[#表紙(表紙8.jpg)] カメラマンたちの昭和史(8) 小堺昭三 目 次  吉田大朋「進駐軍文化が育てた人」  花沢正治「おしどり夫婦の撮影行」  前田真三「無手勝流写真術」  三木淳「三木ライフの大きな夢」  渡辺義雄「丸くて四角な人」  あとがき [#改ページ] 吉田大朋《よしだだいほう》「進駐軍文化が育てた人」  日本のファッション写真界には、五年ないし十年を一周期とするゼネレーション・ウェーブがあって、いわゆる世代の交代がおこなわれてきている。その時代時代にマッチした新しい感覚と流行を要求される分野だけに、新旧の交代はめまぐるしくはげしいのだ。  その第一期は秋山庄太郎、大竹省二、稲村隆正、杵島隆氏らである。戦災の焼跡だらけの東京日比谷に、進駐軍のCIEの図書館が開設され、ここにあるアメリカのさまざまの刊行物が、無料で閲覧させてもらえた。写真雑誌、婦人雑誌もあった。秋山らはその写真の新鮮さ、手法の大胆さ、広告の斬新さにも瞠目《どうもく》し、それらの感覚を独自に消化していったものだった。要するに、見るものすべてがアカ抜けしていたのだ。  昭和二十八年に、朝鮮戦争が終ると、この戦争のおかげで復活した日本経済は停頓した。敗戦直後からこのときまでは「生産しさえすれば商品は売れる」時代がつづいてきたが、逆に「消費者こそ王様」の世相へと転換していった。つまり、生産者のほうが消費者に対して、大いに商品宣伝をやって買ってもらわねばならぬ過当競争の時代へと変わっていったのである。  そしてこの時期、民間放送が各地に開局され、テレビ時代が到来した。日本人には耳新しい「コマーシャル」だの、「チャンネル」だの、「スポンサー」だのが日常語になっていった。この時点から秋山、大竹、稲村、杵島らの広告写真、ファッション写真がひっぱり凧《だこ》になった。焼跡のCIE図書館でひもじい思いをしながら独学した感覚が活きることになったわけだ。  それから十年——昭和三十九年の東京オリンピックの前後には第二期となっていて、一世代あとの早崎治、細江英公、佐藤明、奈良原一高、今井寿恵氏らが第一線に立った。「VIVO」を中心とした一団であり、CIE図書館にかよった経験はあるけれども、当時のかれらはまだ学生であった。  学生だったから秋山ら第一期のグループとはまた異った、若い感覚でアメリカ写真文化を消化しようとしていたのだ。カストリ横丁で議論する時代は過ぎ去り、トリス・バーでカンカンガクガクやった年代で、それが東京オリンピックの前後に開花したのである。  さらに十年後——いわゆるGNP世界第二位の高度経済成長期の昭和四十年代にはいってくると、いっそう企業の宣伝合戦は熾烈をきわめ、国際化の時代にもなって国民生活が向上、昭和元禄はファッション写真の全盛時代でもあった。  この第三期の寵児となったのが吉田大朋、立木義浩、大倉舜二、横須賀功光、藤井秀喜氏らで、なかでも吉田、立木、大倉は「御三家」と称されたものだった。もちろん、第二期のメンバーよりも国際的かつ今日的なフィーリング感覚があったのだ。  それからさらにまた十年後——石油ショック以後の世界的不況がつづく今日、第四期の一群が台頭してきている。よりナウくあろうとしている沢渡朔、操上和美、稲越功一、坂田栄一郎、小暮徹、細谷秀樹氏らであり、その後からはもっと若い第五の波が押し寄せてきているが、今回は第五期世代へと移行しつつある現代の、第三期世代の代表としての吉田大朋氏にわたしの「カメラ」を向けてみたい。 (一) 「ぼくの敗戦のイメージは、アメリカのラッキーストライク(煙草)とハーシー・チョコレートとジャズですね。銀座四丁目の服部時計店(当時、接収されてPXになっていた)の前にいるGIたちは底抜けに明るく、じつにカッコよかったなあ。かれらに群がるパンパンガールたちでさえ、わいせつでハイカラに見えたもんです。ジャズと横文字が新鮮だった。靴磨きしていた浮浪児の姿も忘れられませんねえ。とにもかくにも進駐軍文化が、ぼくの少年期を形成していたような思いです」  と吉田大朋は感慨深げである。  当時、昭和九年五月生まれの彼は、小学六年生になっていた。現時点から振りかえってみれば、敗戦時のあれは軽薄な「進駐軍文化」だったと言えるが、吉田少年にとってはお伽《とぎ》の国を見たような思いだったにちがいない。魅せられっぱなしになったのだ。  それ以前は戦争がつづく軍国主義のまっ暗な時代であり、幼少の彼には何も見えなかった。その時代を客観視したりする能力もまだあろうはずがない。小学四年生のときに長野県の別所温泉へ集団学童疎開でゆき、一年後には父親が鉱山を所有していた宮城県大谷村に、一家して再疎開している。  晴れた夏空をアメリカのB二九が、高々度で飛翔する。その機影を何度か仰ぎ見ただけで、空襲の火の海のなかを逃げまわったこともなく、 「B二九を見たのがぼくの唯一の戦争体験でした。悲惨な思い出はありません」  あるのは耐乏生活だけだった。  そして、ポツダム宣言受諾後の東京に宮城県からもどってきた。杉並区天沼にあった吉田家は、戦災にやられることなく残っていた。父親につれられて中央線の国電に乗り、有楽町や銀座へいった。そこで見たものが彼にとっては、想像もできなかったお伽の国だったのだ。  彼の全身はその「進駐軍文化」にしびれてしまった。忠君愛国だの、軍歌だの、特攻隊だの、日の丸の旗などは古ぼけた「写真」にすぎなかった。それらの日本のすべてがどんなにみすぼらしく見えたことか。  吉田少年にはしかも、そういうバタ臭い文化を、素直に吸収できる素質があった。  父の善次郎は明治二十八年の生まれ、京都は下京区にあった、東本願寺をお得意先にしていた呉服店の息子である。老舗にある封建的な伝統の家風を嫌って大正三年に上京、慶応大学に学んだ。そして、卒業後も京都へは帰らず、東京に住みついて三井物産貿易部(のちのヤナセ自動車)に就職している。東京も下町より山の手が好きだ。  のちには星製薬に移ったり、ポータブル蓄音器の製造輸出をやったりしている。戦時中は三陸海岸でチタニューム鉱山を経営していたのだ。戦後は事業をつづけられなくなったため、天沼の家にこもって外国映画のシナリオの翻訳を手がけた。つまり、貿易部の社員から出発したハイカラ人種だったのである。  善次郎の妻の吉子《よしこ》は北陸の金沢市の出身。明治三十七年生まれ。羅紗問屋の娘で東京の千代田高等女学校を卒業、善次郎とは見合によって結ばれている。一男一女ができて、その男の子が大朋である。  善次郎はなかなかの趣味人でもあった。道楽者といわれるくらいの写真好きだった。自慢のライカで大朋を、オギャーッと生まれたときから撮りつづけてアルバムにしている。  押入を暗室にして、一切を自分でやらないと気がすまなかった。同じ慶大卒の、戦前からすでにヌードを撮っていた野島康三とは同じくらいの時代であった。  大朋は、善次郎が三十八歳のときにできた子である。だから大朋は物心ついたころから「大ちゃん」の愛称でかわいがられたが、彼自身は「父親というよりはおじいちゃんという感じがした」という。  ハイカラさんながら善次郎は、外国へ旅行した経験はない。しかし、英語がずばぬけて得意で、西欧文化に対しては貪欲だった。油絵も好きでフランスの画家マチスに心酔していた。フランス映画にも夢中になっていた。だから戦後になってシナリオの翻訳もはじめたわけだが、そのような父親の血が大朋にも濃くあったから、軍国主義のまっ暗な時代が終って、ぱーっと進駐軍文化が眼のまえに現われたとき、全身がしびれてしまったとも言えるのである。  まさしくこの文化が、吉田大朋を育ててゆくことになるのだった。 (二)  善次郎の収入の少ない翻訳の仕事がつづき、吉子が着物を主食と交換してくるタケノコ生活のなかにあっても、大朋はすっかりアメリカナイズされていった。  朝鮮戦争たけなわの昭和二十七年春——第一期の秋山庄太郎や、第二期の佐藤明らが日比谷のCIE図書館でアメリカの写真雑誌に目をまるくしていたころ、大朋は都立石神井高校を卒業した。新制高校生の第一号である。  彼は芝浦にあるアメリカのジュース「バヤリース・オレンジ」を発売するウィルキンソン炭酸会社に就職した。このオレンジジュースとコカコーラも進駐軍文化の一つだ。大学へ進学しなかったのは「勉強が嫌いだった。ジャスとダンスと外国映画に熱中する、それがぼくらのすべてだった」からだ。  彼は営業マンであった。「バヤリース・オレンジ」のマークがはいったアメリカ風のユニホームを着てトラックに乗り、都内の酒屋やレストランなどに配達してまわる。アサヒビールと提携しており、集金もやらねばならなかった。サラリーは一万八千円、当時としては日本の企業で働くよりも多額だった。  二年勤めたが、彼は退職してしまった。 「これはおれの一生の仕事ではない」  そんな空虚感が芽ばえてきたからだが、そうかといってほかに目的はなく、焦りながらもブラブラする日がつづいた。ジャズとダンスと映画だけでは充たされぬものがあるのだった。  カラーフィルム現像の薬品を売る、神田の現像所に、アルバイトとしてかよいはじめた。そのころから営業写真館でも「カラーの結婚写真にしないと時代おくれになる」というので、カラーフィルム現像薬品をほしがるようになっていた。大朋の仕事は写真館にその薬品をセールスしてまわるのであり、実際に写真師たちに現像してみせてやらなければならなかった。  そのため必要に迫られて大朋も、カメラをいじるようになっていった。皮肉なものだな、と苦笑せざるを得なかった。それというのも—— 「それまで写真に反撥する気持が潜在していたんですね。おやじが押入の暗室にこもって夢中になってやっている、おやじをそのように気違いにさせているものに。だから、心のなかではいつも、こう言ってましたよ。写真なんて大したものじゃないんだ、と。おやじのカメラを借りて撮ってみたいと思ったこともなかった」  からにほかならない。  写真に限らず父親の仕事というものを、息子はときには軽蔑したり、無視したりしたくなるものなのだ。善次郎が京都の呉服店を嫌ったのもその心理であり、その善次郎にいまは大朋が抵抗しているのだった。そして、自分にも父親ゆずりの写真の才能がありながら、それを自己開発してみようともしなかったのである。  だから、いったんカメラを手にしてみると、写真への興味が猛烈な勢いで噴き出した。父と「大ちゃん」はよく語り合うようになり、はじめて理解し合える写真仲間になった。 「写真家はこれからはいい職業だと思うよ。わしも若かったらこんどは、写真家として再出発したいくらいだね」  と善次郎は無念がり、自分にかわって息子に大成してほしくて、自宅の近くに住んでいる、電通などの商業写真を撮っていた樋口忠男氏を訪れた。息子を一人前にしてやってほしいと乞うたのである。そのころ秋山、大竹、稲村などのファッション写真や広告写真に人気が集中していた。 「いまは弟子が一ぱいでしてね」  と樋口は断わり、千駄ケ谷にスタジオをもっている土方健一氏を紹介した。  土方は秋山庄太郎と早大時代の写真部の同輩、戦後のアマチュア写真家の第一号的存在であった。建設会社の依頼で建築写真と、商社の輸出品のカタログ写真を撮っていた。  弟子入りした大朋は、ここで写真の基礎を習得した。機材をかついでゆく助手もつとめた。暗室の仕事もおぼえた。  もっともありがたかったのは、同年代の仲間を得たことであった。土方スタジオに出入りした一村哲也、大倉舜二、グラフィックデザイナーの村越襄、細谷巌氏らと知り合い、俄然、写真への情熱に意欲という名の油をそそいだみたいになって、彼は紅蓮《ぐれん》の炎のごとく燃えさかった。いまこそ自分は青春の真っただ中にいるのだ、と思った。  大朋には恋人ができていた。化粧品会社パピリオの美容部員で、新宿の伊勢丹デパートに出向していた新潟県高田市出身の同年生まれの藤浪美都子さん、たいそうグラマーな美女である。フランスが好きだという。  若き写真家仲間らと写真論を戦わすことと、彼女とデートすること……これが大朋の生きがいであった。彼がもっとも苦闘した時代でもあり、写真家としての未来があるのかないのかわからぬが、猪突あるのみだった。  土方スタジオから去ってのち、彼は彼女と結婚した。 (三) 「VIVO」が結成されたのは昭和三十五年。メンバーは東松照明、奈良原一高、細江英公、川田喜久治、丹野章、佐藤明の六人である。  そのころ東松は『やぶにらみ』、奈良原は『神々の道』、細江は『不思議なタムタム』、川田は『海』、丹野は『シャラとフォンテーン』、佐藤は『夜会の女』の力作を、「VIVO」の周辺にいた今井寿恵が『オフェリア・そのご』を発表している。いずれも才気が横溢している。冒険心もある。  みんな昭和一ケタ生まれ。昭和生まれ作家の初登場であり、シュールレアリズムの感覚に近い。これらは第一期のグループたちの作品とはまったく異なる。写真に対する姿勢も違っている。知性的であろうとしている。  かれらには芸術家意識が最初からなくて、写真は写真以外のなにものでもないと割り切っていた。佐藤明は「写真はヴィジュアルだ。視覚感覚の表現だ。芸術的志向はあるが、芸術品を創ろうとしているのではない」と、わたしにはっきり言い切った。要するに、第一期の先輩たちの作品を否定するところから出発しており、写真界の革命児であろうとするそれが、かれらの個性でもあったのだ。  では、そういう第二期のかれらを、あとから追っている第三期の吉田大朋はどのように見ていたか。彼は言う。 「第一期の人たちの作品は、あまりにも日本人的だし、ぼくらも否定的でしたね。『VIVO』の面々が登場してきてはじめて、熱く感嘆しました。日本人的なものだけをひきずっていない、西欧文化の感性を身につけている写真家たちがようやく世に出てきたんだなあ……そういう新鮮さがありましたよ。衝撃的でしたねえ。写真のルネッサンスだと思ったくらいです。とくにぼく個人は、奈良原一高さんの作品に深い感銘を受けました」  そうではあるがしかし、大朋は羨望しながらも反面では、はげしく反撥もしていた。第二期のかれちに立ちはだかられていては、自分たちが出てゆくことができない……そんな焦燥感やら不安があるからだった。 「第二期の人たちの隙間を駆けぬけてゆくか、頭上を飛び越えてゆくか……それのみを考えましたね。『VIVO』はほんとうに、われわれにとっては一つの大きな壁でしたものね」  そこで大倉舜二や一村哲也らと、いかにして高きその壁を突破できるかについて、論じ合ったことは、述べるまでもないだろう。  そのためのトレーニングの明け暮れであった。チャンピオンをマットに沈めねばならぬ挑戦者なのだ。打倒するにはより個性的で、より斬新な感性で勝負するしかなかった。 「VIVO」が結成される一年前、大朋は準朝日広告賞を受賞、十万円の賞金をもらっている。天沼の自宅の縁側で女性雑誌の「若い女性」を、天眼鏡でのぞきながら読んでいた六十五歳の祖母をモデルにした作品だった。 「若い女性」でも老女もたのしく読める風景であり、大朋は二十五歳、世に出した処女作でもあった。このときの一位は、花王石鹸の広告写真を撮っていた石川伸一氏だった。  受賞の報せを大朋は、さっそく病院へもっていった。そのころすでに善次郎は、胆道がんのため明日も知れぬ命になっていたのだ。  その報せをよろこんで善次郎は、 「そうか、そうだったのか。大ちゃんもプロになれそうだな。一歩一歩踏みしめてゆくんだ。わしの分もがんばってくれよ」  両頬を涙でぬらし、息子の手をしっかり握りしめたが、数日後には不帰の人となった。ハイカラ人生は六十三年で終ったのだ。  受賞の幸運、父親を失った不運、そして再び幸運が思いがけずめぐってきた。アメリカの女性月刊誌「ヴォーグ」のファッション写真家で、来日して文化出版局の「ミセス」の仕事をしていたリチャード・ラトレッジ氏に紹介される機会を得たのである。  大朋は作品を見てもらった。 「テスト撮影をしてみたまえ」  ということになり、女性モデルを貸してくれた。胸がドキドキした。大朋にとっては、人生最大の試験を受けるのにひとしかった。女性モデルに小道具の枯れ木を、オブジェ風にあしらって撮影した。  この作品をリチャードは賞讃した。  同じ文化出版局で刊行している「ハイファッション」の仕事を与えてくれた。これが大朋の処女メディアとなった。ファッション写真家はメディアを持たない限り、世に出ることはできないのであり、彼は世に出るためのパスポートをもらったようなものだった。 「もし、あのときテストに失敗していたら……と思うとぞーっと背すじが寒くなる」  と大朋は首をすくめる。以来、「ハイファッション」の表紙やグラビアの仕事を、彼はいまも担当している。  ところが——  それは「殺される」きっかけともなったのであった。日本のマスコミは写真家でも、小説家でも、あるいは漫画家やテレビタレントにしても、新進として人気が出てきたものをやたらと登場させる。むしりとる勢いで集中してくる。そのため量産を強いられて体をこわしたり、やたら才能の浪費をせざるを得なくなったりで「殺される」はめになる場合が多々ある。  吉田大朋もまた、おびただしい量の注文をこなすのに、夜も昼もなくなっていった。「ミセス」「装苑」「婦人画報」「家庭画報」「若い女性」などのファッション写真を、日本の女性モデルを使って撮るばかりでなく、広告写真の依頼も殺到してきた。西武デパート、化粧品のパピリオ、コーセー、繊維の帝人、倉敷レーヨン、日本レーヨンなどである。  女性雑誌のグラビアだけでも月産二百ページにおよんだ。朝、昼、夜と三つの違った撮影を強行しなければ間に合わなかった。これが四年間もくり返されたのである。  大量の依頼があるというのは、それほどまでに才能を評価されたことであり、最初のうちはうれしい悲鳴を連発していた。第二期のメンバーでファッション写真と広告写真でも名を売っている佐藤明、早崎治、今井寿恵、細江英公らに迫り、肩を並べるまでになっていったのだから、それも大いに名誉なことであった。  だが、四年間がんばってついに、大朋は「殺され」かけたのだ。まさに「瀕死」の状態であった。 