小松左京 華やかな兵器 目 次  |とり《リ》|なおし《テイク》  華やかな兵器  交 叉 点  反 魂 鏡  歩 み 去 る  曇り空の下で  山 姥 譚 [#改ページ]    |とり《リ》|なおし《テイク》  R──1「OPENING」 ≪本番五分前!≫  スピーカーから、声がびんびんひびきわたった。 「ハロー、中継……直《なお》ちゃん、おーい、直ちゃん……」副《サ》調整|室《ブ》では、技術が、ずらりとならんだ球面オッシロの波型をにらみながらよびかける。「3カメのパララックス信号に、ちょいノイズがはいっちゃってるんだ。──T波じゃない。さっきチェックした。そっち、わかる? セクター6の所に、ちっちゃな棘波《スパイク》が出て、しゃくってるだろ?」 「えー、調整デンさん、こちら直《なお》です」とざあざあノイズのはいった声がスピーカーからこぼれる。「さっきからこちらも気がついています。ただいま……」 「おい! デン助!──スピーカーの音をおとせ。インカムつかえ!」  とメイン調整卓の前から、汗みずくになった|CD《チーフ》がわめいた。 「へい、了解……」  と技術は首をすくめてスイッチを切りかえる。 「空撮班! おい、空撮班! やい玉公! ラッパ!」とADの一人がマイクにどなる。「位置がずれてるよ。──なに? さっきから動いてません? 動いてねえったって、アングルがずれてるんだよ。口答えするのか、てめえ……おい、ミーちゃん。レーダー・ダイアグラムをM4に出してくれ。……ほら見ろ、ポイント〇二も西南西によってっじゃねえか! そんなに中継機にくっつきてえか! おめえ、中継の誰かとホモか!──上空に風があります? そんなのわかってるじゃねえかよ。だからディジタル・マップを自分でチェックしろてんだよ。ダイナミック・ポジショニングにだけたよってたんじゃだめだって、何度言ったらわかんだ? 番組終ったらブッとばすぞ、てめえ……」 「えー、お待ち……」とこれも汗だくの、子供子供した青年が、息を切らせながらとびこんできた。「ゲストのアレン先生、ただ今おつきになりました」 「わッ! 助かった!」とチーフとプロデューサーが同時にさけんだ。 「ごめんなさい……」長身の、きれいに手入れした栗色の口髭をはやした、ブルーアイの紳士が、ハンカチで顔をたたきながら、すまなさそうに肩をすぼめた。「落雷で、LMT、四十分もおくれました。──こんなアクシデント、めずらしいです。車内電話もブラックアウトです。──でした」 「そりゃ、大変でした……」とダンディで鳴らしたプロデューサーの水田が、ネクタイをゆるめ、手の甲で顔をぬぐいながら大息をついた。「お宅の方は早く出られたっていうし、連絡はつかないし、もうあきらめてた所でした。本当に助かりました」 「どうも、お忙しいのに、ありがとうございます……」CDの梅木も、調整卓の前で、よれよれのハンチングをぬいでぺこんとお辞儀した。「じゃ、おそれいりますが、すぐスタジオでスタンバイしていただけますか? もうじきはじまりますから……。おい、誰か……」 「いい、おれがご案内する」水田は手早く上着をぬいでテーブルの上にほうりなげた。「おい、そこの作業衣をとってくれ。──誰ンでもいい」 「水さん、すまねえ……」梅木はぼろぼろになりかけている台本を手早くめくりながら、小柄な体を、さらにちぢめた。「プロデューサーまで使っちまって、申しわけねえ。──あとで一杯買う」 「いいのよ。旦那はどうせ現場が好きな人だから……」タイムキーパーのモモコが、持ち場からふりかえりながら、88のバストをゆすって、くすっと笑った。「最高にダンディって、千鳥格子のブレザーなんかできめちゃってるけど、プロデューサーなんて、柄じゃないんだわ。さっきからうずうずしてんの、わかってた」 「るせー、がき!」水田は作業衣に手を通しながら、口をよせてささやいた。「ガタガタぬかすと、強姦《レイプ》っちゃうぞ」 「あら光栄……」モモコはタイムカウンターをオートにセットしながら、鼻にかかった声でいって身をよじった。「でも、水さんだけじゃ、相手不足だな。チーフと、あと二、三人で輪姦《まわし》てくれなきゃ……」 「たくもう、これだカンね、……」と水田は大仰に眉をしかめた。「今どきの若い娘《こ》はどうなっちゃてんだ。──あ、どうも失礼しました。こちらへどうぞ……」 「あの──服はこれでよろしいですか?」アレン教授は、コートをぬぎながらいった。「何か、羽織はかまを着る、とかいったお話もうかがってましたが……」 「それでけっこうです。時間がありませんから……。オープニングはそのままで、あとのコーナーで着替えていただきます。──それでいいな。梅《ばい》さん……」 「けっこう……何でもけっこう。すぐ、定位置へお連れしてくれ」梅木は上の空で聞きながしながら、マイクをひきよせた。「野郎ども、聞け! 現場も中継も台本見てくれ。──いま、アレン先生がお見えになった。だから、さっきやったオープニングと、S─2、S─6の訂正はもとにもどす。台本はオールもとのままイキだ。いいな……」 「了解……」マルチ・スピーカーから声がかえってくる。「じゃ、S─2のCSRインサートはなしですね。──スタンバイといていいですか?」 「あと十五秒で、インサートのプレビュー・スタートだよ」と、CSRの送り出し室からの、とがった声がわりこむ。「ストップするか?」 「とめてくれ! CSRさん──予定再変更だ。もとへもどしたらもどしたで、あれこれ調整しなきゃならねえ。かんべんな」  せっかく素材を探し出したのに……とか何とか、ぶつぶついう声がスピーカーの奥にのこった。 「じゃ、梅《ばい》さん、S─2のあたしのアナウンスメント、時間延長なしね……」と、現場メインアナの声がした。 「そう、押しなし……。S─6のトークも、もと通りだ。Fスタ、明白《ミンパイ》か?」 「了解《ロジヤー》、チーフ……」と、Fスタからエドの声がかえってきた。 ≪本番三分前……≫  と、進行のヤン・オダが、巨体からしぼり出すような声でどなった。 「スタジオ……FDさん、ゲストを洞穴《ケーヴ》の定位置にたたせてみてくれ。──|3D《サド》マキィの調整をするから……」と技術がいった。 「送信からです……」と、ADの一人がイアフォンをおさえて梅木をふりかえった。「ラインは二分前につながります……」 「もう三十秒、押してもらえ」梅木は、オレンジ色のバーがまだ二つ三つのこる進行表示パネルをにらみながらどなりかえした。「デンさん、それでいいか?」 「何とかやってみる」と技術主任はいった。 「照明さん、ゲストの右顎下の影、気になるな。なんとかしてよ……。じゃ|3D《サド》マキィ、行ってみよう。1カメ、スタジオへください……」  ひろいスタジオ一ぱいに、突然広大な野外の風景が出現した。前方の山々は紺青《こんじよう》にかすみ、やや黄ばみかけた木や草の葉にきらきら雫《しずく》が光っている。朝日が高く上り、あちこちの谷間から、うすい霧がたちのぼって、急速に晴れ上りつつある。  田畑の開けた盆地を見おろす斜面に、ポロシャツ姿の現場アナが立って、副調整室にむかって手をふった。──アレン教授が、すぐその傍にたって、緊張した面持ちで、ネクタイをなおしている。 「やっぱり右にノイズが出てるな。──照明も少しフラット目に……。OK。それでいい」 「デンさん、いいか?」と梅木は首をねじむけてきいた。 「もうちょい……FD、|3D《サド》マキィ洞穴《ケーヴ》を、もうほんの少し左へふってみろ。──行きすぎだ。少し後へひいて……よし! それで何とかなっべえ……」  進行表示パネルの左端に、最後に残ったオレンジ色のバーがグリーンにかわった。 ≪本番二分前!≫  とヤン・オダがどなる。 「おーし! オッケーだべさ!」と梅木はさけんだ。「じゃ、もう一度、カメラ、音声、中継、総テスト行こう。──アンナ、正面ELにマップBを出せ。CSRスタートは一分前から……」 「ライン接続は一分三十秒でいいですか?」  とADがきく。 「OKだ。しばらくチャカチャカするが、こっちはオール・グリーンだといってくれ」  スイッチャーの手が、切り替え卓の上を、ピアノ曲のカデンツァをひくようにすばやく走りまわり、正面|3D《サド》モニターと、スタジオ内の情景が、ぱっ、ぱっ、とかわる。──最初の風景とは別の丘の上から俯瞰、竹薮わきの道、大俯瞰、山腹を見上げるショット……一瞬、無数の旗らしいものが風になびくのが見え、何やらガチャガチャと金属のふれあう音、人の怒声、大地をゆるがすような物音、馬らしい獣のいななきが聞こえ、またすぐ場面がきりかわった。椅子だけならんでいて出演者が誰もいないスタジオ、年表、そして×20の大ズーム、ワイプ、ディゾルヴ、OL、|3D《サド》反転、カラー反転……。 「一分三十秒前──ラインが来ました。各現場、クロック、もう一度チェックねがいます。六、五、四、三、二、一、二十秒前、現場との時差は……」 「CSRスタンバイ──OKです」  とアンナ・ビョルセンが、美しいプラチナ・ブロンドの長髪を後にふって、すき通った声でいった。  梅木は、椅子の背にもたれて、正面上方のELパネルを見上げた。二メーター×一・三メーターの暗色のパネルに、緑色の線で、地図がうかび上っている。三方を山にかこまれた、ほぼ三角形の小盆地だ。西にむけて一本、東へむけて二本、地峡を通る道が走っている。東の方にブルーのブロックがいくつもちりばめられ、ゆっくりと西へむかって動いている。西方には、それに対峙するように、白いブロックが南北の高地にわかれて、南方高地のブロックは挟撃体制をとっているように見える。──カメラの切り替えテストはなおつづけられ、その度に、山腹や地峡に配置された黄色の点が、次々に赤にかわって行く。  ELパネルの右上端には、送信ラインがつながったしるしの紫色のバーが輝いていた。左上端にオレンジ色のブロック・ダイアグラム式の時刻表示があらわれ、右へむかってのびて行く。 ≪本番一分前!≫ 「CSRスタートしました……」  とアンナがいった。──時刻表示の下で、CSRの三文字が強く点滅し、あとつきっぱなしになった。 「本番一分前です。──現場さん、中継さん、スタジオさん、よろしくねがいます……」とCDの梅木はマイクをわしづかみにして叫んだ。「まもなく本番まいります。──六時間の長丁場ですが、がんばってください……」  スタジオ内は、1カメのうつし出す、丘から見おろした情景にもどっていた。──メイン・アナの白川優が、さすがに緊張した顔付きで、陽やけした頬をひきしめ、まわりを見まわしている。まだ三十代だのに、半白になっている髪に、暑そうな朝日が光っていた。  梅木は、正面モニターに出現している同じ像を見ながら、すばやく左右一八〇度の範囲にわたって眼を走らせた。サブ・モニターにはのこり六つの現場カメラのうつし出している情景と、|3D《サド》マキィ洞穴《ケーヴ》の前で直立不動の姿勢をとっているアレン教授の像があった。──先生、少しかたくなってるな。……タイトルテロップOK。……TM出しもOKだな……。 「三十秒前……」  ヤン・オダが、今度はふつうの声でいった。  これからはじまる番組の予告をふくめたステブレのアナがはじまった。 「コーヒー……」  と無意識に梅木はつぶやいた。──誰か若い者が、すっと立って、 「ブラックですか?」  ときいた。 「いや、ミルクも砂糖もどっちゃりいれてくれ……」  十五秒前……の声がきた。──副調整室の中は、もはや私語も冗談もいうものもなく、水をうったような静けさの中で、二十ちかい瞳が、壁のディジタル・クロックと、EL面をのびて行く、オレンジ色のバーを見まもっている。  ──ちくしょう、この緊張感がたまらねえな……  と、梅木は頭の片隅で思った。──この部屋で、送信室で、スタジオで、|遠くはなれた《ヽヽヽヽヽヽ》現場の、何カ所で、中継機の中で、何十人という人間が、息をつめて、同じ「時間」を待っているのだ……。 「十秒前……」とヤン・オダがいった。「六、五、四、三、二、一、スタート!」  パン、と梅木はスイッチャーの肩をたたいた。──ライン、中継、CSR、現場のカメラ、音声、すべての表示が、ON・AIRの強く輝く赤いフレームにかこまれた。  一呼吸おいて、現場の1カメのキューが出た。──「歴史もの」をやらせたら天下一品、という呼び声の高い白川アナの、ひびきのいい、いぶし銀のようなバリトンが、おちついた調子で、副調整室にひびきわたった。 「お待たせいたしました。──こちらは西暦一六〇〇年、慶長五年九月十五日の美濃の国不破の郡関ヶ原です。間もなく、ここで、徳川家康のひきいる東軍と、石田三成のひきいる西軍の間に、天下分け目の合戦がおこなわれようとしております。GBCおなじみの歴史現場中継、本日は、この関ヶ原を中心とする各地点にタイム・カメラをおき、史上もっとも有名な関ヶ原の合戦の生中継を、六時間にわたる超ワイド立体構成でおとどけします。──時刻は間もなく、当時代《ヽヽヽ》時間で、午前七時三十分になります。あと三十分ほどで、東西両軍の合戦の火蓋がきられようとしております……」  R──2「本番」  いつの間にか水田が背後に来て、ひっそりと立っていた。──アレン教授は、スタジオのFDにひきついだと見え、作業衣も自分の上着に着かえている。 「やれやれだな、梅《ばい》さん……」と水田はモニターに出ている立体映像を見ながらつぶやいた。「すべり出し順調だ……」  梅木は、片手をサイドテーブルにのばして、なまぬるくなったコーヒーをぐびりと飲んで顔をしかめた。──甘すぎた!  メイン・モニターでは、日本近世史専門のマイケル・アレン教授が、関ヶ原の俯瞰に入りこんだ形になって、白川アナに、この合戦の歴史的意義をしゃべっている。──よくよく見れば、ごくかすかに、教授のまわりに|3D《サド》マキィ・ハローがかかっているが、暗い森などが背景になった時に辛うじてわかるくらいで、家庭用の立体TV受像機ぐらいでは問題にならないだろう。最初少しかたかった教授の解説も、しゃべり出すとすぐほぐれて例の名調子になってきた。 「あの調子じゃ、少しこぼれるかも知れませんね」と、左にすわった、第一ADの宇津城がつぶやいた。「タイムカードを早めに出させますか?」 「十五秒まきで出させろ」と梅木はシガリロをくわえながらいった。「このコーナー、多少こぼれたってかまわん。CM出しまで、あと十三分もあるんだから……」 「でも、次の3カメの現場へわたしたら、向うはリンさんですぜ。──やっこさん、乗り出したら、どこまで押しまくるかわからねえ」 「まさか、また昂揚剤《ハイ・ピー》かっくらってンじゃないだろうな」 「どうせ二つや三つやってるにきまってまさ。──今度の番組はやたらはりきって、はりきりすぎてブルってたから……」 「無理もねえ。奴さん、まだ解説委員になる望みをすてちゃいねえからな。──ガラじゃねえけど」 「御同感……」と暗がりのむこうから誰かが相槌をうった。「大将、世が世なら、活弁か講釈師になってたら売れたべさ……」 「カツベンって何?」とモモコがきいた。「カツレツ弁当の事?」 「活動弁士のこったよ」と若いのが応じた。「昔の、無声映画の解説者の事──無知だな、おま……」 「あら、どうせあたしはムチよ。ムチムチボインよ」 「やかンシー、ジャリども……」と梅木はうなった。「ほれ、くるぞ。──次のコーナー、スタンばれ」  うまい具合に、白川アナがアレン教授の話をひきとって軽くしめくくった。──予定より二十秒はやく、カメラがきりかわった。 「はい、こちら第三班のリン・ペイティンです。──私はただいま、関ヶ原のすぐ東の南宮山山頂付近におります。この山頂部から、ほとんど真西に、主戦場関ヶ原が見おろせます。東軍総大将家康の本陣は、この山の北西方面の一帯である桃配《ももくばり》山にあり、そこから西へむけて、関ヶ原盆地の東隅は、古田重勝、織田有楽、金森長政、生駒一政、少し南方にはなれて、本田忠勝の軍勢の旗差し物で埋められているのが見えます。さらにその前方に、竹中、黒田、細川、加藤、筒井、藤堂、京極、いずれおとらぬ東軍の強豪が、先鋒となって布陣しております。勇猛福島正則にひきいられる軍勢は最前線に位置し、さきほど西軍先陣と、早くも小ぜりあいがあったと報ぜられましたが、ここからはまだきわだった動きは見えません。──この山の北方を走る中山道ぞいに、有馬、山内、浅野の東軍諸軍団が、また垂井の町には、池田輝政の軍が後詰めに配置されており、また山頂部より東方の丘陵斜面へかけて、西軍の吉川広家、安国寺恵瓊、毛利秀元、長束正家、長宗我部盛親の諸軍が、戦闘正面を北の垂井、中山道方面にむけて、東軍の背後をつく布陣をしいておりますが、最先鋒の吉川広家の軍勢は、七時四十五分現在、まだ眠りからさめないようにひっそりとしずまりかえっており、旗差し物もたてられておらず、戦闘準備にかかった様子もありません。この南宮山の南側の脇街道を、昨夜深更、東の大垣城にこもっていた西軍主力が、豪雨をついて関ヶ原まで撤退してまいりました。──これは攻城戦で長びくことをさけ、野戦にもちこもうとした家康軍の陽動作戦にひっかかったもの、といわれますが、その事については、あとで今村解説員が説明いたします。──慶長五年陰暦九月十五日の関ヶ原、昨夜の豪雨のため、養老川の水かさは増し、半ば刈り入れの終った田畑は泥濘と化しておりますが、空は西の方から急速に晴れつつあり、暑い一日になりそうです。──あ、ただいまここより四キロほど西の、両軍前線から、かすかにときの声が聞えてまいりました。が、まだ出陣の陣鐘太鼓は鳴りわたりません。両軍とも、目前にひかえた戦闘開始にむかって、満を持している様子であります。両軍の熱気、そしてやがてこの野を満すであろう流血の気配を早くも察してか、関ヶ原上空、只今一羽の鳶《とび》が、高く高く、輪を描いて舞っております……」 「1カメB!──2カメでもいい、ズームだ! 鳶をねらえ!」と梅木は卓にのり出して叫んだ。「3カメ、リンちゃんからゆっくり右の方へパン……パンしながら、関ヶ原の方へズームイン、ゆっくりゆっくり……。1カメB! 鳶はつかまえたか? 中継機がはいったってかまわん。2カメ、福島軍のへんに一ぱいズーム・アップ、よし、2カメ行くよ! ポン──それからすーっ、と空へもってけ。ゆっくりゆっくり……西軍と北国街道、天満山をなめて……よし、1カメB!」  五〇〇ミリ望遠一ぱいの画面に、悠々と上空を舞う鳶の姿がうつっていた。と──マルチ・スピーカーから、実にいいタイミングで、ピートロロロ……と鳴く鳶の声がかすかに入った。  うわっ、と感にたたえたようなどよめきが、副調整室に起った。──最高!……ナイス・タイミング!……鳶ちゃん、やってくれるねえ、といったはずんだささやきがかわされ、低くではあるが、うれしそうな笑い声さえきこえた。 「1カメ音声──ピンちゃんか、あんがとよ。ガンマイクか?──ばっちりよ」  と、ADがマイクに叫んだ。 「はい、OK──スタジオ、今村さんに行きましょう! Cカメ行くよ」と梅木はいった。「……三、二、一、キュー!」 「では、ここで、これまでの東西両軍の動きをざっと説明いたしましょう……」  スタジオの解説コーナーのセットで、額の禿げ上った今村解説員がニュース解説調でしゃべり出した。 「テロップ4!」と宇津城がいった。「CSR、ロール|1《ワン》、ロール|2《ツー》、スタンバイ……」 「ロール1、走りました……」とアンナ。「立ち上りました、つづいて、ロール2、走ります……」 「どちらも頭二秒でポーズかけとけ。──健ちゃん、テロップ4、5、6のあとデゾって、あとロール1、ロール2、話にあわせて適当にOL、たのむな……」 「先ほどのアレン教授のお話にもありましたように……」と、今村解説員は語りはじめた。「おととしの慶長三年八月、第二次朝鮮出兵中に太閤秀吉が死んだあと、翌慶長四年はじめごろには、徳川家康、前田利家ら五大老の集団合議制内部に早くも対立の兆しがあらわれ、一方、豊臣政権下におしすすめられてきた、信長以来の天下統一政策、すなわち、実質的な中央集権制をささえる石田三成以下の新興官僚群と、領国経営を通じて地方政権化しつつある五大老や諸大名との間にも、鋭い方針の対立が見られましたが、昨年|閏《うるう》三月、五大老の一人前田利家の死によって、バランスは大きくくずれました。──図をごらんください……」 「テロップ4!」と、宇津城は叫んだ。  画面がわずかにズームバックすると、解説員の隣りに、プロジェクター・スクリーンがあらわれる。 「太閤秀吉という、豊臣集権体制の要の石が消滅する事により、五大老という、複数のナンバー2連合の結束がゆるみ、また前田利家という重鎮の死によって、家康の比重が急速に大きくなってきたわけであります。──秀吉は、遺言にもくりかえし述べていたように、若い秀頼を、自分の後継者に指名し、五大老に後事を托したわけでありますが、五大老をはじめ、諸国の武将大名の中には、統一戦争以来、二度の大陸出兵につかれ、豊臣政権の方針の修正を求める気分が強かった……。家康はこの気分を察して、もう一度地方分権化を進め、その地方政権を連邦化し、その連邦の中心にすわる事によって、国内と徳川家の安定をはかろうとした。いわば秀吉軍事独裁政策に対して、戦国時代型の政治構造へ若干後退する保守的修正でありますが、そのためには、大坂城にいる、豊臣政権の後継者である秀頼と、それをささえる勢力を無力化し、秀頼を京都の公家なみ、あるいは天皇なみに象徴化する必要がある。──これには、一方では、旧大名諸侯、また新領国経営を通じて大名化しつつあった武将の地方政権指向をまとめ、また、加藤清正、福島正則ら、賎ヶ岳以来、秀吉幕下に育って来た軍事官僚と、石田三成ら、天下統一後期に擡頭して来た新興経済官僚や大野治長ら秀頼側近の宮廷官僚との対立を利用し、故秀吉の権威をうけつぐ秀頼方勢力を弱めようとしたわけであります。事実、昨慶長四年の三月、前田利家の死のあと、加藤、福島らは�君側の奸�として石田三成を殺そうとし、その時三成は、かえって家康に助けを求めて逃れました。また、同年九月、五奉行の一人で、徳川豊臣双方のダブルスパイをつとめた増田長盛の密告により、大野治長、土方雄久は、家康の暗殺の疑いをうけて流刑されております……」 「第二現場から……」とADの一人が梅木の方をふりかえった。「東軍の田中吉政の前線と、西軍島津豊久の先手が、松尾北方で接触しました。──小戦闘がはじまっている模様です」 「おかしいな……」梅木はちらと二元クロックを見上げた。「ちょっと早い……現場へ問いあわせろ。戦闘が拡大しつつあるかどうか……」 「今、報告がありました。──戦闘は北国街道をはさんで、北の東軍陣地にも拡大しつつある模様……今、西軍平塚軍団が、松尾方面へ移動を開始しました……」 「ヤン・オダ!──リハーサルの時、タイミングはきちんとやったんだろうな」 「やりましたよ……」ヤン・オダは、巨体の上にちょこんとのっかったくたくたのステットスンを、阿弥陀にずらしながら、弱ったような声でいった。「何度もやりましたよ──。ただねえ……」 「一分半、早くはじまってる……」梅木はうめいた。「このコーナー、あと何分だ?」 「五分です」とADの宇津城はいった。「それでぴったし──戦闘開始につながります」 「アンナ!」梅木は進行表示をにらみながらいった。「中継とCSRにいって、2カメにとらせた現在の戦闘シーンを、録画させろ。二分の時差出しで、すぐインサートにつかえるように……。モモコ、2カメ現場に連絡して、現場アナに、場合によったらこのコーナーの途中から、|わりこみ《ブレーク・イン》できるようにスタンバってもらえ。ヤン──おめえは、2カメの録像を指揮しろ……」 「スタジオ、巻きますか?」  と宇津城は緊張した顔付きでふりかえった。 「いや──まだサインは出すな。今さん、いい調子だ。ぎりぎり|わりこみ《ブレーク・イン》しなきゃならなくなるまで予定通り行こう。そうなったらそうなったで、今さんはベテランだから……」そういって梅木はちょっと息をついだ。「ま、辰の刻の総攻撃まで、このままもつ方に賭けよう」  誰かが、副調整室のドアをあけて、息せききってとびこんできた。──あわただしく、暗い部屋の中でまわりを見まわし、水田を見つけてあたふたとかけより、何かはずんだ調子でささやいている。水田もびっくりしたように聞きかえす……。それを眼の隅で見ながら、梅木はスタジオの進行と、第二現場の様子をにらんでいた。 「……一方、石田三成は、百戦錬磨の戦国大名にくらべて、いわばきわめて理念的な、近代官僚だったといえます……」と、今村解説員の解説はつづいた。「彼は、近江商人の伝統をうけつぎ、また小西行長らと親交があって、秀吉のたてた方針の一つ、すなわち経済貿易機構の整備により、経済掌握を通じて政権を確立する、という方策をラジカルにおしすすめようとしました。そのため、太閤遺児秀頼の法的権威を必要としたのですが、彼の構想は、商業経済先進地帯の西日本では賛同者を得たものの、いわば三百年早かった。諸武将の戦国大名的な、分権割拠主義への回帰傾向──いわば保守的心理と、その軍事力を過小評価していたといえます……」 「東軍先鋒が撤退しています……」とヤン・オダがいった。「両軍の前線ははなれました。──西軍平塚軍団の移動もとまりました。両軍とも、次の本格戦闘のために、陣形をととのえている模様です……」  宇津城がにやりと笑って、拇指と人さし指で円をつくって見せた。──梅木も微笑して、同じサインをくりかえした。 「……秀吉に次ぐ前田利家の死によって起った指導部の混乱は、徳川家康の存在をクローズアップする事によって、一応小康状態となりました。東国を中心とする大名武将をひきつけた家康と、太閤遺制を大義名分とする大坂の新興官僚群の対立が、ようやくはっきりしてきたわけであります。──次に家康のやった事は、石田三成を筆頭とする経済官僚勢力を挑発し、彼らとそれに同調する大名武将をたたきつぶして、大坂城の秀頼勢力を裸にすることです。すでに、秀吉の五大老への遺言を再三破って見せ、秀頼の権威を無視して挑発に出ていた家康は、挑発の仕上げに関係の疎遠な大名をつかいました。最初は前田利家の遺児利長を罠《わな》にはめようとしたがうまく逃げられ、つづいて越後から会津にうつったばかりの上杉景勝に罠がしかけられました。彼は名将上杉謙信の養子で、秀吉の信任あつく、勇猛ですが、名門の子らしく直情径行で、家康のマキャヴェリズムが見ぬけなかったというより、我慢がならなかったらしい。会津移封直後、上洛を拒否したのが謀叛の意ありとする口実にされたのですが、事実は、家康方が、柄《え》のない所に強引に柄をすげて、景勝の弁明書がとどく二カ月も前の、慶長五年三月に、家康は会津征伐の姿勢を示しております。──この家康の陽動作戦に、近江佐和山城の三成はまんまとひっかかった。慶長五年六月、大坂城にあった家康は上杉攻めの号令を東国に下すとともに、三大老の反対をおして、自ら兵をひきいて東海道をくだりました。この機に乗じて、三成は主として西国九州の武将大名を語って七月に兵を挙げ、九万七千の兵力をもって八月に伏見城をおとし、会津の上杉景勝と信州上田の真田昌幸に使いを出して、家康を東国に挟撃せんとしました……」  水田がそっと近よって来て、梅木の肩をたたいた。 「トムスン・リサーチで、立ち上り視聴率二十八パーセントだ……」と彼はささやいた。「十五分後に三十パーセントをこえた。まだ上りつつある、とさ……」 「まあまあってとこかね……」と、梅木は顎をなぜながらつぶやいた。「あれだけ番宣で派手に、微に入り細にわたってぶちまくればね……」 「問題は、このレートが六時間の長丁場、どれだけもつかって所だがね」 「まあ見てろって……」梅木は大きく息をついた。「ピーク四十パーセントまで押し上げて見せるぜ。賭けようか?」 「ロール|1《ワン》……行くよ」と宇津城はいった。 「家康は、この誘いの隙に三成がのってくるのを完全に予期していたようです。──七月二日、江戸に入城してから、なかなか会津へ出発しようとせず、大坂方面の情勢推移を待ちうけていました。そこへ七月十九日の三成挙兵の報が、二日おくれの二十一日、江戸へとどきます。その知らせを聞くや、家康は即座に江戸をたって下野小山にむかい、二十五日、諸将をあつめて協議、東海道の諸大名の全面協力をたしかめるや、会津攻めには一部の兵力をさいて、主力を三成討伐にむける事にし、自分は江戸へひきかえします。──福島正則、池田輝政の先遣隊は、八月半ば、正則の居城尾張清洲城にはいりましたが、江戸にはいった家康はなかなか動きません。自分たちが、家康に完全に信用されておらず、ためされているとさとった福島、池田両将は、八月二十一日行動を起し、清洲城の西方、織田秀信のこもる岐阜城を攻め、二十三日これを陥落させました。この報を聞いて、家康はようやく九月一日に江戸を発し、一昨日九月十三日、岐阜にはいりました……」 「ロール|2《ツー》……九月十四日の実写シーン……」と宇津城。「よし、スタート!──話にあわせて、ロール|1《ワン》からのりかえる……」 「一方、西軍の主力、石田、宇喜多、島津、小西の諸軍は九月はじめから、岐阜西方大垣城にあり、関ヶ原の東、垂井方面、また南宮山東麓に、兵力を配置していましたが、まだ内部結束がととのわず、本格戦闘にははいっておりません。──十三日に岐阜にはいった家康軍は、昨日十四日早朝、兵を発して中山道を西進、大垣城北西方赤坂に陣どりました。これがきのう午後二時現在の両軍の配置図と、東軍有馬豊氏軍の陣営であります。ここで、ごらんの通り、西軍宇喜多勢との間に多少の小ぜりあいがありましたが、午後四時すぎにいたって、家康は、有馬、中村両軍団を大垣方面に残し、主力をひきいて、さらに中山道を西進しはじめました。──これは、さっきも申しておりましたように西軍を大垣城から関ヶ原方面へさそい出すための陽動作戦でありますが、三成はまんまとこれにひっかかり、東軍が大垣を残して、近江から京都、つづいて、大坂城を攻めると見て、急遽、わずかな守備兵をのこして、夜にはいってからふり出した豪雨をついて大垣から南下、南宮山の南を迂回し──この道は、二十世紀後期に名神自動車道がはしっていたコースでありますが──このルートを通って、徹宵、関ヶ原方面に主力を移動させました……」 「このシーン、よくとったねえ……」と誰かが雨と泥濘をついて移動する兵馬と車輛のアップを見て、感嘆の声をあげた。「迫力あるなあ、望遠か?」 「馬鹿。──望遠じゃ、暗視つかっても、こんなにとれるかよ。夜だから、闇にまぎれて、街道のすぐそばまで行って、下からあふったんだよ。みろ、レンズに泥がはねてるだろ……」 「えー、こちら空撮班……」とマルチ・スピーカーから声がした。「桃配山の家康本陣では、そろそろ作戦会議が終りかけているようです。ただいま、伝令の動きがあわただしくなって来ました。──あ、ただ今、本陣幕内から武将が二人出てまいりました。残りはまだ会議をつづけておりますが、そろそろ現場へきりかえていいですか?」 「空撮班の絵はどれだ?」梅木はふりかえってどなった。「それじゃない。ワイドじゃなくて、望遠を、あいてるモニターに出せ! 連中、二〇〇〇ミリを使ってるんだろ?」 「空撮……玉さん……」とADがよぶ。「いま、サブで二〇〇〇ミリ使ってる? え?──カメラの調子がちょい悪いので、のぞきながら調整中?」 「多少悪くたってかまわん。モニターへ出して、切りかえの用意をしろ!」 「かくて、本日、慶長五年九月十五日朝、両軍は関ヶ原をはさんで対峙、間もなく天下分け目の合戦がはじまろうとしている所であります……」今村解説員は、調子をかえてしめくくりにはいった。 「東西両軍の配置は、ごらんの通り、西軍主力は北国街道ぞいに、東軍主力は関ヶ原東方に布陣しました。──ただし、南宮山東麓にあって、中山道垂井方面をにらみ、東軍の背後をつく形に布陣した西軍の吉川広家と、関ヶ原南西部、松尾山北方に布陣した、小早川秀秋は、この時すでに家康に内通しております。この両軍が、いつどんな動きを見せるかは、これからはじまる合戦の実況中継でくわしくごらんになれるでしょう。──現地時刻は、ただいま午前七時五十八分……そろそろ合戦の火蓋が切っておとされるころです。ではここらへんで、現場にバトン・タッチいたしましょう──」 「空撮望遠!」と梅木は叫んだ。「第一現場白川アナ。──この絵にかぶせて、トークをはじめてもらえ!」 「こちら、関ヶ原西南松尾山の第一現場です……」と白川アナの声がひきついだ。「開戦時刻は、刻々とせまっております。──あ、今、ごらんのように、桃配山の東軍本陣の幕内で、最後の作戦会議が終ったようで、幕僚が次々に幕をくぐって出てまいりました。伝令が四方に散ります。──最後に出てまいりました白髪の武将が、東軍総帥の徳川家康でしょうか……」 「くーっ!……空撮よくとってるけど、ここで、家康のアップがほしいなあ……」と誰かがうめいた。「三成のアップときりかえしたら、いいだろうになあ……」 「空撮班はぎりぎりまでおりてるんだろうな」と梅木はつぶやいた。 「高度八百です。──違反すれすれ……ていうより、違反しちゃってますがね」 「侍連中で気づいてるやつもいるだろうな……」とヤン・オダは言った。「関ヶ原合戦の時、上空にUFOが二機いた、なんて記録はなかったかなあ……」 「1カメ、2カメ、6カメいいな──くるぞ……」と梅木は叫んだ。「音声たのむぜ、集音もガンマイクも、ヴォリュームいっぱい……」 「ただいま、東軍本陣から狼煙《のろし》があがりました!……先鋒では、旗差し物がいっせいに立ちます。あ、西軍でも狼煙があがりました──。西軍本陣で、一せいに法螺《ほら》貝、陣鐘、陣太鼓がとりあげられます……」 「CMスタンバイ、OKです……」とアンナ。「四十秒前……」  スピーカーから、遠い狼煙の音が、やっとエコーをともなってきこえた。──ほとんど、あとを追うように、貝、鐘、太鼓の音が、あちこちで、いんいんとひびきわたる。 「よし、全カメラ、やたらズーム」と梅木はどなった。「きりかえはこっちでやるから、どんどんズームインしろ!」 「おききください。──ついに両軍の狼煙は関ヶ原上空に高々とあがり、貝、陣鐘、太鼓は、前線いっぱいにひびきわたりました! 関ヶ原をうめつくす東西両軍十五万の軍勢から、いっせいに鯨波《とき》の声があがり、鉄砲のひびきがとどろき、両軍最前線は、双方より雄たけびをあげて突撃を開始いたしました。時に慶長五年九月十五日午前七時五十九分四十秒、いま、日本史の命運をわける世紀の大決戦の火蓋は切っておとされたのであります!」 「CM!」  梅木はバン! と卓をたたいた。  ほっ、と緊張のとける気配がした。──梅木はかるい目まいを感じて、しばらくぼっ、としていた。それから、左隣の宇津城の肩をかるくたたくと、 「トイレへ行ってくる……」  といって立ち上った。 「少し休みますか?」と第一ADの宇津城は顔を上げていった。「ここまでくれば──あとはなり行き、追っかけですからね。何とかさばきますよ。正午ごろの、小早川裏切りのあたりまで一服したら……」 「いや、大丈夫……」と梅木はつぶやいた。「誰か、コーヒーをくれ──今度はブラックの、濃いやつ……」  立ったまま、コーヒーを一口飲んだ所で、壁際の電話をとっていたサブ・プロが、 「編成からです……」と声をかけた。「放送開始二十五分で、三十四パーセントいったそうです……」  R──3「打ち合せ」 「やっぱり、ああいう歴史ものは、生中継《ライヴ》でなきゃな……」と、水田は昼間から、バーボン・オンザロックをすすりながらいった。「CSR構成とはまるで迫力がちがうよ。そりゃ、制作現場は大変だったろうがね」 「でもまあ、死人は出なかったからね……」梅木はげっそり頬のこけた顔をかすかに歪《ゆが》めて笑った。「流れ矢と流れ玉に当ったやつ二人、馬に蹴られたやつ一人──長刀で背中をやられた六班のアシスタントは二週間の傷だぜ……」 「六班は乗りすぎだよ。猛者《もさ》連をそろえすぎたんじゃないか。──前の晩、闇にまぎれて、西軍の移動をすぐ傍でとったのもあそこだろ? チーフは誰だい?」 「知らなかったの?──ご存知、レッドホークの旦那さ……」 「あは!──そいつぁ無理ねえや。旦那にゃシャイアンの血が流れてるんだから……」水田は苦笑した。「だけど、ほかには機材を三つ四つやられた程度だろ?──六時間の長丁場で、八班編成の生中継をその程度の事故でこなせたら、めっけもんですよ。それで最終五十六パーセントっていう、お化け視聴率がとれたんだから……」 「その機材の事なんだけどな……」ふと梅木は顔を曇らせ、まわりを見まわして声をひそめた。「ぶっこわれたのはいいけど──ちょいと厄介な事になったのがあるんだ。よほど注意したんだが……ばれたら、始末書じゃすみそうにない。時間警察にひっぱられそうだ」 「どうした?」と水田も、心配そうな顔になった。 「六班で二つ、それから七班の──ほれ、島津落ちをおっかけたチームで一つ、機材がどっか行っちゃった。何度もチェックさせて、今、もう一度チェックさせてるけど……。どうやら、走りまわり、追いまくられてるうちに、向うの時代でおっことして来ちまったらしいんだ──」 「|ものは《ヽヽヽ》何だ?」 「ウォーキー・トーキィ一つ、ハンディカメラの、スペアの暗視スコープ一つ……七班の方は、原子力バッテリー一つおいて来ちまったらしい……」  水田はだまって、鎮静スティックをくわえて火をつけた。──しかし彼の顔には別にさしたる動揺はうかんでいなかった。 「ふうん……」と、水田はややおいて、紫煙を吐き出しながらいった。「──大した事はないんじゃないか?」 「まあ、あまり大きいもんじゃなし、タイムパトロールにだってみつからんだろう。現地で誰かにひろわれても、使えるもんじゃないけどね。──でも、まあ、これが時間警察にばれると、ちと厄介な事だろう? 局長あたりよび出されるかも知れないぜ……」梅木は屈託顔でミルクセーキを飲みほした。「でなくても──あれだけ�違反�をやらかしたら、相当お灸をすえられたろう? 怪我人まで出したとなると、総務ももみ消ししきれねえんじゃねえか? 近々よび出される覚悟で、首を洗って待ってるんだが……」 「何か言って来たか?」水田はニヤリと笑って、バーボンを口にふくんだ。 「いいや。──もし留められたら、差し入れしてくれよな。�隠亡堀�の鰻重以外だったら何でもいい……」  水田はゆっくりと内ポケットから何かの書類を出して来た。──テーブルの上にひろげたその書類のレター・ヘッドをちらと見て、梅木はちょっと顔色を変えた。 「来たのか?」梅木は椅子の上ですわりなおした。「出頭命令か?」 「�届け�だよ……」水田はもう一度ニヤッと笑った。「こっちから、報告を出したんだ。──でも、もうすんだ……」 「|すんだ《ヽヽヽ》?」 「ああ……。約束だったから、時間警察と時間管理局の両方に、経過報告を出したんだ。向うも、ちゃんとしらべていて、まあ、それほど決定的な食いちがいはなかったんで……」 「それで?」梅木は緊張した顔つきでいった。「処分が出そうか?」 「梅《ばい》さん……」水田はくすくす笑った。「処分が出るくらいなら、今どきあんたこのラウンジにすわっちゃいないよ。──すんだって言ったろ? おとつい、総務のリコと、編成局長とおれと、パトロール本部から二人、管理局から二人、ヴェガスへ御招待して、しゃんしゃんと手を締めて──それで一切終りよ」 「|お咎めなし《ヽヽヽヽヽ》か?」梅木は狐につままれたような顔をした。「だって──始末書ぐらい……」 「それもなし」と水田は手をふった。「まあ、管理局の方が、二つ三つ文句《あや》をつけた。一つは、ほれ空撮機が高度をさげすぎて、大砲にねらわれたのと、山にぶつかりかけたのと……それに、あんたの方へは報告が上ってねえだろうが、例の第六班の相撲部上りのADが、本田忠勝軍の足軽二人と鉢合せして、三脚でぶちのめした事だ。こっちが流れ玉にあたったりするのはしかたがねえが、先様へ手を出しちゃいけないって……それぐらいは守ってくれとさ」 「そんな事やったのか……」梅木は青ざめた。「レッドホークの野郎、このおれに何にも言いやがらねえで……だけど、それで始末書もなしかい?」 「まあ、一応口頭で警告という形はとったがね……」水田はからになったグラスを高く上げて、アンドロイド・ウエイターを呼んだ。「それより、ヴェガスでの散財の時に、管理局の連中から、耳よりな事聞いたぜ。──一般には、当分公表しないらしいが、近く報道取材や学術研究にかぎって、時間旅行や、現時代取材の規制が大幅に緩和されるらしい……」 「へえ……」梅木は気のぬけた声を出した。「という事は──おれたちの特番の七十項目近い違反は、それふくみでお目こぼしにあずかったわけかい?」 「まあな。──今度、時間管理局の条令改正担当になったのが、おれの大学時代、研究室のポン友でね。──今度の番組許可でも、ずいぶん力になってもらったんだが、彼の話によるとこのごろ学界の方でも、時空理論の中の�歴史性�モデルというのが、かなりかわって来たらしい……」  そうか。──水田の専攻は、理論物理だったんだな……と、梅木はぼんやりと思った。──それも、|時 空 理 論《タイム・スペース・セオリイ》の数理解析という、むずかしい事をやっていて……ちゃんとドクター・コースをいい成績でのぼっていながら、PhDもとらずに、途中から、いわばやくざっぽい、立体TV放送などという所へとびこんできた。それも、どういうわけか、科学番組担当などでなく、最初は営業、それからドラマ制作だ。梅木とは、ワイドショー番組の素材撮りチームでしばらく一緒に働いた。そのうち、二人ともドキュメンタリィ番組のADになり、「太陽系開発シリーズ」で、三年間も、宇宙都市や、火星や、小惑星や、天王星をとびまわった。その後、水田はプロデューサーに、梅木は「梅木サーカス」と綽名《あだな》された、特番専門チームの責任者となったのだが……。その梅木自身の専攻は、経済理論だった。「生物経済」や「宇宙ヴェンチャー・ビジネス・モデル」の基礎解析について、大学院の時は恩師の下でかなりいい仕事をやったのだが……。 「�歴史性�研究というと、例の�歴史に対する干渉�ってやつか?──おれたちの仕事に一番関係のあるやつ……」 「ああ──実をいうとね、むしろ、おれたちみたいな�歴史の現場取材�をやってる連中の仕事が、長い間、タブーというか�聖域�になっていた�歴史干渉理論�を進歩させた──というか、変えさせたといっていいんだ」水田は、はこばれてきた二杯目のバーボン・ロックをマドラーでからからとかきまぜた。「まあ、�歴史の流れ�ってやつが、初期のSFの�時間旅行三原則�なんかで考えられていたように、がちがちの決定論的因果律でしばられているんじゃなくて、むしろ、ボルツマン的世界だって事は、理論研究や実験室の方では早くからわかっていたがね……。だが、法的規制の精神的バックグラウンドは、時間旅行なんてまったくSF的空想の世界でしかなかった二十世紀半ばにできた、�時間旅行のタブー�の、思弁的、観念論的というか、あるいは神話的というか、そんな一種の迷信に、長い間とらわれてきた」 「無理もないやな……」と梅木はつぶやいた。「人間は習慣の動物であり、感覚的固定観念の上に情緒的安定を求める傾向があるからな。──ガリレオがピサの斜塔で実際に実験をやってみせるまでは、�重いものが早く落下する�って事は万人にとって自明の理になっていた。誰も検証した事のない�円盤世界モデル�が、みんなにとって|ありそうな《ヽヽヽヽヽ》イメージだったうちは、誰も大洋のむこうに挑戦しようとしなかった。古代ギリシャ人は、思弁的には見事に整合的な精神文明を持っていたから、彼らが�うそつき�とよんだフェニキア人のように、勇敢にヘラクレスの柱の向うまで航海しようとしなかったんだ……」  ふと、梅木は口をつぐんだ。──思えば、宇宙旅行だって、時間旅行だって、それが|その当時の《ヽヽヽヽヽ》「理論」からみて、「不可能」と証明されている間は、ほとんどの学者が、理論のわずかな隙をついて、敢《あえ》てその「不可能」に挑もうとはしなかったのだ。──アインシュタインのように、理論の「天才的飛躍」を先行させた例は、それほど多くない。そのアインシュタインにしてからが、自分をひっぱり上げてくれたプランクの量子力学はなかなか理解できず、一方、彼の「感覚」は、光速をこえる運動の存在を──質量無限大化の壁の「不可能性の実感」ゆえに──この宇宙から消し去ってしまったのだ。彼の「モデル」そのものは、その存在を禁じていなかったにもかかわらず……。  二十世紀の最後の四分の一あたりから、巨大な装置や、精緻な観測方法をつかった「実験」が、「理論」をひきずりはじめる。実験屋たちは、提示された理論の検証と、理論値と実験値の隙間をうずめるために、遮二無二突破口をきりひらこうとする。その結果を見て、理論家は、また新しい理論を考え、モデルを修正する。──前世紀の終りに、たとえば粒子加速器に要請されつづけたスケールアップは、すでに「地球という惑星の大きさ」という限界につき当っていた。場所についても、生物的危険性についても、またこの惑星上において得られる|エネルギー《ヽヽヽヽヽ》のリミットについても……。次の段階は、もう宇宙空間で加速器を建設するほかなく、そのためには、宇宙開発投資と、関連技術開発の半世紀以上の足ぶみがあった。  しかし、最初に地球衛星軌道上で、次に金星近傍で加速器が動きはじめると、事態は急速に進んだ。そして二十一世紀半ば、木星の衛星軌道上にとびとびにうかんだ延べ七万キロの大加速器が、木星大気中のヘリウム3の核融合と、地球の一万倍はある木星磁場、さらに木星大気圏の大電流まで利用して、陽子や電子を、地球上で得られた最大エネルギーより四桁も大きいレベルに加速しはじめると……そこで、突然壁が裂け、扉がひらいた。光速のナイン・ナインまで加速された素粒子は、質量が無限大ちかくなる以前に、「自己制動」によって重力子《ヽヽヽ》を輻射しはじめた。そして、このレベルでは、あの幻のような中性微子《ニユートリノ》は、重力子と相互作用する事がみとめられたのである。──この事実から、最初、応用面で構想されたのは、中性微子工学《ニユートリノニツクス》だった。この相互作用断面積の極度に小さい素粒子は、木星中心部からほとんど損失なしに、エネルギーをとり出したり、惑星を貫いて、あるいは恒星間空間へむけて、ほとんど散乱や吸収なしに信号を送る事に、実際につかわれ出した。しかし、それ以上に巨大な副産物が、新たな可能性の地平線をおしひらいた。それは、静止質量無限大近くまで加速された素粒子の一部が、共鳴状態において、「マイクロ・ブラックホール」にかわった事である!  この「人工ブラックホール」が、「時間旅行」の可能性をひらいたのだ。──「重力工学」は、ブラックホール工学を媒体にして、「時空間工学」に発展した。マイクロ・ブラックホールの寿命がひきのばされ、ミニ・ブラックホール程度のものが得られると、「裸の特異点」の性質がしらべられ、それが時空間に「穴」をあける技術に発展してきた……。  今から考えると、夢のようだ。──木星衛星軌道上の加速器JOAC─1の最終段測定器中に、最初のマイクロ・ブラックホールが検出されたのがわずか六十年前……人工変換場をつかって、最初に、数グラムの質量をもつ物体を「別の時空」におくりこみ、回収したのがその五年後……、それが、いまは、まだ一般には許可されていないものの、木星軌道上のラグランジュ点につくられた、時空場転換ステーションを通じて、人間を、巨大な乗物を、各種信号を、すくなくとも、人類の歴史時代の範囲なら自由に送りこみ、回収する事ができるようになった。ライト兄弟が一九〇三年にはじめて二百五十メートルの距離をとんだ時、その十年後に航空機が空中戦闘を行い、半世紀後に音速をこえ、人工天体をとばし、さらに十年余たって、人間が月との間を往復するようになると、当時の誰が想像したろうか?──同様に、一九七〇年代の統一ゲージ理論の中でとりあつかわれていた、核力、電磁力、弱い力、重力の四つの基本的な相互作用が、その半世紀後、「相互作用の相互転換」の理論と技術に発展し、やがて重力子や反重力子、超光速粒子などが人工的に自由につくり出せるようになり、「反重力場」内にささえられたミニ・ブラックホールが、重力エンジンのエネルギー源や、「時空場転換素子」として、盛大に──産業的規模《ヽヽヽヽヽ》で──つかわれるようになろうとは、当時の誰が予想したろう? 「それで、その�規制緩和�だがね……」と水田は、二杯目のバーボンに、少し顔を赤くしながらいった。「それが、この四月あたりに行われるとして、そうなると、こちらもいろいろ面白い事ができるようになると思うんだ……」 「ちょっと待ってくれ──」梅木はシガリロをくわえた。