小松左京 流 れ る 女 目 次  小夜時雨(たぬき)  鷺  娘  蚊 帳 の 外  行 き ず り  戻  橋  流 れ る 女  無 口 な 女 [#改ページ]   小夜時雨(たぬき)     一  大阪出身の粋人三田純市さんのつくった落語《はなし》に、「豆狸《まめだ》」というのがある。  むかし──といっても、時代はさだかでないが、江戸であろう──の大阪の下町生活の雰囲気のある側面が、実によく出ていて、しかも話のできぐあいも傑作なのだが、まだ高座にかけられた事はない。桂米朝師匠がこの話に惚れこんで、ぜひやらせてほしいと三田さんにたのみこみ、あたためている所である。  米朝さんからのまたぎきにすぎないが、話のすじはこうである。 ──大阪道頓堀の芝居《こや》に出ている下っ端の役者が、芝居のはねたあと、雨のしょぼしょぼ降る、さびしい秋の夜更け、一人で三寺町かどこかの自宅へかえってくる。唐傘《からかさ》をさして、暗い坂道にさしかかると、榎《えのき》の大木の下を通る時、傘がずっしりと重くなる。  そのころの、大阪の市井《しせい》人の生活感覚から、役者はすぐ、これは狸のいたずらだな、とさとった。──荒事《あらごと》専門の役者だから、それなりに度胸もすわっている。ますます重くなる傘をこらえながら、呼吸をはかって、やっ、とうしろトンボをきると、ギャッという声がして、そのあと傘がすうっと軽くなったので、そのまま役者は家へかえった。  下っ端役者などは、芝居だけでは到底食えないので、家では女房と一緒に、膏薬《こうやく》を売る内職をしていた。俗に「貝の膏薬」とよばれるもので、貝殻につめて売る、打ち身切り傷の薬である。──ところが、狸の事件のあった晩の翌日から、その貝の膏薬の売り上げの中に、毎日一枚ずつ木の葉がまじっている……というのが話のあら筋の三分の二ほどの分量で、このあと、可憐な狸の死にいたる後段と話の|さげ《ヽヽ》が、いかにも大阪の下町むかしばなしらしいひょうげた哀愁がこもっていて、実にいいのだが、|さげ《ヽヽ》まで公開してしまうのは、原作者にも、これを高座にかけようと苦心している米朝師匠にも礼を失する事になるので、あとは、いつの日か読者諸賢が、この新作を寄席できかれる時までのたのしみという事にしておきたい。  所用あって阿波《あわ》徳島へ行く前夜、京都|先斗《ぽんと》町のMという飲み屋で飲んでいた時、その店の名物になっている狸の置物をながめながら、ふとこの話を思い出した。  Mは、京のお惣菜風の肴《さかな》と、夫婦《みようと》狸の置物と──この置物も、最初は牝狸だけで、あとから婿取《むこと》りをしたという、不思議な夫婦だが──おかみの元気な高笑い、それに年一度の「狸まつり」で、京都の中年初老の人たちに親しまれた店だが、このごろは東京人にもすっかり有名になり、せまい鉤形《かぎがた》のカウンターも、一階二階の小座敷も、いつ行っても満員で、少々はいりにくくなってしまった。──だがその夜は、祇園《ぎおん》祭の鉾《ほこ》巡幸も終ったあとの暑熱のせいか、いつもならごったがえす時刻なのにめずらしく二つ三つ席があいており、隅の方だが、ひさしぶりに腰をすえてのむ事ができた。  例によって、狸にちょっと似た、愛嬌のあるおかみのきげんのいい高笑いをきき、背中を三つ四つどやされると、急に酔いがどっとまわるような気がした。──にわかに朦朧《もうろう》としてきた酔眼を店内にはせると、いやでも狸の置物が眼にとまる。するとまだ高座にかけられていないあの落語《はなし》の事が思い出され、同時に翌朝出かけて行く阿波の国が、「狸どころ」である事も思い出された。  なぜ──という事はない。「狸どころ」をたずねようとする前夜、夫婦狸の置物で有名な飲み屋でひさしぶりにゆっくり飲むことができた、という偶然がきっかけになったにすぎないのだが、むせかえるような真夏の暑気の中で、汗をかきながらひとりかたむけた熱燗《あつかん》の酔いもてつだって、突然、狸というものが、奇妙に不思議な、かついとおしい存在に思われてきた。  トーテミズムにかぎらず、「聖獣」の観念や、動植物崇拝、信仰の古い習俗は、世界各地どこにでもその痕跡は見られるのだが──それにしても、「狸」などという間のぬけた動物を、これほど親しみをこめて祭り、マスコットにしている地域がほかにあるだろうか?  しかも、草深い未開地域ならいざ知らず、GNP世界第二位というような高度工業国家で、そんなあほらしい事をやっている所がほかにあるか?  特に「お狸さん」の信仰は、四国の阿波を中心にして、讃岐《さぬき》から京阪に濃い。──水商売の、繁昌のシンボルなら、関東にもあるだろうが、全国的に見れば、狐──つまり稲荷信仰にくらべれば、ずっと限定されているようだ。  日本という国はおかしな国で、近代高層ビルのてっぺんにお稲荷さんの社をまつったりする。──全オートメーションの近代工場の鍬《くわ》入れ式や、コンピューターをつかった数十万トンのタンカーの進氷式に神主さんがよばれるのだから、それも当然かも知れないが、日本全国をしらべてみると、いたる所で古い動物信仰が生きている。水神の蛇、竜、鰐鮫《わにざめ》、犬、また牛頭《ごず》天王や馬頭《ばとう》観音といった牛馬のたぐい、神の使いとしては、八咫烏《やたがらす》や白鷺《しらさぎ》、金色の鳶《とび》、日枝《ひえ》山王の猿、猪《いのしし》に鹿、蛙や蝦蟇《がまがえる》までがその仲間にはいっているが、何といっても、稲荷信仰にのってひろがった狐ほど、広範な勢力と高い格を持っているものはない。──「正一位」という位の高さもさる事ながら、人間に祟《たた》り、あだする場合も、殷《いん》の紂《ちゆう》王の妲妃《だつき》から、天竺《てんじく》は華陽夫人、さらに本邦にわたって、日本をほろぼそうとする玉藻前《たまものまえ》、源翁《げんのう》和尚に退治されて殺生石に化した金毛九尾の狐、といった具合に、はなはだすご味がある。「捜神《そうしん》記」「五雑俎《ござつそ》」「聊斎志異《りようさいしい》」などの中国古伝にあらわれる狐も、髑髏《どくろ》を頂いて北斗を拝せば人間に化け、狐の化けた美女は、男の精を吸ってこれを殺してしまう。日本の信太《しのだ》妻、「葛《くず》の葉」伝説の方が、凄艶ながら、まだ哀愁があるというものだ。ヨーロッパの「狐ルナール」や「ライネッケ・フックス」でもずるがしこい獣の筆頭にあげられているし──なにしろ、お稲荷さんが、インドの羅刹《らせつ》の一つ、玄狐にのって死にかけの人間の心臓をとって食うというおそろしい荼枳尼天《だきにてん》と習合してから、そのすごさはぐっと陰にこもる迫力をました。それにひきかえ狸と来たら──。  そもそも同じイヌ科の動物ながら、狸の方は、狐や犬にくらべて、はるかに原始的な動物なのである。──顔つき体つき動作といったものから、いかにも間がぬけて、愛嬌のある印象をうけるが、それは何も外観だけの事ではない。事実、犬や狐にくらべれば、はるか知能が低く、警戒心がうすく、動作ものろい。道でばったりあった時、ワッ! と大声でおどすと、びっくりして仮死状態をよそおう。これが俗にいう「狸寝入り」だが……、そもそもこんなのんきですご味のない動物を、「信仰」の対象にしている所がほかにあるだろうか?  ヒンズー教や仏教の影響をうけた中国中近世の民話伝承では、動物植物何でも化けるから、たしか狸が坊主か何かに化けたような話も「聊斎志異」あたりにはあったような気もするが、こと狸の化けた民話は、日本の各地方に圧倒的に多いように見える。──「カチカチ山」「文福茶釜」といった定型化された話ができるのは、中世以後だろうが、(その「文福茶釜」にした所が、もとは狐が化けた事になっており、それが狸にかえられてから、話にぐっと愛嬌が出てくる)草深い田舎で、狸が化けたの、豆狸《まめだ》がいたずらしたのという話は無数につたわっている。その化け方やいたずらも愛嬌があって、一つ目小僧や見越しの入道、のっぺら坊、あるいは小豆洗いの音をたてたり、雨戸をたたいたりといった、他愛のない所で、どこか間がぬけている。そのためか、近世以降に発達した落語の題材としては、狐よりずっと人気があり、狐の方が「王子の狐」と「七度狐」ぐらいなのに、狸の方は「狸賽《たぬさい》」「権兵衛狸」「狸化寺」「化物使い」と、その役どころもかなりいい。  それにしても、こののん気で間のぬけた動物を、「まもり神」にしてまつるというのはどういう事だろう?──現にこの先斗町の飲み屋Mにしても、夫婦狸は年に一度、多くの常連参加のもとに盛大な祭りが催され、一種の名物になっている。京都大阪の市中のあちこちには、まだ「狸」がすんでいたずらする、といわれる家や小路があり、食物をそなえたり、まつったりしている所もあり、時には狸をまつる「講」ができたりして、狸は古い「市井生活」の中で、いまだに共棲している。冒頭にあげた、三田さんの「豆狸」にもられた情感は、江戸時代のものというだけでなく、現代上方の都市生活の中に、まだ息づいているのだ……。  いったいお前さんは、上方人の生活にとって、どういう意味を持ってるんだね? ええ、狸公《たぬこう》……と、私は、すっかり朦朧《もうろう》としてしまった酔眼をあげ、大|睾丸《ぎんたま》をぶらさげた牡と、赤い腰巻きを巻いた牝の、夫婦狸の置物に、うやうやと話しかけた。……それに──狸がこんなに人気があるのは、どうやら明日出かける阿波徳島、讃岐あたりを中心に、京、大阪の古い都市部らしいが……|なぜ《ヽヽ》、こういう地域で、特にお前さん方が人気があるんだろう? お稲荷さんが商売の神様──そしてお前さん方は、特に水商売に人気があるらしいが、それはまたどうしてだ? 太鼓腹をつき出し、大ぎんたまをぶらさげて、徳利をさげたその姿は、招き猫とならんで水商売に愛好されているが──猫は化けても神社に祭られないのに、お前さんたちは、淡路や徳島あたりでは神社に祭られているという。それはいったいなぜだ? 明日徳島へ行って、ひまがあったら、そういった事をしらべてみようと思ってるんだが……どう思うね?  口の中でぶつぶつ言ってるのか、頭の中でうだうだ言ってるのか、自分でもわからないままに、とぼけた面《つら》をあおむけている狸の置物にむかって、盃を持った手を泳がせた。──もうすっかりへべのれけになっていて、あげた盃をふくもうとすると、口の方を持って行かなくてはならなかった。やっと酒をのどにながしこんだとたんに、狸の置物が、ニヤッ、と笑ったような気がした。  あ、と思ったとたんに、狸の顔とおかみの顔がかさなった。──あんた、どないしたん? という声と、びんびんひびく高笑いをききながら、私はカウンターに顔をつっぷし、完全につぶれてしまった。     二  体が何となくゆれる、と思ったら、眼の前に緑色の濁った波がせまって来た。──その波がついと横へ流れると、波頭が白くくだけて、また次の波がくる。  頬をうつ潮くさい風に、やっとわれにかえると、船の欄干《らんかん》にもたれているのがわかった。──腫れ上った眼を、むりやりひらいて、まわりを見まわすと、どうやら関西汽船の上らしい。昨夜、先斗町で正体なく酔いつぶれ、それからどうやって朝まで時間をすごし、どうやって大阪弁天島までたどりついたのやら、皆目記憶がない。切符を持っていたのはたしかだが、どうも家へかえっていないらしく、服装はきのうのまま、髪はくしゃくしゃ、顔は面をかぶったようにべっとり脂でおおわれ、汗でぬれたカッターの襟《えり》をはだけ、ネクタイの結び目は鳩尾《みぞおち》のあたりにあり、それでも書類のはいったバッグは後生大事に右手にぶらさげていた。  船は、もう寄港地の神戸を出て、コースを南西にとっているらしい。右手船尾の方に、須磨、舞子あたりとおぼしき市街が遠ざかりつつあり、眼前に緑におおわれた淡路の島山がすぎて行く。──七月の陽光がカッと海面に照りつけ、波頭の反射のまぶしさに思わず眼をつぶった。ひどいふつか酔いで頭がわれるように痛む。船が少しゆれると、のどの奥から、苦い胆汁がぐうっとこみ上げて来て、胃が二つ三つ、空えずきにえずき上げる。苦しさのあまり、見栄も外聞もなくうなっていると、 「まあ、ええお|のど《ヽヽ》やこと……」  まるい、はなやかな声が、すぐ傍でした。え?──と思って、私はうす目をあけた。人が苦しがってうなっているのに、ひどい皮肉をいうやつがいるものだ、といささかおどろいたのである。  すぐ左手に、すずしげな絽《ろ》の着物を着た、色のぬけるほど白い、まるぽちゃの中年女性が、欄干にもたれて扇子をつかっていた。──扇子の骨の、白檀《びやくだん》の香りが潮風にのってぷんとにおい、体を動かすと、伽羅《きやら》の香がまじる。宿酔《ふつかよい》にこんなにおいをかげば、たちまち吐き気がするのだが、この時はどういうわけか、その香りをかいだとたんに、頭の中に涼しい風が吹きこんだように、にわかに気分がさわやかになった。 「お年のわりに──あ、ごめんやす──えろう粋《すい》な唄ご存知でんな」 「なんの事です?」私は眼をぱちくりさせた。「私は何も……」 「�小夜時雨�……ええ地唄でっけど、このごろこんなもの、お座敷でおやりになるお方も、ほんめずらしゅうなってしもて……」  そういうと、その女性は、白い、ゆたかなのどをちょっとそらすようにして、   ※[#歌記号]小夜時雨、時雨降る夜も笠着て通わんせ……神無月にもただ通う……  と、小さな声でうたいはじめた。──小さいながら歌いこんだ、張りのあるいい声だった。  あとになって考えてみると、この歌を、一度か二度、酒席できいたような気もするが、根が無器用の半音痴のくせに、どこでおぼえていたのか、   ※[#歌記号]文で待てとや、待たるるよりも、待つがつらいか、煙りが憂いか……  と、口をあわせていたのは、われながら不思議だった。  丸ぽちゃの女性は、大きな丸い、ちょっと茶目っ気のある眼で、にこっ、と笑って、チントン、と口三味線で合の手を入れ、   ※[#歌記号]辛気《しんき》枕の空《そら》寝入り……  とうたって、ふいに途中で歌をやめ、 「ほれ、ここん所でンがな」  といって、ころころという感じの笑い声をたてた。 「ここ……がどうしました?」 「いえ、うちが|ふり《ヽヽ》をつけると、お客さんが、いつもここの所で、はまりすぎやいうて笑わはって……」  時雨降る夜、恋人を待つ間を狸寝入りする女の事を歌ったもので、そこからこの三下り端唄が「たぬき」とよばれる事を、彼女は手短かに説明してくれた。 「邦楽で�たぬき�という題のついたものは、地唄で二つ、長唄に一つありますけど、これがやっばり、一番地唄らしゅうて、よろしおますな。──鶴山勾当《つるやまこうとう》の曲やいうから古いもんですし……そやけど、うちがやったら──ほれ、こないにころころしてまっしゃろ。そやさかいに、こんなしんみりしたもンも、作物《さくもん》みたいになってしまう、いわはりますねン」  そういって、その女性は、扇子を舞扇のように持って袖を張り、くるりときれいにまわって、ちょっときまって見せた。──そのきまりのあざやかさに、はっ、と息をのむ思いをしたが、きまったとたん、その茶目っ気たっぷりなまるい眼を、くるくるっとまわして見せたので、逆に吹き出してしまい、思わず手をたたいた。大きな、明るい眼、きれいな弧を描く眉、練絹のような白い肌、と見れば、まあ美人の部類にはいらないでもない。が、それ以上に、まるい鼻、二重になったくくれ顎《あご》、それにいつも笑いをふくんだ唇《くち》もとと、おかしそうによく動く瞳に愛嬌がありすぎて、見ただけでこちらの頬がゆるんでしまう。──そんな女性《ひと》だった。  どこもかしこもまるい、ぽちゃぽちゃした体つきで、上等の絽の着物の裾には、うす墨で萩に尾花をあしらい、これも安くなさそうな金茶の羅《ら》の帯には、薄雲が織り出されていて、背の所に銀糸で十日ぐらいの月がついている、というのも、この女性の場合、なんだか二十坊主みたいな感じで、これはまた御愛嬌だった。 「この着物《べべ》でっか──なんや、おかしおまっしゃろ?」と、その女性は、私のむずむず笑いをうかべた視線に気がついたのか、ちょっと、袖をひらいて、裾を見おろしながらクスッ、と笑った。「お客さんに、えろう花札《はな》の好きなお方がいはりまして、御自分のひいきの芸妓はんにつくってあげはったんやけど、帯屋はんが、満月はあんまりやいうて、十日月にしはったら、それが旦那も気にいらん、芸妓はんかて、ごじゃごじゃいわはって、一ぺん手ェ通さはっただけでうちにおさがり……。芒《すすき》に月では、七月には早すぎると思たんでっけど──どうせ遠出に着てくような夏もンなんて持ってエへんし……」 「いいじゃないですか──」私は笑いながらいった。「さっき、こちらがうなってたのも、時雨とくれば秋のものだし──どうせこのごろは季節感はめちゃくちゃで、早春に水着の発表会、今なら雑誌はもう九月号が出ようという御時世だから……」  ほんまやわ、と、また空をむいてころころと笑ったが、そろそろ中天にさしかかった日ざしがもろに顔にあたって、 「おお、暑《あつ》……」  と手をかざし、 「海の上かて、あまり涼しい事おまへんな。──中にはいって、冷たいもんでもご一緒にどないです?」  にっこり首をかしげた。  神戸から小松島までの洋上四時間、いい連れができて、最初は酔いざましとて神妙にミルクなどのんでいたが、なにしろむこうはその道のプロらしいすすめ上手で、まあ一ぱいぐらいよろしやないの、といわれて、ついビールなどに手が出ると、日ごろなら酒の無い国へ行きたい宿酔なのに、これが意外にするすると胃の腑におさまり、きいたためしのない迎え酒が今回ばかりは奇跡的にきいて、鳴門の沖にさしかかるころには、二人でビール五、六本、それに船の食堂の、うすっぺらなカツに野菜サラダなどまで腹におさまり、鼓腹撃壌、「また三日目に帰りたくなり」という心境になっていた。  お六さん──と、だけ、その女性《ひと》は教えてくれた。  おかしな名でっしゃろ、というから、いやいや、と、うちけすつもりで、つい、「憎いあン畜生は紺屋のお六……」などと口走ると、「仔猫かかえて入日の浜を……」知らぬ顔してちゃらちゃらと、まで、むこうがつづけてくれる所など、よほどお座敷さばきに熟練しているようだった。源氏名はちょっと堪忍しとくれやす。へえ、そらおこしになったら、お座敷には出ます。大阪新町の、これこれのお茶屋で、こういう仲居はんに、この名で言うてもろたら……。家《うち》でっか? 新町南通り二丁目から新町通りへ出る露地《ろじ》でっけど……来ていただいても、むさい所でっさかい……。てっきり仲居さんか、地方の芸妓《ねえ》さんと思っていたのが、そうでもないらしい。小唄、端唄や、踊りの手ほどきでもやっているような口ぶりもにおわせるが、それ専門のお師匠《つしよ》さんでもなさそうだ。新町へんなら、舞の流儀は当然山村流と思ったが、きけば藤間といい、徳島へ行く目的は、 「わろたらいやでっせ。それが──やっぱり、|たぬき《ヽヽヽ》ですねン……」  この秋、テレビ局の芸能企画に、「狸揃え」をやるとかで、家元クラスがさっきの「小夜時雨」、花街の人たちは、猟師に鉄砲でねらわれた狸が腹の子の命乞いをして助けられ、お礼に腹つづみを打って見せるという作物《さくもの》(一種のこっけいもの)、二元で東京から出すのが長唄の「昔|噺《ばなし》狸」──これは文福茶釜からカチカチ山、江戸の狸長屋から狸の綱渡りまで出てくるふしぎなもので、花柳《はなやぎ》でにぎやかなふりがつき、お六さんが手つだうのはこちらの方だ、というから──ちょっとわけがわからない。 「それで?──徳島へその……狸の踊りでもならいに行くんですか?」 「いややわ、兄《あ》ンさん。──そら徳島の色街は花柳がほとんどでっけど……」  踊りの新工夫のヒントでもつかめないか、と思って、徳島のやはり花街に出ている昔からの友人で、阿波踊りの名手をたずねる傍ら、徳島小松島市にまつってある金長《きんちよう》さん、おむつさんとかいうお狸さんたちの社におまいりするのだ、という。──きけば、お六さんの両親も、出は阿波だとかいうが、それでも少々首をひねった。「四谷怪談」をやる時には祟《たた》りをおそれて役者は必ずお岩稲荷、田宮稲荷にまいる、とはきいていた。とすると「蘆屋道満大内鑑《あしやどうまんおおうちかがみ》」をやる時は、葛《くず》の葉役者は、信太《しのだ》稲荷へでもまいらなければならないかも知れないが、狸の踊りを出すのに、狸の神社におまいりする、という話はあまりきかない。  が、またぞろまわり出したビールの酔いのため、そんな事はどうでもよくなっていた。──四国の山々は、もう船窓にせまり、船はぐっとスピードをおとしている。 「もしおよろしければ……」と、私は勘定をしめながら、すっかりうちとけ気分で、お六さんにいった。──今夜、どこかでおちあって、汚染のない吉野川、勝浦川の鮎《あゆ》でも肴《さかな》に、さしつさされつ、というのはどうです?──なんならそのお友だちもご一緒に……。 「そうですねえ……」といって、お六さんは、またいたずらっぽく笑った。「友だちいっしょに、いうても、晩はお座敷があるやろし……。お仕事、何時ごろすみはります?」 「おそくとも六時半ごろには……」と、時計を見ながら私はいった。「こちらの仕事は小松島ですみますが──なんなら徳島市内で……」 「それやったら──眉山公園で、お|デート《ヽヽヽ》しまひょか」と、お六さんはいろっぽい流し目をくれながらいった。「あこやったら景色もええし、ロープウェイもあるし、車ものぼるし……あこのロープウェイの建物のねきの展望台で、七時半に……」 「けっこうです。今夜は一つ、どんと飲みましょう」  と、私はちかづいてくる小松島港の桟橋をながめながら、威勢よくいった。 「今夜は、きっとええ月やわ……」と、お六さんは笑いながら、意味ありげにつぶやいた。     三  小松島での仕事は、予期に反して、あっという間に終った。──というよりは、完全にぐれはまになってしまったのである。  地もとの相手は来ていたが、午前中に東京からついていなければならないはずの二人が来ていなかった。おちあう先の宿屋から、念のために東京へ電話を入れてみると、呆《あき》れた事に先方はまだむこうにいた。むこうもおどろいて、約束はたしか翌日でなかったか、という。どこでどうなったか、とんだ手ちがいだった。すぐ飛行機でとぶ、といってむこうは電話を切ったが、すぐおりかえし電話して来て、東京、徳島直行便はとれないし、東京から大阪で乗りつぐ便もだめだという。第一、東京、大阪が最終便まで満席というからどうにもならない。しかたがなしに、翌日午前中に、という事にして、まだ日の高いうちに体があいてしまった。──もっとも、その日の午後一杯で仕事を終え、翌日の午前中徳島の狸について、ちょっとしらべるつもりで、帰りの便は翌日の夕方をおさえてあったから、今日明日にやる事を入れかえれば問題はない。  お六さんが、最初小松島の金長大明神におまいりする、といっていた事を思い出して、市内山麓の小公園の傍にある神社まで車をとばしてみたが、もとよりその姿はなかった。──金長狸が四国狸の総元締、津田浦の六右衛門と大戦争をやったという不思議な伝説をもとにして、天保期の講釈師神田|伯竜《はくりゆう》がつくったという「阿波狸合戦」は、一時は全国的に有名になり、戦前ドイツ語訳が刊行されたり、戦後映画化されたりして、「阿波狸」の名を巷間《こうかん》に高からしめたが、もとそのあたりの鎮守の八幡社に併祀され、彼を邸内の守り神としていた一族のゆかりの家の人が、お守りしていた。  狸には珍しく、京都吉田神社から、稲荷のように「正一位」の位をもらい、地もとで饅頭《まんじゆう》やパチンコのブランドにはなっているものの、社殿も境内もごくささやかであっさりしていて、稲荷社のように奉納の赤鳥居の列もない。──境内は、子供の遊び場をかねているらしく、鳥禽《ちようきん》舎や動物の檻《おり》がある。が、肝心の狸は餌われていないようだ。真夏の炎天下の午後、子供も昼寝でもしているのか、境内には猫の子一匹いない。  社殿わきに立った、「金長」の名にふさわしい大睾丸をぶらさげた大きな狸の塑像《そぞう》の腹を、ぼんやりとなでていると、背後でしのび笑いが通りすぎた。ふりむくと、買物籠をさげた日傘が二つ、顔をかくして足早にむこうへ行く。──大狸の像とむかいあって、こちらも出ッ腹をつき出して天をあおいでいる所が、金長対六右衛門の対決のようにでも見られたか、と思わず赤面して、賽銭《さいせん》をほうりこむと、社前をはなれた。  日はまだ高い。──その夜の宿は、徳島市内のホテルにとってあったので、とにかくタクシーをひろって徳島へむかった。  ホテルに荷物をほうりこんで、またタクシーで市内に出たものの、さて、どこからまわっていいかわからない。──ふつうの観光と勘ちがいしたのか、タクシーの運転手は、さっさと吉野川の北岸の阿波十郎兵衛邸に車をまわしてしまったが、さしあたって「傾城《けいせい》阿波鳴門」のモデルの方には興味がないので、またひきかえしてもらった。  市内には、おむつ狸の社はじめ、郵便が狸の名宛でちゃんととどくという愉快な狸など、ぽつり、ぽつりと狸信仰のあとが見られるが、本場といわれ、狸どころといわれながら、地もとでは存外その影は濃密ではない。──御時世もあろうし、得てしてこういうものは、地もとより外の地で誇張されてうけとられる事があるものだ。若いタクシーの運転手も、こういった民俗についてはあまり知らないらしく、二、三箇所まわって、あとはモラエスの墓や瑞巌寺《ずいがんじ》、竹村院や眉山公園といった所へ連れて行きたがる。だが、空梅雨《からつゆ》につづく日でりつづきの午後、南国を思わせる日ざしが中天からなだれおちる下を、汗まみれになって動きまわるのもいいかげんうんざりしたので、旧城址公園にある県立図書館へ行く事にした。──そこならホテルにちかく、歩いて帰れる。  図書館へ行ったが、阿波狸の研究は意外にすくない。──つい最近、一番の研究家が物故したらしい。それでも図書館の人に話をきき、あれこれ資料も見せてもらって、いくらか輪郭がつかめるような気がした。狸どころとはいうが、四国の狸信仰の分布は、阿波、讃岐が中心で、それに伊予の一部がはいる。阿波も南部は犬神信仰、伊予も西部は狐が強くなり、土佐にはいると、狸はなくなって、河童《かつぱ》のたぐいが出てくるようだ。狸も人にとり憑《つ》くが、狐筋のような「狸筋」はないらしい。ごくのん気なものだ。狸信仰が、急にひろまってくるのは、やはり近世らしいが、それがどういうわけかはわからない。どうして、阿波、讃岐、そして淡路から京阪にかけて、狸信仰が起って来たかも、わからずじまいだった。  帰途、駅前へ出ると、観光会館らしい建物へ、阿波踊りの華やかな服装をした若い男女がはいって行くのが見えた。  旧盆の三日を、市民を中心に県内外の人も加えて熱狂的におどりぬく名物の阿波踊りは、まだ一月も先の事だが、きけば観光客のために宵の一刻に演じて見せてくれるらしい。日はすでに四国連山の上に傾き、眉山の影が市中に長く尾をひいて、赤い夕日にてらされた夕凪《ゆうなぎ》の街角に、色どり鮮やかな踊り衣裳の乙女たち、また浴衣の裾をきりりとはしょった、白足袋鉢巻姿の若い衆の姿を見かけると、ふしぎに心がうきうきしてくる。──まったく徳島の人たちにとって、阿波踊りは、一種のナショナル・パッションの対象と言っていいほど心情に深く根をおろしている。お座敷であろうと街角であろうと、太鼓がドドンとうちこまれ、三味がじゃかじゃかと急調子にかき鳴らされて、あの江戸中期の東国|潮来《いたこ》に発するという、古いよしこのの節まわしで、※[#歌記号]阿波の殿さま蜂須賀《はちすか》侯が……と誰かがうたい出せば、徳島の人たちは、社長であろうが店主であろうが、芸者衆であろうがOLであろうが、その手、その脚はひとりでに動きはじめ、一人が踊り出せば二人が立ち、たちまち踊りの輪ができて、男は腰を低めて表情をつくり、女は手ぶり足ぶみも軽《かろ》くしなやかに、あ、えらいやっちゃえらいやっちゃヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆に見る阿呆……と、とどまる事なく熱狂が高まって行く。──そんな光景を、何度見たか知れない。  日本各地の盆踊りもかなり見たが、これほど軽やかに、日常動作から踊りへ移行して行くものは見た事がない。いや、ゴーゴー出現以前では、世界の中でも珍しいだろう。立ち上って、なにげなく歩く。と、そこにリズムがのってくる。日常動作から「踊り」への飛躍のしるしはただ一つ、両手を前にあげる事だけだ。手首の動きに、リズムが|ふし《ヽヽ》をつける。一歩を歩む片足の動きが二挙動になる。するともう、そこには、「日常動作」が消え失せて、聖なる熱狂へと高まって行く「踊り」の姿が出現しているのだ。──とはいうものの県外人にとっては、そう簡単に動作から「踊り」へ移行できない。しかし、徳島の人たちにとって、この踊りは、歩いたり呼吸したりするのと同じように、生活動作の中にくみこまれているようだった。リトマス液の一滴が、水と見わけのつかぬ透明な酸をたちまち赤く染めあげるように、日常動作では私たちとかわらぬこの土地の人は、チャンカチャンカという二拍子の三味の音によって、たちまち「阿波の人」の特性を──あの軽やかで陽気なリズム感をきわだたせる……。  ホテルにかえってシャワーをあび、とりよせたビールを飲みながら、暮色を深めて行く街を見おろして、ぼんやりそんな事を考えていた。──まったく、阿波という所はふしぎな所だ。日本史の中で、畿内同様古くその名があらわれながら、蜂須賀以前のその姿は、なにか茫漠としている。平安に空海を出した讃岐、また海賊藤原純友を出した伊予、戦国に長曽我部《ちようそかべ》をうんだ土佐にくらべて、佐々木、細川、三好と支配者の推移する近世以前のこの土地のイメージは、何となく焦点をむすびにくい。近世以降、二百数十年にわたってこの地を領した蜂須賀にした所が、伝えられるその|誅 求《ちゆうきゆう》のためか、隣国土佐の山内、南予の伊達にくらべて、同じ外様《とざま》ながら、さほど色濃い影響をこの土地に印していないようだ。幕末の徳島藩の姿も、もう一つはっきりしない。物産とて、かつてこの国の大産業で、そのため十郎兵衛の悲劇も起った藍《あい》作りも塩業も、化学産業時代になっておとろえ、いまは鏡台、箪笥《たんす》など木工品が全国に知られているにすぎない。とすると、阿波という土地の現代にまでいたる歴史的特色は、阿波|木偶《でく》──人形|浄瑠璃《じようるり》と、阿波踊りと、狸信仰をうみ出したという事につきるのではなかろうか?  が──それでもいいではないか? 歴史を「力」や「生産」の側面からのみ見れば、阿波の姿はきわだったものではないかも知れない。しかしそういった観点から見る事ばかりが歴史の伝統というわけではなかろう。「武力」や「英雄」や「産業」では目だたぬ阿波も、その土地の風光や国人の生活《くらし》を見れば、これほど明るく、やさしく、かげりのない活力にあふれた所は日本でも珍しい。その歴史に、たけだけしいもの、はげしいものがなかったように、徳島の街もまたそういったものの影がのこっていない。山は青く、海も青く、県下を東西に貫流する吉野川がまた実に河相のいい川で、上流がよく、中流がよく、河口も悠揚として水量ゆたかで、上流に汚染源がない、というそれだけでも昨今の日本で珍しいほど川らしい川である。一時期近隣に武威をとどろかしたとて、それが民衆の生活にとって何になろう。動乱抗争の歴史の一隅に、名をとどめたとて、何だろう? 煤煙毒水をまきちらす大工場を蝟集《いしゆう》させ、騒音と排気ガスまみれの盛り場やスラムを擁して、喧騒と、荒廃の中で、生産力や富をほこっても、興ざめするばかりではないか?──徳島にはそんなあざといものはない。そのかわりに、モラエスに、また世界的蕩児|薩摩《さつま》治郎八氏に、ついの棲家をえらばせる縁となった、やさしく勤勉で、情のこまやかな徳島女性があり、中世近世を生きてきた、南国の庶民らしい生活《くらし》のひだがあり、その中からうまれた大いなるたのしみ──芸能がある。──古代、中世、近世の節目かわり目を、念仏踊り、風流踊り、あるいはおかげまいり、ええじゃないかと明るく、熱狂的に踊りぬいてくぐりぬけて来た日本の民衆、権勢のうつりかわりに生ずる重圧を、みずからを毒にそめるどすぐろい怨恨として土の底にためるかわりに、明るく、軽く、時には猥褻《わいせつ》なまでに熱狂的に踊る事によってはねのけ、発散させ、昇華させ、その事によってみずからの心の健やかさ、明るさをまもりぬいてきた日本の庶民たちの伝統を思えば、阿波踊りをうみ、それを現代にまで生かしつづけてきた阿波の人たちこそ、もっとも日本の民衆らしい人々ではないか? 踊る阿呆は民衆、見る阿呆は為政者、権勢は時代とともにうつろうが、民衆の踊りの手ぶり足どりは、常に陽気にすこやかに、今もかわらぬ明るさでつづいている……。     四  そんな事を考えているうちに、ビールの酔いがまわってねこんでしまったらしい。──ふと気がついた時は、部屋の中はまっ暗で、東むきの窓から、のぼったばかりの満月の明りがさしこんでいた。  南無三宝! お六さんとの「おデート」の約束の時間はすぎたか、と時計を見たが、これがとまっている。大あわてでロビーにおりて外へとび出し、流してきたタクシーをよびとめて、大声で、「眉山公園──展望台だ。急いでくれ!」とどなった。  二、三度来た事のある徳島の街も、夜になると方角がわからない。まわりが暗くなって、道がのぼりにさしかかり、どうやら眉山パークウエイにはいったと思われるころ…… 「おや、えっとめずらしいこっちゃ」と運転手がつぶやいた。「雨でっせ。旦那……」  パラパラッ、と車の屋根が鳴り、フロントグラスに水滴がいくつもはじけた。びゅっ、と横なぐりの風が、窓に雨の粒と木の葉を吹きつけ──。 「こりゃおどろいた」私も呆然とつぶやいた。「さっきまで、あんないい月が出ていたのにな──とにかく急いでくれ!」  もし、お六さんがまだ待っていてくれたとしても、この雨じゃあ──と思うと気が気でなく、運転席の背もたれをつかんで、自分が運転しているような息ごみで、ギチギチ鳴りはじめたワイパーのむこうをのぞきこんだ。  山頂についた時は、雨は小やみになっていた。──展望台にかけつけると、夏の宵なら当然いるはずの、涼を求める家族連れやアベックの姿が、この雨に逃げ出したのか、一人も見えない。三百メートルたらずの山なのに、どういうわけか、下の視界は一面に雲霧にとざされ、一望に見えるはずの市街の灯が、一つも見えない。そのくせ、雲がはやいスピードでうずまく空は、満月をかくしているせいか妙に明るく、雨にうたれた人気《ひとけ》のない展望台も明るく見わたせた。  そのはずれにあるベンチの一つに、白い着物姿がうずくまるのが見えた。 「お六さん!」と、私は思わず叫んだ。「おくれてごめん!──そんな所にいちゃ……」  ぬれちまうよ、という言葉を封じるように、また、ざっ、とけぶるような雨脚《あまあし》がおそって来た。その雨がいやに冷たく、雨といっしょに、どっと吹いて来た風がまた襟をたてたくなるほど冷たく、その上、一群の枯葉を巻いて来たので、なんだこれは、夕立というよりまるで時雨だな、と思ったとたん……  どこやらで、チン、ツン、と糸の音がして、   ※[#歌記号]小夜時雨、時雨降る夜も……  と、あの地唄「たぬき」をうたう声がきこえて来た。──こんな山頂に、どこか料亭でもあるのか、といぶかる気も起りかけたが、そんな事よりお六さんが気がかりで、上衣の襟をたて、しぶきを蹴《け》ちらしながら、一散にベンチへむかって走った。  お六さんは、ベンチの上に半身をむこうにむける恰好で横ずわりし、背もたれに両腕をのせて、その上に頭を横むけにのせ、うたたねしているようだった。──このにわか雨に、眠ったままとは、となかば呆れかけたが、その時、ベンチはしとどにぬれているのに、白い絽の着物も、羅の帯も、少しもぬれていないのに気がついて、ぎょっとたちすくんだ。   ※[#歌記号]待つがつらいか、煙りが憂いか……  と、唄は、またはっきりときこえてくる。──その唄にあわせるように、雲がするするとわれて、ぬれぬれとした、孕《はら》み女の腹のような満月が、眼前に輝き出した。昼間見た時は、たしかに十日の月だった帯の背の模様が、いつの間にか満月となって、これも皓々《こうこう》と光を発しはじめる。はて、月が二つになった。こいつはてっきり……と思ったとたん、今度は雨はまじらぬが、砂と木の葉をまじえた風がどっと周囲を巻いて、思わず眼をつぶった。  つぶって開いたら、さっき二つだった月が、今度は四つになっていた。──と思ったのは錯覚で、さっきの突風が、お六さんの着物の裾を、蹴出しも長|襦袢《じゆばん》ももろともに、ものの見事にくるりとまき上げてしまい、裾の萩と芒が、帯の背の月の下にふわりとかかり、私の眼前には、銀色にかがやく、満月に見まがうまるまるとしたおしりの二つの球が、にゅっとつき出されていたのだった。 「お、お六さん……」  おろおろと、裾をおろそうとちかよった私の股間に、いつの間にか、お六さんのぽちゃぽちゃした手がのびていた。 「……※[#歌記号]辛気枕の空寝入り……」と、流れてくる絃の音にあわせて口ずさんだお六さんは、寝たふりして眼をつぶったまま、にっこり笑った。「これがほんまの狸寝入りやわ……」 「お六さん……」私は股間をつかまれたまま、かすれた声でやっといった。「あ、あんたは……」 「へえ、うちは狸《ヽ》でっせ……」お六さんは、顎《あご》を片腕にあずけたまま、丸い眼をパチリとひらいて、おかしそうにころころ笑った。「あンさん、狸がお好きらしいよって、狸の情というものを、見せてあげようと思って……」  そんな……と言いかけたとたんに、つかまれたものをぐいとひかれて、よろよろと前へよろけた。あたたかく、ぬれぬれした所へ、おさまるものはすっぽりとおさまったが、上体はなお前につんのめって、お六さんの帯の背に頭からおおいかぶさる恰好になった。──と、着物の裾がたちまち茫々とひろがる芒と萩の野にかわり、金茶の空に、むら雲を配して、月が皓々と照る。  野面をわたって、ぽん、ぽん、と腹鼓らしいものがきこえてくる。眼をこらすと、あちらで一組、こちらで二組と、狸の一族が集まって、満月の下で、鼓合戦をやっている。穂の出た芒の上を風がわたって行き、野原に銀のさざ波が立ったと見る間に、そのきらめきが宙に立ちのぼって凝るや、前髪立ちの美しい若衆の姿になった。と、こちらに咲きほこる萩の一むらから一団の白煙がたちのぼると、あでやかな姫君の姿となって、二人は芒の波の穂をすべるようにふんでちかより──なつかしや、宮城千賀子、高山広子御両人の戦前のミュージカル映画「歌う狸御殿」の一場面だった。  二人がよりそうと、にわかに腹鼓が急調子にかわる。──と、たちまち二人の服装が、女は、片肌ぬいで下の桃色の長襦袢をあらわした態に染めた黒襟つきの浴衣、黒|繻子《じゆす》の帯、白い手甲、白足袋に紅《べに》の鼻緒のぬり下駄、白緒の鳥追い笠、男は豆絞りの鉢巻き、藍でなにやら文字をそめ出した浴衣の裾を、高々とはしょって、毛脛《けずね》にょっきり白足袋はだしの、阿波踊りの服装にかわる。太鼓|囃子《ばやし》が、三味の音がまじり出すと、芒の原が一面に泡立つようにざわつくと──今皮は芒の穂の一つ一つが阿波踊りの大群衆になり、提灯《ちようちん》、太鼓、三味、鉦、鳴物《なりもの》囃子、歌かけ声もにぎやかにえらいやっちゃえらいやっちゃ、と、身ぶりおかしく踊りつつ、こちらにむかってくる。──男たちはぐっと腰をおとして、顔はひょっとこ、蛸《たこ》、寄り目とおかしくつくり、両手は高く、また膝より低く、女たちは、編み笠に顔をかくして、白いおとがいのみ美しくのぞかせ、さす手ひく手もあでやかに、塗り下駄の足音もかろく、踊り狂い、踊り歩き……。  いつしか私は、お六さんの背中ごしに、ネオン、明りのきらめく、徳島市の夜景を見おろしていた。正面、雲一つない空に、高くのぼった満月が一つ……。が、たちまちその満月が、二つ、三つにわかれると、今度は徳島の街の灯がむくむくとふくれ上り、灯の一つ一つが、高張提灯となって、阿波踊りの大群衆は、提灯をふりつつ、えらいやっちゃえらいやっちゃヨイヨイヨイヨイ、と、展望台へむかっておしよせてくる。 「狸いうたら、ほん、かわいげのあるもんでっしゃろ……」ベンチの背にのせた腕に、二重のくくれ顎をあずけながら、お六さんは、うっとりとしたようにいった。「ああええ気持……あンさん、もっとそこを……。狸いうたら──どこか間がぬけて、愛嬌があって、悪気がのうて、のんきで、そのくせ変に|まめ《ヽヽ》で、図々しゅうて……ちょうど、近世以降の庶民の姿そのままやわ。お狐さんの方は、なんやこわらしい所があって、ちょっとずるがしこうて、えらいお方の手先や使いになったりして、ちょっとインテリみたいな所もあるし……狸はそんなとこ、ちっともおまへんやろ? な、あンさん。そやから──ほれ、もっとかわいがっとくれやす……」  お六さんの巨大な臀を抱いたまま、私はそんな口説を、夢うつつできいていた。  ふと──傍に気配を感じてふりむくと、何とすぐ隣りにほんものの狸公二匹、一匹は雌で、夜景にむかってはいつくばり、後ろから雄がかかっていたが、二匹とも、わては、何もしてまへんで、と言っているようなけろりきょとんとした顔つきで、きょろきょろまわりを見まわしていた。──それが私たちの有様を見て、まねしに出て来たのか、それともその二匹が組んで、私を化かしているのか、はたまた展望台の水たまりにうつった、私たち二人の姿なのか、なにやら判定もつかぬうちに、意識がぼぅとかすんでしまった。  それから何日目だったか──私は日ざかりの大阪の街中を、汗みずくになって阿波座から新町にむかって、南北線の一本西の通りを歩いていた。あの翌日徳島からかえる船で、またお六さんと一緒になり、その時は、こちらがいくら前夜の事をほのめかしても、何の事でっか? と、ふしぎそうな顔をされ、こちらも何の事やらわからずに、そのまま弁天埠頭でわかれたが──どうにも寝醒めが悪いような納得が行かないような、妙な気分がぬけない。たまたま大阪の坐摩神社《ざまさん》に用事があったついでに、別れにもう一度念を押したお六さんの住所をたずねる気になった。  新町南通り二丁目から新町通りへ出る間──ときいたあたりをうろうろしたが、それらしい家は見あたらない。──ちょうど、日傘をさして、よたよたと通りかかった、アッパッパに今どき珍しい藍紙の禿かくしをしているお婆《ば》ンにたずねると、 「お六はん?」眼をしょぼつかせて妙な顔をした、「六兵衛はんの事でっか?」 「いえ、男じゃありません。お六さんといって、ぽっちゃりした色白の──仲居はんのような、お師匠《つしよ》はんのような……」 「あんた、なんぞ化かされはったんとちゃいますか」お婆ンは歯のない口をあけてにったり笑った。「あンさん、新町でもこのあたりはなあ、昔、六兵衛ちゅうわるさな狸が住んでて、お座敷通いの芸妓はんの|おいどまくり《ヽヽヽヽヽヽ》なんかしたちゅうんで、�狸横町�とよばれてたとこでっせ……」  六兵衛狸《ヽヽヽヽ》? |おいどまくり《ヽヽヽヽヽヽ》?──と眼を白黒させて、思わずまわりを見まわした。ふと気がつくと、たった今、よたよた露地にはいりかけていたお婆ンの姿が見えない。どこへ行ったか、と、露地の奥をのぞきこむと──家なみの隙間から、小柄な犬か、灰猫かと思われる獣の姿がちょろりと出て来て、とことことむこうに行く、いやに尻尾《しつぽ》がふといな、と思った時、そいつがたちどまって、ひょいとふりかえった顔を見ると、これが狸で──と見る間に、もう一匹、もうちょっと小さいのが出て来て、露地においてあるごみ入れのぺール罐の蓋の上に、二匹そろってひょいととび上った。  それが合図のように、露地に面した格子戸がからりとあいて、白い絽の着物に羅の帯の、あの時のままの姿のお六さんがあらわれて、こちらをむいてニッコリ笑った。 「お六さん……」私は思わず叫んだ。「あんた、やっばり」 「先《せえ》ン生《せえ》イ……」とお六さんは、おっそろしい大声でいった。「先《せえ》ン生《せえ》イ──もう看板どっせ……どないしやはりましたン。体まっすぐたてたまま、眼ェあいていびきかいたりして……」  はっと眼をこらすと──お六さんの顔は、先斗町の飲み屋Mのおかみの顔にかわり、ゴミ罐の上の二匹の狸公は、あの夫婦狸の置物にかわって……酔いはまだがんがん頭をしめつけていた。 「今夜はまっすぐおかえりやっしゃ」とおかみは惣菜を入れた鉢をかたづけながら、笑っていった。「明日朝早う、徳島に船で行かはるんどっしゃろ?」  たしかにその夜はまっすぐかえったが──手土産の折詰、女房の好物のMの惣菜料理のうち、鰊《にしん》と茄子《なす》の煮たものと、おからのいりつけ、小鰯《こいわし》の煮つけ、大徳寺麸、それに紫蘇《しそ》御飯をつめあわせたはずの中身は、みごとにからっぽだった。  それも当然であろう。  夫婦狸か六兵衛狸か、あるいは両者の合作か知らないが、とにかくあれほどのサービスをしてもらったのだから……。 [#改ページ]   鷺  娘     一  まさかと思ったが、ホテルから朝、電話を入れてみると、午《ひる》過ぎごろの新幹線�ひかり�のグリーンが予約できたので、その日の午後おそくにとれていた飛行機の予約を急いでキャンセルした。  席がとれて、時間が間にあうとなると、引き受けさせられた二枚の温習会の切符──もう義理で買い捨てと思ってあきらめていた切符のうち、一枚は自分が行くとして、もう一枚の方も急に勿体なくなり、時間もないのに、関西の心当りに二、三電話を入れてみたが、それもだめとわかると、在東京の友人知己に声をかけてみる、という馬鹿な事まで試みた。  が、いくら当節、労働よりレジャーが大事と叫ばれても、ウイークデイの午前にいきなり電話をうけて、今からすぐ、東京から京都まで、色街の温習会を見に行かないか、とさそわれて、じゃ行こう、というほどの、閑《ひま》で粋狂な人間が、そうそういるわけはない。──それでも、未練がましく、もう一人だけ、と思ってダイヤルをまわしかけたが、ふと途中で、そうだ、たとえ相手が行くといっても、今からではとても新幹線の切符がない、という事に気がつくと、一人でおかしくなって笑い出してしまった。  やっとあきらめて、時計を見ると、もうあまり時間がなかった。──大急ぎで荷物をまとめ、ホテルをチェック・アウトして、タクシーにのったが、途中、桜田門から日比谷へかけての交通渋滞で、八重洲到着が予定より大幅におくれ、切符を買ってホームへかけ上った時は、もう発車二分前で、席をさがして、一息ついたと思ったら、もう動き出していた。 �ひかり�のグリーン車の、その車輌は、ほぼ満席だった。──おそらくもう一輌の方もそうだろう。荷物を棚に上げ、煙草を一服吸い、ほっとして、内ポケットをさぐって、入場券とプログラムをとり出した時は、列車はもう、横浜あたりを通過していた。  考えてみればおかしな話だった。──行きつけの京都祇園のお茶屋への義理で、温習会の切符を二枚買ったのだが、本来ならば買えば義理がすむ事で、見に行かなければならない義理の方は別にない。家族か知人の、好きなものにわたしてしまえば、それですむ事だったし、都をどりの切符などは大ていそうしていた。すすんで見に行くほどの気をたまに起すのは、毎年六月、先斗《ぽんと》町の歌舞練場でおこなわれる「六遊廓」の踊りの会──祇園、先斗町、上七軒など、京都の六つの遊廓の芸妓衆が妍《けん》をきそう踊りの会ぐらいで、これはそれぞれの色街の競合という所が、張りと熱があって面白いのだが、こちらの方はここ三、四年、日どりがあわなくて、御無沙汰つづきだった。  もともと日本舞踊が死ぬほど好きだ、というわけでもない。小学校へ上る前から、ドレミとハニホヘトでたたきこまれた音感では、邦楽系統は苦手の口で、行きつけの座敷で、小唄端唄の一つぐらい、おぼえときやす、と地方《じかた》の婆さん芸者にいわれてその場で二、三度やりかけたものの、何を唄っても「南国土佐」になってしまう無器用さに、指南役よりこちらが先にいや気がさして、やる方はその後一切おりてしまった。──といって、聞く、見る、の方は、決してきらいではなかった。  元来が、屋台のどて焼き、ホルモンに、焼酎、どぶろく、上澄みと、悪酔いしたあとなぐりあいにならなければ酔った気がしないような、柔道の乱取りみたいな飲み方で酒を飲みはじめ、酔ってがなるのは、軍歌、寮歌、流行歌に書生節、はては右翼左翼入れこみの闘争歌といった殺伐な青春を送った焼け跡派に、酒品も、粋も、茶屋遊びの日本情緒もあったものではないのだが、そこは「都会」というものの不思議で、じっくり思い出してみると、軍隊内務班の縮図のような中学校から高校へ上った当座、先輩のあとについて、白線帽にマント姿のまま、祇園甲部の座敷へ上りこんだ記憶も、二度や三度ではない。もちろんそのころは、祇園甲部がどんな所か、お茶屋がどんなものかわかるわけもなく、白塗りの舞妓がべったりすわって鼻をすすりあげるのを、何やら陰惨でうすっ気味悪い、と思ったくらいで、あとは何の印象ものこっていない。当時の十七、八、それも地方出の青年となれば、──今でもそうかも知れないが──まあいわば、一種の野蛮人である。  そうはいっても、その時、わからぬままに何度か上った事が、後年茶屋遊びをはじめても、お茶屋というものを、それほど生活からかけはなれたものと感じなかった理由になったのはたしかである.──三十すぎて、バー、クラブのつまらなさ、高価さにいや気がさし、ふと思い立ったように、十数年ぶりで自前の茶屋通いをはじめた時.はじめて行く、という友人たちから、物怖じしないとか、ずいぶん遊び慣れている、とか、とんだ誤解で買いかぶられ、はじめて、なるほどあの時、「免疫」ができたのか、と気がついたが、有体に言えば、銀座のバーなどよりはるかに安く上る、というのがそもそもの理由だった。  その上、バーとちがって、格式のやかましい土地で、一流のお師匠さんからきびしくしこまれた芸が見られる。──こちらの方の口明けは、これも懐ろのさびしい学生時代、歌舞伎昼の部一幕立ち見が、言ってみれば喫茶店やパチンコ、三流館の映画なみに手軽な閑つぶしだった事による。だから芝居の知識と来たらまったく断片的で、「妹背山」など、いまだに筋がどうなっているのかよくわからない。人との話で、ひょいと高麗屋の播磨《はりま》屋のといった話題がでても、自分の見たのが、いずれも先代、先々代といった人たちで、そのくいちがいに、妙にちぐはぐな「歳月」を感じてしまうのだった。たまたまはいった時の舞台が、浜松屋とか鈴ヶ森とか、声色《こわいろ》ぐらい知っている場面であれば大いに儲《もう》けた気になったが、所作《しよさ》事などにぶつかると、損をしたみたいな気がした。が、これとてあとで思えば、壁にもたれ、やや眉をしかめて立ち見した振事《ふりごと》が、少しはこういったものに対する好みの種子をまいてくれたのだった。  いずれにしても、こういった方面に関しては、通人《つう》の見巧者のといったものとはほど遠い、半《す》可通《どうふ》にさえなれないまったくの朴念仁にすぎなかったが、しかし、朴念仁にも田吾作にも、いいものはいいと思わせてくれるのが「芸」というものであろう。──襟《えり》替えしたての、みずみずしい日本髪に裾《すそ》をひいた美妓に舞ってもらう「黒髪」などは、これはもう、誰が見てもでれりとさせられるが、しかし、さすが祇園町ともなれば、中婆さんから老妓に、立ち方、地方《じかた》いずれにも「名手」がいて、日舞のいろはも知らぬ朴念仁を、粛然とさせるほどの芸を持っている。もう七十をこえて、ふだんは座敷に出ぬ老妓のうたう「四条の橋から」などは、まったくぞっとするほどすばらしくて、一時はそれをきくためだけに、週に一度の割で通いつめた事があった。勢い、私の座敷は、大姐さん方が多くなって、肩がはるのであろう、若い妓にはいたって評判が悪く、あこのお座敷は、芸妓はん三人よばはったら、歳の合計が二百をこえる、という噂《うわさ》がたって、きれい所にはあまり縁のない事になってしまった。  好きのきらいのといっても、まあ、この程度の事である。見る閑があれば見たい、とは思うが、万障くり合せて、何が何でも、というほどの事はない。もっとも、今度の場合にかぎっていえば、もう少し積極的な理由があった。──上演物《だしもの》の中に、地唄舞の「雪」があったのである。  ※[#歌記号]花も雪も払えば清き袂《たもと》かな、ほんに昔の昔の事よ……という文句ではじまる、このあまりにも有名な地唄は、──峯崎|勾当《こうとう》の曲、流石庵|羽積《はせき》の作詞で、世を捨てて尼となった芸者が、昔の恋を忘れかねる心をうたい、あらわした、地唄舞の中でももっともポピュラーなものだが、舞の方は大阪の山村流をはじめ、上方、江戸の諸流にひろくとり入れられているのに、なぜか京都井上流だけは、一度も見た事がなかった。──座敷で所望しても、ある妓《こ》は、井上流には「雪」はおへんのどす、とこたえ、ある姐さんは、おすんどすけど、舞うお人がいはらしまへんのどす、といった。  山村流の「雪」は、一度、楽正師が舞ったのを舞台で見ている。──それこそ、ふるえ上るほどの絶品だったが、その時もつくづく思ったのは、これを井上流で見てみたい、という事だった。京都は土地柄もあってか、お色気と抹香《まつこう》くさいものがふしぎによく融合している。一休と地獄太夫の話は伝説にしても、祇王寺や寂光院などを訪れると、京都という土地の奇妙さにつくづくうたれる事がある。──ここではうつろい行く色香の無常が、|そのまま《ヽヽヽヽ》救済になっているような所があるのだ。  以前にも、三世井上八千代追悼の踊りの会に行きあわせ、「夕顔」という、法事などの時以外めったに見られない踊りを見た事がある。──黒紋付に金|襴《らん》の帯、鳴り物の小|瓢箪《ひようたん》をもった大ぜいの芸妓が、頭に手ぬぐいをおいた導師にみちびかれてしずしずと出て来て、空也念仏踊りをもとにした踊りを踊る、艶冶《えんや》なような、剽《ひよう》げたような、寂しいような、色即是空、寂滅為楽を形象化したような、何とも不思議なものだが、その時私は、京都における宗教──仏教とは、ついに色街の踊りと化す事によって完成《ヽヽ》したのではないか、と思って、ひどく感動したものである。山村流の「雪」は、浮世を捨てて捨てきれぬ女のあわれさ、美しさをあます事なくあらわして、それこそ溜息がでるほど艶やかなものだったが、「尼もの」となれば、井上流の方にもまた、仏教的世界からうつし出した女の業《ごう》を、もっとすがれた深み、すごみでもって表現するところがあろうと期待したのであるが、これまで座敷ではついに見る事ができなかった。  その「雪」が、今度の祇園町の温習会に出る。──解説を読めば、井上流では、三世八千代が振りをつけ、四世にうけつがれたとあるが、いろいろうるさい許《ゆるし》でもあるのであろう。こういう機会でもなければ、おそらくめったに見られまい。それが見られるとあれば、東京で、その日の午後、「行ければ行く」といっていたある用事──実は、話のころびようによっては、ちょっとした粋筋に発展するかも知れない用事の一つをキャンセルしたのも決して惜しくはない……と、自分にいいきかせるように入場券とプログラムを内ポケットにしまい、服の上からポン、と一つたたいて席から立ち上った。