[#表紙(表紙3.jpg)] 明治の怪物経営者たち(3) 小堺昭三 目 次  大倉喜八郎  益田孝《ますだたかし》 [#改ページ]  大倉喜八郎《おおくらきはちろう》——死の商人にして風流人 [#ここから1字下げ]  天保八年(一八三七)越後国(現新潟県)の豪商の家に生まれる。明治六年(一八七三)、大倉組商会を設立し、西南戦争、日清・日露戦争などにおける軍需品の調達・輸送で巨利を得る。東京電燈会社、大日本麦酒、日本化学工業、帝国劇場、帝国ホテルなど幅広い事業を手掛けたほか、積極的に大陸進出をこころみた。昭和三年(一九二八)没。 [#ここで字下げ終わり] ハイカラな越後人たち  なぜなのか越後新潟には古来から、たいそうハイカラでナウい県民が多い。雪深く寒い地方にありながら、ふしぎに海のかなたの新文明を、一生けんめいに吸収してゆく気風があったようなのだ。一説には、北陸路を通ってくる京都文化が、刺激していたからだと言われている。  尊皇攘夷の乱世——安政六年(一八五九)に開港したばかりの横浜の、外国人セールスマンから購入したランプを「最初に家庭で使用したのは長岡の人」という記録が残されており、わざわざ横浜までショッピングに出かけていったのだった。越後人はすでに採掘した原油を精製し、石油が燃料エネルギーの主役になる、その時代がくるのも予見していた。  明治時代になるとすぐに田畑を処分し、大挙してアメリカへ渡航、写真術を学んで帰国、さっそく文明開化の東京において写真館を営業したのも新潟県人たちであった。  東京—横浜間に≪陸《おか》蒸気≫が走る、日本最初の国有鉄道(京浜鉄道)の発祥地である新橋|汐留《しおどめ》駅において開業式が挙行されたのは明治五年十月。たいへんな見物人で、なかには≪陸蒸気≫に暗箱(組立式写真機)を向けているものもいる。明治天皇のお伴で参議陸軍元帥の西郷隆盛、大蔵|大輔《だいゆう》の井上馨、大蔵三等出仕の渋沢栄一ほか美人の女官らも列席、軍楽隊が賑々しく和洋合奏をおこなった。  金モールや提灯で飾られた、この真新しい汐留駅舎を建てさせてもらったのは、三十六歳の大倉喜八郎である。彼はこれから発車する≪陸蒸気≫の乗客となり、横浜港へむかうことにしていた。欧米旅行へ出発するのだがその目的については後述するとして、じつは彼も越後人なのである。新発田《しばた》の出身、天保八年(一八三七)の生まれ。  煉瓦路といわれる銀座通りが日本一のショッピング街へと発展してゆく、そのきっかけをつくったのも彼である。ときは明治十五年。銀座二丁目にある彼の大倉組商会本社の二階に、アメリカ直輸入の発電機を据えつけ、夜になると歩道の上に出した二千燭光のアーク(白熱)灯に点灯させた。一帯が真昼の明るさになったものだから通行人はびっくり仰天。これが銀座新名物の一つにもなって、夜な夜な苦学生たちが集まってきてその下で、読書したりノートをつけたりしたという。  これは喜八郎が渋沢栄一らと東京電燈会社設立を出願、大倉組商会内にその設立事務所を同居させた……アーク灯で話題づくりするのはそのためのPRであり、 「このように電気万能の時代を到来させて、はやく東京を明るく発展させましょう」  と官庁に対して設立許可を催促しているのでもあった。  余談ながら——  イタリアからやってきた五十人のチャリネ曲馬団が、神田秋葉原の原っぱにサーカスの天幕を張り、これもたいへんな話題になったものだ。ミニスカートや水着姿の金髪少女の空中ブランコの妙技、肉感的な娘たちのアクロバットな踊りを見せられて江戸っ子たちが、鼻の下を長くしたのもこのころである。  その後、この曲馬団は全国を巡業してまわった。新潟へもいった。コックを兼ねた青年団員の一人が、観客の黄八丈《きはちじょう》の着物姿の新潟美人にひと目惚れして、二人は恋仲になってしまった。情炎にこがれるまま、周囲のはげしい反対にもめげず、二人は国際結婚した。青年は新潟の町に住みつき、マカロニを食べさせる日本最初の小さなイタリア料理店を、愛する彼女とオープンしたのだ。  新橋汐留駅を建設した土木建築部門を、もっと拡充させるために喜八郎は分離し、日本初の法人建設企業である日本土木会社を設立した。同社が明治二十二年には築地の木挽《こびき》町に和洋折衷、三階建て、日本最大の大劇場である歌舞伎座を落成させた。麹町区山下町には渡辺譲設計の、木造純洋風の帝国ホテルを竣工した。外務卿井上馨の≪鹿鳴館時代≫で、客室数は六十、シングルは一泊二円七十五銭也、ツインが九円也だったという。  しかし、残念ながらこれは大正十一年、失火によって焼失。そののち新築された帝国ホテルが、アメリカの建築家ライトの≪名作≫であるのはあまりにも有名だ。  こうして喜八郎は三井・三菱・住友にはおよばないにしても、 「もしかすると古河市兵衛、安田善次郎、藤田伝三郎、浅野総一郎らには負けぬ財閥をつくりあげるかもしれないね。気宇壮大、スケールの大きな人物だ」  と世間一般からも注視されはじめる。  今日の千代田火災海上、日清製油、東海パルプ、大成建設、大倉商事などの創業者にして、大倉商業学校(現在の東京経済大学)の創学者でもある。  頭角をあらわしてゆけば当然、人となりや経歴に好奇心が集中する。世間のだれもが詳細を知りたがる。だがハイカラな越後人の喜八郎には、知ってほしくないものが一つだけある。絶対の秘密にしてひた隠しにかくし通したい……というほどの屈辱的なものではないが、なるべくなら詮索してほしくない過去であり、 「あいつの若いころは武器商人だった。人殺しの道具を、人殺しが好きな連中に売って儲けていた。やつが売りつけた洋式鉄砲で何百人、いや何千人、いやいや何万人の日本人が同士射ちして死んでいったことか」 「徳川幕府のために戦う新撰組や彰義隊《しょうぎたい》の残党、白虎隊の少年たちもみんな、やつが売った鉄砲やピストルで、野良犬みてえに射殺されたそうだ。亡霊に悩まされているんじゃないのか」  そのようにささやいているにちがいない世間の声が、聴こえてくるような気がするのだ。  作家小島直記の『人材水脈』によれば——  功なり名とげてからの喜八郎が、近所に住んでいた文豪の幸田露伴に対して、自分の伝記を書いてほしいようなことを口にしたら、それっきり露伴は「離れた」そうだ。小島はそこまでで筆を止めているが、喜八郎の過去にふれなければならないのは、露伴としても苦痛で、まったく執筆する気になれなかったのではないか。  幕末の鉄砲商人  喜八郎は、城下町新発田の裕福な名主の家に生まれている。治水墾田に努力を要するきびしい土地柄だったが、彼自身には貧苦した思い出はない。  母親が色白の雪国美人なので、彼は日本人ばなれした顔立ちのなかなかに美男子である。が、不運がつづいた。父親が急死、その翌年の安政元年(一八五四)には、あとを追うようにして美人の母親も他界してしまった。  青雲の志に燃えていた喜八郎は名主を継ぐには若すぎるし、すぐさま江戸へ出ていこうと決心。越後の驍勇《ぎょうゆう》上杉謙信も関東に攻め入って北条氏康の小田原城を攻囲したし、関東|管領《かんれい》にもなったではないか。おれは江戸で必ずや商傑になってみせる、と単純に自分に誓う十七歳であった。  安政元年はペリー提督の黒船が来航、幕府とのあいだで神奈川条約(日米和親条約)が調印されたころで、江戸市中は騒然としていた。もちろん、自分が人殺しの飛び道具を取引するようになろうとは思ってもみない。  路銀と当座の生活費として、実姉から二十両もらっていた。黒船来航の社会不安から江戸では盗賊が横行、奉行所は発見現場において斬殺することを認めていた。とにかく無宿人にされたくないので喜八郎は、紹介者なしに麻布飯倉の土佐名物のかつお節を売る老舗《しにせ》に飛び込み、手代見習として置いてもらうことにした。ふところの二十両には手をつけず精勤した。さすがは大江戸だ、と驚歎させられた事件が起こった。江戸城本丸御金蔵から小判四千両を盗み出した犯人二人が捕縛され、千住において磔刑《はりつけ》になったと、かわら版はいうのである。安政二年四月のことだ。  このころ——  のちに安田財閥を築く安田善次郎もやはり十七歳にして、越中富山から江戸へ出てきていた。彼は天保九年の生まれだから、喜八郎より一年後輩。しかし、すぐに絶望して富山へUターン、越中富山のクスリ売りの行商をやめて再び二十歳でのこのこのぼってきた。  海産物商に奉公したもののつづかず、富山と江戸のあいだを往復すること三度、日本橋小舟町の両替商に雇われてやっと腰がすわった。そして、食うものも食わずで我慢しながらコツコツと蓄えた小判が二十五両。元治元年(一八六四)、この二十五両を≪命綱≫にして同じ小舟町で銭両替商「安田屋」をオープン、これが≪金融財閥≫へはい上がってゆく第一歩となるのだった。  だから前垂姿の喜八郎と善次郎は、使い走りに出たときなど、どこかの街角か橋の上ですれ違ったりしたことがあるかもしれないが、面識はまったくない。喜八郎も彼なりに二十両の財テクにはげみ、越後長岡の人が横浜の異人から買って日本人ではじめてランプを使用した……その時分に独立、二十一歳にして下谷《したや》上野町のせせこましい横丁で、かつお節店「大倉屋」ののれんを出している。  ところが——  乾物類の売買には、とんと身がはいらなくなっていた。自分でもはがゆいが、どうにもならない。開港したばかりの横浜を見てきた連中の、商館や異人の話が耳にこびりつき、気になってならないのだ。  時代は大転換期——乱世になりつつある。新鮮な≪舶来風≫が吹いてきている。神奈川条約が締結される一方では、尊皇攘夷派を徹底的に弾圧する「安政の大獄」がふたをあけており、喜八郎ら町人らが見ても幕府打倒の革命戦争が起こるのは必至であった。  某日、喜八郎は横浜へいってみた。 「安政三年三月四日、あなたも知っている飯島量平さんが、おかあさんの仇討ちを果たしたので新発田藩庁が、その手柄をほめて足軽から士分に取り立てました」  との便りを故郷の実姉からもらった喜八郎は、まだそんな時代遅れの封建的なことをやっておるのか、とばかばかしく思えて、なおのこと外国人たちの生活やビジネスを見てみたい衝動にかられたのだ。  オランダ人やアメリカ人やイギリス人たちのための居留地が、神奈川奉行の命令で横浜の山の手につくられた。そこに木造二階建ての住居を兼ねたオフィスがいくつもできた。インド、広東、香港、上海などからきている商館マンや船員らがたのしむ「遊歩道」地区があり、そこに「チャブ屋」とよばれるようになる、日本人娼婦が住むハウスも建った。なかでも「岩亀楼」が有名で、外人客はこの時代ですでにボウリングや玉突きもやっていた。  眼を皿にしながら喜八郎は、胸もどきどきさせながら商館前をうろついた。ペリー提督が『日本遠征記』に、アメリカ大統領からの徳川慶喜将軍へのプレゼントである模型機関車や電信機を見せてもらった、未開の日本人たちの姿や表情について、 「毎日毎日、武士や民衆が飽きもせず群がってきては、模型機関車や電信機をうごかしてみせてくれと両掌を合わせて頼み、いつまでもふしぎそうに熱心に見守って帰ろうとはしない」  というふうにユーモラスに記録しており、居留地を見てまわる喜八郎の姿や表情もまたそのとおりであった。陸揚げされたいろいろな品物が、商館の軒下に山積みされている。箱入りの香りのいい、三色のマーブル化粧石鹸というのがある。木箱に詰めた鉄砲や弾薬がある。火をつけるためのマッチ、医薬品だという阿片|烟草《たばこ》もある。布地を縫うためのミシン、ブーツやハイヒールやこうもり傘なんかもある。  それらを穴のあくほど見つめていて、喜八郎は自分をはげます。そそのかす。 「これだ、これだよ。呑気にかつお節や干鰯《ほしか》なんか並べて売っている場合じゃねえや。女たちがよろこぶ化粧石鹸やミシン、男たちがほしがる新式の鉄砲、短筒……どちらでもいい、こういうのを売ってがっぽり稼がなくちゃ」  要するに、平和の時代のそれか戦争の時代のそれか……いずれでもいいからタイミングよく勝負してみたい、と自分に選択させるのだった。幕府の役人ばかりでなく商館には各藩の、密命をおびているらしいお忍びの武士も出入りしている。  喜八郎は速戦即決を好むが、すぐさま飛びかかる男ではない。東海道をとってかえしながら、宿場町品川の女郎衆にも眼もくれず、自分にぶつぶつ言う。まずは貿易の常識、洋式鉄砲の知識、それに外国語も多少は身につけるべきだろうと考えた。まっすぐ下谷へは帰らず八丁堀の、イギリス人のマジソン商会横浜店との取引をメインにしている、小泉忠兵衛銃砲店の紺ののれんをくぐっていた。  翌朝には「大倉屋」をたたんでしまい、かつお節は近所の人たちにくれてやり、この「小泉屋」の手代見習になって再スタートした。だからといって、石橋を叩いて渡るほどの慎重|居士《こじ》ではない。忠兵衛の≪カバン持ち≫で横浜の居留地へかよう。青い目の商館マンたちと顔なじみになる。銃器弾薬をほしがる各藩の、江戸屋敷へ裏木戸から出入りする。カタログで、ある銃の分解図面を見せて売買交渉をやる。こうして喜八郎はお得意様の人脈づくりにもはげむのだった。  銃砲に関する専門知識、取引におけるノウハウ、それぞれの商館の長所短所などを半年がかりでおぼえると、主人忠兵衛の許しを得て独立すべく、神田和泉橋通りで大倉屋銃砲店を開店した。店番の小僧を一人おいた小さな店である。最初のうち商館は、年代物の旧式中古銃しか取引してくれなかった。  ときに慶応元年(一八六五)、二十九歳。イギリスは長州藩に肩入れし、フランスは幕府を操っていて一触即発の瞬間は迫りつつあり、井上馨や伊藤博文らが幕府軍の長州征伐に備えるべく、坂本龍馬の亀山社中を通じて、長崎の英商グラバーらからさかんに御禁制の新式銃を入手していたころだ。いまでは脱藩者坂本龍馬は喜八郎なんかとは、くらべものにならぬくらい大きなスケールの武器商人でもあった。そのころ岩崎弥太郎も長崎土佐商会留守居役として、土佐藩のための武器を多少は取引している。  その『岩崎弥太郎』で述べたごとく、当時の長崎にきている異民族の商人たちのことを、イギリス長崎領事のペンバートンが「まるで死肉に群がる禿鷹のようだった」と表現していた。とくに清国における阿片戦争、太平天国の乱のどさくさに武器を売り込み、いままた日本の維新戦争につけ込んで巨利を掴《つか》もうとする武器商人たちは、続々と横浜へもやってくる。「死肉に群がる」鋭い眼をくばりながら爪をといでいる、そんな連中を相手に喜八郎は、互角に取引ができる≪死の商人≫になり得るのか。 (とにかく、やってみるしかない。単身、武田信玄の本陣へ斬り込んでいった上杉謙信のごとく、死中に活を求めよう!)  自分を叱咤《しった》しつつ彼はまず、護身用として南北戦争に使われたアメリカ製の五連発——レボルバー拳銃を二挺買い、これを角帯に差して早かごを雇い、江戸—横浜間を往復するようになった。美男子が左右の腰に拳銃をぶち込んでいるのだから、りりしくて町娘たちが振り返った。慶応二年になると江戸にも、表を西洋風に模擬した西洋料理店が開店したり、西洋絹布や毛氈や西洋食器などを陳列するスマートな店ができたりした。  銃砲取引はもちろん、キャッシュでなければ応じてくれない。さらし首が並べてある気味のわるい鈴が森の刑場近くでは、浮浪者のほか浪士団が出没する恐れもあり、小判を守るためにも早かごが必要なのだ。しかし、いろいろと苦労はさせられても、 (鉄砲商人だって八百屋や魚屋と変わるところはない。相手が勤皇方だろうと佐幕派だろうとかまうものか。現金を用意してきてくださるお方なら、どなたにでも公平にお売りしていいのだ)  喜八郎はこの姿勢に徹するつもりだった。  新撰組が京都三条の旅館にいる勤皇志士らを襲う「池田屋の変」が発生、いよいよ官軍対幕軍の本格的な戦闘が開始された。が、内乱だけにとどまらない。米・仏・蘭・英の四国連合艦隊が関門海峡において長州藩砲台と交戦、陸戦隊を敵前上陸させた……そんな事態にもなってきて、外国との戦争にも発展しかねなかった。  名古屋地方では♪よいじゃないか、ええじゃないか……の≪お札降《ふだふ》り≫を狂舞する群衆の、不気味なパワーが爆発しはじめた。