「その�歴史性理論の修正�っていうのは、いったいどういうものなんだ?」 「要するに、かいつまんでいえば、�歴史の流れ�っていうのは、ちょっとやそっとの�干渉�では変らんってことさ。むかしむかしのSF的|時間旅行《タイム・トラヴエル》で考えられていたほどにはね……。まあ、法律屋の、それも規制屋《ヽヽヽ》ってのは、未だにあのパターンを──いわば�クレオパトラの鼻�みたいな一種の詭弁を信じたがってはいるがね。早い話が、歴史というやつは、尨大な要素のからみあいで進行していて、ちょっとした干渉ぐらいはうけつけないほどの、マクロ的統計的な自己修復機能を持っているって事さ。考えてみりゃ当り前の話だがね。──関ヶ原の合戦の現場に、機材の二つ三つおき忘れたって、どうって事はないわけだ。アレクサンダーの軍勢に核ミサイルをぶちこむような事をしなけりゃね……」 「因果律《ヽヽヽ》はどうなるんだ?」と、梅木は眼を伏せてきいた。「�親殺しのパラドックス�は?」 「実は……」水田は急にまわりを見まわして、声をひそめた。「これはどこにも公表されていない。時間警察のトップシークレットで、時空研のごく一部の連中と協力して調査中らしいが、それをやったやつがいるらしい……」 「|先祖殺し《ヽヽヽヽ》を?」 「ああ──去年の中ごろだったらしい。何でも若い学者で、常日ごろ少し頭のおかしい奴だったらしいが──調査にかこつけて、自分の曾祖父《ひいじい》さんの独身時代へ行って、しめ殺したんだ。──何でも、自分の家系を呪っていて、その上、�親殺しのパラドックス�にとりつかれていたらしい事が、あとから手記でわかったが……」 「で?──どうなった?」 「よくわからんが──とにかくそいつだけ|消えた《ヽヽヽ》……。曾祖父さんの時代で……」 「|そいつだけ《ヽヽヽヽヽ》?」梅木は思わず灰皿にのばした手を宙にとめた。「曾祖父さん以後の家系は?」 「それがおかしいんだ。──曾祖父さんは、たしかにしめ殺されたんだが、二日ほど死体がどこかへ行っていて、それから|生きかえった《ヽヽヽヽヽヽ》。現地の警察で大さわぎしている時に、殺された時の服装で、ふらふら家へ現われたというんだ……」 「どうなってるんだ?」 「わからん──だから、パラドックスはなりたたなかった。生きかえった曾祖父さんは、その後結婚して子供をうみ、三代たって、その犯人もうまれたから……」 「結局、消えたのは、|犯人だけ《ヽヽヽヽ》か?」梅木はシガリロを灰皿におしつぶした。「どこへ行ったんだろう?」 「知らんな……、その点について、いま時空研が警察と協力してしらべているんだが……」  梅木の背後の椅子に、どすん、と重い体がすわりこむ音がして、つづいてあたりはばからぬ胴間声がひびいた。 「えーと、……お子さまランチ!──何がおかしい?」アンドロイドでない、人間のウエイトレスがくすくす笑うのがきこえた。「お子さまランチったって、何も子供だけが食うもんじゃあねえぞ。──ありゃア宿酔《ふつかよ》いン時に胃にいいんだ。むろんそれだけじゃたりねンだから……あとハンバーグと──ランチについてます? 知ってるよ。ちっこいんだろう。──つべこべ言わずに、持ってくりゃいいんだ。食うのはおれだから……。おたく、儲けさせてやろうてんだから……ちったあ商売気出しなよ、姐《ねえ》ちゃん。そのうちシルチス・マヨルに家がたつよ。──待てよ、まだあるんだよ。最後にな……そう、これ、焼きソバもって来てくれ、一番あとでだよ。あ、調理場に言ってな、焼きソバはイカをぬいてくれって……。いいから、そう言えって。いつもやってもらうんだから──。それから、今すぐ、水割り、ダブルで持ってきて……。すぐだよ。迎え酒だから……ザッツ・オール。完了《ワンラ》……」 「オダ公!」  と、梅木は椅子の背にもたれたままふりむかずに言った。 「へい……あ、チーフ。もう休養はいいんですかい?」 「どうでもいいけど、おめえ、レッドホークンとこの若いもンが、本多軍の足軽を、|三 脚《トライポツト》ではったおした事、報告しなかったろう?」 「あれ? 言いませんでしたか?──申し訳ない。何ね、出会い頭に、槍をつきつけられたんで、夢中で払ったら、眼をまわしたってんで……。なンしろあのインディアン部隊はむこっ気の強いのがそろってましてね。──ぶんなぐったやつは、これがまた、ハッサン・ザ・クラッシャーって、あなた、クルドとコザックの混血で、ヌンチャクの名人で……。──で、それが何か問題になってんですか? 始末書か何か……」 「なってないんだよ」梅木は苦笑した。「それはいいが、ちょいと聞きてえ事があるんだ。こっちへこないか?」 「話があるんですか?──そいじゃ、ま、早まくでかっこんじゃってから、そっちへうつりまさ。何しろテーブルが小せえもんで……」 「歴史の因果律ってやつは……」と、水田は二本目のスティックをくわえながらいった。「さっき言ったように、無数のエレメントが網の目のようにからみあってる。──素粒子物理の方で、�因果素量�って妙な概念を考えてるやつがいるが、そいつが歴史性研究をやっている連中と協同して、ためしに�歴史の因果律�を素粒子レベルのやつで計算してみたんだが──何でも尨大なものになっちまうらしいね。特に生物発生以降になると十の何百乗って桁らしい。ただ、歴史性を洗っている連中の方では、歴史の因果律は、ただのっぺり流れてるわけじゃなくて、収斂《しゆうれん》したり、�因果性の特異点�みたいなものがあるっていうな。人間の�個体性��生の一回性の自己意識�なんてものは、その特異点の渦巻きみたいなものになってて、だから�親殺しのパラドックス�みたいなものが……」 「よう、五十六パーセント大ディレクターはここにおわしますか!」と声がした。「おやおや、水田名プロデューサーも……特番ヒットコンビ、おそろいで……」  ふりかえると、ワイド番組についている代理店のJ・Jと、編成局の阿頼耶《あらや》だった。 「まずは、大成功、おめでとうございます……」と、J・Jは、水田とならんで腰をおろすと、両膝に腕をつっぱってぺこりと頭をさげた。「スポンサーも、椅子からひっくりかえって喜んでおりますんで……手前どもとしても、大面目をほどこして、おかげで同業他社に鼻が高い。これもひとえに�梅木サーカス�のおかげと……」 「よしてよ、J・J。あんたにそんな言い方されると気色悪い……」梅木は手をふった。「それよか、今度、制作予算出した時、あんなにまッつぁおな顔しないでよ」 「いや、もう大丈夫!──あん時ァ、私は、スポンサーのかわりに青くなってみせただけで、今度からは、大きな顔で……何しろ、スポンサーの方も、視聴率だけじゃなくて、内容《なかみ》でぶっとんじゃって、今度から金はいくらでも出すって言ってますんで……。何しろ、会長も社長も、テレビの前に釘づけで、会長なんか興奮のあまり、血圧が上って入院してしまったそうですから……。とにかく『関ヶ原』は、うちとスポンサーで、会長賞、社長賞はきまり、おたくはまだですか?──それから、記者クラブの方も金的賞《ブルズ・アイ》はきまりだって言ってますよ」 「賞どころか、こっちはさっきまで、始末書ですむか、ブタ箱かって気をもんでた所だよ」と梅木は水田と顔を見あわせて笑った。 「大丈夫だって聞いたんで、やっと今日明日、チームの打ち上げパーティやろうかって気になったばかりだ」 「パーティなら、おれも出るよ」と阿頼耶がいった。「その時に、お宅の�サーカス�、もう一息手綱をひきしめといてほしいんだ」 「何かあるのかい?」 「四月の改編で、どえらいシリーズがきまりそうなんですよ」とJ・Jは体を乗り出した。「三時間ワイドのレギュラー、週一、とりあえず二《ツー》クールで、スポンサーは、今のスポンサーが音頭をとってるコンツェルンが全部乗る──したがって、制作費はおのぞみ通り、何しろ、会長が傘下企業に号令かけちゃったんでね。むろん、太陽系ネット売り……」 「それ、歴史もの?」 「もちろん!──『決戦関ヶ原』の栄光を継いで、今日は東に明日は西に、ジンギス汗のバグダード攻防戦から、壬申《じんしん》の乱まで……」 「そりゃ無理だ、J・J……」梅木は手をふった。「『関ヶ原』だって準備と仕こみに何や彼やで半年以上かけたんだ。おれにしても、乾坤一擲《けんこんいつてき》だったからね。──番宣をうたわせるのに、こっちで文案から戦略までたてて持ってったんだから……。そんなの週一でできっこないよ。中身がうすまっちゃうよ」 「だけど、打ち上げパーティの時にゃ、社長命令が発表される事になるぜ」と阿頼耶は大きな眼をぎょろつかせて口を挿んだ。「今、局長が社長によばれてるよ。何しろ、スッポンの会長は、うちの社長の大先輩で頭が上らねえからね」 「六班編成でローテーションを組む。各班のチーフとサブには、社内からだけじゃなく、他局からも、プロダクションからも、腕っこきをひっこぬく。──SSDの映像記録部で、今、土星の記録をとっているカール・ブランデンにも|こな《ヽヽ》をかけてある。どうだ?」と水田は言った。「それに、この企画には、時空研と歴史解析研究所の学者が協力してくれる事になっている……」 「水《みず》──。お前……」梅木はうめいた。「この番組企画の事、知ってたんだな?──水くせえぞ。一言知らせてくれりゃ、どこかに雲がくれして、当分出てこなかったのに……」 「まあ、そううらめしそうな顔をするな。──今日、ゆっくり話すつもりだった。おれはこの話に乗ったんだ。ぜひあんたにも乗ってもらいたい。今度は、おれがPDにつく。昔みたいに組もうじゃないか……」 「そりゃ、おれだって、これだけでっかい話になってくりゃ乗りたいよ。──だけど、何しろ時間がない。番組改編まであと二カ月じゃ……」 「あんたが完全主義者だって事をおれたちが知らねえとでも思ってるのかい?」と阿頼耶がきびきびした調子で言った。「まあ聞きな。──とりあえず四月から、三時間週一特番の枠をとっておく。ストックは、外国ものもあるし、そのうち二週は栄光の『関ヶ原』、�あの興奮を前後編にわけてもう一度�ってわけさ。そやって時間をかせいでる間に、あんたは�サーカス�を再編補充して、これと思う題材に思いっきり全力投球してくれりゃいい。制作費はプールで、あんたの所にどかっとつけさせるよ。──何しろ局はじまって以来の五十六パーディレクターだからな。どこにも文句は言わせねえよ。どうだ? これでも乗れねえか?」 「時間だ……」梅木はつぶやいた。「問題は時間だ──。おれだって、日にせめて四時間は睡眠をとりてえよ。七十二時間ぶっつづけ労働なんて、今回かぎりにしてえよ。もう若くねえんだしさ、一本目、半年くれるか?」 「そりゃねえでしょう、梅さん。半年くわれたら、魔の八月だ。ジャリ向けバカ騒ぎ番組とスポーツと、あとは納涼お化け大会とくら。局員だって、ダレちゃって三分の二は月か北極に行ったきりさ。──そんな時に、おたくだって、エース登板したくねえだろ。四カ月でどうだ?」 「やっぱ、おりるよ。自信ねえ」 「そういうだろうと思った。──なかとって、五カ月で行こう。な、これで手を打っとくれよ」 「総指揮は誰がたつ? 部長か?」 「部長じゃ役不足だ。名目は局長がたつ。が実質は水さん──そしてあんただ。梅木チームのPDも水さんだ。この全企画の采配は、実質、あんたと水さんだ。これでおたく、次の次長か部長、まちがいなしよ。何しろ、社も代理店も、あげてあんたに力をそそごうというんだ。これで受けなきゃ男じゃねえぜ……」 「うう──あたし負けそう……」と梅木は蚊の鳴くような声を出した。「もう、くずれてしまいそう……」 「やり方は、今度のやつを、もう一歩進めればいいと思うんだ。今度は生中継《ライヴ》じゃなくて、CSRを主で行くから、ずっと楽なはずだ。それに……」水田は急に声をおとした。 「さっきちょっと話してた、四月からの時間旅行や歴史干渉に対する規制緩和な……。その事は、まだ部外秘で、他局の誰も知りゃしねえし、知ったって、どういう事かすぐにゃわからねえにきまってる。第一、公表するんじゃなくて、専門機関や関係方面に内部通達の形で行くんだから……。だけどおれの友達《だち》と徹底的に検討してみたんだが、もし、規制が緩和されたら、歴史上の人物に、|直接インタビュー《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》がとれるんだぜ……」 「それなんだ」と阿頼耶はポケットからメモを何枚もとり出してテーブルへおいた。「おれも、本番の時デスクにいて、視聴者からじゃんじゃんかかってくる電話をうけていた。──なぜ、あの時家康にインタビューしねえか、とか、なぜ敗軍の島津兵に一言感想きかねえか、とか、そんなンばっかし……。で、視聴者は無理いいやがって、飲み屋で水さんにこぼしたら、今度の改正で、それができるようになりそうだって聞いて、とび上っちゃったんだ。そんな事ができるのにやらなきゃ、男じゃねえと思って……」 「本番ン時、副調整室で、誰か�ここで家康のアップが欲しい�ってわめいてたな。──今度はやろうと思えばできるんだよ。ただし、無礼者ってとっつかまって、首ちょんぎられようが、釜ゆでされようが、一切おかみには責任はありませんって誓約書は書かされるがね。──自己危険負担《オウンリスク》って奴さね。そんなの、おたくのサーカスの連中は屁のカッパだろ?」と水田は言った。「と言っても、むろん、めちゃくちゃはできねえ。今度の規制緩和で、どこまでやれるかって解釈はなかなかむずかしいが──そのために、管理局のおれの友達《だち》と一緒に改正の仕事をやっている、これは学者じゃなくて、運輸省から来た根っからの役人だが……そのおっさんが|なぜか《ヽヽヽ》、改正の終った四月に突如局を勇退して、当社の嘱託に天下りましてね。管理局、警察、時空研のおえら方、そういった方面の一切のトラフィックをやってくれる事になっとりますです」 「ヤロウ!……チクショー!」と梅木はわめいた。「おれが安マンションで三日間ぶったおれて眠ってる間に、てめえらよってたかって、雪隠《せつちん》詰めの手をしくみやがったな! きったねえ! 陰謀だ! 謀略だ! まだ最高裁があるぞ!」 「だからさ、お兄さん、ここまで手がまわっちゃってんだから、ここはじたばた往生際悪くしないで、さ、あっさりと男らしく詰ンじまいやしょうよ。そんなにガキみてえにわめかないでさあ、みっともねえよ」阿頼耶がクスクス笑いながら梅木の肩をたたいた。「という所で、一つ手を打ちましょ、ね。納得?」 「うう……なっとく……」と梅木はいった。  しかし──と、彼の心の底に、まだ何か「納得」しきれずにひっかかるものがあった。一種の危惧が……。 「へえ、どうもお待たせいたしやした。何の御用ざンしょ」  四人の傍に、洗いざらしのラグビー・ジャージーにくるまれた巨体がうっそりとたった。──鼠の小便のあとと、黴《かび》だらけ、穴だらけ、よれよれの──うそか本当か知らないが、本人のいうには、ニルス・ボーアのかぶっていたものだという──|中折れ帽《ステツトスン》をちょこんと頭にのせて……。 「いい年ぶっくらこいて、いつまでお子さまランチ食ってやがんだ!」  梅木は、自分でもわけがわからずに、とんがった声でどなった。 「へ、申しわけない。──お子さまランチはすぐ片づけたんですがね。コックの野郎、焼きソバにイカ入れるなって言ったら、ゲソ入れて来やがったんで、それをよりわけるのに手間食っちゃって……ゲソがイカじゃねえなんて、とんだステレンキョウで。これから裏へぶっとばしに行く所です。──御用は?」 「ええと──サーカス団員は、出てるか?」 「今日はぼつぼつ……。明日のパーティにゃ全員出ます」 「今月休暇をとってる奴は、全員とり消させろ。社外の連中にも、足止めくわせとけ。先の仕事もキャンセルして、これから四月まで、よその仕事はどこもうけるなって、面倒見るから。──悪家老どもの陰謀で、どえれェ仕事にのせられちまったんだ。全員に言っとけ。�地獄さ行くんだで�って……」 「いい台詞《せりふ》だねえ。──多喜二の�蟹工船�と来ちゃいましたね。で、今度ァどこへつっこむんです。明治維新? 蒙古来襲?」 「�建武の中興�──と思ってる。おれの腹案では……」と水田がちらと梅木の顔を見ながら言った。「いささかしぶいが──穴だと思うんだ。もうおれの部署で、スタディをはじめさせている……」 「※[#歌記号]吉野を出てうちむかう……ですか? いいねえ。しぶいねえ。やりやしょう! 笠置、吉野、千早城、鎌倉──どこでも参りやしょう」 「『関ヶ原』たァわけがちがうぞ。三時間特番連続四週──場合によったら六週だ」と梅木は溜息をつきながらいった。「それから──団員にゃ箝口令《かんこうれい》をしいとけ。あれだけ派手なものぶち上げたら、このあと、社内からだっていろいろあるからな」 「合点《がつてん》承知の助──。で、用事はそれだけですか?」 「いや……」  梅木の頭の片隅に、何かがひっかかっていた。さっき、水田の話と関連してヤン・オダに|何か《ヽヽ》を聞こうと思っていたのだ。──が、思い出せない。 「ほかに何かあったんだが──忘れた」 「あたしもさっき、チーフに、話す事があったんだが……」とヤン・オダはぼんのくぼを掻いた。「何だか忘れちゃった。──あとで思い出すでしょう。じゃ……」 「待て!」 「へ?」 「お前、風呂へはいったか?」 「さりとはむごいおたずね。──ちゃんとはいってますよ」 「いつ?」 「えーと、忘れました。たしか去年の九月か十月……」 「わかった。今度は現場を一つ受け持て。──そう忘れっぽくちゃ、タイミングやるのは危なくてしようがねえ。おれも今度は、現地へのりこむ」 「そうだ!──思い出した。実はねえ、チーフ……」 「じゃ、おれたち……」といって、水田たちは立ち上った。「六時からガン首そろえて、スポンサーにあわなきゃならないから……」 「どこで?──�ヒダルゴ�?」 「いいカンでやすな」とJ・Jは馬のように歯をむき出した。「どうやらだいぶ乾いていらっしゃるらしい……」 「当りめえだ。三日間寝てばかりで、体内のアルコール分がカラカラに蒸発しちまってるのを思い出した」梅木は勢いよく立ち上った。 「禁断症状寸前だ」 「さっき、おれがバーボン飲んでる時には、欲しそうな顔もしなかったくせに……」水田はニヤニヤ笑った。「酒というよりクラブ�ヒダルゴ�のランちゃんに禁断症状起してンだろう……」 「図星! 大当り! 持ってけドロボー!──ランちゃ〜ん。待っててちょうだいね……」 「ねえ、チーフ……せっかく思い出したんだから、あたしの話もきいてくださいよ」とヤン・オダは、あわてて追いすがった。「例のタイミングの話ですがね」 「なんだよ。──手短かにしろよ……」 「ええ──。ほら、本番の時、東軍の田中吉政の先鋒と、西軍の島津豊久の先鋒が、予定より一分半も早く、接触したって、チーフにどなられたでしょ。あたしゃ、リハーサルの時きっちり時間をはかったつもりだったから……いささか頭にも来たし、気にもなったんで、あとから、リハーサルでとったCSRをチェックしてみたんですよ。一本目のCSRはあとの方がNGだったんで、二本とったんですが……そしたら、二本目は、一本目より|十七秒早く《ヽヽヽヽヽ》接触がはじまってるんです。──最終のタイミングは、二本目を基準にしたんですが、そうしたら……」 「何してんだ。──おいてくぞ!」と阿頼耶が廊下の曲り角でふりかえってどなった。 「いま行く!」と梅木もどなりかえした。「そうしたら……本番の時は、それよりさらに一分半早くはじまったってんだな」 「ええ──そうなっちゃったのは……結局、おれたちの取材が……機械もちこんだり失くしたりした事が、|歴史に干渉し《ヽヽヽヽヽヽ》て、そんなずれが起ったんじゃないか、と、それがちょいと気になって……」 「わかった。あとで考えてみる……」梅木は走り出しながら肩ごしに叫んだ。「だけど、大局にゃ影響ないんだ。──水さんがそういってた……」  R──4「事故」 「どうしたんだ?」梅木はいらいらしながらみすぼらしい半蔀《はじとみ》車の物見窓から中をのぞきこんだ。「まだOKこないのか?──このむし暑さじゃ、坊ンさん、そろそろ眼をさますぜ。薬ももう切れてるだろうし……」 「もうちょい待ってください……」と、車の中でモニターや計器類を前にして、技術主任も汗をだらだら流しながら、ふりかえった。「こちらは全部OKなんですが──中継の方が、また時空場に歪みがはいってるってすったもんだやってるんです」 「またかよ──」梅木は、うんざりしたように、網代《あじろ》笠で胸もとをあおいだ。「ステーションの方は何をしてるんだ?──これで六回目だぜ……」 「アンテナの大調整を二回もやったっていうんですがね……」技術主任は、舌うちしながら機械の方をふりかえった。「どうやら、こりゃあ、超時空間場《ハイパー・スペース》に、一種の|�場   嵐�《フイールド・タービユランス》みたいなものが起ってるのかも知れませんね」 「へたをすると、また降るかも知れませんよ」山伏姿のADの宇津城が、空を見上げて言った。「三十分待ってだめだったら、しかたがないからCSRでとりますか?」 「なるべくしたくねえな……」梅木は唾を吐きながらいった。「画質ががたんとおちるからな。──やっぱり本局の大型ディスクにとってもらわないと……」 「ポータブルのCSRディスクも、もうほとんどありませんよ」と技術主任は棚をふりかえっていった。「波の具合がずっと悪かったんで、ずいぶん使っちゃいました」 「ホログラフ・フィルムの方は、まだ予備があるんだろう?」 「これも大した事はない。──だって、梅《ばい》さん、きらいなんでしょ?」  ちくしょう!──中継のやつ、何してやがるんだ……  と、口の中でぼやきながら、梅木は薄ぐもりの空を見上げた。  うっとうしい薄雲を通して、夏の陽ざしがむしむしと照りつけてくる。──中継機は雲の上にいて、ここからは見えない。  風はほとんどないが、時折り海から微風が吹き上げると、むうっ、とする異臭が下界からおくられてくる。──つきさすような焼木の臭い、人馬の血の臭い、そして胸のむかむかするような腐敗臭だ。  正慶二年、一三三三年、陰暦五月二十五日の鎌倉──三日前の最後の戦闘に、すっかり焼野原《やけのがはら》となった市街を見おろす山頂だった。東北に化粧坂、南西に大仏切通し、すぐ眼下に稲荷社があるが、藤沢方面から稲村ヶ崎、極楽寺坂を通って攻めこみ、放火、殺戮、掠奪、暴虐のかぎりをつくして百五十年の幕府の地を灰燼に変え、今なお市内を徘徊して、掠奪、婦女暴行、残党狩りをやっている新田義貞の軍勢も、闘いが終ったあととて、ここらあたりには姿を見せない。 「暑いなあ……」と、のびをしながら、これもうす汚れた優婆塞《うばそく》姿の白川アナがちかづいてきた。「ばてちゃいそうだ……」 「何しろ、梅雨の最中だからな」と梅木は吐息をついて、少し離れた所にある輿《こし》──といっても反重力エンジンと時空移動装置付きの──の方を顎でしゃくった。「坊ンさん、まだ寝てるか?」 「そろそろお眼ざめだ。──何かむにゃむにゃ言ってる……」  宇津城が白川アナに何かささやいた。──白川はちらと梅木の方を見て、二人でくすくす笑った。 「何だよ?」と、梅木は口をとがらせた。 「いや──あんたが、カワユイとよ……。ほんとに強力《ごうりき》姿がよく似あうぜ。音羽屋の義経みてえだ」 「けッ──おきゃがれ」  と梅木は苦笑した。──色白小躯長髪で、ぽっちゃりしている梅木は、男色のはやったこの時代、よく山伏姿の一行の稚児とまちがえられて、宿をかりた寺で一晩かせと坊主に申しこまれたりした。  スーパー歴史特番の「建武の中興」特別取材班は、十四世紀の日本に、その姿をさらし、「肉薄取材」をするために、山伏、一向宗の遊行僧、田楽法師、踊り念仏の一行と、さまざまな扮装をしていた。──防御のためのショック・ガンや、低出力の電磁バリヤの携行も特別に許可されていた。何しろ、天下動乱、山野いたる所に、悪党、野伏、盗賊、血に酔った武士団の横行する時代である。  車の中で、中継の声がした。──つづいてステーションかららしいコールが……。 「来たか?」  と梅木は車の中に首をつっこんだ。 「梅《ばい》さん……すまねえ。やっと行けそうだ」と、通信器から、局の副調整室にすわっている水田の声がした。「もう五分待ってくれ……」 「どうなっちゃってるんだ。水さん……」と梅木はどなった。「取材予定は、おくれおくれだぜ。──超時空間場《ハイパー・スペース》がどうかなってるって?」 「そうなんだ、位相を三つ、きりかえてつかわなきゃならねえ。──局の方でも、ちょっと心配してるんだ。そこの取材を終ったら、一たん引き揚げ命令が出るかも……」 「冗談じゃねえぜ!──まだ半分も取材を終ってないんだぞ」梅木はわめいた。「三班はやっと千早城をとり終った所だ。まだ、後醍醐帝還御だろう。中先代《なかせんだい》の乱と護良《もりなが》暗殺だろう。箱根、竹ノ下の合戦だろう。尊氏の九州落ち、筑前多々良浜の闘い、摂津湊川の戦い、尊氏入京と名和長年の戦死、北畠顕家の戦死、新田義貞の萌木峠ごえ、越前金ヶ崎、藤島の合戦と義貞の戦死……」 「わかってるよ。──だが、管理局と時空研の方で、万が一、という事をいい出した。まだ正式の警告じゃないが……へたすると、映像が送れないだけじゃなくて、|帰れなくなる《ヽヽヽヽヽヽ》かも知れない、っていうんだ」 「まさか──」 「いや──一時的にだけどね……。たとえ、一時的でも、そんな事になると……」 「これから先の取材がむずかしくなる……」と梅木はつぶやいた。「鳴物入りで、�昭和紅白�の伝説的記録に挑み、七十パーセント台を目ざす。スーパー歴史シリーズも腰くだけってわけか……」 「その事で、いま、トップは代理店トップと会議をやってる……」水田の声は、心なしかかたかった。「一時間以内に結論が出ると思うが──場合によったら、一時取材班全面撤収という事になるかも知れない。一応ふんどいてくれ……」 「了解《ロジヤー》……」と梅木はぼんやりとつぶやいた。「今はとにかく、急いで送れるようにしてくれ……」 「えー、こちら由比ヶ浜、B班でござい……」とヤン・オダの声が、別のスピーカーからがんがんひびいた。「もうつながりますでしょうか?──いま滑川河口あたりで、一向宗の坊さんたちが、砂浜をほって、死骸をうめはじめてますが、……何千体あるか、とにかく、物すごい数の死体で、首のないのや手のないのや……ひでえ臭気です。馬や犬の死骸まであつめてます。これはその、一九五三年に見つかった、有名な�材木座人骨�のもとになったと思われるんで、ばっちりとりてえんですが……」 「梅木だ。──中継がつながるのを待つな、手持ちのディスクでばんばんとりまくれ。ひょっとすると、一時、全班撤収するかも知れん。みんなに言っとけ……」 「撤収?──何かトラブったんですか?」 「まだわからん。──シャイアン特攻隊は一緒か?」 「午前中まで一緒に、焼け跡をとってたんですが、一息入れたあと、三日前の鎌倉幕府滅亡の時に、とりのこした分があるとかいって、五月二十二日の方へ行ってますが……」 「連絡をとって、終ったら佐介稲荷の後山へ集結しろ、とつたえろ……」 「つながった!」と技術主任は叫んだ。「──中継! いいね?──本番行くぜ」 「よーし、本番だ!」と梅木は車から身をひるがえすと、山頂の、金剛杖を三本くみあわせた恰好になっている三脚の上にすえられた、笈《きゆう》の形の3Dカメラにむかって手をふりながら走り出した。「優さん、定位置、すぐはじめちゃってくれ。──誰か坊ンさん起してつれてこい!」 「正慶二年五月二十五日……二日にわたって、鎌倉の市街をなめつくした業火は、夜来の雨でようやく消えました。──ここ鎌倉の西、稲荷山の山頂からもとの市街を見おろすと、百五十年にわたって日本を支配した武家政権の首都が、ただ一望の瓦礫と黒く焦げた柱ののこる焼跡と化し、若宮大路のつきあたり、巨福呂坂、朝比奈切り通しを負ってそびえていた幕府の館も、今はあとかたもありません。そこここの谷間に辛うじて焼けのこった堂塔伽藍の朱白の色が、かえってこの焼跡の無残さを、きわだたせているようです」と白川アナは鈴懸頭巾に金剛杖をぐっと斜めについてきめ、沈痛な調子で語りはじめた。「五月十八日から二十二日まで、五日をかけた死闘の結果、鎌倉方の武将兵士は全滅……寄手の新田軍とあわせて、死者は五千とも六千ともいわれます。梅雨の湿気に、焼けただれた死骸が腐りはじめ、焦げた木の臭いとともに、酸鼻《さんび》としかいいようのない腐気が、風にのって山頂までただよって来ます……」 「来ました……」  と、若いアシスタントが、輿《こし》の中から初老の男をつれてきた。──一向僧のように鼠色の麻衣を着て、やせて小柄……だが骨組みはがっちりして、ややしゃくれた顎……強情そうに口をへの字にむすんでいる。少しのびかかった坊主頭は半白で、顔つきはまだ多少ねぼけ気味だったが、眼尻にしわをたたんだ切れ長の眼は、怜悧そうに、また時には酷薄そうに鋭くきらめく。  梅木は、その僧体の男を、白川の横へ出せ、と手まねした。 「では、この鎌倉の惨状を前にして、有名な�徒然草�の作者、吉田兼好さんにお話をうかがって見ましょう──」と白川アナは法師の方をふりかえった。「兼好法師──いかがでしょう……。三日前の戦いで、鎌倉はこの通り、焼野原となってしまいました……」 「こ、これが──鎌倉じゃと?」兼好法師は思わず息をのんだ。「何とむごたらしい……。相模入道どのは? 執権どのは?」 「ことごとく、戦死、あるいは自刃されました──」と白川アナは、頭をたれるようにしていった。「鎌倉方の名のある武将、侍、一人として生きのびたものはありません。五月九日には、丹波に反した足利尊氏勢により、京、六波羅がせめほろぼされ、北条時益どの、仲時どのも戦死──帝と上皇は伊吹山にてとらわれの身となりました。また本日は、遠く九州に、鎮西探題がせめほろぼされたとききおよびます。北条一族は、わずか一と月たらずのうちに滅亡したのです……」 「おお……おお……」と兼好法師は衣の袖をかきあわせ、合掌しながらよろよろと膝をついた。「たしかにこれは……鎌倉じゃ。葛西が谷の東勝寺があれに見ゆる……。やつがれは、幼時を金沢にすごし、二十四、五まで鎌倉にあって、入道前のさきの執権どのとも、歌の道で交らせていただいたが……」  ああ、むごや……とつぶやいて兼好法師はひしと眼をつぶってふしおがんだ。──しわ深い顔を、涙が筋をひいた。  吉田兼好、この時五十歳──延慶二年、六位蔵人となって都にのぼり、歌道をもって後宇多上皇の寵をうけた。正中元年六月、後宇多上皇が大覚寺に崩ぜられるや、兼好も儚《はかな》んで同年四十一歳で剃髪し、ひきつづいて、大覚寺統の後醍醐帝との接触もあったが、後醍醐帝のはげしい性格と波瀾万丈の行動について行けず、元徳二年(一三三〇)から元弘元年(一三三一)へかけて、後世にのこる「徒然草」の骨格部分を書き上げると、天皇笠置遷幸、隠岐配流とつづく元弘の変のとばっちりをさけて、木曾の知遇をたよって身をかくした。  梅木のチームは、兼好法師をその木曾の隠棲地からつれ出して来たのである。──山伏姿に「天狗」のイメージをちらつかせながら……。平安末の人々が「鬼」「物の怪」を信じていたように、鎌倉中世の人々は「天狗」を信じていた。「是害坊《ぜがいぼう》絵巻」の成立もこの時代である。  そして、今度のシリーズから許可になった当代人の「直接インタビュー」の対象を、梅木は、吉田兼好をはじめ、「梅松論」を書いた足利尊氏腹心の細川和氏、上杉重能、後醍醐帝に、あの過激とも言える「大義名分論」をもととした宋学──「朱子学」を講じた天台僧北小路(あるいは北畠)|玄※《げんえ》法印、また楠木一族と縁戚関係にあったその子|祖曇《そどん》、同じく帝に外道の秘法真言立川流でもって近づき、元弘の変に、関東調伏の祈祷を行ったとして処刑された妖僧文観、「神皇正統記」を顕した南朝の大イデオローグ北畠親房、あるいは「太平記」の初めの部分の著者である児島法師や、楠木正成の甥で、伊賀服部氏の出である観阿弥──すなわち能楽の大成者世阿弥の父──といった、評論家、文化人、史家、文筆家にしぼった。──なぜなら、この激動期にあって、政治ドラマの立役者たちは、あるいは激越すぎ、あるいは分裂症のようで何を考えているかわからず、あるいは寡黙すぎて何もしゃべらず、その上、総じて身辺警戒厳重で、近よるにはあまりに危険が多かった。後醍醐帝も護良親王も、ひどい癇癪《かんしやく》持ちで、インタビューできるような相手ではなかった。楠木正成は、腹心か目上にしか口をきかず、高師直はおそろしく乱暴で、北条高時は、風狂がひどくてまともな喋りができず、足利尊氏にいたっては、福徳円満の長者の相をそなえながら、しゃべる事はあいまいで、何を考えているのか、側近のものにさえよくわからない、といったありさまである。  こんな時代にも、いわゆる「文化人・評論家」に属する連中は、比較的よく弁じた。──事態もある程度客観的に、距離をおいて眺めていた。したがって、さまざまな立場に「加担」している彼らの語りを通じて、時代を、政策を、人物たちをうきぼりにして行こう、というのが、梅木と水田の考え出した方針だったのである。 「ところで法師──われわれの方へはいって来た知らせによりますと、隠岐の帝《みかど》は、すでに閏《うるう》二月、配所を出られて伯耆《ほうき》船上山に名和氏の軍にまもられてあると申します。今、京、鎌倉に、また鎮西に、北条氏がいっせいにほろびたとあらば、京へ御還御あるは間もない事と思われます。法師は、故後宇多法皇以来、大覚寺統になじまれた。隠岐の帝が、再び帝位につかれたら、法師もまた、京でおそば近く用いられるのではありますまいか?」 「隠岐の帝が──いや……あの帝が帝位を復されたにしても、やすやすとこの世はおさまるまい……」兼好法師は、偏屈そうに口を曲げ、目をつぶって首を横にふった。「あの帝は──畏《おそれ》多いが、唐天竺《からてんじく》の大天狗どもにとりつかれておわする。御性《おんさが》、闊達発明にすぎて、新を好まれ、檄を発せらるるが故に日の本の帝の身で、異国《とつくに》の魔霊天狗に魅入られたのであろうが……。もし、京に還御あっても、天神地祇を善くし、皇統百官を正し、自ら恃して大いなる帝徳の花を咲かせるにとどまるれば、万事うまく行くであろうが、あの帝は、必ずや花《ヽ》のみならず実《ヽ》もとろうとなさるるであろ……」 「と申しますと?」 「帝は、元にほろぼされた亡国宋朝の亡霊がとりつかれておわす──と拙僧は見る。元亨《げんこう》の御親政を見ても、記録所の裁きのもとはすべて帝より発せられた、とうけたまわる。が、あの時は、幕府探題がまだ力あり、お裁きも、もはら皇領の事にかぎられてあったからまだよい。されど、こたび、北条幕府執権探題ことごとくほろび、世を統《す》べる法《のり》も役所も失せたれば、この機に乗ぜられて、必ずや万機を玉掌に把られんとされるであろ。さすればあやういかな……。思いみられよ、優婆塞どの、世は武家の世じゃ。草深い田舎にあっても、うぬがわれがと、刃物三昧、力ずくだてがおしとおる。──こなたでは愚民、卑僧念仏踊りに狂い、要人は非道の盾をとって利をむさぼり財をつむ餓鬼道に堕し、それもこれも、折りあらば刀をとって賊となり、人をおそうて、あやめ殺し、落武者死人の身ぐるみはぐの事、羅刹にことならぬ。まっこと末の世というも愚かじゃ。餓鬼畜生、悪鬼羅刹の跳梁する世を統べるは、修羅しかあるまい。──普天のもと、率土《そつと》の浜《ひん》、王土ならざるはなしとは宋学のいう義なれど、聖《ひじり》の君、いかに御英道にして、唐土の制をこの地にたてんと志されても、聖恩も修羅にはうけつけられまい。拙僧、鎌倉にあって武士と交り、都にあって公家堂上の知己を得、いままた辺土木曾にて、山賊野伏と語るも、公家には武士はおさめられぬ。至上の綸旨《りんし》をもってしても、百五十年つづいた武家の世は、延喜天暦にかえるまい。さらば、力をもって実《ヽ》をもとらんとさるる時、修羅はさからい、世は再び乱れるであろう。まいて、朱程は唐土の大義をいいたてるも、その制は彼地にあっても、何百年ともたぬものを……」 「なにィ? |NG《ヽヽ》?」  梅木は網代笠の顎ひもにしかけられたインカムをおさえて、思わず声をあらげた。──音声の現場がふりむいて、しっ、と唇に指をあてる。 「特別インタビューにNGがあるかよ、また中継か?──CSRはまわしてるんだろ? え? エネルギーラインが?」  白川アナがちらとこちらに視線をとばした。──梅木はかまわないから続行しろ、と合図を送った。 「兼好法師──どうもいろいろとお話ありがとうございました……」と白川アナは、合図をとりちがえたらしく、|しめ《ヽヽ》にはいった。「また、京でお目にかかる事になるかも知れませんが、その時はまたよろしくおねがいいたします。本日はこれくらいにして、また木曾にお送り申し上げましょう……」  語るうちに感情が激したのか、涙をぼろぼろ流している老人を、ADがそっとかかえるようにして輿の方へつれて行った。 「NGだって?」白川アナウンサーが汗をふきながら近づいてきた。「でも、ほとんど終りの方でしょ?」 「エネルギー供給ビームが切れて、バッテリーに自動的にきりかわったところで、信号がしゃくったんだ」と技術が車から顔を出していった。「いま、チェックしてるが、まあ、そこだけつまめばなんとかなるだろう……」 「どうなってるんだ?」梅木は胸さわぎをおさえながら半蔀車に歩みよった。「本部は──ステーションは何ていってる?」 「ステーションとの通信も、今切れてる……」主任は、マイクにむかって、くりかえし局をよんでいる助手をふりかえってつぶやいた。 「何も彼も……全面的ブラックアウトだ……」 「ブラックアウト?」  梅木は思わずききかえした。──|ブラックアウト《ヽヽヽヽヽヽヽ》……長い間、思い出した事もなかったこの言葉が、突然不吉なひびきをもって頭の中にひびきわたった。 「いやだね──いつごろ回復するんだろう」 「さあ、わからん。むこうでも大さわぎしてるだろうが、何しろ通信も切れちまってるんで……」技術主任は酸っぱい顔をした。「本番途中で、すこし一次供給がぱかついたが、保正回路が働いてたから……。どうしたんだ、と問いあわせてるうちに、すうっと切れちまった……」 「中継機がおりて来ますよ」と宇津城が空を見上げて言った。「向うもエネルギーブラックアウトだな。──バッテリーがもたないのかしら」 「いっぱいにチャージしてなかったんだろう」と梅木は吐息をつきながらつぶやいた。 「油断大敵というやつだ……」  薄曇りの空から、黒い、円盤型の中継機が、ひらひらと木の葉のように舞いながら丹沢の方へおりて行く。──よく基地につかう大山山頂あたりにおりて、太陽エネルギーでバッテリーの補給でもするつもりだろう。  下の方から、ひいひいぜいぜいという大ぜいの息遣いが近づいてきた。──やがて、汚れ切った茶の衣の尻をからげた、遊行僧姿のヤン・オダを先頭に、班の連中の姿が山道からあらわれ、山頂でへたへたとひっくりかえった。 「ひー、まいった……もう|死む《ヽヽ》……」とあおむけにひっくりかえったヤン・オダは太鼓腹を空にむけてはげしく上下させながらやっと言った。「稲瀬川の手前で、新田軍の雑兵が、長刀もって追っかけやがんの……。由比ヶ浜じゃ死体のかたづけを手つだわされるし、もうさんざん……」 「そのかわり、ばっちりとりましたよ」とB班のADがいった。「こちらはもう終ったんですか?」 「終ったけど、途中からブラックアウトで、ちょいNG……」と梅木は腰の魔法壜になっている瓢箪《ひようたん》から冷たい飲物を飲みながらいった。「そうだ──レッドホーク部隊はどうした? ブラックアウトになっちまうと、三日前《ヽヽヽ》からこちらへかえってこられないぞ……」 「さっき、うちの班の仕事がまだ終らないうちに、東勝寺の境内へもどって来たって連絡がありました」ヤン・オダはやっとこさ起き上った。「おっつけくるでしょう。市内は、残党詮議がきびしくて、兵隊ども殺気立ってますからね。迂回してるんじゃないですか?──あたしにも一ぱいください」  ヤン・オダは、梅木から瓢箪をうけとると、底を天にむけた。みんな飲むな!──といつもならわめく所だったが、梅木はどうしてか声が出なかった。 「あのインディアン部隊、おかしいんだよな……」とB班のカメラマンが、ADに笑いながらいった。 「度胸がいいってのか、つっこみ出したらとまらなくて、むちゃくちゃするの……」 「ああ、そうだ。──ききましたか? あの連中、北条高時といっしょに踊ったんですぜ」  と、ヤン・オダはニタニタしながら口もとをぬぐった。 「……高時と……|おどったァ《ヽヽヽヽヽ》?」  梅木はぎっくりしながらききかえした。 「さいな。──高時が田楽狂いだってんで、そいつぁ面白えからぜひとろうてんで、たしか元弘二年かなんかの秋の晩に館にしのびこんでね……高時のおっさんが酔っぱらって、馬鹿おどりはじめたのを、縁先からかくしどりしてたんですが、そのうち、むこうが狂って来て、近くまで来て顔があったんで、こっちも田楽法師の恰好してたからかまうもんかてんで、座敷へ上りこんで、高時と一緒に踊りまわりながらとりまくったんだって……」 「連中、田楽なんかできるのか?」 「それが、おかしいんで、ロックかなにかで、けっこう乗ったらしいですよ。──何てったかな、あの……」 「�こまのロック�……」と若いADが答えた。 「"Takin'now gilo,Ya!……"ってやつ……」 「バカな事を!……」と梅木は吐きすてるようにいった。「いくらなんでも、そりゃやりすぎだ……」 「いや、大丈夫ですって。そこは連中もぬかりはありませんや」とヤン・オダは手をふった。「とるだけとったら、踊りながらさっとずらかっちまったんだから、別に歴史に対する決定的な干渉には……」 「おい、待てよ……」不意に梅木はある事を思い出して顔色を変えた。「ひょっとすると、|その事は《ヽヽヽヽ》……やつらのやった事は、歴史《ヽヽ》に残ってるぞ……」 「あら、ほんと?」 「ああ、たしか�太平記�の第五巻だったと思うが──高時が田楽狂いで、ある晩、酔っぱらって踊ってると、いつの間にか座敷に大勢の田楽法師がまぎれこんで、いっしょに踊りくるい、女が物かげから見ると、その姿が烏天狗だの、羽が生えてたのって記録がのってる……」 「なるほど、レッドホーク酋長だったら、烏天狗に見えらあ……」とヤン・オダはくすくす笑った。「インディアン特攻隊も、日本の史書に名をのこしたか……」 「その時はやしてた歌が、�天王寺ノ、ヤ、妖霊星ヲ見ヨヤ、ヤ……という文句だったそうだ……」梅木はかたい声でいった。「だけど、おかしいと思わないか?──本当におれたちが歴史に干渉していないんだったら……その行為は|歴史にのこらない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》はずだ……」  みんなちょっと、しん、とした。──その時、麓の方から、ホ、ホ、ホ、ホと鳥の啼くようなかけ声をかけて、また別の一隊がかけ上ってきた。 「いやァ、すげえや。兵隊と死骸でいっぱい……」とレッドホーク班のADが汗みずくの顔でわめいて、どさりと機械を投げ出した。 「また馬に蹴られる所だった……」 「やっぱ、すごかったスよ。鎌倉方の自害……」カメラマンが、あちこち焼け焦げだらけ、泥まみれの衣装をくんくんかぎながらいった。「まだ血と煙のにおいがしみついてら……。もう鎌倉方はめったやたらに腹切るやら、刺しちがえるやら、のどをつくやら、首をはねるやら……」 「インディアン、ハ、腹切ラナイ……」とレッドホークは、眼をしばしばさせてうなった。「ニ、日本人、腹切ル、ヤ、野蛮……。インディアン。頭ノ皮ハグダケ……」 「ハッサン!」梅木は、黒々とした口髭をはやした、がっちりした体つきの、眼つきの鋭い男を見すえてどなった。「お前、脚どうした? 血だらけじゃないか。──また当代人と何か……」 「チガウ……」レッドホークはかばうようにいった。「は、はっさん、別ニ、ケガサセタリ殺シタリシテナイ、逆に一人助ケタ……」 「おい、よせよ……」梅木は狂ったように自分の頭をかきむしった。「殺したり危害を加えたりするのもいけないが、助けるのもいけないんだよ。──そういう事しちゃいけないって、あれほど……」 「でも、大した人物じゃなかったようですよ。どこかの坊主で……」とカメラマンがいった。「火と合戦におわれながら、だんだん東北の山側へ追いつめられてってね……。お寺の裏側にはいりこんだら、そこで大勢のりっぱな武士が腹切ってたんで、それをとりながらまわりこんでったら、側の洞穴の中で、腹をついてた坊主が、まだ死に切れなくて、苦しまぎれに、あたしの後でバッテリーもってたハッサンの服をつかみやがってはなさねえ……」 「それで助けたのか?」 「何しろ、ハッサンが外へ出たら、つかまってひきずり出されてくるんですからね。──それで、指もぎはなすのに、ちょいと薬飲ませておちつかせて、それからハッサンが、坊主があまり苦しそうだからって、傷の止血と痛みどめをして──あと寺へほうりこんで来ました」 「まさか──重要人物じゃ……」 「じゃないと思いますよ。顔は泥と血でどろどろで、よくわからなかったが、頭はきれいに剃ってたし……」 「たしか、自分の事、ソウカンとか何とか言ってたな」 「なに?」梅木はとび上った。「ソ、ソウカン?」 「ド、ドウカシタカン?」とレッドホークは腕組みしていった。 「バ、バカヤロ!──ハッサン、貴様が助けちまったのは、鎌倉幕府|前《さき》の執権、北条高時だぞ!」梅木は青くなり、つづいてまっ赤になってとび上った。「高時は嘉暦元年に剃髪して、相模入道崇鑑と名のったんだ。てめえら、高時の田楽ディスコにとび入りしながら、顔がわからなかったのか!」 「そういや、どこかで見たような気もしたな……」とADはカメラマンを見た。「最初の時はうすぐらかったし、二度目は、血と泥にまみれて、苦悶の形相だったから、気がつかなかったけど……」 「何て事をしてくれたんだ!」梅木は湯気をたててわめいた。「もし、そのまま高時が助かっちまったらどうする?──奴は、|正史では《ヽヽヽヽ》、おとつい死んでなきゃいけないんだ」 「オコルナ、酋長」とレッドホークがいった。 「何を!──酋長はおめえじゃねえか」 「酋長ハ|チーフ《ヽヽヽ》、アンタ、チーフ、ダカラアンタモ酋長……」とレッドホークは鼻をほじくりながらいった。「はっさんハ、コノゴロメズラシイ、純粋ノいすらむ・しーあ派ダ。しーあ派ノ人、聖職者、トテモダイジニスル。ぶっでいすとノ聖職者、タスケタクナル、ムリナイ……」 「チーフ!」車の中から技術主任が顔を出して叫んだ。 「なんだ?──エネルギーがつながったか?」 「いや、まだ全然ですがね。──上方班と九州班から連絡がはいっています。チーフと話したいって……」  車の方へすっとんで行った梅木は、間もなく肩をおとしてのろのろと一同の所へかえって来た。──その顔色は、紙のようだった。 「おい……」と梅木はしわがれた声でいった。「えらい事になってきた。おれたちゃもう、|帰れない《ヽヽヽヽ》かも知れん……」 「え?」ヤン・オダはふりむいた。「いったい、どうしたんです……」 「歴史がおかしな事になりはじめた……」梅木はどすん、と地面に腰をおろした。「今、河内からの連絡があった。──楠木正成は、千早城で、さっき戦死《ヽヽ》したそうだ。こいつは確定情報だ。それから九州じゃ、鎌倉方の鎮西探題がもりかえし、後醍醐方の島津勢を全滅させた……。|正史とちがう事《ヽヽヽヽヽヽヽ》が、あちこちで起りはじめた……」 「という事は……」と宇津城はきいた。「それが、ブラックアウトと何か関係があるって事ですか」 「おそらくな……」と梅木はうなずいた。「おそらく今ごろ局の方じゃ、おれたち取材班が消え失せた、|正しい《ヽヽヽ》歴史の中を、大騒動してさがしてるだろう……」  梅木は一同に、水田からきいた「曾祖父殺し」をやった学者の話をしてやった。──たしかに殺したにもかかわらず、曾祖父は生きかえり、かわりに犯人自身が、殺しをやった時点以後「歴史」の中から消え失せて、「親殺しのパラドックス」は成立しなかった。|正しい歴史《ヽヽヽヽヽ》のなかでは……。しかし、犯人が、その時点で枝わかれした|もう一つの歴史の流れ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》にうつってしまったとすれば……。 「という事は──おれたち、もう、もとの歴史から|枝わかれ《ヽヽヽヽ》した、�もう一つの歴史の流れ�の中にはいっちゃったというわけですか?」