[#表紙(表紙2.jpg)] 明治の怪物経営者たち(2) 小堺昭三 目 次  岩崎弥太郎  広瀬宰平《ひろせさいへい》/伊庭貞剛《いばさだのり》 [#改ページ]  岩崎弥太郎《いわさきやたろう》——政府を手玉にとった海運王 [#ここから1字下げ] 〔略伝〕天保五年(一八三四)、土佐国(現高知県)に生まれる。土佐藩長崎勘定役などを務めた後、明治六年(一八七三)、廃藩置県に際し三菱商会を興《おこ》して海運業を始める。台湾出兵や西南戦争における軍事輸送で大きな役割を果たす。政府の保護を受け、海運業を独占し、代表的な政商となった。明治一八年、共同運輸との激しい競争の最中に没。 [#ここで字下げ終わり] 長崎土佐商会の留守居役 「政商とは支那の字引にもなく、日本の節用集(実用辞書)にもなき名なり。無きは当然なり。これは明治の初期にその時代がつくりたる、特別の時世にできたる、特別の階級なれば……」  と「政商」の語源を、明治の民間史学者山路愛山が『現代金権史』のなかで明らかにしている。日本には政治家や官僚と癒着する特権的な≪怪物≫が存在する事実を述べて、その筆頭が岩崎弥太郎であるとも指名した。  いかにして弥太郎は「政商」になり得たのか。むろん、これは大いに興味あることだ。が、四国は土佐藩の農民あがりの下級士族にすぎなかった彼が、どのようにして大三菱を創始してゆく資金を捻出できたのか。山路愛山をはじめあまたの史家たちが追跡調査してみても、その点は現代に至ってもなお正確には解明されず、永遠の謎として残されている部分であり、だれもがもっとも知りたいポイントなのだ。  弥太郎は天保五年(一八三四)の生まれ。彼にもっとも強烈な影響をあたえた人物は、同郷の一歳年下のあの坂本龍馬である。  幕末には土佐にも、新しい時代の風が吹きつけてきつつあった。ときの藩主|山内容堂《やまうちようどう》が「酔えば勤皇、醒めれば佐幕の人」と笑われるほどに優柔不断である上に、家臣たちは徳川支持の保守派、進歩的な開国派、あるいは血気の尊皇攘夷派に離合集散するため、血みどろの斬り合いも頻発する。  その粗野さを嫌ってコスモポリタン派の、もとは酒屋の小伜《こせがれ》である坂本龍馬は脱藩してしまうが、農民あがりの弥太郎は仕置役(家老職)吉田東洋の「開国論」に共鳴しつつも、右にも左にも行動する決断がつかないまま、目立たぬ存在で付和雷同していた。  文久二年(一八六二)三月の雨の夜、下城中に吉田東洋は待ち伏せに遭い、土佐勤皇派武市瑞山一味の三人に斬殺された。その東洋の甥《おい》であったエリート上士階級の大目付後藤象二郎が、一躍にして後任の仕置役に昇格。彼は叔父の仇を討つべく二人の刺客を放ち、大阪方面へ逃走中の犯人らを追跡させた。その刺客の一人が二十九歳の弥太郎だが、剣の腕前には自信がなかった。  首尾を期待されたのに弥太郎は、相棒が返り討ちに遭い、大阪の道頓堀川に投げこまれて涯《は》てると、一目散に高知へUターンしてきた。当然「変節漢」「卑怯者」の罵声をあびせられるが、生まれ故郷の安芸郡井ノ口村で野良仕事をやったり、室戸岬へ海釣りに出かけたりしてだんまりをきめ込んだ。  なぜ、そうなのか。 「おれは生きなければならぬ。斬られれば開国論を現実のものにすることはできない。生きていてこそ吉田東洋先生のためになるのだ。仇討ちはやりたいやつがやればいい」  と考えてのこと。いま一つは淀川河口の巨大な貯木場に集められる材木の山が、翌朝には売れて大阪市内へ運び出されてゆく……そんなスケールの大きな商取引を目撃してきた彼に、 「武士として立身出世を願うより、材木商として大成したい。貿易業にも進出してみたい。それが開国論の実行になるのだ」  との熱い思いも、勃然《ぼつぜん》と湧いてきて命をいっそう惜しませたのだった。  だが商売をやる資金などころがり込んでくるはずもなく、井ノ口村で土いじりする毎日だ。そうしているあいだにも天下の形勢は、維新動乱へむけてまっしぐらに突入しつつあった。  突然、象二郎からの呼び出しがあった。やはり東洋のプロジェクトである富源開発策の一つとして、藩営「開成館」を設立、弥太郎をその国産方の一員として採用したのであり、これが宿因となって象二郎と弥太郎の関係は表裏一体で終生つづくことになる。やがて弥太郎が三井財閥をもおびやかす「三菱王国の創始者」にのしあがり、三井の場合の井上馨と同様に象二郎が「三菱の黒幕」あるいは「三菱王国の産婆役」と言われるまでになろうとは、まだ当人たちでさえ知る由もない。  間もなく弥太郎は「開成館」所属の、長崎土佐商会へ転勤させられた。土佐の産物である半紙、かつお節、鯨肉、砂糖などを長崎の外国商館に売り、それらの利益金を洋式軍艦や銃砲購入費にまわすためで、とくに土佐樟脳はバイヤーたちがもっともよろこぶ輸出品だ。弥太郎は十八歳の喜勢を娶《めと》り、一男一女の父親になっていたが彼女らは井ノ口村に残し、長崎へは単身赴任だった。  長崎において弥太郎は、脱藩したままの坂本龍馬と再会できた。  そのころの龍馬は、幕府軍艦奉行の勝海舟を師としてはじめた神戸海軍操練所を幕吏によって追われ、二十八人の所員たちを同伴して長崎へ流浪し、この地で薩摩藩をスポンサーにしながら海運海員業「亀山社中」をオープンしたばかりだった。亀山は町名、社中とは仲間を意味しているから「亀山社中」も一種の株主組織の企業といえなくもない。龍馬が二十八人のサラリーを上下のない、平等の三両二分にしているのも、当時としてはユニークであった。  弥太郎は遊び好きの象二郎のお供で丸山の妓楼へゆき、なまめかしい美女たちをはべらせての宴席で、すっかり有名人になっている龍馬と再会した。龍馬はチャーターした伊呂波丸で長崎から出帆、象二郎が購入した積荷の銃器弾薬を、大阪土佐藩邸へ届けにゆく途中の暗夜の瀬戸内海において、紀州藩船に衝突されて沈没してしまう海難事故に遭遇した。徳川御三家の紀州藩を相手にその賠償金として八万三千両もの大金を、龍馬が薩摩の西郷隆盛や五代友厚らに圧力をかけてもらってふんだくった……のが長崎の町民らにも知れて、天下の有名人になったのだ。  しかも龍馬は脱藩者であるのに、家老の後藤象二郎のほうがペコペコしながら「亀山社中」に対して公金一万五千両を融資する、その約束もしてやっている。さらには脱藩の大罪を不問にし、土佐藩海軍の海援隊長にも任命するというのだから、年上であっても弥太郎としても頭のあがらぬ立場だ。  京都における新撰組の「池田屋襲撃事件」のさいには危機一髪で難をのがれた、その自分を語って龍馬は、東洋の仇を討てずに逃げもどった弥太郎のことも皮肉って、 「おんし(お主)もおれも逃げ足だけは迅《は》やかのう。お互いに要領よく長生きして、女と酒をたのしまなあかんぜよ」  裾の乱れた芸妓を、両脇に抱き込んで言うものだから、なおさら弥太郎は視線のやり場がない。象二郎も負けずに戯れている。  象二郎ときたら龍馬よりさらに若く、弥太郎よりも四歳弱輩だ。その弱輩家老に彼は長崎土佐商会留守居役——土佐商会長崎支店長を命じられたわけだが、これがまたひどい仕事であった。象二郎と龍馬が伊呂波丸賠償金八万三千両のうちの七万両を、弥太郎に厳重保管しておくよう委託、土佐藩船で上洛の途についた。見送ったあと弥太郎が、長崎土佐商会の経理台帳を克明に調べているうちに、愕然とならざるを得なかった。 「使途不明の多額の借金がある。丸山妓楼で夜な夜な散財した公金濫費がある。おれにどうせよというのだ。後藤象二郎がおれを留守居役にとり立てたのは、よろしく穴埋めしておいてくれということなのか」  弥太郎は利用されている自分に、いまやっと気づいた。  弱輩家老にさんざん利用されるのはいまいましいが、何とか穴埋めしようと貿易に関する表と裏の勉強をはじめた。外国人たちとも見よう見まねのビジネスをやった。当時は、初代イギリス長崎領事のペンバートンが語っているように「まるで死肉に群がる禿鷹のように」外国商人が渡来していた。米、英、蘭、仏、露、中国などその数は百八十人余。なかでも弥太郎が仲よくしたのは、龍馬や象二郎とも取引のあったスコットランド系のトーマス・B・グラバーだ。  グラバーはのちに三菱とは切っても切れぬ仲になり、弥太郎の頼みで三菱長崎造船所や高島炭鉱の近代化に手を貸した。二代目の弥之助時代にも三菱顧問として東京の芝公園内に邸宅をあたえられ、キリンビールに出資したりもする。  坂本龍馬のほうは弥太郎と別れて半年後の慶応三年(一八六七)十一月、逃げ足は迅かったはずなのに潜伏中の、京都は河原町の醤油屋の裏二階において、刺客の一団の急襲により土佐陸援隊長の中岡慎太郎とともに滅多斬りにされてしまう。龍馬三十三歳、中岡三十歳。  もちろん、この「龍馬暗殺さる!」の悲報は長崎へも届けられ、 「坂本龍馬が明治維新まで無事でいたら、岩崎弥太郎の三菱商会は実現せず、今日の三菱グループは一社たりとも存在しなかっただろう」  と否定的な見方をする経済史家も少なくないが、悲報を耳にしたときの弥太郎自身は、 「世界貿易論を提唱しつつ、代わっておれの亀山社中を経営したい」  と構想した。自信も湧いてきつつあった。昭和六十一年刊行の『三菱商事社史』によると、この時分の弥太郎はすでに相当の経験を積んでいて、 [#ここから1字下げ]  ……大胆な外国貿易を敢行している。その一つは北海交易である。慶応四年四月四日、高知藩船大阪丸で長崎を出帆、米・麦・石炭・粉麺・芋等を積み、長崎から函館を経てカムチャツカ半島のペトロパブロフスクに渡って交易を行い、六月三日函館に帰着したものである。これはアメリカのウォルシュ商会との共同事業であった。  第一回目の交易が成功したので、第二回目は長崎商会単独で決行したが、同年十月大阪丸が函館に着いた時、榎本武揚の幕府脱走艦隊の来襲に遭遇し、そのため交易は成功しなかった。この報を聞いた日、弥太郎は日記に「余終夜夢蝦夷地」と記している。もう一つは、弥太郎自身が樟脳売約のため上海渡航を企てたことである。しかし乗船が台風に遭い、五島列島に漂着してこれは失敗に終わっている。これらの外国交易は弥太郎長崎時代の掉尾《とうび》を飾る活動であったが、同時に将来の事業を予告するものであった。 [#ここで字下げ終わり]  このような命がけの大冒険もやっているが、再び象二郎の「大阪土佐藩邸に至急参上すべし」の藩命をうけたのは明治二年(一八六九)一月。すでに江戸は東京に改められ、榎本武揚らも函館五稜郭を開城して降伏、東北地方の戊辰戦争も終結していた。  謎の三菱創業資金  ——異説がある。  たとえば在野史家の白柳秀湖の労著『岩崎弥太郎伝』(昭和七年刊)は、弥太郎が長堀にある大阪土佐藩邸に長崎からやってきたのは明治二年一月ではなく、その前年の慶応四年五月だという。後藤象二郎の親友の板垣退助を軍団長とする土佐軍主力も、錦の御旗をひるがえして東征を開始した大久保利通の追討軍に合流、勇躍出陣した。土佐開成館貨殖局幹事心得の肩書をもらった弥太郎は、その土佐軍の軍用金調達係であったのだ。  なんと大阪土佐藩邸の大広間下は秘密の地下兵器庫になっていて、ここが贋金づくりの贋造《がんぞう》場に活用されていた。むろん、贋金づくりは天下の大罪なれど、幕府の権勢が落日のごとくになりはじめると、財政難の各藩でもそれをやるようになり、とくに福岡藩や薩摩藩などは大がかりであった。  土佐藩の場合は二分金贋造だから、その額も知れているが、実際にその地下贋造場を見た弥太郎は驚愕するどころか、 「これでは藩兵たちの給金にもならない。東征軍に参加する土佐軍兵士は一千人なのに、その軍用金がわずか一万二千両では話になりません。贋金をこしらえても間に合わぬ。このさい従来からある開成館札のほかに、藩札の新紙幣を発行して軍資金を充分に調達しておくべきです。急がねばなりません」  と象二郎に執拗に進言。人が変わったみたいに積極人間になった弥太郎に、象二郎のほうが唖然とさせられた。  いまや後藤象二郎はスターであった。「公武合体論」を唱え、藩主山内容堂を説得し、その名代として将軍徳川慶喜に大政奉還を建言、慶喜がそれにおとなしく従った……というのだから明治維新の立役者の一人に加えられたのだ。その象二郎がさっそく高額紙幣の鯨札と小額紙幣の鰹《かつお》札を、土佐藩内において二百万両発行させた。弥太郎が全面指揮した。  この功労により弥太郎には馬廻役の地位があたえられ、大阪土佐藩邸留守居役小参事兼大阪土佐商会差配役(支社長)の肩書もついた。その直後に東征軍が江戸城を開城、江戸を東京に改めて明治新政府が発足した。つまり、ようやく弥太郎はちょんまげ時代が終わろうとしている土壇場へきて、下士階級から上士階級へはいあがることができたのだ。  しかし、祝酒に舌鼓を打ってはおれない。藩債となっている象二郎の借金——十八万両の天金(通用金)の返済をもとめてオールト商会のウィリアム・J・オールトが、 「すみやかに清算してくれなければ、明治政府に告訴し、大名山内家の金資産をことごとく差し押さえるぞ」  との強硬態度に出てきた。弥太郎が金策に奔走。アメリカ人の貿易商オールスから樟脳の販売権を担保にして三十万両を融通してもらい、このなかから十八万両をオールトに返済。ほっとひと息ついているところへ、 「高知のあちこちで、二百万両分も発行された鯨札と鰹札はたんなる紙きれにすぎん、という声がひろがりはじめている。藩民は激怒している。大騒動になりそうだ」  という情報が飛び込んできた。  これにも弥太郎は対処しなければならなかった。高知市中に兌換所を設けて、鯨札でも鰹札でも持参すればその場で天金と交換してやる。そうすれば藩民も納得する。樟脳販売権を担保にして借りた三十万両の、残り十二万両をそれに充当すればよい……と弥太郎は言う。そして、彼自身が十二万両を藩船若紫に積載して大阪から浦戸港へむかった。  開成館内に設けた兌換所前には朝から、群衆の長蛇の列ができた。十二万両はあっというまに底をついた。「大混乱のため事務続行は不可能」を理由に閉門させ、弥太郎は夜陰にまぎれて若紫へもどった。翌朝、気づいた民衆が追いかけてきたときには、若紫は九十九《つくも》洋の水平線上にあった。結果として弥太郎発案の新紙幣発行は、土佐藩財政破綻の導火線になりかねなかったのである。  こんなことがある間にも明治新政府は、近代国家に脱皮するための政策を矢つぎ早に打ち出していた。≪三井札≫といわれる太政官札の発行、明治二年六月の全国諸大名による版籍奉還——天皇政治による全国統一へのスタートがそれである。  この≪新時代のバス≫に乗り遅れるようなのろまな後藤象二郎ではない。スターである彼は新政府から大阪府知事に任命され、版籍奉還の実現にも参画している。渋沢栄一が大蔵|権大丞《ごんだいじょう》に就任したり、「円・銭・厘と呼称する十進一位法、旧貨幣の一両は一円なり」とする新貨幣条令が制定されたり、王政復古の最後の仕上げとなる廃藩置県令が実施されたりの明治四年には、象二郎は高級官僚の工部|大輔《だいゆう》として東京にいた。  戊辰戦争に勝って奥羽地方より凱旋した板垣退助は土佐藩大参事に就任していたが、廃藩置県にさいしては参議に迎えられ、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通らとともに中央政庁の重鎮となった。これら四人は廃藩置県令を布告するにあたり、 「藩知事(旧藩主)を無視することへの民心の動揺をおさえること。各藩の財政を引き継ぎ、旧来の外債内債を処理してやること。それには民衆が所有している各藩の藩札を、太政官札もしくは新貨幣と交換してやるべきが重要なポイントとなるであろう」  との認識の一致をみた。  が、いくら何でも「太政官札一両と藩札一両の等価交換にする」というわけにはいかない。いずれの藩札も相場は額面の三分の一、ひどいのは四分の一にも下落している。そこで「廃藩置県令発令当日の相場額で大蔵省が交換してやるのが正当」ということに決定、「この件は当日まで他言無用、極秘にしておく」のにも四人は同意した。  この時期——  土佐の各地では奇々怪々の現象が発生しつつあった。開成館兌換所が閉鎖されて以後、反古紙同然になっていた鯨札が、どこのだれとも判別しがたい人物たちによって大量に買い占められはじめたのだ。≪三井札≫を持っていって買いまくるのであり、たとえ額面五両の鯨札が≪三井札≫の一両の値であっても、売れぬよりはましだから町民も農民も漁民も雀躍しながらタンスや銭箱から出してきた。  だれの指令で買い占めているのか。その買い占め資金の出所はどこなのか。