それが流行となって西は京都から大阪へ、東は東海道をくだって江戸市中へとはいり込んできた。慶応三年のそのころになると、薩長連合軍が討幕作戦を展開、弱気の徳川慶喜は大政奉還を上奏させた。が、アンチ徳川の公卿らが、それだけでは承知せず王政復古の大号令を発した。幕府の勘定奉行|小栗忠順《おぐりただまさ》は、江戸は滝野川に火薬製造所を起工させ、徹底抗戦するつもりだったが、もうそのころには、 「二刀流の宮本武蔵や、北辰一刀流の千葉周作のような剣豪剣客でもダメだ。遠くから新式銃でズドーンと狙い撃ちされれば、一巻の終わりだよ」 「新撰組がいくら命知らずでも、鉄砲や大砲の一斉射撃にはかないっこねえ。鳥羽・伏見の戦では屍の山になっちまったそうだ」  と洋式銃のことが話題になって、リッチな商人たちでさえも自衛のためのエンピール小銃や連発ピストルを、血眼になって買い求めた。  おかげで「大倉屋」も繁盛する。  が、江戸にもいよいよ危険が迫ってきた。「大倉屋」の近所に日本初の西洋洗濯店——クリーニング店がオープンした慶応四年、幕府陸軍総裁の勝海舟と東征総督府参謀の西郷隆盛が会見、江戸開城に合意したが、江戸の町は戦火からのがれることはできなかった。幕臣たちで組織した彰義隊と佐幕派各藩の脱走兵らが上野の山に集結、江戸における最後の抵抗をこころみたからである。  江戸市民は子どもの手をひき、家財道具を背負って右往左往する。戦闘状態に突入したのは五月十五日の朝からだが、その前夜、「大倉屋」の雨戸を蹴破って抜刀した彰義隊の数人が踏み込んできた。殺気立って、 「江戸で商売させてもらっておきながら、徳川様の恩恵を忘れたのか。官賊らに鉄砲を売って儲けている裏切者め!」  と責め立てる。  すでに見せしめに粛清されてしまった商人は何人もおり、喜八郎の運命ももはやこれまでかと思われた。官軍が江戸市中の治安維持にあたっているが、すぐには助けにきてもらえそうにない。  兵器産業か、平和産業か  首すじに冷たい刃《やいば》を当てられて観念した喜八郎は、居直って本音を吐露し、イチかバチかの勝負に出るしかない。 「これでもわたしは、徳川様びいきでございます。なぜならば、外国船と異人を撃ち払えという朝廷や薩長の田舎者は、もはや時代遅れです。救いようのない古い人間どもです。これからは幕府のご重役がたがすすめておられるように、大いに門戸をひらいて開国し、すぐれた文明の利器を活用すべきで、わたしは鉄砲ばかりではございません、化粧石鹸もミシンもマッチも輸入します」  幸運にもこれが死中の活路となった。  在庫のエンピール銃二十挺、実弾三百発、護身用ピストルの二挺も掠奪され、 「あしたまたくる。百挺ほど仕入れておけ。代金は持参するから安心せい」  と言われて喜八郎は承知せざるを得なかった。が、かれらが闇に消えてゆくと、すぐに店を飛び出した。百挺仕入れてきても、ほんとうに代金を払ってくれるかどうかはわからない。クソいまいましい。いまのうちにどろんしてしまえ、と舌打ちして避難したのだった。  翌日にはやはり現われなかった。かれらにはその余裕はなかった。大村益次郎の命令一下、千二百戸もの民家が炎上類焼するのもかまわず砲撃戦がつづけられ、あっというまに官軍斬込隊に蹴ちらされた三千余人の彰義隊と脱走兵らは、荒川を渡り、東北地方へと敗走しはじめたのである。  江戸市中における官軍の権威が確立した。  が、喜八郎は用心のため、日本橋十軒店にある空家を「これからも彰義隊が反撃してきて、ここも灰になってしまうかもしれませんね」と言いつつ値切って買った。そして、その日のうちに「大倉屋」を、こちらへ移転させたのだった。  戦場は足早に江戸から遠のいてゆくが、だからといって喜八郎の商売は閑古鳥がなくわけではない。どこかに戦場があるかぎり繁盛するようになっている。その証拠に思いがけず喜八郎は、遠くの弘前藩と大きな取引をする商機を得たのである。  東北地方の各藩は徳川支持、朝廷嫌いだからただちに奥羽二十五藩が結集した。これに会津、長岡、庄内の三藩も加盟して奥羽越列藩同盟が結成された。ところが弘前藩十万石は、いったんは盟友になりながらも脱退してしまった。朝廷派に寝返ったのであり、そうなれば当然、同盟軍の報復がこわい。  幕命により蝦夷地の警固に派遣されたこともあるので、弘前藩にも多少の火器はある。が、いずれも古い装備——旧式大砲や火縄銃であり、雨の日は使用不能になる。  そこでこのさい、新式小銃を装備した洋式軍隊を編成したい。しかし、財政事情が極度にわるい。江戸家老が「彰義隊に首をはねられそうになっても動じなかった。きもっ玉のすわった飛び道具屋がいる」と聞いて喜八郎を招き、茶菓をご馳走して、 「連発銃は一千挺ほしい。ほかに洋式軍隊用品の一切……ラッパとか軍服とか軍靴もほしい。イギリス人の軍事顧問も招きたい。ただし、藩政改革、緊縮財政をとりながらの現状だから小判がない。エンピール小銃は一挺につき三十両、ないしは三十五両するそうだが、とても払えっこない。当藩が蓄積している白米ではどうだろう。洋式小銃を装備した一千人分……洋式軍隊用品の分もふくめて一人につき十俵で手を打ってもらえまいか」  との商談をもちかけてきた。喜八郎は腰を抜かさんばかりになった。「じつは、これは藩主津軽|承昭《つぐあきら》の頼みなのだ」と言われて、なおさらあいた口がふさがらない。  慶応二年から明治二年にかけての四年間、全国的な連年大凶作がつづいているので、白米はむしろ現金以上に高価だ。一千挺では一万俵だから米相場によっては何倍もの儲けになる。喜八郎はふるえながら承知した。  横浜へすっ飛んでいって、オランダ人のエドワルド・スネルの商館で、一千挺は無理だったが五百挺のエンピール銃を仕入れた。弘前藩主の白米五千俵譲渡証文を担保にしたのだ。ついでに蒸汽船一隻をチャーターして、これに自分も乗り組み、青森港へむかって北上した。  嵐が待ちうけていて、積荷もろとも海の藻屑にされてしまうかもしれない。五稜郭がある箱館《はこだて》を拠点としている幕軍残党の、榎本武揚の軍艦に拿捕されて小銃はうばわれてしまうかもしれない。結局、儲けがゼロになるだけではない、一生かけても精算しきれぬ借金をかぶることにならないとも限らぬ。  いろいろと喜八郎は船中で思い悩むが、このときほど一世一代の大仕事をしている、充実した自分を感じたことはなかった。儲けは二の次にして「弘前藩に洋式軍隊をこしらえてやった」誇りと快感があるのだ。  事実、喜八郎のおかげで俄然、弘前藩の兵力はつよくなった。藩主津軽|承昭《つぐあきら》が陣頭に立ち、官軍の進撃に呼応して佐幕派の盛岡や八戸藩へ攻め入り、これを撃破した。明治二年の箱館戦争では、完全な新政府軍として活躍、榎本武揚軍を投降させている。  幸運が幸運をよんでくれる。弘前藩のためにやったこの大仕事がきっかけとなり、奥羽征討軍に必要な軍需品の調達と輸送を一任させてもらえるようになったのだ。だから喜八郎は軍属として大量の労務者たちも動員、日当を奮発した。  会津若松へむかっていたとき、こんな情報を耳にした。会津藩攻略が近づいていた十月初めのことである。 「勇猛な河井継之助の率いる長岡藩兵が逆襲して長岡城を奪回したものの、九月十日に再び新政府軍によって占領されてしまい、戦火で二千五百戸も焼失した城下町は廃墟と化した。ところが隣りの新発田藩は百姓一揆が起こっていたため、その対策に苦慮させられ、奥羽越列藩同盟の一員でありながら、新政府軍に抵抗できないでいた。それゆえ佐幕派であるが攻撃されず、廃墟にもならなかった」  よかったよかった、と喜八郎は思った。故郷の新発田が無事なので安堵したのであり、 (百姓一揆が新発田藩を救ったとは……この世の中は何が幸いするかわからぬ。おれの場合は、人殺しの道具に助けられている。しかし、ペリー提督の来航をきっかけとしてはじまった維新戦争もいよいよ終わりに近づいている。残っている戦場は会津若松と箱館だけ、この二つが陥落するのも時間の問題だ。さて、戦争が終わってしまったら、おまえは何をするつもりだ?)  と自分に問う。これからはマーブル化粧石鹸とかミシンとかドレスとかの、女性たちがよろこぶものの貿易に努力してみたい。外国商館との商権のうばい合いもやりがいがある仕事だ……そのように思う。  やはり、箱館での一戦を最後に維新戦争は終結した。それなのに戦争とのつながりがまだまだ、幸運をよんでくれる。奥羽征討軍に従軍しながら軍需品の調達と輸送を一任されているとき、土木工事や建築工事のための土木労務者や大工も動員し、手配したことがあった。そのことが日本最初の国有鉄道の、新橋汐留駅の駅舎建築やレールの敷設工事を請け負わせてもらう奇縁につながったのだった。  たいへんな見物人が群がる新橋汐留駅前での、明治天皇を迎えての開業式のあと、そのまま喜八郎が≪陸蒸気≫の乗客になって横浜港へむかうことにしていたのは、通訳同伴で欧米各国の商工業視察に出発するためだったのだ。  団体の一員として政府から派遣されたのでも、外国人のだれから招待されたのでもない。自分と通訳の旅費を負担しての、日本人最初のプライベートな海外旅行なのである。  女性たちによろこばれる平和の時代の商品を輸入するにしても、外国商館との商権をめぐる争奪戦を展開するにしても、だれよりも早くそれらを徹底的に研究するには、やはり本場を見ておきたいのだった。そしてもう一つ、胸中の片隅にはまだ、 (この地球上から戦争や紛争が絶滅してしまう……ことはあり得ない。戦争は平和のためにあるのか。平和は戦争のためにあるのか。人類が望んでいるのは共存か、征服か。軍事力をゆるがせにしていない先進国の、兵器産業はどのようになっているのか)  と、ひっかかるものがあるのだ。現にドイツとロシアの軍事協定が成立したり、フランス軍のベトナム進攻が開始されたりしているからだ。フランスはプロシアにも宣戦布告、いわゆる普仏戦争がはじまっている。  貴顕淑女のための密室か  洋行した日本人のすべてがそうであるように、大倉喜八郎にとっても欧米での見るもの聞くもの驚歎あるのみだった。  勝海舟を団長として福沢諭吉やジョン万次郎らが、わずか二百五十トンの咸臨《かんりん》丸で太平洋を横断したのは万延元年(一八六〇)だ。そのときのアメリカ見聞を福沢が『福翁自伝』に書いていて、たとえば—— 「三、四月暖気の時節に氷があろうとは思いもよらぬ話で、ズーッとめいめいの前にコップが並んで、その酒を飲むときのありさまを申せば、列座の日本人中で、まずコップに浮いているものを口の中に入れて、肝をつぶして吹き出すものもあれば、口から出さずにガリガリかむ者もあるというようなわけで、ようやく氷がはいっているということがわかった」  とあり、真冬でもないのに氷塊を浮かせたオンザロックが飲めるのにも仰天したのだ。冷蔵庫のないその万延元年から十二年がすぎているとはいえ、喜八郎の毎日もそんな調子だったらしい。  なのに、この欧米旅行で彼にとってもっとも有意義だったのは、日本人との出会いであった。ロンドンの高級ホテルにおいて彼は、遣外使節団として歴訪中なので新橋汐留駅の開業式には欠席——していた外務卿の岩倉具視、大蔵卿の大久保利通、参議木戸|孝允《たかよし》、副使の伊藤博文らの一行とばったり顔を合わせたのであり、 「おお、あんたがそうなのか。弘前藩を助けてもらったおかげで、奥羽征討が早々にうまくいった。お名前はよく耳にしておった。政府を代表してご尽力に感謝します」  大久保に声をかけられて感激した。 「ヨーロッパへきて見かける日本人は、政府関係者ないしは派遣留学生がほとんどだ。経済人でしかも単身とはご立派ご立派」  と岩倉もお世辞でなく言った。 「御用達《ごようたし》をたまわって、わたしなりに努力しましたあの当時のことを、まさかロンドンにきておほめいただくとは、思ってもみませんでした。身にあまる光栄にございます」  目頭を熱くしながら喜八郎は平身低頭、新橋汐留駅での開業式が盛大だった模様も語った。岩倉も大久保もよろこび、故国をなつかしがった。その晩、喜八郎はホテルでの食事に誘われた。  このとき岩倉は四十八歳、大久保が四十三歳、伊藤三十二歳、そして喜八郎が三十六歳……いずれも男盛りだし、明治初期のリーダーたちの大半は四十代と三十代だったのだ。男盛りだからこそ、外国へきて会った同胞に対しては、同じ釜のめしを食った仲以上の、特別の友情も芽ばえる。こうして岩倉、大久保、伊藤らを知り得たのが喜八郎に「政商」の道を闊歩させ、新たな幸運がまたしても、新たな幸運を道づれにしてくれるのだった。  翌六年——  欧米歴遊から帰国した喜八郎は、銀座二丁目に貿易と商事を業務とする大倉組商会本社を置いた。たのもしき味方を得た。背広姿で現われた旧弘前藩主の津軽|承昭《つぐあきら》が、かつての恩にむくいたいと申し出て株主に加わってくれたのだ。  つぎの七年には喜八郎は、はやくも世界経済の中心地ロンドンに支店を進出させた。三井物産はまだこの世になく、従って有名な三井物産ロンドン支店よりもはやい、日本の商社として進出第一号である。  案の定、戦争は彼を大いに必要とした。  ロンドン支店を進出させたそのころに起こった台湾出兵には、内務卿大久保利通の命令で征台都督御用達として、明治十年の西南戦争ではやはり陸軍御用達として銃器・弾薬・兵糧の調達と輸送——政府軍のための輜重《しちょう》任務に全面協力したのだ。台湾出兵の場合の喜八郎は、二百人余の軍夫たちを現地の風土病で死なせてしまった。不可抗力だが、遺族にさんざん恨まれた。  三井物産の馬越《まごし》恭平が≪福の神≫であったとよろこんだ西南戦争は、喜八郎にとっても願ってもない好機だった。やはり大久保の要請で彼は、飢饉に苦しむ朝鮮への救援米輸送にも従事し、釜山へ渡航した。沿岸定期路までもストップさせて岩崎弥太郎の三菱船が、すべて御用船として九州の戦場への海上輸送をやっている……そこに目をつけた。  そのため九州以外の各地……とくに東北地方では流通が停滞、物資不足が深刻になりつつある。釜山から帰ってきた喜八郎は、あちこちの漁船を大量にチャーターした。大倉組商会の半纏を羽織った社員らを分乗させ、それら深刻になっている僻地に衣類・雑貨・砂糖などをピストン輸送する。 「小型漁船一隻にはいくらも積荷できない。が、三十隻五十隻とまとまれば、三菱の汽船にだって負けるものか。地方の人たちへのこの善意は、いつか必ず実を結ぶことになる」  と計算してのことであり、事実、積荷は感謝されつつあっというまに売り切れた。万人の眼が九州の戦場と西郷隆盛にのみ向けられているとき、喜八郎は逆に空白になっているほうを重視する……現代でいうところの「逆転の発想」の一つだ。土木労務者と大工集団を手配しての陣地構築、軍用道路建設、倉庫増築などもやって藤田伝三郎の藤田組と競い、こうして掴んだ「利益は三百万円をくだるまい」とうわさされ、 「あいつが売った洋式鉄砲で何百人、いや何千人、いやいや何万人の日本人が、同士射ちして死んでいったことか」 「新撰組や彰義隊の残党、白虎隊の少年たちもみな、やつが取引した鉄砲やピストルで、野良犬みたいに射殺されたそうだ」  との絶対に弁明することのできぬ陰口が、おもしろ半分にささやかれるようになったのも、このころからなのである。 「維新戦争のときには官軍にも幕軍にも売って、全方位取引をやったんでしょう。だったら今回も、鹿児島軍にも武器をまわしてやりましょうよ。大久保さんばかりでなく、西郷さんにも恩を売っておくほうが、どっちが勝っても損なしですからね」  しきりに番頭たちがすすめるが、それにだけは、喜八郎は首をタテには振らない。 「もうすぐ全国にちらばっている、徳川の残党である不平士族四十万人が、西郷軍に味方すべくいっせいに蜂起する。その指揮をとるのは、下野して高知にいる板垣退助だ」  との情報にはリアリティがあるが、官軍の兵器の数量と西郷軍のそれを、すぐさまソロバンではじき出してみせて喜八郎は、 「西郷軍は誇り高き武士集団、官軍は農民町人集団にすぎない。