と、宇津城がきいた。「そして、|もとの歴史の流れ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》の中からは消えちゃって、そちらの流れの中をいくら探しても見つからない……」 「そんな所だろうな……」梅木はたてた膝の間に顔をうずめてつぶやいた。「そして、その枝わかれをつくっちまったのが、──おれたち歴史取材班のやった�歴史への干渉�なんだろう……」 「だから、あたしゃア、はじめからちょっとヤバいんじゃねえかと思ってたんだ」とヤン・オダが大声でいった。「言ったでしょう? �関ヶ原�ン時、タイミングが……」 「もういい……」梅木は疲れ切った声でいった。「もういい……」  たしかに──「規制」というものは、屡々《しばしば》非現実的なまでにきびしすぎる。しかし、現実にあうほどゆるめると、──今度は、人間の方が、しばしば、限界すれすれ、あるいは少しこえるほどやりすぎる。それも一例や二例なら何という事もないだろうが、数がつみかさなると……。 「で、これからどうします?」と宇津城は梅木の顔をのぞきこんだ。「まだもう少し、予定通り取材をすすめますか?──いつか、またこちらの歴史の流れが、偶然にでも、|もとの歴史《ヽヽヽヽヽ》の流れと接触して、回収されるかも知れないから……」 「とったってしようがねえだろ……」とヤン・オダがぶつぶついった。「もとの歴史に回収されたって、そんな、|正しい歴史《ヽヽヽヽヽ》とちがう記録なんて、ジャンクよ。──もう一ぺん、|とりなおし《リテイク》しなきゃなんねえ」 「まだやるつもりかい?」梅木は、草をぬいて口にくわえながら、うす暗くなりかけた空を見上げてしょう事なしに、苦笑した。「番組どころじゃない。──|歴史そのもの《ヽヽヽヽヽヽ》が、こちら側じゃ、壮大な|とりなおし《リテイク》をはじめてるんだぜ……」 [#改ページ]   華やかな兵器     1 「追いつめた!」  吉岡の緊迫した声が、耳もとでした。──傍で、カールがちらっとこちらへ視線をうつした。彼の耳の後側に埋めこまれた、|皮 下《ハイポダミツク》受信器からも、同じ声がきこえたにちがいない。 「どこだ?」  私はネクタイをゆるめるふりをして、のどに接触しているマイクをちょっとなおしながら、口をあまりあけずにつぶやいた。──腹話術の要領だ。 「十四番街のSブロック──北へむかっている」 「メテオール・ホテルだな……」とカールは、眼をぎらりと光らせてつぶやいた。「やっばり、お目当てはあそこだったんだ……」 「今、何人で追っている?」  私はカールに、|乗り物《クラフト》をよべ、と手で合図しながら、できるだけ早口できいた。 「マルセルと二人……ペドロたちの組が、Nブロックからまわってくる。いま連絡をとった……」 「むこうに気づかれてないだろうな?」 「……と思う。が、何とも言えん。何しろしたたかなやつだから……」 「よし──。もうこの波長《なみ》はつかうな。誰が盗聴しているかわからんから……。とにかく、すぐ行く。ペドロたちとの合図は、きめられたサインでやれ。上空をパトロールしている|ホビィ《ヽヽヽ》がいたら、屋上へおろせ。ぬけがけをするな……」  カールが私の脇腹をつついて、|乗り物《クラフト》が来た事を知らせた。私は、吉岡との通話をうちきると、十二番街の雑踏をかきわけて、通路わきのラッタルをかけのぼった。  五月──北半球ではどの都市も、「開放《オープン》」の季節で、十二番街をおおう透明アーケードも、所々キャノピーを開いている。特別班用の、覆面アイオノクラフトは、その開いた所をさけて、キャッツ・ウォークすれすれにとまっていた。空気が乾燥しているので、パチパチというかすかな放電の音をたて、あたりになまぐさいオゾンの臭気がただよっている。 「行こうぜ、カール……」私はドアをしめながらいった。「長い辛抱だったが……どうやら無駄にはならなかったらしい……」 「それにしても、長すぎたな……」カールは操縦装置のキイを自動《オート》から手動《マニユアル》にきりかえながらつぶやいた。「なにしろ四十日目《ヽヽヽヽ》だものな」 「四十二日目だ。……むこうも、よく粘りやがったもんだ」ごぼうぬきに、クラフトを急上昇させるカールの肩をつかんで、私は、わざとゆっくりいった。「おい、ここじゃまだ、そんなにはりきらなくていい。交通パトにでもひっかかると厄介だ。──見ろよ。すばらしい天気じゃないか。ほかのクラフトにぶつからないように、ピクニックに行くみたいにのんびりとやるんだ。のんびりと……」  口ではそういいながら、私自身、ものすごく興奮していて、口の中がからからに乾いていた。──そのため、非常通信用のレーザー回線をつかうのをうっかり忘れて、ふつうのFMで、重大なアナウンスをやってしまう所だった。カールが目ざとく見つけて、注意してくれなかったら、この大都会のどこかに、|まだ《ヽヽ》たくみにひそんで、息を殺してこちらの様子をうかがっているにちがいない「敵」のエージェントに、たちまち傍受されて、せっかくかくれ家からはい出して来て、こちらの網に近づきつつある獲物に、何らかの形で通報されてしまうだろう。  そう思うと、腋の下にじっとりと冷汗がにじんできた。──レーザー通信回線にきりかえながら、私はキャノピーごしに、まっさおに晴れ上った五月の空を見わたした。眼の隅に、警察通信用の無人|中継《リレー》クラフトが、きらりと銀色に光るのが見えた。頭上でぐるぐるまわり出したパラボラアンテナが、その小さな銀色の点にぴしゃりと顔をむけ、赤外線レーザービームがそちらへむかって発射されるシグナル・ランプがついた。私は通信機のマイクをにぎりしめ、乾いた唇を何度も舌でしめした。十四番街へむけて、アイオノクラフトを大きく旋回させながら、カールが横眼でそんな私をうかがっている様子だった。  ここは、一つおちつかなければ……と、私は自分にいいきかせた。──連邦警察の若いのに、保安局のベテランがなめられたりしたら、具合が悪い。何しろ今、通信回線きりかえで一つミスをやりかけたのだから……。  そう思って、私は二、三度呟ばらいし、できるだけおさえた声で、マイクにむかってゆっくりとしゃべり出した。 「こちら|鷹 3《ホーク・スリー》……�狐�は罠《わな》にはいった。地点、XB603……くりかえす。地点XB603……�狐�は罠にはいった。──|ラッパを吹け《ヽヽヽヽヽヽ》……」     2 「�狐�が火星をたった……」と局長は抑揚のない声でいった。「今度の�狐�も、火《ヽ》をくわえてくる、という確かな情報がある」  火星、という言葉をきいて、頬がこわばるのを感じた。  太陽系|防 衛 線《デイフエンス・ライン》のはるか内側というだけでなく、木星軌道面の内部は、現在では連邦保安局にとっての「聖域」だった。  その聖域に、�狐�──破壊工作員の潜入を許しただけでも、保安局の大失点だのに、最後のチェックポイントである火星さえも、やすやすと突破されてしまったとは……。  しかも、その�狐�は「火」を持っているという。──どんな「火」か? それは、局長の口ぶりからも、まだよくわかっていないらしい事が感じられた。 「火星の保安局はいったい何をしていたんですかね……」私は気分をおちつけるために、鎮静スティックを口にくわえながらつぶやいた。「当然、太陽系外からの旅行者は、天王星軌道中継所で、厳重なチェックをされたでしょう。──そして、火星のエリシウム宇宙港《スペースポート》では、さらに徹底的な……」 「太陽系ハロー域からの最後の帰還者は五人だ……」液体ヘリウム漬けの心臓を持つ、といわれる局長は、余計な事を一言もいわずに、相変らず乾いた抑揚のない声でつづけた。「内二人は外交官、あと三人は民間人だが、いずれもVIP乃至《ないし》準VIPクラスの人物ばかりだ。──これで太陽系のフロントに残っているのは、防衛関係者だけになった」 「その五人の中に�狐�がまぎれこんでいるんですか?」 「実は、こちらからもぐりこませてある諜報員からの通信がおくれたんだ……」  局長はくるりと椅子をまわして背をむけた。──その瞬間、はじめてちらりと、苦い表情がその横顔にうかんだ。 「むろん、むこうからの通信は完全に妨害されているから、やむを得ず、指向性|中性微子《ニユートリー》パルスをつかい、ビームを、わざと太陽系から二〇度それた方向にむけてきた。たまたま、その方向にいた無人パトロール艇がキャッチして、自己チェックしてから、超光速子《タキオン》通信で木星軌道基地へ転送して来たので……」 「その時は、�狐�をふくむ五人は、火星をとびたっていたわけですか?」と私は反射的に、局長の頭上にある太陽系標準恒星時のディジタル表示を見た。「で、連中ののった船は、いつ、どこの宇宙港《スペースポート》につくんです?」 「二時間前、第六オービターで、シャトルにのりかえた。──もう、メアリスビル宇宙港についているころだ……」 「北部カリフォルニアですね……」私は局長のデスクの上のトークボタンに手をのばした。「現地の手配はもうすんでいるんでしょうね。──五人を拘留して、その中から�狐�を見つけ出すわけですな」 「ちがう」局長はぐるりと椅子をまわしてこちらをむいた。「拘留命令は出していない。──泳がすんだ……」 「泳がす?」私はぎょっとした。「しかし、�火�は……」 「五人を拘留して、徹底的にしらべれば、そのうちの誰が、�狐�かはわかるかも知れん。──全員の身柄をもう一度、火星、もしくは木星の衛星軌道上にうつしておけば、たしかに地球は一時的に安全だろう。だが……」 「VIPもしくは準VIP級の人たちを、たとえ地球の安全のためにでも、永遠に拘禁しておく事はできないでしょうなァ」 「アルテア号の事は忘れろ──」局長は眼を伏せた。「──あれは、とにかく事故──という事になっている……」  私は意識的に表情を変えないようにして、局長をまっすぐ見ていた。──アルテア号は、二年前、海王星と天王星の軌道の間で、原因不明の爆発事故を起した。バーナード星域から、三十二名の一般旅客をのせて、地球へむけて帰還中の恒星間旅客船だった。太陽系防衛線での検査は全員無事パスしたが、その時も、途中で、�狐�がまぎれこんだ、という緊急通信が、アルファ・ケンタウリ星域の諜報員からはいった。アルテア号は地球軌道上に直行する予定だったが、急遽、木星衛星軌道基地への寄港を指令された。アルテア号からは指令了解の応答があったにもかかわらず、その後のコースは、地球直行軌道をとったままで、加速しはじめた。  爆発「事故」が起ったのは、アルテア号が加速しはじめた直後だった。──その船に何が起ったのかわからない。が、その時、事故空域の近くに、太陽系防衛軍のパトロール艇が二隻、アルテア号を監視誘導すべく派遣されていた。パトロール艇は、むろん、戦闘装備をもっている。そして、……アルテア号の三十二人の乗客の中には、私の妹がいたのだ。 「�狐�は、まだこのあともつづいておくりこまれてくるだろう……」局長は顔をごしごしこすりながら、低い声で言った。「今回で……」 「五人目です」私はいった。「だんだん潜入が巧妙になり、だんだん心臓部へ近づいて来ています──」 「去年は、火星のアポリナリス・パテラ基地で大捕物になった……。あの時も、民間人を含めて七人が死んだな……」局長は、義手の指先で、かん、かん、とデスクのはしをたたきながらつぶやいた。「犠牲はまだまだ大きくなる可能性がある。こいつは、もう、なしくずしの戦争といっていい……。このままでは、連中はなお、あきらめずに送りこんでくるだろう。──あきらめさせるには、抜本的な手をうたねばならん……」 「で──今回は泳がせるんですか?」 「生きたままつかまえても�狐�は泥を吐かんだろう。たとえ、去年のように、自爆《ヽヽ》させずにすんだとしてもだ……」局長は、眼の前の何もない空間に、そのうすい灰色の瞳をすえた。九十七歳の年齢が、その虹彩《こうさい》から、かなりの色素をうばってしまい、横から見ると、ほとんど透明にちかい、ガラス玉のように見えた。「泳がせて──�火�の正体を見つけるんだ。そして……」 「�火薬《ヽヽ》�も……?」  私は口の中が乾くのを感じた。──局長はついに……。 「危険な事はわかっている」局長は、自分のために特別につくらせている鎮静スティックをくわえた。「危険すぎる賭けだって事は……。だが、どうしてもやらねばならん」 「しかし、──万一、�火�が�火薬�に……」 「大統領府は、地球全住民に対して、第三種退避態勢をスタンバイさせるといっている。──むろん、極秘裡だが……」 「すると、今度の�泳がせる�という作戦は、大統領府から出ているんですか?」 「|τ《タウ》・ケティの連中のやり方は、うんざりするほど知っているだろう?──外交部の連中も、これ以上のプレッシャーには、精神的にたえられそうもない、といっている。和戦どちらにふみきるにしても、まず、こちらのどこかにしかけられた�棘《とげ》�はぬいておきたい、というんだ。上層部にしても、一《いち》か八《ばち》かだろうが……」 「おえら方は、それでもやれるとふんだんでしょうか?」 「無論、私も意見をきかれた……」局長は、ポツン、と音をたててスティックをかみきった。「で、こちらも熟慮の結果、やってみましょう、と返事をした。──作戦の総指揮は、君にまかせる。五人には、第六オービターからずっと監視と尾行をつけてある。すぐとりかかってくれ。五人といっても、中の二人は、�狐�である可能性はきわめてすくない。重要なのは三人だ」  そういうと局長は、またくるりと椅子をまわして、背中をむけた。 「林……」出て行こうとすると、局長は背をむけたまま、疲れきったようなしわがれた声で声をかけた。「�火薬�を……絶対見つけてくれ。──それが、いったい|何か《ヽヽ》、……どんなものか……�火�を持って行く先をつきとめればわかるはずだ。だが、絶対に、点火《ヽヽ》させてはならん……」     3  九十六階建てのビルを迂回する時、カールが猛烈なバンクをやったので、頭の上に五月晴れの青空が一面にひろがった。──その一角に、白っぽく半月がかかっており、メアリスビル宇宙港から上昇して行く二百人乗りのスペース・シャトルのひく白煙が、その半月へむかって、チョークの線のようにのびて行くのが見えた。  それをながめながら、ふと、溜息が出た。 「宇宙時代」なるものが訪れてから、やがて一世紀半になろうとしている。──それにしても、二十世紀後半、揺籃期の地球人類は、どうして、「太陽系外知的生物」といえば、どれもこれも地球人よりはるかに知能も科学技術も進んでいて、道徳的にもすばらしく「高等」で、天使や仏陀のように「超えて」いて、「幼い地球人」を、はるか広大にして深遠な銀河系文明へ導いてくれる存在と思い描いていたのだろう? 希望や願望にしても、あまりにもセンチメンタルで幼児的というほかない。  事実は、「太陽系外知的生物」との接触は地球人類にとって、新たな、途方もない|お荷物《トラブル》をせおいこむ事にほかならなかった。  本格的な、歪曲場《ワープ》航法が、実用化するすこし前、亜空間《サブスペース》航法で、ようやく光速の壁をすこしこえたころから、最初の「接触」がはじまった。──太陽系に一番近い恒星ケンタウルス座|α《アルフア》は、三重連星なので、惑星はうんとはなれた所を、二、三個不規則軌道をまわっていたが、さすがに高等生物の兆候はなかった。しかし、五番目に近い恒星、リュイテン七二六─八は、主星がほとんど同じ大きさの温度の低い連星系であるにもかかわらず、公転軌道半径数十億キロの所をまわっている惑星に、ちゃんと文明をもった「知的生物」がいた。  彼らは、最初、ひどくひっこみ思案の、おとなしい連中のように見えた。すでに、地球のそれより進んだ歪曲場《ワープ》航法を開発しており、彼らから教えられて、地球の歪曲場《ワープ》技術は急速に実用化したのにもかかわらず、彼ら自身は、それを使って、積極的に恒星間探索旅行に出かけようとする気はまるでないようだった。(歪曲場《ワープ》航法は、惑星系の外側《ヽヽ》でしか使えない──ふつうの空間にうがった「穴」が、場合によっては、ブラックホールとなって残る危険があるから──などといった、ごく初歩的な注意さえ、地球人は彼らからおそわったのである)彼らは、リュイテン系星人は、おとなしいというより、おどおどしているように見えた。そして、その理由は、わずかの間に判明した。──彼らの間に、三つの、はっきり異なる種族がある理由も……。  三種族のうち、体型も小さく、もっとも人口が多いくせに、一番何かにおびえているように見える連中こそ、その星の「原住民」で、しかも「被征服者」だった。皮膚の色がはっきりちがい、無気力で、憂愁と諦念にみちたように見える連中は、よその星系から強制移住させられた「流刑囚」──あとから、|ε《イプシロン》・エリダニ系の連中とわかった──であり、体型が最も大きく、人口がもっともすくなく、同じように無気力、怠惰、投げやりなくせに、時にひどく傲慢《ごうまん》な態度を見せ、ほかの種族に対して、残忍な行為もおこなう連中もまた、一種の流刑囚──というより懲役囚だったのである。  しかし、リュイテン系で、有史以来はじめて「自分たち以外の知的宇宙生物」に接触する事のできた地球側は、最初はそんな事の見わけがつかないほどの興奮と熱狂の渦にまきこまれてしまった。──当時の映像記録を見ると、まるきりきちがいじみたお祭りさわぎの連続だった。リュイテン系代表が、はじめて地球を訪れた時の狂ったような「熱狂歓迎」ぶりは、見ていて顔が赤くなるほどだった。  その熱狂は、最初の接触から二年後、リュイテン星域に、ちょっとした小惑星ほどの大きさで、小惑星の一つや二つは瞬時に消滅させるほどの猛烈な攻撃力をそなえた、|τ《タウ》・ケティ系宇宙人の巨大な戦闘宇宙艇三隻がその威圧的な姿をあらわした時、またむしかえされた。  太陽系から八・九光年はなれた恒星リュイテン七二六─八より、あまりずれない方向へ、さらに数光年へだたった鯨座の恒星|τ《タウ》──太陽と同じG型スペクトルをもち、太陽よりわずかに黄ばんだ、しかしリュイテン連星よりずっと高温の恒星の第四惑星人こそが、リュイテン星系の真の「主人」であり、征服者であり、そしてその後実に七十年余にわたって、地球を、……つまり太陽系文明を、おそるべき厄介事に釘づけにする元凶となろうとは、その当時の地球人は、夢にも思わなかったらしい。ただただ、「偉大なる地球外宇宙文明」にはじめて接触する事のできたうれしさに、おめでたい、あけっぴろげの「歓迎」「親善」行事をくりひろげつづけたのである。  最初のうちは、向うも、「親善」「友好」ムードだった。──太陽系へ、そして火星、月、地球へ、親善使節、外交使節がやって来て、さまざまな「親善のしるし」や「友好のしるし」の贈物を持って来た。「外交関係樹立」「代表交換」「文化・科学・技術交流」といった、おいしい提案がむこうから次々に出され、地球側はのぼせ上ってしまい、地球そのものから、太陽系開発状況や地球文明の科学技術水準を、タウ・ケティの「調査団」にくまなく公開してしまった。それに対して、当然とりきめられた、地球側からの、タウ・ケティ四番惑星の使節訪問は、先方が、「準備中」とか、「ちょっとした事情」「トラブル」があるからといって、なかなか実現せず、一年以上もあとになった。──思えば、この段階で気づくべきだったろう。  やっと訪問を許可された地球側使節団は、やはり先方に「熱烈歓迎」され、使節代表は、タウ・ケティ系文明の「偉容」に圧倒されるとともに、酔っぱらったようになり、直ちに、「友好・和親条約」「通商条約」「文化交流協定」をむすび、「留学生交換」をおこなうべきだ、という堤案を大統領におこなった。  だが、最初の使節団の中には、冷静な科学者たちやベテランの情報官もいた。タウ・ケティ文明の科学技術水準は、一見はなばなしく見えるが、その実体は、地球においてすでに原理的に発見、開発されているものと、それほど大差ない事、もっとも注目すべき理論やアイデアは、ほとんどが被征服文明であるエリダヌス座イプシロン星系のオリジナルであり、タウ・ケティの科学技術は、それを「簒奪《さんだつ》」したものである事を、科学者の一部はみぬいた。技術分析班は、タウ・ケティの技術・産業が、著しく「軍事的」に偏り、かつ巨大化している事を指摘し、社会経済学者の一人は、その社会が、巨大かつ強力な「全体主義的軍国主義的抑圧機構」によってささえられ、下層、一般階級の鬱積した不満は、ただ「周辺侵略と搾取」「膨脹主義」によってコンバートされているらしい事を、そのレポートで、鋭くえぐり出して見せた。──もう一人、これは腕っこきの情報官が、タウ・ケティ文明の周辺恒星系侵略、征服、破壊、略奪の歴史の実情をつかみかけた。彼らの主力の一部が「流刑地」リュイテン星系に姿をあらわすのがおくれたのは、太陽系と反対の方角にあるもう一つの恒星文明に対する征服戦争に、その尨大《ぼうだい》な軍事力をふりむけていたためであり、それが一段落ついたために、「辺境属領」に接触してきた。宇宙外交に関しては全くナイーヴな太陽系文明に、その関心をむけて来たのだ、という事を、はっきりした証拠をあげてレポートした。その情報官は、タウ・ケティの強力残忍な監視機構をおそれて、蝙蝠《こうもり》のように口をつぐんでいる被征服星系の連中に苦労して内面的接触をはかり、タウ・ケティの人たちの「手口」をつかみかけていたが、ある日突然、タウ・ケティ系から姿を消し、そのまま二度とあらわれなかった。彼が、タウ・ケティの、陰険で極度に猜疑心の強い秘密警察によってマークされ、ついで「消され」たのは確実だったが、何しろ何の証拠も無いのだから、如何ともしようがなかった。  こうした警告は、早くから発せられていたのに、地球側の熱狂的「親善ムード」は、それを押し流してしまった。──時の地球連邦大統領は、辺境地区の名家出身の、若い、政治経験の乏しい人物で、しかもなりたてのほやほやだった。若い人物にありがちな功名心にあふれ、自分の任期中に、この「太陽系はじまって以来」の事件を、地球人類史にとって画期的なステップにしようと、やや強引すぎるほど、「協調政策」をおしすすめた。太陽系外探索本部が、情報部からの報告をうけて、表だって相手を刺戟しない形でいいから、一応「防衛体制」の準備ステップだけでも発令してほしいと進言したが、大統領はほとんど耳をかさなかった。  そして──太陽系へむけての「儀礼訪問」の大宇宙艦隊が先方を発進し、その全艦が、海王星軌道内部へはいるのは、さすがに「地球側に不安感をあたえる」という、強硬な抗議にしたがって、地球訪問は四隻にとどまったが、のこりの戦闘装備宇宙艦は、タウ・ケティにひきかえさず、「転進」してシリウスの、無人の惑星群を「占領」してしまった。つづいて、別働隊が二組タウ・ケティ星系を発し、一組はバーナード星を、もう一組は、はるかに天空を迂回して、太陽に最も近い、アルファ・ケンタウリを目ざして行動を開始した時には、さすがに地球側にも、不安を感ずる人間がふえてきた。──地球側からの照会に対して、タウ・ケティ側は、その一連の行動を、彼らが太陽系と接触する以前から予定されていた「空域調査」にすぎない、とくりかえし弁明し、大統領はそれを信じたがったが、地球側のパトロールは、シリウス系とアルファ・ケンタウリ系の惑星上に彼らが一大軍事基地を建設中である事を報告した。つづいて、はるか二十数光年彼方の空域から、タウ・ケティの軍事勢力が続々と太陽系方面へ移動しつつあるというニュースがはいった……。 「|鷹 3《ホーク・スリー》……こちらリー……」|皮 下《ハイポダミツク》フォンから、おしころした声がひびいた。「�狐�はホテルにはいった。いま、カウンターの所にいる……。あと、どのくらいでつく?」 「二分だ──眼をはなすな」、私は行く手にそびえたつメテオール・ホテルの、鮮やかなグレーの建物を見ながらいった。「応援は来たか?──今、何人いる?」 「吉岡の班と合流した……。いま、もう一組来た。六人だ。」 「二人、十三番街の裏口へまわすんだ。間もなく全員が合流するから、一人、地下ガレージの方にもまわしておけ。──屋上には、いま、第二班のクラフトが到着しかけている……」 「了解──いま、�狐�は、カウンターをはなれた。ロビーにすわっている……」 「眼をはなすんじゃないぞ。──気どられないように、ぴったりつけ。エレベーターをつかったら、二人一緒にのりこめ。──以上《オーヴアー》……」 「ホテルの宿泊客で、�狐�とつながりのありそうな奴は、いま本署のコンピューターがチェックしている……」カールは、レーザー回線で特別班本部と連絡をとりながらいった。「いずれにしても、いよいよ大詰めだな……」 「大詰めだって?」私は口を歪《ゆが》めた。「冗談じゃない。──やっととっかかりがついたばかりだ……」  連邦警察の方は「破壊工作者の逮捕」で一段落がつくかもしれないが、保安局にはまだ、�火�の正体をつきとめ�火薬�の正体とありかをつきとめ、そいつをとりのぞく、という「雲をつかむような大仕事」が待っている。それをやらない事には、タウ・ケティ側の「居丈高の圧迫」に、地球側も思いきったつっぱりかえしができないのだ……。  連中に対して、「譲歩」や「紳士的態度」を示すのは、無駄であるばかりでなく、むしろマイナスだ、という事がはっきりするのに、地球側は二、三十年もの期間を浪費してしまった。──何しろ地球上から、そういった特別な「政治的ビヘイビア」を持った勢力が一応消滅してから、かなりたっていたし、太陽系の外の宇宙ではじめて接触した相手が、人類社会全体がそのために一世紀近くものどにささった棘のように苦しめられたのと同じような、陋劣《ろうれつ》きわまるビヘイビアを持っている、という事は、連邦政府としても、信じたくない事だったろう。地球人類としては、むしろ忘れてしまいたいような、「悪夢のように神経の疲れるかけひき」を、またぞろ宇宙に対して用いなければならないとなると、まったくうんざりした気分にさせられたのも無理もない。  が、こちらの主観的気分とは別に、先方がそういう相手であるという事は、どうしようもない事実だった。──「協定」や「条約」などというものは、相手を油断させるためにある。信義や約束といったものは、判断の甘い愚か者の信ずる馬鹿げた夢で、つかうとしたら「言いのがれ」のための美辞麗句にしかすぎない。たえず「力」を示威や威嚇《いかく》につかっても、実際に行使せずに、恫喝《どうかつ》と屁理屈でおしまくって何かを手に入れたら、その方がはるかに得だ……。そう思っている相手には、こちらも思いきった強面《こわもて》で「力」を示威し、屁理屈をまくしたてて押しまくり、相手に正面衝突の「損得」を計算させるように追いこんでから、交渉に応じさせるよりしかたがないのだが、それにしても疲れる話だった。その上、相手は「言質《げんち》」や「協定」など、はじめから空手形としか思っていないのだから、手をひっこめさせるには、こちらが強引に何かを相手からむしりとって見せるしかなかった。──連中は、信じられないくらい貪欲だった。それだけに、鼻をおさえられ、屁理屈をまくしたてられて、小さなものでもむしりとられると、自分がかすめとった大きなものとの比較など忘れて、ひどく痛手に感じるらしかった。  接触当初の若い大統領は、ついにその「宇宙的理想主義」の挫折と敗北を認め、その甘すぎた期待と願望のために太陽系全体が危機にさらされた自責から、一度は自殺まで試み、辛うじて立ちなおって、「太陽系防衛軍」の設立法案を通過させてから引責辞職した。  次の大統領は、老齢だったが、連邦形成期に辣腕《らつわん》をふるった外交問題のベテランだった。ポーカーの名手で、そのブラフのうまさには定評があった。彼が就任早々やった事は、まだできたばかりの「太陽系防衛軍」のほとんど全勢力を「調査」の名目でバーナード星域へ派遣する事だった。ショックをうけたらしい相手方のとげとげしい問い合せには、タウ・ケティ側と同じく、バーナード星域の調査は、接触以前から地球側の「予定」になっていたのだ、と返答した。相手側がもたついている間に、間髪いれず、タウ・ケティ「軍事基地」の建設に厳重抗議し、バーナード星域の中立化と、双方の「交易場、共同学術調査基地」の設置を提案する一方、防衛軍の分遣隊は、いきなりタウ・ケティ文明支配下のエリダヌス座イプシロン星系に出現し、ワープ航法による長距離輸送演習を行った。  これは、相手側に相当な恐慌をまきおこした。──先方は急遽、外相レベルの交渉を提案し、すったもんだの末、やっと暫定的にバーナード星域の「軍事的中立化」が期限付きで成立したが、実はこの時、大統領は危険な賭けを行っていたのである。先方が圧倒的に優勢な軍事力をふりむけ、シリウス系、アルファ・ケンタウリ系、つづいてウォルフ三五九系と、太陽系周辺に「軍事包囲網」をはりめぐらしつつあったのに対して、「太陽系防衛軍」は、まだ創立されたばかりであり、彼我の攻撃軍事力は十五対一以上の差があり、防衛応戦態勢にいたっては、二十対一の開きがあった。そんな状態下にあって、いきなりタウ・ケティと太陽系のほぼ中間にあるバーナード星域(赤経17度55・4分、赤緯プラス4度33分、太陽系からの距離五・九光年)に、ありったけの軍事力をふりむけ、ものすごいブラフをかけたのである。太陽系内の防衛力は、この時警戒システムの一部をのぞいて、ほとんどゼロになってしまった。しかも、太陽系側には、当時、ほとんど攻撃的武器らしいものがなく、数十年前にすでにお倉入りし、廃棄と博物館入りを待っていた骨董品ものの「化学推進ミサイル」まで持ち出し、バーナード星域派遣の宇宙艦隊も、ただただ「品数」をそろえるため、おんぼろの鉱石運搬船や、図体ばかりでかいが張りぼて同然の宇宙タンカー、老朽貨物船まで加えられていたのである。  いずれにしても、この「大はったり」は、一時的に効果を発揮し、タウ・ケティ側のアルファ・ケンタウリ軍事基地化はストップした。──地球側は、さらに「中立空域」の拡大と、「より安定した外交関係」を樹立すべく、やつぎ早に外交提案をくり出す一方、大車輪で「防衛、応戦反撃力」の充実にとりかかった。しかし後者は、タウ・ケティ側が突然手のひらをかえしたように「微笑外交」にシフトしてきたので、ついテンポがゆるみがちになった。──地球側では「最初の一撃」がきいて、「関係が基本的に好転した」という見解が強まり出した。折も折、老練の大統領が急死した。高齢ではあったが、死因に不審な点があり、タウ・ケティ側工作員による暗殺の疑いも出たが、ついにつきとめられなかった。しかし、大統領は死の直前に、大きな贈り物をおいていってくれた。それは大統領府直属の情報分析班を一挙に昇格させ、対破壊工作専門の太陽系保安局を設置した事だった。  この組識がなかったら、つづく二、三十年間のタウ・ケティ=太陽系蜜月時代に、続々とおくりこまれてくる、学術交流団、親善使節、交換留学生に対して、地球側はまったく無警戒、無防備のままだったかも知れない。しかし、そういった連中の行動を監視した結果、実に、彼らの七〇パーセント以上が、諜報員であり、破壊工作員である事が判明し、すくなくとも地球、太陽系の防衛・反撃システムの機密に関しては、ある時期以後、彼らの執拗で図々しい「スパイ行為」から守れるようになった。──一方、表向きの「友好」の背後で、タウ・ケティ側は、太陽系を目標とする「軍事的圧力」の輪を着々とかためつつあった。バーナード星の第三惑星にかぎっての「中立化」は実現したが、シリウス系、アルファ・ケンタウリ系の軍事基地化は、その後また再開された。シリウス系の「領有」は、地球側の度かさなる抗議と、中立化、非武装化、両文明共同管理などの提案にもかかわらず、相手方はまるでずっと前からの「歴史的事実」のようにふるまって耳をかさなかった。さらにタウ・ケティから、イプシロン・エリダニ、リュイテン七二六─八、シリウスをつらねる、強力な「投射ワープ型輸送ライン」が建設された。タウ・ケティ=太陽系間の貿易量は、微々たるものだったにもかかわらず、その輸送・中継ラインの容量は巨大なもので、一挙に大量の軍隊、軍需物資、兵器、戦闘艇などを、太陽系のつい眼と鼻の先、わずか四・三光年の位置にあるシリウス星域まで輸送できる、完全な「軍事目的」のものと考えられた。特にシリウス星域に設置された転送装置を偵察写真から分析した専門家は、それが特異なものであって、「受信装置」を宇宙艇につんで太陽系内にもぐりこませれば、あの超高温のシリウスの発する輻射エネルギーを、一挙に太陽系内に輸送できる──つまりそのまま強力な「破壊兵器」につかえる可能性がある、と指摘した。また、ウォルフ三五九、GC一五一八三といった、太陽系から十光年以内の恒星系にも、彼らの手がのび、補給基地化や軍事基地化が進んで、太陽系はじりじりと、軍事的に「包囲」されはじめた。にもかかわらず、地球側にはなお「外交勢力による関係改善」という、効果のない方策に希望をつなぐ政治家が多かった。  四十年におよぶ蜜月時代の終りごろ、保安局は、タウ・ケティ星系や、リュイテン、バーナードなどの星域に交渉や交易のために出かけて行く地球人の中に、「洗脳」や「人格改造」によって、先方のスパイにされたものがいる事を発見した。──地球上でも一世紀ほど前、洗脳や人格改造といった事が行われた事があるが、今度の場合は、どんな方法をつかうかわからないが、もっと完璧だった。彼らは地球人としての外観、表面意識のまま、内面は完全にタウ・ケティ人化していた。  �狐�という隠語でよばれるようになった「タウ・ケティ人化地球人」は、とらえてもう一度治療しようにも、人格の一番深い部分が、完全にタウ・ケティ人化しており、むしろ「地球人の皮をかぶったタウ・ケティ人」と見なすべきだった。彼らを発見するのは容易ではない。タウ・ケティ人との接触地域にいる時、数時間乃至数日、行動不明の期間があったか、あるいは太陽系へかえってから不審の挙動があるかでチェックするほかなかった。──最初のうち�狐�は、一般人や下級軍人がほとんどだったが、のちには高官にまで及んだ。  そして、�狐�の潜入がはげしくなったころから、先方の態度は、急に異様なまでに高圧的になってきた。冥王星の軌道の外、〇・五光年から一光年ほどの間にいくつかの「彗星の巣」があったが、その領域からタウ・ケティ側が資源採取する事を許可せよ、といったり、冥王星そのものを譲渡して欲しいといったとんでもない事をいい出したり、まるでこちらを軽侮し、嘲笑するような態度を、突然とりはじめたのである。その急激な「態度変化」は最初外交関係者をとまどわせた。その背後には何か突如として、相手にとって有利な条件が生じたとしか考えられなかった。その態度変化の「原因」をさぐろうとして、諜報部の必死の努力がつづけられ、多大の犠牲者を出した末、ようやく戦慄すべき真相の輪郭らしきものが、おぼろげながらうかび上ってきた。彼らは、いつの間にか、地球上に広範にわたって�火薬�をしかけたらしかった。──正体不明で、しかも全地球人類社会に致命的な打撃をあたえるような�火薬�を……。     4  地上二百二十階のメテオール・ホテルの車寄せには、ちょっと見ただけで六台の覆面警察クラフトが、エンジンをかけたままとまっていた。──着陸寸前、二台が地下駐機場の入口に配置され、裏口にも一台まわったと知らせて来たから、ホテルの周辺には都合九台、カールの操縦してきた分を入れて十台だ。  上空をながめると、屋上付近に二台、これもはっきり警察のものらしいクラフトが、ホヴァリングしている。 「市警の交通課に、このブロックの交通を遮断してもらえ……」と私はあたりの状況を見まわしながらカールにいった。「それからホテル前に、あんなに乗り物をはりつけておく事はない。──二台は七十階から百階の高さで、このホテルのまわりを旋回させるんだ」  ホテルのロビーにはいって行くと、ランチ・パーティに出るらしい、着かざった男女の一団が目についた。──だが、朝の出発客は、一段落ついたらしく、ほかの所はわりあい閑散としている。──それにしても、客室数四千の大ホテルだ。広すぎるロビー、四カ所にあるフロント、二十本あるエレベーターの間で、一人の男を、見失わないように、気づかれないように見張るのはなみ大抵の事ではない。 「やつは?」  さりげなく近よってくるリーとペドロの方を見ずに、私は、|喉《スロート》マイクをつかって話しかけた。 「大丈夫だ。──吉岡とマルセルが見張っている……」とリーも|皮 下《ハイポダミツク》フォンを通じてこたえた。 「いま、どこだ?」 「さっきまでそこの椅子にいた。今、便所に行っている……」  私はフロントのはずれにむかってぶらぶら歩いて行った。──私の顔を見て、警備主任がちょっと指をあげて見せた。彼は保安局の協力者だ。 「やつは、宿泊か?」  鎮静スティックをくわえて、私は主任にきいた。 「いや──ちがいます。七七〇八号にハウス・フォンをかけました」 「そこにとまっているのは?」 「誰もとまっていません。七七〇八号はオフィスです……」 「誰の?」 「ウイベルト商会……」 「花屋だ……」とリーがささやいた。「知ってるだろう? 世界的な──」 「そこの誰に電話した?」私はステックをかみわりながらきいた。 「秘書です……」警備主任は眼を伏せた。 「通話記録テープ、|耳の下《ヽヽヽ》へ出しましょうか?──大した事はいっていません。名前を告げ、女が、責任者は今ちょっと外出中で、四十三分後にもどってくる、というと、またあとで電話する、といって切りました」 「七十七階には、もう二人行かせた……」とペドロはカウンターにおいてあるタウン・ガイドをひろげながらいった。「むかいの七七〇九はふさがっているが、わけを話して、はりこませてもらっている」 「いま、女が一人だけか?」私はスティックをかみしめた。「どこかへ電話をかけたか?」 「いや──外線にはかけていませんね……」警備主任は、カウンターの下のテレビ端末に、交換室の客室電話使用度数表示板をうつしながらつぶやいた。「外からもかかっていません」  私は警備主任が、そっとわたしてよこしたメモを一べつすると、リーの方におしやった。──リーは心得顔で、そのメモをつかんで、館内電話へちかよって行った。 「カール……」私はネクタイの結び目に手をやりながら|喉《スロート》マイクにささやいた。「きいていたか?──七七〇八の借り主はウイベルト商会だ。しらべろ。ここの責任者は、アレン・コックロフト……」  眼の隅に、リーがとりあげた受話器を一たんおき、一呼吸してまたナンバーを押すのが見えた。 「ウイベルト商会?」とリーは気どった声でいった。「こちらボーダー種子会社のヘインズと申しますが、コックロフトさんはいらっしゃいますか? いえ、お約束はありませんが……」 「アレン・コックロフト、五十六歳……」とカールの声がした。 「ウイベルト商会創立関係者の縁戚……もと太陽系外航宙士、三十二歳で健康を害して退役、以後、商会にはいり、現在販売促進係常務取締役、五年前からメアリスビル出張所長……」 「ハッサン鉱山《マイニング》との取り引きは?」 「ない──ウイベルト商会のどこの支店ともない。ハッサンとの交際もなかった模様……」 「アレン・コックロフトは旅行中《ヽヽヽ》だそうだ……」  館内電話からかえって来たリーはつぶやいた。「一週間後にかえってくるとさ……」 「ちょっと待て……」私は二本目の鎮静スティックをとり出した手を宙にとめた。「最初七七〇八へかけて一たん切ったな?──|話し中《ヽヽヽ》だったのか?」 「そうだ。──すぐかけなおしたら、……」  リーも、あっという顔になった。 「外線じゃありません……」相変らずテレビ端末を見てる警備主任が首をふった。「館内《ヽヽ》ですね」 「かけたのか? かかってきたのか?」 「わかりません。館内の通話先は記録されませんから……」 「テープ……」  といって、私は耳の下をさした。──警備主任はだまってどこかのスイッチをおした。記憶装置をつかっているらしい短縮ナンバーの発振音がきこえ、つづいて呼び出し音が二度きこえて、相手が受話器をとった。 「来ました……」  と、女の声が一言だけいった。──相手は一言もしゃべらず、電話をきった。 「ちくしょう……」とリーがうめいた。「これじゃ何もわからん……」 「やつはおそいな……」とペドロは心配そうにトイレの方角をながめた。「何をしてるんだろう?」 「でかい方にはいって、新聞でも読んでるんじゃないか?」とリーは時計を見ながら苦笑した。「コックロフト氏がかえってくるまで、まだ二十五、六分ある……」 「吉岡……マルセル……」私はのどに手を当ててささやいた。 「見張っているんだが、まだ出てこない……」とマルセルの声がかえって来た。「今、吉岡が様子を見にはいって行った……」  私はペドロに眼くばせした。──ペドロは、ゆっくりとカウンターをはなれ、トイレの方へ歩き出した。 「|まだ《ヽヽ》、気どられないようにしろ……」と、私はマルセルにつたえた。「コックロフトというやつにあって、話をはじめるまで、泳がすんだ。いいな……」 「あとから応援に来てくれた連中は、みんな�狐�の顔を知ってるのかな……」と、リーはロビーを見まわしながらいった。「鬚をそり、髪の色も変えていたぜ」 「服装と身体の特徴を、もう一度みんなに知らせろ……」そう言って、私もゆっくりカウンターをはなれた。「君は、コックロフトの人相を警備主任から教えてもらって見はれ。──もう間もなく帰ってくるはずだ……」  私はトイレの方へむかって歩きながら、�狐�のもとの人相と、鬚をそり、髪をそめた顔を想像しようとした。──アブドゥル・ゴウラルト・ハッサン……それが�狐�の本名だった。ポルトガル系の血のまじった、小柄なシリア人だ。黒い髪、黒い眼、黒い口髭、浅黒い肌──六十一歳の、頑健で、ぬけ目のない、したたかな実業家だ。従業員の数こそすくないが、ベイルートに本社をおく、すばらしく業績のいい会社のオーナーで、政界にも有力な裏ルートを持ち、あちこちに顔がきく。若い時から、地球上はもちろん、太陽系の惑星上をわたり歩き、主としてレア・メタルをあつかってきた。小惑星の一つの上で、巨大なタンタル鉱を発見して財をなし、現在でも、どんな遠くても、取り引きや開発計画のある所へは自分で出かけて行く。タウ・ケティとの間に極度の緊張の高まったバーナード第三惑星へも、そこに存在する尨大なシルヴァナイト鉱脈《こうみやく》──テルルの原料の開発について、最後まで現地で粘り……そして、ほかの四人と一緒に、宇宙港行きの小型バスにのっていて、タウ・ケティ側の憲兵に、三時間《ヽヽヽ》ほど抑留された。  その「三時間の空白」の間に、五人すべてが「洗脳」をうけた可能性があった。しかし、他の四人の証言によれば、それぞれ別々に、一人あたり一時間ほどしらべられたのに、ハッサンだけは、三時間たっぷり、取調室にいた、という。彼自身は、鉱石のサンプルを持っていた事でひどく長くしらべられ、サンプルは没収された、と太陽系側のチェックポイントで弁明した。情報係につかっているイプシロン・エリダニ系の基地労働者から、五人のうちの|誰か《ヽヽ》──あるいは|すベて《ヽヽヽ》が、洗脳された可能性がある、という事、しかも�火�を持たされたらしい事を知らされた現地諜報員も、その時は誰が�狐�かは判定しようがなかった。  が──消去法による解答が、五人が地球へかえってから間もなくして出た。五人のうち、四人は、帰星後も何らあやしい所はなかったにもかかわらず、ハッサンだけが、帰星後三日目に突然姿を消した。ベイルート行きの便にのった形跡もなく、メアリスビルを出た形跡もない。本社と、世界の四カ所にある彼の「家」には、仕事が忙しくて、当分帰れない、という通知だけがあった。そして、それから実に四十日余、ハッサンは市内のどこかに潜伏して、姿をあらわさなかったのである……。 「林……」突然緊迫したマルセルの声が耳もとでした。「来てくれ!──吉岡が……」 「失礼!」  つい急ぎ足になって、杖をついた白髪白髯の年老いた黒人にぶつかりかけた私は、体をひらきながらあやまった。 「�狐�は?」と私は声を殺してマルセルにきいた。 「姿が見えない……。まだ大便所の中かも知れない。ふみこんでいいか?」 「待て!」  私はトイレの前に大またで近づきながら、急いで考えをめぐらせた。──トイレの前に、マルセルとペドロが立っていた。 「今、洗面所は誰もいないんだ……」とペドロはいった。「大便所のドアが二つしまっている。どちらかの中に、まだいるんだと思うが……」 「吉岡がやつの隣りにでもはいってるのか?」私はちょっと唇をかんだ。「マルセル──出てった奴は?」 「二人──だが、やつとちがう。一人はのっぽの金髪の若僧、もう一人は黒人の年寄りだ──杖をついて……」  私はトイレのドアをあけた。洗面所は誰もいない。八つならんだ大便所のドアの、ならんだ二つがしまっている。だが、内側から鍵がかかっているわけでなく、スイングドアとドア枠に、小さくたたんだ紙を目だたないようにはさんでとめてあるのを見て、私はドアの一方を押した。──中はからっぽだった。隣りのドアを押すと、中の便器に吉岡が腰かけていた。ズボンはぬいでおらず、青黒くふくれ上った顔は眼をむき出し、口もとから血がたれていた。──吉岡は絞め殺され、頸椎《けいつい》がおれていた。 「気づかれたぞ……」私はかすれた声でいって、ドアのラッチの周辺についた、黒い汚れを指先でなすった。「また変装しやがった。──さっき出て行った、黒人だ。いそごう。ロビーと、エレベーターの傍にいる連中に知らせろ!」  トイレをとび出して、ロビーの方を見ると、ずらりとならんだエレベーターの一つに、黒人に化けたハッサンがはいりこむ所だった。──尾行はすでに気づかれていたが、何人張りこんでいるかはまだわかっていまいと思ったので、あわててかけつけるような事はせず、エレベーター付近にはりこんでいた局員に合図を送った。  だが、その男には、まだハッサンが黒人に変装した事がよくのみこめていなかったようだった。一瞬のうろたえが、タイミングをはずし、�狐�の乗りこんだエレベーターのドアがしまった。──四十階まで直通で、四十一階から八十階まで各階どまりのエレベーターだ。メテオール・ホテルは、四十階から百二十階までが、客室になっている。  私は隣りのエレベーターのボタンを押しながら、マルセルへ言った。 「君はここへ残れ。──エレベーターのとまった階をチェックして知らせろ……」 「やつは七十七階へ行くんじゃないんですか?」  ドアがあいたので、私はマルセルに返事せずにとびこんだ。リーとペドロがつづいた。「七七〇九号室……」私たち三人以外に乗っていない事をたしかめて、私はウイベルト商会のむかいの部屋にはりこんでいる連中をよんだ。「行ったぞ……。黒人の年寄りに変装している。皮の帽子と皮のジャケットを着て、シャツは紺にストライプ……。杖をついて、ズックの茶の鞄を持っている。エレベーターの中では、もう変装をかえるひまはないと思うが、したたかなやつだから気をつけろ。吉岡がトイレでやられた……」 「了解……」と見張りの緊張した声がきこえた。「エレベーターは何号ですか?」 「十二号だ……。アレン・コックロフトは部屋にかえったか?」 「まだです。まだ誰も来ません……」  エレベーターは四十階を通過し、減速しかけた。私は操作盤をあけて通過ボタンをおした。──�狐�の乗ったエレベーターとの差は三十秒ちょっとある。できればやつより先に、七十七階へ行きたい。ドアの上のディジタル表示は五十階をすぎ、六十階に達しかけた。 「主任!」と七七〇九号からせきこんだ声がした。「十二号のエレベーターがこの階につきました。誰もおりて来ません。からっぽです。──こちらから娘が一人乗りこんだだけです」 「なに?」とペドロがつぶやいた。「どこかでおりたのか?」 「一人は非常階段を見張れ」私は大急ぎで六十二階の停止ボタンをおしながらいった。 「もう一人は、ぺドロがその階へついたら、七七〇八へふみこめ。女をおさえるんだ」  六十二階でエレベーターが停止すると、私はペドロの肩をおした。 「別のエレベーターをつかって七十七階へ応援に行け。おれたちはこのエレベーターをつかう」ペドロが走り去ると、私はロビーで十二号エレベーターの表示を見ているマルセルをよび出した。「�狐�は七十七階にこなかった。──十二号エレベーターのとまった階数は?」 「四十階、四十三階、五十一階、六十二階、それから七十七階だ。いま八十階にとまった……」 「十一号機から十五号機までのエレベーターの下り便を、全部四十階でとめるんだ。警備主任に言って客のクレームが来たら、すぐなおるといわせておけ。