[#表紙(表紙4.jpg)] カメラマンたちの昭和史(4) 小堺昭三 目 次  長野重一「時代の現場にいる人」  杵島隆「叩かれっぱなしの人」  藤本四八「いまだ老いず」  石井幸之助「総理を撮りつづけた人」  田嶋一雄「カメラ王の素顔」(特別読物) [#改ページ] 長野重一《ながのしげいち》「時代の現場にいる人」  おびただしい量のテレビCMを、わたしはわずらわしがらずに観るほうだ。あれには世相がある。時代感覚や流行もある。「なかなかにシャレてるな」と感心するものもあれば、観たというだけでまったく印象に残らないのもある。「これは受けるぞ」と思ったキャラクターはのちに、たいてい有名になってゆくので、おれの鑑賞眼も捨てたものではないなと自負している。  朝日新聞の『声』の欄に十九歳の受験生の投書が出ていた。 「街の中を歩いていると、テレビのコマーシャルそのままの格好で歩いている人をたくさんみかける。もちろん、若者である。もはや個性のうんぬんの問題ではない。テレビに人間が振り回されている。それをわからずに、これこそ自分の個性のあらわれだといわんばかりに、ほとんどの者が同じ姿で歩いている。こうなると僕は、その中を歩きながら、本質的な違和感を得たいと考えている」  と、その青年は憤然として拒絶したがっている。  その気持は大いにわかるし立派なことだが、しかし、彼自身もまたテレビのCMを観ているからこそ、そうした意識がはたらくのである。現代人の生活のなかにはそこまで、否応なくテレビCMがはいってきているのだ。  テレビCMに興味はあっても、どんな人がどのように制作しているのかは、わたしには関心がなかった。だから長野重一さんが、有能な制作者の一人であると聞いたときは、即座に問い返した。 「最近作にはどんなのがあります?」  長野さんは日やけした顔に、はにかむ笑みをうかべて答えた。 「ああ、あれですか」  わたしはすぐに思い出した。ということは、見せられるかたっぱしから忘れてしまうCMが氾濫しているなかで、わたしの印象に残っているひとつだったわけだ。異色のキャラクターである研ナオコがファッションモデルに扮して踊りながら、 「まだお厚いのがお好き?」  と言うチャーム・ナップ・ミニ——女性の生理用品のそれである。若い女性の視聴者たちにこのCMがバカ受けして、生理用品の大手メーカーの販売量を一気に追い越してしまったそうだから、大した効果だ。  テレビCMの優秀作に贈られる昭和五十二年度のACC大賞は、ハンディーテレビのトランザム片手に高見山がタップダンスを踊るのに決定したが、長野さんはすでにその大賞は数年前に受賞しているばかりでなく、これまでに二百本におよぶCFを制作してカンヌ世界CMフェスティバル賞、アメリカIBAコンクール賞をはじめ広告電通賞など三十本も獲得しているという。  彼は「日本現代写真史」(日本写真協会編・平凡社刊)にも数々の作品が収録されている報道写真家であるのに、いつの間にテレビCMの世界に転向して活躍し、それほどの栄冠を得ていたのか、わたしには驚きであった。 「CMは〈読み人しらず〉でいいんです」  と彼は言う。だれそれの傑作だと言われなくてもいい。スポンサーの作品として片づけられてもかまわぬ。そのほうが気楽にやれますからね、とも言う。  そして、彼自身も制作したそのCMを、かたっぱしから忘れてゆくんだそうだ。ある日あるとき、どこかのテレビでたまたま、自分のそのCMが映っているのを観て、 「あれはおれの作品じゃないか。なあーんだ、まだ放映されているのか」  と苦笑するていどである。  それでは余技で制作しているのかというと、そうではない。余技では三十本もの受賞作は創れっこない。彼はグラフジャーナルに失望すると同時に、電波のメディアに新鮮さをおぼえた最初の写真家なのである。  なぜ、彼はそうなったのか? (一)  長野重一は大正十五年三月三十日、九州は大分市魚町に生まれた。実父の生野廿一《しょうのはついち》は歯科医であり、重一は次男坊だった。  廿一の叔父に長野善五郎という、銀行や繊維会社を経営していた大物実業家がいた。善五郎夫妻は東京は高輪の豪壮な邸宅に住んでいたが実子がなく「次男坊ができたら養子にくれ」と廿一に頼んでいた。だから重一は生まれるとすぐ長野家へ入籍され、小学一年生までは父母のもとで育てられた。  重一が五歳のとき、善五郎は他界した。それでも小学二年生になる春、彼は未亡人が待っている東京へつれてゆかれた。高輪は三菱の岩崎邸や毛利邸などがあるお邸町だった。広い邸で未亡人と二人で暮らすのがさびしく、重一は上京して一週間は泣いていた。  大分を発つときに祖母が十円の餞別をくれた。十円あれば当時、大分までの汽車賃になったので「これさえあればいつでも父母のもとに帰れるんだ。そのときは品川から急行列車に乗ろう」と自分に言いきかせ、浪費せずに大事に貯金しておいた。  慶応義塾の幼稚舎に転校した。父がよく上京してきてくれた。夏休みには帰郷を許されたのでさびしさはなくなり、養子の身であるのも苦にはならなくなった。浅草が好きで、未亡人の養母によくつれていってもらった。下町の人たちにはアチャラカ風の軽演劇が受けていたが、宮戸座という歌舞伎小屋があって、重一はそこが好きだった。緞帳《どんちょう》芝居とよばれていて、これは引幕を用いることを許されず、垂れ幕を使用したところから名づけられたのだが、歌舞伎でも格が低く、それらの役者は緞帳役者と軽蔑されていた。重一にはしかし、そんな格などどうでもよく、胸がときめくのをおぼえた。女形のグロテスクな様式美みたいなものに魅かれる、子供ごころにもある異形の性へのあこがれがあったのだ。玩具にひとしい東郷カメラを買ってもらい、自分で現像するたのしさも知った。  慶応義塾普通部に進学したとき、養母が病歿した。父の姉にあたる叔母が邸に移ってきて、身のまわりの世話をしてくれることになった。長野家の財産は莫大にあったらしく生活に窮することはなかったが、管財人がいて重一は、遺産については何も説明してもらえなかった。オリンピックというカメラを父親に十円で買ってもらったのがうれしく、写真部にはいって作品を文化祭に出品、得意になっていた。遺産があることより十円のカメラのほうがありがたいのである。  慶応大学経済学部に進学、ここでも「フォトフレンズ」という写真部に加わった。三木淳、船山克、芳賀日出男らはこの写真部の先輩である。重一は管財人の許可を得てドイツ製のローライコードを買った。  太平洋戦争が熾烈になってきて、軍需工場へかり出される学徒動員がはじまった。先輩たちの多くは予備学生となり、特攻隊を志願して戦場へ出陣した。戦況は不利になってゆき、敵機の日本本土空襲が開始された。  軍需工場ではヘトヘトになるまで働かされる上に食糧がなく、空襲でやられ、自分たちも第一線へ送られる日が近づきつつあったが、せめてもの楽しみは「フォトフレンズ」の仲間とヤミでフィルムを入手し、郊外の山林へいって撮影会をやることであった。モデルになってもらう女性は、学友の姉とかその友だちだった。彼女らはモンペ姿で、重一たちはゲートルをつけていた。しかし、モンペ姿では絵にならないので、山林のなかでそれを脱ぎ、スカートやワンピース姿でポーズをとってもらった。  その作品の合評会やらコンテストを、重一の邸で開催した。空襲警報の不気味なサイレンが鳴りだすと、みんなして庭の防空壕へ逃げこんだ。アマチュアながら女性写真ばかり撮っていた野島康三を招待し、批評してもらったこともあった。この人の本職は画家であり、戦争中でも軍国日本に背をむけ、軽井沢で女性のヌードを撮りつづけている耽美主義者だ。 (二)  昭和二十年三月九日夜、東京はB二九の大空襲をうけて二十三万戸が焼失、十二万人の死傷者を出して下町一帯が地獄と化した。  五月二十四日には再度の大空襲で皇居も爆撃されたほか、山の手一帯が火の海となり、このさい長野家の豪邸も貴重なアルバムも灰燼《かいじん》に帰した。管財人が三浦半島の逗子の披露山中腹に、手ごろな空き別荘を見つけてくれ、ここを買って重一と叔母は引越しさせられた。そうなってもまだ、遺産があるので生活費に困ることはなかった。  ついに重一も戦場へかり出されるときがきた。徴兵検査の結果、第一乙種合格、八月二十日に宇都宮陸軍航空隊に入隊すべしの通知がとどいたのだ。身辺の整理をして、 「養子の自分が死ねば、いよいよ長野家は絶滅するのだな。こうなっては日本民族そのものが滅亡するのも時間の問題だ」  と重一は覚悟するしかなかった。沖縄本島も奪取され、あとは本土決戦あるのみと叫ばれていた。「フォトフレンズ」の仲間たちと山林で女性写真を撮ったこと、その作品の合評会やらコンテストをやったことだけが、いまは青春のなつかしい思い出となった。  ところが八月十五日正午、全面降伏の玉音放送があった。五日後の入隊はどうすべきなのか、重一は迷った。  十七日には逗子町の住民たちが騒ぎだした。  重一の家の庭からは相模湾が一望に見渡せた。その沖合に艦艇が無数に群がっているのが見え、住民たちは敵前上陸されると思い、上を下への大騒動をおこしているのだった。星条旗がはためくのも見えた。  米軍機が飛来した。ビラをまき散らしていった。それには「日本の天皇はポツダム宣言を受諾し降伏した。国民も無駄な抵抗はすべきでない」と印刷してあった。  厚木航空隊の戦闘機も飛んできて、同じようにビラを撒布した。それには「われわれはまだ負けていない。最後の一兵まで戦争は続行する。天皇陛下もその覚悟でおられるのだ」とあった。では、やっぱり入隊しなければならぬのかと思ったが、八月二十日になっても重一は宇都宮へは行かなかった。  大学が再開され、戦場から復員してきて復学するものも大勢いた。そのなかにはのちに芥川賞作家になる安岡章太郎、プロ野球の別当薫、映画監督の岡本愛彦らもいた。  法令改正で多額の財産税をかけられたため、高輪の邸跡は手放さねばならず、重一が遺産としてもらったものは逗子の家のみであった。彼は慶大にかよいながらアルバイトにはげまなければならなくなった。立川の米軍基地近くにオープンしたDP屋の、その下請けをやった。  藤沢市に住んでいた有名な歌舞伎俳優の、その娘の家庭教師もひきうけた。  逗子の家の近くにいた映画雑誌「キネマ旬報」の則武亀三郎を知ったのがきっかけで、その社が創刊した邦画雑誌のアルバイトもするようになった。東宝や松竹映画の撮影所にかよい、そのころニューフェイスとして売り出した久我美子、若山セツ子、岸旗江、三船敏郎などのスナップ写真を撮らされたのだ。大学時代に買ったローライコードが、いまでは商売道具になったわけだ。  銀座六丁目に千代田商会というカメラ屋があり、重一はここで材料を買っていた。この店の近くにマーケットがあり、二階の一角に四坪ほどの広さの写真工房ができたのを知った。秋山庄太郎が復員してきてはじめた秋山スタジオで、遊びにかよううちに稲村隆正や土方健一らを紹介された。慶大の先輩である三木淳もここで知り、彼につれられて重一は、土門拳の築地の住居を訪ねたこともあった。みんなまだ貧乏していた。  昭和二十二年九月、慶大を卒業した重一は、商事会社に入社した。秋山スタジオでプロ写真家たちと交わり、「キネマ旬報」などの仕事もしているが、写真に一生を賭ける意欲はなく、長野家を再興するにはやはり実業家になるべきだ、と思っていたからである。  ところが、敗戦国の商事会社だから、当時はまだ商社マンなんていうカッコのいいものではない。隠匿物資をうごかすヤミ屋にすぎず、ほとほと嫌になってひと月勤めただけで重一は逃げだした。 「やっぱり、写真家になるしかないな」  ようやくその気になり、三木淳の紹介で有楽町の、毎日新聞社六階に名取洋之助を訪ねた。名取は十一月から発刊する「週刊サンニュース」の準備に追われていた。  これが重一にとっては運命の出会いとなった。 (三)  長野重一は、名取洋之助を師と仰ぐようになった。名取は三十九歳、重一は二十二歳である。  日本の写真界に残した名取洋之助の功績は大きい。明治四十三年生まれ。父親は三越デパートの社長をつとめた財界人だが、名取は慶応義塾普通部を卒業した昭和三年、ドイツへ渡ってミュンヘン美術工芸学校に学んだ。ユダヤ人系のジャーナリストやカメラマンがいるウルシュタイン通信社の契約カメラマンになり、名取は逆に日本へ取材にきたりした。昭和十一年八月のベルリンにおける第十一回オリンピック大会でも、彼はカメラをかついで活躍した。日本最初の国際カメラマンである。  だが、ヒットラー総統のユダヤ人弾圧に遭ってウルシュタイン通信社の連中がアメリカへ亡命すると、名取もまたかれらと行動を共にすべく、オーストリア人であった愛妻を同伴してニューヨークヘむかった。かれらがニューヨークで斬新な週刊グラフ雑誌「ライフ」を創刊(昭和十一年十一月)すると、名取は再び契約カメラマンになった。  しかし、こんどは名取のほうが逃げださねばならない立場になった。日本の対米宣戦布告が近くなったからで、昭和十六年、彼は愛妻を伴って帰国、東京で国際報道工芸を創立した。戦争の激化につれてその仕事はできなくなっていったが、戦後の初仕事がこの「週刊サンニュース」の創刊であり、責任編集の彼は日本の「ライフ」をめざしたのだ。  名取は長野重一を採用したが、 「ただし、カメラマンには木村伊兵衛さん、藤本四八、稲村隆正、薗部澄ら一流がそろったので、きみは編集者になりたまえ。決して損はしないよ」  と言い、カメラをいじらせてはくれなかった。  月給は千円であった。  忙しくて逗子の家には帰れず、編集部の床の上に新聞紙をひろげて寝泊まりする日がつづいた。めしも社内で炊き、おかずは有楽町ガード下にあった「日の基マーケット」へ買いに走った。そこいらをシマにしてGIたちを相手にしているパンパンガールたちの、大姐御であるラク町お時と顔見知りになり、 「あら、兄さんは今日も泊まり?」  と声をかけられたりした。  写真につける二行ないし三行のキャプションつくりにも苦労した。レイアウトマンは、のちに漫画家になる岡部冬彦だった。木村伊兵衛が表紙写真を担当していて、素人娘がいいというので重一が、街頭に立ったり喫茶店へいってモデルになってくれるチャーミングな女の子をさがした。文豪の久保田万太郎に連載小説を執筆してもらっていたので、その原稿とりもやらされた。  はじめてカメラマンとして仕事をさせてもらえたのは、昭和二十三年の暮だった。浴風園という老人ホームでは政府の援助がないため、老人たちが栄養失調になってつぎつぎと死んでいる。飢えている老人たちが駅までいって物乞いしている。この悲惨な現実をルポルタージュしてこいというわけだ。 「だれにも負けないのを撮ってくるぞ」  重一は勇んで飛びだしてゆき、世に訴えたくて撮りまくった。そして、帰社すると自分でレイアウトまでしたが、この作品は陽の目をみないままになってしまった。創刊してまだ一年とちょっとしかならないのに「週刊サンニュース」は経営不振になっていて、二十四年一月には廃刊に追いこまれたからである。  だが、自信があった重一は、このときの栄養失調のおばあさんのポートレートを、「アルス写真年鑑一九五〇年版」が一般公募したさいに応募した。中村立行のヌードが推薦になり、長野重一のは特選として羽田敏雄と共に選ばれ、準特選に石井彰、岩宮武二らが名をつらねていた。  ドキュメンタリーの勃興期でもあり、以来、重一は報道写真家をめざした。名取洋之助の影響をうけて「ジャーナリズムのなかで写真を考える」方向へと直進し、作品としては「ライフ」のカメラマンであるユージン・スミス(のちに水俣病の悲劇を撮った)や、フランスのブレッソンが好きであった。  名取が岩波写真文庫(岩波映画の前身)の編集長に迎えられ、重一が第一カメラマンになった。編集部員の一人に羽仁進がいた。  岩波写真文庫は評判がよく、昭和二十五年から三十四年まで、あらゆる分野にわたって二八六冊も刊行した。重一は『南氷洋の捕鯨』『木綿』『魚河岸』など全国をまわって撮った。美術、歴史、科学と何でもやらなければならなかった。  この仕事をはじめた年、学生時代の同級生の妹と結婚した。その邦子さんは四歳年下、写真にはまったく興味はなく、推理小説を読むのが大好きだという。 (四)  岩波写真文庫の仕事を七年間やって、長野重一は昭和三十二年にフリーになった。土門拳、木村伊兵衛、三木淳、奈良原一高、川田喜久治らの「集団フォト」に参加した。 「写真文庫の仕事は社会科を写真にしたようなもので、写真の分野ではまったくの挿絵的なものにすぎない。写真で説明してみせるだけだし、カタログ屋さんに近い。カメラマンそのものの眼は必要としないわけです。たとえば、銅山を撮るにしても、カタログ的なものではなく自分の眼でとらえ、資本主義発達史のようなテーマにしたいんです。周りを見るとみんな、それぞれ独自の道を歩きはじめているし、自分も自分の眼でとらえた作品を創らねば……そういう焦燥感をおさえることができなくなりました」  それがフリーになって「集団フォト」に加わる動機であった。この年から日本写真批評家協会賞が設定され、その第一回作家賞は濱谷浩と石元泰博が受賞、新人賞には東松照明と中村正也が選ばれている。  重一は「文藝春秋」や「世界」などの総合雑誌のグラビアの仕事をしながら、翌三十三年には自費で香港へ飛んだ。三十二年には濱谷浩が『移り変わる北京』を、渡辺義雄が『ソ連拝見』を、土門拳が『奈良断章』を、藤本四八が『闘牛の国スペイン』を、田沼武能が『シベリアの旅より』を発表している。そういう刺激が彼を香港へ飛ばせたのである。  アジアの東西両陣営の接点としての香港をルポして、重一は『香港』と題してスキヤ橋富士フォトサロンで初個展を開催した。日本写真批評家協会新人賞に推してくれる人が多く、それほどの評価を得たけれども、 「長野君はもう新人じゃないよ」  と言うことで受賞は逸した。  翌三十四年には第八回集団フォト展に『午後五時のサラリーマン』を出品した。丸の内のオフィス街の退社時の表情をとらえたもので、時代の尖兵であるホワイトカラーが組織から解放されたときの、うれしげな表情、虚しい面もち、使いすてになる人間の姿などをみごとに活写していた。世は黄金の年、所得倍増、高度成長といわれレジャーブームが到来しつつある時代で、 「時代をよくとらえている。その手ごたえが感じられる」  というのがこの作品に対する世評だった。  昭和三十五年には『六〇年安保闘争』を「世界」に発表、『話題のフォト・ルポ』を「アサヒカメラ」に一年間連載、ドイツへ飛んで『ベルリンの東と西と』『強制収容所』を撮っている。その『話題のフォト・ルポ』では炭坑街の男たち、災害地の子どもたち、警視庁機動隊、政治屋たちなどをカメラで追いつづけており、彼は言う。 「土門拳さんのは乞食リアリズムで社会の底辺を撮っていたし、濱谷浩さんは涯《は》てもの……裏日本のきびしい風土を撮ってました。ぼくは普通の市民生活に密着したものに眼をむけたんです。池田首相を撮らずに、彼をとりまく政治屋たちにレンズをむける。安保闘争でも機動隊ばかりを撮るというふうに、視点をずらせたんです」  批評家やフォトジャーナリストたちは口をそろえて「長野は報道写真家ではなく、新しいフォトエッセイストだ」と賞讃したし、桑原甲子雄は「日本現代写真史」のなかで「写真による社会時評に主体的な眼をもちこんだ」と書いている。 