斬り合いならば武士たちが勝つに決まっているが、重火器も小銃も実弾も豊富な農民町人集団のほうが、すぐにも優勢になるはずだ。気の毒ながら西郷軍は、追いまくられる彰義隊と同じ運命になってゆくだろう。すでに田原坂の攻防戦はそのような戦況になってきている」  と戦局を予測、ずばり的中させた。  鹿児島軍は敗北、死者は七千二百七十六人、その中には自刃した西郷隆盛もいる。国民は彼の死を哀悼した。  東京の夜空に、ひときわ大きく光るふしぎな星が現われるようになった。天文学的に言えば「地球に接近している火星」なのだが、大衆はこれを「西郷星」と呼んだ。西郷どんはあの星になって生きている、恨みながら政府を睨みつけている、と指さすのだ。同じ調子で、 「西郷軍の戦死者はどれも、大倉喜八郎の鉄砲玉をくらっていた。無残なものよ」  と、見てきたかのようにいう声もある。  言わせておくしかなく、喜八郎は黙々と事業にはげむ。西南戦争時の体験から土木建設業を、大倉土木会社(現在の大成建設)として独立させた。また僻地への漁船群による雑貨類のピストン輸送も経験したことから、対外貿易拡大をめざす大倉商事も派生させた。  さらには大倉組商会本社の、東京市民のどぎもを抜くあの二千燭光のアーク灯の設置、日本一の大劇場である歌舞伎座や日本一高級な帝国ホテル……それらの建設も手がけるようになってゆくのである。  その帝国ホテルを諷刺して、 「大倉組のアーク灯の下では、書生たちが明かりに誘われる夏の虫となって読書し、帝国ホテルは隣りの鹿鳴館に群がる貴顕淑女たちのための危険きわまりない桃色の密室と化す。殺伐な戦争屋だったはずの大倉喜八郎はおもしろきことをやるものよ」  当時の「小新聞」がそのように書いている。新聞界は「大新聞」と「小新聞」に分けられて、漢文口調で政界を攻撃論破する硬派のそれが「大新聞」、対する「小新聞」は花柳界の艶ダネ、芸人ばなし、市井の桃色事件の報道などを軟派調で売りものにしていたのだ。  こうしてだんだんに有名になってゆく≪戦争屋≫の喜八郎もいつしか、古河市兵衛や安田善次郎らと同様にうまくひきずり込まれて≪毒気≫の多い渋沢栄一の「益友」にされてしまっていた。  その最初は明治十一年、東京商法会議所を設立するときであった。有力財界人のひとりとしてメンバーに誘われたのだから、喜八郎としてもわるい気はしない。そして、渋沢は十八年の東京瓦斯会社、十九年の東京電燈会社、二十年の陸海軍に軍需品を提供する内外用達会社、帝国ホテル……いずれの設立のさいにも顔を出して≪財界の演出家≫としての才腕をふるうのだった。  大倉組石ころ缶詰事件の謎  大倉喜八郎を渋沢栄一や安田善次郎よりも有名にした——全国津々浦々のだれもが知るほどの存在にしたのは、明治二十七年八月に勃発した日清戦争であった。  この戦争のさ中に、藤田伝三郎のあの「藤田組贋札事件」よりも不可思議な、由々しき「大倉組石ころ缶詰事件」が突発したのだ。この騒ぎによって大倉組は気の毒にも、あのときの藤田組以上の痛烈なダメージを受けざるを得なかったのである。  世界が≪眠れる獅子≫とよんで一目おいている清国との国交断絶は、日本民族にとってはまさに興亡をかけた近代大戦争だった。諸外国の軍事専門家たちは「交戦すれば清国の勝利は七〇パーセント」と見ており、日本人のなかにも、 「清国はわが国の十倍も広い。人口も十倍、これでは戦って勝ち目はねえ。総理大臣の伊藤博文も陸軍大臣大山巌も頭が狂って、そんな計算もできねえのか」  と叫ぶ反戦派や悲観論者がたくさんいて、一方では政府は戦意を高揚させるための金鵄《きんし》勲章年金令をも公布した。この戦争を天皇の「御親征」と称し、武勲があった将兵には「功一級九百円より功七級六十五円まで、畏れ多くも天皇陛下より賜わる」として、忠君愛国をあの手この手で煽《あお》り立てながら出陣させたのだった。  またまた喜八郎の出番である。単発銃である村田歩兵銃が明治十三年に開発されていたが、日清戦争ではさらに性能のいい、無煙火薬を使用する村田連発銃が主役になった。だから幕末のころのように銃器の輸入はなく、国産品でまかなわれてきたが、その代わりに廃銃処分にされる古い銃を中古銃として払い下げてもらい、これを買ってくれる発展途上国——東南アジアの政府軍とか革命軍を相手とするビジネスもやるようになる。のちにマカオにおいて有名な「第二辰丸事件」が起こるが、これも安宅商会(のちの安宅産業)の安宅弥吉の積荷——四十万円分の廃銃が、不法に清国海軍によっておさえられたのだ。  さて——日清戦争は予期に反して日本軍が優勢なので、アメリカやイギリスの従軍記者たちはおもしろくないのか、日本兵の残虐性を誇張して世界へむけて報道した。朝鮮人や中国人の婦女子に暴行を加えたり、金品を掠奪したりしているという。このことに外務大臣の陸奥宗光をはじめ日本の外交官らが抗議し、躍起になって否定しつづける。問題の「大倉組石ころ缶詰事件」はそうした、世界の眼も注目しているなかで突如として発生したのである。  戦況を伝える日本の新聞記事の一つに「命を的に戦闘している兵士に石ころ入りワラ入りの缶詰、憎むべき御用商人の不正暴露」がまじっていた。最前線へ輸送された兵糧のうち、牛肉のうま煮の缶詰であるはずがなんと、食えない石ころやワラ入りの缶詰だった、というのだから唖然呆然とならざる国民はいない。  福沢諭吉の「時事新報」によれば特派従軍記者の目撃談として、その石ころは「平円形をなし、急流中にて摩擦をうけたるものの如くにして、あたかも船底に搭載するバラストに用うる如き品質」だと語られている。国民はこぞって憤激、 「あくどいもんだ。第一線部隊は石ころをかじって戦えというのか。忠君愛国が聞いてあきれるぜ。おいらは金鵄勲章なんていらねえ。ほしくもねえや」 「将官と結託する政商や戦争屋どもは、そんなにしてまで儲けたいのか」 「結託しているのは三井か、三菱か」 「大倉組か、藤田組かもしれんぞ」 「自白して全兵士に謝罪せよ」  の声が日ましに高まりひろがった。犯人探しもはじまった。軍用糧秣の大半は大倉組が扱っていた事実から「大倉喜八郎ならやりかねない」と邪推されるにいたった。  それにしても不可解なのは新聞だ。特派記者は見たはずなのに「大倉組がやった」とは報道しない。どこの何という部隊に届いたのかも、どこの食品メーカーの製品だったのかも明白にしていない。大倉組商会の傘下には缶詰メーカーはないので、大倉組自体が生産するはずはない。  さらに不可解なのは、血相を変えて陸軍糧秣部が「そんな馬鹿な事実はない」と強硬に否定するのに、喜八郎自身は何もコメントしないのだ。ひたすら沈黙を守り、福沢諭吉のところへどなり込んだり、名誉毀損で告訴したりもしようとはしない。なぜそうなのか。この点が最大の、彼の生涯の、今日なお不明の謎になっている部分だ。  だから、国民の疑惑はなおさら深まる。大倉組はダーティな企業である……かのごときイメージができてゆく。一人歩きしはじめる。『広瀬宰平・伊庭|貞剛《さだのり》』で述べたとおり、藤田伝三郎の誤認逮捕で藤田組の信用が失墜。この信用をとりもどすのに十年の歳月を要するが、大倉組の場合はそれ以上の年月がかかるかもしれない。永久にこの≪傷≫は癒えないかもしれない。そうなった場合を憂慮しないのか喜八郎は、口をつぐみつづけたのである。  十年後の明治三十七年の日露戦争のさいにも、想い出したみたいに石ころ缶詰の黒いうわさが再燃する。大倉組がまたぞろこの手段であくどく儲けているというわけで、将兵たちでさえそのうわさを信じたが、やはり喜八郎は弁明しなかった。黒いうわさの出所も知れず、 「天地神明に誓ってでもいう、わたしはそんな卑劣なことはやらせていない。やるような部下も持ってはいない。言いたいやつには言わせておく。どこかの財閥が黒幕になって、そそのかしている謀略だろう。しかし、わたしは断じて負けない」  との自信があっての、貝のごとき沈黙を守ったのかもしれない。実際、二つの戦争において同じ手段を弄し、全国民に恨まれるようなことをやる企業はあるだろうか。そうしてみると、二度とも謀略であったと考えるべきか。  その日露戦争後の喜八郎は、すでに七十代に手が届こうとしているのに、財界人たちの先頭に立って中国大陸へ雄飛する。まだだれも手を出していない中国投資に賭けてみせるのであり、奉天軍閥の張作霖大元帥(のち日本の関東軍によって爆殺される)と握手しての本渓湖炭鉱の開発、つづいて日中合弁の本溪湖煤鉄公司——重厚長大の製鉄製鋼事業に投資し、朝鮮における鉄道建設プロジェクトにも大いに貢献するのだった。  製鉄事業といえば日清戦争後、勝利してなおさら軍備拡張を痛感させられる≪鉄の松方≫ともいわれた宰相松方正義が、 「三井と三菱の工業部門は仲よく合同して、軍事的意義の大きい製鉄製鋼事業に努力してはどうか。世界屈指のものにしたい」  と三井の中上川彦次郎および三菱二代目の岩崎弥之助に、同時に声をかけたことがある。資金はこちらで調達する、とりあえず創設費としての四百万円を、日清戦争で得た賠償金三億七千万円のなかから出すという。  それでも、彦次郎も弥之助も見向きもしなかった。三井にしても三菱にしても合同するのは厭だし、製鉄事業は≪カネ食い虫≫だからお互いに、さわらぬ神にたたりなしにしたいのだ。結局は三井・三菱が不参加の、官営八幡製鉄所(現在の新日鉄)が北九州に建設され、明治三十四年に第一号溶鉱炉の火入れ式をおこなうが、経営は赤字つづきだ。  それなのに——  大財閥の三井・三菱でさえ敬遠した、経営には並々ならぬ苦労がある製鉄製鋼事業に、喜八郎は自ら飛び込んだのだ。それも日本人が嫌われる中国大陸においてであり、パートナーに馬賊出身の野心家の張作霖を選んだというのも、大胆不敵そのものという以外にない。彼との関係がこじれたりした場合は、喜八郎の死体が、荒野のなかで発見されるかもしれない。  それなのに勇断の喜八郎に、拍手を送る日本人はいなかった。彼を理解している人たちにとっては「国士的商傑」、あるいは「日満経済合作の先導者」だが、一般国民にはいくら中国大陸を股にかけて活躍してみせても、大倉喜八郎はやっぱり冷徹な≪死の商人≫であり「石ころ缶詰の犯人」なのである。中国を侵略したがっている日本の、好戦的軍国主義者たちの≪相棒≫なのであった。 「張作霖なんか所詮は品性下劣の敵国人。いつ馬賊の正体をあらわして裏切るかもしれないのに、事業上の同志にするのは考えものではないですか。その点、比較して申しわけないけど、安田善次郎さんが浅野総一郎氏をパートナーに選ばれたのはご立派です。みごとな洞察力です」  と、喜八郎に率直に進言する人がいた。  国内にあってはワンマン体制を固めつつあり、「大倉屋」のころから独力で獅子奮迅の働きをしてきた彼だが、その周辺には片腕的な存在の重要人物が見当たらない。広瀬宰平のように「十年の謀《はかりごと》は樹を植えるにあり」を実行しないから、忠臣が育っていない。そこで進言する人たちは、安田善次郎と浅野総一郎そっくりの、ときには≪二人三脚≫で突っ走ることができる同等の実力を有するパートナーをこしらえさせたいのだ。二十世紀にはいっていた、明治末期から大正年代にかけてのことである。  幕末のあの当時、二十五両を資金にして銭両替商「安田屋」からスタートした善次郎は、徒手空拳ながら維新の大転換期にうまいこと便乗、安田銀行(現在の富士銀行)を本体とする≪金融財閥≫へとのし上がっていった。「担保には目いっぱいの貸付をする。ただし期限にはいっさい待ったを言わせぬ」主義に徹していた。  偶然にも浅野総一郎は善次郎とは同郷の富山県出身。東京へ出てきて一杯一銭の「砂糖水屋」から成り上がっていって、浅野セメント(現在の日本セメント)や浅野造船所(現在の日本鋼管)、沖電気などに代表される浅野コンツェルンを一代にして築きあげた。この総一郎が善次郎とドッキングしたのだ。 ≪明治の三ケチの一人≫と指さされながらも善次郎は、十歳年下のこの同郷人に、親身になって資金援助をおこなった。むろん、無償の援助ではない。産業界への進出は得意でない善次郎が、進出したい彼自身の願望を、得意である総一郎に託したのだ。その結果、善次郎は安田保善社を≪司令部≫とする二十の銀行と海上・火災・生命保険のほか鉄道・製鉄・紡績など二十九の企業を傘下におさめる安田財閥を構築したのだった。  東京湾岸開発のための鶴見埋築会社を設立(大正三年)、日本の重工業界の心臓部となる京浜工業地帯を形成させていったのも、善次郎と総一郎の二大勢力による≪合作≫である。つまり、善次郎の豊富な資金をつぎつぎと生産工場にしてゆくのが、総一郎の仕事になったわけで、 「あなたにも浅野氏に劣らぬ大物の相棒がいてほしいものです。張作霖とは組むべきではない。金融業者が大言壮語する企業家を危険視するのは通例ですが、善次郎さんは逆にそういう企業家が大好きです。だからといって、そんな善次郎さんでも張作霖は敬遠するでしょうよ」  喜八郎に進言する人はそうも言う。  これに対して喜八郎は—— 「わたしも貪欲だし、事業好きの天性があるから、さまざまな事業に手を出してゆく。人びとは事業狂だという。しかし、銀行家にだけは興味をおぼえない。渋沢栄一氏の≪益友≫である安田氏の悪口を言うつもりはないし、安田氏もたいへんな風雲児だとは思うが、二十もの銀行を経営する感覚だけは、わたしには理解できん。そういう銀行家を友人にしたいとも思わない。いくら利益が出た、貯蓄が何倍にもなったなどといっても、いうなればそれは事業の残滓《かす》みたいなものなんだからね」  と半ば不機嫌に答えた。 「わたしが営々として蓄えてきた金を、妻や子や孫が湯水のごとく浪費する……ということに何の意味があるんだね。貯金なんて、財産なんて虚しいものではないか」  そうも吐き棄てるみたいに言う。  弘前藩へ五百挺の小銃と実弾を届ける蒸汽船のなかで、台風に遭遇して海の藻屑になってしまうかもしれない、榎本武揚の軍艦に拿捕されるかもしれない、一生かけても清算しきれぬ借金だけが残るのでは……などと思い悩みながらも、熱くたぎる自分を感じていたあれを、喜八郎は忘れたくないのだった。 「大倉の関係企業は大小三百社にもなるが、雑貨商の店頭みたいなものだ。いろいろなものが雑然と陳列されているだけで、大倉でなくてはならぬ一貫性や特色がない。大倉喜八郎の独裁型経営ではあるが、独自の組織力や団結力を感じさせない。多分に彼は、百姓銀行家・よろず屋と自称する渋沢栄一に毒されている。渋沢の亜流だ。あれにもこれにも手を出しすぎるのだ」  という経営学者の『大倉喜八郎論』を読んだ喜八郎は、なおのこと反動的に、ほしいと思う企業を創業したり買収したりした。そうかと思うと明治四十四年には、大倉組商会を大倉組(資本金一千万円)に改組、大倉組・大倉商事・大倉鉱業・大倉土木組というふうにバラバラにしたりした。  それを見て別の経済評論家が、そのような喜八郎の心理分析をやる。 「少年時代、彼は上杉謙信にあこがれたという。謙信は織田信長や武田信玄や徳川家康と同様、天下取り、国盗りにあけくれた武将である。血の騒ぐ戦略家である。荒野を馳けめぐる張作霖もそうなのだ。ゆえに彼は張作霖が好きだし、自分も国盗りをやっているつもりなのだろう。だから、石ころ缶詰事件のごとき醜聞をばらまかれてもうろたえない。その点は立派なれど、本質的には企業家ではない」  喜八郎は腕組みして考え込む。おれのことは何もわかっちゃいない。どいつもこいつも見当違いのことをぬかしておるわい、と思う。わかってほしいとも思わない。  浮世の橋のあと見れば 「大倉喜八郎が中国大陸に≪大倉王国≫を出現させる、その日は近づきつつある」 「夕陽の荒野に立つ、大陸浪人ならぬ大陸商人だ」  などと言われはじめたのは明治の末年からである。この年の一月、喜八郎は≪中国革命の父≫である孫文を相手に、江蘇省鉄道を担保にとって借款三百万円を供与する契約をかわしたのだ。孫文は中国革命政権である南京臨時政府の、臨時大統領に就任したばかり。三井物産もまた武器売込み代金三十万円を借款供与している。 「いやはや、大倉喜八郎はますます深みにはまりつつある。