──ロビーの人数の半数を手わけして、四十階と五十一階と六十二階に行かせろ。おれたちは四十三階へ行く……」  私は操作盤のスイッチを下降にきりかえ、四十三階のボタンをおした。──それは賭けのようなものだった。さっきからずっと心のすみにひっかかっていた事が、ある形をとりはじめた。七七〇八にいた女事務員は、ホテル内線《ヽヽ》で電話をした。という事は、アレン・コックロフトはホテル内のどこかの部屋にいる。そして「四十三分後」に彼が帰ってくると、妙に小きざみに�狐�に時間を告げたのは、ひょっとしたら時間でなく「階数」を教えたのではないかと思ったのだ。 「警備主任……」下っていくエレベーターの中で、私はフロントをよんだ。「四十三階で、オフィスにつかっている部屋は?」 「三室あります。──四三〇八、四三二七、四三四一……」 「四三〇八の借主は?」 「ええと──アナトール・シュー様で……」 「自信があるのか?」とリーがきいた。 「五対五で賭ける……」私はリーの服の胸ポケットをたたいて集音機を用意しろと指示した。「いや、──六対四でもいい」  四十三階へついて、人気の無い廊下へ出ると、私も胸ポケットから、集音機を出して、リーと二手にわかれ、両側にならんだ客室ドアの前をゆっくり歩いて行った。四三〇六のドアの中からは、女が電話をかけている声がした。ちょっと耳をかたむけたがちがうらしかった。──四三〇八のドアには、A・Cというメタル文字がはりつけてあった。アナトール・シュー氏がアレン・コックロフト氏かどうか、思案するまでもなく、ドアごしに集音機へとびこんで来た声が、お目当ての相手の在室を教えてくれた。 「絞め殺したのはまずかったな。そのうち、誰かが見つけてさわぎ出すと、ここもうるさくなる。──本当に尾行されてたのかね?」 「ちがったかも知れんが、万一という事がある。保安局は、もう私をマークして世界中から月まで手配書をまわしているから……」 「だが、君がこんなに長い間、到着した場所に潜伏しつづけたとは、むこうも気づいていまい。すでに十日前、メアリスビルの捜査本部は四分の一に縮小された……」  私はわざと表情を動かさなかったが、リーは片頬をかすかにひきつらせて笑った。──十日前といえば、メアリスビル郊外の、シーズンでごったがえすキャンプ場で、人相を変えたハッサンを見つけた時だ。──それまでにも、彼のたちまわり先と思われる世界中の地点で、「陽動作戦」をつづけていたが、私ははじめからハッサンはまだ、メアリスビル界隈から動いていない、とあたりをつけていた。そして、以前から地球上にもぐりこんでいる工作員とも、相手が留守か、あるいはもっと別の理由で、連絡をとっていないとも……。なぜ、そう信じたのか、説明するのはむずかしい。長年�狐�を追いかけて来たものの、一種の|かん《ヽヽ》としかいいようがない。  キャンプ場で、ハッサンである事をたしかめてから、私は即座にそれまで市警の中においていた捜査本部を縮小し、主力を別のビルにうつして、保安局メンバーもほとんど入れかえた。連邦警察から大量に応援をよび、キャンプ場を見張らせ、市警の刑事を表面にたてた。──�狐�は、それから実に十日間も待ち、やっと仮の「穴」からはい出して来たのである。 「カール……」私は口をほとんどひらかず、ビルの外をホヴァーしているカールをよんだ。 「クラフトを四十三階──いや四十二階にもってきてくれ。警備主任に聞いて、四三〇八の部屋の窓の、すぐ下につけるんだ。一度三十階ぐらいまでおりて、それから静かに上ってこい……」 「……ところで……」とアレン・コックロフトらしい声がいった。「とにかく仕事をかたづけてしまおう。──品物をもらおうじゃないか」 「実際、苦労したよ」とハッサンが、溜息まじりの声でいった。「何しろ、もぐっているのが退屈で……」  眼の隅で、エレベーターがあいて、リーがよんだ応援の連中が近づいてくるのを見て、私は手で、隣のドアをさした。四三〇八はつづき部屋で、「4308B」と書かれたドアがある。 「だが苦労した甲斐があったな……」とアレンの声がいった。「何度も失敗して、あんたがはじめて地球へ持ちこみに成功したんだから……。これがあれば、この先いつでも……」 「|それ《ヽヽ》を、一体どうするんだね?」 「あんたは知らなくてもいいんだ……」アレンは嘲るように言った。「こいつは、何十年も前から、地球にしかけておいたものを、作動《ヽヽ》させる事ができるのさ……」 「おい!」とハッサンが、急にのどのつまったような声を出した。「何をするんだ。おれに何を……」 「今だ!」と私は叫んだ。  リーはもうさっきから、ドアのノブに、衝撃銃《シヨツク・ガン》の銃先をあてがっていた。廊下の人数は、八人にふえていた。──腹にひびくようなにぶい響きがして、ノブがふっとぶと同時に、私はドアに体当りした。  ドアが開いたとたん、眼の前がくらくらするような衝撃におそわれた。──四三〇八号室の中には、赤、白、黄、青、紫、あらゆる色彩がいっぱいに渦まき、むせかえるような芳香にみちていた。緊張のあまり、ウイベルト商会が、世界中にチェーンをもつ花屋だという事をすっかり忘れていたが、それにしても、A・C氏のオフィスが、こんなに花に埋もれているとはまったく予期しない事だった。室内いたる所に鉢植、花壜、釣り籠、壁の花挿し、さまざまな器がおかれ、大小、形状、色彩、模様、さまざまな花がめったやたらに飾ってあった。  その色彩のショックにまどわされて、ほんの一瞬立ちすくんだ隙に、赤毛の大男は、背中を見せている黒人の胸元につきつけていたレーザー銃の銃口を、こちらへむけて引き金をしぼった。──だが、むこうもあわてたと見え、青白いレーザー光は、ハッサンの左肩を貫き、すばやく体を低くしたリーの頭上をこえて、ドアの上の壁にずばっと焼け穴をあけた。 「カバンだ!」私は、左肩をおさえてよろけて来たハッサンともつれて、床にころがりながらわめいた。「アレンの机の上……」  リーはダッシュした。──と思った瞬間、彼は顔を両手でおおってはねとんだ。悪鬼のような形相の赤毛の巨漢が、机の抽き出しから何かをとり出し、リーのすぐ前の床にたたきつけるのが、部屋全体が目のくらむような白光に包まれる寸前、まるでスローモーションフィルムのように、ゆるゆるとした動きで眼蓋の裏にやきついた。白光につづいて、ハンマーでひっぱたかれるような熱の衝撃がおそって来た。部屋の中が、一瞬にして紅蓮《ぐれん》の炎に包まれ、壁や床をおおった美しい花のジャングルが、ちりちりと花弁をよじりながら灰になって吹きとんで行った。 「消火器を!」私は衝撃銃《シヨツク・ガン》で天井のスプリンクラーをねらいうちながらわめいた。  部屋の奥の方で、窓ガラスがわれる音がした。     5 「火は消しとめたが……」と局長は指を組みあわせ、くるりと椅子をまわして背をむけた。「今度も�火薬�はわからずじまいか……」 「待ってください……」私はひりひりする顔の皮膚を無意識になでながら局長の言葉をさえぎった。「まだのぞみはあります。リーが火達磨になりながら、炎の中から持ち出したカバンの中身を……」 「分析班の報告では、ほとんど炭火しているそうじゃないか……」 「全部ではありません。のこっているものの中から、�火�についての手がかりがつかめるかも知れない。そうしたら……」 「外交部が、相手のプレッシャーのかけ方は一段落した、といってきた。しかし、ゆるんだわけじゃない……」局長は回転椅子を、耳ざわりな音をたててきしませた。「少し、方向を変えてきたが……むこうに時間をかせがせては、結局同じ事になる。一刻も早く、こちらから、思いきって決然たる態度をとりたい……」 「わかっています。──」私は唇をかんだ。 「なお全力をつくしてみます。もう少し時間をください。」 「休暇は残念ながら三日間しかやれん」 「その事を申し上げに来たんです。一日だけで結構です。──殉職した吉岡の父親を見まってやりたいので……」  局長は背をむけたまま、椅子をきいきい鳴らしていた。──私はだまって局長室を出た。  繃帯だらけのリーを病院に見まって、外へ出てくると、花束をもったマルセルとばったり出あった。 「明後日《あさつて》から、また地獄だぜ」と、私はクラフトのドアをあけながらいった。「これからサンフランシスコへ行ってくる。明日の夕方にはかえる」 「吉岡の所か?」マルセルは暗い眼つきをした。「ウイベルト商会にいた女からは、何も出てこなかった。きいたか?」 「ああ──二週間前にやとわれた所だそうだな」私はスティックをくわえて、ゆっくりかんだ。「分析班の方は? ちょっとまわってみるつもりだが……」 「考古学者みたいな手つきで慎重にやっているけど、あまり期待できそうにないな……」  マルセルは、手にした、赤と黄の、ガーベラに似た花を、優鬱そうに見た。「女房が見まいに持ってけっていったんだが──リーは、あまり喜ばないんじゃないかね?」 「おれもそう思う」と私はいった。「何しろ例の花だらけの部屋へとびこんで、大火傷しちまったんだから──ノイローゼになりそうな男じゃないが、今それを見せたら|ひきつけ《ヽヽヽヽ》を起すかも知れんぜ」  マルセルは肩をすくめると、花束を傍のごみ箱にほうりこんだ。ふだんの彼なら、看護婦にでもやって、プレイボーイぶりを発揮するのだが、今はそんな気分ではないようだった。──私だってそうだ。吉岡が死に、リーが大火傷をおった。にもかかわらず、�狐�は炭化した骨になり、窓から飛び出したアレン・コックロフトは、カールの乗ったクラフトのボディをへこませただけで、四十三階下の道路でぺしゃんこになった。手がかりになりそうなのは、黒こげのカバンだけだ。  その黒こげのカバンの中身を、市警の科学分析室で見た時は、最後ののぞみもたたれたかと思った。 「すごい高温にさらされたと見えるな」と連邦警察の研究所から来た、博士号を三つも持っている分析班の主任は、ガラスケースの中にならべられた黒こげの品物を顎でさしていった。「書類関係で、何とか読めるのは、パスポートとポルノのペーパーバックだけだ。読むかね? 獣姦ものだが……」 「書いたものはあきらめてます」と私はいった。「せめて残ってるものを、徹底的に、精密にしらべてください。洗面道具でも、筆記用具の内容でも……。もし、何か|地球上にないもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》があれば、それがおそらく�火�です。�火�がわかれば……」 「もうとりかかってるがね……」と主任はうなずいた。「ただ──手がかりが見つかるとはかぎらんぜ。君のさがしているものは、カバンの外側と一緒に、ガスと炭になっちまったかも知れない……」  その部屋で、かなりの時間をとったので、昔なつかしい保存都市サンフランシスコについた時は、すっかりうす暗くなっていた。──私は疲れ、気が滅入っており、黄昏《たそがれ》に年老いた吉岡の父親をたずねるのが辛くて、翌朝にする事にして、古い友人のたくさんいるチャイナ・タウンに足をむけた。 「林!」チャイナ・タウンの坂をのぼり出したとたんに、声をかけられた。「林碧秀じゃないか!──ひさしぶりだな。寄ってけよ。親友の店を素通りはないだろう?」  私は苦笑して、幼なじみの李成向の、小さな四川料理店にひっぱりこまれた。 「いそがしいんだろうな? 火星からはいつかえった?──疲れてるような顔をしてるじゃないか、一ぱいのんで待ってろ。疲れなんざたちまちふっとぶような特別料理を食わせてやるからな。酒は老酒《ラオチユー》か……」 「いや……マオタイにする」私は顔をこすりながら口の中でつぶやいた。「壜ごとくれ」 「お前は運がいい。今日、とてもいい筍《たけのこ》がはいった。堀りたてだ。──今年は、このあたり筍が不作でね。べらぼうに高いんだ。だが、こいつは冷凍物じゃない。正真正銘朝堀りだぜ──」 「小三……」私はマオタイをぐっとあおって、李の幼名をよんだ。「吉岡の親父さん──元気か?」 「あ、そうだ。吉岡、殉職だってな」李は料理場から顔をのぞかせて眉をひそめた。「葬儀はいつだって? サクラメントの親父さんには今朝あった。相変らず、静かな顔で……」  その老人には、翌朝、市内の日本庭園であった。──アパートの方へたずねると、いつもの通り、朝早くからそちらへ出かけたと管理人に知らされた。李成向のいった通り、長男の死を、二日前知らされたとは思えない、静かな顔つきだった。 「話はうかがいました……」と、その小柄な、端正な老人は低い声でいった。「はっきり殉職とわかって、何も申す事はございません」  私の方も、何も言う事はなく、ただ唇をかんでうなだれているだけだった。 「少し歩きましょうか?」そんな私を、かえってひきたてるように老人はうながした。「あちらの亭で、一休みいたしましょう」  五月の陽光は、起伏の多い新緑につつまれた日本庭園の上にきらめいていた。──その濃緑、新緑の中に、一むら二むら、黄色く立ち枯れている植物があった。 「四月下旬に、この庭園の竹がいっせいに花をつけましてね……」庭師として社会生活をはじめ、のち植物学で学位までとった老人は、その枯れはじめた竹藪を眺めながらいった。 「実がなると、枯れはじめました。──株わけしたものがだいぶありますから、またみんな、植えかえねばなりません……」 「竹にも花《ヽ》が咲くんですか?」私は亭からまわりを見まわしながらつぶやいた。「知りませんでした──。子供の時から、度々ここへ来たんですが、夏でも冬でも、いつも青々としていたから……」 「イネの仲間でも、大変風変りな植物でしてね……」老人は陽光に眼を細めながらいった。「イネは毎年花が咲き、実がなり、そして枯れますが、竹は、何十年に一度しか花が咲きません。時には百年以上たって、はじめて花をつけ実がなります。種ができると、やはりイネのように枯れてしまいます。花が咲くまでの間は、栄養生殖で、地下茎をのばしてどんどんふえていく……何十年もそうやってふえるので、とても大きな竹藪になり、山一つおおうほどになりますが、どんなに大きな竹藪でも、そうやってふえたのは、|一つの個体《ヽヽヽヽヽ》──遺伝的には、|一本の竹《ヽヽヽヽ》と同じ事です。大きな竹藪が、何十年に一度、いっせいに枯れるので、人はびっくりしますが……私も七十年ほど昔、まだ十代のころですが、この庭園の竹が一せいに枯れるのを見て、びっくりしました。それが植物の勉強をするきっかけになったのですが……」 「|どうして《ヽヽヽヽ》……何十年もたくましく地下茎でふえてきたのに、突然花をつけ、枯れてしまうのでしょう?」私は、黄色い竹藪ではなく、その傍の色とりどりの花びらを見つめていた。──のどがからからになっていた。 「どういう|きっかけ《ヽヽヽヽ》で……」 「実をいうと、まだよくわからないのです。──それが、寿命というものかも知れません。大ていの生物は体の中に、老化という時計をつけた、�死�という時限爆弾を持っています」老人は静かに銀髪をなぜた。「人間も、八十年、九十年とずいぶん長生きしますが──人間とちがって、竹は、何十年と栄養生殖をつづけ、何十年か細胞分裂をつづけると、老化の果てに、生殖ホルモンができて、死の直前に有性生殖にきりかわるんでしょうね。私は、一度だけ、竹の生殖ホルモンらしいものを見つけ、若い竹に注射して花を咲かせましたが……その正体はとうとう見つけそこねました。今度の開花を機会に、今度こそ正体をはっきりさせたいと思っています。──うまく行けば、私も死の直前に、花を咲かせる事ができるかも……」  私はいつの間にか立ち上っていた。──老人に、急に用を思い出しましたから、とお座なりなあいさつをした記憶はあるが、あと、どうやって日本庭園を走りぬけたか、ほとんどおぼえていなかった。気がついた時は、制限高度ぎりぎりの低空で、制限速度を無視してクラフトをぶっとばしながら、マイクにわめいていた。頭の中には、「何十年……」という言葉が鳴りひびいていた。  老人から、竹が「何十年《ヽヽヽ》に一度」花をつけるときいた時、その言葉をつい最近、どこかできいた事を思い出した。──それが、メテオール・ホテルの四三〇八号室のむこうで、ふみこむ寸前に盗みきいたアレン・コックロフトの話し声の中にあった事を思い出した時……。 「|ホルモン《ヽヽヽヽ》だ!」と私は通話に出た分析班の主任にわめいた。「何か──�狐�のカバンの中身に、何かホルモンのようなものが見つかりませんでしたか?」 「ホルモン?」主任は面くらっているようだった。「ホルモンといったって、いろいろある。インシュリンとか、アドレナリンとか」 「ちがう!──そんなんじゃない。何か植物《ヽヽ》ホルモンのようなもの……」 「植物ホルモン?……ちょっと待ってくれ。……え? 何だって?」主任は後の誰かと話している様子だった。「ハロー……それらしいものが見つかっている。整髪剤の壜の中に半分ほどはいっていた液体だが、臭いはそれらしくつけてあるが成分は整髪剤とちがっていて──そう言われれば、植物ホルモンくさいな。地球上の植物ホルモンは、炭素環《カーボン・リング》とカルボキシル基の結合の間に、必ず炭素分子が一つはさまっていて……」 「そんな事聞いたってこっちにはわからない。とにかく、そいつを大至急分析してください」 「そりゃやって見るが、高熱で分解しているかも……」  私はかまわず一方的に通話を切って、今度は局長をよんだ。──外へコーヒーを飲みに出かけている局長を、交換台がおいかけている間、私はクラフトをバンクさせ、眼下にふっとんで行く、緑におおわれた細長いカリフォルニア渓谷を見おろした。中央をうねっているサクラメント川の両岸にも、あちこちの家の庭にも、点々と、赤、白、黄の色鮮やかな斑点が見えた。それを見ているうちに、どうしようもない悪寒と戦慄におそわれた。 「局長、�火薬�の正体がわかりました。ほぼまちがいないと思います」やっと通話口に出た局長に、私は大声でどなった。 「�火�も、ほぼ見当がつきました。──吉岡の父親が……伜《せがれ》の仇をとったんです」 「なに? 吉岡の親父がどうしたって?」局長が顔をしかめているのが手にとるようにわかった。「もっと小さな声でしゃベれ。耳ががんがんする……」 「大きいのは地声です。──いいですか? 七十年乃至六十年前、地球上には|どこにも《ヽヽヽヽ》なかったもので、その後、�蜜月時代�を通じて、世界中にひろがったものは何です?」 「タウ・ケティから持ちこまれたものでか?」 「そうです。�タウ・ケティと地球の、うるわしい親善のしるし��恒星間宇宙をこえて二つの星系文明を結ぶ美しい絆�です……」 「待て──」局長は息をのんだ。「まさか……」 「そうです。花《ヽ》ですよ。地球の自然にもっともよくなじむと思います、とか何とかいって贈られた──最初からむこうは、ちゃんと研究していたんだと思いますがね──あの地球のキク科植物によく似たミナシクジラソウです。花は咲くのに実はむすばない。そのかわり、株わけはいくらでもきく。一見、顕花植物なのに、種子ではなくて、胞子《ヽヽ》でふえることもできる……。自分では実をむすばないくせに、その花粉で、地球のキク科植物に受精《ヽヽ》させる事ができ、交配種《ヽヽヽ》をつくる能力を持っている。──ここからでも、ずいぶん咲いているのが見えます。花壇だけじゃなくて、野原や山にもひろがっています」 「だが──信じられん……今まで何も……」 「�火薬�は�火�をつけられなければ、ただの黒っぽい粉です。──いや、ただ火をつけたってぶすぶす燃えるだけで、ダイナマイトなどは、雷管なんかで衝撃をあたえなければ爆発しません……」 「その�火�の正体はわかったのか?」 「分析班がつきとめかけています。──この�火薬�は……それだけでは何の危険もなかっただけでなく美しく、可憐だったため、世界中の人に何十年もの間|愛されて《ヽヽヽヽ》、今では世界中にひろがってしまったんです。地球人自身の手によってね。タウ・ケティのハードな科学技術は、大した事はないが、連中の生物科学と社会心理学の水準をあまり過小評価したら、えらい事になりそうですな。何しろ、あの悪知恵《ヽヽヽ》……」 「そうか!……わしも思い出したぞ! なぜ、今まで、それに気がつかなかったんだろう?」と局長はうめいた。「蜜月時代に、タウ・ケティから、あの花や球根を大量に輸入し、栽培し、売りまくったのが……|ウイベルト商会《ヽヽヽヽヽヽヽ》だったんだ!」 「ウイルスだな……」分析班の主任は、げっそりやつれた顔をしかめて断定した。「それも──地球のものでいえば、溶原性ウイルスに似たやつだ。ウイルスのあるものは、自分自身をつくる遺伝情報を、宿主生物細胞のDNA、──遺伝子の中にはめこんでしまう。宿主細胞が分裂する度に、そのウイルス自身のDNAも、いくらでも再生産されて行く。しかし何か特別な刺戟があたえられると、ウイルスはたちまち姿をあらわして増殖をはじめ、宿主細胞を食い殺して外へ出る……」 「その刺戟が、この場合、�火�の役目をするホルモンだったんですね……」 「妙な物質でね。ちょっと見ると、地球上のありふれた植物ホルモン──|β《ベータ》インドール醋酸《さくさん》なんかに似ているが、炭素環《カーボン・リング》が三つも四つもついていて、……おまけに燐酸基が二つくっついている。まず地球上には絶対にないものだろうな」 「そいつがあの、�ばけもの花�に作用すると、その遺伝子の中にひそんでいたウイルスがとび出すのか?」局長は酸っぱい顔をした。 「手のこんだ──しかも、見た眼の美しい生物兵器だな」 「実は、もっとおそろしく手がこんでましてね……」と主任は溜息をついた。「ホルモンを作用させられたクジラソウの細胞からは、遺伝子にかくれていた、A、B二種類のウイルスがとびだし、Aは人間や哺乳類に感染して、はげしい病気をひきおこし、Bは、別のクジラソウに感染して、�火�のホルモンをつくらせるんです……。この植物そのものが、精密な遺伝子工学を駆使してつくりだされた、高等な人工物ですね」 「�連鎖反応�だな……」局長はうなった。「一カ所に�火�がつけられれば、ばらまかれた�火薬�から�火薬�をつたって、爆発は全世界に及んで行く……」 「これだけ世界中にひろがったクジラソウを、一せいに駆除しろといっても──いったいどのくらい時間がかかりますかね……」私は分析室の一隅につみあげられた、実験用の美しい色とりどりの花をぼんやりとながめた。「園芸愛好家や、自然保護団体の中に、強烈に反対する連中も出てくるんじゃないですかね。──おまけに地球種のキクと交配してしまっているのもあるし……この地球上から、ついにキク科植物を根こそぎなくしてしまう事になるのかな……」 「そいつは大丈夫じゃないかな。地球原産のキク科植物で、交雑したものをテストしてみたが、ホルモンを作用させても、ウイルスの出現率ははるかにすくないし、A、Bどちらか一方しか出てこない。動物感染するAウイルスの毒性もずっと弱い上、Bウイルスは感染しても、地球種をベースにしたものは、�火�のホルモンを|つくらない《ヽヽヽヽヽ》。──つくるしかけが基礎的にかけているみたいだ。クジラソウ対策も、二つの研究プロジェクトが全力をあげてはじめられている。一つは、クジラソウを選択的に除去する薬剤の開発量産、もう一つは、A、Bウイルスに対するワクチンと特効薬の開発……」 「何とか、この草花の、潜在的ウイルス生産機構を無効にする方法も考えてくれんかな……」と局長はつまれた花をふりかえりながらいった。「�火薬�をしめらせるってやつだな。──もう何十年《ヽヽヽ》も、地球上で愛されて来た花だし……この先どうなるかわからんにしても、これまで、タウ・ケティ人の贈ってくれた、唯一の�美しいもの�と思われて来たんだしな……。相手がどうであれ、他の宇宙文明に百パーセントの憎悪しか持てなくなるというのは、地球人にとってもよくない事だしな……。感傷的かも知れんが、たとえ一パーセントの幻想《ヽヽ》でものこしておきたい気がする……」 「できない事ではないかも知れません……」と主任は腕をくんだ。「効率よくやるには、やっぱりウイルスを使う事になるかも知れませんがね……」 「この|て《ヽ》の花を、吉岡の葬儀に贈ってやろうと思っていたが──こうなってはそうもいかんな……」  部屋から出て行きかけて、局長はもう一度ちらっと部屋の隅に眼をやりながら疲れた声でつぶやいた。 「吉岡の墓には、私が竹を植えてやりますよ。──彼は日本人ですからね」と、私は局長の背後からいった。「秋になったら、純粋に地球産のキクをそなえるつもりです──�兵器�なんかでない、本当に彼が安らかに眠れるようなキクをどっさり……」  局長はこたえずに部屋を出ていった。  ──その幅ひろい、やや猫背の背中に、なんだか悲しみがいっぱいただよっているようだった。 [#改ページ]   交 叉 点     1 「おい!」  ジョーが宗像《むなかた》の横腹を肘《ひじ》でぐいとついた。 「いてっ!」と宗像は宇宙服の上から脇腹をおさえてうめいた。「気をつけろ!──そこは、|おでき《ヽヽヽ》ができてるって言ったろ」 「お前の腹の腫物《はれもの》なんか、かまっていられるか」ジョーは興奮した口調で言った。「見ろ!──あれは何か……構造物じゃないか?」  山腹の傾斜の下、谷間に何か灰色がかった茶色の、三角形のものが見えた。──尾根をこえてから、まわりの植物相も変って来たようだった。反対側は、赤茶けた地肌に、奇妙な、この惑星特有の、移動性|灌木《かんぼく》がまばらにちらばっているだけなのに、斜面のこちら側は、雨が多いのか、びっしりと緑の草や、森林でおおわれている。  その森林でおおわれた谷間に、ジョーの見つけた、「構造物」の一部がのぞいている。一見三角形だが、よく見ると、鈍角のものと鋭角のものがくみあわさった、一種複雑な形をしている。 「屋根のようだな……」と、電子双眼鏡をのぞいていたソムサクがつぶやいた。「植物の繊維でつくってあるようだ。おれの先祖の出身地の山地タイには、まだ一つ二つ似たようなのが保存されているが……」 「そう言えば……」と宗像も思い出したようにつぶやいた。「おれも、古代博物館で、似たようなのを見たな。──タイじゃなくて、日本古代の家屋の復原模型だった」 「おい、いいか」ジョーはかみつくように言った。「しっかりしろよ。ここはなつかしの太陽系じゃなくて、そこから十一・九光年はなれたタウ・ケティ系なんだぞ。この惑星は地球じゃなくて、タウ・ケティ第四惑星なんだ。そこんとこを、しっかり頭にたたみこんどけよ。──いくら望郷の念にかられたと言ったって、この惑星上の、はじめての構造物らしいものを、東南アジアや日本の古代家屋と見あやまるようでは……」 「わかってるよ」と宗像は言った。「何となく似ている、と言っただけの話だよ。──あんたも見てみろよ」 「たしかに……」とジョーも電子双眼鏡をのぞきながら、興奮を押えきれないような調子でうめいた。「どう見ても……屋根|らしく《ヽヽヽ》見えるな……。おい、すぐ本部へ連絡しろ。司令が出たら、すぐ映像を送って、解析をたのむんだ。あれは──どう見ても、植物が自然にあんな形態をとったんじゃなさそうだ。知的生物《ヽヽヽヽ》の構築したものらしい。すごいぞ! タウ・ケティ系ではじめての、知性体存在の兆候だ。大発見だぞ! 早く本部を……」 「本部が出ない……」とソムサクが通信機を操作しながら首をひねった。「タケオ、君の通信機でよんでみてくれ……」 「こっちも出ないんだ……」宗像はいらいらとコールボタンを押しながらこたえた。「おかしい……。故障しているわけでもなさそうだ」 「通信妨害でもあるのか?」とジョーも自分の通信機のスイッチを入れながらきいた。 「いや──そうでもなさそうだ……」とソムサクはつぶやいた。「おかしい……。本部との通信が完全に切れてしまった……」  三人は思わず空を見上げた。──うすいもやのかかった空に、鯨座《ケトウス》の恒星|τ《タウ》が、ぎらぎらかがやいている。太陽《ソル》よりも、やや表面温度の低いG8型のスペクトルを持っているので、その光は、心なしかやや黄ばんで感じられる。 「どうする?」  と、宗像はリーダー格のジョーにきいた。  ジョーは、森閑と静まりかえる緑の山腹斜面をふりかえった。──乗物《ヴイーイクル》は、尾根のむこうにおいてある。三人はちょっとした断崖をよじのぼってこちら側の斜面へこえ、その地点まで、約一時間半歩いて来た。帰りはのぼりだから二時間以上はかかるだろう。本部は乗物《ヴイーイクル》に乗って、さらに二日行程むこうの砂漠の丘の上にある。  ソムサクは、中天をあおいで舌打ちし、もう一度通信機をひねくりまわした。──かすかなノイズだけで反応は無い。砂漠の山頂に設営した自動中継局とも、上空約三万キロの静止衛生軌道にいるはずの母船とも、通信は切れたままだ。 「よし……」ジョーはちらと時計を見て、決心したように言った。「もう少し接近してみよう。ただし、慎重にだぞ……」  タウ・ケティ第四惑星の自転周期は二十二時間四十三分だった。地球で言えば、正午をすぎて午後一時にかかろうとする時刻だ。──三人は、草をかきわけて、ゆるい斜面を谷間の森へむかって歩き出した。     2  最初にまわりの変化に気づいたのは、ソムサクだった。 「おかしい……」と、彼は植物の群落の傍に立ちどまってつぶやいた。「この植物相は……何となく地球《ヽヽ》のものに似ている……」 「よく言うよ!」ジョーは吐き出すように言った。「ひと目見てわかるのかい?──火星育ちで、地球へは修学旅行でしか行った事がないくせに……」 「月生れだからと言っていばるなよ」宗像はさえぎった。「あんた、地球へ五回も六回も行ってるって言うが、お祖父《じい》さんのいるアリゾナの砂漠ばかりだろ。ソムサクは、二回だけとは言っても、里帰りは東南アジアモンスーン地帯だぜ。──こと植物にかけちゃ、あんたよりはるかにカンがいいはずだ」 「これは……どう見ても、Phyllostachys bambusoides のような気がするんだが……」  とソムサクは、まっすぐのびた、節のある、淡緑色の茎と葉の植物をつかんで、ぐいとしなわせた。 「ぼくもさっきからそう思ってた……」と、宗像はうなずいた。「それから、あの林は……地球上の Pinus 属としか思えないんだが……」 「何だ、それは?」とジョーは鼻を鳴らした。 「フィロスタキイス・バンブソイデス……早く言えば、|竹《バンブー》だ。それも|まだけ《ヽヽヽ》と言って、地球上の東アジアのモンスーン地帯じゃ、ごくふつうに見られる種類だ……」と宗像は言った。「それにあの林は、賭けてもいい、|まつ《ピヌス》属で構成されている……」 「タケオ──この雑草を見ろ。すこし採集して行こう。おれの中学の時の『地球植物学』の成績はさんざんだったが、ここらへんの草が、イネ科やカヤツリグサ科のものでなかったら、おれ『中等生物学』のコースをもう一回はじめからやりなおすよ」 「気をつけろよ!」とジョーは神経質に叫んだ。「地球上の植物に、外見上よく似ていても、どんな毒の棘《とげ》や危険があるかも知れんぞ。バーナード星第二惑星に、第一次探検隊がおりた時はだな……」 「わかった、わかった……」宗像は腰から衝撃波銃をぬいて、目盛りを「弱」にあわせながら、傍の植物群をねらった。「あんたのおじさんがバーナードNo.2の、バクダンヤシをそれと知らずにとろうとして、仲間三人とふっとばされ、瘤《こぶ》を七つつくったんだろ。その話は聞きあきたよ」  衝撃波でかるくなぎたおされても、植物は別に、爆発したり、毒煙を吐きかけたり、毒の棘をはじきとばしたりしなかった。──ソムサクは、それを見ると、ものも言わずに、そこらあたりの植物を次々にナイフできりとって、腰の容器に入れはじめた。 「それにしても、どうしてこのタウ・ケティ4の上で、ここらあたりだけ、植物相がこんなに変っちまってるんだ?」ソムサクは手あたり次第に植物の茎、葉、穂を容器につっこみながら、息をはずませてささやいた。 「ほかの所は、やたら気持ちの悪い蔓《つる》植物や、のそのそ歩きまわる樹木なんかがあるのに……あのワライサボテンの事考えてみろよ……」 「本当に、このあたりだけは、植物景観がまるきり地球《ヽヽ》そっくりだな。──昔、二、三度行っただけだから、あんまりはっきりは言えないが……」と宗像も手つだって採取しながら言った。「そこの林の樹木だがな……一見、アカマツみたいだが、どうも小型でちまちましている所は、どうもピヌス・デンシフロラ・ウムブラクルフェラみたいな気がするんだ。──もしそうなら、ありゃアカマツの園芸品種で、絶対野生種じゃない……」 「おれもそう思う……」ソムサクの顔は、いつの間にか青ざめていた。「このマダケだって──栽培植物なんだ。このあたりだけ、こんなにほかの地域とちがって、地球によく似た植物相を構成している、と言う事は……」 「言うな!」宗像は制した。「言わないでくれ!──調査班長の言葉を思い出せ。�調査班にとりとめない空想は禁物だ。ただ冷静に事実だけを|先ず《ヽヽ》集めろ。想像力をはばたかせるのは解析班の仕事であって……�」 「わかってるよ……」ソムサクは、ヘルメットの下で汗をかきながらつぶやいた。「だが個人的な空想はかまわんだろう?──ずっと大昔……おれたちの文明が生れる前にほろびた地球上の未知の高文明人が、はるか昔に、太陽系外の恒星間宇宙にとび出し、その一部が、この星に植民した……」 「タイには、昔から、今の文明が生れる前に、四つの文明が生じてはほろびた、と言う伝説があるそうだな……」宗像も動悸《どうき》が早くなるのを感じながら、必死に冷静になろうとした。「だが、今、その話は忘れろ。このあたりの徹底的な調査を終えてから、あとで自由に、好き勝手な事を……」  その時、恐ろしい唸り声をあげたのはジョーだった。 「このあたり、大気組成まで変ってるぞ!」ジョーは袖口の大気成分分析機の表示を見ながらうなった。「窒素…約七九パーセント、酸素…約二〇パーセント、……アルゴン…約一パーセント、……炭酸ガス…〇・〇三パーセント……」 「なに?」宗像も思わず袖口を見た。「それじゃまるで──|地球の大気《ヽヽヽヽヽ》じゃないか!」  たしかに、表示はジョーの言った通りだった。──この惑星全体の大気組成は、もう頭にたたきこんであった。窒素五五パーセント、酸素一〇パーセント、炭酸ガス七パーセント、亜硫酸ガス六パーセント、アルゴン、ネオン、クリプトン、キセノン、ヘリウムなど、地球上では「希ガス」とよばれるものがあとの大部分を占め、放射性ラドンの影響で、メタンやシアンガスがたまっている所もあり、直接呼吸は危険だ。 「待て!──まだヘルメットをとるな」ジョーは、ポケットから試薬アンプルをとり出して、封を切り、大気をまぜて振った。反応は──安全《グリーン》だ。「まだだぞ……これは何かの|まやかし《ヽヽヽヽ》かも……」  だが、ソムサクも、宗像も、ヘルメットのバイザーをあげてしまっていた。 「うまい空気だ……」とソムサクは深呼吸して言った。「緑のにおいがするぜ」 「おれはこのまま行く……」とジョーは頑固に言った。「お前たち二人に、何か変化があらわれたら、助けてやらなきゃならんからな」 「モルモットがわり、けっこう……」と宗像は言った。「とにかく先を急ごう」     3  その「構造物」は、明らかにほとんどが植物性材料でできていた。一部には鉱物質もつかわれていたが……。  などと、むずかしい事を言うよりも、一口に言って、古びた木の柱、藁屋根、竹垣、塗り壁の、日本の百姓家風のひっそりとした建物だった。──庭前には、柿の木が枝を張り、背後の崖からひいた水が、石を組んだ瓢箪《ひようたん》型の池に、さらさらと小さな音をたてて流れこんでいる。  ジョー、宗像、ソムサクの三人は、レーザー銃をかまえ、姿勢を低くして、草むらや遮蔽物に身をかくしながら、建物の後方から接近して行った。──三人とも極度の緊張で、体が細かくふるえていた。  建物のすぐ傍の、植物が塀のように密生している背後にたどりつくと、三人は息を殺して、内部の様子をうかがった。  水の流れる音以外、しんとして何の気配もしない。と──、  カーン!  とすぐ近くで乾いた鋭い音がした。 「伏せろ!」  とジョーは押し殺した声で叫んで、すばやく音のした方向へ銃をかまえた。 「何だ、今のは?」とソムサクはふるえ声できいた。「何か発射されたか?」 「いや、何もとんでこない……」と宗像はささやいた。「ジョー……横へまわってつっこんでみる。援護してくれ。むやみに射つな」 「オーケイ──無理するな……」  宗像は、じりじりと植物の横手へ這《は》って行った。──彼が上体をあげ、だっとつっこみかけた時、またもや、カーン! と鋭い音がした。  ジョーとソムサクは、夢中になって植物の上に頭を出し、音のする方へむかって射った。宗像も二発、レーザー銃をぶっぱなすのが見えた。  ばさっ……と木の枝がおちる音がして、宙空に葉が舞うのがちらと見えた。  そのまま、また静寂がやって来た。──さらさらと水の流れる音……。  ひゅっ!──と口笛がきこえた。 「タケオ……」とジョーは植物の間からささやいた。「無事か?」 「大丈夫だ……」と低い声がかえって来た。 「こいよ……」  二人が、そろそろと植物の間からはい出した時、三たび、カーン、と言う音がした。──ジョーはびくっとして、また銃をかまえた。 「危険はなさそうだ……」と宗像が向うに立って手招きした。「来てみろ。──これは何だろう?」  二人が近よってみると、池の傍に妙な仕かけがあった。──崖からおちてくる水を竹樋《たけとい》で流し、一方を斜めにそいだ五〇センチほどの竹筒に流れこむようにしてある。竹筒のもう一方の端は、節が残っていて、中央部よりちょっと偏《かたよ》った所を軸でささえてあり、水が一ぱいになると、竹筒がだんだん流入口の方へかたむいて、ついに水が全部流れ出すと、今度は節のある方が下へおちる。その時、からの竹筒が、下の石にあたって、カーン、と言う音をたてるのだった。  背後の崖の岩に反射して、その音は、森閑としたあたりに、鋭くこだまする。 「これは……」とジョーは混乱した表情で言った。「何だ?──原始的な音《ソ》波|探《ナ》知|機《ー》じゃないか……」 「さあ……」宗像の顔には、もっと混乱した表情がうかんでいた。「これは……たしか、これと同じものを、……どこかで見たような気がするが……」 「どこで?」とジョーは鋭くきいた。「どの星でだ? アルファ・ケンタウリ7番か?──それともバーナード2番か?」 「いや……そうじゃない……。思い出せないが……」  その時、建物のすぐ傍に、腰をかがめて近よっていたソムサクが、鋭い声をあげて、横っとびに伏せた。奇妙な仕かけに見入っていた二人も、ソムサク同様、小さな岩や、立木の影にすっとんで、建物へむけて銃をかまえた。 「どうした?」と宗像はきいた。 「わからん。が、どうも警報装置にひっかかったらしい。きいてみろ」とソムサクはせきこんだ声で言った。  たしかに、あけはなった室内で、チーン……チーン……と何かかすかな音がひびきわたっている。 「タケオ……まわりを見張れ!」とジョーは言った。「ソムサク、警報装置がどれだかわかるか?」 「あの部屋のまん中の、黒い球体だと思うが……」とソムサクは前方で言った。「切ってみようか?」 「やってみろ」ジョーは、部屋の奥にねらいをつけながら、歯を食いしばって言った。  ソムサクはじりじりと這って、三〇センチほど地面から浮いている床にとりついた。──さほど広くない、粗末な室のほぼ中央の床下から、赤い光がもれている。その上に、黒い、金属製らしいいびつな球体がのっていて、その球体が、チーン、チーン、と音をたてているのだった。  ソムサクは大胆にその球体の傍まで這って行き、装置を眺めた。装置のまわりから、かすかに蒸気がたちのぼっている。──ソムサクはしげしげとそれを眺め、慎重に手をのばした。 「あつッ!」  突然ソムサクは、手袋をはめた手をおさえてころがった。装置の上から、赤っぽい金属円盤が、反対側にころがった。 「大丈夫か?」ジョーはどなった。 「大丈夫だ……」ソムサクは、ポケットからすばやく治療用スプレーをとり出して右手に吹きつけた。「何かの反応装置《リアクター》みたいだ……」 「放射線をはかれ……」そう言って、ジョーは背後をふりかえった。「おい、タケオ!──どうしたんだ? まわりの警戒を……」  宗像は、持ち場をはなれ、木の傍につったって、ぽかんと口をあけ、その建物を見ていた。 「ジョー……ソムサク……」と宗像はぼんやりした声で言った。「ちょっとここへ来て、この建物を見てみろ……。こう言うものを前に見た事はないか?」  ジョーもソムサクも、宗像の放心ぶりにひきこまれたように、一瞬警戒を忘れて、宗像の傍まで来て、一緒にしげしげとその建物を見た。──風化し、苔のはえた藁《わら》屋根、磨きこまれて黒光りする柱と縁、赤っぽく荒い塗り壁、竹格子のはまった丸窓、明らかに植物繊維を編んだと思われる長方形のマットレスが、室内に巴《ともえ》型にしきつめられ、奥の壁には、何やら文字らしいものを書いた紙がさがり、荒皮つきの柱には、竹筒がさがって、中から草花がのぞき……、 「そうだ……この建物は……」とジョーがかすれた声でつぶやいた。 「思い出した!──この建物の様式は……」とソムサクも叫んだ。 「ティー・ハウスだ!」 「チャシツだ!」 「そう、茶室だ!」  と三人は異口同音に叫んだ。 「おれは、これと同じようなのを、火星とエリシウム市のジャパン・コロニーで見た」とソムサクはつぶやいた。 「月の長岡記念クレーターには、もっとりっぱなのがある……」とジョー。 「とすると、あの妙な仕かけは、鹿《しし》おどしか……」と宗像はつぶやいた。  だけど、|なぜ《ヽヽ》……と三人異口同音に言いかけた時、部屋の奥の戸がからりと開いて、一人の老人が、すたすたと室内にはいって来た。     4 「おや、いらっしゃい……」  と、茶色の和服に、焦茶の袖無しを羽織った、白髪の老人は、庭先の三人を見て声をかけた。──古い、日本語だった。  それから、畳の上にころんでいる茶釜の蓋を見ると、また猿が悪さをしたな、とつぶやきながら、ひろってもとにもどした。 「すっかり、青葉の候になりましたな……」と老人は、炉端《ろばた》にすわりながら、山腹を見上げてつぶやいた。「まあ、おあがり……。山歩きをなさったか、だいぶあちこち汚れてじゃ。のどがお乾きだろう。──茶を一服進ぜよう。新茶のいいのがはいったでな……」  三人は、庭前に棒をのんだようにつったっていた。──ショックのあまり、全身がしびれたように動けなかった。それでも三人は、冷汗をかきながら、頭の中で、お題目のように同じ言葉をくりかえしていた。  ここは地球ではない……太陽系から十一・九光年はなれた、鯨座タウ星の、四番惑星だ……おれたちはその惑星の第一次《ヽヽヽ》探検調査隊のメンバーだ。 「何をしてなさる。そのままでいいよ、おあがりおあがり……」  老人は、ショックの余り動かないでいる三人を、遠慮していると思ったのか、しきりに勧めた。 「ただし、靴はぬいでな……」  三人は、催眠術にかけられたように、おずおずと茶室に上って、窮屈な宇宙服のまま、膝を折って正座した。 「何をやっとられるのか、大分変った恰好をしてなさるな……」老人は茶道具をひきよせながら、三人をちらと見た。「どちらからおいでになった?」 「あ、あの……|あちら《ヽヽヽ》から……」と宗像はやっと答えた。──地球《ヽヽ》から、と言いかけたが、なぜか、その言葉が不自然に思えて、口に出せなかった。「あの山の……むこうです」 「ああ、そうか……」と老人はうなずいた。 「あの──」宗像は、あとの二人から目配《めくば》せされて、せいいっぱい古い日本語を思い出しながらたずねた。「あなたは……どうして、こんな所に……どうしてタウ・ケティ7番星なんかに」 「タウ・ケティ7番?──何じゃな、それは、……。ああ、どうしてこんな山奥に、と言うのか?」老人は、茶道具をならべながら、歯のぬけた口をあけて笑った。「実は、わしは、古稀《こき》すぎてから、ちょいちょい悩乱が起ってな。──街中にいると、伜《せがれ》夫婦や孫たちに迷惑をかける事もあるで、こうやって山奥に、気まま隠居の侘《わ》び住居《ずまい》じゃ。なに、山奥ちゅうても、もう開けてしもうて下の街はほんの近い。あんたらは、むこう側から越えて来なさったから、そう思わんかも知れんが……」  蓋物をのぞいて、老人は、ほいしまった、菓子を切らした、と言って手を鳴らした。──が、返事がないので、ちょっとお待ち、と言って、身軽く立って出て行った。  ほんの入れちがいに、奥の方にひたひたとやさしい足音がして、藤色の和服を着た色白の娘が、何か、と言って、襖《ふすま》をあけたが、老人の姿がなく、異様な恰好の三人がいるのを見て、はっ、と驚いたように眼を見張り、失礼いたしました、と言って叮嚀《ていねい》に頭を下げて襖をたてた。  宗像とソムサクは、それら一連の出来事を、まるで夢でも見ているように、ぼんやり眺めていた。──とりわけ、たった二度とは言え、故郷日本の、特別文化保護区を訪れた事のある宗像には、まさに白日夢を見ている感じだった。……ここは、タウ・ケティ四番惑星だ……。太陽系から十一・九光年はなれ、ワープ航法を使ってさえ、到着するのに二年かかった。地球の宇宙開発探索計画の最前線だ、彼らの第一次探検隊以前に、この星を訪れた地球人は無い……。にもかかわらず──あの老人は、古いタイプの日本人《ヽヽヽ》だ。そして、ここは、日本古来の茶道《ヽヽ》にのっとった茶室《ヽヽ》で、さっき三つ指ついた娘は……、 「大体わかって来たぞ……」ジョーが油断なく戸口の方を見すえながら早口でささやいた。「ほかの恒星系で、これに似たような事が無かったわけじゃない……」 「バーナード二番惑星の�蜃気楼《しんきろう》生物�の事か?」と宗像は、ぼんやりした声でききかえした。「あれは、砂漠に大洋や、森林や、都市の蜃気楼をつくり出すが、傍まで行けば……」 「そうじゃない。おれの言っているのは、アルファ・ケンタウリ6番の、催眠生物《ヽヽヽヽ》だ……」ジョーはかみつきそうな口調で言った。「お前、どうして|α《アルファ》・C7の方には植民都市ができたのに、6番の方は、禁止区域にはいってるか知らないのか?──もっと恒星系調査記録をよく読めよ。あの星のタマヌキドクチョウやユメミヒトクイグモは、人間にかぎらず、いろんな知的生物の潜在的欲望を読みとって、まるで魂をぬきとるようにして断崖へさそいこんだり、すごい美女や豪華な食事のある宮殿のイメージを見せ、巣にさそいこんで、食ってしまう……」 「だけど……この茶室は、そんなにおれたちを誘惑するほどのものじゃないぜ……」とソムサクはつぶやいた。「あやうくレーザーで焼いちまう所だった。あのじいさんだって、別に……」 「そう思わせるのが、おそらく奴等の手だ。──こっちを油断させ、混乱させて……何かをしようとしてるんだ」 「おれの潜在的記憶って、こんなに細かい所まで憶えてるのかな……」宗像は首をふった。「あの床の間の字なんか、おれは見た事もない。その茶道具だって、今はじめてみる……」 「油断するな……。この茶室も、庭も、草木も、あのじいさんも、やつらが──この未知の惑星に住んでいるおそろしく高等な超能力を持った生物が、おれたちに見せている�幻�なんだ。──やつらの本体がどこにあるか、まだわからんが……」 「もう少しさぐってみよう……」と、宗像は、しゅんしゅんとたぎり出した釜を見ながらつぶやいた。 「それもそうだな」とジョーは唇をかんだ。──「よし! おれは一人でここをぬけ出して、何とか本隊と連絡をつける。この先まで行ったら、緊急信号ミサイルを山向うへ発射してみる。君たちは、もうしばらくここへ残ってくれ。みんな逃げ出したら、やつらに警戒されるかも知れん。おれ一人なら、忘れものをとりに行ったとか何とか、ごまかせるだろう。本部通信はだめだが、相互通話はできるみたいだから、スイッチは入れとけ……」 「おれたちが食われちまったら、あとでちゃんと慰霊祭をやってくれよな」と宗像はぼんやりした口調で言った。「でないと、今度はおれたちがお化けになって、お前をたぶらかし、とり殺すかも知れんぞ……」  その時、庭先の方に、ちらと人影がさした。──ハッとしてふりむくと、庇《ひさし》のついた紺の丸い帽子をかぶり、紺の上下を着て皮ベルトをし、ちょび髭《ひげ》をはやした中年の男が、垣根の向うからのぞいていた。 「おや、お客さんか……」三人と視線があうとその人物は、ばつの悪そうな笑いを浮べた。「御隠居さん、表かな」  そう言って、男の影が消えると、ジョーは脱兎《だつと》の如く茶室をとび出して、垣のむこうの草むらに姿を消した。  ほとんど入れちがいに、老人が、菓子鉢を持って、茶室へもどって来た。 