましたわ。 「ぼくが出よう」と貴彦が脇から手を出した。  ——もしもし、伊集院だ。倉持君にはまことにすまないことをした。  ——きみがライバルでは勝ち目がない。日本にはいつ帰るのだ?  ——野暮は言わないでくれ。明日、近くの教会で式をあげて、南仏へ新婚旅行に行く。アフリカまで足をのばすかも知れない。  ——よろしい。新婚旅行の費用は必要経費で処理することにしよう。  ——金か! もう沢山だよ。じゃ、バ、バイ。  貴彦は送受器を置き、マティーニのグラスで乾杯した。  絵利香も乾杯をした。  しかし、マティーニを飲むことはできなかった。彼女はコンタクト・レンズの片方をマティーニの中に落としてしまったのだ。  自分の視力がひどく衰えていることを絵利香は隠しておきたかった。コンタクト・レンズなしでは自分は幸せになれない、と、きわめてデリケートな彼女は思った。 いちご色の鎮魂歌     1  マンション建設用地の片《かた》隅《すみ》では、偽善的な慰霊祭がおこなわれていた。本当に泣いているのは小学生たちだけだった。大人たちは一刻も早く終ればいいと思っている。  その土地がなぜ住本商事のものになったかを説明できるものはいなかった。町内のだれもが狐《きつね》につままれたように感じていた。  代々の地主である小暮家の当主が他人の借金の保証人になったのが原因という説があった。そうした事実はたしかにあったようだが——しかし千坪もの土地を取られたのはどうしたわけか。  暴力団が絡《から》んでいたのは本当だった。夜中に男たちがわめく声を多くの人が耳にしていた。警察はなにもしなかった。やがて、小暮家の当主は自殺し、未亡人と小さな娘は近くのアパートに移った。  小暮邸はとりこわされ、空地には〈住本商事〉の札が立った。近所の住民は跡《あと》がどうなるのかと怯《おび》えた。戦火を免《まぬか》れた平家・二階建ての多い地域なので、高いマンションが建てば、多くの家が日《ひ》蔭《かげ》になり、電波障害が起り、地価は下るはずだ。  しかし——と、住民たちは思っていた。このあたりは高層マンションが許可されないのではないか。  その考えは甘かった。住本商事は十二階のマンションを建てると宣言した。法的にみて問題はないというのだ。マンション用地の一部を公道に加えたりして、抜けめのないところをみせた。  おとなしい住民たちが反対運動に立ち上った。マンション工事は約一年半停滞した。またしても暴力団が介入し、住本商事に代って、個別に買収工作をおこなった。裏切る住民が続出し、マンション工事は再開された。  間もなく、住本商事の担当者を蒼《そう》白《はく》にさせる事故が起った。コンクリートミキサー車が学童を轢《ひ》き殺したのである。  担当の課長はベテランだった。過去に、老人二人、子供六人を殺して、事態を収拾しているのだ。こうした時にどういう手を打てばよいかを充分にわきまえていた。  住本商事主催の慰霊祭はつつがなく進行していた。  住民対策課長の島田は、焼香をすませて席に戻《もど》ってきた区議に頭をさげた。慰霊祭の根まわしをしたのは、島田と区議と町会長であった。殺された少年の両親の口を金で封じるには町会長の協力が必要であった。幸い、少年の父親は保守党の関係者であり、官房長官からの電話一本でことがすんだ。 「これで安心して工事がつづけられます」  うつむきながら島田が呟《つぶや》くように言った。 「この辺は住民パワーが弱いですからな」  と区議は口走り、あわてて訂正した。 「いや、弱いのではない。私らが抑え込んでいるのです。左翼系の人物も、けっこう、住んでおりますし」 「このせつ、怖いのは左翼ではないでしょう」  島田はハンカチで眼《め》をおさえながらつづける。 「勝手連とかいう連中が怖いです。なにを考えているのか、さっぱり、わからない」 「住本さんには、なにかとお世話になっとりますからな。こんな形ででも、借りをお返ししないと……」 「とんでもない。いずれ、部長がご挨《あい》拶《さつ》に上るはずですが……どうです、今夜?」 「今夜?」 「これからすぐでもいいですよ。精進落しに、六本木のクラブへ行きませんか」  島田は低い声で誘った。 「SMのほうですよ。逞《たくま》しい女が鞭《むち》をふるってくれます」 「でも……」  肥満した区議は実はマゾヒストだった。 「われわれ商社マンは、おつき合いねがう方の性癖をコンピュータに入れてありますからね。ご安心ください。純粋の秘密クラブです。その点は保証します」  島田は薄笑いを浮べそうになり、ハンカチで顔をおおった。  退屈な読《どき》経《よう》がつづいている。  被害者の同級生たちは、全員、泣きじゃくっていた。たったひとり泣くふりをしながら、島田を観察している少女がいたが、大人たちはだれも気づかなかった。  小学校三年の少女の名が小暮直美と知ったら、住本商事の人々はぎょっとしたにちがいない。幸か不幸か、だれも彼女の存在を気にしなかった。  親友が轢き殺された翌日から、小暮直美はシェープアップを心がけた。復《ふく》讐《しゆう》に必要なのは、すばやい身のこなしだと本能的に感じたのである。  彼女はまず板チョコの「古都の四季」をすてた。同じ板チョコの「霧の浮舟」にも眼を向けなくなった。チョコボールの「バイキンクン」や米俵の形をしたチョコレートの中に米粒状のスナックが入っている「ちょこだわら」も拒《こば》むことにした。こころもち、身が軽くなり、美しい顔がほっそりしてくると、他のスナック類——「おっとっと」「とん平くん」「もろこし村」「たこやきくん」「しましま」「きみのニックネーム」「アップップ」「マリブのさざ波」「さかなかな!?」などを、いっさい絶つことにした。  彼女の眼つきは鋭くなった。拳《けん》銃《じゆう》の代りに、ワイヤレス・リモートコントローラーで早撃ちの練習をした。スーパーマーケットのパートタイマーをしている母親は、娘のハード・トレーニングに気づかなかった。ただ、娘が口をきかなくなったことだけが気になった。     2  校内暴力の波は、直美の教室にまで押し寄せていた。  三年生とはいえ、栄養過剰気味の男子は中学一年生ほどの背《せ》丈《たけ》があった。とくに、三田という少年は、教師が手をつけられぬほどのワルだった。三田の父親は大工で、学校からの呼び出しに応じないのだ。  三田が睨《にら》みをきかしているのは、モデルガンを改造した拳銃を持っているためだ。なにかというと、三田は拳銃をちらつかせた。  ある日、三田は妙に自信を失ってみえた。カバンの中の拳銃が紛失したのだ。こればかりは紛失届けを出すわけにいかない。  三田の子分の少年三人はすぐに事態に気づいた。そして、放課後に三田を袋《ふくろ》叩《だた》きにした。  傷だらけになった三田は、子分たちよりも、拳銃を盗んだ者を憎んだ。殺してやろうと覚悟した。  ワル独特の直感で犯人の見当はついていた。このごろ、自分の命令を無視し、ひそかに冷笑しているようなあいつだ。あいつがやったにちがいない。  彼は直美のアパートに近づいた。直美は猫《ねこ》を飼っているはずだった。猫を殺して、近くの電柱に吊《つる》してやろう。じわじわと恐怖をあたえて、あいつが苦しみ抜くのをたのしもう。  アパートの部屋にはだれもいなかった。猫のいる気配もない。  三田はかっとなった。家に戻る途中で、上級生をおどかしてローラースケートを奪い、ジョカリを取り上げた。  家に戻り、ラジオをきいていると、母親の悲鳴がきこえた。彼はとび上り、浴室に走った。  アフロヘアの母親は引き付けを起していた。洗《せん》濯《たく》機《き》を指さしたまま、舌がもつれている。  彼は洗濯機を止め、のぞき込んだ。アロハシャツやTシャツしか見えなかった。Tシャツをどけてみると、父親がかわいがっているスピッツの生《なま》首《くび》が浮び上ってきた。  少年は吐き始めた。涙を流し、失禁した。復讐どころか、恐怖しかなかった。  住民たちの反感を抑えたので昇進は間違いない、と島田は思った。じじつ、夏のボーナスは多く、しかも、視察の名目で北欧の旅が約束されていた。  マンションに戻ったのは、いつもより早く、八時過ぎだった。再婚したばかりの若い妻を変則的に犯すつもりで、バッグにバターをしのばせていた。  エレベーターの脇《わき》に見《み》馴《な》れぬ少女がいた。父親の帰宅でも待っているのだろうかと島田はぼんやり考えた。 「小《お》父《じ》さん……」  と少女は声をかけてきた。 「うちの猫がここの屋上にあがっちゃったの」 「とりに上ればいいじゃないか」  島田は答えた。 「でも、よそのマンションだから、勝手に入っちゃいけないと思って……」  かわいらしい少女は殊勝げに答えた。  島田のなかでうごめくものがあった。平素は紳士づらの下に押し込めているが、彼は少女愛好症なのであった。 (身体《からだ》にさわるぐらいなら、ヘンタイ呼ばわりはされまい) 「じゃ、小父さんが連れて行ってあげよう」  彼は少女の肩にさりげなく触れた。そして、エレベーターに乗り込んだ。  自分の部屋がある五階を過ぎて屋上まで登った。 「さあ、探しておいで」  夏の夜風に吹かれながら軽く言った彼は、思わず、バッグを落した。  どういう悪夢だ、これは、と唾《つば》を飲み込んだ。かわいらしい少女が拳銃を彼に向けているのだった。 「冗談はやめなさい……」 「コンクリートミキサー車の責任をとって貰《もら》います」  少女の眼に邪悪な微笑があった。  一瞬、島田はなんのことかわからなかった。わかってからも、なぜこの少女が自分を狙《ねら》うのか納得できなかった。 「き、きみは子供だからわからんだろうが、あれは私の責任ではない。上の人の命令なのだ」 「上の人って?」 「社長だな、結局は」  その時、花火の音がした。近くの土手で花火大会がおこなわれている。  