[#表紙(表紙7.jpg)] カメラマンたちの昭和史(7) 小堺昭三 目 次  川田喜久治「美に逆らうもの」  芳賀日出男「祭りが呼んでいる」  須田健二「江戸っ子の愛と哀」  今井寿恵「馬を愛する女人」  堀内初太郎「極道が撮る荒地」 [#改ページ] 川田喜久治《かわだきくじ》 「美に逆らうもの」  昭和五十四年四月から五月にかけてニューヨークにおいて、日本の現代写真家たちの、代表的な作品を紹介する『自写像日本』展が開催された。元カメラ毎日編集長の山岸章二氏が労をとり、濱谷浩、三木淳、東松照明、奈良原一高氏らが選考委員となって、十九人の写真家たちの作品を推薦している。  川田喜久治さんの作品も加えられていて、そのなかでも一点、わたしには理解しがたいのがあった。ブルーのTシャツ姿の男が、鎖状の織り模様がある女のストッキングをすっぽり顔にかぶっているので、人相は変わっているがこれは川田さん自身なのである。  どう見てもアメリカ映画に登場する銀行ギャングのスタイルで、コンクリート壁に蔦《つた》かずらが這っているのが背景になっている。まさかギャングを演じておもしろがっているわけではあるまいし、 「これにはどういう意味があるのですか」  ぼくはご当人に短刀直入に質問してみたのだが、見てのとおりですよと言わんばかりの表情で何も答えてくれない。理解できないやつには理解できなくてもいい、無理にわかってもらおうとは思わん……そう突っぱっている態度にも見えなくなかった。  絵画にしても文学にしても、そういうのはありがちなことだ。おれにいちいち訊くな、見てのとおりだ、と不機嫌になってしまう自尊心のつよい画家がいる。読んでわからんようなやつは相手にしたくない、と軽蔑する小説家だっている。  それにしても……とわたしはなおも首をひねるしかない。歪める現代への闇の挑戦者、秩序の破壊者、あるいは孤独なテロリストのイメージをかきたてているのだろうか。それとも、そうしたアウトサイダーの狂気をえぐり出そうとしているのか。しつっこく質問すればかえって、ぼく自身の頭の粗雑さを露呈してしまうことにもなりかねないので、そのまま黙らざるをえなかった。  もうひとつ、今年の「アサヒカメラ」三月号に『LOS CAPRICHOS』なる十点を彼は発表している。超高層ビルの頭上に髪のかたちに八つ手の葉と花が繁っていたり、どろどろしたピンク色の化学製品の粘膜みたいなものが掌から落ちそうになっていたり、マジックミラーに都会の通りが写っていていびつになっていたり…… 「これには都会生活の、不安みたいなものが切りとられている気がするんですが」  ぼくが自信なげにそう言ったら、 「そう見ていただければそれでいいんです」  言葉すくなに川田さんはうなずいた。  ほんとうにそれでいいのかな。気になってぼくはあとで、その号に彼自身が「私の視角」と題してこれらの作品について書いている一文を読ませてもらったが、こんなふうになっていた。 「かりにフランシスコ・ゴヤが使った望遠鏡で写真を撮ったら、何があらわになってくるだろうか。そんな妄想にとらわれて八年。ゴヤの望遠鏡とはロス・カプリチョス=気まぐれとも、ロス・ディスパラテス=妄ともいわれる意識の網をめくるようなデモンの世界、グロテスクな光景、諧謔の矢、日々のクライシス、ファンタジーなど、狂気と理性の混ざりあいを見せてくれる、私の気に入った道具なのです。のぞき方によっては、強い現実体験と黒い未来とが交互にあらわれるので、その中から、感性のことばを抜き取ることが興味ある作業となります。しかし、この望遠鏡は恐ろしいことに私の眼を食べつくそうとしています」  読みおわってぼくは、 〈川田さんって大変な世界に踏みこんでいるんだなあ。そして、しんどい仕事を好きこのんでやって自分をいじめている人なんだなあ〉  溜め息つきながらそう思った。正直なところ、この人を書かねばならぬぼく自身、しんどいことになりそうで気が重くなってきた。  写真評論家の福島辰夫氏が、川田喜久治自選作品を特集している「カメラ時代」(昭和四十一年十月号)で、 「いつも無心にニコニコと笑いながら、人をいれまいとしたら絶対に入らせない韜晦《とうかい》術の天才である彼、さまざまな事情にいつのまにか精通していて、かつ、猫が前足を一歩ふみ出すときのように慎重に、つぎの瞬間には獲物に爪をたてている彼、底意地のないジョークといたずら、広範囲にわたるシツヨウな読書家——こうした、いわば昼の表皮で反応する彼と、夜の表皮で感応する彼が同存する」  と、いくぶんもてあまし気味に描写しているが——とにかくぼくにとっても、これまでの写真家たちとはいろいろの意味で、ひと味もふた味もちがった人であった。 (一)  人間だれしも木の股から生まれたわけではないし、生まれ故郷の山河や育った環境がその人の作品に大きく影響している——というのがぼくの持論なのだが、その持論からも川田さんははずれていた。  彼は昭和八年の元日に出生したことになっているが、ほんとうは昭和七月十二月三十日か三十一日なのだそうだ。元日のほうがめでたいので、父親の喜七さんの届出がそうなったのだろう。生出地は茨城県土浦市、霞ケ浦のほとりである。  喜七は染物屋から米屋に商売がえし、姉一人、兄一人がいる末っ子の喜久治少年が物心ついたころには鮮魚類の冷凍事業をやっていた。何度も商売がえしたからといってはげしい浮き沈みがあったわけではなく、家庭は平穏そのものだった。  霞ケ浦のほとりといわれるとぼくは反射的に、潮来の牧歌的な風景や筑波山の美しさ、ワカサギをとる帆かけ舟を風物詩として思いうかべるが、川田にとってはそうした故郷の光景はあってなきがごときもののようである。少年時代の彼は店の前にたたずみ、表をゆく大人たちや遊んでいる女の子たちを、終日ながめているだけでたのしかったという。  通る人の背中を見ていると、その人の全生活が子供ごころにも察せられたという。ながめていて空想をふくらませるのが好きな、どちらかというと孤独な少年だったようだ。いまでも彼は「銀座通りに椅子をおいてそれに腰をおろし、ながめていてよいということであれば、何日でも退屈しない」そうだ。  写真家になってからの彼は「風景だけ撮っていても人間を撮っているつもりだし、人間を撮っていると逆に、人間そのものが写ってないように感じられる」ようになったのも、そうした特異な眼が少年のころからあったのだろう。  太平洋戦争中、土浦には写真評論家の渡辺勉が、川田家から千メートルとはなれていないところに疎開してきていた。前出の福島辰夫も東京から逃げだしてきていた。この二人が川田家の前を通ったことが何度もあり、たたずんでいる川田少年を見かけたこともあっただろうが、もちろん当時はお互いに知るよしもなかった。  戦争が熾烈になってくるにつれて、土浦は軍隊の町に変わっていった。あの霞ケ浦海軍航空隊があり、予科練や予備学生たちが続々と集められてきたからだ。そして、ここは特攻隊のための訓練基地にもなったが、もっとも川田少年の眼にやきついているのは紅顔の予科練の雄姿であった。  夏は純白の制服、冬は濃紺の制服、つねに桜に錨の七つボタンが胸にかがやいており、腰の短剣がピカピカに光っていた。川田少年は表通りをゆくかれらにいつも、熱い羨望のまなざしを向けたものだった。かれらがいるかぎり神国日本は負けないと信じていた。  かれらは数人ずつ、民間の家に宿泊することもあった。それを庭づたいに見にゆくときの川田は胸のときめきをおぼえた。士官用の短剣にさわらせてもらったり、声をかけたりしてほしかった。日の丸の鉢巻をしめて凛々《りり》しい飛行服姿でゼロ戦を操縦し、純白のマフラーを風になびかせて敵航空母艦にむかって体当りを敢行、万朶《ばんだ》の桜と散ってゆくかれらを空想するときの川田には、これ以上の華麗なるものはこの世に存在しなかった。  だが戦争が末期症状を呈してくるにつれて、彼の夢とあこがれは無残に打ち砕かれてしまった。特攻隊に志願させられたかれらが、町へ脱走してくるのを見た。隠れていたかれらは発見されるとワアワア泣きだし、 「おかあちゃん、おれは死にたくないよォ」  必死に哀願するがつれもどされていった。  ある昼間、川田は防空壕内にひそんでいる一人を見つけた。もはや逃げ場がなく、短剣を抜いてのどを刺し、自殺しようとしているのだ。ところが、いつもピカピカだった短剣の中身は赤く錆びているし、のどを突く勇気すらなくガタガタふるえているではないか。  川田少年は、生つばを口にためて見守っていた。華麗であるはずの特攻隊員はおろかしく哀れであり、情けないほど醜かった。彼の脳裡にある偶像はこなごなに砕け散った。 (二)  悪夢の戦争はおわった。  川田喜久治は土浦中学から、東京池袋の立教高校へ進学した。このころ父親に買ってもらったセミパールをいじっていた。とくに写真が好きだったというわけではない。  立教大学経済学部に入学したのは、ちょうど朝鮮戦争がはじまって日本が、動乱ブームを迎えていた昭和二十六年春である。  写真部の学友たちと伊豆長岡温泉に遊びにゆき、たまたまお座敷帰りの、島田まげにお座敷着姿の粋な芸者とすれちがってレンズをむけた。和服姿にひかれて撮ったにすぎないのだが、この作品をアルス「カメカ」に投稿したらいきなり特選になってしまった。審査員である土門拳と木村伊兵衛両氏の作品評が出ていて、 「客観的描写力がすぐれている」  とあった。  好評でもしかし、川田自身にはまだピーンとこなかった。客観的描写力といわれても、カメラには長いレンズと短いレンズがあり、それをうまくとりかえると客観視できる。ただそれだけのことであってレンズの選択によるものだ、と思っていたからである。  本格的に川田がカメラをいじりはじめたのは、学生生活の後半からで、変貌してゆく池袋の街の記録や、農村の記録などを撮った。オンリーや混血児がいる『立川基地の子たち』を撮って再度アルス「カメラ」に送ったらまたまた特選になり、あとで知ったことだがその作品を三木淳氏も激賞してわざわざ、 「活《い》きのいい新人が出てきましたよ」  と土門拳に言いにいってくれたそうだ。  当時、桑原甲子雄がアルス「カメラ」の編集長で、土門拳と木村伊兵衛を囲む新人座談会を企画し、川田も列席させてもらった。はじめて拝眉の栄に浴したのである。それからは土門拳の弟子のように見られたが、川田自身は師として仰いでいるつもりはなかった。  写真でめしを食いたい意欲もなかった。彼は母親のモトさんに「牛を一頭買ってくれ」とねだっていた。大学を卒業したら土浦に帰り農業をやりたい、そんなのんびりした暮らしがしたい、と本気で考えていたのだ。  一方では大学院まですすみ、ゆくゆくは助教授にでも、と望んでいた。  昭和三十年に卒業、彼は大学院への道をえらんだ。だが、大学院ともなるとこれまでのような勉強ではついてゆけない。悲鳴をあげる毎日になった。 「新潮社が週刊誌を出すそうだ。写真部員を募集しているらしい」  この情報を耳にしたのは、大学院へかよいはじめて三カ月めであった。週刊誌は新聞社にしか出す機能がないと見られていたのが、出版社でも刊行しようという風潮になりつつあったのだ。  とたんに川田はジャーナリズムの仕事に没頭してみたくなり、紹介してくれる人はいなかったが、これまでの作品をたずさえて新宿区矢来町の新潮社をたずねた。まさか、これがプロカメラマンヘの第一歩になろうとは思ってもみなかった。  副社長の佐藤亮一氏と「週刊新潮」の発刊準備をすすめていた麻生吉郎氏が面接してくれた。発刊予定は来春とのことであった。  川田はたいそう好運だった。  翌日にはもう採用通知がきた。  新潮社にはまだ写真部はなく、必要な場合はプロ写真家に撮影を依頼していた。新聞カメラマンの経験があるものとか、プロでなければ採用されないのではと心配していたので川田がそう言ってみたら、佐藤氏が「いや、経験のある人はいらないのだ。何も知らないズブの素人のほうがいい。すべてが新しい週刊誌なのだから」と笑っていたという。 「もし、採用されていなかったら、あるいは訪問が一日おくれてすでにほかの人の採用が決定していたら、あなたは写真家をめざさなかったかもしれませんね」  ぼくが訊くと川田は、いくぶん肩をそびやかす感じになってこう答えた。 「いやあ、新潮社に入社できなかったとしても、いずれはめざしていたと思いますよ」  川田は大学院を中退、新潮社にかよいはじめた。初任給は九千五百円。写真部員は彼と小島啓祐氏の二人きり。小島氏は現在も新潮社にいて写真部長になっている。  川田は「週刊新潮」の初仕事が何であったか記憶してないという。とにかく、入社した翌日からカメラをかついで外へ飛び出していって、記事中写真、グラビア、カット写真、あるいは新聞社の写真部が用意している芸能人や政治家やスポーツ選手などの顔写真がゼロだったので、そうしたポートレートも撮りだめしていった。 「創刊まではトレーニング期間でしたから、腰をおろしているひまはなく、社に帰ってくるのが夜中の二時。それから現像をやらなくちゃならないし、社が借りてくれていた近くの旅館でうたた寝するくらいでした」  さも楽しいことばかりしていたかのように、彼は微笑した。 (三) 「週刊新潮」がにぎにぎしく創刊されたのは昭和三十一年二月だ。その前月、石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞を受賞して話題になり、若者たちのあいだに太陽族が生まれつつあった。鳩山一郎内閣の時代で、世は輸出船ブームにはじまる神武景気にわいていた。  毎週、川田はグラビアページを担当させられた。テーマは新聞がねらっているものとは異なる、長もちするものを撮って五号分をつねにストックしておかねばならなかった。  テーマの選択は佐藤亮一編集長を中心にグラビアデスクの前川康男氏、それに小島、川田の四人でおこなった。現在でもつづいている『現代の顔』はそのときからスタートし、川田は画家の梅原龍三郎氏、政治家の河野一郎氏など各界の知名士を百人以上も撮りまくっている。東京の八号埋立地や九十九里の米軍基地などのドキュメンタリーもものにした。  新聞カメラマンたちとの闘いもくりかえさなければならなかった。かれらがスピグラをかまえ、正面にあらわれることになっている被写体を待っている。その人垣のなかに割りこんでいって、いちばん前の特等席を確保するのは容易なことではない。  何とかもぐりこんで最前列に出たものの、被写体があらわれていざカメラを構えると、 「こらっ、頭がじゃまだッ!」  スピグラで頭をゴツン、ゴツンとおさえつけられてしまう。だれもが他社よりはいい角度で決定的瞬間を撮りたいのだから、そうなって当然だ。  九州旅行に出かけた天皇、皇后を川田も追ったが、例によって新聞社の猛者《もさ》たちがいちばんいいポジションを占領している。そこで川田は横へまわり窓から飛びこんだところ、運よく一メートル先に天皇があらわれたので夢中でシャッターを切ったこともある。  そのころの作品について、前出の福島辰夫は『川田喜久治論』のなかにこう書く。 「たとえば彼の梅原龍三郎について、私だったら、とくに私はこの梅原という人を、喜怒哀楽の対象として以外に見ることができない。河野一郎にしても同じことだ。憎悪にしろ、崇拝にしろ、要するに人間は人間を好悪の情なしに見ることはできない。それなのに、彼の評価を高らしめた、この梅原や、河野の写真には、そこにあるのはただ一抹の、空気のような好感、するどい技術の先端でつくられるつくり出された好意、結局は天皇の眼、皇太子の心のようなものをつくり出すしかない痴呆の視点=週刊誌の視点をもつよりは彼は……むしろ犯罪者の視点をえらんだ」  もともと「週刊新潮」そのものが——写真ぺージだけではなしに、特集記事には独自のスタイルがあってそれが読者によろこばれたし、川田の「犯罪者の視点」でとらえる作品もうまくマッチしたのだろう。  だが、彼自身には「犯罪者の視点」意識があったのかどうか。 「新聞カメラマンのストレートな撮り方ではなく、ひとひねりしたものを撮らされた。台風が吹いて荒れているそのままでなく、台風あとの残骸を撮るような。そういう物の見方が自分に合っていたのでしょう。  当時、わたしは木村、土門作品が好きでしたが、それをめざしてはいませんでした。しかし、同じスタイルのものはつまらないと思いつつも、どうしても木村、土門作品を意識してしまいました」  と、ぼくに語ってくれたが、むしろその闘いに必死の毎日だったのではあるまいか。  川田は、登山者のいないシーズンオフの富士山にのぼったことがある。もちろん撮影のためだが、写真機材はなるべく軽くしていった。現在でも彼は旅行する場合は極力そうしているが、重いものをかついでゆくと疲れてしまって、それだけでもう自分の肉体が食いあらされてゆく感じになるし、頭の働きまでが鈍ってしまう。軽装でゆくと被写体をよく見ようとする意欲もわいてくる。結果的にはそれがいいのであって、だから富士山にのぼるときもそうしたわけだが——当時の彼には「犯罪者の視点」でとらえる意識以前の、そんな苦労もあったのだ。 「週刊新潮」の成功は週刊誌ブームのきっかけをつくった。おかげで「週刊新潮の川田」も写真界では報道写真家の一員として注目されはじめ、カメラ雑誌からは寄稿依頼がくるようになっていた。  正田美智子さんが皇太子妃となった昭和三十四年になると「週刊文春」「週刊現代」「週刊平凡」「週刊公論」なども創刊されて、出版社系の週刊誌の戦国時代になった。ところが、川田喜久治はそのころにはすでに、新潮社には二年半いただけであっさり退社してしまっていた。理由は「写真部員も十人にふえましてね。すっかり軌道に乗って部員たちの仕事の分担が決まってしまうと、わたし自身に準備中だったころの張合いがなくなってきたし、仕事は同じことのくりかえしのように感じられ、自分の処女作即代表作を世に問いたい気持をおさえられなくなっていた」ためである。  