小川国夫 逸民 目 次  海の囚人  崖の絵  自殺  放蕩息子  幻の家族  欠落の秋  手強い少年  逸民  存在証明  聖女の出発  鷺追い  単車事故   後記 [#改ページ]  海の囚人  浩がその岩へ泳いで行くと、鵜は未練気に水に入った。岩肌は藻の下にささくれていて、触われば血が出そうだった。彼は二の腕を擦ってしまい、  ——痛いな、と言った。  どうやら這い登ると、意外と近い所に、石湧の崖が静まり返っていた。彼が石湧の崖を海を隔てて眺めたのはこれが始めてだった。彼は眼で覚え、浜へ帰ったらすぐデッサンにしておこうと思った。  前々日のことだった。彼が青い薄闇の石湧に到着すると、洞窟の中から出て来たのだろう、若い二人連れが、ズック靴を波に濡らして歩いていた。娘は中背で、象牙色の肌をしていた。胸が大きく、動くたびにブラウスに引きつりができた。浩には、匂いと体温が感じられた。青年は瘠せて背が高く、ひとかどの体恰好をしていたが、顔はまだ少年で、浩がいることを気にしていた。娘がその二の腕を丸い顎で擦りながらすがりついているのは、逃がすまいとしている感じだった。  ——人物を入れたいな、と浩は呟いた。  二人連れを見たのは確かなことだが、それをどう崖と調和させるかが、彼には解らなかった。崖と人物を描くのはそれぞれ違った筆づかいになってしまい、一つの絵の中に関係づけるのは、彼には無理だった。彼は波の洗う岩礁から石湧の崖を見ながら、そのことに気づき、窮屈なことになっている、と思った。  彼は浜へ戻ると、三脚を立て、カンヴァスを乗せた。実景に較べて、絵は弱々しかった。彼は思いきってなまなましい色をつけてみた。そして、苦笑して、その絵の具をナイフで削ってしまい、砂に叩きつけた。海の色はもう濃くなっていた。それは歯切れのいい鉱物の青だったが、彼は太い筆でうねりをつけた。海が動くのに合わせて崖も動かそう、と思った。面白くなってきたような気がして、嬉しかった。  実際に動いているものは、小さな波と、あくことなく海へ潜ったり岩へ登ったりする五羽の鵜だけだった。それも、一つことを果てしなく繰り返すだけで、やがて動かないのと同じに感じられた。日の光も蝉の声も不動に感じられた。  ——絵を動かさなきゃあ、と彼は懸け声をかけた。  しかし絵も停滞に陥った。彼は、自分が機械的に絵の具をつけたり削ったりしているのを意識し始めた。筆を止めると、光がドッと襲いかかってくる気がした。彼を密閉するかのようだ。一人にさせられてしまう、と彼は思った。こんな明るさが楽しいわけではないのに、それは麻薬のようなもので、人間との付合いを遠い厭わしいものにしてしまう。  彼はその状態から抜け出せなかった。絵を措いて洞窟で涼んでいて、もう一度泳ごう、と思い立った時にも、彼は、危ない、と思った。しかし、そんな筈はない、と思い直して、海へ入った。また鵜のいる岩礁を目ざしたが、今度は横へ流されてしまい、岩礁まで届かなかった。彼は口惜しがって、浜へ引き返した。寒かったので、洞窟の蔭の日向との境の辺に仰向けに寝て、海流のことを考えていた。  ——本当に危なかったのか。じっとしていた方がよかったのか、と彼は心に呟いた。  しかし、大方疲れがとれて歩けるようになると、崖の真下を辿って遠くまで行ってみよう、と思って、彼は起きあがってしまった。断《き》れ断《ぎ》れに小さな岩浜が続いていた。一つの浜に取りついても、その向うはどうなっているのか判らず、彼は先へ先へと期待を湧かせた。四つ目か五つ目の浜で、大槻の弟が釣りをしていた。道具箱のわきに投げてある二尾の海津を、浩は見た。大槻の弟は蔭の中にいて、瞼が腫れたような眼を眩しそうに細めて、糸の行手を見凝《みつ》めていた。  浩は彼のことを、それほど知っているわけではなかった。大槻とは絵描き仲間で、或る娘をモデルにして二人で描いたことがあったが、その場に大槻の弟が来たことがあった。モデルはワンピースを着ていたのに、彼は瞼が腫れた感じの眼で窺い見て、息を呑むような顔になった。浩は気になったが大槻は平気で、眼を避けて逃げようとする恰好の弟に、  ——おい、描いてやるから蘭子と並べ、と言った。  弟は小さくなって姿を消し、モデルになるどころではなかった。そのことを、娘と大槻は笑った。  大槻の弟は鉄工所へ勤めていた。  ——今日は日曜日か、と浩は彼に言った。  ——そうだよ、と大槻の弟は言った。  ——一人で釣りに来ているのか。  ——うん。  ——海津か、いいなあ。僕もここで釣りをやろうかなあ。  ——やればいいじゃん。  ——一緒に釣ってもいいかい、ここで。  ——今日か。  ——今日じゃあない。この次さ。この次の日曜か。ここじゃあ夜釣りはできないだろう。  ——夜釣りだってしたことがある。冒険だけどな。  ——新聞でその日の潮を見てくるんだろう。  ——夜釣りならな。昼間なら危なかない。一遍人が死んで禁止になったことがあるけど、僕らずっと来ていた。  ——君は釣り場のことをよく知っているんだろう。  ——兄貴に聞いたのか。  ——いや、そんなふうに思えるもん。  ——知ってるってこともないが、この辺なら、新聞なんか見なくても判るよ。あそこを目印にすりゃあいい。あそこに鳥が止ってる岩があるだろう……。  ——うん。  ——舵岩っていってるがな。右っ方の窪んだとこへ水が入って、岩が二つに切れたら危ないっていうさ。  ——死んだ人っていうのは、潮で帰れなくなったのか。  ——そうじゃあない。垂鉛《おもり》に引き摺られて海へ落ちた。ここは流れが激しいんて、持ってかれちまう。  ——…………。  ——ちゃんと泳げたって危ないよ。崖の真下まで鮫が来ているっていうし。  ——鮫がかかっちまうことがあるかい。  ——僕は引っ懸けたことはないがな。  ——洞窟の辺りじゃあどうかな。鮫が来ているかな。  ——あの辺じゃあ、少し離れるんじゃあないかな。僕は一週間ぐらい前に、港の沖で引っ懸けたよ。そうだな、四百メートル位出たとこだ。  ——あの辺になると鮫は遠巻きにしているんだな。  ——浩さん、絵を描きに来たのか。  ——そうだよ。近いうちに釣りも始めたいな。ついて行ってもいいか。  ——いいよ。  大槻の弟はリールに糸を巻き取り、竿をバラしてまとめ、獲物も道具箱の底へ入れた。二人は靴を濡らしながら、小さな岩浜伝いに戻った。崖を出外れると、浩は、自分の絵が待っていたのを感じた。最前よりも少し画架の周囲が爽かに感じられたが、彼は、  ——どうにかならないのか、と呟いた。  絵を、大槻の弟はあの眼でじっと見ていた。浩は彼の眼を買いかぶっているとは知りながら、その眼に、構図や絵の具のつき具合ではなく、自分の性質を見凝められている気がして、一瞬息を詰める程だった。  ——僕はもう少し描いていかあ。今度釣りに連れてってくれよ、と浩は言った。  ——いいよ、と大槻の弟は言い、浜を登って、松林を越えて行った。  浩が絵をいじり始めると、砂の堤の切れ目に、自転車を押して姿を現し、  ——海津は要らないか、と叫んだ。  ——釣ったんだから、持って帰れよ、と浩が遠慮して言うと、大槻の弟は、しばらく浩を見守っていた。  浩は手をあげた。大槻の弟はそれも見守っていて、黙って立ち去った。何だか淋し気で、動物が姿を隠すようだった。  熱塊だった崖が、少しずつ冷えているのを浩は感じた。空気が緩み、筆も撓やかになったようだった。まともな状態に戻って行く気がした。だがそれも束の間で、岩の割れ目を描き直そうとして解らなくなり、行き詰まってしまった。彼はまた、絵を一時放棄して、洞窟へ入って休憩した。  日は傾いていた。彼は、崖の影が斜めに沖へ沖へ海面を侵して行くのを見ているうちに眠ってしまった。目醒めると、海はもう紫色で、まだ明るい空に白っぽく星が輝いていた。疲れが変質して饐えたようで、体が麻痺していた。体は濁った澱だった。浩は動かないで、神経が濁りをかき分けて甦ってくるのを待っていた。洞の内壁には船虫がいた。浩を死骸だと見て、のさばって来たのらしかった。音もなく、しかし号令で動いている軍勢のようだった。浩は闇にまぎれて行く船虫の大群を見るともなく見ていた。自分の今いる場所が、この世ではないような気がした。しかし、この方が本当だとも思えた。このようにして、とうとう自分の正体に直面させられたという思いだった。どうしたらいいのか。立ち上がると、自分が水中で揺れている昆布のようだった。白っぽい光のある浜に、画架が頼りなげに立っていて、黒々と近づいてくる松林にのしかかられていた。浩は、絵を厭わしいと思い、それから、それでは無責任だと思い直した。こんなふうに思われている絵が気の毒なようにも感じられた。絵の中には、彼にとっては貴重な意欲がいく重にもなって籠っているには違いなかった。しかし、それらもみんな死骸になってしまったのを彼は感じた。  絵と道具をまとめ、自転車の荷台に縛った。無燈で、松の蔭に沿って走りながら、彼は以前の気分を思い出そうとした。ここを走る時にはいつも、彼は海を透《す》かした闇に解き放たれて行った。海風や松が自分の延長として感じられた。しかし今は、空気の中の一箇所に悲しみが巣喰ってしまい、闇と融け合わない頭痛が、自転車のペダルを踏んでのろのろと走っているようだった。われに返って体を意識すると、眉の高さに鉄の輪が嵌っていて、緊めつけてくるようだった。彼はそれを振るい落とそうとゆさぶってみた。鉄の輪も揺れるようだった。しかし、頭をゆさぶるのを止めると、それはやはり元の場所に嵌っていた。  大槻の家を回ってみた。路地から見上げると、裏の二階に電燈が点っていたが、人影は見えなかった。だが、そこからレコードの歌声が流れていた。大分摺りきれた〈パリの屋根の下〉で、大槻が大事にしている盤だった。その歌が聞えるのは、大槻がいる証拠ではあろうが、弟はいるかどうか、と浩は考えた。そして、どちらでも、まあいいか、と思い直した。  浩は自転車を止め、絵を持って、裏から家に入り、二階へ登って行った。大槻が畳に腹這いになって雑誌をめくっていたが、〈パリの屋根の下〉を止め、そのまま片肘を突いて見上げ、  ——どうしたのか、土色だぞ、と言った。  ——弟はいるかい、と浩は言った。  ——いないだろう。今日は見かけないな。  ——なんだ、いないのか。  ——舎弟に用か。しばらく待ってみりゃあいいじゃん。釣りへ行ったんじゃあないかな。  ——うん、釣りへ行ったよ。石湧で会ったもん。  ——君も石湧へ行ったのか。  ——この絵を描きにな。風邪をひいたのかもしれん。向うで眠っちゃったもんで。  ——石湧だなあ、と大槻は絵に眼を走らせて言い、そして、気になるらしく、浩の顔を見守っていたが、  ——大丈夫か。気分悪かないか、と言った。  ——キツい。寒い。  ——寒い……。  大槻はゆっくり笑いだしながら、言った。窓からは、二、三の屋根をへだてて、神社の樟が盛り上がっていて、そこには、まだ煮えているような蝉の声が籠っていたのだ。  ——どうなってるんだ、と大槻は言った。  ——疲れたな。  ——とにかく絵を見よう。  浩は絵を壁に立てかけた。そして、自分の空頼みの眼差《まなざ》しが無為にそっちへ回って行くのを感じた。思った通り、画面は、この部屋に置かれても変貌しなかった。絵は頭痛と呼応しただけで、それ以上のものは感じさせなかった。しかし大槻は、素速く起き上がり、正面にあぐらをかいて眺めていたが、  ——これは良くなるぞ、と言った。  ——良くならないだろう。これだけのもんさ。  ——これだけでも悪かないが。  ——…………。  ——ヴラマンクが好きになったか。ヴラマンクを越えてるぞ。いいな、こういう絵が描ければ。  ——からかうもんじゃない。  浩は嬉しくなかった。たとえどう批評されても、嬉しいこともないし、落胆することもないだろうと思えた。それでも彼は努めて、大槻の弾んだ口調に、口調を合わせようとした。  ——死んでいる、この絵は、と浩は言った。  大槻は面白そうに笑い、眼を耀かして浩を見ると、  ——死の世界……。本当か、と言った。  ——死の世界じゃあない、死んでるってことだ。  浩は、そう言ってから、大槻と港の外れの浜を散歩した時のことを思い出した。その時大槻は、  ——絵にだって死がなきゃあな。ゴッホやセザンヌの絵のようでなきゃあ。死がない絵はたわいない、と言った。  ——セザンヌに死があるか、と浩は言った。  ——あるさ。セザンヌの絵は化石さ。印象派には生も死もなかったが、セザンヌまで来ると、死が籠り始めた。  ——それはフォルムってことじゃあないのか。  ——フォルムじゃあないよ。死だ。解らないのか。化石があったってことじゃあない。生きている人間が化石をこしらえたってことだ。  その時浩には、大槻の言うことが解らなかったし、今も解らない。ただ大槻が一人呑みこみで、満足気に、死、死と繰り返したことを憶えていたので、咄嗟に、自分の絵は死んでいると口を衝いて出たのを感じた。  大槻は立ち上がり、光の具合を見ながら、絵を置きかえて、なおも眺めていた。しばらくすると、浩の方を向いて、  ——とうとう、石湧をやったなあ、執念だなあ、と言った。  ——もう、やだよ、と浩は言った。  言ってしまい、彼は、いく分気分が軽くなったのを感じた。頭痛は引潮に乗りそうだった。言い方に気負いがあったのだろう、大槻は敏感に眼を見張り、そんな君を見るのが好きだ、といった様子で、少し首をかしげ、浩の眼の中を覗きこんでいたが、楽しそうに笑いだした。  ——僕も石湧を描いてみるかな、と大槻は言った。  ——やってみなよ。  ——蘭子はもう止めた。むつかしいわ。  ——…………。  ——いいだろう、止めたって。  ——いいよ。  ——あいつは何をしているのか。  蘭子というのは、大槻と浩のモデルになっていた娘だった。町外れの漁師の娘で、大槻と浩は、バスの最後部の座席で彼女を挟んで坐り、それを承知させた。大槻は平気だった。まるで彼女を姉妹とでも感じているかのようだった。しかし、浩ははにかみ、恥かしい程余分な関心を持った。彼は家では離れを自分の部屋にしていたが、或る夜、眠っていて、土砂降りの音を聞いた気がする。すぐに静かになり、間もなく、戸外を月が隈なく照らしているのに気づいた。槙垣を隔てた畔道に蘭子が来ているのが判ったので、彼が出て行くと、  ——眠れないもんで、来てみたの、と彼女は言った。  それから、彼女がちょっと身を捩るはずみに、ブラウスの胸のホックが外れる音がした。木の実が、素速く、一箇一箇弾けるような音だった。浩はその胸を見たいと思ったが、見ることはできず、ホックの音の繋がりが、目醒めてからも聞えただけだった。その夜からしばらくして、蘭子が、進駐軍の兵士をまじえた仲間たちと、あっちこっちを泊り歩いている、言うに言われない娘だ、という噂を聞いた。  ——何か喰っていけよ、と大槻は言った。  ——家へ帰って寝たいんだ。  ——そろそろ舎弟も帰ってくるだろう。  ——この次にすらあ。  大槻は、石湧の絵の四隅に駒を入れ、その上に別のカンヴァスを合わせ、ズレないように括ってくれた。それを持って路地へ下り、浩の自転車に縛ってくれた。縛り終った時、前の闇の中から、朝比奈が現れて、声を懸けた。朝比奈は、画家志望らしくない風采の男だった。角刈りにカーキ色の作業服がピッタリで、まるで大工のようだった。  ——やってるかね。二人いたのは丁度よかったな。今年は町の展覧会があるというけどね、何か出さないかい、と朝比奈は言った。  ——無理ですね、と浩は言った。  ——いつまででしょうか、と大槻は言った。  ——九月一杯だ。出来るだろう。  ——柚木はこれを出せばいいやな、と大槻が言った。  ——何を描いたんだ。  大槻は一度縛ったカンヴァスをほどき、絵をひろげた。  ——二階へ上がって見ていきますか。  浩には地面が揺れているように思えた。朝比奈と大槻が、水槽のガラスをへだてて見る魚のように、望遠鏡で遠いものを間近に見る時のように、はっきりと、しかしよそよそしく見えた。浩はしゃがんだ。  ——おい、ふらつくのか、と大槻が言った。  ——どうしたんだ、と朝比奈が言った。  ——絵に当てられたのかもしれんな。  ——絵に当てられたのか。  朝比奈は解ったような解らないような声を出した。  ——僕をもう一遍君の二階へ運んでくれ。寝かしてくれ、と浩は言った。  朝比奈が絵を提げ、大槻が浩を抱きかかえるようにして、二階へ上がった。それから、絵を元の場所に立てかけ、朝比奈と大槻は話を始めた。  ——いいじゃないか、と朝比奈は言った。  ——もうこれだけで出来ていますよね、と大槻は言った。  ——本人次第だな。もっと描きたかったら描くさ、これでも結構だがな。  ——もう描かない方がいい。  ——僕が選者なら、この絵を特賞にするだろうな。  ——選者じゃあないんですか。  ——そうじゃあないさ。  浩は畳に寝ていたが、二人が一倍半に大きく見え、しかも、薄い透明な膜に隔てられていて、触れることができない感じは改まらなかった。彼らだけが、正常な気圧の中に生きているようだった。  ——蒲団を貸してくれ、と浩は言った。  大槻は、夏蒲団を掛けてくれたが、浩は、  ——もっと厚いのがあったら、頼む、と言った。  ——暑いぞ。  大槻は冬蒲団を出した。それでも浩には畳が冷たく、蒲団を体に巻かずにはいられなかったので、大槻は、  ——敷けよ、と言い、もう一枚蒲団を出した。  浩は体が汗ばんでくるのを感じて、怺《こら》えていた。人は気を紛らすために行動する、自分の悲惨な運命に直面するのが怖いからだ、というようなことを、彼はまるで慰めのように、心に唱えていた。  ——俺は勤めをやめて、この土地を去るよ、と朝比奈が言った。  ——どこへ行くんです。  ——下関だ。俺の郷里だからな。もっと絵を描かなくちゃあと思って。  ——ここに居ちゃあ絵が描けませんか。  ——勤めているとな。  ——下関へ帰ったら、勤めないんですね。  ——うん、ごまかして喰って行こうと思って。  浩はいく分落着いて、眠った。しかし奈落へ陥され、胸を弾ませて目醒めた。そこは、夕方眠った洞窟らしかった。どこかへ追い立てるような海の囁きが四方から聞えたし、薄闇の中に船虫の大群が彼の息をうかがっているようだった。眼を馴らすと、石湧の絵が岩の壁に立てかけてあるのが見えたので、彼はそれを海へ流してしまおうとした。しかし、波に乗ってまた戻ってきてしまうに違いない。彼が絵を持ち上げると、船虫が数匹大急ぎで手の甲を越えて行った。彼は涙を流しながら、パレットナイフを絵に刺し、引き裂いた。枠は足で踏んで毀した。  ——異常だ、この野郎は気違いになった、と彼は呟き、洞窟から出た。  崖に沿って危険な岩浜伝いに行くと、リールを巻く音がして、竿が光り、大槻の弟が闇の中に浮かんだ。  ——柚木さん、柚木さん、絵を裂いたって、みんながエーッて言ってるぞ、と言った。  ——おい、釣らせろや、と浩は言った。  大槻の弟から竿を受けとり、鉤《はり》にさんまの餌をつけると、思いきり糸を出した。垂鉛が青い闇の中を走っているのが、長い間体に感じられた。 [#改ページ]   崖の絵  夢の中で柚木浩が歩いていると、遠くにこっちへ来る人影が見えた。雪晴れのおかげで、その人の体恰好ははっきり判った。骨太で強そうだった。近づくにつれて、思い出して行ったのは、浩が旧制の中学生だったころの教師だった。四十年も昔のことだったから、その教師が現れたわけではない。似ているというのみだ。しかし浩は、その人が接近してくるにつれ、自分の記憶が細部をきわ立たせてくるように感じた。その人の顔つきが見えてくるのも、過去がだんだん彫りを深くしてくると感じたし、意志のような足取りも、今になって初めて見えたと感じられた。黒縁の眼鏡をかけ、頬に太い縦皺がある。勿論、その人は声も懸けなかったし、手も挙げなかった。ただ視界に二人きりだったから、浩に笑いかけながら近づいてきて、会釈しながらすれ違って行った。  北海道らしかった。浩が時々そこで執筆する、トラピスト修道院の別棟附近のことに思える。浩は海へ行こうとしていた。目的の渚まで来て、なに気なく振り返ると、真白な丘の尾根をまだ歩いている彼が見えた。  ——いい人だな、と浩は呟いた。  その時、突然ふぶき始め、その人は灰色の闇にまぎれ、あとは雪が降るばかりだった。浩は顫え始め、舟の中に入って風を避けた。シートの下にもぐりこんで、乾いた雪の優しい音を聞いた。身を守るのが遅すぎたようだ。体が閉じ、抱えこんでしまった悪寒はもう出て行かなかった。浩は、助け手もなく、悪寒と付合っていなければならなくなった。  目を醒ますと、掛蒲団がズレていて、体が固くなっていた。冷え易い体でなくても、これでは冷えてしまう。掛蒲団をすっぽりかぶっても、なかなか暖まらなかった。しかし遂に暖まってホッとすると、頭も動き出した。  四日前に喋ったことと関りがあるだろう……。四日前に彼は、NHKのある番組のビデオ撮りをされていて、幸福について語っていた。ボードレールの、少年時代に幸福だった人は生涯決定的な不幸に陥ることはない、とする意見を挙げて、少年時代に味った幸福はその人の幸福感の原型となり、彼は幸福を知っていると確信し続けている、だからあとあとまで、それを見失うことはない、たとえ迷うことはあっても、内部にそれをつきとめ、そこに依拠することができる、少年時代の幸福は衣裳を換えて、希望となり目標となる、という意を述べた。  その意味はともかく、言い方に浩はこだわっていた。その件について彼は充分考えたつもりだ。しかし言い方が適切ではなかったと思えてならない。たとえば、〈そんな気がする〉という語尾で言っていたらどうだったろう。そのほうが自己に忠実な声に近かったのに、なぜ信念の響きを帯びさせてしまったのか……。プロデューサーが、柚木さん、言い方を間違えたと思っても、訂正しないでください、言ったことは言ったことです、と忠告したことの影響か……。  ——セガンティーニの絵の中にいたようだった、と彼は呟いた。  雪景色の光の具合がそう思えた。とはいっても、彼はセガンティーニの作品をくわしく知っているわけではない。少くも、克明に覚えていはしない。思いこみでは、悲しい印象だった。胸を切るように鋭利だった。……するとあの夢は本来幸福をあらわしていたのではなかったのか、後半が一気に暗くなる予兆が前半に既に孕まれていたのか、などと彼は考えた。  午後になって、床から抜け出て、食事を終えると、日課になっている散歩の途次で、彼はまた夢のことを考えた。思い当ったのは、少年時代、しばらく悪寒に襲われ続けた記憶だった。  浩はかなり負けん気の少年だった。小学校六年生の時、腺病質だという理由で、中学合格の望みなしとされたことがあった。その時彼は夢中になって一晩思いあぐね、中学へ入れてくれないのなら、入れてくれなくていい、学校へは行かないで、家で絵を習い、画家になろう、と決意した。しかし、この決意は実行に移されなくて、結局中学へ通うこともできはしたが、絵を習おうという気持は尾を引くこととなった。やがて中学を終えて、旧制高等学校入学を待っている長い休暇に、この傾向は甦り、毎日絵ばかり描いてすごしていた。  石湧という断崖が駿河湾西岸の一角にあるが、そこへカンヴァスをかかえて通っていると、真夏の海岸で悪寒を感じた。無色の陽炎が悪意を孕んでいる霊のように思えて、その時から彼は、人知れぬ思いを身に添えている少年になってしまった。すぐに石湧通いを止めれば脱け出ることができたのかもしれない、しかし彼は、その絵を描き続けた。描いている最中も寒かった。そして夕方になると、顫えながら自転車のペダルを踏んでは帰宅した。夜は特に寒かったから、冬蒲団を二枚もかけ、しかも兄に上から圧えてくれと頼む始末だった。  ——俺も寒い、と兄も言い始めた。  悪寒が彼に伝染したのらしかった。夜になると彼も冴えない、煤でうす汚れたような影がまといついた顔つきになった。二人の動作が似てきた。ともすれば、揃って放心に陥った。浩にとっては、同行者を得た感じで好ましいことでさえあり、いつもより、彼が兄として意識されるようになってきた。そして、自分たち二人を感じるたびに浩は、キップリングの≪狼少年≫に出てくる猿を思い浮かべた。大蛇に睨まれた猿が、顫えに顫えるあの場面だ。  兄も、一枚ではあったが、冬蒲団を掛けて寝ていた。しかし、それも一週間ほどで癒えて、浩は依然二枚の冬蒲団を手離せないのに、兄は夏蒲団で済ますようになった。浩は淋しかった。特に気持が陥ちこむ時間には、自分だけが一人で果て知れぬ奈落へ沈んでいると思ったりした。  当時しばらく一緒に住んでいた母方の祖母が、彼に寒冷地獄に落ちた女の話をしてくれた。その女は一年中、寒い寒いと言い暮すのだそうだ。壮年のころには、地固めのヨイトマケなどにも出て、丈夫な人だったのに、五十歳を過ぎてから、信心して、木曾の高い山で小屋に泊ったことがあり、その時から悪寒の抜けない体になってしまった。ただその人は、血圧が低いそうで、体質を変えなければと、努めて肉を食べているとのことだった。  祖母は浩のために鶏のレバーを煮て、食卓に出してくれた。甘からく濃い味にして、食べよくしてくれたから、浩も努めて食べたが、悪寒は治まりはしなかった。  生理的には異常はないのらしかった。冬蒲団を二枚掛けて寝ても、眠ってしばらくすると暑がり始める。眠れば、普通の状態に戻るのだ。彼が暑がって寝返りを打っているのを見て、祖母はそっと冬蒲団をのけて、夏蒲団に掛け替えてくれた。それで事がうまく運ばないこともあった。夜半に目醒めた彼が、また寒がることもあった。しかしうまく行った時には、朝まで熟睡して、さわやかに自分を意識することもあった。熟睡は治癒を示唆してはいたが、それにしても、夕方から夜にかけて、運命のように、悪寒が跳梁し始めた。  浩の全身にひどい汗疹《あせも》ができてしまった。その対策を考えてくれたのも祖母だった。庭に繁っているにわとこの葉を摘んで、鍋釜を動員して煎じてくれ、その液を冷して、体を洗うように言った。効果があるのかどうか、ともかく、浩の当時の無条件の慰めは、薄く色づいて余計透明度を増したその液が、皮膚を流れることだった。  石湧の崖の絵は、描きあげるのに半月ほどかかった。筆を打ちきった時にも、成し遂げた喜びはなく、体には疲れだけが澱んでいた。絵自体、疲れの塊りのように感じられた。それからもこだわりは残り、彼は額縁を探し、結局祖父の肖像画の欅の縁を借りることにした。肖像画を外し、崖の絵をあてがってみると、絵のほうが少し大きかったので、鋸で裁ち落として嵌めこんだ。裏返しておさまり具合を見て、小学校の講堂へ持って行った。その日から更に十五日ほどして、町民絵画彫刻展が開催されるから、展示されることを希望する者は講堂に搬入するようにと聞いていたからだ。締切り間際だった。丁度そこにいた役員に訊ねてみると、飾られる率は半々ぐらいではないかと言っていた。  浩は、ほとんど虚脱したままで、制作と額装と応募の全ての行程を歩んだ。不毛の地を縫っていたようだ。最初にやってみようと決めたことだったから、やったに過ぎない。やりながら、きわ立った苦痛はおぼえなかった。しかし、期待はカケラもなかった。  浩の崖の絵は受け容れられた。その日も彼は砂を噛むような気持で家を出て、小学校の講堂の方向へ歩いた。前夜は寝そびれて、特に調子が悪かった。午前十時ごろだったから、悪寒はまだなかったが、夕方から夜にかけてが思いやられた。魔が襲いかかり、自分が見る間に負けて行く様が手に取るようだった。蝉の大合唱のはるか上に、太陽はメッキされた円盤のようにギラつき始めていた。彼が漂う足取りで歩いていると、漲る光の暗い隙間に手痛い考えが浮かんだ。もし飾られなかったらどうなるだろう、僕の状態はもっと悪くなるだろう、飾られてもうれしくはないが、飾られないことは怖い。僕とはおかしな奴だ。怖いから絵を描いていたのだ、怖いから飾られることを目ざしていたのだ、すべては怖さを防ぐためだ。彼は今更のように、ここにも拘りが待ち構えていたと感じた。彼は暗く胸を弾ませ、心持ち足速になった。それまでは、どこへ行こうとしているのか、と自問したくなるほどで、あてどもなく足を踏み出しているようなものだったのに……。  小学校の講堂には、良い絵が並んでいた。ほとんどは、浩が足もとにも及ばないほど達者だった。ある作は、工夫も技術も自分をはるかに越えていることが解ったし、ある作は、単純な図柄に情感を籠めているのが解って、圧倒される思いだったが、かといって、その衝撃によって、自分から自分が脱け出ることはできなかった。相変らず暗い自分を引きずりながら、彼は会場を回った。そして、自分の絵の前に立つと、テもなくその暗い自分そのものに嵌ってしまった。構図はいたずらに単純だったし、色はくすんでいた。描き終えた直後に感じた疲れの塊りの印象さえ消えていた。疲れさえ絵に籠めることができなかった、疲れはわが身にだけ引き受け、絵は脱け殻になってしまった、と彼は感じた。仔細に検討するのはいやだった。そそくさと眼を逸らし、他の作品の中をつっきって、講堂から逃れ出た。鮮かな他人の作品は、形や色を無力な少年のうなじの辺に浴びせかけてくるように感じられた。  家に帰ると、展覧会のことを語りかけてきたのは、母方の祖母だけだった。他の家族は、浩がそれを問題にするのを避けたがっているのに符節を合わせるように、だれも問題にしなかった。  ——浩の絵は、講堂へ飾ってあるそうじゃないか。あんた一生懸命やるね、と祖母は言った。  ——いつ聞いた。  ——今朝、権《ごん》さに見に行ってもらったのよ。飾ってもらえなかったら、どうしようと思って。  ——壁に並んでいれば、それでいいよ。  ——それでいいさ、それで上々。賞はもらわなかったのかえ。  ——もらわなかった。  ——浩が一番若いんじゃあないのかえ。  ——そうでもないだろう。  ——もっと若い人がいるのかね。いやせんでしょう。どうだった、自分の絵を眺めて、自信がついたんじゃないか。  ——がっかりした。  ——お前はいつも反対のことを言う。  祖母は浩の顔を見守っていた。喜びの色を見て取ろうと努めていた。しかし、祖母の腑に落ちない表情は変らなかった。張り合いなげだった。浩は、自分が絵のことを思ってムキになっていたと、祖母が受け取るのは当然だと感じた。果たしてムキになっていたのだろうか、と考えてみたが否定も肯定もできなかった。ただ、その間の瘠せてぎごちない姿勢や動作だけが、克明に浮かびあがった。  彼は家の裏門へ行って、橋の上から水を見ていた。町の裏通りに沿っているその掘割りには、澄んだ水がせわしなく流れていた。湿った石垣には蛙がひそんでいて、時おり水に入って泳いだ。流れの皺にまぎれて、魚の影が揺れているのも見えた。人工を離れて、心を無にすることはできないだろうか、と彼はぼんやり希っていた。  祖母が後を追うように来て、  ——行水をおつかい、と言った。  定まった仕事もしていない彼女は、不安になるのだろう、浩につきまとう時もあった。彼が盥へ入ると、三箇の鍋と、蒸器《むしき》にたたえた薄緑の水を、頸筋から懸けてくれた。それから、彼は水を注ぎ足し、タオルで体を濯いだ。苦しみを忘れるためには、結局この方法しかなかった。絵が索然とした結果に終った今は、感じ方が倒錯して、この行水の慰めを得るために、あえてあんなことをしたと、彼は自嘲をまじえて考えた。  それでも彼は、翌日の午《ひる》頃、スケッチブックを抱えて、山へ行った。町の家並みを出はずれて、五百メートルも歩けば、もう山間部だった。彼は遠い山並みをスケッチしては、それぞれの山の色の違いを、文字で書き入れた。濃緑の彫刻のような樫も、広い範囲にたけだけしくはびこった笹の斜面も描いた。かつては気持が解放されていたスケッチの時間が、この時はそうではなかった。自己格闘に陥ちこんだ。いつの間にか、タブローに持って行くにはどうすべきか、と懲りもせず考えながら鉛筆を走らせていたりした。炎天に長い間立っているのに、ふと気がつくこともあった。  スケッチしたことに、後悔に似た思いを抱いて、山を下りた。谷間の田圃中の道を、町へ引き返していると、遠くに坪内という中学時代の教師が見えた。彼を認めた時、浩は普通の世界に戻った気がした。この日ごろ忘れていたのどけさが自分の周りに立ちこめかけているのに気づいた。見おぼえのある坪内の歩きぶりのせいでもあった。逞しい肩を少し左右に振り、拍子をとっているようだった。黒縁の眼鏡がくっきりしてきた。頬の剃りあとの青い、太い縦皺が見えてきた。一刻一刻を浩は意識した。坪内は笑みを含みながら近寄って、  ——講堂で見たよ、いい絵を出したな、と言った。  ——うまく行きませんでした、と浩は応えながら、ぎごちない唇を意識した。  ——いつ描いたのか。  ——締切り直前に描きました。  ——あれは春の崖じゃあないか。岩が春の肌だ。  ——夏です。  ——岩に季節はないのか。だが、どことなし、春を感じたが……。お前、色を数《かず》使い分けてあるぞ。形もしっかり取ってあるし、相当な上達ぶりだ。  ——僕はみすぼらしいと思いました。  ——文句をつければ海と松が型に嵌ったが、岩はいい。描きにくいと思うんだが、よくあれだけ暖かく綾を出したな。  ——…………。  ——お前の性質が出ている。  ——…………。  ——岩から絵を感じとっている。  ——眼が岩にしがみついていたんです。  ——はははは、眼がしがみついていたか。力作という感じはしないがな。お前の性質がすーっと出たんじゃあないか。  坪内は、俺の所へ遊びに来いよ、と言って去った。浩は、在学していたころより、かなり大人扱いされたのを感じた。しかし、勿論、自分の空洞の現状は、いささかも見抜かれていない、坪内先生は、過去の柚木浩像に支配されている、それが先生のなつかしさでもあり、磨りガラスの彼方にいるようなもどかしさでもある、と浩は思った。坪内先生が心に描いているような僕の幻に、僕は戻れるだろうか……。  在学中に浩が絵を描いていると、生物の教師坪内はそばに立ってしばらく眺めていて、あれこれ感想を言ったものだ。それから、興をそそられた様子で、浩の画用紙にスケッチを始めることもあった。並んで同じ風景を描いていると、呼吸が揃う気がした。穏かな、互いに自足した呼吸だった。浩は、坪内と別れて、あのような息はもう戻らないだろうと思った。  初秋に、母方の祖母は東京で死んだ。終りに近く、浩が枕元に坐ると、むくんでいて、太った年寄りのように見えた。もとは瘠せぎすで、病弱ではあったが、化粧や着物で引き立つ、昔風の美女だった。面長で、華奢な骨組に変なバランスがあり、歌麿の浮世絵も写生だったことを、証拠立てるようなタイプだった。彼女の息が苦しげになり、顔を左右に回し、静かになってしまった時、浩は、感慨に乏しい自分を意識した。疚しいほど何も考えていなかったのだ。  後になって思うと、祖母の死は自分の生の節目でもあるべきだった。もの心つくから、彼女は常に楽しい人だった。来訪の前ぶれがあると、彼は東海道線の小駅へ迎えに出て、改札で待った。列車が着き、ホームへ下り立つ彼女が見えれば、柵につかまって喜びの足踏みをした。ブリッジの中に消えた彼女が、再び姿を現すのを待ち兼ねた。その時の喰い入るような視線を思うと、死んで行く彼女を見る眼は、嘘のようになおざりだった。通夜でも、納棺の時にも、上の空で見ていた。  浩の伯父は、彼女を診た大学病院の要請を容れて、解剖用に献体しようと言った。そのことに異存のある親族はいなかったが、ただだれも立会人になるのはご免だと言った。立会人が必要だったのだ。余儀なく引き受けたのは一人の娘婿だった。その時、いきさつを見ていた浩は、自分も立会人にしてほしいと申し出た。周囲はどう受けとったろうか、祖母の秘蔵子だったから、いても立ってもいられなかったのだろう、とでも推測したのではないか。  