こいつは危《やば》い、と島田は思った。花火の音に合せてぶっ放すつもりなのだ。  次の音がした瞬間、拳銃が火を吹いた。島田の耳の脇をなにかが掠《かす》めた。 「助けてくれ! 私はなにもしていない!」  島田はよろめき、後退した。背後には闇《やみ》があるだけだ。  少女は長いものを投げた。ゴム製の蛇《へび》だが、島田はのけぞり、そのまま、叫び声とともに闇の底に落下して行った。  直美はゴム製の蛇につけた紐《ひも》をたぐり寄せ、白手袋をはめて、バッグをひろった。そして、エレベーターに乗り、五階に降りた。  島田という名が書かれたドアのチャイムを鳴らすと、若い女がドアをあけた。  直美は黙って蛇をさし出した。若い女は眼をむき、口を大きくあける。  口の中に銃口を突っ込み、引き金を絞った。女の後頭部からチョコレート色のものが弾《はじ》け、室内に飛び散った。  直美はバッグと拳銃を玄関にすてて、ドアをしめた。こうすれば、妻を殺した夫が屋上から身投げしたことになる。あとは、島田の死体の右手に大人用の手袋をはめればよいのだ。     3  夏休みまえの放課後、直美は理科室に閉じこもっていた。  改造拳銃がどんな役目を果したか、気づいたのは三田だけだった。  しかし、彼女がそれを盗んだ証拠はなにもなかった。皮肉の一つも言ってやろうかと思ったが、直美にじっと眼を見つめられて沈黙した。理科室にこもっている直美がなにをしているか考えたくもなかった。  たった一度、彼女の赤いランドセルを覗《のぞ》き見したことがある。教科書が整然と入れてあるほか、かくべつ変ったことはなかった。  週刊誌の一頁《ページ》を破いたものがノートにはさんであるのが、気にならないでもない。有名人の家族をうつしたカラーグラビアで、夏休みの予定が書いてあった。なんだ、これは、と舌打ちした三田は、それきり忘れてしまった。  住本商事社長の鬼頭の別荘は箱根仙《せん》石《ごく》原《はら》にある。  いつもだったら、ゴルフから戻ると、東京からの連絡に眼を通し、窓をあけたままでひと眠りするのだった。八十一歳で現役の座を守るためには快眠あるのみだ。  銀髪の下の日《ひ》灼《や》けした皮膚に酷薄そうな細い眼が光っている。ゴルフ疲れしているのに、シャワーを浴びて外出しなければならないのは、東京から孫たちがきているからだった。冷酷で、息子の一人が自殺したときにも眉《まゆ》ひとつ動かさなかったこの男も、二人の孫娘には人間らしさを示すのだ。  嫁の運転するベンツで芦《あし》ノ湖《こ》畔に出た彼らは、高級リゾート・ホテルが経営するヴァイキング料理の船に乗り込んだ。 「これはこれは、鬼頭様……」  責任者が揉《も》み手をした。 「お電話を頂けば、お迎えの車をさし向けましたのに……」 「気をつかわんでくれたまえ。孫のお供だ」 「もう、小学校で?」 「三年と一年だ。どういうわけか、学校の成績がよくてな」  鬼頭は嬉《うれ》しそうに言い、嫁と二人の孫が料理のある船室に走ってゆくのを見送った。  やがて、船が動き出す。鬼頭はビールを買い求め、上甲板で飲むことにした。飲み物は別料金なのだ。  人々は料理に狂っているらしく、ほかには人影がなかった。夕闇の中で風に吹かれながら鬼頭はゆっくりとビールを飲んだ。  疲れているせいか、うとうとした。気がついた時には湖上の闇が濃くなっている。  残っていたビールを胃におさめた。そろそろ料理の周辺が空いてきたはずだ。  立ち上ろうとしたが、足に力が入らなかった。こんなことは初めてである。  孫娘が近づいてきたので、「お母さんを呼んでおくれ」と言った。「どうも身体がおかしい」 「薬がきいてきたのよ」  と、相手はしずかに答えた。  孫娘ではなかった。外見は似ているが、ビニールのレインコートをきている。 「ど、どういうことだ!」 「ビールの残りに薬を入れたのよ」  少女は当然のように答える。 「薬だと!?」 「しずかにしなさい。私の質問に答えてくれたら、解《げ》毒《どく》剤《ざい》をあげるわ」 「お、おまえは何者だ?」 「時間がないわ。……マンション工事のコンクリートミキサー車事件をおぼえているわね?」 「……マンション工事だと?」  そんなものは無数にやっていた。 「私の親友が殺されたのよ」 「あ、あれか……」  鬼頭はようやく想《おも》い出した。 「あのマンション工事で買収工作をした暴力団の名前を教えて下さい」  少女は教室で質問するように言った。 「そんなことをきいてどうするのだ?」 「早く答えて。あと一分で舌が痺《しび》れてくるわ」 「天遊会じゃ……」  鬼頭は忌《いま》々《いま》しげに言った。 「さ、早く解毒剤をくれ」 「やっぱり……」  彼女は頷《うなず》いた。父親を死に追いやったのも、同じ名前の団体だった。 「小父さんと天遊会はどういう関係なの?」 「天遊会の会長とは戦争中からのつきあいだよ」 「〈戦争〉って、太平洋戦争ですか?」 「あたりまえだ……」  鬼頭のひたいに脂《あぶら》汗《あせ》が浮いてきた。相手が何を目的としているのか、さっぱりわからない。 「助けてくれ、舌が……舌が……」  少女は白手袋をはめ、ポケットからアイスピックを出して、鬼頭の片眼を刺した。さらにもう一本のアイスピックを残りの眼に刺した。  アイスピックは船の調理室にいくらでもあるのだ。さらに大きめのアイスピックを構え、体当りで老人の心臓に突き刺した。  ビニールのレインコートは返り血に塗《まみ》れている。彼女はレインコートを脱いで、宙に投げた。赤いレインコートは風にさらわれ、湖面に消えた。  彼女はかたわらの大テーブルの白布をとって、鬼頭の死体をおおった。  やがて、下船の合図のドラが鳴り始める。  下船を急ぐ子供たちの中に直美のあどけない顔があった。     4  東京のアパートに戻った翌晩、直美は冷たいシャワーを浴びて、頭脳を明《めい》晰《せき》にした。スモークド・サーモンを一キロほど丸かじりし、ロウファットミルクをらっぱ飲みした。  母親が十一時までスーパーマーケットで働く夜だった。帰宅は十一時半になる。それまでの二時間以内に天遊会の会長を殺さなければならない。  ミッキーマウスの顔がプリントしてある布の袋を抱え、アパートを出る。愛用の自転車ボレロBL—242のカバーを外した。スタートの時にふらつかず、坂道も、長い距離も軽く走れるシーソーマチック3というやつだ。  ロージー・プチRP—242Pも悪くはないのだが、もう少し身長がないと乗りこなせない。ルネCのRN—220Cはいかにも〈乙女の祈り〉風で華《きや》奢《しや》過ぎた。エリカEC—242も、もう少し身長が必要だろう。ラブラブのLL—222Sは名前が気に入らなかった。  ボレロBL—242は、彼女にしっくり合っている。操作もレバーを軽く押すだけであり、新宿歌《か》舞《ぶ》伎《き》町にある天遊会本部までは三十分とかからなかった。  天遊会本部は十数階のビルの八階全フロアを使用し、表向きはサラ金の看板を出している。鬼頭に教えられなくても、天遊会組員を皆殺しにするつもりだった直美はビルの内外を何度も調べ、会長の顔も眺《なが》めている。この辺りのピンクキャバレーで働く女たちの子供を預かる施設が同じビルの七階にあるので、まぎれ込んだふりをして八階を覗《のぞ》いたのだ。  ボレロBL—242をコマ劇場の裏にとめた彼女は、靖《やす》国《くに》通りの方に二ブロック歩いた。小さな花屋で花を三万円ほど買い求める。その金は鬼頭の財布から抜きとったものであった。  だれの眼《め》にも哀れな花売り娘としか見えぬ直美は、天遊会本部のあるビルの地下のバーへ入ってゆき、予定通り、ボーイに追い出された。  彼女はしばらくエレベーター・ホールで啜《すす》り泣く真《ま》似《ね》をしており、隙《すき》を見て、エレベーターに乗り込む。これで、一階の受付を通り過ぎることができるのだ。  八階でおりると、曇りガラスに金文字で〈天遊会本部〉と記したドアがあった。ためらわずに、そのドアを押す。 「いらん、いらん」  顳《こめ》〓《かみ》に蒼《あお》筋《すじ》を浮かせた、短い頭髪の男が飛び出してきた。 「きさま、だれの許可を得て花を売っているのだ!」  直美は花束をさし出した。花束の中に秘められたハンティング・ナイフが男の下腹部に深々と突き刺さる。 「な、なにをする……」  吹き出す血を両手で押えながら男は呆《ぼう》然《ぜん》とした。  彼女は黙ってナイフを引き抜いた。鋭利な刃が男の指を二本削《そ》ぎ落した。  男は床に倒れ、なおも〓《もが》いている。男の右手が動き、ベレッタ・ジャガーを抜き出した時、彼女はスパイク・シューズでその手を思いきり踏んだ。ベレッタ・ジャガーは床に転がる。  彼女のナイフは男の頭と首の境い目の延《えん》髄《ずい》を抉《えぐ》った。彼女は身動きしなくなった男のホルスターから消《マ》音《フ》装《ラ》置《ー》を抜き出し、ベレッタ・ジャガーに取りつけた。この拳《けん》銃《じゆう》を手にするのは初めてだが、市販の銃砲雑誌から充分な知識を得ていた。  ベレッタは思っていたよりも軽かった。しかし、消音装置でエネルギーを弱められるので、二十二口径ほんらいの力は出ないし、弾速も落ちるはずだ。彼女はデスクの下に隠れた。  ——なんだ? どうした?  二人の男が走ってくる。上着にホルスターのふくらみが感じられるところからみて、どうやら用心棒らしい。  一人が頭上にきたとき、彼女はデスクの下から引金を絞った。顎《あご》の下から脳天へとリム・ファイア弾に貫かれた男は棒立ちになる。もう一人の男がこちらを向いた瞬間、彼女は第二弾を放つ。男の両眼のあいだにもうひとつ眼ができ、二人は折り重なって倒れる。 「どういうことじゃ?」  眼を見開いている禿《はげ》の男は会長だった。 「おまえ、気でも狂うたのか?」  