「けたたましい量の仕事をかかえ込んで、くたびれ果て、枯れ木のごとくになってしまったんですよ。自分の感覚もモチーフもアイデアも、すっかり涸れてしまいました」  と、大朋はがっくりしてみせた。 (四) 「こやしを吸収したいんです。一年間、パリへ行ってこようと思っています。休筆ならぬ休写……ということにしたいんです」  吉田大朋はこのように、女性雑誌の各編集長に申し入れた。再び蘇生するための「充電」をしてきたいのであり、旅費、生活費を千二百万円ほど前借りした。  以前に中村正也氏もグラフィックデザイナー、コピーライター、企画マン、スタイリストなど二十四人のスタッフの協力で広告を量産していたが、ついには神経がすり減り、胃潰瘍になるやらでダウン、入院してしまった。彼の場合、入院することが逆にコマーシャリズムからの脱出を可能にしてくれ、殺されずにすんだのだった。  奈良原一高もまた、昭和三十七年にヨーロッパへ出発している。その動機は「六年間、プロの仕事をしてきたけれども、ほんとうにこれでよかったのかなあ、世界を見てみればほかにやりたいことが出てくるかもしれない」模索をしたいからである。模索が一つの転機になるだろうし、大朋の「充電」もまた、彼を方向転換させるものになるかもしれなかった。それを求めてのさすらいの旅だった。  じつは、大朋が「充電」する場所としてパリを選んだのは、奈良原の傑作『ヨーロッパ・静止した時間』に触発されてであった。奈良原は三歳年長の昭和六年生まれ。大朋は「わたしの意識のなかの最大のライバル」としていたのだった。  パリのノルマンディー・ホテルで大朋は孤独な屋根裏生活をはじめた。一日の宿泊費は三十フラン(当時、一フランは七十五円)であった。半年間はひたすら無為の日々を送った。それが休養と「充電」になっていった。  半年後から女性週刊誌「エル」のモードページを担当することになった。日本人写真家として初の専属であり、契約は一年間に限定してもらい、東京から妻と二人の娘を呼びよせ、昭和四十二年九月までまる二年間滞在した。月収は百万円。パリのサラリーマンの平均給与が七、八万円のころの百万円である。条件は「毎月二十四ページ以内のモードページを埋めること」となっていた。  彼と家族はヌウイでアパート暮らしをしていた。二年間のパリ生活で彼は「これまで日本人しか知らなかった自分が、フランス人の合理主義……冷淡と利己主義で生きているようでいてそれが逆に、国家や社会の大きなエネルギーになっているのを見て、これがほんとうの人間の生き方ではないのか、と考えさせられた」りするのだった。  そこから「すべてのはじまりは個であること。これがものを創り出す原点であること。芸術の根本でありルネッサンスにもなり得たこと」などを学びとってゆくのである。つまり、仕事そのものの勉強のほかに、人間のあり方についても教えられるのだった。  パリにおける大朋の仕事ぶりはきわだっていた。その現場を実際にパリで見てきている桑原甲子雄氏が、大朋の写真集『地中海・夏の記憶』(北欧社刊)のなかに、こう書いている。  パリで見た時のモデルは、スウェーデンからやってきたとびきりの美女であり、彼女に毛皮のコートを着せての九月の撮影だった。別のモデルを使っての室内における表紙用写真を撮る現場も見た。  職業とはいえ、相手となる対象はいい女なのだ。私などは、いい女に接するだけでおどおどしてしまうのであるが、流石に彼は手馴れたもので、柔和な表情を崩さず、たんたんとして段取りよく、小型カメラで造作なく仕事をおえてしまう。私は、ファッション写真は大型カメラ、という先入観をもっていたので、吉田氏から、いまファッションは、三五ミリカメラで殆どの写真家がこなしていることを教えられ、自分の迂闊《うかつ》さを知った。(後略)  大朋は昭和四十二年に帰国するが、再び渡仏することになる。平凡出版の「アンアン」が「エル」と提携したので大朋が参加し、創刊号からグラビアページをひき受け、海外ロケをやるべく日本女性モデルをつれていったのだ。パリ、スペイン、ポルトガル、インドとめぐってきた。  日本人デザイナーの作品を現地で着せてのこれは、たいへんユニークで若い女性読者に大いにアピールした。二年間パリで「充電」した成果が、たちまち現われたのである。  昭和元禄時代の昭和四十六年、大朋はこんどは「ぜひニューヨークを知っておきたい」欲求をおさえがたくアメリカへ向かう。  ニューヨーク滞在中に彼の作品が、東京で「アンアン」との合同展になった。昭和四十八年にはロンドン、パリ、東京で外人モデルを撮ったカネボウ化粧品のカレンダーが、通産大臣賞を受賞した。こうして吉田大朋は、外人モデルしか撮影しない国際写真家となってゆき、外国から帰国するのではなく、「ときどき日本へやってくる」の観さえあった。 (五)  昭和五十年は戦後から三十年を経過したことになり、吉田大朋は十年ぶりに二度目の、三年間のパリ生活をした。今回もまた「充電」と気分転換を目的としており、かれは四十代になっていた。もはや、模索の眼も異なってきた。  男性月刊誌の「ヴォーグオム」や「ヴォーグ」の撮影の仕事をする合間、プライベートな時間にはパリを散策しながら、写真を撮りだめした。 「これがおれの処女作なのだ」  という意欲はあるが、フランスを撮ってやろう、パリジャンを活写しよう……そんなつもりはなく、たいしたテーマはかかげず、木村伊兵衛のごとく飄々と撮ってまわった。街角や公園やカフェー、セーヌ河のほとりの男女にもレンズを向けたスナップ写真であるがそれはあくまでも四十代の彼の自身の心の眼がとらえた心象風景なのである。  率直に大朋は語る。 「年齢とともにファッション写真も変わってゆきますね。若いころは感性だけの感覚至上主義で撮っているけれども、四十代の自分はこうなんだという美意識を前面に出したくなり、時代性や流行は追いたくなくなるんですよ。だから、だんだんに商売にならなくなっていきますね。職人堅気というんですかね。まだ日本のファッション写真はひよ子ですよ。十代です。二十一世紀になってようやく、ニューヨークのそれのような壮年になれると思います」  進駐軍文化のなかで育った少年が、いまやその心境に到達しているのである。そして、彼の念頭からつねに離れることがなかった、奈良原一高をはじめとする第二期のメンバーたちが、ふしぎにどこかへ消え去っていった。もはや壁ではなく、かれらに対するライバル意識も霧散してしまったのだ。  大朋がパリの散歩写真を「木村伊兵衛のように撮る」のも、そのせいなのだ。ということは自分より一周期まえの、いまは五十代になっている第二期の面々の作品よりも、さらに二周期むかしの、いまは七十代以上になっている第一期以上の人たちの作品のほうが、彼の心のなかに厳然として存在しはじめたことになる。  準朝日広告賞から出発して二十年目の昭和五十四年、大朋はついに「処女作」を発表することができた。ミキモト・ホールにおいて『巴里』の写真展を開催、処女写真集を刊行したのである。  翌年にも文化出版局より『グレの世界』を出版した。世界的なモードデザイナーのマダム・グレの、素顔とファッション作品とを集大成したのだ、それら作品を当代一流のファッション・モデルたちが着こなして登場する。 「ファッション写真の定義は、洋服を明確に、そしてその服を着た女性《モデル》を今日的な美しさで味つけする」  のだそうだが、この『グレの世界』ではそうした定義を無視していて、大朋個人の美意識が前面に出てきているのだ。  さらに翌年の昭和五十六年、彼は第三冊目の『地中海・夏の記憶』を上梓した。スペイン、イタリア、南仏、ギリシャを飛びまわり、『巴里』系列の作品にしたのである。  彼はポール・ヴァレリーの詩が好きであるという。地中海はヨーロッパ文明の母であり、地球上でいちばん恵まれた海としての尊厳に充ちているので、それを撮っておきたかったのだという。これらの作品には明るい光が溢れている。ファッション写真の今日的な人工美から大朋は、自然の美しさへと還ってゆくのである。  そして、「アサヒカメラ」に『幻の故郷・京都』を発表した。魅せられてやたらと古い京都をもとめてさまよう。京都は吉田家にとっては故郷だが、それはしかし父善次郎までのものであり、大朋にとっては「まぼろし」にすぎない。その「まぼろしの京都」を追いたいのだった。  これは近く『古都・京の四季』として朝日新聞社より出版されるが、大朋が日本の風景を撮ったのはこれがはじめてなのだ。日本人写真家でありながら、四十代になって日本を処女撮影するとは、信じられないような話である。  彼はイタリア中部にあるフィレンツェも撮る予定だという。ルネッサンスの宝庫といわれる古い街で、年代がかった寺院もたくさんあって、京都に似た雰囲気があるそうだ。そして『巴里』『京都』『フィレンツェ』——この三部作をライフワークとしたいのである。  わたしは、最後にひとつだけ質問した。 「あなたは桑原甲子雄さんさえもが羨むほど、おびただしい数の世界の美女たちを撮りつづけているのに、ふしぎにヌード作品がありませんね。『地中海・夏の記憶』のなかに海辺で日光浴している裸女たちがはいっているけど、あれは風景のひとつですよね」  彼の答えは明快であった。 「あからさますぎる、裸が見えすぎるというのは好きではないんです。写真はフィジカルだから、それをむき出しにするのはどうもねえ。むしろ、それを包み込み、女の風情を、性器を撮っても、女性の感情は撮り得たことにはならない。エロティシズムは感情からあふれてくるものでしょう。街を撮っても建築写真は撮らない……それと同じなんです」(昭和五十七年十月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十七年「古都・京の四季」(朝日新聞社)、同、写真展。 [#改ページ] 花沢正治《はなざわしょうじ》 「おしどり夫婦の撮影行」  ——昭和五十七年二月、花沢正治さんは写真集『秘境チベット』(日本写真企画刊)を刊行した。五十五歳になっての処女出版であった。  写真集にかぎらず、文芸ものでも歴史ものでも処女出版というのは、わが子の誕生以上にうれしいものである。わたし自身の場合を言わせてもらえば、三十代のはじめ書きおろし長編小説を一冊にしたときは、布団のなかまで持ちこんで、ためつすがめつ眺めたり、手ざわりを味わったり、抱きしめて眠ったりしたものだった。おそらく花沢さんも、五十五歳にしてそれを経験されたのだと思う。  ところがこの人、遅れてデビューした新人写真家ではない。もう三十年以上も長く写真でめしを食ってきたのだが、心筋梗塞で倒れて危うくあの世へ行きかけ、もどってくることができたものの、その存在が忘れられかけていたのに、突如としてこの『秘境チベット』をひっさげてのカムバックなのである。  彼を知るプロ写真家たちは唖然愕然となった。その根性に対してではない。映画全盛時代の宣伝用スチールマンとして出発した彼が、女優のポートレートを撮らせれば、 「秋山庄太郎か花沢正治か」  と言われる存在だったし、また彼のヌード作品は雑誌編集者たちにもっとも重用される「婦人科」でもあったのに、この処女写真集では文明を拒絶しているチベットの奥深くに潜入、神秘にして妖美な仏像と、人間だれしも行かねばならぬ幻想的な「冥界」を、自分自身のものとして生々しくとらえてきたからに他ならない。  以来、花沢正治はすっかりチベットに魅了されてしまい、いままた『忿怒と歓喜—秘境ラダック—密教の原像』を平凡社より上梓した。人間がもっているあらゆる欲望を描いた曼陀羅模様の壁画が、えも言われずすばらしい。仏像の眼からは色欲が横溢している。  ラダックはインドよりはいってゆくヒマラヤ連峰下の西チベットにあり、さらにはブータンやネパールヘも旅してラマ教の源流をも撮りつくしたいという。「これがぼくの最後の仕事になるでしょう」と彼はいう。  それも単身での撮影行ではない。かつては舞台女優であった山村邦子さん——小柄な美人の奥さんに助けてもらいながらの、夫唱婦随の決死行にひとしい。 「もし、チベットで倒れてしまったら、人さまに迷惑をかけるではありませんか。あなたがそこで息をひきとってしまったとき、あたしが骨壷を抱いて日本に帰ってきます。そのために同行するのです」  と彼女自身も覚悟しているのだから。  それらの秘境はこのおしどり夫婦にとって、地獄であるのか極楽浄土であるのか。ここが花沢正治の、写真家としてよみがえる再起の地となるのか、はたまた写真家としての終焉の地になるのか。 (一)  花沢正治は昭和二年、桃の節句の三月三日に生まれている。出生地は千葉県の九十九里浜に面している山武郡松尾町。父親は花沢喜惣治、母親はよし。代々、花沢家は牧場を経営していて、つねに牛が百頭以上も飼われていた。養蚕と農業も兼ねている。  その家業も繁盛していたが、喜惣治夫妻は女、男、女、男、男、女、男と七人の子たちにも恵まれた。正治はその末っ子、四男坊である。  末っ子だから彼を、両親は眼にいれても痛くないかわいがり方をしてきたし、正治は絵をかくのが得意で、小学生のころから県展にも出品していた。  入賞した六年生のとき、父親が「褒美をやるぞ」と小西六のベビーパールを買ってくれた。なに不自由なく育って、そのカメラで正治少年は静物とか、こまかな花などを好んで撮った。牧場の片隅に咲いている、なぜか名もない雑草の花に魅せられる、心のやさしさがあった。九十九里浜の海の生物も好きだった。  旧制成東中学の一年生の冬、ハワイ真珠湾奇襲大成功のニュースがはいり、太平洋戦争がはじまった。戦争には関心なく、その時分の彼は押入を暗室にしたり、引伸機を製作するのに夢中であった。  戦前のカメラ雑誌を古本屋でみつけてきては、木村伊兵衛らの作品を鑑賞した。『整色写真術』という古本を買って独学した。学友のなかには志願して予科練にゆくものもいたが、彼にはそんな気持もない。  昭和十八年になると、戦局が不利になりつつあるのが一般国民にもわかってきた。あらゆる生活物資が不足した。写真を撮りたいにもフィルムを売ってくれる店もない。翌十九年、思いがけない人物が松尾町へ移り住んだ。東京の両国で写真機材店を経営していたという一家が、食糧不足と東京空襲を恐れて疎開してきたのである。  そのおやじさんがフィルム、印画紙、現像液などをストックしていたが、農家ではないから食べるものに困っている。両親の許しを得て正治は、味噌や米や野菜などを持ち出してゆき、それをフィルムや印画紙などと物々交換してくるようになった。おかげでフィルムにも不自由しない。  そうこうするうちに花沢家に、小隊長の中尉以下十名の兵隊たちが宿泊するようになった。牧場が三万坪もあり、納屋や養蚕場を宿舎として借りたのだ。かれらは「アメリカ軍が九十九里浜に敵前上陸してくる恐れあり」という帝都防衛軍命令で、裏山に陣地を構築するため派遣されてきたのだった。すこしも軍人らしくない、のんびりした連中で、 「兵隊さん、撮ってあげようか」  正治がそう言ったことから全員、おれもおれもと申し出た。かれらは軍用糧秣を用意してきているし、砂糖なんかも充分にある。撮ってやると「菓子のかわりだ、甘いものが食いたいだろう」とこっそり分けてくれた。これも一種の物々交換である。  撮ってやったのを押入で現像し、焼付してくばった。兵隊たちはそれを「おれはこのとおり元気で任務についている」の手紙に同封して、妻や親たちに郵送するのだった。こうした日常がつづいている限り、正治は戦争とはまったく無縁であった。  だが、五年生になる昭和十九年にはいると、本土決戦が叫ばれるようになり、学業どころではなくなって正治たちも学徒動員にかり出され、千葉市の日立航空機工場へゆかされ、機械油にまみれる毎日になった。航空機エンジンの組み立てをやらされたのだ。  二回ほど空襲も体験させられた。  双胴のP三八戦闘機が急降下してきて、工場めがけて機銃掃射をあびせる。防空壕へ避難する。逃げおくれた学友が即死した。  昭和二十年春の大学進学期に、正治は日本大学芸術科写真科を志望した。すでに文科系大学は閉鎖されており、その多くは学徒出陣で戦場にある。特攻隊で出撃させられている。  日大には合格したが、すぐまた動員だ。正治らは福島県にあった八洲光学(現在のヤシカカメラの前身)へ送りこまれた。ここでは軍事用望遠鏡を製作していて、そのレンズ磨きの手が足りなかったのだ。  八月十五日の敗戦の「玉音放送」を聴いたのも、その工場においてだった。 (二)  西武線沿線の練馬区江古田にある日大芸術科へもどってきた。戦争に負けたおかげで学園生活ができるようになったのだ。負けてよかったと学友らの顔は晴ればれしていた。  写真科は、写真機械と写真光学の二部門にわかれていた。学生数は五十名ずつ、正治は写真機械を学んだ。学徒出陣の生き残りである先輩たちが戦場から復員してきた。  金丸重嶺が主任教授であった。金丸の自宅が自由が丘にあり、そこへは学友たちとよく遊びにいった。戦前から活躍している金丸が、教科書用の写真撮影を出版社から依頼されるので、無名の学生たちがその仕事を分担して手伝い、アルバイト料をかせぐのである。これが技術を磨く基礎にもなった。  写真科を卒業したものの多くは、新聞社とか雑誌社とかNHKなどのカメラマンとして就職している。それが常道でもあるが、 「写真家になるより大学の研究室に残り、助手をつとめながら将来は講師とか教授になってゆく……そうなりたいもんだな」  それが正治の願望だった。両親と兄たちが牧場を経営しているので、一日もはやく社会人になってかせぐ義務がない、たいそう恵まれた身分であるからだ。そろそろ写真界も復興しはじめていたが、彼にはプロになろうという意欲もなかった。  予期せぬ転機が待ちうけていた。  卒業が間近くなっていた昭和二十三年春、数人の後輩たちと正治は、世田谷区砧にある新東宝映画の撮影所見学に出かけた。戦後まっさきに復興したのは映画界であり、庶民にとっての最高娯楽もまた映画であった。  新東宝は前年の二十二年三月に、資本金百万円で創業された。アメリカ軍が出動して鎮圧したほどの東宝映画の労働争議がおこり、あまりに左翼的すぎる労組のそうした争議に批判的になって四百六十人余のスタッフが脱退、別個に映画製作するようになったのだ。