[#表紙(表紙1.jpg)] カメラマンたちの昭和史(1) 小堺昭三 目 次  秋山庄太郎「光と影」  大竹省二「女との闘い」  植田正治「おかしな妖怪」  入江泰吉「諸行無常を撮る人」  杉山吉良「写真の鬼の涙」 [#改ページ] 秋山庄太郎《あきやましょうたろう》 「光と影」 (一)  今日のモデルは混血娘のアン・ルイス嬢。身長一六三、バスト八十四、ウエスト六十、ヒップ九十。紫と黄の柄模様のビキニスタイルで、栗色の長い髪を両手でかきあげるしぐさのポーズをとっている。笑顔にあどけなさがある。  ところは港区麻布の秋山スタジオ。  彼女の前に立っている秋山庄太郎さんは、青いカラーシャツの両袖を腕まくりしたそこらのオッさんといった恰好。顔はゴルフで日やけしていてチョコレート色。  大きな眼玉が、彼女を舐《な》めまわすみたいに見ている。ギラギラ光って獲物を追いつめ、一点に据えようとする。かと思うと一瞬、遠くをさぐるような、この混血娘の向うにある何かを見極めるような表情になったりする。  スタジオ内の灯が消され、高めからメインライトが彼女に当てられる。ひと呼吸いれて秋山は、三脚に据えたカメラに顔を近づける。唇がへの字にひきしまる。鼻をへしゃげてしまうくらいおしつけ、ファインダーをのぞく。  その眼玉が、いっそうギロギロしてくる。完全に射程内に追いつめたという眼の色だ。背景は白のスクリーン。  緊張の静寂がよぎる。助手たちは動かない。 「ルイスちゃんは幾つだったけ?」  鼻がへしゃげたままで訊く。  訊くというより、彼女の表情をさらにやわらげるための、間《ま》をとっているのだ。 「まだ十六です。来月、十七になります」  混血娘は、舌ったらずな声で答えた。 「へえ、そんなに若いの。……首をこうまげて。右手首は首すじに当てて。そう、それでいいんだよ」  呟いたと思ったらジャーッ、ジャーッ、ジャーッとたてつづけに三回、シャッターをおした。その掌は大福餅みたいにぽってりしていて、太い。指は丸っこくて、短い。しなやかな指などとはおよそ縁遠い。  立ちあがる。彼女に近づく。  左手の丸っこい指で、彼女の栗色の豊富な髪に、ちょっと触れてみる。このときも彼女の手の表情を気にする。秋山は、いちばんむずかしいのは手の位置だという。いかに自然に手がその位置にあるか、について腐心する。  彼がカメラのところへもどると、緊張の静寂もまた反復した。再び鼻がへしゃげる。 「寒くないか?」 「いいえ」  彼女が顔をかしげ、にーっと笑ったところを捉えてジャーッ、ジャーッ、ジャーッとまた三枚。  秋山は呼吸をいれる。  彼女のななめうしろから、秋山の若い助手が息をつめて、そーっと近づいてくる。そこから細い逆ライトを、かたちのいい彼女の鼻さきへ当てる。鼻さきが淡いレモン色になって美しい。再び、シャッターをたてつづけに切る音がする。秋山がまた呼吸をいれる。  こんどは別の助手が霧吹きで、彼女の顔から肩、なめらかな胸へとチューッ、チューッと水を吹きつける。肉眼では捉えられないような微細な水玉が、キラキラと肌の上で光る。そこをすかさずジャーッ、ジャーッ、ジャーッ。 「はい、ご苦労さん」  言いながら秋山庄太郎さんがカメラから離れ、煙草《ピース》をくわえたのは撮りはじめて十分後であった。わずかそれだけのあいだに四十枚を撮っている。すごい早撮りだ。  そしてアン・ルイス嬢もまた、それから五分後には水着をぬいでパンタロンをはき、 「先生、ありがとうございました。じゃあまたね、バイバイ」  手をふって帰ってゆく。  撮影が終ってからもスタジオ内にぐずぐずしていられるのを、秋山は好まない。せっかく美しく撮ったものに幻滅を感じたくないからだ。そういう秋山であることを、彼女も知ってのことであった。  秋山庄太郎は早撮りを身上としている。 「営業笑いが消えぬ間に……」  と流行歌の一節でも口ずさむみたいに、いつも自分にそう言っている。  モデル嬢や女優が上手に笑顔になってみせるのは商売だ。しかしその営業笑いにも、心がこもっているものと無いものとがある。秋山がよりよい決定的瞬間を捉えようとして、モデルに対していろんなポーズを要求したり表情を変えさせたりして長々と撮影すれば、商売とはいえ撮られる側はだんだんに苦痛になってくる。いい加減にしてくれないかしらと心の「顔」を曇らせはじめる。そうするとそれが、しだいに瞳や唇や動きに現われてくる。美しく撮ってもらいたいナルシズムも消えてしまう。そしてさらには金銭のことを、撮られながら考えるようになる。 〈Aさんの場合はたいてい三十分で撮影を終わらせてくれるのに、このBさんたら、ああでもないこうでもないと無理言って、二時間もかかる。けど、モデル料はどちらも同じ五万円。これだからBさんは嫌いさ。Aさんに撮ってもらいたいわ〉  そんなことを天秤にかけながらでは、いくら上手に営業笑いをやってみせてくれてもダメだ。唇は笑っていても瞳がまったく笑っていない、というふうな顔になってしまう。それが気にくわなくて何度も笑顔をつくり変えさせれば、さらに時間がかかるし、反感をもたれるしで、ますます悪循環になってゆく。  秋山とすれば、それがそのモデルに対する幻滅にもつながってゆくことにもなるので、つねに彼女たちに苦痛や不満を味わせない早撮り主義を心がけているのであった。  今日のアン・ルイスの場合にしてもそうである。しかも今日はじつによく撮《と》れた、と秋山は満足していた。  彼女は混血女だから瞳、鼻、横顔に日本人にはない立体感があったし、おびえたり必要以上に照れたりしないところも良かった。十六歳だけれども十七、八には見えるように撮った。まともに撮れば美人すぎる顔になると思い、語りかけながら表情を動かすことによって変化をつけた。そうした自分の気持に、彼女がうまくひっかかってきてくれたと思っている。  たったひとつ残念なのは、ルイスがビキニスタイルだったことだ。これは週刊誌の表紙にするため依頼されたものだから致し方ないことだが、彼個人としては平凡な、そこらにある黒のセーターか何かを着せて撮りたかった。  モデルの顔が衣裳負けするのが、たまらなくつらいのである。はなやかな衣裳になればなるほど、どうしてもそうなってしまう。だから秋山は、彼個人で自由に撮らせてもらう場合には、目だたない黒いものとか平凡なデザインのものを選ぶ。  流行の衣裳も敬遠する。ビキニスタイルだって流行の衣裳である。 「おれは女そのものを撮りたいのであって、風俗写真を撮っているのではない」  これも秋山の口癖のひとつになっている。  流行の衣裳を着せて撮った写真は十年後、二十年後に見たときは当然衣裳が古めかしく感じられ、古めかしく感じられることによってその女の顔も古ぼけて見えてくるものなのだ。同時に、その写真家の作品そのものが、ズレたものに誤解されがちになってしまう。  彼は、いつの時代にも古く感じさせない作品を生みつづけたいのである。  かと言って、つねに奇をてらって時代の先端を走ろうとしているのではない。つねに新しいものとは何か。それは「いつの時代でも古くならないもの」のことである。  秋山庄太郎は府立八中の二年生のときカメラを手にして以来、一貫してこの姿勢を保ちつづけてきた。これまで撮った女性が三万人。年間に費やすフィルムが三万枚、三十年間に九十万枚である。 (二)  三万人もの、もろもろの女性を撮りつづけてきたが、秋山庄太郎は女の神秘の部分を見ることを、五十歳を過ぎたいまでもなお、少年のようにはにかみ恐れている。  眼尻に含羞《がんしゅう》を漂わせて、彼自身がいう。 「画家はモデルにする女と寝ないと描けない。若い写真家のなかにも、女優とかファッションモデルと肉体関係までゆかないとその女の真の美しさには迫れない。そう言ったり事実そのように行動しているのがいるけど、ぼくはそうは思わない。そんなことしたことないですね。逆にぼくは、実際に寝た女は、けっして撮りません。撮りたいと思わない。写真というものは、モデルに対して未知な部分がなければいけないんです。  その女性の全部を知ってしまえば、かえって撮れなくなりますね。彼女の恥部を見てしまえば、それでもう何もかも終ったみたいな気になるし、バカバカしさみたいなものも出てくる。だから、未知の部分を残しておいて錯覚していたほうがいいんですよ。どんなにきれいな女優だって、寝てみればアラが目につくようになるでしょう。それが気になって彼女からにじみ出てくる美しさなんて、感じなくなっちゃうんだ。それは悲しいことですよね。おそらくいちばん悲しいことでしょう。  ぼくはだから、モデルにするコとは絶対に寝ません。そうでない女と寝る場合でも、ぼくは部屋の電気は消しちゃう。まったく見ないといえばウソになるけど、彼女が下着をとってベッドにはいってくるとき、ちらっと見るだけだなあ。だって、あれをまじまじ見つめるなんて、とっても怖いことでしょう。夢がこわれちゃうみたいで、ぼくにはできないなあ」  むろん秋山もヌードを撮っているが、その作品は抑制したものとなっている。彼自身はヌードは「着物をぬいだポーレトートだと思っている」からである。エロを感じさせるとか男をふるい立たせるものを、極力排除している。エロを感じたいものならほかにもいくらでもあるではないか、と言う。  女の裸は、きれいだなあと感歎し鑑賞させるものにとどめておきたいのだ。見えそうで見えない、そこらで充分である。女性は本能的に同性のあられもない裸を嫌悪するし、羞恥する。そうした女性自身が見てもいやらしさを感じさせないヌード——そういう作品を秋山庄太郎は理想とする。  彼自身、若いころは男女が交戯しているそれを、ずばり撮りたいと思ったことはあった。画家たちが「デッサンを勉強するには春画を描いてみるのがいちばん良い」としているように、写真家にも男女の交戯を、美しく正確に撮ってみたいとする意識があるからだ。  秋山はしかし思いとどまった。 「恥毛やお尻の割れ目が露《あらわ》なのは、生臭くていけませんよ」  と彼は首をふる。現代の若い写真家たちのわざと露出させてこれ見よがしに自慢しているような、モデルのその女をそうすることによって苦しめ辱しめているかのような、そんな作品に対しては梅ぼしでも頬ばったみたいに顔をしかめてしまう。  秋山がヌードを撮影しているのを横から眺めていると、彼はしょっちゅうその女性の表情に気をくばっていた。 〈こんなはずかしい恰好をさせるなんて〉  と彼女がちょっとでも考えようものなら、それが表情をぶちこわしてしまうからである。これはさっきの「営業笑いの消えぬ間に」にも通ずるし、ここでも彼は女に苦痛を与えないこと、これをモットーとしているのだ。  だいたいに日本の女は膝頭がきれいではない。それを隠してやりたくて秋山は、膝から下はあまりアングルには入れない。乳首が大きかったりすると「男に吸われたり、かじられたりしたんじゃないかな」と同情して、これもそれとなく隠してやろうという気になる。そして、女体はあくまでも神秘のヴェールに包まれていて最高に美しく、男性の女体への妄想はあくまでも、遠いところにあるべきものとなる作品に仕上げたいのだ。  彼が撮りたい意欲をかきたてられるのは、こういう女性である。  ——瞳が大きい。鼻は高からず低からず、小さくまとまっていてツンとしていない。おでこは広いのがよい。肌は絶対にきれいでなくては厭だ。レンズがそれを正確に捉えるからである。  髪は美容院なんかでいろいろといじりまわしてないもの。縮れ毛や刈りあげたりしているのには少しの魅力も感じない。髪はもともと素直なものだから、生まれたままにしていてほしいのである。  同様に、化粧にしろ衣裳にしろ、何でも凝りすぎるのを好まない。整形手術をほどこした顔だと判ったとき、彼はやりきれない思いになってしまう。自然でないその顔かたちばかりでなく、そういうことを平気でやる女の大胆さに耐えがたくなるのである。  乳房と乳首は上向き加減の、サシヂチ型になっているもの。指さきがしなうほどのきれいな手。耳のかたちはとくに気になり、耳たぶがひっくり返ったようなのであれば、いくら美貌でもカメラを向けたくはなくなる。  肉づきは中肉中背以上。着やせしているのがいい。恥毛は普通にあるのがよく、あまり濃いのは美的感覚をそこなわれる。  しかし、これだけの条件がすべて揃っているからといって、即座に撮りたくなるというものでもないらしい。それは危険だ、と彼は言う。 「女には惚れすぎてもいけないし、惚れないでいるのもよくない。写真家はつねに、その中間にいなければなりません」  その「フィルター」がなければ味わいが出ないのだ。惚れすぎては写真が甘くなり、惚れてないのに撮ると、情熱のないものが出来あがってしまう。  彼の若い助手たちのなかには、秋山スタジオに「今日は山本富士子がモデルとしてくる」とか「吉永小百合がくる」となると、一生懸命にそこいらを掃除したり、撮影中に興奮してライトの脚につまずいてころんでしまうのもいる。山本富士子や吉永小百合に、心ひそかに憧れているからである。 「それも惚れているということですよ。そういうときのその助手に撮らせたとしても、ロクな作品にはならないでしょう。そうかと言って山本富士子さんがきても、吉永小百合ちゃんがきても、一向に関心をしめさない助手に撮らせても、にじみ出る美しさは出せるものではありません」 (三)  秋山庄太郎は大正九年六月、東京は神田の青果仲買業者である石塚富三の子に生まれ、すぐに富三の姉の秋山家へ養子に出された。  富三はたいそうな事業家であったが、艶っぽいほうにかけても剛のものだった。富三には本妻がいたが子はなかった。彼は石塚家に手伝いにきていた、新潟県の果樹園の娘と密会するようになった。その娘にできた子が庄太郎である。  庄太郎を籍に入れるのを本妻がこばんだため、秋山家へ養子に出されたわけだが、彼が自分の出生の秘密を知ったのは早稲田大学へはいるときだった。戸籍謄本を見たのだ。  実母の愛を知らない秋山には先天的な女性への渇仰《かつごう》があった。女性を美しく撮りたい彼の原点はここにある。遊蕩な父親の血をうけついではいるが、彼は女性を苦しめることができない。二十四歳まで童貞だった。  そのころ秋山は田辺製薬の管理課に勤めていた。二号夫人の姪にあたる二十二歳の娘を、すすめられるまま見合して妻とした。  その新妻を彼は溺愛できなかった。カメラに凝りだしていて、新富町の芸妓や半玉をモデルにせっせと撮っていた。そして、最初の写真集『翳』を遺作集のつもりで百五十冊ほど自費出版し、戦場へとられていった。  その『翳』のなかに、竹やぶを背景にした一人の女性を撮っている一葉がある。梢《こずえ》から洩れてくるこもれ陽がまるで、舞台にあびせられた一条のスポットのようである。竹は一本だけがその反射で見えていて、あとは暗く黒い。——のちに背景を黒くする「黒焼きの庄ちゃん」といわれる技法は、このときからはじまったものであり、こういうふうにほの白く浮んでいる女性が、彼にとっては渇仰の象徴であった。  しかしながら、この当時はまだプロの写真家になる野心はなかったし、三万人の女性を撮りつづけることになろうとは、神のみぞ知るであった。  撮らずにはいられない運命の美女が目の前に現われたのは、敗戦後の昭和二十二年の晩春だった。まだ焼跡にはバラックが建ちならび浮浪児もごろごろしていた銀座裏で、秋山は「永遠の処女」といわれる女優の原節子を見かけたのである。  彼は銀座に、四坪ほどの小さな写真工房を借りていた。土門拳、三木淳、林忠彦などすでに一家をなしている連中が立ち寄ってくれたが、梁山泊《りょうざんぱく》みたいになるばかりで商売のほうは一向にはかばかしくなかった。  ことに親しい林忠彦は二歳上、そのころ銀座のバー「ルパン」で太宰治や織田作之助を撮ったのが雑誌のグラビアを飾り、一流の仕事をしていた。秋山は羨ましく思った。が、羨ましく思うだけでどうにもならない。それだけの才能のない自分は負け犬みたいだが、カメラを手放してもとのサラリーマンにもどるしかない、と決心した。  原節子とすれ違ったのは、そういう失意のどん底であえいでいたころである。写真家になることを断念したばかりなのに、 「やめる手はないな。やめてはいかん。やめるのはこんなすばらしい女性を撮ってからでも遅くはない。そうでなければ一生未練が残るだろう」  と自分を叱りつづけた。  折もおり、林忠彦が「近代映画」という芸能雑誌のカメラマンにならないか、という話をもってきた。芸能雑誌のカメラマンならば映画の撮影所に出入りできるし、あの原節子を撮るチャンスだってある。さっそく雑誌社の社長に会いにゆくと、今日からでも仕事にかかれということになった。原節子と「近代映画」、これが秋山庄太郎のプロとしての出発点となるのである。二十七歳だった。  当時はしかし駆けだしだから大スターは撮らせてもらえず、雨後の筍《たけのこ》のごとく出てくる戦後のニューフェイスにばかりカメラを向けさせられていた。おもしろくないことおびただしい。月給は五千円。ヤミ米一升が百五十円、砂糖一貫目が千円した時代で、有楽町や新橋のカストリ横丁で、一ぱい三十円のカストリ焼酎ばかり飲んでいた。  大スターを担当していた先輩のカメラマンが退社した。ようやく秋山にそのチャンスがめぐってきた。新東宝の撮影所で念願の原節子を撮ることになった。  颯爽《さっそう》と現われた彼女を前にして両膝がガクガクする。喉がかわく。カメラマンとはいってもミノルタフレックス一台しか持っていないのも、彼ははずかしかった。 「あら、新人のカメラマンね。どうするの? どんなポーズとればいい?」 「あのゥ……そのゥ……」  と、美しい笑顔で訊かれるとなおのこと、汗をかいてしどろもどろだった。皮肉なことに、そのときの彼女の映画は『駆けだし時代』であった。  二度目、彼女に逢えたのは松竹大船撮影所である。『安城家の舞踏会』を撮影中。この日はうまくスナップできたが、帰りの湘南電車で偶然に一緒になれたときには、またしても汗だくになった。  向い合って掛けていると、原節子の膝小僧と自分の膝小僧が触れ合い、秋山はあわててはずした。それでもなんとか、あなたと銀座ですれ違ったとき写真家になろうと決心したこと、社の仕事としてではなく自分の作品としての原節子を撮りたいことなどを語った。  彼女は明るく笑い、あす暇だからおうちへいらっしゃい、撮らせてあげますと誘ってくれた。メモ用紙をとりだして、地図まで書いてくれた。  俄然、原節子を撮ってから自信がついてきた。