──あわただしすぎて、昼食をとりそこねたのでビュッフェに行こうと思ったのである。新幹線のビュッフェと来たら、まずいので有名だが、幸いその列車のビュッフェは、Tホテルがやっている事をたしかめてあった。三つはいっている業者の中で、Tホテルは、少々値段ははっても一番味が良心的である。  そろそろ小田原にかかるが、まだそれほど混んではいまい。  ゆれる通路をふみしめつつ、九号車から十一号のビュッフェへ歩いて行くと、間の十号車の半ばまで来た時、すこし先で、茶色の毛を長くのばし、茶色の|ひげ《ヽヽ》をもじゃもじゃはやした、白人の大男が、やはりビュッフェへ行くのか、ぬっと立ち上った──ちょうどこちらと正面からむかいあう形になった時、大男は、私の顔を見て、大仰に腕を前につき出した。 「ハンス!」私もその男の顔を見て、思わず頓狂な声で叫んでいた。「なんだ。いつ来たんだ?──連絡してくれればいいじゃないか!」     二  ハンス・ヘンリック・べーデルセンはその名前の示す如く北欧系──ノルウェー人で、年齢はたしか三十三か四、オスロ大学を出た民族学者《エスノロジスト》だった。  私がはじめて彼にあったのは、二年ほど前、オーストリアでだった。ウィーン大学の日本研究所に、ちょっと用事があって訪れたあと、研究所の建物を出ようとすると、大学の奥の方からやって来た、スェード皮ジャンパーを着た大男が、突然茶色の眼にやさしいほほえみをたたえて、ややおぼつかない日本語で、「日本の方ですか?」と声をかけてきた。  日本の民族学の揺籃《ようらん》期を育てたという、ウィーン大学の日本研究所から出て来たので、てっきり私の事も、民族学者か何かだと思ったらしいのだが、同じ方向にならんで歩きながら、私が別に学者でも何でもなくて、日本からふらりとやって来た、ただの物書きにすぎない、と説明すると、かえって親しみをましたようだった。──あとになってから、その事をきいてみると、やはり彼は、学者や商社マンではない、いわば「一般人《コモン・マン》」としての日本人に接触したいと思っていたらしい。どうして物書きを「一般人」と思ったのか知らないが、これも日本の誰かが吹きこんだやや偏頗《へんぱ》な知識で、日本の「|物書き《ライター》」は、夜な夜なバーや飲み屋で酔いしれて、もっとも市井《しせい》の俗塵にまみれてくらしている、と思いこんでいたらしいのである。 「著者《オーサー》」や「小説家《ノーヴエリスト》」といった言葉のニュアンスの使いわけに、あまり自信のなかった私は、──また事実、そう名のるのはちょっと気のひける所もあって──簡単に「|物書き《ライター》」と言ったのだが、それが彼に、最も日本の下情に通じている職業の人間と思わせたらしい。  日本研究所をたずねた所とわかると、所長のK氏や、名物老教授のS氏にあったか、とたずね、両氏への紹介状も貰って来た、とつげると、もうそれだけで、眼をかがやかせ、自分もしばらくここで、日本学の研究をやっているのだ、といった。  ホテルはどこだ、もしよければ、いろいろ日本の事を教えてもらいたいが、たずねて行ってもいいか、というので、むろんオーケーだ。何なら今夜、一緒に食事をどうだ、というと、両手を大きくひろげて、 「|すばらしい《ヴンダーバー》!」  とどなった。──はじめての土地で、はじめてあった男だったが、ちょっとした話のはしばしに、彼の民族学が天ぷらでない事がわかったし、手にしていた書物がW・シュミットの著書だったのは、ウィーンだけにちょっとできすぎの感があったが、しかし一緒に持っていたプリントが、日本研究所長のK氏の講義録か何かだった事も、私を充分に安心させた。  タクシーをひろう間、ぶらぶら一緒に歩いているわずかのうちに、彼の日本語が、少しこみいった話になると、こんがらがってしまい、私がドイツ語がからきし駄目、という事がお互いにわかった。──私がウィーンについてまだ二日目で、市内を案内してくれるはずの知人が、ブダペストへ出張中だ、と話すと、名物の地下酒《ケラー》場へ行ったか、ときく。まだだ、というと、 「じゃ、今夜案内しよう。新酒《ホイリーゲ》のシーズンだから、そのあとヌスドルフへでも行ってみよう」  といって、タクシーをとめ、あとでホテルにさそいに行く、といってわかれた。  その夜は、彼の車で街に出て、インネレシュタットの地下酒《ケラー》場でビールに本場のウィンナシュニッツレルを食べ、郊外にあたるのだろうか、ヌスドルフという�葡萄酒村�の酒場で、腸詰《ヴルスト》を肴《さかな》に、泡の立つ白葡萄酒の新酒《ホイリーゲ》をジョッキで飲んだ。──ヴァイオリンとアコーディオンの楽士たちに、「|維納 と 葡萄酒《ヴイン・ウント・デア・ヴアイン》」やハンガリアンダンスをリクエストして、すっかりメートルを上げ、知りあったばかりの相手に、君はノルウェー人だのに、茶色の髪、茶色の眼、短頭型なのは珍しい、私の知るかぎり、ノルウェー国民は、もっとも純粋に金髪碧眼、長頭の北方人種《ノルデイーデ》の形質をのこしているはずなのに、と、すこしぶしつけかも知れない事をきいても、君は知らんだろうが、ノルウェーでも南の方には、おれのようにアルピーネ──アルプス人種の形質をもったのが少しはいりこんでいる。おれよりはだいぶ小さいがね、とにこやかに説明してくれた。たしかに彼は、身長は一メートル九〇ちかく、体重は九〇キロ以上ありそうだった。  泡のたつ新酒《ホイリーゲ》は爽やかだったが、しかし度をすごすと、覿面《てきめん》に頭に来そうだった。が、それを水のように飲みほすハンスにつられて、ついつい「スコール」をかさねた。──この北欧の乾杯の言葉が、昔の髑髏《どくろ》盃、つまり「頭蓋骨《スカル》」から来ている事を知ってるかね、と、ハンスは面白そうに教えてくれ、この髑髏盃をはじめてつくったのは、スキタイ人だ、といった。私も、日本の戦国武将で、信長が髑髏盃をつかったという伝説がある、というと、彼は体をのり出して、ノブナガて何ものだ、日本にも遊牧民《ノーマツト》がいたのか、ときいた。  そこらへんになると、私のいいかげんな民族学や文化人類学の知識では、うけこたえがあやしくなってきて、あとはただやたらにプロージットとか、ア・ヴォートル・サンテとかチンチンとか言って盃をあげるばかりだった。──それでも、彼からウィーンの前はオックスフォードにいて、このあとパリへ行く、といった事をきき出していた。パリへ行ってもレヴィ=ストロース氏は、今や教祖的存在で、なかなかあえないそうだぜ、というと、「フーコーもアルチュセールもラカンも、|構造 主義《ストラクチユラリズム》ってのは、おれにはややこしくて、何がなんだかよくわからんよ」  と、あっさり肩をすくめて笑った。  三十すぎて、なお、学問の上で自分のなすべき方向を模索して、あちこちまわっている──そういう所は、さすが海洋民族ヴァイキングの子孫らしく、大らかなものだった。祖国の偉大な探検家「コンティキ号」のトール・ヘイエルダールを深く尊敬し、自分も何か、失敗してもいいから、ああいった「大きなこと」をやりたい、しかし、いろいろやってみて、自分にはどうやら、|民 俗 学《フオルクスクンデ》のような方向がむいているようだ。──むろん、今、世界的にちょっと頭うちになっているのを「大きく」するには、相当な力がいるが、といった。 「精緻《せいち》なロジックもいいが、しかし、諸民族の�魂�の比較研究をするには、何よりも|ここ《ヽヽ》がいるんだ」  といって、彼はどんとそのぶあつい胸をたたいた。 「熱い心臓《ヘルツ》──これがおれの学問の�方法�さ」  いかにも北方海賊ノルマンらしい荒っぽいいい方だったが、学問の世界が、一般に精緻化し、システム化している時代に、こういう巨大な�体力�で、学問の世界にぶちあたって行こうとしている人物がまだいる事が、酔っぱらっているせいもあって、すっかりうれしくなってしまい、そうだ、民族学や人類学には、まだまだ胸《これ》も必要だ、といって、いっしょになって彼の岩のような胸をどんどんたたき、さすがは赤毛のエリックの子孫だ、ナンセン、アムンゼンの後輩だ、君こそ、諸民族の魂の世界のヘイエルダールになれ、と呂律《ろれつ》のまわらない英語でわめきちらした。  気がついた時は、彼のボロ車の助手席にほうりこまれていて、彼は舗石のすべりやすいウィーンの街路をびゅんびゅんとばしている所だった。──私の方は、頭があがらないぐらいよっぱらっているのに、私と同じぐらい、いや、たしか私より一杯二杯多く、新酒《ホイリーゲ》を飲んでいるはずのハンスは、けろっとして鼻歌まじりに車をぶっとばしている。いくらアクアビットやキルシュヴァッサーなど、強い酒できたえているとはいえ、酔っぱらい運転だし、その上、面白がってか、ある角で強烈なスピンターンなどをやってみせるので、本当にこわくなって、助けてくれーえ、と日本語で悲鳴をあげると、彼も日本語でタスケテクレーエと口まねして、ハンドルをがんがんたたいて笑う始末だった。  どうやってホテルの部屋にかえったのか全然記憶がない。──きっと彼がはこび上げてくれたのだろう。夜中にふと目ざめると、オーバーと上衣がぬがされ、ネクタイがゆるめられて、ちゃんと毛布にくるまれていた。  翌朝は、予期した通りのひどい宿酔《ふつかよい》だった。──ベッドでうなっていると、午前十時に彼に電話でたたき起された。 「|宿 酔《ハングオーバー》か?」と、私の声をきくと、すぐハンスはいった。「そうじゃないかと思った。──今、いいものをもって上って行くから、ベッドにはいってろ」  まもなくドアがノックされ、やっとの思いで立って行ってドアをあけると、ハンスが、大きな手の中に、泡立つ液体のはいったコップを持っていた。 「さあ、飲みたまえ。別に迷信とは関係ない。ちゃんとホテル・ドクターにたのんで調合してもらったやつだ。ほかの酒じゃきかないが、新酒《ホイリーゲ》の宿酔には覿面にきく」  そうさとすようにいって、ハンスは突然にやりと笑うと、 「郷に入れば郷にしたがえ」  と日本語でいった。  その言葉につられて、私は空《から》えずきをおさえながら、ちょっと酸っぱいような液体を、眼をつむって飲みほした。──胃が少し縮みかけたが、すぐ胸がすっとした。そのまましばらく横になっていろ、というので、またベッドにたおれこんだが、その間にハンスは、その日、マリア・テレジア広場の|美 術 史 博物館《クンストヒストリツシエムジイウム》に行く約束をした事を思い出させてくれた。  今日は起き上れそうもない。それに君だって自分の用事があるだろうに、あまり手間をとらせては申し訳ない、明日にしよう、というと、 「明日は博物館は休みだ。そして、君は明後日の午後、ローマへたつんだろう」と、向うの方がよく知っていた。「大丈夫だ、大杉、一時間寝たまえ。十一時にミルクとうすいコーヒーをもって来るようにたのんでやる。ウィーンへ来た以上、神聖ローマ帝国の世襲皇帝ハプスブルグ家の大コレクション──ベラスケス、ルーベンス、デューラー、そして特にブリューゲルの大コレクションを一度は見るべきだ。そして、かつてのオーストリア世界帝国というものが、どんなものだったか、君だって�物書き�だったら、見とかなきゃいけない」  そういうと彼は、グローブのような大きな手で、やさしく私のくるまっている毛布の襟をたたき、大きな体で、猫のように足音をたてずに部屋から出て行った。  十一時にルーム・サービスがミルクとコーヒーを持って来た時、もう私は起き上ってひげをそっていた。どういう処方の飲み物だったのか、四十分あまり横になっていると、嘘のように、とは行かないが、胸のむかつきも、頭の痛みもかなりすっきりして、歯が磨けるほどになっていた。まだ頭が少しふらつき、背中が少し痛んだが、それもあたたかいミルクをすこしずつのんでいるうちに、さらに楽になった。──うすいコーヒーの香りを、注意深く嗅《か》ぎ、胸がむかつかないかたしかめながら一口二口飲んだ時、ドアがノックされ、ハンスがはいってきて、私がコーヒーカップを手にしているのを見て、大満足したようにいっぱいの笑みをうかべ、 「|言っただろう《アイ・トールド・ユー》!」  と叫んだ。  五日間のウィーンの滞在中は、ほとんどハンスの世話になりっぱなし、といってよかった。──美術史博物館は、訪れてみるとはじめから終りまで興奮させられっぱなしで、ついに閉館まぎわまで、足を棒にして歩きまわった。そして翌日は、彼は自分の車で、ウィーンの郊外と村々を案内してくれた。  その晩私は、お礼の意味をこめて、彼を正式の晩餐に招待しようとしたが、彼は肩をすくめて、御好意はありがたいが、あまり肩|肘《ひじ》の張るのは得意じゃない、といった。──それより、食品店でいろいろ買って、おれのアパートで、うまいスモルガスボードをつくるがどうだね?  彼は私に酒だけ買わせようとしたが、こればっかりは私も固執して、全部払わせてもらった。──彼のアパートで、隣室のユーゴからの留学生だという青年と一緒に、スモルガスボードを食べ、ワインを飲みながら、私たちはおそくまで語りあった。英語があまりできないユーゴの学生は、途中で自分の部屋から、リュートに似た楽器を持って来て、私たちの話を邪魔しないように、バックグラウンドミュージックのようにしずかに演奏してくれた。  ハンスは日本の事をいろいろと知りたがった。──特に、日本の民話と、それが現代の日本人の内面生活と、どうつながっているかを知りたがった。体系的でない私の知識では、なかなかうまく説明できなかったが、こういう相手には、自分の幼年時代からの体験を、まったく個人的に話すのが、一種の|こつ《ヽヽ》だという事を知っていたから、幼時にきいた民話、神話を、自分がどううけとめてきたかを、できるだけていねいに語った。八岐《やまた》の大蛇《おろち》伝説が、ユーラシアにひろく分布しているペルセウス・アンドロメダ伝説と同じだ、という事を知った時、彼はちょっとしたショックをうけたらしかった。それからこの話のパターンが、岩見重太郎の狒々《ひひ》退治の伝説にうけつがれ、ひょっとすると、現代日本の子供むけテレビの「怪獣もの」にまでうけつがれているかも知れない、というと、膝をうって笑った。  羽衣伝説、鶴女房の話などをすると、 「そいつも�エッダ�なんかにもあるぞ」と、膝をのり出して来た。「君たちは、子供のころからそんな話をきいて育って来たのか?」 「子供だけじゃない、おとなもこういう話をたのしんでいる」と私は答えた。「日本は、世界中のほとんどありとあらゆる地域から、フォークロアがはいりこんでいる」 「じゃ、日本固有のものって何だ? それをきかせてくれ」 「それは僕には答えられない。専門家じゃないから……」と、私はいった。「むしろ、日本に|ないもの《ヽヽヽヽ》をさがした方が早いんじゃないかな。──しいて言えば、日本オリジナルなものより、世界中から流れこんだいろんなエレメントの、後世へかけての受け入れ方、発展のさせ方、変形のしかたに、日本固有のものがあるかも知れない」  そういって私は、日本で神話民話に登場する動物たち、──兎、狐、狸、蟇《がま》、狼、牛、馬までが、ある意味で「神」として祭られている事を話した。幼時、庭先で用をたす時、「みみずも蛙もごめん」といった話などをつけ加えると、ハンスは笑ったが、すぐ、すっかり考えこんでしまった。ユーゴの学生は、低い声で歌いはじめ、ハンスは何度か口を開きたげにしながら、また考えこんでしまった。  酒もまわり、そろそろ夜もふけて、それ以上飲みつづけると、新酒《ホイリーゲ》の二の舞になりそうなので、私は立ち上った。 「日本へ、一度くるべきだよ、ハンス」と、私はまだ考えこんでいる──まったく小山が考えこんでいるみたいだった──ハンスの肩をたたきながらいった。「来たら、ぜひ連絡してくれ。僕よりもっと、ちゃんとした説明してくれる人たちを紹介するから……」 「必ず行く……」とハンスは断定するようにいって、しばらくしてから「|いつか《サムデイズ》……」とつけくわえた。  またホテルまで車で送ってくれて、わかれしなに、 「君は、今度いつごろヨーロッパへくるか?」  とハンスはきいた。 「来年春ごろ……」と答えると、 「そのころ、おれはパリだな……」とつぶやいた。「パリで住所がきまったら、連絡するよ。──ここでいいんだな」  そういって彼は、身分証明書の間にはさみこんだ私の名刺をのぞきこみ、ローマ字で書いた住所を口の中で呟《つぶや》き、また大事そうにしまいこんだ。  翌日午前中、ようやくブダぺストからかえって来た知人とあって用事をすませ、ホテルをチェック・アウトしていると、肩をたたかれた。──ふりかえるとハンスが立っていた。いいと前の日ことわったのに、わざわざ自分の車で、シュヴェハト空港まで送りに来てくれたのだった。     三  日本へかえって,しばらくすると、ハンスから手紙が来て、パリへうつった事を知らせて来た。パンシオンの住所と、電話番号が書いてあった。  パリを訪れたのは、もう六月にかかるころだった。──例によって、あちこちまわってのかえり、本当はアムステルダムからモスクワ経由でまっすぐかえらなければならなかった所を、むりやり日程を一日しぼり出して、彼の顔を見によったのだった。  ロンドンから電話を入れてあったので、彼はパンシオンで待機していてくれた。ホテルへついて電話を入れると、すぐホテルへすっとんで来てくれたが、私の顔を見ると大仰に眉をしかめて見せた。 「こんな高いホテルにとまる事があるか。おれのパンシオンにとまれ」と彼は大声でいった。 「いいんだ、──こっちのふところは痛まないんだから……」と、私はまわりを気がねしながらいった。──英語のよく通じるホテルだった。 「高いといっても、エクセルシオルぐらいならともかく、パリへ来て、何もわざわざヒルトンにとまる事はないだろう」 「あいにくと、ほかのホテルは、例によって日本人観光客で満員でね」と、私は苦笑しながら説明した。「ところで、君の方はどうだ。レヴィ=ストロース先生に会えたか?」  ハンスは肩をすくめると、はじめてにっこり笑った。──が、その顔には、ウィーンであった時とちがって、一種のかげりがあり、心なしか面《おも》やつれさえしてみえた。  ハンスのぼろ車、──ウィーンの時のフォルクスヴァーゲンから、今度はシトロエンの2CVにかわっていた──に同乗して、私たちはサンジェルマン・デュ・プレの、いわゆる学生街へ行った。  その中のカフェの一軒に腰をおろすと、私たちはまず、安物のボルドーをぬいて──安物といっても、日本で飲むよりはるかにうまい──久闊《きゆうかつ》を叙して乾杯した。が、ハンスの顔のかげりは一向はれなかった。 「パリはどうだい?」と、私はさりげなくきいた。「あまり気に入らないかね?」 「パリ?」ハンスは、ややうつろな表情で、私の顔を見た。「ああ、パリか?──パリは|どうにかこうにか《コム・シ・コム・サ》、さ。だけど……」 「だけど、どうした?──あまり幸福じゃないみたいに見えるけど……」 「冗談じゃない!」ハンスはまわりの若い連中がふりかえるほど大きな声でいった。「幸福の絶頂さ。──そして不幸のどん底だ」 「そりゃいったいどういう事だ?」  私はびっくりしてたずねた。 「君は……トキコ・シラトリという女性を知らないか? 今、パリにいる……」 「知らんな。──パリには万を越す日本人がいる。それも女性の方が多いだろう」  ハンスはだまって、例の大きな手でワインの壜《びん》をわしづかみすると、グラスになみなみとつぎ、一気にのみほして、ふうっ、と私を吹きとばしそうな息をついた。 「おれは……」とハンスは沈んだ声でいった。「その女性に……惚《ほ》れちまった……」  ハンスの顔つきはかぎりなく深刻だったが、正直言ってその時、私は何となくふき出したくなった。一メートル九〇センチ、堂々たる小山のごとき鬚面《ひげづら》の大男が、「惚れちまった」といって、深刻な顔つきをすると、チェーホフの一幕物「熊」に出てくる、あのがみがみの鬚男、スミルノフ大尉とかいう人物が、どうしても思い出されるのである。──またはR・チャンドラーのフィリップ・マーロウものの一つ「|さらば愛しき女よ《フエアウエル・マイ・ラヴリー》」だったかに登場する「大鹿マロイ」という、おたずね者の巨漢のようにも見えた。 「彼女は……やはり民族学者《エスノロジスト》か?」 「いや……バレリーナだ」私の顔を見て、ハンスは悲しそうな目つきをした。「おかしいか?」 「いいや……」私はあわててグラスをあげながら首をふった。「どこのバレエ団だ? オペラ座? オペラコミーク? それとも……シャラとか、ミスコヴィッチとか……」  ハンスは首をふり、小さな声で私の知らない名前を言った。──芸術の都パリには、いろいろの団体があるのだろう。そのバレエ団のかかげている旗印は、モダンでもない、クラシックでもない、|「新 古典派《ヌーヴオー・クラシツク》」とかいうのだそうだ。ひどく意気消沈したききとりにくい声で、もと国立演劇芸術院《コンセルヴアトワール》の誰かがどうこうといっていたが、私にはよくわからなかった。バレエときては、日舞以上に門外漢だ。  それにしても、かつてデアギレフの「バレエ・リュッス」によって、二十世紀初頭の世界のバレエ界の尖端をきっていたパリも、今ではクラシックはレニングラードに、モダン、新作はニューヨークに、そしてヨーロッパ・バレエの大作の伝統はロンドンのロイヤル・バレエ団にお株をうばわれた恰好《かつこう》で、もはや世界のバレエの中心とは言えなくなっている事ぐらいは知っていた。──ニューヨーク・シティ・バレエ団のモダン・ダンス、いや、それよりも、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイのミュージカルにあらわれた、すさまじくもダイナミックのロックの群舞を見ては、もはやクラシック・バレエの時代は去ったのではないか、とさえ思われるのだが……。 「おれは最初、地方都市公演で偶然彼女を見て、脳天をガンとやられたような感じがした……」とハンスは巨体をちぢめて、蚊の鳴くような声でいった。「わかってる──おれだって、�ヘア�も�オー・カルカッタ�も知っている。�ジーザス・クライスト・スーパー・スター�だって、絶対見に行くつもりだ。だけど、彼女のクラシック・バレエは……何かちがうんだ。トキコの踊りには全然、西欧のそれとちがう|何か《ヽヽ》があるんだ」 「いったい何を見たんだ?」と、私は少し興味をおぼえてきいた。 「�|白鳥の湖《スワン・レイク》�……」と、ますます体をちぢめるように、ハンスはつぶやいた。「それと�ジゼル�……彼女は、�白鳥�の時はプリマだった……」  私も思わず溜息をついた。──このフランスで、�白鳥の湖�とは。たしかに不朽の名作にはちがいない。しかし、今ではボリショイかレニングラードの公演ぐらいしか、客を呼べないのではないか。それとも|�新�《ヌーヴオー》古典主義という以上、そこに何か画期的な新演出があるのか? 「で……」私も二杯目をなみなみと自分のグラスにつぎながらきいた。「彼女に惚れて……振られたのか?」 「振られてはいない……」と、自分にいいきかせるように、ゆっくりとハンスはいった。「彼女もおれを……だが、どうしても結婚をうけつけてくれないんだ」  それから彼はテーブルの上におおいかぶさるように体をのり出すと、悲鳴にちかい声でいった。 「おお、大杉、教えてくれないか?──おれには日本の女性というものは、どうもわからん。彼女の中に、どうしても、おれに理解できない|何か《ヽヽ》があるんだ。日本の女性って、どんなものだ? 説明してくれないか?」  そう言われても……と私はやや困惑しながらいった。──日本の女性だって、いろいろある。外国人と結婚して、ちゃんと仲|睦《むつ》まじくやっている女性もたくさんいるし、特に戦後の女性は、ごくふつうの、単純で明るいよさをもった人たちが多く、それほど君たちにわかりにくいものでもない。現におれの女房なんか……といいかけて、さすがにそれはのみこんで、実際にその人にあって見なければ何とも言えないし、あった所で、君の悩んでいるポイントをすぐに説明できるかどうかわからない……。  それにしても、その女性が、何か特別の「陰」をもった人ではないか、という事は、彼の言葉からも何となく察する事ができるような気がした。 「はっきり言って、おれは彼女と寝た……」と、ハンスはつぶやいた。「寝たら、──大抵いろんな事がわかるもんだ。だのに彼女は、……おれがもう一歩、しっかりつかまえようとふみこむ度に、幻みたいに一歩遠のく所がある。なんだか──彼女の中に暗い影みたいなものがあって、おれがそれを何とかしたい、と思うのに、絶対にさわらせてくれないんだ……」  今やこの巨漢は、見栄も外聞もなく、涙をこぼしていた。 「おれにはどうしてもわからん。──おれは、今まで二度離婚している。一人はスエーデン女性、もう一人はフランス人だった。どちらも悪い女じゃなかった。そのほかにだって、ガールフレンドはいくらもいた。だけど彼女ほどやさしい……すばらしい女性はいない。おれをきらいじゃないっていう。いや、愛している、とさえはっきり言った。おれにすごくやさしくしてくれる。だのに……結婚してくれない……」ハンスはその大きな手で、むずと私の二の腕をつかんだ。「大杉、帰国を二日のばせないか? 二日たったら、彼女は地方からかえってくる。──パリ在住の、ほかの日本人にきいても、連中はよくわかってくれない。例によってジャスト・スマイルだ。君が彼女にあってくれたら、……君ならうまく説明してくれると思うんだ。|なぜ《ヽヽ》、彼女がおれとの結婚をこばむのか。最終的に、俺の腕から逃げ出して行ってしまうのか、……彼女の中にある悩み、暗いような、悲しいような、�影�みたいなものは何なのか……」  ウィーンの事を考えると、ハンスの申し出は何としてもきいてやりたい所だった。──だが、その時は、パリの一日をしぼり出すのがやっとの事だった。その晩彼と、中央市場で海産物を食べ歩き、白葡萄酒《ヴアン・ブラン》を痛飲したあと、エッフェル塔のそばまで送ってもらってわかれた。翌日|午《ひる》、ブールジェ空港には、彼は送ってこなかった。     四  ハンスからは、それ以後何の音|沙汰《さた》もなかった。──一度今年の春、タンジールから来た一枚の絵葉書に、英語で�|白鳥は去りぬ《ザ・スワン・ハズ・ゴーン》、H・H・P�と、辛うじて判読できない事はない文面が書かれてあったのが、ひょっとしたら彼からのものかも知れなかったが、あいにくと雨の日に配達されて郵便物が水たまりにおち、インクが流れて、ほとんど読めなかった。  その彼と、突然、新幹線の中であったのである。──一年四カ月ぶりの事だった。  感無量、というのはいささかオーバーだったが、しばらく二人とも通路の中でがっちり手をにぎりあったまま、お互いの顔を見つめあっていた。ハンスは微笑していたが、その顔には、この前見た時より、ずっと深いかげりができていて、それが彼を一ぺんに三つ四つも老けたように見せていた。  そのうち車内販売が来て、二人はやっと気がついて道をあけ、どちらからともなくビュッフェへはいって行った。──幸い一番すみに二つあいていた席について、ビールで乾杯したとたん、二人ともまるで堰《せき》を切ったようにしゃべりはじめた。ハンスはパリのあと、若干の親族の遺産を得て北アフリカへ行き、さらにタンザニアに行き、そこである国際機関の奨学資金をとり、日本へ来た。東京着は三日前、しばらく日本にいるつもりだが、住所は関西におこうかと思っている、──と彼は一気にそこまで説明した。 「君の学問の大テーマは見つかったか?」  ときくと、どういうわけか、ちょっと暗い微笑をうかべて、 「まだ……もうちょっとだ……」  と首をふった。 「じゃ、君の、例のプリマは?」と、ふとしたはずみで私は軽い気持できいてしまった。「白鳥《しらとり》……とかいったな。彼女とはその後……」  言ってしまってから、悪い事をきいたかな、と思って私は、はっとした。──ならんで席につき、テーブルの上でビールのコップをつかんでいた、彼のごつい、毛むくじゃらの手が、ぎゅうっと筋《すじ》張るのがわかったからだった。  ハンスは眼を伏せてこまかくゆれるビールの液面を見つめていた。──それから低い、沈んだ声で、 「白鳥《スワン》は去った……」といった。  その一言で、タンジールからのあの絵葉書が、やはり彼からのものだった事がはっきりした。 「パリでか?」 「いや……ジブラルタル……」彼はビールをぐっと飲みほした。「彼女は北アフリカに一緒に行く事を了承し、バレエ団もやめて、ジブラルタルまで来た。そこで船を待つ間に……短い手紙をのこして……。君に出したあの葉書は、本当は二人で寄せ書きするつもりだった。君の事は、彼女にも話してあったから……」  それからしばらく間をおいて、彼は眉間《みけん》を指でおさえ、 「しかし……白鳥《スワン》は去った……」  ともう一度つぶやいた。 「どこへ行ったか、わからないのか?」と、私は痛ましい思いできいた。 「大体わかっている……」ハンスは気をとりなおしたように、内ポケットをさぐった。 「白鳥《スワン》のとび去った方向は東……きっと故郷へかえったんだ」  カード入れから大事そうにとり出した、もう縁のかなりいたんだ写真を、しばらくじっと見つめると、私にまわしてよこした。  そこには髪をきっちりなでつけ、黒いバレエの練習着をつけた、若い女性の上半身がうつっていた。それをひと目のぞきこんだ時、私はかすかなショックをうけた。──瓜実《うりざね》というよりは、やや細面《ほそおもて》の、美しい女性《ひと》だった。ただ、気になる事は、うまく撮れてはいるが、ちょっとした素人のスナップ写真なのに、顔を斜め横にむけ、視線を斜め下におとしている事だった。スナップの時に、自然に目線が斜め下をむき、正面をむかない人は、何か心にかげりのある人だ。眼は大きく美しく、自前のものらしい眉は、やや下り気味に恰好よく弧《こ》を描き、鼻筋も尋常にやさしい感じで通って、唇もぽっちりと形よく、頤《あご》がやや細くとがっているのが少し難な程度で、申し分ない美人といってよかった。  頸《くび》筋は細く、長く、小さな頭をささえかねるように、やや斜めにうねっていた。肩は薄く、胸も薄く、いかにもかぼそい感じで、とても大作バレエのプリマの、はげしい踊りをつとめられる女性に見えなかったが──しかし、それは「踊り」というものの不思議さで、「筋肉労働」とは全然ちがい、重いもの一つ持てないような骨細の女性でも、もし一たん「踊りの炎」が体内に燃え上ったら、尋常のものではない「憑《つ》かれたエネルギー」がひき出されるものである。ヒステリー性硬直をおこした女性が、頸と足首で二つの椅子の背の間に棒のように体を支え、その胴に大の男が二、三人乗ってもびくともしないように、また、火事の時に、腰ぬけ婆さんが箪笥《たんす》をかついで走ったといった類いの話をよくきくように、人間の体内には、ふだん外から見た時は、まったく存在のわからない、異常、非常の大きな力がどこかにかくされており、「本当の踊り」というものは、そのエネルギーを洗練され、しかも長く持続するような形式でひき出してくる──そこに「踊り」というものの神秘があり、聖化《ホリフアイ》され、「神ごと」の一種と見なされる所以《ゆえん》があるのであろう。  だが、私がうけた軽いショックは、そういった点からくるものではなかった。──一つは、日本人で、少しは世間というものを、そしてさまざまなタイプの女性をながめて来た中年以上のおとななら、誰でも持っているある種の勘によるものであり、もう一つは、ひょっとしたら自分がこの女性を、|どこか《ヽヽヽ》で見ているのではないか、という、さだかならぬ疑いによるものだった。むろん、私はそのショックについてはハンスにだまっていた。とりわけこの女性が、水商売タイプの人ではないか、などという印象に関しては……。 「白鳥《スワン》……トキコの故郷は、カンサイだといった……」とハンスはつぶやいた。「だから……日本に来て、関西に住めば……」 「すると君は、専門方面の比較研究のためじゃなく、彼女を追って日本へ来たのか?」  ちょっと意地悪いかな、と思いながら、私はそうきかずにおられなかった。 「いや……日本は、おれの学問にとって、やっぱり最重要なフィールドだ」ハンスはやや苦しそうにいった。「日本にくれば、いろんな事がわかるだろうし、さらにいろんな謎にぶつかるだろう。そして──その中でも、おれにとって最も大きな、シリアスな謎は……やはりトキコの事だろう。トキコの謎と、学問上の対象としての日本の事は……おれの中でオーヴァラップしているんだ!」  そういうとハンスは、本当に苦しそうに、そのぶあつい胸を、でかい拳《こぶし》でどん、どん、とたたいて、吼《ほ》えるようにいった。 「大杉、君はわかってくれるだろう──おれはどうかしているのかも知れん。だが、苦しいんだ!」  諸民族の「魂」の世界の見とり図を、心臓《ハート》でもってつくって行く、と宣言した男の、それは当然おちいるべき罠《わな》だったかも知れない。──だが、ロゴス一点ばりのように見える学問の世界でも、それをやる学者はやはり生身の人間であり、探究している対象に憑かれたり、首までどっぷり惚れこんだり、深く愛してしまったりする事も、私は知っていた。その裏返しとして、論敵に対する、あるいは組織や|なわばり《テリトリー》をおかすものに対するはげしい憎悪、成功者、競争者に対するはげしい嫉妬《しつと》といったものも、そこに渦まくのである。所詮、人間は情念の存在であり、情念は人間のエネルギーそのものであると同時に、精神の動く所、必ずそれにともなって「形成」される「場」のようなものであって、学問の世界も、それをまぬがれているわけではない。 「関西の宿はどこだ? 京都か?」  と、私は話題をそらすようにきいた。  ハンスのとり出したメモを見ると、京都、東山三条にちかい、外国の学生などがよく利用する、パンシオン風のホテルだった。 「ああ、ここなら知っている。おれも京都でおりるから……」そこまでいいかけて、私は二枚の温習会の入場券を思い出した。 「そうだ。ハンス……よかったら、おりてすぐ、日本の踊りの会に行ってみないか? あまり見るチャンスはないと思うし、見ておいた方がいいだろう。ホテルには電話を入れておけばいいだろう。丁度切符が二枚あるんだ」  四条花見小路を下った、祇園八坂会館に、でかい皮カバンをぶらさげたひげもじゃの大男の外人と一緒にあらわれた時、入口にいた、私に切符を売ったお茶屋のおかみは、目をまるくして体をそらせた。 「まあ、大きいお人どすな。──お友だちどすか? 一しょに踊りお見やすの? 椅子がこわれへんかしらん……」 「今日は……」とハンスは微笑をうかべて巨体をかがめ、日本語であいさつした。 「�雪�はまだ終ってないかね?」と私は時計を見てきいた。 「へえ、あとの方でっさかい、まだ間に二つおす。どうぞ……お席、お二階どす」 「あ、それから……」案内されながら、私はおかみに耳うちした。「あとで二人、たのめるかね? 食事してからだから八時すぎになるが……温習会でむりかも知れんが、舞妓はん、芸妓はんも……」 「へえ、きいて見ます」とおかみはうなずいた。「みなさん、つかれてはるさかい、地方《じかた》さんはちょっとむりかも知れまへんけど……」  案内されたのは、二階の正面の一番前だった。はいって行った時、舞妓たちの可憐《かれん》な踊りをやっており、三、四分で幕間になった。  明るくなった場内を、ハンスはめずらしそうにながめまわしていた。──和服姿の芸妓《ねえ》さんたち、中年、初老の主婦らしい婦人たち、これも和服姿の多い、京都の旦那、御隠居衆、そういった人たちにまじって、長髪の若い男性や、パンタロン姿の娘たちの姿も見える。世界有数の大コスモポリタン・シティである東京について三日目、いきなりこういった京風の、色街の歌舞練場の雰囲気に連れこまれ、突然異星人の世界にとびこんだような思いを味わっていた事だろう。  間もなくベルが鳴り、客席に人がかえって来て、明りが暗くなりはじめた。──暗くなりきる前にプログラムをのぞくと、「雪」の一つ前で、「鷺娘」とあった。     五  幕があくと、貝桴《ばいばち》で大太鼓を間遠にうつ雪音が沈んだ調子ではいって、幽霊、物怪《もののけ》の出につかう「ねとり」の笛が凄味をおびてはいる。──歌舞伎なら、正面に雛壇《ひなだん》を設けて、そこにずらりと長唄おはやし連中がならぶのだが、この舞台では、長唄の姐さんたちが上手《かみて》におさまり、鳴物は下座《げざ》だった。  ※[#歌記号]妄執の雲晴れやらぬ……と鼓をうしろに「置唄《おきうた》」がはじまって、私は舞台に見入った。  舞台一面は、青い照明に照らされた雪景色の遠見《とおみ》、上下に雪のつもった柳、葦原の浪板とあしらいよろしくあって、舞台中央に、白|縮緬《ちりめん》の振袖に黒|繻子《じゆす》の帯、練絹の綿帽子に蛇の目をさし、黒ぬりの駒下駄という白黒のコントラスト鮮やかな鷺娘がしょんぼり立つのが、サスペンションの溶明にうかび上る──というのが、この舞踊劇演出の常道で、少しひねって、「杓子」というしかけで押し出すくらいのものだろうが……。  この舞台では、意外な事に、舞台中央の照明の中にうかび上って来たのは、鷺娘ならぬ、純白の布でつくられた一箇の巨大な雪球《ゆきだま》であった。──一文字から、つくりものの雪がはらはらと、光るような純白の球にふりかかる。  ちょっと意表をつかれた思いだったが、ふと、いつかずっと以前、井上流の「鷺娘」では、出に雪球をつかう、という話を、お座敷で古手の姐さんからきいた事を思い出し、これは珍しいものにぶつかった、と、ちょっとうれしくなって体をのり出した。  ※[#歌記号]吹けども傘に雪もって……  と唄がかわるかかわらぬうちに黒子《くろこ》がすべりよってつくりものの雪球を二つにわり、張り物の白布をひくと、中からすっ、と雪白の衣裳の鷺娘が立った。  隣りでハンスが、音をたてて息を吸いこむのがきこえた。  あとの演出はほぼ定石通り、凄艶《せいえん》な節《ふし》文句、弦、鳴物にのって、鷺と化した娘の、哀しくも美しい踊りが展開されて行く……。※[#歌記号]思い重なる胸の闇、せめてあわれと夕ぐれに、ちらちら雪に濡れ鷺の……、で葦原で「鳥足」を見せ、※[#歌記号]迷う心の……で、羽ばたき、帽子、傘をほどよくおいて、※[#歌記号]水に馴れたる足取りも、濡れて雫《しずく》と消ゆるもの……、で型通り衣裳を引き抜いて、純白の衣裳が、ぱあっ、と眼のさめるような赤地|友禅《ゆうぜん》、黒繻子襟のあでやかな町娘姿にかわった。  ほうっ、と、ハンスが大きな嘆声を発した。  ※[#歌記号]縁を結ぶの神さんに、……のくどきにはいって、次の、須磨の浦辺で汐汲むよりもの条《くだり》にはいって三度目の引き抜きで、衣裳が浅黄──というより、光線の加減か、萌《もえ》黄色にちかい紋縮緬にかわって、下座で篠笛《しのぶえ》がはいり、明るい民謡調の手踊り、袖の振りの見せ場になる。  再びしっとりとした鼓唄にかえって、傘の後でまた引き抜き、あの有名な「傘の踊り」になって行くあたりから、ハンスがしきりにささやき声で、これはどういう踊りで、どういう意味だ、なぜあのダンサーは衣裳をかえるのだ、としきりに説明を求め出した──。ハンスの日本語は、この一年ちょっとの間に、ずっとうまくなっていたが、それでも長唄の文句をきいて、踊りの意味をつかむほどにはいたっていないらしい。  そこで私も、ささやき声でごく大|雑把《ざつぱ》な説明をした。──日本では、古来、水辺の白い鳥は人間の霊魂の化したものである、とか、人間の霊魂を天へはこぶ、と考えられている。あの女性は、もと美しい娘であったが、生前の業《ごう》により、死して白鷺の精と化してしまった。そして、ユーラシア、新大陸にひろく分布し、その分布のひろさが、伝承研究の大きな問題になっている「白鳥処女伝説」同様、ある時、雪の水辺におりたって人間の姿にもどり、自分の娘時代、成熟した女時代の華やかな恋や浮名の思い出を表現して見せているのだ……。 「おう!」とハンスは呻《うめ》くように小さく叫んだ。「するとこれは……日本の�|白鳥の湖《スワン・レイク》�か?」  彼がそういうまでもなく、私は自分で説明しながら、途中でと胸をつかれるような思いを味わっていた。──白鳥《しらとり》とき子、という姓名が本ものかどうかわからない。バレリーナとして、かってに自分でそう名のっていた可能性もあるし、またそうでなければ、ちょっと話ができすぎている感じだが、しかし、すくなくとも「白鳥の湖」のオデット姫を踊った姿を見て恋におち、しかし、ついにその手にとらえる事ができずに去られてしまい、悶々《もんもん》として、学問との関わりがあるとはいえ、一方では去った女性の幻をおいもとめて、ついに日本までやって来た男に偶然列車の中であい、せめて一ときの慰めに、と思って連れて来た踊りの会で、いきなり出あったのが日本の「白鳥伝説」の舞踊劇である「鷺娘」だったとは……。いかに偶然とはいえ、少々気味悪くなるような感じだった。  プログラムをあれだけひねくりまわしていながら、「雪」に気をとられて、そのつい前の出しもの「鷺娘」の事を気にもとめなかった。もちろん見てはいたのだが、歌舞伎の所作や踊りの会によく出てくる、しごくポピュラーなものだったので、意識しなかったのである。そして──ハンスという比較民俗学をやろうとしている外国人に会い、彼に説明してやる破目にならなければ、この有名な舞踊劇を、比較民俗学の見地から見なおす事もなく、歌舞伎でないから引き抜きがもたつく、とか、あそこのできはどうだとか、しごくトリビアルな事が眼につくばかりだったろう。  ハンスは、そのごつい手で、前の手すりをへし折らんばかりにしっかりつかみ、巨体を前にのり出して、食い入るように踊りを見入っていた。傍に感じられるその熱気に、私は圧倒される思いだった。そうして眼をひたと踊りにすえたまま、低いささやき声で、ひっきりなしに説明を求めつづけた。  舞台はにぎやかな踊り地にのった、華々しい傘の踊りから、一たん下手にひきこみ、 [#1字下げ]※[#歌記号]それが浮き名のはしとなる。添うに添われずあまつさえ、邪慳《じやけん》の刃《やいば》にさき立ちて、此世からさえ剣の山……  で、一転急テンポの「地獄の責め」にはいって行った。髪をさばいてシケをひき出し、手にした柳の杖を錫杖《しやくじよう》に見たて、鷺の羽根の振袖から上だけぬいでぶっかえり、裾に火焔《かえん》の四天《よてん》となり、生前の数々の愛欲妄執のため、畜生、修羅道におちた女が、地獄の邏卒《らそつ》に責めぬかれる悽惨な場面になる。──唄、鳴物、急調子の追いこみで、 [#1字下げ]※[#歌記号]一樹の内に恐ろしや、地獄のありさまことごとく、罪を糺《ただ》して閻《えん》王の、鉄杖|正《まさ》にありありと、等活《とうかつ》畜生しゅじょう地獄、或は叫喚《きようかん》大叫喚……  と次第にものすごく、 [#1字下げ]※[#歌記号]修羅の太鼓はひまもなく、獄卒|四方《よも》にむらがりて、鉄杖ふり上げ鉄《くろがね》の、牙かみならし、ぼったてぼったて、二六時中がその間、くるりくるり追いまわり追いまわり、  で、舞台の上を、髪ふりみだした鷺娘が、はげしく音をたてて七転八倒する所で、私の小声の説明をきいていたハンスは、ついに、 「オウ・ノウ!」  と小さく叫んで、両手で眼をおおってしまった。──それでも視線は、指の間からなお、舞台を悶《もだ》え苦しむ表現でころげまわる踊り手にすいつけられていた。 [#1字下げ]※[#歌記号]ついにこの身はひしひしひし、憐れみたまえ、我が憂き身、語るも泪《なみだ》なりけらし。  で唄はおさまり、撥釣瓶《はねつるべ》のドロドロで、髪ふりみだした鷺娘は悄然と上手に消え、どっと拍手が来て幕がおりた。  幕間に二人は廊下へ出た。──明るい所でハンスの顔を見ると、まっかに上気し、汗びっしょりで、いかに彼が今の舞台を、熱を入れて見ていたかよくわかった。 「いや、すばらしい……すごい踊りだった。すごい演出で、すばらしい表現力をもったダンサーだった……」  ふうっ、と牡牛のように太い吐息をつきながら、ハンスは何度も、「すごい」と「すばらしい」をくりかえした。──それはよかったが、その次に私に真顔でたずねた一言は、まったく唖然とさせられるものだった。 「で──この舞踊劇の|ジークフリート《ヽヽヽヽヽヽヽ》が出てくるのは、この次……第二部かね?」     六  幕間にとんだ大議論がもち上り、次の幕が上っても、なお彼がしつこく低声《こごえ》で議論をふっかけてくるので、肝心の「雪」の方は、おちおち見ていられない事になってしまった。──もっとも「奥の着流し」で、舞台正面に障子をたてまわし、雪洞《ぼんぼり》をたて、黒ずくめの衣裳で、いかにも井上流らしく、静かな上にも静かに、舞うこの舞は、歌舞練場のような大舞台で、しかも二階正面から見るにはいかにもしぶすぎ、あえかなニュアンスもとらえがたくて、所詮お座敷で見るべきもの、と思わせたが……。  終幕のきれい所のそろった華やかな「俄《にわか》獅子」の間も、彼は何度も議論をむしかえして来た。──まあ、この踊りは所詮江戸のものだから、どうでもよかったものの、昼の部がそれではねて外へ出ても、小さなステーキハウスで食事をとっている間も、彼が同じ議論をつづけるのにはさすがに辟易《へきえき》した。何しろあの体からしぼり出される粘りでやられるのだからかなわない。──白人と議論をやると、屡々《しばしば》日本人は「体力負け」でへたばってしまう。  あの舞踊劇には、|絶対に《ヽヽヽ》「第二部」「第三部」があるはずだ、──という彼の「思いこみ」が、そもそもの議論のはじまりだった。──それは、あの会が「踊りの練習の会」だったから、あの「一幕」だけだったのだろう。バレエの学校でも、父兄に生徒の進歩ぶりを見てもらう会の時は、よくグランド・バレエの有名な一場面だけをぬき出して上演するから……。  しかし、|実際は《ヽヽヽ》──あの舞踊劇の|もとの《ヽヽヽ》脚本は、あの幕の前にイントロダクションでもあって、さらにあのあと、第二部、第三部で、悪魔《サタン》の手におちて鷺の姿にかえられた、あの哀れにも美しい娘を救う、「白鳥の湖」でオデット姫をすくう「ジークフリート役」に相当する男性が出てきて、最後には、その勇気、愛の力、乃至《ないし》は神の奇跡──日本ならホトケの功力《くりき》か──によってあの娘は救われ、その男性とむすばれて大団円となるのだ。そうだろう?  私がいくら、あの踊りは「あれだけで、あれで終りだ」と、口を酸っぱくして説明しても、ハンスはなかなか納得しなかった。──つまり、昔の「原作」にはあったが、今はほかの幕の台本は失われてしまって、あの幕だけがのこっている、というわけか?  ちがう──と首をふったものの、そこらへんになると段々私もあやしくなって来た。──「鷺娘」は、宝暦のころ、江戸市村座で「|残 雪《のこんのゆき》 ※《かついろ》曽我」の二番目で初演された「|柳 雛 緒 鳥 囀《やなぎにひなしよちようのさえずり》」という「五変化物」の一|齣《こま》がのこったもの、と歌舞伎関係の書物で読んだ記憶があるから、ほかにたしかに四つの「変化」がついていたのだろう。しかし、それが「鷺娘」と何らかのつながりをもっていたのかどうか、門外漢の私には、まるで自信がなかった。  その自信のぐらつきを敏感に感じとったらしいハンスは、実際はあるのだが、|君が《ヽヽ》知らないだけではないか、などと言い出す始末だった。──あとで知ったのだが、母方にユダヤ系がはいっている、という彼は、こういう議論になると、閉口するぐらい執拗だった。  アルコールでめんどうくさくなったせいもあって、少々腹にすえかねて、いや、間ちがいない、絶対にあの踊りはあれ|だけ《ヽヽ》で、あれで完成品だ。賭けてもいい、とつよく断言すると、彼ははじめて追究から驚愕《きようがく》の表情にかわって、しばし絶句していた。 「とすると──|本当に《ヽヽヽ》、あの踊りはあれで終りなのかね?」と彼は困惑した表情でつぶやいた。「あの哀れな鳥になった娘は……悪魔《サタン》のもとで苦しめられるばかりで──あの劇《ドラマ》には、ついに、救済《ヽヽ》はないのかね?」  |救  済《サルヴエーシヨン》……という言葉をきいた時、私自身も、ハンスのものの見方と自分のそれとの、「基本的な食いちがい」の構造が、少しわかりかけてきたような気がした。 「で──君たち日本人は……あれで満足しているわけかね? 悪魔《サタン》にとらえられて、鳥にかえられた哀れな娘が、ある時間だけ人間の姿にかえる。そして人間であった時の楽しかった思い出にふけるが、また鳥の姿にかえられ、悪魔《サタン》のもとで獄卒どもに地獄の苦しみを与えられる──日本人の観客は、その苦しみを見る|だけ《ヽヽ》で満足しているのかね? そこに�美�を見出すというのなら、それじゃまるで……|サジズム《ヽヽヽヽ》じゃないか! 哀れと思ったら、救ってやろう、という気を、誰も起さないのか? 何百年も日本人の観客があれを見ていて、あのドラマは、あれ|だけ《ヽヽ》ではいけない、何とかもっと美しく、正しい�解決�をつけくわえなければいけない、と、誰一人として考えなかったのか?」  私はもうほとんど論争を放棄していた。──今さらギリシャ悲劇の浄化作用《カタルシス》理論をひき出して、「ドラマの中での解決」と「観客のうけとめ方」の次元のちがいを云々《うんぬん》してみてもはじまらなかった。閻魔《えんま》大王と、キリスト教世界の悪魔《サタン》では、同じ地獄の主でもまるきり性格がちがう、といった所からとき起しても、話はきりがなさそうだった。ハンスの頭の中には、同じ白鳥伝説をもとにしているとはいえ、あのバレエ「白鳥の湖」のパターンが──魔法使いロートバルトによって白鳥の姿にかえられた美しいオデット姫と、王子ジークフリートが恋におち、王子は魔法使いの奸計でその娘オディールと結婚させられ、ついに湖にひきずりこまれ、オデットもあとを追って投身するが、|二人の愛の力で《ヽヽヽヽヽヽヽ》魔法が破れ、二人は結ばれる、といったパターンがしみついてしまっているようだった。私たち日本人の眼から見れば、奸計と誤解による悲劇的なカタストロフのあと、突如「二人の愛によって」ハッピー・エンドが訪れる、という解決は、いかにもとってつけたように唐突な感じがするのだが……。  しかし、神々の黄金時代の終りに夏のない冬の連続がはじまって、日月も怪物にのまれ、人間は血族が殺しあい、鎖につながれた怪物が暴れはじめて、ついに神々も怪物も、最終戦争を闘って、すべてともだおれに死に、世界は終末をむかえる、という北欧神話の「|世界の終末《ラクナレク》」──いわゆる「|神々の黄昏《ゲツターデンメルンク》」の暗い世界には、絶望的なカタストロフのあとに唐突に訪れる「光・救済・復活」といったものが、|どうしても《ヽヽヽヽヽ》必要なのであろう。──もともと北欧神話自体がこういう構造をもっており、それは東方ゾロアスター教に最初の完成を見る以前、ゲルマンをふくむ、印欧語族が共通にもっていた「世界観」らしいのだが……近世にはいってからは、アルプスをこえてもたらされたキリスト教が継ぎ木された形で、その「光」となったのだろう。それでも、キルケゴールからバルト、ベルイマンにいたる北欧プロテスタンティズムの世界は、なおそれ自体として、絶望的な「神の不在の暗黒」への傾斜をもっている……。  とにかく、これは「正義」の問題ではない。神との「契約」によって、神の側に立ち、「正義」のために「悪」と闘い、その事によってこの世界も「義人」も最終的な「救済」をうける、という構造と、「苦」を知り「悲」を見る事によつて「無常」をさとり、その事によって「解脱」へむかうという構造は、そもそも根本的にちがうのだ、と言いたかったが、その場で言っても詮ない事のような感じがした。──それにしても、ふだん何という事なしに「鷺娘」は「鷺娘」、「白鳥の湖」は「白鳥の湖」と、それぞれに見て何の不思議も感じなかった事が、今一方から他方が「告発」されると、おそろしく厄介な事が持ち上るものである。おそらく終戦直後、米軍の「占領行政」に直面した時、当時の双方の責任者が、とりわけ日本の責任者が感じたであろう困惑と、同じような困惑が、私の心をみたしていた。 「そうだ、わかったぞ!」突然卓をたたいて、ハンスはまわりの客がふりかえるような大声で叫んだ。「彼女《ヽヽ》の──トキコの中にあった得体の知れない影が……彼女の�謎�がやっとわかった。トキコのオデット姫が、終幕の喜びの場面で、なぜあんな不思議な|かげり《ヽヽヽ》を見せたのか……。彼女は……白鳥を踊っていたが、実際は白鳥《スワン》じゃなくて鷺《ヘロン》だったんだ。白鳥《スワン》のふりをしていた|白  鷺《スノウイ・ヘロン》……サギムスメだったんだ……」  ハンスは興奮のあまり、半分腰をうかしていた。──驚いた事に、その眼には、うっすらと涙がうかんでいた。 「彼女は……内部に、何か……�地獄�のようなものを抱きながら、救済を拒否していたんだ。いや、救済というものが、あるという事も知らなかったんだ。彼女の育った日本の文化の中に、もともと欠落していたんだから……」 「で、どうしようというんだ?──君たち、ユーロピアン�ジークフリート�が|救  済《サルヴエーシヨン》を輸入してやろうというのか?」  わざと皮肉に言って、私はトイレへ立った。──歩きながら、「悟り」や「解脱」を「自己救済」と訳して、彼に通じるだろうか、と考えていた。トイレに立ったついでに、予約してあったお茶屋に電話してみると、 「もう先から二人、待ってはりますけど……」と困ったようなおかみの返事がかえってきた。「あとからおくれて、もう一人来やはります、……あんさんのお座敷、はじめてやと思いますわ。きれいな人どっせ……」 「すぐ行く」と私はいった。「あのでかいのを連れて行くから、おどろかないでくれ」  まだ人通りの多い夜の祇園を歩いて行くと、夜気に少しは頭も冷えたのだろう。 「さっきはすまなかった……。興奮して……」  とハンスは低い声でいった。  お茶屋の玄関をあけると、待ちうけていた女たちが、ハンスの巨|躯《く》を見て、ひゃあ、と一様に驚きの声をあげた。鴨居《かもい》、気いつけとくれやす、階段こわれへんやろか、と一しきりにぎやかに二階へあがって座敷におさまると、顔なじみの芸者と舞妓が、今晩は、大きに、と顔を出して、さっそく酒になった。  でかい手の中で、豆粒ほどに見える白磁の盃に酒をついでもらいながら、ハンスは好奇心にみちた眼で、妓《おんな》たちを見くらべ、 「彼女たちも、鷺《ヘロン》かね?」  と英語でいった。 「どこかの国の女性が、ゲイシャガールがいるかぎり、日本の女性は解放されていない、とジャーナリズムで発言していたがね……」私は盃をふくみながらいった。「君はすくなくとも学者なんだから、性急で皮相な断定はさけてくれ──。ゆっくり、この国の社会と、|こころ《ヽヽヽ》を見る事だな」  その時、襖《ふすま》の外で衣ずれの音がとまって、襖があくと同時に、かすかに浅葱《あさぎ》がかった白っぽいお座敷着のほっそりした姿が、今晩は、大きに、と頭を下げた。