浩は自分のなおざりな視線を、祖母に対する裏切りと感じたのだ。彼はスケッチブックを持って解剖室へ入った。内部もコンクリートがむき出しで、中央の台にはブリキが張ってあった。腹の脹れた祖母はそこに乗せられ、開腹されると液が流れ出て、本来の体恰好になった。主任の医者は臓腑に触れながら、まわりの若い医学生にドイツ語まじりに説明していた。臓器を四つか五つ切り取って、ガラスの容器に入れ、そして、傷を大まかに縫い合わせた。  浩は、かたわらに立って十枚以上スケッチをとった。予想を超えたことは外界にも、内部にも起らなかった。死者は羽毛をむしられた鳥そのものだったし、色の悪い腸《はらわた》は水と一緒に流れ出そうに緩んでいた。彼は宿所に戻って、スケッチに絵の具で色をつけた。胸はいたずらに弾んだが、なおざりな眼が蘇生し、祖母へのはっきりした感情が身内に湧くことはなかった。彼女の死という最後の機会を、彼は逸してしまったと思った。  気にかかり続けたのだろう、夢を見たことがあった。大井川に写生に行き、洲に整列した鴎の群れを描いていた。爽かな眺めだったのに、彼の気分は暗く、また自己格闘の息づかいをしていた。一区切りにして、立ちあがると、膝の関節の力が抜けているように感じられた。腿の筋肉にも生気がなく、やがてスが入ってしまいそうだった。意識して足を踏み出した。薄《すすき》が輝いてなびいている対岸の堤を、彼と平行して歩いている祖母が見えた。風に向って、ショールをしっかりかき合わせていた。とても明るかったせいか、鷹の眼で見ているように仔細に見えた。  ——あっちへ行こう、おばあちゃんにあやまらなくちゃあ、と浩は呟き、声の尾を自分の耳に残しながら目醒めた。  浩には感覚の有機性が損われた夏があった。ブラックホールに似て、後になって、その間のことを見きわめたいと思っても、見きわめられない。しつっこい悪寒が融け始めるには、晩秋を待たなければならなかった。 [#改ページ]   自殺  柚木浩の場合、救いだったのは、自閉の期間を自然の中で過したことだし、手にはいつもスケッチブックがあったことだ。ただし後者は、文字通り救いだったかどうか。スケッチをとる時はともかく、それをキッカケにして油絵をこしらえようとする時には、自己格闘に陥ってしまい、無為に疲れたり、虚脱したりもしたからだ。うまく描けそうな実感がなく、心の浄化とはいつも程遠い結果が前もって判っていて、描いている最中にすでに諦めろと自分に言い聞かせつつ、描き続けるようなこともあった。  そのうちに覚醒がきた。一筆一筆が生きている気がして、しかも、あれこれ工作しなくても、全体がまとまって行った。絵それ自体が彼を導いた。大方描き終えた時には、快い疲れが残っているばかりで、虚脱はなかった。ささやかではあっても、一事を成し遂げたと思った。気持は無闇に明るかった。その時、彼は狂ってしまったようだ。笑いながらカンヴァスを切り裂いて、丁度立っていた小高い丘から、下の池めがけて、投げ捨てた。軽便鉄道の駅が近くにあって、機関車がのどかに煙を吐いていた。その後でわれに返ると、列車の中にいて、夕暮れの風景が窓外を流れていた。  当時、柚木浩は自家の物置に寝起きしていたが、夜になってそこで夢を見た。線路に沿って歩いていると、キクッと音がして、歩けなくなってしまった。靴の中に異変が起ったのらしかった。右足を靴から引き抜いてみると、甲高の足の親指とそのまわりが欠け落ちていた。踵を地面について、彼はその様子を眺めてから、靴を取りあげて、中を探ってみた。手に触れたのは、陶器に似た親指だった。彼は、橙色がかった白い蹄のようなものをしげしげと見て、上衣のポケットへ入れた。歩こうとしても、地面がうけつけてくれない。仕方なく、近くの軽便鉄道のホームへ跳ねて登り、ベンチに腰をおろしていた。やがて、蘭子が通りかかって、  ——あなたのカンヴァスじゃあないかしら、さっき見かけたわよ。木に引っかかっていたわ、と言った。  ——カンヴァスが……。どうしたのかなあ、と浩は言った。  ——探しに来たんじゃあないの。  ——白かったかい。  ——絵が描いてあったわよ。  ——…………。  ——一緒に行こうか、あそこまで。  ——行かなくていいよ。そんなものを拾いに。  ——なぜそこに坐っているの。乾からびやしないかしら、体が。  季節がそうだった。地面は霜で多少湿気を帯びていたが、空気は冷たく乾いていた。高い空には寒風が吹きまくっていたし、下界も、この界隈は相当なものだった。ベンチの囲いの前を、通り過ぎる風が見える気がした。  ——カンヴァスはいいから、この辺から逃げよう、風邪を引くと困るじゃない、と蘭子は言った。  ——待ってくれ。  ——行こうよ。  ——俺はここにいればいい。  ——わたしはここから出たいわ。  ——蘭子、なぜここへ来たのか、わざわざだろ。  ——わたし後悔しているの。  浩は顔を引緊めて、蘭子を見守っていた。そして、言葉を零《こぼ》すように、  ——後悔って、何を、と言った。  ——こんな所に自分が来てしまったって解ったから。  浩はハッとして目ばたきし、更に顔を引緊めて、蘭子を見守った。蘭子の眼の奥で、瞳が細かく揺れていた。  ——行こうよ、と蘭子はまた言った。  ——行けないんだ。  ——行けないって……。  ——足が毀れたからさ。  蘭子にはその意味が解らなかった。冗談と受けとって、面白そうに笑った。  ——俺の居所を嗅ぎつけて、ここへ来たんだろう、と浩は言った。  ——嗅ぎつけてだなんて……。  ——…………。  ——浩さん、あのカンヴァスにまだ用があるの。  ——カンヴァス……、カンヴァスのことなんか知らないよ。俺の物かどうかも判らんし……。  ——それなら、引き返して頂戴、お願い。  浩は板張りのベンチに背を擦りつけるようにした。この人は相手に調子を合わせたことがない、合わせたくても、合わせられない性質らしい、と蘭子は思ったようだ。彼女は腹を立てていたに違いない。浩が強情になる時があり、しかも、なぜ強情になっているのかが推し測れなくて、ひとを不安にさせるからだ、この時も蘭子は、やる方ない気持を溜めたままで浩を離れたのらしい。  夢の意味は、浩には解っている気がしたが、うまく説明はできなかった。自分に対しても説明できなかった。彼はまだ暗いうちに目醒め、寝床にいて明るくなるのを待っていた。朝食を済ますと、駅へ出て、列車に乗った。しばらく台地を走った。山の木々が風に揉まれるのを眺めていると、徐々に気分が霽《は》れて行った。  袋井駅で降り、駅の敷地に沿って少し戻ると、瀬木佐光の家があった。二階家で下は父親の事務所だった。かたわらの空地には石炭の山があって、明る過ぎる光に白っぽく輝いていた。 ——浩さん、と佐光の父親は、こっちを見きわめるように眺めてから、言った。 ——佐光君はいますか。 ——待ってくださいよ、そこへ腰掛けて待ってください、聞いてみますから、と言って、佐光の父親はしばらく机の上の帳簿を爪で叩いていて、ゆっくり立ちあがり、奥へ姿を消した。しばらく、事務所には浩だけだった。  代りに現れたのは佐光の母親だった。  ——悪かったですよ。佐光は体が保《も》ちにくいというもんですから、気分が変るようにって、親戚へ行ったんですよ。  ——学校休んでるもんですから、来てみたんです。  ——もう十日になりますかね、あっちへ行ったのは先おとといですが。  ——どこへ行ったんですか。  ——愛知県ですよ。  ——長いんですか。  ——一週間もすれば、良いだろうというんですが……。  ——どこが悪いんですか。  ——原因がはっきりしないんです。気分が悪いとばかり言っていましてね。心配なことはないと思うんですが……。きっと、心配なことはありませんよ。気分が悪いと言い暮していましたがね……。浩君は絵が描けるからいいな、と言っては。  ——僕は勝手に描いているだけですよ。絵になっていません。佐光君もそうすればいい。  ——駄目、駄目、あの子は、とびきり下手ですもの。  ——向うへ手紙を出します。  ——一先ずこの家へ宛ててください。転送しますから。  瀬木佐光の家を出ると、風が冷たかった。屋内がサンルームのようだったからだ。白っぽく輝く石炭が、不愛想に風を裂いているのも、浩の神経には堪《こた》えた。  佐光の両親は何か隠している、と浩は感じた。その疑念が彼の気分を暗くした。佐光も崩れたか……。佐光以外、浩には友達がなかった。二人が特別な一隅にいて、外界を眺めていた。二人の世界が現実で、外界は仮象とする見方が、一度は信じられた。しかし、そんな考え方は、早くも蝕まれ始めていた。それどころではない、もう既に埃になっていて、この風に吹きとばされてしまいそうだった。  佐光の家から遠ざかりながら、浩は四、五回振り返って見た。ありふれた二階家のかたわらに石炭の山、……佐光の家でなければ見過してしまう眺めだ。しかし、こだわっていたので、それが佐光の状態を物語っているように思えてならなかった。硬い輪郭はとりつく島もない程だった。羽目板はきたない木目がむき出しだった。石炭は陽光を拒ねつけていた。佐光はこの視界に苛立っているのだ、両親が申し合わせて隠しても判る、今、佐光は患者と見なされている。  浩は太田川の堤へ登ってみた。ここも変貌していた。枯葦を透かして見える水はまるで金属板だった。空を巡る鴨の群れも動く彫刻のように硬かった。蛇籠《じやかご》の石も、踏めば膝の関節に響く。浩は川原へ下りて、柔らかな砂地を選んで歩いた。枯草があれば、それに乗るようにした。小石を水面に投げると、転がって行って、向うの洲に登った。石の動きが止るまで克明に見えた。  かつて浩が佐光と一緒にここに来た時、  ——君は絵を描くからいいな。対象とやりとりができるだろ、と佐光は言った。  ——僕は対象のとりこになって苦しむんだ、と浩は言った。  ——それだっていい。会話ができるだろ、対象と。  ——会話なんかじゃあないよ。  ——会話している。  ——結局は自分との格闘だよ、僕がしているのは、と浩が言うと、  ——違うな、と佐光は断定した。  ——しかし、僕は人間とは会話できない。  ——絵の中で会話ができればいいじゃあないか。  ——それも怪しいもんだが。  ——僕には絵もないし、人間ともやりとりできない。  ——僕ともかい。  ——君は別だ。……別だったんだ。しかしこの頃の君は、僕を不安にするようになった。  ——…………。  ——柚木君、不安な人間と不安な人間が間近にいて感応し合ったら、どういうことになるだろう。君だって感じているだろう。  ——…………。  ——僕たちはたとえ離れていても、それでいい状態になれるわけじゃない。同じことじゃあないか。もう運命だ。  ——いや、違う。  ——第一、離れていられるか。同級生じゃあないか。  ——離れていられるさ。  佐光は反射的に肩をゆすって言った。そして、浩を見守っていたが、気がひける様子で、弱々しく笑った。浩が黙っていたので、間が保てなくて、小石を拾って、水面に投げた。佐光はこういうことは器用だった。小石は水面を転がって行って、向うの洲に登った。その時には、灌木が繁っていて、水も深い緑色だったので、めまぐるしい水玉の連なりも柔らかだった。  ——僕は行くよ、と佐光は言った。  ——え、行くって……、と浩は聞いた。  ——今ここからどこかへ行くって意味だ。  ——それなら、僕が立ち去るよ。  ——僕が立ち去るよ。君はここのスケッチをしかけていたんだろ。僕はどこへ行ったっていいんだ。  佐光は灌木の間を行き、蛇籠の堤をよじ登って行った。濃い自分の影につきまとわれて、彼は蜥蜴のように見えた。それからしばらく、薄の叢の中を歩いていた。  佐光の両親は隠していたな、と浩は思った。……紋切り型の隠し方だ、体面も考えてのことだ、俺の絵のことを羨ましそうに言ったのは見当外れだ、そんなものじゃあない……佐光も苦しんでいる、そして、苦しいのは自分一人でたくさんだと思っている、全くだ、それはまた俺の声でもある、互いに、解り合った友達でもあり、互いに悪魔でもあるんだ、しかし、苦しむ者と苦しむ者が会えば、苦しみが軽減することだってある筈じゃあないか、俺たちはなぜそうならないんだろう、迷いこんだのか、混乱からは混乱しか生れない……。  浩は蛇籠に腰をおろして、堤に聳えている楠を描いた。柔らかな不動の幹と、分厚い葉の層を丹念に描いているうちに、少しずつ気分が落着いてきた。一方では新しいものが見える気がしたし、一方では素朴な昔を思い出していく気がした。彼は弾みをつけて蛇籠から立ちあがり、今日は初冬の葉を描こう、と呟いた。  軽便の列車に運ばれて、川尻駅へ下りると、稲の株の間を横切って、丘の木立ちの中へ潜って行った。頭上の葉が切れるところは、もう頂上だった。反対側の斜面を見下ろすと、葉の黄ばんだ大樹が輝いていた。風の余波が断《き》れ目なく打ち寄せ、その葉は揺れていた。動きが微かになると、新しい動きを期待させた。それも丹念にスケッチし、浩は山道を下りて行った。竹藪の大きな影に入ると、昨日捨てたカンヴァスが見えた。枠が歪んでいるのも、くの字に大きな裂け目の入っているのも判った。ナイフを振るった時の手応えが甦っていた。ナイフは過敏で頼りなかった、ナイフは俺の心と似ていた、と浩はその時のことを反芻した。カンヴァスは、竹藪の中の杉によりかかっていた。わずかに木洩れ日のある影の底で、風を遠くに聞いているようだった。  そこへ近づいて行くのには怖れがあって、浩は縛られたように、動かなかった。自殺とは何だろうか、と彼は考えた。自分で自分にナイフを振りかざすような場合もある。重荷を負った自分が、屈託のない自分をいとおしんで、全てを消し去ってしまおうとすることもある。その時には閃光に眼が眩むのだ。打ちひしがれた志願者は、最後のエネルギーがこみあげる瞬間を、ひそかに待ち続けているのだろう。……浩は中学時代の級友のことを思った。彼は生まじめな生徒だった。入学した頃には、体格もよく、行動も機敏で、運動会でも教室でも目立つ一人だったが、二年三年と経つと、運動能力も学業も落ちたわけでもないのに、型に嵌った暗い印象の生徒になった。いつも目立たない場所に、艶のない土の像のように控えていた彼のことが、浩には忘れられなかった。去年だった。彼の通夜の席で、父親が語った。  ——勤めを休んでしまい、二階へ籠りきりになってしまいました。雨戸を閉めきった座敷に坐っているんです。食事や用足しに、束の間階下へ来るだけです。八日間はまったく二階住いでした。その後、突然明るくなって、友達を恋しがったりして、昼間はほとんど外出するようになったんです。二日間はそうでした。癒ったのかと思っていたんですが……。  父親は雲を掴むような気持だったろう、勿論、俺にも何も解りはしなかった。あいつの消息は何も残されていなかった。俺の場合には、あのカンヴァスが消息だ。そう浩は考えて、杉の根方にあるカンヴァスに近寄って行った。何を描いたのか、すっかり忘れてしまっていた。しかし、それを手にとって引っくりかえすと、なじんで知り尽くした絵が眼の前にあった。かなり険しい斜面の木立ちに、池の水平面が喰いこんでいた。まるで建築家になったように、構図をゆるみのないものにしようと考えたことも思い出したし、一筆一筆におぼえがあった。描いた瞬間を忘れている部分は、わずかしかなかった。ことに、画面の左隅に立っている黄ばんだ葉の大樹のことはよく覚えていた。  ——いい絵じゃあないか、相当なもんだ、と呟くと、微かに喜びが湧くのが感じられた。絵の具の擦れてしまった箇所が惜しい気がした。  枠の歪んだカンヴァスを、守るように提げて、彼は山道を下り、駅のホームに登った。そこに乗客が五、六人いるのがわずらわしい気がしたので、ホームから下り、線路づたいに南へ歩き、それから、田圃道を海の方へ行った。足取りが弾んでいるのが分かった。松林を浜へ通り抜けるあたりで、カンヴァスを砂地に置いて、もう一遍眺めてみた。元になった風景から切り離された場所で、絵だけを眺めてみたかったのだ。構図がきわ立つようだった、色調は落着いたようだった。  ——証拠だな、と浩は呟いていた。  その絵は現在の彼の確証のようにも記念のようにも思えた。明るく作用してくる死の予感とか誘惑の感じは遠ざかっていた。だから、浩が、その絵をひとに見せたくないと思ったのは、うしろめたさからではなかった。自分の記憶の中にしっかり守ろうと思ったからだ。この考えは彼の気に入った。絵を松の幹に立てかけて、自分はその前を右へ行ったり左へ行ったり、それに顔を近づけたりした。絵に夕闇の薄皮が一枚一枚かぶって行くのが、記憶の透明な世界に徐々に沈んで行くようだった。おぼろにしか見えなくなると、浩は絵を提げて波打ちぎわへ行った。水平線は見えなかった。険しい水の堤が立ちふさがっていて、吹き飛んだしぶきが頬に染みこんできた。絵を波に向って投げてみたが、うまく行かなくて、足もとでぐずついていて、砂地にひっかかって止ってしまった。座礁か……、彼は濡れた絵を拾いながら思った。たとえ一度は海へ出て行っても、波に乗ってまた浜に打ちあげられるかもしれない、このまま消え去るだろうと予想したが……。  浩は絵を提げて、炎の上がっている場所へ行った。そこには二人の年寄りが、縄へ塗るタールを煮ていて、しつっこいガスが鼻と眼を刺した。今日の仕事はもう終りらしかった。釜の中から、タールに浸った延縄《はえなわ》を引きあげて、干していた。釜の中でいたずらにタールは泡立ち、その下で炎は揺れていた。時々風がかまうと、炎は音をたてて裂けた。浩は、大きなゴムのエプロンをした年寄りに言った。  ——この絵を燃やしてください。  ——要らないのかね。  ——要りません。  ——なんだ破けているのか。こっちへ貸して。  年寄りはゴム手袋で、枠を掴み、火の中へ入れた。一つの角の辺が燃えるのを待って、他の角を手袋で押した。カンヴァスに火が通り、めくれ上がって行くのを見ていると、浩は麻痺して、自分がどこかへ運ばれている気がした。少しも悲しみはなかった。呆気なく事が終って、元へ戻る気がした。カンヴァスを無にしてしまったからといって、自分が何かを卒業したというわけでもない、依然憂鬱が居据っているのを感じそうだった。浩は抵抗して、そのどうにもならない感じを押しのけようとした。  二人の年寄りは向きあって釜を持ちあげ、砂利の上へおろした。タールまみれのエプロンと手袋をそこへ脱ぎすてると、かたわらの枯れた灌木に、二人並んで小便をかけていた。残り火には風がかまっていた。炎は滅茶滅茶に混乱して、苛立った。  浩は、感動もなく、半ば自動的にその様を写し取った。スケッチブックの二ページにわたる横長のデッサンにして、その上を鉛筆でつぶして、濃い夕闇にし、炎だけを白く残した。炎に矢印を描きこんで、文句を書こうと思った。彼はしばらく考えていた。しかし、彼は印象も感想も書かなかった。〈昭和二十三年十二月五日、川尻松原〉と、その代りに、書き入れた。  その夜浩が物置小屋の部屋に入ると、そこが冷えていたせいで、悪寒がして、熱が出てきた。三十九度五分あった。蒲団にもぐりこんだ時には、もう寒くはなかった。夢の中でも、繭のように自分の体温が包み、彼は寒くはなかったが、外界には相当風があるのが判っていた。不動の星空と、揺れ続ける木立ちが見え、肩先だけが少し冷えているのを感じたので、ここはどこかと思い、自分が道路に寝ているのに気づいた。街道らしかった。無舗装で波打っていた。彼はその窪んだ所に体を沈め、盛り上がった所を枕のようにして寝ていた。苦痛でもなかったし、悲しくもなかった。大きな落葉樹が騒いでいるのを見るともなく見ていて、昼間の木だなと思い、それから、あの木があったのはこんなところではなかった、と思い直した。足もとを通り過ぎて行く人があった。輪郭が佐光の両親だった。瘠せて背筋がまっすぐな父親のかたわらに、丸まっちい母親が従っていた。  ——科は文科甲類というのか。甲類というと英語だな、と父親が言った。  ——英語のようですね。乙類というのがドイツ語だそうですから、と母親が言った。  ——原因は考えられんだろう。勉強が荷ずれるってこともないだろう。  ——級《クラス》で一番ですからね。  ——どこへ行ったのかなあ。一人くらい子供はしくじったっていいが、とにかく、生きていてくれれば。  ——あの子は、お母さん、僕は何のために生まれてきたのかしらん、と言ったことがありますよ。  ——それは、いつ。  ——小学校の四年の時……。  ——自殺を考えてるってこともないだろうがな。  浩にはそれだけ聞えた。俺の親はどう思っているのか、こんな所に寝転がっている俺のことを、と彼は思ったが、すぐに忘れて、星空の中に黒々と揺れている落葉樹を見るともなく見ていた。  次に来かかったのは蘭子だった。忍びこむように、いつの間にか浩の背のあたりにしゃがんでいた。  ——駄目よ、こんなところに寝ていちゃあ、と彼女は笑いながら言った。  佐光の両親は切り絵のような硬い影だったのに、蘭子には厚みも体温もあった。  ——干渉しないでくれ、俺は俺なんだから、と浩は、蘭子に一瞬視線をやっただけで、落葉樹の動きを見ながら言った。  ——嗅ぎつけるのよ、私は。あなたが軽便から降りるのを見たの。風が吹くばっかりで人気のないホームへ降りたもんだから、何かって思って。  ——…………。  ——カンヴァスを捜しに行ったの……。  ——あれなら見つけたよ、もう燃やしてしまったけど。  ——あきらめたの。  ——偏執だよ。  ——…………。  ——お前には解らないだろう。  ——解らないわ、ヘンシュウって何かしら、異常ってことかしら。  ——そうだ。  ——恋人を殺したようなことね。  ——恋人……。  ——そうよ。  ——ばかばかしい。  ——惜しいって思わない。わたしあなたのカンヴァスを持っているけど。  そう言うと、蘭子はショルダーバッグの中から、ざっと折り畳んだあの絵を出した。枠からはずしてあった。ナイフの跡は大きな八の字だった。  ——乾いていたか、と浩は聞いた。  ——うん、風が強いからね。  ——…………。  ——復活したのね。  ——…………。  ——火に入れたりして、この絵嫌いなの。  ——その絵には悪魔がいる。  蘭子は面白そうに笑い出して、  ——悪魔なんかいないわ。この絵の中にはあなたがいるだけよ。  ——…………。  ——要らないの。要らないんなら、わたしが貰う。  ——やらないよ。  蘭子は針と靭《つよ》そうな糸を出して、カンヴァスのナイフの跡をからげ始めた。膝もうまく使って、せっせと仕事をした。からげ終ると、かかげて見て、  ——まあ、これでいいや、と言った。  ——そこへ置いて行ってくれないか、と浩は言った。  ——また燃やしてしまう気でしょう。わたし縫ったのよ、無駄にする気……。  ——それをそこへ置いて、どっかへ行ってくれ。  ——なぜこんな所に転がって、だだをこねているの。  ——俺自体が無駄なんだ。  ——そう。わたし解ったから……、わたし行く。  蘭子は修理した絵を放り出すようにして、立ち去った。彼女の気配がまだ感じられるうちに、カンヴァスは地面を這ってきて、浩の胴の下に挟まった。しばらく、浩が身をいざらせても、カンヴァスはまつわっていたが、やがて吹き飛んで、道の向うの雑木林にひっかかるのが見えた。星明りに浸って、見え続けたので、浩は、時々流れる星が林に墜ちて火事が起らないかな、と期待したりした。 [#改ページ]   放蕩息子  浩が国会議事堂の待合所にいると、赤旗を十本ばかり立てた一団が来た。百人くらいいたろうか、漂う集団といった感じだった。待合所の前で解散して、赤旗を待合所の床に投げ出したり、壁に立てかけたりして、てんでに売店へ走って行き、ジュースや牛乳を買っていた。  ——なんだ、一体、と大声がしたので、浩が振り向くと、岡田という議員が、かたわらに立ちはだかっていた。  力が強そうな手で、三つに割れた扇子を闇雲に動かしていた。飛べない蝉が暴れているようだった。岡田の顔にも腕にも汗の玉が吹き出ているのが、暑い夏の日を思わせた。浩の体はそれほど暑いとは感じていなかったのだ。映画の中の夏のようで、酷暑は遠くにあった。彼には、暑さを散らす必要はなかった。それより、視界が揺れること、水に油を流した時のような泡やまだらが見えることを早く終らせたかった。  ——折角話をしているのに、何のつもりか、そんな旗は捲いて、とっとと帰れ、と岡田は言った。  岡田は人混みの中に漫然と立っていた。デモ隊員は、絶え間なく動き、勝手なことをしていたから、岡田はどちらを向いていいか解らなかったのだ。  ——私らが考えてしていることを、ぶちこわしにしてしまうじゃあないか。  ——お前に話しに来たんじゃないよ、反動、と呟きながら、浩の前を通った青年があった。  角園だった。スポーツをしている最中のように歯切れのいい足取りが、浩には羨ましかった。浩が呼びかけると、角園は見返った。  ——なんだ、柚木か、お前もデモに来たのか、と角園は言った。  ——そうじゃあないけど……、と浩は言った。  ——ジュースを飲むか。  ——要らないよ。  角園は汗のにおいをさせて、押し寄せるように浩の横に坐り、ジュースをうまそうに飲みながら聞いた。  ——なんで、こんな所に来たのか。  ——フランスへ行こうと思ってね。  ——フランス……。  ——私費留学の試験を受けたんだけど、落とされそうだから、文部次官に頼もうと思うんだ。  ——文部次官に会いたいんなら、こんな所にいても駄目だろうが。  ——順番待ちさ。次官の秘書がここへ呼びにきてくれるそうだ。  ——確かかなあ、その約束は。  ——言われたから、待つさ。  ——お前フランスへ行くのか。向うへ行ったら労働者を見てきてくれよ。  ——行けるか、行けないか……。  ——行くさ。  ——岡田代議士が、君らのことを無秩序だと言ってるぞ。  ——あの野郎、ぼらが眼鏡かけたような顔しやがって。  ——君はいいなあ、生甲斐があって。  ——大した生甲斐もないよ。俺も、フランスへ行きたいよ。  ——…………。  ——フランスへ行ったら、俺のために、向うの労働運動を調べてみてくれ。  角園は一しきり話し、草野球でも終えたような恰好で、旗をかついで議事堂の門を出て行った。微かに色づいた陽光は、ひまし油が流れこんだ感じで、依然浩の視界は人並みではなかった。そこを角園が爽かに動き回っているのが、及びもつかないことに思える程だった。待合所は静かになった。浩はその分だけ、多く怺えなければならないと思った。独りになればより多く怺えなければならない、しかし独りのほうがましだ、と彼は思った。  守衛に急き立てられて、浩は待合所を出た。かじきの嘴のような影が、議事堂の前庭にはいく本も伸びていた。自分の姿まで険しくなった。瘠せこけた青鬼だ、とまた自分を意識した。しかし、姿かたちだけがそうで、鬼のような芯の強さはなかった。鮫肌の皮膚もなかった。  濠に沿って東京駅まで歩いた。進駐軍の車ばかりが目についた。残りの陽光を無視して、ヘッドライトがたて続けに、わがもの顔に通った。それでも、薄闇の中を歩いていると、彼の気分は少しずつ落着いて行った。惑乱に変って心細さが忍びこんで来た。そのほうがましだった。  東京駅の人混みへ入ると、肝臓のどんよりした痛みを感じ、吐き気がこみあげた。電車で田町近くへさしかかった時、倒れてしまい、近くにいた青年に助け起こされた。田町駅へ降り、ホームでしばらく休んでいた。この間に彼は一旦郷里へ帰ろうと思った。  新橋にもどって東海道線の普通列車に乗った。最初は車輛のすみにひそむ恰好でいたが、やがて大きな息を肩でしながら癒えて行った。田圃が見え始めたころ、あくびをして、ひとまず大丈夫だと思った。小気味よさが胸に湧いた。窓外に回っている物の影や燈火を見ていると、ざまを見ろ、俺に置き去りにされやがって、と言いたくなった。疲れは解き放たれたが、芥になって浩の眠りの中に浮遊していた。……そこは黒い大きな駅の精算所で、彼はドーヴィニーという町まで切符を買おうとしていた。料金は二万円と言われた。彼が財布を覗くと二千五百円しか入っていなかった。彼は口惜しがって、なぜ二万円もするのか、と係の駅員に喰ってかかった。すると駅員は、君はこの駅までの切符も持っていない、だから二万円だ、この駅で柵の外へ出るのにも一万円は必要だ、と応えた。法外な料金だったし、それに、駅員の底意地の悪さが感じられた。  ——君の名前を言いたまえ、と浩は言った。  駅員は名前を言った。  ——字を言いたまえ。  駅員は笑いながら、馬鹿丁寧に書き方を言った。  浩はそれを書いた紙きれを握って、柵の中を歩き回った。階段を登り降りし、あっちのホームを走ったり、こっちのホームを走ったりした。結局、その紙きれを届け出る所はなかったのだ。精算所のガラスの向うでは、さっきの駅員が口の端に笑いを浮かべて、血眼の浩を見守っていた。彼はまたホームへ登った。彼が行くことのできない遠いホームには、ドーヴィニー行きの列車が到着したり、発車したりした。浩がもう一度精算所へ行くと、あの駅員が女の駅員と話し合っていた。  ——行かせてやりなさいよ、可哀そうじゃないの。  ——癖になるからな、あの鼠。  浩はもう一度最寄りのホームへ登って行き、遠いホームへ入ってきたドーヴィニー行きの列車を眺めていた。重々しく動き出し、赤い尾燈がかすめるように去ってしまうと、そのあとにまたたいている街の灯が涙で滲み、橙色に裂けていくつかの星の形に見えた。  ——悪人だ、奴らは悪人だ、と叫びながら彼は目醒めた。  浩には、気が引ける思いもないではなかった。悪人と称《よ》んだのは、彼の渡仏の希望に反対している人や渋い顔をしている人のことだったからだ。ほとんど全ての人が悪人になってしまう。しかし、我儘で激情的な浩でも、彼らの側に良識があることぐらい心得ていた。稼ぎも貯金もなく、まとまった学もなく、したがって将来の見通しもないのに、フランス行きをゴリ押しに実現しようとしている自覚ぐらいは、彼にもあった。  東海道線の普通列車は、半分ほど空席だった。暗い電燈の下で、乗客たちは兎のように物静かだった。浩は細く窓を開けて、風で夢の毒気を祓おうとした。  藤枝駅へ到着すると、ホームの人影を擦り抜けて駅舎を出た。いつものように惰性で家の方へ歩きながら、少し回り道して、役場の前へ行った。そこには井戸を抱いた深い池があって、鯉が飼ってあったからだ。外燈の届く範囲に鯉が見えた。浩は夜の魚を眺めるのが好きだった。その頃の彼には、町を歩いていると、知らない間にこの池へ来て、手摺によりかかっているようなこともあった。かつて映画館からの帰り途、ずんぐりした真鯉を、俳優のエドワード・G・ロビンソンと見なしたことがあった。その鯉などを確かめようと思ったのだ。両腕を横木に置いて体を伸ばすと、列車の中にいた時にはまだ残っていた肝臓のどんよりした痛みが、抜けて行った。  役場の塔の時計は、もう十時半を回っていた。交通は絶え、時々山の木をそよがせる風の音と、籠った梟の鳴き声がしているだけだった。突然、浩はライトに照らし出され、小石を弾くタイヤの音を聞いた。三輪トラックが止っている。浩の正面を避けたライトが、分厚い樟の葉の層を、精密な彫刻のように浮かびあがらせていた。そこに人影が動いて、  ——浩さん、と呼んだ。  瓜生だった。白い歯をきらめかせて、遠慮っぽく、後退して行くような姿勢で、樟の葉の下に立っていた。  ——帰っていたの、と瓜生は聞いた。  ——東京から来て、着いたところだよ。池を視察してみたさ、もう癖になってるな、と浩は言った。  ——僕もそうだよ。  ——瓜生さんはどこへ行くの。  ——どこへ行くのかなあ。別に行く所はないよ。行くとすれば教会だけど、もう遅すぎるだろう。  ——…………。  ——浩さんについて行ってもいいか。  ——今夜は二人でレコードを聞こう、僕の部屋で。  瓜生は満足気に笑い、サドルにまたがった。浩が補助席へ腰をおろすのを待っていた。浩は池の手摺のところから、三輪車の真黒な影と、真緑に静まり返っている樟を眺めていて、そこへ近寄りながら、  ——瓜生さん、家へ行くのはやめよう。海を見に行こう、と言った。  ——海って、焼津へか。  ——焼津へ行こう。  ——浩さんの部屋へ行けば、ドビッシーの盤があるじゃあないか。  ——ドビッシーは四枚とも、あなたにあげるよ。海へ連れてってくれ。  瓜生は頷いて、浩が補助席に腰かけるのを確かめて、キックした。鋼の軋る音は浩の想像以上だった。大揺れに揺れたので、腰が緊張したが、それも要領をおぼえると、浩の気持は解放されて行った。国会議事堂の待合所か、場違いな所に出て行ったもんだな、あんな俺なんか、消えてなくなれ、と思った。  空気は急流だった。すぐに町を出はずれ、田圃中を行くと、ライトに光る虫が、次の瞬間には顔にぶつかった。虫さえも、浩を、あるべき状態に目醒めさせるようだった。  ——いい気持だな、腹がへった、と浩が、金属の騒音にまぎれないように大声で言うと、瓜生は解ったと合図した。  瓜生がオート三輪を止めたのは、川のほとりのラーメン屋の前だった。出されたラーメンを、瓜生は一気に食べてしまい、浩の食べるのを見守っていた。口をきかないでひたすら食べるのは瓜生の癖だった。軍隊でついた癖なのだろう。そして、いつもなら、食べ終るとすぐに立ちあがるのだが、この夜は、しばらく坐って浩に付合っていた。  ——僕だってフランスへ行けたら、どんなにいいか、ドビッシーやセザンヌの国だろう。僕にはフランスへ行くような学歴だってないし、と瓜生は言った。  ——僕はフランスへ行けるかどうか解らん、と浩は言った。  ——運動中なんだね。  ——…………。  ——面倒臭くなったのかい。  ——そうだよ。疲れた。  ——浩さん、絶対行ってくれよ。行ける、僕が祈ってるから。  ——今夜は、フランスの話はやめよう、いいんだ。  浩がそう言うのを聞くと、瓜生は胸を衝かれたようだった。これしきのことで顔が変る、と浩が思ったほどだった。瓜生は一旦眼を見張り、口を噤んだ。  呪われたフランス行き、そんな言葉が浩の胸に浮かんだ。それに較べて、焼津の空気は、良かれ悪しかれ、気やすかったし、潤いも欠いていなかった。  ラーメン食堂の窓からは、川が見えた。泥の川床の表面に、水が皺をこしらえて流れていた。そこに生え立つ蚊が、食堂のテーブルの下にひそんで鳴いているのだ。向う岸の家の羽目板がズレていた。その家へは、浩も行ったことがある。白狐に似た女が相手だった。なににつけ、行き届いていて、さりげなかった。この種の女がそういうものだとは、浩は知らなかったのだ。彼女の体は魚のにおいがした。  朝になって、浩が洗面所で吐いたのは、深酒のせいだったのに、女は、自分の体臭のせいだと感じでもしたかのように、  ——そんなに気持悪い……、ごめんね、と言いながら、散らばった浩の汚物を始末した。  それから、洗面器に水を汲み、湯をまぜてくれた。冬だったのだ。  ——これで、いやにならないで、と彼女は言った。  浩は鈍く光って流れる水を見ていた。しかし、その家の灯は消えていた。白狐は眠っているのだろうか、と彼は思った。我《が》で身を縛ることもなく、あきらめて生活しているのだろう。この瓜生の信仰生活と較べれば、別世界だ、瓜生の思いこみは、なんと固い枠だ。同じ年恰好のあの女は、瓜生が怖れている場所のことを、大袈裟じゃないかしら、実際はそんな所ではありませんよ、と言っているかのようだ。  瓜生は家に電話していたが、出ないと言い、浩にも、家へ電話するか、と訊ねた。浩は、しない、と応えた。そして、  ——吉永へ連れて行ってくれ、と言った。  ——泳ぎたいのかい。  ——瓜生さんは、泳ぎたくないか。  ——泳いだっていいさ。  ——松林まで行って、様子を見よう。  