秋山庄太郎でなければ撮れない、そういう個性的なものを撮りたい意欲が、堰《せき》を切ったみたいにあふれてきた。  芸能雑誌ではブロマイドのような、二枚目スターは明るくにっこりしているところを撮るのが常識、顔のシワや不精ひげを撮るなんてとんでもないことだ、とされていた。秋山はこれを不満に思った。いらだたしかった。  上原謙の顔をファインダーからのぞいていたとき秋山は、美男の標本のような上原謙の笑顔をシワだらけに撮った。 「おい、アキやん。どういうつもりなんだ。これじゃ天下の二枚目が、養老院にはいってゆくときみてえじゃねえか」  編集長がカンカンに怒った。  森雅之を撮るとき秋山は、にっこりさせなかった。すると森雅之の表情にはニヒルな冷やかなものが漂った。だが、これも、 「森雅之が腹痛でもおこしたってのか。なぜ甘ぁーく撮ってこねえんだよォ」 「森雅之のよさは、ほんとうはそういうニヒルなところにあるんじゃないですか」 「うちの雑誌は趣味でやってンじゃねえ。商品になってなきゃダメなんだ」  編集長はズタズタにひき裂いた。 (四)  秋山庄太郎は芸能雑誌の仕事に幻滅をおぼえた。映画の世界とそのジャーナリズムは、俳優という「商品」をより良く見せようとしているだけではないか。男優や女優の内から発している個性を、スマイルという名のオブラートで包みかくさせ、その個性をとらえようとするカメラマンの眼にさえ目隠しを当ててしまうからである。 〈オレはもう金輪際シャッターはおさんぞ。あしたから社へもゆくもんか〉  秋山は何度そう思ったかしれない。  だが翌朝になるとやっぱりノコノコ出かけていった。失職するのが怖かったからではない。紹介者の林忠彦に対する義理がそうさせるのではない。秋山をこの世界にとどまらせる理由が、たったひとつあった。  それは映画撮影所のライティングである。この技術が彼を惹きつけて放さないのだ。撮影所へかよってその技術を身につけたいと思っていた。そこへ自由に出入りできるようにしておくためにのみ、いまは芸能雑誌のカメラマンで甘んじていなければ、という気になるのだった。  スタジオ内の撮影では、演技する男優や女優に対して照明係が、大きなライトを遠くから当てがったり、小さなので近くからいくつも照らし出したりしている。真上にもあれば横にもある。足もとからあおるのや背後から逆光線となって迫るのもある。微光のような弱いのがあるし、太陽の直射みたいな強烈なのもあった。  光線加減で演技者たちが活きたり死んだりする。心理状態まで描きだしてみせる。これは映画技術が生みだしたものであり、これまでの写真界ではそれほどには研究されていなかった分野だった。 〈秋山流の照明を考えてみよう〉  この衝動はつのるばかりであった。  その結果、彼が得たものは、「スタジオ内で撮った場合には、意識的に野外で撮影したかのようにライトを当てる。野外で撮ったものは逆に、スタジオ内で撮影したかのように見せる。少ないライトを、いろいろの角度からたくさん当てているように思わせる。多いライトは少なく見せる。たとえば八灯当てていても、ここにもそっちにも当てられていると見破られるのではつまらない。多く使用すれば、見てくれはハデでも、風格とか品位がなくなってしまう。ライトはつねに最少限度に使っているみたいに見せるべきではないか」であった。  なかでも、もっとも肝腎なのはキイライトだ。太陽みたいな存在だ。のちに秋山は、多いときには十灯も十五灯もの光を駆使するようになるが、つねに心がけるのはこのキイライトである。 「結局はこの一灯が作品を決定する。この一灯のためにたくさんのライトを使うことが大事なのだ」  という極意に達した。彼自身はこれを「秋山流の味つけ」と称している。それは、秋山庄太郎の人生のあり方そのものにも通ずる言葉になってゆくのであった。  そしてさらに秋山は、背景をまっ黒にしてしまう大胆な技法に到達して世人をあッと言わせた。仲間たちから「黒焼きの庄ちゃん」とアダナされるようになったのも、そのせいである。  これはしかし、大胆すぎてかえって悪評サクサクだった。それというのも、戦後の世相はまだ暗かったし、それに輪をかけたみたいに陰鬱《いんうつ》なイメージを与えたからであった。  それでも秋山自身はライティングと苦闘しながら「黒」に到達した自分をよろこんでいた。もともとこの技法の芽ばえは処女作品集『翳』のころからあったが、レンブラントの名画に感動し影響された結果である。  言うまでもなく、レンブラントの作品ではとくに肖像画がすぐれており、明暗の対照のはげしいものを描きつづけた。世界的な人物画家になったがそれでも飽きたらず、しだいに表面的な美しさより人間の心の深みを描くようになって不評を買った。そうなっても彼自身は魂の画家であり、光による視霊者であることを終生の誇りとした。秋山はそこに感動して「写真のレンブラント」を目ざしたくなったのであった。「黒」への到達はそのあらわれだった。 「たくさんのライトを一灯に見せたくなったように、ぼくは無駄なものはぜんぶ省いてゆきたくなったんです。ついには衣裳も背景もその女性の顔をきわだたせるためにはいっさいが不要ではないか。そんなものには意味がない、そう思うようになっていったんです。  だから、モデルには平凡な衣裳しか着せないし、黒バックは結局は無色にひとしくなるんです。白色と同じになるんですよ。ただし白はひろがり、黒は求心的になります」  と、彼は「黒」のふしぎな魅力にとりつかれている表情になる。ここにも秋山庄太郎の人生のあり方が感じられる。作品の表面的な美しさもさることながら、人間の心の深みを写したがっているのである。  そうかと言って彼が白黒写真を最高としているのではない。カラーフィルムが流行しはじめたとき、まっ先によろこんだのも彼である。それまではすべての写真が、色彩のあるものを白と黒とに還元していたわけだが、カラーフィルムではその必要がなくなったし、ごまかしがきかなくなってきた。秋山に言わせると「写真家のほんとうの資質が出てくる」時代になったのだ。 (五)  秋山は「近代映画」には四年いて、辞めた。退職金はなかった。彼はしかし「ライティングを勉強できたのをかけがえのない〈退職金〉だと思って」フリーになった。  アーニパイル劇場の踊り子だった藤田泰子、ストリッパーのジプシー・ローズ、シャンソン歌手の寄立薫、女優の浜田百合子、高峰秀子、久我美子、高峰三枝子、淡島千景、山田五十鈴、岸恵子、山本富士子、越路吹雪、京マチ子、有馬稲子、若尾文子、岡田茉莉子、池内淳子、佐久間良子、加賀まり子……こう並べあげるとひとつの戦後史ができあがるし、そのほか銀座の高級クラブのマダムたちも撮りまくってきた。世相が暗かった時代には不評だった「黒焼き」が、平和で明るい時代になってくると、その暗さがかえってあざやかな光彩を放つ感じになってきた。ようやく秋山庄太郎の本質が理解されはじめたのである。  そのころの「婦人科」では松島進、早田雄二らが一家を成していた。秋山は新進気鋭として彼らを追ってゆくようになった。「営業笑いが消えぬ間に…」の早撮りを身上としはじめたのも、「女に惚れては撮れないし、惚れなくても撮れない」経験をするようになったのも、この頃からであった。 「これまで撮った女性が三万人、費やしたフィルムが九十万枚のうち、どの女性をモデルにしたものが傑作だったと思いますか?」  と、わたしは質問した。  さっき名をあげた女優やマダムたちの何人かをあげるだろうと期待したが、答えは意外であった。 「ぼくはひとつひとつに傑作意識を働かせたことはありません。自分の仕事をふりかえってみて、記念すべき作品といえるものは、いろいろと持っていますがね。観てくれる人たちがどれを見ても『美しいものが撮ってあるなあ』と思ってくれれば、それだけで充分です」  謙遜ではなく、彼は淡々としていた。  彼が撮りたい意欲をかきたてられる女性については前述のとおりだが、「秋山美学」にはもうひとつ、美しさをつねにヒキ算しているところにある。  それはどういうことかというと——いろいろと衣裳や化粧をこらして美しく見せようとしている女性は、かえってボロを出してしまう。つまり、タシ算してゆくにしたがってその女性のほんとうの美しさがそこなわれてゆく、と秋山は言うのである。だから彼はヒキ算ばかりしていて、もう引くものがまったくなくなってしまったところを撮影するのだ。  道で逢った娘さんを追いかけていって、ぜひモデルにと哀願したこともある。彼女も平凡な和服姿だったが一点、帯の美しさが個性美をきわだたせていたからであった。  秋山は大きな眼玉で訊《き》いた。 「失礼ですが、その帯は何という織りですか?」  彼女はちょっと照れたように微笑した。 「江戸時代の風呂敷です。うちにあったのでおもしろい柄だなと思い、帯にしてみたんです」 「へえー、江戸時代の風呂敷ね」  秋山はこのとき、美とは何かを悟らせてもらったような気持になった。  美とは何かを悟ったつもりでもしかし、彼自身は自分を芸術家だとは思っていない。これも謙遜なんかではない。「写真ではどうしても満たされぬものがある」からだ。秋山庄太郎はいう。 「写真家には生まれながらの、モデルをつかまえる感度というものがそれぞれにあると思っています。けど、写真は天才によって創られるものではありません。ピカソは十四歳のときからすごい絵を描いていますが、写真は十四歳ではまだ傑作は撮れません。カメラという機械を操作しなければならないからです。つまり、天才的なひらめきで創造するような芸術ではないということです。  彫刻家や音楽家や画家とは違うんです。だからぼくは、芸術家のように見られたり思われたりするのが面はゆいし、芸術家ぶるのはとても厭ですね。職人です、職人でいいんですよ。努力さえすれば、だれだって写真家にはなれるんですからね」  だから秋山は、自分の仕事をふりかえってみて「記念すべき作品といえるもの」があるだけで良しとするし、「どれを見てもらっても美しいものが撮ってあるなあ」と思ってもらえればそれで満足するのである。モデルに苦痛を与えてまで撮らないのは、そのせいでもある。  彼も「近代映画」を辞めたころには、気負ってドキュメントな作品を創った。しかししだいに、表現も迫力のあるものより優美なものを目ざすようになった。彼のいう優美なものとは「モデルがよろこび、観る人がたのしみ、撮った当人も満足できる」作品であり、これを「秋山美学」として頑《かたく》なに固持する。 「写真には前衛があるように見えるけど、ほんとうはそんなものは無いんです。その時代時代で、目立ったスタンドプレーをしている写真家はいますがね。そんなものはしかし自然のうちに消えてゆきます。すぐに飽きられて淘汰されますよ。ただひとつ、頑固な根性だけが必要だと思います。オレはオレだと絶対に妥協しないで、写真の基本を全《まっと》うすることが大切ですね。  そりゃあオーソドックスなものは退屈がられますよ。けど、アンフォルメルの画家の多くが残らないように、そういう写真家の作品も結局は埋没していってしまうでしょう」  彼は東郷青児が好きである。後進の画家や美術評論家たちから何だかんだと酷評されながらも、東郷青児しか描けない美の世界を、時代を超越して一貫して創りあげているその点を限りなく敬服しているのだ。  小絲源太郎の絵にも惹かれるという。「元がかかっている」実感が、画面にあふれているからである。そして秋山は、カネができるとせっせと画廊めぐりをして心惹かれる絵を、有名無名の作品を問わず買ってきてはたのしんでいる。  秋山は四十歳になったとき、四カ月間のヨーロッパ旅行へ発った。危機感に襲われじっとしておれなくなったためである。 〈写真家というものは自分も含めて、才能がのびるのは四十歳までだ。それからは腕がにぶってしまう。それでも四十五歳までは惰性で注文もあって何とか食えるが、それからさきは絶対ダメだ。他の職業よりは十年はやく定年がくるようなものだ。いまのうちに何とか考えなければ〉  彼もまた、あらゆる芸術家たちが恐れながらもたどらなければならぬ「才能の枯渇《こかつ》」におびえはじめたのであった。  秋山は貯金していた現金三百万円を、ぜんぶひきだして持っていった。パリをふりだしにあちこちのホテルを泊り歩いて、古道具屋をのぞいたり絵を買ったり、日がな無為な暮しをしてみて「たのしい怠《なま》け」を味わってみた。ベニスで誕生日を迎えたりしているうちに、とにかく一銭もあまさず使い果した。  が、その四カ月のあいだ「たのしい怠け」をしているつもりでも、危機感と焦燥感が消えたことはなかった。それを克服できた日は一日としてなかった。 〈四十歳を過ぎてからのオレは何をしたらいいのか、何を撮ったらいいのか〉  そうした暗中模索にはじまって、〈オレたちの年代の写真家は、だれもが少しくたびれてきている。作品が退屈になってきている。新旧交代の時期にさしかかっているようだ。うしろをふりかえると、細江英公や佐藤明や東松照明などの三十代が追ってきているではないか。かれらはすぐそばまできているのだ。いい仕事もしている。これからのオレは何をしたらいいのか、何を撮って飛躍すべきか。三十代のかれらに追いぬかれないためには、どうすればよいのか〉  もう一人の自分がせっつき、古道具屋をのぞいているときも落ちつかせず、ホテルのベッドに横になっているときも寝つけず輾転《てんてん》とさせるばかりだった。写真家仲間が秋山のこの姿を見たら、気が狂ったと思うにちがいない。それほど秋山は、自分で自分を責めつづけた。  ヨーロッパから秋山がこわごわ帰国してきた昭和三十五年、日本では週刊誌ブームが起りつつあった。雑誌社系の「週刊新潮」につづいて「週刊文春」が創刊された。「週刊新潮」は谷内六郎の絵を表紙にしたが、「週刊文春」は秋山が撮る女性で飾った。秋山にとっては幸運であった。このチャンスに彼は、新たな商業写真の分野を週刊誌の表紙で試みてゆくことになるのであった。  これが成功したことによって市場を広め、「週刊現代」や「週刊ポスト」も彼の作品を表紙にするようになった。そして、それまでの週刊誌の表紙のバックは赤っぽいのがいいとされてきたが、彼が得意の黒焼きをやったところ、その号が画期的な売れゆきを示すようになったこともあった。  それでも「これからのオレは何を撮ったらいいのか」の苦悩が消え去ったわけではなく、いっぽうで模索をくりかえしているうちに、 〈花だ、花を撮ってみたい〉  という意欲が噴きあがってきた。  そのきっかけは、花屋の前を通っていて、何気なくヒヤシンスの花を真上からのぞいたことにはじまる。花というものはたいてい横から観賞するものだ。そのほうが情緒もある。ところが秋山は真上から見て、花の美しさというものはほんとうはこの角度からが正確にとらえられる、と思った。  しかもオシベとメシベも見える繊細で神秘的な構図であった。彼はピンクと薄紫と白のそのヒヤシンスの鉢を買って帰った。三色の花びらをバラバラにもいで並べてみた。 〈そういえば写真家で花を好んで撮っているのはいない。写真になる花を知らんのだ〉  そうも思った。  花の芯と女の「芯」を連想した。美の美を追求する点では、女も花も同じものだ。一生女の美しさを撮りたがっているように、花の場合もそうでありたいと思った。  それからの秋山は憑《つ》かれたみたいに、季節季節の花を撮りまくった。その花をもとめて旅行することもあり、撮った花の種類は三百種にもなった。  とくにバラとひまわりが好きになった。四十代の写真家たちの『六人展』をやったときも、秋山は女性のは一点も出品せず花の作品だけを並べた。  仲間の一人に、 「庄ちゃん、花なんて甘いよ」  と批評された。世評も芳ばしくなかった。  秋山はしかし動じなかった。(昭和四十八年十月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和四十九年作品集「蝸牛の軌跡」(日本カメラ社)。五十年「薔薇」(主婦と生活社)、「衣裳人形・平田郷陽作品集」。五十一年「秋山庄太郎—私の仕事」(日本写真企画)、作品集「おんな」(美術出版社)。五十三年日本写真専門学院院長に就任、作品集「作家の風貌—一五九人」(美術出版社)。五十四年写真展「私の仕事」、「女・花・風景・アンフォルメル」、「裸々裸々乱」(朝日ソノラマ)、「日本の美・春夏秋冬」(集英社)。五十五年作品集「画家の風貌と素描」(サンアート)、二人展「還暦にちなんで」(山城隆一と共催)、「振袖—秋山庄太郎の世界」(創苑)。五十六年「秋山庄太郎・美女百人」(日本写真企画)、「秋山庄太郎の千夜一夜」(竹井出版)、「遠近の彩」(朝日ソノラマ)。五十七年「昭和写真全仕事」(朝日新聞社)、「四季折々・花屏風」(日本カメラ社)、写真集「四方乃花」「花宴」。日本広告写真家協会名誉会長。花の會会長。 [#改ページ] 大竹省二《おおたけしょうじ》「女との闘い」 (一)  大竹省二氏は眼で撮影せずに〈舌〉で撮る。  彼は能弁である。伊達《だて》男である。  渋谷の代官山マンション九階にあるスタジオをわたしが訪ねたときも、長身一八○センチ、グレーと白の縞シャツの首にあざやかなグリーンのスカーフを巻き、チェック縞のズボンで颯爽とあらわれたかと思うと、それこそ立板に水を流すがごとく、切れ目なく淀《よど》みなくしゃべりまくった。  その部屋には彼の作品は一枚もない。シャガールとカシニョールの絵が飾ってあり、漆黒のピアノとルイ王朝風の家具類が調和よく雰囲気をつくりあげていた。  ひとつのチリが落ちているのも許さぬといった感じのスキのなさがあった。  そして、しゃべることによって自己を表現しようとしているのではなく、クモの糸のごとく言葉を際限なくくり出して相手をからめとろうとしているのだった。そこに彼の作品が一枚もなくとも、〈そうだったのか、この雰囲気と相手をからめとろうとして際限なくくりだしてくるもの、これが大竹省二氏の作品なんだな〉  と、わたしは思い当った。  大竹は白状した。  若いころの彼はこうではなかった。たいそう無口だった。が、自分の写真を撮りたい意欲が昂《こう》じてくるうちに、すごいおしゃべりになった。自分がしゃべりまくることによって相手のリアクションを求めているのだ。それが直接的な人間研究になるし、 「モデルに対し多弁に語りかけることによって、相手を読んじゃうんだ。だから、ぼくの〈舌〉は、いわば動物的触手みたいなものなんですよ。これがなめらかに出ないときには相手にとっつきにくいと見られるし、こわい感じだなと思われてしまう。