病|膏肓《こうこう》に入《い》るだな」 「中国本土への投資は、ドブに札束を投げ入れるようなものだ。満洲だけで思いとどまるべきだ」 「彼は張作霖より孫文、孫文よりもっと大物……成吉思汗《ジンギスカン》のような巨人が現われれば、またぞろそっちへ飛びついてゆく。そういう男なのさ」  このように中国通たちの見方も分かれている。  明けて大正二年二月、その臨時大統領孫文が来日した。宰相の桂太郎と満鉄初代総裁をつとめたことがある逓信大臣の後藤新平が、大いに歓待した。  それより以前、孫文はしきりに、 「黄河以北の地域をロシアに奪われたとしても、わが中国にとっては取り返しのつかぬ損失ではありません。むしろ満洲全土は日本にゆだね、もって日中提携を実現させて、東亜永遠の平和を招来したいものです」  と太っ腹なところを見せていた。  中国人には満洲は不要の土地だ。ロシアに侵略されるくらいなら、同じ東洋人である日本のみなさんで好きにしてほしいものです……このように勧めてくれるものだから、日本の経済人たちは「益田孝が三井王国にして開発してみせるだろう」「三菱が独占して一大経済圏に発展させたがっている」と眼の色を変えて臆測した。  さすがは革命政治家孫文である。中国革命政権を何としても樹立させたい彼は、多額の革命資金が必要だから「満洲は日本のみなさんにさしあげましょう」と仄めかしながら、軍部や財閥のふところから金を引き出したいのだ。つまり、満洲はそのための美味なるエサなのであり、桂太郎や後藤新平が来日した孫文をもみ手しながら歓待するのも、財閥たちのために改めて「満洲は進呈しましょう」の言質《げんち》をとっておきたいからなのである。  喜八郎も借款三百万円を供与して孫文に接近するが、一方で彼は独自の、謎にみちた奇怪な行動をとった。  孫文の日中提携発言に刺激された、大アジア主義運動をすすめている日本の右翼——黒龍会の内田良平を中心として、清朝政府外交顧問でもある川島|浪速《なにわ》らが満洲と蒙古をそれぞれに独立させる「満蒙独立」を画策していた。この川島浪速の養女芳子(中国人)がのちに日本特務機関のために暗躍し、太平洋戦争直後に蒋介石総統の国民政府軍に捕縛され、北京監獄において銃殺刑に処せられた(昭和二十三年)男装の麗人≪東洋のマタハリ≫なのである。  養女がそのような運命になろうとは知る由もなく、川島浪速が内蒙古の喀喇泌《カラチ》王と独立に関しての密約をかわしたのが、ちょうど孫文が桂太郎と後藤新平にチヤホヤされていたときで、複数の日本陸軍の青年将校らが中国服姿の行商人に変装、ラクダの隊商にまぎれてモンゴルに潜入したのだった。民兵たちを指導する軍事顧問なのである。  これら「満蒙独立」の志士らにも資金を惜しまず提供する……これが独自の謎にみちた行動であり、大倉喜八郎自身が成吉思汗になりたかったのかもしれない。三菱財閥の三代目岩崎久弥にも「蒙古への進出の野望あり」との正確なデータもあるため企業家たちの、 「喜八郎さんは三井や三菱の満蒙独占を坐視しておれなくて、独立国家にさせたがっているのではないか。それが彼の最終目的だろう」  の声も高くなるが、投入した金額や行動の一部始終については不明だ。わかっているのは川島芳子の実父で清朝王族の一人である粛親王へ、大正五年三月に宗社党軍資金として百万円を融通したのと、モンゴルに水田を開拓してやる名目の「華興公司」を設立したことくらいだ。この会社が軍事顧問となって潜入した青年将校らの、たまり場を兼ねていたのかもしれない。  中国本土では意外や意外、孫文が日本から帰国して間もなく政情が急転してしまった。西太后に信用されていた軍政家の袁世凱《えんせいがい》が、謀叛をおこしてラストエンペラーである宣統《せんとう》帝を退位させる……という政変が発生したのだ。これで二百九十五年の長きにわたって中国全土を支配してきた清朝が、もろくも崩壊したばかりか、北京政府軍を進撃させて孫文の南京臨時政府をもつぶした。孫文はやむなく広東へ落ちのびた。これでは孫文との約束は雲散霧消、「満洲は進呈しましょう」どころではない。しかも、袁世凱は大の日本嫌いであった。日本人憎しの日本軍将校監禁事件や日本民間人虐殺事件を頻発させては、アメリカ、ロシア、ドイツなどにすり寄る姿勢を見せる。日貨排斥——日本商品不買運動も大々的に起こさせる。  日本国民は「袁世凱を撃つべし!」と激怒するが、それでも山本権兵衛内閣は袁世凱の中華民国大統領就任を正式に承認、逆に無力の孫文を無視してしまった。そして、大倉喜八郎もまた孫文に投資した分を惜しむふうもなく、その袁世凱を北京に表敬訪問するのだった。中国通の一人が「彼は張作霖より孫文、孫文よりもっと大物が現われればそっちへ飛びつく」と言明したとおりになってゆくのだ。  大正六年八月——  八十一歳の喜八郎は「息子の喜七郎に協力してもらいながら永年かけて蒐集した」という東洋美術品や書籍類を所蔵するシックな「大倉集古館」を、東京の赤坂に完成させた。大正四年に男爵を授かった、その授爵を記念してであるが、一般大衆は複雑に反応した。それまで由緒ある美術品や珍重されている骨董類は、コレクターたちの個人の財宝として奥深くに秘蔵されてきたのに、喜八郎が日本最初の私立美術館と称して気軽に公開したからである。  幽玄の雰囲気をただよわせる中国の古美術品はどれもすばらしく、とくに「紙本淡彩随身庭騎絵巻」、源俊頼筆と伝えられる「古今和歌集序」、普賢菩薩彫像などは古美術品コレクターたちを唸らせてしまった。≪戦争屋≫喜八郎にこのような高尚にして教養のある趣味があったのも驚きなのだ。  しかも一般大衆には、美術品そのものの価値よりも、 「中国大陸に≪大倉王国≫を出現させるはずではなかったのか。彼がたびたび中国旅行に出かけたのは、満蒙独立の黒幕になったのは、古美術品をあさりまわるためだったのか」 「これだけ蒐集するのに、いったいなんぼの資金が必要なんや。その資金はどうやってでけたんや。孫文や袁世凱への投資がすぐに、巨額の利益になってもどってきたとも思えんし」 「これら美術品も借款供与の担保物件かもしれんぞ。合計すると幾らになるだろう」  このほうが気になって、当てずっぽうの言いたい放題のことを言い、どうしても興味は≪死の商人≫としての彼の行動のほうへむけられるのだ。  前年——ヨーロッパが第一次世界大戦の戦火に包まれていた大正五年一月、帝政ロシア皇帝の名代としてゲオルギー大公が来日。ヨーロッパ戦線の実情と物資不足を山県有朋に訴えて、兵器弾薬ならびに生活必需品のすみやかなる供給を懇願した。これ幸いとロシアのこの悲劇につけ込み、日本政府は、 「貴国が権利を所有しておられる満洲の東清鉄道……このさい、あれをわが国に譲渡していただけると話は早いのですが」  との厚かましい条件を平気で出し、背に腹をかえられぬ大公が承知して「毎年三千万円分の兵器弾薬の供給」を約束させた。  こうなると陸軍工厰が連日徹夜のフル操業をしても生産が間に合わない。陸軍は全国の鉄工所にまで砲弾や薬莢《やっきょう》などを発注、これらの取引総額は一億五千万円とも二億円とも言われた。たちまちにして国自体が≪戦争成金≫になったのであり、この利益の一部が「山県有朋や寺内正毅ら長州閥軍政家どもの政治資金に流用されている」とも疑われた。  それはそれとして——  この「毎年三千万円分の兵器弾薬の供給」の対ロシアとの取引実務を担当したのが三井物産・大倉組・高田商会の三社で組織している、陸軍御用達のような知る人ぞ知る「泰平組合」であった。もちろん、この三社も腹一ぱい儲けさせてもらった。高田商会は佐渡島出身の、喜八郎とは同郷の新潟出身といえる高田慎蔵が、山県有朋や大山巌をバックにして創りあげてきた。彼もやはり≪戦争屋≫の仲間である。三井物産の益田孝も佐渡島出身だから、三人が三人とも新潟県人であるのも奇遇というべきか。  この「泰平組合」が明治四十四年十月に「対清兵器第一次売込み契約」にかかわって二百七十四万円で売却した事実。また、大正十一年七月にも第二次のそれを、成立させた事実も記録に残っている。第二次のその前年——大正十年に上海を振り出しに中国大陸の各地を見聞してまわった徳田球一(のち日本共産党書記長)が『わが思い出』のなかにこう書いている。 [#ここから1字下げ]  各帝国主義国は戦争をするために、毎年毎年新しい武器をつくるが、旧式なものをいつまでも保管しておくのは馬鹿なことになる。そこでこれを中国の軍閥に供給することは、かれらにとっては大変な金もうけになるのだ。日本では古くから三井、大倉、高田商会という財閥がこの古武器商売をやっていた。  むろん中国への輸出である。こういうことは各国の条約で禁止されているけれども、平気で政府の援護の下にこのボロい商売がおこなわれた/日本ではこの三大財閥が日本軍閥と手を握っていたことはだれでも知っている。これら財閥がとくに陸海軍御用商人であったことを忘れてはならない。この三大財閥の鬼のような商売が、泰平組合という名前でおこなわれていたのだから、吹き出してしまうではないか。戦争をあおり、人殺しと強盗を奨励して莫大な利権を得る商売が、天下泰平という名でおこなわれるのだから奇妙だ。 [#ここで字下げ終わり]  兵器は日進月歩で開発されつづけるので、もはや日露戦争当時の五連発の三八式歩兵銃や騎兵銃でさえも、「世界的水準」の折紙がつけられていたのに旧式として売り飛ばされてしまう。小銃だけではない。満洲駐留の関東軍などは書類上は廃棄処分にした旧式の軽機関銃や迫撃砲や速射砲までも売り飛ばしてしまう。その取引にも「泰平組合」が関与するのであり、そうなると日本軍と中国兵が現地において武力衝突した場合は、同じ日本製の武器で殺傷し合うことになるわけだ。  だから徳田球一の感想と同じように、「大倉集古館」の超一流の古美術品を鑑賞させてもらった折に、溜息まじりにこう洩らす観客もいる。 「殺人道具を売って儲けたお金が、かくもすばらしき美術品の数々、貴重な古文書に化けてしまうなんて信じられないね。ここにある美術品のすべてが、武器取引の純益で買われたものだ……とは断言できないし、そうであってほしいものだ」  こういう声なき声に対して、喜八郎自身はどうであったのか。どのように反応したか。それについての感想や反論を述べたものは残っていない。「大倉組石ころ缶詰事件」での場合と同様、まったく無視の態度をとるのみで、記録などには残さなかったのかもしれない。  事業上の後継者についてもあまりに意識せず、積極的に育てようとはしなかった喜八郎の周辺には——たとえば≪三菱四天王≫といわれた荘田平五郎、近藤廉平、川田小一郎、末延道成らに匹敵する人材はいない。≪三井の大番頭≫になった三野村利左衛門、益田孝、団琢磨、池田成彬のような傑物も一人として出ていない。  しかし、ケンブリッジ大学卒の息子喜七郎(明治十五年生まれ)が「大倉集古館」をオープンして四年後——大正十五年に大倉組グループの事業を継承した。ただし、彼は≪死の商人≫にはならなかったが、さりとて事業の鬼というわけでもなく、浮世ばなれした趣味人みたいなところがあった。  舞踊劇の作曲や楽器の発明で話題の人になったりする。囲碁や芸能界など文化方面への支援を惜しまない。晩年の昭和三十七年には≪ホテル御三家≫の一つである名門ホテルオークラを創業している。  大正十二年の関東大震災で「大倉集古館」の収蔵品の大部分は惜しくも焼失したが、喜八郎の執念が陳列館を再建、昭和三年三月に盛大に開館させた。開館して一か月後の花見どき、中国大陸では毛沢東が紅軍を編成、孫文の遺志を継ぐ蒋介石の北伐軍との戦闘を開始した……との情報を耳にしながら喜八郎は、九十二歳で昇天した。それから八年後の昭和十一年十一月、「蒙古人による蒙古建設」を叫ぶ喀喇泌《カラチ》王が、植田謙吉大将の関東軍におだてられて綏遠《すいえん》へ進軍する「綏遠事件」が突発した。漢民族からの離脱独立であり、激怒した蒋介石総統が博作儀《ふさくぎ》軍に命じてただちに制圧させ、すべての武器を押収した。この事件は中国側の日本不信を倍増させたばかりか、翌十二年七月の北京郊外における日中両軍の衝突——日中戦争の発端にもつながっていったのだ。  現在の「大倉集古館」はホテルオークラの庭園内にあり、喜八郎が詠んだ、  わたり来し浮世の橋のあと見れば    いのちにかけてあやふかりけり  の碑文に対面することができる。実姉にもらった二十両の小判をふところに、十七歳で雪国の新発田から飛び出してきてこの方、わたしの生涯は一日として安閑安眠ができぬ≪綱渡り≫の日々であった……と率直に本心を吐露しているのだ。彼にとっては彰義隊の乱も西南戦争も中国革命も、すべて「浮世の橋」だし、あの「石ころ缶詰事件」もまたそうであった。  しかし筆者は「大倉喜八郎を一枚の絵にしてみろ」と言われたら、さらし首が並べてある暗夜の、不気味な鈴が森の刑場を早かごで通る、二丁拳銃を手にしている若き喜八郎を、迷うことなく描きたくなるだろう。このシーンが彼の生涯を、もっともドラマチックに表現している……そのように想像されてならないからである。 [#改ページ]  益田孝《ますだたかし》——≪まま子≫物産を育てた男 [#ここから1字下げ]  嘉永一年(一八四八)佐渡国(現新潟県)生まれ。幕府使節に随行しフランスに渡る。明治維新後大蔵省の官吏を経て、明治九年(一八七六)、三井物産の社長に就任、総合商社の原型をつくりあげた。三井を商業主義的方向に修正。また明治四二年には、三井合名会社を設立して財閥体制を確立した。引退後、小田原に隠棲し、昭和一三年(一九三八)没。 [#ここで字下げ終わり]  社員十六人の三井物産  明治九年(一八七六)七月に三井銀行(資本金二百万円)と同時に創業させた三井物産の経営人事について、三野村利左衛門はいかにも彼らしい人選をおこなっている。社主には総領家高福の七男坊である三井武之助と、六男家高喜の三男坊の三井養之助を並べて≪権威≫を保たせ、この二人が共同経営する独立会社というふうにしたのである。  が、貿易実務の経験がまったくないため、井上馨の頼みとあれば厭とはいえず貿易商社「先収会社」よりひき取った、二十九歳の益田|孝《たかし》を社長待遇でその実務に当たらせることにした。物産監査役の立場で利左衛門は彼に対して威丈高に、 「ともにその営業の永続隆盛を謀り、その悦《よろこび》をともにせんと欲するなり。然りといえども諸銀行においても営業上の大損耗を醸成し、あるいは非常の天災などに罹るより閉鎖することなきを保たす。依《より》て別に一の会社を創設し、これを三井物産と号し、三井銀行とこの物産会社とは判然区画を別《わか》ち、独立永続せしめんとす」  との長文の約定書を突きつけてさらに、 「三井物産は分離した越後屋(現在の三越)と同じ立場にある。破産する事態になったとしても、三井家にも三井銀行にも尻拭いはやらせない。三井の看板は貸してやるが、経営資金は鐚《びた》一文出すつもりはない」  と冷厳たる差別宣言をしたのだった。  渋沢栄一と≪共謀≫して「増抵当命令」を大隈重信に出してもらい、小野組を抹殺してしまうのも平気だった利左衛門には、こんなのは冷厳たる差別でも何でもなかったのかもしれない。いずれにしろ益田孝のほうはご無理ごもっともで頭をさげておくしかなく、こうして無資本でゼロからスタートした物産マンたちの辛苦は、たとえようもなかったのは事実である。  一説には、井上が益田の待遇については、歩合制にして「物産の純益の一〇パーセントを報酬ということにしてほしい」と申し入れ、これを利左衛門も了承したことになっている。それだとスタートしたばかりの物産には純益らしき純益はなく、従って益田はタダ働きさせられているようなものだった。しかも、援助の手はさしのべないくせに親会社である三井銀行の、重役たちの支配する眼は冷たく光っているし、武之助と養之助にだけは社主としての特別のサラリーを、利益がゼロであっても出してやるのである。  駿河町(現在の日本橋室町)に五万八千円で清水組(現在の清水建設)に新築させた、三階建てのハイカラな洋館である三井銀行本店には西洋料理の食堂も付いている。