彼女は殺し足りなかった。少くとも二十人は殺さなければ、怒りがおさまらなかった。 「私の名は小暮です。覚えがありませんか」  彼女はベレッタを構えた。 「あなたに千坪の土地を奪われた小暮の娘です」 「わ、わかった……」  禿げ男の白ズボンの前に濃いしみがひろがってゆく。 「しかし、あの土地は、もう、わしのものでも、住本商事のものでもない。幽霊会社が持ち主だが、本当は官房長官の笹田のものだ。説明してもわかるまいが、奴《やつ》の政治資金の……」  かすかな音とともに、禿げ男の片耳が消えた。 「助けてくれえ! 一万円——いや、一億円やる。税金がつかぬ金を、一億円、この場であげる……」  彼女はゆっくり引金を絞る。消しゴムで消したように、もう一つの耳も消えた。 「いや、二億だ。二億、この場で……」  会長は崩れかかり、拝むように言った。  直美はナイフを出して、会長の喉《のど》を掻《か》き切った。切口から血と気《き》泡《ほう》を噴出させながら会長の手足はしばらく痙《けい》攣《れん》していた。     5  狛《こま》江《え》市にある笹田官房長官の屋敷は敷地が二千坪、建坪が三百坪もある。  門の脇《わき》に臨時の警官派出所があり、常時、一名が警戒にあたるほか、高い塀《へい》のまわりを数名の警官が自転車でまわっている。  老《ろう》獪《かい》で用心深い笹田は、その日、裏門をあけるとしか、警官たちに言わなかった。運び込む品物を口走ったら、どんな混乱が起るか知れたものではない。 「ふむ……」  無事に据《す》えつけ終えた核シェルターの中のソファーで笹田は一服していた。アメリカの「悪魔《サタン》」という煙草《たばこ》である。  日本庭園を作る工事の中にシェルター設置を混ぜたのはわれながら頭が良かったと思う。カミソリと異名をとり、警察畑《ばたけ》を歩いてきた内務官僚の笹田にとってこんなことはそうむずかしくはない。戦時中に中国の民衆にアヘンを売って得た利益が彼の政治活動の基礎になっているのだ。 「けっこうなものじゃないですか」  別の椅《い》子《す》にすわった総理大臣が微笑を浮べた。 「私がワシントンで見た核シェルターにくらべて、ひけをとりませんよ。西独製ですかな?」 「フランス製だときいたが……」  九十歳を過ぎて矍《かく》鑠《しやく》としている元老級の老人が呟《つぶや》いた。 「戦闘機も、ヘリコプターも、さいきんはフランス製が性能が良いようです」  元海軍軍人の総理はにんまりと笑った。 「しかし、笹田君……官房長官が核シェルターを買ったとなると、マスコミに叩《たた》かれるぞ。大丈夫かね」  老人が不《ふ》機《き》嫌《げん》そうな声を出す。 「みんな、口がかたいはずです。奴らの脛《すね》の傷はすべて私のノートにあります。たとえ、外人であろうとも」  笹田は唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。 「庭師に化けた作業員どもはどうなるんです?」  総理は不安げにたずねた。 「そうですな」と笹田は他《ひ》人《と》事《ごと》のように言った。「今夜、全員が軽い事故にあいます。ある病院にかつぎ込まれて、結局、植物人間になるでしょうな」  元老も総理も沈黙した。あらゆる場所に笹田の手がまわっている。次の総理になるための手を着々と打っているのだ。 「わしも……」  重苦しい空気をはらいのけるために元老が発言した。 「ひとつ、シェルターを買うとするか」  三人はうつろな笑い声をあげた。  がーん、と音がしてドアがしまった。 「……おかしい」  笹田が立ち上った。 「だれかが外からしめたようだ」  自動的に明りがついていた。 「今夜は孫の友達が集まることになっとるので……子供がいたずらしたのかも知れん」  笹田は受話器を外して、母《おも》屋《や》のボタンを押した。 「音がしない。線をつないでなかったのかな」 「換気装置を動かしてみるか」  煙草のけむりが苦手の元老がエアコンのスイッチを入れた。  凄《すさま》じい煙が入ってきて、元老は噎《む》せ返った。バルサンと呼ばれる殺虫剤の煙に似ていた。  総理が立ち上り、スイッチを切った。 「おかしいな」  笹田はドアに右手をかけて、思いきり、引いた。同時に、白いものが閃《ひらめ》いた……。  塀の外に立っていた直美は爆発のショックがあまりにも大きいのでたじろいだ。地面が揺れ、足元のアスファルトに亀《き》裂《れつ》が生じた。  爆薬の量をまちがえたのだろうか? 母親の本《ほん》棚《だな》にあった『処刑者に明日はない』という暴力小説の主人公と同じことをしただけなのに……ボンド糊《のり》を加えたのが、まずかったのかも知れない。  ミッキーマウスの袋を抱えて門の前をうろうろしていた直美に、警官が「早くお入り」と言ってくれたのだった。門を出るときにも別に咎《とが》められなかった。 (これで、おしまい……)  塀の上の松の枝に笹田の生首がひっかかっている。テレビで見なれた顔だった。  直美はゆっくりと歩き出した。 (復《ふく》讐《しゆう》は終ったわ)  警官が走り、パトカーの音が近づいていた。これから本当の休暇が始まるはずだった。 「夏休みの宿題、少しはやったの」  新聞を見ていた母親が不意にたずねた。 「う、う……」  直美の答えはあいまいだ。 「これから、少しずつ……」 「駄《だ》目《め》じゃないの、それじゃ!」  母親はかっとなった。 「毎日少しずつやらなきゃ駄目と言ったでしょう。先生に注意されてるんだから。おまえときたら、毎日、テレビばかりみていて……」  母親は新聞を畳に投げつけた。  新聞の一面は東京港の埋め立て地で身元不明のソ連人の死体が発見されたことを告げていた。  アメリカのタカ派寄りの総理大臣暗殺をめぐって、CIAとKGBが血みどろの死闘をつづけていることは報じられなかった。その死闘がなぜ必要なのか、戦いの当事者たちにもよくわからないのだった。 嵐《あらし》を呼ぶ昭和史・抄  おれは大きなデスクの蔭《かげ》に隠れていた。  神州男児ともあろうものが、こんな恰《かつ》好《こう》をしているのは屈辱だった。  だれも信用しないだろうが、そこは大連の旧「桜ホテル」。ソ連軍が接収し、司令部にしているのだ。ところもあろうに、その会議室の床《ゆか》で、日本人の人妻や娘たちがモンペをはぎとられ、ソ連兵どもに犯されているのだった。  おれは十九歳、ボクシングと空手では大連一と謳《うた》われた天才だったが、拳《けん》銃《じゆう》を持ったソ連兵相手では分《ぶ》が悪い。一人二人は空手チョップでやっつけたとしても、ソ連軍がおれの家族を殺しにくる危険があった。  そのとき——。  なぜ、そんなものがあったのか、いまだに不思議なのだが、床の隅《すみ》に真新しいドラム・セットが輝いているのが眼《め》に入った。おれは音を立てぬように匍《ほ》匐《ふく》前進し、新品のスティックに手をのばした。  スティックの感触は最高だった。一瞬、おれはすべてを忘れて——この集中力がおれの天才の根《こん》元《げん》であると信じるのだが——ドラム・セットを叩《たた》き出した。チック・ウェッブがおれに乗りうつったのだ。  あとのことは、おれにもよくわからない。日本女性を犯すのをやめた兵隊の一人がサックスを吹き、もう一人がバラライカを抱え、とにかく、「黒い瞳《ひとみ》」を演奏していたのである。もちろん、もっとも受けたのは、おれのドラム・ソロだった。  気がついたとき、気の毒な女性たちは姿を消しており、どこからともなく集ってきた数十人のソ連兵たちが手に手に日の丸の小旗を振っていた。アンコール、アンコールの声がとまらない。  おれはスティックでVサインを作ってみせた。同胞女性たちが殺されるのを救えただけで満足だった。  不意に、おれの背後《うしろ》の壁が左右に開き、司令官がピアノごと迫《せ》り出してきた。〈西欧派〉とでもいうのか、ソ連人にしては垢《あか》抜《ぬ》けた男で、たしかアンドロポフといったと思う。 「黒い瞳《オチチヨルニア》」と呟《つぶや》いて、司令官野郎は唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。そして、軽《けい》蔑《べつ》しきった目つきでおれを一《いち》瞥《べつ》し、どこかできいたことのある曲を弾き始めた。超人的なおれの記憶力は、かつて聴いた米軍放送を頭の中で手《た》繰《ぐ》り出していた。グレン・ミラーの「イン・ザ・ムード」にまちがいない。むずかしい曲だが、譜面さえあれば、なんとかなる。  司令官は内ポケットから譜面をとり出して、おれに投げつけた。こいつは挑《ちよう》戦《せん》状《じよう》だと思った。  おれは初《しよ》見《けん》で、「イン・ザ・ムード」をこなした。こなしただけでなく、司令官のミスタッチさえ聴きとった。所《しよ》詮《せん》、おれの相手ではなかったのだ。  立ち上った司令官は熱烈な拍手をしながら、おれに言った。 「ブラボオ! きみをモスクワの人民芸術学院へ送りたい!」  おれは首を横に振った。 「それだけおっしゃるなら、アーティストの身分証明書を発行してください」  この証明書があれば、夜間でも自由に歩きまわれるのである。 「お安いことだが、きみにはモスクワへ行ってもらいたいのだ」  おれはにっこり笑った。ノー、と答えたつもりだった。     壱  おれはアンドロポフ(この名前が正確かどうかは自信がない)にすっかり気に入られてしまった。グレン・ミラーが実はウクライナ人だと主張することを除けば、この男は良い奴《やつ》だった。  昭和二十二年春、おれの内地引き揚げの時期が近づくと、アンドロポフは苛《いら》々《いら》し始めた。 「おまえを日本にかえしたくない。日本に帰れば、おまえはたちまちアメリカ風の資本主義的ドラマーになってしまうだろう。