[#表紙(表紙5.jpg)] カメラマンたちの昭和史(5) 小堺昭三 目 次  田沼武能「この師にしてこの弟子あり」  佐藤明「敗戦っ子作家の視覚」  細江英公「小説家的な写真家」  佐々木崑「生命の誕生を追う」  渡部雄吉「写真とは写心なり」 [#改ページ] 田沼武能《たぬまたけよし》 「この師にしてこの弟子あり」  ——こんなエピソードからはじめよう。  もう二十五年も昔のことになったが、帝国劇場において劇団民芸が『どん底』を公演したさい、二十二歳の田沼|武能《たけよし》は、師である木村伊兵衛といっしょにその舞台写真を撮りにいったことがある。  師弟の間柄ではあるが負けられない。木村は「アサヒカメラ」の依頼であり、田沼は「芸術新潮」からの特派。たずさえていったカメラは共にライカだった。  木村は四十九歳、円熟の境地にあったが、田沼には若い野心があった。それが紅蓮《ぐれん》の炎のように燃えたっていて、内心にはつねに、 「先生に負けてたまるか」  の対抗意識が煮えていたので『どん底』をいっしょに撮影できるのは、最大のチャンスだとよろこんだ。同じライカで、同時に同じ被写体を撮れば、作品の優劣ははっきりする。技量の甲乙もつけることができる。師だろうと弟子だろうと、作品がすぐれているほうが勝ちなのだ。  そこで田沼は、木村が舞台の上手《かみて》からカメラをむければ、自分もまたその位置にゆくというふうで、意識的に同じアングルでシャッターをおしつづけた。  撮りおえた木村のフィルムは、田沼がいつものように預かった。弟子だから師匠のフィルムの現像もまかされていたのである。  田沼は浅草の自宅に飛んで帰った。暗室にはいって木村のものもいっしょに現像した。 「勝った! おれのほうがよく撮れてる」  思わず田沼は万歳した。  自分のがより鮮明な舞台になっている。  ところが、よく見くらべてみると—— 「木村さんのには『どん底』の空気が写っていたんです。その芝居や役者の雰囲気があるんですね。このときぼくは、頭をぶん殴られた思いになりましたよ。写真は機械ではないんだ。人間なんだなあ、と溜め息つきました」  このときの敗北感はじつにすがすがしいものだった、と田沼は言うのである。この師にしてこの弟子ありだ。  木村伊兵衛が「アサヒカメラ」の三月号(昭和二十六年)に発表したこの作品は『どん底の細川ちか子』であった。 (一)  田沼武能は昭和四年二月の生まれで、そろそろ五十に手のとどく年齢になってきたが、いまだに結婚歴がない。したがって奥さんと名のつく女性はいないし、一人の愛人さえもいない。 「なぜです?」  わたしが問うよりさきに、 「忙しすぎてチャンスを逸したんです」 「女房をもらうヒマもないほど忙しい、というわけですか?」 「そのとおりです」 「ネコの手も借りたいくらい忙しい、とはいうけど、女房をもらうヒマがないほど、とは前代未聞ですねえ」 「でも、事実、そうだったんですから」  田沼武能はケロリとしている。  彼自身の口から、その多忙なりし過去を拝聴しているうちにわたしも、こんなに忙しい人生があるのかとあきれかえった。彼の過去はすさまじいほどの忙しさだった。  さっそく、小説さながらのその生きざまを紹介してゆきたいが——その前に、彼の過去は失敗つづきの人生であったことから書いておこう。  武能の父である田沼幸治は、有名な吉原遊廓が近い台東区東浅草(旧山谷一丁目)で、大正十二年の関東大震災直後から田沼写真館を経営していた。  もとは栃木県足利市の大地主の息子で、祖父は判事、お堅い家に育ったのだが飛びだして上京。音楽家になりたかったのがいつしか写真をおぼえ、下町娘の光子と結婚、三男一女をもうけた。武能が長男である。  武能は小学五年生のころから父親の仕事を手伝った。当時、隅田川べりには大きな料亭がならんでいて、よく結婚式があげられる。幸治はそれら料亭と契約していて婚礼写真も撮っていたわけだが、武能は手伝うのが苦痛だった。自分は家業を継ぎたいとは思ってないからである。  そのころ木村伊兵衛も根岸で写真館を開業していたが、彼の自伝『私の写真生活』(朝日新聞社刊・木村伊兵衛傑作写真集に収録)によると、 「大正十二年関東大震災の翌年、私の写真熱はつぶれた住居の跡へ写真館を建てて営業写真の看板をあげるに至った。その頃はまだ親のスネかじりなので、経営の点などはちっとも考える必要もなく、アマチュア写真の延長で、年中写真がやれるからということだったのである」  となっており、彼は営業写真より芸術写真のほうを大事にしたようだ。  幸治は木村より二歳年上で、交際はなかったがお互いに、同じカメラ商から機材を購入していたので名前は知っていたそうだ。  木村は芸術写真をめざしたが、幸治のほうは酒は飲まぬが道楽もので、それにいまでいうオトキチだった。女遊びするのに息子をつれてゆく親はいないが、武能は浅草の盛り場によく手をひかれてゆき、旨いものを食べさせてもらった。どんなふうにオトキチだったかというと、幸治は第二次世界大戦が始まるまでに二十台を越すオートバイを乗り替えている。そのころのオートバイは輸入品ばかりで、得意になって乗りまわし、二日も三日も帰ってこないと思ったら、とつぜん青森から長距離電話をかけてきて、 「青森まできたら津軽海峡のむこうに北海道が見えている。北海道に渡ってみたくなったが、カネが尽きたので至急送れ」  と光子に当り前のように言う。写真館の仕事は弟子まかせ、オートバイを乗りまわしてばかりいるのだから、妻の苦労はなみたいていではなかった。  昭和十六年春、武能は府立第十一中学校(現在の江北高校)に入学した。彫刻家になりたかった。日中戦争は長期化しているのに、さらに太平洋の波が高くなっている時期であった。日米決戦は避けられぬ緊迫状態、浅草の演芸ももうはなやかさはなかった。いわゆる戦中っ子で、中学生になったものの毎日が勤労動員であり、軍靴をつくる皮革工場や、兵器の部品を生産する鋳物工場にかよわされた。  エログロナンセンスといわれた昭和初期の、古き良き浅草のレビュー時代は幼時だったので知らず、青年期になったときにはもう戦時色一色だった。  彫刻家になりたかった武能は上野の美術学校を志望した。だが、自分は道楽者のくせに幸治が、 「そんなものでメシが食えるか」  と一喝するものだから断念した。  これが最初のつまずきで、そんなら軍人になってやるとばかり、同窓生九人と海軍兵学校を受験したが、武能だけが失敗してほかの八人は合格した。  府立第十一中学校を卒業したのは、太平洋戦争も末期にきていた昭和二十年春だった。このときは建築家になるつもりで早稲田大学理工学部の入試をうけたが、またまたみごとに失敗。目標がなくなってがっくりしているとき大空襲に遭った。  昭和二十年三月九日夜の東京大空襲であった。マリアナ基地より飛来したB二九の大編隊が、十日の払暁にかけて波状攻撃をくりかえし、東京の下町一帯は火の海と化し、二十三万戸が焼失、十二万人の市民が殺された。関東大震災よりもむごたらしい地獄だった。  田沼写真館も灰になった。武能の母と弟は信州の南佐久郡に疎開しており、写真館には幸治と姉と祖母と武能だけが住んでいた。  家の前に焼夷弾が落下して火焔がひろがりはじめた。武能は消火バケツをさげていって水をあびせたが、炎が燃えひろがると熱風が巻きおこり、その風であびせた水がおしもどされてきて何の効果もない。 「父さん、ダメだ、逃げるしかないよ」 「当り前だ、モタモタするな、はやく乗れ」  そのころはもうガソリン不足でオートバイはなかったので、幸治が自転車にまたがって待っていた。気が動転している武能は無意識に、手近にあったカメラを一台だけもって父親のうしろに乗った。  炎の波のなかを突っ走った。頭上にはB二九が真紅の鷲のように舞っていた。男も女も子どもも火と黒煙にまかれて、断末魔の悲鳴をあげながら倒れたり、火だるまになってゆくのが見えたが、他人を助けるどころではなかった。熱風が竜巻になった。  白鬚橋を渡って向島の土手を逃げたが、その方面がかえって焼夷弾が雨のように降りそそいでおり、被害が甚大であった。アスファルトの道路までが熱で溶け、黒煙をあげて燃えていた。煙が目にしみた。 「ひっ返そう」  幸治は必死にペタルを踏んだ。  隅田川の向島寄りの川べりで夜を明かすしかなかった。夜が白みかけてきたので、自宅が無事であるかどうかをたしかめるため、白鬚橋をもどっていった。世にもおそろしい地獄を見た。隅田公園寄りの隅田川には、さきを争う避難民の群れが水死体になったり、焼死体になったりしていた。  浅草松屋デパートのビルがまだ燃えているが、あたりはもう焼野原だった。赤ん坊の死体をおぶった母親が、くすぶる火のなかで自分も全身火傷で虫の息になっていた。火葬場にいるような異臭が充ちていた。逃げ場がなく用水桶につかっていた人は、その中の水までが火災の熱でたぎり、蒸発してしまい、死体が燻製のようになっていた。 「はやくどこかへ行ってしまいたい!」  武能はそんなやりきれなさをおぼえた。戦争を憎む気持が、この惨状をみてふつふつと滾《たぎ》ってきた。むろん、田沼写真館は見るかげもなく、写真機材もすべて焼けていた。何かにむかって吠えかかりたいような、悲しい怒りがあった。  余談になるが——この三月九日の大空襲があったころ、他の写真家たちはどこでどのようにしていただろうか。  木村伊兵衛のもう一人の弟子である佐々木崑は、神戸の日東航空の工場でエンジン製作に従事していた。  中村正也は、藤沢市の海軍電波学校で、電波兵器要員になる訓練をうけていた。  中学三年生の佐藤明は、勤労動員で中央気象台にかよい、気象状況の暗号解読をやらされていた。  歯科医だった緑川洋一は軍属となり、岡山連隊の報道班で空襲の記録写真を撮らされたり、救護班にまわされたりしていた。  病弱のため横須賀海兵団から即日帰郷にされた濱谷浩は、写真機材や書籍をリュックサックにつめて、東京大森から新潟県高田へ疎開しようとしていた。  予備学生の海軍少尉であった稲村隆正は、神戸港で掃海艇に乗って勤務するかたわら、宝塚ガールとの新婚生活を築いていた。  加藤恭平と華北広報写真協会をつくった林忠彦は、中国の北京で宣撫工作の写真を撮らされていた。  山形連隊に入隊させられた土門拳は、痔を患っていたため、 「不合格ッ、この役立たずめが!」  と軍医にどなられ、ビンタをくらわされて即日帰郷になった。  そして当時、読売新聞のカメラマンであった影山光洋だけが、東京大空襲あとの現場をまわってカメラをむけ、貴重な記録写真として残そうとしていた。 (二)  田沼写真館を焼失した武能は、母と姉弟の疎開先である信州の広瀬にむかった。ここで海之口青年学校の代用教員になり、五カ月後には敗戦を迎えた。  この一帯は冬には零下三十度になるというので、一家は幸治の故郷である足利市へ引越してきた。だが、幸治は若いころに郷里をすてて飛びだした男だ。実家には同居させてもらえず、本家で寄贈した村の集会所の一室を借りて夜露をしのぎ、親子五人が寝起きした。  浅草にもどってきたのは翌二十一年春だった。田沼写真館跡のそばに銭湯があった。ここは母方の実家が所有していたが、やはり焼跡になっていて、コンクリート造りのカマ場だけが残骸をとどめていた。まわりにはバラックを建てたり、防空壕を利用したりして近所の人たちが暮らしている。田沼一家もこのカマ場を住居にした。  ところが、いちど火に焼けたコンクリートは、雨が降る日はポタポタと洩った。だから雨の日は、住居のなかでもコーモリ傘をさしていなければならなかった。武能はこの春にも、建築家になりたくて早稲田大学をめざしたが、やっぱり失敗に終った。  その春、新宿区淀橋にある東京写真工業専門学校にパスした。もういちど早大をめざすので腰かけのつもりではいったのだが、こう失敗の連続ではみじめすぎるのであきらめ、報道写真を勉強してみる気になった。 「おやじのあとを継いで写真館をやれば、お客の来るのをいつも待たねばならない。つねに美男美女に撮ってやらねばならない。しかし、報道写真だと自分の意志だけで仕事ができるでしょう。そうでなければ写真を撮る意味がない」からで、しかも東京大空襲への憎しみや戦争に対する怒りがあり、それがエネルギーとなって「ライフ」、「アサヒグラフ」などのグラフジャーナリズムヘのあこがれをかき立てたのだ。  フューチャー・ストーリーをめざしたくなった。アメリカのユージン・スミスの『スペインの村』『カントリー・ドクター』に惹きつけられ、写真でストーリーを創りたくなったのだ。  だから、田沼武能のスタートは細江英公や佐藤明と同様アメリカ的であったし、彼のすさまじいまでの多忙な生活がスタートしたのもこのときからであった。  生活費と学資をかせぐためのアルバイトとして、深夜のアイスキャンデーづくり、進駐軍のオフィサーズクラブのウェイター、市ケ谷にあった東条英機ら戦争犯罪人をさばく極東軍事裁判所の写真複写係もやるかたわら、左翼の学生運動にも参加した。このころの写真界では林忠彦の『夜の銀座』『坂口安吾』、福田勝治の『女の美』、土門拳の『肉体に関する八章』、木村伊兵衛の『東京・新橋付近』などの作品が注目をあつめ、そのほか植田正治、濱谷浩、稲村隆正らの活躍がめだった。アルス「カメラ」が復刊して桑原甲子雄が編集長になった。  二十四年春に卒業するとき武能は、NHKの就職試験をうけたが、学生運動をやっていたのが失点となってまたまた失敗した。仕方なく先輩の三堀家義に誘われ、毎日新聞社六階にあるサンニュース・フォトス社に入れてもらった。  この社はA級戦犯のひとりである元外務大臣松岡洋右の長男の松岡謙一郎が社長で、名取洋之助を編集長とし木村伊兵衛が企画に参加、「週刊サンニュース」を昭和二十二年十一月に創刊していた。通称「サンニュース写真大学」といわれていて、写真界の梁山泊みたいになっていた。藤本四八、三木淳、牧田仁、樋口進、石井彰、薗部澄、長野重一ら錚々たるのが素浪人みたいにゴロゴロしており、漫画家の岡部冬彦、根本進らも一員だった。 「週刊サンニュース」はすでに休刊になっており、会社は月給らしい月給が出せないほど経営は苦しかった。田沼武能が月給をもらえない不満を木村伊兵衛に洩らすと、木村は眼玉をむいて皮肉った。 「写真を教えてもらっているのに、月給をくれとは何事だ。ここはサンニュース写真大学なんだから、おまえのほうが月謝をおさめろ」  初めは写真通信部門に入ったので、先輩たちが撮影してきたのを、一日に百数十枚も焼増しする仕事をさせられるだけで、一年間は暗室暮らしだった。  月給は出ないかわりに、社外でのアルバイトは黙認であった。食うために武能は、夜中に浅草国際劇場の稽古場へいって、松竹少女歌劇のスナップやファン用のブロマイドを撮った。昼間はサンニュース社の暗室仕事で、その合間に木村伊兵衛の助手を務めた。  仕方なく入社したのだが、ここで木村を知り得たことは運命の出会いみたいなものであった。武能のスタートはアメリカ的だったが、木村がもっている日本的伝統をないまぜる、独自の報道写真家に成長する基礎を築くことになるのである。  昭和二十五年六月、朝鮮戦争が勃発すると日本は軍需景気にわきかえり、大企業のPR用の工場写真の注文がくるようになった。武能は木村のお伴をして、関西の住友金属、神戸製鋼、三井造船、宇部興産などをまわった。  翌二十六年には新潮社の「芸術新潮」が創刊され嘱託になった。この月刊誌の写真のほとんどは田沼武能一人にまかされた。分野は多岐にわたり、音楽会も撮れば絵画、陶芸品も写し、歌舞伎や新劇の舞台へもすっ飛んでゆかねばならない。  この多忙さのなかで若冠二十二歳の彼は徹底的に鍛えぬかれ、最初に紹介したエピソード——木村伊兵衛と帝劇に『どん底』を撮りにいったのもこのころのことである。 「先生に負けてたまるか」の若い野心はサンニュースに入社して以来あったし、各地の工場にお伴してまわっていたときも、「いつかは師に負けぬ写真家になるのだ」  このファイトは片時も忘れはしなかった。  木村がタンバールを使って、ほわーっとした雰囲気の画面にしたとき、写真評論家の伊奈信男は、 「木村伊兵衛さんはアルチザンである」  と酷評した。  それがよほどシャクにさわったらしく、木村はタンバールをカメラ屋に売ってしまった。自分はアルチザンではない、のプライドがあるからだった。木村にかぎらず名を成している写真家の大半は、アルチザンと指さされるのを侮辱だと考えているようだ。  そんな木村をわきで見ていた武能は〈アルチザンと言われたってプリプリすることはないではないか。アルチザンから発展して良い仕事をのこせばいいんだから〉と思った。つまり、師弟関係にありながらも、微妙に反撥し合う心はあるものなのだ。  武能は、結果的には作品『どん底』で「写真は機械ではない」ことを痛感してカブトをぬぐが、微妙に反撥し合う心は木村のほうにもあったようだ。木村にとっても、武能はかわいい弟子ではあるが敵でもあって、見えない火花を散らしているのだった。  田沼武能は言う。 「木村さんはネ、写真について、ほんとうの話をするときと、ウソの話をする場合があるんです。ぼくの作品についても、よく逆説をとなえてました。ぼくにじかに言うのと、他人に言ってることが違うんですよ。ぼくに対しては『こんなの作品じゃない』と悪口雑言をならべる。  ところが、佐々木崑さんには『田沼はいいものを持ってるよ、いちど見せてもらいな』てな調子なんですね。この聞き分けをうまくやれないと、脱線しちゃうことになるんですよ。だから、戦前の木村さんの弟子で一人前になった写真作家はほとんどいません。そして、彼の遊びばかりを見習うんですね。  木村さんのワイ談は有名だけど、実際はそんなに遊んでいる人ではありません。むしろ、遊んできた男から『どうだったい?』と聞きだしておいて、そいつを自分の話のタネに脚色し、いかにも自分が遊蕩三昧をしているかのごとく見せかけるんですね。それを真にうけて弟子たちがマネしちゃうから、腑《ふ》抜けになってゆくんです」 「なぜ、他人の話を自分の経験みたいに脚色する必要があるんです? それでは木村さんが意識的に、弟子たちを腑抜けにしているみたいではありませんか」  疑うわたしに対して、 「そんなつもりはない、若いものから吸収する木村さんの吸収力はすごいんですよ。彼自身の作品の若々しさは、それがあるからです。