──顔をあげると、細|面《おもて》の、目もとのすずしい、二十六、七の女性《ひと》だった。  美しい、というだけでなく、その顔を一目見たとたん、なぜか、ぐい、と鳩尾《みぞおち》をはげしくつかれたような感じがして、思わず盃の酒をこぼしていた。──次の瞬間、はっとして、反射的にハンスの方を見ると、彼は眼の玉をとび出しそうにむき出し、口をあんぐりあけていた。宙にとまった手から、白磁の盃がすべりおち、テーブルの上でわれた。  とたんにテーブルの上全体がガチャガチャッとはげしい音をたてて、何も彼もぶちまけられそうになり、座敷全体がゆさゆさゆれた。ガン、というにぶい音と、柱か鴨居がミシッと鳴る音がきこえた。ちがい棚を背にしていたハンスが、とび上らんばかりの勢いで立ち上った拍子に、頭を袋戸棚の角か何かにぶつけたのだった。──きゃあ、と女たちは悲鳴をあげた。 「|トキコ《ヽヽヽ》……」ハンスはしわがれた声でやっといった。「君は……どうしてこんな所に……」 「待て、ハンス!」その巨体でテーブルをとびこえて、敷居際の女性に突進しそうな気配を察して、私は中腰になって彼の上衣の裾をつかんだ。「よく見ろ。この人はちがう」 「あの、ひょっとしたら……」ちょっとびっくりしたように、大きな眼を見開いてハンスの顔を見ていたその芸妓は、やがてしげしげと眺めるように首をかしげ、おちついた声でいった。「あの、ハンスさん、とかおっしゃるお方と……」 「君は──やっぱり彼を知ってるのか?」  私は呆然として、その日列車の中でハンスに見せてもらった写真そっくりの女性にきいた。 「へえ……お写真で拝見しました」と、その芸妓《ひと》は、細い頤《あご》をうなずかせていった。「妹《ヽ》とごいっしょにうつってはりましたわ……」 「じゃ、とき子さんというのは、妹さん?」  私はハンスの上衣をつかんだままたたみかけてきいた。「すると、あんたの本名も、やっぱり白鳥……」 「いえ、白鳥は妹のもらわれて行った先の名どす」 「わかったか、ハンス……」私は巨木のようにつったっているハンスの上衣を、もう一度力をこめてひっぱった。「まあ坐れ」  奇遇といっても、これだけやたらにかさなると、もう縁だのどうだのという事もない、という気になってくる。彼女──仮に源氏名を鷺勇とでもしておこう──と白鳥とき子が、双生児(といっても二卵性で、だからこそ、似ているといっても、一瞬あとに見わけもついたのだが)だったときいても、もう大して驚かなかった。──しかし、ハンスの方は、まだショックがさめやらぬと見え、ポケットから、彼の�白鳥�の写真を出してきて、不思議そうに見くらべていた。  気をきかして、二人の妓は姿を消し、鷺勇だけがぽつり、ぽつりと語ってくれた。二人の母も、色街上りで、ひかされて二人をうんだが、二人がまだ幼い時死んだ。若い男と、旦那をうらぎっての心中だったそうだ。薄倖の姉妹の、妹は旦那の筋へ、姉はお茶屋に養女にもらわれた。  この六月、鷺勇の所へ、妹がたずねて来たときくと、ハンスは窮屈そうに正坐して身をのり出した。 「で、トキコは今どこにいますか?」と彼は日本語でいった。「あいたいのです! 愛しています!」 「へえ……それはもう、妹から泊って行った晩にようきかされましたけど……」と言って鷺勇は困ったように眼を伏せた。「……あの子も、おたくの事を好きなんやいうてました。そやけど──いる所、ちょっとお教えするわけに行きまへんのどす。あの子──実は、お迎えの準備に、お山へはいりましたんどす」 「なんだって?」私はさすがに盃をおいた。「じゃ……妹さんは……」 「そうどす。六月の時も、おわかれに来てくれはったんどす──」鷺勇はほっとうすい肩をおとして息をついた。「あの子はうちとちごうて、もらわれて行った先がようて、学校へもやってもらい、好きなバレエも、存分にやらしてもらってたんどすけど……三年、いえもう四年になりますか……一度たおれて──すぐ持ちなおしたんですけど、何やなおらん病気にかかったとかで、……血の……」  といいかけて鷺勇は眼を伏せて口をつぐんだ。──うっ、と嗚咽《おえつ》するように、その細い肩がしゃくられた。──もどかしげに説明をもとめる目つきをするハンスに、私は英語で手短かに説明した。白鳥とき子は、自分から進んで尼になった。死をむかえる心の準備をするために……。病気はよくわからんが、おそらく白血病──血液の癌《がん》だ。 「白血病だと? そんな体で──プリマをやってたのか?」ほえるような声でハンスはいった。 「そういえば、バレエ団の方でも貧血でやめた、と言っていた。だが、なぜ──なぜおれにその事を言ってくれないんだ。ヨーロッパには多い病気で、それだけに治療も……」 「国内でも手をつくしたそうだ……」ききとりにくい鷺勇の涙声の京都弁を私は通訳した。「ヨーロッパへも、もともと治療のために行って……それがはかばかしくなくて……とうとう保養先をぬけ出して……」  パリで女一人、小さなバレエ団へはいって好きな道へうちこんだ。──日本で、恋愛から婚約へすすんでいた仲も解消して……。パリでも多くの男たちと関係があったが、最後に北欧のジークフリート、ハンスがあらわれた。そして……やがて体調の悪化をさとって……。 「でも、まだ生きてるんでしょう……」ハンスは手をもみしだくようにして言った。「居所を教えてください。たとえ九〇パーセントまで絶望でも、科学的治療をこばんで、死んで行くなんて、それは自殺だ。──あなた、妹さんの自殺を知ってとめないんですか? 教えてください。どうしても、一目でもいいから会いたい。会って……説得します」 「いいえ、どなたにもお教えするわけに行きまへん。──姉妹《きようだい》の約束どっさかい……」鷺勇はうつむいたまま首をふった。「えろう悪うなったら、お寺の方で入院させはりまっしゃろ。事情はよう知っておいやすから……。どっち道、妹は出家しましたんどっさかい。どうぞそっとしといてやっておくれやす──もうあの子はおたくらとは、別の世界の人間どす……」  ウオッ、と吼《ほ》えるように叫んでハンスは卓につっぷした。──外人が大声で、手ばなしで泣くのは、はじめて見た。鷺勇も畳につっぷして泣いていたが、私一人、独酌で、ついでは飲みついでは飲みしていた。  どうする、ハンス、北方のジークフリート……と私は飲みながら、肩をふるわしている巨漢に胸の中で語りかけた。──「救済」はたしかに雄々しく正しい思想だ。だが傲慢《ごうまん》からくる自己|欺瞞《ぎまん》を避けるかぎり、人はいずれ自分の無力さをさとらされる。個人にできる救済はたかが知れており、悲惨はあまりに多い。未来における救済を約しても、今、ここに、眼前にあってほろんで行く悲惨はどうにもならない。──君たちの世界では、その時、強引に死後《ヽヽ》の彼岸にまで、「救済」を仮構し辻つまをあわせた。しかし、東には、死後の世界などはなく、「彼岸」も「救済」も、むしろ、生きているもの一人一人の心の中にしかない事をさとった精神があった。人の世の悲苦を見、「無常」をさとり、無常に対する自己の「無力」をさとる事によって、人の世で、真の意味で自分の力で救えるものはただ一人、自分自身《ヽヽヽヽ》だけしかいないのだと悟る方向をえらんだ精神が……。したがって、あの「鷺娘」は、その|ドラマの中での救済《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》など必要としないのだ。見るものに、美しいものの背後にある悲苦を見せ、「無常」をさとらせ、見るものの心の中に、救済へとむかわせるきっかけをつくり出せば、それでいいのだ。だからこそ身を業火の責苦にさらして、無常の姿をあらわして見せてくれる美しいものの存在は、かぎりなく尚《とうと》く美しく、「芸」として尚ぶ価値があるのだ。自己の無力を徹底的に悟り、自己救済への道を歩み出した上で、なお「社会的行為としての救済行動」は──ひょっとしたら自己救済のために必要なプロセスとして──つづけられるだろう。君たちが「死の彼岸での救済」を信じて、かぎりある「現実的救済」に力をそそぐように……。だがそれは、──「現実的救済」は、死の彼方に仮構されるにせよ、己れの心の中に見るにせよ「彼岸」のそれとは別次元のものだ……。  そんな事を語りたいと思いながら、口に出すのも物憂いので、ただだまって盃をかさねた。──いつの間にか外に降り出した時雨《しぐれ》の音に耳をかたむけながら……。  ハンスとはその後、三カ月ほどの間に二度ほどあった。──その時はもう憑《つ》き物がおちたように、おちついた、しずかな態度になっていた。京都のあちこちの大学の研究室に知己もでき、下鴨あたりにおちついて、彼の研究も、次第に形をとりはじめているように見えた。  だが、年をこえて厳寒二月の雪の降る日、京都の飲屋であった共通の知人から、彼が坊主になってしまった、というニュースをきかされた。──その知人たちと三、四人で、琵琶湖畔に雪の降る日に、堅田あたりに雪見としゃれこんだ時、暗い湖面に降りしきる雪を見ながら酒を飲んでいるうちに、突然坊主になるといい出し、 「そのままほんまに寺へはいってしまいよってん……」と知人は呆《あき》れたようにいった。「ほんまに外人というやつは、ようわからん」  しかし、私には彼の動機がわかったような気がして、胸をつかれた。──湖岸に降る雪を見ているうちに、彼は彼自身の「白鳥」が忘れられない事を悟ったのだ。僧になれば、仏門の組織を通じて、尼となった女性の消息もわかるだろうと思ったのか、それとも逆に、仏門の世界にみずからの心を投じる事によって、彼にとってなお不可解な所をのこす、愛人の魂の理解に一歩でも近づこうとしたのか。──いずれにしても、巨漢「北方のジークフリート」は、東洋の可憐な「鷺娘」をなお追い求めつづけているのである。諸民族の「魂の地図」をつくる、という彼の意図によって、これは必要な一つの道程なのか、それともミイラ取りがミイラになったのか……。  どっち道、もう少しあたたかくなって、彼が彼なりにおちついたと思われるころ、一度入信したという寺に、彼を訪ねて見てやろう、と私は思った。そして、その時は二人で──鷺勇に案内させて──彼女《ヽヽ》にあいに行ってもいい。仏門にはいったなら、石塔となった彼女を訪れても、それなりの心がまえはできているだろうから……。  そう思いながら、私は、今、湖畔のどこかで、降りしきる雪をその頂《いただき》につもらせているにちがいない、小さな、ま新しい一羽の「鷺娘」の墓にむかって、心に回向《えこう》を思いつつ、そっと盃をあげた。 [#改ページ]   蚊 帳 の 外    ──「お直し」変奏曲──     一 「親方……」  土手の釣小屋のわきの暗がりから、しわがれた、陰気な声がかかった。 「ご機嫌ですね、親方……どうですい?」  ぎょっ、とした。──声の主は、いつの間にか影法師のようにうっそりと、横にすりよって、肩ごしに、背後からのぞきこむようにしている。 「おどかすねえ」わざと突慳貪《つつけんどん》に肩をそびやかして「何がどうなんでい……」  ひっ、ひっ、というような、笑っているような、咳きこむような音を、男はのどでたてた。 「野暮はいいっこなし……親方……」 「その野暮用で急いでるんだ」ならんで歩き出した男を、肩をふってはらうように、 「あばよ、あさって会おうぜ」 「もうおそうござんすよ」男は、あいかわらず影のようにふわふわついてくる。「野暮用なんざ明日《あす》になさいまし、親方……。上等《まぶ》い玉ですぜ。のぞいて御損はありやせん。自分で言っちゃあ何だが、わっちに甲斐性がありゃあ、お蚕ぐるみの人形あつかいさ、樟脳つめた箱におしこんで、日にも雨風にも当てやあしません……」  お、とふりかえった。 「おつう気障《きざ》な事を言うじゃあねえか。──もとは何だ? 御守殿か? 箱入りをたぶらかしたか?」 「そんなんじゃねえんで……、もとはやっぱり|それ《ヽヽ》者上りですが……、玉はうけあいまさ。なんしろ、わっちの女《いろ》で……」  それでにわかに虫が動いた。──歩みをゆるめながらふところのべとつく手拭をとり出して、頸筋から顎へかけて、やけっぱちにこすった。 「ごうてきに蒸すじゃあねえか……」 「妙な陽気ですねえ……」男はうつむいてぼそぼそ口の中でつぶやいた。「降るなら降りゃあいいのに……ただ毎日うっとうしいばかりで……」  橋が近づいて来て、常夜灯の明りがぼんやり見える。袂に柳があって、白い手拭をかぶって薦《こも》を持った女が立っている。ちかづくと、 「ちゅっ」  とねずみ鳴きして、ぷん、と垢のにおうような体をすりよせてきて骨ばった脂っ手で手首をつかんだ。 「あすんどいでよ。ちょっと……、いい目させたげるからさ……」 「おきゃあがれ。まだ若《わけ》えんだ。鼻が惜しいや」 「なに言ってんだい。わっちの体ときたらきれいなもんだよ、──よう、話すだけでもいいんだからさあ……」 「はなさねえか、手がくさらあ……」邪慳に手をはらって「急いでんだよ。わからねえか。連れがいるんだ。二人とも吉原《なか》にいいのがいてな、今から大びけにかけつけるんだから……」 「うめえこと言って、どこに連れがいるんだい?」 「何でえ、見えねえのか? もうつぶれてんのか?──あそんでけもすさまじいや。見ろい、蛍《ほたる》がおめえの毒にあたっておっこってらあ……」 「なにぬかしやがんだい。おけら、かさっかき、あんけらそう、ひょうろく玉、どぶにはまって脚でも折って死んじまえ!」  臭い息と一緒に、生唾《なまつば》のはねっかえりそうな勢いで毒づかれて、鼻の頭をしかめて、ふっふっと息をふいた。 「ひでえ化《ば》け物《もん》だ……」顔の前を手ではらいながら傍をふりかえった。「こう蒸しちゃあ、客もつくめえ……」  男はまた、笑うのか咳きこむのか、うすい肩を、ひっ、ひっ、とゆすった。──こいつ、癆咳《ろうがい》かも知れねえ、と、少しうすきみ悪くなって、横眼で見た。──影のうすい野郎だ……。男はうつむいて、足音をほとんどたてずに歩いている。鬢《びん》がばらばらにほつれて常夜灯のそばを通る時、げっそりそげた頬が明りに深い影をつくった。  川向うは田圃《たんぼ》で、ぐげぐげぐげぐげ田一ぱいに鳴きたてる蛙の声が、川音もきこえないほどやかましく、暑苦しい夜を一層いらだたしくしている。──橋の所で、男は土手をおりる。土手下は、藪《やぶ》と、灯も洩れないつぶれかけた長屋の棟が二むら三むら空あかりの下に見え、闇は一層重っ苦しく澱《よど》んでいる。 「見るだけかも知れねえぜ」  先に行く男の背中に、思いついたように声をかけた。 「この所ついてねえんだ」 「二百ぽっきりです……」男の声はくぐもってきこえる。「こっちもここンとこ、客がねえんです。直してくれ、なんて、言いやしやせんから……蹴転《けころ》の相場です。二百やっておくんなさい。そのかわり……」  男は、ちょっとむせぶように喉を鳴らした。 「もし気に入ったら……どうか明日の晩も来てやっておくんなせえ……」  土手下の、あちこちぬかるんだ道を、あちらに曲り、こちらに曲り、藪横をまわると、どろりとした、どぶ泥のような、臭い闇とむきあっていた。 「う、ぷっ!」  息を吹いて、顔前でやけに手をふりまわした。 「こいつあいけねえや。止《よ》しにするぜ──本所深川蚊の名所ってとこに三年住んだんだ。洲崎や砂村にだっていたが、それどこじゃあねえ。こんなすげえ蚊じゃ、食いころされらあ……」 「でえじょうぶでげすよ、親方……」男は鼻をつままれてもわからないような闇の中で、かすかに笑った。「蚊帳がありまさ。ここじゃ商売道具です。客人にかゆい思いをさせるようなまねはしやしません」  それにしてもすごい蚊だ。闇の中から、ぶうん、わあんと音をたてて、頬と言わず、腕と言わず、脛《すね》と言わず、豆火をおっつけるように食いついてくる。 「こちらで……親方……」  がたがた戸をくる音がして、闇の中に細長く明りがさした。──三軒長屋の奥の一軒、あとは無住か留守か、人のいる気配がない。  ひょいと戸のむこうをのぞきこんだとたん、ぽかんと口が開きっぱなしになった。 「あれが?」蚊をたたくのも忘れて、かすれ声で言った。「本当に、二百ぽっきりでいいのかい?」 「舌は一枚っきゃありやしません。……」男は肩をおし、中へ向って言った。「お客だよ……」  畳のあるのが一間しかないその六畳間、釣環を一つはずした白麻の蚊帳の中で、女はこちらをむいて笑った。──年齢《とし》は二十七か八、面長で、眼もとに険があって、ちょっと受け口だが、有明行灯《ありあけ》の光の中で蚊帳ごしに見た顔は、汗がすっとひくほどの凄艶さだった。紺地に桔梗《ききよう》をぬいたよれよれの浴衣をしどけなく着て、伊達巻《だてまき》をぐるぐる巻きつけ、髪のほつれをなであげた時、白陶のような二の腕が、ぼんやりした有明の灯の中でさえ、眼にしみるようだった。  いつ手をとられて上りこんだのかおぼえがない。じた、じたと足の裏に吸いつくぶよぶよの畳の上でぬるっとしたものをふみつけて、わっ、と声をあげてわれに返った。 「あ、なめくじふまねえように気をつけとくれよ……」女は染めてない歯をちらと光らせて笑った。「ここのなめくじは食いつくよ」 「くだらねえものを飼っておかねえもんだ。気色|悪《わり》い……」  かたむいた梁《はり》の上の壁の破れから、むくむくした鼠が出て来て、ぞろりと長押《なげし》へはう。──じっとり湿気を吸った木綿の蒲団《ふとん》の上に、これは意外にさっぱりした麻の葉模様の夏蒲団がまるまっている。蚊帳裾から手をのばして、蚊やりのくすべてある火消し壺をひきこんで一服吸いつけ、やっとおちついた。  女ははずしてあった釣環を釣手にかけ、有明の火を、油の染《し》みた観世縒《かんぜより》にうつして、蚊帳にはいって来た。中腰になって、蚊帳地にとまっている蚊をやく。──ちりっ、と、時には小さな烟《けむり》になっておちる蚊を、鼻先にむんむん女の臭いのする腰をふりまわされながら、ぼんやり見ていた。  蚊をやきおわった女は、紙縒《こより》を火消し壺にほうりこむと、横にぺったり腰をおとして、ほっ、と息をついた。 「むすじゃないかね」女は顔をよせるようにしてにっこり笑った。「よくおいでだね」  ちかくで見ると一層いい女だった。──青みがかった肌が白蝋《はくろう》のようなぬめりをおび、浴衣の紺が染めつきそうだ。はだけた胸もとから半分のぞく両の乳房も、ぴんとしてたるみがない。 「いい女ってのは、見てるだけで涼しくなるもんだな」照れかくしに煙管《きせる》をやけにたたいて「汗だって、ひっこんじまわあ。──夢みてえだ」 「おや、口がうまいよ、この人。それで女を何人も殺したろ」  女はきゅっと太腿《ふともも》をつねり、こちらは大仰に痛がってみせる。 「ごゆっくり……」  男は、陰気な、くぐもった声で言って、戸のないつづきの板の間に、背を見せてすわった。 「なんでえ。あいつはあそこにいるのか?」  うすい背が、それでも気になった。「屏風《びようぶ》もねえのかい」 「そんなものあるもんかね。戸襖《とぶすま》も屏風も、冬場焚きつけにしちまったよ」女は伊達巻をしゅっと音をたててといた。「気にするこたあねえやな。──ありゃあぬけがらみてえなもんだから……」 「じゃ、有明をよ……」 「やだよ、この人ァ……」船形枕《ふながたまくら》をひきつけて、体をたおしながら鼻で笑った。「餓鬼じゃああるめえし、あいつだって背中に眼のあるわけじゃねえわさ」  すっと股倉へ繊手がのびると、細い美しい眉をちょいとしかめ、 「褌《ふんどし》が汗でぐしょぐしょだがな。みんなはずしちまいな」 「せめて、この蚊やりを……」こちらはまだ次の間を気にしておたおたしながら、女に手をひかれてたおれかかった。「風も通らねえあそこじゃ、蚊がすごくって、熱を出すぜ」 「うっちゃっときなってば、あんなやつ……」  浴衣の裾をわって、絖《ぬめ》のように光る片腿が宙におどると、女は男を股にはさんで、ごろりとあおむけになった。──そうなってしまえばこちらも、意馬心猿《いばしんえん》で、片手はしごきをひきぬき、もう一方はまぶしいような胸を一ぱいにはだけ、玉虫色の唇に吸いついて行く。 「ここのところ、こっちも客ひでり、男ひでりでね。──商売気はなれてつとめるからさ、お前さんもたっぷりかわいがっとくれよ」  女は嘘でなしに、息をあららげながら身をもみ、腰をすりつけてきた。──言われなくたって、はなからかっかとしていた身、前おきぬきで、いきなりつっかけかかった時、──ふと、蚊帳の裾に、しみか汚れとも見えるぼんやりうす黒いものが眼につき、思わずぎょっとした。 「な、なんでえ……妙な蚊帳だな……」つい腰がとまって、「いくら夏のもんだって、髑髏《されこうべ》の裾模様たあ、悪洒落《わるじやれ》すぎらあ。寺のおさがりか?」 「そんな事知るもんかね。あいつがどっかから持って来たんだろうさ。そんな事より、さ、早く……」  女は焦《じ》れて、自分から手をのばし、むずとにぎってあてがった。──こちらもそうなれば、あとは夢中……。もみあう男女の横で、白麻に薄墨で描かれた野ざらし三つ、すすきの陰から、うつろな眼で、じっと痴態を見つめていた。  汗みずくになって、腹ばいのまま一息つくと、蚊帳の外で、ぴしゃっ、ぴしゃっ、と蚊をつぶす音がする。──動悸がおさまってくると、一重の麻布のすぐ外に、わあん、ぷうん、と蚊が鳴きたてる音がきこえてくる。その声をきくと、体の芯が、ぞくぞくっとむずがゆく寒くなって、思わず口がゆがむ。隣が藪なので、黒白だんだらの、獰猛《どうもう》な藪っ蚊がまじっていて、そいつがあの男を……と思うと、こちらまで肌がかゆくなりそうだ。  ふと──  蚊の鳴く声にまじって、それこそ蚊の翅音《はおと》よりかぼそく、歌がきこえてきた。   ※[#歌記号]お前待ち待ち、蚊帳の外……    蚊に食われ……  合間に、ひっ、と嗚咽《おえつ》のようにのどが鳴る。 「あいつ……泣いてるんじゃねえのか?」  口をゆがめて、手拭で首にねっとりはりつく汗をぬぐいながら、聞き耳をたてた。 「ありゃあ癆咳か? 喘息《ぜんそく》でも……」 「なぜあんな野郎の事、いちいち気にすンだよ!」女は癇《かん》をたてたように脚をばたばたさせて黄色い声でわめく。「癆咳だろうが喘息だろうが、蚊に食いころされようが、こちとら知ったこっちゃねえよ。のどでもついてとっととくたばっちまえばいいんだ」 「ひでえ事を言うぜ」さすがに鼻白んで「おめえの情人《いろ》だろう?」 「情人《いろ》だって? 誰があんなやつ……」女は枕もとからもう一度小菊をとって、口で吸いつけながら吐き出すようにいう。「昔はともかく、今のおいらをこんな所にひきずりこんだ野郎が……それよりお前さん……」  始末しかけて、また味な気になったか、光る眼で流し眼くれて、しなだれかかってきた。 「も一度しゃっきりならねえかい? わっちはまだなのにさ。よう、自分ばかりでなく、こっちも埒《らち》をあけとくれよ」 「そっちが直すのか」呆れつつも悪い気はしないから、また脚をからめて行き、「ほんとに二百でいいのかい?」 「きまりでいいんだよ。そのかわり……」女は胸の谷間の汗を男の胸にこすりつけながら、熱い声でささやいた。「明日の晩も来ておくれな。ねえ、きっとだよ……」     二 「兄哥《あにい》……」  たてかけた葭簀《よしず》の陰に首をつっこむと、心太《ところてん》をすすっていた男は、ちょっとあわてたように、鉢を床几《しようぎ》においた。──むかいあってすすっていた洗い髪の大年増が、すっと店の奥の方に体をむける。 「半公か……何でえその顔つきは……。暑気あたりか? 死人《しびと》みてえだぞ」 「へっへ」と無意味に鬢を掻いて「今、お宅へ顔を出したんですがね。用事のかえりに、明神へまわるって姐《ねえ》さんが言ってたんで、てっきり……と思って大分かけずりまわったんですが、……まさか心太食ってるとは……」 「男が心太食っちゃ悪いか」  中ッ腹の顔つきで立ち上って、代金を床几に投げ出す。──二人分でまだ釣りがくるぐらいだ、と、眼を走らすのを、むこうも気がついて一層しぶい顔になって、 「さあ出よう。──それとも何か? お前も心太くうか?」 「いえ、いいんで……」押されるように外へ出ながら、眼はきょろきょろと葭簀の奥をうかがう。 「兄哥、お連れは……」 「いいんだ。人の事ぁほっとけ……」空一面のうっとうしい雲ごしにさす薄日に、たちまちふき出す汗を舌打ちしながら手ぬぐいでぬぐって、献灯の脇で立ちどまり、「ところで何の用だ?」 「へえ、兄哥にゃすっかりごぶさたしちまって……その上不義理のかけっぱなしで……」 「こんな所で、無沙汰のあいさつする奴があるか。不義理だって、お前なんかにかえしてもらおうたあ思ってねえ。用は何だ、てえんだよ。金か?」 「図星!」と額をぴしゃりたたいて、「やっぱ、兄哥は察しがいいや。この所、どこへまわってもちっとも目が出ねえんで……」 「嘘をつきやがれ。おめえ、このごろどこの賭場《とば》へもちっとも顔を出してねえだろう。──仲間うちでも、あまり見かけねえってんで、ちょっと気になって、おめえにむいていそうな、けちな賭場までききあわしたが、影もささねえって話だ。博奕《ばくち》じゃなかったら何だ? 女か?」 「兄貴にかかっちゃ、何も彼もお見通しだ……。めずらしくもててるんですが、御金蔵が底をついて、今夜あいに行く金もねえんで……」襟っ首に手をやって、首をすくめ「ま、今のあだっぽいのはともかく、せめて爪ほどでも兄貴にあやかりたいと、常々願ってましたら……」 「何を言やがる」  苦笑しながらも、懐ろから紙入れをひき出していた。 「どうせ素人じゃあるめえが、妙な深間にはまるなよ。──どこだ? 吉原《なか》か? 奥山か?」 「そんな……」めっそうな、と壁をぬる手つきになって「あんな所ァ、たとえ切見世だって、あっしから見りゃあ分限者の行く所だ。兄哥のような……」 「お土砂をかけたって、今ぁきかねえぞ」  小粒を出して、ちょっと惜しそうに首をひねったが、ええ、ままよ、という顔つきで下から出てくる掌におしつけた。──こちらは大仰にとび上って見せ、二、三度米つきばったをくりかえして、ほくほく顔で懐ろにする。 「岡場所でも、このごろは滅法な玉がちょいちょい出るってえが、あんまり安物にひっかかって鼻をおとすな。──どっちの方だ?」 「へえ、そのう……艮《うしとら》の方で……」 「鬼門じゃあねえか」ぷっと吹き出して「まさか夜鷹《よたか》だ、船饅頭《ふなまんじゆう》だってんじゃねえだろうな。お前の顔色とやつれ方、この温気《うんき》つづきにしても、どうも気に食わねえ」 「夜鷹だなんて、いくらあっしがげて物食いだって、二八に入れあげるなんて……」 「じゃあ何だ?」 「へえ……蹴転で……。それもどうやら情人《いろ》同士で組んでるらしい、豪気にいい女で……」 「情人《いろ》同士?──駈落ちもンや足ぬきじゃあるめえな……」先にたって、少し足を早めながら、肩ごしに言った。「岡場所だろうが夜鷹だろうが、知られてる所はいいやな。何かあったって、それはそれで仲間内の取締りてえのがあって、筋を通せば、話もつく。だがよ、かくれてこそこそやってるのは、気をつけた方がいいぜ。──二年ほど前《めえ》に、ほれ……といっても、あン時やあ、お前がしくじって親方ン所を随徳寺をきめこんで、飯能《はんのう》在へ行ってたんだから知るめえが……やっぱり、品川の女を足ぬけさせた野郎が、おちぶれて女に蹴転をさせていてよ、病持ちになってから、女は邪慳にする、野郎は嫉妬《やきもち》がひどくなるで、とうとう客といちゃついてる最中、女と客を刺し殺して、自分も胸をつきやがった……。きいてんのかよ、おい……」 「へえ……」こちらは、一分もらってもう上の空で「あ、兄哥!──あそこの木の下、さっきのお連れが……」 「大きな声を出すんじゃねえ、びっくりすらあ……」じゃ、これでとずらかりかけた背へ、「今日の所はちょっと急ぐがな。──明日明後日に、家の方へ顔を出せ。その女の話ってのを、よくきかせてみろ。あまり変なのに深入りするんじゃあねえぞ……」     三  蚊のうなりは、今夜も、藪脇の長屋の闇にうずまいていた。  今夜はこれまでより、一層むしあつく、蚊のうなりも一層はげしいようだった。 「よく……よく来てくだせえましたね……」男は、暗がりの中で、感きわまってすすり泣くような声でいった。「ひょっとすると今夜は……来てくれねえんじゃねえかと思って……昼っから気が気じゃなかったんで……何しろ、こんな場所でやすから、つづけて来てもせいぜい三日か四日……七晩つづいたのは、親方がはじめてでさ」 「だけどよ……」蚊を追いながら、彼はつい闇の中で口をとがらせた。「お前《めえ》……いつもおれたちの話をきいてるんだろ」 「へえ……」男は、例によって、ひっ、と喉をならした。「きいていやす」 「それで、あの女は……お前の情人《いろ》なんだろ。お前……惚れてんだろ?」 「惚れていやす……」 「ありゃあ……ひどい女だぜ」 「まったく……ひどい女で……」  もう戸の前についていた。──がたがたあけると、空のはずれで、口こごとのような遠雷が鳴った。どうせ今夜も鳴るばかりで、降りはすまい。 「おう……」男は声をかけた。「親方だ。とうとう来てくだすった……」 「お前さん……」女は蚊帳の中で腰をうかした。「お前さん、本当に来てくれたんだね。──あたしゃうれしいよ……」  今夜の女は、浴衣でなく、水色の総麻の葉しぼりの長襦袢《ながじゆばん》姿で、帯はつけずに蚊帳の中にいた。──その姿は、一層凄艶に、その笑顔は妖《あや》しいまでにかがやいていた。  手をとられて蚊帳にはいりながら、体がふわふわ宙に浮いているような気持だった。 「お前……ほんとうに……」着物をはがれながら、ぼんやり夢見心地で言った。「今夜かぎり、おれの女になってくれるのか?」 「そうともさ。もう金輪際、放しゃしないよ……」女は、妖しく光る眼で、下帯をはずしながら言った。「これからずっと……」 「だけどよ、お前のあの情人《いろ》は……どうするんだ?」 「あいつあもうお役ご免さね、どこへなと行きゃあいいんだ……」 「だけど、あいつあお前に……」  言いかけた口を、女のぬめぬめした唇がふさいだ。帯をしていない長襦袢が、上から下まで割れ、繊手はこちらの股間にのび、ひやりと芯の冷たい肌が、ぴっちりと胸から腹にまで吸いついた。 「今夜はもう……」女ははげしく体をからめながら、火のような息の下からささやいた。「かえしゃしないからね……」  女の体と技巧によって、たちまち絶頂へとおい上げられ、寸前で食いとめられ、また九合目でひきまわされながら、頭の芯が何だかがらんどうになったようで、どこかで別の事を考えていた。  ──おれは、この女に精を吸いとられてるんじゃねえだろうか?──なに、かまやしねえ。こんないい道具を持った、こんないい女なんて、二人といめえ……  蚊帳の外では、今夜は特にはげしく、わんわんと狂ったように蚊が渦まいていた。──背をむけて、ぴしゃり、ぴしゃり、と、いつもより頻繁に蚊をたたいていた男は、とうとうたまりかねたように、立ち上って蚊帳のまわりをぐるぐるまわりはじめた。  へん、ざまあ見やがれ、いくらうろついたって、今夜からこの女はおれの女だぞ──と、女を責め、女に責められながら、胸の底でつぶやいていた。──蚊帳の外で、蚊に苛《さいな》まれながら、自分の情人《いろ》が男と乳くりあっているのをじっときいている。……最初は気になっていたのに、七晩かよううち、いつかそういう男がいる事が、快楽に、ひりひりした背徳や残酷さの味をそえるように感じはじめていた。  男は、蚊においたてられるように蚊帳のまわりをぐるぐるまわりながら、蚊の鳴く声を合の手に、低いかすれた声でうたいはじめた。 [#1字下げ] ※[#歌記号]あら怨《うら》めしやその人の、思い乱るる新枕、誰か解くべき常陸《ひたち》帯…… 「な、なんでえ……」腰を動かしながら、ぎょっとした。「今夜の歌は──�蚊帳道成寺�じゃねえか……」 「おや、よくおわかりだね……」女も下であえぎながら、にっ、と笑った。 [#1字下げ] ※[#歌記号]のう、情けを知らぬ姫君や、たといいずくへ逃げたもうとも、この恋|徒《あだ》になすべきか、思い知らせん腹立ちやと、蚊帳の外をくるくるくる、くるりくるり、くるりくるりと苦しげに、吐《つ》く息は、猛火《みようか》となってこの身を焦がす……  わッ、──と思わず肝をつぶして叫んでいた。  男が突然、血の気のない顔をぬっと蚊帳の上につき出して、すさまじい嫉妬《しつと》に狂った形相でからみあう二人の姿をのぞきこんだのだ。──その両眼は瞋恚《しんい》の炎に、燐火《りんか》の如くめらめらと燃え上った……。  と思った時、いつの間にか、蚊帳の外からのぞきこんでいるのが、|あの男《ヽヽヽ》ではなくて、自分である事に半次は気がついた。──蚊帳の中では、青黒い男の体が、のたうちまわる白い蛇体のような女に木の葉のようにもまれていた。  なんでえ、こりゃあ……と半次はぼんやりうつろな気持で考えた。──いったい、どうなってるんでえ。いつの間に、蚊帳の外へ出たんだ? さっきまで、あの女──|俺の女《ヽヽヽ》の腹の上にいたのに……じゃ、今、あの女とつるんでる野郎は、誰なんでえ……。  突然、はげしい嫉妬の炎がむらむらと燃え上った。  やい!──と半次は叫んだつもりだった。てめえ、何をしやがるんだ? 畜生! それは|おれの女《ヽヽヽヽ》だぞ。今夜からおれの情人《いろ》になったんだぞ。  そうさ、わっちゃあ、お前《めえ》の女だよ……女は快楽にのたうちまわりながら、青白い顔をこちらにむけて、にたり、と笑った。──今夜から、お前は、おいらの情人《いろ》さ。さあ、何をぼやぼやつったってやがんだい。とっとと出かけてって、鴨《かも》をくわえてくるんだよ。──おいらがこんな事をしなきゃならないのも、てめえがぐうたらのためじゃあねえか。恋女房だから風にもあてねえなんぞとうめえ事言って足ぬきさせときながら、食いつめて自分の情人《いろ》に、客をとってくれと頭をさげやがって、あげくのはて、やきもちにとちくるって、客と一緒に刺し殺したのはどこのどいつなんだ? 自分の女に、こんな事させて、おまんま食べさせてもらってたのに、恩知らずにもほどがあらあ。客への手管で、ちょっとやそっとあてこすられたって、それがどうだって言うんだよ。お前なんかより、よっぽど好いたらしい客は、いくらでもいたんだよ。そりゃ、こんな事平気でできるって客はいやらしいさ。わっちと一緒になって、お前《めえ》にあてこすったり見せつけたりしてよろこんでた野郎もいらあ。だけど、それが頭にくる、なんて言えた義理かよ。──何ぼやぼやしてるんだい。早く客をひいてこねえかよ。それともそこで、蚊に食い殺されるまで立ってるかい? 毎晩つづけて七晩、同じ客をひいてきたら、あの世へ放免してやらあ。こちとらと来たら、千人の客を、こうやってとりころさないと、あの世へも行けないんだからね……。  蚊帳の外に立ちつくしながら、胸にひどい傷あとのある男の体にはいりこんだ半次は、蚊帳の中で汗まみれでもつれあう男女の裸形をみて、嫉妬の業火が全身を荒れくるい、焼き苛むのを感じた。──快楽のおめきをあげてもつれ合う裸形の男女は、ある瞬間、精をぬきつくされて死んだ男の死体を、一体の骸骨が責め苛んでいる姿に見えたが、それさえはげしい嫉妬をかきたてるのだった。わめこうとしても、大きな声が出ず、のどがひっ、と鳴っただけだった。  ぷうん、と藪ッ蚊がとんできて、顔をちくり、と鋭い針で刺した。たちまち四匹、五匹と蚊はおそいかかり、膚のいたる所へ小さな火をおしつけた。──地獄の、小さな責め道具のように……。 [#改ページ]   行 き ず り     一 「峠、一里はん、よし田」  と、石の道標《しるべ》には彫ってあるのだが、実際にはそれほどの道のりはなかった。  峠と言えるほどのものでもない。  年経《としふ》り低まった山脈《やまなみ》の尾根が長くのびたその鞍部《あんぶ》を、間道がゆるやかにうねりながら越えている。通いなれた藤助の脚なら、一時《いつとき》ほどで峠をこえて本街道へ出る。  そう手軽に思いこんでいたのが、油断と言うものかも知れなかった。  いつものように、峠をこえたむこうの谷間《たにあい》の、吉田村へ商談に行ってのかえり、大百姓善右衛門の家を出た時、すでに雲行きがすこしあやしくなっていた。 「蓑《みの》をお持ちなせ」  と、門まで送って来た手代の与兵衛は空を見上げて言った。 「なに、大丈夫でしょう」と藤助は峠の方を見ながら眼を細めた。「この分なら、日暮れ時までもちますよ。万一降り出しても、おかん婆さんの所で借りますから……」  田の稲が尺をこし、もうすぐ単衣《ひとえ》の季節だった。──夜前から少々風邪気味だった藤助は、この季節のかわりやすい気温を用心して、薄手の肌|襦袢《じゆばん》を一枚、余計に着こんで来たが、ひる前に峠をこえた時は、薄日がさして風がなく、大汗をかいてしまった。  おもい蓑を着て、吉田村からは峠のむこう側より急坂になっている山道をつめて行くことを考えただけで、気が滅入りそうになる。  通いなれた道だし、脚には自信があった。  で、門先で与兵衛に頭をさげて笠《かさ》をかぶらせてもらい、草鞋《わらじ》の緒をふみたしかめ、腰にしばりつけた風呂敷の結び目を、ことさらつよくしめなおして、とっとと山にむかって歩き出した。──七つ(午後四時)すぎの事であった。  曇天の下、卯《う》の花がそこここにほの白く咲き乱れる村道をはなれ、畦《あぜ》から畦へと近道をたどり、危なっかしい丸木橋をわたって登り口へさしかかったころ、妙に四肢が気怠《けだる》く、重くなるのを感じた。  ──風邪をこじらせたかな……。  と藤助は頭の隅《すみ》で思った。  鼻をすすってみたが、つまってはいない。  額に手をやったが、熱っぽくはなく、逆にひやりとするほど冷たい汗が、ねっとりと手の甲にねばりついた。  ──はて……?  と木立ちの間を斜めにのぼって行く道をのぼりながら、ちょっと不安になった。  天気のせいかも知れない。──山道へさしかかって、空は急に暗くなりはじめ、頭の鉢《はち》がしめつけられるように重くなってくる。  ──まさか、雷《かみ》でも鳴りゃあすめえが……。  と、頭痛持ちの藤助は、笠の下で眉《まゆ》をしかめながら、脚を早めた。──こりゃあ、だらしねえが、峠の茶屋のおかん婆さんのとこで一休みだ……。  吉田からの登り二十二丁の、やっと三分の二をすぎたあたりで、眼の前がすうっと昏《くら》くなり、思わず立ちどまった。  やけに息が切れる。手足が重い。眼に見えない手が、足腰や腕にとっついて、地面へむかってひっぱっているみたいで、藤助は肩で息をつきながら、懐ろから出した手拭《てぬぐ》いで、額や顔をぬぐった。  冷たい汗が、ひっきりなしに流れている。  汗のしみる眼をむりにこじあけて、何と言う事なしにあたりを見まわすと、あたりはまるで日暮れ時のように暗くなり、びしょびしょにぬれた杉木立が、濠々《もうもう》とこまかい水滴をはいている。  見上げると、梢《こずえ》は鉛色のぶあつい霧にぼかしこまれて、丈半《じようはん》上がもう見えない。  時折、なまぬるい風が、びゅっ、と吹く。  こりゃいけねえ、お山に雲がかかった……。と、藤助はかすみかかった意識の底で思った。──急がねえと、降るぞ……。  重い脚を無理に動かして、もう一丁ほど、だるい体をひきずり上げた時、ふいに右腹から鳩尾《みぞおち》へかけて、しくっ、と痛みが走った。  ──あ。  と藤助はやっと思いあたった。  吉田の谷を、山間《やまあい》へもう半里つめた小字へ、幼ななじみの山猟師甚七をたずねた時、甚七は一人で|おそ《ヽヽ》昼餉《ひる》を食べていた。  ──一緒にどうだ。  と言われて、一たんはことわったものの、甚七のかっこむ麦飯《むぎ》とろが、いかにもうまそうだったので、じゃちょっと、と、五郎八《ごろはち》茶碗にかるく二杯……とろろは作りおきだったらしく、すこしにおったが、それよりも一緒に食べた大きな糠漬《ぬかづ》けの赤|鰯《いわし》が、ぴりりと舌を刺した。いや、塩漬けのきのこの方だったかも知れない。  ──さっきから、妙にかったるくて、冷や汗がやたらに出ると思ったら……こりゃ食あたりだ。  と気がついた時は、もう胃から下腹へかけて、とがった爪《つめ》でひっかきまわされるように、きりきりと痛み出した。  どこかで休んで、薬でもかまなきゃ、と思いながら、なお腹をおさえ、体を二つに折るようにして、もう一丁のぼった。  そこで、ぴかっ、と来た。  |藤 紫《ふじむらさき》に、わずかに朱のかかった熱い光が、眼の中を切り裂くように閃《ひらめ》くと、たちまちぐわらぐわらばりばりと、全山杉木立ちをゆり動かすほどの轟音があたりをかけめぐって、どしん! と大地をつき上げるように近くへ落雷した。──つづいてもう一|閃《せん》、二閃……。空から地へ、地から空へと、万車をひきずりまわすような音がかけめぐると同時に、がさっ、と笠の上に音をたてて何かがおちて来た。思わずふりあおいだ顔を、頬《ほお》がぴしりと鳴るほどの強さで、大粒の雨がたたいた。  と見る間に、ざあっと空の池の堰《せき》が切れたような勢いで、大夕立がおそって来た。──たちまち道も木立ちも、銀色に煙る雨脚におおわれて、滝の中を泳ぐような騒音にあたりが閉じこめられてしまう。その間をぬって、雷鳴が空まぢかにかけめぐり、紫白の光が斜めに木立ちや雨脚をつんざく。  ──こりゃ大変だ! と藤助は腹をおさえ、おろおろしながら思った。──この雨じゃ、かくれる所もありゃしねえ……。  そうだ、この先に地蔵堂……と頭の隅にうかんだが、雷と同時にさしこみが一層ひどくなり、もう立っていられないほどだった。背中に笠に、豪雨の衝撃を感じながら、這《は》うと言うより泳ぐようにしてもう半丁、やっと辻堂《つじどう》らしきものの影がおぼろに見えて来た時は、ほとんど失神しかけていた。  濡《ぬ》れ縁にしがみつくようにしてはい上り、体を二つに折ってしたたか吐いた。──とたんにすぐ眼と鼻の先の大杉に天を摩す火柱がたち、どん、と体がはずんだような気がしたが、桑原とも南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》とも唱えぬうちに何もわからなくなってしまった。     二 「もし……」  誰かの手が、強く背中をさすっていた。 「どうなさいました?──おかげんが悪いようですが……」  眼の前が少しずつ明るくなって来た。──が、まだ目蓋《まぶた》は鉛のように重い。 「すみません……」藤助は肩で息をしながらやっと言った。「お手数でございますが……腰の印籠《いんろう》に、薬がありますから……」 「印籠?」相手はいぶかるように言った。「あ、これですか?」  帯からはずすのに手まどっていたようだが、やっと鼻先に印籠が来た。──二段目をあけてもらい、丸薬を口に入れてもらって、かみくだして二息三息、胸のつかえは少しおさまったようだった。 「ひどい雷雨でしたな……」と介抱してくれた人はつぶやいた。「私もさっきまで、峠の上で降りこめられていました。──あなた、お歩きになれますか? ひどくおぬれになってますが、おかげんが悪そうだし、このままじゃよくない……」 「おそれいりますが……」藤助は眼をつぶって、全身の脱力感と闘いながらあえぎあえぎ言った。「峠まで、ちょいと肩をかしていただけねえもんでしょうか?」 「いいですとも」と、その人はいった。「じゃ、あなたは、池尾の……」 「さようでございます。池尾村の、小野屋藤助って申します……」 「ですが──そのお体で、峠から先はどうなさいます?」  やっと体を起して、濡れ縁に腰かけた藤助に、肩をかしてそっと立たせながら、その人は心配そうに言った。 「なあに、峠の茶屋まで行きゃあ……あそこで着物をかわかして一休みさせてもらえば、そのうちよくなりましょう。何だったら一晩とめてもらいます……」 「峠の茶屋?」その人はいぶかるようにつぶやいた。「そんなもの、ありましたかね?」  あれ?──と、その人の肩で首をがくがくさせながら、藤助はききかえそうとした。──さっきは、その茶屋で雨やどりなさったんじゃないんですかい?  その時、雨でぬれた土に足がすべって、もうちょっとで二人かさなってころびそうになった。 「や、すみません。すみません……」その人は、息をはずませながら、芯《しん》からすまなそうに、肩ごしにふりかえって頭を何度もさげた。「ちょっと考えごとをしていてつい……」 「とんでもねえ!──こちらこそ、こんなご迷惑をかけちまって、何とも申し訳ありません……」藤助はすっかり恐縮して、あえぎながらいった。「今度ころびそうになったら、かまわねえから、あたしなんかそこらへんへ、うっちゃっちまってください」  くすっ、とその人は肩で笑って、一層慎重に、木の根、岩根をふみしめるように歩き出した。  いい人だな……。膝《ひざ》の力のぬけた、ぐにゃぐにゃの体を、その人の肩と背にあずけながら藤助は、ふと胸があつくなった。……地獄に仏ってこの事だ。あのまま、あそこでぬれた着物を着て、へたばりつづけていたら、きっと大病になっちまって……。  だが、ちょっと変った人だ……と、頭の別の隅にさっきかすむ眼で見たその人の姿を思いうかべながら、藤助はいぶかっていた。──どこの人だろう? 言葉はていねいだが、何だか聞きなれない訛《なま》りがあるみたいだ。風体《ふうてい》から見ても、吉田村の住人とは思えない。  第一、服装《みなり》がひどくかわっていた。  上に、被布か十徳のような、しかしそれよりずっと細身仕立ての、筒袖のほこりよけを羽織っている。──色は黄蘗《きはだ》色のあせたような無地で、藤助の頬にふれる生地の感触は、綿とも紬《つむぎ》ともつかない、目のつまった織物だった。  酸っぱいような、妙な臭いがする。  裾からは、紺地の、これは太目のぱっちがのぞき、足もとは黒足袋だった。──その上、妙な形の、笠とも頭巾《ずきん》ともつかないものを頭にのせている。利休|鼠《ねずみ》の、やわらかい、らしゃのような生地を、縫わずに型押しにして、黒|繻子《じゆす》らしい飾り帯をまいてある。  どんな商売の人だろう?──と、藤助は、ぼんやりした頭で、あれこれ推量しようとした。  が、その時、 「あれ!──池尾の藤助さんじゃないかね!」  前の方で、おかん婆さんの、大きな声がした。  いつのまにか坂道をのぼり切って、峠の茶屋が、つい六、七間先に見えた。 「婆さん……休ませとくれ……」藤助は息だえだえに言った。「坂の途中で、大雷と夕立にあって、おまけにひどいさしこみで……へそまでぬれちまったい。──こちらの親切な旦那にあわなかったら、今ごろは地蔵堂で凍えちまったかも知れねえ」 「まあまあ、お前さんらしくもない用心の悪いこっちゃないかね。吉田の村で、雨具でもかりてくりゃいいのに……」  耳こそ遠いが、足腰も、口も達者なおかん婆さんに、もう一方の腕をあずけて、ころげこむように茶屋の戸|框《かまち》をまたぐと、思い出したように胴ぶるいが来て、歯ががちがち鳴りはじめた。  土間にいた二人の男が、雨宿りのついでに飲み出したらしい濁酒《どぶろく》の椀《わん》を飯台において、かかえに来てくれた。──奥の囲炉裡《いろり》で、榾火《ほたび》がぱちぱち音をたてているのに、まるではうように近づいて、手をかざした。 「さあ、そのぬれた着物、早くぬいじまいな……。下帯もとって……」 「すまねえ、婆さん。ふ、蒲団か何かかしてくれ……」藤助は全身をこまかくふるわせながらいった。「さ、寒くていけねえ……」 「えれえ顔色だの。仏様になりかけみてえだ……」亭主の権爺《ごんじ》いが、歯のぬけた口をあけて、囲炉裡の向うで笑った。 「さあ、白馬一つ行くべえ。腹ン中、あったまるだ」 「だ、だめだ。食あたりで胃がうけつけねえ……」藤助は火のあたたかさに思わず眼をつぶって首をふった。「熊《くま》の胆《い》と……風邪薬をくれ……」  坂の途中で、あの雨にあっちゃあ大変だ──と土間の方で、土地のものが話しあっていた。──雷《かみ》が落っこって、肝つぶしたべ。眼の前におっこったって? よくまあ打たれなかったもんだ……。 「やれ……もうすっかり雨ぁ上ったよ」と戸口の方で婆さんが言っていた。「雲が切れて、日がさして来た」  さて、行くべいか……と土間の二人は腰をあげる気配だった。  その時、表の方に、たっ、たっ、とぬれた土をふむ足音がした。──戸障子をがたつかせて、ぜいぜい息をつきながら、池尾の藤助さん、という若い声がきこえた。  どてらの上に夜具をはおって、腹を榾火にあぶりながら、戸口の方をふりむくと、前髪立ての、陽焼けした、丸い顔が見えた。──軽袗《かるさん》をぬいで腰に巻き、格子縞《こうしじま》の単衣の裾をしりっぱしょりにして、裸足《はだし》の脛《すね》は泥まみれ、はねを月代《さかやき》のてっぺんまではねあげている。 「あ、やっぱりここにいたけえ……」と猟師甚七の倅《せがれ》茂作はいった。「藤助さん……何ともなかったけ? お父《と》うは、ひる食った、すえたとろろと古鰯にあたって、えれえさしこみだ。もどすやら、ふるえがつくやら、大さわぎだ。藤助さんも同じもの食ったってえから、もしや途中で、と思って、薬もって追って来ただ」 「何ともねえどころか、さしこみと大雷鳴と夕立と、いっぺんに来ちまって、あやうく冷たくなっちまう所よ……」やっと苦笑が出るほど、体があったまって来た。「この下の、地蔵堂の縁で、気を失ってたんだ。もし、親切なお人が通りかかってくれなきゃ……」  言いかけて、あっ、と土間を見わたした。 「そう言やぁ、さっきのあのお方、どうなすった?──まだ、名もうかがってねえんだが……」 「つい今しがた、それじゃお大事に、と言って出て行かれたが……」とおかん婆さんは言った。「藤助さんのお知り合いじゃなかったかね?」 「知り合いじゃねえ。──行きずりのお人だ……。どっちへ行きなすった?」 「吉田の方へおりてったがのう……」と土間の不精鬚《ぶしようひげ》がうっそり言った。「何じゃ、変ったお人じゃったのう」 「茂作!──じゃお前、坂道の途中ですれちがったか?」と藤助はきいた。「変った恰好の──五十年配の、品のいい、わりと背の高いお人だ。鼻の下にひげをはやして、黄色の筒袖被布に、鼠色の市女笠みたいな、変り陣笠みたいな、布の頭巾をかぶった……」 「うんにゃ……」おかん婆さんに出してもらった餅《もち》を手づかみでむしゃむしゃやりながら、茂作は首をふった。「おら、坂の下からここまで、誰にもあわなかっただ。──一本道だもの、おりてくりゃあ、必ず行きあう」  ありゃ、どう言うお人かのう──と立ち支度をしながら、土間の二人が首をひねっていた。──ついぞ見かけんお人じゃが、ほんに、変った恰好をしてござった。ありゃ、唐人服かの?──お前、あの人の持ってござった、黒い布ばりの傘を見たがや? ありゃ変った傘じゃ。骨が細金じゃったと思うが……。医者どんかのう、そう言えば、平たい、風変りな薬箱をさげていたようじゃ……。  藤助はたまりかねて、囲炉裡の傍から夜具を後ろへはねて立ち上った。──まだ、肢《あし》がひょろりとして、胸から下がたよりなかったが、下帯もつけぬまま、羽織ったどてらの前をかきあわせ、土間の下駄をつっかけた。  戸口の柱につかまって、藤助はきょろきょろとまわりを見まわした。──吉田村へおりて行く道は、すぐ曲って杉木立ちの中へ消えている。だが、そっちから上って来た茂作があわなかったとすれば……。  吉田側より、ずっとなだらかな斜面を、池尾へおりて行く道が、うねうねと木立ちの間に見えていた。──もうすっかり霧も消えて、はるか向うまで見通しのよくなった緑の斜面に、西日がかっとさしていた。  しばらく柱につかまって、道に眼をこらしていたが、牛を連れた頬かむりの男が一人、のんびり上ってくる以外、おりる人の姿は見えなかった。  見疲れて、ふと眼をあげると、茜色《あかねいろ》にそまったちぎれ雲のとぶ空に、見事な虹《にじ》がかかっていた。     三 「!」  藤助は、はっ、と胸を轟《とどろ》かせた。──足がひとりでに早くなり、とうとう地面を蹴《け》って走り出していた。  峠ごえで、吉田へぬける道の池尾側を、もう本街道に近い所までかえって来た時、街道からこちらへ折れて、背の高い人がやってくるのが遠くに見えた。──その頭に、例の奇妙なかぶりものがのっているのを見わけた時、もうまちがいない、と確信した。 「見つけました!」  向うの胸に、ぶつかりそうになるほどの勢いでかけよって、手をにぎらんばかりに叫んでいた。 「これは……」相手は、ほこりをけたてて、えらい勢いでかけよってくる藤助を、びっくりしたように眼を見はって見ていたが、わかったらしく、微笑をうかべて片手でかぶりものをとった。「小野屋……藤助さんでしたね」 「あの節は本当に、ありがとうございました……」藤助は、体を二つにたたむほど、深く頭をさげた。「命の恩人の、お名前もうかがわず、ただただへたばっておりまして……」 「命の恩人なんて、そんな……」と相手は困ったように、片手にもったかぶりものをふった。「通りすがりに、あんなに苦しんでおられるのを、お見うけしたら、そりゃもう誰だって……」  それから、先方もあらたまって頭をさげた。 「中村良太郎と申します」  変った髪型をしているのに、あらためて気がついた。月代をそらず、髷《まげ》も結っていない──となれば、総髪だが、ふつうなら肩へ長くたらすのに、襟もとを短く刈り上げている。  お坊さまかな……と、それを見て藤助は思った。──が、それにしては鬢《びん》つけらしいもので、半白の髪が光っているのが不思議だ。  この間とちがって、あの被布みたいなものを羽織っていなかったために、今日の服装《みなり》は一層風変りに見える。  上はどう見ても半纏《はんてん》だが、それにしても前身ごろが、浅い打ち合せになっているのがおかしい。結びひもはなく、丸い留め物らしいものが二つついているが、どうやって打ち合せをとめているのかわからない。襟が折りかえしになっているから、羽織りの一種かとも思ったが、袂《たもと》がなくて、手首までの細い筒袖である。  その上、下の股引《ももひ》きと、対になっている。──色は、わずかに藤色がかった、品のいい銀鼠色だが、生地が絹物だか綿だか、これがさっぱり見当がつかない。その上、股引きかぱっちかが妙な仕立て、裾幅《すそはば》をひろくとり、前に上から下まで、びっしり|のし《ヽヽ》目が一本通っている。その裾からは、神主などの履く漆ぬりの沓《くつ》を、もっと細く軽快にした履き物がのぞいて、黒く、ぴかぴか光っていた。  ひろくおりかえした襟の間から、白い、羽二重をつや消ししたような下着が大きくのぞき、帯地らしいもので織った飾り紐《ひも》が、のどもとからぶら下っている。──手には、梨地《なしじ》黒ぬりの、ひらたい箱をぶらさげていた。  あまりじろじろ見ちゃあいけない、と思いながら、あまりに変った風体なので、ついしばらく言葉がとだえた。──先方も、何か不思議そうな、とまどった眼つきで藤助の頭や服装を見ている様子だった。 「あの……こんな所で、立ち話もなんでございますから……」相手の視線と出あって、藤助はあわてて赤くなりながら言った。「どうかちょっと、手前どもの家へお立ちよりくださいませんか? むさくるしい所でございますが、ま、どうか、上座におなおりンなって、頭をさげさしてくださいまし……。でないと、この次またいつ、お眼にかかれるかわかりません。