どれほど買い占められたのか……それらは一向に判然としないばかりか、 「大阪府知事だった後藤象二郎の口ききで、岩崎弥太郎が堺の船成金から太政官札十万両を借金し、それを元手に鯨札を買いあさり、少なくとも三十万両にしたと思われる」 「坂本龍馬から預かっていた伊呂波丸の賠償金七万両……これを後藤の承諾を得て弥太郎が、鯨札買い占めに流用したのではないか。このようにして掴《つか》んだ莫大な奇利が、のちの三菱商会の運転資金に化けたらしい」  との二説が存在するものの、いずれとも即断できる確証は皆無なのである。  もし鯨札買い占めの黒幕が岩崎弥太郎であると仮定するならば、彼は他言無用であるはずの「廃藩置県令発令当日の相場額で大蔵省が交換してやる」藩札情報を、参議の板垣退助から直接に耳打ちしてもらったか、工部大輔に就任していた後藤象二郎からの連絡によるのではないか……と見なすことはできそうだ。このころから弥太郎は新たな行動をおこしている。  明治三年には中央政庁の「藩営商社取りつぶし政策」が強化され、開成館土佐商会も廃業せざるを得なくなった。それを惜しむ大阪土佐商会差配役の弥太郎が、象二郎と板垣に協力してもらって山内家を説得し、私営商社「九十九《つくも》商会」に改称、沿岸海運業を主力にして存続させるようにした……これはまぎれもない事実だ。  この社名は土佐湾の別称である九十九洋に因《ちな》んだものであり、藩船紅葉丸、夕顔丸、鶴丸の三隻による高知—神戸—大阪—東京間の定期航路を開設したのだ。だから社名は改称しても標旗はいまだに山内家の紋所である「三つ柏」にしていて、東京の南茅場町に支店を進出させた。  翌四年にはいよいよ廃藩置県が実現し、全国に三府三百二県ができた。藩知事であった旧藩主二百七十四人にかわり官選の府知事、県令(県知事)が着任。公卿と旧藩主たちは労せずして華族になることができたが、多くの士族が失職して飢え苦しむなか、天皇制の中央集権国家が形成された。 「この機に九十九商会も、完全な民間企業に移行する」  このことに華族になった山内家が同意し、藩士らの失業対策として経営を弥太郎に一任する方向で内定した。ただし、九十九商会の施設と藩船だった三隻は弥太郎個人に無償で譲渡するが、「樟脳販売権を担保にオールス商会より借りている山内家名義の外債三十万両の、その清算義務も合わせて引き継がれたし」の条件付きである。  借金そのものの肩代わりであるが、ひるむことなく、 「九十九商会の商権と三隻の汽船があれば、三十万両の借金も恐るるにたりん。まさに宿願の貿易事業と大海運業への船出だ。外国へも出てゆこう。高らかに銅鑼《どら》を鳴らそう!」  と弥太郎は大いなる闘志をみなぎらせた。なのに高知県民は、岩崎弥太郎を経営者に据えることに猛反対した。その大合唱を無視できず、土佐屋善兵衛なる人物を代表に置き、その下に川田小一郎、石川七財、中川亀之助を配した。かれらもやはり土佐の貧乏な下級士族の出身であり、三人の川の字をとって藩士結社組織の「三ツ川商会」の看板をかかげた。県民が弥太郎を嫌うのは、例の鯨札兌換騒動の恨みがあればこそである。  ところが、土佐屋善兵衛とは弥太郎の世をしのぶ仮の名で、苦しまぎれにこのような結社組織にしたのが、結果的には弥太郎自身に大幸運をもたらすことになる。これら三人が個性ゆたかな人材に育ってゆき、期せずして三菱創業の≪功臣三羽烏≫となり、チームワークを絶対視する≪組織の三菱≫の基盤をがっちりと構築してくれるようになるのだった。  最初のうち士族のプライドを棄てぬ尊大な川田小一郎に、弥太郎が一両小判を張りつけた扇をみせて、このように説教した。 「おんしは、取引先の手代や丁稚相手にペコペコできるか……と言いたげな面構えをしておるが、それではいかんのだ。やつらに頭をさげるのではなく、小判にペコペコするのだと思い直して、この扇子をとり出してみろ」  石川七財に対しては、こう言った。 「これからは会社が一国一城なのだ。そして、社長が藩主みたいなものなのだ。士魂商才とは、会社のために粉骨砕身の働きをすることだ。そのようにわたしは解釈したい」  また、中川亀之助にはこう指示した。 「自営船によって貨物を輸送して交易をおこなうほかに、積荷揚げ卸しの港湾体制の整備や荷為替制度の確立、さらには自己貨物の生産にも全力を傾注したい。やるべきことは無尽蔵だ。ぶっ倒れるまで働こう」  一般市場で物資を購入し、これを消費地へ搬送して換金し、その金で地方の物産を買い入れてもどってくる……これだけの利益に満足するようでは大々的な交易とは言いがたい。物資は自己生産してこれを自己貨物とするのでなければ、大発展は望めないというわけで、その手はじめとして弥太郎は、人気のある土佐樟脳の生産と販売の独占をめざした。このときも後藤象二郎と板垣退助の知名度や政治力を巧みに利用し、高知県内の樟脳製造所をいくつも買収した。  紀州の萬蔵・音河の両炭鉱を借用。増産させて明治六年には七千トン余を出炭、その大半を自営船の缶焚《かまだき》用にすることで燃料費を大幅に節約できた。岡山県成羽川上流の吉岡銅山を一万円で買収。これが三菱最初の金属鉱山経営となり、銅の輸出が商事部門の大きなウエイトを占めるようになってゆくが、これは四国の伊予で別子銅山を経営している住友家の広瀬|宰平《さいへい》が、川田小一郎を≪大恩人≫にしている関係から譲渡してもらったのだ。 「事業拡大に不可欠なのは、何といっても人材だ。秀逸な社員をどれだけ手駒にしているかで勝敗は決する。坂本龍馬のような快男児が四、五人もいてくれたら」  との経営戦略にも着目、弥太郎は≪功臣三羽烏≫のほかにも大量の幹部社員の養成を急務とした。政界や官界工作は自分が担当しながら≪第二の坂本龍馬≫を一人でも多くプールすることによって、かれらにチームワークに徹した実務を掌握させたいのだ。  その一番手として、たった一人の実弟である弥之助を、横浜出航のアメリカ船でニューヨークにむかわせた。大阪の私塾にかよっていた弥之助は、日本最初の官営鉄道である京浜鉄道の開業式が新橋駅でおこなわれた明治五年のこのとき、二十二歳であった。同年。三野村利左衛門もまた三井組の後継者たち——十六歳の高棟(のちの三井合名社長)、十七歳の高明(のちの三井物産社長)、二十三歳の高景(のちの三井鉱山社長)ら七人を、やはりアメリカに留学させたのでそれが弥太郎には気になるのでもあった。  当時、横浜からサンフランシスコまでの船旅は二十四日間もかかっている。ニューヨークへはさらに列車で大陸を横断しなければならず、日本からの郵便物がニューヨークに届くのに二か月を要した。ニューヨーク行きの大陸横断鉄道建設は南北戦争中からはじまり、三年前の一八六九年に完成していた。 「三ツ川商会」の社員である豊川良平は、弥之助より一歳若く、弥太郎によって福沢諭吉の慶応義塾に入学させられた。毎月の学費六円も弥太郎が払ってやった。豊川はのちに三菱銀行の創業に尽力する≪三菱の大蔵大臣≫に成長してゆく。川田小一郎は日本銀行第三代総裁にまで出世してゆく。  弥太郎のこうした苦心の育成は、すぐに役立つ人材をスカウトしてくるのではなく、畑を耕して種子をまき、自分の手で根気よく成長させる農民感覚なのである。自己生産しながら自己貨物にする、この自給自足主義も農業人が持っているしたたかさであり、同じ農民出身の渋沢栄一が≪集団農場経営≫的なのに対し、弥太郎のそれはあくまで≪単独富農志向≫だったのだ。  日米経済摩擦のはじまり  巨人のごとき大敵が出現した。  昭和三十一年刊の『日本郵船七十年史』は廃藩置県が断行された当時の、明治初期の海運業界について—— [#ここから1字下げ]  政府は各藩の藩債を引き受け、その藩債に係る船舶はすべて国有として大蔵省に収め、駅逓《えきてい》寮をして管理させることにした。よって政府は翌五年八月、廻漕取引所を発展解消して日本国郵便蒸汽船会社を設立し、その所有船千里丸以下十三隻を代価二十五万円、永年賦債還の条件で払い下げ、東京大阪間の定期航路、函館石ノ巻間の不定期航路を運営させ、また年額六十万円の補助金を与えて沖縄航路の開始を命じ、全国貢米の輸送を独占せしめた [#ここで字下げ終わり]  と記述している。そのころの日本にあった西洋型蒸汽船の総数は二十五隻の約一万五千五百トン、洋式帆船が十一隻の約二千四百五十トンだ。このうちの十三隻の蒸汽船と帆船を政府保護の郵便蒸汽船会社が持ち船にしていたことになり、しかも同社には金融資本家の三井組や鴻池組も出資しているのである。  これでは二、三隻の藩船を譲渡してもらって細々と営業中の群小の私営海運業者は太刀打ちできず、当然のごとく倒産に追い込まれていった。「三ツ川商会」とて例外ではいられない。博多航路、伊勢湾航路などのローカル線の旅客も船荷もごっそりうばわれてゆく。が、この大敵を相手に岩崎弥太郎は、決然として刃むかった。  東京—大阪間の旅客の船賃は下等で五両(円)、船荷の場合は米穀百石につき百二十両もしていたが萬歳・音河両炭鉱の石炭を自営船の缶焚用にしているため、燃料費が節約できるところから輸送費のダンピングも苦にならぬ……その計算があっての挑戦だ。これを好機とみなして弥太郎は明治六年三月の某日、全従業員を召集、土佐屋善兵衛の仮面を自らはいで宣言した。 「皆のもの、今日からわたしを旦那と呼んでくれ。三ツ川商会改め三菱商会として、日本一の海運会社に育てあげたい。わたしの輩下でいるのを望まぬものは、旧土佐藩士であっても遠慮なく去って結構だ」  これまでの標旗である「三つ柏」も、岩崎家の紋所「三階菱」を「三つ柏」に似せてデザインしたものに変更することも発表した。いわゆる今日のスリーダイヤであり、もはや藩士結社組織でない、旧藩主山内家ともいっさい無関係の、純然たる岩崎弥太郎個人の企業であるとの表明だった。彼は九十九商会のころから大阪は西長堀の敷地内に土佐稲荷を祀《まつ》っていて毎日、朝昼晩と参拝しているが、もちろん郵便蒸汽船会社との一戦の、必勝祈願も欠かさない。  ニューヨークに留学中の弥之助に対しても彼は、燃ゆる胸の内を、 「過日、商会の名を三ッ川と致し候へども、是は好まず、このたび三菱商会と相改め候。巨大一家を興起致し候間、貴様もはやく進歩の上帰国を祈り候也」  と書き送っている。「是は好まず」とあるのはここ一年、土佐屋善兵衛の仮面をかぶっていなければならなかったことへの不満の表われであり、ひたすら社名変更の好機を狙いつづけていたのを意味する。  ところが——  郵便蒸汽船会社対三菱商会の≪海戦≫は巨船対伝馬船のごときものだったのに、予想外のあっけない結末に終わった。民衆も拍子抜けした顔になった。官員風を吹かす官営企業側の横柄きわまる態度と、必死に生き残ろうとする民営企業側の涙ぐましいまでのサービス精神とが、その勝敗を瞬時にして分けさせたのだ。  幕末に各藩が外国商館を通じて競って輸入した蒸汽船の大半は、老朽船とは知らず高値でつかまされていたため、これらが郵便蒸汽船会社の持ち船になってもやたら修理費を必要とする≪カネ食い船≫なのだ。さらには日本人はまだ海技が未熟なので船長はむろんのこと、甲板員、ボイラーマン、航海士にしてもベテランの外国船員を高い給金で雇用しなければならない。これら「お雇い外国人」も人件費がかさむ一方の≪カネ食い社員≫である。なのに大蔵省が支給してくれるはずの補助金六十万円が、会計法改正によって予算外にされて出なくなってしまった。  そうした経営危機の≪嵐≫に翻弄されているというのに、依然として社員たちはひげの官員気どり。「乗せてやる、ありがたく思え」の態度だから船客ばなれが加速し、船賃が安い上に荷主に対するサービスも至れり尽くせりの、三菱商会船を極力利用するようになったわけだ。そして、大衆の判官びいきが三菱に集中、形勢はわずか半年で逆転、勝利を確信した弥太郎は呵々大笑《かかたいしょう》し、 「郵便蒸汽船を沈めたということは、天下の三井組や鴻池組にも勝ったのでもある。総領の三井高福さん、大番頭の利左衛門さんらはあわてておるじゃろ。三井の後ろ楯の井上馨、渋沢栄一らも苦虫を噛みつぶした顔になっとるはずだ。こんどは三井組との戦争も覚悟しなくてはならんぞ」  そうなった場合の自信をも深めた。  きゅうに三菱にとっての順風も吹きはじめた。郵便蒸汽船との一戦を決定的なものにしてくれる、日本陸海軍による初の外国攻略——台湾出兵が明治七年五月に突発した。  西郷隆盛の「征韓論」が明治政府首脳を二分させ、西郷のほか板垣退助、後藤象二郎ら五参議が辞表を書いて下野した。これに不満を抱く不平分子の眼を、大久保利通や岩倉具視らが「征蕃論」にむけさせ、外国攻略である台湾への出兵を強行してみせた。  軍艦三隻と貨物船一隻が長崎から出陣。ところが後続部隊、食糧、兵器弾薬を補給させる汽船がない。発展途上国日本の戦闘態勢はまだ、こんな調子ののんびりしたもので、大久保内務卿と征蕃事務局長官の大隈重信は政府顧問のイギリス人船長を香港に急派、十二隻の汽船と一隻の帆船を七百七十万円で購入させた。  だが、これら十三隻の中古船をうごかす船員が集まらない。あたふたする大久保と大隈のまえに、事情を知りつくしている弥太郎が威儀をただして現われ、こう言うではないか。 「危急存亡の国家のために、ひと肌ぬがせてください。わが三菱が全社をあげて、軍需品輸送の大任を果たしておみせします。補給が遅れればそれだけ、鎮台(兵士)たちは苦戦させられることになりましょう」  内務卿は飛びついた。  十三隻は三菱商会に無償貸与された。  ただちに弥太郎は中央官庁がある東京へ移転すべく、これまでの南茅場町支店を本社に昇格させた。そして岩崎ファミリーばかりではなく、長崎土佐商会留守居役だった当時から愛妾にしている、丸山の美妓青柳をもつれて上京した。明治七年四月のことであり、またまた社名も三菱蒸汽船会社に改称、無償貸与の十三隻を自営船同然に操船させた。  だれもが弥太郎の≪毒気≫にあてられたような表情になった。「征韓論」に破れて土佐グループの後藤象二郎も板垣退助も無念の涙を呑んで下野したのだから、 「まさか……弥太郎とて大久保・大隈に手助けすることは万にひとつもあるまい」  と見なしていたからにほかならない。が、土佐グループの溜飲をさげてやるどころか、いまや弥太郎は最高権力者大久保にべったり。その信頼を掌中にし、大隈にも気に入られて、 「戦争はどかんと儲けるためにある」  の実感をも体得した。これは弥太郎自身にとっては「儲けることが国家にとっても有益になる」ことなのだ。  この事実を証明してみせるときがきた。郵便蒸汽船会社とは比較にならぬ、こんどこそほんとうの大敵となる、アメリカ人経営の太平洋汽船会社との≪激突≫が回避できなくてである。いや、回避する気など弥太郎にはハナからなかった。  太平洋汽船会社は幕末のころから東洋の各地に進出して航路を開き、通商をひろげ、明治三年には日本沿岸定期航路も設けた。潤沢な資本力と経験にものをいわせる、旅客も船荷も独占しかねない勢いのこの企業を倒さないことには、三菱蒸汽船会社は伸展できないのだ。現代もなお手をかえ品をかえして延々とつづいている、未来もつづくであろう太平洋を挟んでの日米経済摩擦——そのスタートはじつに岩崎弥太郎のこの≪海運戦争≫からだったのである。  弥太郎は「国家のため」という殺し文句もおぼえた。有力政治家や高官らはこの言葉に弱い。滑稽なくらいに脆《もろ》い。国益になることであれば無下に拒絶しにくくなる……そこで彼は、このように願い出た。 「紅毛碧眼の白人たちに利益をむさぼられ、日本の海運業は日に日に痩せ衰えるばかりです。富国のため、民福のため、わが三菱はあくまでも、最後の一兵までも戦うつもりですが、残念ながら船腹が不足しております」  この船腹不足を補うため、このさい大多数の国民が嫌って≪死に体≫になってしまっている≪カネ食い≫官営郵便蒸汽船会社をつぶし、所有船の十八隻はことごとくわが三菱に払い下げていただけまいか……と弥太郎は仄めかすのであり、 「三菱会社こそが公業なり。故に政府はこれを育成し補助すべきである。日本国郵便蒸汽船会社経営は国費の濫費にすぎず」  との「民有民営海運業の保護監督」政策を大久保が、閣議にはかって了承させたのはこのときなのだ。いまや三菱にとって政府は、このようなお人善しのパトロンだった。  出資者である三井組や鴻池組は猛反対したが郵便蒸汽船会社は解散、その所有船十八隻は政府が三十二万五千円で買い上げて、これを十五か年賦、年三分の利息をつけて返済せよ……との、ほとんど無償に近い条件で弥太郎に払い下げたのだった。  即日、これら十八隻のマストにも三菱の社旗がひるがえったが、それでも満足の笑みをうかべる弥太郎ではない。 