小松左京   神への長い道  目 次 宇宙鉱山 飢えた宇宙《そら》 宇宙《そら》に嫁ぐ 星殺し〈スター・キラー〉 再会 神への長い道    宇宙鉱山 「隕石《いんせき》群!」と第二レーダー係が叫んだ。 「左後方三十度、俯角《ふかく》十五度、距離八百、接近中!——相対速度プラス十」 「転進!」と艇長はおちついた声でいった。「右五度、仰角三度、第三速」  宇宙艇の中に、かすかにカーブを描く加速度が生じた。——スピードがかすかに上り、レーダーにしこまれた、音響転換器《ソニツク・コンバーター》から発する警報音は徐々に低くなる。  だが、次の瞬間、前方四象限をカバーする第一レーダーが、キンキン音を発しはじめ、ドップラー効果を思わすように、急激に高まりはじめる。 「右前上方、隕石群!——大きい! 右三度、仰角二度十分、距離二百、相対速度プラス六」 「進路三八三にもどせ、俯角二度、速度二十におとせ」  宇宙艇は、わずかにブレーキをかけ、鼻面をふった。前後上下の音も、少し小さくなった。——と思ったのもつかの間、たちまち、進行方向レーダーに、黄色い警報光がかがやきはじめ、みるみるうちに赤みをおび、音響警報器が金切声をたてはじめる。 「前も後もかこまれちまった……」  操縦士は、舌打ちをしてブレーキをかけ、後方四象限を一度にうつし出すスクリーンをちょいと眺めて、小きざみに艇をあやつる。——ま正面を走っている隕石群の後尾をすれすれでかわすつもりだ。 「これじゃ、いつかはぶつかりますぜ」と機関士がいった。「ぬけ出す方向を見つけなきゃ——長距離《ロング・レンズ》レーダーは、どうやってもつかえませんかい?」 「いまそれを考えてる所だ」と艇長は腕組みしてつぶやいた。「ビームを細くして、スイープしてみろ」  第二レーダー係が、スイッチをきりかえた。——長距離レーダーの上に、細く、強く輝く輝線があらわれ、ゆっくり首をふった。レーダーサイトの上には、たちまち満天の星をぶちまけたような光点がうかび上り、その一部は、大きな、ギラギラ光る光斑《こうはん》になった。 「シチュー鍋《なべ》の中をすかして見ようとしているみたいだ……」とレーダー係はつぶやいた。 「状態はさっきより悪くなってます」  ほんとにそうだった。——銀砂のように光る点は、みんな宇宙塵《うちゆうじん》だった。それも、金属質の、かなり大きな粒で、それがまるで、濃密な霧の流れのように密集して、一方向へ、猛烈なスピードで流れている。その宇宙塵の奔流の中に、直径数センチから、数十センチ、時には一メートルをこすような巨大な隕石の集団がまぎれこんで、いっしょに流れているのだ。しかも、宇宙塵の密度も、隕石群の数も、時間がたつにしたがって、刻々増大している。——金属質宇宙塵の中では、レーダー波が散乱されて、艇は半盲になってしまう。 「本部がよんでいます」通信係が、ひどい雑音に、眉《まゆ》をしかめていう。「こちらの方の通信が、よくわからないらしいです。——レーザーでも、散乱されてしまうんです」 「送信をつづけろ」と艇長はいった。「航宙士——隕石群のすくなそうな方向は、見つかったか?」 「六十度、二十一度マイナスの方向が、脈がありそうですがね」航宙士は、ライトペンで球体コンパスに、いくつもの点をかきこみながら、首をひねる。「それでも、六個の隕石群のコースを横ぎらなきゃなりません。それに二つがかなりなスピードで接近してきます」 「第七象限レーダー……使用不能」と第二レーダー係。 「舵《かじ》が重くなりやがった……」と操縦士が毒づく。「大分、宇宙艇の目方がふえてきている……」  みんなは、反射的に壁や天井を見まわした。——一つ一つはかすかだが、全体では、ザワザワと雨が降るような音をたてて、艇殻が鳴っている。「豆スープのように濃い」宇宙塵の流れが、艇の四方から艇殻にぶちあたる音だ。小さな、ミリミクロンから数ミリに及ぶ、宇宙塵の粒が、艇にあたり、超耐熱超抗張力合金の艇殻をたたき、そのふるえが、艇内の空気を振動させる。相対速度が早くて、粒子の小さいものは、艇殻にくいこみ、大きな粒は、艇殻のおびている磁性でもって、艇にひっつき——塵粒の層は次第に厚みをまし、レーダーアンテナをはじめとする艇外機器の機能を、徐々に低下させ、麻痺《まひ》させはじめている。流れにのる形でとんでいるからいいようなものの、もし逆行したら、宇宙塵粒子のいくつかは、もろに艇殻をぶちぬくだろう。 「エンジンだけは、気をつけてくれ……」と艇長はいった。「流れと同じスピードを維持するんだ。少し早い目ぐらいでもいい」 「流れ全体のスピードがはやくなってきてる……」と操縦士はいった。「密度も上ってきてるようです」 「左前下方注意!」第一レーダー係が叫んだ。 「隕石群同士がぶつかった! はねかえりがこっちにくるぞ!」  いう間もなく、ガン! という衝撃が艇殻にぶちあたった。艇はグラグラゆれ、みんなは床にほうり出されそうになった。——つづいてガンガンバラバラと、トタン屋根の上に、崖《がけ》くずれでもなだれおちてくるような衝撃がつづけさまに艇をゆさぶった——艇内灯はまたたき、音を切った警報器は気がくるったようにランプをまたたかせ、艇は大地震のようにガタガタゆれた。 「神様……」と誰《だれ》かがつぶやいた。「艇殻がもちますように……われらの貧しい空気をまもりたまえ」 「第三、第四象限レーダー、使用不能……」  音がやっとしずまると、第一レーダー係の報告が、陰気に単調にひびく。 「とうとう片目になっちまった……」と通信士がつぶやく。 「ほかに被害状況は?」 「姿勢制御ロケットの一部破損——ですが大したことはありません」と機関士。「まだ、舵はききます」 「いいか——はねかえりだけでなく、隕石群の動きに、できるだけ注意しろ」艇長は考え考えいう。「衝突の間にはさまれたら、一瞬でおだぶつだ」 「流れがまた速くなった……」操縦士がつぶやいて、噴射スロットルを、少しひらく。 「スープも濃くなってきているぞ……」  大質量の艇は、密度が高いといっても、たかが知れている宇宙塵流の中では、「押し流される」ほどの圧力をうけない。しかし、もし後方から接近する塵流との相対速度が、プラスになると、大切なエンジン関係の密集する後尾に、どんどん宇宙塵がぶつかってつきはじめる。——だから、少しずつエンジンをふかし、少なくとも周辺の宇宙塵流との相対速度をゼロにしておかなくてはならない。 「もう当初点から、ずいぶん流されている勘定になります……」航宙士は、青い顔で報告する。 「しかも、スピードはどんどん早くなっている。——ぬけられますかね?」 「ふむ……」艇長は唇をかんで考えこんだ。「航宙士……どう思う? なぜ、流れが速くなり、密度が高まるんだ? いったい、何が、この宇宙塵流を加速してるんだね?」 「わかりません。——考えられることは当然……何か前方に、大質量のものがあって、その引力が、加速してるんでしょう」航宙士は、ブルッと肩をふるわせた。「暗黒矮星か何か……」 「それならもう少し早く重力計に、それらしいものが感じられるはずだが……」と艇長は計器類を見た。重力計のは、かすかにゆれている。——だが、針先はレッド・ゾーンのはるか手前にある。 「とすると——磁力ですか?」通信士がいう。「宇宙塵のほとんどは、鉄質です。隕石もほとんど全部、鉄質隕石だから……」 「ふん!」艇長は計器板を、バン! と平手でたたいた。「肝心の時に、磁力計がこわれるなんて!」  艇外磁場をキャッチする磁力計のうち、一番低いレンジから三つ目まで、——これは巡察に出かける時から——故障していた。しかし、艇長が平手でたたいたとたんに、故障していない第四レンジのランプがチカッと光った。それはあっという間に、目にもとまらない早さで明滅をくりかえし、その光はたちまち、第五レンジ、第六レンジの積算ランプにまで波及しはじめた。「磁力だ!」艇長は叫んだ。「前方に、ものすごい磁場があるぞ! そいつが宇宙塵をひきつけてるんだ!」 「前方に大質量! 距離二千」第一レーダー係が叫んだ。「一つ……いや、二つです」 「星か?」艇長は叫んだ。 「わかりません。——星としてもそれほど大きくない。一千億トン乃至《ないし》一千五百億トン……二つとも同じぐらいです。非常なスピードで同一軌道をまわっています。軌道半径……」 「艇長! 磁場が急激に弱まっています!」  通信士が磁力計をさして叫んだ。——さっき、一番はしまでついてしまった、磁場の強さをあらわすランプは、今度は、第十レンジから急激に消えつつあった。 「わかって来たような気がするぞ!」艇長は叫んだ。「第一レーダー係、——宇宙塵流の進行方向と、前方天体軌道との関係は?」 「二つの星の共通軌道中心にむかって、まっすぐです」 「だろうと思った。——」艇長は、掌に拳《こぶし》をパチンとぶちあてた。「操縦士、——少々強引でもかまわないから、流れの端の方へよせろ。流れの直径は、うんとせまくなっているはずだ。まもなく、前方でグルグルまわりしている二つの星の、軌道中心を通過する。——その時がチャンスだ。ブレーキをかけながら、流れの外へカーブを切る。いいな?」 「神よ……」操縦士がきこえよがしにいった。「われらをこのいまいましいチリどもから救いたまえ。——無鉄砲な艇長の大バクチに、つきをまわらせたまえ」 「みんな宇宙服をつけ、命づなと救命艇の準備をしろ!」艇長は叫んだ。「あと数分だ……」 「ことの起りは……」と通信士は、巡察本部の宿舎ロビイで、酒のグラスをゆっくり口にふくみながら仲間に語り出した。「例によって、艇長の、旺盛《おうせい》な使命遂行意欲さ」  巡察艇L26号は、あちこちに隕石をめりこませ、突出部という突出部に、びっしり鉄粉をつけて、まるでかんで吐き出したみたいにクチャクチャになりながら、それでもあの宇宙塵と隕石群の奔流からぬけ出し、全員無事でかえってきた。——途中から救難にむかった本部の二台のロケットにひかれて。報告を終り、一同ぐっすりねたあと、一番最初に眼《め》のさめた通信士が、さっそく宿舎の仲間にとりまかれた。 「最初、観測班の連中が、恒星六八〇四の表面を、間隔をおいてよこぎる、うすい雲みたいなものを見つけ、本部へ伝えてよこした。——それで、部長は、その近くにいたおれたちの艇の艇長に、そいつの正体は何かしらべろといってよこした」 「その時は、大したことじゃなかったんだろう?」 「うん——どうってことはない。宇宙塵の流れさ。艇外採集してかえろうとすると、艇長は、ふと、その宇宙塵が、ほとんど鉄の粒子からできており、整然と一方向へ流れているのに気がついた。少し——妙な気がしたんだな。彼は例によって命令を忠実に解釈して、その正体を見きわめようとして、流れの先の方をしらべにかかった」 「たしかに、そんなに鉄の粉があるってのはおかしいやな」と一人がいった。 「鉄そのものは、宇宙ではきわめてありふれた元素に属するがね」と物知り顔の男がいった。 「ふつうの恒星の中で、水素からヘリウムを経て、順々に核融合反応が起り、最後にできる一番複雑な元素が鉄なのさ。——進化の一番最後の段階では、恒星の芯《しん》に、巨大な鉄のかたまりができている。それ以上すすむと——ニュートリノが大量発生して、恒星はボイン! さ。だから、その時はねとばされた鉄の原子核が、宇宙船の中にもまじってる。地球だって、地殻内でこそ四番目に多い元素だが、地球全体なら、重量パーセントで三五・四で一番多い」 「まあいい。こいつの話をきこうぜ」と別の男がいった。「で、それから?」 「それから、——知っての通りだよ。気がついた時、まわりの流れは早くなり、どこからか隕石が流れこみ、そいつの数がどんどんふえ……」 「おかしな連星の軌道中心に吸いこまれたっていうじゃないか」 「うん——だが、救《たす》けにきてくれた奴《やつ》が、しらべて教えてくれたけど、あれはただの星じゃないよ。中にバカでかいダイナモがあって、発生した磁場が軌道面を横切っている。ひきあってぶつからないように、二つの星だか人工物体は、猛烈な角速度で、共同重心のまわりをまわっている。——鉄質宇宙塵はそこへ吸いよせられたのさ。しかも——しかもだよ。宇宙塵の大団塊が大変なスピードに加速されて、このグルグルまわる環《わ》の近くにちかよると、人工の星の中で、突然電流が切れて、磁力が消え失《う》せ、星にブレーキがかかって角速度がおちる。——加速された、鉄宇宙塵は、星の磁極に吸いつけられることなく、中心点を通りぬける……」 「まるで、線型加速器じゃないか」と物知りがいった。 「そう、——荷電粒子を加速する線型加速器さ。ただし、それが天体規模の大きさなんだ。救助隊の連中の話では、その星のむこうにも同じようなしかけがずっとならんでいる、という話だ」 「だけど、誰が……」一人が口をすぼめていった。「何のために——そんなことをしたんだい? それとも自然にそうなったのかい?」 「自然じゃないな。——誰かが、小惑星ぐらいの天体の内部に加工して、そういう装置をつくったんだよ」と通信士はいった。「鉄質宇宙塵の団塊が、最終速度でどのくらいに加速されているか知らないが——とにかく、その進行方向に、一光年とちょっとぐらいの所に、小さな恒星があるんだ。太陽よりまだ小さい、かなり古い恒星が……。それに、これはその付近を昔々探検した古い記憶があるんだが、その恒星の付近では、何か非常に妙なことが起っているらしい。一つの惑星をのこして、あとの惑星は粉々にくだかれた形跡がある」 「まさか——」と一人がいった。 「いや——そうかも知れないよ」と通信士はいった。「何につかうのか、何をつくるのか知らないが、とにかく周辺の惑星の鉄を全部つかい——循環させないで、遠くへもち出したのかも知れないね。そこで、あの恒星近傍では、もう鉄がないので……最近新星の爆発があって、鉄原子がたくさんただよっているこのあたりにあんな装置をつくって、宇宙空間から……」 「どんなやつらだろうな、そいつらは……」と誰かがいった。 「とんでもない連中だろうな。——あまりあいたくないな」 「それほどでもないかも知れないぜ——」物知り顔がいった。「大昔の地球でも、近くの鉱山が枯渇しちまうと、とんでもない所まで採掘に出かけたじゃないか。案外俺《おれ》たちと似た連中かも知れないよ、きっと」    飢えた宇宙《そら》      1 「ジョーは?」マリアは、心配そうな顔でいった。「みつかった?」  ぼくはだまって首をふった。  それから、ポケットから、ジョーの電気ペンを出して、テーブルの上においた。 「これが見つかっただけだ」 「どこで?」 「第四船艙《せんそう》の前……」  マリアは、そっとその電気ペンをつまみあげた。——なにか、疫病の細菌がついているような慎重さで……。 「どこへ行ったのかしら?」  マリアは、何百回も、——いや、最初の一人が消えてから、みんなの口から何千回も発せられた、詮《せん》ない言葉をつぶやいた。  その問いは、あんまり何回もいわれたため、最初のころの、はげしい不安、混乱、いらだたしい疑惑、恐怖、ヒステリックな怒りといったものが全部すりきれてしまって、ただつかれたようなひびきだけがのこっているようだった。 「今夜も——おそらく……」  発見できまい、という言葉を、ぼくはいわなかった。  いうと、部屋の中に——この巨大な宇宙船の中の、あらゆるものかげに身をひそめている恐怖が、一度にどっとおそいかかってきそうな気がする。 「四人……」マリアは、ジョーのペンを、コトンとおとしてつぶやいた。「これで……二人きりになったわけね」  とつぜんマリアが、はげしくすすりあげた。——椅子《いす》からはじかれたようにとび上がると、ぼくの体に、むしゃぶりつくようにしがみついてきた。 「おお、アキオ!——こわいわ! 私、こわいわ! これから私たちどうなるの? いったいみんな、どこへ行っちまったの? 私たちこれからどうしたらいいの?」  マリアの細っこい体が、隊員制服を通して、ごりごりとおしつけられてきた。——そこには、IQ百七十の宇宙生物学者の姿は消えて、恐怖におののく、若い、たよりなげな一人の女がいるだけだった。 「だいて……」マリアはあえぐようにいった。「もっとつよく……ふるえがとまらないのよ」  ぼくはマリアの体を、両腕でしぼりあげるように抱きしめた。——マリアは、本当に細い骨が鳴るように、はげしくふるえていた。抱きしめてやっても、あとからあとから、体の深い所からふるえがこみ上げて、とまらないみたいだった。歯ががちがち鳴るほどふるえながら、マリアは泣くように何度も何度もすすりあげた。  はげしい息づかいが、ぼくの頬《ほお》にあたった。——肩の所にふせられてふるえていた金髪が、ぐらりと後ろへかたむくと、半びらきの愛らしい唇が、ぼくの口のすぐそばにあった。唇の色がうしなわれ、顔色もまっさおだった。突然その唇の奥から、はげしい、泣き声とも叫び声ともつかぬ声がほとばしった。 「マリア…」  ぼくはいった。——マリアは、首をふり、のどをのけぞらせて絶叫しはじめた。ぼくら以外誰もいない宇宙船の中に、宇宙船の外の、はてしない暗点と真空の宇宙の虚無の中に、誰《だれ》かの助けをよぶように、とめどもなく叫びはじめた。 「だまれ……」とぼくはさけんだ。「だまるんだ、マリア、だまれったら」  マリアはだまらなかった。——ぼくはやむを得ず、マリアの口を自分の口でふさいだ。叫び声は、まだマリアののどからこみあげてきて、かさねあわせた口を通して、ぼくの頬を内側からふくらませた。が、突然それがやむと、ぼくの口の中に深くさしこまれたマリアの舌が、くるったようにぼくの舌をもとめてうごめきはじめた。すすり泣くような声は、今度はマリアの鼻からもれ、彼女の体のふるえはとまり、細い腕が、つよい力でもってぼくの体をまさぐりはじめた。 「アキオ……おお、アキオ……」とマリアはあえぐようにいった。「私たち……二人きりなのよ……こんなことになるなんて——想像もしなかったわ……」 「奥へ行くかい?」  ぼくは、はじめてふれるマリアの胸のふくらみを、制服の上からそっとおさえながらいった。  マリアは、またはげしくあえぐと、唇をおしつけてきた。  ——体中から力がぬけ、だき上げるとその体は羽毛のようにかるかった。むろん、宇宙船の人工重力が、かなり小さかったせいもあったが……。      2  ぼくとマリアは、闇《やみ》の中で、すはだかで抱きあっていた。——快楽をもとめるというよりも、恐怖からのがれたいという衝動のためにぼくたちは何度もはげしくもとめあった。マリアの体は、十八歳で博士号をとったという、そのすばらしい知能と関係なく、女としてすばらしかった。マリア自身も、今までほとんどそのすばらしさを知らなかったにちがいない。  汗まみれになり、何度も何度も絶頂に達し、獣のように叫び——そういったエネルギーが、このほっそりした知的な女性のどこにかくされていたのか? それとも、それをやめたとたんにまたなまなましい形であのことを思い出しそうになり、その恐怖をうち消すために、力をかきたてざるを得なかったのか?——  しかし、やがてぼくたちは、体中のエネルギーをしぼりつくしてしまい、精も根もつきはてて、よわよわしくあえぎながら、ベッドの上にうちかさなって横たわった。  そうやっていると、室内の空気が、汗まみれの肌をひやして行き、ついには体が氷のように冷えきってしまい、宇宙船の外、絶対温度零度の宇宙空間のすさまじい寒気が、じかにはだかの皮膚をしめつけるような気がした。——ぼくとマリアの二人が、宇宙船もベッドもないむき出しの真空の中を、凍りついたような億万の星々をちりばめた暗黒の宇宙を背景に、全裸で抱きあったままゆっくり流れて行く……。そんなイメージがうかんできて、体の芯《しん》から冷たい戦慄《せんりつ》がこみあげてくる。……母なる太陽系は、すでにはるか彼方《かなた》にはなれてしまった。行く手の星に達するまで、あと十年余も、この暗く、深く、虚無の太洋《やみわだ》を旅しつづけねばならない。マリアとたった二人で。  いや、最初は二人ではなかった。——最初ぼくたちは、六人いた。だが、ある日——数週間前、突然そのうちの一人が、行方不明になった。ぼくたちは、大さわぎして、行方不明になった男をさがした。大きいといっても、宇宙船だ。居住空間のひろさといったら、たかが知れている。そのせまい宇宙船の、すべての部屋を、すべてのすみを、ものかげを、ぼくたちはくまなくさがした。——だが、その男の姿は見あたらなかった。  宇宙船の外へ出たのではないか、ということも、もちろん考えた。——しかし、宇宙服はそのままのこっていたし、二つあるエア・ロックつきのドアも、あけられた形跡はなかった。船外へ出るドアには、開閉記録装置がついていて、開閉回数が一眼《ひとめ》でわかるようになっている。——それはもちろん、開閉のたびに、いくらか船外へ放出されてしまう空気の量を記録するためである。  船内にもおらず、船外に出た形跡もない。——とすれば、彼はいったい、どこへいったのか? この宇宙船の中で、彼は煙のようにとけてしまったのか?  その男が、まだ船内にいるかどうかを知ることのできる、唯一の手段である微質量計は、流星と衝突した時、こわれてしまっていた。  ぼくたち、第五次A・C探検隊員の中に、恐慌がまきおころうとした時、二人目の男が消えた。ぼくらが動顛《どうてん》している時、もう一つ、おどろくべき事実が発見された。 「第二食料庫が……」  まっさおになったレイモンドが報告に来た時、ぼくたちは消え失《う》せた二人の仲間が、そこで発見されたのかと思って、とび出そうとした。——だが、ジグムントはあえぐように、ドアの所でぼくたちをおしとどめた。 「まあ待ってください。隊長——チャンとノラのことじゃないんです。それよりもっと……信じられないことです」 「どうした?——早くいえ!」と、ジョーはいらいらしていた。「食料庫に何があったんだ?」 「なにもなかったんです……」ジグムントは、ふるえる声でいった。「第二食料庫には、なんだかわけのわからない機械が、ギッシリつまっていて、食料は一っかけらもないんです。第三、第四も同じです」 「第五と第六は?」 「まだ見ていませんが……おそらく……」  ぼくたちは後部の食料倉庫にかけつけた。  ——ジグムントのいった通り、第二、第三、第四食料庫の中には、食料はなかった。おそれていた通り、第五、第六にも……。 「観測機械類だ……」とジョーは呆然《ぼうぜん》としてつぶやいた。「出発の時、チェックはしたんだろう?」 「火星基地整備員がやりました。——私自身も一応やったんですが……」 「出発前に、整備基地でつみかえられたんだ」とぼくはいった。「チェックを終って、封印してから、二十四時間の間に……」 「だが、何のために……」とジョーはいった。「この機械類は宇宙基地建設に必要なものであることはわかる。だが、ペイロードいっぱいなのに、食料のかわりに機械をつみこむとは、どういうことだ?」 「火星基地へ問いあわせますか?」と、ぼくはきいた。 「むろん、すぐ問いあわせる」ジョーはいった。「だが——おれたちは、もう太陽系から二兆キロ以上きてしまっている。返事がかえってくるまで、半年かかる……」 「そんなにもちはしませんよ」ジグムントは、悲鳴をあげるようにいった。「第一食料庫には、あと五十キロたらずの食料しかないんです。給食器の中にはいっているのをあわせても、七十キロありません……」  四人に七十キロ——人間一人、一年間に、乾重量で、約三百キロの食料がいる。——宇宙船の中での、生化学装置をつかっての食料再生産は、装置そのものの重量が非常に重くなり、変種ができやすく、管理がめんどうなので、今のところもちいられていない。組みあわせ食料をつみこんだ方が、乗務員にとってもはるかにいい、ということがわかったのだ。水は再生する。だが食料は……。 「基地でまちがえたんじゃないの?」とマリアはいった。「今度は冷凍睡眠装置《コールド・スリープ》をつかわないということを忘れて……」 「そんなバカな事はない」ジョーはたたきつけるようにいった。「そんな事は、はじめからわかっていたはずだ。第五次派遣隊は、これまでの、コールド・スリープの失敗を計算にいれて、計画されたんだから……」  第四次までは、交替勤務で、冷凍睡眠装置をつかう方式がとられた。——だが、今までの冷凍睡眠技術では、長期にわたると、人間の脳が二度ともとの状態にかえらない、ということがわかり、かつ、起きている二名の乗務員が、みんな三年目には、あまりに長期にわたり単調な閉塞《へいそく》生活のため、発狂状態になったり、強度の分裂症を起したりして、そのための失敗がかさなったため、なるべく大勢の人間を起したままで、小さいながら一つの社会《ソサイアテイ》をつくらせ、相互にチェックしながら行った方がいい、という方針にかわった。  だが、そのためには、食料が…… 「四人で七十キロ……」とジョーはいった。「一人、十七・五キロ、一日五百グラムとして、三十五日間だ」 「緊急救難信号ですね」と、ぼくはいった。「そして、すぐコース変更してひきかえしましょう」  それにしても、まにあいはしなかった。  宇宙船は、すでに太陽系を出てから二年以上も旅をつづけて来ているのだ。——七十キロの食料で、どうなるものでもない。  ジョーは、そのまま航行をつづけさせた。  唯一つ、この奇妙な事態の解決の鍵《かぎ》になるかも知れない、と思われたコンピューターは、微質量計を故障させた隕石《いんせき》衝突の際、強い磁性をおびた破片が、記憶装置の一部にとびこんで、運悪く、一部の記憶を破壊してしまっていた。——コンピューターは、宇宙船の運航にはさしつかえなかったが、この件に関しては、何の解答もあたえてくれなかった。  どうしたらいいのか?  あの沈着なジョーにしても、何の解決も思いうかばなかったろう。——ぼくらは、表面は無理におちついていたが、深い、果てしない暗黒の穴の斜面を、毎分毎秒ごとにズルズルとおちこんで行くような恐怖感にとらわれ、他の事は何も考えられないようなありさまだった。  部屋を暗くして眠っている時、冷たい悪夢が、蝙蝠《こうもり》のように羽をひろげておそいかかり、汗びっしょりかいてはね起きるようになった。  どちらをむいても死ぬことは確実なのだ。——アルファ・ケンタウリまであと十年……太陽系へひきかえすとしてもあと二年……そして食料は、四人で一カ月分!  一カ月を一カ月半にくいのばし、あとは水を飲み、そして——コースを変更したとして、あと二年たったら、四体の骸骨《がいこつ》をのせた宇宙船が、太陽系へつく。あるいはこのまま、虚無の大宇宙空間を、三千トンの棺桶《かんおけ》は、はるかかなたのアルファ・ケンタウリめがけてとびつづけ……。 「船内の有機物たとえば紙や木を分解して、食料にするわけに行きませんかね」と、ぼくはジョーにきいた。「繊維素《セルローズ》は、加水分解すると、簡単に糖になります」 「だが、装置がない……」とジョーはいった。「工作室で、何とか組みたててみるか……」  それにしたところで、いったいどれだけもつだろう?  ぼくは、眠る度に、暗黒がおそいかかる夢を見、その恐怖からのがれるために、起きている時は体育室《ジム》へ行って、太陽灯にあたることにした。——ばかな事だと思うだろうが、サングラスをかけ、裸で、強い光線に肌をやいていると、少しは恐怖がまぎれたのである。 「紫外線は、体力を消耗するぞ」とジョーはいった。  だが、ぼくはやめなかった。  こうして、手のくだしようもないまま、一週間すぎた。——ジョーは、食料の配給を一日三百グラムにおとした。 「こんなことして、どうするんです?」と、ぼくはいった。「どうせ——死ぬんですよ」 「時間だよ」とジョーはいった。「時間さえあれば——なにか解決が見つかるかも知れない」 「なぜ、コースをかえないんです?」ジグムントは、ヒステリックにさけんだ。「かえりましょう!——救難信号を出して、コースを太陽系にとり、エンジンを全開にしてつっぱしるんです。うまく行ったら、万が一にでも、冥王星《めいおうせい》基地あたりから発進する救急艇に助けられるかも知れない」 「それにしたところが……」とジョーはつぶやいた。「いいか——電波が、太陽系に到達するのに三カ月かかる。それから救急艇を発進させるとして……会合《ランデブー》は、どうみたって最低一年後だ」 「それにしたって、このまま死体になって空間をとびつづけるなんていやだ!」ジグムントは悲鳴のように叫んだ。「骨だけでも地球に……太陽系にかえりたい!——もう一週間、むだにした。あと四週間だ!」 「ジグムントは気をつけた方がいいかも知れませんね」彼が立ちさると、ぼくはジョーにいった。 「武器をもたせないようにしなけりゃ——だけど、彼のいうことも、もっともな気もします。どうしてコースを変更しないんです」 「うむ……」とジョーは、ためらいながらつぶやいた。「だけど——どうもおかしいんだ」 「なにが?」といって、つい口が歪《ゆが》んだ。「おかしい事だらけですよ。ノラ・リンゼイとチャン・シャンフーの消失、つみこんだはずの食料が機械に化けていたこと……」 「その二つの間に、何か関係があると思わないかね? カツラ……」と、ジョーはいった。 「私には、どうもそんな気がしてしかたがないんだ。——どちらも……最初から、しくまれたことだ、という感じが……」 「誰がそんなことをしくんだんです?——おえら方ですか?」ぼくは愕然《がくぜん》とした。「じゃ、連中は——ぼくらを殺すつもりで……いや、誰かがこの航行を失敗させようという陰謀をくわだてて……」 「それは、一方の答えにしかならん。——食料のかわりに機械をつんだ、ということの答えにはなっても……じゃ消えた二人はどうなる?」 「わかりません」と、ぼくはいった。「じゃ、消えた人間と、消えた食料の間に、どんな関係があると思うんです?」 「わからん……」ジョーはこめかみにこぶしをあてた。「だが、一方が他方の鍵になるような気がするんだ」  その時、ジグムントの悲鳴がきこえた。——マリアがまっさおな顔をしてとんできた。 「ジョー、アキオ、来てよ! ジグムントが……」  ぼくたちは、ジグムントの個室にいった。——  明りを消した中で、ジグムントはベッドのシーツをかきむしって泣き叫んでいた。 「ノラが——ノラがいた」彼はさけんだ。「今明りを消してうとうととして、はっと眼をあけたら、ノラが……消えたノラが、まっさおな顔をしておれの顔をのぞきこんでいた。眼と鼻の先だ……まっ黒な着物を着て、死人のようなおそろしい顔つきで……」 「幻覚だ」とぼくはあばれるジグムントをベッドにおさえつけながら、ジョーにいった。「だいぶこたえている」 「まて!」とジョーはいった。「そうじゃないかも知れない。マリア、誰かがこの部屋を出るのを見なかったか?」 「いいえ……」マリアは唇をふるわせて首をふった。「誰も出てこなかったわ」 「むこうをさがしてくれ、マリア……。おれはこっちをさがす。アキオ——ジグムントをしずめろ」  ジグムントはすぐぐったりなった。——ジョーとマリアががっかりした顔で、かえってきた時、ジグムントは青い顔に汗をいっぱいうかべて、こんこんと眠っていた。 「誰もいない……」とジョーはいった。「眠ったのか?」 「具合が悪そうだ」とぼくは、ジグムントの手首をとりながらいった。「脈がよわい。——体が氷のようだ」 「すこし様子を見ましょう」とマリアが救急ポケットから注射器をとり出しながらいった。 「その上で、薬を飲ませるわ。——いまは鎮静剤をうっときましょう」 「きてくれ、アキオ」とジョーは決心したようにいった。「宇宙船のコースをかえる……」      3  真空無重力の宇宙空間を、時速数十万キロという大変なスピードで走っている、三千トンもの宇宙船だ。——ぐるりとUターンさせるのに大変な時間がかかる。  しかし、とにかくぼくとジョーは、コンピューターにコースを百八十度かえる指令を出した。——コンピューターは、ただちに処理をはじめ、宇宙船の中では、カーブをはじめる時の遠心力によってかなりな重力が発生しはじめた。  二十四時間たった。  ジグムントはそのまま昏々《こんこん》と死んだように眠りつづけ、ぼくたちも、浅い居心地の悪い眠りをまどろんだ。——ぼくが起きて、服を着てると、ジョーも起き出してきて、大きく手をあげてのびをした。  だが、そのあげかけた手は、途中でとまってしまった。 「おかしい……」と彼は、顔をこわばらせていった。「気がつかないか?」 「なにが?」 「コース変更中の重力が感じられない」  ぼくたちは、上着も着ずにコンピューター室にかけこんだ。  コースは、もとにもどっていた。——ぼくたちが眠りにつくとすぐ、誰かがコースをもどしてしまったのだ。 「誰がやったんだ?」ジョーは叫んだ。「誰がコースをもとに……」 「ジグムントじゃないか?」とぼくはいった。「なぜ、彼が——奴《やつ》は、太陽系へかえりたがっていたんだ」 「とにかく、奴をよんできいてみよう」 「むだよ」と背後で声がした。  ふりかえるとマリアが、恐怖に青ざめた顔で、戸口にたっていた。 「彼からは、何もきけないわよ」マリアはしゃがれた声でいった。「ジグムントは消えたわ」  そして今度はジョーの番だった。  ジグムントの事があってから、ぼくら三人は、いつもいっしょにいて、眠る時は交替で一人が見張りに立つことにした。  見張りは二人の方がいい、というのが、ジョーの考えだったが、女性が一人はいっていたので、実質的には平均一・五人という形になった。マリアの見張りの時、彼女を一人だけで起しておくわけにはいかない。  ぼくたちは、もう一度コースを太陽系にとるよう指示をあたえたコンピューター室——せますぎて、寝るわけにいかなかった——のまむかいの、観測室の什器《じゆうき》をかたづけ、そこで寝ることにした。二つの部屋のドアをあけはなしにしておき、部屋からいつもコンピューター室を見とおせるようにしていた。——誰が、いったんセットしたコースを変えるか、それを見つけなければならない。 「コンピューターの故障で、ひとりでにもとへもどった、ということは考えられませんか?」とぼくはいった。 「考えられん」とジョーは首をふった。「それよりも——消えた連中が、まだどこかにいるような気がするんだが、どう思う?」  ぼくも、そんな感じはした。——だが、宇宙船の中は、くまなくさがした。船艙も、機械室も……のこっている所といえば、はるか後部に隔離されている、光子エンジン室だけだが、そこへ行く通路は、ジョーが鍵をもっているし、放射線防禦《ぼうぎよ》服なしに、通路でくらせるとも思えない。 「積荷を全部しらべますか?」 「大変な手間だぞ、……それに、あんな中で、ふつうの人間がくらせると思うか?」  ぼくは、のこりの食料に注意していた。飲料水の消費量も……。もし消えた連中が、まだこの宇宙船のどこかで、生きているとすれば、水と食料は、どうしても必要だ。 「ということは……」ジョーは暗い顔つきでいった。「おれたちの生命が、すこしばかりのびたってことだな」  二十四時間見はっていても、コンピューター室に、人影はあらわれなかった。コース変更は順調にいっていた。——だが、ジョーの顔には、急速に憔悴《しようすい》の色があらわれた。責任者としてはむりもない。ぼくは、ジョーの神経がいつまいるかと、そのことが気がかりだった。  ジョーの見はりの時、ぼくはジョーにゆり起された。 「シッ!」と彼はいった。「コンピューター室に、いま誰かいる……」  ぼくはとび起きて、レーザーガンをつかんだ。——いくつものランプが点滅するコンピユーターが、二つの戸口ごしにみえた。だが人影らしいものはみえなかった。 「いま、たしかに黒いものの影が動いた……」ジョーはささやいた。「ふみこむんだ」  ぼくとジョーは、いっしょにコンピューター室にとびこんだ。 「出てこい!」ジョーは金切り声でさけんだ。 「誰だ!——そこにいるやつ出てこい!」  返事はなく、コンピューターの赤や茶や青や緑のランプが、うすくらがりで明滅するだけで、何の姿もみえなかった。