これを支持して長谷川一夫、高峰秀子ら十人のドル箱スターと百余人の男優女優が所属した。  当初は東宝の製作部門を担当する子会社として存在したが、本家の東宝とのあいだでトラブルが生じ、昭和二十五年には独自の製作をすすめ、配給ルートも開拓するまでになる。  つまり、正治が見学にいったのはまだ、東宝の子会社だったころの新東宝であり、その撮影所の宣伝課長としていたのが秦大三氏だ。帝劇社長になる秦豊吉の実弟、写真家としても知られていた。 「この春に卒業する人はいますか?」  案内しながら秦大三が訊くので、ぼくがそうです、と正治が答えた。 「スチールマンとしてやってみる気があるならば、採用を考えてもいいですよ」  重ねて秦が言う。  そうかといって「ぜひともわが社へきてくれ。きみが欲しいんだ」という熱心な態度ではないし、正治もまた深くは考えず、聞き流したにすぎない。だが、秦大三とのこの出会いが、予期せぬ転機になってゆくのである。  巣立った学友らはやはり、新聞社やNHKや電通などに就職した。地方へ帰って写真館を継ぐものもいた。現在の読売新聞編集参与に出世している福島武氏、毎日新聞出版写真部長の仁礼輝夫氏らがそうである。  秦大三の誘いを思い出した花沢正治は、映画界で勝負してみようという気になっていた。それというのも、戦後の名作といわれる黒沢明監督の『酔いどれ天使』や、成瀬己喜男の『青い山脈』を映画館で観て、いたく感動させられていたからである。彼にとって映画芸術はイコール写真芸術だったのだ。  二年間は新東宝の社員として、月給千三百円が支給された。残業などの諸手当を加えて五千円くらいの収入になった。新宿の歌舞伎町にある喫茶店の二階を間借りしていた。当時はまだこの界隈は盛り場ではなく、もちろん東宝コマ劇場もなく、原っぱになっていてときおり、ボクシングなどの野外試合が興行されたりしていた。  最初の一年間はスチールマン助手で、カメラをはこんだりスタジオ内の清掃をやらされたりだった。二年目からカメラのシャッターをおさせてもらう身になれたが、彼の初仕事は斎藤寅次郎監督、柳家金語楼やエンタツ・アチャコらの喜劇物『びっくり五人男』だったという。斎藤に気に入られてか、何作も組まされたという。  スチールマンの仕事は独得である。  芸能界という特殊な世界ではあるし、プロ写真家の腕前があっても撮れるとは限らない。一流のスチールマンとして名を成しているのに、戦前から活躍してきた東宝の吉崎松雄、新東宝の橋山愈らがいた。  市川監督と組んでいる新東宝の名ライトマンに、藤林甲というのがいた。彼のライティングの美しさは抜群、そのライティングを自分で学びとりながら花沢正治は基礎にしたという。だから正治にとって藤林とのめぐり会いもありがたかったわけだし、今日でも照明感覚は変わっていない。  彼は語る。 「ポートレートを撮る場合、たいていは十キロワットの一つのライトを、被写体の全身に当てて撮影する方法がありますよね。ぼくの場合は同じ十キロワットでも一つではなく、一キロワットを十個に分散させ、こまかく当てる方法で撮るんです。そうすると、よりいっそう立体感が出てくるんです。これは映画の場合によくやる方法なんですよ。また、一キロワットのストロボをたいて、アンブレラ一灯で撮る人が多いけど、ぼくの場合は二百ワットを五個使って、やはりこまかいライティングを心がけますね。チベット撮影行のときは、それだけの機材を携行できないし、秘境だから電源も限られているので、仕方なく一灯ないし二灯で撮ってきましたけどね」  スチールマンはロケ先までついていって、ここはいいシーンだと思えば監督に頼み、俳優たちの演技をストップさせて、そのシーンをすばやくキャビネの暗箱で撮らねばならない。撮影現場のスナップも撮影しておく必要がある。監督、進行係、裏方も撮っておく。  スタジオでは映画撮影が終了直後、そのまま俳優たちにそのセットに残ってもらってパチリとやる。一発できめないと厭がられる。映画用のライティングでは暗い場合があれば、スチール用のそれにすばやくやりかえなければならず、いたずらに時間がかかる。これも役者やスタッフたちには迷惑なことなのだ。  スチールマンの仕事はクランク・インする以前からすでにはじまっている。スタッフとキャストが決定し、衣裳合わせをすませた直後からスタートするのだ。なぜならば、映画そのものが完成する以前からはやくも宣伝活動が開始されるし、ストーリーがわかるようなスチール写真をつくり、いちはやく新聞、芸能誌、週刊誌などにくばる必要があるためだ。ポスターやプログラムにも活用する。  だから、プロ写真家の腕前があっても、こうした仕事がこなせなければ、スチールマンはつとまらないのである。 (三)  花沢正治が契約スチールマンとして独立したのは、前述のように新東宝が、東宝の子会社でなくなった昭和二十五年からである。  製作が進行している映画一本につき契約料は六万円。撮影期間は四十五日間となっていて、進行がおくれた場合は日割で加算されてゆく。さらに年間保証として六本は必ず撮らせてくれる約束になっており、これがスチールマンとして映画界が認めたのを意味しているのでもある。  一万円から一万五千円あれば月々の生活ができた時代の六万円だから、破格の収入である。だが前出の一流スチールマンの吉崎松雄や橋山愈クラスになると一本の契約料が二十万円、上には上がいたのである。  そこで正治はアルバイトでかせいだ。芸能人たちに顔がきくようになった、これを活用しない手はないと思ったのだ。  当時はまだ専門のカバーガールなど職業として存在しなかったから、カメラ雑誌をはじめ娯楽小説雑誌なども、表紙写真のモデルとして女優を起用した。しかし、一般のカメラマンの撮影所への出入りは自由にさせてもらえない。宣伝部の許可が必要だし、当代の人気スターになればなるほど大事な商品だから、撮影させてくれない。そこで女優たちをプライベートにうごかせる特権をもった花沢正治に、一枚撮ってくれと依頼してくることになる。それが来月号の表紙になるわけだ。  田中絹代、月丘夢路、若尾文子、久我美子、香川京子、有馬稲子、岡田茉莉子など、彼が撮った女優たちの数は星のごとく多く、戦後の日本映画史を豪華絢爛に彩るほどのものであった。また山根寿子や花井蘭子をたばこ専売公社のポスター用のモデルにした。人気絶頂だった木暮実千代を、ジュジュ化粧品のポスターにもした。  まだコマーシャルフォトがない時代だし、こうしたポスターにも女優を起用させるのである。島崎雪子や岸恵子などを製薬会社をはじめ、多くの企業のカレンダーのモデルにした。いちいち名前をあげてゆけばキリがない。新東宝所属のスターだけではなく、大映、松竹などのドル箱スターまでも、彼がプールしているようなものだったから。  花沢正治は言う。 「そのころ先輩格の秋山庄太郎、中村正也、早田雄二さんらが映画雑誌のカメラマンでしたが、かれらでもまだぼくのように、女優たちを自由に撮らせてもらえなかったですよ。おかげで昭和二十五年ごろ、弱冠二十三歳のぼくの年収が二百万から二百五十万円になっていた。九十万円で輸入車のルノーを買いました。カメラマンでマイカーを運転していたのはぼくが一番……とはいかないだろうけど、相当はやいほうでしたねえ」  総理大臣吉田茂の歳費(月給)が四万円、タクシー代が二キロ百円、一級酒一升が九百五十円——その時代の年収が二百万から二百五十万円なのである。就職をいそぐ必要のない身分でありながら、社会人になって三年目にして青年成金になったわけだ。 「当時、自由解放を象徴するヌード写真が氾濫する一方で、写真のリアリスムとリアリティだの、乞食写真論だの、芸術写真と非芸術写真についてとか、ケンケンガクガクやってましたよね。そうしたことについて、あなた自身はどう感じていたんですか?」  わたしのこの質問に、即座に彼はこう答えた。 「木村伊兵衛さんも土門拳さんも意識しなかったですねえ。自分独自のライティングで撮りたいだけでした。ポートレート一本できて、ほかのものは何も撮りたいとは思わなかった。大女優で撮るチャンスがなかったのは、淡島千景さんと京マチ子さんの二人だけ。あとはみんな撮っています。  写真のリアリズムとは何か……そういうのを議論したいとも思いませんでした。より自分の気持をリアルに撮りたい、という意欲があるだけ。敗戦後の暗い時代だからむしろ、暗いリアリズム写真など撮りたくない、という抵抗もありました。ガード下の浮浪者を撮ったところで何があるんだ、美しいと感じたものをより美しく撮りたい……それがリアリズムだと自分に決めていたんです」  だから花沢正治は金丸重嶺、渡辺義雄、大束元氏らの「太平洋画会写真部」の会友となり作品を発表したときも、すべて女優のポートレートだけであった。毎回出品したそれらは「カメラクラブ」「サンケイカメラ」「写真サロン」などに転載された。  スチールマンとしての彼の存在は、ますます貴重なものになっていった。ゲーリー・クーパー主演の名作『モロッコ』を撮ったスタンバーグ監督が東和映画の依頼で来日し、中山昭二と根岸明美を主役に京都で『アナタハン』のメガフォンをとった。そのとき同監督は何人かのスチールマンたちの作品のなかから正治のそれを選んだ。スチール担当はこの男にしたいと指名してくれたのだ。  時代劇映画の大御所・伊藤大輔が『下郎の首』を撮るさいにも指名してくれ、正治は大感激した。五所平之助の『煙突の見える場所』も、新東宝の最高のヒット作となった『明治天皇と日露戦争』(昭和三十年)も彼が担当して面目をほどこした。  こうして昭和三十六年夏、新東宝がテレビ時代の到来に押されて興行面で行きづまり、事実上の倒産をしてしまうまでの十四年間に、彼は百二十本余の劇映画のスチール写真を撮りつづけたのである。 (四)  ここで夫人の山村邦子さんの登場となる。  彼女は花沢正治と同齢、松竹歌劇団の出身で浅草の松竹ミュージカルスに所属の舞台女優だった。松竹ミュージカル宣伝部の依頼で、邦子のブロマイドを撮らされたのがきっかけで、二人は恋仲になった。結婚したのはそれから二年後の昭和三十年、ともに二十八歳であった。結婚と同時に彼女は、芸能界から引退した。  新東宝が倒産した三十六年に正治も、映画界から去ることになるが、去ってからどうするのかの目標は皆無だった。  スチールマンの仕事は独得だ、と前述したが、それだけ逆に、一般の写真界では通用しないということにもなる。言うなれば「ツブシがきかぬ」のであり、スチールマンからプロ写真家に転向し得たのは、旧日活の松島進氏ぐらいなものらしい。  ところが花沢正治は少年時代、戦争中もそうであったように、なかなかの強運の持主である。つねにツキに恵まれるのである。  新東宝をやめて浪人になったとたん、雑誌社からヌードを撮ってくれとの依頼が相つぐようになったのだ。それというのも、新東宝が経営不振におち入っていた末期、ピンク映画まがいのものを量産して興業成績の挽回をはかろうとしたことがある。そのさいビキニスタイルのグラマー女優として売り出したのが、三原葉子とか万里昌代らであり、正治が発掘したのだ。雑誌社も、そういう面での正治のヌード作品に期待したのだった。  最近の女子学生とはちがってこのころはまだ、プロポーションの美しい素人娘で全裸になってくれるのはいなかった。そこで正治は日劇ミュージックホールのストリッパーに、モデルのアルバイトをやってもらうことにした。彼の得意のライティングで浮きあがらせる女体には立体感があり、ボリュームのあるエロティシズムが漂っていた。  この仕事を六年間つづけてのち、二人のヌードモデルをつれて助手と四人でグアム、ヤップ、サイパン、パラオ、マジューロなどの中太平洋上の島々をめぐった。雑誌社が企画したのでも依頼したのでもなく、自費百万円をかけての自由撮影行だった。  一回めぐってきて千枚は撮ってくる。これら作品をストックしておいて、エージェント式に売りはじめたのだ。目黒にスタジオを建てて、ここでも大いに撮影した。  このエージェント式のやり方は彼のアイデア商法であり、これがまたバカうけした。プロ写真家を指名して撮影を依頼し、モデル女をあれこれ捜し出してきて海外までつれていって作品にするのは、たいへんな出費になるばかりか時間のロスにもなってしまう。  それよりも花沢スタジオへ直行してストックしてある作品群のなかから、編集者が編集企画にぴったりのものを選択し、その作品の掲載料を支払えばよいわけだ。すでに作品としてあるのだし、時間のロスにもならぬ。ということで毎月、雑誌の四、五十冊分は出てゆき、彼のヌード作品が掲載されていないものはない、というまでになった。  写真家にしては稀有の商才がある。正治はモデルをつれてロケに出かけ、新しい作品にして花沢スタジオに補給する。貸し出しのビジネスは夫人が担当する。これが十年もつづき、作品群はたいへんな財産となってゆく。  時代はあらゆる面で変わっていった。最初はストリッパーしかいなかったのに、女性上位といわれる時代になるにつれて、モデル志願の女子学生も現れはじめた。花沢スタジオにも電話で「モデルに使ってください」と申し込んでくる。  邦子夫人がモデル係として面接する。身元が確かなのでないと、やくざな情夫がついていたりして、ややこしい問題も起こるからである。自分から志願したのに、いざ衣服を脱いでもらう段になると、お風呂にはいるときみたいに、さーっと、という具合にはいかない娘もいる。半泣きの表情になって、 「お金がほしいんだけど……首から下はいいんだけど……困るんです、顔が写っちゃうのは」  そこで邦子が舞台に立った経験を活かし、メイクアップをほどこして、貌のつくりを変えてやらねばならなかった。  それでもストリッパーの裸体よりは新鮮であり、作品もみずみずしいものになる。いくら補給しつづけても追いつかない状態のくり返しだった。 「旅へ出たいね、一緒にゆこうよ」  某日、彼は妻にそう言った。  補給をくり返えさなければならぬその仕事が、空虚なものに思えて疲労困憊し、自分の好きなものを撮りたい衝動にかられる。撮りたいものだけを撮る行為が、解放感があって精神的休養になると思うのだった。 (五)  毎年、二回ないし三回、花沢夫妻は海外旅行へ出かけた。けなげにも邦子がカメラ助手にもなるのであり、解放感をもとめてのおしどり撮影道中というわけだ。  その結果はヨーロッパ十三カ国、アメリカからメキシコ、南太平洋諸国、東南アジア諸国など三十カ国になった。それら国々の風景・文化・風俗にカメラをむけたが、とくに正治が魅せられたのはメキシコ。その自然の明るさとインディオの風俗のおもしろさ、歴史の古さ……そうしたものが彼の魂をとらえてはなさないのである。  だがメキシコから帰国してまもなくの昭和四十九年二月、突如として四十八歳の正治は一大転機に遭遇した。深夜まで仕事をしていて昏倒し、意識を失ってしまったのである。精神と肉体の同時破滅だ。邦子が悲鳴をあげた。  救急病院にはこび込まれた。医師の診断では心筋梗塞。彼は酒はまったく飲めないし、高血圧に悩まされていたわけでもない。原因は大量の仕事をかかえ込んでいるためのストレスと、煙草の喫いすぎだろうと医師は言う。彼の律義な性格が雑誌社の締切日を意識しすぎて約束をたがえまいとする……それがストレスになって鬱積するのだ。  このままあの世ゆきになりかねないので、邦子はベッドのそばに付きっきりになっていた。明けがた、意識不明のはずの正治がなにかを、うわごとみたいに呟いている。 「あなた、あなた、どうしたの……?」  思わず彼女が胸をゆさぶってやった。両眼をあけた彼は、こう言った。 「窓の外はみどりがきれいな丘だねえ。白い花が一ぱい咲いていて、丘の上に一本の樹がある。枝葉が風にそよいでいるよ」  頭がおかしくなったのでは……と愕然としながらも邦子は、現実にひきもどしてやろうとして事実を教えてやった。その声は涙でうるんでいた。彼の掌をしっかり握った。 「なにを言ってるのよ、ここは病院なのよ。あなたは倒れたんじゃないの。窓をあけたら廊下があって、その向うにトイレがあるだけなんだから」  納得できたのかできないのか、眼はうつろで彼は無表情であった。  三途の川の流れが見えるあたりまで行っていた正治は、掌を握ってくれている愛妻の声が聴こえたのか現世へもどってきた。奇跡的な生還であり、二カ月後に退院許可がおりた。  だからといって、ドクターストップを無視して仕事を再開したわけではない。妻はカメラさえもいじらせてくれない。 「仕事をしなければおれは、すぐにも写真家として忘れられてしまう!」  その苦しい焦燥感がある一方では、 「窓の外のみどりの丘、白い花園、丘の上の一本の樹……おれが見たあの風景は、あの世の一部分ではなかったのか」  人生の終焉の地を見てきたかのごとき虚無感をおぼえるのだった。華麗な女優たち、若い女のヌード、この二つを撮りまくって生きてきたおれは、いったい何であったのか。そういう作品にどんな価値があるというのだ。 「もう一ぺん、メキシコを観てきたい」  と正治が言いだしたのは二年後の、昭和五十一年になってであった。もちろん、この二度目のメキシコ旅行にも夫人が同道した。  五十三年秋、メキシコ作品を発表する『メキシコ展』を、新宿のミノルタフォトスペースで開催した。初の個展であるが、花沢正治を知る写真界の人たちは一様に、女優のポートレートやヌード作品ではないので驚いた。彼の脳裡にある「もっとも撮りたくなっている世界」がどんなものなのか、それを理解できるのはまだ妻だけなのだ。 (六)  昭和五十五年の夏の盛り、日本交通公社の海外旅行担当の社員に、 「中国政府が外国人旅行者の、チベット入国を許可しました。解禁してくれたんです。戦前でも日本人は数人しか入国したことがないところです。観にいってみませんか」  と誘われ、花沢夫妻はその気になった。  日程は十三日間、一人につき九十五万円の旅費。メンバーは高野山大学の酒井真典学長、女流作家の瀬戸内寂聴さん、大正大学助教授の松濤誠達氏ら十八名。上海へ飛び、飛行機を乗りついで四川省の成都へ、さらに世界の屋根を眼下にしながらラサヘむかったのである。