「閣下が台湾征伐のために購入された、わたしどもに無償貸与されておりました御用船十三隻……あれも波止場に繋留したままでは錆びてしまいます。ひきつづき三菱にお任せくだされば、有効に運用しておみせします。商船学校も創学して、若き優秀な船員たちを大量に養成すべきでしょう」  言われて大久保は、またしても絶句したものの、日本初の外国航路——東京—長崎—上海間の定期航路を開設したいとしている弥太郎にそれら十三隻も無償委託し、さらには年額二十五万円の助成金を、向こう十五年間も給付すると約束せざるを得なかった。やがて創学される三菱商船学校は弥太郎にとってはロマン……坂本龍馬の神戸海軍操練所の生まれ代わりであった。  こうして一挙に弥太郎は合計三十一隻をタダ同然で入手。解散した日本国郵便蒸汽船会社の人員や港湾施設もまるごと吸収。またもや社名を郵便汽船三菱会社に変更したため、 「成長するにつれて大きな殻に移ってゆく、やどかり商法だ」  と世間は言いはじめた。  三菱の上海航路には東京丸(二二一七総トン=木船外車)、新潟丸(一九一〇総トン=鉄製暗車)、金川丸(一一五〇総トン=鉄製暗車)、高砂丸(二一二一総トン=鉄製暗車)の四隻が充てられ、東シナ海の波濤を蹴って週一回ずつ往復した。  片や太平洋汽船会社も上海航路にはいずれも木製外車のコスタリカ号(二四九二総トン)、オレゴニアン号(二四五二総トン)、ゴールデンエージ号(二四五三総トン)およびネバダ号(一〇六〇総トン)の四隻を就航させていた。いよいよ戦闘開始、両社の≪海戦≫はすさまじくもユーモラスでさえある。  出港は一日違いにしていた。東京丸が出航した翌日にコスタリカ号が錨をあげ、同じように上海からも新潟丸の出航翌日にオレゴニアン号が桟橋を離れる、といった具合だ。運賃は横浜—長崎間で上等三十円にしていた太平洋汽船は、三菱がそれより一割安の二十七円にするとこんどは二割引き、三割引きにしていってついにはたったの八円に値下げしてしまった。当然、三菱船に乗るつもりでいた客は、あわてて太平洋船の待合室のほうへいってしまう。これでは前日に出帆した高砂丸はガラガラの空船、片やネバダ号は満員という盛況である。 「よーし、そんならうちは五円だ。文句を言うな。今日から五円にしろ。負けてしまっては一円も稼げなくなるんだぞ!」  と弥太郎が決断。すると今朝出港の金川丸は満杯、翌朝のゴールデンエージ号は空気だけを乗せて船出しなければならぬ光景が見られた。しかし利益が出ないという点では、いずれも同じ。どちらが先に音をあげるか、両社とも必死の我慢くらべである。  長崎—釜山《プサン》航路、東京—函館航路、東京—新潟航路で得ている黒字収入で埋め合わせ、それでも埋められなくなってくると吉岡銅山の利益金もつぎ込み、とにかく弥太郎は最後の最後まで粘りぬく覚悟だった。船員たちの給料も遅配するが意に介しない。  当時の対中国貿易額は輸出が三百六十万円台、輸入も八百六十万円台にすぎない。しかも、このうちの大半は外国商館の手に握られているため、船倉には一トンの船荷しかない日もあったりで、郵便汽船三菱にはいる輸送手数料はゼロに近い現状だ。三菱はヘトヘトになったが、太平洋汽船側のヤセ我慢にも限度がある。双方ともグロッキーになっている目もうつろなボクサーみたいで、もはや同時にマットに沈む以外になさそうだ。 「和睦のチャンスはいましかない!」  と即断した弥太郎が、血相を変えて大蔵卿大隈重信邸に駆け込み訴えにおよんだ。 「敵は虫の息になっております。買収するのはいまをおいてありません。洋銀八十万ドルも出してやれば敵は身売りしましょう。わたしにお貸しください。買収すればもう上海航路からだけではなく、日本沿岸からも外国船を閉め出すことができるのです」 「毎年二十五万円の助成金をもらっていながら、なお八十万ドルを無心するのか。政府は金のなる木は持ってはおらん!」 「これも国家の将来を案ずればこそです」 「もう、おぬしの国家のためは聞き飽きた。耳にタコができるとはこのことだ」 「台湾征伐には勝ちましたが、なお西郷どん支持の四十万人の不平士族らが、全国にいるのをお忘れですか。かれらが一斉に蜂起して≪第二の明治維新≫を強行したり、徳川幕府再興ののろしをあげたりすれば、政府は各地の鎮台から軍隊を集めてこなければならない。そのための船団はいくらでも必要でしょう。アメリカと戦うわが三菱が武運つたなく破綻した場合、だれがそれら軍隊を迅速に輸送できるというのですか」  弥太郎は政府の≪急所≫を掴んでいた。  西南戦争必至を予言しているのだ。  大隈は、腕こまねいて唸るしかない。  戦争とは儲かるもの  西郷隆盛を擁する「征韓論」派に負けられぬ大久保・大隈は、またしても弥太郎の借金申し入れを拒絶できなかった。  案の定、弥太郎の買収交渉の呼びかけに、ヘトヘトの太平洋汽船側も待ってましたとばかりに応じてきた。すぐに交渉が成立。同社の上海航路の四隻ほか横浜、神戸、長崎、上海にある施設やオフィスのいっさいは郵便汽船三菱会社のものとなった。  これで三菱の所有船隻数は東洋一となり、支払った金額が八十一万ドル、太平洋汽船側は「爾後三十年間は上海航路および日本沿岸航路には配船せず」の条件も呑んだ。岩崎弥太郎はアメリカに完勝したのだった。  しかも彼の大隈重信への予言がぴたり的中。明治十年二月には九州において西南戦争が勃発、またまた「戦争はどかんと儲けるためにある」を実感できた。西郷が勝つか大久保が勝つかの、このイチかバチかの戦争には、山路愛山のいう「特別の時世にできたる特別の階級」であるところの政商——益田孝の三井物産、大倉喜八郎の大倉組、藤田伝三郎の藤田組なども群がった。 「征韓論派である薩土武断派はこぞって、鹿児島へいって西郷軍に味方する。徳川の残党も各地で同時蜂起する。板垣退助や後藤象二郎もむろん、おっとり刀でそうするだろう」  と世間は見ていたが、なぜか二人は動こうとはしない……この番狂わせは弥太郎にとってはありがたかった。動かない板垣や象二郎に気兼ねすることなく、政府べったりで自由に活動できるからである。  下野してからの象二郎は商社「蓬莱《ほうらい》社」を創業。かつては佐賀藩所有の、いまは官営になっている長崎の高島炭鉱を五十五万円で払い下げてもらって後藤炭鉱商局と称して併営、長女をニューヨーク帰りの弥之助と結婚させていた。だから動こうにも動けないのであり、板垣は板垣で高知に帰って蟄居したふりして、自由民権運動の政党組織に熱中していた。 「政府に尋問の筋あり。いかなる障害があろうとも、これより東京へ出発する。もとより死は覚悟の上なり」  と号令して五十一歳の西郷隆盛が鹿児島軍をひきいて、桜島の雄々しい噴煙に別れを告げて故国を出陣したのは二月十五日。商都大阪がにわかに活気づいた。ここが政府軍の兵站基地となったためで三井、三菱、大倉、藤田の社員らが集中しはじめた。  思いがけぬ訃報が飛び込んできた。あの三野村利左衛門が三井銀行と三井物産を創業させてまだ半年にしかならないのに、胃がんのため五十七歳の生涯をおえたというのだ。  しかしながらだれもが、哀悼している時間もないほど忙しい。とくに弥太郎は、 「上海定期航路の四隻を除いて、沿岸航路に就航中の三菱の全船舶四十隻を、挙げて軍事輸送に挺身させましょう。わが社には外国人船長、航海士ら三百五十余人、日本人船員一千人がおりますが、死地までおもむかせ、酷使いただいても文句は言わせません」  と申し出て大久保利通を歓喜感激させた。そして『渋沢栄一』で前陳したとおり、郵便汽船三菱会社は所有船四十隻を動員したほか、政府が新たに購入した新鋭船八隻も預かり、勝利するまでの八か月間に五万八千人の兵員を南九州の戦場へ送り込み、政府の総軍事費四千五百万円のうちの三分の一——なんと一千五百万円を弥太郎はふところにして益田孝、大倉喜八郎、藤田伝三郎らを唖然とさせたのだった。  大久保にその新鋭船八隻を購入させたときの弥太郎がまた、いかにも弥太郎らしい。官軍が田原坂において大苦戦している、との情報がはいると彼は嬉々として、再び大久保のもとへ飛んでいって、当然のごとく八十万ドルもの支出をねだったのだ。 「いや、八十万ドルでも不足すると思われますので、当社にある三十八万ドルの社内資金……これを立て替えて補充投入するつもりでございます。政府と三菱は運命共同体です」  というものだから大久保は、顔面に朱を散らして怒った。ぶるぶると両肩がふるえていた。要するに八十万ドルではなくプラス三十八万ドルの合計百十八万ドルを出させたいのであり、国益のためなら三菱はよろこんで個人資金さえも立て替えてやるのだ……との厚顔かつ高慢な態度がたまらなく不愉快なのである。  だからといって、内務卿といえども蹴飛ばせない。田原坂における苦戦が敗因になるやもしれぬし、新聞もそのように報道している。事実、政府の八十万ドルに三菱資金三十八万ドルをプラスして購入したロタス号(のちの高千穂丸)、ガツドシール号(のちの熊本丸)など八隻(合計一万三三六〇総トン)を新船団として黒田清隆軍を八代港に輸送させた。つまり、熊本城を包囲砲撃中の西郷軍の背後にまわらせ、補給路を遮断するこの作戦が最大の勝因になってゆくのだから、政府にとって大久保にとって弥太郎は、足をむけて寝られないほどの大恩人ということになるのだった。 「無念なり。西郷どんは政府軍にではなく、近代的な海上輸送力を発揮した三菱会社に完敗したのだ。さぞかし側近の桐野利秋、別府晋介らも号泣したにちがいない」 「岩崎弥太郎さえいなかったら西郷軍が大勝、日本の近代史は変わっていただろうに」  と世間は言う。いまいましがる。  裏返せばそれは、西郷隆盛が岩崎弥太郎の存在そのものを、見くびっていたということになるのだ。出陣前の西郷軍の参謀たちの戦略は三つあった。 「東京へ進軍するには大量の輸送船が必要。まずは長崎を攻略して政府の軍艦および民間商船をうばい、これらを海軍に活用して一気に大阪、もしくは横浜を占領する」 「手近な熊本鎮台を総攻撃して気勢を示さば、高知、滋賀、石川、山形、和歌山などで反政府地下運動を展開中の同志らが蜂起してくれる。そのためにも何はともあれ、電光石火で熊本城を奪取すべきだ」 「拿捕した軍艦で下関海峡を防備し、九州全県を天皇政治のおよばぬ独立国にして人民新政府を樹立。私紙幣の西郷札を流通させる」  というのだが結局、陸軍重視の西郷隆盛はその二の戦略論に賛成して行動を起こしたのだ。海軍重視のその一にして軍艦と商船群を入手し、三菱船団の行動を牽制していれば断然有利に戦局を導いていたはずで、「西郷どんは近代的な海上輸送力を発揮した三菱会社に完敗した」と言われて当然なのだ。  弥太郎がふところにした利益の一千五百万円が、いかに莫大なものだったかは、ほかの政商たちのそれと比較すれば一目瞭然だ。益田孝の部下でのちに大日本麦酒社長となって≪ビール王≫の名をほしいままにする馬越恭平は、三井物産社員でかけずりまわった当時を、こう回顧している。 「西南戦争はまるで福の神が飛び込んできたようなものであった。三井物産の純利益は一か年五十万円であった。なにしろ幇間《ほうかん》の祝儀が一朱(六銭五厘二毛)、一流芸者の一席の揚代が一両(一円)か二両という時代の五十万円だからたいしたものです。そして、わたし自身は三井家から特別ボーナスとして五十円ちょうだいした」と。  このときのこの五十万円が、資本金ゼロでスタートさせられた三井物産にとっては、まさに起死回生の運動資金になったり商船の購入費になったりする。が、それらのことは『益田孝』のなかで詳悉《しょうしつ》するとして——軍労務者の調達や軍用道路建設などの土木業を請け負った大倉組でも三百万円、軍服や軍靴や野戦用テントなどを調達した藤田組もやはり三百万円を儲けるのがやっとで、さらには「三菱の儲けは千五百万円どころではない」という情報もひろまっていた。 「まだまだあるぞ。戦争が終わって残った軍需物質や戦利品が山積みになって、それらが三菱の港湾倉庫や船倉に眠ったままだ。三菱には各鎮台へ搬送しなければならぬ義務がありながら、岩崎弥太郎がそれをネコばばして、勝手に値をつけて処分しているらしい。事実ならば、この儲けも百万や二百万ではない」  と庶民たちがソロバンをはじき、 「政府の八十万ドルに三菱の三十八万ドルを上乗せして購入した新鋭船八隻は、終戦と同時に政府が、そっくり管理と操船を三菱に一任している。貸与とは名ばかり、岩崎弥太郎にタダでくれてやったようなもんだ。三菱はどこまで太れば気がすむんだろう」  と群小の船主たちが羨望する。  ピカピカの黒ぬりの二頭立ての馬車に乗って、弥太郎が日本一のショッピング街になりつつある煉瓦路(銀座通り)をゆく。吉原や新橋の花柳界では、大久保利通や岩倉具視と同格の「御前さま」扱い。湯島には東京新名所になるほどの豪邸を新築。徳川綱吉時代の老中柳沢吉保が所有していた駒込の広大な六義園《りくぎえん》と、紀国屋文左衛門の別邸だった深川の清澄園も買収……というふうに弥太郎の政商成金暮らしはとどまるところを知らない。  それだけに敵もまたふえてゆく。  西南戦争が終わるとまず大久保が、いまいましさのあまり郵便汽船三菱の弱体化を策謀しはじめた。年間収益の実数を探査させるため、腹心の森田某を「貿易商に転向したいそうだ。イロハを教えてやってくれ」ということにして弥太郎に紹介、経理係に採用させたのである。  そんなこととは知らずに、弥太郎は採用したわけではない。大久保の密偵であることは察知していて逆に、好きなように泳がせた。帳簿や台帳をのぞかれてもうろたえない。そこに記載されている数字をほんものだと思い込み、大久保に逐一報告する……さりげなくそうなるよう仕向けているのであって、やはり弥太郎のほうがスパイよりもはるかに海千山千なのだ。  ところが虚々実々——  それらの数字を信じ込むふりをしているだけで、森田のほうもうまく芝居していた。真実の数字を把握するまで彼は、大久保には連絡をとらなかったので報告は遅れに遅れた。  しかも、見学のためと称して彼は、全国の支店めぐりを願い出た。沿岸航路の函館支店をふり出しに、半年がかりで新潟、大阪、神戸、上海をまわり横浜までもどってきた。横浜支店の利益さえキャッチしうれば、全三菱の年間収益の実数が集計できるのであり、それを報告すれば任務完了である。  だが、間に合わなかった。事件が突発、それも不気味な凶変であった。四十九歳の男盛りの内務卿は、西郷隆盛の復讐を誓う不平士族らによって、紀尾井坂下で暗殺されてしまったのだ。この日に限って不運にも彼は、護身用のピストルを所持していなかった。修理に出していたのである。  だから弥太郎には、大久保によって三菱が弱体化させられる、その不安と危惧がなくなった。しかも、大久保亡きあとも「政商」としての立場がゆらぐ心配はない。なぜならば後継の最高権力者である参議大隈重信を、新しい≪金屏風≫にすればよいからだ。さっそく弥太郎は慶応義塾の福沢諭吉も加えて≪三人組≫となり、海上保険業、銀行業、倉庫業、流通業などへの進出も構想した。  夏の一日、第一国立銀行総監役の渋沢栄一を、隅田川の舟遊びに誘ったのはこのころなのである。腹の中では嫌っている渋沢だが、新事業をおこすためなら目をつぶって握手するつもりが、芸妓衆も料理もそっちのけにして二人は≪毒気≫で応酬し合う、あの大論争になってしまってついには、 「わたしは何もかも見通しているんだぞ。資本を持ち寄って仲よく合本主義でやろうと、口当たりのいいことを並べているが、最後は小野組にしてしまうつもりだろう。貴公と三野村利左衛門が小野組の、骨までしゃぶり尽くしたのだ!」  と弥太郎は本音をゲロしたのだった。  福沢諭吉の政商擁護論  渋沢栄一の「三菱を倒さずにおくものか」の執念がまず、東京株式取引所の創設となって表面化し、つづいて東京風帆船会社創業を画策したのと平行して、急激に「政商撲滅」の世論が沸騰しはじめ、 「政商岩崎弥太郎はかの大老柳沢吉保の六義園と、成金の紀国屋文左衛門の清澄園を買収している。高価な内外の美術品も金に糸目をつけず買い込んでおる。土佐っぽのしがない郷士だった彼が、なぜそのような莫大な金品を蓄積できたのか。諸君はおかしいとは思わぬのか!」 「東京へいって日本橋は南茅場町河岸に立ってみよ。かなたに赤煉瓦造りの、七棟の大倉庫と三菱本社が並んでおる。その赤い煉瓦こそが国民一人ひとりの鮮血の色なのだ。零細な諸君からしぼりとった九百万円余の血税を資本として≪やどかり商法≫で太りに太り、岩崎一族と三菱は栄えに栄えている。政府の貴顕は岩崎から袖の下を掴まされ、傾城の美女たちをあてがわれてヤニさがっておる。