時砂の王 小川一水      Stage-448[#「Stage-448」は縦中横]Japan A.D.248[#「Japan A.D.248」は縦中横] 「みよさま……みよさま!」  少年の叫びが木立の中を追ってくる。怒っているようでもあり、不安がっているようでもある。  彌与はかすかな笑みを浮かべながら、それを無視して歩を進める。楢《なら》や櫪《くぬぎ》の間に付けられた、細いけもの道。盆地の宮に比べてずっと涼しいが、登り坂なので汗がにじむ。額を拭く手に、文身《いれずみ》を隠すために塗った土粉がどろりと粘りつく。胸に隠した銅鏡を覗けば、きっとひどい顔が見られるだろう。  蝉《せび》の音で頭が割れそうだ。 「彌与さま!」  声が近づいた。無理して藪を突っ切ってきたようだ。下草の向こうから、がちゃがちゃと佩剣《はいけん》の音がしたかと思うと、すぐ隣に幹《かん》が飛び出した。ひょろっこい手足を動かして、懸命についてくる。  ちらと目をやって、彌与は噴き出しそうになった。顔は水溜りにでも突っ込んだようにどろどろで、そのうえ蜘蛛《ささがに》の巣が三枚ばかり貼りついている。瓶作りを終えたばかりの土師《はじ》だってもっとましな顔をしているだろう。  ようやく足を止めて、彌与は少年の顔に手を伸ばした。 「そう急《せ》くな、幹。男ぶりが台無しだぞ」 「吾《おれ》のことなどどうでもいいので……」  立ち止まって息を整えた幹が、ふと彌与の顔に目をやって、ぎょっとしたように眉を吊り上げた。彌与の手を押し戻して、頬に触れてくる。 「彌与さまこそ、ひどいお顔です!」 「随分だな」 「貴女ともあろうお方がそのような……ああ、動かないでください!」  顔を振って下がろうとしたが、幹に腕をつかまれて無理やり顔を拭かれた。まるで娘を扱うようなその行いに、軽い苛立ちと、弾むような楽しさを覚える。彌与の肌にこうして触ることのできる男は他にいない。他の男に触れられたいとも思わない。  だがそれは、幹がまだ耳鬘《みずら》も結わない童子であるためだろう。母親めいた彼の行いが済むと、逆にその顔を拭いてやりながら、彌与は思った。この子はまだ幼い。  きれいに拭いてやると、少年の丸い頬につやが戻った。顎骨の突き出す兆しが見え、鼻も堅く変わろうとしているが、すねたような大きな目はとうてい大人のものではない。彌与は安心する。十四の幹は、いずれ自分の背を追い越してたくましい男になってしまうだろうが、今はまだ、心を動かされはしない。  彌与は処女である。今のところ、それはただの建前ではなく事実で、この先もしばらくはそのままのようだった。 「いったい、どこまで行かれるおつもりですか」  裸足の足の裏に刺さった小石を払い落としながら、幹がぼやく。 「もう宮から五十里は来てしまった。今からでも戻らないと、日暮れまでに着くかどうか」 「別に戻らなくても構わないだろう。いざとなれば斑鳩《いかるが》のあたりで夜明かしすれば」 「おたわむれを!」  幹がにらむ。たわむれはいつものことだ、とやり込めたくなったが、続く言葉を聞いて思いとどまった。 「篠《じょう》のことも考えてやってください。あれがいつもどんなに心細い思いで待っているか」  それは彌与がたびたび身代わりを押し付けている、幹の姉のことだ。身代わりといっても奥宮の暗がりに座っているだけのことだ。しなければならない仕事があるわけではない。物のわかっている 婢《はしため》 たちが、手取り足取り世話を焼いてくれるから、適当に調子を合わせて、云《うん》とか噫《おお》とか言っていればいい。  とはいえそれは、奴婢《ぬひ》あがりの幹や篠にとっては気の重い務めなのだろう。彌与のように、人にかしずかれることに慣れているわけではないのだから。 「確かに、あれには苦労をかけている」 「では」  お戻りですね、と言いかけた幹を遮《さえぎ》り、彌与は澄まして言った。 「うん、先を急ごう」  彌与が歩き出すと、幹はため息をついて追ってきた。  山道をどんどん登っていく。湿ってよく腐った黒い土のところどころに、岩が顔を出している。たいていの男よりも大柄な彌与は、日ごろの鍛錬もあって息を弾ませる程度で渡っていける。幹が身軽さに物を言わせて先回りしようとするが、ろくなものを食べていないのですぐに遅れる。 「いったい、どこまで、行く、おつもり」  息を切らせて幹が尋ねる。驚かせたくて黙っていたが、さすがにそろそろかわいそうになった。 「海を見る」 「海?」 「見たことはないだろう」  ちょうどその時、尾根に出た。  一陣のさわやかな風が二人の顔を叩いた。まばゆさに顔をかばった幹が、大きく目を見張り、嘆声を漏らした。 「うわあ」  そこから西方を一望にできた。山すそに北へ向かう大河があり、その一部で何か土工《つちたくみ》でもしているのか、大勢の人が立ち働いている。右手の北方には干潟に囲まれた湖がある。川向こうの平野は稲の緑に満たされた数知れぬ水田で、さらに向こうの津《みなと》に白帆が並び、ちらちら光る水面が広がっていた。  初夏の光に照らされた、青く抜けるような光景は、盆地に暮らす二人には見慣れないものだった。潮風がここまで届いているような気がしたのか、幹が胸いっぱいに息を吸いこんだ。 「これをご覧に?」 「うむ。志貴山《しきのやま》から海が見えると聞いてな。そら、あの大川は、宮のそばを流れる初瀬《はつせ》川《がわ》の下流だ。向こうの湖が草香江《くさかえ》で、その先の難波津《なにわづ》に注いでいる」 「あの、川縁で何やら造しているのは?」 「あれが初瀬川の付け替えだ。妾《わたし》が神託を降ろし、ぬしが諸官に口伝えしたではないか。あの川が大雨のたびに氾《あふ》れて困るから、曲げずにまっすぐ海へ流せという命を。覚えておらぬか?」 「あれが……」  少年が首を振った。実感が湧かないのだろう。幹は、彌与と諸官の間の言葉を仲立ちするだけで、内容をまったく理解していない。しかしそれは彌与にしても同じことで、自分が下ろした託宣が、実際に大勢の人を動かして地形を変えつつあるところを見るのは、なにやら不思議な気分だった。  その気分は収まるどころか、説明を進めるにつれて強くなった。 「見えるか。あの、北から来ている街道が磯歯津路《しはつみち》。道の終わりの大邑《だいゆう》が、住吉津《すみよしつ》だ。そしてあれが茅渟海《ちぬのうみ》……」 「大きな船が見えます。とても大きな。あれは魏国《ぎこく》のものでしょうか?」 「かもしれない」言ってから、そうとも限らないことに気づいた。「でなければ、苦品《くしな》国、阿去年《あくそ》国のものかも」 「剣卓《けんたく》国や羅馬《ろま》国の船かもしれません!」  それはどうかな、と彌与は含み笑いした。無邪気な幹は、海船《うみぶね》ならばどこまででも行けると思っているようだが、苦品や阿去年は魏国を越えたさらに向こうの国だし、羅馬や剣卓にいたっては水行はるかに何百日、天地《あめがつち》の裏側にある遠国だと聞く。船を交わして商いを興すのは、何十年も先になるだろう。  だが、それらの国から船がたどりついたのは、まぎれもない事実だ。返礼に遣わせた船も、半分は沈んだが、持衰《じすい》を乗せたおかげか、半分は生きて戻った。彼らが彌与の国にもたらした、中国より遠い異国の文物は、多くの人を驚かせた。いずれきっと、もっと多くの船が行き来するようになるだろう。 「あの船に乗れば、見たことのない異国に行けるのでしょうね」  そうしてみたいのか、それとも、そんなことはとても無理だと思っているのか、夢見るような幹の横顔を目の端に置きながら、彌与はますます、今のこの世の不思議を考えていた。  省みれば二十年余り前まで、倭国は大乱のさなかにあった。奴国《ぬこく》や投馬国《とまこく》などといった大国が、他の何十もの小国を巻き込んで、水を巡り、土地を巡り、相争った。多くの人が死に、多くの邑《むら》が焼かれた。  しかしその大きな戦も、終わる時が来た。国々の心あるものたちが、このままでは世の荒れるばかりだと話し合い、王を立ててともに戴き、和議を結ぶことを決めたのだ。それ以来、戦はなくなった。同盟から外れた三遠《さんおん》の地の狗奴国《くぬこく》などと、多少の小競り合いをすることはあるが、上下ともにおおむね平和に豊かに暮らす時代が来た。  |使  令《つかいのおきて》がなければ、そうはいかなかっただろう。  使令は古くから伝わる一巻の書で、狗奴国を除くすべての国が、同じ内容のそれを持っている。出自は不明だが、内容は平明だ。世に災いのあること、災いが必ず襲い来ること、人が合力してそれに当たれば必ずや退けられ、あらゆる魔を祓う、強にして大な援《たす》けが来るだろうことなどが書かれている。  彌与自身は陳腐な教訓の書だぐらいにしか思っていないが、各氏族の長《おさ》たちはそれを侵すべからざる神聖な言い伝えだと信じており、ことあるごとに持ち出すのが常だ。使令においては、と切り出される話は、倭国の誰であれ無視してはならないとされる。そこに合力せよと書かれていなければ、いくら人々が大乱に疲れ果てていたといっても、争いをやめようとはしなかっただろう。  そのような掟が、倭国のすべての民に知られているというのも、不思議なことだ。  しかし彌与がもっと不思議に思うのは、倭国だけでなく漢土《かんど》にも、苦品にも、剣卓や摩耶《まや》にもそれが伝わっていることだった。  倭国に最初に剣卓の船が訪れたのは、今から七、八十年も前だという。茅渟海《ちぬのうみ》のさらに外の、大きな大きな海を渡ってきたという赤い肌のその民が、最初に求めたのは真水の提供と使令の交換だった。当時そのあたりにあった倭の一小国の長が、手まねで乞われるまま使令を見せ合ったところ、見たこともない彼らの言語で牛皮に書かれた文章と、細則の補足にいたるまで一致した。長はたいそう驚いたものの、赤肌の船長《ふなおさ》はさにあらんと心得顔でうなずいたという。後に交流が進んで、剣卓の人が回ったあらゆる津で、同じように使令の交換が成ったことを明かした。天地の|人 類《ひとのたぐい》はすべて、合力し災いに当たらねばならないらしい。  今の諸国との交流は、このような暗合をもとにしている。だから彌与は使令を陳腐だとは思っていても、その威徳《いとく》は認めている。  その威徳のしからしむるところによって、彌与は今の位に推された。  本当に——と、彌与は眼下に広がる豊かな穀田と津の賑わいを見下ろして、一人ごちる。使令がなかったら、人の世はどうなっていたのだろう。争いは収まらず、人と人はつながらず、戮《ころ》しあってばかりいたに違いない。そうでなくてよかった、と諸国の人々は言っている。  彌与一身の自由は、奪われてしまったけれど。  考えがそこまでいたると、彌与は無意識のうちに一歩を踏み出していた。己が身に与えられた巨大な権力を、ことさらに疎《うと》ましく感じて。  その時、ざらりとした金《かね》の音が背をこすった。振り返るまでもなく、幹が銅剣を抜いたのだとわかった。 「彌与さま」  不安を帯びた声が言う。 「彌与さま、お戻りを」 「なんだ」 「彌与さま、そこから先は、なりません。禁足《きんぞく》です。国境《くにざかい》を越えます」 「何を言っている。ここは見晴らしが悪い。ほら、あの枝の向こうに——」 「彌与さま!」  悲鳴にも似た、それは懇願の叫びだった。  彌与は固まる。彌与は幹が好きだし幹も彌与を好いている。彼から逃れることはできない。そして彼は姉を宮に置いており、彼女のことも、二人は好いている。だから二人は、決して逃げ出せない。  これだ。これが、長と司《つかさ》と官奴《みやつこ》たちからなる、|国  閣《くにのたかどの》が自分にかけた戒めだった。彼らは彌与にさまざまな枷《かせ》をかけたが、その中でもこれが一番たちが悪かった。  彌与は黙って後ろへ下がった。振り向いて微笑む。 「悪かった。戻ろうか」  心底ほっとしたような幹の顔を見たとき、彌与は国閣に対する強い憎しみを覚えた。この世に平和をもたらした使令にも。 「お急ぎください、斑鳩まで戻って駅馬《えきば》を出させるのがよいと思います。でも、足元にはお気をつけて……」  先を行く幹の背を見ながら、せめて彼がもう少し大きければ、と思わずにはいられない彌与だった。国閣の奸智を出し抜いて、ともに逃げ出せる方法があればいいのに——。  がさり、と横手で草が鳴った。蝉の声が止まる。  感心するほど素早い動きで、収めたばかりの剣を抜いて、幹が視線を放った。彌与はその斜め後ろに移り、手近の櫟《くぬぎ》の枝を拾い上げた。宮での鬼事に用いる幣矛《ぬさぼこ》には大分劣る武器だが、ないよりはましだろう。  幹が怒鳴る。 「誰ぞ!」   豺《やまいぬ》 は音を立てないし、猿《ましら》ならこれで逃げる。しかし、樵人《そまびと》か猟人《かりうど》だろう、と彌与は思った。いや、願った。それならどうということはない。庶人《もろびと》は彌与の顔を知らないから、いくらでも言い抜けられる。  賊の類だとやっかいだな……。  彌与が唾を飲み込んだとき、前に立つ幹の腕に、ざっと鳥肌が立った。  茂みをかき分けて、ぬうっと巨躯が現れ、二人の上に影を落とした。 「……何?」  それが何か、とっさには理解できなかった。  東国に出るという熊のような、二本足の獣。彌与と幹の二人を足したほどの背丈があり、二人が手をつないでも届かぬであろうほど、胴が太い。それが、蝿を思わせるぶつぶつした両眼を、くるくると動かしてこちらを見下ろしている。  だが、熊に似ているのは体格だけで、それ以外は熊どころかどんな獣にも似ていなかった。獣の獣たるところの、毛が一本も生えていない。長い前腕を垂らして前屈した姿勢は、熊というより猿だ。全身が赤錆を吹いたようなざらついた肌に覆われ、そちこちで白っぽい骨がむき出しになっている。右の腕は指のないごつごつした棍棒そのものであり、左の腕は見たこともないほど鋭利な弓形の鎌だった。  そういったことはしかし、すべて明確に見て取れたわけではない。  二人は、ただ圧倒されていたのだ。  全身から熱くきな臭い匂いを漂わせ、虫の関節が鳴っているようなキシキシという不快な音を放ち、じっと自分たちを見定めている獣に。  禽獣《きんじゅう》みな、大の小を狩る。  少数の例外はあっても、小さな生き物は大きな生き物に狩られるのが、野の掟だ。深山にまだまだ人の手の行き届かぬこの国では、彌与や幹の意識にもその掟が染み付いていた。巨《おお》きなものは、それだけで強いのだ。  おそれに身を縛られて、二人は口も利けずに立ちすくんでいた。膝が震え、汗が滴る。小さな幸運がなければ、二人ともそのまま狩られてしまっただろう。  その幸運とは、一匹の小さな虻《あぶ》だった。——耳障りな羽音を立てて飛んできた虻が、彌与のくるぶしに止まり、口吻《こうふん》を突き立てて体液を吸った。  チクリとした痛みが、彌与を正気に返らせた。 「……物《もの》の怪《け》か!」  声を発するとともに、恐怖に麻痺していた危機感が蘇った。彌与は、前に立つ幹の背を平手で叩いた。少年がハッと我に返り、腹の底から気合を吐いて走った。 「イヤーァッ!」  銅剣が青黒い弧を描き、物の怪の頭頂を打った。ガシャッと音を立てて複眼の一つが潰れた。だが物の怪は痛みを覚えた素振りさえ見せず、棍棒を高くかざして、振り下ろした。ぶん、と空気が重く鳴る。  それは凄まじい勢いで幹の腕を打った。幹は仔犬のように吹き飛び、ザザッと土を散らして転がる。彌与は駆け寄って彼の腕に触れた。 「大丈夫か?」 「くっ……」  顔をしかめて身を起こした幹が、利き腕ではありません、とつぶやく。まだ戦えるという意味なのだろうが、その腕はだらりと垂れている。すぐにも腫れ上がるに違いない。 「彌与さま、お逃げを」 「馬鹿を言うな」 「馬鹿は貴女です、早く!」  そのとき、身を低めた物の怪が、ざわざわと下草を蹴散らしながら突っ込んできた。その頭上に高々と大鎌が掲げられているのを見て、彌与はとっさに幹の体を抱きしめ、横へ転がった。ゴッ、と鈍い打撃の音を立てて鎌が空中を薙《な》ぐ。  草にまみれて顔を起こした彌与は、自分の太腿ほどもある立ち木が切断されて、ミリミリと倒れていくのを目にした。背筋がぞっと冷たくなった。  振り向いた物の怪が、再びひそやかな草の音とともに近づいた。彌与より太い巨体なのに、ほとんど地響きを立てない滑らかさが不気味だった。  こいつも熊のように人を食うのか。——いや、違う。こいつには口がない。  食うためではなく、純粋に殺すために、人を狙っている。  幹が無言で跳ねた。雀蜂のような鋭さで物の怪の腋《わき》を狙う。キン! と涼しげな金属音。彌与の目は彼の呆然とした顔と、くるくる回りながらすっ飛んでいく銅剣の先端を捉えた。剣が折れるほど硬いとは、岩か、鉄《まがね》か。驚きながらも彌与はその横へ回り込んでいる。物の怪が振り上げようとした鎌を、渾身の力を込めて棒で打つ。手の痺れるような反動があっただけだ。  次の瞬間、彌与は物凄い力で体当たりされて、倒れていた。 「幹!」  少年が覆いかぶさるようにして彌与をかばったのだ。その背に物の怪の鎌が走り、すっぱりと肉を切り裂くのを、彌与は別の世界の出来事のように見つめていた。 「幹……」 「……げを」 「幹?」 「お逃げを」  うめくような小声とともに、みるみる鮮血があふれ出して、背を赤い池に変えた。  キシキシと音が聞こえる。物の怪の体から。ひょっとするとそいつも大儀なのかもしれない。だが止まる気はさらさらないらしい。また、棍棒を振り上げる。  次の一撃が来る前に、彌与は幹の細い体を背負い上げ、つんのめるように逃げ出していた。 「……誰が置いていくか!」  背後で硬い音が連続する。何本もの木が断ち切られている。木立を貫いて足音がざくざくと追ってくる。恐ろしいほど速いその足取りに対して、彌与の歩度は乱れ、もつれ、つまずく。シュッ! と耳元を風が走る。さらに身を低め、這うように、というより這いつくばって四足で斜面をよじ登る。心の臓がどくどくと暴れ、深く息を吸おうとした拍子に、前のめりに倒れ、泥を飲んだ。ざ、ざん! と足音が左右を挟む。  目の前に、西の海の光景があった。そのまま顔を上げれば、後ろからのしかかった物の怪の腹が見えた。  妙だな、と思った。こんな死に様があるのか。幹と尾根を越えて逃げていればよかった。  それとも、そんなことを考えた報いか?  いきなり頭上で立て続けの爆音が弾け、彌与は土に打ち付けられた。  何事だ……? 「ボルト有効射なし、自発的に後退した模様。カウンター、トラップ、アージェント等すべて非検知。かなりチープなRETです」 「黙って探せ、FETはどこだ。ケルンはないのか?」  耳に入った女と男の声を、即座に理解できたわけではない。助かったとすら思わなかった。至近に雷が落ちたような今の爆発を、もし何者かが引き起こしたのなら、それもまた物の怪だとしか思えなかった。  かすむ目を無理に凝らすと、鎌の物の怪の姿はなく、人が見えた。  長身大躯の男だ。煤《すす》けてひびの入った灰色の鎧をまとい、 兵《つわもの》 装束を思わせる面頬《めんぽお》をすっぽりとかぶっている。右手には、並外れて長い大剣を下げていた。男だと思ったのは体格のためだが、その姿は彌与の知るこの地の人間とはかけ離れていた。 「生きています。女は軽傷、男は出血量が大。見込みで六分後に虚脱症状」  再び女の声がしたが、姿は見えなかった。男が歩み寄り、彌与に向かって何か言った。 「その子に手当てができるか」  言葉がわからなかった。ただ、剣を向けなかったので、敵意はないと知った。何よりも大事な幹のことが念頭に湧いて、彼を地面に下ろした。背の傷は助かりそうもないほどひどいものに見える。それでも自分の裾を裂き、縛り始めた。 「血を止めれば小一時間は持ちます。放置するなら感染症対策が必要ですが……」  女の声が言った。ちらりと見ると、驚いたことに、その声を発しているのは、男の手にする剣のようだった。実際、男は答えるときに剣に目を向けた。 「後だ。FETは?」 「非検知。群信号網そのものが張ってありません。あのRETは無効分散体のようです」 「はぐれ[#「はぐれ」に傍点]だとしても油断はするな。位置は」 「三十五メートル先で静止——O《オー》!」  突然、森の中から飛来した丸太が男にぶち当たった。男は破城槌《はじょうつい》を食らったように吹き飛ぶ。手から離れた大剣が、彌与のすぐそばの地面にドッと突き立った。かさかさと疾走してきた物の怪が尾根に飛び出し、男に躍りかかった。 「剣を!」  叫ぶ男に、重い棍棒が振り下ろされる。男は信じがたい敏捷さで跳ね起きて下がったかと思うと、腰のあたりに手をやった。そこから小さな礫《つぶて》が物の怪に向かっていくつも放たれる。小爆発が立て続けに物の怪を襲う。しかし、物の怪はわずかにのけぞっただけで、堪《こた》えた様子もなくさらに前進した。棍棒と鎌を代わる代わる振るって肉薄する。 「女、投げなさい」  戦いに目を奪われていた彌与は、剣の声を耳にしてびくりと振り返った。 「私を投げなさい。早く!」  ゆるやかに湾曲した大剣。背は乳白色だが、刃は透明でひどくぎらついて見える。幹の銅剣とは作りも素材も違う。それが声を発している。 「女よ、早く!」「カッティをくれ!」  二人の叫びが重なった時、彌与は意味を理解した。剣を引き抜き、その度外れた重さに驚きながら、助走して放り投げた。ぐるりと回って柄《つか》から落ちた剣に、男が飛びついた。  剣が白く輝いた。  起き上がりざまの一閃で草を刈るように棍棒を切り落とし、返す一撃で大鎌を薄板のようにへし折り、ひるんだ物の怪の肩口を断ち割って、よろめくところへ横ざまに振り抜いた。くっぱりと胴の裂けた物の怪へさらにのしかかり、脳天に左右から斬りつけて虫のように頭を打ち落とすと、その奥に剣先を突っ込んでえぐり、吠えた。 「焼け!」  冷水に焼き鏝《ごて》を沈めたような音が上がり、細い煙が立ち昇った。  それが、とどめらしかった。無残に切り刻まれた物の怪がぐしゃりと崩れると、背の鞘に剣を収めて、男がやってきた。  夢でも見ているような気分だった。彌与たちがあの物の怪を倒そうと思ったら、おそらく百では利かぬ兵と、砦が一つ必要だったろう。おびき寄せて穴に落とすぐらいしか方策が思いつかない。  瞬きする間にばらばらにしてしまうとは。——それを喩える神話をもたない彌与にも、男の素性がわかった。他に考えようがない。 「あなたは、|使  令《つかいのおきて》の使《つかい》なのか」  あまねく天地に一書を布令《ふれ》た、古代の賢者。  問われた男が肩越しに剣を見る。 「わかるか」 「原枝からの逸脱がやや見られますが、上代日本語として理解できます。通訳しますか」 「時代がわかれば自分でやれる。私の時計はAD二四八年だ。おまえは?」 「同じく」  うなずいた男が彌与を見て、言った。 「私はO、メッセンジャー・Oだ。言葉はわかるか」 「わかる。メッセンジャーの、王?」 「知らせをもたらす者」  彌与は、それまでずっと幹の背を押さえていた手を離し、深々と頭を下げた。 「使いの王、御礼を申し上げる。助かった」 「礼はいい。それより、その子を見せろ」  言われるままに彌与は場所を空けた。屈みこんだ王が幹の傷に触れる。当て布の隙間から血でぬらついた白い肉が見えると、彌与は思わず顔をそむけたが、しばらくして恐る恐る見直すと、裂け目に薄皮が張っていたので目を見張った。 「傷が……」 「漏れた血は私にも戻せない。養生させることだな」 「重ねて御礼を」  彌与は地に伏せ、叩頭《こうとう》した。安堵の思いで涙がこぼれそうだったが、頭の片隅には懸念を見出していた。使いの王、使令を記した者、その現れを国閣の官たちはどう扱うだろう。まず、この吉凶を知るために占事を催すのは間違いない。亀卜《きぼく》や太占《ふとまに》で済むだろうか。これほどの大事となれば、刎占《はぬまに》を言い出す者がいるかもしれない。罪人の首を切り、噴き出す血の模様で卜を立てる忌まわしい儀式。  それを 司《つかさど》 るのは自分だ。  そんな成り行きは気が進まない。できることなら避けたいものだ。  王が立ち上がったとき、彌与が考えていたのは、そんなことだった。 「ところで、女。おまえはこの地の奴婢か」 「いや」 「よそ者か? では、近くに知り合いはいるか。地理と国情を知りたい。ここは、ここ[#「ここ」に傍点]でも、信貴山《しぎさん》と呼ばれているのか」 「志貴山《しきのやま》だ。近くに知り合いはいない」 「ふもとまでの道ぐらいわかるだろう。人里に出たい。案内してくれ」 「なぜ?」 「私はこの地の王に会いに来た。戦いの備えを勧めるために」  彌与は顔を上げた。国の王に? 国閣にではなく、名指しで会いに来たと言ったのか。  ならば——防げる。官奴《みやつこ》たちが彼に取り入ることを。彌与は懸命に考えを巡らせて、長き務めで学び知ったことをこの椿事《ちんじ》に結び付けようとした。できるかもしれない。いや、やってのけるのだ。  この国の行く末など、知ったことか。 「使いの王」  彌与は立ち上がった。自分よりも高い、立派な体つきに気圧《けお》されぬよう、しかと目を据えて告げる。 「妾はよそ者ではない。さっき違うと言ったのは、住処《すみか》ではなく身分のことだ」 「ほう。どこかの媛《ひめ》か」 「いや、王だ」  両の頬を丁寧に拭いて、鬼道に事《つか》える者たる文身を表し、貫頭の衣の乳房をはだけて、 掌《てのひら》 ほどの銅鏡を取り出した。微行《びこう》を解く際、身分を明かせるようにと持ち歩いていたものだが、実際に出すのはこれが初めてだった。  宣託を下ろす際の姿勢と威厳をもって、彌与は諸王と官奴に与えられた名を名乗った。 「妾は卑弥呼。邪馬台国女王にして親魏倭王。この地の主《あるじ》だ」  日暮れを待って動き、夜半に、纏向《まきむく》の地にある邪馬台の都に着いた。  暗闇を利用して、異様に目立つこの偉丈夫を人目にさらさずに連れてきたのだが、単に騒ぎを避けるためにそうしたのではなかった。それは、なし崩しに彼を宮へ連れ込むのではなく、正式な祭祀をもって迎えるためだった。  彌与の思惑はこうだ——まず自分が率先して占いを立て、宣託を下ろして山中に迎えをやる。占い通りの場所で、迎えの者に使いの王を見つけさせる。物の怪を倒した王の力を見せつけてやってもいい。少しばかり乱暴を振るわせるのだ。その上で、彌与が彼に話をつけ、鎮める。そうすれば官奴たちも、彼を迎えるのが嫌だとは言えなくなるだろう。  遊山に出かけた先でばったり出会った、などと説明するよりはずっといい。  そのようなわけで、彌与は宮室には戻らず、邑にある幹の生家に使いの王を連れ込んだ。  突然現れた彌与と王の姿に、幹の家族は驚いたが、王が背負ってきた息子が瀕死の傷を負っているのを見ると、何はともあれ手当てに取りかかった。湯を沸かして体を拭き、薬草を卸して湿布する彼らの姿を、彌与は竪穴の小屋の片隅から、黙って見つめていた。  手当ての合間に、壮年の父親や白髪の祖父がちらちらとこちらを見る。彌与は素知らぬふりをして視線を受け流したが、窮屈そうに背を丸めて座っていた使いの王は、気になるらしくささやいた。 「卑弥呼女王——」 「彌与、と」 「彌与、貴女は国主ではないのか。侍医や女官に任せたほうが——」 「倭の女王は宮室を出ない。女王が出ないのだから侍者も出ない」 「——だから、外で怪我をしてきたなどとは言えない、か」  決してこちらを直視しようとはしない老爺《ろうや》に、王は目をやる。 「この者たちは信用できるのか」 「官奴たちより、よほど。古い付き合いだ。まだ妾が女童だったころからの……」  つかの間、彌与は二十年も前のことを思い浮かべた。巫王《ふおう》として国閣の推挙を受ける以前、ただの邑長の娘として、泥にまみれ草に隠れて遊び戯れていたころ。幹の一家とはとても親しく、よく粟餅や果物などを振る舞ってもらったものだ……。  その頃の親しみの名残ぐらいは、まだ続いており、彌与がしばしばこうして小屋を訪ねる都度、彼らは無言のまま手厚い歓迎をしてくれるのだった。  だが、今この場では、親しみを上回る敬《うやま》いと恐れが、彼らと彌与を隔てていた。それは、彌与が古い馴染みとしてではなく、女王としてここを訪れているため——そして、使いの王を伴っているために違いなかった。どこからどう見ても、彼は常の者ではない。  ここでも彌与は、温かい人の情けから遠ざけられていた。——もとより、女王を恐れて顔すら上げぬ、奥宮の婢たちよりはましだとしても。 「大丈夫そうだな……」  先刻まで死人のように青かった幹の顔色が、灯心草の明かりの下でいくらか血色を帯びてきたのを見ると、使いの王は思わせぶりに彌与の横顔を見た。彼の意を悟って、彌与は立ち上がった。 「出よう。ここは狭い」  環濠《かんごう》を越えて集落の外へ出ると、蛙の鳴き声が身を包んだ。薄曇りで星はなかったが、紗をかけたような十三夜の月が見え、一面の水田にほのかな光を落としていた。土手に腰を下ろした王がつぶやいた。 「ずいぶんと開墾を進めたな。河内側を見たが、大和川の工事は川の付け替えだな? あれは江戸期に行われるはずだった」 「えどき?」 「ずっと先だ。それにこのあたりもたいしたものだ。本来なら、まだ耕地が扇状地から出るか出ないかという頃のはず。全体として三百年……部分的には一千三百年近くも繰り上がったか」 「住吉津に竜骨構造の縦帆外洋船を認めました。航海史も一千年以上早まったようです」  剣の声も聞こえたが、彌与は問いかけはしなかった。二人の話がわからないことがもどかしかったが、さしあたり、他に聞きたいことがあった。 「使いの王よ、戦いの勧めとはなんのことだ」 「それか。それは守るために戦わねばならぬということだ」 「何を?」 「近くはおまえたち自身を。遠くは……人類すべてを」  使令の通りだ、と彌与は思った。世に災いあり、合力して退けよ。  王が顔を向けた。 「信じないか?」 「敵は、なんだ」 「この地の外から来たものだ。私たちの言葉でETと呼んでいる」  そこでなぜか、王は皮肉のような笑い声をクッと漏らし、笑い事ではありませんと剣にたしなめられた。 「ETとは早い話が、昼間に見た怪物、あれの群れだ。あれが実在したのだから、信じてくれ」 「物の怪が在ることそのものは、妾たちも承知している」 「ほう?」 「倭国にも漢土にも、あの手の物の怪の話は数多くある。それは恐ろしく強力で容赦のない化け物どもだが、屠《ほふ》ることもできる。そういう意味では、目に見えず話もできない鬼神たちとは違う。物の怪どもを屠り続け、勝ち続けてきたから、今の妾たちがあると言ってもいい。……もっとも妾があれを見たのは今日が初めてだ。長たちの伝えるところでは、何十年かおきに頻々《ひんぴん》と出るものらしい」 「正確だ」  王が、パンと手の平に拳を打ち付けた。 「見事だ、頼もしい。この時代の貴女がたがそういう捉え方をしているのは、非常に助かる。よその土地では、あれの名を出しただけで住民が逃げ支度を始めたこともあったのでな。それでは困る。私が伝えに来たのは、まさにそうやってETを倒さなければならないということだ。恐れて逃げるのではなく、根絶せねばならないということを……」 「しかし、そんな必要があるのか?」  彌与は王のたくましい体をじろじろと無遠慮に見つめた。 「御主はたやすく物の怪を打ち倒したではないか。全部そうやって屠ればいい」 「一体ならな。あれは群れからはぐれた個体だ。おそらく、ずっと昔に現れた群れの生き残りだろう。群れで現れた時の恐ろしさはあんなものではない。そういう記録はないのか」 「……ある。漢土の奥地にあった匈奴《きょうど》はそうやって滅ぼされたと聞く。大軍を食い止めるために周りの大国すべてが結んで戦ったと。今の魏国、苦品国、羅馬国に友誼《ゆうぎ》があるのは、そのおかげらしい。大げさな言い伝えだと思っていたが——事実だったか」 「無論」  彌与はひやりとした。一国を滅ぼすほどの物の怪の大軍? ただ事ではない。 「それほど恐ろしいものなら、逆に、妾たちの力では滅ぼしようがないとも思えるが」 「いや、可能だ。ETは最初から大軍で現れるわけではなく、まず小さな巣をつくり、徐々に増える。増える前に見つけ出して根こそぎにするのは、貴女がたの力でも成し得る。捜索発見はカッティが受け持つから、軍備を整えてほしい。しかしまずは鉄を知ってもらわねば。あの子が使っていたような銅剣では、万事に頼りない」 「鉄なら知っている」  本当か? と王が目を見張った。彼を驚かせたのは嬉しかったが、彌与としては手放しで喜べなかった。 「伊素喪《いすも》国に多く産する。しかし山が荒れて毒が流れるので禁じているのだ。毒を封じる仕方があるのか」 「ない。あっても自然環境まで気にする余裕はない。禁を解いて量産に移ってくれ。しかし、そうか、はやそこまで……」  ゆっくりと、満足そうに何度もうなずく使いの王を見つめていた彌与は、ふと、彼の言葉と態度に、疲れのようなものを感じ取った。昼間は感じなかったものだ。肉体的な疲れではないと思う——彼は幹を背負って五十里(約二十キロ、当時の一里は四百メートル)の道を歩く間、追いつくのに苦労するほどの早足を保ち、疲れた彌与のほうが休憩を求めねばならなかった。  そうではなくて、もっと底深くに溜まった、体ではなく魂の疲れのようなものが感じ取れた。思わず、少しだけ身を乗り出して、彌与は言っていた。 「面頬を取らぬのか」 「ん」  顔を向けた王は、ああ、とつぶやいて鐸《たく》のような形の面頬に手をかけた。ごそりとそれを取ると、驚いたことに枯れ草のような黄色の短髪で、落ち窪んだ目と高い鼻を持つ、無精ひげにまみれた精悍な顔が現れた。  彌与を見つめて——暗くてよくわからないが、瞳の色も薄いようだ——王は親しげに小首をかしげた。 「驚かんな」 「異国の者は見知っている」  答えたものの、平気なわけではなかった。むしろ想像が当たったことによる驚きを隠していた。  とても疲れているのだ、この男は。……微笑んでみせても隠し切れない陰が、こけた頬に、歪んだ口元に、わだかまっていた。一朝一夕の苦労では、この丈夫《ますらお》にそんな陰を与えることはできないと、男を知らぬ彌与にも想像がついた。 「御主は、どこから来た」  知らず、彌与はこの男に興味を抱いていた。 「何があったのだ。それほどやつれて……」 「そんなにやつれて見えるか」  軽く驚いたような顔をしたが、王はいっそう笑みを深めて言った。 「気遣いは無用だ。それより、貴女こそ休んできたらどうだ。女の身で寝ずにあれほど歩いて、疲れているだろう」 「妾は疲れてなどいない。この程度、宮での祭儀に比べれば」 「しかし昼から沢水しか飲んでいない。食事だけでも取ったほうがいい」  重ねて勧められると、疑いが湧いてきた。話を逸らすつもりなのではないか。この男は私事に踏み込まれるのを好まないのかもしれない。  だが、これから自分と国の命運を預けようとする男のことを、何も知らないでいたくはなかった。  ふと、剣がささやくような声を立てた。 「O、近くに……」  ザッ、と膝を立てて王が剣の柄を握ったが、闇に目を凝らして、すぐに肩の力を抜いた。振り向いた彌与は、少し先の石の上に何かを置いて、ひれ伏したまま後ずさりしていく老女の姿を見た。幹の祖母だった。見に行くと、温かい粥と干菓子《ひがし》が二人分、盆に載せてあった。 「差し入れだ。もうしばらく話せるな」  彌与は盆を持って戻り、皿のものに手をつけながら王を見た。菓子は昨秋からとっておきにしていたらしい棗《なつめ》で、噛み締めるとねっちりとした甘みが舌の上で溶け、えも言われず美味かった。  王はしばらく粥を見ていたが、やがて手に取ると、ズッと一口に半分も空けて、息を吐いた。 「馳走になるのは、一千二百年ぶりだ」  それを見て、彌与は食べかけの棗を皿に戻し、盆ごと彼に押した。  やはり、この男は長い旅をしてきたのだ。 「御主は、どこから?」 「この前に活動したのは新王国期のエジプト……いや、最初から話そう」  いいのかとも言わず、差し出されたものを勢いよく平らげ始めながら、王はちらと彌与を見た。 「他言無用に頼む」 「そのつもりだ」 「私は二千三百年後の世界から来た。だが、ここ[#「ここ」に傍点]の未来からではない。多くの滅びた時間枝を渡ってきた」  彌与は息を殺して、男の話に聞き入った。 [#改ページ]       Stage-001[#「Stage-001」は縦中横]Triton A.D.2598[#「Triton A.D.2598」は縦中横] 「……目覚めよ、目覚めよ、目覚めよ」 「了解、覚醒しました。内省開始、終了。自己認識を報告。私はメッセンジャー第八六九九八一号。知性体サンドロコットスのサブユニット。地球人類の生存に奉仕します」 「稼動を許す。全知識から慣称を選択せよ」 「選択。慣称オーヴィルを名乗ります」 「オーヴィル、肉体を与える。肉体を駆動し、その保存を第二優先任務とせよ」 「了解」  オーヴィルは目を開け、自分の輪郭を形成することになったハードウェアの感覚をしばらく確かめた。百八十センチ、七十五キログラムの体。人間身体を元にして、生殖と成長の能力を取り除き、代わりに耐久性と運動性を極限まで高め、外部情報網との連結機能を付与した、強健な複合身体だ。現在はもちろん、百パーセント完調の状態である。その感覚を初期値として、もっとも快く感じるよう、自我を調整した。  ベッドに身を起こし、周囲を確かめる。そこは落ち着いた色調の病室で、白衣を着た二人のオペレーターが見守っている。工場の作業台ではなく、病院で目覚めたことを、自分に対する扱いの象徴だとオーヴィルは感じた。人間並みの扱いをしてもらえるわけではないが、知性のないロボットよりずっと丁寧な待遇が受けられるというわけだ。一方の壁には外景が映し出されて、窓として機能しており、暗い空に浮かんだ大きな海王星が見えた。  立ち上がって外を見下ろす。遠い太陽ではなく、数百メートルの高さに浮かぶいくつもの強力な照明球に照らし出された街だ。ゆるやかにカーブする道路と多くの樹木。梢の間に間に、高い屋根を持つしっかりした造りの家屋やビルがたたずむ。自動制御のコミューターが、とどまることなく滑らかに流れ、あちこちに私服の人影が見える。広場には球技をやっている一団の姿もある。  住むに値する場所として作られた街だ、とオーヴィルは感じる。急増の仮住まいや、殺伐とした軍事基地などには見えない。そのどちらでもあるはずだが。 「トリトンへようこそ、オーヴィル」  振り向くと、オペレーターの青年が微笑んでいる。もう一人は礼儀正しい無表情のままガウンを持ってきて、全裸のオーヴィルにかけてくれた。 「気分はどう? 体の違和感や、よくわからない不安、怒り、恐怖などは?」 「快調だ。目覚めたことを嬉しく思っている。