若いものでも敵だと思っているんです。展覧会では作品は同じにならべられるのだから、はっきりするでしょう。若いものには負けちゃいられない、吸収して自分のものにする意欲が旺盛なんです。  要するに木村さんは、学ぶものは自分で学びとれ。手をとって教えられたり、与えられたりするものではない。わたし(木村)から学びとるのは勝手。しかし、こちらだって吸収してゆくんだ、という人なのですよ」  わたしは、うーんと唸った。それがワイ談好きに見せかけている木村伊兵衛の、正体なのだろうか。やさしくて温顔ながら、怪物のような貪婪さやふてぶてしさが隠されていたのかもしれない。  そんなわけだから、木村伊兵衛と田沼武能のあいだでも、お互いにとったりとられたりの、すさまじい「暗闘」がくりかえされていたのだろう。 (三)  田沼武能は「芸術新潮」の創刊から七年間、この月刊誌の写真に関する一切を担当して鍛えぬかれてきたが、文芸誌「新潮」のグラビヤも三年間、並行してまかされたので毎日、睡眠時間は三、四時間しかなかった。朝方まで暗室で仕事をし、浅草の家にもどってひと寝入りするとまた飛び起きて、撮影に出かけてゆくのである。 「新潮」のグラビヤでは小説家を撮ったが、こんな苦労もあった。 「芸術新潮がそのはじめで、ぼくは二十二歳から名前を出して仕事してきたでしょう。それに、武能という名は古くさい感じだし、会ったことのない作家のなかには、相当の年輩の写真家だと思いこんでいるんですね。それで、ぼくが撮りにいって名刺を出しても若い助手をよこしたな、失礼なやつめ、と怒って座敷にあげてくれないんです。ぼくが田沼武能です、と言っても信じてくれないので、わからせるのにたいへんでした」  当時はまた、作家を撮らせては林忠彦が第一人者だったし、 「作家の顔を撮るとどうしても、見る人は林さんの作品を思いだしてくらべてしまう。林さんの亜流になってはいけない、林さんとはまったくとらえ方が違うんだ、という点をつねに出したかったですね」  そんな孤独な闘いもあった。  カメラを手にするときはいつも〈木村伊兵衛、林忠彦に負けてなるものか〉の闘志がみなぎるのだった。彼は「個性のつよい土門拳さん」と、ポートレートが抜群のカナダのユサフ・カーシュ、それに木村伊兵衛も影響されていたフランスのカルティエ・ブレッソンの作品が好きだった。  昭和二十九年五月、田沼武能は最初の写真展を、銀座松屋デパートで開催した。「芸術新潮」に連載してきた九十五名の『芸術院会員の顔』であった。  来日していた世界的な報道写真家のロバート・キャパがインドシナ戦争へ出発し、爆死したのもちょうど、この写真展の開期中であった。 「田沼武能はアルチザンである。何を撮らせてもソツがない」  という声が聞かれるようになってきた。  彼はしかし、かつての師匠みたいにムシャクシャして、タンバールを売りどばすようなことはしなかった。アルチザンから発展してすぐれた仕事をのこせばいい。作品はすべて死んだ時点で評価されて決まるものであって、短期間の勝負ではない、と腹に決めていた。  週刊誌ブームのきっかけとなった「週刊新潮」が創刊されたのは昭和三十一年二月だが、このほうも担当しないか、写真部の正社員にならないか、と武能はすすめられたが、社員になるとどうしても束縛されるので、それだけは断わった。  そのころ、師匠がこう忠告した。 「そんなに忙しくしていると、おまえは出写し屋になっちまうぞ。頼まれた仕事を愛想よくひきうけるのは、おまえ自身が小さい時分から嫌っていた、おやじの写真館の仕事とまったく同じではないか」  忠告はありがたく拝聴したけれども武能は、いったん断わったはずの「新潮」のグラビヤの仕事もフリーでひきうけた。ある意味での師への反逆であった。 「木村さんのその、忠告の裏がわにあったものは何だったんですか? とったりとられたりの〈暗闘〉をくりかえしてきているので、有名になってきた弟子への、一種のジェラシーみたいなものなんですかね」  問うわたしに間髪をいれず、 「いや、それはそうじゃないんです。木村さんはぼくを、実の子みたいにかわいがってくれましたからね。忠告は本音ですよ」  田沼武能は否定したが——ますます忠告を無視するかのように、自分から大量の仕事を無制限にかかえこんだ。一年間だけで三五ミリのフィルム千本と、ブローニュー判二百本を撮りまくり「メシを食うときと寝ているとき以外は、シャッターをおしつづける」生活がつづいた。  そんな生活は狂気じみていて、かえってダメになってしまうのではないか。大事な何かがすり減ってしまうのではないか。わたしたちの小説の世界でも「量産していると筆が荒れる」と自戒するものが多いが、田沼武能は一向に平気である。 「先輩たちはスランプにおちいったりしたけれど、ぼくにはそんなことは一度もなかったですね。しかし、こんなことでは残る作品が創れなくなると怖れはじめ、やっと木村さんの忠告に従う気になりましたね。荒れる荒れないは、本人の心のもち方ひとつでしょう」  昭和四十年、アメリカのタイム・ライフと年間契約をした。ただし、ベトナム戦争に従軍するのだけは拒否する条件をつけた。日本の報道写真家の多くはベトナム戦争を撮りにいったが武能は、戦争は東京大空襲を体験しただけで御免こうむりたいのである。  タイム・ライフと契約したのを機に、三六五日はたらきづめだったのを百日ですむようにし、その余暇に世界を飛びまわって、世界の子どもたちにレンズをむけた。以後、十年がかりで四十八カ国をめぐり、撮った子どもが六万枚になった。  六万枚のなかから厳選したのを『すばらしい子供たち』と題して朝日新聞社より刊行(昭和五十年)されたが、肌の色も生活風俗もさまざまに異なる世界の子供が活写されており、「東も西も北も南もないひとつの世界、それが子どもの世界」として、やさしく暖かい眼でとらえられている。  一方で彼は昭和三十九年春から、師匠にも内密にして、現代文明に滅ぼされゆく武蔵野を惜しみ、その面影をもとめて四季や風土を撮りはじめ、これも十年がかりになった。  この『武蔵野』を朝日新聞社から出版したのは『すばらしい子供たち』の前年の十月——木村伊兵衛が他界して三カ月後であったため、師に見てもらうことはできなかった。それだけは残念でならないと、今でも述懐している。 『武蔵野』のなかの一文で田沼武能は、 「今、私は芥川龍之介の短編『蜘蛛の糸』のことを思い出している。今の武蔵野は蜘蛛の糸のようなものだ。糸に吊りさがる|※[#「牛+建」、unicode728d]蛇多《かんだた》をはじめ罪人が東京人である。この糸が切れてしまったら、我々は奈落の底に落ちてしまう。これから再び昔の武蔵野にもどることがあるだろうか。不可能である。とすればこの細い糸が切れないように大切にすることは、東京人として、私たちの義務ではないだろうか。武蔵野のためでなく、私たちのために」  と書いているが、彼にとっては、あの大空襲の火の海のなかを父親と二人で、一台の自転車で逃げまわった戦争も、武蔵野を荒廃させゆく現代文明も、ひとつのようである。そして、その救いを「東も西も、北も南もないひとつの世界」である純真な子どもにもとめているのかもしれない。  田沼武能はいつも、自分にだけわかる泣き声をあげて泣いている。切れてしまうかもしれない大事な細い糸を見つめて彼はハラハラしながら生きているのである。天真爛漫な世界の少年少女にカメラをむけるときも、彼自身は泣いている。  あるフォト・ジャーナリストは言う。 「報道写真家として出発した人たちは、みんな途中からほかへ方向転換してしまった。ところが、田沼氏だけは一貫して、報道写真家としての姿勢をくずしていない。その意味で貴重な存在だし、道をはずさずコツコツやってきた、そこがやはり木村さん的ですよね」  田沼武能が女性のヌードを撮ったのはわずか二回しかなく、これからも突然変異がおきないかぎりヌードは撮らぬと言う。衣服をつけた女優を撮ったことはあるが、こういう女性は撮るより手でさわったほうがいい、とも言う。 「彼には一発がない」  との声も聞く。他の報道写真家はベトナム戦争や安保闘争を撮ってきたのに、彼には気負いこんだ、肩に力のはいった、ドカーンとくる迫力ある作品がない——そうした不満をおぼえるというのである。  その観点にたてばたしかに『武蔵野』にしても『すばらしい子供たち』にしても地味すぎる。報道写真にはもっと切りすててゆくような客観性があってしかるべきなのに——ということになるだろうが、それでもわたしは、自分にだけわかる泣き声をあげて泣いている田沼武能の作品が好きである。とくに『武蔵野』がいい。  彼自身は自分の作品をどう見ているのか。 「人物を撮る場合には木村さんの影響が出てきますが、風景にはそれはないと思いますね。  写真というものは、衒《てら》いでみせるものではない、伝達媒体でいいと思っています。作品のなかで百万だら能書《のうがき》を言うのはイヤです。自分の感じたものでいい。若い人のようにノー・ファインダーで撮ろうなんて思ったこともない。感動してくれない人がいるかも知れないが、ぼく自身が気づかなかったところに感動してくれる人もいる。写真はそれでいいんだ。古い新しいではない。観念でもない。そして、写真はそれに尽きるんです」  冒頭のエピソードをもういちど思いだしてもらいたい。「写真は機械ではないんだ、人間なのだ」を田沼武能は忘れていないのだ。さわやかなまでのこの頑固さもまた、師匠と「決闘」のはてに得たもののようである。  このごろの彼の、メガネごしにものを見る表情も、木村伊兵衛にそっくりになってきた、と言う人もいる。(昭和五十二年四月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十三年「遊べ子供たち」〔朝日新聞社)。同、写真展。五十四年「世界の子供たちは、いま」(形象社)、日本ユニセフ協会主催写真展「世界の子供たちは、いま」、モービル児童文化賞受賞、国際交流基金により世界各国で写真展「日本の子どもたち」。「文士」(新潮社)、同、写真展。五十五年「下町・ひと昔」(朝日ソノラマ)、この年、結婚。五十八年「東京の中の江戸」(小学館)、「未知の国・すばらしい人たち」(岩波ジュニア文庫)。 [#改ページ] 佐藤明《さとうあきら》 「敗戦っ子作家の視覚」 (一)  マラソン競技にたとえるならば——『写真家物語』に登場してもらった土門拳をはじめ濱谷浩、植田正治、林忠彦、秋山庄太郎、大竹省二ら戦前および戦中派の、いまでは大家といわれているグループが一団となってトップを走っている。それに続いて、戦後派の東松照明、奈良原一高、中村正也、細江英公ら十数名が、これまた一群となって汗だくで力走している。  佐藤明もその一群の一人。昭和五年、東京は麻布の生まれ。わたしは彼を「象徴的な戦後世代の写真家」と見る。日本の歴史が一変した時点からスタートして「佐藤美学」を確立した、いかにも戦後感覚の最初の作家という気がするからである。  敗戦直後に進駐してきたGHQ経済科学部長レイモンド・クレーマー大佐が「もしも太平洋戦争がもう一年つづいていたら、日本国民の一割は餓死していたかもしれない」と語ったことがある。ときの大蔵大臣だった渋沢敬三もUPの記者に「戦争は終ったが、日本は現在のままでいったら、来年度は餓死か病死で一千万人が死ぬだろう」と洩らしている。  この戦争では日本は九百万人が戦場へかり出され、うち二百十二万人が死んだ。その上、戦争が終結しても五倍ちかい一千万人が餓死してゆく、というわけだ。  敗戦とはそんな地獄の状態だった。日本は瓦礫と化していた。食べるもの、着るもの、あらゆる文化もすべてが無に近かった。が、幸いなことに一千万人の餓死者が出なかったのは、アメリカがどっと救援物資を送りこみ、占領政策のためのアメリカ文化を注入してきたからである。  とにかく、アメリカのものと名のつくものはすべて、日本人にはめずらしく新鮮そのものだった。GIたちがふかしている甘い香りのラッキーストライク。横文字のチューインガム。缶ビールやコカコーラ。ジープに携帯ラジオ。サングラスとジャズ音楽。ギャバジンのズボン、アロハシャツにリーゼントスタイルは言うにおよばず、伝染病を恐れるMPたちが日本人の頭からふりかけていた白いDDTが驚異の医薬品に思えたし、性病を治すためのペニシリンはまさに高貴薬であり、 「日本の医学と薬品はアメリカにくらべて、すくなくとも十年以上はおくれている」  と嘆息した医者もいたほどだ。  医学や薬品ばかりではない。一にも戦争、二にも戦争できた日本の文明そのものが貧困きわまりなく、十年以上も差をつけられていたのだ。  記憶されている方も多いが、敗戦後にはじめて封切られたアメリカ映画はD・ダーヴィン主演の、恋物語をないまぜた音楽映画『春の調べ』だった。暗い観客席のあちこちから溜め息が洩れていた。闇市をうろついて、ふかしたサツマ芋や大豆かすのパンで空腹を満たしていた日本人にとって、かくも美しい世界があろうかと思わせるような映画であり、平和というもののありがたさをしみじみと思い知らされたものだ。  この世のものとは思えぬような、こういうスマートでハイカラで派手なアメリカ文化に、日本人がこぞって飛びついたのは当然であろう。焼跡の有楽町や銀座の街角に立つパンパンガールでさえ、アメリカ女性のスタイルをそっくりまねてロングスカートをはき、頭にネッカチーフをかぶり、ショルダーバッグを肩にかけていた。GIたちに頼んでPXで買ってもらった品々である。  日本人の大半は完全にアメリカナイズされていった。頭からふりかけられたDDTを驚異の医薬品だと思いこんだように、アメリカ文明を浴びてその中にどっぷりひたれるものだけが「新しい日本人」であった。  ところがアメリカ人は逆に、自国の底の浅い文明には愛想をつかし、自分らが逆立ちしてもおよばぬ深遠な東洋の文明——日本の古美術品や伝統ある工芸品、仏像とか刀剣類などを二束三文でかきあつめては、せっせと本国に持ち帰っていたのである。  そのころ佐藤明は十五歳、感受性ゆたかな旧制中学の三年生だった。 (二) 「わたしには戦争中も苦しかった思い出はないし、写真家になるにもこれといって苦労したことはありませんでしたね」  佐藤明はそんなふうに言う。  父・佐藤福三郎は横浜の出身。大正時代に東京外語専門学校英語科を卒業、東洋汽船の海外駐在員として渡米した。彼はアメリカでアマチュアクラブに加わるほどの写真好きだった。  大正十年に帰国、建築業者の娘戸沢ことと結婚、毛糸問屋「佐藤福三郎商店」を麻布で創業した。羊毛の本場であるイギリスから毛糸類を輸入、東南アジアの国々にも販売し、家業はますます隆盛になっていった。  佐藤夫妻には、三人の娘と二人の息子ができた。佐藤明はその長男で、彼自身は甘やかされて育った記憶しかないというが、なかなかに秀才で多感な少年であったと思われる。  麻布小学校から府立一中(日比谷高校)に進学したころには太平洋戦争が拡大しつつあった。昭和二十年五月の東京大空襲で麻布の家が焼かれてしまい、一家は湘南海岸の鵠沼へ転居した。  勉学どころではなく彼は、勤労動員で中央気象台にかよい気象状況の暗号解読をやらされる毎日だった。そのころの同期生である東野芳明が、佐藤明の写真集『おんな』(中央公論社刊)の解説のなかに当時の心境をこう書いている。 「ぼくは〈皇国日本の勝利を信じて〉と書いたが、それが十五歳の少年にとって、個人の内部に根ざした深い信念であったわけがない。自分から自分が剥離してゆく、あの、自意識の目覚めに達するには幼なすぎたし、その自分と時代とがハレーションを起すにはまだ早すぎた。いってみれば、皇国の勝利を信ずるということは、学期末の試験でいい成績をとることとほとんど同じ」程度の戦時意識しかなかったし、 「終戦の日がきても、べつに挫折感とか失望とかがあったわけはない。玉音放送を聞かされてから電車に乗って、燃え上がるように鮮やかな緑の木立を見ながら、ああ、また学校へ通って勉強が出来る、と、いつも離さなかった英和辞典の臭いをそっとかいで、心から嬉しかったことしか覚えていない」  佐藤少年もまたそうだったから「戦争中も苦しかった思い出はない」のだ。いわば、精神的には過去のない、まったくの白紙の状態で育ってきたのである。  そういう状態で敗戦を迎え、そこへ新鮮なアメリカ文化がどっと注入されてきた。それは佐藤少年にとっては、シミひとつない白紙にいきなり落された赤インキのようなもので、みるみるうちに鮮烈な朱となって白紙を染めていったのではないだろうか。  昭和二十四年、彼は横浜国立大学経済学部にパスした。学友に誘われて写真部員となり、父親にゆずってもらったベスト判のフォースデルビーをいじるようになった。「アサヒカメラ」が復刊されたのはこの年の秋で、この雑誌を手にしたときからプロカメラマンの作品を意識するようになった。復刊号にのっていた木村伊兵衛の、女優角梨枝子をモデルにしたポートレートが、いまなお強烈な印象として残っているそうで、 「このころから写真雑誌の、どのページもくい入るように見て、どの写真家がどのカメラで何を撮っているかも忘れませんでしたね。批評する眼などまったくなくて、すべての作品に感心してました。とにかく、全身で吸収したい、そんな意欲だけです、あったのは」  それもまた「敗戦っ子」の飢えである。彼は現在でも、フィルムをめちゃくちゃに浪費できないと言う。敗戦を体験している人たちの多くがそうであるように、駅弁をひらいたときにはまずフタにくっついている飯つぶから食べる。デパートのきれいな包装紙は破らずにたたんで、何かのときに役立つと思いながら保存しておく。飢えの時代に育ってきたもののつつましさであり、彼がフィルムの浪費を惜しむ気持もまたそれなのである。そのくせ吸収したい意欲だけは、戦争を知らない時代に生まれてきた現代の若者たちより何倍も旺盛なのである。  佐藤明がもっとも魅せられたのは、アメリカの写真家たちだった。当時、日比谷にCIEの図書館があり、ここへゆくとアメリカのさまざまな刊行物がタダで閲覧させてもらえた。大学の帰りに彼は、国電で有楽町まで出てきてこの図書館へゆき、鵠沼の自宅へもどるのはいつも夜になった。  彼は「ライフ」や「ルック」、ファッション雑誌の「ヴォーグ」「バザー」などを、それこそ眼を皿にして見ていった。