[#表紙(表紙2.jpg)] カメラマンたちの昭和史(2) 小堺昭三 目 次  土門拳「生きている傑作」  林忠彦「写真で書く人」  濱谷浩「神を見てきた人」  船山克「スタッフカメラマンの先駆者」  中村正也「多国籍作家の美学」 [#改ページ] 土門拳《どもんけん》「生きている傑作」  土門拳について問うと若い写真家たちは、 「彼ほどアクのつよい写真家はいないんじゃない? 傲慢そのものって感じだな」 「あふれる自信と非の打ちどころのない作品……あれには圧倒されっぱなしだけど、微妙な反撥も感じちゃうな」  おおかたが逃げ腰の反応をしめす。  たしかにアクがつよい。人間的な弱さ脆《もろ》さがないし傲慢にもみえる。しかしそれ以上にわたしは、土門拳は自己顕示欲が並みはずれて旺盛な、写真界における別格の怪物だと思う。日本の写真家たちが、それこそ束になってかかってもビクともしない存在である。  幕末の剣客近藤勇の、全身座像の古ぼけた肖像写真をながめて土門拳は、だれが撮影した作品だか不明ながら、 「新撰組の近藤勇の、虎鉄《こてつ》であろうか、長刀を左膝にひきよせて、神経質な顔でこちらを睨《にら》みつけているこの写真は、このテロリストの風貌を今日に伝えてあますところのない立派な写真だ」  と、いたくほめそやしていたが、わたしに言わせてもらうならば、剛直そうでいて神経質なその風貌は土門拳そっくりに見える。彼は現代の近藤勇であり、虎鉄のかわりにカメラをたずさえていると思った。  彼の代表作である『古寺巡礼』の一枚に、唐招提寺金堂の千手観音立像の両脇千手をクローズアップしたのがある。塗りのはげた褐色の木肌の、無数の仏様の手がこちらへむかってさし出されていて、そのなかの二本だけは太腕だ。この作品は壮厳であるが、じっと見つめていると気味わるくなってくる。そのたくさんの手でたぐり寄せられそうな、奇妙な感覚になってくる。  わたしにはこの無数の手がぜんぶ、土門拳のものであるかのような気がしてならない。土門拳の体にくっついている手だ。これらの手をのばして彼は、世の中のあらゆるものを掴もうとしている。何もかも自分のものにしなければ気がすまない彼の貪婪《どんらん》さが、この手に象徴されていると見た。彼は仏像の手を撮ったのではなく、自分の心のなかの手を写しているのであり、それが不気味なのだ。  わたしは、土門拳の写真の芸術性やカメラ技術について、分析したり論評したりする気にはなれない。その点は専門家が語り尽しているし、わたしの興味はむしろ、そういう手をもった怪物ぶりにある。なぜならば数多い彼の名作もさることながら、近藤勇の風貌そっくりで千手観音みたいな無数の手をもっている土門拳そのものの生きざまが、魅力ある稀有の作品に思えてならないからである。 (一)  ——土門拳は明治四十二年、山形県酒田市に生まれた。父親の土門熊造は造船会社の下級社員、母親とみえは地元の看護婦だった。祖父が酒田で看板かきのようなことをやっていて、拳の写真や絵画に対する感覚はその祖父から受けついだようであるが、とにかく一家は貧しかった。  一家は上京して谷中の細民街に住むようになり、そこからまた横浜へ引越していった。小学校時代も中学生時代も横浜ですごし、拳は画家になりたがっていた。ピカソやモジリアニが好きだった。が、美術学校へ進学するほど家は豊かではなく、中学を卒業すると逓信省の給仕になったり弁護士事務所の事務員で働いたりした。そこから日大専門部法科の夜学にかよったが二年で中退している。  父親が愛人をこしらえ、その女にも子を産ませて妻子を捨てた。拳はすこしは油絵をかいてみたが、絵具やカンバスを買うカネがつづかずやめてしまった。二十三歳のとき、日比谷にある共産党系の全農全国会議本部の書記補に採用された。  半年もたたぬうちに治安維持法を適用したアカ狩りで拳も逮捕され、丸の内署で特高刑事の、指と指のあいだに鉛筆をはさんで責める拷問にかけられた。連日であった。手が疼《うず》いて留置場では眠れない。  彼は共産党には近づかぬとの誓約書を書かされた。釈放になったが挫折感から自殺を考えているとき、 「ケン坊は絵が好きだから、将来は写真師になればいい。職人がいちばんいいよ」  看護婦をつづけていた母親がすすめ、上野公園下にあった宮内幸太郎写真場の門生になって住み込んだ。五年契約の年期奉公で給金はなく、盆暮に四円もらえるだけだった。昼間は原板修整、印画スポット、台紙貼りをやらされ、自分の時間は六畳の仕事場に布団をしいて雑魚寝《ざこね》するときしかなかった。門生は四人いたが、特高刑事に痛めつけられたくやしさを忘れたいかのように、彼だけは寝る時間を惜しんで勉強した。  物置に主人の「写真月報」「アサヒカメラ」「写真芸術」などの古い雑誌があった。それをひっぱり出してきて二年間で五百冊を読破した。わずかな小遣いをためて神田の古本屋にもかよい、拳は寝るのを惜しんでやる勉強を「寝床大学」と称していた。ときに昭和八年、二十四歳、満州事変のさなかだった。  当時、世界の写真界はドイツがリードしていた。ライカやコンタックスなどの小型カメラを売りだし、世界でもっとも権威のある「リヒト・ビルド」という写真年鑑を刊行していた。マルチン・ムンカッチ、モホリ・ナギィなどの俊英写真家が活躍していた。だから拳はドイツの写真の動向を知っておかねばと思い、まずドイツ語から勉強したくなり「ドイツ語講座」を買ってきて独学をはじめた。  夜中も電灯をつけてやるので、他の門生たちは眠れないと言いだした。拳は布団を出したあとの空っぽの押入に電灯をひきいれ、首を突っこみフスマを首の幅ギリギリまでしめて、光が部屋へもれないように工夫した。思いこんだらトコトンまでやる執念は、すでにこのころから現れはじめたのである。  ところが門生たちが主人に告げ口したため、押入のなかで電灯をつけるなんてもったいない、とどなられてドイツ語の独学は頓挫《とんざ》。くやしかったがどうにもならなかった。  拳は伯父から借りていた、新聞社のカメラマンが使っているアンゴーというハンドカメラをもっていた。主人の使いで外出できるときにはいつも、これを紺がすりの着物の下にかくして持ち出した。そして途々、スナップできるものを物色。都電のなかで向いがわにすわっていた女の子が大きなあくびをしたその瞬間をスナップしたものを「アサヒカメラ」の月例写真コンテストに『アーアー』という画題をつけて送り、賞金として三円もらった。これが拳の作品で印刷になった最初であるが、主人はこれにも渋い顔をした。  動態のスナップを撮るための目測のトレーニングに凝りはじめた。晩めしがすんでから夜なべがはじまるまでに小一時間の食休みがあった。この時間に三階の写場にあがった。そこからは上野広小路のネオンサインが見渡せる。「ライオン歯磨《はみがき》」の広告塔がひときわ高く、彼はそれを勉強相手にきめたのだ。  ラの字を見つめながら両手にさげたアンゴーを、ゆっくりと目の前にあげてファインダーを左の目にあてる。ファインダーに細く引いてある十字線の交点に、ラの字がつねに必ずぴったりくるようにする。それをくりかえすうちにカメラを目の前にあげるスピードをだんだんに早めた。電光石火の早業であげてもぴったりくるようになった。  しかし、ただファインダーをのぞくだけならそれでいいが、右手でシャッターを切ろうとすると、両手で平均にカメラを支えてはいられないことが判ってきた。カメラの全重量は左手にかけなければならないこと、そして右手の人差指でシャッターボタンを押しさげたときのショックをゼロにするためにだけ、右手はカメラにかるく添えておく必要がある。  いろいろと研究してみて、カメラはいきなり目の前にもちあげずに、いったん目の高さよりもやや上にあげてからひきよせる感じになるのがいいという結論が出た。カメラを横位置に使う水平保持がものになって、縦位置に使う垂直保持のトレーニングをはじめると、いっそうそうでなければならぬことが実証された。  こうして拳はライオン歯磨のラの字を目標にして、カメラ保持、ファインダーのぞき、シャッター切りという一連の操作を横位置で五百回、縦位置で五百回、合計千回ずつを毎晩の食休みにやった。ほんとうに撮影している気分をだして毎日、千回も空シャッターを切るのだ。それは、押入に首を突っこんでドイツ語を独学したときと同じ執念だった。 (二)  宮内写真場には二年半いて、夜逃げしようという気になった。報道写真家を志《こころざ》したい気持をおさえがたく「アサヒカメラ」に写真技師志望者を求むの広告をみてひそかに応募したのだ。募集していたのは日本工房の名取洋之助。彼はドイツに留学し日本で最初に報道写真を手がけたジャーナリストだった。  主人の宮内幸太郎は許さないばかりか、五年契約を破棄するのならこれまでの食費や手当は返済しろと怒った。それでも拳は日本工房を諦めきれなかった。  少年時代に祖父から聞かされた話を思いだした。——機会という神様がいて、その神様は人間の一生にたった一度だけ風のように訪れて、再び風のように去ってゆく。ところが神様の頭は前のほうにだけ髪があって、うしろは禿《は》げている。だから、神様がやってきたときにはいちはやく前の髪をつかまないと、うしろからではつかまえようがないし、それを掴むか掴まないかでその人間の一生は良くも悪くも決ってしまう、というものだった。  拳にとってはいまが、自分の一生に一度のときであった。この機会をつかまえなければ一生、報道写真家になりそこねる気がしてきて、返済するカネはないから身の回り品と本をつめた柳行李を窓からおろし、主人が朝めしを食べている隙に飛びだしていったのだ。  日本工房は銀座にあり、日本を海外にPRするための政府の英文雑誌「NIPPON」を編集していた。デザイナーの亀倉雄策、河野鷹思、写真部員には木村伊兵衛、藤本四八らがいた。  せっかく採用してくれたのに、名取洋之助は拳に対してはじつに辛辣だった。不遜なところがある拳を好きになれず、拳が撮ってきたのを「こんなものは写真じゃない!」とどなって目の前でズタズタに破り、踏んづけ、撮りなおしを命じた。  拳は毎日のように唇をかんで泣く思いをし、畜生ッ畜生ッとわめきながら撮影しなおすために飛びだしてゆく。シゴキつづける名取に対する拳の気持は、尊敬と憎悪とが半々だった。若いながら拳の才能には端倪《たんげい》すべからざるものがあって、名取はそれを嫉視していたようである。  銀座四丁目にミュンヘン・ビヤホールが開店して、拳も仲間らと飲みにかよったが、そのころの想い出を藤本四八はこう書いている。 「われわれはビールを飲み、仕事の話で情熱を燃やした。と同時に、そこに一人の美しい女性がいた。それを目当てでかよったのが土門だった。土門はそのころ、安月給をミュンヘンにつぎ込んでいた。彼女を多摩川につれ出して桜の花の紺がすりの着物を着せて、美しい写真を撮ったりした」  その作品は「NIPPON」の表紙になったけれども、拳は名取にはシゴかれるし、その恋にはやぶれるしでさんざんだった。  しかし作品が表紙になるくらいだから、彼は写真家としては急速に成長していたのだ。そのころナチスの台頭でドイツから追われたユダヤ系の写真家や名編集者がアメリカに亡命し、写真雑誌「ライフ」「ルック」などを創刊した。日本に輸入されるそれを買って拳は、その後のムンカッチやナギィの仕事ぶりに刺激されながら田村茂、藤本四八、杉山吉良、濱谷浩らと青年報道写真研究会を結成、報道写真展を開催したりした。  昭和十三年、二十九歳のとき「婦人画報」の仕事で陸軍大臣宇垣一成を、木村伊兵衛とともに撮影した。二人はこれを「ライフ」に投稿した。木村のはボツになったが、土門拳のは掲載された。戦前の日本人で「ライフ」に作品が載ったのは彼がはじめてである。  お互いに個性がつよいため、拳と名取は最後までうちとけなかった。翌十四年、日本工房を去った拳は、外務省の外郭団体である国際文化振興会の嘱託になった。日本を紹介するための美術品や民芸品などを写し、嘱託料は月額百五十円だったから生活もようやく人並になってきた。  この振興会で働いている中村民子という、二十三歳の銀行員の娘がいた。彼女は拳のことを同僚に、ふしぎそうに訊いた。 「あの人、どこの国の人かしら?」  拳が髪をオールバックにしていて、浅黒い顔で目玉ばかりがギョロギョロしていたので、彼女は南方系の人種だと思ったのだ。  が、彼女と拳はまもなく恋仲になり、結婚して築地明石町の棟割長屋に所帯をもった。そこにもときどき特高刑事がやってきた。拷問にかけられたのは八年も前のことなのに、いまだに地下運動でもしているのではと監視しているのである。  当時、彼には戦争反対の明確な思想的根拠があったわけではない。報道班員として戦場へいっても写真についての何の専門的教養のない将校たちから、あれを撮れ、こういうのを写せ、と命令されるのが厭だった。厭なものは殺されたって厭、という頑固さだけは絶対にまげたくなかったのだ。  アメリカは昭和十六年に太平洋戦争が勃発すると、アメリカ写真界の第一人者であるエドワード・スタイケンを大佐に起用し、写真報道の全権をにぎらせた。アメリカは適材適所の人の使い方を知っていたのだ。戦時における写真政策の一面だけ比較しても、日本はアメリカの敵ではなかった——と拳が知ったのはしかし、戦後になってからである。  拳は東京にいて、応召してゆく従軍看護婦を主題にした『赤十字・出征』や、戦場から送りかえされてきた傷痍《しょうい》軍人の『赤十字・生き杖』などを撮りつづけた。戦時下の少国民——国民学校の生徒たちも撮った。昭和十五年五月からはそんな現実にも顔をそむけて、古寺巡礼にとりつかれた。  鉄道省国際観光局の映画撮影に便乗して京都の太秦《うずまさ》広隆寺、奈良の中宮寺へいったのがきっかけだった。寺々のカメラ行脚がはじまった。  最初に拳の心をゆさぶったのは、弘仁時代の一木造《いちぼくづくり》の仏像である。「飛鳥、白鳳、天平と長いあいだ中国仏教文化の影響下にあった日本仏教文化が、ようやく日本的なものを志向して自己変革をはじめた、いわば過渡期的ともいえる時代の仏像であり、まるで怒っているみたいに苦渋な表情をたたえた弘仁仏像だった。それはそのまま当時の、戦争協力以外のすべての道を閉ざされた日本知識階級の表情とも受けとれた」と彼はいう。  仏教美術や宗教の歴史についての勉強もはじめるとますます魅せられて、 「これらの仏教美術が戦争によって破壊された場合のためにも、ぜひとも写真に残しておかなければ。おれがやる仕事はこれだ」  という気になっていた。  弘仁彫刻からさらに文楽人形浄瑠璃の撮影に没頭した。文楽もまた残しておかねばならぬもののひとつであり、昭和十六年十二月八日のハワイ真珠湾奇襲の号外を見たのも、大阪四ツ橋の文楽座の楽屋でだった。築地明石町の棟割長屋には召集令状がきてやしないかとあやぶみながら、空き腹かかえて寺から寺への旅をつづけた。仏像や文楽ばかりを追っているのでどこへいっても非国民よばわりされ、向けられるのは軽蔑の眼ばかりだ。  無収入の月もあった。三人の娘の父親になっていた。妻子の生活費、撮影のための汽車賃、宿代、香華料、そしてフィルム代や閃光電球代を工面するのに、リヤカーで蔵書を神田の一誠堂へはこんでいったこともある。  昭和十五年から十八年までに撮った仏像、文楽は七千枚にもなった。このなかの『人形の手』と『国宝広隆寺阿弥陀如来の手』でアルス写真文化賞を受賞したのが、拳にとっては唯一のはげましであった。  ときに三十四歳、このころから拳は、 「写真家の眼はカメラを通して、いつも他人に向けられている。だから、他人を見ることにかけては、いつのまにか犀利《さいり》な眼ができあがっている。しかし、カメラを自分に向けることがないように、自分を見ることにかけては、まるで甘い。それが写真家の悲しい宿命であり、おそろしい陥穽《かんせい》である」  ことに開眼するのだった。  召集令状がきたのは敗戦もま近い昭和二十年六月だった。拳は奉公袋をひとつさげて山形連隊に入隊した。雨の降る営庭で、体格検査の順番を長い行列をつくって待った。褌《ふんどし》ひとつの裸であった。六月とはいえ全身が震えた。  検査の結果は不合格で即日帰郷だった。  拳は痔を病んでいたのだ。 「不合格ッ、この役立たずめが!」  軍医がどなりつけビンタをくらわした。 (三)  敗戦後の飢えと混乱がつづいているさなかも、土門拳はカメラと配給米を入れたリュックを背負い、買出し列車に乗って室生寺へ出かけていった。敗戦によって事情は一変したけれども、古典のなかの日本民族の、自主独立の衿持とヴァイタリティをさぐりたかった。  室生寺を前にしたときの気持はまさに、国破れて山河ありだった。久しぶりに仰ぎみる青い空、緑の山、丹塗《にぬ》りの堂塔の美しさに、焼野原の東京からやってきた彼は思わず涙ぐみたくなった。  だが、古寺仏像ばかり撮ってもいられなかった。生活費を稼がねばならず、まず聖路加病院を接収していた進駐軍相手のDPからはじめ、カストリ雑誌の口絵にするピンナップも撮りまくった。拳がヌード写真を撮ったのはこの時期だけだが、警視庁によびつけられてモデルの恥毛が見えているじゃないかと説教されたこともあった。  そんなとき拳は妻を同伴した。アカ狩りのとき以来、警察がたまらなく厭だったし、妻がついてきてくれないと出頭したがらない気の弱さがあった。彼は病院にも一人ではゆかなかった。医者はまちがえて、つき添ってきた妻のほうが病気なのだろうと思い、彼女に聴診器をむけようとした。 「いいえ、病人はこの人ですよ」  と妻に言われて拳は、照れくさそうに笑っていた。自己を見つめることにきびしく、報道班員になることさえ頑なに拒否してきたのに、病院や警察では人が変わったみたいにからっきし意気地がなくなってしまう。  ヌードモデルを撮影する場合も、手をあげて、とか、お尻をもっと突きだして、と演出するのが気がひけて、そんなことは一切妻に指示させる。 「あなた、モデルさんだって同じ日本人じゃないの。日本語が通じないとでも思ってるんではないでしょうね」と妻があきれても、直接にモデルに話しかけられなくて、おどおどしながら妻に「通訳」させるのであった。  そのくせ、女性以外の被写体にカメラを構えさせると無類のつよさを発揮した。近藤勇と同じで、真剣を抜くと敵なしという気迫がみちみちて、 「濱谷浩は一歩さがって撮るから情緒的な作品になるが、おれはつねに一歩前へ出て撮る。それだけ本質に迫るんだ」  と言い放ったりした。距離そのもののことだけでなく、芸術家としての自負心の差をほのめかしているのだった。  拳は『風貌』に収める肖像写真を撮りはじめたが、本質に迫りたさにその人物に執拗にくいさがる。