だから何でもいい、ぼくはしゃべりまくって相手の気持をほぐす。話の内容には脈絡がないときもある。あさってのことを言うときもある。しかしそれが触手となって相手をさぐり、とらえ、こいつはこう撮ったらおもしろいという直感的感覚がはたらいてくるんです」  大竹のモデルになったある女優が、はずかしげにこう洩《もら》したことがある。 「大竹先生の前では、いくら女優ぶってみても、その虚像がいつしかはぎとられて、素っ裸にされてしまったような気になっちゃう」  彼女は大竹の眼によってでなく〈舌〉でその素肌を舐めまわされてしまったのだ。  彼はみずから、完全主義者だと称している。しゃべっているあいだも、この言葉が飛び出してくる。  人間だれしも裸では歩いていない。洋服や和服を着ている。だから人物写真においては内面美と形式美のいずれかに要約されるが、そのどちらかを強調して撮るというのではなく、大竹はその両方を同時に、直感的に撮りたがる。  ヌードを撮る場合にも、その裸の形式美とその裸の内面美とがある。この内面美を大竹は、人間にある隠された「部分」であり「個性」だという。この「個性」と形式美とを同時に、完全に自分のものにしなければ気がすまないし、その両方を正確につかまえ得た作品こそ、永遠に古くならない新しいものだと信じている。  つまり、大竹は古くならない新しい写真——その完璧な完成度のみを追求してやまない完全主義者なのである。  彼の作品は感覚派である。  洗練されたシャープさがある。  剣聖同士が真剣勝負をしていて、じっと切っ先を正眼に構えて対決しているが、キラッと刃がきらめいたと思ったら、勝負は一瞬のうちに決した——そんな感じの作風だ。それが大竹自身がいう、完全主義者の完成度でもある。  人間はその日その時によって変わる。朝と晩とでは違っている。撮るほうも撮られるほうもそうなのだ。  そういう複雑性のある人間同士が、カメラをあいだに対決する。大竹はより多弁になって相手のリアクションを待ち、「個性」をとらえようとする。それがあらわになった瞬間の、キラッときらめくものを大切にする。彼はこれを、 「出会いの瞬間の読み」  と名づけている。  まさしく非凡な「剣聖」である。  ところが、彼自身の舌はどうかというと、たいへんに鈍感である。シイタケをマツタケだと偽って出されても、そのまま信じて味合う舌しかない。食べるものにはこれといった好物がない。何でもパクパク食べるといえば健康そのものに思えるが、彼の場合は健康だから何でもパクつくのではなく、味合ったりすることが煩わしいのだ。  わたしの知人の小説家は、たいへん食い意地がはっていて、三度三度の食事のうち一度でも味がまずいものを食わされると、「短い人生なのにおれは一回分ソンをした」と慨歎する。  大竹は正反対で、三度三度の食事も一年では千回になる。千回も食べてゆかねばならないのが煩わしくて、食事は体力を保持するために食べればいい、したがって味など二の次ぐらいにしか考えていないのだ。  人間をとらえるのに眼よりも鋭敏、かつ剣聖の真剣にまさる切れ味の〈舌〉がありながら、現実の味覚をとらえることではまったく無感覚——そういうところに大竹省二の作品の秘密もあるような気がする。 (二)  秘密といえば、彼の私生活には「謎の部分が多い」と写真界では噂されている。陰影が濃すぎるというのである。  その「謎の部分」を公開してくれませんかとねだると、彼はしぶしぶ「いままで他人には語ったことがない」生い立ちから告白してくれた。  ——大正九年五月、大竹省二は静岡県は磐田市の、天竜川の川口近くに二人の兄弟の長男として生まれた。祖先は三河武士で、母方は京都の公家の血をひく家柄であった。大竹の天分のなかには、この公家の血すじが脈うつようになる。  大竹が六歳のとき母親は病死。父親は東京で運送会社を手広く経営し、後妻をもらったが、まもなく事業に失敗した。どん底の生活に落ちたが、大竹は多感な少年だった。継母にいじめられて家出したり、親戚に預けられてそこの家庭で差別待遇をされたり、サーカスの年上の女にあこがれてついていったり、屑屋のおばさんにかわいがられたり、日比谷公園で会った娼婦に江戸川べりへつれてゆかれて心中死を迫られたりした。  島崎藤村や西条八十の少年詩集を愛読、空をぼんやりながめていたり、さまざまな雲を絵に描いたりするのが好きだった。孤独な少年時代だったのだ。はじめてカメラを手にしたのは小学四年生のときで、修学旅行に行くとき上野で東郷カメラを買って日光へ出かけた。しかし、詩や絵ほどに夢中になれなかった。  彼の写真は我流である。私淑した写真家はいないし、写真学校があるのをふしぎに思った。 「写真は単純なコースしかない。シャッターをおすだけじゃないか」  そうとしか考えられなかったからである。 「写真はいかに嘘を真実らしく見せるか、真実をより真実らしく見せるしかない」  そうも思っていた。女優や料理の写真は前者であり、報道写真は後者である。  終戦後は焼野原の東京で苦労した。  食うためなら何でもやった。オンボ運びまでやった。病院で病死したホトケを棺におさめ、幡ヶ谷の火葬場へ大八車で運搬してゆくのである。  しかし火葬場でも石炭不足で火葬できず、焼ききれない棺が山と積まれていた。その異臭に耐えられず、大竹は逃げだした。  父親のカメラを肩に銀座をぶらついた。  ふところには一円七十五銭しかなかった。  ヤミ市で売っているフィルムが一本一円二十銭していた。それでGIたちを撮り、売りつけた。ラッセルという通信隊の中尉が、 「おまえ、なかなかうまいじゃないか」  目をかけてくれ、GHQに紹介した。  GHQの宣伝中隊嘱託のカメラマンになった。幸運だった。月給は三千円、洋服も買ってもらえた。  GIたちを慰問にきていたアメリカの女優たちが、アニーパイルで踊ったり歌ったりしていた。彼女たちを撮れ、と命令された。 「なぜです、GIにだってうまいのがたくさんいるでしょう」  大竹がふしぎがると、 「ダメだ。一人の兵隊に撮らせるとヤキモチやいて喧嘩をおっぱじめるからな」  ということだった。  お濠端《ほりばた》のGHQ本部へいって、マッカーサー元帥を撮らされたこともあった。  ジョニー・フローリアという「ライフ」の特派カメラマンと懇意になった。彼の世話で「ライフ」の専属になった。日本人でこの世界的な雑誌のカメラマンになったのは、大竹省二が最初である。昭和二十二年だった。  そのころの敗戦風俗である浮浪児やパンパンガールの群れ、刺青したヤクザ、芸者ガールなどを撮りまくった。アニーパイルで上演されていた、天皇を諷刺した『ミカド』というオペラや、復活した野球の巨人・中日戦をカメラで追ったこともある。  このころすでに、大竹はアメリカ製のカラーフィルムを使用させてもらっていた。日本にはまだカラーフィルムは生産されていなかったし、現像もできなかった。彼は日本で最初にカラー撮影をしたカメラマンでもあり、アニーパイルの踊子を撮ったカラー作品が「ライフ」に掲載されたりした。因《ちなみ》に、日本最初のフジカラーによる色彩映画ができたのは、昭和二十六年三月、木下恵介監督、高峰秀子主演の『カルメン故郷に帰る』であった。  ところが、大竹の作品はみんなジョニーが自分で撮ったことにして本国の「ライフ」編集部に送り、彼の名で発表しては大竹には小遣銭しかくれなかった。大竹は憤然として辞表をたたきつけたのだ。  INPにはいった。  昭和二十五年、朝鮮戦争がおこった。  INPの写真部長になっていた大竹は、 「週給百ドル出すから朝鮮へいって報道写真を撮れ」  と命令された。 「もう戦争はこりごりですよ。他人の国の戦争で死ぬのもごめんだ」  週給百ドル——三万六千円はびっくりするほどの高給だったが、決然として大竹はフリーになった。これからはもっぱら女性を撮りたい、と思った。 「アサヒカメラ」編集長の津村秀夫が大竹の才能を買って、五年間、日本へやってくる世界の音楽家たちを撮らせ連載させた。大竹は感激した。  しかし仕事はきつかった。女を撮りたがっていたその願いはかなわない上に、シャッターの音など雑音にしか思わない、繊細な神経の音楽家たちなのだから苦労させられた。演奏中はフラッシュがたけず、時間にも制限があり、それぞれの「個性」をにじませるのに悪戦苦闘の連続だった。  だが結果的には大竹の実力を、一躍世にしめす成果となった。当時の写真界ではまだ、重苦しい世相をとらえた「社会派」に人気が集中していた。その風潮のなかにあって大竹は、世相とは無関係の永遠の芸術家たちをカメラにおさめたのだし、これを撮らせた津村秀夫の企画も非凡だった。 「彗星《すいせい》のごとくあらわれた天才」の絶讃が大竹の頭上にふりそそがれた。  前述のように彼の写真は我流であり、師について台頭してきたわけでもなかったので、まさに彗星のごとき出現だった。  それだけに褒貶《ほうへん》も入り乱れた。この『世界の音楽家』は朝日新聞社から刊行(昭和三十年)されたが、三十代で写真集が出版できたのは他にいなかった。巨匠である木村伊兵衛が『傑作写真集』を、土門拳が『風貌』をそれぞれ昭和二十九年に上梓しているだけであった。  一般大衆もまだ大竹を認めなかった。世界の音楽家たちの展覧会を銀座の松坂屋で開催したけれども、ちょうど隣り合せて警視庁主催の防犯展をやっていて、未解決事件の犯人たちの顔写真がならべられたため、見にきた観客たちが、 「へえー、こっちは外国人の犯人たちか」  と言いあっていた——のにはさすがの大竹省二もガックリきた。 (三)  大竹は男性の貌《かお》を撮るのが好きである。  女性の顔には人工美がある。男性のにはそれがないかわりに、貌に人間性がにじみ出ている。それがおもしろいという。  しかし大竹の、女性を作品にしたい一念は来日したマリリン・モンローやエヴァ・ガードナーを作品にしたころから猛然と噴火した。昭和三十一年、彼は秋山庄太郎、稲村隆正、早田雄二、尾崎三吉らの「ギネ・グルッペ」に参加した。  彼は、GHQ所属のカメラマンになったころ見合結婚していた。彼にいわせると彼女とは「いろんなことがあって」のち三年目に離婚してしまった。以来、今日まで独身主義で通してきている。  離婚後は女性に接していない、というのではない。恋愛はするが決して「甘い恋愛」にはならない、という。一般の恋愛のパターンをふめない、という。自愛心がつよいのでどうしても相手の女性にきびしくなり、女性のほうでも彼の完全主義的芸術家としての気性や理論は理解できても、女の感情がついてゆけなくなるのだそうだ。  女性に対して彼は、限りない憧憬と底知れない怨念とを、表裏させて抱いている。幼くして実母を失い、継母にいじめられて家出し、サーカスの女や屑屋のおばさんに母性をもとめ、薄幸な娼婦にいっしょに死のうと迫られたりした切なさが、心の「印画紙」に焼きついているからだ。  彼は、逆境に生きてきた女性により惹かれる。そういう女性には人間のドラマがあるからだ。 「そういう女性にありがちな、技巧的な色気ではない、ふと匂ってくるような淡い色気をたまらなく思うし、憧れてしまう。憧れてはいても、ある一線までくると女性を信用できない気持になる」  自分自身のなかの、そうした矛盾と大竹は必死に格闘してきた。  だから、彼が女性を撮るとその作品は、 「こりゃあひどい、反女性的写真だ」  とよってたかって酷評されたこともあった。  むろん、大竹自身は自分では必死に祈るような気持で、女の「真実」を撮っていた。女の「真実」のみを追求し、完璧に自分のものにしてしまわなければ気がすまない完全主義者に、ここでもなっていたのだ。が、その追求がひたむきであればあるほど、彼の作品は反女性的なものにならざるを得なかったのである。  彼は女性をことごとに虐《しいた》げたり、意地わるく汚なく撮ったりした。「これでもか、これでもか」という感じになる場合もあった。  たとえば、人気絶頂の目がさめるほどの美しい映画女優をモデルにしても、ある瞬間には彼女の女優の顔ではない、一人の女の「素顔」が露呈してしまうことがある。大竹はその一瞬を直感的にとらえて、ひょいとシャッターをおしてしまう。  前出の女優のように、「大竹先生の前ではいくら女優ぶってみても、その虚像がはぎとられてしまって……」云々も、大竹自身に虚像をひんむいて赤裸々なものをとりだしたい、そういう気持があるからなのだ。  彼自身にはしかし、そこまで徹底しなければ女の「真実」とその美しさはレンズではとらえられない確信があるのだ。同時に、幼年時代からの女性に対する憧憬と怨念、信じたいのだけれどもある一線までくると信じられなくなってしまうもどかしさ、やりきれなさ、それが露出してしまう。それでも、これでいいのだと思った。彼はむしろ、女性は美しくさえ撮ればいい、と考えているような写真家を信用しなかった。そんな作品には血がかよっていないと軽蔑してきた。  皮肉にもそういう大竹のほうが、モデルになる女優たちから敬遠された。作品を観賞してくれる人たちからは顰蹙《ひんしゅく》された。 「こんどこそ、美しく撮ってみよう」  大竹もそう自分にいう場合があった。  だが、いざモデルを前にするとやはり、反女性的写真を撮る構えにいつしかなっていた。なぜならば、 「美しく撮りたいと思ってファインダーをのぞくと反動的に、もう一人の自分の声がしてくるんです。〈おまえは嘘つきだ、美しいと思ってもいないのに美しく撮るのか。自分が直感的にとらえた汚ないもの偽っているもの、それを率直に表現することこそほんとうの美しさではないのか〉と」  そんな懐疑にいたぶられるからである。  また、大竹はこうも考えた。 「女性というものは、自分に何があるのかよく判っていない動物なんだ。そういう女性自身さえ判っていないようなものを、男のおれが把握できるわけないではないか。美とは所詮、主観にすぎないのではないか。妄想であるのかもしれない」  だが、大竹は徐々に変わっていった。  お見事、というほかはない「美の商品」を創るようになった。非の打ちどころのない、一分の隙もない、まるで磨きに磨いた玉のような作品で光りを放っている。  現在彼はテレビに出演して、毎週ちがった三人の素人の女性をヌードにして撮ってみせているが、モデルの経験のない、乳房は不均衡で顔はひんまがっているような女性でも、一瞬のうちにすばらしい美女に撮ってしまう。その腕の冴えをみても伺い知れる。  ヌード写真といえば、セクシュアルな感じとかエロティックなムードとかが必ずあるものだが、大竹のはそうではない。美しくけだかい、それこそシミ一つチリ一つついてないようなヴィーナスを創るのだ。女の情念は彼の感覚によってかき消され、彼のモダニズムが横溢している。 「トシをとったからそうなったんですよ。ぼくは女性に対してひじょうにやさしくなった。信用するようにもなった。どんなに醜い女性にでも、どこか美しさがあるのを発見してやれるようになったんです。痩せていようが肥っていようが大根足にだって女性美はあることが見えてきたんです」  と大竹は謙遜する。若いころのドロドロした欲情とか、がむしゃらな怨念とか、青くさい真実追求がなくなった——つまり、歳月とともに解脱《げだつ》できたから「美の商品」が創れるようになった。  しかし、そうではない。女性は美しく撮ってやるべきもの、として妥協していったのではない。逃避でもない。意地わるくとも、汚らしくとも自分なりの「真実」をトコトン追いつめ、格闘しているうちに、彼には真の美しさが見えてくるようになったのだ。俗にいう、悟りの境地をつかんだのであった。  そのころ大竹は、そういう精神的苦闘をくりかえす一方で技術的には「瞬間的にどれだけのものをとらえ得るか」のトレーニングにはげみ、感覚をとぎすましていった。  他人の部屋のドアをパッとあけて、さッと閉めて、その何分の一秒かに見たもの——壁に鳩時計があったとか、こういう絵があったとか、テーブルにはどういうものがあったとかをメモする。  そして再度ドアをあけてみて、改めてメモと現実にその部屋にあるものとをつき合せてみるのであった。 (四)  大竹は写真界の一匹狼だといわれる。  無駄な交際はしない。遊んだり議論したりもあまりやらない。「人恋しいくせに社会の流れのなかでの人間関係は厭だから」だと、彼自身も一匹狼の存在であることを自認している。  そんなところから、前述のように「謎の部分が多い」とされているわけだが、他人に生い立ちを語ったりしたがらないのも「遠くなった過去のことなどどうでもよい。女にフラれたフッたも、終ったことだからどうでもいい。いま現在と未来とがあればそれでいいではないか」という割りきり方が大竹にはあるからだ。  昭和三十六年、彼が監督・演出をやって記録映画『シンフォニー・ジャパン』を製作、音楽を團伊玖磨が担当、これがローマの記録映画祭賞を受賞した。幼いころからの詩心を活かして書いた『バカヤロウの風景』が、岡本愛彦演出、伴淳三郎主演のテレビドラマになった。ピカソ、シャガール、ルノアール、川端龍子が好きでさかんに絵も描いている。  多才だが、彼はやはり写真家である。  彼の生活はそのためにのみある。  三島由紀夫が好きだという。三島の古典的気品の絢爛《けんらん》とストイシズムを、大竹は自分の「美の商品」のなかに育てている。それは京都の公家の出である祖母の血統でもあるが、三島由紀夫の美意識と大竹省二のヴィーナスを創る完全主義には相通ずるものがある。  したがって大竹もストイックな生活をしている。頑固に自分からすすんで一匹狼になるのも、自分をいじめる人間でなければよりすぐれた創造はできない、と信じているからである。そして、他人とは議論せず、孤独という檻《おり》にこもって自己とのみ対決している。 「どこまで自分に対して冷徹になれるか。自分を知るための、きびしさを持してゆくことが日常の物をみつめる眼にもなる」という。  カメラ技術は、いまではだれでも大差なくもっているが、写真は技術ではない、感受性をつねに刺激しているものが傑作を生みだす、というのが大竹の持論である。  だから碁、将棋、麻雀、ゴルフなどひと通りやるけれども、そのルールをおぼえてしまうともう興味がない。そういうものに溺れずリクレーションにとどめておく。白黒をつける勝負事に熱中するよりは詩作したりピアノをひく。そのほうが感受性を刺激するしボケない、と大竹は笑う。  三度三度の食事は何だっていい、シイタケをマツタケと言われて食わされようと、とにかく体力さえ保てれば味覚なんかどうだってかまわぬと思うのも、そういう余分なことに神経をすりへらしたくないからなのだ。  