「お待たせした。おや、もう一人のお方は?」  宗像がもごもご弁解すると、老人は気にもとめないように、 「それでは、とりあえず、お二人にたててさしあげよう」  と言って、紙に、何か白い、丸いものを一つずつとりわけてくれた。──何やら、木をけずった小さな串《くし》のようなものもそえてある。 「まず、お菓子から食べなさい。──行儀も作法も気にせんでいいよ。どうせ侘茶《わびちや》じゃ。脚が窮屈なら、あぐらでもかまわん……」  おれが先にやってみるから……と、宗像はソムサクに眼まぜした。──もし、おれに何か変化が起ったら、あとは……。  老人が、黒楽《くろらく》の茶碗に、しゃっしゃっと茶筅《ちやせん》の音をたてているのを横眼で見ながら、宗像はその丸いものを半分だけ割って、串につきさし、口に入れた。──中に黒っぽいものがはいっている。上品な甘味が口中にひろがったが、体には、別に変化はない。ソムサクはと見ると、食べるふりをしてそっとその丸いものを採収容器にしまいこむ。  さ、どうぞ──と、眼前に進められた、眼も鮮やかな若葉色の、泡立つ液体を見て、さすがに宗像は、腋の下に冷汗が流れるのを感じた。  それ、飲むのか?  とソムサクの眼が心配そうに問いかけていた。──彼はいつの間にか、掌の中に、緊急用のガス圧注射器をにぎりしめている。  あとをたのむぞ……と、悲愴な眼つきでソムサクを見て、宗像は、黒い茶碗をとりあげた。  一口ふくむと、何とも言えないさわやかな芳香が口腔から鼻へぬけた。──全身が若葉の色に染まるような気分だった。かすかな苦味、うま味、ほんのわずかな甘味さえ、その鮮烈な液体の中にたゆたっている。 「ほう!」と思わず眼を見張って宗像は言った。「うまい!」 「新茶の挽立《ひきた》てじゃからな」と老人はほほえんだ。「さ、あんたも……」  ソムサクも、前にすすめられた赤楽《あからく》をおずおずととり上げ、一口ふくんで眼をまるくした。  その時、表の方が何となくざわつき、戸口の襖が細目にあいた。 「なんだな?」老人は眉をひそめて戸口へにじりよった。「今、客人に茶をたててさしあげているのに……。なに?」  ちょっと失礼と言って、老人の姿が、戸口のむこうへ消えると同時に、二人の耳もとでジョーの声が破《わ》れ鐘《がね》のようにひびいた。 「急いでずらかれ!──逃げるんだ! やっぱり罠《わな》だ。今、下の方から、乗物や、大勢の連中が続々とやってくるぞ!」  二人は、脱兎の如く茶室からとび出した。 「草むらにかくれてつっ走れ!」ジョーの声はなおも通信機からひびいた。「本隊と連絡がついたぞ!──今すぐ緊急救援機が……」     5 「御無事で何よりでした……」と、警官隊の隊長は、きびきびとした調子で言った。「お嬢さまが、テレビのニュースを見ておられてよかった。──昨夜、山向うの精神病院で、加療中の患者三人が、逃げ出したときいて、山の反対側の方ばかり警戒していたんですが、まさか、山を越えて来ようとは……」 「お嬢さんに、妙な恰好の男が三人、いつの間にか茶室にはいりこんでいると通報をうけて、すぐのぞいてみたんですが……」と駐在は汗をふきながら言った。「あの恰好に、白人一人、東洋人二人で、すぐそれと気がつきまして──いや、逃げられたのはまずかったが、危害を加えられなかったのはよかった……。山狩りをはじめてますから、どうせすぐつかまるでしょう」 「そんな患者とは思えんかったがな……」と老人はつぶやいた。「どうしてあんな妙な恰好をしとったんじゃろう? 宇宙服のような……」 「実は、その三人の患者は、勇敢な宇宙調査隊の連中でしてね」と隊長は言った。「アルファ・ケンタウリ6番星に第一次調査に行ったのですが、その星に住む、強烈な催眠能力を持つ生物に、精神や神経をさんざんいためつけられ、ひどい妄想狂になっておくりかえされて来たんですが……あの病院でかなりな所まで恢復し、目下、遊戯療法《プレイング・セラピー》を実施中だったんです。宇宙服をつけ、環境室へ入れてもう一度他の恒星系に調査へ出かけて行っているような状況をつくり、それからだんだん、正常さをとりもどすように誘導して行くんだそうですが──人間も、何光年もこえて、未知の生物の住む遠い恒星系へ出かけて行くようになると、よほどタフな神経をもっていないとね……」 「アルファ・ケンタウリ?」老人は首をひねった。「それはおかしい。たしか連中は、タウ・ケティの7番とか言っとったが……」 「それがおかしい証拠ですよ」と隊長は笑った。「恒星探査は、今ようやくアルファ・ケンタウリがすんで、いよいよバーナード星系にかかる所です。タウ・ケティまではアルファ・ケンタウリの倍以上の距離がある。調査隊が行くのはまだ十年以上先になるでしょう」 「隊長……」と警官の一人がよびに来た。 「本署から連絡がはいってますが」 「どこに、そのマダケやタギョウマツの群落があるんだ?」主任は仏頂面してジョーたちに言った。「どこに地球種そっくりのイネ科雑草や植物群落があるんだ?──どこに日本風の茶室があって鹿《しし》おどしがあって、老人が茶をたててくれるんだ? お前たち、夢見たんじゃあるまいな……」 「高等知的生物存在の兆候、依然として無し……」と探索機からの報告が、司令車のスピーカーからきこえた。 「精神波動の痕跡、周囲四〇キロにわたってありません」探知班員がふりかえって言う。  緊急救援機によってはこばれた司令車は、ついさっき、──一時間ほど前、三人がいた、例の「谷間」にいた。だが、一時間前、たしかにそこにあった、地球型植物群落も、茶室も人々もあと形もなく消え失せ、山向うの斜面と同じ、この惑星特有の、トンズラソウという妙な名の、ちょこまか走りまわる灌木や、ノタリマツという、尺取り虫のように這うマツに似た植物がのそのそ動きまわっているだけだった。 「司令、二人の胃の内容物の分析が出ました」とコンピューターの前から生物班が言った。「緑色の液体は、地球産の Tea sinensis bohea、つまりシナ種の茶の若葉の微粉末ですね。まちがいありません。成分はカフェイン、タンニンが主で、あと脂質、糖質、タンパクシツ、それにビタミンのABC、ニコチン酸──白い澱粉質も毒性皆無、はっきりしませんが、地球種ジネンジョのものがまじっているようです。あとは蔗糖、アズキ澱粉……」 「それに、私の採取して来た植物はどうです?」とソムサクは言った。「もしあれが、すべて、地球種《ヽヽヽ》でなかったら、降等してもらってもいいです」 「じゃ、すべて地球種|だったら《ヽヽヽヽ》……一体どう言う事になるんだ?」と司令は困ったように鼻の頭をかいた。 「ひょっとしたら……」宗像は、遠い所を見るような眼付きをした。「|ほんとうに《ヽヽヽヽヽ》……」 「おかしい! こんな馬鹿な……」警察車のテレビ電話からかえってきた警官隊の隊長は、顔をまっ赤にしてつぶやいた。「つい、二、三十分前に逃げたばかりなのに、脱走患者は、十分前、五十キロもはなれた山向うの街で三人ともつかまったと言う。それに電送されて来た写真は、目撃されたものとちがうと言うし……」 「やっぱり……本当に、十年未来のタウ・ケティ7番の調査隊の人たちじゃなかったんでしょうか?」と、娘は思いつめたように言った。「おじいさまは、あの……お脳を悪くなされてから、時々不思議な事をなさいます。テレオネシスと言うんですか、テレポーテーションと言うんでしょうか……みんなが一緒に住んでいる家ごと、突然アフリカへ持って行っておしまいになったり、庭先へ氷山を持ってこられたり……」 「いや、あれはわしの力だけではない。この場所──この茶室のある場所のせいではないかと思うな」老人は笑いながら、また炉の傍へすわった。「ここは妙な場所でな、──ひょっとすると、宇宙の時空間の流れの交叉点《ヽヽヽ》のようなものかも知れんと思う。時々妙な──よその星のものらしい光景が見える。ふつうは、この庭先を、その光景が通りすぎるだけなのじゃが──ま、こちらの世界に青信号が出ている時は、こちらの時空の流れが見えるだけじゃが、こちらの世界の時空の流れが、赤になると、|別の時空《ヽヽヽヽ》の流れが横切って行くのが見える、と言うわけでな。でも、時おり、右折、左折禁止に気づかずに、こちらの時空の大通りへ曲ってくるやつがおる……」 「それが──ああ言った連中なんですか?」隊長はうたがわしそうな顔をした。「でも、もっと凶暴な異星の連中がはいりこんで来たら……」 「ま、大抵、おちついてお茶を一服たててやると、その間に自分が場ちがいな所にはいりこんだ事に気がついて、退散するもんじゃよ。たとえ異星人でもな……」老人は大口をあいてからからと笑った。「さて、お茶がたった。──あんたも一服やって、退散せんかな?」 [#改ページ]   反 魂 鏡     (1)  で──宮子のやつは、ぼくの二、三歩うしろを歩いていた。  宮子はふくれていたのだ。──この年ごろの女ときたら、すぐふくれる。  原因ときたら、まったくくだらない事だ。  ゆうべ、宮子は二本立ての外国映画を見た。ぼくとじゃなくて、高校時代からのレズっぽい女友だちとだ。だけど、その事で、ぼくがおこったわけじゃない。ぼくはもう、その二本立てを見ていたから。  ぼくがムカッと来たのは、宮子がその二本立てのうちの、ハードボイルドタッチどたばたSF映画をやたら興奮してほめ、もう一本の女純愛根性芸道ものを、スローモーでやたらムーディで「大甘のべちょべちょ」といってめちゃくちゃにくさしたからだ。──おまけにお涙頂戴ホームドラマまではいっていて、「オエー!」なんだそうだ。  ぼくの意見はまるきり反対だった。そのSF映画は、ギャグに二つ三つ、見るべきものがあったが、あとは構成もストーリィもめちゃくちゃの穴だらけで、何よりも役者の演技がなってなかった(だのに宮子ときたら、ぼくが一番ゲエとなったヒーローの芝居が、最高だという)。特撮もちゃちで、でたらめで、あんなもの、SF映画全体の評価をおとしめるものだ。──もう一つの女性映画の方は、多少の甘さはあるものの、全体としてぼくには感動的だった。何よりも、流れるように美しいカメラワークのつくり出すフォトジェニックな画面が最高だった。ヒロインのこまかい心理のひだも、おさえた演技によって見事に表現されている──ように思った。もっともそれは、ぼくが日ごろ女性向け純愛映画などといったものを、あまり見ていないから新鮮に見えたのかもしれない。その映画だって、SFものと併映でなければ、見ようという気なんか起らなかったろう。考えてみれば、宮子だってそうかも知れない。宮子はこのごろ急にSFに「目ざめ」た。目ざめたての奴によくある事で、やたら何でも感激するきらいがある。  もっとも、宮子との意見のくいちがいで、すぐ喧嘩になったわけじゃなかった。宮子が一方的にいいの悪いのとまくしたてるのを、ぼくは仏頂面《ぶつちようづら》できいていただけだ。男は何しろ、我慢の動物だ。しかし、こちらがあんまり不機嫌な顔をしているので、さすがに宮子も途中でさとったらしい。急に話題をかえると、今度は最近の新人歌手の話をし出した。──今度はこっちが、その新人歌手の事をくだらなくて、にせもので、才能も将来性もまるっきりない、と、言下にこきおろして宮子のおしゃべりの出鼻をくじいてやった。本当はそれほどひどい歌手でもなく、少し酷ないい方をしすぎたかと思ったが、こっちはその前の映画の事もあって、少し感情的になっていた。  宮子はたちまちぷっとふくれた。──それまでぼくと肩をならべてはずんだ声でしゃべっていたのが、にわかに会話に興味を失ったような顔をして、空を見上げたり、道行く人々をわざとらしく見まわしたり、ショーウインドウをのぞきこんだりしはじめた。  で──宮子は、ぼくの二、三歩うしろを歩いていた。  二、三歩のへだたりが、五、六歩になった気配を感じて、ぼくはたちどまった。肩ごしにふりかえると、宮子のやつは、一軒のブティックのショーウインドウに鼻をくっつけるようにして、中をのぞきこんでいた。 「何してんだ」と、ぼくは口をとがらせていった。「早くこいよ」 「ね、見て見て!」と宮子は笑いをこらえた表情で手まねきした。「ここに、|フレッシュ《ヽヽヽヽヽ》・ゴードンの絵のついたTシャツがあるわよ。──|ファック《ヽヽヽヽ》・ロジャースのついたのもあるわ」  ヘッ! と、ぼくは肩をすくめた。──原宿表参道も、ずいぶん変ったもんだ。フレッシュ・ゴードンやファック・ロジャースは、それぞれ|フラッシュ《ヽヽヽヽヽ》・ゴードンや|バック《ヽヽヽ》・ロジャースといった、ずっと昔の子供向け冒険SFのヒーローの、めちゃくちゃポルノ調パロディだ。そんなしろものが、お上品な表参道のショーウインドウにならんでいるとは、変な世の中になったもんだ。 「わかったよ……」ぼくは鼻の頭にしわを寄せながらいった。「見るのは勝手だけど、そんなシャツ着たら、いっしょに歩いてやんないぞ」  宮子は、ウインドウから顔をはなして、いい、というように顎《あご》をつき出して見せた。──それから、まだクスクス笑いをつづけながら、スキップするように、ぼくの方へ二、三歩近づいた。  |そして《ヽヽヽ》、|消えた《ヽヽヽ》。  ぼくとの距離は、ほんの二メートルほどの所だった。  一瞬ぼくは、ポカンとして、|たった今《ヽヽヽヽ》、宮子のいた「空間」をみつめた。──宮子のすぐ後を歩いていた、二人の人物、中年すぎのサラリーマンらしい男性と、三十前後の主婦らしい女性が、そろって、 「あれ?」  と声をあげてたちどまった。  ぼくの背後から、大股《おおまた》で歩いてきた若い外人も、ぼくを追いこして二、三歩行ってから、ぎょっとしたようにふりかえって、宮子の消えたあたりを、じろじろとながめ、首をひねって、口の中で何かぶつぶついいながら、また足早に立ち去って行った。  そのほか、まわりの数人の人たちがふりかえった。──秋晴れの原宿表参道の午後二時、傍をタクシーやスポーツカーやトラックがせわしなく行き交い、おおぜいの人たちが、もうみんなすっかり秋の粧《よそお》いで、三三五五、しゃれた店や、高級マンションのたちならぶ、明るくさわやかな街路を歩いていた。  そんな通りで、通行人が何人も見ている前で、宮子は突然かき消すように消えてしまったのだ。──白麻のパンツ・ルックに、UCLAのマークのはいった色のさめた藤色のTシャツにノーブラ、肩から模擬スウェードのバッグをぶらさげ、スニーカーをはいて、おでこにサングラスをあげた恰好《かつこう》で……。 「宮子!」  と、ぼくは叫んだ──つもりだったが、のどがカラカラになって、かすれた声しか出なかった。 「ねえ、あの……」  口を|O《オー》の形に開いて、棒のようにつったっていた婦人が、眼を何度もしばたたきながら、こわごわといった調子で声をかけてきた。 「どうなさったの?──今、ここにいた、あなたのお連れのお嬢さん……」 「知りません!──わかりません!」ぼくははげしく首をふって、まわりをきょろきょろ見まわした。「消えちまったんです……」 「消えた……」と、中年すぎのサラリーマンは、ゆっくりと、しわがれた声で言った。「……信じられん……」 「どこかに──いたずらでかくれたんじゃ……」  と、婦人はつぶやきながら、おずおずとまわりを見まわした。  だが、かくれる所なんかなかった。左手はスナックの大きなグレイ・ペーンのガラス窓がつづき、右手は自動車が走りまわる道路だ。舗道は別に工事なんかしてなくて、きっちりコンクリートの舗石がはまり、マンホールもない。  第一、かくれようにも、ぼくと通行人二人がむきあった、四、五メートルもないような空間だ。秋の陽《ひ》はさんさんとあたっているし、立木さえ傍にない。  だのに、宮子は|消えた《ヽヽヽ》……、  その消え方は、かき消すようにというより、忍術映画などで出てくる一番古いトリック──フィルムをとめておいて、人物をカメラの視野からたちのかせ、またつづけてまわす、といった、あのトリックのように、パッ、と一瞬にして消えてしまったのだ。 「ふしぎねえ……」と、中年の婦人は青い顔をして、おそろしそうに肩をすぼめた。「気持ち悪いわ。──これが神かくしっていうのかしら……」 「信じられん……」と中年サラリーマンは、もう一度つぶやいた。「白昼……見てる前で、人間が消えるなんて……」 「あなた──警察に知らせた方がいいんじゃない?」と婦人はいった。 「でも……あの……」と、ぼくは舌をもつらせながらいった。「警察って──どう話したら……」  突然、中年サラリーマンは、顔をうつむけて、足早に歩き出した。 「待ってください!」と、ぼくはあわてて追いすがった。「ね、あなたも見たでしょ。彼女、たしかに消えましたね、突然……」 「悪いけど、ちょっと急いでるんで……」と中年男はいった。「ま、突然消えたんなら、また突然あらわれるかも知れないじゃないか。──それより、まずあの女性の、親御さんに知らせたら?」  親御さん、ときいて、ぼくの膝から急に力がぬけた。──宮子は、三カ月前、ぼくの故郷から家出してきたんだ。ぼくをたよってではないが、一つの|あて《ヽヽ》にしていた事はたしかだ。それに、ぼくのアパートの隣りの部屋を、ぼくが紹介してやり、恋人とはいえないまでも、肉体関係はあった。おまけに、ぼくの所へも、彼女の両親から彼女の居所についてたずねてきて、ぼくは知らない、と返事してしまった。  顔から血がひいて行くのがわかった。──眼の前がうす暗くなって、吐き気がした。中年サラリーマンは、十メートルほど先で手をあげてタクシーにのりこみ、はっとして、もう一人の中年女性の方をふりむくと、彼女の姿も消えていた。  もっとも、宮子のように突然消えたのではなくて、ずっとむこうの交叉点を、かかわりあいになるのはまっぴら、といったせかせかした足どりでわたっていた。──     (一)  うるせえな……  と、つぶやいて、又兵衛は枕がわりの一升徳利から頭をあげた。  江戸|下谷《したや》山崎町の通称|がんぎ《ヽヽヽ》長屋。  冷たい小糠《こぬか》雨がじとじと降って、ただでさえ気の滅入るような、秋の夜更け、さっきから長屋新入りの隣りの坊主が、陰気にかん、かん、と鉦《かね》を鳴らして経文らしいものをもんもんとあげているのを、またはじめやがったと舌打ちしながら、それでも頭の鉢のしめつけられるような安酒の酔いに、煎餅蒲団《せんべいぶとん》の上で、着物もぬがずにうとうとしかけた矢先、今度は誰かがはいって、何やら声高に言い争う様子──あの辺《あた》りかまわねえ胴間声は、棒手《ぼて》ふりの久六か、たたき大工の八五郎だろう、子供がおびえて、手水《ちようず》に立たずに寝床でやらかす、といって、長屋全体が迷惑しているあの鉦とお経に、文句をいいにどなりこんだんだろうが、それにしても、やがて九つ(午前零時)になろうというのに、こんな夜更けに口論沙汰はおだやかじゃねえ……。  言いあいにくわえて、何か物がぶつかりあう音がしたので、又兵衛顔をしかめながら起き上った。──ぼうぼう月代《さかやき》をぼりぼり掻《か》いて、もとより商売道具の窮屈袋なんざつける気はないが、それでもたしなみで、はげちょろけ鞘《ざや》の脇差だけはひっつかみ、土間の冷飯《ひやめし》草履をつっかける。  三田《さんだ》又兵衛──尾州浪人というが、実は親父の代に微禄して江戸へ流れて来て、根岸の里の侘住居《わびずまい》に、近所の洟《はな》たれや、閑を持てあましている富商の御寮人や権妻《ごんさい》に大師流などほそぼそと教えていたが、同じ根岸の隠棲でも、同じころの抱一上人とはえらいちがいで、人蔘《にんじん》を買うあてもないうちに、年上の妻がぽっくり死ぬと、深酒に溺れはじめ、三年あとに酒毒で後架《こうか》で息をひきとった。一子又兵衛、涎《よだれ》くりほどの馬鹿ではないが、小太郎ほどのしおらしさは露ほどなく、うつって早々の十二の年に、深川《たつみ》あがりの仇っぽい女《の》の通い習いについてくる一つ年上の小女の硯池《うみ》で筆をおろしてから、晩生《おくて》の世之介ほどの才を発揮しはじめた。何しろまわりは呉竹《くれたけ》の垣の囲われ者が軒をならベ、ちょいと足をのばせば吉原で、街道へんに悪い友だちがたくさんでき、手習師匠の子というので、学問を少しやらされたが熊公八公の文《ふみ》の代筆に故事をいれるくらいで、ものにならず、生活《たつき》の道をというので、本草《ほんぞう》をかじりかけたが、おぼえたのは中条《ちゆうじよう》流の処方ばかり、武士のたしなみで剣術《やつとう》もやったが、目当ては廓《さと》の喧嘩《でいり》にちょいと強面《こわもて》しようというばかりで──もっとも、ついた師匠がたまたま田宮流だったので、身を持ちくずしてどぶ川みたいな所までおちてから、芸が身をたすける不幸せで、香《や》具|師《し》に渡りがついて、蟇《がま》の油や歯磨き売りの客寄せには役にたった。頬はそげてるが、長身でちょいと苦み走っているから、若いころは、尾張に縁があるとて、名古屋|三田《さんだ》とお茶っぴいどもにおだてられもしたが、今は金がはいれば、その場で酒と女と博奕《ばくち》につぎこみ、あるだけならいいが、持ち金こして強引に飲み打ち買って、店賃《たなちん》、酒屋、米味噌醤油、待て待てといってやたらにひきのばすから、ありゃア|さんざ待たす兵衛《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》だといって界隈《かいわい》の鼻つまみになっている。  その又兵衛、生酔いの所を隣りの騒ぎに起されて、生酔いゆえに長屋のために静かにさせてやろうと妙な侠気《おとこぎ》を買って出て、冷たい雨のそぼふる暗い路地へ出て、襟首《えりくび》にかかるしずくに首をすくめてくしゃみしながら、隣りの一枚戸をがらりとあけ、 「おう、静かにしねえか!」と、ちょっと|どす《ヽヽ》をきかせた。「野中《のなか》の一軒屋じゃあるめえし、何刻《なんどき》だと思ってやがるんでえ!──気のきいたお化けなら、そろそろひっこむ時分だぞ!」 「あ、先生……」  と、破れた行灯《あんどん》のうす暗い明りの中でも、この一言で客が知れた。──長屋ひろしと言えども、又兵衛をそうよぶのは大工の八だけだ。 「まあ聞いとくんねえ。この坊主と来たら、けちくせえ事ばかり言いやがって……」 「いや、八五郎どの、なんぼ言われても、それは無体と申すものじゃ……」  と、またはじまり出すのを、うるせえな、もう、と顎をゆがめかけて又兵衛、ふと、九尺二間《くしやくにけん》の陋屋《ろうおく》の中にただよう、得も言われぬ香りに、思わず首をのばして、鼻をひこつかせた。  はて、この香りは……伽羅《きやら》でもねえ、白檀《びやくだん》でもねえ、|練 香《あわせたきもの》らしいが──坊主の所で焚《た》くにしちゃ、|おつ《ヽヽ》に艶冶《えんや》な香りだ。こんな香りは吉原《なか》の大楼《おおみせ》でもかいだ事がねえ、何だかぞくぞくしてくるような……。 「おう、八……」と香に気をとられて、半ば上の空ながら、言うべき文句は言ってしまえ、と又兵衛は顎をしゃくった。「雨夜の長お経じゃねえけどよ、夜更けの鉦たたきをたしなめるのはいいが、夜中高声を発しての喧嘩口論はおだやかじゃねえ。おまけにおめえ、また手を出したんじゃねえか? 道具だか皿小鉢だかがこわれる音がしたぞ。ほどほどにしとかねえと──まちげえにしたって、坊主を殺すと七代たたるってえぜ……」 「だけどね、先生──まあ聞いておくんなさい。この坊主と来たら、あっしと女房の仲を裂こうとしやがるんで……」 「女房?」と又兵衛は妙な顔をした。「おめえは一人者じゃなかったか?」 「へえ、今は男やもめでやすがね。──実は三年前にお梅って女房と死にわかれたんで……」 「わからねえ事をいうじゃねえか。いくら坊主だって、死んだ女房との仲をどうやって裂くんだ?」 「いえ、それがね──話せば長《なげ》え事になっちまうんだが……」と八五郎、膝前をかきあわせて小鬢《こびん》をちょいと掻いた。「実はこの坊さんはね──おどろいちゃいけませんぜ。今でこそこんな汚ねえ老いぼれ坊主だが……」 「汚ないだけ余計じゃ……」と横合いから坊主が口を出した。「年は誰でもとるわ」 「まあいいから──もとはといえば、因州鳥取の御浪人で島田重三郎さん……ほれ、芝居でもあるでしょうが。仙台侯|伊達《だて》の殿様が惚れて、手活けの花にしようとしたが、言い交わした男がいるってので、とうとうなびかず、永代三《えいたいみ》ツ叉《また》で、高尾丸てえ船ン中で鮟鱇《あんこう》みてえに吊し斬りになった三浦屋の高尾大夫──あの花魁《おいらん》の情人《いろ》だったてえお人のなれの果てで……」 「島田……? 重三だと?」  又兵衛は戸口によりかかったまま、懐手《ふところで》の右腕を襟もとから出して、顎の不精髭《ぶしようひげ》をなぜた。──ついでに襟にさした楊子《ようじ》をぬいて口にくわえる。 「高尾の死後、菩提《ぼだい》をとむらうために出家をいたし、今は土手の道哲と申しまする……」  と坊主は髪ののびた頭をさげた。 「嘘《うそ》つきやがれ」ぷッ、と楊子を吹きとばしながら、又兵衛は低い声でいった。「長屋もんが学のねえ所につけこんで、何をたくらみやがったか知らねえが、いいかげんな事をいわねえもんだ。──投げこみ寺で有名な土手の順与道哲は、因州浪人島田重三郎なんて男じゃねえ。近江彦根藩の江戸詰用人葉月内記光年の一子正作光美てのが本名だ……」 「エ?」と八五郎は眼をまるくした。「だ、だけど先生……」 「おめえは岡場所しか知るめえが、おれは餓鬼の時から吉原の中も外も、古今東西なんでも通じてらあな。──いいかえ、仙台侯に思われた三浦屋の高尾大夫てのは、二代目高尾で、一名�万治《まんじ》高尾�……万治っていやあ、四代様家綱公のころで、今から二百年|近《ちけ》え昔のこった……」 「でもよ、先生……」と八五郎は口をとがらせて、背後の仏壇──らしきものをふりかえった。「さっきこの坊さん、仏壇にお香をくべたら、煙の中からすげえ別ぴんの花魁が、ひゅうどろどろってあらわれてね。�そちゃ女房高尾じゃないか�って、こちらが気どっていうと、その花魁が、また何とも言えねえ|しな《ヽヽ》をつくって、�お前は島田重三さん、とりかわしたる反魂香《はんごんこう》、あだにくべてくださんすな�……ときたね。死んだ女房に会えるってんで、おいらも、お梅とあいてえからちょっとわけてくれろってたのんだのに、この坊主、何のかんのとしみったれた事をいいやがって、わけてくれねえ。で、この野郎、てめえはおいらと女房との間を裂く気かと……」 「反魂香?……」又兵衛は、眉をひそめて、懐手をぬき出した。「たしかに、近松の芝居なんかにゃ出てくる。──いにしえの漢の武帝が、愛人|李《り》夫人を失って悲しんでいた所、方士なにがしがその香を焚いて、亡き夫人の姿をあらわしたという伝説はあるが……ひょっとしてお前さん、幻術《あやかし》をつかうんじゃねえか? おれもちったあ本草をかじったが、昔の真言や修験《しゆげん》のまやかし坊主の焚く護摩や香の中には、時どき阿芙蓉《あふよう》(阿片)だの大麻だのという、とんでもねえ薬がまぜられていたという話をきいた事がある。その煙を吸い香を嗅ぐと、眠気《ねむけ》を催し、心気乱れて、夢現《ゆめうつつ》に、ある時は地獄の悪鬼|羅刹《らせつ》を見、ある時は五色《ごしき》の極楽浄土にあでやかな観音の御姿を拝するそうだ。おめえさんの持っている反魂香とやらも……」 「いや──そんな胡乱《うろん》なものではおざらぬ……」坊主は、よれよれの鼠色《ねずみいろ》木棉《もめん》の衣をかきあわせ、きちんとすわりなおした。「たしかに土手の道哲どのの名をかたったは、生身は私めとの恋の煩悩にやかれながら最後には仏の道をたよって道哲どのに帰依《きえ》した高尾の事を思い、道哲どのへの岡焼きから……それに、ちと八五郎どのへのいたずら心もござったが──この身は、因州浪人島田重三郎にまちがいござらぬ……」 「へえ、するてえと──」又兵衛は皮肉な眼をむけた。「おまはん、おいくつにおなりだえ。見た所五十をいくつも出てるたあ思えねえが、まことの年は二百五十歳か?」 「いや、それが……」と坊主は鬚ののびたしわ深い顔を苦渋に歪めた。「身どももわけがわからぬ事ながら──高尾が道哲どのに心の帰依をいたすとかたくきめた時、身どもの短刀ととりかわせし仏壇と香、高尾みまかりしのち、何度かこれにて彼の幻を見るうち、一夜、回向《えこう》の最中に大地震《おおない》がふるうて、あまつさえ雷《かみ》が破れ寺の庭先におちました。で、気がついて見れば……人の世も、将軍様の代も……」 「何だって?──するてえと、お前さん、気を失っているうちに万治の世から二百年をとびこして、天保にとびこんだと……」 「いいから、よう、先生──そんな所へいつまでつったっていねえで、中へへえって、戸を閉めておくンない。風が出て来やがって、さぶくっていけねえ」と八五郎はぼやいた。「くだらねえごたくばっか、二人でならべてねえで、とにかくこの坊ンさんに、お香を焚いてもらって、自分の眼で見てごらんなせえよ」  言われれば、雨は相変らずの小糠雨ながら、吹き降りになってきた。──又兵衛、よりかかっていた柱から背を放し、後手《うしろで》で、がたぴしと戸をたてた。戸を閉めても、路地を吹きすぎる風が、ひょうがたがたと建前をゆすり、隙間風でゆらぐ破れ行灯の火が、残り乏しくなった灯明皿《とうみようざら》の中で、じじい……じじい……と陰気な音をたてている。 「不思議な話だの……」と又兵衛、草履をぬいで、ぶくぶくの畳の上に足をのせた。「その話、信ずるか信じねえかは別として、とにかくその反魂香というもののきき目、見てえもんだ。島田さんとやら、その上で、あんたが何かたくらんでるかどうか、判じさせてもらおうじゃねえか」 「はて、拙僧には、たくらみなどというものは……身は僧体にありながら、ただただたち切れぬ愛欲の煩悩ゆえ……」坊主は困ったような顔をしたが、ついに決心したように奥の仏壇の方へ半身にむきなおった。「いたしかたござらぬ。これもあさましさゆえ身から出た銹《さび》、香の残りもわずかで惜しゅうござるが、胡散《うさん》くさく思われるも業腹ゆえ、今一度、焚いてごらんにいれましょう」 「ちょいと待ってくれ……」と又兵衛は制した。「その前に、ちょっとそのお仏壇を拝ましてくんねえ。中々りっぱだが、変ったつくり──何やらいわく因縁がありそうだ」  有明行灯《ありあけ》を近くにひきよせて、よく見ると、たしかに少し変っている。  材は黒柿──と見えたが、さわってみるともっと目がつまっている。紫檀《したん》に近い感じだが、それほど重そうでもない。  年代は経ているらしいが、どこにも傷や、塗りのはげた所の無いのも奇体だ。巾《はば》尺五寸、高さ三尺ぐらい、扉を八文字にひらいた所は、九尺二間のぼろ部屋には、不相応なぐらい堂々としている。  灯明は上っていないが、中をのぞきこむと、あるべき阿弥陀も大日《だいにち》も、持仏の像は絵すらなく、奥の壁に、種子曼陀羅《しゆうじまんだら》とも見えるが、よく見るとそうでもないらしい奇怪な文様を描いた紙がべったりはってあるばかり──本尊のかわりに、奇妙な事に、鉄か青銅《からかね》を鋳出《いだ》したらしい、唐草模様の台の上に、径一尺ばかりの中のわずかにくぼんだ円鏡が、それもどういういわれか、ちょっと前後にかしいでおかれている。 「はて、これがお仏壇かえ? 仏も無けりゃア位牌《いはい》もねえとは妙なもんじゃねえか。──せめて、戒名でも貼っといてやらなきゃ、いくら回向したって先方浮かばれめえ。転誉妙身信女──高尾の生れた野州《やしゆう》塩原の在の妙雲寺に行きゃあ、墓があるぜ」 「さあ、拙僧もそうは思いましたものの、短刀ととりかわしました時、高尾がくれぐれも、この仏壇の中も外も、いじらずにおいて欲しい、と申しましたので……」 「これが香炉──おや、仏壇につくりつけるとは、妙なもんだな……」  又兵衛、仏壇の中、鏡の手前にある円筒形の香炉に手をふれてみた。  冷たい──。  行灯の明りにすかして見たが、底は深く、暗く、埋み火どころか灰も見えない。 「坊さん、こりゃだめだ」と又兵衛はいった。「火が消えちまってる……」 「いや、かまわぬのでござる……」と坊主はおさまりかえってこたえた。「それが、この高尾にもらった仏壇の不思議──火などいれずとも、香さえなげこめば、たちまち煙が上ります」 「おかしな仕掛けになっていやがるな。──ひょっとしたら、お前さん、隠れ切支丹《キリシタン》か何かじゃねえか? 火のねえ所に煙をたてるとは、こりゃてっきり切支丹|伴天連《バテレン》の妖術……」 「めっそうな、そんなものではおざらぬ。──ではくべまするぞ……」  偽《にせ》道哲坊主、仏壇の前ににじりよると、もったいぶって、鉢鉦《はちがね》をひきよせる。 「おっと!──鉦はこっちへいただくぜ」八五郎がすばやく手を出した。「これをたたくのに文何をいいに来たんだからな」 「それをたたかぬと、どうも調子が出ませんがな……」と坊主はぼやいた。 「いいって事よ。鉦がなくたって、香せえほうりこみゃすむ事じゃねえか。──早くくべろい」  坊主はしぶしぶといった態で、懐よりとり出した奉書の包みから、うす黒い粉をつまみ出し、勿体《もつたい》ぶっておし頂きながら、香炉の中へ投げ入れた。  仏壇の端へこぼれたわずかな粉を、又兵衛そっと手をのばして指につけ、鼻へ持って行ってみる。──たしかに、いい香りはする。が、指すりあわせてみると、ざらざらと固い、炭の粉のようなもので、練り香とは思えない。 「わッ! わッ!……せ、先生、出ますぜ!」  と八五郎が、顎をがくがくさせながらわめいた。  香が火の無い香炉の底におちてほんの一呼吸たった時──突然、どろどろの鳴物ならぬ、仏壇自体が鳴動し、香炉から白い煙とも|もや《ヽヽ》ともつかぬものがもくもくと立ちこめた。白煙を通して、仏壇の中にしきりに青白い陰火《いんか》が明滅し、火花がぱちぱちととびかう。正面の凹んだ円鏡が、あやしくうす緑色に光り出し、その光の中に影が動き、形が白煙にうつって、大きくのび上ると見るや、たちまち煙はこりはじめて、そこに朦朧《もうろう》と人影が立ち上った。  胴ぶるいをこらえて眼をこらすと、立兵庫《たてひようご》の髪に目もあやなる金銀ぬいとりの裲襠《うちかけ》姿、青白い顔にほつれ毛の二筋三筋かかった、高尾の姿ありありと……と思いきや、女は女だが、半袖の色あせた藤色の肌襦袢《はだじゆばん》一つ、下は女だてらに白いだぶだぶのぱっちか股引《ももひき》をはき、髪は後にひっつめ、唇は色あせ、肩から茶色の頭陀《ずだ》袋をぶらさげた、何とも妙な風体の娘が一人、仏壇の前につったって、きょときょとまわりを見まわしていた。 「ジロー!」と娘は、上ずった声で叫んだ。 「どこ行っちゃったの?──どうしていきなり暗くなっちゃったの?」  娘は、うす暗い行灯の明りに眼がなれていないらしく、及び腰で又兵衛たちをおずおずと見すかした。 「だ、だれ?……」と女はかすれた声できいた。「そこに誰かいるの?──ここはどこ? あんたたち、いったい誰なの?」 「お、お前さんこそ、いったいどなたじゃ?」と坊主はおろおろ声で叫んだ。「高尾はどうした?」 「お香にごみでもまじったんじゃねえか……」半分腰をうかしながら、八五郎もわめいた。「高尾大夫じゃなくて、奥山の玉乗り女か、佐渡金山あたりの女|人足《にんそく》をよび出しちまいやがった……」     (2) 「あの、ですね……」  その男は、人影のないアパートの廊下に、ひょいとあらわれて、声をかけてきた。 「やだ、もう…」  ぼくは思わず知らず、泣き声になって、あとじさりしながらさけんだ。 「もうたくさんだ……。宮子がふいに消えちまったら、今度はあんたがいきなり現われて……出るはいるを、もうちょっとちゃんとしてよ」 「ええ、そりゃもう、重々わかっておりますがですね……」と、男はハンカチを出してしきりに汗をぬぐった。「この際、ちょっとやむを得ない事情もありましてですね……」  妙な男だった。──背は中ぐらいだが、妙に体にあわないうすいグレーのダブルの背広を着て、黒に水玉模様のでかいボウタイをむすんでいる。まんまるい眼鏡をかけて、色が白くて頭がつるつるで──何だか田村信のマンガに出てきそうな男だった。何かのセールスマンのように、くたびれた小型トランクをぶらさげている。 「ええと、あの、さっき突然、転送──いえ、消えてしまったのは、たしかあなたのお友だちで……」 「警察の……方ですか?」ぼくは、またひざががくがくふるえ出すのを感じた。「宮子は──たしかに、いきなり道の上から消えたんですよ。ぼくがどうかしたわけじゃありませんよ、絶対に……。証人も大勢いるんです。でも、みんな、かかわりあいになるのがいやみたいで、逃げちまって……宮子は家出してるもんですから……でもぼくと同棲してるわけじゃないんです。警察にすぐとどけようと思ったんですが、証人がいなくて信じてもらえるか、と思うと頭が混乱しちまって…」 「いえ、その──私、警察のものではないんです」男はつるつるの、ゆで卵みたいな頭をしきりにハンカチでこすりながら口ごもった。「ただ、その──あなたのガールフレンドが消えた、正確な場所を教えていただけないか、と……」 「あなた、じゃ、宮子が消えた原因について、何か知ってるんですか?」声が思わず大きくなるのをおさえる事ができなかった。「彼女、どこに行っちゃったんです。かえってくるんですか?──そうだ! あなた、たった今、ここへ、何もない空間から、突然あらわれましたね。という事は──あなた人間が突然消えたりあらわれたりする方法について、何か知ってるんでしょう?」 「どうも、その……そうたたみこまれても、説明にこまるんですが……」男はトランクをあけて、中から東京区分図をとり出した。「ま、説明はおっていたすとしまして──した所であなたにおわかりになるかどうかと思いますが──とりあえず、その、あなたのお友だちが消えた、正確な場所を、この地図の上で教えていただけませんか? 早くしないと、だんだん、とりかえしのつかない事になりかねませんので、そういたしますと、私も立場上大変困った事になりまして……」 「あ、ここです──」と、ぼくは渋谷区の地図の上で、宮子の消えた場所をさした。「表参道の、ちょうどこのあたり……」 「はあはあ──」男は、しゃがみこんで膝の上にのせたトランクの蓋《ふた》のかげで、何かマイコンのようなものに、数字をうちこんでいる様子だった。「ええと、時刻はいつごろ……」 「午後二時、ちょっとまわったくらいです。二時五分ぐらいかな」  その時、突然トランクの中で、チーッ、とかすかな音がした。──男はちょっと顔を宙にあげて、何かに聞きいるような眼つきをした。 「はいはい、私です……え? 平安時代《ヽヽヽヽ》? それ、大変です。文禄のころも?──はい、わかりました。それだけ|ふれ《ヽヽ》がわかれば、次の時空点は大体わり出せましょう。ええ、むろん全力をつくします」  男はまたトランクの上に顔を伏せると、前よりせわしなく、指を動かしはじめた。──ピッ、という音がすると、男はトランクの蓋をとじてたち上った。 「ありがとう、です。──これで何とかなりそうです」 「あの、ちょっと……」ぼくは行きかけた男のあとをあわてて追いかけた。「これからどうするんです?──宮子はどうなります?」 「なんとかもどせるかも知れません。うまく行けば、ですね──。ここから一番ちかい、国電の駅、どこですか?」 「大久保か新大久保です。どっちにのるんです。総武線? それとも山手線?」 「ええと、山手線ですね。大塚、巣鴨のあたり、三時二十分ごろ、通過したいです。まだ時間ありますね」 「ありすぎるくらいありますよ」ぼくは男とならんでアパートの階段をおりながらいった。「駅までおくります。だから、説明してください。何か知ってるんだったら……」     (二)+(3) 「じょうだんじゃねえや!」八五郎は、頭から湯気がたつほど逆上していた。「いったいこの始末どうするんでえ。──高尾はどうした? 何だって、こんな|ぶま《ヽヽ》な連中ばかり出てきやがるんだ。おまけに、香が消えても、幽的《ゆうてき》の方はちっとも消えねえ。何がどうなってんだか、ちっともわかりゃしねえ……」 「いや、これはいったい、どうした手ちがいか……」偽道哲の島田重三郎も、おろおろして、仏壇の中をのぞいたり、後へまわったりしている。「これまでこんな事は無かったのじゃが……又兵衛どの、何かいい思案はないものか……」 「そんな事よりさあ。早くもとの所へ帰してよう……」と宮子は、だだっ子みたいな声でいった。「こんなせまっ苦しくて陰気な所、やだわ。あたし、ジローとこれから渋谷のジァンジァン行くとこだったのにさあ──。むこうで、トッコや|なべ《ヽヽ》さんとおちあう約束なのよ」 「うるせえや、ぴいぴいぬかすな……」立ち上って湯呑みをひっくりかえしながら、八五郎はわめいた。「ああ、ちょっと、いま煙《けむ》ン中から出て来たお人、そりゃおれの煙草だ。あまり気安だてに吸わねえでくれ」 「なんじゃと?」  たった今あらわれたばかりの、雲つくばかりの巨漢は、銀うちのでかい煙草《きせる》を吸って、ぷかり煙の輪を吹きながら、八五郎をねめつけた。──もじゃもじゃ眉毛にわっさりとつったった蓬髪《ほうはつ》、眼も鼻も口も、道具がすべて大ぶりで、指にまで|もくぞう《ヽヽヽヽ》蟹《がに》みたいに毛がはえている。灰色木綿の粗衣《そい》からはみ出す腕や脛《すね》も松の根のよう……。 「わりゃ、誰にむこうてそんな口をきいとるかい。──おれアこう見えても、石川五右衛門というて、都上方《みやこかみがた》ではちっとは名の知られた大盗だぞい。伏見の城にしのびこんで、太閤が寝所をねらおうとしたが、城中でとらえられ、明日は一子もろとも三条河原で首うたれるか、磔《はりつけ》にされるか、今生《こんじよう》最後の夜に、金殿玉楼の夢でも見るかとうとうとすれば、いつのまにやらこんな、牢よりむさくるしい所へ連れくさって──さあ、どうするのだ。もとの牢へかえすのか、それともここから出て行くか」 「てえへんだ。きいたか、先生……」八五郎は青くなって、又兵衛の方へのび上った。「この人ア音にきこえた石川五右衛門さんだとよ。──どうすりゃいいんだ。釜ゆでの前の晩にこっちに来ちまったらしいぜ」 「まあ待て……」  さっきから扇で顔をかくし、眉をひそめて顔をそむけている十二|単《ひとえ》におすべらかしの高貴な人らしい女性に、しきりに話しかけていた又兵衛がやっと顔をあげた。 「言葉がわかりにくい上に、お高くとまってお出《い》でなさるんで、きき出すのに大汗かいたが──こちらは何と、小野小町とおっしゃるらしいぜ」 「えっ? 小野小町?──そいつぁいいや。小町といやア別ぴんのきわめつきとかきいた。高尾やお梅はどうでもいいから、わっちゃそちらの方を──といっても、小町は穴なしか……」 「そんな事より、どうしたものかいの」と島田重三郎は、ほとほと弱りきったように、やたらたてこんできたボロ家の中に、ベったりすわりこんで泣き言をいった。「こんな人たちが、いったいなぜ高尾のかわりに出てきてしもうたか、なぜ、もといた所へ消えてくれぬのか──いったい高尾の霊はどうしてしもうたのか……」 「やい、八……」と又兵衛は声をかけた。「おめえさっき、おれがここへくるまでに、坊主ととっくみあいか何かやってたろう。派手な音がしてたぞ。その時、仏壇か何か、蹴とばしやしなかったか?」 「そういやアそんな気もするが……」と八五郎は首をひねった。「じゃ、何かい? 仏壇けっとばした|ばち《ヽヽ》で、高尾大夫がへそを曲げて、自分のかわりに、こんなおかしな連中をおくってよこしたてえ……それにしても妙じゃねえか。ばちが当るんなら、こちとらの足でもまがりそうなもんだ」 「そんな事より、これからいったいどうしたものでござろう……」偽道哲の重三郎はほとほと弱り果てたように肩をおとした。「この人たち、このままこの家に居候させておくわけにもまいらぬし──まして、小野小町や石川五右衛門などというお人は、どうあつかっていいものやら……」 「香はまだあるかい?」懐手に顎をなぜながら、又兵衛はきいた。「あるなら今度は思いきって景気よく、なんならありったけぶちこんでみな。物惜しみして、けちけち焚くから、ききめが狂ったのかも知れねえ。その香が、本当にお前《ま》はんと死んだ高尾をつないでいるんだったら、うんと焚きゃアそれだけ思いもむこうに通じるだろう。高尾の霊が出てくりゃア、話をつけてこの連中も、もと来た所へ連れかえってもらう……」 「し、したが……」と偽道哲は後生大事に懐をおさえた。「この貴重な反魂香もあと残りすくな……香の切れ目が高尾との縁の切れ目……」 「おう、重さんよ……」又兵衛は苦笑をうかべた。「そんな事いって、五右衛門だの小町だの玉乗り娘を、このままにしとくつもりかよ。思いきってやってみるよりしようがねえじゃねえか。──さあ、一つ思いきり景気よく……」 「なによう──玉乗り娘って、あたしの事?」と宮子は口をとがらした。「失礼しちゃうわね。あたし、玉なんか乗らないわよ。スケート・ボードならうまいけど……」 「つまりですね──あんまりくわしく説明するわけには行かないんですが──私は、まあ言ってみれば、セールスマンで……」 「何のです?」  ぼくは山手線の電車の吊皮につかまってゆられながらきいた。電車はよくすいていたが、男は人のあまりいないあたりですっと立っていた。 「投射回収型時空転送機──まあ、早くいえば、タイムマシン、それも時空歪曲ビームの焦点を、ある時代のある場所にあわせて、スイッチをいれると、その時代の人なり物なりが、時空をこして、機械のある時代にとりよせられる、という種類でして──逆にすれば、自分だっておくれるんです。まあ、ちゃんとタイムスイッチがついてまして、一定時間こちらに出現すると、またむこうにおくりかえされる原状態復原装置もついているんです。やたらに過去のものや未来のものをとりよせっ放しにすると、当局がうるさいんでね……」 「という事は……」ぼくは口の中が次第にからからになって行くのを感じながらかすれた声でつぶやいた。「あなたは……タイムマシンの実用化した未来からきた……」 「いえ、あの──その投射回収型ってのは、一般に市販されてますが、適用範囲はせいぜい千年前後までですし、使用は厳重に、タイムマシン実用化時代以降にかぎられてます。ですからまあ、オモチャみたいなもので、過去の歴史時代を観光するのは、時間観光局のきびしい規制下にあります」男は、こちらの声がよくきこえなかったのか、あわててトンチンカンな返事をした。「ところがですね。最近、団体観光客の一人が、日本の江戸時代で、団体の中から姿を消しまして──ええ、わかってるんです。女性です。まあ私たちの時代にも、時おり過激なロマンチストがいましてね。かつて、ゴーギャンみたいに、文明生活から原始の中へ逃れ、そこでくらすといった芸術家がいたように、進歩した未来から逃亡して、過去の世界へ埋没してしまおうとするのも、ちょいちょいいるのであります。ま、そういった法の違反者の追及は、本来時間管理局のパトロールマンの仕事なんですが、実はその女性が、私どもの製品をもって、逃亡した事がわかり、しかも製品ナンバーを照会したら、そのシリーズが、不良品として回収中のものだとわかったので……」 「それで、あなたが……」 「ええ、まあ──そのシリーズが出まわってしまったのは、私の課のミスだったものですから……。その上、少し前の事ですが、時空間監視局から通報があって──まあ、時空間レーダーみたいなもので広範囲に見はってる所ですが──どうやら、その機械が、使用中にたまたま地震か雷かにあって、エネルギー場《ば》の異変をひろい、故障がまたひどくなった……使用者もろとも、時空間を移動した事がわかったんです。短い範囲ですが……」 「じゃ、その故障のため、宮子が……」 「いえ、それはそのう──さらにそのあとに起った、小さな故障のせいらしいです。地震のあと何が起ったかよくわかりませんが……あとの故障は、時空歪曲ビームの指向性制御装置の故障らしい、と本社の方で分析しました。何しろ同じ機械を製造してて、性能もよくわかってますから……歪曲ビームの指向性制御装置は、長らくある時空点に固定されたままだったようですが、そいつが最近、何かのショックでふらふらしはじめて……微調整用の自動焦点装置がゆっくりとですが動きっぱなしになってるようなんです。おまけに、とりよせた物体を、もとの時空点へおくりかえす、タイマーも作動してなくて、物体はきっぱなしになってる可能性がある。しかも、この所、ある間隔で連続使用されている。──何しろ、その機械の存在する時空点は、作動中でないとわり出せないんで……」 「宮子はそのために消えちまったんですね……」ぼくは窓外の景色を見ながらつぶやいた。