[#表紙(表紙6.jpg)] カメラマンたちの昭和史(6) 小堺昭三 目 次  田中光常「野生の世界を食う人」  薗部澄「みちのく馬鹿」  藤川清「狭間《はざま》の人」  奈良原一高「熟れゆく時間」  早崎治「コマーシャルフォトの旗手」 [#改ページ] 田中光常《たなかこうじょう》 「野生の世界を食う人」  この人——田中光常さんの動物写真集『野生動物を追って』や『世界の野生動物』のなかの、雄大なる大自然、気品ある鳥類、奇怪な海獣などを見ながら撮影の苦労を聴かせてもらっていると、わたしは世界文学のなかでも屈指の傑作といわれるメルヴィルの『白鯨《はくげい》』を思いうかべてしまった。『白鯨』はまさに白眉の男性的作品だ。怪獣のごとき白鯨と、それを生涯かけて追いもとめる執念の男、エイハブ船長との食うか食われるかの対決であり、アメリカで映画化されてその船長にグレゴリー・ペックが扮して好演したのをご記憶の方も多いと思う。  ついに白鯨は、エイハブ船長の前に姿をあらわして猛然と捕鯨船に襲いかかってくる。その場面をメルヴィルの筆はこう描写する。 「跳んだ。跳んだぞ!」言語に絶する豪儀さをもって、白鯨が鮭のように天空にその身をはねあげたとき、一様の叫びがあがった。あまりにも突如としてまっ蒼な海原にあらわれ、 さらにまっ蒼な空の縁に浮びあがったので、湧き立った水沫は、しばしば氷河さながらに眼が痛むほどきらめき輝き、やがてその奔騰の強さをうしないつつ、しだいに微かにほのかに消えながら、渓谷に寄せくる驟雨に似た濛々たる雲霧になった。 「モウビ・デイクめ! 太陽とおさらばの跳躍しやがれ」エイハブが叫ぶ。(阿部知二訳・筑摩書房版より)  田中さんが作品にしているさまざまな野生動物の迫力が、わたしに白鯨のたくましさを連想させるばかりでなく、こうまで動物ばかり追いもとめてやまない彼そのものに、エイハブ船長の男らしき執念をみる思いになるのである。もっとも彼は、エイハブ船長のように白鯨に対して命がけで復讐したがっているわけではない。動物たちを愛するあまりに、世界の大自然のなかにそれのみを追いもとめてカメラをむけているのだが、やはりわたしにはその姿勢もまた、男らしき執念に変わりないのである。  たとえば——  日本のヒグマと同様のアラスカアカグマを、アラスカ半島のマクニール河に撮影にいったときのことだ。その河をのぼってくる鮭を狙って、アカグマが四十頭ばかり群れていた。あたりはアラスカ特有の人跡未踏の原野だ。  夢中で撮りまくっているあいだに、凶暴なその群れに囲まれてしまったり、テントをともにした若い白人でハンターのガイドが次の日、いさめたのも聞かず接近しすぎ襲われ、ダーン、ダーンとピストルで二頭を倒してかろうじて脱出し、助けを求めにきたが顔面蒼白だったと言う。  べーリング海峡にある小島に、トドに似たセイウチの群れを撮りたくて一回目に渡ろうとしたとき、暴風雨に見舞われた。ボートは木の葉のごとくゆれ、途中の小島のかげに避難したがエンジンが二台とも故障し、嵐のなかを漁夫とともに手で漕いでもどった。夏なのに全身が氷のように冷えてしまっていた。また、船火事になってカメラだけを持って、真冬の荒海に飛びこむ覚悟を決めたこともあった。  朝鮮海峡にある対馬へいって、めずらしいツシマヤマネコを追いもとめたが、四年間かかってやっと撮影に成功した。四年間、対馬に行きっぱなしになっていたわけではなく、旧正月を中心に冬の二、三カ月ぐらいしか主に海岸におりてこないので、毎年その時期に出かけてゆくわけだ。  だが、かれらは夜行性で人工光線におびえるので、餌にありつくまではライトなしで待たねばならぬ。となると二、三カ月の期間はあっても、満月の前後の一週間しかチャンスはない。そんなわけで毎回毎回、出かけていっても一枚も撮れず、四年間を要したのである。  そんなこんなの苦心談やら冒険談は山ほどあって、田中さんは動物写真家を志してこの方、二十五年間に千種類の大小の動物を撮り、それが六万枚にもなっている。動物写真展を開催したのが六十五回、そして、出版した動物写真集、単行本は四十九冊、絵本は二十五巻、なんと十五カ国語に訳されている。  やっぱり田中さんはエイハブ船長だ、と思いながらわたしは訊いた。 「外国にもあなたのような、プロの動物写真家はいるんですか?」 「ヨーロッパにもアメリカにも、その国だけのエキスパートはいますよ。けど、国外にまで出かけていって撮ってくる人は、あまりないようです」 「そうすると、全世界をかけめぐる動物写真家というのは、あなた一人ということになりますね」 「いえ、他にもおられると思いますが」  この人は育ちがよくて謙虚な方だから、そんなふうに濁して視線を伏せる。そうです、ぼくが世界の第一人者です、とは口がまがっても言いはしない。  どんなふうに育ちがいいのかは、これから述べるが、わたしの頭のなかにはこのときに題名が思いうかんでいた。「野生の世界を〈食う〉人」にしようと。 (一)  田中|光常《こうじょう》——と読ませているが本名は光常《みつつね》で、大正十三年五月十一日、静岡市と沼津の中間にある静岡県蒲原町に生まれた。この町は富士山を背景にした、駿河湾にのぞむ漁村で、サクラエビの産地である。  代々は四国の土佐藩の郷士だ。  田中さんは例によって謙遜して「土佐のドン百姓です」というが、どうしてどうして祖父の田中|光顕《こうけん》は坂本竜馬、武市半平太らと同志で、脱藩して革命に奔走した勤王志士だ。京都では新撰組と斬り合いをやったこともあり、明治時代になってからは維新の功労者の一人に数えあげられ、伯爵を与えられて貴族院議員、宮内大臣をつとめた。  光顕は静岡県蒲原町のうしろの山際に豪邸を建てて、公職をしりぞいてからはここで余生を送った。近郷近在の人たちはこの邸を「田中別荘」とよんでいた。  光常の父の田中|遜《ゆずる》は若いころはフランスに留学、帰国して貴族院議員になり、東洋コンプレッスルという建築関係の会社を経営し、泰西名画のコレクターとしても著名である。  遜は妻の〈むら〉とのあいだに五男一女をもうけた。その五男坊が光常である。  両親も兄姉たちも東京にいることが多く、光常だけは田中別荘で祖父光顕によって育てられた。夜になると別荘がある山は暗く、鬱蒼たる樹々がザワザワと風に鳴り、ムササビやイタチが眼を光らせてうろつくので、光常は恐ろしかった。女中が五人、下男が三人いたが、光顕が外出すると自分たちは遊びたいので、はやく光常を寝かしつけようとして、 「いつまでも起きてると妖怪が出るわよ」 「ほら、出た、出た、出たァ」  おどかして妙な鈴を鳴らしたりした。  そういう幼年期の恐怖感がやきついた。  村の悪童からは坊ちゃんなるがゆえにいじめられた。別荘ではチヤホヤされるが、孤独な少年になっていった。  ある家に飼われていた小犬と仲よくなり、狭い犬小屋にはいっていっしょに寝たりした。犬のほうも飼主よりも彼になついていた。その頃悲しい出来ごとがおこった。彼が拾ってきた小犬が行方不明になり列車にはねられたのだ。さがしにいった光常は、片脚を切断されてしまった小犬をみつけて、自分もワアワア泣きだしてしまった。  蒲原の海岸に、駿河湾水産生物研究所があった。ここの中沢毅一所長の奥さんは、母の友だちであったので、光常はよく遊びにいった。中沢所長は甲殻類の研究家で、ホルマリン漬けにしたエビやカニを見せてくれた。それは家庭がなごやかで、夫人はとてもやさしかった。 「田中別荘といわれるような大きな家で育っても、なんとなく冷えびえしている。話し相手のいない淋しさがある。それにくらべたら中沢家は家庭の中に笑いとあたたかさが充ちている。中沢さん一家がうらやましく、ぼくも大人になったら生物の研究家になりたい。そして、この奥さんのような女性をお嫁さんにもらいたい。裏長屋でもいいから、人のたくさんいるにぎやかな街に住みたい。ムササビや妖怪が出る山は厭だ。心からそう思いましたね」  光常は小学生になると、次兄がライカにゾナーのレンズをつけていたのをまねて、自分も小西六のボックスカメラをいじった。ところが、図工の時間に教師が、風景画と風景写真をならべて見せながら、 「この一枚の絵はとても買えないくらいの値段だが、こちらの写真はタダみたいなものなんだ。わかるか? 写真よりも絵のほうがはるかに芸術的価値があるんだ」  と教えたことがあった。  それが光常にはひどく気になった。それからは写真はつまらないものだ、というコンプレックスに似た感覚を抱くようになった。少年期の多感な彼を占めていたものは、妖怪への恐怖感と、中沢さん一家へのあこがれと、このコンプレックスに似た感覚だったのである。 (二)  光常は、第一東京市立中学(現在の九段高校)に入学するため上京した。日中戦争が勃発する少し前の昭和十年である。  中学では「静岡の田舎っぺ」で同級生たちからバカにされた。負けてはなるものかと、水泳や相撲の選手になり、たくましく育った。明治維新の功労者である祖父光顕は昭和十四年、九十七歳で大往生した。おじいちゃん子だった光常にはショックであった。 「軍人にはなるな、商船学校へゆけ」  父の遜はそうすすめていた。  だが、たくましく育っても、中沢家で得た生物研究へのあこがれが光常にはあるので、函館高等水産学校養殖学科(現在の北海道大学水産科)に入学したのは、すでに太平洋戦争に突入していた昭和十七年春だった。たいそうバンカラな寮生活を送りながら、ここでは魚類の研究をした。  次兄の蔵書のなかにパールボルフ博士の写真集をみつけた。それはライカを使って、あらゆる被写体の撮影が可能になったことを証明するような作品ばかりで、いろんな被写体が活きいきと写されていて、あのコンプレックスに似た感覚がしだいに忘れられていった。だが、のんびりとカメラを愛玩していられる時代ではなくなりつつあった。  長兄も次兄も万能スポーツ選手で、それがためかえって体をこわし、不運にも若くして逝ってしまった。光常は函館高等水産学校を卒業すると、東京青山にあった資源科学研究所分室の研究嘱託員になり、イセエビとメクラウナギの研究に専念した。ここの岡田弥一郎理学博士は、彼があこがれていた中沢毅一氏の弟子に当たるので、 「自分もいよいよ少年時代からの夢を、実現させることができる」  そのよろこびがあったが、ときに昭和十八年夏で、太平洋戦争の戦局は日一日と不利になっている時期であった。  そして一年後、光常は予備学生としてひっぱられ、横須賀の海軍航海学校にはいった。米軍は日本本土に迫りつつあった。海軍特攻隊を志願した予備学生はいまや、特攻機に乗って敵艦めがけて自爆、悠久の大義に生きるほかはなかった。  光常も特攻要員になった。長兄と次兄が病死していることが自分も死んでもいい心境にさせた。彼の特攻志願はかなえられ、山口県の柳井基地へ派遣された。ここでは特殊潜水艇要員の訓練がおこなわれていた。  特殊潜水艇には二種類あった。ひとつは五人乗りの蚊竜潜水艇で、この同型のものは緒戦においてハワイの軍港を急襲した。もうひとつは二人乗りの海竜潜水艇で「二つのうちどちらでも好きなほうを選べ」と言われ、光常は後者にした。  海竜には魚雷が二本と、尖端に爆薬がつけられていた。敵艦に接近してまず二本の魚雷を発射させてのち、艇もろとも突進して体当りを敢行するのである。つまり、自分もまた人間魚雷となって散華しなければならないのだ。  光常は艇長であった。たった一人の部下であり相棒である艇付には、予科練出身の少年がなる予定で猛訓練した。それは生きながら鉄の棺桶にはいっているようなもので、この当時のことを語る彼は辛《つら》そうで、 「おまえたちは大事な人間だからな、と毎日うまいものを食べさせてもらいましたね。それが食いたくて特攻隊を志願したようなものです」  と微笑してごまかす。  思い出したくない悪夢なのだ。魚類の研究家になりたかった自分が、人間魚雷となって海の藻屑とならなければならぬ皮肉な運命におかれたからである。  訓練をおえた光常は横須賀にもどされた。  東京湾に侵入してくるかもしれぬ敵の上陸部隊に備えて毎日、出撃命令を待つ身になったのだ。しかし、神は彼を助けた。魚雷にならなくてすんだ。特攻隊を志願して死ぬつもりの彼のほうが生き残り、軍艦や輸送船に乗った予備学生たちの多くは、撃沈されて還ってこなかったのだ。  終戦になって光常は、小田原にあった家に復員してきた。生き残ったがしかし、精神的には虚脱状態であった。田中家は没落華族であり、斜陽族になっていた。  気がすすまぬながらも働かねばならず、小田原の漁業協同組合に就職した。定置網に出漁中の漁船と魚市場が交信する、その無線技師であった。  この仕事を三、四年つとめた。  光常は友人に紹介されて知った、七歳年下の酒井明子さんと結婚した。彼女は学習院女子部を卒業した才媛である。  二女と彼の母親と五人暮しで幸せだったが、その後、光常は結核で倒れ、横浜赤十字病院に入院した。肋骨を七本も切除して左肺をつぶす大手術をしなければならなかった。このため現在でも、ちょっとした山に登ったりしても呼吸困難になるという。 (三)  だが、横浜赤十字病院に入院したことが、写真家を志す道をひらいた。  療養中、同室にいた二人の患者がたいへんな写真狂で、ベッドに寝ているときでもカメラをいじっていた。光常は少年時代を思い出した。次兄の蔵書だったパールボルフ博士の写真集をみたときの感動がよみがえった。そして、自分も再びカメラを手にするようになり、作品は「アサヒカメラ」の月例コンテストに応募した。子供のオネショをした姿が二等に入選した。  没落華族でますます生活が苦しくなっていた田中家は、やむなく小田原の邸宅も手放さなければならなかった。買いとったのはキャノンカメラの御手洗毅社長(現会長)であった。  御手洗氏の本業は医師だが、戦争中にカメラ会社を経営し、戦災で自分の病院を失ったため、カメラ会社一本でゆく決意をしてキャノンカメラと改称、「発展させるには追随をゆるさぬ技術を売る以外にない。それによってより高級なカメラの量産をめざす」経営が成功した。進駐軍の兵士たちまでが、日本みやげにアメリカへ持ちかえるようになった。  退院してきた光常は、邸宅を売買した関係で御手洗氏と親しくなり、ある日、 「プロカメラマンになりたいので、お宅のカメラを安く買わせてほしいんですが」  と頼みこんだ。御手洗は苦笑して、 「プロになるのはまだはやい。うちの子供がもっているのを借りなさい」  貸してくれたのはキャノン4Sbだった。  ありがたく拝借して、小田原や熱海のアマチュアのグループに加わった。昭和二十八年、キャノンコンテストに『犬が三匹いる犬小屋』を応募、これが特選になってすこし自信がついてきた。  小田原のアマチュアの連中とはよく、 「プロカメラマンになるには技術が先か、内容が先か」  でカンカンガクガクの議論を戦わせた。旋風のごとく巻きおこっていた土門拳氏と木村伊兵衛氏のリアリズム運動に刺激されて、そういう現象が派生するのだった。  光常は「何といっても技術が先だ」の主張をひっこめなかった。松島進氏が撮った女優を見て、まずはこんなきれいな写真を撮ることが先決だと思った。当時、松島進のモダニズムの技術には唸らせるものがあったのだ。  松島進氏が主宰している「モダン・ポートレート研究会」に参加し、女性のヌードやポートレートを勉強した。また個性的で、リズム感のある官能的な大竹省二、秋山庄太郎、稲村隆正氏らが出てきた。光常は大竹省二氏の門もたたき、三カ月ほど無給で手伝いながらその技術を学んだ。  だが、彼はついていけなくなった。松島進や大竹省二の作品に失望したのではない。 「自分には女性写真はむかない、と思うようになったんです。有名女優にカメラをむけても、撮らされたという気しかしない。自分が創るたのしみがない。独創の手ごたえがない。その女性が有名であるがためのものでしかない。そういう不満が、自分の内部でくすぶりはじめたんですね」  そうしてもうひとつ、この華族の子は見たくない面を見てしまったのだ。 「プロのモデルさんを撮ったとき、気にいらないと彼女は撮り直してくれと言ったり、こちらの機嫌をとりたくて、ご馳走しようとしたりするんですね。ぼくにはそういうものが、とってもたまらなかったんです。たとえ彼女が気にいらなくても、自分としてはいい作品を撮りたいだけなのに、相手の気にいるように撮るのは堕落であり、自分自身が堕落することへの恐れがありましたね」  要するにこの人は妥協できないのである。  そんないきさつがあって光常は、キャノンコンテストの特選に『犬が三匹いる犬小屋』が選ばれた昭和二十八年、写真界ではまだだれも認めてくれる存在ではなかったけれども、決然として、 「わたしはフリーカメラマンになる。ただし、動物写真家で活躍したい」  と宣言したのであった。  だが、真向から反対したのは、はげましてくれるはずの彼の母と妻であった。 「動物写真家なんかでは、松島進さんや大竹省二さんのようには食べてゆけません。だいいち、あなたは専門の写真学校を出ているわけではないんだし」  というのがその理由だった。  事実、そのとおりになった。フリーを宣言したからといって、作品を買ってくれるフォトジャーナリストは一人もいなかった。収入は皆無、光常は質屋がよいをした。華族の子が質屋がよいをするのは、たいそう辛いことだっただろうが、のちにその質屋さんから「よく利用してくださいました」と感謝されて、金一封を贈られたほど彼はかよいつづけたのである。  神田にある誠文堂新光社の写真の仕事をさせてもらうようになった。  ここでは「子供の科学」「科学画報」「農耕と園芸」「初歩の無線」「愛犬の友」などの実用月刊誌を出している。注文とりにまわるようなもので光常が、何かありませんかと編集部をたずねれば、 「それじゃ今日は、『子供の科学』の仕事を頼むよ。××中学校へいって、化学実験しているところを撮ってきてほしい」  というようなことになる。  自分の作品にはならないけれども、いろんな分野を撮りたいし、それが勉強であり生活のためでもあった。