ぼくは奥の方へ、さらに一歩ふみこんだ。  その時、ジョーが背後でわめいた。——レーザーガンの火花が走った。 「なにかいた!」ジョーは気がちがったように叫んだ。「ドアのかげから、外へとび出した。——追うんだ!」  ぼくたちは通路へとび出し、二手にわかれて走った。——だが、通路をどこまで行っても足音もせず、気配もなく、ぼくはすぐジョーの方にひきかえした。——角をまがると、通路のつきあたりの部屋から、ジョーがよろめき出てきて、ばったりたおれた。 「ジョー」ぼくは、叫んでかけよった。  ジョーはよろよろと立ち上った。 「ドアか何かで、頭をぶつけた……」ジョーはよわよわしくいった。 「誰かいましたか?」  ぼくはジョーに肩をかしながらいった。 「いや——思いちがいだったらしい……」とジョーはいった。「少し休ませてくれ……頭をうって、しばらく気を失っていた。——気分がわるい」  ジョーの体は、氷みたいで、顔はまっさおだった。——ぼくはマリアをよんで、ジョーをねかせた。 「症状がおかしいわ」とマリアはいった。「本格的に診察してみましょう。——医薬品も、少しとってくるわ」  そういって、マリアは医務室へ行った。——行くとすぐ、電話がかかってきた。 「アキオ……」マリアの声は興奮していた。「ちょっときて——医務室の薬品倉庫が、あらされているみたい」  ぼくはすぐとんでいった。——手術室の隣りが、薬品倉庫になっていたが、いままでの二年間、そこをあけたことは一度もなかった。しかし、ふみこんでみると、これといった何の兆候もなかったにかかわらず、誰かが何回か出入りしたらしい気配が、何となく感じられた。それに——床の上には、何かが持ち去られたような形跡が感じられた。乾燥血漿《けつしよう》の箱と、ビタミン剤の箱のつまれた間に不自然な空間がある。 「ここに、何かがあったんじゃないか?」と、ぼくはいった。「何があったんだ?」 「知らないわ——医薬品のチェックは、ノラがやったの」 「とにかく、あとでくわしくしらべてみよう」とぼくはいった。「まずジョーの手当てだ」  が、ぼくとマリアがひきかえしてみると、わずか二、三分の間にジョーの姿は消えていた。      4  マリアとのはげしいセックスに、疲労困憊《こんぱい》して、ぼくたちは二人とも、裸のまま、しばらく眠ってしまったらしい。  眠りの中で、ぼくは、またもや何か思い、まがまがしいものの姿が、ぼくの背後からおおいかぶさるようにせまってくる夢を見た。さけぼうとしたが声が出ない。ぼくは口を大きくひらいてもがいた。——とたんに声が出た。しかしその声は女の声だった。すさまじい悲鳴に、ぼくはハッと目をさました。部屋の明りは消え、あけはなったドアのむこうに、コンピューターのランプが鬼火のように明滅しているのが見える。 「チャンが……」マリアはふたたび金切り声でさけんだ。「チャンがいたわ! ほんとうよ、チャンがあなたの後ろから……」  ぼくはものもいわずに通路へとび出した。すっぱだかだったがレーザーガンだけはつかんでいた。——やみくもに突進すると、通路のむこうのはしに、たしかにチラリと何か、黒いものが消えるのを見たように思った。 「とまれ!」ぼくはさけんだ。「とまらないとうつぞ!」  通路をまがりざま、ぼくは引き金をしぼった。——光の線が、金属壁にあたって火花をちらした。だが、通路には、誰の姿もなかった。ぼくはなお走りつづけ、つきあたりでとまった。——第一から第四までの船艙と、第一から第六までの食料庫がずらりとならんでいる。ドアはすべてきっちりしまり、鍵がかかっている。 「出てこい!」ぼくはドアを一つ一つけりながらさけんだ。「誰だ、出てこい!」  その時、ぼくはハッと血の凍るような思いをした。——マリアを一人でのこしてきた。  無我夢中でひきかえすと、マリアはベッドのシーツをひっかぶっていた。 「マリア……」と、ぼくはかけよってシーツに手をかけた。「大丈夫か?」  マリアは青ざめた顔をあげた。——彼女はいつの間にか上下とも制服を着、ファスナーを上までぴっちりとめ、襟をたててふるえていた。 「さむいわ……」マリアはすっぱだかのぼくを、まぶしそうに見ながらいった。 「汗かいて、裸でねてたものだから、風邪をひいちゃったみたい……」 「たしかに誰かいた……」ぼくはズボンをはきながらいった。「チャンか誰かは判《わか》らない。だけど、かなりはっきりしてきた。消えた連中は、やはりこの船のどこかにいるんだ。——なぜ、連中がかくれたのかわからない。だけど、やはり、船艙のどこかがあやしい。徹底的にしらべてやる」 「あなた……」マリアは、大きく眼を見ひらいて、ぼくの裸の胸を見ていた。「その傷、どうしたの?」  ぼくは、ちょっと眼を下にやった。 「これ?——学生の時、ラグビーでつけた古い傷あとだ。これがどうかしたかい?」 「い、いえ……その傷じゃないの、そのとなりの……」  ぼくはやっと気がついた。——左胸の、大きな傷あとのよこに、小さなひっかき傷ができて、血が流れている。 「レーザーガンの照星か何かでひっかいたんだろう」とぼくは血を指先でおさえながらいった。「大したことない。かすり傷だ」 「いいえ、だめよ!——そのままにしといちゃ」マリアは、びっくりするほど大きな声でいって、とびおきた。「じっとしてらっしゃい。いま、手あてしたげるから」  マリアは、ひどく顛倒したように、救急ポケットから薬品ガーゼとテープを出した。彼女はガーゼをいやに大きく折った。古い傷までかくれてしまうほどの大きさだ。 「どうしたんだ?」  ガーゼをはりつけようとしながら、まっさおになり、脂汗をうかべふるえているマリアを見て、ぼくはちょっといぶかった。 「こんな傷ぐらいで何もそう……」 「いいえ、そうじゃないの……」マリアは唇をふるわせて、むりに笑った。「さっきの事、思い出すと、こわくて……」  マリアは眼をそむけるようにして、ぼくの胸の傷にガーゼをあてた。——彼女の短い金髪の下の、ふるえる頸《うなじ》を、ぼくは見るともなく見おろしていた。  その時、ぼくのうちに、ある種の衝撃が走った。 「マリア……」ぼくはシャツを着ながら、かすれた声でいった。「船艙をしらべるんだ。——君もいっしょにきたまえ」  ぼくたちは、まず、六つの食料倉庫と、四つの船艙のドアを全部あけはなった。 「マリア、ずっとぼくといっしょにいるんだ」とぼくはマリアにささやいた。「はなれるんじゃないぞ」  そういって、ぼくは倉庫を一つ一つしらべてまわった。——何もあやしいものはない。  ただ一つ、意外な事実を発見して、ぼくはちょっとショックをうけた。船艙のドアは、いったん外から鍵をかけてしまうと、外からは合鍵がないとあけられないが、内側からはエマージェンシイ・スイッチで、簡単にあく。中に閉じこめられないように配慮してあるのだが、もし船艙の中にかくれていれば、自由に出入りができるわけだ。一つ、二つと調査がすんで、最後の第四船艙のしらべを終ろうとした時、ぼくは船艙の積荷のかげに妙なものを見つけた。 「冷凍槽だ……」ぼくはライトをつきつけてつぶやいた。「今度はつかわないはずだのに……」 「さあ——まちがえてつみこんだのかしら?」マリアはいった。「それとも、何かの予備に……」  ぼくの動悸《どうき》は突然はやくなった。——冷凍槽は、タイムスイッチをはじめ必要な動力調整装置が全部くみこまれている。これさえあれば……そうだ、これを使えば、ぼくかマリアか、どちらか一人は、太陽系に生きたままかえれるかも知れない、たとえ廃人になっても生きたまま……。  だが、冷凍槽をしらべた時、ふたたび絶望がおそいかかってきた。冷凍槽は、鍵があいていたが、中の装置類は全部とりのぞかれ、ケースだけだった。ケースの中は、紫色のビロードで内張りされている。 「だめだ!」ぼくは、パタンとふたをして、冷凍槽をけとばした。「だけどなんだって、こんな役だたずのガラクタをつみこんだんだ。——どう思う? マリア……」  そう言ってから、ぼくはゾッと襟もとの毛がそそけたつような気分を味わった。  そっとふりかえってみると、マリアの姿は消えていた。第四船艙の外へとび出し、くりかえし彼女の名をよんだが、声は宇宙船の中にむなしく反響するばかりだった。      5  こうして、ついにぼくは、この三千トンの宇宙船の中で、一人ぼっちになってしまった。  ——だが、その時すでに、謎《なぞ》は半分とけかかっていたのだ。その半分だけは、ぼくはほとんど確信をもって真相をつきとめたつもりだった。ぼく以外の、消えた五人の仲間はどうなったかということは……だが、そのあとの半分は、依然として不可解なままだった。いったい、なぜそんなことになったのか? そのことに何か意味があるのか、ということは……。  コースは、また何ものかによって、アルファ・ケンタウリの方へむけられていた。——ぼくは、もうそれをほうっておくことにした。そのかわり、ぼくは、強磁性隕石によってごちゃごちゃになっている、コンピューターの記録部分を、もう一度丹念にしらべてみた。雑音だらけの宇宙船に対する注意事項の中に、ぼくはやっと二つのききとりにくい言葉だけを再生することができた。 「だから、なにもおそれることは……」という言葉と、 「君たち第六次探険隊の七人の隊員は、協力して……」  という言葉だ。  その二つ目の言葉をきいた時、ぼくは、おや? と思った。  七人の隊員?——第六次探険隊?  ぼくたちは、たしかに六人だった。そして第六次探険隊だ、——ぼくは何度もききかえしてみた。何度きいても、第六次探険隊の「七人」だ。すると、七人目の隊員とは?  冷凍槽だな……と、ぼくは思った。——あの、ケースだけの冷凍槽に、おそらく七人目の誰かが、ずっとかくれていた——きっとそうだ。だが、なぜ……。  宇宙船は何事もなかったように、予定の進路を、アルファ・ケンタウリにむかって航行をつづけていた。——その森閑とした内部の部屋部屋、通路の隅、装置の影の暗がりから、誰かがぼくを見つめているのが感じられた。いよいよ次は、最後に一人のこったぼくの番であり、その危険が、すぐ傍にせまっているのが、ひしひしと感じられた。  ちくしょう……と、ぼくは思った。——ほかの五人は、やられても、俺だけはやられるものか!  ぼくは、消えた五人の持物をひっくりかえし、必死になってあるものをさがした。——ジグムントの持物の中に、それがあった。ぼくは、それをにぎりしめ、それからちょっと考えて、もう一度コースを太陽系にセットしなおし、それから居室のベッドに横になった。  明りは、わざと消しておいた。——だからドアの所に、暗い、幽鬼のような影があらわれた時、ぼくは、コンピューター室のほの明りの逆光の中で、そいつの顔を見ることができなかった。——その悪魔のような暗い影が、ぼくのベッドの傍にしのびより、ぼくの顔をのぞきこみ、顎《あご》までかぶったシーツを、そっとはがした時、ぼくはいきなり明りをつけてやった。  アッと、その黒い影は叫びをあげた。 「ガーゼはとってしまったよ、マリア……」とぼくは自分の裸の胸を指さしていった。「ほら、こいつのおかげで、ぼくは最後の最後までのこされたんだな」  レーザーガンでつけた傷は、ほとんどなおっていた。だが、その横にある古い傷——マリアが新しい傷を手当てするふりをして、大きなガーゼでいっしょにおおってしまった傷が、マリアを立ちすくませているのだった。  大きな十字架型の傷が…… 「アキオ……アキオ……わけをきいてよ」  マリアは、声をふるわせていた。——その顔は死人のような色をして、眼はまっかに血走っていた。 「いやはや、あきれたもんだ。——科学技術の粋を集めた恒星宇宙船の中に、こんな連中が住みつくとは……」ぼくはマリアを見すえていった。「さあいえ——のこり四人の……いや五人の、吸血鬼どもはどこにいる?」  マリアの眼が、ギラリと光った。——そのことを、ぼくは、マリアがぼくの胸にガーゼをあててくれた時に気がついていた。上からのぞきこんだ彼女の襟足に、小さな二つの牙の跡を見つけたのだ。——だが、気がつきながらも、ぼくはそのとりあわせの奇妙さに、とてもすぐには、信ずる気になれなかった。  恒星宇宙船と吸血鬼!  超近代的な科学の粋と、前近代的な妖怪《ようかい》のとりあわせ……。 「さあ……」とぼくはいった。「いうんだ。連中はどこにいる」  マリアの眼が突然燐光《りんこう》をはなちはじめた。血のしたたるような赤い唇から、ニュッと鋭い二本の牙《きば》がのび出した。彼女は野獣のようにうなりながら、とびかかってきた。——ぼくは反射的に身をかわし、枕《まくら》の下から、あのジグムントの持物から見つけたもの——黄金燦然《さんぜん》たる十字架を、マリアの額におしつけた。  ギャアッー、とすさまじい悲鳴があがって、彼女の顔の上にめらめらっと十字架の白光が上がった。——彼女は顔半分をもえ上がらせながら、通路へとび出した。ぼくもあとをおった。恐ろしい叫びをあげながら逃げて行く彼女の背後から、ぼくは十字架を投げつけた。それが背中にあたると、彼女は最後のすさまじい悲鳴をあげ、白光につつまれた。その全身が、一塊の灰となってしまう迄《まで》に、三十秒もかからなかった。  ぼくは、十字架をひろいあげると、さらに先に進んだ。——第四船艙のドアが、半分あいていた。その中にはいると、奥の壁の一部にうっすらと線がはいっていた。  こんな所に、秘密の道路があったのかと、ぼくは舌うちする思いで、そのかくしドアをあけて奥へはいった。そこは、前部船体から、後部の光子エンジン室へ通ずる道路になっていた。——ぼくが十字架をかかげてはいって行くと、うす暗い通路の中には、大混乱がおこった。おそろしい叫び声、威嚇《いかく》、ぼくにとびついて腕をとらえ、背後からぼくの首に牙をたてて血を吸おうとするやつ——みんな、かつてのぼくの仲間の探険隊員だった。それが、今はこんなおぞましい妖怪になってしまっているのだ。ぼくは夢中になって、十字架をふりまわした。——悲鳴や絶叫とともに、青白い焔《ほのお》があちこちでめらめらと上がった。中で、一番手ごわかったやつは——これが元凶らしかったが、——黒い服に黒いマントをつけた、大時代なスタイルの吸血鬼で、こいつをやっつけるのに、ぼくは五分以上もかかった。  すべてがもえつき、妖怪たちが、一かたまりの灰になってしまうと、ぼくは肩で息をしながら、小さな灰の山の数をかぞえた。  四つ——マリアとともで、五つ……すると一人たりない。  ぼくは第四船艙からもとの通路へ出ようとした。——その時、コンピューター室の方からやってきたジョーと、ばったり顔をあわせた。床の上の、灰と化したマリア、ぼくの手の十字架を見て、彼は一瞬にして事態をさとったらしかった。 「まて!」と吸血鬼と化したジョーは叫んだ。 「まってくれ、アキオ……」 「ほかの仲間はみんなやっつけた」ぼくは十字架をかざして、じりじりとジョーにせまりながらいった。「のこってるのは君だけだ」 「みんなやっつけたって?」ジョーは絶望的な身ぶりで叫んだ。「おお! なんてことを!——君はなんてことをしたんだ!」  ぼくはかまわずすすんだ。——数メートルに近よると、彼は十字架の威力がたえがたいらしく、ギャッとさけんでにげ出した。ぼくはあとを追った。ぐるぐる宇宙船の中を追いまわし、ついに体育室《ジム》の中でやつを追いつめた。 「まて!」ジョーはあえぎながら、壁の一隅に背をつけ、手をのばしてぼくの接近をおしとどめた。「近よらないでくれ! アキオ——そして、説明をきいてくれ」 「どんな説明があるんだ!」ぼくは十字架をかざしながらいった。「気の毒だが、君はもう、ぼくらの隊長じゃない。一個の妖怪にすぎん」 「まってくれ——」ジョーは必死の形相で叫んだ。「あの大昔の妖怪——吸血鬼を、冷凍槽にいれて、この船につみこんだのは、当初からの予定の行動だったんだ」 「なに?」ぼくはギョッとした。「どうしてそんな……」 「第一次から第四次まで、みんな冷凍睡眠装置で失敗した。今度の方式も、往復二十四年も、生身の人間を、こんなせまい空間にとじこめて、精神面からも健康面からもうまく行くとは思えなかった。食料だって、充分につめない……」 「それで、吸血鬼をつみこんだ、というのか!」 「そう——吸血鬼は、不死身だからだ。十字架と、太陽光線にさえあわなければ……」  ぼくは呆然とした。十字架がひとりでにさがっていった。  では、——これは今度の探険隊の計画の一部だったのか? 隊員にも知らさず、宇宙のある点まで達して、最初の倉庫の食料がなくなるころ、あの冷凍装置のタイムスイッチがはずれるとともに、秘密に発動されてくる、おどろくべき計画……。吸血鬼計画、あるいは妖怪化計画ともいうべき……。 「人間が吸血鬼になれば、闇の中で眠ったまま食物もとらずに何千年でも生きられる。——起きるのは、本人の意志次第だ。起きて活動するには血液がいるが、それには乾燥血漿をたくさんつみこんである。重量は、生きた人間が往復するに必要な食料よりはるかにすくなくていい」 「で——やつは、起き出して、次々にわれわれをおそい、首から血を吸って、吸われた人間を吸血鬼にかえた……」ぼくはしわがれた声でつぶやいた。「なんという——なんという、ひどい計画だ。……妖怪になってまで、恒星の世界に達したいというのか?」 「宇宙を見ろ、アキオ、——ほとんど夜ばかりだ。時間も、闇も、虚無も、ほとんど無限だ。——宇宙は人間よりも、はるかに妖怪に適しているんだ……妖怪といっても、アキオ、それは他の星のものではない。やはり地球のものだ」 「それで、アルファ・ケンタウリに達したら?——むこうにも昼はあるぞ……」 「光線防護服を着る。——妖怪を、その死からまもるのは、人間をまもるより、もっとやさしい」  ぼくは頭が混乱してしまった。——とすると、ぼくが妖怪をやっつけたと思ったのは、新しい次元で再編成された、第六次探険隊のメンバーのほとんどを殺したことになるのか? 「そうだ、アキオ——だが、できてしまったことはしょうがない……」とジョーはいった。 「あとにせめて、君とぼくで、A・Cに達するのだ。——君の血を吸わせてくれ、そして、君も不死になるのだ。でなければ、今のように、生身の人間のままでは、君は三カ月以内に餓死しなければならない……」  ぼくは眩暈《めまい》と吐き気を感じて、ふらつく体をやっとささえて立っていた。  人間として餓死するか? 妖怪として生きのびるか?——だが、考えてみれば、人間は猿にとって、万能の妖怪にひとしい存在ではないか? サイボーグは人間にとって、一種の化け物ではないか?  宇宙時代が、必然的に人間の妖怪化を要求しつつあるのか?——人間は妖怪となることによってのみ、太陽系をこえて未来に到達するのか? 「さあ、……」とジョーはいって、そろりと壁からはなれた。「大したことはない、すぐすむ——うしろをむいて、首を前にのばすんだ……」  ジョーが一歩ちかづいた。——ぼくは、本能的な嫌悪感から、反射的に身をひこうとし、思わずよろけて、後ろのパネルに手をついた。  かすかな音とともに強烈な光線がかがやき、ジョーのすさまじい悲鳴がきこえた。——よろけた拍子に、ぼくは、太陽灯のスイッチをいれてしまい、その強い太陽光をもろにあびたジョーは、みるみるうちに、焔をあげてぼろぼろにくずれはじめた。 「ジョー!」ぼくは、あわててスイッチを切ってさけんだ。「待ってくれ、ジョー!——死なないでくれ、君に死なれたら……ぼくは、吸血鬼になることができない!」  だが、もうおそかった。  ジムの床の上には、一塊のほこりのような灰の塊りがあるだけだった。——換気口の風が、その灰をふきちらし、吸いこんでいった。——あとかたもなくくずれ去ってしまった体のあとにのこったネーム入りの制服をいつまでも呆然と見つめながら、ぼくは、今度こそ、さけることも、越えることもできない「人間の死」の壁が、宇宙船のすすみ行く、暗黒の宇宙の彼方から、はっきりと、そのおぞましい姿をあらわし、三千トンの棺桶が、刻一刻とその壁にむかって近づいて行くのを感じとった。    宇宙《そら》に嫁ぐ 「そんな!」と夫人は、ショックをうけたように叫んだ。「そんなことは、できませんわ。私の——私の大事な娘を」 「お母さま!」と娘は、小さな声でたしなめた。 「なぜ、できないのでしょうか?」青年は、平静な声でいった。「お嬢さんは、ぼくと結婚することを、承諾してくださいました。あなたも、承諾をあたえてくださいました。ぼくたちは、愛しあっています。ぼくはあなたのお嬢さんに、ぼくの人生の一生の伴侶《はんりよ》になっていただくつもりです。——で、ぼくたちの属する社会のやり方で、式をあげたい、というのが、どうしていけないのでしょうか?」  青年は、長身で、がっしりしていて、おだやかな顔つきをしていた。——だが、その眼《め》の光が強すぎるのが、夫人をおちつかなくさせた。宇宙植民者の若者たちってみんなこうだろうか?——おお! 娘はなんという相手をえらんでしまったんだろう? 火星などへ、一人で観光旅行になんか、行かせるんじゃなかった。 「でも——式がすむまでは、娘はまだ母親の責任下にありますわ。娘のためにも——私たちの家族のためにも、私たちのやり方にしたがって、せいいっぱい、門出をいわってやりたいんです」 「お心はわかります」青年は首をふった。「ですが——それは、ぼくらにとってはだめなんです。つまり、地球の都会流の式をやられたのでは、これからのぼくたち二人にとって、もっとも大切な儀式が、台なしになってしまうんです。結婚式というものは、送るものにとってより、出発する二人の当事者にとって、一番重要なものです。そうでしょう?——そういっては何ですが、ぼくらにとっては、〃盛大豪華な式〃というものが、実にくだらん、空疎なものなんです」 「で、あなた流の方式って、どんなものですの?」夫人はついに、折れていった。 「それが——実は秘密なんです。神聖な儀式ですから、花嫁にも、その場になるまで教えられません」 「そんな!」  再び叫びかけて、夫人は口をつぐんだ。——この青年には、何をいってもむだなのだ。青年の強い眼の光、全身から発する精気のようなものに圧倒されてしまう。最初の承諾をあたえてしまったのが、まちがいのもとだった。娘は夢中になっている。青年と、宇宙のはてまでも、行く気になっている。 「わかりました。娘がそれでいいといっているなら……」夫人は不機嫌にいった。 「あら、あたしはむろん……」と娘はいった。 「わかってますよ。では、式をいつごろにするか、きめてください。娘を入院させねばなりませんから……」 「実は——それこそ、ぼくが申し上げねばならない、一番重要なことなんです」  青年は力をこめていった。「お嬢さんを〃ヴァージン・ドクター〃の手に委《ゆだ》ねることは、やめていただきたいのです。お嬢さんには、処女のまま、ぼくたちのやり方の結婚式にきていただきたい。ぼくたちは、この地球の都会とは、まったくちがった、花嫁のむかえ方があるのです」 「なんですって? そんな! そんな……」ついに夫人はまっさおになって椅子《いす》から立ち上った。 「〃花の歌劇《オペラ・デ・フロール》〃を……うけさせないなんて! そんな野蛮な! そんな残酷な!——私の娘を……そればかりは許せません!」  夫人は、興奮のあまり、唇をぶるぶるふるわせた。ぞっとするような恐怖が——最愛の娘が、結婚前段階の、大切な予備的措置もうけず、精神的にも肉体的にもまったく無防備のまま、この青年の、荒々しい肉体の前に、投げ出されている情景をまのあたりに見ているような恐怖が、夫人の襟もとを走った。無防備で、予備措置も何もない娘が、あの瞬間あげる、恐怖と苦痛の叫びを、耳もとできいたような気がした。 〃花の歌劇《オペラ・デ・フロール》〃——と洒落《しやれ》た陰語でよばれているが、もとは、〔手術《オペラチオン》〕と〔破瓜《デフロラチオン》〕のくみあわさった言葉だった。二十世紀の都会女性の生活文化の中に、深くはいりこんでいる——そう、整形医学や、美容医学などのように——いわば一種の、社会的予防医学ともいうべきか? 女性が破瓜《デフロレーシヨン》——つまりはじめての性体験の時にうける、肉体的苦痛、精神的ショック、あるいは未経験コンプレックス——つまり「初夜心傷」が、あとあとまで女性の心にのこす影響が有閑社会の中でやや誇大気味に評価され、その予防としてできあがった、医療習慣だった。屡々、未熟粗暴な、若い男性によって処女を失うことよりは、設備のととのった病院で、熟練した医師によって、両親監視のもとに、処女を「除去」した方がいい、という奇妙な考え方は、その社会でたちまち扁桃腺《へんとうせん》除去手術のように一般化していった。——社会の中にのこっている、「処女性」に対する、古いタブーの影響をうけ、処女そう失を、娘たちがあまり重大に考えないように、心理学者で、熟練の精神分析医が、手術の前後に、ゆっくりと丹念に、その心理的傷害をとりのぞく。こうして、処女から非処女への移行のショックと、最初の性体験への心理的肉体的準備はごくなめらかに、安全にのりこえられる。そして、この〃ヴァージン・ドクター〃の、施術証明は、かえって、娘たちの体の「純潔」を証明するものとうけとられ、結婚の前、母親たちがこの手術をうけさせることは、相手側の男性に対する精神的負担軽減という意味もあって、一種の「礼儀」とさえ、考えられるようになっていた。——中には、娘が、結婚前に、ばかな「まちがい」によって処女を失うよりは、というので、早い時期にこの手術をうけさせる母親たちも出てくるありさまだった。  いずれにしても、それは、「文明」が傷つきやすい処女をまもってくれる、もっとも行きとどいたサービスの一つだった。——しかも、そのサービスすら、青年は拒否するというのだ。それではまるで、予防注射せずに、伝染病の蔓延《まんえん》する地域にはいって行くようなものではないか?——なんという野蛮な……。 「お行き……」しかし、娘が青年に、しっかりよりそっているのを見ると、夫人はかすれた声でいって、顔をおおった。「行って、好きなようにおし……」 「ここからは、一人で行くのだ」と宇宙植民集団の長老はいった。「コンパスと、小型ラジオをあげる。食糧は宇宙食が三日分、花むこは、ここから真西に三日行程の所へやってくる。彼も一週間かかって、一人で会合点までやってくるのだ」  娘は、荷物をうけとって、真紅の太陽のかたむきかける茫漠《ぼうばく》とした地平の森と山脈に眼を投げかけた。こんな無人の大荒野が、地球の上にのこされているとは、たとえ、宇宙植民者たちの訓練地域として、文明の侵略から人為的に保護されていたにしても——都会育ちの彼女が、想像したこともなかったことだった。——草原の雄大なスロープのおちるあたりに深い森があり、そのむこうに河があり、河のむこうは岩石がちらばる荒地だった。彼女は、これからその荒れはてた土地を、たった一人で、三日もかけてわたって行くのだ。なんという奇妙な結婚式か! 「お行き……」と長老はいって、肩をたたき、小型ホバークラフトにのりこんだ。「さびしいだろうが、危険はない。万一の時にそなえて、パトロールが影から見はっている。——あんたは、この〃結婚式〃からきっとなにかをつかむ」  そして——長老は空の彼方《かなた》へとびさり、彼女は出発した。はてしなくひろがる荒野の中に、娘はたった一人だった。日はすぐかたむき、草原に霧がはい、夜がきた。娘はポケットの中から寝袋を出し、はいって寝た。森はざわめき、大地は冷え、明け方まで娘は寝つかれなかった。——翌日は、胸までつかって河をわたり、さらに進んだ。死の世界のような岩場をこえ、胸までの草原をぬけ……草原のはてに、いつのものとも知れぬ、古い墓場があった。そこでまた日が暮れ、暗い森の中で夜をすごした。風がたけり、森はごうごう鳴り、亡霊の叫びのような鋭い音が、暗黒の夜空をかけめぐった。夜半、嵐《あらし》が来て、娘は体の芯《しん》までぬれ、恐れがひしひしと彼女をおしつつみ、自分が死ぬかと思った。嵐のあとのぬれた岩根をふみしめて、霧たちこめる山をこえた。体のふしぶしはいたみ、足ははれ上り、頬《ほお》や手にすり傷ができて、血が流れた。三日目の夜、彼女はゆるやかな丘の上にいた。風が雲を吹きはらい、満天の降るような星の光にぬれ、たった一人で——すると黒々とひろがる大地のはてに、この星のまるい形が感じとられ、星辰《せいしん》のまたたく暗黒の宇宙空間にうかぶ、このまるい、かたい孤独な惑星の丘の上に、自分がたった一人、ひざをかかえてうずくまっているような気がした。風はおさまり、そこでは星たちではなく、無限の星をうかべる、広大な暗黒の虚無の空間が、彼女にむかってささやきかけるような気がした。——彼女は、自分が、かたい、たしかな、一個の目ざめている存在であることを感じとった。自分が、夜の闇《やみ》も、恐れの森も、ほえたける嵐の中も、こごしき岩根もこえ、この地球の歴史をこえ、さらに暗黒の虚無をもこえて、たった一人でつきすすんで行かねばならない存在であることを……。 「いるのか?……どこにいる?」その時、小型ラジオが、かすかに青年のさけびをつたえてきた。——娘は、送話ボタンを押し、一言だけ、情感をこめてささやいた。 「ここよ——丘の上……」  丘の下から、長身の黒い影が、ゆっくりと近づいてくるのを娘は丘の頂きで、すっくと立って身じろぎもせず待ちつづけた。  遠い惑星へ旅立つ娘夫婦を、宇宙空港に送りにきた夫人は、娘がわずかの間に、内面的におどろくほどかわったことを感じとった。——もう自分の娘というよりは、自分からかけはなれた、一個の独立の人格をもつ「女」になってしまった彼女を、夫人は何となくまぶしげに見つめた。 「そうよ、お母さま……」娘は夫人の心がわかったかのように、静かにほほえんでいった。 「私あの〃式〃のおかげで、自分が何であるかわかったような気がするわ。私は——〃花のオペラ〃を見るよりも、私の人生にとって、はるかに有意義な体験をしたと思うわ。私は幸運だったのよ。あの〃式〃があったから、自分がその時まで処女だったことが、貴重だったと思うの」  そういうと娘は、手をふって、花むことともに巨大な移民ロケットの方へ歩んでいった。    星殺し〈スター・キラー〉      1  カプセルの外で、風が鳴っていた。  じっと耳をすませると、ひょうひょうと、かん高い仮声《フアルセツト》で歌っているようにきこえる。ソプラノ——それもアルティッシモC《ツエー》ぐらいまで出せる歌姫が、ずっと遠くで声をはりあげているみたいだ。 「霧が出てきたわ」  と、ドラが窓際でつぶやいた。  おれは屋外モニターの計器類をちらと見た。——異常は何もあらわれていない、ただの霧だ。  ただの?——ほんとにそうか?  まだわからない。モニターの分析装置などあらっぽいものだ。肝臓の強いやつが、ウィスキイの半パイントものんで、息を吹きかけたって、 「ちょっと——そうですな。まあ、いいでしょう。しらふとみとめます」  というぐらいのしろものだ。  おれは寝椅子《ねいす》にねそべったまま、腕をのばしてモニターのガス採取器《サンプラー》のボタンを押した。——あとで徹底的にしらべる必要がある。 「梢《こずえ》が鳴ってるのかしら?」ドラは、風の叫ぶたびに耳をかたむけた。「ふしぎね——なにかが歌ってるみたい」 「そうだ。歌ってるみたいだ。——君にもそうきこえるか?」おれは窓の外をながめながらつぶやいた。「気にいらないな。——チャーリー。録音しろ」 「風の音をか?」  チャーリーは、不思議そうに黒い顔をあげた。 「ああ——あとで解析するんだ。むろん、ここじゃできない。プロクシマ・C㈽の研究所で、徹底的にしらべさせる」 「すこし神経質すぎるんじゃない? T・K……」とドラは外をながめながらつぶやいた。 「いくらなんでも、風の音にまでそんなに神経をとがらせることないと思うわ。おきなさいな。——自然の音よ」  チャーリーは、ちょっとおれの顔を見た。——やつも、〃いくらなんでも〃という表情をしていた。だが、おれは、視線一つでやつを録音装置のそばに行かせた。  そう——それはたしかに、ただの風の音かも知れない。それにしたって、おれは気にいらなかった。  この星へ来てからずっと、おれの神経は何かを感じてぴりぴりしっぱなしだった。衛星軌道から見ても、それは美しい星だった。青と、緑と、黄と、赤と——それに白い不思議な雲の紋様が、網の目のようにかぶさっていた。ちょっと見たところ、それは地球とそっくりな感じだった。だが、その段階から、おれには気にいらなかった。  この星には、何か、おれの心をいらいらさせるものがある。  軌道半径、自転周期、公転周期、質量、大気組織、表面平均温度、自転軸の傾斜——そんなものは知ったことじゃない。何もかもひっくるめて、地球によく似た星だった。そして、そんな星は、この宇宙の中に、うんざりするほどあるし、おれもうんざりするほど見ていた。  着陸すると、すばらしく美しく、おだやかな星だった。紫色の山、エメラルド色の海、どこもかしこも、美しい草のカーペットと、緑や黄の森におおわれ、名も知らぬ不思議な花が目もあやに咲きみだれ、六枚翅《ばね》の美しい蝶《ちよう》のような昆虫や、鳥とも昆虫ともつかぬ小さな飛翔《ひしよう》動物がいた。——しかし〈獣〉に相当するような大型動物の姿はみあたらなかった。——もちろん〈知的生物〉のたぐいが発生した形跡はどこにもない。  それは、まったくおだやかで、惚《ほ》れ惚《ぼ》れするほど美しい星だった。——その景観のどこにも、なにか濃密なあたたかさがあった。  だが、おれは、その星が気にいらなかった。  どこが気にいらないということは、はっきりと指摘はできない。しかし、何かが、おれの神経にさわった。そして、何かはっきりしない原因のほかに、おれには別に、この星が気にいらないはっきりした理由があった。十年前と五年前、二度にわたってこの星にやってきた調査隊が、二組ともふっつり消息を絶った。二度目の調査隊の中には、おれの知りあいのグスタフ・Jと、アイザック・ユーリーがいたのである。  最初の調査隊の居住カプセルはまだ見つかっていない。しかし、二度目のやつは、おれたちの着陸した地点から二キロ北方で五彩の花をつけた蔓草《つるくさ》にびっしりおおわれた姿で見つかった。中はもぬけのからだった。〈おじい《オール・マン》〉とよんでいるロボット——というより、〈歩く電子脳〉といった方がいいのだが——もなかった。無線操縦装置を修理して、よびかえそうとこころみたが、反応はなかった。カプセルの中には、食糧はまだたっぷりのこっていた。だが、いったい連中の上に何が起ったのかを知る手がかりは何もなかった。しばらく中で生活をした形跡はのこっていたが、しかし、いろんな作業は途中でほうり出されていた。何か緊急事態が起って、いそいでカプセルをすてた、というのでもなさそうだった。連中は、何となく途中で作業をやめて、外へ出て行ったらしいのだ。  連中はあとに何の記録ものこして行かなかった。——ただ一つ、ユーリーの〃個人的〃日記のようなものが見つかっただけだった。  ドラが、カプセルのハッチをあけて外へ出ていった。 「チャーリー……」とおれは、折り畳み式テーブルの上から、ユーリーの〈日記〉をとりあげて、顎《あご》でさした。「ついてってやれ。なるべく一人にさせるな」 「何しに出て行ったんだ?」 「知らん。——風の歌と、霧のダンスでも見に行ったんだろう」 「ドラは、少しおかしいような気がするな、どうだい、T・K」チャーリーは、録音器のスイッチを切って、すらりとした長い脚を優美にまわして、ストゥールの上からおりた。「少し、神経がたかぶっているみたいだ——そう思わないか?」 「女は何千年来、少女趣味のしっぽをくっつけてるさ」おれは、パリパリしたスチレン・ペーパーのノートをめくりながらつぶやいた。「泣いてたら、抱いてやったらどうだ。——セックスにもってこいの草原は、そこらへんにいっぱいある」 「それを、おれにいうのか? T・K……」チャーリーは、急に熱っぽい、うるんだような眼《め》で、うらめしそうにおれを見た。