有名なポタラ宮殿があるところだ。  そこは海抜三千八百メートルの高所だ。富士山頂よりも高いわけで、空気が稀薄だし気圧が低いので、現住民はそれに慣れていても、はじめての旅行者は大きな声を出すだけでも喘《あえ》ぎたくなるくらい息苦しい。歩くのもそーっとでないとダメ、走ろうものなら胸が苦しくなってしまう。とくに正治にとって、心筋梗塞で昏倒した過去があるだけに、まさに地獄の淵に立っているようなものだ。  だが彼はこの秘境で「もっとも撮りたくなっている世界」に出会ったのであった。それはおどろおどろしい仏像、まがまがしい色彩の壁画などがある「冥界」だったのだ。  出会った瞬間、感動のあまり正治は、全身をわななかせた。チベットの歴史や風俗をカメラにおさめてくるつもりだったのだが、ほんとうに存在する「冥界」を見たのだ。 「これだ、これだ、これをおれは撮らなくちゃならないんだ!」  正治は自分に呟いた。心筋梗塞で倒れたとき見たはずの「あの世の一部分」とはまったく異っていた。そこに千年以上もむかしから存在しているラマ教の仏像や壁画には物欲、征服欲、性欲、我欲……人間のあらゆる欲望が表現されており、 「おまえが見たあれは神の世界ではない。これが真の神々の世界なのだ。だから、おまえにとくと見せてやるためにここまで導いてやったのだよ」  そんな神の声がしているような気もする。  ラマ教を信仰している現住民たちの、素朴でひたすらな姿にも心打たれた。文明のなかであくせく生きている自分たちよりも、粗衣粗食しかなくてもかれらのほうが、はるかに幸せに生きている……正治の眼には、そうも見えるのだった。 「おれはここで死んでもいい。神よ、わたしの終焉の地をここにしてください!」  そのようにも祈りたくなっていた。  十三日間の「冥界」の旅はおえた。  だがチベットは彼を放しはしなかった。  帰国した正治は猛然と、仏教に関する文献を買いあさり、読みあさりした。仏教の知識がないままカメラを向けたのがはずかしくなってきたのだ。こんどは単身、死を覚悟して出かけるつもりでいた。愛妻が高山病になってしまっては相すまないからである。しかし、邦子が「あなたがそこで息をひきとってしまったとき、あたしが骨壷を抱いて日本へ帰ってきます」と言ったのは、このときであった。(昭和五十八年四月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十八年「忿怒と歓喜」(平凡社)。 [#改ページ] 前田真三《まえだしんぞう》 「無手勝流写真術」  前田真三さんは頑固に日本の風景だけを作品にしている。純日本的写真家であるのに、幾多の日本の写真家たちとは異なるタイプの、まったく日本的でない写真家だ。  第一、その服装や生活からして、ほかのプロ写真家たちとは違う。プロ写真家も画家や小説家たちのような、夜と昼を意識的に入れかえたりする、いわゆる自由人の雰囲気をもっている。ところが前田さんの毎日は、じつに有能なビジネスマンのそれなのだ。朝はきちんとセンスのいいネクタイをしめ、三つ揃いの背広姿で東京は北青山にある株式会社「丹渓」へ、午前九時二十分の定刻どおりに出社している。もと商社マンだったから、ネクタイをしめるととたんに「戦場」におもむくサラリーマンの心境になり、身も心もひき締まるのだそうである。  第二に、前田さんが代表であるこの「丹渓」は写真撮影、リース、販売をやっているフォトライブラリー。つまり、前田作品「日本の風景」をリースしたり販売させたりの企業化に成功しているのである。  では、なぜ日本の昔ながらの「心のふるさと」しか撮らないのか。ヌード作品とかファッション写真とかの需要のほうが、はるかに多いのではと思うのだが、 「いや、他の写真は撮れないからなんです。それとフォトエージェンシーの仕事は風景でなければ商売にならんのです。いまいちばん売れるのは、美しい日本の風景なんですよ」  と、前田さんは堂々とおっしゃる。決して自分の作品を「芸術作品」だなんて自慢しないし、はっきりと営業のための「商品」にしているところもまた、たくさんいる気取り屋のプロ写真家たちと異なる点である。  第三の特色は、彼が「丹渓」に総合商社的な販売戦略を導入していることだ。 「日本の風景」ばかり撮影している人のなかにも、たとえば「京都」だけ、「山」だけ、あるいは「祭り」だけというふうに専門分野で名を成している人々がおり、それらの作品も「商品」として「丹渓」が扱ってユーザーに取り次いで、規定の「口銭」をちょうだいする仕事もあるのだ。 「写真家として自立してゆくには、たんに雑誌社とか広告会社の依頼で撮影するだけではなしに、このような企業的経営手腕も大いに必要になってくる……そんな時代に変貌しつつあるのかもしれないなあ」  前田さんのやることなすこと、耳新しいものばかりなのでわたしは、感心したりおどろいたりの連続で、ついそう思ったものだ。  ともかく、前田真三は写真そのものを、企業化しているその第一号なのである。 (一)  メゾン青山に「丹渓」をたずねたわたしは、温厚にして上品な初老の紳士……寸分の隙のない身なりから、その第一印象をうけたのだが、 「とんでもない。友人たちはこう言うんですよ。『変われば変わるもんだなあ。手のつけられなかった喧嘩太郎が、かくも紳士になろうとは』と。十七年間つとめたサラリーマン時代は、上役に楯ばかりついていたものだから、万年平社員でしたよ。わたしは自分が、こうだと思ったことしかやらないし、そうと決めたら突進するだけなんですね」  そんな猪突猛進型であった、と前田さんは白状する。青春時代がハングリーだったからそうなったのかと思ったら、これまた予想に反して、たいへんな富豪の家庭に恵まれ育っているのである。  生まれは大正十一年六月。父親は前田林太郎。母親が豊子、五男三女の三男坊である。  東京府下南多摩郡|恩方《おんがた》村——現在の八王子市で、祖父の前田善次郎が、「天下の糸平」とならび称せられるほどの生糸商を営んできた。そして莫大な財産を残している。  豊子の実家は、甲州は小仏の関所守をやっていた川村恵十郎がおり、渋沢栄一を幕府に推挙したりしている名家である。  林太郎は山林業を継ぎ、恩方村の村長であった。この地方は八王子織物——みたま御召、銘仙、座ぶとん生地の名産地としても有名だ。  下恩方小学校にかよっていたころから真三は、絵を描くのと書道が得意だった。水彩の風景画はコンクールに何回も入選したし、書のほうも逓信省主催の宛名書コンクールで入賞したりしている。  そういう子はたいてい、もやしみたいに細い、ひ弱な坊っちゃんに見えるものだが、彼はそうではない。近所のガキ大将になっていたし、東京府立織染学校(現在の八王子工業高校)の色染科に進学してからは、柔道二段の硬派になったくらいである。  なにしろ、三多摩壮士でならす血の気が多い土地柄だ。浪人集団「新撰組」の近藤勇は天然理心流四世、その道場が前田家の近くにあった。色染科では染めと織り、図案を学ばせるが、そんな勉強はそっちのけ。 「おれたちは新撰組の同志だ、という誇りをもち、当るを幸いなぎ倒してゆく硬派中学生でしたね。暴れまくったもんです」  それでいて絵画と書が得意、長男と次男が趣味にしていた写真の、その現像や焼付を手伝うのも好きになっていった。  もうひとつ、見かけによらずこの喧嘩太郎には心やさしきところがあって、野鳥を飼うのに熱中した。野や山にわけ入って鳥たちの生態を研究したり、捕獲してきて庭内で飼ううちに、その数が三百羽にもなった。  餌にする川魚も、毎日つかまえてこなければならない。野鳥研究の第一人者である中西悟堂が結成(昭和九年)した「日本野鳥の会」の会員に、わざわざ荻窪にあった中西家までたずねていって加えてもらった。  歌人の北原白秋、窪田空穂、民俗学者の柳田国男、そのほか著名な華族や芸術家といっしょに、富士山麓などに野鳥の声を聞きにゆく探鳥旅行にも出かけたが、十五歳の真三少年が最年少。当時、野鳥を飼うのは高級な趣味で、金持ちたちや特権階級のあいだで流行していたそうである。  自分に向いていることしかやらない。好きなことにのみ全力投球し、ほかのことには目もくれない。そういう性格がいっそう顕著になっていって、彼に言わせると、 「好きだ、やりたいと思ったものには、何十倍もの労力を投入するのも惜しくない」  他人まかせにはできぬ情熱をはぐくんだ。大自然の風物にしたしむようになったのも彼の、こうした狂気と紙一重の情熱のマグマのような燃焼であったのだろう。  探鳥旅行にはベビーパールを買ってもらって携行した。昭和十三年、十七歳のときには学友たちと、山岳部山野|跋渉《ばっしょう》会をつくった。すばらしい風景に行きつくためには、何十里の山道を歩こうとも、危険な断崖絶壁をよじのぼらねばならぬのもいとわない。  だから……と彼は言う。 「勉強が嫌いだから体当りしてゆくだけなんですね。写真もそうなんです。がむしゃらにやってきた。撮影技術の本とか、カメラ雑誌などを読んで身につけたものではない。本能的にうごき撮っているんです。結果が良ければ理論などどうでもいいじゃねえか……そんな姿勢だったんですね」  要するに前田真三には、何事もじかに肌で感じとりたい、手ごたえのあるものを掴みとりたい……あるのはその一念のみなのだ。 (二)  織染学校を卒業すれば、そのほうの専門学校である米沢とか桐生の高等工業学校への進学が常識だったが、前田真三だけは東京の拓殖大学開拓科に入学した。昭和十六年春。  志望理由は、ない。あえていえば「柔道がつよかったから、拓大へゆけばもっと暴れられそうだと思った」にすぎない。学歴を身につけ、社会へ出たら出世しようなんて、はなから考えていなかったのだ。  この年の暮れに勃発した太平洋戦争は、戦時中なので繰り上げ卒業で、十八年秋に拓大を卒業するころには、逆転されて形勢不利になっていた。学生の徴兵猶予が全面停止になり、一億総決起の、いわゆる「学徒出陣」がはじまったのは同年十月からであるが、 「どのみち戦場へは征かねばならぬ」  と覚悟して卒業と同時に、第三期海軍予備学生として、千葉県館山にあった砲術学校へ入隊した。戦艦や巡洋艦の乗組員となって艦砲を射つのではない。どこの戦場へ投入されるのかわからないが、海軍陸戦隊の野砲、高射砲などを操作する陸上戦の特訓に明け暮れた。いまは立派に戦死するために訓練にはげむこと、これ以外にはない。  卒業して海軍少尉に任官、派遣されたのはスマトラ島北端にあるサバン島(ウエ島)であった。マラッカ海峡の北の入口にあり、ここには三千人の海軍将兵がいた。第九海軍特別根拠地隊(九特根)である。  セイロン島《スリランカ》にある英海軍基地に対抗し、インド洋方面からの進攻を阻止すべく、九特根には大量の武器、弾薬、兵糧が備蓄されていた。英海軍の艦砲射撃を数回経験しただけで、セイロン島攻略作戦も実現しないまま、戦争は終わってしまった。  したがって他の南方戦線——フィリピンやニューギニアなどで展開された、地獄の戦闘と飢餓を体験させられることなく、一時は死を覚悟したものの幸いにも、サバン島で平穏なる敗戦を迎え、イギリス軍に武装解除されたのである。  昭和二十一年に祖国の土を踏む。それからの二年間は、まだ何をやりたい目標もなく、山野にはいって野鳥を飼うのと、絵筆をにぎる日々をすごした。  前田家は裕福だし、他の敗戦国民のように窮迫した生活に追われることなく、優雅な日々だったといえよう。  そうかといって、いつまでも「前田家の坊っちゃん」で徒食するわけにもいかない。独立しなければならない。世話する人があって当時日本橋室町にあった日綿実業(現在のニチメン)東京支社へ入社した。  伊藤忠商事や丸紅などとともに関西系の、繊維会社から発展した商社であり、昭和二十三年、真三は二十六歳になっていた。  初任給が八千円。多摩の山からおりてきて見まわす東京の現実は、まだ復興してはいない。  世相は荒廃し、群衆はヤミ市に群がり、だれもが自分が生きるのに精一ぱいだった。  真三は雑貨部に配属になり、エジプトヘの輸出を担当させられた。経済界の基幹産業が復旧しておらず商社は、玩具、ネックレス、陶磁器、帽子、靴などの雑貨品を輸出することによって貿易を再開し、細々ながら外貨獲得にけんめいになっていたのだ。  メーカーが納入する商品の選別をやるうちに、真三には商品を見る眼がそなわってきた。製造原価や材料費を計算できるばかりでなく、商品のセールスポイントはどういう点になければならぬかを追及してみるのである。  入社して三年目、彼は結婚した。  世田谷区若林町に新所帯をかまえた。  前述のように真三は、この日綿実業に十七年間つとめるが、役職のつかぬ万年平社員で終わった。怠けるどころか、仕事をバリバリやったがためにかえって、こういうおかしな悲劇の主役になったのである。  彼のなかの三多摩壮士の血が、少年時代のように再び騒ぎはじめた。三多摩壮士には損得を度外視して一匹狼で行動したがるものが多く、組織のなかでも妥協して生きていけなくて、やたらと正義感がつよい。彼にもそれがあって、ひとりで勝手に仕事をやりすぎたり、部下にばかり責任をおしつける上役が許せず、そのため衝突が絶えない。  二回ほど転勤命令が出たことがあった。しかし、それが自分を追放したがっている上司の工作によるものだと知ると、転勤を拒否した。三千人いる社員のなかで、このような抵抗をやるのは彼だけである。長いものに巻かれたくはない。 「これは会社のためになる仕事だ。ほかの同業者に負けてなるものか」  こんな場合にはいっそう情熱がたぎり、何十倍の労力を投入してでもやりとげたくなるし、上司のアドバイスにも耳を傾けなくなってしまう。ふと気がついてみると、あたりにはだれもいなくなっている。 「前田と組むのはこわい、何をやらかすかわからないから」  同僚も後輩も尻ごみしてしまうのだ。  だから、つねに彼は一匹狼の存在になってしまっている。それでも猪突してゆく。自分ひとりで会社内に、べつの小さな会社をつくって独自の取引をやっているようなものだった。上司も社員も見て見ぬふりをしている。  言いたいことをズバズバ言って、重役にさえ意見した。おかげで昇給もゼロだが、泣きごとは並べたくない。まさに前代未聞の、剛直そのもののサラリーマンであったのだ。  そんな彼はしかし、自宅ではバラ栽培に熱中し、その写真を撮っておのれを慰めた。山が恋しくなってきて再び、単身で山歩きをはじめ、山岳や森林や渓流などの自然関係の写真に傾倒していった。三十五、六歳ごろの彼は写真界とは無縁で、流行におもねる作品など考えたこともない。つまり、彼はここでも唯我独尊の一匹狼の存在なのである。 (三)  日曜日や祭日を利用して谷川岳、北アルプス、南アルプス、丹沢山塊などにはいり、千古の深い森林のなかをさまよいながら、 「おれは四十二歳から四十五歳までに変わりたい。大さきな転機に出会いたいものだ」  そう思うようになったのも、その三十五、六歳のときであった。  転機を迎えて第二の人生をどのように生きたいのか……具体的に表現することはできなかった。自信らしき自信もない。漠然とではあるが、そうした変身願望だけが日増しに昂じてくるのである。  写真についても一家言をもっている。山小屋「丹渓山荘」の経営者の上島四朗氏と出会ったのは昭和三十六年冬、三十九歳のときだ。  この山小屋は長野県境の甲斐駒ケ岳と、仙丈ケ岳の沢の合流点にある。国立公園内の通称「赤河原」とよばれている赤い花崗岩の多いところ。真三はこの上島に刺激され、大自然の赤河原一帯の写真を撮るようになった。そして、改めて生きることとは何か考えさせられたり、心洗われるような心境になったりした。それは自然との対話であった。  大型カメラで撮る必要に迫られ、当時は高級品であった西ドイツ製のリンホフ・スーパー・テヒニカを七十万円で購入した。小型カメラでは満足のいく作品にならないからであり、ますます自然と写真に没入した。  前田真三は昭和五十一年秋に、毎日新聞社より三冊目の豪華写真集『ふるさとの山河』を刊行しているが、そのなかに小説家の田宮虎彦氏が、こう書いている。 「(前略)前田さんと知りあってまだ間もない頃、私は、ある一枚の作品に心をひかれた。それは広い野面を横切っている農道を、自転車に乗った人物が、一人だけ、小さく遠ざかって行く風景を写した作品であった。後に、私は、前田さんには、その作品のように、広い風景の中に一人だけの遠景の人物が小さく写されている作品が、かなりあることを知ったが、その時はまだそのことをあまり深くは考えてみず、その作品をただ楽しむというだけのつもりで引伸してもらい、私の書斎の壁に掛けた。  その作品はもちろん風景写真であった。私は、自転車で遠ざかって行く人物に心をひかれたのであったが、その人物は、前田さんの一人だけの人物を遠景に写している他の作品の中の人物と同じように、広い風景の中にまるで遠景の一本の立木のように融けこんでいた。しかし、幾日かその作品を見ているうちに、私は、その人物が次第に深い意味を持って、私に語りかけて来ることに気づくようになった。  その人物は遠い立木のように見えていたが、それだけのものではなかった。その人物がそこに写されているというだけで、その風景のひろがりよりも、より深い世界が私の心の中にひろがって行き、私の心をなごませる(後略)」  わたしに言わせてもらえば、その自転車の人物こそ、前田真三そのものだと思う。東京という名の俗塵に充ちた大都会がその「広い野面」であり、サラリーマン世界という名の戦いの場がその「農道」であり、第二の人生をもとめてさすらう孤独な彼がその人物なのであり、彼自身の私小説的な心象風景ではないだろうか。  ついにその人物は、自分から「農道」をはずれていった。四十三歳のとき、三回目の転勤辞令が発令されようとした。さすがの真三も、これ以上の迷惑を会社にかけてはと思い、破りすてるかわりに辞表を提出したのであった。  いうなれば脱サラであり、 「これからは写真に生きるしかない」  と決意したわけだが、四十三歳にしてプロ写真家をめざすのも大冒険だった。  その道は「農道」よりもけわしかった。  第一、彼はまったく無名であった。