質屋がよいも辛いが、注文をとってまわるのもプライドが傷つくことがあるし、なかなかに辛抱を必要とする。だが光常は、動物写真家になると宣言した以上、意地を通すのだった。  その仕事一枚につき、三百円の画料にしかならなかった。それでもそれが唯一の収入であり、犬のコンテスト風景、東京のゴミはどう処理されているか、開腹手術、赤ちゃんのオシメのつけかえ方、妊産婦の無痛分娩の体操写真など、注文があれば何でもスクーターに乗って撮影しにいった。  この仕事は昭和三十四年までつづき、誠文堂新光社の近くに暗室と寝るだけの部屋を借りていた。そして、仕事のないあぶれた日には、かえって彼は活きいきしていて、動物写真家としての技術を身につけたくて上野動物園にかよった。柵を乗りこえて撮ったりするものだから、飼育係からどなられたことも再三あったが、やがて仲よくなったし、動物の習性を学ぶことも多々あった。 「ぼくは、写真のイソップ物語を創りたかったわけではありません。動物でもって人間社会を諷刺するとか、滑稽さをえぐるとかはしません。写真を人間にくっつけるようなことは、意識的にやりたくないんです。動物そのものを、自然のなかの野生そのものを撮りたいと念願していました。そうかといって、動物学的に見るのみではなく写真的に美しいものにもしたいし、何の理屈をつけなくとも心を惹きつけられる感動的な作品でもある。そういうものをめざしたんです」  動物ものでは、アメリカの有名なディズニーの映画がある。たのしい作品だし貴重なる資料でもある。だが、ノンフィクションだといってもそれにも、効果を高めるためのフィクションが盛りこまれている。演出や特殊撮影がなされている。多くの動物小説もまたしかり。人間のがわの都合にあわせて創られている。  そういうものを光常は嫌った。動物学的要素がないわけではないが、人間社会とからみ合わせたり、人生と同じにみせるような演出だけは絶対にしまい——彼はそう決心したのである。  動物写真家として彼が注目されはじめたのは、上野動物園で撮ったフクロウ、アシカ、豊橋動物園のライオン親子の表情ゆたかで正確なる描写が印象的であったからだ。何の理屈をつけなくとも心が惹かれる作品になっていたわけだ。  昭和三十三年三月八日、高島屋において『田中光常動物写真展』を開催し、これも大好評であった。  この年には、土門拳の『筑豊のこどもたち』、今井寿恵の『オフェリア・そのご』、細江英公の『おとこと女』、濱谷浩の『怒りと悲しみの記録』、秋山庄太郎の『滞仏作品』、奈良原一高の『カオスの地』などの個展もひらかれており、写真界ではヌーベルバーグ論争がさかんにおこなわれていた。  だが、その新しい波は観念的な遊戯にすぎず、やがて泡沫となって消えていったが、野暮のようでも田中光常の動物写真などが、永遠にうしなわれぬ感動を残して存在するのである。 (四)  光常の『日本野生動物記』が「アサヒカメラ」に連載されはじめたのは、昭和三十八年の新年号からであった。  モモンガとムササビ、ニホンジカ、ニホンザル、ハブ、奄美のクロウサギなど北海道の北のはてから九州南端まで三十万キロを縦断して撮ったものだが、翌三十九年までの二年間に三十種類を作品にし、日本写真協会新人奨励賞と日本写真批評家協会特別賞を受賞した。新人とはいえ、彼は四十歳であった。  動物写真家になるのは大反対であった妻の明子さんも、いまでは撮影旅行に同道していて車の運転手、撮影助手、記録係を兼務する。車は二年ごとに、新車にかえなければならないほど乗りつぶす旅がつづく。寝るのも車のなかであり、風呂がほしいときだけ、宿に泊まる。  動物写真にはとくに、速写の特技が要求される。これまでに光常は、シャッターを切る練習とピント合わせを徹底的にやってきた。フィルムは撮り残りがあっても、すぐに巻きもどしてしまう。カラ写しの訓練をするためである。誠文堂新光社に注文とりにかよった時代も、電車のなかででもシャッターを切りつづけた。このトレーニングで一分間に三十回から五十回切れるようになったし、ピント合わせの練習は焦点深度の浅い長焦点一〇〇ミリのレンズを開放にして使用した。  彼は独特の、KOJOバッグなるものを考案した。フィルムが二十本はいるケース、七五から二〇〇ミリの交換レンズ用ケースを三ないし四個、太目のべルトに通して、ちょうど西部劇のガンベルトみたいに腰に巻きつけるのである。これだと動物撮影のさいに要求される機敏性を発揮して、たちどころにレンズ交換や装填が可能である。  野生動物の棲息地帯は人間にとっては居心地のよいところではないから、蚊帳にかわる防虫用のアミ、寝袋、座布団、座椅子、アンカなど、防寒用具も準備している。動物をおびきよせるための餌であるビスケット、ピーナッツ、乾燥肉、動物の糞やネズミの巣なども用意したが、彼にとってはこれらもカメラの重要な付属品なのである。  青森県八戸の蕪《かぶ》島はウミネコの繁殖地で、そこに撮影にいったときなどはウミネコの群れが、彼がかまえた望遠レンズを猟銃だと思いちがいして、数百羽がいっせいに逆襲してきた。その啼き声はギャア、ギャア、ニャオーッ、と不気味だ。くちばしで彼の帽子をうばい、頭をつつき、羽根でバサッ、バサッとひっぱたく。だが彼は、相手を驚かさぬように最大の神経を費やす。動物とともに生きているときの自分に無上の幸せをおぼえる。  タヌキをおびきよせるために好物の柿を地面においていると、無数のムカデだのクモがその柿にたかってきて、ぞーっとさせられたこともある。鳥ガラを投げておくと、それにアリやウマオイが黒だかりする。  明子さんが山小屋で寝ていた夜中、ネズミに襲われ、顔や手足を這いずりまわられて、キャーッと悲鳴をあげた。そのためヤマネコを撮ろうとして待機していた光常は、もうちょっとというところで、ヤマネコに逃げられてしまった。動物は人間がイビキをかいても逃げてしまうがしかし、そんな失敗もまた彼には、自然のなかで生きている証《あかし》になるのだ。  少年少女のための動物図鑑を見ていると、さまざまな動物の生態が写真でのっているが、あきらかに動物園で撮ったものなのに、アフリカの奥地へいって決死の現地撮影をしてきたかのごとくごまかすものもあった。  それを見たときから光常は、 「自分は絶対にごまかしはやらない、と誓うばかりでなく、自分が世界の野生動物をそのまま撮ってこなければ」  と決意した。人跡未踏の大自然のなかに命がけではいっていっても、ありのままの動物をカメラにおさめてきたかった。——わたしの言う『白鯨』のエイハブ船長そっくりに田中光常がなっていったのは、そう決意したときからなのである。  野生の世界を「食って」まわる人になったのは、昭和四十年からであった。それ以来、昭和五十一年までの十一年間にアフリカ、北アメリカ、アラスカ、カナダ、ガラパゴス諸島をふくむ中南米、南極と北極、オーストラリア、インド、スリランカ、ネパール、ヨーロッパ諸国のありとあらゆる動物をもとめてまわった。肋骨を七本も切除しているし、左肺はつぶれてしまっていて普通の人よりは呼吸困難であり、重いものをかつげないからだなのに彼は、氷原を渡ったりツンドラ地帯を横断したりジャングルにもぐったりするのである。  冒頭で述べたように、アラスカアカグマに包囲されたり北海の嵐のなかでエンジンが故障して手で漕いでもどったり、つねに危険がいっぱいだ。ときにはタチのわるい現住民に、だまされたり脅迫されたりしてカネをうばわれることもあり、「猛獣よりも人間のほうが恐ろしい」と思うことも一度や二度ではない。  そんなふうにして野生そのものを撮ってきた貴重な作品であるのに、しかしながら写真界では、田中光常をそれ相当に評価していないムキもある。 「動物をつかまえる偶然が活かされているにすぎない。彼の作品には芸術性がとぼしい」  というのである。意識的に彼が動物に人間社会をからませていないため、作品にそのような不満をおぼえるのだ。 「そういう批評を、あなた自身はどう受けとめていますか?」  質問するわたしに彼は、即座に答えた。 「日本の写真界では三木淳さん、濱谷浩さんの作品が好きですね。いつかは追い抜きたいファイトはあります。山岳写真家の白川義員さんの、ダイナミックに写すあれもすばらしい。細江英公氏の感覚にも感心している。自分はああは撮れない。しかし、ぼくも自分の写真を創っています。たまたまカメラを据えているところへ、アカグマがきたからパチリとやった、そんな偶然ではないんです。自分のカメラの前にアカグマを命がけでよんで撮っているのです。だから、一度だってスランプにおちいることがない。毎日が辛いけどたのしい。生きがいがありますね」  人のことをあれこれ言わず自分で、きびしい大自然のなかに踏みこんでシャッターをおしてみろ、と言いたげな口ぶりであるが、 「昔は、おまえは趣味と実益をかねた結構な商売じゃないか、と言われたもんです。そんなときにはいちいち反発して、動物を撮るのはこんなに辛いことなんだぞと、訴えました。しかし、いまにして思えば、その辛さもたのしいものですよ」  と微笑する。他人の評価など気にしない心境になり得た、という意味もふくまれているようである。  さらに彼は、こうも言う。 「たとえば、アラスカやアフリカの大自然のなかにはいってゆくと、何カ月も日本人に会わない。新聞もテレビもない。かといって、それだけ遅れたとか、世間にうとくなったかというと、そうでもないんです。ぼくだって銀座をあるき、バーにはいって飲みます。が、翌日には外国に飛びたち、野生の世界にはいってゆけるのはじつにたのしいですよ。ただちょっと、ひとりぼっちでカメラを構え、大自然のなかにうずくまっているとき、死ぬかもしれないなぁ、だれも知らないこんなところで虫けらのごとく死ぬのはさびしいなぁ、とは思いますね」  なるほど、そういうときの彼の、孤独をかみしめている姿が見えるようであり、それが現代の写真芸術かもしれない。 「これからの抱負を聞かせてください」  重苦しくなる空気を払い、わたしが問う。 「世界の三分の二はまわりましたが、まだブラジル、ニューギニア、それに中国とソ連に行ってません。むろん、そこにも行きたいけれど、いままではアメリカにはこういう動物がいる、アフリカにはこんな珍獣がいたという撮り方でしたが、これからはひとつの動物の生態を徹底的に追うとか、死滅してゆく動物を追うというような作品を創ることになるでしょう。それから何としても、世界の海獣を撮りたいですね」  健闘を祈ります、と言ってわたしが赤坂のマンションにある事務所から出てゆきかけたとき、彼はいたずらっぽい目顔になった。 「田中は動物しか撮れない……そう思っている人に、女性のヌード作品を披露して、おどろかしてみたい気はあるんですよ。動物を撮れるものは、ヌードやポートレートを撮らせてもすばらしい作品になるんだぞ、と威張れるようなのをね」  わたしは目を瞠《みは》った。  しかし、ぜひ見せてください、とは言わなかった。やはりこの人は、世界一の動物写真家でいてほしいからである。エイハブ船長であってもらいたいのである。(昭和五十二年七月取材) ●以後の主なる写真活動 撮影旅行地・東アフリカ、南アフリカ、南西アフリカ、北アメリカ、アラスカ、カナダ、中南米、南極、北極、オーストラリア、インド、スリランカ、ネパール、インドネシア、中国、ヨーロッバ諸国。昭和五十一〜五十二年「田中光常の野生の世界・全七巻」(社会思想社)。五十四年「動物に愛をこめて」(東出版)、「世界の動物を追う」(講談社)。五十五年「自然・動物・わが愛」(佼成出版社)。日本写真協会年度賞受賞。日本鳥学会、日本哺乳動物学会会員。 [#改ページ] 薗部澄《そのべきよし》 「みちのく馬鹿」 (一)  五月二十六日、桐の花と山村の田植を撮りにゆく薗部澄さんに、わたしは同行した。取材車カローラのハンドルをにぎるのは薗部さんの愛弟子の御堂義乗君。九州は国東半島のお寺の息子だが、将来は坊さんになるより写真家で一本立ちしたいという。  東北自動車道を疾走して、白河から曲りくねる山道にはいった。このあたりから薗部さんの眼は活きいきしてきて、五万分の一の地図をひろげる。東京の俗塵からぬけだしてやっと自分の世界に帰ってきた、と言いたげであり、月のうち二十日間はこうした撮影旅行をつづけているのだそうだ。  雑木林の緑したたるなかに、桃色の山ツツジが点々として美しく、山村をすぎるとき紫色の桐の花がわたしたちの眼をうばう。山の天候は不順で、一天にわかにかき曇り、雷鳴が渓谷をゆるがし、驟雨《しゅうう》が山ツツジや桐の花を洗っていっそう色あざやかにする。  羽鳥ダムからおりてきた麓の山里で、薗部さんは車をとめさせた。傾いているワラ屋根の古い旅籠がある。廂《ひさし》にはツバメの巣があり、戸袋になっている土壁に「御休処橋本屋」の文字が残っており、頑なに文明を拒否しているかのようで、どうしてもこの百年前の民家をカメラにおさめておきたいのだ。  雨あがりの村道を右に左にいったりきたりしていたが、角度が気にいらぬ薗部さんは真向いにあった火の見|櫓《やぐら》にのぼりはじめた。近くの水田ではたらいていた男女が腰をのばし、何がはじまるのかと怪訝《けげん》そうに見あげていた。  かれらにすれば、変哲もない山里の旅籠を撮る薗部さんが奇矯に見えるのだろうが、わたしの眼には白髪まじりで痩せっぽちの、五十八歳の彼が火の見櫓によじのぼる——その姿に執念を見せられる思いだった。  わたしたち一行が宿泊したのは猪苗代湖の南、地図にも記されていない山峡の岩瀬湯本温泉で、明治初年の会津戦争のころに建てられたという、さっきの「橋本屋」そっくりのワラ屋根の旅籠が四軒あるだけの湯治場だった。ここを薗部さんは、会津若松地方の山村を撮影して回っているときに見つけたのだそうだ。湯口屋、星野屋、かどや、分家星野屋。  近郷近在から湯治にきているおじいさんおばあさんたちにまじって、わたしたちも胃腸病とリュウマチに効くという名湯にひたり、硫黄の香がする濡れタオルをさげて部屋にもどってくると、黒塗りの足つき御膳に山菜料理がならべてあった。うつわがまた素朴だ。  コイの洗い、ウドのゴマ味噌あえ、近くの川でとれたアカハラのサンショウ味噌焼き、イワナの塩焼き、ニシンとタケノコの煮付け、キクラゲの酢のもの、手打ちそばの吸いものなどどれも珍味だし、野趣がある。  道中の会話のなかでも薗部さんの口からは、二言目には「わたしは不器用ですからねえ」が出た。写真家としても、生き方そのものも器用でないというわけだが、木村伊兵衛の直弟子にしてはわたしには意外に思えた。それというのも、木村さんの弟子を書くのは佐々木崑、田沼武能氏につづいて三人目だが、この両氏は不器用ではなかったからである。  薗部さんはどのように不器用なのか。 (二)  さて——野趣ある珍味を賞味しながらの一問一答。山峡の宿は森閑としている。 【小堺】木村伊兵衛さんから教えられたことで、いちばん印象に残っているのは? 【薗部】週刊サンニュースにいたころのことですが、シャッターを切った瞬間から作家は隠れなければならない、ということでした。被写体の個性、質感を表に出して写真家自体はその裏にひそんでいるべきだ……そのように木村さんは言っているんだなと解釈してわたしは、まったくそのとおりだと思い、それ以来、忘れることなく現在でも拳々服膺《けんけんふくよう》していますよ。 【小堺】現代の写真界ではむしろ、私というものを作品の前面に出してくる、作家が強烈に自己主張をやる、自分自身を被写体にしたつもりでいる……そういうところに新しさがあるような気がします。だからあなたの場合は、なおさら意識的に作品のうしろに隠れたがる。それが現代の傾向への抵抗でもあるわけですか。 【薗部】新しいとか古いとか抵抗とかではなく、木村先生がおっしゃるとおり、わたしも写真とは、そういうものでなくちゃいけないと思いこんでいるだけです。とくにわたしは不器用な人間ですから。 【小堺】技術的には、木村さんからどういう点を学びましたか? 【薗部】あの人は技術的なことは、絶対に教えてくれませんでした。だから、こっそり技術を盗むしかないんです。そのため週刊サンニュースに勤めに出ない日曜日とか祭日に、撮りにゆきませんかと木村さんを誘い出すんです。そうして一日じゅう銀座にゆくにも浅草にゆくにもべったりくっついていて、助手をやりながら撮影するのを見ていましたね。二年間、一週おきに誘いにゆきました。そうしているうちに何となくわかってきた。 【小堺】田沼武能さんの話では、木村さんはたいそう皮肉屋だったそうですが、あなたは叱られたりくやしいなあという思うことはありませんか? 【薗部】痛烈な皮肉を言われたことがありますよ。おめえみてえなのがカメラマンで食えるようになるとは、いい時代になったもんだなあって。 【小堺】結局、木村さんから学びとったものは何ですか? 【薗部】ひとつには暗室技術、もうひとつは木村作品にある下町情緒ということになるんでしょうね。わたしも東京人だけれど、東京にふるさとがないんです。それだけに木村作品にただよう下町情緒に共感をおぼえるし、それを農村の生活を撮るときに出そう、とわたしは努力してきました。農村の古い生活、それは日本人のふるさとなんですから。 【小堺】木村さんには初期の作品からすでに老成したものがあって、それが晩年まで一貫してますよね。終始かわらぬ作品、という気がするんです。そういうものをあなたはどう感じておられますか? 【薗部】つねに被写体の質感を出せ、と言われてきましたし、木村作品にはそれが出ているんですね。それでいいと思う。写真はそれが出ていれば充分だと思います。新しい分野を見つけようとして壁にぶつかったり、懐疑的になったりで七転八倒する作家もいる。これがあの作家の作品だろうか、と首をひねりたくなるほど変わってゆくものもいる。だけどわたしはやっぱり、一貫してゆるぎないほうがすばらしいと思いますねえ。わたしが変わり身が下手な、不器用な人間だから、なおのことそう感ずるのかもしれません。 