川端康成は「たいていの人は土門さんに写されると、その凝視や執念によって、自分のなにかを抜き取られるように疲れる」とボヤいており、あまりの執《しつ》っこさに腹をたてた梅原龍三郎は拳にむかって椅子を投げつけた。ある女流作家は美人に撮ってもらえると思っていったのに、顔のシワまで写されてしまったので柳眉《りゅうび》を逆だててしまった。そんなエピソードは無数にあるし、彼の奇行ぶりも目だってくるようになった。  いまでこそ男だって赤いシャツを着て平気だが、戦後まもないころではまだそんな男はいなかった。拳が深紅のシャツを着て、頭にスゲガサをかぶって銀座を闊歩するので、弟子や仲間たちはいっしょに歩くのをはずかしがった。古寺仏像を撮影にゆくときにはまるで、山伏のようないでたちで出かけた。いったさきざきの住職が「このごろは山伏もカメラを持ち歩くようになった」と目を白黒させた。こんなエピソードも書けばキリがない。  土門拳と木村伊兵衛が「リアリズム写真運動」を提唱したのは昭和二十六年だった。拳に言わせると「いい写真というものは、写真家の主観に感銘するのではなくて、写真化されたところの、モチーフの真実が見るものの胸を打つのだ。つまり、これが写真におけるリアリティの問題である。とすれば、写真家の写真家としてのもっとも正しい任務は、モチーフをどう解釈するかという主観的な、観念的な操作でなしに、モチーフのリアリティを如何に写真のリアリティにおきかえるかという技術的な、機械的な操作でなければならない」のである。  同時に二人は、写真の記録性を重要視した。拳はこれを「絶対非演出のスナップ」と称した。木村はそれを庶民の日常生活のなかで、拳は社会現象のなかでそれぞれに実践した。  乞食を撮った。パンパンガールも写した。これらはすべて「モチーフの真実」を表現しているのだが、人びとはこれを糞リアリズムだと汚ならしげに笑った。だが、笑っている人も心では驚嘆していた。これまでに写真というものは花鳥風月的な、サロン絵画に近いような作品がすぐれたものとしてもてはやされてきたが、木村と拳のドキュメントには現実感があふれており、胸をゆさぶられるものが横溢《おういつ》していた。  このリアリズム運動が、アマとプロの差が歴然としていなかった写真界にあたえた影響は大きい。写真家たちの全員の、アマ、プロを問わず作風を変えた、といっても過言ではない。いまや木村と拳が日本の代表であるばかりでなく、日本の写真は世界的なものになった。  拳は、すたれゆく筑豊炭鉱へいって底辺の生活にあえぐ「筑豊の子どもたち」を冷徹なレンズでとらえた。広島へ飛んで原爆患者やその子たちを追った。第四回毎日写真賞を受賞した『ヒロシマ』と題するこの写真は、観るものに嘔吐感をもよおさせた。醜いケロイドの手足、精薄児になった少女、顔面の整形手術の無惨さなど、どの作品にも、 「よく見ろ、これがヒロシマの現実だ。キリスト教者や仏教徒ならば、それは生まれながらに罪を背負ってきたものの原罪として宿命と諦観を説くかもしれない。しかしぼくは、宿命説を拒否する。諦観を他から、もしくは自ら与える安易な欺瞞《ぎまん》として軽蔑する」  と絶叫している土門拳がひそんでいた。  観るものはそのむごたらしい現実に嘔吐感をもよおすのではなく、つねに一歩前へ出る構えでこの「魔の遺産」を撮りつづけてきた拳自身に圧倒されてしまうのだ。  だが彼とすれば、原爆の爪跡を告発したり炭鉱労働者の家族の悲惨な生活をキャンペーンした眼と、奈良や京都をめぐって日本の古典を追求する眼とはひとつであった。矛盾し相反するように見えるけれども、 「ぼく自身にとっては同じことだった。縒《よ》り糸がないまじっているだけで、一本の綱であることには変わりなかった。日本民族のヴァイタリティを触発すること、対象はちがってもただそれだけがぼくの関心だった」  と拳はいう。 (四)  相変わらず土門夫妻は、結婚したときから住みついている棟割長屋にいた。ここは写真家たちの「梁山泊《りょうざんぱく》」みたいになって、明日をになう若い写真家たちがごろごろしていて議論し、酒を飲みくらった。三度三度の食事を家族だけでという日はまったくない。いつも何人かが居候になって食わせてもらっていた。  拳もまたそういう雰囲気が大好きである。  居候になっていた一人である三木淳が、この梁山泊のおもしろさをこう書いている。 「——この人(拳)は仕事の段取りが極めて悪いのだ。まずお寺を撮ると決めるとフスマにお寺と仏さんの名前を書いていくのだ。そのお習字が失敗するとフスマの張り替えが始まるのだ。そして数日は表具師を楽しむ。糊をトロ火でつくる。こげると大変、またやり直しである。紙は日本橋のはい原の紙でなければ気にいらない。近所の紙屋で買ってもよいのに、はい原までゆくのだ。(中略)また始まった、と土門さんの母君も奥さんもあきれ顔だった。傍でお母さんが何をいおうとそしらぬ顔だ。馬耳東風。馬の耳に念仏」(特集フォトアート)  フスマに墨書するというのだから驚く。文壇の人たちを撮るときにも、女優たちを撮るさいにもそうして名を書きつらねる。そうすることでまず、拳は被写体をたのしんでいるのである。  紙は日本橋のはい原でなければ気にいらないように、この人の一流好みもまた徹底している。このことについて「婦人画報」の川辺武彦が、わたしにこう語った。 「土門さんはシャツでも何でもデパートへいって一級品を買うんです。そこらにあるものは、いくら良くても見むきもしない。万年筆でオノトがいいとなると丸善で何本もそれを買う。友人が高価なペリカンやモンブランを贈っても、おれはオノトしか使わんと言ってその場で返しちゃう。バーでも気にいると毎晩、その店にかよう。そこの女の子たちに、わざわざ京都までいって丸竹の下駄を買ってきてくばってやったりするんです。そんなふうだから、人間も超一流でないと付き合わない。志賀直哉、梅原龍三郎、中野重治、佐多稲子といった人たちをとくに好いてますね」  一流のものは必ず一流の作品になり得る、という信念があるのだった。ところが、住んでいるところは依然としてオンボロ棟割長屋であり、自分の生活だけは一流にしないのがおもしろい。  ある日突然、何を感じたのか拳はスケートに凝りはじめた。スケート場に毎日かよって子どもみたいに滑ってよろこんだ。そのスケート靴も日本一高いのを買った。こうなると偏執狂じみてくるが、そればかりかスケートに関する本もしこたま買いこんできて研究する。仲間や弟子たちは唖然となって見ているしかなかった。  彼ほどあらゆることを勉強する写真家はいない。宮内写真場時代に押入に首を突っこんでドイツ語を勉強した、あの姿勢が一貫してあるのだ。ひとつのものを撮るのに、それに関する資料をあさってきて勉強する。たとえば小説家の井上靖を撮る場合、井上靖の全作品を買ってきて読破する。茶碗を撮る場合にはぬれ茶碗の質や窯元《かまもと》の歴史を研究する。だから拳の棟割長屋には、およそ写真家らしからぬ本が山となっている。  こんな写真家は他にはいない。その多くはその茶碗を目の前にして感覚的にサッーと撮りおえるが、土門拳の場合は、写真家がなぜこんなに勉強しなければならないのかと疑いたくなるほどだ。彼は人生の三分の一の時間を撮影に費やし、残り三分の二は勉強している。そうでなければにじみ出てくるそのものの本質に迫れないし、モチーフのリアリティを如何にして写真のリアリティにおきかえるか——それだけをつかみたいからなのだ。  南氷洋の氷山を撮りたいと思ったとしたらおそらく、海面に出ているより何十倍もの海中にかくれている部分を知りたがるだろうし、そして彼は、ほんとうの写真とはそういうものなのだと言うにちがいない。  撮影まぎわになると拳はよく大便をしにゆく。  ゆっくり時間をかけて脱糞してくる。 「ウンコを途中でし残すのは厭だ。ぜんぶ腹から出してしまって気持よく撮りたい」  からであり、撮りだすと納得ゆくまでやめない。ようやく終了して助手がカメラをしまいこむと「いや、もう二、三枚撮っておこう」とまた支度させる。そして二、三枚どころか二、三本は撮りつづけるのだ。  仏閣や仏像を前にして日がなすわりこみ、じっと凝視しているだけで撮らずじまいになる日もある。翌朝またゆき同じように、被写体が最高に美しく見えるまで終日対座している。閉門時間もとっくにすぎて、人っ子ひとりない境内に真暗になるまでねばっている。それで撮影完了し、その旨を住職に挨拶して帰ったのに、翌朝また現われる。宿屋へ帰って風呂につかっていると、その日に撮影したもののうちでどうしても不満なものが思いうかぶのだ。そこで翌朝またノコノコ出かけてゆくわけだが、東京にもどって現像した結果が思わしくないとなると、再び夜行列車で現地までUターンした。 (五)  昭和三十四年、五十歳のとき拳は、酒と過労がたたって脳出血で倒れた。半年間の療養生活ののち再度カメラを手にするようになったが、右半身不随の右手では以前のように自在にライカを操作できなくなった。三脚にすえる大型カメラを用意して寺々をまわりはじめた。  仏像の首のあたりに蜘蛛の巣などがついているのも撮るので、最初のうちは土門拳の写真は大嫌いだったという薬師寺管長の高田好胤は『古寺巡礼』の刊行に寄せて、 「冬の或る日。大和の冷えは特に厳しい、が、その日も、とっぷり陽の暮れる頃まで、お嬢さんを助手に、未だ全快していない不自由な体を克しての精進の姿を見て、私はつくづく偉い人だ、と頭を下げずにはいられない気持になった。それは執念とか何とかではなく、正《まさ》に撮影の妄者、そのものであった」  と感動して書いているが、拳は究極には自分というものを撮りたがっているのであり、自分を撮りたさに厳寒の大和路を半身不随になってもなおさまよっている亡者なのだ。  彼ははっきりと、尊敬できる写真家は日本にはいない、という。ひょいひょい外国へ行って撮ってきている作品などまったく陳腐だという。なぜならば、ちょっと旅行したぐらいではモチーフのリアリティはとらえられるものではないからだ。  日本だけが大好きだから、彼は外国なんかに行ってみたいとも思わない。まだまだ日本で撮らねばならぬものがあるので、外国へ旅行する暇もないという。ただし、自分に毛沢東を撮らせてくれるというのなら、北京へは、行ってみたいという。これもまた彼らしい一流好みである。  昭和四十三年、山口県萩市で撮影中、不幸にも拳は再び脳出血で倒れた。もはや満足に手足をうごかすこともできず、口もよくまわらなくなってしまった。  こんどの療養生活は長かった。それでも彼は、弟子につき添ってもらってステッキをつき、あるいは車椅子に乗ったりして再起した。これもまた執念である。亡者だからである。 「これから三日間、奈良の円成寺へいって、古寺巡礼の補足分を撮ってくる」  と彼は目玉をギョロギョロさせてわたしに言った。わずかに自由になる左手をうごかしてみせた。左手がうごくのだからまだまだ撮れるというのだ。その左手を見ながらわたしは、冒頭に書いた唐招提寺金堂の千手観音立像を思いうかべた。  拳の左手が無数にのびている千手のように見えてきた。まだまだ撮らねばならぬものを、その千手が貪欲につかもうとしているかに思えた。  それから彼は、カメラを手にして半身不随の全身を馴らすためのトレーニングをはじめた。宮内写真場時代に毎晩、食休みになるとアンゴーをかかえて「ライオン歯磨」の広告塔を目標にカメラ保持、ファインダーのぞきシャッター切りを千回ずつやった——あれと同じことをいまもやりはじめたのである。  六十四歳にして土門拳は第一歩にもどったのだ。  わたしにはそう見えた。 「土門拳の作品には追随を許さぬ迫力がある。彼ならではの世界がある。しかし、円熟味というものが何歳になっても感じられない。おそらく死ぬまでないんじゃないか」  と評する声もある。だが、第一歩にもどって再び阿修羅のごとく生きようとしている彼に、円熟味をもとめる必要があるだろうか。写真家それ自体が作品となりうる人物は、日本の写真界では彼をおいて無いのだし——重ねてわたしはいう、土門拳は一流の怪物であり、彼自身が魅力あふるる稀有の生きている傑作なのである。(昭和四十九年十月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和四十九年「死ぬことと生きること」「続・死ぬことと生きること」(築地書館)、「日本名匠伝」(騒々堂)、「古窯遍歴」(矢来書院)。五十年「私の美学」(騒々堂)、「古寺巡礼」第五集(美術出版社)。五十一年「写真作法」(ダヴィット社)。写真展「古寺巡礼」、「宝生寺」。五十二年「三人三様」勅使河原蒼風・亀倉雄策と共著(講談社)、「土門拳自選作品集」全三巻(世界文化社)、「筑豊のこどもたち」(築地書館)、「東大寺」「お水取り」「京の寺」(平凡社カラー新書)。五十三年「生きているヒロシマ」(築地書館)、「女人高野室生寺」(美術出版社)。五十四年朝日賞受賞、「現代彫刻」(サンケイ新聞社)、「日本の彫刻」(美術出版社)。九月十一日、脳血栓で倒れ、東京虎の門病院に入院、現在に至る。五十五年「日本の美—艶」(集英社)。五十六年「昭和写真全仕事」(朝日新聞社)。五十八年「土門拳全集・全十三巻」(小学館)。酒田市に土門拳記念館開館。 [#改ページ] 林忠彦《はやしただひこ》「写真で書く人」  のっけから私ごとで恐縮だが——終戦後に文芸雑誌が続々と復刊されはじめたのは昭和二十二年から二十三年にかけてだった。戦後派といわれる椎名麟三、野間宏、梅崎春生ら新鋭作家が野心作をひっさげてはなばなしく登場した。そのころ私はまだ二十歳になっていなかったが、戦後の混乱期に確かな目標もなくブラブラしていて、おれも小説でも書いてみるかなという気になって、復刊された薄っぺらな文芸雑誌を買ってきては、そうした新しい作家たちの作品を乱読したものだ。 「小説新潮」が創刊されたのは二十二年の秋だ。二百ページたらずのもので定価は六、七十円だった。表紙をめくるとすぐグラビアページになっていて毎号、現代作家の新鮮な写真がのっかっていた。酒場の丸椅子に軍靴《ぐんか》の土足をあげて酔いどれている太宰治、同じように蓬髪《ほうはつ》をふり乱してよりかかっている織田作之助、万年床で机のまわりは紙屑だらけの書斎で執筆している怖い顔の坂口安吾……などを見たときには「すごいなあ」と思った。  いつまでもその写真に見惚れていた。そのころ太宰は『斜陽』、織田作は『可能性の文学』、安吾は『堕落論』を発表していて、それぞれに個性のあるポーズの写真をながめていると「これが小説家だな、おれもこんなふうになりたいなあ」とうらやましくなり、自分でもわざと部屋を乱雑にして、安吾をまねてみたりしたものである。 「小説新潮」のその新鮮な写真を撮っていたのが林忠彦氏である。私が林忠彦なる写真家の名を知ったのも、むろんそのときからだ。  彼のこの作品に見惚れて私と同様、安吾や太宰のポーズをまねた文学青年は全国にずいぶんいたと思う。言いかえれば林忠彦が安吾や太宰の個性をみごとにキャッチしていたからで、これが古風な肖像写真のようなものだったら、文学青年たちはこうも感動しなかっただろう。  それから四半世紀たってこんどは、ここに私が林忠彦氏をペンで「写す」ことになろうとは、まさしく奇しき縁、感無量である。ペンで「撮る」前にちょっとカメラを持たせてもらえるならば——雑談しているときによくギラギラする目を細めて目尻にしわをよせ、薄い唇にニーッと照れくさそうな笑みをうかべることがある林忠彦の、その笑顔を私はとらえてシャッターをおすだろう。  なぜならば…… (一)  林忠彦は写真界の偉丈夫《いじょうふ》である。身長一七二センチ、体重八十二キロ。彼がカメラを手にするとそれがライターのように小さく見える。蓬髪で野武士のごとき風貌をしていて、相手を見据えるような面つきで話しかける。そのくせ、話の合間に照れくさそうな笑みをこぼす。そこに彼の純真さや含羞がある。  坂口安吾や太宰治や織田作には多分に、この含羞があった。太宰のことばで言えば「生まれてすみません」だ。デカダンで破滅型の芸術家たちの繊細なる神経である。  かれらを撮っていたから感化されて林忠彦もそうなった、と言うのではない。彼自身も「生まれてすみません」と詫《わ》びいりたくなるような、それでいてそれに自分から反撥して自虐的になってゆくような、そんな生き方をしてきているのである。  これまで私が書いてきた土門拳、植田正治あるいは大竹省二や秋山庄太郎にしても、作品の個性こそ異なれ、みんな絵画的写真をめざしている人たちだった。が、ただひとり林忠彦だけは文学的写真家なのである。たとえば、机のまわりが紙屑だらけの書斎で執筆している坂口安吾にしても、あれは絵画的に「描いた」写真ではない。安吾文学を写真に撮るのではなく、写真で「書こう」としているのだ。  またまた私ごとで申しわけないが——昭和二十五年に「小説新潮」が新潮社文学賞を設定して小説を募集した。私は三百枚の処女作を九州から送ったが、佳作にしか入選できなかった。そのときの「小説新潮」を書棚に保存していて、いまとりだしてみるとグラビアページは作家の顔ではなく、やはり林忠彦の夜の盛り場のルポになっている。  そのなかに『大森駅付近』というのがあって、バー・チェリオの看板が出た酒場の表が写してある。酒場とは名ばかりバラック建てでしかも、表でホステスが所帯くさく七輪の火をおこしている。もう一枚は『銀座遠望』で、戦災の瓦礫《がれき》がまだ残っているガード下から、遠くの銀座のネオンの夜景を撮影している。そのガード下ではよれよれのレインコートの男が、戦災孤児らしき花売り少女と何やら語り合っている。——この二枚を見ても林は、戦後の風俗や世相をカメラで描こうとしているのではなく、カメラで「綴って」いることがわかる。だから林は「写真は撮るものであるが、書くものである」と主張している稀有《けう》の写真家の一人、だと私は思うのだ。 (二)  林忠彦は第一次世界大戦中の、大正七年三月、山口県徳山市幸町の「林写真館」の長男に生まれた。  この「林写真館」は祖父の林竹治郎が開業した。竹治郎は山口県の山奥の農夫だったが、防府へ出てきて小間物屋をはじめた。そのとなりに写真館があった。竹治郎が暇ができるととなりに遊びにゆき、撮影するところや現像するのを見せてもらっているうちに「物を売るより手に職をつけたほうが儲かる」と考え、その写真館の主人を師匠にした。  竹治郎は一人前になったが、師匠のそばで開業して客を横どりしてはいけないと遠慮して、徳山に引越して目抜通りの幸町で「林写真館」の看板をあげた。明治三十五年である。  竹治郎夫婦には「いし」という一人娘がいた。いしは男もかなわぬほどの、徳山高等女学校はじまって以来という秀才になった。竹治郎は彼女に写真技術を教えた。若い女写真師になり、ムコ養子をもらって家業を継ぐことになった。  