焼津を南へ出て、軽便鉄道の吉永駅まで来ると、瓜生は駅前の公衆電話で、また家を呼んだ。終って浩に近づきながら、今度はかかったと言った。  ——この時間だったら、妹が出るよ。妹は毎晩午前まで起きているから、と彼は言った。  ——僕たちのようなもんだね。  ——浩さんは、普通何時ごろ寝るの。  ——三時か四時だよ。  二人が行き着いた所は、黒くたくましい松の深い林だった。浜に向って出はずれると、意外に明るかった。オート三輪のヘッドライトを消したので、夜は余計透明になった。小高い砂山に登ると、穏かな渚が見えた。二人はそこに坐って、冴えた月を見ていた。心の足掻きは背後に退いて行く、案の定、目的地はこんなに静かで、こんなに自由だった、それも束の間のことだろうが、束の間だっていい、俺はこの時間を忘れないようにしよう、と浩は考えていた。  ——僕は武昌附近の渚で、うろついていた敵兵を射ったことがある。射たなくても良かったのかもしれないんだ、と瓜生は言った。  ——うろついていただけだったの、その兵隊は。  ——きっと、そうだったよ。僕は一人で歩哨に立っていたから、怖くなって射ったんだ。向うが射ちはしないかと思ってね。三十メートルはあったな。  ——一発で当てたの……。  ——当てたよ。  ——射撃もうまいんだね。夜だろ。  ——月があったからね。……戦争だから仕方がないんだ。こうやって足で、死体を転がしてみたっけなあ。  瓜生の口調は、告白めいていた。この種の話を帰還兵から聞く時には、浩はいつも、相手の興奮を感じた。自慢気に言う人もあった。しかし瓜生は、自分をいやな気分に陥らせる話題だが、言わなければいけないと意志しているような口調だった。  ——浩さん、フランスへ行けよ。君は是非行きなよ、と瓜生はいやな考えを拭うように言った。  ——…………。  ——君の脱出だろうが。  ——そんなことを言っても、だれも認めちゃあくれないよ。  ——本人は今どうすればいいんだ。  ——本人……。  ——君は今どうしてもフランスへ行きたいんだね。将来を考えて、行っておいたほうが得だというんじゃないね。  ——ただ行きたいだけだけど……。僕はね、僕を行かせない奴はけしからんと考えているらしい。起きていれば、そうは考えないけど、夢の中には、過激な考えが出てくることがあるよ。  ——過激じゃあない。それほどしたいことがあるのはお恵みだよ。  ——金がかかるだろう。稼ぎもないし。立派な放蕩息子だ。  ——悪くはないよ、それだって。君の家なら、それができるんだからいいじゃあないか。  ——…………。  ——一度死ぬめに遭ってごらん、人間は本当にしたいことをしなければならないと悟るから。君の両親だって、君がフランスへ行くことを望んでいる、本心はね。もし君の両親が正しい夢を見れば、夢の中でお恵みだと思うだろうよ。  ——僕がフランスへ行くことをか。  ——そうだ。  ——…………。  ——一遍死にかけてごらん、解るから。  ——…………。  ——またフランスの話をして、悪かったかい。  ——いや、ありがとう。これから泳ごうじゃないか。  浩は瓜生に励まされ、勇気づけられた。そして、浩の明るくなった気持が、今度は瓜生に作用するようだった。二人は長い波長の、坦らな海を、お互いを見ながら泳いだ。巨大な光を、ささやかに暗く破りながら進んでいる自分を浩は意識した。自分で自分は判らない、自分がこしらえる波だけが判ると思ったりした。千メートルは泳いだろうか。水からあがって、ズボンとシャツを着るだけで温かかった。それでも、流木を焚火にして、距離をおいて眺めながら、ドビュッシーやチャイコフスキーのことなどをしばらく話し合った。浩は瓜生の妹から聞いたことがある。瓜生は剣道五段で、銃剣術は静岡連隊の大会で優勝したこともあったのだそうだ。体格も有能な下士官を思わせた。しかし、現在の彼には、それもちぐはぐな痕跡となってしまったようだった。少年を思わせるみずみずしさで彼が語るのは、宗教の話、芸術の話ばかりだった。  吉永の浜で、瓜生は眠り始めた。浩も、しばらく一人で焚火を見つめていて、眠った。日頃の睡りとは違っていた。無器用な意識は拭われ、彼は海の自由に深く包まれていた。  翌朝、浩が目を醒ますと、瓜生は起きていて、日の出前の伊豆を眺めていた。浩にはまだ夜の気分が連続していたし、朝の海は彼のその状態をさらに良くした。しかし、八時頃、自転車に乗って瓜生の妹が来た時、浩の気分は醒めて、元の自分に返りそうだった。彼女は脱線する兄を心配してきたのだが、それを隠していることが判った。浩は自分が、気持の上では瓜生の妹に近いのを感じた。しかし、その自分が瓜生と行動を共にしている。良識の外に身をおいて、良識のゆえに苦しんでいるのか、いや、それとも違う、などと考え続けた。  ——家からだったら十キロあるね、一時間以上走ったんじゃあないか、と浩は瓜生の妹に言った。  ——どのくらい走ったかしら、家を出たのは六時半回っていたかしら。  ——夢中だった……。  ——ええ、まあね。  ——柚木君には、お前のような妹は要らないそうだ、と瓜生が言った。  ——なぜ。  ——柚木君の家は自由だから、お前のように親との間に立って、言いくるめる役の女は要らないそうだ。  ——僕の家だって自由じゃあない。  ——心配がなければね、そのほうがいいけど……。きれいね、朝の海って。  その日も晴れあがっていた。蝉の声ばかりが大きくて、海は引き退き、静まり返っていた。鴎は波打ちぎわに群れていて、まだ遠出していなかった。瓜生の妹は、ここへ来たことの功徳を感じたように、両手をひろげて、海に見とれていた。  ——泳いだんだ。  ——今朝……。  ——それが夜なかだ。  などと瓜生兄妹は言っていた。  それから三十余年過ぎた。去年の初春、浩は渡島当別のトラピスト修道院へ行った。  前日の泊りは江差だった。この港では烏賊の大漁があって、漁師たちが旅館で夜晩くまで歌っていた。翌日の午頃、浩が町へ出ると、シャツ一枚の漁師が千鳥足で通りを歩いていたりした。車をやとい、トラピストへ向うと、吹雪いている海辺の崖の道にさしかかった。雪を浴びて、野性をみなぎらせた鴎が舞っていた。行けども行けども鴎は現れた。風に抗い、進みもせず吹きとばされもせず、宙の一箇所で力を籠めて羽搏いていたりした。しかも窓のすぐ近くにいるので、浩は、飛ぶ鳥の姿を観察した。余りに数が多いのも、無気味だった。  修道院に着いて、案内された別館で、一人で瓜生を待った。ガラス戸の外には、雪が絣模様を描いていた。庭の向うの暗い林が、だんだん霞んでくるようだった。静けさに戸惑った耳は、昨夜の江差の濁《だ》み声を微かに聞いていた。  玄関で雪を振るい落とす音がして、瓜生が部屋に入ってきた。ドアを背にした彼は、引き退いて行くような姿勢をしていた。そのせいで浩は、彼と間近で面と向っていた時にも、いつも全姿を見ていたように、あとから錯覚するのだ。  瓜生の短く刈った髪は真白だったが、浩は、ほとんど若い時のままだと思った。顔も、見間違えることなど決してなかった。  ——変っていませんね、と浩が言うと、  ——これでですか、と言って、瓜生は頭を掻いた。  下士官タイプの体格も、充分うかがうことができた。ただ漂白したような肌は、昔とは違うが、昔も興奮し熱中すると白くなるタイプだった。それが常態になったのだ、若かった瓜生の中から、朽ちない彼が現れたようだ、俺は昔も、瓜生といえばこの姿だと思っていた、だから彼が年取ったとは感じないのか、この姿しかなかった、と浩は思った。  ——あなたの書いたものを読みましたよ、と瓜生は言った。そして、  ——司祭が列車のデッキにいて、線路に立っている少年の手を取って引っぱりあげるところがありますね、あの少年はあなたのことですか、と続けた。  ——僕のようなもんですよ、と浩は応えた。  ——あの司祭はジャシェ師ですか、オグマル師ですか。  ——オグマル師です。  ——あの文章には、あの頃の冬の朝がありますね。  ——瓜生さんはオグマル師より若かったでしょう。  ——ええ、あの時オグマル師は三十歳でしたね。私が修道院へ入ったのが、二十九でしたから。柚木さんはフランスにいた……。今は藤枝にお住いですね。  浩は頷いた。  ——藤枝でも私はすっかり忘れられました。三十年間に四回帰っただけですから。そのうち二回はふた親の葬式ですからね。  ——世間に埋もれても、自分の生甲斐がはっきりすればいいじゃないですか。  ——そうも行きません。……藤枝に残っているのは弟だけですよ。妹もここの修道院へ入りましたから。  ——え、トラピスチヌへですか。  ——そうです。私が入って二年してからです。  ——…………。  ——今少し体をこわしています。副院長になったりして忙しいんです。私は平《ひら》でいますから、いう所はありませんが。  ——本当に変りませんよ。  ——そんなこともない、と瓜生はまた頭を掻いた。  ——瓜生さんはもともと変りようがない人のような気がします。  ——いや、変りましたし、妹も随分老けました。  ——あの人がここへ来た時、わが妹ながらえらいと思ったでしょう。  ——心強かったですね。思い合うことが、互いに修道生活を支え合いました。 [#改ページ]   幻の家族  ジョギングを始めると間もなく、五美《いつみ》という喫茶店主の女の子、幼稚園児が私と並んで走るようになった。私よりも速く、駆け抜けたり、待っていたり、時には横道へ逸れたりしながら、跳ねる動作をまじえた。走るおとなが陥りがちな、生まじめな味気ない表情を救ってくれていたのだが、やはり幼稚園児だ、一月も続けると倦きてしまい、走らなくなってしまった。  最初から五美がいなかったのならともかく、私にはジョギングが物足りないものに感じられるようになった。それでも一人走り続けはしたが……。一念発起しても、なかなか物事に馴れることができないのが私の性質なのだろう、気楽に走っているつもりでも、その間のリゴリストの顔が気になり、勿論深刻にというわけではないが、走り終って一種の気疲れが残る感じがした。三週間程独走していると、やがて、事はまたうまく運ぶようになった。今度は十九歳の娘が伴走者になろうと申し出てくれた。  喫茶店は店主夫婦が交替でやっていたが、忙しくなってきて、島貫多加代という娘を傭うことになった。一日私がカウンターに坐っていると、彼女が、  ——一緒に走ってもいいかしら、と申し出た。  かたわらにいたマスターが、ややけしかける調子で、  ——柚木さん、コースを延長してください。この子は空手初段ですから、ちょっとやそっとじゃあ、ハアハア言いませんから、と口を挟んだ。  ——僕が二人分ハアハア言うよ。店のほうは、ひま割《さ》いになるけど、いいのかしら、と私は訊ねた。  ——かまいませんよ。十時間以内に帰ってきてくれれば、とマスターは笑っていた。  私の服装もいい加減なものだったが、彼女は店で働いている姿で表へとび出す。そしてせっせと駆けるだけだ。地味で、しかも無口なのが、私にとっては良かった。小柄なのも、目の中に入って、私にとっては取柄だった。私よりはるかに歩幅がせまいので、遅れ勝ちで、大抵は少しうしろを追いつこうとして走っている形だった。……しかし、どちらかと言えば、私は幼稚園児のほうを採りたかった。島貫多加代の遠慮っぽさ、白い歯、きわ立って長い睫、それから、肘を揃えて腕を胸の前で左右に動かすこと、きまってタイトスカートをはいていること、などが若干感覚を騒がせたからだ。贅沢と言えば贅沢だが、私は無味の時間を欲しかったし、不粋に生まじめな自分を意識するのはそのさまたげだったからこそ、ただ気霽《きばら》しになる伴走者を求めていたわけだった。  途中フルーツ・パーラーに入ったことがあった。その時多加代は、父母と二人の弟の写真を三枚見せてくれた。運転免許証に重ねてであったか、財布のわきにであったか、いつも持っているのだそうだ。写真の父親は特に私の注意をひかなかったが、母親は決してありふれた容姿ではなかった。白っぽいワンピースを着て生け垣に半ば埋まるようにして立っていた。表情も姿勢も、ワンピースも、生け垣もしっくりと融け合って一枚になっている。実はピンボケなのだが、巧んだソフト・フォーカスに見える。昭和初期の女優の写真によくこういうのがあった。  ——死んだ母です、と多加代は言った。  ——きれいな人ですね、あなたとはタイプが違うようですが。  ——わたしはもともとひどいけれど、お母さんだってこの写真ほどじゃあないんです。きれいに写っているもんだから、これを持っているんですけど……。他の写真の人たちは、みんなおまけです。  ——弟さん、お母さんに似ているじゃあないですか。二人とも中学生ですか。  ——そうです。弟は小さいし、家ではお母さんだけが頼りでした。去年胃癌が進んでいるのを発見されて、手のほどこしようもなく死んだんですけどね、困っちゃったんです。悲しくって、いてもたってもいられなかったもんですから、空手を習うことにしたんです。練習が厳しいでしょう、ですから、その間だけは忘れることができると思ったもんですから。  ——お父さんは……。  ——生きていますけど、あの人は頼りになりません。とても駄目な人なんです。  そう言う時も、多加代はいささかも切り口上にはならないで、眼は笑っているし、口調も柔らかだった。  それにしても、島貫多加代の小柄な体には、運動選手の特徴があり、よく見ると引緊まって、キビキビ動いた。この特徴は控え目にしか現れなかったから、少くも喫茶店の客程度では見て取ることはできなかっただろう。一緒にジョギングをしたから、私の眼には見えてきたわけだ。  夜目醒めている時間が長く、普通明け方に寝てお午頃に起きる。そのせいもあって、昼の明るさには過敏な状態になっている。陽光に対して網膜が脆くなっているようにも思える。だから、多加代の小刻みで素ばしっこい動きは、いわば一日のハイライトとして、残像となって夜も見えがくれする程だったのだ。去年の六月初め、桜並木の木洩れ日を乱しながら走っていると、背後に小うるさい気配を感じた。すぐに自転車がつきまとっているのが分かった。田舎の青年が時たま試みる、厭がらせのたぐいだろうと思った。とはいっても、多加代と私はまさに娘と父親の年恰好だから、想像が当っているかどうか、あやふやでもあった。果たして想像は外れていて、自転車に乗っていたのは彼女の父親だった。彼が音もなく割りこんでくると、彼女は走りながら、  ——お父さんか、なんだ。おばさんはどうだった、と言った。  ——心配ないよ、と応えながら、彼は私に会釈をして、  ——車はいたんだがな、当人はかすり傷で済んだ、ここんとこを、ちっとばかり、と自分の右頬を撫でていた。  ——唇が痛くって、思うようにものが言えないって言ってたっけね、と多加代は父親の顔を見たが、父親は応じないで、  ——小説家の柚木さんですね。いい運動になるでしょう、結構恰好がいいじゃないですか、と私に声を懸けた。  ——ありがとうございます、と私は言い、少し息が切れていたので、歩こうとすると、  ——続けてくださいよ。いち、に、いち、に、と彼は言った。  それからは、彼は一律に頬笑んで、黙ってゆっくりペダルを踏んでいたし、私も走り続けた。多加代は五メートルほど前を行き、彼と私は並んで後につき、喫茶店を目ざした。  店へ着くと多加代は短い休憩もとらないで、いきなり仕事を始める。態度を切りかえると、もう息を弾ませもしない。一方、彼女の父親と私は椅子に坐って、しばらく話し合った。  ——ご親戚で怪我《けが》した人があったんですか、と私は訊ねた。  ——話になりませんよ。自動車事故ですがね。それも何でもないとこで、川の洲へ転げ落ちたんですよ。羊歯《しだ》川の上に滝之谷ってあるでしょう。あそこんとこのカーブで、一人で転がりましてね。  ——対向車がなくて……。  ——対向車はなくてね。ただ路肩がちっと悪かったと言うけど、わざわざそんな道のわきへ寄らなくたっていいような所なんだが……。  ——多加代さんのおばさんですか。  ——わしの妹ですよ。事故を起そうったって起きない所なんですから。一体何を考えていたんだ、とわしが聞いても、恥かしがって応えません。きっと何か夢中になって考えていたんだな。  それから、私たちは世間話をした。多加代の父親、島貫証平は人一倍話し好きらしかった。自然の勢いで、言葉遣いがぞんざいになって行くのが、地《じ》が透けてくる感じだった。そのうちに声も笑い方も、身振りもすっかり伝法になって行った。特に私の注意を惹いたのは、眼の耀きだった。濡れて、欲望をあらわにしているかのようだった。といっても、そこにその対象はないのだから、かつて抱いた欲望を思い出して、興奮しているのらしかった。私が、その時、理由もなく新聞の覚醒剤の記事に目をやり、そのことに触れると、彼はサービスの気持もあったのだろう、自分の体験を打ち明けた。  ——わしはね、ヒロポンを射っていたことがあるんですよ。ヒロポンがほしくて博打をやった。博打ですっちまうと、人夫になってハッパを扱った。免許が要るんだが、かまうもんかって言って、モグリでな。ブルってハッパでさ。  ——今なら、ブルはブルドーザーですがね。  ——血は売りゃあしないっけが……。ヒロポンを射っていたころ、夜、しんとした道を歩いていると、人声がしてきて、だれかが五、六人で楽しそうに話をしているような気がする。あれって思ってさ。それからは意味を知りたくて一生懸命さ。もう一歩で話の中味が解ってきそうだ、と思ってな。  ——近くでしているんですね。耳へついてきて、その声に振り回される。  ——なんだ……、柚木さんもヒロポンをやったのかね。  ——ヒロポンを射ったことはありませんが、夜田圃中とか谷間を歩いていると、鴨の関節の音とか田圃へ引いてる細い水の音とか聞えてきます。池で魚の跳ねる音も聞えます。  ——鴨だの魚だのと判りゃあ、それだけのことだろうな。ただ人間の声となると、意味があるからな。何を喋っていやがるのかと思ってさ。ヒロポンを射ってた頃、随分聞いて、今だって耳の中へ湧いてくる気がする程だけど、結局は意味は全然解らない。あんなに聞えてきて、しかもゼロっていうのはな。鴨の関節の音なら、別に耳で追いかけやあしないだろ。  ——追いかけますよ。はっきり聞いて、おぼえてやろうとして。  ——柚木さんも閑だな。  ——島貫さんも閑じゃあないですか。  ——覚醒剤を射ち始めるころはな。結局閑で、腑抜けみたいになっちまうから始めるんだが、しばらくすると、もう閑じゃあなくなるよ。金銭《かね》もしょっちゅう必要だし、稼がなきゃあならん。それに、射って、人間の声が聞えてくるだろ。そうなったら耳は追っかけないじゃあいられない。無我夢中だ。忙しいよ。  ——不安なんでしょうね。  ——不安じゃあない。むしろ断《き》れた時が不安なんだから。……柚木さん、夜目醒めて鳥の羽音なんか聞いてるのは不安だろ。そりゃあ気の毒だな。しかし、ヒロポンを射ったら、ゲームを始めるわけさ。人声を追いかけるゲームさ。だから気持はめいっぱい働いている。淋しかないよ。結局は突きとめられやしないが、突きとめられそうな気がするわけだ。行く先はどこだったと思う。慶全寺と長楽寺の墓地だ。  この二軒の寺は、かつては町外れだった小高い丘の麓に並んでいて、両寺の墓地はその丘の一部を覆って、一つながりだった。やがて私の散歩コースの一つとなり、樫、椎、松、樟などの大木が聳えていたから、深い葉擦れの音が囁きかけるように聞えてくることもあった。  ——あそこへ行くと、何となく気が休まるんだ。  ——その声ははっきりするんですか。  ——意味は解らないよ。電池の弱っちまったラジオのようなもんだから。しかし、聞くには最上の場所だな。墓の台石に坐って耳を澄ましていると、すぐ近くで足音がするじゃあないか。犬かなと思ったら、人間さ。声は一遍に消えちまったよ。何でこんなとこへ来ているんだって聞いたら、人間のいない静かなとこが好きだもんだから、って応えて、俺もそうだ、っていうわけで、だんだん話してみたら、そいつもポン中で、人声が聞えるんだそうだ。慶全寺と長楽寺の墓地はいい場所だっけな。その晩は二人並んで声を聞いたな。それから、ポン中ばかり五人集まるようになった。申し合わせたわけじゃあない。五人それぞれに、ふらふらっと足が向いたのさ。声を追いかけているうちに、つい一つ所へ来ちまったってわけ。  ——終点ですね。  ——みんなに共通の終点だな。  ——なぜあそこが終点なんですかね。  ——あそこで諦めるんだよ、これ以上声は大きくならないって。あそこが町で一番静かな場所だからな。  ——そうでもないでしょう。  ——はははは、わしらにはそう感じられたんだよ、ポン中にならないと、場所の良さってことは解らない。……家族が卓袱台《ちやぶだい》を囲んで話し合ってるようだっけな、声は。  ——無気味な声ですか。  ——無気味じゃあないっけな。  ——自分の家族ですか。  ——自分の家族じゃあない。ヤクによごれた手合いなんかいない、きれいな家族のようだっけ。電気の下で、一家が笑って話し合っていた。海辺の家じゃあないっけかな。風が通っていて、波の音もしているように思えたな。わしはあこがれていたさ。実際の家族の声を聞きたきゃあ、何もうろつくことはない、家へ帰りゃあいいんだから……。  島貫証平は、ご機嫌に笑っていた。私が興味を示すので、話し甲斐があると思っているようだった。それにしても、彼が信じている以上に、私は傾聴していた。  ——わしは心の奥でいつも後悔していた。一家を駄目にしちまったのは俺自身だもんな、と彼は言った。  私の探求趣味が腹の中で頭を擡げていた。やくざの言いっぷしが効いていたし、五十がらみなのに、はしっこそうだった。さほど後悔の気配もなく、次の機会を待っている現役であることが読みとれた。薄命な細君、多加代のことも、勿論私は思い合わせた。  島貫証平と交際を進めないうちに、親密すぎる申し出があった。多加代が結婚するから、披露宴に出て、新婦側の客としてスピーチをして欲しいと言う。多加代の希望だったのかもしれない。証平、多加代、それに丁寧にも相手の青年の三人が、私の家へ挨拶に来て頼んだので、私は承知した。  島貫多加代の嫁ぎ先は御前崎だった。岬のホテルで想像を越える盛大な披露をした。出向いて、しばらく待合室にたむろし、宴に連なっているうちに双方の家族の性格が、一人呑みこみながら解ってくるような気がした。相手の平石家の、いずれもよく日に灼けた人々は、すんなりと形式を受け容れ、穏かに、めでたいと感じているようだった。その家を私は知らなかったから、大体そんな具合に受けとったのだろう。  島貫家にはひび割れが見えた。証平は、喫茶店で見るのよりも眼をしょぼつかせ、口を開き加減にして坐っていることが多かった。そして、彼のまわりには、やくざふうで礼儀正しい男が四人、ともすれば寄り集まるのだ。多加代は(一般に花嫁が時々そうであるように)やや悲しげにしていて、しかも、父親に対してそっけなかった。彼女が心に懸けているらしいのは、中学生の二人の弟だった。何回か二人のかたわらに歩み寄っていたが、その様子には、このような際であったのに母親の気配りが見えた。  私のへたなスピーチは、大体こんな趣旨だった。……島貫多加代さんとも、父親の証平氏とも自分は喫茶店で知り合った。二人とも親切にしてくれた。父親は話が面白い人だから、自分は話を楽しんで聞いたし、また、自分は小説を書いている者だから、参考になることが多く、ありがたかった。多加代さんは、自分が一人でジョギングしているのに同情したのだろう、五箇月も、ほとんど毎日並んで走ってくれた。最初の日から最後の日まで、気軽な走り方はまったく同じであった。弟をかわいがり、時には勤め先の喫茶店へ連れてきて、空いている席に腰掛けさせ、何を飲むか、何を食べるかと聞いていた。うるわしい光景であった。愛犬の世話も行き届いていたようだ。時々車に乗せて通勤してきて、車の中に残し、ひまを見つけては、食べさせたり、ブラシをかけたり、運動させたりしていた。空手は初段だと聞いているし、職場では、忙しい時にもなんでもないことのように、機敏に応対していた。よく働くし、趣味も結構こなすし、亡くなった母親に代って、母親の役を引き受けているようでもあった。新郎の眼は高い。よくこれだけの娘さんを見つけたものだ。  相手は、多加代がよく行くサービスステーションに勤めていた青年ということだ。親しくなって間もない頃、多加代が働きかけて、結婚に踏み切ったのだそうだ。同い年で、二十歳とのことだった。  ところで、この披露宴で私はまた得がたい友人をこしらえることになった。新郎の祖父で、七十六歳というのに、引緊まった活気のある人だった。私は名刺を準備してないので、人に会って名刺を差し出されるたびに、言い訳して詫《あやま》っていたが、この人は先に、  ——わしは名刺を持っていませんですが、お赦しください。真男の祖父で宗吉といいます、と言った。  ——実は私も名刺を準備してないんです。柚木浩といいます。  ——多加代さんには、わしが責任もって、良くしてやりますんて、ご安心ください。  ——あの子はよく働きますよ。控え目ですけど、誠意があります。毎日の駆け足もね、私は奉仕してもらっていたと思うんで、ありがたかったんですが、あの子は、わたしも運動不足になるから、と言って、恩に着せたりはしませんでした。忍耐力もある人です。  ——わしも花を作っているもんですんて、多加代さんが手伝ってくれると言やあ、栽培を教えようかと思っています。強制はしません。多加代さんが、暇がないと言やあ、それでいいし、気が進まんて言ってくれたってかまわないし。  ——花を作っているんですか。  ——温室でやっていまさ。かすみ草とかカーネーションとか洋花をのう。蘭もやってみましたっけが、うまくまいりませんで。なんせ六十四まで遠洋船へ乗っていましっけもんで、土いじりはまずくて、家の衆に笑われますでさ。園芸の本もどっさり読んだことは読んだですけえが。  ——多加代さんなら、笑いませんよ。協力するでしょう。  ——そうしてくれるといいですがの……。新しい孫ですんてのう。柚木さんも、また御前崎へ遊びに来てください。花ならいくらでもありますんて。  ——遠洋船へ乗っていたんですか。  ——機関士でのう。機関のことは本を読んでおぼえたら、実地もうまく行ったです。  ——どっちの方へ行ったんですか。  ——南半球へも行きましたし、大西洋へも出ました。行かん所はないくらいでさ。  ——海形《かいかた》ですか。  ——海形も乗りましっけよ。一番長く乗ったのは海竜系ですけえが……。  海形丸とか海竜丸は御前崎の舟元の持ち舟だ。この土地は長い間、静岡県でも辺境の漁村だった割には大きな舟元がいたから、舟方も大勢輩出していた。平石宗吉もその一人だったわけだ。彼は海辺の活気のある年寄りの一典型だった。五官にも、そして恐らく内科系にもまったく障害はないように見えた。体躯も、枯れたというよりも、かつての滋味を含んだまま乾いた鰹節のように、強固な感じだった。  御前崎から私の住む藤枝までは三十キロある。帰途を車で走りながら、やはり宗吉が平石家の代表者格だと思った。今度の結婚で、平石家には三代の夫婦が揃ったのだという。更にその上に宗吉の母親が存命していたから、三代半とでもいうべきだろう。ケレン味のない、御前崎生え抜きの半農半漁の家柄らしかった。多加代はいい所へ行ったなと私は心に呟き、そして、眼をギラつかせる実家の父親、淋しげだった母親を思い合わせ、多加代の新生の意志を感じた。愛憎が混り合っているにせよ、彼女はすでに母を欠いた家が厭わしかったのではないか、だから、交際していた青年の家に、将来をたくすべき道を見たのではないか、苦労しただけに、したたかなところもあるんだろう、と思った。  私が御前崎へ遊びに行ったのは、翌年の初夏のことだった。小さな颱風の過ぎたあとで、わずかに雨をまじえた風が吹きまくっていた。鉛色の雲が圧した平野を見渡しながら、御前崎は深い、という東海道からの言い方を思い浮かべた。海沿いの道路にかかると、行く手に時々波の穂がかぶっていた。崖の下で一旦感じなくなった風が、台地へ登るとまた吹きつけ、松と槙を主とした木々が痛ましく騒いでいた。平石家はそんな所にあったのだ。玄関から見ると、巨船のへさきのような台地が、海へ向って張り出していた。  崖に倚った三階建てで、宗吉の居間は最下層だったから、風は遠く包囲している感じだった。  宗吉は私の興味に応じて、遠洋航海の体験をたっぷり聞かせてくれた。特に、季節のゆかりで海亀のことが多かった。ここ御前崎には、土用波に乗って赤海亀と緑海亀が産卵にやってくる、話はそこから始まって、八丈島とかフィジー諸島のサント島の、たいまいや青海亀の話になって行った。宗吉の細君と、絣の着物を着た多加代がもてなしてくれ、手が空くと、そばに坐って、一緒に聞いていた。  実は私は、平石家を訪ねるに当って、宗吉から亀の話が聞けるのではないかと期待していたのだが、彼の居間へ入った途端に、この期待は満たされそうだと思った。中ぐらいの大きさのたいまいの剥製が、床の間に置いてあるのが見えたからだ。やがて彼は、これはサント島で買ってきたものだ、御前崎へ来る亀を剥製にすることなど許されない、と説明した。  御前崎の関係では、沖で亀がたわむれていたという浮木が、やはり床の間に置いてあった。掛軸は字ばかり三幅で、真中は〈天照大神〉、左が〈八幡大菩薩〉、右が〈頂礼御前岩神〉で、信心にも亀の影響があるのだろうと思っていると、宗吉はそのことも説明して、昔は海難の怖れが大きく、その際災厄は竜、平安は亀という考え方をしたと言った。  宗吉の亀の話を身を入れて聴いたのは私、それから多加代だった。話がたけなわの時に、廊下に速足の音がして、障子が開いたので、見ると、宗吉の母親が立っていた。九十三歳なのだそうだ。信じられない程若く、張りのある体格をしていて、微笑しながら畳にゆっくり手をつき、膝をついて坐り、  ——駒形さんをお参りしているんてのう。無事に帰って来にゃあいかんて、と私に向って言った。  私が面くらっていると、  ——何だい、お婆ちゃん、と宗吉が笑いながら訊いた。  ——駒形さんのお札をもらってやるんてのう。祝儀もやるんて。これは祝儀だに、と彼女は、宗吉には応えないで続け、私に十円銅貨を二枚差し出した。  ——ぼけてるんですよ、と宗吉は言った。  ——ありがとうございます、と私は畳を這って行って、十円銅貨を受けとった。  ——お婆ちゃん、この人は漁に出掛ける舟方じゃあないよ。この人と亀の話をしていただよ、亀の話をな……。  ——亀ですかの。亀の仔がのう、ドイから芝みたいに、ぞろぞろぞろぞろ歩きましっけ、と彼女が言ったので、卵から生え立った亀が海へ出て行く光景を言っているな、と私は受け取った。  芝とはここの方言で枯葉の意味だと知っていたから、それにしてもうまい表現だと思った。幼い赤海亀の出発は、褐色の木の葉が一斉に吹き飛ばされるのに似ているからだ。  ——親亀を囲んでのう。孫もいるずらのう、と彼女は続けた。  ——なんで親亀がいるだ、と宗吉はからかって母親に言った。  ——いたっけよ、大《いか》い亀が。わしら、よく見たっけもん、と彼女は言った。  ——ぼけてるんですよ、と宗吉は私の方を向き、母親が言ってるのは、母亀が仔亀や孫亀をたくさんしたがえて海へ入って行くのを見たことがあるという意味だが、実際にはそんなことはあり得ない、産卵し終れば母亀は姿を消すのだから、と説明した。  ——お婆ちゃん、夢を見たずら。  ——夢じゃないに、と彼女は私に訴えたので、私は頷いた。  ——そうかな、と宗吉は笑っていた。  私が思い合わせたのは、先程聞いた話で、平石家には、宗吉も含めて兄弟が五人あったが、三人は海で死んでいるということだった。昭和初年の海難事故で一度に二人、太平洋戦争中輸送船に乗り組んで一人。その悲しみと悔恨が仔亀に取り囲まれた母亀の夢とからんでいないだろうか、と思ったわけだ。  多加代は義理の祖父と曾祖母のやりとりがおかしくて、短く声を立てて笑っていた。私は、九十三歳のこの人を多加代の未来形と考えてみたらいかがか、と思った。すると両者が、まるで幻覚のようにうまくつながり、私の時間の観念に授肉するのが感じられた。 [#改ページ]   欠落の秋  柏原悟郎は雑誌≪青銅時代≫の同人で、東京大学ドイツ文学研究室の助手であった。一九六三年秋、突然私の家へやってきた。朝の五時半ごろのことで、私は寝こみを襲われたわけだ。聞けば、二時過ぎに藤枝駅に着いたが、時間が時間だけに、すぐに訪ねても迷惑だろうと思い、明け方まで待合室にいたとのこと、私としても、着いたらすぐに来てくれたほうが良かったのに、と応えた。肌寒い日だった。彼は血の気を失い、憔悴しきっていた。蹌踉と来て、わが家の玄関に立った友はいく人かあり、その瞬間はいずれも忘れがたいが、彼は彼で独特の落ちこみ振りであった。寝るかと訊ねると、後で寝かしてもらうが、しばらく自分の話を聞いてほしいと言うので、私は付合った。話は以下のようであった。  三日前のこと、同じ大学院の女子学生が結婚するというので、同僚たちと一緒に送別会をした。酔って、彼女のアパートへ送って行き、そのまま泊ってしまった。その日まで、彼女のことは好きでもなんでもなかったのに、急に唯一の宝のように思え、ひとに渡したくなくなった。翌朝、予定通り彼女が大阪の実家へ帰るのを、東京駅まで見送り、一人になると、彼女を確かめたくてならなかった。一日おいて、彼女を大阪に追い、家を訪ねて、会わせてほしいと申しこんだ。しかし母親が玄関に出てきて、会わせることはできないと応え、問答になった。願いはかなえられなくて、彼はあてどない旅に出ようとしているのだと言う。  ——母親は、今は引きとってくれ、どうか引きとってくれ、と言うんだ。あるいは将来この結婚がうまく行かないこともあるかもしれない、もしそうなったら、あなた様が貰ってください、今日の結婚式だけは挙げさせてください、と言うんだ。  ——尤もだね。  ——相手は、住友商事に勤める男なんだ。体面もあろうし、それに僕は、お祝いに来たと言ったんだ。それでも会わせないと言うんだから、彼女は何もかも母親に打ち明けているんだろう。  ——君が平静でなかったからだよ、お袋さんが警戒したのは。  ——相手の男はメキシコへ出張することになっているらしい。彼女がついて行くか行かないかだ。  ——柏原君、解るけどね、もう少し彼女の立場に立ってやれないかなあ。  ——僕には彼女の気持が全く掴めない。掴めれば、それだけでいいんだ。  ——…………。  ——母親はなぜ、この結婚がうまく行かないこともあるかもしれない、なんて言ったんだろう。母親は、娘の気持を聞いていて、これはまずいと不安に思っているんじゃあないのか。  ——君はそういうことをお袋さんの口から聞き出さなかったの……。  ——聞き出さなかったよ。母親は、お引きとりください、お引きとりくださいの一点張りで、玄関払いだったもの。  ——聞き出せるとよかったな。  ——愛するに時ありだ。彼女と僕がお互いに好きだってことにもっと早く気がついていれば、何でもなかったんだ。恋愛して、プロポーズしてって運んでいれば……。  ——君は好意も抱いていなかったのか。  ——いなかった。僕はロドリゴのママとできていたから……。君も知ってたんじゃあないの。  ——知らなかった。  ——彼女は知っていたんだ。あんなことして……と思っていた、と言っていたよ。  ——彼女はさびしかったんだな、君に自分のほうを向いてもらえなくて。  ——わたしを見る眼が死んでいた、と言ってた。  ——柏原、ロドリゴのママとは切れろ。  ——切れるよ、切れて、彼女の結婚に蹉跌が来るのを待つよ。  話しながら朝食をしたため、また話しこみ、それから、彼は眠った。