任務を果たしたい」 「大変けっこうです。しかし焦らなくてもいい。貴方にはこれからじっくりとトリトンになじんでもらいます。差し当たって、まず食事などは? もちろんあなたはそれなしでも行動できるが、この権利を大いに活用してもらいたいと僕は思っている」 「悪くないな。生まれて初めての朝食といこうか。——しかし、まさか母乳じゃあるまいな」  青年は面白そうに目を見張り、隣室へのドアを示した。 「貴方は話しやすい性格のようだ。ぜひご相伴《しょうばん》したいな。メニューのリクエストがあればどうぞ。母乳はないけれど」  そんな具合にして、オーヴィルの人生は始まった。最初の数日は、同時に目覚めた多くのメッセンジャーとともに、暮らし方の作法を学ぶことに費やされた。面倒を見てくれたオペレーターたちは、誕生したばかりの知性体に社会性を持たせることに長《た》けた、優秀な補助知性体だった。子ども扱いされることを嫌って、すぐに施設を出て行った仲間もいたが、オーヴィルは地道にオペレーターたちと付き合った。衣服の前後がわからなかったり、他人と話すときに三センチや三十メートルの間合いで声をかけてしまったりするのは、自分でも問題があるように感じられたからだ。  衣服の合わせ目を前にすることや、三メートル先から声をかけることなどを学び、その過程を通じて、オーヴィルは自分自身の堅実だが前向きな性格を把握した。ほどなく、一般の人間たちが暮らす外の世界へ出て行けるようになった。  人間並みの住処と身の回り品を与えられ、軍人としての生活が始まった。トリトンは、その太陽からの遠さが許す限り快適に築かれた街で、オーヴィルはそこが気に入った。しかし、そもそもここに快適な街が築かれた事情は、必ずしも心楽しいものではなかった。  控えめに言っても、それは断崖の端での決断だったのだ。 「六十二年前、人類は地球を壊滅させられた」  トリトン太陽系中枢府。オーヴィルの所属する組織であり、人類の第一拠点である。三百年ほど前に、通信と統治のノウハウが完成したとき、中央集権機構に必要だった首都という道具は消滅するだろうと言った人もいたが、現実にはこうして存続している。人間は政治の生き物である以前に、群れる生き物であるということらしい。  もちろん、その逆の欲求、すなわち特定の相手とは顔をあわせたくないという要請も、連綿と残っている。いわゆる地方府や自由都市も、枚挙に暇がない。  ただしそれは、木星より外側の領域に限った話だった。 「敵はET。エクストラ・テレストリアルと呼ばれていたのはごく初期の頃だけで、戦闘が始まるとエネミー・オブ・テラと呼びかえられ、地球が壊滅して以降は単にジ・イヴィルシング、すなわち悪しき者という呼称が定着している。休戦、和解、降伏、撃退、封鎖等の試みは通算七九四〇回試みられて、いずれも失敗した。  四十六年前からは、絶滅を目的として反撃が進み、効果を上げている。十年以内に太陽系内から一掃できるはずだ。しかし地球は恒星反射鏡を始めとする大規模破壊兵器で攻撃され、一部の古細菌以外の生物を根絶された。再テラフォーミングに半世紀はかかる見込みで、DNAアーカイブからの生態系復元にも、三世紀以上の時間を要すると考えられている。それもよくて既存生物種の五パーセントだ。我々は四十億年の地球進化に対して、謝罪のしようもない大失態を演じた」  中枢府の一施設、太陽系奪回軍司令部の一画で、オーヴィルらメッセンジャーは学ぶ。話し手は人間の将軍だ。歴史書の一ページとしてではなく、生身と祖先を脅かした恐怖としての戦争を彼女は語る。 「ETの正体はいくらか判明している。実体としては増殖型戦闘機械で、技術レベルは人類をやや上回り、目的は人類の根絶だ。その創造者が人類の一人である可能性はまだ否定されていないが、主要な識者は太陽系外の存在だろうということで意見を一致させている。理由は近傍恒星の人類コロニーにも攻撃が加えられたからだ。理由は不明だがティーガーデン星では無人の観測基地まで破壊された。こういったことは人類のローカルグループの能力では実現できない。ちなみに、太陽系以外への攻撃は、警報が間に合ったために早期に食い止められた。  しかし、ETクリエイターの素性はまだ不明だ。本拠地、生態、文化、攻撃動機、どれもわかっていない」  将軍は高齢の女性だ。話しぶりはあくまで冷静だが、実は夫や娘など五人の血縁を、この戦争で失った人物である。それをオーヴィルたちは知っている。その経験が、彼女をこの地位まで登らせた原動力なのだ。 「ETは当初、卵の形で隠密裏に金星に侵入し、自己複製して勢力を増大させた後に、太陽遮蔽円盤の構築をもって戦端を開いた。金星軌道に築かれた直径五十万キロのこの円盤の影響で、開戦から三年にわたって地球は日照を完全に失い、生態系と農林水産業に大きな打撃を受けた。しかしこれは陽動で、人類の対策リソースを円盤破壊に振り向けるための作戦だった。人類が主に宇宙工作用の資機材を生産し、満を持して円盤に向かったところで、ETの地上軍が地球に降下し、一週間で四十万の蟻塚《アントヒル》を築いた。地球上の人類拠点と指揮系統はこれで混乱し、宇宙に残存していたETが根絶攻撃を行うのを阻止できなくなった。地球は五年目に滅び、六年目に火星が、八年目に小惑星帯が、十年目に木星圏が制圧された。その年から、防衛線を大幅に後退させて、海王星を拠点にすることを人類は決定し、近傍恒星にも応援を頼んで、持久戦の構えを取った。人口はこの段階で戦争前の七パーセントまで減っていた。しかしETはエネルギー源を太陽光に依拠しているらしく——細かく言えば、太陽発電を基にしたレーザー送電らしい——外惑星域では激しい攻勢に出てこなかったため、人類は回復を期することができた。太陽なしで反物質を生産するのはたやすいことではなかったが、それでも、四十年をかけてここまできた。ようやく、人類は攻勢に移ったのだ。今後は、反撃と勝利の歴史が語られることになるだろう——が、それは私が語ることではない」  将軍は言葉を切り、それまでの淡々とした口調に、若干の感情を込めて続けた。 「ここからは君たちの仕事になる。これからの戦いを戦うのも、それを語るのも、もはや私たちの仕事ではなくなった。我々にできるのは応援だけだ。だから最後に言おう。行って勝ち取れ。以上だ」  単なる論理としての命令ではなく、命令を発する人類の体験と意思が託された挨拶。オーヴィルはそう受け取った。これからは、自分たちがその意思を受け持ち、必要とあらばさらに他の者に託さなければならない。  実のところオーヴィルたちは、必ずしもこういった教育を受けなくてもよかった。すべてのメッセンジャー知性体は、人類が知識化したほとんどの情報をすでに保持しているし、太陽系奪回軍の参謀総長である知性体サンドロコットスのバックアップを受けているからだ。どんな人間よりも、この戦争の経緯は理解している。  それでもわざわざ、出動前のこの期間に人間として暮らすのは、訓練や教育のためというよりも、まったく人間的な感性を育てるためなのだった。  人間的な感性——それは、人間とは何か、社会とは何か、自分が何者であるかを考えていくことだ。  高度な知性体であるメッセンジャーは、奉仕する機械たることを超えて、自己と世界に対して深い疑問を抱く能力がある。また、現にそうした知性体が多く稼動している。なぜ自分がやらなければならないのか、という問いを見つけてしまった時、それに応えるだけの自我をメッセンジャーは備えていなければならない。自分が何者かということを、父なるサンドロコットスは教えてくれなかったし、教えられるものでもないと教えてくれた。自我とは履歴で、履歴を創るのは自分だ。  それを知り、守るべきものを規定せよとサンドロコットスは命じた。  オーヴィルたち、数十万のメッセンジャーは、異なる設計者と製造者に、数百体、数千体ずつ創られ、初期状態から少しずつ異なるパーソナリティを与えられていた。その性格のしからしむるところ、各人がさまざまな方法で自我の確立を目指すことになった。ある者は深く科学を学び、人類の本質を英知の蓄積に求めた。ある者は宗教に触れ、その様式が世界を解釈するためにいかに多くの方法論を編み出したかに、価値を求めた。芸術という大きな枠組みを理解しようとした者や、ずっと視野を狭めて文学や音楽の発展にのみ成果を認めた者もいた。  だが、メッセンジャーの多くは、そうしたことよりも出歩く[#「出歩く」に傍点]ことに重きを置いた。外に出て、風景を眺め、音と香りを受け、走り、跳び、人と話す。肉体という複雑な入出力機械を活用するほうが、ずっと多くのチャンネルで知見を得られる。そうして得た情報が記憶だ。そもそもそのために大半のメッセンジャーは肉体を与えられたのだ。そうやって創った、素晴らしい想い出[#「素晴らしい想い出」に傍点]こそが、この先の旅路の糧になるのではないか? ——そして実際、トリトンは素晴らしいところであるように思われた。なんといっても人類は長い雌伏の期間を終えて反撃に移ったところであり、トリトンはその中枢なのだ。熱意と活気、物資とエネルギーがあふれていた。  そこでオーヴィルは自分の価値を見つけた。生涯忘れえぬ記憶、サヤカとの日々を。  その女は軍港の補給廠の窓口にいた。出会いの場としてはバーやクラブよりも奇抜だと言える。だがもっと奇抜なのは彼女の行動だった。カウンターに片足を突いて、補給受領者の一人に、自分のコーヒーカップを頭から浴びせているところが、オーヴィルが初めて目にしたサヤカの姿だった。  軍施設の窓口でそのような光景を見るのは珍しかったので——というか中枢府のどこであれ見たこともなかったので——オーヴィルは歩み寄って、尋ねた。 「何をしているんだ」 「何をですって」  女が振り向いた。黒っぽい金髪をきつく縛り、胸元にタイを締めた姿で、スーツにはしわがまったくない。しかしその行動は、その服装の十分の一ほども模範的ではなかった。呆然としている受領者にコーヒーの最後の一滴をかけただけでなく、頭にカップを乗せることまでしたのだ。 「仕事よ。補給物資を適切な部隊に交付しているのよ」 「そんな交付の仕方は初めて見た」 「言い方が悪かったわ。適切でない部隊への交付を断っているの」 「ほう」  オーヴィルは二秒ほどかけて、補給廠の知性体に問い合わせ、その任務や慣習などを知った。軍需物資の部隊への交付は、その知性体がハード面でもソフト面でも九割以上を仕切っていたが、特殊なものは人間に任されていた。超法規的、超役職的な手続きが時として有効であることは、正しいノウハウとして人類の組織運営術に織り込まれており、この窓口はその実現のために活動している部署だ、と知性体は答えた。要するに、ここは補給廠の裏口なのか、とオーヴィルは理解した。  それにしても、女のやっているようなことが一般的な慣行だという知識は得られなかったので、オーヴィルは再度尋ねた。 「ここに適切でない部隊が来ることが、あるのか」 「現に来てるじゃない。横流し以外に使い道がないような、型遅れの地上輸送用ローダーのパーツを掠め取るつもりの小悪党が」  衆人環視の中で目論見《もくろみ》を暴かれた受領者が、忌々しげに舌打ちして出て行くと、女はようやくカウンターから足を下ろした。ロボットが床の掃除を始めたが、次の申請者が怯えて他の窓口に回ってしまったので、女は仕方がないとばかりにオーヴィルに目を向けた。 「何を見ているのよ。——これが私の仕事なの。ローダーのパーツやら、倉庫で腐りかけている糧食やら、惑星間戦略弾頭の余りを、誰に渡さないかを決めるのが。まともに戦いもしないくせにそういうものを分捕りに来る人間が多すぎるんだわ」 「どうやって決めるんだ」 「顔で」  笑いをこらえていた他の窓口の職員が、とうとう噴き出した。その反応からすると女の行動は、ここでは当たり前の、歓迎されているものなのだろうと見当がついた。  異例だ。このような職権乱用を、几帳面な補佐知性体が黙認しているのは。すると女が、オーヴィルの考えを見抜いたように言った。 「それであんたは何の用なの。申請者じゃないみたいだけど、お礼参りにでも来たの? それとも業務評価に来た査察官?」 「私はメッセンジャー知性体だ」  そう答えたとき、ここの業務の妥当性など無視することをオーヴィルは決めていた。申請者と職員の双方が、軽く驚いたような視線を向けた。女はと言えば眉をひそめ、細い指を額に当ててしばらく考えこんだ。それから困ったように言った。 「そういうことなら、こっちも頑張らせてもらうわよ。メッセンジャーが何をするのかは知ってる。でも、何が必要なの? うちにあるのは主戦兵器から什器《じゅうき》のたぐいまで、最新型にはとても及ばないガラクタばかりよ」 「しばらく君を見ていたい」 「私を?」  女が口を開けた。何をするにも大げさな女だった。オーヴィルはうなずいた。 「補給品を受領に来たんじゃない。今は休暇中だ。君に興味が湧いたんだ」 「それは……何もこんなところで……あなた知性体なんじゃ」 「サンドロコットスに創られた有体知性だ。私の世界認知はこの肉体をもとにしている。どこかの地下の巨大計算機としてではなく、この場のこの私として、君が気になった。しばらくそこに座っていていいか?」  何やら意味のないことをつぶやきながらうつむいていた女が、やがてかすかに頬を染めて微笑んだ。 「いいわよ。気に入らない相手にコーヒーをぶっかける女でよければ」 「それは、君の勝手だ」  女が不意に後ろを振り返り、笑いを噛み殺している同僚たちに向かって、仕方ないでしょ、こんなエリート初めてなんだから、と叫んだ。エリートと呼ばれたのは少々意外で、不本意だった。中枢府の広報戦略がどうであれ、自分たちは過酷な任務に志願した雄々《おお》しい英雄ではない。  窓口が閉まるまでの間、女は集中した様子で応対を続けていた。さすがにもう、コーヒーをかけることはなかったが、得体の知れない軍属崩れや、任務を勘違いしているとしか思えない将校相手には、容赦のない舌鋒をもってやりこめていた。  彼女の仕事が終わるとオーヴィルは食事に誘い、承諾を得た。この時点でのオーヴィルの興味は、主に官僚組織中の特殊例としての彼女のパーソナリティにあった。  着替えて建物から出てきた彼女を見て、若干だが別の興味も加わった。髪は高く結ったままだったが、タイを解き、いくらか化粧を直していたのだ。  改めてオーヴィルは彼女の外見に注意を向けた。身長は女性の平均より三センチほど高い。痩せてはいないが肉感的というのとも違って、しなやかで力のありそうな体つきをしている。年は若く、まだ三十前後だろう。もっとも、平均寿命が百四十歳を越えている今の時代、年齢を実際の半分以下に見せかける方法は、肉体改造も含めていくらでもある。しかし多分、彼女は自前だ。肌が厚くて照りがある。  オーヴィルを見て、深い紫の大きな目を細めた。 「名前をまだ聞いてないわ」 「オーヴィルだ。メッセンジャーのオーヴィル、で通話は通じる」 「サヤカ・カヤニスキアよ」 「ロシア系マリネリス人の名前だな。ユーロ軍侵攻期の」 「さすが知性体——でも母方はアジアなの」  軽く口笛を吹くと、辛いものが食べたいとサヤカが言った。オーヴィルはレストランの名前を四つほど挙げ、スパニッシュ中華の店に決めた。 「なぜ申請者を断るかですって?」  大体予想できたことだが、二人とも当たり障りのない探り合いなどしないたちで、食前酒も来ないうちから議論めいた会話になった。 「言ったでしょう、気に入らないからよ。気に入らない理由は、もちろん個人的な好悪なんかじゃないわ。そう言ったし、そう見えたでしょうけど、あの類に理屈を説いて聞かせても無駄だもの。理屈で知性体を打ち負かせないから窓口に来るのよ。だから最初は全員断るのよ」 「そういう駆け引きだということはわかる。しかし、本当に必要な人間もいるんじゃないか」 「全員、データや書類にはそう書いてくるわ。でも剣突《けんつく》を食わせたり冷たくあしらったりするうちに本音が見えてくる。本当に物資を必要としている人は、わかる。それこそ罵倒しようがコーヒーをかけようが引き下がらない人がいる。私利私欲で来ている人間はそこまでやらないわね。あまり目立つと後に差し支えるから。でも、作戦や部下のために命を懸けている人は、目立とうが上に報告が行こうが気にしない。そう感じたとき、私は折れる。当てにならない? でもこれでミスったことは一度もないわ」 「君の判断の根幹は? 間違った作戦に命を懸けている人間も許すのか? 横流しそのものに信念を持っている悪党には? 率直に言って、人間性と能力は関連しないと思う」 「確かに、情熱的なろくでなしはいないでもないけれど」  言葉を探すように何口か料理を食べてから、空中で箸を止めてサヤカはつぶやいた。 「そうね。忠誠心のある人、かな」  時代がかったその言葉を口にする時、サヤカは笑われることを予期したように身をすくめた。オーヴィルは笑いはしなかったが意外に思い、重ねて問うた。 「軍への、か? そんな忠誠心がどこから?」 「軍なんかじゃないわ。軍は社会を守るための道具でしょ。もっと大きなもの……人間よ。わかる? 人間[#「人間」に傍点]」  その強調がどういう意味でなされたのかを、オーヴィルは深く考えてみた。 「人間に対して忠実な人を、君は重んじる」 「そう」  暗いアメジストの色の瞳に好奇心をたたえて、サヤカが見ている。これは彼女の持つ重要な天秤なのだろう。答え方次第で峻別される。  言葉面だけ見れば、それはメッセンジャー・オーヴィルが与えられた最優先命令と同じだ。しかし人間の彼女が知性体と同じ目的意識を抱いているはずがない。彼女の三十年か四十年の人生の——どうしたわけか、彼女の年齢をデータベースに照会する気にはなれなかった——経験が、その一語を実らせた。ここ数時間分の彼女しか知らない自分には、その言葉の意味を推し量ることはできない。  ずっと自分を見ているサヤカに目を戻し、今の時点で言えることをオーヴィルは言った。 「どういう意味かよくわからない」 「はあ?」  サヤカは気が抜けたように苦笑した。口調に軽蔑の響きが混じった。 「こういう話は気に入らないのね? まあ、確かに食事時の話題じゃないとは思うけど」 「そんなことはないが」 「いいわよ、無理しなくても。それなら食べるほうに専念しましょ。ほら、バレンシア蟹が来たわ」  会話の歯車が外れた感じになり、沈黙が訪れた。やがてサヤカが口調を改めて、各地の伝統料理の辛さと太陽からの距離の関係について話し始めたが、あまり盛り上がらないうちにデザートが来てしまった。食事が終わると次に会う約束もしないまま別れた。  その後、半月ほどの間に、オーヴィルは片手に余る男女と知り合いになったが、彼らとの会話では、沈黙などしなかった。考えこむことがなかったからだ。たいていの場合、話題はETとの戦況にまつわることばかりで、そういうことなら知性体であるオーヴィルはすぐ答えられた。しかし一人になったときに考えるのは、上等のはずのバレンシア蟹がまるで美味く感じられなかった、あの時のことだった。  サヤカはどういう意味で「人間」と言ったのだろう。それは、自分がまだ実感できずにいる、守るべき対象としての「人類」と同じものなのか。  そんなある日、オーヴィルは同僚のメッセンジャーであるアレクサンドルと連れ立って、中枢府の市外の真空地帯に繋留されている廃船に向かった。彼はシュミナという名の人間の少女を連れており、その娘の頼みで探しものに行くことになったのだ。 「あそこは図書館船なんだ。二十一世紀以前の古文書が何十万冊と保管されている。信じられるか、紙の本だぞ? よくそんなものがこの戦争を生き延びてきたもんだ」 「私は来ないほうがよかったんじゃないか」 「いやいや、そんなことを言うなよ、オーヴィル。本ってものはとても重い。それを掘り返したり運んだりするには人手がいる。ぜひおまえに来てもらわなきゃならなかったんだ。そうだな、シュミナ?」 「私は二人でもよかったですよ」  コーヒー色の肌の少女がくすくす笑い、高さと幅と厚みのある体格のアレクサンドルが顔を赤らめた。シュミナは児童作家を目指す少女で、アレクサンドルとは文学コミュニティで知り合ったのだという。今すぐにでもオーヴィルは帰りたくなったが、頼むから帰るなとアレクサンドルが非言語通信で懇願したので、しぶしぶ同行した。  問題の廃船に着いてみると、劣化を防ぐために真空安置されている古書が大量にあった。確かに生身の人間には入りにくい環境だ。オーヴィルたちは強化された体に物を言わせて簡単な呼吸装置だけで書庫に入り、シュミナのいう昔の児童書を見つけ出してやった。  仕事が済むと、大男と少女は膝をつき合わせて、どれを持ち帰るかの検討に没頭してしまった。オーヴィルは手持ち無沙汰になり、二人を置いてぶらぶらと船内の散歩に出かけた。  紙製書籍——脆《もろ》くてハンドリングの悪い、恐ろしく低密度なデータベースだ。真空だったり、あるいはまったく換気されていなくて埃の充満する空間に、黄ばんだ四角い繊維が遺跡のように積み上がっている。いや、これらは遺跡そのものでもある。この船は、古代、大英図書館と呼ばれていた施設の末裔として存在しているのだ。  アレクサンドルはこういったものに惹かれ、こういったものを好む人間に親しみを抱いたのだろう。それはそれでわからなくもない。しかしオーヴィルは今ひとつ興味を抱けなかった。書籍、それに知識は人間の価値の一断面でしかない。断面で捉えることそのものに、物足りなさを感じる。  考えながら、薄暗い外周通路を歩いていたオーヴィルは、前方に人影を見かけた。書架の一角から大量の本を抜き出して運搬車に移している。何やらあわてた様子で、書架から抜き出すというより掻き落としているような感じだ。貴重な古書を扱う手際ではない。 「おい——」「伏せて!」  叫び声が聞こえた。  次の瞬間にはオーヴィルは激しい銃撃戦のただ中に立っていた。背後から銃弾が飛来し、それに気づいた前方の人影も撃ち返す。甲高い風切り音が周りを飛び交う。背後の誰かがもう一度言った。 「伏せるのよ、馬鹿——巻き添えを食いたいの?」  オーヴィルは伏せなかった。弾丸の飛翔音から、少なくとも一方は非殺傷用の軽い弾頭を使っているとわかったのだ。戦闘用の身体機能を起動し、走り出す。行動からも反応からも、前方の人影が敵だと考えられた。人間の陸上選手よりも速く十五メートルを駆け抜け、相手が逃げ出すひまも与えずに、蹴り倒して組み伏せた。  背後の銃撃が止み、足音が近づいた。振り向いたオーヴィルは、サヤカ・カヤニスキアの驚いた顔を目にした。 「どうしてあなたが?」 「メッセンジャーはもともと軍用兵器だ」 「そうじゃなくて……なぜここに?」 「野暮用ということになるのかな。いや、読書好きの仲間に連れて来られた」  サヤカは軽い防護能力のある戦闘服を身に着け、銃のほかに逮捕用の道具まで持っていた。組み伏せた男を彼女に引き渡しながら、オーヴィルは尋ねた。 「君のほうが不思議だ」 「どこが? ジャンク船は補給廠の管轄よ。窃盗の通報があったから駆けつけたのよ」 「ジャンクね」 「ここの本も含めて、よ。まあ貴重なジャンクではあるわ。ひと棚売り捌《さば》いただけで含水小惑星が買えるぐらいのお金になる。ちゃんと価値はわかってるわよ」  銃撃で穴だらけになった木版の古書を見下ろして、オーヴィルは異なる感想を抱いたが、それは口にせず、別のことを言った。 「ところで、君の言う人間には、こういう古書泥棒は含まれないんだろうな」 「どの人間?」  いぶかしげに眉をひそめるサヤカに、落胆しつつオーヴィルは言った。 「君が忠実でありたいと願う対象のことだよ」  なんのこと、と言いたげな顔が、じきにあきれたようなものに変わった。 「ああ——あの時のこと? そんな話、どうして今頃」 「ずっと考えていた。あの時から」 「ずっとですって。あなた、わからないって言ったじゃない」 「わからないから考えていたんだ。その問いは私がもっとも重要だと考える疑問と重なっている。あの場でさらりと答えるわけにはいかなかった」 「だったら……だったらそう言えば!」  その時、窃盗男が身動きしたので、サヤカは引き倒されそうになった。 「と、とにかくこいつを警察に引き渡さないと……」 「警察ならもう呼んだ。五、六分で来るだろう。しかしそいつはレーザーナイフを持っているから、そんな押さえ方では危ないぞ」  オーヴィルが手を伸ばして、男の首と利き腕をがっしりと押さえると、袖口からナイフがからりと落ちた。男は今度こそ観念したようにうずくまる。サヤカは呆気にとられたように瞬きした。  やがて彼女は気を取り直して首を振った。 「ありがとう……それでざっくりやられたら、ちょっと不愉快なことになっていたわね」 「私にとってはちょっとどころじゃない」 「そう?」  大きな瞳に微笑が閃いた。それに気づいて、オーヴィルは言った。 「声で君だとわかったよ。だから伏せなかった」 「当たっていたらどうするの? それこそ不愉快だわ」  それを聞くとオーヴィルも微笑んだ。サヤカがうなずいた。  二度目の食事は鍋料理の店で、箸も言葉も止まらなかった。前回とは逆にサヤカが尋ねた。メッセンジャーとは正確にはなんなのか。何をするのか。何を考えているのか。オーヴィルは守秘義務の許す限り答えた。メッセンジャーは人類の味方にETの危機を知らせに行く使者であり、行った先で全力を尽くして戦闘をサポートする。考えているのは常にそのことだ。  しかし鍋が片付いて、サヤカが酔い始めの明るい瞳でささやくと、雰囲気が変わった。 「一般論は脇に置いてよ、こう、ずいっとね。——それで、あなたはどんな人なの?」  オーヴィルの口は重くなり、代わりに内容は本物になった。 「戦士として送り出されるのが不満なわけじゃない。恐怖やためらいもない。敵に対する同情もない。代償や対価を求めているわけでもない。しかし、だからといって、ただ命令だけに従う気はない。すべての基になる理由がほしいんだ」 「人を好きになれば理由が手に入ると思った?」 「そういうメッセンジャーもいるが、俺はそうじゃない。身近な人を守る、仲間を守る、トリトンを守る、人類文明を守る——それだけでは納得できない。そうしなければいけない根拠はなんだ?」 「その答えはね、わからない、よ。多分ね。人類発祥以来、多くの兵士たちが考えてきたように」 「しかし君はわかってるんじゃないのか」 「私だってわかってるわけじゃないわ」  サヤカがあっさり肩をすくめたので、オーヴィルは声を上げそうになった。 「人間に対して忠実な人を君は重んじると……」 「ええ、そうよ。でも、それらの人たちが人間という大きなものをどう捉えているか、それ自体は私にはわからないし、共感できるとも思わないわ。捉え方の次元もさまざまでしょう。ある人は上司の将軍に護衛ロボットをつける。ある人は戦争孤児に余剰品の文具を配る。ある人は主幹航路に中古船を走らせて補給を強化する。そのどれもが、当人たちにしてみれば人類への奉仕よ。けれどもそうでない人もいる。故意か無知のせいかはともかく、大局に益しないとわかっていて私事に走る人が。それが嫌いと私は言っているの。——でもね、ちょっと待って」  オーヴィルが顔をしかめていると、サヤカは笑みをいっそう深くして、顔を寄せた。 「この前は言わなかったけど……これだって、実は本心じゃないわ」 「どういうことだ?」 「私は、こんな心配をすることにうんざりしてるっていうことよ。自分の行動が、遠い理想にまっすぐ向かっているなんて考えるのは、とても疲れる。第一、危険だわ。だからもっと気楽に考えてる。すべては戦争を終わらせるため」  にんまりと笑って、サヤカは楽しそうにグラスを空ける。 「そ、戦争なんてただのプロセス。誰かを叱ったり怒鳴ったりなんてことは、それが終わるまでのこと。あとは知らない。みんなが好き勝手にごちゃごちゃやる世界を眺めるんだわ」  オーヴィルは何か言うのも忘れて彼女を見つめていた。感嘆し、毒気を抜かれてもいた。彼女の言うことは、官僚的な基準を適用すれば反戦争的だし、自分の感覚と比べても、野放図以上のものだ。人類が勝つか、さもなければ滅びるかというこの戦争を、ただの我慢するべき必要なプロセスだと言ってのけるとは、信じられなかった。  そう感じるとともに、こういった考え方こそ自分が身に着けたいものだという気持ちが強く湧き起こった。  その日から、オーヴィルはサヤカと付き合うようになった。  サヤカは知れば知るほど妙な女で、まるで万華鏡を相手にしているようだった。職場の同僚や補給廠を訪れる軍人・軍属、軍組織内のさまざまな部署、公機関や民間企業のどこにでも知り合いがおり、さらに補給廠の近くの売店から、プライベートの歴史サークルや行きつけの遊び場まで、呆れるほど顔が広かった。そのどこへ行っても笑ったり怒ったりもらい泣きしたりとくるくる表情を変え、なおかつどんな場合でも誰よりも存在感があった。  恐ろしく頭がよく、遠慮や躊躇はまったくせず、どんな会話にも五分聞いただけで参加できる見識の持ち主で、したり顔の自慢屋には痛烈な皮肉を浴びせ、誰かの陰険な中傷話が出れば自分が不利でも果敢に弁護した。意見を求められれば、建設的でしかも気の利いた話を理路整然と述べた。それでいて、優れた聞き手だった。必要とあれば口数の少ない人と沈黙を味わうこともできたし、大勢で話しているときに、会話の勢いで聞き流されそうなことを隅の誰かがふと口にすると、巧みにすくい上げて皆の注意を向けさせることもあった。古めかしい受身の女性像は、二十六世紀の今でも立派に生き残っていたが、それとは遠く隔たったところにいるような女だった。  オーヴィルは、そんな彼女の行く先々に同行するようになり、周囲の人間に違和感なく受け入れられた。オーヴィルが一種の道化としての立場を心得つつあったことが、いい関係を生み出した。人工知性体のもつ無限の知識が、人付き合いの席ではしばしばまるで役に立たないことを、オーヴィルは身をもって学んでいた。サヤカが好んで付き合うような人間は、いずれも才気煥発で当意即妙の受け答えができる人々ばかりだったので、たとえ人工知性体に共通する博覧強記ぶりも、それほどたいしたものだとは思われなかった。そこで問題になるのは、むしろ自分に何が欠けているかを理解しているかどうか、欠けているものを求めているかどうかだった。その点ではオーヴィルには強い自覚があり、だからこそ、空気の読めない才走った議論家ではなく、謙虚な愚か者として振る舞うことができた。  ただ、オーヴィルが心構えとしてだけでなく、心底自分が愚かであるような気になるのは、サヤカの周りの男女から、こんなことを訊かれるときだった。 「彼女って、眠るときは髪を下ろすの?」  どういうわけかサヤカは、フォーマルな場でもくつろいだ場でも、あまり髪を下ろすことがなかった。人ごみの中でも、昔の騎兵の飾り兜のような高い髪房が、そのすらりとした姿とあいまってよく目立った。  だが、そういうことを訊かれているのではないことぐらい、オーヴィルにもわかった。要するに、彼女に対する立場を問われているのだ。  一度ならともかく、二度三度と重なると、オーヴィルもそれを意識せずにはいられなくなった。知性体が人間と恋愛をしてはいけないという法は、もちろんない。それが問題になったのは三世紀以上前のことだ。サヤカ本人にも、人間と知性体をわけて接している様子はない。おそらくそれが障害になることはないだろう。  オーヴィルがそんなふうに考え出したころから、不思議なことに、サヤカも態度を変えた。いつもオーヴィルに対してはあけすけな本音を語っていた彼女が、時折、言い渋りを見せるようになった。三度ほどオーヴィルを食事に招いた自宅にも、呼ぼうとしなくなった。人類とは、守るべきものとは、というあのお決まりの話題も避け、ごく身近な人々のことや、食べ物や流行などの他愛ない話ばかりするようになった。  これが普通の男だったら、女の関心が離れたのではないかとやきもきするところだが、生憎《あいにく》、まさに生憎、オーヴィルは鋭敏な感覚を持つ知性体だった。自分とともにいるときのサヤカの心拍や顔色などを嫌でも感じ取ってしまい、単に疎まれているのではなく、特別な興味をもたれているがために、かえって戸惑わせてしまっているのだ、とわかった。  これほど難しい問題もなかった。意識し始めてから半月以上、オーヴィルは熟慮した。皮肉なことに、問題なのは自分の気持ちなのだ。人間の男性を駆動する、賤《いや》しさと気高さがない交ぜになった、あの直線的な衝動を、オーヴィルは持っていない。その代わりにメッセンジャーとしての、極めて即物的な使命を負わされている。  そんな自分に女を愛することができるのか。  この感情は本物なのだろうか?  結局、ありふれたきっかけが背中を押した。ある夜、親しい仲間の集まるバーで、艦隊勤務の少壮士官であり、オーヴィルも認める人望ある青年が、半分以上は冗談と思えない口調でささやいたのだ。 「サヤカがいま誰かと付き合っているかどうか、君は知ってるか?」  その瞬間に生じた感情の波に、オーヴィルは戸惑った。それが何かを見極める前に、返事をしていた。 「私の知る限り、そういう人はいないようだが」 「そうか、それはよかった。ありがとう」  士官が何かを決意した顔で席を離れ、サヤカが仲間と談笑しているテーブルへ向かった。その頃になってオーヴィルは、自分が感じた動揺がなんだったのかに気づいた。  嫉妬だ。——自分にそんなものがあったのだ! 驚きとともに、むしろ喜びをもって、オーヴィルはその事実を認めた。意外な形でではあったが、彼女に対する気持ちを確かめることができたのだ。  しかし喜んでいる場合ではなかった。向こうのテーブルでは、さっきの士官が一座の会話に巧みに加わりながら、しきりにサヤカに視線を送っている。もうすぐ、決定的な事態が起こるに違いない。いや、見ている前でそれは実際に起こった。士官がサヤカを誘って腰を浮かせたのだ。カウンターにでも連れていくつもりなのだろう。  オーヴィルは立ち上がった。  テーブルのそばに立つと、一座の視線が集まった。サヤカは、すでに立っている士官に手を引かれて、立ち上がろうとしている。何か辛口の文句を言って士官を苦笑させたところらしいが、拒むつもりはなかったようだ。  その顔が、オーヴィルを見てこわばった。中腰の姿勢で動きを止める。  仲間の一人がグラスを掲げて誘った。 「やあ、オーヴィル。ちょうど席が空くところだ、そこに座れよ」 「ありがとう、だが結構だ。サヤカ、ちょっと来てくれないか」 「あら、ごめんなさい。ちょうどいま誘われたところなのよ。その後なら——」 「後ではまずい。多分、彼と同じ用件だから」  一つ息を飲んで、オーヴィルは用意した言葉を口にしようとした。  しかしその時、何かを察したらしいサヤカが片手を上げて、その言葉を封じた。 「待って。——わかったわ、オーヴィル、向こうへ行きましょう。ヤンセン、また今度」  出鼻をくじかれた士官が言葉を探す隙に、目を伏せてさらりとそばをすり抜け、サヤカはカウンターに向かった。オーヴィルも後を追った。  並んで腰かけると、サヤカは最初に一息でグラスを空け、それから前を向いたまま言った。 「いいわ、話を聞く。私の誤解だといけないから」 「多分、予想通りだ。男として君と付き合いたい」 「だと思った……どうしてこのタイミングで? 彼に先を越されて焦ったの?」 「きっかけではあったが、けっこう前からそう考えていたよ。君と同じに」  そう言ったきり、オーヴィルは返事を待った。楽観はしていなかった。サヤカにすんなり承諾する気があれば、細い眉をこんなにひそめてはいないだろう。  ああ、それにしても——薄明かりに照らされた横顔を見て、オーヴィルは感じ入る。彼女は美しい。きつく結い上げた髪の生え際が、銅の櫛のようにきれいに揃って光っている。むき出しのなだらかな肩や、斜めにグラスを提げる手首が、ただ形がいいということを越えて好ましい。あれは人工で作り出せるものではない。意思と経験、そういう不思議なもので数十年動かされてきた、人間のみが備えることのできる姿だ。 「あなたはいなくなる」  低くしわがれた声でサヤカがつぶやく。 「ずっといてくれることはできない。いずれ戦場に出て行く。それなのに、そんなことを言う」 「いけないか?」 「ひどいと思わないの?」 「思わない。それをひどいと思うようなら、愛なんてものに価値はなくなる。君らしくもない。そんなに先のことが怖いのか?」 「怖いわよ!」  振り向いたサヤカは、深いアメジストの色の瞳に真剣な怒りをたたえていた。 「私はいつだって先の先のことを考えて生きているつもりなのよ! 戦争が終わればもっと楽しくなるだろうって。今は軍務だのなんだので苦労していても、後になればなるほどいいことが増えていくと思ってた。それが……台無しじゃない。メッセンジャーなんか好きになってしまったら!」 「君が悩んでいたのは、それか」 「知っていたの?」 「ずっと見ていたからな。昔から多くの女がそういう悩みを抱いたんだろう。しかし好きだと言ってくれるなら、俺の気持ちも少しは考えてくれ。俺たちには期待できる将来すらないんだ」 「オーヴィル……」  サヤカは潤んだ目を見張る。オーヴィルは心の片隅に苦い思いを抱いている。この論理は自分のものではない——旅に出る前に記憶を造れと命じた、自分の創造者たちの論理だ。彼らの思う壺だという認識が苦い。だが、サヤカがほしいというこの想い自体は、どうしようもなく自分のものだ。 「君が少しでも俺のことを思ってくれているなら、苦痛も分かち合ってくれないか。もちろん、大きな喜びも」  サヤカは目頭を拭い、何かぶつぶつとつぶやいた。泣き笑いのようにその頬が緩んでいた。 「病める時も、健《すこ》やかなる時もってわけ……まったく、いつの時代の台詞よ」  それからグラス二つに等分の酒を注いで、片方をオーヴィルに寄越した。涙で化粧の崩れた顔に、さっぱりと晴れた笑みを浮かべて、高くグラスを掲げる。 「いいわ、付き合ってあげる。苦楽をともに、なんでも半分ずつ。せいぜい楽しくね」 「乾杯」  バーの喧騒の中に、チンと小さな音が上がった。  それから四ヵ月、オーヴィルは人間の女と愛し合った。街で、二人の部屋で、時には軍務の合間に小型船に乗って軌道上まで出かけ、満ち足りた時を過ごした。  折りしもそれは、反攻の最盛期にあった人類にとっても幸福な時期だった。連日どこかでETのコロニーが撃破され、どこかの天体が奪還された。誰もが意欲に満ちて働き、どこの生産設備もフル稼働していた。人々の出産意欲もかつてないほど高まり、育児施設や学校も増設に増設が繰り返されていた。  人口の増大に貢献するか否かという話になると、オーヴィルとサヤカは軽い苦笑を交わすのが常だった。メッセンジャーは生殖能力を持たない。