ムコ養子の真一はたいそう新しがり屋で、写真よりは自動車やオートバイに夢中になった。竹治郎といしは真一にも伝授したが写真のほうはサッパリで、いったんは大阪まで修業に出してみたものの、やっぱりものにはならなかった。  真一といしのあいだには二人の息子ができていたが、竹治郎は見込みのない亭主として離婚させた。いしは非凡な腕前だったから「林写真館」は竹治郎の時代より栄えた。職人気質の彼女は、自分に納得がゆくまでていねいに修整したりした。そのため出来あがりが遅く、撮影してから三カ月くらいたって客がもう忘れかけたころ届けるというふうで、そのほうでも有名だった。 「林写真館」は徳山の名所みたいになっていた。当時としてはめずらしい木造四階建ての洋館で地下室もあった。四階からは徳山湾が一望に見渡せるし、徳山海軍燃料|廠《しょう》にはいってくる艦隊がながめられた。また四階の軒さきには消防署のたのみで半鐘をぶらさげていた。消防署が火の見|櫓《やぐら》のかわりに利用していたのだ。  忠彦は多感な少年だった。反抗心がつよかった。家は名所みたいに大きいし、生活には恵まれていたが、家庭的にはさびしかった。  父親がいない理由がわからず「おれには何でおやじがいないんだ」と祖父や母親につっかかるし、父親が山口市で自動車屋をやっているらしいと知ってからは、気にいらぬことがあるたびに「おやじのところに行ってしまう」と、逆にいしをハラハラさせた。  竹治郎は地元の名士になった。徳山商業学校が創立されたが、彼は有力な出資者の一人だった。だから忠彦がそこに入学し、ロクに勉強しなくても、校長をはじめ教師たちは、 「創立者のお孫さんだから……」  と遠慮して叱りはしなかった。  大事にされることはしかし忠彦にとってはバカにされているみたいでかえって腹だたしく、なおさら不良になって手こずらせてやれという反逆心をかきたてられた。母親が二人の学生を家庭教師につけてくれていたが、忠彦は遊んでばかりいた。  三年生のとき祖父は他界した。  それでも彼の反抗心はおさまらなかった。  ある日、父親の真一が校門のかげで、下校する忠彦を待っていた。離婚していてもわが子には変わりなく、真一は成長した息子をなつかしがって見にきたのであった。 「わしがだれだか、判るかい?」  名のりもせず真一は訊いた。  忠彦は、じっとその顔を視た。はじめて逢ったのだが、本能的にピーンとくるものがあった。瞼《まぶた》の父だった。だが忠彦はおとうさんとは呼ばず、涙もみせずに、 「わかってるよ、おやじだろ」  ぶっきらぼうに答えた。 「よく覚えていてくれたな。どこかで何か食べようか、腹ァヘっているんだろ」  父親は記憶してくれていたよろこびをかくさず、忠彦もうれしかった。こうして逢えただけでも胸一ぱいになる思いだった。  しかし、忠彦は走り去りながら罵《ののし》った。 「おやじのバカ野郎! 二度と会いにきてもらいたくねえよォ」 (三)  いしはひとり暗室にはいり、夜ふけまで修整していた。そういう母親の姿をみて忠彦は「林写真館」の跡継ぎになろうと決意するが、一方には断じてなってやるものかと天邪鬼《あまのじゃく》になる自分もいた。  それでも商業学校を卒業すると、大阪は長堀橋にあった「中山正一写真館」に、いしが三百円という大金を入門料として払ってくれたため住みこむことになった。  朝五時からこき使われるだけで給金はもらえなかった。毎日が掃除に印画紙の水洗、配達ばかり、甲子園ホテルの結婚式場にはよく脚立をかつがされてかよった。この修業中に得たものは過労による肺病だけで、徳山にもどり十カ月も入院した。  徳山の若旦那たちのアマチュアカメラクラブに加わり、道楽写真を撮るようになった。このグループを指導していたのは東京の、オリエンタル写真工業の田村栄だった。  田村栄をたよって上京し、忠彦はオリエンタル写真学校にはいった。先輩にはのちに映画監督になる木下恵介や植田正治がいた。  ここは営業写真家になる技術を教えるところなので、スタジオで大型カメラを使ってのモデル撮影が多かった。  だが忠彦は、ここでも異端児だった。 「タマゴに目鼻をつけるような、修整技術ばかりがうまくなってもつまらん」  そう思い、学校が雇うモデル女なんか写さず、ライカなどの小型カメラで女優を勝手に撮り、修整はしなかった。だから学校の成績はダメだったが、自由作品では群を抜いていた。昭和十三年、二十歳のときだ。  卒業して郷里にもどったが「林写真館」の手助けはしなかった。そうかといって地方のアマチュア団体で天狗《てんぐ》になるのは照れくさいし玉突き屋やカフェーに入りびたり、かずかずの女にも溺れた。飲んだくれては巡査にからんだ。  放蕩してもどってくる忠彦を、いしは毎晩どんなに遅くなっても玄関で待っていた。帰宅したところをつかまえて説教するわけでもない。そんな母親の無言の愛情がたまらず、なおも放蕩する。それでもいしは待っていて、そのくりかえしが一年もつづいた。  彼の乱行を見かねて親族会議がひらかれた。その結果「どこへでも行きやがれ、愛想が尽きた、勘当だ」と叔父に宣告され、「これが最後だよ、からだだけは大事にね」と母親が泣きじゃくりながら二百円をさしだした。  こうすれば息子も改心してくれるだろう、といしは期待してのことだが忠彦は、 「しめしめ、ありがたくもらっとけ」  と内心で舌をだし、さっさとポケットに二百円をおさめて上京した。母親の最後の望みも、彼はかんたんに裏切ったのだ。  しかも東京についたその夜、オリエンタル写真学校のモデルだったのが女給になっていて、その女とばったり銀座で逢い、ハシゴ酒してまわって翌朝目がさめてみたら神田の旅館の一室だった。  二百円はポケットから消えているし、女もいなかった。  再び田村栄を頼ってゆき、口ききで横浜のDP屋に住みこませてもらうことになった。一念発起して酒を断ち、百円の月給のうち毎月七十円は貯金して十カ月で七百円にした。ある程度の蓄えがなければ収入は不安定だし、フリーカメラマンとして立ってゆくのはむずかしい、と教えられたからである。  栃木県の資産家の息子である加藤恭平が、銀座二丁目の越後屋ビルで「東京光芸社」という工房を経営していた。「アサヒグラフ」、内閣情報部の「写真週報」などの仕事を請け負っていたのだ。月給は三十五円しか出せないというのを、それでもかまわず忠彦は勤めた。  割りない仲になっていた女が徳山から追ってきたので、忠彦は結婚式もあげられないまま、家賃十五円のアパートで新所帯をもった。 「写真週報」「婦人公論」「新女苑」などのグラビアを担当して片隅に名前がでるようになると二年間も音信不通にしていた叔父が上京してきて、 「改心してやっとるな、良かった良かった」  と手を握り、いしもおまえの作品が載った雑誌を抱いて涙を流しとるぞ、と言われると反逆児・忠彦も、子どもみたいにヒイヒイ泣きだした。  フリーのカメラマンとして認められるようになり、このままゆけばまさに日の出の勢いであったが、戦争がそれを妨げた。太平洋戦争がたけなわになってきた昭和十七年、加藤恭平と忠彦は中国の北京に華北広報写真協会をつくり、北京大使館内に設置することになった。日本にいれば赤紙がきて激戦地へつれてゆかれるし、写真で生きたいと思えば軍部に協力するしかなかったからだ。  加藤恭平が協会理事長、アルスの編集長だった石津良介、商業写真研究所をもっていた仙波厳、それに忠彦の三人が理事ということになった。カメラマンには大竹省二を加えていた。  これで召集令状がくる心配はなかったが、忠彦は北京へ赴任しなければならず、妻子を徳山に疎開させて出発した。協会の仕事というのは華北の五大産業といわれる石炭、鉄、綿布などの生産ぶりを日本に紹介し、南方戦線での日本軍の活躍ぶりを撮影したものを街頭写真展にして、中国民衆に見せる一種の宣撫《せんぶ》工作みたいなものだった。  たまたま加藤も石津も大竹も東京へいっていて、忠彦だけが北京に残っていたとき、同じ大使館内にいる毎日新聞の記者が、夜中におこしにきてこう告げた。 「いま重慶では連合軍の勝利を祝って、提灯《ちょうちん》行列をやっているそうだ」 「どうして判ったんです?」  訊いてみると、忠彦が使用している暗室のとなりの物置部屋に短波の受信機をかくしていて、それでキャッチしたという。日本が無条件降伏をする十日前のことだった。  忠彦はただちに、謀略宣伝用スチールはみんな焼却した。敗戦の八月十五日になると、いつも遊びにきていた中国人の男が、血相かえて忠彦の部屋にはいってきた。拳銃をつきつけた。ふざけているのだろうと思って、 「危ないじゃないか、よせよせ」  忠彦が手をふると、 「おれは本気だ、おまえのライカをよこせ。さもないと蒋介石軍が進駐してきたとき、おまえがやっていた広報活動をバラしてやる。そうすれば戦争犯罪人で死刑になるんだぞ」  と脅かしておいて掠奪した。  進駐してきた国府軍から、五万枚あるネガを百万円で買いあげてやる、領収書を書け、と言ってきた。そのとおりにすると後日カネはもってきたが、二十万円だけだった。 「国府軍の報道カメラマンにならないか。優遇してやるぞ。中国に残れよ」  と勧誘にもきた。忠彦は辞退した。一刻もはやく帰国したかった。フリーのカメラマンとしての仕事にもどりたかったのだ。  だが、邦人引き揚げはなかなか進捗《しんちょく》しなかった。日本人は職もなく北京の街をブラブラしていた。行き場がなく困っていた看護婦の経験がある女性を知り、忠彦は自分の部屋を提供してやったが、二十一年五月に引き揚げるまで二人は同棲するようになってしまった。 (四)  日本に引き揚げるまでのつもりが、二人ともお互いに別れられなくなっていた。忠彦はいったん徳山に帰り、焼野原を見て茫然となった。徳山名所だった木造四階建のわが家は、敗戦一週間前の空襲で灰になっていたのだ。  しかし母親は無事であった。妻子も元気だった。  財産を失ってしまった母親にカネの無心はできず、友人たちから千円ほど借りあつめると彼はいそいで上京した。そして、北京で同棲していた彼女と、妻にはすまないと思いつつも再び寝食をともにした。  カメラマンとして再スタートしたいが、肝腎のカメラが中国人に掠奪されたため一台もない。むろんまだカメラなど売っていない。忠彦は宇都宮の実家に疎開したままの加藤恭平をたずねた。再会をよろこび合い、彼は写真機を貸してほしいとねだった。加藤はこころよくスーパーシックスとローライフレックスの二台を出してきてくれた。  忠彦は国電恵比寿駅から近い、焼け残っている家の応接室を住居として借り、風呂場を暗室に使わせてもらった。北京時代に知り合った吉田潤と組み、二人で再建されはじめた雑誌社めぐりをした。吉田は女性写真が得意だったので、 「彼は女性を撮るのがうまいし、ぼくは報道人物写真を担当しますから、仕事させてください」  と忠彦は編集者にたのんでおいた。  恵比寿の間借には電話がなかった。これでは編集者が仕事をたのみたいにも、連絡がとれずで急場の間に合わない。  忠彦は連絡事務所がほしかった。が、それを借りる資金はないので、銀座五丁目のバー・ルパンを仕事上の連絡場所にしてもらった。昭和二十二年のそのころではまだ酒類は統制品だから大っぴらに営業できず、夜になるとこっそり地下室を店にして知った客にだけ飲ませていた。  忠彦は映画雑誌から婦人雑誌、仙花紙のカストリ雑誌にいたるまで、なんと二十五社の写真ページをひきうけるようになった。連絡場所にしているルパンには毎晩立ちよった。ここに太宰治、坂口安吾、織田作之助らが飲みにきていた。織田作は睡眠薬中毒になっていて凄絶だった。血を吐いていて顔は蒼白で痩せこけ、まさに破滅型の文士そのものという感じだった。 「この人はいま撮っておかねば、すぐに死ぬのではないか。こういう人物を撮ることを、自分の仕事のひとつにしたいな」  そう思って忠彦は、かぶりつきにもたれかかっている織田作を撮った。撮っておくことが写真家の義務であると同時に、反逆児織田作のすさまじい形相のなかにある悲しいまでの純真さや含羞が、忠彦には他人のもののように思えないのである。  何回か織田作を撮っていると、向うの片隅で酔っていた太宰治がやっかみ半分に、 「おいおい忠さん、そちらばかり撮らないでこっちも写してくれよ」  軍靴を丸椅子にあげ、わざとに行儀わるい恰好になって催促した。フイルムが一枚、フラッシュも一個しか残っていなかった。酒場は狭く、カメラの引きがわるいのでトイレのドアを開け、その中にすえて自分はキンカクシを腰かけにしてシャッターをおした。  これがみごとに決まった。冒頭で述べたように、私たち文学青年が「小説新潮」を見て「すごい小説家だなあ」と感歎したのはこれだったのだ。  織田作や太宰の写真はほかにもあるけれども、林忠彦のこの作品ほどみごとにとらえているものはないし、彼が「いま撮っておかねば」と直感したとおり織田作はそれから二カ月後に血を吐いて死に、太宰も翌年、玉川上水で愛人とともに果てた。ルパンでそれを撮ったとき忠彦は二十九歳、織田作三十四歳、太宰は三十九歳だった。  机のまわりが紙屑だらけの万年床の書斎の坂口安吾を撮影したときの話を、林忠彦はこんなふうに私に聴かせてくれた。 「安吾さんの自宅は大田区の矢口渡にあって、ときおりカストリを飲む会をやっていたんだ。それに招かれてゆくと彼が『新宿で拾ってきたんだよ』と言って女性を紹介した。ほっそりした美人で、それが安吾夫人になる三千代さんだったんだな。ぼくは彼女のことより、安吾さんはどんな部屋で小説を書いているのか、そのほうに興味があって『安吾さんはどこで仕事をするんだい?』と訊いてみたんだ。すると彼は『となりの部屋だ』という。『見せてくださいよ』と言ったら、『この女にも見せたことはないんだぞ』と照れたように怒ったようにメガネの目玉をまるくした。それでなおさら見たくなってねだっていたら、彼がぱっとフスマを開けた。ぼくはふるえあがったね。すごい部屋だ。小説家坂口安吾の魂がこもっていた。散らかしっぱなしのその部屋が神々しく見えた。安吾さんの内面の苛烈な闘いが、そこにぶちまけられているみたいだった。これは絶対に撮っておかねばと、それからはもう三拝九拝して頼みこみ、机にむかってもらったんだよ。安吾さんはしぶしぶ机の前にあぐらをかいてくれたよ」  私が注釈すれば、忠彦はその部屋を見た一瞬、自分自身のこれまでの内面の闘いをもそこに見た思いがし、これは写真で「書いて」おかねばと感じたのである。 「作家の顔を撮っている写真家がいる」  と「小説新潮」の編集者がどこかで聞いて忠彦をたずねてきた。その編集者は四つ切りの安吾や太宰を見てびっくり仰天、 「これだ、これこれ、これでなくちゃ!」  気迫の作品に圧倒された。  以来、林は「小説新潮」に登場することになるが、それからの二十年間さまざまな文士を撮った。石原慎太郎が登場すればそれにレンズを向け、写真ぎらいの谷崎潤一郎や正宗白鳥にも肉迫し、その数百九人にもなった。  太宰につづく破滅型の田中英光を撮ろうとしたとき、田中はルパンでの太宰と同じポーズのを撮ってくれといってきかない。酒が飲めない彼はアドルムでラリっていて、撮影をおえると「これでもう思い残すことはない」と満足した。そして十日後、ほんとうに田中英光は太宰の墓前で自殺した。  林が撮りそこねたただ一人の文士は永井荷風だった。市川にある粗末な荷風宅におしかけると、荷風自身が汚ないなりで出てきて、 「永井は不在です」  とケロリとして言う。 「不在って……先生がご本人でしょう?」  忠彦は目を白黒させた。からかっているのかと思ったら、荷風はむっとして、 「本人が不在だと言ってるんだから、これほど確かなことはないでしょう」  格子戸をピシャッと閉めてしまった。  それからしばらくたった雪の朝、林は新橋の盛り場のはずれで荷風を見かけた。黒いマントを着て買物かごをさげ、そのマントの下に娼婦を抱きこんで雪をかぶらないようにしてやりながら歩いている姿は、いかにも『墨東綺譚』の作者らしく、 「これだ、いまだァ!」  林は叫んだ。酔いがふっ飛んだ。  だが、その朝に限ってカメラをもっていなかった。所持していれば「おれの生涯の大傑作ができたのに」とくやしがり自分を叱りとばした。  吉川英治が何気なく、林にこう言った。 「写真の使命はニュース性プラス時間、ではないのかね。わたしは写真は素人だけど、写真の一枚を見て、その前後が原稿に何枚書けるか。枚数を多く書けるような写真ほど、つまり話がいくらでも出てくるものほど、すばらしい出来ばえと言えるんじゃないだろうか。ペラの原稿用紙一枚しか書けないようなものは、わたしは傑作だとは思わないね」  忠彦は胸を衝《つ》かれた思いになった。胸につかえていたモヤモヤが、いっぺんに霧散《むさん》したような気持だった。  昭和二十六年四月、横浜桜木町駅で国電が燃え、乗客百六人が死者となった惨事がおこった。新聞社のカメラマンが得意になって黒こげの死体を撮り、それが新聞の第一面を生々しく飾っていた。ぞーっとさせられる迫力があった。  だが、いかにショッキングなシーンでも日時がたてば忘れられる。二度三度見せられると何の衝撃も感じなくなるものだ。ところがサン写真新聞のカメラマンが撮っていたのは、そうしたむごたらしい場面ではなく、死体置場を教える矢印の貼り紙が画面の中央にあり、赤ん坊をおぶった若い主婦が片隅の壁によりかかって呆けたように泣いている作品だった。死体は死体でしかないが、未亡人になったこの女は赤ん坊をかかえてこれからどんな生活をしてゆくだろう。彼女の身上にいろいろな人生ドラマを空想することができる。写っていないものをさまざまに想像させうる。これがほんとうの写真なのだと忠彦は改めて、吉川英治の何気ないことばを反芻《はんすう》してみた。 (五)  林忠彦の人物写真、そのポートレート写真術は一境地を開拓した。つねに作品のどこかに、彼でなければ撮れない何かがあった。  それは万人認めるところだが、写真界のなかにはこう評する人もいる。 「林忠彦の文士写真はたしかにみごとだが被写体、つまり相手の文士のモチーフに依存しているところが大きい。太宰にしろ安吾にしろ、あるいは谷崎潤一郎や山本周五郎にしても、かれらそのものがすでに立派な作品になっているから、みごとに撮れていてふしぎはない。仮に、そこらの名もない庶民の貌《かお》を撮ったとしたらどうなるか。太宰治や谷崎潤一郎のような傑作になるだろうか」  事実はそうかもしれぬ。傑作にはならないだろう、と私も思う。しかし、ならなくともいいのではないか。林は写真で「書く」人だと私は言ったが、書きたくない相手、創作意欲を感じない被写体、そういうものに無理にレンズを向ける必要はないのではないか。  林自身は、こんなふうに私に吐露した。 