『ベルリンの東と西と』は昭和三十五年度日本写真批評家協会作家賞を受賞、また『強制収容所』にはカメラ芸術賞が贈られた。さらに翌三十六年にも『東京エッセイ』『群像』の透逸な連作を発表、こうして長野重一は乗りに乗っているという感じであった。年代的には彼のすぐあとからは、東松照明、細江英公、佐藤明らの「VIVO」グループが追ってきており、先には土門拳や濱谷浩が駆けている——いわば中間にあって、特異のフォトエッセイストの地位を確保したのである。  それなのに彼は、その特異の地位をみずから放棄しはじめた。『東京エッセイ』と『群像』を撮ったあと映画界へ走っていったのである。  岩波文庫で同じカマのめしを食った羽仁進がメガフォンをとり、松竹系の劇映画『充たされた生活』(石川達三原作)を制作することになった。主演は有馬稲子、アイ・ジョージで、羽仁進が長野に、 「カメラをまわしてみませんか」  と依頼してきた。  重一は映画を撮った経験がある。昭和三十四年一月、フジテレビが開局してまもなく『年輪の秘密』と題する二十分ものの、テレビ用の一六ミリ映画を制作したのである。出雲神楽を踊る農夫、恐山のいたこ、黄八丈を染める老婆などのドキュメンタリーだ。それで羽仁進の依頼にもOKしたわけだが、これはモノクロのシネスコであった。  重一にはひそかな野心があった。これまでの映画のカメラマンはドラマの流れを追うことに必死だが、彼の場合はひとつひとつの構図——空間のもっている意味を大事にしようと思ったのだ。つまり、時間の流れとグラフィックな空間のとり方の巧みさの違いを出したかったのである。  重一は成功し、映画の新しいカメラマンとしての存在を示した。といって、そのまま映画界にとどまったわけではない。翌三十七年には「カメラ毎日」に『経済地図』を、三十八年には「カメラ芸術」に『現代のマッス』を連載、フォトエッセイストとしての、ますますの切れ味のよさを見せた。『経済地図』を連載中、師の名取洋之助が五十二歳で鬼籍にはいった。  昭和三十九年十月、第十八回オリンピック東京大会が開催されたとき、重一は市川崑が総監督となって制作する映画『東京オリンピック』のスタッフに加わった。師の名取洋之助がベルリンでのそれを撮り、今また自分が撮るチャンスに恵まれたことが感無量であった。彼は開会式と体操競技の撮影を担当させられ、演出も編集もまかされた。 「映画のカメラマンは技術屋さんで、撮影そのものはうまいが、表現には参加してくれないんだ」  と市川監督が洩らしていたが、事実そのとおりで、監督の指示には忠実でも「このシーンはこんなふうにカメラを据えたほうが、より効果的ではないか」と意見したりしないというわけだ。  重一は、アフリカの小国からたった一人参加した、陸上競技の黒人選手をカメラで執拗に追いつづけた。だれがどのような世界新記録を樹立しようと、国際色ゆたかなスタンドがどんなふうに湧いていようが、どうでもよかった。その黒人選手が力走する。黒くひょろ長い二本の脚や孤独な表情だけを、延々と撮りつづけたりした。  この『東京オリンピック』が一般公開されたとき、「あれはオリンピックの記録映画ではない。スタッフたちの思いあがりだ」の非難の色があがり、一方では「いや、あれは新鮮な描写だよ」の絶讃があり、賛否両論が沸騰したことは読者諸氏にもご記憶があるだろう。 (五)  昭和四十五年、大阪で開催された万国博の、住友童話館で上映する映画を制作してからは、にわかにテレビCFの制作依頼がふえていった。  彼のテレビCMの処女作は、昭和三十七年制作の、雪印乳業のネオ・ミルクの六十秒ものであった。  CFはまずクライアント(広告主)との詳細にわたる打ち合せにはじまり、マーケッティング活動と企画をおこない、各クリエーターの考えた企画案が検討される。つづいてコンテ(ストーリー)を制作・再検討、制作フィルムプロダクションとの協議をやる。それからがスタジオないしロケによる撮影開始。その三五ミリフィルムが現像され、ラッシュ試写。編集されたフィルムに合せて音楽録音、ナレーション録音、ダビングをやる。  外国へ渡ってロケしたり、向うの俳優を登場させたりの大がかりなものもある。ハリウッドスターのチャールズ・ブロンソンをひっぱり出してきた男性化粧品のCMは、六十秒もので総制作費が三千六百万円といわれるが、大方は一本三百万円から一千万円だ。しかも最近では六十秒ものは少なくなり、三十秒ないし、十五秒ものがほとんどである。その短いなかにドラマを成立させなければならぬし、大衆が期待している「明るく、感じがよく、そして親しみがもてる」CMのイメージに応えなければいけない。  冒頭でわたしは、テレビCMには世相がある、時代感覚や流行もあると書いたが、それにもさまざまな変遷の歴史がある。新聞や雑誌広告、ポスターなどがそうであったようにテレビCMの場合も、昭和三十年代では商品片手に美女が大衆ににっこりほほ笑みかける——いわゆる美貌のスターを登場させて大演出したものが大半であった。これでもか、これでもか式に商品を大衆におしつけるので、視聴者は逆に反感をおぼえ、CMがはじまるとトイレに立った。「CMタイムはおトイレタイム」などといわれたのもこのためだ。  だから長野重一は、雪印乳業のネオミルクのCMを制作するとき、腕白な子供たちを好き勝手に遊ばせるコンテにした。まったく演出なしだし、商品は二の次にした。だが、これがにっこりほほ笑みかけながらもこれでもか、これでもか式におしつけるものより好感のもてる新鮮な画面になった。いわば長野重一が、それまでのテレビCMのイメージを一変させたのである。  彼は市川崑と組み、歯みがきクリームのホワイト・ライオンのそれも制作した。女優の加賀まり子をキャラクターにして、それまでのこの種のCMは、歯ブラシでみがく手まねだけさせたが、実際に彼女が歯ブラシを頬ばってみがいてみせる顔をアップで撮った。すると、つばのまじった白いクリームが唇のはしからポタポタ落ちたりするので、視るものに汚ならしさを感じさせかねない。  クライアント試写を観た関係者たちもそう感じて、放映させない意見を出した。商品のイメージダウンになるというのだ。しかし、それをおし切って放送させてみると、視聴者には新鮮なCMとして好評だった。それは名取洋之助を師としてきた長野の、ジャーナリストとしてのセンスの開花であった。  昭和元禄の時代には「消費は美徳」のCMが氾濫し、つづいて「モーレツからビューティフルヘ」などのフィーリングCMの時代へ移向した。石油ショック以後の不況になるとさらに、ドキュメンタリー調CMへと大きく転換しつつある。  こうなってくると、ますます長野重一の独壇場であり、年間十本以上のCF制作に追われる身になっていった。広告写真を手がけてきた名手には中村正也、岩宮武二、杵島隆、佐藤明、早崎治らがいる。立木義浩や篠山紀信、横須賀功光らの若手もいる。だが、うごく広告の制作に没頭したのはフォトエッセイストの長野重一が最初である。しかも前述のように、三十本もの内外CM界の賞を獲得しながらも、彼自身は「CMは〈読み人しらず〉でいいんです」と涼しい顔をしているのだ。  名をすてて実をとった、のではない。涼しげな顔をしているようでも、内面は苦渋に充ちているのである。わたしは「彼はグラフジャーナルに失望すると同時に、電波のメディアに新鮮さをおぼえた最初の写真家」と紹介したが、グラフジャーナルに失望せざるを得なかったそこに長野の苦悩があるのだ。  戦後に復活し活況を呈してきたグラフジャーナリズムは、平和になるにつれて凋落していった。その原因のひとつはテレビの普及であり、TVニュースやTV特集で世の出来事を早急に知り、大衆はたいていの報道写真にも感動しなくなった。同時にドキュメンタリー作家の多くは意欲を失い、週刊誌のグラビアヘと移行していった。有態《ありてい》にいえば、かれらには撮りたいテーマが涸渇してしまった。それを見つけて撮ったとしても、もはや大衆を魅了する迫力がないのが現代なのだ。  たとえばダッカのハイジャック事件でも、宇宙中継によるテレビの画面を大衆は茶の間で観ることができる。犯人がコントロールタワーと交信する、その生の声まで聴いていられる。それが大衆にとっては「作品」になっている今日なのだ。  いまひとつ、報道写真は個人的主張よりも被写体の話題性のほうに興味をもたれがちだ。その時代時代をそのまま記録している。時代の証言者的存在であり、撮ったその時点でより歴史を経たいまとなって評価される。長野重一の『六〇年安保闘争』にしても、現場写真として大衆は貴重に思うが、その撮影者がだれであるかについてはさしたる関心を示さない。その悲哀を彼自身も痛いほど感じたのでもある。  だから、グラフジャーナルに失望した彼は映画に走り、映画もまたテレビに圧倒されたため、電波のメディアへ移ったのだ。わたしは、これからの写真家は多かれ少なかれ、長野重一のように「漂泊者」にならざるを得ないのではないかと思う。コケの一念で、写真を一生の仕事としてゆく姿勢は立派なことだが「漂泊者」にならざるを得ない苦悩もまた理解できる。  かといって長野重一は、報道写真家である自分を忘れてしまったわけではない。 「日本のテレビCMはアメリカのそれと違って、フィーリングや娯楽性で厚化粧しており、多分にお祭り的なんです。日本人はまた、こういうお祭り的なものでないと好まない」のを制作者としての彼は腹だたしく思いながらも、一方では写真家としての眼をランランとかがやかせている。  CMのフィルムは一秒間に二十四コマ。三十秒のでは七百二十コマだが、ラッシュ試写をしているときに「それだ。その一コマでいい。そのほうがつよい。残りの七百十九はすててしまえ」と思うことがしばしばある。一枚写真にこだわっているのであり、その原点にもどりたがっているのだ。一枚の断片だけで見る人に何かを感じさせるもの……それを求めつづけているのである。  オランダのヴァンデル・エルスケンらの影響をうけて、ひところ日本の若い写真家たちがフォトストーリーを創りはじめた。組写真にしてひとつのイメージを創造する傾向だが、長野にいわせると組写真だって結果的には一枚なのである。  群写真もあるが、これでも映画やテレビにはかなわない。たとえば「これが日本だ!」と言えるものを、何枚かの組写真や群写真で見せるよりも、たったの一枚で表現できれば、これに勝るものはない。写真とは元来そういうものであるし、そういう一枚を長野重一は撮りたがっているのである。  かれは「読み人しらず」のテレビCM制作に追われながらも、結局は写真の原点に必死にもどりたがっているのだ。(昭和五十三年一月取材) ●以後の主なる写真活動 テレビCM、ドキュメンタリー番組制作。昭和五十三年「ドリームエイジ」(朝日ソノラマ)。 [#改ページ] 杵島隆《きじまたかし》「叩かれっぱなしの人」  ——取材のあと、新宿へ飲みにゆこうということになった。外はすでに昏れていたが、真冬なのに春の宵みたいに暖かかった。  市ケ谷富久町の杵島スタジオは、江戸時代の由緒ある自証院跡にあり、表通りへ出るまではコンクリートでかためた坂道をくだってゆかなければならなかった。  坂道の途中で杵島さんとぼくは立小便しながら彼が真顔で言った。 「ミミズにひっかけんようにしなくちゃ」  あははは……とぼくは笑った。少年のころよくそう戒められたのを思い出したのだ。ミミズに小便をひっかけると、チンポコのさきが赤くはれあがってしまう、と。 「おどろいたなあ。杵島さんはいまでも、あんな迷信を信じているんですか」 「迷信なんかじゃないよ。ほんとに赤くはれるんだからあんた」 「そんなバカな」 「いや、はれたことがあるんです」  言い合っているうちに小便はおわった。  だいいち、東京のどまん中の、コンクリートでかためた道にミミズなんか出てくるわけないのだ。それなのに、いると思っている杵島さんがおかしかったし、五十八歳にもなるのにチンポコが赤くはれると頑なに信じている、その顔が愉快でならなかった。  だが、彼はそういう古い迷信さえもバカにしたくない、いかにも日本人的な「外国人」だったのである。 (一) 「あの男は、ある日とつぜん写真家になり、いつのまにやら写真界のなかにあぐらをかいていた」  杵島隆については、写真界の人たちはそんなふうに見ている。おどろきであったり、やっかみであったり——とにかく、ふしぎな存在であることは事実だ。  彼がはじめてアルス「カメラ」の月例コンテストに応募したのは昭和二十五年、自分の祖母を撮った『老婆』であった。しわくちゃな貌《かお》のなかに異様に光っている眼は、女の一生を象徴しているといったようなそんな浅薄なものではなく、人間の生そのものの根源に迫る表情である。生きることは何かを教えている。  このリアリズムが審査員だった土門拳の激賞するところなり、特選をあたえられた。多くの人たちも「これは土門リアリズムにもっとも近い作品だ」と評していたが、この一作で三十歳の新人杵島の存在を示したようなものであった。  この新人はどこにいたかというと、鳥取県は米子空港の敷地内に、特攻隊くずれをあつめて野武士みたいな生活をしていた。彼もまた海軍飛行機乗りの生き残りであった。  杵島は秋山庄太郎と同年、大正九年十二月二十四日のクリスマスに、カリフォルニア州カシキシコ町で生まれた。この町はメキシコ国境に近く、コロラド砂漠のなかにある。  父の渡辺近蔵は鳥取県境港の出身、明治三十八年にロザンゼルスに渡り、濠州産のカンガルーの皮革でこしらえた靴の裏に生ゴムを張りつけるラバーソールを開発、これを大いに売りまくった。そして、サンジェゴの米海軍基地に納入するため、カシキシコ町に工場を建てて量産していた。  隆は三人兄弟の二番目であった。アメリカ国籍になっていた。だが、彼だけは三歳にして日本へつれてゆかれた。母方の杵島家の養子ということになったのである。  旧家である杵島家は、代々農業を手広くやってきた。その田畑はいまは米子空港になってしまっている。  大篠津小学校から県立米子中学に進学。この中学の七年先輩に植田正治、米子商業には同輩の岩宮武二がいたが、そんなことはまだ知る由もない。  成長するにつれて杵島は、アメリカ国籍の自分が「異人」に見られる劣等感を抱かざるをえなかった。山陰地方の少年たちにとって松江高校(旧制)はあこがれの的であった。彼も受験し、合格はしたものの入学できなかった。やはり「外国人」であることで資格を失ったのだ。  父近蔵の知人の紹介で彼は、東宝映画会社の委託学生として、東京江古田にある日本大学芸術科に入学できた。それでもまだ「日本人でありながら日本人でない」コンプレックスがなくなったわけではない。  委託学生だから学校へかようだけでなく、東宝の仕事もさせられた。映画のマーケットリサーチをやらされた。ひとつの作品が封切られると一番館から三番館までの映画館を、地方へもいってみてまわり、客層や観客数を調べるのである。  だが、太平洋戦争は熾烈になる一方であった。「欲シガリマセン勝ツマデハ」を国民は合言葉にし、学徒動員もはじまった。昭和十八年、杵島も海軍飛行予備学生を志願した。藤田進主演の『姿三四郎』でメガフォンをとった黒沢明監督が、こう言った。 「きみは日本国籍でないのに、志願してまで征く必要はないよ。戦場へおもむくばかりが奉公じゃない。残って映画の仕事をやるのも立派なことなんだぞ」  杵島はしかし、黒沢の意見には従わなかった。志願することで、自分も日本人であることを証明したかったのである。  第十三期生として三重航空隊に入隊した。現在の大平内閣の官房長官である田中六助氏が同期であった。杵島は基礎訓練をおえて偵察機要員となり、青島《チンタオ》航空隊に配属になったが、第十三期生の多くは特攻隊の中核として散華しなければならない運命にあった。  昭和二十年、杵島は福岡県の築城基地に転属になっていた。索敵や艦船護衛の任務より、いまは出撃する特攻機の誘導ばかりやらされていた。彼の愛機はゼロ式水上偵察機で火器を搭載していないため、敵のグラマン戦闘機に遭遇すると、海上すれすれに遁走しなければならなかった。  八月十二日、「土佐沖に敵機動部隊が接近している模様」というレーダーでとらえた情報がはいっていた。特攻隊員たちはいきりたって「すぐに出撃命令をくだせ」と意気まいていた。二百五十キロの爆薬をつみ、片道の燃料だけで突入するのだ。  だが、八月十四日になると「日本はポツダム宣言を受諾し降伏する」との情報もはいってきた。司令が杵島に命令した。「きみは遊んでこい。女を抱いてもいいんだぞ」と。  行橋という町に、特攻隊員のための慰安所になっている料理屋があった。杵島は芸者たちと四升の酒を飲んでへべれけになり、眼がさめたのは翌十五日の午後だった。芸者にゆすりおこされ「いま天皇の放送があったわ。もう戦争はおわったのよ」と言われた。  杵島がいそいで基地にもどってみると、すでに隊員の姿はなく、残っていたのは司令ひとりであった。解散させて特攻隊員たちを逃がしたのだ。杵島を遊びにゆかせたのは「降伏反対の隊員らが、誘導をたのんで出撃するだろう。杵島さえいなければ無謀な出撃もできない」と司令は考えてのことだったのだ。  つまり、杵島の不在で多くの特攻隊が犬死しなくてすみ、彼もまた命びろいしたわけである。  実父の近蔵は太平洋戦争中は、アメリカの日本人強制収容所で苦労し、杵島が昭和三十五年に渡米してその行方をさがしたときには、すでに不帰の客となっていた。 (二)  杵島隆は米子に復員してきた。  米子空港も特攻基地だったが、ここには英印軍が進駐してきて管理した。杵島家の田畑は強制的に買収され、特攻基地の一部になっていた。日本が負けても国有地であるわけだが、彼は特攻隊の仲間ら四十人と、なにはともあれ生きるための食糧を増産すべく、ここの開墾に着手した。スイカやサツマイモをつくり、それをコメや魚と交換した。まるで世捨人のような集団であり、戦後の混乱期にも背をむけていた。  ところが、昭和二十五年六月に朝鮮戦争が勃発すると、米軍がやってきて荒れはてていた空港を、一夜のうちに活用できるようにした。せっかく杵島らが開墾したその畑に、滑走用の鉄のアミを敷きつめ、朝鮮の空へむかって双発夜間攻撃機B二四が発進しはじめたのだ。 「こん畜生、アメ公め!」  杵島は地団駄ふんだが、どうすることもできない。周辺にはたちまち基地の町ができあがり、米兵相手の酒場や土産物屋を開店するし、オンリーといわれる女たちもどっと流れこんできた。  彼の家も旧家だから大きく、七人のオンリーたちに個室を貸してやった。畑をうばわれたのだから、そうして生活費を捻出するしかなく、彼女たちは白や黒の米兵をくわえこんでこなければ生きる道がない時代であった。  杵島たちの野武士の集団みたいな生活がはじまったのは、それからであった。特攻隊の仲間らを米軍の雑役に出し、トラックで運搬される軍需物資のなかの煙草、ウィスキー、缶詰などをつめたダンボール箱を途中の畑に投げすてさせる。そこに杵島らが待機していてかっぱらい、それらを神戸まではこんでいってヤミ市に横流ししたりした。それは畑を一夜にしてうばわれたことへの、必死のレジスタンスでもあった。  オンリーたちの部屋にかよってくるB二四のパイロットたちと、彼は仲よくなった。神風特攻隊の一員だったことを知るとかれらは、杵島らに敬意を表するようになった。