「ひどいじゃないか、おれは……」 「どうして? セックスはきらいか?」おれは〈日記〉から眼をあげずにいった。「ドラは、なかなかいいぜ。——いってやれ、チャーリー・パーカー」  黒人青年は、ポケットに手をつっこむと、肩で大きく息をして、うなだれるように外へ出て行った。ずうっと大昔、チャーリー・パーカーという名前の黒人ジャズ音楽家がいたような気がするが、チャーリーが、それと関係があるのかどうか知らない。とにかく彼は、気のやさしい、黒人特有のゆたかな感受性をもった青年で、ドラとは、〈コントラ・カップル〉のくみあわせでえらび出されていた。——ティーモロジイのさまざまなくみあわせ方の中で、論争的《ポレミツク》な関係におかれるようなカップルである。だが、二人は、この星に来てから、まだ論争らしい論争をやっていない。それどころか、この星にくる途中で、何か妙な要素がはいりこんでしまい、この星についてからは、それがますます妙なことになってきた。  だがおれは、そんなことは別に、気にかけなかった。      2  おれは何度も読みかえしたユーリーの〈日記〉を、もう一度パラパラとめくった。表紙に〈日記〉と印刷してあるだけで、実のところ、日記や手記のていをなしていない。だらだらと、くだらぬ、小便くさい小伜《こせがれ》でも書きそうな一人よがりの感想や、虫酸が走るような気障《きざ》ったらしい詩のようなもの、隊員の誰《だれ》それが気にくわない、とか、誰それが自分に意地悪をするとか、隊員はみんな俗物で、野蛮で、機械に魂を売りわたした獄卒のような連中で、誰も自分のすばらしい天分や才能を理解しないとか——狂人のたわ言としか思えない、女のくさったようなうじうじとした愚痴を書きならべてある。——ユーリーは、だめな奴《やつ》で、うぬぼれ屋で、過度のアルカロイド性飲料の中毒で、年よりはずっとふけてみえ、意思薄弱で、詩人になりたがっていたが、意思薄弱のためになりそこね、何一つちゃんとできないくせに、やたらに人をうらんだり、陰口をいったりする男だった。陰口がこの男の一番得意で、その時だけ他人の注意を自分にひきよせることができるので、自分に辛辣《しんらつ》な審美眼があると思いこんでしまっていた。こんなやつを、グスタフは何だって調査隊にくわえたのだろうと、つくづく呆《あき》れるのだが、その理由はわかっていた。ユーリーは、グスタフが、四十こえてからはじめて知った同性愛《ホモ》の相手だった。——あの堂々とした智恵《ちえ》と意思と行動力の塊りのようなグスタフとは、おかしな組みあわせだったが、この道ばかりはどうにも理性ではかりきれない。ユーリーがみじめになればなるほど、グスタフはそんな彼を哀れみ、夢中になって彼につくしてやった。ユーリーが、女のくさったような、はたで見ていて身うちが不快なうずきでいっぱいになるような、哀れっぽい愚痴や、いやらしい見えすいた手管をつかい、それにグスタフが——〃プロクシマ・ケンタウリのヘラクレス〃とよばれた堂々たる偉丈夫が、手もなくのせられて、やさしくいたわり、機嫌をとり、あやしてやったりするのを見ると、グスタフの親友だったおれは、情なくなって反吐《へど》が出そうになるのだった。  一度、ユーリーの件で、おれとグスタフは、二人ともあやうく地球送還になるほどの壮烈な殴り合いをやった。最後に保安官の麻痺銃《パラライザー》でとどめをさされるまでの二時間半、今でもP・C㈽基地《ベース》の語り草になっているほどの、猛烈な殴り合いだ。原因はユーリーで、火をつけたのもユーリーだった。おれが一度、やつのことをどなりつけたのを根にもって、あることないことグスタフにたきつけた。——グスタフはその足でおれの所へとんできて、おれの胸倉をつかんだ。 「なぜ、ユーリーを殴った?」  体重百二十キロ、身長二メートルの大男は、理性を完全に失い、眼をまっかにもえ上らせて、その鋼鉄のような腕で、おれをストゥールからつり上げた。 「おちつけ、グスタフ……」とおれはいった。「おれは何も殴りやしないぜ。あんなくさった半病人、殴ったって何もなりゃしない」  とたんにスチーム・ハンマーみたいなフックがガン! ときた。  ——床にぶったおれ、頭をふって起き上りながら、おれはまだ手を出さなかった。 「いや、お前はあのかわいそうな詩人を殴ったんだ。ユーリーはおれにいったぞ。——奴はいたがって寝てるんだ」 「ルナミック《それが例のアルカロイド性飲料の名だった》の飲みすぎで、ひっくりかえったんだろう。——あんなやつ、かまうなよ。グスタフ」 「なにを……」グスタフの眼はギラギラ光って、肩が大きくあえいだ。「わかってるんだぞ。おれにはわかってるんだ。ユーリーからちゃんときいたんだ。貴様は……貴様はおれのユーリーにいいよってふられたんで、その腹いせに……」 「だまりやがれ!」おれがあのいやらしいユーリーにいいよった、とユーリーがいったときいて、さすがのおれも眼の前がカッとなってどなった。——どうしようもない苦い唾《つば》が口いっぱいにたまり、全身を悪寒が走った。「お前みたいに、あの中毒野郎のくさったイボ痔《じ》をなめて、腑《ふ》ぬけにされた男とわけがちがうぞ! あんな野郎にいいよるなら、アルデバランのなめくじとねた方がましだ!」  おれに最後までいわせまいと、グスタフがなぐりかかり、そいつをすれすれにかわして、肱《ひじ》まで埋まるようなカウンター・パンチを、やつの胃にふかぶかとたたきこみ——それから基地の一ブロックがめちゃくちゃになるほどの殴り合いがはじまった。  喧嘩《けんか》のあと、グスタフは、P・C㈼の方へ転出してしまった。むろん、ユーリーをつれてだ。そこからこの星の調査にとびたつ時も、どう手をまわしたのか、半廃人のユーリーを調査隊のメンバーにおしこんだ。グスタフほどの、猛烈な人間になれば、そのくらいのこと、朝飯前なのだった。きっと〈記録係〉という名目でもつけたのだろう。——だが、ユーリーに〈記録係〉なんてものがつとまるわけじゃない。記録係どころか、探険隊のどんな仕事も——小指でもやれる雑用だって——きちんとできる男じゃない。奴は半廃人で、落伍《らくご》者だ。基地新聞の雑文書きがいいところだ。  だが、その〈記録〉としての価値がほとんどない奴の手記だけが、第二次探険隊ののこしていった、唯一の手がかりになったのだから皮肉なものだ。  おれは、唇を歪《ゆが》めながらノートをめくっていった。——自己中心的なやつは、自分のことばかり書いていて、この星の生活のことはほとんど書いていなかった。 「この星はきらいだ……」とやつは中ほどに書いていた。「平板で、あつくるしく、退屈で、詩人の魂をゆさぶる何もない。——こなければよかった。P・C㈽の基地へ早くかえりたい。いや——あのやさしい、ひだとかげりに満ちた地球の町へかえりたい……」  それから十ページほどとばして、いきなりこんな文章がある。 「グスタフは、このごろ私にあまりかまってくれない。——何かに心をうばわれているみたいだ。泣いてやったが効果がない。私の詩人の魂は、つれない運命にふるえる。——今夜、彼がベッドに来ても、いれてやるもんか!」  その横に、丹念に、へたくそに、猥褻《わいせつ》な絵が二つ書いてある。一つは、グスタフ《らしい男》がユーリーのうしろからかかっている絵で、吹き出しを書いて、いやらしい台詞《せりふ》を言わせている。もう一つはグスタフが、ユーリーの前に卑屈にひざまずいて、許しを乞《こ》いながら、ユーリーの陽物に口づけしている絵だ。ユーリーのそれは、ことさらに大きく、りっぱに描いてある。その絵の所にくると、おれののどに、どうしても苦い唾がこみあげてくる。  それからしばらく、ほとんど意味のない、断片的な句がつづく、それから、突然、こんな文章が脈絡なく、ポツンと出てくる。 「私は、この星が気にいった。——ここはすばらしい星だ」  ——この星はきらいだ……退屈で……この前の文章と、この文章との間に、いったいユーリーの中に、どんなことが起ったのだろう?  手記は、そこでほとんど終りだった。あとは、中毒の発作がつづいたらしい。ほとんど読みとれないような書きなぐりがとびとびにつづき、そして——  手記がきれたあと、二、三ページの空白をはさんで、突然、はっきりした字でこう書いてある。 「この星には、何かがいる……」  さらに、もう一ページとばして、おなじような字で、 「この星には、何かがある……」  それで終りだ。——そこまでくると、おれの神経に、ふたたび何かがびりびりとさわり出す。  おれはユーリーの手記をほうり出して、じっと考えこむ。——何かがいる、と何かがある、と……。いるの場合は、生きものがいるということだ。生き物はたしかにいる。植物はびっしり野山をおおっているし、可憐《かれん》な昆虫がいる。海の中をしらべたが、巨大なしかしおとなしげな軟体動物らしい類と、水棲《すいせい》昆虫と、どうやら脊索《せきさく》動物の段階までは達しているらしい、小さな、ふわふわ泳いでいるやつがいるだけだ。  それ以外の何かが、いるというのか?——それは何だ?  この星に、何かがあるというのは——何かあやしい、おかしいところがある、という意味だろうか?——いったい、どんなおかしいところがあるのか? おれの神経にも、何かピンピンふれるものがあるのだが、いったい何があるのだろう? 「畜生!」と、おれは床にたたきつけたユーリーの手記にむかって毒づいた。「よいよいのくされ野郎——もっと、ちゃんとした手記を書け!」  風が吹きこんできた。——ハッチの方をみると、チャーリーがしずかに、猫のように音をたてずにはいってきた。 「ドラは?」 「外にいる……」と、チャーリーは、まるい深味をおびた声でいった。 「ほったらかしにしてきたのか?」 「大丈夫だ。——危険はない……」そういうと、チャーリーは、眼を伏せて、何かつらい告白でもするようにつぶやいた。「外へ行ってみないか? T・K——すばらしい夜だぜ。霧が流れている。月が二つ出ている……。森の方へ行ってみないか?」 「寝ろよ、チャーリー」とおれはいって立ち上った。「明日は、早くから捜索だ。準備をしておいてくれ」 「森へ行かないか?」 「お前、のこってろ。カプセルをからっぽにするわけには行かん」  おれはチャーリー・パーカーの横をすりぬけた。——若い黒人の体からは、何か清冽《せいれつ》な、甘美といっていいような熱いにおいがムッと立ちこめていた。おれは、チャーリーの見事にひきしまったズボンの尻《しり》を、ちょっとさわりながらウィンクした。 「すませたんだろう? チャーリー……」 「ああ、T・K……」とチャーリーは、溜息《ためいき》をつくようにいった。 「なんだ?」ハッチの所で、おれはふりかえった。 「いや——あんたは、すごいセックス・マシンだ、といおうとしたんだ……」チャーリーは眼を伏せていった。 「おやすみ、チャーリー」とおれはいった。  霧が流れていた。  乳白色の優美にうねる筋が、黒々とした森や草むらをぼんやりかすませながら動いて行く。——ふつうの霧のようだが、どこか地球の霧とちがう、霧というより、煙に似ていて、吹きちぎられる時、妙にねばっこく、細くひきのばされる。  地上には霧が出ているのに、沖天は雲一つなく晴れ上っていて、ピンクと青の、真珠のようにかがやく満月が二つ、天頂よりと、やや東よりに出ていた。ピンクは小さく、青は大きい。青は地球の月の三分の二ぐらい、ピンクは三分の一ぐらいの視直径だ。——ピンクと青の冷たい光が、夜の中でまじりあって、薄《すすき》に似た、銀色の穂を一面に出している草原に、妙に色っぽいかがやきをそえる。  風はあいかわらず鳴っている。  夜の奥、森のむこう、何か岩にでもあたって出すのか、シレーヌの歌声のような、幾千の妖精《ようせい》の合唱のようなひびきになって、月の光を銀線のようにふるわせる。  おれは、その風の音の底に、はっきり楽音のハーモニーをきいたような気がして、たちどまって耳をすませた。——耳をすませると、もうそのあえかな歌はきこえない。びょうびょうとむせび泣くように鳴るのは、ただの風の音だ。  ドラは、おれのたちどまった場所の、三メートルほど前の草の上に、横たわっていた。下着もぬいでしまい、まるめられた銀色の制服の傍で、ドラのやや肉付きのよすぎるような、見事な裸身は、月の光にぬれて、銀のように、またかすかな、ピンクに、そしてあわいブルーにかがやいていた。 「ああ、チャーリー……」ドラは眼をとじたまま、うっとりとつぶやいて、ゆるゆると象牙《ぞうげ》のような腕を前へあげた。 「来て……もう一度……」 「かえろう、ドラ——」とおれはいった。「一人で、屋外にいるのはいかん。すんだらかえるんだ。かぜをひくぞ」 「ここへきて、T・K——」ドラは、眼をとじたまま、自分の横の草をたたいた。「かぜなんかだいじょうぶ。とてもあたたかくていい気持ち……ここへきて、裸になって……」  ドラの体からは、チャーリーの若々しい、青くさい精液のにおいがした。だが、地球の草とはまたちがう、すばらしい草の芳香とまじりあう時、それはかえって蠱惑《こわく》的な香りになった。——おれの方はかまわなかったし、ドラの方はまだ燃え上りっぱなしだった。カプセルから百メートル以上はなれていたし、完全な防音で、声はきこえない。で、おれは、草と木と、霧と風と、可憐な紫色の光をはなってとびかう発光虫と二つの月以外、何もないこの見知らぬ星の大気の中に、ドラの、誰にはばかることないはげしい叫びと泣き声をしぼり出してやった。  風はあたたかく、月の光はあでやかに、草はまるでビロードのようにやわらかく、あたりには得もいわれぬ香りがみち——おれはドラの汗でぬらぬらになったかたい乳房にへばりついた胸をはなし、空をあおいでひっくりかえった。 「ああ、T・K——あなた……すごいセックス・マシンね……」とドラはあえぎあえぎ、チャーリーと同じことをいった。それから頭の後に組んだ、おれの肘に頭をもたせかけ、おれの胸に接吻《せつぷん》した。  だがその時、おれは意識がビーンとはねかえりそうに緊張していた。  風の中に、何かの声がした。  何かわからぬが、はっきりよびかけている声が……。かん高い、しかし、なまめいた女のような声で、遠く、近く、さそうように、訴えかけるように……。  おれは、ばねのように、ドラの体の傍からはねおき、裸のまま片膝《かたひざ》ついて、あたりを見まわした。  湖水の方から、また新たな霧がたちこめはじめ、その霧がゆっくりこちらへ押し流されてきながら、渦まき、たゆたい、そこにごくうすぼんやりと、何かの形をとりかけていた。 「チャーリー!」おれは、腕につけたマイクにかみつくようにどなった。「チャーリー! 録音しろ!——それからVDカメラを霧にむけろ!」  風の奥の歌うような叫びは、遠く、近く、いまにも何か意味のあるものになりそうにつづく。——霧の中にも、一つの形が……巨大な〈眼〉のようなものが……いや、何か生きもののようなものが……なにかが渦まき、たゆたいながら、あらわれかけていた。  おれはそいつの姿を見きわめようとした。裸のまま、ぬぎすてたズボンから、光線銃をぬき、何かがあらわれたら、すぐそいつにむかってぶっぱなそうと身がまえた。  だが、そいつはついに形をとらず、風の音はいつか遠ざかり、あとには、かすかなもやのような霧のなごりと、遠く、ざわざわなる森の音がのこっているばかりで、ただ二つの月の光ばかりが、皓々《こうこう》と冴《さ》えわたっていた。 「どうしたの?」と、ドラがものうそうに半身を起した。 「服を着ろ」と、おれは銃をしまいながらいった。「すぐかえるんだ。——この星には、何かがいる……」      3  翌朝おれは、ドラのけたたましい叫びに眼をさました。——反射的に銃をつかみ、上半身裸のままで、ハッチから外へとび出した。 「どうした?」と、おれはけわしい声できいた。「何が出た?」 「あれ、ごらんなさい、T・K……」と、ドラは讃嘆《さんたん》の声をあげた。「すごいわ。何てきれい……」  その時やっと、視力がもどってきた。まだ半ねぼけの瞼《まぶた》の奥に、いきなりつっこむように鮮やかな色彩がかさなりあってとびこんできた。  カプセルのまわりの草原は、一面の花だった。——大輪の、あるいは小さな無数の、赤、黄、青、すみれ色、黒紫、オレンジ、白、さまざまの花が咲きみだれ、しかも、それがカプセルを中心に、正確な同心円を描いて、三重、四重にとりまいている。 「一晩のうちに……」とチャーリーは呆然《ぼうぜん》とつぶやいた。「ゆうべはなかった……」 「しらべろ」おれは銃をしまいながらいった。「いくつかひっこぬいて、サンプルにするんだ。下の土もだ。すこし深く、掘りかえしてみろ。何かしかけが見つかるかも知れん」 「しかけですって?」ドラは眼をまるくした。 「一晩のうちに、しかもこんな正確な、色彩調整でもって、こんな正確な同心円状に、花を咲かせるしかけだ。——そいつが見つかれば、誰がしかけたかわかるかも知れん」おれは中にはいりながらいった。「それとも、こいつは自然に咲いたとでもいうのかね? ドラ——チャーリー、君は出発準備だ」  とうとう——おれはシャツを着ながら、筋肉をかたくひきしめて思った——何かが、姿をあらわしはじめた。何だか、まだその正体はわからない。しかし、そいつは、花の輪でもって、自分の存在をおれたちに提示しはじめた。  見つけてやるぞ——と、おれは光線銃に、新しい線源をつめこみながら、決意した。——きっと、お前の正体を見つけ出してやる。  おれたちのイオン・カーは、花の輪を吹きちらしながら出発した。 「何かわかったか? ドラ」と、おれはリアシートに声をかけた。 「なにも——ふつうの植物よ。あえていうなら、地球の草本科に酷似している……。何の変哲もないわ、ただ——あんなにいろとりどりのかわった花をさかせながら、ほかのところを見てみると、葉生から何から、どれもみんな、同じ種らしいの」 「じゃ、どうしてちがう花が咲くんだ? バラの花とアジサイの花が、同じ種の変異型だといわれても、おれは信じる気になれんね」 「蕾《つぼみ》を見れば、納得がいくわ——ごらんなさい。あの草の一本一本には、あそこにひらいていた花の色や形の種類と同じ数だけ、蕾がついているの。ごらんなさい」  ドラは肩ごしに、一本の草をさし出した。黄色いパンジーに似た花がついている。その花の下に、大小いくつかの蕾がついている。——その一つの閉じた萼《がく》を、ドラはむしってみせた。  中から絹のようにうすくやわらかい、真紅の、バラに似た花びらがこぼれ出した。ドラはもう一つむしった。今度は紫の、十字花植物の花びらのようなものが……次は、菊に似た白い多弁花が……。 「にぎやかな草だ……」とおれは首をふった。「似ているようで、地球のやつとはパターンがちがうな。で、それじゃ、同心円状に、青い花なら青い花、赤い花なら赤い花を咲かせた方法は?」 「薬品でもまいたんじゃないかね」と操縦しているチャーリーがつぶやいた。 「誰が?」 「そんなことわかるもんですか!」とドラ。 「土の中はしらべたか?」 「しかけなんてどこにもなかったわよ。土質は、とても深い、腐葉土ね。——土の中に、細い、カビの菌糸のようなねばねばした糸が、網みたいにあったわ」 「第二次探険隊のカプセルの上へきた……」とチャーリーはいった。「どうする? おりるか?」 「カプセルを中心にして、高度五十で、外向渦線状にとべ。まわりに何か見つかるかも知れん——ドラ、君はそっち側を見はれ」  萌黄《もえぎ》色の、やわらかい草の絨毯《じゆうたん》の上に、濃い緑色の巨大な卵がのっている。それが、第二次隊のカプセルだった。つややかな緑の卵の上に、白や赤の斑《ふ》が、一面にとんでいて、それがカプセルをおおった蔓草に咲く花だった。  チャーリーは、イオン・カーの自動操縦装置をセットし、高度五十の外向渦線コースにいれて、自分でも双眼鏡をとった。  イオン・カーは、メリーゴーラウンドのように、ぐるぐるまわりながら、次第に旋回半径を大きくしていった。  主星であるG型恒星の光はあたたかく野に照り、うららかな、いい天気だった。地上は黄ばんだのや、もえたつように明るいのや、やや黝《くろず》んだのや、さまざまに色調のちがう緑に一面におおわれ、ゆるやかに起伏していた。森が、ブッシュが、昆虫以外、誰みることとてない一面の絢爛《けんらん》たる花畑が、その上に散在し、湖水が光り、川がうねっていた。——機体が旋回するにつれて遠くの山脈《やまなみ》が見え、あるいは海が見えた。老年期のそれのように、なだらかで、長く裾《すそ》をひいた山々であり、おだやかな、群青の海だった。——おだやかで、美しい星……人類が、文明などというものをふくれ上らせる以前の地球も、こんなおだやかで美しい星だったろうか? 巨大な草食獣の群れや、猛々《たけだけ》しい肉食獣がいたにしても……。 「十字架よ!」ドラが叫んだ。「いえ——灌木《かんぼく》かしら? ちがう——やっぱり十字架だわ、前に土盛りがある。右手二時の方向……」 「降下だ、チャーリー——」とおれはいった。  森の手前の、なだらかな斜面に、緑色の十字架がたっていた。上にのっている白いものは、ひょっとしてヘルメットかも知れない、と思わせたが、着陸して近よってみると、直径二十センチはありそうな、朝顔に似た白い大輪の花が、ポッカリ咲いているのだった。横にのびた腕木の先にも、青い花と、真紅の花が咲いていた。ドラがいたましそうな顔をしていたが、おれは容赦なく、びっしり一面にまきついたやわらかい蔓草をひきむしった。 「ユーリーよ!」草の下からあらわれた、自然木の一部を削った横木を見て、ドラは叫んだ。 「これ、ユーリーの墓だわ」    アイザック・ユーリーここに眠る      愛するものの手にかかりて G・J  愛するものの……手にかかりて……おれは、ある種の衝撃をうけて、立ちすくんでいた。するとユーリーは——グスタフに殺されたのか? 「掘ってみろ」と、おれはかすれた声でチャーリーにいった。「この盛り土の下だ」  いわれるまでもなく、チャーリーは草におおわれた盛り土を、シャベルでほりかえしはじめていた。——草の根つきはやわらかく、土はふかふかの腐植土だったので、五分もたたないうちに、白いものが見えてきた。  それはたしかに、ユーリーの骸骨《がいこつ》だった。頭の開いた鉢と、義歯の具合によって、おれには一眼でわかった。指骨にネーム入りの指環《ゆびわ》をしていた。骸骨は、ほぼ完全な状態で黒々とした、やわらかい土に埋まっていた。よくみると下顎骨《かがくこつ》の一部が折れ、頸椎《けいつい》が脱臼《だつきゆう》していた。——そうすると、グスタフはユーリーをしめ殺したのか? P・C㈽のヘラクレスにとっては、簡単なことだったろう。  奇妙だったのは、骸骨は、何も身にまとっていなかった。ユーリーは、まる裸で埋められたのだ。土の中には、骸骨以外の何もなかった。腐植土の中のバクテリアのせいか、ユーリーの骨は、洗われたようにきれいになっていた。——腰骨の下の部分、ちょうど薦骨《せんこつ》のあたりの土中からのび出した、ふとい紡錘形の植物の根が、そのずんぐりした尖端《せんたん》を恥骨縫合のあたりにつき出しているのが、男根みたいに見えて異様だった。  土の中には、そのほか何もなかった。——ユーリーは、指環一つのぞいて、完全な裸で埋められたのだ。  これは何か奇妙な事ではないだろうか?——なぜ彼は、裸にむかれて埋められたのか? それとも、死んだ時、全裸だったのか? 「T・K——」おれとチャーリーが、骨にもう一度土をかけていると、ドラが上ずった声で叫んだ。「ほら、あれ——何かしら?」  草むらの中に、にぶく銀色に光るものがあった。——かけよってみると、草にまかれて、草によって十センチほど持ち上げられている、宇宙靴だった。ひろいあげると、中にもびっしり草がつまっている。その間から、白い足首の骨が見える。 「ユーリーのか?」とチャーリーがきいた。 「いや……」おれは、のどがひりつくので、咳払《せきばら》いをしながら、やっといった。「グスタフ・Jのだ。ネームがはいっている……」 「じゃ……」ドラが、まっさおな顔をして、両手を頬《ほお》にあててつぶやいた。「グスタフも死んだの?」 「近所をさがせ!」とおれは二人にどなった。「ほかに何かないか。さがすんだ、そして、できればグスタフの遺体も……」  もう片方の靴は、最初のが見つかった地点から、五十メートルほどはなれたところで見つかった。靴は底を下にしており、そのはき口のところからは、丈高い、コスモスのような花が二株ほど、いきおいよくのび出していた。二つの靴をむすんだ線と直角の方向に百五十メートルほどはなれて、グスタフの宇宙服が見つかった。——それはまるで、〈戦士の墓〉といった恰好《かつこう》だった。まっ四角に刈りこまれた灌木が、たて十メートル、横五メートルぐらいの長方形の区域を画し、その中に、禾本《かほん》科のような草が、中央が高くなって楕円《だえん》形にこんもりともり上っている。  灌木の区切った四隅には、それぞれ赤、黄、白の花をいっぱいにつけた、喬木《きようぼく》がそびえたち、中央のもり上った草の上は、放射状に、また同心に走る、花の線条に彩られ、その中央に、蔓草をモールのようにまといつかせ、大輪の花を勲章のようにつけた宇宙服が横たわっていた。  見まごうことのない、〃ヘラクレス〃の、大一番の宇宙服だ。 「誰が……」と、ドラはかすれた声でつぶやいた。「この墓をつくったのかしら?」 「隊員の誰かだろう」とチャーリーはいった。「隊長の墓を……」 「それにしても、この墓をつくったやつは、ふしぎなセンスじゃないか」とおれはいった。 「よく見ろよ——首はどこへやったんだ」宇宙服の襟の所から、一塊の花束が吹き出していた。色とりどりのつややかな花びらはいきいきと輝き、小さな羽虫がぶんぶんとまとわりついている。——花の塊は、ちょっと見たところ、出たらめの色点の塊のように見えた。だが角度や距離によって、ふっと、顔のように見えたりすることがあるのだった。宇宙服の、袖《そで》のところからも、手の骨のかわりに、ヒヤシンスのような花が吹き出していた。両足首のところには、蔓れいしのような、赤い実がなっていた。——グスタフは、花の顔《かんばせ》と、花の手足をもった、花のかかしだった。花の顔はつぶやきのように羽虫の音をたてていた。そして、宇宙服の股間《こかん》には、大輪のもえたつように赤い花がひらいているのだった。  ドラもチャーリーも、なかば呆然と、なかばうっとりと、〈花の墓〉の前にたちすくんでいたが、おれはかまわず、草と花をふみにじって宇宙服にちかよった。グスタフのがっちりした骨は、宇宙服の中にあった。しかし、服と骨の隙間《すきま》には、まるでつめ物のようにぎっしりと、植物の根や茎がつまっている。——おれは、グスタフの体からはえた、花の塊をちぎってほうり出した。 「頭をさがすんだ!」おれはいらいらした声でどなった。「早くやれ!」  理由のない怒りがこみあげてきて、おれは手足の花もひきちぎり、草をふみにじった。グスタフの頭蓋骨《ずがいこつ》は、胴から五十メートルほどはなれたところにあった。——もり上った灌木の上にささえられ、その頭蓋には、蔓草の花冠がかざられ、その眼窩《がんか》から、鼻腔《びこう》から、がっくりひらいた口の中から、無数の花が吹き出し、咲きみだれていた。      4  そのあと、しばらくさがしたが、のこりの隊員の痕跡《こんせき》は付近に見あたらなかった。——のこりの連中は、生きているのか、死んでいるのか……おそらく生きてはいないだろう。森の中か、丘のむこうか、どこかで花に埋もれた骸骨になっているにちがいない。  見とおしのきく湖水のほとりで、おれたちはキャンプすることにした。イオン・カーの中は、三人ねるにはせますぎる。気候はいいから、草の上にじかにねてもいいのだが、おれはエア・テントをはり、三時間交替で一人が見張りをすることにした。  周囲を一通り見まわってかえってくると、キャンプのほとりに、何か香ばしい香りがただよっていた。——手もちの食料ではない、かわったにおいだ。 「この星は、エデンの園よ——。ごらんなさい、T・K」  ドラがほほえみながら、小さな洋梨《ようなし》形の実をさし出した。——中にやけたうす赤い果肉がぎっしりつまっており、やきたての肉のようなうまそうな香りをはなっている。 「ちょっと分析してみたけど、良質の蛋白質《たんぱくしつ》なのよ。やいたら、肉そっくりの味がするわ。高蛋白果実は、このほかにいくらでも種類があるのよ」 「食ったのか?」とおれはきいた。 「すてきよ。ミート・ローフみたいな味がするわ」  おれはやけた果実を口にはこぼうとしていたチャーリーにとびついて、その手から果実をたたきおとした。——ドラの襟がみをつかまえると、口の中に指を二本つっこんで、食ったものを吐かせた。 「何をするの? よして?」とドラは悲鳴をあげ、手足をバタバタさせた。——眼には涙をいっぱいため、唇のまわりを汚物でよごしながら、憤然としておれに食ってかかった。 「君はどうかしてるぞ、ドラ……」とおれはいった。「このティームの唯《ただ》一人の生化学の専門家のくせに、なんてざまだ」 「どうだっていうの?——神経質すぎるわよ」  おれはまじまじとドラの顔を見た。——いつもの彼女がいうせりふじゃない。 「ドラ——いいか、こいつは君がしょっちゅうおれたちにいってきかせてくれたことだ。果物だって、完全にその成分と性質がわかるまでは、やたらに口にいれるべきじゃない。こいつが、ヘデスの三種のざくろかも知れない。数年前、アンタレス四番惑星にはじめて探険隊がついた時……」 「わかったわ、もういいわよ、T・K」ドラはツンとして横をむいた。「でも、ある意味じゃ手おくれかも知れなくってよ。私たち、この星の大気を精密検査もせずに、吸っちゃってるんですものね」  このことは、おれも気がついていた。——おれたちは、第一歩からミスをしてしまったのかも知れないのだ。第一次、第二次調査隊の、「すてきな星だ!」という上ずった報告を鵜《う》のみにして、今や彼らと同じあやまちに足をふみいれつつあるのかも知れない。——どうも地球人は〈酸素のある星〉には、無条件によろこんでしまう傾向がある。これは宇宙開発の初期からつづいている傾向で、いまだにあらたまっていない。  チャーリーは、長い手をだらりとのばして、途方にくれたようにおれとドラをながめていた。——おれはチャーリーの前のおりたたみテーブルの上から、ポットをとりあげ、コーヒーをカップについで、一口ふくんだ。ほんの数秒、口にふくんでから、おれはコーヒーを地面にはき出した。 「湖の水をつかったのか? チャーリー・パーカー……」 「ああ——一応沸騰させたが……」 「スープのような味がする。魚スープだな、ブイヤベースか、クライム・チャウダーでもつくればさぞうまいだろう。濾過《ろか》装置をどうしてつかわなかった?」 「簡易濾過装置の方はつかったが——たしかに湖の水も、川の水も、何か濃厚な有機物をとかしこんでいる。だが、ドラともしらべたが、蛋白コロイドの類だ。有毒じゃない」 「いいから、二段濾過装置をつかえ。——できれば蒸溜《じようりゆう》した方がいいぞ。そうだ、蒸溜して、残留成分をしらべろ。そのままのむんじゃないぞ」  おれは、携帯食料のパックを一つとり、容器についている加熱装置のひもをひいて五秒ほどまち、蓋《ふた》があくのをまって、フォークをとりあげ、水際の方へ歩いていった。——ドラはふくれかえっており、チャーリーは、悲しそうにコーヒー・ポットを見おろしていたが、おれは気にしなかった。  宇宙航行者——の呪《のろ》いのまとになっている〈携帯食《レイシヨン》A〉を、立って食いながら、おれは湖水のむこう岸に眼をはせた。——いやにいろっぽい、夕焼けが空を赤くそめている。いままで、何千食食ったかわからない〈レイションA〉は、まったくいつもとかわらない、ざらざらと砂をかむような味だったが、おれは平気だった。腹はふくれるし、これさえ食べていれば、栄養のバランスは完璧《かんぺき》だ。このコンピューターではじきだされた味つけの単調さ、無神経さは、味覚に対して一種の麻痺《まひ》作用を起こし、〃食う〃ということに対して、ほとんど情熱を感じさせなくなる。かつて地球文明で探究されたさまざまな〃美味〃の、おそろしくあだっぽく、微妙な底なしのひだにとらえられ、そこに溺《おぼ》れこみ、人間として弱くなり、おのれを見失い、玩物喪志《がんぶつそうし》といった状態におちこむこと——それは、宇宙空間で他の星間文明と接触しはじめた時、ふたたび新しい次元で起ってきた危険だった、たとえば、アルテア㈿の料理においては、〃音〃や〃震動〃が重大な要素だったが、この星の文明の開発したある種の料理を食うと、多くの人間は一回で中毒症状におちいり、ほかのことはまるきり考えられず、廃人同様になって、ただうつうつと、そのすばらしい〃味〃を味わうことばかり夢みる状態になる——に対して、強烈な免疫作用をつくり上げることになる。食事は口からやる注射みたいなものになり、それこそ栄養剤の丸薬をのむのと同じことになる。そうなれば、胃腸の刺激のために、粘土を食っておいて、あとは注射で体をもたすことだってできるようになるのだ。——体の中を通ってきた粘土は、清浄装置にかけて、何度でも食べられる。事実おれは、そうやって、一カ月半の遭難に耐えぬいた。ほかのやつは、飢餓でほとんど死んだというのに。  食いおわると、おれは容器の発火装置のボタンを押して、水際に投げ出した。千数百度の高熱で、容器は食物のカスごと、一塊のガスとなって大気にとけこんで行き砂の上に、かすかに黒いあとがのこった。  おれは、容器が消えたあと、砂が小さな炎をあげていつまでも燃えているのを、ぼんやりながめていた。——魚の焦げるような臭《にお》いが、わずかにたちこめていた。おれは靴で、その炎をふみ消し、しばらく、その香ばしい〃砂のやける臭い〃をかいでいた。それから手をのばして、砂を一つかみつかみとり、手ににぎりしめてみた。  いやにベタベタした砂だった。一見かわいているようだが、しばらくにぎりしめてはなすと、かたまってくずれない。下になげ出しても、わずかにはしがかけるだけで、かたまったままだった。おれは靴の先で、そいつをけって、つきくずした。  だんだん何かがわかってくるようだった。——おれは、波うちぎわに腰をおろし、夕焼けをながめながら、その何かを、心の中で追いつめようとした。  だが、その何かは、まだ輪郭さえはっきりしない、煙のようにたよりないもので、つかまえようとつきすすめば、たちまち霧散してしまう。おれは、すぐぼんやりして、妙に色っぽい、夕焼けに気をとられた。  夕焼けは、単に、比喩《ひゆ》としてではなく、本当に色っぽいのだった。——水平線にもり上る雲が、たえまなく姿をかえる夕日に赤く照らされて、そのもり上った線は、うつぶせになった女の裸の、巨大な臀部《でんぶ》のように見える。その臀《しり》は、うずうずと動いて、寝がえりをうつ。——と今度はみごとな乳房があらわれる。腕とも見える細長い雲が、その乳房をもみしだく。〃雲の女〃は、身も世もないように体をのけぞらせ、のたうちまわる。  頭上には、吹きちらされた絹のような高層雲が、うす赤い、もやもやした裸女群の姿を描き出す。手をのばし、身をそらし、脚を開き、反転し——あらゆるみだらな姿態をとって、天下をころげまわっている、——なるほど……と、おれは、だらりとたれさがりかけた口をとじて、心につぶやいた。——なるほど!  雲の女たちの誘惑は強烈だった。——ともすれば、それに心をうばわれ、何もかも忘れて呆然と眺めつづけそうになる。魂をぬかれ、腑ぬけになって行きそうな感じがする。おれは、ギュッと眼をつぶり、さっき追及しかけた何かに、心を集中しようとする。——グスタフ……彼の頭蓋骨のこめかみには、レーザー・ビームのあけた、まるい、やけこげた穴があった。すると、彼は自殺したのだ。なぜ?  