伊達男ではあるが、おしゃれのためのおしゃれをしているのではない。きれい好きで何でもきちんとしていなければ厭。目ざわり気ざわりをもっとも嫌う。  借金するのも厭。他人に迷惑かけるのは気が重いし、迷惑かけられるのもたまらない。  そして夜は十一時には就寝、朝は七時には起床して生活のぺースは絶対に狂わさない。  独身者だから女関係だって自由だ。が、モデルとはおかしな関係にはならない。ややこしい間柄になれば、その女に対して「主観的になり、客観視できなくなる」からである。  つまり、彼は徹底した頑固者だ。収入も写真界では指折り数えられる一人にはいるけれども、生活費は月に十五万円、うち小遣が三万ないし五万円にすぎない。 「そんなふうでは人生が窮屈でしょう?」  わたしが質問すると、即座に答えが返ってきた。 「愉しくはないけど、窮屈とも思わない。人間って、もともと生まれてきたこと自体が不幸なんですからね」 「どういう意味ですか?」 「不幸のなかに幸福を求めて生きているんですよ。砂漠のなかのダイヤモンドを捜すみたいにね。一生のうち何個捜しだせるかわからないけれど、それをやってゆくしかないでしょう。幸福そのものも、仕事があって、それがおカネになって、新しい服を買う。そういうものでしかないでしょう」 「そういう考え方は、ますます自分を狭くするし、淋しくさせはしませんか?」 「だから、ほかの人は結婚する。家庭という逃げ場をもってますね。ぼくにはありません。だから自己嫌悪におちいるともう、自殺を考えるしかないですね。けど、子孫をもちたいとも思いません。娘をもてば嫁にやらなくちゃいけない。そのときの父親の淋しさはたまらない。息子をもてばもったで、いずれ独立して巣立っていってしまう。だから、はじめっから何ももたなければいいんです。自殺したあとは、火葬場のいちばん安いカマで焼いてもらって、遺灰はどこかの空から撒《ま》きすててもらえばいいんです」  こんなふうに彼は、人生の一瞬の白熱の燃焼のみを考えている。その一瞬の生きがいのために、自分の全生活をストイックなものにしている。 「プロというものは相撲でも拳闘でも、リングにあがって作戦を考えてもダメ。そこへあがるまでに日ごろから考えを集中させてゆくんです。写真家だってモデルがきて、ああでもないこうでもないと考えこむようではね」  そして彼のライティングはストロボだけだ。いろんな光線を駆使したりはしない。そのストロボも多くて三個だ。動きを瞬間的にとらえるのにはストロボがもっとも効果的だという。これも彼の一瞬の燃焼を象徴しているかのようである。  しかしいま、大竹は苦悩している。  作品が無欠の完成度にまで到達してしまったからだ。いわば充たされたものの悩みであり、最高のものを創った芸術家のそのあとの苦しみは、何も生みだせないで苦しんでいる人よりははるかにつらい。そういえば三島由紀夫も自己の文学を完成させ、遺作『豊饒の海』を執筆しているさなか、「これを書きおえたらもう、あとには何も書くものがない」と不安と苦しみを訴えている。  同じように大竹省二も七転八倒する。 「ぼくの作品にはスキがない。これではかえっていけない。意識したスキをつくりたいし、そういう写真を撮りたい。なぜ、自分にはスキのない作品が創れるのか、自分で自分がわからない。そうした悩みからはじまって、いまでは自分の作品を見たくもない気持です」  ある写真評論家は、こう言った。 「天才の大竹氏は完成してしまった。ということは、天才が天才でなくなったということです。大竹氏は完全主義者でひたすら自分の作品の完成度ばかりを求めてやまず、そのために生活はきびしく律し、ズッコケたり女に失敗したりということが皆無だった。自分を破ってみたり冒険してみるというようなこともなく、取りこぼしのない力士のように強かった。これからは、たまには横紙破りもやって、駄作を創ってみることが飛躍になるんじゃないですか」  一カ月間、悩める大竹はジャネット・八田という二十一歳の混血モデルを伴ってアメリカ、カナダをまわってきた。 「この女が、ぼくによってどこまで料理されるだろうか。彼女をどこまで変えることができるだろうか。夫婦でもない恋人同士でもない二人が、そうした仕事の上でどこまで耐えてゆけるか試してみたい」そういう気持で大竹は出発した。  ロサンゼルスからアリゾナ、ネバダとドライブして四十二度の熱砂のなかでヌードを撮り延々五千キロをさまよった。あまりのつらさにジャネットは何度も泣いた。彼女には大竹の苦悩は理解できなかった。  二人は背をむけ合い、ものも言わなかった日もある。  大竹にいわせると「ぼくの完全主義が彼女にはわからず、彼女は苦しんだ」のだ。  結果はどうであったか。  振り出しにもどって「女との闘い」をはじめた大竹は「自分の思っていた六十パーセントしか料理できなかった」という。百パーセントではなかった。  だが、そうした不満こそ、彼自身が「なぜ、自分にはスキのない作品が創れるのか、わからなかった」それがそのスキとなるのではないか。  とすれば、それは新しい完成度への、幸先よい出発点となったのではないだろうか。(昭和四十九年一月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和四十九年写真集「ジャネット」(日本カメラ社)、同、写真展。五十一年作品集「照る日曇る日」(日本カメラ社)。五十二年テレビで「ファミリーヌード」が評判、日本テレビ柴田宏二と共著で「ファミリーヌード」(朝日ソノラマ)。五十五年映画「わるいやつら」のコーディネイト。五十六年写真展「日本のおんな・百人肖像展」。五十七年「昭和元禄一〇一人の女」(講談社)、「昭和写真全仕事」(朝日新聞社)。五十八年大竹省二初期写真集「遥かなる詩」(桐原書店)。 [#改ページ] 植田正治《うえだしょうじ》 「おかしな妖怪」 (一)  植田正治さんには「妖怪」が棲《す》みついている。  得態の知れないおかしなこの妖怪を見たくば、彼のいずれの作品でもよい、じっと見つめているだけでその写真の背後から、デレンデンデンデン……と幽霊のように浮かびあがってきて語りかけてくる。  だいいち、彼の作品は斬新ではないが、決して古くはならない。そういう流行や時間的なものを超越しているのもふしぎだ。  たとえば——  妻と三人の息子と一人の娘、それに自分自身も洋傘を手にして立っている一家団欒を撮っているが、なにもない砂丘の稜線にそれら六つの人間が思い思いのことをしながら置かれていて、背景もまた何もない漠たる空のみ。  ピクニックにきた一家団欒のそれでありながら、六つの大小の人間が点在しているだけで、それぞれが虚しい存在になっている。人間とは結局はこういうものなのだと、漠たるその背後でせせら笑っている何かがあるような気がしてくる。これは終戦後まもない昭和二十二年の作品だ。  山陰地方の古めかしい農家を撮った作品もある。昼さがりの縁側にはだれもいない。猫の子一匹いない。白い障子が五枚、ぴったり閉まっている。子どもがいたずらしたのか、二枚目の障子に四角なまっ黒い穴がぽつんとあいている。そして、軒さきの物干し竿《ざお》には女学生のセーラー服の上衣が一着、乾されている。  たったこれだけのものだが、白い障子のまっ黒な四角の穴が不気味な眼のようである。その白い障子をバックにセーラー服の上衣だけが、風もなくだらりとさがっているのもドキリとさせられる。  もう一つの作品では——画面の中央に白い村道がどこまでものびている。その道をテクテク歩いてきた青年がまるで、写真館で身分証明書に貼るための写真を撮ってもらったかのようにシャッチョコばって立ちどまっている。街に働きにいっていて帰郷した田舎青年だ。村道には車も荷車もない。  風呂敷包みを一つ右手にさげている。短靴は土埃《つちぼこり》で白くなっている。黒っぽい背広姿で胸のポケットからは白いハンカチをのぞかせているが、ズボンはよれよれ。なによりも印象的なのはその青年の貌《かお》だ。シャッチョコばっているがヒョットコみたいだ。真面目なのにどことなくおかしい。そして、左右には平凡な畑の風景がひろがっているのみ。  この青年の貌やポーズをみていると、日曜画家といわれたアンリ・ルソーの世界を連想させられる。飛び出しているみたいに大きい目玉の青年や女を描いたり、背景の木の葉の一枚一枚も描いてゆく素朴で幻想的な、きわめて独創的な画風をである。  ルソーは貧しいブリキ職の子に生まれ、税関吏となって四十歳ごろから勤めのかたわら絵筆をとりはじめ、現代のプリミチーフ芸術の父と賞讃されるまでになったが、植田正治の写真家としての歩き方にもこれに似たところがあるように思える。  植田の写真にはもう一つ、ムンクの世界もある。ノルウェーの画家で表現主義の祖とまでいわれたムンクの絵のすばらしさは、北ヨーロッパの憂鬱な自然を前にしての恐怖とか、愛のなかにひそむ孤独や悪意を描きつづけたことにある。落日の不安のなかで痴呆のように口をあけている人物を描いた『叫び』はその代表的傑作であるが、いま紹介した植田正治の砂丘で撮った一家団欒や、藁ぶきの農家のセーラー服などでも、日常の人間のもやもやした不安やいわれのない恐怖感を表現しようと躍気になっている、ように思われる。  しかも、ムンクが「北欧の憂鬱な自然」のなかで育ったように、植田は裏日本の山陰の風雪とともに生きつづけているのだ。 「あなたの写真を見ていると怖くなってきます。人間だれもが幼いころからもっている、恐怖の原型みたいなものがあるでしょう。植田さんはそれをレンズでとらえているんだから、作品が怖く見えるんですよ」  わたしがそう言ったら、六十歳をすぎてなお童顔が残っている彼は、前出の三つの作品について、首をひねりながらこう答えた。 「鳥取の砂丘で撮った家族たちのあれネ、あれはただ何もないだだっ広いところでの女房や子どもたちのバラバラな点在、それがおもしろかったから写したくなっただけのことですよ。農家のセーラー服にしたって、べつに何も意識せずにシャッターをおしただけなんです。村道を歩いてきたあの青年にしても、たまたま出会って撮らせてくれませんかと頼んだら、どうぞと承知してくれたんで写したんですね。ほんとうにそれだけのことです」  本人はルソーもムンクも大好きだという。  しかしこの二人に影響されたり、二人の作品を意識したりしてカメラを構えたことなど一度だってないし、自分の写真に「ルソーの世界」や「ムンクの世界」があると評されたことも皆無だという。だから、それらの「世界」があると激賞してくれる人が現われたら「光栄だし頭をさげる」そうだ。  どうやら、トボケているようにも見える。自分のなかに棲みついている「妖怪」の正体を見破られるのを迷惑がっているのかもしれない。永いこと彼は「写真では表現できないもどかしさを感じてきた」し、それが表現できるようになったいま現在でも、自慢する気にはなれないのかもしれない。  植田正治は「裏日本の自然や過去を謳《うた》いあげてきた映像の詩人」ということになっているが、わたしはそうは思わない。たしかに裏日本の四季や風物を撮りつづけてきた土着の写真家ではあるが、植田とすればそれらは自分を表現するためのたんなる素材にすぎないのではないか。山陰地方から出てこないのもその風土をこよなく愛しているためではなく、そこがこの「妖怪」にとってはいちばん棲息しやすい場所だからだろう。  いまでこそ薄れてきたが、わたしたち小説家の世界にはひと昔前までは、中央文壇と地方文壇とが歴然として存在した。中央へ出てジャーナリズムに乗らなければ作家として売りだせない、というようなこともあった。そういうのに乗るのを潔しとせず、古武士のごとく中央に背をむけて地方にたてこもる人も多かったものだ。 「写真界にもそれがあります。やはり東京へ出ないと一生うかばれないというようなこともあります。地方にいても写真雑誌の月例コンテストに投稿してこれが登竜門となり、中央のフォト・ジャーナリズムと接触できるようになる。そういうこともなくはないですが地方でグループをつくって例会をやり、撮影会を催して優劣を決め合うぐらいでは、とてもダメですね」  と植田は熱っぽくいう。  それなのに植田自身は、頑として山陰地方から離れようとしない。それは何も「裏日本の自然を謳いあげる映像の詩人」に徹しているからではないのである。 (二)  植田正治は大正二年三月、鳥取県境港市末広町で生まれ、いまもここに住んでいる。  境港はここに書くまでもなく、山陰唯一の良港で東は美保湾に面し、西には中江瀬戸によって海とつづく半塩湖の中海《なかのうみ》がある。和船交通時代から「伝馬不要」の地とされ、そのころからの旧家がならび、当時の習俗や民芸などもいまなお伝えられている。  植田家は代々、この町で下駄の製造と小売りを営んできた。植田正治の母親の「みや」が一人娘で、父親の常寿郎は入婿《いりむこ》だった。  正治には兄一人、妹二人があったが、薄幸にも三人とも夭折してしまった。だから正治は一人っ子でかわいがられ、この子にも死なれてはと大事に育てられた。  だが少年時代は陰鬱だった。ムンクが五歳で母を、十四歳で姉を結核のため失い、彼自身も病弱のため、病者の官能と死を凝視する北国の少年として成長したのに似ている。  正治もまた、兄妹三人を失って精神的には「病者」であった。旧家の黒ずんだ大黒柱で鳴るボンボン時計、兄妹の位牌がならんだ金ピカの仏壇、他家の子どもたちがたのしそうに見ている絵本にさえ、何かしらおどろおどろしたものを感ずる多感な子であった。  彼は県立米子中学にかよった。五年後の昭和六年、卒業が近づくにつれて、東京の美術学校に学び洋画家になりたくなった。真綿でくるむようにして育ててきた両親は、手もとにおいておきたいので上京を諦らめさせようとし、好きなものを何でも買ってやるからとご機嫌をとった。中学三年ごろからカメラをいじっていたので正治は、 「それでは舶来のカメラを買っておくれ」  と半ば冗談にねだってみた。  両親は承知した。が、境港にはまだ高級カメラなど販売してはいなかった。フィルムを売っている薬局に依頼して、東京からドイツ製のテッサー付のピコレットをとりよせてもらった。一カ月かかってようやく届いた。  価格は七十円だった。東大出の官吏の初任給が五十五円の時代である。それでも下駄屋夫婦はよろこんでその七十円を出した。  このピコレットの魅力には勝てず正治は一年間、家業を手伝うかたわら夢中で撮影してまわった。自転車に乗って遠出し、雲や海の風景、出雲地方の風物などを好んでカメラにおさめた。  昭和七年一月、東京から出ている雑誌アルス「カメラ」に浜辺で少年を撮った八ツ切判を投稿、これが初入選となった。その作品が掲載された新年号を抱いて寝たほどだった。  父親の常寿郎がそれを見て、 「うちで写真館を経営させたら、いいかもしれんぞ」  と言いだし、正治もその気になった。  鳥取県中部の赤碕という町の素封家で、塩谷定好という写真家がいた。日本光画協会系で日本蝋燭の油煙を利用した独創的な修整法を考えだしたりした人で、彼の作品は毎月の写真雑誌の別刷のアートページを飾っていた。郷土にこういう先輩がいることを正治は誇りに思い、ひそかに憧れていた。  そのころの日本の写真界では「雑巾がけ」と称する技法が流行していた。これは軟調に仕上げたストレート印画紙の上に黒の油絵具をぬりつけ、ハイライトは脱脂綿に溶き油を含ませたもので白く抜きとり、シャードの深いところはコンテの粉末で描きだすもので、正治も必死にまねてみた。  つまり、写真のもつグラデーションを正確に再現するのではなく、個人の主観によっていろいろと手を加え、べつのトーンなり形体なりをつくる、絵画と写真の合いの子みたいなものだったのである。  さて——写真館を開業するとなるとやはり、一度は東京で修業してこなければならなかった。手放したがらなかった両親も折れざるを得なかった。  オリエンタル写真工業が新宿の下落合に、オリエンタル写真学校を併営していて、地方の営業写真館の息子とか新聞社のカメラマンの子弟が多く学んでいた。ここの第一期生には、報道写真の第一人者となった田村茂がいた。植田正治は第八期生で、級友は五十人ほどいた。が、この五十人のなかには、のちに写真家として名を成したものはなく、地方へもどって町の写真屋でうもれてしまった。林忠彦もここで学んだが、植田よりは少し後輩に当る。  三カ月で修了し、日比谷公園前にあった美松デパートの写真部に就職した。就職というより月給はもらわずの、実習みたいなものだった。  この写真部にも三カ月いただけで、すぐに境港へ帰った。下駄屋の一部を改装して「植田写真館」の看板をあげた。東京の写真学校を卒業したというので近所の人たちからは羨望の眼で見られるし、父親も、 「下駄屋よりは写真屋のほうが文化的地位があるんだ。息子は偉くなってくれた」  と自慢ばかりしていた。  ときに正治は若冠十九歳。  境港には同業者が三軒あった。  その三軒のスタジオにはまだ、夜間撮影ができる照明装置はなかった。  それを設備した「植田写真館」が、二階の待合室の床がぬけるほど客でいっぱいになり、もっとも繁盛するようになった。  客の大半は近郊の農村の男女だった。農村や漁村の人たちはお盆とか正月にはおめかしして境港へ遊びにくる。町で映画を観て、食堂でカレーライスを食べ、写真を撮ってもらってまた帰ってゆくのをいちばんの楽しみにしていた。  だから彼らは美男美女に写してやらなければならなかった。どんな醜女や馬面《うまづら》の若衆でも、腰のまがったおばあさんでも、そうしないとよろこばないし、あの写真屋は下手くそだということにされてしまう。  現代でも昔でもそうだが、 「写真を撮ってやるからこちらを向いて」  というとたいていの人が、直立不動の姿勢をとって肩をいからせシャッチョコばってしまう。とくに子どもたちはそうで、レンズを息をつめて睨《にら》みつけたりする。  これが写真館で撮ってもらう場合は、さらに極端になる。人間だれしもよく撮ってもらいたい見栄や自尊心をもっているからだが、植田はこれを「人間らしい素朴さ」と名づけて、この素朴さをむしろ自分の作品では強調するように心がけた。つまり、自然でない営業写真の顔や姿をそのまま活かそうとしたのだ。  そのころの彼は、精密な写実と深い精神表現をもとめて独自の道をすすんだ岸田劉生の油絵に惹かれていた。とくに代表的な、娘の麗子を描いた一連の肖像画の『麗子像』が心がふるえるほど好きだった。