「故障した機械が|どこか《ヽヽヽ》で使われ、そのビームの焦点《ヽヽ》が彼女にたまたまあったため……」 「人間《ヽヽ》に選択的に焦点が当るように調整されているらしいですよ」男はちらと時計を見た。「でも、機械の故障と、ビーム指向性のふれ方がわり出せましたからね。もしこの次使用されて、転送が起るとなると……」 「それが、この山手線の中で、起るというんですか?」ぼくは下顎が急に重くなったような気がして、ゆっくりゆっくりしゃべった。「大塚と巣鴨の間あたりで……三時二十分ごろ……」 「あ、今、大塚をすぎてしまいましたね」と男は動き出したプラットフォームの駅名をのぞきながらつぶやいた。「あそこでおりられたらよかったのに──私自身、ビームの逆キャッチ装置を体につけていて、多少の焦点のずれがあっても、こちらから転送波にのりますが……あなたは……」 「はなれていた方がいいですか?」 「できるだけ早く|向う《ヽヽ》に行って、故障をなおしてやらないと、またどこの誰がひろわれてしまうか──」男は時計を見ながらつぶやいた。「それに、あの機械は、エネルギー源はまわりからいくらでも自動的にひろうからいいですが、作動させるのに、ある種の物質がいりましてね。まあ、一種の点火薬《イグナイター》ですね。砲弾の信管、雷管といったもので、これも当社自慢の安全装置の一つなんですが、それがなくなってしまうと、今度は使用できなくなって……」  車内の光景が、ぐにゃりと歪んで、濃い灰色の幕がかかる一瞬、こちらを見ながら、口あんぐりさせ、眼玉をとび出しそうに見開いているサラリーマンの顔が、大うつしになって眼蓋《まぶた》の裏にのこった。     (三) 「なんだ、なんだ、なんだ……」もうもうとたちこめる白煙にごほんごほんむせかえりながら、八五郎はわめいた。「高尾なんて出て来やしねえじゃねえか。──おまけにまた変なのが二人も出て来やがった……」 「宮子!」と次郎はいち早く見つけて、小野小町の頭の上をとびこえてかけよった。 「あ、ジロー!」宮子もさけんでとびついた。「どこへ行ってたの? これ、どうなっちゃったの?──今からジァンジァン行って幕開きまにあうかしら? トッコたち怒ってるわよ、きっと……」 「さあさあみなさん、おしずかに……」と男は、トランクをあけながらいった。「私がきたから、もう大丈夫です。すぐなおしてさしあげます。転送されて来た方たちも、もとの所へかえしてさしあげますから……」 「あ、あの、高尾は……」と偽道哲は、すがりつくようにいった。「高尾はどうなりました?」 「お気の毒ですが、高尾さんには、もう会えないと思います。──今ごろ、どこかで、タイムパトロールに逮捕されていると思いますから……」 「大丈夫だなんだといったって、この大人数どうするんでえ」と八五郎はすわる事もできず、つったったまま、かっかと来ていた。「ひい、ふう、みい、よう……三畳一間に仏壇こみで八人もいらあ。──あ、先生、ずるいや、ちゃくいよ。人ごみにまぎれて、小野小町の十二単ン中へもぐりこんで……」 「嫉《や》くな、八五郎……」又兵衛は十二単の中から首を出して、にが笑いした。「六歌仙のお一人ともあろう方が、こんなむさくるしい長屋へ突然お出になってよ、さぞ気ぶっせいでござろうと、お慰めがてら、ちょいと探ってみたが──穴無しじゃねえがお皿だ……」 「石川や……」と又兵衛をのぞきこもうとして体をのめらせた八五郎に向う脛をけとばされた五右衛門はうなった。「浜の真砂《まさご》はつきるとも……世に粗忽者《そこつもの》の種はつきまじ……」 「なおりましたか?」と次郎は、仏壇の横板をはずしていじっている男の肩ごしにのぞきこんだ。 「いや、これはちょっと、弱った事になりましたようです……」男は、仏壇の中に、何かの計測器のコードをつなぎながらつぶやいた。「この近所《ヽヽ》に�複体�ができている可能性があります」 「何ですか、それは?」 「テレビの|ゴースト《ヽヽヽヽ》や、スリットによる光の回折と似たような現象です。故障したまま、何度もつかい、おまけに地震波エネルギーと雷エネルギーというノイズの大きいエネルギーを吸収して機械ごと転送したので、ここから近い時空点のどこかに、これとまったく同じ機械が、ここにいる使用者とまったく同じ使用者と一緒に、複製されて出現している可能性があります……」 「近いって、どこらへん?」と宮子はきいた。 「せいぜい十年前後……空間もこの近くですね。──こちらとまったく同じ機械と使用者の複製ですから、むこうも、まったく同じ故障を起しているはずです……」 「じゃ、むこうの方にも、ぼくらと同じ人物が出現しているんですか?」 「いや、そんな事はないでしょう。機械と使用者は、同じものが出現しているが、それ以外の|使われ方《ヽヽヽヽ》は、ちがうはずですからね──ビーム指向性制御装置も、まだ固定されたままこちらの機械のように不規則作動ははじめてないようです。なぜなら指向性の狂いによっていろんな時代から転送されてきた人たちは、みんなここにいますから、指向性制御装置の狂っているのは、こちらの機械だけだ、という事がわかる……」 「じゃ、別段問題ないじゃありませんか」と次郎はいった。「早く、せめてぼくたちだけでも、もとの時点にかえしてください。そうだ、渋谷のジァンジァンの傍に、三時前だったら一番いいんだけど……」 「まあ、テストぐらいはやって見ますがね」男は小さなプラスチック・ケースの中から、黒っぽい粉──点火薬《イグナイター》をつまみ出しながら、やや不安そうにつぶやいた。「もし、|たまたま《ヽヽヽヽ》──そんな事は万が一にもないと思いますが──こちらの機械が作動した時、むこうの機械も作動したとすると、歪曲場が共鳴を起し、双方のビーム同土がつながってしまわないとも……」     (1)+(0) 「へえ、ほんとかい? そいつぁ妙だね……」  と脳天の熊五郎は思わず体をのり出した。──冷たい小雨の降る陰気な秋の夜、長屋の隣りの家で気のめいるような鉦をたたいている土手の道哲とかいう坊主の所へとがめに来て、その前身を、仙台侯の思いものとして名高い三浦屋の傾城《けいせい》高尾の恋人島田重三郎とあかされ、船中で伊達侯の手討ちとなった高尾の回向《えこう》をとむらい、貞宗の短刀ととりかわした反魂香をくべて毎夜高尾の幻とあっているときいて、いたく興味をそそられたらしかった。 「え、どうだえ、あっしも一度その高尾大夫ってのに逢ってみてえからひとつくべてみておくんなせえよ」 「いや、これは尊い香であるから、むやみにくべることはできませぬ」 「ちぇっ、しみったれた事いわねえでさあ……ちょいと一つまみでいいから、やってみておくんなせえよう……」 「では、いたしかたない。お前さまの疑いを晴らすためにくべて進ぜよう。決して他言くださるな……」と道哲坊主は懐から大事そうに紙包みをとり出し、おしいただいて中をひらく。「これじゃ、反魂香と申すのは……」 「いい匂いだね……」熊五郎は鼻をくんくんさせながらのそきこむ。「安かアねえんでしょうね、こいつぁ……」 「この香をたくと、仏壇の前に高尾の幽霊があらわれる……」と坊主は、りっぱな仏壇の前ににじりより、香炉にむかって、もう一度香をおしいただいた。「それでは熊五郎どの、くべまするぞ……」  香炉に香をなげいれたとたん、妙香とともに、仏壇鳴動して白煙もうもうとたちのぼり、中から石川五右衛門や、小野小町や、浪人者や、卵みたいにつるっぱげの男や、そのほかわけのわからないのが、七、八人もそこへぞろぞろ……。 「|どじ《ヽヽ》だよ、お前は……。ほんとうに、何て馬鹿な事をするんだい?」兄弟子格の珍橋は、舌打ちせんばかりに、弟株の三笑亭苦楽をののしった。「噺《ヽ》を質に入れちまうとは、今時分の|しか《ヽヽ》のやる事じゃねえよ。──そりゃね、たしかに上方じゃ、初代の春団治師匠がやったてえし、江戸でも昔の師匠連の中で、そういう事をやったてえ話はきいてるよ。だけど、そんな洒落《しやれ》の通る御時勢じゃねえって事はわかってるじゃねえか。第一、お前なんか十年早いよ。真打ちになってまだ四年目じゃねえか。それに、こればっかりは、師匠からみっちりしこまれた、極めつきの、これなら|とり《ヽヽ》だってやれるって席亭が太鼓判をおしてる一枚看板じゃねえか。お前から�反魂香�って噺《はなし》をとったら、あと何があるんだ? �黄金餅�をやりゃア、町筋の言いたてでつっかえちまうし、団志に笑われるよ。お前はテレビの司会だ、ラジオのジョッキーだってちゃかちゃかやれるタイプじゃないんだから、話一筋にうちこまなきゃならないのに……あちこちの席亭から、このごろいい客のつっかけがのびてるんだ。こういう時に苦楽の�反魂香�をぜひっていわれてるのに、あの話はちょっと……ていやがる。こちらも、ああ、また何か工夫してるんだなと思ってたら、やるに事欠いて、質に入れたってんだから呆れかえってものもいえねえや。おまけに三月《みつき》もほったらかして利上げもしてねえなんて──流れでもしたら、死んだ師匠にどう顔むけできるんだい? わらじをはかなきゃならねえよ」 「いや、そういわれると面目ない……」甘い、というわけでもないが、どこかおっとりしている苦楽は、首をすくめた。「もののはずみてえもんなんだよ。──懐が淋しくって、兄さんたちも巡業に行っちまったな、と考えてる時に、ちょうど前にも行った質屋の前を通りかかって、そうだ、質屋てえものがあったっけ、と雀躍《こおど》りしてポンととびこんだが……いらっしゃいと言われて、ふと気がつくと、時計も何も、曲げるものが何にもねえ……」 「それだ──だからお前は、うっかりもので不用意だってんだよ。どこの質屋だって……」 「兄さんとも前に一緒に行った……ほら、例の横丁の丸金……」 「丸金?──ばかだな、よりによって……あそこの店は、御隠居の代はよかったが、養子だっていう今の店主になってから、合理的経営とかで、きびしい事で有名なんだぜ」 「その御隠居が、その時帳場にたまたまいたんだよ。──あの御隠居は、本当に粋な江戸っ子で、寄席や芝居が好きで、芸人をかわいがってくれるって話を師匠連からきいてたんで、ついうれしくなってね、おや苦楽さん──て、こんなかけ出しの名前ちゃんとおぼえててくれてね。──今日は何をあずかるかねって……そんな時ゃもう、曲げるものがねえって事に気がついてたんで、つい、御隠居さん、一つ、噺をあずかってくれませんかっていうと、えらい! って、ぽんとひざをたたいてね。今どき若いのに粋な事を言うもんだ。私も昔は、あんたたちの先代、先先代、大看板で通った人でも、若い時の噺を二つ三つあずかった事がある。あずからせてもらいましょう、何をあずける? �反魂香�? それはいいや、やってごらん、できによってふんであげるからって……」 「で、やったのか?──店先で?」 「うん、ちょうど客がこなかったからね。──さげまでやって、ああいい筋だ、師匠の|いき《ヽヽ》のいい所みんなついでいる。早くうけ出しにおいでよ、質に入れてる間でも、みがくのを忘れるんじゃないよって、ポンと五万円かしてくれた」 「へーえ、粋な人だねえ、やっぱり明治だね──だけど、お前ときたら、そういう粋な人に甘えて、三月の間、利上げもせずにほったらかして……」 「うん、前にすんでた所でちょいちょい公益質屋もつかってたから、ついこんがらかっちゃって──こんなに早く期限がくるんだったら、公益質屋にすりゃアよかった。あっちは流期が四カ月だから……」 「馬鹿!──公益質屋が落語をあずかってなんかくれるもんか」  言っているうちに、丸に金と書いた看板の傍まで来た。表戸をがらり──と勢いよくはあけられないもので、半分ほどひらいて、ちょっと中をうかがうと、帳場で新聞を読んでいた、色の黒い、髪が半白《はんぱく》の、銀縁《ぎんぶち》眼鏡をかけた、いかにも頑丈そうで頑固そうで酷薄な感じの初老の男が、 「はい……」といって、じろりと眼鏡ごしに見て、「あずけですか、うけ出しですか?」 「ええ、その……出しなんですがね……」と、珍橋は、そっとのび上るようにして奥をのぞく。「時に、今日はこちらの御隠居さんは……」 「じいさんですか?──死にましたよ、一月半ほど前にね」  えっ?──とこれは苦楽の方がのけぞった。 「蜘蛛膜下《くもまくか》出血とかいうやつでね、ぽっくりでした。あんたたち、じいさんに何か用だったの?」  いえ、実は……と説明しかかると、 「ああ、そう──あんたたちだったの。落語だか何だかって、妙なものあずけて行ったの……」とでかい鼻の先の向うを見るようにして、「困るんだよねえ、故人の悪口はいいたかないが、ちょっと店をあずかってもらったら、あんな馬鹿な事をして……明治だか、江戸ッ子の粋だか知らないが、洒落や人情で借《か》してたんじゃ、こんな商売なりたちませんよ。何しろ、知り合いだからって、国産のシャープペンシルで三千円|借《か》した人だからね……」 「ええ、所で今日は──とてもうけ出しするほどは持ち合せがねえんですが……」珍橋、煮えくりかえる腹をおさえて、あくまで下手に出た。「苦楽《これ》がうっかりやで、長らくほったらかしておいたそうで、せめて利息とわずかながら内金でもと思いまして……」 「利息?」ぷいと横をむいて「今更いいですよ。何の音沙汰もなしに流期を十日以上すぎちまったんだから……あの噺は、もう流れちまったよ……」 「流れた?」苦楽はとび上った。「ど、どこに……」  どこに、てえやつがあるか!──と兄弟子がたしなめて、 「ちょいとうかがいますが──落語なんてえものは、流した所で、|せり《ヽヽ》にかかるわけはなし、第一、そちらの商売筋じゃ、ひきとり手がねえでしょう?」 「それがね──世の中ア広いもんだね。あたしもじいさんのやった事を整理しているうちに、|あれ《ヽヽ》を見つけて、あんまりばかばかしくって業腹《ごうはら》だから、ちょいとあずけたやつへの面当《つらあ》てに、ボール箱に質流れ品と書いて、あそこへ出しといた。すると、おとつい、ちょいちょい出ものをのぞきにくるお客さんが見えてね。──これは売るのかい、ときくから売りますよ、というと、�反魂香�ってどんな話だ、ときく。野暮天でね、知らなかったんだろうね。あたしがかいつまんで説明すると、そいつアいい、ちょうど雑誌の締切りがせまってるのに、アイデアがなくて困ってた所だ。よし、買おう、てんで、三万円で売っちまったよ。御当人喜んですっとんでかえったが……|もと《ヽヽ》からいって二万円の損だがしようがない。じいさんの香奠《こうでん》がわりだ……」 「雑誌のしめきり──アイデア?……」珍橋は思わず声を上ずらせた。「じゃ、その買った人ってのは……」 「ああ、あまり売れない小説書きだよ。──知らないかね、このごろちょいちょい名を見るが、ほら、肥ってて眼鏡をかけた、何とかってSF作家……」  SF作家? 珍橋と苦楽、思わずぎょっとして顔を見あわせた。──そいつはえらい事になった。もしSF作家になんかあの話買われちまったら……いったいどんなにめちゃくちゃな事にされちまうか……。 [#改ページ]   歩 み 去 る  二度目に彼らにあったのは、リオ・デ・ジャネイロの市街のすぐ背後にそびえる、コルコバードの山上だった。──正確にいえば、彼らのうちの二人だけが、以前、シルクロードであった若者で、もう一人ははじめてみる顔だった。同じような年ごろの、同じように、子供っぽい顔付きの、白人青年だった。  標高七百メートルの、急峻なコルコバードの山頂には、リオの市街にむかって手をひろげた、巨大なキリスト像が建っている。──そのすぐ下の展望台から、美しい入江にのぞむ近代的な市街と、リオのシンボルともいうべき、あのラグビーボールを横半分に切ってたてたような、砂糖麺麭《パン・デ・アスカル》の山が直下に見おろせた。  若者たちは、他の観光客にまじって、展望台の手摺りにもたれ、港のすぐそばにあるサントス・デュモント空港から、パン・デ・アスカルの山頂すれすれにとびたって行く国内線の旅客機を眺め、はしゃいだ声をあげていた。  その言葉が、英語と日本語のまじったものだったので、彼は思わずふりかえり、そこに一年半ほど前にあった二人づれの若者の、陽やけした顔を見たのだった。  あ、というように、丸顔長髪の若者が、こちらの顔を見て眼を見開き、ちょっと微笑をうかべて、ぺこりと頭をさげた。──それで気がついたらしく、彼に背をむけていたもう一人の若者の方も、ふりかえった。 「やあ……」彼は手をあげた。「また、ふしぎな所であったね……」 「ほんとに……」と、丸顔の、とりわけ少年っぽい顔だちの青年はなつかしそうにいった。「あ、そうだ。──あの時はありがとうございました」 「え?」彼はちょっとおどろいた。「なんだっけ?」 「ほら、ティッシュをたくさんいただいて……」 「ああ……」彼は思わず破顔した。「そうだったか──。あんな事……」  アフガニスタンの西部、イラン国境にちかいヘラートの町で、二人連れの日本人の若者にあった時、丸顔の青年は、少し下痢気味だ、といった。──若者たちがカブールから乗って来たという、ほこりだらけのバスが出る間、一緒にお茶を飲んだ汚れた茶店で、彼はティッシュペーパーの大型パックを二つ、ゆずったのだった。 「あれは──一年半ぐらい前の事だっけ?」 「一年と七カ月ちょっとです……」と丸顔の青年はいった。 「あれからまだ、ずっと旅をしてるの?」 「ええ──」と青年はちょっとはにかむように眼をしばたたいた。「相変らず、……あちこち……」 「あれからイランへはいったんだろう?」 「そうです。それからトルコ、ギリシャ、イスラエル──それから、アフリカをまわっていました……」 「リオへは?」 「おとついからです──。マナオスに一と月ちょっと前についたんですが……」  話をしている合間に、もう一人の瘠せた若者が、茶色の髪、ブルーの眼のヨーロッパ系の青年に、何ともひどい英語で彼の事を説明しているのがきこえて来た。 「あの……」こちらの話が一区切りついた時、瘠せた青年は、声をかけて来た。「紹介します。ジョンです……」 「はじめまして──」と、彼は手をのばした。「老野《おいの》です。──アメリカからですか?」 「いや、イギリスです。グラスゴーから……」と、ブルーアイの青年は、ちょっとコクニイに似た訛りの、しかし折り目正しい英語で答えた。「ジョン・マッコイです。よろしく……」 「ジョンはすごい人ですよ……」と、瘠せた青年は、ちょっと興奮した調子でいった。「アラスカから、自動車で、パンアメリカン・ハイウェイをずうっと南下して来たんです」 「一人で?」と、彼はちょっとおどろいてジョンに聞いた。 「いや、ペルーまでは、フランスの友人と一緒だったんです。──でも、彼はリマで、とてもかわいい混血娘と仲よくなっちまって、エスペランサからひきかえしてしまいました。どうせ、結婚する気はないんでしょうが……」 「じゃ、そこから先は一人で来たの?」 「そうなんです。──エスペランサから北へ、例のトランス・アマゾニア・ハイウェイへ出る支道が開通していましてね。──途中はかなり未舗装なんですけど……」  アラスカからリマまで、ざっと一万一千キロ余、そして、南米大陸の一番幅のひろい所を、ペルー・ブラジル国境からアマゾン河口のバラ州マラパーまで東西に貫くトランス・アマゾニア・ハイウェイ三千数百キロ…… 「車がだいぶいたんだろうね」 「キトーの手前で、シャフトが折れた時はまいりました。溶接がきかないっていうんで、シャフトをとりかえてもらうのに、建築現場で一週間も重労働して……」 「それで──君たちとは、マナオスで一緒になったの?」  と、彼は日本の青年たちに聞いた。 「いいえ──ぼくたち、別々にここへ来たんです」と、瘠せた青年はいった。「ジョンとは、二時間前、街であったばかりです」  何だか前見た時と感じが変ったな、と思っていたが、瘠せた青年は、うっすらと口髭をはやしかけていた。手入れをしてある所をみると本格的にはやすつもりらしい。笑うとまっ黒に陽やけした顔に、歯がまぶしいほど白かった。 「ジョンは、一応やりはじめたんだから、とにかく南米の端まで行ってみるっていうんです……」と丸顔の青年がいった。「ぼくらにも、一緒に行かないかって……」 「ティェラ・デル・フエゴって、行ってみたいよな」と、瘠せた青年はいった。「マゼランがまわって行ったんだろ?」 「アルゼンチンの、外車の相場はどうでしょう?──ご存知ありませんか?」とジョンはいった。「もうだいぶ|がた《ヽヽ》が来たから、ティェラ・デル・フエゴまで行ったら、売ってしまおうと思うんです。──シトロエンの中古なんですけど……もともとピエールの車だったんだけど、わかれる時くれたものですから……」  眼下の入江が、落日に黄金色にもえ上った。入江の左右からつきでた岬も、パン・デ・アスカルの丘も、リオの市街を区切る丘陵も、すべて黒いシルエットになり、黒々とつったつ巨大なピーナッツのような、パン・デ・アスカルの影の部分や、優美にうねる汀《なぎさ》の線にそって明りがまたたきはじめた。 「|一月の河《リオ・デ・ジヤネイロ》」──一五〇二年の一月一日に見つかったので、入江を河とまちがえたポルトガル人は、こう名をつけた。現在では、人口五百万人をこえる、ブラジル第二の、南半球で最も美しく近代的な都市だ。世界的に有名になったカーニヴァルと、美しいコパカバナ海岸の高級ホテル、マンション群と、優雅で、お洒落で、ちょっとソフィスティケートされた「|リオっ子《カリオカ》」と……映画「黒いオルフェ」の舞台となった、山腹の貧民窟《フアベイラ》も、今は近代的な高層労働者アパートにうつしかえられ、このごろでは、中産階級が、すばらしいリオの夜景を見おろす山腹にすみはじめている。  そのリオの市街を見おろす、コルコバードの山頂で、老野は、三人の若者とならんで、凄絶ともいうべき夕陽をながめながら、一種不思議な感慨におそわれていた。──この若者たち……みんな、少年の初い初いしさを残し、澄んだ明るい眼差しの若者たちは……地球の端から端、果てから果てへとめぐりながら、いったい何を考えているのだろう? 「フエゴ島へ、車で行くのはむずかしいと思うよ。──今は、本土から、マゼラン海峡をわたるフェリーがあるかも知れんが……」と老野は落日を見ながらつぶやいた。「もしわたれたら、アルゼンチン領のウスワイアの港よりも、チリ領のプンタアレナスの方が高く売れるかも知れん。チリは車がすくないから……」 「そうですか……。どうもありがとう」  老野は横眼で、手摺りにもたれている若者たちの顔を見た。──世の辛酸の|のみ《ヽヽ》跡もまだきざまれていないなめらかな顔を染め上げる落日の朱が、その若々しい横顔に、塑像《そぞう》のような一種の荘厳さをあたえていた。  彼はその時、なぜ丸顔の青年の眼もとが、涼しげに見えるかわかった。──青年の睫毛《まつげ》は、少女のように長く、美しくはえそろっているのだった。 「さあ……」と瘠せた青年はいった。「そろそろ行こうか」 「食事でもおごろうか?」と老野は、初老の鷹揚《おうよう》さを見せた。「私はコパカバナ・ビーチのホテルに泊まっている。──たまには、フルコースなどどうだね?」 「ええ、でも……」と、丸顔の青年は、ジョンの顔を見た。「ぼくたち、こんな恰好ですから……」  申しあわせたように、パッチのあたった洗いざらしのジーンズと穴のあいたスニーカーを、靴下なしではき、上は垢じみ、色あせたコットンのシャツあるいは皮のジャンパー、漫画のついたTシャツといった恰好だった。 「じゃ、ダウンタウンの、気楽なレストランでも……」 「せっかくですけど、──泊ってるユースホステルのおばさんのつくるフェジョアーダが、みんな気にいってるものですから……」と丸顔の青年は、長い睫毛をそよがせて、はにかむように笑った。「じゃ、これで失礼します。──さよなら」 「気をつけて……」頭をぺこんとさげて、身軽に階段をおりはじめた三人に、彼は背後から声をかけた。「元気で……南米のあと、またどこかへ行くのかね?」 「さあ、まだきめてませんけど……」と瘠せた青年は下から叫んだ。「まだ、あっちこっち行くつもりですから……またお目にかかるかも知れません……」  次にあったのは、二年後、西サモアだった。──広大な太平洋の中央部に、砂粒のようにまかれた島々の中の、数すくない独立国、西経一七一度、南緯一四度、サバイ、ウポルの二つの島からなり、面積は二八四二方キロ、人口約十六万人……東のウポル島にある、人口三万人の首都ウポルから、西へ約三〇〇キロ、西のサバイ島とその間をへだてるアポリマ水道に面する海岸で車をとめ、対岸の標高一八五八メートルの火山マウンガシリシリを見上げている時、ふと道路わきの海岸にちかい繁みから、カセットテープらしい音楽が流れてくるのをきいた。──それが、日本の演歌だったので、思わず彼の足は、道路の下へむかった。  繁みのむこうに、小屋ともいえない、椰子の木の柱を四本たて、椰子の葉を上にかぶせただけの、亭のようなものがあり、その中で、白い麻の半ズボン一つの若者が、褐色の肌と漆黒の髪をした、美しい娘の、つややかな膝に頭をもたせてキャンバスシートの上に寝そべり、のんびりとテープレコーダーから流れてくる音楽を聞いていた。 「やあ……」と丸顔の青年は、うっすらと眼をあけて、彼にむかって手をふった。「またお目にかかりましたね……」 「一人?」と、彼は熱帯の強い日ざしに眼を細めながらいった。 「いや、──ジョンと二人です。彼は今、ファレラタイの街へ行ってます」 「もう一人の、瘠せた人は?」 「ああ、彼は──タヒチからツァモツ、それに行けたらイースターやガラパゴスも行ってみたい、というんで、フィジーでわかれました。──あっちの方で、見つけられそうな予感がする、というので……」 「見つける?」彼は聞きかえした。「何を?」  青年は答えず、むっくり体を起して、赤いプリント地の超ミニのワンピースを着た、島の娘の肩に手をかけた。 「ナピアです……」と青年はいった。「彼女の話だと、ここにもあるかもしれないっていうんで、ジョンと二人でしばらく足をとめて見たんですが……」 「そうすると君たちは、|何か《ヽヽ》を探して、世界中をあちこち旅してまわっているのかね?」彼は、草葺きの日除けの下に一歩ふみこんで顔をつき出した。「いったい何を見つけようとしているんだ?」  その時、道路上で、老野ののって来た車のものとちがうクラクションが、にぎやかに鳴りわたった。──とたんに青年は、ぱっと立ち上り、片手にテープレコーダー、片手に娘の手をとって、日除け小屋をとび出した。 「ちょっと行って来ます」と青年は走り出しながらいった。「ナピア、行こう!」 「君!……」彼は思わず叫んだ。「ちょっと話をきかせてくれないか?──どこへ行くんだ?」 「|あそこ《ヽヽヽ》です!」と青年は走りながら、アポリマ水道の方をさした。「海の中……探してみるんです……」 「だから、何を探すんだ?」  青年の陽焼けした上半身と、娘の真紅のワンピースは、もう道路への斜面を半分のぼっていた。──道路の上には、水陸両用のスーパー・モニークらしい小型車がとまっており、老野の姿を見つけたジョンが、手をふった。二年の間に、ジョンは黄金色の顎ひげをはやしており、その顔は赤く陽焼けしていたが、少年のようにすんだ青い明るい眼は、もとのままだった。スーパー・モニークの荷台には、スキューバ・ダイヴィング用のボンベらしいものがつんであり、斜面をかけ上った二人がとびのると、たちまち砂ぼこりをあげて走り出した。 「いつまでいますかあ……」と、車上から青年が叫んだ。 「明日までだ!」と、彼はどなりかえした。 「さよなら……」と青年は遠去かりながら手をふった。「また、どこかで……」  その青年にではなかったが、何とそのナピアという西サモアの娘に、四年後、意外なところであった。──場所は、アイスランドのケフィラヴィーク国際空港のロビィだった。季節は四月はじめで、半分が北極圏にはいっているこの島では、メキシコ湾流に洗われているといっても、さすがにまだ風は冷たく、ナピアは北欧風のセーターの上に、大きな毛皮のついたスウェードのコートをはおり、ブーツをはいていたので、最初はまったくわからなかった。背にたらした漆黒の髪と、褐色の顔、そして強い光をもった黒い眼でまじまじとさぐるように見つめられて、はじめてあの西サモアの海岸の、眼のくらむような熱帯の陽光のきらめきを思い出した。 「ああ、君は……」と、彼は思わず指さしていった。「たしか、ナピア……」  ナピアも、ああ! というように口を開け、手を大きくふりまわして、連れの二人をよんだ。 「やあ……」とあの瘠せた青年が、若い、京人形をちょっときつくしたような顔だちの娘をつれて、売店の方から近よって来た。「おひさしぶりです。また不思議な所でおあいしましたね……」  青年の連れの小柄な娘は、日本人かと思ったら、シンガポールのミリー・マーだと紹介された。 「彼はどうしたね?」老野は、咳をしながらきいた。「ほら、丸顔の……」 「ああ、ジロウ?」とミリー・マーはいった。「彼は今、どこかしら?──ヒマラヤへ行くって、タンジールでわかれたから、今ごろはカトマンズじゃないかしら?」 「カトマンズは前に行ったって言ってたわよ」とナピアはいった。「今度は、ブータンのプナカへ行って、それからチベットへぬけるって……。彼は今度は、高い所をねらってるのよ。アラスカのマッキンレーで、ちょっとそれらしいものを見た、という噂をきいてから……」 「ほら、あの、金髪の──そう、ジョン・マッコイは?」と老野はきいた。 「ええと、ジョンは……やっぱり遺跡派ね。アフリカの、どこかへ行くって、モロッコからバスにのったじゃないの?」とナピアは瘠せた青年をふりかえった。「どこだっけ、タミオ、タッシリ? チンブクトウ……」 「ジンバブエ……」と瘠せた青年はこたえた。「でも、そこになかったら、彼もいよいよ遺跡派の足を洗って、高山派か高緯度派に転向するって……」 「彼は頑固よね……」とミリー・マーはいった。「スコットランド人ね……」 「前にも聞いたんだが……」と老野は、咳を殺しながら急いでたずねた。「君たちはいったい、|何を《ヽヽ》探しているんだ?」 「|何を《ヽヽ》って……どうにも説明のしようがないんです」と、瘠せた青年は、まっ白な歯を見せて笑った。──彼は、髭をそってしまっていた。「特に、あなたたちの年代の人には……」 「私は、世界中をまわりつづけている……」と老野は疲れたようにいった。「どこへ行っても、君たちのような若い人が、何人かのグループで、また、たった一人で、ほんとうに地球のいたる所をはしからはしまでめぐり歩いているのを見た。みんな、|あてどなく《ヽヽヽヽヽ》、というわけではなさそうで、その眼は、何かを求めているように輝いていた。──しかも、時がたつとともに、その数はどんどんふえているように見える。彼らも、君たちのように、その|説明できない何か《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を、探し求めて、世界中をまわっているのかね?」 「さあ、どうでしょうか?」と瘠せた青年は、あいまいな微笑をうかべた。「彼らがみんなそうなのか、ぼくらにはわかりません。──でも、そうかも知れませんね」 「いったい君たちはどうやって生活しているんだ?」彼は顔を両手でこすりながらつぶやいた。「つとめもなく、一カ所に腰もおちつけず……」 「どうやってって、|働いて《ヽヽヽ》ですよ……」タミオとよばれた青年は、かたい|たこ《ヽヽ》のできた両掌をひろげて見せた。「ぼくはこれから、ここで、アイスランドのシシャモ漁の漁船にのるんです。──すごく給料はいいんですよ。ナピアもミリー・マーも、北部の缶詰工場で働きます……」 「ここで働いて……どうする?」 「氷河です──」と青年はいい、二人の娘もうなずいた。「ここの中央部にはとても大きな氷河──|氷 冠《アイスキヤツプ》があるんです。|陸 氷《ランドアイス》の上は、みんなまだあまりしらべていないんで、南極をアタックする前に……と思って──」 「それにしても……」彼は、突然気がついたように、不思議そうに、二人の顔を眺めまわした。「君たちは、|なぜ《ヽヽ》、いつまでも年齢《とし》をとらない? なぜ、いつまでも、そんなに子供みたいに若いんだ?」 「なんですって?」青年はびっくりしたようにききかえした。「なんだかよくわかりませんが……」 「君とはじめてあったのは、アフガニスタンのヘラートだった……」と彼は指をつきつけていった。「そう……君たちは、これからイランのカリズからメシッドの方へ行くといっていた。あれがたしか……たしか七年半前だ。あの時君は……君たちは、二十二、三だったはずだ。とすると、今の年齢《とし》は、もう三十ちかい。だのに、君は……君たちは……ちっとも年齢《とし》をとっているように見えない……」  短い沈黙──若者たちの間に、困惑の雰囲気が流れた。 「あの……」ややあって、ミリー・マーがおずおずとした調子で聞いた。「失礼ですけど……年齢《とし》って何ですか?」  自分の体の中から、がっくり力がぬけて行くのを彼は感じた。 「きっと私たちの世代は、あなたたちより、ずっとずっと長生きをするんだわ」ナピアが陽気な声でいった。「だから、若い期間が長いのよ」  その時、彼ののるコペンハーゲン行きの搭乗アナウンスがはじまり、彼らののるバスも到着した。 「さよなら……」と青年はいった。「またどこかで──あなたもずいぶん、世界中あちこち旅しておられますが、お仕事ですか? それとも……」 「私も……実は、|あるもの《ヽヽヽヽ》を探している……」彼は荷物を持ち上げて、ちょっとよろけながらつぶやいた。「だが、私の探しているものは、もっと具体的な……」  そして六年後──  西オーストラリアの州都パースの北部、ヤンチャップ・サン・シティの東二〇キロの砂漠にある、ヤンチャップ宇宙港《スペースポート》からカンタスのスペース・シャトルに乗り、(昔とちがって、何と出発の時のGがこたえた事か!)衛星軌道にある中継基地で月《ムーン》フェリーにのりかえて、�晴の海グランド・コロニイ�へむかう途中…… 「ご気分はいかがですか? ミスター・オイノ……」  かすかにコクニイがかった英語で、耳もとにささやかれた。 「やあ……君か……ジョン……」彼は、眼をあけて、弱々しくほほえんだ。「このラインで勤務してたのか?」 「アルバイトです……」とジョンはほほえんだ。──十二年前、リオのコルコバード山頂で見た時とちっともかわらない、少年のように澄んだ青い眼で……。「このフェリーで、三カ月、臨時のスチュアードをつとめれば、月面コロニイのあちこちに行けるんです」  ヒュッ、と、ジョンは口笛をならした。──彼の視界に、スチュアデスの制服を着たミリー・マーが、あのちょっと険のある京人形のような顔でほほえんでいた。 「お水、いかが……」とミリー・マーは透明の茄子のような形のプラスチック容器をさし出した。「吸口からお吸いになってください。今、機内は無重力状態ですから……。お薬さしあげましょうか?」 「いや、けっこう……」と、彼は容器をうけとりながら首をふった。「見てくれたまえ、この白髪……五年前、一度この便にのったんだが、その時はこんなに加速度がこたえはしなかった。この五年で、すっかり年をとってしまって……」 「じゃ、月へは二度目ですか?」とミリー・マーはきいた。 「そうだ。──今度は月だけじゃなく、もうちょっと遠くまで足をのばしてみようかと思っているが……」 「タミオの話だと、あなたも|何か《ヽヽ》を探していらっしゃるそうですね」とジョンはシートの傍にしゃがんでいった。「ぼくたちの探しているものとは、別なものを……。よろしかったらきかせてくださいませんか? お力になれるかも知れません……」 「十五年──いや、十六年前……」彼は水にかるくむせながら呟いた。「妻が死んだ。その一、二年前、息子はカナダに留学していた。その下の娘は、女子大の寮にいたが、あの時、学校にも言わずふらりと出てしまい、しばらくしてから、ヨーロッパを無銭旅行している、という葉書が来た。──二人の母親が死んだ時、私は息子の方には電報をうち、娘の方にはヨーロッパにいる知人や領事館に探してもらうようにたのんだ。しかし、息子の方は、休暇中、南米へ行くといったまま、大学へ帰っていない事がわかった。娘もとうとう見つからなかった……」 「じゃ、息子さんとお嬢さんを……」とジョンはつぶやいた。「ぼくたちに、おたずねになりませんでしたね?」 「なぜだか知らんが、たずねたくなかった。──別に見つけてどう、という事はなかったんだ。母親は死んだが、二人とももう|子供じゃない《ヽヽヽヽヽヽ》。失踪した時、息子は二十三、娘は十九だった。どこへ行こうと、何をしようと、生きて行くだろう……。ただ、まあ、世界中を探しまわっているうちに、どこかでめぐりあって、|どういう風に《ヽヽヽヽヽヽ》生きているか、ちょっとこの眼でたしかめればよかったんだ。よその国で結婚して、幸福にしているなら、垣根ごしにでもちょいとね……。母親が死んだ事を、知らせてやる事もないと思っていた。いずれ親たちは、時がたてば死ぬんだから……。ただ、まあ、私としては、それを|見て《ヽヽ》おけば、納得して、あとの自分の人生は、自分なりにすごせるだろうと……」 「十六年前──」とミリー・マーはつぶやいた。「じゃ、もう|行って《ヽヽヽ》しまったかも知れないわ」 「行ってしまった?」彼は眼をつぶりながらつぶやいた。「|どこ《ヽヽ》へ?」 「どこへ──といっても、説明しようがないんです……」とジョンはいった。「ただ、|むこう側へ《ヽヽヽヽヽ》としか……」  その時、月衛星軌道中継基地に接近のブザーが鳴り、二人の若者《ヽヽ》は、彼の傍をはなれた。 「あ、ちょっと……」彼は咳こみながら二人をよびとめた。「ジロウ君といったかな。──あの丸顔の、かわいい顔をした……彼はその後、どうしたか、知らないか?」 「ジロウなら、この先で、ひょっとしたらお会いになれるかも知れません」とジョンはふりかえっていった。「彼は、われわれより、|ちょっと先《ヽヽヽヽヽ》を歩いているようですから……」  ジョンのいった通り、それから一年三カ月後、彼は、ジロウにあった。火星のエリシウム・シティ──火星上でただ一つ、商業ベースのホテルのあるこの植民都市の、「ホテル・ナンバーワン」のロビイで……。  ロビイの片隅のラウンジの一方は、透明な半球形のドームになっていて、そこの席からは、火星の赤い荒涼とした砂漠、うすいピンクの空、情ないほど遠く、小さく弱々しい光の太陽などが見わたせた。二つのちっぽけな月が、ちっぽけな三日月をつくって空にかかり、そのうちの一方がせかせかと西から出て東に沈むのも、薄いヴェールのような砂嵐が、遠い野面をわたって行くのも……。  そんな光景を、あきずに見ている時、ロビイの方がさわがしくなり、エア・ロック・ドアを通って、宇宙服を着た若者が二、三人、興奮した様子でかけこんでくると、ホテルのカウンターで支払いをすませたり、何かを交渉したり、しきりにメモを書いたりしていた。──そのうちの一人が、足早にラウンジの角を通りすぎようとして、はっとしたように足をとめた。 「老野さん……」ジロウは近よって来ながらいった。「おひさしぶりです……」 「やあ……」  と、彼はめっきり視力の弱った眼をしばたたいて若者を眺めた。──彼の方はすっかりふけこんでしまったのに、ジロウの方は、十五年前アフガニスタンで、その一年半後リオであった時と、ちっともかわらない若々しさで、そのなめらかな頬は少年のように上気し、涼しい眼は、興奮のために星のように輝いていた。 「あえるような気がしたよ……」と彼はいった。「かけないかね?」 「ありがとう。でも、そうはしていられないんです」と丸顔の若者ははずんだ声でいった。「またお目にかかれてうれしいですけど、今度は、本当におわかれです……」 「探しているものが見つかったのかね……」 「ええ、そうなんです。やっと……」 「ここで──この火星で……」彼は反芻《はんすう》するように呟いた。「最後にきかせてくれんかね?──それは一体|何《ヽ》だね?」 「|ゲート《ヽヽヽ》です……」 「門《ゲート》?」 「ええ……」  丸顔の青年は、長い睫毛をふせて、はにかむような表情をして、小さな声でいった。 「�|宇宙への門《スペース・ゲート》�です……」  それを聞いても、彼の中にそれほど大きなショックはなかった。──そのかわり、今まで長年にわたって凝りかたまっていた重いものが、熱湯につけた氷のようにみるみる溶けて、頭のまわりから肩へ、上腕から指先へ、胸から腹、下半身へと、清冽な流れとなってさあっと流れ去って行くような気がした。 「ジロウ、知り合いか?」青年の仲間の一人らしいしなやかな黒人青年が、傍を走りぬけながら声をかけた。「いいよ、車の手配はぼくがしといてやる」 「すまない、アリ……」  そう叫びかえすと、青年は、彼の前の椅子をひいて、静かに腰をおろした。 「そうか……」彼はゆっくりつぶやいた。「|それ《ヽヽ》を通って……あんたたちは、行ってしまうのか……」 「あなたたちの時代に、宇宙《ヽヽ》の本当の大きさ、本当の姿がわかりはじめました……」と青年はいった。「そして、ぼくたちは子供の時から──本当に赤ン坊の時から、テレビで、立体絵本で、|環 境 劇 場《エンパイラメント・シアター》で、その姿に接しながら育ちました。宇宙船や、月面都市や、木星、土星、赤色巨星や白色矮星、二重星やブラックホール、そしてすごく巨大で美しいガス雲……超銀河系渦状星雲や、局所銀河群や、銀河集《クラスター》団や、準星《クエーザー》や……その美しさ、不思議さ、面白さ、広大さといったものを、小さい時から見つづけていると、もうどうしても、ぼくたちの|生きる《ヽヽヽ》場、ぼくたちの生命をくりひろげる場は、ちっぽけな地球や、太陽系じゃなくて、あのすばらしく巨大な宇宙にしかない、と確信をもちはじめたんです……」 「で──そこへ行く道を、探しはじめたのかね?」 「上の世代は、どうしても、地球的《ヽヽヽ》日常感覚にしばられてしまいますからね。せいぜいアインシュタイン的空間感覚ですからね。宇宙の広大さにくらべて、地球や、その上にすむ人間が、あまりにちっぽけすぎるって思いこんで、心の底で絶望してしまうんです。だから、|探そう《ヽヽヽ》とか、やってやろう、という気が起らないんですね……」 「それを──君たちはやってみた……」 「最初は錯覚だったかも知れません。コロンブスだって、トスカネリの世界地図がまちがって、地球の大きさを小さく見つもりすぎ、それで簡単にインドへいけると確信して、あの冒険航海にのり出したんでしょう。──それとちょっと似た所がありました。最初は、何か|悟り《ヽヽ》……神秘体験が目的で、いろんな連中がやったんです。ところが、そのうち何人かが、|本当に《ヽヽヽ》むこうへ行ってしまった……。その噂は、ぼくのちょっと上の世代にありました。しかし、決定的なのは、ぼくらの時代になって、むこうへ行って、|帰って《ヽヽヽ》来たものが出はじめたんです。その連中の言っている事はわかりにくいけど、ぼくらにはすぐ、門《ゲート》というものが存在する、それを通れば、|すぐ《ヽヽ》、地球的存在のままで|むこう《ヽヽヽ》へ行けるんだ、という事がわかりました……」 「なぜ、おとなたちにはわからなかったんだろう?」 「何といっていいか──門《ゲート》の発見は、�心の状態�といったものと、つよく関係しているんです。それと、イメージ……イマジネーションといったらいいのかな……そういったものともね……。門の出現──というか、発見というか……それは、憧憬や探究心や……それから信念《ヽヽ》というものと、とてもつよく関係してますから──今のおとなは、アインシュタイン感覚どころか、ニュートン感覚にがんじがらめになってますからね。何しろ、デカルトが、物理空間と精神作用をきりはなしてから、何世紀もの間、それをわけて考える習慣がついてしまっているでしょう。ぼくらは、アインシュタインの理論は、高校を出たってなかなか理解できなかったけど、例の超アインシュタイン理論──�メリッサ理論�というのは、もう小学生の時、感覚的に理解してしまいましたからね……」 「で──その探究が、君たちの世代の流行になった……」と彼はつぶやいた。「そして──君は、ここで、実際《ヽヽ》に見つけた……」 「何も火星までくる必要はないかも知れません。その意味で、ぼくたちも、パイオニア世代の一部として、とんだまわり道をしたのかも知れません。さっきも地球と話したんですが、このごろは、地球上でも続々と見つかり出しているらしいです。この間、十四歳の女の子が、門《ゲート》をぬけたって、仲間のニュースが伝えています……」 「そして……君たち若い人たちは……門《ゲート》を求めて、�大宇宙での生�を志向し、それを見つけて、どんどん|向う《ヽヽ》へ行ってしまうのだな……」彼は、ピンクから緑、紺とかわって行く火星の夕空を見上げながらかすれた声でいった。「すると……やがては、若い世代が全部……」 「でしょうね……」 「地球はどうなる?」彼はくぐもった声でいった。「あの星や、この植民都市の維持は……」 「地球が決してきらいなわけじゃありません、──歴史は古いし、生物はみんななつかしいし……しかし、ぼくらの身になって考えてください。地球にいるかぎり、地球の文化は、ぼくらに|地球型のおとな《ヽヽヽヽヽヽヽ》になる事を強制するでしょう。いいかげんな年になったら宇宙を見上げてうろつくのをやめて、きちんとつとめて、結婚して、家庭をもって、子供をつくって……地球はあまりに古くて、あまりに小さくて、あまりに長い歴史のつくり上げた生や社会の形式にがんじがらめにしばられています。でも、ぼくらは、地球や太陽系の外の、あまりに壮絶で美しい宇宙の広さを|見て《ヽヽ》しまったし──それを見せてくれたのは、あなたたちの世代です──そして、その広大な世界への|行き方《ヽヽヽ》も、そこでの|生き方《ヽヽヽ》も知ってしまったんです。こんなぼくらに、なお�外�へ行くな、地球にとどまって、父や祖父や先祖たちのやった通りの生活をしろって強制するのは、ぼくらにとって残酷というもんじゃないでしょうか?」 「|あちら《ヽヽヽ》へ行って──知り合や友人はできるのかね?」 「もうできています。──帰って来た連中が、めいめいの力で行きさえすれば、紹介するって言っています……」 「すると──君はこれから|行ってしまう《ヽヽヽヽヽヽ》のだな……」彼はつぶやいた。「ひょっとすると、私の息子や娘も、もう行ってしまったのだな……。地球や太陽系は……これからさびしくなるな……。君たちはもう、行ってしまって地球へかえってこないのだな……」 「いつかは……」と青年は、ちょっと首をかしげるようなしぐさをした。「帰ってくるかも知れません。でもその時は、超銀河系をふくめた大宇宙の中の、ぼくたちの発生した小さな小さな故郷として……大事に維持する事になるでしょう。そうなるまで、しばらくの間、ぼくたちの見つけた�新しい未来�へ、思う存分つきすすませてください……」 「行くぜ、ジロウ!」と、エア・ロック・ドアの方から三、四人の若者が声をかけた。「用意は全部できた……」 「門《ゲート》はどこにあるのだ?」と彼はいった。「遠いのかね?──通れんまでも、私もそこまで行ってみるわけにはいかんだろうか?」 「残念ながら……」と青年は首をふった。「かなり遠いんです。渓谷まで火星車《マース・カー》で行きます。そこからはもう、歩いて行くよりしかたがないんです。車は自動操縦でかえします。門《ゲート》へついたら、もう宇宙服《スペーススーツ》もいらないんです。そこへみんなぬいで発信装置をつけておいておき、あとからホテルの人にとりに来てもらいます」 「そこから先は……」彼は眼をドームの外にそらしながらいった。「君たちは、|歩いて《ヽヽヽ》、大宇宙の彼方へ去って行くのだな……」 「この宇宙服《スペーススーツ》の下、なんだと思います? 穴だらけのTシャツに、ジーンズとスニーカーですよ……」と青年は笑った。「ではさよなら……もしむこうで、お子さん方にあったら、何かつたえましょうか?」 「いや、けっこう……」と、彼ははじめて微笑をうかべて首をふった。「母親が死んだ、などという事を言ってもらってもしかたがあるまい。もう十六、七年も前の事だし……私も、どうせもうじき妻のあとを追うのだし……地球の事は、もう心配しなくていいといってくれないか?──そうだ、昔の家の庭にあった桜の木は、植物医にかけたおかげで、ちゃんと生きかえった、といっておいてほしい。この間、管理人に連絡したら、今年もいっぱいに花を咲かせたそうだ……」 「わかりました……」と青年はいった。「でも、これはおぼえておいてください。──ぼくらだって、この銀河系のこの太陽系の中の、地球人の子孫ですからね。