ごく簡単なパターンが、そこに見出《みいだ》せそうな気がする。あまり簡単すぎて、信じがたいみたいだ。だが、それはほとんど真相に近いと確信できそうだ。——ユーリーは、裸で死んだ。グスタフにしめ殺された。〃愛せしものの手にかかりて〃という字は、まるで泣いているように見えた。なぜ?  グスタフとユーリーのことに関するかぎり、おれにはほとんどわかりかけてきた。あのヘラクレスの、たくましい、鋼鉄の腕にしめ殺されて、ユーリーのやつは果報者だ。——だが、問題は、そのむこう側にあるものだった。グスタフにユーリーをしめ殺させたもの……。裸のユーリーを……。  足もとに、そうっとしのびよってくる、湖水の水の冷たさに気がついたのは、そこまで考えた時だった。おれは、ハッとして腰をうかした。おれは、水際から、すくなくとも三メートルははなれて腰をおろしていたはずだった。この湖には、干満があるのかと思ったが、湖面に目をやった時、そうでないことがわかった。  湖の水が、おれのすわっている真正面だけ、幅数メートルにわたって、舌のような形をとり、おれにむかって、そろそろ砂地をはいのぼってきているのだった。——いまその湖水の舌先は、まるで初恋同士の最初のいちゃつきのように、おそるおそる砂浜についたおれの手の指に、そうっとふれた。靴をぬらさないようにまわりこむ慎重さだった。おれが砂を蹴《け》って立ち上ると、水はあわてふためいたように、汀《なぎさ》の線まで大急ぎで退却した。だが、おれがじっとしていると、今度は右と左の両方から、そうっとしのびよってくる。視線をむけると、また大急ぎでひっこみ、今度は別の個所《かしよ》がのびてくる。——まるでふざけているみたいだ。  ふと気がつくと、おれの正面の水が、湖水の沖にむかって大きく後退していた。後退しているだけでなく、弓なりに水面がへこんでいる。わずかなへこみだが、はっきりわかる。くぼんだ水面は、その一部がまたもり上り、女の下腹のように、ふくれたりへこんだり、息づきはじめる。まるでおれをいざなうように……  きて……という声を、おれはふときいたような気がした。——ドラの声のような気がしたが、むろん、それは錯覚だった。——さあ、きて……T・K……私の中に……。  思わず、一歩、水にむかってふみ出そうとして、おれはやっとふみとどまった。湖が、おれを溺れさせようという気がないことは、直感的にわかった。反対に、そのなまあたたかい水は、おれを包みこみ、ゆり上げ、ゆりおろし、やわらかな愛撫《あいぶ》の中に、おれを母の胸にゆられる赤子のように、恍惚《こうこつ》とさせてしまうだろう。おれは腰から光線銃をひっこぬき、おれの足にさわりにこようとしている水にむかって一発、二発うった。ジュッと音がして、はげしい湯気がもうもうと上った。水の舌は、かすかな悲鳴をあげるように、もとの汀線《ていせん》まで後退した。  あとを追うようにして、おれは眼前の湖にむかって、つづけざまに引き金をしぼった。——巨大な湖にむかって、ばかげたことだとは思ったが、意思表示にはなったろう。湖はしかし、そんな事は何とも思っていないらしく、たぷり、ちぷりとたゆたい、うねり、みだらに腰をゆすって、おれをさそいつづけた。——きて……T・K……早くきて……私の中にはいってきて……。そのたくましい体で、私の中をかきまわし、めちゃめちゃにして……  おれは、銃をおさめると、まっしぐらにキャンプにかけもどった。——この星の何かが、いよいよ本格的に、おれたちに働きかけはじめた、という予感がしたのだ。キャンプにかけもどると、投光器がうつろについているだけで、ドラの姿はなかった。チャーリー・パーカーは、どういうわけか、ズボンもぬいでまっ裸になってしまい、イオン・カーの中にはいって、キャノピーをしめ、肩を抱くようにしてふるえていた。 「チャーリー!」おれはキャノピーをどんどんたたいて、どなった。「おい、チャーリー!——ここをあけろ! ドラはどこへ行った? ドラ・ヘンドリックスは、どうしたんだ?」 「知らない……」チャーリーは、キャノピーをあけて、外へおりたちながら、ささやくようにいった。丸い、あたたかみのある、深い声がふるえていた。「知らない、T・K……どこかへ行った……」 「どっちだ?」 「よく知らない……森の方だ……」 「しっかりしろ!——ズボンをはけ、さがしに行くんだ」 「ああ、T・K」チャーリーは、突然激情につき動かされたように、手をひろげて叫んだ。 「行かないでくれ……ドラなんかほうっておこう。……おれとここにいてくれ……」  おれは、チャーリーをふりかえった。——すばらしく美しい、黒人の若者の裸体がそこにあった。贅肉《ぜいにく》の一つもない、スラリとした、鞭《むち》のようにしなやかな体が、漆黒の、なめし皮のような皮膚につつまれて、手をさしのべていた。投光器の光の中に、それは黒いアドニスの塑像のようにかがやいていた。ひきしまって、しかもたくましい胸と臀、長い脚——先のわずかに赤みをおびた黒いたくましい陽物は、わずかに持ち上り、おれの手のふれるのをまちかまえるようにふるえている。 「おれと……おれと森へ行こう、T・K……ドラのことなんかうっちゃっておいて……おお、T・K……いつかのように、おれを抱いてくれ……しっかりと……あんたはすごいセックス・マシンだ——抱いてくれ、T・K……でないと……でないと、おれは……どうなるかわからない!」 「ズボンをはけ、チャーリー・パーカー……」おれは冷酷にいった。「残念ながら、お前のような餓鬼は、おれの趣味じゃないんだ。——いつかお前を抱いて、そのことがはっきりしたんだ。もう十五、年をとれよ、チャーリー・パーカー……お前がもうあと十センチ大きくなって、もう三十キロ目方がふえたら、そしたら抱いてやるよ。——おとなになれよ、チャーリー・パーカー……餓鬼にゃ、金輪際わからない世界があるんだ。餓鬼なんてものァ女と同じだ。男の世界の仲間入りはできない。餓鬼なんて、何もわかっちゃいないんだ。おれにかわいがってもらうにゃまだ早すぎるよ」 「おお、T・K……おお、T・K……」チャーリーは手をつき出したまま泣き出した。「おれを抱きしめてくれ、おいてかないでくれ……おれを一人にしないでくれ……どうなっちゃうかわかんない」  おれは、チャーリーの横っ面をガンとはりとばした。手かげんしたつもりだが、チャーリーははねとんで、イオン・カーのへりに頭をぶつけた。 「なぐってくれ……」チャーリーは、のろのろと、起き上がりながら、また手をのばした。「おれは……あんたに、すがらしてほしいんだ……でないと、おれは……あんたがしっかり抱きとめてくれないと……」 「自分で立つんだ、チャーリー・パーカー。おとなになりたかったら、おれにすがるな」おれは、新しい線源を、光線銃にチャージしながらいった。「興奮剤をのめ、三粒だ。——頭がしゃっきりしたら、服を着てドラを探すんだ。三十分たったらいったんここへかえってくる。いいな」      5  おれは森へとびこんでいった。——なまあたたかく、ぬめぬめとした、いやらしい森だった。なめらかな樹木の肌が、息づきながら肌をよせてくるようだった。はいって百メートルほど行くと、ドラの宇宙服がぬぎすてられ、高い枝にひっかかっているのが見つかった。彼女が自分で投げたらしかった。——さらにしばらく行くと、靴が片一方あった。その先に、下着がふわりとおちていた。  森の奥の、そこだけ木のはえていないまんまるな空所の中央に、ドラは、裸になって横たわっていた。草の褥《しとね》の上に、白や黄色の花が咲きみだれ、沖天にのぼったピンクの月が、夢のように、花と雪白の裸身を照らしている。周囲の闇《やみ》の中に、瞳《ひとみ》のない眼のように、ボッと青白く光るいくつもの点は、発光茸らしかった。  おれはドラの傍にかけよった。——ドラは恍惚と眼を閉じ、ゆたかな体全体をかすかにふるわせている。快感の絶頂で、意識を半分失っているみたいだった。とぎれとぎれの声が、半ばひらかれた口からもれ、唇のはしから、涎《よだれ》が頬をつたっている。ぴりぴりと下腹部の皮膚を痙攣《けいれん》させて、ドラはゆっくりと片腿《もも》をたて、またふみのばした。深い、切ない溜息がもれ、身をよじって、腰をもちあげのばした手に草をかきむしりながら、またドタリと腰をおとす。——すすり泣きのような声が、のけぞった白い喉《のど》からもれはじめた。 「ドラ!」おれはどなって、ドラの頬を二つ三つたたいた。——だが、それはかえって、ドラの快感をあおったようだった。ドラは突然たえがたいように絶叫をはじめた。頭をかきむしり、ゆたかな乳房をわしづかみにもみしだき、花の上をころげまわって……。  おれは叫ぶドラをやっとつかまえて、腕に覚醒剤《かくせいざい》の無針注射器をあてがった。大腿《だいたい》部に、鎮静剤をうとうとおさえつけた時、おれははじめて気がついた。  ドラの股間に、ぽっかり大輪の、海棠《かいどう》のようなうす紫の花がひらいていた。  鎮静剤を倍量うちおわって、やっとしずまりかけたドラの下腹部から、おれはその美しい、うす紫色の花をそろそろとひきぬいた。人参《にんじん》のような太い根が、ドラの体内から、かすかに湯気のたつ粘液にまみれて、ずるずると出てきた。先端はいくつにもわかれ、細いひげ根がはしっている。根本の方のひげ根は、ドラの急所にしっかりまつわりついていた。  ひきぬく時、ドラは身も世もないような声で叫んだ。やめてくれ、というように、おれの方にむかって手をのばし、何度も空をつかんだ。 「よして……T・K……よして……」ドラはあえぎあえぎつぶやいた。「よけいなことしないで……ほっといて……」 「そうはいかん」とおれはいった。「隊員は三人しかいないんだ。仕事をやってもらわなきゃならんからな」  おれはドラの裸体を肩にかついで歩き出した。——ドラはだらりとなったまま、まだ快感の余燼《よじん》にあえいでいた。  道々ドラの服をひろい、大汗かいてキャンプへかえってみると、チャーリーの姿がなかった。——出発してから、まだ二十五分しかたっていなかったが、チャーリーが、ドラをさがしにいったのではないことはすぐわかった。いったん、はこうとしたらしいズボンが、また地上に投げ出されていた。覚醒剤の壜《びん》が、蓋をとられたまま地上にころがり、白い錠剤が散っている。  おれはドラを放《ほう》り出し、覚醒剤をもう一本うつと、チャーリーを探しに出かけた。——何度でもつれもどしてやる。意地くらべだ。  森の中の、別の方角にある下ばえの中で、チャーリーはうつぶせになっていた。太くたくましい植物の根が、彼の腕を、黒光りする背中を、腰を、脚を、しっかりとしめつけていた。チャーリーは半ば意識を失い、泣くようなうめき声をあげていた。——彼の頭には、香り高い白い花の蔓がまといつき、やわらかい柔毛のはえたみずみずしい蔓の先が、両方の耳の穴の中にそっとさしこまれていた。太い根に手をかけようとして、おれは衝撃をうけた。  チャーリーのひきしまった、まっ黒な臀の谷間に、大輪の、深紅色の花がひらいていた。多弁性で、どう見てもひなぎく《デージー》そっくりだったが、デージーよりももっと大きく、さしわたしが掌ほどもある花が。  黒い、ひきしまったつややかな臀の谷間にいっぱいひらく、深紅色の花……その対比の美しさが、おれの手を一瞬とめさせた。デージー《男色の隠語で肛門《こうもん》のこと》にひなぎく《デージー》……この星の、そいつは、こんなことまで知っているのか?  おれは花をひきぬいた。その太い、オレンジ色の根を見た時、おれはハッと気がついた。——ユーリーの骸骨の股間にあった根と、同じやつだ。太い木の根をひきはなそうとしたが、しっかりしめつけていてはなさない。おれは光線銃をぬいてやき切った。チャーリーに肩をかしてたたせると、彼はあえぎながらも歩き出した。 「しっかりしろ、チャーリー……」と、おれは彼をやさしくゆすり上げた。「キャンプへかえって、それからすぐ、カプセルまでかえるんだ。出なおそう。——歩けるか?」  チャーリーは、しっかり立ったように見えた。——だが、次の瞬間、おれはドン、とつきとばされ、二、三歩よろけた。  ふりかえった時、チャーリーは、すでに十四、五メートル、森の奥にもどっていた。 「チャーリー……」と、おれはつぶやいた。「どうしたんだ、チャーリー・パーカー……」 「いやだ。おれは行かない!」とチャーリーは、しなやかな裸体を、びくっとふるわせて叫んだ。 「もうキャンプへも、カプセルへもかえらない……」 「チャーリー!」 「だからいったろう? T・K……おれをはなさないでくれ。おれをしっかり抱きとめてくれって……。だけど、あんたは……」 「わかった、チャーリー・パーカー……」とおれはいった。「かえったら抱いてやろう。だが、その前に、おとなにならなきゃならない。さあ、しっかりして、〃仕事〃を思い出せ。おれたちは急いで、ひきあげなけりゃならないんだ」 「〃仕事〃がなんだ!——〃義務〃がなんだ!」とチャーリーは叫んだ。「そんなもの、くそくらえだ。なぜ、人間はそんなことをやらなけりゃならないんだ? なぜ、人間は〃義務〃なんてものにしばられなきゃならないんだ?——もういやだよ、T・K。おれはここにいるんだ。もうあんたのいばりくさった命令をきくのはいやだ。あんたになんかにかあいがってもらわなくたって、ここには——この星には、すばらしい絢爛《けんらん》としたたくましいものがある。おれをしっかり抱きしめ、やさしくあつかい、しかもおれの中に、すばらしい力をみなぎらせてくれるものがある。そいつにくらべりゃ、あんたなんてインポ同然さ。——地球がなんだ? 義務がなんだ? 仕事がなんだ?——あばよ、T・K——おれはここでくらすぜ」 「チャーリー!」身をひるがえして森の闇にとけこみかけた黒い姿にむかって、おれはどなった。 「もどってこい! チャーリー……」  消えかけた姿にむかって、おれは反射的に銃をぬいて、腰だめにぶっぱなした。——紫白色の光線が木にあたって、バチバチと青白い火花をちらした。木立ちに邪魔されたが、一連射のどれかがチャーリーのどこかをかすめたらしく、遠くの火花の中で、チャーリーの黒い背中がのけぞるのが見えた。だが、その姿は一瞬のち闇に消えた。——死んだのか、ショックでたおれただけなのか、たしかめる気もなく、おれは銃をホルスターにしまった。  どっちにしろ、チャーリーは行ってしまった。——もう二度と、かえってくるまい。  ユーリーの上に何がおこったか、グスタフがなぜ、彼を殺したかこれではっきりした。——おれは、うるさく身をよせてくる、木の枝や蔓草をはらいのけながら、おれはキャンプへかえった。——急いで次の行動を起さなくてはならない。ぐずぐずしていると、おれだってどうなるかわからない。  ドラはまだ服をつけず、すっぱだかのまま湖水の岸に立っていた。覚醒剤がきいたのか、表情ははっきりとしていた。湖水をわたって吹きよせてくるなまあたたかい微風に、髪をなびかせながら、彼女はしっかり脚をふんばって立っていた。  おれは、彼女が湖水の上に見ているものに気がついた。——湖水の上で、発光昆虫が、みごとな光のバレーを見せていた。渦巻、縄線、真円、そして時に波型……そして、湖水の水面では、発光虫が、まねくような波のうねりにのって、巨大な矢印のように点滅している。湖水のむこうにむかって…… 「チャーリーは?」とドラは、湖水を見つめたままきいた。 「森へ逃げた」とおれはいった。「光線銃でねらったが、あたったかどうかわからない」 「殺したの?」 「いいや、わからん」おれはドラの裸の肩に手をかけた。「行こう、ドラ。服を着て、すぐ出発だ。とにかく、衛星軌道にほうり出してある宇宙船まで、一気にかえるんだ」 「私もここにのこるわ、T・K」ドラは、私の手をはらいのけるようにふりかえっていった。「ここはすばらしいもの、あなたにはわからない?」 「わからんことはない、——だが、仕事は仕事だ」 「〃仕事〃って——そんなもの何よ、なぜ、私たちは、仕事なんてものをしなきゃならないの!」 「覚醒剤をもう一本うとうか? ドラ……」 「私の意識ははっきりしてるわよ。ちゃんと理性的に、心の底から感じ、考えてるの、〃仕事〃って、そんなものいったい何? 私たちは〃仕事〃をするために生れてきて、〃仕事〃をするために生きているの? どこにそんなことをしなきゃならない理由があって?——この星へきて、私はじめて生きている意味がわかったわ、T・K。人間って——生物って、何もすることを強制されたり、仕事を義務づけられたりはしないのよ。宇宙をさぐって、開発して——そんなこと、いったい何のためにやるの? なんのために、あくせくと、貴重な人生の時間をすりへらして、苦しい思いをしたり、人と争ったり、けがをしたり、事故で死んだりしなきゃならないの? なんのために? T・K……。そんな理由はないのよ。私たちは、私たちの偶然にあたえられた生の喜びを、生きるための法悦を、せいいっぱいに味わって生きればそれでいいの。このすばらしい——おだやかで、美しくて、生の歌にみちた星にきて、私ははじめてそれがわかったわ、心底から、理解できた……」 「生物はそれでいいだろう」とおれは、つぶやくようにいった。「だが、人間は……」 「人間だって生物だわ、T・K——」ドラはうたうようにいった。「生物として、ずいぶん無理をしているけど——それでも私たちが考えてるより、はるかに生物なのよ、そして、生物として、あたえられているもろもろの喜びの深さを、不自然な人間としての部分、——あのがつがつした欲望の犠牲にすることなんてできないわ」 「あの花の根が、そんなによかったか? ドラ……」 「あなた下品ね、T・K——まるで野獣だわ。ううん、ゴリラ以下——ゴリラの方がもっと優雅よ。もっとデリケートな、生の味わいを知っているわ。あなたは〃美〃や、繊細さや、生きていることの法悦なんて、これっぽちもわからないんだわ」  おれにもわかっていた時期があった。——少年の時だ。だが、その時期はすでにすぎ、おれは、女でも、若者でもない、ごつい、荒々しい存在になってしまった。男の、おとなだ。グスタフと二時間半、わたりあえるだけの力がおれの中にそなわり、そしてその力は、苛酷《かこく》なものだった。おれは、若年の酩酊《めいてい》、あのはてしない耽美《たんび》と中毒から、すさまじい苦痛をへて、自分をもぎはなす快感を味わった。そして、それがすんだあと、おれは別のものになっていた。ピイピイいう女や、嘴《くちばし》の黄色い、口先ばかりは一人前の、ひ弱な小僧っ子とちがった、人間の成熟した雄に……。それになることのできない連中には、絶対理解できない、荒々しい、孤独で、空虚で、しかも力のみなぎった存在に……。おれは宇宙にむかって立った。空虚につきささる巨大な男根のように……。 「私はここにいるわ、T・K……」ドラは、ひややかなまなざしをおれに投げた。「私は——この星の生物の仲間入りをするわ、そして死ぬまで、この星で、ほかの生命といっしょにとけあって生の至福の時を味わうわ。さよなら、T・K——私のことは忘れても、この星のことはおぼえていてね」  ドラの長広舌がすんだら、おれはドラの顎にかるく一発くれて、イオン・カーにかつぎこむつもりだった。——だが、ドラは一瞬早く、水にむかってかけ出した。 「いかん! ドラ!」とおれはどなった。「水にはいっちゃいかん。その水は、生きているんだ!」  だが、おれの制止もきかず、ドラの裸身は月光にきらめく水玉をはねかえして、湖水の中にはしりこんだ。その見事にはった、満月のような臀の双球が、水面にふれるくらいすすんだ時、ドラは何かに脚をすくわれたように、水にたおれこんだ。  生きている水は、たちまち四方からドラの体をつつみこみ、ドラの体をゆりあげ、泳ぐよりはるかにはやい速度で、沖へむかってはこびさった。——ドラがこっちへむかって、白い腕をあげるのが見えた、しかし、次の瞬間、ドラは水のやさしい愛撫に、歓喜の声をあげ、水面を身もだえしながらころげまわるように、沖へ沖へとはこばれていった。  おれは、水ぎわで、光線銃をにぎりしめてつったっていた。——水にとびこんで、その愛撫に抵抗する自信はなかった。水の舌は、またぞろ、そろそろとおれの足もとにはいよろうとしていた。おれはそいつにむかって一発うった。  ようこそ……T・K……  と、突然、湖面にたちのぼる霧の中に、サインがひらめいた。  ようこそ、T・K……と発光昆虫が空中に描いた。  ようこそ……ようこそ……ようこそ……  と、夜光虫の光が、月光にきらめく湖面のうねりがよびかけた。  私たちは、あなたを歓迎する……ようこそ、強い男……あなたは男だ……あなたを待っていた……。  おれは汗をかいていた。光線銃をかまえたまま、眼にしみる汗を、夢中で片手なぐりにふいた。  きて……と、今度は、はるかに湖水の彼方《かなた》にそびえる、ねそべった女のような山がよびかけた。  きて……私の中に、はいってきて……私の下腹の、深いあたたかい穴にはいってきて……あなたは男……つよい男……あなたは、男根……  ちくしょう! とおれは心でうめいた。——覚醒剤の注射器をつかみ出すと、自分の腕にたてつづけに三本うちこんだ。——いってやるぞ。今こそお前と対決し、お前の正体をあばいてやる。グスタフを、ユーリーを、チャーリーを、ドラを、奪い去ったお前の正体をひんむくのがおれの仕事であり、おれが自分自身に課した義務だ。  おれはイオン・カーにとびのり、ありったけのスピードで、湖水の対岸にむかってとばした。湖上の空気は、バチバチ青い火花をあげてはじけ、霧はふきちらされた。山はみるみるちかづき、声はますます近く、せつなげによびかけた。  そう……そうよ……早くきて……もうちょっと……早く……  ねそべった女の腰のようになだらかな山のふもとに、密生したしげみにおおわれて、深い、あたたかい穴があいていた。おれは光線銃をかまえて、中にはいっていった。中は無数の発光茸や発光苔の赤やオレンジの光で、ぼんやり光っていた。天井からは、たえずあたたかい温泉の水が、ひだにそって流れおち、赤い壁面をぬらぬらとかがやかせていた。温泉の熱気で、中はむっとするほどあたたかい。——おれは、銃をかまえてどなった。 「どこだ!——出てこい!」    どこだ    出てこい!     どこだ    出てこい!      どこだ    出てこい!       どこだ    出てこい!  と、声が洞窟《どうくつ》にこだました。  温泉が足もとをチョロチョロながれ、その奥から声のない笑い声が、反響しながらかえってきた。    ここよ!     ここよ      ここよ       ここよ…… 「姿をあらわせ!」とおれはどなった。「お前なら、何かをつかって、形をとれるはずだ——おれに見えるようにしろ!」  もう、あなたの前に見えている……と声は笑い声をたてながらいった。——見えているのに見えないの? 「お前は——じゃ、この洞窟か?」  答えはなく、また笑い声…… 「じゃ——この山か?」  ちがうわ……と声がいう。 「湖か? 霧か? 森か?——いや、大気か?」  そのすべて……と声はいった。……虫も、水も、草も、すべて……私……。 「そうか!」おれは叫んだ。「わかった! 貴様は……」  そう——この星よ……と声はいった。この星の芯《コア》から大気まで——その間にすむすべてのこまごました形をとった生物で、全体で〃私〃を形成しているの……。  おれは光線銃をおさめた。——この相手には、こんな武器は役にたたない。  この星は——芯から地表までそういう進化をしたの……。私の意識は……だから、すべての生命の間の、調和のとれたコントロールの形でうまれてきた。だから私は、この星の上の、すべてのものをつかって、自分の考えをあらわすことができるの。——この星は、その全体的な調和を乱すようなものはうみ出さなかった。——それを排除するような方向で進化したの…… 「わかった……」とおれはいった。「わかったから、チャーリーをかえせ、ドラをかえせ」  彼らは、自分の意志で、この調和に〃参加〃したんだわ。私にはどうすることもできない。——彼らもまた、この星の生命の有機的構成の一員として、すべてのものといっしょにやさしい喜びにみちた、調和の歌をうたいつづける……彼らの意識は、もうこの星の全体の意識にとけこんでいるわ。あなたもきて、T・K……あなたはつよい。そして、あなたは強いから、なかなか、同化できない。——これはすばらしい刺激だわ、T・K……私は……あなたの前にいると、なんだか自分が〃女〃になったような気がするわ……おお、T・K……あなた、この星にいて……。あなたはこの星の、たった一匹の雄《おす》——王《キング》になれるわ。私はあなたにぬかずき、あなたにつかえるわ。——宇宙のはてから……いま、はじめて〃男〃がやってきた……。 「グスタフは?」とおれはいった。「やつも、すごい〃男〃だった……」  彼は、私など眼中になかった。……意識しなかった……彼は自殺した……知らないわ。私は彼をさそったけど……彼は私をみとめたけど……いろいろやってみたけど……。 「ユーリーをうばったな?」  知らない……あの頭の鉢のひらいた男……すぐ、耽溺《たんでき》して……それがどうかしたの?  おれは、くるりときびすをかえして、洞窟を出ていった。  どうしたの? T・K……と〃星〃は背後から叫んだ。……行ってしまわないで……かえってきて……T・K……かえってきて……私を一人にしないで……。  おれは次の朝、かえってきた。  カプセルに行き、カプセルから宇宙船へ行き、そこの船艙《せんそう》から、非常用の超水爆のありったけを持ち出し、カプセルごと、あの洞窟にかえってきた。  なにをするの?……と〃星〃はおびえた声でいった。……おお、T・K……何をしようとしているの?  おれが洞窟の中に、超水爆をセットして、カプセルにかえって行く時、〃星〃は、おれの意図をうすうす察したらしく、恐怖の叫びをあげた。  おお怖ろしい!……なんてことを!……〃星〃は凍りついたように叫んだ。——T・K……なんてことをするの? あなたに……そんなことをする権利はないわ!  そうとも、権利なんてないだろう。だが、おれはやってやるのだ。——むちゃくちゃだ、そのことは自分でもわかっていた。人間の、それも成熟した雄は、むちゃくちゃなことをやることがある。誰もそんなおれをとめることはできない。  妨害されるといけないので、ごぼうぬきにカプセルを発進させ、宇宙船にのりうつると最大加速で軌道からはなれた。充分はなれた所で、おれはスイッチを手ににぎりしめた。青い、みずみずしい星は、恐怖に凍りついているように見えた。  グスタフ……とつぶやいて、おれはスイッチをおした。  星の上の一点に、眼のくらむような光がかがやいた。——みるみる星の表面に、変色した部分がひろがっていった。  グスタフ……仇をとってやったぜ……。と、おれはわずかにふくれ上ったような星を、スクリーンの上に見つめながら胸の中でいった。……君から、ユーリーをうばった星——ユーリーをうばわれたために、君はユーリーをしめ殺し、その悲しみのあまり自殺したのだろう。ひょっとしたらあの〃星〃は、君がほしかったために、君からユーリーをもぎとったのかも知れない。だがそんなことは知ったこっちゃない。いずれにしろ、あの星は、女みたいにベタベタして胸くそが悪い。グスタフ……おれのこの、やけくその行為は、君に対するせめてもの、はなむけだ。君を失ったおれの悲しみは、星の一つや二つぶっとばしたくらいで晴れるものじゃないのだが……  グスタフ……おれこそ、君を愛していたのだ。君だって、そのことはわかっていたはずだ。そしておれたちこそ、真のカップルになれたはずなのだ。おれにとっての君、君にとってのおれ……これほどふさわしいもの同士が、またとあろうか?  君もそのことはわかっていたはずだ、グスタフ……。ユーリーのことでなぐりあったあの時、ほとんど最後ちかくなって、何かのはずみに、おれはひょいと君の男根をズボンの上からつかんでしまった。あの瞬間——君はとまどいしたようにおれの眼をのぞきこみ、おれも一瞬、顔を赤らめて君を見た。二人はまたすぐ殴りあったが、そのあとの殴りあいは、何だか、二人がいちゃつきあっているように、妙なものになってしまった。あの時……おれが君をつかんだ時……君があの地点から、もうちょっと進めば、そのことがはっきりわかったはずだ。だが二人は麻痺銃《パラライザー》で始末され、二日を病院で呻吟《しんぎん》した。——おれには、その間にはっきりわかった。君がユーリーをつれて、あわててP・C㈼へ行ってしまったのも、君がそのことに気がつきかけて、とまどいしたからだろう? そうだろう? グスタフ。  わかっているのだ。おれにはわかっている。君がユーリーとの、くさった愛情にさめ、まっすぐおれのところへやってくることは、時間の問題だということが、わかっていた。だからおれは、あせらずに待つことにした。君がこの調査からかえってきたら……だから君が消息をたったときいた時から、さがしに行き、始末をつけるのはおれだ、と心にきめていたのだ。  もう、二度と——そう、この上いくら宇宙をかけめぐろうと、君のような〃男〃にあうことはあるまい。君は〃男〃だった。おれも〃男〃だ。ヘラクレス同士の愛が、去勢された役人どもや、ひ弱なガキどもに理解できるわけはない。だから、俺《おれ》のこの傷心も、誰も理解できまい。だが、君なら、君だけはわかってくれるだろう、グスタフ……。  そう、おれは——おれたちは、〃宇宙の毒〃かも知れない。だがこんなおれたちもまた、宇宙がうみ出した。君のないあと、おれは宇宙の破壊者になるかも知れない。理窟もくそもないが、おれの中に〃毒〃がうまれ、それがこの宇宙につきささる。傷心はいやされることなく、やがては自身の〃毒〃のため、おれはたおれるだろう。かまうものか、グスタフ。おれは、宇宙につきささる毒の槍《やり》、毒の男根だ。地母神《ガイア》の腹につったてた天神《ウラヌス》のペニスを鎌《かま》でかりとって父を殺す、息子のクロノスだ。おれは傷心のためにくるった。もう基地なぞへはかえらない。やけくその、むちゃくちゃもまた、〃生命〃にあたえられた生き方の一つであり、おれにはそれをやる権利がある。誰も、おれをとどめることはできない。宇宙だってとめられまい。〃男〃の怒りは、むちゃくちゃで不条理なものだ。それをとめられるのは、グスタフ、君一人だ。——だが、その君は、もうこの広大無辺の宇宙の中のどこにもいないのだ。    再会 「何かがくる……」と、第一層外観測所No.27の報告はつたえた。「何かが、第二圏外をちかづいてくる——かなり大きなもの……金属物体」 「隕石《いんせき》か?」  リューは、トークバックのスイッチをいれてききかえした。 「ちがう——自由落下軌道をはずれている。ジグザグにとぶ」 「何かの乗物だ……」グギーがつぶやいた。 「ずっと前にも一度……」 「落下推定領域は?」リューは監視哨《しよう》にきいた。 「いま中央計算所にたのんでわり出してもらっている——観測所No.24、No.17、いずれも物体を捕捉《ほそく》した。だが、今はまだ、わからない。——あの動きでは、計算所でもわからないだろう」 「どうする?」グギーは、ボコッと大きな泡をはいてきいた。——彼は、興奮すると、やたらに気泡をはくくせがあった。 「圏外船で、しらべに行くか?」 「もう少し観測をつづけよう」とリューはいった。「おれは、圏外航行管理局に、一応航行許可をもらっておく。——君はスクーターを、始動させておいてくれ」  グギーは天井のハッチにむかって、ゆらりと浮き上った。——その頭は、巨大な、ふくれあがった胸のむこうにすぐかくれ、足びれが二、三度、優美に水をかくと、すぐ穴の中に消えた。 「許可は出すが、追跡はパトロールにまかせて、観測だけにしたまえ」と管理局は返事した。「現在物体の高度は、第一圏外三百ヒル——圏外船の通達高度をはるかにこえている」  なるほど、それでは追跡し、近接して観測するのは無理だな——とリューは思った。——これだけ圏外研究ブームだというのに、第二圏外船の建造はまだこれからなのだ。——深部開発と、斜面上部開発の方が大切だ、などと、政府はいいわけをいっているが、なに、結局は官僚主義のおかげさ。 「観測本部……」さっきのNo.27観測所がよんだ。「物体は、針路をかえた。——そちらの方へ行く。高度百七十ヒル。速度三万……滑走しながら第二圏内にはいってくる」 「了解——観測をつづけられたし」とリューはいった。 「当直はチュチーがうけつぐ。変化があったらつづいて報告してくれ」  そういって、リューは、圏外パトロール本部との回線を開いて、奥から眠そうな顔をして泳ぎ出してきた。チュチーに当直をうけついだ。 「おれは行くぜ」とリューはチュチーの肩を、ピシャリと水かきのついた前肢でたたいていった。 「しっかり当直しろ」 「ちぇッ! また留守番かい」チュチーはぼやいた。  リューは胸いっぱいに海水を吸いこみ、脇腹《わきばら》の排水孔から、はげしく水を噴き出して、一気に天井ハッチから外へおどり出た。  まっさおに輝く惑星の上に、徐々に高度をさげて行く宇宙船の中で、レイは観測機械をのぞきながら報告した。 「大気圏は二層にわかれています——外部層は水素、内部層は酸素と窒素——内部層下部に、高密度層があります」  宇宙艇の下部に、わずかにショックがあった。——大気圏表層にふれたらしい。 「どうします?」と操縦士は艇長にきいた。 「大気圏下部では、かなり高圧高密度になっているようです。——摩擦は何とかスピードを殺して防ぎますが、艇の操縦はかなりむずかしくなると思いますが……」 「圧力は大丈夫ですか?」とレイはきいた。 「大てい大丈夫だ」と艇長はいった。「艇殻は頑丈だが、一応大気圏下部におりる前に、圧力漏れの箇所がないか、点検しなければならん」 「電波は、あいかわらず出ています」とレイはいった。 「ほんとうに大気圏の底に、生物がいるんでしょうか?——何か、特殊な作用で、この星の表面から、自然に放射されてるんじゃないでしょうか? あんな高圧下で、いったい知的生物が住めるんでしょうか?」 「高圧大気の底で住んでいる生物は、あちこちの星でたくさん見つかっている」と艇長はいった。 「われわれにしたら、想像に絶するような圧力下で、すんでいる生物はずいぶんいる。——むしろ、真空の宇宙空間で、すめる生物の方が、種類がすくない。発生的に考えれば、濃密大気の底こそ、生物発生の故郷らしいということになっている」 「しかし、どうやって——」操縦士はつぶやいた。「あんな高圧に、おしつぶされずにいるんだろう?」 「おそらく、体の内外の圧力を同じにしているんだな」と艇長はいった。「その点、真空中でも体内の成分がもれないように、うすくて丈夫で、完全に気密の外皮をもっているわれわれとは、根本的に構造がちがうわけだ。——われわれを、密閉型とよぶなら、彼らは開放型の体構造をもっている」 「しかし、進化の段階からいって、真空内生物の方が進んでいるわけでしょう?」 「さあ、どうかな——われわれの方が、より複雑で、ぎごちない体をもっていることはたしかだが……」 「彼らもやっぱり、われわれのように、筋肉内発電装置と、発振装置をつかって、電波で通信しあっているのでしょうか?」操縦士は、大気層の上をスキップする宇宙艇を、上手にあやつりながら、なおつぶやいた。「それとも、ほかに……」 「さあ、わからんな——もし、実際にいるとすれば……おそらくわれわれの考えもつかん、相互通信方法をとっているかも知れない。が、それも、知的生物がいたとしての話だよ」 「何かが見えます!」観測機械をのぞいていたレイがいった。「なにか——高密度層の間を動いています。高密度層の上にとび出したり、ひっこんだりしています!」 「生物か?」と艇長はきいた。 「だとすれば、大変大きなものです。——乗物じゃないかと思います」 「どうやら、いたようですね」と操縦士はいった。「大気圏の底にもぐりますか?」  