【小堺】そうすると木村さんは、あなたにとって絶対的な存在ということになりますね。 【薗部】そうなんです。絶対的だし、従順そのものなんです。佐々木崑にとってもそうだと思いますよ、田沼武能君の場合はいささか師匠に対しては反抗的だった面もあるようですけど。そう、それから木村先生から学びとったものがもうひとつあります。人物を撮る場合の、その人物の気持や表情をほぐすための話術です。カメラを意識するとだれでも自然ではなくなりますよね。そこで、レンズを巧みに意識させないようにする必要がある。そのためには本をたくさん読め、とすすめられました。話題を豊富にするためというより、とくに私小説風のキメこまかいアヤを学びとれ、というわけです。木村さん自身、写真の仕事とは関係ないような本もよく読んでおられましたね。 (三)  薗部澄は大正十年二月十四日、東京は京橋区佃島で生まれた。そこは母親「てふ」の実家であった。四人兄弟の長男であり、ちょうど野口雨情の、「おれは河原の枯れすすき……」の『船頭小唄』が流行しはじめた年である。  父親の薗部|亥之介《いのすけ》は水戸出身のサラリーマンだったが、家庭は豊かではなかった。どういうわけか一家は佃島から月島、青山、目黒などを転々として再び佃島にもどってきた。だから薗部自身が語ったように「東京人でありながら東京にふるさとがない」さびしさと他国者意識を、子供ごころに抱いて育った。  とくに佃島は、貧しさを思い出させるので好きではないという。いや、ほんとうはたまらなくなつかしいのだが、彼は写真家として名を成してからも、ここだけは撮りたがらない。ルーツをたどることの怖れと、気はずかしさがあるようだ。  彼は京橋尋常高等小学校に学んだ。佃島では築地を川向うとよび、そこらまでは子供の遊び場になっていたが、まだ銀座まで出たことはなかった。晴海の埋め立て地は少年たちの眼には茫漠たる荒野であり、ときおりそこから民間の飛行機が飛びたっていた。その爆音までがもの悲しかった。彼は弟や妹をあまりかわいがらず、内向的で孤独感がつよかったという。母親が病歿したのも原因していた。  昭和五十二年刊の写真集『ふるさと・続』(山と渓谷社刊)の「あとがき」に『わが旅三十年』を書き、薗部は少年時代をこう回想している。じつに繊細にして多感である。  小学生の頃、転校してきた子がいた。父親の転任にしたがって学校を転々とかわってきたその子は、珍しい遊びを知り、教科書のようなきれいな言葉で話し、東京下町のはしっこい子供たちの中に入ってきて、けっこう目立った。新学期にきて次の年の夏休みにはもう去ってしまったその子に、私が強烈にひきつけられたのは、いまにして思えば「旅のにおい」ともいうべきもののためであったのかもしれない。京都、仙台、北海道さえ知っていたその子。そのうち台湾へ行くかもしれないと聞くにおよんで、私はほとんど嫉妬さえした。私も「本」はその子と同じくらいに読んでいた。でも、本だけじゃない、と私は思った。  貧しくても薗部少年は、本だけはどんなものでも読む機会に恵まれていた。母方の叔母が月島で本屋を営んでいて、そこの店頭で読ませてもらえたからである。  そのころ月島には毎晩、夜店が出てにぎやかだった。薗部は叔母のところに店番にゆき、手あたりしだいに読んだ。区立の京橋図書館にもかよって乱読するまでになった。それだけが彼の贅沢であった。  中学へは進学させてもらえず、京橋尋常高等小学校を卒業すると社会にほおり出された。叔母が保証人になってくれて、赤坂の金松堂という書店の小僧として住み込んだ。ときに日中戦争がはじまった昭和十二年春である。  四年間、盆暮に少々の小遣をもらうだけなのに辛抱した。金松堂の主人はカメラ好きで暗室までこしらえていた。そして、赤坂の芸者衆のブロマイドをつくり、趣味と実益をかねて店頭で販売していた。  ところが、その主人が急死したため、焼付をやるものがいない。主人がやっていたのをおぼえていて薗部が「ぼくにやらせてください」と申し出て、暗室で見よう見まねの仕事をした。  ブロマイドを買ってゆく客のなかには写真にくわしいものもいて、 「こいつは焼きがわるいなあ」  と文句をつけるが、 「へえ、すンません」  薗部は頭をさげるしかない。どうなっていると「焼きがわるい」のか、彼にはさっぱりわからないからである。  銀座二丁目に双美商会という有名なカメラの小売店があり、ここがお得意さんの美篶商会と関係があった。ある日、美篶商会の社員の一人に「写真の現像をやりたいんです」と話すと双美商会の技術部に紹介してくれた。客のフィルムを現像したり焼付したりする、いまでいうDPEの仕事だ。  ときに昭和十五年、十九歳であった。薗部は金松堂をやめて暗室マンの見習になった。日中戦争は長期戦となり、日米の雲ゆきも怪しく、国民の生活は日に日に窮屈になりつつある。  薗部自身はパーレットをもっていた。暇なときに銀座風俗を撮っていた。双美商会では五百円の正札がついているライカも売っていて、彼はいつもそれを横眼で見ていた。 「きみはこれがほしいんだろ。社員になったんだから二割引してやるよ。こう戦争がはげしくなってくれば、ライカの輸入もストップするだろう。買うならいまのうちだよ」  と言われ、なんとかカネを工面しようと思ったけれども、月給七十円ではどうすることもできなかった。青春は甘美ではない。 (四)  生涯を決定した人——木村伊兵衛に薗部が会えたのは昭和十八年、太平洋戦争の形勢が不利になっていた時期であった。  双美商会ではカメラのPR誌「ダイヨット」を発行していた。十八ページの薄っぺらなものだったが、これを編集していたのは小林博氏である。小林氏は戦後に「小説新潮」の名編集者になり、林忠彦氏の『坂口安吾』や『太宰治』などを同誌のグラビア写真にして世に出したが、「ダイヨット」にいる当時から木村伊兵衛、伊奈信男、デザイナーの原弘氏らと親交があって、薗部を木村に紹介したのである。作品を見てもらえというのだ。  その日、薗部は銀座六丁目の中央工房に、自作のアルバムをかかえて木村を訪ねた。木村さんでもおれの作品には眼をみはるにちがいない、と自負していた。  だが、木村はアルバムをめくっても批評はしてくれず、こう言っただけであった。 「伸しはできるのか?」 「はい、やれます」 「じゃ、あしたからきたまえ」  そっ気ないことおびただしいが、翌日から薗部は中央工房に出勤した。といっても双美商会の仕事をおえてのち、夕方六時から十一時までアルバイトするのである。もらえる報酬はほんのタバコ銭ていどだった。 「あとで思うと木村さんは、わたしには何も期待していなかったんですよ。光墨弘ら優秀な連中が兵隊にとられちゃったんで、暗室を担当するのがいなくて、それでちょうどいいやとわたしを使ったんですね」  と薗部は苦笑する。  木村は中央工房を主宰するかたわら小石川にある東方社の写真部長でもあった。彼は木村にすすめられて、この東方社の社員として入社した。  東方社については濱谷浩氏を書いたときにふれておいたが、陸軍参謀本部が資金を調達して対外宣伝のための写真画報「フロント」を刊行していた。そこの一員だったデザイナーの多川精一氏によれば、ソ連には「ソ連建設」という国家宣伝雑誌があり、これに匹敵する雑誌を日本でも出そうということになって「東方社の創立者岡田桑三は映画界の人であったが、早くからこのソ連の宣伝雑誌に注目し、個人的に研究していた。昭和十五年から参謀本部の意向を受けて、日本の国家宣伝雑誌をつくるべく準備を始め(中略)昭和十六年四月に発足させた。理事長岡田桑三、理事には岡正雄、林達夫、小幡操ら学者、ジャーナリスト(中島健蔵は昭和十九年から)、技術面では第一次日本工房で名取洋之助と分れた中央工房の木村伊兵衛、原弘、渡辺勉などが参加」(「幻のグラフ雑誌FRONT」)していたのである。  そして、まず最初は『海軍号』を昭和十七年に、つづいて『陸軍号』を、以下『満州国建設号』『落下傘部隊号』『空軍号』『北支建設号』『鉄号』『フィリピン号』『インド号』を昭和十九年までに出版している。木村伊兵衛も濱谷浩も国威宣揚のための写真を撮りまくったわけだが、薗部は印刷所へまわされる割付された写真を見せられ、 「なんてすばらしい引伸し技術なんだろうと、まるで別世界のもののように感じましたね。あのときの驚愕はいまでもはっきりおぼえています。自分の作品がはずかしくなってきた」  彼は東方社の暗室マンとして入社できることになり、双美商会をやめた。東方社の月給は百円。木村に引伸し技術を徹底的に教えこまれ、調子の出し方も習得した。太平洋戦争は国民を苦しめているが、彼は毎日技術習得に没頭していた。中野のアパートから通勤した。  だが、これからが本物になる時期なのに、その彼にも召集令状がきた。 (五)  戦争体験のこととなると薗部は、 「何もかも忘れてしまいました。思い出したくないんです。正式の部隊名も、上官たちの名前も、どれくらいの兵員がいたか、そんなこともおぼえていません」  顔をこわばらせ、まるで毒薬でも飲まされるかのような拒絶反応をしめす。それほどの地獄の体験をしてきているのだった。  渋々彼が語ったところによると——水戸第三連隊に歩兵二等兵として入隊したのは、昭和十九年春であった。三カ月間の教育召集であったはずが、下関から輸送船に乗せられ、マニラへ送りこまれた。途中、バシー海峡で仲間の輸送船がアメリカ潜水艦の魚雷をくらい、わずか三分間で轟沈するのも見た。むろん、全員が海底の藻屑となったのだ。  ミンダナオ島の、ザンボアンガ半島にある航空隊基地の守備隊になった。しかし、戦況は不利になる一方で、内地からの飛行機の補充はなく、昭和二十年一月には米軍がルソン島に敵前上陸してきて、二月三日にはマニラが陥落した。東京空襲もはげしくなっていた。  ミンダナオ島に米軍が進攻してきたのは三月十日であった。天地も裂けるような艦砲射撃のあと海兵隊が上陸してきた。薗部ら守備隊はわずかな銃弾しかなくジャングルへ逃げこんだ。大岡昇平の『野火』や、今日出海の『山中放浪』などの戦争小説に描かれているような悲惨きわまりない敗走の生活がつづいた。栄養失調で半数が死んだ。飢えてヘビ、トカゲ、サル、木の芽なども食べた。マラリヤやデング熱にかかり、置き去りにされたまま死んでゆく兵もいた。薗部もデング熱にやられ四十度の高熱にうなされた。痩せさらばえてミイラみたいになってしまった。  栃木県や茨城県の農夫出身の兵隊たちだけは頑健だった。のちにレイテの捕虜収容所に入れられたとき、中隊長が薗部に言った。 「おまえがまっ先にくたばるだろう、と思っていたぜ。東京っ子だからな」  自分でも生きているのがふしぎだった。  ジャングルのなかを逃げまわっているとき薗部は、シャツを落としてしまったことがあった。そのポケットに成田山のお守り札を入れておいたのが気になり、三時間もかけて捜しにもどった。お守り札を失うことは、生命の終りを暗示しているように思えたのだ。  シャツを発見した。だが、栄養失調と疲労でフラつくものだから、またしても紛失してしまった。もうダメか、と思い、あの世の母親に対して、 「かあさーん、おれは墓参りするまでは家の敷居をまたがねえよ、助けてくれ。かあさんの墓参りをすませるまで生かしてくれ!」  涙顔で身勝手なお祈りをした。  そのお祈りが通じたのだろう。薗部がレイテの捕虜収容所から浦賀港へ送られてきたのは、昭和二十年十二月の初旬だった。体重はわずか三十六キロしかなかった。  捕虜収容所にいたとき彼は、アメリカ兵に「ライフ」にのっていた、東京が焼野原になっている写真を見せられ、佃島の家ももう残っていないだろうと思っていた。  新橋で下車して銀座通りをあるいた。ヤミ市があった。敗戦国民がいっぱい群がっていた。築地から勝鬨橋《かちどきばし》のたもとまできたとき、隅田川の匂いを感じて薗部は思わず深呼吸した。隅田川の匂いこそがふるさとの匂いであり、おれは生きて帰ってきたんだという実感をおぼえたのだ。  目頭が熱くなった。涙を拭いながら川向うを見ると、佃島の家々は昔のまま古ぼけており、戦災に遭っていなかった。薗部は二十四歳になっていた。涙がとまらなかった。 (六)  昭和二十二年十一月、まだ物資欠乏と社会不安がつづいていた日本ではじめての週刊グラフ「週刊サンニュース」が創刊された。  岸哲男氏はその労著『戦後写真史』(ダヴィッド社刊)に「その母体となったのは、UPおよびアクメと提携した写真通信社サンニューズ・フォトスである。この週刊サンニュースは、南京から引き揚げてきた名取洋之助が編集責任者となって、年来の夢である日本のライフを作ろうとしたものだ」と記録している。編集部は毎日新聞ビル内にあった。  木村伊兵衛も東方社時代の「木村一家」をひきつれてこれに参加した。そのなかに薗部澄の顔もあった。稲村隆正、田沼武能、長野重一氏らを書いたときにこの「週刊サンニュース」についてはふれているが、長野はここで紙面の編集にたずさわり、薗部は裏方である暗室係と木村の助手をつとめ、カメラをもたせてもらえたのはほんの数回だった。木村に「おめえみてえなのがカメラマンで食えるようになるとは、いい世の中になったもんだなあ」と皮肉られたのはこのころのことである。暗室のなかでこっそり泣いた。  ここの第一線カメラマンである三木淳、稲村隆正、編集の長野重一にしても大学出だ。薗部はしかし「大学出の二倍三倍かかってもやれるだけやれば」とコケの一念みたいに写真家になりたい意欲を燃やし、日曜祭日には木村を撮影に誘いだしてはその技術を盗んでいったのだ。  日本ではまだ週刊誌時代になっていなかったので「週刊サンニュース」は赤字がつづき、一年と二カ月で廃刊に追いこまれてしまった。名取洋之助は岩波書店に迎えられて昭和二十五年に「岩波写真文庫」を創刊、長野重一と薗部澄がスタッフに加わり、昭和三十四年に休刊するまでに二八六冊を刊行している。  長野も薗部も昭和三十二年にはここから去ってゆくが、それまでに薗部が手がけたのは『富士山』にはじまり、『隅田川』『蚊の観察』『正倉院』『馬』『日光』『日本のやきもの』『日本の人形』『東海道五十三次』など五十七冊にもなった。名取はそれらを「薗部調の写真」として評価していた。  薗部は昭和二十三年、「週刊サンニュース」のころに十歳年上の野辺うめさんと結婚していた。彼女は浅草雷門のカメラ店の娘で、「週刊サンニュース」が暗室マンを募集したときに採用になり、彼と職場恋愛して結ばれたのである。十歳も年上の彼女を愛したのは、彼のなかに亡き母を恋うる気持があったのではないだろうか。  薗部の作品は昭和二十七年の「アルス写真年鑑」の特選に緑川洋一、樋口進、中村久氏らと選ばれているが、三十二年に「岩波写真文庫」からはなれてフリーになるときもまだ、プロとして一本立ちしているわけではなかった。  長野重一も独立。彼は土門拳、木村伊兵衛、三木淳、奈良原一高らの「集団フォト」に参加したが、薗部ははぐれた鳥みたいに独りぼっちだった。姉さん女房のうめさんが集英社の「週刊明星」の暗室マンとしてはたらきながら生活を支えているばかりでなく、彼女は夫のフィルムの現像も手伝った。  そうした苦境のなかで薗部は三十二年暮に、世に問うデビュー作を発表した。『北上川』であり、その個展を銀座の小西六ギャラリーで開催。翌年、その『北上川』を平凡社より出版したが、その「あとがき」に彼はこう書いている。  私は自転車で友人と身軽な旅をつづけた。水源をたずね、あるいは支流にそって横道にそれ、水のゆくえを追って八百キロ以上の距離を歩いた。  このような川の物語を、壮大な叙事詩で描くことも、この川の矛盾にみちた問題を衝くことも、私の目的ではなかった。この川のまわりに住む人びとはたしかに貧しく辛い暮しを送っている。  それは純粋に自然だけをとりだすことも、人間だけの社会を切りはなすこともできない風景をうみだしていた。  私は真直にそういう風土のふところにはいってみようと思った。その場所場所での体験をくりかえしながら、私の印象は東北の人びとの心を感じ、また時間をこえて流れつづける川の強さを感じた。私は風景を切りとる行為のなかに、私たち人間の孤独さが、抑えがたくあるのを感じた。  この一文のなかに薗部澄の、写真家としての心と眼のすべてがあり、『北上川』は観る人びとを感動させた。木村伊兵衛は「黒の濃淡を巧みにとらえて彼の詩情を表現している」のに注目し、多くの批評家たちも「季節感をふくむ空気感を、みごとにとらえることができる作家だ」と絶讃した。 「とくに水と雲の表情が好きです」  と薗部は言うが、彼には日本伝統の花鳥諷詠の俳句の世界をカメラで表現する感覚がある。彼は「奥の細道」をたどる現代の松尾芭蕉かもしれない。同じ東京生まれには秋山庄太郎、稲村隆正、細江英公、田沼武能らがいるがそれぞれに感覚が異なるのがおもしろい。  薗部は『北上川』以後、自分で「みちのく馬鹿」と名づけるほど東北に題材をもとめた。『日本の民具』(慶友社刊)と『黒川能』(平凡社刊)で昭和四十三年度の日本写真家協会賞を受賞した。民具の発掘は渋沢敬三の知遇を得たことからはじまり、全国の郷土玩具や木地玩具も撮り、それらの玩具を蒐集するまでになった。これまでに撮った玩具が五千点、民具二千点、農村風景はモノクロで二十六万枚、カラーで八万枚だ。  だが、同じ東京生まれでありながら秋山、稲村、細江らにくらべて、その仕事はいかにもジミである。薗部自身も言う。 「人間の生活と道具が撮りたい。苦闘の手垢が光っているそういう道具類を見ると、たまらない愛着をおぼえる。しかし、古い民具がなくなってゆく。郷土玩具や木地玩具にしてもそうでしょう。それを作れる玩具職人がいなくなっているんです。だから撮っておかねばという気になったんだけど、『日本の民具』全四巻の、第一巻を出版したのが三十九年十一月で、一巻一年がかりで二千部ずつ出したんです。でも、十年かかっても売れませんでしたねえ。