利左衛門が「三井銀行創立之大意」に、 「三井家と従業員は主従の旧慣を平等の社友に改め、相たずさえて事にあたり、また利益を分けあおう」  と明記させたとおり、渋沢の合本主義を実行しつつ株主は三井一族だけにとどまらず、社員らにも割り当ててその総数は三百八十三名だ。つまり「平等の社友」になって和気あいあいで勤務しているというのに、物産のオフィスときたら日本橋阪本町の借家——それも古めかしく陰気な商家の土蔵であった。だから物産マンたちは、西洋料理のカレーライスやビーフステーキを食べている三銀マンを、羨ましげによだれを拭きふき眺め、 「わたしを見るときの三井銀行の重役たちの眼は、冷淡そのものだった。他人の商品をうごかしてマージンを稼ぐのに、資本金など必要あるまい、とも言われた」  と益田自身も、二十九歳の若者だった当時の自分を、この≪まま子≫いじめを、ひがみっぽく回顧している。また利左衛門についても、 「私は商売上の用でときどき大隈(重信)さんのところへ行ったが、三野村を大いに信用して、三野村は偉い、感心だと言うておられた。三野村は大隈さんが留守だと、帰られるまで書生部屋へ入って待っていた。そして書生たちに、さぁ阿弥陀くじをやろうと言うては、書生たちにも少しずつ銭を出させて菓子を買う。ときどき牛鍋なぞもご馳走する」  と語っているが、利左衛門がさりげなく書生とも仲よくしていたのは「かれらからも政官界の情報を収集しようとしたからにほかならぬ。小栗上野介|忠順《ただまさ》の≪犬≫だっただけのことはある」と、このように益田は言外に仄めかしているのだ。 「大きな身体であった。前歯が抜けて、大きな声であはははと言うて笑う。愉快な爺さんであった」  とも活写してみせているが、それも利左衛門を心から「痛快な爺さんであった」とほめて拍手しているのではない。所詮は、野暮ったい金平糖の行商人あがりの「田舎|爺《じじい》だったのだ」とこきおろす口ぶりなのだ。益田にとっての利左衛門はそれほどの、自分の若き日が毛並みのいいエリートであっただけに、野卑な上役だったのだ。  利左衛門が総長代理を兼ねている三井銀行は、全国に三十一の営業店を有している。営業は外務、内務、陸軍、海軍、文部、工部、宮内など中央官庁、および北海道開拓使、東京府、大阪府などの地方官庁と二つの税関……それらの官金業務、ならびに為替、両替、貸付などの一般金融業務である。創業時の官金預かり高は四百五十万円。初年度である明治九年半期の純益が四十七万六千八百八十二円で、これは利左衛門が目標としていた五十万円にわずかに及ばないが、充分に満足できる数字だった。  では三井物産のほうはというと——  本体である昔からの三井組国産方は糸方、島方、荷物方の三つの業務にたずさわっている。糸方は生糸の輸出と陸海軍御用の毛布類の輸入、島方は伊豆七島などの離島の産物の売買、荷物方は日本最初の国有鉄道である京浜鉄道の貨物メッセンジャー業を担当してきた。しかし、営業成績はいずれもドングリの背くらべだし、吸収合併した「先収会社」も貿易商社とは名ばかり。井上馨は自分が官界に返り咲くことになって、赤字つづきのこの商社を、同社の実務担当だった益田ともども三井におしつけたのだ。物産社員は総勢十六名にすぎない。  初年度(明治九年七月〜十二月)の営業成績は輸出が石炭、蚕卵紙、茶など計五万七千三百円。輸入は羅沙、アメリカ金塊、蒸気機械、石油など計二十三万八千九百円。国内取引は米、銅貨、石炭、乾物食品など二十四万八千九百円。合算すると五十四万五千百円、うち純益は七千九百円である。  米は主として大蔵省へ、羅沙は軍服用として陸軍へ納入、乾物食品類は離島へ流通している。石炭は官営の九州三池炭を、工部卿伊藤博文らの特別のはからいで原価払い下げにしてもらい、清国の上海へ輸出していたのだ。 「たとえ少額でも、利益が出たということは、われわれががんばっている証拠だ」  阪本町の土蔵のなかで十六人は慰め合うが、益田は胸を張ることができない。三銀の重役に決算表を提出したら、 「七千九百円の黒字だというが、これはキミ、三井銀行の重役一人分のボーナスより低い額ではないか。雀の涙とはこのことだよ」  鼻さきであしらわれ憫笑《びんしょう》されたのだ。  西洋料理の食堂を横目で見て帰りながら、 (ああ、資本金があったなら。臨機応変でうごかせる運転資金が手元にあったれば。もっと大きな取引ができる商機が掴めたものを)  三井家と利左衛門を益田は、腹の底から恨みたくなる。吠えたくなる。  だが、憎っくき相手がごろごろしているほうが、この世の中はよりドラマチックだ。そうした不倶戴天の仇のごとき利左衛門がいて差別したからこそ、≪まま子≫いじめがあったればこそ、益田は(いまに見ておれ。物産こそ三井の大黒柱だ、と言われる大企業に成長させてみせるぞ!)の臥薪嘗胆の歳月を体験させてもらえるのだった。  ドラマチックになる季節が、七転八倒しなければならぬ波瀾万丈の日々が、思いがけずはやくやってきた。翌十年二月、西郷隆盛のあの西南戦争の最中に、三野村利左衛門がはかなく病死してしまったからである。  おれが≪第二の利左衛門≫だ!  渋沢栄一よりは八年、大倉喜八郎よりは十一年、岩崎弥太郎よりは十四年も遅く、中上川彦次郎よりは六年はやく、益田孝は嘉永元年(一八四八)に日本海にうかぶ佐渡島の、金山で有名な相川で生まれている。相川金山は徳川三百年を支えた金蔵である。  古くは順徳上皇、日蓮上人、観世世阿弥らが遠流《おんる》となった流人の島としての歴史もあるが、益田と同時代に生きたこの島の出身者といえば『大倉喜八郎』に登場させた——三井物産、大倉組と「泰平組合」を組織して≪戦争屋≫にもなった高田商会の高田慎蔵。陸軍青年将校らの反乱「二・二六事件」(昭和十一年)の黒幕として銃殺刑になった国家社会主義者の北一輝……この二人である。北は三井合名常務理事の池田成彬から、多額の≪革命資金≫をせびり取ったこともある。  益田の父親の鷹之助は佐渡奉行所に勤める地役人。算数経理にかけては並ぶものなく、人望もあって箱館奉行所に栄転させられた。だから益田は幼くして佐渡を去り、北海道で育っている。  箱館は幕府が開港、米英のみならずロシアの艦船の寄港も許可したため、長崎とはまたひと味異なる北欧風のエキゾチックな文化が栄えた。その環境のなかで益田は、英語の日本人|通詞《つうじ》を師として異国語を学んだ。鷹之助がさらに幕府の外国方に任命されたためまたまた栄転、一家は江戸に移り住んだ。  益田にも新たな道がひらけた。アメリカ公使館所属の、渡米の経験がある通詞・立石斧次郎について勉強。十四歳の文久元年(一八六一)の春、元服して通弁御用の肩書で外国方に出仕するエリートになったのだ。  さらなる吉報が二年後に舞い込んできた。文久三年末に益田父子は、幕府の横浜鎖港(交易禁止)談判使節団に加えられたのであり、十六歳の若武者益田孝は二か月間ほどパリに滞在する。池田|長発《ながおき》をリーダーとする使節団のその横浜鎖港交渉は失敗、パリ約定に調印せざるを得なかった調印式の末席には、益田の童顔もあった。  ちょうど伊藤博文、井上馨ら長州藩士五人が横浜港から密出国、英国に留学したころ。また渋沢栄一が徳川|昭武《あきたけ》のお伴で渡仏したのは、慶応三年の二十八歳のときだったから、八歳年長の彼よりも四年はやく益田はパリ生活を体験したのである。  元治元年に帰国した益田は、幕府が勤皇方に備えるために編成したナポレオン皇帝の軍隊のようなフランス式騎兵隊に参加、陸軍教官である将校に昇進した。だが、この騎兵隊がまだ戦力にならないうちに幕府は瓦解。旗本八万騎といわれた幕府親衛隊が御家人くずれになったように、無位無冠の素浪人の益田は軍服を脱ぎすてて、語学力を活かすため横浜へゆく。銃砲店「大倉屋」の喜八郎が、戊辰戦争に賭けて儲けようとしていたころだ。  横浜のアメリカ商館で通詞のアルバイトをやらせてもらっていた益田は、そのころの異人たちの居留地に出入りする十一歳年長の、威勢のいい喜八郎を見かける。しかし、彼自身は武器商人になるつもりはない。明治二年六月、榎本武揚らが降伏して箱館戦争が終わったのを知ったそのころ、のちに藤田伝三郎とともに≪関西財界のドン≫となる五代友厚に声をかけられた、五代は三十五歳。  薩摩藩士だった彼もドラマチックに生きている。幕末のころは薩摩藩御船奉行副役として長崎に滞在、土佐の後藤象二郎、坂本龍馬、岩崎弥太郎とも取引したし、明治新政府ができてからは外国官権判事を拝命。大阪府判事にも出世するが、宮仕えが堅苦しくて大阪の商工業界で気ままに泳ぎたくなった。  その手はじめとして彼は、金銀分析所を設立した。細工物や小判などの古い金銀を回収、これを新紙幣の太政官札を発行する大蔵省造幣局へ売り込むのであり、益田も手伝うようになったのだ。そして、この関係から大蔵|権大丞《ごんだいじょう》に転進している渋沢栄一を識り、大蔵|大輔《だいゆう》の井上馨にも英語とフランス語が達者なモダンボーイとして気に入られ、彼の人脈の末端に加えてもらったのだった。  造幣権頭(仮任官)として採用された益田は、井上の命令で大阪造幣寮勤務となった。関西は五代友厚の縄張りだし、彼にも会えるのをたのしみに下阪した。イギリス製の造幣機械を政府が香港から輸入、この機械でこしらえる新貨幣を、日本最初の金本位制の「円・銭・厘の十進一位法、旧貨幣の一両を一円とする」と定めた明治四年のことである。  大阪での益田は、おもしろい男と仲よくなった。前出の三井系の大日本麦酒を成長させて≪ビール王≫となる、四歳年上の馬越《まごし》恭平である。彼は岡山県の村医者の伜だが、大阪へ身一つで出てきていた。益田の語学力に惚れ込み、これからは英語がモノをいう時代だ、自分を弟子にしてくれと三拝九拝するのだ。  益田はしかし、大阪には一年間しかいなかった。井上馨が奇怪な「官営尾去沢銅山没収疑惑事件」で、罰金三十円の有罪判決をうけて退官を余儀なくされたため、渋沢は連袂《れんべい》辞職し、益田もまた二人と行動を同じくしたのだった。  ただし、このときの渋沢は要領よく別の≪舟≫を用意していた。三井組と小野組をうまく抱き込んでの第一国立銀行の設立であり、抄紙《しょうし》会社の創業だった。まだ若造の益田にはそんな芸当はできず、井上が資本金十五万円を捻出、東京で「先収会社」の経営に乗り出したので、これを手伝って副社長の座にすわった。その益田を追いかけて馬越も上京、どんなに月給が安くても不平は言わぬから、と両掌を合わせた。ほんとうにサラリーはかつかつ食える額の四円六十銭、しかも仕事はきつく米穀の買付けを担当させられた。  いくら奮闘してみても「先収会社」は外国商社の敵ではなかった。明治七年には大倉喜八郎は大倉組商会の海外支店をロンドンに進出させたが、とてもそうはいかない。例の「征韓論」に破れて西郷隆盛や板垣退助らとともに下野した後藤象次郎も、やはり商社「蓬莱社」を創業、長崎の官営高島炭鉱を払い下げてもらって併営するが、これもまた両方ともうまくいかない。井上の場合も後藤のそれも所詮は≪殿様商法≫なのだ。  結局、高島炭鉱は岩崎弥太郎に高く買収してもらって三菱の経営に一任するほかなく、井上もまた明治八年の「朝鮮江華島事件」の突発で全権大使黒田清隆の補佐役をつとめることになった……つまり官界へ返り咲くこのチャンスに、益田ともども「先収会社」を、三井物産を創業する三野村利左衛門に「いずれお礼はたっぷりさせてもらうよ」式に押しつけたのだった。わずか十六名の社員のなかには馬越恭平もまじっていて、彼は三井物産横浜支店支配人の辞令をもらった。  支店支配人といっても益田と同様の、徹底した三井銀行との差別待遇に、泣いたり憤激したりの毎日がつづく。運転資金がなくて大取引の好機を、みすみすのがさざるを得ない。天を仰いで涙ぐむ。 「約定書にあります『三井銀行とこの物産会社とは判然区画を別《わか》ち……』を忘れたわけではありませんが、おすがりするよりほかはないのです。運営資金として五万円、拝借させていただけないでしょうか」  恐縮しながら益田が、三井銀行の重役に申し出たのは、創業二年目を迎えたばかりの明治十年正月であった。このところの政情不安と米価の続落で、金繰りが一段と苦しいのだ。頭をさげる屈辱に耐えながら益田は、少年時代のエキゾチックな箱館での生活やエリートになって花のパリのセーヌ川のほとりやモンマルトルで遊んでまわった旅の思い出の、なんとなつかしく美しいことかと思いうかべたにちがいない。  このところの政情不安とは、刻一刻と高まりつつある西南戦争勃発のそれである。反政府暴動の「神風連《じんぷうれん》の乱」や「秋月《あきづき》の乱」が続発、津々浦々にいたるまで、 「大西郷が必ず立ちあがる。再び幕末のごとき戦乱の世となり、場合によっては天皇政治が廃絶されるかもしれない」  との世論が沸騰しているのだった。  三井銀行はやむなく、例外として恩着せがましく、物産に対して五万円のその融資をおこなった……と同時に西南戦争がはじまった。 「政府に尋問の筋あり。いかなる障害があろうとも、これより東京へ向かう。もとより死は覚悟の上なり」  と獅子吼《ししく》して五十一歳の西郷隆盛が、私兵一万五千人を率いて桜島の雄々しき噴煙をかえりみながら、鹿児島を出発したのは明治十年二月十五日であった。  内務卿大久保利通が大阪を兵站《へいたん》基地としたため、政府軍の兵員、軍馬、軍需物質の調達輸送補給をさせてもらう三井、三菱、大倉、藤田組の社員らがここに集中。三菱が所有する全船舶四十隻を総動員して、総軍事費の三分の一にあたる千五百万円の巨利をつかみ、大倉喜八郎は漁船群をチャーターして地方への物資流通や土木建築の軍夫斡旋で三百万円を儲け、物産の馬越恭平が、 「西南戦争はまるで福の神が飛び込んできたようなものであった」  と雀躍した……ことなどはすでに書いたが、馬越のそのよろこびのなかには「三銀が渋々貸してくれた五万円は、この戦争景気ですぐに返せる」との安堵感もあったのだった。  岩崎弥太郎の腹心の石川|七財《しちざい》は、目から鼻へぬけるすばしこい現場監督だった。大阪梅田駅から神戸港までの鉄道による軍需物資輸送を請け負っている彼は、三菱のその積荷の到着が遅れると駅員の振鈴《しんれい》を隠してしまった。発車時間がくると駅員はこれをガラン、ガラン、ガランと鳴らして合図することになっており、いつも置いてある場所にないものだから、構内のあちこちを捜しまわる。  発車の合図ができないよう時間かせぎをしておいて七財は、やっと届いた三菱の積荷を貨車に積み込ませる。その作業が終わる時分になって彼は、知らん顔して振鈴を所定の位置にもどしておくわけだが、この手段で何回も神戸港からの船積みに間に合わせた。とにかく三菱だけではなく、三井にしても大倉にしても、必死に政府軍を支援しているというよりは、 「三井のごときに負けてたまるか!」 「三菱なんかクソくらえ!」 「いまこそ大倉を出しぬいてやれ!」  同業者たちには断じて負けたくない、ライバルたちより一銭一厘でも余計に儲けたい……その一心だったのだ。そのために藤田伝三郎は大阪在住だから当然だが、岩崎弥太郎、益田孝、大倉喜八郎らも東京からやってきて陣頭指揮をとった。これに一枚、五代友厚も加わった。彼は鉱山業「弘成館」を経営していて、鉱夫集団を日当が多い軍夫にして戦場へ送り込んだのだった。  ひとり三井銀行副長の、三野村利左衛門の姿だけは見ることがない。彼は東京深川の自宅で、末期の胃がんと闘っていた。三井銀行の開業式で祝辞を朗読することになっていたが、倒れて出席すらできなくなった昨年七月以降は死期を予知していた。三井高福、井上馨、渋沢栄一、その他の高官らも見舞って元気づけるが、回復の妙薬にはならなかった。  見所のある番頭たちを枕もとに呼びつけては彼は、天敵岩崎弥太郎もほとほと感服していた経営訓、 「一、平素よく断の一字を守れ。二、時機を見失うな。三、仕事を棄てて礼をするな」  これを言いつづけながら、西郷軍が熊本城を包囲、砲撃を開始する前日——二月二十一日の深夜、五十七歳にして永遠の眠りについたのだった。  