その筆頭が改進党の妖怪大隈重信だ。このような事実の数々を突きつけられてもなお、諸君は指をくわえて座視しているつもりか!」  と自由党の弁士らが、東奔西走してわめきつづける。なかでも人気最高の弁士はイギリス留学の経験ありの政治家|星亨《ほしとおる》(明治三十四年、右翼テロリストに斬殺される)で、弥太郎を「海坊主」と呼びすてにし、 「いまこそ海坊主を退治せよ。大きな熊(大隈)を料理せよ!」  と群衆が反応する。  さすがの剛毅の弥太郎も、この世論に圧殺されかねない状態になったとき、渋沢栄一が「損友」の代表にしている福沢諭吉の舌鋒に助けられた。政商擁護論を展開しながら、 「今日の日本社会に有智有徳、人望があり、財産がゆたかで勢力が旺んなものがあれば、この人物に頼んで立国策を立ててもらいたいものだ」  とか、 「富豪の資産は主人の私有だが、その効用は国運の盛衰に関係するのだから、国家的資産とみなすことができるのだ」  というふうに福沢は、弥太郎のために掩護射撃をつづけた。しかし内心では弥太郎は「福沢さんさえも誤解しているようだ」と苦笑していた。彼自身は決して色街で「午前さま」なんかにはなっていなかった。前出の白柳秀湖も書いているように、弥太郎は「政府要路の大官を吉原につれ出して遊んだときでも、自分は必ず宵のうちに茶屋にひきとり勘定をすまして帰ったということである。また自分の引き揚げたということは固く口止めして、客には知らさぬようにした」ほどの気のつかいようであった。  渋沢栄一を嫌っても三野村利左衛門の敵ながらあっぱれな点を、弥太郎は十二分に認めていた。  利左衛門の経営訓—— 「一、平素よく断の一字を守れ。二、時機を見失うな。三、仕事を棄てて礼をするな」  これに感服していたのだ。一は決断、二はタイミング、三は仕事に関係のない手合いとは付き合うな、というのである。  ところが福沢には「後藤象二郎氏の高島炭鉱をそっくり買収して、あんた自身が本腰をいれて経営せよ」とも勧められて弥太郎は迷惑していた。利左衛門の経営訓のその三を引用して、「仕事を棄てて礼をしたくはありませんよ。たとえ昔は上役だった土佐藩家老であってもね」と拒絶する。それでも福沢は「いや、どうでもあんたが経営しなければならんのだ」と押しつける。  高島炭鉱にはだれもが手を焼いていた。経営者側と現場従業員のあいだでトラブルが絶えない。官営時代にも四百人が待遇改善をもとめて暴動を起こして死者を出したし、最近でも賃上げ交渉が決裂、坑内に放火する悪質事件が発生している。そんな大荒れの炭鉱を買収しろと押しつける福沢の真意が、弥太郎に理解できかねるのは当然である。  が、福沢はどこまでも深謀遠慮だ。 「あんたが後藤氏を救助してやらねばいかんのだよ。今後の大隈・岩崎・福沢体制をがっちり支えるためにもね。後藤氏を助けることは、後藤氏と親友の板垣退助の動きを完封することでもある……そんなことは幕末動乱この方、あんたには充分わかっていることではござらぬか」  こう説得されても、即断即決が身上の弥太郎なのに、女々しく当惑した。トラブルが連続する経営困難がそうさせているのではない。このところの彼は≪三菱の黒幕≫であるはずの象二郎に、ひどく感情をこじらせてしまっているのだ。象二郎の長女を弥之助の妻にもらっているので≪親戚≫でもあるが、はっきり言っていまの弥太郎は顔を見るのはむろんのこと、その名前すら耳にするのも厭なのだった。  歳下のこの男がいなければ、今日の三菱はなかったであろうことは、弥太郎も否定はしない。だからといって、いつまでも土佐藩仕置役、「大政奉還の立役者」風を吹かせて≪金づる≫にされるのはたまらないし、長崎土佐商会留守居役のころからやらされた尻拭いの数々……それらも思い合わせて生理的にも不愉快なのだ。  もともと高島炭鉱は佐賀藩が、あのトーマス・B・グラバーとの合弁で共同経営し、日本最初の洋式採炭法を導入した優良鉱だが、象二郎が真剣でないため毎年十万トン台しか出炭できない。そのくせ見栄っぱりの彼は、世間が驚嘆するばかりの洋式豪邸を駿河台に新築したり、夜な夜な花柳界に入りびたったりだから雪だるま式に借金がふえていて、弥太郎はこんな「田舎大名の家老のなれの果て」にはハナもひっかけたくはない。  しかし、下野している板垣の挙動がおかしい、と福沢は神経質になっていた。自由民権運動を提唱しつつある彼を、地方のあまたの有志らが、高知から中央政界へと担ぎ出そうとしている。彼を領袖とする強大な政党を結成したがっているそれら有志の大半が、郵便汽船三菱に恨みを抱く中小海運業者や倒産させられた問屋、仲買人たちであるだけに不気味なのだ。かれらは板垣に対して、 「お願いです、三菱攻撃の最高指揮官になってください。打倒三菱がわれわれの悲願です」  と必ず歎願するだろう。  その場合の板垣にブレーキをかけられるのは、彼の竹馬の友である後藤象二郎……この男しかいない。だからこのさい、高島炭鉱を肩代わりしてやって恩を売っておけば、板垣が反三菱派に走ろうとしたときには、その脚に抱きついてでも止めてくれるはずだ……と福沢は読んでいるのだった。  弥太郎は折れた。後藤炭鉱商局には、払い下げてもらったときの五十五万円のうち、政府宛未納金がまだ二十五万円もあった。これを三菱が清算してやってなお、 「買収代金として六十万円を後藤氏に支払い、そのほか後藤家の家計援助費として毎年一万五千円、十年間は保証する」  との条件で妥結したのは、花見どきの明治十四年四月のことである。  弥太郎は現地に高島炭鉱事務所を設置、ヨーロッパ留学の経験がある近藤廉平を所長として赴任させた。のちに近藤は日本郵船を世界屈指の海運会社に成長させるが、高島の所長時代も飛躍的に出炭量を増大させ、三井物産が売炭権をもっている官営三池炭鉱と競うようになっていった。  つまり、嫌々ながら買収した高島がこのようになるとは、弥太郎にとっては意外だったが福沢・大隈・岩崎の≪三人組≫への集中攻撃もまた意外なところで突発した。ことの発端は福沢の息がかかっている東京横浜毎日新聞が暴露した、参議兼開拓使長官黒田清隆の「北海道開拓使官有物払い下げ問題」だ。黒田が五代友厚系列の関西貿易商会へ、開拓使の廃止にさいして千四百万円相当の官有物をなんと三十万円ぽっちで払い下げようとし、大蔵卿大隈重信がただ一人猛反対すれども、閣議はそれを多数決で決定してしまった、おそろしきことなり、とその新聞はいう。  俄然、この≪黒い霧≫が政界を二分した。 「黒田は退官後、私企業の北海社を創業するつもりで、払い下げた官有物を関西貿易商会と山分けにする黙契を結んでいる。長州派の参議伊藤博文、井上馨、山県有朋らもこっそり分け前にありつこうとしている」  との山分け論が一方にあり、 「大隈が払い下げに反対するのは、薩長派への抵抗であるばかりではない。北海道における事業も利権も独占したがる岩崎弥太郎のためにやったことなのだ」  という共謀説が他方で流布されはじめた。  折もおり——  板垣退助を先頭に、国会開設期成同盟を結成した地方の有力者や政治結社のリーダーたちが関西、四国、九州から大挙して上京。群衆は板垣を凱旋将軍のごとく出迎えて、 「ただちに板垣閣下は、藩閥政治打倒運動を指導中の福沢諭吉氏と握手するだろう」  と期待したのだが当の板垣は、汚職疑獄事件などには関心を示さず、あくまでも国会開設と政党内閣の実現が焦眉の急として、東北地方への遊説に旅立っていった。  こういうときこそ後藤象二郎の出番であった。板垣の脚に抱きついて呼びもどしてほしい≪三人組≫は、そのために高島炭鉱を買収してやったのに完全に裏切られてしまった。呼びもどすどころか象二郎は板垣と行動をともにして、嬉々として自由党旗揚げのために奔走する。弥太郎に軽蔑されつづけの彼にも家老だったころのプライドがある。起業人としては弥太郎には遠くおよばぬが、大物政治家として堂々と返り咲きたいのだ。  渋沢栄一がかげにまわって板垣をコントロールしている、それも弥太郎にはいまいましい限りだ。また渋沢の有能なブレーンの一人である田口卯吉が、 「岩崎弥太郎は多額の政府助成金をせしめながら、所有船は老朽化するままにして修理費を惜しんでいる。新造船を購入するでもなく、船客は危険極まりない。しかも彼は助成金を別途に用立て、東京株式取引所株の大量買い占め、同取引所人事への介入、東京風帆船会社創業の妨害をおこなって中小海運業者を苦しめ、海上保険会社の筆頭株主にもなったり高島炭鉱を買収したりしている。海運界振興のための国民の血税を、ほかの私的事業に投資し、それらの営業拡大をはかり、いずれはすべての老朽船を棄てて鉱山経営に転進するつもりなのだ」  と筆鋒するどく突きまくり、この論調に黒田清隆派がうまく便乗、漁夫の利を狙って、 「三菱が毎年二十五万円の国庫助成金を下付してもらっているのにくらべれば、開拓使官有物を三十万円で払い下げるのは、決して不当の値段にあらず。しかも無利息とはいえ年賦返済するのであり、三菱の場合は助成金をもらいっぱなしなのだ。悪いのは三菱なり」  と強気の居直りをみせるので、極悪人は改進党の大隈重信と「海坊主」の岩崎弥太郎……という結論になりそうだった。  こうした情勢下、薩摩派の農商務卿西郷従道をはじめ井上馨、伊藤博文、山県有朋ら長州派の政治家らを抱き込んでまず「第三命令書」で三菱の手足を縛り、渋沢栄一と品川弥二郎と益田孝が新たに政府支援の共同運輸会社を設立、郵便汽船三菱包囲網を縮めてきたわけだ。 「大隈ごときは知恵の福沢と、金の岩崎に操られている木偶《でく》人形にすぎん」  の大合唱を四面楚歌のごとくひろげ、その結果——太平洋汽船との≪日米戦争≫のときよりも激烈な対共同運輸との運賃ダンピング合戦、サービス競争が展開され、最高司令官岩崎弥太郎があえなく≪戦死≫してしまった。そのあとも二代目弥之助によって戦闘は再開されたものの、ついには資本金千百万円の日本郵船株式会社の誕生に至った……のは『渋沢栄一』に記述したとおりだ。  我ノ事業ヲシテ墜ス事ナカレ  岩崎弥太郎の≪戦死≫は、鬼神の断末魔を思わせるほどすさまじいものだった。  明治十七年度の三菱は汽船三十三隻で船客十五万七千四百九十八人と、貨物の五十五万一千六百七十トンを輸送しており、これら合計運賃収入は二百二十九万七千六百七十六円であった。共同運輸のほうは汽船二十四隻と帆船十五隻で船客六万七千四百九十九人を、貨物は二十八万六千五百三十九トンを輸送していて、それら合計運賃収入は百十万四千六十六円になった。  この数字を比較するかぎりでは、共同が三菱に追いつくのは容易ではないが、それでも三菱の運賃収入は前年よりは約百三十万円も減少しており、共同は約六十三万円の増収になっている。このペースでゆけば三年後くらいには、確実に共同に追いつかれる計算になるし、三菱の危機は足早に迫りつつあるとも言えなくない。  そうした心理的な圧迫が弥太郎を、いっそう焦燥させ、酒びたりの日々にしていったが、もはや「午前さま」になって芸妓衆に「三菱拳」をやらせて裸をたのしむ、そんな気力は残っていなかった。彼に関する風聞には広まるごとに尾ひれがついて、それがため曲解が曲解を生みつづける現象にもなってゆく。 「横浜支店長の近藤廉平が社用箋を一枚、私用に使ったのが弥太郎の逆鱗にふれて、七十円の月給を五十五円にする減俸処分になったそうだ。驚いたねえ、便箋一枚が十五円だよ。弥太郎は発狂したんじゃねえのか」 「狂ってきたといえば、戯れているうちに弥太郎が殺意をおぼえ、愛妾なのに首を絞めあげて殺してしまった。主治医にたのんで彼女が病死したことにする、その偽診断書を大金をつかませて書いてもらったそうだ」 「いや、弥太郎自身もその場で後追い心中しようとしたのを、幹部たちがとりおさえて事なきを得た。偽診断書を書かせたのはそれら幹部たちだ……というふうに聞いたぜ」  そんな色情をからめたものから、 「毎晩、坂本龍馬が夢枕に立っている、と弥太郎御大は口走っておるらしい。幕末のころに気がとがめることがあってよ、あの世の龍馬に詫《わ》びているらしいな」  こんな思わせぶりなものも広がる。いずれも悪意にみちたデマの一種だが、しかし彼が精神的にも肉体的にも衰弱の限界にきているのは事実だった。十七年末になるともう陣頭指揮はおろか、出社するのさえ無理な健康状態に落ち込んでいた。奇しくも三野村利左衛門と同じく、弥太郎も治癒できない胃がんを患っていたのだ。  西郷従道の仲裁による三菱と共同の大合同のための最終協定案が成立、この協定書が農商務省に提出されたのが十八年二月五日。その翌日の細雪が舞う朝、三菱の幹部たち全員が湯島の岩崎邸に詰めていた。  ときおり表門から、あわただしく人力車が走り出していった。二頭立ての馬車も出入りした。主治医が臨終が近いのを宣告したため、幹部らが手分けして人力車や馬車で、知らせるべき重要人物のもとへ馳けてゆく。飯田町の大隈重信邸へゆくのもあれば、駿河台の後藤象二郎邸をめざすのもあり、三田の慶応義塾の福沢諭吉に知らせにゆくものもいるというふうなのだ。  いままさに巨星は墜ちようとしている。土佐藩下級士族から成りあがった商傑は、音をたてて崩落せんとしている。岩崎邸の奥座敷では、意識がもうろうとしはじめている弥太郎の右耳に、口づけせんばかりにして弥之助が一語一語、区切るようにしながら協定書が受理されたことと具体的なその内容について告げていた。 「兄さん、わかりましたか。三菱と共同は合併するのです。渋沢栄一氏とも握手せねばなりません。しかし、ご安心ください。いずれは三菱が日本郵船の主導権を握るようになります。共同運輸株の半数は買い占めて三菱のものになっていますし、営業面あるいは船員たちの質の面でも、共同は足もとにもおよびませんので」  枕もとには妻の喜勢、長女の春路、長男の久弥、それに川田小一郎、豊川良平、荘田平五郎、近藤廉平らもいた。このとき弥之助三十五歳、久弥は二十一歳である。  痛ましい臨終の光景を、川田小一郎が冷静かつ刻明に記録している。それによれば、弥太郎の「腹中裂クルガゴトキ」激痛に耐えんとする形相はものすごい。わめくがごとく遺言を口からほとばしらせ、空《くう》を掴んで苦悶するさまは、京都河原町の醤油屋「近江屋」の裏二階で暗殺者らに滅多斬りにされ、鮮血の海のなかで虫の息となった坂本龍馬……その姿にそっくりであったかもしれない。  弥太郎の遺言はこうであった。 「我モ東洋ノ男子卜生レ、我ガ志ストコロ未ダ十中《じっちゅう》ノ一二《イチニ》ヲナサズ今日ノ場合ニ至ル。最早ヤ仕方ナシ。川田、未練デハナイガ今一度モリ返シタシ。抑《そもそ》モ岩崎家ハ古来|嫡統《ちゃくとう》ヲ尚《とうと》ブノ家ナレバ、久弥ヲ岩崎家ノ嫡統トシ、弥之助ハコレヲ補佐シ、小早川隆景ノ毛利輝元ヲ補佐スルゴトクセヨ。弥之助ヨ、小早川隆景ヲ慕イテヤレ、孫権ハ望マヌゾ。弥之助、我ノ事業ヲシテ墜《おと》ス事ナカレ。弥之助、川田、我ノ志ヲ継ギ我ノ事業ヲ墜スナカレ」  一同は号泣、あるものは合掌、 「もっと長生きして、宿敵の渋沢栄一と戦ってほしい!」  と異口同音に口走った。  弥太郎が一代で蓄積した財産は二千万円。  しかし喜勢はさりげなく弥之助に言った。 「わたしと春路と久弥は、草深い井ノ口村に帰ることになってもいいんですよ。田畑は残っているし、昔のように痩せた畑の土いじりの生活にもどってもね。この二十年近くの東京暮らしは夢の夢だったのかもしれません」  政財官がグルになっての三菱包囲網で動きがとれず、あるいは共同運輸との≪決闘≫に完敗し、遺産の二千万円がゼロとなって「故《もと》の木阿弥になった、あれが怪商岩崎弥太郎の古女房よ」と指さされる——そうなったとしてもわたしの腹は立ちません、と喜勢は諦観しているというのである。  だが、弥之助も猛々しい経営者だった。  おかしなもので弥太郎の死去は、予想外の≪三菱同情論≫を噴出させた。「怪商」「政商」「海坊主」よばわりしてきた民衆の、気まぐれな判官びいきがはじまったのであり、 「共同運輸に勝たせてたっぷり甘い汁を吸おうとしている長州閥の井上馨、伊藤博文、品川弥二郎らの、尻馬に乗っての渋沢栄一、益田孝ら三井派の三菱つぶしは陰険すぎる」 「岩崎弥太郎は病死にあらず。長州閥政府の暴圧に激怒し、居たたまれず憤死してしまったのだ。みんなで三菱に助勢すべし!」  という声を背景にして弥之助は、共同との≪戦闘再開≫を宣言したのだった。「我ノ事業ヲシテ墜ス事ナカレ」の遺言どおり、海運王国三菱を死守しようというのだ。しかも、この一戦に敗北した場合は、三菱船を一隻残らず品川沖に集結させ、もののみごとに爆破自沈させてみせる、国民のみなさん見物にきてください、とも公言した。