プロ写真家やフォトジャーナリストに知己はなく、カメラ雑誌の月例コンテストに応募した前歴も皆無である。師と仰ぐ先輩もいない。  自分を自分で売り出してゆく方法、というのを彼なりに実行した。自分の風景作品を額縁に入れて喫茶店、理髪店、レストランなどの壁に飾ってもらうリース業を思いついたのだった。作品を即現金にしようというのだ。  退職金を元手にして資本金三百万円の、株式会社「丹渓」を創業、五人の社員たちに都内をまわらせた。会員を募るのであり、作品一点につき貸し賃が月二千円、二カ月おきに作品はとりかえてゆく、というのが条件だった。  どこの喫茶店でも理髪店でも当然、 「ふーん、何という人の作品だね?」  と知りたがる。 「前田真三です、いい作品でしょう。お宅の雰囲気にぴったりですよ」  社員が宣伝と売り込みに躍気となる。だが多くの場合、首をかしげながらの、こういう答えが返ってくる。 「前田真三ねえ。その人、そんなに有名な写真家なのか。聞いたことねえなあ」  昭和四十二年のその当時、売れっ子といえば木村伊兵衛、土門拳、秋山庄太郎、林忠彦、中村正也らだし、そういう名前でないのが、借りるほうとしては物足りないのであり、 「うちの店には女優のヌードのほうがいい」  などと厭味をいう店主もいる。  同年、真三は国電蒲田駅ビルで『山と渓谷』の個展を開催したが、話題にはならなかった。妻もさびしげであった。 (四)  前田真三は二千点の作品を用意した。一年間がんばってみたものの、会員になってくれる店舗は数えるほどしかなく、結果は資本金をくいつぶしたばかりか、なお六百万円の赤字を出す惨澹たるものだった。 「商売にならなかったですよ。アイデアはよかったんだけど、まだリース業なるものが理解されない。早すぎたんですね。それに、作品もアマチュアのものだから観賞されない。額を落してガラスが粉々になってしまう、そんな損害もあったわけです」  と真三は顔をしかめて語る。独立独歩でやることの辛酸を、厭というほど舐《な》めさせられたのだった。くやしかったのである。 「写真のフィルムをそのまま貸付ける、フォトライブフラリーに切りかえてみてはどうだ。額縁なんかつける必要がないから割れないし、扱いも手軽になるではないか」  と知恵をさずけてくれる人があって、そっちでもう一度ふんばってみようという気になった。こんどは広告会社、デザイン会社、出版社などに貸しつけるのだから、印刷用のポジカラーにしておかねばならなかった。  セールスには商社マンのころのカンをはたらかせた。「純日本的な風景写真が絶対に売れる時代がくる。日本人ほど四季の変化を好む民族はいない」との自信もついてきた。最初の客は角川書店であった。同社が出版する「日本の詩集」に風景作品を提供したのである。忘れ得ぬ感激である。  だが、それからも四年間、「有名な写真家の作品でないため、商売になるようなならぬような中途半端な経営状態がつづいた」のであった。焦燥する毎日なのである。  歯をくいしばって彼は考えた。 「作家としての作品が通用するまでは、株式会社丹渓が製作した作品であることを前面に出しながら、前田真三の名をすこしずつでも覚えてもらい、ネームバリュウができてくれば、前田真三を前面にもってきて丹渓を裏へまわす。こうして個人と会社を抱き合わせにして発展させたい」と。  このような発想もまた、ほかのプロ写真家たちはやらないだろうし、こんな手段で有名になっていったものはいない。作品がジャーナリストたちに認められる……何はともあれ、それが先決だったのである。  ところが、真三のそれは現実のものになっていった。ジャーナリストたちが認めなくとも「丹渓」が製作した風景作品は、おもしろいように売れはじめたのだ。保谷硝子、栗田工業、三井不動産、三菱電機、三井生命などの企業の、カレンダーやポスターやPR誌の表紙に使われていったのである。  ミノルタカメラの国内、国外向けカメラ、レンズなどのパッケージに写真を提供したのは昭和四十六年、四十九歳のときである。以来、テレビCF、週刊誌のカラーグラビアなどでもひっぱり凧になった。  写真家の運不運も、どこにころがっているか知れたものではない。真三が幸運をつかみ得たきっかけは、公害による自然破壊が社会問題化したことにある。自然破壊を憂えて日本人は、その反動として「心のふるさと」である自然風景を渇望し、そういう作品に魅了されはじめたのだった。  大企業のカレンダー、ポスター、PR誌などに必ず前田作品が使用され、多くの人の眼にふれるようになると当然、 「これはだれの写真だ?」  と注目されてゆく。前田作品はじつに端正であり、その良さが評価されてゆく。やがて前田作品は「丹渓調」とよばれる、彼ならではのものとなっていった。  四十三歳からスタートしたのに、あっという間に、先を走っていた若いプロ写真家たちを追い抜いてしまった……そんな観さえある。いまや「丹渓調」作品には街頭、会社、電車内などのどこでも出会えるようになった。  五十歳から五十五歳までのその主な作品を拾ってみても——  ポーラ化粧品のPR誌  三菱銀行、三洋電機のポスター  国鉄キャンペーンポスター  新日本製鉄の海外向け雑誌  ヤマハ楽器、日本交通公社のポスター  住友商事、セイコーのカレンダー  清水建設のPR誌表紙連載  アラビア石油、フコク生命カレンダー  東海銀行、住友銀行のポスター  日本航空、紀文のPR誌表紙連載  などのほかに雑誌グラビアも多数ある。かくて「丹渓」は売上げも倍増して、社員も十名に増員された。  前田作品のポスター使用料は一点、一回一使用目的という規定付で七万円から、カレンダーの場合は印刷枚数が十万部までが七万円、十万部以上になればその倍額。車内吊り広告は五万円。マッチのラベルで三万五千円。社内報、パンフレット、PR誌表紙などが四万円以上である。  ところが、これほどの人気が出ても彼は、なおも個人と企業を表裏一体の抱き合わせにしておこうとする。彼は言う。 「わたしはほかの写真家のように、名前にはこだわりません。正当な報酬をもらってさえいれば、作品には必ずおれの名を入れろとか使い方についても特に要求しません。要は、商売になればいいんです。いま現在、作品の在庫は二十万点あります。企業の人も出版関係の人もここへきて、借りたい作品を選んでゆきます。わたしは企業が『自分の社のPR誌の表紙に撮ってほしい』と依頼してきても、撮らないことにしているんです。なぜならば、その写真の版権は、依頼者である企業のものになってしまうからです。わたしのはあくまで自主作品にしておきたい。丹渓は前田真三というメーカーの製品を、販売する販売会社だから、丹渓のためにも、自主作品にしておかなくちゃならんわけですよ」 (五)  昭和五十八年五月刊行(八冊目)の、前田真三の『一木一草』(グラフィック社刊)に「序」を贈った俳人の楠本憲吉氏が、 「かねて『写俳同源』という考えを持っている小生にとって、春夏秋冬に及ぶ一葉一葉の写真が、まるで一句一句の世界のように、完結し、充実した結晶として私に迫ってくる」  と絶讃しているが、それらの作品にはわたしはもっとなまめかしいもの、思わず手を出して触れずにおれなくなるもの……いま脱いだばかりの女の着物の、柄模様の美しさと女体の香ぐわしい匂いとを感ずる。紬織りの黄八丈、木綿の絵絣、花鳥風物を多彩繊細に表現している京友禅、捺染の江戸小紋、あでやかな琉球紅型などの、日本ならではの着物の美になっているからである。 「あなたの風景作品にぼくは、島田謹介さんの世界、奈良を撮りつづけている入江泰吉さんの世界……この両者に通ずるものがあるように感じているんですがね」 「わたし自身、島田さんと入江さんに近いと思っています。それから日本画の東山魁夷さんの世界が好きです」 「そう言われてみれば……あなたは〈写真界の東山魁夷〉かもしれませんね」 「若くて元気なときには、風景は見えませんね。一定の人生体験をしてきて、体力が衰えてくる年齢になって、はじめて見えてくるものなんです。島田さんにしても、ほんとうに作品がすばらしくなってきたのは、朝日新聞社を定年退職されてからだと思いますし、入江さんの作品も年齢を重ねるとともに重厚さを増していったように思います。しかし、わたしの写真年齢は三十代、四十代の写真家たちよりも若いんですよ。写真をはじめたのは四十代になってからだし、あと十年撮りつづけても、壁にぶち当るとか行き詰まってしまう……なんてことはないと思う」 「音楽家や小説家もそうですね。天才だと騒がれて若くして有名になった芸術家でも、早くダメになった人も多いようです」 「わたしは日本の風景だけを撮りつづけます。行き詰まることはないし、撮りつづけなければ経営不振になってしまいますからね」 「でも、もう日本全国、くまなく撮ってまわられたんでしょう?」 「日本の風景は撮るのがむずかしい。外国のように派手さがなくて、渋いですからね。しかも、素材えらびが困難になってきました。田園風景が現代的になったり、電柱が多くなったり、道路わきにガードレールがついていたりで、絵にならないんですよ。ワラ屋根の農家も少なくなった。全国どこも特色がなくなってきている」 「現存している風景で、日本一はどこでしょう? 推薦してみてください」 「ひと頃ほどの魅力はありませんが北海道の富良野ですね。次に徳川家康の本拠地だった奥三河、ここも好きです。いまはね、観光地になりにくいところを撮っておくほうがいいんです。そこにしか自然が残っていないのが評判になって、かえって、観光客がおしかけるようになってしまいますからね。そうなってからではもう遅いんですよ」  彼は販売会社「丹渓」のために製品を納入するメーカーであるので、つねに生産をつづけていなければならぬ。そこで一年のうちの半分は、二十九歳に成長している早大卒の長男を助手にし、車を運転させての撮影旅行に出かけている。  大量生産できるその腕前たるや、唖然とさせられるばかりで、それはこのようにおこなわれる。 「撮影旅行には、季節に関係なく出かけています。そして風景に体当りして、がむしゃらに撮りまくるんです。光線の変化や、雲の流れや、風のうごきなどを計算に入れて『根気よく待って撮らねばダメだ』という方程式があるのは知っているけれども、わたしの場合は逆に、風景に出会ったらいきなり、シャッターを切ります。そのほうがいいものが撮れる。風景は静止していないんだし、刻一刻と変化してゆくものでしょう。待っていれば必ずよくなる、という保証はどこにもないんですからね。速攻につぐ速攻あるのみ。  いや、むしろ、待てば待つほど悪くなることのほうが多い、わたしの体験では。だから即座に撮るわけです。そのほうが美しい風景に見える。待っていると出会いの感激も薄れてくる。天候にも関係なく撮ります。紅葉林を撮りにいったら、あいにくの雨になってしまったとしますね。わたしは『晴れた日の紅葉林を撮ってきてくれ』とだれに依頼されたわけではないから、雨の日の紅葉林でもジャンジャン撮るんです。しかも、雨の日ならではの風情の風景が、そこらに幾つもあるはずです。ガソリンを消費してわざわざやってきたんだもの。手ぶらで帰るなんて大損ですよね」  やはりこれは、企業家ならではの姿勢であろう。それでいて粗製乱造ではなく、豊かな造型性をもった前田作品からは、体当りの迫力があふれているのだから不思議だ。  これまでに前田真三は八冊の写真集を刊行しており、現在は地元各方面の応援を得て、信州上高地を撮りつづけている。 「日本の風景作品は世界にも売れるようになります。その販路をひろげています。外国人が大いに興味を持っているんです。『こういう風土が国際経済力をもつ日本人を育てているのだな』という、日本民族の原点を知りたいからなんですね」  と自信たっぷりに彼は断言する。  京都を専門に撮っている人、観光地専門に撮っている人、日本の祭りに取り組んでいる人をはじめ、風景写真家二十人の作品を「丹渓」が取り次ぎ、規定の手数料をちょうだいするのも、 「ある外国向けのものを企画する出版社が、日本の風景作品を借りにきたとき、ほかに京都の作品がほしい、祭りの作品はないだろうか、というようなことになった場合、これら二十人の作品を提供してやるんです。画商が新人画家の面倒をみるように、丹渓は新時代の有能な風景写真家たちとも協力し合いたいんです」  これぞ総合商社的発想であり、プロ写真家たちが一匹狼で活動し生活してゆく時代は、終わりつつあるのかもしれない。  来春、アメリカで世界の九人の風景写真家による写真集が出版される予定である。中国、韓国、イタリア、アメリカ、フランスの作家たちにまじり、日本を代表して前田真三がただ一人えらばれた——これによっても「日本の風景」は世界各国に紹介されるだろう。(昭和五十八年七月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十八年「昭和写真全仕事」(朝日新聞社)。 [#改ページ] 三木淳《みきじゅん》 「三木ライフの大きな夢」  昭和五十八年十月一日、土門拳さんの生まれ故郷である山形県酒田市の飯森山文化公園内に、総工費八億円をかけた市立の「土門拳記念館」が建ち、その開館式がにぎにぎしくおこなわれた。 『古寺巡礼』『室生寺』をはじめとする土門拳の代表作が展示され、彼に関する厖大な研究資料も閲覧できるようになっている。外庭に人工の白鳥池もある。  開館式には、館長に推挙された土門さんの直弟子である三木淳、グラフィックデザイナーの亀倉雄策、華道草月流の勅使河原宏、写真家のミチオ・ノグチら諸氏、フォトジャーナリストらも東京から駆けつけ、土門さんとは学友だった地元の人びとも参加、三百人という盛況であった。  だが残念なことに三年前に脳出血で昏倒して、東京の虎の門病院で眠りつづけている土門さん自身は、中庭にはイサム・ノグチ氏の彫刻もあるこのような瀟洒な記念館を、建ててもらったことさえ、まったく知らない。彼が再起してこの記念館を、訪れることができるのはいつの日か。  三木淳さんが館長に就任したのは、たんに直弟子であったという理由だけではない。長年、この設立のためわがことのように奔走してきたし、渡辺義雄氏にかわって三代目の日本写真家協会会長に選ばれた(昭和五十六年六月)ことも、何かと好都合だからである。  永久記念館を設立してもらった光栄ある写真家は、日本ばかりでなく世界でも、土門さんがはじめてである。土門作品がそれほど評価できる、永遠に価値あるものであるのは事実だが、三木さんのような師に尽してやまぬ弟子に恵まれたこともまた、彼にとっては幸せなことだったのだ。  みごとな師弟であるというほかはない。 (一)  保守大合同を画策して今日の自民党をつくりあげた政界の大物、硬骨漢の三木武吉が、少年時代の三木淳の頭を撫でながらこう言ったことがある。 「三木家を卑下してはいかんよ。三木一族は海の覇者となった勇敢なる和寇《わこう》だった。豊臣秀吉に滅ぼされ、児島地方に住みついたのがきみの先祖。小豆島に移ったのがわたしの先祖。そして徳島方面に定住したのが三木武夫君の先祖なんだから」  三木武夫といえばクリーン政治を目標に、ロッキード事件の徹底究明を指揮していた、これまた硬骨の元総理であることは記憶に新しい。武吉・武夫はともに大物政治家であり、そのほか三木一族には医者、実業家で名を成したものも多い。  三木淳の祖先がその、和寇であったかどうかは定かではない。また三木武吉や三木武夫と血族関係であるのかどうかについても、明確にはされていない。が、瀬戸内海をはさんで岡山県児島、香川県小豆島、徳島県と散在しているところから推して歴史的には、「三木一族は海賊の末裔」とする武吉説は、当らずとも遠からずではないだろうか。  淳の生家は児島にある。正確には岡山県児島郡藤戸町、現在の倉敷市の一部である。大正八年九月生まれ。三男坊。児島地方は古くから綿織り物、学生服の生産地として知られており、父の為吉は学生服問屋「三木為吉商店」を経営していた。屈指の豪商である。  淳は天城尋常高等小学校に学ぶが、卒業までの六年間、級長をつとめており成績はつねにトップであった。親戚筋に岡山二区を地盤にする政治家の星島二郎(東大卒・岸信介内閣時代の衆議院議長)がいて、 「たいそうできる子だそうだな。ぜひ養子にほしい、政治家としてあとを継がせたい」  と為吉に再三申し入れてきていたそうだから、まぎれもなき天才少年だったわけだ。  養子にほしがっているのを淳は知っていたので、星島が「三木為吉商店」にあらわれると彼は、いつも裏山へ逃げ込んだ。店のまえには、倉敷市の大原美術館や白い壁の倉屋敷がならぶ、あの倉敷川が流れている。 「今年も首席になったら、ほしがっていたカメラを買ってあげる」  と母のいそえに言われて、小学四年生の淳はがんばった。雑誌「少年倶楽部」に「あなたの目のまえにあるものが、そのまま写ります」のキャッチフレーズの広告が出ていて、彼はそのベストポケットコダックR・Rが忘れられなかったのだ。  約束どおり、大阪一の大きな「河原写真機店」で買ってもらった。十五円であった。写真に興味をもったというより、玩具を買ってもらったうれしさで一ぱいだった。  進学校である県立岡山一中に入学した。同級生に、昭和電工社長になっている岸本泰延氏がいた。みんな一高・東大コースをめざして猛勉強していた。淳は岡山市内に下宿し、家庭教師をつけてもらっていた。  しかし彼は「出しゃばりで目立ちたがり屋」だったから、各種対抗試合に出陣する選手たちのための、校内激励演説に夢中になっていた。若き日の三木武夫は明治大学時代には弁論部で鳴らし、サンフランシスコに留学していたときには邦人相手の、有料演説会で学資をかせいでいた……そんな伝説があるくらいだから、淳にもやはり三木一族の血が流れている証拠なのかもしれない。  このころから天才少年の彼は、あまり勉強しなくなっていた。一高・東大をめざす意欲はなく、両親がすすめる大阪商大の受験にも気が乗らず、「アサヒカメラ」など写真雑誌を愛読していた。昭和十一年に創刊された「ライフ」の二号の表紙が、慶応出身の名取洋之助の『日本の兵隊』という作品であるのに刮目《かつもく》した。外国の雑誌の表紙になる作品を撮れる日本人がいる、そのことに淳は興奮してしまったのである。  