──地球型生命の後裔《こうえい》が、あの広大な宇宙の中で、どれだけ大きな�美しい未来�を花開かせるか……その意味では、責任はちゃんと感じているし、うまくやるように祈ってほしいと思います……」  青年の言葉をみんなきかず、彼はくるりと椅子をまわし、「若者たち」に背をむけて、ドームから外をながめた。  背後に若々しい足音がいくつも歩み去り、やがてエア・ロックが開閉する音がすると、ロビイの中は急にしんとした。  ドームの外には、いつもの火星の黄昏がせまっていた。──ピンクの夕焼けは地平線におしつけられ、頭上には、小さな三日月がかかり、もう一つ三日月が西の空から上って来てぐんぐん天頂へせまる。無数の星々もかがやきはじめた。  地平線の夕焼けへむけて、黄色の火星車《マース・カー》が、前後左右にはげしくゆれながら、砂ぼこりをまき上げて遠去かって行く。車上の四人の宇宙服姿の若者たちの姿も、最後の夕映えにふちどられてゆれていた。  これから彼らは、あの夕映えの下の渓谷にたどりつき、そこから宇宙服をぬぎすてて、門《ゲート》を通って、あの頂上に輝く星辰の彼方へ、歩み去って行く……。太陽系をこえ、局部恒星系をこえて銀河の中心へ──いや、銀河系をこえ、超銀河系をこえて、さらにその彼方へと……。そして今、ここ火星の上だけでなく、月面上で、地球上で、人類の「若い世代」が、古びた地球をすて、太陽系をはなれて、巨大な流れとなって、滔々と門《ゲート》をくぐり、宇宙の彼方へと歩み去りつつあるのだ。  こんな形で、地球の文明の「終末」がやってこようとは、彼のみならず、誰《ヽ》も思わなかったろう。──いや、こんな形で、地球人類の「未来」がやってこようとは……。  たしかにこれは、太陽系「文明」の終末であり、地球上での「歴史」の終末であったかも知れないが、「人類」の終末ではない。それどころか、地球の人類にとっては、思いもかけない、新しい輝かしい「未来」がはじまったのだ。若い世代が、歴史やその所産である社会文化にがんじがらめになっている古い世代の知らない間に、その「未来」への門を見つけ、扉をおしひらき、そこから滔々と、古い世代の予測もしなかった「新しい歴史」へむかって流れこみはじめた。  ──思うに、農業革命や新大陸の発見や、産業革命、技術革新といった現象を通じてこれまでにも出現した「新しい未来」のはじまりは、そもそもこういったものではなかったろうか。  ふと、彼は、自分がさっきから、かつて見た一人の老婆の事を考えつづけているのに気がついた。──それは、もう四十年以上前、彼がまだ若く、調査の仕事のために、日本中を歩きまわっていたころ、過疎地帯の山中で見つけた、一つの廃村の中で、たった一人で猫といっしょにくらしていた老婆の事だった。山向うで新しく美しい都会が発展しつつあり、まず若い世代から都会へ出て行って、高校、大学へ行き、そのまま都会に居ついて帰ってこなくなった。つづいて、壮年世代が、家族ごとうつりすみはじめた。若い世代にとっては、都会にこそ、新しい、広大な世界にもつながる「未来」があり、一度そこへ出て行くと、もう二度と、深い山中故に、さほどの破壊も変動も蒙らずに数百年かわらず生きつづけた故郷の村へ帰ろうとはしなかった。──すべての人々がうつりすみ、ゆっくりと朽ち果てはじめた廃村の中で、その老婆だけが、死んだつれあいの墓にひかれ、「新しい刺戟」に出あう事に疲れ、駐在や、厚生員の見まわりを時々うけながら、猫を相手に、四季にたたずまいをかえる山林の相を眺めながら、そこを自分の死所とさだめて暮しているのだった。  ──今のわが身を、その老婆とかさねて、考えている自分に気づいた時、はじめて彼の中に、寂寥がふくれ上り出し、それは眼から一滴の涙となってあふれ、しわだらけ、しみだらけの頬をゆっくり伝わり出した。──同時に、彼はすっかり見なれた火星の風景が、地球が、月が、いやけっこうまだまだ広いと思っていた太陽系全体が、俄かに古び、かすかに腐臭をたてはじめるように感じた。 [#改ページ]   曇り空の下で     1  その歌は、突然、何の前ぶれもなしに口をついて出て来た。  軽やかで、テンポが早く、明るく華やかで、どこかあだっぽいメロディだった。  その歌を口ずさみはじめると、急にあたりの風景がはっきりしはじめたように感じられた。  灰色の曇り空の下に、広い道が一直線にのびている。両側の建物はしずまりかえり、街路樹はすべて葉をおとしていた。──道のつきあたりに、巨大な、門のような構造物が見える。  彼は歩道の上にはり出した、客のほとんどいないカフェ・テラスの椅子に腰かけ、テーブルの上にはペルノーのグラスをぽつんとおいて、車一つ通らない大路をぼんやりとながめながら、その歌を口ずさんでいるのだった。  その時、傍に人影がさした。  視線をうつすと、あいているテーブル一つへだてたむこうに、ケープのついた濃いチェスナット・ブラウンの服を着た、ほっそりとした美しい女性が立っていて、彼にむかってかすかにほほえみかけているのが眼にはいった。  年齢《とし》は、見たところ三十前後だったが、実際はもっと上かも知れない。──色白で、品がよく、大胆にデフォルメされたヴェール付きトーク型の帽子を、小粋にかしげてかぶっている。 「珍しい歌をご存知ですこと……」  と、女性はほほえみながらつぶやいた。  彼は反射的に椅子からたち上り、帽子をとった。 「これはどうも……」と、彼は少し照れながら頭を下げた。「お聞き苦しい歌が、お耳にとまりましたか」 「とてもお上手でしたわ……」女性はおかしそうに手の甲を口にあてた。「でも──よくそんな古い歌をご存知ですのね」 「古い歌なのですか?」  彼はちょっと首をかしげた。 「あら……」と女性は、悪い事をいったように首をすくめた。「ごめんなさい。うっかりしてましたわ。──でも、私にとっては……」 「よろしかったらおかけになりませんか?」と、彼は椅子をひいていった。「ごいっしょしていただければ光栄ですが……」  女性はいたずらっぽく眼で笑うと、じゃ、とつぶやいて腰をおろした。──ねっとりとした香水のにおいがあたりにただよった。  彼が軽く指を鳴らすと、今まで姿の見えなかった給仕《ガルソン》が、影のようにあらわれた。──女性はコアントローを注文し、金の口金のついたオストリッチのハンドバッグから、長い象牙のシガレットホルダーをとり出して、緑色の紙で巻いた細巻きの煙草を、メッシュの手袋をはめた手で優雅につきさした。──ホルダーがあまりに長いので、勢い、火は彼がつけてやる事になった。 「その歌、一九二〇年代のフランスの流行歌……」玉虫色の唇から、紫煙を吐き出しながら女性は遠くを見つめるような眼つきをした。「リバイバルで、きいたわ。──宝塚レビューの初期に日本へうつされて、大ヒットしたんですって……」 「じゃ、フランスの流行歌だったんですか……」彼は、左手の指でかるくテーブルをたたいた。「そうか──歌詞が日本語だけど、メロディがどうも日本のものらしくないと思った……」 「訳はずいぶんもとのものと変っているらしいけど、宝塚のレビュー向けになおしたんでしょうね」   ひととせあまりの 永き旅路にも   つつがなく帰る   この身ぞ いと嬉しき  彼はもう一度、その歌を口ずさみはじめた。テーブルの上においた指先でリズムをとりながら……。   めずらしき とつくにの   うるわしき思い出や   わけても忘れられぬは   パリの都…… 「一九二〇年代から三〇年代へかけてのパリって、いい所だったんでしょうね……」 �うるわしの 思い出、モン・パリ わがパリ�のルフランを、彼と一緒に口ずさむと、女性は溜息をつくようにつぶやいた。「香水王のコティがいて、ジョセフィン・ベーカーがいて、シュバリエやジュベェやフランソワーズ・ロゼェがいて、ユトリロが生きていて、ピカソやマチスやダリやブルトンがいて、佐伯祐三や藤田嗣治やヘミングウェイやガーシュインが来て……」 「二つの大戦争にはさまれた、わずか二十年ほどの時代ですがね……」彼は煙草をとりだしながらいった。「二〇年代の前半までは、ヨーロッパは戦争の荒廃と社会不安の中でゆれていた。──ドイツの天文学的インフレーションの話をお聞きになりませんでしたか? 戦勝国フランスだって、本当によかったのは一九二〇年代の後半から、大恐慌にまきこまれる三〇年代の初めまでじゃなかったかな……」 「でも、あのころにはまだ、本当のシックとかエレガンスというものがあったような気がしますわ……」女性は物憂げに、紫煙のたちのぼる先を見上げた。「ヨーロッパに最後の�気品�が残っていた時代じゃないかしら? 第二次大戦後は──直後のわずか五、六年、かぼそくその名残りが生きのこっていて、冷戦時代に完全に死にたえてしまったみたい……」 「ミニ・スカートと、クロックムッシュのせいですか?」彼はちょっと笑った。「で──あなたは、最後のシックとエレガンスの残っていた二〇年代から三〇年代にご興味をお持ちですか?」 「というよりも……」女性はテーブルの上に優雅に頬杖《ほおづえ》をついて、長い睫毛《まつげ》をふせた。「歴史の中で、|本当に《ヽヽヽ》存在しているのは、�美しい時代�と�美しいもの�だけじゃありませんこと?──本当に|残るに値いするものは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……」 「そうでしょうか?」彼はふと、かすかに悩ましい思いにおそわれて、考えこんだ。「本当にそう、お思いになりますか?」  大男の、変に物悲しそうな顔付きをした給仕《ガルソン》が、また影のようにあらわれ、小さなリキュールグラスにいれた淡い金色の酒をテーブルの上に音もなくおいた。  女性はコアントローのグラスをとり上げ、彼もペルノーのグラスを持ち上げた。 「二〇年代のヨーロッパのために……」  と女性はいった。 「あなたのために……」  と彼はいった。  二人はちょっとグラスに口をつけた。 「失礼ですが……」彼はためらいながらきいた。「お名前をうかがわせていただけますか?」 「あたくし?」彼女はいたずらっぽく眼を光らせた。「そうね──東条理恵とでも申し上げておきましょうか。むろん、本名ではありませんけど……」 「そうですか……」彼は大仰に会釈した。「申しおくれましたが、私は……」  不意に自分の中で、言葉と記憶がふっつりととぎれるのを感じた、──彼は焦り、じっとりと汗をかきそうになり、ぶざまに口をぱくぱくさせた。 「私は……」必死に自分の名を言おうとしながら、彼はしわがれた声でくりかえした。「私は……」  東条理恵と名のった女性は、そんな彼を、むしろあわれむように、かすかな笑いをうかべて見つめていた。 「けっこうですわ……」彼女はくすっと笑って視線をそらせた。「あなたのお名前は、別にうかがわなくても……」  理恵は再びリキュールグラスをとりあげ、大路の彼方へ眼をむけた。  瞬間的な失語症状から解放された彼の視野に、その完璧《かんぺき》といっていいような端麗な横顔がうつった。──とたんに彼の中で、かっと熱く燃え上るものがあった。  森閑とした大通りの上の曇り空は、急速に光を失いつつあり、通りのつき当りの、四角く巨大な門は、黒々としたシルエットに変って行った。──あたりが暗くなるにつれ、大通りの門と反対側の方角から、活気にみちたざわめきが高まりつつあった。眼のすみに、華やかに交叉する無数の光の点がうつりはじめた。  今は、歌を口ずさんでいるという意識はなく、唇はひきむすばれたままなのに、あたりにはあの歌のつづきがただよい、遠くから流れてくるざわめきとまじりあい、やがて大ぜいのコーラスとなって、通りの上を流れはじめた。   たそがれどきの   そぞろ歩きや   行きこう人も いと楽しげに   恋のささやき…… 「そろそろ失礼しますわ」といって、東条理恵は、なかばを残したコアントローのグラスをテーブルの上で彼の方に押しやった。「お目にかかれて……お話ができて、たのしかったわ。じゃ、またいつか……」 「お待ちください」彼は思わず腰をうかした。「まだ何もお話ししていません。……どちらへいらっしゃるんです? ご一緒してかまいませんか?」  東条理恵は、びっくりしたように、その大きな眼を見開いて、彼の顔をまじまじと見つめた。──かすかな混乱とためらいが、象牙をきざんだような、なめらかで美しい頬の上にあらわれた。 「いえ……」と彼女は、ややあって、ゆっくりと首をふった。「それはだめ……あなたに、そんな事はできないはずだわ……」 「あなたがだめとおっしゃっても、ぼくはついて行きますよ」彼は決然といって、テーブルの上から、白いキッドの手袋をとり上げ、傍の椅子から杖《ケーン》をとって脇の下へはさみ、縁《ブリム》の広い帽子を頭にのせて、片肱《かたひじ》を曲げて彼女の方につき出した。「さあ、まいりましょう。──どちらへおともしましょうか?」     2  フーケの店のカフェ・テラスを出て、シャンゼリゼの大通りを、グラン・パレのあたりまでくると、突如と言っていいくらい、あたりに人影がふえはじめた。  雑踏は、コンコルド広場からマドレーヌ寺院へかけてますますふえ、オペラ座のあたりでは、肩と肩とがぶつかるほどになっていた。──路上に電気の明りがあふれ、どこからかたのしげなアコーディオンの曲が流れ、自動車はやたらにクラクションを鳴らし、暗い空に色とりどりの風船がうき上って行っては消えて行く。貂《てん》の毛皮の襟《えり》をつけた真珠色のダブルのコートに、白いスパッツのついた靴をはき、卵色のボルサリノの下にモノクルを光らせた伊達者が、男仕立《タイユール》てのスーツに、男もののような中折れのトロッターを、粋に斜めにかぶった女と腕を組み、颯爽と歩道の上に靴音をひびかせて通りすぎる。新聞売り子の声、|焼き栗《マロン》の香り、嬌声、陽気な笑い声、──突然群衆の中からどよめきが上り、多くの顔が空を見上げる。人々が帽子をふり、歓声を上げる方角の夜空に、|電 飾《イルミネーシヨン》を一ぱいにつけたツェッペリン飛行船がゆっくりとあらわれる。トロカデロあたりから放射される数条のサーチライトの中に、紅白の煙の尾をひく、三機のニューポール複葉機がうかび上った。東の方からもう二機、大型のサルムソンと、新しいデザインのドボアチン機があらわれ、飛行船にまとわりつくように、曲技飛行する。そのまわりに花火がいくつも上った。 「いったい今夜は何があるんです?」雑踏の中で、彼女とはぐれないように懸命に人の流れと闘いながら、彼はまわりのざわめきに対抗して大声できいた。「何かのお祭りですか?」 「知らないわ……」理恵は通行人にぶつかられてよろけながら首をふった。「それよりあなた……あなたは、|こんな所《ヽヽヽヽ》へ来てはいけないんじゃないの?」 「そんな事より、何とかこの人ごみをぬけ出しましょう……」彼は雑踏の中でのび上りながら、方角を見さだめた。「どこかで食事でもしましょう。──腹がへった」  オペラ座の前から、リュ・ド・ラ・ペをヴァンドーム広場の方へ少し流された所で、やっと人ごみがまばらになった。  道ばたに立って、彼は光の洪水のように流れてくる車のヘッドライトの中から、タクシーをとめようと、懸命に手をふった。──古めかしい、しかし、いかにもエレガントな型の車が、次から次へと、クラクションを鳴らしながら通りかかる。優美な流れるようなフェンダーをもったシトロエン、木製の、ボート型のテイルを持った派手なイスパノ・スイザのスポーツカー、長い精悍なノーズをもったメルセデス・ベンツやベントレー、豪華な赤い皮張りの内装のヴァオザン、角張ったラジエーターグリルに、ジョンブルのかた苦しい威厳を見せるロールス・ロイス、軽快でシックなルノーやプジョー……純白と金と地中海ブルーにぬりわけられた、優雅で豪勢なブガッティ・ロワイヤルのサルーンが通りかかった時には、さすがの彼も、息のとまる思いで見送った。明るい照明のついた後部座席には、大きな宝石のついたターバンをかぶった、トルコかインドのサルタンらしい人物が、ヴェールで顔を半分かくした美女と、オレンジ・イエローのシートにゆったりと腰かけ、冷たく傲岸なまなざしでまわりを見まわしていた。  タクシーをとめて、二人はモンマルトルの丘に近いピガール広場へ行った。──そこの小さなレストランでよく冷えたブルゴーニュの白で牡蠣《かき》と海胆《うに》をつまみ──理恵は、ブロンという丸い貝殻の牡蠣を一ダース半も食べた──蛙の脚のソテーと、リ・ダニョー(仔羊の甲状腺)を食べ、それから……フォリイ・ベルジェールの豪華なレビュー、どこかの酒場でのミスタンゲットの唄、まだ売り出し前のダミアが、小さなカフェーで、のちのあのものうげでメランコリックな唄のかわりに、テンポの早い軽いシャンソンを、パンチのある身ぶりで歌っていた。�サ・セ・パリ�や�ヴァレンシア�など、など──パリはレビューのあおりか、ちゃかちゃかしたパソドゥーブルが全盛で、ムーラン・ルージュのカンカン踊りの伴奏にまでつかわれており、それにカジノ・ド・パリやリドの舞台に、アメリカからわたって来たチャールストンが、新進のダンサーF・アステアのタップと一緒にかかりはじめた所だった。  そして、──夜空に輝きながらまわる赤い風車を、歩きながら何度もくりかえし見たような気がするが、気がついた時は、モンマルトルの丘のジラルダン街あたりを歩いており、それから、「霧屋敷」やムーラン・ド・ラ・ギャレットはすぐ見つかったのだが、目ざす安酒場「|はねうさぎ《ラパン・アジル》」をやっと見つけた時は、もう夜中をすぎていた。安っぽいアブサンや、いがらっぽいトルコ煙草の臭い、そして──おそらくは──阿片かハシッシュらしい青くさい臭気に、不精鬚だらけのボエミアンたちの吐く強烈な|にんにく《ヽヽヽヽ》の臭気がまじるよどんだ空気の中で、やっと片隅に席を見つけ、彼はシャルトリューズ、女はクレーム・ド・マントなどを注文して、 「え?」と理恵は美鬚を胸までたらした、自称亡命ロシア貴族の大男の給仕《ガルソン》にささやかれて、酔眼を見ひらいてきょろきょろさせた。 「ピカソが来てるの? どこ? どこよ」 「ピカソじゃないよ。──シュールの画家のピカビア……フランシス・ピカビアだよ。ほらあそこに……マックス・エルンストと一緒にいる」  その対偶に、喧騒から顔をそむけるようにすわっている中年がユトリロで、それと背中あわせにすわって若い女性に早口でまくしたてているのが、詩人のフランシス・カルコだと、給仕《ガルソン》は教えてくれた。 「すごいわ……。夢みたい……」彼に肩を抱かれ、首筋に唇をはわせられながら、理恵はくすくす笑って叫んだ。「みんな……あの人たちみんな、|生きて《ヽヽヽ》いるのね!」  それから──ひと目で肺病やみと知れる青い顔のやせ衰えたギター弾きの伴奏で、首に赤いハンカチを巻いた、ジゴロみたいな若者が、所々メロディをつけて、ギョーム・アポリネールの詩を朗誦するように唄うのをしばらく聞き(シャンソンの唄い手の事を|歌 手《シヤントウール》と言わずに|語り手《デイズウール》というんだよ、と、彼は理恵にささやいた)それから──いつそこを出て、どこをどう歩いたかはっきりおぼえていないが、曇り空の雲がいつかうすれて、サクレ・クール寺院の尖塔の上に、おぼろ月がひっかかっているのだけは二人ともはっきりおぼえていた。肩を抱き、腕にすがって、蹣跚《まんさん》と体をぶっつけあうようにモンマルトルのだらだら坂をおり、辻でタクシーをとめ……。 「ね、ここはどこ?──どこなのよ?」  口だけは大層そうに、とがった調子をこめながら、理恵の顔はずっと笑いをうかべたままだった。 「しッ!──ここは�北ホテル�だよ、ほらあそこのロビイにすわって、考えこんでいる人はユージェーヌ・ダビかも知れないよ。あまり派手にさわぐと、彼の小説に書かれてしまうかも……」  あくびまじりのコンシェルジュから鍵をうけとって、きしむ階段を二階に上り……うそ寒い北ホテルの、北西向きの安い部屋で、安ベッドがぎいぎい泣いて、見かけとは裏腹の、すごく情熱的な女性で、それにむやみやたらとよくからみつく四肢だな、と、彼は酔っぱらっている癖に、芯のさめている頭のすみでぼんやり思った。 「まさか!」  と、突然理恵がショックをうけたような声で叫んだのは、窓の外の、まだ暁闇と霧にとざされたサン・マルタン運河から、どこどこと艀《はしけ》のエンジンのくぐもった音がひびいて来た時だった。 「うそよ!──うそでしょう。こんなのだめよ。いけないわ!……あなた、こんな事をなさっては……」 「なにが?」  彼はゆっくり体を起して、ほのぐらいベッドランプの光の中で、理恵の顔を見た。うすくピンクがかった紗のシェードごしの明りが、端正な理恵の顔を、ひどくあだっぽく見せていた。 「こんな事って、あるかしら……」理恵は頭痛を感じたように、手の甲を額にあてた。 「あたし……あたし、あのカフェ・フーケのリキュールで、もう酔っぱらっていたんだわ。でも、まさか……」 「愛しているよ」と、彼は理恵の頬を両手にはさんで、そっとくちづけした。「君となら、どこへでも行く」 「だめ!」理恵は彼の顔と胸を押しかえそうとした。「それはだめ! そんな事はだめ!──あなた、もうおかえりにならないと……あなたは、こんな所へいらっしゃっては、いけないんだわ」 「なぜ?」彼はもう一度強引に唇をかさねて言った。「どうしていけないんだ?──どうしてぼくが君と……」  どちらからともなく、再び獣の刻が訪れた。──彼の胸をおしていた理恵の手が、突然彼の頸《くび》にからみつき、下半身がゆるみ、もり上ったなめらかな双の乳房が、彼のかたい胸にこすりつけられた。  運河をへだてた向う岸の東停車場が、あるいはそのもう一つ先の、北停車場を出て行くらしい汽車の汽笛が、あけ方の静寂《しじま》の中に長くひびきわたった。──彼は、汗ばんだ顔を、汗にぬれて上下する理恵の乳房の丘の間に伏せ、あえぎながらもの悲しい汽笛の音をきいていた。 「これから君は……」と、彼は息をととのえながらささやいた。「どうする?──どこかへ行くの?」 「遠くへ……」理恵は、乳房の間に伏せられた彼の頭の髪に、細い指先をからませながらつぶやいた。「おわかれよ。もうあなた、おかえりにならないと……。あたし、次はウインへ行くの……」 「ウインでもどこへでも、一緒に行く……」と彼はいった。「何で行くの? イスタンブール特急で?」  理恵は、びっくりしたように、両手で彼の顔をもち上げ、まじまじと彼の顔を見た。──大きく見開かれた眼の奥に、かすかに笑いがうかんだ。 「え?──なんだって?」  彼はおどろいてききかえした。 「いま、なんて言ったの?」 「──それはむり、って言ったのよ……」理恵はくすっと笑った。「だって、これから私が行くのは……一八一四年《ヽヽヽヽヽ》のウインですもの……」     3  ケルントナー通りの舗石の上に、雪が降りしきり、聖シュテファン寺院《キルヒエ》の尖塔も、華麗にして壮大なハプスブルグ王朝歴代の宮殿ホーフブルグ宮の屋根にも白く雪がつもり出していたが、大通りを行く青、白、臙脂《えんじ》、金色などの華やかな馬車の列は絶えず、それにむかって、街の人々はまた、婦人も子供も、老人も若者も、誰それと馬車の主の名を呼んで歓声をあげ、色あざやかなスカーフをふり、五色の糸を投げかけるのだった。──馬車の轍《わだち》は、まるく摩滅《まめつ》した舗石にガラガラとやかましい音をたて、赤、青、緑の制服に金銀の肩章《エポレツト》や胸かざりをつけ、銀のヘルメットや、黒い毛皮の帽子をかぶった近衛兵や槍騎兵が、かっ、かっと、蹄鉄《ていてつ》のかたい音をひびかせながら、貴顕君主の馬車の両側をかためて行きすぎる。  この寒さに、ビロードのチュニックに絹ブラウスという薄着の町娘たちがかけよって、ハンサムな騎馬兵に、リボンでむすんだコンフェッチの包みや、自分の所と名前を刺繍したハンカチ、ドライフラワーの束などをあらそっておしつける。何人かに一人、伊達者の小尉などがその花束やハンカチなどをうけとって胸にさし、白手袋の右手をあげて敬礼などかえして見せると、路傍の群衆からは、一せいに嬌声がまき起るのだった。 「ね、早く……」  理恵は、毛皮のマッフから片手を出して、彼の腕をひっぱった。 「あっちへ……シュヴァルツェヴェルリの方へ行って見ましょうよ。──�アガメムノン�の馬車はもう行ってしまったかも知れないわよ。私、どうしても、ひと目でいいから、彼の顔を見たいの。今日の諸侯の宴会は、ベルヴェデーレ宮であるんでしょう?」  彼は──グリーンのフロックコートの上から、毛皮の襟つきの同色のマントをはおり、辛子色のトップハットに鼻眼鏡《パンス・ネ》という気どったスタイルをさせられた彼は、黒い毛皮のコートと帽子をつけた理恵に手をひっぱられ、すべりやすい石の歩道の上を、息せき切って大またに歩いた。  辻々に、いかめしい鬚をはやし、青い制服を着た憲兵が立っている。──その一人のつき出た腹にどんとぶつかり、彼はあわてて弁解するようにたずねた。 「あの……ロシア皇帝陛下の鹵簿《ろぼ》は、もう通りすぎましたか?──彼女が……私の連れが、アレクサンドル陛下の行列を、どうしてもひと目拝したいと申しまして……」  初老の憲兵は、半白の鬚をひねり上げ、だまってインネレシュタットの城壁をぬけて、ベルヴェデーレ宮へむかう、まっすぐなシュヴァルツェヴェルリ通りを指さした。  ──一八一二年、ロシアに侵入し、モスクワにせまったナポレオンの軍隊を、�冬将軍�とともにむかえうち、ついにこの�不敗の軍隊�を敗走せしめたロシア皇帝アレクサンドル一世は、自らをトロヤ戦役のギリシャ軍総指揮官アガメムノンにたとえ、ナポレオン降伏後のウインにおけるヨーロッパ列国会議の、立役者であり花形であった。そしてまた弱冠三十四歳の、ホルスタイン=ゴットルプの血をひくロマノフ王朝のハンサムな皇帝は、その開明主義的、自由主義的な教養とあいまって、「会議は踊る」と言われた、華やかな宴会、舞踏会つづきの、ウイン会議につどった、全欧社交界の貴顕淑女たちの花形でもあった。  ──ついて来てはいけない、と強く言われながら、理恵の魅力に抗《あらが》いがたく、強引に、一八一四年冬のオーストリア・ハンガリイ帝国の首都ウインについて来てしまった彼は、この華麗なかつての神聖ローマ帝国の都でおこなわれている「会議」の興奮にもまれてくたくたになってしまった。  それは、まさに世紀の一大ページェントであり、いつ終るとも知れないお祭りさわぎだった。数多くの楽聖と楽師、舞踏会場や宮殿を擁し、日ごろからただでさえ舞踏会、宴会、演奏会やオペラといった華やかな「社交」の好きなウインの街と人々は、ロシア、プロイセン、オーストリアの皇帝と、イギリス、フランスの外交使節団が連日連夜裏かけひきを秘めて催す舞踏会や宴会の豪勢さに、酔い痴《し》れたようになってしまっていた。  勢ぞろいした列国代表団の顔ぶれだけでも、豪華なものだった。──ロシア皇帝アレクサンドル一世はじめ、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム、オーストリア皇帝フランツ一世、そしてオーストリア宰相のメッテルニッヒ、フランスの策士タレイラン、イギリス外相カッスルレー、ロシア全権ネッセルローデ、プロイセン全権ハルデンベルク等、等……。これだけの、当時のヨーロッパ第一流の帝王、諸侯、政治家、策謀家がまさに一堂に会し、連日表の饗宴と裏での秘密のとりひきと腹のさぐりあいに秘術をつくしていた。そのほかにも各国から使節、代表がウインへ派遣され、正式の代表の数は、実に二一〇人に及んだという……。  会議たけなわの十二月中旬にこの都にのりこんだ理恵は、たちまちこの街の興奮にまきこまれ、連日ホテルやカフェに配られる粗末な速報誌や、社交界案内を眼をかがやかしてむさぼり読んでは、ロシア皇帝とウインの街娘のロマンスのゴシップに熱を上げたり、今日はシェーンブルン宮で誰それ伯の舞踏会、明日は何とか侯夫人主催のパーティ、あるいは外交官ムッシウなにがしの主催する音楽会といったニュースをひろい出し、伝手《つて》を求め、袖の下をつかって、何とかもぐりこむチャンスをつかもうと、むなしい努力をつづけるのだった。 「お聞きの通り、ヘレネの義理の弟の馬車は、離宮へ行ってしまったよ……」彼は白い息を吐きながら理恵をふりかえった。「でも、まあ、会議はまだまだつづくさ。──さあ、寒いから、そこらへんの居酒屋《ケラー》かカフェにでもはいって、何かあたたかいものでも飲もうよ」  そこはザンクト・マンナ教会のすぐ近くだった。──二人は雑踏をわけて、街角のレストランにはいった。  中はかなり混みあっていたが、二人は窓際の、楽団演奏席に近い席を見つけ、彼はグロッグを、理恵はトルココーヒーを注文した。  まだ昼食の前だというのに、演奏席では、弦楽四重奏が、軽やかで上品なワルツを演奏していた。──うち三人はかなりな年配だったが、第二ヴァイオリン奏者の若さに理恵はびっくりしたように彼の腕に手をおいた。 「ね、あの子ごらんなさい。──まだ子供よ、十歳《とお》か十一ぐらいじゃない?」 「ウインには、少年合唱団だけじゃなくて、あのくらいの年齢の天才少年がうようよいるはずだよ……」と、彼は屋内のあたたかさでくもった鼻眼鏡《パンス・ネ》を、リネンの布でぬぐいながらいった。「モーツァルトも、たしか四歳でピアノをひき、五歳か六歳でメヌエットを作曲している……」  一曲終った所で、裏の方から、かなりな年配のヴァイオリン奏者が、赤くなった鼻をくすんくすん言わせながらあらわれた。──第二ヴァイオリンをひいている少年の肩をたたくと、彼に何枚かの貨幣をわたし、ほかの奏者にあいさつして席についた。二曲目がはじまったが、どうも少年の方がうまいように思えた。  少年は、小さなヴァイオリンをケースにしまって、演奏席の傍におくと、その横にあった、たくさんの、折っただけでまだ綴じていない印刷物を重そうに持ち上げ、客席の隅の方をぬうようにして戸口の方へ行きかけた。 「坊や、お上手ね。──おいくつ?」  と、少年が傍に来た時、理恵はきれいなドイツ語で──それもウイン訛《なま》りで──声をかけた。 「十歳です……」と、赤い頬にひびをきらせた少年は、神経質そうに眼を光らせて答えた。 「いつもここで弾いているの?」 「いえ──ときどき、たのまれて……今日も、シュミットさんが、奥さんの具合が悪くておくれるので、かわりに……」少年は、印刷物を重そうに持ちなおした。「今、製本屋で、働いているんですけど、──本当はずっと音楽の方をやりたいんです」 「そう……」と理恵はほほえんだ。「その方がいいみたいね。お名前、きかせてくださる?」 「シュトラウス……」と少年は立ち去りかけながら言った。「ヨハン・シュトラウスっていいます」  出て行く少年の姿を眼でおいながら、理恵はあっけにとられたように、ぽかんと口をあけていた。 「ね、きいた?──シュトラウスだって……」と理恵は彼の腕をゆさぶった。「あの子が……|ヨハン《ヽヽヽ》・|シュトラウス《ヽヽヽヽヽヽ》よ」 「年恰好から言って、親父さんの方だよ。──�ラデツキー行進曲�のヨハン・シュトラウスだ……」と彼はつぶやいた。「�ワルツ王�のヨハン・シュトラウスは、彼の息子さ……」 「�フィデリオ�の入場許可証、もうお手にはいりましたか?」と飲物をはこんで来た、フロックコート姿の給仕が、表情も口もとも全然動かさずにぼそぼそと言った。「今なら……私なら手にはいりますよ。少々値がはりますが……ロシアの皇帝やプロイセン王も、みんないらっしゃるそうですよ。今月の末、場所はアカデミーの大舞踏会場です。──この五月、ケルントナートールで上演された時は、すごい人気でしたよ」 「�フィデリオ�ですって?」  理恵は眼をあげた。 「そうです。前のオペラ�レオノーレ�の改訂版です。──ほら、|あの方《ヽヽヽ》のつくった、はじめてのオペラですよ」  給仕が眼配せした方向を見ると、レストランの反対側の窓際に、半白の髪をもじゃもじゃに乱した、色のあさ黒い、容貌魁偉な四十男が、数人の連れと一緒にマントもぬがずにすわっていた。口をへの字にひきむすび、眼をぎらつかせ、話を聞く時はぎゅっとそちらに顔をむけ、耳を近づける。 「あ、あの人……」と小さく叫んで、理恵は反射的に口をふさいだ。「たしか……ルドウィッヒ……」 「ええ、ファン・ベートーヴェン先生です。今度の�フィデリオ�は御自分で指揮されるそうですが、──あの方も、このごろだんだん耳が悪くなって来ているそうで……」 「ちょっと……」と、彼は理恵の肩に触れた。「見てごらん。ほら……あのベートーヴェンのいる席から左へ三つ目の席にいる若い青年……彼は……もしかしたら……」 「フランツをご存知ですか?」と給仕は、淡い髪の、病弱らしい青白い顔を伏せた、気の弱そうな、まだ十代の青年の方にちらと視線をはせた。「この間まで、コンヴィクトで聖歌隊の訓練生だったんですが、去年声変りでやめて、今は親父さんの小学校の先生をしていますよ。──ええ、シューベルトさんの息子です。今年もう十七ぐらいになったんじゃないかな。このごろでは、何でも作曲に凝《こ》っているそうで、例のヴァイマール公国の大文豪の詩に曲をつけたとかいう話で……ベートーヴェン先生によかったら紹介してやるよって言ってるんですが、気が弱くって、ああやって大先生がくると、はなれた所にすわって、じっと顔を伏せているんです……」 「いっそ、ゲーテに紹介してやったら?」と彼はからかうように言った。「たしか──�|魔 王�《エールケーニツヒ》って詩に曲をつけたんだろう?」 「私はもとのヴァイマール枢密顧問官どのは、よく存じ上げませんので……」と給仕はつぶやいた。「どっちにしたって、ああ気が弱くちゃ、とても大成しそうにありませんね。──今日は、あの風変りな大先生の誕生日なので、家での宴会以外に、必ず内輪の人たちとここへ来るよって教えてやったんですが……とにかく、このウインじゃ、音楽家、大演奏家志望の若いのは、掃いてすてるほどいるんでね……」  もし、入場許可証をお求めになりたかったら、ハンス・Kと言ってください、といいのこして、給仕はテーブルの傍をはなれた。 「どうする?」と彼はグロッグを吹きながらきいた。「演奏会は、たしか十二月二十九日だ。その時行けば、ミスター・アガメムノンの顔も、ロイヤルボックスで……」 「だめ……」と、窓外に降りしきる雪を見ながら理恵はぽつりと言った。「もうそろそろ次へ行かなくちゃ……」 「次《ヽ》へ?」彼は思わずグロッグのカップを口もとからはなしてききかえした。「次って……今度はどこへ?」 「そうね──」理恵は何かのパンフレットらしいものをとり出して、ページをくった。「次は、たしか……」     4   天津橋下陽春水   天津橋上繁華子……  誰かが琵琶を弾じながら、朗々と劉庭芝《りゆうていし》の「公子行」を吟じている。  彼は旗亭の二階の窓にたれた紅青の簾をかかげて、思わず階下を見た。──眼下にとろりと洛水《らくすい》の流れ、岸にそって楊柳が青く芽をふき、このあたりに軒をつらねる青楼|酒肆《しゆし》の庭先に、紅白の桃李の花がこぼれ、東都洛陽城の大廈《たいか》宮殿は遠くの霞の中にぼかしこまれている。  春三月、時は七世紀後葉の唐|中宗《ちゆうそう》代の嗣聖四年──といっても、実質的には現帝の母則天武后の、すでに先代高宗の顕慶五年以来、三〇年ちかくにわたっての支配下にある初唐期末だった。この年、東海の島国|大倭《たいわ》でも、天武帝の没後、皇后|※[#「廬+鳥」]野讃良媛《うののささらひめ》が帝位につき、中国、日本|相《あい》ならんでの女帝時代という歴史上珍しい時期が訪れる。   可憐楊柳傷心樹   可憐桃李断腸花   此日遨遊邀美女   此時歌舞入娼家…… 「公子行」はなお声高につづいている。──洛水をわたって、対岸に行きかう貴人遊子の車馬の列にまでひびかせようとでも言うように…… 「歌っているのですか? 李さんですよ」と、肉餅と酒瓶をもってきた亭主が階下をのぞいていった。「いえ、左拾遺をつとめられる、りっぱなお役人ですが、江蘇の人なので、都ものとちがってなかなか剛直な方で……今日も、対岸の遊崖に、宋大官がおしのびでこられているときくと、突然琵琶をかせと言われて、劉庭芝の詩を……」  そこで、ちょっと声をひそめ、 「ご存知でしょうが、宋大官は五年前なくなられた劉進士の舅さんで……劉進士の白頭翁の七言歌の、あの有名な�年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず�の対句、あれを宋大官が大変気に入られて、ぜひ自分にゆずってくれ、と言われたのに、劉進士がつっぱねて、自分の詩として発表されたので、それを怒って、奴僕に土嚢で圧殺させたとか……東都もこのあたりじゃ誰一人として知らないものはない話で……。それを知っていなさるから、李さん、宋延清(宋之問)大人が来ているときいていやがらせに……まあ、宋大官は、天后さまに目をかけられ、張兄弟にとり入り、大変な栄達ぶりなのに、李さんと来たら、やたら上司や廷臣に直言して、衝突ばかりくりかえして、出世もおぼつかない硬骨漢ですからね……」  亭主は首をすくめた。 「まあ見ていてごらんなさい。�公子行�がすんだら、いよいよ�代悲白頭翁�の詩にとりかかりますから……。でも、あの詩をきいていると、本当に夭折《わかじに》なさった劉進士の事が思い出されますねえ。あの人は、美男で、琵琶の名手で、すてきな遊び上手で、ここらへんの女どもは、本当に溜息ばかりついていましたからねえ……」  亭主が出て行くのと入れかわりに、理恵がはいって来た。──髪を捲き上げて中央に髷《まげ》を立て、金銀の薄片の透しに紅緑の玉をおいた髪飾りを両鬢《りようびん》につけていた。群青《ぐんじよう》の綺縞《きこう》の上衣に、|黄※《こうし》の長い裳をつけ、白絹の細帯を胸高にしめて端を長く前にたらしている。眉を細く弧に描き、頬にうす紅をさした顔は、ふっくらとあでやかで、唐三彩の美人像を見るようだった。  近づくと、鬱金香《うつこんこう》の香りがかすかに身近から漂う。 「お目あての玉は見つかったかい?」といって、彼は理恵の、ほっそりとした体を膝の上に抱きとりながらきいた。「亭主にきいたが、いい玉は、やはり長安へ行かなければないそうだ。胡酒なら、ほら、ここにあるし、金髪碧眼の胡姫も、対岸のあたりに突厥《とつけつ》系の舞姫がいるそうだがね……」  唐代衣装の下の理恵の体は、なよなよとして、今にも溶けてしまいそうだった。──彼女は少し瘠せた、と、彼は青絹の上から乳房をまさぐりながら思った。目方も少し軽くなったようだ……。  かすかな風が、霞のかかった春の空から吹き、どこからか一ひら二ひら、白い花びらが舞いこんで来た。   洛陽城東 桃李の花   飛び来り飛び去って誰《た》が家に落つ……  と、階下の歌は、「代[#下]悲[#二]白頭[#一]翁[#上]」の詩に変った。──それを聞きながら、彼は手をのばして、そっと隣室の帳《とばり》をかかげた。  旗亭階上の個室は、酒卓に椅子を配した部屋のつづきに、寝台をおいたほの暗い部屋が設けてある。なまめかしい朱錦《しゆきん》のベッドの上に麻布でおおった枕が二つ見えている。  かかえ上げて隣室へはこぼうとすると、理恵は突然、深い溜息をついて、いやいやというように首をふってこばんだ。 「どうしたの?」と、彼はきいた。「つかれたかい?」  風はなお、そよそよと、紅白の花びらを送りこんでいた。   洛陽の女児 顔色を惜しみ   行きて落花に逢うては長歎息す……  歌は、風にのって、階下から舞い上り、浅葱《あさぎ》色の空をわたって行く。   今年花落ちて顔色改り   明年花開いて復《ま》た誰か在る…… 「少し、疲れたわ……」と理恵は弱々しくほほえんだ。「それに……もう、ここも行かなきゃ……」 「西域の玉も買わずに?」と彼はやさしく聞きかえした。「よし、──じゃ……次はどこへ行く?」 「もうどこへも行かない……」理恵は甘えるように、彼の胸に顔を伏せた。「あたし、もう帰らなきゃ……。だってもう、そろそろ……閉館《ヽヽ》時間ですもの……」 「待って……」彼は突然はげしい不安を感じて、叫ぶように言った。「帰るって……どこへ? ぼくも君と一緒に行く……」 「だめよ……」理恵は乾いた声でつきはなすように言った。「それは、不可能だわ。どうやっても……」  ふいに、理恵の体はするりと彼の腕からぬけ、床におちた。──と思うと、あたりが突然うす暗くなり、うす暗がりの中で、理恵は数メートルむこうに、最初あった時の服装で立っていた。ケープつきの濃い茶色の服を着て、ヴェールのついたトーク型の帽子をややかしげてかぶって……。   古人|復《ま》た洛城の東に無く   今人|還《め》ぐりて対す落花の風……  と李某の歌声だけが、暗灰色の霧の彼方からかすかにきこえてくる。 「どういう事なんだ?」と、彼自身も、最初にあった時の服装にかえっているのに気づいて、悲鳴のような声で叫んだ。「いったいどうなっているんだ?──なぜ、これ以上ついて行けないんだ? 説明してくれ!」  薄明の中にほの白くうかんでいた理恵の顔が、くるりと後をむいた。──暗い霧の中に、かっ、かっ、とハイヒールの音が高く反響しつつ遠去かって行く。 「待ってくれ! 理恵!」と、彼は叫びながら立ち去って行く理恵のあとを追った。「どこへ行くんだ? 教えてくれ!」  ……年年歳歳花相似たり……歳歳年年人同じからず……と劉庭芝の詩は、もはや彼の耳にではなく、あたりの霧の中から湧き出て、直接頭の中にひびいた。──前を行く理恵の姿は、ややあきらめたように歩度をゆるめ、彼は追いつきそうになった。  と──突然あたりが明るくなった。行く手に、これまで理恵と「遍歴」して来たさまざまの時代の、さまざまの土地の光景が、朦朧《もうろう》とうかび上った。前三世紀のプトレマイオス朝エジプト……ユークリッドやアルキメデスとも出あった、ヘレニズム文化全盛時代の首都アレクサンドリア……。あるいは、紀元九世紀初頭、「千一夜物語」で有名な、アーバース朝五代の教王《カリフ》ハルーン・アル・ラシード治下のバグダード……あるいはムガール帝国全盛期のインドのデリー……そして、十五世紀後葉、「いぶし銀」の東山文化全盛時代の京都……。すべて彼ら二人が訪れ、体験《ヽヽ》した時代と土地であり、──ただ、今は、二人が通りぬけるそれらの時と所の光景は、凍結したように動かず、音もなかったが……。 「まだおわかりにならないの?」光景と光景をへだてる薄明の中で、理恵は弱々しくほほえんで、溜息をつくようにつぶやいた。「ここが……�体験美術館�だって事が……」 「体験美術館《ヽヽヽヽヽ》?」彼は愕然として足をとめた。 「ええ──そういうものが、私の住んでいる世界にはあるの。ふつうの絵画をならべた美術館じゃなくて、そこに展示されている、ある時代のある場所の|中に《ヽヽ》、観覧者がはいりこんで行って、その時代の生活を実際に�体験�できる美術館が……」  では……|おれ《ヽヽ》は……と、彼はあえぎながら、声もなく思った。 「ええ、そう……」と理恵は、人気《ひとけ》のないシャンゼリゼの、フーケのカフェ・テラスをさしながらうなずいた。「あなたはここの……無名の日本人画家の描いた、�凱旋門とカフェ・テラスのある風景�っていう、体験用に加工された絵の、点景人物なの。──さ、ここがあなたのいる場所よ。今日はほかに入館者がいないって受付で言っていたからいいけど、あなたが�展示�の中からいなくなってしまったら、ほかのお客がクレームをつけるわ」  彼は灰色の曇り空の下のすっかり落葉した街路樹と、黝《くろず》んだ凱旋門を見わたした。 「でも──不思議な�体験�だったわ。展示品の中の人間と恋におちて、|ほかの《ヽヽヽ》展示の世界を、一緒にめぐるなんて……」理恵はちょっと肩をおとしてつぶやいた。「でも……ひょっとして、|あなた《ヽヽヽ》たちの方が、実在していて、私たちの方が、影のように通りすぎて行くだけの存在かも知れないわね。歴史の中の美しい時代の美しいものだけが、こうやって、この美術館に�永遠の生命�を与えられて、保存されているんですもの……」  ……宛転《えんてん》たる蛾眉《がび》、能《よ》く幾時《いくとき》ぞ……須臾《しゆゆ》にして鶴髪《かくはつ》、乱れて糸の如し……と、理恵はつぶやいているようだった。  じゃ、といって、理恵は背をむけ、影のように通りを立ち去って行った。彼は再び無人のカフェ・テラスの椅子に腰かけ、灰色の曇り空の下で、凱旋門のシルエットを見つめた。  たとえ理恵のいうように、�永遠の生命�をあたえられているとしても、その情景は、あまりにわびしすぎるように思えた。──その上、理恵が近づいて来た時、ふと口もとにうかんだあの歌は、今はもう思い出せもしなければ、この先二度と、うかんでこないような気がした。 [#改ページ]   山 姥 譚     1 「やあ!」  突然、上座《かみざ》にいた小畑さんが、のび上がるようにして大きな声で言った。 「御苦労さま……。よくできました!」  ぱちぱち、と、期せずして十畳の間に控え目な拍手が起った。 「まあ、どないしよう。かなんわ……」と、敷居際《しきいぎわ》で手をついていた清次|姐《ねえ》さんは、胸に片手を当て、のけぞるようにして、大仰な声をあげた。「そんな事されたら、はれがましゅうて、はいられしまへんがな……」 「さあさあ、ええから、はいったはいった……」と、�世話やき�の大友氏が、もうだいぶ呂律《ろれつ》のまわらぬ舌でもにゃもにゃ言いながら、立って行って手をとった。「ほれ、まぁはよこっちへ来て、いっぱいやり。──なんせあんたは、今夜のスターなんやから……」  姐さん……姐さん、よろしおしたなあ……。と、朋輩《ほうばい》若手のあいさつをうけながら、清次姐さんは、上気した頬に手の甲を当てて、大友氏に手をひっぱられ、小畑さんの横にすわった。  ちょっとさがって、また深く頭をさげて、 「本日は、みなさん、わざわざどうもありがとうございました」  あらたまって言いかけると、 「そんな事、どうでもええから……」右左へビールをじゃぼじゃぼとつぎこぼしながら大友氏が、だだっ子みたいにわめいた。「とにかく、まあ、乾杯《かんぱい》じゃ。──乾杯!」  小畑さんが、きちんと正座したままグラスをささげ、一座も口々に乾杯を唱えた。  細っこいのどを美しくそらせて、見事に一気に飲みほすと、 「ああ、おいし!」ふうっ、と息をついて、急に小娘みたいに若やいだ声になって、「さ、いただこ、いただこ。──ほんまに、このお座敷よせてもろうて、やっと肩の荷がおりたみたいやわ……」 「ああ、どんどんお上り……」小畑さんは、目を細めて、ビール壜《びん》をとり上げた。「ここではもう、つぶれたってかまわんから……いや、本当に、よくできました……」 「おおきに……。先生にそう言っていただくと、急にまわってくるみたいやわ」  清次さんは、ほっと肩をおとして──ほんとうに疲れが出たのか、急に体が小さくなったように見えた。  明けて四十を二つ三つこえる。向う意気がつよくて、頭が無類に切れて、その上大変ながんばり屋で、この土地《しま》では、今や五指にはいる立ち方だが、さすがに花街《かがい》合同の晴れ舞台で、大役を無事果したあとの疲れが、そのきっぱりした顔立ちに色濃くあらわれていた。 「清ちゃん、相変わらず色っぽかったで……」と、大友氏が腕を泳がせながら、見当はずれな事をわめいた。「そやけど、あのあんたの舞いが、もうこれから見られへんと思うと、残念やな……」 「おーさん!……」横に座っていた若い妓《こ》が大友氏の肩をぶった。「その話、ストップ! 姐さん、まだやめると、はっきりおきめやしたわけやおへんのどっせ……」 「なんや、まだ迷うてるんかいな……」と大友氏は口をとがらせた。「迷てるぐらいやったら……」 「もうその話はストップ、言うてまっしゃろ」その妓は大友氏の口に大徳寺|麩《ふ》をおしこんだ。「今夜は、その事なしで行きまひょ……」 「それにしても、ちょっと珍しい�山姥《やまんば》�だったね」私は大友氏の話題をそらすように、清次さんに盃をさしながら言った。「衣裳も奥の着流しで──二人出てくるのは、お能からとった新作かね?」 「いえ──古いもんやそうどす」清次さんは、盃をきれいにほして返してよこしながら言った。 「そうかね。──何しろ、�山姥もの�と言うのは、何だかずいぶんいろいろあって、よくわからない。──長唄に�四季の山姥�ってのがあったろう? それから歌舞伎で、金太郎が出て来て、木ッ端天狗とあばれるやつ……」 「常磐津の�新山姥�ですね……」今度は小畑さんが、清次姐さんに盃をさしながらつぶやいた。「�市川山姥�とも言います。──原題が�薪荷雪間《たきぎおうゆきま》の市川�と言いますので……」 「歌舞伎の方で�しゃべり山姥�ちゅうのがおしたやろ……」と、卓のむこうから、老妓が口をはさんだ。