アメリカのグラフジャーナリズムやコマーシャルフォトの何とすばらしいことよ、斬新なことよ、と感歎するばかりだった。その感歎こそまさに白紙に散らした鮮烈な朱であり、D・ダーヴィンの音楽映画に溜め息ついた日本人の羨望でもあったのだ。  ペニシリンの存在を知った医者が「日本の医薬品は十年以上もおくれている」と痛感したように、日本の写真界もまた自分たちの水準の低さにうろたえていた。  戦前、戦中派の既成写真家たちはさっそく、アメリカのグラフジャーナリズムを礼讃しはじめていた。だが、伊藤逸平もその著『日本写真発達史』(朝日ソノラマ刊)のなかで、 「自由になったという解放感のしからしめるところかもしれませんが、昭和二十一年から二十五、六年にかけてはドキュメンタルフォトの分野の人々、たとえば木村伊兵衛、土門拳、濱谷浩、三木淳といった人々(女性写真をやっている人々はいうに及ばず)までが盛んにヌード写真を撮っておりました。つまり、もっとも平和的象徴といえばやはり、ヌードが第一番に考えられる関係上、自由になったという、それは証明にほかなりません」  と記しているように、アメリカのそれを礼讃し吸収しながらも、まずは戦争から解放されたよろこびをもとめてヌード写真に走るというふうであった。  同じようにアメリカ文化を吸収するにしても、戦前戦中という過去をもっているかれらと、まったく白紙の状態でいる若い佐藤明とは、その点に違いがあったと言える。 (三)  佐藤明は、同じ鵠沼に住んでいた二歳年下の女子学生・邦枝恭江と恋愛した。大衆作家として一時代を築いた邦枝完二の愛嬢であった。  邦枝完二の紹介で佐藤は、元毎日新聞写真部長で日米通信社に籍をおいていた三浦寅吉を知り、CIEの図書館へかようかたわら、毎日新聞社内にあった日米通信社にも遊びにゆき、ジャーナリズムの現場の雰囲気を体験した。そして、横浜国立大学を卒業(昭和二十八年)後は、三浦寅吉の助手として日米通信社にはいり、雑誌の依頼で映画女優を撮ったりするようになった。  このころには「日本経済のカンフル剤」といわれた朝鮮戦争の影響で、日本の国内景気が大いに伸びていた。完全にアメリカナイズされた「新生日本」の姿になったのだ。  昭和二十八年夏、鎌倉海岸において「ミス鎌倉カーニバル」の美人コンテストが開催された。審査員は久米正雄(作家)、岩田専太郎(挿絵画家)、横山隆一(漫画家)らで、第一位に選ばれたのが戦後のファッションモデルの第一号ヘレン・ヒギンスだった。  彼女は、東京は田村町一丁目の角にあった外人向けの高級洋品店「ロジャース」の店員で、のちにミスユニバース第三位に選ばれる伊東絹子も同僚として働いていたようだった。これより八頭身ということばが流行しはじめた。ヘレン・ヒギンスや伊東絹子みたいに「日本女性も八頭身になれる時代がきた」のだという。  これはアメリカの服地屋が考えだしたキャッチフレーズにすぎず、服地を大いに買ってもらうため、日本のイモねえちゃんや胴長のアプレ娘をさかんにおだてあげたのだ。そんなことから勢い日本にもファッション界が台頭してきたし、婦人雑誌は派手になるし、「流行」とか「ドレスメーキング」などの豪華な服飾雑誌も発刊されるようになっていった。  佐藤明は、このファッション界にカメラをもってはいり、伊東絹子や相島政子らを撮りまくった。  このころからコマーシャルフォトグラファーたちの存在も目立ちはじめた。が、その多くはアメリカのコマーシャル系の作家であるアーヴィング・ペンとかリチャード・アベドンなどの亜流である。またファッション界では秋山庄太郎、大竹省二、稲村隆正らが核となっていたものの、かれらとてCIEの図書館で閲覧したファッション雑誌を大いに参考にしていたのである。  だが、同じようにアメリカの影響を受けてファッションモデルにレンズを向けても、若い佐藤のはひと味ちがっていた。大竹省二や稲村隆正の作品にはまだ日本臭さが残っているけれども、佐藤のはアメリカの匂いがぷんぷん匂っていた。さきにも述べたように、戦前戦中の感覚を財産として持っている秋山や大竹、稲村たちはどうしても、その感覚を「フィルター」にして写すが、白紙同然だった佐藤にはそんな財産がないためにアメリカそのものになるし「戦後に育った写真家がはじめて踊り出た」の印象をつよくしたのだ。  たとえば——佐藤はファッションモデルそのものよりも、服飾デザイナーやヘアーデザイナーの名和好子たちと協力して、より商品化したものを撮った。これまでの写真家の姿勢は、精一ぱいにおめかししているモデルをいかに美しく撮影するか、であった。ところが佐藤は、ヘアースタイルから衣裳、メイクアップまで「演出」するのである。  彼のカメラ技術はすべて独学だった。ファッション以外の女性のポートレートを「サンケイカメラ」や「ロッコール」に発表しはじめた。昭和三十一年、邦枝恭江と結婚、一子をもうけた。  同世代の東松照明、川田喜久治、奈良原一高、石元泰博、中村正也らとの交遊がはじまった。結婚した翌年の五月、佐藤はこれら新進作家たちと松屋デパートにおいて「十人の眼」展を開催した。出品者は東松照明、川田喜久治、奈良原一高、石元泰博、中村正也、常盤とよ子、川原舜、細江英公、丹野章、佐藤明。  写真評論家やフォトジャーナリストは、 「この展覧会は画期的なものだ。在来の写真展とはちがう。新しい時代の原動力になるものが作品にあるし、これまでの写真家たちとは一線をはっきりと画したものだ。ルールとか既成破壊とか抵抗の意欲を買う」  と絶讃している。  佐藤が出品したのは、来日したシャンソン歌手イベット・ジローをモデルにした作品だった。彼女が自分の歌を録音したものに聴き入っている構図である。世界のシャンソン歌手でありながら孤独な、彼女の内面をえぐったもので、モデルそのものにはウエイトをおかず、あくまでも作者のがわに立ってシャッターを切っている。  他の東松や中村たちのもそうであるが、報道写真では故意にストーリー性を否定し、女性写真では四十五度からの原則を無視して、フリーな角度から撮ったりしている。それらも確かに、これまでの常識を破ったものであり、異色な感覚であった。  佐藤明は声高にではなく、ものしずかに言う。それも謙虚にである。 「既成の写真には起承転結があるでしょう。こうでなければならぬ方程式みたいなものができあがっているでしょう。そういうものを否定したかったんですね。世界のイベット・ジローを撮るとすれば、だれもがポートレートになってしまうでしょう。スタジオできれいに、方程式どおりに撮りたくなる。それをちょっと自分なりにはずしてみたくなるんです」  さらに彼は、作品のなかから詩や音楽が流れでてくる、そんな写真を撮りたいと言う。 「写真は写真以外のなにものでもない」 「写真はヴィジュアルだ、視覚感覚の表現だ」 「芸術的志向はあるが、芸術品を創ろうとしているのではない」 「佐藤明語録」のなかにはそんなことばもまじっており、これは既成の大家たちからは聴けなかった重要なことばだ、とわたしは思った。  わたしの『写真家物語』に登場してもらった大家たちの多くは、絵画に迫りたい、名画をのりこえたい意欲に燃えていた、つまり、絵画の芸術性と同等のものを真摯にもとめてやまず、それが全面的にアメリカナイズされることへの抵抗にもなっていた。戦後派となるとそれが「写真は写真以外のなにものでもない」視覚的なものに変わってきて、絵画性よりもむしろジャズ音楽があふれてくるかのような作品をめざす作家も出てきたわけだ。つまりヴィジュアルなのだ。 「十人の眼」展のあと佐藤明は、評論家の福島辰夫が主宰する「フォト58」展にも『三つのメタモルフォーゼ』を出品した。  アメリカやヨーロッパのフォトジャーナリズムから生まれた、フォトストーリーとか、フォトエッセイが日本にもはいってきた。組写真にしてひとつのイメージを創りだそうとする傾向で、なかでも佐藤はオランダのヴァンデル・エルスケンの写真集『セーヌの左岸の恋』に感動した。これはストーリーのないストーリーといったあいまいなものだが、イメージとムードだけは横溢していてじつに新鮮であり、佐藤に言わせると、 「完璧でないが若い人を惹きつける感覚的なものがある。写真界の主流でないところから出てきたものに魅力をおぼえた」  ところに刺激されて『三つのメタモルフォーゼ』も創ったそうだ。これもまた旺盛なる吸収欲のあらわれ、というべきか。  この「フォト58」に出品した新進のうちの六人——東松照明、奈良原一高、細江英公、川田喜久治、丹野章、それに佐藤明が加わって「VIVO」を結成、その事務所を築地の佐藤のスタジオにおいた。表現のための写真運動の一環である。 (四)  会社組織にしたこの試みも、写真界でははじめてのものだった。芸能プロダクションシステムと同じでマネージャーを一人おき、六人は仕事は個々にやる。その収入はぜんぶ「VIVO」にはいり、うち五〇%をそれぞれに支払う。材料代、経費、モデル代などはすべて「VIVO」が負担。六人が「共同生活」を営むことでひとつの個になろうとしたのであった。  もう一度ここで『写真家物語』の大家たちの場合と比較すると——かれらはつねに個であり、たとえば秋山庄太郎や林忠彦や緑川洋一らの「銀竜社」のように、グループになっての仲間意識を結束させることはあっても「共同生活」を営むまでには至らなかった。それというのも、芸術は個性によって創られるものであり、孤独の闘いであり、そうした生きざまが即、作品にもなってきた——と考える人生派であるからだ。  ところが「VIVO」のメンバーには、そうした芸術家意識は最初からなく、写真は写真以外のなにものでもないと割り切っているのだから、集まり自体がひとつの個性ある「作品」だと考えているのだった。そしてこの六人は、先輩たちから見れば自分たちを追い抜くかもしれない気になる存在であり、後進の若手たちには羨望される立場になり得た。  にもかかわらず「VIVO」は一年後にはあっけなく崩壊した。やはり集団になってみると個人のエゴイズムが露骨になったり、出版社との契約問題でこじれたりして、結局はうまくゆかなかったのだ。当然、先輩たちからは「やれるわけねえじゃねえか」という眼で見られ、後輩たちは邪魔者がいなくなったみたいに安堵した。  それでも佐藤明は—— 「こういうシステムはまだ写真界でははやすぎただけのことです。組織してすぐにこわしたこと自体が、新しい写真運動になったと思いますね。現実的、現代的なあり方で、しかし解散したからといって、主張提起まで棄てたわけではありません」  あながち負け惜しみとは言えない。後進たちにアンチ「VIVO」の意欲を植えつけたことも事実だし、解散後にはまた新しい個へと発展していったのだから。  昭和三十六年に佐藤は『おんな』を発表して話題をあつめた。「既成の女性写真とは異質のものを確立した」との拍手をあびた。「作品だけ観ていると、外人の作品ではないかと思える」とも言われた。清潔感とモダニズムがあふれていたし、女性をとらえる感覚がクールであった。  この『おんな』(昭和四十六年写真集「おんな」刊行)はしかし、なかなかにむずかしい作品だとわたしは思った。作品の前で何度も首をひねった。  乱れ髪が蛇みたいにくねる幽霊のような女の顔がクローズアップされている。砂地に生き埋めにされて苦悶しているような女の生首がある。かと思うと、アイシャドウに彩られた女の眸だけが画面いっぱいにある。人形のように欠けている女の顔半分がある。というふうで、まともに写されている女人像は一枚もない。それも、一流女優の江波杏子をモデルにしておきながら、である。  女体をバラバラにしたり、鋭利な刃物で切りすてたような冷たさがあり、前出の東野芳明は「性についての幻想がここで、最初から抹殺されていることはたしかなのだ。そして残っているのは、多分に憂愁をたたえた〈私心理〉の綾《あや》を暗示する、中性的な表情の顔の世界」だと書いており、佐藤明自身は「自分の感覚を表現しているだけ」だと言う。 「ぼくは、この一連の作品には潜在的なサディズムを感ずるなあ。あなた自身はそうは思いませんか?」  わたしの質問に対して彼は、ちょっと迷惑げな苦笑をうかべ、 「わたしはそのサディズムが嫌いなんです。子どものころから潔癖性で、ヌードを積極的に撮ってみたい気持もないんです。装飾性を省略してゆきたいとは思うけど、裸にして材料にするつもりはありません。ヌードを撮っても、わたしの場合はどれも、部分的な作品になるでしょうね」  あくまで自分の感覚の表現だけをめざしている、とくりかえし強調する。彼はむしろ、たいへんにストイックな作家なのかも知れぬ。  その証拠に、こうも言う。 「わたしの作品は、わかる人だけにわかってもらえればいいんです。わからない奴は向うへ行ってしまえ、というような傲岸な気持からそう言うのではなく、作品がどのように解釈されてもかまわないと思っています」  だったら、わたしが潜在的なサディズムを感じとったとしても自由なわけだが、それでも納得できかねるわたしに、ある評論家が助言してくれた。 「女というものは見かけによらずドロドロしたものだ、怖いものだ、かわいい悪魔なんだ……そういうふうに何か理屈をつけてからでないと、既成の作家たちは撮れなかったんですよ。佐藤氏のように有名女優を幽霊みたいな女にしたり、眸だけを撮って抽象的な作品にするなんてことは、考えられなかったんだ。ところが佐藤氏は、それをやった。なぜそんなふうに抽象化してしまうんだ、と本人をいくら責めてみたって、そのときにひらめく感覚でカメラを向けているのだから、彼自身だって答えられない。そういうとらえどころのない点が、彼の独自の個性でもあるんです」  そう言われてすこしは判りかけてきたが、わたしの頭は古いからやっぱり二言目には、「なぜ?」の愚問を発してしまう。  ——それはともかく、わたしにはやはり『おんな』はたいそう難解な作品であった。 (五)  昭和三十八年夏、佐藤明は日本脱出を決意してニューヨークヘ渡った。  ニューヨークは世界のコマーシャルフォトのメッカである。佐藤はこれまでの、自分の感覚だけで撮る作品には飽きたりなくなっていたし、これまではアメリカを「ライフ」や「ヴォーグ」などで吸収してきたが、その本場をじかに肌でとらえたくなったのだ。そうすることでつぎの飛躍をめざしたかったし、国際的な写真家としての野心もあって、当分はアメリカに住みつく計画も立てていた。  この年はちょうど「ダラスの熱い日」——ケネディ大統領が暗殺されたときである。十一月二十二日のその凶報を、佐藤はニューヨークで知ったが、ところがそれから半年後に彼自身もまた、恐ろしい不幸に襲われる立場になってしまった。  ニューヨークでの仕事が順調にすすんでいた翌年五月のある晩、マンハッタンの夜景を撮影していた彼は、とつぜん後頭部をガーンと殴打され、血まみれになって昏倒した。救急車で病院にはこばれたが、五日間も昏睡状態がつづいた。脳外科手術が二度もおこなわれ、医師も危篤と診断した。  急報をうけた恭江夫人がニューヨークについたのは六日目だった。彼女のスーツケースには喪服が用意されていた。ところがその六日目、佐藤明は奇跡的に昏睡状態から醒めたのである。これには医師もびっくりした。  犯人が目撃者の証言で逮捕された。なんと四人の、十六歳の白人少年たちであった。物盗りではない。理由なき反抗の憂さばらしで、通りがかった佐藤明を「プエルトリコ人だと思い、やっつけてやれという気になって」野球用のバットで背後から襲撃したのである。  東京では「佐藤明は再起不能になった」との噂が流れたが、彼は必死に病床で生きようとしていた。恭江夫人もまた、献身的にはげましつづけた。その甲斐あって瀕死の重傷の彼は、ついに精神力で回復した。  だが憂鬱であった。たまらなく虚しかった。アメリカ文化を「師」として一流の写真家となり、その憧れのニューヨークヘやってきた自分であったが、それに対する報いがこれだったのだ。これが世界のリーダーづらしているアメリカの内実なのだ。病めるアメリカは怖い国だ。大統領さえ平気で暗殺するし、人種が違うというだけで撲殺される野蛮きわまる国なのだ。  父親も若き日にアメリカに学び、自分もまた「師」としてきたが、彼は徹底してアメリカ嫌いになった。これから写真家としてカムバックできるか、何を目標に生きてゆけばよいのか……そんなことを思い悩んで夜もおちおち眠れなくなり、ノイローゼ気味になってしまった。  十月。歩行可能になると妻と息子とともに地獄から逃げるようにしてヨーロッパへ旅立ち、そしてポルトガルの空港に降りたったとき、南欧の明るい太陽と素朴な風景をみてはじめて佐藤は笑みをうかべた。あの事件以来、彼は笑顔を忘れた人間になっていたのである。  人生観も一変していた。内向的で人間嫌いになり、自分を知ってくれている特定の相手でなければ会いたくなかった。人間が怖いし信じられず、眼はつねに美しいものだけを見ようとした。ポルトガルにはその美しいものがたくさんあった。体のペースを取りもどすためにもぼつぼつ動きだした。そして、パリに移り、世界的なファッション雑誌「エル」の依頼でファッション写真を撮った。その「佐藤美学」は興味あるものとして受け入れられた。  カネができるともうパリにもいたくなくなり、スウェーデンへ旅行した。そこでも仕事してカネができると、再び静養の旅へ出た。居心地がいい光だけをもとめていた。  昭和四十年二月に帰国。それ以来、たびたびヨーロッパと日本を往復、『白夜』『エーゲの風』『ミラノ』『地中海』などを写真雑誌に発表したり、個展にしたり、写真集にして刊行した。『白夜』は写真批評家協会作家賞を受賞した。  佐藤は「風景を撮るときも、女性にカメラを向ける場合と共通した感覚がある」というが、彼の風景写真には生来の清潔感と洗練された色彩感覚があって詩情がただよう。素直に被写体に対していて抽象化されていない。  とくに色彩感覚は大胆で、ファッション写真に通ずるインターナショナルなものがある。一部には「佐藤明の風景は、若いのに静かすぎる」との評もあるようだが、それは人間嫌いにならざるを得なかった彼としてはやむを得ないことだし、もし彼があの悲運の事故に遭遇していなかったら、もっと違ったかたちに飛躍していただろう——などとの仮説はたてるべきではない。  わたしには彼の『おんな』は難解な作品であるが、冒頭で述べたように「象徴的な戦後世代の写真家」であることは確かだ。  