「立派な文士でも、撮りにくいと思ったのも数多くいた。たとえば三島由紀夫もその一人だったな。彼は若くて文学的業績はすばらしく高いのに、名声ばかりがさきになっていて貌ができていない。その風貌からにじみ出る人生の苦汁みたいなものがない。ぼくは貌に年輪のある人生をもっている人だけが大好きなんだ」  むろん、名もなきそこらの庶民にしろ年輪はある。人生の苦汁もにじみ出ているし、喜怒哀楽もある。しかし有名でないから、顔が売れていないから撮らないというのではなくカメラをかまえる林自身が、その人の人生に共鳴するものがなければシャッターをおす気になれないのだ。  彼は文士の貌を撮りながら、顔そのものを撮らない場合もある。クローズアップした顔だけではその人の個性は出せない。雰囲気のなかにおいて生活環境を出すことも大いに必要である。彼は「ワイドの忠さん」といわれるようになるが、たとえば川端康成を撮った場合は、ギョロリとした眼のあの顔をクローズアップしておいて、セットを広角にして撮影した。人物を手前にぐーっともってきて、広角で奥行を出すことで全体の「貌」をつくったのである。  他の高名な写真家たちも、それぞれに文士を撮っている。さすがはと思う作品になっている。が、林の作品がひと味ちがうのは、セッティングに特色があったりワイドが特異だったりの技術面の勝負のほかに、彼自身に言わせれば「写真は対決だ。撮る人と撮られる人が火花を散らす。ねじ伏せたほうが勝つ」からである。  このごろの林は、できるだけ不器用になろうと心がけている。これまた吉川英治に影響されたというわけではないが、宮本武蔵みたいに「剣につよくなろうとすれば、かえって弱くなる」極意《ごくい》をつかみかけているからだ。  相撲にたとえれば押し一本の力士だ。はたかれれば前に落ちるかも知れない。四ツ相撲になれば業師《わざし》のみごとな下手投げをくらうかもしれない。しかし、鈍重と笑われ不恰好といわれながらも押し一本に徹する、そういう写真家になりたがっているのである。  言うまでもなく、彼の押しとは、人物写真一本でゆくことである。百九人の『日本の作家』を撮りおえたいま、林は『日本の経営者百人』と『日本の画家』とに挑戦している。  財界の怪物だった西武の堤康次郎を撮りに社長室へいったら、秘書が「社長はただいま昼寝中です。しばらくお待ちください」という。ちゃんと約束した時間にきたのに、とプンプンしながらも忠彦は待った。二時間がすぎた。堤社長がようやく起きてきた。林忠彦先生が待っておいでですと告げられると、とたんに社長は「今日のはいつもの、新聞雑誌のカメラマンが撮るのとちがうではないか。なぜ起こさん、先生に失礼ではないか」と、忠彦の目の前で叱りとばし、秘書の頭を殴った。  待たせた手前、秘書を殴って芝居しているのだな、大ダヌキだ、これぞ怪物の怪物たるところだ、そう直感して林は、よしその貌を撮ろうという気になった。まずロングからはじめ、カメラを近づけてミディアムショットにし、さらにアップに肉迫して堤康次郎の人間をえぐった。  林に言わせると「土門拳さんはカメラをかまえてもじっとしていて、なかなかシャッターをおさない。相手がじれてくる。怒ってくる。そこをすかさずパチリとやるから迫力のあるものが撮れる。木村伊兵衛さんはムダだと思っても何百枚も撮る。シャッターをおしつづけていた。そのうちに相手が構えなくなる。そこを木村さんは大事にしていた。つまり、撮りっぱなしだが、ぼくは土門さんと木村さんの中間……中抜きで撮る。途中に間をおくと相手に隙ができる。そこを狙う」わけだが、いずれにしろ彼には自分が反逆児だっただけに、美しかろうと醜悪であろうと人間そのものにしか興味はなく、撮りたいものは人物写真即人生写真だけなのである。  彼はもうひとつこっそり、画家の織田広喜氏を二十五年間にわたって撮りつづけている。若いころ無名だった織田が妻をもらって、その妻がまだ赤ん坊にオッパイをふくませていた時分からである。なぜ織田広喜に魅せられたかというと、貧乏のどん底にあったこの青年画家が、アトリエだけは五百号のカンバスがおけるほど大きなものをもっていた。それを見たとき「これは大物になるぞ」と感じたからで、それから延々と大河小説にひとしく、織田の人生を写真で「書き」つづけているのだ。その織田氏もいまでは、忠彦より三歳年上の五十八歳になっている。  そろそろ一冊の写真集にまとめようか、と言うと織田は「もうすこし絵がうまくなってからにしてよ」と照れている。撮るほうも撮られるほうも傑物である。  そんな林忠彦に、私はいじわるな質問をしてみた。若いころ反逆児だった彼の顔にも、不器用になろうと心がけている人生の年輪や苦汁があらわれているからである。 「林さん、あなた自身で自分の顔を撮るとすれば、どんな表情の瞬間を狙いますか? ロングがいい? それともミディアムショットにする?」  とたんに野武士のごとき林忠彦の風貌に、含羞があらわれた。目尻にしわをよせたり、蓬髪をかきあげたりして照れていたが、ボソリと答えた。 「そうだな……気が短くて助平で、貧乏ったらしい……そんな顔をしているときだな」  母親のいしはいまなお健在で、やはり徳山で「林写真館」を経営していて、彼女に言わせると「忠彦の作品は年々よくなってゆくけど、ほかのことはまだまだダメ」だ。もっと助平で貧乏ったらしい人生をあゆめ、そうすればさらに傑作ができる、と母親も期待しているのである。(昭和五十年一月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十年「日本の経営者一〇〇人」(ダイヤモンド社)。五十三年作品集「日本の画家一〇八人」(美術出版社)、「人物写真」(朝日ソノラマ)、「日本の家元」(日本カメラ連載開始)。五十四年「日本の画家一〇八人」で毎日芸術賞、日本写真協会年度賞受賞。五十五年「カストリ時代」(朝日ソノラマ)、「長崎—海と十字架」(集英社)、写真展「カストリ時代」、「世界の旅」。五十六年、写真展「林忠彦と中国桂林の旅展」、「林忠彦一家・親子三代五人展」、「若き修羅たちの里—長州路」(講談社)、同、写真展開催。五十七年春の叙勲で紫綬褒章受章、「昭和写真全仕事」(朝日新聞社)、写真集「天恩山五百羅漢寺」。五十八年「日本の家元」(集英社)、「西郷隆盛」(桐原書店)。日本写真家協会名誉会員。日本写真学園校長。 [#改ページ] 濱谷浩《はまやひろし》「神を見てきた人」  わたしは濱谷浩さんを見そこなっていた。  融通のきかない頑固者、およそ写真家らしくない地味で不器用で古めかしいお人、ではないかと思いこんでいた。彼の代表作である『雪国』や『裏日本』、革命後の『見てきた中国』などの、きびしい季節の風物、泥にまみれた農民、北京の人民を観ているとそういうイメージができあがってしまっていたのである。  ところが——  某月某日、わたしの前にあらわれた濱谷さんは、まったくの別人かと思われた。縞シャツにジーパン、日やけした貌《かお》——大正四年生まれとはとても思えぬ若々しさで、夕陽のガンマンみたいなカッコよさであった。  しかも驚いたことには、銀座のバーをまわり、ゴーゴー酒場へもひっぱっていってわたしが照れているのもかまわず、ご自分は十代のかわい子ちゃんたちの、乳房とお尻が乱舞するなかに飛びこんで巧みに踊って陶酔し、そこを出ると再びハシゴ酒。壮絶なる飲みっぷり。ついには夕陽のガンマンが上半身はだかになって「燃えよドラゴン」に変身、ホステスたちをキャアキャア言わせてたのしませるのだから、どう見たって六十歳とは思えない。  こんな天衣無縫の写真家に会ったのははじめてだし、最後は壮烈に戦死したという感じでホステスを膝枕にダウンして高いびき——なのだからわたしは、あっけにとられるばかりだった。  翌朝、わたしは「昨夜の天衣無縫ぶりが作品にあったかな」と首をかしげ、宿酔の眼であらためて彼の作品集を観なおした。一作一作を凝視してゆくうちに宿酔も、これまでのイメージもさめてきたし、作品が異ったものになってきた。不器用で地味で古めかしいお人ではない。たとえば新潟の海岸の陰鬱な『雪と波と雲と家』にしても、雪国の少年たちの素朴な風習である『鳥追い』行事にしても、陰鬱や素朴さがじつにモダンな眼でとらえられていることに気づいた。  濱谷さんは終戦後、長いこと新潟県の高田市にこもったままだった。多くの写真家たちは東京で、新しい作品をめざしてスタートしていた。だが、新しい作品に挑む東京の写真家たちより、僻地にこもっている彼のほうが田舎を舞台にしてモダンな作品をつくっていたのである。 「濱谷さんって、ふしぎな写真家だなあ」  わたしは見そこなっていた自分を愧《は》じた。 (一)  大正四年ごろの東京の上野駅前には、大きな質屋の土蔵と木造旅館がならんでいた。上野駅には信号手がいる踏切があり、御徒町のほうへも汽車が走っていた。松坂屋百貨店はあったが、アメ屋横丁はまだなかった。  駅前の大きな質屋は佐野屋といい、大地主でもあって、そこの大番頭をつとめていたのが桑原甲子雄のおとうさん。濱谷家はその隣りに住んでいて、佐野屋の店子《たなこ》だった。  宮城県石巻出身の濱谷米蔵は、上京して警視庁巡査になった。明治末期には鬼刑事といわれたほどの人で、剣道の達人でもあり、宮本武蔵の硯《すずり》と煙管《きせる》を家宝にしていた。  濱谷浩には兄二人、姉二人、弟一人がいて彼が生まれたころには父米蔵は退官しており、浪人暮らしで貧しかった。次兄は養子にゆき、のちに写真評論家になった田中雅夫である。  濱谷浩が下谷小学校の三年生だったとき、関東大震災がおこり上野の山へ逃げた。佐野屋は崩壊して一帯は「佐野屋の原っぱ」とよばれる空地になってしまった。それ以来、店子だった濱谷家は転々としなければならなかった。  米蔵が警視庁をやめた理由はこうである。  ある殺人事件がおこって米蔵が真犯人を捕縛した。ところが別の刑事が、自白してきたもう一人の犯人を逮捕した。その犯人は身代わりであったが、裁判の結果はその身代わりのほうが真犯人となり、服役することになった。米蔵は裏がある司法界に幻滅をおぼえ、刑事で生きることも厭になったわけだが、そうした潔癖と剛直な性格は濱谷浩の写真家としての生き方にもあらわれることになる。  彼は神田の関東商業学校に在学中、南洋へ渡って写真館を経営して成功した米蔵の知人の益野という人が帰国したさい、ブロニー判のハンドカメラを土産にもらった。はじめてカメラを手にして、ずしりとした重量感に彼は、かつて経験したことのない充実感をおぼえた。この重量感が彼の生涯を決めることになるわけで、昭和五年、十五歳のときだ。  おもしろくて父親や姉たち、機関車や上野駅界隈を撮ってまわった。当時は、写真でなければ表現できないメカニックなものの質感を強調した、ドイツの新即物主義が日本にもはいってきていた。堀野正雄という有名なプロ写真家がいて、写真雑誌にその傾向の作品を発表していたし、濱谷少年もそうした傾向の写真を実験していた。  関東商業を卒業した昭和八年春、彼は日本橋にあった実用航空研究所に就職した。商業学校の恩師が、彼が写真が好きなのを知っていて推薦してくれたのである。  実用航空研究所といっても名ばかりで、所長と二等操縦士が一人、それにサルムソンという単発複葉機が一機あるだけだった。航空写真を撮る仕事である。  新聞社の写真班が使っている重いアンゴーが与えられ、濱谷は月島飛行場から飛びたった。飛行機に乗ること自体はじめてだし、航空写真を撮る自信もまったくなかった。  銀座四丁目の服部時計店や、松屋デパートなどの建築写真が目的であった。操縦士が大きな声で後座席にいる濱谷に合図して、撮影のタイミングを教えてくれた。目標はあっというまでに飛び去るので、何回も低空旋回をしてもらわなければならなかった。  ちょうど世相はモガモボが流行していたし、航空写真の仕事は時代の尖端をゆくものであったが、彼は社会人としてスタートしたばかりなのに失業した。三カ月目の月曜日の朝、出勤してみるとだれもいなかった。仕事は尖端的でも商売にはならず、借金で首がまわらなくなった所長たちは夜逃げしてしまったのだ。  飛行機に乗って下界を写せるのがたのしく、月給のことさえ忘れていたが、 「そうだ、おれはまだ入社して、いちども月給をもらっていなかったな」  と気づいたがすでに遅かった。  フィルムと印画紙製造のオリエンタル写真工業に再就職できた。本社は新宿の落合にあったが、営業所が銀座御幸通りにあり、彼は営業事務をやらされた。月給二十五円。  松野という写真技師がいて、濱谷は事務がおわると夜おそくまで手伝って、正式に写真の勉強をした。そのころの銀座の夜はネオンに彩られ、カフェ・クロネコ、サロン春、美人喫茶の紫烟荘などがあって、彼は松野から酒の味も教えられた。  松野はよく飲んでいた。家庭におもしろくないことがあるらしく、酒におぼれ、好きな女給もできたが、女ができればカネもかかる、でついには自殺してしまった。  みずからを破滅させたのである。  それまで濱谷は人生を深刻に考えたことはなかったが、この先輩の死にはじめて人の世のはかなさを知ったという。 (二)  昭和十年、待望のライカC型を買ってから、写真の世界がいっそうひらけてくるような気になり、出社の朝の銀座、昼休みの銀座、夜の銀座、雨の日も雪の日も銀座ばかり撮りつづけるモダンボーイだった。  彼の作品がはじめて雑誌に載ったのは翌十一年だった。府中競馬場へいったときにスナップした文豪菊池寛と女優の入江たか子のそれが、高級家庭雑誌「ホームライフ」に買われたのである。  この年の冬、いつものように有楽町駅から銀座に出勤する途中、朝日新聞社付近が不気味にしずまりかえっており、正面玄関に武装した兵隊が緊張した面もちで立っていた。雪の朝の日本の歴史を変えた二・二六事件であった。  夏にはスペイン内乱が勃発。ロバート・キャパは愛人の女流写真家ゲルダ・タローとともに人民戦線側に従軍し、戦争写真の古典的名作となった『死の瞬間のスペイン兵』を撮っている。愛人ゲルダは戦車の下敷となって無惨に死んだ。このときキャパは二十三歳、濱谷は二十一歳だった。  翌十二年夏、ついに日中戦争がはじまる。  濱谷はオリエンタル写真工業を退職して独立した。次兄の田中雅夫と大森で「銀スタジオ」をおこした。一坪半の暗室と一坪の仕事場だった。 「婦人画報」などの雑誌の口絵写真、報道写真、壁面写真何でも注文に応じますというふうに間口を広げていった。威勢はよかったがしかし、田中も濱谷も外交はうまくないし、経理には暗いし、雑誌の仕事がぼつぼつある程度で、商業写真の注文などてんでなし。名取洋之助の「日本工房」、木村伊兵衛の「中央工房」のようにはゆかなくて、このころの濱谷の傑作は「婦人画報」のために撮った浅草のレビュー小屋と、画家の藤田嗣治ぐらいなものであった。 「銀スタジオ」は二年で看板をおろし、大きな転期がおとずれた。  アサヒグラフと同じ大きさで国の内外の情報や写真をのせている半月刊の「グラフィック」の仕事をした。主宰は西園寺公一で、濱谷は新潟県の高田連隊スキー部隊の冬期演習のルポを命じられた。はじめてゆく雪国であった。  都会しか知らなかった彼は、闇と沈黙がひろがる夜の雪国に、慄然《りつぜん》とするものをおぼえた。胸を乱打する大きな感動があった。高田連隊のルポが終ってからも東京へ帰る気がせず、豪雪の町や原野に魅せられてさまよった。高田の哀切きわまる瞽女《ごぜ》を撮って、日本と日本人の原点にふれたような気にもなった。こういうものを撮ってゆくことが、自分に課せられた使命ではないかとも思えた。  古くからある日本を撮ったのが縁で、民俗学の研究をしている渋沢敬三を知った。渋沢が彼の理解者になった。当時のカネで五百円も出してくれて、 「民俗学に関係のものがだんだんに失われてゆく。いまのうちに何でもいいから、古いものを撮っておいてくれ」  という。  濱谷は和辻哲郎の『風土』や、柳田国男の著作を読み、新潟県の雪深い山村をたずねた。季節風の吹き荒れる日本海に沿って歩き、桑取谷にたどりついた。  ここの小正月の行事にカメラをむけた。若木迎え、餅つき、モノづくり、鳥追い、宮参り、嫁祝いなど、どれもが失われてゆく民俗行事である。  とり憑かれたように桑取谷へは十年もかよった。銀座のモダンボーイがいまでは、雪にまみれ土によごれた写真家になってしまっているのだ。彼がこの寒村で感じとったものは、きびしい自然に影響されて生きる人間たちの悲しいまでの生きざまであった。  のちにこれらの作品を『雪国』として上梓するが、その後記に彼はこう書いている。 「この越後の谷間のたった二十五軒の寒村に、この雄壮な生活の古典を見るとき、そこに長い歴史を経過してきた精神生活の深さ、豊かさを見ることができる。米を穫ること、それは単に肉体労働によるエネルギーの交換ではない。この狭く痩せほそった貧しい日本列島を黄金の国土に築きあげた農民の心には、神との深い交流が必要だったのだ。日本の農耕儀礼が、年間を通じて数|繁《しげ》くとり行われる姿は、とりもなおさず日本農業の容易ならぬ苦難の跡を物語るものであろう」 (三)  濱谷浩はしかし、そうした「日本への回帰」にばかり没頭してはいられなくなった。戦争は彼だけをほおっておいてはくれなかった。  太平洋戦争が勃発する昭和十六年の五月、彼は東方社に入社した。陸軍参謀本部が資金を調達して設立させたもので、大東亜共栄圏に対して対外宣伝をする写真画報を刊行するのが目的だった。  その画報は「フロント」という誌名で、英語版、中国語版、スペイン語版など十二カ国語の各国版を発行した。  濱谷は満州へいって戦車に乗り、呉《くれ》の潜水学校では潜水艦に乗り組み、木更津の海軍航空隊では爆撃機に搭乗して、それぞれの活躍ぶりを写真にしたが、 「乗らなかったのは霊枢車だけで、戦闘機にも乗って撮りまくった」  のを「フロント」に発表しつづけた。  彼は完全に戦争協力者になっていたのだ。  昭和十七年六月のある日、所沢上空で乱雲の上に出て、隼《はやぶさ》戦闘機の模擬空中戦を撮影したことがあった。ところが十九年一月にその写真が新聞に、「一歩も譲らず。空の血闘——我《わが》戦闘機・敵機を迎撃(煙をひいて落ちてゆくP三八)陸軍省検閲済」  という説明で、修整され発表になった。ところも所沢上空ではなく、ビルマのラングーン上空だと書いてある。 「こりゃあひどい!」  と思ったが陸軍省が新聞社に配給して載せさせたのだから、濱谷にはどうにも抗議しようもなかった。  東方社では謀略ビラ用の写真もつくっていた。ソ連の服装をさせた日本人たちがカレーライスを食べている場面を撮って、その顔をエアブラシでロシア人の顔に修整して「日本軍に降伏したら、こんな旨いものが食べられる」というふうに印刷した。