川田がフリーになったと知って各週刊誌から、うちの仕事をやってくれないかと誘いがかかってきた。しかし、週刊誌の仕事をつづけるつもりはなかったのですべて固辞した。  昭和三十四年六月、川田は富士フォトサロンにおいて被爆船の第五福竜丸を取材した『海』の個展を開催した。これは「週刊新潮の川田」だったころに取材でゆき、かたわら個人の作品として撮りだめしていたものである。 (四)  川田喜久治といえば『地図』、『地図』といえば川田喜久治……とだれもが言うほどの代表作『地図』を美術出版社から刊行したのは昭和四十年八月である。これに収録した作品の大半は昭和三十五年から五年がかりで撮っている。特異な存在の作品である。  新潮社を退社してからの彼は、週刊誌の仕事は固辞したが、生活のため月刊誌「文藝春秋」「中央公論」「日本」「世界」などのポートレート、ルポルタージュなどをひきうけていた。そのあいだに自分の『地図』を撮りつづけたのである。 『海』展をひらいた三十四年には、東松照明、細江英公、佐藤明、奈良原一高、丹野章ら五人の新鋭とともに「VIVO」を結成。  この「VIVO」については佐藤明氏を書いたときにふれたが、これまでの既成作家たちの「写真芸術は個々の個性によってつくられる」時代に対抗して「集団によるひとつの個性」たらんとしたものであり、六人の収入はぜんぶ「VIVO」におさめ、平等に分配する「共同生活」をも試みたのだ。これは新しい写真運動のひとつであったが、そのあいだにも川田はコツコツと『地図』を撮りつづけていた。 「VIVO」はしかし一年後には瓦解してしまった。「共同生活」は言うはやすく行いがたしだったわけだが、川田はそんなことがあっても黙々と『地図』と取り組んでいた。  さて——そうしてできあがった『地図』だが、率直に言ってぼくには、もどかしさを感じさせられる作品である。なるほどこれは傑作だと、絶讃したくなる気持と、写真はここまで観念的になっていいのかなあ、と言いたくなるもやもやが奇妙に入りまじるのだ。 「週刊新潮」時代の彼はまるで、重機関銃を射ちまくるみたいにのべつまくなしに撮らされ、仕事を通じてかかわり合った関係も政治家から貧しき底辺までと幅広いが、フリーになってからは逆に沈黙の人になって、自己の内面を凝視して、それに対してしかレンズを向けたがらなくなってしまった。したがって作品は極端に少なくなり、狭いものになっていったが、ぼくは彼のそうした姿勢を立派だと思う。  広島の原爆ドームの壁のしみ、廃墟と化したコンクリートの巨大な要塞、原爆被爆者の皮膚、白いマフラーを首にまいた特攻隊員の遺影と遺書、制服姿の予科練のむなしき表情、無数のコカコーラの栓、軍人どもがありがたがった勲章、ぺらぺらの人絹の日の丸、女子挺身隊が旋盤で削った鉄の屑……そうしたものがローソクの明りの下で撮ったかのように暗く黒い作品になっている。 「これらはわたしの、戦争経験のモザイクだと思って見てもらえばいい」  と川田喜久治はいう。コカコーラの栓はジープでやってきた陽気な進駐軍であり、ぺらぺらな人絹の日の丸は神国日本の末路だ。白いマフラーの特攻隊員や、制服姿の予科練のむなしき表情は、少年のころふるさと土浦で見たものなのだ。防空壕のなかに隠れて錆びた短剣をにぎったままふるえていた若者たちだ。華麗な勇士が幻滅でしかなかったことの象徴である。  原爆ドームの壁のしみ、被爆者のただれた皮膚は「週刊新潮」のころ土門拳に同行、『ヒロシマ』を撮る土門拳にカメラを向けるのが川田の仕事だったが、 「土門さんの原爆の悲劇は、あくまでも外側から見たもの。わたし自身の内なるヒロシマはこうなってしまう」  と土門拳を撮りながら自分も、こっそり広島を撮っておいたのだ。つまり、『ヒロシマを撮る土門拳氏』は「週刊新潮」のグラビアページを飾ったが、川田自身の内なるヒロシマは『地図』になったのである。  たしかに、ぺらぺらな日の丸も被爆者のケロイドも、コカコーラの栓や特攻隊の遺書もすべて複雑な地図になっている。それは幼時体験がオーバーラップした川田の心の風景であり、内なる地図にほかならない。彼は「地表の地図だけでなく、地中にもぐっている地図もあっていいでしょう」という。 「VIVO」の仲間だった佐藤明は、川田より三歳年長の昭和五年生まれだ。敗戦の日の佐藤は十五歳の中学生で「戦争に負けてもべつに深く感じたことはない。白紙みたいな気持だった」とぼくに語ったが、いまでいうならば白けていた年代なのだ。ところが当時十二歳の、土浦で予科練の雄姿を羨望のまなざしで見つめながら育ってきた川田少年には、敗戦はこのような『地図』をつくらせるほど衝撃的だったわけだ。  もう一人の仲間の細江英公はぼくに、彼の代表作である『薔薇刑』を「一生に一度しか撮れない作品です」と言ったが、おそらく川田の『地図』もそうだろうと思う。『地図』を完成させえないかぎり、川田は前進できなかったにちがいない。  写真評論家だった吉村伸哉(故人)は「戦後派最後の世代の純粋な祈りが写真映像としてみごとに結晶した反予言、反地図」だと讃歎し、土門拳の『ヒロシマ』(昭和五十八年)と東松照明の『11時02分NAGASAKI」(昭和六十一年)をひき合いに出して「東松照明のそれよりもはるかに私小説的」であり「土門、東松の原爆被災記録、戦争体験記録が過去指向的、第二次大戦指向的、つまりイベント指向的だった、とすれば川田の『地図』における原爆記録、戦争体験記録は未来指向的、つまりイメージ指向的だ」と評価している。 『地図』が「私小説的」「イメージ指向的」であるとする吉村のそれに異論はない。しかしながらあくまでも観念的な作品であり、ぼくが難解だというのは〈写真はそこまで映像だけの観念の世界にはいっていってもいいのだろうか〉と危惧してのことなのだ。 『地図』のなかの要塞——巨大なコンクリートの廃墟について川田はこう言った。 「あれは戦争中、東京湾にあった要塞です。要塞といえば不気味で堂々たるもの……わたしの頭のなかではそうなっているけど、現実には廃墟でしかない。廃墟願望があって、草ぼうぼうになっているそういうものを見るのが好きです。記憶から時間をよみがえらせる。こわれている時計には時間を感じ、うごいているデジタル時計からはそれを感じません」  その感覚はぼくにも、わかりすぎるほどよくわかる。しかし、それでもぼくは、写真はそこまで観念の世界にはいってゆけるものなのか、そこはもう言葉(活字)でしか表現しえない世界ではないか……そんな危惧感をすてきれないのである。  あえて五十年後の話をしよう。  五十年後の某所で土門拳の『ヒロシマ』と川田の『地図』の展覧会があったとしよう。  これは一九四五年夏に広島に落された原爆の被害記録だと説明されなくても、リアリズム作品である土門拳のそれは一目瞭然だが、客観性を拒否している川田作品は何が撮ってあるのか、何を言わんとしているのか、二十一世紀の人間たちに理解できるだろうか。巨大なコンクリートの廃墟に「こわれた時計に時間を感ずる」彼のその感覚を感じとれるだろうか。いそいで本人をよんできて解説をもとめようと思ってももう、彼はあの世の人になっている、そんなことにならないだろうか。 〈写真作品はやはり、見るだけで理解されるものであってほしい。単純だといわれるだろうがかまわない。それしかないのだ〉 (五)  川田はしかし徐々に変わりつつある。というよりも、やはり一生に一度の『地図』を完成させえたからこそ前進が可能になったのだろう。  昭和四十一年、彼はソ連、チェコ、ヨーロッパ各国、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスとまわってきた。雑誌のために「エロスの世界」を撮ってきてやると約束したので、編集者はあちこちでヌード写真でも撮ってきてくれるのだと早合点していたが、帰国して川田が見せたものは、のちに豪華写真集『聖なる世界』におさめられたおどろおどろしき作品ばかりであった。  正統な美術史では認められていない、それだけになおさら妖しい彫像、壁画のかずかずがあるイタリアの「聖なる森」。サディズムを満足させるために美女たちを放ったという庭園。女人像の股から出てくる噴水があったり、女を股裂きにしている男の像などもある。  香港の「グロテスク花園」。石臼地獄ですりつぶされたり、内臓をかき出されたり、母親に乳房を吸わせている娘の支那人形があったりする卑俗、怪奇、悪趣味が横溢した、世界でもっとも醜悪といわれる禍々《まがまが》しき庭。日本でいう血の池や針の山がある地獄絵図であり、川田は「いわゆる美に逆らうもの、だれもが意識の奥にもっている偏執、贖聖、狂気をよびさましたかった」のだという。  バヴァリアの狂える王ルードヴィヒ2世の、豪華にして耽美の、三島由紀夫も興味をしめしていたという『ルードヴィヒ2世の城』。ニューヨークの『蝋・人・街』のサロメの狂宴、ギロチンで切られた首など、これまた正常の世界ではない。ぼくにはこの妖の世界は、店の前にたたずんで終日退屈しなかった川田少年の、空想の延長線上にあるもののような気がしてならない。「だれもが奥深くにもっている異常な美しさへのあこがれ」をよびさますことも、彼にとっては「内なる地図」を創ることなのだろう。  現在、彼は「人間の顔に世界を感じています。顔にキズがあったり眼玉がなかったりに興味がありますね。映像化するといっそう不気味になるし、戦慄をもよおすものにしたい。世紀末を人間の顔に感じさせたいんです。『カメラ毎日』をはじめ写真雑誌にすでに百点ほど発表しています」という。冒頭で紹介した『自写像日本』のなかの、女のストッキングをかぶって銀行ギャングみたいになってみせた顔は、もしかすると世紀末を感じている自分自身を写したのかもしれない。  女流写真家は好きではないが、アメリカのダイアン・アーバス女史だけは別だという。彼女が好んで小人だとか雲つく大男だとか、奇型の人間ばかり撮っているからである。  彼も、女性のヌードを撮ってみたくなりつつあるという。これまでは「裸の女性は生々しくて写真化できなかった。平気で撮っている写真家を見て、すごいことやってるなあと思いましたね。けど、自分ではやれない。女体をうごかしてポーズをとらせること自体、生々しく感じられてならなかった」のだ。  ところがある日、無性に撮りたくなった。そこで「ヌード作品はモデルがいいかわるいかで九〇%決まる……そう思ったんで、そんなら世界の美女のブリジッド・バルドオをモデルにしようと思って交渉をはじめたんですが、提示されたギャラが眼から火が出るほど高くて」実現しなかった。  そのくせ、アメリカの写真家ベロックが大好きだという。ブリジッド・バルドオをモデルにしたかったのに、ニューオリンズのうらぶれた娼婦ばかり撮っているベロックの作品に「頽廃的な美があるのでひかれる」のだ。 「で、こんどもし撮るとすればどういう女性を裸にしてみたいですか?」 「グロテスクなほどぶくぶく太っている女か、さもなくばギスギスに痩せている女をです。彼女たちに盲腸の手術あとがあると、なおいい。そのキズもちゃんと撮りたいなあ」  女性を撮らせれば第一人者の秋山庄太郎氏や中村正也氏が聴いたら、顔をしかめてしまうだろう。だが、川田喜久治は当分「異常な美」に憑かれつづけることだろう。  いや、ひょっとするとそれも「韜晦術の天才」である彼が、ぼくを適当にたぶらかして言っていることかもしれない。(昭和五十五年一月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十六年「絵画の中のヌード」「フランツ・シュトウックの館」(芸術新潮に発表)、「夢と驚異の世界」(フォーカスに連載)。五十七年「ロス・カプリチョス」(カメラ毎日に発表)、「ギェスタヴ・モロー美術館」(芸術新潮に発表)。五十八年「装飾の帝国」(日本カメラに発表)。 [#改ページ] 芳賀日出男《はがひでお》 「祭りが呼んでいる」  芳賀日出男さんは……というよりも芳賀さん夫妻は、と言ったほうがいいだろう。まことに得がたき写真家夫婦であり、みごとなチームワークで仕事をしておられる。  高田馬場にある事務所兼住居をたずねたら、童女のおもかげがある丸顔の、好みのいいクリーム色のスーツ姿の杏子夫人がまず現われて、 「……潜水艦のなかみたいでしょう。狭くて恐縮ですが」  と言われた。  なるほど、靴が三足ならべばもう玄関は足の踏み場がなくなるくらいだし、はいると四面はスチール製の整理棚と書棚にかこまれ、余分の壁には芳賀さんが世界の「祭り」を撮るために旅先からみやげに買ってきた民芸品の人形やお面などが飾ってある。  すでに七十余カ国をまわり、日本の「祭り」を撮った分もふくめてカラーフィルムが十三万点、白黒が二十万点。それがスチール製の整理棚に保管されており、たとえば「スウェーデンのルシア祭りはありますか」と新聞社やら出版社からの問い合わせがあれば、三十秒とは待たせずに、そのフィルムが何段目のどの抽出《ひきだし》にあるかがわかるまでに分類され整理されているのだ。  そうした営業面のことは杏子夫人が担当しており、芳賀さんに言わせると、 「わたし自身より家内は、わたしの作品についてくわしく知っているんです。何々祭りはありますか、それはどこの国のどんな祭りですか、と電話がかかってきても、はてどうだったかなとわたしは迷うんですが、彼女は即座にあるとかないとか返事してくれるんです」  そうしたコンピューターのごとき役目もはたしているのである。  妻がそこまで夫の作品を愛し、理解してくれている写真家夫婦を、ぼくはほかに知らない。おそらく写真界では、ナンバーワンのおしどり夫婦ではないだろうか。  生来、芳賀さんは「雑誌社などから頼まれて撮りに出かけるのは好きではなく、撮りたいものを撮ってきたのを、きちんと家内が整理してくれる」それを習慣にしているが、しばしば彼女にハッパをかけられることもある。  どういう祭りの写真の問い合わせが多いか、興味をもたれているか、彼女はその統計もとっておいて、 「あなた、撮りたいものを撮ってくるのもいいけど、これこれの祭りもついでに撮ってきておいてくださいね」  と、やんわり指令するのだ。営業担当重役とすれば当然の職務であり、彼がまた厭だとは拒否できないお人なのである。  そのくせ、芳賀さんはシンのつよい写真家である。どこへ出かけても、群衆とお祭りと民間信仰にしかカメラを向けない。まさに、この道ひと筋の人である。  たまには愛妻同伴で撮影旅行に出かけることもある。車の運転は杏子夫人のほうが数段うまい。途中で絵にかいたような風景に出会うと彼女は、 「まあ、すてきな景色ねえ」  と感嘆して車をとめてしまう。その景色を撮っておいてもらいたいのだ。  ところが芳賀さんときたら「報道写真にもヌード写真にも風景にもまったく興味なし」だから、カメラを手にしようとはしない。一刻もはやく祭りの現場に到着したいだけで「おい、先をいそごうよ」とせきたてる。  このように「祭り」にのみとり憑かれているプロ写真家というのは、彼一人かと思っていたぼくに、 「そうではありません。大先輩にあたる大阪の鎮谷和夫さん。毎日新聞社出身の渡辺良正さん。民俗の根源を確かめている萩原秀三郎さん。わたしの助手をしてくれた鶴添泰蔵さん……彼はとくに九州の祭りを撮ることでは第一人者です。  海の祭りばかり撮っている諸田森二さん。ヨーロッパの祭りに関してならヨーロッパ人たちさえかなわない遠藤紀勝氏………祭りの撮影だけで食べているのは現在、十人くらいでしょう。わたし一人ではなく、そうした優秀な人たちがいるんです」  と教えて、かれらの作品集も見せてくれたのである。芳賀さんは自分だけを前面に出そうとはしない、じつに奥ゆかしい人でもあるのだ。ぼくは心のなかで敬服した。 (一)  大正十年九月、芳賀日出男は関東州大連に生まれている。日本では平民宰相といわれた原敬、安田財閥の創始者安田善次郎が右翼のテロリストに暗殺され、上海には毛沢東らの中国共産党が創立した年である。  父親の芳賀千代太は旅順工科大学の第一回卒業生。満鉄にはいり、のちに華北交通の北京鉄路局長に昇進して、太平洋戦争の敗戦を北京で迎えている。いわば鉄道マンだ。  母親の国子さんは旅順高等女学校を出ており、千代太とは恋愛結婚して一男二女を出産した。その一男が日出男であり、一家はずーっと日本の植民地で暮らしてきたのだ。  日出男は大連第一中学校に学んだ。大連は満鉄初代総裁の後藤新平が、ドイツの街をまねてつくらせており、ヨーロッパ風のエキゾチックな雰囲気があった。のちに『アカシアの大連』という小説を書いて芥川賞を受賞した清岡卓行氏は、日出男の中学時代の一年後輩、また哲学青年で『二十歳のエチュード』を遺して自殺した原口統三もそうである。敗戦後まもなく出版されたその『二十歳のエチュード』を、当時のヤングゼネレーションだったぼくらは熱読したものである。  昭和十四年春、日出男は上京して慶応大学文学部に進学した。中国文学を専攻し、教授が戦後にはタレントとしても人気があったあの奥野信太郎だった。日出男が中国文学をえらんだのは卒業したら大連に帰り、写真と文を組み合わせたグラフ雑誌を創刊したかったからだという。  カメラヘの興味はすでに小学生の時分からあった。だから慶大に進学してからも、ためらうことなく「慶大カメラクラブ(K・C・C)」に加わった。一年先輩に三木淳氏、一年後輩に長野重一氏、船山克氏らがいた。  六大学写真展や早慶写真展で、早大写真部の秋山庄太郎氏、稲村隆正氏らを知った。みんなたいした腕前だった。稲村は家業が繊維問屋の次男坊で、赤坂の豪邸に住んでおり、彼は専用の暗室をもっていたので日出男は、そこを使わせてもらったりした。  三木淳はすでにプロ写真家をめざしているだけあって、名取洋之助らと交流しており、報道写真の世界をめざして撮っていた。芳賀日出男だけが異質で「群衆」を撮りたがっていた。  