彼と同じスタートラインに立って出発し、同じようにアメリカナイズされた作品を創ってきた写真家はたくさんいる。ファッション写真で競い合った仲間も無数にいた。が、今日なお新しい感覚で活躍している佐藤明は、それだけすぐれた感覚を身につけている「象徴的な戦後世代の写真家」なのである。  現在では、写真家もタレントなみになってきたと言われる。「その人気は三年が限度」だという声さえある。どのテレビのチャンネルをひねっても登場していた流行歌手が、ある日突然という感じでブラウン管から消えてしまう。俗にいう「オチ目になった」ことであり、人気ある写真家もそんなふうに短い年月のあいだに凋落してしまう、というのである。つまり、  売れっ子作家はつぎつぎと生まれ、そしてたちまち消えてゆくというわけだ。  佐藤明はそんな時代がやってきたとしても、さらにすぐれた作品を創りだしてゆくだろう。彼の作品のなかにある色彩、視覚、音楽、詩情、モダニティ性が魅力となって。(昭和五十一年四月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十一年スリランカ、スウェーデン、デンマーク取材旅行。五十二年写真展「北欧紀行」、写真集「北欧散歩」。五十七年北欧、グリーンランード取材旅行、写真展「氷河の夏」。 [#改ページ] 細江英公《ほそええいこう》 「小説家的な写真家」 (一)  ご当人は童顔が残っているお顔に苦笑をうかべながら、「薔薇刑の細江英公氏です」とか「こちらは三島由紀夫を撮ったあの細江英公さん」というふうに紹介されるのをひどく嫌うけれども、『薔薇刑』(集英社刊)は日本の写真家が撮りえなかった妖の世界、細江氏自身も二度と創れない題材——いわば唯一無二の作品であるので、わたしにもやはり「薔薇刑の細江英公」に一度会ってみたい気持がつねに先に立っていた。  忘れもしない昭和四十五年十一月二十五日の秋晴れの白昼、わたしは都心にむかうタクシーに乗っていた。車が混んでいてのろのろ運転だった。運転席のカーラジオが「作家の三島由紀夫氏が市ケ谷の自衛隊に乱入しました」とのニュースを流した。それだけではまだ事情が呑みこめなかったが、二十分ぐらいするとこんどは「作家の三島由紀夫氏を中心とする楯の会の数人が、市ケ谷の自衛隊に乱入、総監室のバルコニーから自衛隊員に、クーデターの蹶起《けっき》をよびかけてのち割腹自殺をとげた模様です」になった。  唖然となりながらもわたしは、 〈あんな才能のある芸術家が、何でそんな場所で自殺しなければならぬのか〉  惜しむというよりは、ずいぶん贅沢なことをした人であるかのごとく羨やむ気持のほうがつよかった。太宰治や田中英光の深刻な自殺とは違うからである。  三島由紀夫が主宰していた楯の会のことも、ボディビルや剣道をやったりして話題になる彼の、スター意識のつよい坊っちゃん的ポーズみたいなものだと見ていたので、憂国の思想に血なまぐさく殉じるような人には思えなかった。  このニュースを聴いた一瞬、わたしは細江英公氏の豪華な『薔薇刑』を思いうかべた。三島由紀夫という作家の本質はむしろ、この『薔薇刑』のほうにあると思いこんでいたのでなおさら、切腹という異常な行動さえも、憂国の思想にこたえたものだとは信じられなかったのである。  その日の夕方、朝日新聞の号外を手にしたときわたしは、ぎょっとなった。手がふるえた。第一面にデカデカと乱入現場の総監室の写真が掲載され、その片隅の床の上に白鉢巻をしめたままの生首が二つ、壷のごとく並べておいてあった。  再び、わたしは『薔薇刑』を思いだした。  それとそっくりの首が、ルネッサンス絵画を背景として作品化されていたからだが、 〈いまにして思えば『薔薇刑』は、三島由紀夫の未来を予知して創られたのでは〉  と背すじが寒くなるような奇妙な興奮をおぼえたものである。 (二)  だから今回、細江英公氏にはじめて会える機会ができたとき、三島由紀夫が死んではや七年になるけれども、わたしはやはり「薔薇刑の細江英公」を意識しないわけにはゆかなかったのだ。  彼のスタジオは地下鉄四ツ谷三丁目からすぐの雑居ビルの中にあった。作品から推してわたしは、痩せっぽちで神経質で、見るからに芸術家タイプの気むずかしい人だろうと想像していた。ところが、まったく違うのである。丸顔の童顔で、小肥りで、来客に対してよく気を使う人で、きちんとした背広を着ていた。会話のあいだにはときおり、発音の正しい英語がまじり、おしゃれな海外特派員、テレビうつりのいいどこかのニュースキャスターといった感じをうけた。礼儀正しい人でもあった。眼鏡のなかの眼玉が大きかった。  わたしはまず『薔薇刑』のことを話題にした。  この七年間、どうしても解けない謎があった。 『薔薇刑』はすべて才人三島の発想、構成、演出によって創られたのではないか、という疑問があったし、タクシーのなかであの事件を知ったときわたしが〈三島は本質とは異なる死に方をした〉と感じたそれを、証明したい気持が沈澱していたからである。  意外に細江氏は、こともなげに答えた。 「いや、三島さんの演出みたいに見えるでしょうけど、一切それはありません。もし、それがあれば、ぼくの作品ではないということになるし、あれはあくまでぼくの主観的ドキュメントです」 「序文にも三島自身が、たいへんな名文で書いていますね。そういう意味のことを」  と、わたしは食いさがった。  その「細江英公序説」には—— 「或る日のこと細江英公氏がやってきて、私の肉体をふしぎな世界へ拉《らっ》し去った。それまでにも私はカメラの作りだす魔術的な作品を見たことはあったが、細江氏の作品は魔術というよりも、機械による呪術の性質を帯びており(中略)私が連れて行かれたのは、ふしぎな一個の都市であった。どこの国の地図にもなく、おそろしく静かで、白昼の広場で死とエロスがほしいままに戯れているような都市——われわれは、その都市に、一九六一年の秋から一九六二年の夏まで滞在した。これは細江氏の、カメラによるその紀行である」  というふうに書かれているがわたしには、三島由紀夫一流の修辞としか思えないのだ。それでわたしは食いさがるわけだが、細江氏はやはり自分の作品であると言う。 「三島さんはぼくの作品の『おとこと女』を知っていましてね。あんなふうに撮ってほしい、自分は被写体だから好きなようにしていい、何でも命令どおりにやるよ、と言うものだから、よし、この高名な小説家を料理してみよう、という意欲がムラムラとおこってきたんです。三島邸の庭で裸体にして、ちょうどそこにあった水まき用のゴムホースで縛ったり、黒いフンドシひとつにしたり、薔薇のネクタイをつけさせたりして、ぼくは偶像を破壊したかったんですよ。ぼくはサディストではないけど、そういうこともやってみたんです。一年半ほど三島邸にかよって、五百枚ばかり撮りました。撮影にかかる前に三島さんが、イタリアのルネッサンスの画集を見せてくれたり、三島邸がロココ風の設計になっていたり、スペインの古い家具があったり、アポロンの立像があったりするでしょう。ぼくは、そういうものからイメージを創りあげていったんです。  聖なるものを潰す……それが三島さんの世界であるかのごとく見られていますが、一年半かよってみたけど、まったくそうではなく、ノーマルで家庭的な人でした。あれはぼくが創造した三島由紀夫です。だから、三島さんの奥さんはいまでも、この『薔薇刑』を見てもちっとも悲しくない、と言っています。ぼくが勝手に創造したもう一人の三島由紀夫だからです。いわば架空の人物なのです」 「完成したとき三島自身は、どういう感想を洩らしていましたか?」 「変なのを撮ったなあ、と照れたり、おもしろいなあ、とびっくりして笑ってましたね。自分でも気がつかなかったイメージをひき出してもらった、と思ったんじゃないですか」 「となるとやっぱり、三島の演出じゃなかったわけだ。あなたの作品だ」 「そのとおりです。納得できましたか」  つまり、三島の序文にあるとおり、わたしもこの七年間、細江氏の「機械による呪術」に完全にだまされていたことになるし、そうとタネ明かしされてはただ「うーん」と唸るしかなかった。  細江英公もまた大した奇才である。 (三)  細江英公は昭和八年三月、山形県米沢市で生まれた。母親のみつが米沢の実家にもどって分娩した次男坊である。父親の米次郎は、東京の葛飾区四ツ木にある四ツ木白鬚神社の神官をつとめていた。荒川放水路の近くだ。  東京空襲がはげしくなってきた太平洋戦争中の昭和十九年、四ツ木小学校にかよっていた英公は米沢の母の実家に疎開し、南部小学校に転校した。みつの実家は染色工場を経営していた。終戦の年の昭和二十年春、山形県立米沢第二工業高校土木科に進学した。  終戦の日の八月十五日を迎えると、それから数日して東京へもどりその翌年(昭和二十一年)四月、都立第七中学校(現在の墨田川高校)に再入学した。  父の米次郎は、たいそう風変わりな愛すべき人であった。東京にあるといっても、四ツ木白鬚神社は、小高い丘のこんもりした林の中の田舎のお宮みたいで、境内で子どもたちが遊んでいると、米次郎は神主の白い装束で樹かげからふわーっと現われ、おもしろ半分に、 「わーッ……!」  と幽霊みたいにおどかしたりした。  神官のくせに怪しげな密教に凝ったり、敗戦後は国民の神仏への信仰心がなくなってお賽銭があがらなくなると、カメラをいじりはじめた。正月の初詣や七五三のお祝いの記念写真、赤ちゃんのお宮詣りがあるとおはらいをしてやってのち、母子のその写真も撮ってやった。むろん代金はちょうだいするわけで町の写真屋と変わりなかった。  警察署の鑑識写真もひきうけるようになった。火事や交通事故、殺人事件がおこると警官といっしょにカメラ片手に現場へすっ飛んでゆき、パチパチ証拠写真を撮るのである。凶悪犯の手配写真の焼増しの註文もある。  英公は、そういう写真の現像や焼付を手伝うようになった。社務所の一室が暗室に変わってしまった。 「わしのあとをついで神主になってもつまらん。好きな道にすすめ」  つねづね米次郎は息子にそう言っていた。  英公は、東京外語大にすすみたくて英語を人一倍に勉強するため、練馬のグランドハイツ——進駐軍の家族村にかよった。東京軍事裁判で活躍していたキング判事の夫人が家庭教師になってくれるからで、そのお礼に近所のアメリカ人の少年少女も撮ってやってよろこばれた。  そのうちの一枚が傑作だったので英公は、富士フォトコンテストに応募した。昭和二十六年高校三年生のときで、そのときの感激をいまなお忘れてはおらず、彼はこんなふうに言う。 「ポーディちゃんという幼児でしたが、両肘ついて横を見ているその顔にカメラをむけ、シャッターをおした一瞬、何かわからないけど、撮れた! という手ごたえがあったんです」  事実、それは高度な技術があって撮影したわけではないが、偶然の傑作になっていた。高校生でありながら全国一等賞に選ばれ、五万五千円の賞金をもらったばかりでなく、全国のカメラ店のショーウインドーにその『ポーディちゃん』が飾られることになった。三島が三島由紀夫のペンネームをもちいて処女作『花ざかりの森』を発表したのが十六歳(昭和十六年)のときだが、奇しくも細江英公も十代ではやくも傑作を創り、この一枚が彼の人生を変えていったのであった。  東京外語大への進学をすてて彼は、中野区にある東京写真短期大学に翌二十七年春に入学した。この大学卒の先輩には渡辺義雄、三堀家義、田沼武能、石井彰の諸氏がいる。  英公はしかし、写真界の主流をゆく既成作家たちの作品を、それほどには意識しなかった。当時は朝鮮戦争たけなわで、日本経済はぐんぐん復興しつつあった。木村伊兵衛と土門拳氏が提唱する「写真のリアリズムとは何か」が注目されていて、社会派的報道写真の全盛時代であった。海外の著名な写真家たちの作品もどしどし紹介されるようになっていた。むろん、ヌード作品も量産されていた。  細江氏は、まだ二十歳でしかなかった当時の自分の、それらの作品にいだいていた感想をこんなふうに語る。 「土門拳さんのリアリズム運動には大いに関心はありましたよ。すくなからず影響をうけたけど、しかし疑問もありました。たとえば社会派の作家が浅草や上野の浮浪者の群れを撮っても、哀れな街娼たちを写しても、それもひとつのファッションじゃないかと思えたんですね。それに、ぼくにはヌード作品は異なった世界の存在のように感じてましたね。自分の写真とはつながらないし、ヌードには興味があっても、表現の古めかしさしか感じられなかったんです。  あれは昭和二十八年でした。アメリカの作家エドワード・ウェストンの『ポイント・ロボス』という個展を観たんですが、ロボス岬の繊細で正確な描写力の風景に感動しましたね。ヌード作品もありましたが、簡潔直裁のなかにみなぎる人間の生命感、といったようなものがあって、こういうものなら自分も撮りたいと思いましたよ」  エドワード・ウェストンの『ポイント・ロボス』はライフワークといわれるもので、彼もまた若冠十八歳ですでに傑出した作品を創っており、そういう天才的な感覚に共鳴し合える才能が細江氏自身にもあったのだろう。  そんなわけで英公は既成作家たちに追随せず、若い芸術家の集団である「デモクラート」に学生でありながら加わっていた。洋画家の瑛九、|※[#「雲+愛」、unicode9749]嘔《あいおう》、河原温、版画家の池田満寿夫、写真家の岩宮武二、バレリーナの松尾明美らで、それぞれに気負っていてアカデミックなものを破壊するための芸術論を戦わせていた。松尾明美嬢がバレーの発表会をひらけば、その楽屋が即座に熱っぽい議論の場になるというふうだし、三カ月に一度はそれぞれの作品をもちよって展覧会をやっていた。  英公はまたモダンダンスのグループとも交遊した。この現代舞踊を写真にしてもみた。しかし被写体としての踊りのおもしろさより、そういう男女との交遊そのもののほうが勉強になり、自分自身の写真の方向がおぼろげながらつかめるようになった。写真家に限らず小説家が小説家以外の人種とつき合うこと、画家が画家たち以外の世界を見ること、これはたいへん重要なのである。編集者にしても医者にしても、その他の職業でも同じことが言えると思う。 (四)  細江英公は東京写真短期大学を卒業して二年後の昭和三十一年五月、はじめての個展『東京のアメリカ娘』を銀座の小西六ギャラリーで開催した。  これが新鮮であったのは、フォトストーリー形式の日本人青年とアメリカ少女の淡い恋物語になっている点であった。しかも一人称の手法で、その青年の眼が英公自身のレンズになっていた。つまり、カメラは客観視していないのである。  たちまち、この作品の買手がついた。といっても買ったのは名古屋の中部日本放送、写真そのものは必要なく、ストーリーをラジオドラマ化して放送したいというのだ。原作料として二千円が送られてきた。 「写真そのものが売れず、ストーリーだけが買われるのは写真家としてどうなのか」  彼は苦笑するばかりだったが、二十三歳にして華やかなデビューであり、学生作家の石原慎太郎が『太陽の季節』で文壇に踊り出たのもこの年であった。  若い世代の抬頭期に細江英公もクツワを並べたのだ。彼は東松照明、中村正也、川田喜久治、佐藤明、常盤とよ子らの「十人の眼」に参加した。つづいて東松照明、佐藤明、奈良原一高、川田喜久治、丹野章ら五人と「VIVO」を結成した。「十人の眼」や「VIVO」については佐藤明物語のなかで触れておいたので割愛するが——ともかくそれぞれに個性のある若き旗手、とくに細江英公は昭和三十五年四月の個展『おとこと女』で一馬身ほどリードした観さえあった。  第四回写真批評家協会新人賞にかがやいたこの『おとこと女』によって、彼の地位は不動のものになった。当時は六〇年安保の騒然とした時代であり、彼は言う。 「今世紀は政治と性の時代ですが、ぼくは写真でもって発言するしかない。しかしニュースを追っかけたり、報道的な作品であばいてゆく体質ではないので、性を撮ろう、これで自己を表現しよう、と思ったんです。主題はあくまでセックスです。それを例のモダンダンスの連中でもって表現したかったし、これまでのヌード作品には作家自身のセックスを表現しているものがない、という不満もあったんですね」  つまり彼は、既成作家のヌード作品をことごとく否定してみせる、あるいは破壊してみせるヌード作品をかかげたわけだが、写真評論家の福島辰夫氏がこの作品集(カメラアート社刊)に寄せている「不幸の実像」によれば、モデルの顔に原色のドーランをぬりたくらせて撮影していた細江英公の姿は「異様な、いや異常な、といった方がいいような、ふしぎな情熱と力と、怒りと沈静の光景」であったそうだ。  それにしても『おとこと女』は暗い。暗黒のなかに女体の白さだけが浮かびあがっている。 「筋肉とか肉体にすごく興味がありましてね。肉体のなかに精神をみる……そういう考え方が好きだったんだなということが、撮っているうちにわかってきたんです。少年時代からもってた潜在的なイメージが、撮ることによってかたちになってきたみたいなんです。ぼくの作品は明るくないけど、家庭的に暗く育ったわけではありません。しかし、神社だったから普通の家庭とはおのずから違うわけです。幼年期から広い社務所に一人寝かされたし、夜中に五寸釘をもった女が境内にやってきて、ワラ人形を木にコーン、コーン、コーンと打ちつけている音がする。そういうのが耳底にいまだに残っているし、怨念みたいなものに惹かれるんですね。ぼくのなかには二つのものがある。これも撮っているうちにわかってきたことですが、ひとつは悪魔的な黒い部分、もうひとつは聖なる白いものです」  細江作品は感覚的というよりも触覚的であり、文学の世界でいえば触覚的私小説の部類にはいる。彼は、おのればかりを撮っている私小説作家的な写真家なのである。 「わたしの写真といえば、一般の人には自分の顔や姿が写っている写真のことをいうでしょう。ところがプロの写真家の場合、わたしの写真といえば、自分が撮影した作品ということになるわけです」  と言うところからしても彼はつねに、おのれの作品のなかの自分を意識しているのだ。  彼自身はしかし、自分の作品が小説的であると言われるのを好まない。