冷やかな筆致のなかにも力強さと東洋的な深みがあるその美しさを、植田は写真でも表現できないものかと思った。彼がめざす「素朴さ」を強調するのもその一つの方法であった。  同時に、このころから植田正治のなかでは得体の知れない妖怪がうごめきはじめた。 「こんどは何を撮ろうか」  と考えながら彼がその何かを捜しているとき、どういうわけか幼年期に見たおどろおどろした絵本のことや、大黒柱のボンボン時計や、兄妹の葬式にきた僧侶の姿などがまがまがしく脈絡もなく思い浮かんでくるという。  それらが瞼の内側で幽霊のように飛び交ったり、どこへともなく消えていったりする。それは超現実主義のサルバトール・ダリの絵にある、実際にはありえないがしかし現実のどこかにありそうな、ふしぎな幻想の世界に似ている。  植田が「人間らしい素朴さ」を作品にしようとすればするほど、こうした幻覚が密着してくるのだ。すると写真を絵のようにデフォルメしたくなってくる。  一介の田舎町の写真屋の頭のなかに、つねに奇怪な幻想や幻覚がもやもやしていると知れば、美男美女に撮ってもらいたくてシャッチョコばっている客たちは、精神病者ぐらいに思って逃げだしたかもしれない。事実、その客たちの顔を植田は、ルソーやムンクや岸田劉生やダリの傑作のなかに置いてみるのであった。 (三)  植田正治は二十二歳の春、三つ年下で近くの法勝寺村の質屋の娘・紀枝《のりえ》さんと結ばれた。  平凡な見合結婚であった。  彼は、結婚はこんなものでいいと思っていた。妻とか家庭とかには特別の期待はしていなかった。妻や家庭を愛していない、大事にしていないというのではない。  男はだれでも一度は結婚するものだし、生活してゆく上において妻は絶対に必要だし、どうせ必要なら結婚は早くすませたほうがいい。そして、そういう俗事の煩わしさはすぐに忘れたいのであった。  植田には「写真界のキリスト」というニックネームがつけられている。およそ女性とは無縁の聖人みたいな男だという意味である。  それを認めて彼は卒直にいう。 「妻をもらってからは恋愛したことありませんね。恋愛したいとは思わないし、〈こういう方面〉からの若さを吸収する必要は感じないし、わたしの写真にはそういうことは無関係です。わたしがいままで写真に没頭してこられたのはむしろ、家庭にモメゴトがなかったからです。安穏《あんのん》な家庭があったからこそ、そういうことに煩わされず、全精力を写真に傾注できたんだと思っています」  要するに彼は、営業写真と家庭はあくまで生活のためのものであってそれ以上のものではない、と考えてきたのだ。それはそれとして大事にするが、彼のなかには妖怪を育てているもう一人の自分がいたのである。  オリエンタル写真学校のところで述べたように、五十人いた同期生のなかでのちに写真家として名を成したのは植田正治以外にはない。何百人といたはずの先輩たちのクラスからも出ていない。  彼にだけ傑出した才能があったからだとは思わない。みんな技術的には伯仲していたと思う。それでも大成しなかったのは、みんなは写真学校を卒業してからはそれぞれの故郷にもどって、写真館を開業して営業写真を撮って生活することに安住してしまったからであろう。植田のように「結婚という煩わしい俗事」などはやいとこ片付けてしまい、ほかの女にも溺れず、ひたすら家庭は安穏にしておいて全精力を自分の写真に傾注した——それほど必死になったものはいなかったのだ。  彼は、米子写真写友会というアマチュアのグループに加わり、写真館が休業の日は必ずカメラをさげて外出した。妻子をつれてピクニックをかねて撮影しにゆくこともあった。彼は、箸をもつとき以外はカメラを手放さなかった。  そのころの彼の生きがいは、東京の写真雑誌に応募して入選することだけだった。闇にむかって鉄砲を射っているようなものだ。当ってくれれば幸いと思うほかはない。文学を志すものが地方にあって同人雑誌に作品を発表し、中央の高名な文芸評論家が新聞や文芸雑誌にとりあげてくれるのを待っている。それと同じような気持だった。  植田は昭和八年にはアルス「カメラ」に一回入選、「アサヒカメラ」の一等を連続二回とって銀カップをもらった。また、この年に創刊された「写真サロン」にはそれから十年間、月例コンテストに作品を送りつづけた。当時の賞金は「アサヒカメラ」で一等十円、「写真サロン」では特選五円、準特選三円、入選が二円であったという。  十二年になると同じ中国地方にいる広島の野村秋良、正岡国男、岡山の石津良介らの作品も「写真サロン」誌上で見かけるようになった。植田は彼らと語らい「中国写真家集団」を結成し、年に一度は東京展を開催することにした。石津良介は紙問屋の長男、正岡国男は米屋の息子、野村秋良は洋服屋をやりながら写真に凝っていたが、のちに広島に投下された原爆のために死亡した。  この東京展は昭和十二年から、昭和十五年まで四回、日本橋の小西六ギャラリーで一人十点ずつ出品して開催された。  四人はそれぞれ感覚の異なるものを撮っていたが、ローカル色は共通してあった。とくに第四回目に出品した植田の『茶谷老人とその娘』は絶讃をあびた。  これを機にようやく、写真雑誌の口絵写真の注文がくるようになった。植田は、 「これで郷土の先輩の塩谷定好さんの、足もとぐらいには近づけた」  とよろこんだが、戦争は激化してゆく一方であった。 (四)  太平洋戦争中はさんざんであった。撮りたいにもフィルムは品不足になるし、中国写真家集団も解散、疎開先で植田はこれまでの貴重なネガをぜんぶ紛失してしまった。  終戦の翌年、朝日新聞主催の「朝日写真展覧会」公募展の社告を境港でみて、 「ああ、また写真が撮れるようになったか、ありがたい!」  と叫び、涙でその活字がかすんだという。  さっそく植田は、田舎のオデコの広い少女をモデルにした『童』を応募。正面にその少女がいて背景は何もない空だけの、変哲なさそうな作品だったが、これが特選を獲得した。植田は三十三歳になっていた。  以来、再びエネルギッシュな活動をつづけた。写真家集団「銀竜社」に石津良介や緑川洋一らと参加、二科会の会員にもなった。  地方へ疎開していたり戦地からもどってきた写真家たちの大半は、東京に居を定めて活躍するようになった。が、植田は同じように活躍はしても、依然として、 「山陰以外では写真は撮らない、そういうのが世の中に一人ぐらいいてもいいだろう」  という気で境港から離れることはなかった。  戦後の写真界は、焼跡の浮浪児やガード下のパンパンガールや暗い楽屋のストリッパーなどを撮る、いわゆる社会派が主流を占めた。植田はしかしそれにおもねることなく、山陰の風物や子どもたちを撮りつづけた。  昭和二十六年の第二回富士フォトコンテストに、彼ははじめての『砂丘のヌード』を出品した。鳥取の砂丘で撮影したもので、これが三等に入賞したが、それ以後はヌードを撮るのを断念した。  ——なぜか? 「戦後はどの写真家も、と言っていいほどヌードを撮りだしたでしょう。第一にそれがたまらなく厭だったし、砂丘のヌードを撮ってみて自分には、女性の美しさとかヌードというものを撮る才能がないことに気づいたんです。美女のモデルを雇って撮影している写真家を、うらやましいと思いますよ。こういうポーズをとれ、顔を横にしろ、と命令して自分に満足する型にもってゆくことができるんですからね。  ところがわたしには、それができないんですよ。他人に注文つけなければ撮れないようなのは、自分には撮れないんです。こういうふうに撮りたいと思っても、他人さまには他人さまの意志があるでしょう。だから、女性を撮れといわれても、その女性に命令できないし、とくに美しい女性はダメです」  と植田正治は苦笑する。  植田正治の作品を前にしてまず目につくのは「空間」である。  それも、じっと見つめていると、悪魔か何かがうじゃうじゃいそうな、そんな気味のわるい空白である。  たとえば、田舎町の理髪店や古びた芝居小屋を画面のまん中にぽつんと置いているが、それをとりまく空間がなんともやりきれないものをかきたてる。そのやりきれなさが不気味なのである。  彼自身はこれを「間」とよび、「空間処理」だともよんでいる。彼はこの「空間」で、自分のなかにある潜在的なものを吐露している。能弁に語っている。空間にものを言わせているのだ。が、それも意識的にではなく、「身から出たものなんですかね。カメラを構えたときにはすでに空間処理ができている」のだそうだ。  つまり、植田は自分を語りたくて空間を大事にしているのであり、その「間」のなかに女性の裸があったりしてはぶちこわしになる、と恐れているのかもしれない。 「何もないものの怖さを撮りたい」  と彼はいう。何もないもののその怖さや不安を撮るためには女の裸は邪魔なのだろう。  三年前、彼は米子に三階建のビルを建てた。一階が写真材料店。二階が「チャランカ」という喫茶店。三階は十五坪ほどのギャラリーになっていて、絵画展や写真展をやりたい人のために貸している。  彼は洋蘭の栽培が好きだ。温室にはみごとに育てた洋蘭が五百鉢もある。朝はやく起きて温室へ飛びこむ。いろとりどりの洋蘭をいじってのち「チャランカ」へゆき、客になって珈琲をすする。  そこヘアマチュアのカメラマンたちが気ままに集まってくる。若いのもいれば頭の白い人もいる。つれだって撮影に出かける。彼は自分では場所を選ばない。計画をたてては出てゆかない。みんなが行くところにノコノコついてゆくだけだ。  東京の写真家たちみたいに、助手をつれて三脚をかつがせてゆくというようなこともしない。「三脚をたてるとたった一つの視点しかとらえられないでしょう。それが最高の視点かもしれないが、もっと自由に多角度から視てみたい」からである。  写真家は孤独でないと自分が出せない、とはよく言われることだが、植田はみんなとガヤガヤ出かけていっても孤独になれるという。孤独になると四周のどこを見ても写真になる気がしてくる、という。  アマチュアのカメラマンたちが「ここは写真になりませんね」と敬遠する場所でも、彼には興味がある。写真にならないというのは既成の写真観念から出ているものだから、と彼は自分にいう。そして、その独自の「空間」でじっと待機している。いつまでも根気よく待ちつづける。  すると、田舎道のかなたからだれかが歩いてくる。やがて彼の「空間」のなかにはいってくる。見も知らぬ人でもシャッターをおしたい衝動にかられる人物であれば、「撮ってもよろしいですか」と声をかける。  たいていの人がちょっと照れたように微笑して、写真館で撮ってもらうときのシャッチョコばったポーズになる。それらの人物というのがオデコの広い少女や、田舎々々した青年や、頭の鉢のでっかい少年——あのルソーやムンクや岸田劉生の絵にある人物そっくりの顔なのだ。  撮りおわると植田はさっさと帰ってくる。  酒もタバコもたしなまず、夜は九時になると布団にはいってイビキをかきはじめる。  東京に住まないのはですネ、と寝る前に彼はちょっぴり、わたしに本心を洩らした。 「住まないのは東京の波をかぶりたくないからですよ。東京では売れる写真を創らなければならないでしょう。わたしも中央に出ていれば、やっぱり女性のヌードも撮っていたでしょう。けど、それだけ早くダメになっていたでしょうね。地方にあって好きなように撮っていたいんです。しかし題材はローカルでも、感覚は一歩もひけをとらないつもりです。ローカルカラーで売りたいのが目的ではなく、ローカルカラーは付随して出てくるものなんですよ。……では、おやすみなさい」  人を食ったみたいに、すぐにイビキをかきはじめた。  おかしな写真家である。  写真を撮りはじめて四十年、植田正治は裏日本の自然を謳いあげる映像の詩人なんかではなく、題材はローカルでも一歩もひけをとらぬ感覚で自分にのみ「レンズ」を向けて、自分のなかのまがまがしい妖怪だけを追いつづけているのだ。  彼は決して「写真界のキリスト」ではない。「写真界のアンリ・ルソー」だとわたしは言いたい。  植田は『小さな伝記』を撮りすすめたいという。「わたしの前にあらわれて通りすぎてゆく、何もかかわりない人たちだけれども、わたし自身の伝記になるし、その人の伝記のひとコマになると思う」からだという。  彼はいま、出雲大社とその周辺もせっせと撮りつづけているが、『小さな伝記』にしろ出雲大社にしろ、それらの作品にもやはり彼の妖怪がひそんでいることだろう。(昭和四十九年四月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和四十九年「音のない記憶」(日本カメラ社)、「出雲」(毎日新聞社)。五十年日本写真協会年度賞受賞。五十三年「砂丘・子供の四季」(朝日ソノラマ)、「松江」(山陰放送)。五十四年写真展「ベス単西欧紀行」、「町一九六〇・松江」。五十五年写真展「風景の光景」「人のいる風景—ブレッソンと植田正治の二人展」、「新出雲風土記」(集英社)。五十六年「ベス単写真帖白い風」(日本カメラ社)。五十八年昭和写真全仕事(朝日新聞社)。 [#改ページ] 入江泰吉《いりえたいきち》「諸行無常を撮る人」  二月早春、久しぶりに奈良へ旅した。  入江泰吉さんを訪ねるためで、その日は京都も奈良も粉雪が舞っていた。寒さはきびしく大和三山は薄墨色にけぶり、由緒ある堂塔も古い民家の屋根も斑《まだら》雪で白くなっていた。  久しぶりの古都の旅情をおぼえるより、わたしは入江作品のなかを歩いているような気になった。いまは彼の作品のなかにしかほんとうの奈良はない——歩いているとなおさらその感慨が深く、今日の寒風も粉雪も入江作品らしく見せてくれるためのものに思えてきた。  入江さんの住居は東大寺の旧境内、千二百年も昔に唐の鑑真が造営した戒壇院の石段下にあり、こぢんまりした武家屋敷みたいな趣があった。このあたりは風致地区に指定されていて、住宅でも庭の一木一草をうごかしたり、塀を修理したり、建物を改築するにもいちいち許可が必要である。  はじめてお目にかかる入江さんは白髪ながら、童顔がのこっているほっそりした人だった。黒っぽいTシャツの上に、モダンな千鳥格子のブレザーコートを無造作にひっかけていた。日露戦争が終結した直後の明治三十八年十一月の生まれ、七十三歳だが古老を感じさせない、つねに目標をもっている人の若々しさがある。  これまでに撮った仏像が三百体の一万枚、古寺が五十カ所で三万枚、大和路は五万枚にもなるが、これからも撮りつづける不撓《ふとう》の意欲が、そうした若々しさを感じさせるのだ。それでいて、どことなく浮世ばなれした飄逸《ひょういつ》さがただよっているのである。 「けさもね、そこらをひとまわり走ってきたんですよ」  と、彼はごく平凡なことから話しはじめた。健康のため朝のジョギングでもやってきたのかな、と思ったらそうではない。わたしは午後一時に訪ねる約束をしていた。粉雪が降りだしたので入江さんはその時間まで、雪がちらつく日に撮りたいと思っていた場所へいってきた、と言っているのであった。  彼は奈良を自分の庭みたいにしてそこだけを作品にしているので、ほかの写真家たちのような起伏はない。ある写真家は新しい試みとして、ヌードモデルをアメリカの荒野へ伴っていって撮ってきた話をしてくれた。またある写真家は飛行機をとばしてエレベスト山頂の決死の撮影に成功した苦労話を、またある写真家はヨーロッパを放浪しながら作品にしてきた哀歓を語った。そのように多くの写真家たちは、新しく脱皮することへの模索や努力をたゆまずくりかえしているわけだが、入江さんだけは違うのである。  アメリカへヌードモデルを伴っていったこともなければ、ヨーロッパを放浪してみて何かをつかんだ経験もない。達観しているというべきか、とにかく入江泰吉さんは悠々自適なのだ。  菊池寛賞受賞記念に刊行された、彼の『大和路』(「太陽」平凡社刊)を見ていたら、今日出海氏が「古色大和」と題する序文を寄せていた。そのなかの、 「奈良では六十年前など昔の部類にも入らぬということだ。ここでは千年以上も前のことでなければ話題にならぬらしい」とか「入江さんの仕事は無言のうちに美を説き、自分(人柄)を語り、古色大和を描き出して余すところがない」  といった文章にふれてわたしは、なるほどなあと思った。  入江さんは「この感覚はもう古い」「こちらの試みのほうが新鮮だ」とカンカンガクガクやっている現代の写真界の現象にはこだわっていないのだ。古いだの新しいだのと口角泡をとばして論争してみたところで、戦後まだ三十数年しかたっていないではないか。千年以上も昔の歴史をひたすら撮りつづける入江さんからみれば、そんなのは愚にもつかぬことなのかもしれない。 (一)  ——入江泰吉は、現在の住居よりすこしはなれた、奈良市片原町に生まれた。八人兄弟の六男坊である。  父の芳治郎はもとは大阪の開業医だったが、それを嫌って奈良にきて古美術いじりをはじめ、老舗の呉服屋の一人娘であった「入江さと」と結婚、婿養子になった。  だが、他人に頭をさげるのが苦痛だから医者もやめたくらいの頑固者だ。呉服商にはなおさらむくわけはなく、いつも客や問屋と衝突しては怒らせてしまった。好きなのは古美術品の鑑定や修理で、これをやらせているときは機嫌がよかった。  八人兄妹の長男は勤めるかたわら水彩画を描き、次男は東京は上野美術学校の鋳金科に進学、三男は高野山大学を卒業して僧侶となった。しかし、六男坊の泰吉が小学生になったころには、父親がそんなふうだから老舗《しにせ》とはいえ家業の呉服店はかたむき、一家は経済的にも窮してきた。そのため泰吉だけは、長兄と同じく画家を夢みていたが、片原町の飛鳥尋常高等小学校の卒業証書をもらったにとどまった。  それでは幼いながら実社会へ出て、角帯しめて反物を行商したり、年季奉公の小僧になって苦労したかというとそうではなく、何となくすごしていたそうだ。夏休みに奈良にもどってきた次兄に「ぼくは洋画家になりたい」と相談したら、「ちょっとうまく描けるぐらいではダメだ。油絵をやるにはパリへいって勉強してこなければならん。そうでないと一人前にはなれない。諦《あきら》めろ」とたしなめられ、泰吉は洋画家をめざすのもあっさり放棄してしまった。  水彩画を描いていた長兄が、さかんに輸入されていたベストコダックというアマチュア用のカメラを購入した。一枚レンズの蛇腹式の小型カメラでロールフィルムを使用するので便利だった。これが輸入されたのは大正元年からだが、伊藤逸平氏の『日本写真発達史』(朝日ソノラマ刊)によると、それから間もなくの第一次世界大戦が勃発したころには国産のリリー二号が発売され「国産カメラ海外輸出の嚆矢《こうし》」となったそうだ。  