私が父の事業所へ顔を出し、夕方戻ると、依然眠っていた。彼が起きてきたのは、夜の九時ごろだった。才気があって、結構多弁な男が、黙りがちだった。遅い夕食をただ噛んでいるのを、私はなるべくほっておいた。休息を充分とったから苛立ちは消えているが、窶れがとって代っていた。五歳も一気に老けたようで、どことなく鋭く、しかも内面的な感じがした。恋する女には新しい美しさが現れるというが、男もそうだなと思った。この感じは、いわば恋が本物であることの証拠として私には映った。  ところが、半月ほどして東京へ出、私には瀕死とも思えたこの恋のことを、同じく≪青銅時代≫同人の荒木治に話すと、一笑に付した。私が荒木に話したのは、荒木は柏原の数年先輩に当り、同じ研究室にいたことがあったし、また、荒木の紹介で柏原は私たちの雑誌に入会したという事情があったからだ。二人は親しかったから、柏原は失恋の慰藉をむしろ荒木に求めるのが自然だったのに、それをしていないのは、あるいは荒木が後輩に対して辛辣だったからかもしれないと、私は荒木の哄笑をあきれて眺めながら、思ったものだ。  ——バーのマダムとできていて、しかも、結婚前夜の娘を犯す。不良のやり口だなあ、と荒木は言った。  ——犯す……。  ——犯すというのとは違っているかもしれないがね。僕は世間一般の方程式で言っているんだ。  ——犯す……。それでもいいよ。問題はその後だ。その後恋に陥ちたことは事実だ。  ——恋に陥ちたりするのが、柏原の駄目なところだ。  ——仕方がないだろう。  話すにつれて、私は掴みかかる調子になったが、荒木は酒席を楽しんでいた。悠然と酒を私に注ぎ、うまそうに杯を傾けたり、料理をつまんだりしていた。  ——陥し穴に嵌ったから、柏原の生地が出たんだね。造形性がないんだよ、と荒木は言った。  ——造形性……。  ——独創と言ってもいいがね。柏原某じゃあなくてはならんものがない。実に、どこにもありそうな話じゃあないか。  ——どこにもあるって話でもないと思うがな。  ——いや、どこにもある。不良を気取った男が泡を喰うメロドラマがあるだろう。天真爛漫にもその形に嵌ってしまっている。そういう自分を恥かしいとも思っていない。  ——天真爛漫で結構じゃあないか。君は気むずかしいな。  私がそう言うと、荒木は愉快そうに哄笑した。その顔のほうが、柏原の顔よりよほど天真爛漫に見えた。  ——恋なら誰だってする、と荒木は言った。  ——まことの恋をか。  ——そうさ。素朴な人間のほうが、まことの恋をするよ。ミーハーのほうがね。つまり柚木君は、柏原某の恋がまことだと言って感心しているが、それは僕だって認めてもいい。しかし、恋はなりふりかまわないからね。その人間がはっきり出るんだ。  ——はっきり出たら、柏原某はミーハーだということが判明したと言うんだね。  ——その通り、と荒木はまた哄笑し、  ——しかも僕には、見当がついていたんだ、彼がミーハーだということが。だから、果たせるかな、という感じだ、と続けた。  ——君は落着き払って言うが、君も陥し穴に落ちてみれば、違ってくるよ、と私が言うと、  ——その点、僕は危険に恵まれないが、と荒木は更に笑った。  荒木治は、こと柏原悟郎に関しては、何事もお見通しという口振りだった。荒木と別れてから、私は、彼が何を頭に置いて、あのような言い方をしたかが解ったと思えた。荒木はかねがね、柏原が文学談義において表を張り過ぎていると思っているフシがあった。柏原は着想も悪くなく、知識も豊富だったし、論客でもあった。荒木は親しい付合いが長いだけに、柏原の心の底を見すかしていたようなところがあった。しかし私は、文学者などというものは大体そんな具合で、その畑で相当な論客でも、現実に対処する段になるとひと一倍稚拙に違いないと考えていたから、果敢でいく分悲愴な恋に共感をおぼえていたし、そして、荒木の哄笑が響いてもこの共感を翻しはしなかった。  それにしても、恋の奴《やつこ》は同人仲間から野武士と呼ばれたこともあった。  私は家に帰り、柏原悟郎の書いたものを読み返してみた。このような箇所もあった。 現代の作家たちは、膨れ上った不信の眼の集る中で、最後の情熱まで喪いつつあるのではないか。彼らの語るべき人物は安直に君や僕になぞらえて仕上げられている。恰かもそうすることによって、僕らの猜疑を解くことが出来るかのように。  言やよし。しかし筆者自身は、〈安直に〉現代に自己をなぞらえてしまったということか。なぞらえようとしたわけではない。しかし振り返ってみたら、なぞらえてしまっていたということになるのか。私は、その通り、と答えるつもりはないが、荒木治は、まさにその通り、と思っているのだろう。もっとも、この一文は文学を論じているのであって、生き方を論じているわけではないが、現代蔑視の口調がこもっている以上、自身が現代密着では具合が悪かろう。それにしても、恋に古い新しいがあるのだろうか……、などと私は考えた。  当時も私は、原稿用紙を一枡一枡埋めていたが、その作業の九割方は夜やっていた。明け方にわたることが多く、それから寝て、午後に起き、親父が経営する事業所へ出かけて行く。四キロほどの道のりをバスで行き、帰りは歩く。これがほとんど変らない習慣だった。しかも帰途の歩みは、夢遊病者のそれに似ていて、ことさら迂回しては、谷間に入ったり、高校のグラウンドのかたわらでサッカーの練習を眺めていたり、時には、周囲一キロ半ほどの池のほとりを回り、葦原に分け入ったり、挑みかかってくる水鳥と睨み合いをしていたりだった。表に広々と田圃の広がる飲屋にも立ち寄った。そこを自分の店と定めて、何回か通っている間には、去りがたい気分に陥ることがあり、看板の時に及んだりもした。或る夜晩く、酔っ払って引揚げようとすると、かたわらにいた娘が、柚木さん、足もとが危ないからお宅まで送ってあげるわ、と言った。その時までに、彼女とは四回ほど店で出会っていて、近く結婚するという話も聞いていたので、その話をまじえ、とりとめない会話を交しながら、近道をして隣組の寺の境内を横ぎっていると、彼女が服の端を把って引き留め、自分と向き合わせるようにして、柚木さん、日曜日休みでしょ、伊豆へ遊びに行かない、と言った。私が頷くと、泊るのよ、いい、と囁いた。私は、明日またあの店へ行くから、酔わないうちに返事をする、と言って、かわした。  当時は、飲んで真夜中に帰っても、原稿を書いたものだ。しかしその夜は、原稿用紙を置いた机には向ったが、ペンは握らずしばらく考えていた。……柏原悟郎は迂闊な男だ。大学院生の彼女が大阪での結婚を決意したのは、柏原の方には気がないと知って、好きだと口に出すまでもないと諦めたからだ。彼の口振りでは、自分が彼女に与えた傷に彼女の結婚前夜まで気がついていない。そして、送別会で酔い、彼女のアパートへ行き、無自覚に無自覚を重ねた。肉体関係の前に彼が恋に陥ろうが、後に陥ろうが、それは大したことではない。ともかく、最後の最後まで迂闊だった。ところで、彼女の方はどうだろうか。送別会で酔ったとしても、男の柏原ほど酔ったろうか。それから、柏原がアパートへ送るままにし、泊るままにし……、ということになると、ある程度意識的なやり方だ。そのようにしてまで、柏原を恋に陥れたかった彼女の意志が感じられる気がした。それはけなげな復讐心のようにも思えた。  ——柏原は罪作りだったが、ここに到って、主客転倒したな、と私は心に呟いた。  私は或るフランス人が、日本の娘たちを褒めて、彼女たちは〈リヴァリゼ〉なんかしないと言っていたのを思い出した。〈リヴァリゼ〉とは〈ことさら三角関係を作り出す〉というほどの意味だ。東京大学大学院の女子学生は、勿論、三角関係を作り出そうとしたわけではない。満足に身を委ねると、とめどもなく変化して行く形勢に驚き、ひどく悲しんでいることであろう、などと私は考えた。  数日して私は杉森充、加仁|阿木良《あきら》の二人と一緒に、焼津港をふらついた。その際入った一軒の飲屋で加仁阿木良が、  ——しのちゃんはどうしたの、と聞くと、  ——おデート、と女将が応えた。  ——ああ、彼とね。  ——彼ならいいんだけど。  ——彼じゃあないの……。  ——彼でしょう。きっと、彼でしょう。  すると、横の席で飲んでいた玄人らしい女が、  ——最近の女の子は、結婚式の前に、本当に好きな男とお別れをするらしいわね、と言った。  ——なんで、そんなこと言うの。しののこと言ってるの、と女将がその女に言った。  ——違うわよ。  ——しのに限って、そんなことはありません。  ——なんで、しのに限ってだ。いいんだよ。いいか、昔は親の定めた人と一緒にさせられて、本当の恋は黙らせられた、と加仁が言った。  ——大昔はね。  ——大昔じゃないよ、最近までだ。今だってそうだ。  ——今は、事情があるからよ、本当の恋が黙らせられるのは。  ——事情があるだろ、今だって。だから俺は言ってるんだ。なんで、しのに限ってだ。しのだって、したいことをしたっていいんだ。  ——しのに言ってください。  ——ははは、しのは今頃しつつあるのか、誰に言われなくたって。  それから、加仁阿木良は私の方を向いて、少し声を落として言った。  ——僕の実家のことを知っているでしょう。広島で米屋をやっています。四男坊の弟が継いでいます。上三人男が家を継ぎませんからね。その四男坊ですがね。水泳がうまいんで、小中学校のプールや、市営プールで水泳のコーチをしているんですがね、子供たちの。それが悪かったんですね。  ——…………。  ——恋ですよ。  ——恋……、悪かないじゃないの。  ——弟は子供が二人ある、女男と。まあ、米屋の大黒柱です。ところが、小学校のプールへね、わが子に付添って来た人妻があって、弟と高校時代同級生だったそうですが、本当はあなたと一緒になりたかったんだと言いましてね。  ——弟さんの方はどうなの。  ——弟の気持ですか、解りませんね。笑ってごまかしていますけど、解りませんね。グラつくかもしれませんね。  ——思いを遂げたらどうなの、その二人は、と横の女が口を挟むと、  ——弟は割り切れる人間じゃあないんだよ、と加仁は応えていた。  ——柚木さん、考えてみると、恋の死骸は実に多いなあ。  ——想い出は強いから。想い出は腐らない。化石は滅びないからね。  ——本当に化石になったんならいいですがね。死骸になっても蠢きますからね、と加仁は眼の前の貝の刺身が、まだ動いているのを箸で突つきながら言った。  ——息をする化石か。  かたわらの女がまた口を挟んだ。  ——大丈夫よ。子供ができれば、育てなきゃあならないし、家の中のことだってあるし、稼がなきゃあならないし。収まるわよ。  ——収まっても、収まらないんじゃあないかな、と加仁は言い、杉森充の方を向いて、  ——どうですか、杉森さん、と訊いた。  ——収まりますね、と杉森は応えた。  ——完全にですか。  ——ほぼ、ね。  杉森は静岡大学の学生だったころ、下宿していた食堂で、そこの姉と妹に実の兄のように親しまれていたのだそうだ。かしずかれている、といって羨ましがった学友もあったそうだ。しかし、その妹に結婚を申し出ると、彼の文学趣味が昂じ過ぎていることもあって、断られ、彼は大混乱に陥った。彼は空しく大暴れして、相手の食堂の一家も揺れに揺れた観があったと、彼の学友だった男が私に話してくれたことがあった。しかし、荒れる杉森充を、その間見守っていたのは姉だった。杉森の妹への恋が一応鎮まると、わたしと結婚してほしいと申し出、家人たちも説得して、結婚に漕ぎつけた。  ——収めましたか、と加仁が杉森に念を押すと、杉森は苦笑しながら、  ——収めました、と応えた。  ——しかし、妹さんが近所にいて、出会うのは困るでしょうな。  わきにいる女がまた口を挟んだ。  ——失恋して、いつまで悩んでいてもしようがないわ。怨んでいれば体が悪くなるわ。  ——怨んでいるわけじゃあないが、怨みが残っているということだろう、と加仁は言った。  ——怨みが残っている、ね。  ——どうしようもないだろ。  ——そうね、一年とか、三年とか。本人次第じゃあないかしら。  ——本人はどうしようもない。時だけ、ただ時がたつのを待つだけだ。  ——信仰したら。  ——偏屈になるよ、信仰なんかすると。ただ時がたつのを待つのさ。  ——仕事に打ちこんだら。  ——駄目だ。時だけが癒してくれる。  ——お金持ちなら気霽ししていられるけど。  ——気霽しならいいが、下手に考えて、変り者になったらどうする。  ——考えないでいられるかしら。  ——考えちゃあいけない。自分を放り出して、時が流れるままにしているんだ。  以上は一九六二年のことだ。この年の暮れから翌年一杯、柏原悟郎はしきりに手紙をよこした。早いころの一通には、最近は自分の中の悪いものばかりが突出するようになった、しかも、この貧寒な眺めが、結局は自分そのものと思えて仕方がない、事実としての自分はこれしかないと思える、良いものはどこへ影をひそめたのか、もともと良いものはなかったのではないか……、夢の霧が立ちこめていたのが、消えて行ったら、この仕儀になった、とする趣旨が述べられていたから、私は、君にはまだ内面の荒野を認める勇気がある、エネルギーもある、とハッパをかけるたぐいの返事を書いた。すると彼は、身内にエネルギーは感じているが、この状態はエネルギーばかりでは支えきれない、と言ってよこした。やがて、僕は鴎外論を書くと言って、構想の一端を明かしてきたのは、一九六三年秋だった。私は返事して、鴎外は君に向いている、静的な巨匠は、向っ気の強い君に落着きを与えるだろう、その学殖も、君の根強いあこがれに違いない、しかし、鴎外論といえば、すでに優れたものがあるのは君も知る通りだ、それらの後塵を拝するようなものなら、今更書く必要もないと思う、などと、また気合いを入れるような文面を認めた。  その間、柏原は九州大学の助手になって赴任していたが、一九六四年二月、彼の訃報が入った。追いかけて、彼の僚友が、九州から電話をかけてくれ、その死の前後のことを伝えてくれた。柏原悟郎は、前夜友人と二人で町で酒を飲んだ、別に酔っていた様子もなかった、もともと酒量もそう多くはないし、酔態を見せたことはない人だ、翌日学校へ出なかったので、夕方になって、友人がアパートへ立ち寄ってみると、風呂場で凍え死んでいた、ガス中毒で倒れたのかもしれない、しかし、ガスの栓は閉めてあったとのことだった。自殺ではないだろう。事故だったのだろう。このところいくつかの石に躓き続けながら歩いていたが、伏兵に似た小石によって、空しくなってしまったのか。  葛飾区で呉服屋をいとなむ実家で、葬儀に参列していると、父親の挙措に、地味だからかえって注意を惹かれた。客に気遣いして動くのが、小さな亀が目立たないで泳いでいる感じだった。柏原悟郎といえば、議論の時にも、文章の中でも、我《が》がけなげに、精一杯つっ張っているタイプだった。若い雄鶏とでも言うべきだった。  家に帰った私は相変らず、ガレージのような書斎に入って、原稿用紙と向い合った。自分の眼がともすれば行きくれて、壁を這っているのを意識してしまった。雑誌≪青銅時代≫は、曙光も見えないままに崩壊して行くように思えた。先には同人中西太郎が失明するトラブルがあり、見えるようになったとはいえ、不調に覆われている間に、柏原悟郎の解《げ》しがたい死がやってきた。すでに、藍原乾一は〈ぼくは知っている、ぼくの内面の言泉が枯渇したことを〉と記しながら、彼には親しい死に向って歩きだしていた。  当時散歩していて、グレート・デンと出合ったことがあった。枯薄を分けて、坂を下りて行くと、駆けあがってきたこの犬と、いきなり鼻をつき合わせた。黒い毛並みが輝き、まわりは蕭条としているので、その一角だけに精気が漲っていた。犬と私しかいない。私は立ち竦んでいた。眉のような茶の斑点の下の眼は、私の眼と交流しなかった。無邪気とも凶暴ともつかない光があった。結局は、睨み合っただけで、何事も起らず、私はまた、枯薄の中を下って行ったのだが、怖れが体に起きあがったまま、しばらく平静に戻れなかった。突然、犬が柏原悟郎に似ていたことに思い当った。生れ変りに思えるほどだった。  池のほとりもまた散歩のコースだった。その池は周囲千五百メートル、ぐるりを囲んでいる丘は、水を懐に引き込んだり、水に這い出したりしていた。すべて緑におおわれていたが、一箇所だけ四角な岩の崖があり、昔の石切場だったのだそうだ。丘の傷痕のようなここに、私はよく眼を注いだものだ。秋の蔦が真赤に、夕日に燃えているのを、いつまでも眺めていたこともあった。  その夜私は中西太郎に手紙を書いた。  近くに昔の石切場がある。雰囲気のある場所だ。君が今度遊びに来た時には案内するよ。今日もそこへ行って、しばらく眺めていた。無表情な灰色の岩に、蔦が燃えんばかりだった。あの色が本当の赤だと思ったね。赤の発見だ。廃趾の蔦という感じもいいね。ここから石を切り出していたのは、僕は知らない。子供のころ、昔話に聞いただけだ。話してくれたのは、隣の豆腐屋の年寄りだった。切られた石を積んだ舟が、池をゆっくり横切っていたことがあったと言う。僕はそう聞いただけだが、見たことがあるように思えてきた。静かな眺めだ。現世とは思えないほどだよ。  ところで、石切場のことを報告するのは、まだ眼に残っているからでもあるが、一つには、ここを舞台にして小説が書けそうな気がしてきたからでもある。ここで逢引きする男女の話だ。女の方が、ほとんど強制的にここへ連れてこられてしまう。彼女は清水港で(焼津港でもいい)船員と見合いをして、海へのあこがれもあり、その相手と結婚しようと心に決める。彼女は若い女中だったし、仲人の言うなりでもあったが、ともかく将来への想いに心を弾ませて主家のある村へ、軽便鉄道で戻ってくるんだ。ところが、軽便の駅の近くで、不良青年に会ってしまう。主家の息子だ。彼女を誘惑して、石切場へ連れて行き、犯してしまうんだ。そうされて、彼女は、主家の息子が自分にとってどんな男だったかをいやというほど知る。彼女の心と体を乱し、苛む男だ。彼女としては、彼のことを思うと、心が穏かではなくなり、悲しみ、彼に苛まれるのか、自分で自分を苛んでしまうのか、判らなくなってしまう。彼はそういう人間なんだ。腺病質で、最近結核から癒えたばかりなのに、もう小学校の同級生だった娘を誘惑して、言うことを聞かせている。その関係を、若い女中は知っている。だから、心騒がせて、一人で分裂状態になっているんだ。彼との結婚を夢みたこともあるけれど、それこそ不幸の源だと感じて、心がせめぎ合う因になってしまうんだ。そんな不良青年に石切場へ連れこまれてしまったから、混乱は更に大きくなり、収拾がつかない。彼女のこの心の波立ちを、夢と現実にくりひろげて、できるだけ具体的に描いてみたい。  石切場のことに戻るけれど、石のひそかな圧迫が感じられるようにしたい。ここで採取した石が、主人の屋敷の石垣になっているとも書くつもりだ。一地方を有機的にしっくり描き出せたらいいと思うし、できそうな気がする。僕が今迷っているのは、彼女が彼を諦め、そのまま見合いの相手と結婚して、まともな生活に入ろうとするか、それとも見合い話は放擲して、無態なことをした不良青年に走るか、という岐れ道だ。後者がいいかもしれないね、狂っている方が、書き甲斐があるよ。  この作にご期待を。今も感じていることだが、散歩はいいね。自然なリズムが発想の連鎖を与えてくれる。想さえ湧けば、悲しみはどこかへ行くから、散歩は拠り所でもある。最近は歩きながら、柏原悟郎を想っていることが多い。≪青銅時代≫同人はみんな兄貴のように思えてならないのに、柏原だけはまさに弟だ。泣き所が見え見えだったせいだろうか。彼の影と共に散歩している。 [#改ページ]   手強い少年  ——初倉《はつくら》という所がありますね、これはさい果ての座《くら》という意味です、と高校の教師品田嘉一は地名考をしていた。  ——あの辺がさい果てだったんですね、と小説家の柚木浩は言った。  ——大井川のほとりが果てと考えられたんです。  ——座とは何の意味ですか。  ——神社です。  ——初倉の神社を研究したんですか。  ——一応当ってみました。……そう考えますと、西行法師の〈命なりけり〉と詠んだのが面白い。  ——西行は何歳だったんですか。  ——六十半ばだったでしょう。ああ、またここへ来てしまったと嘆じたんです。二回目でしたからね。  ——…………。  ——〈命なりけり〉は西行のカデンツァじゃあなかったかな。  ——読む者よ、思え、ということですか。  ——奏者が気ままに奏《ひ》いていいという。  ——僕が感心するのはね、品田さんが西行に対して本気だってことです。あなたほど一途に考えている人は少い。  ——いや、今夜はこれのせいですよ、と言って、品田は徳利の首をつまんで、上げ下げしてみせながら、  ——西行は鉢に水をたたえては、月を映して、自分を慰めていましたが、と言った。  ——…………。  ——自己崩壊を防いでいたんでしょう。  その時、柚木浩はある少年のことを思い浮かべた。三日前、池のまわりを一人で走っていた少年があった。高校生とは若干様子が違う、どことなし暗かった。一旦通り過ぎ、引き返してきて、柚木に話しかけた。聞けば、柚木の母校でもある藤枝東高校の卒業生で、キリスト教のことで悩んでいるという。彼を勧誘している教派は、柔らかに強制していて、薄気味悪くもあり、同時に惹かれもする、どうしたものか、と相談してきた。突然でもあったし、柚木は一応考えて応えたが、適当な忠言でもなかったので、言ってしまった直後から気に懸ってならなかった。彼が葦の間に見えがくれしつつ、水辺をいく曲りして行くのを見守っていた。見えなくなると、自分には人の世の悩みがどれだけ解るのだろうか、などと正直すぎる反省をしたりした。  ——品田さん、あなたの学校の卒業生でね、池のまわりをジョギングしている生徒がいるのを知りませんか。目下二浪です。  ——だれかな、二浪といえば大体わかっていますが。  柚木は池のほとりで会った少年の特徴を言ってみた。背は百七十センチくらい、改まって話す時しきりに瞬きする、言いよどんでは、あれ、あれ、と合槌を入れるのは、中学生だった時の名残りのようだ、もの静かで暗い感じがする、などと柚木は言った。品田には大体判って、それは望月諒太郎らしい、しかし、望月なら、家が大井川町だから、池とは八キロも離れているのが変だ、と言った。  ——カトリックじゃあないでしょう、と品田は聞いた。  ——諸派の一つというのかな、最近できた派らしいんですが。  ——おかしいな、疲れているかな。  ——どんな生徒でしたか、彼は。  ——望月諒太郎だとすれば、成績はなかなかでしたよ。東大の工学部と早稲田の理工科を受けて、すべったんです。二度目も同じところを受けて、駄目だったんです。  ——自閉的になりますね、浪人って。  ——性質ですね。  ——…………。  ——僕はね、男には三浪まではやらせますよ。  品田が強い調子で言ったので、柚木は瞬きしたほどだった。民俗学の研究にも倦くなき意気込みを見せているし、こうした教師は生徒の拠り所であろう。柚木にも頼もしい気分を起させた。……かつてこの人は休暇を利用して種子島へ出かけた時、急性の肝炎に罹って帰ってきたことがあった。市立病院へ入ったが、そこの医者たちが適切な治療法を知らないほどの奇病とのことだった。入院も長く、二箇月に及び、品田さんはいけないんじゃないか、という噂さえ耳に入ったのに、一旦立ち直ると、元と変らないタフガイに戻った。  その飲屋で、柚木浩は品田嘉一の弱い部分に触れようとして、病気の話もしてみた。すると、患う肝臓を手で抑えて、真昼の砂丘を登って行く夢を見たことなども話した。白い砂丘のある海岸が、彼の故郷の村だった。しかしそんなことを話しても、言葉を裏切って、底から持ち前の活力が湧いていた。この押してくる感じは、彼に独特だった。  二十日間ほど、柚木が毎日池を散歩しても、その二浪の生徒には会えなかったので、何度か思い出してはいた。そして彼が、主君の手紙を運んでいる足軽のようにつつしんだ様子で、うつむき加減に、葦の叢を回って現れた時、こちらから声を懸けた。  ——君は望月さんていうの……。  ——そうです。  ——大井川町だそうだね。品田先生に聞いたよ。  ——…………。  ——毎日来るの……。  望月は頷いた。  ——バスで……。  ——自転車で来ます。自転車を池の入口に置いて、走り始めるんです。この間は自転車とウインドブレーカーを盗まれたりして……、と彼は苦笑した。  ——悪い奴がいるな。  ——ベンチで休んでいる人がいましたが、その人じゃあないかと思うんです。  盗難のことを話してしまい、望月は恥かしそうな顔になった。ふっと、彼の肌が少年らしくなく、窶れているのが柚木には見えた。しかし、水洗いを重ねた木棉の素布のようで、親しみも感じさせた。  ——マラソンのいでたちだからね、と柚木は言った。  ——こうしたほうが、気持がいいもんですから。  ——今日はどうしてあるの。  ——上衣ですか。自転車の籠に入れてあります。自転車には鍵をかけましたが。  ——着替えをしたら、おでん屋へあずけるんだね。  ——おでんを食べなきゃあなりません。  ——おでんは要らないかい。  ——要りません。  ——この間の、キリスト教の話ね、その後どんなふうに考えた。  ——話したいことがありますが、話してもいいですか。  諒太郎がそうことわったのは、時間がもらえるか、という意味だった。諒太郎は、柚木が小説を書いていると知っていたが、それに途方もなく時間をかけていると想像しているのかもしれなかった。  諒太郎は、自分で話したいと言いながら、しばらく黙っていた。その時二人は高台の縁を歩いていた。頭上では桜並木の葉が翻り、しきりに散っていたので、貯水タンクに身を寄せた。風は眼に見えるだけになった。向いの山腹では、厚い緑が揉まれていて、その尾根から吐き出された鳶が、細部をきわ立たせながら、眼の下へ滑走してきたりした。柚木には、少年が風景に眼を浸しているのが判り、自身の少年時代につながる脈が感じられた。他ならぬ、この風景が自分の感性を養ったのだ、と柚木は思い当った。  ——キリスト教は一旦打ちきります、と諒太郎は言った。  ——そのほうがいい。  ——柚木さんの言うように、深入りする楽しみを、将来にとっておきます。  ——僕は君の体験を面白いと思うんだ。キリスト教のことを、好きか嫌いかとしか考えないのが今の日本人だからね。これは一体何か、というのが本当だと思うんだ。  ——姉が自殺したもんですから、死って何かと考えたんです。  ——え、自殺したの、お姉さんが。  ——そうなんです。  ——最近……。  ——二月半になります。  ——…………。  ——柚木さんが、まず大学へ入ってしまえと言ったでしょう。言われて、決心がついたんです。  ——十人中九人はそうアドバイスするだろう。あの時にはもう、君自身決心をつけかけていたんだろうよ。  ——あの時には、死について考えようと思っていました。死について何かが解ることのほうが、大学なんかより重要だと思っていました。  ——大学のほうが重要だよ、と柚木は心にもないことを言った。  ——そうでしょうね。姉のことがあったもんですから。……この時間は明るいですね。  ——池のほとりにいる時間かい。  ——そうです。  ——勉強ははかどっているの……。  ——今ははかどっています。一時間ぐらい続けていると、冴える時間が来ます。一つのことをやっていて、関連することが総体的に見えてくるような。  ——大したもんだ。勉強の時間だって明るいじゃないか。  ——薄暗いですね。薄暗いから嫌いだってわけじゃあありませんが……。  ——…………。  ——僕は薄暗い中で考えていると落着きます。数学を考えるのが一番好きです。本も数理を含んでいるような本が好きです。  ——ともかく、死のことは考えないほうがいいな。  ——死は数学と似ています。  ——…………。  ——死のことを考えていても落着きます。死は無だからでしょうかね。  ——数学以上に抽象的だって意味かね。  ——そうです。僕はナマ身の自分が嫌いなんですかね。自分のことを、ヒドラのようなものだって思うことがあります。  ——厭なことは敬遠したほうがいい。ナマ身の自分と直面するのは避けたほうがいい。数学を考えていれば落着くというんだから、結構なことじゃあないか。数学を考えればいい。  ——…………。  ——死を考えるのはやめてね。  柚木がそう言って笑うと、望月も釣られて笑った。諦めの微笑のようでもあったが、しかし、いい笑顔だったので、柚木は功徳を積んだ気がしたほどだ。望月と逢えたのは幸だった、と思った。  柚木は望月の家のありかを訊ねた。大井川の河口へ出かけることがあるので、その折りに訪ねてみようと思ったからだ。  勉強の邪魔にならないようにと、二日前に電話して出かけて行くと、彼は薄暗い離れに陣取っていた。古い建築で、もとは蚕室だったとのことだった。黒光りする太い梁の下に、デコラ張りの小さな机をおいて、瘠せた体にさえ隠れてしまいそうな小さな回転椅子に腰掛けていたが、池のほとりで見るのより、余程貫禄がついていた。まわりにある本のせいでもあった。数学や物理学の本が四、五十冊あった。柚木にもなじみの学芸の叢書も二百冊ほど並んでいた。聞けば、一冊一冊買って行ったとのことだった。本が生きているおもむきだった。それに柚木は、こうした採光が好きだった。河口は海とほとんど同じ平面に展けていて、晴れる秋には特に明るかったから、光がその暗箱を取り囲んで犇《ひし》めいていた。  望月はアムステルダム版のゴッホの画集を持っていた。親戚に農業の海外研修に行った青年がいて、買ってきてくれたと言った。総目録でもあったので、柚木はずらりと並んだ小さな白黒写真を、一点一点見ながら、  ——この辺、自画像をたくさん描いているね、と言うと、  ——パリに滞在した時ですね、と望月は応えた。  ——自閉症だったのかな。自分を睨みつけている。  ——自分を刺しているようですね、視線が。  ——囚われの鳥って言ってるね。  ——…………。  ——ゴッホはそう書いているんだ。  ——ゴッホは体をこわしたでしょう。胃を悪くしてしまったんですってね。この眼で自分の胃をついばんだように思えます。  ——野獣のように、部屋の中を歩き回っていたんだろうね。  光が赤味を帯び、室内の影が濃くなると、柚木は、自分がここに来た目的を思い出した。大井川河口の東寄りを、実地に確かめておきたかったのだ。柚木がその目的を言うと、望月は、行ってみよう、自分も一緒に行く、と言った。  二人は夕日を浴びて、川沿いに海へ向って歩いた。堤の上には風があったので、河原に下り、柔らかな沖積土の条をたどるようにした。薄の穂はまぶしかったが、足もとの蔭の中では虫が鳴いていた。  ——小説家は大変ですね。  ——足で稼ぐんだからね。  ——今から川尻へ行くのは遅すぎませんか。  ——夜になったっていいんだ。夜の場面を描きたいんだから。君の勉強の邪魔にはなるだろうが。  ——そんなことありませんよ。  ——この辺をジョギングしてもいいじゃないか。この辺のほうがいいくらいだ。  ——池へ行きたいんです。僕は東高にいて幸せでしたからね、高等学校の時です、僕が人と本当に融け合っていたのは。  ——人と融け合うのは、これからじゃあないか。  ——いや、東高の時が最高です。あとはその感じを鈍く反覆するくらいなものですよ。  ——心得違いしているぞ。  ——なぜですか、と望月は声を顫わせた。  ——人間は変るものなんだ。僕だって変ってきたし……。  ——柚木さん、生きる勇気って何でしょう。  ——僕には解らない。僕はその言葉を使ったことはない。  ——絶望を認める勇気なら解りますが……。  ——絶望を認めるのに勇気が要るのかい。  望月はふっと黙った。おとなしく、しかし頑なにその先を話すのを拒むようでもあった。柚木はこの少年に見透かされたように感じた。もっと言いたかったが、平凡な意見になるだろうと思えて、言わなかった。そんな意見なら、この少年は既に遭っているだろう、様子を見よう、と尻ごみした。  川の水は坦らだったが、行く手には海が騒いでいた。波はかなり高かったのだ。白い潮の紐が、飽くことなく川水にからんでいた。明暗が険しい波に押しあげられそうになって、漁師が一人網を打っていた。何回も打っては、網に引っかかるゴミを取りのけていたが、一度大きな鯛をあげただけで、それからも徒労が続いた。  ——帰ろうか、と柚木は言った。  ——夕飯は家で食べて行ってください。  ——迷惑だろう。  ——迷惑なことなんかありません。  ——このまま帰って、今夜は書き始めたいんだ。  二人は別の道をたどって、望月の家に向った。途中小高い墓場の下を歩いている時、望月は言った。  ——姉は睡眠薬を呑んだんです。  ——つらいことがあったんだろうね。  ——売れ残ってはいましたが。  ——…………。  ——姉が死んでいた朝、僕は謎を感じました。  ——御両親には相談していたの、悩みを。  ——さあ、自分たちの人生は失敗だった癖に、ひとにお説教する、なんて言ってましたが。  ——そんなことなら、大抵の娘さんは言うよ。  ——僕もそう思っていました、冗談だって。  ——…………。  ——両親に対する不満じゃあありませんよ。  ——…………。  ——柚木さん、姉のことに興味がありますか。  ——興味……、興味っていうか、思い出すことがあるな。  ——思い出すこと……。柚木さんも自殺しようとしたことがあるんですか。  ——まさか。  ——僕は姉のことに興味があります。  ——…………。  ——自殺者のことをいい加減に片づけますね。数の原理のようなもので、気がつかなければ見すごしてもいいんでしょうが……。死は自分の投影でしょうかね。それが、その人にとっての死の姿なんでしょうかね。  ——解らないよ。何にせよ、或る日、向うから来るものだろう。  ——無自覚な死ですね、それは。  少年らしくないことを望月が言ったせいもあって、柚木は突然腹を立てた。  ——自殺者の考え方の欠点は、窮屈なことだ、と柚木は、考えもせずに口走った。  ——キリストはどうなんでしょうか。  ——キリスト……。  ——キリストも死を選んだんでしょう。  ——そのことか。しかし、自殺じゃあないよ、キリストは。  ——定義は何だっていいんです。  ——…………。  ——キリストは死を希望と見ました。  ——そんなことはない。死刑を避けたかったんだよ。  ——それならなぜ、二年も前から死に様を心に描いていたんですか。惹かれたんじゃあありませんか、死に何を含めようと自由ですから、絶対的な自己の投影ですから。  望月は気持を昂らせているようだった。声は反対に低くなり、かすれた。その声が柚木には重荷に感じられた。体の奥に響き、痕跡のありかを指すようだった。彼と一緒に大井川河口へ来たことを、後悔した。今夜はもう別れよう、と彼は思った。さっき別れると言ってあるのだから、別れたっておかしくない、と変に気を回したりした。  ——君のようなことを考えている若者がいるんだな。人間が怖ろしくなる。  ——どういうことですか。  ——七日後に池でそのわけを話すから、今夜は別れよう。  ——…………。  ——十八日の午後四時だよ。水門にいるから。  太い梁の下の静けさの中に、望月を残しておくのが、柚木には不安だった。漠然と自身の過去形をそこに残すようだった。あの少年は何処にいるのか。このことが、なぜこれほど俺の心に喰いこむのか。今までに身近かで二人、友人が自殺しているが、彼らに数々の誤りを犯したことを、今になって補償しようとしているのか……。しかし、それも一人決めの思い込みのようだ。