前出の福島辰夫氏も『おとこと女』を「小説家が小説で表現するような問題を、写真で表現する、そのことが可能だった」と見ているし、スイスの写真雑誌「カメラ」にも作品が紹介されたさいに「細江作品は小説である」というふうに評されているけれども、 「一九五九年にオランダの写真家エド・ヴァン・デル・エルスケンが日本にきたとき、ぼくの作品をじーっと見つめて『細江さん、あなたのはじつに日本的ですねえ』と言ってくれましたが、うれしかったですね。ぼくは浮世絵とか版画が好きなんです。とくに日本的なあの遠近法がね。エドはぼくの作品にそういう日本的なものがあると判断したわけで、それで自信をもちましたよ。おれの肉体にも二千年来の日本人の血が流れているんだと」  むしろ、そのほうを誇りとしている。 (五)  昭和三十七年、細江氏は女流写真家今井寿恵さんの妹のミサ子さんと結婚した。彼が二十九歳、ミサ子さん二十五歳であった。  やがて彼は一男二女の父親になるが、家庭生活は「何の変哲もなく、近所の人たちはぼくが写真家であることも知らない」いわゆる平凡そのもの。しかし結婚したこの年、彼は運命の男と出会った。  それが三島由紀夫であり、唯一無二の作品『薔薇刑』の誕生であった。そして、細江英公は写真界の異彩の星となった。  さきに述べたように『薔薇刑』の三島はあくまでも「細江英公の三島由紀夫」であり、細江は生と死の匂いがぷんぷんする輪廻《りんね》をテーマにしていて、自分自身のまがまがしくおどろおどろした幼年期の体験に死者の未来への幻想をないまぜた、一種の宗教的な作品にしたのだ。  自然主義的な作風の写真家たちでさえ、 「そこまで徹底してフィクショナルに創ってゆけば、かえってリアリティがある。みごとに突き抜けている何かがある」  というふうに、きらめく才気を絶讃したものだ。  再度の日本写真批評家協会賞をも獲得した。  にもかかわらず、一般の評価はそうではなかった。ふだんでさえ奇異の小説家と思われていた三島由紀夫が「はずかしげもなく自分の異常の性をさらけだした」という興味本位のものに見られてしまった、そういうものを撮った細江自身も、変態性欲者であるかのように好奇の眼で見られた。  だから「薔薇刑の細江英公氏です」とか「三島由紀夫を撮ったあの細江英公さん」というぐあいに紹介されるし、彼自身はそう言われたり見られたりするのを嫌ったわけだが、 「三島さんを作品化したことは、ぼくの作家的な転機にはならなかったが、社会的な面での大きな転換になったことは事実です」  と認めざるを得なかった。  この『薔薇刑』の展覧会をアメリカで開催することになった。現地での作品に対する評判はきわめて良かった。憂鬱だった細江英公にとっては、それだけが唯一の救いになった。なぜならば—— 「日本人の場合だと三島由紀夫に対する興味しかないけれど、アメリカ人たちにはモデルが三島さんでも、どういう人物なのかさっぱりわからない。だから、たんなる被写体であって、作品そのものを評価してくれたということになるわけです」  つまり、外国人たちは「細江作品のなかの三島由紀夫」でなく「細江作品のなかの細江英公」を認めてくれた——それに対する満足感があったのだ。  細江氏は「VIVO」の仲間らより一馬身どころか、群を抜く存在になった。社会的な名声度も、かれらよりもはるかに高くなっていった。そのため昭和三十九年の東京オリンピックでは、その記録映画を市川崑氏を総監督として製作されることになったが、細江英公はそのうちの柔道と近代五種競技の撮影監督を一任された。  昭和四十三年には『とてつもなく悲劇的な喜劇』の個展をひらいて、これまた才気をいかんなく発揮した。それを発展させた『鎌鼬《かまいたち》』を上梓し、芸術選奨文部大臣賞を受賞する栄誉も得た。  この『鎌鼬』のモデルになったのは特異な舞踊家の土方巽氏であり、細江は彼に女の長襦袢をだらしなく着せ、土着的風土を背景にして撮りまくっている。細江自身はこの作品を「記憶との契り」と称しており、美術評論家瀧口修造氏の「真空の巣へ」と題する序文に—— 「今日、鎌鼬はすでに伝説と迷信の世界に身を隠してしまったかのように見える。鎌鼬とは何か。——ここで私の幼時の記憶がよみがえる。鎌鼬に噛まれたという農夫が幾度か、田舎の医師であった私の父の家の玄関にかつぎ込まれるのを私は見た。それは暗い空に走った最初の稲妻のように、生臭く、怖いものであった。(中略)鎌鼬は土の精であり、百姓にだけ現われたファントムであったのか。しかし、この見えない飛ぶ刃はなんと鋭く、空を切り、肉を切ったことだろう」  とあるとおり、それは古い時代の人間の恐怖感が生みだした神がかりの動物であった。  少年のころの細江英公は、四つ木白鬚神社の境内の片隅にある古いホコラに、陰気な乞食が棲みついているのが怖かった。父の米次郎が食べものをくれてやっていて、恐ろしいけれどもついて見にいったこともあった。  米次郎が密教に凝り、もののけに憑《つ》かれたみたいになって祈祷するときの顔に、小便を洩らしたいような恐怖をおぼえた。また、米沢に疎開したときに田舎の悪童らにいじめられた、暗い土蔵のなかが怖かった。村道を歩いてくる長襦袢姿の狂女に、学校帰りに出会ってふるえあがった。その狂女は股間をまくってみせてゲラゲラ笑った。  日本人のだれもが幼いころに経験しているそんな恐怖や、生きていることのふしぎさの記憶の原型を、土方巽を狂人の姿にしてよみがえらせ、視覚化してフィルムに定着させたのがこの『鎌鼬』である。わたしは、この作品においても細江氏が「私小説を写した」と見る。  彼はますます多彩になっていった。  そんなふうに『薔薇刑』で死者の未来を創ったり『鎌鼬』で恐怖の原型をとらえてみせたりする一方、ニューヨークにおいて児童向けのたのしい写真集『タカちゃんと私』『犬の東京案内』『ヒロシマに帰れ』『おかあさんのばか』を出版した。  そして昭和四十五年の秋晴れの白昼、突如として冒頭に書いた大事件がおこった。わたしはタクシーに乗っていてカーラジオでそのニュースを知ったが、細江英公は旅さきの香港にいた。三島由紀夫の自決について彼は「新潮」の臨時増刊号に、  事件直後の新聞・週刊誌等には多くの人が氏の死についていろいろと書いたりしゃべったりしているが、今のぼくの心境は、この事を客観的に考える余裕はない。ぼくはただただ悲しいのである。運命がもたらす人の死を悲しむ自然な悲しみではない。肉親の死を悲しむ悲しみでもない。なにかもっと大きな悲しみである。ぼくの全身からすべての力が抜きとられて、とほうもない虚脱感と、勝手に去って行ってしまったことへの悲しい憤りとが一緒になって無性にいらだたしい(後略)  と書いているが、まるで書くこと自体がたまらない悲痛になっている。  しかし彼は、その衝撃から立ち直った。翌四十六年には『抱擁』を完成させた。  これは『おとこと女』を発表した直後から撮りはじめたものだが、中断せざるを得なくなっていた。ビル・ブラントの傑作『パースペクティヴ・オブ・ヌード』という写真集のなかにある、海岸で撮影した裸婦の耳や足や手などをクローズアップした作品に似ているからであった。  偶然のことながら細江英公の写真家としてのプライドが許さなかったし、亜流だの盗作だのとカンぐられるのが厭だった。それから十年の歳月が経過した。彼はあらたな『抱擁』を撮りはじめた。これを出版するときの序文はすでに三島由紀夫に書いてもらっていた。そのことが三島の死後に完成させるエネルギーになったのだろう。  細江は「十年を一瞬に集中してしまった。真夜中のスタジオで実際の撮影は三回限りであった」と言う。たしかに凝縮された緊張感がみなぎり、いろいろと異論はあるだろうけど、わたしはこの『抱擁』を細江作品のなかの最高峰だと思う。『おとこと女』や『薔薇刑』さらには『鎌鼬』よりもはるかにすばらしい。男と女の肉体の線は、デッサンにデッサンをかさねた画家がつきつめて生みだした、簡潔でしかもゆるぎのない、まったくの無駄のない線のように美しいからである。この線の美しさに細江氏の、人間的深みをも見ることができるような気がする。 (六)  それからの細江英公はしかし不可解なことに作品活動をやらなくなった。写真界の異彩の星であった彼はどこへ行ってしまったのだろう。『抱擁』を創るにあたって、「十年を一瞬に集中してしまった」ために、彼は燃え尽きてしまったのだろうか。有態《ありてい》にいわせてもらえば、群を抜いていたはずの彼は「VIVO」の仲間たちに追いつかれ、追い越されそうになり、さらに後輩たちが背後に迫ってきているような観さえある。  細江氏はアメリカやヨーロッパを何度もまわってきている。そのつど撮影しているそうだが、それらが発表されたためしかない。  人形作家の四谷シモン氏をモデルに、細江が育った東京の下町を舞台に「思春期の記憶の記録」を撮りはじめたが、いつしかそれも中断してしまった。彼自身は「四谷シモンが忙しくなりすぎたため、モデルになってくれる時間がない」と言うけれども、 「三島由紀夫、土方巽といったエキセントリックなモデルはそうザラにいるものではないし、四谷シモンではキャラクターが弱いんじゃないのかな。細江英公とすれば手ごたえが感じられないし、『薔薇刑』や『鎌鼬』以上の作品を見たがる写真界の、その期待にこたえられない、そのモチーフがつかめないんじゃないのかなあ」  と首をかしげる写真評論家もおり、そうなればいま細江英公には危機感があるわけだ。しかし、わたしには「モチーフがつかめない」のではなく、やはり三島由紀夫の死が「ぼくの全身からすべての力を抜きとられてしまった、とほうもない虚脱感」におとし入れているように思えてならない。  四十五歳の三島由紀夫は絶筆となった大作『豊饒の海』の完結が間近くなったとき「これを書きあげてしまったら、自分が空っぽになってしまうような気がする」という意味のことを語っていたそうだが、もしかすると細江英公も同じような状態になっているのかもしれない。『抱擁』の「あとがき」に彼自身が「私は今、永い間の鬱積がいっぺんに吹きとんだ気持である。バラ色とまではいかないけれど、約束を果し終えた後の喜びでいっぱいである。しかしその喜びも、すぐにやってくる虚ろな真空状態を迎える、ほんのわずかな時間であることを私は知っている」と書いており、妙に三島由紀夫のそれに符合するような気がする。  彼は東松照明、深瀬昌久、荒木経惟、森山大道、横須賀功光の諸氏と三年間、ワークショップ写真学校をオープンして後進の指導にあたってきた。現在、東京写真大学の教授になっており、大学内にギャラリーをこしらえて海外の有名写真家の作品展を開催したりしている。アメリカへいって大学で講義もしている。しかし彼自身は、商業雑誌のグラビヤをひきうけるとか、個展をやるというようなことは一切ない。啼かず飛ばずである。  それでも細江英公氏は、童顔が残る丸顔に笑みをうかべる。 「そりゃあね、いろいろと悩みましたよ。岩宮武二さんが『自分は五十ミリのレンズしか使いたくなくなった』と言ってたけど、その心境もわからんではない。つまり五十ミリは普通のレンズですよね。それしか使いたくないというのは、ごく自然な作品にしたいということです。わかるけど、ぼくはまだそこまで枯れてしまう必要はないでしょう。  写真を撮らなくなったら写真家ではない。日本ではそう言われがちだけど、写真を撮るだけが写真家の仕事ではありません。写真人としてやる仕事があると思うんです。ワークショップもそのひとつですよ。レンズを通さない写真、というようなものも考えています。  アメリカのロバート・ハイネッケンやキース・スミスなんか版画とも絵画とも写真ともつかないものを創っていますよ。印画紙の上に何かを描きだす……そういうのはカメラを通さない写真と言えるんじゃないですか。そんなのは写真じゃない、と決めつけるのは狭すぎます。既成の写真じゃないからと言って、これまでの写真の方法論からはずれているからと言って、写真でないと断定するのはおかしい。要は、人間の創造力の表現であればいいんですから。  この前、アメリカの大学へ講義にゆき、学生たちを自然公園につれていって『ヌードと自然』を撮らせたんです。モデル嬢のなかにヨガができるのがいましてね、裸の彼女を岩の上にヨガの行者みたいにすえて、ぼくもそれにカメラを向けたら、いままで見えなかったものが急に見えだしたんです。とらえどころがなかった世界がすべて、レンズにはいってくるような気がしたんですよ。ぼくはヨガを撮ろうと思いました。それから祈りの世界とか宗教的な人物にもカメラを向けよう、そう自分に言いました」  そうと聴けば、わたしもほっとする。  細江英公はよみがえりつつあるのだ。暗中模索をつづけてきた彼の内部ではいま、つぎの作品となる溶岩がどろどろに煮えたぎっているのだろう。それが近い将来、新しい活火山となって一気に噴出してくるような気がしてならない。奇才であるだけに彼は、七転八倒の苦しみをくりかえすのである。  彼の作品は海外では、一枚二百ドルで売れている。これからの新しい作品は、もっと値のあるものになるだろうと信じている。(昭和五十二年一月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十二年五月〜七月写真展「ガウディ」銀座、新宿、大阪で開催。撮影は五十五年まで続行。二月バルセロナで開催の第二回国際写真会議に出席、講演とスライドを発表。五十三年ボローニア近代美術館を皮切りにヨーロッパ各都市巡回の「日本の写真の起源と今日」展に「鎌鼬」全作品を出品。五十四年七月アルル国際写真フェスティバルで「野外のヌード」ワークショップを教える。五十七年二月ロチェスターのジョージ・イーストマン・ハウス、ロチェスター工科大学で「細江英公展」開催。十月パリ近代美術館で「細江英公展一九六〇〜一九八○」開催。「パリ市金賞」を受賞。五十八年七月アルル国際写真フェスティバルで「ガウディ」三百点を大型スクリーンスライドショーで発表。アルル市名誉賞受賞。来る五十九年九月ミラノ現代美術館で「ガウディ展」を予定している。 [#改ページ] 佐々木崑《ささきこん》 「生命の誕生を追う」 (一)  ——じつは、この『写真家物語』を連載しはじめた当初、巨匠といわれていた木村伊兵衛さんにご登場いただくつもりであった。木村さんも心よく承諾してくださり、取材するためぼくはよろこび勇んで出かけていった。会う場所は浜松町の世界貿易センタービル。  ところが木村さんと会えたけれども、風邪をこじらせているため、今日は質問に応じられそうにない、誠に相済まないが他日にしていただけないだろうか、と白髪の頭をかかえておられた。ぼくとしても元気なときに、機関銃を射つがごとくバリバリあびせる質問に、バリバリ応えてほしかったのであっさりメモ帳をおさめ、その日は雑談ですませることにした。  木村さんは初対面のぼくに、いきなりワイ談をはじめた。芸者とコタツにはいって足と足とで戯れる話であった。淡々と語るのだがおかしみがある。ワイ談の大家でもあることは聞き知っていたが、それにしても初対面のぼくに聴かせるのだからあきれざるを得ない。しかも、微熱があって気分がすぐれないはずなのに、エロばなしをしていると元気も出てくるらしい。  ぼくは笑わせられどおしでその日は別れたけれども、この巨匠に接することができたのはそれが最初であり最期であった。それから一週間とたたぬうちに昇天してしまったのである。昭和四十九年五月三十一日、享年七十二歳。心筋梗塞症であり、とうとう『写真家物語』に登場させることができなかった残念さもさることながら、もっともっと風格あるワイ談を拝聴しておきたかったと惜しまれてならない。  で、今回は木村さんの直弟子の佐々木崑氏に登場してもらうことになったので、ぼくが開口一番、「木村さんって、どうしてあんなにワイ談がお好きだったんですか?」  と問うのに対して崑氏は、 「あの方には相手しだいで区切りがあるんですね。一は好きな人や気の合う人。二は嫌いな人。三は身内、と三つに分けていて、一の場合にエロばなしが出る。二の人にはすごく鄭重で、たとえ酒席でもかたい話ばかりしてました。三の身内に対しては、どこで何をし、何を考えているのかも判らないようにしてましたよ。奥さんでさえ、あんなに酒を飲むとは知らなかったと言ってましたからね。お遊びのほうもどこでどうしているのか、収入がどれくらいあるのかも、はっきりさせませんでしたね」  となると、ぼくは一の部類に加えてもらったわけで光栄の至りだが、 「では、直弟子の場合はどうなんですか? 聴きあきるほどエロばなしをしてもらったでしょう。二、三教えてくださいよ」  重ねて問えば崑氏、いささかきびしい表情に改まった。写真家らしくない貌《かお》である。 「木村先生は若いころ、花柳界の箱屋になりたいとか、歌舞伎の女形になりたいとか、落語家になりたいとかの夢があって、少年の頃、上野の末広亭にも出演した経験があるそうです。写真家になろうと志す以前は、芸事と庶民の哀歓が好きだったんですね。ワイ談をしたくなるのも、庶民が好きだからではないんですか。しかし、わたしと二人だけのときはそんな話は一度もしてくれませんでした。話すことといえば政治、社会のこと、写真のことに決ってました」  そういえば、崑氏のなかにも木村さん的人間が住んでいるようである。崑氏もワイ談が好きだというのではない。木村伊兵衛の写真家としての生き方を一生けんめい「写真家の生き方にはこれ以外にない」と信じこんで学んできた——それが彼の態度や作品からうかがえる。逆な表現をすれば、これほど師を尊敬してくれる弟子がいたということは、木村伊兵衛は幸せな人だったと言えるのである。  崑氏は生物写真家である。ここ十数年、昆虫や小さな動物の生命の誕生しか撮っていない。生命の神秘の追求、これ一本ヤリでほかのものにはレンズをむけない。それも、たとえばアフリカの奥地へいって世界に一匹しかいない珍しい昆虫を写してくる、というような奇をてらう人ではない。  木村伊兵衛は写真家になる志より、芸事と庶民の哀歓が好きで下町に生きる人びとや風俗にカメラをむけ、コツコツと人生の「片隅」を撮りつづけた。こけおどしの作品、屁理屈をこねて新しがってみせる作品、そんなものは見むきもしなかった。彼にとっては、写真を芸術と考えるよりも、ほほえましい庶民の生活や姿を活写するほうが大事だった。それ一本ヤリであった。  それと同じことが佐々木崑氏の場合にも言えるのである。