それじゃこの間のお礼の申し上げようもございません」 「お礼だなんて、もうそんなお気づかいなさらなくても……」と相手は苦笑した。「それより、あのあと、お体の方はさしさわりはございませんでしたか?──それは何より……本当によござんした」 「どうか、ほんのちょっとでもおよりくださいまし。手前どもの所は、池尾の村のほんとっつき、街道こえてすぐでございますから……」藤助は手をとらんばかりにして懇願した。「まだ日も高い事でございますし……。おすまいは、吉田でございましょう?」 「ええ、吉田の……」と言いかけて、その人はちょっと口ごもった。「そう……吉田です」 「お近くじゃございませんか。そんなにおひきとめいたしません。おそくなりましたら、池尾には駕籠《かご》もございます……」  話しながら、押したりひいたりという恰好で街道に出た。──七つ半(午後五時)と言っても、日が長くなって、まだ明るく、往還はまだにぎやかだった。  土蔵、築地塀《ついじべい》の、旧家豪農の多い池尾の村にはいって、ほんの半丁ほどで、「小野屋」の古看板をあげた小ぢんまりした商家が眼につく。「だうぐ」と書いてあっても、茶器|骨董《こつとう》のたぐいより、荒物に近いあれこれをならべ、店番は背が二つ折りになった老爺《ろうや》が一人……これでお城より古い、というほこりを持っている旧家相手に、城下町や近郷をまわっての小商いと、藤助の代にはいってはじめた駄物の仲買いで、けっこう家内の口はしのげた。  おかねどん、お客さまだ。それからお光はどうした──と奥へどなりながら、手どり足どりして請《しよう》じあげ、奥の間に通ってもらった。  いつも接客につかう八畳間は、やかましく言わなくても、きちんと掃除が行きとどき、床も柱も拭《ふ》きこまれ、床の間に無腸《むちよう》の断簡の掛軸、竹の花器に鉄線を活け、庭にはもう水が打ってある。──麻の座蒲団にすわらされ、客はそう言った一つ一つを、感嘆するような眼つきで見まわしていた。  襖《ふすま》があいて、敷居際に、質素な木綿縞をきりっと着付けた若い娘が三つ指ついた。──茶托を目八分にささげて、すらすらと桜色の素足が畳の上を歩み、客前の縁外に茶をおくと、襖際までさがってまた深々と頭を下げる。 「娘の光でございます……先ごろは、父が一かたならぬお世話になりました……」と低いが、よく通る、はきはきした声でいった。「あつく御礼申し上げます。今日はまた、よくおこしくださいました。むさくるしい所ではございますが、どうか、ごゆっくりおくつろぎくださいますよう……」 「これはどうも、いたみいります……」  と、客は少しまごついたように頭をさげた。  さがる時に見ると、白粉気《おしろいけ》が一つもないのに、ふっくらとした色白の顔に、健康な血の色が、肌の下からすけて見えるような、見るからに清楚《せいそ》な娘だった。──鈴を張ったような悧発《りはつ》そうな眼に、きれいにはえそろった眉が印象的だった。まるい鼻筋のやさしさと、紅をささない唇《くち》もとの初々しい愛嬌が、かしこそうな眼の光をやわらげている。  娘がさがると、着替えた藤助があらわれた。──唐桟などを着ると、一応の旦那ぶりだった。座蒲団を横に押しやって、ぴたりと正面に手をつくと、客の方もあわてて壁をぬった。 「そんな固苦しい事なすっちゃ困ります。──お手をおあげください」と客はいった。「でなきゃ、あたしはすぐかえります。ほんの行きずりの事に、そんなに大袈裟《おおげさ》になさらなくても……」  伊丹|諸白《もろはく》──これだけは二里先の城下町で仕入れたとっておきの酒に、肴《さかな》は下働きをちかくの河魚屋に走らせて、鮎《あゆ》と鰻《うなぎ》に田楽程度だったが、客が盃《さかずき》をふくんで、ほう、これは、と嘆声を発してくれただけで、無性にうれしくなり、かえしたくないような気持になってしまった。  恩を受けた、人柄がいい、というほかに、藤助には、この中村という人物が、何となく不思議でしかたがなかった。髪型、服装だけでなく、どこか海のむこうからでも来たような、|この世ばなれ《ヽヽヽヽヽヽ》した奇妙さが、言葉、仕ぐさの節々にある。 「失礼ですが、中村さまのお仕事は……」と言いかけて、藤助は眼で笑った。「あててごらんに入れましょうか?──長崎へんに長くおられた、阿蘭陀《おらんだ》通辞……。図星でございましょう?」  いやいや、と客は笑って手をふった。 「そんな変ったものじゃない。ごくありきたりの──しがない勤め人です」 「お勤めとおっしゃいますと……やはりお城の方で……」 「いえ、とんでもない。──お店《たな》……と、言う事になりましょうかな……」 「御商売の──と言っても、私どもとちがって、よほどの大店でございましょうな……」藤助は酒をすすめながらつぶやいた。「やはり唐物舶載物をおあつかいで……」 「小野屋さん……」少し酔ったか、と思えるあらたまり方で、客は膝をそろえ、体をのり出した。「つかぬ事をおうかがいしますが……今は──今年は一体何年ですかね?」 「四年でございましょう……」 「四年……いつの四年です?」 「いつのって──文政四年じゃございませんでしたか?」 「文政四年……」客は首をふった。「|やっぱりねえ《ヽヽヽヽヽヽ》……」  それがどうしたか、と問いかえそうとした時、襖があいて、お光が椀物をはこんできた。──食べた器をさげ、またさがって行くのを見おくりながら、客は感じ入ったようにつぶやいた。 「いいお娘さんをお持ちですな……」 「お娘なんてものじゃございません。草深い田舎育ちの、ほんの世間知らず、もの知らずで……」娘の事を言われると、思わず頬がゆるんだ。「せめて行儀の一つもと思って、伝手《つて》があって御城下のさるお邸へ奥づとめに上げておりましたが、先年連れ合いをなくして、中途半端のまま下らせました……。まだ十八の、からねんねでございまして……」  妻なきあと、自分がそのかわりのつもりで、小さな家だが切りもりしている……。お父ッつぁん、無理しちゃいけません、の何のと、一人前に、説教しやがるんです、──そんな所は死んだ嬶《かかあ》にそっくりで……などと、娘の話になると、際限がなくなりそうで、その上途中で鼻の奥が痛くなる事もちょいちょいなので、藤助はあわてて話をかえた。 「中村さまの御子たちは……」 「男の子二人です。上は今年|二十歳《はたち》になりました。──まだ、学校ですが……」  やっぱりお武家、でなければ、士分の、儒者か何かのお家柄だな──と藤助は思った。でなければ、二十歳こえて、まだ学校へおかよいになるわけがない……。 「小野屋さん……」また何かをきり出そうとするようにあらたまった。「あなた──私の髪かたち、この身なり、不思議にお思いになるでしょう? あなたから見れば、珍妙でしょう?」 「これは申しわけございません。ついつい見とれまして、御気を悪くなさったのなら、どうかごかんべんくださいまし」藤助はあわてて手を泳がせた。「先ごろ御城下の取引き先へまいりました時、そこで長崎産の錦絵《にしきえ》というのを拝見いたしました。清国の商人や、和蘭陀の甲比丹《かぴたん》や、いろんな異人の風体がうつしてございましたが……それを思い出して、つい……」 「いや、珍妙に思われて当然です……」と客は首をたれた。「私はむしろ……あなたが、|あまり驚かれないので《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、かえって驚いているくらいです。実を言いますとね……」  何か言おうとして、しばらく考えこんでいたが、いやいや、と言うように首をふって、ひょいと左の手の甲を見た。 「おや、こりゃいけない。──おすすめ上手なので、ついおそくなりました」 「まだいいじゃございませんか。何ならおとまりくださいまし……」  左の手の甲に、小さな土圭《とけい》が巻きつけてあるのは、さっきから気がついていた。──なるほどな……、と藤助は感心していた。──袂土圭や印籠土圭は、唐物商人の間で大小さまざまにはやっているからめずらしくもないが、腕につけるというのは面白い工夫だ……。  駕籠をよぶ、と言うのに、いらない、と頑固に言いはって、ではせめて提灯《ちようちん》をお持ちください、と言うと、それもいいから、本街道までおくってくれますか、という。  そりゃ、当然、と、お光と二人で送って出た。──五つ(午後八時)すぎで、とっぷり日が暮れた所だった。月の無い晩で、田一面に蛙《かえる》の鳴き声がやかましい。小川のあたりでは、もう早い蛍《ほたる》がとんでいる。 「明りもなしで、峠をおこえになるんでございますか?」と藤助はくどくききかえした。「御気丈な事でございますな──。お住いは吉田村の、どのへんでございましょうか?」 「梅ヶ岡です……」と、急に口すくなくなった客がぽつりと言った。 「はて──梅ヶ岡新田に、家をお建てになりましたか?」藤助は首をひねった。「吉田は母の実家《さと》ですので、大ていよく知っておるつもりでしたが……」 「小野屋さん……」ふいに奇妙な声音で客はいった。「私たち──何だか、不思議な御縁でした……」 「まったく……あの時、あそこを通りかかっていただけなかったら……」 「いや、そんな事じゃなくて……」客はつぶやいた。「また……お目にかかれるかも知れません。その時は……できたら私どもの方へご案内したいと思います」 「それはありがとうございます。ぜひ……」  下げた頭へ、送るものの足をとめるような、きっぱりしたあいさつをして、客は街道へ出てすたすたと歩き出した。──父娘《おやこ》二人、街道の数歩手前に立ちどまって、立ち去りがてに提灯をあげ、頭を下げていた。 「お父ッつぁん……」お光がささやいた。「あの方、峠道の方へいらっしゃらないわ」 「そんなお前……」 「でも、反対の方へ……ほら、あんな所で立ちどまっていらっしゃる……」  酔って方角をまちがえられたか、と、思わず二足三足、街道の方へ行きかけた時、娘がふいにおびえた声をあげた。 「お父ッつぁん、あれ……」娘は藤助の腕にぎゅっとしがみついた。「何だか……光り物がくる!」  街道のむこうに、黄ばんだ灯明皿ほどの丸い光が二つ、ぐんぐんちかづいてくる。 「あ、ありゃあお前……」藤助は、その二つの大きな光の後に、いくつもくっついてならんだ、ずっと弱い光がつづくのを見てやっと言った。「狐火《きつねび》ってもんだ……めずらしくもねえ……」  大きな二つの光と、ならんだぼんやりした光は、みるみるうちにこちらに近よって来た。地上三尺ばかりを、ごうごう風を巻いてとんでくる。──お光は悲鳴をあげ、藤助も五、六歩村内への道をひきかえしかけて、下駄をとばしてしまった。  おびえ、身をちぢめる二人の三間ほど先を、ぼんやりした光の行列は、つむじ風のような勢いで通りすぎた。半丁先で、ちょっととまるのが見えたが、またごうごう音をたてて遠ざかり、森のむこうへ消えて行った。  提灯のもえ上る火でわれにかえり、暗い星空の下をすかして見ると、さっき立ちどまったあたりに、もうあの人の姿はなかった。     四  蜩《ひぐらし》がやかましく鳴きたてる峠の上で、声をかけられた時、藤助はとび上るような思いで声の主の方をふりかえった。 「これは中村さま……」頭の手拭いをとって、藤助は腰をかがめた。「おひさしゅうございます。あれからずっと、あちこちおたずねしておりましたのですが……」 「私ももう、お目にかかれないかと思っていました……」その人は小さな白麻の布で、顔の汗をぬぐいながら笑った。 「よかった。今日は何となく……お会いできそうな気がして、しばらくここで待っていたんです。──吉田へいらっしゃる?」 「はい。今夜は吉田泊りと思いまして……」  二人は坂をおりはじめた。──峠の上は、涼風がたちはじめていたが、残暑はまだきびしい。夕日が赤く照る杉木立ち一面に鳴きたてる蜩やつくつくぼうしが、夏のなごりのすえた暑熱を、一層かきたてるようだった。 「お会いできてよかった……」と、中村と名のる人はつぶやいた。「今日をすぎたら、だめじゃないか、と思っていたんです。明日から、峠をこえるバスが開通しますから……」 「|ばす《ヽヽ》?」藤助はききかえした。「何でございますか? それは……」  その人はふっと口をつぐんだ。──何か言うべき言葉を探しているようだった。 「お住いは、まだ、吉田でございますか?」藤助は話題をかえた。「あれから何度も吉田村へまいりましたし、梅ヶ岡あたりもたずねましたが、とうとうお宅を探しあぐねまして……。鈍な性分でございますから、もしや聞きちがえたのかと……」 「自宅は今も吉田です……」その人はつぶやいた。 「……梅ヶ岡です。ですが、今の……その……文政四年の梅ヶ岡じゃなくて、もっとずっと先の世の梅ヶ岡です」  どう言う事でございましょう?──と言うように、藤助は首をかしげた。 「小野屋さん……」その人はふいに立ちどまって、思いつめたように言った。「実は、私は、あなたたちの……文化文政の世に住んでる人間じゃないんです。もっとずっと先、文政から百五十年も先の世に生きてる者です」  びっくりしたような顔をしている藤助に、その人は手にしていた週刊誌をつきつけた。「これが私たちの時代のものです。おわかりですか?──ずいぶんちがっておりましょう」 「きれいな絵草子でございますな」藤助は感嘆の声をあげた。「おや、この女の顔、生き写し絵のようで……。こういう絵は、和蘭陀渡りで見た事があります。何でも絵の具を油でとくとか……。おやおやまあ……」  ヌードグラビアを見て、藤助は笑い出した。「まあ、ずいぶんと手のこんだ笑い絵でございますなあ……。でもやはり、こう言うものは、春信や清長の方が……」  中村と言う人は、どう説明したものか、と言う風に、額に手を当てた。──ちょっと絶望したような表情がその顔にあらわれた。 「で、その……中村さまは、百五十年先の世から、こちらへお出になられたので……」  藤助は週刊誌をかえしながらきいた。 「いや──何も時をさかのぼって|来た《ヽヽ》と言うわけじゃないんです。私はいま、小野屋さんのいる世から百五十年先の世の中に住んでいるんです」相手はちょっともどかしそうに言った。「ええ……百五十年先の、吉田町の、梅ヶ岡団地って所に、|いま《ヽヽ》住んでいるんです。七階建ての、長屋をたくさんつみかさねたような家でね……もちろん、文政四年の梅ヶ岡にゃ、そんなものはありません。百五十年たつと、ここらへんもずいぶん変っちまいましてね。峠の茶屋もなくなって、レストハウスってのが立ちます。池尾の村はあまり変ってないようですね。池尾町になりましたが……」 「ははあ……」藤助はわかったようなわからないような気分になった。「で……中村さまは、どうやって、その……百五十年先の世から、私どもの所へ……」 「それがわからないのです。別に時代をさかのぼって、文政四年の世へ、来ちまっているわけじゃありません。ただ──どう言うわけか知らないが、文政四年と昭和五十年が、このあたりで|かさなりあった《ヽヽヽヽヽヽヽ》んでしょうな。──理由はわからないがとにかくこの峠で、あなたとあっちまった……。ですが、私はやはり昭和の……」 「さぞかし、おどろかれたでございましょうな」藤助は笑った。「行きずりに突然、昔の人間にお会いになられたら……」 「最初はそれほどでもなかったですよ。あなたの服装《みなり》など、まだ私の子供のころ、富山の薬屋さんがやっていましたからね。──ただ、頭の月代と丁髷《ちよんまげ》を見た時は、ちょっとおどろきました。私の時代にはないものですからな。どうなってるんだろう、と思いました」  二人は声をあわせて笑った。 「なるほど、百五十年たつと、中村さまのような髪型がはやりますか……」藤助は、あらためて相手の頭を見た。「あっさりして、なかなかいいものじゃございませんか」 「百五十年とたたずとも、あと五十年もたつと、日本から丁髷はなくなりますよ」中村と言う人は悩ましげに言った。「丁髷だけじゃなくて、百五十年もたてば、世の中むちゃくちゃにかわりますよ。……私には、とてもうまく説明できないが……とにかく、日本はひどくかわっちまって……」 「それはまあ、世の中と言うものは変るものでございますよ」また坂の下へむけて歩をうつしながら、藤助は微笑した。 「この峠でも、私の祖父《じじい》がそのまた祖父《じじい》に聞いた話では、ずっと昔、化物や天狗《てんぐ》がすんで、人を食ったりしたって事でございます。それがえらい坊さんが、お堂をたてて物怪《もののけ》をしずめてから、みんな安心して通れるようになったと申します。吉田の村も、それから開けたんだそうで……。まあ、世の中だの御政令などと言うものは、しょっ中変って当り前でございましょう。ですが──変らぬものは、人情じゃございませんか?」  中村と言う人は、ちょっと、と胸をつかれたように、眼を宙に走らせた。──二人はちょうど、例の地蔵堂の傍を通りすぎていた。 「中村さまは、百五十年たって、何も彼《か》もひどく変ってしまったとおっしゃる……。ですが、百五十年先の世に住んでいるとおっしゃるあなたさまが、あの地蔵堂で私が苦しんでいるのをごらんなすって、ほんの行きずりなのに、親身もおよばぬ御親切をしてくださったじゃございませんか……。ご風体、お言葉つき、変った方だな、とは思いましたが、私めもその御親切に甘えました。百五十年先に生きてるとおっしゃいますが、異人のように言葉の通じないわけでもない。──いえ、異人さんでも、風体言葉が突飛でも、鬼でも蛇でもない人間ならば、りっぱな方はやっぱりりっぱですし、情は通じるものと思います。取引き先の大商人のお宅で、清国の商人、朝鮮の学者と言うような方にも会いましたが、そりゃ風体しぐさは奇妙でしたが、りっぱな方はりっぱで、私など感じ入りました。和蘭陀人だって、紅毛|夷狄《いてき》と言われる、英吉利《えげれす》、於魯西《おろしや》の人だって、そうだってうかがいましたし、そうもあろうと思います。──私など、ほん世間のせまい、田舎の小商人ですが、世の中の人間ってものはそういうものだと両親や先生から教わりましたし、自分でもそう信じてまいりました……」  藤助は、つと立ちどまると傍の人の手をとって、かるく押しいただくようにした。 「私はね……中村さま、今、お話をうかがって、とてもうれしいんでございます。あなたさまが、本当に百五十年のちの世の方だとするなら、私は、そんなのちの世の方に親切にしていただいた……。何とも不思議な御縁で、そんなのちの世の、とてもいい方にめぐりあえた。人の情ってものは、百五十年たったって、ちっとも変らないもんだって事を、まざまざと見せていただいて……何だかとても、うれしくなっちまいました。親から教わり、自分も胸におちてそう思って来た事が、ずっとのちの世も変らないんだ、と悟れただけで、うれしくってしかたがないんでございます……」 「藤助さん……」相手はちょっと声をつまらせて、目を伏せた。「小野屋さん、そんな事をおっしゃられると……私は何だかはずかしくなってしまいます……」  そう言われて、藤助の方も、照れた。  二人はそれから吉田口まで、だまって坂をおりた。──村道の手前で、道が二つにわかれていた。谷をつめれば梅ヶ岡、そして藤助のたずねる家は反対側の道の先だった。 「そちらへ……?」と藤助の気配でさとったらしく、中村と言う人は、帽子をとった。「じゃ、ここでおわかれします。またお会いしたいと思いますが、もうお目にかかれないかも知れません……」 「じゃ、中村さまは……」 「ええ、かえります……」その人は、とった帽子で、谷の奥をさした。「あそこに──私の住んでる団地があるんですが……あなたにお見えになりますか?」  藤助は思わず息をのんだ。──彼の知るかぎりでは、貧寒な梅林におおわれただけの梅ヶ岡に、今、晩夏の夕日をあびて、無数の白い、白壁というより落雁《らくがん》づくりのように見えるまっ四角な高い建物が林立し、玻璃《はり》ばめらしい無数の窓が、あかあかと照る陽を黄金色にきらめかせながらはねかえしている。  じゃ、これで……お娘さんによろしく……どうかいいお婿さんを……と言う言葉を、藤助は遠い所できいた。──白い道を遠ざかって行く人影は、ちょっとふりむいた。 「そうだ……蛍……」と、その人はいった。「蛍……ありがとうございました。お宅の近所で……たくさん見せていただいた……」  え?──とききかえそうとした時、日が山の端にかくれたのか、紫色の影が、さーっと谷間の村におちてきた。──そのとたんに遠くに浮ぶ白堊《はくあ》の建物の群れも、その建物にむかって白い道を歩む人の姿も、藤助の眼前でたちまち蜃気楼《しんきろう》のように消えうせた。眼をこすってもう一度見なおしたが、あとには見なれた貧弱な梅林がゆっくりと夕もやをはいているばかりだった。  ──行っておしまいなされた……と胸に言いきかせて、藤助はゆっくりきびすをかえした。──でも、いい方だったな……。  この初夏から八月へかけて、峠道の行きずりに出あった「不思議」の事を思うと、何かわくわくとしてきた。──あの人に説いてもらった「不思議」と、その不思議を通じてふれる事のできた、百五十年先の人の情と……その事を思うと、自分が何か、とんでもない幸福《しあわせ》にめぐりあったような気がして、つい浮き浮きとした足どりになるのだった。  そして、|こちら側《ヽヽヽヽ》──昭和五十年の世界では、同じ吉田の谷の、同じ道の反対側を、一人の定年前のくたびれたサラリーマンが、何とも表現のしようのない一種複雑な感動が胸の中に渦まくのを感じながら、まだ建設中の梅ヶ岡ニュータウンヘの道をたどりつつあった。 [#改ページ]   戻  橋     一  ひどく酔った。  蔵生地《くらきじ》だから、酔い心地は滅法だったが、何さま日本酒の飲みすぎは、酔いがずっしりと重い。  町にはつきましたけど、どのへんです? とゆり起こされて、いいや、町についたのなら、あとは自分でさがす。歩いてさがさなきゃ、わからねえんだ、と、乗物をおりて五、六歩歩いたものの足もとはよろよろと|猩 々《しようじよう》ばり、酔い伏しこそしなかったが、夜風が襟《えり》をなぜて、ふと気がつくと、道ばたの電信棒に乙の字なりに抱きついて、額を石炭酸くさい木肌におっつけ、あろう事か、大鼾《おおいびき》さえかいていたらしい。  くしゃみ一つで少しは頭がしゃっきりしたような気がして、さて、宿はどこだったか探さにゃならんと、また歩き出したが、どうしても足がまっすぐ出ない。右脚《みぎあし》左脚、左右|交叉《こうさ》してひっくりかえりそうになるから、急いでふんばると、今度は大八文字を踏む。地面がいやに傾くと思ったら、体が左へ左へと寄って行って、塀にどしんとぶつかる。たてなおそうとすると、また反対側へ泳いで行く、という有様で──何を! 酔っちゃあいねえぞ。酒は飲んでも飲まいでも……と口の中で強がりをつぶやいても、どうにも足がきかない。鉛のように重い瞼《まぶた》をむりやりかっと見開いて、宿の目じるしをさがそうとしたが、どうにも見当がつかない。何だか、いやにあたりがさびしくて、ちょっと勝手がちがうようだった。  そのうちどうにも歩いていられなくて、道ばたの土管か何かに腰をおろし、ネクタイをゆるめ、シャツのボタンをはずし、うつむいてまた何分かうとうとした。  胸もとに風を入れ、やっといくらか頭がはっきりした。──煙草をくわえ、火をつけて、眼をやたらにこすって、思いきって立ち上ったが、まだ足もとはふらつき、頭が先に出てしまう。  それでも、どうやら宿のある所と、全然ちがう所でおろされたらしい、という事には気がついた。──泊まっている小さな旅館のある所は、一応市の中心部だ。こんなに家並みもまばらな、森閑とわびしい所ではない。  どこかで、びょうびょうと犬が鳴く。  車をつかまえなおさなければ、と思いながら、ぐらぐらする頭をあちらにむけ、こちらにむけ、なおふらふらと歩いていると、いつしか家並みが切れ、開けた所に出た。  左右に田畠が坦々《たんたん》とつづき、正面に黒々と山脈《やまなみ》が立ちふさがる。──ふりかえると、背後にまばらな人家の灯、ひっそりと明りを消した工場などがちらばり、ずっとむこうを、タクシーか自家用か、車の赤いランプが遠ざかって行く。  あたりはうす濁りの湖底のように、ぼんやりと明るい。──見上げると、山稜の上に、十三夜の朧月《おぼろづき》が、もうだいぶ西にかたむいていた。  犬の遠吠えが、おぼろにかすむ野面《のづら》にまたびょうびょうとひびく。──その遠吠えの背後に、どこかちかくに流れがあるのか、どうどうと堰《せき》をおちる水の音がきこえて来た。  舗装がいつの間にかつきて、靴の底で土がやわらかくめりこんだ。道はゆるく曲って行くが、右を見ても、左を見ても、車のヘッドライトは見えず、ただゆるい起伏の野面が横長にひろがっているばかり、歩をうつすにつれ、正面の黒い山肌がのしかかるようにせまって来て、この先、駅だのタクシーのたまり場はありそうにない。  冗談じゃねえや……と酔いにぼけた頭をふってぶつぶつつぶやいた。──一体ここはどこなんだ……。ぼやいてみてもはじまらない、もとの町並にひきかえして、何とか車のつかまるあたりまで行かなければ──という才覚がやっともどって来た時は、もうかなり歩いてしまっていた。  気がつくと、山はもう、眼前一ぱいに立ちふさがっている。おぼろな月の光がその頂に斜めにさして、山裾を黒々とした森がおおっているのが、辛うじてわかった。  その森の手前に、川が流れていた。──山裾にそうようにゆるく曲った道は、その先で逆に曲りかえして、七、八間ほどの橋で川をこえている。川岸に、土手らしい高まりはなく、岸辺ぞいにせまい地道が黒々とのびていて、その道が山裾をはなれて田畑の中をうねっているのが、やっと川筋ののびて行く先を示していた。  酔っぱらいの愚図《ぐず》というやつで、頭はひきかえさなきゃと思いながら、足はまだひょろひょろと同じ方向をたどり、やっと立ちどまったのは、道が橋へとかかる曲り角をすぎてからだった。  立ちどまると、どういうわけか大欠伸《おおあくび》が出た。  首筋がぎちぎち鳴るような、飲み疲れのかたい欠伸だ。  欠伸と一緒に、むろん涙も出て、そいつを手の甲で眼蓋《まぶた》をくちゃくちゃ音のするほどこすって拭きとり、眼を二、三度しばしばさせた時──なぜだか知らないが、ずん!……と足もとへむかって、上半身全体がおちこむような衝撃が走った。  顔の血が肩から胸へ、肋《あばら》から腹へと、土用波がひいて行くように下って行くのがわかる。そうなっても、なぜそんなにショックをうけたのか、よくわからなくて、もう一度眼をこすった。  道は曲った所からまっすぐ川へむかい、ほんの二、三間ほどで幅三間ばかりの橋にかかる。──橋は下はコンクリートだが、欄干は木で、古風な青銅《からかね》の擬宝珠《ぎぼし》がついており、こえると道はそのまままっすぐ、山裾の森の奥へとはいって行く。森の闇《やみ》にとけこむあたり、ぼんやり灰白色の鳥居が見え、そのむこうが参道の石畳らしい。堰の鳴る音は、ずっと下に遠去かり、黒い水が、音をたてずにのったりと流れるのが、月明りにかすかに光って見えた。  橋の袂《たもと》には、向う岸と手前に、御神灯とも常夜灯ともつかぬ石の灯籠《とうろう》があって、これには灯がはいっていなかった。こちら側の右手の袂に、あつらえたような柳樹が一本、わずかに頂の葉に月光がすべって、新緑の萌黄《もえぎ》が、銀暈をにじませ、あとは女の執念の黒髪のごとく、わっさりと川面に垂れて、あるか無きかの山風に、ふわふわゆれている。  ──その柳の枝の向う、橋の袂に、ぼっと黒い人影が立っていた。  脳天どやしつけられたような衝撃は、視界の中の人影に、突然気づいたからだった。  道を曲るまで、向う岸にそびえたつ山の暗さにまぎれ、よく見えなかったらしい。──気がついた時は、もう、向うとの距《へだた》りは四、五メートルで……しかも月の光によく見れば、人影は女だ。  黒っぽい羽織を着て、薄い肩を片ッ方おとし、頤《あご》を襟もとにうずめるようにしてひっそりと立って、欄干ごしにじっと暗い川面をのぞきこんでいる。──にじむような月明りでは、着物のあやめもさだかでないが、がっくりぬいた襟から伸びる細く白いうなじに、巻き揚げた髪のほつれが一筋二筋かかり、ぼんやり立った姿の細さ、影の薄さは、何か見ているだけで、ぞくぞくとちりけもとがさむくなるようだった。  ひきかえそうと思いながら、何となく、足がすくむようで動けなかった。──さっき、土管からたち上る時、時計を見たら二時前だったのが、頭の隅のどこかにのこっていた。この時間、こんなさびしい山際の橋の袂で、女が一人、うなだれて川の水をのぞきこんでいる、というのは、何となくただ事ではない気がする。うすッ気味悪くもあったが、ひょっとして、身投げでもするんじゃないか、それなら声をかけなきゃ、と思うと、逃げたがる足と、世間並みの道義心がせめぎあって、体にじっとり汗がにじむみたいだった。  その時、また犬が、いやな声で長々と遠鳴きした。  犬の声でわれにかえったか、それとも二、三間の所から、酔っぱらいにまじまじ見つめられている気配をふと察したか、女は、川面から顔をあげようとする気配を見せた。 「あ、あの……ちょ、ちょっと……」  おっかなびっくりで立ちすくんでいたのが、女が動いたのに驚いて、つい反射的に声をかけてしまった。──いつの間にか、唇がかさかさに乾いている上に、痰《たん》がのどにからみ、その上、胴ぶるいまではじまって、まるで人間の声とも思えない。自分の耳にも、中気の夜鴉でもねぼけたみたいにひびいて……あわてて、咳払いと、唇をしめすのと、歯の根のふるえをとめるのを、一ぺんにやろうとしたら、汗がどっとふき出して、よけいに口がもつれた。 「こ、ここは一体……どこですか?」  言ってしまってから、われながら何て|どじ《ヽヽ》な事をきくんだ、と思うと今度は全身がかーっと熱くなった。素頓狂《すつとんきよう》な声をかけられたとたん、ふりむきかけた女の肩が、ぴたっ、ととまった。  それから、下からねめ上げるようにゆるゆると顔をまわす。──おぼろな月の光が、凄艶とも言える細面《ほそおもて》の白い顔に、すごい陰影をつくった。 「ここかえ……」女はにーっと唇を半月形に曲げて、笑うと、地の底からはい上ってくるような、低い、しわがれた声で言った。 「ここは、一条……戻橋《もどりばし》……」  ひえッ! と思わずのどが鳴った。お助け! お長屋の衆!──と、鈴ヶ森だんまりの雲助じゃないが、腰から下の脚だけが、くるりと後をむいて、胴から上をおっぽり出して七里けっぱい……と、そんな心地でとび上りかけた時、ほほほっ、と女は白いのどをのけぞらして、銹《さ》びた声で、ひどく蓮《はす》ッ葉《ぱ》な笑いをあたりにひびかせた。 「ごめんなさい。冗談、冗談──ここは松井橋、すぐそこが、ほら、松井神社です……」     二  松富通り菱倉?──と、女は、呆《あき》れたように言った。──そいじゃ、街のまん中じゃないの。中里からおのりンなったら、ほんのすぐよ。なんだってこんな街はずれへ……。  だから、ちゃんと、松富通りをまっつぐ行って、菱倉町でおろせって言ったんですがね……。  ああ、お兄さん、江戸ね──ヒとシが一緒になっちゃうのね。それに菱倉�町�なんて言っちゃあだめ。菱倉ってのは、あれも通りの名なんすから……。�松富菱倉�って言やあいいのに、�町�なんて言ったから、タクシーの運ちゃんがのみこんでこんな松井橋の手前の、宍倉《ししくら》町くんだりまでつれてこられたんだわ……。  女が案内する形で、街筋の方へとってかえして、流してくる車を待つ間の会話だった。  戻橋の鬼女めかしてからかわれた時は、それこそ睾丸のちぢむほどふるえ上ったが、やっとわれにかえって話して見れば、女はやや伝法ながら気のよさそうな、一眼でそれとわかる水商売の、それもかなりの年月その世界の水にもまれぬいて、肌の荒れも感じさせる四十女で──それだけに、人を人くさいとも思わぬざっくばらんなあしらいも板についていた。まあ、女もこのくらい海千山千になれば、いくら月があるとて真夜中の二時、人気のない街はずれの橋の袂をぶらついていても、びくともしないだろう、と思わせた。びくともしないどころか、道に迷った酔っぱらいをからかっておどかしあげるぐらいの度胸があるのだから……。 「でもさ……」と女は、少ししゃがれた、銹《さび》のある声で笑いながらいった。「お兄さん、相当|粋《いき》な方ね──�ここは一条戻橋……�のせりふで、ふるえ上るってのは、あの鬼が女に化けて|渡辺 綱《わたなべのつな》をさらおうとする芝居だの、常磐津《ときわず》だの知ってなきゃ……」 「戻橋を知ろうが知るまいが、朧月夜のあの時刻、あんな所で、あの声色《こわいろ》で、やられりゃあ、大の男だって肝《きも》をつぶすさ。──ましてこちらは、不案内の土地で、酔ってさびしい所でおっぽり出され、心細くなった所だから……」彼は照れかくしに顔をこすった。「ああ、まったく驚いた。──おかげですっかり酔いがさめちまった……」 「おや、そりゃごめんなさい……」女は、またうすい肩をくすっ、とすくめた。「実を言うとね──あたしゃあ、お兄さんが、あの道うろうろふらふらしながらやってくるの、ずっと知ってたの……。まあ、ずいぶん遠くから�大瓶猩々�の小謡《こうたい》を、それもおんなじとこばっかり謡いながら歩《ある》ってこられて……」 「�大瓶猩々�なんか、謡ってたかね?」と、彼はちょっとおどろいた。「いや、おぼえがないな。──頭ン中に文句が思いうかんだような気がするが……」   ※[#歌記号]何《いず》れも何れも足もとは、よろよろよろよろと、繰言《くりごと》しげく千秋|万歳《ばんぜい》君千代までと……栄うる御代《みよ》こそめでたけれ……と女は低い声で通りを見わたしながら謡った。──おや、と眼を見はるような、うたいこんだ節と声だった。 「まあ、今時分、松井の山にかえる人はなし、こりゃてっきり酔っぱらって道をまちがえたんだな、とは思ったけどさ……。ま、ひっかかるとうるさいと思って、半兵衛をきめこんでたのよ──謡のぐるぐるまわりがやむと、大きな声でここは一体どこなんだってどなったり……ひょっとして朧月夜で、酔ったあげく宍倉の狐にでもだまされたんじゃないかと思ったら、こっちもちょいと気味が悪くなったわよ……。そしたら、まあ、橋の前まで来て、私をめっけた時の、あの顔、あの様子ったら……ついつい、からかいたくなっちゃって……」 「公達《きんだち》に狐化けたり春の宵……でげすかな。こっちは、あの時刻、あんな所に、粋なお姐《ねえ》さんが立ってるんで、こいつあてっきり……」 「おや、こんな婆あをつかまえてお姐さんだなんて、本当にお口がうまいこと……」と女は、ちょいと肩をぶつけた。何だか、ごつんという、妙な感触がした。「こいつあてっきり……何だと思ったのよ」 「幽霊だか身投げだか──いや、失敬、実をいうと何だかわからなかったけど、とにかく度肝をぬかれて、足がすくんじまった」  こないわね──とつぶやいて、女はあわせた袖を両肩で抱くようにして、前かがみに上体をつき出して、右、左と通りのむこうを見わたした。夜も深沈と更《ふ》けわたって、場末の住宅街のこのあたり、さっきから通る車もほとんどなく、通りすぎたのは夜行便のトラック一台、タクシーも三、四台通ったが、みんな客を乗せて長距離と見えた。 「ところで、お姐さんはいったい、この夜更け、あんなさびしい所で、たった一人で何をしてたんだい? 見ればお座敷着のままらしいが──いい男と待ち合せだったのかい?」  そんなんじゃないのよ、とむこうむいたまま吐《は》きすてるよう言って、ふっ、と自嘲的に笑った。──唇《くち》もとがゆがむのが、遠い街灯の明りで見えた。 「そりゃまあこちらだって……ちとわけありでね……」  いいかけて、あ、やっと来た来た、と、車道に一歩ふみ出して、懸命に右手をふった。  ──通りのずっとむこう、路地らしい所から出て来た一台が、こちらにむかい、そのフロントグラスに赤い空車ランプがついているのが見えた。 「じゃ、今度はまちがえずにおかえんなさいましよ。──松富菱倉……あたしが言ったげるわ。お兄さん、ヒがうまく言えないんだから……」 「あなたはどうするんだ? この近所か?」 「あたし?……あたしは……」ふと、ぼんやりうつろに考えるような眼付きをして、「そうね……。乗っけてもらおうか──大分手前でおりるけど……」 「待てよ──今何時だ……」  手前の辻の信号で空き車がとめられている間に、ふと気がついて、左手首を遠い街灯の明りにむけた。  もう二時四十分をまわっている……。宿にかえりついて午前三時……。宿といっても専門の旅館やホテルでなく、この古い都市の中心部に多い、しもた屋同然の素人旅館で、経営しているのは老人夫婦、共稼《ともかせ》ぎで朝の早い息子夫婦は早く寝てしまい、二時ごろまでなら、受験勉強中の孫が起きているが、三時ともなればこれも寝につく。今からかえって起きてもらうのは、なまじ定宿で事情がわかっているだけに気が重い。  商用と称して、別の旅館で徹夜麻雀になる事がちょいちょいあり、そんな時は大てい電話を入れるのだが、入れなくても十二時すぎには戸を閉め、鍵をかけてしまう。一時、二時にかえる時には電話を入れるとりきめになっていて、その時は、爺さん婆さんどちらかが、居眠りもせずきちんと起きていてくれて恐縮する。  今でも役者のように色白で男っぷりがよく、若い時から遊んで遊びぬいて、いっそすがすがと清らな感じの老人になった宿主と、もとはさる大都会の一流の色里で左褄《ひだりづま》をとっていて、若いころの爺さんと相惚《あいぼ》れになり、「殿様」とよばれる高官をふって、かけ落ちさわぎまでやって一緒になったという、これまた綺麗でかわいい婆さんと──当主夫婦が粋だから、三業地で酔いつぶれて床につけようが、連れこみでホステスと泊ろうが、朝がえりの顔を見て、おたのしみでしたか、とにっこり笑うだけで、こっちにばつの悪い思い一つさせない。──そんなだけに、いっそ今夜はどこかでつぶして、朝かえった方がいいのだが……さりとて、この時間、あやしげなネオンのホテルにはいっても、もう相手の調達はできまいし……。  とつおいつ、しているうちに車が傍へ来てしまった。──あいたドアの前で、女がちょいと身をひくようにして、 「さ、お兄さん、先へおのんなさいな。──あたしゃ先におりるんだから」  と、袖をひらつかせる。  二人のりこんで、ドアがしまると、行く先を告げようとする女におっかぶせるように、 「どこか、市内で、朝まで飲めるような所はないかな」と言った。「スナックでもいいが……できれば、小座敷でもあって、あぐらで飲めるような店が……」 「あら、お兄さん、これから夜通し?」と女は冷やかすように、顔をのぞいた。「おつよいのね……」 「今から宿へかえっても、戸をたたいて起きてもらうのが気ずつない──。酔いもすっかりさめちまったし……少しは腹もへった」 「あるわよ」と女はうなずいた。「あまりきれいじゃないけど、そんなにやかましくない�きふね�って和風スナックが……」  女が行く先を告げ、車が走り出してからしばらくして、 「夜通しか……あたしもおつきあいさせてもらっていいかしら……」  ぽつりと言った。 「そいつあねがったりかなったりだ」とつい声が大きくなった。「一人でぽつんと、朝まで飲むのは──酔いがこもって、悪酔いしそうだな、と思ってたところだから……だけど、あなたはいいのかい?」 「大丈夫……今夜はもう、|一わたりすんじまったから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……」女が袖をかきあわせると、あまり上等でない化粧品の匂いにまじって、はじめてぷんと、むこうからも酒の匂いがした。「もう、そんなに飲みやしませんけど……お礼のつもりで、おつきあいさせて頂くわ……」 「お礼?──つきあってもらえるなら、こっちが言いたいくらいなもんだが……。何かあなたにお礼をしてもらうような事をしたかい? おどしたおわびのつもりっていうなら話がわかるが……」 「じゃ、おわびのつもりもあわせて……」女はかきあわせた袖に、細い顎《あご》を深く埋めて、ふいにやるせなさそうに、低い、わびしい声でぼそりと言った。「だって、あの時、お兄さんが�大瓶猩々�をうたいながらやってこなきゃ……あたし……ほんとにあそこから身を投げてたかも知れないんだもの……」     三 「へッ!」  見事なつるっ禿《ぱげ》の頭に、ねじり鉢巻をしめた�高砂�の親爺は、頓狂な声をあげて、大袈裟《おおげさ》に驚いて見せた。 「そいで、菱倉と宍倉とまちがえておりちゃったんですかい?」  三、四人しかいない客が、親爺の大仰さにつられてどっと笑った。  割烹《かつぽう》�高砂�──この都市の盛り場・三業地は、西と東とあって、ふだんはあまり西は訪れないのだが、訪れたら必ずこの店による事にしている。のれんをくぐると檜柾目《ひのきまさめ》のカウンターが鉤《かぎ》の手にあるだけで、十二、三人もはいれば一ぱいになってしまうのだが、活物の材料《ねた》がいいのと、親爺の威勢のよさが売物だった。それともう一つ、店の名からもわかるように、親爺が下手の横好きの観世きちがいで、表ののれんも、まさか緞子《どんす》ではないが、五色の布をつづった幕口の揚幕見立てで、偶然ふらりとはいった時、はいって正面、奥のカウンターの後ろの壁が、板ばりで松が描いてあるのを見て、何だこりゃ、能舞台みたいだな、とつぶやいたのを、 「お、旦那、話がわかるね!」耳ざとく聞きつけて、「所で旦那は、宝生ですかい? それとも、喜多?」  鼻くっつけそうに、禿頭をつき出してたたみこまれたのには面くらった。──何流なんて言えるほどのものじゃないが、上役のつきあいで、観世をせいぜい小謡程度……とこたえると、 「おい! こちらの旦那ァ観世だ! 鯛を出せ!」  奥へどなって、こりゃ当店のサービスです、といきなり活のいい作りを出されて、ほかのお客の手前、もじもじした。──が、お客は慣れていると見えてにやにや笑うだけだった。  あとからわかった事だが、この都市は、どういう土地柄か、宝生、喜多が多く、あと金春、梅若とつづいて観世をならう人が不思議にすくないとか、関東者の親爺がくやしがって、観世ときくと「サービスしちゃう」のだ、という事だった。  三間、五間ほどの小体な店ながら、中はいろいろ凝っていて、古物商《どうぐや》ものらしい能面、舞扇などが飾りつけてある。──はいってカウンターぞいに右に鉤の手に曲ると、つき当たり正面、竹を描いて、臆病口を切った羽目上に尉《じよう》と姥《うば》の面、下に「高砂」の※[#歌記号]この浦舟……のもじりで書いた見開き謡本見たての主人口上がはってあり、長いカウンターの背後、松羽目の上に、品書きが区別けでならんで、刺身、活物の上に|大[#「病だれ」+「亞」]見《おおべしみ》、酢の物の上には中将、煮物の上には小面《こおもて》とならぶ。出入口の内側、出る時に見上げる鴨居に、猩々の面があるのはわかるが、あとは何かいわれがあるのかね、ときくと、「|大[#「病だれ」+「亞」]見《おおべしみ》は、刺身のわさびを食った顔、中将は酸っぱい酢の物を……」云々《うんぬん》と言うのだから、いささか病|膏肓《こうこう》の感があった。  はいってすぐの、短いカウンターには、つくりものの小さな欄干がおいてある。背後は磨《す》り硝子《ガラス》障子《しようじ》の明りとり窓で、窓框《まどかまち》に姫小松の鉢植え三つおいてある。どうせ、見立て橋懸りのつもりなんだろう、と言うと、 「ヘッヘッ!」てらてら光る額をぴしゃりとたたいて、「いや、こたえられねえね。戸があいて揚幕をあげてお客さんがしずしずと橋がかり──本舞台へかかって、松羽目を後にぴたりとおさまる。──いい感じですぜ」  一人で悦に入っていた。  だが、松羽目のすぐ前と言えば、これは鼓能管など鳴物のおさまる後座で、その勘定から行くと本舞台はカウンターの中、鍾馗《しようき》じゃないが、包丁ふるって海老の鬼殻焼きなんかつくってりゃ、それはいい気持ちだろうと冷やかすと、 「めっそうもない! お客様はいつだってシテでさあ。時にお連れがあってもね。わっしなんざあ、地謡、鳴物、それにワキや観客もかねて、お客の猩々、菊慈童ぶりを、とっくり拝見するわけで……」  そう言いながら、ほかのお客が出て行ったのを見ると、顔をよせて声をひそめ、 「と言うものの実はね……やっぱり腹ン中じゃ、てめえがシテでここが本舞台のつもり、お客のお喋《しやべ》りが地謡、いよう、と肩をたたけばこれが大鼓《おおかわ》、小鼓は──ほれ、舌鼓ってえやつがありまさあ」  じゃ、やっぱりお客は引きたて役かい、とふき出した。  その�高砂�へ、ひさしぶりに寄った宵の口──三日前の失敗を披露して、親爺のひょうきんな受け答えに大笑いになった。 「まったく東京もんにゃ、罪な町名だよな」と親爺は、かんぱちをさばきながらいった。 「それで、宍倉町の先まで行っちまったのかい?」 「ああ──酔っぱらってどう行っていいかわからないんで、ただひろい道をふらふら歩いて、気がついたら、松井《まつい》山がつい眼と鼻の先で……」 「まつい山と言っちゃいけねえ。松井《まつち》山……」 「でも、あそこの神社は松井《まつい》神社と言ってたぜ」 「神社は松井神社、橋も松井橋だが、山は松井《まつち》山てんだ。土地の歌にもあるぜ。──よそ者でも、こいつはおぼえときねえ」  人をやたらによそ者あつかいするが、親爺だって土地に長いもののここの人間ではなくて関東──浦和あたりの出身だった。 「でもいやですよ。いくら朧月夜だって、そんな夜更けに、そんなとこまで……」  奥からおかみが言った。──おかみはこの土地の生れだ。 「ほんとに、狐にでも化かされたんじゃありませんかね」 「狐どころか、鬼でも出なかったかね?」親爺は、くっくっと笑いながら、ぴっ、とかんぱちの皮をひいた。 「え?」  鬼──ときいて、変にぎっくりした。 「鬼……だって?」 「おうさ。松井《まつち》山は鬼の名所──名所ってなあ変だが……。昔あの山に鬼がすんで、夜な夜な里に人をさらいに出た、てんで、土地の子供は、松井《まつち》山の鬼がくるって言やあ、すぐ泣きやんだものだ、てえ──なあ、お時、お前も餓鬼ン時、寝小便しちゃあ、松井山の鬼にくれてやるって言われて泣いたってな、え、そうだろ?」 「知らないよ──あたしゃ、赤ン坊の時から尻くせがよくて、おねしょなんかしませんからね。あんたみたいに、小学校五年まで、ぬれた蒲団《ふとん》をしょわされた、なんてのとちがうよ」  へ、と親爺は首をすくめて、 「お多福が般若《はんにや》になってやがら」  小さな声で言って、自分でも|[#「病だれ」+「亞」]見《べしみ》のような顔をして見せた。 「で、その鬼を、鎌倉時代に箕田《みのだの》源二、てえ豪傑が退治したってさ。──鬼封じの松井神社に、一しょに祭られてらあ、松井神社は昔から節分の追儺《ついな》が有名だ。一度見に来なせえよ」 「まあ、ほんとに、宍倉町でおりたって、松井橋まではかなりあるじゃありませんかね……」おかみが鯛の子の煮ものを二つ、お客の前におきながらつぶやいた。 「何かに魅入られたんじゃないですかね、──あの松井橋ってのは、戻橋とも言ってね、昔はあの橋の袂にあやかしが出る、なんてって、こわい所ですよ。今でもよく人がとびこむんですよ。あのあたり、見た所水がしずかだけど、深くて、底流れやかくれた淵があってね──堰《せき》ができてからでも、なかなか死体がうかないんですってよ」 「戻橋だって?」彼は思わず大きな声を出した。「あの橋が……戻橋《ヽヽ》?」 「そうなんだ。──ずっと昔、宍倉に住んでたお城の侍が、夜中、城代の家からかえる途中、何ものかに殺された。首のねえ死骸が、ずっと西北の山麓で見つかったが、刀で斬ったんじゃなくて、獣に食い切られたみたいだったてえ──、首はとうとう見つからず、侍のもとどりだけが、松井橋の袖柱にひっかかってたっていう。鬼に食い殺されたって言う噂《うわさ》がたって、橋が�もとどり橋�ってよばれた──てえのはこじつけがひどすぎるが……何しろ、あの松富通りってのが、一条通りじゃないが昔のよび名は�一の通り�って言ったそうだ。あの通りは、この街ができたころからの大通りで、西のつき当りが松井神社、東のつき当りが、富雄神社で松富通りだが、こりゃ明治以後の名だ。もともとは、大手通りから東西にのびる二つの神社の参道だったというが、この二つの神社がどういうわけか、昔からえらく仲が悪い。──まあ松井|神社《さん》は鬼封じ、鬼やらいなのに、富雄|神社《さん》は牛頭天王を祭って、牛鬼が眷族《けんぞく》だからだろうがね。──はいよ……」  前におかれた、見るからに生きのいいかんぱちの造りに、箸をつける事もわすれて、親爺の話にききいった。──謡曲に凝るだけあって故事好きで、話もうまい。が、それ以上に、何か妙に不気味な感じにおそわれて、ひき入れられる心地だった。 「で、どちらもこの参道は、大昔から、西から東まで自分とこのもんだって二つの神社がお互いつっぱらかって、とうとう双方一の鳥居を大手通りのまん中にくっつけて建てちゃった。──�一の鳥居通り�をちぢめて、�一の通り�の名がついた。だけど、大手通りのまん中に、でかい鳥居がくっつきあって立ってちゃ、通行の邪魔だ。地頭が仲にはいったが、何せ奈良平安から頑張ってる神社だから、双方きくもんじゃない。とうとう管領の裁下で、富雄神社の一の鳥居を松井橋の袂、松井神社の一の鳥居を富雄坂の登り口に建てるって妙な事でけりがついたんだそうだ。──もちろん、今はどちらもねえがね。どっちかの礎石がのこってるはずだが……。まあ、それで、鳥居はねえが、富雄神社の御祭礼の行列は、松井橋の所まで神馬をつれて、神迎してかえってくる。そこまでで絶対に橋板はふめねえ。そこでこの橋が�戻橋�。逆に松井神社のお迎えの行列は富雄坂の上り口まで行ってかえる。こちらの名は�返し坂�……」  へえ、そういうわけか、知らなかったな、と、土地の客が、感心したようにつぶやいたのに、親爺はちょいと得意そうに鼻をぴくつかせ、 「──それであの松井《まつち》山の山裾を流れてる川が、京都堀川じゃないが、祝部川《ほうりがわ》──とはできすぎてるじゃありやせんか。──なあに、日本人てのは、歌舞伎一つ見たってわかるように、いやにこじつけがうまい。この街が開けたのはずいぶん古いから、どうせ京都《みやこ》の一条堀川戻橋の鬼女伝説を、松井山の鬼とひっかけて、ここへうつしてなぞらえたにきまってるんだが……」 「だけど、その晩、�戻橋�の袂で……あったよ……」彼は、かすれた声でいった。 「夜中の……二時すぎに……」  え?──というように、カウンターにならんだ客の眼がいっせいに彼の方を見た。おかみも奥から、水仕事の手をとめてふりかえった。 「あったって……何に?」親爺も団栗眼《どんぐりまなこ》をむいて、禿頭をつき出した。「鬼にですかい?」 「いいや……」彼はぐいと盃をほした。「……女だ……」     四  おきぬ……って言います、と、さすがに客もまばらな午前三時の和風スナックの小座敷で、女はあらためて名のった。……絹《けん》の字じゃなくて、衣《ころも》を書いて衣子《きぬこ》……源氏名は──ふ、と鼻で笑って──これでも源氏名があるんですよ。ずいぶんこっぱずかしいやつだけど……百合香、てえの。柄じゃないわね。  明るい光の中で、むきあってすわってみると、あらためて女の肌のすさまじい荒れぶりに、うそ寒い思いを味わわされた。  年もあろう。  話の具合から察すれば、四十三、四──が、それにしても、よほどすさんだ暮しをつづけて来たらしい雰囲気《ふんいき》が、眼つきの暗さや、しぐさのはしばしに見える投げやりな調子のむこうから、荒れ果てた墓場を吹く灰色の冬の風のように、ふうっと吹きつけてくる。  かと思えば、ちょいとしたながし目に、ぞっとするようなあやしい色気がのぞく。──胸もとに白粉《おしろい》やけの肌がのぞき、ぬりたてた顔も、酒色に荒れた鉛色の地をかくしようも無いのだが、ちょいとはなれて見れば、顔立ちは凄いような美形である。──ややつり上った細い眉、切れ目の長く鋭い艶な眼が、その眉にひっつくように上にあり、面長、受け口……国貞、豊国か、いやいっそ、渓斎英泉《けいさいえいせん》あたり幕末|頽廃期《たいはいき》の浮世絵からぬけ出したような顔だちで、頸が長く、肩がうすくて柳腰──すらりと立った様子のよさには、年齢やすさみぶりを忘れて、はっとさせられる。  が──眼を見開けば、くたびれた黒|羽二重《はぶたえ》の羽織、何度も水をくぐったらしい、|しぼ《ヽヽ》ののびきった鉄納戸色の着物を、どうしようもなく自堕落《じだらく》に着て、ぎょっとするほどこけた頬の陰が濃く、人をどぶ底の欠け茶碗でも見るような冷やかな眼つきで見る視線に出くわすと、あらためて、ぞくぞくと背筋が寒くなってくる。  小座敷の壁に、左肩をぐったりもたれかけるように、膝《ひざ》をくずしてすわって、こっちが何も言わないのにビールを注文し、つづいてすぐ熱燗《あつかん》をおくれな、と顎《あご》をしゃくって、最初に来たビールは、コップについで、くい、と一息──こちらが二杯のむうちに、もうからにしてしまい、つづいてはこばれて来た日本酒も、たてつづけにぐい呑みで二杯やって、ちょいと! こんなものじゃしようがない。コップか湯呑みを……と、ひっぱたくような調子でいいかけて、ひょいと彼の顔を見て、頭をがくんとおとし、 「よそう──今夜はお兄さんと、お礼に夜通しすンだから……」  ゆっくりおとなしくのむわね……といいながら、たちまち銚子二本をからにして、おかわり早くもっといで! と口汚なくわめいた。こりゃ、ひょっとして、えらい莫連《ばくれん》ものにつきあった、と思って鼻白んだが、そうかと思うと、ふと、しおらしくなったりする。──あたし、何に見えます? 芸者? おやありがと。そうねえ、こう見えても、これでもと芸者……のどだけはみっちりしこまれてね。でも、今は婆あの上にこんな体になっちゃって……遊芸仲居ってとこかね。お兄さん、縁があったら一度よんでよ。粋《いき》な方らしいし、芸事は好きでしょ?  告げられた色街は、ごみごみした工場地帯の一廓《いつかく》で、名はきいた事があるが、のぞいた事もない場所だった。  銚子四、五本からにした所で、ふーっ、と息をついて、背をおるように壁へ斜めにもたれた。──そうすると、顔が明りの陰になって、たださえ暗い顔が、幽鬼のように見える。 「あんな時間、あんな所で何してたって?──本当よ、あのまま死んでやろうかって、ずっと思いつめてたの。──それにしても、なぜあんな場所って? ちょいと松井|神社《さん》に用があってね。ふふ……実は、丑《うし》の刻《こく》まいり……」  そういったとたんに、くずした膝の上に、ぽたぽたっ、と涙を三、四滴おとしたのにはびっくりした。  おとついの晩までは毎夜、お百度を踏んでいたのだという。おさだまりの男──いれ上げていた年下の情人が肝臓を病んで入院し、経過がよくない、というので、そこは水商売の女らしく、夜の仕事がすんでから、毎夜夢中でふんだ。それがちょうど二十日目のきのう……。 「ちくしょうめが!──人を白痴《こけ》にしやがって! 小便くさい看護婦と乳くりあってたと見えて、ずらかりやがったんだよ!」  歯をばりばりかみならしそうなはげしい調子だったが、姿勢は相かわらず、くの字に壁にもたれたまま──陰になった顔から、面をそむけたくなるような呪詛《じゆそ》の言葉がとび出した。  