これは対ソ宣戦布告がなされたときのためのものであった。  東方社にはそうした修整の名人がいて、十輌しかない戦車を三十輌に見せかけたり、五十機の爆撃機を百機にするぐらいは、重ね焼きの偽装写真で自由自在だった。  濱谷は横須賀海兵団に入隊させられた。その前に貴重なネガフィルムだけは、第二の故郷とも言える高田市に疎開させた。しかし海兵団からは一週間で帰された。貧血症と心臓弁膜症のためである。  戦況は日一日と不利になってゆき、やがてB二九による東京空襲もはじまった。本土決戦の声が聞かれるようになった。  東京空襲は凄惨激烈の度を加えてきた。  大森の彼の家も三度の危機に直面した。  剛直な父米蔵は「逃げかくれするのは厭だ」と言い張って、床柱を背にすわりこんで動こうとはしなかった。向かいの家の主人が病床にふせていて、直撃弾をうけて即死した。だれも火葬の仕方を知らなかったので濱谷が、桑取谷の焼き場で見た方法で、焼跡の材木をあつめてきて茶毘《だび》に付した。わずかに残っていた隣組の人たちも疎開していった。  濱谷も高田に疎開することにして、写真機材や書籍をリュックサックにつめてはこんでいった。浄土宗終南山善導寺の、裏二階を借りることができた。その寺には作家の小田嶽夫夫妻も疎開してきていたし、近くには坪田譲治や堀口大学も移ってきていた。  敗戦の八月十五日はそこで迎えた。  玉音放送のラジオを聴いたあと、本堂の前の庭へ飛びだしていって、真天上の太陽にむかってシャッターを切った。風がなく、草も木も動かずぐったり生気を失い、空には雲ひとつなく、ただ宙天でギラギラかがやいている太陽を、濱谷はどうしても撮影しておきたかったのである。  それから七年——  濱谷浩は高田で雪にうずもれ、東京のジャーナリズムとも無縁な暮らしをした。平和と自由がよみがえった。  しかし、戦争責任のこととなると彼は、いまだに胸が疼《うず》いてくる。戦争に協力した写真家は彼だけではない。しかし、謀略ビラ用の写真に自分の作品が利用され、あたかも敵機が撃墜されているかのごとき写真に修整されたことには、自分にも大きな責任がある。国民をだましてきた共犯者なのだ、という罪の意識を隠してはおけないのだ。曲ったことが嫌いな父米蔵の、剛直なまでの性格が彼自身にもあるのだった。  慙愧《ざんき》に耐えぬかのように濱谷はいう。 「戦後、文学者たちは戦争中のあやまちを告白したり作品にしたりしました。しかし、写真家はだれ一人としてやらなかった。わたしは東方社の問題を座談会で懺悔したこともあります。自分だけが正直者だったというのではなく、写真界全体のものとしてわたしを材料に論じてもらいたかったからです。わたしは断言する。戦争協力の告白がなされず、戦後はその恥部に触れずにずるずるやってきたから、写真界は甘いんですよ。過去はぬぐってしまって、今日的な要求に応じて撮りまくっているだけでしょう。だから、現代の若い写真家たちには軽蔑され、反感を抱かれても当然なのです」  その気持が七年間、中央ジャーナリズムを斜にかまえて望見させつづけてきた。友人や知人たちは、 「はやく上京しろ。どうしたんだ、雪のなかでボケてしまったのか」  と歯がゆがってくれた。だが、彼は自分自身を許せなかったのである。  これはきわめて重要なことだ、とわたしも思う。写真家にかぎらず、多くの日本人は敗戦のその日から便乗主義者になった。昨日まで先頭に立って軍国主義を謳歌していたものが、今日はけろりとして共産党員になって赤旗をふっていた。軍部におもねて国粋主義を学生たちに講義していた大学教授が、一転して反戦主義者だったかのごとく本を書く。軍国調の流行歌を作詞してカネを儲けていた詩人が、とたんに甘ったるい恋の歌をつくる。軍国調のその歌を唄って戦場へおもむき、たくさんの若者らが死んでいったことなど屁《へ》とも思ってやしない。  ひどいものだ。あきれたものだ。知識人づらしていても、こういうオポチュニストたちばかりであった。だからこそ、濱谷個人の勇気ある自己批判は高価なのである。  鬼刊事だった米蔵は「ヤミのものは絶対に食わん、ヤミ市なんか見るのも厭だ」と最期まで頑固さを守りとおしていたが、昭和二十一年に七十六歳で逝った。 (四)  高田で「三貧倶楽部」というのができた。彫刻家の戸張幸男、陶芸家の斉藤三郎、それに濱谷浩の三人で負けず劣らずの貧乏だった。しかし三人は世捨人のように貧乏は苦にせず、囲炉裏《いろり》をかこんで談論風発、カストリ焼酎をくみかわしていた。  それでも縁はあるもので昭和二十三年、濱谷は三十五歳で結婚した。相手は南部朝さん、五歳年上の戦争未亡人だった。江戸千家のお茶の師匠で、たいそうな新潟美人である。  正月のお茶の会の写真を撮ってあげたのが縁で、彼女をモデルに日本の女の四季を作品にしていった。戦後の日本娘はアメリカナイズされてどんどん変わってゆく。そんな風俗にも背をむけて濱谷は、古来からの日本女性の仕草《しぐさ》のみを記録しておきたかったのだった。  妻をつれて上京したのは昭和二十七年だった。写真雑誌は復刊し、写真界は新人旧人でにぎわっていた。濱谷の身なりは父の形見の着物をくずしてこしらえたモンペ、家宝である宮本武蔵の煙草入れを腰にさして銀座を歩くので、今様浦島太郎であった。 「文芸藝春秋」の池島信平のすすめで毎号、グラビアページの『日本を創る百人』を担当することになった。その第一回目は白洲次郎、坂口安吾、経済学博士の永田清、バイオリンの巌本真理の四人であった。 「おまえの時代がきたんだ。これを機に都心のアパートを借り、車を買い、編集者をのせてバリバリ仕事をしろよ」  兄弟たちはそんなふうにはげましてくれたが、「文芸春秋」の仕事はつづけるけれども時流に乗るのはやはり潔《いさぎよ》しとせず、大磯に住むようになった。うわべだけの華やかさにはついてゆけなかったし、「戦前には自分にも銀座時代の経験がある。またぞろそこへもどっていったのではダメになるばかりだ」と反省する気持もあったのだ。  濱谷の眼はやはり、雪国にむいていた。昭和二十九年から裏日本の撮影にとりかかった。十月、冬を迎えようとする新潟からはじめ、本州北端であり陸地の果てでもある津軽半島の竜飛崎へむかった。六十一戸の集落が岩と波と風と雪の凶暴な海と崖のせまい土地に必死にかじりついていた。十三里の山越えをし、馬橇で三日間もさまよった。  富山県上市町の白萩という村の田植えを見にいったとき、彼は衝撃をうけた。ワラ屑を肌にまきつけ、ボロ着をまとって泥田にはいり、胸まで没して田植えをしていた。それはまさに原始の田植えが今日に残っていた、という驚きと恐怖だった。同時に日本の、政治というものについて考えさせられた。  しかし彼の『裏日本』は、批評家たちのあいだでは「調子が硬調すぎる、粒子が荒れている」と酷評されたのであった。  濱谷はいう。 「わたしは暑いなら暑い、寒いなら徹底的に寒い……そのなかで自分をいじめ抜くのが好きなんですよ。生ぬるい、中途半端というのが大嫌いなんです。だから、写真も自分を虐《しいた》げている写真になっている。ものに耐える、そしてそれが執着になっている写真になるわけです。評論家のしたり顔の批評なんかどうだっていいんですよ。人気も名声もどうであろうとかまいません」  かつて土門拳は、濱谷作品に対して、 「あいつの写真はいつでも、一歩さがって撮っている。おれなら一歩前進して撮る」  と痛烈な一矢を放ったことがある。  そのことに触れてわたしが、濱谷にこう質問してみた。 「土門さんのその批評を、あなたはどう受けとめていますか?」  濱谷は即座に答えた。 「わたしのおやじもそうだったが、他人に迷惑をかけないかわりに、迷惑をかけられたくない主義なんですね。だから、土門作品との違いが出てくるんじゃないですか。土門さんはモデルが迷惑がっていようと苦痛を訴えていようと、自分が撮りたいと思う一瞬まで、じっと気長に待つ人なんです。たいていのモデルはじりじりして、いい加減にしてくれと怒りだしますよ。わたしは逆に、撮らせてもらっているんだ、あまり迷惑をかけてはいけないという気持が働くものだから、そういう点が一歩さがっている、従って迫力がないということになるのかもしれませんね」  土門拳の個性と濱谷浩の個性は好対象になっているのは確かだが、この答えではまだ遠慮がありすぎる。自我をむき出しにして一歩前進して撮るほうが傑作であるのか。謙虚に一歩さがったほうが名作になるか。これは興味あることだし、いつの日か土門拳と濱谷浩とでカンカンガクガクやってもらいたい。眼をむき口角《こうかく》泡をとばしての写真論争が写真界においてもくりかえされてほしい、と期待しているのはわたしだけではあるまい。 (五)  濱谷浩にはまたひとつ大きな転期がきた。  それは昭和三十五年の安保闘争であった。  ここで喋々《ちょうちょう》するまでもなく、日米新安保条約調印をめぐっての、岸信介内閣時代のこの六〇年安保闘争では全国民が政治に参加した。ことに第一線に立った全学連と労働者の実力阻止行動はすさまじかった。  濱谷はこれを徹底取材した。 「それまでわたしは政治的な取材には縁が薄かったが、こんどのこれは違う。五月十九日の強行採決、民主主義の崩壊にみちびく暴力が議事堂内部でおこった。わたしは戦前戦中戦後を生きてきた日本人の一人として、この危機について考慮し、この問題にカメラで対決する」意気に燃えたのである。作家の獅子文六に「きみはアカになったそうだね」と言われたが、弁解はしなかった。  デモ隊の激流のなかでの樺美智子の死も撮った。濱谷のこうした取材活動に対して、土門拳が「あれは商売で撮影しているのだ」と冷やかな発言をした。アタマにきた濱谷は、アメリカのライフ誌がその作品を買いにきたが、 「アメリカの雑誌はどんなキャプションをつけて載せるかわからない。信用できない」  として断った。  パリの「マグナム」から入電があった。これは戦後にロバート・キャパ、デビッド・シーモア、アンリ・カルティエ・ブレッソンという三人のフリーの写真家たちがはじめた、どこにも所属せずに作品を創っているグループである。  この「マグナム」を通じてなら広く世界に六〇年安保闘争を理解してもらえると思い、濱谷は快諾して『怒りと悲しみの記録』の数々を送稿した。これらは「パリ・マッチ」誌に特集され、「ライフ」よりもすばらしいものになったという電報が届いた。  これより先、昭和三十五年初め、濱谷は名誉ある「マグナム」の会員になるが、日本人で参加したのは彼一人である。  だが、六〇年安保闘争が挫折したあとに、「アカになった」とまで指さされた濱谷には何が残ったか。彼は肩を落としていた。 「何もかもが厭になりましたね。保守派の政治家、財界人、官僚たちはむろんのこと、安保反対で闘った国民にも嫌悪感を抱きましたよ。あれほど盛りあがった歴史的な闘争だったのに、挫折するととたんに国民の力はしぼんでしまったでしょう。熱しやすく冷めやすい、御都合主義の日本人の正体を見て失望したんです。これでは敗戦時と同じではないか。戦争が終ったとたん、アメリカに尻っぽをふりはじめたのと変わりありません。わたしは極度の人間不信におちいり、日本人の住む日本の自然を見てみたいと思った」  アカと見られたために、雑誌の注文もパタリと止まった。ホサれてしまったと思った。暇になった彼は日がな大磯の家の庭を耕して、耐乏生活にはいった。その畑を「ホサレ菜園」と命名した。  しかし彼はやはり、鍬《くわ》よりカメラを手にしなければならない人間であった。北海道の宗谷岬から九州佐多岬まで歩き『日本列島』の撮影を開始した。火山、海、高山、河川、湖沼、湿原、樹氷、原生林などにも挑んだ。そんなふうに彼は自然に還っていったのである。 「美しい風景を捜してまわるのではなく、日本人の骨になっているもの、皮膚になっているものにカメラをむけたかったんです。日本の原点に触れたいんですね」ところが——  その原点をさぐり得なかったばかりか濱谷は、あれほど惚れこみ打ちこんできたはずの田舎さえ大嫌いになってきた。彼の眼の前には幻滅という名の暗黒しかなく、つねに耳鳴りがしていて、それをおさえたくて若い男女の群れに飛びこんでいってゴーゴーに夢中になった。そのため「濱谷はいい年をしてゴーゴー気違いになっちまった」と写真界ではささやかれるようになった。  ゴーゴーを踊っても癒やされなくなった濱谷はついに、日本から飛びだしていった。フランス、イングランド、アイルランド、アイスランド、ノルウェー、フィンランドなどヨーロッパの大自然をもとめてまわった。だがそこにも自然らしい自然はなく、自然と人間が同居しているのを見て、彼の幻滅という名の暗黒はひろがるばかりだった。  アラスカからカナダヘ、アメリカ大陸を彷徨した。巨大な火山脈の火口の上を飛行機で飛ぶとき、「あの火口に落ちて死んでもいい」誘惑にかられた。  大氷河の上ではこうも思った。 「この上に落ちて死んでもいい。自分の死体は氷にとざされて残り、何万年前の氷河期にもどってゆくことができるだろう。人類が終り、この地球上にべつの種族が何千年後かに出てきて、氷結しているわたしの死体を発見し、昔はこういう動物が棲息していたのか、これが人間というやつだったんだな、と珍らしがって研究材料にしてくれるかもしれない。そう思うと怖いもの、恐ろしいものがない」  写真を撮りたい意欲より、その願望ばかりがある。世をはかなんで死に場所を捜しているようなものだった。  昨年、彼はネパールへ旅した。  世界最高峰のエベレストを見に行った。  八八四八メートルの頂上を撮影するのに、チャーターした単発機で九千六百メートルまで上昇した。麓のカトマンズの気温は二十七度だったが、上空はマイナス二十三度、なんと五十度の差があった。  彼のカメラマンとしてのスタートは、サルムソンという複葉機で、銀座の航空写真を撮ることだった。それから四十年後の五十九歳の彼は、命がけでエベレストにカメラをむけているのだ。こういう運命になろうとは神のみぞ知るであり、白いその巨峰は神のように神々しかった。  乗降口をあけて九千六百メートルの上空から、地上最高の頂上を見おろした。酸素マスクが邪魔になってカメラが構えられない。マスクをはずすと空気が稀薄なため、すぐに気が遠くなりそうになる。そのままでいれば、むろん死しかない。  しかし彼は、あえてはずした。  乱気流で機体が木の葉のようにゆれ、シャッターを切ったが何枚もブレた。決定的な一枚をどうしても撮りたかった。死んでもいい、と彼は思った。このまま墜落すれば白き大地の腕に抱かれるのだ、と呟いた。  そのとき濱谷は、悟りの境地に到達した。 「わたしは世のため人のためのつもりで写真を撮ってきた。が、果して役に立っただろうか。世の人たちは濱谷のやつ余計なことをしてやがる、と思っているかもしれない。  そんな疑念がいつも頭のなかで渦巻いてました。写真にするからには、人に見てもらいたい意識もありました。ところが、酸素マスクをはずし、エベレストにカメラをむけた瞬間に、邪念がはれました。自分のために撮ればいいんだ、撮れなければ自然の偉大な姿を見てくるだけでいいんだ……と啓示のようにひらめいてきて、気持がラクになりましたよ。撮れないようでは写真家として失格かもしれないけど、それでもいいじゃないか。そういう声もしてましたね」  わたしは、このエベレスト撮影飛行の話を聴いたとき、感動のあまり身がすくんだ。ほんとうに背すじが寒くなってきた。そこまで自分を追いつめてゆく彼に鬼気を感じた。  ——夕陽のガンマン姿の彼が、わたしをつれて銀座へゆきゴーゴー酒場で踊り狂う。あげくは再びハシゴ酒して壮絶に飲み、ついにははだかになって「燃えよドラゴン」に変身。ホステスたちをゲラゲラ笑わせて最後に、壮烈なる戦死者のごとくダウンしたのも、底ぬけに陽気なお遊びではなかったのである。  それもまた濱谷浩の鬼哭啾々《きこくしゅうしゅう》であった。(昭和五十年十月取材・参考資料・濱谷浩著「潜像残像」昭和四十六年河出書房新社刊) ●以後の主なる写真活動 昭和五十年ヨーロッパ・アルプス、ネパール・ヒマラヤ、オーストラリア大陸、フィジー、トンガ撮影旅行、「日本の自然」上下二巻(国際情報社)。五十一年グリーンランド撮影旅行。五十二年ハワイ撮影旅行。五十三年ネパール・ヒマラヤ、北・南アメリカ、南極半島撮影旅行。「孤峰富士」(集英社)。五十四年アフリカ大陸、アルジェリア、サハラ砂漠、チュニジア、トルコカッパドキア撮影旅行、「南極半島夏景色」(朝日ソノラマ)。五十五年中華人民共和国・桂林撮影。五十六年写真展「写真体験五十年濱谷浩写真集成展」東京・沖縄他開催。「濱谷浩写真集成」(岩波書店)、「濱谷浩写真集成展図録」(PPS通信社)。五十七年「旅」(日本交通公社)。五十八年「學藝諸家」(岩波書店)。 [#改ページ] 船山克《ふなやまかつ》「スタッフカメラマンの先駆者」  船山克さんは古いライカD皿Aを大切に保存している。日本水産香港支店長だった父親の船山|巍《たかし》氏が、昭和十五年に買ってくれたもので、彼はこのライカで太平洋戦争における日本海軍の最期の大海戦となった、壮絶きわまるレイテ沖海戦を実写した。だが、フィルムが無事であれば世界の海戦史にのこる資料となったのに、惜しくもそれは「まぼろしの海戦写真」におわってしまった。  日本海軍の捷一号作戦は昭和十九年十月に開始された。フィリピンのレイテ湾進攻をめざすマッカーサーの軍団と、それを援護するキンケード提督の第七艦隊を一挙に屠《ほふ》って逆転勝ちを狙った、最大かつ巧妙な作戦であった。  栗田艦隊と西村艦隊が東と西から同時にレイテ湾に突入。沖縄方面から南下する小沢艦隊は、ハルゼー提督の機動部隊を牽制する役目を与えられた。いわば小沢艦隊は栗田、西村の突入をたすけるためのオトリ部隊であり瑞鶴、千代田、瑞鳳、千歳の四隻の空母を主幹とし、航空戦艦二、軽巡洋艦三、駆逐艦八の陣容だった。  船山さんは予備学生出身の少尉、戦闘六〇四航空隊作戦司令部付の飛行士として空母瑞鳳に乗っていた。十月二十四日夕刻、南下する小沢艦隊は索敵機に発見された。ただちにハルゼー艦隊が迎撃すべく北上、両艦隊は翌二十五日朝に激突した。まず第一波の百八十機の戦闘機と雷撃機の編隊が飛来、小沢艦隊に先制攻撃をあびせ、午前八時から午後四時まで死闘がくりかえされた。  敵と遭遇するまで船山海軍少尉は、僚艦や発進する艦載機、青い海原のフカの群などにのんきにライカD皿Aをむけていたが、戦闘用意のサイレンが鳴りひびいてからは飛行甲板の両サイドにあるポケットの中にいた。  敵機来襲と同時に味方の対空ロケット砲、高射機関砲が火を噴き、その音が耳をつんざき、上空は弾幕でまっ黒になった。その黒い空から爆撃機と雷撃機が金属音の唸りとともに突入してきた。