未亡人喜勢のようには諦観はしない。三菱マンをひきいて弥之助は、最後の一兵まで戦ってのち果ててみせるというのである。  そして、この弥之助によって海運王国三菱は、大きく転進してゆく。 [#改ページ]  広瀬宰平《ひろせさいへい》/伊庭貞剛《いばさだのり》——人生、引き際が難しい [#ここから1字下げ] 〔広瀬宰平略伝〕文政一一年(一八二八)近江国(現滋賀県)に生まれる。幼くして住友家に仕え、慶応元年(一八六五)には別子銅山総支配人になる。明治維新後、住友のリーダーとして活躍。鉱山業、両替業などのほか、大阪株式取引所の創設にも参加し関西財界で大きな力をもった。大正三年(一九一四)没。 〔伊庭貞剛略伝〕弘化四年(一八四七)近江国(現滋賀県)に生まれる。広瀬宰平の甥。司法省の官吏を経て、住友家に入り、重役となった。市立大阪商業学校(現大阪市立大)校長、国会議員などを経て、明治三三年(一九〇〇)宰平の後を受けて総理事となる。大正一五年(一九二六)没。 [#ここで字下げ終わり] 老人の跋扈《ばっこ》  住友財閥のはじまりは戦国時代の天正年間の後期、豊臣秀吉に滅ぼされた柴田勝家の家臣だった住友政友が、町人となって京都において開業した「富士屋」という古本屋を兼ねた宇治茶の茶商である。  ときには政友は鉄類を売買、粗銅から銀を吹き分ける「南蛮吹き」と称する銅の精錬技術も心得ており、銅細工の販売もやっていた。それから約三十年後の元和時代の末期、養子の理兵衛|友以《とももち》がその技術を継承し、寛永七年(一六三〇)に大阪に居を移して「泉屋」の看板をかかげた。以来、銅商に専念して延宝八年(一六八〇)には、のちに三菱の岩崎弥太郎に譲渡する備中(岡山県)の吉岡銅山の開坑も出願。四代目友芳の時代——元禄三年(一六九〇)には四国は伊予の海抜千四百メートルの別子山に、日本四大銅山の一つに数えられるようになる銅鉱脈を発見。天領であるため幕府より採掘権をあたえてもらって代々が、日本一の御用銅山師になった。 「住友は万世不朽の財本をもって幸せだ」  と世間が羨望する。あの紀国屋文左衛門が熊野灘のシケにもめげず、三万五千|籠《かご》の紀州みかんを千石船に積んでイチかバチかの勝負に出て江戸まで輸送し、五万両もの大金をつかんだ……のが話題になった時分である。  さらに五代目友昌が寛延二年(一七四九)に別子に隣接する立川銅山を発掘。おかげで「泉屋」は別子・立川両銅山経営を主軸とする銅商でまるまる太るかたわら、三井組や鴻池組を意識しながら諸大名相手の両替業にも精を出した。しかし、おごることなく住友家代々の有名な家法である「我営業ハ時勢ノ変遷、理財ノ得失ヲ計リ、弛張《しちょう》興廃スルコトアルベシト雖モ、苟《いやしく》モ浮利《ふり》ニ趨《はし》リ軽進スベカラズ」だけは厳守するのを忘れなかった。  それでも徐々に経営が苦しくなってきた。採銅技術が原始的であるため、蟻の巣のごとく坑道が深く長く曲がりくねるにつれて年産千五百トンもあった産銅量が、幕末のころには三分の一以下にダウンした。しかも、維新動乱が迫るにつれて住友家も、幕府への莫大な献金「御国恩冥加」を容赦なく強要されるし、勤皇方にもゆすられて穴蔵金を出さねばならなかった。  さらには、落日のごとくになりゆく幕府が銅座を廃止したため、住友の銅の売れゆきは激減。諸大名へ融資していた大判小判はことごとく踏み倒されたまま、もはや「泉屋」もこれまでとうわさされるに至った。  なのに明治時代への大転換期の住友は、奇跡的に蘇生している。豪商の天王寺屋、平野屋、加島屋などが幕府とともに倒れてゆくが、三井組に≪毒気≫のある三野村利左衛門がいたように、住友にも大番頭広瀬|宰平《さいへい》がいて起死回生の知略商才を発揮したのだ。そして明治・大正・昭和前期を通じて住友を、三井・三菱に劣らぬ大財閥に飛躍させたのは初代総理事になった広瀬宰平、第二代の伊庭|貞剛《さだのり》、第三代の鈴木馬左也、第四代の中田錦吉、第五代の湯川寛吉、第六代の小倉正恒、そして太平洋戦争終結後にマッカーサー元帥のGHQによって「財閥解体」を強行されてしまう最後の、第七代の古田俊之助までの七人の卓抜したリーダーたちなのである。  いずれも第一級の個性派、それぞれに才気・剛気・侠気のほかに危険な≪毒気≫があった。なかでも広瀬宰平と伊庭貞剛の関係には鬼気迫るものがあり、二人の生きざまは突出していて、驚くべきことには甥である貞剛が叔父宰平の≪首を刎《は》ねて≫自分が総理事におさまった。宰平に言わせると逆で、宰平自身が≪首を刎ねさせて≫後継者として総理事に据えるのである。  貞剛が住友総理事で活動したのは、明治三十三年から三十七年にかけてのわずか四年半にすぎない。財界人としての知名度も宰平や鈴木や小倉らにはおよばない。しかし人徳の士として、今日なお住友マンたちに限りなく敬愛されており、当時はその引退を惜しまれ、連袂《れんべい》辞職する部下さえあった。「浮利ニ趨リ軽進」するようなことは一切やらず、おのれには一片の我欲も、地位名誉に対する未練もさらさらなく、五十八歳の明治三十七年には辞表を提出、さっさと隠棲してしまった……宰平の≪首を刎ねて≫こんどはいさぎよく自分自身の≪首を刎ねた≫のである。  昭和初期の住友本社常務理事で、御歌会始選者でもある高名な歌人——人妻との≪老いらくの恋≫でも話題をまいた川田順は、初代とこの第二代とを比較しては、 「広瀬さんはいうなれば、他をねじ伏せてでもわが道を往くような力の人・策の人であった。伊庭さんは剣客でありながら太刀を抜かぬ心の人・徳の人であった。力の人のあとに心の人がリーダーになった偶然は、住友にとって幸運以外のなにものでもなかった。実業人は物欲にのみ終始するものと思うのは、伊庭さんのごとき人物の存在を知らざる愚蒙《ぐもう》の考えである」  と自著『住友回想記』に記述している。  辞表を提出した直後、貞剛自身も『少壮と老成』と題するエッセイを経済雑誌に寄稿していて、 「とかく老人は経験という刃物をふりまわして、少壮者を威《おど》しつける。また少壮者の多くは、経験者たちの命令に盲従するが、これは大変なまちがいである」 「少壮者の抱負や意見を採用せず、少々の過失でもあると大仰に騒ぎ立てて老人は、自分でなければ何事も成し得ないかのようにふるまう。従って事業の進歩発展をもっとも害するのは、青年の過失ではなく、老人の跋扈《ばっこ》である」  を声高に連発、老雄や古老たちは後輩の進路を邪魔することなく、気持ちよく大道をゆずるべきだと戒めている。  叔父宰平の≪首を刎ねた≫のも、わずか四年半いただけで自分は総理事の座からおりてしまったのも、彼自身のその有言実行にほかならず、現代の政界や経済界や学界などにも根づよく生きつづけている醜悪になりがちな長老支配、あるいは年功序列を大喝排除しようとしているのでもある。  幕末から明治の中期にかけて、このような広瀬宰平と伊庭貞剛が現われなければ住友は、徳川幕府と運命をともにして崩落し、永久に蘇生することはなかっただろう。  力の人・策の人  広瀬宰平は、天秤棒《てんびんぼう》をかついで全国を行商してまわる近江商人で有名な江州《ごうしゅう》(滋賀県)は八夫《やぶ》村の生まれ。その近江商人も扱う商品によってこまかく分類されていて八幡商人、五箇荘商人、愛知《えち》川商人、日野商人などがおり、小野組の小野善助のように「渋沢栄一に殺された」ものもいるが、多くは苦心の末に実業家として大成した。たとえば伊藤忠商事の伊藤忠兵衛、日本生命の弘世助三郎、西川ふとんの西川甚五郎、ヤンマーディーゼルの山岡孫吉、白木屋(現代の東急百貨店日本橋店)の大村彦太郎、新しいところでは西武鉄道の堤康次郎……というふうに異彩の個性派ばかり。≪ピストル康次郎≫の異名をとった彼の息子で、現代の≪ホテル王≫になっている西武鉄道・国土計画の堤義明は、琵琶湖畔にも高層のプリンスホテルを建てたり、傘下の近江鉄道グループによる事業拡大をつづけたりして故郷に錦を飾っているので、やはり典型的な近江商人のひとりに数えていいのかもしれない。  宰平には豪商になりたい野望などない。町医師北脇家の次男坊だったから、天秤棒をかつがされることもなく、四国の別子銅山支配人である叔父にひきとられて銅山勘定場の小僧からスタートした。天保九年(一八三八)十一歳のときである。  粘り強さでは近江商人に劣らず、漢書を独学、文才もなかなかのものだったので「泉屋」江戸分店の店長広瀬儀右衛門の養子に望まれた。広瀬姓を名乗ることになった。手代から番頭へと出世してゆき、三十八歳にして叔父と同じく別子銅山支配人にまで昇進した。慶応元年(一八六五)のこと。太平洋のかなたのアメリカでは南軍司令官リー将軍が降服して南北戦争が終わり、日本では逆に西郷隆盛や坂本龍馬や井上馨らが長崎にきているバイヤーから銃器を買い、尊皇討幕を画策していたころである。  幕府側も沈黙してはいない。この年の夏、幕府軍艦が萩藩(山口県)を艦砲射撃して第二次征長の役が勃発した。とたんに戦争に必要な兵糧米の徴収と商人らの売り惜しみがはじまって米価が一気に暴騰。江戸市中では窮民の暴動が頻発しており、大阪でも米屋が襲われた。幕府は天領である別子銅山には、四千人の従業員と家族たちが食べる糧米を、西条藩に対しては和歌山藩が合力米二万石を支給してきた。別子へのそれは年間一万二千石にもなり、住友家には御用銅の代金で清算相殺させていたのだが、全面的に支給をストップせざるを得なかった。米不足は深刻だし、尊皇討幕は迷惑のかぎりである。  餓死を恐れる荒くれ鉱夫らが「米よこせ」の暴徒と化して放火、坑口を封鎖してしまったので産銅量は完全にゼロ。宰平は奔走するが糧米は確保できない。さりとて採掘中止にするわけにもいかず、鉱夫たちを説得するがそれもうまくいかない。  あくまで強気の宰平は実力行使に出た。西条藩の代官所役人に歎願。鎮圧してもらうときには自ら指図し、夜陰にまぎれて飯場を急襲、寝ていた主謀者らをひっくくることもあった。まさしく川田順が書くとおり、責任感が旺盛な彼は「他をねじ伏せてでもわが道を往くような力の人・策の人」なのだ。捕えられた鉱夫の妻子が泣きわめいても、心を鬼にして宰平は釈放してやらない。 「別子は火の山だ。地獄だ。流人たちを酷使した佐渡金山よりもこわい!」  と下山して吹聴してまわるものもおり、荒くれ集団のなかには宰平を憎悪するあまり、現場事務所へきていた彼に石見銀山を混入した毒まんじゅうを届けさせたのがいる。危機一髪、事務所で飼っている犬に食わせたら血を吐いて悶死したためわかったのであり、待ち伏せに遭って撲殺されそうになったのも一度や二度ではない。  さすがの宰平も明月の夜、あまりの人心の荒廃に慨歎しつつ、 「ああ、無情の歳月は流れてやまず」  と口走ってしまった。だからといって「力の人・策の人」からは転進せず、剛腕の支配人でありつづける……というところが、いかにも広瀬宰平らしさなのだ。  西条藩主の松平|頼央《よりひろ》が半分の、六千石の糧米確保の約束をしてくれたおかげで、ほっとひと息つけた慶応四年——明治元年に改元されたのと同時に、官軍になった討幕派の土佐藩の一隊が四国鎮撫軍として、今治藩や松山藩や西条へも進駐してきた。討幕軍総司令官大久保利通は錦の御旗をかかげさせて江戸城への大進軍を開始、全国にも派兵して佐幕派各藩の武装解除ならびに工場施設、鉱山、米倉などの接収を命じたのだ。  別子銅山へやってきて新居浜にある糧米倉庫を封印し、銅山を無血占拠したその土佐藩部隊の隊長は、のちに≪三菱功臣三羽烏≫にも日本銀行総裁にもなるあの川田小一郎だった。この偶然は住友家と宰平にとって、神仏のひき合わせにひとしかった。  川田は天保七年生まれだから宰平より九歳若く、宰平を屯所に出頭させて申し渡した。 「本日ただいまより、幕府経営の別子鉱山は国営にすることと決定した」  不服をとなえれば朝敵と見なされ、たちどころに死罪にされるかもしれないが、宰平は胸を張って陳情した。 「それは何かのまちがいです。徳川幕府直轄ではなく、元禄三年の開坑この方、百七十年以上も住友家が所有している私営事業所です。そして、住友一族はこの銅山と運命をともにしてきました。経営にはいかなる苦難の連続であったか想像できますか。つい最近も糧米がなくて鉱夫集団の反乱がつづき、その家族たちは飢えに泣いておったのです」  また、宰平はこうも問うた。 「朝廷の銅山になさったとしても、坑内の保安を維持するだけでも大変なことなのに、旧態依然の現状では採掘量は激減する一方。増産させて利益を生ませるには莫大な設備投資が必要です。おたずねします。それだけの資金を、新政府をつくる薩摩、長州、土佐のお歴々がお出しになるのですか」  鉱山経営には無関心の川田が、 「ほほう、銅山からは金銀も産出して大いに儲かると聞いていたが、そんなに労苦が多いものなのか。ともかく、拙者の一存ではどうにもならぬ。大阪の本陣に問い合わせてやろう。そのままで待て」  と気軽に約束してくれた。宰平の耳には「大阪の住友本店も銅倉も薩摩藩兵によって占領された」との情報もはいっていたので、もう駄目かもしれないと半ば諦めた……と、住友から引退後に著わした自分史『半生物語』に、宰平はそのように書いている。  別のルートからは「別子をまるごと十万両で買おう、という資本家がいる。売って損はないと思う」と勧められていた。その資本家とは明治新政府べったりの豪商であり、住友一族もそのほうへ傾きかけた。愕然となりながら宰平は、 「売ってしまっては住友家の終わり、必ず破産絶家になりましょう。川田小一郎氏を信じていましばらく待ってください」  と血涙をあふれさせて意見した。  川田の文書による報告を読んだ、権謀術策と殖産興業政策が大好きでいまや明治新政府の中心にいる、公卿政治家の岩倉具視が関心を示した。直々に宰平を呼びつけて面談、さもありなんと理解してやった。  岩倉がその見返りを要求した……かどうかは不明だが、藩主経営企業だったのがつぎつぎと官営化されてゆくなかで、別子銅山だけはこれまでどおりにして官収は回避された。これより住友家と宰平は、岩倉と川田を命の恩人なみにあがめるようになるのだった。  そんな好都合な結果になるとも思わず川田は、接収任務を完了して伊予から大阪土佐藩邸へもどってきた。そこで岩崎弥太郎に会った。長崎土佐商会留守居役から土佐軍軍用金調達係に転勤させられて大阪にきている彼と語り合ううちに、なみなみならぬ事業欲に共鳴、明治三年からスタートさせた海運業に全面協力するのだった。  さきの『岩崎弥太郎』で述べておいたように、住友家がたったの一万円で吉岡銅山を弥太郎に譲渡して三菱の発展を支援したのは、恩人川田に対する感謝の表現だったのであり、政治が好きな宰平の岩倉具視への接近もますます密になっていった。そして民衆がいう「三井と井上馨」「三菱と大隈重信」の癒着に負けず劣らずの、「住友と岩倉具視」はこうしてできあがってゆくのだ。  川田に対する報恩の行為は、まだまだほかにもある。大阪府知事に据えられたあの後藤象二郎を、川田が紹介すると宰平は、遊び好きの後藤が望むままに待遇する。が、いまの宰平にとってより重要なのは政治ではなく、早急に別子自体を何とかしなければならぬことだ。江戸時代と変わらぬ原始的な採掘作業では、産銅能率は低下してゆくままだし、老朽化による落盤事故などが続発する危険度も高まっている。いまこそ開国日本の新時代にふさわしい販路開拓も必要だ。 「まずは何はともあれ技術革新だ。舶来の鉱山技術の導入だ!」  渋沢栄一は青い目の製紙技師を招聘し、四百円のサラリーを支給するので世間はびっくり仰天したが、上には上がいる。宰平はフランスから招いた、鉱山技師ルイ・ラロックの月給を六百円にしたのだ。宰平のそれは百円なのにであり、現場事務所で寝食をともにしながら彼が、いかにこのフランス人に万斛《ばんこく》の期待をかけたかがわかろうというものだ。  トンネルを掘りすすめるのにルイ・ラロックは、日本ではじめてダイナマイトを使用してみせた。その轟音と破壊力に、鉱夫らはおどろき飛びあがった。新鋭の鉱山用機械類をどしどし輸入し、大規模な斜坑開削をやってみせた。人力だけが頼りの竹かごではこび出していた鉱石は、レールを敷いたトロッコによって能率的に搬出されるようになった。これらを彼はわずか一年間でやってのけたのだ。  宰平は有望な若手社員二名を、鉱山冶金学をマスターさせるためフランスへ送り出すとき、「徳川三百年の鎖国の空白を、きみたちに猛勉強してもらって三年間で埋めてほしいものだ」と激励した。