彼は名取にあこがれて、慶応大学予科をめざした。十八歳であった。 (二)  慶応大学経済学部予科は東横線の日吉にあり、帰りに三木淳はよく、東横線の終着駅である横浜へ遊びにいった。盛り場の伊勢佐木町に有隣堂という大きな書店があって、その一隅に古本がならべてある。外国船員らが売った「ライフ」を、五十銭で販売しており、淳はそれを買ってくるのをたのしみにしているのだった。 「ライフ」の表紙写真は毎号、個性ある写真家の作品であり、それら写真家たちの経歴も紹介している。どの作家もちゃんとした大学を卒業している。現代写真というものは、職人的なうまさだけではいけないのだ、教養とか思想とかも身につけていなければ……そう思い直して淳は、大学の勉強にも熱がこもるようになった。「ライフ」の記事を英和辞書を片手に翻訳して、新しい写真知識を吸収する努力もした。  慶大「フォトフレンズ」にも入会した。  先輩たちの写真芸術論に耳を傾けた。  芥川比呂志や加藤道夫らと親しくしている一年先輩に井戸川渉がいて、彼は陸軍中将の息子でありながらすでに「映画の友」誌上に、有名な男優や女優を相手にインタビューした記事を発表していた。都会的な早熟児で、淳は大いに感化された。  その井戸川とコンビを組んで写真を担当していた早田雄二氏が、兵隊にとられたため、淳にお鉢がまわってきた。井戸川が「おまえがやれよ」と言ってくれたのであり、だから淳は学生なのにもう、金になる写真を撮る機会に恵まれたのだ。  当時、福原信三を頂点とする日本写真会は花鳥風月的——俳句を写真にしたよう作品で、写真界の主流を成しているとはいえ、淳にはまったく魅力をおぼえなかった。  それに反して名取洋之助とその弟子筋になる土門拳の、あるいは「ライフ」の作品群には西欧感覚や社会性がある。当節風にいえばナウいのであり、淳はそういう作品に惹きつられていた。  土門作品にはじめて接したのは、詩人の草野心平氏が主宰していた詩誌「歴程」に載った『小河内村の子供たち』である。これを鑑賞したときの淳は、全身がふるえるほど感動したものだった。  「ライフ」では創刊号の表紙を飾っていた女流のマーガレット・パークホワイトのダム建設工事の作品に驚嘆し、 「自分もこの道をすすみだい」  と決意させられたほどである。  岡山一中から慶大にすすんだ先輩に「写真文化」の編集長をしている石津良介がいて、井戸川・三木のコンビによる連載インタビューを依頼してきた。『声と顔』のタイトルで同誌の九月号から『名取洋之助』『福原信三』『金丸重嶺』『木村伊兵衛』というふうに、当時の重鎮あるいは第一線級作家を連載していった。昭和十六年、淳は二十二歳。  編集会議の席で、彼は石津に進言した。 「まだ会ったことはないけど、土門拳さんをとりあげてください。すばらしい作品です。彼の時代がかならずきますよ」  石津がOKしたので淳は、築地明石町の棟割長屋に拳を訪ねた。拳が十歳年上の三十二歳。京都や奈良の古寺を撮りはじめていたころであり、淳にとってはこれが運命の出会いとなるのだ。  そのときの拳の印象を淳は、 「すごいバイタリティーの人で、とにもかくにもびっくりした」と語っている。また、この運命の出会いがなかったら「ぼくは飽きっぽくて、金づかいが荒くて、どうにもならん男になっていたでしょう」と彼はいう。  だが、淳が師と仰ぐようになったのは、このときからではない。名取洋之助の弟子入り志願をしたのだが、「写真の見方をまず亀倉君から学ぶことだ」と言われ、国際報道工芸美術部長の亀倉雄策を紹介された。「国際報道」の仕事も手伝わせてもらえるようになり、名取が三百円のサラリーを支給した。ここでの主な仕事は、タイ国向けの宣伝誌「カウバアプ・タワンオーク」に載せる写真を撮ることであった。  亀倉にすすめられて淳は、拳の弟子入りをした。その日から拳は彼を助手にして「文楽」の撮影にとりかかった。淳は語る。 「福原信三さんのは大旦那の写真という感じだし、木村伊兵衛さんの作品は若旦那の写真で、遊びがはいっていましたね。ところが土門作品には〈生きる〉がこめられていた。ハングリー精神があった。瀬戸内の温暖な土地に育ち、家からの仕送りが毎月百円、国際報道のサラリーが三百円、これだけある贅沢な暮らしができていたぼくには、日本海に面した酒田の、きびしい風土に育ち、家庭的にも恵まれなかった土門さんとの差があって、自分にないそのきびしさに惹かれましたね。じつに土門作品は刺激的で、写すだけでなしに〈写し盗る〉という実感が溢れていた」  とはいえ、淳はさんざん拳にこき使われ、シゴキあげられた。「もう厭だ、これでは殺されてしまう」と音《ね》をあげて淳が、写真機材を投げだしてアスファルトの道路の上に、大の字にひっくり返ってゴネたこともある。  それでも拳は、手をさしのべて助け起こしてはくれない。駄々っ子の坊やを見るごとくニヤニヤしているだけだった。 「あなたの考えがまったくわからない。この戦争中に文楽人形なんか撮ってたって、お金にならないのは当りまえでしょう。それなのに、なぜ苦労して撮るんですか」  と食ってかかったこともあるが、依然としてギョロ眼の拳は馬耳東風。  そのころ、淳は自負していた。 「ぼくは将来、何がなんでもライフのカメラマンになってみせます」と言うものだから、 「おめえみたいな馬鹿を、ライフが採用したら、太陽が西から昇るぜ」  仲間らには笑われ、木村伊兵衛には、 「おーい、三木ライフ、元気かい」  からかわれていつしか、その「三木ライフ」があだ名になってしまった。  淳は、こうも考えていた。 「ぼくは一生けんめいに英語を勉強した。土門さんはその勉強をやっていない。だから、彼はあくまでも日本の土門拳にすぎない。ぼくは海外に知られる土門拳になるのだ」と。 (三)  昭和十八年九月、慶応大学経済学部を繰りあげ卒業になった三木淳は、金融、証券、信託、貿易など多角経営していた、野村合名会社にトップで入社。希望してシンガポールを拠点に南洋貿易をおこなっていた野村貿易に配属してもらった。  だが入社一カ月で陸軍第七航空教育隊(愛知県三方原)に入隊させられ、すぐに関東軍第四航空隊に転属となり、東満州の千振へむかった。対ソ戦に備える飛行場大隊であり、飛行場整備が任務である。  翌十九年、関東軍教育部に転属、経理学校を優秀な成績で卒業。東京市ケ谷の陸軍航空本部付の見習士官になった。ここでの直属の上官が五島昇中尉、現在の東急グループ会長である。  昭和二十年、福岡市大濠にある西部軍経理部へ。筥崎宮の西部軍自動車修理工場に米軍捕虜を指揮しながら勤務。汚れっぱなしの捕虜たちが気の毒で「泳いでよろしい」と博多湾での海水浴を許可したところ、憲兵より叱責されたこともある。  赤十字経由で捕虜に送られてくる品々のなかに、新しい「ライフ」があり、淳はそれを見せてもらっては外国作家をうらやましがったり、作品に興奮させられたりだった。  アメリカ人写真家のカール・マイダンスの名を知った。日中戦争中は重慶にいて、日本兵の捕虜とか日本空軍の重慶爆撃とか撮影しており、太平洋戦争になるとコレヒドール要塞のマッカーサー元帥のそばにいた第一線級の報道写真家である。その作品を「ライフ」で鑑賞し、ひそかに尊敬したものだった。  日本降伏後——  焼野原の東京にもどってきた淳は、日本橋にある野村貿易に復職した。だが敗戦国では貿易再開のめどは立たず輸出する商品もなく社員たちは飴玉、和傘、長靴などをヤミで仕入れてきては行商する、そんなヤミ屋稼業で収入を得るしかない。  写真一本で生きたい衝動をおさえがたく、淳は退職してしまった。上海から引き揚げてきていた名取洋之助に誘われ、学生時代から仲のよかった稲村隆正とサンニュース・フォトス社に入社したのは昭和二十二年、二十八歳のときである。  開廷になった東京裁判を担当させられて毎日、法廷にかよった。東条英機をはじめとする七人のA級戦犯の、世紀の裁判を撮りまくった。淳はこの時代の「証言者」になったのであり、そのほか世相のドキュメントフォトを「週刊サンニュース」に掲載した。もちろん、このころの淳の目標はただひとつ、「ライフ」のカメラマンになることである。  名取とは不和になって訣別し、彼はINP通信社に移籍した。  契約をかわした写真家たちの作品を、出版業界に斡旋する会社で、京橋の明治製菓ビルの五階にあった。同階に「ライフ」の東京支局もあり、支局長がなんと淳が戦争中にひそかに尊敬していた、あのカール・マイダンスであったので、運命の摩訶不思議を感じないではいられなかった。  のちに三木淳が監修してカール・マイダンスの作品集『激動日本の目撃者』を刊行(昭和五十八年刊)するが、カールは淳の写真人生において、土門拳とともに二大存在となってゆくのである。  昭和二十四年六月、シベリア抑留中の旧陸軍兵士二千人を乗せた引き揚げ再開の第一船、高砂丸が舞鶴港に入港する。 「それをぜひ撮ってきてほしい」  と淳が依頼された。カールが急遽、ソウルに飛ばねばならなくなったためで、いうなればピンチヒッターだ。「ライフ」の仕事だから淳が断わるわけがない。まさしく天から降ってきた幸運である。  舞鶴港で撮ってきた淳のそれは、 「日本の赤色部隊〈祖国に帰る〉」  と題して「ライフ」七月十八日号の七ページを埋めた。自分の作品が「ライフ」に署名入りで載るのを夢にまで見た……それが現実のものとなったのだ。彼は「気も狂わんばかりだった」という。  しかも、支払ってもらった原稿料が七ページ分で、なんと五百ドルの十八万円だ。サラリーマンの平均月給が七、八千円のころであり、淳の一年分の収入に匹敵した。日本の写真界とはケタはずれである。  十八万円のなかから彼は、六万円を奮発してピカピカのライカを一台購入した。師の土門拳に記念としてプレゼントしたのだ。  そのライカを手にして拳は、うれしそうな表情をちらっと見せたが、それっきりであった。淳に言わせると「土門さんはアメリカ嫌いでしたから、弟子がアメリカ雑誌の仕事をすることさえ、好まなかったんでしょう」ということになる。  翌月、腕前を認められて淳は、タイムライフ社に正式に採用された。月給が三万五千円。発表した作品にはべつに原稿料が支払われるし、合わせて月収が十万円にはなった。念願がかなっていまや三木淳は、日本人でただ一人の「ライフ」の正式カメラマンなのである。  何を撮るかについてはそのつど、ニューヨーク本社からカールに指令してきた。本物の「三木ライフ」になれたのだから、仲間たちはやっかみ半分に、こう言った。 「おまえさんは偉いよ、アメリカ人だもの」 「バカ言え、おれは日本人だ」  淳が撫然たる表情になっても、 「アメリカさんから、高い月給をもらっているではないか」  というふうなのだ。  幸運な淳にはしかし、生命の危機が迫ってきた。「ライフ」に入社して十カ月後、朝鮮戦争が勃発したのだ。  北鮮軍が怒濤のごとく三十八度線を突破してきた。韓国軍が半島の南の一角に追いつめられて風前の灯となったとき、マッカーサーの国連軍が大反撃し、半島全体が一進一退の消耗戦をくり返す地獄と化した。  その地獄に淳も、国連軍報道カメラマンとして飛び込んでゆかねばならなかった。月曜日に立川基地から輸送機で飛びたち、ソウルヘとむかう。「鉄の三角地帯」といわれた山岳地帯の戦場を撮ったりして、金曜日にはフィルムをもって立川へ還ってくる。これが毎週である。  北鮮軍を支援する中共軍が介入してきて、戦争はさらに熾烈になり、長期化してゆく。淳には特別のボーナスが支給された。「レンガ」が一個であった。日本紙幣の百円札の一束十万円が、ちょうどレンガ一個分の大きさと同じになるところから、そう呼ばれていたのである。このように金にはなるけれども、ひとつしかない命を落とすはめにもなるのだ。  彼は長谷川康子さんと結婚した。  彼女は五歳年下で明治大学卒。「ライフ」東京支局がある明治製菓ビルに、経済新聞「ウォール・ストーリート・ジャーナル」東京支社が同居していて、たいそう美人の彼女が支社長秘書をつとめていた。  通勤バスに乗り合わせたり、エレベーター内で顔を合わせたりする……いうなれば同居人同士の恋愛結婚である。しかも、彼女の住居は土門拳の棟割長屋がある、同じ築地明石町だったのだ。だから銀座教会であげた結婚式の仲人も、土門夫妻にお願いした。  ところが、仲人をひきうけておきながら拳は、その式場へ悠々と遅れてやってきたそうだ。おまけに淳は、新婦にも「人非人」よばわりされ、さんざん恨まれてしまった。新婚旅行に出かけなかったからである。  式の翌日、例によって彼は立川基地から、地獄の戦場へ飛ばなければならなかったためである。  あこがれの「ライフの女王」であるマーガレット・パークホワイトに会えたのは昭和二十七年五月だった。宮城広場で「流血のメーデー事件」が起こったこのころ、彼女が来日したのである。  淳は学生時代から「恋」していたことを告白した。彼女は彼の作品『流血メーデー』を絶讃した。日本を撮る彼女のために、すすんで彼は助手になってやった。 (四)  淳は「ライフ」には七年半ほど在籍、昭和三十二年に三十八歳で退社した。  在籍中もっとも忘れがたい作品は、昭和二十六年のサンフランシスコ対日講和条約調印式に出発する直前の、ワンマン宰相吉田茂を白金台の迎賓館で撮影したものだと、淳はいう。太い葉巻をくわえた吉田の顔が「ライフ」の表紙を「東洋のチャーチル」として飾ったのである。  淳は語る。 「気に入った作品はどれですかと、よく訊かれるけれどもぼくは、一点もありません、メモラブルになるものは何点もありますが……そう答えることにしているんです。吉田さんのもそうです。敗戦国の首相とはいえ、暗く撮りたくないなあ、世界の人びとに馬鹿にされそうだから、そう思って明るい顔に撮るよう心がけました。吉田さんのいいPRになったんじゃないかな」  事実、吉田茂のイメージアップになったのである。「ライフ」の発行部数はアメリカ国内版で六百五十万部、国際版が百五十一万部。その表紙を飾った上に「ライフ」のダイレクトメールにも使用されたのだから、ざっと計算しても一千五百万部になる。  裏返していえば、三木淳の「東洋のチャーチル」は文字どおり、世界の人びとに鑑賞されたのであり、それは日本の写真家の作品のなかでも記録的な数字なのだ。  このような作品発表の、世界的な大舞台である「ライフ」にいながら、写真家冥利に尽きるというのに彼は、なぜ去ってしまう気になったのか。昭和二十九年にはニューヨーク本社にも招かれているのに、である。 「D・D・ダンカンという、仲よくしてもらった先輩が東京支局にいましてね。彼がインドシナ戦争の取材のため派遣されたんですが、フランス軍が負けてしまってベトナムは独立するだろう、という悲観的な作品をライフに発表した。これが問題になりましてね、彼はライフ社長のヘンリー・ルースに叱責された。しかし、気骨のあるダンカンは「おれは信念で撮ったのだ」と謝らないで辞表をたたきつけた。  この機にぼくも辞める気になったんです。朝鮮戦争は終結してニュースが少なくなった。それでも高い給料は出ているし、六十五歳の定年までいてもいいわけです。が、若くしてこの極楽のなかでヌクヌクしていては、自分がダメになっていってしまう、そういう焦りがあったんです。辞表を提出したら本社から、なぜ辞めるんだ、月給が不足なのか、と言ってきました。ぼくは〈わたしは自由がほしいんだ〉とリンカーンみたいなことを宣言しましたよ」  だが、フリーの仕事は辛かった。  初仕事は東京新聞の石井幸之助氏に依頼された「週刊東京」のグラビアページだった。命がけの仕事をさせてくれと自分から申し出て、三沢基地から飛びたつジェット戦闘機に同乗、空中写真を撮った。  その原稿料が二万五千円、 「やっぱりライフの収入は大きかったなあ」  後悔めいたものが胸中をよぎるが、もはや明治製菓ビルヘはもどれない。大企業の重役以上の月給があったのに、自分から素浪人になってみて感じた悲哀だったわけだ。 「ライフ」のニューヨーク本社に招かれたとき、巨匠のアイゼンスタットが、 「アメリカでは、自分の理論を持たない人間は死人と同じだ。おまえはおとなしすぎる。もっと自分の意見を主張しろ」  とアドバイスしてくれたのを淳は思い出して、フリーになったのだからなおさら、そうでなくちゃと実行に移した。  ところが、そんな態度は日本の写真界では通用しないばかりではない。若造のくせに生意気だ、と逆に袋だたきに遭ってしまった。いまだに「三木ライフ」に対する複雑な感情が残っていたからなのだろう。  海外へ撮影旅行に出かけることが多くなった。とくにブラジル、アルゼンチン、ボリビア、ペルー、メキシコなど中南米に魅せられた。インド、セイロン、タイ、カンボジアなどもめぐった。日本写真批評家協会賞を受賞したのは昭和三十四年、ちょうど四十歳のときである。  彼は『昭和写真全仕事・三木淳』(朝日新聞社刊)のなかにこう書いている。 「ライフをやめてから、カラー写真を撮りはじめたが、そのテーマは一貫して、平和に暮らすということは一体どういうことなのかということであった。平和というものがいかに人間に大切であるかということを見てもらいたいと思い、人間が戦っているような写真は撮らないできた。これは私が死ぬまで、朝鮮戦争で体験したことのアンチテーゼとしての、私の写真術の基本的なものに今後ともなっていくのではないかと思う」  報道写真というと一種の殺伐さ、忙しさ、アクションのあるもの、ぎょっとさせられるもの……そういったイメージがぼくにはあるのだが、三木作品はそれを意識的に避けているように感じられる。彼の本質は戦争中に、シャワーもあびさせてもらえず汚れている米軍捕虜を海で泳がせてやった……その一点に集約されていると思うのは、ぼく一人ではあるまい。  三木淳はじつに優しさと慈しみのある、スマートすぎるくらいの報道写真家だ、と言ったら彼自身は不満だろうか。弟子ではあるが土門拳とは対照的だ。もし三木淳が土門拳と同じタイプであったとしたら、ゴッホとゴーギャンのように喧嘩別れしてしまっていただろう。 (五)  昭和三十四年、土門拳は五十歳にして脳出血で倒れ、右半身不随の右手ではカメラが、思うように操作できなくなった。  