杵島がカメラをいじっているのを見て、現像をたのみにきた。現像液が不足しているというと、ちゃんとかれらが都合してくるし、日本にはまだない写真材料をPXで買ってきた。  杵島はオンリーたちの生活や、地獄の戦場である朝鮮から休暇で帰ってきている、虚無的な顔のGIらにカメラを向けた。  ある日、知人の某が訪ねてきた。 「境港の植田正治さんが、フィルムがないので弱っとるんだ。分けてやってくれ」 「植田正治……何者だ?」 「きみの米子中学の先輩でね、戦前から活躍している写真家だよ。この地方だけでなく、東京にも名が売れているんだぞ」 「ふーん、そんな有名な写真家がいたのか。ちっとも知らなかったな。会ってみたいな」  杵島は興味をもった。野武士の仲間には、写真について語り合えるようなのは一人もいないし、一人ぼっちの写真家である彼は、話相手がほしくなったのでもあった。  ポケットをフィルムでふくらませ、杵島は境港へ出かけていった。植田正治は戦前から植田写真館を経営しながら、いまでは中央のプロ写真家たちとも交流があり、新進たちの集団である「銀竜社」のメンバーにもなっていた。だが、東京には移り住もうとしない、地方で孤塁を守っている貴重な存在だった。  その植田にいろいろな写真雑誌や作品を見せてもらった杵島は、自分が井のなかの蛙であったことを痛感させられた。驚嘆の連続であった。土門拳や木村伊兵衛なる大作家の名もはじめて知ったし、まさに開眼させられる思いとはこのことだった。そして、植田の作品——おどろおどろした独自の雰囲気をただよわせている、その世界にも魅せられてしまった。  大篠津村にもどってきた杵島は、興奮がおさまらなかった。オンリーや米兵たちに声をかけられても、ぼんやりしていた。  以来、植田正治に師事し、その影響をうけた。だが、被写体にレンズをむけていたとき彼は、天啓のようなひらめきを感じた。 〈おまえはバカだな。いくら影響をうけたからといって、師匠のとそっくりの作品を創っても意味がないではないか〉  むしろ、そうした影響を作品には出さないものを、意識的にめざしたくなったのだ。その結果、できあがったのが土門拳が絶賛しアルス「カメラ」の特選になったあの『老婆』だったのである。  杵島隆は言う。 「土門リアリズムにもっとも近い作品だと評されましたがね、私は意識してそういう作品をめざしたのではありません。植田さんの作品を裏返したものを創りたい、と思っていたのでそうやってみたら、たまたま土門的なものに近くなってしまったんです。もともと土門作品と植田作品の間には因果律のようなプラス・マイナスの関係がありますからね」 (三)  戦後の広告写真史を語るとき、ライト・パブリシティは絶対に見のがせぬ存在である。  このプロダクションは昭和二十六年四月、信田富夫氏によって創立された。資本金は三十万円、銀座の東亜管機工業ビル内にあった。  信田富夫は戦前の、名取洋之助の日本工房にいて、広告のクリエイティブの仕事に打ちこんでいた。戦後になってもまだ日本には写真を主体とした広告は皆無だったが、朝鮮動乱によって日本経済は急速に復興しはじめたし、これからは過当競走の時代にはいり宣伝しなければ商品は売れぬ。日本にも「ライフ」その他に見られるようなアメリカ的な斬新なコマーシャルフォトが氾濫するようになるだろう——信田はそう予測して、先取り精神でライト・パブリシティをはじめたのだ。  ところが—— 「どうしても私のイメージにある、土門さんのような写真家がいない。報道写真家でもかまわない、とにかく新しい意欲にもえている写真作家がほしい」  と思っていた信田社長に、カメラマンの鈴木恒夫が「自分の郷里にアマチュアながらすばらしいのがいます」と推薦した。それが杵島隆であり、招かれた彼が上京してきたのは昭和二十八年九月であった。若いのに老成している感じがした、と信田は言う。  新橋のすし屋で杵島は、米子基地のGIたちに見せてもらった「ライフ」や「ルック」の広告写真の話をした。日本にもこういう時代はすぐにくる、広告もカラーになる、という意見を出して信田と共鳴しあった。  美術部にはデザイナーの波多野、村越、伏見がおり、写真部が鈴木恒夫と杵島隆で共同製作が開始された。すでに杵島は米兵たちからカラーフィルムも入手し、そのほうの技術にも自信があった。しかも、東宝映画の委託学生のころ、マーケットリサーチをやった経験もあるので、宣伝というものにも大いに関心はあった。  やがてライト・パブリシティは広告写真のパイオニアとなりその後も早崎治、篠山紀信、安斎吉三郎らが育ち、コピーライターの土屋耕一、デザイナーの村越襄、田中一光、細谷巌など多士済々である。  上京してきたとき杵島は、築地明石町の土門拳に挨拶しにいった。期待ははずれた。東京に出てきたっておまえはまだ写真じゃ食えねえよ、と土門に突っぱねられたからだ。 「広告写真をやるために出てきたんです」  杵島が言うやいなや、 「なにィ、広告写真だとォ? そんなものは写真じゃねえや」  軽蔑して土門はそっぽむいてしまった。  杵島とすれば胸をえぐられる思いだった。だがそういう態度をされると彼も、なかなかの天邪鬼だった。土門に軽蔑されればされるほど、コマーシャルフォトをものにしてみせるファイトが噴きだしてくるのだ。  ライト・パブリシティはしかし、スポンサーである企業からの依頼が殺到したわけではなく、アルバイトに婚礼写真なんかも撮らせてもらって日銭をかせがなければならなかった。いわば苦境の時代である。  杵島の広告写真の処女作は、日本ビールのポスターであった。それ以来、どれだけ撮ったか数えきれないくらいある。東洋レーヨンの依頼でモデルに学生服やセーラー服を着せて撮影したのもあり、そのときのモデルはまだ少年少女だった田村高広や浅丘ルリ子だ。  婦人服地のモデルに北原三枝、有馬稲子、岸恵子、久我美子などを起用した。ライト・パブリシティには満足なスタジオがなかったので杵島は、街のあやしげなヌードスタジオを借りて撮影したこともある。  杵島らのコマーシャルフォトに刺激され、新聞広告にも写真がふんだんに使用されるようになっていった。昭和二十九年、テレビのCMを手がけたのも、写真家では杵島が最初である。日本テレビで放映した日本ビールのもので、記憶にある方もあると思うが、頭にターバンを巻いたヘビ使いが笛を吹くと、コブラならぬビール壜がヒョロヒョロ頭を出してくるユーモラスなやつである。  杵島もまた、そのように頭角をあらわし、三楽酒造の広告で昭和二十八年度の朝日カメラ広告賞を、翌二十九年度にはモノゲンの洗剤の広告の新鮮さを賞讃されて、第一回朝日広告賞を受賞した。  三十年には彼は『女の顔』で富士フォト最優秀作家賞の栄誉にかがやいた。広告写真にのみ全力投球していたわけではなく、やはり本来の作品で勝負したい初志を忘れてはいなかったのである。  この年は濱谷浩の『裏日本』、木村伊兵衛の『外遊作品集』、秋山庄太郎の『東京エキゾチズム』、植田正治『村から』、土門拳『路傍・こども』、長野重一『修道院にて』、林忠彦『ビアガーデン』などが一流写真雑誌を飾り注目されていた。  杵島は昭和二十八年に上京するとすぐ、須田健二、藤川清、細江英公らの「芙蓉グループ」に加わっていた。植田正治、秋山庄太郎、林忠彦らの「銀竜社」に参加したかったのだが、 〈おれは秋山庄太郎と同輩だが、出発は十年もおくれている。何とかしなくちゃ〉  その意識がつねにあるのだった。 (四)  昭和三十一年にも杵島隆は、第一生命の広告写真で毎日広告賞をもらった。いまやコマーシャルフォトでは第一人者であり、押しも押されぬ地位を確保したかに見えた。  ところが彼は、この年の暮に広告写真から足を洗う決心をし、ライト・パブリシティから去ってフリーになった。そして、現在の市ケ谷富久町の自証院跡に杵島スタジオをかまえた。ときに三十六歳である。 「なぜ? なぜ広告写真家の王座を、みずから放棄する気になったんですか?」  と、ぼくは問わずにはいられなかった。 「放棄したわけじゃない。広告写真ばかり撮っているんじゃないぞ、という意欲があったんです。もっと自由な時間がほしかったし、広告写真もフリーの立場でやってゆきたかったんです」 「ということは、広告写真なんか写真じゃねえ、と土門さんにそっぽ向かれた……あれがやはり、あなたには忘れられなかったんでしょう?」 「多分……ね」  杵島はテカテカのおつむを撫でていた。  フリーになったものの、順風満帆というわけにはいかなかった。彼は世に問う『裸《ら》』の作品展をやるためにヌードに挑んだのだが、これが大事件になった。  裸婦を撮るのははじめてではなかった。米子時代、オンリーたちにモデルになってもらって、鳥取砂丘で撮影しているが、作品として発表はしていなかった。先輩たちのヌード作品よりもっと大胆で健康な作品にしてみたい、それを『裸』で試してみたい……杵島はファイト満々であった。  大胆な健康なヌードは室内ではダメだと思い、屋外で撮りまくることにした。テーマは三つあってその一つは海辺、その二は街、その三はカラーヌードのアブストラクトだ。  二人の美人モデルをつれて彼は、海女の多い御宿海岸の砂丘で、半裸の女が子供たちと遊んでいる構図にした。街のなかのヌードは日本の中心である皇居の桜田門、銀座四丁目の街路、丸の内の三菱の赤レンガ壁を背景にした。  人眼をさけるため、五月の朝の四時にいって、すばやく撮りまくった。そうするために二人のモデルは、前夜から杵島スタジオに泊めておいた。桜田門の古めかしく頑丈な扉の前に、やわらかく白い裸身がくねっている。日本一にぎやかな銀座通りに女体がころがっている。そういうのはこれまでに、だれも撮らなかったものだった。  カラーのヌードは現像の技術でアブストラクトにしてはいるものの、よく見れば恥毛がはっきりと写っていた。この『裸』は昭和三十三年八月、有楽町の富士フォトサロンで開催した。この年、中村正也が『若い裸』を、細江英公も『ヌード姉妹』を発表しているが、奇抜さという点では杵島の『裸』にはおよばなかった。  案の定、観衆が大騒ぎした。警視庁への投書が相ついだ。砂丘で子供らと遊んでいるヌード作品にはPTAが「教育上よろしくない!」と抗議し、桜田門の裸婦に対しては右翼団体が「不敬罪だ、皇居をけがした」といきり立った。そして、カラーヌードの恥毛をエロ写真だと非難した。また三菱では当社の前での撮影はお断わりするという。  じつは開催前日、杵島は警視庁の係官にきてもらって意見をもとめた。しかし係官は桜田門のも御宿海岸のも問題はなく、カラーのヘアも芸術作品だからいいでしょうとOKしてくれたのだ。  だが、こう大騒ぎになると警視庁としてもほおってはおけず、取調べをおこなった上で形式的に地裁送りにした。警視庁の係官がOKしてくれたのだから、むろん無罪ですんだけれども、押収された『裸』のネガは返してはくれなかった。  観衆が騒ぎだしたこと、ネガを返してもらえなかったこと——共に杵島にとってショックであったが、それよりもこたえたのは批評家や先輩たちの言葉であった。伊奈信男が「リアリズムでヌードを見つめている」と激励してくれたほかは、「あれはハッタリだよ。所詮、あいつは広告写真家だ。その手垢がついているし、人眼をひいておいて、自分の名を広告するためにやっただけだ」  バケツの水をひっかけるような冷笑を、あびせかけてきた。悪評にずぶ濡れになった。  さらには皮肉な結果になった。  彼はフリーになってすぐ、北九州の八幡製鉄所(現在の新日鉄)に半年ほど行きっぱなしで製鉄業のあらゆるもの——働く人びと、機械、製品などをカメラにおさめた。これは八幡製鉄からの依頼であり、宣伝写真にするのが目的だったが、杵島自身のルポルタージュもかねていた。  このルポルタージュは『八幡』と題し、小西六ギャラリーで『裸』よりもはやく個展にした。それはいいのだが、「ライフ」にのせる一ぺージ広告写真のことでスポンサーと意見が衝突した。これは八幡製鉄が、日本の企業としてはじめて掲載させるものだから、熔鉱炉から銑鉄がほとばしっている男性的な作品がのぞましいという。 「そんなのじゃダメです。外国人の眼をひくことはできません」  と杵島は頑として突っぱね、南部鉄の灰皿に吸いさしの煙草が一本おいてあって、紫煙がすーっと立ちのぼっているものを選んだ。日本刀と民芸品にコピイをつけ、このように日本人の生活は古くから鉄と深い関係にある。だからこそ日本刀のようなすばらしい鉄の芸術品もできるのだ……という点を強調したのであった。  やむなくスポンサーは折れて、杵島にまかせた。が、それが良かったのだ。このコマーシャルフォトは青い眼の異人たちには「サムライのような広告だ」とほめられてライフ広告賞を受賞、結局はスポンサーも鼻を高くすることができたのだから。  USスチールの宣伝担当重役が、受賞パーティの席で握手をもとめ、杵島に言った。 「ミスター杵島はアメリカ国籍をもっているんだってね。アメリカにもどってきて、もっとその才能をのばしたまえ」 「いや……わたしはやはり日本人です」  ここでも彼は頑固者であった。  それはともかく——皮肉な結果になったというのは、ほめてもらいたい一心だった『裸』はケチョンケチョンにけなされたが、広告写真では世界的なライフ広告賞の栄冠を手にしたわけで、批評家や先輩たちが口をそろえて悪評する「所詮、あいつは広告写真家だ」を、みずから証明したみたいなかたちになったのである。  彼にとってはうれしくない栄冠だ。 (五)  昭和四十年代になると、木村伊兵衛と土門拳は別格として、一流写真雑誌に紹介される写真家の顔ぶれがだいぶ変わってきた。若返ってきて横須賀功光、中村由信、東松照明、立木義浩、篠山紀信、安斎吉三郎、加納典明、高梨豊、森山大道、早崎治といった個性ゆたかな新鋭が登場している。  杵島隆もいつまでも天邪鬼ではいられなくなった。本音を吐いてがむしゃらに取っ組み、七転八倒しながら作品を生みだしてゆく——そういう正念場を迎えたのであった。  広告写真なんて写真じゃねえ、と軽蔑した土門拳を見返してやらねばならぬ。そのためにはやはり、もういちど写真の原点にもどり、植田正治の亜流でもない、土門拳のまねでもない、おのれの作品を創ってみせるしかないのだ。押入のなかをひっかきまわすようにして『老婆』を撮った米子時代の自分を捜した。  話がここへきて杵島ははじめて、ぼくに本心を吐露した。 「私が広告界からはなれていったのは、日本経済が急成長してゆくにつれて、広告界も繁栄していったわけだけれども、それを手をかえ品をかえて創ってゆく虚構の世界が、バカバカしくなってきたんです。所詮、広告写真は虚構でしかない。たとえ、その中にヒューマンなものを持ち込んだとしても。そこで私は本来の、作家の眼にもどりたくなった」  その撮りたいものが蘭であった。  それを求めて全世界をあるき、世界には二万種もあるといわれる蘭の花の、野生の原生種ばかり二千種ほど撮影した。明けても暮れても蘭のことばかりで、これを撮影するのに十年を要した。  十年間あるきつづけながら彼は、こうも考えた。〈おれは本道からはずれて広告界へはいっていった。そしていま再び本道へもどってきた。だが、脇道へそれたことは決して無駄にはなっていないんだ〉と。  昭和五十年暮に写真集『蘭』を講談社から刊行したが、この豪華本が杵島隆の処女出版でもあった。ときに五十五歳であり、その『蘭』の「あとがき」に彼はこう書いている。  植田作風は、空間を山陰の空気感に求め、土門作風は、空間を否定して空気感を求めようとする。私はそれを、出雲に生を受けた植田弥生土器、裏日本の酒田で生を受けた土門縄文土器、と呼ぶことがある。(中略)今考えてみると、蘭の花に特別な魅力を感じたのも、植田家で眺めた薄暮の中に浮かんでいた白いカトレアが、心に焼きついて離れなかったという気がする。そして空気感を求めながら空間を否定し、画面一杯に花を写そうとするのは、奈良の薬師寺で、背筋が冷たくなるような執念で仏像に迫っていく明石町のおやじ(土門拳)から強い啓示を受けたからである。  花ではあっても、人間と同じように生命を持つものである。植田シャンソンと、土門演歌がうたいあげる「生命の歌」は、一生私のなかから去らないであろう。農耕民族の末裔である私としては、土門縄文と植田弥生を融合して、新たなる杵島弥生を作りあげたいと思う。  さて——十年の努力作『蘭』はその「新たなる杵島弥生」になることができたはずなのに、批評家や先輩たちの眼は、やはりきびしかった。 「彼の『蘭』はよく撮れてるなあ、珍種もあるなあ、と感心はしましたよ。だけど、彼一流のコマーシャルテクニックの変型でしかないんだなあ。写真作家として七転八倒する生きざま、写真家魂……それが観るものに伝わってこないんですよ。人生の何かが欠けているんだ」  どうやら杵島隆は、叩かれるために世に出てきた写真家のような気が、ぼくにはしてくる。『裸』の場合もそうだが、作品を発表すれば必ず袋だたきにあうのである。  それでも彼はダルマのように起きあがり、「日本人でないコンプレックス」から逆に、純日本的な文楽、雅楽、歌舞伎にカメラをむけた。日本の伝統文化にチャレンジしたのだ。  杵島は熱っぽく語る。 「私はね、野生の蘭を現地へいって、自然光ばかりで撮った。これではじめて光というものがわかったし、ようやく写真家になれたという気がしたんです。五十歳になって光がわかったんですね。そして、こんどは歌舞伎や文楽でしょう。蘭で自然光を教えられ、それに対して人工光のなかで化身した……人間像をつかまえたんです。しかも、劇場という密室のなかでです。  歌舞伎の舞台は木村伊兵衛さんも土門さんも、好んで撮っている。土門作品は荒事……役者がぐーっと息を吸いこんで吐く演技の場面、木村作品は世話物……逆に役者がすーっと息を抜いた瞬間のが多い。そういうことも自分で撮ってみてはじめて知りましたよ」  たとえば、尾上松緑丈が演ずる「義経千本桜」の大物浦の場の平知盛が、断崖から海へ消えてゆくときの、眼玉をむき赤い舌をたらしての凄惨な表情を、杵島のレンズはみごとにとらえている。ぼくはこの作品が好きである。それというのも、尾上松緑の知盛の貌というよりも、杵島自身の顔を撮っている気がするからだ。それは断末魔の知盛ではなく、いつも袋だたきにあう杵島自身の、呪わしげな表情ではないのか。 「ね、杵島さん、そうなんでしょう? 知盛のこの顔は、あなた自身の心の顔ですよね」  ぼくが追及すると彼は、よくぞ言ってくれたと照れていた。  三年前から「日本人の情感をとらえたい」ので、古い日本家屋の、瓦ぶきやワラ屋根を撮りためている。「日本人の源流をたどりたい」ので、女性の着物も五年前から撮りつづけている。  おそらく、それらの作品集もまた、よってたかって袋だたきにされてしまうのではないか。叩かれっぱなしになっているときがいかにも杵島隆らしく、悪評をあびせられなくなったときの彼はもはや彼ではない——ぼくにはそうも思えた。  そこで、ぼくは質問した。 「生まれかわるとしたら何になりたいですか?」 「やっぱり写真家ですよ。これからはね、写真の技術を必要としない時代になる。もっとカメラは精巧なものになって、誰にでも撮れる。だから、もう一ぺんやってみたい。誰にも撮れるからこそ、誰にも撮れないものを撮りたいんだ。  自分のものを撮らなくちゃ。時を撮らなくちゃ。