こうした必死の近代化が、みるみるうちに産銅量の増大になったことは述べるまでもない。  経営学者坂本藤良の『住友財閥』によれば、宰平が従業員の待遇改善にも全力投球し、 [#ここから1字下げ]  自分の持っている田畑七、八町歩を担保に資金を借りた。これを≪見せ金≫にして銅山だけに通用する、広瀬宰平の名前入りの木札をこしらえた。その木札を持ってくれば現金に換える、ということで信用させて、これで鉱夫に賃金を払い、清算を再開した/能率給を導入した。人材を適所に配置替えした。太鼓で時間を知らせて就業時間を厳格にした。休日制度も定めた/小学校・病院を建てた。禅僧を招いて精神教育を始めた。鉱夫の服装を洋服《マンテル》にした。明治三年に、である。 [#ここで字下げ終わり]  このような組織・生活改革も並行させており、とくに住友マンたち全員を欣喜させたのは、宰平がスローガンにした「下級店員の抜擢」「老朽淘汰」であり、毒まんじゅうを食わすほど憎悪した荒くれ鉱夫らの宰平を見る眼、態度も大きく変化してきた。  いまや宰平を「住友の中興の祖」としてあがめないものはいなくなった。宰平が住友家総理代人に推挙されたのはちょうど、西郷隆盛が挙兵して西南戦争が勃発、三井、三菱、大倉、藤田などの社員が官軍の兵站基地となった大阪に集中、儲けにありつこうとした明治十年二月のことである。  工業財閥に成長する住友家は、明治十五年に制定した家法書に、よみがえった別子銅山について、 「別子山ノ鉱業ハ万世不朽ノ財本ニシテ、ソノ業ノ盛衰ハ我一家ノ興廃ニ関シ、重|且《かつ》大ナル他ニ比スベキモノナシ」  と墨書している。  十年の謀《はかりごと》は樹を植えるにあり  命がけで広瀬宰平が、川田小一郎との官収回避の談判をくり返していたそのころ——明治元年には伊庭|貞剛《さだのり》は、近江八幡の勤皇党といわれる西川吉輔の紹介で、会津藩兵や新撰組が江戸へ逃げ帰ってしまったあとの京都御所警固隊に加わっていた。まだ童顔が残る二十二歳であった。  生まれは弘化四年(一八四七)だから宰平よりも十九歳年下、幼名が耕之助、老境にはいってからは幽翁と号した。厳父は近江国五箇荘の代官、母親が宰平の実姉なので貞剛は宰平の甥にあたる。中上川彦次郎が福沢諭吉の、二十歳違いの甥であるのと変わりない。  士族の子弟の多くがそうであったように貞剛も、少年時代から漢学と剣術に打ち込み、剣技のほうは天才的で十九歳ではやくも錬士の域に達し、西川吉輔に感化されて勤皇党に参加していたのだ。  明治新政府が発足すると京都御所警固隊員だった彼は、刑法官少監察に任命されて司法官僚としての道を歩み、几帳面に勤務して十年後の明治十一年、三十二歳にして大阪上等裁判所判事の地位を惜しげもなく棄てた。  翌十二年九月、突然に≪関西財界のボス≫藤田伝三郎が東京警視局捜査隊に逮捕され、東京へ連行された。容疑は贋札づくり。世にいう「藤田組贋札事件」である。  ことの起こりは不満を抱く藤田組の手代のひとりが、大阪裁判所判事に内部告発してきて作成された「告発書」だ。伝三郎が贋造二円紙幣を大量に持っているのを目撃したという。事実、そのころそれが西日本一帯に出まわっていたのを内偵中だったから、警視庁大警視である陸軍少将川路利良が決断、伝三郎を捕縛させたのだ。  ところが、これが大変な勇み足になる。いくら締めあげても伝三郎は身におぼえがないというし、藤田組を家宅捜索してみても一枚の贋札すら発見されなかった。伝三郎の同志である井上馨、伊藤博文、山県有朋ら政界のお歴々が激怒した。  結局、伝三郎逮捕は誤認ということになって、彼は釈放された。同時に、警察組織の内幕が露呈しはじめた。もともと警察官僚の中核となってきたのは西郷隆盛をはじめとする薩摩閥だが、西南戦争での西郷の敗死、大久保利通の暗殺によってその薩摩勢力が一気に衰退しつつある。長州閥にとって代わられるかもしれない。  西郷にかわいがられた川路利良はそれを憂え、佐賀閥が占める司法官僚と組んで、警察組織内における薩摩閥の勢力挽回をはかっての行動……それが長州閥つぶしの「藤田組贋札事件」の本筋なのだ。誤認逮捕した川路大警視は、まもなく謎の死をとげてしまう。自殺なのか他殺なのかは、今日なお明白にされていないのだ。  明治二十四年五月には来日中のロシア皇太子が琵琶湖畔で、抜刀した警固の巡査津田三蔵に襲撃されて頭が血まみれになる国際的な大事件「大津事件」が突発している。  全国民は動転。大国ロシアの軍事力を恐れる日本政府(松方正義内閣)はうろたえ、明治天皇は元老や閣僚をひき具して入院中の皇太子ニコライ二世を見舞い謝罪した。元老も閣僚ももっとも重い大逆罪を適用、ただちに津田三蔵を死刑にするとした。極刑になって当然だと国民も思ったが、どっこい大審院(明治憲法下の最高の司法裁判所)の院長児島|惟謙《いけん》が頑固に正当な裁判の開廷を主張して普通謀殺未遂罪を適用、無期刑の判決をくだして死刑から救った。要するに、天皇や内閣の圧力に屈することも、世論に右顧左眄《うこさべん》することもなく児島院長は、みごとに日本の司法権の独立を固守したのだった。  明治の司法官僚にはこのような、頑固一徹の正義漢が多くいたという一例だが、伊庭貞剛がこれら二つの大事件——「藤田組贋札事件」と「大津事件」に関わりがあったわけではない。彼が司法官僚だった当時の法曹界や警察組織内にも、これに類することはあったのだった。神聖なる法廷の裏側にまわってみれば派閥とか門閥とかがあり、足のひっぱり合いもやったりして人間関係は俗界以上に複雑怪奇、悪臭ぷんぷんなのだ。  権門勢家にひそかに出入りして栄達をはかる、そういう判事もいないわけではない。金品を贈って上司のご機嫌をとる警察官だっている。西南戦争後は官界全体の勢力図ががらりと一変、ますます複雑怪奇となり、これらが腐敗堕落にしか見えぬ剛直判事の貞剛は、辞表を書かずにはいられなかったのだ。人を裁くことのむずかしさも、痛感させられるばかりなのである。  素浪人になった貞剛が某日、業績をますます向上させていて絶好調の総理代人を、住友本店に訪ねてみた。大阪を離れるつもりにしていたので、別れの挨拶をしておきたいのでもあった。ただし、訊かれるであろう退職の理由については正直に言うつもりはなく、こんなふうに用意しておいた。 「いまになってわたしにも、近江商人の血が流れているのに気づいたのです。天秤棒をかついで、雨や雪のなかでも平気で全国を旅してまわる。野宿もする。川水も飲む。大成しなくてもいいから自由人になって生きてみたい。そう思ったら矢も楯もたまらなくなったのです」  半分は本音であり願望でもあった。  宰平は口をうごめかせてかすかに苦笑したが、内心ではほかのことが閃いていた。 (剛直判事といわれてきたこの甥が、権威ある法曹界そのものに愛想をつかしたというのもおもしろいではないか。ちょんまげ時代の日本人はお家大事、お殿様大事でありすぎた。これからの実業界に必要なのは商才と商略が豊富な人物だけでなく、自由人の発想ができる人材ではないのか)  住友も純血主義ではいけない、重役たちにも新しい種族を加えるべきだ……との漠然とした発想が宰平にあっただけに、そのように閃いたのだった。  だが、宰平はこうも想像する。貞剛には勤勉、誠実、正直のほかに「おのれを信じて容易に妥協せず」「右顧左眄せずの不動心」を堅持している。宰平自身にもそれがあり、これから≪第二の広瀬宰平≫に成長してほしいとも希い、彼はこう言った。 「これまでの十年間、きみは裁判官として厳正に生きてきた。おのれを律してきた。これからの十年間は、わたしに育てられる樹木となって、大いに枝葉をひろげてくれないか。決心してくれ」 「わたしはいま、野宿したり川水を飲んだりして気ままに生きたいと申しあげました。人生到るところ青山ありです」 「百年の謀《はかりごと》は徳を積むにあり、十年の謀は樹を植えるにあり、ともいうではないか。その樹こそが良質の人材のことなのだ。いまのわたしは、すくすくと育ちゆく良質の人材ならば何本でもほしいのだよ」  宰平の絶好調の実績は大製錬所の建設、製銅|売捌《うりさばき》所の新設による流通機構の革新にあらわれ、そのほか植林事業、製糸、樟脳、製紙、石炭業界への意欲的進出も計画していた。造船所、新居浜築港、水力発電所、大阪堂島の住友倉庫建設などの多角化プロジェクトにも自信があり、関西財界での活動も開始している。五代友厚、藤田伝三郎、松本重太郎らと大阪株式取引所を設立してその副頭取に、大阪商法会議所副会頭にも就任している。  だから自分がすすめるプロジェクトを着実に実現させる、財界活動をつづけなければならぬ自分に代わって住友内部を固める強力な手駒になる……そういう人物を宰平は、のどから手が出るほどに欲しているのだった。  つづけて宰平は誘う。 「住友の番頭らしい番頭になってソロバンをはじいてくれ、とは口が裂けても言わないよ。鉱夫たちの善悪を大所高所から公正に裁いてほしい、とも頼みはしないよ。維新のころのように朝から晩まで、剣術の稽古にはげんでいたっていいんだ」  貞剛《さだのり》の両頬が微笑した。おもしろそうだ。実業界とはどんな世界なのか。覗いてみたい興味が湧いてきて彼は、住友への入社を承知した。  役職は住友本店支配人。初任給は判事のころの半分、官尊民卑、官上民下の時代なのだから四十円であったが、貞剛は安月給に反発したり不平を洩らしたりはしない。  だが宰平も貞剛も一つだけ、お互いに気づかない点があった。ともにある「おのれを信じて容易に妥協せず」「右顧左眄せずの不動心」が、もしも正面衝突するような場合に直面したときにはどうするのか。どのように妥協したり見まわしたりして解決するのか。それとも断固決裂してしまうのか……そのことを考えていなかったのだ。  その危機に遭遇する危険は、当座はなかった。  住友本店支配人はやたら多忙だった。  宰平が住友資本を参加させながら多角的に関係する、それら関係企業の実務が必ず貞剛へまわってくるからであり、大阪株式取引所役員、大阪商船や藤田伝三郎の大阪紡績の取締役も兼務させられ、宰平の代理として厭でも重役会や会合に出席しなければならぬこともあるからだ。大阪商船は資本金百二十万円。岩崎弥太郎の郵便汽船三菱と渋沢栄一および三井系の共同運輸の≪海戦≫を見守りながら宰平が、関西の零細船主たち五十五人の汽船・帆船九十三隻をかき集めて明治十五年末に統合、頭取になっているのだった。  三井の中上川彦次郎が≪落下傘作戦≫を強行、武藤山治を指揮官として鐘淵紡績兵庫工場を関西紡績業界に割り込ませた——暴力団同士の市街戦にもなりかねなかった当時も、貞剛は目のまわるほど忙しくて迷惑した。藤田伝三郎らの中央綿糸同盟会に味方して、連日連夜の対策会議にも顔を出さねばならなかったからである。このころの宰平は、日銀総裁になっていた川田小一郎の要請なので断わりきれず、日銀監事にもなっていた。 「中上川君は安政元年の生まれだそうですから、わたしよりも七歳若い。西欧の教養を身につけているし、実行力は大変なものです。住友にも育ってほしいのは、ああいう新鮮な≪樹≫ではありませんか」  と貞剛が宰平に質問したことがある。 「うん、彼は古いのれんの三井を、あっというまに近代欧米型企業に変身させつつある。慶応義塾の後輩たちをどしどしひっぱり込んで、わたしが構想するのと同じように、新しい種族をふやしつつある。だが、わたしは中上川彦次郎には感心しない。というよりも、はっきり言って嫌いだ」  宰平は不機嫌な顔になった。なぜですか、と貞剛がたたみかけようとしても、そうはさせないきびしさがあった。  三井入りする以前の、山陽鉄道社長だったころの彦次郎の動静も、貞剛は黙々と観察してきた。同社の株主たちである藤田伝三郎や松本重太郎らの嫌がらせをはねのけ、関西人らの罵詈讒謗《ばりざんぼう》にも耐えながらの八面六臂の活躍には、内心では拍手を送っていた。日本最初の経済恐慌である「一八九〇年パニック」とも戦わねばならなくなった彦次郎には、心から同情したこともあったし、藤田伝三郎や松本重太郎らの仲間であらねばならぬ叔父宰平を気の毒に思ったものだった。  だが、そうした意見や批評や感想はひたすら、自分の内奥に蓄積しつづけた。彦次郎の一挙手一投足を見のがすまいとする貞剛のその眼は、剣鬼同士の真剣勝負を観戦しているそれと変わらなかった。ときには感心しながら、ときには疑問を抱きながら彦次郎を新時代の英雄だと認めて、大いに学ぶべきものもあった。それでも自分は決して、そういう檜舞台にはあがろうとしないのだった。  貞剛には紡績業界のことはむろん、海運界や証券界や鉄道業界のことなどいずれもチンプンカンプン、それらの経営者会議に列席してもまったく発言せず、威儀を正して何時間も微動だにしないものだから、 「法廷で鬼検事とやり手の弁護士の陳述を、じーっとがまんして聴いてやっとる……あの人はどんな会議の席でも、そないな顔をしているみたいや。何を考えとるのかさっぱりわからん。路傍の石の地蔵はんやがな」 「なんぼ血縁関係やいうても、あないな昼行燈《ひるあんどん》を住友本店支配人に据えとる広瀬はんの気持ちがわからしまへん」  と陰口されるばかりであった。  ついには、貞剛に発言を求めるもの、卓見を期待する同席者は皆無になった。そのほうが貞剛自身には、感謝したいほどにありがたかった。二者択一で出席者の意志をまとめるような場合は、一同はまっ先に貞剛のほうを見てしまう。「どちらにすべきか、裁判長が決めておくれなはれ」というふうに。だが、それさえも求められなくなった。  後年——  貞剛が第二代総理事の椅子を鈴木馬左也に譲ったときのエピソードを、第六代総理事で第二次世界大戦時の住友グループを驚異的に大発展させて、近衛文麿内閣(昭和十六年)の大蔵大臣もつとめた小倉正恒が、 「伊庭《いば》翁は、たとえ異説を持ってきても直ちに反対しない。鈴木馬左也氏は翁とは正反対で、不賛成の場合には相手をこっぴどくやっつけるというふうで、翁とは両極端のように自分は思った。そして私は翁を見習って、物事はすべて中庸をとってゆくべきではないか、との結論を得た」  と回想しており、貞剛が実業界にはいって学び悟った最大のものは、この「中庸に徹する」ことだったようだ。しかしながら後継者たちもまた、自分と寸分ちがわぬ≪中庸人間≫であったれば、やること成すことすべてが中ぶらりんになりかねない。なるが故にあえて、自分とは正反対の性格の鈴木馬左也を後継者に指名したのだろう。  不動心の激突  伊庭|貞剛《さだのり》が住友入りして十年が経過、彼は広瀬宰平がいう「十年の謀」である≪樹≫に育ちつつあった。  そのころ——社会の動揺がつづく「一八九〇年パニック」のさ中の明治二十三年だったが、住友家にとっては何にもましてめでたい「別子開山二百年祭」である。  前年に夫婦して世界一周をたのしんできた六十三歳の宰平は、いまや頂点を極めた観さえあった。さっそく「別子開山二百年」を記念して皇居前広場に、別子産の銅で制作させた悍馬《かんば》にまたがる、現在もある忠臣楠木正成像を献納。さらには大阪と別子において、盛大なる二百年祭を催して話題をまいた。鉱夫たちは瀬戸内海の鯛の塩焼きを肴《さかな》に、あびるほど祝い酒を飲ませてもらった。  二百年祭を開催できたそのことは、住友家の関西財界における重みを倍加させた。しかも、多角経営ぶりは名番頭としての宰平の評価も高める一方ときている。  ところが……である。ところが、アメリカで巨大な熔鉱炉がある製鉄所を見学してきた宰平が「住友も製鉄事業に進出したい。国家的な仕事だ。鉄は国家なり」と言いだしたことから、周辺の雲ゆきが急変してきた。 「新事業に着手するというからには、総理事はまだまだ第一線で指揮をとるつもりだ。四十五年間も奉公したのだから、切りよく六十歳で隠居すると思っていたのに」 「住友家が夫婦して海外旅行をさせたのは、引退の餞《はなむけ》ではなかったのか。いったい何歳までいすわるつもりだろう」  そんなこんなの辟易するような声が出はじめたのだ。  貞剛は、こう思った。 (フランス人の鉱山技師を招聘《しょうへい》して別子の近代化に着手したころ、叔父は「下級店員の抜擢」と「老朽淘汰」をスローガンにして鉱夫たちをやる気にさせたことがある。あのころの叔父自身がまだ若さに溢れていたから、長老支配を排除すべく「老朽した社員は淘汰もやむなし」としたのだ。が、いまは叔父自身が年をとるごとに無意識に、頑なに長老支配をやろうとしているのだ。「中上川彦次郎は嫌いだ!」と不機嫌な顔になった……その理由は老人の、若さへの嫉妬だったのだろう)  もちろん、思っただけで貞剛は、こんな失礼なことを宰平に言うつもりはない。  