モデルの女性も人間であることにかわりないが、彼がひたすら惹かれたのは名もなき群衆なのである。それが撮れるところといえば朝夕のラッシュアワー、縁日、お祭りなどであり、彼はそうした人ごみのなかへはいっていって、もまれながらカメラを向けることに生きがいをおぼえた。  あるとき、慶大の「三田新聞」が学園風景をテーマにした写真を募集した。芳賀が東横線日吉駅からどーっとあふれ出てくる、通学途次の活きいきした慶大生たちの群れを作品にし、応募してみたら一等賞にえらばれた。賞をもらったのは、あとにもさきにもこれきりである。 「群衆に惹《ひ》かれるようになった動機は、正確には何だったのですか?」  ぼくが質問した。彼は答えた。 「人間がうようよしているところが好きなんですねえ。電車のなかでも満員のほうがいい。乗客が数人だと、もし衝突したり脱線転覆したりしたときには、自分だけ死んでしまうような不安にかられるんです」 「人恋しいんですね?」 「いや、恋しいなんて思ったことはありません。さまざまな顔の群衆のなかにいると、共に生きているんだという共感がわいてくるんですよ」 「孤独感からのがれたいのでは……?」 「孤独には耐えてゆけるほうですよ。そうでなくて群衆そのものがもっている、わーッとくるエネルギーみたいなものに感激しちゃうんです。わたしの作品の場合、主役はつねに群衆だけど、それには集団という個性もあるんですよね。決して没個性ではない。  たとえば飲み屋なんかでも、客がたくさんいて、タバコのけむりがもうもうとしている店は、たいてい安くて旨いでしょう。なごやかな雰囲気もある。反対にがらんとしている店は、高くてまずくて愛想もよくない。あたたかさを感じない。山や森を一人あるきするのも、わたしは好きじゃない。声高にやっている市《いち》のほうがいい。わたしは砂ぼこりも嫌いではない。人のいない遺跡なんて、観にゆきたいとも思いません」  どうやら芳賀日出男は、生まれながらにして大陸型の人間のようである。中国の民衆は広大無辺の大地にありながら、馬蝿の群がる不潔でゴチャゴチャした、砂塵も舞うような市場とか路地にあつまってくるのが好きであり、そこでの喧騒や人間臭さに安らぎをおぼえるようだ。そういう庶民感覚を、芳賀もまた身につけているのだろう。  彼の「卒業したら大連に帰り、グラフ雑誌を創刊したい」夢は実現しなかった。カメラクラブの仲間たちとたのしくやっていたあいだにも太平洋戦争は深刻になってゆき、形勢不利になってきたため、学徒出陣の動員令がくだったのだ。一億玉砕が叫ばれている。  昭和十八年末、芳賀は稲村、船山らとともに横須賀武山海兵団に入団した。二等水兵で基礎訓練をうけてのち、稲村は航海学校、潜水学校をへて掃海艇要員となり、船山は航空母艦の艦載機に乗り組んで南太平洋におもむき、そして芳賀は土浦航空隊に編入されて、一式陸攻機(八人乗り)の搭乗員となった。散華しなければならぬ海軍少尉であった。  昭和二十年にはいると米軍の本土空襲ははげしくなり、芳賀らは六機の一式陸攻機とともに、北海道の美幌基地へ疎開させられた。これが海軍航空隊に残っている、最後の本土決戦用の軍用機だったのだ。 「千島列島海域にソ連潜水艦出没す」の報告がはいると芳賀らは、対潜哨戒のために一式陸攻機を飛ばした。日本降伏が近いとみたソ連が、参戦して勝利品を得ようとする機をうかがいつつあるのだった。  芳賀少尉は、個人でもっていたドイツ製のSSドリーを携行して、オホーツク海の上を旋回した。父親の千代太が買ってくれた貴重なカメラであり、ソ連潜水艦を撮っておくつもりだったのだ。 (二)  愚かなる祖国は敗北した。  襟の階級章を剥ぎとって芳賀日出男は無傷で復員したものの、中国に残留させられている両親や妹とは連絡がとれず、東京は世田谷の経堂にあった満州出身者のための学生寮にころがり込んだ。  幸い、復員する日に美幌基地で支給された少尉の月給と、航空隊手当が合わせて二千数百円もあった。戦後のおそろしいインフレでもこれだけあれば、一年間はなんとか食ってゆけそうだった。  早大写真部の一員だった、稲村隆正の一年後輩の薗部孝三氏と再会、お互いの無事をよろこび合った。薗部は終戦直後創立のイブニングスター社が創刊した「カメラファン」の編集長になっていて芳賀に、原稿を書け、写真の力作を発表しろとすすめた。  この社は銀座の交詢社ビル内にあり、編集局長は戦時中の「写真科学」を編集していた伊藤逸平氏だった。その伊藤にも芳賀は紹介してもらい、小躍りしてうれしがった。フォト雑誌に作品を発表するのは、これが最初だったからである。生きていられたことの感激を、改めてかみしめる思いにもなった。  芳賀のテーマはやはり「群衆」であった。それは焼跡やヤミ市に群がる民衆であり、街のスナップであり、米よこせを叫ぶ飢えたデモ隊だった。  もちろん「カメラファン」に発表するぐらいでは、とても生活できない。芳賀は日本橋室町の焼け残ったビルにある日本通信社に勤めた。旧海軍の諜報機関の残党たちがやっていた。アメリカ、中国、韓国、ソ連などが日本向けにやっているラジオ放送を傍受し、この情報を原稿にして大新聞社に売りこむのである。  芳賀は多少とも中国語ができるので、中国担当として雇われたのであり、その短波放送は夕方の六時ごろから翌朝五時までおこなわれるため、毎日が深夜勤務である。昼間は自分の撮影ができるので、むしろそのほうがありがたかった。  敗戦直後は通信機関がすぐには復旧しないので、大新聞でもそうした情報を買い、海外ニュースとして掲載していたわけだが、やがて時事通信や共同通信などが軌道にのってくると、ラジオ傍受しかできない日本通信社は用なしになってしまった。三年後には芳賀はほおり出されたのである。  彼は恩師の奥野信太郎をたずね、これからプロ写真家として立ちたいと言うと、 「それなら民俗学を撮りなさい。たとえば中国古典文学の屈原の『楚辞』にしても、だれもが文学的な面からばかり見ようとしているけれども、わたしは民俗学的に解釈しようと試みたこともある。きみはそういうものを写真でやりたまえ」  と激励された。「プロ写真家で立つにしても、テーマは何にするのか」と迷っていた芳賀は、天の啓示を得たような思いになった。彼は大学時代、折口信夫の講義を三年間うけてノートをとっていた。それを思いだして「日本に古くからある民間信仰とか稲作を撮るのも意義あることだ」と直感したのである。  ときに昭和二十五年。写真界は土門拳、木村伊兵衛が提唱する「リアリズム」に血眼になっており、あやしげなヌード写真とアメリカ的なファッション写真の亜流でカネ儲けする時代であった。  そんな風潮のなかにあって芳賀は、よりにもよって古めかしい土俗的なものを撮ろうというのである。これではとても食えないとわかっていながら、学生時代と同様、ここでも独自の道のみをあゆもうとしているのだ。  なぜそうなのか、そうしたかったのか……その点をぼくは知りたかった。 「学生時代のあなたは、ほかの仲間たちが芸者とか女学生とかを撮っているときに、ひとり群衆にカメラを向けていた。戦後はみんなが女の裸を得意になって撮り、社会派リアリズムを追っかけているのに、自分だけがどこに到達するかわからない、細い脇道をゆくのは大変に損なことだと思いませんでしたか」 「いいえ、そうは思わなかった。不安や苦痛もありませんでした。いずれ民俗写真が世に認められる時代はきっとくる、その確信みたいなものがあったし、農村へいって撮らせてくれと頼むと『東京の写真家が、こういう田舎臭いものでも撮ってくれるのか』と土地の人たちによろこばれたし、酒を飲ませて歓迎してくれましたよ。  ほかの写真の場合は、カメラをむけると拒否されることもある。それでも厚かましくシャッターをおすと、あとに忸怩《じくじ》たるものが残る。村の行事を撮っているとそれがないんです。これは他の写真では味わえないことです。しかも、お祭りは追いかけているばかりでは撮れないんです。現地の人たちが泊めてくれて『あそこの村へゆけば、こういう祭りもあるよ』と教えられて案内される。それではじめてすばらしい祭りに出会えるんです」 「プロ写真家の多くは、頼まれれば報道写真も撮る。ヌードも歌舞伎も撮るというふうで、うまくこなしているではありませんか」 「たとえば、木村伊兵衛さんは歌舞伎を撮らせても、下町のおばあさんを撮らせても、すべての作品に木村情緒がある。いまの篠山紀信氏なんかも何を撮らせてもうまい。そのほか専門以外のものをソツなく作品にする人もいますが、わたしにはそれはすごく照れ臭いことなんですね」 「言わせてもらえば、あなたは根っからのインテリ写真家なんですね。ワッショイ、ワッショイやる祭りが大好きなくせに、ご自分はすごくはにかんでいるみたいだ」 「同窓会なんかで集まると、わたしが記念写真を撮らされる。プロだからうまい、と旧友たちは思っているんですね。ところが、わたしは形態があって、その形態に惹かれて撮るのではなく、テーマがなくちゃ撮れないんです。だから記念写真を撮らされても『なあーんだ、おれの腕前とたいして変わらんではないか』と失望されてしまう。わたしには自分の専門以外のものは、アマと同じようにしか撮れない。それ以下かもしれません」  この人は何事もごまかせないのだ。 (三)  さて——芳賀日出男が全盛時代のヌードにもリアリズムにも背を向けて「自分にはこれしか撮れない」と思いつつ撮りつづけたのは「田の神」であった。  二千年来、日本人の祖先は稲作をつづけてきている。そのあいだ一日として豊作を祈らない日はない。この願いから農民たちの「田の神」の信仰が生まれ、稲作の儀礼ができあがった。日本民族の習俗、年中行事、祭礼、芸能、神話などは田の神信仰の影響をうけたものが多い。わが国の稲作儀礼は日本人の生活意識や社会構造を理解するひとつのカギとなる……これをテーマとして芳賀は福島県の「正月さま」、愛知県の「種蒔き祝い」「虫送り」、広島県の「大田植」、鹿児島県の「新穂初と稲喰れ」「田の神講」、石川県の「あえのこと」などを撮影してまわった。  彼の瞼にはいつも濱谷浩氏の『雪国』がちらついていた。この作品は戦前、濱谷が民俗学者でもある渋沢敬三の援助をうけながら新潟県の雪深い山村の民俗行事を撮りつづけ、戦後になって発表し、多大の感動をよんだのだ。だから芳賀はこの『雪国』を見たとき、大いに勇気づけられ「濱谷さんがあこがれの的《まと》だった。彼のように広く深い民俗写真は撮れないかもしれぬが、一歩でも半歩でも近づきたい」のであった。  昭和三十三年十月、銀座の小西六ギャラリーで『田の神』の個展をひらいた。もちろん初の個展であり、案の定、写真界は「銀座のどまん中に田圃をつくりカカシを立てる気か」と冷笑し、ジャーナリズムは見向きもしなかった。このころ学生時代の仲間である秋山庄太郎は売れっ子になっており、船山克は『旅に出た若の花』、稲村隆正は『ヌード』、長野重一は『利尻の春』、三木淳は『無計画の街』などで、芳賀に大きく差をつけて有名になっていた。  翌三十四年二月、平凡社がこの『田の神』に注目してくれて、写真集にすることができた。来日中のミシガン州立大学文化人類学の石野巌教授が、出版するさいに海外の人たちにも見せたいからと親切に、英文の解説をつけてくれた。フォトジャーナリズムにはもてはやされなくとも「理解してくれる人が何人かいた」ことに、芳賀はひそかに満足したのである。 『田の神』と平行して彼は奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島へゆき、三年がかりで『奄美』を撮影していた。これは九学会連合奄美大島共同調査委員会が発足、文部省に費用を出させて現地の自然と文化の研究をおこなったのである。  民族学者の関敬吾博士が調査団長となり、カメラマンとして芳賀日出男が加えられたのだ。彼は三年かよって現地に、延べ百日間滞在した。たいへんな勉強になり、 「にぎにぎしいお祭りばかり撮ってもダメなのだ。生活や文化や自然の景観もいれて、そのなかに祭りがあるようにしなければ」  という結論を得たのである。  話はもどるが——芳賀が結婚したのは昭和三十年のことである。  作家の石坂洋次郎氏は慶大の先輩であり、奥野信太郎とは同級生だ。大学の先輩という縁で芳賀も、石坂氏に会ったことがある。  石坂夫人が縁談をもってきて芳賀を、長野県軽井沢の盆踊りへつれていった。そして、子供たちと踊っている小柄な女性を指さして「あの娘さんですよ」という。  軽井沢の「つるや」旅館の娘で慶大卒の佐藤杏子、昭和六年生まれの二十三歳。芳賀のほうは三十三歳。このトシまで嫁ももらえず、不潔な身なりの彼に、石坂夫人は同情したのである。  本人同士は結婚するつもりになったが、杏子の父親が「芳賀日出男なんていう写真家は聞いたこともないなあ。そんな無名で食わせてゆけるのか」と心配する。石坂先生は高名な小説家だから、大出版社の優秀な編集者もたくさん知っておられる。そういう一人と娘を見合いさせてくださると思っていたのに、貧乏写真家と一緒にさせようというのだから、心配になるのも当然である。 「つるや」は創業百年をこえる旅館で、島崎藤村をはじめ芥川龍之介、堀辰雄、室生犀星らの定宿であった。父親は出版社の編集者のこともよく知っていた。  だが、本人同士の意志のかたさには、父親も折れざるを得なかった。いつまでも芳賀が芽の出ない写真家では、責任を感ずるらしく石坂洋次郎氏が、講談社の「婦人倶楽部」に話して、彼に仕事をあたえてくれるよう頼んだ。芳賀は一年間、グラビアの『風俗のある旅』を連載、好評だったおかげでさらに一年間『子どもの遊び』を撮りつづけた。それでも石坂洋次郎氏は、撮影にきた林忠彦氏や三木淳氏に「芳賀は写真で食えるだろうか」と、心配してたずねていたという。  杏子夫人は二児のママになった。現在、その長男のほうはアメリカ西イリノイ州立大学に在学中。二男は慶大商学部にいる。  やがて芳賀作品も売れるようになった。前述のようにヌードやリアリズムの全盛時代に背を向けて、自分の道をあゆみはじめたとき彼は「いずれ自分の民俗写真が認められる時代がやってくる」と信じたその日がやってきたばかりでなく、逆にヌードやリアリズムのそれを凌駕《りょうが》してゆく売れゆきとなったのだ。  新聞社や出版社から「こういう祭りの写真はありませんか」「東北地方の祭礼の特集をやりたい」などとひっきりなしに電話がかかってくる。「祭り」は古くならないし、百科事典や教科書などにはなくてはならぬ資料写真なのだ。  たとえば、昭和三十年代のファッション写真やヌード作品は、現代人から見れば古くさいものにしか感じられない。よほどの傑作でないかぎり、それを再録しようという雑誌もない。目新しい流行も一年後にはすたれてしまう。資料写真にはそれがないのだ。  だからヌード作品や風俗写真よりも「祭り」のほうが生命力が永く、何十回となく売れるし、結果的にはたくさんカネをかせいでくれることにもなるのだった。  戦後からずっと写真界には「一作品を二度売りするのは恥だ」とする傾向があった。A社に売った作品を、もういちどB社に売るのはよろしくない、フォトジャーナリストのほうにも、それを軽蔑する掟みたいなものがあったのだ。  ところが、日本写真家協会の当時の渡辺義雄会長らが「そんなことはない。よい写真は何度でも売れるのだ」と主張したことからそれがとり払われ、マスコミの発達とともに発表媒体もふえつづけ、A社にもB社にも、C社がほしがるならそちらにも同時に売っていいようになってきた。  こうなると貴重な資料写真、あるいは傑作を数多く撮ってきたものが勝ちで、だまっていても著作権料が入ってくる。芳賀作品もそうなったのであり、杏子夫人も、フィルムを分類し整理して、コンピューターなみの働きをしなければならなくなったのである。まさしく、うれしい悲鳴であった。 (四)  杏子夫人によって整理されているフィルムが、カラーで十三万点、白黒で二十万点あることは前述のとおりだが——日本全国には三万余の「祭り」があり、芳賀日出男はまだそのうちの一千余しか撮影していない。一割にもおよばない、それをすべて撮り尽すにはあと何年かかることやら。  海外は七十カ国をまわり、二百余の「祭り」を撮影している。全世界の「祭り」の数たるや天文学的数字になるだろうから、彼が一人でこれを撮り尽すのは不可能である。  彼は昭和五十四年に『世界の祭り』(小峰書店刊)を刊行している。それにはオーストリアの「キリスト降誕祭」、スイスの「おかあさんが魔女になる日」、ドイツの「十月祭」、フランスの「パリ祭」や「ニースのカーニバル」、イギリスの「オックスフォードのメーデー」、デンマークの「バイキング祭り」、ソ連の「モスクワのメーデー」、そしてブラジルのあの「リオのカーニバル」や韓国の「村の正月行事」、アメリカの「七面鳥祭り」など三十カ国、五十八のそれを収録していて、それぞれの民俗性や風習がよくわかる。 「ズバリ言って、祭りの魅力とは何ですか」  ぼくは問うた。彼がたのしげに答えた。 「日常の合理的な生活を越えた、神秘的な世界を見せてくれることですね。しかも、芝居や映画でセットとしてつくれば莫大な費用がかかるものなのに……たとえばリオのカーニバルにしても、パリ祭にしても、住民たちは手弁当であれだけのものをやるわけでしょう。そのエネルギーがすばらしいし、エネルギーの発散と神秘感が何とも言えないんです」  だが、外国での「祭り」の撮影は、いろいろな困難にぶつかる。第一に言葉が通じない。せっかく行ったのに「今年は祭りはやらないことになったんだ」と言われ、がっかりして帰ってこなければならないことが何度もあった。朝からいって待ってみても、一向にはじまる気配がない。諦めてカメラをしまい込んでいると、午後三時ごろから三々五々あつまってきて、やがて大群衆となり、夜を徹して歌い踊る祭りもあった。  政府観光局へ半年前に手紙を出し、その国の祭りにはどんなものがあるかを教えてもらい、祭りの様式や性格なども研究してから出かけるようになった。 