時イコール光だ。時間は時のつみかさねです。流行歌はだれにでも唄えるけど、その歌を感動的に唄える人は限られている。写真もそうでなくちゃ。これからは写真学校を出ても写真家にはなれません。もう技術は必要でなくなるのだから、必要なのはちゃんとした大学に学んで、政治家を撮るための政治そのものを知っておくことです。経済、社会、文学、美術……なんでもそうだ」  そう言われてぼくははじめて気づいたのだが、杵島のわきに積みあげてある本の背文字は、亀井貫一郎の『日本民族の形成』、R・C・ゼーナーの『科学主義と宗教主義』、A・M・アーピップの『脳』など、頭の痛くなるようなのばかり。  五十八歳にして彼は、猛烈に勉強しているのである。(昭和五十四年四月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十六年「義経千本桜・全四巻」(日本放送出版協会)。五十八年写真展「ら裸…La Nudite」「一九六〇」「義経千本桜」。 [#改ページ] 藤本四八《ふじもとしはち》「いまだ老いず」  ——まもなく七十歳を迎える藤本|四八《しはち》さんの、生と写真に対する執念はすさまじい。厳粛なものがある。そのかいあって彼には、その年齢とは思えぬ若々しさがあり、最近作にも活気があふれている。 「写真を撮りたいから永生きしたいのです。それ以外の欲はないし、息をひきとる一瞬までシャッターをおしつづけていたいんです。だから、つねに若さを保っていたい。といっても、二十代の青年のようでありたいと欲ばっているのではなく、実際の年齢よりもほんのすこしだけなんです。  そして、生きるよろこびを幾つになっても持っているべきなんです。それも宗教的な意味ではなく、じつに平凡なことなのです。おなじ生きるにしても、病気がちではロクな写真は撮れない。写真そのものも病におかされたみたいになってしまう。だから、つねに絶好調の体調にととのえていたい。そのためには健康でなくちゃいけない。そうすれば写真もすばらしいものになる。  わたしは毎朝六時におきて体操をやる。それから一時間のジョギングをしてのち朝食をとる。パン、べーコン、牛乳、野菜ジュース、果物など充分に食べる。とくにニンジンの野菜ジュースがいいですね。これにはビタミンEが大量にふくまれていて、老化現象を防いでくれます。  房総米油もいい。どこにもある米油ではダメなんだ。房総米油でなくちゃいけない。これを紅茶のなかに二、三滴たらすんです。コレステロールをとる効果があるからです。わたしは五十五歳までは、二升酒をペロリとやったほどの大酒呑みだった。ピースを一日五十本けむりにするヘビースモーカーでしたが、酒といっしょにパッとやめました。もちろん、これも永生きしたいためです」  小柄でものしずかな人である。土門拳氏より一歳年下で、明治四十四年七月の生まれ。土門氏がつねに写真界の先頭に立ち、主流であるのに対して、藤本さんは終始「脇役」にまわっているような地道な存在である。  だが、だれもがシハチさんでなくヨンパチちゃんとよんで、そのものしずかな人柄を慕っている。地道な存在ではあるけれども、たいへんな勉強家であり、撮りたい対象をじつによく丹念に研究する人なのだ。しかも、愛される人物ながら、なかなかの一徹者でもある。闘志は内ふかくに秘めている。 (一)  藤本四八は男四人、女四人の八人兄妹の末っ子である。生まれが明治四十四年、父親の栄三郎が四十八歳のときにできたので、四八と名づけられたのだ。  栄三郎は長野県は飯田、天竜川がながめられる高台で「藤本屋」という餅菓子商をいとなんでいた。妻のますえ——つまり、四八の生母は天竜川の川下にあった造り酒屋の娘だった。  藤本家は代々、名の知れた呉服問屋をやってきたが、栄三郎の代で没落、仕方なく日銭をかせぐ餅菓子商にならざるを得なかったのだ。ところが、栄三郎にはすぐれた才能があった。絵筆をとらせると日本画を描くし、貧乏はしていても芸術家らしいプライドをもっていた。  末っ子の四八は、この父が好きではなかった。敵意のごとき憎しみさえ抱いていた。元治元年生まれの栄三郎はおそろしく頑固者だし、いつもガミガミどなるからである。  そのくせ、四八もまた幼いころから絵を描くのが三度のめしよりも好きだった。勉強が嫌いなため父親とは親子喧嘩をくりかえしているが、絵を描かせていると機嫌がよく、じつにおとなしい子であった。近くの松尾尋常高等小学校では右に出るものがなく、とくに風景画が得意中の得意だったという。  長男の藤本|韶三《しょうぞう》は、四八とは十五歳のひらきがあった。この韶三にも画才があり、飯田中学を卒業すると洋画家で身を立てるべく上京。洋画家から日本画家に転向して大成し、青竜社を創立して画壇の重鎮にもなる川端龍子(和歌山県出身)の門をたたいて、韶三は弟子入りした。  龍子は、——詩人北原白秋の弟の北原鉄雄と仲がよかった。そのまた弟の北原義雄が美術雑誌を創刊したがっていて、編集者をさがしていたので龍子が弟子の韶三を紹介した。やがて義雄がオーナーである美術雑誌「アトリエ」の編集を韶三がまかされ、彼は絵筆をすてて美術ジャーナリストに変身していった。竜子はそのほうの才を活《い》かしたほうが身のためだ、と見ていたのだろう。  四八は飯田商業学校へ進学するが、この時分には文学にもあこがれるようになっており、仲間たちと同人雑誌を出したり、島崎藤村や永井荷風の作品を耽読したりしていた。郷土出身の詩人で早稲田大学教授の日夏耿之介に私淑していた。  新しい時代の文学の旗手として登場した芥川龍之介の名作『河童』や『地獄変』を読んで驚歎した四八はついに、勝手に飯田商業を中退、長兄の韶三をたよって上京した。小説家か画家になりたい志望をおさえがたくなったのである。ときに昭和二年、十六歳であったが、鬼才芥川龍之介が自殺して世間を騒然とさせたのも、この年の七月だった。  四八は、セザンヌやゴッホに影響されて油絵を学び、画塾にかよっていた。 「どうだ、おまえにもこんなデッサンができるか。すばらしいタッチだろう」  言いながら韶三がさし出す川端龍子の、素描をみて溜め息ついた。素描といってもそれは龍子の画室の屑かごに捨ててあった描きくずしを、韶三がもらってきたのであり、描きくずしといっても画家を志すものにとっては傑作にひとしかった。 〈世の中には上には上がいるもんだ〉  と四八は思った。  残念無念、藤本四八はしかし上野の美術学校には合格しなかった。田舎の飯田では天才かもしれないが、それぐらいなのは東京には掃いてすてるほどいるのだ。二十歳の四八は画家になる夢をすてた。小説を書いてゆく情熱もうせた。 「絵や小説ではとても食えん。食えるのは三万人とか五万人に一人だよ。美術界を歩いているおれが言うのだから嘘ではない。おれだって編集者になっていなければ、いまごろはまだ乞食画家だっただろうよ」  韶三に説教され、四八は絵も文学も、くやしかったけれども諦めたのである。そして、金丸重嶺と鈴木八郎が共同創始した金鈴社フォトスタジオではたらくことになった。  下谷にあった金鈴社は展覧会風景、油絵、彫刻などを編集長の韶三の依頼で撮影していたのだ。だから四八がそこではたらくのは、金丸重嶺の助手として採用してもらうことなのである。  金丸は九州出身で、写真界の草わけ的な存在である。のちに日本大学芸術学部長になって、日大芸術科は彼が育てた。篠山紀信氏をはじめ今日の若い写真家たちの多くは、ここから巣立っている。鈴木八郎はアメリカのコダック東京支社で腕をふるうようになる。  金鈴社は、コマーシャルフォトの分野も開拓していた。モダンな広告が要求されはじめた時代で、金丸重嶺は、丸善、ヤマサ醤油、花王石鹸、中将湯などの宣伝写真などを撮っていた。四八の月給は十五円、どうにか下宿代が払える額でしかなかった。  丸善は洋物屋といわれた輸入商で、舶来の紳士服、靴、ネクタイなどのほかに洋書もそろえていた。その洋書部で「学燈」という雑誌を出版していて、広告写真をのせるグラビアページがあった。  それまでは帽子や背広の広告写真というと、マネキン人形に着せたり、台の上に飾ったりしたのを撮っていたが、金丸が「これではパッとしない」と言いだして美男の映画俳優をモデルにするようになった。ヤマサ醤油や中将湯の場合は女優を起用した。  そのころ仲よくなった木村伊兵衛が、二人で飲んでいるときにこう言った。 「ヨンパチちゃんはうらやましいなぁ。しょっぱなからプロになったのはおまえだけだ。おれなんぞはカメラが好きで好きで、アマから出発して、やっとこれまでになれたんだもんなぁ」 「おれは泣いても泣いても、泣ききれん思いで写真家になったんですよ。いまからでも絵かきになりてえよォ、文士になりたいなぁ」  四八の切なる思いは、木村伊兵衛にはわかってもらえなかった。  木村は十歳年長で、台湾へ渡って小さな商社ではたらいたり、東京へもどってきて営業写真館をオープンしたり、四八と知り合ったときは世の辛酸《しんさん》をなめ尽していたのである。  そして、そのかたわら報道写真を撮って、野島康三や中山岩太、伊奈信男らと写真雑誌「光画」を創刊したりしていた。金丸と鈴木は商業写真家協会をつくったが、これが現在のAPAの母体となっている。中山岩太の福助足袋、木村の花王石鹸の広告は群を抜いて異彩を放っていた。 (二)  昭和九年、藤本四八は金鈴社から、広瀬貫川が主宰する日本デザイン社へ移った。  貫川は島根県出身。美人画が得意で、清酒や葡萄酒などのポスターのなかに、にっこりしている笑顔の令嬢や芸者を描いていた。彼も韶三と親交があったので、四八は日本デザイン社にはいったのだ。  モデルと向き合っていちいち描いていたのでは大量生産ができない。そこで貫川が昼間、普段着姿の芸者を雇ってくる。彼女らに貫川が指示してポーズをとらせ、四八に撮影させる。社は木挽町にあった。  そのネガを拡大して紙をかさね、顔かたちをなぞってゆくと、それだけはやく量産できるのだ。髪かたちや着物は適当にかえてゆけばよい。要するに四八の仕事は、肖像写真を撮ることであった。  この年、木村伊兵衛は名取洋之助の日本工房から去り、岡田桑三、原弘らと中央工房をおこした。日本工房は銀座の泰明小学校隣りの徳田ビルに、中央工房は銀座五丁目の西銀座ビルにあって、報道写真を海外へ売るのを主な仕事とした。  木村らのその作品に刺激されて四八が、 「美人画ポスターのための、肖像写真ばかり撮っていてもつまらない」  その意欲をかきたてられていたころ——昭和十一年二月二十六日、日本の命運を左右する二・二六事件が発生した。皇道派青年将校が一千四百名の部隊をひきいて挙兵、内大臣斉藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監渡辺錠太郎らを殺害、永田町一帯を占拠して国家改造を要求したクーデターである。一隊は有楽町の朝日新聞社へも乱入していた。  藤本四八は、イギリス製のアンゴーを手に飛び出していった。三日前からの記録的な猛吹雪で、東京全市はまっ白になっていた。おそろしく寒かった。日比谷交差点までいってみると完全武装の兵士らが、要所要所に土嚢《どのう》をつみあげ軽機関銃を据えている。「尊皇討奸」の旗をひるがえしている。 「どこへゆく!」  反乱軍の歩哨に銃剣をつきつけられ、四八は蒼い顔で立ちすくんで答えた。 「戦争を見学にきました」 「死んでもいいっていうのか」 「とんでもない、かんにんしてください」 「帰れ、二度とくるな!」  仕方なく四八は虎の門のほうへ迂回したが、そこにもバリケードが築かれていた。〈とにかく、撮れるものは何でも撮っておこう〉という気でシャッターを切りつづけた。歩哨に発見されて刺し殺されそうになると逃げ、歩哨がひきかえすとまたそろそろ迫っていった。滑って雪の上に何度も尻もちをついた。 「こういう生きた写真を撮らねば」  二・二六事件のその現場で痛烈に感じた彼は、翌十二年には日本工房の名取洋之助をたずねていった。彼とおなじ日にデザイナーの亀倉雄策も入社した。一年先輩の土門拳がいて、睥睨《へいげい》するような眼で四八を見た。  土門はライカを持っていた。四八もそれがほしくてならないが、一台千円もする。千円あれば当時はりっぱな住宅が一軒新築できたのである。  金鈴社時代に金丸重嶺がドイツへ旅行し、「潜航艇」といわれたライカを土産に買ってきた。それがうらやましくてならない。木村伊兵衛もすでにライカを愛用していて、彼は「ライカ気違い」とまで言われていたくらいである。  彼の「木村伊兵衛ライカ写真展」を観にいった四八は、三十五枚どりの小さなフィルムなのに、何十倍にも引伸しができているのにびっくりしたものだ。つまり、ライカを所有するのは四八の積年の夢だったが、買うカネがないのである。  土門拳はライカを自慢しているが、しかし四八は彼にない技術をもっていた。キャビネの乾板を使用、レンズを二一〇ミリと九〇ミリの広角にとりかえる組立カメラを、金丸から教わっていたのだ。日本工房でそうして撮っている四八のそばにきて、土門はあれこれ難くせをつけた。お互いにプライドが高く、我がつよく対立ばかりした。以来、四八は土門を、終生のライバルとするようになっていった。  日本工房での仕事はポートレート、商品写真、報道写真、あるいは近代工場を撮ってまわったりして「NIPPON」に発表した。この写真雑誌は、日本を海外にPRする目的で発行されていた。 (三)  二・二六事件をきっかけに急速に右傾化していった日本は昭和十二年七月、日中戦争に突入。それから昭和二十年八月のポツダム宣言受諾まで、永い戦争にくるしんだ。  名取洋之助は日本の写真界のパイオニアの一人であるが、たいそう機を見るに敏な才覚もあった。日中戦争が勃発するとただちに中国戦線へゆき、戦場へ報道写真家たちを送りこむべく陸軍省の許可を得た。軍部の片棒をかついで儲けたかったのである。  日本工房からは藤本四八のほか牧田仁、梅本竹馬太、小柳次一、白木俊一郎らが派遣されることになった。このため四八は上海をふり出しに南京、漢口、広東と戦場をもとめて中国大陸をかけめぐり、太平洋戦争がおこってからはさらにフィリピンや仏領インドシナヘも送りこまれるようになった。昭和十九年までの八年間、戦塵にまみれるのである。 「戦争報道写真家としてのあなたは、キャパの作品をどう思いますか?」  と、ぼくは質問してみた。昭和二十九年四月に来日してから、インドシナ解放戦線にむかい、不運にも爆死してしまったロバート・キャパのことである。 「すばらしい作品だと思う。ヒューマニストの眼が光っている。ぼくらの時代にはしかし、ああいうふうには戦争は撮れませんでした。聖戦の名のもとで愛国思想でもって撮らされていたし、キャパの場合はデモクラシーの時代になっての作品でしょう。中国民衆の悲惨な姿や戦場のむごたらしさにカメラをむけ、暗に戦争を批判するものをわたしも撮ったけれども、陸軍報道部の検閲にひっかかってそういう作品は、これはダメだ、フィルムは焼きすてろ、とやられましたからねえ」 「まぼろしの名作におわってしまったわけですね?」 「名作だったかどうかは別として、そういうものばかり撮っていると、報道班員としての資格を問われますからね」  かれら報道写真家たちは佐官待遇ということになっていたが、第一線では兵隊とおなじあつかいしかされなかった。しかも、新聞社のカメラマンのほうが優遇されていた。  いうなればベトナム戦争を撮りにいった、一匹狼的なフリーカメラマンと変わらない。一点いくらで買ってもらわねば食えないかれらは、最前線へ出ていって命がけで撮影してくる。新聞も週刊誌もそれを買いあげて紙面を飾ればよいわけで、自分の社のカメラマンをわざわざ死地へおもむかせるような無理はさせない。  藤本四八たちも敵と射ち合う兵隊と行動をともにし、イの一番に突っこんでゆく。「万歳写真」なるものを撮るのは新聞社のカメラマンだ。完全に占領し、安全が確保されて兵隊たちが、城頭高く日の丸をかかげて万歳する——そういうのを演出して撮ればよい。そう言われてみれば、戦争中の新聞には「○○部隊、××城を占領」のそんな写真がよくのっていたものだ。  一匹狼的な藤本四八らは「青年報道写真協会」を結成、報道写真展を東京で開催した。土門拳、杉山吉良、田村茂、濱谷浩らも加わった。今日のJPSの出発であり、日本写真家協会会報五十五号に杉山吉良氏が、当時の思い出を寄稿している。 「月一回ぐらい、土門拳、田村茂、藤本四八など二十代の僕ら十二、三人が銀座松屋裏の蕎麦屋の二階に集合する。チョコで日本酒をやりながら、まだ歴史の浅い写真界の、写真論に熱くなったり、生活の基盤のあやしいフリーカメラマンの相互扶助を論じたりした。この会合を青年報道写真協会とよぶようにした。昭和十二、三年のころだ」  四八が広東へ派遣されたのは、その方面での戦闘で白木俊一郎が爆死したためである。昭和十四年のことで、広東にあった南支派遣軍報道部には『麦と兵隊』を書いて戦争文学の第一人者となっていた火野葦平、漫画家の清水崑らがいた。派遣軍が掃討作戦を開始すると四八は、百本のフィルムをリュックに詰めこみ、ライカ一台、一三五ミリの望遠レンズ、五〇ミリの標準レンズ、三五ミリの広角レンズを携帯して出動した。行軍は一日三十キロだ。土砂降りの雨のなかを歩きつづけることもあるし、炎熱で倒れそうになるときもある。  だが昭和十九年までの八年間、ぶっ通しで戦塵にまみれていたわけではない。作戦が完了すると、後方の都市にさがってのんびりしていることもあるし、内地への帰還を許される場合もあった。八年間に何千本か撮った彼の戦争写真は一本も残されていない。フィルムはすべて陸軍報道部に提出していたからで、戦後になってGHQが押収し、一部はアメリカで保存されているという説もある。彼の手もとに残されていたら、歴史を証言する貴重なる戦争写真集が刊行できただろうし、まことに残念至極というほかはない。  昭和十五年、日本工房は国際報道工芸株式会社に発展した。四八は写真部長に昇進して「華南画報」と「MANCHOUKUO」の写真ページを担当させられた。「華南画報」は親日派のタイ国むけの日本のPR誌をかねた友好雑誌で、東京にきているタイの留学生らに協力してもらった。日本語の文章をタイ語のそれに翻訳してもらうのである。  翌十六年になると、日米開戦は必至の情勢となってきた。四八は個人的に撮っていた『傷痍軍人』をアルス「カメラ」に発表した。これが写真雑誌への初登場だった。  美術評論家の北川桃雄と長兄の韶三に同行、唐招提寺および薬師寺の撮影旅行に出かけた。このころ土門拳はおなじように、応召してゆく従軍看護婦を主題にした『赤十字・出征』や傷痍軍人の『赤十字・生き杖』などを撮ったり、京都や奈良をまわって戦争とは無関係の弘仁彫刻の仏像や、大阪の四ツ橋の文楽座の楽屋にかよって文楽人形に、精力的にカメラをむけたりしていた。  当時の土門拳には「仏教美術を撮るのは、戦争協力以外のすべての道を閉ざされた日本知識人の逃げ場であった」し、文楽人形も「戦争によって破壊されてしまうかもしれない、これら庶民芸術の粋を、せめて写真にして残しておきたい」やむにやまれぬ気持があって、それが撮らせていたのであった。  ただひとつ、土門拳と藤本四八の生き方のちがいは、土門が報道班員になるのを拒否した点だ。軍部の命令でも「厭なものは絶対に撮りたくない」意地をおし通したのである。