艇長は、ドアをあけて、外をのぞいた。——真空中を走る宇宙艇の外では、命綱をつけた機関士が艇体の検査をやっていた。 「すんだか?」艇長はドアから首をつき出してきいた。 「すみました。異常ありません」 「よし、早くはいれ。——大気圏内にはいる」  機関士が、尾部のガス孔からガスをふかして、なれた動作で入口からはいりこむと、艇長はドアをしめ、厳重にロックした。 「よし、いいぞ……」と、艇長はいった。「みんな、耐重力ベルトをしめろ。——この星の重力は、かなり大きいぞ」 「おりてくる!」グギーは興奮してさけんだ。——気泡がゴボゴボと彼の口もとでおどった。「見ろ!——こっちへおりてくるぞ!」 「乗物だな……」リューは、うっとりしたようにつぶやいた。「どこから来たんだろう?」 「圏外からさ!」グギーは力をこめていった。「第二圏外の、はるかむこうの——あの〃夜光るもの〃の世界からさ」 「〃夜光るもの〃が太陽と同じような、光と熱の球だなんて」……リューはつぶやいた。「この星と同じような水と岩の球をつれているなんて——おお! おれには信じられない! 学者の美しいお伽話《とぎばなし》だと思っていたのに……」 「だが、圏外科学が発達してきたのは、つい最近だ……」グギーはいった。「あのはるかな圏外には、まだまだおれたちの知らないことがいっぱいあるにちがいない」 「だけど、学者は、第二圏外には、水もないし、空もない、といっているんだろう?」リューはいった。「おお!——水のない所で、いったいどうやって生きるんだろう? あんな圧力のうすい所で、生物が生きられると思うか? 第二圏外へほうり出してやった、深部生物みたいに、破裂して死んでしまうぞ!」  海水を内部にいっぱいみたした圏外船は、海上を水尾《みお》をひいて走っていた。——リューは、ゆらゆらと下降してくる、黒く、平たい物体を見上げ、なぜかいい知れぬ感動に胸をしめつけられた。——あのような高みからくるのは、いったい何ものなのか? あの中にいったいいかなる生物がのっているのか? 「とび上って見るぞ、グギー」とリューはいった。「浄水ヘルメットをつけろ。排水する」 「追跡はパトロールにまかせろ、と管制局はいっていたぜ」 「もっと近づくんだ——むこうのスピードは、すごく早い」  リューは排水コックをひらいた。——船内をみたしていた水は、みるみるへって行き、やがて二人の体は、稀薄《きはく》で危険な大気の中に露出した。軽くなった圏外船は、ぐんとスピードをあげ、波の上にほとんど露出して、船底だけですべっていた。——リューは、レバーを押して、翼をくり出した。 「いくぞ」とリューはいった。  第二圏用の酸水素エンジンが大きな音をたてて爆発した。——ガクンと衝撃がきて、爆発の反動で圏外船は、水面をはなれてとび上った。圏外船は、ピンとつばさをはり、グライダーのように、空をすべった。——スピードがおち、高度が下りかけると、リューは、二度目の爆発を起した。——頭上の黒い影は、ぐんぐん高度をさげてきた。 「やはり、乗物だ!」と、レイはいった。「あれ自体が生物ということは、考えられない。——金属製です」 「あの横につき出た板は何だろう?」 「気圏層にうき上り、滑走するためのものだな」と艇長はいった。「高密度層——水の中から出てきた。ということは……」 「彼らは、この圧力より、もっと高い圧力の中でくらしている、ということですな」操縦士はいった。「まさに——想像もつきませんな。大気圏下部で、これだけの圧力です。水の中では、どれくらいになるでしょう?」 「電波を出しています」レイはいった。「われわれによびかけているんでしょうか? それともわれわれをさぐっているんでしょうか?」 「こちらからも、よびかけてみろ」と艇長はいった。 「電波を出している」グギーはいった。「とても波長の短い、指向性のつよい電波だ。——変調している。何かよびかけているみたいだ」 「こちらも、同じ信号をおくりかえすんだ」とリューはいった。 「だめだ。こちらの発振器じゃ、とてもまねできない」とグギーはいった。  突然、中央計算局がよびかけてきた。 「リュー……」計算局の通信員は、興奮した声でいった。「そちらの様子はどうだ? 何かかわったことはないか?」 「データは全部そちらにおくってあるだろう」とリューはいった。「テレビの画像は見てるか? ごらんの通りだ。——何かあったのか?」 「中央電子脳の〃神聖記憶〃が動き出した」通信員はふるえ声でいった。「知ってるだろう?——あまり古い記録なので、ほとんどつかわれることはないが、太古からのいいつたえで、絶対消去してはならないといわれていた記憶群だ。それが——あの圏外からの乗物のデータを、電子脳におくりこんで処理しているうちに、突然動き出したんだ。——何万年ぶりかわからない……前に一度、動きかけたことがあるというが、その時は、すぐとまった」 「何といっているんだ、その〃神聖記憶〃は!」 「まて、音声に翻訳してきかせてやる……」  通信器から、かすかな、のろのろした声がきこえてきた。——死にかけている老人の声のように、しわがれ、とぎれとぎれの声だ。  ……オ前タチハ、兄弟ダ……水ノ子ヨ……夜光ルモノノ世界ヨリ、キタモノト……イマオトズレテイルモノト、オ前タチハ……兄弟ダ……。 「おれたちが?」リューは突然つぶやいた。「おれたちと……あの第二圏外からきた乗物にのっている連中と、兄弟だって? なぜ?」 「リュー」とグギーはいった。「一度、着水しよう。温度が上ってきたし、水もにごってきた」 「圧力もれが、おこりそうです……」と機関士はいった。「大気の摩擦抵抗で……あちこちがゆるみかけています」 「操縦も、これが限界です」操縦士はいった。「大気圏の外へ、脱出しないと……この高圧の底で、いずれわれわれはペチャンコになりますよ」 「上昇……」艇長はいった。「またいつか……もっと高圧に耐える宇宙艇をもってこよう。今回は、この高圧下に、知的生物らしきものがいる、ということを確認しただけでいい」  操縦士は、艇首をあげた。——まっさおな、高密度層は、ぐんぐん遠ざかりはじめた。 「さよなら……」若いレイは、遠ざかり行く黒い紡錘形の乗物にむかって、なんとなく手をふった。「さよなら……高圧の中の生物たち、いつかまた君たちと、言葉をかわすようになる時がくるかも知れない」 「行ってしまう!」リューはさけんだ。「見ろ。行ってしまうぞ」 「おーい!」グギーはみるみる上昇して行く、平たい乗物にむかって叫んだ。「君たちは誰《だれ》だ?——何しにきたんだ? なぜそんなに早く、行ってしまうんだ?」  水面に着水し、ほんの鼻面だけ出した圏外船の中から、二人は凝然として、遠ざかり行く黒い点を見上げていた。——二人の耳の底には、あのしわがれた、冥府《めいふ》の底からきこえてくるような〃神聖記憶〃の声が、まだひびいていた。  ……オ前タチハ……兄弟ダ……  ——しかし、  たとえ、リューたちと、レイたちが、お互いむかいあったとしても、彼らがお互いに「共通の先祖」から、出てきたのだ、ということを、すぐに理解できただろうか?  リューたち、——なめらかな暗褐色の皮膚におおわれた、前の方が太いずんぐりした水滴型の柔軟な体、髪のない頭部は、ほそくとんがり、眼《め》はもとあった位置よりはるかに上の方へ——つまり泳ぐ時に前方を見るのが便利な方向へうつってしまっている。下肢では、大腿《だいたい》部がほとんど癒着し、巨大な足の指先は、オットセイのようなひれと化し、短い前肢の指の間には、水かきがついている。そしてなによりも——生物として、まったく新らしい型の、水中肺呼吸のため、肋骨《ろつこつ》の下部に大きくかま型にひらいた噴水口と、発達した胸に、大量の酸素を必要とするために、巨大化した胸廓《きようかく》が、異様な印象をあたえる。  そしてレイたち——真空中の、それも微弱な重力下で生きるために、極度に細長くなり、三段の関節をもつようになった四肢、そして、放射線エネルギーでもって代謝をおこなうために、輝く銀色から、漆黒まで、体にあたる線量に応じて、きわめて敏感に変色する、強靱《きようじん》な皮膚——かたく、丈夫な硅酸《けいさん》質でおおわれた巨大な二重角膜、臀部《でんぶ》にラッパ型にひらいているガス噴出口、頭部の耳の所にはり出した、金属質の触角、背中にもりあがるメタボライザーにひらく、栄養注入口と排泄《はいせつ》口……。  これが、十数万年前、共通の先祖であるヒトから、それぞれ分れて進化してきたものと、誰が知ろう?——十数万年前人類は、歴史の曲り角にあった。科学は発達し、人口はふえ、人々は宇宙に進出して行き、あるいは海底開発にむかった。——やがて気候は変り、地殻は新らしい変動期をむかえ、陸地は水没しはじめ、一方、宇宙では、そこで一生をおくる何十世代かが数えられた。すでにその頃《ころ》、遺伝子の人為的コントロールを可能にしていた人類の祖先は、未来にむかって、適応し得ると思われる、何百種類もの、ヒトの変種をつくり、それを苛酷《かこく》な未来にゆだねた。——十万年以上がたち、全表面を水でおおわれた地球では、リューたちの水中肺呼吸型の仲間だけが生きのこり、さらに進化をすすめた。すでに、太陽さえ見えないはるかな宇宙に進出していた人類の中からは、サイボーグをモデルとして、遺伝子形成された、無呼吸放射線代謝の、レイたちの仲間が、もっともさかえた。——その体内に、気相と液相の酸素を一定量もち、その循環と浄化を、輻射《ふくしや》エネルギーによっておこなうこの奇妙な種族たちが……。  数千世代ののち、二つの種族は、再びふれあおうとしていた。——だが、かすかな、なにやら親近的な交感をかわしただけで両者はふたたび遠くはなれていった。やがて両者の間に本式の接触が開始され、おたがいに共通の先祖にきづくのは、まだはるかに未来のことであったろう。——両者をへだてる十数万年の進化のドラマの秘密を知るものは、ただ、あの老いさらばえて、ほとんど磁性をうしないかけている、もっとも古い、〃神聖記憶素子群〃だけだった。——年おいた聖なる「記憶」は、遠ざかり行く宇宙船と、水上にただよう圏外船にむかって、老いのくりごとのように、とぎれとぎれにくりかえした。 〃オ前タチハ……兄弟ダ〃    神への長い道      1  しずまりかえった市街を、あてどなく歩きながら、足は、またあの〈神殿〉にむかってしまうのだった。 〈大通り《ブールバール》〉をまっすぐくだって行くと、〈公園〉の光と煙の噴泉の傍に、エヴァが脚を組んでひっそりとすわっていた。——音もなく、噴き上っては、四方にもつれながらおちる五彩の煙と、それに交錯する七色の光が、陽《ひ》にやけたエヴァの頬《ほお》を、淡い、複雑な色彩に染め上げ、黝《くろず》んだ空にかがやく青とオレンジ色の二つの太陽がつくり出す二重の影が、半透明の材料でつくられた広場の地面の上に、くっきりおちていた。  彼は、エヴァから少しはなれた所でたちどまった。 「またなの?」  エヴァは、その灰色がかった青い眼《め》をあげて、抑揚のない声でいった。  彼はうなずきもせず、エヴァから、〈公園〉をとりかこむ、鋭い稜と曲線ででき上った建造物群へ、そして広場をつらぬいて、さらに下方の建築物群へとさがっていく坂へと眼をうつした——〈青い都市《ブルー・シテイ》〉と、彼とエヴァが勝手に名づけたその都市は、凍りついた美しい夢のように、黒みがかった、雲一つない濃紺の空の下にひろがっていた。——無数の尖塔《せんとう》が青くかがやき、所々ピンクや琥珀色《アンバー》やうすいグリーンにキラリと光る屋根があり、一定の間隔をおいて、白い泡のようなドームがちりばめられている。すべて、オパールのような乳白色のかかった半透明の材料でつくられたその都市は、それ自体が巨大な宝石の堆積《たいせき》だった。——その都市は生きているものの気配をまったく途絶えさせていた。それは、美しい廃墟《はいきよ》——というよりも、美しい、巨大な〈死〉の結晶だった。それをひとめ見たものは、その美しさに息のとまりそうな思いを味わい、そのまま自らもその結晶の一部と化してしまいそうだった。  しかも、この都市は、地球人の考えるような意味で、「建設された」ものではなかった。——都市をくわしくしらべた男はいった。——たしかに、プランがあり、何か知られていない方法でプロセスをコントロールされたのは明らかだが、この都市は、ある物質から、あたかも水晶群のように、結晶化《クリスタライズ》されたものだった、と。 「連中は?」エヴァはポツリときいた。 「まだ、むこうの装置をしらべている」彼は、公園に立つ柱の一本によりかかりながらいった。 「それで、あなたは、またあの〈神殿〉へ行くの?」エヴァは、脚を組みながら、頬にかかる長い金髪を、ものうげにはらいのけた。「あそこに、何があるの?」 「いったろう——ミイラだ」彼は低い声でいった。「あるいは——仮死状態にあるのかも知れん。よくわからないが……それから……」 「あそこで、いったい何をさがしてるの?」 「わからない……」と彼は首をふって、柱からはなれた。「だが、何かありそうな気がする——どうせ、ひまつぶしだ」 「私を抱いてくれない?」エヴァは、たれかかる金髪を指でもてあそび、口にくわえながら、あいかわらず抑揚のない声でいった。「ここで……どこででもいいわ。ずーっと抱きづめに抱いていてくれない?——私は、することがないのよ。ここにいて……太陽が、ズルズルすべっていくのを、じっと体で感じているだけなの。——自分が、日時計になったみたいだわ。抱いてよ」 「そんなことして、何になる?」彼は冷然といった。「そんなことは——三千五百年前においてきちまった。今じゃ、やり方だって忘れちまったかも知れない」 「インポ!」エヴァは、何の感情もこめないかわいらしい声で毒づいた。 「いいさ——ひとりでオナニーでもやってろよ。それとも……」と、彼はふりむかずに足をうつしながらいった。「神殿へ来てみるかい?——おれと君は、一行の中の、ただ二人の原始人だ。おれが気をひかれるものは、君も気をひかれるかも知れない」  そのまま彼は、長い、一直線の坂をおりはじめた。——エヴァの最後にいった言葉が、耳の底で、まだ可愛《かわい》らしく反響していた。インポ!——そうかも知れない、とふと彼は思った。セックスなんて、ずっと考えたこともなかった。最後に、それを味わったのは、いつだっけ? 三十……三歳の時、いや、五歳の時、すると——四年前。いや、冗談じゃない! 四年プラス三千五百年前……いや、まだちがう。冷凍年齢があり、その誤差がある。それにあと、相対時差がある。  いったいおれの、本当の年齢はいくつだ?——しずまりかえった街路をくだって行きながら、彼は突然、はげしいめまいの発作におそわれた。これまでおそわれたものの中で、もっともはげしいやつに……。それは、子供の頃《ころ》、まだ旅なれない時分、SSTやHSTにのって《ああ、古き良き二〇〇〇年代よ!》、地球の上を、東半球から西半球へ、また北半球から南半球へと、わずか二、三時間の間にぐるぐるまわりした時に感じた、あの『時差酔い』現象と同じものだった。——あまりにめまぐるしい異常体験の連続による、過剰体験情報中毒……。  いったいおれは、いくつだ?——眼の前に紫色の渦のまき起るのを感じながら、それでも機械的に足をはこびつつ、彼は息苦しい吐き気の底で考えた。——三十九歳か? 三千五百三十九歳か? それとも、もっとほかに、ほんとうの年齢というのがあるのか?  眼の前がまっくらになり、冷汗がながれはじめ、それでも彼は歯をくいしばって、歩きつづけた。——おれの本当の年はいくつで、今どんな状況下にいるんだ?——そのことを考えようとすると、いつも、あの記憶にかえっていってしまう。そこからはじめても、いつもおんなじだ。もっと別の手がかり、もしくはもっと別のコースというのはないのか?——だが、渦が結局はその中心に、すべてをまきこんでしまうように、典型的な脳貧血症状の晦冥《かいめい》の中で、弱々しくもがいている彼の意識は、右へ行き、左へ行き、結局力つきて、手足の力をぬいたまま、その暗黒の漏斗の底へ吸いこまれていってしまう。——二重太陽は頭上に高く、遠く、〈神殿〉はまだはるか彼方《かなた》であり、彼は冷汗にずくずくにぬれながら、眼を閉じ、歯をくいしばって歩いて行く……。歩きながら、ひきずりこまれる……           * 「で、どうしても……」と、老人はいった。 「何度同じことをいわせるんです」彼は、少しいらいらしながら、答えた。「ぼくは、行きたいんです。それだけです」 「あなたのように、若い方が……」老人は、ゆっくり立ち上った。「元来これは——冷凍睡眠《コールド・スリープ》は、そういう目的のためにつくったものではなかった。一時代前の医師たちが、不治の病にかかった患者たちのために、その治療法が見出《みいだ》される時まで、その患者を仮死状態に凍らせ、病状の進行も凍結して保存するために発明したものだった。——のちには、よほど物好きな、人生に対する執着のつよい、あるいは死に対する恐怖が病的につよい老人たちが……」 「わかっています」彼はうんざりして、手をふった。「ぼくは、年は若いが、老人です。——ここで拒否されれば、自殺するか、それとも生ける屍《しかばね》みたいになって、老いさらばえるしかありません。もっと年をとって、もう一度来たら……たとえば、むこう側で生きかえった時に、余命幾何《いくばく》もないじゃありませんか。——あなたは、拒否できますか?」 「ご存知《ぞんじ》ないかも知れんが、私には拒否する権利があるんですよ」と老人は背をむけていった。「最終的には、私の判断にまかされているのです」  短い沈黙がおちてきた。——立ち上ると、老人は巨大で、その背は、頑丈な幅ひろい壁みたいだった。彼はじっとその巨大な背中をみつめていた。——この老人はいくつだろう? と彼は思った。九十歳、いや百歳……  でも、それが何になる?  人間は、生れて生きて、死んで行く。老荘《ろうそう》の教えをまもって、つつましく、機嫌よく死んでいくべきかも知れない。——だが、人間は、その肉体の分際にすぎた脳をもってしまった。精神は、なぜだか知らないが、人間の自然条件——その有限の肉体を越える。それもはるかに、途方もなく越えて、巨大なものとむかいあう総力をもってしまっている。もし、精神さえも自然からあたえられたものだとすれば、人間はそのあたえられたものによって、自然から呪《のろ》われているのだ。 「読まざるこそ自然なれ」といっても、——その知恵さえ、読まなければ、あたえられないという、おかしなパラドックスによって呪われている。『ホモ』は『サピエンス』によって呪われているのだ。その種《スピーシズ》がこの地球上に出現した時から……。 「私は……」老人は、かるく咳払《せきばら》いしていった。「一般的な危倶を感じているのです。——私には、どうすることもできないことなのかも知れないが……」 「なんですか? それは……」 「あなたのような若い方で、同じような申し出をしてきたのは、あなただけではないのです」老人は、こちらをふりむいた。禿《は》げ上った額に、暗い、混乱した表情があらわれていた。「私が、直接この仕事の担当になったのは、数年前です。——しかし、私はそれまでにも、保健厚生関係にタッチしていた関係から、ここの仕事の趨勢《すうせい》を、眼の隅でにらんではいました。冷凍睡眠所《コールド・ステーシヨン》の仕事量は、癌《がん》の完全治療の達成と、人工臓器や長命医学の発達により、年々減っていき、私が本省退職後、ここの閑職をえらんだ時は、数体の睡眠者《スリーパー》を、年限にあわせて覚醒《かくせい》させる仕事しかのこっていませんでした。私の在任中に、ここを閉鎖して、設備全体を博物館にまわせるかと思っていました。それが……」 「最近、また需要が出てきたんですか?」彼はおどけた調子でいった。「商売繁昌《はんじよう》で、結構じゃないですか」 「申しこみ六件のうち、二十代が三人、十代が一人いたんですよ」老人——所長は彼の悪ふざけにとりあわず、そのうすい灰色の眼で、まっすぐ彼の顔を見つめた。「むろん、あまり若い人には、さとして断りました。しかし——これが、また若い人たちの、おかしな流行になりかねない兆候はあります。若い人たちは……まったくおかしなものに夢中になる。麻薬、電撃、獣姦《じゆうかん》、機械姦……」 「しかし、ぼくはそんな青臭いガキどもとちがう。分別ざかりです……」彼はしっかりした声でいった。「所長——このコールド・ステーションが、また、まったく新たな意味を持ちはじめる時代が来ているのかも知れませんよ。かつてここは——希望への墓所《セメトリイ・トウ・エスペランス》〃とよばれたこの場所は、肉体的な生命の救済を未来にもとめる場所だった。しかし、今度はそれこそ本当の意味で、〃希望への墓地〃として……精神の再生の希望を、未来につなぐものになりつつあるのかもしれない。——所長、ぼくだって、生きたいのです。生きたければこそ、ここへ来たのです。このままでは、ぼくは生きたまま精神の死をむかえなければならない。現在のぼくが、生へののぞみをつなぐ唯一の可能性は、ここにあるのです。本来なら——自然のままでは到達不可能なはるかな未来においてなら、またぼくは、生きる希望を、精神のみずみずしさをとりもどせるかも知れない」  老人は、あきらめたように、机のボタンを押し、ぶあつい申込書類の束を、彼の前に投げ出した。 「たくさんあります。——全部よく読んで、全部にサインしてください」老人は溜息《ためいき》をついていった。「期限は? 百年? 二百年?」 「無期限《インフイニツト》という選択がありましたね」  老人の顔がこわばった。眼に、怒りに似た表情が——自然より与えられた生命の枠組を、いけぞんざいにあつかおうとする若い者に対する、敬虔《けいけん》さの名ごりをとどめた世代の怒りがひらめいた。 「それは例外規定です」老人はいった。「無制限《アンリミテツド》とか、無限《インフイニテイヴ》とかいう意味ではなくて、場合によっては、いつでも覚醒させ得るということです。——重症患者に対し、必要年限が見つもれない時に行われるもので、その裁定はわれわれがくだします。希望条項ではありません」 「ぼくは希望します」と彼はいった。「いずれにしても、このステーションが、正規の手つづきでうけおったかぎり、メンテナンスは責任があるはずですね」 「ここで何世紀もつことやら……」所長は、あきらめたように、デスクを大きなてのひらでドンとたたいて、また背をむけた。「せめて一世紀なり、二世紀なり区切って、覚醒させてもらって、その時点で、また継続するかどうかきめたら?」 「ラザロの復活じゃないが、覚醒は非常に不愉快なものらしいですね、所長……」彼はろくに書類を読まずにサインをつづけながらいった。「麻酔からさめる場合の、何層倍も……それに、その過程で、肉体的に、年をとるらしいですね。——だから、ぼくにとって、こいつは賭《か》けですよ。いつ眼ざめるか……そしてぼくのモットーとして、ギャンブルはいつも一発勝負なんです」  老人は、後手をくんで、ゆっくり部屋の隅へ歩いていった。——部屋の一隅に、所長の好みか、それともこの所長室の前々からの飾りつけか、古代エジプトの、ファラオの立像があった。この時代のありふれた悪趣味で、その立像が、インターフォンや、警報装置、TVアイをかねているのは、ひとめでわかった。——所長は、その立像の前に立ちどまり、若々しいファラオが手に持っている、エジプト十字架の笏を、その太い指でそっとなでた。 「エジプト第六王朝の時——」と所長はつぶやくようにいった。「その前代まで、きわめて健康で明晰《めいせき》で、建設的に進んできたエジプトの社会が、突如として大変な内発的な危機におそわれたのです。——みんな、生の意義を見失い、老いも若きも死にたいといい、子供はうんでくれなければよかったのにと親をうらみ、こんなくだらない世の中に生きているより、死んだ方がましだといって、大勢の人間がナイルに身を投げ、ナイルの水は、一時死体でのめなくなり、ナイルの鰐《わに》どもは、自殺者に飽食したといいます……」 「これも、署名するんですか?」と彼は、所長の背後からきいた。「いったい何枚あるんだ?」 「別に外部からの危機が人々をうちのめしたわけじゃありません。建設されて、七、八百年たった時、突然帝国の内部から、そういう現象が起りはじめたのです……」所長は、ブロンズ像の顔を、指の爪《つめ》でパラパラとたたきながら、ひとり言のようにつづけた。「ちょっとはなれた、メソポタミアの古代帝国でも、時を同じうしてまったく同じようなことが起った。やはり建設されて七、八百年たった時です。——くだって日本の十世紀から十一世紀へかけても、平安末期の世界でまったく同じようなことが起っている。末法の世がくるというので、人々は現実の穢土《えど》をきらってひたすら浄土にあこがれ、百姓は田をすて、村をすて、家をすて、巡礼しつつ早く死ぬことをねがい、熊野《くまの》の那智《なち》の海では、補陀落《ふだらく》渡海と称して、大量の人々が船にみずからを箱詰めして沖へ出、またたくさんの人が身を投げ……」 「これでいいですか?」  彼は、やっと署名しおえた書類の束を投げ出した。——財産処分、保険、万一の事故の時、ステーションはいかなる意味でも、対個人責任を負わないことなど、数多い、煩瑣《はんさ》な条項……。 「明日、正午においでください……」所長は、デスクの傍に来て、書類をパラパラと見ながら、いった。「準備ができています」 「ところで……」と彼は、立ち上りながらいった。「人類は、歴史上くりかえしおそってくる、その内発的危機ってやつを、どうきりぬけてきたんですかね?」 「知りません……」老人は、肩をすくめた。「危機におそわれた部分を切りすてて……というよりは、勝手に自滅するにまかせ、それによってまた、精神と肉体との健康なバランスをとりかえしてきたんじゃないですかね?——個体数がふえすぎて集団移動の発作にかかった齧歯《げつし》類が、海の中へつっこみたがる奴《やつ》はつっこませて、〃種〃社会の内部圧力をさげるみたいに……」 「しかし……」彼はドアのところで、ちょっとたちどまって、ふりかえった。「その内発的危機が、人類という種全体の、一般的根源的状態になったら、どうなるんです?」 「そんなこと、私にきいてもむだです……」老人は、かすかに、皮肉な笑いをうかべていった。「しかし、今やその内面的危機の波のおそってくる周期は、次第に短くなってきてるのじゃないか、と思われるふしはあります。第二次大戦後、わずか半世紀で——あれほどの破壊にもかかわらず、そういう状況が来た。それが一たん鎮静して、またすぐおそってきた。それ以後現在まで、危機は慢性化して、たかまりと谷があるだけになった……」 「で?」彼は、もう会話に興味を失っていたが、たんにきり上げるチャンスをつかむためにききかえした。「その先は?」 「わかりませんな……」所長は、溜息をついて、デスクの前に腰をおろした。「ですが——どうも、私個人の意見としては、ホモ・サピエンスというやつは、そう長くないんじゃないですかね?——知的生物としては、あまりうまくできてるとは思いませんね。人類は、自分自身にあたえられた知性に、それほどうまく適応しているとは思えない。何となく、先が見えてきたという感じですな……」  フジ・ナカハラ——二〇三二年生れ、三十五歳、オスロー大学在学中、十八歳で結婚し、二十五歳で離婚、二十七歳で再婚し、三十歳の時再び離婚。最初の妻との間に男の子二人、あとの妻との間に女の子一人。学位は修士二つ。パリ大学の、研究所職員をふり出しに、アメリカの大学の研究所員、広告代理店や商社の雇員、船乗り、アフリカのローカル航空会社の操縦士、アマゾンの旅行ガイド、画家、月向け定期旅客宇宙船のパーサー、テレビ局職員、東南アジアのインチキカジノのディーラーなど、あらゆる職業を転々とし、目下定職なし。財産、家族ともになし。目下の住所、マイアミの、三部屋つづきの、おそろしくぜいたくなユースホステル。——人生ってこれだけか?  ジェット・バスで、マイアミにかえってきた彼は、明日の正午まで、どうやって時間をつぶそうか、ぼんやり考えながら、二十四階建てのユースホステルにはいって行った。——ノー・アイデアだ。マイアミの空は青く、海も青く、海中にはいくつもの海底居住区が、暗礁のように白い波をかんでいた。塩気をふくんだ風が、椰子《やし》の並木の梢《こずえ》をゆすっており、色とりどりの電動エア・スライダーが音もなく街路をすべっており、ブロンズ色に陽やけした肌をむき出した人々が、風に吹かれながら、木陰を歩いていた。——HSTやSSTが、超高空に描き出す、白い、細い線。ケネディ宇宙空港から、今日も月へ、火星へと旅立って行く、旅客用宇宙ロケットの、オレンジ色の焔《ほのお》の点。フェニックスや棕櫚《しゆろ》の植えこみの上で、風に吹かれて、踊りくるっている、パーティ用の提灯《ちようちん》……。  ベッドルームにはいると、ゆうべ泊った中西部の女子学生が、すっぱだかのまま、まだベッドにうつぶせになっていた。全身栗《くり》色にひやけした中で、そこだけあわあわしく白い、もり上った臀《しり》をピシャリとひっぱたくと、彼は娘の体をベッドからひきずりおとした。——娘は、うめいて薄眼をあけ、またよだれを流して眠りこんでしまう。口のはたに白くたまったあぶくを見て、彼は舌うちする。——また薬をのんだな。麦藁《むぎわら》みたいな色をした油気のない長髪をちょっとつかんでゆさぶると、彼は娘の腋《わき》の下に手をいれて、牛蒡《ごぼう》でもひっこぬくように床から立ち上らせる。大きな弾力のない丸い乳房が、掌の下でぐにゃりとひしゃげる。 「何すンのよウ……」と娘は、呂律《ろれつ》のまわらない舌でいう。 「さあ起きた」彼はバスルームにつれこんで、娘にいきなり冷たいシャワーをあびせる。「かえるまでに出てってくれといったろう。——ちょっと一人にしてくれ。今夜から、この部屋を使っていいし、ここにあるものはみんな君にあげるからな」  娘は水をあびて金切り声をあげた。——だが最初の刺戟《しげき》が麻痺《まひ》すると、またくたりと眠りそうになる。二つ三つ、頬っぺたをひっぱたいて、外へおし出すと、自分も裸になってシャワーをあびた。バスルームから出てくると、娘は、のろのろしたしぐさで、ブラジャーに、でかい乳房を押しこんでいるところだった。——なぜこのごろの娘は、パンティからはかないで、ブラジャーを先につけるんだ? 女って、昔からみんなそうか? 「ねえ、ゆうべあなた、私と寝た?」娘は生あくびをかみしめながらいう。 「いや……」 「じゃどうして追ン出すのよウ……。私がきらい? セックスがきらい?——それともインポ?」 「どれでもいい…」と、彼はいった。「何しろ、めんどうくさいんだ」 「じゃ、どうして、私を泊めたの?」 「君が、薬によっぱらって、勝手に泊ったんだ……」  彼は、娘が、パンティをはかずにスラックスをはくのを見て、やっと気がつく。——そうか、この娘は、はいてなかったんだっけ。 「明日だぜ」彼は、娘をドアの外へ押し出しながらいう。「明日の朝なら、もうぼくはいない。キイは、下にあずけといて、君がつかえるようにしておく。さいなら」  娘の尻《しり》をポンとたたくと、彼はドアをしめた。——やっと一人になれた。だが、することは別になかった。  部屋のバルコニーから、すばらしい落日の残照が見えた。太陽は背後のメキシコ湾におちていき、眼前のバハマの海は金色にかがやいている。——南東の風が強く吹き、椰子の梢をザワザワとゆすっている。彼は、裸の肩にバスタオルをひっかけ、ズボン一つでちょっとバルコニーの手すりを両手でつかんでいた。  そう——自然はいつどこでも美しい。どんな貧しく、みじめったらしい自然でも、それが自然でさえあれば、何か人間の意識を鎮静さす作用を持っている。彼はアフガニスタンの、およそ何もない荒涼たる沙漠《さばく》を、一日中ポカンと、トレーラーをとめて眺めていたことがある。何もない所では、空さえあればいい。——心だに貧しくあらば……。どこかで、南海の孤島で、都会からちょっとひっこんだ山の中で、あるいは、月のクレーターの一つで、ただ呆然《ぼうぜん》と自然をながめてくらし、ながめながら死んでいく。——それも、できないことではないし、悪くない。心だに貧しくあらば……。  だが、人間は、もう文明的に、それができなくなってしまっているのだ。——人類が文明にむかって一歩ふみ出した時、人間の心はもはや自然の中で自足することができなくなってしまった。——こうして、『文明』と『精神』が角逐しあいながら、その限界まで拡充していく、数千年の歴史がはじまる。そしていま、その双方が一つの拡充の限界にまで達した。——彼が物心ついた時、地上における最後の国際紛争が、終熄《しゆうそく》に達しようとしていた。人種差別は、封じられた神話となり、二百三十億で完全な横ばい方となった世界人口に対し、飢餓と貧困と低教育と疾病の〃後進地帯〃は、もはや埋もれるのが時間の問題の浅い谷間にすぎなかった。——むろん、いくつかの、まだときほぐされないルサンチマンや、悪徳や宗教的信念の問題はあった。だが、それも、わずか半世紀の間の努力によって、宗教は——あの強烈なイスラム教においてさえ——その〃毒性〃をうすめられ、〃世代間伝染力〃を弱められ、おだやかで無害なものにおきかえられてしまった。  そして、彼の——彼らの時代になった。全世界をつなぐ高密度超高速の通信交通ネットワーク、〃人生問題〃にまで手を貸してくれ出したコンピューターと、ますます厚みをます世界的規模の社会保障、機械は食料をつくり、生活必需品をつくり、機械が機械をつくり、機械が工場をつくり、機械が生産流通のネットワークを管理し、改良し、機械が新しいプロジェクトをつくる時代。生きることはすべて機械にまかされ、そして人間は……。  むろん、フロンティアはあった。——だが、宇宙を機械だけにまかせなかったのは、それが一種の純粋スポーツに似た性格をもち出したからだった。月と火星、それに小惑星帯までが、一般観光に開放されたが、そこからむこうは、ある意味でのエリートたちのものだった。海底は、観光にも、開発にも、ほとんど新鮮さを失いつつあった。彼は十五歳の時、学校から月へ行き、十七歳の時、休暇を利用してガール・フレンドと火星へ行き、かえってから南極へ行き、珊瑚《さんご》海でのスキン・ダイヴでガール・フレンドとむすばれ、イセ神宮で式をあげ、ハニムーンは、二人のりのジェット機で、新大陸をアラスカからパタゴニアまで縦断した。最初はまじめに働いた。だがある時、ふと自分の労働に疑問を感じ、怠けはじめた。勤務先では、いくら休んでも、給料をくれた。やめると、失業保険が無期限にはいった。彼は妻子をすてて放浪をはじめた。——スラムにもすみ、ギャングにひとしい連中の仲間にもはいった。  だが、どうやっても生活ができた。  二度目の結婚は、うんとフォーマルなものにした。マナーの中に——極度に洗練されたマナーの中にこそ、文化の香り高い美酒があり、その中に古代からひめられた生活の意味があるかも知れない、と思ったからである。彼は、低い声でしゃべり、タキシードをつけて夜会に出、ワインの鑑定では一目おかれ、特別に巻かせたシガーを吸い、ヨーロッパのサロンに出入りし、京都の茶会の常連になった。——だが、それもすぐばかばかしくなって、ある晩、大切な舞踏会をすっぽかして、街の餓鬼どもと、LSDによっぱらい、そのままうす汚い、自称芸術家の群れに投じた。——そして、また放浪がはじまった。中年の曲り角のちかづくのを感じながら、彼は、胸の中に索漠とひろがりはじめた言葉を、一種自虐的な思いにかられて、つかみ上げた。  人生って、これだけのものか?  三十年からあとは惰性だった。——体力はあふれていたから、これは、ボディビルみたいなものだった。