昭和四十三年、山口県萩市で撮影中、再び彼は倒れ、満足に手足をうごかせなくなってしまった。それでも彼の制作意欲は衰えず、助手に車椅子を押させて撮影に出かけたものだった。  しかし三年前の、三度目の脳出血では眠りつづける人になり、「土門拳記念館」が三木淳の東奔西走によって設立されたことさえ知らない入院生活をつづけているわけだ。が、淳もまた昭和四十七年、ヨーロッパ撮影旅行から帰国してまもなく頭痛と吐き気に苦しみ、視力の変調をきたしてしまう脳腫瘍の、頭蓋骨を開いての大手術を、都立府中病院でうけなければならなかった。  淳はお道化《どけ》てみせるように語る。 「アメリカでは個人宅だと庭に、たいていプールがあるんです。泳がせてもらったが、ガリガリに痩せている裸でははずかしい。それでもう五十歳はすぎていたけど、ボディビルをはじめたんですよ。筋骨がたくましくなり、八十センチしかなかった胸囲が百三センチになり、三島由紀夫そっくりになりました。ところが、そのため脳のなかの血管までがふくらみ、おできのようになってしまった。脳腫瘍になったのは、それが原因ではないのかな、と思っているんです」  少年時代から「目立ちたがり屋」の彼は、ヤンキー娘に肉体美を誇示したかったのだろうが、過ぎたるは及ばざるがごとし……やはり、五十代になれば五十代にふさわしい肉体づくりにとどめておくべきだったのだろう。  大手術をうけて十八日間、彼は空白の世界を漂流していた。神があらわれて、 「おまえは他人のために、何か役立つことをやったことがあるか」  と問うた。木枯しのような風が、ぴゅーぴゅー吹き抜けていた。ICIE最優秀賞を受賞したことや、「ライフ」のころのことなどまったく思いうかばなかったという。  手術は成功した。  リハビリ生活をつづけて健康を回復したが、淳は「変身」していた。  画家の岡本太郎氏と対談したとき、 「自分のために生きる。それが結果的には人のためになるのだ。他人のために何かをしたり、そういう考えはおれにはない」  そう言われて淳は、 「わたしはこれから、人さまのために何かやりたい、そんな生き方がしたい」  と答えていた。  そして再度、ヨーロッパへ旅立っていったが、作品はさらに「自然体になった」。手術後四カ月目である。  パリの凱旋門の下で、フランスの国旗トリコロールが三色のスポットライトを浴びてはためいている。それにカメラを向けたとき、自由に大きく羽ばたいている感じで、奇跡的に大病から回復したおのれの幸せを、しみじみと感じとったという。  かつて木村伊兵衛も淳が、カルティエ・ブレッソンやマーガレット・パークホワイトなどの海外写真家の作品を日本に紹介した、その功績を認めていたし、前述のようにカール・マイダンスの作品集を刊行したりで、さらにいっそう写真界のための、海外交流を深めることに淳は尽力した。  昭和五十六年六月、千三百人の会員による選挙で三代目の日本写真家協会会長に推されてからも、海外交流を会長としての仕事にしている。彼がその抱負を語る。 「いまや日本製カメラは世界的でしょう。しかし、日本の写真作品そのものはまだ、世界では評価されていません。写真家自体のこともあまり知られていません。それというのも、海外との交流が少ないからなんですね。技術的には世界の水準にあるんだけど。  日本の大企業ではPR写真を、五千万円も払って外国の写真家に撮らせたりしている。いまだにそうした外人コンプレクスがあるんです。逆に、外国の大企業が五千万円を支払って日本の写真家に、自社のPR写真を撮らせる。そういうチャンスを、海外との交流を深めることによって実現させたいものです。まだ開催されたことがない世界写真家会議……これを現実のものにしたいとも考えています」  世界写真家会議とはまたスケールの大きな、意義あるプロジェクトだ。三木淳にはいい意味での「政治家」の才覚もあるようだ。冒頭に登場させた三木武吉、三木武夫に通ずる三木一族の血が、やはり彼にも脈打っているらしい。そういえば白髪の彼の風貌は、菅目《すがめ》の三木武夫に似てきたようにも見える。  淳は昭和二十七年に、日本光学をバックに「ニッコールクラブ」をも組織している。現在ではその会員数は全国に十五万七千人余。  どうやら「海外に知られる土門拳」になりたかった三木淳の、一歩一歩の努力が近い将来、結実しそうである。そんな彼に対して、木村伊兵衛が生きていたら「三木ライフ」でなしに、こんどはどんなあだ名をつけたことだろう。(昭和五十八年十月取材) [#改ページ] 渡辺義雄《わたなべよしお》 「丸くて四角な人」  色つやのいい丸い顔ばかりでなく、からだも丸っこくて、柔和な笑みをたやさない円満そのもの……これが渡辺さんから受ける第一印象なのだが、意外や意外、眼に見えざる四角四面に角張ったものがあるのだ。  この人のすべては「丸」と「角」とでできている、と言っても失礼にはならないと思う。作品もまたそうなのである。じつに謹厳にして頑固。そうかと思うと、謙虚そのものといった面もある。国電四ツ谷駅に近い、建築家前川国男氏のビルにある「渡辺義雄写真研究室」を訪ねたら、 「わたしには書いてもらうほどの、たいした人生もドラマもありません。それほどの写真の仕事もしてはいませんしね」  と、ぼくを拒絶なさるのである。  思えば昭和四十八年夏、秋山庄太郎氏からスタートしたこの『写真家物語』もまる十年になり、錚々たるメンバーに登場ねがい、写真界の長老として日本写真家協会会長を二十三年間もつとめられた渡辺さんに真打になってもらって、めでたくピリオドを打つことにしていた。  それなのに「真打」に登場を拒否されたのでは幕の引きようがない。第一、これまで拒絶されたことは皆無だったから内心、ぼくは大いにあわてふためき、なす術《すべ》を知らなかったのだが、それではかわいそうだと同情されたのか、 「それでは失礼して、これを飲《や》りながら」  ブランデーをトク、トク、トクとグラスについでから質問に応じてくださった。ブランデーを飲み飲みは、おのれを語ることを羞恥しての、照れかくしだったのかもしれない。  この「写真研究室」は四周に、見あげるほどの書籍の山ができていて、まるで潜水艦の内部みたいにゴチャゴチャしたものもあって狭かった。写真家たちの作品集、古い写真雑誌、文芸書、建築文献などである。はいりきれなくてほかに書庫を二つも借りていて、そちらも満杯になっているんだそうな。自宅は小金井市にあり、毎日、渡辺さんは几帳面に四ツ谷まで電車で通勤してくる。  額縁にいれた色刷りの、古めかしい絵が飾ってあった。だれの作品かな、と思いつつ見あげてぼくは眉をひそめた。そこらの商店街のチラシ広告ではないか。ただし、これは明治時代のもの。和服姿の女、少年、機関車、港が描かれていて「大勉強、呉服布等物、三条大町、山与店」。 (一)  渡辺さんの話は、この「山与」のことからはじまった。雪深い新潟県は三条市の「山与」が彼の生家なのである。  山形屋与助なる商人が、山形県からやってきてこの店をはじめたことから、屋号が「山与」になったのではないか。明治になって渡辺姓になったのは、いつのころであったかはつまびらかでない。  四代目が入婿の渡辺寅蔵。妻ツウ。二人のあいだには七男三女ができた。三条はすでに足利時代より刃物の名産地として有名だが、その町にあって「山与」は京呉服商、色刷りのチラシ広告などもこのころに印刷し、大いに店の宣伝につとめたのだろう。  義雄は五男坊として、明治四十年四月に生まれている。そのころはもう「山与」は呉服商ではなくなっていた。  不景気で倒産したのではない。寅蔵はなかなかの政治家であり、実業家でもあった。三条の町長をつとめるかたわら、信用組合の組合長に推されたり、銘酒「金剛」の酒蔵を経営したりしていた。町の名士であった。  雪深い裏日本にありながら越後には、ふしぎに新文明を貪婪に吸収してゆく気風があったようだ。尊王攘夷の乱世だった安政六年に、横浜の外国商人からランプを購入して帰り、日本で最初にランプを家庭で使用したのは越後長岡の人だった、という記録が残されている。明治になってアメリカへ渡航して写真術を学び、帰国して営業写真館をオープンしたのも新潟県人に多い。  寅蔵は石油ランプの時代に、はやくもガス灯をつけて町を明るくした。天然ガスを採掘してガス会社を設立し、天然ガスと石炭ガスを混用させるエネルギー革命をやったのだ。  そんな文明人だったから寅蔵は、長男坊を東京帝国大学に進学させている。新潟の田舎から息子を帝大にやった家庭は、ざらにはなかったにちがいない。知人が外国土産に買ってきてくれたフレックスカメラも、すでに寅蔵は持っていたし、義雄は恵まれた家庭の坊っちゃんで育ったわけだ。  三条中学校に進学した大正九年春、義雄は入学祝いとしてコダックのポストカード判を寅蔵に買ってもらった。高級カメラだが、あまりうれしいとは思わなかった。渡辺家にあったフレックスカメラを、小学生のころから見よう見まねでいじっていたし、五年生のときカメラのおもしろさを体験したからである。  図画の時間、県展に出品するのに椅子の写生をさせられた。それまで絵は、教本があってそれをそっくりまねて描き、同じ色に水彩絵具でぬればよかった。が、現実の立体的な椅子そのものを、バランスよく平面に描けというのだからむずかしい。  それなのにカメラは平面に、じつにかんたんに立体的に写しとってくれる。このことが彼に、カメラのおもしろさを教えてくれた最初だったのだ。そして、小さなカメラで撮ったものを大きく引伸すことの妙味も、理解できるまでになっていた。  だから〈新しくカメラを買ってもらうときには小型にしたい〉と念願していたのに、父親が勝手に「大きいことはいいことだ」式にポストカード判を買ってきたのだから、うれしさも半減したのである。  三条には歯科医たちの「三光会」というアマチュアグループがあった。三軒の営業写真館があって、そのうちの一軒は義雄の一年先輩があとを継ぐようになった。その家にたいそう美しい娘がいた。彼女はのちに東宝映画の、水野久美というドル箱スターになった。  中学時代の義雄の夏休みは、新潟市の親戚に泊まりがけで遊びにゆき、海で泳いだり信濃川で写真を撮ったりが最大のたのしみだった。その親戚というのは質屋で、寅蔵の弟が経営していた。そこの息子——義雄の従兄弟は小説家を希望していた。作品はいろいろと書いたが、小説家としては名を成すことはできなかった。そのかわり彼の娘は、のちにバレリーナとして有名になっている。  つまり、寅蔵は政治や事業が好きだが、一族には芸術的な才能に恵まれているものもいたのである。  なかでも自分がいちばん劣っているのでは……という劣等感が義雄にはあった。写真は好きなのだが不器用なので、いつも露出が白かったり黒かったりでうまくいかない。女学生を撮らせてもらったのに、顔がまっ白ののっぺらぼうではプレゼントできない。 「どうだいカメラのほうは。撮ったものを一ぺん見せろよ」  父親に催促されても、 「そのうちに傑作を撮ってみせるよ」  としか答えられなかった。  東京のカメラ機材店の、開店何周年かの記念作品募集に、こっそり応募したことがあった。三条中学校の堀のある風景で、これが入選した。天下をとったような気分になったことは言うまでもない。アマチュアクラブの「三光会」の大人たちよりも、おれの腕前がいいのだと自慢したくもなった。  そうなって当然なのに、しかし後年になって彼は、そのことを思い出すだけでも顔がぽっと赤らむほどの、羞恥心をおぼえたのである。彼は、こんなふうに言う。 「あれは作品が良かったから入選させてくれたわけではない。田舎少年が郵送してきたものだから、甘い点をつけてくれたんでしょうね。そのことが自分が写真家になって、コンテストの審査員もやらされるようになって、はじめて気がついたんです。審査する場合、上位は別として平入選は、作品主義だけで審査するわけにはいかんのです。やはり主催者側の商業ベースというものを、考慮してやらなくちゃいけないこともあるし、全国の応募者ががっかりしないよう満遍なく入選させること、老人や子どもの作品でも大いに激賞してやらなくちゃいけない……なんてこともありますでしょう。中学時代のわたしのも、そうだったんだと思いましたね」  このように渡辺義雄はつねに謙虚であると同時に、自分の作品を卑下することに終始するのだ。それが少年時代の作品であっても、彼自身は容赦しないのである。 (二)  大正十四年春、十八歳の渡辺義雄は上京、当時三年間のみの小西写真専門学校(現在の東京工芸大学)に入学した。関東大震災後の復興がすすめられているときであり、当時、新潟から上京するには信越線一本しかなく、十六時間を要した。  写真家になりたいという、燃ゆるがごとき志があったわけではなかった。  彼には二人の親友があった。一人は漁業会社関係者の息子で、その家業を継ぐため上京し、東京水産講習所をめざすという。もう一人は農家の息子で、やはり家業を発展させるために東京農大に進学するという。  かくのごとく親友たちには上京の確固たる目的があるのだが、五男坊の義雄にはまったくない。受験雑誌をめくっていたら小西写真専門学校が学生募集をしており「そんなら写真術でも習ってみるか」という気になったのであり、入学はあくまでも上京したいための口実のようなものだった。  この学校は写真材料商の「小西六」の社主の杉浦家が経営していた。同社は「写真月報」も刊行していた。義雄は第三期生である。入学定員は五十名だったが、三年間在学して卒業するときには、中途退学が多くて半数に減っていた。  第一期生、第二期生もそうであったが、卒業生の大半は地方の営業写真館主の息子で、その家業を継ぐため再び帰郷していった。  写真学を講義していた教授の秋山轍輔が、芸術写真に興味をもっている在学生たちを集めて「撮影部」をつくっていた。個人的な作品を批評してくれるし、佳作であれば「写真月報」に発表させた。秋山はその編集もやっていたのだ。おかげで義雄の作品も秋山の眼にとまり、掲載された。  当時——大正末期から昭和初期にかけての写真界には、日本写真会および東京写真研究会という二つの大きな潮流があった。前者は福原信三が主宰して資生堂がバックアップし、後者のほうは小西六が後援して、秋山轍輔がその会長を兼ねていた。だから「写真月報」に作品が発表してもらえるのは、潮流のひとつに乗れたのを意味する。  義雄にはしかし、それでもまだ何をやろうという目標はなかった。機械的に学校にかよっているにすぎず、三条へ帰って営業写真館を創業したい情熱も湧いてこない。卒業期が近づいてくると、新宿百人町にあった陸軍科学研究所にはいるだろうと見られていた。  地方へ帰って写真館を継ぐ意志のない卒業生たちは、写真技術を必要としていたこの陸軍科学研究所・技術本部、あるいは小西六とか製造会社に入るからで、目標のない義雄も結局は、そこへ流れ込むしかないだろうと思われているのだ。  目標はないがしかし、義雄はそこにだけは流れ込みたくはなかった。軍隊式の規律ある生活を強要されるのが性に合わないのだ。軍人は嫌いである。 「犬も歩けば棒に当るだ、オリエンタル写真工業に見学にゆかないか。どうせ暇をもてあましているんだろう」  重役を知っているという学友に誘われ、義雄は中野区落合に出かけていった。この会社はかの渋沢栄一が出資者を集め、大日本麦酒の植村澄三郎が社長を兼務している、小西六とともに日本の二大写真企業。オリエント乾板で有名である。  スタジオがあって技師長の菊地東陽が、従業員の女性をモデルにして、撮影するところを見せてくれた。義雄は唖然となって見つめていた。学校では十二通りの、基本的な照明技術を教えられてきたが、菊地のそれはそんなものではない。反射板、ヘッドスクリーン、サイドスクリーンを駆使してモデルに微妙に変化する光線を当てる。そのみごとさに感嘆して、義雄は見とれてしまったのである。  菊地はその場で現像してみせてくれた。  写真芸術のきびしさ、美しさというものを義雄は、いまはじめて知る思いになった。言わく言いがたい感動とファイトが、彼の全身を熱くした。目標がないなどとほざいていた自分が、井のなかの蛙に思えてきた。眼からウロコが落ちるとはこのことだった。何がなんでもおれは写真と格闘してみせるぞ、という気にさせられたのである。  もし見学にいかなければ彼は一生、写真と縁のない人生を歩くことになったかもしれない。予期せぬ岐路であった。「卒業と同時にこの会社で働かせてもらおう」と決意したのだ。見学をおえて数日、彼は熱病に冒されたような、とろんとした顔になっていた。 (三)  渡辺義雄はオリエンタル写真工業の、写真部に配属になった。サラリーは五十円。高田馬場の下宿屋から私鉄西武線で通勤した。昭和三年、二十一歳である。  ガラス乾板試験塗り製品の製品化の前におこなう、重要なテスト撮影が主な仕事だったが、四年後に宣伝部に転属になった。  その前年のある日、工場長から、 「社長からの話だが、長岡の写真館に婿に行かないか」  という話があった。館主は社長のアメリカ時代の友人で、上京してきているから会えとのことだった。二度ばかり会った後、一度長岡へ来て娘とも会ってくれといわれた。義雄は写真をやるにはやはり、東京にいなくてはいけないと思っていたので、長岡で暮らすなど、考えてもいないことだった。会ってから断わるのでは相手にわるいと思ったが、工場長も休暇の手続きをしてやるから行けという。仕方なく行って会ってみると、まぶしいくらい色白の美しい女性だった。しかし、どうしても長岡に住む気はしない。ついに勇気をふるって断わったが、それが良いことか、悪いことかわからなかった。けれどこのことが後年、会社を辞める原因のひとつにもなったのだった。  昭和六、七年ごろ松屋デパートが募集した「中型ゆかた模様」に、義雄は活動写真部にある長いフィルムを巧みにデザインし、写真図案にして応募したところ、モダンで涼しげな柄模様だと評価され、特選受賞となった。その作品が「アサヒグラフ」に発表されたが、自分のデザインしたゆかたを着たいための制作応募だった。  宣伝部では小西六の「写真月報」に対抗して、月刊「フォトタイムス」と「オリエンタルニュース」を刊行しており、義雄はその編集に参加させられた。