泰吉は、撮影に出かける長兄についていったり、押入を暗室にしての現像や引伸しを手伝った。長兄が仲間たちとカメラ同好会をつくっていたのでその集まりに加えてもらった。ときにはベストコダックを借りることもあった。  少年時代の泰吉にとって、奈良は「いろんなものがある遊び場」にすぎなかった。東大寺の大仏さんも公園の滑り台みたいなものだし、南大門は鬼ごっこをする場所であった。猿沢の池には手製の舟を浮かべにいった。  三月十二日の二月堂のお水取りの夜、バチバチ燃えさかる籠松明《かごたいまつ》の、火のついた片木《へき》が飛び散る。それを子どもらと喧嘩しながら奪いあうのが、おもしろくてならない。放し飼いにされている鹿を追いかけまわし、いたずらするのも悪童らのたのしみであった。  真夏の夜、ひっそりした伽藍《がらん》にキモだめしにゆく。埃《ほこり》をかぶった古めかしい仏像の、両眼だけがおどろおどろしく光っていた。そんな仏像には両掌を合わせておがむより、おどけ顔になってアカチョコベーと舌を出した。  境内の栗の樹によじのぼって栗をたたき落としているところを、こわい荒法師のような坊さんに見つかり、おりるにおりられず泰吉は泣きだしたこともあった。  だから長兄のベストコダックをいじるようになったといっても、まだ十代である。奈良の風物にレンズを向けても、奈良そのものを撮っている意識はまったくなかった。  昭和元年、二十歳のとき泰吉は大阪へ出ていった。南区鰻谷で小さなDP屋を開業した。  この鰻谷は心斎橋筋に近く、宗右衛門町の料亭で左棲をとる南地の芸妓あがりの妾宅、道頓堀の芝居小屋に出ている役者たちの住宅が多い一角であった。当然、そういう役者や芸者のスナップ写真の現像や引伸しの注文が多かったが、なにしろ昭和恐慌といわれた不況の時代だし、左翼運動が大弾圧されていた血なまぐさい時代でもあったから、食うのがやっとの収入しかなかった。  彼は、かたわら商業写真をはじめた。今日のようなモダンなそれではなく、商人の町なので商品そのものをカタログみたいに撮らされるだけであった。  多少の資金もできて、店頭に新型カメラも陳列できるようになった二十八歳のとき、五歳年下の光枝さんと結婚した。 (二)  昭和十一年、入江泰吉は写真材料店をつづけながら、「光芸クラブ」という同好会を主宰。その仲間が二十人ほどになった。  昭和初期の左翼運動は、芸術の分野にも大きな影響を与えていた。大正ロマンティシズムを否定するプロレタリア文学が勃興、絵画や映画演劇界でもその傾向はつよまり、それがまた弾圧と右傾化に対する知識人たちの抵抗でもあった。そして、第一次世界大戦後のヨーロッパにおこったアプレゲールといわれる新しい芸術感覚が、ダダイズムや超現実主義を生み、これが日本の写真界にも波及してきて、新興写真運動というかたちになって出現しはじめた。  心斎橋にあった「丹平クラブ」に拠る安井仲治や上田備山、棚橋紫水らもそれに影響されていた。とくに安井仲治は関西の大御所とほめそやされる存在で、入江泰吉は彼を「光芸クラブ」に招いて例会をひらいたり作品批評をしてもらったりした。  また、「光芸クラブ」で野球チームをつくり、「丹平クラブ」チームとも親睦試合をおこなったこともある。  当時、岩宮武二氏は阪急百貨店の社員だったが、朝日新聞社主催の『全日本写真連盟公募展』の特選になり、安井に認められて「丹平クラブ」に加わり頭角をあらわしつつあった。  化粧品の資生堂の社長だった福原信三は、アマチュアの大家といわれる存在であり、日本の写真界にのこした功績も大きい。彼は大正十三年に誕生した日本写真会の会長になり、左翼を敵視する当時の風潮もおそれず『ロシア写真協会展』を東京資生堂で開催したこともあり、実弟の福原路草とともに「光と影の会」なる同好会も主宰していた。福原路草も兄に負けず劣らずの力量があり、ロマンチックな美しい写真を撮っていた。 「ぼくは福原兄弟の作品にあこがれ、いつかはあんな作品をものにしたいと思っていました。安井仲治さんのは〈黒焼きの丹平〉といわれましてね、明るい自然を撮っても暗い調子に仕上げてしまう。これには不満でぼくはついてゆけなかった。教えられる点はたくさんありましたけどね」  と泰吉は言い、そのころの彼は風景作家であった。  だが、まだ無名である。  彼より四歳年長の木村伊兵衛は、昭和七年に野島康三、中山岩太、伊奈信男らと月刊写真雑誌「光画」を創刊、大いに気を吐いていた。泰吉より四歳年下の土門拳氏は、そのころ名取洋之助の日本工房にいたが、昭和十三年に「婦人画報」の依頼で撮った陸軍大臣宇垣一成をアメリカの「ライフ」に投稿、戦前の日本人ではじめてその誌上を飾る光栄に浴して有名になった。  ふしぎな宿命が待ちうけていた。  入江泰吉にとって土門拳はライバルとなってゆき、拳も同じものにカメラをむけるときがきた。  大阪は四ツ橋にある文楽座を観にいってから、泰吉は文楽人形に興味をおぼえ、その人形のさまざまな表情や舞台をよく撮影していた。ある日、舞台がはねてから楽屋の人形部屋をのぞいてみた。だれもいなくて、たくさんの人形だけがひっそり並んでいた。  そのときの名状しがたい衝撃を、彼はこんなふうに語る。 「薄暗い電灯がひとつ、ぽつんとあってその下に、いましがたまで舞台で操られて生きもののように愛憎を演じていたのが、まるで魂が抜けたみたいになって並んでいるんです。どの人形も虚しさを訴えているようだし、その表情には人間以上の妖しい美しさとか孤独感があるのを、ぼくはひしひしと感じたんですね。しばらく茫然と見つめていました」  それは彼自身の、無意識の古い記憶をかきたてたのでもあった。少年時代の夏の夜、ひっそりした伽藍にキモだめしにゆくと、埃をかぶった古めかしい仏像の、両眼だけがおどろおどろしく光っていた。そんな仏像に彼は、子どもごころにも惹きつけられる何かを感じたからこそ、おどける顔になってアカチョコベーしたのであり、人形たちの魂が抜けている表情に見たものも、それに通ずる何かであったのだ。  泰吉は、憑かれたように文楽人形にレンズを向けた。その一枚である、吉田文五郎が操っている「お三輪《みわ》」を、昭和十五年に全日本写真連盟主催の「世界移動写真展」に出品した。  入選作品は日本郵船が新造した客船ブエノスアイレス丸のサロンに飾り、日本を世界にPRする目的もかねて寄港先で、一般市民にも公開するという。そして、一等賞受賞者には副賞として世界一周旅行権が与えられることになっていたので、全国から二千点の応募作品が集まった。うち百点が入選、そのなかから一等賞に厳選されたのは入江泰吉の『お三輪』だった。  ようやく入江泰吉の名は、写真家たちに知られるようになった。いわば、これが彼のデビュー作であり、夫婦して感泣した。  ところが、世界一周旅行に出かけることはできなかった。日米会談は進展せず「日米開戦は時間の問題、太平洋の波高し」の風雲急をつげる状態になってきたため、邦人の海外渡航は禁止されたのであった。そして翌年十二月八日、日本海軍のハワイ真珠湾奇襲攻撃によって、太平洋戦争の幕は切っておとされたのである。  その昭和十六年、泰吉は毎日新聞社が毎年開催していた日本写真美術展に、同じく『文楽』を出品して文部大臣賞を受賞。「これによって作家としての地位を確保した」自信がつき、大阪の高島屋デパートにおいて『文楽』を中心とした初の作品展をひらいた。  一方、そのころ土門拳もまた、東京から大阪まで出かけていって四ツ橋の文楽座で、さかんに人形を撮っていたのだ。どちらが先に文楽人形に眼をつけた、と言えるようなものではなく、これが二人の宿命なのである。  名取洋之助の日本工房を去った拳は、ほかのプロ写真家たちのように報道班員を志願して第一線へゆくつもりはなく、さりとて国策にそった銃後国民を作品にして生活するのも厭で、そんな現実に背をむけて古寺巡礼にとりつかれた、京都|太秦《うずまさ》の広隆寺、奈良の中宮寺へいったのがきっかけで弘仁仏像を撮りはじめ、それら仏像の表情に「戦争に反対して立ちあがる力はなく、軍国主義者らの前で沈黙するしかない日本の知識階級を見る思い」になるのだった。  弘仁彫刻からさらに拳は、文楽人形にも魅せられてゆき、ハワイ真珠湾奇襲攻撃が開始されたその日も四ツ橋の文楽座にいた。仏像や文楽ばかり撮影する彼は非国民よばわりされたが、あすには自分にも召集令状がきて戦場へつれてゆかれ、草むす屍《かばね》となるかもしれぬ身——そう思うと今日かぎりの命に思えて、フィルムが尽きるまで撮りつづけたのであった。昭和十五年から十八年までに撮ったそれらの作品は七千枚にもなっていた。 (三)  戦時中の入江泰吉は、男手が少なくなっていた鰻谷の町内の防空班長におされる一方、政府情報局が出版していた定価十銭の「写真週報」の関西支部写真班の嘱託を命じられた。  もはや物資欠乏で売るカメラもフィルムもないので開店休業の毎日だが、この嘱託の仕事をしていると自分が使うフィルムだけは入手できるのでありがたかった。「写真週報」は戦意高揚のための農村の増産風景とか、町の防空訓練の実態とかを撮らせた。昭和十七年に安井仲治が病歿したあと、泰吉にとって刺激になるのは「丹平クラブ」の上田備山や棚橋紫水との交遊で、土門拳が文楽座にきていても交流は皆無であった。  土門拳もその一人だが、木村伊兵衛や濱谷浩らのプロ写真家たちを、関西の連中は嫌っていた。そういう気風が伝統的にあったし、東京の写真雑誌の月例コンテストに応募するものはほとんどいなかった。  泰吉もまた例外ではなく、こんなふうに言う。 「安井仲治さんも生涯、アマチュア写真家でしたが、写真界に大きな足跡をのこしましたよね。そういうふうに関西には純粋に写真活動するムードがあり、それでもって食ってゆこうとするのを毛嫌いしました。だから大阪の連中は木村さんや土門さんを認めなかったわけで、それだけにアマチュア写真家は関西のほうが多士済々でした。しかし、戦後になってそれが、関西ではプロが多く育たない大きな理由にもなったんです」  わたしは、この写真家物語で岩宮武二氏をとりあげたとき——地方にあって写真家を志しているものには大なり小なりの「東京コンプレックス」がある。写真ジャーナリズムに迎合せず地方にあって孤高の姿勢を持しているのを潔しとするが、そのくせ中央の動向が気になっては東京のほうにばかり向いている。戦後の一時期、岩宮もそうで、ゴマメの歯ぎしりをしていた——という意味のことを書いたが、関西伝統のアマチュア精神も戦後となると、このように変貌してゆくのである。  ところが、入江泰吉だけは、戦後になっても依然として変わらなかった。  昭和二十年三月十日のB二九による東京大空襲につづき、十四日夜には大阪が十三万戸を焼失する大空襲をこうむった。入江夫妻は着のみ着のままで御堂筋へ避難、点々としている焼死体といっしょに一夜をあかして翌日、ヘトヘトになりながら奈良へもどってきた。下宿屋の二階で、家財道具ひとつなく寝起きしているうちに八月の敗戦の日を迎えた。  戦争が終ったことは、とにもかくにもうれしかった。だが、再び大阪へ出ていってカメラ店をはじめるには資金がない。一から出直す気力がなく虚脱状態である。そうかといって、自分にできる仕事はほかにない。泰吉はちょうど四十歳であった。  生活の不安や仕事についての焦燥感に追いつめられ、夜も眠れなかった。タバコ好きの彼にはタバコさえ欠乏していて、じっとしておれなくなると町へ飛びだして行き、あてもなくさまよった。気がついたときには父の芳治郎がやっていたように、骨董屋をひやかしそば猪口《ちょこ》や伊万里の皿、根来《ねごろ》の椀などをいじっていた。古本屋をのぞく日もあった。  一軒の古本屋で和辻哲郎の名著『古寺巡礼』と亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』を見つけた。この二冊が家財道具ひとつない佗《わ》び住居にある唯一の蔵書となったが、寝ころがって読んでいたのが、起きあがって正座しなおすほどに感動した。 「地元でもあり、子どものころから見なれている寺ばかりが出てくるのに、読んでゆくうちにはじめて見る寺のように思えましたね。和辻さんも亀井さんも宗教的な眼で、その建築美や仏像を見すえておられるんです。仏像というものは、それまでは彫刻にすぎないと思っていたのに、あれは偶像なのだと教えていらっしゃる。生活の不安、虚脱感、虚無感、仕事についての焦燥感にいたぶられていたぼくの心に、一条の光明がさし込んでくる思いになりました」  そして、この二冊に誘われて古寺風物をたずねあるくようになり、  いかるがの里を訪ねたとき、それは秋たけなわな季節であった。近鉄筒井駅で電車を降りたが、豊かに稔った黄金いろの稲田がひろびろとひろがり、そのところどころ点在する古風な農家の切妻の白壁に、たわわに稔った柿の枝が影を落としていたりした。  稲田の果てに、やがて法起寺の、そして法隆寺の塔がかすかに望まれた。いかるがの里の、そうしたのどかな風景を眺めていると、戦争が、戦争の惨禍《さんか》が、まるで夢のように思えた。  法隆寺の松並木の参道を辿《たど》り、南大門に立って堂塔を仰ぎみた瞬間「ああ、法隆寺は残っている」と、口に出して、目頭が熱くなるのを覚えた。そのようにして、古寺風物を訪ね歩いている間は、いっさいの苦しみや悩みを忘れることができた。  と、彼は『私と大和路』に書いている。  敗戦の年の十一月には、彼の人生を決定する衝撃的な場面に出会った。東大寺の三月堂をおとずれたときのことである。  その日はいまにも雨になりそうな、どんより曇った空模様で風も冷たかった。ふと二月堂裏参道のほうを見ると、こちらに向かってくる異様な行列がある。青い詰襟服の一団が四つの担架をかついでくる。どの顔も生気がなく疲れきった足どりだった。  その一行も異様だが、四つの担架にのせられているものがまた何ともいえず不気味であり、白布にくるまれた人間のようであった。 「おおッ、仏像だ!」  泰吉は気づいた。平和になったので三月堂の四天王像が、疎開先の山城の寺から帰ってきたのだ。かつがされているのは奈良坂にある、奈良刑務所の服役囚たちであった。  薄暗い礼堂の床に白布にくるまったまま寝かされた四体の姿を眼にして、泰吉が複雑な気持にひきこまれ心のなかで合掌していると、堂守《どうもり》たちの会話が耳にはいった。 「アメリカのB二九が京都や奈良を爆撃しなかったのは、賠償として仏教関係や古美術品を手に入れたいためで、おそらく三月堂の仏さまもアメリカへ持ち去るだろう」  と嘆いており、彼は愕然となったが、その瞬間が決意のときでもあった。 「わたしにとって、いや日本人にとって心の拠《よ》りどころであり、世界に誇れるすぐれた文化遺産だ。しかし、無条件降伏したのだから持ち去られても文句は言えない。そうだ、わたしは写真家ではないか。いまのうちにせめて写真に記録して残しておこう」  そうさせるために神仏が今日、自分をここに呼びよせられたような気もした。  だが、カメラがない。泰吉は眦《まなじり》をあげた。一刻を争うときであり、カネをかき集めて大阪へすっ飛んでゆき、ヤミ市で中古の手札の暗箱を買った。トンボ返りしてきてまず下宿屋にいちばん近い戒壇院の、天平時代の代表的仏像である四天王像を、乾板で撮った。久しぶりにシャッターを切るよろこびが重なり興奮した。そうなるのを抑えながら「自然のままを撮るのだ。肉眼で見た冷やっこい、暗い雰囲気もそのままに撮れ」と自分にくりかえしていた。  賠償の話はデマであったことがわかってきたが、泰吉は仏像から離れられなくなっていた。大阪にもどって再出発すべきか。ここにとどまるべきか。はたして奈良で写真で食ってゆけるだろうか。そうした迷いもあったけれども、眼に見えぬ巨大な大仏さまの手のようなものが、彼をがっちりつかまえて放さなかった。  東京の写真ジャーナリズムは敗戦と同時に復活しはじめ、翌二十一年一月にはアルスの写真雑誌「カメラ」が復刊され、福田勝治の裸婦の新鮮さに人びとは眼をうばわれた。これこそ自由の時代の象徴でもあった。  それ以来、世はヌード礼讃の時代になった観があり、カストリ雑誌の口絵写真はすべて煽情的な女の裸、ドキュメンタリフォトの第一人者である木村伊兵衛、土門拳らも女体を撮りまくった。二十二年一月の「カメラ」には土門拳の、戦時中に撮っていたあの『文楽』が発表された。評論家たちは絶讃した。  だが、入江泰吉はそんな東京をふり向こうとはしなかった。戦後になっても関西伝統のアマチュア精神をすてなかったのである。 (四)  昭和二十三年、入江泰吉が尊敬していた、アマチュアの大家である資生堂の福原信三が他界した。この年の秋、泰吉の初の仏像写真展が東京日本橋三越において開催された。戒壇院の四天王像、三月堂の日光菩薩、月光菩薩、興福寺の阿修羅、法隆寺金堂の釈迦三尊、夢違観音像、それに大和の風物など六十点であった。彼ははじめて上京したのだ。  ネコもシャクシもアメリカのまねばかりしており、写真界はヌード礼讃、木村伊兵衛と土門拳の提唱する社会派リアリズム運動が主流になりつつある時代に、抹香くさい仏像展とは時代はずれの観があった。  ところが、意外に大成功したのである。入江作品が日本人の奥底にある郷愁をよびもどしたのだ。死線をこえてきた復員軍人や、戦禍をこうむった民衆をその「仏像」が慰めてくれたのであった。涙顔で見つめたり、合掌して作品をおがむ観客もいた。  しかし、写真ジャーナリズムは「清潔感はあるが、所詮はアマチュアニズムだ」と一言でかたずけてしまった。アメリカ的なはなやかさとか、モダニズムがない入江作品は評価されなかったのである。 「それでもぼくは、これが自分に与えられた課題なんだ、奈良にこもってよかった、と思いました。大阪で再出発していたらぼくもヌードを撮ったり、戦災孤児や夜の女を作品にして社会派を気どっていたでしょうね」  泰吉は頑固者なのである。父の芳治郎がそうであったように親ゆずりなのだ。  それから彼も毎年、東京か大阪で個展を開いている。昭和二十九年には、写真集『文楽』と『民家の庭』を出版、『民家の庭』は毎日新聞出版文化賞を受賞した。それでも依然として入江作品に対する声価はひくく、つねに土門拳をひき合いに出しては、 「京都や奈良へ出かけていって気合こめて撮ってくる土門拳の古寺仏像ほどの迫力が、入江作品にはない。彼自身の足音だけがひたひたと聞えてくる作品だが、そこにアマチュアムードからぬけ出せぬものが感じられる。