最近になってようやく、アメリカ人やヨーロッパの人たちが買ってくれるようになったものだから、注目されだしたような状態なんです」  薗部はしかし今日まで、一貫したその姿勢をくずしていない。ジミであろうとも、日本人の眼をもちつづけている。冒頭に述べたように現在でも、月のうち二十日間は旅に出て、「失われゆく日本人の生活」を追う。『北上川』のころは自転車にカメラ機材を積んでいたが、いまはカローラを取材車にしている。  ところが、薗部作品に対する評価はまちまちになってきた。 「ジミだけれどもコツコツと、日本人の眼でナイーブにとらえている。写真集でもあっといわせるダイナミックな作品は一点もなく、ずーっと処女みたいに大切なものを守りつづけている感じだ。奇をてらったり迎合したりする写真家が多い現状のなかで、ものほしげにキョロキョロせず、おのれを保ちつづけるのは並大抵のことではない」  そういう支持派がある一方には、 「名取洋之助イズムと木村伊兵衛写真術を固持していて、ぜんぜん脱皮しないんだな。十年前の作品も二十年後の作品もまったく変わっていない。風の音、川のせせらぎ、太陽のにぶいかがやき、雲の表情、木地玩具の木目の味わい、こけし人形のえも言われぬ風情……そういうのが自分の琴線にふれないとシャッターを切らない。それはわからんでもないが、ときには荒々しいものとか暴風雨も撮ってほしい。つまり、新しさへの冒険がないんだねえ。だから薗部作品はじーっとすわっている。立って歩かないんだ。その不満があるね」  と否定派はもどかしがる。 「いい意味で彼は〈写真界のはぐれ鳥〉なんだ。好きなものを撮りたいときにだけ撮ることに徹している。だけど、それだけではもの足りないんだな。花鳥諷詠的なものに首までつかっていて、民俗学者とかその方面の趣味人たちとばかり交流していて、現代的な音楽家とか映画人とかジャーナリスト……といったような新しい仲間に刺激される機会をもたない。だから、前進がないかわりに後退もない作品になっている。そこが惜しい」  わたし自身は、冒険する写真家が好きである。変わって変わって変わりつづけて脱皮に成功する作家もいれば、変わりはてたがためにボロボロになってしまう人もいる。しかし結果はどうであれ、七転八倒するところに芸術家の宿命があるのだと思う。 (七)  岩瀬湯本温泉で一泊した翌日、わたしたちは那須連山の裏を走って田島町へむかった。古い民具がコレクションしてある田島町営の「奥会津歴史民俗資料館」を見学するためであった。  途々、わたしは昨夜のつづきの一問一答をした。今日も雷鳴が山間にとどろく。 【小堺】変わってやろうと、一度でも冒険してみたことはあるんですか? 【薗部】岩波写真文庫にいれる北上川を撮ったときに、これまでの自分から脱皮したものを撮ったつもりだったんです。そうしたら名取さんに、なんだ、これは薗部調の写真ではないじゃないか、薗部調のを撮ってこい、と叱られたんです。変わっちゃいけないんだなあ、不器用なんだから……。 【小堺】時流に乗りたいとは思いませんか? 【薗部】乗れないんです。乗るまいとして背をむける、その意識も多分にあるけど、結局は乗れないんですね。やっぱり不器用なんですねえ。 【小堺】風景を切りとる行為のなかに、私たち人間の孤独さが、抑えがたくあるのを感じた……と書いておられるあれ、よくわかるなあ。あなたは孤独感をたしかめたくて撮っている写真家のような気がします。 【薗部】孤独感をたしかめるというほど大げさではないですが、でもけっこう人なつこいところもあるんです。 【小堺】特定の人物を撮らないのは? 【薗部】仕事をしている農夫とか玩具職人は撮ってるけど、いわゆるポートレートとしては撮りませんね。あれはむずかしいんです。性格描写ができるかできないかが。性格描写が撮れてない人物写真は、わたしは意味がないと思います。  なにごとも「不器用だから」ということでごまかす、じつに頑固なお人だ。  この人は何を撮らせてもうまいはずである。郷土玩具をあんなにみごとに撮る人に、だが、薗部さんは気にそわぬものにはレンズを向けようとしないのだ。  一問一答をつづけながらわたしは、 〈冒険しない冒険ということもあるんだな。絶対に変わらないという変わり方もある。生半可な冒険よりもはるかに努力を要する。そういう一人なんだな薗部さんは〉  と自分に呟いていた。  取材車は阿賀野川の支流にそって走った。  ここらの雑木林の緑も山ツツジも、農家の庭の紫色の桐の花も美しかった。煙草畑はいま新芽を出したばかりであった。(昭和五十四年七月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十四年「黒川能面図譜」(東北出版企画)。五十五年「会津の魅力」(淡交社)。五十六年「郷土玩具」(暁教育図書)。五十七年「陽だまりの里・津軽」(桐原書店)、「木曽路の三十年」(岩波書店)。五十八年「夕鶴」(形成社)、「ふるさと」(朝日新聞社)、写真展「ふるさと四季」。 [#改ページ] 藤川清《ふじかわきよし》 「狭間《はざま》の人」  ——戦後三十五年をふりかえってみると、写真界も高度経済成長に深く関わりながら変貌してきていると、ぼくは見る。  焼跡時代といわれる昭和二十年代は、戦前から活躍してきた土門拳や木村伊兵衛、田村茂、濱谷浩らが先頭に立っていたが、戦後派として登場したのが秋山庄太郎、林忠彦、大竹省二、中村立行らである。かれらは木村や土門を師の存在におきながらも、いかにも戦後派らしい独自の若々しい作品を創ってゆく。  六〇年安保闘争を境とした昭和三十年代になってくると、戦後派のあとにつづいてきていた薗部澄、渡部雄吉、田沼武能、長野重一、藤川清ら、大正末期から昭和一ケタ生まれの新人たちが台頭してくる。そして、高度成長期にはいって庶民生活が安定する時代になってくると「VIVO」を中心とした奈良原一高、佐藤明、東松照明、川田喜久治、細江英公、丹野章らの感覚派が勃興した。  経済大国になった四十年代後半には「VIVO」の集団よりさらに若い早崎治、篠山紀信、荒木経惟、森山大道らが輩出、現代の写真界をリードしている観ありだが、「またまた世代の交代期にさしかかっている」とも言われる。どういう若手が、どのような作品を見せてくれるのか、大いにたのしみである。  こうした戦後三十五年の変遷をよそに、自分だけの世界を、地道に守りつづけて存在するものもいる。動物写真家の田中光常、山岳写真家の白川義員、昆虫だけを見つめている佐々木崑らで、かれらはおそろしく頑固だ。  戦後派の第一人者である秋山庄太郎から、いまナンバーワンの篠山紀信まで、あるいは別格である田中光常たちもふくめて、みんなそれぞれに活動している。新しい試みをやったり、問題作をひっさげてきては、世に問うている。呻吟しているものもいるが、抜いたり抜かれたりしながら一様に、精一ぱいに走りつづけているのだ。  なかでも、もっとも苦しい力走をくりかえしているのは、戦後派のあとに台頭してきた三十年代の一団ではないか、と見られている。かれらを「狭間の写真家たち」とよぶ声もあり、さきに名をあげた薗部澄、渡部雄吉、長野重一、田沼武能、藤川清らである。  誤解なきよう念を押すが「ドン底に落ちこんであえいでいる人たち」という意味ではない。薗部、長野、渡部についてはすでに書いたとおり大奮闘しており、話題作や意欲作も発表している。また、これから書く藤川清も健在なのだが——世代的に見てどうしても狭間に位置することになるのだ。  すでに戦前派が老齢に達したり、死去してしまったりしている現在、戦後派の秋山、林、大竹といったところが重鎮であり大家なわけで、つづく三十年代派がそれを追い抜いているとは見えない。立ちふさがっている巨大な一枚岩のようなものである。  うしろをふり返ってみると、感覚派の集団と、現代の写真界をリードしている篠山たちが巨峰となりつつある。そうした狭間におかれている年代なのであり「生まれた時代がわるかった」と言えなくもない。  この一団は「徒弟制度の最後の人たち」でもある。写真界にはっきりとした徒弟制度が存在したわけではないが、それぞれに尊敬する師をもち、その師の助手をつとめながら写真技術や人間を学び、そして独立してゆくのが当然のコースとされてきた。薗部と田沼は木村を師と仰いできたし、渡部は田村を、藤川は林の影響をうけている。  ところが「VIVO」の連中の多くは写真の専門学校を出ないで、たとえば佐藤は横浜国立大学を、川田は立教大学を、奈良原は早稲田大学院を出ており、特定の師に仕えた経歴など皆無である。そういう自由集団がのしあがってきたのである。  以上は予備知識ということにして、藤川清を追ってみたい。 (一)  藤川清は長州っぽである。 「ぼくは明治維新以来の、長州藩閥が大嫌いです。あなたには関係ないことかもしれないけど、かれらが日本の政治をわるくした」  率直に言ったら、藤川が不機嫌な顔をすると思いきや、意外な答えが返ってきた。 「わたしもアンチ長州なんです。生まれたところは山口市近郊の鋳銭司《すぜんじ》村で、ここで大村益次郎が開業医をやっていたんですね。わたしはその大村益次郎も、吉田松陰も好きではありません。松陰は密航しようとして首をはねられた。あんなことやれば、処刑されて当然ですよ。ほんとうにアメリカに密航したいのなら、まず朝鮮か沖縄へ脱出して、そこから乗せてもらえばよかったんだ。大村にしても、たいそうな偉人にされているけど、はじめて上京して靖国神社に行ってみたら、彼の銅像があったので腹が立った。日本に徴兵制をつくった人物なんだから、わるいやつですよ。尊敬できません、郷里の先輩でも」  だから、いまでも故郷の山口に帰省するのは腰が重いそうだ。東京にある山口県人会から親睦会の案内状がくるが、いつも欠席しているという。ぼくはそういう藤川清を土性骨のある、彼なりに徹底している男っぽい人物だと見た。なかなかの好男子である。  彼は昭和五年十一月、六人兄弟の長男として生まれている。父親の藤川|吉良《きちろう》は三等郵便局の局長。祖父もまたそうだったので、清少年もゆくゆくは三代目の郵便局長になれるはずであった。「欲シガリマセン勝ツマデハ」で育った戦中っ子である。  県立宇部工業学校に在学中、敗戦を迎えた。空襲と学徒動員がなくなり、学校に平和がよみがえった。彼はバレーボール部の選手になった。対抗試合をやるときの記録写真を、だれかが撮らねばならなくなり、 「うちにおやじのカメラがあるから」  と、その役を彼が買って出た。  三等郵便局長ながら父親はハイカラで、ドイツ製の自動タイマー付スーパーシックスを持っていた。オートバイと魚釣りが好きな、楽天家の田舎旦那だった。  カメラはあっても、戦後の物資不足の時代だからフィルムがない。宇部駅前のカメラ機材店に、白米を一升こっそり盗み出してもってゆくとブローニーのフィルムを一本、交換してくれた。これに味をしめて彼は、白米でフィルムを手に入れるようになった。  バレーボール部の試合だけでなく、小学校や女学校の学芸会から卒業写真まで撮ってやって稼いだ。自宅の勉強部屋の押入を暗室にしていた。卒業写真アルバムをつくるにも、これでは町の写真屋にたのむ必要がない。ナワ張りを荒らされたと怒ったかれらが、集団でおしかけてきた。清は隠れた。 「子供のアルバイトにしては度がすぎる。よく忠告しておいてくれ」  とスゴむかれらに父親の吉良は、 「ほうー、そんなことをやってますか伜は」  知っているくせにトボけた。だが、清が写真に熱中するのはよろこんでいなかった。田舎では写真師のことを「流れ者」とよんでいたので、父親は「おまえは流れ者になる気か」と叱りつけた。  このころ清は、アマチュアの同好会である「宇部新光カメラクラブ」に参加していた。三年生のときであり、最年少の会員だった。ときおり中央の写真雑誌に作品がとりあげられる。月例作家だった阪本実氏がリーダーで、清は彼の田舎芸術論を拝聴したり、現像のテクニックを習ったりした。  近くの防府市に、戦争中から福田勝治が疎開してきていた。すでに福田は有名なプロ写真家であり、アルスの「カメラ」が復刊(昭和二十一年)されると『女性写真特集』を発表、「光画月刊」の表紙写真なども手がけていた。二十三年には大胆なヌード『女の美』で世間を驚嘆させたが、藤川もその「カメラ」を買い、「キャーッ、よくも撮ったなあ。こんなふうに女の裸を撮ってもいいのか。撮らせてくれる女がいるんだなあ」  愕然となると同時に、福田勝治に対する羨望と嫉妬心が湧いてきた。女性の裸体写真などついぞ見たことがない軍国少年には、痛烈なる衝撃だったのだ。そういう写真家が遠い東京ではなく、現実に近くの街に住んでいるというだけで気が気でなかった。 (二)  父親にいくら「流れ者になる気か」と叱られても、藤川の写真に対する情熱はおさえがたくなっていった。三代目の郵便局長になる意志など、どこかへけし飛んでいた。  四年生のとき朝日新聞主催の撮影会が催され、北九州と山口地方のアマチュアカメラマンが下関にあつまった。藤川も参加して風景と女性《モデル》を撮ったが、思いがけずこの二点とも一等賞に選ばれた。作品が朝日新聞西部版にのった。そうと知ったとき父親はもう「流れ者になる気か」とは言わなかった。  昭和二十二年春、国立宇部工業専門学校(現山口大学)応用化学科に進学した。さっそく藤川は写真部の一員になった。このころではまだ、高名な写真家では福田勝治、土門拳、松島進らの名を知っているにすぎなかった。  写真部の責任者は村山勇という物理の講師であった。村山は東京写真工業専門学校を出ており、現在は東京工芸大学の教授になっている。藤川はこの村山に相談した。 「わたしは写真家になりたい。東京写真工業専門学校に転入学しようと思うんですが」  村山は尽力してくれ、彼は上京することになった。しかし、父親には「東京の読売新聞社の写真部に採用になるはずだ。ちゃんと月給がもらえる。流れ者になるんじゃないから、とうさん心配しないでくれ」とウソついた。だが、そう言ったからには自活しなければならない。学費を送金してもらうというわけにはいかず、アルバイトで蓄えていた貯金だけが命綱であった。  東京写真工業専門学校は新宿区の十二社にあった。上京した藤川はさっそく、あこがれのそこへ行ってみたが、唖然とならざるを得なかった。戦災の焼跡にオンボロの校舎が二棟あるだけ。写真学校だからさだめしスマートな学園だろう、と想像してきた彼は、泣きだしたくなるほどだった。  しかも、講師がそろっていなくて、休講の日が多かった。これで学校が経営できるのだろうかと、藤川にはふしぎでならない。  三年先輩に田沼武能がいた。後輩に細江英公がいた。二年先輩の三戸森襄治は、林忠彦の助手になっていた。中国から引き揚げてきてまもない林は、新しく創刊(昭和二十二年一月)された「小説新潮」のグラビアページを、個性ある文士の坂口安吾、太宰治、織田作之助などのポートレートで飾って、一躍売れっ子になっていた。  そのポートレート写真術は一境地を開拓した。林でなければ撮れぬ何かがあった。さすがだなと藤川は感心していたものの、十二歳年長の林が、同じ山口県の出身であることを知らなかった。 「きみも林さんの助手にならないか。おれが紹介してやる。学校は休講が多いし、ブラブラしてても仕様がねえだろう」  三戸森につれられ、大森駅近くの居酒屋「吾作」にいった。今晩あたり林がここにくるはずだからと、焼酎を飲み飲み待っていた。  現われた林に、三戸森が頼みこんだ。 「助手なら、きみ一人で充分だ」  にべもなく林は言ったが、大きな眼玉で藤川を見て、こう訊いた。 「生まれはどこだい?」 「山口です」 「山口か、ロクなやつはおらん」  自分が徳山市出身であることはおくびにも出さず、林は豪快に笑った。  そうまで言えば諦めるだろうと、林は考えてのことだが、翌朝、品川駅の横須賀線ホームにあがってゆくと、そこに藤川がきているではないか。昨夜「吾作」で、あすは鎌倉の文士を撮りにゆくことを聴いていた藤川は、待ち伏せしていたのである。 「きたのか、仕様がねえなあ」  苦笑する林の、カメラ機材を入れたバッグを藤川が「ぼくが持ちましょう、持たせてください」とひったくった。こうして押しかけ助手になることができたのだ。  売れっ子の林は、あちこちの出版社から撮影依頼があって多忙だった。どこへゆくにも藤川はついていった。写真工業専門学校の期末試験をうけなければならなくなったとき、モジモジしながら藤川は、三千円の借金を林に申し込んだ。授業料を滞納していたからで、納めないと試験をうける資格がなくなってしまうのだ。 「おれのふところも空っぽだよ。そうだ、モダン日本にいってこい。あそこには払ってもらえる稿料が三千円あるはずだ」  それを林は貸してやるという。藤川は築地にある、その雑誌社へすっ飛んでいった。色白の背のすらりとした編集者が出てきて、社にも現金がないらしく気の毒げに言った。 「ぼくが歎願書を書いてあげますよ」  いま稿料がないが試験はうけさせてやってほしい。できるだけはやく当社が、稿料をそちらへ郵送するようにいたします……そういう意味のことを学校の事務局宛に書いてくれたのであり、その編集者はのちに小説家として名をなす吉行淳之介だった。 「林忠彦さんからはどんなことを学びましたか」  ぼくが質問すると藤川は、しばらく言葉をさがすみたいに考え、こう答えた。 「マスコミとは何か。グラフジャーナリズムがどういうものか、ということですね」 「技術的な面では……?」 「あの人は何も教えてくれません。自分で盗むしかありませんでしたね。大佛次郎氏を林さんが撮るとき、助手のぼくが撮影日を翌日とまちがえて待たせてしまったことがあるんです。大佛氏には家で待ちぼうけを食わせるし、林さんにどなられると思いましたね。ところが、彼は何も言わんのです。すごく度量がある。技術よりもそういった人間的な面で、教えられることが多かった。林さんの技術は眼に見えないところにあって、作品になってはじめて、技量のすばらしさがわかるんですね。だから、こっそり盗むにしても、なかなかむずかしかった」 (三)  藤川清は、秋山庄太郎や大竹省二らを知った。