これは彼にとって幸運なことだった。新しい感覚の写真雑誌にすべく彼はがんばり、そのための写真を撮ることで彼個人のプラスにもなったのだ。  いうなれば「フォトタイムス」は彼の作品の発表舞台になったのであり、表紙を飾ったそれら作品には瞠目すべきものがあった。『椿』や『お茶の水駅』などは初期の代表作と絶讃されるまでになる。  その画面はモダンで知的で、精密をきわめていた。多くの写真家たちは被写体をとりまく雰囲気を大事にし、その雰囲気のなかでの被写体の存在を主張するが、渡辺作品は被写体そのものしか見ない眼でとらえ、その存在が写されていない雰囲気までも浮びあがらせるのである。  少年時代に椅子を写生させられたときの、平面にいかに立体的に描くか——彼は写真でもそれのみを追求しているようである。写実主義に徹したドイツ官学派の画家たちの、あのしたたかなまでの手堅さ、精密さ……それが初期の渡辺作品にも感じられてならない。  こういう分野は渡辺義雄の、冒頭で述べた「角」のほうであり、一方で彼は「丸」の仕事もしていた。  やはり「フォトタイムス」に都会生活を活写する『レビューを見る』『銀座パレス』『フロリダ・ダンスホール』などを発表した。『レビューを見る』は水の江滝子らがいた浅草松竹歌劇団の踊り子たち、『フロリダ・ダンスホール』ではモガ・モボ時代の、夜のネオン街を彩るダンサーたちである。  昭和八年、若冠二十六歳の彼は初の個展『舞台写真展』を東京宝塚劇場地下ホールで開催した。前年の宝塚劇場のコケラ落としを撮りまくったときのを食堂とロビーになっている地階の壁に飾らせてもらったのだ。それらの作品には才気があふれていて、はやくも彼は新進気鋭の写真家である。翌九年には決然としてオリエンタル写真工業を退社、「フォトタイムス」から離れフリーとなってオリエンタル写真学校出身の田村茂を助手にして、銀座五丁目の並木通りに渡辺スタジオを開設した。当時、実家はすでに没落していたので、「角」に専念するだけでは生活できないので、「丸」の仕事にも精進しなければならなかった。  宝塚劇場のズカガールたちを撮るよう東宝から依頼され、名取洋之助の日本工房の作品を現像する下請け的な仕事もやった。秦豊吉が責任者になっていた日劇の、ダンシングチームを撮る「日劇アルバム」も担当した。その踊り子の一人に丹下キヨ子がいた。つまり、このころの義雄は芸能誌カメラマンを兼ねていたのである。  六歳年長の木村伊兵衛との交遊もこのころにはじまるが、義雄がもっとも意気投合していたのは関西在住の小石清である。小石が上京してくるといつも、ともに酒豪だからハシゴ酒になった。「銀座の女給は言うにおよばず、芸者を相手に大いに遊んだ」ものだった。それは迫りくる戦争の陰鬱な時代への、はかない抵抗でもあった。木村伊兵衛も同じく銀座五丁目に、原弘、岡田桑三の三人で中央工房を設立していた。  義雄がもっとも尊敬していたのは、ニューヨーク芸術を身につけている中山岩太であった。昭和十一年に国際報道写真協会が発足し、日本の海外PRのための仕事をすることになった。  サンフランシスコ万国博の日本会場に飾る大壁画写真を制作するスタッフに加えられた義雄は『日本のサラリーマン』を、中山が『日本の女性』を担当した。  水着姿の撥刺《はつらつ》とした日本女性が飛び込むダイナミックな中山作品を見せられて義雄は、その感覚の斬新さにシャッポを脱いだ。義雄には私淑する写真家はいなかった。写真専門学校時代に「中山岩太を紹介してやろう」と言ってくれる人がいたが、会いにいってみたいとは思わなかった。が、一緒に仕事してみてその作品に、改めて刮目《かつもく》したのだった。  木村伊兵衛とは中国の上海から南京へ三十日間、日中戦争中に一緒に撮影旅行した。外務省の依頼であり、日本は侵略戦争をやっているのではないことの宣撫工作写真を制作させられたのである。  満鉄に招待されて義雄は四人の日本報道写真協会の会員を引率して、満州旅行もした。そのカラー写真の『満州国』展を、東京新宿の三越デパートで開催した。太平洋戦争中は海軍工廠ではたらく徴用工のための教本づくりもやらされた。しかし、義雄自身が戦時中になした「最高の仕事」だと自負するのは、それら大壁画写真でもなければ宣撫工作写真でもない『文楽』であった。  大阪の四ツ橋の文楽座や新橋演舞場に彼は、時間をさいてはかよいつづけた。松竹歌劇団の踊り子たちを撮っているころに、たまたま文楽を観て以来、とりつかれたのだ。踊り子たちの生身の女のリズム感もさることながら、三人の使い手によって感情移入される文楽人形の、笑ったり悲しんだりがすばらしいのである。  義雄はこの『文楽』の英語版を昭和十五年に、日本語版を昭和十七年に筑摩書房より上梓している。だが、これも対外宣伝用という軍部の許可を得て、出版できたのだった。  この時期、義雄より二歳若い土門拳もまた苦労しながら『文楽』を撮りつづけていた。挙国一致、尽忠報国の戦争中に文楽人形や仏像を撮りつづける彼は、非国民よばわりされて、その『文楽』は戦後にならなければ発表できなかった。期せずして同時代の二人が文楽撮影を「最高の仕事」にしていたことは意義深い。ただし、当時の義雄は、土門拳が文楽に夢中になっていたのをまったく知らなかったという。 (四)  昭和二十三年春、渡辺義雄は四十一歳にして結婚している。たいへんな晩婚である。  新婦になったのは十二歳年下の、東京生まれの竹山芳子さん。義雄の戦後は、この時点からスタートしたようなものである。 「戦前は〈人生五十年〉と言われてましたでしょう。それに戦争中になると、いつ死ぬかわからない日々でしたから、結婚しても仕様がないという気持だったんですね。戦後になるとこんどは、永く生きなければ損だに変わってきた。それじゃ結婚するか、と思い直して見合結婚したんです」  と当人は苦笑するが、長岡の新潟美人との結婚を断わってこの方、二十年間も家庭を持ちたいとは考えず、彼は写真との格闘をつづけてきたのだった。新婚家庭は西荻窪の、焼け残った古いアパートの一室。  やがて芳子さんは一男一女の母親になった。妻子ができればなおのこと、お金になる「丸」のほうの仕事をバリバリやって生活費をかせがなければならないと、だれもが考える。ところが戦後の彼は「角」の仕事しかやらなくなった。  戦後の食糧難とインフレはものすごく、土門拳もヌードを撮って生活費をかせぎ、木村伊兵衛とてそのために意に染まぬ作品を量産しなければならなかった。社会派のリアリズム写真とエロティシズムを謳《うた》うヌード作品が幅をきかせた時代だった。写真家も図太くならなければ食ってゆけない。  なのに義雄は、四十歳をすぎて父親になったというのに、そのためにカメラを手にしようとはしなかった。木村と土門が写真界の主流になり、カストリ雑誌を舞台に杉山吉良が寵児となり、秋山庄太郎、林忠彦、大竹省二らが新進として台頭しているというのに、技術資料刊行会の依頼で進駐軍住宅を撮ったり、貿易研究会の輸出向け工芸品類のカタログ写真といったような、まったく地味な、フォトジャーナリズムには迎合されない仕事を、あえてつづけるのだった。  昭和二十四年、義雄は『皇居』を出版している。『天皇と皇居』展を日本橋の三越で催している。皇居前は、GIとパンパンガールが淫らなことをする場所と化し、世上には天皇批判の声が充ち、主権在民の時代になりつつあるというのに、まるで彼は意識的に逆行しようとしているかに見えた。  何事においてもアメリカ感覚が絶対的なものになり、天皇とか皇居とかは古めかしいものとして庶民は拒絶反応さえおこしている。そうとわかっていながら彼は、なぜカメラを向けたのか。  渡辺義雄は、いともかんたんに言う。 「ヌードを撮る人も、社会派リアリズムを唱える人もおりました。わたしはそれらから眼をそむけたわけではありません。他人と同じ題材を追いかけても仕様がないじゃないか。自分独得のものを撮ればいいんだ、と思っただけなのです」  売れっ子写真家にはなろうとせず、自分から写真界の「カヤの外」に出ていったのだ。無欲の人になっていたのである。  昭和二十五年、彼は日本大学芸術学部写真学科講師に迎えられ、助教授、教授にすすむがそういう無欲の人柄を買われて、三十三年には木村伊兵衛のあとの日本写真家協会会長に推挙された。  それでも彼は「カヤの外」での仕事をつづけた。『勧進帳』『ある日の志賀直哉』『桂離宮』『京都の古建築』『日本の舞台』『ソ連拝見』『イタリアの旅より』『国立西洋美術館』などがあり、しだいに建築写真家と見なされるようになるのだった。  いま彼はぼくに対して、 「みんなと同調してやるべきだったかもしれません」  と、相すまぬ表情でふと洩らした。しかしながら当時の彼は「自分独得」の世界を築くためには「カヤの外」にいるしかなかったのであろう。  昭和三十七年に彼は文部省に、著作権法中の写真に関する条文改正の要望書を提出して、四十五年まで全写真家たちのための著作権運動に奔走し、写真界全員、特に日本写真家協会の若い人たちの協力によってついにそれを承諾させた、そこまで努力したのは「カヤの外」にいることを詫びてだったのではないか。ぼくはそのように解釈した。  その努力はしかし、写真家としての彼自身にはマイナスになりこそすれ、プラスにはならなかったのではないか。しばし彼は沈黙し、 「著作権問題に首を突っ込んでいるあいだ、そんなことをやる暇があるのなら、一枚でも多く撮ったほうがいいんじゃないか、と言った人もいましたがね。いまでは会員たちによろこばれているんですから、わたしとしてはやはり、この問題に全力投球してよかったと思っています。  時代とともにジャーナリズムも流動しますのでね。下手な渡辺なんかに依頼するより、若手に撮らせたほうがいいと言う編集者も出てきました。だから、昭和三十六年ごろからはグラビアの仕事から遠ざかりました。自分自身、若手たちとグラビアページを取り合って仕事するのはどうも……と遠慮する気になったんですね。  わたしは大学で長いあいだ教え、若い人に接していたので、若い人たちを伸ばしてやるには、自分がひきさがるほうがいいという気持もありました。それよりも自分のものをやればいいんだと。写真家のなかには『おれについてこい、そしておれを追い抜け』と言う大家もおります。しかし、わたしは教育者の立場なんだから、それではいけないとも思っていましたね」  だが結果的には、そのように一歩、身をひいていたのが賢明だったのである。 (五)  アメリカナイズされてゆく戦後の時流に乗って、はなやかに忙しく他人をおしのけてでも仕事をしたバイタリティのある人たちのなかには、疲れはてて脱落したり、才能の切り売りをやりすぎてすっかり枯渇してしまったのもいる。だれも恨むことはできぬ、悲劇というほかはない。  それとは対照的に渡辺義雄は一銭の収入にもならぬ厄介な著作権問題と取り組みながらも、遅々ではあるが「自分独得」の仕事をしてきたのがよかったのだ。いまや彼は建築写真家の第一人者である。この分野の作品で右に出るものはいない。  昭和三十四年の五十二歳のときから、五十四年の七十二歳までのまる二十年間、ふりかえってみればその作品群たるや、厖大な量になっていたのである。『日本の寺』全三巻と『日本のやしろ』全二巻を美術出版社から、『伊勢—日本建築の原形』を朝日新聞社から、『伊勢と出雲』『伊勢神宮』を平凡社から、『東宮御所』『宮殿』『迎賓館』を毎日新聞社から、『奈良六大寺大観』全六巻、『大和古寺大観』全三巻を岩波書店から、『神宮と伊勢路』を集英社から、いずれも豪華本で出版しているのだ。  昭和五十三年には勲三等瑞宝章を受章。『伊勢神宮』は四十九年度の毎日芸術賞を受賞している。  ——建築写真の魅力はどこにありますか? 「人間が創ったいちばん大きな空間、人間の創作した意匠。その意義を表現することにあると思っています」  ——最高に魅せられた建物は? 「やはり、桂離宮ですね」  ——あなたの作品と入江泰吉さんの世界とを、どう区別して鑑賞すればいいでしょう。 「入江さんは自然のなかにある社寺仏閣を、美術的に撮っておられますね。それを基調にしておられるので、雰囲気があってやわらかく一般受けがするし、わたしも感嘆しています。が、わたしのは建築学を応用して建てられた空間……その調和を撮っているんです。ですから、いかにも堅くて一般受けもしませんね」  ——建築写真の場合、視点をどこにおくことが大切なんですか? 「多くの建築写真の視点は、人が立って見るのより低くしてあります。仰ぎ見る感じですね。そうすると設計上の図面的になるし、これが原則的な美しさとなって、専門家たちにも評価されます。しかし、わたしの場合は、たとえば迎賓館の外観でも内部でも、わざと立っているときの眼の位置から撮影しています。つまり、一般の参観者は立っていてそのものを鑑賞しているわけだから、そうするのが正常の状態で見せることになります」  それだ、そこに渡辺作品の秘密があるのだな……と納得してぼくはいちばん知りたかった点をつかんだ気になり、帰宅して改めて『宮殿と迎賓館』『神宮と伊勢路』をひもといてみた。  彼の言ったとおりであった。どの被写体も確かに、人間が立っているときの眼の高さからとらえられていた。同時に、たとえば伊勢神宮の外宮や内宮にしても、それらは「神々《こうごう》しいもの」「高貴なもの」「おそれ多いもの」としては撮られていないように見えたのだ。  ぼくにとっては、それは救いでもあった。皇居、迎賓館、神宮などを神域化しがちな写真にはうんざりさせられるからである。それらにくらべるとまさに渡辺作品は、あくまでもクールで「建築学を応用して建てられた空間」であるところがいい。  さらにもうひとつ、渡辺作品から感じとれるものがぼくにはあった。彼が語ってくれた二つのエピソードを思い出したからである。 「皇居内の豊明殿や春秋の間を撮りにいったとき、画面の下半分は敷かれているじゅうたんにしたのです。『なんでじゅうたんをこんなに大きく撮るんだ。もっと全体を見せるべきじゃないか』と言われるかもしれませんが、ここは国賓や招待者がきてパーティがおこなわれるところでしょう。このじゅうたんの上でグラス片手に、高貴な男女たちが社交するわけですが、踏まれるじゅうたんの気持はどんなものか、それを出したかったんです」 「戦争中の昭和十八年、海軍工廠の教本づくりをやらされているときに、群馬県太田の中島飛行機製作所へいって写真を撮りました。帰りに水上温泉に招待され、牛肉なんか手に入らないときなのになんと、すき焼きをご馳走してくれたんです。ところが、その温泉旅館は東京の学童たちの疎開宿舎になっていて、腹をすかしているかれらが、すき焼きの匂いを嗅ぎつけて廊下に群がってきたんですよ。ああ、おれは悪いことをしている、と自分が厭になったものです」  それを言う彼の丸い顔は、いまなお当時のその光景を思い出すらしく、まるで大罪を懺悔しているかのようであった。  ぼくが渡辺作品から感じとったもうひとつのものとは、作品の随所にひそんでいる、この二つのエピソードに象徴されるナイーヴな視線なのである。クールにとらえた「建築学を応用して建てられた空間」のなかに、それが存在するのだった。  昭和五十六年、渡辺義雄は四半世紀つとめた日本写真家協会会長の座を、三木淳氏にゆずった。雪深い新潟は三条の「山与」の五男坊もいま七十六歳。ますます丸くなりながらも四角張ったものを撮ってゆく。これから奈良の寺々の撮影にかかるのだという。(昭和五十八年十月取材) [#改ページ] あとがき  昭和元禄時代を震撼させた過激派学生たちの、群像とそのショッキングな大事件を『小説連合赤軍』と題して「週刊文春」に一年間連載し、完結してほっとしていた昭和四十八年の晩春。林忠彦さんから電話がかかってきた。季刊誌「ロッコール」を復刊させる編集長の玉田顕一郎氏を紹介された。林さんはこの連載を読んでおられたらしく、ドキュメントタッチでプロ写真家たちの生きざまを書いてみないか、ということだった。  わたしは絵画鑑賞には多少の自信はあったが、写真界のことは何も知らない。不器用だからカメラもうまくいじれないので、写真芸術論や写真家論などを片っぱしから乱読してみた。正直なところ、どれも硬直すぎるし、難解なものもあった。 「写真家だって人間なんだ。人間を描けば、おのずと作品の秘密も現われてくるはずだ」  と思い、自分なりに挑戦してみる気になった。  人選とセッティングはすべて玉田氏に一任、秋山庄太郎さんからスタートした。以来、そんなに長くなるとは思ってもみなかったのに、渡辺義雄さんまで四十一人、まる十年の歳月になってしまった。枚数にして千四百枚以上。「これは私がとらえた写真家たちの昭和史になりうる」の意欲が出てきたのは四年目ごろからだった。なかには視点が気にいらぬ写真家もおられるようだが、わたし自身はいろんなタイプの写真家たちに接する機会を得、人生勉強をさせてもらえたよろこびを多としている。何回かの旅に出ることもできた。  たった一つ残念なのは、木村伊兵衛さんを「撮る」チャンスがなかったことだ。つぎに登場してもらう予定で会うには会ったのだが、その日は木村さんが風邪気味。来週また改めて会う約束をしてくれたが、数日後に急逝されてしまったのである。最初にして最後の出会いだった。  それぞれの写真家たちの過去には「脇役」として登場する人物が何人もいる。それら「脇役」たちのなかに興味をおぼえさせられる個性的な人物もいた。いつの日か、わたしはそれらの人物について取材し、描いてみたいとも思っている。とにかく、わたしには有意義な、価値のある十年だった。小堺 昭三 著者略歴  小堺昭三(こさかい・しょうぞう) 昭和三年、福岡県大牟田市に生まれる。週刊文春ライターを経て文筆活動に入る。昭和三十五年『基地』で芥川賞候補、「文学者」同人。現在、昭和史を核にした骨格の太いドキュメンタル・ノベル、及び企業小説等で活躍。政財界の情報通でもある。  主要作品に、『破天荒一代』『企業参謀』『赤い風雪』『けむりの牙』『財閥が崩れる日』他多数。 『カメラマンたちの昭和史 写真家物語』 一九八三年十二月十日初版第一刷発行