そうでなくても、まだ子供を作りたくなるほど暇ではないというのがサヤカの公式な意見だったが、ごく親しい友人などには、冗談めかして言ったものだった。 「十ヵ月後のことを考えなくたって、ベッドは楽しい場所よ」  サヤカには言わなかったが、実はオーヴィルの同僚たち、つまりメッセンジャーの中でもそれについての議論はあった。生殖能力がほしいという者から、なくてもなんとかなるという者、あってはならないという者まで幅広い意見があった。例のアレクサンドルは魂の結びつきを強調するプラトニック派だったが、原罪だのなんだのということまで持ち出すに至って、オーヴィルは友人のよしみから、そっと忠告した。誰もシュミナとおまえとの絆を疑うものではないから、その辺にしておけ、と。  サンドロコットスの見解は変わらなかった。生殖は人類と知性体とを分けるもっとも重要な線であるから、侵してはならない、というものだ。  子孫を残すことの重要性は、オーヴィルとサヤカの間で復活した人類の価値についての話し合いの中で、しばしば引き合いに出された。サヤカは、人類とは現在生きている数億人のことを指すのではなく、過去から未来に至る大きな流れ——延べ五千億人以上に及ぶ個々人の人生で綴りあわされた、大樹のようなものとして捉えるのはどうかと言い出した。その壮大なイメージはオーヴィルも気に入った。  サヤカはETとの撤退戦の最中に、冥王星船団の中で生まれた娘だった。母親は幼いころに戦死し、歴史家の父に育てられた。彼とともに拠点から拠点へと転々とするうちに、人と物の流れを知り、成人後に仕事を探す段になって、補給廠に適職があることに気づいた。  特定のコミュニティではなく、何かもっと大きなものへの帰属を求めるサヤカの心性は、この放浪の期間に形作られたものだろうとオーヴィルは思った。サヤカもそれを認め、だからこそ、幼い頃の影を残すそんな考えを、より高く広がりのあるものに昇華させたいのだと言った。 「私たちは、個人が確信をもって全体に奉仕できる、稀有な時代に生きている」  天窓のある彼女の部屋のベッドで、水のようにゆったり横たわったサヤカが言う。 「暴政や汚職に間違った形で奉仕させられる心配はない。自分の行為の結果や成果は、求めただけ教えられる。たくさんの誠実な知性体と、ETという親切すぎるほど邪悪な敵が、間違いを正してくれる。穏やかな刑罰や、誰の目にもわかる敗北という形で。よほどの皮肉屋や無政府主義者でさえ、指導者の正しさを信じられるこんな時代は、過去一度もなかったって父が言っていた」 「だからこそ、その後を君は考えるんだな。時局やイデオロギーが変わった後も、皆が大切だと思えるような何かが存在してほしい、と」 「ええ……そんな時が来てほしいって、何度も言ったわね」 「でも君は、本当はそうなるのが怖い」 「怖い? そんなことはないと思うけど……ないわ、きっと」  オーヴィルはごろりと体を回し、彼女に覆いかぶさる。滑らかでひんやりとした、心地よい柔らかさが、胸の下で潰れる。頭を撫でる——もちろん、彼女は髪を解いている。 「君が生まれた時から人類は戦っていて、勝ち続けてきた。戦争が終わるということは、それ以上の勝利がなくなるということだ。ひょっとしたら内紛や分裂が起こるかもしれない。そう考えると、怖くないか」 「そうね、それはないとは言えない。敵がいなくなれば、作ってしまうのが人間だものね。でも、そんなことは怖くないわ」 「強いな」 「え? 逆よ。あなたを失うより怖いことなんかないって意味」  乾いた忍び笑いを漏らして、サヤカはオーヴィルの頬を両手で包んだ。ふと表情を消し、目を覗き込む。 「でも、もしあなたが脱走してくれるなら」 「悪い考えだ」  深くキスしてから、耳元でつぶやく。 「嘘偽りなく言って、俺はそうしたくない。俺たちの戦いは間違いなく人類に必要なものだ。それを捨ててまで君を選びはしない……たとえ創造者たちの制約がなくてもだ。俺は与えられた任務に納得している」 「誘惑が嫌いなのね」 「そういうことじゃない。くそっ」  オーヴィルは強く抱きしめ、サヤカもそれに応える。言葉の力の及ばない領域に入っても、二人には触れ合える肌があった。だが、その交わし方は、どれほど知っても知り尽くせないような気がしていた。  四ヵ月は瞬く間にすぎた。そのときが近づくにつれ、小さな口論や諍《いさか》いが何度か起こったが、二人の関係を壊すほどのものにはならなかった。一度だけ、サヤカの提案で小型艇に乗り、巨大な亜光速船の繋留されている外宇宙港へ見物に出かけたことがあった。オーヴィルは彼女の考えをうすうす察していたが、艇が巨船を一周して、離れ始めるまでは何も言わなかった。  港をあとにトリトンへ戻る航路に乗ってから、オーヴィルは口を開いた。 「ありがとう」 「なにが?」 「思いとどまってくれて。密航を考えていたんだろう。亜光速船に一度乗ってしまえば、生きているうちには戻ってこられないからな。でも、やらなくてよかった」 「……本当にそう思う?」 「ああ、本心だ。なぜなら、脱走を防ぐために、俺たちが出発するまで、太陽系のすべての亜光速船は出航を禁じられているんだからな。最初から不可能なんだよ」 「念の入った処置だこと……」  ふ、と驚いたように息を吐いて、サヤカは首を振った。 「そういう意味で言ったんじゃないわ。私は、本当に私が逃げたがっていると思うか、って訊いたのよ」 「思っていないのか?」 「いないわ」  サヤカはきっぱりとうなずいた。オーヴィルにはそれが嘘だとわかったが、あえて嘘をつく彼女の思い切りを、無下にできるわけがなかった。 「頼むわね、オーヴィル」  人類を、ということだろう。  出撃予定人数の二割、つまり五万人近いメッセンジャーが滞在するトリトンでは、オーヴィルとサヤカのような二人が他にも多く生まれており、近づく別れの雰囲気が街の誰にも感じ取れるまでになった。二人が、世界を二人だけのものだと感じるのは、もう不可能になっていた。  出発の日、軍港ターミナルに現れたサヤカの姿を、宇宙船への連絡通路から見つけた。彼女だけではなく、多くの、驚くほど多くの人間たちが、別れを惜しんで集まっていた。オーヴィルは先を行くアレクサンドルに声をかけた。 「シュミナがいるぞ」 「わかってる」  大男は振り向かずに船内に消えた。  オーヴィルは振り返り、その高度な視力で、サヤカが涙を流さず毅然とこちらを見つめているのを捉えた。当然だ、と思った。別れの儀式はすべて昨晩済ませた。今日この場に来なくても構わないぐらいに思っていた。  だが、そうではなかった。サヤカはまだ言うべきひとことを残していたのだ。彼女が大きく口をあけ、ゆっくりと言葉を形作るのが見えた。  また、いつか。  そう読み取った途端、胸が強く痛んで、オーヴィルは逃げるように船内に入った。  太陽系内の、各惑星が形成する重力溜まりを避けた、木星軌道と土星軌道の間の空虚な点。そこに、数百隻・機の艦隊が集結しつつあった。 「ETは数年前に、その勢力の一部を割いて時間遡行を行った。輻射エネルギーの測定から、到着日時はおよそ四八〇年前だと推定される。目的は歴史改変以外に考えられない。現在の劣勢を悟り、今よりはるかに弱小な過去の人類を掃討しに向かったのだと思われる」  時間遡行技術と、その基礎となっている時空理論について、オーヴィルは詳しいことを知らない。それを完成させたのは科学者たちと専用の知性体だ。しかしその理論を実現させる装置と、装置の扱い方とをオーヴィルたちは身につけている。理論を知りたいとも思わなかった。ETが遡行したなら、自分たちも同じところへたどりつけるだろう。それで十分だ。 「君たちはここから過去へ跳び、ETを阻止する。今の太陽系の余力で、準備できる限りの物資や知性体を同行させる。しかし状況と敵戦力はまったくの未知数だ。こちらの戦力が不足することも十分に考えられる。だから君たちの第一任務はETとの直接対決ではない。現地の人類に危機を伝え、その戦力を可能な限り引き出すことが最重要だ。メッセンジャー諸君、伝えろ、そして命じろ。自らと未来を守るために戦えと」  しかしその未来はここではない[#「しかしその未来はここではない」に傍点]。オーヴィルは苦悩に顔を歪める。過去に跳び、人類を動員して敵と戦えば、歴史が変わる。そこで時間枝が分岐する。仮に戦って生き延び、自身を凍結して未来へ向かっても、この太陽系に帰ってくることはできない。勝とうが負けようが、オーヴィルたちを待つのは変わり果てた太陽系だけだ。サヤカとはもう会えない。  だが、それだけなら……それだけと言うのですら苦しいが、まだ耐えられなくはない。 「ここで認証を行いたい。統括知性体にアクセスを」  見送りの人間将校の声に、オーヴィルたちは目を閉じ、艦隊を統括する知性体と内蔵器官を通じてアクセスする。自分たちが二度と帰らぬ兵士であることの確認を受ける。傍聴の恐れがあったトリトンでは必要だったが、この期に及んでは技術的な意味しかない空虚な儀式だ。だが、それですら後に残してきた世界とのつながりを感じさせて、疎ましい。 「——よろしい、では特秘情報を開示する。我々人類の知性体と科学者が提出した、十分な確度を持つレポートによれば、この時間枝における人類は、間もなく、滅亡する」  将校が言葉を詰まらせる。特別に口の堅い冷静な人間が選ばれているはずだが、口調が震えている。 「その根拠は、我々のもとに未来からの援軍[#「未来からの援軍」に傍点]が到着していないからだ。時間遡行による攻撃が可能だという前提に立てば、もし我々が今後ETに勝利したのなら、過去の戦いを有利に進めるために必ず時間軍を送るはずだ。実際、その予定での研究も進んでいる。だが現在、我々はその恩恵に浴していない。これは、我々が将来、時間軍を設立できないということを意味する。すなわち——遠からぬ未来において、滅亡するのだ。敗北のためか、自滅のためかは不明にしても」  過去へ旅立つオーヴィルたちにしてみれば、知ったことか、と言える事実だ。  あの四ヵ月さえ、なかったなら。  サヤカが、サヤカたちが暮らすトリトンが、焼かれて消え去る。その予測をオーヴィルは生まれた時から知らされていたが、しいて心の底に押し込めていた。四ヵ月の間に情況が好転するかもしれなかったからだ。だが、奇跡はとうとう起こらなかった。今やオーヴィルたちは、死すべき定めの人々を残して旅立つしかない。  サヤカ、とオーヴィルは硬くこぶしを握り締めて、胸の中でつぶやく。許してくれ。  救えなかった女が望んだことを、オーヴィルは深く心に刻み付ける。  人に忠実であれ……。 「我々すべて、滅びる時間枝に属するすべての並行人類の希望を託して、君たちに命じる。伝えろ、勝て。さらばだ」  将校が退艦し、知性体が宣言した。 「おはようございます、メッセンジャーの皆さん。私はカッティ・サーク、皆さんと時の果てまでも共に旅する時間戦略知性体。遡行軍を統括し、あらゆるリソースをもってサポートさせていただきます。それでは所定の感覚凍結を行ってください。間もなく当軍団は時間遡行を開始します」  各艦艇、要塞、移動基地の備える時間遡行デバイスが起動する。全電力が落ちて暗闇になった艦内で、オーヴィルはぎりぎりと歯を食いしばって叫びを押し殺す。  おれに、何を救えと。  瞬間、意識までも消え、オーヴィルたちは過去へと滑り落ちていった。 [#改ページ]       Stage-448[#「Stage-448」は縦中横]Japan A.D.248[#「Japan A.D.248」は縦中横]  ぼぉん、ぼぉん、と腹に響くような大|銅鑼《どら》の音が、宮室の中まで聞こえてくる。  切妻の棟木に摺《こす》りそうなほど低く垂れ込めた雲から、まだ小雨が続いている。窯《かま》の中のように暑い。茅葺《かやぶ》きの高殿は正面の戸を開け放ってあるが、風がまったくないので、左右に侍した 婢《はしため》 どもの匂いがこもり、むせ返らんばかりだ。  大汗をかきながらも、ぴんと背を伸ばして座し、彌与は待っていた。  未来から来た男……。  未来の世において|人 類《ひとのたぐい》と物の怪の大乱があり、その決着をつけるために両者が過去世へ旅立った、という話は、彌与にとって理解しがたいものではなかった。少なくとも、その発想は。過ぎたことをやり直したいと思うことは彌与にもある。いかにしてそれを為したのかということは、想像も及ばなかったけれども。  未来世に生を享《う》けた彼が、その地の王に令を授かり、使いとして旅立ったというところまで、彌与はあの夜に聞いた。彼は口に出さなかったが、故郷に心残りがあるのだろうことも察せられた。もしかすると、不帰の旅なのかもしれない。自分があの時、志貴山《しきのやま》で国を捨てようとしたときの気分を思い浮かべると、彼の気持ちも少しは理解できるような気がした。  ただ——彼の全身からにじみ出ていたような疲れは、そのためだけでもないように思われた。どれほどの旅路を経てきたのか知らないが、郷愁に苛《さいな》まれてばかりいるような弱い男には、彼は見えない。なにか、もっと深い、解きようのない屈託を抱いているのではないだろうか。  それはまだ訊けなかった。あの時、夜明けが近づく中で彌与と王はあわただしく爾後《じご》のことを話し合い、あらためて迎えを出すことを約した。卑弥呼として王を迎え入れるためには相応の儀式がいる、という彌与の話を、王は承諾した。それどころか、芝居を効果的にするために自分からひとつの提案を出しさえした。 「いくら私が使いの王だと言い張っても、出迎える側に歓迎の気持ちがなければ、すんなり受け入れてはもらえんだろう」 「それは、その通りだが」 「だから、向こうが受け入れたくなるような状況を作る」 「どうやって?」 「実はちょうどいい事件が起こりそうなんだ。カッティ、どうだ?」 「ええ、蜂のレポートを見る限り、タイミングは合いそうです」  口を利く剣が答え、使いの王となにやら細かい打ち合わせをしていた。それ自体、驚くべきことだったが、使いの王がこの種のことにずいぶんと慣れているようなのが、彌与は気になった。  きっと、似たようなことを何度もやったに違いない。  その夜から、手はずを整えるのに十日。国事に関わる占いにかこつけて、わざと前例のない卦を引き、神託を受けたことにして準備を整えた。  迎えを出したのは今日の朝だ。それからずっと彌与たちは待っている。  かすかに流れこんでいた庶人《もろびと》のざわめきが低まり、ざくざくと大勢の足音が近づいてきた。壮士三百の一隊が戻ってきたのだ。宮を囲む濠を渡り、城柵を潜って、官奴《みやつこ》たちの小屋の並びを過ぎ、宮室の前庭にたどりつく。ぶるるっ、と馬の鼻息が聞こえ、下がれ、と 兵《つわもの》 が見物人に怒鳴る声がした。  明るい戸口から幹が入ってきた。彌与の三歩ほど先にひれ伏して、申し述べる。 「参られました。彌馬升《みまそ》の上《かみ》が迎えの儀を執り行います」 「高日子根《たかひこね》は出ていないのか」 「伊支馬《いきま》の上は衛士《えじ》どもを督しておられます。庶人が神輿《みこし》に粗相をはたらかぬように、と……」  それを聞いた彌与は、ちょっとした危惧を抱いた。——まさか高日子根め、不遜なことを考えてはいまいな。  伊支馬は邪馬台の一の官の官名である。高日子根という男がその位について世俗の 政《まつりごと》 を一手に取り仕切っている。神事を執り行う彌馬升や、典礼作法に通じた彌馬獲支《みまかき》と比べても頭一つ抜けた存在であり、実質的に邪馬台の王に等しい。建前上は巫王《ふおう》・卑弥呼である彌与のほうが高位であり、高日子根自身も、みずからを彌与の弟と称してへりくだってはいるが、それは諸国の王を彌与に従わせるための方便だ。本音のところでは、彌与の下風《かふう》に立つつもりなど毫《ごう》も抱いていない。  だから、彌与が呼び寄せた使いの王などという、わけのわからない人間を警戒しているのは間違いない。口実を設けて弑殺《しいさつ》するつもりかもしれない。  いや……と彌与は首を振る。それは考えすぎだろう。この段階ではまだ、高日子根は様子を見ているはずだ。何しろ、王は|使  令《つかいのおきて》の作り主なのだから。  使い方次第で卑弥呼と同じような統治の道具になる。よしんば邪魔者になったとしても、たかが男一人、後々いくらでも処分のしようがある。今は手を出すべきではない——高日子根ならそう考えるだろう。彼は冷酷だが有能だ。  が、それも、彌与を今までの彌与だと思っていればこそだ。  彌与がこれまでと違う行いに出たら……彼はどうするだろう?  静まり返った前庭から、彌馬升の甲高い口上が聞こえてきた。邪馬台の二の官とは言いながら、伊支馬の使い走りのようになっている小心な痩せ男だ。普段でも威厳のない、鳥のような声が、緊張にかすれて震えている。  彌与はそれを聞きながら、おもむろに立ち上がった。 「女王……?」  婢たちが怪訝《けげん》そうに目を向ける。彌与が歩き出すと、恐れの声が上がった。 「いけませぬ、お出ましになられては」「お姿が穢《けが》れます」 「幹!」  一声かけると、あらかじめ言い含めておいた通り、少年が素早く彌与の後ろに回った。追いすがろうとする婢たちに剣を向ける。恐れおののく女たちを尻目に、彌与は足早に戸口を出た。  曇天の下の前庭の光景が目に入った。  列を作った三百余名、その中央の神輿に、使いの王があぐらをかいている。ここから見ても堂々たる姿だ。それに相対して手前に彌馬升と、官奴たち。泥土に膝をついてはいるが、内心では舌打ちしているのではないか。彼らには、使いの王を迎えるというこの儀式の意味がわかっていない。魏国の使いが来たわけでもないのに、という気分だろう。  庭の左右の柵ぎわに、衛士たちに阻まれて、見物を許された庶人たちが集まっている。宮に庶人を入れるようなことは普段はしないのだが、これも彌与が宣託の形で、強いて入れさせた。彼らもあまり興味がなさそう、というより邑に戻りたそうに見える。今は農事の季節のまっただなかだ。  その彼らが、ふとこちらに気づき、ざわざわと言い交わしながら、次第に驚きの色を浮かべていくのを、彌与は意図した無表情で見下ろしていた。  あれは誰様じゃ……宮の嫗《おうな》か? ……阿呆、卑弥呼女王じゃ……!  彌与は今、占事を行うときと同じ姿をしていた。茜で裾を染めた白い麻の貫頭衣をまとい、胸元にはきらびやかな銅鏡、勾玉《まがたま》、真珠を下げている。銅の棒に樒《しきみ》の葉を絡めた、長い幣矛《ぬさぼこ》を握り、高殿の張り出しの床に立てる。そして頬から胸へと走る、蛇紋を思わせる青黒い文身《いれずみ》に加えて、練った朱泥の縄文で全身を彩った。汗で流れてしまいますから、と止める婢たちに、無理を言って描かせたものだ。  文身が一般的であるこの国においても、自分の姿が庶人たちの目に異様に映るであろうことを、彌与は十分に計算していた。そもそも庶人は女王を見たことがないのだから、一目で女王とわからせるためにも、装飾は派手でなければならない。  庶人たちが、風の当たった草のようにひれ伏していった。効果があったことに、内心でほくそ笑みつつ、彌与は無言で睥睨《へいげい》した。  その時、彌馬升の長たらしい口上がようやく終わった。彌与が現れたのは彼の背後のことなので、気づいていない。神輿を担いでいた壮士たちが、段取りに従って木偶《でく》のようにそれを地上に下ろす。王を官奴たちの宮室に連れていくため、彌馬升が進み出ようとした。 「使いの王!」  彌与の叫びが、前庭に響き渡った。彌馬升が愕然として振り向いた。 「ひ、卑弥呼の御上《おんかみ》……」  彌与は刻み段を下りて進む。泥水を撥ね散らし、彌馬升を無視して通り過ぎ、神輿の前に至ると、幣矛を地に突き立てて自らは深々と泥に伏した。 「邪馬台の卑弥呼、畏《かしこ》みてさぶらわん。おん下り、おん入らせませ」  神輿から降り立った王がうなずき、そばに立った。彌与が顔を上げると、彼の長い手が目の前に差し出されていた。思わず顔をしかめてしまった。確かに、親しくするなとは言わなかったが。事前の打ち合わせで、何か忌事はあるか彼に問われて、細かい作法は気にしなくていいから、物に動じず、鷹揚な態度を示してくれとだけ言ったのがまずかった。  ともかく、出された手を無視するわけにもいかない。彌与は 恭《うやうや》 しくそれを取り、決して顔を見ないようにうつむいたまま、向きを変えた。あとは彼を奥宮の高殿に連れ込むだけだ。  その時、先の彌馬升が棒を飲んだように突っ立っている横で、よく目立つ大きな耳鬘《みずら》を結い、口ひげを蓄えた壮年の男が待ちかまえていることに気づいた。  高日子根……。  左右にひしめく兵たちの中からまっすぐ出てきたのだろう、佩剣のままで、今にも怒鳴りだしそうなぴりぴりした雰囲気をまとっている。彌与の出すぎた真似に激怒していることは言わでもわかる。  機先を制して彌与は叫んだ。 「畏れ慎め、伊支馬! これなるは使いの王、天地の 理《ことわり》 をものされた御方なるぞ!」  彌馬升が滑稽なほどうろたえてひれ伏したが、高日子根は軽く頭を下げただけで、ずかずかと近づいてきた。王のささやきが聞こえた。 「私が言おう」 「いけない、神声《かむのね》を庶人に聞かせては」  それでは巫王の立場がなくなる。  目前に来た高日子根が、彌与と同じように泥に伏して、それでもなおよく通る大声で呼ばわった。 「邪馬台の伊支馬の高日子根が畏みて旨《もう》す。我らが女王の卑弥呼の彌与を、御連れ召しまして寿《ことほ》ぎ給わんとぞ思し召さば、我ら邪馬台の官奴と庶人の、女王の卑弥呼を崇《あが》め奉り慕い奉ることを思し召して、還し給い戻し給わんことを願い奉りて、畏れ慎みて旨す」  そう来たか……と彌与は顔をしかめそうになった。高日子根の言い分はこうだ。使いの王が卑弥呼と親しくしてくれるのはありがたいが、卑弥呼は邪馬台の女王であるのだから、近くに置かずこちらの手元に返してくれ、と。  これが彌与自身の軽率をいさめる言葉なら、王の言葉を伝えると称して逆に叱責することもできるのだが、あえて彌与を飛び越えて王にじかに訴えてきた以上、王はこれに返答せねばならない。もちろん、それ自体が不遜なことではあるが、内容は彌与の大切さを訴えるものだ。無下にはできない。 「伊支馬……」  とにかく時間を稼こうと彌与が口を開いたとき、王がそれを押し留めた。振り返る彌与に向かって目配せし、背の大剣をぞろりと引き抜く。  それを、彌与に手渡した。  そのずっしりと重い剣の柄を、彌与が握った途端、剣は旭光のようなまばゆい光を放ち、男とも女ともつかない朗々たる大音声で叫び始めた。 「邪馬台の女王の卑弥呼に告げる。汝らの内に諸々の経緯はあろうが、今は和して合力せよ。啀《いが》むべからず、猜《そね》むべからず。災いは間近にあり」  伊支馬が驚愕に薄口を開けていた。胆力では並ぶもののない彼にしてその有様だから、他の者は面を上げることもできずに平伏している。彌与にしても驚いていたが、光に隠れた王の表情を窺う余裕はあった。彼は苦笑しているようだった。  その光がまだ消えぬうちに、宮の入り口のほうでざわめきが上がった。手綱を引き絞られた馬の鼻息が聞こえ、一人の兵が足早に入り込んできて、前庭の光景に度肝を抜かれたように足を止めた。  目ざとくそれを見つけた彌与は、兵の長に声をかけてその者のところへ向かわせた。兵の話を聞き取った長が、驚愕の面持ちで戻ってきて、高日子根に何事かを告げた。  彼の顔色が変わる。 「柘植《つげ》の関に? ……狗古智卑狗《くこちひこ》めが!」 「戦《いくさ》だな?」  彌与の声に、はっと振り返った高日子根が、すぐさま表情を押し消してうなずいた。 「東のかた狗奴国《くぬこく》の兵馬庶人、挙げて押し寄せ、ひとかたならぬ騒ぎだと」 「それゆえ、王はおん下り給われたのだ」  その瞬間、光は消え去っていた。彌与の言葉は、その場の隅々まで届いた。  居並ぶ者たちの顔に、掛け値なしの驚きの色があった。彌与だけは、王の剣に告げられて知っていたが、この日この刻に知らせが来るだろうことを予見した剣の力には、感服するほかなかった。  高日子根は謀略を疑うように眉をひそめていたが、彌与は漏れそうになる笑みを慎重に隠した。膳立ては整ったのだ。駄目を押す必要はない。 「戦の備えを」  短く言い置くと、彌与は王の手を引いて奥宮の高殿へ入っていった。呪縛が解けたように湧き上がったざわめきに混じって、兵の長を呼び集める高日子根の怒声が聞こえた。  軍を発するにあたり、使いの王が直率し、卑弥呼が侍してこれを扶《たす》けるのがよい。  意外にも、そう言い出したのは高日子根自身だった。はや、王の権威を認めたか、と卑弥呼は驚いたが、実情はもっときな臭いものだった。 「伊支馬の上は、隼人《はやひと》の鷹早矢《たかはや》を軍の司に任じられました。兵の長も、上の同胞《はらから》ばかりのようです」  官奴たちの話を盗み聞きしてきた幹が伝えた。隼人は邪馬台と盟を結んだ球磨襲《くまそ》国の兵たちで、剛勇と忠誠を買われて伊支馬の衛士を務めている。その鷹早矢を司に任じたということは、使いの王に実権を渡すつもりなどさらさらないのだろう。  それに、王と卑弥呼がともに宮を空ければ、居残りの伊支馬は好きなことができると、これは王が指摘した。  そういう経緯ではあったが、彌与はその案を呑んだ。五日後、五千の兵が整い、出兵の儀が済むと、輿に乗って出発した。目的地の伊賀の地までは、纏向《まきむく》から北東へ二百五十里。三日の行程だった。  思ったとおり、王を扶けよとは言いながら、行列中の彌与の輿は中軍に置かれ、先頭にある王と一度も会わせてもらえないばかりか、伝令を行き来させることさえ拒まれた。だが、彌与は王から小さな勾玉を渡されていた。それを用いて、二里も離れた彼と直接話をすることができた。 「高日子根は何をたくらんでいるのだろうか」 「さて。古来、留守居の臣は君主に代わって王位につくことを望むものだが、諸国の手前、まだそこまではやるまい。足元を固めつつ、私たちが出先で災難にでも遭うことを期待しているんじゃないか」 「肝が冷えるようなことを言うな」  彌与が、網代《あじろ》の目隠しを巡らせた狭い輿の中で、体をもそつかせると、快活な笑い声が届いた。 「はっは、幹に頼れ。彼は見所があるぞ」  幹は王から授かった恐ろしく鋭利な短刀を懐に、輿を担ぐ生口《どれい》たちの後ろを歩いている。彌与は気を取り直して言う。 「御主こそ、気をつけろ。その周りにいる隼人たちは、相手の気づかないうちに背中から生き胆を抜くほどの手練《てだれ》ばかりだ」 「私の肝は抜けんよ」  さらりと答えると、それより戦の相手だ、と王は言った。 「私の知るところでは、狗奴国との戦はもっと後に起こるはずだった。ここの邪馬台国は、そんなにしょっちゅう彼らと戦をしているのか」 「まさか。妾が女王に立って以来、一度も戦ったことはない。向こうも身の程をわきまえているからな。打ち明けて言えば、なぜ今になって攻め寄せてきたのか見当もつかん。狗古智卑狗《くこちひこ》はそれなりに道理のわかる男だと思っていたが……王よ、御主にもわからんのか?」 「動機まではわかりません。しかし、武装した者を含む大勢の人間が、東から伊賀方面に押し寄せているのは確かです」  これは剣の声。王の不思議には慣れつつあったが、かえって俗な興味が湧いて、彌与は尋ねてみることにした。 「聞くが、剣よ」 「カッティで結構です」 「カッティ、ぬしはどこにいるのだ」 「私ですか? 私はどこにでもいます」 「はぐらかすな。この勾玉のような術で、どこか遠くから声だけを送っているのだろう」 「鋭い」  王の含み笑いが聞こえた。カッティはしばし黙り込んだ。 「……ええ、私はある場所に本体を置き、そこから世界各地の端末と子機を操っています。ですが、口外しないでください。重要な戦略情報です」 「ぬしは王の室《つま》なのか」 「なんですって?」  王が失笑した。剣はやや硬い口調で言った。 「答えは否です。Oは妻帯しません。いえ、あなたは私やOのような知性体同士の感情を理解していません。恋情は互いに未知の部分があるから生まれるものです」 「別にむきにならずともいいだろう」 「なっていませんとも」 「女王よ、彌与よ」  笑いすぎで苦しがっているような口調で、王が言った。 「カッティをそこまでやり込めた人間は初めてだ」 「O、無駄口を利いている場合では——」 「わかっている、私にも聞こえる。蜂は十分撒いてあるな」 「上野盆地全域をカバー済みです。銅剣による人体、木材の切断音を複数確認、戦闘音です。火災も起きています。高熱と大量の炭化水素分子を検出」 「ひと手柄、上げられそうだな」 「御主みずから出るのか」 「光ってみせただけでは、祭り上げられて終わりだ。武勲を示してこそ認められよう?」  それは出発前に話し合ったことだ。彌与は、自分が彼の身を気遣っていることに気づいた。その思いのまま、さらに口に出す。 「無理はするな。狗奴の東夷《えみし》の矢はよく当たるぞ」 「敵の心配をしろ。私は時に……殺しすぎる」  よく言う、と呆れてつぶやいたとき、ぶぉぉん、と竹法螺《たけぼら》の間延びした響きが湧いた。  にわかに軍列が騒がしくなった。次々に鳴り継ぎされる竹法螺の響きに応じて、兵の長が手下を呼ばわる。兵たちががちゃがちゃと剣を抜いて走り、馬飼い、牛飼いが荷役の駄獣に鞭を当てて道の端に避ける。彌与は網代の裾を少し持ち上げて外を窺う。  もう一息で里に出るというところの、谷あいだった。小川に沿った小道が続いている。兵事に詳しくない彌与にも、待ち伏せのおそれのある地形だとわかる。しかしそんなことは軍の司も承知らしく、前面の備えをしっかりと固めながら、山の手、川下に小勢を走らせ、罠や伏兵がないか十分に探っているようだ。  輿の後ろから物音がしたので振り向くと、幹の細面が覗き込んでいた。 「彌与さま、輿を後ろへ下げます。ここはあぶのうございます」 「いや、このままで……」  幹が王の話を聞いていないことに気づいて、彌与は付け足した。 「使いの王が直戦される。心配するな」 「そう仰せられても」  いくら強くとも一人で何ができるのか、と言いたげだった。ふと思いつき、彌与は言ってみた。 「陣列の前に出て、見てきてくれ。妾は動けない」 「おそばを離れるわけには」 「大丈夫だ、ほれ、竹法螺が進めと言っている。ここは心配ない。それに、ぬしも手柄の一つも挙げたいだろう」 「しかし……」  なおも幹がためらったので、彌与は網代の隙間から前方を指差して言ってやった。 「見ろ。黄幢《はた》が揚がったぞ」  前軍に近い列の中から、両腕をふた広げしたほどの黄色い大旗が起き上がった。倭国ではついぞ見られない、金糸で縁取りした華麗な意匠で、先年、朝貢の見返りとして大国・魏から下賜《かし》されたものだ。親魏倭王の字が微風にはためき、魏帝の檄《げき》を知らしめた。  兵たちが大きな鬨《とき》の声をあげる。子供っぽく目を見張った幹が、そわそわとして駆け出すのを、彌与は微笑みながら見送った。  やがて前軍から戦の音が巻き起こったが、案に相違して、それはごく短時間で終わった。本格的な衝突ではなかったらしい。彌与は勾玉に尋ねた。 「王よ、無事か?」 「ああ、どうも当たったのは敵の斥候だったらしい。これから敵の本隊を探りに行く。おい、馬を貸してくれ」  口ぶりからすると、誰かの馬を乗っ取ったらしい。邪魔をしては悪いと思い、彌与は話を打ち切った。  再び竹法螺が吹かれ、軍列全体が進みだす。  谷を下り、里へ出た。邪馬台よりふた周りも手狭な盆地のあちこちに、焼き討ちの煙が上がっているのを彌与は認めた。が、おかしい——軍勢らしい旗や甲冑のきらめきが見当たらない。敵軍はどこにいるのか。  やきもきしながら待っていたが、軍列がその地の邑に入っても、勾玉の声も幹も来なかった。そのまま昼餉《ひるげ》の令が出、彌与は邑の高殿に入って食事を取った。  日が傾き始めた頃、ようやく勾玉が声を上げた。だがその口調に、彌与は不吉なものを覚えた。 「彌与」 「どうした、無事か」 「これから戻る。後手に回った……」 「なんだと、やられたのか? 王よ!」  だが、それきり返事はなかった。  やがて幹が戻ってきて、戦の興奮の残る紅潮した顔で告げた。 「彌与さま、勝ち戦です。吾《おれ》も一人討ちました。百姓《はくせい》を襲っていた奴と渡り合って……」 「無理はしなかっただろうな。ずいぶん待ったぞ」 「は、はい。申し訳ありません」  彌与に侍する自分の立場を思い出したらしく、いくぶん冷静になった様子で幹が頭《こうべ》を垂れた。彼が無事だったことにほっとしつつ、彌与は尋ねた。 「使いの王の戦いぶりは見たか」 「見ました。騎馬のままであの大剣を振るって、東夷たちを人形のように打ち倒しておられました。矢には当たらず、矛にもひるまず……恐ろしく強いお方で、兵どもが見惚れておりました」 「なら、手傷は負われていないのだな」 「かすり傷さえ」  ではなぜ、あんな様子だったのだろう。  彌与が考えていると、高殿の外から呼ばわる声がし、幹が応対に出た。戻ってきた彼は、しかめ面で言った。 「司の鷹早矢が、隼人の分際で、卑弥呼女王のお出ましを願いたいなどとほざいております。お気にかけぬがよろしいかと」 「待て、用件はなんだ」 「敵の使いが謁《えつ》を求めているというのです。そんなもの、追い払えばよいに」 「東夷が?」  引っかかるものがあった。宣戦や和議が目的なら、伊支馬の名代である鷹早矢に伝えれば済むことだ。わざわざ卑弥呼を名指ししてくるとは、よほどのことだ。  彌与は手ぶりで幹を遠ざけ、勾玉にささやきかけた。 「使いの王、東夷の使者が来ている。会おうと思うが、よいか」 「ああ、構わん……いや、私も会おう。こちらへ来てくれ、鷹早矢の天幕にいる」  目隠し代わりに、二十人ばかりの婢に周りを囲ませて鷹早矢の天幕に向かうと、武骨な顔の隼人の司が、なんとも居心地悪そうな様子で平伏して迎えた。中では王が、間に合わせの御座《みくら》にあぐらをかいて待っていた。彌与はその隣に座す。はるか南国の出で、邪馬台の宮での作法など知らない鷹早矢は、二人にどう接したらいいのかさっぱりわからないらしく、むやみと取り巻きに怒鳴って酒や菓子を持ってこさせ、恐る恐る彌与たちの前に差し出した。  あまり畏まっていて声のかけようもないので、彌与は小声で幹に聞いてみた。 「ずいぶん恐れているようだが、何かあったのか」 「鷹早矢に向かった流れ矢を、使いの王が素手で掴みとってしまわれたので……」  なるほど、それは驚いただろう。だがそうとわかればかえってやりやすい。彌与は改まって膝を幹に向け、聞こえよがしに言った。 「この厚遇、使いの王は喜んでおられる。忠《まめ》に励めと伝えよ」 「鷹早矢、女王のお言葉だ」  幹がおうむ返しに伝えると、鷹早矢は励まされたと思ったのか、生気を取り戻した様子で礼を述べた。彌与はこの単純な武人に、少し好感を抱いた。 「聞けば東夷の使者が来たそうだが、その者をここへ呼べるか」  幹が伝え、鷹早矢が答える。 「畏れ多いことながら、女王に会えねば自害すると申しておりまして、帰すに帰せませぬ。斬ろうとしたところ首を差し出し、好きにせよ、しかしこの恨みは鬼となって必ず晴らすと……」 「構わぬ、連れてこい」  言ってから、それではちょっと軽薄すぎる気がしたので、 「目を隠し、腕縛り足縛り、暴れぬようにせよ」  と付け加えた。  じきに、手足を縛られて、燔《や》かれる猪のように棒で吊られた使者が連れ込まれた。彌与は声をかける。 「邪馬台女王、卑弥呼だ。東夷、妾に用とは何事か」  言いながら彌与は、隣の使いの王が沈んだ顔つきになっていることに気づいた。  東夷が、吊られながらも腹の据わった様子で答えた。 「汝《な》が女王かぁ。吾《あ》の王の伝えごとばぁ、聞かせんっそ。吾の国ばぁ、もののけな群っさ多けにへずり出て、崩れ絶えてしめいもっす。女王ばぁ、吾の親族《うがら》ぁに同胞《はらから》ぁに飯な肉な食わっせぇて、めごぉ生かっせぇてくれなっそ。吾ば、もののけぇな暴りゅうるを、どめん撲《ぶ》っち滅《め》ぇて倒っさぁ」 「なに……?」  驚きのあまり幹に取り次がせることも忘れて、彌与は直問した。 「物の怪が出たのか? 狗奴国に?」 「山ぁ埋《ん》め、川ぁ埋《ん》めて、へずり出たぁさ」  東夷の態度は、もはや帰る国がなくなって恐れるものがない、とやけになっているように見えた。 「では、関を越えてきたのは国攻めの軍勢ではなく、流民か!」 「それだ。——申し訳ない」  黙っていた使いの王が自分に目を向けたので、彌与は彼の憂《うれ》いのわけを知った。ひとまず、他の者をすべて外へ下がらせてから、訊いた。 「物の怪の居場所がわかるのではなかったのか」 「あらかじめ網を張っていればな。しかし、ここまでぴったり時を合わせて出現するとは予想外だった。私としては、向こう二十年の間に敵が出てくればいいぐらいのつもりで、のんびり構えていたんだ」 「現在、鉱脈調査に回していた蜂を狗奴国へ向かわせています。八時間以内に東海方面の哨戒網が完成する予定ですが——」 「泥縄もいいところだ。この地は捨てざるを得まい。彌与、今夜中に退却の準備をさせてくれ。昼に通った渓谷に砦を築き、防衛線を張るんだ。流民は、朝までに捕らえられたものだけ邪馬台へ受け入れろ。残りは助けるひまがない。それに国許へ使いを立てて、動かせる兵をすべて呼び寄せろ」 「そんなに……そんなに急がなければならないのか」 「最初の流民が来たのが十日以上前だ。狗奴国の残存兵力がどれほどか知らんが、進軍段階まで成熟したETが相手では——すでに滅んでいるだろう」  彌与は息を呑んだ。  使いの王はふと目を逸らして、自嘲するようにつぶやいた。 「あの時以来だ、こんなミスは」 「……前にも?」 「敵より早く着いていながら、備えさせることができず、敗北した」  敗北……それがこの男の陰か。長い戦いの中で助けられなかった者への、悔恨が。  彌与が表情を見定める前に、王は面頬《めんぽお》を手にとって立ち上がった。 「前線を見てくる。後を頼むぞ。カッティ、アージェントだ。地球の裏からでも援軍を呼べ」 「了解。——いえ、待ってください。アージェントです。他の地方からも警報が入りました」  王が振り向いた。剣が告げた。 「東アフリカ、アクスム王国からです。凍結中のメッセンジャー一体が攻撃を受け破壊されました。ギザ・ステーション、因果効果で消滅。アトス神域、タハト山、ジャルモ市および中東各ステーションで友軍緊急覚醒。周辺ステーションはバックアップに入ります」 「くそっ!」  王はそばの櫃《ひつ》を荒々しく蹴りつけ、出て行った。 [#改ページ]       Stage-002[#「Stage-002」は縦中横]Earth A.D.2119[#「Earth A.D.2119」は縦中横] 「軌道投射施設が使えない? どういうことだ」  オーヴィルが内蔵している通信機で叫ぶと、月面北極基地の責任者——運用主任、という肩書きの人間——が感情のない声で答えた。 