「外国の祭りを見ていてつねに、日本のそれに通ずるものがあるかどうかを見ようとしてますね。ということは、わたしがほんとうに撮りたいものはやはり、日本の祭りなんですね。秋田のなまはげ……あれとそっくりのがヨーロッパにもありましたよ」  そうかと思うと、来日した外国人の祭りの研究家と、東北地方の祭礼を見てまわることもある。そんなときには「日本の祭りを外国人はどのようにとらえているか、それを知ることも一つの勉強になる」のだ。日本人が気づかない点を、その外国人が見つけ出してくれることがあるのだ。そのひとりが、いまや日本の民俗学研究で世界に名高い、ドイツ・ボン大学教授のヨーゼフ・クライナー博士である。 「日本の祭りでとくに印象に残るのは?」  ぼくの質問に、彼は即答した。 「愛知県の山間部(北|設楽《したら》郡)の村々でおこなわれる花祭りですね。冬のその季節になるとわたしは、ここに十五年間もかよいつづけているんです。それほど魅力的ですばらしいものなんです。村が自分たちの一つの世界になり、そこに山の神をよんで村人たちが、神と鬼を中心にして唄って踊って、悪口を言い合って陶酔する。  そうやって四十時間もつづけるので、クタクタに疲れはて、古い魂を使いはたしてのち、新鮮な魂を宿して再びよみがえり、新しい季節の生活にはいってゆく」 「祭りは芸術作品になり得ますか?」 「最初はまず、資料写真として撮ります。充分に撮りおえたあとでは、アングルをかえて芸術作品として撮るよう心がけるんです。その場所へいって、その祭りを見た人が『芳賀の写真と同じだな』と実感できる、そういうものを撮りたい。  お祭りはうごいている群衆だから、十人が十人、それを撮ってみても同じには撮れません。うまく撮れるのはせいぜい一人か二人ですよ。三分の一は運です。山坂から巨木を落す諏訪の「おん柱」なんかは二百人ものカメラマンが撮影してるけど、うまくいきません。おもしろいことにはCM用に撮る人や、アマの人ほど個性的な作品にしたがりますね」  祭りの写真の専門家たちのそれには、その祭りの場所がどういうところであっても、電柱や看板は絶対にはいっていない。 「そういうのが一つでもはいっていると、祭りのムードがこわれ、一つの画面構成ができなくなるんです。不必要なものが完全に排除されている、祭りそのものでなければいけない。しかし、風景もヌードも祭りも何でも撮るプロの作品には不用意に、不必要なものがはいってしまうんですね」  なるほど、そういうものなのか。これからは祭り作品を鑑賞するさいには、その点を気をつけなければ……とぼくは思った。  生きている祭りをバッチリと撮れるのはせいぜい一人か二人、しかも三分の一は運まかせにしなければならぬ上に、不必要なものを排除することも心がけねばならないのだから大変である。  観光ブームの昨今では、祭りも二通りあるようになった。形だけをはなやかにする観光的なのと、深い信仰心から生まれている古いままのものとに分かれてしまっているのだ。  芳賀は観光的なそれにはうんざりして、二度とカメラを向けたくなくなるが、たとえば青森の「ねぶた祭り」などは、商売上もっとも売れて著作権料がはいってくるので、 「あなた、ぜひ撮っておいてくださいね」  と杏子夫人に、やんわり命令されるそうだ。  昭和四十五年の万国博のとき、芳賀はお祭り広場のプロデューサーを担当した。日本の郷土芸能の代表はむろんのこと、オランダ、ベルギー、インド、東南アジアなどの民族舞踊を披露させたのだ。まさに祭典であった。  そのころ芳賀は一つだけ、彼にとってはまったく「異質」の写真集『べ-トーヴェン巡礼』(河出書房新社刊)を出版している。ドイツを往復して祭礼の「大酒のみの市長さん」や「ハーメルンの笛吹き男」や「十月祭」などを撮影する余暇に、楽聖ベートーヴェンの生家からはじまってその生涯を、カメラにおさめていったのである。これにも五年の歳月を費やしている。  彼は世界の民俗楽器や民族衣装も撮りはじめた。これまた根気のいる仕事であり、これからは人型《ひとかた》信仰——人間が自分に似せて神を人形にこしらえ、それが文楽の人形芝居にまでなってゆく歴史もたどってみたくなっているそうだが、「何年かかるか……おそらくこれを撮りおえたころが、わたし自身の命の尽きるときでしょう」と冗談でなく芳賀日出男は微笑する。  現在までに開催した個展が三回。受賞の経験は一度もなく「無冠」であるのが、いかにも彼らしくていい。  刊行した写真集が二十九冊。最近『こどもの十二かげつ』全十二巻が小峰書店より出版された。年中行事、伝承遊び、なぞ、ことわざ、郷土玩具、郷土芸能など少年少女に夢をあたえる豪華な「絵本」なのである。  好きなものは地酒。地方へいって旅館に泊まるとき、かならず彼は「お宅には地酒がおいてありますか?」と念をおす。有名な銘柄のものしかおいてないと、まわれ右してほかの旅館をさがしにゆくくらいだ。これにも徹底しているのである。  好きな写真家は建築写真の渡辺義雄、『雪国』の濱谷浩、そして動物だけを撮りつづける田中光常の三人だ。「なぜならば三人ともそれぞれに自分の生き方で写している」からである。  芳賀日出男と話していると、遠くから祭りばやしが聞こえてくるような気がしてくるから不思議である。(昭和五十六年四月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十二年より文化庁主催芸術祭「日本民謡まつり」企画委員。五十六年日本写真家協会副会長。五十七年ソビエト連邦国際写真展「人間と平和」コンテスト日本代表審査員。五十八年「世界の祭りと衣装」(グラフィック社)、フォトピア83実行委員。 [#改ページ] 須田健二《すだけんじ》 「江戸っ子の愛と哀」  まだ木村伊兵衛さんが生きていたころの江戸っ子写真家というと、威勢があって新鮮なセンスもあって、さりげなく反骨精神をみせているところが良かった。  だが時代は大きく変わった。江戸っ子たちの東京はすでに「死んで」しまって、田舎者たちがこしらえた近代と称する、バカでかい東京がいやらしく栄えている。生粋の江戸っ子たちもその中で生きていなければならず、その気質を表に出そうものなら逆に、時代おくれの古くさい人種に見られてしまう。  生粋の江っ子として、こんなにくやしい思いをすることはあるまい。だから、なおさら「勝手にしやがれ」とばかりそっぽを向きたくなり、自分を片隅へ片隅へと追いやってしまう。そして、自虐的な生き方しかできなくなってゆく。  須田健二さんもそういうお人なのだと、ぼくは見た。近代化する東京が腹立たしくてならぬ。古き佳き江戸をこわしている東京人らが、いまいましくてならぬ。若い田舎者の写真家たちが現代感覚で、江戸を知らずして『東京の下町』などを撮っている、その厚顔無恥がやりきれなくなっているのではないか。  だが、彼にはどうすることもできず「勝手にしやがれ」と背を向ける以外にないのだろう。ほそぼそと片隅で生きながら、プライドだけは高く、自分の「下町」を作品にしている。古い東京がまだ生きている路地から路地へとほっつきまわり、江戸の匂いがかすかに残っている民家をカメラにおさめ、つい先だっても日本橋の小西六フォトギャラリーにおいて『路地の雑草』展をやった。  憤懣《ふんまん》やるかたない表情で須田さんが、こんなふうに言う。 「セメントで固められつつある現代に、いまなお呼吸しつづける下町の路地裏……これを撮りつづけた。でないと、いまに駐車場になったりマンションになったりしてしまうでしょう。古い板塀、看板、井戸、板壁などは味わいがある。とくに長屋がならぶ路地奥の、さまざまな洗濯物が好きなんですね。  あれは庶民の旗じるしだからです。アルミサッシや鉄骨でない木造の物干し台に惹かれますねえ。あれにはそこはかとない哀愁をおぼえるんですよ。他国者《よそもの》に浸蝕され、変貌してゆくのを見なくちゃならないのは、江戸っ子には辛いですねえ。もう古い東京は浅草にもありません。ホーズキ市なんかやっているけど、あれだって田舎から出てきた商売人たちが、江戸の伝統を利用して儲けているだけのこと。わたしたち江戸っ子には大迷惑だ」 「古風な東京が匂う路地はある。木造の物干し台も残っている。しかしそこに干されている庶民の旗じるしもいまでは、若い女性の化繊のパンティーストッキングだったり、べージュ色のスリップだったり、花柄のあるパンティーなんかになっているでしょう。そんな物干し台を見あげながら歩いていると、おかしな下着泥棒にまちがえられませんか」  ぼくが茶化してやったら須田さんは、真剣な顔で考えこんでから、こう答えた。 「たしかに昔のような女の肌襦袢や腰巻などは、もう見当りませんねえ。路地をあるいてても聞こえてくるのは、三味線の爪びきではなく、騒々しいステレオやスチールギターだ。まったく残念ですなあ」  江戸を撮るほかに、写真の仕事がないわけではない。「仕事をください、撮らせてくれませんか」と雑誌社などをテクテクまわって、自分のほうから平身低頭するのは厭なのだ。お高くとまっているのではない。そこがまた江戸っ子の徹底した職人気質なのである。 (一)  台東区小島町——  蔵前国技館やら鳥越神社、御徒町のアメ屋横丁などが近いこの界隈は、江戸時代から職人の町であった。箱屋、財布屋などがひしめき、明治になってからは洋服屋、帽子屋、建築用金具屋なども開業している。北ヘブラブラゆけば浅草と吉原、東へむかえば隅田川の厩橋、そして南に川風に吹かれながら足をむければ柳橋の花街がある。  小島町に須田帽子製造店というのがある。江戸っ子の須田長吉夫妻には三男一女ができて、健二はその次男坊だった。大正六年一月二日の生まれである。  先祖については判然としない。名もなき職人だったのではないかという。長吉がどういうことから職人になったのか、それもよく判らないという。健二が十二歳のとき、長吉は他界している。  のちに長男も三男も帽子製造業者になり、一人娘は建築用金具店に嫁いで、彼女が中心になって経営してゆくが、健二のみは「兄弟そろって帽子屋になっても仕様がない」気でいたそうだ。  彼は済美《せいび》高等小学校を卒業すると、新橋にあった小さな貿易会社の給仕として働くようになった。この会社は釣具のテグスやチャック類を輸出していた。  わずかの月給をためていって学資をつくり、彼は夜学にかよった。神田のYMCA英語学校で英語を学んだのである。  彼には夢があった。 「英語を話せるようになったら、貨物船の船底にかくれてアメリカへ密航しよう。将来はアメリカで貿易商になろう」  と大志を抱いていたのだ。移民でいって大成功した人の伝記を雑誌で読んだりしていたし、母の姉にあたる叔母がハワイにおり、その夫はホノルルで巡査になっている。その叔母をたよってまずハワイに渡り、それから先のことはまた考えようという気でいた。  だが、父親が死んだあとの帽子屋を長男が継ぎ、苦労していたため手助けしなければならなかった。YMCA英語学校も中退、貿易会社の給仕もやめて家業に専念した。  亡父の弟に須田芳次郎というのがいた。  この叔父も小島町で帽子屋を経営していたが、無類のカメラ好きだった。律義者の長吉とちがい、ちょっとした道楽者ときている。  影響された健二は、身銭を切ってカメラを買い、隅田川の風景とか、鳥越神社のお祭りとか、浅草六区の盛り場の風俗などを撮るのがたのしくなってきた。いつとはなしに、アメリカへ密航する大志は霧散してしまった。  浅草へはよく遊びにいった。  大正末期の藤原義江、田谷力三、高木徳子らの人気があった浅草オペラ時代から、カジノ・フォーリーにはじまったレビュー時代へと移行していた。そのカジノでは二村定一、榎本健一らが売り出し、淡谷のり子は電気館のステージで唄っていた。  世にいう「エログロナンセンスの時代」である。昭和六年に満州事変がおこり、軍国主義が急速に台頭しつつあったころだ。  当時、カジノでは『金曜日にはズロースを落す』というコメディをやっていた。たまたまレビューガールの一人が舞台の上で踊っているとき、ズロースのゴムひもがゆるんでスカートの下から足もとへ脱げ落ちたのだ。これにヒントを得た演出家が、わざとに演らせて観衆をあつめようとしたのだった。  そのため警視庁は「エロ演芸取締規則」を出したが「股下二寸未満のズロース、肉じゅばんの使用すべからず」「胸部は乳房以下を露出すべからず」「客席にむかって脚をあげ、ふとももが観客に見ゆる所作をなすべからず」など八項目からなるきつい通達だった。  今日のストリップショー、ノーパン喫茶などと比較すれば、そのきびしさたるや隔世の感ありだが、しかし取り締まろうとする当局の姿勢そのものは、昔も今も変わらない。  須田健二はカジノにもよくかよった。  だがカメラを所持していても、舞台写真は撮れなかったという。舞台の照明はいまほど明るくなく、フィルムの感光度もわるかったので写らないのである。  オリエンタル写真工業が主催する撮影会にも、彼はよく参加した。無名女優がモデルとしてつれられてきていた。  木村伊兵衛も台東区下谷の職人の子——製紐業者の長男として、明治三十四年に生まれている。大正十二年の関東大震災直後には写真館を経営しながら、浅草田原町の写真材料商ヤマト商会の写真クラブに出入りしている。  そしてエログロナンセンスのその時代には、写真館を神田今川橋に移し、花王石鹸の広告写真を撮るかたわらリアリズム写真を勉強していて、昭和七年には野島康三、中山岩太、伊奈信男らと写真雑誌「光画」を創刊した。 (二)  日中戦争が勃発して二年目の昭和十三年、麻布第三連隊の一兵卒として須田健二は、広東攻略と並行しておこなわれた武漢作戦に参加させられた。藤本四八氏が報道カメラマンとして広東攻略に従軍させられたことは書いたが、須田の場合はべビーパールを雑嚢のなかに入れてもっていったものの、歩兵だから小銃で戦闘しなければならないのである。  武漢三鎮へは上海から、揚子江沿いにさかのぼらなければならない。途中で麻布第三連隊は南下、江西省の南昌へ進軍した。渡河作戦を敢行したとき、須田のまわりにいた戦友たちがバタバタと敵弾をあびて斃《たお》れた。飢えと苦戦の連続だった。  三年間、南昌の守備にあたり、帰還をゆるされて東京へもどってくることができた。任務の余暇に彼は、大陸の風景や風俗をたくさん撮ってきていた。須田は言う。 「そのころ木村伊兵衛、名取洋之助、鈴木八郎、中山岩太、真継不二夫だの、有名な写真家たちの名前だけは知っていましたよ。しかし、とても自分はそんな写真家にはなれないと思っていましたね」  ただ写真を趣味としてたのしんでいただけだったのだ。それでも作品を認められたい気持はあって、両国のカメラ機材商の近江屋が発行していた「写真報国」の月例コンテストに応募してみた。作品は『万世橋風景』であった。  まもなく須田は、応募したことさえ忘れてしまった。再び麻布第三連隊に出陣命令がくだり、こんどは満州へ派遣されたのだ。太平洋戦争がはじまる昭和十六年のことである。  北満州のソ満国境、黒河という町までいった。アムール河をへだててシベリア鉄道が遠望できる。ソ連極東軍との国境紛争である張鼓峰事件、ノモンハン事件などが頻発しており、麻布第三連隊もまた、日ソ戦争を想定して守備についていた。  荒涼としたこの辺境で、須田健二は四年間をすごさねばならなかった。  たったひとつ、うれしいことがあった。「写真報国」に応募していた『万世橋風景』が入選した——その通知がきたことだ。 「おれの作品もまんざらではないんだな」  と一人で祝福し、それだけに一日でもはやく東京にもどって、自由に撮りたい、浅草で遊びたい焦燥感にかられる。だが雪の日も風の日も双眼鏡で、アムール河対岸のソ連兵の動きを監視していなければならなかった。  帰国できたのは昭和十九年、太平洋戦争が末期になりつつあるときだった。  さっそくカメラを手にしたいにも、もう物資は欠乏しており、フィルムもかんたんには入手できなかった。カメラ店はどこも開店休業状態である。喫茶店も食堂も閉まったままだ。欲しがりません勝つまではの時代で、しかも、彼は除隊になったわけではない。 「戦局の悪化とともに、国民のあいだに不穏なる動きがある。暴動がおこるかもしれない。朝鮮人が反乱するかもしれない。が、現在では眼を光らせている正規の憲兵の数さえも不足している」  というわけで陸軍歩兵伍長に昇進していた須田健二は、臨時憲兵伍長に任命されたのであった。世田谷区の小学校が、その臨時憲兵隊ということになった。  連日、日本本土が空襲されるようになった。昭和二十年三月十日の東京大空襲で、下町一帯が地獄と化したのを知ったのも、この小学校で勤務しているときだった。  数日後、外出許可をもらっていってみると、職人の町の小島町も大半が灰になってしまっているのに、奇跡的に須田帽子製造所とまわりの数軒だけは無傷で残っていた。  出てきた長男と彼は抱き合って、 「よかった、よかった!」 「お互いに命だけは大事にしような」  と涙ぐんでよろこびながらも、古い東京が跡形もなくなってゆくのに暗澹《あんたん》たる気持にならざるを得なかった。あたりにはもう江戸時代からの箱屋も財布屋もなく、残っているのは上野の山の西郷さんの銅像だけなのだ。  戦友たちがバタバタ斃れていった戦場にいたときよりも、このときのほうが戦争への憎しみが強かった。  彼はしかし、幸運なほうであった。もしソ満国境の黒河で敗戦を迎えていれば、その運命はどうなっていたかわからない。満州へなだれ込んできたソ連兵たちに射殺されていたかもしれないし、捕虜としてシベリアへ連行され、何年もの重労働を強制される抑留生活に耐えなければならなかったかもしれないのだから。  敗戦から二カ月後の十月十五日、彼は臨時憲兵の任務から解放された。 (三)  国鉄上野駅の地下鉄ストアで、須田健二がカメラ機材店をオープンしたのは昭和二十五年のことである。  