この悲報は大阪の益田へも届けられた。  益田が馬越の耳へ伝えた。  が、二人は戦争が終わるまで、その死については何も語り合わなかった。逆転負けをくらって西郷軍が熊本城の包囲を解いて退却、城山において西郷隆盛が自刃してしまい、 「西郷どんは大久保利通に負けたのではないぞ。海上輸送力を発揮した三菱の岩崎弥太郎にやられたのだ」  と世間が無念がる戦後になって二人は、改めて利左衛門の死の意味について考えた。  この戦争での三井物産の儲けは、三菱にはむろんのこと大倉組や藤田組のそれにも遠くおよばぬはした金——五十万円にすぎなかったものの、益田は三銀からの借金五万円をそっくり返済できたばかりか、予期せざる起死回生の運転資金にすることもできた。益田のそのよろこびたるや、「三井家からボーナスとして五十円ちょうだいした」馬越恭平のそれどころではなく、 (これで三井家も三井銀行首脳陣も、わたしの実力を評価してくれるだろう。これより十年後にはこのわたしが、三井物産を世界一流の貿易商社にして≪第二の三野村利左衛門≫といわれる地位についてみせる)  と自分自身を祝福しつつ、さらなる激励もする。利左衛門の死が意味するものは、彼にとっては未来への無限の≪解放感≫だったのである。馬越もまた、そう思った。  三池炭と唐《から》ゆきさん  益田孝の≪解放感≫ははやくもエネルギーとなって、利左衛門が死んだ直後——西南戦争中から発揮されつつあった。  まずは物産顧問のイギリス商人リチャード・アーウィンをロンドンに派遣し、物産ロンドン代理店を設置させたのが明治十年六月。大倉喜八郎のそれを多分に意識してだが、同時に上海にも支店をオープンさせており、 「中国および東南アジア諸国への石炭輸出を主要営業品目にする」  と考えてのことだ。  とくに上海は「東西貿易の中心地」であり、そこで上海がよいをさせるイギリス製の専用石炭船「秀吉丸」(六七九トン)を、設置したばかりの物産ロンドン代理店を通じて購入した。輸出する石炭は物産が販売権を握っている官営の三池炭である。十六人しかいなかった物産マンを、旧三井組国産方の番頭や手代たち五十一人を吸収して、総勢六十七人にふやすことができた。  しかし、かれらのなかにはちょんまげ時代に、紀州藩の依頼で伊豆七島がよいをしながら取引を代行させてもらっていた島方が何人もいる。かれらにとっては大番頭三野村利左衛門は死んでなお絶対的な存在だ。益田はそうした≪利左衛門カラー≫を早急に完全に払拭したくもあるが、利左衛門批判はするわけにはいかず、このように遠まわしに訓示する。 「物産はまだ当分は、古い体質を残したままやっていかねばならない。三野村さんが亡くなったからといって、会社の経営方針を一転してしまうほどの実力はついていない。だから苦しい。歯をくいしばってがんばり、力を蓄積してゆこうではないか。儲け仕事というものは、向こうからのこのこ歩いてはきてくれない。こちらから儲けのタネを仕掛けるのだ。そのためにわたしは東奔西走する。きみたちも飛びまわってくれ」  時代が日一日と新しくなってゆく。生活も風俗も価値観もものすごいスピードで変幻万化してゆく。そのことを肌で感じつつ、こういう新時代にマッチする商売を、飛びまわってウの目タカの目で捜してこいというわけだ。  他の企業にさきがけて益田が事務の洋式化をはかった……これも≪利左衛門カラー≫の払拭の一手段である。古めかしい大福帳など屑かごへ棄ててしまっての洋式簿記の導入であり、社則のなかにも「オヨソ勘定ヨロシク西洋簿記ノ法ヲ用ヒ、正貨出納《キャッシュブック》ナラビニ付着帳《ジャーナル》ヲ以テ本トナシ……」と盛り込んだ。  三井物産刊『三井物産一〇〇年のあゆみ』(昭和五十一年刊)には、暗号帳を使用したのも益田孝が最初の商社マンだった……その事実を明白にしている。 「創業当初から電信略号を制定し、主として買い入れ米の商売に使われた。内地用と外地用とがあり、内地買い入れ米に使う暗号帳は『電信秘語』と名付けられた手帳型になっていた。片仮名二字ないし三字を組み立てたもので、語数は約一六〇〇余にすぎないが、当時としては模範的なものだった。外地用は、さらに念がはいっている。外国の専門家に依頼して作成させたもので、明治二十四年につくられた改正版によると増補語数九〇〇〇語、英語のほかフランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシヤ、オランダの各国語を使用している」  経済情報誌「中外物価新報」も創刊した。内外の商況、売れゆき見込みなどの市況情報を提供するのであり、生産者にも小売り業者にも重宝がられた。  新たにパリ支店、兵庫出張店、香港出張店の三つを設置した。さらにはニューヨーク支店と函館支店を開き、ロンドン代理店を支店に昇格させ、支配人一名、三等番頭一名、一等手代二名、二等手代一名を派遣した。  原価払い下げにしてもらって輸出している三池炭は「政府と三井とで利益を折半する」条件であるほかに、「三井は売上高の二・五パーセントを手数料として請求できる」ことを工部卿の伊藤博文に承認させたのは利左衛門の≪政治力≫だったが、採炭技術が原始的なため出炭量が歯がゆいほど伸びない。  貪欲な益田は量産させるべく、 「住友の広瀬宰平は明治になるとすぐ、フランスの技師を高給で招聘して別子銅山を、わずか一年間で近代化した」  との情報を耳にするとすぐ、三池炭鉱にもアメリカの鉱山技師を招いて見てもらった。この技師が品質のよさを保証すると益田は、採掘の近代化をいそがせるのはむろんのこと、遠浅の大牟田港に汽船が入港できないため、積出港を有明海対岸の島原半島に移した。ここに古くから有馬藩がポルトガルとの貿易港にしていた口之津という良港がある。三池炭を船底の浅い帆船でそこへ運搬させ、汽船への積みかえをやらせ、専用積替港にしておいて中国や東南アジアへの輸出基地にするのだ。 「全員が石炭販売に全力を尽くせ。まさに石炭は黒いダイヤモンドだ。石炭を内外に売りまくることによって、物産は必ず成長する。全員が石炭のごとく、まっ黒になって働こうではないか!」  と叱咤しながら益田が、国内の港湾都市にも支店や出張所をふやしていったのは、そこに入港する外国船のボイラー用炭としてセールスさせるためであった。  こうして外国船の船長やボイラーマンたちの口コミで、三池炭に対する評価が高まっていった。口之津港には三池炭と飲料水を補給したくて入港する外国船が、日に日にふえて船員相手の歓楽街もできた。  余談になるが、入港するそれら外国船の船倉にもぐり込んで密航をくわだてる日本の、貧しい娘たちが風呂敷包みを一つかかえて群がってくるのが流行みたいになった。現代では東南アジア諸国からジェット機に乗って日本へ出稼ぎにくる、そういう女性たちを≪ジャパゆきさん≫とよんでいるが、口之津から密出国する薄幸な日本の娘たちは≪唐《から》ゆきさん≫であった。もちろん、その流行は三井物産とは無関係だが、それっきり帰国できないままになった、不運な女性たちもたくさんいる。  益田は自ら三井物産上海支店へも渡航し、三池炭の売り込みに全力投球した。上海にある火力発電所、ガス会社、各国の海運会社支店などがターゲットだ。「秀吉丸」のほか「頼朝丸」「清正丸」の二隻を追加購入して、この三隻で口之津—上海間をピストン輸送させる。派遣社員は支配人(二等番頭)以下十七名。これより上海支店は物産の、全中国における最大拠点となってゆく。  だが岩崎弥太郎の郵便汽船三菱が、巨大な壁のごとく邪魔になりはじめる。三池炭輸出が増大するのは願ってもないことだが、石炭船が三隻ではとても足りっこない。  三菱船に依存することが多くならざるを得ない物産は、三菱にとってはカモねぎみたいなものだ。運賃だけでなく、倉庫保管料や荷為替手数料などもがっぽり稼がせてもらっているからである。  物産とは目と鼻のさきにある、茅場町の鎧《よろい》橋近くの三菱会社に、いまいましがる益田が川田小一郎を訪ねた。「当社は顧客中の顧客なのだから、運賃割引などのサービスがあってしかるべきではないのか」と申し入れた。  が、川田の態度は尊大そのもの。 「皮肉なものだねえ、三井物産が大企業に育ってゆけばゆくほど、わが三菱はそのうまい血をたっぷり吸わせてもらいつつ、これまたまるまると太りつづける。あんたがわが社に支払う年額は、運賃だけでも六、七十万円もある。いやあ、大きくなったもんだ」  と笑って、毎度ありがとうございますとも、鐚《びた》一文まけるとも言わない。 (畜生ッ、自社船がもっとほしい。三井資本の海運会社がほしい。なんとか三菱船にだけはたよらなくてもよい……その方法はないものか)  益田は鎧橋の上で切歯扼腕《せっしやくわん》する。  川田に侮辱される益田を見ていたかのごとく、そこへ現われたのが渋沢栄一だ。第一国立銀行と三井物産、これに北海道運輸などの地方の豪族がごとき有力海運業者も参加させて第二の勢力——資本金三十万円の東京風帆船会社を新設しようではないか、とそそのかすのである。名案である。  三菱船を不要にしたい益田は即、発起人になることを約束、ただちに奔走しはじめた。この挑戦に対しては三菱側が、弥太郎の号令で東京株式取引所株の買占め、渋沢を誹謗中傷する怪文書の配布、地方海運業者の籠絡……の虚々実々の作戦を展開させながら応戦した事実は『渋沢栄一』で述べたとおり。渋沢・益田が無残に敗退したのだった。  さらに益田は——  顔面が砕け散らんばかりの≪パンチ≫をくらってよろけた。後藤象二郎が五十五万円で払い下げてもらった官営高島炭鉱は、商社「蓬莱社」の後藤炭鉱局が経営してきたが、柳暗花明のちまたで象二郎が遊びにうつつを抜かしているため業績がさっぱり。そこで福沢諭吉が弥太郎に肩がわりするよう勧め、 「もともとこの炭鉱は佐賀藩がイギリス商人のトーマス・B・グラバーとの合併で共同経営し、日本最初の洋式採炭法を導入した優良鉱である。岩崎氏の三菱が代わって経営権を握れば、たちまちそれが証明されるだろう。三池炭鉱も益田氏が近代化させているが、高島はさらなる強敵となるはずだ」  と石炭業者たちが、高みの見物でおもしろがる事態になってきた。  益田ひとりがうろたえた。東京風帆船会社設立計画がつぶされた上に、石炭業界そのものも征服されてしまってはたまったものではない。だが打つべき手段がない。明治十四年から近藤廉平を事務所長として三菱高島炭鉱が稼働しはじめると、年間出炭量は三池炭鉱と追いつ追われつになっていった。と思ったら、すぐに追い抜かれ、ぐんぐん差がついてゆく。  たとえば明治十五年には—— 「高島の出炭量は二十五万三千六百七十七トンにもなって、その純益は四十一万六千六百九十九円だそうです。対するわが三池のそれは六万九千トンで、政府と折半の利益金が三万六千円。二・五パーセントの手数料収入を加算しても合計四万七千円にしかならず、なんと高島の九分の一です」  との報告をうけて益田は、思わず両耳をふさぎたくなる。三池炭対高島炭の輸出戦争でもたちまち旗色がわるくなるだろうし、これでは総崩れで敗退する西郷隆盛軍みたいなものだ。じっとしておれなくなった益田は三菱への再挑戦、大反撃を決意する。渋沢栄一、品川弥二郎と組んで政官界をも巻き込み、共同運輸会社を設立しての三菱バッシングに加わった……これまた『渋沢栄一』で記述したとおりの、恥も外聞もない泥仕合になったのだ。  三池炭鉱争奪戦  郵便汽船三菱対共同運輸の≪洋上の決闘≫がくり返されているさ中に岩崎弥太郎が≪戦死≫してしまった……そのため二代目の弥之助が東洋一の日本郵船株式会社の合併設立に合意し、さしもの血まみれの大乱戦も集結したかに見えた。  弥之助は新たに三菱社をおこし、海運界から陸運界へと足早に転進していった。明治十九年のこのときを≪新三菱元年≫と称する彼も独特の≪毒気≫をもっていて、全国の私鉄株を買い占めての≪鉄道王≫になろうとする野望があった。さらには≪炭鉱王≫や≪造船王≫や≪銀行王≫の座も狙うどでかい夢を抱いて、 「石炭産業こそ経済界そのもののエネルギー源なのだ。だから三菱は、頂点に立つ石炭王にもならなければならぬのだ。鉄道は明治五年の東京—横浜間の開通にはじまって、いまや全国各地に延びつつある。来年の二十二年七月には大動脈となる東海道線が、二十四年秋までには東北本線が、それぞれ完成する予定だ。その時分には鉄道営業キロ数は二千七百キロ、おそらく二十九年ごろまでには三千八百キロを突破するものと思われる。現に鉄道の普及とともに、船舶に依存してきた国内の交通運輸が鉄道にとって代わられるのは必然の流れだ。しかし船舶にしろ汽車にしろ、増減の差こそあれ、石炭の消費量を確実に増大させてくれるのだから、三菱にとってはありがたい顧客なのだ」  と予測して将来の旅客量や貨物量の、こまかな数字まではじき出していた。弥之助は東京—横浜間が開通したその明治五年、二十二歳で太平洋を渡った。ニューヨーク行きの大陸横断列車が出発するサンフランシスコ駅を見て、彼は呆然となった。アメリカ大陸ではすでにこのような高速列車が驀進し、鉄道の総延長は六万キロにも達していると聞かされたからである。それ以来、日本の≪鉄道王≫になるのを夢想してきたのだった。 「鉄道王になるにはまず炭鉱王にならなければなりません。官鉄、私鉄いずれの機関車用炭も独占するためです」  と言われるまでもなく弥之助にとって、官営三池炭鉱は垂涎《すいぜん》の的の一つであった。高島炭鉱を主力としてその三池も唐津炭鉱も筑豊炭鉱も——九州のヤマはすべて三菱社でおさえたいのであり、遠く北海道の炭田も視野に入れているのだ。  そうなれば弥之助と益田孝が≪決闘≫するのも宿命であった。お互いに避けるわけにはいかない。三池炭鉱を民間人に払い下げるという話がもちあがり、こんどは新たに三井対三菱の≪三池争奪戦≫が展開される雲ゆきになってきたのだ。  この発端となったのは黒田清隆内閣の、外相大隈重信の閣議における提唱だった。 「官有物や官営諸事業はどしどし民間に払い下げるべきである。そうしたほうが産業振興を加速させ、外貨獲得の一助にもなる。外貨が得られず正貨が流出する一方では、国家そのものの繁栄もない」  この大隈提唱を知って益田は、まっさきに渋沢栄一のところへすっ飛んでいって、どう解釈したものかと質問した。もし三井以外の民間企業に払い下げられた場合は、三井物産は三池炭の販売権を失うことになるからだ。 「三池が三菱のものになるようなことは絶対にあり得ない。その販売権は十年以上も物産が握っており、生産と輸出実績を向上させてきた功労もあるのだから、三井さえその気になれば政府は、よろこんで物産に払い下げるだろう」  と渋沢は太鼓判をおしてくれるが、益田とすればやはり気が気でない。八百万《やおよろず》の神々に祈りつづけたい心境であるが、もっとも頼りになるのは正確な情報だから彼は、物産の≪情報機関≫をフルに活動させた。 「黒田清隆も大隈重信と同じ穴のムジナの三菱派だ。過去の北海道開拓使官有物払い下げ騒動をみても一目瞭然、岩崎弥太郎とは切っても切れない仲だったし、海上から陸上へ転進しつつある弥之助とも水魚の交わりをしている。黒田と大隈には『弥之助を男にしてやろう、その餞《はなむ》けとして三池炭鉱をプレゼントしよう』の魂胆がまちがいなくある」 「黒田内閣の閣僚の顔ぶれを見ろ。三井派に近いのは長州閥の内務大臣山県有朋だけではないか。これでは発言力は皆無にひとしく、おそらく逓信大臣の後藤象二郎にしても娘ムコの弥之助に、熨斗《のし》をつけて三池をくれてやりたいだろうよ」  集めた政界情報のほとんどは、このように三菱の断然有利であった。 「もし三井一族が三池を入手できなかったならば、物産は最悪の事態に遭遇することになる。創業以来まる十年、益田孝は≪まま子≫いじめに遭いながらも実によくやってきた。が、営業主要品目の石炭がなくなればこれまで。物産は音をたてながら崩落するだろう」  との声が財界にも蔓延しはじめた。 「そんなことが、あってたまるか!」  益田が金切り声の悲鳴をあげる。  物産にとっての何ものにも代えがたきメリットが、この三池炭販売権には内包されていた。