大竹には助手がいなかったので、林は「貸してくれ」と頼まれると、藤川をつけてやった。それも修業のうちなのである。一日助手になったお礼として彼は、当時の食糧事情では滅多にお目にかからない高級ビフテキを、大竹からご馳走になったりしたこともある。  林の助手をしながら芸能人の美空ひばり、香川京子などを撮りにゆくようにもなった。 「婦人公論」の座談会で、音楽家の巌本真理を撮らされたこともある。その一枚を銀座松屋で開催された、青年写真家協会展に出品した。秋山庄太郎、大竹省二、稲村隆生、渡部雄吉らの気鋭にみちた作品とならび、さらに「日本カメラ」に転載してもらえた。これが中央の写真雑誌に登場した最初である。 「このころはしかし、貧乏しててひもじい日がつづきましたよ。かけうどんが四円だったけど、内田伊佐夫(現東急エージェンシー写真部長)と二人で一パイしか注文できず、半分ずつ食べたこともありましたよ。うどんが最後の一すじになるとお互いに、おまえが食べろよ、いいからきみが食え、とゆずり合ったもんです」  修業中の身の辛さというべきか。哀しい美談というべきか。だから、大竹省二にご馳走になったヒフテキがうまかったはずである。 「芸術新潮」や「演劇」の仕事もするようになると、頭の切りかえがたいへんだった。午前中は浅草に、娯楽雑誌の依頼でストリップショーを撮りにゆき、午後からは「演劇」のための新劇舞台や、「芸術新潮」のための高名な画家にカメラを向けなければならぬ。もともと理科系の学校にかよった身だから、新劇といわれても外国の戯曲など読んだことがない。古本屋へ走ってチェホフの『桜の園』を買ってきて、どういう登場人物がいるのかも知っておかねばならぬ。 「要するに、朝は伊那の勘太郎を撮る感覚から、午後にはカミュやサルトルの世界に飛びこむようなものでした」  その頭の切りかえが機敏にできないとダメだ、と藤川は言うのである。このように臨機応変で何でも撮りまくれるようになること、一パイのうどんを二人で食べるようなひもじい青春であること、そして師について修業してゆくこと……この三つがあってこそ写真家として大成してゆくのだと信じていた。  ところが、東京写真工業専門学校を卒業、助手生活を三年間やって独立するとき、 「きみは就職しろ。フリーでは食えないぞ。写真の仕事をやりながら定収があって、自分の勉強もする。独立するのはそれからでも遅くはない」  と師匠の林にいましめられた。それもまた修業であり、フリーになっても定期的な撮影依頼がなくては、かえって自信を失うことになりかねない。当時プロカメラマンでめしが食えたのは三十人とはいなかった……そんなこんなを考え合わせると藤川は、師のすすめに従うしかなかった。  朝日新聞出版局写真部が、新人二名を採用することになった。その入社試験に応募者が殺到した。藤川もその一人になったが、残念ながら採用通知はこなかった。  がっかりしているところへ、文化放送写真部から声がかかった。ラジオ局の仕事だから当然、タレントの顔写真を撮るために雇われるのである。藤川はOKした。 「ただし、三年後にはやめさせていただきます。それでもいいのなら働かせてください」  と申し入れておいた。やはり、三年後にはフリーになりたいからである。  サラリーは一万五千円。学卒の初任給が一万円の時代だから破格の待遇といえた。しかし、職制では最下位で「おい、写真屋」とよびすてにされ、掃除のおばさんにもあごでこき使われた。これもフリーになるための修業だと思い、藤川はくやしさに耐えたという。  勉強になることはいくらもあった。ラジオ報道番組班について八丈島へ渡った。民謡にはじまり、島の生活や歴史を聴かせたり、そして波の音で終らせる……そういう音だけの世界の「録音風物詩」を写真にした場合にはどうなるか、を考えた。ラジオストーリー構成が写真の組立て方に似ていたからで、こういうのも勉強のひとつであった。  この時期、薗部は「岩波写真文庫」のスタッフに加わり、渡部はフリーでがんばり、田沼は「芸術新潮」の仕事をつづけていた。  藤川の躍動感のある動いているヌード『裸婦』と、黒人の男女の舞踊を撮った『デスティネの呪術師』が五十二年度と五十三年度の二科会写真部に連続入賞、薗部と田沼の作品は「アルス写真年鑑」一九五三年版に推薦されている。足なみそろえてのデビューである。  藤川がヌードを撮ったのは、あとにもさきにもこれっきりであった。敗戦後の中学生時代、福田勝治の『女の美』に衝撃をうけたのが忘れられず、自分も機会があれば作品化してみたくて挑んだわけだ。しかし撮ってしまうと夢からさめたみたいになり「ヌードよりも報道写真家としての本職のほうが大事だ」と思い知ったのである。 (四)  藤川清が報道写真家としての本格的な仕事をするようになったのは、宣言したとおり丸三年で文化放送写真部から退職し、「中央公論」のグラビア二十一ぺージ分をあたえられたときからである。彼は緊張した。  東松照明が『地方政治家』を、渡部雄吉が『台風がきた』を、奈良原一高が『王国』を撮り、そして藤川が『同和問題』を担当した。彼は歴史学者の奈良本辰也や井上清をたずねて解放運動史から学び、カメラをかついで米沢、京都、四国をまわった。  それぞれに力作となって、まず東松が、第一回日本写真批評家協会新人賞(昭和三十二年)を中村正也とともに受賞、渡部は二科会写真部賞に、奈良原は第二回日本写真批評家協会新人賞に、藤川は細江英公とともに第四回のそれに選ばれた。藤川作品には「ラジオ的で変わっている」との批評が寄せられた。  彼は、なおも各地の『同和問題』を、使命感を感じながらカメラで追いつづけ、富士フォトサロンにおいて個展を開催、三一書房より写真集も出版したが、このようにこの世界を写真にしたのは彼以外にはない。  文化放送からはなれてフリーになったとき、林忠彦と秋山庄太郎が自分たちの共同事務所に迎え入れてくれた。その事務所は日比谷の日本生命ビル地階にあり、杉山吉良の写真工房だったのだが、彼がブラジルにいっているあいだ借りていたのである。  ただし、藤川もタダで居候するわけにはいかないから、家賃の三分の一の一万円を負担した。つまり、三分の一の権利しかないわけだが、これが藤川が所有した最初のオフィスであり、秋山が引越していったあとには渡部雄吉が入居した。有体にいえば、当時はまだ藤川にも渡部にも、個々の事務所をもつだけの資力はなかったのだ。  藤川は、取材先で知り合った女性と結婚した。茨城県庁の仕事で大洗海岸にいったとき、モデルが必要になり、県庁の担当者が水戸市の呉服屋の娘さん——彼より九歳年下の清楚な米山道子嬢を推薦してくれた。  翌年、こんどは専売公社の依頼でまた水戸へむかった。このときもモデルが必要になったので、彼は彼女を思い出し「もう結婚しているかもしれないが、声をかけてみよう」という気になった。  彼女はモデルになるのを快諾してくれた。一年前と変わらずミスであった。さらに二年がたち、藤川はプロポーズした。ひとつだけ彼女が条件を出した。家庭に悪友たちをひっぱってきて、麻雀で徹夜するのだけはやめてください、と言う。彼はかたく誓い、やがて二女の父となった。  昭和三十五年の、全学連を主力として国会を包囲した六〇年安保闘争は、多くの報道写真家たちの恰好の題材になった。これと並行して九州では三池争議がエスカレートしていた。エネルギー資源は石油にとってかわられ、石炭産業は完全に斜陽化していた時期である。  藤川は安保闘争は撮らず、九州へ飛んで二カ月間にわたって三池炭坑の現実にカメラをむけていた。この『黒い谷』は「中央公論」に発表後、小西六ギャラリーにおいて個展をやり、麦書房から写真集を刊行した。  同じく炭坑の不況を見つめて土門拳は『筑豊のこどもたち』を撮り、「毎日カメラ」などの写真雑誌に発表、写真集にもまとめた。この土門作品と藤川作品を比較して、批評家が朝日新聞日曜版にこう書いた。 「藤川清はかわいそうだ。真正面から真剣に取り組んでいるけれども、土門拳の筑豊の子供たちのほうがつよくアッピールする」と。  同じ炭坑夫であっても、組織労働者と未組織労働者とでは差別されている。やりきれないその悲哀、その悲劇を藤川は訴えてやまないのだが、土門作品は正面から撮らず、貧しい子供たちを主役にして悲劇を象徴している——効果のねらいに違いがあるのだ。  効果があるなしで作品の良しあしが決まるのか。報道写真とは現実そのものをえぐることではないのか……そうも言いたいくやしさで、藤川の胸は一ぱいになった。  翌三十六年、藤川は中国人民政府の招待で大陸に足を踏みいれた。戦後の赤い中国にはいる写真家は濱谷浩、田村茂らにつづいて四人目であり、藤川には初の海外旅行でもあった。北京—モスクワ—ウィーン—チェコ—ハンガリー—レニングラード—タシケント—北京に再びもどってきて上海へゆき、ここには四十日間もとどまった。帰国するとチェコのレジン強制収容所跡を生々しく撮った『ナチの爪跡』を「フォトアート」に発表、『上海』の個展をひらいた。とくに上海にいる資本家たちが、観衆をおどろかせた。「共産主義国になった中国で、いまだに資本家たちがいるわけない」というのだ。だが、実際にはいたのである。毛沢東もかれらの存在を容認していたのだ。  そうしたことが話題になるのは、報道写真家としては名誉なことであった。だが、彼自身はあたりをキョロキョロ見まわして、帰ってきた浦島太郎のような不安な心境になっていたのではないか。 (五)  佐藤明が以前、ぼくにこう語った。 「既成の写真には起承転結があるでしょう。こうでなければならぬ方程式みたいなものができあがっているでしょう。そういうものを否定したかったんですね。写真は写真以外のなにものでもない。写真はヴィジュアルだ。視覚感覚の表現です」 「VIVO」の面々の多くは、こういう感覚をもっている新人たちであった。既成の作家たちが「個」を大事にしてきたのに対して、かれらはひとつの問題意識をもっている集団であった。かれらには過去がない。敗戦後のアメリカ文化のなかで育った少年であり、それらが六〇年安保を境にして輩出し、活動しはじめたのだ。しかも、かれらには藤川や田沼らが経験してきた修業の時代がない。個々の大家たちを師としたことがない。  写真界にはヌーベルバーグがおし寄せてきていた。新しいセンスのコマーシャルフォトが要求されつつあった。高度経済成長が物心両面に贅沢をはぐくみ、土門拳と木村伊兵衛が提唱してきたリアリズム写真を、貧乏ったらしいものとして見る傾向になってきた。  石元泰博の『ハローウィンのこども』、川田喜久治の『三島由紀夫の館』、常盤とよ子の『沖縄の微苦笑』、細江英公の『不思議なタムタム』、佐藤明の『おんな』、東松照明の『アスファルト』、中村正也の『ヌード』などが新鮮とされ、フォトジャーナリストたちもこぞって、 「これまでの写真家たちとは一線を画している。若いかれらのルール否定とか既成破壊とかの、抵抗の意欲を大いに買う」  と絶讃したものだ。つまり、藤川の労作である『ナチの爪跡』や『上海』に見られる、手堅い力量とかリアリズムの手法とはちがうものに、眼をうばわれていったのだ。浦島太郎のような不安な心境になったのではないか、と書いたのは帰国してきた藤川自身が、そうした写真界の変化を、敏感に感じとったはずだからである。  ほんとうに「VIVO」の作家たちは新しかったのか。その作品にはどれほどの生命力があって残ってゆくのか……そうしたことはまだ現代では断定できない。いずれ後世の写真史がはっきりさせてくれるだろうが、とにかく大きな転換期にさしかかったのは事実であり、それが「狭間の写真家たち」を存在させる結果になったのである。  冒頭で述べたように「狭間の写真家たち」は、秋山や林たち先輩を追い抜くまでには至っていない。さりとて、背後にいる感覚派の戦後っ子たちに迎合するつもりはない。  となると、独自の姿勢を堅持して、これまでの仕事を延長させ、完成させるしかない。「かれらは長い時間をかけて、独力で谷間から這いあがった」と写真評論家の某はいう。田沼武能は『世界の子供たち』『武蔵野』で、渡部雄吉は『大いなるエジプト』や『STAINED GLASS』で真価を発揮した。その後の藤川の仕事も姿勢も一貫している。いろんな分野にカメラをかかえてはいってゆく。彼自身が言うように「伊那の勘太郎を撮る感覚から、カミュやサルトルの世界にまで飛びこむ」のだ。なりふりかまわぬ構えだ。  だが、彼はオールラウンドだ、何でも屋さんだと言われるのを好まない。あくまで報道写真家の矜持《きょうじ》を棄ててはいない。たとえば——彼には「日本の美の再発見」をめざして『日本の工芸』十二巻と、『日本のやきもの』十二巻を淡交社から刊行している。工芸は竹、ガラス、織物、染物、漆器、七宝、釜など。やきものは薩摩、唐津、萩、肥前、信楽、京都、越前、益子など。  両方とも三年ずつかけており、 「陶器や工芸品そのものを撮るだけでなく、人間国宝といわれる陶工や工芸家たち、制作過程も追ってゆくのだから、やはり美術写真ではなく報道写真なのです」  と藤川は言明する。古い時代のランプを百点も撮り、『洋燈』と題する豪華本(冬樹社刊)にしているが、これなどもコレクターを全国にさがしもとめる苦労の連続だった。  かと思うと「まったく滑った経験がなかった」藤川がスキーを習い、それを撮るようになった。早崎治が東京オリンピックのポスター写真を撮ったように、藤川は札幌オリンピックのためのそれを撮影すべく、長野県の冬山八方尾根に三十日間もこもった。出場選手にモデルになってもらってプレ・ジャンプをみごとにとらえたのだ。  彼はスキーを撮るための、独得のカメラを考案した。スェーデン製のハッセルプラット500Cを二台くっつけ、二階建てにした感じのもので、一台が六十万円もする。上のレンズが望遠で、下が中焦点レンズだ。これだと同時に一回シャッターをおすだけで二枚撮れるし、フィルムをカラーと白黒にしておくことも可能である。ただし、相当な重量である。  この重いカメラで彼は、プロスキーヤーの三浦雄一郎を撮るようになった。三浦が背中にパラシュートをつけ、富士山で大滑降をやったさいも、藤川がその雄姿を撮影した。日本のスキー場である蔵王、志賀高原、ニセコ、十勝岳はいうにおよばずアラスカ、ニュージーランド、スイス、オーストリー、フランス、カナダにも行った。命がけで氷河を渡ったり、クレパスに転落して死にかけたこともある。  それでも藤川は「スキー写真家に転向したのだろう」と言われるのを迷惑がる。スキーもまた、真摯な報道写真家の眼で撮っているからである。ドキュメントである。  親しくしているフォトジャーナリストが、ぼくにこんなふうに言う。 「写真界でもね、若い感性の新人たちが登場すると、それだけ既成の作家たちが消えてゆくかたちになるんだよ。消えずに活躍しつづけるというのは、並大抵のことではない」  事実、「VIVO」の面々が登場したときにも、既成の写真家たちがその運命になっていった。脱落してしまって二度とカメラを手にしなくなったものもいる。そうしたなかで田沼、渡部、藤川らが健在であるということは「並大抵のことではない」のだ。  現在、藤川清は「スキーを卒業して」釣りに夢中になっている。車にカメラ機材、スキー、釣り具、シェラフを積みこんで青森から鹿児島までまわり、海釣りも渓流釣りもやり、すでに釣りの写真集三冊(平凡社刊)をものにした。だが、スキー写真家と言われるのを迷惑がる、釣りの写真家に見られるのも厭がる。人一倍に自尊心がある。  彼は、誇りをもって頑固に言う。 「われわれの時代には何でも撮らされた。いまの写真家たちは、細分化されて世に出てくる。ファッションならファッション、これしか撮れませんというのが多い。わたしは器用だから何でも撮っているのではなく、世間を広く見ているつもりなんです。それも、広く浅くじゃない。工芸、スキー、ランプ、やきもの……何を撮るにもひとつひとつに三年単位で取り組んでいるんです。だから、一貫してひとつに挑んでいる感じですね」  敗戦後、自宅から白米一升を盗みだしてフィルム一本と交換していた中学生が、現在はこういう頑固な写真家に成長しているのだ。  長州ぎらいの長州っぽだが、その根性たるや、やはり長州人独得のもののようである。(昭和五十五年七月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十五年「怒れドライバー」(冬樹社)。五十六年「風ささやく遠野」(桐原書店)。五十七年「霧の炎・津和野」(桐原書店)。その他「やきもの」「工芸」「釣り」関係の出版物。 [#改ページ] 奈良原一高《ならはらいっこう》 「熟れゆく時間」  ——痩身の奈良原一高のなかに〈これまで会った写真家とは、まったく異質の写真家が棲んでいる〉のを、ぼくは見た。  これまで会ってきた写真家たちの多くは、ちっちゃいころからカメラいじりがめしより好きで、プロカメラマンになりたくて一生けんめいに技術を磨いたり、西に東にテーマをさがし求めたり、将来はおれも木村伊兵衛、土門拳、あるいは秋山庄太郎や中村正也のようになるのだ、という目標にむかって前進しつづけてきた。尊敬する先輩を師匠にして、弟子入りしたかたちで苦労をいとわなかった人たちもいる。そして、そうすることによって「写真でめしが食える」プロになったのである。  ところが奈良原氏の場合、まったく逆なのだ。ひとつの大きなテーマにぶつかる。飛びついていってカメラをむけ、がむしゃらにシャッターをおすようなことはやらない。これは絵画で表現したほうがいいか、すばらしい文学にすべきか。いや、小説よりもメディアとしては写真のほうがぴったりではないか……そんなふうにいろいろと思索してのち、自分に納得できてから「それでは撮ってみようか」と、やおらカメラをむける人なのである。  デビュー作の『人間の土地』からして、そうであった。九州一周の旅をしたとき、長崎の沖にある端島炭鉱の軍艦島と、鹿児島の桜島にある黒神村が印象にのこった。