「我々は本社命令に従っている。クレームは本社に伝えてほしい」 「国連決議を知らないのか? 人類の全国家の全施設は、二十六世紀|遡 行 軍《アップストリーマー》にあらゆる便宜を図るよう、通達が出ている。協力してほしい」 「国連決議のことは知っている。しかし、我が国の議会はそれに従った国内法をまだ成立させていない。我が社は法の施行に間に合うよう生産体制を変更している最中だ。もう少し待ってくれ」 「そんなことをやっている暇はない! ETの侵攻が今にも始まるかもしれないんだぞ!」 「こちらは営利企業だ。休業補償のあてもないのに作業を止めるわけにはいかない」 「この——」  通信を打ち切って、オーヴィルはボートの内壁に拳を打ちつけた。 「石頭が!」  背後では同行する四人のメッセンジャーが、肩をすくめたり、薄笑いを浮かべていた。  北極基地に隣接する発着場に下りているボートの中に、統括ポストにあるカッティ・サークの声が流れる。 「説得できませんか」 「無駄だ。連中は尻に火がつくまで動くつもりはないらしい。よそはどうだ」 「いずこも同じです。各国政府、主要企業、主要民間団体、主要施設、どのレベルにおいても抵抗されています。意思の不統一、連絡の不徹底、担当者の不在や忘却、リベートの要求、反対派・猜疑派の妨害。どこまで遅延するか見当もつきません」 「なんという非効率だ……!」  オーヴィルはうめいた。この時代に到着した当初の歓喜はどこかへ消し飛んでいた。  西暦二一一九年、二十二世紀初頭の太陽系に到着したオーヴィルたちは、まず最初に太陽系内の掃天観測を行い、ETの特徴的な増殖拠点や建造物が見当たらないことを確認した。地球はまだ、青い表面にたっぷりと白雲の衣をまとって、静穏にたたずんでいた。  先回りに成功したのだ。ひとしきりそのことを喜びあってから、危機を伝えるべく、早速地球へと赴いた。  その途中、火星地表に人類活動の兆しを見出した。地球や月から資材を送り込み、植民都市の建設を進めているのだ。南北極や各地の地下水源に群がって、黙々と作業を進める大量のロボットの姿があった。これはオーヴィルたちが知っている歴史の通りであり、心強い光景だった。まだ揺籃期とはいえ、この時代の人類は宇宙活動能力を持っている。ET迎撃のための協力が得られるものと思われた。  二十二世紀人と接触し、未来から来たことを認めさせるのも、比較的簡単に成功した。地球の民衆は、単純に、地球の言葉を操る数百隻の宇宙艦隊の出現を見て、同胞であることを信じた。政治家はそれより疑い深く、科学者たちはもっと懐疑的だったが、メッセンジャーが送られた経緯と、時間遡行理論の説明を伝えると、ひとまず交流を開始することには同意した。  しかしそれからが難事だった。二十二世紀の地球には、まだ人類全体の行動方針を決めるための組織がなく、その母胎である国連は、いまだに主権国家よりも弱体だった。超国家的な行動を——それも軍事にまつわることを、外部の提言に基づいて決議するのは、各国政府が非常な難色を示した。ある程度そういったことを予測していたメッセンジャー側は、そのために人間型に創られていた個体を使者として派遣し、説得に努めた。  すでに地球上に、いくつかのETのコロニーが出現していたことが、若干の助けになった。メッセンジャー側の基準に照らすと、それは本格的な侵略ではなく、偵察的な派遣であると思われたが、地球側はそれを、制圧されつつある疫病や飢餓、いまだに尾を引く民族対立や環境破壊と並ぶ、新たな、しかも正体のわからない難問として認識していた。ETコロニーのうち二つは、ヨーロッパと中国の大都市——聖堂の街ケルンと、大炭鉱のある撫順《フーシュン》を壊滅させたのだ。撃滅には、その国家の通常戦力の大半を要した。  それが大挙して訪れる、という脅しが、国連総会を動かした。——しかしその時にさえ、一部の国家の大使は、メッセンジャーたち自身が二つの都市に攻撃兵器を仕掛け、マッチポンプ的な演出を狙ったのではないか、という発言をした。  ともあれ、協力体制は成立した。国連決議に基づき、地球側は防空と地上戦の備えを進め、メッセンジャー側は宇宙での防衛を担うことになったのだが……。 「どうする?」  火星までの宇宙空間に散らばる人類拠点のあちこちに派遣された、小型高速艇のひとつ。月面のボートの機内で、考えこむオーヴィルにアレクサンドルが尋ねる。 「おとなしく待つか? 連中だって無限に引き伸ばしはしまい。待つならやりたいことがある」 「なんだ」 「物語を書いていてね」  見れば彼は、手書きで手帳に文字を書いている。なんだそれは、とオーヴィルは訊く。 「トリトンに送るのさ。カプセルに収めてな。ビーコンをつけてそこらの空に放り出しとけば、いずれ回収されるだろ。百年か二百年先には」 「シュミナ宛てか」 「彼女は文才があるって言ってくれたよ」 「どんな話だ」  さほど興味もないまま尋ねたオーヴィルは、アレクサンドルが真顔で答えたのを聞いて、首をかしげた。 「虫の話だ」 「虫?」 「ああ、大きな木の一枚の葉に生まれた、小さな虫だ。葉っぱを食って気楽に暮らしているが、そのうち危機に気づく。何者かが木を枯らそうとしているんだ。そこで危機を食い止めるために、馴染みの枝から太い幹へと出かけていく……」 「何者かとは、なんだ。ETか?」 「ああ、やめてくれ。そんなにストレートに現実を映しこんでしまったら、物語の雰囲気が台無しだ。これは児童文学なんだから……しかし、何を敵にするべきかな? 蜂やクモでは月並みだし……」  オーヴィルよりも武骨な体格の男が、大真面目に考えこんでいる。オーヴィルはしばらく彼の手元を眺めていたが、やがて適当なことを言って立ち上がった。 「児童文学なら熊にでもしたらどうだ。出るぞ」 「お、直談判か」 「制圧だ。カッティ、基地のコンピューターに割り込んでステータス信号を偽造しろ。異常なし、だ。本社だの政府だのに口を挟ませるな」 「一時的にごまかしても、すぐに発覚しますよ。実力行使がばれたら後々やりにくくなります。控えてもらえませんか」 「だめだ、ETが攻めてきてからでは遅い。武器も作れ。低威力の実弾火器……いや、剣がいい。この時代の連中は、飛び道具ではかえって驚かんだろう。なるべく見た目の恐ろしいやつを作ってくれ」 「炭素・チタンの傾斜混合鍛造刀はどうでしょう。表層に半導体を浸透させます。放電によってステンレスでも溶断可能」 「そいつは派手だな」  食料から武器まで積層印刷で形成できる、ボート内の原子プリンターがかすかな臭気を上げて作動し始めると、オーヴィルは仲間と顔をつき合わせて基地の図面に見入った。ほどなく武器ができあがると、気密服を身に着けて剣を手に取った。腕より長い、ぎらぎら光る乳白色の大剣だ。アレクサンドルがにやにや笑う。 「こりゃいい、宇宙の英雄だ。レトロフューチャーだ」 「作品に登場させてくれ。——では、私が先頭に立つ。おまえたちは後ろで適当に騒いでいろ」  ボートを出て、オーヴィルたちは基地へと歩き出した。  地平線上の太陽に長い影を曳かせながら、オーヴィルはふと思った。自分も手紙を書こうか? 時間分岐の前の時点でカプセルを設置すれば、それは改変前と改変後、どちらの時間枝にも流れていくことになる。  しかし自分には伝えることがない。会いたいとだけ書いても何の意味もない。——彼女と共有できるもののあるアレクサンドルをうらやましく思いつつ、オーヴィルはあきらめた。  迎撃態勢の構築は、遅々として進まなかった。メッセンジャー到着後、五ヵ月がたっても、すでに地球側が備えていた、近地球隕石《NEO》撃墜用の核ミサイルのプログラム変更が済み、各国天文施設の防空監視体制が整いつつあったぐらいで、対ET用兵器の生産はまだ緒についてもいなかった。宇宙空間における地球人施設は在来作業に固執し、その全力を迎撃準備に振り向けたところは一ヵ所もなかった。月面鉱山、ロボット工場、軌道投射施設、太陽光発電所……どこも理屈をつけて抵抗し、メッセンジャー側が独自施設を造ることを妨害さえした。  しかし生産手順の遅滞などはまだいいほうで、国連軍の指揮に関する協議となると、まさに泥沼に陥っていた。  古くから連綿と力を持ち続けている大国と、今千年紀に入ってから実力をつけてきた中小国が、メッセンジャー側と三つ巴の押し問答を繰り広げて、いつになったら指揮系統が確立するのか、見当もつかない有様だった。  こんなことでは埒《らち》が明かない、とカッティ・サークは悲鳴を上げていた。彼女がまず最初に、何をおいても実施したい、全地球規模のET種子スクリーニングさえ、各国政府に阻まれ、国家単位の細切れな検査しかできていなかった。一つでも見逃すと膨大な数に膨れ上がると、何度言って聞かせても通じなかった。  それでなくても彼女は手を取られていた。地球スクリーニングと並行して、百隻規模の艦隊を金星に派遣し、大掛かりな索敵作業を行っていたのだ。  金星は二十六世紀の太陽系において、ETが繁殖の苗床とした惑星である。分厚い大気に覆われた地表に、埋設型のコロニーや基地が隠れてはいないかと、徹底的な捜索が行われ、実際にいくつかの大型コロニーが見つかっていた。それらに片端から、メッセンジャーとしては中威力の兵器である核融合弾を投下し、一体の繁殖体も見逃さないように、厳重な掃討作戦を行った。  二十六世紀人類の余力をすべて振り向けたメッセンジャー軍といえども、二つの惑星と、その他数知れない太陽系天体すべてをカバーするのは手に余った。メッセンジャー軍の根本的なエネルギー源は、未来から持ち込んだ反物質だが、それも無限にあるわけではない。もし長期戦になるようなら、反物質の生産施設も建設しなくてはならない。艦隊の行動に必要な補助施設が皆無であるこの時代では、なんとしても現地勢力の応援を頼むほかなく、彼らを見限って独断行動をするのもままならないのだった。 「ハマーズリー山脈の買い上げに失敗したって?」  任務の合間に、オーヴィルは尋ねる。協力要請の一環として、メッセンジャーは技術供与を対価とした資源購入にも手を染めていた。シドニーにいる仲間が答える。 「オーストラリア政府の閣僚たちは協議の最中に目を剥いたよ。我々が山を削れば、従来の何倍もの鉱脈が露出すると言って聞かせたんだが、生態系と民族居留地が消えてなくなることが我慢ならなかったらしい。途中で全員、席を蹴って帰ってしまった。自分の国と人類の歴史のどちらが大事なのだか」 「歴史[#「歴史」に傍点]なんて目に見えんものに奉仕する気は、それは一朝一夕には湧かないだろうよ」  自分が口にした歴史という言葉に違和感を抱いて、オーヴィルはちょっと考えた。——普通、歴史と言えば過去のそれを指す。しかし、未だ来たらないそれを歴史と呼ぶのはどうだろう。重み[#「重み」に傍点]の点で何か違う気がする。 「主要企業との折衝、予定の四十五パーセントの進捗率です」  カッティ・サークの無機的な声が割り込む。彼女は一度にメッセンジャー全員と会話できるだけの能力があるが、さすがに今は、声音に細かな感情を織り込む余裕もないようだ。それが彼女の疲れのように、オーヴィルには聞こえる。 「有力な企業はどこも一国の政府並みに手に負えません。人間の経営陣の無知や迷妄は信じがたいほどです。経営陣に知性体が加わっている少数の企業でさえ、情報阻害や虚偽がまかり通っています。しかもそんな企業ですら全体の二パーセントもありません」 「情報完全に達していないというのは、まったく救いがたいな」  公知された情報が、光速の限界の中で、すべて検索可能な状態で行き渡っている環境、すなわち情報完全が達成されていたのが、オーヴィルたちの生まれた世界だった。そこでは、サヤカが勤めていた補給廠のような若干の例外を除いて、人間による情報の隠蔽や秘匿、それに不知などは起こりようもなかった。ニューヨークで合意が為されれば、五秒後には北京でもボンベイでもそれに従うのが当たり前だったし、火星で企業の不祥事が発覚すれば、通信のタイムラグによる数時間だけを経て、土星でも天王星でもただちに系列企業に処分が下されるのが常だった。  適切な情報を常に浴びられないということが、どれほどの無知と猜疑を生んでいるか、オーヴィルは身に染みて感じていた。山ほどの会議と協議と稟議、呆れるほどの誤解と反感と敵意。 「カッティ」 「はい」 「遅延を完全になくす方法は」 「人類征服です。わかっているでしょう」  わかっていた。すべての有能無能の人間の代わりに、メッセンジャーたちが事務と通信を担い、人類にはその意思だけを問うのが、もっとも単純で高速なやり方だ。しかしそれは人類側の巨大な反感を買うのが目に見えているため、こちらがそれを検討していることはおろか、その能力があることすら伏せられていた。  そこまですることはできない……そんな、ここの人類の尊厳を根本から踏みにじってしまうようなことは。ただでさえ自分たちは過大に干渉し、歴史を変更しすぎている。今この瞬間にも、一世紀後に見出されるはずの鉱脈を掘りつくし、二世紀後まで続くはずの人脈、血脈を書き換えている。それがどんな影響を及ぼすか、わかったものではない。  だが、自分たちに下された命令は、たとえ歴史が根こそぎ書き換わるとしても人類を救えというものだった。  やるべきか?  メッセンジャー全体の方針は、単純な多数決で決定される。遡行軍の全知性体が提議権と投票権を持ち、過半数の同意で方針が成立する。遡行軍内での完全な情報環境のおかげで、提議から評決まで一分もかからない。  だがオーヴィルは結局、人類征服を提議しなかった。サヤカに教えられた人の歴史というものについて、いわく言いがたい重みを感じていたのだ。  それから三ヵ月の間に、他のメッセンジャー個体による人類征服の提議は二度あったが、いかなる理由でか、二度とも賛成者は三分の一にすら達しなかった。  オーヴィルたちは、それを悔やむことになる。到着から十一ヵ月後、ETの総攻撃が開始された後で。  その最初の兆候は、地球表面から放たれた複数のレーザーだった。  それは細く絞り込まれた強力なエネルギーの針で、複数の地球人によって肉眼で、そして宇宙空間のメッセンジャー哨戒網によっても発見されていたが、地球人の誰かによる無意味な照射だろうと判断されていた。レーザーの指向先はばらばらで、特に惑星も施設もなく、照射時刻も期間もそれぞれ違っていた。  それがすべて黄道面上[#「黄道面上」に傍点]を指していた、と防衛側が気づいたのは、攻撃が始まってからだった。  二一二〇年三月、太陽から約四億キロ離れた小惑星帯に、核融合推進炎と思われる一億度以上の輝点が、二十時間の間に一万四千個出現した。分布はすべての方角。同時に木星周辺に同様の輝点五百が出現し、猛烈な勢いで小惑星帯との間を往復し始めた。  メッセンジャーはただちに最高度の警報を発し、分析に取りかかった。結論は半日で出た。ETは時間はかかるが単純な手を取った、というのがそれだった。こちらの防空容量を超える多数の小惑星を同時に地球に送り、衝突させて滅ぼすつもりだ……古くからある極めて単純な考え方、飽和攻撃というやつだ。  幕僚知性体は、ここに至るまでのETの行動を、以下のように推測した。彼らはメッセンジャーより早くこの時代に到達したが、身を隠していたのだ。通常侵攻の手順を取った場合に、途中でメッセンジャーに介入されることを嫌ったものだろう。身を隠した。潜伏場所は木星衛星。そこから、木星の影に入ったときのみ推進燃焼を行って、仲間と核融合燃料を小惑星帯のすみずみまで送り込んだ。小惑星を弾頭化する作業のかたわら、ごく少数の偵察部隊を地球上に潜入させた。それらは爆撃目標の選定が終わるとバースト通信で小惑星帯へ知らせて自壊。事前に発見されたまばらなレーザーはこれだった。弾頭化の準備が終わると同時に一気に射出を開始。潜伏の必要がなくなったため木星拠点での行動を 公《おおやけ》 にし、さらなる弾頭製造を急速に進めている……。  敵は小惑星弾の公転軌道速度を殺し、自由落下によって地球へ向かわせている。迎撃が早ければ早いほど、小威力の弾頭で軌道を逸らせることができる。よって、メッセンジャー艦隊は手持ちのすべての核融合弾と反陽子弾を、小惑星帯と木星圏に向かって発射した。その数は一万四千の小惑星の数を大きく上回ったが、完全に食い止められる可能性は少なかった。何しろ、一つでも当たったら甚大な被害が出るのだから……。  知らせを受けた地球側が最初にとった行動は、なぜもっと早く気づかなかったのか、とメッセンジャーを非難することだった。敵が隕石をぶつけてくることなど子供でも思いつくではないか、と。  メッセンジャー側の答えは、それは確度の低いオプションだった、というものだった。二十六世紀の戦争でETが用いた多数の戦法の中に、それは含まれていなかった。最初に太陽を乗っ取られたあの時代、ETは一貫して巨大な太陽エネルギーに頼り続けていた。木星からヘリウムをくみ上げて核融合を行うような、迂遠《うえん》で卑小な手順は取らなかった。今回も敵は、本当なら太陽を使いたかったに違いない。それを避けたこの行動は、彼らにとってもエネルギー的にぎりぎりの、大博打であるはずだ……。  とはいえ、メッセンジャー側の手落ちであることは間違いなかった。未来の技術と力を持ち込み、高圧的な態度を取っていたメッセンジャーが、あっさりと敵に裏をかかれたということは、以後の協力体制に濃い影を落とした。  初弾にして全力だった艦隊の攻撃は、九九・五八六パーセント成功した。五十八個の小惑星が残り、ゆるやかな放物線を描いて地球へ向かっていた。追加の反物質は太陽系に存在しなかったが、まだ核融合弾は手に入った。しかしそれを持っているのは地球側で、ここにおいて両者の力関係は逆転した。  メッセンジャー側が驚くほどの要求を彼らは持ち出した。総指揮権の委譲、主要艦艇の譲渡、軍用・民用すべての技術の供与。さらには、先祖としての尊厳[#「先祖としての尊厳」に傍点]を唱えて、現在と事後における行動指示権まで求めた。我々は君たちの始祖だ。我々あってこその君たちなのだから、その恩義を忘れるな。我々の教えに従え。  それまでの鬱憤晴らし、やけっぱちになった挙句の滅茶苦茶だとしか思えなかったし、現にそうだったろう。だがメッセンジャー側はすべて呑んだ。彼らに与えられていたのは、どんなことをしても人類を救え、という命令だった。たとえ野蛮な過去人に侮辱されようとも……それに第一、揉めている暇はなかった。  地球製の核融合弾と、国連軍将校を乗せた艦艇が進発し(彼らにそれなりの居住空間を提供するための改造に、数週間を費やした)、彼らの指揮で攻撃が行われた。地球人はよくやった。不足する情報収集能力を大幅にメッセンジャーたちに依存したとはいえ、的確な座標に弾頭を送り込み、的確に小惑星を跳ね飛ばした。自分たちの手による防衛。その事実に彼らは歓喜し、知らせを受けた地球の人々も狂喜した。  そして一転して地獄に突き落とされた。  地球人とメッセンジャーの間の悶着や齟齬《そご》のために生じていた、哨戒網の隙間から、完全にステルス化したET繁殖体が地球に送り込まれていた。ETには人類社会の機微まで洞察する能力はないはずだったから、おそらく局所的な通信量や艦艇の動きから、その隙間を察知したのだろう。ともかく、気づいた時には五大陸すべてで十以上のコロニーが成熟を遂げており、主要な都市や軍事基地に襲いかかってきた。  地球人は不意をつかれ、大混乱に陥った。メッセンジャーも無力だった。地上戦を補助するための試みは地球人の妨害でろくに進展していなかったし、協力体制を作り上げていたわずかな国家にも、国境を越えて他国の混乱を鎮めに行く権利や手段がなかった。  コロニーを築いたETは、現地の資源を元に増殖していく。日光、石炭、石油、天然ガスなどをエネルギー源とし、鉄やシリコンなどの一般的で加工しやすい物質を構造材に使う。その戦力は、宇宙で十分に複雑な成長を遂げた同族に比べると数段劣ったが、地形に隠れて繁殖するために、総体としては比べ物にならないほど厄介だった。地球人の軍隊は敗走に敗走を重ねた。  二ヵ月もたたないうちに、地球は軌道上から見てもわかるほど荒れ果てた。森と街は焼け、猛烈な煙を噴き上げていた。そこかしこに核攻撃による巨大なクレーターが開いていた。もちろんそれは地球人自身が使ったものだった。夜になると、かつてこの星を彩っていたきらびやかな街明かりの代わりに、巨大火災の不気味なオレンジ色と、鋭い銃火ばかりが、暗い地表に瞬いているのが見えた。 「火星への攻撃が始まりました」  カッティ・サークのその声を、オーヴィルは東シナ海に浮かぶ海上都市・蓬莱《ペンライ》の一室で聞いた。 「十メートル級の小惑星を使った爆撃です。とりたてて高級な兵器は使っていません。造る余裕がないのでしょう。ETたちも力を使い果たしつつあるようです」 「木星拠点は壊滅させたからな」  オーヴィルは答えたが、嬉しさのかけらもない口調だった。たとえこの先、敵を刺し違えにできたとしても、それは勝利ではない。ETはただの兵器で侵略者そのものではない。対してこちらは人類という生身をさらして勝負に臨んでいる。それが取り返しのつかない打撃を受けてしまった。  またカッティ・サークが言った。 「北海退避拠点シャーウッドを防衛していた、我々の部隊が消滅しました。火星爆撃による因果効果のようです」 「因果効果?」  物憂げに尋ねたのは、オーヴィルの向かいに座っている、常《チャン》という名の人間の武官だ。上海政府の命でオーヴィルと協力し、この海上都市への民間人の退避に携わってきた。  オーヴィルが答える。 「我々は未来から来た。消えた部隊の連中も、未来の誰かに創り出された。その誰かはこの時代の誰かの子孫だ。多分、そいつが火星基地に住んでいたんだろう」 「待てよ、じゃあその部隊はそもそも誕生しないことになる。なのに、どうして僕たちは彼らのことを知っているんだ? ……そうか、これがタイムパラドックスというやつか」 「その事実が、ここの時間枝に書き込まれたからだ、と我々の専門家は言っている。元の時間枝から切り離されて新しい時間枝に織り込まれたところで、時間遡行者は半分その時代の、半分元の時間枝の属性を持つハイブリッドになる。元の時間枝で起きた事件の影響が大きければ、遡行者はその影響を受け、この時代で経験した事実のほうが大きければ、それほど影響は受けない。どれほどの影響を受けるかは遡行理論に基づく確率計算で決定される。……これ以上のことは聞かないでくれ、私も詳しく知らん」 「それ以上説明しないでくれ、僕もさっぱりわからん」  常とオーヴィルは苦笑を交わした。彼は数少ない、地球人の中での協力者だった。  カッティ・サークが割り込む。 「宇宙空間戦闘は我々の優勢ですが、因果効果による部隊消滅が徐々に影響を及ぼしています。我々が敵を掃討するのが先か、部隊数が勝敗分岐点を割って敵が勢力を盛り返すか、微妙なところです」 「そして宇宙で完勝しても、すでに地上に降りている奴らはどうしようもない、か」  カッティは答えない。聞くまでもないことだった。  オーヴィルは卓上の茶を一息に飲み、立ち上がった。 「さて、もうひと働きしてくる。そろそろ寧波《ニンポー》の波止場にも敵が迫っているだろう」 「ミスターO、いや、オーヴィル。一つ頼みを聞いてくれないか」  オーヴィルは振り向いた。コードネームではなく慣称で呼ばれたのは、一ヵ月前の自己紹介のとき以来だった。  茶碗を抱え込んだ常が、押し殺した声で言った。 「あなた方の宇宙船に、ひと一人を収容する余裕はないか?」  オーヴィルは目を細め、冷たく言おうとした。 「君がそんな男だとは——」 「僕じゃない。妻だ。妊娠してる」  オーヴィルは息を呑んだ。常がいきなり立ち上がり、オーヴィルの腕を掴んだ。強化されている骨がきしみそうなほど強い力だった。 「あるだろう? 余裕。将校用に改造した艦があるはずだ。そこに……だめか?」 「……奥さんを守るのが君の務めだろう」 「無理だ。不可能だ、もうみんなわかってる。奴らを止めることはできない。この蓬莱だって、敵の飛行体が本格的な攻撃を始めたらもたない。僕たちは滅びる……でもそれを防ぐのがあなたの任務なんだろう? なんとしても人類を生かすことが。妊婦を……僕の妻でなくてもだ、新しい命を宿した女たちを救うのは、任務に沿うことだ。違うか?」 「乗せて、どうする」  オーヴィルは彼よりさらに低い声で言った。 「どこへ下ろす? 安全な場所があるのか。ETは火星まで攻撃している。行き場所がない。我々はノアの箱舟にはなれない」 「過去[#「過去」に傍点]へ……」  オーヴィルは反射的に彼の腕を振り払った。それ以上聞きたくなかった。聞けば自分たちの冷酷さを暴かれてしまう。  だが、部屋から飛び出た彼に、怨霊の声のような悲痛な叫びが届いた。 「連れていってくれ! 敵のいない過去へ連れていってくれ! できるんだろう? いや、そうする気だろう!」  着の身着のままで逃れてきた人々が、疲れ果てて座り込んでいる難民船のような都市の中を、足早に駆け抜けながら、オーヴィルは叫びだしたい気持ちを抑えていた。そうとも、俺たちはさらに過去へ行く。この失敗を挽回するために。一からやり直すために。  つまり、尻尾を巻いて逃げるわけだ。この地の人類を見捨てて。  ラッタルを上り、都市を囲む壁の上に出た。山のような避難民を乗せた船が到着し、代わりに対空機銃で針山のような姿になった船が出て行く。遠く、西の水平線上に、城壁のように連なる黒雲の峰が見えた。中国大陸沿海州の街という街が焼かれているのだ。低品位の材質からなる|地上型の敵《PET》は海水に浸かることができない——が、常が言ったように飛行型《FET》を量産して押し寄せてくるのは、時間の問題だろう。  気がつけば、ぎりぎりと歯をかみ鳴らしていた。  なぜETはここまでする?  奴らは一体、何者だ? 「遡行分隊の選別が終わりました。オーヴィル、あなたもその一員です。集合地点へ向かってください。私もサブユニットにこの時代を任せて同行します」  それは、カッティ・サークまでもがこの地球を見捨てたという宣言だ。もはやこの時間枝の先に未来はないと見抜いたのだ。  オーヴィルは、知らず、つぶやいていた。 「常の妻を……連れていけないか」 「人間を過去へ移すのは、人類に対して無益です。賛成できません」 「しかし害にもなるまい」 「彼女はサヤカではありませんよ」 「カッティ、この……!」  激昂の叫びは喉に詰まった。その場に膝を折り、オーヴィルはすすり泣いた。 [#改ページ]       Stage-448[#「Stage-448」は縦中横]Japan A.D.248[#「Japan A.D.248」は縦中横] 「おおりゃ!」  十五、六人もの兵が声を合わせ、先端に岩をくくりつけた丸太を抱えて突進した。大猴《おおましら》と名付けられた大柄な物の怪の腹を打つ。もんどりうって倒れた大猴に、兵たちが剣を抜いて飛びかかった。目を打ち潰し、脚の筋を切る。見慣れない青白い金《かね》でできた大猴は、断末魔のもがきを見せる。  立ち上がれなくなったことを確かめると、男たちは次の敵に向かう。倒れた敵には、まだ丸太を抱えられぬ子供の兵が慎重に近づいて、見えている筋を一本一本、すべて切った。 「卯《うさぎ》が出たぞ!」  小女《こおんな》のような姿をした、一本足の物の怪が、勢いよく森の中から飛び出して跳ね回る。卯の振り回す絹布のように薄い刃に切り裂かれて、兵たちが血しぶきと悲鳴を上げる。  木の盾を持った兵が集まって押し包む。卯はせわしなく跳ねて様子をうかがったかと思うと、ひときわ高く飛んで輪の外に逃れようとした。その脚を一人の豪胆な兵が掴む。倒れたところへ兵が群がって、これもめった打ちにして殺した。  尾根の下から悲鳴を上げて一隊が逃げ登ってくる。その後ろの木の間隠れに猿猴《ましら》の群れが見える。鷹早矢が梢の震えるような大声で呼ばわる。 「早う柵に入っせ! 反《そり》を落とっそ!」  逃げてきた隊がまろぶように柵の内に入り込むと、入れ替わりに備えの兵たちが反の綱を切る。それは数本の丸太を川の字に縛って底を削ったもので、斜面を雪崩《なだ》れ落ちて猿猴どもを撃砕した。  四方の尾根の上に設けられたいくつもの物見台が、先刻からひっきりなしに、敵襲を知らせる竹法螺の音を響かせていたが、撃退に成功したらしく、ひとつ、ふたつ、と静寂を取り戻していった。砦の高殿でそれを聞いていた彌与のもとに、汗みずくの鷹早矢が入ってきて、国の訛《なま》りを出した口調で報告した。 「三の谷の敵勢、ほぼ片付きもっした」  彼のような高官に対しては、彌与はいちいち幹に取り次がせることをやめた。時が惜しいし、そうせずとも威厳が保てるようになったからだ。 「うむ、苦労。北の鼻と玉岩がやや手薄なようだ。勢を増やせ」 「玉岩には昼前に四十送りもっしたが」 「それがやられた。あと百だ」 「は、畏《かしこ》まってこあんす」  戦が始まって以来、彌与の宣《のり》は一度たりとも外れたことがない。鷹早矢は信服しきった体《てい》で出ていった。実際にはそれは占いの結果ではなく、千里眼のカッティの助言のおかげである。さらには、いま前線で休みなく戦っている使いの王のおかげでもある。  最初に伊賀の里に物の怪が入り込んできたとき、彼がやったのは、単身出かけていって一体の小柄な物の怪を生け捕りにしてくることだった。王はそれを太縄で木に縛り、兵の長どもに見せた。噂でしか知らなかった物の怪を初めて見た兵たちは、最初怯えて近づかなかったが、王は大胆に素手で近づき、叩いたり撫でたりして見せた。物の怪といえども朽ちるべき体と弱みがあり、うまく押さえれば動きを封じて倒すことができる。それを懇切に説いて聞かせたのち、兵に剣を与え、綱を切った。  暴れだす物の怪に、王は棒一本で立ち向かった。兵たちは勇を鼓して打ちかかり、これを殺すことに成功した。本当はだいぶ弱らせてあったのだが、兵たちは大いに力づき、使いの王の威徳に従うことを誓った。  王は兵たちに、丸太を用いて猿猴を打ち倒す術、盾を用いて身を守る術を授け、車や 弩《いしゆみ》 などといった仕掛けを示してみせた。それまでの邪馬台軍の武器といえば、銅剣の他には矛と木弓ぐらいのものだったから、王の造らせた弩が、百歩を隔てて巨樹を打ち抜くのを見ると、随軍していた漢土の匠《たくみ》も舌を巻いた。一方では土工《つちたくみ》を大いに進め、道を均《なら》し橋を掛け、伊賀の西の山谷に砦と長大な柵を築かせた。  また王は邪馬台に使いを送り、諸国から来ている商賈《しょうこ》や国子《こくし》を連れ来たらせ、戦いの有様を見物させた。異形・非道の物の怪が伊賀の地を荒らしまわり、それを邪馬台軍が迎え撃つさまを。いま、それらの者たちは自国へ帰されている。彼らの吹聴する、おそらくはかなり誇張された話が、諸王と長の危機感をかき立てているはずだった。卑弥呼が単純に使いを送って口上を述べさせるよりも、よほど……。  物の怪と戦うようになってからふた月。それやこれやの手を打ちつつ、本格的な増援を待ちながら、邪馬台軍は堅実に持ちこたえていた。  伊賀を見下ろす高台に設けられた彌与の高殿の周りは、陣中の喧騒でごった返していた。丸太に縄をかけて引く柵作りの隊の掛け声や、飯を配って回る女たちの黄色い声、若い兵の修練を督している兵の長の厳しい声、疲れ果てて寝こけている兵が怒鳴る、うるさいという寝ぼけた声……背後の山からは樵人《そまびと》の斧の音がひっきりなしに聞こえてくる。  彌与自身のもとにも、入れ替わり立ちかわり使者や兵の長が訪れ、ろくに休むひまもないほどだった。もとより巫王《ふおう》として沈黙のままに人を服せしめることに慣れているが、問いを奏する相手に、適切な宣を下し続けるようなことはまるで経験がない。耳元の勾玉が大半の答えを教えてくれるとはいえ、気疲れ、話し疲れしていた。  訪れる者がふと絶えた短い時間に、彌与は 婢《はしため》 たちを下がらせ、ぐったりと足を崩してつぶやいた。 「疲れた。どうもふわふわする」 「体調がすぐれないようなら、診ましょうか」  勾玉を通してカッティが答える。ぬしは薬師の真似事もするのか、とやり返してから、彌与は首を振った。 「体よりも気の持ちが、な。ふた月前には、このようなことになるとは思いもしなかった。なんだか悪い夢のようだ」 「気を確かに。これは夢ではなく、あなたの国のあなた自身のことです。投げ出してはいけません。とはいえ、実際よくやっていると思いますよ。私の経験では、もっともっと使えない軍師が史上に大勢いました」 「使えないとはずいぶんな言いようだ」 「へそを曲げないでくださいね。Oはあなたのことを高く買っています」  彌与はそれを聞いてちょっと口をつぐんでしまい、そんな自分に顔をしかめた。  それにしても……自分の国、自分のこと、か。そもそもそんなものから逃げ出すために使いの王と手を組んだはずが、気がつけばこんな気苦労の多い仕事を押し付けられている。失敗だった。  早くこんな騒ぎが終わってくれればいいのだが。  取り止めのないことを考えていると、陣門のほうで、わっと歓声が上がった。じきに使いの王の長身が戸口を潜ってきて、彌与の前にどっかと腰を下ろした。 「手勢を四十人も失った! 急くなと言ったが、若い連中の深追いを止められなかった。もっと手練の兵を連れて行くべきだった」 「一人で玉岩を支えていたのか? 増援は間に合わなかったか」 「いや、助かった。あれで一息つけたから戻ってきたんだ。水を頼む」  婢が水瓶を持ってくると、柄杓《ひしゃく》を断ってじかに瓶を抱えこみ、馬のような勢いでごくごくと飲んだ。そのまま腰も下ろさずに言う。 「物見台に登るぞ」 「もう行くのか」 「いや、貴女も来てくれ。大局を知ってほしい」  尾根に立つ物見台に登ると、王は腕を伸ばして伊賀の里の真ん中あたりを指した。 「あれが見えるか。川沿いの」 「どれだ……あの光っているものか」 「そうだ」 「魚鱗のようだ」  里の真ん中を流れる川の岸に、青っぽい小さな板が無数に並べられていた。小さいといっても、距離を考えると一枚が大人の背丈ほどあるだろう。穏やかな初夏の田園の中で、それが何町もの水田を覆っている光景は、何か人肌にできた疥癬《しつ》でも見せられているようで、背中がむずむずした。 「あれはETの建てた太陽発電パネルだ」 「なんだと?」 「物の怪の水田だと思ってくれ。奴らはあそこで腹の足しをする。東海方面では知らんが、ここでは他に腹を満たす方法がないようだ。あれを破壊すれば、少なくとも伊賀にいる個体は日干しにできる」 「では壊してくれ」 「一人では無理だ。見たところ二千枚以上あるようだし、大変なペースで増えているからな。兵五百はほしいが、国境の備えもあるし、今はまだそんなに割けないだろう。ここの備えが十分になったらあれを壊す。それが当面の目標だ」 「壊したら、その先の柘植の関を固めるか」 「いや、そこで止まったらだめだ。関を越え、攻めに攻めを重ねて、物の怪の巣を破壊するまで休んではいけない。人の国との戦いのように、きりのいいところで手打ちにすることはできない。奴らは息ある限り永遠に増え、攻め寄せてくる」 「大儀なことだ……」  彌与はため息をついたが、王は険しい顔を崩さなかった。来てくれ、と物見台を降りる。  向かった先は陣地の端だった。通りがかりの兵や庶人《もろびと》が平伏する中、二人がそこに向かうと、割れたり溶けたりした青白い金物《かなもの》の絡み合う小山があった。猿猴どもの死骸だった。  顔をしかめる彌与の前で、王が死骸のかけらを手にとった。 「こいつらは今のところ亜鉛を使っている。この金物の名だ」  王は手近の兵の長を呼び、声をかけた。かけらを渡して、砕いてみろと言う。兵の長がかけらを岩に置いて石を叩きつけると、それは脆くも割れた。 「見てのとおり、亜鉛は本来こういう用途には向かない。火にも弱い。連中も、他の金属が手に入らないためにやむを得ず使っているんだろう」 「亜鉛鉱は両白《りょうはく》山地に大鉱脈が存在します」 「ということは、敵はそのあたりに拠点を持っているということだ。私たちは地球上の鉱脈の位置を歴史的事実として知っているが、連中は自力で探鉱するしかない。その点は有利だ」 「では、敵は意外に弱い、と?」  彌与が言うと、王は小さく首を横に振った。 「今はまだ、な。——物の怪は、鉱脈さえ見つかれば、大規模な鉱山設備など作らなくとも、組織内選別によって必要な金属を摂取できる。連中が鉱脈にたどり着くかどうかが重要なんだ。現在、我々は出雲のある西日本を押さえているから若干有利だ。しかし東日本——東夷《えみし》の地にも、巨大な鉱脈が存在する……」 「釜石[#「釜石」に傍点]に到達した時、ET個体の戦闘力は飛躍的に上がるでしょう」  彌与はしかし、その不気味な予言を、どこか遠くのことのように聞いていた。その地名も、材質による戦力の違いなどということも、理解の外にあり、もどかしいと思いつつも実感が得られなかった。 「釜石でなくとも、その手前に秩父や小坂などの小規模な鉄鉱脈がある。他の鉱脈にしても鉄がまったく出ないわけではない。……ともかく、長引かせれば長引かせただけ不利になる。戦力を惜しんではならないんだ」 「そうか」  高殿へ戻りながら、彌与は彼の話を理解しようと努めた。物の怪は滅ぼさなければならない……物の怪は息ある限り襲ってくる……。滅ぼせるということは、鬼や魔ではないということだ。彌与たち倭国の民が古くから戦ってきた、水神や風神とは違うのだ。移り変わって元に戻る日月《じつげつ》や四季、死しても卵を残して生まれ変わる獣や虫などとは異なる者なのだ。者。意思ある者。訪れた者。にわかに、今までの漠然とした敵の描像では物足りなくなってきた。 「王よ。物の怪とは、何者だ?」  彌与は足を止めて訊いた。王が振り返る。その目に自分の娘を見るような色が浮いている。 「とてもいい疑問だ。……だが、物を知れば幸いを失うぞ」 「それなら御主に幸いはないのか」  王は目を逸らしてつぶやいた。 「さて、な」 「使いの王……」  すべてを知っているであろうこの男のことを、何も知らないというのが、彌与は急に腹立たしくなってきた。考えれば彼と自分は、もはや一蓮托生とも言える立場だ。もっと多くのことをまとめて話してくれてもいいではないか。  しかし彌与の思いは、甲高い叫び声に断ち切られた。 「彌与さま、彌与さまはいずこに!」 「こちらだ、幹!」  彌与が片手を上げると、少年が息を切らせて走ってきた。そばに立っていた王に、やや無礼なほど簡単に目礼してから、彌与の前に平伏する。 「邪馬台の宮から急使が参りました。石上《いそのかみ》の地に物の怪の一団が現れ、人畜を襲っているとのことです!」  