炎熱の沙漠、アルジェのスラム、ラプランドの冬の監視員、ペルーの鉱山労働者、喧嘩《けんか》、泥酔、タンザニアで毒蛇にかまれ、インドで鰐に食われかけ、ニューオーリンズでやくざに袋だたきにあい、ジャマイカで、黒人女から性病をうつされ、そして——人生って、これだけか?——この程度のものでしかないのか?  それは、むろん問いかけではなかった。——反語でさえもなかったのである。どうしようもない不毛の〃明皙の沙漠〃の中に、彼はふみこんでしまっており、もうひきかえしようがなかった。背後には、人生が未知であったころの、希望と期待とおののきにみちた日々が遠ざかりつつあり、そのきらめきは、まだはるか彼方にみとめられるものの、それは言ってみれば、とるにたらぬガラス玉を、この世の最高の宝石に半ばなぞらえ、半ば本気にそう思いこんでいた子供の時の、幻影にすぎなかった。——遠くからふりかえって見れば、ガラス玉も宝石も、その輝きは同じに見える。しかし、彼はもう、それが宝石ではなくて、ガラス玉であることを知っていた。もう一度、あの幻を現出させる力をとりもどしてみようか、と、時には思わないではなかった。だが、この時代の男たちの常として、彼には抒情《じよじよう》的なところがほとんどなかった。またそれだから、保《も》っているところもあったのである。 「友だちはいないの?」と、カイロの沙漠のホテルであった、彼と同年輩ぐらいの女は、彼にきいた。 「いたけど、今はいない」 「死んだ?」 「死んだやつもいる。——だけど、ぼくぐらいの年になると、みんなめいめい勝手に、自分の沙漠の中をうろつきまわっていて、お互い何の助けにもなりゃしない」それから彼は女にきいた。 「君は?」 「いるわ」女はかすかに笑った。「人間じゃないけど……」  女は鰐をペットに飼っており、どこへ行くにも、特別製のタンクで連れ歩いていた——ほんの子鰐の時分から、十年以上飼っているということで、もうかなり大きくなっていた。鰐は、うんと長生きするからよ、と女はいい、右手の小指と薬指が、義指になっているのをはずして見せ、ペットに食いちぎられたのだ、といった。——そのうち、この女も鰐に食われちまうだろう、と彼は思い、豪勢なベッドの上に、でっかい鰐が血みどろの口をしてうずくまっていて、床の上に、女の腕輪をはめた腕や、食いちぎられた脚がころがっているところを、漫然と想像した。  たしかに、会えば、やあ、という昔からの友だちはあちこちにいた。——親友といえる連中もいたが、今となっては、お互いどうしようもなかった。世界連邦の高官になって、大層な羽ぶりのやつもいれば、賢明にも家庭にひっこんで、平和にパパとしてくらしている者もいた。——そいつは、先物買いの天才といわれた男で、人生後半の保証として、結婚し、子供を三人もつくっておいたのである。一番気のあった、一番頭のいい男は、当代一流の作曲家でヴァイオリニストといわれながら、ショーのコメディアンになり、その辛辣《しんらつ》なお喋《しやべ》りと即興詩で、そこでも大スターになりながら、ある日、高層ビルの百二十階からとびおりた。 「未来はあまりに遠いし、おれはもう待てない」  という葉書が、死ぬ直前に、ナイロビにいた彼にとどいた。——まったく同感だ。と彼は思った。——人間は肉体が精神に適応していない、精神は肉体をこえて巨大になりすぎ、そのために人間は死ぬことになる。  だが——そこに、絶望と同時に希望への鍵《かぎ》もあるのだ。人生はだいたいどんなものかわかってしまったし、世界というものは、まず今のところ、どうもがいてもこれだけだということは、はっきりしている。生命を賭けて闘うべき、不正も暗黒もない。探険すべき〈未知の大陸《テラ・インコグニタ》〉も、もはや地上と、地球近傍空間にはのこされていない。部分的未知はあっても、一方ではあまりに専門的でトリビアルになりすぎ、一方では、とても一世紀や二世紀では、そこへの道をひらく〃手段〃が完成されないことは眼に見えている。——芸術の作用も、もはやその輪郭がはっきりしてしまった。——すばらしい壮大な幻影も、恍惚《エクスタシイ》も、今では街角のドラッグストアで買える、小さな錠剤におきかえられつつある。  だが、〃人間の世界〃が、これだけだ、ということには、ありがたいことにたった一つ留保条件がついている。——それは、まず今のところは、ということだ。  まず、今のところ——ここ、一世紀ないし二世紀、彼の同時代人が生きている間は……。だが、未来というやつがある。ここ当分はこの程度だろう。宇宙への進出も、あと百年たてば、かなりなところまで行けるだろう。だが、他の宇宙人の方から、接触してきてくれるという、受動的な可能性でも信じないかぎり、たかだか一世紀ぐらいでは、それほど画期的なことはのぞめまい。——だが、この時代をこえた、はるか未来においては? 数世紀の範囲をとれば、そこに何か、画期的なことが起ってくる確率がつよまるのではないか?——たとえば、地球上の人類社会が、骨がらみのデカダンスで、崩壊していくところでもかまわない。あるいは、惑星移民が、何か別のものを発見してくれるのでもかまわない。それだけたてば、何かこの時代における限界をつき破るようなものが、歴史の中に出現している可能性もつよいではないか?  突然、隣室でまき起ったボンゴのひびきに、彼はおどろいて、バルコニーをはなれた。——隣室のドアをあけると、さっき追い出した娘が、一団の、生ぐさい青年男女をつれこんでいた。連中の、うす汚れた服や、トロンとした眼つきを一瞥《いちべつ》すれば、もう彼らがすっかり〃薬《ドツピイ》〃に酔いしれていることは明らかだった。 「ごめんね、おじちゃま……」とさっきの小娘が、踊りともいえないリズムで、体をゆすりながら、のろのろといった。「でも、明日の朝も、今夜も、つながっちゃってるから同じでしょ?——だもんで、来ちゃったの」 「一つどうです。やりませんか?」髪の毛を三つ編みにした、ひげだらけの青年が、ボンゴをたたきながら、バスケットをまわしてよこした。「何でもあります……何でも……」  そう、そこには何でもあった。——幻覚剤、睡眠剤、副作用がないネオ・ヘロイン、本もののヘロイン、自分で勝手にさまざまな薬品をカクテルしてたのしむワンセット、固型の酒、マリファナ——上半身すっかり裸になって、麻袋を切ってつくったおかしなスカートだけをつけた娘が、笑ってしなだれかかりながら、「ねえ、やらない?——この子、色情狂《ニンフオマニア》なの」といっていた。  ひまつぶしに……とふと思ったが、やっぱりうんざりした気分がこみ上げてきた。——たしかにそのバスケットの中には、すべてがあった。快楽も、スリルも、魂を天外に舞わす薬、すばらしい気分の昂揚《こうよう》、自分を天才だと感じさせてくれる薬、陽気な気分、しびれるような解脱、しびれるようなメランコリイ、セックス、そして平穏をもたらしてくれる阿片《あへん》の小さな丸薬……それらすべてのものは、その粗末なバスケットの中にあった。——手をのばせばすぐに、彼はそれらのものを手に入れることができたし、それがどんなものだか、彼にはよくわかっていた。  なぜやらないのだ?——と彼は自分に問うた。心では、うんざりしていながら、肉体はそれらの眼の前にぶらさげられた、甘美な餌《えさ》の臭《にお》いをかいで、ビクビクと疼《うず》いた。のどがかわき、掌に汗がにじんだ。——しかし、彼は今、自分が自信たっぷりで、傲慢《ごうまん》な中年男であり、しらふで、傲然としているポーズをたのしんでいることを知っていた。——昔はおれも、もっとやさしかったのに……と彼は思った。若い、赤ン坊やがきどもが機嫌よく酔っぱらっていれば、こちらも相手のところまでおりて行くために酔っぱらわずにおられなかったのに、いつの間におれはこんな、風紀係りのお巡《まわ》りみたいな人間になっちまったんだ? こんな酷薄な人間になったのはなぜだ? 「いいよ……」と、彼はいった。「まったく、君のいう通りだ。明日は、今夜のつづきさ。——せいぜいたのしみな」  誰《だれ》かが、椅子《いす》の上で吐いていた。すわったまま尿をもらした娘もいた。——だが、そんなことがなんだ? 部屋の隅の『クリーン』と書かれたボタンをおせば、たちまち機械が動き出し、部屋の中はきれいになってしまう。人間はいくら酔っぱらっていても、何もしなくても、世の中はちゃんとうまくいく。——そういう風になってしまっているのだ。人間がいくらだらしなくなっても、機械が全部めんどうを見てくれる。このごろでは、機械はみんな、保母のおばさんのようにやさしくなってしまった。  上衣《うわぎ》と書類だけもって、彼は外へ出た。ベルトロードにしばらくのって、街のはずれまで行き、そこから海岸の方にぶらぶら歩いた。なるべく人家からはなれた所で、浜にひきあげられている古いヨットをみつけ、その中にはいってねころんだ。——風は相かわらず吹きつづけ、海はどうどうとなり、吹きとばされたちぎれ雲の間から、冷たい星の光がのぞいていた。明日は冷たい船出だ、と彼は思った。冷たく凍てついた長い氷の道を、あのステンレス製の棺桶《かんおけ》のような『仮死の舟』にのって、おれはこの時代におさらばして、遠い未来にむかう。未来への道中は、さぞ冷たいだろうな、と彼は思った。——きっと、北極の夢でも見ることだろう……。      2 〈神殿〉にのぼって行く、けわしい斜面を歩きながら、フジは、いつもこの名も知らぬ異星の住民の奇妙な文明に、幻惑されるのだった。——ここの連中は、いったい、いつから重力コントロールの技術を知ったのだろう?  直径二万三千キロメートルのこの星の、地下のどこかにある動力源と、重力屈折装置がまだ生きていて、主要な道路においては、その道路がジオイドの切線に対してどんなに傾斜していても、重力はつねに、路面に対して垂直にはたらくようになっていた。——だから、どんなに急な斜面でも、平地を行くのと同じことだった。時には、巨大な断崖《だんがい》とも構築物とも思えるものの、直立した壁面にさえ、垂直に重力がはたらいている箇所があり、そこでは人間がまるで蝿《はえ》のように、壁に直角に立ったまま歩いてのぼれるのだった。 〈神殿〉は、都市平面から二百メートルほどもり上った、人工とも自然ともつかぬ円錐《えんすい》形の丘の上にそびえていた。——全体は、都市構造物と同じ、透明もしくは半透明の合金《それ自体は、成分的に決して珍らしいものではなかった。地球でも、すでに二十世紀後半に、透明な鉄が試作されていたからである》で、まったくつぎ目なしにできていた。機力的に見てまったく不可能と思える構造は、おそらく構造物のあちこちにうめこまれた、重力調節・屈折装置によって、可能となったのだろう。——基部は、直径四百メートルほどのドームになっており、その上に高さ二百五十メートルほどの、何とも奇妙な構造物がそびえ立っている。——遠方から見ると、それは、天空にむかって斜めにつき出した、ヨットの帆のように見える。そばへよると、それは、ゆるやかにうねって、空へとけこむように斜めにのび上った、太い、ねじれたポールを芯《しん》にして、もう一つ外側に、幅ひろい帯状の構造物が、螺旋《らせん》状にまきついているのだった。——つまり、斜めにのび上るダブル・スパイラルの構造体なのである。さらに奇妙なのは、この『ねじれた尖塔』を中心に、ドームの頂上から、八方へむかって、花弁状に彎曲《わんきよく》した透明の板が、つき出していることだった。——すきとおった花弁の一つは、長さ八十メートルもあった。〈神殿〉全体の遠望は、都市の上空にぽっかりひらいた、巨大な半透明の花のようだ。〈神殿〉全体の基本的な色調は、うすい、すき透《とお》るようなブルーだった。ドームの上にはグリーンと黄金色の帯が、斜めに走っていた。尖塔は基部が濃いブルー、それから尖端へむかって、ほぼ白色光スペクトルの順で色がかわり、尖端はこいルビー色になって、かがやいている。——直下から見上げると、透明な花弁は空にとけこんでしまい、巨大な手に尖端をつかまれ、中空に斜めにねじり上げられた、虹《にじ》色のパゴダのように見えるのだった。  自動的にひらく、弁膜状のドアを通って、彼は中にはいって行った。——内部は、暗く、ガランとしてひろく、列柱と、奇妙な彫刻と、波うつ壁画がつくり出す迷路《ラビリンス》になっており、部分的に蛍光物質による照明があって、ぼんやりと奥が見わたせた。——上を見上げると、天井は、プラネタリウムのドームの内面のように、ふかぶかとした暗黒の夜空をつくり出しており、無数の、途方もなく高い列柱が、何千本もの針のようにつきささっている。ぼんやり光る床を見おろすと、それは半透明で、ゼリーの中にかためられたように、何か異様なものの堆積がはるか底の方までつづいているのが、かすかに見えるのだった。  迷路をまっすぐ行くと、直径四十メートルばかりの、円型の広間《ホール》に出る。——彼が『内陣』と名づけたその円筒型の広間の周囲の壁を、最初見た時、彼はショックのあまり息がとまるような思いを味わった。  天井が中心部へむかって彎曲していて、ちょうど砲弾の内部のように見える。内陣の円筒型の壁には、六十メートルはあると思われるはるかな頂上部にいたるまで、びっしりと、この星の住民の死体がはめこまれていたのだ。——頭の鉢の大きな、顔の小さな、眼蓋《まぶた》のはれぼったい、だが、どこかいかにも知性的な感じのする、異星の生物——下肢が三本で、腕に関節がないらしいと思われる以外は、みごとに地球人類に似た体型をもった異星人が、一様に手を組み、一体ずつ、舟型の壁龕《へきがん》におさまって、ずらりとならんで、例の透明な壁の中にぬりこめられていた。——一体一体が、どこからかさしこむ、淡いピンクや琥珀《こはく》色の光に照らされ、じっと瞑目《めいもく》し、彫像のように動かず、この神殿が建設されて以来、そして彼らがその壁にぬりこめられて以来の、幾何とも知れぬ星霜を眠りつづけてきたのだった。  最初それを何の気なしに見た時は、壁の模様かと思った。——だが、それが何であるか気づいた時には、全身が総毛だった。何となく、その無数の死体に見られているような感じがしたからである。 「フジ……」  突然、声をかけられて、彼はビクッとした。——ふりむくと、いつの間にあとをつけてきたのか、エヴァが背後にひっそりと立っていた。——エヴァの小さい顔は、おびえたように青ざめ、皮膚はそそけだっていた。 「すごい所ね——ここ、お墓なの?」 「そうだろうと思うが……」と彼はいって壁面の死体を顎《あご》で示した。「はじめて見るのか?」 「ええ——今まで、こわくって、中まではいれなかった……」エヴァは、こわごわ壁面にちかよった。「こんな近くで見るのはじめて……何年ぐらいたってるのかしら」 「わからない……」彼はつぶやいた。「何百年か、何千年か……」 「何百体ぐらいあるの?」 「ここだけで、三千体はあるだろう——だがそのほかに、この神殿の下に……あの丸い丘の中に、何十万という死体がうまっているらしい……」 「まあ!」エヴァは、うすい肩を、ブルッとふるわせた。「私たち、この星の人間の死体の山の上に立ってるわけ?」  あたりの雰囲気にけおされて、二人はよりそうようにして、小声でしゃべった。——はるか上方の穹窿《きゆうりゆう》までぎっしりつまった死体は、この異星からの侵入者を、四方から見つめているようだった。  だが、不思議に、そこには——このほろび去った文明の、最高の聖地《サンクチユアリ》に侵入して来た異邦人に対し、とがめるような雰囲気が感じられなかった。壁面の死者は、なぜか、侵入者を、ほうっておいてくれるような感じがしたのだ。 「なれてくると……」エヴァは、ほっと溜息をついていった。「それほどこわくないわね」 「君もそう思うか?」彼は、エヴァの肩に手をおいた。「その点が、ぼくも不思議なんだ。——最初は、ぼくもびっくりして、ふるえ上った。だが、それはショックをうけただけで、そのあと、自分がちっとも恐怖を感じていないということに気がついた……墓場にいるという感じが全然しないんだ」 「それで、あなたはさっき言ったのね」エヴァは、壁面に近よっていった。 「ああ、そうだ……」彼はうなずいた。「生きているのかも知れないって——」  エヴァは、壁面にちかづいて、じっと死体の一つを見上げた。——名前さえわからないこの星の、おそらくは最高の知的生物だったものの姿は、身長二メートルから二メートル半、ほっそりしていて、どれもゆったりしたブルーまたはグリーンの、簡潔なデザインの服をまとっている。年齢など、むろんわからないが、おそらくは成体だろう。——大頭で、頭蓋が肋骨《ろつこつ》構造になっていて、褐色の強靱《きようじん》そうな皮膚をもった彼らは、地球人の感覚からみれば、やはり異様だった。にもかかわらず、彼は、その生けるがごとき彼らの死体の顔つきに、何かおだやかな——いい得べくんば、至福ともいうべき表情を感じてしまうのだった。  おだやかな?——至福?——そんなばかな!  顔つきからちがう。そしておそらくは身体構造も、発生過程も全然ちがう、太陽系から何百光年もはなれた異星の生物の表情に、どうしてそんなものが読みとれるというのだ?——おだやかなほほえみとも見える彼らの口もとの線は、実は残忍な憤怒《ふんぬ》の感情の表われであるかも知れないではないか? 嘲《あざけ》りの表情であるかも知れないではないか?  しかも、なお彼は、その巨大な円筒型の墓窟《カタコンベ》の内部に、通常の墓所とはちがう、何か明るい、おだやかな雰囲気を感じてしまうのだった。——そこには、万物を朽ちさせ、時の風化のなかにひきずりこんで石ころと塵埃《じんあい》にかえてしまう、おぞましい〃死〃の雰囲気が、どうしても、どの隅にも感じられないのだった。不気味でないとはいいきれない。にもかかわらず、その外見の不気味さの底には、——妙ないい方だが——奇妙に生き生きとしたものさえ感じてしまうのだった。外の都市は、完全な〃死の街〃だった。だのに、〃墓所〃であるこの神殿の、死体安置所の中でかえって〃生の気配〃を感じてしまうのはどういうわけだろう?  フジは、エヴァとならんで、高い壁面を見上げた。——異星の死者たちは、はるか上方まで、ピンクとブルーとグリーンのモザイクになってならんでいる。——みんな、一心に何か思いにふけっているように見える。 「ほんとに生きているみたい……」とエヴァはつぶやいた。「もし、生きているとしたら、かえってちょっとこわいわね。しらべてみないの?」 「そんな気はおこらんね」と彼はいった。「もっとも、やつらだったらやるかも知れんがね」 「あなたは、毎日ここへ来て、何をしてるの?」 「何ということはない。しらべるというのもおかしいが……」彼は苦笑した。「何だか、ここには、何かがありそうな気がする。——ここに興味を持っているのは、今のところぼく一人だが……」 「あなたは、原始的だからなのね。——そうでしょ」エヴァもクスリと笑った。「あそこ——あの上の方は、死体のモザイクが欠けてるみたい」 「そう——あそこのくぼみは、空席になってるんだ」と彼は、天井を見上げていった。「まだ五、六席あいている。行ってみようか?」  エヴァは、おびえたように首をふって、あとずさりした——彼はエヴァをはなれて、むかいの壁面にむかって歩き出した。広間《ホール》の壁と床の出あう所は、角になっておらず、ゆるやかなカーブを描いていた。そのカーブをそのまま歩いて行くと、いつしか彼は、壁から直角に立っていた。  ——エヴァが小さい叫びを上げた。 「大丈夫だよ」  そういって、そのまま彼は、壁面を歩き出した。一度そばまで行ってわかっていたが、重力は、この円筒型の部屋の内部のすべての面に直角にはたらいている。  天頂部にちかづくにつれて、彼は、内側へ彎曲している天井から、さかさにぶらさがっていた。——彼は、はるか下方で、おびえたように肩を抱いているエヴァにむかって、手をふって見せ、天井——彼の感覚からいえば床——にあいている、舟型のくぼみに体を横たえた。 「やめて! フジ!——やめてよ!」  エヴァはするどく叫んだ。——彼は笑って、そのくぼみの中で、ゆったり手足をのばした。フワフワした、透明なゼリーのようなものが、彼の体をやわらかくうけとめた。——この星の人間にあわせてつくられた透明な棺桶は、彼には少し長すぎた。彼はわざと、そのくぼみの中で眼をつぶって大きくのびをした。  その時——彼の眼蓋の裏に、突然、何かが見えた。何かとてつもなく高い建物の内部のようなもの……。 「フジ!」  もう一度エヴァの鋭い叫びがきこえた。——ハッとして、眼をひらいたとたん、その建物の幻は消え失《う》せた。ふと下を見ると、下方に小さく見えるエヴァの細っそりした姿の横に、丈の高い、もう一つの姿が見えた。——連中の一人だ。 「かえりましょう、フジさん……」と、そいつはいった。 「もうじき、日がくれます」  額が大きくはり出して、顔の小さい、五十六世紀人といっしょに、神殿をはなれながら、フジはきいた。 「調査は終ったんですか?」 「一応は……」とリュウ——五十六世紀人はいった。「あの装置をしらべている班も、もう終ったでしょう」 「あなたは、この星の、ほかの地方をしらべてたのね」とエヴァはいった。「何か、見つかった?」 「いいや……」リュウは、その大きな、鉢のひらいた頭を、わびしげにふった。「ここよりもっと前に放棄された、古い都邑《とゆう》はいくつも見つかりました。——遺跡ともいうべきものはね。でも、そこには何もありませんでした。はるか以前に、この惑星の他の地方にひろがっていた生活は見すてられ、この星の文明の最後の段階では、この星の人間は、すべてこの都市にあつまって、そしてほろんでいったらしいのです」 「とすると……」彼は、森閑としずまりかえった市街を見まわしていった。「滅亡の近づいた段階で、この星の知的種族は、四方から集ってこの都市を建設し……」 「そうです。都市そのものは——特に中心部は、非常に古くからあったらしい。地中探知をやってみると、この都市の中心部のはるか下に、太古の都市らしい影像が出るのです。——それに、奇妙なことに、この星の都市文明は、太古において、ここから発生し、四方へひろがっていったのではないかと思われるのです。都市の痕跡《こんせき》は、ここを中心に、この惑星の上をみごとに同心円上に、古いものから新しいものへと、反対側の柱にむかって進んでいます」  何という奇妙な種族か、と、彼は思った。——この都市の中心部から、球面上を四方へ進出して行き、またもとの文明発生の地にもどり、そしてしずかに、無にとけこむようにほろんでいったのだ……。 「滅亡がちかづくと、この星の人たちはきっとさびしくなったのね」とエヴァはいった。「だから、お互い肌すり合わせるように、一つの都市に集ってきたんだわ」 「そうかも知れませんね」とリュウはほほえんだ。「都市という概念からすれば、ここはおどろくべき規模ですね。電子脳がはじき出した、この都市の最大時の人口は、小さく見つもっても、六億をくだりません。多層化が極度にすすんでるんです」 「その人たちが……」エヴァは神殿をふりかえった。「みんな、あの丘の中に葬られているの?」 「それはわかりません」とリュウはいった。「一部は、宇宙へ出て行ったでしょうね。でも……」 「あの〈神殿〉をしらべましたか?」とフジはきいた。 「一応は……」 「もっとくわしく徹底的にしらべてみたらどうです? 実は……」 「ナカハラさん……」リュウは、さとすようにいった。「われわれは、たとえ滅亡したにしても、われわれより古い歴史をもち、われわれより高い文明をきずき上げた、この星の種族に、敬意を表したいのです。——聖域《サンクチユアリ》は、そのままそっとしておきたい」  そんなことじゃないんだ、と彼はいいかえそうとして、口をつぐんだ。——相手が、こちらを、デリカシイのない、荒っぽい古代人だと思っていることが、あからさまに感じられたからだった。  ちくしょうめ!——とフジは、腹の中で毒づいた。——この連中は、はじめっから、おれたちを野蛮人あつかいだ。——はじめて、会った時から……。  ……冷たい、灰色の氷にとじこめられた世界から、次第次第に自分が覚醒しつつあるとさとった時、まっさきにフジが思ったことは、自分がまた、妙な薬をのみすぎたのではないか、ということだった。——ずっとまえに一度、〃薬《ドツピイ》〃をのみすぎて死にかけた時、回復時に同じような気分を感じた。——暗い、〈融解室〉での、何日とも何週間ともわからない時間の中で、彼は記憶がすこしずつ「とけて」くるのを感じた。——そうか、と彼は思った。——今や、冷凍睡眠《コールド・スリープ》の、『無期限《インフイニツト》』の期限が来たのだ。今は……いったい、何世紀だろう。 「どうしますか?」  代謝率を徐々に上げ、機能回復のむらができないように、大量の薬品注入や、高周波照射、超音波マッサージをうけ、筋肉をほぐすいろんな運動を機械に強制され、やっともと通りの食欲も、体力も、回復したころ、白衣をつけた係員は、無表情にいった。 「どうしますって……何が?」 「何をえらんでもいいんです。あなたの自由です」 「だから、何をえらべっていうんだ?」彼はいらいらしながらきいた。 「そうですね——もう一度眠ることもできます。〃快楽の園〃で生きながらえるのもいいでしよう。安楽死もえらべます。それから、旅に出ることも……」 「なんのことだか、よくわからん……」彼は、奇妙な飲物——うすあまい、まるで安物の合成ジュースみたいな、安っぽい飲物——をのみながら首をふった。 「われわれの方で、一応、前文明の不要になったものを、全部整理することにしたんです。——むろん、いつでも再構成できるように、情報化してはのこしますが……人口はへったことですし、もう、誰もわれわれを指図してくれませんし——しかたがないから、〃主人《マスター》〃たちは、そっとしてあげておいて、あとはわれわれが、われわれ流のやり方で管理することにきめたんです。そこであなたのお望みをきいておこうと思って……」  そこまできいて、彼はやっと、眼の前にいるのが、人間ではなくて、アンドロイドだということに気がついた。——彼は、自分の頭が、ようやく正常に働き出した証拠として、胸中にまきおこりつつある混乱をかみしめながら、性急にきいた。 「今は何世紀だ?」 「今は、旧紀元で五十六世紀です。——ここは、海王星《ネプチユーン》の衛星トリトンの上にある、昔の宇宙サイボーグ病院です」  彼は、窓がないかとあたりを見まわし、やっとボタンで開閉する窓をみつけ、食いつくように外を見つめた。——暗黒の宇宙と、うすぼんやり光る、凍りついたような巨大な星が見えた。  三十五世紀の間に、どういうお役所の不可思議な手つづきのあやによって、フロリダのコールド・ステーションから、はるか太陽系の辺境にあるトリトン上のサイボーグ病院に自分の管理がうつされたのか、そんなことは詮索《せんさく》するひまもなかった。——ただ、『無期限《インフイニツト》』を要望するスリーパーのあつかいに、連中が長期にわたってかなり迷惑したことはたしかだった。そして、途中で、冷凍睡眠につけくわえられた新しい技術——『時間停滞《タイム・デイレイング》』という技術によって、ふつうのスリーパーよりずっと長く保存されていたことも……。  とりあえず、彼のやったことは、五十六世紀の地球にかえることだった。——しかし、火星から地球へとおもむく、がらすきの宇宙船の中で、彼の胸の中に早くもひろがりはじめたのは、大きな失望だった。いたるところで、機械的な確信にみちて立ちはたらいているロボットたちから教えられた情報を総合してみると、彼が、ある種の期待をこめて冷たい眠りの中に自らの生を凍結していた三十五世紀の間、基本的にかわったところは、何一つなかった。——むろん、すでに恒星間航行はおこなわれていた。しかし、数光年からようやく約十光年のオーダーに達したこの恒星間航行において、はかばかしい成果はなかった。——その範囲内においては、高等宇宙生物との直接のコンタクトはなかったのである。いくつかの恒星系において、高文明の痕跡はみとめられた。また、地球人よりもっとひくい段階にある生物のすむ星も発見された。——だが、彼らとコミュニケーションをもつことは、犬と意志疎通をはかるより、はるかに困難だったのである。  さらに、二つのことが、人類文明の上におこっていた。——一つは、太陽系のほとんど全域に拡散された文明が、恒星間へ進出しようとして、ついにその急速な〃稀釈化《きしやくか》〃にたえられなくなったことであり、もう一つは、人類の〈種〉そのものの中に起り出した、どうしようもない、頽廃《たいはい》化である。——それは、遺伝子そのものが、もう能力一ぱいに開花してしまい、〃遺伝子のデカダンス〃ともいうべきものが起りはじめたのかも知れない。 「それだけじゃない……」それ自体、一個の〈都市〉ともいうべき存在にまで人工化された月面の中核宇宙港で出あった、〃五十六世紀人〃の一人——それがリュウだった——は、しずかな口調で語った。「いろんな兆候から、新世代の生物相に、新たな変動の兆候が起りつつあるのです。——ごらんなさい」  リュウは、人気のすくない、ガランとしたラウンジの一角にある鉢植をさした。——そこには、大輪の蔓《つる》植物の花がひらいていたが、その花びらはまるでうすいポリエチレン・フィルムのようにすき通っていた。 「あれは、朝顔です。——交配によってつくり出したわけじゃない。ここわずか半世紀の間に、ああいうタイプの新種の突然変異が、いろんなところで、頻発しはじめているんです」 「太陽のスペクトルでもかわったんですか?」と、彼はきいた。 「それほどかわったわけじゃありません。——そうですね、あなたの時代からくらべれば、ほんの少し、青の方へずれたかも知れませんが、輻射《ふくしや》総量そのものはかわりませんし、それとも、短周期変動かも知れません。しかし、少なくとも、第四紀沖積世の生物相には、その深いところで、変動の兆候があらわれています」 「短い——」彼は思わずうめいた。「もしそれが本当だとしたら、あまりにも、第四紀沖積世は短いじゃありませんか? わずかに一万数千年で……」 「しかし、それもわれわれの主観かも知れないんです。ナカハラさん……沖積世が終るんじゃなくて、同じパターンの中で、ごくわずかの変動が起って、沖積世第二期にはいるのかも知れません。その程度の変化なら、すでに現世にはいってからも起っているのかも知れませんよ。あなたの時代から三千五百年の間に、アフリカ象とマウンテン・ゴリラは絶滅しましたよ」リュウはわびしげに笑った。「それに、人類においても、他の生物においても、明らかに進化の加速《アクセレレーシヨン》が起っています。——あなたと私の容姿のちがいをごらんなさい。これが、人類の上に、二十一世紀以後わずか三十五世紀の間に起ったことです」  たしかに——そこにあるのは、三十五世紀の間に、遺伝子があわただしくきざみあげた変化の結果だった。リュウの額は、彼よりも三倍ひろく、前へ大きくもり上り、額の中央に、さらに顕著な隆起があった。そのため顔面は小さくひっこんで見え、顎は下すぼまりに、うすく、よわよわしくなっている。背の高さは、一メートル八十ある彼より首一つ高くなり、四肢は細長く華奢《きやしや》だった。  定向進化だ……と彼は思った。——二十一世紀において、すでに予想されていた方向の、あまりにあざとすぎる現実化だ。  だが、それならすでに、二十一世紀において予想されていたことではないか?——これほど急速な変化が起るなら、何かあの時代における人類の予想を裏切るようなもの、当時の人間の想像力の貧しさを嘲笑《あざわら》うような、まったく新しいものの誕生の兆候はないのか? 「残念ながら……」とリュウは、首をふった。「地球へ行ってごらんなさい。——いや、行くまでもないかも知れん」  すでに、月面において、彼は肌に感じていた。——壁面にうつし出されている地球の情景もそれを物語っていた。いたるところに見出されるのは、文明そのものの、定向進化の兆候だった。しかも、そこにあらわれているものは、すでに二十一世紀において、彼の世界に存在したものの、極端化され、絶頂にのぼりつめ、彼の時代には、まだ見てとられたエネルギーを失い、もはや枯れかかっている文明だった。人口は——リュウの話によれば——千年前に絶頂にのぼりつめ、太陽系全体で五百億を数えたが、それ以後、サイボーグ化したものをのぞいて、純粋種は急速にへりはじめ、現在では、太陽系全体で百億たらず、地球上でわずか十億にすぎなかった。——むろん、冷凍精・卵子の形で、いつでも数百億をひき出せるだけのストックはあった。しかし、決定的なことは、人類全体が、増殖に興味を失ってしまっていることだった。アンドロイド・ロボットから、数百の超電子脳にいたる全自動機械系は、どんどん自己増殖をつづけていたが、人類はもはや、機械を指図し、支配し、使いこなす意欲を失っており、機械に対してまったく受身になっていた。——地球上では、もはや、機械のアドヴァイスをうけなければ、何をしていいのかわからないような人間が大部分だった。——育児も教育も機械まかせの十数世紀は、世代間コミュニケーションをほとんど潰滅《かいめつ》させ、人は生れながらに、孤独の中で、十重二十重の機械につかえられながら育っていた。  誰がそれを責められよう?——そんなことは、別にかまいはしなかったのだ。——問題は、人間に、生きる意欲を起させるような対象が、もはや何一つ見つからなくなってしまっている、ということだった。そして、一方ではあの、駈《か》け足の定向進化がある。——人類は、その文明においても、内面性においても、ある方向への絶頂にのぼりつめ、そのまま数世紀をすごし、あとは枯れていくしかないところまで、行きついてしまったのだ。  拡充飽和の極に達したその状態には、脱出のいかなる可能性も見あたらなかった。——「出口なし」だ。基本的に新しい突破口は、何も見つかっていなかった、ただあるのは、飽和したものの膠着《こうちやく》と、エラボレーションと、極限化されたリファインと……。三十五世紀たっても、人類は、その種と文明を超える可能性をなに一つ見つけることができなかったのだ。とすれば——二十一世紀に、すでに彼が感じていたことは、何一つ変っていなかったのである。いや、むしろ、あの時すでに彼の感じていた兆候は、実はまだはじまったばかりであり、その後、凍結されていた三十五世紀の間に、文明はその方向にむかってまっしぐらにのぼりつめ、その方向を拡充し、完成し、一般化しただけだった。——三十五世紀前には、一人の男の、胸の底にあったいらだたしい問いは三十五世紀かけて、その一般化された解答を出してしまったのだ。  人類は、これだけのものだ!——これが、人類の限界だ……。 〃量〃においては、まだ拡大の余地がのこされていた。——星間航行距離は、千光年のオーダーに達する見こみがついていた。生命は、理論的には、凍結と『時間停滞《タイム・デイレイング》』で無限に保存することができるようになっていた。——だが、そんなことをして何になるのだ? 人々は〃量〃につかれ、あまりにも長く抱きすぎた期待につかれていた。——太陽系をおおいつくした、人類と機械の文明の中に、何かまったく新しい可能性は……たとえば、〃新種の人類〃がうまれてくる可能性といったようなものは、どこにも見られなかった。 「彼たちは、旅に出ます……」とリュウはいった。「たよりないことですし、いままでに何度となく裏切られているんですが、それでも今となっては、そのたった一つの、たよりないものをあてに、旅へ出るより仕方がありません。行って何になる? とみんなはいいます。——でも、ここにじっとしていて……人類の黄昏《たそがれ》の、あの底なしの憂愁を味わいつくして死んでいくのも、たよりないとはいえ、まだほんのかすかな、可能性のまたたきをのこしているものを目当てに、旅をつづけ、そして結局むなしく死んでいくのも、同じことですし、まだ旅をつづける間は、そこはかとない、期待がつなげます。——あなたも来ますか!」 「どんな可能性?」  