私はおまえを人民に奉仕する芸術家にしたいのだ。いいか。おまえの帰国を実力で阻止してやるぞ」  仕方がない。  おれは実力で逃げることにした。  敗戦まで、おれは満州飛行学校のテスト・パイロットをしていたので、飛行機の操縦は得意であった。風速四十メートルの中でアクロバット飛行をやったことさえある。  おれはソ連の戦闘機にドラム・セットを積み込んで逃げることにした。家族はすでに船で引き揚げていたので、後《こう》顧《こ》の憂《うれ》いはなかった。おれは右手で操《そう》縦《じゆう》桿《かん》を握り、左手のスティックでドラムを叩いていた。  日本海を越えるのは容易だった。問題は本土着陸にあった。  おれはドラムのことだけを考えていたので、あらゆる飛行場が米軍の管理下にあるのを忘れていた。高射砲の音とともにエンジンが火を噴いたのには、さすがのおれも肝《きも》を冷やした。  いきなり、ソ連機が姿を見せれば撃ってくるに決っている。米ソの冷戦はすでに始まっていたのだ。  機体は物《もの》凄《すご》い速度で急降下した。不時着さえ不可能だった。  おれは意識を失った。  眼をさましたのは小倉の米軍ホスピタルの一室だった。 「あなたは天才だ」と医師の一人が呟いた。「手術のさいちゅうでも、両手で架空のドラムを叩いていましたよ」 「つまり、木《き》口《ぐち》小《こ》平《へい》です」  と通訳の日本人が言った。  おれは英会話に自信があった。冗談の一つも言ってアメ公を笑わせてやろうと思ったが、唇が動かなかった。しかし、医師が胸につけている名前だけは、しっかり頭に入れた。  全身のギブスが外されたとき、おれはその医師にきいた。 「クルーパさん。あなた、まさか、ジーン・クルーパの兄弟じゃないでしょうね」 「私はジーン・クルーパの兄だよ。むかしはドラムをやっていたものさ」 「ぼくは戦前に『聖林《ハリウツド》ホテル』という映画で弟さんの演奏を見ています。バズビー・バークレイの作品でした」 「ベニー・グッドマンの『シング・シング・シング』が入ってるやつだな。一九三七年の映画だった」  彼は溜《ため》息《いき》をついた。 「私もチラッと出演していたのだ」 「弟さんはぼくの神様ですよ」  おれは強調した。 「弟の名前を知っている日本人に初めて会ったよ」  彼はショックを受けたようだった。  やがて、おれは両親のいる横浜へ向った。横浜は日本人よりアメリカ兵の数が多いほどで、バンドの仕事はいくらでもあった。  最初の仕事場は横須賀の進駐軍専用クラブだった。九人編成のバンドで、グレン・ミラーのダンス用ナンバーばかりを演奏したのだが、ドラムスがつい光ってしまい、GIたちがダンスをやめて聴き惚《ほ》れていた、と、あとできかされた。  演奏が終るやいなや、クラブ・マネージャーのアメ公がやってきて、海軍士官がおれに会いたがっていると告げた。 「あのようなドラムを初めて耳にしました」  士官はおれに向って土《ど》下《げ》座《ざ》した。 「金に糸目はつけません。日本中の基地をまわる仕事を手伝ってください。ドラム・セットは最高の品物を差し上げます。月給は百万円でいかがでしょうか」  おれはひっくりかえりそうになった。サラリーマンが月給二千円、ドンバで三千円、バンド・リーダーで四千円の時代の百万円である。 「お酒と女性を付けます。白人の女でも調達可能です」 「しかし、バンドはぼくひとりでは仕様がないでしょう」  返事をし兼ねていると、脇《わき》できき耳を立てていた八人のメンバーが、全員、土下座をした。 「これは良い仕事です。どうぞ、バンド・リーダーになってくだせえまし。お願《ねげ》えしますだ」  たのまれると、いやといえないのが、おれの欠点である。つい、その気になってしまう。アゴ・アシ・コーマン付き、月給百万円のリーダーがこうして誕生した。アシといっても、ついこの間まで日本爆撃に使っていたB29である。このB29には、バスルームとサウナがついている。高松というおれの名前は、アメ公が発音しにくいというので、チャーリーにした。 〈B29チャーリー〉こと、チャーリー高松のこの時期の活動は、日本のジャズ史には、いっさい書かれていないはずである。おれ以外のメンバーは戦前派の人々だったので、もう亡《な》くなっているし、おれは沈黙を守ってきた。  三カ月の活動を終えたとき、おれはマッカーサー元《げん》帥《すい》から感謝状と勲章を貰《もら》った。以後、マッカーサーは、なにかにつけ、おれに助言を求めるようになった。     弐  おれは偽善者ではないから、きれいごとは言わない。しかし、はっきりさせておきたいことがある。 〈B29チャーリー〉の時代から現在(昭和五十八年)まで、おれは一度も金で女を買ったことがないのだ。赤線廃止後にできたなんとか風《ぶ》呂《ろ》というものにも行ったことがない。  そんな暇はなかった。女たちがおれのところに押しかけてきて、追いかえすのに忙しかったのだ。おれのマネージャーは女たちを追い払うのが主な仕事になり、ひょんなことから、その中の一人と結婚する羽目になった。  話を昭和二十二年秋に戻《もど》そう。  そのころ、おれは、ある人妻と熱い関係にあった。女の亭《てい》主《しゆ》は鉄道関係の高級官僚だったが、仕事仕事の連続でほとんど家に帰らないらしい。女は元華族で、いまの言葉でいえば〈翔《と》んでる女〉だった。  忙しい中を縫って、おれは高《たか》輪《なわ》にある女の屋敷にかけつけ、老執事に、ラッキーストライクをワン・カートン、プレゼントした。老執事には洋モク、女中には角砂糖、と、口止めの品が決っていて、ある日、女の寝室に入り、ことに及んだとき、仕事でノイローゼ気味になった亭主が帰ってきた。全裸のおれは亭主とご対面、というわけだ。亭主は陰気な眼でおれを睨《にら》み、姦《かん》通《つう》罪《ざい》で訴えると呟いた。  まずい、と、おれは思った。おれの人気のことだ。おれの名前は急速にジャズ関係者に知られつつあったから、こんなことで犯罪者になったら、元も子もない。仕事先である都内のクラブにかけつけると、マッカーサー元帥のデスクの電話番号をダイアルした。(この電話番号を知っているのは、日本人では、おれだけだった。)  ——ハロウ、チャーリー。  相手がおれだとわかると、マッカーサーは急に愛想がよくなった。  ——ラドウィッグのスネアー・ドラムは届いたかね?  ——ありがとうございました。  と、おれは早口で答えた。  ——どうかね? U・S・アーミーのために、もうひと働きせんか。GIたちは〈B29チャーリー〉が来るのを待ち望んでおる。  ——やってみたいのですが……少々まずいことになりました。  ——なんだなんだ。はっきり言いなさい。  ——日本には姦通罪というものがありまして、人妻との恋愛は犯罪になるのです。私はその罪を犯しまして……。  ——ホーソンの『緋《ひ》文《もん》字《じ》』の世界だな。そいつは知らなかった。  ——ぼくは犯罪者になるでしょう。  ——なんという野蛮さだ。個人の恋愛を法律でしばろうとするのは良くない。  ——封建制度の名残りです。  おれは駄《だ》目《め》押しをした。  ——よろしい。断《だん》乎《こ》、粉砕してやる!  マッカーサーは力強く叫んだ。  奴は約束を守った。その年の十一月十五日に姦通罪は廃止になった。     参  おれは大きな事件にかかわりを持ちたくなかった。だが、事件がおれを巻き込みにくるのだ。昭和二十二、三年は、そうしたことで忙しかった。  たとえば帝銀事件だが、新橋のダンスホールでおれのドラムに痺《しび》れた真犯人が、自首すべきかどうか、おれに相談してきたのには驚いた。たしか旧関東軍731部隊の関係者だったと記憶する。  おれは、自首をすすめたが、男はそれきり消息を絶ってしまった。男を殺《け》したのがだれか、ほぼ推測はつくが、いまはまだ語りたくない。  吉田茂にもう一度総理大臣をやらせてみたら、とマッカーサーに助言したのは、何をかくそう、このおれだ。吉田の内閣は、たしか昭和二十九年までつづいたと思うが、これが日本の〈戦後〉を決定した。  とはいっても、おれは怪しい金には関係しなかった。占領軍の残したG資金というのが時々話題になるが、あれはおれとは無関係だ。おれはドラミングの向上にしか神経をつかいたくなかったし、金は掃いて棄《す》てるほどあった。(G資金関係の仕事はおれの仲間の一人がやったのだ。奴はその金を某所——Gスポットと呼ばれる——に隠《いん》匿《とく》した。)  じっさい、おれは金の使い道に困っていた。昭和二十三年暮の時点で、家一軒、別荘三軒、新宿のビルと土地を持っていた。ギャンブルは、のべつ、やったが、損をしたことがない。〈B29チャーリー〉は、いつの間にか、〈ビリケン・チャーリー〉に変っていた。(ビリケンの意味がわからない若い方は手元の国語辞典をひいて欲しい。)  仕方なく、バラックの家々に百円札の束——千円札はまだなかった——を投げ込んで歩いたが、警官に怪しまれ、とうとう、人眼につかぬ場所で燃すことにした。巡業先のあちこちの山の中で、札束にガソリンをぶっかけて燃やしたが、ひとつだけ失敗をしたな。  昭和二十四年の寒いころだ。奈《な》良《ら》の進駐軍オフィサーズ・クラブに出たあと、おれは札束をジープに積み、暗がりに運んで火をつけた。  それは別に悪いことではないのだが、すぐ近くの寺に飛び火して、そこの金堂を燃やしてしまったのだ。たしか、法隆寺という寺だ。壁画とか、ずいぶん貴重なものを焼いてしまったようだ。     肆  昭和二十六年だった。  NHKテレビの実験放送におれのバンド(当時はチャーリーズ・ジャズ・トリオ)が出演した。  おれはテレビジョンの時代がくると見ていたので、出演交渉に喜んで応じた。パイオニア精神が旺《おう》盛《せい》なおれは、新しいメディアをつねに先取りしてきた。  