そのために特高刑事に監視されたこともある。  報道写真家となって最前線に出てゆくのはこわいことだが、土門のように自分の生き方に徹するのもなかなかに勇気のいる時代だ。  四八はしみじみと言う。 「わたしたちの年代、その時代には仏像へのあこがれがあった。北川桃雄は志賀直哉の影響をうけて仏教美術に近づき、土門拳は水沢澄夫(美術評論家)に感化されて仏像に憑かれてしまったんです。土門はこれら偉大な芸術品が空襲で灰になってしまうのを恐れ、わたしはわたしで戦場の死生観が、わたしを仏像へ近づけていったんですね」  この年、三十歳の四八は結婚した。  見合の相手は甲府の女学校の先生の長女、伊藤優子であった。彫刻家の本郷新が仲人をつとめてくれた。  四八は仏像を撮りながら、 「浄瑠璃寺の吉祥天のような女。東大寺三日月堂の月光菩薩のような女性となら結婚したい」  と思っていたが、五歳年下の優子は「太った唐俑《とうよう》(中国の古代副葬品で、丸々とした女の人形)のようなので」理想の女人に近かったのだ。新婚早々のこの年の暮、ついに太平洋戦争が勃発したのである。 (四)  新婚家庭は築地明石町のアパートだった。  じつはこの部屋には土門拳夫妻が住んでいたのだが、子供ができたため手狭になり、向いがわの棟割長屋へ引越したので、そのあとに藤本夫婦がはいっていたのだ。  初の個展である唐招提寺と薬師寺の『仏像写真展』をひらくことができたのは、日本の敗北が決定的となりつつあった昭和十九年である。東京はまだ大空襲をこうむっていなかったものの、地方都市はすでにB二九の餌食となっていた。  会場は銀座の松島ギャラリー。小説家の武者小路実篤が観にきて、一点五円の作品を二枚買ってくれたのに大感激したという。  昭和二十年六月、戦争はもう大詰めにきていたのに、それでも四八にも土門にも召集令状がきた。  土門は郷里の山形連隊に入隊したが、痔病のため即日帰郷という幸運に恵まれた。しかし四八のほうは横須賀の海軍兵団にはいり、陸戦隊に編入されて、兵舎となっていた大船の松竹映画撮影所送りとなった。  くる日もくる日も、爆薬をかかえて戦車に体当りしてゆく特攻訓練がくりかえされ、二等水兵の彼は予科練あがりの年下の上官にぶん殴られてばかりいた。敗戦になるまでの三カ月間、ぶん殴られるために入隊したようなものだが、戦死しないですんだだけ幸せである。  四八は焼野原となった銀座通りを歩いていた。敗戦から二カ月後の十月のことだ。敗戦と同時に国際報道工芸社は解散してしまっていたので、彼にははたらくところがない。  焼け残った銀座八丁目に三昧堂という本屋があり、書棚はからっぽなのに店頭には行列ができていた。何事だろうと思ってのぞいてみた四八は、愕然となった。自分の写真集『薬師寺』と『唐招提寺』を売っていたのだ。  新刊である。二冊とも十九ページのグラビアと、五ページの解説文がついた薄っぺらなもので、解説しているのは北川桃雄。定価は両方とも二円。発行部数各五千部。四八が大船でぶん殴られていたころに、韶三の編集で日本美術出版社が印刷していて、それが敗戦後のいま発売されたのであった。  戦時中ずーっと活字に飢え、写真のすばらしさにしたしむことができなかった群衆が、行列してそれを買ってくれているのだ。四八はかれらに頭をさげたい思いになり、買っている群衆もまた新刊本を手にするよろこびに感泣していた。これは戦後に出版された写真集の第一号であり、彼にとっては処女出版だった。  平和のありがたさを知った。  既成の写真家たちも、これから名を売ろうとする新人たちも、再び東京に集まってきた。伝統ある雑誌社が復活したり、新雑誌が創刊されはじめた。アメリカ文化がはいってきた。  旺文社が創刊した「生活文化」のグラビアぺージを、四八は担当させてもらった。いまや彼は三人の子の父親であり、食わせるためには仕事を選んではおれなかった。  昭和二十二年、よみがえってきた名取洋之助が「週刊サンニュース」を出すと、四八も加わって木村伊兵衛とも再会、三木淳や稲村隆正らとおなじ釜のめしを食うことになった。木村と土門が写真界のリーダーシップをにぎる中心的存在になりゆくなかで、四八は地道な脇役ながら手堅い作品をものにしていった。  昭和二十四年、「週刊サンニュース」が廃刊となった。当時、洋画家の猪熊弦一郎をアルス「カメラ」に、安井曽太郎を「みづゑ」に、そのほか日本画家や彫刻家たち百三十人を「美術手帳」に連載した。その合間に仏像や古陶磁を撮り、土門は室生寺にかよっていた。 「戦後はほとんどの写真家たちが、競ってヌードを撮ったでしょう。それがおカネにもなった。あなたはどうだったんですか?」  ぼくの質問に対して、彼は顰蹙《ひんしゅく》する表情でこう答えた。 「撮りたくないねえ」 「どうしてですか?」 「一度、撮ったことがあるんだ。日劇ミュージックホールの、オッパイが大きな何とかいうストリッパーをスタジオにつれていって。きれいじゃなかったなあ。日本の女性はサメ肌が多いでしょう。見ていてゾーッと寒気がしたなあ。着物を着ているほうが色気がありますよ。仏像のほうが何十倍もきれいですよ。美感がそのまま自分のなかに飛びこんでくるからねえ」 「他人のヌード作品については、どう見てますか?」 「それはよく鑑賞しますよ。うまいなあと感心する作品が多々あります。ヌード作品がいちばんよくわかるからね、その作家が新しい感覚をもっているか、古くさいセンスしかないというようなことが。しかし、自分では絶対に撮りたくないねえ」  それは藤本四八の時流に迎合しない頑《かたく》なな姿勢でもあり、昭和二十八年には彼は、土門拳、入江泰吉、坂本万七とともに『日本の彫刻』シリーズで毎日出版文化賞を受賞する栄誉を得た。  時流には迎合しないが四八には、旺盛な先どり精神がある。昭和二十九年ごろからカラーフィルムの時代になってくると、カラー自家現像の研究をはじめている。また昭和三十三年には半年間の世界旅行に出発した。海外旅行の観光ビザ第一号であり、写真家として出ていった最初でもあったのだ。当時はまだ日本航空は国内線だけしかなかった。  戦場をかけめぐつた経験にものをいわせ、精力的に撮影してきて『南米の女』『アメリカ人』『闘牛の国』『スペインの街』『海外作家訪問』『メキシコ人の暮し』『カラー世界一周』などを写真雑誌、婦人雑誌、総合雑誌、美術雑誌につぎつぎと発表した。このころ濱谷浩と名取洋之助が新中国を撮り、土門拳が『原爆乙女』に取り組んでいる。  四八は海外作品を発表しおえると、本来の自分にもどって『日本の寺』に意欲をもやした。——余談になるが、パリのストリップ劇場で観たフランス女の裸は、すばらしく美しかったそうだ。 (五)  昭和三十八年から三年間、藤本四八は「サンデー毎日」に『国宝』を連載した。  このころになってようやく、生涯かけて何を撮りたいか——そのテーマが決まったという。「日本人とは何か。写真の映像としてこれを表現しつづけたい」のである。  そのため『東洋古陶磁』『桂』『長崎二六殉教者』『国宝』『装飾古墳』『石』『京の町家』『日本の塔』『京の坪庭』『高野山』『鎌倉むさしの佛たち』『皇居の四季』『三熊野』『白山』などを撮りつづけて今日に至るのである。これらはすべて「日本人とは何か」を問いつづけ表現しているのだ。およそ二十年間かけてきているのである。 「しかし、いまもってわかりません。日本人とは何なのかがわかったら、その時点でもうやめていたでしょう。死ぬまで結論には達し得ないかもしれません。観念的には表わせるんだが、具体的にはできにくいんですよ。逆にいうと、そこらにあるものでもってかんたんに表現できるんだけれども、ほんとうのそれはむずかしい。あれではダメだ、これでもダメだというふうになってしまうんです」  毎日がもどかしい思いなのである。  この生涯のテーマに取り組んだときから彼は、自分の命を大事にしたくなった。冒頭に書いたように、大酒呑みでヘビースモーカーだった彼が、五十五歳で断酒絶煙したのもそのためであり「写真を撮りたいから永生きしたい」一心なのだ。野菜ジュースを飲むのも、房総米油を紅茶にたらすのも、もちろん老人になりたくないからである。 「土門拳の『古寺巡礼』をわたしは絶讃しています。自分にないものがあるから。彼の場合は、写真の造型美に対してウェイトをおいているから作品も美しい。わたしのはそうではなく、日本人の歴史的なもののなかにあるものは何か……この観点から追いつづけているので、当然ちがった作品になる」  とのファイトをもやしており、奈良を撮りつづける入江泰吉氏の作品とも鮮明に一線を画している。 「入江の『大和路』は、あれは風物の情景写真です。ワビやサビを強調して、四季の光景の美しさに力をいれている。だから、奈良に住んでなきゃ撮れない。が、わたしの作品は理屈を言っている。だから、わたしのは売れないが、入江のは大いに売れる。旅行者はみんな、情緒を味わいに出かけるんだから、入江作品を好きになって当然ですよ」  四八は若者たちをも恐れないばかりか、 「新人たちの写真はうまくなってきているけれども腰がよわい。土門拳みたいに全身全霊を打ちこむ気骨がない。フワフワフワッとした感覚的なものだけで撮っている」  と、かるくイナしてしまう。  一年前、土門拳が脳溢血で倒れ、虎の門病院のベッドに寝たきりになってしまった。点滴がつづけられており、面会謝絶であり、再起があやぶまれている。木村伊兵衛はすでに故人になっている。 「ライバルといっても土門の写真は、美術的にはわたしのよりはるかにすばらしいし、ずーっと尊敬してきたんです。その彼が倒れたんだから、がっかりしています」  四八はユーウツである。だからこそ、なおさら自分は「写真を撮りたいから永生きしたい。息をひきとる一瞬までシャッターをおしつづけたい」のだ。  しかし『京の町家』を撮るにしても、『白山』や『三熊野』をカメラで探訪するにしても、そのひとつひとつに三年以上の歳月をついやしている。いっさいの費用も自腹である。写真集になったからといって、つぎの取材費にまわせるだけの印税がころがり込んでくるわけではない。 「いつも貧乏しています。このトシになってもなお、家内には苦労させています。だけど、わたしは撮りつづけるしかないんだ」  どうやら藤本四八は、時代こそちがえ、父の栄三郎とおなじ生き方をしているようだ。栄三郎には生活力はなかったが、なみなみならぬ画才があった。その父親が憎くてならなかったはずの四八も、いまは頑固一徹である。(昭和五十六年一月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十六年「湖愁近江路」(集英社)。五十七年「アトリエの中の画家たち」(集英社)。五十八年「富士山」(桐原書店)、同、写真展。 [#改ページ] 石井幸之助《いしいこうのすけ》「総理を撮りつづけた人」  写真雑誌——「ロッコール」編集室。午後三時の約束に石井幸之助さんは、たくさんの資料をかかえて、三十分おくれてやってきた。六十六歳だというのに童顔で、白髪のかつらをかぶってきているみたいだった。ネクタイをきちんとしめて、写真家らしからぬ服装をしておられた。  豪州のフレーザー首相が来日していた。だからこの日も、総理官邸において鈴木善幸総理との日豪首脳会談がおこなわれたので、総理専属カメラマンである石井さんは、その場の撮影に立ち合わなければならず、わたしとの約束の時間にもつい遅刻せざるを得なかったのである。  四カ月前——昭和五十七年三月末、石井さんは鈴木総理から、 「多年にわたり歴代内閣総理大臣の専属カメラマンとして、よくその職務に精励され数々の歴史的場面を写真によって記録されるとともに、その整備保存に多大の貢献をされました。よってここに感謝の意を表します」  の感謝状を拝受し、十三年と六カ月間の官邸写真室の初代責任者を退任、以後、内閣広報室嘱託相談役になった。しかし、総理専属カメラマンの仕事は国賓が来日すると、赤坂迎賓館での歓迎会、総理官邸における会談、晩餐会などの撮影をしなければならないし、後進に道をゆずって相談役になったとはいえ、彼はやはり、いまもその現場にかけつけて撮影の指導にあたるのである。  石井さんがかかえてきてくれた資料のなかには、十三年と六カ月間に撮った六人の宰相——佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸までの公私にわたる珍しい作品が無数にあった。よくも撮りも撮ったりである。  戦後の日本のカメラマンとして石井さんが、はじめて外人女性のヌードを撮って第一号となった記念すべき作品もまじっていた。だが、わたしがいちばんびっくりしたのは太平洋戦争当初、シンガポールを陥落させて山下奉文将軍が英軍のパーシバル中将に「イエスか、ノーか」と無条件降伏を迫ったときの、フォード工場跡での、その歴史的貴重な、永久に保存すべき写真であった。 「これは……あなたが撮ったものだったんですか。感無量だなあ」  思わずわたしは、大発見したかのごとく訊いた。当時の新聞にこの写真がでかでかと掲載されていた記憶が、あざやかに甦った。  太平洋戦争が勃発したそのときのわたしは、旧制中学の一年生で「ハワイ真珠湾奇襲に成功す」「不沈艦プリンス・オブ・ウェルズを撃沈せり」「牙城シンガポール陥落す」などの大本営発表に、よろこんでいた軍国少年の一人だったのである。  だから山下将軍のこの「イエスか、ノーか」の写真にも大感激したし、しかし、それが陸軍報道班員だった石井幸之助によって撮影されたものである事実は、四十年後のいまはじめて知った次第である。軍国少年時代をふりかえってわたしは複雑な思いでながめながら、この作品を記憶していたということは見知らぬ石井さんとは不思議な縁で結ばれていたのだ……そんな気さえした。 「敗戦後、山下将軍はマニラにおいて、戦争犯罪人として絞首刑に処せられましたね。シンガポールのそれを撮っているとき、四年後にそういう苛酷な運命が待ちうけているなんて、もちろん考えられませんでした。白旗をかかげてきながらパーシバル中将が、煮えきらぬ態度でいるものだから、山下将軍はテーブルを拳でたたき、額に青筋を立てて『無条件降伏をしなければ、水源地帯を閉鎖し、シンガポール市内に夜襲をかける』と詰め寄った……その顔はいまだにぼくの瞼《まぶた》にありますねえ。戦争とはほんとうに凄惨にして残酷なものだった」  石井さんは遠くを見る眼で、そう答えた。  戦争についてだけではない。波瀾万丈の昭和史そのものの証言者になりうる人がここにもいた。 (一)  これまでに会った写真家たちにはなかった環境に、大正五年三月生まれの石井幸之助は育っている。江戸っ子も江戸っ子、代々が四ツ谷の花街である荒木町で、トビ職を家業としてきているのだ。  いわゆる「喧嘩と火事は江戸の華」といわれる火消しで、南町奉行の大岡越前守が組織した「いろは四七組」のうちの「く組」。先祖は浅草の新門辰五郎らとも交遊があった、いなせな組頭だ。江戸八百八町が火事ともなると「く組」の纏《まとい》をおしたててゆく。  幸之助の父の弥三郎も、もちろんその家業を継いできた。母ふみは芝の下町娘。三男一女があって彼は次男坊。長男が「く組」のあととりとなって土建業にはげみ、三男は東宝劇場の支配人をつとめた。  脂粉の香がただよう荒木町花街のことを、粋人たちは「津の守」とよんでいた。ここが花街らしくなったのは明治五年からで、この一帯が江戸時代は松平摂津守屋敷だったためである。のちに、市ケ谷に陸軍士官学校(三島由紀夫事件がおこった現在の自衛隊市ケ谷駐屯地)が開設されたので、若い士官学校生徒が荒木町芸者にはモテモテになった。幸之助は料亭の軒灯の下で爪弾く新内流しの、その三味の音を子守唄にして育ったという。  四ツ谷見付で父親の義兄が「喜よし」という演芸場を経営していた。少年時代から幸之助はろくに勉強はせず、ここに木戸銭も払わずに落語を聞きにかよっていた。いまの上智大学のグランドは、当時は壕で子供たちの魚釣り場だったそうだ。国電の中央線は、甲武線とよばれていた。  幸之助がカメラをいじるようになったのはモダンボーイの若い叔父が持っていた、アメリカ製のコダックブローニーをイタズラしてからである。  昭和のはじめ、エログロナンセンスが氾濫、不況も手伝って頽廃していた。 「不良少年のなれの果て、いっそ独学としておいてもらったほうがいい」  と微笑するだけで幸之助は、学歴については多くを語りたがらない。旧制中学ないしは工業学校は卒業しているらしいが、彼の意志を尊重して、そこらのことはすべてカットしよう。謎もまた人生ドラマである。  家業が家業だから両親も、学問をやるやらぬについてはガミガミ言わなかったそうだ。しかし、江戸っ子のプライドについてはうるさく、「く組」の半纏《はんてん》姿の弥三郎に、 「折助根性だけは出すんじゃねえぞ」  と戒められた。江戸のころに折助なる卑しい男がいて、何かやらせると報酬をねだる。たとえ使い走りさせられても、お駄賃をほしがる顔はするんじゃねえ……という意味である。そういえば、江戸の火消しは危険でも、それぞれの町内のために尽す無償の奉仕であったのだ。それを男の誇りとしてきた。  日比谷公園市政会館前にあった「都新聞」写真部助手の、そのまた見習として幸之助が入社したのは、昭和七年五月のことである。 「都新聞」は現在の「東京新聞」の前身で、文芸欄や演劇欄に特色があり、花柳界のことまで報道していた。尾崎士郎が名作『人生劇場』を連載し、爆発的な人気をよんだのは翌八年であった。  幸之助のサラリーは二十五円、島田謹介氏は、そのころにはもう「朝日新聞」カメラマンとして大活躍していた。幸之助の裏方時代——暗室生活は三年つづいた。くる日もくる日も写真部の暗室で、先輩カメラマンたちのフィルムを現像させられるのだ。  昭和十一年、大雪の東京で陸軍青年将校らが指揮する二・二六事件がおこったときから、彼は新人カメラマンとして東へ西へ走るようになった。このクーデターの舞台となったのは永田町であり、反乱軍が総理官邸や警視庁を占拠した。日比谷交差点では反乱軍がバリケードを築き、機関銃を据えていた。そういうのを撮ってまわったのだ。  幸之助が撮らされるのは、報道写真とは限らなかった。歌舞伎座、築地小劇場などへもいって舞台写真をものにしなければならないし、楽屋で六代目菊五郎を撮った経験もある。陰惨な共産党リンチ事件を追いかけたこともある。  母親のふみは近所の人たちに訊かれると、 「幸之助は写真屋になりました」  と答えていた。新聞社につとめています、とは言わないのだ。「ブン屋はろくでなし、弁護士と新聞記者には嫁にやるな」と世間では嫌っていて、息子もそのように見られてほしくないのだった。  幸之助は回顧する。 「総理大臣では岡田啓介、林銑十郎、近衛文磨、東条英機など、時代の代表者でもあったかれらをファインダーからのぞいてきた。軍服姿の総理が多くなってゆくなかで、背広姿の近衛さんはひどく新鮮に見えたものです。芸能人たちも数かぎりなく撮りました。高峰三枝子、佐野周二、水の江滝子、ニューフェイス第一期で百円女優と騒がれた江波和子、「新しき土」でデビューする原節子。岡田嘉子が杉本良吉と樺太の国境からソ連へ亡命していったでしょう。あの越境事件(昭和十三年)も追いましたよ。無双の横綱双葉山もよく撮りました。