「何や、八重桐ちゅう女子《おなご》はんが出てきて、長い長いしゃべくりをやって、最後に松の木ぬいたり、手水鉢《ちようずばち》さし上げたり、女子はんやのに、捕手《とりて》相手に大立ちまわりやらはるんどっせ……」 「ああ、それが大近松の、有名な�嫗《こもち》山姥�です。──五段ものですが、今ではあなたの言った、二段目の�兼冬館の場�しかやりませんがね……」小畑さんは、おっとりと盃をふくみながら、たのしそうに言った。「その遊女八重桐の腹の中に、腹を切った夫坂田時行の霊がやどって、彼女は超人的な山姥になり、金太郎をうむんですよ。──大杉くんの言っていた、常磐津の�市川山姥�は、その芝居の四段目を舞踊劇にしたんです。常磐津には、ほかに�四天王大江山入�というのがあって、こちらは、�古山姥�と言っています。清元で�|月花茲 友鳥《つきとはなここにともどり》�、富本に�|母育 雪間 鴬《ははそだちゆきまのうぐいす》�──みんな同工ですが……」  こう言う事になると、もう、小畑さんの独壇場と言ってよかった。  小畑|さん《ヽヽ》──などと言ってはいけない。本来は、小畑「先生」とよぶべきだろうが……私や、二年先輩の大友氏の、旧制高校時代の旧師なのである。  戦後の学制改革で、旧制高校が廃止になる直前のことだから、もう三十年の昔になる。──担当は国文学だったが、それよりも、図書館長として、その温厚で若者好きの性格が、生徒たちに慕《した》われていた。──生徒問題担当の教官は別にいたが、小畑さんは、非公式の若者たちのための人生相談係りといったところで、私たちは、何かといえば館長室へ話しこみに行ったり、休日に社寺古蹟の散策へ連れて行ってもらったりした。子供のいない、夫婦二人だけの自宅へ、真夜中に酔っぱらって、青臭い哲学論議をふっかけに押しかけても、ちっともいやな顔をせず、夫婦とも起き出して来て、払暁《ふつぎよう》こちらが酔いつぶれるまで、にこにこと酒と議論の相手をしてくれるのだった。こちらは授業のエスケープは常習だったが、先方は朝、ちゃんと出勤するのだから、あとから思えば、身をちぢめたくなるほどの大迷惑をかけていたわけだが……。  そんな人柄だったから、ほとんどの生徒は「師」というよりは、一種の「社会的叔父《ソシアル・アンクル》」のような親しみをこめて、「小畑|さん《ヽヽ》」とよんでいた。温厚|篤実《とくじつ》というだけでなく、大変な碩学《せきがく》だった。  かつては、大変な秀才だった、ときいた事があるが、どう言う理由か、東の方の有名な旧制高校──むろんナンバースクールだった──を卒業しただけで、大学を出ていない。その後、出版社につとめ、次いで社会学関係の研究所にはいって、そこで検定で卒業資格をとった、ともきいたが、今でも「名著」とされている著作もかなりあり、その気になりさえすれば、博士号など簡単にとれるほどの学識を持っている事は、すでに私の在校時代から聞かされていた。  旧制高校が廃止になると、国立大学の教官にはならず、仏教関係の大学の講師になり、そこの研究所に籍をおいたまま、由緒《ゆいしよ》の古い女子大の教授になり、その学殖を慕うさる大手出版社の社長のたっての要請で、その社の最高顧問にむかえられ、以後教職をはなれて、いくつかの研究団体の役員もかねるようになったが、浩瀚《こうかん》な蔵書と豊かな学識にもかかわらず、一学徒、研究者としての、若々しく謙虚な態度をくずさない人だった。  昨年|喜寿《きじゆ》をむかえたのに、若い時から、国内の山間僻地をくまなく踏破した、そのがっしりとした長身は、いささかの衰えも見せず、短く刈り込んだ頭髪はまっ白だったが、色白の肌のつやもよく、最近はまた、その温顔が、一段とやさしくなったようだった。  小畑さんと私のつきあいは、古稀《こき》論文集の編集委員をひきうけさせられる事によって再開した。──それまでも、小畑ファンだったので、折に触れて小論文を読んでいたが、その時、六十代以降の発表になるものをまとめて読んでみて、あらためてその問題意識のみずみずしさと、研究態度の柔軟さに感嘆した。一応国文学に焦点をあわせながら、知識の渉猟《しようりよう》範囲は、国史、民俗学、比較文化学、言語学と広範に及び、しかもそれがいずれも、きちんと|つぼ《ヽヽ》を押えてあって、学問的態度の「端正さ」をくずしていない。永年|研鑽《けんさん》を重ねた深みに加えて、小畑さんのあたたかい人柄が、いたる所ににじみ出ているような、滋味掬《じみきく》すべき論文ばかりで、その編集はまことに楽しい仕事になった。 「今日の会に出た�山姥�は、そのうちのどれになりまんねン?」と、大友氏が手焼きのかき餅をつまみながらきいた。「はじめの方の文句は、何やえろう色っぽくて、あとから何や、むずかしい事になっとったが……」 「今日の会のは、今あげたもののどれでもありません……」小畑さんは、日ごろの陽気さに似あわず妙に静かに飲んでいる清次姐さんの方を見た。「地唄の�山姥�で、紀海音《きのかいおん》の作といいますから、古いもんでしょうな。頭からやると、ずいぶん長いものになるが──今日は途中の本調子�伊勢音頭�の半ばからやっていたようだね?」 「そうどす……」と清次さんはうなずいた。「※[#歌記号]待つ宵《よい》は……からやのうて、途中の※[#歌記号]愛《いと》し可愛いも皆嘘の皮……からどした……」 「ははあ──」と、私は思わず横手《よこで》を打った。「あの曲の前半は、�伊勢音頭�ですか。──道理で、文句がいやに婀娜《あだ》っぽい上に、※[#歌記号]よいやさ、よいやさ、なんて、はやし言葉がはいると思った。──それで後半が、そっくり謡曲、�山姥《やまんば》�の�山|廻《めぐ》り�に……」 「そうです……。�伊勢音頭�そのものが、古市《ふるいち》の遊廓を通じてひろまったぐらいで、まあ色っぽいと言うか、猥雑《わいざつ》なものですが、その節に借りた、遊女の口説《くど》きや恨み言と、五番目もの夢幻能の、すごみのある、山中鬼女との出あいと結びつけた所が趣向でしょうな……」  小畑さんは、何かを思い出すような目付きをして盃をとりあげた。 「それにしても──地唄舞いの�山姥�を、能のように、遊女と鬼女と二人で舞ったのは珍しいような気がするが……。ふつうは一人でやるんじゃなかったかね? お家元の新演出かね?」     2  それで、私のような朴念仁《ぼくねんじん》にも少しわかった──。  その日の会の、さまざまな華やかな演目《だしもの》の中でも、清次さんと、もう一人の、六十歳ちかい大ベテランの大姐さんが舞った「山姥」は、異色のものだった。  例によって、野暮用《やぼよう》にかまけておくれて来て、やっと中入り前にすべりこみ、演舞場のロビイでは顔見知りの誰彼につかまってしゃべっているうちにベルが鳴り、解説書も買わずに、券とひきかえにもらった一枚もののプログラムだけを片手に席についたのだが、「大津絵」や「乱れ髪」など、しかけの派手なのや、思い入れたっぷりの色っぽいのを見たあとに、さてお目当ての清次姐さんの出る「山姥」の幕があがった時、ちょっと意表をつかれた感じで、思わずすわりなおした。  さほど趣味があるわけではないが、まあ何の彼《か》のと、折に触れてのぞく、歌舞伎の舞台や踊りの会で見かけた「山姥」のイメージは、大抵幕があくと、岩組に山の遠見、日覆《ひおおい》より紅葉の吊枝ぐらいはまず普通で、大仕掛けになると、これに滝の仕掛け、つくりものの松の大樹、岩の張物があってこれを打ちかえすと常磐津連中が浄瑠璃《じようるり》台に居ならんでいる、と言う事になる。  山姥のこしらえも、所作《しよさ》なら、七子地《ななこじ》か何かに蔦唐草《つたからくさ》の縫のある着付け、秋草模様の唐織りの打ち掛けを着て、白襟白袖の襦袢《じゆばん》、白|羽二重《はぶたえ》の帯という所で、鬘鉢巻《かずらはちまき》に束ね柴二つを肩にかけて花道から出るのは、きまり事と思っていた。──一度だけ遊女のこしらえで出て、あとひきぬいて山姥にかわるのを見たような気がするが……。  だが、その日の舞台は、緞帳《どんちよう》が上ると、金屏風《きんびようぶ》に舞台両脇に蝋燭をたて、金銀蔦に遠山の裾模様のついた黒紋付きの着流しの立ち方が二人、板付きですまっていた。──髪は奴島田《やつこしまだ》か何かで帯は金糸銀糸で、秋の葉の吹き寄せをあらわしているように見えた。  舞台と衣裳は、いわゆる�奥の着流し�のものだったが、上手《かみて》ではじまった唄の文句が、大友氏の言ったように、地唄らしいおちついた節ながら、ひどく色っぽいものだったので、またちょっとおどろいたものである……。舞いそのものは、この土地《しま》でも名立たる名手二人の、一分の隙《すき》もない、ぴんと張った気品のあるものだった。最初清次さんが舞い、次いで二人の舞いとなり、それに見とれているうちに、後半|三下《さんさが》りの合《あい》のあとが、いつの間にか※[#歌記号]一樹の蔭や一河の流れ、皆これ他生の縁ぞかし……と、聞きおぼえのある謡曲「山姥《やまんば》」の最後の詞章となり、清次さんがきっと上手にすまって、大姐さんの「山廻り」の舞を見入る形となって、最後はまた二人で舞って舞いおさめた。 「なるほど──すると、二人出したのはお能の�山姥�をなぞったわけか……」私は合点しながらつぶやいた。「お清さんの方は、能の方のツレ──山姥の曲舞《くせまい》の上手という、遊女|百万山姥《ひやくまやまんば》の役で出たわけだね」 「そう言う事ですな……」と、小畑さんは眼を細めた。「ふつうですと、一人でやって、前半遊女、最後が山姥にかわります。──そのままやると、前半の遊女の口説き、恨み言の所が長く、しつこくなるので、気品を出すために、前半を思いきって省略し、舞い手も能になぞらえて、遊女の百万山姥と本ものの山姥の二人を出したんでしょうな。なかなか凝《こ》った工夫ですな……」  たしかに──記憶のいい小畑さんが口ずさんでくれた、地唄「山姥」の文句の前半は、情痴の口説きに終始するものだった。  ※[#歌記号]山の端《は》に、心も知らで行く月は……と語り出して、合のあと、※[#歌記号]見しも聞きしも花心、色をも香をも捨てざりし、二人添い寝の長枕、こち寄れ枕、身に添いそめし移《うつ》り香《が》の、憎うはないもの、そちの心が変わらねば、こちの木枕一筋に……と、かなり露骨な「枕づくし」の色模様となり、※[#歌記号]宵は何処《いずく》に隠れて抜けて、鐘の鳴る時今来た顔で、よう知ると思わんせ……と、つれない男の嘘に対する恨みとなる。  と、ここから、  ※[#歌記号]待つ宵は三味線弾いて辛気節《しんきぶし》……  と、一転調子のいい「伊勢音頭」になり、※[#歌記号]泣いて別れて後朝《きぬぎぬ》の、袖よ袂よ恨み侘び、末はどうなる事じゃやら、よいやさよいやさ……と、男を待つ身の、気の滅入りをかきたてるような、同時に捨て鉢のような文句をつらね、※[#歌記号]愛し可愛いも皆嘘の皮、罰あたれとは誓いてし……ぴんと拗《す》ねては見すれども、つい謝罪《あやま》って張り弱き、なぜ女子《おなご》には生れたぞ、よいやさよいやさ……  と、ここまで投げやりのような、わが身を嘆くような調子で来て、そのあと、※[#歌記号]よしや世の中|徒《いたずら》に……と、三下りの合になって、ここから※[#歌記号]……山廻り、一樹の蔭や一河の流れ、皆これ他生の縁ぞかし、まして我が名を夕月の、浮世を渡る一節も……と、あの有名な謡曲「山姥《やまんば》」の山廻りの詞章になって行くのだという。 「全部を通して見ますと、これはこれで、なかなかよくできておりましょう……」と、小畑さんは言った。「遊女が惚れた男を待って、枕にのこる添い寝の移り香から、あれこれ男の事を考えている。──それが、そのうち、来る来るといってなかなかあらわれない、調子のいい男への恨みになる……。そして待つ身のうさ晴しに、三味線とって、伊勢音頭のはなやぎで気をかきたてようとするが、その文句の投げやりさに、次第に女の性《さが》に対する嘆きになり、行く末に対する鬱屈《うつくつ》した思いとなって、一転、わが身が鬼女となって、山又山をへ廻りながら行く方も知れず消えて行く夢想に身を委ねる……。※[#歌記号]四季折り折りの山廻り、万木山川も一時の戯れ──という文句は、謡曲の方にはありませんが、春は花、秋は月、冬は雪をたずねて山廻りする、という謡曲の句をとったものでしょうね……。この遊女が、わが身の行く末に、�山姥�の姿を見、思いの上でそれに突如変身する所が、なかなかの趣向です……」 「ほんまに……」今まで、妙に静かにしていた清次さんが、ふいにぽつりと、溜息をつくようにつぶやいた。「時々、わが身が山姥にでもなって、荒々しゅう、峰ふみならしてわたるほど、強う生きられたら、と思う事もおますなあ……」 「なんや、清ちゃんが、山姥になるて?」今の今まで、卓のむこうでごろりとひっくりかえって、鼾《いびき》までかいていた大友氏が、ふいにむっくり起き上がってわめいた。「おう、なれなれ! そんな色っぽい山姥やったら、わし、金太郎になって、毎日おっぱい吸わさしてもらうわ」  きゃあ、おーさんたら、やらし!──と、若い妓たちが笑いくずれた。  この座敷、あついやないか……。おう、そこあけたらどないや……。  大友氏は、どたどたと手洗いに立ちながら大声で言った。  あけ言うたかて──もう、夜もおそいし、冷えて来まっせ……。  かまへんかまへん……。ちょっと空気入れかえた方がええて……。  がたぴしと廊下側の障子を開け、次いでがらがらと、硝子《ガラス》戸がひきあけられた。──さっと冷気が吹きこんで来て、酔いにほてった顔を快くなでた。  ──ほれ見てみい……。気持ちええやないか……。  と、大友氏の大声が廊下を遠ざかって行くと、座にいた若女将が気づかわしそうに、「お寒い事おへんか?」と聞いた。 「いや、大丈夫……」小畑さんは、しのびこんでくる冷気に顔をむけながらいった。「障子をもう少しだけ、たててくれませんか?──ああ、それで結構……」  山の端近い店だった。  表は、それでもなまめいた色街のはずれに面しているが、今いる奥座敷は、やや荒れた小庭をへだてて、すぐ眼の前に、鬱蒼たる杉木立ちにおおわれた山の斜面がそびえている。  十月も半ばをすぎ、日中は汗ばむほどの好天だったが、さすがに夜も九時をすぎると、冷え冷えとしてくる。まして、これだけ山が近いと、夜気とともに、山気がのしかかるようにせまって来て、しばらくはその気配に圧倒されたように、一座に沈黙が流れた。  あけはなった戸障子のむこうから、すだくような虫の声をこえて、どこかで爪弾《つまび》く三味の音《ね》が|嫋 々《じようじよう》と流れてくる……。歌声は聞きとりがたいが、山気のせいか、ふとそれが江戸唄の「山づくし」ではないか、と思ったりもした。 「それにしても、遊女と山姥の組みあわせというのは、不思議ですね……」私は新しくきた銚子から、熱い酒をついでもらいながらつぶやいた。「原典とはいわないまでも、後世のほとんどの�山姥もの�のもととなった中世の謡曲からして、遊女百万山姥が、本ものの山姥のひき出し役として、重要な役をふられている……」 「上方で、遊女の事を、|おやま《ヽヽヽ》言いまっしゃろ……」と、手洗いからかえってきた大友氏がおしぼりをつかいながらわりこんだ。「そのせいやおまへんかな。──|おやま《ヽヽヽ》が年とったら山姥《ヽヽ》になる……」  一座はみんな笑ったが、小畑さんはまじめな顔で、「関係があるかも知れません……」と言った。「日本古来の�遊女�と言うのは、万葉集に�遊行女婦�と書かれているように、芸能をもって、各地を流して歩くものでしたからね……。平安以降は、定着して、宮中や貴族の邸へ出入りするものもでてきますが……。白拍子《しらびようし》などもそうです。──�更級日記《さらしなのにき》�の中に、少女時代の主人公が、父の任官で上総《かずさ》の国から京へのぼってくる途中、足柄山の麓《ふもと》で、月も無い夜に、闇にまどうように、五十代、二十代、十代の三人の遊女が出て来て、宿所の前で、|からかさ《ヽヽヽヽ》をたて、いい声で歌をうたう所が出てくるでしょう……」 「おましたなあ……」と清次姐さんが、首をかしげるようにしてつぶやいた。「�人/″\あはれがるに、声すべて似るものなく、そらに澄みのぼりてめでたくうたを歌ふ……�ちゅう所が……」 「山にひびいていい声だったんでしょうね……」と小畑さんはうなずいた。「�見る目のいときたなげなきに、声さへ似るものなく歌ひて、さばかり恐ろしげなる山中にたちて行くを、人/″\飽かず思ひてみな泣くを……�とありますから、姿形もうるわしく、声も美しかったんでしょう。──そんなたおやかな遊女たちが、�えもいはず茂りわたりて、いとおそろしげ�な、山中へ、またとぼとぼと立ち去って行くのを見て、幼い主人公は、胸のしめつけられるような思いにかられています……」 「なるほど、──�遊芸�と言うくらいだから、古代、中世の遊女たちの中には、山また山をめぐり歩いていた連中がいたんでしょうか……」今度は私が手洗いに行きたくなって、立ちながら相槌をうった。「そう言えば、�更級日記�では、美濃の国の、関が原の手前あたりでも、これから山にはいろうとする所で、夜、遊女が訪れていましたな……」  廊下をずっと奥へ行った手洗いで用をすませ、手水《ちようず》をつかっていると、風が出て来たらしく、半分開いた連子窓《れんじまど》の外で、斜面の木立が、ざわざわと鳴る音がきこえて来た。──座敷へかえると、みんなどう言うわけか、いやにしんとして、暗い庭先の方を眺めている。 「寒いでしょう?──しめましょうか?」と、私は廊下に立ったまま聞いた。「風が出て来たようです……」 「いや、もう少しそのままで結構……」小畑さんは、山木立のざわめきに耳をかたむけるようにしながら、遠い所を見つめるような眼つきで言った。「夜の山を見ておりましたら、妙な事を思い出しまして──いま、その話をしかけていた所です……」 「ほう……」私は興をそそられた。「いったいどんなお話です……」 「実は私、若いころに一度、山姥《ヽヽ》にあった事があるんです……」小畑さんは、かすかに微笑をうかべて、清次姐さんの方を見た。「もうずっと前……六十年ぐらい前の事ですが……」     3  六十年前──と言えば、大正時代の半ばごろ……。 「ええ、そう……」と小畑さんは、遠い青春時代をなつかしむように、軽く瞑目《めいもく》した。「旧制高校の三年──秋でした。ちょうど今ごろだったかな……」  多感な十代の終りだったと言う。──もっとも、当時の青年、それも名門のナンバースクールの生徒となれば、教養から言っても、精神的な面から言っても、今とくらべてずっとおとなびていたであろう事はたしかである。  そのころ、小畑さんは、一身上の事で、はげしく思い悩んでいた。──家庭の事、学業の事、そして恋のからんだ問題で、いかに秀才でおとなびていたとはいえ、十九歳の青年には、重すぎる悩みだった。その悩みに堪えかねて、青年は一人旅に出た。──旅が、問題そのものの解決にはならない事はわかっていたが……。 「死ぬつもりだったかも知れません……」と、小畑さんは笑った。「もうさすがに藤村操の時代ではありませんでしたが──それでもけっこう、文士や青年の自殺の多い時代でした。�煩悶�とか�神経衰弱�という言葉が、まだはやっていましたね……。そうそう、伯爵夫人とお抱え運転手の情死が、世間をさわがしたのが、その前年だったですかな。──松井須磨子の自殺のあった年だったと思いますよ」  枕頭《ちんとう》の哲学書一冊、釣鐘マントに短靴といった、着のみ着のままの姿で、青年は汽車にのった。  ──北へ行きたい……。  と思ったそうである。都会は秋|酣《たけなわ》だったが、日ざしに背をむけ、凜烈《りんれつ》の冬の気配を求めて、信濃路へむかった。──信州から、さらに日本海側へ出、北陸路を金沢まで……と、心にきめていたそうである。 「なぜ、金沢へ?──いや、中学のころから柄になく、鏡花に凝《こ》って、高等学校では、能楽研究会で謡曲などやっていましたからね。漠然と、北陸路ぞいに、鏡花の出身地へ行ってみたいと思っていたんでしょうね……」  信越線にゆられて、当時はむろんまだ、アプト式で有名だった碓氷峠をこえ、長野はわざとさけ、その少し手前の更級の里でおりて、商人宿で一泊した。 「更級というと──姥捨山で有名な所でしたね?」 「ええ……�更級日記�の�更級�は、ここの姥捨伝説を借りて、�姥捨日記�という所を婉曲《えんきよく》に表現したもの、と言う説があります。──もう一つ有名な田毎《たごと》の月は見られませんでしたが……」  信濃路は、もはや紅葉の盛りをすぎようとしていた。──それでも、山裾のそこここに、まだ錦繍《きんしゆう》の彩《いろど》りが残るのを見て、翌日善光寺へ詣《まい》ったついでに、すぐ西の、戸隠の里に足をのばす気になった。──好便《こうびん》に、裾花川沿いに鬼無里《きなさ》まで行く、という馬車に出あったせいもあったが……。 「�紅葉狩�の舞台ですね……」と私は思わずほほえんだ。「で、そこでは鬼女におあいになりませんでしたか?」 「いやいや、──相当足に自信があるつもりでしたが、楠川ぞいに、宝光社の手前まで行ってのびてしまいましたね。何しろ、嚢中《のうちゆう》乏しく、金沢まで何とかもたせようと、昼飯ぬきでしたからな……」 「今は、善光寺の北から、�戸隠バードライン�ちゅうて、有料道路が走ってまっせ……」と大友氏は言った。「宝光社までじきですがな……。奥の院のすぐ下まで、車で行けたと思うが……」  そしてその日は直江津泊り、──日本海の水平線は、すでに冬の気配の鉛色の雲におおわれ、佐渡の島影も、暗く、わびしく見えたという……。翌日、北陸線で西へむかったが、北向きの車窓から海をながめているうち、謡曲「安宅《あたか》」に出てくる義経一行も、この単調でわびしい海岸を、東北へむかったと思うと、たまらず親《おや》不知《しらず》の駅で途中下車し、飛騨山塊が海へおちこむ断崖の中腹を行く道路を、次の駅まで歩いた。──明治になって山腹の道ができるまでは、眼下に臨《のぞ》む海岸ぞいの難所を、義経たちも歩いたのか、冬の日本海のすさまじい波風が旧道を洗い、岩を噛む時、土地の人たちは、どうやってここを渡るのか、などと思いにふけりながら……。  次の市振《いちぶり》の駅についた時、そこからまた列車にのるつもりでいた。──が、駅で列車を待っている間、ふと言葉をかわした土地の人から、すぐ先を流れる川が、越後と越中の国境、そして、背後にそびえる白鳥山にかかる嶮《けん》が「上路《あげろ》の山」ときいて……。 「あ……」私は思わず声をあげた。「すると、そこが謡曲の�山姥《やまんば》�の……」 「そうだったんです……」と小畑さんは深くうなずいた。「私も、戸隠山の�紅葉狩�ぐらいは知っていましたが、人にきくまでは、まさかそこが�山姥�の舞台だったとは、知りませんでした……」  晩年は佐渡へ流されて死んだ、中世能楽の大成者世阿弥元清の作とされ、原曲は「名誉の曲舞《くせまい》」の一にあげられている謡曲�山姥�──その副主人公である遊女は、「山姥山廻り」の曲舞の上手で都で知られ、そのため�百万山姥《ひやくまやまんば》�とよばれたが、ある時思い立って信濃の善光寺へ詣る事とし、役者たちと、近江の湖水をわたり、有乳《あらち》(愛発《あらち》)の関をこえ、安宅の関をすぎ、礪波《となみ》山の倶利伽羅《くりから》峠をこえ、※[#歌記号]いとど都を遠ざかる、越中越後の境川──現大平川──のほとりへとはるばるやってくる。  そのすぐ東方にそびえる山が、西方《さいほう》十万億土から海をこえて来迎《らいごう》する阿弥陀如来《あみだによらい》が、海から最初に上陸する「上路《あげろ》の山」ときいて、そこから徒歩で参りかけると、まだ日の暮れ時でないのに、にわかにあたりが暗くなり、一同うろたえていると、突然前ジテの老婆があらわれて一夜の宿を貸そうと言う。──そのかわりに、遊女の得意とする�山姥�の一節を所望《しよもう》するので、あやしんでききかえすと、遊女が名をあげたのも、「山姥山廻り」の曲舞のためではないか、にもかかわらず、日ごろその山中鬼女の身の事を、心にかけぬのを恨みと思う。せめてこの家で自分のために一さし舞って供養してくれれば、自分も輪廻《りんね》をまぬがれ善所に帰性《きしよう》するであろう、にわかに日を暮れさせたのもそのためである、とせまる。  さては、真の山姥があらわれたか、と驚き恐れながらうたいかかるのをおしとどめ、夕月の出るころに歌い舞うなら、自分も真の姿をあらわそう、と言って消える。──このあと間狂言があって、ワキが待謡《まちうたい》をうたい出すと、頭越一声で、後ジテが、赭顔瞠目《しやがんどうもく》の、この曲にかぎり使われる特異な面に山姥鬘の鬼女の姿であらわれ、ツレの百万山姥に「山姥」の舞いを所望し、舞うにつれ、みずからもひき入られてともに舞いはじめ、やがて正真の山姥の姿をあらわして、その身上を述べる曲舞から、最後は春秋に雪月花を求める「山廻り」の立ちまわりになり、「鬼女が有様、見るや/\と、峯に翔《かけ》り谷に響きて、今まで此処に、あるよと見えしが山また山に、山廻り、山また山に山廻りして、行方《ゆくえ》も知らずなりにけり」と言う事になる……。「ただうちすてよ何事も、よしあし引きの山姥が、山廻りするぞ苦しき」と前節でうたいながら、この最後の立ち廻りの調子は、峯から峯、谷から谷へと自在にめぐりつつ、遠去かって行く、自在なる山霊、自然の精のようであり、供養の舞を舞うてわが妄執《もうしゆう》をはらせとせまったりするが、その実、山姥の舞の上手の遊女が棲家《すみか》に来たのを機縁に、彼女に「山霊の遊び」の真の姿を示そうとしているようである。──まことに日本は「山国」であって、土着信仰に「地母神」らしいものは見当らないが、そのかわり「山霊母神」が、はるか古くから存在したのではあるまいかと思わせるが……。 「で──?」と、私は、また山木立の鳴る音に聞き入るように、盃を手にしたまましばし口をつぐんでいた小畑さんをうながした。「その、上路の山にのぼったんですか?」 「ええ……」と小畑さんは、夢からさめたように、冷えた盃を乾した。「なにかにとりつかれたように──市振の駅から、太平川をわたったすぐ対岸の、境という町からのぼる道がありましてね……」  親不知の駅から市振まで二里余、そして境の町から山中へ、さらに二里……。往時の青年の健脚をもってしても、歩きづめではかなりつかれたろうと思った。旧境川ぞいに東南へ、現名称のもととなった、太平という集落までつめ、そこから東へ折れて、支流ぞいに上路の方へのぼりかけた時、上の方からおりてくる、越後|瞽女《ごぜ》の一行にであった。上の方に、馴染《なじ》みの農家でもあるのか、と思って、道をゆずった。──人数は四、五人、笠をかぶり、三味を背負い、杖をつき、頭《かしら》だった老婆はもう白髪で、かなりな年に見えたが、殿《しんがり》の一人は、まだ若くて薄眼が見えるらしく、白い顎《おとがい》をつき出すようにして、 「学生さん……」と、あまり訛《なま》りのない、すんだ声で言って、にっと笑った。「今からお山にのぼるの?──いそがないと日が暮れるよ……。天気もくずれるよ……」  何と返事をしたものか、とっさに思い浮かばず、ただうす笑いをうかべて、道ばたに一行をかわした。瞽女たちは馴れた脚どりで、とっとと山道を下って行ったが、十歩もはなれた所で、あの若い瞽女が、また白い顔をふりむけて、にっと笑って叫んだ。 「気をつけないと、山姥の洞の山姥に食われるよ……」  それでも、青年は奥をめざした。──高みで首をめぐらすと、眼下に鉛色に沈んだ親不知子不知の海が見えた。空は一面に重苦しい灰色の雲におおわれ、水平線は墨《すみ》を流したように暗くなり、上空の雲脚《くもあし》も早くなっていた。のぼりつめて数軒の家屋がかたまっている所に達したが、路上にも庭先にも人影はなく、そこからさらに南方にそびえたつ険峻《けんしゆん》へむけて、何やらおどろおどろしい深い木立の間を、なお谷ぞいにはいりこんで行った。──疲れて判断力が鈍っていたのか、まるで山霊の気に吸いよせられるように……。  びしょっ、と冷たいものが頬をうち、はっと我にかえった時は、まわりは急激に暗くなりはじめていた。──あたり一面に濃い霧がたちはじめ、細い谷間を、下からすり上げるように、どうっと突風が吹きつけて、木の枝をはげしくゆすり、ばらばらと葉をまきちらした。  霙《みぞれ》まじりの雨……と、マントの袖におちた雫《しずく》でかろうじて見わけたのも束の間、あたりはたちまち墨を流したように暗くなった。──時刻はまだ、日暮れに少し間があると思っていたのに、まるで謡曲�山姥�の中で起った異変のように、「暮れまじき日」が「俄《にわ》かに暮れて」しまったのである。  あわてて林間を降りようとし、木の根に足をすべらせ、岩につまずいて、斜面をころがりおち、頭と背をうって一瞬気を失い、それからあとは、完全に迷ってしまった。  風はややおさまったが、マントとズボンがぐしょぐしょにぬれた上に、冷えこみがはげしくなって、霙はいつの間にか雪に変っていた。そのおかげでまわりがやや明るくなり、高い崖っぷちに来て、あやうくふみとどまる事ができたのだが……。だが、雪はますます降りしきり、四肢は感覚がなくなるほど冷えこんで意識も朦朧《もうろう》となり、これはこのまま、凍死するかな、と頭の隅にそんな不吉な思いがのぞいた。──それならそれもいい……と、十九歳の、若い心は、ふと投げやりに傾斜しかけた。──どうせ旅に出る時、懊悩《おうのう》の底に、ひそかに「死」を思ってもいたのだから……。  かすみかけた視界の隅に、ぼんやりと明りが見え、膝までの雪をかきわけて、ただ無我夢中でがむしゃらにそちらへむかって進み、やっと戸口にたどりついて、板戸をたたこうとした所で、ふっ、と意識がとぎれてしまった。──自分の歯が、とめどもなくがちがちと鳴る音に、意識がやっともどってくると、いつの間にかおどろおどろしく炎の上る囲炉裏ばたに、膝をかかえてうずくまっていた。生木《なまき》がはぜる音がして、びしょぬれのズボンの裾から湯気がたちのぼっている。その湯気につられて次第に視線をあげて行くと、燃え上る炎のむこうの暗がりに……。 「出た?」と大友氏がふざけて、舞妓に悲鳴をあげさせた。「鬼婆でっしゃろ?」 「いや、そうじゃない……」と私も悪乗りして膝をのり出した。「意外や意外、洗い髪の、ぞっとするようないい年増だったんでしょう?──落語の�鰍沢《かじかざわ》�に出てくるような……」 「いやいや……」小畑さんは、静かに笑って手をふった。「やっぱり老婆でした。半白《はんぱく》の髪をおどろにした、しわ深い……」  しかし──と小畑さんはつけくわえた──体付きは女と思えないほどがっしりしていて、渋紙色に陽焼けはしていたが、顔の彫りの深い、どこか人間離れした感じのするほど、いかめしい容貌の媼《おうな》だった、と……。  青年が意識をとりもどしたのを見ると、老婆は無言で囲炉裏の灰につきさしてあった素焼きの徳利から、あたためた濁酒を、欠けた茶碗についでさし出した。──炎にその双眸《そうぼう》が、見すえるようにきびしく光った。濁酒は甘く、美味で、むせかえりながらもむさぼるように飲みほすと、腹の中がかっとあつくなり、胴震いがすこししずまった。と見ると、老婆は次に塗りのはげた椀に、雑炊《ぞうすい》らしいものをついでさし出した。その間一切無言だった。  稗《ひえ》か粟《あわ》か、何か得体の知れない雑炊を一椀すすりこむと、やっと人心地がついた。──と、同時に、寒さにふるえながら、雪の山道をやみくもに歩きまわった疲れが、太腿から脛《すね》、背から肩へ、しんしんとこみあげて来て、瞼《まぶた》が鉛のように重くなった。  ──少し、やすむといい……といったような意味の事を、老婆が、炎の向うからつぶやいたように思った。──都会の者が、案内も連れず、こんな山中に、むやみに立ち入るものではない。この季節、天気が変りやすいのだから……。  知らぬ間にしばらくうとうととした。  それから、何か異様なものを感じて、はっ、と身をすくめて眼をさました。  囲炉裏の炎は、さっきよりだいぶ低くなり、燠《おき》となった榾《ほた》が、小さな火の粉を時たま吹き上げている。火明りの照すあたりをのぞいて、周囲は、洞窟のような、奥深い闇につつまれていた。──炎が吹き上がると、蜘蛛《くも》の巣のからまった太い椽《たるき》が、闇の底から大蛇の胴のように朦朧と浮き上る。  体は内外からあたたまっているのに、なぜか、ぞくっ、と襟元に寒気が走る。背後に何かの気配があるような気がして思わずふりかえると、後の荒壁にうつった自分の影が、炎のゆらぎにつれて、大入道《おおにゆうどう》のように黒く、もくもくと動いているのだった。  ──榾がまたはぜた。  その音が消えた瞬間、あたたかいまどろみをおびやかしたものがはっきりした。  ずいっ……  と、炉の向うで何かを摺《す》る音がした。  ──ざいっ……ずずっ……  と、音は間歇《かんけつ》的に聞えてくる。  炎の向うをすかし見ると、半白の老婆の髪がその音にあわせてゆれるのが見えた。──囲炉裏の間にすぐ連なる板の間に、筵《むしろ》らしきものを敷き、その上で何かを研《と》いでいるらしかった。  ちょっと手を休めて、老婆は研いでいるものを明りにすかすようにした。──はためく炎の舌を、ぎらりと反射したそれは…… 「出刃包丁!」と、若い芸妓がおびえたように息を吸った。「その人、安達原《あだちがはら》の鬼婆……」 「いや……」と小畑さんは首をふった。「鏡《ヽ》でした。──当時、地方の旧家へ行けば、まだ老女の中には白銅の鏡をつかっている人もいたようですが、さすが大正も半ばとなれば、ガラス製の鏡は田舎へも普及していました。しかし、老婆の研いでいたのは、径八寸もありそうな、白銅製のりっぱな御神鏡らしいものでした……」 「へえ……」と大友氏は不思議そうな顔をした。「その婆さん、鏡研ぎが商売やったんですか?」 「さあね……」と小畑氏は、笑って盃をふくんだ。「研いでいる鏡のほかに、傍にまだ二、三面、同じような鏡が出してありましたが……」 「神社などの御神鏡を磨く内職をしてたんでしょうか?」と私はきいた。「それとも、その婆さん、口寄せの巫女《みこ》さんか何かで、その鏡は商売道具……」 「さあ、どうでしょうか?」小畑さんは、飲みほした盃の中を、しばらくのぞきこんでいた。「ただ──」  古めかしい白銅の鏡を研ぐ、老婆のきびしい横顔を見つめているうち、青年は、突然、この人は山姥《ヽヽ》だ、この老婆こそ本ものの山姥にちがいない、と思ったそうである。  その時、突然、板戸が荒々しく開かれ、雪まじりの風が、たたきつけるように吹き込んで来て、囲炉裏から火の粉まじりの灰が吹き上った。  思わず顔をそむけると、板戸がまた荒々しくしまり、眼前に見上げるばかりの黒い影がつったっていた。──熊か何かの毛皮の胴衣《どうぎ》の肩の所に雪がうず高くつもり、茫々《ぼうぼう》にのびた鳥の巣のような蓬髪《ほうはつ》にも白い雪がたまっていた。身の丈《たけ》六尺を優にこす巨漢は、しばらくつったったまま、青年を見おろしていた。はいってくる時、体が大きくかしいだように見えたが、気がつくと、鹿の毛皮の|はばき《ヽヽヽ》をつけた右足は、脛の途中から木の棒状の義足になっていた。  巨漢は、杖にしていた、丈余《じようよ》の生皮つきの松の枝を土間に投げ出すと、木の義足をこつりとひびかせて囲炉裏端に上り、草鞋《わらじ》もぬがず、青年の斜め横にどっかとすわった。  五十をこえると見えた。一面の黒々とした不精鬚《ぶしようひげ》におおわれた顔は魁偉《かいい》と言うしかなかった。分あつい唇、赤くなった高い鼻……。 「天狗はんどすか?」と舞妓。 「あほな──大正の事え」と若い芸妓。  ものも言わずに、炉端の徳利をつかみ、茶碗についで一息にのみほしてから、ぐっと青年を見すえた顔に、ぎらりと大きな一眼が……。 「きゃァ……」と今度は若い妓が悲鳴をあげた。「一つ目小僧……」 「いやいや……」と小畑さんは破顔した。「山仕事か何かで片眼をつぶしたんでしょう。もう一つの眼はふさがっていたが、ちゃんとありましたよ……」  ──書生さんか……  と、その茅屋《ぼうおく》の主らしい巨漢は、吼《ほ》えるように言った。  ──こんな山中へ、一人で何しに来た?  まあ飲め、というように、一眼の巨漢はぐいと茶碗をさし出した。──気をのまれたように受けて、美味な濁酒に口をつけると、──悩みがあるな……。男はこちらの腹を見すかすように、ずばりと言った。女《ヽ》の事だろう。それが学業にからんで……。 「へえ?」大友氏が、妙に顔をこわばらせて言った。「ひょっとすると、そのおっさん、山父《ヽヽ》やったんやおまへんか? 別名�さとるの化物�──山中に住んでいる怪物で、こちらの心を見すかしてしゃべる、という……」  ──あんたはまだ若い……と、巨漢はおしかぶせるようにつづけた。──女も若い。水商売の女だな……。だが、心はまだ純だ。あんたに真剣に惚れ、あんたも惚れている。だが、あんたの家は没落し、素封《そほう》家の娘との結婚話をうけて、そこの養子にならぬと、これ以上の学業をつづけられん……。 「ほんまにその通りやったんどすか?」と老妓が眼をまるくした。 「その通りだったんです……」と小畑さん。 「まあ、そのお人、行者《ぎようじや》はんか、占い師どすか?──読心術たらいうもん、やらはるんやろか?」 「さあ、どうでしょう……」小畑さんは瞑目した。「ひょっとすると──その人の持っている、深山の猛吹雪のような雰囲気に圧倒されて、私が自分で、心の中のもやもやした悩みをふきとばして行ったのかも知れません……」  ──心のままに、はげしく生きる事だ……と、一眼巨漢は立った。あるいは、青年がそう言ったように感じた。──学業もまた、角帽かぶり、金ボタンの服を着て、大学とやらにかよわねばならぬものでもあるまい。ましてこのごろ、学問の府は、創学の気宇を忘れて官威に毒され、世俗評判に妍《けん》を競い、学者増上慢こもごも縄張りを擁して狷介倨傲《けんかいきよごう》の態《てい》甚しく、その分だけ学問は矮小化しつつある。学業の実は、権威の府にあらず、志にある。志さえあれば、先哲の叡知《えいち》は、その前にある。己れの真情を殺し、眼前世間の利に惑わされるようなものに、先哲の志をうけてたち、それを当代に生かし、後代へつたえるほどの、はげしい学業の生き方がのぞめると思うか? あんたはまだ若い。世間目先を思い患うにはまだ早い。また、この先世間の事で思い患うなら、後代の学のため、あるいは天下万民のための方途として思い患うがよい。今はただ、純なはげしい心のままに生きよ。恋もとれ。学業もとれ。そのいずれをもとって見せると腹をきめるがよい……。 「あ、それでは……」と、私は思わず口をはさんだ。「�目ひとつの神�だったんですね。──上田秋成の�春雨物語�に出てくる……」  今度は、小畑さんはかすかに笑っただけで答えなかった。  ──どうだ。吹っきれたか?……ならば、今宵《こよい》は飲め。ともに飲もうぞ。……おかか! 鹿《しし》の肉の乾したのでも出せ。やがて雪風もやむ。そうしたら麓までおくってやる……。  と一眼|隻脚《せつきやく》の巨漢は、愉快そうに、もう一つの欠けた茶碗をとり出し、新たな徳利をひきよせた。  ──このおれは、遠い先祖からの鉱山《かなやま》掘りだ。山野をめぐって、砂鉄《まさ》、銅《あかがね》、 銀《しろがね》があれば掘り、自ら炭を焼き、|踏※[#「韋」+「備のつくり」]《たたら》もふんで山|鍛冶《かじ》もやるわ。あの|かか《ヽヽ》も、遠い祖先《おや》からうけついだ世すぎのわざに、ああやって鏡を鋳《い》る。二人して、いつの間にやら、はるか前から世にとりのこされたが、そんな事はかまうものか。これがおれたちのえらんだ生きざまよ。これがわれらの祖先《おや》からうけつぎ、われらもそれを生きる志よ……。いつごろからの夫婦か、と? そんな事忘れてしもうた。何十年になるか──いや、何百年、何千年になるかも知れぬ……。まあ、そんな事はどうでもよいではないか? 今宵は飲め、食え。泣きたかば泣け。笑いたかば笑え…… 「そして……」と小畑さんは、盃を卓上にふせた。「そのまま酔いつぶれ、次に眼ざめたのは翌日の昼すぎでした。──山麓の商人宿の蒲団の中で……何でも、払暁、雪の中を大きな片足の悪い人が、私をおぶって運んで来て戸をたたき、開けると中に投げ出して、口もきかず、顔も見せずに山の方へ立ち去った、という事でした……」     4  話が一段落ついた所で、舞妓と若い妓たちにもらいがかかり、あとには老妓と清次さんだけが残った。──もう私たちも酒はしまいにして、蕎麦《そば》を注文する事にした。 「それにしても不思議な話どすな……」と老妓はつぶやいた。「その鉱山師《やまし》の御夫婦、ほんまにその山にすんではったんどすか? それとも……」 「さあ……」と小畑さんは、茶をすすりながらいたずらっぽく眼を伏せた。「どうでしょうか? 翌朝、宿できいてみましたが、上路の山には、そんな夫婦はすんでいないと言う事でした」 「それでも、その時、恋をとる決意をしはったんですな……」と大友氏が言った。「それが……」 「ええ──亡妻です」小畑さんはうなずいた。「当時の校風では、水商売の女性とできたりしたら、たちまち放校でしたが、まあ卒業前だったので、矯風《きようふう》会の鉄拳制裁だけで勘弁してもらいましたが……」  私はふと、三年前物故された小畑夫人の美しく淑《しと》やかな姿を思いうかべていた。学者の夫人として全く非のうち所のない、そして、その深い教養とやさしい人柄を弟子たちに讃美された女性だった。 「たとえ山中で出あった幻《まぼろし》にしても、ふしぎな組合せですね」と、私は言った。「山姥と、柳田国男翁の言う山中神�一つ目小僧��一本たたら�とが、夫婦《ヽヽ》になっていたとは……」 「私はあり得る事だと思います」と小畑さんはすわりなおすようにして言った。「柳田翁は、古代日本で、祭礼の犠牲《いけにえ》とされるものが、逃げないように、一眼をつぶされ、一足を折られて、神としてあがめられ、山中にかくされた事もあったろう、と言っていますが、私は、一眼一足の山中神の起源は、ユーラシアの中でもっとも古い鍛冶神だったろうと思います。ギリシャ古代神話に出てくる鍛冶神のヘファイストスは、リュキアの火山神がもとだろうとされていますが、やはり片足が悪いとされ、彼と一緒にアキレスの盾《たて》を打ったキュクロペスは、�丸い目�という意味ですが、この一族のポリュフェモスは、例のホメロスの『オデュッセウス』の中で、人食いの一眼巨人としてでてきます。オデッセイに焼いた杭で、その一眼をつぶされるのは、火切り錐《きり》の象徴とも言われていますね。──そして日本の古代伝説でも、たとえば日本書紀の神代記下の天孫降臨の条《くだり》に�天目《あめのま》一箇神《ひとつのかみ》を作金者《かなだくみ》とす�という記事がある……」 「なるほど……。しかし、それが山姥と夫婦とは……」 「山姥伝説の起源についてもいろいろ言われていますね。──昔、貧寒の山村では、実際に�姥捨�の風習があって、すてられて山中で自活している老婆の姿がもとになったとか、山中出産の風習や、気がふれて山中へ消えた女性が多かったとか、それが、水田稲作がはいって来て里が形成されて以後の�山中他界信仰�と習合して、山中鬼女のイメージになったとか……しかし、私はもう一つの可能性も考えているんです。�山姥�はもともと、鍛冶神�天目一箇神�と夫婦だったのではないか、と……」 「ほう──何か理由があるんですか?」 「日本書紀でも、神代記上の�天岩戸�の条の�一書�には、�天香山《あまのかぐやま》の真坂木《まさかき》を掘《ねこじ》にして、上枝《かみつえ》には、鏡作《かがみつくり》の遠祖|天抜戸《あまのぬかと》が児《こ》石凝戸辺《いしこりとべ》が作《す》れる八咫鏡《やたのかがみ》を懸《とりか》け……�とあります。石凝戸辺は、�石凝姥《ヽヽヽ》�とも書かれ、どうも、�石がかたまってできたような老女�という意味らしい……」 「松浦佐用姫《まつらさよひめ》伝説みたいなもんでんな」と大友氏は言った。「ひょっとしたら、大山祇神《おおやまつみのかみ》の長女で、次女で別嬪《べつぴん》の木花咲耶《このはなさくや》姫とちごうて瓊瓊杵尊《ににぎのみこと》の嫁はんになれなかった磐長姫《いわながひめ》みたいな……」 「そうですね……」と小畑さんはうなずいた。「書紀では、鏡作部の祖石凝姥神と天目一箇神は、同じ条には出てこない。しかし、�古語拾遺�の方には、同じ�天岩戸�の条に、�令[#(メ)][#下]石凝姥|神[#(ヲシテ)]、取[#(テ)][#二]|天 香山銅《アマノカグヤマノカネ》[#(ヲ)]、[#一]以[#(テ)]|鋳《ツク》[#(ラ)]|[#中]日像之鏡[#(ヲ)][#上]�とある。ちょっとあとの所に、�令[#(メ)]天目一箇神[#(ヲシテ)]作[#(ラ)][#二] |雑《クサグサノ》 刀斧及|鉄鐸《サナギ》[#(ヲ)][#一]�云々とあるんです……」 「すると──、太古、�銅鏡�は女《ヽ》……それも老女《ヽヽ》がつくっていた可能性があるんですか?」私は意外の思いにおそわれてききかえした。「そして�鉄�は男が……」 「大いにあると思いますね」はこばれてきた蕎麦の蓋をとりながら、じっときき入っている清次姐さんの方をむいて、強調するように言った。「後代、鉱山には女を入れない、という事になりましたが、それも�山の神�が、女性神で嫉妬するからと言う信仰があった。大久保|石見守《いわみのかみ》の金山開発成功の理由の一つは、鉱山掘りに女性をどしどし使って、気風が和《なご》んだせいだと言う説がありますが──古代の山中冶金集団の中には、女性専業の部分があったにちがいない。だから、山中女神�山姥�は、もっとも古い形で、�天目一箇神�と、夫婦だったとしてもおかしくないんじゃないでしょうか……」  年が明けて、早春──。  私は小畑さんの風流のつきあいをして、郊外に梅見に出かけた。  風のない、暖かい日だったが、五分咲きの梅林のそこここには、まだ前日の小雪が残り、さすがに人影もまばらで、|山 鴬《やまうぐいす》の声もまだきこえなかった。  山腹斜面に、数町歩にわたってひろがる梅林の中をぶらぶら歩きまわっているうちに、ふと下の道からのぼってくる、もう若くない男女の姿を見かけた。──男性は五十がらみ、がっしりとして陽焼けした壮漢で、その腕にすがりつくようにしている女性は、四十がらみで、地味ななりながら、一眼で玄人あがりとわかるあでやかさをたたえている。 「清次姐さんですよ……」と、私はささやいた。「去年の暮で、仕事をやめたと言っていたが……昔のお馴染みかな?」 「こっちの道を行きましょう」と小畑さんは二人連れと出あわないような脇道へ歩をすすめた。「あの人と結婚するんですよ。ずいぶん迷ってたが──何しろ、生まれた時から色街の水で育った女性が、いかに相手の情熱にほだされたとは言え、結婚したら南米の鉱山都市にすまなきゃならないんですから……」 「知ってらっしゃったんですね」私は追いすがりながら、息をはずませて言った。「だから、去年の最後の席で、あんな山姥と天目一箇神の話を……」 「あれはあれで、本当の話ですよ……」小畑さんは笑っているようだった。「まあいいじゃありませんか……」  清次さんの新しい夫となる人──その姿はちらと見ただけだったが、黒い鬚をはやした、見るからに精気みなぎる男らしい容姿で、しかし片足をわずかにひきずっており、かけている眼鏡は、一方のレンズだけがまっ黒だった。  空を行くちぎれ雲が動いて、さっとあたたかい陽ざしがあたりを照した。──と、突然すぐ近くで、びっくりするほど大きな声で、鴬が鳴いた。 「いい香りですね……」小畑さんは残雪からゆらゆらと蒸気の立ちのぼる梅林の中にたちどまって、梅の香りにみちた、冷たいしめった空気を深か深かと吸いこみながらつぶやいた。「いくら年はとっても、春というものはちゃんとめぐってくるもんですな……」  初出誌   とりなおし     SFアドベンチャー/'79年創刊号   華やかな兵器     オール讀物/昭和五十四年一月号   交叉点     オール讀物/昭和五十二年六月号   反魂鏡     小説新潮/昭和五十三年十二月号   歩み去る     野性時代/'78年五月号   曇り空の下で     小説新潮/昭和五十四年九月号   山姥譚     小説新潮/昭和五十三年四月号  単行本 昭和五十五年文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和五十八年三月二十五日刊