いまコメディアンとしてテレビで活躍している、キンちゃんこと萩本欽一の父親が、この店の権利をもっていたのを、須田がゆずってもらったのだ。当時、キンちゃんはまだ小学生くらいだったという。 「あのカメラ店のおやじは、変わりものでおもしろいぞ」  ということが口コミでひろがって須田カメラ店を、写真家になりたがっているヤングたちがたまり場にするようになっていった。  カメラを買いにいっても、 「このカメラはね、戦後の粗悪品だよ。こんなのじゃロクな作品はできねえから、買ってもつまらねえよ」  店主である須田が商品をけなすので、 「カメラがあっても売らない店だ。おもしろいおやじだよ。江戸っ子だねえ」  と、寄りつかなくなるどころか逆に、人柄に惚れて群がってくるのだった。  しかも、カメラを並べたショーウィンドウには、一升壜が何本もはいっていた。カメラ店のようでもあり酒屋のようでもある。須田は遊びにきた連中に、写真談義をサカナに飲ませるのである。だから、なおさら群がる数がふえてゆく。  そのなかには、のちに三島由紀夫をモデルにして『薔薇刑』を撮るようになる細江英公や、『世界の子供たち』の田沼武能らの顔もあった。そのころ細江はまだ東京写真短期大学の学生であり、田沼は浅草の田沼写真館の長男で、すでに木村伊兵衛の助手をつとめていた。  須田はアマチュアの「東紅写友会」に所属しているが、青年写真家協会にも加わって木村伊兵衛、土門拳、秋山庄太郎、林忠彦らとも交遊するようになっていた。  若い写真家のタマゴたちは、地下鉄ストアの須田カメラ店にばかりでなく、彼の小島町の自宅へも遊びにくるようになった。来るものはこばまずで、自宅でも酒盛りをやりながらの談論風発であった。江戸っ子らしく須田が「宵越しのゼニは持たねえ」式に気前よくおごってやるのである。  酒をご馳走になるだけではない。厚かましくそのまま居候になるのもいる。食わせてもらってそこから、朝は学校や会社へ出かけてゆき、夕方には「ただいまあ」と帰ってくるのだ。三年間もそうしていたのがいたというから呆れてものが言えない。  食費を払うような律義なのは一人もおらず、多いときで十六人もいたという。カメラいじりが好きで、お経をあげるのさえ忘れた坊主もいたそうだから驚く。  酒盛りをやって写真の技術論や芸術論を戦わせ、雑魚寝して、みんなで朝めしを食ってだから、しだいに「写真界の吹き溜り」といわれるまでになった。  浅草のお祭りや隅田川の花火を撮影にきた連中が、ここに〈ワラジ〉をぬぎ、さんざんご馳走になってゆくこともある。まさに「酒飲みねえ、鮨食いねえ」なのだ。  そのような千客万来を、厭な顔するどころか、大いに歓待してやったのが「姐御風の美女」といわれる世津子夫人だった。  彼女の旧姓は水野、父親が大きな鉱山を経営していたこともあり、渋谷区広尾で育った山の手の娘だった。女性だけのカメラクラブの「白百合会」に所属していた。  世津子さんは、須田作品に魅せられた。  二人だけでデートする仲にもなり、アルス「カメラ」の月例コンテストに応募したがっている彼女のために、彼が上野動物園などにつれていって撮らせたこともあった。  結婚したのは昭和二十六年、須田が三十四歳、彼女は十三歳もはなれていて二十一歳だった。彼女の家族は猛反対した。下町生まれの学歴のない男だし、しかも十三歳もはなれていてはうまくゆくはずがない、というのが理由だった。  それでも世津子さんが彼のところへ走ってゆくものだから、結婚式には親族たちは列席しなかった。その後も父親は、死ぬまで娘を許そうとはしなかった。  世津子さんに言わせると、 「須田は昔気質の人で、女房は五歩さがってついてこいというふうでした。家庭人としての彼は零点だけど、人間としては百点をあげたいわ。他人のために自分を投げ出して尽すし、自分はがまんして他人には与える人なんですもの。家のなかはいつも、そういう人たちであふれていました。名前と住所を知らなくてもつれてきて、飲ませたり食わせたりするのよ。自分の家庭は火の車なのに」  そんな夫に惚れてしまったのだ。だから彼女も千客万来を、厭な顔をするどころか、たとえ財布のなかは空っぽでも、大いに歓待したのだった。まことに美しい夫妻である。  写真家仲間たちは須田夫婦を、「居候がいつもごろごろしているから、子供をつくるチャンスもないだろう」と冷やかしていた。  ところがちゃんと、昭和二十八年には世津子さんは一児を出産した。修史と名づけた。良妻賢母になった彼女は、この愛児ばかりを撮っていた。女流写真家になることは断念したのである。 (四)  話は前後するが——昭和二十五年の某月某日、繁盛していない須田カメラ店にヘンな外人がやってきた。  サンタクロースのように白いあごひげをはやしているが、着ている黒い修道服は薄汚なかった。一種の乞食坊主であり、ゼノと名のるポーランド人で、カソリックの労働修士(見習神父)なのだ。  彼の用件というのは、こうであった。 「布教活動をしているわたしを、写真に撮ってほしいのです。わたしはいま、気の毒なバタ屋さんたちの『蟻の街』に出入りしています。そこを撮ってくれませんか。アメリカの教会に送りたいのです」 「蟻の街」というのは、隅田公園や上野公園一角にバラック小屋をこしらえ、そこを住居にして廃品回収業に従事している集団であった。そこに出入りしては心の糧を与えているこの老修士に、須田はたちまち感動し、義侠心に燃えた。  ゼノ修士は戦前から日本に布教にきていて、長崎で原爆に遇い、着のみ着のまま上京してきているのだった。北区王子にある教会を寝ぐらにしていた。戦災孤児や引揚者の日本人をみると、どこからかパンや米をもらってきては施してやっているのだ。そして、全国を放浪するみたいにどこへでも出かけてゆく。貧しき人たちのために神に祈っている。  写真は撮ってほしいが、代金は払えないと恐縮する彼に、 「いいってことよ。わたしはカネがほしくてカメラをいじってるんじゃねえや」  須田はヤセがまんしながら従《つ》いていった。  話には聞いていたが「蟻の街」は、想像以上に殺伐なところだった。一般市民は怖がって近づかない。だが、かれらとて好きこのんでバタ屋暮らしをしているのではない。教養のある人も、習字のうまい人も、博学の人も、没落した人たちもいた。みんな戦争のため人生を狂わされた被害者なのだ。  そうした人びとを背景に須田は、ゼノ修士を撮ってやっていたが、かれらの生活をも写生するようになっていった。それが自分にあたえられた仕事のようにも思えてきた。  最初のうち、かれらはカメラを向けられるのを厭がった。上野駅北口が火事になったときなども、カメラをかまえる須田に、 「おれたちが焼けるのが、そんなにおもしろいのかよォ!」  血相をかえて飛びかかってきたのがいた。  しかし、彼が興味本位で撮影しているのではないのを理解し、仲間として扱ってくれるようになった。彼自身にも「おれのほんとうの仲間なんだ」とする意識が芽ばえていった。車座になって焼酎を茶碗で飲んだ。「蟻の街」には浮浪者のための宿があり「眠りの家」と書いた板ぎれがぶらさげてあった。一泊二十銭、須田もそこに泊めてもらった。夏の夜は星座を仰ぎながら、かれらと大八車の下で寝た。  ここにはOさんという会長がいた。前科三犯ながら仲間たちのために尽している、気のいい男だった。須田は意気投合した。  じつは、須田健二と世津子さんの恋愛がはじまったのは、このころからだった。彼女が魅せられた須田作品というのが、この『蟻の街』であり、底辺に生きる人びとを描いてひたむきに社会に訴えている。そうした彼の姿に男を感じたからにほかならない。だから二人を結びつけたのは「蟻の街」でもあるわけだ。  北原怜子という「聖少女」がいた。彼女は薬学専門学校を出ている薬剤師で、父親は農学博士の大学教授だった。いうなれば恵まれた家庭の子女だが、彼女はゼノ修士の人間性に心うたれ、「蟻の街」に飛びこんできて暮らすこと九年、子供たちの勉強相手になったりオルガンを弾いてやったりした。須田は彼女のことを「蟻の街のマリア」とよび、美しくけなげなその姿も撮りつづけた。  殺伐だった「蟻」には彼女のおかげで、人情ゆたかな人間関係ができあがっていった。だが、悲しいかな、彼女は二十八歳でバラック小屋のなかで病歿した。人びとはその清らかだった愛を追慕しながら慟哭した。彼女は天に召されていったのだった。  こうした「蟻の街」を、須田健二はひたすら二十年間も撮りつづけた。昭和三十三年四月に、銀座の小西六ギャラリーで初の個展『蟻の街』を開催、大都会の底辺に生きる人びとのその愛と哀、生命力のたくましさがみごとにとらえられていて絶讃された。  それでもまだ十分に撮り得た満足感はなく、彼は二十年間も追いつづけたのだ。写真のリアリズムがどうのこうの、女のヌードがよいのわるいのと、写真界がカンカンガクガクやっているときでも、そんなものには眼もくれずに、須田はバタ屋群像を凝視していた。 『蟻の街』『ゼノさん』『蟻の街のマリア』この三部作のために彼は、繁盛しない須田カメラ店はやめてしまい、自己のすべてを燃焼させたと言っていいだろう。大阪や神戸にある「蟻の街」へも出かけていった。やがて東京の「蟻の街」は都庁の方針で、江東区潮見八号埋立地へ移転させられた。 (五)  須田健二は料理写真家とみなされた時期もあった。婦人雑誌の依頼でそれを撮っているうちに、NHKが発行する料理テキストの写真は、彼が担当するようになったのだ。おかげで外国へも四回ほど出かけてゆくチャンスに恵まれた。  一回目は料理研究家の江上トミ女史に同行してヨーロッパを食べあるきした。  二回目はやはり料理研究家の東畑朝子女史とヨーロッパヘ。三回目と四回目は筒井たい子女史と東南アジアをまわった。ところが、どこへ出かけていっても、彼は江戸っ子なのだ。ロンドン、パリ、香港などの一流レストランで最高級の料理を撮影し、そのあと食べさせてもらうのだが、どれもおいしいとは思わないのである。舌に合わず、むしろ苦痛でさえある。  彼とすれば「江戸前の天ぷら、鮨、そばが天下一品」なのだ。そして、飲む場所は一流レストランなんかよりも、縄のれんに首を突っこめるおでん屋がいい。豆腐に大根にがんもどき。気取る必要はさらさらなく、べらんめえ調子まる出しで飲む酒、これが人生の最高の味覚なのだから。  酒といえば、なにしろ自宅を「写真界の吹き溜り」にして居候たちと酒盛りをやったり、「蟻の街」で車座になって焼酎を呷《あお》って鍛えた酒豪である。秋山庄太郎氏、中村立行氏、林忠彦氏らも飲み仲間で、その秋山の庄ちゃんが「写真界酒徒番付」をこしらえたことがあった。  それによると横綱大関級に秋山、林、田村茂とならび、小結が須田健二、前頭筆頭に土門拳の名前があった。ところが、この小結は「休場」を余儀なくされた。脳溢血で倒れ、かるい言語障害と歩行困難になったのだ。  そうなると、にわかに生活そのものが貧窮しはじめた。世津子夫人が言うように「家庭は火の車でも、自分はがまんして他人に尽してきた」彼のことだから、貯金などあろうはずがない。「蟻の街」にばかり二十年もかよっていたのでは、カネになる作品ができるわけはない。定収といえば月額二万円ぽっちの、軍人恩給だけになってしまったのである。  幸い、彼は再起することができた。  それでも生活はラクにならない。ほかの写真家たちのように、仕事がなければ雑誌社をまわって注文をとる——かたくなに職人気質の彼にはそれができない。  しかし、世津子さんも一向に、深刻なことだとは思っていない。 「自分は他人さまに尽してきたくせに、いまは子供に対しては『おまえは人のためにばかり尽さないで、すこしは自分の心配をしろ』なんて説教しているんですよ」  彼は不自由な脚をひきずりながら「セメントで固められつつある現代に、いまなお呼吸している古い東京の路地裏」を、愛惜をこめて撮ってまわるようになった。  一人息子の修史君が手伝うようになった。彼はいま二十八歳、独協大学を出てプロ写真家としての道をあゆみはじめている。父親のなかに生きている「江戸っ子」をじーっと見つめていて、「おとうさん、そんな古い感覚の作品はダメだよ」なんて批判したことはない。  古い家屋、看板、板壁、井戸などを親子して、協力し合って作品化していった。脳裡にある「古いアルバム」と同じ風景を見つけたとき、ファインダーをのぞきながら須田は思わず涙ぐんだ。昭和五十三年初冬、西麻布のペンタックスギャラリーにおいて『須田健二・修史親子展=生きていた東京市』を開催することができた。  そしてさらに、下着泥棒にまちがえられるかもしれないのに須田は路地奥の木造の物干し台が好きで、そこに干されている「庶民の旗じるし」にカメラを向けるようになったのであった。  彼は賞とも無縁であった。『蟻の街』にも『生きていた東京市』にもそれが与えられることはなかった。 「どんな写真家がお好きですか?」  とのぼくの質問に対しても、須田健二の答えは変わっていた。 「八木下弘です。秋田の営林局に長く勤めていた男でね、日本の樹木ばかり撮りつづけているんですよ。樹木は美しいですねえ。もう一人、高野康夫も好きだな。彼は、日本舞踊しか撮らないんです」 「いまでもゼノさんには、お会いになっているんですか?」 「彼は昭和四十四年秋の叙勲のとき、勲四等瑞宝章を授賞しましたがね、いまは九十歳になっておられる。さすがに老齢には勝てなくて、妻子もなく財産もなく、教会の人の世話で清瀬の療養所で寝たっきりになっていますよ。故国のポーランドに帰ってみたかったでしょうに。  わたしは『ゼノさんのあゆみ=終戦直後から叙勲まで』の個展をペンタックスギャラリーでやりました。ゼノさんに観にきていただくわけにはいきませんでした。あなたにこんなお話をするのは何だけれども、ゼノさんが生きておられるうちに、せめてこの『ゼノさんのあゆみ』を写真集にして、その枕もとに置いてあげたいんです。どこか出版社はありませんかね」  そういえば須田健二は無冠であるばかりでなく、一冊の写真集も刊行していない。だから『ゼノさんのあゆみ』を出したがっているのではなく、生きているうちに枕もとに置いてあげたいその一心なのだ。神父にはなれなかったが、生涯を日本人にささげた異色の老修士——その外人の生きざまは、この写真集によってしか世に残すことはできないのだ。〈カネがほしいなあ〉ぼく自身がそう思った。その出版費用をぼくが負担してやることもできるからである。  昭和五十六年の夏、南米リオのカーニバルが浅草にやってきた。路上で踊ってみせるボリュームたっぷりのその彼女たちの、写真コンテストも催された。須田健二が審査員をひきうけさせられた。  ところが、予算がないということで審査謝礼は、千円札の一枚も出なかったそうだ。何ともひどい話だが、須田健二の清貧に甘んじなければならぬ日々は、どこまでもつづきそうである。  へこたれるな江戸っ子! (昭和五十七年一月取材) [#改ページ] 今井寿恵《いまいひさえ》 「馬を愛する女人」  ——女流の初登場である。  その彼女は、童女がそのまま大きくなっているという感じ。独身である。黒々としたおさげ髪。ぽってりした頬の、色白の瓜実顔。岸田劉生描くところの、童女の麗子像に似ているなあ、とぼくは思う。小柄なほうである。真紅のセーターを着ておられる。赤い馬、青い騎手の柄模様があるポロシャツ。胸には馬の顔の金製のネックレスが光っており、黒のパンタロンが太ももにぴったり。  会ったのは東京は代官山にある「イースト・ウエスト」。プロ写真家たちのためのフィルムの現像と、プリントをやっているんだそうな。アメリカ風の現代的なオフィス。ここに彼女は個人事務所をおかせてもらっていて、ときにはプリントのアドバイスなどもやっている。ピチピチしたOLたちがいる。  長野県|御代田《みよた》町——避暑地の軽井沢から十五キロ、浅間山の裾野にある白樺の林にかこまれた山荘に、ひとり住んでいてときおり、東京へ出てきてこの個人事務所を本拠に仕事をする。そして、再び山小屋へもどってゆき、現代の女仙人と化して、だれとも会わない静寂の世界にこもるのである。  山小屋にいない場合もある。東京にもきていないことがある。そのときの彼女は「馬」をもとめて撮影旅行に出かけているのだ。 「山荘にこもっておられるときは、一歩も外出しないんですか?」 「小諸か軽井沢へはときどき、車を運転して買物にいってます」 「一週間もだれにも会わない、言葉をかわさない……、さびしくはありませんか?」 「朝おきると野鳥が啼いてます。犬も飼ってます。それに、わたしだけの空間がありますもの。たのしいくらいです」 「男性写真家より女流写真家がトクをする、というのはどんな点?」 「撮影旅行にいっしょにいったとき、男性は強行軍しても平気ですけど、女は肉体的に負けますね。休憩しているときなんかでも、女のわたしの前では、あまり行儀わるいこともできないんで、男性は困るみたい」 「いや、そういう男女の体力差ではなく、プロ写真家としての男と女の損得……それをお聞きしているんです」 「女性にはどうしても女の甘さ、弱さがありますわね。男性よりも能率がわるい仕事しかできません。けど、それが女性らしい、それなりの作風になっていればよい、と思っています。わたしは「VIVO」の細江英公氏や奈良原一高氏らからかなりの刺激をうけました。かれらの眼の冷たさ、あくの強さに、さすがは男だなあ、と感心させられたものです。  また、篠山紀信氏らのように、よくもまあ激写といって、あんなに消化できるもんだなあ、何の苦もなくあっけらかんとやってのける……こういうのが男なのかなあ、と思ったりもするんです。女にはとてもこうはできない。途中でひと休みしなければ」  彼女の口調はじつによどみないが、ぼくのほうは初の女流が相手だから、どうもいま一つ調子が出ない。いま彼女が言ったように「あまり行儀わるいこともできないんで、男性は困る」のだ。ストレートの質問が出しにくい。  