そんなことを諒太郎が必要としているだろうか。そんなことが彼に通用するだろうか。大井川河口の場合は、あなたは何を死と考えているのか、あなたの死を思うように、と勧められているのに違いない。かつて散歩の途次、光の中の透明な薄暗がりに、美しいが、暗鬱な少年の使者の幻を見たことがあり、やがてその場所に望月諒太郎が現れたのは、内面と外在の符合のようにも思えた。  仕事に手こずってしまい、柚木の散歩は夜にずれこんでしまった。コースはいつもと同じだった。池の縁に最近こしらえた広いテラスには、落葉が目立った。舗装の上を這う様子は、海辺の蟹のようだった。吹き飛ばされた一葉が、外燈をかすめて舞いあがり、闇の中で遊んでいるのを、彼の眼はまるで翻弄されているように、追っていたりした。池では水鳥の鳴き声も葦の騒ぎにまぎれていた。柚木は水辺をしばらく行き、丘へ登って行った。吹きっさらしの遊園地を横切り、風の死んだ穴のような闇に入ると、一旦はぼやけた夢が、生き生きとよみがえった。その闇が夢の額縁になった。昨夜(といっても彼が眠っていたのは昼間だったが)の夢だった。……玄関に人が来たので、出てみると、望月諒太郎がいた。笑みを浮かべている。肌に弾力がなくて、少年らしくない皺が寄っていた。  ——寝不足じゃあないの、と柚木が訊くと、  ——ゆうべは寝つきが悪かったけど、五時間は眠りました。七時間寝ていて、五時間眠りました、と望月は言った。  ——…………。  ——消耗体質ですから、と彼は右手でパサパサした顔を擦った。  左手には大きな鞄を提げていたが、チャックが開いていて、中は空《から》なのが判った。  ——旅行に行きます。五日後に池で会えなくなりました。  ——会うのは旅行から帰ってからでいいよ。  ——…………。  ——電話してくれ。  ——ええ。  ——荷物を持たないで行くのかい。  ——荷物は要りません。香りのする花の実を摘んでこの鞄に入れます。  ——採集か。  望月は頷いた。  ——毒の実は摘むなよ。  望月は笑っただけだった。そして、少し口を開いたままで柚木をうかがっていて、立ち去った。気に懸ったので、柚木が草履をはいて外へ出ると、玄関のたたきの向うに、勾配のきつい石段が下っているのが判った。六、七十メートルもあろうか、望月の後姿はすでにその中途にあった。左肩を怒らせ、鞄をたくしあげて、まっすぐに降りて行った。旅の思いに気を奪われている様子だった。やがて降りきって、薄の原に頭が見えがくれしている時、柚木の視線を惑わすように、鳶が石段をかすめた。柚木は邪魔になるその背を見ながら、目醒めた。  胸騒ぎがこみあげるのを忘れようとして、柚木は真暗な一隅から出て、波打っている竹藪の下へ入り、丘の頂上を目ざした。夢の細部が交替して浮かび、そのたびに、まだ見きれないものが潜んでいる気がした。しばらくは自己格闘している思いだったが、頂上へ出るとかなり解放された。そこには、藤枝東高校のグラウンドの照明が届いていて、耳を澄ますと、風の騒ぎの中にボールを蹴る気持のいい音も微かに聞えた。響きは、少年の体のバネを暗示して、緊密に感じられ、そこが望月のような若者が生い立つこともある庭であるのが、奇異に思えた。  手こずっていた原稿を書き終えてから、柚木は秋田県の高校へ行った。ある出版社の依頼を受けて、講演するためだった。列車に乗ってから、彼は魔に魅いられているような気分に陥ってしまった。その魔が執念深く、彼の眼前の計画をつき崩そうとするので、一旦構想した講演の内容が空疎に思えてならなかった。  演壇に登り、読書のことなど三十分ばかり話したところで、彼は堪えられなくなって、一応それまでの話の区切りをつけ、別の話に入ってしまった。  私がこれから言うことは、高校での講演としては不適切だと思う。しかし〈私の少年時代〉という演題には正直だ。私は幸に浪人することもなく、上級の学校に入ることができたが、ノイローゼに陥っていた。原因は一口には言えないが、戦争の脅《おびや》かしが重荷だったこと、それをくぐり抜けると、重圧からは解放されたが、道が判らなくなってしまったこと、それから、勿論受験勉強の無理などが思い当る。ノイローゼに陥った私が好んだのは——好んだというより、それだけしかできなかったのは、文学の読書、自然を眺めること、それから絵を描くことだった。今振り返ると、いかにも私だという気がする。この三つは結局一つだともいえるが、特に自然と絵への愛は結びついていた。絵の道具を持って自然の中を歩き回った。ある日、地方鉄道の停車場の近く、池のほとりで死を思ったことがあった。自分としては、絵がうまく描けた時だった。まず胸が明るくなり、一気に体中が明るくなった。気持はゆったりして、とても自由だった。そして、自分がそれまで死について思いあぐねていたことを、夢を思い出すように、思い出した。私はうっとりして、衝動的にカンヴァスを切り裂いた。投げたカンヴァスが、木立ちの中を旋りながら滑走して行き、一本の幹にぶつかってその根元へ落ちたのが、今も眼に残っている。  後になって、私は思った。あの時自殺が脳裡をかすめた、と。言うまでもなく、自殺を思うことと自殺とは別だ。たとえあの時、私に恍惚がもっと強く襲ったとしても、死になどしなかったろうが……。  今や、それも遠い想い出となった。過ぎ去ってしまった喜びと思える。何であったかも、いくらか説明できる。私は孤独地獄に嵌りこんでいたと言える。  自然に対しては心が開いていたとしても、人間に対しては閉じていた。解りにくい言い方かもしれないが、自分の中で自分が宇宙衛星のように強制的な軌道を回っている状態だ。そこから外れるためには、大きな力が要るように思えた。読書も役に立たなかった。私は家族とも睦み合いたかったし、友達とも交流したかった。本来そういう存在なのに、頑なに他者を拒んでいた。世間をののしって、奴らは肌と肌を擦り合わせて安心している平和な家畜の群れのようだ、などとノートに記している。私は自分の偏見の復讐を受けた。君たちも、かつての私のような状態に陥らないとも限らない。若さ故に陥りやすいとも言える。  講演が終り、宿所に入った柚木は、反芻して、趣旨が少し違っていたと思った。話の結論は、だから孤独地獄を警戒し避けるように、ということだったが、今の柚木自身には、そのように割り切れはしなかった。あの時俺が感じていたものは、〈我《が》〉だった。少量の劇薬の感じで、全身に回っていて、容易に抜けそうもなかった。しかも、俺は抜きたがってはいなかった。その作用であるあの予期を越えた照明を、のちのちまで惜しんでいたフシがある。選びとった物を、制御できなくなっていたと考えたほうが当っていよう。現在も、それは苦しみの素ではあるが、回心すまいとする気持がはっきりしているではないか。  秋田県から戻ってきた柚木に、細君は望月が訪ねてきたことを告げた。瘠せた若者が、長い腕を力なく垂らして玄関に立っていた。眼が輝くので、わたしはたじろいだほどだった。名前を訊いて、あがってもらい、お茶とお菓子を出して、話をした。あなたは成績も良いし、本も随分お読みになるんですってね、と彼女が言うと、このごろは勉強もとどこおり勝ちだ、死んだ姉に取り憑かれたような具合になってしまった、などと彼は話した。最初の印象は和《やわ》らいで行ったが、正常な若者だとは思えなかった。艶のない顔はそのままだった。眼の輝きはひそみ、放心して一点にとどまってしまうことが多かった。痛々しくて、慰めようがない感じだった。彼が引きあげようとして、玄関で、家の飼犬を眺めているうちに、興味がつのったらしい、歩み寄って、柵ごしに撫でていたが、ことわりもしないで、柵の中へ入って行き、しばらく犬と遊んでいた。彼女がその様子を見守っていると、今度は、犬を散歩に連れて外へ出てもいいかと申し出た。細君は、結構ですよ、と応えた。犬がとびきり元気だったので、引っ張られて、彼も一時勢いづいたように見えた。しかし、散歩から戻った時には、やはり顔色が悪かった。走ったのだろう、乾いた息を弾ませていた。ジョギングしている時にもあんな具合なのだろうか、と細君が訊くので、  ——そんなでもないがな、と柚木は言った。  ——陥ちこんだのかしら、ここへ来て。  ——…………。  ——生活の仕方を間違えているのかしら。  ——かしこい子だからな、きちんと考えているんだ。健康状態も悪いとは見えなかったが。  ——悪いわ、きっと。  約束の日に望月が池に来なかったので、夜になって、柚木は望月に連絡してみた。電話すると母親が出て、沈んだ声で応え、待ってほしい旨を言って、代って電話口に出た父親がその死を告げた。  受話器を置いて、柚木はしばらく黙ったまま、動かなかった。  ——望月君が自殺したって、と細君に言った。  彼女は電話のそばにいたから、もう察していた。  ——なんだか生きているのが辛そうだったもん。  ——俺にはそうは見えなかった。  ——変ね。  ——しかし自殺しそうだとは思った。俺には自殺するってことが解っていたのかもしれない。  ——…………。  ——死に関する話は随分していたけれど、俺の聞き方が間違っていたんだ。俺は望月君のことを心配しないで、彼の言うことを合点しようとばかりしていた。  ——合点しようとねえ……、と細君は不審気な顔をしたままだった。  品田嘉一の車に乗せてもらって、柚木は死者の家へ急いだ。道が松林に入ると、滅多に他の車に会わなくて、ライトが闇を拓き続けた。望月は奥深い辺鄙な所にいたんだな、と今更のように柚木は感じた。  ——自己解体を怺えていたってことなんでしょうが、若いと正直なんですね、あっさり敗北を認める、と品田は言った。  ——いや、手強い少年ですよ、と柚木は言った。  ——私も、手強いってことは認めますがね、それを押し通してほしかった。  ——品田さん、望月少年は最後まで手強かったと思うんです。  ——姉さんを愛していたから、がっくりきた。  ——単にがっくりきたんじゃあなくて、死の面白さが解ったんだと思います。  ——…………。  ——死を考える面白さですが……。  柚木の予想通り、若者の顔かたちは真新しい木彫のように引緊まり、皮膚には澱みがなかった。彼にのしかかるようにして、一人の老人が祈りをとなえていた。長い数珠を揉みながら、突然、死者も驚くほどの大声をあげ、あとに声の尾がいつ果てるともなく続いた。ついに消え入りそうになると、また大声で気合いを入れた。その様を見ながら、柚木はまた辺鄙な海岸を感じた。死者にふさわしい場所とは思えなかった。  望月諒太郎の母親は打ちひしがれていて、動かなかった。父親が黙って、大学ノートを品田と柚木に回してよこした。おろしたての一冊で、第一ページに〈今精神は透明だ〉と律義な楷書で書かれていただけだった。  後に品田嘉一と柚木浩が、柚木の書斎で飲んだ時、  ——〈今精神は透明だ〉というのが望月のプライドですな、と品田が言った。  ——実感でしょう、と柚木は言った。  ——実感があったことを、ことさら書くのはプライドでしょうが。学校でも矜持を忘れたことがありませんでした、あの男は。最小限の言葉にしろ、あれでもって自分の消滅を飾ったんですよ、と品田は言い、自分の言葉に胸衝かれて涙を眼に浮かべていた。  しかし、柚木は、  ——品田さん、矜持ではありません、と重ねて言った。 [#改ページ]   逸民  堤肇と知り合いになったのは、散歩の途中でにわか雨に遭って困っていた私に、彼がビニールの風呂敷を貸してくれたからだ。その時私は、山道を歩いていて、とりあえず樟の蔭に入り、雨をやりすごそうとしているうちに、葉からしずくが落ち始めるほどになっていた。そこへビニールの合羽を着た彼が降りてきた。雨でかえって弾みがついている足取りだった。笑いかけ、乾いたビニールの風呂敷を差しだした。私はそれをかぶって木蔭を出た。二人は並んで行き、麓の池を半周して町へ入った。熱いコーヒーを飲みませんか、と言うことになった。喫茶店に坐ると私は言った。  ——眼がいいんですね。  堤が、あなたの姿は時々見かけますよ、と言っていたからだ。  ——僕の方は、あなたの姿を一度も見かけなかったのに、と私が言うと、  ——あなたは大方俯いて歩いていますからな。私の眼は外に向いていますからな、と堤は言った。  ——僕は物思いに耽っているように見えますか。  ——見えますな。  ——見られてばかりいたのは残念ですね。  ——道がいけないんですよ。ゆるいジグザグのところがあるでしょう。上の方にいると僕の眼には下が遠くまで見えるんです。  それから堤は、蜂の巣のありかとか駿河湾の広い眺望が得られる地点、風の吹き抜けるコースとか、雨の後には水に中断される道など、私の歩く範囲を越えて、くわしく教えてくれた。自分は散歩歴十年で、遠出をすることもあると言い、いくつかの出来事も楽しそうに喋った。  ——堤さんは、どこの出身ですか。  ——福岡県です。満州へは行きましたがね、終戦で福岡へ帰って、この町へ移ったのは十三年前ですかな。  ——この辺が物めずらしかったんじゃあありませんか。  ——歩き回ったことですか。うん、最初はその気持もありましたな。  ——僕なんか較べものにならない、よく知っていますね。僕はこの近所にずっと住んでいるんですが……。  ——池のあたりだって十年前の方がよかったですな。自然のままでしたし。  ——僕はここで生まれましたから、五十年前も知っていますよ。  ——これは参った。さぞすばらしかったでしょうな。  ——淋しすぎましたよ。夜なんか真暗でしたから。  ——いいじゃあないですか。五十年前の様子を見てみたかったなあ。  ——僕はね、池の縁を通って中学校へ通ったんですがね。あのほとりでね、山本五十六元帥の後任の古賀司令長官だったかな、死んだことを友達から聞いた覚えがありますよ。自殺らしいと言っていました。  ——古賀さんか、そういう人がいましたな。  ——黒い牛が疾走していたこともありました、朝日を浴びて。  ——どうしたんですか。  ——手綱を振りきって逃げたんでしょう。  ——なるほど。  ——冬になると、白鷺が知らん顔をして立っていましてね。  ——鷺なら私も池で見ましたな。十年前にはまだ池にいましたな。最近来なくなった。町には今でも舞ってくるでしょう。掘割りなんかにいますよ。人間を怖がるわけじゃない。どういう関係で池に来なくなったんでしょうかな。  ——岸をしっかり固めて、洲がなくなったからじゃあありませんか。  ——そうですかなあ。  ——餌の関係でしょうか。  雨があがったので、ビニールの風呂敷を堤に返して、別れた。私は一人で家へ向って歩きながら、彼が散歩歴十年、私が二年半であることを考えた。彼は毎日歩いているのだろうか、今日初めて気づいたのが不思議だ。自分はそれほど内面に沈潜しているわけでもないのに……。むしろ人目には神経質で、結構敏感だったつもりなのに……。あの人は人目につかないタイプだからな。小柄ですばしっこく、藪なども器用に踏み拓けて通りそうだ。草木にまぎれて動いている、山林見回り役の観がある。  それにしても、彼が私の郷里の自然をあれだけ愛しているのは悪い感じではなかった。……五十年前の様子を見てみたかったなあ……か。ごく少数ではあるが、この土地が好きで、土着人には解らない一種新鮮な見方をしている外来者がいるのらしかった。  鷺のことを思い出したのも、小さなこととはいえ、収穫だった。中学に登校する私は、この辺ではいつも速足か駆け足だったが、鷺を無視していなかったわけだ。往時のかいつぶりも思い出した。池はヒドラ状の大きな溜り水だったので、光の細波が氾濫し、鳥たちは影にすぎない朝もあった。それにしても、今では、鷺も見かけないし、かいつぶりもほとんど見ない。なぜだろうか。最近ここに放し飼いにしている鵞鳥とあひるとおしどりのせいかもしれない。特に鵞鳥のせいか……、それはあり得る、と私は思い当った。  鵞鳥は七羽いたが、池は広いので、それぞれが宰領する面積に不足はなかった。一羽ずつ——春には二羽が対になって、十羽ほどのあひるを従え、わがもの顔に泳いでいたり、岸に立っていたりした。縄張り意識が強く、互いに喧嘩していることも稀にあったし、通行人に挑みかかることはしばしばだった。私も攻撃を受けたことがあった。歩いて近づいて行くと、けたたましく鳴き始め、横を向いたままで威嚇している。かまわず近づいて行くと、岸にあがり、みだらな感もある顔を地面すれすれに下げ、血走った眼を据えて正面から突撃してくる。こちらがかまわず通り過ぎて行くのが、逃げる恰好に見えるのか、また思いきり背伸びをして追い立てるように鳴き続ける。  それでなくても私は、鵞鳥も、それからあひるもおしどりも好きではない。在来の野鳥——鴨やくいな、かいつぶりなどに惹かれ過ぎているせいもあって、余計な新参者の感を抱いてしまう。鴨は鵞鳥たちの後について泳いでいることもあった。特に好ましいのはくいなで、葦の根方の薄暗がりにひっそりと動いていた。形も緊まっているし、動作も機敏だった。  鵞鳥に攻撃されたあとで、思い出したことがあった。学生時代、私は国電の大森駅近くに下宿していたが、ある朝、新調の背広を着て駅へ急いでいると、進駐軍家族の男の子が自転車でうしろから近づいてきて、タイヤをことさら私のズボンにこすりつけるようにした。私は振り向いてその子を殴った。予期を超えた手応えがあって、自転車はよろけ、その子は地面に這いつくばってしまった。それでも目を見張って、私を睨んでいたのは、さすが外人だと、妙な感心のし方をしながら、あたりを見回すと、日本人の用人やメイドが四、五人並んで、憂わしげにこの出来事を見守っていた。その辺は屋敷町で、当時は米軍に接収されていた。私が殴ったのは、いわゆる進駐軍高官の息子かもしれなかった。  池の回りを歩いていて、鵞鳥と睨み合っている青年と出くわしたことがあった。女竹を握り、つっかかってくる鳥と一進一退のありさまだった。私は近くへ行き腕組みして、様子を見守っていた。一見ユーモラスだったが、しばらく見ていると、青年が意外に真剣なのが判った。女竹を鵞鳥の前に突き出す時には、歯の間から短い息を音をさせて吐いていた。鵞鳥はだんだん後退して、無器用な足取りで水に入り、そこで大声で鳴いていた。  ——ざまを見ろ、あの野郎、とその青年は言った。  唇からも血の気が引き、眼だけが濡れて光っていた。事態を沈静させなければならないと私は思い、  ——今何時ですか、と訊いた。  彼は分厚い腕時計を目の前にしばらくかざしていて、  ——今か、四時二十分だが、と言った。  何でこの際時間か、といった応じ方だったので、私は自分が一応の言葉遣いをしたのを悔いた。ところが、彼は突然人なつっこくなって、寄り添ってくる態度をとるのだ。  彼は、真緑のランニングシャツに真赤なパンツをつけ、がっしりしたジョギングシューズを穿いていた。青年なのだろうか……、少年のようにも見えた。振舞い方は少年だったが、よく見ると体は二十代後半の感じだった。  彼と並んでしばらく歩いた。  ——あの鳥は邪魔になってたまらん。消そうかなあ。僕は毎日この池を三周か四周するんだから。  ——走ってかい。  ——走ったり、歩いたりだよ。見たことがあるだろう。  ——今日が初めてだな。いつごろから回っているの。  ——三月前からだよ。僕はおじさんを見たことがあるよ。……おじさん、仕事をしてないの。  ——しているよ。  ——そうか、仕事がないように見えるけど。  彼は駆け足に移り、私は池を離れて坂道を登って行った。山を登りきると、その日は風があった。風に真向うと、緑の中を遡っている気持になるのが爽かだった。葉擦れの音は海の波の音よりも柔らかだった。両側から木立ちが迫っているはざまに、雉鳩が姿を現した。静かで、池のほとりの鵞鳥の大騒ぎが耳に残っていたから、余計惹かれた。  池のほとりを歩いていれば、何人かの人に逢うのは避けられない。遊歩道であり、ジョギングコースなのだから。しかし、山道へ入って行くと、逢う人はぐっと減った。足を伸ばして、低い尾根を越え、その奥の高い尾根を目ざせば、人に逢うことは滅多にない。  私は池のほとりも嫌いではなかったが、堤肇は山のみを愛しているのらしかった。彼が話したところによると、その健脚ぶりは、私など到底較べものにならなかった。驚いたことに、私はその後、標高五百メートルの山頂で彼に逢っている。その山は彼と私が住む町から二十キロも離れていて、少し前テレビの中継塔の工事の際、頂上まで車が行けるようにした。私がその悪路を車で登り、広い視界に満足していると、かたわらの祠の台石に腰を下ろして笑っている男があった。私は改めて堤肇を眺めた。日に灼けて引緊まり、まさに鳥人体質だ。  ——朝目を醒まして、今日はひとつ登ってやろうと思いましてね。麓まで自転車できたんです、と彼は言った。  この山の一端は海からそそり立っているほどだから、彼は五百メートルをそっくり登ったことになる。私が中学生だった頃には、最上級生の年中行事として、この山への行軍があったが、テントを携えて一泊の行程だったのに、私が彼と山頂で出会ったのは、まだお午《ひる》を回ったばかりだった。  ——堤さんはお仕事はしていないんですか、と私は訊いた。  ——今は休職中ですな。年金が下りるもんですから、どうやら過せますからな。歩くのと、本を読むのが日課ですわ。  ——結構ですね。  ——結構ってことはありませんよ。女房も亡くしてしまいましたし。  ——子供さんは……。  ——娘がいます。学校出て就職しましたよ。今のところ、あなたから、書くのを抜いた生活ですわ。あなたはかなり書いていますな。駅前にあなたの本を揃えている本屋があるでしょう。実は、ご一緒にコーヒーを飲んだ日に、あなたの本を二冊買ってきて、読みましたわ。  ——ありがとうございます。面白くなくて、がっかりしたでしょう。  ——へへへ、そうでもありませんがな。しかし、この辺のことはあまり書いてありませんな。〈幻の宿場〉というのは、あれは面白かった。その昔、深い軒の家並みの間を、馬車や乗合自動車がくぐり抜けて行き、去ったあとにはしばらく土埃の濁りが立ちこめていたものだというところは、なつかしい気がしました。  ——堤さんも馬車を知っているでしょう。  ——知っていますとも。……他にもっとこの辺のことが書いてある本の題名を教えてください、買って読みますから。  ——≪鳶と鳶色の崖≫ってのかな、随筆集です。差しあげますよ。いつでもいいから、家へ寄ってください。私の家を知っているでしょう。  ——貰っちゃあ悪い。  私はかまわず、わが家のありかを彼に説明して、寄ってくれるように言った。  ——≪マンドラキ≫ってのは読みました、と彼は言った。  ——ははあ、あんな本を読んでもらえたんですか。到底読んでもらえないと思っていましたが。  ——なぜですか……。村人たちが慈悲心を起すところがありますな。それで、病人という病人をあずかってやる。近在の病人が集まってくる。そのうちに、病人の一人が、嘲笑されたと思って村人の一人を殺《あや》めてしまう。村中が怒り出す。病人たちは縮かんで行って、村人たちが包囲の輪をじりじり絞ってくるように思い、集団自殺するんですな。  ——ああいうこともあり得るように思えたもんですから。  ——あり得る……。  ——想像で書きました。  ——あったじゃあないですか、ガイアナに。  ——僕の場合は想像です。ガイアナ事件の前に書きましたからね。  ——あの話も本当にあったように思えますな。柚木さん、だれか中心人物がいるんですよ。その人が大勢をその気にさせて道連れにしようとします。そうなってきますと、中心人物は考えますよ。夜も眠りません。その人が考えに考えているうちに、まだバラバラの各人の気持がその人に集まってきます。そこでその人は決行します。決行する段になると、またいやがる者が出たりして、ごたつきますがな。  ——…………。  ——私は経験しているんです。  ——戦争中ですか、満州で。  ——いやあ、戦後ですよ、三十一年だったかなあ。  ——…………。  ——福岡で気の毒な連中ばかり集まっておりましてな。私もよう酒を飲んでいましたし、ヤクもやっていたんですが、ある晩、半分は冗談ですな、みんなで死んじまおう、と言ったんです。仲間には、進駐軍のトラックにはねられて植物人間になってしまった男のつれそいもいました。女はその人が一人でした。他にも、苅田って港の工事で、ブロックに両手を挟まれてしまった指無しの人夫もおりましたっけ。そんな連中が集まった席で、確か一遍はそんな気になったんです。その夜は解散したんですが、それからですよ、私は決行のしかたを考えましたな。考え始めると止りませんな。他のことは全然頭になくなっちまう、ご存知でしょうが。  堤に〈ご存知でしょうが〉と言われて、苦笑しながら、  ——解るような気もしますね、と私は曖昧に合槌を打った。  ——次の日の夜に会合した時には、連中は前夜の気分を大分忘れていたようでした。死ななくても……、と思っていたんでしょうな。しかし、私は主張し、それから後もずっと、みんながふんぎりがつかないのなら、会合の夜、自分は戸外にいて、会合場所をぶっとばしてやろうとして、手順を練ったんですわ。  ——ぶっとばすというのは爆破ですか。  ——そうですよ、ダイナマイトでね。  堤は笑いながら話したし、環境ものどかだった。きびたきだろうか、小止みなく囀っていた。私は不即不離の気分でその話を聞いた。話が一段落して、私が車に同乗しないかと誘うと、堤は手を鼻先で振って、  ——車はどうも好きません、と言った。  私は彼を残して山道を降って行った。今更ながらその長い新道が気になった。自分の場合散歩は健康のためだった。それを規準にして考えるので、堤のあまりの健脚は中毒症状とさえ思えてきた。  私は、ともかく堤肇が好きだった。発見のように思えた。派手ないでたちの少年のような青年も好きだった。不精鬚が伸びているのに、子供のように澄んだ眼をしていた。短い立話をする時には、身を寄せる自然なしぐさをした。二回目に出会った時にも、三回目にも、時間を知らせてくれた。葦の茂み越しに私を認めると、反射的にあの分厚い腕時計を目の前にかざし、それから徐々に接近する運びになるのだ。  池のほとりでは、かなり人とすれ違ったが、知り合いになったのはこの二人だけだったし、堤肇は滅多に姿を現さなかったから、半月に一遍ほどのやりとりの相手は、少年のような青年に限られていた。  ただ以前からの知り合いが一人いて、会話することはなかったが、挨拶はした。この人は同じ町の老人で、その孫が小学校で私の息子と無二の親友だったのに、六年生の時から白血病のきざしが表れ、二年療養して亡くなった。自転車に乗って池へやってくるこの老人に、私は淋しさを見てしまい、心して挨拶することにしている。彼がパン屑をビニール袋に入れて提げてきて、鳥たちにやっていたことがあった。この時にも、執念深い私は、鵞鳥の態度に文句をつけたかった。パン屑がバラ蒔かれると、勢いこんで鵞鳥が走ってきて、その一帯を占領してしまい、あひるやおしどりを監督する。一羽のあひるは仲間に入れてもらえなくて、鵞鳥に突きのけられていた。  その時横合いから風のように近づいてきて、鵞鳥を蹴った男があった。鵞鳥は胸を張り、声をけたたましくして、男の足を避けて、パン屑の散らばっている所に戻ろうとする。しかし、男は機敏に足を動かして、そうさせなかった。池全体に響くほど、鵞鳥はわめき、右に行き左に行きして、隙をうかがったが、男は許さなかった。遂に鵞鳥はパンからしめ出されてしまい、孤立して、空に向って垂直に嘴をあげて鳴いていた。  この男が河北由太郎だった。後で判ったことだが、彼はマラソンの走者で、主として山の中を走ろうとしていた。池のほとりを走るのは稀だったから、それまで私は見かけたことがなかったのだし、その後もしばらく会う機会はなかった。  私が河北にまた出会ったのは、習慣になっている散歩のコースを変えたからだった。……一つ目の尾根に、山径が百五十メートルほど直線になっていた。そこは斜めに町を見下ろすテラスの形で、駿河湾全域も切れ目なく見えたし、富士山も正面に見える贅沢な径で、その時まで知らなかったことを悔みたくなるほどだった。そこへ二度目に行った時、河北由太郎の苦闘めいた走りこみを見た。かなりな勾配があったから、河北は練習にいいと思って選んだのだろう。百五十メートルを機《はた》の杼《ひ》のように往復するのだ。  私がそこへさしかかると、かなたから息せききって駆け下ってきた彼が、笑って会釈した。私は会釈を返し、腕を組み、彼の背が見る間に小さくなって行くのを見守っていた。背は一旦薄の株のむこうに消え、それから正面が現れ、見る間に大きくなってきて、私のわきを掠める時笑って会釈する。彼の汗が振りかかりそうだ。傍観者が見守っているのはわずらわしいだろう、申し訳ない気がして、立ち去ることにした。  翌日の散歩の時にも、私はその場所を回ってみることにした。河北由太郎はいなかったので、私は町を見下ろすテラスのような道をのんびり歩いた。あまり人が行かないらしく、道の中央には条《しま》になってかなり高い草が生えていた。その一箇所が踏みにじられていて、一羽の鵞鳥の死骸が転がっていた。更に行くと、今度は三羽の死骸が転がっているではないか。どの鵞鳥も頸を伸ばし、眼を見開いて、空気を裂いて鳴き立てている表情だった。自分たちはこんな状態で殺されたと、証拠をつきつけているようだった。私はまだ聞える声をまたいで歩いた。  勿論、この惨状は、立ち去ってからも気になった。しかし、怒りや悲しみがこみあげるという程ではなかった。嫌いな鳥だったからだ。それにしても、あの山中に、下手人が徘徊していると思うと、私の散歩の前途は翳ってしまった。人の心には、度はずれた憎悪が動くことがあると実感させられるのも、やりきれなかった。自分の動揺と並行して、皮肉にも、叫喚を道に描いてみせた鵞鳥も相当な役者だなとも思った。  その翌日は、仕事にてこずって、散歩はおそくなった。昨日のことが気に懸り、もう一度あの場所へ行ってみたいような、みたくないような気分で歩いているうちに、近くまで行ってしまった。もう薄闇がこめていた。ほっとしたことには、河北由太郎のスパイクの音が聞えたのだ。薄闇の中から汗みどろの体躯が現れてきて、折り返しながら、小石を踏む音をさせた。荒々しい響きだった。見れば笑って会釈している。私は会釈を返した。彼は徐々に闇に沈んで行き、スパイクの音だけがし続けていた。  私はそのコースへ踏みこむのを思いとどまり、引返しかけた。すると、スパイクの音が追いかけてきて、うなじに熱気が感じられた。間近に彼が笑っている。  ——練習、終りですか、と私は訊いた。  ——終りです、と彼は弾む息の下から言った。  彼にとってすぐに会話するのは無理だと思ったので、私が黙ってしばらく歩こうとすると、  ——今のコースを十七回往復します。五千メートルですよ、と彼の方から言った。  ——レースに出るんでしょうね。  ——やってみようと思っているんですが。富士五湖マラソンです。入賞を狙っているんです。  ——いつですか。  ——この十四日ですから、あと五日ですか、今は仕上げをやっているんです。三位までに入りたいんですが、目標を高くおくと、がっかりするでしょうから、と河北はかなり自信あり気だった。  ——テレビには映りませんかね。  ——山梨県だったら、ニュースで流します。前回は四位でしたけど、出ましたよ。その日を目ざして努力をしたことでなかったら、出たってうれしくはないでしょうが。  ——河北さんはその日を目ざしてまっしぐらに走っていますからね。  ——自分で工夫してやっているんですが、ここはきついんです。坂ですからね。少しきつ過ぎるかもしれません。  ——鵞鳥は目に入りませんでしたか。  ——四羽殺されていましたね。  ——まだありますか、あそこに。  ——ありますよ。あれじゃあ踏んじまいますよ。わきへどけて、走りました。  ——だれがやったんでしょうね。  ——人間でしょう。犬なんかじゃあないでしょう。四羽まとめてですから。  池のほとりへ下りると、河北は草むらに乗り棄ててあった自転車にまたがり、走って行った。ライトが水辺をたどっているのを見ながら、運動の選手としては孤独すぎやしないか、このやり方は、などと私は思った。  翌々日には、堤肇が私の家へ来た。  ——私はね、この土地に親しみを感じています。歴史のようなものも、できるだけ知りたいと思いましてね、と私が贈呈した≪鳶と鳶色の崖≫を抱えて、彼は改まった感じで言った。  ——古いことですね、どうも、あなたが好きなのは、と私は言った。  ——そうでしょうね。歩いていて何もかも忘れてしまいますと、自分が百年も前の時代に生きている気がしてきます。そんな気になるのは、自分が望んでいるからでしょうな。  ——…………。  ——いつの時代でもない、どこって場所でもない、ただひたすら歩いている自分がいるだけだという気持になります。精神統一がうまく行った時ですが。  ——自分も消えてしまいませんか。  ——そこまでは無理ですな。三、四日前もいい気持で歩いていたら、鵞鳥が四羽、死んで道に転がっていたりして、われに返りましたが。  ——僕も見ました。池の一番奥から登って、頂上のあたりでしょう。  ——集団自殺じゃあないかと思うんですが。  ——……まさか。  ——七面鳥がやったってことは読んだことがあります。クリスマスが近くなったころ、七面鳥の群れに恐怖が走ったんです。恐怖のあまり、そのまま死んでしまった群れもあるそうです。崖から次々と身を投げた群れもあるんだそうです。  ——その場合、舞わないんですか。  ——七面鳥は舞いますかな。もう翼も萎えていたんでしょう。下は淵だもんですから、溺れ死んだんだそうですよ。鵞鳥だったら、溺れることはできませんが、たとえば、絶食でしょうな。  ——絶食したんでしょうか、四羽は。  ——絶食が死因ではないでしょう。犬に噛まれたのかもしれません。しかし鵞鳥がまとまって、どうしてあんなに高い危険な場所にいたんでしょうか。連れて行くことはできませんよ。広い池に散らばっているんですから。  ——できませんかね。池のほとりで殺して、あっちへ棄てたのではありませんか。  ——水辺にいれば、奴らは強いんです。殺すにしろつかまえて運ぶにしろ、少くも池中が大騒ぎになりますでしょうが……。池から鵞鳥が姿を消した夜は静かだったそうです。池のまわりには人家が八軒ありますから、騒ぎがあれば、だれかが聞くでしょう。私が当った限りでは、だれも聞いていません。  ——鳴きも暴れもしないで姿を消したんでしょうか。  ——一晩で全部死んだんですよ。四羽ではありません、実は七羽だったんです。池に鵞鳥はもう一羽もおりません。  ——…………。  ——彼らは固まって、自分たちで山へ登ったんですな。人知れず一騒ぎあったとすれば、山においてですな。  ——何に脅えたんでしょうか。  ——人間でしょうな。奴らはへたに人間と関係したんで、まずいことになってしまったんですわ。大体鳥ってものは、人間なんかに心を許しませんよ。やさしくしてやればなついてくると言いますな。しかし、餌をくれるから、そばへ寄ってくるだけで、決して心は許してはいません。大体異種族には心を許さないんです。人間の気まぐれなんか、ちゃんと見透かしている、本当は怖ろしいもんだと。  ——それはそうでしょうが、具体的に鵞鳥を脅かした人間がいるんですかね。  ——と私は見ます。  ——…………。  ——鳥と人間の間には断絶がある、だから鳥は断絶を守っている。私はね、山奥へ寝袋を持って入るんですがね、その時その断絶を悟ったんです。目を醒ましたら、高麗雉が顔のところを歩いていました。朝日が射しこんで羽が輝いて、熱くて柔らかな宝石でしたね。私は動きませんでした。気だるさに身を委ねて、しばらく高麗雉を見ていました。