男はどこかよその土地のやくざの三下で、三十すぎてまだ三下でしかないような、うす汚れた男だった。──何かしくじって、この土地へ流れて来たものの、金のあてもなく、何かをおびえて日のあるうちは外も歩けないみたいな、びくついた毎日をおくっているうちに、ちょうど素寒貧《すかんぴん》になる前後に女と一ぱい飲屋であった。どうもつれこんだのか、男がひも気どりで女のアパートにおさまったのが一年ちょっと前、それからろくに稼ぎもせず、けちなたかりをやりかけて、かえって土地の地まわりに袋だたきにされ、そのくせ競馬競輪やったり、トルコ娘にちょっかい出したり、夜は夜で負けるばかりの麻雀で徹夜をかさねたり──そんなこんなで、急性肝炎をおこしてひっくりかえった。  病院で、さすがに心細くなったか、天井をむいて涙をため、 「もうこんな生活これっきり、やめだ。……こんな事してちゃあ、将来まっ暗だしな……」  なおったら、心を入れかえて働く──と子供みたいな調子でつぶやくのを見ると、今まで、ついつい一人寝の淋しさに、ぶらさがられるままにさせて来ても、腹の中ではこんな野郎、と思いかけていたのが、急に我が身とともに、いとしくなり、お前、本気かい? それじゃ本当に……と、この時、はじめてかっと熱くなって、完全看護でつきそってやれない夜のさびしさをまぎらし、わが身を鞭打《むちう》つつもりもあって、本気になってお百度をふみはじめた。その願かけの区切りがつく前日──病院から朝早く電話がかかって来て、かえっているか、という。はっと胸をつかれてすっとんで行ってみると、先方は男だけでなく、どうたらしこんだか山村出の若い看護婦が見えないのがわかって、さわぎ出した所だった。  かーっと逆上して、闇雲に街をかけずりまわったが、立ちまわり先の心あたりもなく、一日かけずりまわって夕方かえってみたら、部屋中ひっかきまわされていて、 「あたしの、虎の子の二十万まで持って行きやがったんだよ……」  なけなしの着物、安物の指輪、金目になりそうなもの一切──逆上に輪をかけて、またとび出し、交番へかけこんだがすぐには相手にされず、かけずりまわり、やけ酒をのみ、あたりちらし、泣きわめき──ゆうべ一晩、それをやりつづけ、のみつづけ、わめきつかれて、やっとかえって寝たのが今日の昼すぎだったろうか。眼がさめた時はあたりまっ暗、ふらふらと外へ出て車にのって、気がついた時は……。 「だれもいない松井神社のお百度石のとこで、下駄をぬいでたのさ──」自嘲的に肩をふっとおとして、「あれだけふんだりけったりの目にあわされて、まだ心のどこかじゃ、夜中が来たら男のためにお百度ふまなきゃ、と思ってたんだね──女なんて、ばかで、悲しいねえ……お兄さん……」  その悲しさに気がついて、誰もいない神楽堂の縁で、あたりの杉木立をふるわすようにわあわあ泣いた。泣いて泣いて、泣きつかれて、眼がさめた時は午前二時前……。 「願をかえて、今度はあの野郎、呪い殺してやりたい、と思ったけど──まさかきのうおとついまで、どうかあの人の病気をなおしてくださいって、一所懸命おねがいしてた松井|神社《さん》に、いきなり今度は、とり殺してくださいってたのむわけにも行かないしね……」  体は泣きつかれていたが、心は男憎さになお燃えていた。──ふらふらと橋をわたりかけて、ふと……、 「自分の顔が、男憎さに鬼になってるんじゃないかって気がして、川をのぞきこんだら……ほら、�戻橋�の、美女に化けた鬼が、渡辺綱に見やぶられるのが、堀川の水にうつった顔を、綱に見られたからだろ。──そんな事思い出して、川をのぞいたんだけど……なに、くらくって何も見えやしないけど……暗い水がゆっくり動いてるのを見ていると、自分の運の悪さがつくづく情けなくなって……もういっそ、とびこんで死んでやろうか、死んで鬼でも幽霊にでもなって、あいつをとり殺してやろうか、なんて、半分本気で思って……そうやってじっと暗い川を見ていると、自分がだんだん、ほんとの鬼になりかけてるような気がして来てね。──もう一息、あの水にとびこめば、本当に角がはえ、口が耳まで裂けた鬼になれるんだ。ほら、ひょいとまたいで、とびこみゃいいんだ。そう思いつめてた時……」 「酔っぱらいの�大瓶猩々�で、三途《さんず》の川からひきもどされたってわけかい……」彼は、陰々滅々の空気を吹きはらうように、おどけた調子でいった。「いけないよ、姐《ねえ》さん──夜中に女一人で、橋の上から川をのぞいたりしちゃいけない。古い橋てのはね、大てい水神さまに橋を流されないように、橋の袂に人柱ってのが、ひそかにうめてある。男の事もあるが、女も多い。──ほれ、�宇治の橋姫�って、物語があるだろ。あれもむりやり人柱にされた女の怨霊《おんりよう》が変じて、鬼女になって、通行人を食ったっていう。�戻橋�の鬼女だって、橋の所に出るのは橋姫の変り種かも知れない。夜中には、一人で橋をわたってさえいけない。どうしてもわたらなきゃならない時は、お経でも唱えて、まン中を走ってわたるもんだ、というよ。まちがえても流れをのぞいちゃいけない。──人柱もだが、川で溺死《できし》して、うかばれない怨霊が、水鬼ってものになって橋杭にひっかかっていて、夜のぞきこむ人間をひきずりこむそうだ。──それでなくたって、水の流れには、催眠効果があって、じっと見てると頭がぼっとして、ふらふらと変な気をおこすことがある。──あんたも、何かに魅入られかけてたんだろう……」 「いっそ死んで鬼になっちまってた方がよかったよ……」女は地の底からひびくような、わびしい声でいった。「……人間って、腹立ちゃ憎しみややきもちが煮えくりかえって、自分でもう苦しくって、どうにもならなくなって……ほんとに生きながら鬼になりたいって気になる事があるもんだねえ……」     五 「ちょっと……」まめに手を動かして突き出しをつくりながら、彼の話をきいていた親爺が、ふいに眉根にしわをよせてふりかえった。「さっき何とか言ってたけど、その女の名は何てったっけ?──衣《きぬ》子?……もしかしてその女、左頬に長い刃物傷がありやしなかったかい?」  あ……と、彼は、突然思い当った。そう言えば、いつも左半面を陰にするようにしていたが、あつくぬった白粉の下に縦にきざまれていたのは、あれはしわではなくて……、 「やっぱり……で源氏名は?」  親爺はどういうつもりか、右手を手刀の形にして、左腕をたたいていたが、彼の一言をきくや、奥へむかってどなった。 「おう、お時。えれえこった。�うわばみのお衣《きぬ》�が町へけえって来た!」 「ああ、一年半ほど前からね」おかみは動ぜず、奥で食器をあらいつづけた。「えらいこった、なんて、大袈裟なこたないやね。──かわいそうに、新地にゃ顔を出せないんだよ。当り前のこったけど……。私も南街でおととしの末にあったよ……」 「何だと。一年半前?──なぜ知らせねえ」 「知らせるほどの事かね……新地の姐さんたち、みんな知ってるよ──町内で知らぬは亭主ばかりなり……だよ」  客が失笑するのに、ばか、そんな時につかう川柳じゃないや、と肩ごしに捨てぜりふして、ぐっと顔をつき出すと、彼の眼の前で、はげしく手をふった。 「だめだ。三田さん、その女はよしときねえ。かかわりあいになると、えれえ目にあう。戻橋から、丑の刻まいりしようという女を�きふね�てえスナックへつれてくなんて、こりゃまるで�鉄輪《かなわ》�じゃねえか──あんた、からまれなかったかい? そりゃ、いってみりゃ、奇蹟てもんだよ、うわばみのお衣と朝まで一緒にのんで、無事にわかれたなんて……」  無事どころか、女はますます陰気に沈んでしまった。──暁方六時、そろそろ宿で起き出すと思って、腰をあげたころは、青い顔をして眼がすわり、かえる? あたしゃ、も少しのんでくよ、というので、それまでの勘定をはらって先へ出たが……ひょっとするとあれから先……とも思えた。 「よくまあ、おとなしくわかれられたもんだ。──あの女ア、もとこの新地から出てたんだがね。きれいだし、芸達者で、昔ぁ大変な売れっ妓《こ》だったが──悪い事に、ひでえ大酒飲みで、ヒステリーで、手のつけられない酒乱で……それに前科がある」 「前科?──詐欺《さぎ》かい?」 「いや、もうちょっとかあいげのある──と言っていいかどうか……人殺しだ」  殺人の前科──ときいて、さすがに鼻白んだ。  この新地《さと》で、十六の時からお座敷へ出た。その源氏名が百合香──土地の西郊の出で、曾祖父の代は苗字帯刀ほどの家柄だったそうだが、祖父、父と三代つづいた大酒飲みで、父の代には逼塞《ひつそく》し、母は東の遊廓の遊女あがりで、これも酒乱……父は本妻をほうり出して、ほとんど女の所にいたが、夫婦飲んではの大立ちまわりに、物心ついた時からつきあわされていた。  十三、四で半玉に売りとばされる所が、戦争で、戦後の繊維景気のころ、母の朋輩《ほうばい》で、彼女をかばってもくれ、芸事を物指と撥《ばち》できびしくしこんでもくれた女の養女の形で西新地から出た。もう出たころから、常磐津、俗曲の上手できこえていたが、すぐ闇繊維屋の旦那がつき、一本になり、その旦那いやさに飲みはじめた酒が、酒乱へとみちびいて行った。  若いころは、ほんとに粋できれいで、ようすがよくて──そうね、市丸《いちまる》ねえさんの若い時に、もっと陰とすごみをそえたみたい──ぞっとするほどきれいでしたよ、と、小学校で幼な馴染《なじ》みのおかみはいった。が──酒乱でお座敷をしくじりつづけ、とうとう一流地にはいられなくなり、旦那とも切れて、二流地、三流地とおちて、しまいには土地の何々組の、という、たちの悪い色悪《いろあく》にはまりこみ、鬼の女房に鬼神というわけで、美人局《つつもたせ》同然に客をとらされ…… 「その男を……」殺《や》っちまったんだよ、とにぎった柳包丁をつき出すしぐさをし、「おきぬにひどい働かせ方をして、自分はまた若えホステスを情人《いろ》にした。おきぬはじっと堪えてたけど、持ち前の酒乱を起した時、かっとなって、男と女の定宿へあばれこんでね……」  裸で抱きあってた女に重傷をおわせ、男の脾腹《ひばら》へ柳ッ刃を柄までつきたてた。──が、男は色悪でも刀をつかえ、つきたてられたまま、枕もとの仕込み杖で一閃《いつせん》……。 「それが、あの傷かい?」酒がさめるのを感じながらききかえした。「何年前?」 「さあ──たしか、五、六年前……」 「六年だ──」とでっぷり肥った、赤ら顔の客がいった。「刑は七年だが、四年で出た。──正体ないほどぐでんぐでんに酔ってたし、事情が事情だから、弁護士は精神鑑定と酌量をねがったが、女があっさり一審で受刑しちまって──前に一度、朋輩の女を傷つけて、これは執行猶予がついたんだが、一応拘置所入りまでしてるしな……」  こちら、警察の方で、坂田の旦那──と親爺はその初老の人物を紹介した。 「それまでに、器物損壊や軽傷害は数知れず、書類送検も何度かあって──市警でも名物女でしたよ。まあ、刑務所では酒が飲めないせいか、おとなしかったっていいます。二年減刑もあって一年のこして仮釈放でね……」と坂田という人物はいった。「出てすぐは、よそにいましたが、やっぱりこの土地が恋しいんでしょうな。おととしあいさつに来ましたよ──だが、一年すぎたら、またはじまったかな。所轄署に注意しといた方がいいかも知れん。根は悪い女じゃない、と思います。男に惚れっぽくて、すぐだまされるんですから……だが、自分でもどうにもならない嫉妬《しつと》、激情ってのがあって、かっとなったら見境がなくなる。──生い立ちもあるし、ある意味で、かわいそうな女です……」 「かわいそうにゃちげえねえが……」と親爺は鉢巻をとって顔をふきながら、神妙な口調でつぶやいた。「まあそんなわけで、かかわり合いにならねえ方がいいですよ。──一緒に飲むのもよした方がいい、さわらぬ神にたたりなし、てもんだ」  が──かかわり合い、というほどではないが、実はその夜、十時ごろ、女の出ている安料理屋へ行って、座敷へよぶ約束をしてしまっていた。これからあたしゃ一体どうしたらいいんだか……お兄さん、もう少し話をきいてくれない、と言われて……。夕方仕事がすんで約束の時刻までの時間つぶしに、あまり訪れない西の新地へ来て、�高砂�をのぞいたのだったが、その話をきいて、さすがに足も気も重くなった。�高砂�を出てもう一軒、知っている小さなバーで、さらに時間をつぶしたが、行ったものか行かないものか、迷っているうちに十時がすぎてしまい、それでもことわりの電話する気にもならなかった。  バーを出ても、まだ迷っていた。──初対面で行った夜明けのスナック、女は相当飲んでいたから、ひょっとして、おぼえていやしまい、とも思ったが、それでもまた、心待ちにしていたら、ちょっとかわいそうだ、恨まれるほどの事もあるまいが、寝覚めが悪い、まあ、ちょっと顔だけ出して、急用ができて夜行でかえるとか何とかごまかそうと──そういう所に、変に律儀なのが悪い癖で、タクシーに乗って南の三業地にのりつけたのが十一時すぎ、パチンコやらストリップ、深夜興行の三本立て映画館に、ホルモン焼き、屋台、連れこみなどのたてこむ、ぐっとくだけた雰囲気の盛り場を、女の出ている料理屋はたしかこの辺と見当つけて、さがし歩いていると……辻をはいった所で、何やらわめき声がきこえ、人だかりがしていた。  その声に聞きおぼえがあって胸をつかれ、急いで人だかりにちかよってのぞきこむと──果して赤提灯《あかちようちん》の飲み屋の前で、大の字なりにひっくりかえって、裾《すそ》もあらわに脚をばたつかせながら誰かにむかって毒づいているのは、あの女だった。 「ちくしょう! あたしを誰だと思ってやがンだい。あんけらそう! 唐変木《とうへんぼく》!──洟《はな》たれの手前らとちがってな、これでも男を一人、あの世へ送ったお姐さんだよ。さあ、殺すなら殺しゃがれ。そのかわりこっちものど笛でも一物でも食いちぎってやらあ。インポ! 狒々爺《ひひじじ》い! くそったれ! けつめどでもなめやがれ……」  着物はどろどろ、むやみに脚をばたつかせるのでやせた太腿《ふともも》の付け根までまるだしになって、店明りに、うすい腹の下のうそ寒いかげりまで見え──まわりの柄の悪い酔客は野卑な罵声《ばせい》をあびせながら、そんな光景を面白がっているようで、思わず眼をそむけたくなった。と、一転、女は半分うつぶせになって、袖に顔をおしあてておいおい泣き出し、 「ちくしょう!──あの野郎とあま、殺してやる! 見つけ出してきっと殺してやる! あたしをこんなにふみつけにしやがって……男なんざ、みんなうそつきの悪ばっかりだい! どいつもこいつもうめえ事ばっかり言やあがって、約束一つまもりゃしない。──男なんざ、みんな殺してやるんだ……」  くやしいよう──と号泣しはじめた時、パトロールの警官二人、辻を曲って足早にちかづいて来た。それを機会《しお》に、彼はそっと人垣をはなれた。     六  菜種梅雨《なたねづゆ》──というのだろうか。  入梅にはまだ早い、五月の連休すぎに降り出して、今日でもう四日、しとしとと降りつづく雨の中を、彼は傘をさして松井橋の方へ歩いて行った。  まちがえてタクシーをおりてしまったあの晩から、ちょうど一カ月ちょっと──あれからひょんなまわりあわせで、本社の方で宍倉町|界隈《かいわい》に用地を買収する事になり、工場予定地のまわりに散在する民家に、何かと話をつける事になって、またその町へくる事になった。  最難物と言われる家に、まっ先にとびこんで、これが老朽という事もあって、意外にとんとん話がすすみ、あっさり覚書交換まですんで、気ぬけしたような、ほっとしたような気持で外へ出たのが午後三時すぎ、長丁場になるつもりでタクシーはかえしてしまったから、通りへ出てつかまえるつもりで、外へ出たら、右手に松井《まつち》山が雨に煙って見え、遠く神社の鳥居が見えた。昼見れば大した距離でなさそうにも思え、そのまま何とはなしにぶらぶらと、あの晩酔っぱらってたどった道をたどる気になったのは──その家との交渉だけで一週間はかけるつもりでいたのが、とびこみ二、三時間ですんでしまった、その解放感もあったろう。  松井橋の手前まで来てみると、川水は降りつづく雨で濁ってふくれ上り、流れもずっと早くなっている。下流の堰の鳴る音も、はるかに高く、どうどうと山肌をゆするほどにひびいた。──古びた欄干を眺め、橋の手前、川岸を行く道をへだてたこちら側に、�高砂�の親爺のいったように二つのこっている鳥居の礎石らしいものを眺め、松井山の鬼や、鬼封じの神社の鳥居を眺め、あの女──あの晩ここで、朧月の光をあびて、幽鬼のように立っていた、哀れにすさんだ、酒乱の女はどうしたろう、ああいう女は、先行き、どんな人生をおくるのだろうか、などとぼんやり考えながら立ちつくした。  傘をうつ雨の音と、堰の鳴る音に気をとられて、背後にひびく、ぬかるみをふむあわただしい足音がつい近くにくるまで、気がつかなかった。──ぴちゃ、ぴちゃ、と鳴る足音が、すぐ後ろでとまり、はっとしてふりかえった時、そこに髪はざんばら、着物の前をふみはだけ、ぬかるみを膝まではねあげた足袋はだしで頭からずっぷり水死人ほどぬれた|あの女《ヽヽヽ》が、絵具をぬったようなまっさおな顔をし、眼をすえて、肩で息をつきながら立っているのを見ても、にわかにわが眼を信じられなかった。 「お、お衣《きぬ》さん……」彼は、夢でも見ているような気持で、ぼんやりした声でつぶやいた。「あんた、一体……その恰好で……」 「ああ……いつかのお兄さん……」  女はうつろな眼で彼を見すえると、唇を船型に吊り上げて、にーっと笑い、低いしわがれた声でいった。──焦点のさだまらない眼は、狂っているみたいだった。びしょびしょ降る雨にぬれて、髪の毛のべっとりはりついた左頬には、白粉のはげた鉛色の肌に、こめかみから顎《あご》へかけて、すごいばかりの刀創《かたなきず》がはっきり見えた。 「お兄さん……この間の晩、とうとう来てくれなかったね……」  女は下からねめ上げるように見ていった。 「いや……少しおくれて行ったんだけど……」膝の力がぬけかかるのを感じて、後じさりしながら、彼はもつれる舌でやっといった。「その時は、あんた、酔っぱらって……」 「そんな事はどうでもいいんだけどさ……お兄さん……今度こそ、おねがいがあるの……」  女はにたにた笑いを唇のはしにうかべながら、二歩、三歩寄って来た。 「な、なんだ……おねがいって……」橋の袂へさがりながら、彼は女の黒くぬれそぼった着物の胸に、べっとり赤いものがついているのに気がついて、思わず悲鳴をあげた。 「お衣さん!──あんた、その血……」 「ああ、あの野郎をたった今、殺して来たよ。今度は女もいっしょさ。……馬鹿野郎めが、ついこの先にかくれてやがって……この街であたしの眼から逃げられると甘い事考えてやがったのが大まちがいさ……」女は、血糊《ちのり》のこびりついた右手をぬーっとのばして、いきなり彼のレインコートの襟《えり》をつかんだ。 「たのみというのはね……お兄さん……悪いけど一緒に死んでおくれな!」  細っこい女のくせに、きちがいじみた力だった。──すべる泥を、ぐいぐいと橋の袂までおされて、彼は傘をほうり出し、何をする! よせ!……と声にならぬ悲鳴をあげた。 「前に一人、また二人|殺《や》っちまった。……今度つかまりゃ、死刑さ……。裁判だの刑務所《むしよ》だのはもうまっ平《ぴら》だから、とびこんで死のうと思ったんだけど……一人じゃやっぱりさびしいやね……。あんた、ちょうど何かの縁でここにいたんだ……。一緒に死んどくれ……おねがいだから……一人にしないでおくれ……」  はなせ! 気をおちつけろ!──と水際までおされて、こっちも死に物狂いにもぎはなそうとした。本気になれば、さすがに男の力で、襟をしめ上げつつ、一緒に死んどくれ、とくりかえし絶叫しながら、体をあずけて川岸へ押してくる女を、やっとくいとめ、五分にもみあい、六分四分に押しかえした。  不意をつかれて逆上し切っていたため、けたたましいパトカーのサイレンに気がついたのは、女の方が早かった。──泥水にスリップしながら、急ブレーキで車がとまった瞬間、女はぱっとつかんでいた襟をはなして、橋へむかって走った。  あ、待て! と、彼も逆上した勢いであとを追った。橋のむこう、鳥居の前にもパトカーがとまるのを見たとたん、女は内股《うちまた》もあらわに、川下側の欄干によじのぼった。 「待て! お衣《きぬ》さん……」彼は一足とびにとび上って、女の左手を袖ごとつかまえた。「死んじゃいかん!」  女は、どこか不思議そうな眼で彼を見おろすと、かまわず宙へとんだ。──びりっとぬれた布の裂ける音と一緒に、女の体は欄干をこえ、左手首を彼につかまれたまま、むこう側にぶらさがった。必死になって女の手をつかんでいる両掌に、奇妙な感触をおぼえて、はっとした時、ぶつ、ぶつ、と何かが切れる音がして、女の体はふくれ上る水面に、石のようにおちていった。ちぎれた片袖と、左腕を彼の手の中にのこしたまま……。 「妙な事にまきこまれたもんだね、三田さん……」と�高砂�の親爺は、ほっ、と太い溜息をついて、顔をこすった。「でも、まあ、無理心中にひっぱりこまれなくてよかった。──あれで死んでりゃ、とんだ品川心中だ……」 「左腕が義手だとは知らなかったよ……」彼も肩をおとしながらつぶやいた。「前に殺した男に、切られたんだな……」 「あれ、言わなかったかい?──当然気がついているもんだと思ってたが……。こっちも義手は知らなかったが、左手がない事は……」  そう言えば、あの話が出た時、�高砂�の親爺が、そんな身ぶりをしてたっけ……と彼はぼんやり思い出した。  その都市の警察本署の取調室──女が一緒に死んでくれとわめいていたのを警官にきかれ、どういうかかわりか説明してほしい、と参考人として同行を求められた。興奮してしどろもどろで、一通り説明したが、なお相手が釈然としないようなので、これから大事な仕事があるのに、新聞に名が出たりしたら厄介だと思い、あの時�高砂�で、こっちの話を最初からきいていた、あの「警察関係の人」に助けを求めようとしたが、坂田という名がどうしても思い出せず、�高砂�に電話してきいた。坂田警部補はすぐ来てくれたが、親爺も心配してとんで来た、というわけだった。若い男と女は、あの橋から二丁はなれた農家の離家《はなれ》で、血の海に漬って死んでいた。そして濁流に身を投げた女は……。  ドアがあいて、坂田警部補が、何か新聞包みを持ってはいって来た。 「死体は堰の下流でたった今、上ったそうだ……」と警部補は憮然《ぶぜん》とした顔でいった。「溺れたんじゃなくて、心臓麻痺だったそうだ……」  やっぱり……と彼と親爺は顔を見あわせた。──死んでよかったかも知れない。あの女……裁判や刑務所はいやだったろうし、死刑はまぬがれたとしても、この先生きて、どうしようもなかったろう。それにしても……あの女の一生は、ああしかなりようがなかったものなのだろうか? 「さて……」警部補は椅子に腰をおろして彼を見上げた。「あなたもとんだかかわりあいでしたな……。長い間おひきとめしてすみません。じゃすみませんが、この書類に署名して、おひきとりください……」  彼がサインしている間、親爺はデスクの横に警部補のおいた新聞包みをちょいとのぞいて、うえッ、というような声を出した。 「腕か……。お衣の義手だ……」  塗料をぬった木と、金属でできた左腕が、新聞の中にごろんところがっていた。手首までうすい白手袋がかぶさり、くたびれた皮ひもが何本か、ぶっつりひきちぎれている。 「これがついさっきまで、あの女の左腕にくっついてたと思うと、何だか哀れだな……」親爺は眼をしばたたいた。「こいつあ、お棺に一緒に入れてやるんでしょう?──でないと、お衣《きぬ》のやつが、化けて、とりかえしにくるかも知れませんぜ……」 「そいつはどうだかな……」彼は眼をそむけながらつぶやいた。「茨木童子は、あとで老婆に化けて、自分の腕をとりかえしに来たけど、戻橋の鬼女は、とられっぱなしで、とりかえしにこなかったぜ……」  そう言ったとたん、あの女が急に哀れになって、鼻の奥が少し痛くなった。──そして、どういうわけか、やり切れない寂寥感《せきりようかん》が、ひしひしと胸をしめつけて来た。 [#改ページ]   流 れ る 女    ──L・ピランデルロの戯曲"Cosie se vi pare"より──     一  空襲で焼けなかった古い地方都市──それも昔の外様《とざま》大藩の城下町となれば、街自体が、歴史の風雪や時代の変化にたえる「格」を持っている。  新しく移り住むようになったK市がそうだった。  外様大藩で、しかもこの県の如く、徳川体制確立以前からの国持大名の領地ともなれば、それは県全体が、江戸二百数十年を一つの「独立国」として生きのびた事を意味する。──同じ江戸期の大名といっても、譜代、親藩、その他の小藩のそれは、いわば家臣団をかかえた官選知事のようなもので、幕藩体制という一種不思議な軍事官僚制度の大きな機構の中で、国替え、取りつぶしなどの形で頻繁に流動させられていた。こういった大名は、家臣団、家の子郎党という、まるがかえの行政機構もろとも、領地という「任地」にうつって行くわけで、この主君・家臣ワンセットの行政システムが「お家」であり、したがってこういう大名家では領地と行政機構が一体になった「藩」の意識は、幕末になるまで出てこなかった。また、こういう「お家」の、移封、解散権をにぎる事によって、幕府は諸大名を支配したといっていい。  この幕府でもいくつかの外様大藩には手をつけられなかった。──むろん機会があればつぶしたかっただろうが、一方においては、つぶしたくてもつぶせないだけの力と格が、こういった藩にはあったのだろう。  江戸時代の大きなお家騒動を見ても、一族の松平光長のもとでおこったいわゆる越後騒動の場合、小栗|美作《みまさか》をふくむ抗争両派の主謀格は死罪、所領没収のきびしい処置がとられたのに、加賀、黒田、島津など外様大藩の場合はとりつぶしにまでいたらなかった。特に黒田騒動の場合、栗山大膳が当主忠之が謀反をはかっている、と幕府に訴えたという大事件なのに、黒田家にはその事実なし、と裁可され、騒動であるから一応所領召し上げの形式をとり、さらに先祖の功という事で再びそっくり所領をつがせる、という手のこんだ事をやっている。  この県も、江戸開府以前、織豊末期からつづいた外様大名の領地であり、県庁所在地のK市は、その城下町だった。いわば廃藩置県まで、二百数十年の間つづいた日本内の一独立国の「首都」だった土地柄である。  近代以後の工場地帯はずっとはなれた港湾を中心にしたものだったため、そちらの方は空襲で焼かれたが、K市の市街は被災をまぬがれた。──むろん、戦後の再開発で、繁華街には高層ビルや百貨店が、郊外には高層団地ができ、市中を通る国道は拡幅され、ちかくに高速道路のインターチェンジが設けられて、それと平行して地方新幹線の用地ものびて来ているのだが、かつての城郭を中心にする官庁、大学、公共建築類、それに、いかにも由緒のありそうな、かつての侍町、富裕な商人町だった古い住宅街は、建物そのものももちろん、家並み、道路、掘割りの配置そのものが、風雪にきたえられた骨太な品格をたたえており、近代以前の二百数十年を生きぬいてきたものが、近代百年の荒々しい変化に、歴史の厚みでしずかに抵抗をつづけ、見事にたえぬいた、といった感じだった。  駅前を中心とする繁華街の喧騒は、市中を流れる、幅はさほどではないが水量のゆたかな堀川をへだてたいわゆる下町──昔の職人町、小商人街のひろがりに集中していた。  一級国道は、市街地間が戦後拡幅されただけでなく、市の南部にひろいバイパスができたため、長距離便の大型トラック類は、ほとんどそちらを通過する。駅裏とバイパスの間に地方都市にはめずらしく早くからトラックターミナルの敷地が確保されていて、今はその周辺に倉庫類も集中している。南が水田、蓮田などがひろがる湿地帯なのでこのあたりを地盛りして、バイパス沿いに団地、高層アパートが群立し、おさだまりのドライブイン・レストランやボウリング場、けばけばしいモーテルなどもこの沿道に建っていた。  裏通りにまだ一部職人町のたたずまいをのこす繁華街を、国道と鉄道はちょうど堀川と平行するように東西にぬけている。──この国道の一隅に立って、道ぞいに見わたした時と、南からはいって国道と直交し、堀川をわたって、昔の大手門に通じる道路にたって、北を見た時とでは、街の印象がまるきりちがうのも面白い。──国道ぞいの両側に大小のビル群がたちならび、大手筋と交叉する広小路を中心に、銀行、大会社、デパート、ビジネスホテル、それに何々会館といったホール類を蔵したビジネスビルが集中している。国鉄の駅は、大手筋を二筋ほど東にはずし、昔の城廓の巽門《たつみもん》へ通ずる南北路のつきあたりにあり、そのあたり一帯は大小の商店、喫茶店、レストラン、小料理屋、パチンコ屋、映画館やバー、飲み屋街といった、別種の繁華街を形成していた。──広小路の中心にあるロータリーには、芝生と小さな花壇があり、中央には、戦後につくられた、この都市のシンボルである水禽のブロンズ像があって、そのひらいた口から小さな噴水が噴き上げているが、そこに立って北を眺めると、大手筋は見事に美しい、緑ゆたかな城下町の風情をあらわすのだった。  戦後、倍以上に拡幅された大手筋は、中央にごくささやかなグリーンベルトをおき、両側に、銀杏《いちよう》、鈴懸の街路樹がつづいている。──拡幅前の、古い建物ののこる左側は、かつて官庁関係がならんでいたというが、今では、それらの赤煉瓦や木造の建物は、いろんな記念館、郷土資料館、市営の美術館といったものになっている。そして右側は、市街地が整理されたあとに、思いきって近代的な市役所、県庁、新会館、商工会議所といった公共建築群がならぶ。  大手筋は堀川につき当って、堀川ぞいに南側を走る道路と交叉し、その幅で橋をわたって、住宅街にはいり、昔の城山の麓を蔽う緑の中をゆるやかに右へまがっていた。そのまま行けば、大学、県立図書館、博物館、研究所などのある旧北の丸にたどりつく。舗装された新道が右へカーヴするあたりから、旧大手筋が、昔の道幅でまっすぐ城へむかい、内堀を木橋でわたって、城の大手門に達する。  城の北を流れる大河を背にした小高い丘をとりこんでたてられた、一種の平山城だが、大大名といわれるほどの石高を持っていたのに、開祖以来質倹を家風としてきたというだけあって、城廓の規模はさほど広大ではなく、庭園も贅をつくしたといえるほどのものではない。二の丸は公園になっていて、西の丸の馬場は現在市民グラウンド、本丸天守と月見櫓は、いずれも戦後の再建で、中は博物館になっている。  江戸後期に天守が焼けたが、幕府をはばかってか、あるいは出費をおさえてか──江戸城の天守も後期に焼けたあと、ずっと再建されなかったというが──、廃藩まで再建しなかったという。  城廓の規模はさほどではないが、遺構とかつての城下町内の寺院、出丸などの配置を見れば、攻防については実によく考えてある。と、最初この城を訪れた時、行きずりに案内に立ってくれた、土地の研究家は教えてくれた。  この城は、実に緑が多い。  岡そのものが、城廓建設以前から、地元である種の聖域と見なされていたらしく、伐採をまぬがれた樹齢幾百年千年もの古木がのこっている。  城は岡をおおっていたこのゆたかな森林を構造にとり入れ、一部はひらき、一部はあらためて植林して、つくられていた。──そのため、城そのものが全体として、裾に石垣をめぐらした、鬱蒼たる森山に見え、天守は緑の梢の上にぬきん出ている。  大手筋を北へむかって歩きながら、正面にむかって眼をあげると、銀杏、鈴懸の並木のつき当りに、青黒いまでに濃い緑の高まりが左右にひろがっており、その間から、純白の塗りごめの壁、銀灰色の甍《いらか》が、鮮明に眼を射るのを眺める事ができた。  正面から見れば、松杉の常緑が視野一ぱいに盛り上るのを見るばかりだが、内堀端をまわって行くと、西日のあたる西の丸一帯は、秋ならば息をのむような紅葉が、城山全体をおおう。反対の巽門の方は、東の丸内、堀端、小公園となっている外曲輪《そとぐるわ》へかけて、桜の老樹がいっぱいに植わっていて、春先の朝日に空一面の桜花がかがやくのが見られるのだった。  複雑に屈曲する苔むした石垣をながめながら、柳の植わった堀ばたを行くと、片|薬研《やげん》の堀の一廓を篠竹《しのだけ》でかこって泥を盛り、そこに菖蒲《あやめ》が植えられている。西堀には蓮が、東堀には睡蓮が花を開き、放し飼いの白鳥、黒鳥、鴛鴦《おしどり》などが、ゆっくり水脈《みお》をひいて静かな水面をすべって行く。──何代目かの城主が菖蒲が好きだったという事で、菖蒲、杜若《かきつばた》が凄艶といっていいような濃紫の花を一面に咲かせる池が城中にあり、石の八つの橋をわたって行くと、紅白の鯉が、餌をねだって濁った水の中からもり上るほど集ってくるのだった。  城内には、植物園といっていいほど、数多い種類の草木があった。代々の城主が樹木を愛《め》でただけでなく、市の所有になってからも、たくさん植樹されていた。──二の丸の田舎風の小庭園には見事な梅林があり、杏、桃、茘枝《れいし》、蜜柑など、果樹もたくさんあった。北の丸には、薬草園のほかに柿の老樹がたくさんあり、毎年奥方はじめ、城中の女性が総出で干柿をつくったものだそうで、一部は家臣から町民へもさげわたされ、「お城の干柿」はこの土地の名物になっていて、今でも土産物屋でその名で売っている。  ──菊、牡丹、躑躅《つつじ》、石楠花《しやくなげ》の花壇もあり、城山は、市民のしずかな散策の場として、また茶会、花見、観月、歌会など、昔からのこる風流な催しの会場として、現在の市民生活の中に見事にとけこんでいた。城の東、わずかにはなれて、代々の領主の菩提寺となった名刹《めいさつ》があり、その室町風の庭園で、つい十数年前まで、市内県内の教養人たちが、年一回、曲水の宴をならった詩の会をやっていたという。  堀川、つまり内堀の外側は、もと富裕、中級の御用商人と、中級家臣団の住宅地で、大手正面の町割りは、今でも整然とした碁盤目にのこっており、高級というよりは、住宅地として「格の高い」地域に属する。  住宅地の中央を東西に一本、十間幅の道路が通っていて、これは昔の外堀をうめたてたもので、中央にグリーンベルト、両側に並木が植えられている。この道路より城に近い側には、家老級や富裕な商人の邸宅だった壮大な家屋がいくつかのこっているが、戦前は一部官舎につかわれたものの、現在ではほとんどが公共所有か、高級料亭になっている。──もと侍町は正面から西へひろがり、こちらは閑静で塀も高く、また小さいながらしっかりした感じの日本家屋が多かった。  もちろん古くても明治の頃の建築だが、戦前から旧士族、官員、大学旧制高校の教授教師といった人たちが住んだらしく、町並み全体が、がっちりした風格をたたえていて、いかにも「士族」というものが、まだしっかりした家風を維持していた頃の住宅街という感じだった。むろん戦後の新築も数多いが、大部分がまわりとの調和をくずさないように気をつかったあとの見える、それなりにおちついた和風住宅がほとんどだった。中に一、二軒、頓狂な洋風もあったが、それがかえってその一廓の中に、破調の明るさをもたらしていた。  ここには、外から見るとまるでしもた屋風で、靴をぬいで上って奥へ通り、絨毯をしいた十畳座敷の椅子テーブル、あるいは黒光りのする縁側の籐椅子で、よく手入れのとどいた中庭をながめながらコーヒーをのむ、といった喫茶店があった。──どっしりした支那箪笥の上に、古風なランプや、オランダ製のクレイパイプ、開化錦絵などがおいてある所など、いかにも明治のハイカラといった感じがした。  ひっそりとして、車もあまりはいってこない町を、辻から辻へ歩いて行くと、塀の向うから謡いの会をやっているらしく、大勢の地謡がきこえて来たりする。──また草木好きの殿様をならったのか、この一廓の家々は、いつあるいてもそこここから季節の花がこぼれ、梅や菊、金木犀《きんもくせい》の香りなどがながれて来た。四つ目垣に朝顔がはっていたり、大和塀の下からコスモスが咲きこぼれていたり、また低いからたちの生け垣ごしに、通行の人の眼をたのしませるように配置した木棚の上に、見事な懸崖《けんがい》の菊鉢がならべられているのを見る事もあった。  侍町を西へはずれて行くと、小丘や森の多い地域にはいって道が屈曲し、古い寺院、神社などの、ひっそりとした境内を通りからのぞきこめる。──塗りごめの剥落《はくらく》した長い築地塀や土塀がつづいたり、また知らぬ間に、石畳の道や、石材で土どめしたゆるい坂道にかかっている。  丘ののぼり口には見上げるばかりのどっしりした山門があって、そこをぬけて杉木立の間をのぼって行くと大寺院がある。  山門前から北へ折れて、すんだせせらぎの音をたてている小川ぞいに、ゆるやかにまがる道を内堀の方へくだって行くと、秋ならば、人っ子一人通らぬその道の小川をへだてた古い石垣の上から、色鮮かな紅金の楓の葉が流れにおち、道に散りしき、こういう町をつくった昔の人たちの、理論や理屈と関係のない「美意識」の深さが、ずっしりと体の芯に感じられて、歩みながら思わず粛然とするのだった。  大手筋から東へ行けば、お城出入りの古格はたちこめているが、やはり商人町の雰囲気になる。呉服、袋物、菓子、骨董、茶など、今も店をひらいている家も多い。有名な刀剣商もあって、今では大きな和風旅館を経営している。裏通りにはいると、古びた黒板塀につづいて、ふいに土蔵の海鼠《なまこ》壁があらわれたりする。──諸国に名の通った織物の産地だけあって、女性に和服姿が多いが、かと思うと、旧家の若奥さんといった感じのきりっとした顔つきの長身の女性が、髪を原色のスカーフでぴっちり巻き、トンボ眼鏡にすらりとしたパンタロン姿で、巨大なセントバーナードを連れて通りかかったりする。自家用、小型トラック、ライトバンの姿も、こちらの区画にはかなり見かけられたが、それとてスピードをおとしてひっそり走っている。一度、長くつづく簓子塀《ささらこべい》のむこうからもれてくるあでやかな琴の音に、立ちどまって聞き惚れた事があったが、若い女性かと思ったら、あとからその商家の御隠居さんだとわかった。一度見かけた事があるが、白髪を今どき珍しい切り下げ髪にした、小柄で色白で上品な、いかにも「家刀自《いえとじ》」といった感じの、美しい老婦人だった。  家並みは東へ進むにつれ、小さくなり、たてこんで来て、やがて内堀から南へむかって流れる幅十五メートルほどの川で区切られる。川はふだんは底の見える浅さだが、両側に柳が植わっていて、いくつもの橋がかかっている。川の対岸も楊柳を配してしっとりとした家並みが川ふちにならび、水面にむかって所々、船着き場の石段がおりている。その中の一つには、まだ使えそうな猪牙舟《ちよきぶね》が一艘いつ見ても杭にもやってある。──橋は石橋もあり、最近かけかえられたらしいコンクリートの橋もあったが、私は川の中ほどの、時代がかった木橋を、ぽこぽこ音をたててわたるのが好きだった。風雨にさらされた木製の欄干の両端に、嘉永の年号のはいった青銅《からかね》の擬宝珠《ぎぼし》がつき、一隅の石の常夜灯は文政の設置だった。  その橋をわたると、両側の家並みは、いつの間にか軒が深く、なまめいてくる。──みがきこまれ、黝《くろず》んだ格子のはまった二階家が、細い道の両側に、昼は人気を感じさせないほどひっそりとならび、玄関の格子戸の上、暗い軒下に眼をこらすと、何々といった屋号を書いた軒灯《けんとう》がほの白く浮ぶ。夕方五時、六時をすぎると、この軒灯にいっせいに灯がはいり、ある家の門わきには、石畳に打ち水して盛り塩がおかれ、せまい通りにハイヤーがついて、華やかなお座敷着に日本髪の姐《ねえ》さんたちが露地から露地へ褄《つま》をとっていそぐ姿も見られるのだが──私がその女性にはじめてあったのはこの地域がはなやぎはじめる時刻にはまだだいぶ早い午後四時前、その三業地のもうはずれにちかい、まだ足をふみ入れた事のない一廓であった。     二  その日、私はいつものように午後三時ごろ、市街地中心部にある事務所を出て、大手筋をぶらぶら歩いて堀端へ出、一せいに芽をふき出した柳の並木をめでながら、堀端を東へとった。──土地の人が東堀と呼んでいる、あの小さい川につきあたって南へおれ、木橋をわたって、まだひっそりとしている色街の中に足をふみ入れていった。  二、三日前、土地の趣味人たちの会合に、この一廓にある小料理屋へ招じられて夕方の街を会合場所へ歩いている時、とある角に、いかにも色街らしい、古い鼈甲《べつこう》の|櫛 笄《くしこうがい》、平打ちの簪《かんざし》、塗りの箱にはいった江戸時代の鏡などをならべた小さな古道具屋があるのを見つけ、のぞきがてら、この一廓の中のまだ�探検�していない露地や通りを歩いて見ようと思ったのである。  目当ての店は、あいにくその日、表戸をおろして休んでいた。──といって別に、何を買うというあてもなかったので、失望したわけでもなく、そのままぶらぶら、まだ歩いていない通りや露地をたどって行った。待合、料理屋などがつらなる間に、古めかしい丹塗り格子にはげた塗り壁のそば屋があり、虫食いの船板に屋号を彫りこんだ看板を軒に上げ、櫺子《れんじ》窓から中を見ると、姐さん株らしい中年女性が、半玉《はんぎよく》と一しょにうどんをすすっていた。とある露地に、駄菓子屋ほどのちいさい煙草屋があり、すりガラスの戸の小さなひびに桜の花をきりぬいた紙が二つ三つはられ、軒に「くず切り、わらび餅」と、女らしいいい筆蹟《て》で書かれたボール紙がぶらさがっているのがふと微笑をさそった。  この店は、夏ならば冷しあめや心太《ところてん》を売るのではあるまいか? 一度、くず切りを食べによって見ようか……。  そんな事を考えながら、その露地をつき当り、道なりに右へまがったとたん、私は突然なまめかしく、にぎやかな空気に顔をうたれてうろたえた。  幅のせまい、くすんだ感じの通りに、そこだけぱっと花が咲いたように、若い、また中年の女性の一団が動いていた。──角をまがって三軒目ぐらいが、色街の湯屋になっていて、そのくすぶった門先に、お座敷の準備に磨きをかけに来た姐さん方が、出る、はいる、あいさつをする、立ち話する、と、まさにラッシュ時の盛況を呈しているのだった。  見れば銘仙《めいせん》、ウールの普段着がほとんどで、中には簡単服じみた洋装もあり、顔もまだあっさり塗りか、みがきたてのぴかぴかで、お座敷のあでやかさからはほど遠かったが、それでも若くて美人ぞろい、その上芸達者ぞろいといわれるこの都市の三業地の芸者さんたちともなれば、そのむらがる様のはなやかさ、嬌声のなまめかしさには圧倒されそうだった。──ましてせまい通りにある湯屋の前、出入りの度にあけたてされる戸の間から流れ出てくる、あたたかくしめった空気には、むっとむせかえるような脂粉の香り、女の匂いがまざって、眼のやり場に困る感じだった。  からころ、こぽこぽと、どぶ板やしめった土に下駄、サンダルの音をひびかせて、あでやかな女性たちは、通りのむこうより、あとからあとからやってくる。──角を曲ったとたんの出あいがしらといった具合に、その華やかな流れに直面してしまった私は、水の落口に群がる緋鯉たちのように、湯屋の門先を出入りする女性たちにおしかえされた恰好で、立ちすくんでしまった。といって、ひきかえして角を曲るのも今さら体裁が悪い。角を反対に曲ろうにも、左へとれば、幅三、四尺ほどの露地とも言えぬ建物の隙間があるだけで、泥棒猫みたいにそんな狭い所へ逃げこむわけにも行かない。  華やかな流れを逆につっきる間合いをはかるつもりで、湯屋に反対側の家並みを背にして、ついおろおろとしていると、出入りの女たちが眼の隅で見て、くすくす笑ったりしている。──色街の湯屋の前で、芸者の入浴時にうろついている、初老の出歯亀《でばがめ》とでも思われたのではないか、とそんなことを考えると、年甲斐もなくかっと顔が熱くなり、息をつめるようにして、一気に湯屋の前をつっ切ろうとした。  その時、一きわにぎやかな嬌声が入口の所にあがって、女たちから口々にあいさつをうけながら、すらりとした女性がのれんをわけて出て来た。あいさつのうけこたえを聞くと、どうやら妓《おんな》たちの芸事の御師匠さんらしい。が、そんな事よりも、私はその女性の水ぎわだった姿に思わず息をのんだ。──たっぷりの洗い髪に黄楊《つげ》の櫛、黒|繻子《じゆす》の襟をかけた眼のさめるような鳶《とび》色縞の黄八丈に黒繻子の帯、肩に朽葉《くちば》色の地に黒茶と朱の子持ち唐桟《とうざん》の紬|半纏《はんてん》をひっかけ、今どき珍しい草色|呉絽《ごろ》の垢すりをふちからのぞかせた銅《あか》の小盥《こたらい》を胸もとにかかえ、足もとはむろん、湯上りの桜色に上気した素足に塗りの駒下駄、紅をさしたとも見えぬのに見事に赤い唇のはしに、紅絹《もみ》の糠袋の糸をくわえて、色あせた紺のれんをすいとくぐって出て来た所は、まるで源氏店のお富で──ないものといえば、下女に蛇の目傘ぐらいだった。  年の頃は三十四、五だろうか。たっぷり脂ののった肌はぬけるほど白く、それが湯上りでほんのり血の気がすけて見え、その白い頬に、濡れ髪のおくれ毛が二、三本かかった所は、ぞっとするほど凄艶な感じだった。  のれんをくぐって、流行歌手に歓声をあげるように、はしゃいだあいさつをする妓たちの嬌声に、右左、にっこり笑って頭を下げ、ひょっと顔を上げたとたん、こちらの眼と視線がばったりあった。ぬれぬれとした黒眼勝ち、切れ長の眼で、下まぶたがややはれぼったいのもやけに色っぽい。その眼が、おや、というようにかるく見開かれ、笑みをふくんで会釈した。──とたんにこちらは、ちりけもとから背筋へかけて、ぞくぞくと、何かが走るのを感じた。色白肉厚面長──歌舞伎の女形といってもおかしくない、ちょっと三代目の時蔵を思わせるような一種の「昔顔」であり、通った鼻筋が女にしてはすこしりっぱすぎるのと、美しく弧を描く眉がすこし濃すぎるのが難と言えば難と言えるくらいで、まったく歌舞伎の舞台からそのままぬけ出してきたように仇っぽい年増美人だった。  女はそのまますいと通りをむこうに行く。  相かわらず、おしかけてくる女たちに会釈しながら、歩み去って行くその後姿は、女にしては充分長身だった。──それを呆然と見おくっている自分が、だらしなく、口を半開きにしている事に気がついて、私は再度赤面し、あわてて顔をふせて湯屋の前を足早に通りぬけた。  別にその女性のあとをつける気などはなかった。──ただただ、いい年をしてよだれをたらしそうな顔で見惚れていた自分がはずかしく、顔をふせて大急ぎでその場をはなれようとしたにすぎない。  だが、ふと気がつくと、まわりにあのはなやかな女たちの流れはぱったりとだえ、ただ二、三間先を、かっ、かっと、小気味よい駒下駄の音をひびかせて歩いて行く、その女性の後姿があるだけになっていた。  ふりむくと、芸者たちの流れは、通りすぎた角を右手の方に曲って行く。湯屋の前の通りは、そのまままっすぐ来れば、色街の裏を通って、小さなしもた屋のむらがる、もとの小商人町の一廓へと出はずれて行くのだった。  逃げ足の勢いであまりつっかけては、先を行く唐桟半纏に追いすがりそうなので、追いぬくのも面映《おもは》ゆく、一息入れて歩みをゆるめると、どういうわけか向うも足のはこびをゆるめた。つい先の角をまがりかけながら、半身《はんみ》に横をむいた所で、ふいにこちらに顔をふりむけ、にっこり笑って会釈した。さっきは気がつかなかったが、笑うと左頬にぽつっと片えくぼができる。──それを見たとたんに、こちらはまたどぎまぎして、かっと身内があつくなり、足がとまってしまった。自分に辞儀をされるいわれはないと思ったが、反射的に帽子に手が行く。われながらぎくしゃくと、木偶《でく》の坊さながらの動きとわかっていたが……。 「いつぞやお眼にかかりましたかしら?」  と、女はすこししゃがれ気味の声で愛想よくいった。 「い、いえ……とんでもない」と、こちらは先方よりさらにしゃがれた声で、空咳にやっと痰をきりながら、あわてて手をふった。 「私は通りがかりのもので──第一この土地へ来てから、まだ一年ちょっとしかたっていません」  おや、そうでしたか、と相手は様子よく背をそらせ、手の甲を口にもって行って明るく笑った。話し声はしゃがれ気味なのに、笑い声は娘のようにきれいだった。 「ごめんなさいまし。さっきちょっとお見かけした時、もうずうっと昔、お眼にかかった方に、なんとなく似ていらっしゃるような気がしたもんですから……」  そうですか、それはとか何とか口の中でいいながら、私もやっと笑えたが、全身にじっとりにじんだ汗は、急にひきそうもなかった。     三  気がついた時は──といったいい方は気障《きざ》だが、まったく知らず知らずの間に、その女性と肩をならべて、小さなしもた屋のならんだせまい通りを歩いていた。  世に「歩き方の上手な女性」というものが、存在するものだ、という事を悟ったのは、角を彼女の行く方向へ一緒にまがって、半町あまり来てしまってからだった。──とりわけ色っぽくさそうでもなく、変になれなれしく身をすりよせてくるでもなし、しかしいかにもしょっ中顔をあわせている旧《ふる》くからの親戚づきあい同士が、たまたま湯のかえり、つとめのかえりに町角であって、帰る方角が同じなので、途中までそれとない話をかわしながら肩をならべて歩く、といったさりげなさで、私が人ちがいされてもじもじしているのを、まるで今までずっと一緒に歩いて来た相手を待つような風情《ふぜい》で、やさしげにほほえみながら眼顔で待ってくれ、それにつられてつい私が彼女と同じ方角へ二、三歩あるき出すと、すいと肩をならべた。ならんで歩く、体と体の間隔が、つきすぎず、はなれすぎず、何ともいい間《ま》のとり方で、歩度もまた、おくれるでもなく、こちらをひきずるでもない、ほんの心持ちこちらよりあとになったり、先になったりしながら、この町の印象、住居の方角などを上手に私からひき出し、ひき出した分だけ自分の紹介もさりげなくやって行く、という──まったく心にくいばかりの人あしらいのうまい、そしてならんで歩く歩き方のうまい女性《ひと》で、こちらは知らず知らずのうちに、彼女といっしょに|歩かせられていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のだった。こんな女性と一緒だったら、いくら歩いていてもいいし、長い道のりをあっという間に、疲れも知らず歩いてしまうのではないか──そんな感じのする歩き方だった。  一町を行くうちに、春先のあたたかい夕暮れ、ということも手つだって、つい年がいもなく、うきうきとしたたのしい気分になっており、一言二言冗談めかした事もいい、それを彼女が、品よく、しかも小粋《こいき》に受けてくれたので、ついすれちがう人がふりかえるほどの高笑いをあげてしまい、われにかえって、ちょっと首をすくめ、赤面をかくすのに顔をなでまわした。──その時、傍を歩いていた彼女が、ついと横にはずれ、はじめてさそうような眼つきでふりかえった。 「むさくるしい所ですけど、よろしかったらちょっとおあがりになりません?」  嫣然《えんぜん》、というのは、こういう事をいうのか、というような笑みをうかべて、その女性《ひと》はいった。 「ずっとおひろいで、おのどがおかわきになったでしょ。──一服なさって、お茶でもお上りになってくださいましな」  黒板塀に見越しの松──といったようなつくりではなく、ごくふつうの小ぢんまりしたしもた屋の前だった。  だが、格子もよくふきこまれ、小さな前栽や、玄関までの一間ほどの石畳に打ち水がたっぷり打ってあって、どこもここも小綺麗になまめいた感じのする家だった。門脇に字のよく読めないくろずんだ小体《こてい》な看板、そして、反対側には、これはまだま新しい木の標札に、「小出《こいで》」の二字だけが書かれてあった。  さ、どうぞ、ご遠慮なく──と言われても、何しろこちらはまったくの通りすがりの初対面、まして相手は、湯上りのあだっぽい女性である。中をうかがうまでもなく、門先のたたずまいで、女一人ではないまでも、女ばかりの世帯らしいと知れるその家へ、いかにむこうが勧め上手でも、はい、それでは、とあっさり上りこむのは、いささかならず抵抗があった。  この土地の地生えの人々が、いんぎんで、何とも言えない古格のある人柄のあたたかさを持っている事は、住むようになってから、何度も経験していた。──垣根ごしに見た見事な菊に、思わず足をとめて嘆声を発すると、庭の向うで手入れをしていた品の良い老人がふりかえって、よろしかったらどうぞ中で、と枝折《しお》り戸をあけてくれ、好意にあまえて中にはいって丹誠《たんせい》の数々を見せてもらっていると、背後の縁先に、老人の妻らしい品のいい老婦人が動く気配があり、ほどのよい所で老人が、まあ、ちょっと一服をとすすめてくれてふりかえると、秋の日のあたたかくあたる縁側に、座布団二枚と煙草盆、それにいい溜め塗りの盆に、竹の水筒と志野のぐい飲みが二つ、別に朱塗りの盃に黄白の大輪小輪の菊花がそえられてあり、老人は竹筒の栓を無造作にとって一掬《いつきく》をまず菊花にそそぐと、ぐい呑みを私にすすめ、 「菊酒です。ま、お一つ」  と言ってにっこり笑った。  延命長寿をもたらすといわれる、菊の香気のしみた酒を、一口やると、あたりにみちた菊の香が、突然体の内部からもたちのぼりはじめるように感じられた。すすめられるままに二杯三杯とやるうちに、老人が小さく※[#歌記号]即ちこの文菊の葉に……と口ずさみ出した「菊慈童」の一節につい唱和して、二人とも次第に声が大きくなり、※[#歌記号]所は|※県《れつけん》の山の滴り菊水の流れ、……から、奥から出て来た夫人もくわわって、膝をうちつつ、※[#歌記号]花を筵《むしろ》に臥したりけり、までうたいあげた。※[#歌記号]元より薬の酒なれば……と次の一節にかかる所で老人は夫人にむかって、鼓を持って来なさい、といったが、さすがに表に人が立ちます、とためらったのをしおに私も押しとどめ、腰をあげたがそれ以来、旧軍人というその老人とは、趣味の友となった。──菊作りでは何度も品評会で金賞をとっている、というほどの腕だが、はじめたのは戦後で、あの荒廃の時期に刀をすてて菊をつくろうと思いたちました……。 「別にルース・ベネディクトの影響ではありませんが……」  といって笑った。そういう本も、ちゃんと読んでいるような人だった。  その例にかぎらず、道をきいて茶菓をご馳走になったり、柿の木を見上げて、一枝いかがですか、と切ってもらったりした事が何度かある。──松江の町の人が、不昧公の地もととて、何かといえば薄茶をたててくれるように、秋成の弟子に由縁《ゆかり》があるとかで、この土地の人がすぐ出してくれるのは煎茶であり、郊外に小さいながら歴史の古い窯《かま》があって、町中の道具屋にいい煎茶の道具がびっくりするほど安い値で出ていた。  そんな土地柄だから、行きずりに家へ招じられるのは、別に珍しくもないといえるのだが、今度の場合はさすがにためらわれた。──遊芸の師匠と、身分は一見してわかり、自分からもにおわせているが、さて、どんな性質の女性で、近所でどう評判されているかよくわからない。何さま水もしたたる年増ぶりが仇っぽすぎ、私のように、風態からして根っからの朴念仁で中身はそれに輪をかけたような人間にはどうあつかっていいかわからない。