古武士みたいだった土門拳さん、偉丈夫の林忠彦さん、天衣無縫の濱谷浩さんら、すでに三十人をこえる実力派の男性写真家とやり合っているぼくでも、彼女の前では勝手がわるい。繊細なる神経をもっておられる。女っぽい情念をもっておられる。繰り返しいう、いまだに彼女は独身である。 (一)  昭和六年七月、今井|寿恵《ひさえ》は東京の、国電東中野駅近くにあった「今井写真館」の長女として生まれている。明治三十九年生まれの今井康道がそこの主人で、敬虔なるクリスチャンでもあった。  母親の羊子は神戸の貿易商の娘。康道と彼女は、信者同士の恋愛のすえに結ばれ、寿恵につづいて長男と次女にも恵まれた。次女のみさ子さんは以前に、この『写真家物語』に登場してもらった細江英公氏と、恋仲になって結婚することになる。  太平洋戦争の末期の東京大空襲のさい、今井一家も疎開先の三島で爆撃を受け、逃げてまわり、寿恵と幼いみさ子だけがはぐれてしまった、という恐ろしい体験もしている。しかしながら寿恵にとって、戦争の恐怖とはそんなものではなかったという。両親がクリスチャンであったことが禍《わざわ》いするのである。 「神国日本を滅ぼそうとしている異教徒だと迫害され、なんの罪もないのに弾圧され、父は特高警察だか憲兵隊だかにひっぱられてゆきました。そして、アメリカのスパイだと決めつけられ、足腰が立たなくなるまで拷問されたのです。送りかえされてきた父の姿は哀れでした。スパイだからといって、働き口もあたえられなかったのです。わたしが怖いと思ったのは、空襲をうけたり大砲を射ち合ったりする戦争そのものよりも、大衆までが加わった軍国主義の、そうした野蛮な暴力です。それがわたしのなかの戦争であり、再び軍国主義の時代になれば必ずや、それに便乗する大衆がいる。それが恐ろしいですね」  と寿恵は語る。  少女だった彼女の眼に、そのような狂信的な大衆がいかに醜悪なものにうつったか、よく理解できる。戦争の恐ろしさは殺し合いそのものではなく、人間性を失った市民たちの、弱いものいじめする凶暴さだった……と記憶している。これは彼女の、写真表現の原点のひとつになったようだ。  近所の人たちからは白い眼で見られ、雨戸をとざして息をつめて暮らさなければならなかった今井家に、戦争に負けてくれたおかげで、ようやく春がめぐってきた。焼跡だらけになっていても、こんなにうれしかったことはないだろう。康道は松屋デパートの銀座店と浅草店に、営業写真の写場を出させてもらえることになった。彼は忙しく収入はふえる一方になっていった。  寿恵は久我山の立教女学院高等部を中退、お茶の水にある文化学院美術科に移った。油絵が好きで女流画家になりたかったのだ。  フランス表現派の、好んで娼婦を主題としたマルケ。鋭い線とつめたい色調で具象化してゆく異才のビュッフェ。かれらの作品に傾倒していった。美術科では山口薫、モダンアートの村井正誠らの教えをうけた。  写真には興味なく彼女自身、今井寿恵自選作品集を特集した「カメラ時代」(昭和四十一年五月号)に、こう書いている。  文化学院の美術科に在学中、私はよく旅をしました。最後の夏休みを利用して、秋の学期にまたがった長崎行きのことは、当時の永い旅として私の若い頃の一頁の記録を埋めてあまりあるものでした。父は、出かける私にカメラの使い方と、フィルムの箱の中に入っている使用書の露出の決め方を教え、一台のローライフレックスを貸してくれたのです。当時私は、油絵の道具をいっぱいかかえていたので、カメラの重さがわずらわしく、浦上の天主堂でこわれた天使の像を含む数枚と、別府で会った外人のようにスマートな感じをした異性の像を数枚撮っただけで、しまいこんでしまった記憶があります。(後略)  つまり、彼女には写真で表現したい意欲など、皆無だったのであり、やりたいのは写真展ではなく、画廊での美術展だった。  文化学院卒業後も毎日、油絵具で汚れているうちに彼女は二十五歳になった。お嫁にゆきたい女ごころもあった。同時に、結婚するまえに「過去二十五年の人生に感じたものを、なんらかのかたちで残しておきたい。これだけはやっておかなくちゃ」の使命感のようなものも芽ばえていた。  そんなある日、康道の友人である富士フィルム宣伝部長の平松太郎氏に、 「寿恵ちゃん、写真展をやってみなさいよ。過去二十五年の人生に感じたものを、表現し尽せるかもしれんじゃないか」  とすすめられ、考えてみる気になった。  会場は銀座の松島ギャラリー、父の写場がある銀座松屋の真向かいであった。  開催期日までになんとかしなければならない。横須賀の海辺へいったり、御宿海岸へかよったりして彼女はカメラをかまえた。撮るものは風景でも、自分のなかにある、自分だけにしか見えない風景であった。  海辺に打ちあげられている魚の死体、棄てられているこわれた電気冷蔵庫、海草、貝がら……それらは彼女自身の白日夢である。  ウインバロックの作品に、森のなかの落葉の上に、全裸の女性が伏せているのがある。彼女はその作品が好きで、自分も「連想のイメージが固定されなくて、見る人によっていかようにも見えるもの」を撮りたがっているのだった。 (二) 『白日夢』と題した三十点のこの処女個展を開催したのは、昭和三十一年七月であった。この年、常盤とよ子が『赤線地帯』を、奈良原一高が『人間の土地』を、細江英公が『東京のアメリカ娘』を世に問うているが、いずれも第一回個展だった。  今井寿恵、二十五歳の女流写真家の誕生は大いに注目された。しかし、作品評はかならずしもかんばしくなく、強引に自分のイメージを写し込もうとしているそれは、 「これはジャン・コクトオの世界だ」  と言われたのはいいほうで、 「写真的でないし、写真ではない。絵画的であり文学的すぎる。もっとストレートであっていいのに。やはりまだ稚いな」  と一蹴する評論家もいた。  前出の「カメラ時代」に渡辺勉は「まだ技術における絵画と写真の相違性のみきわめがつかずに、ブラッシュをシャッターにそのままおきかえるかのような表現方法が行われていたので、見るものにとってある戸惑いを感じさせる」稚さがあったと指摘している。  この時期、若い写真家たちの「難解な作品」が、申し合わせでもしたかのように数多く出てきた。一種の流行になった観があった。「十人の眼」のグループである川田喜久治、奈良原一高、細江英公、佐藤明らはとくに一般には理解しがたい作品をひっさげてきた。  かれらはやがて「VIVO」を結成してゆくが、現時点からふりかえってみればそれらの作品群には稚拙さがめだつが、かれらの青春そのものであった。当時、佐藤明は、 「写真はヴィジュアルだ、視覚感覚の表現である」  と言っており、戦前から活躍している既成の先輩写真家たちの作品を真向から否定し、その立場から自分たちの作品を産みだしてゆく……その姿勢が青春だったのである。  今井寿恵にもその姿勢があった。  かれらとほぼ同世代で、軍国少年少女として育ってきた環境の共通性がある。屈折した心象風景をそれぞれに持っている。そうしたものが、既成の大家たちの作品を見なれてきている大人の渡辺勉らには「戸惑いを感じ」させられる技法で表現されているのだった。  臆することなく寿恵は翌三十二年十月、富士フォトサロンにおいて『夏の記憶』と題する第二回個展をひらいた。北海道を旅行して破船や、棄てられたゴム手袋などを、心象風景として撮っている。  しかし、これも評判はよくなかった。 「策におぼれすぎる。文学的でありすぎる」  と叩かれる。娼婦を撮っている常盤とよ子や、ダム工事場の男たちを撮っている赤堀益子らはリアリズム写真であり、そのほかの女流写真家たちの大半もそうだったので、寿恵の作品は「たんなるイメージ遊び、生活がない」お嬢さん芸にされたのだ。それでも彼女自身は「写真に対する既成観念がない」自分のほうこそ新鮮なのだと自負していた。  娘がプロ写真家になることには、康道は賛成していなかった。 「もっと写真についての基礎を勉強したり、思索してからなら挫折することはないが、ちょっと話題になったぐらいでは、決して永続きはしない」  というのが理由だが、それもまた既成派的な考えであった。  彼女は父親には従わなかった。怖いもの知らずで猪突していった。既成観念がないこと、感覚で撮ってゆくこと、若さがあることなどが、評論家たちの酷評さえもものともしなかったのだ。  寿恵は、こう語っている。 「ひとことで言えば、詩の世界の映像を定着させようということなのです。それには幅の広い次元を表現することが必要なので、モンタージュなどのテクニックもかなり使います。でも、問題なのは要するに、次元の異なる不思議さといったようなものを、どのように表わすかということですから、一枚一枚の写真はそんなに変わってなくても、何枚か重なっていった場合に、その映像が不思議な映像になっていればいいわけです。わたしの写真のなかに出てくる風景は、ぜんぶ自分でこしらえた風景なんですが、ということは現実の世界をそのまま写すというのじゃなしに、あるていど自分でつくった世界を写すというふうに、完全に切りかえてしまっているわけですね」  寿恵は「スター」になった。写真界の若き紅一点であるかのごとき、華麗なる存在になっていった。  文学の場合、女流作家の小説は「肌」で書いたものが多く、いわゆる観念小説といわれるものは少ない。美術の場合もまた、女流画家の作品はほとんどが具象であり、抽象画はあまり得意ではない。写真もそうである。だから寿恵のような「自分でつくった世界」を撮る観念写真——アブストラクト風のものを産みだせる女流は稀少価値があるのだ。  彼女は、動く写真にも意欲的であった。  ジャズと映像を組み合わせた『ジャズる』という題名の一六ミリ映画を製作した。製作費の百万円は父親にせびった。  また、寺山修司氏にシナリオを書いてもらった『ボール』も草月アートセンター劇場で封切った。製作費はやはり康道に出してもらったが、彼はこの年、ガンのため死去してしまった。以後、費用を出してくれる「パトロン」はなく、映画への熱い思いは断念せざるを得なくなった。  肉親の死と映画製作の中断は、彼女にとって同等に悲しいものであった。  そのあとに歓びがきた。フォトポエムである『ロバと王様と私』が第三回日本写真批評家協会新人賞(昭和三十四年)の栄冠を、川島治とともに得た。このときの作家賞は三木淳である。  寿恵は「これでプロとして認められた」と自分を祝福し、記念する意味で翌三十五年四月、小西六ギャラリーにおいて『オフェリア・そのご』を発表した。この年にはカメラ芸術芸術賞も受賞した。  高円寺にスタジオをつくり、ファッション写真やコマーシャル写真なども撮って、それが生活費になった。 (三)  今井寿恵の頭上にかがやく栄冠は、年ごとにふえていった。いまや彼女は女流の第一人者であった。若い詩人、作曲家、画家たちとの交遊そのものが、彼女の成長の「養分」となっていった。  二十九歳の彼女を突然の不幸が襲った。  その惨事は眼をおおうばかりだった。  横浜での撮影をおえて、東京へ帰るためタクシーをひろった。夜になっていた。魔神が襲ってきたのはそのときである。 「キャーッ……!」  と彼女が悲鳴をあげたが、そのあとは気を失ってしまった。ヘッドライトの光芒が接近してきたと思ったら、つぎの一瞬、スピードを出していたタクシー同士がもろに正面衝突、後座席にいた客の寿恵は、前方へ投げだされて顔を、フロントガラスに突っ込んだのだ。顔面でガラスを割って血まみれになった。  あとでわかったことだが、相手の運転手は頭を強打して廃人になり、こちらの運転手はつぶれた車体にはさまれて、下半身を失ってしまった。病院へかつぎ込まれた彼女は、一命をとりとめたものの、顔は整形を必要とするほどメチャメチャになっていて、しかも失明してしまう危険があった。新聞は「失明すれば彼女の写真家生命はおわらざるを得ない」と報道した。  二年間、光明のない暗黒のなかで寿恵は、生き抜かねばならなかった。療養生活は三年もつづき、そのあいだにはいろいろなことがあった。辛く長い三年であった。  細江英公と恋仲になっていた妹のみさ子が、めでたくゴールインした。細江が三島由紀夫をモデルにした、大話題作となる『薔薇刑』を完成させたのも結婚してまもなくである。  寿恵は、撮りだめておいた『夢の散歩』『バラ宴』の個展をやってもらった。「タイム・ライフ」が選んだ世界の写真家の偉大なるプリントメーカー二十人のなかに、日本からただ一人、彼女が加えられているという朗報もとどいた。しかし、くる日もくる日も暗黒のなかに閉じ込められている寿恵にとっては、むしろ悲しいことである。結婚を約束していた放送局員とのそれも解消してしまった。五体万全でない自分には妻になる資格さえなくなった、と涙にくれるのだった。  再起した彼女が馬ばかり撮りはじめたのは、昭和四十五年からである。  奇跡的に失明はまぬがれたものの、まだ美貌がもとにもどっていない。鏡に向うのも厭である。高円寺のスタジオを売ってしまい、長野県の浅間山の裾野にある山荘にひとりこもるようになったのも、このときからであった。たぶんに彼女は厭世的になっていた。 「なぜ、馬ばかり撮りたくなったんですか」 「眼が見えないでは何もできない。写真はやめざるを得ない。どこへも一人では行けそうにない。絵筆もにぎれない……療養中にそう思って諦めかけていたんです。ところが、だんだんに視力が回復してくると、生きているそのこと自体が、無上の歓びになってきました。生命があるっていうことは理屈ではない。わたしは生きている、というそのことにストレートに感動したくなってきたんです。  そうしたら、素朴なものを撮りたくなりました。イメージ遊びといわれた主観的な作品でない、演出が多い理屈っぽい作品ではない、ありのままのものに素直に惹かれていったんです。それに、三年間は四谷怪談のお岩さんみたいな顔だったし、友だちなんかに見せたくない。見られたくない気持があったんですね。パーティなんかにも出席したくありませんでした。だから、山小屋にこもりたかったし、人間のいない広い放牧地へいって、馬を相手にしたくなったんですね」 「馬でなくても、ほかの動物であってもよかったんじゃないですか。たとえば、動物写真家の田中光常氏は山奥へはいっていって、いろんな動物にカメラを向けていますよね」 「田中さんはあらゆる動物の、生態を撮っておられます。けど、わたしの場合は、情感のほうを撮りたいんです」 「情感ね、なるほど……」 「だから、馬でなければならないんです。馬に対する憧憬が、学生時代からありました。フランス映画の『白い馬と少年』に感動しましたし、『アラビアのローレンス』に登場するアラブ馬の群れ……あれにはほんとうに全身がしびれてしまったんです。馬にはほかの動物にない気品、やさしさ、駈ける美しさ、それでいてほかの動物よりもろい面がある。そうしたことが、わたしをとらえてしまったのです」  彼女はヨーロッパへ向った。  現代でも社交界が馬を中心にして動いているといわれるイギリスヘゆき、さらにフランス、ベルギーへまわった。これらの国々では馬は、車よりも贅沢な乗り物なのだ。  日本ではもう競走馬しか見られないが、そこへゆけばポロゲームの馬、騎馬隊の雄々しい馬、乗馬用の華麗なる名馬、馬術のための駿馬、競走馬、四頭立の気品のある馬車馬などいろいろとある。アメリカの西部にはケンタッキーの広大なる牧場と、西部劇に登場する、生活をともなった雄壮な馬も撮影できるのである。  高円寺のスタジオを売却して得たカネを旅費にした。馬が彼女のすべてになった。性格もすっかり変わってしまいました、と彼女は言う。事故前は神経質で、気負いもあり「傑作をはやく世に出したい。注目されたい。毎回、話題になる個展をやりたい」野心に燃えていたし、感覚的にも鋭敏すぎるくらいになっていた。  ところが再起できてからの彼女は、すべてに鷹揚に、のんびり対応できるようになっていた。あせる必要はない。傑作ができるまで何年でも待とう……そんな心構えに変わってきたのだ。だから、なおさら中央の写真家たちとも接触したいとは思わず、写真界の話題にもなることなく、 「彼女、写真はやめたらしいね。やっぱり、眼がいけないのかなあ。どうしているか知らないかい」  ときたま、そう噂されるだけであった。 (四)  今井寿恵が『馬に旅して』の個展を開催、また「アサヒカメラ」や「太陽」に馬の作品を発表して写真界に帰ってきたのは、昭和四十六年からであった。  かつての彼女の感覚的なきらびやかな作品を知っている人たちにとって、大自然のなかの群馬の躍動には、ただ首をかしげるばかりだった。だが、多くを弁解することなく彼女は、馬に恋こがれて再び、逢いにもどっていった。 「ほかのものを撮りなさいよ。若いころの作品のほうがあなたらしいよ」  そのように言うプロ写真家やグラフィックデザイナーもいるが、寿恵は微笑をかえすのみであった。  中近東、シベリア、中国以外はほとんど出かけていった。現在に至ってもまだ「世界の馬の半分しか撮れていません」と彼女は言う。さらに瞳をかがやかせて、こうも言う。 「わたし、いつも待っているんです、彼(馬)が出てきてくれるのを。待ち時間のほうが多いのよ。二週間待って一枚も撮れなかったこともあります。効率のわるい被写体なんです、彼は。でも、わたしがわるいんです。馬の習性を知らなかったから。馬はいつも走っていると思っていたのに、日がな一日草ばかり食べてて走ってくれないの。美しい若駒がたくましく走る姿は、めったに見られません。しかも、人間の手がかかっている馬ほどおとなしくて、駈けてくれないんだもの。  三年ばかり写せば、彼とも別れられると思ったのに、それは女のわたしの思いあがりでした。待たされてばかりいても我慢しなければ。いらっしゃい、と呼んでもきてくれないし、撮りたい一瞬を待つうちに三年が五年になり、六年になり、していったんです」  写真集『通りすぎるとき——馬の世界を詩《うた》う』を、昭和五十二年に駿々堂より出版しており、彼女はこう詩っている。  