艦は右に左にかわし全力疾走するが、命中した爆弾で震動し、火災がおこり、魚雷をくらって傾く。船山少尉は戦争のおそろしさをはじめて経験した。突入してくる敵機に、無我夢中でシャッターを切りつづけた。火だるまになって海中におちる敵機、のたうつ僚艦も撮った。  瑞鳳が被弾して傾いたのにつづき、瑞鶴が魚雷をうけて速力が落ち、送信も不能になった。駆逐艦秋月は白煙をあげながら真二つに折れた。  午前十時、第二波の三十六機が来襲、再び地獄と化した。味方機はことごとく撃墜されていた。千代田に火災がおこった。小沢艦隊は北へ反転しはじめた。瑞鶴は舵故障で隊列からはなれた。半身不随になっている瑞鳳にも爆弾が雨のように降りそそぎ、千二百人の乗組員は必死の防戦、消火につとめるが、爆破した鉄の破片が水兵たちの腕や脚とともに飛びちった。  第三波は午後一時にやってきた。その数二百機だ。千歳が轟沈、瑞鶴も沈没した。渦巻く波間に生存者が点々としている。瑞鳳はまだ沈没しないが三十度に傾いており、艦橋に移っていた船山少尉の下半身は海水に漬かっていた。その海水は血の色をしており、戦友たちのちぎれた手足がプカプカ浮いていた。  午後五時、第四波の百機が襲来したときには瑞鳳は力尽きて、魚雷と爆弾と機銃掃射の標的になっているしかなかった。半身を水中に漬けたままの船山少尉は、頭上の異様な連続音を聞いて思わず水中にもぐった。同時に、ものすごい炸裂音があたりをゆるがした。息苦しくなって顔を水面に出したとき、まわりにいた戦友の姿は一つもなく、艦橋の屋根もふっ飛ばされていた。至近直撃弾だった。大理石の海図台が爆風をさえぎってくれなければ、この瞬間に爆死したであろう。  この直後、瑞鳳の最期がやってきた。  水圧でおしつぶされてメリメリと割れる、鉄鋼板の音がしだいに大きくなった。もはや艦内の統率は無にひとしかった。艦は横腹を空にむけた。沈没寸前だ。われさきにと水兵たちが海中に飛びこんだ。このとき船山少尉が身につけていたのはズボンのポケットにカツオ節一本と、首にぶらさげているライカだけ。  渦に巻きこまれぬよう油の海を死物狂いで泳ぎ、ひょいと振りかえると瑞鳳は、艦首を直立させてまさに海に呑まれようとしていた。その艦首からも孤をえがいて飛びこむ人影があり、その光景が今も目の底に焼きついている。  海中で数人が群をなし、軍歌をうたってはげまし合っていたが、敵機の執拗な機銃掃射をうけるたびに歌声は少なくなっていった。機銃弾で頭を貫かれて死んでゆくのだ。  日暮どき、やっと駆逐艦が救助にきた。だが、上空にはまだ敵機が旋回しており、艦の停止はできず、舷側に縄梯子やロープをたらしているだけだった。それにつかまって自力でよじのぼるもののみが助かるのである。 「そういうときの人間のあさましさも見た」  と船山さんは言う。  一人がロープにつかまるとその人間の足にもう一人が抱きつき、その足にまた別の人間が抱きつく。数十メートルの長い人間の数珠が何本もでき、その数珠をひきずって駆逐艦が走ることになる。海に流れ出た重油で顔はまっ黒だ。  船山少尉は奇跡的に自力で上甲板までよじのぼることができたが、力尽きてロープを手放してしまった人が多かった。すると、彼の足をつかまえてできた数十人の人間の数珠は、命綱が切れたも同然で、海の藻屑になるしかなかった。かれらは見棄てられていったのである。  瑞鳳の乗組員千二百人のうち、生存者はわずか百人弱。ときに船山さんは若冠二十二歳。ライカが海水に漬かったため海戦を撮った貴重なフィルムもダメで「まぼろしの海戦写真」になったのであった。  生還できた戦友のなかには、のちにNHKのアナウンサーとしてテレビの「スタジオ1〇2」で活躍した野村泰治氏がいた。彼は中央大学出身、同じ予備学生出身として瑞鶴に乗り組んでいたのである。 (一)  船山克は大正十二年二月一日、兵庫県は武庫郡精道村大字芦屋に生まれた。いまは阪神の山の手といわれるあの芦屋である。  父の巍は慶応大学卒、大阪の商社、堀越商会につとめ、長男の克が誕生する前年までロンドンに派遣されていた。  母の淑子は九州熊本の出、祖父は宮内庁図書寮の官吏である。  日本的な中流家庭で、船山は油絵を描くのと電気装置の家の模型をつくったり、絵と工作の好きな少年であったという。  三宮の神戸一中(現神戸高校)に入学、二年生のとき猩紅熱で一カ月ほど入院した。写真家吉川速男の著書『写真術の第一歩』を父が買ってきてくれたので、ベッドでそればかり読んでいた。退院すると自分もカメラをいじってみたくなり、セミプリンスを買ってもらった。ボディが国産、レンズとシャッターがドイツ製、七十五円だった。日中戦争が勃発した昭和十二年である。  むろん、まだ作品的写真をたのしむには至らず、身辺のスナップ写真の出来不出来に一喜一憂していた。  昭和十五年、船山家は東京に移り、船山は慶応大学予科に進学した。その祝いに買ってもらったのが、前出のライカD皿Aであった。  船山は慶応カメラクラブに参加した。慶大にはもう一つ、「フォトフレンズ」というグループがあり、一年後輩に長野重一がいた。先輩の三木淳はすでに名取洋之助の国際報道工房にも出入りしていて「ぼくはライフのカメラマンになるんだ」の大志を抱いており、クラブ活動などは子供あつかいにして見向きもしなかった。  慶応カメラクラブで指導してくれたのは野島康三と、佐和式露出計を考案した佐和九郎の二人であった。船山はサロン写真ばかり撮っていた。銀座の伊東屋で開催される早慶写真展や六大学写真展に出品した関係から、早稲田大学の秋山庄太郎、稲村隆正氏らを知った。秋山氏の才能には舌を巻いたものだ。  予科から経済学部にすすみ、「慶応カメラクラブ」と「フォトフレンズ」が統合されて慶大写真部となって間もなくの昭和十八年十二月、船山は学徒出陣の一員として横須賀の武山海兵団に入団した。  その後、海軍予備学生として土浦、矢田部航空隊で訓練を受け、十九年八月に戦闘六〇四航空隊員として大分基地に配属になった。そして同十九年十月二十日、日本海軍最期の決戦、捷一号作戦命令をうけて別府湾から空母瑞鳳に乗り、特攻オトリ艦隊として出港したのである。  この時点では船山は、稲村氏にくらべれば貧乏くじをひいたようなものだった。同期の稲村隆正氏は掃海艇要員にまわされて内地にいることができたし、船山はオトリ艦隊として天皇陛下のために出撃しなければならず、それは運命のわかれ道だったのだ。だが、彼は救助にきた駆逐艦のロープにしがみつき、自力でよじのぼったからこそ、数珠つなぎになった戦友たちが力尽きて見棄てられてゆくなかで、かろうじて九死に一生を得たのである。  小沢艦隊は四隻の空母を失ったが戦艦二、軽巡二、駆逐艦六隻をともなって奄美大島に帰投することができた。船山は大分基地へもどされた。基地内の航空関係の技術部隊のなかに垣田という技術将校がいた。彼が海水漬けになった船山のライカD皿Aを修理してくれるというので預けた。  預けたまま船山は二〇一航空隊に転属させられ、その任地であるフィリピンへ飛ぶため台湾の高雄基地へむかった。しかし、すでに二〇一航空隊も全滅しており、東港の九〇一航空隊司令部付となって二十年三月上海へ輸送船で移動。戦況がさらに不利になって朝鮮の鎮海基地へ。そこにおちつく間もなく京都府の舞鶴へ……というふうに移動の連続だった。  舞鶴航空隊内に九〇一司令部を設置したのは、日本が白旗をかかげるのも時間の問題となっている時期であった。そのころ父の巍はまだ香港におり、母の淑子がひとり軽井沢に疎開していた。弟も海軍兵学校におり、母一人を案じた彼は内地に無事舞いもどったのを期に、神戸時代の幼なじみで、同じ年齢の高井善美さんと婚約した。  ところが婚約直後の八月十五日、日本は全面降伏をした。国内は大混乱におちいった。徹底抗戦をさけぶ軍人たちがいる一方では、国民は生きるための食糧あさりに狂奔した。  船山の将来もどうなるか皆目わからない。戦争犯罪人として虐殺されるかもしれない。奴隷にされないとも限らない。生かしておいてもらえたとしても、どのように生きてゆけばよいのか。瓦礫《がれき》と化したこの日本で、どういう仕事をすればよいのか。  そんな目標もないまま、敗戦から二カ月後の十月、相生《あいおい》の松で名高い兵庫県高砂市の、高砂神社で海軍中尉の軍服姿で結婚式をあげた。こんな混乱した敗戦時にあわただしく式をあげる二人に、神主もびっくりしていた。新婚旅行に出かける余裕はなく、彼女をつれて東京へもどってきた。 (二)  船山克が東京有楽町の朝日新聞東京本社に入社したのは、昭和二十年十二月だった。  GHQが近衛文磨や木戸幸一らも戦争犯罪人として逮捕しようとし、近衛は服毒自殺した。日劇と日比谷映画で『ユーコンの叫び』という戦後初のアメリカ映画が上映され、東京宝塚劇場は接収されてアニー・パイル劇場になるころであった。  焼跡には不潔なヤミ市がはびこっていた。戦災者、復員軍人、浮浪児らが群がっていたし、栄養失調で行き倒れになったり餓死するものも数多くいた。有楽町のガード下では、けばけばしい衣裳のパンパンガールがGIたちに媚びていた。赤旗のデモ行進が通った。  船山は出版局出版写真部に配属になり、初任給は六百五十円だった。物資不足によるインフレはものすごく、警視庁が発表した当時のヤミ値は一升五十三銭の白米が七十円、一貫目三円七十五銭の白砂糖がなんと千円。「朝日年鑑」によると平均月収が工場労務者で六一三円三十八銭、男子職員七〇三円三十八銭である。  芦屋時代の友人の父親が大阪朝日にいて、よく甲子園の中等学校野球(現在の高校野球全国大会)の観戦につれていってくれた。戦後、この人が東京朝日の重役になっていて、船山が入社できたのも出版局写真部の試験を受けさせてくれたからである。  朝日には戦前から出版局があったが、それに必要な写真は新聞写真部のカメラマンに撮らすか、プロ写真家に依頼する外注のどちらかにしていたが、戦後の「アサヒグラフ」「週刊朝日」「婦人朝日」「農業朝日」「朝日評論」、その他一般図書出版に要する写真は出版局が独自でつくることになり、出版局出版写真部を新設した。船山はそこに採用になったわけで、初代のその出版写真部長は、休刊になっているアサヒカメラ編集長の松野志気雄である。  船山が出版写真部員になりたかったのは、 「レイテ沖海戦で九死に一生を得た自分は、あとは余禄で生きているようなもんだ、このさき生きて行くために、自分でやれるものは写真より他にない。思いきって、このさい写真に一生をかけて見よう」  という気持があったからである。  事件を追う新聞写真には個人的な主観性が顔を出し過ぎてはいけない。状況説明とともに、記事に忠実な客観性もなければならぬ。  たとえば火災現場にカメラを向けた場合、消防署員が注水するホースの口から、威勢よく出なければならないはずの水がチョロチョロたれている。「こっちのほうがおもしろい」と思って撮ってきたとしてもデスクにどなられるだけだ。やはり必要なのは、その火災現場の迫力や無残さなのである。  このような新聞写真に比べればグラフ写真には己の創造性が生かされるチャンスが幾分でも多いはずだ。そこですべて写真が優先するグラフ雑誌に身を投じる決心をしたのだった。  昭和二十二年十二月のある日、アサヒグラフ編集長の伴俊彦によばれた。「敗戦国日本には一機の民間航空機もなく、航空写真が撮れなくなってしまった。しかし、そういう写真がほしいね。せめて、展望のよくきく高いところからでも撮れないものかね」と伴編集長はきりだした。  船山は捜した。三一二・六メートルの川口市の無線電信塔(昭和十二年竣工。当時は東洋一の高さだった)があった。記者と二人で夜中に出かけてゆき、夜あけを待った。船山は復員するときにもち帰っていた、飛行帽と飛行服に身をかためていた。 「のぼってもいいけど、命の保証はできませんよ」  と電信塔の管理人は苦笑した。  二八〇メートルまではドラムカンのようなエレベーター式ゴンドラがあった。ところが五十メートルもあがると風速がつよく、錆びているゴンドラが不気味にゆれた。吊っているワイヤーがいまにも切れそうだった。「レイテの海で死んだと思え」と言いきかせて恐怖に耐えた。  ゴンドラからおりたあとの三十二メートルは、梯子をのぼらねばならなかった。頂上にはやっと坐れるほどの足場があった。だが、そこも風にゆれどおしで、その振幅は二メートルだ。振子のようにゆれながら船山は、ライカで夜あけの四周を六十枚も撮った。  黒い連山のかなたに白い冨士の雄姿があった。  六十枚はつなぎ合わされ、『東洋一の高塔をよじ登る』のタイトルで発表された。  それ以来、「高いところなら船山に限る」と決められてしまい、高所からの写真はすべて引き受けた。彼は気象台や警視庁の鉄塔、東京タワーが完成すると、それにものぼった。「週刊朝日」がその昔連載して評判になった『にっぽん風船旅行』をはじめ、ヘリコプターや航空機よりの撮影で、新しいアングルの風景写真を手がけたのも、高所好きと無縁ではなさそうだ。  新聞のカメラマンが火災現場や大争議にカメラを向けるのも、出版写真部員が鉄塔やヘリコプターの上から撮影するのも、ともに命がけの冒険写真に違いなく、そのこと自体は全く同じカメラワークである。ところが新聞の場合、朝刊や夕刊に間に合わなければ価値がない、という時間の制約がある。もうすこし待てば傑作が撮れるかもしれないが、そんな余裕は許されない。しかも、新聞用紙では印刷効果にも制限があり、グラビア印刷のグラフにくらべれば、かなりのハンディを背負うことになる。そこに新聞とグラフの違いが生まれてくる。  それにもうひとつ、新聞社にはカメラマンを軽視する空気があった。どこの新聞社でもそうだが、編集局のデスクとか記者たちが「写真はどうしようか」とか「つれて行ったほうがいいだろう」と相談し合う。 「これではまるでカメラマンは犬ですよ。記者にひっぱってゆかれるんですからね。著名人をたずねて、記者が応接間でインタビューしているあいだ、カメラマンは玄関で待っていなければならない。インタビューがおわってから応接間によびつけられ、その人の顔を撮らされるでしょう。ぼくもそんな目にあいましたが、シャクにさわって記者と喧嘩し、撮らずに帰ってきたこともありましたよ」  と船山は愧《は》じる表情で言う。 (三)  犬になりきれない船山はクサっていた。  写真への情熱を失いかけていたそのころ、出版写真部次長として大阪朝日から大束元が転任してきた。吉岡専造が新聞写真部から移動してきた。大束も吉岡もともに戦時中は従軍カメラマンの経験がある先輩だ。  だが、この二人も「犬」になれないで出版写真部におくり込まれたのであろう。敗戦直後、皇居前広場で自害した人たちの写真をデスクから命じられたとき、吉岡氏はそれを拒否したと言われている。  吉岡氏はしかし、出版写真部にきて数多くの立派な仕事をした。わが子の誕生から一年間、毎日その成長ぶりや表情の変化を撮っていた人間味あふれる『人間零歳』の連作を、扇谷正造氏が編集長だった「週刊朝日」に発表、たいへんな話題をよんだ。  昭和二十四年十月、津村秀夫氏が編集長に抜擢された「アサヒカメラ」が復刊。大束氏はこれに『飛田穂洲老』『月明の富士』などを発表してその存在を示した。船山はこの二人を師にして、失せかけていた写真への情熱を再燃させた。  学生時代の仲間の秋山庄太郎はまだ無名だったが、稲村隆正はすでに『ショーガールの生活』(昭和二十四年)でデビューしていた。三木淳は初志を貫き、ライフのカメラマンになって同誌に『赤い引き揚げ者帰る』(昭和二十四年)を発表した。 「新聞のカメラマンとフリーのあいだに存在するスタッフカメラマンとして、新しい時代のグラフ写真をつくろう」  が大束、吉岡、船山の合言葉になった。  大束、吉岡の両氏から学んだものを、船山はアサヒカメラの座談会(昭和二十八年)でこう語っている。 「大束さんから学んだ最大のものはプレスカメラマン——とくにグラフ写真家としての心がまえというか生活全般ですね。大束さんの写真に対する考え方——写真を自分の天職と考えての生活態度、そのようなものが自然に私にしみ込んできたように思います。(中略)生活のすべてが写真であって、起きてから、寝るまで、たとえお茶を飲んでいるときでも、家で新聞を見ているときでも、日常の会話、通勤電車の中、すべてが写真の生活でなければならないということを学びとり、知らず知らずのうちに私自身そうなったように思います」  これなどは俳優が実生活のすべてもまた芝居の舞台だと考え、妻との応対、所作なども演技のための勉強にしているのに似ている。  また吉岡氏からは—— 「吉岡さんは被写体をじかに肉眼でみつめないと撮りがたいということを、よく言われましたが、それはそのものの本質を写しとるに当って、レフのミラーボックスによる反射像をながめてシャッターを切るより、あくまでも肉眼で被写体と対峙して、その間に何も介在してはならないという、私たちの写真道の根本問題を教えておられるように思うんです。また大自然も決して静止しているものではなく、絶えずわれわれと共にうごいている。風景と取りくむに当って、そのうごきと共にこちらもうごく。こちらのうごきと風景のうごきとの適確な組み合せを、レンズのメカニズムを応用して一瞬にとらえてゆく」  といったカメラワークを学びとった。  吉岡氏がリンゴの切断面をスピグラで撮っている。質感がでないのをボヤきながら、メンソレータムをぬったりして工夫している。その横で大束氏が無言でカスミ草にカメラを向けている。社の仕事をおえてからも、そのように思い思いに勉強しているし、船山も自分も何か撮っていないと気がすまぬ思いにさせられる——というふうで、毎晩十二時前に帰宅することはなかった。  船山が写真界にデビューしたのは昭和二十六年太平洋画会写真部門に『黒衣の女』が入選、「アサヒカメラ」に掲載されてからである。  大束氏と銀座をあるいていた船山は、モダンな美女とすれちがった。追っていって名刺を出し、 「よろしかったらモデルになってください。ご都合のよいときで結構ですから」  と頼みこんだ。  その夕刻、彼女は有楽町の朝日新聞社へやってきた。松竹の女優日夏紀子さんであった。  スタジオなどなかったから船山は、彼女を電話交換嬢たちの休憩室につれていって、夜中までかかって撮影した。そのなかの一点が入選したわけだが、もし銀座通りですれちがったとき「きれいな女だなあ」と思っただけで追いかけていなかったら、彼のデビューはもっと先のことになっていたかもしれない。大束氏に感化されて「起きてから寝るまですべてが写真の生活」にしていたがために、日夏嬢をモデルにできたわけである。  船山の仕事ぶりは充実してきた。「週刊朝日」のグラビアや「アサヒグラフ」等で活躍するかたわら社外では「写真サロン」に『東京』を連作、復興してゆく東京風景のなかのモダニズムをとらえた。