若い時に遊里に溺れたわけでもなく、長じてから茶屋待合に時折り足をはこぶ事があったにしても、旦那芸の域にも達しない小唄端唄や謡曲と同じで、何も彼も仕事の交際の上の事だったから、色里三業地へ足をふみ入れるといっても、常に堅い客として「表」からであって、帳場の長火鉢の前に坐った事さえなかった。そんな男が、ごくふつうの町人《まちびと》ならともかく、人情本の世界からぬけ出してでも来たような、「洗い髪の遊芸師匠」の小粋な住居に、どうぞといわれても、何か江戸歌舞伎のきりきりした生世話《きぜわ》の舞台に、定年すぎのもとサラリーマンというくたびれた初老男がいきなりひっぱり上げられるみたいで、大向うから「場違《ばち》ひっこめ!」の声が今にもかかるような気がして足がすくんだ。  女性はからからと軽い音をたてて格子戸を開き、もう一度、こちらをふりかえって、さ、どうぞ、とほほえんだ、──そんな風態だから、当然つかってしかるべきながし目をつかわず、ぬれぬれとした黒眼勝ちの眼で、まっすぐこちらを見てほほえむのが、仇っぽい容姿にもかかわらず、一種の人柄が出ているようで、この際唯一の頼りになるような感じだった。が、それでもはいる決断がつかなくて、面皰《にきび》くさい中学生のように、汗ばみ、もじもじしていた。  向うはもう、こちらがはいるときめてかかった様子で、短い石畳に、駒下駄の歯の音を小気味よくひびかせながら、玄関のガラス戸をあけていた。──一人ぐらしではないらしく、中からむかえる張りのある若い女の声がした。玄関の所で、何かやりとりがあって、はい、と元気のいい返事がきこえると、玄関の三和土《たたき》、ついで石畳を、た、たっ、と勢いよく踏みならして、まだ十五、六と見える絣《かすり》の着物に赤い襷《たすき》をかけた小娘が、門からとび出して来た。  私のつったっている鼻先を、かすめるように、道へとび出して行き、こちらをふりかえると、あ、と小さな声をあげて、二、三歩たたらを踏んでとまると、顔をぽっと赤らめて、ぺこんとお辞儀した。「あの、どうぞ……」と、頬の赤い、元気のよさそうな少女はあわてて襷をはずしながらいった。「おあがりください。お師匠さん、今日はもう、お稽古もお座敷もないんです」  袖をひっぱり、背中を押しそうな一所懸命さに、私も抗《あらが》いかねておずおず門をくぐり、帽子をとった。  玄関横は、猫の額ほどの庭に、それでも手入れの行きとどいた植えこみが、水をうたれて葉から滴をしたたらせている。低い建仁寺垣ごしにのぞくと、庭石にはよく苔がつき、蝦蟇《がま》の置物が南天の下露にぬれて、つくりものの眼をぱちくりやっているように見えた。  上《あが》り框《がまち》や柱は、よく拭きこまれて黒光りしていた。──身をちぢめるようにして、三畳の玄関に上り、つったったまま正面の古びた扁額に書かれた干良史《かんりようし》の春山夜月詩の一句「弄花香衣満」が、言葉はなまめいているのに、書体が骨太く枯れているのは、これはきっと禅僧の手になったものだな、と思いながらぼんやりながめていると襖《ふすま》があいて、 「さ、どうぞ。そんな所に立っていらっしゃらないで」  と、手をとるようにして次の間に入れられた。  はいった所は小庭をひかえた八畳で、床の間に沢庵の辞世の一節「是亦夢非亦夢」を書いた軸がさがり、猫柳を活けた花器があって、その傍に華やかな縮緬《ちりめん》の蔽《おお》いをかけた琴がたてかけてある。──隣の違い棚の下には、胡弓《こきゆう》と太鼓、袋にはいった鼓、能管、笛をおさめてあるらしい塗りの箱があり、反対側の壁には、三味線が三、四|棹《さお》、中の一|棹《さお》は太棹《ふとざお》だった。  隣の座敷の境いの襖があけはなってあって、そちらは六畳間で片隅にみがきこまれた黒柿の長火鉢が銅壺のたぎる音をたてており、猫板にひいた紫の小布団に、本当に白猫が一匹、真紅の縮緬の首輪に金色の小鈴をつけ、香箱をつくって置物のようにうとうとしていた。  六畳間の方から、ぷん、と伽羅《きやら》の香がただよってくる。 「女臭うございましょ」と、その女性《ひと》は、私が思わず鼻をうごめかすのを見て笑った。 「あわててくべましたけれど、お香ぐらいではらえますかしら」  紫|綸子《りんず》の客座布団の前に、輪島らしいいい塗りの盆がおかれ、桐の白木の箱から、朱泥の急須と茶碗がとり出されていた。托子《たくし》はいぶしをかけた銀の打ち出し、納汚《のうお》は赤銅《あか》で、いずれもいいものである。  さっきの小娘が、湯罐《ぼうぶら》を小盆にささげてそろそろと持ってくる。──盆のまわりに、ごく小さな、竹をくみあわせた縁が三方に立っているのは、炉塀《ろべい》に見たてたのであろうか。そういえば黄色い湯罐ののっている平たい台が白い素焼きで、一方に小さな口が切ってあり、涼炉に見たてられないでもない。  金銀を象嵌《ぞうがん》した錫の肩付きの茶心壺《ちやしんこ》と、袱紗《ふくさ》、茶合ののった副盆を彼女がひきよせた時、私は膝を折りながら半分むきになって言った。 「いいですか。御好意に甘えてお茶だけはいただきますが、それ以上の御造作にあずかるようでしたら、すぐおいとましますよ」 「まあまあ、そんなにこわいお顔をなさらなくても……」と女主人《あるじ》は、片手で小さな蒸しものをのせた菓子器をさし出しながら、もう一方の白い手の甲を口にあててこぼれるように笑った。「おおせの通りいたします。でも、これにこりずに、お閑な時に前をお通りになったら、どうぞお立ち寄りくださいましな。こんなお婆ちゃんでおよろしければ、一度ゆっくり、御酒《ごしゆ》のお相手でもさせて頂きとうございます」 「いや、私など、とてもとても……」やっと少し寛いだ気分になって手をふった。「あなたのような粋《いき》な方のお相手ができるような男じゃありません。──とんだ朴念仁ですから」 「粋だなんて、そんな……」彼女は、なれた手さばきで煎茶を入れながら、笑いをふくんで首をふった。「商売柄、こんな風をいたしておりますが、私どものような生活をしている女にとって、粋というのは、これはもう、女の業《ごう》のようなものでございますわ。──そんなものからいいかげん体を洗いたいと思っておりますが、一度身に染んだ垢は、なかなかぬけません」  そういう女主人《あるじ》のあでやかな黒髪と襟筋を、そして、肩から胸へかけてあふれるなんとも濃厚な色っぽさにうっとり見とれていた私は、女主人《あるじ》が茶を入れおわって顔を心持ちあげた時、あわてて眼をそらした。──そらした視線の先、六畳間との境の鴨居の上にかかった扁額に、玄関の間にかかっていた干良史の詩の対の句──こちらの句の方が先に来るのだが──「掬水月在手」にぶつかった。  玄関のものとも、床の間の軸とも、筆蹟《て》がちがう。  が──いずれも、男性的に枯れた、いい字である。 「いい書を沢山お持ちですね」と私はつぶやいた。「──芸事をお教えになるのに、やはり禅語がお役にたちますか?」 「おかしゅうございましょう」女主人《あるじ》は、入れ終った茶をすすめながら、ちらと扁額に眼をやった。「芸者衆も時々おたずねになるんですけど、別に芸事にどうの、という事はございません。──自分のためでございます」  膝前に出された|茗※《めいわん》を、一揖《いちゆう》してとりあげ、まずその香りを鼻一ぱいに吸いこんだ。──あたたかい香気が、胸先三寸の所におちた所で、一口喫した。──香気は今度はのどもとから鼻腔を一ぱいにみたした。  その時、女主人《あるじ》は何の合図もしなかったのに、六畳間の境いに、小娘が膝をついて、何か、とたずねた。──女主人《あるじ》が無言で眼をやると、小娘は、失礼します、といって、どこかの電灯のスイッチをひねった。  八畳間がぱっと明るくなって、その対比で青みがかった黄昏の色に沈んでいた塀が、一瞬シルエットにかわり、そのむこうの夕映えののこる空が、かえってくっきりうき上った。  縁先の南天、青木、小笹が、電灯の明りでぬれぬれした緑色に光る。  急須、湯こぼしは朱泥のままであるが、茶碗には、茶の色を映えさせるため、内側に白釉《はくゆう》がかかっていて、昼光色の下で、うすく緑がかった山吹色の液体が、鮮かにうき上った。──喫し終って、中を見ると、しぶい藍色で、「喫茶去《きつさこ》」の三字が読めた。  私が思わず笑い出すと、女主人もすぐ気がついたらしく、また手の甲を口にあてて笑い出した。 「ごめんなさいまし。別に、お茶だけ、お茶だけとおっしゃるから、それをさし上げたわけじゃございません。──うす暗くなっておりまして、中の字がよく読めませんものですから、つい、たしかめもせず……」 「いや、けっこう。文字通り、茶をいただいたら、野暮天はさっさと退散します」と私は笑いながらいった。「しかし、その前に、ちょっとほかのお茶碗も拝見できますか?──ええ、お言葉に甘えて、もう一煎頂戴します」  女主人《あるじ》も笑いながら、干菓子の器をさし出し、のこる三つの茶碗を、盆の外において、二煎目を入れはじめた。──これもこの土地の名物になっている、人さし指の爪ほどのかわいらしい蒸し饅頭を食べてから、私は茶碗を手にとった。  最初の茶碗に「甘味苦味渋味」と、煎茶三昧が書かれてあったのは、煎茶の道具としては、当然の事という感じだったが、先に喫した茶碗の字とならべると、この字を書いた人の茶気というか、一種はずむような明るい悪戯《いたずら》心がおどっているようで、おのずと口もとがほころんだ。二つ目には「随処作主《ずいしよさしゆ》」と、臨済録の言葉、そして三つ目をのぞきこんだ時、私はまた笑い出してしまった。──そこにかかれた「莫妄想《まくもうぞう》」という無素の語は、そんな気は毛頭ないと自分では思いこんでいた私の心の虚を、鮮やかに射ぬいたように感じられたからである。  女主人もわかっているらしく、くすくす笑いながら、二煎目をさし出した。 「いや、おそれいりました……」私は三つの茶碗をかえしながらいった。「茶は薬といいますが、この茗※《めいわん》は私のような俗物への痛棒の役もしますな。痛い所をつかれた感じです」 「ご冗談ばっかり」と女主人《あるじ》は大仰に手をふった。「そんなつもりはございません。──でも、この茶碗に字を書かれた方は、とても面白いお方で、洒落た悪戯ばかりなさる方です。……」 「そうでしょうな、わかります」私は二煎目を喫しながらいった。「ところで、最後の一つ──あなたがお飲みになっている茶碗を拝見させていただけませんか?」  女主人《あるじ》は、急にいたずらっぽく、上眼づかいになると、最初に味見した自分の茶碗を、膝横にかくすようなそぶりをしてみせ、 「これはお眼にかけたくありませんの」  と、じらすように言った。 「おや、どうしてですか?」と、向うにつられて、こちらも年甲斐もなく、ふざけて言いあうような口調になっていた。「組物だからどうせそれに書いてあるのも禅語でしょう? 別におかくしになる事はないじゃありませんか」 「でも、そちらさまにそんな茶碗をお出ししたむくいで、私の方にも、ぴったりすぎるのが来てしまいましたわ」女主人《あるじ》は、眼で笑いながら茶碗をとり上げてのみほし、湯をそそいで納汚にあけてから、その茶碗をさし出した。「よろしゅうございます。どうかごらんくださいまし。──碧巌録でございます」  私は茶碗をとりあげて中をのぞいた。 「これですか。──これがぴったりとは、ちょっと御謙遜がすぎましょう」  と、私は思わず大声でいった。  茶碗の底には、「老婆親切」と書いてあった。 「でも、本当に私、お婆ちゃんでございますもの」と女主人《あるじ》は首をかしげるようにしていった。「これで、明けて、五十をすぎましたんですよ」  私はあやうく手にした茶碗をとりおとす所だった。──そんな事をしてはいけない、と思いながら、ついつい眼をむくようにして、まじまじと女主人《あるじ》の顔かたちに見入らざるを得なかった。  白髪一つまじらない黒髪は、たっぷりとつやつやしく、顔には小じわ一つなく、容姿も女盛りの吹き上げるような艶《つや》にみちていて、ほとんどくずれを見せていない。──どう多くふんでも三十四、五より上には見えないこの女性が、五十をこえているとは!……そんな事は、とても信じられなかった。 「ええ、その言葉は、老婆が孫を溺愛《できあい》するように、愛も煩悩におちいってはいけない、と戒めたものだという事も知っております」と女主人は、ちょっと頤《おとがい》を襟にうずめて、自分にいいきかせるようにつぶやいた。 「その言葉を書いてくださった方は、そんなに深いお知り合いではございませんでしたけれど、私の事をよく見ぬいていらっしゃったんでございましょうね。いい年をして、年相応の身のおさまり方もできず……女一人でこんな暮しをしているのは、よくよく自分でも業が深いと思う事があります……」  私といえば、彼女の年が五十をこえているときいたショックからさめやらず、彼女の独白めいた言葉も、ただ呆然と上の空にききながすばかりだった。  そんな私に気づいてか、女主人《あるじ》は顔をあげた。あげるとその顔は電灯の下に、ぱっと大輪の白牡丹のようにかがやいた。 「あら、申しわけありません。初対面のお方をひっぱりこんで、こんな愚痴みたいな事をおきかせしてしまって──」と彼女は上体をかたむけて、手をさし出した。「どうぞ、お干菓子を、召し上ってくださいませ。……よろしかったら、もう一煎いかがでございます?」     四  小出ゆき──というその女性は、当然の事ながら、初対面から、私の心の中に深い印象をのこした。  といって、こちらもあと数年で還暦という身であって見れば、初対面からいくら親切にしてもらったからといって、青壮年のように一目見てどうこうという事はない。──五十といっても、あの色っぽさでは、昔も今も、いろいろとあるだろう、旦那、パトロンといわれる人も、あって当り前で、無いのが不思議というものである。妻をなくしてもう三年やもめぐらしとはいえ、この街にまた一人、美しい、ちょっと変った、しかし気のあいそうな知り合いができた、と思うくらいにとどめておこう、というほどの分別は、当然の事ながらついていた。  妖艶といっていいほどの色香をたたえているとはいえ、その女性が行きずりに、家に招じ上げて、煎茶の一ぱいもふるまってくれた事が、それこそ南北、黙阿弥ではないが、こちらに「色じかけ」で何かをどうこう、というような魂胆があるのではないかと変に勘ぐったりするほど、世間を見て来ていないわけでもない。これでも勤めている時、若い部下のはまりこんだ色恋にからんだごたごたの三つ四つも始末してやった事もある。人事部にいた時は、そういう事で家裁のみならず、刑事裁判の法廷に証人として立った事さえあるのだ。──人事畑にかなり長くいたから、これでも「人柄」を見ぬく点では、ある程度修行をつんだと自負している。その女性が、行きずりの時から、不思議な親しみを示してきたのは、やはり少々不可解な所がのこったが、一つは彼女の天性の人柄もあったろうし、もう一つは「縁」とでもいうよりほかにしかたがないものではないか、という気がした。たとえ向うが、私にも見ぬけないほど劫《こう》を経た金毛九尾で、魂胆あって持ちかけたにしても、こちらにはしぼられるほどの財産もない。退職金は土地に替えてあるがたかが知れたものだし、定年後、この土地にうつって来て、亡妻の父のおこした小さな会社を後見しているが、従業員といっても五、六人の、老舗《しにせ》だけがたよりの小商売で、たとえ今義父といっしょに住んでいる義父の家と土地をどうかされた所で大した事はない。第一、長年にわたって読書と散歩だけが趣味らしい趣味というこのぱっとしない大野暮天を、いったいどうやって蕩《たら》しこもうとするのか……。そんな事を考えるまでもなく、私は、初対面の時から、彼女の人柄を──すくなくとも、私に見せた人柄の肌ざわりを、額面通りにうけとる事にきめていた。  外見ばかりでなく、彼女の教える芸事の幅の広さを見ても、彼女が若いころから長年この世界に生きつづけて来た事はわかるのだが、それにしては、本人がしきりに嘆くほど、人柄にその世界の「垢」が染《し》みついていない半面があった。彼女の教えるものは、踊りは藤間だったが、音曲は、端唄、小唄は当然ながら、常磐津《ときわず》、清元《きよもと》、一中《いつちゆう》、荻江《おぎえ》、薗八《そのはち》、哥沢《うたざわ》から、この土地ではならう人もあるまいと思える河東節にまで及び──もっとも彼女に言わせれば、一時代前の東京新橋柳橋の芸者衆なら、この位の種類はこなしたものです、という事だが──三味線は歌三味線、中棹、太棹、箏曲は生田流、笛、能管、太鼓、大鼓、小鼓、何でもござれで、そのそれぞれが、ちゃんと「教えられる」ほどの腕を持っているのだから、ただただ驚くほかはない。──上役のつきあいで謡曲の観世をちょっとかじったくらいで、小謡、独吟が関の山という私などにとっては、まったく別世界の人としか感じられない存在だったが……。その「世界」がどんなものだか、門外漢には、うすうす感じられても、ふみこむ事はできない。  だが、すくなくとも私に対して示してくれた彼女の側面は、そういった世界の底知れなさではなく、ひどくすなおで気さくな親しさ──それも、筒井筒とまでは行かないまでも、中学校女学校のころからの近所づきあいででもあったような、一種「幼馴染み」といった感じの不思議な親しさであり、その親しさを通じて感じられる彼女の人柄は、芸事、水商売の世界の垢や人間関係によってもみがかれ、みがきぬかれて、かえってかがやきを増したのではないか、と思われるすがすがしさがあった。  泥多ければ仏大いなり、という事もある。泥が深ければ深いほど、その泥をぬきんでて咲く蓮の花が大輪であるように、彼女の場合も、幼いころから足を踏み入れたというその世界の泥の深さ、見聞し、身をもって味わった女の世界の悲しさ、苦しさ、業の深さが、かえって彼女の人間をみがきあげたのかも知れない。──そして、そうなるまでの一時期に、彼女の家のいたる所に「自分の心のため」といってかけてある禅語や偈《げ》をのこして行った、禅僧、仏僧らの、おそらくは直接《ヽヽ》の影響があったにちがいない。いつごろ、どこで、誰から、どんな機縁で、といったたち入った事はたずねなかったが、玄関、表の間にかかっていた対の扁額の落款を、明るい時に判読してみると、一つはかつて東海の古刹に、一代の名僧とうたわれた人のもので、むろんとっくに物故しており、真筆なら、昨今到底地方都市の遊芸師匠風情の手に入るようなものではない。高値《こうじき》もさる事ながら、その人の書いたものがすくなく、彼女が女白浪でもないかぎり、「御老師さま」と親しげによぶその人が、彼女に直接書いてあたえたとしか思えないのである。  いずれにしても、彼女が求めてか、たまたま近所にでも住んでいたのか知らぬが、そういった名僧たちが、彼女の人生の上に影をおとした。──「戦後間もなく」と、彼女がふと自分からもらした事を思うと、二十代そこそこのころか。混乱のあの時期なら、すでに当時名僧であったその人と、遊芸の道に進む若い娘が親しく口をきく、といった奇妙なとりあわせがあってもおかしくないかも知れない。  御近所までお出でになりましたら、どうかぜひ、お立ち寄りを、と念を押されるように言われても、散歩の足を、こちらからその界隈にむけるのは、何となくはばかられるような心持ちだったが、二度目の訪問の機会は意外に早く来た。  そんな気は全然なくて、東町の方に所用があって人の家を訪ねたかえり道、またいつもの探検心をおこして、通った事のない道をえらんで歩いて行くと、人家の間にある小ぢんまりした寺の門前で、あの小娘にはりきった声をかけられた。──使いの帰りらしく、袱紗包みを胸にしていたが、袖をつかまんばかりにして、お寄りくださいまし、という。お師匠さんから、もし近所でお見かけしたら、お連れしなさい、といわれてますから──と力むので、今度、本当に近所までたちよったら、と、言いわけがましく答えると、 「だってここは近所ですよ」と口をとがらした。「家は、このお寺のすぐ裏です」  これには負けて、私も笑いながらひっぱられて行った。その前来た時とは、反対の方角から歩いて来たので、土地勘がくるったのだった。  寺のすぐ先の辻をまがると、本当に彼女の家の前の通りに出た。──小娘は、門先にむかって小走りになりながら、 「お師匠さま、山村さんをお連れしました」  と、通りのいい声で叫んだが、ちょうど稽古日だったらしく、稽古を終った若い芸者《ねえ》さんたちの一団が、中にむかって口々にあいさつしながらぞろぞろ出てくる所で、彼女たちに一せいにこちらをふりかえられたのにはまいった。  彼女は、帰る姐さんたちを送って門にまで出て来たが、私を見ると、二、三歩外へ出て来て、まあまあようこそ、と手をとらんばかりにむかえてくれた。 「たった今、お稽古が終った所で、本当にとりちらかしてますけど、どうぞおあがりくださいまし。──まだ御用がおありですの?」 「いや、用は今すませてのかえりですが……」 「それじゃ、ゆっくりなすってってくださいまし。──今日こそは、本当にお口をぬらして行ってくださらない事には、おかえしいたしませんわよ」  そういうと、彼女は本当に私の手をとって、袂でかかえこむようにして、こちの人、といった思い入れをしてみせた。──振りの稽古もつけたのだろうか、曇り空で少し蒸す日でもあったが、しっとりと汗ばんだ肌がやや上気して、湯上りだったこの前の時とちがった、あたたかい女の肌の香りが襟元からむん、とたちこめた。  むこうへ遠去かり行く一団が、肘つつきあっては、好奇心にみちた顔を次々にふりかえらせるのがどうにも照れくさく、私が片手で眼の前に壁を塗りながら、とられた手をひこうとしたが、彼女は面白がっているように、ますます力をこめて私の手をぎゅっと力をこめて腋の下にかかえこみ、かけた袖の下からポンと一つたたいて、道行きのひきこみ、といった恰好で、門内へひっぱって行った。──彼女の髪はその日は櫛巻き、羽織っている半纏は銀鼠の地に濃紫の太く荒い子持ち縞、と充分に粋だったが、曳かれる方が、白塗りどころか、野暮用がえりの埃をかむった初老男で、生地は英国だが着古した背広に、くたびれたステットソン、端のすりきれた書類カバンと来ては、実役までも行かない。へたをすれば、「品川心中」の老人版だと思うと、どっと汗が噴きそうになった。  八畳の表座敷は、たった今まで大勢が稽古していたらしく、女の汗と脂粉の臭いが、熱気とともにこもっていた。──が、一足先にとびこんで行った小娘が、足早に、白磁の香炉を床にはこぶと、前の時より一層凛とした感じの銘木の香りが、たちまち女くささを払って行く。  師匠が奥へちょっとひっこんでいる間に、今回は、いささかものものしく、隣室から台子《だいす》がはこびこまれて来た。──小娘が重そうにすでに火のはいった風炉をはこんで来て、次に布巾で持って来た釜をおき、六畳間との間の襖をたてるとすぐ沸《たぎ》る音がたちはじめた。茶杓がしめっている所を見ると、今まで、稽古の誰かが次の間でたてていたらしい。ひょっとすると、茶の湯の手ほどきぐらいも教えているのかも知れない。  師匠がはいってくるのを見ると、さっきまでの縞物を、しぶい藤|納戸《なんど》色のお召《めし》に着かえ、さだかではないが帯までかわっていた。──まるで歌舞伎の早替りにひとしい早わざだった。すらすらと美しく足袋先をそらして、座にぴたりとすわると、型通りの主客のやりとりが来て、違い棚の下から菓子器が出てあれよという間に点前《てまえ》がはじまった。流儀はあっさりとして、どうやら江戸千家らしかったが、挙措がこの道何十年という感じで板についており、切り柄杓のきまる鮮やかさにみとれているうちに、明《みん》ものらしい油滴|天目《てんもく》が、眼に染みるような若葉色をたたえてまわって来た。懐紙ももたずに来て、それでも出る時かえて来た白麻ハンカチの上で菓子をいただいていた私は、あわてて膝前にとりこみ、あいさつを口の中にもごつかせて茶碗をとりあげた。──一服喫すると、眼の中まで新緑があふれそうになる甘い香気が体内一ぱいにひろがって、 「ほう、これは……」一口目で思わず嘆声をあげた。「もうお新茶ですか?」 「はい、今朝ほど静岡の方からつきまして……」と師匠はにっこり笑った。「ある寺領の茶畠でつんだ、一番茶でございます。毎年おくってくれますので、さっきちょっとお弟子さんたちにも味わってもらいました。ちょうどお通りになったので、ぜひ、と思いまして……」  それは、と口で言うかわりに頭をさげて感謝し、のこりをすすりあげた。──一口ごとに、全身すみずみまで、緑にすがすがしくそまって行くような思いだった。  意地汚なく二服目を所望すると、今度は替茶碗に、これも姿のいい赤楽《あからく》が出た。小さく|にゅう《ヽヽヽ》がはいって金でついであるが、赤楽に新茶の色もよくうつる。──正式の茶会でもないので、すこし行儀をくずして、ゆっくり味わいながらたのしませてもらっていると、師匠が、遠いものを見るような眼つきで、しげしげとこちらの横顔をながめているのにふと気がついた。 「やっぱり、よく似ていらっしゃる……」  ふっ、と、溜息をつくように師匠はいった。──え、と、私はすすりかけた最後の一口から顔をあげた。 「私が、ですか?──どなたに……」 「ずっと昔、存じ上げていた方に……」そういうと師匠は、ほほえみながらちょっと眼を伏せた。「もう二十六、七年も前になります。──そのころ、その方は、ちょうどあなたぐらいの御年配でしたわ、そう度々お眼にかかったわけではありませんけど、私、父を早くなくしましたので、その方が何となく──かざらない、おやさしい方でした……」  この前、あの湯のかえり、眼の隅で私を見かけて、はっとしたのもそのためだった、という。二十六、七年も前に五十五、六だったというから、本人であるわけがない事はすぐわかったが、それでも後からこられると気になって、どこかで会っているのではないか、と声をかけて見たのだ、という。 「そのころ、私は、ちょっと年下の殿方との間がこわれかけておりまして……とても熱心に、おっしゃってくださって、私も、もちろん、とても好きだったんですけれども──今でもまだそうですけれど、終戦直後のころは地方にはまだまだ身分、格式というものがのこっておりましたでしょう。こちらはむろん、屋形への義理にしばられておりますし……身寄りというものもございません。そうなると、もう七十をこえていらっしゃった御老師と、御老師の所へ時々お見えになって、同じようにやさしい言葉をかけてくださるその方だけが、自分のたよりになる方たちのような気がいたしまして……」  言葉がちょっととぎれると、合の手のように、釜が、しーん、と、溜息のような音を一つだけたてる。──その音にわれにかえったように、師匠は庭先におとしていた視線をこちらにかえした。 「まあ、私とした事が、またしめっぽい話をしてしまって……」ほ、ほ、と、とってつけたようでなく、明るく笑って「小玉ちゃん、お支度の方は?」  と次の間をのぞくようにした。 「はい、いつでも……」と、襖が少しあいて、小娘が顔をのぞかせた。「あの、魚芳さんの方は、私が一っ走り行って来ます」  いや、そんな御造作をしてもらっては、と、私があわてていいかけると、 「あら、この前のお約束じゃございませんか。──その上、今は、少し身の上話などいたしましたから、その聞き賃に……いえ、逆でございますわね。──しめっぽい話をおきかせしてしまったお詫びのしるしに、どうぞお婆ちゃんにおつきあいくださいまし」  と、上手におっかぶせられてしまった。 「小玉ちゃん──というのは、ご本名ですか?」私はあきらめて、のみほした茶碗をかえしながら、勝手口からとび出して行く足音に耳をかたむけた。「元気のいい娘さんですね」 「いえ、本名ではございません。ここへあずかってからつけた名で──まあ、私ときたら女のくせに、どういうんでしょうね。これといった芸名でもなくて、�槐安国語�の……」 「ああ……」いわれて私は、ちょっとびっくりした。「�頻《シキ》リニ小玉《シヨウギヨク》ト呼ブモ元ヨリ無事……�あれからですか?」  はい、とうなずいて、 「�只要ス檀郎《ダンロウ》ノ声ヲ認得《ニントク》センコトヲ……�」  とつづけた。──にんまり、笑ったのが何がなし意味ありげに見えた。  あの娘《こ》も、私と同じように、孤児《みなしご》同様、身寄りのうすい娘でして……三年前ひきとって、ここから一年、中学へやりました……気だてもいいし、骨惜しみもしないし、芸の筋もいいので……声にあの通り張りがあるので、あまりぺらぺらしたものでなく、長唄、常磐津あたりの基礎をみっちりしこんで、いずれ東京の、私の師匠筋にお目見得させて、と思っております……。こんな話をしている間に、手早く茶道具が片づき、終りの礼の前に後手に次の間の襖をちらりとあけて、一礼ののち、頭を上げる時になって、はっ、と一つ思い入れがはいり、 「いざまずあれへ……入りさせられましょう」  と歌舞伎調になった。  酒は剣菱の樽、燗は徳利でなく、錫の|ちろり《ヽヽヽ》で人肌よりちょっと熱いめに、肴は土地の旬《しゆん》の魚菜がずらりとならび、女主人《あるじ》は点前の時のお召から、もう一度あだっぽい縞物にかわって、吸物のあとあたりから、早くも粋な爪弾きが出る──となっては、いかな野暮天、|勤番 侍《きんばんざむらい》でも、男たるもの陶然とならざるを得ない。しかも弾き、唄ってくれるのは、この道三十年以上磨きこまれて、素人相手ではなく芸事のうるさい土地の玄人姐さんたちに、教えるほどの腕をもった女性である。その上、天性の美声が年月うたいこんでさびている、と来ては、もうこれは絶品というほかない。小唄|端唄《はうた》からはじまって、都々逸も二つ三つ出たが、江戸唄の粋は粋、上方唄の華やぎは華やぎで一本ぴしっとしたものが通っていて、陽気になっても下品にはならず、一昔前、褄をとっていたとしたら、よほどのお座敷がつとまったにちがいない、と思わせた。私も酔いはじめのうちは、ようようぐらい声をかけ、そちらもお一つと強いられて、下手くそながらとっておきの、小謡あんこ入りの都々逸《どどいつ》一つ、苦心惨憺披露したが大汗になり、あとはただうっとりと、盃をはこびながら聞き入るばかりだった。──最後に新内の端物を「明烏」「伊太八」と二つもきいて、「蘭蝶」はこの次のおたのしみ、という事でやっと腰をあげたころは、もう九時ちかかったろうか。門まで送られ、人通りがほとんど絶えて家並みもしんとした夜道を、自宅の方へむかって歩き出しながら、まだ新内節の哀艶が耳の底にのこっているようで、少しはずれて通りすぎた色街から夜空を流れてくる三弦のさざめきに、ふと、年甲斐もない切なさをおぼえたほどだった。  蹣跚《まんさん》──というほどには、足もとがふらつきもしなかったが、少し酔っていたな、と気がついたのは、一町半ばかりぬるい夜風に吹かれて歩いているうちに、心もち酔いがさめて来たからだった。その時になって、四、五間先を、外へ出てからずっと、同じ方向へ、こちらと同じぐらいのゆっくりした足どりで歩いて行く人影があった事に気がついた。痩せて、長身で、その歩き方から見てかなり高齢と見えた。  繁華街へと出て行く最初の横断歩道で、私は前を行く人影に追いつき、肩をならべて信号を待つ形になった。──傍で声なく、くっ、くっと笑っている気配に、ふと気がつくと、その老人は、信号に顔をむけたままつぶやいた。 「ひさしぶりに、いいご機嫌だね。俊《とし》さん」 「なんだ……。お義父《とう》さんでしたか」と、私も自分の迂闊《うかつ》さに呆れて、笑い出した。 「ちっとも気がつきませんでした……」 「わしはさっきから気がついていたよ……」信号がかわって、車道に足をおろしながら義父はいった。「あんたが�伊太八�をやるとは知らなかったよ。──だが、新内の文句を観世の節でやっちゃいけないね」  私とちがって、若いころは東京とこの土地でずいぶん洒落た遊びをしたという義父に冷やかされて私は大いに照れ、照れかくしに、盛り場でちょっと一杯どうです、といったが、義父は笑って手をふり、かえってから寝酒でも一しょにやろう、と答えた。  繁華街を出はずれて、私たちは、住宅街の間を通る旧|外濠《そとぼり》の道ぞいに家路をたどった。──ところどころを常夜灯に照された、車も人通りもまばらな道を四つの靴音を夜のしじまにひびかせて、ゆっくり歩いて行くと、北国のおそい春も、ようやくたけようとしている気配が、おだやかな、黒ビロードのような手ざわりの夜の中に、ちかぢかと感じられるのだった。 「すっかりあたたかくなりましたな」と、私はつぶやいた。 「少しむすようだな」と義父はいった。「明日当り、降るかも知れん」  そのまま二人は、まただまって歩いた。  自宅へむかって、十字路を右へわたる所に、また信号があった。──車が全然通らないのに、明治生れと大正生れは、信号がかわるのを律義に待っていた。  かわって歩き出す時、義父はぽつりといった。 「時に、俊さん……。妙な事をきくようだが……」  なんでしょう?──と、私は眼顔できいた。 「恵美子の三周忌もすんだが……」と義父は、ちょっと口ごもり、咳ばらいした。 「は?」と、私は少しおどろいて、義父の顔を見た。 「いや……、どうなんだね。あんた、このままずっと独り身で通すつもりかね?」 「さあ……」私は虚をつかれたような思いで、内心少し動揺した。「考えても見ませんでしたが……。何か、私に縁談《はなし》でもあるんですか?」 「いや──別に……」と義父は首をふった。「ただ、ちょっときいて見ただけだ。──あんたなんか、まだまだ若いんだし──」 「若いといっても、これでもうじき還暦です」 「それじゃ、まだ若いじゃないか。──このごろ六十、七十こえて、孫のような若い娘と結婚する人がふえているそうだ、週刊誌にちょいちょいのっているよ」  義父の声は笑っているみたいだった。 「そうですね。──話があれば、考えないでもありませんが……なにしろ、一郎が身をかためてくれなくちゃ、親父の方が、さっさと二度目をもらう、というわけにも行きますまい」 「一郎といえば、最近ちょいちょいこの町へ来るらしいな……」と義父はいった。「今日、県の開発審議会で、ひさしぶりにあいつの会社の江藤君にあったら、そんな事を言っていたよ。顔を出しませんか、とむこうが妙な顔をしていた。──あいつもあきれたやつだな。事務所か家かへ電話の一本もしてよこせばいいのに……」 「例によって、飛行機で日帰りなんかしているんでしょう」と私はいった。「私も若い時はそうでしたよ。──もう小づかいをせびる年齢《とし》でもないし、母親ならともかく、あの年齢で、親父とあったって、別に話す事もありゃしません。嫁でも見つければ、何か言ってくるでしょうが……」  なるほど、そんなもんだろうな、と義父はつぶやいて、またかるく笑った。  家へ帰りつくと、十五年来義父の家で働いている、しっかりもののばあやが、例によってぶっきらぼうな調子で出むかえた。 「どうです?──さっきおっしゃったようにひさしぶりに寝酒をいっしょにやりますか?」  自分の部屋にはいりながら、私は廊下を行く義父の後姿に声をかけた。 「ああ、そうしよう……」と義父はいった。「風呂にはいってからな……」  部屋にはいって着かえていると、机の上に封書がのっていた。裏をかえしてみると、めずらしく一郎からだった。──ひさしぶりに、金の無心でもしてきたか、と思ったが、見るのは明日にしようと思って、また机の上にほうり出した。  着かえて茶の間に行くと、湯殿で義父が湯をつかう音がきこえた。──それをききながら、スコッチの瓶をとり出し、義父のためにストレート、自分のためには水割りの用意をしていると、まもなくあがるらしく、水をかぶる音がした。元気なものだ。あの年齢で、真冬でも湯上りに、手桶三杯の水をかぶる。  義父は昨年、亡妻の三周忌と前後して、喜寿の祝いをすませた。  私の還暦の時には、八十になろうというのに、長年このしずかな地方都市からあまり出ず、おだやかな、節制のきいた生活をつづけて来ただけあって、まだ矍鑠《かくしやく》としている端正な老人だ。──配偶者《つれあい》をなくして、もう六、七年、高齢の男やもめにもかかわらず、ちっとも衰えを見せず、元気にくらしている。この都市の経済界や市政の方面では、脂ぎった実力者ではないが、何かと相談をうける長老格の一人として、そのおだやかでもの事のよく見える私欲のない性格が、一目も二目もおかれている。  それにしても、縁はなるほどつながるとはいえ、五十代と七十代の男やもめ二人が、こうやって一つ屋根の下にくらす、というのも妙なものだな──と卓の上にならべたグラスを見ながら、私はふと思った。──考えてみれば義父と私は、年齢こそちがえ、大変よく似た境遇にあるのだった。どちらもさまで波瀾のあった人生ではない。そして、どちらも最近、長年つれそった妻をなくし、子供たちは独立して遠くにいる。義父の長女、つまり亡妻の姉は、結婚して以来ずっと北海道にいて、長男は戦死、次男はヨーロッパに永住している。私の長女も、結婚してブラジル、一郎は東京、次男は高校の時、山で死んだ。──妻が三年前、急性膵臓炎であっけなく死んだ時、かけつけた一郎は、男のくせに泣いたが、私は泣かなかった。息をひきとる時病院のベッドの傍にいて、その夜病院の霊安室で、たった一人遺体につきそったのだが、その時、自分が泣いているのに涙が内側《ヽヽ》へあふれて、外へ流れないようになっている事を知った。  あとで思うと、その時から、亡妻のかわりに「人生の寂寥」が、ひっそり私の傍によりそうようになったのだった。 「寂寥」は、あの切ない「孤独」とはちがう。──奇妙な言い方かも知れないが、「寂寥」が、ふとふりかえるといつも傍によりそっていてくれたので、妻が死んでも、子供たちが遠くはなれていても、私は孤独ではなかったのであり、寂寥が傍にあると感ずる時に、私はおだやかにくつろげたのである。──それは、亡妻のかわりというより、三十年連れそってくれた妻の遺影そのものだった。初めのうちは、妻を失った空虚を思うとふとやるせなくなる事もあったが、やがて彼女の遺影が、「寂寥」の形でよりそってくれる事に、大きな安心を見出すようになって行った。孤独は、もとめて未だ得られぬ状態であり、見すてられ、とりのこされていると感ずるはげしい──そしてどちらかといえば若年の──感情である。が寂寥は、かつて確実に存在したもの、生きられたことの記憶である。そして人生は、晩年にちかづくにしたがって、次第に実体が記憶におきかわって行く。次々にたちあらわれては、こちらをとまどわせ、何らかの痕跡をのこして消えて行く実体とはちがって、記憶はもはやうつろう事もなく、歳月とともにますます美化され堅固なものにくみたてられて行き、やがてその美しい秩序を通して、一切が──自然が、人の世が、生の連続としての歴史の流れが、感じられるようになってくる。人は晩年の寂寥の中に、寂寥を感じる事を通して、一切を持つのだ。──その事が理解された時、義父が私より老い、私より長いやもめぐらしをしながら、その「心」が一向に衰弱していない理由も、同時に理解されるように思った。義父もまた、人にはわからぬが、その傍に、義母の影をつれそわしているのであろう。  長火鉢に鉄瓶のたぎる音をききながら、義父が風呂から出てくる間、そんな事をぼんやり考えていると、ふと、妙な感じがした。──いつも傍にあって、次第に輪廓のぼやけて行く妻の形をしている寂寥の底に、妙になまなましいものがのぞいているような気がしたのである。考えるまでもなく、それは、その夜、あで姿といいのどを堪能するほど味わわせてもらった、あの女性《ひと》のイメージだった。  おやおや──と私は一人苦笑した。──これはだいぶ、あのお色気にあてられたかな。帰ってくる途中で、義父《おやじ》がふいにあんな妙な事をいい出したのは、そこを見ぬいたのかも知れない。  義父と入れかわり、烏の行水で出て来て、チーズ、サラミなどを肴にぼちぼち飲みはじめてしばらくたった時、義父は突然体をのり出すようにして、 「かさねて妙な事をきくようだが──」といった。「もし──もし、だよ──。恵美子が知らなかったにしても、あんたがずっと世話して来たような女性があるのなら、この際、場合によってはこの家に来てもらってもいいんだよ」 「冗談じゃありませんよ……」私は一笑した。「私がそんな器用な人間でもなければ、甲斐性のある人間でもない事は、お義父《とう》さんもよく御存知じゃありませんか。──そりゃ、若いころは紅をくっつけてかえって、恵美子に胸ぐらをとっつかまれた事もありますが、そういう方のまちがいは、自分でも情なくなるくらいなかった方で……」 「そりゃそうだろうな……」と義父はうなずいた。「じゃ、さっきちょっと話をしかけた、再婚の方はどうだね?──一郎の相手がきまって、そのあとで適当な縁談《はなし》でもあったら……」 「さあ、それも、縁のものですからね。その時になって見なきゃわかりませんね……」と私は答えた。  ──なぜか、その時また、あの小出ゆき、という女性の姿がちらと脳裡にうかんだ。 「ですが……正直いって今の所、そういう事はなんだかなまぐさすぎて、興味がありませんね」  そうかね、そんなものかね……と義父は、ウイスキィをなめながらつぶやいた。 「だがな……今はそうかも知れんが、男ってものは──」 「お義父《とう》さんこそどうなんですか?──いい女性《ひと》でもいらっしゃったんじゃないんですか?」私は冗談めかしていった。 「いや、なかなか……」と義父は腕をさすった。「これで、昔は死んだ婆さんを泣かせた事もあったが──自分ではまだまだ元気なつもりでも、このごろ何となく、気が弱っちまってね」  義父は顔を両手でぬぐうようにして、ぽつりといった。 「性欲とかそんなものは、もうどうでもいいが──女の色気ってのは、不思議なもんだね。傍にないと、だんだん気分がかさかさになってくる……」  二人で新しいスコッチを半分もあけたろうか。──床につきに行きながら、なぜ今夜義父は、あんな事をくりかえし言ったのか、師匠の家から出てくる所を見られたのだろうか、それとももっと別の理由からかと考えかけたが、剣菱の酔いに加えたスコッチがきいて、頭の回転がにぶくなっていたのであきらめた。  それでも、寝る前、ふと思いついて、一郎の手紙を開いて見ると、話があるから近日中たずねる、と、例によって葉書でも間にあいそうな短い文面だった。     五  深間にはまる──などという意識のないまに、おゆきさん──彼女が師匠とよばれるのをいやがったので、のちにはその名でよぶことになった──とのつきあいは、日を追うてこまやかになっていった。三度目の時、都市からちょっとはなれた寺院山麓の、客のすくない精進料理の店に私が彼女を招待し、以後、おおむね彼女とあう時は、この形をとった。この都市の色街の稽古をほとんど一手でつけていた女性が、老齢と持病のため、四年前に、彼女をよその土地から、名代としてよびよせ、そのままずっと稽古をひきうけた形になって、そちらの方では、この土地で押しも押されもせぬほどになっている彼女の自宅へ、そう度々上りこんでいては、こちらはその気はなくても、たちまち浮名をたてられるにきまっている。こちらはどうでもいいが、先方に迷惑がかかっては、と思っての事だった。  その気はないといっても──当世風に言うならば──デートの日には、朝から心がうきたって、妙に色めいてそわつかなかったといえば嘘になる。思春期には、まだそれほど軍国主義的にやかましいというわけではなかったが、男女の仲のうるさい地方の、堅物の家で育ち、同じ中学の「不良」とよばれる連中は、硬派連の「鉄拳制裁」もおそれず、隣町の女学生を妊娠させたり、そのころ私の生れた都市にもできたカフェーの女給と駈けおちしたり、といった噂も、まるで別世界の事のようにきいていた。幼馴染みで好きな女学生もいたが、附け文する知恵さえなかったのである。──専門学校から大都市の私立の大学へ進んでも事情はかわらなかった。童貞は、専門学校の時、先輩にひっぱられておさだまりの安遊廓ですてたが、性病がこわくもあり、学生の行ける安遊廓の猥雑な雰囲気も好きでなく、悪友にさそわれないかぎり自分から足をむけようとしなかった。カフェー、バーも同様である。大学ともなれば、もう同窓には、色豪、蕩児、遊び人とよばれるたぐいがいたが、そういう特別な連中もいるのだな、ぐらいに思って、別にその連中の事をうらやましいとも思わなかった。そのころはやった、ダンス,ビリヤード、マージャンのたぐいも、ちょっとかじりはしたものの、腕も上らねば、さしたる興味もなく、来日したベーブルースを見てちょっと感激して、中学時代やった野球をまたはじめたが万年補欠、趣味といえば、勉強と読書と散歩、たまに友人とへぼ碁をうつくらいという有様だったから、まったく私の青春は「沈香《じんこう》もたかねば屁もひらず」を絵に描いたようなものだった。──卒業してすぐ故郷で就職、勤めには親の家からかよい、結婚は見合、世帯を持ったらすぐ応召、通信兵で、大した戦もせず、それでも三年ひっぱられて、戦後二年目に復員、……という具合に、私の人生は平平凡凡もいい所だった。  そんな私が、定年すぎて、やもめぐらしの身で、うまれてはじめて本当に、「みそかごと」らしき事をやっている、という意識が、先に行って相手を待つ間など特に、妙にわくわくさせ、おかしなかたちで興奮させるのだった。──自分が今、あのいろっぽい、おそらくは今でもこっそりいいよる人もいるであろう、独り身の遊芸師匠と、「逢引《あいび》き」しようとしている、と思うと……。  土地ごとにちがう性器の地方名称が、ほかの土地のものにはきいても何でもないのに、その土地の人は、その言葉を発音されると羞恥狼狽《しゆちろうばい》するように、私にとって逢引きという言葉は、「デート」などとちがって、その言葉を思いうかべるだけで、妙な具合に動悸がはやまるのだった。──おれは、今、あの遠い青春時代、同年配のプレイボーイたちがやっていた事……異邦人の奇異な風習を見るように、軽い驚愕とかすかな嫌悪を感じながら、畢竟《ひつきよう》自分とはまったく関係のない世界の事柄である、という大前提に立って瞥見《べつけん》していた、あの「逢引き」を、今、実際に、自分がやろうとしているのだ……そんな事を考え出すと、思いが変な調子にみだれて、一種狂乱にちかい状態にまでおちこんで行きそうだった。──むろん、そんな状態は、おゆきさんの姿がちらりとでも遠望されれば、朝日の前の霧よりも簡単に消失してしまうのだったが……。  あうまであれほどわくわくしながら、あってする事といえば、昨今の若い人に笑われそうなたあいない事だった。──寺院、古社の境内を歩く、名園を見る、茶を飲み、盃を交わし、食事をする。時には数キロはなれた山峡に屋形舟をうかべるぐらいのことはしたが、それ以上は何もない。山の宿や料亭は、温泉の多い地方とて、内湯のある所もおおく、すすめられるのは再々だが、二人一緒にはおろか、一人ずつ湯にはいったことさえなかった。帯をとく、という行為そのものが、二人の間の距離──つまりは「行儀」をくずすような気がしたのだ。おそらく彼女も同じだったろう。  私とおちあう時は、おゆきさんは、稽古場の仇っぽさ、粋な姿とうってかわって、髪形やみなりも、思いきって地味にしてきた。化粧さえおとし、うす紅をさすだけの時もあった。それでも、色白大柄で美しい顔だちの彼女は、道行く人をふりかえさせるほどであり、身のこなしや立居振舞いの節々にちらりとこぼれる仇っぽさは、どうしようもなかった。  おゆきさんは、時に道具をかりて、自分の手で煎茶を入れ抹茶をたててくれ、燗をつけ、酌をしてくれた。腰をおちつける所に、三味線鳴物があればそれを借りて、爪弾きに唄を、また私のまずい謡いにあわせて小鼓、大鼓を、場合によっては笛、能管をきかせてくれた。小糠雨の降る宵、山の宿できいた「蘭蝶」の哀切は、都市遊里できくそれとちがって、断腸の底に山気をまきこんで、何やら新羅三郎義光の足柄山秘曲伝授の趣さえかもし出された。──彼女がまた、横笛の名手である事も、一刻をすごした山門の一坊で知った。その時は、彼女の吹く笛の音にひかれて、院主の老僧が同席し、終って、感にたえたように、ただ黙って傍の硯をひきよせて、即席の漢詩を揮毫《きごう》し、彼女にあたえると、一言も言わずに立ち去った。──彼女の自宅にある書の多くは、こういう具合にして集ったのかも知れない。  ほとんどの時間は、ただ景色を語らい、季節を語らい、庭を賞《め》で、古社古刹やそこに蔵せられた書画彫刻をたずねてすぎて行った。──その合い間合い間に、彼女はぽつり、ぽつりと自分の過去を語ってくれた。  大震災の翌年、彼女はこの土地よりずっと北方の、やはり由緒の古いかつての大藩の城下町の大きな都会で、その土地の芸妓の子としてうまれた。──母は東京で、二流ではあったが気質《きつぷ》で鳴らした土地から芸者に出、彼女同様、若いころから美貌で芸達者で売れっ子で、いい旦那もついたが、大震災で東京が壊滅し旦那も生死不明になって、北の都会へ流れた。もうその時は、腹に彼女を宿していた、という。  彼女をうんでからも、母はその土地の三業地から出て、たちまち芸では名妓とよばれるほどになったが、浮名も派手に立てた上、持ち前の啖呵と達引《たてひき》の強さが江戸ではうけても、その土地ではしょっ中問題を起し、落籍《ひか》せようとしたお大尽《だいじん》をふりぬいて、三流地へおちた。面《つら》当てのように、東京歌舞伎にはちがいないが二流の一座の二枚目と駈けおちしたのが、彼女が七歳の時である。──のこされた彼女は、口をきく人があって、復興した東京の置屋にもらわれ、十歳の時、東京へ舞いもどっていた母親とは親子の縁を切り、十三歳の時にその家から半玉で出た。母親の方はその後東京周辺から、地方を転々とし、旦那ができたりわかれたり、間夫と心中未遂して地方の新聞種になったりしていたが、四十すぎて、ある土地の芸事の師匠としておちついたのに、何思ったか、五十すぎて頭をまるめ、そのまま入信した寺で五年前に死んだという。  おゆきさんの方も、すでに半玉時代から芸で名が売れていた。なにしろ、気性のはげしい母親に、三つの時から撥《ばち》をもたされ、踊りをしこまれたのである。──お素人《しろうと》衆の子は六つの年からでいいけど、芸者の子はそれじゃ玉をいただける芸にならないよ、というのが言い分で、酔っていてもいなくても、稽古の時は、おさだまりの、鯨の二尺指しがびしびしとんだという。──それでも稽古以外のときは、溺愛してくれました、とおゆきさんは、ふとなつかしげな眼をした。──子供心に、きれいな、様子のいい女《ひと》だと思いましたわ……。  おゆきさんは一本になってすぐ、静岡の商人に落籍され、市内に家をもたされる。新世帯の片づけがろくろくすまないうちに、昭和十五年松の内のあの大火である。──新居をやかれ、旦那の店がつぶれ、途方にくれて一たん東京へ舞いもどったが、一流地はともかく、その他の三業地は、次第にしめつけがきびしくなりかけており、もとの土地であまりほいほいとはむかえられず、神戸へやられた。  ──前年の米、石油、木炭の配給制につづいて、味噌、醤油から砂糖、マッチまで切符制になりはじめ、白紙の徴用令、金の供出や屑鉄回収と諸事窮屈になりはじめたころである。  ──パーマネントは廃止され、愛国婦人会が街頭で通行中の女性の長い袂を切るというむちゃなことを「お上」の権威をかさに堂々とやり、巷にはカーキ色が幅をきかし、大学生まで銃をもたされ軍事教練をはじめていた。ぜいたく品の禁止、東京の食堂、料理店の米食販売禁止、やがてダンスホールも廃止され、「国民服」が制定され、二千六百年の祝典歌が、ラジオ、レコードであふれた。  こういったことを、おゆきさんは、正確におぼえていた。──そんな時代に、親からたたきこまれた「芸」しか身についたものがなく、幼女のころから色街で育って、そこだけの生き方しか知らない女性が、日々肌で感じていた心細さが、彼女にそのころの記憶をやきつけたのかも知れない。  それにもう一つ、世の動きにつれてかわる歌の記憶が、彼女の時代の記憶をささえていた。昭和七年坂田山心中の「天国にむすぶ恋」あたりがはじまりで──そのころまで、街の流行歌なんかうたっちゃいけない、ときびしく言っていた母の言葉がのこってて、こわかったんです、と彼女はいった──「島の娘」や「伊那節」、そしてお座敷に出たころは、「上海だより」や「満州娘」、軍国歌謡などを、芸者にひかせて合唱する客がふえて来た。 「一度、官員さんがお馴染みさんとお出になったお座敷で、�露営の歌�──ほら、※[#歌記号]勝ってくるぞと勇ましく……ってのがございますでしょう。あれをどうしても踊れとおっしゃるので、藤間でふりをつけた事がありますのよ」と彼女はおかしそうにいった。「いえ、あてぶりじゃありません。ちゃんとした日舞で──実は中身は�深川�なんでございます」  それをきいて、私も思わず失笑した。──なるほど、あの小粋な踊りならば、それも※[#歌記号]上る段梯子……あたりのふりへ進軍ラッパきくたびに……などという文句はあうかも知れない。  神戸から九州へ、そして開戦の詔勅を、彼女は満州できいた。──まもなく内地へ舞いもどって来て、九州、瀬戸内……客はその時代でも脂ぎった軍需成金、炭鉱主、得体の知れない大陸浪人あがり、そして軍人──灯火管制下に、闇酒、横流しの肴で、三業地は周囲をはばかりながら存在し、女たちは昼は女子挺身隊に駆り出されたり、工場農村の慰問劇団にくわえられたりした、と彼女は語ったが、そのころの彼女は、はっきりいって、「枕芸者でございました」と、悪びれもせずにいった。──明日、出撃という、まだ少年っぽい海軍少尉を、「男にした」事も何度かあるという。士官ともなれば、やはり筆下しの相手に慰安婦というわけにも行かなかったのだろう。  そのあたりになると、彼女の口はおのずと閉ざされがちになり、あれば、三味鳴物をひきよせた。──話できかずとも、やがてはじまる哀傷のこもった唄の文句に、そのころの事を察することができた。あの全土阿鼻叫喚の戦争末期に、一体その道でしか生きる術《すべ》を知らない女性が、どんな生活をしたのか──じかにきくのは、もはや息苦しくたえがたい感じだった。むしろ、時に絶唱といっていいほどに思いの高まる、|嫋 々《じようじよう》の唄声の方が、そのころの思い出を、雄弁に語っているように思えた。  終戦の時、彼女は、どういうわけかあの東海地方の古刹にいた。──理由は彼女も言わないし、私もきかなかった。戦後の闇市の狂躁が、なんとか復興の軌道へとのり出すころ、彼女はふたたびその土地で座敷に出た。そして、間もなく一生のうち、ただ一度、本ものの恋をし、破れた。その事は、二度目にあった時きいていた。 「実は──わかれたあと、子供をうみました。女の子でした。三つの時死にましたが……」と、あってからはじめて、おゆきさんは瞼に指をやった。「でも、その子にとっては、かえってその方が幸せだったかも知れません。──育っていても、また私のような目にあっては……この子にはそんな目は絶対させないと思ってはおりましたが、業《ごう》というものがございますから……」  失恋以後、もう絶対に色恋はすまい、芸だけで生きよう、と、かたく心にちかったが、その決心が、かえって彼女の生活を一カ所におちつかなくさせた。その芸にくわえてこの色香である。