馬と生活を共にするようになったら、  私は正しく馬を知るようになるだろう。  馬の世話をするようになったら、  私は深く馬を知るようになるだろう。  けれど今、馬に無知な私が馬に惚れている。  走りっぷりのよさ、姿のよさ、そして何よりも私の意識のなかを度々通り過ぎてくれる情の深さにまいっている。  古い美術館の壁から、神話の世界から、競馬場から、農家の納屋から、乗馬学校から、放牧地から……ある時は単独で、ある時は群れをなしてやってくる。  私が出かけて行くのか、彼等達が出かけて来るのか、今では風が吹き抜けるようにそれらの映像は透き通りくだけてはまたもとのひとつのガラス絵となって……生まれていく。  この詩を口ずさんでみながらぼくは〈彼女は交通事故に遭ったがために幸せになった〉と思った。いかに彼女が才女であっても「イメージ遊び」はやはり青春時代のものでしかなく、写真人生のすべてではないのではないか。彼女があのまま直進していたら、プロ写真家になるのに賛成しなかった父親の康道が案じていたごとく、挫折してしまっていたのではないか。あるいは、袋小路に迷いこんでしまって、いまごろは出口が見つからず、七転八倒していたのではないだろうか。  失明の危機に立たされたことが、彼女を大きく開眼させた……ぼくはそう思いたい。その危地にあってはじめて写真人生の何たるかを見きわめることができたのだ……そのように断定するのは酷すぎるだろうか。 「馬はあなたにとっての男性なんでしょう」  彼女の瓜実顔《うちざねがお》がいくぶん紅潮した。  それまで、よどむことがなかった口調が、いささか停滞気味になった。 「……そうなのね、男性というよりは人間……どちらかというと男性なんでしょうね。かわいい子供みたいに思えるときもあります」 「あなたはさっき、生態ではなく情感を撮りたいんだとおっしゃった。が、それは馬(男性)に対する女の情念……のようにぼくには思えますね」 「まあ……なまなましいのねえ。でも、そういうものがわたしの作品にある、と見てくださるのはうれしいですね。馬に乗っている童話の王子さまを見ても、王子さまよりその馬のほうが、わたしにはすばらしいんです。馬の体温は、すごく高いんです。掌で肌をさわっていると、そのあたたかさが胸まで伝わってきて……人と握手するよりは気分が落ち着きます。わたし、すぐに馬と仲よくなれるんです。すると馬が鼻面をすり寄せてきて、カメラをかじろうとするのよ。わたしは馬と話します。『ねえ、どうしてそんなに意地悪なの』とか『おとなしく撮らせてくれなきゃ、嫌いになっちゃうから』なんてね」  かくのごとく彼女は馬に恋して、惚れぬいて、女の情念をたぎらせているのである。  最高に魅力的になる馬の姿は、雪原のなかを疾駆するサラブレットの一群を、側面から撮るときだと彼女は言う。彼女は幸福感で全身が熱くなると言う。汗ばんだ馬体の美しさはたとえようがない。真昼よりも朝か夕方のほうがすばらしい。  これまでだれにも語らなかったことを、彼女が告白してくれた。 「わたし、ほんとうは小説家になりたかったんです。小説を書きました。発表してないけれど三編あるんです。ひとつは長編で題名が『航跡』、ギリシャの海が舞台の、船のなかのドラマで、港が男なの。二つめは中編で『まぼろしの山』、まだだれも登ったことがない山道が舞台。三つめは『白いキャンバスにもどって』という私小説」  馬の撮影旅行から山荘にもどってきて、コツコツと書きためているのである。  原稿用紙に向っていて疲れてくると、気分をかえて油絵を描きはじめる。その絵も風変わりである。軽井沢の美しい風景のなかに、亡くなった母親の羊子の葬列を描きこんだものもある。噴火して熔岩が流出する浅間山を背景にした、林のなかにぽつんと少女がさびしげにたたずんでいる作品もある。一週間もこもりっきりで、会話する相手がいなくても彼女には、このように創作や絵画に没頭できる「私の空間」をもっているのだった。  これまで馬の作品は、あまりおカネにはならなかった。ところが最近になって、アメリカで「これまでの馬の作品とは全く違う、絵画の世界の密度がある」と評価されて売れはじめたのだ。  ロサンゼルス郊外のギャラリーには、今井作品が並べられるようになった。ベルギーのブラッセル、フランスのパリでも彼女は個展をやって、馬好きのヨーロッパ人たちをよろこばせた。  アイルランドのアガ・カーン・カップ競技を、ダブリン・ホースショーを撮りに出かけた。ヨーロッパの競馬場での立入禁止となっているゴール脇に、カメラをすえることも許されている。  昭和五十三年には、彼女は日本写真協会年度賞を受賞している。五十五年には北海道の牧場を撮った『ザ・サラブレッド——牧場日記』を刊行した。  いまや今井寿恵は、冒頭で紹介したように、男性たちがいかにエネルギッシュに「激写」していても、わき目をふらない。愛するのはひたすら馬のみである。  それにしても、彼女の青春時代の仲間だった、既成作家たちを勇ましく否定するところからスタートした「写真はヴィジュアルだ」の「VIVO」のグループは、いまどうしているのだろう。今井寿恵ひとりが健在、という観がなきにしもあらずである。彼女の話では、義弟の細江英公は現在、アメリカ、ヨーロッパを舞台に活躍しているそうである。 「女性のヌードも撮って『アサヒカメラ』などに発表したことがあるんです。いまでも撮りたいと思うけど、これはというモデルに出会わないので、惚れこめないのね」  寿恵はそうも言う。まだ馬にのみ惚れこんでいる時期は、長くつづきそうだ。  近く盛岡市に、岩手競馬会館が完成する。  そこには彼女の、雪けむりをあげて疾駆する群馬が、陶板に焼きつけられ、縦三メートル、横十二メートルの大壁画にして飾られることになっている。  再起してからの五年間は、さすがに車を運転するのは怖かった。とくに夜間は、対向車のヘッドライトが眼にはいると、あの惨事がよみがえってきて身がすくんでしまった。  だが、いまではハンドルをにぎって、ショッピングや撮影にも出かけるし、浅間山からおりて東京まで運転してこれるようになっている。美貌ももとどおりになった。すべてに彼女は復調したのである。  最近の彼女はファッション、コマーシャル写真等の仕事にも、意欲的に取り組み始めた。昭和五十年にはドイツとアメリカで出版された「二十世紀の偉大なる写真家たち」に日本の写真家として川田喜久治、細江英公、濱谷浩、篠山紀信らとともに選ばれている。  彼女が撮影してくれるのなら裸馬にでも何にでもなりたい……冗談でなく、それほどに女の情念を感じさせる魅力ある女人だ。(昭和五十七年四月取材) ●以後の主なる写真活動 ファッション、コマーシャルフォトの作成。陶板による作品「群れ」製作。昭和五十七年今井寿恵作品展「Leave me Alone」「馬」。 [#改ページ] 堀内初太郎《ほりうちはつたろう》 「極道が撮る荒地」  異彩の写真家登場である。  関西地方でいうところの極道——堀内初太郎さんには古い時代の、渡世人の男気が脈打っているのだ。なにしろこの人のおとうさんは義理人情の世界でならした、今東光の傑作『悪名』の主人公である八尾の朝吉、尾崎士郎の名作『人生劇場』の吉良常《きらつね》のような一匹狼だったし、堀内さん自身も若いころにはどまぐれた時期があったのだから。  なるほど、新幹線ひかり号でいって神戸は三宮の国際ホテルで会ってみると、一見してそういう渡世人風情があった。剛面《こわもて》の暴力団の親分というふうの不気味さではない。七十五歳になっておられるのに背すじはしゃんとしていて、ぼくなんかに対する挨拶の仕方にも、七三に構えての「遠路わざわざご苦労さんにござんす」式のメリハリがあるのだ。義理人情のその世界に生きてきた人たち独得の「堅気の衆にはご迷惑をかけてはならねえ」式の、身についた謙虚さもある。  しかし眼光には鋭さがあって、いかにも男度胸の良さをあらわしている。棒縞の和服の着流しが似合いそうである。八尾の朝吉も吉良常も写真家になっていたら、こういう堀内さんそっくりだったに違いない……ぼくはそんな光景を想像したものだった。  堅気の衆にカメラを向けたときには「では撮らせていただきやす」ぐらいのことは言うのではないかと思ったら、この人は風景写真ばかり撮っていて人物写真はことごとく敬遠するんだそうな。風景のなかに人物が点在しているのさえ、撮ろうとはしない。 「人さまを撮る場合、カメラを構えたときには、その相手を見なければならんでしょう。当然、視線も合いますよね。それがどうも苦手なんです。カメラを構えながら『この人はおれのことをどう思っているんだろう。内心ではひどく迷惑がっているんじゃないのかなあ。無理して我慢しているんじゃなかろうか』なんて考えてしまう。そうするともうシャッターが切れなくなる。撮れなくなってしまうんですね。見も知らぬ通行人が風景のなかにはいってきた場合も、やっぱり同じようなことを考える。ですから私は、その通行人が去ってしまうまで待つことにしています」  というんだから、ぼくは唖然となった。これでは人物写真どころか、後姿さえも撮れず、ヌード写真はまったくダメだろう。  眼光鋭き渡世人であるのに見かけによらず、かくのごとき内気なお方なのである。というよりはそれもまた、堅気の衆にはご迷惑をかけてはならねえとする仁義のあらわれ、と解釈すべきなのかもしれない。  ともあれ、日本にはこういう写真家も実在するのである。ぼくは彼が好きである。 (一)  堀内初太郎は明治四十二年七月の生まれ、本籍地は和歌山市九番町になっているが、彼の出生地は名古屋である。それは父親の堀内元次郎が一匹狼の渡世人だったためで、この男の一生はスリリングな小説に仕立てあげられるほど波乱万丈だ。個性もある。  元次郎は明治十年の生まれ、和歌山の指物師を兼ねた腕のいい大工だった。それがいつしか飲み打つ買うの博奕打ちになった。「大工の元次郎」は「大元《だいもと》」の異名をとってその世界で男を売った。「浪花の太政官」と恐れられた天王寺一家も、度胸のある「大元」には一目おいていたそうだ。  大阪の大林組の創業者である大林芳五郎に重宝がられた。大林芳五郎は大阪財界のボス的存在の北浜銀行頭取岩下清周の援助で、一介の商人から土建業界の雄となっていった男である。  たとえば、大林組が地方の工事を請け負って配下の職人や労務者を派遣する場合、まずはその地を縄張りにしている親分衆に渡世の仁義として、挨拶する念者を送りこまねばならない。これを「念達」と称しており、念者は大林組が出した念達料をふところにして伺うのである。 「大元」こと元次郎はいつも、大林組の念者として各地へ出かけていった。三下が念者では親分衆は会ってもくれぬが、「大元」ぐらいの顔役になると鄭重にもてなしてくれる。なかには「念達料の心配は無用だ」と受けとらぬ親分もいて、そうなるとそれがそっくり元次郎個人の収入になることもあるのだ。彼の背中から尻にかけては、文覚上人を彫りこんだみごとな刺青があった。  岡山へ念者としていったとき、元次郎は娘義太夫に惚れられた。彼女の名は「しか」、明治二十年生まれ。父親が芝居小屋の道具方の棟梁である。娘義太夫といえば映画もテレビもないこの時代では、水芸人と同様に流行歌手かスターのような存在だった。  二人は夫婦になったものの、定住することを知らなかった。建築工事のため各地を転々とすることもあり、鉄火場で如何様《いかさま》をやられて喧嘩を売り追われることもあったりで、しかはゆく先ざきで師匠になり、近所の娘たちを相手に常盤津を教えて生活費をかせいだものだった。惚れた男のためなら苦労もいとわぬのである。  だから初太郎が出生したときには一家は名古屋にいたし、彼が物心ついたころには大阪は北区の堂山町で長屋住いをしていた。それからも転々として、初太郎が記憶しているだけでも転居回数は三十回になるという。深夜、待ち伏せされた元次郎が左腕をピストルで射たれ、着物を血に染めて帰ってきた……四歳のころのそんな物騒なことも、初太郎の網膜には灼きついている。 「大阪北区の老松小学校にかよっていた小学生時代、おやじにつれられて和歌山市へいったことがありました。盛り場でおやじの兄弟分の一人が映画館を経営してまして、私ははじめて活動写真を観たとき、映画のカメラマンになりたいなあ、と漠然と思ったんです。写すということに興味があったようです」  しかし、それは少年の憧れにすぎなかった。関東大震災が発生して、東京市中がメチャメチャにこわれたとき、堀内一家は上京した。復興させるために大量の大工や左官や土方が必要だ、給金を高くもらえるぞ、というわけで関西や四国方面から職人たちが大挙して東京へむかったものである。大正十二年秋のことであった。  初太郎は早稲田工手学校に入学した。  三年後に卒業、再び大阪へもどらなければならなかった。さきに帰阪していた元次郎が脳溢血で倒れたためである。  ところが倒れたのは妾宅であって、そのままそこで養生している。徳島市へいったとき元次郎は、若い芸妓と深い仲になり、大阪へつれてきて二号にしていたのだった。  しかは姐御肌の女ではない。やくざな夫にも従順に尽してきたおとなしい女だから、妾に夫をうばわれても泣き寝入りしていた。そんなことがおもしろくない初太郎は、愚連隊になっていた小学校時代の同級生に誘われ、どまぐれ人生をたどりはじめた。  自分はしたい放題のことをしてきた渡世人でも、一人息子はそんな人間になってほしくはない。というわけで元次郎が、舎弟の河津第吉に初太郎の身柄をあずけた。第吉は大林組の下請けをやっている土木業者であり、その河津組は神戸市諏訪山にあって、初太郎は現場監督見習ということになった。給金は十五日と月末に五円ずつもらえるだけである。 (二)  初太郎は三木組の世話役になった。  三木組は河津組の兄貴格にあたり、やはり大林組の土木業を請け負っていたのだ。世話役というのは現場監督で、十人ほどいてそれぞれに、各地の工事現場(飯場)で采配をふるっていた。  飯場ではたらく連中のほとんどは、飲み打つ買うで宵ごしのゼニはもたぬ渡世人だし、なかには凶状持ちや監獄帰りもいる。喧嘩出入りは絶えない。こういう荒くれを叱りながら仕事をさせるのだから、世話役も相当に貫禄がなければナメられてしまう。  初太郎は神戸のデパート「大丸」、「そごう」、国鉄三宮駅建設のための基礎工事をやってきた。ときには飯場の連中をつれて芸者遊び、カフェー遊び、女郎買いなどもする。チームワークをよくするためである。  三宮駅の工事をやらされていたころ、近くの喫茶店に勤めていた萩原里子さんと人目をしのぶ仲になった。彼女は大正七年生まれ。二人は日中戦争が勃発していた昭和十二年秋に、組長河津第吉を仲人に立てて結婚した。初太郎三十歳、里子二十歳である。  新婚生活は広島県の三原市であった。帝国人絹会社(帝人)の新設工場の基礎工事を、三木組が担当したため彼がその飯場を持たされたのだ。若いけれども里子は、現場監督の女房だから飯場では姐さんである。  工事の進行状況を逐一、神戸の三木組へ報告しなければならない。いちいち文書にして説明するのは難儀だし、初太郎は自分なりに事務の近代化を考えて、 「ひと目でわかるように工事現場を写真に撮り、それを送ればよろこばれる」  と思いついた。このことが人生の転機になろうとは、神のみぞ知るであった。  当時、三原市にはまだカメラ機材店は一軒もなかったので、彼は尾道市まで出かけてみた。七十円のドイツ製のローライコードを売っているカメラ店があった。なにしろカメラを手にすること自体、これがはじめてだったし、写真機なんてどれも同じにしか思えなかった。フィルムの入れ方さえわからない。  すると、店主がこう言うではないか。 「気に入りましたか? 持って帰りなさい、代金はあとでいいですよ」 「えッ……しかし私は今日、はじめてきた人間ですよ」  眼をパチクリさせる初太郎に、 「あんたを信用しますよ。信用できるお人だと見たんです」  店主は人の善さそうな笑みをうかべた。  翌日、初太郎は代金を払いにいったが、いまさら「じつは小型カメラの操作がまったくわからんのです」とは言い出せない。そこで三原市の営業写真館に、酒を一升さげて教えを乞いにいった。 「あんた、そんなに写真が好きならカメラクラブにはいり、写友になりなさい」  ということになって紹介されたのが、アマチュアたちの同好会である「三原美光クラブ」だった。酒問屋の息子の佐藤光男が主宰していた。ときおりきて指導してくれるのは「中国写真家集団」の正岡国男。この集団には岡山の緑川洋一、境港の植田正治らがいて、初太郎にはおぼろげながら写真界のこともわかるようになってきた。  東京は日本橋にある浅沼商会が刊行している「写真新報」の編集長は野崎昌人だった。その野崎が佐藤光男の作品に注目してくれていた関係で、初太郎も自分の作品を郵送させてもらうことになった。野崎は手紙で、懇切に批評してくれた。  地下足袋をはいた印半纏《しるしばんてん》姿の初太郎は、自分の工事現場の土木機具や材料を題材にしたり、作業風景を撮ったり、瀬戸内海風景をブレ写真にするのも試みるようになる。 「土方の親方が写真を撮るとはねえ、ハイカラになったもんだ」  と荒くれたちには冷かされるが、写真がおもしろくて仕方なかった。ときに三十一歳。小学生のころ無声映画のカメラマンに憧れたのを思い出し、写真こそおれの天職なのかもしれないと考えたりした。  だが、住みづらい世の中になってゆく。日中戦争の長期化と、きたるべき対米戦争にそなえるための戦時経済対策のひとつとして、政府が企業整備令を発令した。中小企業を整理統合してしまうというのであり、三木組もそれに従わざるを得なくなった。  整備統合するとなると、十人いた世話役がそんなにはいらなくなってしまう。初太郎は自分から河津第吉に申し出た。 「私をクビにしてください。このさい写真のほうへ転向しようと思いますので」  仁侠の徒である第吉は、こう答えた。 