自分とこいつと二人だ、声をかけたい、しかしそんなことをすれば忽ち飛んでいってしまう。当然ですな。こいつはこいつで自分の満ち足りた生を生きている、ちょっかいなんか出すな、出せないんだ、と考えましたな。  ——自然は常に正しいってことですね。  ——彼らの正しい本能は、人間を完全に避けることにある。ところが鵞鳥はお人好しなんですな、気を許して、人間にちょっかいを出した。  ——人間もちょっかいを出しましたね。  ——そうです。本当は、人間がちょっかい出したんです。ペットなんてものは、人間の自慰行為です。それが生物の運命を狂わせ、行きづまらせてしまうんですな。  ——絶望的行動に駆り立てたんですかね。  考えてみると、堤の振舞いは野鳥そっくりだった。話はときに熱を帯びることはあっても、立ち去るときはむしろそっけなく姿を消し、滅多にと言っていいほど、現れない。寝袋を持って行って山で寝ていることなど、たまたま口走らなかったら、気配には察せられない。彼の身だしなみは、野鳥のように、きちんとしている。  彼は話が区切りになると、野鳥のようにお茶をすすり、仰向いて喉仏を二回動かし、素速く立ち去った。それから今日まで、もう十二日経つが、彼には会っていない。  河北由太郎は富士五湖マラソンで二位に入った。レースのあった翌々日、池のまわりの道で、彼は遠くから私の姿を認め、手をあげた。そして、近づいて行く私を待っていてくれた。しばらく話して別れたが、私が驚いたのは、彼のその時の走り方だった。レースを目ざして練習していた時には、因果を感じさせるほど、苦しげだった。汗みどろの胸は少しゆがんだ箱、口も眼窩も穴のようだった。例の山道にはところどころに小石があったせいで、靴音はすさまじかった。特に薄闇で聞いた時には、その響きが耳についたものだ。しかし今は、彼には柔らかなバネが感じられ、音もなく、走るべく作られた有機体の感があった。  池にはもう鵞鳥はいなかった。出来事をうわさしている人がいないはずはないが、少くもそれが私の耳に入ることはなかった。この種の事件にしてはめずらしく新聞の地方版にも出なかった。私は二紙とっているが、どちらにも出ないで終った。  あひるの短い呟きと葦の葉擦れの音が静寂をきわ立たせている。私は勿論、連中が自殺したなどと思っているわけではない。どんなふうにして殺されたものか、知ってみたい気持もなくはない。そんな気持の下地がある時に、突然、少年のような青年のことが頭に浮かび、彼に対してやましい気がした。だから聞いてもみない。微かにしろ誘導を余儀なくされる言い方など、彼にしたくはない。彼は無垢な様子をしている。私を認めれば、腕時計を見ながら近づいてきて、身を寄せて時間を教えてくれる。意気ごんでいるのか、眼が一瞬輝く。その眼に彼のありのままがあらわれているが、それが何か、眩しい気がして私には読み取れない。 [#改ページ]   存在証明  柚木浩が喫茶店へ入ると、野沢静馬が三十前後の女と一緒にいて、自分たちの席へ来るように言った。野沢が言うには、この女性には主人があるが、今日は留守なので、主人の代理で自分と商売の話をし、終って一献かたむけたところだ、他の店で飲んでここへ移った、とのことだった。飲んでいるにしては、その席はぎごちなかった。女は黙って頬笑んでいた。努めて気を張っているようでもあった。明るくはない照明が、明るく感じられ、濃い化粧もしていないし、派手な服装でもないのに、彼女は彩色した彫像めいてくっきり見えた。柚木はこの印象を、飲みつけない酒のせいもあって、彼女としては、あばかれて場違いの感を抱いているからだろうと想像した。その夜、彼女とは話らしい話もしなかった。  十日ほどして、柚木は同じ喫茶店で野沢静馬と立ち入った話をした。その店はかなり広く、常連が集まる一隅はきまっていた。野沢も柚木もそこへ嵌りこんでいるのが常であったのに、野沢は遠い空席へ来るように促した。かつて野沢が女と向き合っていた席だった。彼が話したのは、彼女と遂に不倫を犯したことだった。一緒にドライブしていて、見くびられてはいけないと思い、ホテルへ入ったという。黙っていて普通なのに、わざわざ打ち明けた野沢に、柚木は親しみを感じたり、あるいは、結果は見くびられないで済んだことを報告したかったのかと思った。二十キロ離れた静岡へ出て同棲したという。  ——かなたには火がありましてな、と野沢は言った。  ——かなたに火……。  ——女房です。  ——結局、帰って、奥さんに謝ったほうがいいんじゃないかな。  ——かみさんに怒られて火傷を負ったっていいと思っていますが、決心がつき兼ねましてな。  ——惜しいって気持ですか。  ——どういう成行きになりますかな。  ——円満にやってくださいよ。  ——誰と。  ——奥さんとですよ。  ——僕はね、柚木さん、悟りかけているんですよ。  ——夢中っていうんじゃあなくて……、と柚木は不審に思いながら訊ねた。  ——これがですね、と野沢は言い、右手の小指を立てた。  柚木はその小指を見て、存在感があるな、なぜだろう、と余分なことを考えていた。  ——僕はこれの性質を見たいんです。だから黙って怺えているんです。自分を無にして……。  ——恋しているから、知りたいんでしょう。  ——好きなだけというのとは違います。あの女を通して、結局自分は一体何であったかを明らかにしたいんです。  野沢のこの発言には興味があった。柚木は自分の気持が色めいてくるのを感じた。しかし、野沢はちょっと黙り、時計を気にして、もう帰ると言い、柚木を中途半端な気分のままに残してしまった。  野沢の趣味は水彩画だった。車で出張した時沿道の風景をスケッチしてきて、かなり手のこんだ絵に仕立て、その喫茶店に持ってくることがあった。空いた椅子に絵を立てかけて説明する時には、形とか色の話は少く、この眺めに出合い、こんな気分になったからスケッチブックを開いた。描いてみたが、絵としてこれでいいのかしらん、という言い方をした。  忠実な写生だったから、余り文句をつけることもなかったが、同棲後持って来た絵は違っていた。アスファルトがサーモンピンクに塗ってあったりした。異常というのでもなく、自然に大胆になってきている感じだった。柚木は、新しい絵描きの誕生といえるほどだ、と批評してから、  ——野沢さんにおける絵と女性の関係を考えさせられます、と言った。  ——このごろは帰宅すると、絵ばかり描いていますよ。  ——落着いたんでしょうかね。  ——おかしいもんですな。女房と一緒にいる時は僕もかなり殿様でしたよ。暴君じゃあありませんでしたがね、殿様だった。それが、おとなしくなって、筆ばかりが動くんです。  ——お抱えの絵師になったようですか。  ——うまいことを言うなあ、柚木さんは。黙って絵を描きながら、言葉を聞いているんです。  ——言葉を……。  ——彼女の言葉をね。  ——…………。  ——それは腹の中ではいろいろ考えますが……。とにかくたわいないお喋りですよ。しかし、仕方がないじゃあありませんか。人間として、プラスマイナスなしの状態です。彼女と一緒にいれば、この状態でいられるのを発見したんです。  ——ゼロの状態ですか。  ——実は、僕は五年ばかり前心臓の発作が起きまして、危なかったんですが、手当てが早かったもんですから、助かりました。急場を切り抜けてから、医者に言われたんです。これこれの摂生をしろ、気持もですな、いつも平静を保って、プラスマイナスなしの気分でいるようにと言われたんです。それから自己点検しましてね。  ——…………。  ——今はいいんです。  ——…………。  ——心臓の医者ですが、いいことを言っていましたよ。彼は魚釣りが得意で、僕が入院する一年前ですから、六年前の夏ですな、その年、全国で一番大きな山女をあげたんです。全国でですよ。どうして判ったかというと、≪フィッシング≫という雑誌がありまして、年間の全国のベストスリーが載ったんだそうです。それを見て、自分の獲物を測ってみたんだそうですが、ベストワンよりも大きかったと言うんです。アルコール漬けにしてありましたな。見せながら、この魚はどのようにして生きていたと思うか、と言うんです。羊歯《しだ》川の岩の裂け目にジッとしていた、ジッとしていただけだ、どうだ、貫禄だろう、と医者は言いましたな。  ——餌はどうするんでしょうか。  ——漂っている苔、小動物を口へ入れるんでしょうな。  ——呼吸即食事ですね。  ——しかし、僕はこの山女のように、動かずにいるわけにはいきませんよ、と言いますと、医者は、体をそこへ持って行けというわけじゃあない、精神をそこへ持って行けと言うんですな。  ——…………。  ——僕の場合には、精神をそこへ持って行くのに、また疲れますな。  ——疲れますか。  ——かえって心臓にはよくないと思うんです。若いのと一緒の夜に死ぬ場合がありますから。  ——…………。  ——しかしね、これは発見ですが、あの女と一緒にいれば、希望さえ必要ありません。  ——…………。  ——長生きだって一つの希望でしょうが……。  柚木は頷いて見せた。  ——そんなものも要りません。聖書に書いてある、然り然り、否否の状態があるんです。  ——…………。  ——男は然り然りと叫び、女は否否と叫んでいるんです。  ——黙示録のようですね。  ——体にはかえって悪いでしょう。しかし、柚木さん、かりにあのスーパー山女の意識を想像してみれば、死ぬの生きるのって境地は超えていたわけでしょう。死の観念なんか掠めもしなかったでしょうが。  ——平静だったんでしょうね。  ——そう、平静ですよ、人間が欲しがるのは。  野沢の自己中心主義は馬鹿らしいとは思えなかった。特定の女体に命を賭けている気配には胸を打つものもあった。柚木は家に帰ってからも考えていた。それにしても、結局は狂い咲きの一例ではないか。今やゼロの発見などとうそぶいているだけではないか。どうなるやら、タイヤが破れているのに自動車が走っているようなものなんだろう。そのうちに、タイヤは海藻みたいになってくるんじゃあないか。野沢に対して済まないイメージが浮かび蠢動して、仕方なかった。  柚木は藤枝駅前の飲屋に寄ってみようと思った。入口のドアへ近づき、ガラス越しに見ると、野沢静馬の相手が坐っているのが見えたので、柚木は一旦足を止め、この一角の共同トイレに行くことにした。用を足しながら、これからその飲屋〈ほととぎす〉で展開する場面を先取りしようとしてみたが、勿論判ることではなかった。諦め、決心して、〈ほととぎす〉へ踏みこんだ。  彼女は、初めは彩色した彫像のように見えた。しかし、それは前回の残像のようなものだった。地味に物柔らかな態度で、声をかけてきたから、やがて先入観は消えて行った。彼は彼女に勧められて、カウンターに並んで坐っていた。  ——お名前は何とおっしゃるんでしたっけ。  ——則子です。  ——池内則子さんですよ、と女将が教えてくれた。  ——この方はヤマケイさんです、と池内則子が言った。  彼女の隣に、同年輩の青年が坐っていた。骨太の体躯にも、表情にも鬱然とした気分が滲んでいる、控え目な人だ。  ——柚木さんは小説家よ、知ってる……、と則子は青年に言い、柚木には、  ——この人、山と渓谷なんです、と言った。  ——山と渓谷がお好きなんですか、と柚木が笑いながら青年に言うと、  ——好きです、と彼は言った。  ——絵を描くんですのよ、今日も写生に行ってきたんです、と則子が言った。  ——油ですか、持っていたら見せてください、と柚木は言い、青年はカウンターの下からカンヴァスを引き出した。  紅葉の重なり合った大きな枝の間から、谷川を見下ろした構図だった。がっしりしていて、紅葉も水も活きていた。柚木は、彼の眼に共感を覚え、飛躍して、池内則子のことまで、想像していたよりしっかりした女かもしれないと思った。柚木が絵を眺めていると、  ——柚木さんも描くんでしょ、見せてくださいよ、と則子が言った。  ——駄目ですよ、僕のは。  ——見せてくれないんですか。  ——どっちでもいいんですがね。  ——今度見せてくださいよ。  ——見せますよ。なーんだって思うだけですよ。  ——上手だって聞きましたもの。  ——野沢さんも描くんですね、と柚木は少しためらってから、言った。  ——あの人こそなーんだの口でしょ。ごらんになったんでしょう。  ——見ましたよ。なかなかのもんじゃあないですか。  ——臆病じゃあないのかしら、こういうふうにグッと切り込んでないでしょ。  ——持ち味ですよ、それは。この絵はいいな。僕は、野沢さんの絵もいいと思うな。憩いがありますよ。……どうです、野沢さんの絵を見たことがありますか、と柚木は〈山と渓谷〉に聞いた。  ——見ました。悪くないと思いました。  ——女の人が一生懸命お裁縫しているようだわ。 〈山と渓谷〉は車で来ていると言い、ほとんど酒を飲まなかった。則子はかなり飲んだ。柚木も飲んだから、二人はよく喋り、青年は静かになってしまい、間もなく引きあげた。  気持がほぐれると、則子と柚木は奥の一角に移って、坐りこんで話した。  ——わたしは外出ばかりしているのよ。  ——野沢さんはそれで結構だって言ってるんでしょう。  ——静馬さんは、自分は自分ひとはひとね。安倍川で星と水を見るんだと言って、夜晩く、そうね、十一時過ぎに家を出て行ったこともあったわ。仕事で疲れていたんだけど……。日曜日に、土砂降りの中へ出て行ったこともあったわ。半透明の白いビニールの合羽を着て……、わたし窓から見ていて、無気味な気がした。なんだか水母《くらげ》みたいでしょ。  ——眼に浮かびますね。  ——あなたも静馬さんに似ていると思うの。静まり返っているのが好きでしょう。  ——齢のせいでしょうね。  ——ごめんなさいね、生意気なことを言ったりして。齢っていうより、結局は性質じゃあないかしら、静かな所、静かな時が好きで、お仕舞いには、なんにもなくなってしまうような人があると思うの。でも一方に、なんていうのかしら、血の騒ぎのようなものが好きで、それがなくては生きてる気がしないって人もあるんじゃあない。  ——それがあなたですか。  ——そうよ。何しても自分の性質が出るんですもの。  ——則子さん、率直に聞いていいですか。  ——いいわ。何を。  ——元のお宅のほうはどうなっているんですか。考えるでしょう。  ——考えない。  ——…………。  ——山と渓谷へ入りたいの。ギリシヤへ行きたい。  ——誰とですか。  ——一人でよ。わたしって一体どういう人間か、見つめてみたいんですもの。結局は解らないでしょうけど、一遍それをやってみないと気が済まなくなったの。したいと思ったことをしないで終るのは、良くないわね。  ——お宅のことを話してください、差しつかえなかったら。  ——いやだわ、書くから。  ——書きませんよ。  ——わたしたちのことを収めてくれる気なのかしら。むつかしいわよ、と則子は笑った。  酔いが回り、彼女の笑いは、知りたいかそれなら教えない、と言っているかのようで、柚木は翻弄されそうな気がした。  十日ほど経って、深夜、柚木の書斎の電話が鳴ったので、出てみると池内則子だった。旅に出て、北海道の倶知安に居ると言う。柚木は理由もなく、〈山と渓谷〉と一緒ではないかと思い、  ——一人ですか、と聞いた。  ——どういう意味、と彼女は言った。  ——そんな遠くまで、一人で行ったのかと思って。  ——一人で来たわ。名古屋のデパートに勤めていた時のお友達が、こっちへ嫁いだもんだから、泊めてもらっているの。北海道の人ってさっぱりしていていいわね。今、友達とお酒飲んでいるのよ。  ——大分ご酩酊ですね。  ——判る……。そうよ。気に懸っていたことがあったもんだから、お電話したの。  ——何ですか。  ——家のことよ。〈ほととぎす〉であなた聞いてたじゃない。主人のことは言いたくないわ。本当言って、あの人には悪いけど、ずーっと好きじゃあなかったの。ひとのことを嫌いだなんていっちゃあいけないわね。わたしのほうが、普通ならひとに嫌われる女ですもんね。  ——…………。  ——子供があるの。六つなんだけど、男の子よ、主人の実家にいるわ。今は会わせてもらえないの。  ——…………。  ——将来はきっとよくしてやるつもりだけど。  ——今が大事なんだけどなあ。  ——今が大事よね、その通りだわ。考えているのよ。今夜もまた考えなきゃあならなくなるわ。さっき友達が持っているレコードを聞いたのよ。  ——…………。  ——柚木さんは、夢って遠くへ想像を馳せてるものだと思うかしら、それとも、自分の中へ潜りこんで行くような経験だと思うかしら。  ——自分の中へ潜りこんで行く感じですね。  ——わたしもそうよ。  ——…………。  ——夢って経験よね。  ——経験でしょうね。  ——うれしい。経験だわね。  ——…………。  ——柚木さんの声が雪の奥から聞えてくるわ。こっちは雪が降り続いているの。  ——…………。  ——夢って、どこかで取りこんだものが、体の中で毒に変るようなことなんじゃない。  ——中毒症状でしょうね。夢で見たいものを見るのか、見たくないものを見るのか。  ——見たいものを見た時には、あとでがっかりするし、見たくないものを見た時には、なんだか本当のような気がする。  ——なんで夢なんですか。  ——どうでもいいわね、夢なんか……。柚木さん、レコードを聞く……。  ——レコードをですか。  ——お宅で時々聞いている……。  ——テープですがね。  ——どういう……。  ——ギターとかチターとか、それから、マーラーの曲も聞きますよ。  ——そうなの。……今レコード聞く……、こっちから流すから。  ——うまく聞えませんよ。無駄ですよ。  ——それじゃあジャケットを読むわ。柚木さん忙しいでしょうから。  則子は言い残して、電話口を離れてしまったので、柚木は待っていなければならなかった。雪が降りしきっているのを眼に浮かべていると、やがて電話に戻った彼女が朗読した。  ——とある母親が、可愛い息子を焼いて食べた。見て、母さん、僕の眼を、僕を焼いて食べないで、あなたの可愛い息子を。見て、母さん、僕の額を、ティフィリンを巻いた、僕の額を。とある母親が、可愛い息子を焼いて食べた。見て、母さん、僕の口を、戒律の句をたくさん唱えた口を。僕を焼いて食べないで、あなたの可愛い息子を。……こういうんだけど。  ——気味悪い歌ですね。  ——わたし何度も聞いたわ。聞き過ぎかしら、わたしは。罰せられてるような気がする。雪の降っている向うから、わたしをあばくような声がしてくる。  ——…………。  ——ティフィリンて何だか知ってる……。  ——知りませんね。  ——またジャケットを読むから。聖書の句を書きつけた革帯、ユダヤ人が祈る時額または左手に巻く。  則子は涙声になって、辛うじて読み了えた。  ——ごめんなさい。わたしって勝手でしょ。電話切るから。  静岡に出た時、柚木は野沢たちの住居を訪ねてみた。日曜日だった。そっちへ歩いていると、道で彼と出会った。折り悪しく、近所に葬式があって、彼は手伝いをしている最中だった。  ——やがて出棺だもんですから、逃げるわけにもいかないんです、と野沢は言った。  ——今日はその辺をぶらついて帰りますから、と柚木は言った。  ——二十分ぐらい解放してもらえると思いますな。喫茶店へ行きましょう。  その喫茶店からは、窓越しに葬儀の進行が見て取れるので、野沢には具合がいいということらしかった。  ——新参ですから、この際近所の義理を果たしておいたほうがいいと思いまして。  柚木は頷いた。  ——何となく居心地が悪い気がしましてな。気心が解ればいいんです。くだらないんですが、気になることは、一応卒業しておいたほうがいいでしょう。  ——どなたが亡くなったんですか。  ——奥さんです。心筋梗塞だそうです。病院で医者が手を尽くさなかった、最期は看護婦が見ただけだと言って、ご亭主が怒っていますな。  ——いくつですか。  ——奥さんですか。四十三です。……しかし、ご亭主は奥さんに責められていたといいますな。新しい車を入れて、いきなり愛人を横へ乗せたそうです。揉めていて、ご亭主は悩んでいたというんです。  ——さぞ怒らせたんでしょうね、奥さんを。  ——ご亭主は本当に医者に対して腹を立てているんですかな。  ——本当に腹を立てているんでしょうね。  ——きっと、そうでしょうな。  しばらく黙っていて、柚木は、  ——則子さんから電話を貰いましたよ。北海道の倶知安という所からです、と言った。  ——そこに友達がいるもんですから、五、六日の予定で行ったんです。  ——…………。  ——子供のことを言っていたでしょう。  柚木は頷いた。  ——あいつには子供がありますからな。六歳になる男の子です。  道の向う側が出棺の気配になったので、柚木は野沢と別れた。柚木は、あぶれても、大して手持無沙汰にならなかった。積年の散歩の習慣があって、時と所を選ばずに、その態勢に入ることができた。静岡市郊外の山麓を歩いた。初冬の風景も悪くはなかったが、より抽象的な、空気とか光に惹かれていた。空気とか光も在るものには違いないが、在ることを主張していないな、在る、現に在る、それで充分じゃないか、と彼は意味もない思いつきを、心に呟いた。プラス、マイナス、ゼロと唱えながら歩いてみようとし、語呂が悪いので、プラス、マイナス、コタエハ、ゼロスと拍子を取ってみたりした。  翌日、六時頃だったろうか、柚木が藤枝の例の喫茶店へ行くと、野沢がいた。店は空いていて、客は彼一人だった。  ——心待ちにしていたんです。お宅へ電話かけてみようかとも思っていました、と彼は言った。  ——何か話があるんですか。  ——いや、別に。柚木さんの顔を見たかっただけですがな。昨日もそそくさとしていて、失礼しましたし……。  ——失礼なんてことはありませんよ。  ——亡くなった奥さんですがな、旦那のことで怒っていただけじゃあない。息子の高校生も言うことを聞かなくて、しょっちゅう言い争いをしていたらしいんです。その最中に心臓の発作が起って、結局は助からなかったもんだから、後で息子が泣きましてな。  ——子供は何人あったんですか。  ——その高校生と中学生の妹ですよ。生活に夢中になっているところへ、突然死が来たんですな。  ——そういう人が多いんですよ。  ——僕はその点幸せでしたな。わけの解った知り合いがそばにいて、救急車をすぐ手配してくれたし、夜十時頃だったのに、医者も最善を尽くしてくれた。いい医者でしたなあ、島田の加藤さんですがな。  ——巨大な山女を釣り上げた人ですね。  ——そう、巨大な山女。最終的にはたもで掬ったんでしょうがな。僕が意識を回復しますと、枕元にいましたよ。これから、野沢君、命を大事にしてくれや、俺の今回の苦心も考えてくれんとな、って言ってくれましたっけ。その少し前までは僕は夢うつつの中にいて、白っぽい場所を、泳ぐように歩いていますと、誰かが、シズマー、シズマーと呼んでいるんですよ。  ——…………。  ——僕を呼んでるのか。シズマとは僕か、誰か、なんてのんびり考えているんです。  ——中有ってことがありますがね。  ——宙ですか。  ——そうでしょうね。ナカの字とアルという字が書いてありますがね。そこのことでしょう。人間は死んでから四十九日間、そこをさまようと言うんです。  ——僕は戻って来たんですかな。医学が連れ戻したんですかな。……僕は、消えるのはわけないもんだと思いましたよ。それで考えていたんです。人間とは何かとまではいかなくても、自分とは誰かと考える時間を貰ったんです。オマケとしてですかな。  ——オマケはないでしょう。まだ若いんですし……。  ——方々にひっかかりがありますからな、責任が。しかし、そういうものはほかし出してもいいんじゃありませんか。どっちが大事でしょうか、自分を問うことと、世間に対する責任と。  ——どちらかと言われれば、自分を問うことでしょうね。  ——そうでしょう。僕は一本になりました。ほぼ一本ですよ。しかし、これは……、と野沢はまた右手の小指を立てた。  存在感があるな、と柚木は思い、〈女〉といい〈則子〉といっても言葉だ、ところが、小指は骨と肉でできているんだから、と妙な理屈を考えたりした。  ——これは子持ちです。育ち盛りの子供をほかし出すわけにはいきません。  ——みんなそうですよ。男だってそうです。責任というんじゃなくて、愛情ですから、則子さんのように、気持が分裂してしまうんです。  ——僕が、一本になれたのだって、さまざまな関係を経てきたからです。だからほかし出す気になれたわけですな。僕は、自分を尊重しているんですから、あの女の自分も尊重しなければならんですわ。  ——そうですよ、愛しているんなら。  ——柚木さん、僕が愛していることを認めてくれますか。  ——認めていますよ。  ——愛しているから相手のことは自分のこととなります。双方の今までの関係がすべて一点に集まって痛みとなる、これが愛です。  ——むつかしいですね。  ——しかし、解りますでしょうが。  ——解ります。  ——僕は六歳の男の子を引き取ります。今は向うで渡しませんが、頭を何遍でも下げて、貰ってきますよ。  ——…………。  ——柚木さん、僕が相談するまで待ってください。あなたはひとのことを心に懸けてくれる人ですがな。  柚木は応対に戸惑いながら、頷いた。野沢静馬は直截だったが、姿勢は萎《しお》れていて、口調も冴えなかった。皮膚はくすんだ黄色、影は煤のようだった。そんな印象もあって、柚木には強く訴えられている気持は湧かなかった。  野沢が今日は列車で来たから、もう帰ろうと思うと言ったので、柚木も立ちあがった。列車に乗るには、四百メートルばかり歩いて、バス停へ出なければならなかった。店を出て路地を歩いていると、  ——苦しいんです。ちょっと待ってください、と言って、槙の生け垣に身を寄せた。  そのまま二、三分、彼は槙の葉の中へ顔を突っこんでいた。柚木が近寄って声を懸けると、突然振り向いた。皮膚にいくらか張りが戻り、眼は飛び出して耀いていた。微笑もふっ切れていた。  ——舌下錠を含んだんです。大丈夫ですよ、もう、と彼は言った。  ——喫茶店へ引き返しましょうか。  ——帰れますよ、家へ。バス停へ行きましょう。  ——…………。  ——時々こんなことをしているんです。  野沢に促されて、柚木もバス停に向って歩きながら、  ——話したことが体に障ったんですかね、と聞いた。  ——違いますよ。  まだ舌下に錠剤が残っている声だった。  二人はベンチに坐ってバスを待つことになった。  ——巨大な山女ですがな、さっき暗がりに浮かんだんです。これを口に入れた時ですが、と野沢は舌下錠のタブレットをポケットから出して、膝ではたきながら言った。  野沢には躁状態に移る気配があり、柚木は心配していた。  ——槙の葉の中に山女が見えたんです。……僕が医者のところでアルコール漬けを見た時には、処理して間もなかったから、生きているようでしたな。岩の裂け目にいた時も、あのままの姿でジッとしていたんでしょうな。  ——…………。  ——背を上に、腹を下にしましてな。鰓が動いているようでした。僕は視覚型なんでしょうか。絵だってそうですよ。たとえ理屈に合わないこしらえものでも、見えてしまうのは強いですな。たとえ幻でも、ともかく、在る、と認めざるを得ませんからな。 [#改ページ]   聖女の出発  そこが北支だということは確かでした。黄色のなだらかな丘でした。のっぺらぼうでしたが、頂上はここだと示しているかのように、小屋が建っていました。家畜に関係ある小屋のようでした。羊とか牛をそこで処分する、村の共同の屠殺場のようにも思えました。なぜそんなことを考えたのかは、われながら解りません。  その小屋を目ざして行きながら、わたしは我慢ができなくなり、しゃがんで用を足しました。排泄物には血が混っておりました。驚いたりはしませんでした。大方そんなことだろうと思っていたからです。立ちあがると風が吹いてきて、よろめきました。それから風はずっと吹き、足を踏みしめなければなりませんでした。体には芯がなくてよれよれになりましたが、まあいい、どんな恰好をしていたってだれも見ていないのだから、などと考えていました。小屋へたどりついて、中へ入りますと、風が地面に小さく埃を巻きあげるのが見えるだけで、静かでした。そのうちに鳥が来ました。風にもてあそばれそうになるのを、上手にしのいで、しっかり翼を張って、一羽二羽と降りてきました。全部で三羽だったと思います。大きな鳥でした。その時わたしは、体がというよりも、心が疲れてしまったようで、小屋の中の土間に横になっていました。動けないほどだるかったというのではありません。心がわたしに声を懸けて、しきのさんここへ来たら横になるのだよ、と勧めたような具合だったのです。  鳥を眺めますと、胸毛を寒々と波打たせていた鳥が、一羽しか見えませんでした。黒い鳥と枯れた灌木が見えました。そして次の瞬間、別の一羽が体のわきに立っているのに気づきました。小屋へ入りこんできたのです。どういうわけか、茶色っぽい鳥で、よだれかけのように胸が白いのです。真蔵かしら、と思い何気なく見たのですが、怖ろしくなりました。鳥そのものだったのです。別に険しい姿をしていたのではありません。むしろかわいい黒瞳がちの目でわたしを見守っていたのです。こうなるのを待っていたのに違いありません。  目が醒めました。胸騒ぎがして静まりませんでした。わたしの生命力も悲しみに衰えていたのは事実です。しかしそのことだったら、あんなに胸騒ぎがする筈はありません。  無理して起きてしまい、お勝手へ入って、へっついに火を入れ、燃えあがるのを眺めました。透明な炎の芯と、やがて湧きあがったご飯と味噌汁のにおいが不安を紛らせてくれ、気持が鎮まると、本当のことが見えてきました。胸騒ぎがしたのは、真蔵のことを思っていたからです。自分がなり代って、真蔵の陥った状態を演じていたと信じてしまったからです。  あの日のことはよく覚えています。隣の家から久子さんが女学校へ行くのがわかりましたので——その時わたしも家事がひと区切りになっていました——わたしは表へ出て、彼女をつかまえました。久子さんは優しくて頭のいい子です。学校の成績も一番だといわれていましたし、わたしが話してみても、大人《おとな》びていて、話ができる女生徒でした。  ——久子ちゃんね、神父さんはだれとでも会ってくれるかしらん、とわたしは瀬踏みしてみました。  ——だれとでも会ってくれるけんど、と彼女は言って、わたしの顔を見守りました。  ——わたし教会へ行ってみようかしらん。  ——それはいいと思う。わたしが一緒について行こうか。  ——行ってくれる……。  ——…………。  ——あんた、今、急ぐんでしょ。  ——今……、今はちっと困る。  ——そうじゃない。今行こうっていうんじゃあないよ。  久子さんには、若いのに、包むような雰囲気がありました。わたしは惹かれていたのです。ですから、わたしは、真蔵のことを打ち明けたがっている自分に気づき、それから、打ち明けるのなら、たとえ少女でも、こういう人でなくちゃあ、と気づいたのです。それでわたしは、登校する彼女と並んで歩きながら、話したのです。暑くなりそうで、稲の苗がむれかかっていて、におう朝でした。  久子さんは歩調を落としてくれましたが、わたしはそれでは悪いと思い、始業の時間をたしかめ、早く歩くように努めました。  ——真蔵が死んでいると思えるだけんど。  ——そんな……。おばさん、通知があったわけじゃないでしょ。  ——病気らしいの。手紙にこう書いてあってね。母さん、たとい病気にかかったって精神が緊張していれば治っちまうって。  ——精神が緊張していれば……。  ——そうだよ。きっと手紙の検査があるんで、ちゃんとしたことは書けんでしょうに。  ——取り越し苦労じゃあないかしら。  ——そんなことはない。  ——あんな元気な人が……。  ——あの子が猩紅熱をやった時、同じようなことを言ったからの。それで心配するのよ。三十九度も熱を出して、赤くなって苦しみながら、俺ら、平気だ、こんな病気なんか精神が緊張していれば治っちまうって、ね。十四の時だっけ、あの子が。  ——戦地からこっそり知らせてきたのかなあ。  ——そりゃどうか。あの子は、ああいう言い方をする子だんて。  ——通知がないんなら、考えないほうがいいと思うけど。  ——そうだの。とにかく神父さんに会わせて頂戴や。考えやせん。考えやせんけど、お話をうかがってみたいんての。  女学校の門の前で、久子さんはしばらく立ちどまっていてくれました。始業のベルが鳴ると、髪をゆすって校庭へかけこんで行きました。あの頃はまだ髪を二つに分けて束《つか》ねなくてもよかったんでしょうか。大抵の生徒は束ねていましたけれど、あの人はおかっぱにしていました。わたしの町内では、それが目立って、あの人だけは恰好だけでなく、頭の中まで他の子とは違っているように思えたものです。  自分でも思い懸けなかったのですが、わたしは彼女に同行してもらうのが待ちきれず、その足で教会へ行きました。見おぼえのある背の高い神父様が、朝食を終えたばかりのテーブルに向って祈っておりました。顎を指でつまんで、黒く分厚く小さな本に眼を凝《こ》らしていたのです。そんな様子が窓から見えました。  このカトリック教会の司祭館の建て方は、万事洋式だったのです。といいますのは、五十年ほど前、最初に入ったのがフランス人で、代々ずっと神父様はフランス人だったからです。そして戦争が始まると、それではいけないとお達しがあったのでしょう、まだ若い日本人の神父様に変ったのです。まん丸いどぎつい眼鏡をかけていて、いが栗頭が小さく、背が高く瘠せていて、手足がとても長いので、若い信徒たちがいたずらに蜘蛛猿と称んでいたということを後で聞きました。わたしは窓から遠慮しながら声をかけ、神父様が椅子からとびあがるようにして立ってこっちを見た時、正直にいって少しがっかりしました。眼鏡には木の葉が映っているばかりで、何の表情もなく、ロボットに立ち塞がられたようだったからです。それに、後で思い当ったことですが、わたしがお話をうかがいたいと思い始めたのは、実は、街道を歩いているフランス人の神父様をお見かけした時だったのです。フランス人の神父様は、真黒な鴉のような服装をなさって——よく見かけた小学生や中学生の小倉の黒服とは違って、光る深い黒の背広でしたし、それに、ボタンも固い黒でした——道の左側をまっすぐに歩かれるのです。いつも同じ時間に見たわけではありませんが、わたしは時計の針を感じました。  フランス人の神父様を見ますと時間を感じましたが、日本人の志太神父様は違っていました。わたしはそれを後になって気づいたのです。後になってはっきり解ったこと、志太神父様が示してくださったことは、時計の針のようにきちんとしたものではなく、とりとめないもの、掴み所のないものでした。洋服こそフランス人と同じで黒ずくめでしたが、それが風景の中を泳いでいるというよりも、漂っている恰好なのです。勿論これは外見のことなのですが、あの方のお話をうかがい始めますと、言葉までそんな具合であることが徐々に解ってきたのです。あの方に時間があるとすれば、この世のものではない、どこか時計のない別世界の時間らしく思えたのです。それにしてもわたしは、あの時教会へ行って良かったと思うのです。久子さんのご恩もたくさんあって忘れはしませんが、真蔵もわたしを促してくれたのです。結局はわたしが感じた通りだった真蔵の戦病死がなければ、わたしは教会へ行かなかったでしょう。真蔵が死ななければならなかったとすれば、わたしには、神父様があって良かったと思います。妙なめぐり合わせなのですが、天秤の片方に真蔵を乗せ、片方に神父様を乗せるとすれば、最近になって辛うじて釣り合いがとれて来たようにわたしには思えます。  ——どういうご用ですか、と志太神父様はおっしゃいました。  ——神父様、復活とはどういうことでしょうか、とわたしは申しました。  神父様は黙ってしまわれました。  ——復活って本当にあったのでしょうか、とわたしは神父様を試しました。  ——キリスト様の復活ですね、ありました。  ——そうですか。  ——そうですか……。どうなさったんですか、と神父様はわたしをしげしげと見ました。  網が水の中をただよって来るような声でしたし、身振りもそんなふうでしたが、わたしを見守りますと、いかにももっとくわしく話を聞かせてくださいという表情をなさって、待っていたのです。  ——息子が死にました。  ——え、お宅で。  ——家じゃあありませんです。戦地です、北支です。  ——戦死ですね。  ——戦病死です。  ——そうですか。お辛いでしょうね。お祈りをします。聖堂へ行きましょう。  神父様は一人合点でそうおっしゃったのですが、わたしは、それならそれでいい、と思いました。彼について聖堂へ入りますと、真中辺に坐るようにおっしゃって、(神父様のおすまいはまったく洋風だったのですが、聖堂は畳敷きだったのです)わたしのすぐ横に、並んで立てひざをなさり、祈ってくださいました。一言もおっしゃいませんでした。わたしはその時、水の中をただよってきた網が、今わたしを捕えてしまったと感じました。思いがけないことで、どうしてこうなったのだろうと考えたりしました。戸外はひどく明るかったのに、聖堂の中はほのぐらく、祭壇のすそに、葉の影が、合図するように揺れておりました。  神父様は立ちあがり、泳ぐというより、たらば蟹が水底を動くようにして、外へ出て行きますので、わたしがついて行きますと、入口のところで待っていてくださって、  ——いつ公報が入ったんですか、と聞かれました。  ——公報が参ったわけじゃあございません。  ——え。  ——夢を見ましたんです。  ——夢を……。  ——真蔵という名前なんですけれど、息子が死んだ夢です。わたしも死んだんです。神父様、息子が死ねばわたしも死んだようなものですから。  そういって私は泣きだしてしまったんです。神父様も戸惑われたことと思います。わたしは夢中で、こんな振舞いがひと様にどう判断されるかということに思い及ぶ余裕がなかったんです。それでも、早く泣きやまなくてはご迷惑だとは考えていました。涙をようやくおしとどめて、神父様を見ますと、わたしを見つめたまま待っていてくださいました。  ——公報が入りもしないのに、何で亡くなられたとわかったんです。  ——間違いありません。昨日とどいた手紙を読んだ時に解ったんです。あの子は、死ぬことにこだわっていない、生きていても同じことだと書きたかったんですが、言い方を変えてありました。検査があるもんですから。  ——死んだって同じこと……。こんなお母さんがいらっしゃるのに。お父さんだっていらっしゃるでしょう。  ——はい。  ——生きなきゃあ……。  ——そうおっしゃっても、こういうご時勢ですし。  ——ご兄弟もいらっしゃるんでしょうね。  ——姉が一人、弟が一人おります。  ——お祖父さんもお祖母さんもいらっしゃるんでしょう。  ——はい。  ——証拠もないのに信じてはいけません。  ——そうとしか信じられないのです。  ——…………。  ——神父様、このことはひとにはおっしゃらないでください。  ——…………。  ——あなたにだけ打ち明けられると思って……。これでよかったんです。  ——あなたも、だれにも言ってはいけませんよ。  ——申しません。  ——結局息子さんが死なれたのは、夢の中だけのことでしょう。  ——はい。息子が死んでしまったので、私も死に身を委ねようっていうか……。そういう夢でした。  ——夢を信じたりしてはいけません。われわれだって、教会だって、そんなことは禁じているんです。  ——夢を信じることをですか。  ——そうです。根拠のないことです。幻覚と同じですから。  ——聖書には正夢のお話が多いんでしょう。  ——まれですよ、正夢は。  神父様は、信仰のない者の夢には神様の配慮が働くはずはないとでもおっしゃりたかったのでしょう。しかし宗論めいたことになるのを避けたのではないでしょうか。事の理非よりも、この人をまず慰めなければならないと思われたのではないでしょうか。息子を思うあまり、一時的にしろ頭がおかしくなっている母親を見出したに違いないのです。しかし、それにしても、真蔵はわたしがあの夢を見る二日前に——生きて帰った同じ隊の方のお話によれば、正確には一日半前に——北支の野戦病院で、赤痢で骨と皮になって、いのち絶えているのです。ずっと後で、わたしの夢のことを聞かされた少数の人々は、上滑りの受け取り方しかしませんでした。それも無理ないことです。勿論わたしとしても、正夢だという確信をだれかに告げておかなければと考えて、教会を選んで駈けつけたなどということではありません。そんなことはありません。わたしは一人では悲しみが保ちきれなくて、教会へ行ったのです。自分だけで堪えられれば、どこへも行きはしなかったでしょう。  わたしは、教会へ行くについて、少しも怖れは持ちませんでした。笑われることもなく、すべて、神様の不思議な地層に吸収されて、勿論完全にとは行かないにしろ、慰められるだろうと信じて疑いませんでした。そしてその通りになったのです。真蔵の死は、しばらくは家族も町の人も知らず、神父様と久子さんと私との、三人だけの秘密になったのです。とはいっても、神父様と久子さんは本当に信じてくれたのでしょうか。  ——しっかりしてください。何ておっしゃいますか、あなたのお名前は。  ——景坂しきのと申します。  ——真蔵さんでしたね、息子さんは。  ——はい。  ——景坂さん、あなたのためにお祈りして神様に言葉を願いますよ。  ——…………。  ——何てお応えしていいか私には解らないからです。お宅へおうかがいしてもいいでしょうか。  ——神父様、息子の異変のことはだれも知らないんです。わたしが教会へ来ます。あした朝来ます。今夜おうかがいするかもしれません。いらっしゃいますか。  ——いますよ。私は閉じこめられているんですから。警察の監視つきですから。  あの方のもとを辞して家に帰りながら、わたしは、不思議なことをおっしゃったなあと思いました。神様に言葉を願うとおっしゃったことです。神様が神父様に言葉をくださるのでしょうか、それとも、とても考えられないことですが、わたしにくださるように祈ってくださるという意味でしょうか。忘れられない言い方です。わたしは本気で、それがやがてどういう意味を現してくるのか待とうと思っていたのです。  家に帰ると、自分が変ってしまっているのに気づきました。帳簿をつけることとか何かを読むことができなくなっていました。気持が集中できなくなっていたのです。体を使う仕事なら、どうやら順序を追ってできましたので、わたしは下を向いて掃除をし、それから機を織りました。糸の予備もありましたし、やっておけば役に立ったのです。結構熱中していると、久子さんが学校から戻ってきたのが解りました。あの声だけは聞き逃さなかったのです。わたしは裏木戸から隣の庭に入って行き、小声で呼んで、久子さんに家の土蔵の下まできてもらいました。  ——あなたに頼んでおくの忘れていたけど、朝わたしが話したこと、だれにも言わないでね、とわたしはことわりました。  ——言わない。  ——もうだれかに言ったかしらん。  ——言わないよ。  ——…………。  ——おばさん、教会へ行こうや。  ——ありがとう。でもね、久子ちゃん、わたしは一人でもう行ってきたん。  ——何時ごろ……。  ——学校の前で久子ちゃんと別れるとその足で行ったんよ。  ——神父様いた……。  ——うん。  ——何ておっしゃった。  ——復活はあったっておっしゃったよ。  ——復活ねえ……。おばさん、さっきわたしがだれにも喋らなかったって言ったことだけど、喋る気になれなかった。なぜって、本当のことを言うけど怒らないで。本当言ってわたし、おばさんの言うことは変だって思ったん。おばさんは田毎《たごと》屋さんの奥さんよ、いくら真蔵さんのことを心配しているといったって、あんなふうに言えば、みんなは、かあいそうにおかしくなってるって言うかもしれん。  ——ありがとうね。久子ちゃん、わたしだってもう口には出しゃせんに。  ——真蔵さん死んだって思っているの。  ——思ってる。  ——わたしは信じない。死んじゃあいない、あの人は。  ——駄目、駄目、あの子はもう駄目。  ——駄目じゃない。  久子さんはそういって涙ぐみました。そして俯いて黙ってしまいました。肩がふるえていました。わたしは久子さんに申しわけなくてたまりませんでしたが、かといって、わたしの心はあの人の慰めに同調しようとはしませんでした。久子さんはどうしようもなく身顫いして、濡れた顔をあげ、  ——おばさん、忘れて、ここんとこから追い出して、と言って、柔らかな拳を作って、自分のこめかみを叩きました。  ——帰ってくるよ、真ちゃんは。  ——もう次の段取りを考えなくちゃあ、久子ちゃん、復活って何。  ——神父様に聞いてや、復活だなんて。  突然わたしは、自分は間違っているんじゃないかと思いました。もしわたしが間違っているとすれば、真蔵にはまだ希望があるわけです。だからでしょう、わたしは自分の頭が本当に変になっていることを願いました。今朝の夢はまだ醒めていなくて続いているのならいいが、と思ったんです。するとわたしの頭はふやけたようになり、わたしは、これも夢だ、怖がることはない、と少女のころ、悪夢に魘《うな》されながら自分に言い聞かせたのと同じようにしました。でも自分を騙しきれなくて、真実という言葉が牙のように光りました。新田《しんでん》のだいさんが眼に浮かびました。だいさんは、わたしの家の前の木の橋の上で、拡げた襟に右手を入れ頸筋をおさえて、  ——わしら、つまらんよ。これから、どうして生きっかって思って。みんなの言ってくれることも気やすめでしょうにの、と小さな声で言いました。  その前にあの人は、長男はウースンで戦死し、次男は大場鎮《だいじようちん》でその二日後に戦死した、公報が入った、とわたしの義母に告げていたのです。立っていなさい、立っていなさい、それだけでいいから、とわたしは心でだいさんに呼びかけていました。それから、わたしとだいさんが並んで立っている前を、在郷軍人の胸に抱かれた三人の遺骨が通って行くのが見えました。四回目の町葬の光景が前もって見えたのです。  長い沈黙の時が過ぎ、わたしはわれに返って、久子さんにあやまりました。  ——おばさん、気丈にしていて、と久子さんは言い、わたしを掠めるように見て、裏木戸をくぐって行きました。  あの人が見えなくなると、わたしは、あの人がそれとなくわたしを怖がっているのではないかと思いました。眼で眼を擦るようにした時、久子さんの表情には盗むように何かを読みとろうという気持が現れていたらしいのです。わたしには何かはかり知れないものがある、とあの人は感じたのでしょうか。そんなものはありはしないのに……。ですからわたしは、あのような眼で見られるようになったこと自体を、いぶかしい成行きとして感じました。自分が自分には見えない人間になってしまったようでした。  わたしはまた余分なことを考えないように機織りに没頭しました。それが救いだったのでやり過ぎてしまい、夕飯の支度がいつもより遅れました。家中が食事を終えて休んでいますと、久子さんがきて、わたしを表へ呼び出しました。わたしと別れてから、久子さんは教会へ行ったのだそうです。そして戻ってきて、そそくさと夕飯を済まして、わたしを誘いに来たというのです。その前に、教会で神父様と話し合い、今夜わたしを加えて三人で、聖堂でお祈りを捧げようと決めたのだといいます。それでわたしは、いつもなら理由はいわずに出て行ってもいいのですが、教会ということがありますので、慰問袋を縫いに行くなどといい加減な口実をこしらえたのです。  教会の暗い門のあたりを警官が一人歩いていました。何しに行くのか、と聞きますので、久子さんが、お祈りをしに行くんですと応えますと、それなら納得できるというように警官は頷きました。暗いとはいえ、門の辺でわたしたちが質問を受けたのは、神父様には見えたはずです。四、五メートル離れた聖堂の入口で、神父様は待っていてくれたからです。そして、わたしたちを励ます陽気な身振りで聖堂へ招じ入れてくださいました。最初から神父様と久子さんの厚意をありがたく思っていましたので、わたしは、とても自然に雰囲気に浸り、気持が楽になりました。それまでの荷物が重かったことを悟りました。胸が霽れるのが判ったのです。初めのうちはまだ機織りの音が耳についていました。機織りも救いでしたが、それには自分を強制している感じがつきまとっていました。でもお祈りは全然違って、体じゅうの血が穏かに流れるようでした。どこからともなく柔らかな力が働くのです。その間中、わたしたちは呟きさえ漏らしませんでしたし、無言だったのです。  神父様が立ちあがり、司祭館へ引きあげると、わたしたちもついて行きました。  ——なぜでしょうか、お祈りをしていますととても落着いたんですが、とわたしが申しますと、  ——神様のお恵みです、と神父様は照れくさそうに、歯切れが悪く、笑いにまぎらしておっしゃいました。  ——夢をごらんになったって、不吉な夢でしたでしょう。  ——それは不吉でしたよ。息子が戦病死したことを感じたんですもの。わたしも死んで行くんでしょうね、わたしを食べようとして大きな鳥がその時を待っているんです。  ——あなたもなくなる……、と神父様は子供のような驚き方をなさいました。  ——ええ、わたしも死ぬ夢でしたけど、息子と根でつながっているんですから双方が死ぬという意味です。  ——考え過ぎじゃあないかしらん。自分じゃあ解らないことだって思って、なんにも決めないで、考えないでいた方がいいんじゃない、と久子さんがいいました。  ——いや、僕が不吉な夢じゃなかったかと聞きましたのはね、僕も兄を失くしたんですが、その時夢を見ました。とても不吉な夢でした。実際にはそうじゃないんですが、兄と並んで寝ていて、抵抗しながらも、死んで行く兄に連れて行かれる夢なんです。  ——お兄さんも遠くで亡くなられたんですね。  ——そうです、上海で戦死です。陸戦隊でした。  ——それじゃあ、六年前ですか。  ——そうです。六年と二箇月前ですね。兄は二十六でしたから、わたしが二十四の時ですね。  ——…………。  ——私はね、神学生としてこんな不吉な夢を見るのは間違っていると思いましたよ。恥かしかった。兄の場合だって悲しい死といえるかもしれません。しかし、弟の神学生が、こんな不毛の死を思い描いたことはなっていませんよ。僕は僕の中の不毛の死を、兄に押しつけたって思ったんです。  ——悲しいことは悲しいことだったんでしょう、とわたしは神父様のおっしゃることが解らないままに言ってしまいました。黙ってお伺いしておくだけでよかったのを、口がひとりでに動いてしまったのです。  ——人間から見て、ということですね。  ——そうですか。  ——僕は奥さんに失礼だったかもしれません。ごめんなさい。でも僕は、今日お祈りをしながら考えたんです。そうしたら神様がおっしゃいました。言葉をくださったんです。  ——…………。  ——私に不可能はない、と神様はおっしゃったんです。  神父様の雰囲気のお蔭で、わたしにはなんとなく解る気がしたけれど、結局は解らなかったのです。それで変なことを言い出したんです。一番心に懸っていたことで、〈私に不可能はない〉という言葉を想っただけで暗いけれど豊かな気持が湧く気がしたのです。わたしはわたしで、その言葉をしっかり自分のものにしたかったので、その言葉の裏打ちが欲しかったんです。  ——神様がごらんになれば悲しい死はないということですか。  ——そうです、と神父様はわたしの顔を指さして、せきこんで合槌を打たれました。そして、  ——たとえ理由もなく殺されるようなことがあったとしても、その死は大事な種ですよ、とおっしゃったんです。  ——種……。  ——大木になるような種って意味です。  その時気持が一遍に明るくなったことが忘れられません。見通しがついたと思えたのです。わたしのまわりはまだ地獄のようでしたし、真蔵は真暗な無となっていましたが、少くもそこに吸いこまれることなく、生きてゆけると思えたのです。真蔵の死を感じながら生きるといったらいいでしょうか。それ以前とは違った気持でわたしは申しました。  ——神父様、復活のお話をしてください。  志太神父様はくつろいだ感じで、(あとで癖だとわかったのですが)照れ臭そうな様子をなさって、本箱から黒い本を抜かれました。これもあとで知ったことなのですが、ラテン語の聖書でした。神父様はまるで日本語をお読みになるように、訳しながら話してくださいました。  シュナムの女が麦を刈っていると、そこへ子供がやってきて、頭が、頭が、と言いながら倒れてしまったというのです。朝のことだったのですが、シュナムの女は昼まで子供を抱いて介抱しました。しかし息を引きとってしまいました。女はこっそり家へ帰って子供を部屋に横たえると、その死を主人にも知らせないで、カルメルという山にある教会へ行ったというのです。山道を十五里も歩かなければならなかったそうです。聖者にお目にかかり、わが子が死んでしまったことを告げて、復活させてほしいとお願いしましたが、聖者は余りに遠いところなので、助手をつかわそうとなさったのです。けれども女は、あなた様ご自身で、どうか来てください、わたしはあなた様のおそばを離れませんといってきかなかったといいます。  聞いていて、わたしはお医者を呼びに行った時のことを思い出しました。姑女が病気に罹った時にも、主人の時にもそんなことがございますが、でも真蔵の猩紅熱の時が、一番ひたむきでした。薄闇の道を、下駄を石にはぐらかされそうになって歩きながら、速い息をしていたその息をおぼえています。  それから、志太神父様は、聖者はシュナムの女の願いを聞きいれて、十五里もの山道を行って、すでに冷たくなっていた子供を復活させた様子を、くわしく読んでくださいました。聖者の名前はエリゼオというのだそうです。子供が復活したというところまで読んで、神父様はまた照れ臭そうにお笑いになりました。お伽話ですよ、とでもいっているかのようでした。……そうなのでしょう。わたしもそうだと思いましたが、それにしても、わたしは大きな安心の中に入っておりました。エリゼオという聖者が、信仰の深い女の必死の願いを聞き入れてやってもおかしくはないし、もしエリゼオに能力があるなら、復活も起るだろうと考えました。嘲《あざわら》う気持とはほど遠かったし、自分の身にも奇蹟が起きるかもしれないなどとも考えませんでした。そんなふうに考えてしまったとしたら、わたしはきっと、危い岐れ道で間違いを犯して、気違いになってしまったかもしれません。……わたしは安心しておりましたし、行手に穏かな光が射しておりました。わたしは、志太神父様が大きな力を発揮なさって、わたしに本当のことを解らせてくださったと思いました。  町葬の様子は、わたしが思い描いた通りでした。景坂真蔵上等兵の遺骨のあとに新田のだいさんの息子さんたち、神戸恭一一等兵、神戸策二一等兵の遺骨が入ってきて、台に隣り合わせにおかれました。わたしはそこを見詰め、しばらくすると地面を見ました。それだけ繰り返していたのです。読経や弔辞の声はわたしの頭の上を素通りして行きました。やがて立ちあがって家へ引き返そうとしました時、椅子席のうしろに大勢町の人が詰めていましたが、その中に志太神父様もいらっしゃいました。一きわ背が高く、不健康な顔色でしたから、たとえ服装が特別でないとしても、目立つことでしょう。あの方のロボットの眼の下には紫色の隈ができておりましたし、肌は腐りかけているようにさえ見えたのです。太陽の明るい日でしたから、むき出しだったのです。でも私は、不思議な人がいるものだと改めて感じました。町の人の中にまぎれ込んだ聖者といっても、わたしの感じ方からすると、言い過ぎではありません。  真蔵の写真を教会の祭壇において、志太神父様は御ミサを誦えてくださいました。その時には、景坂の家族がすべて参列いたしましたが、翌日から、教会へ行き続けたのは、しばらくはわたしだけでした。真蔵の戦病死から大方一年半くらい、わたしはおかしくなっていると見なされておりました。言いわけのしようもありませんでしたし、それほど言いわけしたくもありませんでした。それにしてもわたしは、安心して行く手を見つめ堪えていたのです。ゆっくりと回心しつつあったとでもいったらよろしいでしょうか。ですから、世間様の見る目にも一理あると、落着いて受けとめておりました。勿論主人は世間様とは異《ちが》っておりましたが、致し方ないこととはいえそれも漠然とという感じでした。異っていたのは久子さんでした。あのお言葉を取りついでくださった志太神父様はいうまでもありません。 [#改ページ]   鷺追い  ——礼一は鬼か、と清太郎が聞いた。  俺は首を横に動かした。  ——使者だろ、と鹿蔵が言った。  俺は頷いた。  大井川の鷺は夕日を受けて光ったり、ほんのりと赤い空へ融けてしまったりした。俺はその姿を目探《まさ》ぐっていた。鷺が活気づく時刻だが、それも長いことはない。じきに巣に落着いて、静かに闇に包まれて行くのだ。  ——何時かなあ、と俺は聞いた。  ——五時半だろう、いいとこ、と鹿蔵が言ったので、俺は立ちあがった。  石段の下の花沢屋へ入って行くと、こうの妹がいて、俺を見た。気張って見詰めているようでもあるし、見詰めずにはいられないようでもある。崩れそうな顔だから、こっちも気を使う。  ——紋付きと袴を置いといたから、とこうの妹は言った。  ——提灯《ちようちん》は庫裏に言えばいいんだっけな。  ——去年はどうした。  ——庫裏にあったけえが、だれかが持ってあがってくれたのかもしれん。  ——わたしは知らない。おじさんに聞いてや。  ——姉さんはいないのか。  ——いないよ。  ——どこへ行った。  ——島田じゃあないかしら。友達の家へ招ばれて、泊ってくるって。姉ちゃんなら鬼追いの段取りも知ってるでしょうよ。  ——聞かなくたっていい。聞かんても大概解っていらあ。  ——解っているんならいいでしょ。  ——…………。  ——忘れて石段を登っちまうと、あとが大変よ。電話も掛けられないし、間に合わなくなっちまう。  こうの妹は俺を見詰めている。提灯のことなど話すのに、こんなに見詰める必要があるだろうか。だから、表面は提灯のことを言っていても、本当は別のことを隠そうとして言っているようにも思える。すると、俺まで、紋付きや提灯のことを聞きたいんじゃあなくて、別のことを聞きたがっているように思えてくる。  ——行くから、礼ちゃん、とこうの妹が言った。  許可を求める気なのか、俺が頷くのを待っている様子なので、俺は頷いた。こうの妹は籠から逃げる鳥みたいに家の外へ出た。俺が紋付きを着て、袴を穿いていると玉夫が来たので、待たせておいて、一緒に石段を登った。玉夫の態度は、こうの妹とは逆で、縋ってくるようなところがある。いつもそんな具合だけれど、特別な感じがした。石段が険しいせいではないだろうが、動悸を抑えていた。話しかけると、時々しゃっくりをするように息を吸いこんだ。  ——提灯は庫裏にあらあな、と俺が聞くと、  ——そうじゃあないって、と玉夫は応えた。  ——どこにあるのか、一体。  ——医者の家で貸してくれるって。  ——医者が持ってきてくれるのかなあ。  ——持ってきてくれるよ。  ——本当か。  ——本当さえ。  玉夫が今夜の役のことをゆるがせにしていないのが、俺には判った。俺は奴より十二も年かさな癖に、いい加減に鬼の役を通り過ぎてしまったと思った。俺も六回この役を務めたが、大概面白半分だった。鬼に憑かれた気分になってしまったことはない。だから、だれだってそうだろうぐらいに思っていた。しかし、鬼に憑かれた小僧がいたのを聞いたことはあり、それは話だけのことだとしか考えていなかったが、玉夫の様子は変なのだ。俺はしばらく奴を観察していて、山門の近くのなだらかな道で聞いてみた。  ——お前、真剣になっているのか。  ——うん。自分でもおかしいや。こんなふうになることって、ひとにもあるのかしらん。  ——経験だ。そのほうがいいんじゃんか。  ——俺らお寺に火をつけやしないかと思ってさ。  ——お前が火をつけたって、つかないよ。  ——…………。  ——思いっきり暴れてみよ。  ——礼ちゃん、黒子を着るだろう。俺に付いてくれや。  ——だれだって同じことだ。お前がジタバタしたって平気だ。  ——礼ちゃん、俺に付いて俺に用心してくれや。  ——付いてやらあ。  ——それなら、俺らうれしいけど……。  玉夫の興奮は直らなかった。本堂の裏手で焚火に当っていても、単純に一本筋を体温計の水銀があがって行くように、胸が昂るのが透けて見えた。俺にも伝染してきた。闇の底の炎が、血の流れと呼応していると思えてきた。それから太い動脈が破れたようなことになった。  周平を殺してやろうと思った。そして、実行するために、玉夫は隠れ蓑だと思った。玉夫と一体になれば、そこまで行けるし、行かなければならない、と俺は炎に気持をゆだねながら思い耽っていた。それから、この焚火が消えたあと、ここに流れ込む濃い闇の中で俺は自分の考えが脹れあがっちまって、どうしようもなくなっているだろうと予感した。  焚火の近くまで医者が提灯を持ってきてくれた。俺は付け木から蝋燭に火を移し、一回目のお迎えに行った。庫裏の木戸のわきに膝をついた。もう一方のわきにかがんでいたのは一衛だった。庫裏の明るい障子には、住職の家族の影が動いていた。白けた様子で、俺の昂りを醒ましそうだった。俺はなるべく普通の口調で、  ——寒いな、と一衛に言った。  ——零下五度か。  ——お祭もいいが、やる身にもなってほしいな。  ——いいだろう、もう引き揚げよう。  俺たちは立って、提灯を並べて歩いた。焚火が見えてくると、炎がいきなり血の流れと繋るのが判った。焚火が闇の心臓のような気がするのだ。俺が闇だった。  十人ぐらい火に当っていたが、先ず玉夫の恰好が眼に入った。かなり体は暖まっている筈なのに、奴は顫えているのらしかった。深い山気が寒いというよりも、体の芯に寒気の泉があるかのようだ。歯並みを覗かせ、唇の両端で空気を啜っていた。大きな眼を見開き、まばたきをしなかった。といっても、どこを見ているのでもない。幻に襲いかかられている顔だ。  二回目のお迎えから戻ってくる時にも、俺は先ず玉夫の同じ顔を見てしまい、ドキッとした。意外なものを見るよりも、期待通りのものを見る時のほうが驚くことがある。奴がいるから、焚火も血になるのだ。  四回目のお迎えに行きながら、  ——礼一、どっか悪いんじゃないのか、と一衛が聞いた。  ——悪いだろうな、と俺は言った。  ——風邪か。  ——風邪じゃあなさそうだ。  ——寒いな。寒いめに遭わせやがって。  俺は間の抜けた影が動いている庫裏の障子を見、それから、暗い提灯に照らし出された一衛を見た。奴ものんびりしていた。しかし、どちらも俺を和らげはしない。もう俺とは繋りようのない、別世界のことになってしまっていた。  六回目のお迎えから戻ってくると、焚火のかたわらの石の上に置いた白い鬼の面を、玉夫が見ていた。凝視しているのではなくて、怖れている眼をしていた。奴の口の形は前の通りで、歯には炎の影がちらついていた。胸騒ぎを怺えているようにも見えた。鬼の面は、玉夫の表情に較べると、むしろ静かだった。胡粉がこびりついた、古い性抜けの木があるというだけのことだった。玉夫がそれに気圧されている理由がよく判らなかった。だから俺は、わけのわからない迷いから抜け出しそうになった。いく分ではあるが、わが身が軽くなったのだ。しかし、そうなってはいけない、たわいないことになるだけだという声もどこかにあって、俺は楽になる自分に歯止めをかけた。  八回目のお迎えに行く時、鹿蔵の男の子がついてきた。もう一人ついてきたが、どこの男の子かわからなかった。その子は始終闇の中を歩いていたから、分厚い枯葉の層を踏む足音に過ぎなかった。ところが鹿蔵の子供は、提灯の光の中へ出てきて白い息を吐きながら、俺を見守っているのだ。気持を読みとろうとでもしているかのようだ。俺は立ちどまって奴を睨んだ。笑っている。俺は片足踏み出して脅した。揺れる光に擦られながら、奴は蜘蛛のように素速く遠くへ行き、こっちを窺っていた。  ——躓いたのか、と一衛が声を懸けたので、  ——そうじゃあない。子供にいい加減にしろといったさ、と俺は言った。  ——小うるさいんてな、ぶん殴っちまおうか。俺の提灯をあずかってくれ。  一衛が俺に近づいてくると、鹿蔵の子供は慌てて逃げ惑い、連れと一緒に山道から木立ちの中へ駆けあがって行った。一衛が笑いながら提灯をかざすと、一瞬丸っこい背中が二つ見え、それから杉の幹が立ちはだかった。  ——馬鹿野郎、俺らお前っちを手伝ってやろうと思ったじゃん、と闇の奥から声がした。  ——嘘言うな、と一衛が言った。  ——頭がおかしくなって迷ったって知らんぞ。  ——くだらないことを言うな、と一衛はせせら笑った。  子供たちは鬼の声を出して、しつっこかった。おとなの真似をするのだが、声が細いので、ひっそりと風が裂けているように聞えた。一衛は仕方ないといったふうに肩をゆすり、それから提灯を俺にあずけて小便をしていて、滴を振るい落としながら、  ——殺すぞ、小僧ども、と言った。  ——小僧じゃあない、小鬼だえ、と子供の声がした。  俺たちはまた山道を行き、庫裏の門へ着いて、ひざまずいた。住職がなかなか出てこなかったので、  ——お迎えが来ているのに知らん顔をしやがって、と一衛は言った。  ——庫裏から提灯の明りは見えるのかな。  ——見えるさ。こっちから向うが見えるだもん。  俺たちはまたしばらく待った。  ——お前、庫裏へ行ってこないか。待ちきれませんて言えや、と一衛が言った。  ——俺はやだ。  ——それじゃあ、俺が行くか。  その時、真上で小鬼の声がした。二人の子供がそこへ来ていて、調子づいて囃しているのだ。  ——お前ら坊主のとこへ行って、早く出てくるように言え、と一衛が叫んだ。  すると、一人の声が消え、頭上を走る音がした。一衛の言う通りに、子供はやり始めた。その時、俺は時がまた境を越えたような気がして、胸の中が掻き回されてしまった。俺は庫裏の庭を見守った。血混りの膿みたいな電光の中へ、ポツリと小さな頭が浮かびあがり、縁の障子へ近づいて行くのが見えた。障子が開き、住職の影が立っているのを俺は胸をドキドキさせながら見ていた。澱の水が瀬へかかったように、時が動き出していた。間もなく住職は玄関に現れ、鹿蔵の息子に提灯を持たせて、二人でこっちへ来た。門の敷居を二人がまたぐ時、住職の横顔には事務的な味気ない気持が出ていたのが、これも別世界の人物の感じだった。俺には関りなかった。しかし、自殺しようとしている人に、機関車が刻々と近づいてくるように、もともと無関係でありながら厳然とした様子が、その眺めにはあるのだ。  ——お使いまいりました。鬼追いのご祈祷願います、と俺は言った。  ——再々重畳、案内頼みます、と住職は言った。  俺は一衛より先に立ちあがり、身をかがめて住職にしたがった。白足袋が少し眩しく、下駄の歯がうまく道のデコボコを捉まえる。住職はただ早くお経をあげてしまい眠りたいと思っているにすぎないのだろうが、役は役だ。容赦なく俺をあのことまで連れて行く役だ。あの小僧は、まだ俺たちの頭上で鬼の鳴き声を真似ていた。つきまとってくる。何かを感じているのか。  住職たちは本堂へ入り、俺は一人で火を守っていた。本堂からはお経の呻き声が洩れていたが、電気が消え、半鐘や|鐃※[#「金へん」+「跋のつくり」]《にようはち》や太鼓の音がし始めた。けたたましい。しかし去年はけたたましいだけだったが、今年はそれに救いが感じられる。人間は闇にまぎれるように音にまぎれることだってできる。俺の殺意は浚われて、響きの中で浮標《ブイ》のように弄れている。弄れているのは俺か。無責任になれる。しかし、殺そうと思ったことを忘れてはならない。実行しなかったら後悔する。一度決めたことは、はぐらかされないで心にしっかり保ち続けること。浮標ではなくて、深く打ちこまれた杭のように……。自分をそこへ繋いでおかなくては……。自分も動き杭も動くということになったら、一体どうなってしまうのか。実行もしないままに、明日、また白けた浜に打ちあげられたような気分でいたとすれば、今度は本当に曖昧な自殺をしなければならないだろう。どうしたら実行できるかと、俺は今考えているんだ。だから適当な麻痺も必要なのだ。いい兆しだということだ。  俺は焚火の炎に松明を一本一本浸した。黒装束に変えていると、本堂の裏手から黒子たちがぞろぞろ出てきて、てんでに松明を拾った。俺は真先に縁に上り、並べてある鬼の面と鬘を一箇ずつ左手で掴んで、仏壇の裏手を眺めた。松明に照らされて、梁や柱の影がよろめき、ゆらぐ檻に閉じこめられたように、少年たちが怯えた顔をしていた。犯される直前の娘に似ているな、と俺は思いながら、玉夫に寄っていった。奴は胴震いしながら身を守る仕種をした。奴の肉が俺の二の腕にぶつかると、弾む感じだった。  ——こいつをかぶれ、鬘を縛ってからかぶるんだぞ、と俺は言った。  玉夫は息を呑んで頷き、鬼になった。半鐘や鐃※[#「金へん」+「跋のつくり」]の響きが口の穴の中に籠り、音と顔が一つのものになった。玉夫は、自分の腸《はらわた》まで鳴っているように感じていたのだろう。俺は奴のうしろへ回り、右手に松明を持たせ、その手頸を握り、左手の手頸も握り、そのまま仏壇の前へ出て行った。影は獣の姿で羽目や天井を走り回る。格子の向うには、村の連中が、夕方の海岸の石のように濡れて浮きあがったり沈んだりした。脈搏に似たものが本堂全体を支配していた。視界が脹れたり萎んだりするのが、まるで自分が緊めたり緩めたりしているかのようだ。玉夫も同じ気持だったろう。ただ、俺はもっと突っ走りたいと思っていたが、玉夫は、どうしてこうなってしまったのかと、もの怯じしていた。  ——しっかりするんだ、後見が俺じゃあ不足か、と俺は言った。  ——…………。  ——塩梅が悪いのか。  返事を待ったわけじゃあない。俺は委細かまわず、玉夫の腕を胴から※[#「手へん+宛」]ぐほどかかげ、足の甲で奴の足の裏を掬うようにして前へ踏み出させた。玉夫の体は俺のすることにいちいち抗う感じだった。腰が固かった。前へ進めようとすると尻込みし、右へ行かせようとすると左へ行こうとし、左へ行かせようとすると右へ行こうとしているかのようだった。  ——何をやってるんだ、一体。力を抜け、自分の力を、と俺は言った。  ——礼ちゃん、教えてくれや、と玉夫は顫え声で言った。  ——こんな寺なんか燃やしちまえ。  ——…………。  ——へっぴり腰をするな。まじめすぎるさ。  ——怖いよ。  ——腰を柔らかく。  ——俺ら、もう、やだ。  俺は右足の甲で玉夫の右足を掬い、思いきり前へ運んだ。松明が水平になって、人々が逃げた。  ——あぶない、と玉夫が叫んだので、俺は、  ——あぶなかないよ、と言った。  人々は半円をこしらえて、こっちを見守っていた。怖いなどと思っているわけではないだろう。見ものだと思っているのか。何か起れば面白いと思っているのか。あっちこっちで松明が燃えていた。炎の中から真黒な油煙が、髪みたいに分かれては闇に紛れて行く。人垣の切れ目に、時々白く鬼の顔が現れた。