この年の四月、マッカーサーと別れの酒をくみ交わした。ご存じのように、朝鮮戦争の方針をめぐって、奴はトルーマンと衝突し、くびになったのだ。おれは奴に法《はつ》被《ぴ》を着せて、新宿西口の赤《あか》提《ちよう》灯《ちん》に案内した。トルーマンを恨んでいる奴は、時々、昂《こう》奮《ふん》して、英語を叫ぶので閉口した。奴は「日本人は他《ほか》のすべての東洋人と同じように、勝者にへつらい、敗者を軽視する傾向がある」とおれに語った。  このころから、いわゆる〈ジャズ・コン・ブーム〉が始まった。〈ジャズ・コン〉とは、ジャズ・コンサートの略称である。  それから数年間つづくジャズ・ブームの台風の目は、むろん、このおれだ。劇場、クラブ、ラジオのほかに、地方公演がある。地方では一日十回というステージがざらだった。とにかく観客が多くて、後楽園スタジアムや甲子園球場でもコンサートをおこなった。「金は要らない、眠らせてくれ」という気持だったが、おれが姿を見せないと、客が承知しないのだから仕方がない。 〈ジャズ・コン・ブーム〉については、今さら話すこともない。おれにとって大事なのは、昭和二十七年、ジーン・クルーパ・トリオの来日である。  ジーン・クルーパはたしかに凄かった。テクニックよりイマジネーションがすぐれており、おれは感動したのだが、翌年、JATPオールスターズで再来日したとき、おれとクルーパが火花を散らしたドラム合戦のことはあまり世に知られていない。あのジーン・クルーパがおれに土下座したなんて、自分の口からは言えないじゃないか。  NHKテレビの本放送は、おれの笑顔で始まった。昭和二十八年二月一日のことだ。  スタジオに応接間のセットを作り、おれが視聴者に話しかける、という趣向だった。そのころのおれは、一バンド・リーダーというよりも、日本の芸能人代表という存在だったから、おれ抜きでは放送が始まらなかったのだ。そのころのテレビは、在日米軍の家族たちを考慮して、日本語で話したあと、同じことを英語でくりかえさなければならなかったから、おれの会話能力がものを言ったのだ。  折しも、〈ジャズ・コン・ブーム〉の頂点だったから、おれはセットのソファーで転《うた》た寝《ね》をしてしまい、気がついたときには、女性アナウンサーがおれの上に乗って激しく腰をつかっていたことがあった。  ついでに喋《しやべ》っておくが、同じ年の夏から始まった民放テレビによってひろまったプロレス——あれも、おれが生みの親だ。大連時代のおれの得意技だった空手チョップを力道山に教えてやったのだ。  厳密にいえば、以前にナイトクラブで、やくざ三人にからまれたとき、おれが見せた技を若き日の力道山が目撃していたのさ。 「すごいですねえ、チャーリーさん。教えてくださいよ」  と、奴がいうので、大理石の柱を一撃したら、ナイトクラブの天井が崩れ落ちてきた。  昭和二十八年といえば、NHK紅白歌合戦の公開放送が始まった年だが、この年、白組の出場者はおれひとりであり、ドラムを叩《たた》き、歌をうたった。のちに、この光景は、「嵐《あらし》を呼ぶ男」という映画に取り入れられた。     伍  昭和三十年ごろ、〈ジャズ・コン・ブーム〉は急速に終った。  おれの考えでは、太平洋戦争が終ったとき十歳前後だった連中が、ハイティーンになったとき爆発したのが、〈ジャズ・コン・ブーム〉だったと思う。この連中はアメリカの占領下で思春期を迎えている。つまり、わがはい、チャーリー高松は、若者にとって、アメリカそのものだったのさ。おれの全身からアメリカが匂《にお》ったのだろう。  ところが、昭和三十年から事情が変ってくる。  だいいち、サウンドが変った。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」なんてのが出てきやがった。  その翌年がプレスリーの登場だ。キング・エルヴィス。こいつはショックだったぜ。  ロカビリーの日本版〈ウエスタン・カーニバル〉が一世を風《ふう》靡《び》したのは昭和三十三年か。日本の大衆音楽は、しばらく、ロカビリー一色になる。  ジャズの方はどうかというと、ダンモ、つまりモダンジャズだな。これが、知識人というか、文化人向きの気どったものになる。日劇を満員にしたおれたちとは方向がちがう。おれたちの持っていた大衆性とパワーは、ロカビリーの若僧どもに吸い取られてしまったのだ。  もっとも、ブームが終ったからといって、おれはびくともしなかった。芸能界での顔以外に、政治家の相談役というもう一つの顔があったからだ。  マッカーサーいらいの因縁で吉田茂にはいろいろと助言したし、鳩山一郎とか岸信介といった、お互い仲の良くない連中にも人の和を説いてきかせた。昭和三十年秋に自由党と民主党をくっつけて、自由民主党と名づけたのも、おれだった。  昭和三十三年で、ジャズ・ミュージシャンとしてのおれの活動は一段落したと考えてもらっていい。木田光三の『日本ジャズ史試論』には、当時のおれをこう記してある。 〈戦後のジャズ史をリードしてきた偉大なるドラマー、チャーリー高松は第一線からしずかに姿を消した。チャーリーの派手で傍《はた》迷《めい》惑《わく》なまでにエキサイティングなプレイや真偽定かならぬホラ吹きの癖は業界内で愛されていたが、あの駄《だ》ボラも、もはや聞くことができない。しかし、彼こそは日本ジャズ史上最大のドラマーであったと特筆大書しておきたい。〉  木田はおれのバンドの坊やをしていたことがある。ドラマーを志していたが、あまりに下《たー》手《へー》だったので、おれがとめたのだ。評論家になってよかったのじゃないか。  しかし、この文章はひどい。最後でいちおう持ち上げてはあるものの、〈傍迷惑〉とか〈駄ボラ〉とか、おれの〈偉大〉さを傷つけているじゃないか。奴《やつ》のドラムを「チンドン屋じゃねえんだぞ、ばかやろ」と叱《しか》ったのを、まだ根に持っているとみえる。  昭和三十三年といえば、年の暮に一万円札が発行され、おかげで、大分、ラクになった。  そのころはキャッシュ・カードなんてものはなかったから、どこへ行くにも、千円札をボストンバッグに詰めて歩かなければならなかった。都会なら、おれの顔ですむが、地方じゃわかってもらえない。テレビもまだ行きわたっていなかったのだ。  岸信介はひとの言うことをきかなかったが、岸内閣の骨をひろった池田勇人は良い奴だった。日本を経済大国にするための国民所得倍増計画、実は、あれも、おれが示《し》唆《さ》したのだ。池田は男らしい奴だった。     陸  これ以後のおれの人生は、ざっくばらんに語ることが憚《はばか》られる。各方面に差し障りが多過ぎるのだ。  たとえば、田中角栄の密使として日中国交正常化に一役買ったこと、中国の要人からパンダに次ぐ珍獣マヌルネコを貰《もら》ったことなど、それだけで一冊の本になるようなサスペンスフルな物語であるが——得意の中国語が役に立ったのは言うまでもない——おれは謙虚な人間だから、まだ語りたくない。  昭和三十九年に戻《もど》ると——。  この年の十月一日から東海道新幹線が走り始めたのだが、初日に、一等車(今のグリーン車だ)一輛《りよう》をフルに使って、久しぶりにおれのドラムが鳴り響いた。メンバーは昔のトリオである。  新幹線営業記念のイヴェントというので、喜んで引き受けたのだが、あとで、隣の車輛に騒音がどのくらい響くかというテストをしたときかされた。〈騒音〉とはなんだ、〈騒音〉とは!  温厚なおれも、むっとした。おれ流の方法で国鉄に復《ふく》讐《しゆう》してやることにした。——その結果は……おわかりであろう。国鉄の現在の惨状を見るがいい!  翌年(昭和四十年)で忘れられないのは、神奈川の座間で起った〈ライフル魔事件〉だ。ライフル狂の少年が警官二人を殺傷し、渋谷まで逃げて、銃砲店に立てこもり、ライフルを乱射した事件だ。  カーラジオでニュースを耳にしたおれは、すぐに渋谷にかけつけた。  少年は店員を人質にとっていた。おれはかまわず、犯人に向って歩いた。左足を弾丸が掠《かす》めたが、おれは平気だった。歩きながら、少年の顔を睨みつけてやった。  満州で野生の虎《とら》を睨みかえした経験があるおれにとっては、なんでもないことだった。ライフルを持った少年は失禁し、つぎに失神した。  この事件いらい、修《しゆ》羅《ら》場《ば》が大好きなおれの血がよみがえった。  昭和四十二年、おれは外人のプロモーターにヴェトナム駐在の米軍慰問旅行の話を持ちかけられた。  いくらなんでも戦場は——と、ためらったが、二十年まえにおれの面倒を見てくれた米軍の海軍士官が現れて、またしても土下座したので、引き受けざるを得なかった。もっとも、奴は原子力空母の艦長に出世していたのだが。  テナー・サックス、ベース、ギターと若い連中を集めて、サイゴンに近いタンソニュエット空港に着陸したとき、野砲の音がきこえ、おれ以外の三人はぶるぶる震えだした。  サイゴン市内のホテルは冷房がなく、大砲や機関銃の音がきこえた。だが、おれにとっては快いBGMみたいなもので、かえって、よく眠れた。 「チャーリーさん、よく寝られましたね」 「ぼくら、死ぬかと思いましたよ」  それまでは時代遅れの天然記念物を眺《なが》めるようにおれを見ていた若者の眼《め》に尊敬の灯《ひ》がともった。 「機関銃の音は子《こ》守《もり》唄《うた》さ」  おれは言ってやった。  演奏の合間におれはジェット機の操縦をおぼえた。悪《わる》乗《の》りしたおれはファントム重戦闘機に乗り、ハノイの上空まで飛んだ。ついでに敵のミグ戦闘機と空中戦さえ演じた。  こう喋ったからといって、おれを好戦的な人間と思わないでいただきたい。おれは平和主義者であり、戦争を憎み、反核の署名だってしている。  