そのまま東京に帰ったが、ひと月たちふた月たちするうちにますます気になりだした。  溶岩で埋没してしまっている黒神村に、過酷な天然の環境にもめげず、いまなおしがみついて生きている村民がいる。一方、軍艦島でもきびしい条件の生活を強いられつつも、まっ黒になって海底深くの石灰を掘りつづける坑夫たちがいる。その家族たちがいる。これら人間のたくましさ、雄々しさを何かで表現してほしい。  だれかが小説にしてくれるといいなあ、感動的な文学作品になるだろうなあ、と思っているうちに、「現場を見てきた当人がやるべきだよ」という内なる声がわいてきた。彼自身も「その通りだ、自分が取り組むべきなんだ」という気になってきて、小説よりもメディアとしては写真のほうがいいのでは、との結論に達した。  奈良原氏は立ちあがった。だが、彼はカメラを持っていなかった。一流写真家たちの作品を鑑賞したこともなく、技術に自信があったわけでもない。東京は江古田の安アパートで自炊生活をしている学生だったので、ふところもあたたかくはない。  そこで、母親が毎月仕送りしてくれるこづかいをためて、近くのカメラ店から月賦でキャノン4SBを購入、その他の機材もととのえてから夏休みに再び九州へむかった。前後三度かよって軍艦島と黒神村を撮りおえたのが昭和三十年のことである。  撮ったものをどうする目的もなかったが、アルバムにしておくのもつまらなかった。写真界に踊り出たい野心はないが「やっぱり、多くの人にこの写真を観てもらうべきではないか。それには展覧会をやるのが早道だ」と思い立ち、翌三十一年、『人間の土地』と題して銀座の松島ギャラリーにおいて、一週間の会場費の五万円を写真が売れたら返すという約束で、父親に無心して個展をひらいた。もちろん、写真界で彼の名を知る人などひとりもいなかった。  ところが、この個展はたいへんな話題になった。賛否両論が写真界を二分し、フォトジャーナリストたちをあわてさせた。日に日に観客数がふえていった。  黒神村と軍艦島とでは生活がちがっていても、人間にある共通のものがみごとにとらえられ、浮びあがっている。「その点が新しいのだ」とほめられた。それと同数に「これまでの写真家たちにないものがあるが、それが危惧される点でもあり、素人の域を出ない」と否定する声もあったのだ。  いずれにしろ話題作であることにちがいなく、奈良原氏はこの一作で写真家として認められた。一夜あけてみれば、彼は有名人になっていたのである。 (一)  奈良原一高がこれまでの写真家たちとはまったく異質の写真家になり得た原点は、少年時代にすでにあったとぼくは思う。だから、そこを注目しながら経歴を追ってみよう。  昭和六年十一月三日、彼は福岡県大牟田市に生まれている。三池炭田で栄えた有明海沿いの街であり、じつはぼくの故郷もここなのでなつかしく、くわしく訊いてみるのだが彼は、まったくといっていいほど何も知らない。  それもそのはず、母親千枝の実家がこの街にあり、当時、福岡出身の父|楢原《ならはら》義男は日大法学部卒の地方裁判所の判事で、佐賀にいたという。つまり、母親は彼を産むために実家にもどっただけであり、その実家は三井鉱山関係の仕事をしていたそうだ。一高にはのちに妹がひとりできた。  楢原義男は判事十年、検事十年、検事正十年つとめ、東京の最高検検事を最後に、昭和三十四年に勇退している。そのあいだ任地を転々としたわけで、そのつど奈良原も小学校や旧制中学・新制高校を転校した。だいたいひとつの土地に一、二年しか住んでいない。  三歳から六歳までの奈良原は長崎にいて物心がつき、長崎師範附属小学校に入学した。旧制中学校に進学するときには名古屋に住んでいた。小学生のころは絵を描くのが得意で、全国児童画コンクールに入選したことが何度もあった。引越しがつづくので彼は、子供ごころにも「庭に咲いている桜の花をながめても、来年はもうこの桜を見ることはないだろうなあと思った」という。つねに旅をしている感覚になっていたのだろう。  名古屋の愛知一中から一宮中学校に転校、ここで昭和二十年の敗戦を迎えた。もうしばらく名古屋にいたら、B二九の大空襲で殺されていたかもしれないそうだ。  敗戦後も父親の転勤はおわることなく、金沢へいったり岡崎、鳥取へいったり、島根県松江でやっと新制高校を卒業、中央大学法学部にすすんだ。  戦中戦後はひもじい毎日だった。  立場上、ヤミ物資を買うわけにはゆかず、栄養失調になって死んでしまった悲劇の判事が話題になったものだが、楢原家もまたとぼしい配給食糧でがまんしなければならなかった。父親がヤミ取引した庶民を取締まる経済係の検事だったから、なおさら世間から指さされるような不正はできなかったわけだ。  奈良原一高が苦笑まじりに懐古する。 「それはもうきびしくて泣きの涙でしたよ。味噌汁に入れる野菜がないと母は、庭にはえている雑草をむしってきて、それを味噌汁の実にしたもんです。とくにぼくは育ち盛りだったでしょう。近所の人が見かねてね、親たちはがまんできるでしょうけど、お子さんは栄養失調になりますよと言って、それでも持ってくれば母がうけとらないので、夜になって塀のなかに、だれがしたかわからないように、配給食糧のあまりものを投げ込んでくれました」  そんなわけで飢餓感が忘れられず、いまでも好き嫌いがなく、何でもありがたく食べているそうだ。外国で暮らしても食べもので悲鳴をあげるようなことはない。  父親にはやはり、一人息子が将来は判事か検事か弁護士になってほしい願望があった。奈良原自身もまた、それに応えたくて中大法学部にすすんだのである。 「あなた自身は自分の故郷はどこだと思ってますか。どこに決めているんですか?」  ぼくの問いに対して、彼はこう答えた。 「自分では精神的に、長崎がふるさとのような気がします。大学時代になってからも、両親と妹は転々としてましたから、夏休みや春休みに東京から帰郷するといっても、ぼくははじめての土地へゆくことがあるわけです。  ぼくが二十一歳になったとき、父がまた長崎地検の検事正で赴任したので、ぼくとすれば長崎で二度暮らすことになる。それで故郷にしたい気持がつよいんでしょうね。最初の展覧会をやった『人間の土地』の舞台も長崎の軍艦島だから、故郷を撮ることから出発した、とも言えるんじゃないですか」  長崎地検の検事正になる以前、楢原義男は奈良にいた。奈良原が大学二年のときだ。  彼は夏休みに奈良にもどってきて、仏閣や仏像を観てまわった。奈良に住んで「飛鳥園」という写真工房・出版社を経営するかたわら、古美術写真家としても名を成している小川晴暢を知った。日本美術史に興味をもちはじめていた奈良原は、写真を学びたくてではなく、どこのお寺へゆけばこんな仏像があるとか、あそこにはこれこれの遺跡があるとかを教えてもらいたくて「飛鳥園」にかよった。  ときには、仏像の撮影に出かけるところだという小川晴暢父子に同道することもあった。それがたのしくてならなかった。  義男と会ったとき晴暢が笑いながら、 「お宅の息子さんは、法律家より美術史家のほうがむいているかもしれませんよ」  と言ったことがある。  それがたいへんなショックだったらしくて、義男は帰宅してわが子をいましめた。 「わたしも、これでも若いころは新聞小説の懸賞に入選したことがあるんだ。青春時代とはそういうもんだが、大人になれば後悔する結果になるんだ」  母方の祖父は画家を志した人だが、家業の貿易商を継がねばならず断念している。そのかわり書画骨董、刀剣などをさかんに蒐集するコレクターになった。  また、母千枝の弟である山本|虔《けん》は、三井鉱山の社員だが写真好きで、「アサヒカメラ」などの月例のベストテンにはいる腕前がある。奈良原一高は子供のころ、この叔父のモデルにされたものである。  一族のなかにはそういう変わり種もいることだし、司法試験にパスしてほしい義男とすれば、一人息子が勝手にそちらへいってしまうような気がして心配だったのだろう。 (二)  昭和二十九年、奈良原一高は中大法学部を卒業すると、司法試験はうけずに早稲田大学大学院にはいった。坂崎担教授や富永惣一教授のもとで美術史を学ぶためである。彼の希望は、新聞社の学芸部記者になるか、美術館につとめるかだったのだ。  そのころ父親は長崎地検の検事正になっていたわけで、奈良原は大学院にはいった春、長崎をふりだしに九州を一周してみたくなった。軍艦島と黒神村にひかれたのはこのときなのである。そして、前述のとおり父親に会場費の五万円を無心して『人間の土地』の個展をやり、新鋭が登場したことになり、一夜あければ有名人となったのだ。  彼が楢原一高ではなく、奈良原一高になったのもこのときからである。 「個展の会場をさがしていたときに、電話で交渉するでしょう。そうすると、お名前は? と聞く。楢原の楢の字が説明しにくい。楢の木の楢です、と言っても相手はピーンとこない。書かせると樽《たる》とか鱒《ます》という字にされてしまうし、いちいちそうじゃないというのも腹立たしい。こんなトラブルが一生つきまとうのかと思うと厭になり、奈良県の奈良、奈良漬けの奈良といえばまちがえられないから、奈良原にしちゃったんです」  彼は個展『人間の土地』で写真界が、賛否の激論をかわすのを見ておどろいた。まさかそんなことになろうとは、思ってもみなかったし、個展がおわれば大学院にもどって美術史にいそしむつもりだった。  ところが「アサヒカメラ」がまず『人間の土地』を転載してくれ、アルス「カメラ」などから作品を発表させてくれと申し入れてきた。女性の写真を撮ってくれと言ってくる雑誌もあって、はやくもプロ写真家とみなされたのだ。  結局、大学院には六年間いたが、彼は写真ばかり撮っていた。だから、富永教授なども「楢原君は写真家になった」と見ていて、六年間も在籍しているので「いい加減に卒業してくれないかね」と苦笑した。  奈良原は論文『映像の世界』を提出して去った。彼は大学院出のインテリ写真家であり、事実、なかなかの理論家である。写真芸術論になると、熱っぽくとうとうと語る。  この六年間、いろんな世界がひらけ、経験することになった。 「中央公論」がもういちど軍艦島と黒神村を撮れ、とすすめるのでその仕事もやった。「実在者」グループの芥川賞を受賞した版画家の池田満寿夫、画家の|※[#「雲+愛」、unicode9749]嘔《あいおう》、イラストレーターの真鍋博らを友人にもつこともできたし、「装苑」や「婦人公論」のためのファッション写真も撮った。  奈良原はフランスのデビッフェ、イブ・クライン、リオペール、サム・フランシスなどのアンフォルメルな抽象画や、スペインのグレコ、ダリやゴヤ、そしてボッシュに心酔していたので、ファッション写真の場合でもそういう雰囲気のものになった。  画家の北川民次、美術評論家の久保貞次郎らが創造美育協会を設立、「創造美育運動」をやっていた。長野県の戸倉温泉でそのゼミナールがひらかれたとき、依頼されて奈良原がドキュメントを撮ることになった。  美育協会の一員に、お茶の水女子大を出て幼児のための美術教育をやっている、中川恵子という背丈のすらりとした才媛がいた。彼女も戸倉温泉にきていて撮影班の助手をつとめてくれていた。  彼とは同齢であり、これが縁となって二人のあいだに恋が芽ばえ、昭和三十三年に共に二十六歳でめでたく結婚した。  二人の恋が芽ばえたころ——昭和三十一年に奈良原はのちに「中央公論」に発表した『王国』第二部を撮り始めていた。その第一部『沈黙の園』はフランス人宣教師たちによって創設された北海道は当別のトラピスト男子修道院内に、第二部の『壁の中』は和歌山市の婦人刑務所内に彼が、カメラをもってはいっていったのである。  この『王国』には西欧的な詩情があり、彼の初期の代表作にされている。奈良原一高に対する評価が定着した、と言ってよい作品であり、こんどは賛否両論が噴出することなく、写真界はこぞって絶讃した。一方に社会派リアリズム、片方にサロン的な作品が流行していた当時、このような内部意識を表現した写真は皆無だったからである。  写真評論家の重森弘淹が「自意識の写真家」と題して「奈良原一高の映像は、一見寡黙なイメージを印象させながら、実際は多種のレンズの使用によって驚くほど華麗な饒舌ぶりをひそめており、また饒舌な映像の文体でありながら、一種のストイックな態度がうかがえるのも、映像と言語を相拮抗させる忍耐強い、精神的な作業を踏まえているからである。しかしともかく、彼ほど語るべき自己を、一途なかたちで内に蓄えている写真家もいない」と賞揚している。  奈良原は『王国』を発表した翌年、川田喜久治、佐藤明、東松照明ら新進たちの「VIVO」に参加。ますますその存在を確固たるものにしてゆくが、論文『映像の世界』を提出して早稲田大学大学院から去ったのはこのころであった。『王国』は昭和三十三年、第二回日本写真批評家協会新人賞を受賞した。 (三)  昭和三十七年、奈良原夫妻はヨーロッパへ発ったが、その動機について彼はこう語ってくれた。 「六年間、プロの仕事をしてきたけれども、ほんとうにこれでいいのかなあ、世界を見てみればほかにやりたいことが出てくるかもしれないなあ……そんな懐疑がつねにぼくのなかにあったんですね。だから、ヨーロッパへいって、自分をゼロにもどして確認してきたかったんです」 「ほかにやりたいことが出てくるかもしれない、というのは写真以外の何かですか?」 「そうです。ぼくはヨーロッパへ写真を撮りにいったんではありません。絵を描きたくなるかもしれないし、美術史をもっと勉強したくなるかもしれないし、映画を撮りたいと思うようになって、これが自分の仕事なんだ、という結末になるかもしれないわけです」  他のプロ写真家たちが海外をめざすのは、それをひとつの転機として飛躍したい、脱皮したい、新しいテーマをつかんできたい……そうした目的があるからだが、奈良原一高の場合は自己をさがしに出かけたのである。  それも、旅行者としてではない。彼に言わせると「三カ月間いってくるのは旅行者。二年間いるのは滞在者。三年いてやっとそこでの生活者という感じになる」ので、そうなるまでとどまっていたかったのだ。  パリには「ジャルダン・デ・モード」という有名なファッション雑誌があった。そこのアートディレクターのジャン・ウイドメーが来日したことがあり「日本に一人だけ気になる写真家がいる。その人物に会ってみたい」と日本人の某に依頼した。そして「装苑」や「婦人公論」のファッション写真を指さして「これを撮った人だ」と言った。  その「この人」が奈良原一高で、ジャン・ウイドメーは彼の、シュールがかった表現がいたく気に入っていたのだった。  奈良原とジャン・ウイドメーは会った。パリにくることがあったら「ぜひ、うちの雑誌の仕事をひきうけてくれ」ということになった。そこで奈良原夫妻はヨーロッパに発つとき「ジャルダン・デ・モード」が仕事を依頼するため招待した、ということにしてもらった。そういう理由がなければ、当時、パスポートはおりないからである。勿論、パリ滞在中は同誌の撮影をして約束を果した。  夫妻はパリのアパートに住み、そこを拠点にしてヨーロッパを観てまわった。キューバにソ連がミサイル基地を建設したので、アメリカ大統領ケネディが海軍にキューバの海上を封鎖させた——そういう第三次世界大戦の不安が充ちみちている時期であった。  奈良原は「子供のころから庭の桜を見て、来年は見られないだろうなと考えたくらいだから、転々と放浪することにはなれている」ので異邦人のさびしさなどおぼえなかったという。愛妻がそばにいて、さびしがらせなかったのかもしれない。  奈良原は、半年間はカメラを手にしなかった。そのうちに「自分の写真を撮りたい」という気になってきた。  その状態は、彼に言わせるとこうだ。 「時間というものがある。時間の熟《う》れ方というものもある。青い果実だったのがだんだんに熟していって、そして枝からひとりでに落ちてゆくように。つまり、ぼくの場合、熟れてゆくのに三年間かかったわけです」  彼はすばらしい仕事をした。『ヨーロッパ・静止した時間』と『スペイン・偉大なる午後』がそれだ。お世辞ぬきにすばらしい。『偉大なる午後』の抽象化された闘牛は傑作だが、ぼくは『静止した時間』を見て、彼の被写体をとらえる感覚の鋭さに驚歎した。美術史家としての眼も随所に光っている。  これぞ奈良原一高の代表作だと思う。なるほど、彼に「熟れてゆく時間」が必要だったことがよくわかるし、これは三カ月間の旅行者に撮れるものではない。奈良原一高はこの『静止した時間』を撮るために生まれてきたのではないか……そうも思いたくなった。  彼はパリにいるときに、日本の春画を見た。その色彩や線のすばらしさに新鮮さを感じて「日本の伝統美」を再発見する思いになった。日本で暮らしていてはわからない、古来からある日本の良さが見えるようになってきたのであり、「日本にいて日本の美しさを感ずるものと、ヨーロッパという鏡にうつした日本の美は異なる」ことに奈良原は気づいたのだ。  ぼくは『静止した時間』に収められている最後の、数葉の老人たち——とくに椅子にかけてあくびしている顔面がしわだらけの老女の、童話に登場する魔法使いの老婆のごときその顔を見たとき、思わずうーんと唸ってしまった。それは行きつくところまで行ってしまったヨーロッパの文明、醜悪に老いさらばえながらもなおも生きている西欧の姿を、見せつけられた思いがしたからである。  奈良原一高はパリにいて、ヨーロッパを見極めすぎたのではないか。そこまで見つめるつもりはなかったのだが、「ほんらい対象の強烈な存在感を徹底して追求することを好む写真家」(劇作家山崎正和氏)だけに、結果的には見極めざるを得なかったのではないか。  これではもうヨーロッパから離れてゆくしかないだろうし、「日本の美」を再発見して帰国したくなったのと同時に、彼はやはりヨーロッパから去って、いずこかへ再出発したくなったのではないか。ぼくはそのように解釈した。  