彼もまた奇をてらう作品や新しがってみせる作品を自慢するのではなく、日常生活のなかにいる四季の昆虫や、台所の片隅にいる虫けらなどの生命の神秘を、コツコツとそれ一本ヤリで撮りつづけている。木村さんがもっていた庶民の眼——まなざしのナイーヴさを、崑氏がしかと受けついでいるのである。 (二)  佐々木崑は自分自身で「わたしの半生はじつに暗かった。暗いなかを手さぐりで歩いてきたような気がする」という。暗い時代ではあったが、血統みたいなものもあったのかも知れない。失礼をかえりみずに言わせてもらえば。  大正七年十一月二日、彼は中国の青島《チンタオ》で生まれている。父の佐々木政治は軍政省の役人で、妻そよをつれて、第一次世界大戦で日本軍が攻略したドイツの租借地青島へむかった。ドイツが降伏したあとの終戦処理を軍政省から命じられたのだ。  佐々木政治は、姫路市の出身で大阪の陸軍幼年学校を卒業の日退学を命ぜられ、ドイツ語の天才とほめそやされながら、上京して神田のドイツ神学校に学ぶ。ドイツ語、ヘブライ語、ラテン語をマスターしたまではよかったが、幸徳秋水の「平民新聞」社にアルバイトにかよい、ドイツ語の記事の翻訳をしていたのが人生を大きくかえることになる。席をならべてフランス語を翻訳していたのが、のちに甘粕憲兵大尉に虐殺される大杉栄であった。  社会主義者幸徳秋水は、天皇暗殺を企てた大逆事件(明治四十三年)の主謀者として死刑に処せられたし、その平民新聞にいたというだけで佐々木政治も、アナーキスト大杉栄と同様に官憲から睨まれてしまった。一九〇七年春から一九一一年(明治四十四年)までドイツに行き、帰国後は長崎ドイツ領事館につとめたが、しかし、どこへゆくにもまだ刑事が尾行した。  それに耐えられず彼は、軍関係に勤めれば疑いも晴れるだろうと考え、軍政省に就職したのだ。東京に働きに出てきていた新潟県高田出身のそよと結婚後まもなく、青島へ派遣されてドイツ人の捕虜を日本へ輸送する仕事を与えられた。  佐々木夫妻には、長男崑と長女まり子ができた。崑が四歳になった大正十一年、佐々木一家は神戸に帰国し、政治はドイツ総領事館の通訳として復職し、灘区六甲町に居を構えた。そのころでも政治は刑事にマークされて、いつも不快そうな顔をしていたのを、崑は子どもごころにも憶えている。  小学校六年生のとき(昭和六年)崑は郵便貯金から五円おろし、東郷カメラを買った。叔父が古くからある小島写真館ではたらき、神戸港の観光絵はがきなどをこしらえていた。その叔父がいろいろと知識をつけてくれたので崑は「写真とはふしぎでおもしろいもの」と思うようになった。  この年、明石海岸に航空会社がフォッカーの五人乗り水上飛行機をもってきて、客をのせて遊覧飛行をやった。十分間ほど明石上空を飛び、十円だった。なんとしてもこれに乗りたくて崑は父親にせびったが、 「自分のカネで乗れ、わしは知らん」  と突っぱねられた。再び郵便貯金をおろして明石海岸へ走った。母があとからついてきてくれた。  少年時代のたのしい想い出は、東郷カメラと水上飛行機に乗った、この二つだけしかない。これだけが「心のアルバム」に貼られている。  それというのも——いまもって父に特高警察の尾行がついているのを、崑も憂鬱に思っている。表現できない怒りみたいなものが胸の底に沈潜している。  それに、神戸には貧しい階級が多かった。食えない港湾労働者が泥棒してつかまり、深編み笠をかぶせられ手錠をかけられて警官にひっぱられてゆくのを何度も見ている。共産党弾圧で職工たちが逮捕されるのも見た。警官が寄ってたかってぶん殴っていた。 「天皇陛下が何だ、くたばってしまえ!」  と叫んだためにしょっぴかれた朝鮮人労働者もいた。その男の妻が乳飲み子を背負い、泣きながら差し入れにゆく哀れな姿も、崑の瞼《まぶた》にやきついている。たのしい想い出よりも、そんな暗い時代の陰鬱さが強烈に残っているのであった。  日中戦争がはじまった昭和十二年、彼は神戸の村野工業学校機械科を卒業。上京して銀座に本社がある日本理化工業に入社、酸素製造機の研究設計部に配属になった。日給が一円六十銭。  昭和十四年に陸軍に入営、朝鮮の平壌に基地があった飛行第六連隊の地上整備兵となる。まもなくソ満国境における国境紛争ノモンハン事件が勃発、崑は第三十七飛行機大隊として満州の|※[#「さんずい+兆」、unicode6d2e]南《とうなん》基地へ応急派兵された。三カ月間のこの紛争で戦死者七千八百、戦傷者八千七百、捕虜千、飛行機三百六十、戦車四十、火砲二百を失って日本軍は惨澹たる敗北を喫した。トラックで後方へはこばれてくる血みどろの負傷兵を、崑は毎日みせられたし、上空でソ連のイ一六戦闘機と日本の九七式戦闘機が空中戦を展開するのを仰ぎ、戦争の悲惨さを思い知らされた。  崑はドイツ製のセミー・イコンタを持ってきていた。だが、この戦争というものの残酷さを、撮ることができなかった。撮るものといえば、戦友同士との記念写真ぐらいなものであった。のちに桑原甲子雄が撮った満州の作品(昭和十五年)の数々を見たとき、 「同じ時期、同じ満州にいたのに、自分は何も撮っていない。撮っていたとしても、桑原作品には遠く及ばなかっただろう」  と深く反省し残念がったが、当時の崑にはまだ「人間の何を撮るべきか」の姿勢と眼がなかった。  昭和十六年七月、兵力を総集した日本陸軍が、満州の荒野で関東軍特別大演習をおこなった。崑も参加させられたが、兵隊たちのあいだでは「これは演習のために集めたのではない。近くソ連に宣戦布告し、ノモンハンの仇を討つつもりなのだ」との噂が立っていた。黒竜江の国境沿いには幾つもの飛行基地が建設されつつあった。  ところが、演習後には地上部隊も航空隊も南下しはじめた。そしてこの年の十二月、日本陸軍は突如マレー半島に上陸、日本海軍はハワイ真珠湾を奇襲して太平洋戦争の幕は切っておとされたのであった。  崑の第三十七飛行場大隊は、旧式の爆撃機しかもっていなかったため、南進兵力には加えられなかった。そのままいて翌十七年八月、彼は兵長で満期除隊になった。 (三)  除隊後も崑は飛行機にとりつかれ、日本理化工業には復職せず、神戸にある日東航空に入社した。航空機の冷却器と部品を製造していて、彼は設計部にまわされた。  昭和二十年八月十五日の敗戦もこの工場で迎えたが、二十七歳になっていた彼は、正午に玉音放送を聴いたときの心境をこう語る。 「玉音放送が終ったとたん、世の中のすべての音が絶え、シーンとなったみたいでした。頭がポカーンとなってしまってね、何を考えてよいのかわからんのです。そのうちにね、アメリカ軍が大挙上陸してきて男たちはキンタマを抜かれる、女は強姦される、と不安になってきたんです。わたしはね、そんな目に遭わさせないぞ、死んでもいいんだ、米軍のなかに斬り込んでいってやる、と覚悟しましたよ」  そうした不幸な事態にはならずにすんだが、彼もまた目標を失ってしまった。ただもう食うためにヤミ屋になり、砂糖や地下足袋やタイヤなどの隠匿物資を取引し、横流ししては利ザヤをかせいだ。そのカネで主食を買った。ヤミ物資を取締まる警官やMPに追われ、荷物をすてて逃げたことも一度や二度ではない。  三の宮のブラック・マーケットのなかで屋台店のてんぷら屋を開業したこともある。鮮魚のカツギ屋になって明石まで、早朝に仕入れにいったこともある。生きることは、米軍に斬り込むことよりもむずかしかった。そして、とどのつまりは神戸の進駐軍のポスト・エンジニヤ(修理班)のジープの運転手に雇われた。サラリーが二万円、ヤミ屋で警官に追われたりするよりはラクであった。  昭和二十五年暮、過労から肺浸潤をわずらいダウンした。だが、のんびり療養生活などしていられる身ではない。老いたる両親を扶養しなければならない。ある日、バーを経営している友人と会った。話が写真のことになり、 「おれも好きで、ときどき撮っているんだ」  と崑が言うと、そんならプロの木村伊兵衛さんに作品を見てもらってやるよ、待ってな、と友人は約束してくれた。  なに言ってやがる、あんな大家と付き合いがあるわけねえ、と崑は信じなかった。忘れたころになって友人から連絡があり、 「いま木村さんが、神戸製鋼の撮影のため神戸にきているんだ。今夜、作品をもっておれのバーにこい。木村さんに会わせてやる」  崑は作品をかきあつめた。脚がガクガクふるえた。昭和二十六年の春であり、これが弟子となるきっかけであった。  そのころ崑は神戸港の夜景を撮影していた。おずおずそれを前にならべると、木村伊兵衛は困ったような顔で観ていた。批評の仕様がない、箸にも棒にもかからぬ幼稚な作品だったからだが、しかしはっきりとそうは言わず、 「一生けんめいに撮ってますね。勉強すればもっと良くなりますよ」  と木村伊兵衛は励ましただけだった。  崑自身、プロ写真家になりたいはげしい野望はなかった。戦後になって再び活躍しはじめた巨匠、中堅、新鮮な作品をひっさげて登場してくる新進たちのそれに、彼も写真雑誌で見て刺激されるが、 「人に見せられる作品が撮れればいい」  程度の意欲しかなく、プロ写真家になるなど、大それた高望みに思えていた。従って、月例コンテストに応募したことも皆無だ。  それでも、それからは上京する機会があると必ず、木村邸を訪れた。木村は、彼の作品を写真雑誌に推薦したりはしなかった。崑は、人間味あふれる木村作品にじかに触れ、感動して帰ってくるだけであった。  突然、人生の転機を突きつけられた。昭和二十九年二月十四日の夜半、七十歳になっていた父政治と、六十三歳の母そよが痛ましくもガス中毒死したのである。  二階に寝ていた崑は翌朝七時、ポスト・エンジニヤに出勤するため、おはようと声をかけながらおりてきた。いつもなら母が朝食の仕度をしているはずなのに、台所では物音がしない。異様な臭気がたちこめている。  両親の寝室のフスマをあける。寝姿にかわったところはないが、返事がない。不吉な予感がして崑は、 「……とうさん!」  父親の胸をゆさぶった。だが、政治はがっくり首を折ったなり、手足は冷めたかった。 「……かあさーん!」  母親にしがみついた。そよの瞼もひらくことはなかった。崑のからだがふるえた。唇がわななき「バカ野郎ッ、なんで死んだんだよォ!」と吠えた。そのまま腰がぬけ、尻もちついてしまった。  近所の人たちが集まった。大騒ぎになった。警官やら刑事が駆けつけた。鑑識係もやってきた。殺人、事故死、自殺、この三つの線から捜査された。両親を殺害してガス自殺に見せかけたのではないか、と崑は疑われ、いろいろと質問された。刑事らは日ごろの崑と両親の折り合いを、近所の人から聞き込みしてまわった。何を訊かれても崑自身は、放心したみたいにポカーンとなっていた。それは、敗戦の日に玉音放送を聴いたあと空白の状態になってしまった、あのときと同じ虚しさであった。外は粉雪がちらついていた。  結局、事故死と断定された。寝る前に父か母がガス・ストーブのゴム管に足をひっかけ、はずれたのに気づかなかったのが原因だろうということになった。  ドイツ語の天才といわれながらも、平民新聞社にアルバイトにいったばっかりに官憲に尾行されるはめになり、こと志《こころざし》とは違った人生を送らねばならなくなった父。生涯をそんな父に尽すことしか知らなかった新潟の農家育ちの母。二人のその人生をふりかえると崑は哀れでならず、 〈人それぞれの一生とは何なのだろう。どういう意義があるのか。だれか、教えてくれッ!〉  狂ったみたいにすがりたくなった。  小学六年生で明石海岸の水上飛行機に乗りにいったとき、ついてきてくれた母が、飛びたつのを白いハンカチをふって見送ってくれたものだった。その光景がよみがえってきて崑は、いまもあの世から白いそれをふってくれているような気がしてならなかった。 (四)  ジープの運転手をやめた佐々木崑は、神戸の湊川公園の近くで小さなDP屋を開業した。同じくポスト・エンジニヤではたらいていた同齢のS子と恋愛していたが、この機にやっと結婚した。  S子の両親はカリフォルニアにおり、彼女は日系移民の二世である。崑もS子もともに三十八歳で初婚というわけだ。  昭和三十三年、夫婦して大阪に移り、東区内本町のビルの一室を借りて「サン光房」を開設した。付近は貿易商社と繊維問屋と銀行の街であった。そこにスタジオを開設すれば、服地の意匠登録に必要な写真の注文が殺到するだろう、と考えてのことである。  だが、最初のうちは得意先を獲得するのが大変だった。毎日、崑はズボンの尻がすりきれてしまうほど自転車を乗りまわして、意匠登録写真の注文をとった。  苦労がみのって信用を得た。写真技術が確かなのも認めてもらえ、貿易商社や銀行のカレンダーの制作もまかされるようになった。女性の肌着や下着の商業写真の注文も大量にきた。  木村伊兵衛が朝日新聞大阪本社の「アサヒグラフ」編集部を紹介してくれた。木村もようやく彼の作品を認めてくれたのだ。  彼の女性写真は「アサヒグラフ」の表紙を飾った。神戸の底辺である麻薬地帯に潜入して、迫力のある報道写真も撮った。昭和三十四年の富士フォトコンテストのプロフェッショナル部門で、崑の『女』は土門拳、中村立行、奈良原一高、秋山庄太郎らとともに入賞した。  が、それだけではまだ食えず、商業写真でかせぐ片手間の仕事ではあるし、東京の写真界はこの、さして若いとはいえない新進の登場に注目することはなく、 「正直いって昭和三十年代では、佐々木氏の作品はまったく評価されませんでしたね。フォトジャーナリストはもっとフレッシュな作家を求めていたし、いまふりかえってみても佐々木作品には瞠目《どうもく》するほどのユニークさはありませんでしたね」  と、ある写真評論家は首をふった。  崑自身に言わせると「当時、わたしもヌードやファッション、報道写真まで撮ったが器用にやりすぎた。器用貧乏になっていた」そうだが、ぼくは古い作品の数々を改めて観せてもらったが、そうは感じなかった。むしろ不器用な作品が多いし、アマチュアの域を出ていなかった。  ところが、ひとり木村伊兵衛だけは、佐々木崑の前途を嘱望していた。それも、新しい作品を生みだすと期待しての将来ではなく、彼の人間味——まなざしのナイーヴさをもっている写真家のひとり、というふうに認めていたようである。  だから木村は、崑の商業写真を皮肉ってこう言った。 「崑ちゃんよ、女のズロースとか乳バンドを撮っているようじゃダメだよ。東京に出てきなさい」  東京へ出てゆくとなれば、せっかく築きあげたサン光房を棄てることになる。結構もうかっていたし、社長をやめて今日から失業者になれと言われているのも同然で、崑は決心がつきかねた。しかも木村伊兵衛は、カネもうけの橋渡しをしてくれるような人ではなかったし、崑は生活費の迷惑をかけることになるのを恐れた。  だが、サン光房を知人にゆずり、目をつぶって断崖から飛びおりる思いで、S子を伴って三十六年に上京した。「アサヒカメラ」に都会の『落日』を発表した。上京して最初のこの作品もしかし、フォトジャーナリズムの話題にはならなかった。  崑は、生活のため業界紙や団地にくばるPR誌の仕事をもらってまわった。  はや四十三歳である。崑は苦節二十年、それでも芽が出ない文学青年みたいであった。住居は日野市の団地だった。しかし、めげなかった。腐らなかった。彼自身が言う。 「わたしの育った時代は陰気だったでしょう。暗い世代でしょう。背中にいつも重いものをかつがされていて浮きあがれない、そんな感じがつねにつきまとっているんです。だから野望ももてない、高望みもできないんですね。負け惜しみととられるかもしれませんけど、事実そうなんです」  木村伊兵衛は、そういう佐々木崑に、耐えている人間の純粋さを見、逆にもっと苦労させようとしたのかもしれない。そして、崑が上京して二年後に、はじめて木村はカネになる仕事を紹介した。  それは科学映画で有名な東京シネマの、スチール写真班の仕事であった。ここでは顕微鏡でとらえた視野の人間、ニワトリなどの動物の「生命誕生」シリーズを制作中だった。崑は開眼した思いになった。卵巣から卵子が出てくるとき、まるで爆発するように飛びだしてくる。太陽のように炎あげてキリキリまわりながら、ラッパ管に吸いこまれてゆく。そこへ無数の精子が勢いよく動いてくる。そうした自然の不思議さ、美しさ、生命の神秘が抽象画のごとくみごとにとらえていた。崑は感動し、心洗われる思いになり、 〈カメラは、こういう世界にもはいってゆけるのだ!〉  大発見したみたいに胸おどらせた。  両親が事故死したときの、生きるとか死ぬということにはどういう意義があるのか、と教えを乞いたくなったそれを、一生かかってでもカメラで追求してみたくなった。 (五)  佐々木崑は「生命の誕生」以外には、まったくカメラをむけることはなくなった。  映画で観る生命の神秘は感動的だが、しかし顕微鏡でとらえているのだから、どうしても模様を拡大した感じのパターンとなって、一般の人は退屈してしまう。これをせめて虫メガネでのぞく程度にすれば、もっと現実感が出せる。たとえば、髪の毛一本にしても、顕微鏡で百倍にしてみると毛髪というより材木みたいになり、イメージが遠のいてしまう。そんなことも考えて彼は、カメラによる接写の研究にも没頭した。  顕微鏡の場合、焦点深度が浅くて物の面だけしかとらえられない。ところがカメラでは遠近感も出せるので、その点でも興味ぶかい。崑は接写でとらえた結晶体を『科学の色』『科学の歳時記』と題して「文藝春秋」に二年間、カラーグラビアにして発表した。  ある日、メダカの産卵を観察した。  春の陽気で水温が二十度になれば、メダカはタマゴを産む。午前中に親がタマゴを腹の外に抱いていて、昼ごろに水草に産みつけて放つ。そのままにしているとほかの昆虫や魚類に食べられてしまうので、崑はその水草を切りとってコップの中の水につけておいた。  数日すると透明なタマゴの中に、黒い目玉がぽっつんと出てきた。さらに二、三日すると心臓がかたちづくられ、それが動きだして赤い血流が見えてきた。心臓のその鼓動を虫メガネでのぞいて、崑はびっくりした。コップの中につけているだけで何もしないのに動きだし、一ミリたらずのものが親と同じに成長してゆくのだ。 〈あんな小さなものなのに、どんな精巧な仕掛があるのか。神の創造のすばらしさだ〉  と思い、その不思議が生きもののかわいさにつながっていった。  それ以来、崑は昆虫、魚、鳥、爬虫類などの生命の尊厳にカメラをむけるようになった。