そうこうするうちに一寸さきは闇、だれにも予期できないことが突発した。  先代の友親が病歿したと思ったら、当主である第十三代の友忠の葬儀もつづけざまにおこなわなければならず、あっという間に住友家の後継者が絶えはててしまった。お家の一大事である。貞剛の考えも参酌して宰平は、とりあえず先代の未亡人登久を第十四代ということにした。そして、自分が後見人になっていそぎ、第十五代にふさわしき人物を捜しはじめた。むろん、名門の出で博覧強記の人であることに越したことはない。  のちに第十二代総理大臣(明治三十九年)にもなる、フランス自由主義が好きなバタ臭い公爵西園寺公望の実弟、毛なみは満点の徳大寺隆麿——独身貴族に白羽の矢が立てられた。住友家の養子として迎え、友忠の実妹との婚約も成立。隆麿が第十五代家長ということになって、名も吉左衛門|友純《ともいと》としたものの、 「公卿さんともあろうお方が、泉屋の印半纏《しるしばんてん》を羽織る商売人になるとはね。それもこれも自由主義というやつですかねえ」 「華族と親戚関係になって住友家の箔《はく》をつけ、天皇家や政界にも近づけたいのだろう。過去に岩倉具視にとり入って別子を官収させなかった、いかにも策の人らしき深謀遠慮だよ」  素直に祝ってくれるどころか、大衆やマスコミはそんなふうに隆麿と宰平を冷視する。  折もおり——  平民でありながら宰平は、渋沢栄一、古河市兵衛ともども民間人として初の勲四等に叙せられ、瑞宝章をちょうだいできた。が、大衆やマスコミはこれにも拍手喝采せず、住友内部には≪独裁者≫宰平を、ますます疎《うと》んずるムードが高まってゆくのだった。  しかし、宰平自身は雲の上にいるごとく、そのことには気づいていない。彼の耳にはそれらの声はまだまだ届いていない。明治二十四年には貞剛とともに住友家の「家憲および家法」を合作、これを制定した。このとき筆をとって品格と誠実を示すべく—— [#ここから1字下げ] 第一条 我営業ハ信用ヲ重ンジ 確実ヲ旨トシ 以テ一家ノ鞏固《きょうこ》隆盛ヲ期ス 第二条 我営業ハ時勢ノ変遷 理財ノ得失ヲ計リ 弛張興廃スルコトアルベシト雖モ 苟モ浮利《ふり》ニ趨リ軽進スベカラズ [#ここで字下げ終わり]  従来からの家法は「第二条」のほうの「我営業ハ時勢ノ……」だけであったのに、貞剛が「第一条 我営業ハ信用ヲ重ンジ……」を加筆した。儲けのためなら何をやってもいい、向こう傷は問わぬの営利一辺倒になりがちなのをきつく戒めているのであり、宰平もその加筆に大いに同意した。  だが現実には、宰平の飽くなき事業拡大はつづけられている。「力の人・策の人」だからなおさら、やることなすことすべてが儲けのための猪突猛進であるかのように見えて曲解されてしまう。当然、貞剛に対しても「総理事の身内だから一心同体だろう」という白い眼が向けられ、「支配人は総理事には絶対服従、反対意見を述べたことがない」と失望され、しだいに「路傍の石のお地蔵さんに見えるけど、あれは宰平の凶暴な用心棒でっせ」と警戒されるようにもなった。  三野村利左衛門が家政改革を断行して「三井組の家産は三井組の有にして、三井氏の有にあらず」として三井同族を「君臨すれど統治せず」の存在にしたように、宰平も「家憲および家法」を制定したことで住友家を象徴的なものに祀りあげてしまう結果になった。それが住友マンたちには、 「広瀬宰平に住友家乗っ取りの野望あり」  というふうにも見えるようになった。別子銅山周辺における森林業、住友神戸支店が中心になっての銅・樟脳・生糸などの輸出、紡績ブームに乗っかっての住友製糸場のオープン、北九州の筑豊における炭鉱の開発……いずれをとってみても活況を呈しているため、なおさら貞剛をガードマンにしておいての、住友家乗っ取りの野望があるように見なされるのだ。  思いがけない≪凶犬≫が飛び出してきて、宰平の脚にがぶりと咬みついた。  その≪凶犬≫とは、政府の鉱山技師から別子へ天下りしてきている小島義清だ。洋行の経験をもつ優秀な技師であり、正義漢であり、じつはこの小島をスカウトし、≪樹≫の一本として育ててきたのも宰平自身なのだ。技術畑の重役にするつもりが、まさしく飼い犬に咬まれたのだった。  経営者サイドであるべき彼は、ことあるごとに鉱夫たちに味方する。結束させておいて煽動する。鉱夫とその家族たちの貧しさの全責任は住友家と総理事がおわねばならぬ、と内部告発して汚名をかぶせようとしている。鉱夫たちは彼を尊敬し、信じている。  時を同じくして関東の古河財閥——古河市兵衛が経営する足尾銅山でも鉱毒事件が発生、製錬にともなう亜硫酸ガスや硫酸銅の煙毒・鉱毒が関東五県の住民たちを苦しめている。  渡良瀬川の魚貝類は死滅しており、現代の富山イタイイタイ病や熊本の水俣病のような、企業による環境破壊の重大なる公害問題なのだ。『渋沢栄一』で紹介したようにこの銅山は、すでに掘り尽くされていたのを市兵衛が、渋沢の第一国立銀行から三万円を借りたりして買収したものだが、「他人様のお掘りになったところを上下左右に、さらにもう一間ずつ余計に、念のため掘らせてみた」結果が大儲けにつながったわけだ。しかしその市兵衛も、まさかこんな公害の元凶にされようとは思ってもみなかったにちがいない。  足尾の場合は内部告発ではなく、栃木県選出の代議士田中正造が世論やマスコミの支援を得て、明治政府を相手に勇敢に営業停止処分を訴えて力闘している。その田中は国会の質問演説で、視察したことがある別子銅山については、 「鉱山主である住友がしっかりしていて、製錬にともなう鉱毒被害は出しておりませぬ。住友の管理監督がゆきとどいていると見るべきでしょう」  と理解を示してくれているのだが、それでも≪四国の田中正造≫を自認する小島義清はあえて立ちあがり、官憲をも恐れぬ≪時の人≫になってきた。純粋に彼なりの社会正義に燃えているつもりなのだが、 「もっと騒ぎが大きくなって、広瀬総理事を地面にひきずりおろすことになってほしい」 「世界旅行から帰って、六十歳で切りよく引退していれば、こんなに苦労することも、恥をかかされることもなかったのによ」  と、その点だけを痛快がるものが多い。あまりにも長くつづく宰平の長老支配に、うんざりしている連中である。日本人の平均寿命が「人生五十年」といわれる短命の時代だったから、なおさらそうなのだ。  屋台骨をゆるがすこの騒動に「一八九〇年パニック」による物価高がからみ、鉱夫らは給金値上げのストライキに突入する勢いになった。だが≪凶犬≫に咬みつかれてもストライキを強行されても、へこたれる宰平ではない。たちまち彼は、往年の「力の人・策の人」にもどった。老齢になっているだけに、なおさら頑迷固陋であった。  糧米がストップして鉱夫たちの暴動が発生したとき、西条藩代官所役人の出動を要請したように、宰平は今回も暴徒とみなして軍隊や警官隊による大弾圧さえ辞さぬ態度だ。 「住友の崩壊をよろこぶ連中は、日本帝国を衰亡させる国賊にもひとしい!」  そうも宰平は大喝する。  すると鉱夫側はなおさら激怒。凶器を準備し、鬼よばわりして「こんどこそほんとうに毒殺してしまえ!」と絶叫する。太平洋戦争中の帝国燃料総裁を拝命する高島基江も、三井三池炭鉱の庶務主任だった若いころ、米騒動に端を発した恐怖の「三池万田坑騒擾事件」(大正七年)を体験していて、鉱夫たちの「ストライキ・プラス・暴力」を阻止するため、やはり久留米師団に救援の電話をかけている。鉱夫集団に包囲される会社側の管理職たちも命がけなのである。  最後の手段として田中正造は、議会開院式に臨幸の途中の天皇へ直訴状を手渡そうとして憲兵隊にとりおさえられたが、小島義清は家長の吉左衛門|友純《ともいと》への、 「独裁体制の広瀬総理事をただちに罷免しないかぎり、鉱夫だけでなく農民も漁民も絶対に鎮静いたしません。かれらの怨念がいまに住友一族を滅亡させるでしょう」  との脅迫まがいの哀訴に成功。以後、毎日のように郵送されてくる宰平批判の陳情書や怪文書のなかに、友純は埋まってしまうほどになった。  香川県や愛媛県の農民、瀬戸内海の漁民や塩田業者も鉱山側に同調して実力行使に出た。新居浜製錬所を包囲する。怨嗟の声を放つ。こうなると宰平は、垓下《がいか》の望楼に立って聞こえてくる四面楚歌に茫然となる……敗軍の将、項羽そのものだった。  住友マンの意見は四分五裂した。 「獅子身中の虫、小島技師を追放せよ!」 「それでは現場の反乱はつづく。このさい住友最大の功臣ではあるが、広瀬総理事に引退してもらうしかないのではないか」 「広瀬氏も小島氏も、喧嘩両成敗にすべきである!」  友純は戸惑い、それらの雑音に悩まされ、本店支配人の貞剛を呼んだ。貞剛ならばおっとり刀で馳けつけてきて「獅子身中の虫、即座に小島技師を解雇すべきです。住友家の威信を示すためにも」と進言してくれる……このように予測しつつである。  が、友純の面前でも貞剛は、容易に口を開かなかった。法廷において重罪人に対する極刑の判決をくださねばならぬ場合の、判事時代にしか見せたことのない峻厳そのものの表情であり態度である。このような立場になるであろう自分を予期し、覚悟しつつ彼は馳けつけてきたのだ。 (だれがどう言おうと、叔父宰平はまさしく中興の祖である。広瀬宰平なくして今日の住友はあり得ない。川田小一郎の理解を求めて官収を阻止し、幕府御用銅山師として終わるはずだった住友一族の未来を開いたばかりか、薩摩藩とも交渉を重ねて住友大阪本店の銅蔵の封印をもはがしてもらって、近代企業にするための経営資金を確保できた。この叔父にどうして辞表を書かすことができよう)  と、なおも貞剛は苦悶している。  胸の内が早鐘のごとく鳴っている。  が、大きくひとつ深呼吸してのち、口を開いたときの彼の顔は平静そのもの。やはりこの場合は二人を両成敗ということにすべきでしょう、と進言していた。 「な、な、なんと……!」  自分の耳を疑い、友純は訊き直した。  低い同じ口調で、貞剛がくり返した。  とたんに友純が、駄々をこねる幼児のような身ぶりになった。 「泣いて馬謖《ばしょく》を斬るということがあるが、わたしには天皇から勲四等をいただいておる総理事は斬れぬ。小島を処罰するのはたやすいだろうが、あなた自身は叔父でもある総理事を、斬りすてるのも平気なのか」 「はい……叔父はこういうときのための、腕に自信のある介錯《かいしゃく》人にすべく、わたしを住友に入れておいたのでありましょう。そのように理解しております」  うすく瞼を閉じて貞剛は言う。  宰平にも貞剛にもそれぞれ、独自の「おのれを信じて容易に妥協せず」「右顧左眄せずの不動心」がある。お互いの譲歩できぬそれが、もろに正面衝突した場合、両名はどうするのか。どのように解決するのか。いまがその局面なのでもあった。  両成敗を進言したからには、家長は「君臨すれど統治せず」の人だから、貞剛自身が実行してみせなければならなかった。そのまま彼は、総理事室へむかった。察知しているのか宰平は「ブルータス、おまえもか。わたしを追放したがっている連中に同調するのか!」と驚愕する表情はまったく見せず、やおら自分のほうから問うた。 「いまだに剣術《やっとう》の腕前は、鈍ってはおらんだろうな?」 「はい……そのつもりです」 「おまえ自身は、どうするのだ?」 「わたし自身……!」 「わしの首を刎ねるだけで、何もしないのか、と聞いておるのだ。わしを斬り倒しておきながら、その責任はとらぬというのか」 「もちろん、わたしも去ります。辞任いたします。このとおり辞表は持ってきています」 「大馬鹿野郎ッ! 斬ったおまえは生きながらえて、立派に責任をはたすべき人間だろう。わしの老いさらばえた首を刎ねたおまえ自身が、第二代総理事になって住友の先頭に立つのだ。それができるのはおまえしかおらん。わたしはおまえを後継者に指名する!」 「……」  貞剛にはもはや返す言葉がない。  息づまる一瞬であった。大上段にふりかぶった真剣を、振りおろすタイミングを失って貞剛はためらっている。斬られてやろうとしている宰平の態度はみごとというほかはなく、貞剛のほうが完敗したのを悟らざるを得なかった。彼はよろけた。  槍は突き出す場合より……  吉左衛門|友純《ともいと》もまた大いに苦しむことになった。のちのちのことになるが、彼が六十二歳で病死(大正十五年三月)したときも、別子銅山では大々的な労働争議に突入していた。このことを気にしていて彼は、呼吸が乱れるいまわのきわに—— 「世間ではわたしのことを、住友財閥の当主だから、栄耀栄華の毎日だろうと羨望しているが、わたし自身は一日として、気持の安まることのない日々であった」  と側近に洩らして涙ぐんだ。それは「中興の祖」広瀬宰平のことも、瞼に思いうかべての言葉かもしれない。大群衆の面前において見せしめに、武将馬謖を斬罪にしなければならなかった諸葛孔明になったつもりで、当主たるものの辛さを友純は終生、忘却できなかったのだろう。  宰平が退陣したのは明治二十六年九月。六十六歳。朝鮮半島をめぐる経済摩擦が原因で第二次伊藤博文内閣が≪眠れる獅子≫清国に対して宣戦布告する、その時機にきているときだった。もちろん、表向きは伊庭貞剛が≪首を刎ねた≫ことにはなっていない。公爵西園寺公望が引退を説得しての「依願退任」であった、とのかたちをとっている。  五十年間をふりかえり、住友から去りゆく心境を、宰平自身はこのように詠んだ。 [#ここから1字下げ] 夢飛ぶがごとし 恍然として跡をたずぬれば 跡は多にあらざるなり 閑雲野鶴《かんうんやかく》(悠々自適して何らの束縛をうけぬ境遇)今より後 わが園中にきたりて 敢えて帰らざる [#ここで字下げ終わり]  だが宰平が引退したからといって、住友に≪平和≫がよみがえったわけではない。日本が「居留民保護」の名のもとに、清国も「属邦保護」を理由に朝鮮半島に出兵した日清戦争の勃発は明治二十七年八月。それより半月前の七月十九日にも、煙害に抗議する漁民農民八百五十人が新居浜精錬所を急襲。婦女子も加わって投石、撃退させるため出動した騎馬警官隊にも負傷者が続出する騒擾事件が発生していた。  鉱夫たちも呼応して反抗する。内憂外患の別子は≪落城≫寸前になる。馘首《かくしゅ》された小島義清はなおさら、過激な闘士になって住友を悩ましつつ公害闘争を指導しており、この闘争は年中行事になりそうだ。  だから別子は「住友家の万世不朽の財本」ではあるが、たいへんな荷物にもなりつつあった。とくに明治四十年六月に発生した大暴動は、歴史に残るほどのものになる。日露戦争後の「戦後不況」のなかで賃上げ運動をおこなった従業員を、大量に解雇したためだ。軍隊の出動によって鎮圧できたが、翌年八月にも四阪島精錬所をつぶせと叫ぶ千五百人の県民が、賠償金と精錬量制限を要求する。 「公害問題の全面解決なくしては住友の発展はあり得ないし、名誉にもかかわる。最善の努力をしてほしい」  との友純の依頼で、総理事心得の肩書をもらった貞剛が、別子銅山支配人を兼ねて現地入りすることになった。妻子たちを大阪に残しての単身赴任であった。  送別の宴席で酔った品川弥二郎が、   可愛い妻子もわが身も忘れ    主に忠義の山かせぎ  と茶化して歌ってみせた。貞剛は苦笑するしかない。何だかだと言いながらも結局は、自分も忠義者の叔父宰平と同じ道を歩きつつある、血はあらそえぬ、と思うからである。  品川弥二郎といえば、吉田松陰の松下村塾に学んだ長州下級武士。明治維新戦争で東征する官軍のための進軍歌、♪宮さん宮さんお馬の前にひらひらするもの何じゃいな……のあの『トコトンヤレ節』を作詞作曲したことで有名。農商務大輔の官職にありながら渋沢栄一、益田孝とグルになり、政府要路をおだてて共同運輸を設立。郵便汽船三菱への体当たりを敢行して岩崎弥太郎を≪戦死≫させてしまった……俊敏な策士になるため生まれてきたような男だが、おかしなことに貞剛とは、ところもあろうに禅林で顔を合わすうち、奇妙な親友になったのだった。 「別子銅山の一つや二つ、それがどうしたってんだ。住友にいくら尽くしても広瀬宰平になるのがオチよ。貞剛よ、おれと組んでどでかく天下を狙おうぜ」  酔うほどに弥二郎は、あまり酒はつよくない貞剛の肩を抱いて大言壮語した。  貞剛が新支配人として赴任する……の情報はただちに銅山《やま》にも製錬所にももたらされ、 「あいつは総理事の用心棒だった。復讐する気だ。同じように強権を発動して、おれたちが苦しむのをおもしろがるだろう」 「若いころは閻魔大王とよばれた冷酷な裁判官でよ、絞首刑にした囚人が五百人以上もいるそうだ」  そんな流言蜚語にまどわされ、現地は蜂の巣をつついたみたいになり殺気だった。