三池炭の輸出量を伸ばすことによって海外市場を開拓し、上海をはじめ香港、シンガポールなどの東南アジア諸国に支店網を張りめぐらせてきた。三池炭鉱そのものが三井の財産ということになれば、なおさら採炭量をふやしつつ支店も繁殖させ、それら支店を足場にして紡績その他の輸出品目も追加する……そうした構想が益田にはあるのだった。  つまり、黒ダイヤ輸出の道そのものが、三井物産がとり扱う商品を通過させるバイ・パスにもなるわけだから、もしも石炭販売権を剥奪された場合はどうなるか。黒ダイヤ輸出の道は無用のものと化し、すべての拠点が空家になり、ほかの品目を通過させるバイ・パスの役目も果たせなくなってしまう。 「三野村利左衛門は三井銀行を主体にしての多角経営を構想していたのに、益田孝がまず三井物産をダメにしてしまった。やつは井上馨や渋沢栄一の尻馬に乗っかっていただけ、ほんとうはタダの人なんだ。三井一族は益田に裏切られたのだ……そのように後世の人たちが決めつけるにちがいない」  そうも想像して益田自身はなおさら、まつわりつく不安定感からのがれられない。  物産の上海支店にいる山本条太郎は益田を、その不安定感から解放してやりたくて、 「これを三池炭にかわる物産の主要輸出品目に育てあげましょう。石炭以上の利益に必ずなるはずだし、中国人にも感謝される仕事です」  と言って大豆油の原料である満洲産大豆に目をつけ、これを中国の農民に量産させ、ヨーロッパ諸国へせっせと輸出していた。大連港から船積みさせるだけでなく、シベリア鉄道を利用しての陸送もやるようになる。  石炭船「頼朝丸」の少年船員だった山本は益田に期待されて上海支店勤務となり、この大豆油輸出を成功させてのち≪物産五人衆≫に据えられる実力者にのしあがった。海軍汚職「シーメンス・金剛事件」(大正三年)にかかわって≪抹殺≫されるが、中国の経済界で再起。政友会幹事長として政界でも暴れ、あの≪大陸商人≫大倉喜八郎とはウマが合う、満鉄総裁にも持ちあげられるのだった。  もちろん、山本条太郎がこのような≪怪傑≫になるとはだれも知らず、 「だからといって、三菱に対して背を向けるわけにはいかんのだ。きみは大豆油輸出でいっそう奮闘してくれ。わたしは三池炭をだれにも渡しはしない!」  益田もあくまで、相手がだれになろうと≪三池争奪戦≫に命を賭ける気だ。期せずして三井と三菱の、水面下での政界工作が同時にスタートしていた。  ところが、裏工作にもっとも神経質になっていたのは黒田総理自身であった。  明治十四年の「北海道開拓使官有物払い下げ疑惑」——当時、参議兼開拓使長官の黒田清隆が五代友厚らと組んで国民の税金千四百万円を投入し、歳月をかけてこしらえた開拓使官舎、地所、船舶、工場などを非常識にも「総額三十八万七千円、それも無利子三十か年賦」で払い下げようとした……としてマスコミに総攻撃をかけられ、国民の袋叩きに遭って満身創痍になってしまった。  手痛いこの経験がある彼としては、三池炭鉱払い下げで再び疑惑を抱かせる状況にしたのでは、内閣退陣をも覚悟しなければならぬ。だから羮《あつもの》に懲りて膾《なます》を吹くの心境にあり、三菱派で副総理格の大隈重信とも密談し、 「政府指名にはせず、公明正大の自由入札制でいきたい。痛くもない腹をさぐられたんではかなわん。よろしゅうごわすな」  と釘をさしておいたのだった。  七月初め—— 「三池鉱山払い下げに関する規則を発表する。一般入札制とするが但し、政府の指値は四百万円。七月三十日までに入札金額と入札者名を、大蔵省会計局へ提出すべし。開札は八月一日の予定。落札者は年内に内金百万円を納入し、残額は十五年賦を厳守せよ」  と大蔵省が発表したとき、「えッ、ほんとうか!」と国民のだれもが目をこすり、信じない表情になった。これでは事件にならないので、退屈な素人芝居でも観せられるみたいにクソおもしろくもないのだ。  益田だけは違っていた。収集した情報のすべてが「三菱有利、三井不利」なので俄然、半病人のようになっていた顔に生気がよみがえり、三井銀行本店へ馳け込んだ。五万円の運転資金を拝借しにいった十年前の、平身低頭する彼ではない。拒絶されれば相手が重役でも、襲いかかって首を締めあげかねない形相であった。そのときの模様を『自叙益田孝翁伝』(昭和十三年刊)は、こう回想している。 「私は三井銀行の西邑《にしむら》虎四郎副長に、一〇〇万円を貸してもらいたいという相談をした。三井物産が上海だの香港だのシンガポールだのに海外支店を持っているのは、三池の石炭を輸出しているからである。政府が三池炭鉱を払い下げることになったのに、三井がそれを手に入れなければ、海外支店を引き揚げなければならぬことになる。そうなれば海外発展ということは到底できない。それだから三池炭鉱はどうしても手に入れなければならぬというて、私は西邑に利害を説いた」と。  この結果、財務状況が極端に悪化している三井銀行だったが、たじたじとなりながら西邑副長は「三池炭鉱は三井組と三井物産の合同財産にする条件で百万円を出す」と約束した。独断だったのだ。 (内金の百万円はできたが、さて、どんな連中が入札者になるのか)  それも益田には気になる。 「内金百万円をおいそれと用意できるのは、三井と三菱以外に見当たらない。古河も安田もまだ小さい。住友が動いている様子もない。従って、三井と三菱の一騎打ちになるのではないか」  黒田、大隈はそう見ていたし、 「一般入札ということにして世間の風当たりを回避し、結末は三菱に凱歌をあげさせる。黒熊(黒田と大隈のこと)の腹の内はそうなのだ。陰謀が依然としてくすぶっている」  との政界情報が右へ左へ飛び交った。 「入札価格をいくらにすべきか」  三菱陣営でも、三井陣営でも、極秘のこの読みがくり返された。それが入札締切七月三十日のギリギリまでつづき、息づまる二夜が明けての八月一日、入札者は四名いて開札の結果はこのようになった。会計局係官が読みあげる。 「入札者は三井武之助、三井養之助、入札価格が四百十万円也」 「入札者は加藤総右衛門、入札価格が四百二十七万五千円也」 「入札者は川崎儀三郎、入札価格が四百五十五万二千七百円也」 「入札者は佐々木八郎、入札価格が四百五十五万五千円也」  立ち会う関係者たちの眼が三角になった。三井一族の名前はあるものの、岩崎弥之助の名がどこにもないからだ。土壇場へきて弥之助はなぜ三池取得をあきらめたのか、と不思議がっているのだ。  が、三井武之助・養之助が落札者になれなかったのも奇妙というほかなく、最高値をつけた一番札の佐々木八郎とは一体いかなる人物なのか。これも不可解である。  ところが、この佐々木八郎こそが益田の代理人だったのだ。知り合いの手形ブローカーで、益田にたのまれて名義を貸してやったのであり、二番札の川崎儀三郎が三菱の代理人——覆面男であるのも判明した。そうとわかって三井陣営に歓声があがり、「まさか……!」という表情になって弥之助は絶句した。  三井の四百五十五万五千円に対し、三菱が四百五十五万二千七百円だから、二千三百円の僅差で敗退してしまったわけだ。≪鉄道王≫であり≪炭鉱王≫でもある弥之助の面目はまるつぶれ。  物産は社主である武之助・養之助名義で正面から入札させる一方、佐々木八郎名義ばかりでなく、加藤総右衛門名義をもう一枚追加し、 「三段戦法でいこう。負けて当然の四百十万円、これは社主名義にしておき、善戦できるかもしれない四百二十七万五千円、これを加藤名義にする。さらに絶対に負けぬための、岩崎氏といえどもためらうであろう四百五十五万……いや、いっそうの安全を期してもうひと声……五千円を上乗せして佐々木名義にしておこう」  これが益田ならではの粒々辛苦の戦法だった。すさまじいばかりの執念のあらわれであり、川崎名義一本で勝てると思っていたところに、弥之助の見くびりがあったのだ。  彼は生涯、この僅差の敗北をくやみ抜くことになるが、四十一歳の益田のほうもおいそれとは、勝利の美酒に酔いたい気分にはなれず、(五千円を上乗せしてよかった。ケチっていれば三井物産はこの世になかった)と胸を撫でおろすのが精一ぱいであった。  三池炭鉱からはさらに貴重なる≪ダイヤモンド≫を掘り出す、その大幸運にも益田は恵まれた。明治四年に岩倉具視一行に従い、アメリカへ渡ってマサチューセッツ工科大学において、鉱山学と経営学をマスターしてきた福岡藩士の団琢磨のことである。  工部省鉱山課技師の団は、三池の経営が三井に移ったこの時点で筑豊炭鉱への転勤を希望していたところへ、彼を手放したくない益田が大牟田まですっ飛んでいった。念のため益田は、団の義兄である金子堅太郎(伊藤博文の秘書)の紹介状も用意していた。 「お待ちください。三井の入札価格四百五十五万五千円の中身は、あなたの鉱山技師としての価値も含めたものなのです。残ってください。あなたこそ三池炭鉱そのものです」  三十一歳の団に三拝九拝し、金子の紹介状をもったいぶってさし出し、サラリーを二百円に増額することも忘れなかった。苦笑しながら団が承知してくれるとほっと安堵し、表へ出て久しぶりに、南へのびる三池街道に立ってみた。この街道は熊本へ通じており、西南戦争のとき軍需物質を搬送、往復したことがある。馬越恭平も同道した当時を想い出しながら、益田はこうも呟いた。 (西南戦争のさ中にわたしは誓った、十年後には三井物産を世界一流の貿易商社にして≪第二の利左衛門≫になってみせると。三池炭鉱を三井のものにしたからには、物産は世界一流へその道を前進しはじめたも同然。これで三井家も三井銀行の首脳たちも、わたしを評価せずにはいられないだろう)  海外進出のパターン  益田孝のシナリオどおりにはならない。  井上馨と三井家が≪第二の利左衛門≫として期待し、迎え入れて三井銀行副長に据えたのは、山陽鉄道社長の椅子を蹴とばしてきた中上川《なかみがわ》彦次郎だった。しかも彦次郎は益田より六歳若く、後輩にあごでこき使われる立場になった彼のショックは、述べるまでもないことだ。 「益田さんが辞表を書いた。書いたが渋沢栄一氏に説教され、提出するのは思いとどまったそうだ。≪まま子≫いじめに耐えぬいてきた益田さんは、これからは中上川副長に≪先輩いびり≫される毎日になる」 「辞表を突きつけて三井家に『おれをとるか中上川をとるか』と二者択一を迫ったが、辞めるつもりはない彼一流の演技だよ。三井家がどれほど自分を重要視してくれているか、さぐりを入れたかったんだろう」  物産マンたちのそんなヒソヒソばなしも吹っ飛んでしまうほどに、入社早々≪嵐をよぶ男≫になって彦次郎は暴れはじめた。三井の古老たちや日本銀行総裁になっている三菱の川田小一郎にさえ頭をさげず、三井改革を断行する剛腕経営をおこなう。相手が貴顕高官であろうと≪地獄箱≫のふたをとっての借金取立て。関西財界人たちへの怒りの逆襲。官上民下に反発しての給与改正。重商路線から重工業化への転進。優良企業の乗っ取り……それら『中上川彦次郎』で紹介済みの、かずかずの豪快痛快ドラマを観せるのである。  重工業化を至上命令にする彦次郎のことだから、益田の≪三池争奪戦≫の全面勝利を賞讃してやって当然なのに、その事実はまったく無視しながら、 「年間取引高が十万円未満の商品には見向きもするな。三井物産は町の雑貨屋や行商人ではない。三井マンとしてのプライドがない。情けないとは思わんのか」  と毒舌をふるって侮辱した——これが物産マンたちのいう意地悪い≪先輩いびり≫のはじまりであった。 「中上川彦次郎め、九州の田舎ざむらいのくせに、よくも三井物産を雑貨屋だとぬかしおったな。いまに思い知らせてやる!」 「それでも益田社長は青蛙なのですか。蛙の顔に小便なのですか。ああ悔しい!」  と激昂《げっこう》する部下たちをなだめつつ益田は、なおも忍の一字でいるしかない。彦次郎が慶応義塾卒のフレッシュマンたち——藤山雷太や武藤山治や藤原銀次郎らをどしどし採用するのも、面当てともとれるが益田は、これに対しても何も言えない。  それにしても、彦次郎は天衣無縫でありすぎる。益田とて好きこのんで、雑貨屋や行商人のごとき零細な商取引をやらせているのではない。いまの物産はたとえ一銭一厘の利益でも、ありがたいと思わなければならぬのだ。 「四百五十五万五千円で落札した、三池炭鉱の内金として借りている百万円は一日もはやく、≪地獄箱≫の証文の多さに苦しんでいる三井銀行に完済したい。残る三百五十五万五千円は十五か年賦でいいとはいえ、これもなろうことなら短期間で大蔵省に完納したい。足枷をはずして物産が飛翔するために」  この願望があればこそなのであり、そのためのたゆまぬ努力がつづけられた。三井銀行への内金返済と大蔵省への払い下げ年賦金には毎年の、三池炭の利益金を充当するが、それでも完済までに十二年間——明治三十五年までつづいた。この十二年間は益田にとって、借金に追われる日々だったのである。  だからこそ一銭一厘たりとも無駄にはできない雑貨屋や行商人のような苦労もし、もう一方では三池炭の海外販路拡張作戦を休止させることができない。益田は物産ロンドン支店に対して電報を打ちつづけ、「ヨーロッパ各国の船主との契約を一つよりも二つ、二つよりも三つというふうにとってゆけ」と指令しつづけるのだ。  この時期の物産マンの総勢は二百九十九人になっていた。うちロンドン支店には将来性のある元締(支店長)、三等番頭、一等手代、二等手代の計五人を駐在させていて、かれらの努力で、 「シンガポールで貴社炭を補給したい」  とドイツのロイド汽船、メサゼリ汽船などの大手海運会社も契約に応じてくれるようになっていった。  古くから世界各国の商船がシンガポールで補給するのは、主としてオーストラリア炭とイギリス炭とされてきた。そこへ三池炭がロイド汽船とメサゼリ汽船に補給させてもらうために割り込んでいったのだから、イギリス炭の業者らが天敵にみなして三池炭ボイコット作戦を敢行しはじめた。 「物産の興亡盛衰はこの商戦にあり。われに七難八苦をあたえたまえ」  と益田が督戦《とくせん》しつづける。シンガポール出張所の三人の物産マンは、益田の外地用暗号帳を駆使しながら善戦健闘する。ロイド汽船やメサゼリ汽船への補給契約を奪還されまいと≪死守≫するだけではない。艦船用炭を扱っている外国の代理店をもあの手この手で味方に引き込み、そして逆に三池炭以外の外国炭をシャットアウトさせるのだ。  ついにオーストラリア炭とイギリス炭も≪城≫を明け渡すがごとくシンガポールから撤退せざるを得なくなった。現代にかぎらず日本の商社マンたちは、当時からかくのごとく粘り強かった……という一例である。  三池炭の輸出業績は数字もまた如実に示している。アメリカ仕込みの技師長団琢磨が指揮して採掘するそれは、官営時代の最終年——明治二十四年には二万八千トンにすぎなかったのが、翌二十五年には四万一千トン、二十六年には七万トンというふうに確実に急増してゆくのである。三池炭が東南アジアを≪征服≫してゆくのであり、 「日本企業の海外進出は、まずNYK(日本郵船)が航路を開き、その地にMBK(三井物産)が市場をつくり、そしてYBK(横浜正金銀行)が窓口を設けることからはじまる……これが明治以来のパターンだ。これら三社の駐在員を見かけぬ港町はなくなった」  こう言いつつ諸外国の海運、貿易関係者らが渋い顔で迎える時代が、すぐにこようなどとは想像もしていなかった。  インド西海岸に益田は、原綿輸入のための物産ボンベイ出張所も開設させた。これにも粘り強い所員たちの涙ぐましき奮闘努力があった。かれらは新たな綿花生産地をもとめてインド奥地のナグプール、アコア、チュチコリン地方へもはいってゆく。熱病で倒れて≪戦死≫してしまったものもいる、というふうでその努力、その奮闘ぶりには、商売のうまさでは華僑にも劣らぬインド商人さえもほとほと感心してしまう。  この原綿輸入ルート開発は、日本の紡績業界を大いに刺激したばかりか、国際的な≪インド洋海戦≫の発端となった。  益田はまず、輸送の経済性に着目した。