その中に安住している。苦悩がない。そこがプロとは違うところだ」  と評論家たちは異句同音に言う。  泰吉はしかし、それらを遠い雑音に思うだけで黙々と奈良を撮りつづけた。名のある写真家たちが続々と海外へ旅立っていっても、彼は行きたいとも思わず「よくも飽きもせず、日かげの路を三十年も歩みつづけている」と苦笑するが、そうである自分が幸せなのでもある。  写真界の新旧交代は目まぐるしい。秋山庄太郎、林忠彦らのあとには中村正也や大竹省二が出てきた。と思ったら東松照明や佐藤明が踊り出てきた。そして、いまは篠山紀信や森山大道らが活躍する。それでも泰吉は悠然としている。日本人のもっている自然観がそのまま、大和路には実在している。古代の神話や伝説にいろどられ、万葉集にうたわれた自然に生命を托しての美意識や思想がある。無常感もある。春夏秋冬、それぞれに季節の情緒がある。それらを彼は、まるで奈良朝時代のカメラマンになって撮るのだ。  かくして—— 「どの一枚をとって見ても、ふと興の赴くままにカメラを向けたものはない。被写体のほうが入江さんの気に入るポーズをとるまで、忍耐づよく待ってからシャッターを切っている。この道は秋で、木の葉が紅葉すると美しくなる。しかも朝がいい、朝靄《あさもや》のかかっているところが一層いい。そんな日と時を待ち、最もいいという瞬間を凍える思いで待ち続けて撮ったに違いない。かくして、雪景色、新緑の候、四季を通じてじっと見ている入江さんの眼を感じない作品はない」(今日出海『古色大和』)  と讃歎せしめるまでになっていった。一度として外国旅行をしないのも、大和の四季から片時も眼がはなせないからである。  秋の一日、彼は洋画家の杉本健吉氏といっしょに出かけた。春日山を背景にした興福寺を前に杉本は画架をすえ、泰吉が三脚を組み立てた。雲ひとつない、抜けるような蒼い秋空であった。  だが、杉本は嬉々として筆をとったけれども、泰吉は一度もシャッターをおさなかった。彼は秋空に雲がほしかったが、それがないので気に入らなかったのだ。絵と写真の競作はできず、二人は議論した。  杉本は「現代の大和路を撮るのも大事ではないか」と言った。大和路を描いている杉本の絵には、現実にある電柱とか農夫がうごかす耕運機も点在する。が、泰吉は現代を感じさせるものは一切はぶきたいので、 「ぼくは情緒をこわされたくない。きみの絵は耕運機を描いても邪魔にならぬていどに、うまく調和させている。しかし、写真はそうはいかない。ありのままレンズがとらえてしまうんだから」  頑としてゆずらなかった。  やはり泰吉は、完全に自分を奈良朝時代のカメラマンにしてしまっているのだ。だから、大和三山の前にコンクリートのマンションがあれば飛鳥のイメージにならぬので、いまではそういう邪魔物のない奥へ奥へとはいってゆくしかない。  それでいて、作品が絵画に近づいている、と評されるのを好まない。「絵のように美しいですね」とほめられると居たたまれぬ思いになってしまう。「写真は写真だ、絵ではない」と言いたくなるのである。  三十年も撮ってきているのだから、泰吉は大和の風景とはなじみになっている。出かけてゆくと風景のほうから「おお、また来たか。どこからでも撮れ」と話しかけてくれるし、さっさと三脚が立てられるが、昔はこうはいかなかった。ああでもない、こうでもない、と自分のほうが意気込んでしまっていたからである。肩に力がはいりすぎていた。  だが、仏像とはいまだになじみにはなれない。気配負けして思うように撮れない。撮ったつもりでもその効果が出ないし「よろしくお願いします」と心で合掌している。  たとえば、戒壇院の忿怒《ふんぬ》像には「おれにそんな機械を向けるとはけしからん」と叱られてしまう。信仰しなければならぬのに、不遜にもレンズを向けるからで「仏像というものは彫刻ではなく宗教なのだ」とつくづく思う。  女性のヌードを撮りたいとは考えない。なぜならば「写真で現わしうる限界をヌードにも感じ、はいり込む余地がない」からで、自分は死ぬまでこのままゆくだろう。奈良からはぬけ出せないだろう。しかし、それでいいのだ……とも思っている。だれもがいろいろな道をたどり迷いしたあげく、人生の終着点に到達する。そして、諸行無常を知ることこそ宗教であり、神を渇仰する心なのだ。  ところが、自分は最初から神を撮りはじめたのだから、ほかにもう行きようがなく、奈良からぬけ出すこともないというわけだ。 「土門拳さんには筑豊の子どもたちや、広島の原爆患者など、社会派の第一人者らしい作品がある。リアリズム運動もおこした。ヌードも撮った。けど、やはり、彼の心血をそそいだ代表作というのは戦時中の文楽であり、室生寺でしょう。彼も日本人ですねえ。  東京の写真家たちは悩んでいます。秋山庄太郎さんは女性を撮るのは飽きた、将来は米沢にこもって風景や花を作品にしたい、と言っている。そのほかの写真家たちにしても、つぎは何を撮るべきか模索し、それぞれに悪戦苦闘している。ぼくにはそれがない。悩む必要がない。ということは、だれよりも幸せな写真家だと思っていますよ」  悠々自適の笑みをうかべる彼に、わたしは別れを告げた。  まだ粉雪が舞っているなかを、昏れはじめた戒壇院へいそいだ。四天王像を拝観しておきたかったのである。  ひんやりした堂内にはいってわたしは、ぎょっとなった。いま別れてきたばかりの入江泰吉さんがあそこに立っている、と思った。  近づいてよく見るとそれは、四天王像のひとつである広目天だった。広目天が入江さんそっくりの表情をしていて、いきなり大喝なさった。 「おまえたち、そのようにキョロキョロ、コセコセするな。見ぐるしいぞ!」(昭和五十三年四月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十三年「菊地寛賞受賞記念・入江泰吉写真展」、「奈良の四季」(国際情報社)、「四季大和路」(集英社)、「吉兆」(保育社)、「大和路野の仏」(山と渓谷社)。五十四年「入江泰吉新作品展」。五十五年「続・四季大和路」(集英社)、「大和路有情」(保育社)。五十六年「入江泰吉作品展」「全集出版記念写真展」「駅の美術館・入江泰吉名作展・大和路」、「入江泰吉全集・一〜六巻」(集英社)、「大和路遍歴」(法蔵館)。五十七年「入江泰吉全集・七〜八巻」(集英社)。五十八年「吉兆料理花伝」(新潮社)、「古寺細見」(日本資料刊行会)。 [#改ページ] 杉山吉良《すぎやまきら》「写真の鬼の涙」 (一)  杉山吉良さんのアダ名はキラゴン。バイタリティがあって執念の人で、これぞと思った獲物はトコトンまでカメラで追いつめる。とくに太田八重子という素人娘を、四年間も素っ裸にしておいて撮りまくった『讃歌』は、写真界はじまって以来の大きな話題になったし、彼女の入水自殺の悲劇がさらに、キラゴンのいけにえになったかのごとき印象をあたえたものだった。  杉山さんと八重子嬢の最初の出会いは昭和三十九年十一月。そのころの彼は「美しい大自然のなかに、美しい清浄な女体を配した絵を頭のなかに思い描いてきた。青い海のなかに裸体をはねまわらせ、樹間を通してかがやく太陽の光線のなかに女体を躍らせたら、紫のレンゲ草のなかに女体を横たわらせたら、別天地のような絵にならないだろうかといつも考えつづけてきた。自然の風景のなかに純潔な娘をはね躍らす、その娘はまだアダムを知らないイブの姿でなければならない」(『讃歌』後記)願望を抱きつづけていて、八重子さんを見たとたん「この子がおれのイブだ!」と感動したのである。  彼女は高校卒の十九歳。父を亡くしていて母と病弱な兄を扶養するOLだった。サラリーではとても生活してゆけず、絵のモデルのアルバイトもしていた。  ギョロ眼のキラゴンは一目みただけで「使える」と思った。身長一五九、バスト八十七、ウエスト五十八、ヒップ八十七。顔が小さく、足がきれいで、首すじから肩へのバランスがとれている。即座に彼はモデル料が月額十万円の専属モデルの契約をした。彼女は会社勤めをやめた。  初仕事はその年の十一月下旬、日光の菅沼の湖畔。すでに雪景色になっている白一色のなかで、かまわず全裸にした。それ以来、四年間も四季を通じて全国をつれてまわり、飛んだりはねたりころがしたり、ときには木にも登らせて八×一〇インチの大型カメラを向け、その枚数は千五百枚にもなった。  四年間、杉山さんは過酷な命令をくだしつづけた。肥るので酒もコーヒーも飲んではいけない。下腹部に贅《ぜい》肉がつかないようにしろ。恋愛も禁止する。髪は伸びるまでのばせ。毎朝ラジオ体操をやれ。足をうしろに引き、胸で歩くつもりの歩き方を心がけよ。肌におできができたり、傷つけたりしないよう注意しろ。白い肌を表も裏も同じ色にするため、長い時間かけて日かげで間接光線で灼き、ブラジャーやパンティの部分が白くのこるのも許さなかった。  そうすることによって自然そのものに女体をなじませたいわけだが、従順な彼女は命令も苦痛とは思わず、大自然のなかで躍動させられる重労働も「あたしは妖精になったみたいで幸せです」と歓ぶまでになった。彼の手や眼のうごきひとつで彼女は自由になる。これほど貴重なモデルはない。  だが、そうなるまでに二年を要したので、納得ゆくまでシャッターをおしつづける杉山さんにとっては、はじめの二年間の作品はクズばかりだったと言う。二十二歳になったころから裸身はすばらしくなり、彼自身がカメラを投げだして「抱きしめたいと思ったこともある。が、私がそうすれば彼女のからだが変化してしまうので必死に自分をおさえていた」時期もあった。  彼女のほうが「もうやめさせてください」と泣きだしたこともある。そのつどギョロ眼をひんむいて、 「辛抱するんだ。作品展が成功すれば、きみには大きな幸せがくる。シンデレラ姫になれるんだよ。スターなみに大企業がモデルになってくれと申し込んでくる。結婚してほしいとプロポーズする男も殺到するだろう」  と叱ったりなだめたりをくりかえした。涙もやさしく拭《ぬぐ》ってやった。  杉山さんは「命令さえ守ってくれれば十年でも撮りつづけるつもり」が、昭和四十三年十一月二十五日の北海道支笏湖での撮影を最後に、ついに彼女を解放した。彼女の裸身に恐れていた変化があらわれたからで、約束を破ってひそかに男性を経験しているのを知り「もうおれのイブではなくなった」と諦めざるを得なかったのだ。  千五百点のなかから六十点の太田八重子を選び、『讃歌』と題して昭和四十四年三月、銀座三越において展覧会を開催した。入場料三百円。写真展で入場料をとるのは写真界はじまって以来のことながら、観衆がつめかけ押すな押すなの大盛況だった。杉山さんが予言していたとおり、おかげで彼女はスターになった。展覧会のパーティに姿をみせた彼女には満場の拍手があびせられた。銀座三越の表にも六メートルに引伸した作品が飾られ、まるで四丁目交差点で彼女の裸身が躍っているかのようであった。  だが、そののち彼女はキラゴンの前にあらわれなくなったばかりでなく、この年の十二月十日、故郷の静岡県清水港の冬の海に、身を投げて永遠に去っていった。彼女が愛した男には妻子があり、絶望のはての自殺だったのである。 (二)  ——じつは、杉山自身にも自殺未遂の経験がある。大正十二年、早稲田中学一年のときだ。  彼は明治四十三年の生まれ、八人兄妹の長男。父親の杉山宗吉は伊豆の伊東で「杉丸」という海運業をいとなんでいた。  宗吉は吉良を銀行家にしたくて東京の中学校にやり、卒業したら洋行させるつもりであった。が、大正十二年九月一日の関東大震災が杉山家を襲った。大震災のために伊東には大津波が襲来、海岸の家々を呑み、百人余をさらっていった。杉山は東京の叔母の家に寄宿していたので助かったが、父の宗吉と母のとし、それに弟妹五人の計七人もその百人余の犠牲者に加わったのだ。  一家全滅にひとしく、杉山は両親たちのあとを追いたくなって、叔母の家で睡眠薬を飲んだ。苦しみもがいているところを発見されて大騒ぎになった。医師の手当がはやく一命をとりとめ、意識を回復した杉山は便意をもよおした。 「私はフラフラしながら便所へゆき、ウンコしているとき、こう思ったんです。死ねなかったんだなあ、それならこれからは何か役にたつような生き方をしなくちゃ……とね」  あの世へゆきそこねたことが逆に、彼をバイタリティのある男にし、キラゴンとアダ名されるまでの「写真の鬼」にしていった。  震災で失ったのは家族だけではない。一家の財産のすべても、年少の彼の手には残らなかった。親戚のお情けで一時は学費を出してもらったものの、それも続かず早稲田中学を中退した。まだ自殺未遂の後遺症がのこっていて銀行家になるファイトはなく、十九歳までブラブラしていた。  昭和二年、叔父の篠木良之助が小谷倉市ことヘンリー小谷を知っていて紹介した。ヘンリーは毎日新聞ビル(東京有楽町)内にあったパラマウントニュース社の極東総局長だ。パラマウント社はハリウッドで劇映画のほかにニュース映画も製作していて、彼は総局長であると同時に映画カメラマンでもあり、城戸四郎にたのまれて松竹映画のカメラマンや監督をひきうけていた。  それまでの、いわゆる活動大写真である無声映画のカメラは固定されていて、その前で俳優たちが入れかわり立ちかわり演技するだけだったが、ヘンリーがクローズアップにしたりカメラを移動させたりする撮影技術を、日本の映画界に広めたのである。  杉山はヘンリーの弟子になった。月給は辛うじて食ってゆけるだけの十五円。ニュース映画はほかにメトロ、フォックス社、日本の電報通信社(のちの電通)も製作していた。杉山はヘンリーの助手として昭和三年十一月十日の、今上天皇即位礼や観兵式を、モーニング姿で撮りにいったこともある。ヘンリーが日本最初のトーキー映画『雨過天晴』のメガフォンをとったとき、杉山がカメラをまわした。主演は人気絶頂の鈴木伝明であった。  ヘンリー小谷のもとから離れた杉山が、うごかない写真を撮るようになったきっかけは、赤坂のフロリダという日本一のダンスホールに入りびたりになっているときだ。ここには九十人の美貌のダンサーがいて、チケットに印刷する彼女たちの顔写真をたのまれた。キャビネで一枚につき二円五十銭の撮影料がもらえた。ひと晩に六十円くらいかせぐこともあって、そのカネはまたダンサーと踊って浪費してしまう生活に明け暮れた。 「絵画で表現する裸婦を、写真で表現すればどうなるだろう」  その勉強をしてみたいと思い、東京の某デパートのマネキンガールを伊東までつれていってモデルにした。野外では危険なので、伊東で写真館を経営している叔父のスタジオを拝借したのである。  バックをまっ黒にし、テーブルにも黒布をかぶせて、それによりかからせたり腰をかけさせたりしての全裸を撮った。彼女にはなかなかの勇気があった。カネのためでもなく色恋のためでもなく協力してくれたのだ。  むろん、作品を公表すれば両手がうしろにまわる時代だし、だれにも見せずに秘蔵しておいた。昭和八年のことで、これが戦後に猛然と撮りまくる彼のヌード写真の原点になった。吉良二十五歳。  翌年、杉山は同齢の、銀座の喫茶ガールだったモダンな城戸初恵さんと恋愛、結婚して大森の借家を愛の巣にした。その夏、茅ケ崎海岸にフロリダの海の家があって、かれは初恵さんをつれて泳ぎにいった。水着姿の新妻を撮るつもりで、買ったばかりのドイツ製のベスト判エキザクターをさげていった。水着は売っているものでは平凡すぎるので、彼女自身がサテンの布地で大胆なデザインのものをこしらえた。  千分の一のシャッターがついているので動感のある作品になると思い、水着姿にした新妻を、海辺で飛んだりはねたりさせて撮影した。モガ・モボが流行した時代でも、女性写真といえば見合写真みたいにかしこまっている作品がほとんどだったが、このときの杉山の作品はこれまでにない動きと新鮮さがあるものになった。動かない写真に動きをつけたのである。  パラマウント映画の宣伝部長だった伊勢寿男氏に見せると、「こりゃあ傑作だ」とほめて東宝映画、朝日新聞社、婦人画報社などに持ちこんでくれ、グラビアの仕事をもらえるようになった。  杉山自身が文藝春秋社の、オール読物編集部に三十枚も持っていった。当時の編集長は永井龍男氏で、何枚か買ってくれるだろうと思っていたら、グラビアにするから全部おいてゆけ、と言う。杉山は身をのり出した。 「それじゃ、早速ですがおカネを……」 「幾らだ?」 「一枚十円です」 「バカ言え。有名な写真家でも一枚一円五十銭だよ。木村伊兵衛や土門拳もだ」 「撮影に元手がかかってますンでね。そんなら売りません。返してください」 「いや、もう金庫にしまいこんだ、ダメだ」  結局、一枚五円におちついた。元手なんかかかってやしない。杉山は妻をモデルにしただけで百五十円ももうかったばかりでなく、これが縁で七年間、彼はオール読物のグラビアページに登場し、写真家としての地位を確保したのである。 (三)  昭和十四年、杉山吉良は文藝春秋特派員として中支戦線に従軍。三カ月後に報道班員を現地解任してもらって上海の、テロが横行するイギリス租界《そかい》やフランス租界に潜入、いわゆる暗黒街のなかの賭博場、阿片窟、売春窟、英軍の装備などのカメラによるルポを敢行した。上海は魔都といわれた国際犯罪都市だ。  文字どおり命がけで、日本軍のスパイとみなされてイギリスの特務機関につかまって殴られたが、「自分は日本人ではない、タイ人だ」とごまかして逃げた。重慶側の便衣隊に暗がりで狙撃されたり、賞金がつくお尋ね者にされたりした。こういう仕事もお国のために役だつことだ、と彼は信じていた。  だが、日本の上海憲兵隊は迷惑がり、彼を追放した。帰国して『上海の裏街』を文藝春秋誌上に発表したが、「米英を刺激する恐れあり」として内務省情報部にフィルムの大半は押収された。  昭和十七年六月、陸軍の穂積部隊のアッツ島敵前上陸作戦に従軍、北海道の厚岸《あつけし》より輸送船衣笠丸に乗船した。北の海がシケて兵隊たちはゲエゲエ吐いても、海運業「杉丸」の息子だった杉山は船酔しなかった。  激戦になると覚悟していたが、アメリカの守備隊はいなくて、青狐をとって生計をたてている島民のアリユート族が五十人ばかり住んでいた。杉山は陣地を構築する兵隊たちの記録写真を撮り、これが内地の新聞やグラフ雑誌に掲載された。  この島は一年後の昭和十八年五月、猛反撃を開始した米軍海兵隊が大挙上陸してきて、日本軍守備隊は山崎部隊長以下二千七百人が玉砕してしまう地獄の島と化すが、そのころ杉山はすでに帰国していて、陸軍参謀本部に所属する映画配給社南方局に勤務中だった。