この作品について富山治夫氏は、 「光線の使い方が男性的で迫力がある。メカニックな切れ味がある」と評する。  昭和二十八年より「週刊朝日」は『日本拝見』を連載した。彼もその写真のスタッフの一員であった。これは紀行文の執筆者と組んで全国を行脚したもので、その執筆者は大宅壮一や花森安治、浦松佐美太郎だったりした。昭和二十七年五月に撮った『皇居前広場の血のメーデー事件』が、世界の報道写真の優秀作として一九五三年版の「USカメラ年鑑」に七点も収録された。船山が敬愛する写真家は、日本海や雪国を撮った濱谷浩、『カントリー・ドクター』と『スペインの村』でびっくりさせられたユージン・スミスである。  吉岡、大束、船山は「朝日出版写真部の三羽烏」といわれるようになり、この写真部は写真界のなかでの独自の存在と見なされた。新聞写真部よりも自主性のある仕事をしている。と同時に他の新聞社の写真部にないものをもっていた。  社外の人たちから見れば「一級の写真家」であるかれらを目標に、 「朝日の出版写真部で活躍したい」  と志望する若い写真家たちが殺到した。前出の富山治夫氏もその一人で、彼は出版写真部の契約カメラマンとして働いた。フリーカメラマンのようにカッコよく仕事しながら月給をもらえるので生活の不安もない——そういった魅力もかれらにはあったようだ。  こうして朝日出版写真部の存在は、毎日、読売、サンケイなどの写真部にも影響を与えた。 (四)  社外の人たちが「一級の写真家」と見なすようになったのだから、船山克を見る社内の眼も改まっていったかというとそうはならなかった。逆に彼は、いっそう辛い立場に追いこまれていった。  これは朝日新聞社に限ったことではない。サラリーマンでありながら独自の何かをやろうとすれば、だれでもこういう辛苦を味わわされる宿命みたいなものであった。だから自分の時間である休日に社外からの依頼をこなした。  榛名湖を撮りにいったことがあった。カメラ道具をかつぎ懐中電灯で足もとを照らしながら、榛名湖越しに榛名山を見る地点まで夜の山道をのぼった。あえいでのぼる途中、彼は何度も自分につぶやいた。 「作品にその苦労が出てくるかどうかわからないが、この一枚のためなら、どんな苦労をしても決して無駄ではない」  払暁《ふつぎょう》の榛名湖の向こうにそびえる榛名富士の頂上が朝日をあびシルエットになっている。神々しいその光景をとらえてシャッターをおすときには、「こうしているときが、おれの生の証なのだ」と叫んだ。レイテ沖海戦で生き残ったおれは一生、写真で生きるしかないと決めたが、果してどこまでやってゆけるのか……と自分に問いかけながら指でおすシャッターの感触と音に、生の充実感をおぼえるのであった。  彼は撮影しているときは、まったく無欲の人間になる。パンと牛乳があれば充分だ。うなぎ丼を食いたいとか、鮨が食べたいと思ったこともない。そして、撮りおえるとすぐに下山し、朝の列車で上野駅へもどってくると、そのまま朝日新聞社へ出社した。  皇居の桜田門の扉を毎朝、五時にいって十分間ほど撮ったこともあった。扉を前にして寝ころがったり、しゃがんだりして、扉に当たる朝の陽光を撮影した。それから出勤するわけだが、現像してみて気にいらないので、また翌朝も出かけてゆく。それが何日間もくりかえされた。  このようにいかに公私を分けて仕事をしていても、周囲の人の目は決して温かいものではなかった。それでは社外のフォトジャーナリストやフリーのカメラマンたちは彼の立場に大いに同情してくれているかというと、そうばかりではない。 「おれたちは仕事をもらって食っているんだよ。その仕事を、月給をもらっているきみに横どりされてはたまらんよ。欲ばらないでくれよ」  と嫌味をならべられたこともある。しかし良き理解者もあり尊敬できる仲間もたくさんいた。  あるとき、船山は秋山庄太郎にゴルフを勧めた。すでに秋山は売れっ子になっていたのに、 「誘わんでくれ。おれは一つのことに夢中になるタチなんだ。ゴルフをおぼえたら、それがおもしろくなっておれはのめり込んでしまう。そうしたら写真のほうがダメになる。それが怖いんだ。もうしばらく待ってくれ」  と断った。  数年たって秋山は、約束どおり船山らのゴルフ仲間になったが、そのときは麻布に大きなスタジオを建てる身になっていた。つまり、写真家としての不動の地位を築くまでは秋山がわき目もふらず努力した——そのことに感服したのである。  船山は、何度も辞表を書きかけた。フリーになって作品で勝負しよう、と覚悟もした。だが、スタッフカメラマンをめざしているからには、自分勝手に飛びだしてゆくわけにはいかない。そうした苦境のなかで彼は、自分自身でおのれのゆく道を開拓してゆくより方法がなかった。  ある日、突然に大分時代の技術将校だった垣田氏から電話がかかってきた。作品を見て船山が健在だったことを知ったのだ。  垣田氏は防衛庁に勤務しており、預かっていたあのライカD皿Aはそのまま保存しているとのこと。船山は十年ぶりに再会し、それを受けとった。わが子に会えたような気がして眼頭が熱くなった。ライツ社の依頼で「わが子」はヨーロッパへ渡っていった。「第二次世界大戦を戦って太平洋を泳いだライカ」として展覧会に出品されたのだ。そのお礼としてライツ社は、完全に修理してあげますと言ってきた。あえて船山は断った。使用できなくてもいい、潮水に浸かったそのままの姿で所持していたかったからである。それは彼がカメラをかまえたときに自分につぶやく「この一枚のためなら、どんな苦労をしても決して無駄ではない」「シャッターをおすときが、おれの生の証なのだ」の原点でもあるのだから。  昭和三十四年の一年間、「週刊朝日」の表紙を担当した。三十五年後半はアラブ石油地帯の取材でクェート、サウジアラビア、イラクなど中近東に出張した。三十九年の東京オリンピックは、デスクとして充実した仕事に没頭した。四十三年、四十四年にヨーロッパ、四十五年にはオーストラリア、ニュージーランドを取材し、四十六年には再び一年間、週刊朝日の表紙を撮りつづけた。十七歳の幸恵ちゃんという素人娘をモデルにしたこの「幸恵ちゃんシリーズ」は、大好評で彼女をスターにした。他の多くの週刊誌の表紙が、大人のお色気をあふれさせたフリーカメラマンの作品であるに対し、船山は幸恵ちゃんの清純さだけを表現しつづけたのである。この年から彼は出版写真部長に昇進した。  それから七年後の五十三年二月、彼は定年を迎えて現役を退いた。三十三年目にしてやっとフリーになったのだ。 「これからの一年間は準備期間にして、そののちじっくり撮ってゆきたい」と言う。 「写真表現はまっ先に試みたものが勝ちで、その方法をまねたものはすべて亜流としかみなされないし、表向きの表現方式は昭和三十五年ごろまでに開拓され尽した。だからといって、映像表現の未知へのトライが不可能というわけではない」  そういう姿勢で船山克は、新たな第一歩を踏みだすのである。(昭和五十三年七月取材) ●昭和五十七年日本フォトセンター取締役。 [#改ページ] 中村正也《なかむらまさや》「多国籍作家の美学」  中村正也さんの顔を見たらだれだって、この人、異人さんだな、と思う。日本人が見てそう思うだけでなく、彼がパリへ出かけてゆくと本物のフランス人たちでさえ、この男は東洋人ではないと言う。だから国際線で帰国した中村さんが、羽田空港の税関を通るときには係官までが「外国の方はむこうの通路から出てください」と注意するそうだ。  そこで彼はあわててパスポートをとり出して、正真正銘の日本人であることを証明しなければならない。それが毎度のことなのである。  土門拳の作品を観ていると、ひとりでに土門さんの顔が思いうかんできて「いかにも彼らしい作品だな」と納得できる。林忠彦さんの作品の場合もそうなるし、そのほか岩宮武二さんや濱谷浩さんのを観賞しているさいにも、そう呟きたくなってくる。つまり、写真家とその作品の個性とが、ぴったり一致しちゃうわけだ。  ところが、中村正也さんの場合はちょっと違う。彼の作品に接した多くの人たちから、 「正也さんは何を撮っても正也さんらしい」  との讃辞をあびせられると、写真家にとってはお世辞にしてもうれしい言葉であるが、と同時に、いつもマンネリなのではないか、と彼自身は疑心暗鬼になるそうだが——「何を撮っても正也さんらしい」その正也さんらしさが、ぼくにはピーンとこないのである。作者の風貌とその作品の個性とが、ぴったし一致しないのだ。  多彩すぎるくらいに多彩である。そのなかのどれが本物なのか、彼らしい作品なのか、見分けがつかなかった。たいそうモダンでバタ臭さがあるかと思うと、じつに東洋的な淡白さとみずみずしい清潔感が漂う。高価な洋食器に活きのいい鯛のサシミが美しく盛りつけされて出されたみたいな気がしたり、文金高島田の美女がすごく豪華なイヴニングドレスを着飾っているようにも思えたりして、いつも「ふしぎな正体の知れない作家だなあ」とぼくは首をかしげていた。そういう正体の知れないところがいかにも「正也さんらしい」作品というのだろうか。  そこで、これを書くにあたって彼と会ったとき、ぼくは開口一番、 「あなたの日常生活は洋式でしょう?」  と質問したのだが、即座に返ってきた答えはこうであった。 「マンションに住んでますけどね、自分の部屋だけは和室にしているんですよ。畳のほうが好きだし、食べるものも和食です。ほんとうはバタ臭いのより、黒板塀にしだれ柳の、そんな生活がしたいですね」  そう言われるとぼくはますます、風貌と作品とが一致しないもどかしさをおぼえ、一方ではこの作家を徹底的に分析してみたい意欲にかられたものだ。 (一)  これまで会ってきた写真家たちに対してそうであったように、ぼくは中村正也さんの場合にもまず「なぜ、このような感覚の作品を創るのか」「この感覚は何によって育まれてきたのか」そうした原点をさぐりたくなるし、それが作品を識る上の、もっとも重要なことだと思う。  戦後に名を成した写真家たちの多くは、人生派である戦前戦中作家とちがい「視覚感覚の表現意識がつよいので、実生活的な原点を手さぐりしても意味がない」と言われる。しかし、ぼくはそうは思わない。戦後の写真家たちだって木の股から生まれてきたわけではないし、創作衝動は出たとこ勝負のものではない、と頑固に考えるからだ。  ——大正十五年三月二十九日、中村正也は横浜市神奈川区松ガ丘に生まれた。父親の中村源太郎は秋田県出身、母親の深智恵《みちえ》は静岡県の産だから、ともに異人の血統などあろうはずはない。  源太郎は独学で工業学校電気科の教諭になった人で、機械類の発明が三度のめしよりも好き、後年は自動警報機や火災報知機などのパテントをとってその製作工場を経営。深智恵は盤景《ばんけい》や手芸をつくるのが上手だった。  正也には兄一人、姉二人がいる。小学一年生ではやくもカメラに興味をもち、父親が大事にしているライカをこっそり持ち出しては、四羽飼っていた伝書鳩の生態にレンズをむけたり、人物や季節の花なども撮った。  父親が仕事の記録を撮影しておくため、ちゃんと暗室までこしらえていたので、正也は自分のフィルムもそこを利用して現像した。小学一年にしてこれだから恐れいる。  ライカをこわされでもしたら大変だから、父親はやむなく正也に小西六のベビーパールを買ってくれた。横浜のメリケン波止場にはいってくる外国船、船乗り、山下公園、エキゾチックな外人墓地、青い眼の女たちがたくさんいる高級洋品店街の馬車道なども撮ってまわるようになった。  物心ついたころから彼は、除夜の鐘を聞いたことがない。大晦日になると除夜の鐘のかわりに、港には『蛍の光』が流れ、停泊中のたくさんの汽船がいっせいに、ボウウーッと汽笛を鳴らすのである。  それはロマンチックな霧笛ともなり、白い伝書鳩をかわいがり、カメラをいじる少年正也の心象風景となっていった。彼は動物が好きで、本気で獣医になろうと思ったという。  そういえば、パリで撮った彼のヌード『マドモアゼル・モニタ』(昭和三十八年頃)には鳩やシャム猫を登場させている。アフリカを舞台にした『エマ・ヌード・イン・アフリカ』(昭和四十六年)では、ヌードの背景に野鳥の群れやシマ馬や象などがいて作品を動的なものにしている。彼の女たちはどれも、猫や小鳥を思わせるポーズになっていて、なかなかにチャーミングだ。伝書鳩をかわいがるように女性の肌を、眼で嘗めたり慈しんだ りしている。やはり、彼の美意識のなかには、少年期の心象風景が生きていると言えるのでは……。  昭和十二年、川崎市の川崎工業学校電気科に進学。このころはカメラよりもむしろ、ラジオの製作に夢中になっていた。勉強するよりも、勤労動員に明け暮れることのほうが多かった。  卒業したころには、太平洋戦争の旗色はわるくなる一方だった。本土が空襲をうけるまでになり、やがて父親の工場も爆弾でふっ飛ばされてしまった。  正也は海軍に入団、神奈川県藤沢市にあった海軍電波学校に入校させられた。  太平洋戦争が勃発した当時には、日本軍はまだ電波兵器を開発していなかった。電波探知器で敵艦の進退をキャッチすることができる、などと考えてはなかった。アメリカ海軍の巡洋艦や航空母艦にはかならず、マストに妙なかたちのアンテナがついているので、日本の飛行士たちは「マストに魚を焼く金アミみたいなものがくっついているが、あれは何だろう」とふしぎがったものだ。  その後、シンガポールを占領、電波探知器なる新兵器を鹵獲《ろかく》し、ようやく電波兵器の必要性を認識した。以来、その研究開発をつづけて藤沢市に海軍電波学校を開設、それを操作できる要員の養成につとめた。中村正也もその一員となるべく訓練をうけたのである。  だが、時すでに遅し、日本はポツダム宣言を受諾しなければならなかった。幸い正也は地獄の戦場へ送られることなく、復員してきた。 (二)  敗戦一カ月後の昭和二十年九月には、中村正也は千葉県松戸市にある東京高等工芸学校写真科(現千葉大学工学部)に入学した。電気科に嫌気がさして光学機械に興味をいだいたのである。  写真科では写真光学と写真化学を教える。自分で乾板づくりやフィルムづくりもやり、撮影しては現像する。マグネットを電導化したり、ほかのカメラに別のレンズをとりつけてみたり、独自の照明の研究もする。写真に関するいっさいを完全にマスターするわけで、絵画でいえば基礎のデッサンからみっちり勉強するようなものだ。  学資かせぎに正也は、近くの女学校の写真部で、女学生に写真を教えたりした。  写真科の卒業生の大半は、写真機メーカーやNHK、映画会社、あるいは警視庁科学捜査研究所などに技術者として就職する。おやじが経営する写真館をつぐため田舎へ帰ってゆくものもいるというふうで、写真芸術をめざす——いわゆるプロ写真家を志すものは皆無に近い。  この学校の卒業生で写真家として名を成したのは、正也の先輩にあたる影山光洋、大束元、松島進、吉岡専造。後輩にも秋元啓一、荒木経惟がいるくらいだ。  正也も最初は朝日新聞写真部を希望したが、それはかなえられず川崎市の東洋現像に入社した。ここは映画フィルムを現像していたが、当然のことながら、「朝から夕方までフィルムをつなぐだけの、単純すぎる作業がとたんに厭になり」一日社員でさよならした。  それというのも、技術者では終りたくない、写真芸術をめざしたい志向があったからで、プロ写真家の作品なども観るようになっていた。しかし彼には、私淑したいと思う作家はいなかった。  読売新聞写真部に入社したが、ここでも裏方にすぎなかった。現像液づくりからやらされ、地方支局から送られてくる大量のフィルムの現像、プロ野球の読売巨人軍をPRするための有名選手や試合写真の引伸しなど、終日の暗室作業であった。  第一線カメラマンが不足しているときにはたまに、写真部長が「おまえ、行ってこい」とカメラを持たせてくれる。あッといわせるような報道写真をものにしてくるぞ、という意気ごみで正也は飛びだしてゆくのだが、ところが—— 「昭和二十三年のはじめごろでしたね。暗い時代だったから凶悪な犯罪が続出してましたよ。大量殺人の帝銀毒殺事件があったり、八十五人の赤ん坊を死なせてしまった寿産院事件というのもおこった。その犯人である石川夫妻が検察庁に身柄を送られるので、バッチリ撮ってこいと言われたんです。  廊下でながいこと待ちましてね。取調べが終って出てきたところにカメラをむけたんです。これなら他社のカメラマンにも負けないのが撮れたと思い、外に待たせていた社の車にもどったところ、たくさん駐車しているうちの、どの車だったか忘れてしまったんですよ。社旗は立てていなかったし、運転手の顔はおぼえているんですが、一台一台のぞいてまわってもいない。そんなことしてたものだから帰社がさらに遅れ、やっと運転手を捜しだしてもどったら、これ何や、と写真部長が眉をひそめ、おーい、夕刊もってこい、と給仕に言いました。そして、それをぼくの眼の前にひろげたんです。早版にもう、連行される犯人の写真がのっていましたよ」  これでは報道カメラマンにもなれないと自信喪失、半年いただけで読売からも去った。  銀座にあった映画世界社にひろわれた。  この社は近代映画社、キネマ旬報社とともに映画芸能雑誌界のご三家といわれ、『映画ファン』と『映画の友』を発行、編集長がサイナラ、サイナラ、サイナラで有名な淀川長治氏。社長の実弟である早田雄二氏が写真部長で、正也はその早田氏にシゴかれた。彼は女性写真家の第一人者でもあったのだ。  俳優のポートレートとか、映画のスチール写真とか、口絵写真などを撮らされた。長谷川一夫、片岡千恵蔵、山田五十鈴、木暮実千代、原節子、高峰秀子らが大スターで、三船敏郎、淡路恵子、久我美子らはまだニューフェイスだった。  映画世界社には二年いて、新しく創刊された「映画手帖」に移った。映画俳優ばかりでなく、滝沢修、宇野重吉、杉村春子、千田是也など舞台俳優にカメラをむける機会も多くなった。が、運がなくて「映画手帖」はパッとせず一年で廃刊。  正也はフリーとなって「中央公論」「婦人画報」「ロマンス」「スタイル」などのファッション、ヌード、ポートレートから報道写真まで幅ひろく撮るようになり、「婦人公論」の料理写真も依頼された。  この時期になって俄然、写真光学と写真化学の基礎から学んだことが役立ってきた。今日の若い人たちはいきなり、写真芸術にためらいもなく飛びこんでゆく。現像はDP屋まかせだし、自分で現像液をこしらえたりすることもない。だから写真光学については、まったくといっていいほど勉強しない。  これは若い写真家だけではなく、画家たちにも共通する。いまの大家とか巨匠といわれる画家たちのほとんどは、何年も何年も具象のデッサンを学び、そして一本一本の線を省略しながら抽象絵画へとはいっていった。