三池炭をシンガポールへ輸送した日本郵船の戻り船を、さらにボンベイまで航海させて原綿と石油を満載、それを日本へはこばせれば海上輸送費が節減できるというわけだ。  ところが、インド洋航路を独占しているロイド汽船やイタリア郵船が黙ってはいない。日本郵船が≪縄張り≫に無断ではいってくるのさえ許せぬのに、インド綿花の船賃を安くするものだから、インド人の原綿商社も日本郵船をありがたがる……≪インド洋海戦≫はそれが発端となり、日本郵船を閉め出すために勃発したのだった。  益田はこの≪戦争≫でも、いずれ日本郵船が大勝する、と信じていて動揺しない。インド奥地で活動する物産マンたちを賞揚するだけでなく、苦労を共にしているかれらの妻たちをも、男尊女卑の明治時代なのに、 「日本女性はえらい。西欧の女性たちよりすばらしい。勇気もあって、いかなる国の支店や出張所へも、夫唱婦随でいって精一ぱい働いてくれる。夫をはげましつづける。だから日本の貿易業はまちがいなく、これからも大発展する」  との礼讃を惜しまなかった。  女房をおだててやれば社員たちはもっと汗して働くようになる……そんな計算があって言ったのではない。海外進出に成功するのはNYKとYBKが仲間になってくれているからだ、とも思ってはいない。自分のこの声を益田は、ほんとうは中上川彦次郎ただ一人に聞かせたかったのではないか。「あんたは雑貨屋だとか行商人だとか軽蔑するが、海外発展しようとする、先進国に必死に追いつこうとする日本をがっちり支えているのは、こういう名もなき物産マンとつましいその妻たちなんだぞ!」と。  そういう益田自身も縁の下の力持ちであった。彼の臥薪嘗胆は創業時から≪三池争奪戦≫に勝利するまでの十年間つづき、さらに彦次郎が牛耳った十年間を≪先輩いびり≫に耐えつつ、海外発展に尽力したのだった。  一難去ってまた一難  中上川彦次郎のほかにもう一人、益田には別の意味で気がかりなのがいた。  いまや関西において五代友厚亡きあとの≪ドン≫である藤田伝三郎と松本重太郎……かれらさえもしのぐ存在に浮上しつつある北浜銀行頭取の岩下|清周《きよちか》だ。  岩下は東京は築地の英学塾(立教大学の前身)に学び、益田にスカウトされて物産マンになった、いうなれば≪益田派≫の有能なブレーンの一人。ニューヨーク支店やパリ支店にも支店長として益田が派遣した。  それなのに剛直な彼は恩を無にし、益田と衝突して物産を飛び出した。馬越恭平ともソリが合わない。と思ったら彦次郎に面会して三井銀行に再入社、けろりとして≪中上川派≫にくっついた。彦次郎は彼を、高橋義雄のあとの大阪支店長に任命、益田にあてつけた。これでは益田の面子はまるつぶれである。  ところが——  相変わらず剛直そのものの岩下は、経営のあり方で意見が合わぬ彦次郎をも裏切った。 「銀行は産業界に活をいれるためにある。そうしてこそ銀行の社会的存在価値がある。私利私欲に走らず、すこしは欧米の金融界を見習うべきだ」  と三井銀行をさんざん批判し、怒罵する彦次郎に辞表を送りつけ、藤田伝三郎や松本重太郎ら関西財界人に支持されながらの、関西株式界の金融機関である資本金三百万円の北浜銀行を設立、その頭取におさまった。  さっそく岩下は産業界育成の姿勢をとり、キャラメルを販売した無名の森永太一郎を援助して森永製菓の基礎を固めさせたり、一介の商人にすぎなかった大林芳五郎を物心両面から応援して、建設業界の雄となる大林組を創業させたりしている。三井銀行大阪支店でくすぶっていた小林一三が、のちに阪急電鉄の創業にかかわるようになるのも、岩下の叱正とバックアップがあったればこそだ。  鐘紡兵庫工場進出騒動にはじまった彦次郎VS伝三郎の、暴力団まで動員した≪大阪戦争≫でも、もちろん岩下は関西軍になり彦次郎に弓を引きつづけた。こうした彼の彦次郎に対する徹底した反逆行為は、益田にとっては溜飲のさがる思いなれど、益田自身にも面子をつぶされた過去があるのだから、 (敵にまわしたくないが、さりとて味方につけておきたいとも思わぬ。煮ても焼いても食えぬ男だ。どうなってゆくのだろう)  苦々しく舌打ちしつつも、奇妙な魅力をおぼえつつ気にせざるを得ないのだ。  当時の経済ジャーナリストたちは中上川彦次郎、益田孝、岩下清周の三人を≪三井の三傑≫とよび、最終勝利者になるのはいずれか……と予想したりして、大方は「岩下が本命」と見なしていた。  しかし結局のところ、最終勝利者になれたのは益田孝である。彦次郎はまもなく発生する「二六新報事件」で三井から追放され、つづいて岩下も不正融資があばかれる「北浜銀行事件」(大正三年)によって、不名誉な有罪判決の身になってしまうのだった。カトリック司祭・神学者・スコラ哲学者として世界的に有名になり、昭和十五年に亡くなった岩下荘一は清周の長男である。  もちろん、益田自身もそのようなどんでん返しが待ちうけているとは知る由もなく、海外進出に無我夢中だったし、岡山県出身の秋山定輔の「二六新報」が突如として、 「三井わずか千円の融資にも困窮す」  の暴露記事を投げつけて三井攻撃の火ぶたを切ったときの彼は(背後にいて岩下清周が、秋山を操っているのではないか)と疑いつつも、形勢を見定めながら傍観する立場をとった。  その一方では時代の流れが——日清戦争後の深刻化する戦後不況が、自分にとって≪順風≫となってゆくのを実感していた。こんどこそ≪第二の利左衛門≫になれる最大の幸運が、ほんとうにめぐってきそうなのだ。  すでに『中上川彦次郎』で語ったごとく、慢性化する経済不況のため彦次郎の「三井の重工業化」は頓挫、オーナーの三井同族会は掌《てのひら》を返して口々に、三井物産こそが三井グループの代表であるとおだてあげるので、 「これまでは絶対的存在の三井の中上川だったが、今日からは銀行の中上川、物産の益田というふうに二人を同格に見なすべきだ」  の誇らしげな声が、物産マンたちのあいだで広がった。そうすると不思議なもので、彦次郎のやることなすことはすべて暗になり、益田のそれはすべて明になる現象があらわれはじめた。彦次郎と益田の場合に限らずライバル同士のあいだでは、そうなってしまうことが多々あるものなのだ。  欧米製に負けぬ機械綿布を生産できる世界的な豊田式織機——明治三十年春、これに出会ってからの益田の、商人としての執念はすさまじかった。発明した豊田佐吉をくどきおとして彼は、三井がパトロンとなる豊田動力織機製造販売の合名会社「井桁商会」を創業した。当時、欧米製は操作が煩雑な上に、価格も目玉が飛び出すほど高い。たとえばドイツ製のハートマン織機が一台九百円、フランス製のジュドリッヒ力織機でも四百円しており、日本の中小の織物業者には手が出ない。が、豊田式だと操作が素人でもできる上に、価格がなんと九十三円のバカ安ときている。画期的なこれを、益田は世界じゅうに売りまくろうというのである。  が、いろいろと紆余曲折があった。新たな開発改良の失敗があったり、経済変動に翻弄されたりした。感情的な衝突もあって「井桁商会」は解散、三井と訣別して豊田佐吉がひとりで「豊田商会」をオープンしたりした。と思ったら再び三井と握手……そうした人間模様も織りながら佐吉は「明治三十八年式」「軽便織機」とよばれる小幅織機を開発。まさに三度目の正直で三井物産が、佐吉に三回目の手をさしのべて大阪や名古屋の大手紡績会社の資金も導入してやりながら三十九年末、資本金百万円の豊田織機株式会社(のちの豊和工業)が呱々《ここ》の声をあげるに至った。  以後、豊田式は世界の紡績界に技術革新をもたらし、日本の紡績業界を不動のものにする。佐吉自身の開発改良に対する情熱は火の玉のごときものだが、金のタマゴである彼を何としても育てたい、手放してなるものかとするそれが、益田の商人としてのすさまじさだったのである。佐吉の長男の喜一郎が、三井銀行の支援をうけつつトヨタ自動車工業を創設、≪世界のトヨタ≫の基礎を築くのは、それからのちの話である。  なのに彦次郎のほうは——これも『中上川彦次郎』で語ったとおり、王子製紙につづく北海道炭礦鉄道株の買占めでも、批判の声が三井内部に噴流したものだ。しかも、それを煽っていたのが井上馨である事実もわかってきて、 「貴顕紳士であるべき三井銀行が、低俗なる手段で企業の株式の買占めに狂奔するのは、いかがなものであろうか」  と益田が発言。騒然とさせるそのときを待っていたかのごとく、秋山定輔が暴露記事をばらまいたのであり、さらには聞くも涙の「三谷屋事件」まで書きたてたのだった。  益田は傍観してばかりいられなかった。 「秋山の後ろ楯になっているのは奇々怪々、なんと伊藤博文と井上馨だ」  おぼろげながらそうだとわかってくれば、三井家の代理として益田が伊藤・井上に、三井財閥攻撃のキャンペーン中止の裏工作を依頼すべきであった。やはりこの場合も、益田のやることなすことがすべて明になり、彦次郎のそれはことごとく暗になっていった。 「もはや三井の中上川どころか、銀行の中上川すらいなくなってしまった。物産の益田もいないが、しかし三井の益田は存在する」  というのが衆目の一致するところだ。  井上馨を軽蔑しつつ中上川彦次郎が死去した翌年——明治三十五年四月、オール三井の最高評議機関である三井家同族会事務所に「三井同族と各店理事とが心を合わせ、連絡を密にして統一を保持する」目的の管理部が新設され、益田孝がその専務理事に推挙された。井上馨が送り込んだ新任の早川千吉郎が事務局理事として補佐するのであり、益田が名実ともに≪第二の三野村利左衛門≫ということになったのだ。  悲願達成であり、利左衛門の死後はやくも四半世紀の歳月が流れていた。彼は五十五歳、あごひげが白くなっていた。  益田の使命は彦次郎の重工業主義を棄て去り、旧来の重商主義に三井をいそぎUターンさせることであった。その過程で政権交代にひとしき≪中上川軍団つぶし≫が開始された。彦次郎が大量にスカウトした慶応義塾出身のフレッシュマンたち——彦次郎の義弟である朝吹英二は益田に忠誠を誓ったので残れることになったが、同じ義弟でも藤山雷太は乗っ取った王子製紙から去らねばならなかった。  が、桂太郎からも≪地獄箱≫の借金をとり立てたこともある彼はタダものではない。「日糖疑獄事件」(明治四十二年)の後始末を渋沢栄一に頼まれ、大日本製糖社長として再建のための敏腕をふるい、昭和初期には財界の重鎮になった。武藤山治は鐘紡に残るが、益田に露骨に冷遇される。それでも「大鐘紡」といわれるマンモス企業に育成してのち、政治家になったり時事新報社長として論陣を張ったりするが、神奈川県大船の別邸前で目的も正体も定かでない男に射殺(昭和九年)されてしまう。  富岡製糸所支配人だった藤原銀次郎も残留はしたものの、三井物産海外支店を転々とさせられる≪島流し≫同然の扱いをうけた。明治末期にようやく王子製紙専務に返り咲き、この王子を「大王子」にして≪製紙王≫とよばれるようになるが≪まま子≫にされた益田と似たりよったりの苦難の長い道を歩いたのだ。 「益田さんは三井の徳川家康だよ。豊臣政権の五大老、五奉行をつぎつぎと処刑したり冷遇したりした……それと同じことをやっている。うまいもんだね」  という声も聞こえてくるが無視して彼は、彦次郎の≪事業遺産≫にさえも未練を残さなかった。まず富岡、名古屋、三重、大《おおしま》の四製糸所を「赤字を生みつづけるだけの厄介者」として≪横浜財界の大御所≫といわれる原合名会社の原富太郎へ譲渡、紡績業界を仰天させた。横浜の製糸売込商である原一族のことは、益田は横浜居留地の外国商館の通詞をやっていた青年時代から知っていて、養子の富太郎とは親密だったのだ。  譲渡価格は二十五万円であった。三井が十年前に官営富岡製糸所を払い下げてもらったときの価格は十二万千四百六十円だったから、四つの製糸所が締めて二十五万円ではあまりに安すぎる。買ってくれる原富太郎が若いころからの親友だったからというだけでなく、「ひと山なんぼ」式に売りとばしてしまったところに益田の、彦次郎に対する複雑な感情が読みとれるのである。原合名会社はのちに富岡製糸所を、片倉工業へ転売した。  東京市がすすめる都市区画整理に、日本橋の三井呉服店がふくまれるため移転させなければならなくなった——この機に益田は、同店の三井家よりの分離独立を提案した。三井家代々の本業とはいえ、いまはさびれて収益が低下しつづけている。東京店の年収は百七十万円。大阪店が八十万円。うち純利益は両店合わせても七万五千円にしかならず、近代化した三井が旧態依然の呉服屋をやっているのは気はずかしい……益田にはそういう思いもあるのだ。  同店が資本金五十万円の「三越呉服店」として独立させられたのは明治三十七年末、ちょうど日露戦争中であった。日比翁助《ひびおうすけ》が専務取締役に就任、朝吹英二、高橋義雄が重役として補佐することになった。三人とも中上川軍団であるため、 「益田が分離独立させた三越に、かれらをおし込んだ。三越は中上川派の、慶応義塾出身者たちの姥捨山になった」  と陰口されるようにもなった。 「益田氏は自分が先収会社といっしょに、商家の土蔵がオフィスだった三井物産に押し込まれた……過去のあの怨念が、終生忘れられんのだろう。彼の恨み節なんだよ」  とも勘ぐられるが、あながち邪推とは言いきれない。しかしながら日比翁助はがんばり、経営のデパートメントストア化に腐心し、ヨーロッパ随一のロンドン・ハロッズ百貨店を手本にしながら売場面積、売上高ともに日本一の「三越」へと成長させていった。  こう書いてゆくと≪第二の利左衛門≫になり得てからの益田孝は独善的になり、まるで怨念をはらしたくて≪中上川派≫つぶしをたのしんでいるかのように見えるが、彼の視線は遠く満洲へむけられていた。中国より買いとってここに広大な≪三井王国≫をつくりたいのであり、雄大なるスケールのこれを彼は「満洲買収計画」と称していた。  中国人や蒙古人や朝鮮人労働者のみならず、日本から年々歳々、大量の開拓者たち——満洲移民を送り込んで≪三井王国≫に重工業、化学工業、鉱業、農業、紡績業などあらゆる産業を育成し、それらの製品や産物を全世界に売ろうというプロジェクトリーダーとしての益田は、慶応三年(一八六七)にアメリカ合衆国がロシアから七百二十万ドルで全アラスカを買収したのを意識していた。  彼の尖兵となって暗躍するのが、満洲大豆の大豆油をヨーロッパに売りまくる山本条太郎と、彼の後任として三井物産上海支店長に選ばれた森|恪《つとむ》である。  だが、山本は海軍汚職「シーメンス・金剛事件」(大正三年)にかかわって物産から去らねばならず、森は三井資本の中国興業(のち日中実業)を設立して対華投資、資源開発にも辣腕をふるうが、岩下清周と同様に益田を裏切って飛び出し、政治家となってあえて三井財閥に反抗するのだった。このように益田の身辺ではまだまだ波瀾万丈の、予期せぬストーリーの活劇がつぎつぎと展開されてゆくのである。  益田にはもう一つの≪顔≫がある。  鈍翁と号している茶人としての彼であり、≪幕末のモダンボーイ≫だったのが中年をすぎて、国宝級もある第一級の茶器や古美術品の、並ぶものなきコレクターになってゆくのだ。そのための莫大な資金は、益田の待遇については歩合制にして「物産の純益の一〇パーセントを報酬ということにしてほしい」と井上馨が三野村利左衛門に申し入れた……あれなのだ。  益田は茶会や美術品や骨董類を、個人的な趣味だけで催したり蒐集したりしているのではない。政治家や官僚や財界人も集めての、鑑賞しながらの人脈づくりに役立てるのだ。それら人脈が三井物産のさらなる発展のためになるのであり、そうなれば自分の「純益の一〇パーセント」も増大する。  増大するその収入が品川御殿山の大豪邸、小田原の別邸などに化けていってそこに、鈍翁は金に糸目をつけず古美術品を集める。それらを政治家や官僚や財界人らに鑑賞させてやる。その数は彼が九十一歳で死去(昭和十三年)したときには四千点にもなっていて、 「三井家には満洲国を買収してやり、自分は日本一のコレクターになる」  のに満足したかったのだ。大倉喜八郎のように「大倉集古館」を一般公開して見せびらかすのは、モダンボーイのわたしの趣味には合わぬ……そうも思っていたのだった。