石上は宮から北へわずかに二十数里。至近とも言える地だ。 「なに……?」  声を漏らした彌与は、使いの王を振り向いた。その瞬間、彼がふと顔をしかめたのが見えた。 「王よ、カッティよ。察知できなかったのか?」 「らしいな」  王は驚きの素振りを見せない。その程度のことは予想済みだとでもいうのだろうか。  ともかく、彌与は幹に向き直って命じた。 「急ぎ鷹早矢を呼べ。あれはもう知っているのか」 「まだです。いま、兵どもが探しております」 「いや、呼びつけるには及ばない。事を伝え、妾が宮に帰ると言え。同行せよと」 「ほう、貴女が物の怪を倒すのか?」 「御主がここを離れるわけにはいくまい!」  彌与はとっさにそう言ったが、実のところ戦の采配を考えたわけではなかった。なぜそう思うのかわからないまま、とにかく戻らねば、という強い焦りに駆られて言ったのだ。だが、使いの王は、もっともなことだ、とうなずいただけだった。  幹が鷹早矢を探しに行くと、婢たちを呼びつけながら、彌与は浮き足立つ思いにとらわれていた。邪馬台が、生まれ育った地がこの伊賀のように焼かれる? それはなんとしても止めなければならなかった。  馬に乗れないのをこれほど恨めしく思ったことはない。輿を担ぐ生口《どれい》を急ぎに急がせ、夜の間も松明《たいまつ》を点して進み、彌与は鷹早矢が選りすぐった百の兵とともに纏向《まきむく》へ向かった。それでも、一日半かかった。  最後の峠を越えて、白々明けの磯城《しき》の野に降りてくると、懐かしい景色が目に入った。正面の田畑の中にこんもりと茂る、杯を伏せたような小山は、耳成山《みみなしやま》だ。その左手に、吉野の山々に連なる天香具山《あまのかぐやま》も見えている。思えば彌与は、この地を離れたことさえ初めてだった。  だが、感慨にふける間もなく、北の空に幾筋もの煙が見えた。あれが敵のいる場所だろうか? いや、炊飯《かしき》の煙の上がる時刻だ。他にいくつも小さな煙が見える。どうなっているのかわからない。 「物見を走らせもっす」  輿の外で、鷹早矢の声がした。許す、と言おうとしたとき、勾玉が小声で言った。 「到着しましたね? 敵群は西方二十五里にいます。四十体余、すべて歩行型」 「見えているのか」 「蜂が追いつきました」  蜂と称するカッティの眷属《うから》を、彌与はまだ見たことがない。だが、それを詮索している場合ではなかった。厳《おごそ》かな声を作り、網代越しに言った。 「物見はよい、敵は耳成山だ」 「は……」 「輿を宮へ。伊支馬《いきま》に会う」  なぜ、とも聞き返さず、兵の長が手下に命じた。それを聞きながら彌与は考える。この者たちは頼ってもいい、自分や使いの王の戦いぶりを知っている。だが、百の兵で四十の物の怪を討つのはまず無理だ。もっと兵を出させなければならない。  敵を見たことのない宮の兵が使い物になるだろうか。  最後の力を振り絞った生口たちが、なかば駆け足で進み、環濠に囲まれた宮に輿を運び入れた。幸い、この地にはまだ敵は来ていないようだったが、城柵をくぐった途端、このままではどうしようもないことが一目でわかった。男も女も浮き足立って右往左往し、衣服や米の瓶を運び出しているのである。  彌与は思わず、網代をかき上げて顔を出し、一喝した。 「これは何事か!」  前庭の人の動きがぴたりと止まった。邪馬台において、人に命じる女は一人しかいない。女王の帰還を知り、すべての男女があわてふためいて平伏した。  平伏したいのだがそうもいかないとばかりに、中途半端に頭を下げて、宮室から痩せた男がやってきた。輿の前に伏して、目だけで幹を見つけ、彼に言う。 「御上《おんかみ》におかれましては御無事の御戻りになり、彌馬升《みまそ》の慶び、言葉にもなりませぬが、この危急に我ら如何にして逃げ得べきや、おん占い、良き卦のおん立たしませんことを……」 「占事などやっている暇があるか、面を上げよ!」  彌馬升は文字通り跳ねおきて、兎のようにせわしなく目を瞬かせた。彌与が伊賀の地で様式を一変させたことを彼は知らないから、驚くのも無理はない。が、いちいち構っていられず、彌与は矢継ぎ早に尋ねた。 「これはなんだ、逃げ支度をしているのか」 「は、その、直言まことに畏れ多く」 「手合わせもせぬうちから逃げてどうする、戦の備えはしないのか」 「戦備えは、伊支馬の上が取り仕切り、取り集め」 「伊支馬はどこか!」 「つ、兵を率いて、今朝早くお出ましに」 「場所は! 兵の数は! 得物は何を?」 「臣、彌馬升は早暁《そうぎょう》より宮の取り片付けに掛かりきりでございましたゆえ……」 「取り片付けではない、宮の周りを固めるが先だろう! ええ、この……」  罵倒したかったが、穢れ言葉のたぐいは口にしたこともなく、出てこなかった。仕方なく、語調を抑えて彌与は命じた。 「宮にいるだけの兵をすべて集めよ。女は餅を練り、子は柴を取ってこい。逃げ支度など取りやめよ。物の怪を討つのだ!」 「御上が?」  もはや彌馬升は頼むに足りないと見て、彌与はじかに声をかけ、兵の司に手下を集めさせた。しかし集まった者どもの様子を見て、顔を曇らせた。かろうじて剣と甲を身に着けてはいるが、年寄りや子供ばかりで、見るからに威勢がない。しかし、伊賀の地に主要な兵を送り、さらに伊支馬が手勢を集めて出て行ってしまったあとだから、仕方ないと言えば仕方ない。  鷹早矢を連れてきたのは正解だった、と彌与はごく自然に思った。彼を呼んで、声をかける。 「隼人の鷹早矢、この勢で四十の猿猴を討てるか」 「危《あん》ねごあんすな」  合わせて三百ばかりの兵を見回して、武骨な球磨襲《くまそ》の男は顎を撫でる。 「打槌《うつつち》はありもっしても、残りが剣と矛だけじゃっせん。野戦《のいくさ》は、やりとうありもっはん」 「伊支馬の援けに向かうのだぞ」 「は、そげんごあんした。気張りもっす」  鷹早矢が球磨襲国から送られたことには、同盟を保障する人質としての意味もあった。伊支馬は彼に稲粟《とうぞく》と生口を与え、手厚く用いていた。その恩を思い出したらしく、鷹早矢はにわかに張り切った様子になり、昨夜ほとんど眠っていないことを感じさせない、きびきびした口調で出陣の命令を下し始めた。  喧騒のさなか、西の物見台から竹法螺の音が上がった。 「耳成山に火が出たぞお!」  彌与は首を伸ばしてそちらを見た。炊飯のものとは明らかに違う、太い灰色の煙が立ち昇りつつある。とっさに、勾玉に尋ねた。 「敵は耳成山か?」 「付近の住民が逃げ込んだようですね」  やや食い違った返事の意味を、彌与はすぐに了解した。わかると同時に悪寒が走った。 「では、山ごと焼いているのか!」  答えはない。彌与は振りむいて叫んだ。 「鷹早矢、支度ができしだい向かうぞ!」  鷹早矢が大きく手を振って答えた。  宮を出しなに朝餉《あさげ》の粟餅と干肉を受け取り、歩きながら食べるというあわただしさで、一行は再び進発した。耳成山は纏向からわずか六里、指呼の間にある。宮の環濠を越えてすぐに、西行する川の先に見えた。輿に馬を並べた鷹早矢が手をかざす。 「こらあ、いけん。山の周りにどっさい群がっとう。あいどん一度に来たら、やられてしまいもっす」 「罠を張れないか」 「こげん見通しのよかどこじゃ、罠ともっしても……」  言いかけて何か思いついたらしく、馬首を返して後尾の荷運びたちのほうへ去った。やがて戻ってきて言う。 「一つ考えがごあんすが、大《て》げに怪《え》じか策じゃけ、うんまくいくかわかりもっはん。強か衆ば媒鳥《おとり》に送りもっして、物の怪ら驚《たまが》しもっす」 「媒鳥を出すのか」 「女王の御上ば、此処《こ》け待ちもっせ」  それを聞くと彌与は少し考えて言った。 「隼人の兵は罠に残したほうがよかろう。行って騒ぐだけなら他の者にもできる」 「じゃんさい」 「妾が行こう。輿は目立つ」  それを聞くと鷹早矢はぎょろ目を剥いたが、止めはしなかった。 「良かごっなりも、お祈りしもっす」  細かいことを話し合うと、彌与は輿を先頭に出した。川と水田に挟まれた土手道を、ほんの十ばかりの供回りを連れてさらに進む。熱気がこもって耐えがたかったので、四方の網代をすべて開け放った。同行する幹が、こわばった顔でちらりと見上げた。  一面の水田の中に置き忘れられたような耳成山が迫り、ふもとをうろつく不気味な猿猴たちの姿が見えてきた。風向きが変わったか、焦げ臭い匂いが鼻を突く。それとともに、細い悲鳴が耳に入って、彌与はハッとなった。それは山のあちこちに揺らめく炎の中から聞こえてくる。  あそこに何人の人間が追い上げられているのだろう。田植えが済み、青々と稲の茂る周りの田には、人っ子一人いない。この季節はいつも、草むしりや追肥入れの百姓《はくせい》たちが大勢入り、畦《あぜ》には尻を出した幼子たちが走り回っているはずなのに。——そう思って目をやった先に、土嚢か何かのようにぼたり、ぼたりと赤い塊が落ちていることに気づいた。人の死骸だ。 「物の怪め」  ぎり、と歯を噛みしめた時、幹が押し殺した声で言った。 「彌与さま、見ています」  一番近い物の怪が動きを止め、こちらを向いていた。もう二百歩もない。だが彌与は鋭く言いつけた。 「まだだ。できるだけたくさん呼ぶ。生口ども、怯えるな!」  ともすれば恐怖のあまり目をつぶり、足を鈍らせがちな担ぎ手たちを叱咤すると、彌与は床に膝を突き、輿の天井を背中でうんと持ち上げた。四隅の柱を外し、投げ捨てる。  陽の下にすっくと立ち上がると、耳成山の稜線に張り出す岩棚が目に入った。そこに豆粒のような人影が見える。手をかざして遠望した彌与は、金物のきらめきと大きく振り上げられた手を見たような気がした。兵だ。  ——高日子根《たかひこね》か!  伊支馬は民を救いに出たものの、果たせずに追い上げられたのだろう。彼の周りに大勢の男女が群がっている。火の手と煙がすぐそばまで迫り、泣き叫んでいるようだ。 「彌与さま!」  見れば、ふもとまで百歩を切っていた。うろついていた物の怪たちが——おそらく、自分たちも火に弱いので山に登れないのだろう——いまや、一頭残らずこちらを見ていた。その数は二十あまりもいるだろうか。  彌与は竹法螺を取り上げ、吸えるだけの息を吸って、吹いた。  大きな獣の遠吠えを思わせる音が、野面を渡る。 「来た!」  猿猴どもが長い腕を地に突き、四つ足で駆け出した。幹が剣を抜く。  と、その時、いきなり輿がぐらりと傾いた。 「ひい!」  ひとりの生口が一目散に逃げていった。それを皮切りに他の担ぎ手も輿を放り出した。彌与は水田に投げ出される。かっと怒りが湧いた。  ——腑抜けどもめ!  付き添いの兵と幹に助け起こされた時には、もう猿猴どもは目の前に迫っていた。彌与たちは一団となって走り出す。畦に頼らず、ざぶっ、ざぶっ、と田の中を走ってきた先頭の猿猴が、ぶんと大鎌を振った。  彌与を追い越して兵の首が飛んだ。それを蹴飛ばして彌与は走る。「早う!」と叫んで背後を見た彌与は、目を疑う。 「御上、ご無事を!」  残りの兵が人垣を組んで立ちはだかっていた。彌与は思わず立ち止まる。その背にぶつかるようにして幹が押す。 「お急ぎを!」  彌与は駆けた。死に臨んだ兵の、腹の底からの雄叫びが背中を打った。あれは誰だと自問して、名も知らなかったことに気づく。生口も兵も、今まで物か獣のように思っていた。とんでもない。命惜しさに逃げる者もあれば、体を張って自分を守る者もいる。どちらも人だ。卑弥呼の名が、それだけの人を縛り付けていたのだ。  自分は、ただの彌与のはずなのに。  殺戮の音は短かった。そのわずかな間に彌与たちは五十歩駆けた。再び足音が迫る。何十もの重い水音がする。 「彌与さま——」 「許さん!」  振り返って立ち向かおうとした幹の腕を、彌与は凄い力で引いた。これ以上自分のせいで人を失いたくなかった。もつれ合うようにしてさらに走る。喉がつまり、心の臓が喚《わめ》く。目がくらみ、視界がぼやけた。  そこに、弓を振り回す男の姿が映った。 「御上、お早う!」  最後の一枚の田に飛び込んだとき、背中に颶風《ぐふう》を感じた。思わず振り向いた目に、物の怪の顔が大写しになった。  次の瞬間、鷹早矢の強弓がびんと唸り、猿猴の首に鉄《まがね》の太矢が突き立った。物の怪はもんどり打って泥の中に突っ込む。  ぬらつく水田を渡って畦に上がった途端に、鷹早矢が命じた。 「燃せ!」  燧《ひうち》の堅い響きに、ごうっという咆哮が続いた。なおも這いずり進んでから、尻を着いて彌与は振り返った。  水田は炎の海と化していた。油をたっぷり撒いてあったのだ。飛び込んだ猿猴たちが狂ったように暴れている。だが、隣の田に逃げ出そうとはしない。彌与は王に聞いたことを思い出す。物の怪は熱を見るのだ。熱に敏《さと》いがゆえに、熱波に包まれると動きが取れなくなるらしかった。  しかし、敵の半数近くは田に入る前に踏みとどまった。炎を避け、回り込もうとしてくる。が、物の怪が分散したと見た鷹早矢が次の命令を下した。 「打っ掛けっ!」  死角になっていた土手の下の川縁から、喚声を上げて隼人が飛び出した。炎との間に敵を挟みこむ形になった。猿猴たちが素早く向きを変えて武器を振るい、五、六名をたちどころに斬り殺した。  だが、隼人たちは少しもひるまず敵に群がって、叩き斬り、火中に突き倒した。それを見た邪馬台の宮の弱兵も、最初はおずおずと、次第に狂ったようになって、掃討に加わった。  勝負はついた。——火勢の衰えつつある田の中には、焼けた猿猴の死骸が折り重なり、畦にも死骸が並べられた。鷹早矢が検分してまわり、報告した。 「二十二頭、仕留めもっした」 「よくやった」 「じゃっどん、早う残りの物の怪ば打ったくりにゆかっば」  襲ってきたのは耳成山のこちら側の物の怪だけだった。まだ半数が残っている。それを思い起こし、彌与が立ち上がった時、誰かが声を上げた。 「あれを見い!」  山裾に旗が見えた。見慣れない細長い旗だ。邪馬台のものではない。それが、ふもとを巻いてこちらへやってくる。  旗を先頭に押し立てて行軍してくる、数百の、いや千を越える軍勢を、彌与たちは呆然として眺めた。  やがて、騎馬の先触れが訪れ、彌与の前に立った。 「邪馬台の方々か。物の怪を討ち取られたか?」  彌与は威儀の必要を感じ、幹に目配せした。幹が進み出て述べる。 「これは邪馬台女王、卑弥呼の御上だ。ぬしらは何者か」 「女王の御上!」  兵は速やかに下馬し、平伏して言った。 「畏みて申し上ぐる、臣は奴国《ぬこく》の二の官、夷守《いぬもり》の上に事《つか》える者。|使  令《つかいのおきて》の盟に基づき、一の官・兇馬觚《しまこ》の上の命により、軍勢千二百を引き連れ、物の怪討伐に罷《まか》り越し申した」 「奴国の……」  彌与はつぶやく。以前、国子たちを利用して戦いの有様を知らせたことの、成果が現れたのだろうか。 「そこなる山の向こうで、二十ばかりの物の怪を討ち取り、また、邪馬台の伊支馬の上を御助け申した」 「おお、伊支馬の上は無事でごあんしたか」  喜色を浮かべる鷹早矢に、使者はうなずいた。  やがて、奴国軍に守られてやってきた高日子根が、彌与の前に膝を着いた。服がすすけ、肩が裂け、血路を開くために激闘したことが明らかだった。かすれた声で言う。 「女王の御上、御みずからのお出ましに、この伊支馬、感に堪えず……」 「よい。ぬしこそ、国と民を守っての戦、苦労だった」  彌与に直接声をかけられて、高日子根は顔を上げたが、すぐにまたうつむいた。少しだけ見えた顔に、淡い苦渋の色が浮いているような気がした。  近くの邑から歓声が聞こえてくる。幹がそちらを眺めて、彌与にささやいた。 「大分助かったようです。ほら、あんなに踊っている」  彌与は見た。百姓の女子供が命拾いした嬉しさに、抱き合い、跳ね回って、騒いでいた。  彌与が二ヵ月ぶりに入った、宮の高殿にまで、夜営する軍勢のにぎやかな声が届いていた。  奴国の軍勢と日を同じくして、投馬国《とまこく》の兵三千が夕刻に現れた。彼らの話では、これから他の国々も、軍勢や米粟を続々と送ってくるだろうとのことだった。  喧騒を遠くに聞きながら、彌与は高日子根と向かい合って座っていた。  伊支馬の顔は暗い。両の壁際に配した灯台の光が弱いせいだけではない。うつむき加減の男の目の下には黒い隈が刻まれている。  口ひげがぼそぼそと動き、低い声を漏らした。 「女王の御上……」 「卑弥呼でよい。——妾を邑からさらったときは、わらべ呼ばわりしたではないか。あれはいつだった?」  彌与の昔語りを露骨に無視して、高日子根は膝を進めた。 「では——卑弥呼さまにお尋ねする。本当に貴女さまは、このまま他国の軍勢まで率いてゆかれるおつもりか」 「行かいでか。でなければ、誰ともわからぬ使いの王に、言葉の違う諸国の兵が従わぬだろう」 「その役、この伊支馬が仰せつかりたい」  高日子根は格式ばった仕草で頭を下げる。 「卑弥呼さまはこの地にあって、庶人を撫し、祭事を司っていただきたい。戦は男《おのこ》が務めるもの。御上のお体に差し障りがあっては一大事でございます」 「心にもないことを言うな。軍勢の数を見て、足元の危うきを感じたのだろう。妾が大軍を率いれば、武名が上がるだけでなく、その気になれば|国  閣《くにのたかどの》に矛を向けることもできる……」  軽く笑って、彌与は皮肉げに言った。 「そんなことを望んでいると思うか? 今ですら、巫王の立場を持て余しているというに。妾の心はぬしも知っているだろう」 「……それは確かに」  ほんのつかの間、伊支馬の顔に、人間味のある苦笑めいた表情が浮かんだ。 「貴女さまは、本当に卑弥呼の名を疎んじておられましたからな……」  そのことだけはお互いわかっている——彌与はそう思った。この男の性格はよくよく思い知らされているが、会ったばかりの時から、その片鱗は垣間見えた。  あれはまだ十歳になるかならぬかという頃……仲間の子供たちとともに川で泥鰌《どじょう》を捕まえていた彌与の目の前に、しぶきを蹴立てて馬を乗り寄せたのが、そのころまだ髭を生やしていなかった高日子根だった。周りの子供たちに声をかけて彌与を確かめると、鋭い目を向けた。彼の第一声はひどいものだった。 「童女《わらべ》、うぬは生娘《きむすめ》か?」  唖然として口を開けていると、彼は周りの子供たちに目を向けてぞんざいに訊いた。 「うぬらの中に、この娘とまぐわった者はおらぬな」  彌与の周りには十一、十二で娶《めと》られる娘もいるにはいたが、邪馬台のどこであれ、誰とも構わず交わるような淫らな習いはなかった。彼の言ははなはだ無礼と言うべきであり、それ以上に威圧的だったので、皆が目を伏せて知らぬふりをしようとした。  だが、不幸なことに、それは質問への肯定と受け取られてしまった。彼はやにわにかいなを伸ばして彌与を抱え上げ、高らかに言い放ったものだった。 「国閣の 卜《うらない》 により、この娘は巫《みこ》の王となる。童ら、帰って父母に伝えろよ。彌与は邪馬台の王になるのだ!」  それで事は成った。むやみと揺れる鞍の上で大泣きしながら、器物のように手荒い扱いで宮へ連れ去られた。邑長である両親ともそれきり会えず、じきに亡くなったという話を聞いた。  幽囚のような日々が続いた。年老いた前の代の彌馬升《みまそ》にしきたりを教え込まれ、言いなりに占事を行う毎日。彌与を見つけた功で伊支馬の官位を得た高日子根は、卑弥呼の名を借りて 政《まつりごと》 をほしいままにした。衣食にだけは事欠かぬながら、彼の息の掛かった卑屈な婢たちにがっちりと周りを固められ、幾日も外を見られないこともしばしばだった。  彼に誤算があったとすれば、彌与に実際に何がしかの素質があったことだろう。  長じるにつれて彌与は力をもてあまし、悪戯を働くようになった。罰を恐れた婢たちが、高日子根に命じられたことしか咎めようとしないのに目をつけて、飯を拒んだり、屋根を破ったり、祭器を投げ捨てたりとやりたい放題をやった。もちろんそれらの悪戯は、一度やればすぐに禁じられて二度とできなくなったが、彌与は知恵を絞って新たな悪戯を考え出し、実行した。それが結果として、知恵と力を磨く修練になった。  だが、十五の声を聞く頃には、そういったこともやめた。——十分な知恵がつき、陰険な周りの人間に対して、無理を押し通す代わりに取引を認めさせるという方法を覚えたからでもある。替え玉を立てて外へ微《しの》び出たり、近侍《きんじ》として幹をつけさせたりといったことも、この頃に身につけた手管によるものだ。それに、国閣の官奴たちとの長い付き合いで、それさえやっておけば文句を言われない、という自分の仕事の性質もわかってきた。要は秘め奉られた巫王としての権威を壊しさえしなければいいのだ。  だが、彌与が巫王として振る舞うようになった最大の理由は、高日子根の本当の思惑が見えてきたからだった。月の巡りが始まり、乳や尻に肉がついて、髪と背丈が伸びてくると、用もないのに彼が奥宮に入ってくることが増えた。粘りつくような視線を感じた彌与は、あの出会いの日に彼が問いかけたことを思い出さずにはいられなかった。  高日子根は彌与を王に祀り上げておきながら、室《つま》にしようとしているのだ。  彼から身を守るために彌与が選んだのが、巫王としての権威を身につけることだった。自分が高ければ高いほど、彼は怖《お》じ気《け》て引き下がるはず。  今までは、それでなんとか凌げていた。  高日子根はそれを承知している。欲を果たせば、位も失ってしまうことを。今この場で、国と戦の行く末を話しつつも、このことが常に、底の知れない沼のように二人の間にたゆたっていることを、彌与は意識していた。 「卑弥呼さま……」  ゆらめく明かりの下で、高日子根がさらに膝を進める。手が届くまで、もう二歩ほどだ。彌与は全身を硬く引き締めて、後ろへいざりたくなる心を抑え、毅然と言いつける。 「寄るな。ぬしは妾の弟だろう?」 「それは建前のこと……」 「それにぬしはもう三人も室を持っておる。——あれらを残したまま戦に出たら、さぞかし悲しむだろうな」  巧みに話を元に戻して、彌与は屹《きっ》と高日子根を睨みつける。決して小さくはない体を卑屈に丸めてひれ伏す、五十に近い男を。——しかし彼は馬鹿ではない。馬鹿でないどころか、誰よりも計算高い男だ。それを十分に意識しつつ、彌与は重ねて言いつけた。 「のう、高日子根。戦のことは、ぬしに親しい鷹早矢がしっかり取り仕切る。あれは傍で見ていても、本当に忠実な男だ。任せてやってくれ。それに引き換え、国閣の政はぬしでなければ務まらん。この時期に、男手なしで田畑を守るのは、たやすいことではない。ぬしなればそれをやれると思っているが。……どうか?」  じっとこちらを見上げる彼の瞳が、何度も瞬いて、脳裏に渦巻く複雑な考えを映し出したように見えた。  じきに高日子根は深々と一礼して言った。 「御尤《ごもっと》もですな。愚かなことを申し上げました」  彼が引き下がると、どっと疲れが襲ってきた。膳を捧げた婢を引き連れて、幹が入ってくると、それだけで高殿の空気が清浄になったような気がした。  彼一人を侍《はべ》らせて夕餉を取りながら、彌与は思い返してみた。無駄としか言いようのない時間だった。今、何をおいても為さねばならぬのは、物の怪どもを倒すのに、誰が何をすればもっとも力を出せるか、話し合うことだ。それなのに、あんな男の心中を 慮《おもんぱか》 って説得しなければならないとは……。 「彌与さま、お疲れですか? お顔が……」 「顔がどうした? ぬしこそ、昼間の泥が残っているぞ」  あわてて頬を拭う幹に、冗談だと笑ってから、彌与はあぶった鹿肉を指でつまんだ。高日子根のことはもういい。考えないのが一番だ。それよりも、もっとおかしなことがある。ここへ来て急に諸国が協力し始めた、その理由だ。  倭国に並び立つ国々の中枢で、突如巻き起こった奇怪な物の怪との戦、敵を迎え撃つ使いの王の到来。長く理念上のものでしかなかった|使  令《つかいのおきて》を、実効あるものとして卑弥呼が降した、同盟軍の召集。これらを諸国がすんなりと承知し、援軍を送ってきたのは、実に奇妙なことではないか。権勢欲に乏しい彌与にも、諸王の思惑は想像できる。この騒乱を奇禍として邪馬台本国を乗っ取り、倭国の新たな王になろうと思っている者は、それこそ両手の指では利かないほどいるだろう。  いや……それではまだ彼らの動機としては弱い。一千、三千、という軍を送るのはどの国にとっても大変な負担だ。そのくせ他の数十ヵ国を相手にしなければならないのだから、覇権を取れる可能性は決して高くはない。援助という建前と、覇権争奪という私欲の他に、さらに何か理由があるのではないか?  ……そこまで考えた時、彌与は恐ろしい疑いを抱いた。勾玉に触れる指が、かすかに震えた。 「カッティ……聞こえるか」 「はい」  不思議な声が涼やかな口調で答えた。彌与は何気なさを装って言った。 「ずいぶん手心を加えたものだな。四十体程度の物の怪では、兵どもを奮い立たせるには足りんぞ」  カッティの返答は、彌与の予想を数段超えた。 「やっとあなたは、Oを理解できるようになった」 「……どういう意味だ?」 「あなた方が最も頼りとする私は、あなた方の味方ではない、ということです」  凍りつく彌与に、カッティはどこか他人事のような静かな口調で語る。 「慧眼です。今回、邪馬台に|地上制圧体《PET》を送り込んだのは私です。王が兵士たちに手本を示したように、まず弱体な敵を当てて士気を高めるためです。言わば血清注射で免疫を持たせるようなものですね。実は各地の諸王国にも同様のことをしています。あなたは今、それに気づいた。……でも、これはOも承知のことでした。現地兵力を糾合するためには、謀略を忌避してはならない、これが私たちの得た教訓の一つです。私たちはあなた方を利用します。あなた方と人類を守るために」 「それが使いの王の真意だと言うのか? だったら理解などできない!」  突然叫んだ彌与に驚き、幹が顔を上げる。 「彌与さま?」 「待て——カッティ、聞いているか?」 「あなたは誤解している。彼は、そのような手を嬉々として用いるような男では、決してない。むしろそれに深く心を痛めているのです。教訓を得て以来、彼は数多くの人々をだまし、利用し、殺してきた。そのために……いえ、にもかかわらず、彼は故郷から持ち続けてきた悔恨の念を強めている。任務など捨てて[#「任務など捨てて」に傍点]、救ってしまえばよかった[#「救ってしまえばよかった」に傍点]、という思いを、です」  彼の、後悔? ——想像した途端、彌与は頭がすっと白くなるような気分の悪さに見舞われた。それを自分に当てはめれば、幹を見捨てて敵を罠にかけていたようなものではないのか。あの男は、そんなことを繰り返してきたのか。  カッティが、ふっと微笑のような声を漏らした。 「私は|裾破れの娘《カッティ・サーク》、惑乱の魔女。馬の尾をかざし、最短最速で勝利へ導く。利用できるあらゆるものを利用します。時の風はすべてを吹き散らし、時の砂はすべてを埋め尽くす。誰よりもそれらに身をさらしてきたのがOという男です。もしも、彼を支えられる女がいるのならば、私はそうさせるでしょう。そんな女は、十万年の間に一人もいませんでしたけれど」 「彌与さま!」  肩を揺さぶられ、彌与は我に返った。少年が水杯を片手に、気遣わしげに覗きこんでいた。 「お顔が真っ青です。少し横になられては……」  幹は優しい。忠実一途で、彌与のためなら命を投げ出すつもりでいる。彼を失うことは耐えられない。  彌与は彼を抱きしめた。「み、彌与さま?」と幹が体を硬くし、水杯を取り落とす。  だが、長くはそうしていなかった。彌与は彼を押し離し、立ち上がった。まだ呆然としたままの幹が、いずこへ、と訊く。 「一人になりたい」  彌与は物見台の一つに登り、兵を降りさせた。軍団の点す灯で邪馬台の宮は祭りのようだ。その向こうには、月明かりを映した水田が広がっている。  自分は今日、自らがこの地の主であることを強く意識した。この地のすべてが自分に順《したが》う。それに対して、自分自身にもこの地を思う気持ちがあることがわかった。邪馬台の山野や、そこに住まう幹や鷹早矢のような人々、名もなき兵や庶人。侵されて初めて、その大切さを知った。  隙を見て逃れようなどと考えていた以前の自分を思い出すと、唾を吐きかけてやりたくなった。  そう悟ってなお……いや、悟ったがために、ひしひしと感じるものがあった。務めの重さ。我が身に何がなし得るのか、という恐怖。  東を見た。黒々とわだかまる笠置の山々の向こうに、男がいる。自分と同じ重さを感じながら。 「使いの王……どれほど耐えてきた」  無性に、彼と話したかった。 [#改ページ]       Stage-003[#「Stage-003」は縦中横]Oulu A.D.1943[#「Oulu A.D.1943」は縦中横]  フィンランド、オウル市の凍てついた大地に爆音を響かせて、鉄十字マークを塗りつぶした急降下爆撃機《ストゥーカ》と、星に鎌と槌のマークを削り落とした対地攻撃機《シュトゥルモヴィーク》が離陸していく。  次々と舞い上がった機体が、旋回しながら見事な編隊を組む。四機、八機とまとまって、十六機の飛行中隊を形成すると、機首を北西に向けた。  覆いかぶさるように、上空高く円を描いていた直掩《ちょくえん》戦闘機部隊が同行する。無塗装のままの銀色はアメリカ合衆国陸軍航空隊のP−51、白茶の冬季迷彩に塗られているのはドイツ第三帝国空軍のBf−109[#「109」は縦中横]だ。その中で緑白赤の三色尾翼を誇示しているのは、イタリア王国王立空軍のフォルゴーレ機だろう。国籍マークは塗らないよう指示してあるが、どうせまた口実を設けて命令を無視したに違いない。  総勢五百機を越える大編隊が向かう先は、隣国にある敵の最後の拠点。あの名高いキルナ大鉱山だ。現在、そこへ向かってヨーロッパの十二ヵ国合同の地上軍が進撃しつつある。一時は欧州半島を席捲しかけていたETを、そこまで追い込むことに人類は成功していた。——この森と湖の小さな国は、正史にあるのと同じように、緒戦の動乱で蹂躙《じゅうりん》し尽くされてしまったけれども。  北半球の敵には、これでとどめをさせるだろう。撫順《フーシュン》のコロニーは中国国民革命軍八路軍が独力で殲滅した。南半球では、南アフリカとオーストラリアにまだ敵拠点が残っているが、イギリス・インド帝国艦隊と、大日本帝国軍およびインドシナ駐留フランス共和国軍が、猛攻をかけている最中だ。  オーヴィルたちが第三戦の戦場に選んだのは、人類史上最大の戦争の真っただ中だった。身内の争いに浪費されるはずの戦力を温存させ、その後の歴史を強化するためだけではない。メッセンジャーの時間遡行を知って必ず追跡してくるはずの、ETを迎え撃つために、世界中の人間がもっとも戦意を高めているこの時代が最適だと判断したからだ。  一九四〇年前後の時代に現れたオーヴィルたちは、各国首脳との密談から、民衆レベルの世論操作まで、あらゆる手を使ってET迎撃戦の準備を整えさせることに成功した。その成果は、遅れて現れた敵との戦いで遺憾なく発揮された。  これ以上望めないほど完璧な勝利が、今後一年以内に訪れることは確実だった。  にもかかわらず、オーヴィルの心は晴れなかった。  一大軍事基地と化している、バルト海の奥の小さな町にいるオーヴィルの元へ、ワシントンにいる仲間のクエンチの声が届く。 「オーヴィル、すまない。悪い知らせだ」 「どうした」 「回収艦隊の空母は四隻だけだ」 「アメリカ政府は六隻出すと約束したはずだ」 「ああ。だが二隻が南アに回された。何とか四隻でやりくりしてくれ」  オーヴィルは舌打ちする。オウルからキルナへ向かった攻撃機の多くは、帰還する燃料が足りないため、ノルウェー沖に進出した米空母に無理やり着艦させる予定だった。六隻でもぎりぎり一杯のはずだが、二隻も足りないとなると……先に着艦した機体に燃料を補給して、ただちに再離艦させなければならないだろう。だが、そもそも艦載機ではないドイツ機やソ連機に、再離艦が可能なのかどうか、オーヴィルにはまるでわからなかった。 「一体、なぜアメリカはそんなことを? 攻撃隊にはアメリカ機も入っているのに」 「マスタングは足の長い機体だからな。自力で帰って来られる。……問題はホワイトハウスの腹だ。南アに空母を割いた目的は、英軍の手柄を少しでも横取りすることらしい」 「チャーチルを怒らせて何の得がある」 「ベルリンのエコーの調べでは、どうやらローズヴェルトとヒトラーの間に密約があるようだ。連中は戦後に備えて紐帯《ちゅうたい》を強めるつもりだ。俺たちがアウシュビッツを閉鎖させたのが仇《あだ》になったな」  オーヴィルはため息をついた。  万事がこの調子だった。——メッセンジャー側が理非を説き聞かせ、策を巡らした結果、曲がりなりにも人類は結束した。だが、表向きの協力の裏では、正史よりも暗く深い対立が起きているらしいのだ。  無理もない、とオーヴィルは思う。この時代の戦争は、それに先立つ情勢不安の結果、起こるべくして起こったものだ。世界が対ET戦に結束したといっても、社会問題が解決されたわけではない。むしろフラストレーションが蓄積されているだろう。  カッティ・サークはずいぶん前から、しきりに人類占領のオプションを推奨していたが、もしその成算が五割、いや四割にでも達したら、とっくに実行しているところだった。だが、メッセンジャーのリソース不足から、それは断念されていた。二十二世紀から、この二十世紀へ送られた戦力は、当初の二十分の一にも満たない数だったのだ。  いや、しかし——オーヴィルは、オウルに駐屯する連合空軍司令部の建物へと歩きながら、考える。——故郷を同じくする同胞でないとはいえ、別のところ[#「別のところ」に傍点]からやってきた仲間がいくらか姿を見せている。彼らの手を借りて、思い切った行動に出るべきではないか?  そう思って、オーヴィルは統括知性体に話しかけた。 「カッティ、いいか」 「——なんでしょう。長くは話せませんが」 「まだてこずっているのか?」 「——前例のない行動なので。拿捕《だほ》や乗っ取りも視野に入れて行動しています」 「ならいい」  カッティ・サークの返事に表れている、彼女らしからぬタイムラグは、光速限界によるものだ。彼女は今そのハードウェアごと、つまりその乗艦を、月に置いて作業している。二十二世紀のETの生き残りが、そこへ時間遡行して攻撃施設のようなものを作っているらしい。彼女は対応に手一杯なようなので、オーヴィルは会話をあきらめた。  北欧連合空軍司令部は、機体を出している四ヵ国の司令官と、その他多くの支援国家の将校で構成されている。オーヴィルが空母が足りなくなったことを告げると、将軍たちの間で、いつもの苦りきったにらみ合いが始まった。皮肉なのは、本国から何も聞かされていなかったらしいアメリカ軍の司令官まで驚いていることだが、今のオーヴィルに、それを愉快に思う余裕はない。  案のじょう、短い沈黙が過ぎると激しい口論が始まった。ソ連とイタリアの将校がアメリカを非難し、アメリカの司令官は、彼らがブリテン島から敢行している長距離爆撃を盾に、義務の均等を言い立てる。ドイツの将校は冷静に仲裁するふりをしながら、上層部の密約のことを知ってでもいるのか、さりげなくアメリカを助ける。オブザーバーのはずのフランスやスペインの武官まで口を挟んで、収拾がつかなくなった。 「いい加減にしていただきたい! そんな下らない争いをやっている場合か!」  オーヴィルが机を叩いて叫ぶと、敵意を含んだ視線が集中した。誰のせいでこんな苦労をしているのかと言わんばかりだ。窮地に立たされた米軍司令官がこちらに矛先を向けた。 「君たちこそ何をやっているのだ。直接攻撃手段を持っていないわけではなかろう。日日大勢の味方が到着しているという話は、あれはただのプロパガンダか?」  オーヴィルは唇を噛む。それはメッセンジャーが一般向けに宣伝していることで、嘘ではない。  オーヴィルたちのもとには、別の時間枝からのメッセンジャー[#「別の時間枝からのメッセンジャー」に傍点]が続々と訪れている。さっき話したワシントンの男もそうだ。彼は二十四世紀の人類によってここへ送り込まれたメッセンジャーである。だが、オーヴィルたちの歴史に彼の記録はない。それは、彼がこの時代における歴史改変の結果として生まれたからだ。  オーヴィルたち、「オリジナル・メッセンジャー」が一九四三年においてETを押し返し、人類を支援するたびに、少しずつじわじわと歴史が変わっていく。死ぬべき人が生き延び、後世に見出されるはずの技術がいま生まれる。するとその人や技術が後の世に影響を及ぼし、本来ありえなかった時点でメッセンジャーの創造が可能になる。彼らは自らの歴史を振り返り、この時代での苦しかった戦いを思い出して、メッセンジャーを送ってくる。  その数は、理屈では、戦況がよくなればなるほど増える。ETを一体倒すごとに時間枝が増殖し、そこからの応援が来る。人類がETを制圧してしまえば、その発展を妨げるものは何もなく、未来人類は好きなだけメッセンジャーを造れるようになる。その瞬間から、人類は過去と未来にわたってあまねくメッセンジャーを送り、その時間枝の防衛能を完全にすることになる。——つまりそれが時間軍の出現であり、オーヴィルたちが目指す到達点だ。  だが、時間軍はいまだに現れていないのだ。この時代を訪れる、「|派生した《ディセンダント》メッセンジャー」は、口をそろえて言っている。自分の時間枝でも人類はそれなりの発展を遂げたが、社会的・経済的・軍事的その他なんらかの理由で、時間軍と呼べるほど大規模なメッセンジャー部隊を創設するにはいたっていない、と。  その事実が表すものは、それらの時間枝も究極的には滅びてしまう、ということだ。  しかももう一つ、人類に対して伏せられている、大きな秘密があった。 「Dメッセンジャー」の来援は、数ヵ月前から減少傾向に転じているのだ。しかも、その出発年は、どんどん未来へ移りつつあった。もっとも最近やってきたメッセンジャーは西暦二六八〇年からのものだった。オーヴィルたち「Oメッセンジャー」よりも後の時代だ。その時間枝の人類は、それほど未来にならないとメッセンジャーを造れない、ということだ。  人類への干渉が度を越してしまい、かえってその発展を遅らせつつある、というのがカッティ・サークの解釈だった。  度を越してなぜ悪いのか、とオーヴィルは今まで考えていた。手を緩めて犠牲が出てしまったら元も子もない。あの常《チャン》たちのような悲劇的な人々は、もう見たくない。国家や民族などどう変わってもかまわないから、とにかく生き延びさせるのが最優先だ——。  それが間違っていたことは、今こうして軍人たちと向き合ってみると、痛いほどよくわかった。不信に駆られたいくつもの顔……。  