昭和四十二年、『静止した時間』には日本写真批評家協会作家賞、芸術選奨文部大臣賞、毎日芸術賞が贈られた。このころでもまだ彼の父親は、司法試験をうけて法律家になってくれることを望んでいたそうだ。 (四)  帰国した奈良原は、憑かれたように「日本の美」を代表する富士山、日本刀、能、禅、花魁《おいらん》、相撲などにレンズを向けた。  これらは『近くて遥かな旅』(集英社刊)に収録されているが、前出の山崎正和は、「ここに集められた主題はすべて、かつて日本について語られた〈|きまり文句《クリシエー》〉の代表的なものである。写されているものは、あまりにも典型的な日本の〈伝統文化〉であるがゆえに、かえって今日の〈日本通〉が正面から見つめることを避けている主題だとさえいえる」  と書き、しかし奈良原一高はあえて、古臭いきまり文句のなかに何が隠されていたかを再検討し、「移り気な歴史の旅行者がちらと見て置き忘れていったイメージのなかに、ひとりの現代日本人が、自分の眼で何が見えるかを確かめる責任を引き受けた」と見ている。  そうかもしれないが、奈良原自身にはこの『近くて遥かな旅』は意外にたのしい旅だったのではないか。修行僧たちの座禅する姿を追うレンズも、「句景」をとらえる眼にも、ヨーロッパを見つめたときのようなギラギラしたものを感じさせないからである。  日本刀はコレクターだった祖父への追憶につながり、花魁はふるさと長崎の丸山の娼婦であり、女体と衣裳のあでやかさを誇らしげに撮っている……ぼくにはそう見える。彼にとってはこの「旅」は再度、自分をゼロから出発させるまでの「休暇」ではないのか。ぼくにはそのように思える。  つまり、彼はこのたのしい「休暇」をおえてこそ解放感をおぼえるのではないだろうか。「つぎに出かけてゆくところは、ニューヨークしかない」ことを、彼はすでにパリにいるころから考えていたのだ。  奈良原夫妻がニューヨークヘ発ったのは、昭和元禄時代の四十五年であった。こんどは四年間、アメリカで「生活者」になるのであり、友人たちはあきれて「国際引越屋」とよぶようになった。 「海外へ出かけてゆく写真家たちの大半は、日本を留守にするのだからジャーナリストたちに忘れられてしまうのではないか、帰ってきてみると写真界は新人たちのものになってしまっているのではないか……そんな不安が頭の隅にあるという。あなたの場合は四年間もいなくなるわけだから、なおさらそんな気持になりませんか?」  と問うぼくに奈良原は涼しげな顔で答えた。 「そんな焦燥感や不安感は棄ててゆきます。日本を生活の場だと考えるから、そうなるのであって、ぼくには日本で生活するというそれがないんです。人間はどこででも暮らしてゆける……そう思っているし、可能性の未知数だけを求めてゆきたいんです」  なぜ、つぎにニューヨークでなければいけないのか、の問いに対しての彼の答えも、じつに簡単明瞭であった。 「ヨーロッパはその国その国で生いたち、歴史、文化があるでしょう。歴史的にこなれた人工的な世界をもっている。ところが、アメリカは移民の国、寄せあつめです。たとえば、フランス人やイギリス人になりたいかと言われると抵抗があるけど、アメリカ人にはなってもいいような気になるし、すぐになれますよね。アメリカというのはそういう国なんです。これからすべてがはじまるという感じがある。簡単にゼロから出発しやすい国なんですよ」  奈良原夫妻はニューヨーク・マンハッタン二十二丁目にある製靴工場跡を借り、自分たちで住居とスタジオに改造していった。なにしろ、ライフルの射撃練習ができるくらいの広さだったという。  そこを訪ねたときのことを、グランド通りに住んでいた池田満寿夫が書いている。 「一高は二十二丁目にロフトを見つけ、改造工事を自分で始めた。勿論大工としての経験など一度も持っていなかったはずだ。にもかかわらず数カ月後に訪れた時は信じられない程立派なスタジオに改造されていた。すみずみまで神経がゆきとどき簡潔で清潔なスタジオだった。初めての大工仕事とはいえ、一高はあくまで完全主義者だった。これが生まれてはじめて電気ノコギリやカナヅチを持った男の仕事だろうか? 暗室は工事中だったが、スタジオの改造が完成するまでには少なくとも一年は掛ったようだった。当時彼は大工仕事に熱中し、英会話学校へ通い、ダイアン・アーバスのプライベートなワークショップへ通っていた」と。  このように奈良原は、ヨーロッパでの場合と同様、しばらくはカメラを手にしようとはしなかった。あの「熟れてくる時間」を待っていたのだ。 「ぼくはニューヨークヘ発つときも、自分にできるものを探しにいったんです。だから、映画の道へすすんでもいい、画家になってもいい、それが自分のほんとうの仕事だとわかったときには……そういう気持でしたね。  しかし、やっぱりおれは写真をやっていいんだな、これがおれの仕事だ、と納得できたのはこのニューヨーク時代ですよ。もうほかのことは考えず、写真だけを生涯やってゆこうと思いました。ふりかえってみると『人間の土地』の個展をやって十六年目にして、やっとわかったわけですね。やらなければならぬ未来への可能性を、写真だと決めることができたんです」  と奈良原は微笑する。  ということは開眼であり、独自の奈良原美学を写真によってどのように表現するか、それを確かなものとして掴めた……ということなのだろう。  意欲的に奈良原は、寄せあつめの巨大なるアメリカを撮りはじめた。それが『消滅した時間』、『ブロードウェイ』になった。  昭和四十六年六月、夫妻は大きなリュックサックをかついでニューオリンズへ出かけていった。ミシシッピー河の中にある小島でおこなわれるロック・フェスティバルに参加するためであった。  各地から得体の知れない男女があつまってきて、たちまちテント村ができた。人種は雑多であった。マリファナやLSDを吸いながらかれらは、すっ裸になって河で泳いだり、セックスの快楽におぼれたりの原始人みたいになった。奈良原もすっ裸になり、それらの狂態にむけてシャッターを切りつづけた。それを『生きる歓び』としてまとめた。  翌年の冬には、三日間も車を走らせてケープケネディヘむかった。アポロ計画の最後の宇宙船「アポロ一七号」が打ちあげられるのをカメラにおさめたかったのだ。この作品は『消滅した時間』(朝日新聞社刊)に収録してあるが、そのときの感動を奈良原は、名文でこのように書いている。 「やがて、その弾道の先から黒煙と共に第一段の噴射管が切り放され、第二段が星のように彼方に灯った。その時、不意に嘆声が湧き上がった。興奮の余波が膝頭をわななかせるころ、その嘆声は次第に心の中に沈澱していった。宇宙飛行士を見送ったはずの僕たちは、逆に自分たちがこの地球上に取り残されてしまったという実感に襲われ始めていた」  さて——このような四年間のアメリカ生活での収獲である『消滅した時間』や『生きる歓び』(毎日新聞社刊)に対する反響はどうであったか。ニューヨーク近代美術館、国際写真美術館、ボストン美術館、パリ国立図書館などが『消滅した時間』のオリジナルプリントを買いあげてくれたし、多大な評価を得たのだ。  ぼくはしかし、どちらかというと『ヨーロッパ・静止した時間』と『スペイン・偉大なる午後』のほうが、厚みや深みがあって好きである。『消滅した時間』には語りつくされていないもどかしさを感ずるし、荒々しいエネルギーよりも広漠たる荒涼しか見ることができない。奈良原は「語りつくせぬそれがアメリカだ!」と叫んでいるのだろうか。 「写真には語りにくいものがある。小説のようにはいかない」  と奈良原は口ぐせのように言う。 「対象を写したものであることにまちがいないが、作品は対象そのものではない。しかし対象とは関わりがないわけではない。そこが理解してもらえない」  それは写真美術を産みつづける陣痛なのだ。 「日本では、どういう写真家に関心がありますか?」ぼくは訊いてみた。 「ぼくの出発は諸先輩たちとは違ってますんでね。かれらに対しては、いい仕事をしてきたんだからいいんだろう……それくらいの関心しかありません。むしろ、自分より若い写真家たちの、何かの仕事ということに興味をもっています。たとえば、山崎博君の『太陽』、森永純君の『波』、山村雅昭君の『植物』、電柱ばかり撮っている松岡圭吉君の『電信柱』、パリにいて窓ばかり撮っている田原桂一君の『窓』など」 「いま人気絶頂の、篠山紀信氏なんかの仕事はどうですか?」 「そうですね、僕には関係ありませんね」  いま奈良原一高は、東洋と西洋の接点であるイスタンブールに魅せられて「日本カメラ」に『午後の迷宮』を発表している。近く『ベネチアの光』の展覧会をやり、『光の回廊・サンマルコ』、『ブロードウェイ』を刊行する。奈良原美学の冴えを期待したい。(昭和五十五年十月取材) ●以後の主なる写真活動 写真集「光の回廓—サンマルコ」「昭和写真集全仕事」、詩写真集「空気遠近法」、対談集「写真の時間」。主なるコレクションとして、ニューヨーク近代美術館、ボストン美術館、パリ国立美術館、ハンブルグ美術館に作品が所蔵。昭和五八年写真展「夜光都市・ベネチア」。 [#改ページ] 早崎治《はやさきおさむ》 「コマーシャルフォトの旗手」  ——地下鉄日比谷線六本木駅から出たところの角にある喫茶店「アマンド」でぼくは、編集者S君と午後一時に待ち合わせた。そこを出て外苑東通りを、ソ連大使館がある狸穴町のほうへ歩きだした。六本木を歩くのは久しぶりだなあ、と呟くぼくにS君が言った。 「いま第一線で活躍しているイラストレーター、アドマン、商業デザイナー、写真家などはたいてい、この近くに事務所やスタジオを構えていますよ」 「ふーん、いつも植民地の街みたいだと思っていたけど、そういう街でもあるわけね」  と答えたが、ぼくは特別そのことに感心したわけではない。事務所といってもどこかのひょろ長いビルの、ちっちゃな一室を借りてカッコよがっているんだろうぐらいにしか思わなかった。早崎治氏の事務所兼スタジオもそのていどのものだろうと想像していた。  ところが、飯倉片町角の雑居ビルに案内されてびっくりした。ハヤサキ・スタジオは地下になっている。おりていって来意を告げると、それは五階のエッチ・ツウ・オー・ムービーのほうですと美女がにっこりした。  五階のドアいっぱいに|H2O Movie《エッチ・ツウ・オー・ムービー》 の横文字がある。ここにも何人かの男性と美女たちがいた。ぼくとS君は会議室にいれられた。つまり、このビル内のほとんどが早崎氏と関係のあるオフィスらしい。  ほどなく彼があらわれた。背丈がすらりとしていて髪は黒々、ダブルの背広姿でクールな感じ。これまで会った写真家とは違う雰囲気の、およそ写真家らしくない人だった。  ぼくは問うた。 「|H2O《エッチ・ツウ・オー》 とはまた変わってますねえ。水と思っていいわけですか?」  彼は、とっつきにくい笑みをうかべた。 「この上の六階にH2O 株式会社という広告デザインとか企画をやってる会社をもってましてデザイナー、コピーライター、プロデューサーなど十二、三人います。ここには八人ほどいてテレビCMをつくっています。地下が写真撮影をやっているスタジオで、カメラマンやアシスタントが十五人います。それぞれ独立採算でやっているんですよ」 「そのぜんぶの社長があなた……? 写真家で他にいますか、このように大々的な経営者になっているのは」 「いないようですね。だから、わたしはいま写真家であるより、経営者としての仕事が忙しいんです」  しかし、昨日までロンドンに行っていたという。一週間いてマルチェロ・マストロヤンニをカネボウ香水の広告のモデルにして撮影、とんぼ帰りしてきたのだそうだ。写真家としても眼のまわる忙しさなのである。  これまでに制作したテレビCMが六十本あまり。現在はトンボ鉛筆、三越、日本警備保障の三本を制作中。宣伝ポスター、カレンダー、雑誌の表紙写真など数えきれないほどつくってきた。 「テレビCMは制作者のネームが出ないのでわからないんですが、これまでにどういうのを放映されました? 二、三あげてみてください」 「説明するよりお見せしますよ」  早崎氏は、そこにあったビデオカセットのスイッチをいれた。アサヒペンタックス、三越ティファニー、住友生命、サロンパス、コカコーラ、ゼロックスなどのそれが三十秒ごとに変わった。あれも早崎作品なのか、これもそうだったのか、と茶の間で観せられ記憶しているのがほとんどであった。 「スポンサーとは制作本数を、契約してやっているわけですか?」 「契約は一本ずつです。スポンサーが気にいらなければ撮り直しさせられるし、人気の出ないCMだと二本目の制作契約はしてくれません。きびしい世界ですよ」  さて——そんな問答から本題にはいっていったが、ぼくはたいそう苦労した。この写真家らしくない写真家は、自分というものを容易につかませてくれないからである。  ご当人にはそんなつもりはないのかもしれぬが、ぼくにはそう思えたのだ。  広告デザイナーの亀倉雄策氏は『早崎治広告写真術』(河出書房新社刊)のなかで、 「早崎君というのは寡黙の人である。口の重い人で決して軽口をたたかない。そのかわりたまに口を開くと、きちんと急所をついた言葉になる。だから彼はつねに腹のなかで正論を用意しているらしいのだ」  と見抜いており、たしかにそういう人だけれども、それ以上にぼくには掴みがたい何かが感じられてならないのである。 (一)  早崎治は六男二女の末っ子。昭和八年五月七日、京都は四条大宮の生まれ。父親の早崎直治郎さんは九十四歳でいまなお、お元気。家業は代々、京友禅の染物屋である。  西陣が西陣織の織物町であるように、四条では三軒に一軒が京友禅の染物を業としており、残る二軒も関係業者という染色の町だ。  そうと聞いたとたん、ぼくははやくも鬼の首をとったみたいに言った。 「女性の和服のなかでも振袖や訪問着の美しさは、友禅染の技術によって表現される。友禅染はどんな複雑な色彩でも、どんなに優美な柄でも自由に表現できる染色法だそうですが、あなたの写真感覚にはそうした、京都の伝統美があるような気がしますねえ」  たとえば、彼の和服の女、ドレスの女を配したビール会社や繊維メーカーのカレンダーを見ても、日本の繊細な伝統美が現代感覚でたくみにとらえているからだ。  だが、早崎の答えはぼくを失望させた。  苦笑しながら彼は、こう言うのだ。 「手がき友禅と型友禅があって、手がきのほうは一本主義ですからみごとなものができますけど、わたしの家のは型だから大衆的なんです。父は友禅染の配色師だけれども絵師ではないし、型をおこして安物を何百本、何千本と生産するだけなんですよ」 「以前、緑川洋一さんにお会いしたとき、彼の家は呉服屋だったから少年時代、友禅染とか江戸小紋、黄八丈などの日本的色彩が網膜にやきついた。それが瀬戸内海をあのように魔術的な技法の作品にした、と語ってくれました。あなたにもそうした友禅染の色彩のなかで育ってきた、原体験みたいなものがあるんじゃないんですか」 「京都的なものがある、とよく言われるんですが、自分ではわからないし意識もしていませんね。子供のころから見ていたから、やはり何かがあるんでしょうが。いま家業は二男が継いでやっていますが、わたしが継いでもよかったんですよ。いまでも写真の仕事をやっているのはまちがいではないか、そんな気もしているくらいなんですから。しかし、戦後は和服を着る女性がすくなくなって友禅染もすたれ、斜陽になってしまいましたからねえ。立命館大学を出たら文房具店でもはじめたいな、と思ってましたよ」 「どうして文房具店が好きなんですか?」 「あれは、じーっとすわってりゃいい商売でしょう。ラクに見えたんですね」 「そんなら煙草屋でもいいわけでしょう」 「あれは小町娘がいなければ繁盛しません」  こんな調子でまともに答えてくれないから、ぼくはイナされ、はぐらかされている気になってしまう。自分の本性をつかませたくないお人なんだな、と歯がゆくなるのだ。  立命館高校のころ、彼は美術部にはいった。画家になりたかったんですねと訊いたぼくは、またしてもかわされてしまった。 「絵が好きというより、ヌードのデッサンをやらせてくれるというんで、女の裸を見たさに部員になったんですよ。女体を見たいという興味でしたね」 「見たときにはどうでしたか?」 「ストリップショーでもストリッパーは、隠すべきところは隠しますよね。だけどモデルはそんなことしないし、こちらも堂々と見ていいわけですから……よかったですねえ」 「京都で好きなところは?」 「平安神宮」 「どうして?」 「桂離宮、竜安寺の石庭、銀閣寺など有名な寺はたくさんあるし、だれもがワビ・サビが何ともいえないとほめますね。しかし、そういう寺でも建った当時はきらびやかなもので、アーチストたちもそのために集まってきたんだと思う。それが古びたからいいというのはおかしくありませんか。その点、平安神宮は朱ぬりにして、古くなればまたぬり直して、建てた当時のまま残してゆく。それがわたしにはすばらしいんです」  なるほど、これが亀倉氏のいう、彼がつねに腹のなかで用意している正論なのだ。  彼は立命館大学経済学部に進学した。  それまで家にあるカメラで記念写真を撮っていたていどだったが、それ以外のもの——子供、おばあさん、おじいさん、世の中の現象などの造型的なものを撮りたくなり、大学写真部に参加した。  ちょうど写真ブームになっていたころなので、一年生だけでも百人が参加し、写真部員は百五十人以上いるというふうであった。彼は社寺仏閣、名所旧跡、仏像などにはレンズをむけず、報道写真にひかれていた。  地方にいる彼の「師」は東京で発行される写真雑誌だった。毎月、何冊も買ってきては技術を学び、小さな記事からもいくつもの想像を生み、中央の写真界をうらやんだりしていた。彼にとってその写真界ははなやかな檜《ひのき》舞台であり、自分自身は遠くの立見席からながめている観客にすぎなかった。  写真雑誌に発表している土門拳氏の作品に強烈な感動をおぼえ、あこがれ、木村伊兵衛氏のかるがるしい何気ない作品はまだ理解できなかった。