その証拠というわけでもないが、のちに、ソ連、中国、と演奏旅行をして歩いた。要するに、世界中がおれを待っているのだ。ニューヨークへ行き、カーネギー・ホールに出た経《いき》緯《さつ》は、今さら語るまでもあるまい。おれのドラムで世界が一つの輪になるのだ。  義理や人情を大切にしなければ、とおれは心から思う。フォー・ビート・ジャズだけでなく、ロック・ドラミングでも日本一と噂《うわさ》されているおれにも、そういう古いところがある。  長島茂雄とは、ふたむかしまえに二、三度、対談した程度で、あとは年賀状を交換する程度の仲だが、あの男が巨人軍監督をくびになったときは、なんとかしなければ、と思った。  巨人軍を弱体化させてやろう、と思った。この陰謀の詳細を明らかにすることはできないが、徐々に効を奏しつつあるように思う。ヒントを申しあげると、アメリカでの助っ人獲得の点で……いや、やめておこう。まだ早い。早過ぎる。  おれがなぜ独身でいるかといえば——。  ここまで読んできた読者にはおわかりであろう。おれのような超スーパーな人生を送ってきた男は、結婚などする暇はないのだ。  愛人が何十人いるなどと言って、読者の反感を買いたくはない。(じっさいは、何十人などというものではない。三《み》桁《けた》である。)ソープランド行きもすすめられはするが、いかにスーパーなおれとはいえ、精液には限りがある。しかも、愛人候補はふえる一方で、予約のカードを発行しているくらいだ。昔はマネージャーがDDTを振りかけて女を追い払ったものだが、いま、そんなことをしたら、「フォーカス」のような雑誌に妙な写真がのるだろうな。  おれは、うっかり、口笛も吹けないのだ。口笛を吹いたとたんに、マンションのドアを吹っとばして、女どもが殺到してくる。——だから、おれは七つのマンションを転々としながら、電話をかけるときは公衆電話を使わざるをえない不便な生活を送っている。この状態をなんとか乗りきれたら、その時こそ、もっと奥深い話をおきかせできるだろう。 発 語 訓 練  ミシガン州アナーバーにあるミシガン大学で私が日本語の訓練を受けたのは一九四四年のことであった。  私のクラスは、ミシガン大学の陸軍の日本語学校第四期で、百六十五人の兵士(私を含む)と十三人の将校で構成されていた。  私たちはいずれも日本語の読み書きをマスターしており、きたるべき日本占領に向けて、あらゆる知識を吸収しつつあった。たとえば、日本語の会話のニュアンスを会《え》得《とく》するために、全員が映画「愛《あい》染《ぜん》かつら」と「支《し》那《な》の夜」を十回以上も観《み》る、といったように。  私たちは、やがて、語《ご》呂《ろ》合せと洒落《しやれ》に熱中した。 「どうですか?」 「いえ、鉄です」  教官はこの洒落を〈きわめてハイブラウ〉と評価してくれた。 「向うの空地に囲いができたね」 「へい」  この会話は教官が教えてくれたものである。日本の古いスタンダップ・コミックの初歩のギャグの一つだそうだが、私ははじめ、どこがおかしいのかわからなかった。〈囲い=塀《へい》〉というのが、感覚的に理解しがたかったのである。私たちの教官は、そうしたスタンダップ・コミックのレコードを持っていて、ひとりで笑う趣味があった。彼は、遂《つい》に、この洒落のヴァリエーションを作り出した。 「向うの空地に塀ができたね」 「かっこいい」  教官は独得なジャパノロジストとして、後年、『菊と笑い』という大ベストセラーを出すことになるのだが、そのころは単なる変人に過ぎなかった。  戦前にトーキョーに住んだことがあるという彼の言葉は疑わしいものであった。しかしながら、ブラウンのキモノを着て、黒いハオリをまとい、大きな扇子《フアン》を手にした彼が四角いフトンの上に正座している姿は、とてもハーヴァード出の秀才とは見えなかった。ときには、黒い眼鏡をかけ、紙で作った出っ歯を口に入れて、トージョーの真《ま》似《ね》をすることがあった。 「ドウモスミマセン、というだけでは面《おも》白《しろ》みが足りない」  と彼は言った。 「ユーモラスな日本語を覚えなさい。いいかね。アーノネ、オッサン、ワシャ、カーナワンヨ!」  ワシャ、カーナワンヨ!  私たちは唱和した。その声はキャンパス内の家やクラブの窓ガラスをふるわせたほどだ。 「日本のスラングをマスターすること! これが日本人の中に溶け込むための絶対の条件である!」  そうして彼は、ミッタッシャーネー、というスラングを私たちに教えた。それは、ミットモナクテ、ショウガナイ、という呟《つぶや》きを、崩して、縮めたものらしかった。どのようなルートで彼が情報を得たのかはわからないが、米軍機の空襲が間近になったトーキョーで流行している言葉のようであった。  はるかのちに、日本に進駐した私は、彼が教えてくれた言葉の中に、間違いがあったことを知った。たとえば、男性用の便器をミズサシ(水差し)と教えたのは明らかに間違いであった。     !  短《たん》篇《ぺん》を書くのが苦手である。  苦手ではあるけれども、たとえば、『素晴らしい日本野球』という短篇で発語訓練をおこなうことによって、『ちはやふる奥の細道』を書くのが容易になったような功《く》徳《どく》もある。  かりに、売文という観点からみれば、ぼくの致命的欠陥は、〈同じパターンをくりかえすのが嫌《きら》い〉な点にある。  もしも、同一パターンをくりかえすとすれば、〈外人の日本誤解〉〈カルチュア・ギャップ〉だけで、かなりのヴァリエーションが可能になる。  ぼくの創作ノートをあけてみると、たとえば、「素晴らしい日本小説」というのがある。  これは、今まで海外に紹介された日本の小説は、すべてマイナーであり、大《おお》藪《やぶ》春《はる》彦《ひこ》氏の小説こそ日本文学の正道、メジャーであるという独断から成り立つ〈研究〉である。  同じタイトルの小説が、ぼくのノートに、もう一つある。これは、日本を舞台にしためちゃくちゃな小説で、主人公は〈イキ〉を追究するアメリカのスパイ(たぶんCIAの一員)である。風俗や時代考証はでたらめであり、明治・大正・昭和が入り混り、ところどころ、平安時代や江戸時代も入っている。  どうでもいいはなし、ひとつ。  このあいだ、アメリカで"Revenge of the Ninja"(「忍者の復《ふく》讐《しゆう》」)という映画が大ヒットしていた。  NYから一時帰国した友人にきくと、巻頭で金閣寺が映され、トーキョー=ジャパンと文字が出たという。金閣寺のまわりに鳥居があるというのも、いかにもアメリカ映画らしいのだが、ここに住んでいるのが伊賀流の忍者で、甲賀忍者に襲われたために、伊賀者一族はアメリカに移住し、碧《へき》眼《がん》の忍者が登場する段取りになる。あとのストーリーは、あまりにもナンセンスなので大笑いしてしまい、忘れた。(作っている側は大まじめなのだ。) 「素晴らしい東京地図」というのもある。これは、元GHQの上層部にいた老人の回想するトーキョーで、東西南北がでたらめなのである。 「素晴らしい日本経済」もあった。これは、アメリカの日本経済研究グループのでたらめなレポートである。  このシリーズは、「素晴らしい日本映画」とか、「素晴らしい日本料理」とか、いくらでも出来るのだが、書くまえに、どういうものになるか、わかってしまうので、いまや、魅力がない。三年まえに「日本野球」「日本文化」を書いたころは、書き上げるまで、どんなものになるか、カタチがつかめなかったのだ。  ノートには、まだまだ、アイデアが記してある。  たとえば、「日ソ映画シンポジュウム」。これは、じっさいに、両国の代表たちが交した会話の速記が手元にあるのだが、そのトンチンカンな食い違いを拡大し、グロテスクに歪《ゆが》めれば、ゆうに一篇の戯画・諷《ふう》刺《し》になり得る。 「たのしい猫《ねこ》の飼い方」。ハウ・トゥ物のパロディ。  いっとき、アメリカの書店で、ハウ・トゥ物のパロディをよく見かけた。「イタリア人になる方法」とか「オデッサ・ダイエット・ブック」なるもの。その辺から思いついたのだろう。  スペース・オペラ版『暗夜行路』——これは『暗夜行路』の主人公の性格が、もはや一般読者に知られていないという理由でやめた。もっとも、〈スペース・オペラ風〉は、ぼくには書けないし、そのための知識を仕込んだりするのは大儀だ。  冒頭から、こまかいギャグ、落ちまでできているのが、「運搬」である。ローレル=ハーディの短篇映画にヒントを得たのだが、これもいろいろ調べなければならない。苦労して調べるほどのことか、という気もする。これは、書けば、絶対に面白くなる自信があるが、まあ、たぶん、書かないだろう。  処女作(出版されたものとして考えればこうなるのだが)である『虚栄の市』が出版されたとき、「サッカレーに比《ひ》肩《けん》しうるような大小説ではない」という驚くべきとんちんかんな批評を書かれていらい、ぼくは見当違いの悪口には慣れていて、それでも、ふたむかし前の〈文壇人〉は、右のようにオーソドックスな(?)批判を加える程度には、糞《デツ》真《ド・》面《シリ》目《アス》だったといえないこともない。  それから二十年たった現在、文学そのものが多様化し、現実には文壇(なつかしいこの言葉!)が崩壊、拡散しているにもかかわらず、ある種の作家・編集者は、〈文壇〉といったものが存在するかのようにふるまっている。そのようにふるまうのは、現実が見えないか、あるいは見えないふりをしていたいのか、のどちらかであろう。  三年ほどまえに、筒《つつ》井《い》康《やす》隆《たか》氏は、次のような文章を書いた。  文芸雑誌のほとんどはなぜかしらこうした二、三ページの下世話なコラムを持っていて、低劣な興味に訴える話題で雑誌全体の文学的水準を、たとえ他《ほか》にいくら傑作を併載していてもこのコラムの為《ため》に印象的には週刊誌クラスにまで自分自身を貶《おとし》めてしまっている。