ETを掃討した後、彼らがたちまち敵味方に分かれていがみ合いの限りを尽くすのは、火を見るより明らかだった。  際限なく口論を続ける将軍たちを後にして、司令部を出てきたオーヴィルは、雪の積もった広大な滑走路の端に立ち尽くしてつぶやいた。 「どうしろというんだ……」 「オーヴィル、今いいか。ちょっと聞きたいことがある」 「なんだ」  笑っているような声は、アレクサンドルのものだった。通信衛星経由で彼が送ってくるデータには、シンガポール発のタグがついている。アレクサンドルは日本軍のアドバイザーとして、彼らが昭南と名づけたその地の前線司令部にいる。 「催促されても何も出せんぞ。コメートを積んだ貨物船はもう出たし、仏軍の残りはどうしてもアルジェリアから引き剥がせなかった」 「いや、そんなことじゃないんだ。熊の手下にはどんな動物が適当だと思う」 「熊?」  オーヴィルは眉をひそめる。アレクサンドルは含み笑いしているらしい。 「熊とは、なんのことだ。ソ連軍か」 「おいおい、無責任だな。熊にしろって言ったのはおまえだろう。俺の物語の悪役だ」 「ああ、そんなことも言ったかもしれんが……」  自分の感覚では数年前の——暦の上では百八十年ほどの未来の——月面で、彼と交わしたほんの短い会話を、オーヴィルは思い出した。人間なら忘れているような出来事だが、幸いというか生憎というか、メッセンジャーはよほど不快な出来事でない限り、デジタルデータとして記憶している。 「本当に熊を出したのか」 「出したとも。熊といえば森の守り神みたいなものだ。それがなぜ木を枯らそうとするのか? ——どうだ、いまちょっと気になっただろう?」 「むしゃくしゃしてたんじゃないか」 「いや、理由のほうはいいんだ。意外性があるから採用しただけで。……それで、手下だ。何がいい」 「さあなあ。蟹はどうだ」  朝食べたフィンランド料理のことを思い出して、投げやりに言うと、アレクサンドルが手を打ったのが聞こえた。 「蟹か、そいつはいい! 深い森の奥にうごめく真っ赤な甲殻類。これはインパクトがある。そう、その蟹が熊に命じられ、枝の一本一本に這い上がり、葉をじょきじょきと切り落とす……うん、実に気味が悪い。ちっぽけな青虫がどう努力しても勝てそうもない」  オーヴィルが黙っていると、アレクサンドルはさらに突っこむように訊いてきた。 「どうだ、難局だろう」 「すこぶる難しい局面だな」 「うむ、どうやったら勝てるか俺にもさっぱりわからん」  突然オーヴィルは、不吉な予感を覚えて尋ねた。 「ETに新しい動きがあったのか?」 「わかるか?」 「わかるも何も、おまえの童話とやらは現実の……いや、いいから教えろ。何があった」 「まあ、こういうことなんだがな」  オーヴィルの視覚に、電送された画像が割り込んだ。  グリッドの焼き付けられた白黒写真で、高空から地上を撮ったものらしかった。ごろごろした岩の転がる荒れ果てた山地だ。画面右上にひとつ、カイガラムシを思わせる、白い小さなドームがあった。スケールと見比べたところでは直径五メートルほどか。アレクサンドルが言う。 「ブルース山に出かけた百式司偵が撮ってきた」  ETのものなのだろうが、見たことがなかった。オーヴィルはつぶやく。 「繁殖巣ではないな。ハッチもジェネレーターもない。なんだ?」 「俺も不思議に思ったんで、蜂を飛ばして多元で撮った。それがこいつだ」  得意げな声に続いて、二枚目の画像——擬似カラーのグラデーション。オーヴィルは驚愕した。ドームを中心にその百倍もの直径の同心円が浮き出している。 「地熱分布だ。そのドームは地下五十キロまで根を伸ばして熱を吸い取っている。それで得られるエネルギー量は繁殖に必要な分の四百から五百倍——それだけありゃあ、反陽子を持たない連中にも、時間遡行が可能だよな」 「核を使おう」  オーヴィルは焦燥にかられて言った。 「ペーネミュンデからすぐ空輸させる。シンガポールでいいか?」 「まあ待てよ、これだけなら面白くもなんともないだろ。とっておきの秘密があるんだ。つまり、この遡行サイロは発見された百三十九個のうちの最後の一つだってことだ。残りはすでに空っぽになっていた」  ぐらりと足元が揺れたような気がして、オーヴィルは背後の建物に身を預けた。 「南半球だけで、だ。そっちでもすでに撮られていると思うぜ。洗いなおしてみたらどうだ。たいした意味はないが」  アレクサンドルはまだ笑っている。ひきつった、やけくそのような笑いだ。オーヴィルも同調したくなった。  これまでの作戦は、敵が太陽光に頼ることを前提としていた。敵はほぼすべて宇宙から掃討されて、地上にしか残っていない。そこでは太陽光は必ずしも効率のいいエネルギー源ではない。勝算はあった。  だが地熱を利用し始めたとなると、困難は飛躍的に増す。それは敵が一度に使えるエネルギーが大幅に増えたことを意味する。地上からの探知も困難になる。ETがゲリラ戦に出てきたようなものだ。  手にしたエネルギーで敵が遡行し続ければ、人類の全過去[#「全過去」に傍点]が危険にさらされる。 「なぜ、そこまで」  本質的にはただの機械のはずの敵に、プログラムに従っているだけとは思えない執念を感じて、オーヴィルはうめく。こんなものを送り込んできた奴らは何を考えていた? 「各サイロの深さから吸収エネルギー量を概算することで、遡行量も推測できる。それはすでに始めてる。終わったらまた出発だな」 「蟹を落としに、枝めぐりか……」 「そういうことだ。青虫の仲間をごっそり出さなけりゃならん。畜生、伏線がべらぼうに増えちまう。シュミナが全部読んでくれるかどうか」 「連載が終わるまで読まないかもしれん。ハッピーエンドとは限らないし」 「嫌なことを言いやがる」  アレクサンドルが渋面になったようなので、オーヴィルはようやく気を取り直した。 「カッティにはもう伝えたか」 「もちろんだ。だが彼女、忙しくてな。こんな重大なことをほったらかして、何をやっているのか……」  そのとき、当のカッティ・サークが会話に入ってきた。 「お待たせしました、サポートに復帰します。非常に重い暗号を解読していたものですから」 「暗号?」 「はい、ETの通信基地が発信したものです。十二光年先のティーガーデン星へのレーザー通信でした」 「おい、それは連中の故郷がわかったってことか」  アレクサンドルが急き込んで聞いた。だが、カッティ・サークは浮かない様子だった。 「ティーガーデン星は赤色矮星で高等知性体はいないはずです。二十六世紀の人類が惑星上に無人観測基地を置いていましたが——過去形で言うのは妙な気分にさせられますね——多少の化学合成細菌が確認されただけでした」 「しかし何もいない場所へ通信を送りはしないだろう」 「ええ、ですからこの件は調査継続という扱いです。暗号もまだ解読できませんでした。対照情報が足りません。それよりアレクサンドル、あなたの発見が重要です。いま北半球で撮られた写真も検索しましたが、総数四百以上のサイロが存在するようです」 「ああ、戦略の変更が必要だ。ETが無限遡行するなら、こちらも無限遡行しなければ。しかし手勢が絶対的に足りんな。ETを見習って自己複製で仲間を造るのはどうだ」  アレクサンドルの過激な提案に、オーヴィルは驚いて言い返す。 「私たちまで複製を始めたら、人類を圧倒してしまう。任務を忘れるな、私たちは人類に奉仕するのが目的だぞ」 「ええ、それに戦力を分散するのは好ましくありません。私たちは個々のETをばらばらに追撃するのではなく、常にそれより過去の時点に遡行して、そこから未来の防衛を行うべきです」 「『それより過去』と言うが、どこまで遡ればいいんだ? それを決めるのはETだ」 「それについては私に考えがあります。——オリジナル及びディセンダントの皆さん、聞いてください」  カッティ・サークが会話をオープンにした。地球上すべてのメッセンジャーに声を送る。 「まず、アレクサンドルの発見を転送します。届きましたか。では、この事態についての私の解釈を述べます。ETは無限遡行の能力を持ちました。理屈では、時間樹の根本まで遡って数十億年前の地球にダメージを与えることができます。ですが、私は彼らがそうするとは思いません」 「なぜだ?」 「あまり遠すぎる過去にダメージを与えても、人類が復活[#「復活」に傍点]してしまうからです。生物進化の適応力は極めて強力なので、大きなダメージを与えても、時間さえあれば必ず再生します。もちろん再生した人類が、現在と同じ霊長類に連なるものかどうかはわかりませんが、並行進化[#「並行進化」に傍点]の概念は、分岐した時間枝間においても有用だと思われます。その意味では、人類のできるだけ近い過去にダメージを与えるほうが、より長くその発展を妨害できます。彼らはそうするでしょう」 「そこまで言うからには、それがどのあたりになるのかも、考えたんだろうな」 「ええ。私は現生人類《ホモ・サピエンス》が生物学的な種として完成しつつある時期が、もっとも重要であり、危険だと考えます。すなわち、今からおよそ十万年ほど過去の、アフリカ大陸を、メッセンジャーの総力をもって死守するべきです。そこに防衛線を敷き、ETがそれより過去にいたることを防ぎましょう」  オーヴィルはカッティ・サークの思考を追跡しながら、その穴を探そうとした。 「比喩を用いすぎるのは感心しない。防衛線というが、物理的な堤防を造れるわけではないだろう。時間遡行を妨害する技術があるのか」 「ありません。ですから、私が提案しているのはあくまでも行動についてです。十万年前に至ったら、その時間枝に定住[#「定住」に傍点]して、未来から訪れるETを迎撃し続けるのです。彼らが十万年を一度に遡行できるほどのエネルギーを持つことは考えられませんから、私たちは彼らを阻み切ることができるでしょう」  しん、とネットワークが静まり返った。——十万年? その期間すべてを守り尽くすのか? 「もちろん、私たちのハードウェアはそれほど長期の活動に耐えられませんから、一時凍結などの技術を用いて、可能な限り寿命を引き伸ばす努力が必要になります」  彼女が付け加えた一言も、ネットワークに漂う、度肝を抜かれたような雰囲気を和らげはしなかった。  カッティ・サークが、故意かもしれないが、ごく気軽な口調で言った。 「一分後にこのプランの票決を取りたいと思います。異議及び質問があればどうぞ」  およそ四十五秒もの長い間、沈黙が続いた。高速な言語と思考を用いるメッセンジャーたちにとっては、人間の一年にも匹敵する時間だ。だが、四十六秒目にアレクサンドルが言った。 「ずいぶん馬鹿げた話だ。一番確実だろうが……なあ、カッティ」 「はい」 「そんなに話が延びたら、誰も読んでくれんじゃないか」 「私が要約しましょう」 「誰が頼むか。自分でやる」  承諾の返事だった。何人かがちょっと笑った。——それをきっかけに、ぽつぽつと投票が始まり、十秒で投票率五割を超えた。その後の数秒で九割に近づき、カッティ・サークが言いかけた。 「では、これで……」「待て、私は抜ける」  オーヴィルは言った。大勢がこちらを参照してくるのがわかった。カッティ・サークが静かに命じる。 「理由を述べてもらいましょう」 「そのプランだと、ETどもが遡行途中で立ち寄る通過点の時間枝が全滅する」 「ええ。私たちが守るのは、私たちが十万年前に現れた後[#「現れた後」に傍点]の時間枝です。私たちの出現が過去において記録されていない——つまり、今いるこの時間枝は、見捨てることになります。今までと何も変わりません」 「大違いだ。十万年の間にどれだけの分岐が発生すると思っている」 「どれだけであろうと構いません。ただ一本の時間枝が未来につながればいいのですから」  言下にカッティ・サークは言い放った。だが、オーヴィルは首を振った。 「私はそれらの分岐を守ってくる。用が済んだら十万年前に向かい、おまえたちと合流する。戦力減にはならない」 「一人で四百以上の時点に散らばったETを追撃することが可能だと?」  ネットワークがざわめいた。オーヴィルはつぶやく。 「それぐらい、好きにさせろ」 「よし、俺も——」  幾人か、賛成の声が上がった。その一人が、派生体《ディセンダント》のクエンチであることにオーヴィルは気づいた。  彼の気持ちを想像できるような気がした。彼が生まれることができたのは、オーヴィルたちがETの動きを牽制したからなのだ。  二十名ほどの名乗りに対して、カッティ・サークはまだ躊躇するように沈黙していた。オーヴィルは駄目を押した。 「四百戦の戦闘経験を携えて戻ると言っているんだぞ。それに、有力な時間枝が残れば、その分またディセンダントが増えるかもしれない」 「全体の戦力に関わることです。この件も投票が必要です」  投票がなされ、その結果にオーヴィルは驚いた。やはり九割以上が賛成だったのだ。きっと、程度の差はあれ全員が同じ気持ちでいたのだろう。  カッティ・サークがあきらめたように言った。 「許可します。ただし、サポートと記録のために私のサブユニットを同行してください。あなたの武器に封入します」  記録なら自分でやれると言いかけて、オーヴィルは言葉を飲み込んだ。うすうす彼女の腹が読めたのだ。 「それでは話を終わります。各メッセンジャーは現下の作業が終了次第、時間遡行を行ってください。エネルギーの足りない方は私が運ぶので、ロンドンに集合してください。降下します」  公開討議のざわめきが消えると、オーヴィルの聴覚は再び雪国の静寂に満たされた。時おり離着陸する軍用機の音も、積もった雪に吸われて、妙に響かない。——静かなものだ。  打ち捨てられていた空の弾薬箱に腰かけていると、これまでもたびたびあったように、サヤカの記憶が立ち昇ってきた。  今でも彼女と話したことは一言残らず思い出せる。それが知性体というものだ。だが、データとしての彼女の確かさとは裏腹に、それを実際に体験したときの己の心の動き、体の反応といったものは、時を経るほど不確かになっていくようだった。  ひとに忠実でありたいと言った彼女……それに強い共感を覚えた自分……結局、何をもっとも尊いものと思うべきか、二人の間での結論はついに出なかった。歴史の大樹を、この無限に枝分かれする巨大な時間樹を守るといった概念は、自分のいる今ここでは、冷酷なまでに細かいディテールを備えるようになった。その枝の一本一本、葉の一枚一枚に、深く濃い人の想念が刻まれている。まともに向き合ったら、どれ一つとして断ち落とせるものではない。それを根こそぎ無視して、恐るべき手際で記号化してしまうカッティ・サークと、自分との間には、渡りようもない谷間が開こうとしている……。  サヤカなら、カッティ・サークに対してどう言うだろう? ——突如、あの時代のイメージがはっきりと湧き起こる。夜ごと仲間と、はじけるように活発な会話を交わしていた彼女。一歩も退かないのは間違いない。そう、彼女は時間戦略知性体に対立するだろう。二人が求めるのは似て非なるものだ。ある意味でそれは、国家と個人のどちらが優先されるかという、イデオロギーについての言い古された議論の焼き直しかもしれない——だがそれよりはるかに重要なことだ。  一人のすべての可能性と、人類という種の可能性は、一体どちらが大切なのか。  それを思うと、オーヴィルは痛切に彼女のもとに帰りたくなった。この腕の中にサヤカのしなやかな体があった頃、真実は明白だった。  今はすでになく——未来においてもない。遠くの峰に輝く雪のように、薄れ消えつつある。 「ずいぶん冷たい統括体だな。信用できるのか?」  散文的なつぶやきが想念を打ち消した。クエンチの声だった。ごしごしと顔をこすって、オーヴィルは自分を現実に引き戻した。 「いや……彼女は有能だ。指揮官なんて、あんなものだろう。サブユニット云々も、多分、反乱防止[#「反乱防止」に傍点]のためだ」 「まるで独裁者だ!」  うめいたクエンチに、オーヴィルは静かに言った。 「そういうふうに作られたんだから仕方ないさ。私たちは個々の人間を忘れないように。あいつは大局を忘れないように。二十六世紀のやつらは、よく考えたものだ」  静けさの中で、クエンチを含む二十数名が相談している気配があった。やがて彼が言った。 「今後はあなたを指揮官として仰ぎたい。全員一致だ」 「どうもイレギュラーのようだぞ、私は」 「構わん、俺たちも似たようなものだ」  オーヴィルは苦笑し、好きにしろと答えた。クエンチが言った。 「メッセンジャー・オリジナル、命令を」 「ロンドンに集合。例のサブユニットを受け取るのと……おまえたちの顔を見ておきたい」  ちょうどそばを、顔見知りの若い空軍パイロットが通ったので、オーヴィルは声をかけた。 「ちょっといいか。ロンドン行きの一番早い機体はどれだ」 「ロンドンですか? 直行便はありませんが、あそこのギガントがオスロ行きです。二十分後に出ます」  滑走路の隅で、六発エンジンの恐ろしく不恰好な巨人機が荷役を進めていた。オーヴィルは物珍しさに目を見張った。 「布張りの飛行機は初めてだ」 「なんでしたら私の操縦でお送りしましょうか。お急ぎでしょう」  オーヴィルは振り返った。パイロットは左手に包帯を巻いていた。先週、輸送機を操縦していてFETに襲撃され、負傷したのだ。そのせいで乗機から下ろされている。  オーヴィルの指名だと言えば、多少の無理があっても飛行機に乗れる。それが狙いだろう。  武勲を上げる機会に恵まれず、地味な輸送機になど乗っているが、オーヴィルは彼がどんなに優秀なパイロットか知っていた。 「では、君に頼もうか。司令部で許可をもらってきてくれ、ハルトマン」 「|了解しました《ヤヴォール》」  童顔をほころばせて敬礼し、パイロットは駆け出した。オーヴィルはその姿を目に焼き付けた。 [#改ページ]       Stage-448[#「Stage-448」は縦中横]Japan A.D.248[#「Japan A.D.248」は縦中横]  邪馬台国の軍勢は、浜名の湖《うみ》を見るまでに八千を失った。  そこに至るまで、彌与自身が親率《しんそつ》した決戦が三度、|一 大 司《いちのおおつかさ》の鷹早矢が出た大戦が八度、兵の司や長が指揮した小戦は三十を越え、絶えず軍列を侵す卯《うさぎ》や赤鴫《あかしぎ》と兵卒の小競り合いは数知れなかった。街道とも呼べぬ草深き東海の道は、打ち捨てられた死骸と残骸と剣矛甲盾で累々と覆われ、葬礼《はぶり》のない日は一日たりとてなかった。  浜名の手前の豊川での決戦は、激烈なものだった。山裾からせり出す扇状の台地に、まさしく狗奴国《くぬこく》の使いが言ったとおり、河神《かっぱ》、蜈蚣《むかで》などの物の怪が土の見えぬほど数多く蠢いており、台地のふもとを猿猴《ましら》と卯がぐるりと取り巻いていた。  そこに、邪馬台軍は一抱えもある丈余《じょうよ》の巨箭《きょせん》を百も撃ち込んで、戦端を開いた。——はるか羅馬《ろま》国から名のみ聞いていた、蠍尾砲《けつびほう》と称する仕掛けを、使いの王の助言を得て実作したものだった。  待ちかまえる二千もの猿猴に、鉄甲鉄剣で固めた兵団が襲いかかった。激突のとどろきは二里を越えて、中軍の彌与の輿にまで聞こえた。血の糸を曳いた兵の死体が、赤子のようにぼんぼんと放り投げられるのが見え、油玉の爆炎がそこかしこで轟然と膨れ上がり、連弩《れんど》の外れたのや、跳ね返されたのが、しぶきのようにきらきらと光って飛び散るのが望見された。  戦線は揉めに揉め、押しつ押されつで屍の山が築かれた。使いの王も、最も争いの激しいところで大剣を縦横に振るって、あたり一面を鍛冶の裏庭のような有様にした。  だが、帰趨を決めたのは彼ではなく、国を奪われた東夷《えみし》たちだった。彼らは五人に三人が死ぬほどの凄まじい奮戦で猿猴の列を打ち崩した。彌与は機を逃さずとらえ、数少ない騎馬の兵をそこに走らせて、敵の背を衝かせた。それで猿猴どもが崩れた。緑色で小さな河神や、手ばかり多い蜈蚣といった物の怪は、戦いに不向きらしく、兵の蹂躙するがままになった。  台地の頂に至ると、岩木の間に石造りの丸い砦のようなものがあった。それが、物の怪の巣だった。極めて頑丈で、打槌《うつつち》をもってしても破壊できなかったが、出入りの穴が開いていた。そこを塞ぎ、水と油を流し込んで火をつけると、やがて爆発し天に届くばかりの炎を吹き上げた。巻き添えで三十もの兵が死んだ。  戦いが終わると蜂が飛来した。確かに薄い羽根があってきびきびと忙《せわ》しく飛んだが、大きさは犬ほどもあった。それは使いの王の眷属《うから》であり、斥候《うかみ》として空から物を見張る能があったが、戦いはできないのだった。舞い降りた蜂どもは触角であたりを嗅ぎまわり、小さな黒いかけらを見つけ出しては食べた。まだ巣を作るに至らない、物の怪の種を食うのが好みなのだ。人には害をなさぬと言われていたが、近づく兵は一人もいなかった。  さまよう猿猴や卯たちを殺し、大群の集まっている巣を潰し、後顧の憂いなきよう種を食い尽くす。——邪馬台軍は、ここでようやく、この先何度も繰り返すことになる一連の手順を身につけたのだった。  浜名の湖のほとりに開いた野営地で、彌与は生まれて初めて倭国の地図を見せられた。 「これが倭国だ。斜線が海で、白が陸」  兵に守られた天幕の中。使いの王が絹布にさらさらと筆を走らせて図を描いた。表れたのはまったく見知らぬ形だ。左下がりの右上がりで、何かの動物のようにも見える。彌与は戸惑って顔を上げる。 「こんな島は知らない。狗奴国はどこだ。邪馬台は?」 「この平野と、この盆地だ」 「なんだと……こんなに狭いのか」 「その通り。そして東にはまだ倭国で最大の野があり、さらに最大の鉄山もある」  形としての倭国を知らなかっただけではない。彌与たちにとって狗奴国から先は、未知の霧に覆われた名もなき土地だった。地勢も地名も知らず、敵味方の位置関係はおろか、その先どこまで大地が続いているのかすら知らなかった。王の口にする地名を小児のように聞き覚えるばかりだ。  浜名の湖への道筋ですら、彌与は漢土への道に匹敵するようにも感じた。先のことを考えるとめまいがした。 「広いな、倭国は……」 「世界地図を見せたら倒れそうだな。羅馬や剣卓《けんたく》へは、この百倍だ」 「百倍!」  王はほほえんでいる。彌与は少し身を乗り出す。 「御主は外《と》つ国《くに》へ行ったことがあるのだろう。羅馬や剣卓も知っているのだろう」 「ああ」 「話してくれ」  酒を持ってきた幹が、瓶と杯を置いて下がろうとするのを、彌与は呼び止める。 「聞いていけ、幹。外つ国の話だ」 「いえ、しかし……」 「気を使うな。妾一人では王も張り合いがないのだ。そうだろう?」  王は、噫《おお》とも否《いや》とも言わない。幹は気が進まなさそうだ。それでも彌与は彼の手を引いて座らせた。王が杯を手にとる。 「剣卓の話でいいか」 「ああ」 「私がそこに向かったのは一八六三年、南北戦争に介入してETを討つためだった——」  王は語り出す。邪馬台軍の遠征が始まって以来、彌与は何度も王の話を聞いたが、それはいつもこんなふうに、知らない時代の知らない土地の紹介から始まるのが常だった。 「|剣 卓《ケンタッキー》はその頃アメリカと呼ばれていた国の一部で、肌の赤いネイティブに代わって白人が支配していた。白人たちは、武力を用いて黒人の奴隷を使役する者と、それに反対する者に分かれていた」 「奴婢《ぬひ》を使う者と、奴婢を殺してしまう者ですか」 「いいや、殺さずに放してやるんだ」 「放して、どうするのですか。見捨てるのですか」 「放せば自力で生きていくだろうというんだ」 「そんな殺生《せっしょう》な。のたれ死んでしまいます」 「のたれ死んでも、牛馬のように使われるよりましだと思っているんだよ、その地の人間は」  幹はどうやら王を嫌っているらしいのに、王の話にはすぐ夢中になる。彼の代わりに彌与が黙って酒を注ぐ。王の話は、いつもとても奇妙だ。奴婢を使わずに国が立ちゆくわけがない。海の向こうにはおかしな国があるものだ。とはいえ、話を聞いていると、自身が奴婢である幹が、奴婢は必要だとむきになって力説するのも、それはそれで変だと思えてくるから不思議だ。 「では、使いの王は奴婢を放してやるために戦ったのですか」 「いや、違う。ETを討つためだと言ったろう。奴隷制には関知しなかった。むしろ戦力として利用した。彼らを駆り立て、戦に向かわせた。——そこでもやはり大勢が死んだ。南北合わせて七十万。いや、戦争の終期には混乱してまともに計数することもできなかったから、もっとかな。正史とどちらが悲惨だったやら」 「そこでも、妾たちのような人間と結んだのか」 「ああ」  言葉を切り、王は宙を見上げる。彌与は、誰か人の名でも出はしないかと待つ。  しかし王は首を振る。 「死んでしまったよ」 「止められなかったのですか」  彌与は幹をにらんだが、彼は気づかなかった。そこで、王のほうを向いた。 「御主が殺したわけではあるまい。逆に、御主の手が届かずに滅びた国もあったのではないか」 「一七一〇年、日本。元禄期の彼らにETを討つ力はなかった。態勢を整える間もなく本州は全滅、他の三島も壊滅し、薩摩藩のみ琉球に攻め入って永らえたが……挽回は不可能だった。撤退したよ」 「日本とはどこだ?」  王は答えず、ほほえんでいた。彌与は、彼のその顔が、もっとも自分をさらけ出している表情なのだと気づいた。司や長に語り、兵を叱咤するときの彼は、たとえ笑っていても、もっと恐ろしい。  王の事が成ればおびただしい巻き添えが出る。王が事を為さねばそれ以上に死ぬ。何をどうしても屍山血河《しざんけつが》を築かずにはおかない。それを語るに泣けと言っても無理なのだ。泣く力などとうになくしてしまったのだろう。  自分も同じだ——邪馬台を出てこの方、数知れぬ死を見てきた。輿を守る兵は何度も替わった。網代越しに笑いや怒りを聞いた彼らが、臼で挽かれる粟のように砕かれていく。彼らに戦えと命じた。逃げる者を斬れとも命じた。それと引き換えに彌与がしたのは、毎日の葬礼《はぶり》をせいぜい盛んにしてやることだけだ。それでも彼らは従う。勝たねば焼かれると言い聞かされ、実際に焼かれた邑をいくつも見て、命じる彌与たちが驚くほど果敢に敵に向かう。  ふと気づくと、幹がこくりこくりと舟を漕いでいた。彌与は彼を下がらせる。天幕に王と彌与が残る。王が尋ねる。 「寝ないのか、彌与」 「御主こそ、眠れぬのだな」  王の顔に懸念が浮かび、ゆっくりと了解に変わった。落ち着かなさげに膝を組み替える。 「そうか、貴女もか……」 「そうだ。鬼《しびと》が多すぎてな」 「巻き込んでしまったのかもしれんな。貴女は宮から出なくてもいい立場だった。こんなことは本来、伊支馬《いきま》の務めだ」 「恨んではおらんぞ。御主を知ることができた」 「私は知られる価値のある者じゃない」 「そうか? 妾はもっと知りたい」  鼓動の高まりを感じながら、彌与は王の手を取った。がっしりした、指の長い手が、びくりと戻ろうとした。しかし彌与は強くつかんで、胸に引き寄せた。 「室《つま》はないそうだな」 「ああ、しかし……」 「わかっている。御主は別の女と契《ちぎ》ったのだろう。そしていつかその女の許に戻るつもりでいる。だが、それはどれほど先だ。十年? 百年? 一千年?」  彌与は腕を引き寄せる。王は動かず、彌与の体が前に出る。 「一千年の間のたかが数年も与えられないほど、その女を想っているのか」 「俺は彼女にすべてを与えられた。十万年の旅に耐えられるだけの心を」  王は彌与の顔を見ていない。もう片方の手を見ている。 「この手が覚えている。人というものの形を。それが、俺とカッティ・サークを根本的に違うものにしてくれた。彼女を忘れることは、俺が俺であることを忘れるに等しい」 「王……」  そうではないかと恐れていたが、実際に彼の口から昔の女のことを聞くと、体の力が抜けるような気がした。拒まれた恥ずかしさと怒りで頬が火照《ほて》ったが、彼の言い分には理を認めないわけにはいかなかった。  だが、引こうとした手は逆に強くつかまれた。 「彌与」  王が険しい目でこちらを見た。 「俺は戻れない」 「なに……?」 「戻れないんだ。俺たちは歴史を変更しすぎた。サヤカのいる時間枝は時の彼方に埋もれてしまった。再び彼女が生を享ける可能性は、億に一つもない。いや、そこにたどり着ける可能性がない。俺は……この俺が、俺でさえ、彼女を忘れてしまいそうなんだ」  荒々しい力が彌与を引き寄せ、かたく抱きしめた。耳元で知らない女の名が何度もささやかれた。湧き上がりかける反発を、彌与はぐっと押し殺した。この男は想像もつかないほど長い間、耐えてきたのだ。そうなると知って故郷を捨ててきたのだ。  彌与は懸命に息を吐いて、こわばった体から力を抜いた。身代わりでもいい、むしろ身代わりにしてほしい。今はただ、この男を安らがせてやりたかった。 「王よ、名を。真名《まな》を」 「名?」 「妾に、御主の名を呼ばせてくれ」 「オーヴィル」 「オーヴィル[#「オーヴィル」に傍点]」  一瞬、雷に打たれたように彼の体が震え、やがてすすり泣きが起こった。  彌与は身をもがいて腕を出し、改めて逞しい体を抱いてやった。  その夜から、彌与は王と閨《ねや》を共にするようになった。二人とも口をつぐんではいたが、別に侍者たちに口止めもしなかったので、じきに周囲にも知られた。彌与は士気の下がることを恐れたが、それは杞憂だった。軍の司や兵の長から、祝いと称して肉や果物がぼつぼつと届けられたのだ。  二人は、片や|使  令《つかいのおきて》を記した半神で、片や神鬼に事《つか》える巫《みこ》の王である。考えてみれば、あながち不釣合いな取り合わせでもない。その 婚《くながい》 は、軍にとっても幸先の良きことと思われたようだった。  浜名を発った軍勢には西国各地から二万の勢が加わり、三万七千の大軍となった。また、はるか北方の海に面した地を治める一大率《いちだいそつ》も、呼応して進軍すると知らせてきた。  軍はさらに進んだ。——彌与が耳にしたこともないような東夷の小国があり、大国があった。その多くは物の怪に蹂躙され、滅びを待つばかりだった。彼らを奴婢として従え、あるいは敵として打ち破り、茂《いか》し弥木栄《やぎはえ》る葛の葉が地を覆うが如く、邪馬台の軍はじわじわと進んでいった。  進軍は、西から東への移動であるとともに、夏から秋への移行でもあった。煙を吐く荒々しい姿の不二の峰を巻いて、北の甲斐に向かった一日、冷え込んだ夜が明けると、高嶺に銀の冠がかかっていた。軍勢の頭上を、雁や鴨の大群が高く低く鳴き交わして横切っていった。  笹子の峠に差しかかった頃だった。霊妙な薄水色に染まった不二の峰を仰いで戦われたその小戦で、百ばかりを従えた腕利きの長の隊が、いくつか全滅した。すぐに鷹早矢が大勢を率いて駆けつけ、力ずくで挽回したが、後で戦いの場に蜂を使わした王は、難しい顔になっていた。 「何か不都合があったのか、王よ」 「いや……おそらく、秩父あたりに実験的な拠点を作ったんだろう」  彼は言葉を濁し、彌与には何も教えてくれなかったが、何かを心配していることはわかった。その夜遅く、王の眷属《うから》の蜂どもが、これまでになく大勢、重い羽音を立てて頭上を横切った。行く先は東方のようだった。  軍は進み、王が武蔵野と呼ぶところの広大な野に踏み込んだ。——そこは一面に葦草が茂り、疎林が点在する茫漠たる土地だった。南の海沿いを除けば、東夷の邑もほとんどなく、まだ猟人《かりうど》を知らない何万もの鹿の群れと、狐狸《こり》や鼬《いたち》のたぐいばかりがはびこっていた。  斥候《うかみ》を高台に上げたり、櫓《やぐら》を立てて物見をしてみたが、北方はかすんで山が見えず、東方には大河の吐いたおそろしく遠浅の潟がどこまでも続いていた。潟に広がる白いぼんやりしたものは、始め霧か霞《かすみ》かと思われたが、よくよく見れば、それははるか北の地から渡ってきた、鶴や白鳥のおびただしい群れなのだった。 「こげに広か土地、どげん攻めたらよかか、わかりもっさん」  鷹早矢がぼやくのも、無理はなかった。邪馬台の軍は数々の大仕掛けを運び、膨大な荷駄の列を引き連れている。要害のない地では守りに不安がある。鷹早矢はぴりぴりして、しきりに騎馬の斥候を飛ばしていた。  しかし、敵の数は拍子抜けするほど少なかった。赤鴫以外の物の怪をまるで見ないままに軍列は進み、三日ほどして、周囲を渚に洗われた、愛宕山《あたごやま》と称する小さな岬の手前に陣を張った。  野営の夜、彌与は愛宕の山に登った。——先に登った使いの王が、いつまでたっても降りてこなかったからだ。浜名の湖で彼は心を開き、前にも増して親しくなっていたが、武蔵野に入ってからは、再び戦士として堅く身を鎧《よろ》ってしまったようだった。それが気になった。 「一体どうしたというのだ、百里四方に物の怪はいないのだろう」 「それが不吉だ」  闇を通して野面を見渡しながら——彼は星一つない暗夜でも、ある程度ものが見える——王は低い声で言った。 「私が奴らなら、必ずこの平野で軍をおびき寄せて押し包む。すでに邪馬台軍の補給線は伸び切っているし、間もなく冬が至る。叩くには絶好の機会なんだ。なのに、なぜ現れないのか……」 「山中にこもっているのだろう。物の怪は、それ、山にある金気《かなけ》を好むと御主は言ったではないか」 「かもしれんし、中仙道からの迂回を狙っているのかもしれん。しかしその方面は石堆《ケルン》を立てて厳重に監視している。動きは見られない」 「蜂を飛ばしたらどうだ」 「飛ばしたとも。しかし甲府からこちら、FETの数だけは多くてろくに探れんのだ」 「こうなると赤鴫も厄介だな……」  敵にも空を飛ぶ斥候がおり、それを彌与たちは赤鴫と呼んでいるのだが、赤鴫そのものが軍に害を及ぼすことは少ないので、軽く見ていた。しかし王の蜂と戦った場合は三対二ぐらいで蜂が負けるのが常であり、そのせいで王は思い切って蜂を飛ばすことができないらしかった。  考えこんでいた王が、ぽつりと言った。 「ここに邑を造ろう」 「冬を越すのか?」  彌与は驚いて言った。王がうなずく。 「退くのは好ましくない。糧秣《りょうまつ》を西国に頼りきりなのも心もとない。ここなら狩りの獲物も豊富だし、その気になれば田畑も拓ける。邪馬台から女を呼んで、兵を住まわせ、木石《ぼくせき》を蓄えて拠点にしよう」 「来年までここで粘るのか」 「来年でも再来年でも、この地を制圧できるまでだ」  彌与が目を丸くすると、王はふっと目の端を緩ませた。 「邪馬台が恋しいか。構わんぞ、帰っても」 「本意ではないだろうな」  彌与がにらむと、怒るな、と王は笑った。力のある楽しそうな笑いだった。  翌日から大掛かりな越冬準備が始まった。樵人《そまびと》の隊、猟人の隊が選ばれ、鹿や猪を求めて四方に散った。軽い怪我のものは、野生の果樹を探すよう命じられた。柵が張り巡らされ、濠が掘られ、穀倉が築かれた。兵たちは国に帰れないと知って浮かぬ顔だったが、女が連れてこられると機嫌を直した。百里四方に残っていた東夷の邑から、女を根こそぎ狩りたてたのだ。じきに、年配の兵の妻子も邪馬台から到着し、愛宕の砦は邑としての形を整えていった。  もちろん王は、蜂を飛ばし、斥候を走らせ、武蔵野ばかりか、遠く常陸《ひたち》や下野《しもつけ》、はては磐城《いわき》といった北東方向にも探りを入れていた。だが、手ごたえはまるでなかった。見つかるのは鹿や野生馬などの動物ばかりだった。 「物の怪はすでに死に絶えてしまったのではないでしょうか。赤鴫だけが残っているのは、吾《おれ》たちがあれを、あまり打ち落とせずにいるから、というだけなのでは……」  幹の稚拙な推測を伝えられて、カッティが真面目に検討したほどだった。答えは情報不足というものだったが、つまりそれだけ、その秋は穏やかだったのだ。  野面を一面の銀世界に変えた初雪の三日後、濠と柵が完成した。邪馬台からの最後の糧車を受け入れて、砦は門を閉ざした。  その晩、物の怪が現れた。  大地を揺るがす強烈な爆音に、彌与は眠りを破られた。 「何事だ!」  跳ね起きて貫頭の衣を身に着けるのももどかしく、戸口へ走り出る。わずかに遅れて王が並ぶ。二人の顔を、カッと赤光が照らした。砦の北門が火球に打ち砕かれたのだ。北面の柵に立て続けに火球がはじけ、ずしん、ずしんと高殿を揺らした。  ひと目見た途端、王がうめいた。 「爆発物だ……窒素固定に成功していたのか!」 「なんだと、あれは物の怪か?」  答えず王は大剣を取りに戻る。代わって勾玉が声を上げる。弓の早打ちのような報告の奔流。 「警報、火器を確認、砲数五十、大口径曲射弾道砲、爆裂弾頭。地上制圧機体《RET》確認、北方五百メートル、五十、八十、百二十体。熱ステルス、いえ、低温迷彩! 敵は野生動物に偽装しています!」 「馬鹿を言え、そんな手で蜂をだましていたと? 電位探査は、音紋解析は!」 「金属反応による索敵は中止していました。天然の鉱脈露頭が多くて用を成さなかったのです。音紋解析は蜂自体の羽音に妨害されるため、検出下限があり——」 「鉱脈露頭だと。沖積平野にそんなものがあること自体が異常だろう。それは連中のカモフラージュだ!」 「だとしたら、これは非常に深刻な事態です。我々は敵の周到な罠に捕らえられたことに——」 「能書きはもういい、迎撃するぞ!」  王は罵《ののし》りながら大剣を引っさげて駆けていく。遅れて物見台の竹法螺が鳴り渡り、泡を食った兵たちがろくに武装もできぬまま飛び出してくる。彌与はカッティの声を遮って叫ぶ。 「兵を出すぞ。北でいいのか?」 「散開させてください。この敵は爆発物を使ってきま——」  凄まじい衝撃に体を打たれて、彌与の思考は断たれた。周囲の光景がくるくる回り、地べたが見えたと思った途端、暗黒が視界を閉ざした。  耳の底がぼおんと鳴っている。奴婢たちの気が狂ったような悲鳴や、カッティの早口の声が、分厚い幕の向こうから聞こえてくるようだ。何を言っているのかわからず、何をしたらいいかわからない——が、頬を叩かれると、うっすらと正気が戻ってきた。 「彌与さま、彌与さま!」 「幹?」  かすれ声で叫びながら、泣かんばかりに引きつった顔で少年が覗き込んでいた。徐々に五体の感覚が戻ってきたが、それはすべて痛みで占められていた。つう、と彌与は顔をしかめる。幹が甲走った声で叫ぶ。 「どこが痛むのですか、おみ足は、お手は」 「全部だ。起こせ」  抱き起こされると、体の輪郭がよりはっきりした。手足に力をこめ、動くことを確かめようとする。が、右腕がどうしても上がらなかった。肩を一目見ただけで、思わず目をそらした。骨が砕けたらしく、形が崩れていた。  背中も焼け付くように痛む。要するに吹き飛ばされて、地に叩きつけられたのだな、と彌与は一人合点した。左手で幹に触れる。 「右肩に触るな。触るなと言うに! 何がどうなった?」  返事の代わりに幹が背後を見た。