女性を撮る機会にめぐまれないので秋山庄太郎氏、稲村隆正氏、中村立行氏などにはまったく関心がなかった。  そのかわり自分とおなじ立場で撮っている人に対しては有名無名を問わず、はげしい競走意識をかきたてられた。若手のなかで注目していたのは朝日新聞写真部の大束元、船山克氏などで、とくに船山の『東京シリーズ』には感服のため息ばかりが出たものだ。  しかし、早崎は当時をふりかえって、こんなふうに言う。 「現在でもわたしは、自分をアーチストだとは思っていません。わたしの人生はゲームに勝つこと、負けたくないから作品を創っているんですよ。大学の写真部のころも、まず一年生の部員百人に勝って、それから二年生を負かし、三年生たちにも勝ちたかった。そして、そのつぎは関西地方の学生で一番になる目標をたてたんです。  そのとおりになりましてね、全関西学生写真連盟の展覧会で金賞をもらいました。審査員は大阪の岩宮武二さん、棚橋紫水さんらでした。つぎは全日本学生連盟展に出品しました。これで金賞をとれば全国制覇が達成できたわけですが、ここではどうしても勝てませんでした。金賞を獲得したのは早稲田大学写真部の稲村不二雄君でした。  そんなふうだからわたしにとっては、勝ちたいから撮るのであって、勝つためには何を撮ればよいかなんです。おれは絶対にこれが撮りたいんだ、それが受賞作品になるかならぬかは二の次なんだ……そういうものじゃなかったですね。おかしいんですよ」 「はじめてですよ、そんなふうに言う写真家は。要するに、勝てそうな素材を選ぶことが大事なわけですか?」 「何をどう撮れば勝てるか、賞がもらえるか、わたしにはわかっているんです」 「へえー、どうして……?」 「その展覧会の審査員がだれになるかわかっているわけですから、その審査員の好みとかクセをおぼえて作品化するんです」 「うーん……」  ぼくは唸ったきり、しばらく舌がまわらなかった。この人はあけすけに本心を語っているつもりなのか。自虐的な言辞を弄しているのか、写真界へ皮肉の矢を放っているのか。はたまたケムにまこうとしているのか……ぼくには判断できかねるからである。 「で、全関西や全日本学生写真連盟に出品したのは、どんな作品でしたか?」 「忘れましたねえ」 「えッ、忘れた……?」 「写真は撮ったら終りだと思ってますから、過去の作品は一枚も保存していません。自作に対する執着心がないんです。だからさっき言ったように、職業をまちがえたと思っているんですよ」 「うーん……」  もういちど、ぼくは唸るしかなかった。 (二)  自作に対する執着心はなかったかもしれぬが早崎治は、中央へのしあがってゆくための足がかりを必死にもとめていた。  目標は岩波書店の「岩波写真文庫」に入社することであった。これは名取洋之助が昭和二十五年に創刊し、長野重一と薗部澄がスタッフに加わっていた。早崎は入社するためには名取洋之助に実力を認めさせることだと思い、名取が審査員をしているアルス「カメラ」の月例コンテストにせっせと応募した。  その年度賞を獲得すれば岩波入社も不可能ではない、と考えてのことであり「地方にいると、そういうことでもしなければツテがないし、眼をつけてもらえなかった」悲哀を彼もかみしめていたのだ。  名取は早崎の才能に注目した。何度か月例コンテストに当選すると、文通もさせてもらえるようになった。応募作品はアルス「カメラ」の編集部へ郵送していたが、そのうちに名取からの「ちゃんと見てやるから自宅へ送れ」という手紙がきた。おかげで早崎は年度賞も受賞したが「いまはその作品も何であったか、きれいさっぱり忘れました」そうである。  ほんとうにそうなのか。首をひねりたくなるのはぼくだけではないだろう。  前出の『早崎治広告写真術』に、ライト・パブリシティ時代の後輩である篠山紀信氏も一文を寄せていて——あるときスタジオで早崎を中心に仕事しているときのこと、 「自分(早崎)で見出した写真技術を外部の者にもれるのを極度に嫌った。当時、日本デザインセンターにいた沢渡朔がぼく(篠山)をスタジオに訪ねたことがある。丁度ビールの撮影中だった氏(早崎)は、彼をみるなり助手に大声で『隠せ!』と叫んで、ライトの上から黒布をかぶせてしまった」  のだそうだ。過去の作品を忘れたとか、保存していないというのは真赤な嘘で、沢渡氏に見せまいとしたように隠しておきたいのでは……そうもぼくはカンぐりたくなった。  昭和三十三年春、彼は立命館大学を卒業したが、東京の写真雑誌に作品を発表できるようになったのも、この年からであった。「写真サロン」一月号に『シンフォニック・ヌード』を、十月号に『おさなき日』を、「カメラ毎日」五月号に『花火』を、「サンケイカメラ」六月号に『図案的ヌード』をひっさげての登場であった。  この年には仙台から九州まで、由緒ある庭園を二百カ所もまわってカメラをむけている。 『日本の庭園』を刊行するためで、文のほうは庭園家の重森三冷氏が担当した。子息の重森弘淹氏(写真評論家)が立命館大学に講演にきた折、早崎の力倆を高く買って推挙してくれたおかげである。  翌三十四年、勇躍、早崎は上京した。名取洋之助をたよってゆき「岩波写真文庫」に入れてもらうためである。  だが、その望みはついえた。すでに「岩波写真文庫」は廃刊ときまり、名取も岩波書店から去らねばならなくなっていたのだ。早崎の最大のライバルであった早大の稲村不二雄は、朝日新聞出版局写真部にはいって早くも活躍していた。  気の毒に思った名取は、早崎をライト・パブリシティに紹介した。広告写真のパイオニアとなるこの社のことは、杵島隆氏を書いたときにふれたが、名取の日本工房にいた信田富夫氏が資本金三十万円で設立したもので、銀座の東亜管機工業ビル内にあった。  杵島が米子から上京してここにはいった昭和二十八年当時は、まだ経営の見通しは暗かったが、早崎が名取につれられていったころは大いに活気づいていた。杵島はすでに昭和三十一年に去って独立していた。 「これからの時代はコマーシャルフォトが一つの分野として伸びるよ……名取さんにそう言われたんですが、わたしは広告写真をやりたくて入社したわけではないんです。初任給三万円といわれて、それはありがたいと思ったんですよ。なにしろ東大卒が一万三千円、私大出が一万二千円の時代でしたからね。それに事務所が銀座にある……地方人のわたしにはうれしかったんですねえ」  彼の初仕事は、女優若尾文子さんをモデルにしての、東邦レースのポスター制作であった。田村町の貸スタジオでレースの花嫁衣裳の彼女を撮った。  蛇腹のついた大きなスピグラで撮るのもはじめてであった。ピントが合わせにくいし、フィルムの感度もわるい。一秒間ぐらいにっこり笑ったまま静止していてもらわなくてはならない。しかも美女なので早崎はすっかりあがってしまい、かぶり(黒布)を頭からかぶってカメラの準備をするふりをしながらひと休みし、冷静さをとりもどすのに必死であった。ボロを出さずにどうにか撮影できた。  それから早崎は九年間ここにいて、高度成長とともに企業が繁栄し、莫大なる宣伝費を投入しての広告戦争のなかにあって活躍するのだった。ライト・パブリシティには北井三郎、吉田忠雄、安斎吉三郎、篠山紀信の順で入社するが、彼らもまた独自の才能を発揮し、競走し、頭角をあらわしてゆくようになるのだ。  早崎がたいへんに仕事にきびしく、ひたむきであった様子を、篠山は前出の一文のなかにこうも書いている。学生の篠山がライト・パブリシティに入社したくていったとき、面接してくれたのが早崎だったのだ。お互いに一歩もひかぬ個性が躍如としていて、まことに興味ぶかい描写である。 「氏はおどろくほど無口で、レーバンの眼鏡の奥の眼がときどきチラッとぼくを射した。黒白で引伸した作品と何枚かのアルバイトにやった中吊りポスターをさし出した。氏はそれに眼をやると『君いくつ、十九歳だろう。あんまり早くお金をかせぐと写真が卑しくなるよ』といった。 『そんなにぼくの写真が卑しいですか』と開き直って噛みついた。そして『カメラマンとして入るのならいいけど助手は絶対にいやです』などという暴言を吐いてその席を立ったのだった。  氏は約束どおりぼくをカメラマンにしてくれた。しかし、なにひとつ教えてはくれなかった。ただぼくを叱った。  つらい数年間だった。この頃の早崎氏はまさに天皇だった。その徹底した仕事ぶりと才気は驚嘆に値する」  コマーシャルフォトとしての早崎作品のすばらしさは色彩感覚にある、とぼくは思う。その点を当人はどのように分析してくれるか訊いてみたくなった。 「重いもの、思わせぶりなものはイヤなんですね。軽くサラッと生活の延長でいきたい。色にしても同系色で統一するのはやさしい。淡い色、原色、軽薄な色……そういうのがまわってゆく。その色が好きな時期がまわってくる。まとまりのいい色でやれば、やる前から結果がわかるでしょう。やってみなければわからない。できてからの結果……そういうふうに撮ってきましたね。パワーとか情熱を短期間で爆発させるために、未知の部分を残しておきたいんです」 「やっぱり、あなたの色彩感覚は原体験からきていると思う。現代の友禅染をつくっておられるんじゃないのかなあ」  ぼくはまだ、彼の少年時代にこだわっていた。だが、それに対しては答えてはくれなかった。 (三)  早崎作品の最高傑作は何といっても、昭和三十九年の東京オリンピックの三作のポスターである。これにはだれもが脱帽する。  昭和三十六年のある日、東京オリンピック準備委員会から依頼された亀倉雄策が早崎に眼をつけた。亀倉は「思いきって広告写真家である早崎君を考えてみた。彼は女性モデルによる広告写真家の第一人者という定評だった。そういう早崎君を起用するのは一種の冒険であり賭けだった。しかし彼の力量だったら、かならず新しいスポーツ写真を開拓してくれると私は信じた」のである。  意見が百出した。女子体操など女性を中心にしたほうがというのもあったが、早崎は「オリンピックの主役はマラソンや水泳だし、男くささを出したい」とゆずらなかった。開催されるまでの三年間も街に貼られるのだから、かなりの造型力をもたないと飽きられてしまう、と考えたからである。  オリンピック委員の織田幹雄氏が立川基地の、スポーツマン出身の米軍兵士を集めてくれた。夜、ストロボの光りで国立競技場で撮影。八台の6×6判カメラを角度をずらして据え、ストロボは五十台を借り集めてきた。  八台のカメラにはアシスタントが一人ずついて、バルブのシャッターを開けたり閉めたりする。一回シャッターをおすと八枚が写るようにしておいたのだ。スタート・ダッシュの瞬間を撮るのだ。構図が不満で黒人にわざとにフライングさせてみたりもした。  二十回やり直しさせたらモデルたちはダウンしてしまった。できあがった写真を見た亀倉雄策は興奮をおさえきれなかった。つまり、彼のデザインがさきにあって、それに合う写真にしたわけではなく、写真作品ができてからデッサンが決まったのだ。  全国の街に貼られたこのポスターの新鮮さは大衆を魅了した。スポーツ専門家は「一斉にスタートしていればこうはならない」とケチつけたが、ポスターとしてすばらしければ、そんなことはどうでもいいのである。早崎は東京ADC賞の金賞を獲得した。  二作目——昭和三十七年には水泳を撮った。オリンピック候補選手三人につぎつぎと泳いできてもらった。カメラは一台だけ、プールの中に足場を組んでその上に据えていた。  この作品もまた絶讃をはくした。  三作目——昭和三十八年に聖火ランナーを撮った。夕陽が沈みゆく荒川土堤を走ってもらい、それに平行してすすむ車のなかから早崎はシャッターをおした。 「この三枚の写真代はいくらでした?」 「一点につき五万円です」 「傑作なのにたったの五万円……!」 「亀倉さんがポスター一点につき五十万円で引き受けたんですね。機材費とかモデル代とかを支払うと、あとこれだけしか残らなかったんですねえ。万国博(昭和四十五年)のときもそうでした。万博協会から八十万円の制作費が出たけど、撮ったのが日本の祭りだったので百五十人にモデル代を払ったものだから、わたしの手取りは十五万円でした」 「広告は合作……デザイナーとの二人三脚ですよね。そのことをどう考えていますか?」 「写真だけで生きる、完成されたものではいけない。文字がはいっていっそう良くなるものでなければ。それがコマーシャルフォトです。文字がはいったがためにぶちこわしになる写真ではいけないわけです」 「一〇〇%完成された作品にしておくけど、デザイナーも一〇〇%の力を出してくれてはじめておさまるんです。デザイナーがダメだとその広告写真は五〇%にも四〇%にもさがってしまうこともありますよ。ポスターの場合はあくまで写真が主体になって広告をひっぱり、新聞などの場合はコピーがひっぱるから、写真は従であっていいわけですが」  早崎はしかし、東京オリンピックの三作だけがほめられるのが不満である。なぜならば「これは日本ではじめて開催するオリンピックだから注目されたのです。仮にこれが製薬会社のポスターだったら、こうは評価されなかったでしょう」  彼は『広告写真のこころ』の中に、 「写真はまず腕で撮れ。つぎに眼で撮れ。最後にハートで撮れ。頭はパーッと通過するだけ」  と書いている。「腕で撮れ」というのは写真を撮るのに必要な技術はぜんぶマスターしろであり、「眼で撮れ」とはシャッターをおす前にすでに脳裡に創られている写真をいう。そして、動物にかぎらず山も女も子供も——あらゆる被写体がカメラマンのハートによって生命をあたえられるのが「ハートで撮れ」なのだ。 「すべての写真は広告写真となりうる」  などと気になることも堂々と書いている。ぼくが気になるのではなく、この発言は写真芸術をめざしている作家にとって、侮辱にひとしいものではないだろうか。「精魂こめて撮ったものをデザイナーが勝手に切りとったり、コピーが殺してしまったりする。おれの作品はそんな安物じゃねえぞ」と激怒したくなるかもしれない。 (四)  早崎治はレーシングカーに夢中になっていた一時期がある。  昭和四十年に彼はライト・パブリシティから独立して早崎治スタジオを設立したが、その前後の七、八年間レーサーとして鈴鹿サーキットや富士スピードウェイでプロレーサーたちと競い合ってきた。一千万円ものレーシングカーを所有していた。写真家でレーサーという変わり種も、彼をおいてないだろう。  当時、彼は広告写真やアートディレクターとしてかせいだカネはぜんぶ、このレーシングにつぎ込んでいた。学生時代から「わたしの人生はゲームに勝つこと」だし、それに賭けた彼らしい生き方である。  優勝も四回したそうだが、またしても彼はケムにまくようなことを言う。 「車が傷つくとカネがかかるから、わたしはゆっくり走らせるんです。プロは極限までスピードをあげるので、途中で車をぶっこわしてしまう。つまり、ウサギとカメの競走みたいなものでわたしは勝てたんですよ」  それでも命がけであり、あわやという事故にも何度も遭遇している。 「やめてしまった理由は?」 「出場するときには一カ月前から、酒もタバコもやめて体調をととのえなければならない。それが辛くてね、それに反射神経もにぶってきましたしね。このスピードで突っ走れば、かならず事故をおこす、そのギリギリのところでプロは勝負しているんです。それに巻きこまれてこちらも走っていると死しかないし、五・六位どまりでおわるのはイヤだから三十五歳でやめてしまったんですよ」  昭和五十年、株式会社|H2O《エッチ・ツウ・オー》 を設立、アートディレクターとしてはもとより、総合的なクリエイティブ・プロデューサーとして広告以外の分野においても活躍しはじめた。毎日デザイン賞審査員、愛知芸大講師も兼ねている。 「好きな写真家は……?」 「アメリカのファッション写真家、リチャード・アベドンですね」 「日本の写真界では……?」 「他人の写真には興味ないんですよ。名取さんにこう言われたことがあるんです。他人の写真は自分がこれから撮ろうとしているものとぶつかってはいけないために見ればいいんだ、他人の作品を見て勉強したり技術を盗もうなんて思うなよ」と。  彼はわき見をしない男なのである。レーサーだからなおさらわき見運転はしないのである。そして最近では、海外を舞台にしたテレビCMを制作する場合も、スタッフはつれてゆかず、単身でアメリカへ飛んだりすることが多くなった。プロデューサーとして現地のモデルに出演させたり、現地のスタッフに制作させるのだ。  なぜかと言えば、そのほうが日本から何人ものスタッフをつれてゆくより経済的だし、現地のカメラマンにもよろこんでもらえるからだ。要するに、彼は現地で完成させたフィルムを一本、カバンに入れて成田空港へもどってくればよいのだ。  ところが、そんな彼が昨年暮、銀座長瀬フォトサロンにおいて『瞬間よ止まれ、君は美しい——五万分の一秒の世界』なる初の個展をひらいた。  その結果、イチゴが落ちて白い飛沫をあげるミルク、くずれる角砂糖の山、十数個の生タマゴが割れて黄身が飛びだす決定的瞬間……そういった身近な日常生活のなかのものを、六百ワットの光量をもつ五万分の一秒の高性能のストロボを駆使して撮影するようになったのである。  幾何学的な模様でありながら童話と幻想の世界があるのを、ぼくは二年間かけたというそれらの作品に感じた。  別れしな、早崎はぼくにこう言った。 「いつもわたしは、プロフェッショナルになるのを怖れているんです。プロになるとだんだん感覚が研《と》ぎすまされてゆくけど、それだけ線が細くなるでしょう。それではいかんのだ、つねに素人の発想で幅広くやらなくちゃと心がけるんです。だから、一つの仕事がおわるといそいで素人にもどる。それをくり返してゆく」  彼自身、沈滞を破りたくて、ひそかなる苦闘をくりかえしているのだ。「淋しくて夜、自宅に帰ってカメラを手にしたくなる」彼は、遠からずコマーシャルフォトの旗手としてよみがえるだろう。よみがえってもらわなければならぬのだ。(昭和五十五年四月取材)