民族の興亡を賭けた日清戦争そのものよりも、こちらのほうが重大事であるかのようにだ。  貞剛の新居浜までの船旅の伴侶は、内外のビジネス書ではなく、臨済宗開祖臨済義玄の法語をその弟子がまとめた、中国唐代の仏教書『臨済録』二巻のみであった。船中で読んでいると、旅客のひとりがとがめた。 「日本はいま清国と戦っとる。兵隊たちが血を流しておる。あんたはそのことも考えず、唐の坊さんが書いた仏教書を、ありがたがって読んどるのかね」  貞剛は顔をあげて微笑した。臨済宗は日本では禅僧によってひろめられ、質実剛健の鎌倉武士たちが禅林につどい、「無私」「無我」の武士道精神の原点として信仰した……そのように言いたいところだが、やはり受け流して微笑しているだけだった。  新居浜において貞剛は、一介の書生のような下宿暮らしをはじめた。四畳半ひと間、家財道具らしきものは何もない。敵状を偵察するみたいに農民や漁民がのぞきにくるが、気づかないふりをしている。宰平が最後のプロジェクトとして建設させた、銅山までの軽便鉄道が完成していたので、護衛もつけず彼はこれを利用して毎日、眼下にひろがる瀬戸内海を望見しながら四十分かけて上り下りする。職員も鉱夫も神経過敏になってジリジリしている。 「裁判官になる以前は、勤皇党の剣豪で、京の町で新撰組ともわたり合ったそうだ。居合斬りにされるかもしれんぞ」  いきなり解雇や配置転換の命令が飛んできたり、囚徒に対するがごとき厳罰規則が申し渡される……それが≪居合斬り≫なのだ。 「問題の根本は人心の離散にある。まずは労使双方の信頼回復をはかること、これをやらねば」  としていて貞剛は、小島義清とも対談、解決のための知恵を出し合おうではありませんか、と誘った。が、この≪四国の田中正造≫は懐柔されるのを警戒して、 「口では大阪の城も立ち(口先だけではどんなうまいことでも言うことができる)ますからね。われわれが協力したり議論したりする必要はない。住友がどのような誠意をみせて煙毒・鉱毒対策を実施するか。責任をとるのか。われわれはそれをじーっと見まもるだけです」  二度とは会わなかった。  それでも貞剛は、何ごともなかった顔をしている。内心では「小島氏のそれはもっともなことだ」と認めながらである。つねに背すじを伸ばしてしゃんと姿勢を正しているが、すこしも威張らない。笑顔をたやさない。荒くれ鉱夫にも気軽に声をかけ、蝿だらけの不潔な飯場にはいっていって世間ばなしもする。  とても剣客だったり裁判官だったりした、気むずかしい人物には見えない。迷路のような暗く危険な坑道へも、カンテラをさげて一人ではいってゆく。背中を狙って凶器が飛んでくるかもしれない。つまり、落盤事故よりも暗殺されるかもしれない危険度のほうが高いわけだが、まるで意に介さないかのようであった。一緒に握りめしを食いタクアンをかじった。宰平に毒まんじゅうが届けられたように、その握りめしには「猫いらず」が混ぜてある……かもしれないのにである。  昭和時代の≪経営の神様≫といわれた松下幸之助は生前、 「槍は突き出すよりも、勢いよく突き出したそれを手元に引くときのほうがむずかしい」  という宝蔵院流の槍術の極意を、座右の銘の一つにしていた。攻撃から守勢に一転する瞬間のことだ。貞剛のいまがそれであり、もしかすると松下幸之助は別子銅山における彼の、そうした生き方を何かで学んだのかもしれない。  宰平のように「力の人・策の人」になってぐいぐい突きまくる猪突型経営よりも、創業のあとをうけて「中庸」の姿勢で、成功したその事業をがっちり固め守る——いわゆる「守成の人」になりきるのが、突き出していた槍を手元に引き寄せることでもある。それこそが「創業はやすく、守成はむずかしい」のを意味しており、貞剛がやろうとしているのはこの消極型経営だったのだ。 「見かけ倒しだ。新支配人はビクついている。笑顔でごまかしている。おれたちにカミナリを落とす度胸もねぇみたいだ」  なめてかかる鉱夫たちと、 「いやいや、そうではない。闇討ちされるかもしれない坑道へ、たった一人でおりてゆくのは並大抵の肝っ玉じゃないぞ」  見直そうとする作業員らが半々になった。  やがて大半が後者になってしまった。かれらは不平不満を口にしなくなり、反抗的な態度も見せなくなり、騒動らしい騒動は起こさなくなった。さらに貞剛は末端の、少年鉱夫にいたるまでのスキンシップを大事にした。  日経連会長にもなった大槻文平が、自著『私の三菱昭和史』のなかに、北海道美唄炭鉱の労務係だったときには炭住長屋の「おしめの下をくぐる」毎日だったと書いている。長屋の庭に干されてある赤ん坊のおしめの下を歩きまわり、労務者とのコミュニケーションを心がけたということなのだ。貞剛が少年鉱夫たちとのスキンシップを大事にしたのも、これなのである。  鉱夫たちにも「右顧左眄せずの不動心」には、宰平の「直進型」と貞剛の「後退型」があるのを理解できるようになった。かれらは小島義清の煽動には踊りたがらなくなった。新居浜の街はにぎやかになってきた。芝居小屋もできた。県庁所在地の松山市につぐ第二の大都市になっていった。  何かあると貞剛は必ず、いかなる作業も中断させて、その現場の全員で合議するよう勧め、それによる意思や方針の決定をうながした。功労も責任も平等に分けあうようにし、上意下達はなしにしたのであり、その代表的なのが「尾道会議」だった。  日清戦争に大勝、日本に対外戦勝景気なるものが初めて到来しつつあった明治二十八年夏、貞剛は第一回の住友重役会を広島県の尾道において開催した。これが「尾道会議」であり、そのとき四十九歳の彼は、相変わらず発言しない石の地蔵さんだったが、活発な議論を展開させつつ、最高意思決定を重役たちの合議制でおこなわせた。ということは宰平時代の独裁専制を全面的に否定してみせたのであり、これより経営機構の改善策も協議させた。  利益追求を競う以前に……  経済界のだれもが驚歎してしまう大成果を「尾道会議」は生み落とした。  まずは金融界進出のための住友銀行の独立となった。資本金百万円。友純の個人経営でスタートしたのが、第百十九銀行の業務を継承して三菱銀行(資本金百万円)が生まれたのと同時の明治二十八年九月のことだ。もちろん、住友銀行も三菱銀行も業界ナンバーワンの三井銀行を標的にしており、さらに住友資本の東京進出の拠点となる住銀東京支店が、威勢よくオープンしたのが明治三十三年である。  住銀より分離されて、銀行の担保物件を管理する住友倉庫ができたのがその前年。そのほか住友金属工業、住友電工、住友鉱業、住友林業など芋づる式の各種事業への急速な多角化がはじまった。三井・三菱を射程内に入れての工業化であり、貞剛は銀行・銅山・金属工業を「住友の三本柱」にした。  なかでも精銅作業の延長上にある住友伸銅場の伸銅業は、日露戦争や第一次世界大戦における軍需景気——伸銅・製管が「富国強兵」による建艦ブームの到来という追い風をうけて、驚異的な大進展をとげるのである。  こうした新たなる多角化を、貞剛はあくまでも「時代の趨勢が開かせた尾道会議の結果である」として、自分が推進するプロジェクトにはしなかった。外部から逸材を発掘してくる、その点だけは宰平と同じであった。その逸材とは鈴木馬左也や小倉正恒らであり、かれらに徹底的に合議させ、つねに自分は検事と弁護人の争点を凝視する裁判長の位置にいた。公害対策のため銅山収益を上まわる百七十万円を投入、いまある新居浜精錬所をそっくり沖の四阪島へ移転させる……スケールの大きなこの計画に≪判決≫をくだしたのも貞剛なのである。  財界ジャーナリストたちは「人の三井」「組織の三菱」に加えて「結束の住友」と呼ぶようになった。住友の重役たちの足並みがみごとに揃って、事業の多角化への確実なる前進をつづけるからである。  内務官僚で愛媛県庁にいた鈴木馬左也をスカウトし、育って理事になった彼を後任の別子支配人に指名、貞剛が新居浜の下宿生活をたたんだのは明治三十二年一月の、銅山《やま》が白銀の雪景色になっていた日であった。従業員たちが新居浜港の桟橋に鈴なりになり、手をふり涙を流しながら見送った。軽便鉄道の機関車は汽笛を放った。  住友銀行東京支店がオープンした翌三十三年、貞剛は大阪は中之島の住友本店(のちの住友合資)の、空席のままだった総理事の椅子にすわらされた。別子の従業員一同の、その就任を祝う電報が届いた。貞剛は『臨済録』二巻を持って別子へいった当時の自分を思い出しながら、ありがたく拝受。 (どうか鈴木君も守り立ててほしい)  拝受しながらそうも頼んでいた。鈴木馬左也は東京帝大政治学科を卒業している、北辰一刀流の幕末の剣聖山岡鉄舟に剣禅一如を学んだ士族でもあり、欧米視察から帰ってきたばかりの彼の「不動心」に賭けてみたくなった自分をわかってほしい……従業員一同への貞剛の頼みとはそれなのだ。 「こんどの総理事はろくに見もせず、書類にハンコをおす」  と側近たちに言われたが、いい加減に書類を見る人、という意味の陰口ではない。 「わたしがいちいち入念に読んでからでないとハンコは捺せない……そのような信頼できかねる文書は提出するな。そんな書類しか作成できん部下はいらない」  と貞剛自身が一喝するのも、かげの≪演出家≫に徹していて、表舞台で思いきり活動すべきはそれら部下たちなのだ、と決めていればこそなのである。 「武士のごとき道義的責任と商人の才覚を兼備する、それが真の士魂商才なのだ。これからの日本のビジネスマンたちは、ますます欧米人に感化されてゆくだろうが、しかし士魂商才だけは忘れたくないものだ。士魂が強烈なだけではいけない。商魂がたくましいだけでもよろしくない。他社との利益追求を競う以前に、まずは人間でありたい」  このように貞剛自身が≪開眼≫したのも総理事になってからで、これが川田順が『住友回想記』に書いている「太刀を抜かぬ心の人・徳の人」の姿なのだ。  貞剛の真骨頂が発揮されたのは、日露戦争さ中の明治三十七年七月であった。五十八歳にして彼は、まだ四年半しかすわっていない総理事の椅子を四十二歳の鈴木馬左也にゆずって、自分は郷里の琵琶湖畔に隠棲し、悠々自適の日々を送るのである。 「せめて六十歳までは……」  と会う人ごとにひきとめられるが、貞剛の意思は変わらない。なぜ勇退をいそいだのか、その理由は勇退と同時に経済雑誌に発表した『少壮と老成』にあるとおり。「経験という刃物をふりまわして少壮者を威しつける」「自分でなければ何事も成し得ないかのようにふるまう」老人には断じてなりたくないのであり、醜悪以外の何ものでもない長老支配をつづける「老人の跋扈」を、彼はどんなことがあろうとも許したくないのだった。 (いつまでも……老廃してしまうまで支配者でありたい叔父宰平の胸中はよくわかる。しかし、わたしという介錯人が必要だった。わたし自身は、介錯人を必要としたくない)  この思いがつねにあるのも事実だ。  ここで重ねてくり返す。日本の社会においては現代でも「老人の跋扈」がはなはだしく、とくに政界や財界での長老支配は見苦しい。あまりのそれが哀れでもある。しかも当人たちも充分にこの事実を認識しているのに、大半が汚職や権力抗争や不正蓄財に関わって晩節をけがしている。  老人はあがめなければ……とする世間の常識にも嘘がある。ほんとうは邪魔で仕方ないのに、後輩たちはやさしくヒューマニスト面《づら》する。これもまた最悪の偽善でしかない事実を、老人たちは忘れるべきではない。 「自分の晩節をけがしたくない。進退のときは明確にする……その伊庭氏本人の胸中はわかるとして、河上謹一理事ではなくあえて鈴木氏を後継者に選んだ、その思惑はどうにも理解しがたい」  と大阪財界人らは首をひねった。  貞剛の側近ナンバーワンだった河上は元日銀マン、高名な経済学者・河上肇の実兄で日銀総裁候補にもあげられたことがある才子だ。スカウトして≪樹≫として育ててきた貞剛は当然、その名前を有力な後継候補にしていたはずである。  対する鈴木馬左也は直進型の営利主義者、広瀬宰平の再来かと思えるようなワンマン志向の「力の人・策の人」だから、「守成の人」である貞剛から見れば、別子銅山の紛擾事件を再燃させかねない危険人物だ。鈴木自身も後継者に指名してもらったからといって、貞剛に遠慮したり気兼ねしたりはしていない。むしろ、「他社との利益追求を競う以前に、まずは人間でありたい」と訓示する貞剛に当てつけるかのごとく、 「住友は営利会社である。それ以外の何の会社だというのだ。全力を傾注して儲けろ!」  と吠えて発破をかける。  それでもそんな鈴木を後継者にしたのは、鋭く突き出されていた宰平の槍を貞剛がタイミングよく手もとに引きつけたが、再び鈴木に突き出させなければ住友の将来はない、自分と同じく「中庸」であっては住友の未来に展望はない……と考えてのことなのだ。世界の列強に伍してゆかねばならぬ日露戦争後の、国家と住友のためにも鈴木独自の「不動心」を絶対視したのである。  攻勢に転じた鈴木は、日本の市中銀行にさきがけて、住友銀行を海外へ進出させた。ニューヨーク、ロンドン、ホノルルなどに支店を置いた。大冒険であった。しかし、世界にはばたく三井物産や鈴木商店や三菱商事を追尾する住友商事は創業させていない。「商社の利益が計上できるようになるには年月がかかりすぎる」と見たからだ。だから住友商事が生まれたのは太平洋戦争後のことである。  神戸の須磨で余生を送っていた広瀬宰平は永生きして、大正三年に八十七歳で歿した。臨終の枕もとに集まった家族が「どうぞ遺言をお願いします」と両掌を合わすと、一瞬、活きいきとした表情になって「一点の曇りも何事もなし」と答えたという。おそらく彼は貞剛に≪首を刎ねられた≫ときの自分を思いうかべ、 「うん、あれはあれでよかったのだ」  と改めて納得したのではないか。  貞剛のほうは、もっと風変わりな余生を送っている。故郷に隠棲した彼は晴耕雨読、小さな江州米同業組合の組合長——全国各地のどこにもある、今日の農業協同組合の世話役みたいな仕事も野良着姿で嬉々としてやっていた。  時代は移る。総理事も第三代から第四代の中田錦吉へ。さらには第五代の湯川寛吉へとバトンタッチされてゆきながら、住友グループは傍系および関係会社もふやしつづける。藤倉電線(資本金五百万円)、日本楽器(同四百万円)、日米硝子(同三百万円)、九州送電(同一千万円)、富島組(同百万円)、そのほか中国の上海には中華電気製作所(同千五百万円)を設立する。そうした住友の朗報にも、貞剛は意識的に関心を示そうとしない。  昔ばなしは一切やらない。とても住友コンツェルンの牽引車だった大物には見えないし、むしろ世間からは一日もはやく忘れ去られてしまう……そのほうを万望しているかのようであった。そして、彼自身はこんな生活を「曠然《こうぜん》自適」とよんでいたという。  そのころ——  江州米同業組合員のひとりに、琵琶湖にそそぐ愛知《えち》川沿いの八木荘村に、堤清左衛門という平凡な農夫がいた。ここ湖東一帯の田んぼは、一年じゅう水を張っておく水田であった。いわゆる普通の乾田ではなく、稲は水のなかで実を結び、黄金色の穂をたれる。刈った稲は濡れないように小舟に積んで陸へはこばねばならないので、手間がかかるし不便きわまりないが、孫と二人きりでこの仕事をやりながら暮らしていた。  両親のいない不幸なその孫というのが、今日の≪西武王国≫の創始者となり、≪東急王国≫の五島慶太と覇権を賭けて戦う堤康次郎なのだ。  その康次郎は祖父清左衛門が死去した明治四十二年、二十一歳になっていて堤家の田畑を処分し、当時の総理大臣の月給五か月分に相当する五千円をふところに早稲田大学へ進学したくて上京、浮きつ沈みつの苦労がはじまった。あの大隈重信にかわいがられた時期もあり、政治家にも企業家にもなりたくて≪二足わらじ≫をはく。そして、伊庭貞剛が帰天する大正十五年にははやくも、軽井沢や箱根の別荘地を開発する「箱根土地」を経営している。現在の堤義明の≪本陣≫となっている「コクド」(国土計画)の母体だ。  大正十五年には前述のように、住友吉左衛門友純が「世間では住友財閥の当主だからと羨望するが……」と苦労多き過去、広瀬宰平を馬謖にしなければならなかった辛さを振りかえりつつ逝去しており、白いあごひげをたくわえた幽翁貞剛も、主君のそのあとを追うかのごとく、 「わが伊庭家にとって、これほどめでたき日はあるまい。あの世へいってわたしは住友家に、二度のお勤めをすることになるやもしれないのだから。こんどは早々に辞任するようなことにはならんだろう」  微笑しつつ昇天していったのだ。  ちょうど八十歳であった。