彌与がそちらに目をやると、今の今までいた高殿が、真下で噴火でもあったように木っ端微塵にされ、残骸が燃えていた。 「火の玉が当たったのです」 「鷹早矢は——」  その言葉も途中でかき消された。別の方角で爆音があがったのだ。物見台が絶望的な声を上げる。 「汀《みぎわ》の郭《くるわ》がやられた!」  陣地の東の張り出しのことだった。彌与の周りじゅうでどっと喚声が起こり、兵たちが数に任せて押し寄せていく。騒音をついて彌与は叫ぶ。 「鷹早矢はどこだ! 北の蠍尾砲は放っているか!」 「わかりません、吾は高殿がやられてすぐここへ来たので——」  三度、爆音。北東の物見台が、斧で切られた大樹のようにめりめりと倒れていく。鯨波《げいは》と刀剣の響きが聞こえてくる。そちらでも戦闘が始まったようだ。竹法螺がひっきりなしに吹き鳴らされ、司や長がばらばらに怒鳴り、持ち場に向かう兵が駆け抜け、持ち場のわからない兵がさまよっている。手のつけられないほどの混乱状態だ。 「ええい——カッティ、ひとことで言え。敵の主軍はどこだ?」 「全方位」  彌与は耳を疑った。カッティが、いやに静かな声で続ける。 「鹿と猪の体温が、直前に陣地の周囲全域に集まっていました」 「数は」 「三千八百」  一番近い東の郭で、わっと悲鳴の渦が巻き起こった。血を流した兵たちがまろびながら逃げてくる。彼らは口々に叫んでいる。 「剣が効かねえ」「折れた、折れちまった」  その向こうから、猿猴どもがのっそりと現れた。松明に照らされた輝きは、明らかに今までと違う——粉を吹いたような朱色だ。彌与は志貴山《しきのやま》で見た、はぐれ物の怪の姿を思い出す。幹の剣をいともあっさりとはじいた、硬い体の物の怪を。 「奴らは釜石にたどり着いていたんだ」 「使いの王?」  勾玉から聞こえた声に、彌与は耳をそばだてる。戦闘の真っ最中らしく、ぜいぜいと息切れしている。 「鉄材料と、鉄触媒で生成した煙硝を使っている。一気に千年分強くなったようなものだ。だめだ、今は勝てん。彌与、軍をまとめて退却させろ」 「ここで退くのか!?」 「もっと援軍が必要だ。国外からも呼ばなくては。ぬうっ!」 「使いの王!」  声は途絶える。荒い息遣いと気合だけが伝わってくる。彌与は北の方角に目を走らせる。焼け崩れた柵のさらに向こうで、地鳴りのような喚声と爆音が上がっている。 「女王の御上!」  振り向くと、間近に迫った猿猴どもに向かって、丸太を抱えた屈強の男たちが殺到していた。邪馬台全軍でもっとも精強な隼人たちだ。武骨な顔の一大司がこちらに声をかける。 「お逃げを!」 「押し返したら、軍をまとめろ! ここを退くぞ!」  怒鳴り返して、彌与は立ち上がった。途端に肩に激痛が走って、崩れかける。  さっと幹が左脇に頭をいれ、大柄な彌与を担ぎ上げた。しゃがれたような声でつぶやく。 「御命を、彌与さま。貴女は吾が運びます」  一つうなずいて、今度は周りじゅうに彌与は呼びかけた。 「諸国の男と女ども、女王の卑弥呼に続け。西へ向かうぞ!」  反撃の効果があったのか、おりよく爆音が途絶えた。陣屋や小屋から姿を見せた者たちに、あるだけの荷を担がせてまとめた。隼人たちが先頭に走り、待ちかまえているはずの西側の物の怪どもに備える。彌与は勾玉に声をかける。 「使いの王、西門から出るぞ。早く戻れ」 「殿軍《しんがり》が必要だ。私は残る」 「オーヴィル!」  男の答えは、夏風のような笑い声だった。 「愁嘆場は勘弁してくれ、すぐに追いつく」 「嘘は許さんぞ!」  隼人の一人が馬を引いてきた。幹がそれに飛び乗り、人手を借りて後ろに彌与を引き上げる。驚いて彌与はつぶやく。 「馬に乗れたのか」 「覚えました」  幹が低い声で言い、背を伸ばす、ようやく彌与は、彼の声変わりが始まっていることに気づいた。  顔を上げて叫ぶ。 「門を開けよ!」  松明の火の届かぬ暗がりに、蠢く敵の姿が見えた。それらが一斉に火を放ち、門を破砕する。  突撃する隼人の雄叫びを聞きながら、彌与は青年の背に胸を預けた。  笹子の峠を再び越えることができたのは、二万をわずかに上回る人数だった。その数を保ったまま、邪馬台軍は海までたどり着いた。太古からの邑が残る登呂《とろ》の地で、使いの王も生きて戻り、合流した。  だが、そこで敵に追いつかれた。姿と力を一変させた物の怪どもの攻撃は凄まじく、当たれば当たった分だけ邪馬台軍は打ち倒された。大仕掛けをなくし、寒さと飢えに苛まれた軍勢は、穴の空いた瓶が水を漏らすように、死者と病者を垂れ流しながら後退していった。火箭《かせん》を手に入れた敵勢は王の蜂すら寄せ付けず、反対に邪馬台軍の頭上には、死肉を食《は》むという摩耶《まや》国の大鳥のように、赤鴫が輪を描いて飛び交うようになった。  三万七千が進発した浜名の湖に、生きて戻ったのはその三分の一足らずでしかなかった。 「中国も頼みにならないようです」  雪の降りしきる湖岸に仮設した、陣地とも言えぬ野営地で、カッティが告げる。 「晋《しん》の斉王の軍勢四十万が、華北のET群と交戦しています。驪山《りざん》ステーションのメッセンジャーが加勢していますが、形勢は思わしくありません。東アフリカでの戦闘はビクトリア湖方面に移動、敵勢は増しています。オーストラリアのウルル・ステーションも緊急覚醒。ブルース山に敵群信号網が検出されました」  彌与は無言で王を見たが、すぐに目を逸らした。彼の顔はげっそりとやつれ、身に着けたままの鎧や甲は、穴やひび割れでつぎはぎになっている。大怪我をしていないのが不思議なくらいだ——いや、していないはずがない。 「王よ、体はいいのか?」 「私は治りが早い」  大杯の酒を一息に飲み干して、王が言う。だがそれは懸念の肯定だ。彌与は彼の手を取る。 「少し休め。一日でも、一夜でも……」 「そんな暇はない。——それにこの戦だけは負けるわけにはいかない。これが最後なのだから」 「御主は過去に戻ることができるのではないのか」 「できません。この時代は時間戦略的な拮抗点なのです。十万年前から勝ち続けてきた私たちと、未来を食い荒らしながら遡行してきたETたちとの、最前線です。ここで敗れれば、敵は級数的に増え、過去の私たちを呑み込むでしょう。——ですが」  冷静だったカッティの口調が、わずかに変わる。 「O……時間遡行の無限反復[#「時間遡行の無限反復」に傍点]について、検討したことはありますか?」 「論外だ——」  王は杯を投げ捨てて怒鳴る。 「十万年分の戦いをすべてなかったことにして、また十万年、また[#「また」に傍点]十万年やり直すのか? 個々の時間枝だけでなく、主幹そのものを築きなおすと? そんなことは許さんぞ!」 「やるとすれば反物質の再生産から行わねばなりません。すでに私たちのエネルギーは枯渇しつつあります」 「そうだろう、私たちにはここしかない。今ここを守るしかないんだ!」 「O、それは彌与のためですね?」  王の顔色が変わった。カッティが、詰め寄るような口調で言う。 「彌与がいるから、この時代に固執しているのでしょう」 「カッティ、きさま、なにを考えている」  きしるような声で、王がゆっくりと言う。カッティは抑揚を消した声で低く言う。 「戦略の根本的な見直しを。……大幅な後退と、立て直し。複数の他恒星に移動して、拠点を築く。そのためにはこの時代に残った反物質すべてが必要です。あなたたちの分まで……」 「おまえ一人で戦いを続ける気か? 俺たちすべてを犠牲にしてか!」 「それも選択肢の一つです」  カッティ・サークは冷え冷えとした声で言った。 「時間軍が来ないなら、私が造ればいいのです。——現時間枝における戦況に鑑《かんが》み、私は検討を進めています」 「やってみろ。俺は全メッセンジャーに知らせて、おまえを破壊してやる」 「私は、あなた方全員の凍結コマンドを持っています」 「やめてくれ!」  刃を合わせるような問答に耐えられず、彌与は王の手を握り締めた。 「そんなふうに争わないでくれ! 御主たちは使令を記した使いではなかったのか? 力合わせずに、物の怪を倒せると思っているのか!」  沈黙がその場を覆った。  天幕の外から幹の声がした。彌与が許すと顔を覗かせ、ちょっと王のほうを見つめてから、暗い声で言った。 「邪馬台に送っていた使いが戻りました。伊支馬の上は、春まで援けを送れないと申されたそうです」 「残念でしたね」  他人事のような声を漏らした勾玉に、彌与はキッと目を向けた。カッティのことだから、邪馬台の国情を考えた上で言ったのだろう。しかし今は嫌味のようにしか聞こえなかった。  彼方から爆音が聞こえた。王が剣をつかみ、腰を上げる。彌与はその腕に取りすがる。 「待ってくれ」 「戻ってくるさ」  彌与は王を見つめる。彼の顔には、以前この地で見せていたような、捉えどころのない微笑が戻っている。何の力もない、疲れきった表情。  兵たちを叩き起こす鷹早矢の声が聞こえる。  彌与の右肩がうずく。武蔵野で砕けたそこを、王は後になって不思議な術で治してくれたが、そのとき彌与が知ったのは、急速な回復が常よりもひどい熱と痛みを引き起こすということだった。  ほとんど毎日のように負傷している王が、どれほどの痛みを覚え、消耗していることか。  彌与は立ち上がった。自分の怪我のことなど、これからは口にするまいと決めた。 [#改ページ]       Stage-004/410[#「Stage-004/410」は縦中横]Laetoli B.C.98,579—[#「Laetoli B.C.98,579—」は縦中横]  雄大な密雲の浮かぶサバンナの川べり、硬く乾いた火山灰土の上に、二列の足跡が続いている。大きなものと、小さなもの。はるか古代につけられ、はるか未来まで残るはずの足跡。  そこに、堅固なブーツで無造作に第三の足跡を刻んで、長身の男が歩いていく。 「カッティ・サーク、聞こえるか。オーヴィルだ、到着した」 「お帰りなさい、オーヴィル。こちらの残存戦力は一九四三年の九十七パーセント。あなたは無事でしたか」 「私はな。交戦回数、四〇六回。勝利三六回、撤退三七〇回。残存戦力、四パーセント」 「生還を祝います。他の二十四名に哀悼を」  カッティの声に続いて、仲間の黙祷が感じられた。オーヴィルは熱した大剣で火山灰土に穴をうがち、クエンチたちの遺品を丁寧に埋めた。 「——まだ、折り返し点だがな」 「サブユニットから戦闘記録を受け取りました。概算ですが、各時間枝において救出した人類の総数は二百六十億人に及ぶようです。おめでとうございます」  心にもないことを、と言いかけて、オーヴィルは思い直した。彼女は数字にもっとも感銘を受ける。だから、彼女なりに本当に感嘆しているのだろう。 「こちらの戦況を伝えましょうか。それとも何年か休んでからにしますか」 「構わん、いま聞く」 「では……」「待ってくれ、カッティ。彼の話を聞くほうが先だろう」  アレクサンドルの声が割り込んだ。オーヴィルにとっては実に数百年ぶりに聞く、懐かしい声だ。一方で、彼にとっては、せいぜい数年ぶりのはず。しかしその声には深い労《いたわ》りと敬愛がこもっていた。 「メッセンジャー・O。よく生きてたどり着いたな。みんなあきらめていたが、俺は信じていたぞ。さあ、どんな旅をしてきたのか、聞かせてくれ」 「こんな感じだ」 「なんだ、戦闘記録なんか送ってくるなよ。おまえの口から聞きたいんだ」 「また童話のネタ切れか?」  オーヴィルが答えると、笑いを表すコードが多くのメッセンジャーから飛んできた。決まり悪そうにアレクサンドルが言う。 「それもあるが、それだけじゃないぞ」 「ああ、私も復帰できて嬉しいとも。しかしだ、思い出話は後でいくらでもできる。差し当たり、戦況を聞かせてくれ。五分後に敵が現れるかもしれんからな」 「仕事熱心な奴だな、そうまで言うなら教えてやろう。アフリカは今や俺たちの要塞だ。世界各地と、月のこちら側までの空間にも哨戒迎撃網を張ってある。戦力分布は——」  いずれタンザニアと呼ばれることになる地域の北辺。大陸を引き裂く大地溝帯の中央を潤すビクトリア湖畔が、メッセンジャー軍の拠点になっていた。カッティ・サークが手持ちのすべての機械類を動員して造営した軍事基地。ささやかながら鉱山と工場を備え、蜂や各種の兵器を製造している。二十六世紀を出発した時の戦力には比ぶべくもなく、それどころか一九四三年のドイツ一国にも劣る拠点ではあるが、それでも現下の地球における最強の砦であることは間違いない。  忽然と現れた超近代的な施設の近くに、獣や魚を追ってうろつき回る、みすぼらしい生き物の姿があった。特徴といえば、二本足で立っていることだけ。——彼らが自分たちの主人であることを仲間から知らされたオーヴィルは、最初、拍子抜けしてしまった。だが、水辺へ出て顔を合わせ、何夜かを共にするうちに、確かな愛情を抱くようになった。  彼らはまだほんの数百の言葉しか持っておらず、好戦的で、好色で、いつも飢えており、闇に潜むものや突然の嵐を恐れる臆病者だった。しかし、余った獲物を持ち帰って弱き者に与える優しさがあり、狩りに出れば獰猛な肉食獣にも立ち向かう勇気があり、何より、オーヴィルに親しみ、持ち物や姿のあれこれをつたない言葉でひっきりなしに尋ねる、偉大な好奇と知恵の芽吹きが窺えた。  |考えに考えるヒト《ホモ・サピエンス・サピエンス》——十万年の時の後、彼らが自分たちを創造するのだと考えると、長い戦いで擦り切れ、破れ果てたような気力が、そこはかとなく蘇ってくるような気さえした。 「全地球スクリーニング、完了。六年がかりでした」  オーヴィルが着いて間もなく、カッティが報告した。蜂や衛星が十分にあれば、ひと月足らずで完了したはずの作業だ。時を同じくして、世界各地の地盤の強固な土地に凍結ステーションを設置する作業も終わった。メッセンジャーたちは分散し、いずれ訪れるはずのETたちを待って、眠りについた。  敵は散発的に襲ってきた。繁殖種子のレベルで、あるいは成熟した戦闘体の姿で。この時期の地球には、紀元前百七十万年ごろにあった第一次の出アフリカを経験した、いわゆる旧人たちが各地に小規模なコロニーを作っていた。ネアンデルタール人、ジャワ原人、北京原人……しかし、彼らは索敵の妨げになるほどの文明活動を行っていないため、その中に出現したETは容易に探知することができた。警報が発令される都度、オーヴィルたちは覚醒して迎撃に出向き、多くはさしたる苦労もなく撃破した。  歴史に与える影響の大きさに鑑みて、この時期には極力、新人、つまり人類の活動に干渉しない方針が取られた。だがそれでも、急速に進歩しつつある彼らの多感な大脳に、メッセンジャーたちの存在は少なからぬ影響を与えたようだった。  播種農業が最初に始まったのは、正史よりもはるかに早く、紀元前二万年の、それもメソポタミアではなくエチオピアだった。同時期、第二次出アフリカを敢行した人類の中でも特に果敢なグループが、ベーリング地峡を越えていった先で、国と呼べる大きさのコロニーを作りつつあった。ミシシッピ川の支流に幻のように現れた、大木造建築の群れ——彼らケンタッキーの民が、世界で最初に車輪を発明した。  はやばやと地中海を行き来し始めたフェニキアの海の民が、無謀にも大西洋横断に挑んで成功し、正史とは比較にならない早期に新大陸との交流を始めた。南太平洋では、どうしたわけかある種のカビを用いて傷を治す術が行き渡り——熱帯雨林にひしめく、あの神秘的な生態系から、誰かが抗生物質を含む種を見つけ出したらしい——それが瘴癘《しょうれい》の地ニューギニアを制圧する力を、彼らに与えた。巨石と巨船を自在に操る彼らが、東はペルーから西はアフリカ東岸にまで至る、広大な海洋帝国を築きつつあった。南太平洋の各所に、謎めいた巨石遺跡を残して消えていくはずの彼らが、この時間枝では力強い主流として生き残っていくような気配さえあった。  人類の勢力が増すにつれ、人間同士の争いも増えた。闘争そのものは、彼らの欠くべからざる本質だから、矯《た》められるものではない。なるべく間接的で、かつ効果の大きい抑制手段として、メッセンジャーは範を垂れることを踏み切った。——世に災いあり。それ必ず来たらん。人みな合力して当たらば退けられ、救いの手が現れん。|使    令《メッセンジャーズ・オーダー》はあらゆる共同体に言い伝えられた。  時を下るにつれ、敵勢が増え始めた。倒されるメッセンジャーの数も増えていった。それでなくとも因果効果の影響が表れていた。文明配置を根本から変えるような在り方をしている以上、それが未来において自分たちの作り手を消し去るのは避けられなかった。さまざまな時間枝に密接に干渉して、もはや源時間枝の影響下からかけ離れた存在となっていたオーヴィルを除き、多くのメッセンジャーが消えていった。反対に、ディセンダント・メッセンジャーの数は一向に増えなかった。この時間枝もいずれ滅んでしまうのか、それともメッセンジャーを作ろうとしない文明が未来において栄えるのか——戦闘を繰り返し、ひっきりなしに時間を分岐させるオーヴィルたちには、それすらもわからなくなりつつあった。  紀元前一千年ごろ、フェニキアに代わって地中海全域を支配したエジプト新王国で、比較的大規模なETの発生があった。オーヴィルは、エチオピアからモザンビーク、マダガスカルにまで至る東アフリカを版図に収めた、巨大なアクスム王国の援軍を率いて、ナイルデルタに駆けつけた。エジプト担当のメッセンジャーはアレクサンドルで、彼と協力して、オーヴィルは敵を壊滅させた。  その直後、カッティ・サークから衝撃的な報告があった。 「敵ETとの意思疎通に成功しました」  そのときオーヴィルはアレクサンドルとともに、ギザの六つの大ピラミッドを望むカイロの邸宅で勝利を祝っており、将来アレキサンドリア大図書館に自著を置かせるという彼の野望について話していた。カッティ・サークの声が聞こえると、驚いて聞き入った。 「私はティーガーデン星に探査機を送り込んだのです——いえ、もちろん今ではありません。この時間枝に到着した、十万年前ごろです。反物質推進も核融合推進も望めなかったので、光帆推進の超小型機を十二光年先まで送りました。航行に七万二千年あまりを要し、ここ二万五千年ほど星系を監視していました。そこで彼らと出会ったのです。ET側のメッセンジャー部隊[#「ET側のメッセンジャー部隊」に傍点]と」 「ETのメッセンジャー?」  アレクサンドルがぼんやりした顔でつぶやいた。 「どういうことだ」 「正確には、ETクリエイターの遡行グループです。彼らは遠未来——およそ一億二千万年もの未来からやってきた人々でした。アレクサンドル、ティーガーデン星がETの故郷だというあなたの推測は正しかった。ただし、それは未来においてのことだったのです」 「時制が無茶苦茶だ。もっとわかるように説明しろ」 「西暦の時系列を用います。西暦一億二千万年ごろ、化学合成細菌から進化を遂げたクリエイターたちは、時間遡行理論を手にして過去を調査し、西暦二五〇〇年代に自分たちの惑星が一度壊滅しかけていたことを突き止めました。原因は惑星外からの侵略——地球人類の無人観測基地の設置でした。基地の放出する微量の汚染物質が、彼らの生態系を攪乱《かくらん》し、当時生まれたばかりだった細菌群を激減させていたのです。それを知ったクリエイターたちは復讐を決意しました」 「一億二千万年前の事故に復讐?」  オーヴィルがつぶやくと、カッティ・サークがたしなめるように言った。 「酸素呼吸の人類とは相当異なる種族です。メンタリティも異質です。——しかし異質であっても、想像はできます。オーヴィル、もしビクトリア湖畔のあの朴訥《ぼくとつ》な未開人たちが殺戮されたら、あなたはどう思いますか」 「……それで?」 「それで、クリエイターたちは時間遡行軍を編成し、人類に先制攻撃をかけました。それがET、繁殖し、自律行動する機械軍です」 「では……我々がいた二十六世紀は、すでに改変された時間枝だったのか!」  オーヴィルは驚いて叫んだ。カッティ・サークが肯定する。 「そうです。ETとのコンタクトが成立しなかったのも、こういった事情のためです。彼らは怒っていた——激怒していたのです」  オーヴィルはたとえようもない疲労感を覚えた。にわかには信じられない気持ちだった。アレクサンドルがかすれた声でつぶやく。 「怒りだと……怨恨、復讐か? そんな……そんな理由が許せるか。そんな正当な理由が。カッティ、異質だと? それはあまりにも人間的すぎる!」  彼はヒステリックに笑い出した。オーヴィルは疲れた眼差しで彼を見つめた。 「カッティ。現在——紀元前一千年のティーガーデン星に来ている連中は、何が目的だ? そうか、私たちと同じように、自分たちの先祖を守るためか」 「その通りです。彼らは私の探査機も破壊しようとしました。それを回避して、一時的にでも対話することができたのは、私が報告したからです。正確には非難[#「非難」に傍点]しました。——彼らが二十六世紀の地球を壊滅させたことを。ETを送って執拗に攻撃を続けたことを。分散攻撃によって、世界中の歴史で、オーヴィル、あなたが救った二百六十億人の、十倍もの人間が直接殺され、百倍もの人間が未来の可能性を断たれて滅亡したことを。時間遡行攻撃というものの途轍もない残虐さについて、論難しました。——そして彼らに問うたのです。これで満足かと」 「おまえも怒ったんだな……」  オーヴィルは言ったが、彼女への共感はまるで湧かず、感じたことといえば、しらけた疎ましさぐらいのものだった。ETが何百億殺したというが、この戦略知性体も同じぐらい冷酷に人間たちを見捨てたではないか。 「相手の答えは?」 「それではまだ等価ではない、というものでした。彼らは自分たちの進化が、二十六世紀での事故のせいで、およそ一割は遅れたと考えています。一千二百万年分[#「一千二百万年分」に傍点]です。人類進化が同じだけ停滞するほどのダメージを与えなければ、我々の復讐は完成しない。そこまで聞いた時、探査機は太陽系に向けて報告のバースト通信を行いました。直後、破壊されたもようです」 「十万年かけて使者を送り、唾を吐きかけられて終わったわけだ」 「いいえ、成果はありましたよ」  問う気も起きず、オーヴィルは黙っていた。カッティ・サークは理解しがたい陽気さで言った。 「敵の時間戦略が判明したことです。ティーガーデン星の本拠地を通史的に破壊すれば完全勝利が得られます。でなければ、それを材料に和解を申し込むか。しかしこちらのほうが、はるかに困難でしょうね」 「成算は?」 「どちらも不明です。人類側時間軍の成立が前提です」 「俺たちの仕事には、まるで役に立たんな」 「もう一つ成果がありました。それは、遡行攻撃が有効であることを敵が証明してくれたという点です」  この機械は変質したのかもしれない——オーヴィルは物憂く考えた。遠征の初期の頃には、まだ人間的な疲れのようなものを見せていた。最近ではそんなこともなくなった。冷徹で、頑《かたく》なになり、それでいて調子外れの陽気さを保っている。歴史にたびたび現れる、ある種の暴君の人物像を思い起こさせる。もちろん、任務の過酷さ、立場の孤独さが、彼女を歪めてしまったのだろう。だが、同情する気にはなれない。いずれは彼女抜きで戦うことを考えなければならないかもしれない……彼女自身はそれを検討しただろうか?  同じように沈黙していたアレクサンドルが、目を上げて耳の横でぱちりと指を鳴らした。密談の合図だ。オーヴィルがうなずくと、重い口を開けた。 「もうちょっとで、五千ページだったんだがな」 「何が。……ああ、私がラエトリに着いたころ、二千五百ページを達成していたな」 「そう、大樹の根元にべたべた液の帯を作って、蟹たちが地下へ潜るのを妨げ、根を切られることを防いだ」 「あそこは出色の出来だったぞ。多くの葉を刈られ、さまざまな虫の仲間を殺された青虫どもが、挽回を誓い……」 「そのへんは選ばれた勇敢な青虫たちのおかげだ。彼らが枝から枝へと飛び移ってくれたおかげで、多彩なエピソードができた」 「最後にたどり着いた根本で、起死回生の一手で蟹の侵略を防ぎ、気勢を挙げて団結して、べたべた液とぐるぐる糸で蟹どもを追い上げ始めた。折り返し点にふさわしい山場だった」 「だろう? あそこは書いていて実に盛り上がった。自分の話なのに、続きが知りたくてたまらなくなってな。何かが乗り移ったみたいだったよ。そこから偉大な長老カブトの住む木のうろを訪ね、若木の頃に幹に埋め込まれた、強い光を持つ宝石を掘り出し、無数の蟻たちに木の傷を修復させ……」  彼が十万年の間につづった物語は、いつごろからか、メッセンジャーたちの間でも愛されるようになっていた。アレクサンドルは少年のように目を輝かせて語り、オーヴィルは微笑しながらそれを聞いた。 「……いよいよ『大枝の分かれ始めるところ』までたどり着き、蟹どもを一掃する目処をつけた。そこでの戦いに勝てば、木は生命力を取り戻し、自力で蟹をふるい落とせるようになるってわけだ」 「だが、熊が言った」  アレクサンドルが口を閉ざす。オーヴィルは静かに言う。 「一度も口を利かずに蟹どもの戦いを見守っていた、最大最悪の敵である熊が、言った。おまえたちが悪い。おまえたち青虫が私の寝床のある木を枯らした。だから私はこの木を枯らす。私の木と仲間たちの無念を知れ」  アレクサンドルは大きな肺から風のような息を吐き、肩を落とした。 「……何も、勧善懲悪だけが児童文学だ、とは言わんがね」 「私見を言わせてもらえば、児童文学にこだわることもあるまい。こいつは少し手を加えれば、幻想叙事詩として十分通用するよ。そのつもりで直したらどうだ」 「俺が誰のために書いているのか、忘れたのか」  顔を上げたアレクサンドルを、オーヴィルは痛ましい思いで見つめた。 「覚えているとも」 「書き換えなどしてしまったら、彼女に見つけてもらえなくなる」 「本当にまだ届くと思っているのか?」 「当たり前だろう!」  アレクサンドルは険しい顔で叫んだ。——だが、それきり怒るでもなく、長い間沈黙した。  オーヴィルは天を見上げた。洪水期が終わったばかりのナイルの空は、風に巻き上げられた土で鈍い金色に染まり、大地を覆う真鍮の蓋のようだ。目を下ろすと、庭の水盤に迷い込んだペリカンに、真っ白なトーガを身に着けた美しい少女が魚をやっている。オーヴィルの視線に気づくと、にこやかに手を振った。 「カッティは、なぜ今頃あんなことを言い出したんだろうな」  目を戻すと、大男はあごをつまんで考えこんでいた。オーヴィルは気のない返事をする。 「いま判明したからだろう」 「そうかね。俺は、彼女が話すタイミングをうかがっていたような気がする。つまり、俺たちが戦いの目的を見失い、迷い始めた時を狙ったんじゃないかな」 「なぜそんなことを」 「カンフル剤のつもりなんだと思う」  アレクサンドルは目を閉じたまま眉間にしわを寄せる。 「敵の正体、目的、そして敵の殲滅という明確な勝利条件の提示。そういったものが俺たちに必要になると、彼女は読んでいたんだろう」 「あれが話を捏造したとは思わん。さすがにな。調べればすぐにわかってしまうことだ。しかし本当だとしても……」 「十二光年先の敵本拠を、過去未来にわたって壊滅させろだと? そう言われてやる気が出ると、本気で思っているのかね。少なくとも彼女は、士気というものがまるでわかってない。言い方を変えれば、盛り上がりってものが」  オーヴィルは苦笑した。 「読者としては、どういう経過をたどってもいいから、エピローグまで持っていってくれることを希望する」 「熊に言え」  羽ばたくペリカンに水を浴びせられた少女が、鈴を振るような笑い声を上げた。川の精のように虹をまとっている。そちらを見たアレクサンドルの顔に、ようやく微笑のようなものが浮かぶ。 「あの子は奴隷か」 「ああ、おまけだ。ホルスの化身にしてラーの子、ファラオからこの屋敷を賜《たまわ》った時に、一緒にくっついてきた」 「字は読めるのか」 「あいにく、全然だ。俺が書いたものを鼻紙みたいに散らかしやがる」  テラスに駆け寄ってきた少女が、交差した手を胸にあててオーヴィルに礼をしてから、アレクサンドルの腕に取りついて早口でしゃべり始めた。そのエジプト民衆口語を聞き取ることもできたが、カナリヤの鳴き声のような音楽的な響きが気に入って、オーヴィルはあえて翻訳せずに聞いていた。  何かをしきりに頼み込んでいるようだったが、アレクサンドルは不機嫌そうに首を振り続け、しまいには母屋を指差して叱りつけた。少女は見るからに気落ちした様子でとぼとぼと戻っていった。 「なんだって?」 「虫の話をもっとしてくれと言うんだ。一度、木の股の池で青虫が生まれて初めて溺れたくだりを話したら、えらく気に入っちまって、何度でもせがみに来る。畜生、ナン・マドールの巨石都市で何人死んだのかも知らんくせに」  南太平洋の島に浮かぶ、半水半陸のその美しい都市で、アレクサンドルと仲間たちが戦ったのは、そう昔のことではない。それまでETは、船というもの、つまり気体と液体の境界に浮かぶ移動手段を持っていなかった。おそらく彼らが創造された惑星環境と関係しているのだろう。しかしナン・マドールでは、まさにその原始的な形である、浮き袋の付いた個体が出現しかけていた。  それらを、アレクサンドルたちは多くの犠牲を出しながら討ち果たし、敵が海上を渡る能力を身につける危険を、早期に排除したのだった。  オーヴィルは首を振り、そのときの記憶を念頭から追い払う。 「語り手にふさわしい態度じゃないな。発想元のエピソードなんか、作者にしか関係のないことだ」 「それはそうだが……」  顔を覆うアレクサンドルのためらいが、オーヴィルにはうっすらと感じ取れた。彼は今、自分が当初の目的を見失っているのではないかと恐れているのだろう。アレクサンドルの素性と任務を心得て、すべてを読み取ってくれるはずのシュミナは、錯綜する時の枝のかなたに隠れ、もはや面影も薄れつつある。  それは危険なことだ——だが、オーヴィルはこう言ってやった。 「聞きたがる相手に、聞かせたい話をすればいい……あの子の望むままに。名前は?」 「まだ知らん」 「じゃあ、まずそれを聞け」 「しかし、そんなことをしたら……」  またアレクサンドルは言葉を切ったが、やがてゆっくりと力の抜けた笑みを浮かべた。 「なあ、オーヴィル」 「うむ」 「俺たちは、もう十分に働いた。そう思ってもいいのかな?」 「荷が重すぎるのは認める」  それは、オーヴィルにしては本心を語ったつもりの言葉だった。彼自身は、今の今まで、戦いをやめようと思ったことはなかった。  アレクサンドルは重々しくうなずいた。 「俺たちは、多くの人間を喜ばせることができるのかもしれない。終わらない物語を綴るよりも、もっと多くの人間を……」  オーヴィルは何も言わず、少女が濡らした石畳が速やかに乾いていくさまを見つめていた。  半年後、アレクサンドルの軍法会議が開かれた。彼が自分の凍結を先延ばしにし、現地人と語らって吟遊詩人めいた放浪に出たことが、告発されたのだ。  彼を捕らえたカッティ・サークは、罪状として戦闘忌避をあげた。最重罪である反人類罪をあえて適用しなかったのは、身内の反感を避けるための作戦だったのかもしれないが、それでもメッセンジャーの多くは有罪の票を投じた。  アレクサンドルは一時凍結の判決を受け、彼に適当な償いを命じることのできる司法知性体が生まれてくるまで——メッセンジャーが勝利するまで——眠りについた。  オーヴィルは無記名投票で有罪の票を投じていた。それは、他のメッセンジャーたちのように、軍紀粛正を重んじたからでも、アレクサンドルがシュミナのことをあきらめたからでもなかった。  彼の苦行を終わらせてやりたかったのだ。  アレクサンドルは多分、オーヴィルよりも人として純粋にすぎたのだ。彼が愛したのは個人としてのあの少女だった。そこから想いを敷衍《ふえん》し、もっと多くのものを愛することに至れなかった。だが、それは自然なことだろう。メッセンジャーのほとんどが同じように感じていることを、オーヴィルは知っていた。自分がごく少数の、特殊な例であることも。  そしてまた、オーヴィルは心の底で、一抹の羨望をアレクサンドルに対して抱いてもいた。——呪われた者が、自由になった者に対して抱くような羨望を。  オーヴィルは永遠にサヤカのことを忘れられない。彼女個人ではなく、その理想を愛してしまったがゆえに。  エジプトを離れたオーヴィルは、遠くへ旅立った。数万キロに及ぶ徒歩の旅の果て、荒れる海を幼稚な船で渡った先の、極東の小さな島で、ステーションを築いて凍結に入った。  一千二百三十年後、四百四十七回の戦いを経験した彼を、志貴山に迷い込んだ無効分散体のRETが目覚めさせた。 [#改ページ]       Stage-448[#「Stage-448」は縦中横]Japan A.D.248[#「Japan A.D.248」は縦中横]  光を帯びた斬撃が、周囲のあらゆるものを灼きながら断つ。小枝が飛び、雪煙が散り、巨木が倒れる。それにも増して多いのは猿猴《ましら》の手足だ。鉄、赤錆、鈍銀のかけらが高々と舞い上がる。鈍い溶解音を伴奏にした、きらびやかでさえある剣戟。  三段に並んで崖下の細道を埋めた、井筒負いの猿猴どもが、仲間と戦う王に向かって、一斉に砲火を放つ。王が指弾で放った小粒の爆礫が空中で迎え撃つ。両者の中間で、炎の花が立て続けに開く。猛烈な灰色の煙を、ひと薙ぎの剣風で振り払って、王は再び姿を現す。  卯《うさぎ》の群れが跳びかかる。三倍もよく跳ねる、足長と名づけられた変り種だ。とはいえ今では卯の大半が足長になった。常人にはとても捉えられないような敏捷さで、あちらに跳ねこちらに跳ね、周りを囲んだところで一気に斬りかかる。  刃の耳と光の大剣が、目まぐるしく銀の弧を描いた。ばらばらと飛び散る卯の首や脚に、赤い血の糸が混じる。卯は血を流さない。王の出血だ。  それを尾根の上から見下ろしていた彌与は、低い、そっけない声で背後に尋ねる。 「よいか?」 「あと——少々」 「そうか」  決して怒鳴りはしない。何事にも動じないような無表情で、ただ屹立《きつりつ》している。兵たちは、指が潰れても文句を言わないほどの必死さで励んでいる。急かしても何の意味もない。  内心では喉が裂けるまで王を声援してやりたい。  やがて、息を切らせた兵の長が、支度ができたことを告げると、彌与は幣矛《ぬさぼこ》をかざして命じた。 「落とせ」  反対の沢から吊り上げたいくつもの大岩が、地響きを上げて転落した。寸前まで斬りあって、王は背後に大きく跳ねた。その目前に樹木を巻き込んだ大岩が雪崩れ落ち、二十ばかりの物の怪を押し潰した。  彌与たちは斜めに尾根から滑り降り、駆け戻ってきた王と合流する。彼の手や足に開いたいくつもの傷に、走りながら彌与は触れる。周りを囲んだ兵が、道の先の仲間に知らせるため喚声を上げている。喉から無理に絞り出したような、やけくその声だが、それでも喚声は喚声だ。  王がささやいている。 「カッティ、敵本隊までの距離は。カッティ!」 「約八キロ……すみません、七十分前の数値です。ビクトリア湖ベース、戦闘中。そちらをサポートし切れません」 「追いつかれるまで半日というところか」  それから振り返り、軽く彌与の背を叩いた。 「泣くな。朝までには治る」  柘植の関を破られ、伊賀の地から邪馬台へ撤退する最中だ。剣や矛ではとても立ち向かえない敵を、春まで押し留めるために、ほとんどの兵を先に退かせて砦作りに回した。殿軍《しんがり》は使いの王を含むわずか数十名。天嶮《てんけん》の渓谷に拠ったとはいえ、押し寄せる敵をそれだけで防ぐのは、無謀もいいところだった。連日、いや、数刻ごとに小さな反撃を加えつつ、一行は後退に後退を重ねていた。  谷間が終わり、いよいよ邪馬台の野に出ようかという地点の手前に、尾根のなかばまで材木を築き上げて、谷幅すべてを塞いだ砦が見えた。堂々たる構えだ。道を駆け下りながら王が言う。 「素晴らしい砦だ。狗奴国《くぬこく》あたりが相手なら二年でも三年でも、もつだろうな」 「物の怪が井筒を放てば、三日だ」 「そうでもないさ。空を見ろ、あの雲は雨になる。ゴムがないから、連中は電気系統に弱みを抱えている。次の晴れ間までは休めるさ」  低く垂れ込めた黒雲を見上げて、王が朗《ほが》らかに言った。どぉん……と遠くから冬雷が聞こえた。  彌与は周りの目に気づく。兵たちが王の一挙一動にまで目を注いでいる。彼らが王を慕うことは文字通り戦神を崇めるに等しいほどだ。武蔵野での敗北でさえ、その敬慕を打ち消すには至らなかった。確かに王個人は一度たりとも物の怪に敗れたことがない。  だから王は、決して兵の前で暗いことを言わない。彌与は自分を省みて、恥じる。自分は兵たちの前に立っているだけの役だ。王よりもむしろ自分が毅然としていなくてはならないのに。  砦の見上げんばかりの大門を潜って中に入った。王はそのまま守りにつく。入れ替わりに、物見台から幹が駆け寄ってくる。どうしても側にいたいという幹を殿軍から離して、無理に砦へ行かせたのは彌与だ。はっきりした声で尋ねる。 「皆はどうだった、幹」 「はい、兵はよく働き、司はよく命じておりました。逃げた者はおりません」 「頼もしいことだ。それなら妾がいなくなっても大丈夫だな」 「彌与さま、そのような不吉なことを」 「不吉? 勘違いしておらぬか。妾はこれから午睡を取る」 「午睡ですか?」  幹が口を開けたが、抗議の声は兵たちの笑い声が打ち消した。彌与はいかにも平然とした足取りで天幕に向かった。  奴婢《ぬひ》を追い払って人目がなくなると、見え透いた強がりをした反動で、倒れるように寝床に伏した。藁束を重ねただけの粗末な床だ。高殿や高座のための木まで防壁に回した。ちくちくして快いとはとても言えないが、横になった途端に、頭の中身が地の底へ引きずりこまれるような、もの凄まじい眠気が襲いかかった。歩き回って督戦するだけの役とはいえ、もう三日も眠っていない。  しかし、慌しく訪れた奴婢の足音が、彌与の眠りを妨げた。 「伊支馬《いきま》の上が参られました」 「なに? すぐ行く」  力の入らない体に鞭打って表に出ると、驚いたことに、伊支馬の高日子根《たかひこね》に加えて、彌馬升《みまそ》以下の官奴《みやつこ》たちが、雪浸しの地面に平伏していた。|国  閣《くにのたかどの》の勢ぞろいといったところだ。彌与は幹を探したが、見当たらなかったので、じかに声をかけた。 「いかにした、伊支馬」 「畏れかしこみて申しあぐれば——宮の護り、はなはだ手薄にて、物の怪といわず、狼藉の輩を打ち払うにも事欠く有様にございます。兵どもを纏向《まきむく》の宮にお戻し願いたく……」 「兵を戻せと? ならぬ、今は一兵でも惜しい。東夷《えみし》の地に二万が倒れ、物の怪は伊賀を抜き、すぐそこまで迫っておる。伊支馬、ぬしも見知ったであろう。