彼女は決意しても、まわりがほうっておくわけがない。力ずく、金ずくで、しまいには脅迫めいた所業や暴力沙汰にまでおよんでせまる男が次から次へあらわれ、それを避けようとすれば土地をうつるしかない。腕を買われて、何々社中で晴れの舞台に出ても、今度は看板役者の中にそういうのがあらわれ、それをふっては、もう仕事にならない。こうして戦後もまた、彼女はほとんど日本中をうつり住んだ。座敷に出るのはとうにやめ、稽古をつけるのも玄人衆の、それも女性だけ、ときびしくきめていても、そういう事がつづき、やっとおちつきかけたのはここ十年、それもこの土地へ来てからの四年だという。  何度かの逢う瀬にわけて、とぎれとぎれにききつづけた彼女の身の上を、やっときき終ったのは、二人が何度も訪れた例の山峡の宿の、川に面した離れ家でだった。──はじめて訪れた時は、対岸やあたりの山々が、ようやく新緑へむかって動きはじめたころで、まだそこここに花の季節の名ごりをのこしていたが、いま見る山峡の景色は、一面の濃緑が灰色の雲霧にけむり、見おろす川面も、梅雨の長雨に濁った水を満々とたたえて、霖雨《りんう》にうたれつつ、ゆっくりと動いていた。  語り終り、聞き終って、二人はしばらく川と雨を見つめたままだまっていた。──おゆきさんは、背後においた三味に手をのばさず、私は卓においた盃の酒が冷えるにまかせ、そのままだまって、檜皮《ひわだ》の軒をうつ木の下雨の音をききいっていた。  が、やがてその雨垂れの音がたえがたくなって、私は冷えた盃に手をのばした。 「おゆきさん……」その時突然、のどにのぼって来た言葉は、われながらはっとするようなものだった。「結婚してくれませんか?──唐突な事を申し上げるようだが……」  おゆきさんは、そのままの姿勢で、じっと川を見つめていた。──が、その体がかたくなった事は気配でわかった。 「これは、あなたが絶ったとおっしゃる色恋の上の事じゃありません……」冷えた酒で、のどをうるおして、私はつづけた。「心のつながりの事です。──結婚するといっても、一緒に住めの、芸事をやめて、世帯を見ろのというわけじゃありません。何んなら住居も何も、双方今のままでいいんです。そして、時々こうやって、あってくださるだけでいいんです。肌をあわすのが、お気が進まないなら、それも別にかまいません。何も彼も、今のままでいい、ただ──入籍《ヽヽ》だけさせていただけませんか?」  おゆきさんの姿勢は依然としてかわらなかったが、ただその体の中に、ある感情がふくれ上り、激《げき》しそうになって行くのが、手にとるように感じられた。 「逆に、盛大な披露をやって、この町のみんなに夫婦である事を認めさせろ、というなら、それだってやります。そんな事は、どっちでもいいんです。──ただ、今となっては、私はあなたとの心のつながりをこれから先死ぬまで失いたくない。そして、一方的にでも、そのつながりの絆《きずな》がほしいんです。たとえあなたが、またこの先何かの事情でどこかへ一人でうつってしまわれても、日本中、どこに行かれても、世界の涯へ行ってしまわれても、あなたは私の妻だ、と思っていられる絆のようなものが……むろん、一緒に住んでくだされば、これ以上の事はありません。が、そうしていただけなくても、私の妻になっていただきたいんです」  おゆきさんは、はっと顔を伏せ、その顔を白い両手でおおった。──かすかな嗚咽《おえつ》が、二つ三つ、そのまろやかな肩をゆすった。  それから顔をあげずに、畳をすっとすべると両手をついて、深々と頭を下げた。 「私のような女に、身にあまるお言葉と、存じます……」  おゆきさんは、蚊の泣くような、くぐもった声でいって、また肩をふるわせた──それじゃ……と思わず身をのり出しかけたこちらを、そっと押えるように、彼女は言葉をつづけた。 「ですが……あまり急なお話なので……どうぞ一両日、考える余裕をくださいませ」     六  四月に近日訪問の手紙をよこしたまま、そのまま来もしなければ、音沙汰もなかった一郎が、ふいに事務所の方に電話して来て、今、市内にいる、すぐあいたい、といって来たのは、翌々日の事だった。──五月に、急な海外出張のあった事は、人伝てにきいて知っていたが、若いとはいえ、あまりに性急で勝手なので、少し叱って、午《ひる》まで待てといってやった。 「午飯食うんなら、お濠端の牧之家がいいですね」とまた彼は勝手な事をいった。「この町で、ちょっと食える会席はあそこだけだからな。もっとも、われらかけ出しサラリーマンの懐には、ちょっとあまるけど──予約しときましょうか?」 「ばか、いいかげんにしろ!」と私はどなった。だが、相手は、じゃ十二時、牧之家で、といって一方的に電話を切ってしまった。  時間のかかるその店で昼食をとるなら、午前中に一つ片づけなければならない用事ができた。──十二時半ごろ事務所へたちよるといっていたその相手に電話して、今からすぐそちらへうかがいたいがと告げ、外へ出た。国道で車をひろおうとしたが、空車がなかなかこないし、来ても先の方でひろわれてしまう。少し、いらいらしながら、ぶらぶら、車の走ってくる方角へ歩いていると、ふと、車道をへだてて反対側の歩道のずっとむこうから歩いてくる、一組の男女が眼についた。  ずしん、というような衝撃が、そのとたんに背筋を貫いた。──玉虫色らしいコートに蛇の目をもって、うつむきかげんに歩いているすらりとした櫛巻きの女性、おゆきさんにまちがいなかった。そして、彼女と肩をならべながら、何かしきりに親しげに話しかけている長身の老人は──義父《ヽヽ》だった。眼をこすって見なおしてみたが、どう見てもまちがいない。  義父が、おゆきさんと歩いている。  二人も反対側でひろうらしく、ずっとむこうでたちどまり、ながしてくるタクシーに手をふり出した。──午前の一番往還のはげしい時で、ひっきりなしにバス、トラックが通り、二人の姿は見えかくれし、呼んでもむろんきこえる距離ではない。──が、今度はおゆきさんの方が、義父の背広の襟にすがりつくようにして、何か一生懸命しゃべっていた。それをまた義父がやさしく教えさとすように、顔をのぞきこんでこたえてやっている。遠目には、仲のよい老父と娘、いやいっそ、年の離れた恋人同士のようにさえ見えた。  車の流れをつっきるのは不可能にちかく、横断箇所は、どちらの方角にもずっとはなれている。  私は、小走りにこちら側の歩道を、反対側の二人が立っている地点へむけて走り出した。が、大型バスが停留所にとまってちょうど視野をさえぎり、それが動き出した時は、もうその場所に二人の姿はなかった。あわててきょろつく私の前を、一台のタクシーが猛烈にふかしながら走り去ったが、一瞬、その後部座席に見えた二つの横顔は、たしかにおゆきさんと義父のものにまちがいなかった。  どうにもわりきれぬもやもやした感情が渦まいて、出先での用談は、半分|上《うわ》の空で相手に妙な顔をされてしまった。  あの二人の親しげな──いや、むしろ仲睦じげなといった方がよさそうな話しぶりは、二人がずっと前から知り合いだった事をもの語っているようだった。  それがまず意外だった、おゆきさんからも義父からも、そんな事は爪から先もきいていない。もし前からの知り合いなら──せまい土地の事だし、どちらかから何か一言、言ってくれそうなものだ。──それとも、おゆきさんは、私と義父との関係を知らず、義父は義父で、おゆきさんと最近しげしげあっている男が私だと知らずに、いるのだろうか?  そんな事は、まず考えられない。彼女は私の家も電話も、会社の名も知っている。──いや、たしか一度は、姓のちがう義父の名も、私が告げているはずだ。  とすると、二人はなぜ、二人が知り合いだという事を、双方で私にかくしていたのだろう?──そもそも、二人はいったい、|どんな関係《ヽヽヽヽヽ》なのだろう。単なる古い知り合いか? それとも義父はむかし──私がこの土地にくる前に、あるいはおゆきさんがほかの土地にいる時に、おゆきさんの世話でもしていた事があるのだろうか? そして、二人はあんなに親密に──それも私のいる事務所のすぐ近所で──いったい何を話していたのだろう。二日前の、山峡の宿での私の申し出について、おゆきさんが私の義父に相談し、義父がのってやっていたのだろうか? 彼女は今日私に返事をする約束をしていた、──それだとしても、なぜ、相談相手のいる事を、私にかくすのか?  頭が混乱し、あつくなってきて、考えがまとまらないうちに、一郎との約束の時間が来てしまった。  牧之家につくと、一郎は先に来ていて、一人ぽつんと、離れ座敷にすわっていた。 「いったい話って何だ?」  私は一郎の正面にすわりながら、やや不機嫌な声できいた。 「ええ──飯の前に話しちまった方がいいな……」こちらをむいた伜の表情は、いやに思いつめたみたいだった。「実は──今度……結婚するんです。いや、結婚したいんです!」 「ほう……」私はおしぼりで顔をふきながらいった。「やっと見つかったか。自分で見つけて来たとは、なかなか上出来だが……いったいどこのお嬢さんだ?」 「それが……お嬢さんじゃないんです」  一郎はかすれ声でいった。 「芸者《ヽヽ》です……」 「なに?」  顔をふいていた私の手が、ひとりでにとまった。 「今は、ぼくの社のある土地にいて、今度この土地にうつります。でも、その前に、結婚しちゃいたいんです。──年はむこうが一つ下……すごくきれいで、気だてのいい娘です。身よりがなくて──でも本当に、芸者らしくない、気だてのいい、やさしい娘です。彼女の下宿にも行ったんですが、世帯持ちもよくて、……なんていうか、古風で、今の女の子よりずっと家庭的な所があります。それでいて、芸事はすごく達者で、東京の一流どころだって通用するっていいます。むこうもぼくに夢中なんです。ぼくはむろん惚れてます。おとついはっきり申しこんだんです。──結婚させてください。反対したって、結婚するつもりです。どうしたってしてみせますよ。だけど、できればお父さんとお祖父さんに──」 「まあ待て……」私はショックからたちなおろうと、一所懸命努力しながら、やっと一郎の言葉をさえぎった。「芸者をひかせて、結婚するとなると──かなりな金がいるぞ。出た家が金をかけているし、足ぬきのあいさつや、朋輩の……」 「わかっています。ぼくにくれる財産がいくらかあるでしょう。それ、ください」 「いいか、よくきけ」私はすわりなおした。「これは、これから先の長いお前の将来ともかかわってくる事だ。──かけ出しのサラリーマンが、若い芸者とくっついてだな……」 「会社なんか、場合によったら、やめちゃったっていいと思ってます」と一郎は、問題にしないようにいった。「とにかく、一度、お父さんの眼で、彼女を見てください。あわせようと思って、一緒に連れて来てあります。──というより、今度出る家へ彼女があいさつにくるのにくっついてきたって恰好ですけど……、遠出の玉代は高いですからね。……今、あいさつまわりに行ってますけど、今夜か明日にでも、ぜひあってください。雪絵っていいます」  その日の午後をいったいどうすごしたのか、自分でもあまりはっきりした記憶がない。──一郎とわかれて、とにかく一度事務所へかえったが、仕事が手につくわけがなく、気がついてみるとビルの地下の喫茶室にいたり、何を勘ちがいしたのか、また牧之家へむかって歩いて行きかけたりしていた。  なにしろ、一郎が芸者と結婚する、といい出したショックが一番大きかった。それに午前中義父とおゆきさんのむつまじげな姿を見たショックがかさなり、こんがらがって、頭がぼんやり膜がかかったようになってしまった。  そのぼんやりした頭で、おゆきさんの家に事務所から電話をしたらしい。──|らしい《ヽヽヽ》というのは、ふと気がつくと、いつの間にか、耳にあてていた受話器の底から、あの小玉という小娘が、例のよく通る声で、何度も、もしもし、もしもし、とくりかえしているのがきこえたからだ。日ごろ、おゆきさんに連絡をとるのに、事務所の電話をつかった事などなかったので、気がつくと狼狽したが、狼狽してかえって、おゆきさんはいませんか、と、事務所中がふりむくような声でどなってしまう事になった。──彼女が他出ときくと、 「どなたかとご一緒?──うちの義父《おやじ》とですか?」  などと、馬鹿な事をききかえす始末である。──やっと少しわれにかえって、夕刻五時半、二人が時折り訪れた、城の東の、旧城主の菩提寺の境内でぜひお会いしたいと告げてほしいと、これまた大声で、一方的に言って電話を切った。  電話を切ってから、場所柄にもかかわらずわめきちらした事が、あらためていたたまれなくなって、後先見ずに事務所をとび出した。──もう時刻は、四時を少しまわっていた。  次にわれにかえった時は、濠端のベンチにすわって、ぼんやりにごった水を見つめていた。──水面に、少し前から、小さな水輪が、次から次へ、いくつもでき出すのを見て、あれはどうしたのだろう? 底の泥からガスでもわき出すのかな、と思ったのが、われにかえるきっかけだった。  その時、人の近づく気配がして、頭の上に黒いものがかぶさった。 「俊さんじゃないか。──雨が降り出しているよ」と義父が、傘をさしかけてくれながら、少し呆れたような声でいった。「今日の午後、事務所やとくい先に何度も電話してさがしたんだよ。出たりはいったり、ずいぶん忙しかったらしいね」  実は一郎が今日ふいに来ましてね──、立ち上りながら口の中でもごもごいったが、義父の耳にはとどかなかったようだ。 「いま、ちょっといいかね。歩きながら話そう……」義父は傘をさしかけながらいった。「実は、──びっくりするかも知れんが、今度、あの家を出ようと思ってね。売るわけじゃない、私一人だけだ。すぐ、という事じゃないんだ。まだ先の話だが、今日はっきり自分の腹がきまったんで、あんただけにでも、早く言っておきたくて──そう思い立つと、年寄りはやはり、気が短くてね。さがしまわったんだ……」 「家を出る……お義父さんが……」私はぼんやりした頭で、必死になって理解しようとつとめながらつぶやいた。「そりゃまた、どういうわけです?」 「笑いなさんなよ。実は──|結婚する《ヽヽヽヽ》。あの家を出てな……」  頭はぼんやりしていたが、「結婚」という言葉に、|と《ヽ》胸をつかれて、私は思わず立ちどまった。 「歩きなさい。立ちどまられると、何だか話がしにくい。──そう、この年で、結婚する事にきめた。それもおかしな相手でね。わしといくつもちがわん七十婆さんで、しかも|尼さん《ヽヽヽ》だ……」 「尼さんと……結婚なさるんですか? 七十すぎの……」ショックの連続で、無感動になりかけていた私は、ばかのように、相手のいった事をくりかえした。 「そうなんだ。──七十といっても、昔、水商売をしていた、というだけあってなかなかきれいな婆さんで、年のわりに色っぽいがね。ま、もちろん、そんなお色気にひかれて結婚しようと思ったわけじゃない。お互いこの年ではな、第一、私の体がもう言う事をきかん。──ま、妙なとりあわせと思うだろうが、お互い気があうからだ。明治うまれはやはり明治同士……それにその尼さんが、これがまた明治女の気風を濃厚にのこしていてな。──まるで鏡花話の登場人物みたいな所があって……。おかしいのだよ。うわべは行いすまし、悟りすましているようだが、私と話していると、昔の伝法が出てくる、鉄火な啖呵も切る、明治大正のお侠《きやん》な江戸前芸者に、もどってしまうのだ。それがお互いおかしくて、面白くて、この土地の尼寺に、寂由さん──というのが、その尼さんの名だが──がうつってきてから四年ごし、つきあって来た。ま、爺と婆──それも片方が尼ときては人目についても大した事はないが、それでもあまり人目につかんようにな。そんな事をしているうちに、ふと気がつくと、お互いなくてはならない──というより、しょっ中くっついていたくてたまらない仲になっていた。離れていると、肌さびしい。何かの時に、ひょいと脇をむいて、憎まれ口をたたいてやると、相手もすかさずやりかえす……そんなくらしがしたくて、たまらなくなっていた。──私だけじゃなく、向うもだよ。それで──とうとう、どちらからともなく結婚しようか、という事になった。どうせ女は罪障が深いものだし、あんたのように、昔、子供をすてたり、愛欲にふけったり、男を泣かしたり、悪業のかぎりをつくした女は、途中から頭をまるめたって、極楽の上等なところへ行けるわけじゃない。悪くすれば、このまま行って、地獄行きだ。それならいっそ、あとのこりわずかの人生、私とたのしく、憎まれ口でもたたきあい、くっつきあって暮らさんかね──そういうと、寂由尼もその気になった。といって、この土地で、二人一つ屋根の下にくっつきあっていては、私もさすがにきまりが悪い。あんたも、その年で還俗となると、あまり|見ば《ヽヽ》のいいもんじゃなかろう。──それなら、いっそ、よその土地に行ってくらさんか? 行く先の心あたりはないでもない。もしそれがだめなら、年寄り二人、日本全国巡礼して歩いてもよかろう。そういって、冗談みたいにくどきはじめたのが、この四月ごろだったかな、双方だんだん本気になって来て、私も仕事の整理の準備などあれこれ段どりをつけ、むこうも九分九厘結婚に乗り気になっていたが、──ま、結婚といっても、双方この年だから入籍なんぞはどうでもいいといっていたが、最後の一線で、還俗というのがふんぎりつかなかったらしい。僧体のままでもいいよ、と私はいったが、むこうは古風に一徹な所があって、尼になる事は仏の嫁になる事だ。仏の嫁のままで、俗人と結婚はできん、と、妙な所でがんばる。それをやっと、九分九厘九毛あたりまでこぎつけた。そんなわけで、私の方はもうはっきりあの人と結婚するために家を出る決心をした。──しかしそうなると、あの手伝いばあさんと、あんたは二人きりで、さびしかろうから、できればあんたの新しい嫁さんを見つけてから、と思っていたんだが……。まあ、本当に出るには、まだ少し間がある。自分の腹のきまった所で、あんたに早めに知らして、あの家で私ぬきでくらす腹づもりをしてもらいたい。そう思ってね。実は、今朝のうちに、あの婆さんを完全に押しきって、あんたにもひきあわすつもりだった。だが女だから往生ぎわが悪くて、なかなか最後の一毛をぐずつきよる。とうとう連れ出して、事務所の傍まで行った。二人一緒に、あんたにあって、私の口から、実はこうだ、といえば、もう観念するだろうと思ったんだが、婆あめ、すぐ傍まで来たのに、ああだこうだといって、事務所へはいろうとせん。とうとう根負けして、タクシーでかえったが……」 「ちょっと待ってください……」私は上ずった声で叫んだ。「じゃ、今日の午前中、事務所の近くまで来たというんですか? その七十の尼さんと?──いったいそれは──何時ごろです?」 「十一時すこし前じゃったかな。──見たのかい?」 「あの国道の事務所と反対側を、歩いて来て……バス停の、すこし手前で……たしかタクシーをつかまえて……」 「やっぱり見てたのか。その通りだ」 「そりゃちがう! あなたの連れたのは年よりの尼さんじゃない!」私は思わず大声で叫んだ。「あれは──おゆきさんだった」 「おゆきさん?──誰だね、それは……」義父は不思議そうな顔をした。 「小出ゆき──東町五丁目の遊芸の師匠です。水もしたたる──」 「知らんな。色街など、もうここ何年も足をふみ入れていないし……。もっとも東町五丁目というと寂由尼の……」 「ちょっと待ってくださいよ……」私は頭をかきむしりながら、悲鳴をあげるようにいった。「その時、その尼さんは、どんな恰好でした?」 「どんなって、まだ尼僧だからな。墨染の衣で、頭は、少し髪をのばしかけていたから、白絹の頭巾で包んでいた……」 「ちがう! そんな……そんなはずはない……。あれはたしかにおゆきさん……」  そうくりかえしかけて、私は、はっとある事を思い出した。 「そうだ、今、何時ですか?」 「五時半を、ちょっとまわった所だ。──私の時計は少しおくれているから三十五分ぐらいかな……」 「大変だ!──五時半までに、常音寺へ行かなけりゃならなかったんです!」 「俊さん……あなた、少ししっかりしておくれよ……」義父は呆れたように、まじまじと私の顔を見つめた。「ここは、もう常音寺の境内だよ。寂由さんと、ここで五時半におちあって、最後の返事をきく事になっているんだ。──しゃべりながら来たんで、すこしおくれたが……ああ、庭の方にもう来ているらしいぞ」  樹木と植えこみの深いので有名な常音寺の庭園に、傘をさしてたたずむ人影が見えた。──雨の夕方とて、拝観者はほかにいる気配はない。植えこみをめぐって、そちらへ近づいて行くと、小糠雨のおちてくる、おもく垂れこめた雲の上を、また新たな雲がおおったのか、あたりが急に暗くなった。いつもなら七時すぎまで明るいのに、急に、かわたれ時ほどの暗さにおちこんだのである。 「ああ……やっぱりそうだ」と義父は歩きながらつぶやいた。  やっぱり、おゆきさんだ、と私は胸の中でつぶやいていた。──明るさが少ないので、黒っぽく見えるが、あれは昼間義父といっしょに見かけた時にきていた玉虫のコートにまちがいない。さしている蛇の目にも見おぼえがある。すらりとした肩の線に仇っぽさのただよう後姿も、わずかに見えるほの白い横顔も、おゆきさん以外の誰でもない。第一──七十の尼僧が、あんなたっぷりとつやつやしい黒髪を櫛巻きにしているわけはない。 「あれがおゆきさんですよ……お義父さん」と私はいった。「今日五時半にここへ来てくれるようにって、電話したんです」 「俊さん……あんた、大丈夫かい?」義父は立ちどまって、今度こそ、心底心配そうに、こちらをのぞきこんだ。「遊芸の師匠が、墨染の衣で、頭を白絹でつつんでるかい?」 「お義父さんこそ、眼は大丈夫ですか?」私はつい声高になった。「あの頭のどこに白絹が見えます。──黒い髪を櫛巻きにして……」  その時たたずむ影のむこうで、何かが動いた。 「おや……」義父が、つぶやくようにいった。「寂由さん、誰か連れがいるらしいぞ……」 「おゆきさんが誰かと一しょに?」と私もいった。  女性の後姿にかさなりあって、それまで見えなかった長身のレインコートを着た男性が、二歩、三歩こちらに歩をはこびながら、こっちをうかがうようにしていたが、その足どりは、五歩、六歩と大股に加速され、ついになかば走るようにこちらへちかづいてきた。 「なんだ、やっぱりお父さんか。──お祖父さんも一緒ですか……」一郎はほの暗がりに白い歯をむきだして、はずんだ声をかけて来た。 「ちょうどよかった。今、彼女とおちあって、雨の常音寺の庭を見せていた所です」 「彼女って……誰だ!」義父が、痰が喉にからまったような声を出した。 「雪絵です。あの……実は、今度結婚するつもりなんで……芸者ですけど……」 「雪絵?……芸者?……何の事かわからん」 「あれが、その……雪絵さん?──そんな馬鹿な!」  義父と私は同時に口の中でつぶやきながら、一郎をおしのけるようにして、向うに佇む後姿にむかって大股に歩き出した。──一郎は少しめんくらったように、一歩おくれてついて来た。 「あってやってください。──本当に、いい娘《こ》なんですから……」  とくりかえしながら……。  そぼ降る雨の中を、私たちは、行進のような勢いで進んだ。──蛇の目をかかげた艶な人は、背後にせまる足音にも気づかぬように、無心に泉水におちる滝に見入っているようだった。  あと十二、三メートルという所にまでせまった時、義父が歩度をゆるめて、ほっと溜息をつくようにつぶやいた。 「ほら……やっぱり寂由さんじゃないか! 年寄りをからかっちゃいかんよ」  やっぱりおゆきさんだ!──と私も胸につぶやいていた。  近づくにしたがって三人の歩度はゆるみ、その分だけ、めいめいの確信は深まって行くようだった。五メートルの所で、三人の足はほとんどとまった。 「雪絵さん!」と一郎がまっさきにさけんだ。「父と祖父だ……」 「おゆきさん!」 「寂由さん!」  義父と私が同時に声をかけた。  蛇の目の傘の下で、その女《ひと》はゆっくりふりむいた。──さなきだに暗い雨の夕方、蛇の目の下のその顔は、ただほの白い塊りとしか見えなかった。  が、その時、いつもより速い黄昏に、いつもより点灯時間を早めたのか、泉水の傍のガーデンライトがパッとつき、水銀灯のまぶしい光が、蛇の目の下の顔いっぱいにさしこんだ。 [#改ページ]   無 口 な 女     一  時子はこのごろますます口をきかなくなった。  もともとひどく無口な性質《たち》だった。──この二十年間、私たちは世間の常識から見れば、おそろしく静かな家庭生活をつづけて来たのだ。  まるきり音がなかったわけではない。音楽は、私も時子も好きだった。ステレオやFMチューナーは、生活が今ほど楽ではない、早い時期から無理をして購入した。浩太郎が小学校へ上った時は、電子オルガンも買った。ギターは新婚間もないころ、時子が楽器店の前で吸いつけられたように見入っていたので、当時としてはかなりの出費だったが、思い切って買い与えた。時子はいつ、どこで習ったのか知らないが、楽器が上手だった。ありものの曲を楽譜で見てひく事もできたが、何か自分で即興でつくってもひいていた。みんな静かで、クラシックな──というより、アルカイックな感じのする曲だった。インド音楽のような感じがするが、私にはよくわからない。私自身は音楽が好きだが、楽器はだめだった。曲の名前や演奏者の名前をおぼえるのは苦手で、メロディや感じでおぼえるばかりだった。  ステレオや楽器のほかに、小鳥がいた。カナリヤ、文鳥、ひわ、鶯……いろんな種類の小鳥が代をかえつつ、いつも一羽か二羽いて、可憐な声をひびかせていた。店で買ってくるよりも、家の中に迷いこんでくる場合が多かった。だから、雀がいる時もあれば、たくましげな地鶯がいる時もあり、雲雀《ひばり》が居ついてしまった事もあった。──小鳥のほかに、時子は虫も好きで、きりぎりすや馬追い、鈴虫などを上手に飼った。これも買うのではなく、いつの間にか、外出の行きかえりにつかまえて来て、夏の一日、つとめから帰って来ると、玄関口で突然鋭く雄々しく鳴くきりぎりすの声にびっくりさせられるのは、毎年の事だった。鈴虫は、まだ、ごみごみした都会の片隅のたった一間の台所つきのアパートに住んでいたころから、壺の中で飼い、居住者はむろんの事、近所の人たちまでが珍しがって毎夜ききにくるほどだった。  そういった小動物たちの鳴き声と、静かな音楽以外、私の家庭はこの二十年間、あまり話し声というものがたたなかった。──浩太郎がうまれた時、時子があまり無口なので、ちょっと心配だったが、世間並みよりすこし早く片言をいいはじめて、口数は多くないが、外では、けっこうはきはきものを言う子供に育って行った。しかし、両親が無口なので──というより、時子の無口さに、みんながひきずられてしまって、小学校へ上っても、テレビのかまびすしい子供番組もあまり見ない、静かな子だった。中学高校とすすむにつれ、家の中ではますます必要な事以外口をきかなくなり、母親のように、自分でも小動物を飼ったり、部屋にこもって音楽をきいたり、ひっそりくらしていた。学校の成績は悪くなく、スポーツやクラブ活動も、けっこう先にたってやっているらしく、父親としては別に気にかける事もなかった。  こんなに家の中でお喋りがすくなくても、私たちの家庭は別に冷え冷えとしているとか、陰気だとか言う事はなかった。──「夫と妻の対話」とか、「親子の対話」とか、このごろはやたらにしゃべりあう事が奨励されているようだが、人間と言うものは、特に身近なもの同士の場合、言葉で言いたてるより、しぐさや雰囲気でもって、もっと深いコンミュニケーションが成立しているものであり、そのコンミュニケーションにお互いゆるぎない信頼をおいているならば、別に事あらためて好きだの愛しているの、いいの悪いのと面とむかって言いたてる必要など、無いものである。──もともと日本の男女は、面とむかって愛してるの愛してないのと言った事など表現しないものだと思う。あれは、コンミュニケーションの習慣のちがう──日本よりはるかに、「口に出してはっきり言う」事が重視され、かつ「言語」がコンミュニケーションのアルファでありオメガである、と信じられている欧米文化の中での習慣であり、一時期日本のある階層がそれにかぶれたものであろう。言語がすべてであり、また言葉にはすべて、「契約」や「誓約」の意味合いがこめられている、と信ずるのは先方の勝手であり、言葉というものに、人間同士のコンミュニケーションの中で、ごく補助的な意味しかみとめていない私たちの生活文化では、生活の上の必要最低限の会話だけで、けっこうお互いに「理解」しあい、信頼しあって生きて行ける事が、いわば歴史的に証明されていて、大抵の人たちはその事を知っているものである。別に日本だけでなく、ヨーロッパやアメリカでも、一部のニューロティックな都会人種以外の、いわゆる一般の生活人は、あまり家庭ではしゃべらないものらしい。──ロンドン郊外に住む私の知り合いのイギリス人夫妻は、家庭生活において私たちと同じぐらい寡黙だった。フランスでも、ルナールの描いた農村生活にはこんな情景がある。新婚生活の第一日に、新婦が夕食に何をつくりましょうかと主人にきくと「ジャガイモのスープだ」とこたえる。翌日も同じようにきくと、主人はいう。「言ったろう、ジャガイモのスープだよ」それから嫁は毎晩ジャガイモのスープをつくった、という。──アメリカ人のおしゃべりを、よく人は「陽気」だと言うが、私には屡々それが、彼らの対人関係における自信のなさ、不安さの表現のように見える。アメリカ文化に影響された日本人にも、何かにつけて論争《ポレミツク》好きな人間が多いが、それは絶えず自己主張し、自分を誇示し、相手に押しつけていなければ不安になる、という一種の文明神経症にかかっているように見えないこともない。──おしゃべりを「たのしむ」のはまた別だ。これは絵に描いたり、音楽をきいたり、模型づくりをしたりするのと同じで、「趣味」に属する。  私たちの家庭内には、別に対人関係の不安はなかったし、おしゃべりをたのしむ趣味もなかった。──趣味なら、親子三人、共通のものと、それぞれのものを持っていた。二十年の間、「はい」と「いいえ」「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」以外、時子の言葉をほとんどきかずにくらして来たが、それでも私たちの夫婦の心のふれあいはゆるぎないものだという確信が、私の中にずっとあったし、時子の方でもそれにこたえてくれているようだった。──たしかに時子は、社交的な所はなかったし、人前へ出る事を好まなかった。しかし、私のささやかな個人的な商売は、夫婦同伴でなければならないつきあいなども、ほとんどなかったし、そういうケースは私自身極力避け、どうしても、という場合でも、私の主義だから、あるいは妻がどうしてもこのまないから、という事で押し通して来た。そこは日本の社会習慣のいい所で、そういう事でも一応通るのである。  一度だけ、どうしてもことわれない義理で仲人をひきうけた事があったが、そういう時は、あいかわらずの無口ながら、時子は花嫁のつきそいをちゃんとやってのけた。──近所のつきあいにおいても、浩太郎が学校へ行くようになってからのPTAの会合においても、「静かな、奥さん」とは言われても、つきあいが悪いとは言われずにすごして来たのは、彼女の人柄というか、徳というか、そう言ったもののおかげであったろう。  そう言うわけで、私たち夫婦は長い間何の問題もなくくらして来た。──料理をはじめ家事に関しては、時子は完璧といってよかった。私の収入の貧しかった時は、さまざまな気働きによって、貧しいなりに豊かな生活を演出し、暮しが楽になっても、こまごまとした事に丹誠こめる点はちっともかわらなかった。いつどこで教わったのか、和裁の腕もたち、一時それで私の貧しい収入もカバーしてくれた事もあったし、どこで習ったわけでもないのに、古い婦人雑誌の付録を見て、花も活けたし、茶も点《た》てた。私自身が、若年を生活に追われつづけた朴念仁だったから、あれこれ小うるさいことがわかるわけではなく、世間から見ればどう思われようと、そういった心づかいだけで結構満足して来たのだった。  だが、こういったくらしを二十年もつづけて来たにもかかわらず、最近の時子の無口ぶりは、私にもちょっと異常に感じられた。──うけこたえの声も、ほとんど声にならず、ただ表情と身ぶりだけで、まるで失語症にかかったようだった。家事や小動物たちの面倒、庭の手入れなどは、相かわらずまったく遺漏《いろう》なく、きちんとやっていたが、彼女の中には、何か微妙な事が起こりかけているような気配が、折りにふれ、ふと感じられるような気がした。  浩太郎も、それを感じているようだった。  息子は高校にはいってから、三時間ばかりはなれた都市に下宿するようになったが、最初の夏休みにかえって来た時、庭先で草花の手入れをしている時子の姿を見ながらぽつりと私に言った。 「母さん、どこか具合が悪いんじゃない?」  私は書物のページをくりながら、曖昧な返事をした。 「医者に見せた?」  旺盛な食欲で西瓜をたいらげてしまうと、浩太郎は手の甲で口をぬぐって、また、思い出したように言った。  私は何とはなしに胸を衝《つ》かれた。──私たちは、家庭を営みはじめてから、ほとんど医者に見てもらった事がなかった。私自身は、子供のころから医者ぎらいだったが、時子も丈夫なたちと見えて、この二十年間寝こんだ事もない。  妙な話だが、浩太郎の出産の時も、一、二度病院で検診してもらったぐらいで、産むのはアパートで産んでしまった。私が出勤したあとすぐ陣痛がはじまり、アパートの人をよぶ間もなく、犬のように軽くうみおとしてしまった。事務所について、すぐ管理人からの電話があり、とんでかえってみると、もう母子は蒲団《ふとん》にならんで寝て、やすらかな寝息をたてていた。──管理人の細君が、もと産婆のまね事をやった事があるとかで、後始末や何やかやを一切やってくれたらしいが、男の私には、どういう経過か詳しい事のききようもなく、奥さんはふだんから心がけがよくて、御不浄の掃除などもずいぶんきれいにやっておられたから、という管理人の細君の、お世辞ともつかぬ言葉を、腰のぬけたような安堵感の中で、呆然ときき流すばかりだった。  そんな具合で、私は時子の健康状態など、ふだん気づかった事もなかった。──時子に最初出あった時連れて行った、大学の先輩にあたる町医者が夭折《ようせつ》してしまわなければ、事情は少しかわっていたかも知れなかったが……。 「お前、何か気がついたか?」  私は開いた書物ごしに、花壇の所にかがんでいる白ブラウスに紺のスカートの時子の姿に眼をやって、口の中でつぶやいた。 「いや……。ただ、母さんこのごろ、少しぼんやりしてるみたいだ。時々一人で何か考えこんでる。疲れてるんじゃない?」  テーブルの上から食べ終った西瓜の皿をとりあげながら、浩太郎は言った。 「更年期障害ってやつかな」  馬鹿!──と口の中で言うと、私は書物に眼をおとした。突然ある不安が、胸の底にうっすらと靄《もや》のようにたちこめるのが感じられ、活字を追うのがむずかしくなり出した。|ひょっとしたら《ヽヽヽヽヽヽヽ》……と言う言葉がふと頭にうかんだ。だが、その時は、何がひょっとしたらなのか、すぐにはわからなかった。──私は、書物をふせ、ぼんやり庭をながめた。  大輪の花をつける向日葵の下に、金盞花《きんせんか》や、君子蘭の花が咲きみだれる小さな花壇があり、時子は小さな移植ごてを持ってしゃがみこんでいた。ぬけるように白い肌が、真夏の午後の直射日光をうけて、ほんのり上気し、かるく汗ばんでいるようで、ひっつめ髪のほつれ毛が一筋二筋、なめらかな頬にへばりついていた。──その背後の縁先で、大きな竹籠の中のきりぎりすが、間をおいて鋭い鳴き声をたて、一心不乱に雑草をとったり、土をほぐして肥料をふりこんだりしている彼女の頭の上に、山ちかいこのあたりでも昨今は珍しくなった、大型の虎やんまが、さっきからずっと行き来していた。  そうやっている時子の顔は、いつもとちっともかわらず、明るく、健康そうで、精神的にも肉体的にも、かげりと言ったものは、毛ほども見当らないようだった。にもかかわらず、それを見ている私の中に立ちこめはじめた一抹の不安の靄は、次第に濃さをましはじめていた。──一度奥へはいった浩太郎は、外出するらしく、縁先へ顔を出して一言何か言った。時子はふりかえり、それにこたえて口を動かした。行ってらっしゃい、と声に出して言ったかどうかは、ちょうど梧桐に来てやかましく鳴き出したつくつく法師のためにわからなかった。  ふりかえった時子の顔に、私の屈託顔がうつったのだろう。こちらに顔をむけてにっこりほほ笑むと、花壇の前から立ち上り、裏へまわって行った。きっと頃合いを見て、冷たいビールでも出してくれるのだろう。──台所の方に、その気配を聞きながら、私はうすれてはまた濃くなる不安を払おうと、煙草に手をのばした。もうその時は、その不安が、はるか遠い記憶につながる事がはっきりしていた。煙草を吸いつけ、最初に吐き出した煙が、溶けた青ガラスのような空にむかってたちのぼって行くのを追っていると、またあの言葉がうかんで来た……。  |ひょっとしたら《ヽヽヽヽヽヽヽ》……     二  二十一年前の夏の終りに、私ははじめて時子とあった。──考えようによっては、奇妙な出あい方だった。  戦後の混乱は脱しかけていたが、世の中は今よりずっと貧しく、ずっと殺伐だった。朝鮮事変の特需ブームが終って、高度成長の最初の波がはじまる間の、台風手形やお産手形、はては倒産屋などというものの横行した景気の沈滞した時期だった。──大学入学とほとんど同時に両親を失い、惨憺たる経済状態の中で、やたらなアルバイトのほかに娼婦のひもに近い事までやって、やっと卒業した私は、卒業はしたものの、いわゆる「売れない学部」だったため、就職口がほとんど無く、わずかな求人にも、在学中の成績がよくないのと、伝手《つて》が皆無だったのとでことごとく失敗し、大学時代のアルバイト先に紹介されて、金属材料の小問屋で、臨時雇いの資格で働いていた。──そのころ、その都市の問屋街では、軒なみ組合ができ、私の働いていた従業員三十名ほどの問屋にもできて、闘争らしいものも二度三度あり、勢い臨時雇いへの負担が重くなっていた。  その日私は、朝早くから、オート三輪でもって、品物を配達していた。鋳物の組手、パイプ、バルブといった重いものばかりで、積みおろしに大変な労力が必要だった。──長びいた夏のボーナス闘争がやっと解決した所だったが、三分の一ちかい従業員は、おくれた夏期休暇をとっていた。大半は、お盆に帰省できなかった事の埋め合せというので、店主もあきらめ顔だった。しかし、市況は九月をむかえて若干活気を帯びており、配達の仕事はずいぶん多かった。  午前中は、それでも、顔色の悪い十五、六の店員──縁故があるので若いながら私とちがって正社員だった──と二人でオート三輪にのり、つみおろしも二人でやった。しかし残暑きびしい炎天下で、油のにおいにまみれて、重いごろごろする品物をつみおろし、動揺と騒音のはげしいオート三輪にのって走りまわったのがこたえたと見え、午後二時すぎにおそい昼食を出先で食べて、店へかえると、少年は突然土気色の顔になって、食べたものをもどしてしまった。 「暑気あたりか」と、営業主任は眉をしかめてつぶやいた。「大体お前は、ふだんから、水気のものを飲みすぎるんだ、だから胃が悪くなっちまう」 「朝からちょっときつかったですからね」と私はぐったりなった少年の顔に、ぬれタオルをおいてやりながら言った。  そいつはいやみか、という風に営業主任はじろりと横眼で私を見て、舌打ちして、伝票をくった。 「今日中の納品があと三軒ある」 「やりますよ」と私は言った。「一人で大丈夫です」 「行ってくれるか?」営業主任は、横をむいたまま伝票をよこした。「二軒は急ぎなんだ。品薄だといって、月末納品を待ってもらってるから……。さっきどちらもひどいいや味の電話をよこした。ついたらすぐ、庶務の方へ顔を出して、あいさつをしといてくれ。もう一軒は……まあ明日でもいいが……」 「K鉄工ですか?──行きますよ」 「おそくなるぞ」主任は鼻の頭にしわをよせた。「あんなとこ、むりするこたねえんだ。先月なんかも、百日の手形をおっつけやがって、何さまだと思ってやがんだ」  私はだまって三通目の納品伝票に手をのばした。主任は勝手にしろ、というように、椅子をまわしてむこうをむいた。──K鉄工は、運河ぞいの、零細工場のびっしりある地帯の一軒で、工場主の住宅と工場がつながっている、典型的な町工場だった。主人はひどいなまりのある言葉をはなす、むっつりしたいかにも職人上りといった感じの人物で、息子も一緒に働いていた。夫人も帳場や住みこみ工員の食事などを見ていた。空気の悪い、うす暗い赤さびだらけの工場で、旋盤やボール盤が切り粉をとばし、加熱炉が煤と熱気を吐き、ドロップ・フォージングの耳を聾《ろう》するような衝撃音がひびいていた。夕方行っても、いつも残業をしていたが、金ぐりが苦しいらしい事は、ちょっといただけでわかった。──その町工場の人たちと、大して親しいわけではなかったが、その日もまた、主人が油と煤にまみれて、仏頂面で残業しているだろう、と思うと、おそくてもとどけたい気になった。  正直言うと、その配達スケジュールはかなり無理だった。二軒目の得意先に終業間際に納品をすませたものの、帰り支度をしていた仕入れ部の担当から判をもらうのに手まどり、倉庫へかえってみると、次の鉄工所へ持って行く分まで係がおろしてしまいこんでいる始末で、もう大戸をおろしてしまった倉庫を、守衛にたのんで開けてもらい、守衛立ちあいのもとに、大汗かいて倉庫からオート三輪の荷台へ、数十個の軟鋼製品をつみこんだ時は、もう夕焼け空に一番星が光りはじめていた。  店へ電話を入れ、その日はオート三輪を自分のアパートのそばまで持ってかえり、翌朝乗って出勤する許可をもらって、ようやく三軒目へむかった。  鉄工所へついた時は、もうとっぷり日が暮れていた。──騒音のはげしい鍛造作業はやめていたが、工場の中にはまだあかあかと電灯がつき、旋盤やフライス盤はまだまわっていた。私の顔を見ると、工場主の仏頂面に、ちょっとした驚きの表情が走り、動力伝達車や調帯がごうごう唸る工場の奥へむかって、何か大声でどなった。奥から油まみれの工員が二、三人とび出して来て、あっという間に、砲金の鋳物と丸棒を車の荷台からおろした。軟鋼棒の一本は、すぐさま二人がかりであいていた六尺旋盤にとりつけられ、たちまちバイトがうす青い煙をたてて削りはじめた。  受取りにサインをもらうのを待っていると、奥の住居の方から工場主の奥さんが、割烹着姿で出て来た。──手にはビール瓶とコップをのせた盆を持っていた。 「いや、いいですよ」と私は言った。「運転しなきゃなりませんから……」 「まあ一ぺえぐらい、いいじゃねえか」と工場主は泡をコップからふきこぼすほどの勢いでつぎながら、ぶっきら棒にいった。「暑かったろうが。一ぺえだけ飲んでいけや」  私はグラスをおしつけられて、一息のみほした。──うんと冷えていて、口腔の奥から食道、胃の腑にかけて、清冽な冷たさが沁みわたり、ひろがって行くのがわかった。自分が今日一日、いかにはげしく汗をかき、のどがかわいていたか、という事が一瞬にして思い出され、頭の芯がにわかにはっきりしたような感じだった。 「もう一ぺえどうだ?」と主人はビール瓶をつきつけた。 「いえ、もうけっこうです」と私はコップをかえしながらいった。「ごちそうさまでした」 「あんた、大学出だってな……」主人は、伝票に自分でサインし、判をおしながら、口の中でいった。 「ええ……」  主人は節くれだった、切り傷だらけの油じみた指に伝票をつまんで、半分さし出しながら、もう一方の手の人さし指で、こめかみをぼりぼりとかき、ぼそりと言った。 「まあ、気をつけてかえれや」 「ありがとうございます」  私は伝票をうけとって頭をさげた。──頭をあげた時、主人はもう猫背をこちらにむけて、がに股で歩みさりつつあり、工場の中のあちこちから、笑いかける眼や、手をふるのが見えたような気がした。私はちょっと手をあげてそれにこたえ、工場の外へ出た。  工場地帯をぬけると、重油くさい運河の臭いのまじった涼風がたっていた。──もう、朝晩はかなり涼しくなりはじめていたが、それ以上に、たったコップ一杯のビールがよびよせた清涼感が、仕事を終えた解放感と一緒になって、私を少し感傷的にさせていた。  住居の安アパートにかえるには、運河沿いにさかのぼるのが一番ちかいのだが、私はわざと河尻にむかい、海岸ぞいに築かれた、長い防潮堤の下を走った。大まわりにはなるが、海を見たかったからだった。運河の河尻は、一方が砂嘴《さし》の上につくられた防波堤になっており、その内側は港湾になっているが、防波堤の外側はゆるく屈曲する砂浜がはじまり、小さな岬をこえると、水も美しくなって、人家のすくない白砂青松の汀《みぎわ》がつづく。この都市のささやかな海水浴場になっている。──三、四十分ほど走って、人気のない松林の一角にオート三輪をとめると、私は防潮堤の階段をのぼって行った。  もう海水浴のシーズンは終っており、あちこちの葭簾《よしず》張りの休憩所や、ペンキ塗りの脱衣場はまっ暗で、浜辺には、ヨットや伝馬船にまじって沖からひき上げられた木製の飛びこみ台が横だおしになっていた。のど自慢や盆おどりがおこなわれた粗末な舞台の柱にはりめぐらされて、びゅうびゅう鳴っている綱のあちこちで、吊りのこしの、半分ちぎれた提灯やモールが、沖からの風に吹きまくられ、くるったように宙に舞っていた。  暗い沖合から、土用波の黒い背が数かぎりなく押しよせ、人気のない砂浜にむかって威丈高に立ち上り、どどん、と腹にひびくような音をたてて砕けた。私は、防潮堤のコンクリート製の法面《のりめん》につったち、波の黒い背のある部分が、沖合からうす白く光りはじめるのをぼんやりながめていた。──もうじき月がのぼるらしかった。  南方の沖合に台風が来ている、というニュースを昼にきいたし、波も荒いので、泳ぐ気ははじめからなかった。──それ以上に、暗い海面と、白砂に砕ける、ほの白く光るような波を見たとたんに、その日一日の疲労が、どかっと空から肩へおちかかってくるのが感じられ、自分が泳ぐどころか、腕一本あげるのもむずかしいほど、疲れ切っているのがわかった。  それでも私は、足をひきずるようにして砂浜におりて行った。白くさらされた貝殻や、小さな|ひとで《ヽヽヽ》の死骸や、セピア色に変色した木片、藁《わら》ごみ、いろんなものがまざった砂が、重く足をとらえた。波が砕けるのと、風の一団がたまたまかさなると、ごっ、というような音とともに、こまかいしぶきが横顔をうち、唇に塩辛い味がのこった。──ズボンのポケットに手をつっこんでゆっくり歩きながら、今年の夏はとうとう一度も、海で泳がなかったな、と、考えていた。別に何の感動もなかった。海が無性にたのしかったのは、幼年期から小学校の前半ぐらいまでで、中学の時は、五キロ、十キロの遠泳をやらなければならない辛い鍛練の場になり、戦後、十代の後半から大学へかけて、夏の海は、かき氷やアイスキャンデーを売るアルバイトの職場にすぎなかった。大学の後半から、海がかわり出した事がわかった。ビキニ型水着をつけた、泳がない娘たちや、学校スポーツでないヨットをたのしむ青年たちが出現し、海は、日本人が知っていた「素朴で質素なたのしみ」から、かつて見た事のない、贅沢な享楽の対象に変貌しかけていた。が、いずれにしても、私には関係のない事だった。  海水浴場の施設が集中しているあたりをすこしはなれると、まばらな松林がはじまる。そのあたりまでくると、砂の上を歩いて来た脚が鉛のように重くなり、とうとう一本の松の木の根方に腰をおとしてしまった。  水平線に、やや黄ばんだ白光があらわれ、次第につよさを増していた。──木の幹に背をもたせかけ、私は沖を見ていた。手にさわった松葉をくわえ、潮風が松の枝をざわざわとゆすりながら、ごうごうと空をわたって行くのを聞いていると、何となくそれが、自分の青春の通りすぎて行く音のような気がした。  青春は、汗と垢と、すき腹と疲労の中にすぎて行き、前途には、何の見通しもなかった。──といって、その事を考えてどうこうするには、あまりにも体が疲れすぎていた。松葉が歯の間で、青くさい、やや苦味のまじった鋭い酸味をにじませるのを味わいながら、私はただぼんやりと、水平線の月の出を待っていた。  月光の最初の一条が、銀箭《ぎんせん》のように水平線から浜辺へひかって走り、波頭が銀砂子をちらすようにきらめいた時、私は眼の隅に、一団の黒い影がうごめいているのに気がついた。押し殺したような、下卑た笑い声や、低い怒声にまじって、かすかな、かぼそい悲鳴のようなものもきこえて来た。──気がついてみると、松籟《しようらい》と潮騒の底に、悲鳴はさっきもきこえ、もつれあう姿は、さっきから視野の隅に見えていた。が、水平線に気をとられ、注意をひかなかったのだった。  月が、巨大なかがやく円弧を水平線にあらわし、浜砂がいっせいに白さをました時、もうその一団の姿は、かくれようもなくそこにうかびあがっていた。四、五本むこうの松の木の根方で、学生か与太者かわからないアロハシャツや白いカッターの三、四人が、白砂の上で力なくうごめく、やわらかく弱々しいものをおさえつけており、そのうちのいが栗頭の一人は、その上におりかさなってズボンをおろし、黒っぽい臀《しり》を月光にさらし、はげしく動かしていた。  やってるな、と思いながら、私はしばらく松葉をしゃぶりながら、その一団をながめていた。──ひょろりとした、かためた髪の毛の前をひさしのようにつき出した男が、犠牲者の頭の所に立ち、あと一人が両手を、もう一人が脚をおさえているらしく、かかっている男とあわせて連中が四人だ、という事ははっきりした。追っぱらおうにも、勝ち目はない事はわかっていた。警官のふりをして、大声でどなれば泡を食って逃げるかと思ったが、疲れすぎていて、声も出そうにないし、そういう事は何となくやりたくなかった。しかし、いが栗頭がおわったらしく立ち上り、脚をおさえていたのが、夜眼に白くいたいたしくひろげられたむき出しの腿の間にはいろうとした時、女がまたかすかに悲鳴をあげてもがき、脚をばたつかせわずかに体をおこそうとし、その髪を、頭の所に立った男が足先でふみつけたのを見て、私は腰を上げた。体は重く、立ち上ったとたんに深い溜息が出た。  私が砂をふんで近づいて行く気配は、輪姦をしている連中にもすぐわかったらしく、髪の毛をとがらした奴が、何か仲間に言った。かかりかけていた男は、あわてて女の体からとびのき、逃げ腰になった。あとの二人も、ぎょっとした表情でこちらを見た。  何も言わない方がよかったかも知れない。──その方が、相手の警戒心をたかめ、何かの拍子で連中は臆病風に逃げ出したかも知れなかった。が、私はまだ若かった。喧嘩を売られた事は何十回とあったが、喧嘩は全然うまくも強くもならなかった。で、私は声をかけてしまった。 「やめとけよ……」  その声をきいても、相手は、すぐに警戒心と逃げ腰をとこうとしなかった。──連中のすぐちかくまで来ながら、私はもう一度言った。 「やめろ、かわいそうな事は……」  その言葉で、連中の間に、急にこちらに対する侮りがうまれるのがわかった。  なにを!……とどすのきいた低い声でいが栗頭が言った。──お前、なんだ?  なぐられるのがわかっていたし、四対一で、しかもこちらは昼間の重労働でくたくたで、勝ち目がない事ははじめからわかっていた。それでも松の根もとから立ち上る時、左手に砂をつかんでおく事ぐらいはやっていた。──すごんで来て、胸ぐらをつかまれた時、私は左手の砂を相手の眼つぶしに投げ、膝を股倉に蹴上げた。そんな事ぐらいで、肩幅のある相手がまいるとは、むろん思っていなかった。相手の一撃が腹に来た時、私は左肱を、横から来たやつの顔面にくらわし、よろけるふりをして、正面のやつに組みつきながら、右手を相手のアロハの胸ポケットにつっこんだ。顔面をなぐられてのけぞった時、私はそのポケットを中身ごとひきちぎっていた。  たちまち、かたい拳や、肱や、膝や、下駄や、靴先が、私の体のあちこちにがつん、がつんとあたり、やわらかい所に食いこんだ。私もできるだけ殴りかえしはしたが、それより組みつくふりをして、連中のズボンやシャツのポケットに手をつっこんで、できるだけいろんなものを砂の上におとす事につとめた。鼻血がぬるぬる顔をながれ、シャツをひきさかれ、砂の上にうつぶせにはわされながら、私はできるだけやつらの打撃から身をまもろうとした。それでも連中の靴先が、脇腹を何度も蹴上げる度に、うっ、うっ、と肺から息がしぼり出されるのをどうしようもなかった。何度目かの蹴上げた靴先がこめかみに来て、つぶった眼の裏に青い火がはじけると、体が暗い所にすうっとおちこんで行った。  眼蓋の裏に、白っぽい薄光が靄のようにうかんで来た。──腫れぼったい瞼を無理してこじあけると、うす墨色の中に、いやにぎらぎらまぶしい白光が、いくつもぐるぐる渦まいていた。その白光が、あちこちぐらつきながら、かさなりあい、やっと焦点をむすぶと、それは天空の彼方にとびすさって、ぬれぬれとかがやく満月になった。その傍を、最後の幻覚の光点がオレンジ色の尾をひいて、夜空の奥に消えて行った。──顔の半分の皮膚にくいこむ砂の痛さに、思わず眉をしかめると、自分が砂に片頬をうずめて、体を海老のようにおり曲げ、沖の方をむいて横たわっているのがわかった。気を失ってから、それほど時間がたっていないと見え、月は水平線からたった今ぬけ出たばかりで、波の背をすべる銀光は、海中から上った月からたえまなくしたたりおちる水の雫《しずく》のように見えた。砂に半分顔を埋めたまま、私はぼんやり月を見つめていた。  と──その月にかかるむら雲のように、黒い影が視野の上半分をおおい、月の光をかくし、私の顔をのぞきこんだ……。     三  秘書の女性から、吉村という名をつげられた時、咄嗟に誰の事か思いうかばなかった。──電話をとって、一言二言しゃべるうちに、やっと思い出した。 「ああ、あなた……」私は二年前まで、浩太郎の家庭教師をやっていた青年の顔を思いうかべながら言った。「ひさしぶりですな、就職なさった?」 「ええ……」と相手はのどにひっかかったような声でいった。「突然お電話して……」  その時、相手がつきつめたような話し方をしているのに気がついて、私は妙な気がした。 「実は……ぜひお会いして、話したい事があるんですが……」と吉村青年はつかえつかえ言った。「緊急に……」 「いったい何ですか?」私はいぶかってききかえした。 「それは……会ってからお話しします」青年は咳ばらいした。「とにかく、お目にかかれませんでしょうか? できるだけ早く……」  私は時計を見た。──青年の口ぶりに、ひどく切迫したものがあった。就職の紹介をしてくれ、といったものでもなさそうだ。 「じゃ、とにかくお会いしましょうか」と私は言った。「今日でもかまわんですか?」 「ええ……」 「じゃ──六時に……Pホテルの最上階の�ウインザー�ってバーを知ってますか?」 「知ってます……」  じゃ、そこでと言って私は電話を切った。──切ってからしばらくの間、変におちつかない気分で、電話機を見つめた。