ピカソにしても、ミロにしても、ダリやシャガールにしても、みんなそうなのだ。  ところが、今日の若い画家は基礎はそっちのけにして、ピカソやダリの模倣をやる。そこから自分なりの感覚をひきだそうとする。が、独自の感覚のものを描いたつもりでも、それはたんに奇をてらったにすぎず、基礎がないからすぐに色あせたものになるし、量感もない。  写真の場合もそうだと思う。中村正也の場合は、写真家をめざす以前に技術者になろうとしたことが、基礎を学ぶ結果となって幸いしたわけだ。  彼は、言う。 「基礎(光学)ができてましたんでね、あとは自分の感覚でひろげてゆけばよかった。ファッションやヌードから報道写真まで、幅ひろく撮れるようになったのも、基礎があったからだと思っています」  そんなものは古めかしいだけだ、と若い人たちは一笑に付すかもしれない。だが、中村正也の華麗なる感覚、アイデア、発想、すべてがっちりした基礎に支えられているのである。基礎を土台として感覚が花ひらいているのである。伝統を無視した創造芸術に、栄えたためしはない。  正也は早田雄二のスタジオが開設されたのを機に、再び早田氏に協力、女優をモデルにしての服飾、着物、ファッションの広告写真とも取り組み、現代感覚を吸収していった。ときに昭和二十九年。  そうした時代の尖端をゆく仕事のほかに、彼の華麗なる感覚を開花させたもうひとつのものがある。それは、最初の妻であるK子さんとの生活だ。  正也とK子さんは、昭和二十七年に結婚した。K子さんのことを彼自身はいまでも「たいへん才能のある女性だった」と言っているが、もとは新橋の芸者さんであった。  それも日本的な美しい芸者というだけではなしに、英語はペラペラ、車はむろんのこと軽飛行機の操縦もできるモダン芸者。しかも自分で独創的な日本人形、西洋人形をこしらえて銀座で人形店を経営していた。  ぼくは冒頭に、中村作品に「文金高島田の日本的美女が、豪華なイヴニングドレスを着飾っている」感じがしたと書いたが、K子さんはそういう女性だったのではあるまいか。結婚生活わずか三年で、離婚後の彼女はアメリカへ渡ってしまったそうだから、拝顔の栄を得るのは不可能だが、三年間の結婚生活で彼がK子さんから得たものは、はかりしれないものがあるのでは……とぼくは思う。  これもまた今日の中村正也の、美意識の原点のひとつだ、と疑わない。たとえば、後述する『京』などにはそれがはっきりあらわれている。旧さと新しさの完全融合である。 (三)  昭和三十年代にはいると神武景気から岩戸景気、民間テレビ局の開局があいつぎ、家庭電化時代を迎え、「戦後は終った」などと言われるほどの好況になってきた。  そして、第三次産業といわれるマスコミやコマーシャリズムの驚異的な発展が、戦後の社会構造を一変させた——と政治評論家の戸川猪佐武氏がその著『戦後風俗史』に書いており、さらには、 「電通の調べによると、三十三年度の各種の広告費は、総額一〇六五億円となっている。前年にくらべると一二五億円の増額である。その内訳は、新聞五二五億円、ラジオ一五七億円、テレビ一〇五億円、雑誌五十五億円、輸出広告十三億円、その他二一〇億円である。これからみても新聞、ラジオ、テレビによる広告を、コマーシャリズムが、いかに効果あるものとして、あつかっているかがわかるだろう」  と記録している。  各企業が新しいイメージづくりをめざして、新鮮なる広告制作をどしどし発注するようになった。東レとかテイジン、ワコール、サントリー、ソニーなどの商品が爆発的な人気を獲得できたのも、広告がフレッシュで購買欲をそそったからだといわれる。  中村正也が新宿にマサヤスタジオを開設して、電通や博報堂などの大手広告社が依頼する、新時代にふさわしい広告を制作するようになったのも、ちょうどこの時期だった。正也は、戸川氏いうところの「戦後の社会構造を一変」させるほどのフレッシュな、新聞や雑誌、カレンダーやカタログやチラシなどの広告制作の一翼をにない、エディトリアルの編集にもたずさわったのである。  それらは斬新な感覚の中村作品を中心としてグラフィックデザイナー、コピーライター、企画マン、スタイリストら二十四人のスタッフの協力で量産されていった。マサヤスタジオは毎日が戦争みたいに忙しかった。  広告写真芸術家協会が発足したのは昭和三十三年で、広告写真も「市民権」をとったかたちになり、ギャラリーで広告展なども開催されるようになった。中村正也はこの広告写真界においても第一人者の人気を博し、ライフ二十周年記念号(昭和四十一年)に送ったヌード作品が「日本でもっとも新しい広告写真」と賞讃されてニューヨーク・アートディレクターズ・クラブ賞を受賞したほどだ。  それ以前——正也は昭和三十五年と三十六年にそれぞれ、フランスのプリズマ美術出版社からヌード写真集『NUES JAPONAISES』と、カメラアート社から『YOUNG NUDE』を刊行している。処女出版が外国でおこなわれたということは、中村作品がはやくから日本でよりも外国人に認められた証左であり、独自の地歩をかためつつあったことでもある。  中村正也はしかし、広告写真界の第一人者でありながら、それに徹することはできなかった。その理由は—— 「自分は創る立場から、どうしても贅沢なものを創りたがるんです。そのためスポンサーの予算をオーバーしてしまう。七十万円の予算をもらい、三十万円の経費をかけて制作すれば、差引四十万円の利益になるわけだけれども、良い作品をと思うので、ついつい七十万円まるまるかけたり、ときにはそれでも不足することもあるんですね。  利益を生むための経営感覚はなくちゃならないのに、そんなソロバンばかりはじいていると、創る人にはなれない。仕事はふえるが利益が出ない。当時のおカネで毎月の仕事の量は三百万円ありましたが、ちっとも儲からない。それに、スポンサーやスタッフとの打ち合わせとか雑事が多くて、わずらわしくなっちゃうんですよ」  自分の作品でありながら自分を活かせないのは、作家にとっては最高に苦痛だ。といって自己を表現したければ、カネに糸目をつけぬような作品になってしまう。スポンサーが要求するものを作品のなかに盛りこんでおかないことには、満足してもらえない。そういう痛しかゆしの場合がしょっちゅうある。  その上、毎日が戦争みたいに忙しいときているから、三年やっただけでも中村正也は心身ともに疲れはて、さらには胃潰瘍をわずらってダウンしてしまった。  昭和三十四年に人気アナウンサーの竹脇昌作が、秒に追われる忙しさのためノイローゼにかかり、ついに自殺してしまったが、中村正也ももっとつづけていたらおそらく、使い殺されていただろう。  だが彼の場合は、手術しなければならぬほどの胃潰瘍だったが、逆にそれが救ってくれたともいえる。入院が、多忙なコマーシャリズムから脱出するきっかけとなったのだから。  回復すると正也は、スタジオを六本木に移し、五人の助手だけにして再スタートした。  そこへあらわれたのが日本航空だった。  あるフォト・ジャーナリストは、 「中村正也という新しい作家を、日本のビッグ企業の日本航空が必要とし、求めてきたんですよ。これからの日本航空のカレンダーやポスターは絶対に、中村の感覚でなければならぬ、と判断した。ということは、ほかの大家たちの感覚の作品ではもうダメ、そんな時代ではない、というわけです」  と力説する。  日本航空が世界に翼をのばしはじめた時期で、世界各地の女性と風景を彼の現代感覚で撮らせ、そのポスターやカレンダーでもって世界に宣伝し、イメージアップをはかろうとしたのである。  正也はこの仕事をひきうけ、世界を飛びまわった。そのポスターやカレンダーはすばらしい出来栄えで、それ以来、日本の写真家のうちで彼がもっとも多く海外旅行をするようになったし、中村作品に対する人気が日本においても沸騰したのはこのころからである。  彼自身の創作意欲もまた、それに正比例した。 (四)  中村正也と同じころにデビューした人、あるいはすこし遅れてスタートした人たちのなかには、フレッシュな感覚はあるけれども外国作家の亜流になったり、生かじりの思想とかチャチな観念をふりかざして屁理屈ばかりこねている——そんな作品が多くて僻易《へきえき》させられることがある。独りよがりで難解だから観ていて頭が痛くなる。  中村作品はそうではない。  秋山庄太郎さんは正也の『エマ・ヌード・イン・アフリカ』に寄せて、 「作風は洗練された俗性に徹して快い。ただ美しくたのしい」  と書いているが、ぼくも同感である。表現の差こそあれ、写真とはつねにそうであってほしい。鑑賞者にとって、難解きわまる屁理屈を聴いてやらねばならぬのは苦痛この上もない。そんなのに付き合う義理もない。  中村正也は「写真はカメラで写すものではなく、人間が撮るもの」だと言っている。当然なことながら味わいがある言葉だし、彼の最近の著書『女のアングル』(朝日ソノラマ刊)には、 「私にとって写真は見る人のこころに何かを喚起させるものであって欲しいし、またそうでなければ良い写真とは認めがたい。そのこころを動かす何かというのは、なにも深遠な思想やイデオロギーだけではなく、人間の悲しさ、弱さ、美しさ、また日常のちょっとしたこころの動きであっても良い」  と書いている。  ことに女性にカメラをむけるときの姿勢には、一貫してこれがある。それでいて作品はつねに変化し、多彩をきわめ、つぎの何かを掴もうとする。  掴もうとしているといえば、「こういう写真を撮りたいのではなく、写真で何かを掴みたい」というのも彼の口ぐせだ。彼のカメラからはいつも、それを掴もうとしている見えない手がのびてくる。  よく「女性をだらりと撮っている」写真家が多いといわれる。だらしないポーズで撮影しているというのではなく、その技量は天下一品でいかに美しく撮っていたとしても、その作家の女性をとらえる眼はすこしも変わっていない。三年前、あるいは五年前と同じである、という意味なのだ。つまり、いろいろとモデルは変えてみても、とらえる眼に変化がない。前進もなければ後退もないのだ。  中村正也の作品がつねに変化し、つぎの何かを掴もうとしているのは、どうしたら女のより新鮮な美しさが出せるだろうか、と七転八倒して模索しつづけているからである。人間の美意識はひとところにとどまってはいない。つねに流動しているそれを、彼は何としてもとらえたいのである。  彼のその七転八倒の模索は、作品歴を追ってみればいっそうはっきりする。  パリ郊外の古城シャトー・ド・グレーンを背景にした『城とヌード』(昭和四十四年)では、堅牢な石壁、古典的な家具、冷やかな光のなかにフランス娘のみごとなグラマーをおき、ゆたかな乳房や太腿の生身の量感と堅牢な石とを対比させ、そうすることによって女体のしなやかさを強調し、同時に、生命感や躍動感をあふれさせている。 「女性と〈もの〉との関係がつくりだす対応から、かたちとしてはとらえられない女のこころ、人間の何かをひき出す、つまり、〈かたち〉をもってくることで〈かたちのないもの〉を感じさせたかった」  と彼はいうが、ぼくはこの作品を観ているうちに、ある具足師のことを思いだした。その人は日本でも数少ない鎧作りの名人だが、頼まれてほんものの鉄製の貞操帯をこしらえた。実際にそれを女性にはめさせてもみた。  ぼくが「どういう点をもっとも苦心されましたか?」と質問したら、「女性の柔肌をしめつける鉄の美しさですな」と真剣な目顔で答えた。なるほどなあ、とぼくは感心した。鉄と柔肌……これも中村正也のいう「かたちのないもの」を充分に感じさせてくれる。  同じくパリでの作品『アトリエ』では中村正也は、そこに無造作に裸女をほおりだし、ブレようがフレーミングからはみ出ようが、眼で感じとったものをストレートに速写していて、 「写真を撮る行為は、人間なり、物なり、空間なり、の一瞬の関係をフレーミングのなかに切りとり定着させることだ。と同時に、ワクのなかから外へはみ出してゆく何か、あるいはワクの奥に広がってゆく何かを、見る人に感じさせたかった」  のだという。つまり、ここでも彼は、かたちのないものの美しさを掴もうとしているのだ。  一転してこんどは京都の旧い民家——黒光りのするタンスや障子、古道具などを背景に、いかにも日本娘といった感じの裸女を立てたり正座させたりしている。昭和四十四年の作品である。  彼自身にいわせると、昭和四十四年の作品『野分け』が気にいっているそうだが、ぼくはこの『京』が一等好きだ。眼を洗われるようなすばらしいエロティシズムを感ずるし、日本の写真家たちが発見し得なかった新しい東洋的エロティシズムだ、晩年の谷崎潤一郎の耽美の世界がある、と書いてもほめすぎにはならないと思う。  彼はこの『京』を「パリの古城とヌードの発想を、日本の伝統的な古い民家におきかえてみたんです。すると、自分でも予期しなかったほどの、日本の風土と裸の新鮮美をとらえることができたし、発想の多角化をめざす自信がついた」と語るが、彼の作品の魅力は題材が外国であれ日本であれ、上質の古きもののなかに良質のフレッシュな女体をミックスしてくれ、そこにかもし出される何かを感じさせてくれるところにある、とぼくは思う。ぼくが「高価な洋食器に、活きのいい鯛のサシミを盛りつけた」と言ったのはそれで、そしてそれに裏打ちされているものは、若い人たちが古めかしいと考える基礎であると思う。  目さきの新しさばかり追ってみても、決してそれが新鮮なものとはならないということを、中村正也が身をもって教えているような気がする。 (五)  さらに発想の多角化をめざす中村正也は、京都の古い民家にもあきたりなくなって、チャーミングなモデル嬢とカメラをひっかついで三宅島へ渡り、ここで『島』を撮った。荒海や岩や雲などの自然のなかでの女体美を見つめたかったのである。  それでも満足できなくて『野分け』にはいりこむ。花々の草原は生のはかなさを漂わせて秋風に波うち、その自然のなかで若々しい裸も一緒にそよいでいる。そんな構図に彼はたまらない美を感じ、写真の奥にひろがりゆく想像力をかきたてたいのだ。こういう設定の巧みさは、盤景や手芸が上手だった母親の血をうけている、とぼくは思う。  そして、もっと荒々しい千古の大自然をもとめて彼は、『野分け』を撮った翌四十五年には、モデルの杉本エマとともにアフリカヘむかった。まさに原始への旅である。  エチオピア、ケニア、ザンビア、コンゴなどをめぐって太陽に灼かれた岩山で、涸れた砂漠で、土人の村落で、死の湖のほとりで、あるいは野鳥の群れ、ライオン、象などが疾駆する草原で『エマ・ヌード・イン・アフリカ』を激写した。原始の風土のなかで現代の呼吸をもった女豹のエマがのたうち、生と死の妖しいムードをあふれさせた。  話は前後するが、『古城とヌード』を観た外国の写真評論家たちがこぞって、「作者の東洋的なエロティシズムを感ずる」と書いたので、中村正也はびっくりしたという。自分ではバタ臭いものに撮ったつもりだが、やはり日本人的な体質が画面ににじみ出ているのを指摘されたわけだ。  そして、そのときは「日本人には西洋的と思われるもの、西洋そのものと感じるものも、しょせん東洋は東洋で、西洋にはなりきれるものではない」と思ったそうだ。  その反動が『京』や『野分け』を撮らせたようにもぼくには思えるのだが、しかし『エマ・ヌード・イン・アフリカ』では、死に対する東洋的な諦観と表裏して、西欧的な生への執着心が表現されてきた。ということは、しょせん東洋は東洋で、西洋にはなりきれるものではないと思っていた中村正也が、しだいにその両方を融合させるところまで到達し得たことになるのではないだろうか。『京』で旧さと新しさを完全融合させ、この作品では東洋と西洋とを融合させ得た、と見る。  とくにアフリカ以後の作品ではそれが顕著になってきた。『フローラ・フローラ』(昭和四十八年)、『パンドラの笛』(昭和四十九年)、アメリカとヨーロッパの『裸足の旅』、『風のゆくえは知らない』(昭和四十九年)では東洋と西洋の見分けがつかなくなっている。ある意味でそれらは無国籍、ないしは多国籍化した作品ともいえる。  昭和五十一年の春に出版した『僕の仕事』では、彼が創る女性はますますキャンデステックな甘いムードを漂わせ、ソフトフォーカスであり、流行の尖端をいっているどこの国の女性よりも、さらに一歩さきをいっている感じだ。  そして、これまでの日本の写真家たちの大半は女性を撮る場合、その女の妖しい情念に迫ろうとしたり、美と表裏する醜をえぐろうとしたものだが、中村正也は西洋の女を東洋的に表現しようとしたり、東洋の女を西洋的にみせたり、ときには女性そのものを光とか影とか風みたいにしてしまう。それがたいそう触覚的であると同時に、西洋的であるとか東洋的であるとかを超越させている、とぼくは見る。  最近の彼はひどく悩んでいる。  モデルの恥毛が気になるのだ。それが露わなままの作品を発表すれば大変なことになる。当然、警視庁までこい、といわれる。 「たとえば、大地にすっと立つ裸を、自然なかたちでとらえたいときなど、制約をうけてみすみす不自然だとわかっていても、陰毛が見えない位置やアングルを選んだり、ポーズをつけたりしなければならないでしょう。もう慣れてはいるものの、手を前にもってくるとか、花や布などで手前にボケをつくるとか……そういう常套手段を使った常套表現にはうんざりしているんです。  眼や鼻や口があるように、人間の一部でしかない陰毛のために、どれだけ表現に制約をうけているか。だからぼくは、撮ればどうしてもそのまま発表できないのならもうヌードは撮りたくない、そういう気持になるんです」  西洋の女でもない、東洋の女でもない、女性美そのものに国境はないという気で撮っている彼ととしては、陰毛を消さねばならぬ不愉快さはまた格別のもののようである。  ——ぼくは冒頭に、土門拳さんの風貌と作品はぴったし一致するが、中村正也の場合はそうではない、と書いた。が、これは誤まりである。ぼくは謹《つつし》んで訂正したい。  彼は異人さんそっくりの顔だが、日本人である。日本の写真家のなかで、国籍や肌の色を超越した作品を創りうる唯一の人だ。やっぱり彼の場合も、多国籍的なその風貌と、多国籍化した作品とはぴったし一致していることになる。それが、まぎれもない中村正也なのである。  ぼくはこれからも中村作品を、古い酒袋にいれた新しい酒のように愛してゆきたい。(昭和五十一年七月取材) ●以後の主なる写真活動。 昭和五十二年「女のアングル」(朝日ソノラマ)。五十三年「写された女」(東出版)。五十六年「日本の心・粋」(集英社)、「梅枝改め時蔵」(講談社)。五十八年「昭和写真全仕事」(朝日新聞社)、写真展「ファニーショット」「女あり・三十八人」、日本広告写真家協会会長。