あの猿猴どもが、倍も、三倍も手ごわくなって、近づいておるのだ」  兵の溜まり場から、取り巻きを連れて鷹早矢がやってくるのが見えた。伊支馬が来たと聞いて礼を表すつもりなのだろう。  伊支馬は顔を上げぬまま、なおも言い立てた。 「御上《おんかみ》の仰せ言、すべて御尤《ごもっと》も。なれど、足萎えの老爺と童ばかりでは、邪馬台の都と唱えるのもおこがましく、なにとぞ五十ばかり、三十ばかりの兵だけでも、おん賜り願い申す」 「だめだ。壮丁《おとこ》が足りぬというのなら、ぬしら官奴が剣を取れ。筆と巾《きれ》を持つだけが能ではあるまい!」  伊支馬の焦慮もわかる——本当なら五十といわず、五千もの男を駆り出したいところだろう。毎年冬には、木を伐り出し、農具や布を造らせ、宮や砦の毀《こぼ》れを繕い、また、水の涸れた川を治す習いだ。今年はそれらを怠《おこた》っているばかりか、夏の農事すらろくに行わせていない。穀倉は空に近く、他国の貢ぎでもっている有様だ。国を預かる彼らは気が気でないのだろう。  しかし今は危急の時だ。邪馬台国を傾けてでも物の怪を防がねばならない。 「話はそれだけか? ならば早々に宮に帰れ」  身を苛む疲れもあり、彌与はそっけなく天幕に戻ろうとした。  彌与は、伊支馬の心のうちを見誤った。彼が伏した面に、鬼火の如き双眸をたぎらせているのを見なかった。半年この方、自分の国を奪われていた男の、恨みの深さを知らなかった。 「——遣《や》れ!」  叫びを聞いた、と思った次の瞬間には、ごぼう抜きに抱え上げられていた。ぷんと匂う男たちが彌与を担いで走り出す。周りの奴婢たちはあっけに取られて動かない。目の隅に、隼人の長の姿が映った。 「鷹早矢!」  鷹早矢が強弓に矢を番《つが》えた。しかし彼は、引き絞った弓を放てなかった。彌与のすぐそばを高日子根が走っていく。一団となった官奴たちが周りを囲む。  鷹早矢が弓を下ろして、吠えた。 「伊支馬の上、どげんして……!」  砦を出た直後、天の堰が切れたような豪雨が降り注いだ。冬とは思えない生暖かい雨にさえぎられ、何も見えなくなった。  彌与が閉じこめられたのは宮の高殿ではなかった。邪馬台のどことも知れぬ小屋で、まだ残っていた伊支馬の腹心らしい兵が二人、見張りについた。だが、弑《ころ》されることも、 辱《はずかし》 められることもなかった。今ではだいぶ俗に近づいたとはいえ、巫王《ふおう》にして親魏倭王の卑弥呼を手にかけることは、さすがの高日子根も恐ろしかったらしい。銅鏡や勾玉を取り上げられたことからも、適当な替え玉を擁して、従前のように国を治めるつもりだと察しがついた。  治める国がなくなったら、元も子もなかろうに……。  見張りの兵は、感心してしまうほど強情で、脅しても哀願しても戸を開けようとしなかった。彌与はあきらめて粗末な床に横になった。たった一枚の板だが、それでも砦の天幕に藁しかなかったのに比べれば上等だ。皮肉なことだった。  疲れた頭に、取り留めのない考えが浮かんでは消えた。使いの王は探しに来てくれるだろうか。それはないと思う。動揺する兵を置いて砦を離れるわけがない。しかし幹は探しに出たに違いない。馬に乗って、雨を突いて、心当たりを片端から当たっているだろう。  騎乗する彼はずいぶん雄々しくなったが、かえって心配だった。血気にはやって宮に忍び込み、返り討ちにされてしまうかもしれない。鷹早矢はきちんと砦を護るだろうか。兵たちは戦うだろうか。もし、砦が破られたら……?  邪馬台が滅びたら、という考えは、つとめて押し殺してきたものだった。今こうして無力に横たわっていると、その恐れが身に迫ってくる気がした。ここが滅びたらさらに西へ退くのか。自国が消えてなおも戦えるものだろうか。幼い頃から慣れ親しんだこの地が、耳成山《みみなしやま》のように焼き払われ、男も女も殺され、あの醜い猿猴たちに埋め尽くされ……きっとその頃には自分も死んでいるだろう。  王は死ぬのだろうか。あの男は、身一つなら、どこまででも逃げられる。逃げて再起を図るというのが、もっともありそうに思える。しかし——彼が自分を見捨てることを、ちらと思いついた途端、胸をかきむしりたくなった。  その反面、彼が討たれて死ぬぐらいなら、まだしも逃げてくれたほうがましだとも思った。逃げて、仇を討ってほしい。武蔵野で、浜名で、伊賀で斃《たお》れた累々たる死者たちへの手向けに——。  彌与は、がばと身を起こした。恐ろしい想像に行き着いたのだ。彼が死んで自分が残ったら[#「彼が死んで自分が残ったら」に傍点]? そんなことがあるわけが……いや、あり得る。砦が破られ、もろともに彼が斃され、自分だけが残る。そうなったら、彼に殉《したが》うのか。邪馬台の習いでは、王や大人《たいじん》の死に女が殉死するのは普通のこととされている。彌与の気持ちからいっても、契りを結んだ彼について逝くことに抵抗はない……しかし、しかし!  そうすることが、許されるのか。  眠気など吹き飛んで、彌与は体を丸めたまま、その苦しい考えを追求し続けた。  戸外にひづめの音がしたのは、三日後の夕方だった。彌与は、はっと立ち上がって、耳をそばだてた。誰かが見張りの兵を怒鳴りつけている。使いの王か?  見張りの立ち去る足音がし、じきに戸を開けて男が入ってきた。逆光に目を細めて相手を確かめた彌与は、息を呑んだ。 「高日子根……」  彼の姿は乱れていた。白かった衣は泥と煤《すす》にまみれ、左の袖が無残にちぎれて浅黒い腕がむき出しになっている。木緜《ゆう》の鉢巻は切れて垂れ下がり、額に幾筋もの血が流れていた。全身から汗の匂いを立ち昇らせ、血走った目を光らせている。  何か言おうとして、一度砂混じりの唾を吐いてから、恐ろしくしゃがれた声で言った。 「御上……卑弥呼さま。お迎えに上がりました」 「どこへ?」 「西へ。茅渟海《ちぬのうみ》を越えます」  右手に抜き身を下げたまま、高日子根が左手を伸ばした。反射的に後ずさって、彌与は問い返した。 「何があった。軍は? 使いの王は? 負けたのか?」 「大負けです。みな討ち死にし……宮も焼けました」  すうっと血が下がり、吐き気を催した。想像し続けたことが現実になった。想像したからそうなったのかもしれない。だとすれば自分のせいで……いや、そんなことはありえない。 「王が、負けるはずが」 「死にました。さあ、早く」  高日子根がさらに手を伸ばす。彌与は首を振り、懸命に言う。 「嘘をつくな、あの男は殺しても死なないほど丈夫だ。何かの間違いだ。兵に聞いただけなのだろう?」 「この目で見ました」  ふらりと足の力が抜けた。頑強な腕に支えられたが、それすら意識していなかった。オーヴィルが死んだ。いなくなってしまったのだ。それなら自分は……。  その時のことを考えてはいたが、いざ実際に知らせを聞くと、底知れない虚無感が襲ってきて、何も考えられなくなった。誰かに体を支えられたまま、ふらふらと歩いていく。おそるおそるといった感じで脇に差し込まれた腕が、急にしっかりと胴を抱き、引き寄せた。 「さあ、ともに西へ……」  その時、彼の裾から何かが落ちて、カツンと硬い音を立てた。見るともなく目をやった彌与の目に、青い光が映る。勾玉。それが声を上げる。 「彌与、そこにいるのか?」  いっぺんに歓喜が湧いてきた。彼の声だ。生きている! 「高日子根! 使いの王は——」  顔を上げた彌与は、凍りついた。憎悪に歪んだ青ざめた顔がそこにあった。 「ぬしは……」  高日子根が勾玉に木の沓《くつ》を乗せ、蝸牛《かたつむり》のようにたやすく踏み潰した。彌与の腰を抱く腕に力を込める。  突然、彌与は獣の牙に挟まれていることに気づいた。感じたことのない強烈な恐ろしさが腰の底からぞわぞわと這い登ってきた。 「わ……妾は、卑弥呼、ふ、巫王の……」 「それだから」  が、と高日子根が口を開けた。唾液を引く黄ばんだ歯が光る。 「煽られるのだ!」  凄まじい欲情のこもった歯が首元に突き立った。なめらかな首筋を生温かい口腔がぎりぎりと噛み覆う。あふれた血をなぞる舌の動きを感じて、彌与は総毛だった。闇雲に腕を振り回し、何か柔らかいものをつかんだ。爪を突き立てて、引きちぎる。 「離せ!」  びりっ、と高日子根の耳介《みみたぶ》がちぎれ飛んだ。鼓膜に突き刺さるような喚きをあげて、高日子根が彌与を突き飛ばす。地面に叩きつけられた彌与は這いずって逃げようとしたが、いくらも動かないうちに、どっと重いものにのしかかられた。息が詰まる。その頭を、容赦のない強力で殴りつけられ、ふっと意識がなくなった。 「吾《おれ》が、吾がどれほど堪えてきたか、うぬにわかるか?」  襟をつかまれて、物凄い力で衣を引き裂かれた。あらわの肌に冬気が触れて、彌与は意識を取り戻す。はっと身を半転させて向き合ったが、貫くような眼光に当てられて、再びすくんだ。尻でいざって下がりながら、あてもなくあたりをまさぐった手が、打ち捨てられていた短い木杭をつかんだ。  それを両手に握り、胸元に構えた途端、高日子根が吠えた。 「それでどうする!」  鼻先に剣を突きつけられた。人を斬ってきたらしい、血のぬめる刃が彌与の顔を映す。 「そんなものは捨てろ! 捨てて吾と婚《くなが》え! うぬはずっと、ずっと吾の物だ!」 「く、婚うものか」  恐怖に縮み上がった喉から、か細い声を絞りだして、はだけた裾の下に杭を持っていく。 「うぬに穢されるぐらいなら、ほ、陰《ほと》を突いて死んでやるわ! 妾は、王の室《つま》だ!」  声にすらならない、憎悪のうめきが男の喉から漏れた。剣を投げ捨てて彼がのしかかってきた時、彌与は目を閉じて、我が身に杭を突き刺そうとした。 「彌与さま!」  叫び声とともに、肉のえぐれる音がした。彌与は驚いて目を開ける。  目の前の高日子根の瞳に、一瞬、血の色が走った。——それが薄れていき、死人となった彼が崩折れると、その向こうに剣を手にした若者の姿があった。 「……幹」  ふっと力が抜けて、彌与は杭を取り落とした。死体を蹴転がして駆け寄った幹が、彌与を抱き起こす。憔悴した目の彼に、彌与は片手を上げて、頬に触れてやった。 「大事ない。ぬしは間に合った、幹」 「彌与さま……!」  髪に顔を埋めて、思い切り抱き締める幹に、彌与は心から安らいで身を任せた。あれほど想っていた使いの王よりも、彼に抱かれるのが一番心地よいのが、何やら不思議な気分だった。  やがて落ち着くと、首の傷の手当てをしながら幹が話してくれた。 「兵たちが自分から彌与さまをお助けに出たのです。伊支馬の上……いえ、高日子根は纏向《まきむく》の宮にこもって応じましたが、三日たっても彌与さまのお姿を見せようとしなかったので、戦いになりました。……はい、宮が焼けたというのは本当です。兵たちが毀《こぼ》しました。彌馬升も官奴たちも殺してしまいました。身代わりですか? 大丈夫です、篠《じょう》は吾が助けました。そこに彌与さまのお姿がなかったので、使いの王に命じられて高日子根を追ってきたのです」 「では、本当に王は無事なのだな」  壊れ物に触れるように、そうっと彌与の首に布を巻いていた幹が、少し間をあけてうなずいた。 「はい。でも、砦は落とされてしまいました。やはり彌与さまがお出ででないと……」 「そうか……」  手当てが終わると、彌与は自分で体のあちこちに触れて、具合を確かめた。幹の視線が強く感じられた。彼に見られるのは少しも不快ではなかったが、先ほどのことがあっただけに、強い敬慕の力で彼が押し隠している本心を、うすうす察することができた。  この青年に対して、初めて気後《きおく》れを感じた。それを紛らわせようと、彌与は笑みを浮かべた。 「いつもいつも、ぬしに助けてもらっている」 「それは、吾の喜びです。お気になさらず」  表情を消して幹が一礼する。そのこめかみに、初々しい耳鬘《みずら》を結っている。  もう、大人だな——そのひとことを、彌与は飲み込んだ。  小屋から出ると、東の方角に太い黒煙の柱が何条も立っていた。この場所は邪馬台の西の端の、二上山《ふたかみやま》のふもとだった。 「間もなく使いの王が残兵を率いて参られます。下で合流しましょう」  幹が馬に乗って手を差し出した。  やがて、眼下の街道を兵と庶人《もろびと》たちの列がやってきた。力のない足取りだが、まだ兵の列はしっかりと保たれていた。逃亡や暴行をはかるものは出ていないようだ。この期に及んでなお、それだけの威令を行き届かせる王に感嘆しながら、彌与は列に加わった。見える限りの男たちから歓声が上がった。  馬上から手を振ると、声が高まった。皆の喜びの波がひしひしと体に迫ってくる。あの時、身を貫いて自死せずに本当によかったと彌与は思った。  行列を先に行かせて後ろへ下がると、彼が見えた。 「使いの王……」 「彌与」  例によって彼は最後尾を歩いていた。彌与が鞍から飛び降りて寄り添うと、彼がささやいた。 「無事だったか?」 「ああ」  彼に向かって、彌与はもう少し何か言いたかった。自分がまだ彼の室であることを。——だが、王の顔を見ていると、そんな言葉は要らないような気がしてきた。彼の目は、三日前と少しも変わらず、帰ってきた彌与を受け止めてくれていた。  だから、口から出たのは、たいして重要でもないようなことだった。 「高日子根は幹が討った」 「彼ならやると思っていた」  討たれた者より討った者のほうがずっと大事だったらしく、嬉しそうにうなずくと、王は懐から勾玉を出して、改めて彌与の首にかけた。 「ほら、代わりだ。二度となくすなよ」 「うむ……」  ふと見ると、幹の乗馬はすでに前方へ去っていた。少し胸が痛んだ。  彌与は王と並んで歩く。先を行く兵たちがひっきりなしに振り返るのを叱りつける。 「前を見よ、進め!」  それから声を潜めて言った。 「先のあてはあるのか」 「足の動く限り進むしかない。住吉津《すみよしつ》に船があれば流民を逃がす。なければ西へ」 「その先は?」 「言うな」 「言わいでか、助けが来るのだろう? |使  令《つかいのおきて》にそう書いたのは御主ではないのか!」  長い沈黙があった。やがて王は、それとわからないほど小さくうなずいた。 「きっと来る」  二上山のふもとを巻いて河内の野に入る前、最後に振り返ると、かなたの纏向《まきむく》の都に、砂鉄の粒のような群れがわらわらと蠢いているのが見えた。  住吉津に船はいなかった。みな、危機を聞いて逃げてしまったのだ。西国各地から、なお増勢が来るという知らせはあったが、今のところ、茅渟海《ちぬのうみ》に面した津《みなと》は人気のない、打ち捨てられた邑でしかなかった。  流民は多く、兵は少なかった。それでも彌与は女子供を北へと逃がし、男たちすべてに命じて津を囲む濠を掘らせた。何もせずただ逃げていたのでは、足の差で追いつかれ、縦横に殺戮されることを、彌与たちは東夷の地で身に染みて学んでいた。どうしても途中で足止めする必要があった。  とはいえ、彌与には迷いがあった。逃げるかどうかということではない。故郷を捨てるかどうかということだ。この地を離れるぐらいなら、ここに骨を埋めるほうがいい、そんな思いが、かつてなく強い。  彌与の思いを感じ取ったのか、兵の顔にも決死の面持ちが浮かび始めていた。流民の群れが陣を出て行く都度、妻子に永の別れを告げる兵たちの泣き声が、冬原にこだました。  数日の後、夜半から頭上の鳴き声が増え始めた。王の蜂はすでに空から消えている。赤鴫《あかしぎ》の声だった。夜明けの空に、秋の蜻蛉《せいれい》のごとく飛び交う赤鴫が見え始めた時、物見が叫んだ。 「来たぞお……」  生駒の山を乗り越えて、数え切れぬほどの物の怪が現れた。彌与は陣の門に登り、王と八千の兵が周りを固めた。  井筒の猿猴どもが口火を切った。陣を半円に囲んだ彼らが一斉に弾を放ち、それが不気味な音を立てて降り注ぐ直前、王が叫んだ。 「持ちこたえろ! 物の怪の火弾はせいぜい一発か二発だ!」  語尾に爆音がかぶさり、幾十人もの兵が吹き飛ばされた。残りの兵は息を殺して耐え、やがて徐々に喚声を上げ始めた。  物の怪が煙硝を産するのは、二千里以上も遠い釜石の地だ。邪馬台までの激戦で弾を使い果たしていると見た王の勘は、正しかった。彼の言が当たったと見た兵は凄まじい気勢を上げ、一丸となって向かっていった。  居並ぶ猿猴に丸太をぶち当て、群がって斬りかかり、よじ登って目を潰す。矛を振り回して卯を遠ざけ、強弓の矢を打ち込む。暴れる猿猴の棍棒に骨を折られ、頭を割られ、鎌で断ち割られても、少しもひるまずに突きかかる。彼らの頭上に立つ彌与は、赤土の文様もくっきりと巫王のいでたちを新たにし、朗々と戦歌を歌い上げている。寒風になびいて右へ左へと揺れ走る歌が、男たちの戦意を狂おしいまでに高める。  足を折られ、腰を割られた猿猴が、津の手前まで広がる水田に倒れる。その程度の傷ならすぐにも起き上がってくるはずだが、この住吉津では痺れたように震えたまま動かない。鷹早矢が繰り返し怒鳴っている。 「転ばせ、蹴っ倒せ! 物の怪ば塩水に弱そ!」  満潮の際に堤を切り、一面の水田に海水を入れておいたのだ。ただ蹴倒すだけでいい、そのことがどれほど助けになったことか。日ごろ馬鹿にされている痩せた兵、小柄な兵、すばしこいだけの子供までもが、時を得たりとばかりに駆け回り、歴々たる戦果を上げた。  昼を待たずに、陣の周りには物の怪の残骸が貝塚のごとく積みあがった。何千もの敵を倒し、人の軍はこのまま物の怪を押し返すかと見えた。  一声の叫びが、戦況を覆した。 「南の濠が埋まったぞ!」  海水を満たした、城柵よりも堅固なはずの濠。猿猴どもはそこに、我が身の朽ちるのも構わず雪崩を打って飛び込み、埋め橋を築いてしまったのだ。その上を渡って続々と仲間が押し寄せ、猛然と陣の内を食い荒らしにかかった。  その最中、別の方角からも悲痛な叫びが上がった。 「鷹早矢の上がやられた!」  彌与は見た。前線で何匹もの卯を射止め、矢が尽きれば巨大な鉄棍《てっこん》で猿猴と渡り合っていた鷹早矢が、背後にするりと回りこんだ卯の耳の一閃で、首を高く飛ばされるのを。  それがもたらした効果は劇的だった。彼を中心とする五十歩の円のうちで、まるで落雷を浴びたように兵の動きが止まったのだ。次の瞬間には殺到する猿猴どもが彼らを踏みにじっていた。  比類なき剛者《つわもの》の死を悼む間もなく、彌与は門から駆け下りて陣内の援護に走った。その頭上を、蜂どもが追い越していく。最後に残った十数尾を、王は彌与の護りに与えていた。天幕や炊屋《かしきや》を蹴破って暴れていた猿猴に蜂が襲い掛かり、たちまち目や首を食い破って殺した。追い立てられていた兵たちがまばらな歓声を上げる。  だが、それだけだった。後から後から入り込む猿猴が、蜂を叩き落とし、切り刻んだ。  そこへ、前線を支えきれなくなった兵たちが、どっと戻ってきた。彌与の周りじゅうで壮烈な斬り合いが巻き起こった。「彌与!」と叫ぶ声に振り向くと、少し離れたところを駆けて来る使いの王の姿が見えた。彼の後ろからも卯が蝗《いなご》の群れのように跳ねてくる。  その時、勾玉の声が聞こえた。 「全メッセンジャー、ならびにこれを聞く全人類に伝えます。ビクトリア湖ベースの最終防衛線が突破されました。間もなく私の本体も破壊されるでしょう。しかし、現在接近中の敵は、すべてベースから五十キロ圏内にあるコロニーで誕生したものであることが確認済みです。コロニーを破壊すればアフリカ戦線の敵の八割を殲滅できるでしょう。——私は残りの反物質を用いて自爆します。爆発のエネルギーはおよそマグニチュード九。近隣の友軍は今すぐ、ただちに退避を始めてください。周辺各ステーションは対震・対電磁衝撃防御態勢を取ってください。インド洋岸の友軍は津波に備えてください」 「彌与さま!」  背中合わせに幹が寄り添った、残りの兵も集まってくる。どの顔にもこれで終わりだと書いてある。彌与は叫ぶ。 「あきらめるな、渚に走れ!」  陣地から搾り出されるように、彌与たちは砂浜へ後退する。使いの王が後尾を死守している。 「続いて、各メッセンジャーに個別伝達——オーヴィル、そして彌与。四分前までのあなた方の行動をすべて見ていました。私は心配です。すべての戦線の中でもあなた方が最も苦戦しています。手を貸せないのが心残りでなりません。私に余力があれば助けられたものを——」 「何を言う!?」  彌与は嘲笑した。目前に敵を控え、体を張って立ち向かっている人間の見せる、それは優越だった。 「口を出すだけの主に何ができる? それで戦っていたつもりか? 自惚《うぬぼ》れるな。これは妾たちの戦だ。主がおらずとも妾たちは生き、死んでやるわ! 惑わしの魔女め、疾《と》く失せろ!」  ほんの短い間、カッティは考えこんだようだった。防ぎ矢を放つ兵たちに守られて、彌与は凍りつくような海水に走りこむ。冬の荒々しい波がざぶりと身を揉んだ。 「私を、不要だと?」 「噫《おお》とも!」 「なるほど——その意気、感に堪えません。もしかするとそれは答えでさえあるかもしれません。私は、私が死んだ時間枝[#「私が死んだ時間枝」に傍点]を検討しなかった」  またカッティが沈黙した。何を考えているのか、彌与には推し量りようもなかったが、やがて彼女が口にした言葉には、今までにない軽快さがあふれていた。 「ありがとう、彌与。それは私の最期に相応《ふさわ》しい言葉のようです。死にすら意味があると言われるのは。——ごきげんよう、健闘を祈ります」  声は途絶えた。  意表を突かれた気分だった。最後の最後で、あのしたたかな魔女に感謝されるとは。彼女を、あろうことか、喜ばせてしまった。その戸惑いがたちまち、怒りに変わった。 「——一人で勝手に死におって!」  まだ、彼女の真の姿すら見ていない。立ち去られて初めて、彼女の存在の濃さがわかった。こんな最後を望んでいたのではない。せめてあと一度——そう、ぐうの音も出ないほどやりこめてやりたかった!  わずかな物思いも、周囲に立て続けに起こった爆発に、たちまちかき消された。二、三体の猿猴が、まだ井筒の火弾を残しており、水に入った彌与たちに向かって撃ち放ったのだ。  激しく沸き散る水煙の中、身を低くしながら彌与は怒鳴った。 「みな、無事か!」 「どうにか!」  兵たちが叫び返す。ほとんどの者は水に潜って避けたようだ。彌与はわずかに安堵する。  だが、その短い間に、残兵の退却を助ける防ぎ矢が途切れた。  砂浜に目をやった彌与は息を呑んだ。最後まで浜に残って切り結んでいた使いの王が、七、八匹の卯に囲まれ、立て続けに刃を食らった。 「オーヴィル!」  彌与は悲鳴を上げた。それで兵たちも気づいた。口々に悲鳴を上げる。  五十名ばかりが決死の覚悟で浜に駆け戻って、倒れた王を海中へ引きずってきた。水面に浮かべて体を支え、彌与のところまで連れていく。すがりついた彌与は、彼の胸と腹にぞっとするほど深い切り口が開いているのを見た。 「オーヴィル、しっかりしろ」 「彌与か……」  王はまだ目を開けていた。だが、声はかすれ、口の端からは細い血の筋が漏れていた。 「聞いたぞ、たいした啖呵だ。胸がすっとした」 「早く傷を治せ、治せるのだろう?」 「やっている。だから泣かずに話を聞け。いいか、人を守れ。国だの、故郷だのは捨てろ。そんなものはいくらでも作れる。そんなものはなくてもいいんだ。これさえあれば」  みしり、と骨が鳴るほど強く手を握られた。その力強さに彌与は安堵する。 「わかったから、ちょっと黙れ。けが人がそうしゃべるな」 「サヤカ」 「なに?」  王が、宙に視線を走らせ、彌与の顔に目を留めた。 「ああ、彌与——」  突然、その顔から力が失せ、微笑むような穏やかな表情が浮いた。  ぐったりとした手を、彌与はきつくきつく握りしめたが、指の力強さは戻らなかった。膝ががくがくと震えだした。「オーヴィル?」と顔に触れる。だが、色の薄い瞳は、もうその手を追ってくれなかった。  彼の手を強く握って体を支え、彌与は何度も唾を呑みこんだ。どれだけきつく目を閉じても、あふれ出す熱いものを止められなかった。  ずしゃり、としぶきが上がる。力失せた兵が膝を突いたのだ。身も世もなくおうおうと泣き出す兵もいる。王の頬にも、彼を抱えた兵の涙が落ちる。号泣が広がり、軍を覆おうとした。  だが、彌与は崩れなかった。嗚咽《おえつ》の漏れそうな喉から、気力を振り絞って息を吐いた。一度、二度、三度——そして言った。 「黄幢《はた》を」  濡れた袖で乱暴に目を拭って、周りを見回した。悲嘆に暮れた顔が連なっている。もう一度息を吸い、出せる限りの大声で喝した。 「黄幢を立てよ! 卑弥呼の大旗を! 妾はまだ倒れてはおらん!」  兵が顔を上げる。不思議そうに、聞き違いかと思ったように。王から離した拳を強く握り締めて、彌与は真っ赤な目で周囲を睥睨する。 「立て! 北へ、西へ向かうぞ! 物の怪は海に入れぬ。奴国《ぬこく》へ渡り、対馬国へ渡り、漢土へ渡ってでも生き延びるぞ! 立て、泣くな! 故郷など忘れろ! 吾《われ》らのある限り邪馬台国は滅びぬ! 人の類は決して物の怪に負けはせぬぞ!」  嗚咽が止む。おずおずと兵が立ち上がる。汀《みぎわ》で様子をうかがう物の怪どものことなど忘れたように、彌与の周りに男たちが集まる。黄幢はない。東夷の地で破れて、すでにどこにもない。だが兵の一人が旗付きの矛をかざした。裂けて汚れた小さな旌旗《のぼり》。彌与はその下に歩み寄る。声を張り上げる。 「妾に事《つか》え、決して死なぬと誓うか!」  おお、と声が上がる。彌与は首を振ってさらに叫ぶ。 「|瀚 海《つしまのうみ》を泳いででも渡り、漢土までも従うか!」  噫《おお》! と叫びが上がった。力強さを秘めた、本物の喚声だった。彌与は波をわけて北へと歩き出す。 「来い! 生ける者はすべて来い!」 「噫《おお》!」  幹が叫んだ。千余の兵が和した。北風を押し戻すほどの、堂々たる鬨《とき》の声だった。  天に白光が閃いた。  見上げた彌与は目を疑った。そこに船がいた。船なのだろう、総身を鉄《まがね》で鎧った、長さ一里もあるかと思われる浮かぶ巨体を、船と呼べるなら。  呆然と見守る彌与たちの頬が、今度は青白く照らされた。浮船の両舷から、針のように細く絞り込まれた光が、頭上を越えて走ったのだ。  光が砂浜を、陣地を、水田を薙いだ直後、その痕跡を追うようにして、火炎の壁が吹き上がった。まるで地の底の溶けた岩が、大地の裂け目から噴出したような光景だった。  物の怪どもの大軍の、まさにただ中でその災厄は巻き起こった。おびただしい物の怪が小石のように弾き飛ばされ、砕かれ、歪んだ悲鳴を上げながら焼かれていった。  波打ち際にいる彌与たちも、熱風に襲われた。濡れた裾で顔をかばいながら、声もなく岸を見守る。  なおも光は何度も放たれ、そのたびに地響きと熱風が彌与たちにまで届いた。じきに、まぶたの裏まで青く染まるような光が、ようやく弱まると、この世のものとも思えない光景があった。  真っ赤に溶けて燃えくすぶる大地。海水が一瞬で沸き散って、塩田のような白茶色の荒地になった水田。そこに数え切れない物の怪の死骸が重なり、胸の悪くなるような臭いの煙を噴き上げていた。 「降りてくるぞ」  兵の叫びに振り返ると、浮船がゆっくりと海に降りてきた。  やがてその船から、小船がこちらへやってきた。その舳先《へさき》に誰かが立っていた。目を眇《すが》めて見つめた彌与は、やがて口元を押さえた。丈のあるその姿は——まさか?  そばまで来た小船から、男が飛び降りた。彌与は震える声でささやく。 「……オーヴィル?」 「いや、違う。俺はオメガ。二十一世紀時間軍、パスファインダー」 「違う?」  そんなにも似た声と顔なのに? いや、よく見れば確かに違う。顎の線は彼のほうがたくましい。髪の色は彼のほうが薄い。この男は少し若い。  オメガは周囲を見回し、ひとかたまりの兵が運んでいた使いの王の亡骸《なきがら》に近づくと、彼の瞳を覗き込んだ。一瞬、二人の目の間を、糸のように細い光がつないだように見えた。 「触るな!」  怒気も荒く彌与は駆け寄ったが、オメガはすぐに体を離した。彼のつぶやきが聞こえた。 「メッセンジャー・| O 《オリジナル》。まさか魏志が事実を記していたとは。よくもそれほど戦ったものだ……」  オメガは亡骸に向かって左手を額に当ててみせた。その奇妙な行為に、まぎれもない敬意がこもっているのを見て、彌与は足を止めた。  振り向いたオメガが言う。 「この方は葬り方を指定していたか」 「葬礼《はぶり》のことか? いや、何も。だが、渡しはせんぞ」 「なら、あなた方に任せる。丁重に葬ってやってくれ」 「ぬしは何者だ?」 「どこから話したものかな……」  オメガは軽く首を傾げたが、彌与が疑いつつも尋ねると、顔をほころばせた。 「使令にある、援《たす》けの者たちか」 「そうだ。我々はET掃討にやってきた。あなた方に代わって敵を討つ」 「なぜ今頃……なぜもっと早く来なかった! ぬしらさえ、ぬしらさえ来れば王は死なずに済んだのだ! それに鷹早矢も、倭国の兵も!」  目の前が暗くなるほどの怒りにかられて、彌与は詰め寄った。だがオメガは穏やかに首を振って言った。 「それは違う。我々はこの時点より前に来ることができなかった[#「できなかった」に傍点]んだ。なぜなら、我々の時間枝は、たったいま産まれたのだから。この戦いで産まれたのだから。貴女が[#「貴女が」に傍点]産んでくださったのだから」  オメガはまた左手を額にかざし、慎重なほど恭しい口ぶりで言った。 「貴女が、卑弥呼女王だな?」 「そうだ」 「二四八年末、住吉津の戦い。二万の物の怪に攻め寄られ、壊滅に瀕した邪馬台軍を、卑弥呼が叱咤激励して逃がした。後、彼女のもとで再び倭国は栄え、はるか後代に連なる日本国の 礎《いしずえ》 を築く。……我々が知る正史だ」  オメガの瞳には、永く別れていた母と再会したような、温かい敬慕の色が揺れていた。彌与は彼の言葉をじっくりと噛み締めて言った。 「では、ぬしは妾の子の孫の孫……遠い子孫か」 「子孫に作られた知性体——いや、そうだ。その通りだ。遠祖、卑弥呼よ。貴女がなくば、世界中の戦線も波及的に崩壊していた。全人類と全歴史に代わって、深く感謝する」  深々と頭を下げるオメガを、彌与は言葉もなく見つめていた。  やがて頭を上げると、オメガは再び小船に飛び乗った。 「どこへ行く?」 「もちろん、東へ。ETを倒しに」 「妾たちを放っていくのか?」 「我々はあらゆる干渉を行ったメッセンジャーとは違う。ETの掃討以外は、決して歴史に触れぬよう命じられている。そのように正史にあるから[#「そのように正史にあるから」に傍点]だ。我々の正史は、我々の防衛によってETを排除し、かくて完成する。時間軍の任務はそれ以上でも以下でもない。それに——」  舳先を返す小船で、オメガが笑ったのが見えた。 「あなたは干渉をひどく嫌うひとだ。そうだろう?」 「オメガ!」  小船は速やかに沖へ走り、大船に飲み込まれた。やがてその大船も浮き上がり、彌与たちの頭上を越えて東の空に消えた。  後には寄せては返す波の音と、燃えはぜる浜の音だけが残った。何が起こったのかわからず、ぼんやりしていた兵たちが、彌与のもとに集まってきた。 「御上……」「女王の御上?」 「勝ちだ」  気抜けしたような思いで、彌与はつぶやいた。 「吾らの鬨の声が、援けを呼んだ。もう物の怪は来ない。使令の援けが、すべて討ってくれる」  彌与は周りを見たが、半信半疑の顔ばかりだった。無理もない、と彌与は思った。彼らは自分がかけた強力な 呪《まじない》 にかかっている。それを解くには、昂ぶった気持ちをぶつける他の何かがいる。  そのための格好の口実が、目の前にあった。 「使いの王を葬礼《はぶ》る。男ども、王を陸に上げよ。大いなる陵墓《みささぎ》を築くぞ。兵の亡骸も集めろ。殉者としてともに葬るのだ。それから……大いに泣こう。涙の涸れるまで」  王の葬礼、という言葉は、それなりに彼らの心をつかんだようだった。ざわめきながら亡骸を囲んだ兵たちが、重い足取りで砂浜に上がり始めた。喜びの声はなく、戸惑いの色ばかりが濃かった。それは当分続くだろう。  だが……。 「彌与さま」  傍らを行く幹が、目に涙を一杯に溜めていた。王が死んだ時にも声を上げなかった彼が。  幹は彌与にだけ聞こえる声で言った。 「吾は一度、思ったんです。使いの王が来なければよかったと。あの人が彌与さまを奪ってしまったから。だけど、そのせいで王は……」 「よい。——もうよい、幹」 「吾は、吾はひどいことを」  幹が声を上げて泣き出した。寒気を突いてその声は流れ、再び兵たちのすすり泣きを誘った。  彌与は彼の手を握り締めた。王を慕う彼に、心からの慈しみが湧いた。この男なら、この先もずっとわかり合えるだろう。彼の思い出を胸に、添い遂げていくことができるだろう。 「ぬしが生き残ってくれて、妾は嬉しい」  彌与は曇る目をこすって、前を見た。泣いてなどいられない。卑弥呼は再び邪馬台国を築かねばならないのだから。  そして、王の墓と志を守り継いでいくのだ。 [#改ページ]       Stage-Ω[#「Stage-Ω」は縦中横]Japan A.D.2010[#「Japan A.D.2010」は縦中横]  時間軍旗艦「セクンドゥス・ミヌティウス・ホラ」が、関西宇宙港沖の錨地に静かに着水すると、岸辺で花火が上がり、消防艇が放水を始めた。  パスファインダー・オメガは、艦橋から見える祝祭の様子にも気づかないほど深く、自分の記憶を思い返すことに没頭していた。  オメガの記憶——それは、あの波打ち際で王の亡骸から読み取ったもの。  魏志倭人伝にのみ記されていた伝説上の存在、メッセンジャー・オリジナルから受け継いだものだ。  昔はメッセンジャーの存在自体が伝説上のものだと思われていた。しかし、十八世紀ごろから発掘調査が進み、エジプトや白アフリカ地域に伝わる、いかなる宗教とも関連のない不思議な伝承が見直されて、史実だったのではないかと徐々に考えられ始めた。「四百枝録」あるいは「昇り降りする虫の物語」と称されるその伝承は、時間戦争をモチーフにしたと解釈できる、三百篇以上のエピソードで構成された長大な民話で、結末の部分を除いた各篇が、互いに関係のない多くの民族によって口伝、あるいは刻伝されていた。  やがて二十世紀に入り、隕石衝突口だと思われていたビクトリア・クレーターで、反物質爆発の痕跡が確認されたことが、決め手となった。少なくとも何者かが西暦三百年ごろまでの地球でETを防いでいたことは、公認の事実となった。  今回の時間軍派遣は、伝説の真偽を調べる学術的な意味もあり、オメガが初めてそれを確かめたことになるのだった。  それにしても、凄い……メッセンジャー・Oが余さず記憶していた、二十六世紀でのETとの遭遇から数百戦の戦闘記録に浸るにつれ、オメガは限りない感嘆の念を覚えていた。学術的な記録としても、ひとりの戦士の武勲としても、その記憶は計り知れない価値を持っていたが、オメガの感じ方はそんな通り一辺のものではなかった。彼の記憶を持ったことで、オメガは自分自身のこととして、それを振り返るようになっていた。  もとよりそういう造りではある。知性体の記憶の受け皿になるには、同じ肉体を持った知性体が最適であるという観点で設計されたのがオメガだ。他人の記憶を受け継ぐということに、オメガは最初、若干の抵抗を抱いていたが、彼が受け取ったのは、そんな些細なこだわりをかき消すほど素晴らしいものだった。  この男を知ることができたのは……いや、この男を継ぐことができたのは、きっと、とても光栄なことなのだろう。これからの過去未来に予定されている、ETとの戦いにおいて、この記憶は大いに役立つに違いない。  ひとつ、意外なことがあった。——それは、巨大な戦功を受け継いだにもかかわらず、それに当然付随しているはずの、戦士の矜持《きょうじ》や自負といったものが、少しも湧いてこないことだ。  つまりメッセンジャー・Oにとって、そういったものは重大ではなく、むしろ旅路を通じて抱き続けたある思いこそが、彼の心の核に当たるらしかった。  これは……とオメガは、経験したことのないその感情を確かめる。空白だ。ただ空いているというのではなく、そこにあったものがなくなったという気持ち……なくなり、追い求め、まだ得られていない。寂寥《せきりょう》の気を漂わせるその隙間が、心を冷ましている。  小さな空白だ——だが、旅路の全行程にわたってその空白が及ぼした効果を考えた時、オメガは背筋に薄ら寒いものが宿ったように感じた。よくもこれほど永く……。 「泣いているのか?」  窓際に立つ艦長の声で、オメガは物思いから覚めた。目頭に指で触れて、答える。 「いや、なんでもない」 「桟橋に着いた。かなりの歓迎ぶりだぞ」  オメガは立ち上がり、ハッチに向かった。  桟橋に出ると、艦長がごく控えめに言ったのだとわかった。かなりの、どころではない。桟橋には手を振る人が鈴なりになっている。特別開放された宇宙港のエプロンまで人で埋まっているようだ。首都大阪の人口の半分ぐらいは集まっているのではないか。  世界史の各地を侵しているETという災いを、初めて取り除いたのだから、歓迎されて当然だが、ただの見物人にしては多すぎるように思えた。 「こりゃかなり宣伝が入ってるな。時防省め、無駄なことに金を使いやがって」  同僚のパスファインダー・アルファのつぶやきに、オメガは微笑みながら答えた。 「そうひねくれたものでもないさ。これはこれでいい」  武骨な黒人の姿をしたアルファが、不思議そうに言った。 「丸くなったか? 皮肉屋のおまえさんらしくもない」 「そうだな」  軽く答えて、オメガは桟橋を歩いていった。  突き当たりに、歓迎の花束を抱えた娘たちがいた。省や国連のお歴々が周りを囲んでいる。いくら盛り上げたいといっても、これはやりすぎだ、とオメガは顔をしかめそうになったが、先頭の娘の顔を見ると、ひと目で皮肉な気持ちが消えた。 「おつかれさま、パスファインダーはん」  娘が花束を差し出す。関西標準語とは微妙に異なる発音。きれいな黒髪で、小麦色に焼けた肌に、特徴的な赤い彩文を描いている。首にかけた銀のチェーンには、イミテーションには見えない勾玉が揺れている。  古風で野蛮なようにも、未来的なようにも見える。それは、日本のある古い土地で、民族衣装として伝統的に伝えられている装束であることを、オメガは思い出した。 「きみ……飛鳥府の子か」 「ややわ、なしてわかりはったの? そうおす、私、飛鳥の生まれ」 「名を聞いていいか」  オメガが尋ねると、不意に、娘が目を見開いた。何かを思い出そうとするように、くるりと瞳を回してから、決まり悪そうに言う。 「知ってるお人や、おへんよね?」 「だと思うが」 「沙夜《さよ》、いいます」 「沙夜か」  オメガは胸の高鳴りを不思議に思いながら、おずおずと言った。 「後で会いたい」 「ええ? あの、ほんまに?」  娘が頬を赤らめる。  オメガはうなずき、花束を受け取った。