あの人、前頭時代にはウッチャリばかりで勝ったけど、横綱になったらそんな手はつかわなくなった。どんな相手も真正面から堂々と受けて立っていた。人生のひとつの教訓を得たもんです」  まさに生々流転の「スター」たちを撮りつづけながら、幸之助自身もまた、その歴史の流れのなかで生きてゆくのだった。 (二)  昭和十六年秋、幸之助に「本郷区役所に出頭されたし」の徴用令状が送られてきた。  指定された日時にいってみると、顔見知りの他社のカメラマンや新聞記者らがいた。作家の井伏鱒二、海音寺潮五郎、高見順らの顔もある。画家たちもいる。その本郷区役所に二日間ほど泊められた。目的は何なのか明かしてくれない。  一行は大阪へつれてゆかれ、軍隊教育を受けさせられた。そして十二月二日、一万トンの貨客船アフリカ丸に乗せられた。それでも行く先さえ教えてくれない。  台湾海峡を航行中、十二月八日になった。  日本軍がハワイを奇襲し、マレー半島に敵前上陸したことをラジオで知った。このとき幸之助らは、南方戦線へ派遣される陸軍報道班員として徴用されたことを告げられた。いまさら厭だといっても帰してはもらえぬ。  ビルマに行く高見順らとサイゴンで別れた。二十五歳の幸之助は作家の里村欣三、画家の栗原信、「中央公論」編集次長の堺誠一郎、そのほか新聞記者二名の報道小隊に加わり、マレー半島を進撃する山下奉文兵団の最前線に従軍させられることになったのだ。  東洋の牙城シンガポール攻略は、地獄の死闘であった。戦況をこまかく描写する紙数はないので割愛するが——多くの日本兵の、 「おっかあ、ダメだあ。おらあ死ぬよォ!」  怨念こもる声をふるわせ、血まみれになって息絶えるのを毎日、幸之助は見なければならなかった。身の毛がよだつ思いだった。  たくさんのイギリス兵が死にゆくのも見なければならなかった。青い眼が虚ろになってゆき、かれらは十字を切り「おお、ゴット」と最後の声を洩らした。冒頭で述べたように、わたしたち軍国少年は大本営発表の戦果に万歳こそすれ、戦場がそのような悲惨なものであるとは考えもおよばなかった。  多大の犠牲を払いつつシンガポール島に上陸した山下兵団の前に、パーシバル中将が白旗をかかげてあらわれた。フォード工場跡での、歴史的会見現場を撮った幸之助のその貴重なフィルムはいまはどこにもない。撮影するとすぐ、陸軍報道部に送らねばならなかったためである。  陸軍報道部が検閲してのち、各新聞社へ配布する。おそらくそのネガは、敗戦時に報道部が焼却したにちがいない。惜しい作品を失ったものだ。  シンガポール陥落後の幸之助は、志願して北ボルネオ戦線へいった。昭和十八年には東京新聞特派員(「都新聞」は「国民新聞」と昭和十七年に合併、「東京新聞」と改称した)として華北からモンゴルを取材した。当時の北京には林忠彦氏がいた。  翌十九年九月には幸之助は、海軍報道班員として北太平洋艦隊に従軍。千島列島の最北端、カムチャッカ半島が眼のまえにある占守島の基地航空隊を取材しにいった。杉山吉良氏はさらに北の、アリューシャン列島のアッツ島までいっていたが、十八年五月に米軍に奪回されたときには、すでに彼は帰国していて無事だった。アッツ島守備隊は全員玉砕だ。  昭和二十年四月、占守島より内地へ帰国する途中、アメリカの潜水艦に遭遇、乗艦は魚雷攻撃をうけて撃沈させられた。五隻のボートに分乗して脱出した。そのときの幸之助は、ライカが海水に濡れないよう、男性用スキンを何枚もかぶせておいた。海中へ落ちれば三分間で冷凍マグロだ。もし死んだとしても、あの世までカメラを持っていきたかった。そして撮影ずみの最後の場面のフィルムを、海水に濡らしたくなかった。  北海の荒波にボートはつぎつぎと呑まれ、奇跡的に幸之助らのボートだけが、北海道の静内海岸に漂着した。  漂流したといえば、海軍少尉で空母「瑞鳳」に乗っていた船山克氏は、昭和十九年十月のレイテ海戦で、その「瑞鳳」がアメリカの艦戦機攻撃で沈められ、ライカを首にさげたまま海中に投げだされてしまった。  再び日本が戦争するようなことがあれば、こんどは現代の若いカメラマンたちが、その体験をさせられることになるのだ。  最前線での非情な生と死の体験が、彼の人間観をどん底に陥れてゆく。彼の仕事、日常の明け暮れにも、影のようにつきまとって離れなくなったのは、人間の冷酷、死の無残だった。  そして、どん底からはい上がろうとする彼の仕事は、人間の悲しみや喜び、怒りや苦悩をその画面につかみたがる。精いっぱいに生きる人が彼のモチーフとなり、俗をきらった。  山歩きが好きだった彼は、若いときから単独登山をたのしんでいたというが、従軍生活以来ますます孤独の世界に親しむことともなったのである。  頑固で無器用な生き方だが、その方が自由な心でいられるし、「私がこの世にサヨナラをしたとき、涙を流してくれる人は十人、いや五人もいれば望外の喜び、棺の中で私が感謝の涙を流さなくてはならなくなる」と笑う。 (三)  昭和二十二年秋——  三十一歳の石井幸之助は、八歳年下の大沢直子さんと結婚した。彼女は新宿の女学校を卒業、宝塚歌劇団にはいり戦争中はヅカガールとして舞台で踊っていた。越路吹雪、乙羽信子さんらが先輩で、新珠三千代さんは後輩にあたる。  戦後は有楽町の日劇に出演していた。幸之助の妹の賀寿子さんは、女学校時代の彼女の後輩であり、弟の緑三郎氏が日劇の支配人になっていた関係で、二人の交際ははじまった。当時、幸之助は新聞社からの帰り、日劇に寄っては舞台のソデから、直子さんの舞台姿を観ていた。日劇にはフリーパスではいれたし、弟の顔で楽屋にある風呂に入れてもらうこともできた。  二十年三月の東京大空襲で、いかに江戸の火消しとはいえB二九の爆弾は防ぎようがなく、花街荒木町の「く組」本家も焼失してしまった。命からがら北海道に漂着した幸之助は、東京へもどってきたものの住むところがなく、先輩宅に居候させてもらっていたが、まだ家族は風呂に入れなかった時代だった。  楽屋の風呂にはいり、舞台がハネたあと、彼女とつれだって帰る夜もあった。焼跡だらけ。世相は混迷し、『りんごの歌』が流れるヤミ市で民衆は飢えをしのいでいる……幸運にも生還できたカメラマンと踊り子の交際は、そんな暗い時代のロマンスだったのだ。  やがて二人は三人の息子たちに恵まれた。  いまでは長男の雄司氏は、写真家の中谷吉隆氏のスタッフカメラマンに成長しており、次男は東急デパートに勤め、三男は東宝現代劇を経て舞台俳優になっている。  さて——戦後も石井幸之助は、そのドラマチックな歴史とともに生きることになった。千葉県関宿に隠棲していた敗戦内閣の総理鈴木貫太郎を探訪して、戦争終結への秘話を語ってもらったり、大量毒殺の帝銀事件の平沢貞通を獄中にたずねて撮るという「特ダネ」をものにしたりした。  昭和二十四年には木村伊兵衛とかたらい、日本写真家協会を設立、その委員になった。 「そのころ、忠さん(林忠彦氏)たちに、あんたも新聞社を辞めてフリーになったらどうだ、と誘われたものでした。しかし、なかなかその決心がつかないんですよ。折助根性を出すんじゃねえ、と戒められて育ってきているせいか、おカネを請求するのができなくてねえ。内心では人一倍にほしがっているくせに、カネ勘定がダメときている。どうしても新聞社に辞表を出せなかった」  と幸之助は苦笑する。  もし、そのときフリーになっていれば、総理専属カメラマン第一号になる日は永久にこなかっただろうし、一歩おくれてゆくことが彼を、天にまします神が、必ず幸運をもたらしてくれているようにも思えるのである。  五隻のボートで脱出し、彼のボートだけが北海道にたどりつけたときも、そうであった。シンガポール攻略戦のさい、英軍の十字砲火をあびて幸之助は、身を隠す壕をさがして這いずりまわった。が、どこも兵隊で満員、「ほかを捜せ」と追い出されてしまった。その経験が乗艦を魚雷でやられたときに活かされた。全員がわれさきにと脱出したくて、最初のボートに群がった。「満員だ、ほかへ行け!」とどなられそうなので、彼は最後のボートにしがみついた。このボートだけが生還できて九死に一生を得たのである。  昭和二十八年三月、エリザベス女王の戴冠式を撮る特派員として、幸之助はロンドンヘむかった。その途中チャーチル首相を撮って世界的に有名になったカーシュをオタワに訪ねてのち、パリへまわった。パリの舞台で石井好子さんがシャンソンを唄っていた。彼女に頼んで美人のマヌカンをひとり世話してもらい、そのフランス娘をヌードモデルにしてホテルの一室で撮影した。モデル料は三千フランであった。  幸之助が女の裸身にカメラをむけるのは、これがはじめてではない。日本でストリップショーがはじまったのは昭和二十二年一月、新宿の帝都座五階劇場においてだった。秦豊吉の演出によるもので、女の裸が見られるというので観衆が殺到、エレベーターのない五階まで入場券を買うため階段に長蛇の列をなしたものだ。そのストリッパーたちのスチール写真を撮るべく、秦豊吉の依頼で幸之助がアルバイトしていたのだ。三年間もそれをつづけたが、とくに有名だったのが田村泰次郎氏の『肉体の門』であった。  しかし、ヌード作品の第一人者は福田勝治をはじめとして土門拳、大竹省二、中村立行、杉山吉良氏らであった。幸之助のストリッパーの写真は「作品」とは見なされていなかった。ところが、第一人者たちが撮っているのは日本娘であり、パリで撮ってきたマヌカンのそのヌード作品は、 「日本人写真家の初の外人スード作品」  ということで話題になり、カメラ雑誌や週刊誌のグラヒアを飾った。敗戦国のカメラマンで戦勝国の女を裸にするのは、まだ勇気がいった時代なのである。  これなども、ヌード作品の第一人者たちに一歩おくれてゆく石井幸之助が、思いがけない栄光を掴んだことになるのである。 (四)  東京新聞社が「週刊東京」を創刊(昭和三十年)したのを機に、幸之助は出版部写真部長に昇進、その週刊誌の表紙を大竹省二に担当させた。その後に出てくる出版社系の週刊誌は、当時の各社のそれの表紙が絵画イラストから女性写真に変わってしまったのは、幸之助のこれが最初なのだ。  ワンマン宰相であった吉田茂が『世界と日本』という著書を出したとき、その挿入写真を幸之助に委託してきた。これがきっかけで彼は、大磯の吉田邸にも出入りできるようになり、総理の時代にはカメラマンたちにコップの水をひっかけたほどの写真嫌いのその人の生活をも、自由に撮影できた。  新聞社カメラマンのシンボルであったスピグラカメラを、全国の新聞社にさきがけて廃止し、国産三五ミリカメラを正規に採用したのも幸之助で、「新聞写真界に新風を吹きこんだ」と評価され、各社ともそれに倣《なら》うようになっていった。昭和三十七年のことである。  写真連載『文学のところどころ』を企画構成し、京都、尾道、九州、東北とまわって一ぺージ大のスペースにして週一回、「東京新聞」に二年間つづけた。これが文学散歩ブームの呼び水ともなった。彼は「写真界のアイデアマン」ともいわれた。 「東京新聞社」は経営が苦しくなり、「中日新聞社」に買収された。写真部長の石井幸之助は留任ということになったが、頭に白いものが目立つ五十歳になっていながら、第一線復帰を志望して写真部長の肩書を返上した。彼の左手は右手より五センチも長くなっていた。左手にさげる十五キロのカメラバックの重量が、長い年月のうちに彼の肉体をアンバランスにしたのである。  彼にはまた文才があって、「東京新聞」朝刊のコラム『石筆』の執筆メンバーにもなった。 「文芸春秋」やその他の雑誌にも、味わいある随筆を寄稿したりしている。最近の新聞はよく著名人たちの顔を、しわもあらわにクローズアップして載せているが、「東京新聞」夕刊企画連載『顔のこころ』で、幸之助がそれを試みた最初の人である。それまでは新聞紙面にクローズアップの顔を載せるのはタブーとされていたのである。  並みのカメラマンは、被写体が笑ったときをのがさず撮る。幸之助は「笑った瞬間をとらえると、笑いが終わる状態になってしまう。そこで、いま笑い出そうとするタイミングをのがさずシャッターを切る」特技がある、そのほうが格調の高い作品になるというのだ。 『顔のこころ』を連載したのは昭和四十三年のことであり、そしてこの年の十月、彼は総理専属カメラマン第一号に選ばれたのだった。そのいきさつを彼が語る。 「ある日、秋山の庄ちゃんと会ったら『総理官邸でカメラマンをほしがっている。何か言ってきたかい?』と訊く。庄ちゃんがぼくを推薦していたらしいんですね。それから二カ月して、総理府の外郭法人である日本広報センターの人が会いにきましてね、ここの職員ということになり、総理官邸へ派遣するかたちでどうか、というのです」  その主な仕事は総理大臣の多忙な活動記録と、外交上の贈呈用写真を撮ることである。外国からのVIPの日本滞在中の記録写真を撮り、日米会談や先進国サミットなどにも出かけて総理の動向を追う。日本の総理の人柄を世界に紹介するため、国会での演説の模様や総理大臣執務室での姿、家庭の団欒のスナップなども撮影するのである。幸之助のその働きぶりは、江戸っ子「く組」の纏《まとい》をカメラにかえたという感じがしないでもない。  吉田茂、鳩山一郎、石橋湛山、岸信介、池田勇人の時代には宮中専属カメラマンはいても、こうした総理専属はいなかった。昭和四十二年、日米会談でホワイトハウスを訪問した佐藤栄作首相にジョンソン大統領から、その会談の様子を克明に記録したりっぱなアルバムが贈られたことから、 「日本でも公式カメラマンをおくべきだ」  という意見が出た。ホワイトハウスには写真室があり、四、五人の公式カメラマンが常時控えているのだ。  寝耳に水のこの話がもち込まれたとき、幸之助は「ライフ」に発表されたホワイトハウスでの、ケネディ大統領のそれを思い出した。専属カメラマンが撮影したものだが、公式的な写真だけではなく、大統領がひとりで苦悩しているときの表情、大統領執務室の机の下にもぐり込んでいたずらしている幼い息子なども撮ってある。いかにも生身の大統領であるところを浮き彫りにしていて、幸之助は「こんなふうに解放的に撮らせてもらえるのはカメラマン冥利だ。日本の総理たちもそうでなくちゃ」という気になった。  それが彼自身の意欲〈よし、やろう。日本の総理に迫りたい〉をかきたてたのだ。ふり返ってみれば、最初に彼が総理大臣にカメラを向けることができたのは二・二六事件直後、広田弘毅内閣が組閣されたときである。以来、林銑十郎、近衛文磨、東条英機と撮ってきたし、前述のごとく隠棲中の鈴木貫太郎にも、吉田茂にもレンズを向けてきた。総理専属カメラマンになるということは「そうした過去の縁があったからではないのか」とも思うのだった。  幸之助の年収は、編集局長並みで三百万円であった。「それと同額いただければ結構」と返事しておいた。そして、「中日新聞社」へ辞表を提出したのである。  彼はこれまでの政界史にない、総理専属カメラマン第一号になったのであり、総理官邸写真室の室長・創設責任者にもなったのだ。不毛のお役所の中に文化事業の開拓、建設である。 (五)  それから十三年と六カ月、石井幸之助は鈴木善幸総理まで六人の宰相を、つねに身近から撮りつづけた。いわゆる型にはまった「宮廷写真師」ではない、現代のドキュメンタリー・フォトグラファーとして、宰相たちの真実の姿と人間性を追求してシャッターを切りつづけたのである。彼は歴代宰相を「おとうさん」と呼び、「今日のおとうさん、機嫌がよくておかげでいい写真が撮れた」などという。  明治十八年の初代総理伊藤博文にはじまって、歴代宰相は四十四人である。広田弘毅が第二十一代だから、計算すると半分以上の宰相たちを撮ったことになる。そのネガはなんと十万枚。六人の総理の外遊についてまわること十八回であった。  たいへんな重労働である。総理や大臣クラスに接するのはむろんのこと、VIPに対して失礼にならないよう心がけねばならず、カメラマンだからといってジーパンをはくラフな服装でのぞむわけにはいかない。 「スタッフを選ぶときが大変です。品行方正でなければならないし、総理の情報を流すようなおしゃべりはダメ。軽卒なことはつつしまねばならぬし、すべてに節度が必要なのです」  まさに宮仕えなのだが、それができたのは彼が五十歳をこえている年齢だったからであり、 「総理の人間性に迫りたい」  その一念が、支えになっていたせいなのだ。若いカメラマンなら三日とつとまらないだろう。  沖縄返還交渉、大学紛争がもつれていたころの佐藤栄作を見る国民の眼は、好意的ではなかった。毎日のように総理官邸の周辺からは、デモ隊のシュプレヒコールが聞えてきた。そんなとき佐藤総理は執務室にこもり、磐若心経の写経を無心につづけていた。幸之助はその写経一巻をカメラにおさめた。悲壮な願文だった。「政界の団十郎」は孤独な存在なのだと痛感させられた。  日本とはあまり馴染みがない国の元首がきたときには、新聞やテレビのカメラマンたちは寄りつかない。そこで総理官邸写真室の幸之助らを動員し、派手にフラッシュをたかせて撮りまくらせる。その元首に対し「あなたの日本での人気はこうも高いのですよ」と満足させたいのであり、佐藤総理はそんなふうに気づかい、国際親善に役立てたいのだった。  日中国交正常化のため北京へ飛んだ田中角栄総理が、 「国民のまえでビシッと説明できないようでは、日本へは帰れない」  と決意をあらたにし、日中共同声明の文案をめぐって、いい加減な妥協はしないというファイトを見せる場面を、幸之助は目撃することもできた。  また、クレムリンへ北方領土返還交渉へいったときの彼の、ひとり机にむかって想を練る、きびしい姿勢を撮る機会も得た。  福田赳夫総理はこまやかに気づかって、外国へ飛ぶ専用機のなかでも、 「石井君、疲れないか、カメラが重いから」  と労《ねぎら》ってくれた。 「何でもありません。総理の両肩にかかっている、一億国民のそれよりは軽いです」  そう答えると福田総理は大笑した。  ダブル選挙中に大平正芳総理が倒れ、虎の門病院へかつぎ込まれた。「大平はもう死んでいる」とのデマが飛んだので幸之助らが、病室にいる彼を撮らされた。それが新聞各紙に出たけれども、やはり彼はそれから数日後に逝去してしまった。心身ともに疲れはてていた悲劇の宰相であった。  わたしは質問した。 「縁起のわるいことで恐縮ですが、レーガン大統領が狙撃されたり、サダト大統領が暗殺されたりしましたよね。日本の総理大臣も狙われないとは限らないでしょう。身辺にいるあなたに流れ弾が当って、一命を落とすことにもなりかねない……とそんなことを考えたことがありましたか?」 「ええ、官邸入りのお話があったとき、まず私は自分に問いました。『おまえその仕事に死ねるか、後悔しないか』と。もちろんそれはカメラマン生命のことです。肉体的な死については、軽々しくは言えませんが、覚悟はしていますね。しかし実際に、サダト大統領がマシンガンで射ちまくられたり手榴弾を投げられたりしたのと同じになったら、撮りつづけるべきか逃げるべきか、むずかしいですねえ。身を隠して安全な場所から、カメラだけを出してテロリストたちを撮ろうとはするでしょうけれど」  答える彼の顔が苦汁に充ちていた。  そうした現場には遭遇しなくとも、時代のスターたちの悲運の最後を見てきている、それが辛いのでもある。  シンガポールにおいてパーシバル中将に無条件降伏を迫った、あの山下奉文将軍は、戦後に絞首刑になった。