真剣に言うのだが、これは本当にやめた方がいい。(『楽しき哉《かな》地獄』)  ここでの〈コラム〉というのは匿《とく》名《めい》批評のことだが、それからしばらくして、ぼくは、ある文芸誌の編集長に、ああいうものが、なぜ存在しているのか、とたずねたことがある。相手はこう答えた。 「〈文壇の権威〉といったものが存在していた時代には、あれなりに意味があったのです。いまは権威者がいないのですから、無意味です。うちでは、どんな批判も、すべて署名入りでやっています」  ぼくの疑問はごく単純なものであった。 1 ふつうの読者がたまたま文芸誌を手にしたとき、こうしたコラムは何を言っているのかわからない。 2 内輪の読者(つまり、その文芸誌の購読者)にしても、よほど屈折した人間でないかぎり、たのしい読物ではないし、さらに内部の関係者なら筆者の見当もすぐにつくだろう。 3 あっても無くてもよいページなら、一日も早くやめた方がいい。 4 しかし、なお、つづけるというのは、筒井氏のいう〈編集者の精神的均衡を保つためのもの〉かも知れない。 5 とすれば、問題は、編集者の見識にかかわってくる。  そういった考えからの質問であり、コラムの是非よりも、文芸ジャーナリズムの質についての疑問であった。そして、そうした疑問は、さいきん、文藝春秋の某文芸誌のコラムを読むに及んで、ますます深くなったのである。 〈つまらないものを読みました。W・C・フラナガン著小林信彦訳『ちはやふる奥の細道』。悪ふざけ。ナンセンス。……(中略・以下「大波小波」の執筆陣に当り散らしている)……パロディーであっても、風刺文学じゃござんせん。風刺文学でなくて結構、笑えればいいのです。芸術、そは市民へのサーヴィス。実の作者たる小林信彦氏も、それが本懐でしょう。〉  一読、太《だざ》宰《いお》治《さむ》の下手な文体模写(せっかくなら、もう少し、うまくやればいいのに)で、筒井氏の分類した〈形式だけをパロディにしたユーモアのない作風揶《や》揄《ゆ》〉にぴったりなのだが、ぼくにしてみれば、ナンセンスと諷刺をならべて、諷刺をよしとするこの種の書斎人的発想は、二十余年前とまったく同じもので、いまさら、それらは各《おの》々《おの》、長所と短所を持つのです、といった啓《けい》蒙《もう》的な説明はしたくない。そんな啓蒙ばかりやって、無《む》駄《だ》な時間を過してきたと思うからだ。  ぼくは、批評をすべてスクラップしておくことにしているが、『ちはやふる奥の細道』についていえば、 1 なんだかさっぱりわからない。 2 半可通風にわかってみせ、後ろの方に型通りの批判を少しつけ加える。 3 理屈抜きで、乗ってしまう。  と、批評は、この三種類しかないのである。某文芸誌のコラムは、1のケースであり、「わからないものを読みました」と素直に書くべきであり——もっとも、「わからない」からこそ「つまらない」のだが——そうすれば、文脈がはっきりするのである。  このコラムには、まだ、あとがあり、ぼくがひっかかったのはそちらの部分だ。 〈だが、私は無念だ。あれが単行本になって、本屋の店頭にならび、無邪気な読者の財布の紐《ひも》をゆるませるのに、私の匿名批評は、このストリップ劇場の幕《まく》間《あい》コントは、ついにかかる功名に縁がない。さもしい根性を笑いたまえ。〉  なーんだそーゆーことかと納得していただけたと思うが、結局、〈さもしい根性〉から出た文章なのですねえ。太宰治の下手な文体模写までして、こーゆーことが言いたかったとは、実に根の暗いはなしではありませんか。     !  教官のおかげで、私たちの日本語は、微妙に、というか、はっきりと、というか、とにかく、変化してしまった。 「スシハ、イカガデスカ。サケヲ、ドウゾ」  という会話が、 「すしを食いねえ。酒を飲みねえ。え、おい、大事な人を、ひとり、忘れちゃいませんか、てえんだ」  という具合になった。これらの言葉のおおもとは、教官が持っているトラゾーというフォーク・ソング歌手のレコードにあった。教官の頭の中では、日本の大衆文化に関する雑知識が渦《うず》を巻いており、アト・ランダムに噴出するので、日本語学校全体を混乱させるおそれがあった。  日本人らしい生活感情を身につけるために、戦時下の日本の歌をうたうことがあった。完全武装の米陸軍一個中隊が次のような歌をうたうのは、正気の沙《さ》汰《た》ではなかった。 歓喜あふるるこの土を しっかと我《われ》等《ら》ふみしめて はるかに仰ぐ大《おお》御《み》言《こと》 紀元は二千六百年 ああ 肇《ちよう》国《こく》の雲青し  他の中隊の連中が夜のマスターベーションの対象にしたのは、ラナ・ターナーやベティ・グレイブルの水着写真であったが、私たちは「支那の夜」の李《り》香《こう》蘭《らん》にあこがれていた。例の教官は李香蘭のブロマイドを大量に入手してきて、私たちに配った。 「あたしのあこがれはちがいますよ」  通人である教官は、ミチコ・クワノという女優を好んでいた。 「日本の田舎——とくに、四国の人里はなれた山奥には、ヨバイ(夜這い)という習慣がある」  と、私たちは教えられた。 「こんなすばらしい習わしを持つ国へ早く行きたいとは思わないか」  私たちは若かった。だから、だれもが李香蘭のベッドに夜這いをする夢想に耽《ふけ》った。(私は、アン・シェリダンでもよかった。)  しかし、いくら日本語を学んでも、日本および日本人は抽象的なものでしかなかった。  そのような私たちの不満に気づいた教官は、国家予算の一部を使って、キャンパスの片《かた》隅《すみ》にトーキョーの町並みを作った。〈リトル・トーキョー〉と呼ばれたこのオープン・セットは、私からみると、トーキョーよりも、エドに似ているようだった。火の見櫓《やぐら》や井戸があったが、いかに未開なトーキョーといえども、井戸だけではあるまい、水道が普及しているだろう、と私はひそかに思った。  ともあれ、私たちは、そこで、日本人になる生活訓練を開始した。     !  筒井氏の『楽しき哉地獄』の頁《ページ》を繰っていると、一九八〇年一月に亡《な》くなった塙《はな》嘉《わよ》彦《しひこ》さんのことがでてきた。ぼくの名前も出てくるこの文章を、ぼくは雑誌で読み、本になってからも読み直している。  一九七四年はオイル・ショックの翌年である。物価が高《こう》騰《とう》し、ぼくの生活はたちまち苦しくなった。  ぼく個人に関しても、いろいろなことがあり、行き詰りを打開するためにアメリカへ行った。仕事をするという条件で、飛行機代を負担してくれる出版社があったのだ。結局、仕事をする気が起らず、帰国してから、その金は返した。  八月には集中豪雨があり、葉山の家の庭が崩れて、トラブルが起きた。ツイていない時はこんなものだ。 「海」の編集者から、あいたいという電話があったのは八月二十八日だった。  そんな誤解をする人はないと思うが、ひとことお断りしておくと、ぼくは日にちまで記憶しているわけではない。日記をつけているのだ。  八月二十八日(水)晴——なんてことを憶《おぼ》えていられるはずはない。  翌日の日記に、ぼくはこう書いている。 〈私は大胆なフィクションで勝負すべきだし、それ以外にないという気が強くする。〉  まさか、同じ考えを持った編集者に、翌日、会うことになるとは知らずに。  八月三十日(金)雨。  ワーナー・ブラザースの試写室で、トリュフォーの「アメリカの夜」を観《み》た。となりの席に鈴木清順さんがいて、一瞬のうちに雪景色を作る道具は、日本にはない、とぼくに言った。  そのあとで、「海」の編集者であるところの塙さんに会った。  中背で、がっしりした体格の塙さんは、いわゆる〈文芸誌の編集者タイプ〉ではなかった。  人なつこく笑って、いきなり、 「小林さんはいままでの日本文学にはないタイプの作品が書ける人だと思います」  と言った。  喜ぶよりは呆《あつ》気《け》にとられた。こんな人がいるのが信じられなかった。 「想像力を駆使した作品をお書きになりませんか、『海』に?」  塙さんはカート・ヴォネガット・ジュニア(当時は〈ジュニア〉が付いた)の最新作の話をしてくれた。教えてくれた、というのが正しいだろう。 「近々、ヴォネガット・ジュニアの特集をやります」  別れぎわに、そう言った。  塙さんは、ぼくのどの作品を読んでいたのだろう? その年の「新潮」七月号にのった『金魚鉢《ばち》の囚人』だろうか。  まだ文庫になっていなかった『オヨヨ島の冒険』を読んでいたのは確かだ。確かなのは、それだけだ。  しかしながら、ぼくが考えている〈想像力〉(上に〈喜劇的〉と付く)と、塙さんの言う〈想像力〉は、かなり食いちがっている、というか、ズレがあったように思う。  その日だか、ほかの日だかに、ぼくは伯父の一人が、〈九大事件〉の被告だった、という話を塙さんにした。 〈九大事件〉については、のちにノンフィクションが出たが、当時は、まだ本が出ていなかった。塙さんは、事件の被告をめぐる敗戦後の日々を長篇に書くべきだと言い、事件にくわしい人に取材するため、鵠《くげ》沼《ぬま》海岸の方まで、ぼくを連れて行ってくれた。まだ残暑のころである。  九月半ばには、国会図書館でコピーした膨大な資料がぼくの家に送られてきた。  ぼくは資料のすべてに眼を通し、めげてしまった。責任の所在問題はともかく、アメリカ兵を生体解剖したのは事実なのだから、〈重く〉〈暗い〉事件である。(それを書くことによって、せっかくかたまったカサブタをはがし、親《しん》戚《せき》に傷をあたえるという別なおそれも大いにあった。)  しかも、ぼくは、こうした事件であっても、〈喜劇〉に仕立てたいのである。  自分の発想、技術のレヴェルの判断について、ぼくは慎重過ぎるほど慎重であるつもりだ。