彼は、彼らの傍をすうっと幽霊のように通りすぎて行く、丈高い、裸足の少女に思わず気をとられた。——少女は、美しいといっていい顔だちだった。だが彼をおどろかせたのは、少女が、ランニング・シャツのような、汚れた、穴のあいたシャツを一枚まとっただけで、下半身に何もつけていないことだった。それ以上に、彼にぞっとするような思いを味わわせたのは、ラウンジを歩くその異様な姿に、誰も注意をはらわず、少女自身、決して狂っているのではない、ということがわかったからだった。——その能面のような無表情な顔の、二つの青い眼は、深く澄んでおり、しかも——周囲に対し、自分の今いる場所やシチュエーションに対し、何の関心ももっていないことをものがたっていた。——ぞっとするような無関心……少女は、自分の周囲に何の興味ももたず、ただ、内面にきざまれていく生命の時に、じっとききいっているのだ。——生れた時からはじまる死への秒読みを……。 「どこへ行くんですか?」彼は、われにかえってもう一度ききなおした。「どんな可能性があるんです……」 「七百光年先に、信号を送っている星があるのです……」リュウはいった。「そういう星は、今までに何度か見つかっています。ですが、その大部分は、こちらのまちがいでした。——たしかに信号らしいと思われたのはありましたが、交信に成功したのは一つもなく、思いきってそういった星にむかったものも、すべて消息をたち、かえって来ません。——ですが、今度のは、かなり可能性があるようです」  宇宙船の出発は二時間後にせまっており、それはこの、月の孫衛星軌道にのせられてあるのだった。——彼は、少し迷った。地球へも行ってみたかったが、それがリュウのいった通りだとすると、行ってもしかたがないような気がした。  彼はリュウに教えられてラウンジの一角にある〈トータル・サイト・ルーム〉にはいって行った。——直径三十メートルほどの、平べったいドーム型の部屋の中には誰もおらず、長らくつかうものもないとみえて、うすいほこりがたまっていた。——彼は、教えられた通り、コントロール・ボックスのうえの、メルカトル図法で描かれた地図の上を指でおさえた。と——たちまち部屋の中は暗くなり、ついでドームの内面いっぱいに、地球からおくられてくる3Dカラーテレビの影像がうつった。上も、前後左右も、スフェララマ方式でうつし出されるので、まるでうつし出された現場にいるのと同じような錯覚を起すのだった。  いま、彼は、あの二十一世紀の最後の数週間をすごしたフロリダのマイアミ海岸にいた。——何となく異様な感じがするのは、この三十五世紀間、地球がたえず温暖化への道をたどりつづけたため、海進によって、海岸線がひどく後退してしまっているからだ、ということが、しばらくしてからわかった。——かろうじて見おぼえのある地形をさがし、もとの海岸線をもとめると、はるか沖合に白い波を噛《か》んでいる珊瑚礁《リーフ》のように見える長い線が、かつて海岸に林立していた、ホテルやビルの頂きだということがわかった。その上に今は本ものの珊瑚礁がまといついている。——二十一世紀のホテル業者たちは、せっせと未来の堡礁《ほしよう》をつくっていたわけか!  新しい海岸線は、以前よりはるかに濃密な森林におおわれ、それも美しく刈りこまれ管理された間に、白い、極度にシンプリファイされたゴシック建築のような、この時代の建物がたっていた。——一目みて、誰も住んでいないとわかるそれらの美しい、洗い出された骨のような建築は、それでも、ビルト・イン・クリーナーによって、塵《ちり》一つとどめぬほど美しくみがかれ、あでやかな粧《よそお》いで客のくるのを待っていた——だが見わたすかぎり、そこには生き物の気配がなかった。海岸の——それもおそらくは人工の白砂の——長い汀《なぎさ》に、彼はたった一つ、ポツンとひざをかかえてうずくまる人影を見つけ、倍率をあげた。 「邪魔しないでください」  という札を背中にかけたその人物は、沖にむかって砂の上に腰をおろし、かかえたひざの間にじっと頭をたれて動かなかった。——裸足のくるぶしが水にふやけ、その肉を、小さな奇妙なやどかりや蟹《かに》が、せっせと食いちらしているのを見て、彼はその人物に背をむけた。  ——その男は死んでいた。  彼は、マイアミの映像に背をむけて、部屋を出ると、ラウンジの隅に、まだポツンとすわって、物思いにふけっているリュウの背後にちかづいて、声をかけた。 「その宇宙船には、どうやったら乗れるんです?——手つづきは?」  手つづきは何もなかった。——誰でもかまわない、行きたい連中は、出発時刻までにのりこめばいいのだ。彼のように、過去からやってきた男でも、犬でもかまわなかった。地球上の開発電子脳たちが、最新の技術をあつめて自動工場でつくった巨大な宇宙船には、千数百人の定員の、五パーセントにもみたない連中しかのりこんでいなかった。大頭で、ひょろひょろと背が高く、どうしようもなくメランコリックな五十六世紀人の一団は、それでもかすかな、一縷《いちる》ののぞみにむかって、あえてこのたよりない旅を挙行しようとする意欲をもった中核的な人々によってみちびかれており、リュウはその中の一人だった。  その中で、彼は、エヴァにあった。彼より百年あまりのちに同じように、無期限冷凍処置をうけた、二十一世紀の、絶望した小娘……。彼女と、お互いの身の上については、ほとんど語りあわなかったが、二人を組にしてしまったのは、二人とも、五十六世紀人たちとは、ほとんど言葉が通じないということだった。——リュウと彼とが話ができたのは、リュウが古代語の研究をやっていたからだった。  五十六世紀人たちのしゃべる言葉は、長い場合は猛烈にはやかった。——まるで昆虫の翅音のようにしかきこえない。一つ一つの単語をゆっくりきかせてもらうと、その中には二十一世紀の言葉が、猛烈に簡略化され変形されて、かすかな痕跡をのこしていることがわかるが、とてもききとれたものではない。その上、彼らの言語系の中には、数式や数字の概念が、たくさんとりいれられていて、とてもついていけたものではなかった。——日常の会話は、まったく静粛で、言葉すくなかった。というよりは、大脳前頭葉が二十一世紀人にくらべて極度に発達した彼らは、ほんの短い、間投詞のような言葉を投げかけあうだけで、ほとんどの意味が通じてしまうらしかった。しかし、長い議論になると、鳥のさえずりのような、せせらぎのようなせわしない声があたりにみちた。——彼が発見しておどろいたのは、五十六世紀人たちは、会話が熱をおびてくると、しばしば二人ないしそれ以上の人たちが、同時にしゃべりまくるということだった。最初はそれが受け答えになっているのかと思ったが、そうではないらしく、めいめいの人間は、相手のいっていることなどきかず、猛烈なスピードで自分の考えをしゃべりつづけ、相手のしゃべりつづけている話のうち、ほんの一つ二つの単語なりフレーズなりで、なにかこちらが展開している思考にヒントとなるようなものがあれば、それが相手方の展開している思考系列のなかで、どういう順序、または意味で組みこまれているかということとは関係なく、それをこちらの思考の流れにとりいれて、また新たな方向へ、自分の考えを展開していくらしかった。——つまり、彼らの議論とは、めいめいが相互に情報発振源になってのべつ発振し、何かめいめいにとってそのなかで、瞬間的に共鳴する情報だけがコミュニケートすればいいのであって、相手の考えを全面的に理解する必要はなかったのだ。にもかかわらず、そのやり方は、相互に共鳴し、コミュニケートする情報が、ある確率でもって整理されていくことによって、りっぱに——むしろいちいち言葉の厳密さをたしかめて、煉瓦《れんが》のように論理を構築していく古いやり方より、よっぽど効率よく——相互の思考を進展させ、同時にめいめいがちがった側面において、新しい問題に達することによって、ひろがりを深めていくのだった。  こんな連中の間で、でかい声でモタモタしゃべる、頭の回転の鈍い、動作の荒々しい二人の〃原始人〃は、ある種の軽薄の雰囲気に包まれて孤立していた。——こちらが彼らの言葉をおぼえるより、彼らがこちらの話し方をおぼえる方が、はるかに早かった。特に中核の連中は、多少は責任者としての保護者意識にかられたのか、ほとんどしゃべれるようになった。——彼としては、面自くなかったが、エヴァといっしょにがまんするよりしかたがなかった。このあいそのない、ほそっこい二十二世紀の小娘と、彼はほとんどしかたなしに——つまりお互いに一種のうさばらしとして——パートナーとなった。がまんすることは慣れていた。それに、ここまで来たのだから、彼の遠い子孫たちが、いったいどこまで行きつくのか、どんなことがあっても——たとえ宇宙のはてまでも——見きわめずにはおられなかった。  長い、わびしい旅がはじまった。——その巨大な宇宙船の居住性は申し分なく、たえ間ない加速のすえ、三カ月目に亜光速に達した。艇殻表面に、ごくうすくつくり出す歪曲《わいきよく》場の皮膜——そのために、推進エネルギーの半分をついやしてしまうのだが——によって、速度が光速に近づくにつれて相対的に増加する加速エネルギーの問題と、艇にぶつかる星間物質の衝撃とをきりぬけ、亜光速の旅は、自動操縦装置と、多数の艇操作、管理、サービス兼用のロボットたちによって、ごく快適につづけられた——生理的には……  だが、精神的には旅が進むにつれて、重くるしい憂愁が艇内にたちこめてくるのを、どうしようもなかった。相対時差によって、七百光年の旅は、艇内では、数年にすぎなかったが、その間にも続々と、死者が出ていった。——それは、いったい、自然死と呼ぶべきだろうか、自殺とよぶべきだろうか? 彼らは、彼ら自身にとってほとんど生得的のものであるあのどうしようもないメランコリイ——それは、まだ若々しいものを残していた二十一世紀から来た人間にとっては、何かはかり知れないものがあった——の中に、際限もなくのめりこんでいき、生きる意欲をまったく失い、食事はもちろん、飲み物さえとらないようになり、やがて代謝率さえさがった生ける屍となり、ついには本当の屍となってしまうのだった。しかもそれを誰も——ロボットさえも——とめようとはしなかった。こうして旅の終りが近づくにつれ、当初の人数は溶けるように減っていき、二分の一になり、三分の一になった。むろん、彼はたまらない気分におそわれ、一人でどなりまくったり、せめて向うへつくまで生きているべきだと議論をふっかけたり、手もちの精神昂揚剤をエヴァと二人でのんで、乱痴気さわぎをやったりした。——彼にしてみたら、自らを、なんとかこの滅入《めい》りこむ気分からひき出すとともに、五十六世紀人たちの気分も何とかひきたてたいという衝動があったのだが、結局は大勢をどうしようもなく、やがて彼自身も、この底なしの憂愁の雰囲気に、彼なりに適応せざるを得なかった。  旅の終りに近づいた時、それまで信号らしきものをおくっていた星が、突然、強い輝きをはなつとともにあっけなく消え失せ、その時は、『中核者』たちの中からさえ、大量の死者がでた。——しかし、宇宙船は、なおも消え失せた星の地点にむかって進み、すでに減速にかかろうとしていた。そのころ、光の消え失せた星から、わずか二光年たらずはなれたところにある連星に、いくつかの惑星があることがわかり、艇は、何ごとによらず確率何パーセントの形でしか答えない中央電子脳の慫慂《しようよう》にしたがって、コースをその連星にむけた。そして……。      3  都市中央の巨大な円形の広場に着陸している、探査艇にかえってみると、他の方面へ出かけて行った調査隊も、みんなかえってきたところだった。——そして、たださえ五十六世紀人たちが身につけている憂欝《ゆううつ》な雰囲気は、どの調査隊のメンバーの顔にも強くあらわれている落胆の色によって、いっそうこくなっていた。 「またきっと……」とエヴァはささやいた。「誰《だれ》か死ぬわよ」 「どうだったんだ?」と、彼はみんなを見まわしていった。「とにかく、ぼくにもきかせてくれよ」  お互い、言葉短かに、情報を交換しあって、それから力なげにあちこちへ散って行こうとしていた五十六世紀人たちは、その言葉をきくと、顔をそむけた。——ミックという、隊長格の男が、溜息《ためいき》をつくと、彼の前の椅子《いす》に腰をおろした。 「むだだった……」とミックは、二十一世紀語でいった。「いくつかの事実は見つかった。彼らの文明が、われわれ地球人よりはもう少し先まで進むことができた、ということもわかった。まあ、ある種の技術的な面でね——しかし、そのほかの——つまり、精神的な面では、たとえわれわれより先んじていても、ほんのわずかなものにすぎなかったらしい」 「なぜ、そんなことがわかる?」と彼はいらいらしながらいった。「彼らの文字でも読みとれたか?」 「完全にではない。——ただ、彼らの数字らしいものは解読でき、数式もわかった。それだけで、だいたい充分だったよ、フジくん——あとは彼らの文明のパターンで、だいたいわかる。彼らは——われわれと同じような精神的な問題にぶつかり、彼らのきずき上げた文明は、彼らの〈種〉が滅亡するまでに、ついにその問題の解決をあたえてくれなかった。そして彼らは……むなしく滅んでいった。一部は……宇宙の外へ、のぞみをかけ、自分たちの星と文明をすてて、どこかはるか遠くの宇宙へ出ていったらしい。われわれが、あてどないのぞみを抱いて地球をはなれたのと同じように……」  フジは、壮大な、暗赤色のガスの尾をひいて地平へしずんでいく二つの太陽に眼《め》をやった。リュウはいっていた。すでに、彼らは、何百年も前に、この都市から消え失《う》せた、と。——とすると、われわれは、はるばる七百年を旅して、一つの失敗におわった異星の文明の残骸《ざんがい》、ついにむなしかった、もう一つの精神の冷たい骸《むくろ》を手にいれただけか? 「あの信号は?」と彼はきいた。「あの信号の意味は解読できたのか?」 「解読も何もない……」ミックは、茶色の手袋をはめた細長い指を、ひらひら泳がせていった。「強いていえば〃ここに知恵と心と言葉をもてるものもあり、宇宙の底の心あるもの、こたえよ、この言葉を解け〃とでもいうか——1、2、3、6の完全数。加法定理、円周率、3、4、5の直角三角形……われわれが考えた通信と同じさ。——ものすごく時間間隔をおいた、ニュートリノのパルスでおくってきた。あの信号をおくるために、連中は、われわれの太陽より小さい恒星を、すくなくとも三つ四つ、つぶしたんだ」 「三つ四つも?」彼はおどろいてききかえした。「どうして?——君たちが、信号をおくっているのを発見したのは、あのつぶれた星からじゃなかったのか?」 「この連星の周辺には、比較的小さい恒星がたくさんある。——小さくて太陽系からはとても見えにくい。連中は半径六光年内の恒星を、通信をおくるためにいくつもつぶした」通信工学を趣味でやっている、ハンという男が、低い声でいった。「この都市の大通り《ブールバール》ナンバー1をまっすぐ行った行きどまりに、その計画をコントロールしていた、一種の通信天文台のようなものがあった。最後の方は自動装置でやったようだが、もうそれも大分前にとまっている——そこをしらべてだいたいわかったが……」 「でも、なぜそんなにたくさん、星をつぶさなきゃならなかったんだ?」  ハンは、ポケットの中から、薄葉の写真を数枚とり出して、机の上に投げた。 「ここへくるまでの間にとった、この星の周辺の恒星群の写真だ」とハンは、黒い背景に点々と白い点のちらばっている写真をさした。「これまで、あまり注意して見なかったんだ。距離も遠かったし、星の光度も小さかったからな。——だが、ここへくる間に、ほかにもこの周辺から消えた星があり、その星の写真をうんと拡大して見ると、ほら、小さなジェット噴射が起っている。——それも連続写真で見ると、間欠的にこの噴射が大きくなったり、消えたりしている」  彼は、写真をとりあげて、目をこらした。——白い矢印のついた星から、小さい、針の先のような線が出ていた。次の写真では、星の光はうんと弱まり、その線は消えている。 「そのジェット噴射の方角に、中性微子《ニユートリノ》のビームが出ている」とミックがいった。「全部でどのくらいの星をつぶしたかわからないが、とにかくあんな相互作用の起りにくい、いいかえれば、貫徹力が強くて、コントロールしにくい粒子でもって、どうやってあんな指向性の強いビームをつくり出したのか——その点の技術は、われわれもシャッポをぬぐね」 「この星のどこでも見出《みいだ》される、重力コントロールの技術が応用されているんだろうな。——重力粒子《グラヴイトン》とニュートリノとの相互作用とコントロールの技術を、彼らはかなり前に発見したんだ」とハン。「いずれ、われわれだって、その技術の秘密を手にいれるだろう。——だが、手にいれたって、どうにもならんがね。……今さら技術なんて……技術なんか、われわれにとって、何になる」 「つまり、このジェット噴射の噴出している方角にむけて、彼らは通信を送ってみたわけだな」フジは、写真を机の上にもどした。「宇宙の、あちこちへむけて……そして、そのうちの一つが、太陽系の方角をむいていた……」 「おそらく、最後の一つがね……」とハンはいった。「一連の通信をおくるのに、おそらく数世紀以上かかっている。——ということは、太陽よりかなり小さいとはいえ、エネルギー源の恒星一つを、数百年でつぶしちまったということだな」 「すごい浪費だな……」彼は、机の上に投げ出した写真を、腕組みして、じっとながめた。 「まわりの星を次々につぶして、宇宙にむかってよびかけた……。そうまでして、誰かに連絡をとりたかったのかね」 「おれたちには、その気持がわかる……」とミックはいった。「もう——この星の文明も、彼ら自身の〈種〉の生命も末期にさしかかり、彼らにもそのことがわかったんだろうね。そこで、彼らは文明の最後のエネルギーをふりしぼり、彼らの文明の精髄を全部ぶちこんで、二つのことをやった……」 「恒星をエネルギー源として、食いつぶすのも、大変な浪費にはちがいないが、あの通信計画自体が、大変なものだ。——おそらく、この星の使える資源は、この計画でほとんど消費されてしまったろう」とハンは、壁にもたれて溜息まじりにつぶやいた。「彼らは、各種の核反応については、われわれよりよく知ってたんだろうな。——それでおそらく、恒星の中に、ニュートリノを大量に放出するような核反応を起させる物質をぶちこんだ。おそらくは、核反応の触媒のようなものだろう。——恒星は、触媒をうちこまれるたびに、その物質とエネルギーを、ニュートリノによって大量かつ急速にはこび出されて、みるみるしぼんでいき、最後にちぢまって爆発し、小さな暗黒矮星《わいせい》の芯《しん》がのこる。——だけど考えてみろよ。一連の通信文をおくるのに、どれだけの量の反応物質を、どれだけの回数にわけてぶちこまなければならなかったか……宇宙のあちこちにむけて、指向性ビームをおくるために、そうやって、どれだけの数の恒星を、どれだけの期間にわたってつぶしていったか」 「今、彼らは二つのことに、文明のすべてをぶちこんだといったね……」彼は、ミックにむかっていった。「一つは、この星をつぶしてラブレターをおくる計画として、もう一つは何だね?」 「彼らの一部は、宇宙へ出て行ったんだな」ミックはいった。「どれだけの人数が、どんな宇宙船にのって行ったかわからない。——だが、これもおそらく、巨大な計画だったろう。大通り《ブールバール》ナンバー2のつきあたり、宇宙船の建設工場と宇宙港があり、そこから彼らはとび立っていった。宇宙港は今はがらんどうだが、一種の映画みたいな記録が残っている。——君も見たければ、行ってみるがいい……言葉はむろん、まだわからない。だが、見るからに悲しい船出だ。——もう彼らは二度とかえってくるまい……何をもとめて旅立って行ったのか……おそらく、われわれよりあてのない旅だったろう。われわれと同じように、何か、自分たちより上のものを、——彼らの文明の限界からの脱出口をもとめて……」  彼は、ミックのすわっている机のボタンを押した。——テーブルの底から、この星の〈都市〉の立体写真がせり上ってきた。——高空から探査艇がとったものだ。地上で見れば波うつ水晶の巨大な集合体のように見えるこの都市も、高空立体写真で見ると、みごとな同心円と放射線で構成されている。——中央の高台の上に探査艇が着陸している巨大な〈広場〉があり、そこから、きっかり百二十度の角度で、三つの方向に〈大通り《ブールバール》〉がのびていた。 「大通り《ブールバール》ナンバー1の行きどまりには、あの恒星通信計画……」彼は、指先で立体模型の上をなぞった。「ナンバー2の行きどまりに、彼らの中のえらばれた連中が虚空へむけてたびたって行った宇宙港……で、大通り《ブールバール》ナンバー3の終点には?」 「君の好きな、〈神殿〉がある……」とリュウはいった。「この星にのこり、この星の文明の終末と運命をともにした、大多数の人々の安息所が……」 「そうかね……」彼は——それは五十六世紀の人たちが、ひどくきらう振舞いの一つだったが——爪《つめ》をかんだ。「たしかに……あの〈神殿〉のたっている人工の丘は、巨大な墳墓だ。——だが〈神殿〉そのものは……」 「あそこにまつられているのは、彼らの社会の〃聖者〃たちでしょう」とリュウはいった。「この高台の上の広場は、彼らの文明の発祥にとって、何かシンボリックな意味をもっているにちがいない。——そこから、等間隔に、三つの方向にのびる大通りは、やはり彼らの文明の歩んだ道を象徴するのでしょう——一つの道の終りには〃よびかけ〃、もう一つの道の終点は〃旅立ち〃、そして……最後の道の終りには、〃安息〃……」 「それだけかな……」彼はまだ納得がいかないように首をふった。「ねえ——もう少しあの〈神殿〉をくわしくしらべてみる必要があると思うんだが……あそこにも、彼らの文明の精髄の一部が……」 「それをさぐって、何になりますか、ナカハラさん……」リュウはいった。「おそらく、彼らにとって、〈種〉の安息のシンボルであるあの〈神殿〉には、彼らの内面的な歴史にとってのみ、意味のあるような——彼らのはかり知れない内面性にとって、親密《アンチーム》なもの、なつかしいものの精髄《エツセンス》がつめこまれているんでしょう。それは、彼らのもので、われわれには関係のないものだと思いますね。——それに、尊敬すべきこの種族全体の、魂の安息所を、私たちは冒涜《ぼうとく》したくありません……」  ミックもハンも、何もいわなかったが、同感の意を、机からそむけることであらわした。——彼にも、リュウの考えはわからないではなかった。そして、五十六世紀人の、なみはずれたメランコリイと裏腹になっている、なみはずれてデリケートな心情——特に〃死〃とか〃終末〃とか、〃滅亡〃という概念を、ほとんど〃聖なる概念〃として繊細な敬虔《けいけん》さをもってとりあつかっていることも……。  だがしかし、彼には、まだ何かしこりがのこった。  ——〈神殿〉には、なにか、まだ、〃聖なる魂の安息所〃である以上の意味が、かくされているのではないか? 「これからどうするの?」さっきからずっとだまっていたエヴァが、ポツリといった。  ——気がついてみると、探査艇の会議室の中は、彼とエヴァの二人をのこして、誰もいなくなっていた。  ほんとうに、これからどうするのか?  この惑星の、すみわたった夜の大気の中にたたずみながら、彼はしんとしずまりかえった〈死の都市〉を見おろした。——かつてはこの中央の、標高百メートル以上ある高台の上から見おろせば、水晶の都市の上に、千万の灯火のきらめきわたる、夢幻的な光景が見わたせたのだろうか?  だが、今は、かつて人口八億を擁したといわれる都市は、美しく結晶化した骸骨《がいこつ》として、夜の大地の上にしらじらとひろがり、その上を青白く照らすものといえば、三つの衛星のうちの、もっとも近く、巨大に見える月の冷たい光と、満天の星にすぎなかった。 「また死んでるわ……」  エヴァが、そっとささやいた。  建物の影になっている広場に無数にある光と煙の噴泉の一つ——夜がくるとともに、それは自動的に五彩の煙を噴き出すことをやめていた——の傍で、ベンチに腰かけたまま、一人の五十六世紀人が、絶望に押しひしがれたように、頭をかかえてうずくまっていた。そのうすい肩からは、すでに生きているしるしが消えうせ、地球のものよりやや黄ばんだ感じの、月光が、冷たい死のように、その足もとにしのびよっていた。 「彼で四人目です……」リュウの姿が、暗い影の中からひっそりあらわれた。「明日はもっと死ぬでしょう……」 「で、どうするんだね?」と彼はきいた。「みんな、ここで死と安息が訪れてくるのを待つのかね?——それとも、地球へかえるのかね?」 「どうしようと同じです……」リュウの声は、今までよりさらに虚《うつ》ろに、さらにうち沈んでいた。 「もうこれで、われわれの旅行はむだだった、ということがはっきりしたんですから——あとはどうなろうと……もう、この旅のためのチームは、実質的に解散してしまったんですから……」 「地球へ——とにかくかえらない?」とエヴァはいった。 「どっちでも、ご随意に……二、三日のうちにきまるでしょう。——しかし、地球へかえったら、千五、六百年はたってますよ……」  そうか——と彼は思った。——相対誤差というやつがあるのだ。亜光速で来ても、地球から七百光年はなれているこの星まで、行ってかえってくれば、地球の上では、七百年の倍以上の時間がたってしまっている。 「おやすみなさい……」とリュウはいった。「また明日、お目にかかれましたら……」  大頭で、ひょろひょろと背の高い彼の影が、探査艇の方に行ってしまうと、エヴァがポツンとつぶやいた。 「あの、憂欝な連中さえいなければ、ここもけっこう美しくて、ロマンチックなのにね……」  そうだ——たしかに、〃終末〃の影さえなければ、こんな美しく、快適な星はない。——天文学上の知識のあまりない彼にも、数ある星の中で、地球人が到達し得る距離内にあって、これほど地球に酷似した条件をそなえた星は、やっぱり稀《まれ》なことではないかと思われた。——二重太陽による、公転軌道の変動の大きさを別とすれば、自転周期三十時間、公転周期約五百日、平均重力加速度〇・九二G《直径が地球より大きいのに、Gが小さいのは、おそらくその一部を重力コントロールにつかっているからだ、とハンはいった》大気組成、酸素三、窒素七、炭酸ガス少々、赤道部における太陽からの輻射《ふくしや》量は、地球よりかなり大きかったが、ここ北緯六〇度の高緯度帯では、空気も澄み、気候も快適だった。——そして、惑星表面にまだ残存している生物相も、形態こそ風がわりだったが、その基本は炭素系であり、まったく地球のそれと酷似しているのだ。そして、ここで発生した最高等の知的生物のきずきあげた文明も、そのたどった運命さえもが! 「私、ねるわ……」エヴァはかすかに体をふるわせていった。「まだ起きてるの?——寒くない?」 「もう少し、ぶらぶらする……」と彼はいった。 「おやすみ……」 「おやすみ」  エヴァは、つとのび上って、何のつもりか、彼の頬《ほお》に冷たい唇をそっと押しつけ、そのまま足音もたてずに立ち去っていった。  彼は、なおそのまま、しずまりかえった夜の広場から、いりくんだ、暗い辻々《つじつじ》をさまよい歩いた。——そして、足はまた、いつの間にか、〃神殿〃へ通ずる大通り《ブールバール》の頂きにむかっているのだった。  高台の上から見おろすと、広大な氷原のように、あるいは干上って結晶した塩湖のように、ただ一面に青白く、キラキラと光っている都市の中で、あの〈神殿〉だけが、ボウッとうすぐらい桃色の光をはなってうき上っていた。斜めにのびた、ねじまがった尖塔《せんとう》の光が、ルビーのように、真紅のつよい光をはなっている。——とすると、あそこだけは、この死に絶えた都市の中で、重力コントロール以外のエネルギーが供給されているのかなと、彼はぼんやり思った。とたんにどういうわけか、急に胸が高なりはじめた。  待てよ——と彼は、かすかに頭の底にひっかかりかけている考えをとらえようと、——思わず息をとめた。——ということは……。  不意にいろんな記憶がいっせいに起き上り、一つのまとまったパターンをとろうと、押し合いへしあいはじめた。——あの内陣の壁にはめこまれた〃聖者〃たちのミイラの、生けるがごとき姿、生き生きとした、至福の表情……そうだ——彼が昼、エヴァへのからかいをふくめて、ふざけ半分に、あの天井ちかくのくぼみに身を横たえた時……あの時、突然何かが頭の中に見えかけた……あれはいったい、どういうことだろう? いったい何だったのだろう?——足はいつしか、坂をおりはじめていた。正面に、〈神殿〉が、彼をいざなうように、かすかな桃色の光をはなって、一歩ごとに空高くせまりはじめた……。      4  翌日の朝、もう太陽が高くのぼったころ、リュウは、けたたましく自分の名をよぶエヴァの声に、うつらうつらとふけっていたもの思いからひきずり出された。 「来てよ、リュウ!」エヴァはまっさおになって、髪をふりみだし、息をはずませながらいった。 「フジが……フジが大変なの」 「どうしたんです!」リュウはしずかにきいた。「彼は、どこです?」 「〈神殿〉よ。——ゆうべ、かえらなかったの。今朝、姿が見当らないので、またいつもの場所だろうと思って見にいったら……」エヴァは両手で顔をおおった。「ああ!——とても気持が悪くていえないわ。早く来てちょうだい! 私には、彼のそばまで行く勇気がないの」 「イオノクラフトで行きましょう」とリュウはいった。「彼は——あの〃聖域《サンクチユアリ》〃の中ですか?」 「私も行こう」とミックは、沈んだ声でいった。  ハンものりこんで、イオン噴射で地上をはなれてすべる小型の乗物は、二分たらずで〃神殿〃の入口についた。——内陣にかけこむと、エヴァは、天井を指さして鋭い悲鳴をあげ、また顔をおおった。  半透明の壁画に、ずらりとモザイクのようにはめこまれた、何千体もの、異星人のミイラにまじって、ドーム状になった天頂部ちかくの、空所になったくぼみの中に——フジが横たわっていた。顔はひきつり、苦悶《くもん》にちかい表情をしめし、その体は両脇《りようわき》から、透明なゼリー状の物質に半分おおわれていた。 「彼を……彼を助けて!」エヴァは叫んだ。「私には、とてもあそこへ行けないわ」  リュウとミックとハンは、あの壁面に直角に重力線の働いている箇所を通って、フジの傍にかけより、まだかたまっていないゼリー状の物質をかきわけて、フジの体をくぼみからひきずり出した。 「まだ死んでいない」医者の心得もあるミックが、まぶたをひっくりかえしていった。「だが、ひどい熱だ」 「探査艇へつれてかえって、医務室にいれよう」とハンはいった。 「だが——へたにいじりまわしても、具合が悪いかも知れんぞ……」ミックは、五十六世紀語でつぶやいた。「体のほかの部分は氷のようにひえているのに、額だけが、ものすごく熱い……こういう症状は……」 「なにかうわ言をいってます」とリュウはいった。  フジが意識を回復したのは、探査艇にかえって数時間たってからだった。 「頭がいたい……」彼は弱々しくつぶやいた。「われそうだ……頭の中があつくて、たまらん——やっぱり……やっぱり、ぼくにはむりだ……」 「なにが?」リュウが眉《まゆ》をひそめてきいた。「なにがむりなんです?」 「そっとしといてあげてよ!」とエヴァがさけんだ。「まだだめよ」  頭をひやしつづけて、夕方にようやく平熱近くまでさがった。——やっと起き上れるようになった時、フジは、たった一晩のうちにげっそりとやつれた、土気色の顔で、三人の五十六世紀人の顔を、一人一人見わたした。 「やっぱりぼくには、むりだったんだ……」彼は血走った眼を、ミックの、突き出した巨大な額の、中央の隆起に、ひたとすえてつぶやいた。「だが……君たちなら……」 「なんのことだね?」ミックはたじろいだようにきいた。 「最初から話そう……」とフジはいった。「あの〈神殿〉は——やっぱり、単なる死体安置所でも、安息所でもなかった。あれはあれで——やっぱり彼らの……〃計画〃の一部であり、あれ自体が、彼らの、この文明の限界からの脱出のこころみであるような、巨大な〃装置〃だったんだ……」 「装置?」ハンは、ゆっくりとベッドの上にかがみこんだ。「何の?」 「〃精神旅行《サイコ・トラベル》〃の……」とフジはいった。「いや……何といったらいいか……論理《ロジツク》と想像力《イマジネーシヨン》による旅行の……あるいはそういった旅行をどこまでもつづけることを助け、可能にする補助装置といったらいいか……」 「おちついて話せ」とミックはいって、飲物の吸口をさし出した。「さあ、これをのんで……」 「君たちの調査の結果をきいた時、どうもぼくの心にひっかかるものがあった……」フジがやっと、ベッドからおりて話しはじめた時は、もう日暮れ時だった。——熱がさがりきるまでの数時間に、彼の顔はさらに憔悴《しようすい》し、髪には急に白髪がふえ、頬はげっそりとこけてしまった。——なお、あつっぽくギラギラ輝く眼をすえて、彼がかたり出した時、エヴァは気づかわしげに傍にたち、そっと彼のたれかかる髪をかきあげてやった。 「それは——君たちのいっていた、パターンの問題だった。つまり、この星の、彼らの文明の発祥地であるこの都市の、中心シンボルともいうべきこの中央広場から、三本の大通りがきっちり百二十度間隔で三方にのび、そのうちの二つの終点に、この星の住民たちがその文明の一切を賭《か》けた、終末の彼方にむかって、脱出する象徴的なこころみが行われた。一つは、〃よびかけ〃、一つは〃旅〃、そして最後の一つは——君たちの意見によれば——この星の文明が、この星の内部だけで、安らかな休息へむかって円環を閉じてしまう〃安息所〃——ぼくは、どうも、この〃安息所〃という考えが気にくわなかった。ぼくの、シンボル理解のパターンからすれば、もし本当に安らかに円環を閉じ、この星の、この都市の上で安息をもとめるならば、都市の中心である、この高台の上、この広場の中でなければならなかった」 「だが、墓所を都市の中心につくる例は、あまりないだろう?」とミック。 「それは——まだこの文明が、そしてこの都市がつづくならばだ、だが、すべてが終極に達する時は、花が中心にむかってしぼむように、この都市の中心に、終極の点を収斂《しゆうれん》してくる方がふさわしい。でなければ、全星上に拡散しきって、ほこりのように消えていくかだ」 「そうかな……」とハン。「そういう考えには、ぼくらは気がつかなかった」 「君たちの——いや、おれたち地球人の文明では、あとへいくほど、忘れ去られ、ついには失われていったある重要な要素——シンボルが、この星の文明では、最後までちゃんとバランスをとってのこっていたんだ」と彼はハンをふりかえっていった。「まあいい、そのことはあとで話そう——とにかくその点が、最後まで心にひっかかった。墓所は広場の中心にはないまでも、せめて何かこのシンボリックな広場の中心に、モニュメンタルなものがあってしかるべきだ、と、ぼくの内面の声はいった。  ——ところが、この広場は、ごらんの通りからっぽだ、周辺に無数の噴煙泉はあるが、この中心は、堂々たるからっぽだ。妙ないい方かも知れないが、何か、非常な力でもって、三方に巨大なものを押し出していったあとの、力強い虚無のようなものが、この広場には漲《みなぎ》っている。  ——まあ待ちたまえ——なにもかも繊細で、頽廃《たいはい》的で、メランコリックな終末の空気を吸って育った君たちには、そう感じられないかも知れない。君たちには、〃力〃はもうわずらわしいだけかも知れない。——しかし、ぼくには、まだこの広場と、三方にグッと張り出した大通り《ブールバール》に漲っている〃力〃の残存が感じられた。