「すまねえなあ。そのかわり、おめえさんが一人前の写真家になるまでは、生活費は見させてもらうぜ。大元の兄貴を大事にしてくれよな」  初太郎は野崎昌人に「写真家として自立してゆきたいので仕事を紹介してください」との内容の手紙を書いた。折り返し返事がきた。それには「とにかく東京へ出てきたまえ」とあり、初太郎はその手紙に三拝九拝した。 (三)  半身不随になったままの元次郎は、妾と別れてしかのところへもどってきていた。泣く子も黙る「大元」もいまは見るかげもなく落魄している。  初太郎は所帯道具の一切を売り払い、妻と両親をつれて上京した。関東大震災直後に上京したのと同じことを、堀内一家はくり返しているようなもので、まさに背水の陣だ。  そうと知って野崎があきれはてた。 「きみは無茶だよ。手紙ではよく意が通じ合わぬから一度、単身で上京しろ……そう言ったつもりなのに一家して出てくるとは!」  だが、いまさら大阪へはもどれない。  仕方なく野崎は、林忠彦の師である加藤恭平の写真工芸社を紹介した。「よかろう、あしたから出社したまえ」と承知してくれた加藤だったが、よろこび勇んでそのとおりにした初太郎は、愕然とならざるを得なかった。 「すまないが雇用できなくなったんだ」  と断わられてしまったからだ。なぜ急変したのか、いまもって理由はわからぬという。  再び野崎が奔走してくれた。「写真の仕事なら何でもやります」という初太郎を、有楽町の「光生社」というDP専門店におしこんだ。東京青年写真連盟のメンバーである渡辺本雄が経営していて、ただし半年間は見習なので無給であった。「光生社」は戦地に写真を送りたがる家族たちが、現像や引伸しの依頼にくるので大忙しだった。初太郎は出張写真も撮らされるようになった。店員が兵隊にとられてゆくため人手不足になり、初太郎はこのさい妻の里子も勤めさせてもらった。両親は日暮里の借家に住まわせ、河津第吉からの仕送りで生活させた。  まったくの素人だった里子夫人は、DPの仕事をやらせれば第一級の腕前になっていった。現在でも神戸の繁華街である新開地で「堀内初太郎写真の店」を彼女が経営していて、「神戸のDP店で四つ切りに引伸しできる技術では、里子夫人が第一人者」との折紙がつけられるまでになっている。往年の「飯場の姐さん」はこのように変身したのである。 「光生社」の仕事の余暇をみつけて初太郎は、上野公園へ満開の桜を撮りにいったり、富士山に魅せられて土曜日の夜行で河口湖までゆき、淡紅色に染まった朝あけの富士の倒影をカメラにおさめ、 「おれはやっぱり写真をやってよかった」  と、その幸せにしびれていた。  そうこうするうちにも、日米開戦は回避できない情勢になってゆく。彼にも召集令状がくる危険がある。殺すか殺されるかの死闘は怖くはないが、戦死すれば両親たちの面倒はだれが見てくれるのか。そう考えると落ち着かず、初太郎は「三原美光クラブ」の写友であり、帝人の病院の外科医でもあった長谷川恒夫に手紙を書いた。長谷川が西宮市の川西航空機に移っていたからである。  同社はH8型という大型飛行艇を生産している軍需工場だし、そこに勤務していれば召集令状はこないのではないか、きたとしても召集免除になる……そう考えてのことだ。  長谷川が帰ってこいというので「光生社」を辞め、一家して帰阪した。初太郎は川西航空機設計部写真室に迎えられ、風洞実験、機械設備など海軍省へ提出する写真を担当させられた。ちょうど真珠湾奇襲がおこなわれ、太平洋戦争が勃発した昭和十六年末のことだ。  しかし、彼にも召集令状がきた。昭和十八年に陸軍歩兵上等兵で出征し、中国の武昌へ派遣され、そこの貨物廠の写真要員にまわされた。中支派遣軍に桂林攻略命令がくだり、初太郎は写真部員として報道班員の文士や画家や新聞カメラマンらと行動をともにした。洋画家の古沢岩美とも懇意になった。  初太郎上等兵はアイモを持たされ、ニュース映画のような記録映画を撮った。映画のカメラマンになりたかった少年時代の願望が、はからずもかなえられたわけだが、動く写真はさしておもしろいとは思わなくなっている自分に気づいた。  焼跡だらけの神戸に復員できたのは昭和二十一年、尾道へ疎開していた里子と両親は無事だった。河津組へ挨拶にゆくと、またしても第吉が説く。 「日本復興のためには土建屋が先頭に立たねばならん。おめえさんは土木業にもどるか、写真屋になるか、どちらにする?」 「ここまできたからには写真に生きるつもりです。中途半端で終わらせたくありません。わがままをお許しください」 「おお、それならちょうどよかった。甥がカメラ店をやっているから訪ねてゆけ」  甥というのは第吉の妹の子であり、それがいま関西写真界の第一人者になっている岩宮武二だった。岩宮は陸軍戦車隊で敗戦を栃木県で迎え、三宮にあった米軍のイースト・キャンプ前の、三国人経営のマーケット内でDP専門店をオープンしていたのだ。 (四) 「ほんまにネコの手も借りたいくらいや。明日からと言わず、今日からでも手伝うてくれなはれ」  岩宮武二のほうが抱きつかんばかりによろこんだ。昭和二十二年春であった。これより二人は関西写真界の「兄弟」になってゆくのだ。南海ホークスの投手として登板したこともある岩宮は、大正九年の生まれで、ひとまわり年下である。  初太郎は夫婦して暗室を手伝った。  まもなく三国人の経営者に「あんたも独立してスタジオをやれ」とすすめられ、空家になった小さな店舗を改造してはじめた。毎日の売り上げの十パーセントを経営者に支払う。カメラがないので長谷川恒夫から、コーライフレックスを借りた。  東京の「光生社」でやっていた時間制が人気があったので、初太郎夫婦は活用した。案の定、「いま撮影すれば明日の正午にはできあがっています」のスピードアップのキャッチフレーズが効いて連日、GIたちが長蛇の列をつくった。  里子ははじめて懐妊しており、大きなおなかをかかえて暗室の仕事をつづけた。 「ハッちゃん、偉い先生が見にきとるでえ。挨拶せいや」  と岩宮が飛びこんできた。神戸「大丸」写真室にいる中山岩太が「神戸に進駐してきているアメリカ兵はみんな、堀内スタジオで撮ってもらっている」と聴いて、そんなに人気があるのはどんな写真家か、そーっと見にきたのだという。  中山岩太といえば、戦前に木村伊兵衛とともに商業写真のパイオニアになったばかりでなく、斬新なシュールリアリズムの作品もあって、当時は「芦屋カメラクラブ」を主宰していた。  光栄のきわみで初太郎は、白髪で日本人ばなれのした貌《かお》の中山に「お控えなすってありがとうさんにござんす」式の挨拶をしたが、これが最初であり最後の出会いだった。中山は昭和二十四年正月に、五十五歳の若さで死去してしまうのである。  岩宮の紹介で初太郎は大阪一の「丹平写真クラブ」の写友になった。そして仕事の合間に風景写真を撮りはじめた。岩宮は岩宮で、メリケン波止場のたそがれ風景である『晩刻』を撮りつづけており、これが彼の処女作となった。「兄弟」でもライバル意識はある。  そのころ、元次郎が七十歳で世を去った。阪神電車にはねられての即死であり、極道一代の末路は哀れというほかはない。  中山岩太が死去した昭和二十四年、どえらいことが起こった。深夜に怪火が出てマーケットが全焼してしまったのだ。岩宮の店も灰になった。引伸機の残骸が残っただけである。  三国人の経営者は「堀内の暗室が火元だ」と言った。初太郎は警察で取り調べをうけた。極道だった過去があるため、刑事は放火の真犯人と決めつけた。が、暗室の黒いカーテンがまったく焼けてないのを証拠に、初太郎は火元はべつの個所であると主張した。そして、まもなく火事の原因は、初太郎でない事実が判明した。  この機に初太郎と岩宮は、写真一本で生きることを誓い合い、ともにフリーになった。  以前、ぼくは『岩宮武二物語』を書いたとき、彼のことを「写真界の坂田三吉」だと呼んだものだ。大阪の将棋差しである坂田三吉は、東京の錚々たる棋士たちにコンプレックスをおぼえながらも打倒を心に誓う。岩宮にもそれがあって、 「ほんとうに毎日、ゴマメの歯ぎしりばかりしていました。東京の秋山庄太郎や大竹省二らがうらやましかったし、憎らしいと思うことさえありましたよ」  と卒直に語り、いつも彼の眼は東京の写真界のほうにばかり向いていて、足が関西に立っている気がしなかったのを認めたものだった。  フリーになったその当時の堀内初太郎はどうだったのか。その点をぼくは質問した。もちろん、彼自身にも中央の写真界を意識しながらの「上京して活躍したい野心はありました。けど、二十二年に長男が生まれ、二十四年に長女が生まれていましたから、野崎昌人さんを頼って上京したような冒険は、二度とできませんでした」のである。  ゴマメの歯ぎしりをしすぎるため、岩宮武二は結核で倒れ、三年間の療養所生活を余儀なくされた。初太郎のほうは貧乏にもめげず元気に撮影旅行に出かけていたが、きゅうに作風が変わってきた。彼は言う。 「若いころには甘くて派手な風景を好んで撮っていました。河口湖の富士山の倒影を撮ったりしたのもそれです。ところが富士山そのものは撮らなくなり、富士熔岩流が流れこんで異様な風景を呈している西湖の、東岸あたりをさまよいはじめたのです。噴火のとき、灼熱のマグマが流れこんで、西湖は沸騰したことでしょう。その熔岩流の上に、青木ケ原樹海が密生するまでに、幾万年かの時間を要したことだと思います。  それに比べると、たかだか八十年くらいしか生きておれない人間なのに、喜怒哀楽に一喜一憂しているのはばからしいことだと、そんなことを考えているとき、この奇妙になまなましい形の熔岩が眼につきました。マグマが冷却するときにできた皺《しわ》を見ているうちに、輪廻を連想して、撮影したくなったのです」  以来、彼の題材は日本海の冬景色であったり、北海道の白い流氷であったり、白根山の火口壁とか、荒涼として鬼気迫る湯釜であったりする。濃霧のなかをさまよって遭難しかけたこともある。極道の子であった自分の生きざまを、そうした風景で表現したくなったのだ。荒れはてた大地は、生きている彼の心そのものなのである。  いうなれば深層心理であり、写真評論家の伊藤知己は、これら堀内作品をズバリ「荒地願望型の作品だ」と言う。 「私自身はそこまで意識していなかったんですがね。言われてみてそういうものが確かにあるんだな、と思いましたね。美しい風景よりも荒涼たる風物に魅かれる……そうしたものが内在していたんですね。美しい花を撮るより枯れ枝を撮りたい……そんな心境にもなっていたし、海辺の親子づれを撮っていたのに、人間がいる風景そのものが厭になってしまいました」  と初太郎は苦笑する。冒頭に書いたように「風景のなかにはいってきた通行人さえも、去ってしまうまで撮らない」ほどの頑固な姿勢になってゆくのだった。彼もまた「人間を愛するがゆえに人間を撮りたくない」写真家の一人になっていったのだ。  昭和二十八年、堀内初太郎は「丹平写真クラブ」から脱会、棚橋紫水、木村勝正、河野徹、佐保山堯海、岩宮武二、和田静香、玉井瑞夫ら八人と「シュピーゲル写真家協会」を創立した。同十二月、その第一回展を東京の松島ギャラリーで開催した。大阪勢の東京殴りこみである。  翌二十九年十一月、同ギャラリーで初の個展『堀内初太郎展』も催したが、いずれも「荒地願望型の作品」だったことは述べるまでもない。 (五)  堀内初太郎が義理人情に生きる男だった証拠に、療養所から外出許可が出るまでに健康を回復した「兄弟」の岩宮武二のために、彼の旅費をも負担してやって、三原山や箱根の撮影に同道している。  それらの作品を岩宮は、やはり松島ギャラリーでの初の個展に出品している。昭和三十年のことであり、個展開催は初太郎より三カ月おくれたわけだが、写真界の注目はこちらのほうに集中した。  それらの作品のうちの二十五点が、中央の写真雑誌に掲載されることになったのだ。これで岩宮はデビューしたのであり、ゴマメの歯ぎしりをしなくてよいようになったのだった。 「関西写真界の〈兄弟〉であるあなたに、岩宮氏に対する心情をお訊きするのは失礼かもしれませんが、年下の岩宮氏のほうがさきに東京のフォトジャーナリズムに認められ、有名になってゆくことに焦燥感はありませんでしたか?」  いささか意地わるいぼくの問いに、初太郎は背すじをしゃんと伸ばして答えた。 「何も感じなかったと言えば嘘になりますが、焦りは感じませんでした。私の性格でしょうか、おやじからもらった血でしょうか、人間はなるようにしかならぬ、焦っても仕方がないんだ……そんな心境でしたね」 「岩宮氏が、有名になって東京へ出ていったとしても、自分は神戸にとどまって孤塁を守る、というような覚悟をなさったのではありませんか?」 「いや、それもありません。私にとっての神戸は、たんなる住居にすぎない。特別の意味は存在しません。おやじの代から転々としていたので、私には故郷がないんです。三年前から地元のタウン誌に『神戸の風色』を連載していますが、これもあくまでビジネスですね。神戸を撮りたくて神戸から出てゆけないという人間ではないんです。関西を撮りたくて関西に定住しているのでもありません。その証拠に私は、古都である京都とか奈良、大和路などを、岩宮君や入江泰吉さんのように撮ったことがないんです。他人が撮ったあとに撮りにゆきたくはないし、やはり私にあるのは荒地願望だけで、その願望を充たしたくて神戸を拠点に、九州や東北へ出かけてゆくのです」  東京のフォトジャーナリストたちは「岩宮武二は京都・大阪・奈良を作品にして関西にいることの地の利を武器にしている。しかし堀内初太郎には神戸を見つめる眼がない」ことを不満にしている。だから作品に幅がないと言いたいのだ。  が、いま彼が言ったように、彼自身に見つめたい意志がないのだ。神戸に定住しているから神戸を見つめるべきだ、としてきた東京のフォトジャーナリストたちこそ、堀内初太郎に対する既成観念を棄てるべきなのかもしれない。しかも、作品に幅があろうとなかろうと、それは彼にとっては問題ではない。古かろうと新しかろうと、それも気にしない。自分のなかの「荒地」を撮りつづけたいだけなのだ。  事実、神戸市新開地には里子夫人が経営する「堀内初太郎写真の店」があるけれども、彼自身はほとんど神戸にいないといっていい。昭和三十六年に五十二歳で自動車運転免許をとって以来、二年間で十万キロを走って一台乗りつぶしてしまう「股旅道中」をつづけてきている。  二年間に十万キロの走行距離といえば、都会の個人タクシーなみである。神戸のガソリンスタンドで満タンにして、一気に九州の阿蘇まで撮影旅行に出かける。暇なときでも家で寝ころがっているより、孤独なドライバーになってハンドルを握っていたいという。野宿もできるように車にはコンロを積んでいて、餅を焼いたり即席みそ汁をつくったりする。  免許をとって最初に購入したのは中古車のクラウンだったが、そのプレートナンバーが四二一九番(死にいく)であった。母親のしかが「縁起がわるい、変えてもらえ」と案じたが、 「これは、仕事をしにいく、ええことしにいくと読むねん。かまへん」  と笑って初太郎はダッシュさせたものだった。いかにも極道一家ならではのエピソードだ。その母親は昭和四十二年、八十二歳の長寿を全うして他界している。 「もう二度と個展はいたしません」  と堀内初太郎は奇妙な宣言をしていて、その理由を彼は「カメラ毎日」にこのように書いている。 「写真展が各地で多彩に開かれています。とくに近年は各メーカーが競ってギャラリーを新設させたので、その頻度は目まぐるしいばかりです。しかし僕は、希代の展覧会嫌いなのです。見にゆくことも嫌いなら、開催することも大嫌いなのです。見にゆくのが嫌いになった原因は、展覧会場へ行くと、その主催者が出てこられて『忌憚《きたん》のないご感想を』と申し出られます。根がお世辞の言えない性分なものですから、ほんとうに忌憚のないところを披露すると、その次に逢った時には顔をそむけて、ものも言ってもらえません。 (中略)展覧会を開くことが嫌いな理由は、生来のなまけものですから、三十点とか五十点というような大量の写真が、そうザラには作れないということと、自分の写真を朝から晩まで、見ていてごらんなさい。たいていの自信家でも、嫌になりますよ。自信喪失、自己嫌悪におちいることうけあいです。三日もいたら、胃の調子がおかしくなってしまいます(後略)」  だから彼自身も、もう個展はやりたくないという。  九州は国東《くにさき》半島の、鎌倉時代から安土桃山時代にかけての野仏、石仏、国東塔、不動明王、墓石、廃寺、自然の岩に仏像を彫りつけた磨崖《まがい》などを四年がかりで撮りつづけ、『国東半島』を毎日新聞社より刊行したのは昭和四十六年、これが堀内初太郎の唯一の写真集である。もちろん荒地願望の作品であり、これからも荒漠たる大地や火山地帯——阿蘇、三原山、霧島などにカメラを向けつづけるという彼にふれて、写真評論家の田中雅夫は労著『私の昭和写真史』(東洋書店刊)のなかで、 「こういう自分にしかできない仕事に打ちこむということがいいのであって、四方八方へ色眼をつかう通俗幸せ願望型なんかより、はるかに立派といわねばならぬ」  と、器用に世渡りできないその仕事ぶりを絶讃している。ぼくとて同感である。しかし、いま一つ撮ってほしい彼ならではの世界がある、とぼくは思っている。そこで—— 「おとうさんの背中に彫られていた文覚上人の刺青とか、渡世人の生きざまにカメラをむけて、人間をえぐってみてほしいのです」  と要望したのに対し、堀内初太郎は遠い虚空の一点を見る表情で、こう答えた。 「極道といってももう、おやじの代で真の仁侠道は絶えて、いまは暴力団になっているでしょう。そんなのは撮りたくありません」  古い過去に存在した、心のなかの荒漠たる大地こそ、堀内初太郎がもとめてやまぬロマンなのである。そのロマンを追って今日もまた彼の「股旅道中」はつづく。さすらいの旅である。(昭和五十八年一月取材)