こうした事件を扱うための長い訓練、発声練習ができていないのは、明白だった。  それに、めったに出会うことがないであろうようなこの有能な編集者に見捨てられるのが、ぼくはこわかった。  つい書くのを忘れていたが、このとき、塙さんはまだ編集長ではなかった。  ぼくはギヴアップした。  十月に入ってから、戦争についての別な中《ちゆう》篇《へん》の構想を塙さんに話した。塙さんは、いいでしょう、と言って、結末について注意してくれた。  ぼくらが話していたレストランのチーフ・ウェイトレス(?)が妙に色っぽくて、なぜか、ぼくにウインクをした。  眼にゴミが入っただけかも知れないが、ぼくはずっと気にしていた。  そんなことを気にしているくらいだから、中篇は失敗した。しかし、「海」は実験小説の場だという考えは変らなかった。私は〈文壇〉の動きとは関係ありません、と塙さんは公言していた。  皮肉にも、「海」にのせて貰《もら》った別の中篇・短篇が、ほぼ続けて、〈文壇〉新人賞の候補になった。  塙さんが編集長になったのが、いつか、正確には憶えていない。(日記をこまかくみれば判《わか》るが、いまは面倒である。)  戦争についての小説(一つはとりかかれず、一つは書いてはみたものの失敗した)がうまくゆかなかったために、ぼくは塙さんに顔向けができない気持になっていた。  ある日——編集長になってからだと思う——、塙さんは雑誌作りの構想を話してくれた。 「目次の右側に、日本の老大家の作品があります。左側に世界の最前衛の作家の特集がいつもあります。この間《あいだ》の部分を埋める作家を集めたいのですよ」  色川武大氏のほかに、何人かの名前が上っていたが、もう忘れてしまった。つまりは、ぼくに定期的に書けと言うのだった。塙さんが言っていることのもう一つの意味(すなわち日本文学の体質改善)がわかったので、ぼくは光栄だと思った。 「他《ほか》に良い人がいませんかね」  と言われて、ぼくは二、三の作家を想《おも》い浮べた。その一人が筒井康隆氏だった。  塙さんは筒井氏の作品を読んだことがない、と言った。  だが、次に会ったときは、『私説博物誌』を読んでいた。ぼくは、もっと面白い作品があると言って、文庫で入手できるものをならべた。  それからあとのことは、筒井氏の『楽しき哉地獄』に書いてある。(もっとも、筒井氏を推《お》した人は、ほかにもいた、と、あとで人に聞かされた。)筒井氏は二つの短篇で発語訓練をおこなってから、『虚人たち』にとりかかった。彼が『虚人たち』の一回目の原稿を塙さんに渡すとき、ぼくと妻は、赤坂のホテルの筒井氏の部屋にいた。考えてみれば、塙さん、筒井氏、ぼくが同じ場所にいたのはその時だけである。  塙さんの訃《ふ》報《ほう》を、ぼくはシンガポールのホテルできいた。電話の向うの妻は、気分が悪くてたまらない、と言った。  日本に帰ってすぐ、神戸の筒井氏に電話を入れた。 「どうも……」  と、ぼくは嘆息した。  筒井氏は暗い笑い方をした。  なんといおうと、慰めにならない。『虚人たち』は連載の途中であり、理解者は旅立ってしまった。  ぼくの〈戦争小説〉の夢も、そのままになってしまった。  作家の自己中心的な嘆きは、もう、いい。  ぼくは——自分がそのタイプの編集者であったから強調するのかも知れないが——未知の作家の中に或《あ》る可能性を発見して、いきなり電話をかけるような大胆な編集者がいないことを嘆いていた。が、塙さんは、まさしくそのタイプで、教養も語学力も、ぼくなどとは桁《けた》が違っていた。正直にいえば、塙さんは頭の回転が早過ぎて、仕事の上で、ついていけない部分もあったのだが、しかし、そういう編集者がいなければ、鈍才はなかなか向上しないのではないかと思う。  奇妙な表現かも知れないが、ぼくにとって、塙さんは、きわめてむずかしい宿題を出しておいて、その夜のうちに転勤してしまった先生のようなものだ。……ぼくは解答へいたるかも知れない手がかりを持って、おずおずと学校へ行く。すると、黒板に貼《は》り紙がしてあり、ぼくは改めて途方に暮れる……。     ! 「どうしたえ、八ッつァん」 「なんともはや、べけんや、ですな」 「上陸は成功したかい、硫黄島《イオージマ》の?」 「成功ですよ、ご隠居。オキナワも、すぐやれるでしょう」 「嬉《うれ》しいねえ。まあ、一杯いこうか」 「冗談じゃねえ、真っ昼間から……」 「いいじゃないか。で、ソ連はどうなの? まだ出てこない? へえ、いずれ、出てきますよ。南下したくて、しょうがないんだから。不凍港が欲しくて、よだれを垂らしてるんだ」 「おっとっと、けっこうです。……うまい! 良いサケだ。はらわたに沁《し》みますな」 「どんどん、おあがり。日本人はこういう時、サケを飲むんだってさ。真珠湾《パール・ハーバー》のときも、シンガポール占領のときも、飲んだらしいよ」 「じゃ、頂きます。硫黄島《イオージマ》は、こっちのものと。……ああ、日本のサケてえやつは、身体《からだ》が熱くなりますでげす」 「ちょっと、おかしかないかい。〈身体が熱くなりまさあ〉でいいよ。……ま、今《いま》頃《ごろ》、トーキョーは大変だろうね。空襲、空襲、空襲、だ。木と紙でできた家を焼くのは簡単だもの。——空襲の合間にジャップ布《ふ》団《とん》干し、ってね」 「やりますね、ご隠居」 「まあまあ、さ。さあ、菜《な》でもお上り」 「(小声で)ホーレン草、こんなに出されても、しょうがねえ。ポパイじゃねえんだ」 「春がすみ東京上空三十秒、はどうかな」 「一九四二年のドゥーリトルの東京空襲の句ですな」 「カミカゼやそろそろ時間となりにけり」 「燃料が無くなって、そろそろ体当りと決心したところですか」 「そんなとこだ」 「トーキョーがしだいに近くなりにけり、てな、どうです? 李香蘭、爆死しないでいておくれ」 「そういえば……」と私は言った。「あの教官はどこへ行ったんだい? おれたちに、こんな日本語を教えたあの野郎は?」  ずっと、のちに知ったのだが、ハワイに転勤した例の教官は、真珠湾《パール・ハーバー》のアリゾナ沈没現場近くで釣《つ》りをして、精神病院に入れられていた。釣りそのものが悪いのではなく、つい口ずさんだ歌を、他の日本語教官にきかれたのである。  その歌とは—— 〓鐘がボンと鳴りア、上《あ》げ潮《しお》南《みなみ》さ 烏《からす》がパッと出てコリャサノサ 骨《こつ》があーるサッサ……。   作者ノート  一九八〇年の初夏であったか、新雑誌を構想中の或《あ》る編集者が、新しい短《たん》篇《ぺん》小説を試みてみませんか、と、声をかけてくれた。  その雑誌の青写真を頭に描いたぼくは、二つのアイデアを話し、相手が面《おも》白《しろ》いといったほうを短篇形式で書いてみることにした。やがて、発刊された雑誌は「ブルータス」といい、第五号にのったのが、W・C・フラナガンなる人物の原文をぼくが訳したという仕掛けの「素晴らしい日本野球」である。  この仕掛けが『ちはやふる奥の細道』の引き金になったことは、『ちはやふる奥の細道』の〈作者ノート〉に記したが、「素晴らしい日本野球」「素晴らしい日本文化」と二作書いた時点で、ぼくの平衡感覚に微妙な違和感をあたえるもの(例えば、ロバート・ホワイティング氏の日本野球論や、私小説の文体のものものしさ)を極限にまで拡大したたぐいの短篇を少しずつ書いて、一冊の本にしてみたい、という欲求が起った。短篇を読むのも、書くのも、あまり好まないぼくにとっては、珍しいことである。それから丸三年かかって、ここに収めた短篇群を書いた。まさに〈異常発生作品群〉というほかはない。  少し気をつけて読んでいただければ、わかってもらえることだが、一つ一つの短篇は独立しているにもかかわらず、互いに微妙な関連がある。それらをモザイク状と見るかどうかは、読者の自由であるが、作者の側から具体的にいえば、もし少女の復《ふく》讐《しゆう》を大藪春彦氏風に書いたら、とか、もし日本がソ連に占領されていたら、といった、ifによる喜劇的想像力のトレーニング場がこの作品群なのだ。  とはいえ、ごく内輪の読者にも通じなかった部分があるので、説明はいらないという声が起るのを承知でつけ加えておきたい。 *「野球につれてって」("Take me out to the ball game")は、アメリカ野球の国歌のようなもの。一九四九年に同名のミュージカル映画が作られているが、手近なところでは、西武球場で試合まえにこのメロディが、のべつ、オルガンで流されている。なお、作中に、アレン・スチュアート・コニグズバーグというユダヤ人の芸能好きの少佐が出てくるが、これは、いうまでもなく、ウディ・アレンの本名である。 *「翻訳・神話時代」は(時代考証は本当だが)、中で引用される翻訳・翻案・模 作《パステイツシユ》はすべてぼくの創作である。  ぼくの側のモチーフは、「発語訓練」の中に、かなり委《くわ》しく記したつもりだ。  発表のさい、お世話になった方々に改めてお礼を申し上げるしだいだが、発表誌のうち、二誌がなくなっているのに気づき、複雑な気持になった。  ここでのトレーニングを、ぼくは次の長篇小説(注・「ぼくたちの好きな戦争」)に生かしたいと思っている。   一九八四年四月 小林信彦  Shincho Online Books for T-Time    素晴らしい日本野球 発行  2000年9月8日 著者  小林 信彦 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: olb-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861013-X C0893 (C)Nobuhiko Kobayashi 1984, Corded in Japan