近衛文磨は自殺、東条英機も刑死した。外国の要人ではエチオピアのハイレ・セラシェ皇帝、サウジアラビアのファイサル国王、キプロスのマカリオス大司教、イタリアのモロ首相、韓国の朴大統領と陸英修夫人なども撮ったが、かれらもまた悲運の最期をとげ、歴史は転換してゆく。  VIPたちに贈る石井幸之助がこしらえたアルバムは華麗だが、彼自身の胸中にある「アルバム」には、そのような悲しみがあるのだ。朴大統領に贈ったアルバムはだれが保存してくれているだろうか、と思ったりする。  そして、幸之助自身が総理官邸より静かに去りゆく日がきた。  冒頭で紹介したとおり、鈴木総理から感謝状を拝受した昭和五十七年三月三十一日である。この十三年と六カ月のあいだに彼の年俸は、三百万円から六百万円に昇給していた。六十六歳になっていた。  彼は体力の限界を感じはじめていた。四台のカメラと機材を入れた十五キロのカメラバックを肩にするのさえ、重労働になってきていたのだ。 「きみもそろそろどうかね」  と肩をたたかれるのはプライドが許さぬ。そこで二年前から、後任をみつけておいてくださいと、彼自身が申し入れておいたのだ。  鈴木総理は昭和五十六年だけでも五回も外遊しているが、幸之助は一回しか随行できなかった。体力が衰えているため、代役を立てざるを得なかったのだ。 「これからは何をなさるのですか?」  わたしはむしろ、そのほうに興味がある。 「内閣広報室嘱託相談役ということで、週に四日はやはり官邸へいって専属カメラマンたちの面倒をみる立場にあるんです。古くなったカラー写真は色あせますんでね、これからチバクロームという色あせないフィルムに撮り直す作業もします。そして永久保存ができるようにするわけです」  一方で、個人的にはスナップ写真集『六人の総理』を刊行したいという。新聞などに発表しなかったもの、知られざる人間味あふれるものをまとめるつもりなのだ。  元日にはいつも歴代の総理の私邸に、年始の挨拶に参上する。ロッキード事件で弾劾されている田中角栄の目白の邸宅にも、そういうことはべつにしてたずねる。総理でなくなったからといって、幸之助は知らん顔ができないのである。すでに亡い佐藤栄作の私邸へもいって線香をあげてくる。  そういうところはいかにも、義理がたい江戸っ子火消しの面目躍如……という気がわたしにはしてならない。(昭和五十七年七月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十八年十一月「戦後史の顔」(東京新聞出版局)。 [#改ページ] 田嶋一雄《たしまかずお》「カメラ王の素顔」  社長用応接室にあらわれた、国際人という感じの田嶋さんは「鞍馬天狗」の嵐寛寿郎さんをもっと美男にしたようなお顔だった。棒縞の背広がよくお似合だった。わたしはのっけから、ちょっと意地わるい質問をした。 「田嶋さんご自身の、カメラマンとしての腕前はどうなんですか?」 「カメラを創るほうではなく、撮るほうの腕前のことを訊いておられるんですね」 「そうです。作品が見たいですね」 「撮るほうはどうも……ほとんど……いや、まったくダメでしてね……つまりズブの素人ですよ」  と口ごもっておられた。  新しいカメラをつぎつぎと量産して、世界で屈指の人となっている彼のことだから、自分でもしょっちゅうカメラを手にしてパチリパチリやっておられるのかと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。わたしは重ねて問うた。 「では、お好きな作家はどなたですか?」 「木村伊兵衛さんの作品です。古いですかな」  と、またしても照れる目顔になった。  その木村伊兵衛との対談(「アサヒカメラ」昭和四十七年十一月号)のなかでまず「ミノルタハイマチック」がアメリカの最初の宇宙船フレンドシップ号(グレン中佐搭乗)に積みこまれて話題になったときのことにふれている。 【木村】アポロにハイマチックが乗ったという話、ぼくら、最初驚きましたよ。 【田嶋】あれは三十七年でしたが、NASA(米航空宇宙局)ではこれにしようというものを二十数種類、市場から選んだらしいんです。ハイマチックがなんで採用されたかというと、絞りとスピードが同じ羽根だったかららしい。プログラム・シャッターでね。あれが初めてなんですが、幸い故障なしに動いた。もっとも、ハンドルをつけたり、向こうで改造してはいます。 【木村】大宣伝になったでしょう。 【田嶋】思わぬ拾いものでした。それから、月着陸用のスペース・メーターという露出計もやれといってくる。 【木村】NASAがですか。 【田嶋】NASAがです。うちのものを市場で買ってきて「こういうふうに改造せい」という。やかましいことをいわれましたが、これもぜんぜん故障なし。 【木村】ただ、商売としてはもうからない? 【田嶋】損はしなかったけれども、もうからない。しかし、宣伝になったし、技術レベルが上がったから……。  なぜ、この対談を引用したかというと、じつは田嶋さんはわたしと話しているあいだも、こういう言い方を何度もなさるからである。 「もうからない、しかし良いものを創ればいい」と。まるで、利益にならぬことがつぎの、新しいカメラを開発してゆくための原動力になっているみたいであった。これが今日までの田嶋社長の一貫した姿勢なのだ。 「会社はカネもうけするところではなく、独創性のあるものを生産するところです。それで全社員が生活してゆければいい。うちはいいカメラを創りたいだけです。いつの時代でもうちは、同業者が創らないものを創ってきたし、これからもそのつもりです」  彼は頑固なワンマン社長であった。わたしは、付和雷同して要領よく生きる人間よりも、愛すべき頑固者が好きだ。個性のつよい人物に惹かれる。この『写真家物語』でも、そういう写真家を何人かとりあげてきた。  カメラを創って五十年、田嶋さんの人生は「もうからない、しかし良いものを創ればいい」のくりかえしの歳月であった。だが、いまや世界の「カメラ王」であり、カメラと共に生きてきた彼の話を拝聴しているうちに、ひとつの貴重なる昭和史ができあがった。  忘れないうちに書いておこう。田嶋さんの好きなスポーツはボートと草野球。酒は一升酒。好物がなんと黒豆を煮たのとゴマ豆腐。お得意は謡曲と端唄である。 (一)  田嶋一雄は明治三十二年十一月二十日、和歌山県日方町に生まれた。近くにある岡田村はルパング島から三十年ぶりに帰還した小野田寛郎少尉の故郷だが、日方町も岡田村も昭和九年に合併されて海南市になっている。  この一帯は古くから黒江漆器の産地として有名だ。田嶋家は雑貨類を取り扱い、とくに和傘の材料にする山路紙《さんじし》の問屋で知られていたが、一雄の父長三郎の代になって黒江漆器の問屋に転業した。  日露戦争後の明治四十年、一雄が七歳のとき、長三郎は弟の由松、鋭三郎と力を合わせ神戸へ出て葺合区磯辺通りに田嶋商店をおこした。貝ボタン、竹製のスダレなどの雑貨類をオーストラリアへ輸出する貿易商であり、郷里の漆器問屋は番頭に経営させた。先輩格の兼松商店(のちの兼松江商)はオーストラリアからの羊毛の輸入でもうけており、その業績は増大する一方だったが、残念ながら雑貨の輸出では苦労のほうが大きかった。  それでも田嶋三兄弟はがんばった。英語を勉強した次男由松が、オーストラリアのブリスベンにいって田嶋商店出張所を開設、神戸で仕入れた雑貨類をその出張所を通じて販売した。当時、和歌山県から出かけてゆく移民も多く、由松は現地でその世話もしている。こうしてみると田嶋家には海外へ雄飛したがる血統がある。  一雄の母のきくえは、彼が四歳のとき、有田の実家に遊びにゆく途中で事故に遭った。彼をひざに抱いて人力車にゆられていたが、車夫がお祭酒に酔っぱらっていたため、道路わきに車ごと転落。その勢いでほおり出された一雄は頭を打って血まみれになり、きくえは脇腹を強打した。母と子は気絶した。一雄は一命をとりとめたが、彼女のほうはそれが原因で三十五歳で他界してしまった。まさしく生と死は紙一重である。  一雄は和歌山商業学校を卒業、大正六年春に慶応大学予科に進学した。ロシア革命下のシベリア出兵が強行され、国内では米騒動がおこり、浅草オペラはなやかなりし年であった。海軍造兵廠が光学ガラス製造に成功したことも話題になった。  同期生には柳満寿夫(元三井銀行頭取)、一年後輩に宇佐美洵(元日銀総裁)らがいた。一雄は経済学の小泉信三教授を尊敬し、七年先輩の野坂参三(のちの共産党議長)がアメリカから帰ってきたとき、学生のための講演をたのみにいって講演会をひらいたりした。  ひと夏、一雄は学友にピコレットを借りてスナップ写真を撮ったことがあったが、写真に対する興味も写真機の魅力もさほどには感じなかった。当時のカメラメーカーのトップは小西本店(現在の小西六)であった。オリエンタル写真工業の創業は大正八年だ。  大正十二年春、田嶋一雄は銀座にあった日本電報通信社(現在の電通)に入社した。叔父に日疋《ひびき》信亮という陸軍主計少将がいた。この叔父が電報通信社の社長光永星郎と懇意にしていたので、そのツテで入れてもらったのだが、田嶋は新聞記者になりたかったのである。そのころの電報通信社は広告をあつかうばかりでなく、今日の共同通信や時事通信のように地方新聞に記事も送っていた。  初任給が七十五円。大学卒は平均六十円の時代だったので破格のサラリーだとよろこんだが、こと志《こころざし》とちがって田嶋は経理課に配属になった。  入社して五カ月後の九月一日の正午、あの恐怖の関東大震災がおこった。昼めしを食いにゆこうと机からはなれたとたん、グラグラッときた。電報通信社もレンガの壁だけを残して全焼した。彼は近くの日比谷公園に避難した。あたりは火の海と化した。死者九万人、全壊焼失四十六万戸、通信交通機関、ガス、水道、電灯すべてが停止し、朝鮮人暴動がおこるとの流言がひろがって人心は動揺、戒厳令が公布された。  東海道本線が復旧したのは十月二十八日で、神戸から父長三郎の命をうけてやってきた番頭が、 「もう勤めは辞めて早く神戸に帰って下さい」  と言って、強引に田嶋の手をひっぱっていった。  田嶋が神戸にもどってみると、死んだと思って家人たちが、彼の写真を仏壇に飾って線香をたいていだ。命びろいしたのは、母親に抱かれて人力車に乗っていた場合と、このたびの大震災で二度目である。  彼は新聞記者になるのもあきらめ、田嶋商店で働いた。父の長三郎が社長、由松が専務、鋭三郎が常務の完全な同族会社になっていた。 (二)  昭和二年十一月、二十八歳の田嶋一雄は十カ月の中東・ヨーロッパ旅行に出発した。神戸港を出港する高級客船箱根丸に乗った。  商工省(現在の通産省)が後援する輸出振興会が世界に派遣する四つのグループを編成した。日本商品を売りあるく旅商団で、 「いい機会だ、外国をその眼で見てこい」  と長三郎もすすめるので田嶋は、そのうちの中近東班に参加した。羽二重や絹織り物、雑貨類をもってゆく班で、政府が一万円の旅費を出してくれた。  香港、シンガポール、コロンボを経てエジプトのアレキサンドリアに上陸した。カイロへまわった。行くさきざきで旅商団は一級のホテルに泊まり、その国の有力新聞に「ホテルで日本商品のサンプルショーを開催しますから、どうぞお出かけください」の広告を出す。ホテルの広間を借りて羽二重や絹織物のほかにメリヤス製品、陶磁器、漆器、竹製品のスダレや紙屑かごまで陳列する。  だが、マホメッド・アリ・パシャという王侯がたくさんの家来をつれて見にきて、 「これをわたしのワイシャツに仕立てたい」  と絹布の契約をしてくれただけで、そのほかでは見向きもされず、買い注文はさっぱりとれなかった。どこの国も貧しかった。だいいち、日本という国があることさえ、知らぬものが多かった。  トルコ、ギリシャ、アテネ、ブルガリア、そしてユーゴスラビアの首都ベルグラードまでいったが、この移動見本市の成果はなかった。日本商品が世界のどこにでも進出している現代からみれば、まさに隔世の観がある。いまさらながら田嶋は「世界は広いなあ」と痛感するばかりであった。  旅商団はベルグラードで解散した。  田嶋は一行と別れて、ドイツ経由でパリヘむかった。パリには、前出の日疋少将の息子の日疋誠がいた。田嶋よりは十一歳年上になる。  日疋誠は変わり者の敏腕家であった。東京帝大法学部の学生時代、芸者遊びにおぼれていたかと思うと、パリへ飛び出していってタクシーの運転手になったりした。それがふとした奇縁からチャンスをつかみ、日仏銀行のパリ支店長におさまった。  さらに日疋誠は、日露戦争のさい軍需物資をあつかって巨万の富を得た大倉組の、大倉喜八郎とタイアップして仏国通商を創業、そのパリ支店の支配人におさまった。仏国通商は、第一次世界大戦後のドイツのクルフブ兵器会社を買収したシュナイダー社の、東洋総代理権を獲得していた。つまり、日本の陸海軍にシュナイダー社の兵器を売りこむ権利をにぎっていたのである。  この年の五月、「翼よあれがパリの灯だ」のリンドバーグが大西洋無着陸横断飛行に成功、パリの街はお祭りさわぎになっていた。  パリに現われた田嶋は仏国通商をたずねた。 「おお、一雄か。パリに何しにきた? フランスの女でも買いにきたのか」  日疋誠がからかった。 「買いにきたんではなく、売りにきたんです」 「日本から女を売りにきたというのか。おまえにそんな芸当ができるとはな」 「冗談はよしてください。日本の商品をもってまわったんですが、ぜんぜん売れんのですよ。情けない、輸出はもうあかん。輸入ならば商売になると思うんやけど、日本で飛ぶように売れるものがありませんかね」 「あわてるな、のんびり遊んでゆけよ」  日疋誠は笑ってばかりいた。  数日後、日疋は彼をシュナイダー社へっれてゆき、兵器工場を見学させてくれた。大きなものは列車砲から、小さなものは拳銃まで生産していた。仏国通商がこれら新鋭兵器を、日本の陸海軍や奉天軍閥の張作霖軍にも納入しているのだと聞かされて、田嶋は驚き眼をかがやかせた。  フランスの第一級の光学兵器会社であるS・O・M社にも案内してもらった。  五階建の巨大な工場の、一階が光学ガラス工場になっていた。溶解されたパラマウント光学ガラスが坩堝《るつぼ》で搬入されたり、ダイヤモンド鋸で裁断されたりしていた。二階は仕上げ工場であった。三階が機械工場とメッキ塗装工場。そして四階五階は組立工場だった。  数千坪の広さはあるその組立工場に、基線長一メートルの測距儀が何百本も並べてあった。眼を見はっている田嶋を、日疋がさらにおどろかせた。 「これはぜんぶ日本陸軍の発注品だよ」  満州侵略の野望をいだく日本陸軍は、関東軍を増強するために兵器購入に巨費を投じていたが、これもそのひとつなのである。 「日本にはまだ、測距儀を生産する技術がないのですか?」 「光学機械は、精密機械のなかでも最高にむずかしいんだ。そのなかでも一番むずかしいのが測距儀なんだ。日本でも研究して国産のものをつくりたがっているが、まだとてもダメだね」 「原価はいくらでしょう?」 「そいつは言えん、想像にまかせるよ」  腕組みして田嶋は首をひねった。一本が一万円くらいではないだろうか。原価は高く見積っても千円ていどではないか。少なくともマージンは五割にはなるのではないか。それを日本陸軍に何百本も納めることができたら……と計算したり空想したりしていると、目まいがしそうだった。  田嶋は、パリにきたかいがあったと思った。 (三)  昭和三年九月、モスクワ経由のシベリア鉄道で帰国した田嶋一雄は、光学機械の将来性に賭けてカメラメーカーになろうとした。この世界は小西本店が独走しているとはいえ、まだまだ処女地にもひとしかった。日本のメーカーが創りえないカメラを開発できる可能性は、充分にあるのだ。  たまたま神戸へきていたドイツ人のカメラ技師ビリー・ノイマンを紹介された。彼はフランスのクラウス社で働いていた経歴があり、レンズも磨けるという。  彼を技師長にしようと決心した田嶋は、 「サラリーは三百円でどうだ?」  と握手をもとめた。三百円といえば、県知事クラスの官吏や師団長がもらっていた額である。  帰国して四カ月後、田嶋は大阪の三品ビル(東区北久太郎町)に日独写真機商店の創設事務所をおいた。武庫川のほとりに工場を新設した。二階建て一棟と平屋建て一棟、延べ百三十坪にすぎなかった。ドイツやスイス製の自動ピーターマン、ボール盤、卓上旋盤、ハンドプレス、デッケルの彫刻機などを購入して据えつけた。  それらを道具にしてネジ一本、ボディひとつにしても手製であった。  ノイマンには日本娘の愛人がいた。田嶋は二人を工場の近くに住まわせた。工場周辺の農夫たちは「異人がいる変な工場だ」とふしぎがっていた。従業員は三十名、ノイマンが技術指導した。田嶋が郷里の黒江漆器問屋をまかされている大番頭をおがみたおし、父の長三郎には内緒で一万五千円ほど都合してもらった、これが最初の資金であった。  第一号機が完成したのは翌四年春である。  レンズも蛇腹もドイツからの輸入品、ボディだけが自社製のベスト判折り畳み式小型カメラで重さは三百四十グラム、「ニフカレッテ」と名づけた。十一種類の機種をつくり、販売価格は十八円から七十五円。  ちょうど六桜社のベスト八枚撮りと缶入りブローニー判「さくらフィルム」が発売された年であり、そのころ人気があったカメラは高級品ではライカ、大衆品ではパーレット。田嶋一雄、三十歳であった。  日独写真機商店には大々的にPRする宣伝費はなかった。チラシ広告をばらまいたり、「ニフカレッテ」を詰めたトランクを社長が両手にさげて、東京と大阪の問屋まわりをするしかなかった。  時期もわるかった。世は昭和恐慌といわれる不況のどん底であった。  田嶋さんはわたしに言う。 「東京と大阪の大都市で何とか売れたんですよ。しかしニフカレッテは故障が多くてね。苦情も殺到しました。それに月産わずか五十台でした。職工さんの週給を払うのがやっとでしたよ。いや、払えない月もあってね、当時は煙突男がうけていた時代で、うちでもストライキがおこりました。それで郷里へすっ飛んでいって、また番頭さんに両手を合わせ、おやじに内緒で資金をまわしてもらうというふうでした。三回ほど出してもらいましたね。それでもわたしには、将来はドイツのライカに負けぬカメラを開発したい……その夢だけはすてきれませんでした」  そして、田嶋さんははじめに「自分はまったく撮らない、素人です」と言っていたくせに、じつは自分でも写真は撮っていたんですよと白状した。 「撮ることも一応やったんです。ニフカレッテのカタログをつくるときには、その写真もわたしが撮りました。しかし、カメラを創るのと写真作品を創るのでは、異なるものだということを自覚したんです。カメラづくりにおのれの趣味や好みを活かしたりしてはダメだ、と気づいたんです」  それからというものは、死物狂いで新しいカメラの開発にとり組んだ。田嶋のモットーは「同業者のだれもが創らないもの」であった。翌五年には「ニフカクラップ」(三十九円—六十九円)、六年には「ニフカドックス」(二十九円)の大名刺判ハンドカメラを発売、さらにモルタ合資会社に改めて「シリウス」「アルカデア」「イートン」(いずれも四十円)を世に送り出した。とくに「ニフカドックス」は折から東京に飛来したドルニエDOX号に因《ちな》んで命名したものである。  