その一つ一つを「アサヒカメラ」に『小さい生命』と題して連載した。昭和四十一年新年号からはじまって今日まで十一年間、なんと一二四回におよんでいる。むろん、これからも続くわけだが、その種類は約百種、蝶やカブト虫やトンボ、ノミやスッポン、ワニ、ネズミ、ヘビ、ゴキブリ、クラゲなど——冒頭に書いたように、アフリカの奥地へいって世にも珍しいものを撮ってくるのではなく、だれもが知っているそこらの昆虫や魚が相手なのである。  いつしか彼は生物写真家とよばれるようになった。個性と作品に対する評価もしだいに高まってきた。木村伊兵衛自身は昆虫などには興味ないが、この佐々木作品を「彼だけしか撮れないもの」として賞讃した。  崑は四季を通じて、北海道から沖縄まで昆虫類をもとめてまわるようになった。寝ても起きても昆虫やヘビのことが頭にあって、最初の三年間はこれしか考えられず、めしを食っても味がなかった、と言う。  何度かやめようと思ったこともある。年に十五種類くらいしか撮影できず、こんなことではほかのものが撮れないし、生活費もかせげないからだ。  昭和四十一年、家庭がこわれた。子どもがなかったS子が、アメリカに帰ると言いだした。カリフォルニアにいる母親が病気になったから看てやりたいというのだが、彼女には貧乏が耐えられなくなったのかも知れない。 「貧乏が何だ。おれは昆虫を撮ることにかけては世界一なんだ。誇りをもとうよ。辛かろうが我慢してくれ」  崑は説得したり哀願したりしたが、S子の意志は変わらなかった。彼のほうが折れた。生物写真家の栄誉を棄てた。二人でアメリカへ渡り、向うで写真屋にでもなるつもりで移民の申請をした。  ところが、以前に肺浸潤をわずらったことがあるので許可がおりず、S子だけが発った。 「待ってるぞ。おかあさんの容態が良くなったら、きっともどってきてくれ」  と崑は約束させ、羽田まで見送った。  だが、それから四年待ってもS子からの音信はなかった。彼は変わらず貧乏だった。やもめ暮らしをしながら『小さい生命』を撮りつづけた。  昭和四十五年、崑はS子をあきらめ、二十九歳の久美子と再婚した。久美子は女の子亜矢を出産した。五十三歳で崑ははじめて父親のよろこびを知った。この年『小さい生命』を朝日新聞社から刊行した。処女出版であり、このよろこびも味わった。  しかし、やはり貧乏暮らしは続いている。 「わたしには、第一線作家に負けないものをコツコツ撮ってゆけばいいんだという意識しかないんです。そりゃあ、カネがザクザクはいってくる写真家を、うらやましいと思うことはありますがね。何も写真界の表街道をあるくばかりが能じゃない、要はすばらしいテーマを見つけることでしょう。  世界で生きるものの誕生だけを撮りつづけているのはわたしだけだし、外国へ作品をもっていって見せると、みんなびっくりしてしまうんです。だから、わたしはもっと胸をはって威張っていいのかもしれませんが、そうはいかない。天井をぶち破った気にはなれないし、そうなれたら気分がいいだろうなとは思うけど、やはり暗い世代に育った人間なんですねえ、威張れないんですよ」  威張れずに黙々と撮りつづける。「小さい生命」を見て、たのしい美しいものにしたい一心である。ヘビとかゴキブリは聞いただけでも気持わるくなるが、そんなものでもかわいいものに撮りたいし、ゴキブリもめしのタネと思えば殺す気になれず、撮影がおわるともとの場所にかえしてやる。  ときには、ミミズがアリの大群にたかられてのたうっているのに出会う。クワガタが胴体を鳥に食いちらされ、頭と足だけになっているのに、まだ生きようとあがいている。そんな食うか食われるかの凄惨な闘争を見ると彼もぞーっとする。が、無常感は極力感じないようつとめている。  生まれたものはいつか死ぬが、その死のほうは考えない。  それは木村伊兵衛の思想を、弟子として守っていることでもある。木村作品にある下町の情緒は、多くの名もなき人が平和であり、幸せであるよう訴えたものにほかならない。庶民の生活を活写することによって、金持階級にない人情味をにじませている。それと同様に、へビも虫けらもこの世に生をうけた生きものなのだ、虫よりも人間のほうが不幸な生きものになってやしないか——佐々木崑はカメラをむけるとき、つねにそう思うのである。  写真とはそもそも何なのか——彼の写真家としての在り方をみていると、そんな素朴な疑問が湧いてくる。「これこそ芸術だ」とか「あれは芸術作品ではない」などとガクガクやっているのは、狭い写真界の闘争にすぎない。佐々木作品はそうした狭い写真界とは無関係に存在していて、現代のプロ写真家たちが忘れている原点——「写真とは記録するものだ」が不動の岩のようにあるのだ。あくまで真実を写すドキュメンタリー、それが写真なのだ、芸術ではないよ——佐々木作品はそれを証明してくれている。  写真界には「チャカ万」ということばがある。チャカッとシャッターを一度おすだけで何万円もの作品になる売れっ子たちのことである。ところが佐々木崑は「チャカ千」である。チャカッとシャッターを一度おしてもその作品は数千円にしかならない。値があって値がない作品だからだ。  しかし、「チャカ万」の苦労と「チャカ千」の苦労とでは質的にちがう。木村伊兵衛は死ぬまで自分のフィルムは自分で現像していたが、この尊い貧乏性が佐々木崑にもあるのだ。  もういちど冒頭にもどる。  ぼくが貿易センタービルで、木村伊兵衛さんにお会いし、最初にして最期のワイ談を聴かされてゲラゲラ笑っているとき、佐々木崑氏は四国の松山市にむかっていた。「ケラ」の誕生を撮影するためであった。  それから一週間とたたぬ四十九年五月三十一日の早朝、崑氏は二日間にわたってねばりにねばってケラの子の誕生の瞬間をカメラにおさめた。 「生まれた、生まれた!」  歓声をあげたとき、東京から電話がかかってきた。木村伊兵衛さんの死を報せてきたのであった。かわいい誕生と恩師の死。  ——崑氏はその場にへなへなとすわりこみ、大粒の涙を流して、泣きだしたいのをじっとこらえていた。シャバに出てきたばかりのケラの子が、キョトンとした眼で、そんな彼を見ているようだった。(昭和五十一年十月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十四年五月アサヒカメラに連載していた「小さい生命」を一五六回(十三年六カ月)で終了。五十六年自然科学写真協会会長に就任。 [#改ページ] 渡部雄吉《わたなべゆうきち》 「写真とは写心なり」  ——旅路は平坦ではない。瓦礫の道もあれば、腰まである泥濘《でいねい》に埋まりながら踏破しなければならないときもある。雨や雪も降る。  行く手には二つの巨大な山がある。その頂上を仰ぎながら一歩一歩とすすむ。勾配にさしかかる。登りはじめる。やがて勾配は胸つき八丁のけわしいものになる。嵐もくる。  一つめの山は四苦八苦しつつも、どうにか越えることができたけれども、二つめの山はどえらく峻険であり四苦八苦どころではない。命がけで懸崖をよじのぼる。滑り落ちる。また登る。岩角にかけている両手の生爪がはがれそうだ。だれも手助けしてくれない。この山を越えた向うには何があるか、それはわからない。何もない茫漠とした空間があるだけかもしれないし、さらに大きな山塊がそびえ立っていないとも限らない。  こうした苦闘をつづけているのが、いまの渡部《わたべ》雄吉さんの姿だとぼくは思う。ひとつめの山というのは彼の師であった田村茂氏、二つめの山が同郷の先輩の土門拳氏なのだ。  渡部さんの代表作に『STAINED GLASS—光と色彩 ヨーロッパの聖堂にて』(昭和四十七年主婦と生活社刊)と、『大いなるエジプト』(昭和四十八年平凡社刊)の二つがある。共に豪華本で前者の序文「思い出」で哲学者の谷川徹三氏が、 「その感動は、そこに巨大な内部空間を作り出している壁面や穹窿《きゅうりゅう》や柱列やステンド・グラスなど、そそり立つ聖堂の建物全体の、交響楽的合唱の圧倒的な力によるものであったろうが、その巨大な空間が、ステンド・グラスを通す多彩で華麗な、しかし微妙な光によって、天上的な霊化を現ずる瞬間があるからである。この思いは、パリのサント・シャペルでも持った。ノートル・ダームでも持った。渡部さんの写真を見ながら、そんなことを私は思い出していた。渡部さんの写真には、各地の美術館で撮ったものもある。しかし聖堂にあるままを撮ったものが多く、望遠レンズの駆使によって、現場で見ただけでは分らぬ細部を鮮麗に再現したものには、私は幾度か讃歎の声を放った」  と惜しみなく絶讃しており、ぼくはこの作品に土門拳氏の『古寺巡礼』のなかにある仏像を見るのと同じ感動を味わった。土門氏が東洋の神秘と美をいかんなく表現しつくしているように、渡部さんは西欧のそれにエネルギッシュに迫っているからである。  そして後者には「大自然そのものをデザインした——砂漠や、丘陵、太陽や空のような空間を素材にして、乾燥した風土のなかに建造物を創りあげた〈石の文化〉とエジプトの〈空間〉」(同書あとがき)を活写しながらもその画面に、渡部さん自身のなかにある故郷の「東北の風土」をダブらせており、しかも田村茂氏のアラブや中国をとらえた作品に果敢に挑戦しているのを感じないわけにはゆかない。一点一点に緊張感がみなぎっている。つまり、彼の人生の行く手にあるのは宿命的なこの二つの山であり、これとの悪戦苦闘の連続なのである。雄々しい写真家である。 (一)  ぼくは、渋谷の神宮前のマンションにある渡部雄吉スタジオを訪ねた。土門拳のような「北国武士」を想像していたのだが、まったくはずれてしまった。大正十三年生まれ、五十五歳だからもっと年輪を感じさせる人だと思っていたのに、出てきた彼は青い横縞のマドロスが着ているような半袖のシャツ姿、髪は黒々、たいそう眼が美しく、鼻すじの通ったハンサムである。そして、じつに陽気なのである。身ぶり手ぶりをまじえて早口に、フランス語やスペイン語をしゃべっているほうが似合いそうである。パイプ煙草をくゆらせる。  ところが語りはじめてもらうと、少年時代の彼は恵まれた環境に育ってはいなかった。  山形県は酒田市の生まれ。祖父の代までは「渡部三郎兵衛」という屋号の海産物店を経営していたそうだが、父親の恵次郎はどうしたことか廃品回収業に転業した。その世界では元締になって「ボロ屋の三郎兵衛」とよばれた。大きな廃品処理工場をもっていた。  しかし、先祖には三郎兵衛なる人物は実在しなかった。親戚にもいなかった。それなのになぜ海産物店が「渡部三郎兵衛」なのか、「ボロ屋の三郎兵衛」でなければならぬのか、いまもってわからないというが、いかにも東北らしい、なかなかに土俗的な話である。  貧乏人の子沢山といっては失礼だが、雄吉少年は十人兄妹の四男坊である。兄が三人、姉が二人、妹一人、弟三人もある。母親の時恵さんは八十九歳でいまなお健在だ。 「故郷はあまり好きではありません。なじまないものを感じますねえ」  と、彼ははっきり言う。その理由の第一は、酒田が商人の町だからである。むかしから酒田は日本海沿岸の屈指の港町で、大阪の堺との交易があって栄えてきた。だが、ちまちました商人の町、閉鎖的な北国の習俗が好きになれず、彼はむしろ、おっとりした城下町である鶴岡とか米沢にあこがれた。  第二は家が「ボロ屋」であったことだ。そのため少年時代から彼は、家業を手伝わされた。クズものが出ましたよ、と女学校から連絡があれば、そこにも出かけてゆかねばならない。セーラー服の女学生たちが戯れながら見ているなか、クズものを荷車に積みあげるのは、多感な少年にとっては屈辱感、劣等感をおぼえざせられるだけである。美人の女学生がいるとなおさら、顔を赤らめうつむき、荷物のかげに隠れるようにした。  そうした苦い思い出が彼を「ふるさとは遠きにありて想うもの」の気持にさせるのである。したがって渡部の網膜の奥にある、日本海の光景はつねに冬景色のみで、荒れすさぶシベリア風の音、低くたれこめた灰色の重たげな雲、吹雪、雪ぐつ、ハタハタの干もの、少女の赤いマントなどである。  だが、彼はそれらに限りなき郷愁をおぼえる。狂おしいほどの愛着がある。矛盾しているが、自分の風景はそういうものでなければならぬ。前述のようにギラギラした太陽と涸れた砂漠とピラミッドのエジプトを撮っても、そこに「東北の風土」がひとりでにダブってくるのもそうだし、 「太平洋とか瀬戸内海のカラッとした海ではダメなんです。緑川洋一さんの瀬戸内のようなきらびやかなのは性に合わないし、やはり陰鬱な海にカメラをむけたくなる。これも故郷の有形無形の影響でしょう」  自分でもその矛盾を大切にしているのである。  東北人であるのを、彼は歯がゆがることもある。東北人は要領がわるい。器用さがなく合理性に欠けている。ユーモアを解さない。そういう点が自分にもあると思いこんでいるからだ。  その証拠に、土佐の高知のように東北人で漫画家になったものがいない。横山隆一、泰三兄弟をはじめ、現代の若手にも高知出身の漫画家が多いのは南国の風土が育てているのだろう。漫画的な奇抜であったり滑稽であったりの発想はできないそうだ。 「東北人は生真面目すぎるんですね。雄ちゃんは写真を撮るとき、いつも大上段にふりかぶってる、もっと気楽にいかなくちゃ……長野重一にそう言われたことがありますよ。わかっちゃいるけど、そうなっちゃうんですねえ、くやしいなあ」  渡部は苦笑するが、すぐにまた真剣な表情にもどして、こうも言う。 「そのかわり東北出身者には流行歌手の淡谷のり子、佐藤千夜子、版画家の棟方志功、小説家の太宰治、われらの土門拳もいる。それぞれに個性的です。土門さんは頑固に自分というものを守りつづけているでしょう」  故郷になじめぬものを感じながらも彼の網膜の奥には「東北の風土」があるし、自分のなかにもある北国の人間の要領のわるさを歯がゆがりながらも、個性的であるのを誇りにしているのだった。 (二)  酒田中学に学んだころの渡部雄吉は、無線通信士のような技術者にあこがれていて、昭和十六年春、卒業すると上京した。  大田区蒲田にあった「東映社」に入社した。日米間の風雲急をつげ、太平洋の波が高くなっていたころである。  この会社はベル一六ミリ映写機の組立工場であり、渡部は組立工見習になったのだ。工場とは名ばかりで、そこらの町工場に毛がはえたようなものであった。  二年いたが辛抱しきれなくなった。  徒弟制度であるためサラリーはなく、五年つとめると背広が一着支給され、職工待遇にしてもらえるのである。寄宿舎暮らしで三食つきだが、食糧事情がわるくなっていたのでロクなものは食わせてくれない。外食したいにもサラリーがないのだから、いつも腹がグーグー鳴っている。カツ井や天井を食う夢ばかり見る。仕方なしに彼はよく、涙ぐみながら割箸をかじっていた。ネズミみてえなやつだなと笑われるが、何となく空腹が満たされた気になるからである。  そのころのくせがいまだに残っていて、撮影にいったさきで割箸を咬《か》むという。木の香がして何ともいえぬ味がするのだという。思わしいものが撮れなかったり、行きづまりを感じたりしたときに彼は、割箸を咬むことによって苦しかったころの自分を思い出しては「がんばるんだ!」と叱咤しているのだ。人間、それぞれに悲しくもおかしなくせをもっているものである。  だが「東映社」にいるころはがまんできなかった。二年後には日本橋の丸善の裏にあった「東京光画社」へ移った。四十円の月給がもらえることになった。国学院大学を卒業した次兄と渋谷の神宮前に下宿した。 「東京光画社」はカメラマンや記者をかかえている写真工房であった。スタッフにはのちにCM制作で名をなす日下《くさか》和時がいた。新進の濱谷浩もときどきあらわれた。  渡部は暗室マン見習だった。しかし、太平洋戦争ははげしくなってくるし、カメラマンたちは報道班員として戦地へもってゆかれて不足するので、渡部もカメラをいじらせてもらえるようになった。カメラでめしを食おうと思ったことはなかったので、自分では安物の一台も持っていない。会社のライカを貸してもらうのである。  むろん、そのころはまだ郷土の先輩に有名な土門拳がいることなど知らず、作品も見る機会もなかった。当時すでに土門は、大阪へいって文楽人形や仏像に夢中になっていた。「戦争に負けたらすべて破壊されてしまう。いまのうちに撮っておかねば」とがんばっていたのである。土門は渡部より十五歳年長だ。  渡部は「東京光画社」にはいったことで、生活のためにカメラを手にする運命になっていったのだ。写真界には大学の写真クラブに所属していて、そこからプロフェッショナルとして育っていった一派と、学歴はないが生活のためにはじめたのが一生の仕事となった——この二つの流れがあり、渡部はその後者ということになる。  渡部が「戦時女性」(改題させられた「婦人画報」)の報道的なグラビア写真だの、座談会の写真だのを撮らされているうちに、会社は神田三崎町へ移転した。戦況は逆転、日本軍は南方の島々や拠点を奪回されるばかりでなく、制海権や制空権もしだいに失い、ついには本土が空襲されはじめた。  大詰めにきていた昭和二十年、三月十日の東京大空襲で神田一帯も火の海となり「東京光画社」は全焼してしまった。神宮前の渡部の下宿も、五月二十四日の山の手一帯の空襲でふっ飛んだ。次兄はかなり楽観視していて「明治神宮のそばだから爆弾は落ちない。神様が守ってくださるから安全だ」と言っていたのだが、この有様なのだ。  市民たちは防空壕で暮らすようになった。七月一日、渡部は徴兵検査をうけ、第二乙種合格の二等兵で、千葉県柏市の航空隊に入隊させられた。当時はもう日本の最高戦争指導会議は終戦の斡旋を依頼するため、ソ連に近衛文麿を派遣することを決定しながらも、まだ国民を徴兵していたのである。土門拳もひと月前の六月に、奉公袋をさげて山形連隊に入隊させられたが、痔を病んでいたおかげで助かり、即日帰郷になっていた。  渡部は長野県の山のなかの、伊那町の小学校へつれてゆかれた。小学校が兵舎がわりになっていて、そこには東宝映画とか小西六写真工業などの写真に関係あるものばかりを集めていた。近くに急造の飛行場を建設しており、ここから飛びたつ偵察機に、本土上陸を敢行してきた場合の敵部隊の航空写真を撮らせ、渡部らにその現像や引伸しなどの仕事をやらせる計画であったのだ。銃など一挺もなかった。  