この都市をつくり、文明の最後のエネルギーの全部をそそぎこんで、あの壮大な二つのプロジェクトを実行したこの星の連中は必ずしも、次第にやせほそり、繊細になって、消えていったんじゃなくて、最後に文明全体を大きな賭けになげこみ、巨大なエネルギーを爆発させることによって、堂々とほろんでいったような感じがしてしかたがなかった。——それがむろん、あの二つのプロジェクトだ。  とすると——ナンバー3の大通りの果てにある〃神殿〃が、彼らの〃種の安息所〃だとする考え方は、どうも何となく納得がいかなくなる。なぜなら、この広場からのびる三本の大通り《ブールバール》から感じられる力強さは、それぞれまったく同等だからだ。三本の大通り《ブールバール》は、中央から、まったく等間隔に、まったく同じような力強さで、市の周縁部へむかって、同じ距離だけ、グッとのびている。恒星通信計画の管制所、宇宙港、〈神殿〉——この三つは、どれも同じ円周上にある。とすれば、この三つのもつ意味は同等なはずだ。いずれも、終末期をむかえ、文明の全力をふりしぼって、その限界を越えようとする試み——この星の最高等生物たちが、自分たちの運命をこえようとする、壮大な賭けであるという性格においては、この三つは、同等であるはずだった。——同じパターンでつくられながら、あの〈神殿〉だけが、彼らの内面にむかって、安らかに閉じこもるための隠遁所《いんとんじよ》である、というのは、ちょっと考えられない。  それに——君たちは、〃死〃を観念的神聖視して、はじめからあまりあそこに近づかなかったが、あそこでぼくの——君たちのいう——原始的感覚にふれてくるものは、どうも黴《かび》くさい、枯れ果てた〃死〃の雰囲気じゃなかった。何か奇妙に生き生きしたもの——なにかが、まだ生きている、と感じさせるものがあった」 「それで?」とハンはいった。——興味をもったらしく、そのうすい色の瞳《ひとみ》は、じっと彼のくちもとにすえられていた。「君の——そのカンというやつは、どうだったんだ?」 「正しかったのだ……」とフジは、しずかにいった。「だいたいぼくの思った通りだった。——種と文明の終末の近いことをさとった彼らは、彼らの中にまだ精神的な力強さののこっているうちに、それをふるい起し、この惑星の全土から、彼らにとって発祥の地の伝説をもつこの都市に文明の徴収をはかった。——そうすることによって、拡散した文明をもう一度凝集して、内部のボルテージをあげるとともに、そこに生じた余年を全部そそぎこんで、この宇宙の中に〃意識〃を開花させた種族の責任として、一つの〃種的行事〃ともいうべき計画を——実に千年間にもわたる大計画を行った。——彼らは、計画の局面を三つにわけ、それぞれ、彼らの文明の滅亡後への期待をこめて、三つの計画を遂行していったのだ……」 「どうしてそんなことがわかる?」とミックは悩ましげな表情できいた。「君の——空想じゃないのか?」 「空想じゃない——」フジは、ほほえんだ。「あの〈神殿〉が教えてくれた……」 「どういうことだ?」  彼は、ちょっと口をつぐんで、頭の中を整理しようとした。——いろんなことを、いっぺんに説明しなければならなくて、頭の中が、またカッとあつくなりかけた。 「つまり……あの〈神殿〉は……」と彼はまたどもりながらいった。「まず第一に……この星の文明の記録であり、次に論理的思考とイマジネーションの、補助増幅装置であり、精神旅行《サイコ・トラベル》の……」 「おちついて話せ」ミックはもう一度いった。「順序よく……」 「ぼくは、きのうの昼、冗談半分に、あのくぼみに身を横たえた。と、突然、頭の中に何かが見えた。だがその時、エヴァが叫んで、ぼくは下へおりて行った。——そのことを思い出して、ゆうべもう一度一人で内陣に行き、あのくぼみに体を横たえてみたんだ……」 「それで?」とハンがいった。「何が見えた?」 「何もかもだ……」とフジは、力をこめていった。「何もかもいっぺんに、だ。——そういうことは、あるだろう?——突然何もかもいっぺんに理解されるということが……」 「とすると……」とエヴァがつぶやいた。「あの、棺桶《かんおけ》みたいなくぼみは……」 「そう——棺桶じゃなくて、まず第一段階として、この星について、この星の文明について、そして彼らの最後のこころみである三つのプロジェクトについて、基礎情報をあたえてくれる。——どういうやり方か知らない。おそらく電波か、あるいはそれ以外の念波みたいなもので大脳に直接情報をつたえるのだろう。つまり、まず第一に、あの〈神殿〉は、図書館みたいなもので、あのくぼみは閲覧室だった。——もっともそれだけじゃないが……」 「わかった……」とミックはいった。「あとで、われわれもためしてみよう。——で、その三番目のプロジェクトというやつは、何だ?」 「一つは〃呼びかけ〃一つは〃旅〃……」とフジは指を折っていった。「もう一つ、つまり第三番目のプロジェクトは——観相だ。——いいかえれば、〃精神による旅〃……だ」  ハンとミックとリュウは、身じろぎもせずに、フジの顔をじっと見つめていた。——彼らにも、この瞬間、何かが理解されかけてきたようだった。 「いいかね——これは、彼らの精神文明の性格、彼らの哲学と、深く関係しているんだ。彼らは、技術においても、われわれの見た通り、われわれよりもある面において、高いところまで進んでいた。しかし、彼らは——そこがわれわれの文明とちょっとちがうところだが——科学は、技術と関連させられながらも、〃物〃を処理する手段である技術とは、基本的にジャンルの異るもの、つまり〃精神〃の領域の問題だと考えていた。科学とは、まず〃認識〃の問題であり、数学や、形而上《けいじじよう》学や、宗教と同じ〃精神活動〃の物質からは独立したジャンルにはいるものだ、とね。——それはまあいい、科学のことは科学のこととして、彼らは、この〃精神文明〃を、〃物質=技術文明〃と、まったく同じ比重でもって重視し、発展させてきた。彼らは、〃精神的能力〃というやつを——直感力、推理力、判断力、想像力、総合力——そして、これらを総合した上になりたつ観想力というか——つまり、物事の本質を見ぬく力、理解能力、構成力といったもの——かしこさというもの、知恵というものを、とにかく、かけがえのないものと考えて、きわめて重視し、ある意味では、神聖視、絶対視して、はぐくんできた……」 「ちょっと待ってくれ……」と、ハンはいった。「われわれの文明でも……かつてはそうだったはずだ。たとえば——仏教なんかはそうだったんじゃないかな?——どうして、われわれの文明で、それがだめになってしまったんだろう?」 「モラルのせいだよ」とミックはしずかにいった。「とりわけ、きびしい道徳的宗教によって——人間の知恵のあさはかさを弾劾し、知恵を尊ぶ方向を異端として押しつぶし、万人の中に知恵よりも、徳性を見ようとし、文明の一切を、神と悪魔、善と悪の二分法によってわけ、人類に、その生得の知恵にたよることをやめて、ひたすら神に従うことを要求した、憎悪と嫉妬《しつと》にみちた宗教によって……かなり前に、人間は、神を媒介としないで、直接自分の知恵を信じることに対して、自信を失ってしまったんだ」 「それはそれとして……」と、フジはつづけた。「彼らは、とにかく、〃神〃にたよらず科学をベースにして、その精神文明をきずき上げた。——そして、ある意味でわれわれと同じような、結論に達した。つまり、もともと宇宙の物質をベースにしてくみたてられ、それ自体、宇宙の歴史からくらべれば、ほんの一瞬の時間しか存在し得ない、有限の生命をもつ存在の中に生じたものでありながら、この〃精神〃というものは、途方もないものだ、ということだ。物質的存在に根をもちながら、物質的存在を認識し得るそれ自体が宇宙内の一つの現象でありながら、同等に、部分的ではあるが現象そのものを——その展開の順序、その因果関係、その本質を、認識し得る。それ自体有限でありながら、無限を認識し得る。それ自体宇宙の内部に生じたものでありながら、宇宙を認識できる……彼らは、自らの〃種〃の滅亡、自らの文明の終極を超える方法として、一つは他の知的生命体への呼びかけに——つまりわれわれが期待をいだいたように、彼らの達し得なかった、認識の高みに達しているかも知れない——一つは、より高次な段階にまで達している異星文明の探究に、そしてもう一つは、彼ら自身が、まだその可能性をくみつくしていないかも知れない、自らの精神的能力に賭けた……」 「なるほど……」ミックは深い溜息とともにつぶやいた。「その三番目のやつが、われわれの文明の終極相において、脱落していたわけだな」 「われわれ地球人の、精神的エネルギーがひくかったとはいえないでしょう」とリュウはいった。 「むしろ——われわれの技術文明が猛烈な勢いで勃興《ぼつこう》してきた時、誰かが——だれか賢人が、それと見あうほどの巨大な、しかも宗教のように古くない精神文明の必要性を感じてそこに大きな投企をやっていれば……われわれだって、精神的能力においては、それほど、低くなかったはずだ。——だが、歴史がミスリードされて、技術文明、物質文明が、まず科学をまきこみ、さらに一切の精神をまきこんでしまった。われわれの文明の宿命的失敗というより、完全な人為的失敗でしたね」 「だが、その精神的能力に賭けたということは、具体的にどういうことなんだ?」とハンはきいた。 「一つは——彼らは、精神の能力の中にいわゆる時空間旅行《タイム・スペース・トラベル》に部分的に代替し得る——部分的にはまったく等価な——能力があると考えた」フジは飲物を一口のんでつづけた。 「つまり、何億光年もの宇宙の涯《は》てまで行くだけの技術的能力も、種の寿命もないとしても、——これは、われわれの文明だってやっていることだ——何億光年もの彼方《かなた》の星雲を、望遠鏡で観察し、一方地上できわめて精密に得られる、たとえば光のスペクトルのずれが量子論的に意味することとか、その他、さまざまの現象の既知の性質から、その星雲上におこっていることを理解できるならば、——さらに、そのわずかなデータを核《コア》にして、そこの情景を、生き生きと想像あるいは直観できるならば——それは数億光年の彼方の星雲のところまで行ったことと、部分的に同じことだ、というわけだ」 「なんだ……」ハンは、ちょっとがっかりしたようにいった。「そんなことか……」 「だが、かつて、地球文明の中でも、仏教は、これと同じことをやったんだぜ」とフジはいった。 「論理の骨組を、一歩一歩がっちりくみたてていく。それに想像《イメージ》の肉づけをしていく。——まず極楽の清らかな池のイメージを思いうかべるように訓練し、それが細部にいたるまではっきり見えるようになったら、次にその水に咲く、ふくいくたる香の蓮《はす》の花を想像し……といった具合だ。こうして、極楽の全イメージができあがれば、修行者にとって極楽は実在するようになり、同時に、極楽を理解することができる。——部分的データから、その全体像をその部分にわたって見ることはできなくても、部分的情報からでも、その本質を観ずることはできる。——恒星の中まではいりこんでしらべなくても、質量、体積、輻射量、スペクトルといった、ごくわずかなデータから、その内部で起っている現象の本質を類推できるように……」 「するとつまり、あの〈神殿〉は……」 「そうだ。知的生物の大脳の働きを、促進する。論理的思考能力を——何らかの方法で——高め、かつスピードアップする。想像力を刺激し、総合力を高め……あらゆる精神の働きの効率を高める装置さ」フジは、つかれたように、椅子にもたれながらいった。「そうなんだ……それだけじゃない。あの中には、過去の情報の一切が、蓄積され、活性化されて、プールしてあり、あのくぼみの中にはいれば、それが弱い段階、あるいは稀薄な段階——つまり、わかりやすい段階から徐々に大脳に直接おくりこまれてくる。さらに、彼らの——つまり、あそこに何千体とあつまっている〃思考=想像者〃たちのことだが——個々の頭脳が思い描いたイメージ、一段落すすめた論理が、ただちに全体の中にプールされ、共有できるようになっている……らしい」 「らしい?」とハンがききとがめた。 「というのは——ぼくは、彼らの思考の高み、彼らの到達しているイメージを、とても理解しきれるところまでいかなかったからだ——何度も、無理にやろうとこころみた。何か——入口はあるのだ。ドアがあいていて、むこうが時折り垣間《かいま》見えることがある。しかし……」  彼は、突然、あのくぼみの中におさまっていた時のことを思い出した。——最初、何かが見え、周囲から霧がかかり、霧がはれるともっとはっきり見え——あるいはわかるようになった。情報は、雲のように渦まいて周囲を流れていた。そして、それは、たとえば一つの部屋にふみこんだ時、パッと部屋全体がわかるように、さまざまの意味が、一挙に理解されるのだった。——ああ、そうか! と彼は思った。——なるほど、そういうことだったのか……。次の部屋のドアをあけると、また次の段階のことが理解された。なるほど、そうか!——こうして、いくつもの部屋を、次々と、またたく間に通りすぎ、彼は、いくつもの部屋の全体が、一つの連関をもって見わたせる、どこか広いところへ出た。その先は、階段だった。——高いところに入口が見え、ドアがあいていて、時折りそのむこうに、何かが見えた。——彼は階段をのぼりはじめた。だが、今度は、それまでほどやさしくなかった。途中までのぼると、行きどまりだったり、途中でぶっ切れていたり、階段自体が、一つの迷路をなしていた。——それでもやっと苦労して、踊り場のようなところへ出た。はるか上方に入口が見え、その上に、あの至福の表情をたたえた、この星の住民の顔がぼんやりすけて、ただよっていた。そのうちの一つは、こちらへ手をのばしてくれた。——だが手はとどかなかった。彼は、苦痛をこらえ、さらに上にのぼろうとした。突然頭がわれるように痛み、彼は転落した。体中に冷汗が出て、頭の中が燃え上るようにあつかった。 「ぼくには無理だ……」と彼はいった。「どうも、彼らの大脳の発達の具合から見て、ぼくには、まだあの入口からはいって行く能力がないみたいだ。しかし——君たちなら……大脳前頭葉が、ほとんど限界にまで発達している。君たちなら……」  五十六世紀人たちは、お互いの顔を見あわせた。 「彼らは……」とミックはいった。「つまり……」 「そうだ……」とフジはうなずいた。「あの巨大な思考補助装置をつかって——おそらくあの壁にぬりこめられているのは、彼らの中でも、よりすぐられた賢者たちなのだろう——数学の問題を考えるように、ひたすら考えに考え、彼らの種的限界をこえ、種の滅亡を越えて、ひたすら宇宙の全貌《ぜんぼう》を——その発生から終極までの全歴史と、その本質を、観じようと、想をこらし、知力をしぼっているんだ。——つまり、彼らは、あの神殿を、いながらにして、時空をこえた、〃宇宙の本質への旅〃を達成するための、〃精神の船〃として建設したのだ。あのゼリー状のものは、ちょうどわれわれの、冷凍睡眠《コールド・スリープ》の装置みたいに、肉体の代謝を仮死状態にちかいところにおき、精神だけをはたらかせるための特殊物質なんだ……」  彼は、つかれはてたように、ぐったりと椅子に沈みこみながら、額にあてられた、エヴァのほっそりした手をとって、そっとにぎりしめた。 「さて……」と彼はつき出した額をならべ、じっとおしだまっている五十六世紀人たちにむかって、弱々しくいった。「どうするね、諸君、——ぼくたちホモ・サピエンスの最後の子孫たち……あのくぼみは、まだ十以上あいている。君たちは……彼らのあとを追って、ぼくの行けなかった地点をこえ、はいれなかった入口のむこう側へ、地球人類の精神の栄光のために、さらに深く、遠く、宇宙の本質にせまる論理と直観と想像の旅へ出かけるかね?——君たちなら、あのくぼみにふさわしいと思うがね」      5  探査艇の出発準備を、ロボットたちがやっている間に、フジは、エヴァといっしょにもう一度あの〈神殿〉に赴いた。  内陣の中にはいって見上げると、はるか頂上部に、きのうまで空《あ》いていたくぼみのうち、半分はふさがっていた。——眼をこらすと、そこに横たわるものの中に、見おぼえの誰かの顔がかろうじて見わけられた。  と——そのうちの一つが、つとくぼみから起き上って、天井をつたい、壁を歩いておりてきた。——礼拝堂の丸天井に描かれた無数の天使の絵姿の一つが、突然天井からぬけ出して、おりてくるように見えた。  フジは、エヴァの腕をとったまま、壁に直角に立っておりてくる、ひょろ高い、頭の大きな姿を見つめた。——ミックだった。 「もう行くのか?」とミックは近よりながらいった。「リュウがよろしくといっていた。——彼はもう、ほとんどあのゼリー状物質におおわれているので、おりてこない」 「ぼくからも、よろしくといっておいてくれ」と彼はいって、天井を見上げた。「のこっていたのは、あれだけか?」 「ああ……」ミックは、うれわしげに、その長い睫毛《まつげ》をしばたたいた。「生きのこったのは、あれだけだ……だが、まあ、しかたがない」 「で——どうだね?」彼は、ややためらいながらきいた。「うまくいきそうかね?——あの入口からはいれたか?」 「ああ……」ミックはあっさりうなずいた。「ぼくらはみんな、しごく簡単に、君のいう階段をのぼって、あの入口からはいれた」 「やっぱりな……」彼はちょっと苦笑した。「ぼくが説明をきいても、わかるかな——あの入口のむこうに何があったか、教えてくれるかい?」 「彼らがいた……」と、ミックはいって、ちらと壁にならんだ、この星の連中の方を見た。「いたというか——彼らの意識があった。歓迎してくれたとか、友好的だとかいうのはあたらないかも知れないが、とにかくわれわれもわれわれで、この巨大な思考に、参画すればいいんだ。そういう風にうけいれてくれた。——われわれが、部分的問題を見つけて、それを解く。するとその途端に、その発見が、ここにプールされている巨大な意識全体のものになる。——われわれの能力だって、どうやら、彼らとそれほどかけへだてているわけじゃなさそうだ。まだ、何ともいえないが……」 「それで、君たちは、どこまで行けた?」彼はきいた。「まだ、時間はかかるだろうが——今までに、何かわかったことがあるかね?」 「準備完了しました……」と、襟に編みこまれた通信器から、ロボットの、味もそっけもない声がいった。 「外まで送ろう……」とミックはいった。 〈神殿〉から出ると、眼下に、あたたかい黄金色の光に照らされた都市がひろがって見えた。——二重太陽の、青白色の方が大きな黄金色の太陽の背後にかくれ、今は、影が二重になっていない。探査艇のおりている〈広場〉の丘が、麦藁《むぎわら》色に美しく輝いている。  神殿の丘をおりながら、三人は背後をふりかえった。 「これまでにわかったことは、二つある」とミックはいった。「こまごましたことは、いっぱいあるが……一番興味をひかれたのは、その二つだ。まだ完全に、われわれのものになったわけじゃない。——だが、彼らとしては、そのことをほぼ証明した。あるいはできると思っている。それは非常にベーシックな考えで、それ自体が、彼らの三つのプロジェクトの出発点になっている」 「どういうことだね?」彼は足をとめてきいた。 「一つは、宇宙の進化についての、彼らの考え方だ……」ミックは、ちょっと眼を細めて太陽を見上げた。「彼らは、宇宙が進化している、と考えている。そして、その進化の大きな流れの底には、何か目的がある、と考えている。とにかく、宇宙は、その歴史を展開しはじめた非常に早い時期に、自己の中から、目的をうみ出した。——そして彼らは、神とか、その他の超越的、神秘的な考えにまったくたよらずに、科学的観相によって、そのことを証明した——あるいはできる、と考えているんだ。——超越は、始元において、はじめからあったのではなくて、これから未来へかけて、あらわれてくるものだ、というのが、彼らの基本的な考えだ……」 「よくわからないわ……」とエヴァはつぶやいた。 「一口にいって……」ミックはかすかにほほえみながらいった。「彼らは、この宇宙は、神の卵だ、と考えているんだ」 「宇宙は神の卵?」 「ああ……すくなくとも、宇宙が、ある一点から爆発して拡散しはじめたとして、拡散スピードのずれから、部分的な秩序が回復しはじめる。そしてその秩序には、次第に段階ができはじめるのだ。——まず最初に、連続的なエネルギーが、質量ゼロの光子、ニュートリノから、重粒子にいたる、素粒子の不連続なスペクトルが出現する。——連続的なエネルギーというのは、おかしな考えだが、彼らは、たとえば始元期のような超高密度の物質=エネルギー状態にあっては、量子的世界そのものがかわっている、と考えるんだ。比喩《ひゆ》的にしかいえないが、一種の量子的液体のようなものを考えているようだ。——物質の相互作用の間に、現在のような量子的関係が発生したのは、彼らにいわせれば、この宇宙に素粒子が生じてからだ、というんだ。われわれのいう、プランク恒数が、非常にマクロな時間の中では、かわってくると考えている——とにかく、その素粒子のスペクトルの中で、安定な素粒子がくみあわさって、原子が生じてくる。——きわめて巨大な量のエネルギーが、きわめて小さな空間に閉じこめられる、という現象が、ここでまた起る。……彼らは、それが可能になる秘密は、秩序にあると考えている。ある秩序でもって、整理してつめこめば、非常に小さな時空容積内に、非常に巨大な量がつめこめる——この関係は、ずっと高次な情報段階までつづいているというのだ。——ああ、それから、彼らは、素粒子内部の状態についても、かなり精密なモデルをつくっている……」 「簡単に話してくれ」と彼はいった。「エヴァにもわかるように……」 「ああ、そうか——」とミックは苦笑した。「とにかく、安定素粒子から原子ができる。原子の連続スペクトルの中から、安定性の高い節に、天然の安定元素が生じる。そして、この元素の分子段階のくみあわせから、無数の化合物が生じ、その中で——たとえば地球や、この星においては、炭素を中心に、酸素、水素、窒素、硫黄など、軽い元素のくみあわせで、有機高分子ができる。そして、この段階《ステージ》から蛋白質《たんぱくしつ》と核酸——生命が誕生する……宇宙の平均的状況から考えればおどろくほど特殊で、おどろくほど精妙で、それだけにおどろくほどしぶとい、一つの現象系だ。そこに、宇宙の途方もない可能性のポケットがあった。始元状態の宇宙の単純さから考えれば、こんなおどろくほど深い秩序のふところがあったのはふしぎなくらいだ。——宇宙だって、自分の中に、そんな可能性がかくされていたことに、びっくりしたろうよ。——そして、この生命の長い系列の中から、また、まったく新しい段階《ステージ》において、意識が生じる。生命のはじまりにすでに内在化されていた、きわめて精妙な情報が、今度は情報独自の秩序をつくりあげ、ついに——君のいってたように、宇宙の中に生じながら、宇宙をうつし出すもの、宇宙の現象を、現象として把握し、その秩序を理解し、宇宙について知り、考えるもの……」  はるかな丘の上で、探査艇が、信号弾をうち上げた。小さなロケットが、黒みをおびた空に、美しい白煙の尾をひいてのぼって行き、強い光をはなって、黄色い煙の花をさかせた。——融通のきかないロボットどもが、彼とエヴァ以外にのりこむものはないのに、残留者をたしかめるために形式的にあげたものだった。 「意識が——理性が宇宙内に生じてしまった時から、宇宙の意味は一変する……」ミックはその茶色い煙の塊を見上げながらつづけた。「宇宙は、その中に、生命という新しい段階の秩序を生じた時と同じように、さらにまったく新しい紀元をむかえる。——だが、彼らの考えによると、宇宙における精神の時代は、宇宙の平均的状況から考えて、まだはじまったばかりらしい、というんだ。つまり……この宇宙では平均して地球人や彼らぐらいの段階の意識——知性までしか、まだ実現されていないらしい、せいぜい次の段階までだろうという、かなりたしかな証明ができる、と……」 「次の段階というと?」 「意識の生じた段階から先の、宇宙の段階進化の様相は、物質から生命、生命から精神までの様相とはまた非常にちがった形になる……」ミックは、〈神殿〉を見上げた。「まず——宇宙の法則を理性的に把握し、それによって、技術的手段でもって、物質を自由にできる段階だ。つまりわれわれのような……」 「で?」彼は、ミックの顔をのぞきこんだ。「次は?」 「次は——情報=意識源が、生物的個体にしばりつけられている段階をこえる。世代的に再生産される段階、個体相互間の情報伝達が物理的手段にたよる段階をこえる時代が……」 「テレパシイの時代か!」彼は思わず膝《ひざ》をうった。 「そう——だが、簡単にはいかない。それには——その段階を一つのぼるだけでも、われわれの時代が……宇宙のいたるところにちらばった、何百億種という、われわれと同じようなタイプの知的種族が、全宇宙的な規模で、試行錯誤の試練をうけなければならない——霊長類《プリマーテス》にふくまれる数多い種のうち、ある方向のものだけが、数千万年かかって成功したように……次の段階へ進めるのは、数すくないだろう。——場合によっては宇宙内の生物の紀元が、もう一度、まったく一変しなければならないかも知れない……」ミックはきびしい眼つきになった。「あるいは、ここから先は、逆に加速度的になるかも知れない。——彼らもまだ、そこまでは、考えてない。——精神の進化のパターンからすると、まだその先がある。その次は——意志しただけで、物質を動かせる時代、そして、意志しただけで、いかなる場所へも移動できる時代……そして最後に……意志しただけで、存在をあらわせる段階……」 「神、光あれとのたまえば、光ありき……」彼は思わず嘆声をあげた。「宇宙は神の卵か……」 「そうだ——彼らの考えでは、神というのは、宇宙において、まだ生れていない。それは、これから先に——ずっと先に生れてくるんだ……だが、それが生れてくる時は、もうわれわれはいない。われわれの段階のものは、とっくの昔にほろびさり、われわれよりずっと進んだ段階のものもほろび去り——その時は、もうこの宇宙自体が、終末をむかえる時だろう、と彼らは考えている。——この巨大な全宇宙は——その全物質と、全歴史は、たった一つの神をつくり出すために存在し、しかも、その無数の可能性の深みの底から、うまく神をつくり出せるかどうかもわからない、と彼らはいう。——神の卵が、ほんとうにうまくかえるかどうか、宇宙自体が途方もない賭けをやっているんだ——と彼らは、考えている……」 「で、宇宙が死に、神がうまれたあとはどうなるの?」とエヴァはきいた。 「この宇宙という卵が死ぬことによって誕生した神は、その意志の力によって、またもう一つの、新しい、別の宇宙をつくるのだ」ミックは、しずかに、さとすようにいった。「この宇宙とは、またちょっと——あるいは全然かわった……この宇宙とは、またちがった基本法則、基本的秩序をもった宇宙を新しくつくり出す。この宇宙は、そうすることによって、この宇宙であることをのりこえていく。神によって新しくうみ出された宇宙は、またあらたな神の卵で、その進化のはて、またあらたな神をつくり出す。そうやって、宇宙も神もまた、進化していく……」 「その先は?」エヴァは子供のようにあどけない調子できいた。 「わからない……」ミックは微笑した。「そこまでは——とても考えられない……」  途方もない考えだ——彼は、頭がぐるぐるとまわり出すような感じにおそわれながら、呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた——いったい、それは、科学だろうか? 神学だろうか? あるいは宗教か、それとも、途方もない実態か、妄想か?——それらのものを、すべてないまぜて、種の滅亡をこえ、精神のこの段階をこえ、さらに宇宙の終末さえこえて、ただ、ひたすらにつきすすんで行く、考えようとし、知ろうとするはげしい意志だろうか? 「それからもう一つ……」とミックはいった。「あの〈神殿〉は、思考補助装置として最初設計されたが、途中でその装置が、われわれの段階ではごく微弱にしか存在しないテレパシイの能力をわずかながら強める作用があることが発見され、その方面を補強された。——彼らはあの〈神殿〉において、協同して思いをこらすことによって、おぼろげながら、次の段階をのぞきこんだ。——それから、あの巨大な尖塔は——やはり一種のアンテナで、彼らはあの〈神殿〉の中にいる連中はもちろん、あの〈神殿〉の下の人工の丘の中で、仮死状態にある何千万というこの都市の一般住民も協同して、思念をこらし、それを集中して、宇宙の彼方へむかってよびかけているんだ。——そのよびかけに、微弱ながら反応があったというが、ぼくはまだ、そこまで到達できていない」 「みんな、祈っているのね……」エヴァは丘をふりかえりながらつぶやいた。「自分たちのためにではなく、宇宙の姿を見るために……」  明知のために祈る——こんな祈りが、いままであったろうか?——と、彼は、不思議な感動を味わいながら思った。 「では……」とミックがいった。 「では……」と彼は手をのばした。「しっかりやってくれ……知恵をふりしぼり、思念をこらし、心気をとぎすまして……」 「だが……」ミックはふと、悩ましげな表情になった。「おれたちはいい……おれたち個人としては……絶望して死ぬよりも、道が発見されたのだから、もっとこの先へ進むのは——なにかすばらしいことだ。——だがしかし、おれたちが先へ進むことが、地球人全体にとって、どんな意味をもつのか——たとえばここからひきかえさなくてはならない、あんたたちにとって……」 「すばらしいことさ……」彼はニッコリ笑った。「おれたちにとっても——おれたちの直系の子孫である君たちが、こんなところで、出口もなく、くたばってしまうより、もっと先へ進んで行ってくれる方が——とにかく、まだきわめられつくしていないホモ・サピエンスの、精神の限界を、そのぎりぎりのところから、さらにこえてまで進んで行ってくれる方が、どんなにすばらしく、ほこらしいかわからない。——人類の最終世代である君たちは、ホモ・サピエンスが、その長い——あるいは短い、歴史の全部をつぎこんでつくり上げた、われわれの〈種〉の宇宙の〃精神時代〃におけるチャンピオンさ——ぼくたちにはできなかったことを、君たちが、きわめてくれれば、それでいいんだ。——人類精神の、この宇宙における栄光のために……」  フジは、ミックの手をがっしりにぎりしめた。——ミックは、細い手でつよくにぎりかえし、それから手をふって、〈神殿〉の方へかえって行った。  探査艇にのって、その惑星の衛星軌道にのっている巨大な宇宙艇にかえった時、彼はロボットたちに命令した。 「天測室へ、ベッドをうつしてくれ……すぐ出発だ」  巨大なドーム一面がテレビスクリーンになっている天測室にはいると、満天の星空の下に、むき出しに立っているような気がした。——すぐちかくに、あの惑星がオレンジ色にひかって見え、二重太陽がその傍にギラギラ光っていた。——彼はもう一度、その惑星をながめ、緯度六十度付近に、白い、つよく輝く白斑《はくはん》のように見える、あの都市をじっと見つめた。 「この大きな宇宙船の中に……」ふいにそばでエヴァの声がした。「私たち二人だけなのね!」  エヴァの細い体が、彼の肩によりそうのが感じられた。 「これからどこへ行くの?」とエヴァはきいた。 「地球へかえるんだ……」 「あれからまた、千六百年もたっているのよ……」 「かまわん——おれたち、地球がその後どうなったか、もう一度見にかえって、そこで暮すんだ。——原始人の生きのこりとして……」  あの星の連中にくらべたら、おれたちはまだ中途半端な猿みたいなものかも知れんな、と彼は思った。——だが、まあいいだろう……この猿は、まだ生きているのだ。  ロボットたちが、ベッドをはこんできた。——ドームにうつるあの惑星は、わずかずつ、小さくなりだしていた。 「エヴァ……」彼は、しずかにいった。「裸になって、ベッドにおはいり……」  エヴァはだまっていた。——少し、体をかたくした気配が感じられた。 「セックスなんて……」エヴァは、かすれた声でいった。「もう、忘れかけちゃったわ——あなたは?——大丈夫?」 「君は、ぼくの子をうむんだ……」と、彼はいった。「ぼくたちの子を……」 「何のために?」エヴァはいった。「今さら……」 「とにかく、どんな偶然で、とんでもない時代に生きのこったにせよ、まだ生きて、子孫をつくる能力があれば、それはそれでやれるところまでやってみるんだ」彼は服のボタンをはずしながらいった。「猿には猿の、いわば〃種としてのつとめ〃があるさ。——チンパンジーは、われわれより、たしかに低い段階の生物だ。だが、彼ら自身の限局は突破できなくても、精神の進化からいえば、一つの袋小路にすぎなくても、とにかく彼らはまだ頑張って生きている……」 「いくら、後世まで生きのこっても、猿はどこまでいっても猿ね……」 「いいじゃないか——おれたちも、子供たちといっしょにバナナを食おう。夕焼けをながめよう……」  ひょっとしたら……かすかに、ほとんど可能性のない希望のようなものが、心の底に動く……進化の、必ずしも直線的ではない、おどろくべき迂回《うかい》や、思いがけない不意打ちのコースをたどる様相を考えれば、ひょっとしたら、これはこれで……おれたちの子孫が、原始的なまま、生物相の次の段階まで生きのこれば、次の生物時代の〃生きた化石〃となるか、あるいは……ひょっとしたら……  星くらがりの手さぐりで、服をぬいでベッドにはいろうとすると、エヴァはもうすっぱだかになって、シーツの下で身をちぢめていた。 「どうしてこんなところにベッドをもちこんだの?」エヴァは彼にさわられると、ビクッと身をちぢめ、せきこむようにきいた。 「どうってことはないね——」彼は闇《やみ》の中で笑った。「星空の下——宇宙をながめながらってのも、おつじゃないか」  エヴァの体は、つめたく、すべすべして、まだ青い果実のようにかたく、その体をさらにかたくこわばらせていた。——エヴァの体をまさぐりながら、彼は、三、四千年も昔に行った、セックスの、遠い記憶をもまさぐっていた。——自分が、ほとんど、やり方を忘れてしまっているのに、彼はびっくりした。まるではじめての時のように、不細工に愛撫《あいぶ》をすすめながら、彼は自分たちの上にひろがる暗黒の宇宙に、ふと眼をやった。  宇宙よ……しっかりやれ!  そんな言葉が、突然胸の底にうかんだ。——と、ふいに何百億光年もの直径をもつ、巨大な宇宙が、ひどく親しいもののように感じられた。——巨大で、無骨で、不細工で——途方もない浪費と、途方もない試行錯誤をくりかえしながら、一歩一歩それ自身の〃進化〃のコースを、手さぐりで進んでいる宇宙……『宇宙は神の卵』か! 彼は思わずクスッと笑った。  しっかりやってくれよ……と、彼は頭上にひろがる星々に、親しみをこめてよびかけた。——試行錯誤はいくらくりかえしてもいい。おれたちのような、精神的進化の袋小路にはいりこんだものは、いくらでも見すてていってくれてもかまわない。おれたちは、あまんじて捨て石になるし、そのことをとやかくいわない。しかし、おれたちはこの行きどまりでほろんでも、ずっと先に行って、おれたちよりも、もっともっとすばらしい存在を、おれたちを踏み台にして、生み出してくれるのでなければ、踏み台にされた猿たちは、浮かばれない。——お前が、うまく、『神』をそのふところから、孵《か》えしてくれなければ、なまじ『意識存在』として、この宇宙につくり出され、途中で失敗としてほうり出されたおれたちが、死んでも死にきれない。  宇宙よ、しっかりやれ……と、彼はもう一度よびかけた。これからあと、何百億年、何千億年かけて、進化の改造をふみあやまらないように、神への長い道を着実に歩め……。  シーツの下で、エヴァの体が、熱くやわらかく、あえぎはじめた。——彼は星空に背をむけ、エヴァの上におおいかぶさっていった……。