昭和八年、田嶋は九歳年下の上山睦子さんと結婚した。有田出身の遠戚関係にある娘さんだった。二人は五男一女に恵まれた。現在は十五人の孫がいるという。  田嶋一雄がようやく愁眉をひらいたのは昭和十一年、尼崎工場を新設して国産初の二眼レフ「ミノルタフレックス」の開発に成功してからである。  これは二種類あって二四五円と三〇五円で発売した。アメリカで「ライフ」が創刊された年であり、田嶋は「二眼レフでようやく、うちが独走態勢にはいることができました」という。第一号機のころは月産五十台だったのが「ミノルタフレックス」は月産千台でも追いつかなくなった。戦前のカメラ業界では、月産千台というのは驚異的な量産であった。 (四)  日中戦争の勃発は、大衆のあいだに写真ブームをまきおこした。カメラとフィルムが飛ぶように売れた。出征兵士たちが戦場へもっていった。別れを惜しむ恋人たちがお互いを撮った。家族たちが笑顔のスナップ写真を、郵便や慰問袋にいれて送るようになった。  その昭和十二年、田嶋は堺工場を新設して国産レンズの生産を開始した。S・O・M社の光学ガラス工場を見学したときからの夢を、ここに実現したのであった。この機に社名を千代田光学精工株式会社に改めた。資本金は百五十万円。  カメラを中国大陸や東南アジアへ輸出するようになった。だが、翌十三年には海軍軍需工場に指定され、双眼鏡と砲隊鏡の製作もまかされた。あとでわかったことだが、できあがった双眼鏡は一台につき一三九円でしか買いあげてくれない。が、原価は二百円かかるのだ。それで他のカメラメーカーが受注しなかったために、この仕事を千代田光学へまわしてきたのであった。いまさら田嶋は拒絶するわけにいかず、カメラであげた利益で双眼鏡の赤字を埋めなければならなかった。  武庫川工場は大阪陸軍造兵廠よりまわされてくる、砲弾の信管部品の製作をひきうけさせられた。カメラの開発はつづけており、十四年には国産初のオートマチック二眼レフ「ミレルタフレックスオートマット」を四九三円で発売した。  この年には小松工場を稼動させ、陸軍の射撃爆撃照準器を製作した。武庫川工場では軍用特殊サイズの一〇〇式小航空写真機の量産をいそがされた。このために開発したレンズがのちに、ロッコールレンズとなった。ロッコールとは六甲山に因んで名づけたものだ。  田嶋にも召集令状がきた。一伍長として大阪高槻工兵隊に入隊した。ところが、部隊長によびつけられ、 「おまえは兵隊で御奉公するより、軍需工場の生産をあげることに専念せよ」とその日に帰された。  太平洋戦争が勃発した十六年には、陸軍航空光学兵器である一式固定射撃監査写真機と航空写真機用シャッターを、突貫作業で生産しなければならなかった。翌十七年には「光学ガラスの熔融工場を至急新設せよ」の海軍大臣通達がきたので、伊丹工場の建設に着手した。光学ガラスの権威である高松|亭《たかし》博士が、大阪技術試験所から派遣されてきた。  よくよく田嶋は変わり者と縁がある。ある騎兵中佐に、斉藤利衛なる男を使ってくれとたのまれた。この男は陸軍士官学校出だが、連隊長と喧嘩して軍服をぬいだ。が、レンズ設計もできればドイツ語フランス語なんでもござれである。 「おもしろそうな人物ですな。いいでしょう、あしたからでもよこしてください」  田嶋はさっそく入社させたが、なるほど大した奇人で、大豆と玄米とメザシしか食わない。風呂にははいらないし、女の経験もないのだ。しかし、斉藤はのちに三五ミリカメラ「ミノルタメモ」にとりつけたトリプレットのレンズを設計した。  十七年になると一般市販カメラの製作は中止させられた。街のカメラ店には売るフィルムさえなくなっていった。 「こんなはずじゃなかった。兵器工場は殺伐でいかんなあ。夢中でカメラを開発していられたころがなつかしい」  と呟いていた。  二十年三月十三日夜半、B二九が八十機来襲して、大阪市内は焼夷弾と爆弾の雨を降らされて火の海と化した。翌早朝、田嶋は東区北久太郎町の土居ビルにある本社に出社した。国民服にゲートルをつけ、布カバンを肩にかけていた。大阪駅から御堂筋へ出ると、銀杏並木は焼けて丸裸に、あたりは廃墟となっていた。避難民が群れていた。焼死体がころがっていた。親を失った子供たちが泣いていた。  土居ビルはくすぶっていた。十数人の社員たちがバケツリレーで水をかけていた。かれらは、 「社長、ご無事でしたか」  涙顔でよろこんでくれた。  本社の内部と資材倉庫は、鉄筋耐火のおかげで被害はなかった。以前、日独写真機商店の創設事務所をおいていた近くの三品ビルは、直撃弾をうけて三階までが空洞になっている。  だが、八月十五日の終戦までに空襲はくりかえされ、土居ビルも被弾して崩れた。武庫川、尼崎、小松の三工場は全焼、堺、伊丹、西宮工場は戦災をまぬがれた。 (五)  軍需会社に指定されていた民間企業にとっては、ポツダム宣言受諾は一般国民とはまた異った大衝撃であった。  各工場には必ず海軍将校なり陸軍将校なりの監督官が派遣されてきていたが、かれらは敗戦と同時にいずこかへ姿を消してしまったのだ。そこで田嶋は海軍省や陸軍省に、未払いの代金についてかけ合ったが、 「アメリカ軍が上陸してきてみな殺しにされるかもしれんのだぞ。それどころではない」  と一蹴された。そうかもしれぬがしかし、従業員への報酬を与えないわけにはいきません、と田嶋はひきさがらなかった。  納品すれば監督官が、金額を書きいれた支払い証書をくれた。これを銀行へもっていって現金化していたが、千代田光学にはまだ航空関係の千数百万円の支払い証書と、海軍関係のが五百万円あった。航空関係のは貸し倒れ同然の反古紙になったが、海軍関係のはなんとか現金化してもらえた。この五百万円を千代田光学の復興資金に当てることができた。まったく支払ってもらえぬ民間企業がたくさんあったのに、田嶋にとっては不幸中の幸いであった。  戦争はすべてを破壊したけれども、戦争が日本の光学・精密加工技術の長足の進歩をとげさせたことは事実で、千代田光学は急いでカメラ生産にもどった。二十一年には焼け残った伊丹工場で、重クラウン系ガラスの熔解に成功、戦後第一号機であるロッコール七五ミリのスプリングカメラ「ミノルタセミ」を生産した。市価は八八五〇円である。  旧豊川海軍工廠の一部をゆずりうけて豊川工場とし、ここではオペラグラスの「ミニコ」を製作した。食糧もとぼしかったが従業員はがんばった。  着のみ着のままになった日本人が生きてゆくには、いろんなものを輸入するカネもないのだから、まずは輸出で外貨をかせがなければならなかった。商工省は輸入見返り品産業としてカメラ製造を督励し、カメラは日本貿易公団が買いあげて輸出する形式をとった。敗戦国日本はまだ貿易の自由が認められていなかったからで、千代田光学は「ミノルタセミ」を百七十台、進駐軍の許可を得て南アフリカのヨハネスブルグに送った。これが戦後の初輸出である。 「日本は丸裸になった。しかし、われわれには技術がある」  そう言って田嶋は従業員をはげました。  GHQが日本の企業に対して、外国バイヤーとの直接輸出契約を許可したのは二十三年八月で、さっそく田嶋はフォーカルプレーン三五ミリの「ミノルタ三五」七十台を香港のヘロイック社へ、「ミノルタセミ」二百台をニューヨークのウィロビー社へ、六十台をハワイへ輸出した。だが、かつて田嶋商店が雑貨類を輸出していたのと大差なく、情けないほど利益は薄かった。しかも、外国人たちは「敗戦国民がつくったカメラは、どうせオンボロにきまっている」と決めつけて、頭から信用していなかった。  昭和二十五年六月の朝鮮戦争勃発が日本経済のカンフル剤となり、カメラ産業が活気づいたのもこの動乱ブームのおかげである。日本の基地から朝鮮の前線へ送られてゆくGIたちが、トランジスターラジオとカメラを買っていった。AP、UPIなどの一流カメラマンたちも日本経由で朝鮮へ渡ったが、そのときかれらは日本製カメラが意外に優秀であることにおどろいた。  このころリコーとヤシカが大衆価格の二眼レフを発売し、これに対して二眼レフのパイオニアである田嶋は、高級二眼レフ「ミノルタフレックス2」(二万九千七百円—三万五千二百円)で王座を確保した。キャノンカメラの人気が急伸し、小西六のパール1型、東京光学のプリモフレックス、旭光学のアサヒフレックスなども出てきて俄然、カメラ業界は追いつ追われつのデッドヒートを展開するようになった。ダンピング問題もおこった。  敗戦後の混乱期は去った。庶民のあいだにカー、カメラを持つのも夢でない平和の時代がきたのだ。そして、各地で美人コンテストがひらかれ、群衆はカメラを片手に見にゆくようになった。 「世界のミノルタになろう! いよいよ雄飛するときだ」  と田嶋が決意したのは昭和二十九年である。  敗戦後からこれまで千代田光学は、技術面では日進月歩だったが、追いつ追われつの業界のなかにあって経営の危機に見舞われた時期もある。「あの頑固者のワンマン社長も、もうお手あげだろう」とささやかれたこともあった。しかし、その苦難をのりこえて二十八年には資本金一億四千万円の企業に成長、田嶋は自分の「戦場」を世界にもとめたのであった。  彼はまず、ニューヨークに駐在員を派遣した。アメリカのカメラ界で評価をうるには、毎年三月に開催されるカメラショーで注目されなければならない。田嶋はこのショーに「ミノルタセミ」「ミノルタ一六」「ミノルタ三五」「ミノルタフレックス2」の四機種を出品させた。当時はまだジェット機はなく、駐在員たちは、貨客船プレジデント・ウィルソン号で横浜港から出発した。  だが、アメリカでのそれらのカメラは不評であった。向うではストロボが発売され、X接点のない日本製カメラは時代おくれと見なされたのだ。  シカゴのカメラショーでは観衆が、ミノルタのコーナーを素通りしてドイツ製品のほうへいってしまうし、売らせてくれないかと声をかけてくれる販売代理店も皆無であった。やはり「カメラはドイツだ」という先入観があるのだ。  駐在員たちは足を棒にして、ニューヨークを中心にカメラ問屋をまわってみたが、そこでも相手にされなかった。ところが六月、ボレックスアルパなどで有名なニューヨークのボルジー社が「共同開発と委託生産をやらないか」と申し入れてきた。そこで八月、田嶋社長がカメラ技師の荻野勝治を同伴して太平洋を飛んだ。  このとき田嶋は、二十八歳で神戸港から箱根丸で中東・ヨーロッパ旅行に出発した昔を思い出した。あれから二十七年、約二倍の五十五歳になっていた。あのころは他人がこしらえた絹織り物や雑貨類をもっていったが、いまは自分が創ったカメラを携行しているのだ。感無量であった。  だが、ボルジー社との提携は不調におわった。田嶋は二カ月間もとどまって交渉を重ねた。それでも商談は平行線をたどるばかりであったが、ところがその不運が幸運をもたらした。写真薬品の問屋であるFR社が、 「カメラも取り扱いたい。ミノルタの販売代理店をやらせてくれないか」と希望してきたのだ。  田嶋は契約した。これが日本のカメラ業界がアメリカで確保した最初の拠点であった。  帰国した田嶋はこう予測した。 「これまでの生産台数の十倍は売れるようになるよ。わたしを信じなさい」  社員たちはしかし信じてくれなかった。  翌三十年三月、アトランタで開催されたカメラショーに、レンズシャッター三五ミリの「ミノルタA」、二眼レフの「ミノルタオートコード」を出品した。これを評価したアメリカ人たちは先を争って買ってくれた。この時点がカメラの歴史的転換期であり、ドイツ製と日本製の人気が大逆転したのだ。ついに日本製がドイツ製に勝ったのだ。 (六)  田嶋一雄は東京小金井のゴルフ場を、シチズン時計の山田栄一社長とまわるため朝早く、東京事務所に来ていた。昭和三十七年二月二十二日のことである。  そこへ、電話がかかってきた。共同通信の記者だと名のり、興奮している口調で訊いた。 「あなたの会社に、ハイマチックというカメラがありますか?」 「日本ではまだ売ってないが、アメリカで市販しています」 「それです。ご存じですか、そのカメラがアメリカの人工衛星船フレンドシップ号に積まれていたのを」 「いや……宇宙船が打ち上げられたことは、ニュースで知っていますよ。宇宙飛行士のグレン中佐が乗っているやつでしょう」 「そのグレン中佐がミノルタハイマチックで地球を撮影したんです。すばらしいですね。日本製のカメラが宇宙で活躍しているわけです。社長のご感想を聴かせてください」 「うちのカメラがNASAで検討されているとは昨年の暮に聞いてはいたが、まさかほんとうに使われるとは思ってもみなかった。事実ならこんなに嬉しいことはない」  そう言いながら田嶋は、右手の受話器を左手に持ちかえた。  よろこびの実感が湧いてきたのは翌二十三日であった。グレン中佐がハイマチックで撮影した地球の写真が、新聞にでかでかと掲載されていた。何はともあれ田嶋は、父親に報告したかった。だが、長三郎は四年前の三十三年に他界している。長三郎がいまはのきわに言ってくれた言葉は「一雄、おまえは偉い、立派だぞ」であった。田嶋はその言葉をいま言ってほしいような気持だった。  グレン中佐自身が二十五種類のカメラをテストしてみて四種類を選び、搭乗するときにその四種類のうちからハイマチックに決めたのだ。理由は、冒頭の木村伊兵衛との対談でのべているとおりである。  昭和六年に田嶋は、世界初の大西洋横断飛行に成功したリンドバーグのシリウス号に因《ちな》んで「シリウス」を発売したが、こんどのフレンドシップ号も人間を乗せてはじめて宇宙を飛んだのであり、よくよく空の冒険に縁があるなと思った。  宇宙カメラとしてミノルタハイマチックは世界の人びとの話題になった。さっそく田嶋は、日本でも一万八千八百円で発売させた。二十五種類のなかから選ばれたのは偶然ではない。高性能であるからこそ、その栄冠を得たわけだが、日本のカメラ業界では、 「たまたま、そこにあったからグレン中佐が持っていったんだろう」  と、やっかみ半分の憎まれ口をたたいたり、 「おまえさんとこは宇宙に引越してくれよ」  と顔をしかめてくやしがるものもいた。 「世界的な話題になったことは、五億円の宣伝費に匹敵するだろう」  七月、社名を現在のミノルタカメラ株式会社に変更した。田嶋がアメリカヘゆくと、販売代理店の幹部たちが抱きついてきて、 「こんな幸せなことは一生に何度もない」  と祝福してくれた。  ミノルタカメラはアメリカばかりでなく、ヨーロッパをも席捲《せっけん》していた。  名門のライツもツァイスも、カメラ生産を中止せざるを得なくなっていた。向うのカメラ業界では、熟練工がその技術を長年かかって息子にひきつがせる徒弟制度のようなものがあった。一人で組み立てる名人芸を誇っていた。立派なことだが、しかしそれでは生産があがらない。  ところが日本では、熟練工を多くは必要としないし、工場はだれでも組み立てられるほどの近代化をはかってきた。したがって量産では負けないし、性能の面でも抜群、コストも割安になる。こうしてミノルタ製品はドイツを圧倒し、ヨーロッパ市場にも進出したのだ。  いまでこそトヨタや日産が乗用車で、本田や鈴木がオートバイで世界を圧倒しているが、カメラはすでに十五年も前に制覇したのである。  今日までの半世紀にミノルタは「ニフカレッテ」にはじまって百二十機種におよぶカメラを世に送りだしてきた。そのほか昭和三十五年の「ミノルタコピーマスタ」にはじまる複写機、「ミノルタシュレッダー」などの文書細断機、電子光学医療器機「オキシメットモデルMET1471」プラネタリウム、マイクロ、測光器なども開発した。カメラ業界にも幾多のドラマチックな変貌や競争があり、オーナー社長といわれるのは田嶋一雄ただ一人になった。  名物男だったリコーの市村清社長は逝ってしまった。  世界の経済情勢も大きく変わった。いまやカメラは自動車、家電とならんで国際競争率がもっともつよい輸出産業であるだけに、世界の風当りもはげしさを増す一方だ。田嶋はそれとも闘わなければならず、 「外国企業との競争はありませんか」  との問いにも田嶋は、はっきりと言いきる。 「日本のライバルはほとんど脱落、現在残っている有力企業はコダック(アメリカ)、アグファ(西ドイツ)ぐらいなもの。両社とも高級品はつくっておらず、競合しません。われわれにとって世界で敵はないし、外国のメーカーも競争しようとは思っていません。コダックにしてもフィルムをつくっているから、日本のカメラが売れるとフィルムもつれて売れ、共存関係にあります。同業者とのトラブルもなく、海外市場で輸入を抑えようとする動きもありません。西ドイツのライツ社のライカR3は、当社の部品が七割五分も組み込まれ、三倍の値段で売られています。なぜライバルに塩を送るようなことをするか、という人もいますが、当社の月産が六万台弱なのに、あちらは月産三千台程度。これでは競争にならんでしょう」  月産五十台の日独写真機商店からスタートした田嶋一雄が、こんなふうに言える男になろうとは、だれに想像できたであろう。 「日中平和友好条約が締結されたし、これからは中国の店頭にもミノルタカメラがならぶようになるでしょうね」  と問うのに対して、 「もう二十年ほど前になりますが、ある貿易商を通じて、うちの二眼レフが百五十台ほど中国へ渡っているんです。中国を旅行してきた人に、うちのカメラを見なかったか、と聞くんですが、だれも知らないという。ところが、海鴎という中国製カメラが売られてましてね、これがなんとミノルタなんです。三、四機種あってレンズの明るいもの、露出計を組み込んだものもある。いろいろと研究したようですね。レンズにしても、むずかしいガラスは使っていない。それでもピントがきちっとくる。なかなかたいしたものです」  そういう田嶋さんは中国の「学而不思則罔、思而不学則殆」を座右の銘にしている。思うて学ばざれば即ち罔《くら》く、学んで思わざれば即ち殆《あや》うし、である。つまり、田嶋さんは中国の教訓から人生のあり方を学び、中国にはカメラ技術を教えてやっているというわけだ。 「これからの、あなたの未知への挑戦は、どういうものですか?」  最後にそう質問したわたしに、 「光学からはなれた製品はつくりません。わたしはあくまで光学だけをやる。まだまだ序の口です。この世界は無限です。近い将来、レーザー光線を応用するカメラにとり組んでみたいですね」  そして、九月十一日にケルン市のギュツェニヒホールで開催されるPMDA(米国写真機材製造・卸売業者協会)の晩餐会で、一九七八年の「マン・オブ・ザ・イヤー」に指名のうえ国際写真功労者賞を受賞のため、写真家篠山紀信氏とともに成田空港から飛びたっていった。(昭和五十三年十月取材) ●以後の主なる活動 昭和五十二年アマチュア写真大賞・田嶋一雄賞設定。五十三年第一回アマチュア写真大賞決定。五十五年第二回アマチュア写真大賞決定。五十七年第三回アマチュア大賞決定、現在第四回応募中。ミノルタカメラ株式会社会長に就任。五十八年世界的に写真産業発展に貢献したことに対し、PMA(国際写真業者協会)の第五十九回年次総会においてカメラの殿堂入り。「第三回日本写真家協会賞」受賞。西独ケルン市長より「フォトキナピン賞」受賞。チェコスロバキア・インターカメラより「国際名誉賞」受賞。米国PMDAより「マン・オブ・ザ・イヤー」賞受賞、勲二等瑞宝章受章。