だが、飛行場はどうにか完成したが飛行機は一機もこないまま、ここで終戦を迎えた。戦場でなくて幸いであった。わずか一カ月半の軍人になっただけで渡部は白米を一斗もらい、故郷の酒田へ復員した。  両親も兄妹たちも無事であった。 (三)  昭和二十一年一月、渡部雄吉は敗戦の混乱がつづいている東京へ出てきた。二十二歳。  進駐軍相手のDP屋が儲かると聞いて、自分もそれをはじめようと奔走しているうちに、思いがけず田村茂の助手として雇われることになった。冒頭に書いたように彼は、ひとつめの巨大な山にぶつかり、四苦八苦してこれを踏破してゆかねばならぬようになったのだ。  DP屋を開業したくて奔走しているとき、毎日新聞傘下の日刊「サン写真新聞」(昭和二十一年四月創刊)のレイアウトマンで、郷里の先輩にあたる伊藤幸作が、親しくしていた三木淳を紹介してくれた。その三木が、 「DP屋より田村茂さんの助手にならないか。本格的に写真の勉強をさせてもらえるよ」  そう言って田村のところへつれていってくれたのである。田村は上野の竹町に小さな暗室をもっていた。  彼は戦後いちはやく、復興しつつある写真界で活躍、「土門拳か田村茂か」といわれる存在だった。北海道出身、オリエント写真学校卒、渡辺義雄に師事。明治四十二年生まれだから、渡部が助手になったときは三十九歳の絶頂期。雑誌社からの依頼も殺到していた。  田村夫人(当時)は婦人服デザイナーとして高名な桑沢洋子女史で、彼女が「婦人画報」に発表するニューモードのモード写真(現在のファッション写真)は彼が撮っていた。報道写真家としての実力もあった。  しかし間もなく彼は、モード写真はブルジョワ階級のものだとして撮らなくなった。戦争中に高倉テルと仕事をしていた関係で、戦後の日本共産党に入党したからである。徳田球一や志賀義雄らが出獄し、野坂参三も中国から帰国して共産党は一躍、飢える民衆の英雄となっていた。渡部が田村の助手にしてもらったのはその前後である。  モード写真を撮らなくなった田村は、銀座の電通ビル内にあった「世界画報」(昭和二十一年一月創刊)の仕事を精力的にやった。西園寺公一が社長で、のちに写真評論家となる渡辺勉が編集長であった。田村はその電通の真向いにあった熊谷ビル内の岡スタジオを連絡事務所にしており、暗室を上野竹町から京橋にある喫茶店の裏部屋へ移していた。渡部の月給は二千円。インフレはものすごくヤミ米一升が百五十円、二級酒一升が四百円のころの二千円である。  渡部は田村のもとに三年半いた。  田村が「婦人画報」「世界画報」の仕事で飛びまわるのについて写真機材をかついでいった。田村が「文藝春秋」(昭和二十年十月復刊)のグラビアに『現代日本の百人』を連載しはじめた。二年半もつづいた。そのため忙しい田村にかわって渡部が、伊東茂平のスタイルブックのためのモード写真を撮ったこともある。しかし「東映社」のころのようにいつもひもじく、割箸をかじってがんばった。  国会を撮りにゆかされ、吉田内閣の保守党議員たちの態度に反感をおぼえた。新聞配達少年の記録を撮って自分の「ボロ屋」の子供だったころを思い出しては、矛盾した社会に対する義憤を燃やしたりした。また田村の助手として共産党本部に出入りしているうちに、渡部も思想的影響をうけたものだった。しかし、彼は田村に共鳴して入党はしなかった。「写真の師であることと、社会思想とは別だから」と区別しているつもりだった。 「渡部氏は共産党に入党しなかったのが、結果的にはよかったんじゃないか。入党していれば、カメラマンとしてはダメになっていっただろう。ぼくはそのように見ていた」  のちに渡部がプロとして認められたとき、このように言った写真家がいた。共産党に入党したカメラマンは、田村のほかにも何人もいる。しかし、共産主義や共産党そのものが毒するという意味ではなく、おのれの社会思想を作品の表に出していたものの大半は、写真家としては悲劇的な末路をたどっている。自由な立場で撮ってゆく眼が死んでしまってどうしても、それ以上のびなくなるからであり、渡部も入党していればあるいはそうなったかもしれない……というわけである。  最初のうちは師をもてたことが光栄で無我夢中であった渡部も、田村はリアリズム写真の稀有の師ではあるが「いつかは越えてゆかねばならぬ存在だ」と思うようになっていった。師であると同時にライバルになるのは、写真家にかぎらずどこの世界にもある真摯《しんし》な闘いなのである。宿命的な対決である。  卒直に渡部雄吉は言う。 「田村さんは善い人で、いまでも尊敬しているんですけど、三年半の助手生活にはいい思い出は、いくら捜してもないんです。共産党員ではあるけれども、ぼくという貧しい助手に対しての、いろんな意味での思いやりがありませんでしたし、ずいぶんと矛盾した面を見せつけられましたよ。たとえば、撮影の仕事がおわると田村さんは新橋へ酒を飲みにゆく。ぼくは重い機材をかついで帰らねばならないし、オーバーはすり切れてしまう。帰ってから印画紙を買いにゆく。その代金は田村さんがくれるんだけれども、それだけでは足りなくて身銭を切ることになる。月給は二千円だし、当時ぼくは上京してきていた弟と妹の生活もみてましたから、おカネはたとえ十円でも貴重だったんです。愚痴をいうわけじゃなく、田村さんにはそういう点が察しられなかったようですね」  そして、渡部は仕事の面でも写真家田村茂に対して失望しはじめた。色あせてゆくものを感じはじめた。ある日、偶然に土門拳の助手である石井彰(現在は石井彰一と改名)に会う機会があり、その石井から渡部は土門流の撮影方法を、あれこれ耳にしたのがきっかけとなったのであった。 「土門さんは、たとえば一人のポートレートを撮るのにフラッシュを五発も六発も使い、ギリギリに絞って撮るという。そこにあの迫力あるリァリズム写真が生まれる理由があるとわかったんですが、一方、田村さんの場合はライティングが全くパターン化していて、小と中のフラッシュを二発、正面と斜め上からしか使わない。そんなことから意欲的な土門さんについている石井さんがうらやましかったんですよ。  しかし田村さんにも傑作はあります。『現代日本の百人』のなかには土門さんの『風貌』よりもすばらしい作品がある。だけど田村さんには土門さんみたいな新しさへの挑戦がなかったんですよ。それが助手としては残念だった。歯がゆかった。はっきり言って、田村さんから学びとるものは何もなかった。あるのは田村精神への抵抗意識みたいなものだけでした」  誤解なきようくりかえすが、これは渡部雄吉の非難ではない。むろん、嘲笑や恨みごとでもない。子が親を踏み台にして成長してゆくように、師は弟子によってダイビングボードにされる運命にあるのだ。そのエピソードのひとつなのである。  だから渡部は、郷土の先輩である土門拳に対しても、峻烈な眼をむけているのである。 「ぼくは『風貌』に限って言えば、土門作品はおのれの姿ばかりを撮っている、それには抵抗があるんです。ある彫刻を撮るにしても、バラバラにして自分の作品にしてしまう。その芸術家の彫刻ではなくなってしまう。それがぼくには気になるんです」  話はもどるが、渡部が土門拳の作品を見たのは、二十一年に上京してまもなくだった。前出の伊藤幸作に、 「酒田の出身でな、土門拳という大物がいるぞ。なんだ、まだ知らんのか」  と言われ作品を見せられたのだ。  それは戦争中の「NIPPON」に載っていた高千穂の風景であった。杉木立を上から見て、さらに下のほうに川が流れている、その造型感覚のすばらしさに渡部は息を呑む思いになったものだ。  だが伊藤幸作に「土門拳に会ってみたくないか?」と言われたときには、渡部ははげしく首を横にふった。山形県人にこんなにアクのつよい人がいるのか、厭だなあ、おれはそうはなりたくないなあ……そんな複雑な反発感をおぼえたからである。そうした意地っぱりがまた、いかにも東北人らしいのである。 (四)  渡部雄吉のデビュー作は昭和二十四年、二十五歳のときに「フォトグラフィ」十一月号に新人紹介として発表してもらった『スケッチする赤松俊子』である。彼女は異色画家の共産党員で、その年のメーデーに参加してスケッチブックをひろげていたところを撮ったものである。  発表する前に彼は、新橋の喫茶店で土門拳に見せて、どうでしょうかと批評してもらった。しばらく眺めていた土門はこう言った。 「ハーモニーがたりないねえ」  渡部は返す言葉がなかった。写真のなかのハーモニーとは何ぞや、と考えさせられるばかりだったが、世に問うてみるつもりで「フォトグラフィ」の編集者に渡したのだ。  それからの——田村茂の助手をやめてからの彼は、写真の仕事でカネになるものなら何でもやった。秋山庄太郎が「近代映画」のカメラマンになったとき「おまえもこいよ」とひっぱってくれた。ところが「世界画報」の編集者に、 「報道写真で活躍してきたものが、女優なんか撮るとは何事だ。堕落以外の何ものでもない。うちではもう頼まないよ」  と不快な顔をされて思いとどまらざるを得なかった。「世界画報」には恩義があり、無にはできなかったのである。  そうかといって「世界画報」の仕事だけでは、わずか五千円の生活費しかかせげない。時事通信社で出している「レポート」という雑誌のための写真を撮って、二万四千円の原稿料をもらったときには涙が出た。これまでの最高のかせぎだったからで、弟と妹に腹一ぱいご馳走してやれた。昭和二十六年のことである。  その作品は組写真で、アメリカの占領政策を批判したもので、なかでも進駐軍のモータープールの金網に国会議事堂が囲まれている構図の『DEAD END』は、社会派渡部の存在をいっそう大きくした。  さきに渡部は「東北人は要領がわるい、不器用である」と歯がゆがったが、彼自身はどうしてどうして器用すぎるくらい器用なのではないか。だからこそ、生活のためとはいえ何でも撮れる人になったのであり、 「彼は実務派だね。依頼されたものを堅実に、リアリズム手法でガッチリ撮ってきてくれる。しかもフォトジャーナリストとしての非凡な眼もあるので、どこの編集者も安心して仕事をまかせていた」と、ある写真評論家は言う。  渡部は「田村茂から学びとるものは何もなかった」ほどの技術的には天才であり、しかもフォトジャーナリストとしての眼もそなわっていたのだから、引っぱり凧《だこ》になって当然であった。『DEAD END』が評価された年には、新橋の「フロリダ」というダンスホールのダンサーの生活を追った『ダンサー部屋』を「カメラ」に発表している。  土門拳が撮った画家の『麻生三郎』を、渡部自身も土門に対して真剣勝負を申し入れるつもりで撮っている。つまり、彼は二つめの巨大な山へ挑みはじめたのであった。  写真家としてはめずらしく、安部公房や島尾敏雄らの文芸雑誌「現在」の同人にもなった。小説を書きたかったわけではなく、写真のなかにも文学があっていいわけで、黒人の混血児たちの『エリザベス・サンダーズホーム』を発表した。文学がある写真だ。  木村伊兵衛と土門拳の門下生である若手たちの「アングル会」の写真展にも作品をひっさげて参加した。『松川裁判』『ヨコスカ基地』『失業保険』などを彼は「左翼思想というよりは社会正義のつもり」でカメラの眼でえぐっていった。  昭和二十八年には「文藝春秋」に深川のだるま船の生活を題材にした『水上生活者』を、講談社の「日本」には『張込み日記』を発表した。これは警視庁捜査一課のベテラン刑事が殺人事件の犯人を追うのを、渡部が追って二十日間の密着取材したユニークなものだ。 「中央公論、小説現代、小説新潮など月に六本の連載をかかえていた時期もありましたけど、こうした一般誌の仕事をしていても写真批評家はよく言わないどころか、働きすぎだとけなすんですね。いまは篠山紀信のように精力的にやるほうがほめられるけど、あのころはそうでない時代でしたからね」  と渡部は言うが、たしかに当時の彼を見つめる写真界の眼は好意的ではなかった。しかし、まったく的《まと》をはずれていたわけではない。フォトジャーナリストの某氏が言う。 「渡部氏の場合は、土門拳や篠山紀信のように個性で撮るのではなく、相手(被写体)がもっているものを正確に表現してきた。シャッターをおした瞬間から作者は消えなければならないとする木村伊兵衛や田村茂の、そのうまさがある。その意味では田村さんの影響は大いにあったと思うし、ソツがなくて百点満点なんだ。けど、たまには失敗してくれるほうがいい、そのほうが個性が出てくるのではないか……」  そうした声に耳を傾けなかったわけではないが、ともかく売れっ子の渡部雄吉は忙しかった。百点満点であってもかえってよくないというのだから、人生とはむずかしいものだ。  昭和二十八年には一歳年下の、大和田浩江さんと恋愛の末、めでたくゴールインした。 (五) 「渡部雄吉は野球にたとえるならば三割打者である。ただし、眼のさめるようなホームランが一本もない。写真家としての技術は完璧だが、これだという感動に体当りしていないんじゃないか。自分に課してゆくテーマが必要だと思う」  というような声は依然としてあった。昭和三十三年に渡部は『台風がきた』で二科会写真部二科賞を受賞したにもかかわらず、なおも万雷の拍手で迎えられることはなかったのだ。 「批評家たちに悪口を言われても、何いってやがるという気はありましたよ。しかし、カブトをぬいだということではなく、自分が転機に立っているのを感じはじめましてね、やはりトシだし、かせぐほうは少し整理して良い仕事をしておかねば、という気持になったんですね。そして、アフリカへ行こうと思いたちました」  ときに昭和三十五年、三十七歳であった。エジプトへ行きたくなった動機は、ドイツ人の書いたエジプトの考古学の本を読んでいて、いても立ってもいられないほど魅かれてしまったからである。  同年十一月末、渡部はかきあつめた二百五十万円を旅費に、はじめての海外旅行へ飛びたっていった。エジプトでのペンション生活がはじまった。カイロ在住の考古学者、鈴木八司氏の協力を得て、途轍《とてつ》もなく大きな「ドライで神秘的な古代エジプト」の遺跡へ挑戦した。これは渡部にとってライフワークであった。  六カ月ほど滞在したが、とてもそれだけでは終らなかった。遺跡の美しさは無限であり、彼はピラミッドや壁画や巨像に会うため、二年おきに合計七回もカイロと東京のあいだを往復した。中東戦争がおこって難渋したりしながら、このライフワークを仕上げるまでに十二年を要したのだ。のちにこの『大いなるエジプト』は日本写真協会賞を受賞した。  この仕事を続行させながらの昭和三十七年には、明治大学第二次アラスカ学術調査隊に加わって、氷と雪にとざされたエスキモーの村で三カ月間をすごしてきた。その写真集『アラスカエスキモー』(昭和五十四年朝日ソノラマ刊)に一文を寄せた蒲生正男氏は「一人の写真家が多くのエスキモーの友人たちとの、心の交流の中でつづった、情熱と苦闘の記録」であると書いているが、渡部の写真というものへの執念が随所に躍動している。そして、ここにも彼の心のなかの「東北の風土」がひろがっている。この写真展は富士フォトサロンで開催(昭和三十八年)された。  カイロからパリヘいった昭和三十六年四月、渡部はシャルトルという小さな町の、大聖堂を観にいってそこのステンドグラスを見あげたとたん、ピラミッドや壁画に面したときとはまた異った、聖なる美しさに驚嘆してしまい、同時に「これも撮っておかねばならぬ」意欲に全身がふるえた。  ステンドグラスに憑かれた彼は、全ヨーロッパの聖堂のそれも撮りたくなった。こうしてカイロばかりでなく、パリヘの往復も開始された。冒頭に書いたように、このステンドグラスにカメラをむけているときの渡部の瞼には、土門拳の『古寺巡礼』がちらついていたのではないか。  ぼくは『STAINED GLASS』がこれまでの渡部雄吉の最高傑作だと思い、「ついにやったぞ、よくやってくれた!」と拍手を送っているのだが、しかし写真界はまだまだ彼に対してはきびしい。 「渡部氏はいいものを撮っている。けれどもそれはテクニックで撮っているのであって、血を流していない。せっかくいいテーマと出会いながらも、急行列車のように一瞬にしてすれ違ってしまう。いろんなものをあまりにも多く見すぎているのと、器用さがわざわいしているせいではないか」というのである。 「土門拳という巨大な山が、いい意味で邪魔になるのではありませんか?」  ぼくは最後に、そう質問してみた。  彼の答えに淀みはなかった。 「土門さんの『風貌』のなかに、ひとつだけ好きでたまらない作品があるんです。この一枚が頭にこびりついている。仕事をしようとするときに、必ずこいつが思いうかんでくるんです。それは仁科芳雄博士が加速炉を背景にちょこんと腰かけているところなんですがね。アクのつよい土門作品のなかで、仁科博士の人柄が出ていて何でもない感じなんです。自分でもそういうものを撮りたいと思うから、思いうかんでくるんでしょう」 「いろんな苦労をつみ重ねてこられたあなたにとって、写真とは何ですか?」 「写真は写心だと思う。被写体の心と、撮る人の心を写すものだと思います。被写体が言う。写真ってすごいもんですね、心のうごいたときにパチリとやりますね。こちらの心のうごきがわかるんですか、と。松下幸之助さんを必死に撮っているときに『それだけ撮れば儲かりまっしゃろ』と言われましてね。ほかの人が言えば厭味だが、撮る人の心を理解してくれたという気になったものです。被写体の心をとらえると同時に、こちらの心もわかってもらえたわけで、ぼくにとって写真とはそういうものです」  写真は写心なり……そう言われてみれば『大いなるエジプト』の壁画の人物も、『STAINED GLASS』に描かれているおびただしい群像も、『アラスカエスキモー』の男女の一人ひとりも、ちゃんと個々の心が写されている気がしてきた。(昭和五十四年十月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十四年写真展「山峡に笛や大鼓が」、写真集「アラスカエスキモー」(朝日ソノラマ)。五十五年写真展「マグレブ」、写真集「揚子江下り」(グラフ社)。五十六年写真展「水の都・蘇州」、写真集「水の都・蘇州」(講談社)。五十七年写真展「光と色の交響楽・ステンドグラス」、写真集「ステンドグラス」(小学館)。ウイーン世界青年芸術祭報道部門金賞受賞。