二年前、卒業準備のために家庭教師をやめた青年が、なぜ今ごろ突然に電話をかけて来たのか、皆目見当がつかなかった。用件について、もっとくわしく聞くべきだったと悔まれたが、その時は先方のおそろしくつきつめた調子についのせられてしまった恰好になった。私はもう一度時計を見上げ、眼を通しかけていた書類の上を、いらいら指でたたいた。吉村青年の容貌を思いうかべてみようとしたが、家庭教師時代の彼とは、ほとんど顔をあわす事もなく、つっこんだ話をした事もなかったので、あまりはっきりうかんでこなかった。ただ、昨今の若い青年らしく、髪を長くのばし、ジーンズと白いシャツを着て、中学生の伜の机の横にすわっている横顔がうかんで来ただけだった。当時はどこにでもいるような、もっさりした感じの大学生だった。ただ、育ちがよく、頭も悪くなさそうな印象だけがのこっていた。小学校六年から中学校の二年ぐらいまでついてくれた間に、浩太郎の成績も、たしかに眼に見えて向上し、出来不出来がすくなくなった事は、成績表でわかったし、浩太郎自身の口からもきいた。彼の卒論提出がちかづいてやめる時、一度あいさつされたが、ちょうど私は旅行に出る所だったので、通り一ぺんにお互いに頭をさげあっただけだった。  その青年が、今どきなぜ突然、あんなにつきつめた調子の電話をかけて来たのか?  考えた所で、あれだけの会話からは見当がつきそうにないので、私はふと思いついて、古い電話メモ帳をひっくりかえし、彼を私に紹介してくれた知人の勤務先へ電話を入れた。その人はおそらく、吉村青年の就職の時の保証人もやったはずなので、最近の彼について、何か知っているかも知れない、と思ったのである。──だが先方は、海外へ出かけていて、当分帰ってこないという事だった。  六時五分前に、�ウインザー�へ行ってみると、吉村青年はもう来ていて、イギリスのクラブ風のバーの片隅に、背をまっすぐにしてきちんとすわっていた。長髪は昔のままだったが、清潔に手入れされ、地味な背広に、細い縞のシャツ、幅広だがおちついた柄ネクタイという姿は、青年が一応ちゃんとした仕事についているらしい事を物語っていた。──顔は、わが家に通っていた学生時代とちがって、脂焼けがおさまって白皙という感じになり、眉目も唇《くち》もとも、すっかりひきしまって、卒業後わずかの間に、不安定な「未成年」から、みごとに一人前の「男性」に変貌した事がありありと読みとれて、そのあざやかな成長ぶりが、まだきかされていない用件に対するひっかかりとは別に、微笑をそそった。 「ずいぶんりっぱになったね……」と、陳腐なせりふをつぶやきながら、私は青年と正面からむかいあった椅子に腰をおろした。「今、仕事はなんです? おつとめですか」  青年は口の中で、ご無沙汰しました、といって頭をさげ、名刺を出した。──大手の広告代理店の名が刷ってあったが、所属部課を見ると、その中でも硬派に属するセクションだった。 「ま、とにかくひさしぶりですな……」と私は名刺をしまいながらいった。「浩太郎も元気です。今年高校にはいって、下宿させました。時には会いに来てやってください。家内もかわりありません。──それはそうと、何にします?」  テーブルの傍にやって来たウエイターに、私はシェリーを、吉村青年は低い声でマティニ・オンザロックを注文した。その注文一つにも、学生から社会人に変貌した彼の内面がうかがわれた。  ウエイターが行ってしまうと、やや気まずい沈黙がおちて来た。──気まずさは、青年の、おそろしくかたくなった姿勢と、思いつめたような雰囲気によってかもし出されるのだった。私はパイプをとり出し、ゆっくり煙草をつめ、入念に火をつけた。一服、二服煙を吐き出してから、私は椅子の背に深くもたれて脚を組んだ。吉村青年は、前かがみになって眼を伏せ、テーブルの上においた右手の拳を、ゆっくりにぎりしめたりゆるめたりしたりしていた。にぎりしめる時、指の関節の所が白っぽくなり、それがこの青年の、内面の葛藤のはげしさを物語っていた。  だまってむかいあったまま、酒が来てしまった。私はシェリーのグラスをとりあげ、じゃ、と言って、乾杯するようにかるく眼の高さにあげた。青年の手は、マティニをいれたオールドファッショングラスにのびかけたが、指がこわばって自由がきかないみたいで、またひきさがり、にぎりしめられてしまった。  一口のんでグラスをおくと、私はまたパイプをくわえた。──体が彼に対して斜めになるように脚を組みかえながら、私は相手の緊張をときほぐすように、できるだけ気楽な感じで声をかけた。 「ところで……用件というのは何です?」  青年は、はっとしたように顔をあげた。──異様にぎらぎらした感じの視線が、私の視線とまともにぶつかった。が、また、自分の中の懊悩《おうのう》にまきこまれるように、その眼が伏せられそうになったので、私は手にもったパイプで青年のグラスをさした。 「ま、一ぱいやった方がいい……」と私は言った。「ひどく言いにくそうだが……いったい、何の話です」 「実は……」青年はグラスにおとした眼を、もう一度決心するようにひき上げて、かすれた声で言った。「ひどく唐突で……申し上げにくい事ですが……奥さんの事です」 「ほう……家内の……」私はシェリーグラスをもう一度口にはこびながらうなずいた。 「時子がどうかしましたか?」 「愛しています……」青年は、もうかすれていない、はっきりした口調で言った。「|結婚したいんです《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》……」  青年の声は、耳もとで機関銃の短い発射音がしたような感じにひびいた。──あまり非現実的で、唐突だったため、何のショックも起らなかった。一分、乃至二分たって、話がもう少し展開してから、ショックがやってくるかも知れないな、と、まるで他人事《ひとごと》のように思いながら、私は芳醇な、よく冷えたアモンティリヤードを口にふくみ、ゆっくり舌にころばせながらのどにおくりこんだ。 「ほう……」と私はグラスをコースターの上にもどしながらつぶやいた。「そんな話だったのか……」 「唐突で、むちゃくちゃだという事はわかっていますが……まじめなんです。──どうかはぐらかさないでください……」  青年は、もう眼を伏せず、はっきり顔をあげ、やや顔をつき出すように、しっかりした声でいった。テーブルの上で、開いたりにぎりしめたりしていた手は、もう膝の上におかれていた。私はまだ、くつろいだ恰好のまま、パイプをもてあそんでいた。 「失礼だが、吉村くん……」私はあつくなったパイプの火皿を、拇指の腹でこすりながらいった。「君はいくつになった?」 「二十五です」と青年は言った。「でも、年齢は問題じゃないと思います」  それはわかっていた。──ただ、私は、どう言う態勢でこの青年とむかいあったらいいかという事を考えるための時間かせぎをしたかったのだ。しかし、そのころになって、最初の一撃が、徐々に脚もとの方からきいて来て、態勢をたてなおすどころか、まだ自分がリングにあげられたという実感さえ湧いてこない始末だった。──二十五と言えば、おれが時子と知りあった年齢だな、と、そんな関係のない事が、頭にうかぶだけで、私はまだぐずぐずとパイプに逃げていた。 「時子がどう思うかだが……」私は三たびシェリーグラスに手をのばしながらつぶやいた。「君は……その事を時子に話したのかね?」 「話しました」青年は大きくうなずいた。「|何度も《ヽヽヽ》……」  シェリーグラスにふれかけた私の手が、自分の意志にさからうようにとまってしまった。……青年は、妻に「愛の告白」をした。……しかも|何度も《ヽヽヽ》……。時子はその事を私に……。 「それで時子は……」私は組んでいた脚をほどいて、しっかりとすわりなおした。「……家内は何と答えた?」  青年は苦しそうにうつむいた。 「何にも……」長髪がかすかに横にふられた。「奥さんは……答えてくださらないんです。しかし……」 「ちょっと待ちたまえ」私は手をのばして青年を制した。「家内と君は……もう肉体関係があるのかね?」 「ええ……」  吉村青年は悪びれない調子でうなずいた。──こう言う類いの事を、ひどくあっさり肯定してしまう所が、私たちにとって今の若い世代がふと異星の人間のように思われる理由の一つだった。 「何度もかね?」 「ええ……」 「いつごろから?」 「一年……半ほど前からです……」 「外で?」 「ええ……」 「家内がさそったのか?」 「ちがいます!」青年は大きな声でいった。「ぼくが……強引に……おあいしたのはいわば偶然でした。最初はまるで強姦同然のやり方で……」 「時子は、そのあとでは、拒まなかったんだね?」 「ええ……いや……何と言うか……」 「君はいったい、いつごろから家内が好きになったんだ?」 「ずっと……正確に言って、どうにも我慢できなくなったのは、家庭教師をやめる前後からです……」  私はシェリーをのみほし、指をあげてウエイターをよんだ。──もう一杯同じものをたのんでから、青年に、君も飲みたまえ、と、ごくお座なりに言った。  バーの中は静かで、客はもう一組、会社の重役らしい初老の紳士が二人、遠くはなれたテーブルで、ウイスキーをなめながら談笑しているばかりだった。ホテル最上階の窓の外には無数の明りのまたたき出した黄昏《たそがれ》の街が眼下にひろがり、その上に珍しく澄んだ紺青《こんじよう》の空には、夕映えに、黄金色に、また茜《あかね》色にかがやく絹雲が、西から東へ、刷《は》いたようにうかんでいる。──空は、もう秋だ、と、私はまた関係のない事を思った。 「ひどい話だ……」私は窓の外を見ながらつぶやいた。「ここへはいってくる時、私は息子の年上の友だちが,どんなにりっぱになっているか、期待しながらはいって来た。──それが……今は、うまれてはじめて、阿呆なコキュの立場にはまりこんだ……」 「申し訳ありません……」青年は頭をさげた。 「あやまってもらったってしかたがない……」私は二杯目のシェリーを口にふくんだ。「君は……若いし……君のやった事は、また別の事だ。それより家内が……一年半も私をだまし、裏切っていて、それを馬鹿な亭主がまるきり知らなかったという事が……」 「奥さんは、あなたを裏切ってはいません」  青年はせきこむように言った。 「変な事を言うね……」私は唇を歪めて言った。「一年半も、夫の眼をぬすんで、息子の家庭教師の青年と密会をつづけ、肉体交渉をかさねながら、それがどうして、裏切りでないんだ?」 「いいですか……。この際セックスは大した問題ではないんです。セックスのかわりに、ぼくが奥さんと街であって、コーヒーを飲んだとしましょう。あるいは一緒にボウリングをやったとします。それだけなら、あなたは奥さんが、あなたを裏切ったと思われますか?」  青年の屁理屈をやりこめるのは簡単だった。──しかし、私は妙に気勢をそがれていた。セックスと言うものは──あの隠微で、どろどろした、迷路のような情念の罠のいっぱいある行為と、お茶を飲んだりゲームをしたりする事とはまったく別のものだ、という証明は、その気になれば三十分でもどなりちらし、まくしたてる事ができたろうが、一方では、その弁証が、いかにも通俗的で、社会の習慣にもとづく形式的なものであるような気がして、しらじらしく思えた。若僧に女房を寝とられた。|だから《ヽヽヽ》亭主としては、|怒らなければならない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……。女房のセックスを、この男がさわり、粘膜をあわせて交接した。だから、|嫉妬に狂わなければならない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……。そうしなければ、世間一般の「常識」からはずれており、「男ではない」と思われ、指弾され、陰口をきかれる……。|だから《ヽヽヽ》……怒らなければならない……。  そんな通俗的な態度では、この相手に立ちむかえない事ははっきりしていた。相手は、も早や青くさいちんぴらではなかった。場数こそ踏んでおらず、やり方はまだ幼稚だったが、しっかりと腰のすわった、一人前の「男」として私の前に立ちふさがっていた。──こちらも、通俗的な形式をすてて、ま正面から立ちむかうよりなかった。怒りはすぐ傍にあり、一歩踏み出せば、理屈が通俗的であろうとなかろうと、その小汚い泥沼に、自分もひきずりこめるのはわかっていたが、私は冷淡な心で、その泥沼を無視した。 「わかった……」と私は気どりをかなぐりすてて、指を組みあわせ、相手の眼をまっすぐ見た。「もう少しくわしく説明してくれないか?──家内は君と寝たのに、私を裏切っていない、と言う点を……」 「ええ、それは……」青年は、はじめて氷のとけたマティニをがぶりと飲んだ。「つまり……」 「待ちたまえ、その前に聞いておきたい。──家内と君は、これまで何回ぐらい寝た」  青年は、ちょっと酒にむせた。 「ずいぶん……露骨で、下品な質問ですね」 「大事なポイントだ。君は男同士として率直に話したがっている。そうだろう?」私は相かわらず相手の眼をまっすぐ見つめたままたたみかけた。 「言いにくければ、うなずくだけでいい。十回以上かね?──そうか、けっこう……。説明してくれたまえ」 「あの人は……時子さんは……」吉村青年はむせた口をぬぐって言った。「あなたを愛しています。──たとえ何回ぼくに身をまかせても……」 「どうしてそんな事がわかる?」 「わかります……」青年は苦しそうに首をふった。「時子さんは……ぼくが強引にホテルへ連れこんでも……ぼくをうけ入れてくれても……心はうけ入れてくれない……。愛しているか、ときいても、泣いてばかりいるんです……」 「あれは、ひどく無口なんだ……」 「知っています。──でも、時子さんは……」 「まだ、私の前では、�奥さん�と呼んでほしいね……離婚したわけじゃないんだから……」私は消えたパイプにもう一度火をつけた。「君に身をまかせながら、私を愛している、と言ったのかね?」 「いいえ、そんな事は言いません。でも……あの人の心の中には、あの人の心を占領している何か大きな存在があって……」  私はパイプをふかすのをやめた。──突然|何か《ヽヽ》が心の底にのぞきかけるのが感じられた。 「その……彼女の心の中を占領しているものが、私だと言うのか?」 「ほかに考えられません……」 「それで君は、何を望んでいるんだ?──矛盾していないか? 家内が、君に身をまかせながら、私を愛しているとしたら……君はどうしようもないだろう? それでも君は、家内と結婚したいのかね?」 「ぼくは……どうしようもないんです……」はりつめていた緊張が切れたように、急に青年は、激した声で言って顔をおおった。「あの人の……すべてが欲しいんです。むちゃくちゃなのはわかっています。でも……どうしようもない……」 「私とわかれて、結婚してくれ、と家内に言ったのかね?」 「ええ……」すすり泣くような声が顔をおおった両手の間から洩れた。「何度も……」 「その度に拒絶されたわけ?」 「いいえ……あの人は、何も言わずに、ただ泣くばかりなんです……」  私との二十一年の生活の間で、時子が私の眼の前で涙を見せた事は一度もなかった。悲しそうにしている事はあったが、彼女は貧乏や辛い事には、きわめて耐久力があった。  ──ひょっとすると、私の眼のとどかない所で泣いた事があったかも知れないが、私には、愚痴一つこぼした事がなかった。 「不思議な話だ……」私は思い出したようにパイプをふかした。「積極的に拒絶されないから……愛されていない、あるいは別のものを愛しているとわかっている女性と、強引に結婚しようと思ったのかね?」 「結婚さえすれば……」と吉村青年は自分に言いきかせるように言った。「何とかあの人の心を……いや、そうじゃない。彼女の心は他のものにむかっていても、ぼく自身としては、あの人と結婚さえできればよかったんです。一方的ですけど……惚れちまったのは、ぼくの方なんですから……」 「私の事はどう思ったんだ?」声が少しばかりあららぐのを、どうしようもなかった。「なぜ私に、そんな事をきかせたんだ? なぜ、家内をおどかすかなんかして、強引に、二人でどこかへ逃げてしまわないんだ?」  青年は、びっくりしたような眼つきで、まじまじと私を見た。 「そんな事……思っても見ませんでした……」と青年はつぶやいた。「でも、そんな事をしたら……本当にあの人の心をふみにじってしまう事になりませんか?」 「今でも苦しめてると思わんかね?──私に言ってしまって、今から私もふくめて、一層苦しめる事になると……」 「でも、あなたは……男だから……」  出そうになったどなり声が、どうしようもない苦笑いに変った。──結局、そう言う所に、青年の、中年に対する「甘え」があった。対決の腰はすえてかかっているものの、まだ年相応に育ちのよい幼さが、考え方の筋々にのこっていた。それも無理はない。はじめて私の家に家庭教師に来たころは、私の事を「おじさん」と呼んだくらいだったのだから……。 「もし私が、いかん、と言ったらどうするつもりだ?」私はじいじい音をたてはじめたパイプを灰皿の上においてきいた。「絶対に離婚なんかしない、と言ったら?──離婚せずに、君をなぐりたおし、民事訴訟に持ちこんだら……」 「その時は……その時の事です……」青年はさして動揺もせず答えた。「でも……どうしてそうなさらないんです? そうしますか?」  私はこたえず、マッチの軸で、パイプの灰を掻き出した。──少し、彼の考え方が見えて来るような気がした。 「もう一つだけきいておきたいんだが……」パイプを空吸いして、次の煙草をつめながら私はきいた。「君にとって、家内がはじめての女性かね?」 「いいえ……」青年はあっさりと首をふった。「それまでに、だいぶ知っていました。──同年輩も、年上も年下も……高校時代に恋愛もしました。初体験は十六の時です」  このごろは、男の方でも「初体験」などと言うのか、と思いながら、私は席をたった。入口の所でウエイターに、彼のための酒の追加注文をし、外の廊下の、赤電話の所へ行った。  結局、吉村青年は、精神的にも心理的にもどうしようもない袋小路にはまりこみ、結着をつけるために、私にその事を告げたのだ。──私が妻の背信を憤って、たたき出すような事があれば、彼にとっては好都合だったろうが、育ちがよすぎるためそこまで作為的に計算したとは思えない。私に無茶な要求をつきつけてつっかかり、私になぐりたおされるなり、妻との密会を二度とできないようにされるなりすれば、それはそれで一つの「結着」にはなる。──その事を考えつづけながら、私はポケットをさぐりつづけた。あいにくと十円硬貨は一枚しか見つからなかった。──要するに、彼は、私の「怒り」を望んだのだろう、とダイヤルをまわしながら、私は考えた。彼に対するものだけでなしに、妻に対する怒り、嫉妬、裏切られコキュにされた中年男の荒れ狂う行為が、どっちにしろ、彼のはまりこんだ、二進《につち》も三進《さつち》も行かない苦悩に、何か「出口」をつくる事になるのではないか、という、自分でもおそらく気づいていない期待が、この唐突な行動をとらせたのだろう。──ところが、私の中には、嫉妬も怒りもまき起こらなかった。ステロタイプの嫉妬の「演技」をしてみせろ、というなら、一ときやってやれない事はなかったが、すぐやる気をなくした。私のうけたショックは、もっと別なものだった。私は、時子が「困っているだろう」と思って、それが気がかりだった。青春と言うものは観念的なものだが、吉村青年も、結婚や夫婦と言うものを、ひどく観念的に「愛」の問題だと考えている。──それも、「嫉妬」や「憎悪」に裏うちされた、西洋流のやつである。所が、そもそも結婚や夫婦生活と言うものは、そう言った「愛」の問題ではない。それだったら、この社会の中で、何千何万組もの夫婦が、こんなに長く、辛抱づよく、家庭生活を維持できるわけはない。安定よりも、はるかに多くの破綻が、おそらく社会を崩壊させてしまうだろう。  ──すくなくとも、私たち夫婦の結びつきは、そう言ったバタ臭い「愛」によるものではなかった。  受話器の底に、呼び出し音が四回なると、時子の声が、 「今井でございます……」  と言った。 「私だ……」別にとりつくろわなくても、平静な声がごく自然に出た。「今、吉村君とあっている──話はきいた……」  電話口のむこうで、時子が息をのむ気配があった。 「一年半前からだそうだね? 本当かね?」 「はい……」  と、低い声がこたえた。 「とにかく、話し合おう。──まだ、今の所は別に、怒っちゃいない。……むしろ、お前を|助けたい《ヽヽヽヽ》といっているんだ。今から吉村君をつれて、そちらへかえるから、できたら飯の支度を……」  話の途中で、ブザーの鳴る音がして、電話は切れた。──私はもう一度ポケットの底をさがし、舌打ちしてバーへもどった。  新しいマティニ・ロックのグラスを前に、うなだれている青年にむかって、私は椅子に腰をおろしながらきいた。 「十円玉を持っていないかね?」 「電話ですか?」青年はぼんやり顔をあげ、すぐはっとしたようにききかえした。「奥さんに……電話するんですか?」 「今したんだが、途中で切れた」と私はパイプをとり上げながら言った。「それを飲んでしまいたまえ。今から私の家へ行こう。飯でも一緒に食いながら……」 「電話で……言ったんですか?」青年の手がかすかにふるえた。「奥さんに?……」 「一年半前からだ、と言う事は認めたよ。──今の所、怒っちゃいない、と言っておいた……」私はあたらしくつめたパイプに火をつけながら言った。「興奮する事はない。君は──私たち夫婦の事が、よくわかっちゃいないんだ。そもそも夫婦というものが、よくわかっていないんだ……」  吉村青年は、怒ったようににらみつけていたマティニのグラスを、やにわにわしづかみすると、ぐいと一気にあおった。 「こんなことを……電話で……」と、彼はまたつぶやいた。「残酷だ……奥さん、泣きましたか?」 「いいや──」私は伝票にサインしながら首をふった。「私が知った事は、そりゃショックだったろうが……」  私は私で、さっきからずっと別の事を考えていた。──この所、時子の無口が、ずっとひどくなって来ていた原因は、|この事《ヽヽヽ》だったのだろうか? ますますはげしく結婚をせまる青年の事について、ひそかに苦しみつづけたせいだろうか?  |ちがう《ヽヽヽ》!──と、どこかで強い声がした。あやうく口に出して言いかけたほど強い声が……。 「言っておくが──君は、家内の事も、私たち夫婦の事も、ひどく誤解していると思うよ……」席をたちながら私はいった。「家内は、君の考えているような意味で、私を愛しているんじゃないんだ。あれの心の中を占めているのは、おそらく君の考えているような意味での私じゃない。私も、はいっているだろうが、それだけじゃない……。君には、あれの事がよくわかっていないんだ。家内の事を、よく知らないんだ」 「あなただって、あの人の事を|すべて《ヽヽヽ》知っているわけじゃない……」ならんでエレベーターを待ちながら、急に青年は、攻撃的な口調でいった。「第一──、ぼくとの事を、一年半も知らなかった……」  私の中で、ぐっと何かがつかえた。──私は、ぶっきら棒に十円玉を要求した。青年はだまってポケットから二、三枚の硬貨を出し、私はエレベーターが上ってくるのを無視して、もう一度電話をかけた。だが、呼び出し音が鳴っているのに、時子は出なかった。  あきらめてエレベーターの方にもどってくると、青年は、壁に頭をくっつけるようにして、ポケットに手をつっこんでいた。 「そう言う意味じゃないんだ……」ほかに誰も乗らないエレベーターのドアがしまって降りはじめると、私はさっきの問答のつづきをしゃべり出した。「たしかに私だって、あれの|すべて《ヽヽヽ》を知っているわけじゃない。ただ、私の言いたいのは……」     四  なぐりたおされて、半分砂にうずまった顔の上へ、おおいかぶさるように、黒い影がちかづき、その半面が、水から上ったばかりの月の光にほの白く照らされるのを見た時、やっとのどの奥にひっかかっていた声が出るようになった。 「ぼくなら大丈夫だ……」私は両手を砂につっぱって力をこめた。「なぐられるのは馴れてるんだ……」  脇腹、腰、背中、そして体の節々が痛み、私はひくく唸った。──片袖がちぎれ、胸もとがずたずたになった白いブラウスを上半身にまとった女性は、心配そうに手をのばして、私の腕をささえた。 「大丈夫……」と、私は立ち上りながらむりに笑った。片眼がほとんどふさがり、鼻血に砂がこびりつき、歯の折れた口のまわりも血だらけだったから、月光に照らされて、きっとものすごい笑い顔だったろう。 「それより、君は歩けるか?」私は砂の中から、ぬげた靴や、さっきなぐられながら、連中の体からぬきとって埋めておいた、いろんなものをさがし出しながら言った。「ひどいやつらだ。──だが、このままじゃすまさない……一緒に来たまえ、医者へ連れてってあげる──」  娘も鼻血を流したらしく、白い顔の鼻の下あたりがくろずんでいた。ブラウスもずたずただったが、黒っぽいスカートは、ひきさかれて、ほとんど用をなさなくなっていた。──これも裾がずたずたにひきさかれたシュミーズの、下腹部のところが黒くぬれ、心細げに立った足もとの砂に、またぽたぽたと血がたれ、黒ずんだ小さなしみをつくった。 「さあ……」私はひろったものをポケットにつっこむと、娘の二の腕をとってささえた。「歩けるかい?──出血はどんな具合だ?」  娘は悲しそうで、うちひしがれた風情だったが、泣いた形跡はなかった。──砂浜にとんだ靴をさがしてやり、体をささえてやりながら、そろそろと防潮堤にむかって歩き出した。出血がひどいようなら、振動のはげしいオート三輪の助手席は考えもので、荷台に坐らせてやろうと思ったが、娘はかぶりをふって、助手席に身をちぢめるようにしてすわった。幸いにも、そこから、高校と大学の先輩にあたる開業医の所まで、それほど遠い距離ではなかった。──小さな家がごみごみならんだ一角にある医院で、私は裏口からはいって、いきなり奥で一息入れているその医師にあった。 「急患?」色の黒い、大男の医師は腫れ上った私の顔を見ると鼻の頭にしわを寄せた。「また喧嘩か? ヨーチンでもぬっておけ」  私がささやくと、医師はむすっとした顔で立ち上った。  医師が治療をしている間、私は待合室で、看護婦に傷の手当てをしてもらった。間もなく、治療室から顔を出した医師は、むずかしい顔で私をよんだ。 「性器の傷は、幸い大した事はない。出血していたのは、鼠蹊部《そけいぶ》のそばの裂傷だ。──通院十日だな。性病をうつされているかも知れんから、抗生物質は一応うったがそのあとも、一、二度検査によこせ。ところで、お前、あの娘の身もとは知っているのか?」  唇に大きな絆創膏をはられた私は、口をきくのが億劫《おつくう》で、ただかぶりをふった。 「こりゃ厄介だぞ……。やられた時のショックか、頭を強く打ったかで、あの娘は相当ひどい記憶喪失《アムネジア》になっている……。どこに住んでいるのか、親もとは誰か、一切おぼえておらんし、自分の名前だけで、苗字さえわからん……」 「苗字が?」私はおどろいてきいた。 「名前の方だけでも、かすかにおぼえていただけましだ。逆行性健忘のひどいのになると、自分の姓名も年齢も、みんな忘れてしまう。まあ、軽ければ、徐々に恢復するかも知れんが、外因性かどうかは、一応脳外科にでもしっかりしらべてもらわねばならんな。今見た所、たん瘤ぐらいで、これと言った外傷はないが──身もとがわからんとなると、これはしかたがない。あとは警察まかせだな」 「待ってください!」私は唇の痛いのも忘れて、電話機にのばした医師の手をおさえた。 「なんだ?──どっち道、これは警察ものだぞ。一対一の強姦とちがって、輪姦致傷となれば、親告罪じゃない。刑法一八〇条二項によって……」 「それにしたって、今夜から警察に保護させるのはかわいそうです」 「ふうん……」医師は腕を組んだ。「どうするんだ? おれン所はごらんの通りで、たった二つの病室は満員だ。お前ン所にでも泊めてやる気か?」  ドアのあく気配に、私たちはふりかえった。──住みこみの看護婦からでも借りたらしい、少し身にあわない色のさめたワンピースを着た娘が、ひっそりと立っていた。 「彼の所へ行くかね?」と医師はきいた。「男の一人住いだが、部屋は八畳だ。こいつだって、若い時からけっこう助平で、昔は淋病もなおしてやったが、人間はたしかだ。暴行された娘を助けておいて、それをどうこうと言うような奴じゃない事は私が保証する。かえる所がわからないなら、一晩ゆっくりこいつン所で寝た方がいい。あんたがこわいなら、こいつは今夜、ここの物置にでも寝かせる……」 「来るかい?」と私はきいた。  娘はこっくりうなずいた。──私を見て、かすかに、うれしそうな微笑さえうかべた。  翌朝目ざめた時、娘はもう起きて、朝食の支度をすっかりととのえていた。何一つ教えてやらなかったのに、まるでずっと住みついてでもいたように、部屋の中はじめ、流しまで、すべてがきちんと片づけられ、使うべきものは使い、そしてむろん、私がやるよりははるかに小ぎれいに、味もよく、いっそ豪勢に見えるほど手ぎわよく朝食の品かずがならんでいた。 「無理する事はないんだよ」と私は言った。「体をやすめなきあ……。君には心の中に大きなショックがのこっているんだ。ゆっくり寝て、ゆっくり休んで──今日もあの医者の所へ行くのを忘れちゃだめだぜ。払いは心配しなくていい。ぼくの保険証をつかえるようにしてあるから」  腫れはひいたが、眼のまわりに見事な黒あざの残った顔で店へ行って、みんなにさんざん冷やかされながら働き、その日は土曜日なので、残業をせずにかえってみると、娘はいそいそとドアをあけた。金もわたさずに出かけて行ったのに、まったくありあわせの材料で、またもや実に心のこもった夕食がととのえられているのだった。夕食をすませてから気がついてみると、前夜ずたずたに裂けた油じみたシャツが、洗われ、乾かされ、みごとにつくろわれて、きちんとたたまれてあった。  その晩私は、あの四人の連中となぐりあった時ぬいた品物から、連中の身もとをわり出すものをさがし出すのに没頭した。──パス入れが一つあったので、そいつの身もとは簡単にわれた。改ざんした私鉄の定期券がはいっており、近郊の私学の大学生らしかった。ほかにももう一人、手がかりになりそうなものをのこして行ったやつがあり、この二人をしめ上げれば、あとの二人も簡単にわかるように思われた。  一たん砂にかくしてひろい集めたそれらの品物の中に、イヤリングらしいものがあった。濁ったピンク色の、大きな楕円形の模造石のようなもののついたやつで、彼女がおとしたのかと思ってきいて見たが、まじまじと見つめて首をふった。彼女の片方の耳に、小さな、紅いガラスがついた、安っぽいイヤリングがついているのに、その時はじめて気がついたが、もとより対になるものではなかった。  一週間の間に、私は四人の不良学生を、見つけ出し、一人ずつしかえしをして行った。──比較的裕福な家庭のすねかじりどものくせに、鼻もちならないどら息子ばかりだった。最初の二人は、全然名前をなのらず、夜道をつけて行って後から不意をおそい、存分にいためつけた。最後の二人──あのいが栗頭と、ひさし髪の男は、友人の手をかりて、殴って気を失わせてから、猿ぐつわをはめ、ぐるぐる巻きにしてライトバンにほうりこんで、あの海岸につれて行き、あの晩やった事を思い出させてから、性器を砂でいため、しばったまま、満潮線すれすれの砂浜に首だけ出して埋め、友人と二人で頭から小便をかけてかえって来た。あの晩、こちらの顔をはっきり見られているおそれはないし、今度も顔は全然見られず、手がかりはのこしていない。再度しかえししようとしたら、むこうが警察沙汰になる事を、はっきり思い知らせておいた。  時子は私がやっている事をさとったらしく、口数のすくない、しかし、言葉よりはるかに雄弁な表情としぐさで、必死になってやめるよう哀願した。 「これは、ぼくのしかえしなんだ……」と私は説明した。「むろん、君の分もふくめてはあるけどね……。できたら、君にずっと、ここに居てほしいからね」  失業保険がはいるので、私は勤めをかえる気でいた。──収入はともかく、もう少し、将来につながりのありそうな職を探してみるつもりだった。先輩医師の紹介で、大学の脳外科や精神科に彼女をつれて行ったが、あの夜以前の、失われた記憶は、もどって来そうになかった。  秋の深まる頃、私はまたあの先輩の医師をたずねて聞いた。 「入籍と言うのは、相手の戸籍がわからない時は、できるんでしょうか?」 「何だと?」医師は眼をむいた。「貴様……もう、できちゃったのか? 何カ月だ?」 「冗談じゃありません。信じないかも知れませんが、まだ手をつけていませんよ。──結婚してからにしたいんです」 「|まだ《ヽヽ》やっとらん?──ふん、信用できんが……身もとはまだわからんのか?」 「ええ──戸籍がわからないから、どうこうって言うんなら、別にかまいません。先輩、証人になってください。ただ、将来、子供ができた時を考えると、正式に入籍しておきたいんです」 「あの娘《こ》は、OKしたのか?」 「まだです。これから申しこむ所です。ことわられたら、しかたがありません」 「あの娘《こ》はどうしとる? 元気か?」 「ええ、もう働いてます。──勤めじゃなくて、アパートで内職を……」 「いい娘《こ》だ、という事は認めてやる」医師は腕を組んだ。「別嬪《べつぴん》で、おとなしくて、口数がすくなくて、気だてがよくて、働きもので今どきの娘じゃないみたいだ。その上、──こりゃあ、お前はまだ知らんと言う事にしといてやるが、ありゃあ�名器�だぞ。男は夢中になるな。しかし、姓もわからん、身もともわからん、年齢もわからんとなると……」 「いいんです……。要するに本人同士の合意がありゃいいんでしょう。もともと、大昔の人間にゃ、戸籍なんかなかった。こっちだって、三代前はどこの馬の骨だかわかったもんじゃない」 「だが、もしあれが、こわい親分さんか何かの娘とか、思い者だと言う事があとでわかったら……」 「その時はその時です。ぼくが腕一本へしおられりゃすむ事だ」 「そう言うやつだ……」医師は首をふった。「お前、警察はどうした? とどけたか?」 「ああ……あれは解決しました」 「金でもとったか?」 「いいえ」  医師はしばらく私の顔をにらみつけていたが、あきらめたように、鼻の頭にしわをよせた。 「戸籍の事は、知りあいの弁護士にきいといてやる。──結婚までに、もう一度あの娘をこさせろ。お前のもしらべてやる」 「ぼくはいいです」 「いい事があるか! 今からすぐしらべる。こっちへこい」  どういう細工をしたのか知らないが、時子は、その医師の養女という事になり、秋の終りに私たちは正式に結婚した。金がないので、式らしい式も、むろん披露も新婚旅行もやらず、医師の立ち会いで、月夜の海のがけの上で式のまね事をした。 「なんでおれがこんな事をせにゃならんのだ!」月の皓々と照る崖の上へ来て、医師はわめいた。「なぜこんな所で式をあげるんだ?──結婚式じゃなくて、心中しに来たみたいだ」 「ロマンチックでいいでしょう。彼女がヒントをくれたんです」 「おれにどうしろと言うんだ」 「立会人ですから──何か適当に言ってください」 「ええと──あんたたちは、結婚しますか?」 「します」と私はすましてこたえた。  時子も微笑してうなずいた。 「ばかばかしい!──おれは赤提灯へのみに行く」と医師はわめいた。「いっしょにくるか?」 「いいえ、すぐお床入りです。──先輩、アパートまでおくってくれるでしょう?」  医師は、車をやけっぱちに走らせて、それこそあやうく心中沙汰になる所だった。  その夜、一間きりのアパートの部屋にさしこむ月明りの中で、私ははじめて時子の裸身を見、それを抱いた。  私は新しい勤め先を見つけた。今度は、仕事も面白く、何よりも結婚したおかげで、辛抱がつづきそうだった。──時子は、私のアパートへ来て、一週間たらずのうちに内職をはじめ、ずっとつづけていた。造花やリボンフラワーをつくったり、小さなアクセサリーや袋物をつくる仕事で、綺麗な仕事なので、あまり世帯じみた感じがせず、かえってみすぼらしい部屋の中が華やいで感じられるぐらいだった。  時子は、よほどその方の才能があると見え、注文が次第に手のこんだ、高級品になって行った。彼女の手にかかると、ごくつまらない細工ものから、部屋の中の様子まですべてがいきいきと、愛らしく、しかも一種の「気品」をもったものに変貌するのだった。よく知らないが、一とき時子の「内職」の収入は、私の給料を上まわっていた事があったろう。私が独立して事務所をかまえるのに、彼女の貯えが大きな支えになったほどである。──しかし、彼女は、注文主や得意先からいくらすすめられても、そう言った仕事を「専業」にしたり、店を持ったりしようとしなかった。それはあくまで「内職」であり、どんなに仕事が忙しくても、家中をおろそかにする事はなかった。小さな部屋の中は、いつもきちんとかたづけられ、可憐な草花の鉢植えや活け花がかざられ、朝晩の食事も、衣服の手入れも、まるで奇蹟のようにきちんとおこなわれていた。──線の切れた電球をあてて、私の靴下の踵をつくろっている彼女の姿に、私はある種のおどろきを感じながら見入ったものだった。「よほど古風な、しつけのいい御家庭でお育ちになったにちがいない」と、彼女の手芸の納品先の婦人が言ったとかいう話を、わきから聞いた。  しかし、時子の身もとについては、その後いろいろと手をつくしたにもかかわらず、皆目わからなかった。彼女自身も、時には、私と一緒になって一所懸命思い出そうと努力したが、あの四人の不良学生におそいかかられた瞬間以前の事は、何一つ思い出せないようだった。──彼女の戸籍問題を処理してくれた、あの医師の友人の弁護士が、仕事をはなれていろいろ手をつくしてくれ、おそった連中の一人にまであたってくれたが、何の手がかりもなかった。あの晩、四人の連中は、浜辺で海を背にして立っている時子を見つけ、まわりに人のいないのを見さだめてから、ものも言わずにおそいかかった。──ただそれだけだった。彼女があの浜辺へ、どうやって来たか、どの方角から来たか、そんな事もまるでわからなかった。  彼女は、まるで「無」の世界からやって来たようなものだった。──しかし、私にとって、彼女の過去はどうでもよかった。この、やや古風な瓜実顔の、眉も眼も鼻も唇《くち》もともすべてやさしい感じのする、そして性格もその容貌にふさわしく、かぎりなくやさしく、おとなしい、無口で、気だてがよくて、働きもので、小動物、植物のみならず、水屋や小さな勝手道具にまで、まわりのものすべてに「いつくしみ」をもって育て、接する女性が私の妻である、という事だけで満足していた。結婚して三年目、新居にうつったのを機会に、私は彼女の過去をさぐることを放棄した。時子の方も、思い出そうとする努力をしなくなったようだった。──そして、二十一年の歳月が流れた……。     五 「すこしわかって来た……」家へ向かう車の中で、私の話をききながら、青年はうめくように言った。「奥さんは……ぼくの事を、子犬や小鳥や草花をいつくしむように、あつかったんだ……」 「その通りだ……」私はハンドルを切りながらうなずいた。「あれには、それ以外のやり方はできない」 「という事は──あなた自身もそうあつかわれて来た、と言う事になる……」青年は毒をふくんだ口調で言った。「あなた、夫として、それで二十一年間、満足して来たんですか?──小鳥や犬や猫や、草木や、台所道具と同じように、|大事に《ヽヽヽ》されて……」 「それのどこが悪い?」私は信号でブレーキをふみながらこたえた。「それは彼女の�世界�だ。私は、そういう�世界�に生きているあれが好きになり、結婚しようと�決意�した。結婚というのは、男にとって決意であり、�義�だ。嫉妬や憎悪と対になった愛──自分以外のものを愛してはならん、心をささげてはならんと相互に求めあうという�嫉みの神�の愛など、必要条件じゃない。愛するの愛さないのという言葉は、どうも日本の若い人たちの間じゃ、セックスの照れかくしにつかわれてるみたいだ。セックスの場合でも、かならずしも愛は必要条件じゃなくて、いつくしみであり、思いやりであり、やさしさだと思うが、どうかね?──その方が、歴史的に見て、ずっとベイシックなような気がする。西欧流の�愛�がなければ、結婚してはいかんというならば、全世界の大部分の夫婦は、�不倫�という事になる……」 「ぼくがあの人を苦しめている、といいたいんでしょう……」青年は顔をおおった。「あの人を……独占しようとして……」 「君が、早くお母さんをなくしている事を計算に入れて、私も注意すべきだったのかも知れないな……。あれが今どう思っているか、よくわからん。──が、できれば苦しみからぬけ出させてやりたい」 「でも……はじめての時……月の浜辺で、強引にせまった時……」青年はむせび泣くような声で言った。「すんだすぐあと、あの人は……ぼくの岩にひっかけてかぎ裂きをこさえてしまったシャツをすぐその場でつくろってくれた……。あの時、てっきりぼくは……あの人が……」 「|月の浜辺《ヽヽヽヽ》?」私はふとききとがめた。「どこの浜辺だ?」 「海水浴場の……ほら白鷺の浜で……」  その時はもう自宅の門の前だった。──私は車を路傍駐車した。──門灯はついていたが、家の中はまっくらだった。低い鉄柵門は、半開きになっている。 「出かけたのかな?」私はこみ上げてくる不安をおさえながらつぶやいた。「三人で食事を、といっておいたから、買物にでも行ったのかも知れん」  喜んで鳴きたてる犬を無視して、私はドアのノッブに手をかけた。──鍵はかかっていなかった。 「近所らしい……」と私はできるだけさりげなく言った。「すぐかえるだろう。とにかくはいりたまえ」  明りをつけると、もう小鳥の籠にはおおいをかぶせてあり、猫は応接間の椅子の上に、まるくなって寝ていた。  とりあえず、青年を応接間にすわらせて、私は奥へ行った。──茶の間は一見いつものようにちゃんとかたづいているように見えた。だが、長年一緒にくらして来たものの眼から見ると、妙にみだれている感じがした。衣裳箪笥のドアも、おしつけられてはあるがきちんとしまっていなかった。鏡台の脇の、手細工で布をはった小もの入れのひき出しが、三センチほどとび出していた。きっちりしめる前に、何の気なしに私はそれを引いてみた。中の、装身具を入れてある小箱の蓋があきっぱなしになっていた。時子は、装身具をほとんど身につけず、買ってやっても大事にしまっておくばかりだったから、それを知らなかった結婚初期に買ってやった、安物のイヤリングや指輪が、わずかばかり、その中にはいっていた。数がすくないので、なくなっているものはすぐわかった。  あの晩──時子と初めてあった晩、四人連れの持ち物と一緒に砂の中からひろって来た、あの濁ったピンク色の模造石のついたイヤリングと、同じように、あの時、時子が片方だけ耳につけていた、赤い小さな石のついたイヤリングが消えていた。  ──時子はなぜ、そんな古いもの、それもペアでないものを持ち出したのか?──つい二、三日前、時子の留守にさがしものをしていて、その小箱もあけて見て、こんなものをまだ大事に持っている、と苦笑したのをおぼえている。小抽き出しが少しひらいていたのを見ても、時子はおそらく、たった今、出かける時に、その二つを持ち出し──ひょっとしたら|つけて《ヽヽヽ》出かけたにちがいない。それにしても、あんなちぐはぐなイヤリングを……。  いや──と、ふいに奇妙な考えがうかんで来た──ひょっとすると、|あれは《ヽヽヽ》……見た眼はちぐはぐだが、|本当はペアだったのかも知れない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。  電話が鋭く鳴った時、私は反射的にとびついて、 「時子か?」とどなっている。 「もしもし……父さん?」と若い声がいった。「浩太郎です。下宿から……母さん、かえってる?」 「いや……今ちょっと留守だが……」 「母さん、変だよ。──さっき電話がかかって来たけど、泣いてるみたいだった……」 「ほんとか?」私はかみつくようにききかえした。「何て言ってた?」 「おかしいんだ。……声がききたかっただけだって……。元気にするんですよって言うんだ。母さん、ちょっと思い出した事があって、遠い所へ行くけどとか何とか言ってたけど……何言ってんだかよくわからない。そのうち切れちゃって……」 「母さん、どこからかけて来たかわかるか?──家からか? 外からか?」 「やかましかったから、駅じゃないかなア──アナウンスと電車の出て行く音と……あ、それから船の汽笛みたいな音がした。──いったいどうしたの?」 「いいんだ……」私は言った。「気にしないでいい」  電話を切ると、私はまっしぐらに玄関へとび出した。 「どうしたんです?」吉村青年が、びっくりしたように、応接間から出てきた。 「君も来てくれ」私は靴をはきながらどなった。「いそぐんだ。──時子は港へ行った」  都心のターミナルから、港へ出ている郊外電車の支線がある。電車の音と、船の汽笛の一しょにきこえる所は、その終点しかない。  私は家の近所から高速道路にのり、きちがいのようなスピードで、港へむかってぶっとばした。 「奥さんは……家出したんですか?」スピードにおびえたような顔で、青年がきいた。 「おそらく……」私は自分にいいきかせるように歯をくいしばってつぶやいた。「それに、きっと……記憶がもどったんだ……」  |思い出した事があって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……|遠い所へ行く《ヽヽヽヽヽヽ》……浩太郎に伝えたこの二言が、私の耳の底に鳴りひびいていた。 「でも……なぜ突然……あなたに、ぼくの事を知られたショックのせいでしょうか?」 「わからん……」と、私はどなるように答えた。「君は……あれと、|月の浜辺で強姦同様《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に交ったと言ったな?」 「でもあれは──一年半も前です」 「それが、記憶恢復の準備になったのかも知れん。それに、さっき電話で、私が、|助けたい《ヽヽヽヽ》と言った事が……」  理屈はどうでもよかった。──しかし、私には、時子が、|あの時《ヽヽヽ》以前の記憶をとりもどしたのは、決定的なような気がした。あのちぐはぐなイヤリングをもち出した事も、それを暗示しているような気がした。いや、──ひょっとしたら、一見ちぐはぐに見えるあのイヤリングを|同時につける事が《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》記憶と関係しているのではないか? 時子は、ショックであの二つを同時につける事を思い出したのでは……。  妄想はあとからあとから湧いて来た。だが、決定的な事は何もわからなかった。──港のそばの駅につくと、駅前の売店の人が、公衆電話をかけた時子の事をおぼえていてくれ、立ち去った方角も教えてくれた。──海岸《ヽヽ》だった。防潮堤の所で、もう一人、時子を見かけた釣がえりの人にあった。 「和服の女の人なら、さっき会ったよ」とその人はいった。「白兎神社をたずねていたから、そっちへ行ったかも知れんな」  白兎神社と言う名をきいた時、なぜか、私の中に、奇妙な衝撃が走った。──もう知る人も少なくなり、祭りもおこなわれなくなってしまったが、因幡の白兎と同じような伝説が、その浜辺にもあった。今は本家への遠慮からか、白鷺の字をあてるその浜も、昔は白兎《しらさぎ》と書いていたという。 「知らなかった……白兎伝説が、この浜にもあったんですか?」白兎神社の説明を私からきいて、青年はつぶやいた。「するとあなたと奥さんの出あいと言うのは……まるで白兎と八十神と、大国主命みたいですね」 「白兎伝説だけじゃないんだ……」私は防潮堤の上を走りながら、息を切らせて言った。「この浜には……羽衣伝説《ヽヽヽヽ》もあるんだ。ちょうど、あれがおそわれていたあたりに、�羽衣の松�と言うのがある。もっとも、ここの羽衣伝説は、三保の松原式のじゃなくて、天女が漁師の女房になり、漁師につかえて子をうんで、という�鶴女房�型だが……」 「あなた……まさか……」青年はぎょっとしたように足をとめた。 「とまらないで急げ……」私は肩ごしにどなった。「ここの白兎伝説は、いい神さまにすくわれた白兎は、満月の晩に、美女の姿になって月へかえって行った、というんだ……」 「かぐや姫みたいなおちですね……」青年のぜいぜい言う声が、すぐ後でした。  白兎も、天人も、何百年かに一回、月夜の晩に、沖から、あるいは天から、この浜へやってくる……そして、同じような事がくりかえされる……。こんな伝説が、千年以上前から、この浜にある……。|この浜に《ヽヽヽヽ》……|古代から《ヽヽヽヽ》……|何回となく《ヽヽヽヽヽ》……。 「白兎神社って……あの途中の岬の上にあった鳥居がそうですか?」青年は急に切迫した声で言った。「あの岬の先は、断崖になっていて……奥さん、自殺するつもりじゃありませんか? 下はすごい岩場です。ちょいちょい、とびこむものが……」 「いいから急げ!」  私は汗まみれになって、速度をはやめながらわめいた。汗と一緒に、涙が顔を流れているような気がしたが、そんな事はかまっていられなかった。──|三角関係を苦にして人妻自殺《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……|邪恋の清算のために断崖からとびこむ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……そんな、俗っぽい新聞や週刊誌の見出しが、頭の中を去来した。 「あれは……」と背後で、吉村青年が叫んだ。「奥さんの草履じゃありませんか?」  眼下にほの白くのびている砂浜の上に、楕円形のものが、空のうす明りで、辛うじて見えた。私は防潮堤の法面《のりめん》を一気に砂浜へかけおりた。  ひろってみると、果して時子の草履だった。 「もう一つは、こっちにありました!」砂浜の先の方で、青年がどなった。「やっぱりあの岬の上へ……」  眼前に、黒々とした岬がそびえていた。──大した岬ではないが、沖にむかって、浜辺から六、七十メートルほどつき出し、その先端は、十四、五メートルの切りたった崖になっている。そのむこうが、海水浴場にもなっている白鷺海岸だ。  砂に足をとられ、よろよろしながら、私は黒いシルエットとなってそびえ立つ岬へむかって走った。一度はしたたかころび、汗と涙にぬれた半顔が砂まみれになった。 「時子!」  と、のぼり口の傍まで来た時、私はたまりかねて、岬の上にむかって叫んだ。 「呼ばない方がいい……」と青年は言った。「もし、崖っぷちにいるなら、とびこんじゃうかも知れない」  松の木や、むき出しの岩角のシルエットを夜空にうかべて、岬は黒々とのしかかるように眼前にそびえていた。──海へつき出した突端の方に、わずかに鳥居の一部が、黒い松の林の間にのぞいていた。  私は、岩角や木の根につかまりながら斜めに上るせまい道をのぼり出した。──先に立っていた青年は、道の下斜面に何かを見つけたらしく、岩につかまって二、三メートル斜面をおりた。 「奥さんのハンドバッグ……」  と言う声がきこえた。──私ははい上りかけている青年をおいこして先へ進んだ。  と、不意に眼前にそびえる岬の稜線のむこうが、明るく光り出した。──やや赤みをおびた黄色い光はみるみる強くなり、頂上附近の岩や、松の木のむこう側が、光をおびてかがやいた。 「あれは何だ!」私は坂道の途中でたちどまり、上ずった声で叫んだ。「あの光は何だ!」 「月がのぼるんです……」と青年の声がすぐ下からきこえた。  ちがう!──と私は汗がしみていたむ眼を必死に見開きながら、心の中で叫んだ。──月の光なら、あんなに強い光であるはずはない。あんなに赤みをおびているはずは……。  頂きまでの、最後の十数メートルの道を一気にかけのぼろうとして、私は岩角にけつまずき、宙をとんで、どうと岩の根にたたきつけられた。眼の前に青い火花がちり、一瞬視野がまっくらになった。──夢中になって手足を動かし、やっと顔を上げた時、暗い視野の中を、強い赤みをおびたオレンジ色の光をはなつものが、天へむかって鋭い角度でとび立つのが見えた。 「時子!」私は喉一ぱいに絶叫した。「|行っちゃいかん《ヽヽヽヽヽヽヽ》!──行かないでくれ! 時子!」  岩角につかまって身をおこしかけた私の体をとびこえて、青年が崖っぷちにむかって走った。私はぬるぬると顔を流れて眼にはいりこむものをこすった。──血らしかった。 「奥さん!」崖のふちで、青年が、下にむかって悲鳴にちかい声で叫んだ。「あ、あそこに奥さんの死骸が……」  私は血をこすり、やっと立ち上った。立ち上ると、まばらな松のむこうに、赤っぽい、巨大な月が、水平線から半分姿をあらわしているのが見えた。 「いや……あれは奥さんの着物だけらしい……」崖にはらばって、下をのぞいていた青年がいうのがきこえた。「死体は、もう流されたんでしょうか?」 「今の……オレンジ色の光がとぶのを見たか?」私は上ってくる月をながめながらあえぎあえぎいった。 「オレンジ色の光?」青年は崖っぷちから身を起しながら首をふった。「いいえ……月の光が、木の間からさしたんじゃないですか? じゃなければころんだ時、眼から火が出たんでしょう。見ませんでしたよ……、それより早く、人をよんで来て、この下をさがして見なけりゃ……この崖は、とてもおりられませんから……」  そうだ、一刻も早くそうしなければ……と一方で理性がせきたてるのを聞きながら、もう一方で、私は、もう手おくれだ、時子は|行ってしまったのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と言う考えにどうしようもなく押しひしがれるのを感じていた。──なべての古い伝説の中にあらわれるあの、異なる世界からやってきた女たちのように、彼女も突如としてこの世界を訪れ、あらあらしい男たちにおそわれ、ある男に生活《くらし》をあたえ、この世界のルールとちがったルールで、さまざまのものを育て、つくり、ある日突然、まわりのものの心の中に美しい記憶だけのこして、何の理由もなしに、彼方の、おしはかりがたい世界へ消えて行く……。いずれにせよ彼女は、もう|行ってしまった《ヽヽヽヽヽヽヽ》のだ……|彼女自身の世界《ヽヽヽヽヽヽヽ》に、かえって行ったのだ、と言う、理屈の通らない確信に圧倒されながら、私は、次第に水平線をぬけ上って行く、赤みをおびた月の姿を、呆然とながめていた。 〈初出〉   ㈰小夜時雨  小説新潮 昭和四十八年十月号   ㈪鷺娘  別冊小説新潮九三号(昭和四十九年一月)   ㈫蚊帳の外  小説新潮 昭和四十九年九月号   ㈬行きずり  週刊新潮 昭和五十年六月十二日号   ㈭戻橋  別冊小説新潮九八号(昭和五十年四月)   ㈮流れる女  問題小説 昭和四十九年三月号   ㈯無口な女  問題小説 昭和四十九年十一月号   なお㈰㈪は「春の軍隊」(昭和四十九年四月)、㈫㈮㈯は「無口な女」(昭和五十年六月号)、㈭は「男を探せ」(昭和五十一年五月・いずれも新潮社刊)に収録。 〈底 本〉文春文庫 昭和五十四年六月二十五日刊