見開いた眼は、結局どこも見ていない。異郷へ迷いこんでしまい、悲しそうに戸惑っている一群だ。俺は今まで何年も見ていなかったことを、今になって見切った。鬼岩寺の節季の祭とはこれだったのだ。俺が今夜、周平を殺すためにあったのだ。俺は毎年この祭に付合ってきた。練習して、体に覚えさせ、そして、とうとう今夜だ。こっちからお祭を操縦してやるぞ。  ——いいか、人間なんか枯れっ葉と思え、と俺は玉夫に囁き、松明を水平にしたまま振り回した。人垣はへこみ、また止って、五十ばかりの眼が揃ってこっちを見ていた。様子が違っていた。いくつかの眼は怖れを含んでいたのだ。どうにかしなきゃあならない、と思い始めた奴がいるんだ。俺は小気味いい気分になっていた。  ——玉、制限はないんだぞ、と俺は囁いた。  そして、蟹みたいに横へ走った。玉夫はおたおたとついてきて、そのまま先へ行きそうになったので、俺は踏み止まらせた。  人々は逃げまどい、倒れた人もあったらしい。どよめいていた。残っていた枠が毀れてしまった、と俺は感じた。余裕ができて、玉夫の体臭が甘く匂ってきた。奴は確かにいい匂いのする少年だった。玉夫の状態を測定していると、奴も一気に柔らかくなったのが判る。うれしかった。周平はどこにいるのだろうか……。見回しただけでは分からなかった。今から群れにもぐりこんで、探しだしてやるぞ。  ——その鬼は表へ出せ、と猪首の清太郎が叫んでいた。  奴は体を弾ませ、肩でつっかかる恰好をして近づいてきた。  ——俺がやるんて、と木出しの源が清太郎とぶつかりながら言った。  源こそ鬼だ。酒が入った顔をして、呂律は回らなかったが、体は固くしゃんとしていた。人々の頭は奴の胸のところにあった。  ——表へ出て、火を消せってよ、と源は言い、玉夫の襟首を掴んだので、俺は左の肘で奴の腹を突いた。  奴は意外と身軽に跳びすさって、  ——物騒な鬼だな、と言った。  ——黒子だよ、とだれかが言うと、  ——黒子か、けんつくくれやがったのは、と源は呟き、今度は俺に掴みかかってきた。  ——酒臭いぞ、この木樵。  体を振り、見すまして、源の下腹を蹴った。  奴はウッと呻いて、蹴られた所を両手で抑えた。体が捩れ、しばらく動けなかったが、顔は上げたままでギラギラ光る眼で俺を睨んでいた。俺は玉夫の肩越しに睨み返し、  ——鬼にやられたさ、と呟き、玉夫の影に入って動きだした。  玉夫はまるで俺の一部みたいに動いた。こう動かそうかと俺が考えるのを感じ取って、その通りに動いた。  ——どいつだ、この野郎は、と態勢を立て直した源が、松明を掴もうとした。  松明を握っていたのは玉夫だったから、俺は素速く手を持ち変えて、松明を掴んだ。一本の松明に三人の手がとりついた。俺はそれを倒すようにして、炎を源の鼻先につきつけた。しかし奴はひるまなかった。髪に火の粉をかぶりながら、シッ、シッと唾を飛ばして頑張った。俺一人では源に敵う筈はなかったが、こっちには玉夫がいたし、炎は翻りながらゆっくり上へ行ったり下へ行ったりした。  ——消せ、消せ、水を持ってこい、と清太郎が言っていた。  炎の舌は時々俺たちの手を舐め、動くたびに小さな風を呼ぶようだった。我慢できないほど手が焼けてくると、  ——熱い、熱い、と玉夫が言った。  それでも奴は松明を放さなくて、俺と同一方向に引き、源から※[#「手へん+宛」]ぎ取ろうとしていた。源は鈍感で、その手に炎がふりかかるのに、熱そうでさえなかった。奴の馬鹿力は緩む気配さえなかった。  ——礼一だったっけな、黒子の方は、と何だかのんびりした口調で言った。  清太郎が、世話役づらをしてつきまとっていただけだ。あとの奴らは遠巻きにして見守っていたし、鬼どもさえも、動き回るのをやめて見物に回っているのが、時々眼に入った。  見澄ましていたのだろうか、清太郎が肩をぶつけてきた。俺と玉夫はよろめき、源に引き摺られた。人々が道を開き、正面に大きく真暗闇が見え、冷たい空気が浸してきた。松明の炎は衰えてはいなかったが、明りの輪の向うにも闇があり、何も照らし出すものがないのだ。源が力を籠めると、俺たちの十本の指は松明から剥がれ、火が宙に抜き取られ、そのまま弧を描いて欄干の下へ落ちて行った。境内にも人がいたのだろう、喚声がしていた。  ——なぜこんなことをするだ。村から出て行け、礼一、と清太郎が言った。  源は火傷をした右手を振りながら、欄干によりかかって肩で息をしていた。俺も息をするのが苦しかった。唾が粘っているのが判った。玉夫は意外に静かだった。もう面も鬘も外していて、青ざめた顔がラジュームのように闇に縁取られていた。  ——火の始末を頼むぜん、と清太郎が怒鳴った。  ——野郎、ぶん投げるぞ、と源が言った。  ——玉夫、一緒に行くか、と俺は言い、黙って階段を下り、下の石畳に黒子の装束を糞のように脱ぎ捨て、それからしばらく人混みをかきわけて歩き、闇に身を浸した。もういざこざは気に懸ってはいなかった。振り返ると本堂はボーッと明るく、人声が湧いているのも判ったが、俺との関係は断《き》れていた。奴らは、あんな具合に騒ぎ続けてきたし、飽きもしないで騒ぎ続けるだろう、本当のことも解らないで……、と思った。  ——これからがおっかなくなるだろう、と玉夫が言った。  ——なんだ玉夫か、おっかないことなんかないぜ。  ——鬼の役は馬鹿らしい。  ——馬鹿らしいことはない。万事これでいいさ。  俺は笑い、顔がこわばっているのを感じた。笑いは発散しないで逆流して、濁って顔に澱むようだった。しつっこく顔から立ち去らないのだ。  ——俺ら病気だ、と玉夫は言い、しゃがんでしまったので、俺も体をくっつけてしゃがんだ。  奴はしゃくりあげ始め、両膝の間へ首を突っこんで吐いた。吐気は何回もこみあげ、そのたびに体を波打たせ、顎をあげ、口から白いものが迸るのが見えた。  ——もう帰って寝よ、と俺は奴の背中をさすりながら言った。  奴は頷き、  ——礼ちゃんは帰らないのか、と聞いた。  ——帰らないよ。  ——なんで……。  ——お前とは違うもん。まだやり足りないんて。  ——やり足りない……。  ——とことんまで行くさ。頭が狂ったもん。  ——心配だなあ。お前は神経がそう強かないら。魔ものに取っ憑かれたみたいだ。神経が喰われちまうぞ。  ——うるさいな、俺のことを考えなくてもいいよ。  ——うろつく気か。  ——そうだ。  ——…………。  ——帰れ、帰れよ、玉。  玉夫は立ちあがって山道を下り、しゃがんでいる俺と顔の高さが同じになった所で、正面から見詰めた。吐いた時に涙が出たのだろう、顔を拭った。何だか情ない恰好だった。とにかく、短い間だったが鬼になって暴れたのに……。なれの果てか……。鬼は俺が奴から吸い取ってしまったのだ。  奴が見えなくなると、俺は立って、庫裏の裏山へ入った。本堂の光が木に遮られて見えなくなり、しばらくすると、庫裏の光がちらついてきた。俺は少しずつ明るくなる竹藪をまるで泳いでいる感じに、しかしできるだけまっすぐに下って、庫裏の勝手場へ行った。思っていた通りで、だれもいなかった。荒壁に懸けてある三振りの山刀を、一振りずつ順次に外して、鞘から抜いてみた。大きさも同じだったし、同じようによく砥いであった。一振りをバンドに挟んで半纏で隠し、敷居をまたいで軒へ出てから、戻ってもう一振りを同じようにした。山刀は両側から腹を抑え、身が引緊まったようだった。当然のことをしている気がした。使者や黒子の役の続きではないにしても、後片づけでもやっている気がした。  それから林道へ下りて、周平の作業場へ行った。剥がれた木の皮を踏んで、奥の灯りに近づきながら、山刀を背中へ回した。翼を※[#「手へん+宛」]がれた鳥にでもなったようで気になった。  周平の赤ん坊が眠っていて、そのわきに奴のお袋が坐っていた。  ——上がっての、障子を閉めておくんなせえ。冷えるんてのう、と言うので、俺はそうした。  ——周平さんはお寺へ行ってますかね。  ——なんの、お寺じゃあねえ。仕事しに島田まで出ているですに。  ——泊りで……。  ——泊りでのう。お寺へ出て何か役をしにゃあ悪いですがのう。お前さんは行ってきましたかの。  ——行ってきましたよ。  ——お前さん、だれでしたっけか。  ——相原礼一っていって、舟《ふな》ぎらのもんですが。  ——舟ぎらの……。周平の連れでしょうに、悪いっけ。  ——…………。  ——用があんなさる……。そのうちに嫁が帰ってきますに、待っていておくんなさい。  ——また来ます。  ——いておくんなさい。わしも赤ん坊と二人じゃあ、淋しいんて。  周平のお袋は囲炉裏の鉄瓶をとって、お茶をいれようとした。俺は彼女が置いた茶碗を左手で持って、  ——水をおくんなさい、と言った。  ——水を……。  ——自分で汲んできます。  ——水をのお。酒を飲みましたかの。眼が赤くなっていますに。  ——黒子をやったもんですで、喉が渇いちまって。  ——冷たかないですかの。  周平のお袋は鉄瓶を置き直し、火箸で榾火の灰をかき落としていた。俺は勝手場の甕から水を掬って飲んだ。水に自分の影が揺れているのを、収まるまで待ってみた。それから、座敷に戻ると、  ——黒子ですかの。黒子の衆は昼間には鷺追いをやるでしょうに、と周平のお袋が言った。  ——鷺追いは今年っから自粛でさ。  ——自粛っていいますと……。  ——とりやめでさ。  ——とりやめかの、鷺追いが。どうしてですかのう。わしら鷺追いの踊りのほうが、よっぽどか好きですけどのう。  ——色気がありすぎるっていわれちまって……。  ——とりやめじゃあ、仕方がないのう。鬼は男のやるもんで、女が好いていたのは鷺追いでしたけんど。  ——周平さんは島田へ行ったですか。  ——島田へのう。木の売り込みに行ったですに、ブローカーと話いていたっても、あてにならんっていうんで、自分で島田へ下りましたっけ。  ——お袋さん、長居しましたっけ。  ——そうですかい。鷺追いがのう、とりやめですかい。  それから、俺は舟ぎら山と姫山の間を通り抜けた。大井川は闇の底に沈んでいて、泡がゆっくりと湧いてくるように、鴉の鳴き声がしていた。一声一声はっきり聞えていた。対岸の台地が空の中に浮きあがった。空は深い青に冴えていて、雲は一かけらもなかった。いつもなら凍りつく思いのする青さだったが、俺は自由を感じていた。そして、昼になるにつれて、この自由は失くなってしまうぞという声が、遠鳴りのように聞えた。しかし、しばらくは光の量は増さなかった。  体が冷えきっていた。脚が特に冷たかったし、腿はまるで石の柱だった。胸と腹の境のあたりは板を嵌めこんだようで、しかも鈍く痛かった。俺は少し引き返し、来る時眼に止めた山小屋に入った。マッチを擦ってみると、燃えさしの木の根の囲りに粗朶があったので、火をつけ、燠火になるまで眠らないように気を張っていた。  火がうまい具合に起り、小さな炎が絶えなかった。木の根はゆっくり赤くなっていった。俺は右の二の腕に頬をくっつけて寝ていた。女の息がして、小屋の戸が開いたので、見ると、こうと周平だった。俺が羽目の近くにいたせいで、二人は自分たちだけだと思って、抱き合い、沈むように崩れた。こうの声は咎める調子から、泣き声に変り、だんだんかすれて行った。その間、こうの体は火の向う側にあって見えなかったが、髪がうねっているのが見えた。俺の眼の高さだったから、視界は髪だけになる瞬間もあった。俺は悲しみ、やがて俺がもう一度こうする時がくる。その時を来させなければならないと考えた。しかし、今じゃあない、今じゃあない、と自分に言い聞かせていると、髪の動きが止り、その向うにすべすべした珠みたいな顎が現れ、こうがのけぞっているのが判った。すぐにゴロリと顔がこっちを向き、髪の間から眼が俺の眼を覗きこんだ。周平は彼女のうなじに顔を埋めて、まだ腰を波打たせていたから、こうは、体を周平にあずけ、眼は俺にあずけているかのようだ。俺は、まさかと思い、それから、俺は本当にこの女の眼に見えているのかと思い、わけもなく足掻いた。膝に疲れがこもっていて、身動きできなかった。五十センチいざるのが、大変なことだった。しかし俺は、わずかずつ這って、燠火が瞬いている木の根を掴もうとした。振りかざすことができると思っていたのだ。なぜそんなことをしようとしたのか、二人を焼いてしまおうとしたのか。  目を醒ますと、木の根は穏かに燃えていた。俺は体を固くして、蝶の蛹みたいに躍ねてはいたが、右手を火の中に突っこんだわけではなかった。本堂で源と松明を争った時の火傷が疼いていただけだった。相当な火傷だったが、俺の気持を挫いたり、大事をとらせたりはしない。俺は左手で山刀を鞘ごと持ち、熟れた無花果みたいな火傷をペタペタと叩き、ここにも鬼が憑いていると呟いた。  大井川はすっかり明るくなり、河原の中ごろの瀬は輝く帯になっていた。台地の麓はまだ青い影で、霞がかすかに残っていた。その辺には鷺が舞い始めていた。華奢な肩を怒らせて飛び立ち、やがて思いきり頸を伸ばし、悠々と翼を動かして、台地よりも高く昇ったりした。俺は、鷺が光の中へ浮かぶのを何度か待った。そのたびに、それを合図にして、奴らのいる所へ歩き始めようと考えていたからだ。 [#改ページ]   単車事故  丸当の剛さんたちが入ってきて、ここでもう一人の友達を待ち合わせるのだといった。わたしがコーヒーをいれて席へ運んで行った時、下の道路で溝の鉄板が弾む音がした。弾むというより跳ねとんだ音だった。何かあったな、とわたしは思った。普通お客さんの車が入ってくる時には、わたしにだけ聞える合図の音がするけど、あの時はみんなが気がついた。それでも剛さんは、  ——だれだ……。もう少しどうにか運転できないかな、と言った。  ——あ、事故よ、とわたしは言った。  コーヒーを配ってしまい、表のドアを開けてテラスへ出てみると、下の道路の真中にクリーム色の小型トラックが止っていた。運転席から片足出して、背の高い男の人がこっちを見ていた。ずっと前から見ていたような感じだった。顔が土色で、こっちへ近づくのを怖がっている様子だった。それから車内に引っこみ、車をノックさせて走りだし、こちら側に寄せた。  わたしは階段を駆けおりながら、何が起ったかを知った。階段の下にオートバイが横倒しになっていて、まだ輪が回っていたんだ。その斜め前に男の子が倒れていた。顔色がよくて、今にもむっくり起きあがりそうに思えた。でもそんなことはなく、転がったままで痛がりも呻きもしない。わたしは彼の顔を覗きながら肩をゆすぶってみたけれど、反応はなかった。  小型トラックの人はオートバイのモーターを切って、わたしの横にしゃがみ、  ——大丈夫かね、大丈夫かね、と顫え声で繰り返しているばかりだった。  ——救急車を呼ばなきゃあ、とわたしは言った。  階段を登ろうとすると、剛さんたちが店の入口の前に立ちはだかって見おろしていた。  ——電話して、警察へ、とわたしは言った。  ——どうなっちゃったのか、と勇さんは言った。  ——気を失っちゃってるの、全然動かない。  ——怪我《けが》はないのか。  ——怪我、怪我って……。  ——傷はないのかって聞いてるんだ、血が出ているとかさ。  剛さんは階段の上から身を乗りだしていた。でも、悠々としている感じだった。この人はいつもこうだ。工事現場の班長で柔道もやっているんだそうだけど、全くそんなタイプだ。  ——早くしてくださいよ。  うしろで小型トラックの人の顫え声がして、わたしの腰を押しあげるようにする。わたしは階段を駆けあがり、剛さんたちのわきをすり抜けて電話へ行った。一一〇番へかけると、塩辛声の警官が出て、  ——オートバイとトラックね、すぐに車を回すからね。お宅さんは〈麦〉さんね。国道から城木線へ入ったすぐのところだね、と言っていた。  すると、わたしのうしろから手が伸びて、剛さんが受話器を握り、  ——あんたはだれ……。諸井さん。俺は羊歯《しだ》建設の宮村だけどな、やっちゃったんだよ。オートバイの方が脳震盪《のうしんとう》だ。一応脳震盪だと思うがな。病院へ連れてっちゃおうか、俺の乗用車があるんて、と言っていた。  そして、受話器を置くと、  ——諸井の馬鹿が、俺がやったと間違えやがって、冗談じゃない、と笑った。  剛さんは階段を下りて、自分の車を被害者のわきにつけ、抱きあげて客席へ入れた。枕元には友達を付添わせ、病院へ走った。慌てず騒がずというのか、ゆっくりやるけれども、手際《てぎわ》がいい人だ。その上、被害者が倒れていた場所には板をおいて、ここだぞ、とわたしに言い残して行った。  入れ違いに屋根に赤い灯を旋しながら、パトカーがやってきて、警官が丁寧に調べていた。その間に少し暗くなって行き、パトカーの灯がはっきりしてきた。近所の人が出てきて、警官が動き回るのや、小型トラックの運転者に質問するのを遠巻きにして眺めていた。運転者は可哀そうに、顔は青いままで、上ずって答えていた。萎れるのでもなく、胴をつかまえられた蝗《いなご》が動くみたいに体のどこかをしょっちゅう動かしていた。手を組んだり伸ばしたり、地面を見たり空を見たりした。  その時には姉さんが来ていた。実は姉さんはずっと前に来ていたのだ。事故を起したオートバイに追い越されたのだと言った。  ——こっちへ走っていると、うしろから来てね。夕焼けのなかへ素っ飛んで行く飛行機みたいに見えたわ。速かったわ。八十キロは出していたんじゃないかな。  ——そうでしょうね。ものすごい音がしたもん。  ——鉄骨が曲っていなかった。  ——曲らなかったけど、曲るほどだったら死んじゃうでしょう。  ——ヘルメットなしだし、危ないわよね。  ——脳震盪っていってたけど、剛さんは。  ——国道の信号が青だったから、青のうちに渡っちゃおうと思っていたのよね。  きっと単車のマニアだったのだろう。事故が起きたって仕方がない運転なんだ、とわたしは思った。わたしたちの兄さんの運転もそんなふうだった。今から四年前の十月だった。静岡のスナックでわたしがバーテンの見習いをしていた時、車で訪ねてきて、マスターにご馳走になって帰った。大して飲みはしなかったけれど、国道でトラックとぶつかって、死んでしまった。その頃は国道を走っている車は少くて、十時ごろだったけれど、目撃者はいなかった。だから相手のトラックの運転者の証言がそのまま通ってしまい、兄さんにはいいところがなかった。怖いもの知らずだったし、それに飲んでいたんだからどうしようもなかった。そんなことを思い出しているうちにわたしは、今、兄さんがいればな……、と思ってしまった。兄さんもしっかりしているとはいえなかったけれど、それでも兄さんは兄さんだ。それに、力が強かったし、スポーツが得意だったし、気が良かったから、まわりに友達が集まっていた。だから、兄さんが生きていれば、少くとも家はもっと賑やかで温かだったろう。あてにならない人かもしれない。でも相談には乗ってくれたろう。それだけでいい。わたしたちを馬鹿にしたり、笑ったり、乱暴なことをいってくれる人がほしい。母さんと姉さんと、女三人ではしんどくなってしまう。  わたしはスパゲッティを仕込みながら、そう思っていた。そして、これだけやったら、〈マヨルカ〉で踊ってこようと考えていた。  姉さんは、剛さんの友達が入ってくると、コーヒーをひき、いれて運んで行った。わたしは知らない人だけれど、姉さんは知っているらしく、話し合っていた。そのうちに剛さんたちが戻ってきて、さっきの男の子のことを、  ——思ったより重傷だな。全然性抜けだもんな。死ぬかもしれんぞ、最悪の場合は、と言った。  わたしの胸には暗いものが流れた。表の階段の下に、オートバイと人の字を描いて倒れていた男の子。死の影なんかなかった。顔色にも艶があって、ただ寝転んでいるように見えた。  ——死なれたらやりきれないわ、とわたしは言った。  本当のところ、そうだった。でも剛さんはお付合い程度に、  ——それはそうだ、他生の縁だからな、と言い、  ——コーヒーもう一杯くれや、と言った。  剛さんの友達も注文し、姉さんがいれてやっていた。  ——鉄骨へぶつけたわけじゃあないでしょ、頭、と姉さんが言った。  ——鉄骨じゃあないだろうな。コンクリだろうな。  ——鉄骨へ直接ぶつかったら即死だと思うわ。八十キロは出していたもん。  ——ブレーキがどのくらい利《き》いたかな、と剛さんの友達が言った。  ——コンクリだって固いからな。  剛さんがそう言うのは、おかしかった。剛さんは仕事でしょっちゅう、コンクリートを扱っている。  ——どこの男の子かしら、身許はわかったの、とわたしは聞いた。  ——俺は知らん。勿論身内はまだ病院へは駆けつけちゃあいないっけもんな、と剛さんは言った。  それから、剛さんたちは、いくつか自分の知っている交通事故の話をしていて、帰った。腹ごしらえして、伊豆へ鯛釣りに行くのだそうだ。  姉さんは一息いれ、言いにくそうに言った。  ——今夜は、悪いけど解放してくれないかしら。  ——わたしに続けろっていうの、いやよ、とわたしは言った。  姉さんとわたしの交替時間は六時と決めてあった。どちらかが変更したかったら、その前々日に申し出ると約束してあった。  ——急に言い出すんだもん、困るわよ、とわたしは言った。  ——予定があるの……。  ——あるわよ。  ——夜遊びでしょ。  ——そうよ。  わたしは〈マヨルカ〉で踊りたかった。あそこはとてもいい店だ。知ってる顔ぶれだし、それに、マスターとマダムがとびきり踊りがうまかった。最近は初老のギリシヤ人がやってくる。彼は清水の造船所の属託とかで、たった一人でもう九年も静岡に住んでいる。毎晩のように〈マヨルカ〉へ来て、長居する。わたしは彼から、いくつかギリシヤの踊りを教わった。とても面白い。でも、わたしは、いつもこんなに〈マヨルカ〉へ行きたいわけじゃない。今日は、二、三回思い出してしまったんだ。自分がもう、あそこへ行って踊っているような気がしたんだ。  でも姉さんは、  ——福出さんが来るのよ、と言った。  ——どこへ。  ——静岡よ、駅よ。  ——お迎えに行くのね。  それなら譲ったっていいとも思った。でも、すっきりとそう思ったんじゃあなかった。姉さんは自分は福出さんと結婚すると思っている。向うだって恐らくそう思っているだろう。  三月前、県庁の課長さんで、店へもよく来る加藤さんの世話で、姉さんは福出さんと見合いすることになった。でも結果は変なことになった。その場所へ福出さんが来なかった。福出さんは一級建築士で、東京の或る建築事務所で働いているんだけれど、その日、忙しかったというんだ。姉さんは着つけをして、お母さんと一緒に行ったのに、相手方からはお母さんとお祖母さんが来ただけだった。詫《あやま》って、二人でとても親切にしてくれたっていうけれど、そんなことってあるだろうか。姉さんは帰ってくると、ベッドにうつ伏せになって泣いた。わたしもそれでこの話は終ったんだと思っていた。でもそうじゃあなかった。四、五日して加藤さんが店へやってきて、朗報だって言った。その前の晩相手のお母さんから電話があって、芯がしっかりしたお嬢さんで好感を持った、息子と交際してほしい、って言われたんだそうだ。息子は近くフィリピンへ行くんだけれど、姉さんなら外国でだってしっかりやって行けるだろう、ということらしかった。  わたしはおかしいと思う。それが福出さん自身の意思じゃあないことがおかしい。でも姉さんは、それから福出さんと交際を始めた。それも、わたしから見れば、福出さんの言うなりになっているんだけれど……。  ——福出さん、土曜日だから来るんでしょ。じゃあお店へ来てもらったらどう。ここへ坐って話したら、とわたしは姉さんに言った。  ——静岡へ来てほしいって言うのよ。今夜は静岡の友達のところへ泊って、明日は岡崎へ行くんですって、と姉さんは言った。  ——何なのよ、一体。  わたしはまた腹を立てた。  ——妹にも会ってくださいって言ってよ。  ——言うわ、姉さんは肩身が狭そうな声を出した。  わたしは苦笑いしそうになったけれど、怺えた。わたしに笑われたりしたら、姉さんはどんな思いで出かけて行くだろう。福出さんと二人でいる時に、わたしの笑いを思い出すようなことがあったら、可哀そうだ。もともと姉さんは正直すぎるんだ。妹に恥かしいようなことだって打ち明けてしまう。今日だって、お店は素通りして静岡駅へ行ってしまい、今夜は事情があって出れない、とこっちへ電話をよこしたってよかったんだ。  ——そういうことなら、行ってもいいわ。でも、わたしだってお店にいないわよ。閉店にするの、とわたしは言った。  ——やる気ないの。  ——ないわ、とわたしは言い、福出さん、なぜもっと早く連絡よこさなかったのかしら、と続けようとして、これも怺えた。  それだけむしゃくしゃするが、これ以上姉さんを傷つけても仕方ないと思ったからだ。それに、わたしは福出さんと一度会ったことはあったけれど、どういう人物なのか皆目知らなかったからだ。  ——姉さん、もう一度福出さんに会わせてね。  ——今夜……。  ——ううん、今夜じゃない。今夜は〈マヨルカ〉へ遊びに行く。  ——…………。  ——車置いてってね。  ——いいわ。  ——何時に行けばいいの、静岡の駅へ。  ——七時十八分だって。  姉さんが出て行くのと入れ違いに、男の人が入ってきた。名前は思い出せなかったけど、顔はよく覚えている人だった。一月程前、青洲に一軒しかないフランス料理店で会った人だった。その店の若い主人と友達だということだった。  ——いらっしゃいませ、とわたしが言うと、  ——やあ、あなたの店だったんですか、と彼は言った。  どこにも坐らないで、突っ立ったままだった。憂鬱そうで余裕がなかった。硬い顔を無理に和らげようとするからだろう。こめかみに太い血管が浮かび、水の影みたいなものが青白くゆらゆら揺れる気がする程だった。  ——いつかは失礼しました、とわたしは言った。  ——失礼しました、と彼はぎごちなく言い、それから、  ——僕の弟がお宅のそばで事故を起しちゃったんだけど、見ていましたか、と続けた。  ——弟さんだったんですか、とわたしは驚いて言った。  ——見ましたか。  ——ええ、階段のすぐ下に倒れていたんですもん。  ——話してください、その時のことを。  ——その瞬間は見ませんでしたけど、直後に見たんですわ。  ——どういうふうになっていました。  ——相手のトラックが道の真中にいて、弟さんはオートバイの外側に投げ出されていたんですよ。輪が回っていましたから、どっかへぶつかったんじゃあないでしょうけど。  ——避《よ》けすぎたんだな、と彼は呟いた。  ——どうですか、容態は、と私は聞いた。  ——まだ意識不明です。  ——まだ……。そうなの。  ——いや、命拾いはしたようです。  ——よかったわ。  ——コーヒーください。それで、事故の様子をもっと説明してください、と彼は言った。  背の高い人だった。セーターもズボンもくたびれていたけど、その中で骨の太そうな体がしなやかに動いていた。コーヒーを運んで行くと、伝票を裏返してボールペンを添え、  ——説明してください、と言った。  描いてくれと言っていたんだ。わたしが横に腰を下ろすと、彼の匂いがした。できたてのグラタンの匂いに似ていた。その匂いはコーヒーでほとんど分からなくなった。彼の手はとても大きかった。体格はいい人だったけれど、肌の色はくすんでいて、健康そうではなかった。  ——大曾根さんでしたね、とわたしは思い出して、聞いた。  ——そうです、と彼が言うと、今度は、彼がわたしの名前をおぼえているかどうか、ちょっと気になった。  わたしは事故現場の図を描き、相手の車体には傷がなかったようだと言った。  ——それじゃあ、確かにハンドルをとられたんですね、と彼は言った。  ——一旦ここの駐車場へ走りこんで、この並木の向う側を通り抜けようとしたんじゃないかしら。  ——物凄くスピードを上げていましたって……。  ——八十キロくらいじゃあなかったかって、うちの姉さんが言ってましたわ。姉さんは車でこっちへ来ながら、弟さんに追い抜かれたって言っていましたけど。  ——そうですか、と大曾根さんは渋い声を出した。  ——補償の話をしているんですか。  ——ええ、それがあるもんだから、聞いてみたんです。まとまるのは二、三日先ですが。  ——…………。  ——どうもありがとう。これからまた病院へ行ってみます。  わたしはためらったけど、  ——わたしも行っていいかしら、お見舞いに、と言った。  気がついたら、そう言ってしまっていた。彼は怪訝《けげん》そうな顔をしてちょっと黙っていて、  ——うん、それはありがたいけど、と言った。  顔が熱くなるのが判った。心臓が搏っているのも判る。はっきりと在りかを感じさせるほど搏っている。彼が立ちあがる。また匂いがしたようだ。  ——お勘定頼みますよ、と彼が言った。  彼からお金を貰って、  ——行きますから、下でちょっと待っててください、とわたしは言った。  洗面所へ入ると、恋だ、と思った。しばらくは顔も直さないで、胴顫いを感じていた。外へ出ると、晒しものになるようで、怖い、と思ったりした。鏡のなかの自分を眺めていると、最初は自分で自分がよく見えなかったけれど、そのうちに、思いあぐねた眼が見えてきた。いく分落着いたんだ。それから顔を直そうとすると、口紅を引く指がまだ少し顫えていた。  店を閉めて下の駐車場へ行くと、  ——僕の車で行きましょう、と彼は言った。  ——帰りがありますから、自分ので行きます、とわたしは言った。  彼の車の尾燈を追いかけて運転しているうちに、落着いてきた。さっきの大波が収まって、少しずつ楽しい揺れ方に変って行くようだった。  病室へ入ると、彼の弟さんは虚ろに目を開いていて、  ——ああ、篠ちゃんだな、と独り言みたいに言った。  私はそれで、彼の名前が篠作だったと思い出した。弟さんはわたしの方も見たけれど、何も言わなかった。何も感じなかったんじゃあないか。  ——どうだい、と大曾根さんはブッキラ棒に聞いただけだった。  ——いてくれるのか、と弟さんは言った。  ——そうだよ。付添いだ。それから、この方が心配して見舞いに来てくれたさ。お前が事故を起すのを見ていて、心配してくれてな。  ——そうか。  頷く前に弟さんの顔には、斜めに大きな引きつりが走った。はにかみなんかとは違う。急に気持がたかぶった様子で、なんだかわたしに対する敵意みたいだった。そんなことじゃあなかったんだろう。でもわたしは反射的にそんなふうに感じ、ここにいては悪い気がした。わたしがいると気づまりなんだろう、いい兄さんと二人だけで、静かな夜を過したいのかもしれない。わたしはいきなり障害物にぶつかった気がして、折りを見て帰ろう、と思った。  ——大丈夫だからな、と大曾根さんは言った。  ——なあ、兄さん、本をどうしたかと思って。オートバイにつけておいただけえが、失くなっちまったかな、と弟さんは案外静かに言った。  ——本……。  ——荻島さんに借りた遠洋漁業の本だけえが、あの本は一冊しかないんだって。  ——そんなものはいいよ。  ——よかない。  弟さんはまた顔に斜めの引きつりを走らせた。白目がむき出しになり、怖ろしかった。わたしが息を呑むと、そんな雰囲気を和らげるように、大曾根さんが言った。  ——あるよ、あるから心配するな、だれも持って行く人はいないよ。  ——そうか、と弟さんは曖昧に言って眼をつぶった。酸っぱいという感じに顔を顰《しか》めた。そして呟いた。  ——手提げな、鎖のついた手提げな、あれへ入れてバックミラーへ懸けといただけえが……、小さい本だ。  わたしはこの人がうちの階段の下に倒れていた姿を思い出した。足もとに転がっていたオートバイ。バックミラーは……、バックミラーは、柄がハンドルと平行に曲ってしまい、顫えて階段のコンクリートとぶつかり合っていた。橙色の反射鏡に割れ目が入っていた。でも、鎖のついた手提げなんかなかった。本も見えなかった。  ——失くなることはない。心配するな、と大曾根さんが言うと、  ——心配すると頭に悪いかなあ、と弟さんが言った。  ——良かないだろうな。  ——凄く心配になるなあ。  ——いいから楽にしろ。  ——そうだな。考えんほうがいいな。  わたしは長居をしてはいけないと思っていた。弟さんにとって邪魔物としか思えなかった。でも、いけないと思いながらも、居続けたい気持もあった。一方でわたしは、今までになかったほど、安心していた。大曾根さんが厚いクッションになって安心させてくれるようだ。そしてまた、それがいけないことのように思えたんだ。今弟さんに必要なものを、わたしが横合いから奪っている感じがした。わたしは押し強くなれなかった。だから、もっと居たかったけれど、帰ると言った。大曾根さんは玄関まで送ってくれた。車のわきでわたしは、  ——お勤めでしょう、と聞いた。  ——ええ、焼津の缶詰会社です。  ——会社が終ってからここへ来るんですか。  ——あいつが入院しているうちはね。  ——ずーっとですか。  ——お袋と交替で来ます。  ——大変ですわね。  もっと聞きたかった。明日、うちの店へ寄ってください、とも言いたかった。でも、言いそびれてしまった。心残りでもあったけれど、楽しい気もした。火がついた時は怖かったけど、或る程度馴れると、静かに燃えている火が、胸の中を明るくしているような気がする。  わたしは店へ行き、階段の下へ車を突っこんだ。その辺一帯をライトで照らして、鎖のついた手提げを探した。なかったので、店へ入って懐中電燈を持ってきて、隣の遊園地の方まで探して行った。まさかと思ったところに、手提げはあった。鎖が切れて、夾竹桃の枝の間に刺さった恰好ではまっていた。柔らかな本革の袋に鎖のついた、ちょっとキザな感じのする袋で、中には遠洋漁業史という古ぼけた本が入っていた。それを見て、あのオートバイを思い浮かべると、弟さんがどんな人か解ってくる気がした。お兄さんとは全然違う性質なんだろう、と思えた。それにしても、事故現場であの人の弟の手提げをすぐに見つけだしたのが、うれしかった。自分の幸運のような気がした。 [#改ページ]   後記  もう二十五年も前、私は将来書いて行くべき小説の流れを、三筋に分けようと決意した。第一の筋は、聖書の世界を拡大したり変形したりした物語の流れにしよう、第二の筋は、故郷大井川流域を舞台にした架構のドラマの流れに、三番目の筋は、実際の体験、交際、見聞に多少の潤色を加えた私小説風の流れにしようということであった。そして、ほぼその通りになった。私は今でもこの三筋の流れに棹差している。  この集に収録した諸短篇は、〈聖女の出発〉〈鷺追い〉〈単車事故〉を除いては、三番目の私小説風の流れに属する。私自身に近似値の人物の視点が話の中心になっているのだから、それならいっそ、出来事をそのままに書く随筆でこと足りるではないか、と思ったこともあった。事実、その間に書いた少くない随筆は、私の小説の筆をまぎらわしくし、邪魔をした。それでもなお、潤色したがる傾向は、そこはかとなく、しかし何かいわれあり気な誘惑としてあり続けた。  ここに書き添えておかなければならないのは、私小説風の諸作品の、視点となる人物の名前を柚木浩で統一したことだ。実は、雑誌に発表した段階では、作品ごとにその人物の名前は違っていた。ここに来て一人に絞りたくなったのは、私に似た男の遍歴を、少しでもすっきりと眺められるようにしたいと思ったからだ。  文芸雑誌に載せてもらう際、担当の編集者に助言してもらい、怒らせたり世話を焼かせたりしたことは、身に沁みて申し訳なく感じている。今回本にするに当っては、徳田義昭氏が同様の羽目に陥ってしまった。深謝すると書いても、いい気なものだと思いはしないか。思いがけなく、知友磯見輝夫氏が装幀にたずさわってくれたことも、喜びであった。  一九八六年九月 [#地付き]小川国夫