カメラマンが十人いたが、杉山がトップで三百円の月給をもらっていた。  昭和二十年三月十日の東京大空襲で、日本橋の友人宅にあずけていたフィルムのすべてが灰になった。マネキンガールをモデルにしたあのヌード写真も、水着姿の新妻や上海の魔窟もまぼろしの作品となってしまったのだ。敗戦の日の玉音放送を聴いたのは、疎開先の伊東においてだった。  マッカーサー元帥のGHQが戦争犯罪人狩りを開始したとき、 「杉山吉良は写真界の戦犯だ。絞首刑になるかもしれんぞ」  と言われるようになり、自分でも写真家のなかでいちばん軍部に協力してきたことを認めて覚悟していた。案の定、GHQから召喚され、彼は伊東から上京した。「おまえはどこでどういう写真を撮ったか」と訊問されて正直に自分の過去の写真活動を語り、お国のために命がけで撮ったことを誇りとした。最後に「太平洋戦争についてどう思うか」と質問されたときも、 「戦争とは非情な殺し合いだ。どうせまたアメリカは、新たにソ連と戦争するつもりでしょうし、日本を戦場に利用するだろう。やるならば廃墟と化したついでに、すぐにはじめてくれ。私は戦犯で処刑されてもいいと思っているし、復興してのち戦場にされては日本国民の努力が水の泡になってしまう」  そう答えると日系二世の取調官は、おまえはニヒリストかと苦笑した。  それっきり再度の召喚はなく、写真界から戦犯として追放される処遇もうけなかった。 (四)  戦後の杉山吉良は一変した。  だれもが眼をまるくした。あっという間に杉山がヌード写真家の第一人者となり、ジャーナリズムのはなばなしい寵児にのしあがったからである。  戦前にすでにヌード写真を勉強していたが、公表して世に問うことがなかったため彼を、だれもが「軍部に協力した軍国主義の報道写真家」と見ていただけに、そのおどろきは大きかったのだ。  だが、杉山自身は変身したとは思っていない。  昭和二十一年一月にアルス「カメラ」が最初に復刊、その三月号で山口県に疎開していた福田勝治の『女性写真特集』をやり、翌年七月号ではさらに素っ裸の女体の『女の美』を掲載した。戦前のヌード写真家の第一にあげられるのは野島康三だが、モデルのポーズに遠慮があったものだ。そのため暗い感じになりがちであったが、福田の作品には解放感がみなぎっていた。これが戦後のヌード写真のはじまりであり、土門拳も『肉体に関する八章』をひっさげて急ぎ登場、同じ時期に杉山も躍り出たのであった。  二十二年春、伊東から出てきた杉山は、日比谷劇場近くの富国生命ビル内に杉山事務所をオープンして、新聞広告でヌードモデルの募集をおこなった。満足な衣服はなく、まだモンペ姿だった女性たちが、生活のための仕事ほしさにわんさとおしかけてきた。そのなかから素人娘と人妻を五人選び、一日のモデル料を一人三百円とした。当時、闇市で売っているアメリカの煙草が二十本百円であった。  彼女たちを海辺や湖畔や、白い花が咲き乱れるソバ畑などにつれていって撮りまくった。なかでも銀座松坂屋で開催した、雪の上に全裸をころがした『裸体群像』展(昭和二十三年五月)には、観衆は驚嘆の声をあげた。どうしても写ってしまう恥毛を、修整して消すのは不自然なので杉山は、彼女たちに軽便カミソリをあたえて撮影前に剃りおとすことを命じた。いまではモデル嬢がそうするのは常識になっているが、これをやらせた最初のカメラマンが杉山吉良なのである。  五人のなかに一人だけ、カミソリをあたえてもモジモジするのがいて「剃ったら夫に叱られます」と悲しげな顔になる。彼女を御宿海岸でモデルにするときは、こっそり夫がついてきていて監視していた。剃られた上に密通されてはと心配した——そんな笑い話もあった。  戦後いちはやく杉山がヌードを撮るようになったのは「敗戦後の虚脱感のなかで、美しくあるべき女性もモンペ姿でウロウロしている。彼女たちの美しさを表現するのは、シャレた衣裳を着せてやることより脱がせてしまうことだ。その美を大衆に見せたい」からであり、それに成功したわけだが、すぐさま中村立行、秋山庄太郎、三木淳、真継不二夫などが新感覚のヌード作品を発表して彼のあとを追いかけてきた。  中村らのそれにはより高い芸術性もあり、 「杉山さんのヌード作品は肉体解放のための運動みたいにダイナミックだ。だが、残念ながら美意識がとぼしい。スキャンダラスなものはたくさんあり、女体をいじめているような残酷性もあって大衆の興味をひくが、これが杉山作品だといえる代表作がない。現実主義的な眼が貪欲に女体に迫っており、それが彼のバイタリティではあるけれども、長所でもあり欠点でもある」  というような評価の声が聞かれはじめた。  とはいうものの、ジャーナリズムでの売れっ子は杉山、秋山、それに林忠彦の三人であった。杉山のふところにはカネがザクザクはいってきて、夜の銀座でホステスたちに取り巻かれ、気前よく散財する時期がつづいた。  ところが、昭和二十八年二月号の「フォトアート」に『NUDE』を発表したのを最後に、杉山は夜の銀座にもあらわれなくなり、忽然と姿を消してしまった。南米サンパウロ市四百年祭を撮るため、文藝春秋特派員として移民船ブラジル丸で出かけ、以来三年半、文化果つるアマゾンの奥地まではいりこんだ。ときに四十五歳であった。  美意識がない、芸術性がない、と批評されつづけたのがこたえたのではなく、杉山自身はその動機をこんなふうに語る。 「ハダカの吉良で売れに売れたことが厭になったんです。こんなレッテルを貼られたまま老いぼれたくはない。女の裸を撮るばかりで一生を終るのはもったいないじゃないか……そんな内なる声がしたんですね。ぼくはもともと写真を芸術だと思ったことはありません。撮りながら、人間社会の何かの役に立ちたいなあという気持で、人生を捜してゆく。それが好きなんです。たとえば、老人を撮ってやってその孫たちに、おじいちゃんはこんな顔だったんだよと見せてやれるような、あるいは友人の娘の見合写真を撮ってやりながら、幸せな結婚をしてくれよと祈ったり……写真の使命とは、そういうものだと思うんです。写真は見せてやるもの、まだ見たことのないものを見せてやるために撮るもの……それで充分だと思う」  秋山庄太郎も以前に、写真家の四十五歳「定年」説をとなえていたことがあるが、その年齢はいわば転機なのである。  だから杉山が半年で帰国するつもりが、三年半になってしまったのも、転機をつかみたくてのあがきであった。アマゾン流域に入植している邦人たちを訪ねたとき彼は、これから大密林のなかで生きているインジョ・ガビオン(インデアンのガビオン族)たちに布教するため出かけるというブラジル人のジル・ゴメス神父を紹介された。  ガビオン族は裸族で毒矢を武器に、いまなお太古のままの生活をしているという。その裸族たちをぜひともカメラにおさめたい意欲が、杉山をじっとさせておかなかった。それは文明人たちに「見たことのないものを見せてやるために撮る」使命感の横溢《おういつ》である。 「同行されるのはかまいません。ただし、かれらは凶暴だし、マラリヤにやられるかもしれないし、あなたの生命は保証しかねます」  ゴメス神父に念をおされたが、この出会いが自分の大転機となるよろこびをおぼえ、杉山はためらわなかった。まさに大探険への出発であった。 (五)  三年半のあいだに杉山吉良は、ガビオン族がいる秘境へ四回はいっていった。フィルムがなくなり、生活費にも困ってくると文明の街サンパウロにもどってきた。成功して大農園の経営者になっている日本人移民にたのまれて、農園生活を一六ミリ映画に撮ってやったり、収穫の手伝いをしたりしてカネをつくると、再び大量にフィルムを買い、食糧をあつめて秘境へむかう。そのためにアマゾン河を四度も上下したのであった。  ヌード写真家の第一人者で、夜な夜な銀座のネオン街にうかれていた彼が「未開の裸族の一人となってここで死んでもいい。日本での生き方はごまかしにすぎない」と思ったこともあった。  木村伊兵衛から手紙がきた。日本の写真界の現況が書いてあり「新しい写真家たちが新しい作品をひっさげて続々と登場している。きみもはやく帰ってこい。一年のブランクが一生を左右することもある。タイム・イズ・マネーだ。アマゾンの奥地でのんびりしている場合ではないぞ」と心配してくれていた。  裸族の一人になってもかまわぬと思ってはいても、日本の写真界でのおれはすでに忘れられた存在になっているのではないか……その不安と焦燥はある。  だが杉山は「撮りたいと思ったものを、途中で投げだして帰りたくはなかった」ので、木村の手紙をポケットにしまい込んだ。  杉山が帰国したのは昭和三十二年末であった。  神武景気とやらで日本では「すでに戦後の時代は終った」などと言われ、カラーテレビの時代が到来しつつあり、杉山は浦島太郎になって帰ってきたような気持だった。写真界には岩宮武二、中村正也、常盤とよ子、奈良原一高、細江英公、長野重一、田沼武能、東松照明といった新しい顔ぶれが加わっていていっそう多彩であった。  翌三十三年七月、杉山は銀座松坂屋において、転機第一作ともいうべき『ガビオン族の生態』展を催した。大いに注目されたけれども、この年の毎日写真賞も日本写真批評家協会賞も『ヒロシマ』の土門拳が独占した。  ある日、銀座においていた杉山事務所に、上野動物園の動物ばかり撮っていますという青年が遊びにきた。のちに動物写真家として世界にも知られるようになる田中光常だが、そのとき杉山は無名の田中に対して、 「一生、動物だけを撮りつづけなさい。それで死んでもいいではないか。あれこれ撮っても結局は中途半端になってしまうだけだ。岡田紅陽をみたまえ、バカの一念で富士山だけ撮っているだろう。あれでいいんだよ」  とアドバイスした。  それは杉山自身への戒めでもあった。  ガビオン族の作品展以後の杉山には話題になるものはなく、啼かず飛ばずの時期がつづいた。彼は第一線から後退したかにみえたが、そのあいだ財界の長老で「電力の鬼」といわれた松永安左ヱ門と取り組んでいた。  雑誌「新評」に依頼されて撮りにいったのがはじまりで「こんなすばらしい人はいない」と杉山は惚れてしまった。久しぶりに胸が高鳴るのをおぼえながら三五ミリで十本も撮った。  おわって茶室でお茶をご馳走になっているとき、松永翁の表情がよかったので杉山は再度、カチャッ、カチャッとつづけざまシャッターを切った。とたんに老人は怒りだし、 「うるさいッ、わしは役者じゃないぞ!」  眼玉をひんむいて睨みつけた。  その怒った顔がまたすばらしかったので、なおもカチャッとやってしまった。  そのあと一礼して杉山はこう言った。 「非礼は重々お詫びします。しかし、なぜそんなにお怒りになったのか……これが私のなりわいです。こんな立派な人はいないと思ってましたし、お怒りになった顔が若者のようにすばらしかったので撮らせていただきました」  これで松永翁が納得、帰りにはわざわざ杉山を門まで送ってきた。  五日後、杉山はその怒った顔写真を届けにいった。松永は破顔一笑、「まさしく鬼だ、鬼の顔だねえ。写真の鬼が電力の鬼を、みごとに撮ったもんだ」と大満悦であった。それより杉山は出入りを許され、十三年間も「鬼」を撮りつづけることになるのであり、「鬼」にカメラをむけた日はゆたかな気持になって帰ってゆくことができた。  それというのも、撮りながらこの偉大な先達から人生を学ぶことができたからで、 「人生は微塵も後をふりかえってはならぬ」 「地球の自転よりもはやく、人の世は変わっている。同じところにとどまるな」  などの教訓を杉山はかみしめていた。そして、十三年間の「鬼」の作品は、彼の人物写真のなかで最高の傑作となった。  太田八重子を「おれのイブ」として『讃歌』を撮りはじめたのは、前述のとおり昭和三十九年十一月からだったが——つまり、松永安左ヱ門と平行して進行させていたわけである。人生のきびしさがにじみ出ている老人の美しさを追う一方で、大自然のなかの裸女の美をつかみたかったのだ。  そのために杉山は彼女に対して「恋愛してはならぬ」「酒もコーヒーも飲むな」などと過酷な命令をくだしていたのであり、「ハダカの吉良さん」と言われた時代の作品ではないものを……の野心もあったのだ。  彼女をモデルにするときには、発電機と七つのライトを用意して夜中の一時に宿を出発した。午前三時に湖畔や海辺の撮影現場に到着、懐中電灯の明りをたよりに準備にとりかかった。そして、夜明けとともに撮影にかかり、見物人が群がってきては迷惑なので、午前九時には撮影終了にした。  氷のように冷たい朝の海に裸をつければ、どうしても八重子の顔はひきつれてしまう。すると杉山が「そんな表情ではダメだ、にっこり笑え。寒くてもふるえるな!」とどなり出す。彼女がこごえても泣き出しても中止しない。まさしくキラゴンであり「写真の鬼」と化していた。  あるとき、友人のカメラマンに「モデルを貸してくれ」と頼まれて八重子を渡したが、間接光線でムラなく灼いておいた彼女の肌が直射光で黒こげにされてもどされた。大事な家宝をメチャクチャにされたようなもので、杉山は二度と貸そうとはしなかった。  彼自身が八重子を抱きしめたいと思う日もあり、彼女の裸が変化してしまうのを怖れて我慢したことも前述のとおりだが、たんにそれだけではない。杉山は言う。 「写真家として注意しなくちゃならないことは、肉体関係をもてばそのモデルはわがままになるし、全身に色情があらわれることです。私は写真のなかにエロティシズムを感じさせたくなかった。若いころの私は一日おきに芸者と寝てましたから、足や表情のうごきで表現する、男女の極致の最高傑作を撮れる自信はあるんです。だけど、太田君の場合は動的な健康美のみを追求したかったんです。だから、彼女が股をひろげている作品でも性欲は感じられない。銀座三越で展覧会をしたとき観客は男性より女性のほうが多かったし、子供づれできている主婦もいましたね」  そこまで色情をねじ伏せたがために、八重子がひそかに愛人と通じ合ったのを知ったときの杉山は、もはやおれのイブではないと四年間も育ててきた彼女でも、あっさり手放してしまったのだ。  だが、『讃歌』の大評判に気をよくしたのも束の間、恋に破れた八重子の生涯は入水自殺をとげる悲劇におわった。その夜、新聞記者から電話で悲報を知らされた杉山は、 「太田八重子は私が創った女だったのに、私自身が殺してしまったようなものだ。彼女のいちばん美しかった時代をカメラで吸いとったのは私だ。考えてみると、彼女を残酷にあつかいとおしてきた。平凡な女らしい生活をさせてやるべきだったんだ」  と受話器を手にしたまま、声を殺して泣いた。  鬼の眼にも涙であった。 (六)  五年前、杉山吉良は眼底出血のため左眼を失明した。だが、三年前から再び『讃歌』を撮りはじめ、五十三年に完成させて展覧会を開催した。  これは第二の太田八重子を得たからではなく、九人のモデルを登場させている。八重子の自殺騒ぎの直後、杉山は全国にもってまわる約束だった『讃歌』展は中止し、写真集にする出版契約も破棄した。「話題の太田八重子でガッポリかせいでいる」と見られたくなかったからである。  しかし、やはり『讃歌』の続編を撮りつづけたい意欲はおさえがたく、右眼だけでファインダーをのぞきながらの労苦も克服した。  故今東光は「キャメラという科学的な精密な機械を操作して、芸術の世界に踏み込んだ杉山吉良の作品を見る人は、無機質の機械を忘れてキャメラマン杉山吉良の眼が、如何に神韻漂渺《しんいんひょうびょう》たる女を描いているかということに気づくであろう。杉山にはキャメラはむしろ不用なのだ」と励ましていた。  だが、その続編と取り組んでいるあいだに右眼もやられ、辛じて半分の視力が残った。つまり、杉山の眼は四分の一になってしまったのだ。それでも歩くときにステッキに頼るのは厭がり、ソニービルでの展覧会をおえると北のアッツ島へ旅だっていった。  松永安左ヱ門には「人生は微塵も後をふりかえるな」と教えられていたが、三十五年前のアッツ島で玉砕した英霊たちの、彼を呼ぶ声がするからである。五十三年六月である。  三十五年前の同じ月に敵前上陸したその島に、杉山は二十一日間滞在した。あのころ守備隊の兵士たちは余暇に、島に咲く珍しい高山植物の花を採集して押花にし、内地の家族や弟妹に送るのを唯一のたのしみにしていた。その花を撮りたいのであり、杉山は「二千七百人が玉砕したが、ここにはいまでも当時と同じ花が咲き乱れている。そういう無常感のある花を、現代の日本人たちに見せてやりたい。芸術的にどうこうということより、人間的な眼でとらえたい」一心であった。  そのくせ、彼はこうも言う。 「写真家はね、名前が残らなくてもいいんです。つぎの世代のものが、さらに良いものを撮ってくれるでしょうし、そのステップでいいんです。カチャッとシャッターをおしたら、そのときはもう過去でしょう。シャッターをおすことだけに自己主張があり、そういうものは毎日、過去のものになってゆくべきでしょう。だから、現像したものさえ見たいとは思いません。弟子が現像してくれて、うまくいってませんよと言えば腹がたち、いいですよと言ってくれればそれでいいわけです。過去のものなのだから」  しかしまた、こんなふうにも言う。 「不自由だけど四分の一の視力が残っているかぎり、私は撮りつづけたい。そのわずかな視力もダメになれば、心の眼で撮ってみせますよ。先日、北極探険に成功して帰ってきた植村直巳君の、お祝いパーティに出席しましてね、あの若さがほんとうにうらやましかった。もういちど若くなって自分も挑みたいと思いました。南極へ行ってみたい。シルクロードも旅してみたいなあ」  要するに、六十八歳になっている杉山吉良はつねに、過去と未来のあいだを、時計の振子のようにゆれているのである。過去にカメラをむけていると未来に挑戦したくなり、未来を撮りたくてあせっているのに過去が気になるというふうで、その振幅が大きい。そして、そんなことを語るときの彼のギョロ眼には、うっすら涙がにじんでいた。(昭和五十四年一月取材) ●以後の主なる写真活動 昭和五十四年「北限の花アッツ再訪」(日本文化出版局)、写真展「鎮魂華」東京・札幌・旭川開催。五十五年「ニュージランド出発と古希の祝い」の友人発起による会。南限の花撮影のためオーストラリア、ニューギニア他取材旅行。五十六年取材先ニュージランドにて脳出血、帰国入院加療、リハビリテーション。五十七年腹部動脈りゅう手術。五十八年「NUDE」(ノーベル書房)、「花」(ノーベル書房)。