[#表紙(表紙.jpg)] 家内安全 夏石鈴子 目 次  ゆっくり進む船が行く  鉄紺  ぬるぬる  ショートストーリーズ   きっと、大丈夫   良人   うふふ   埴生の宿   別れてのち、三年   MOTOR DRIVE  家内安全  文庫版あとがき [#改ページ]   ゆっくり進む船が行く  お前の最初のお誕生日の話をしてあげようね。  あの時、先生はお前を両手で抱いて、泣いていいんだよ、さあ泣きなさいと言った。お前の耳にこの世で最初に届いたのは、その優しい言葉だったね。そうして、やっとお前は泣いた。  産声は泣き声とは違う不思議な声だと思った。怒りも悲しみもない声だった。ああ、本当にちゃんと泣いている。今までテレビで見てきた他の赤ん坊と同じに。わたしの子供も、やっぱりこうして泣いている。  わたしは、ほっとして目を一度閉じ、そして顔をゆっくり右に倒し、看護婦さんに抱かれていくお前を見た。長い夢から覚めたお前は、何かを探しているように腕を上に伸ばし、そして脚をゆっくり動かしていた。長い腕だと思った。体全部が紫色だった。そして、白い色にも覆われていた。掌は何かを掴みたくて、大きく広げていたね。これがわたしの子供。本当に、わたしの体のなかで、人間が育っていたんだ。わたしを通ってこの世に来た新しい人。  子供を生むのは、死んでいくことに似ている。わたしは、そう思った。わたしは、たった一人で台の上にいて、先生や看護婦さんに次々と声をかけられていた。「がんばって」「もう少しなのに」「赤ちゃんの心拍は?」「大丈夫です」。  がんばっているんだけど、うまく行ってないんだ。ある所までは進んでいるのに、その先、どうしても子供を体外に出すことができない。ああ、どうしよう。どうしたらいいの。こんなこと、やったことがない。もう、わからない。一体、どうして。ごめんなさい、ごめんなさい。ここまできて、だめにしちゃったら、それはわたしのせい。そんなことできない。そんなことは、だめ。ああ、もう、わからない。  死んじゃう時も、こうやって、体が順番にどんどん駄目になっていくんだろうな。その駄目になっていく時間を、やっぱりこんな風にして誰かに、きっとススムとか子供に声をいっぱいかけてもらいながら、わたしはたった一人で堪えていくんだ。周りに人がいっぱいいても痛さを引き受けるのは、わたししかいないんだ。生む時も、そして死ぬ時も。それが、その瞬間にわかった。  ああ、でも、今はわたしは、この子供を生きて外に出してやらなくちゃいけないの。ごめんなさい、ごめんなさい、力を貸して、助けて、わたし困ってる。  目をいっそう強く閉じた時、ごっとん、と何かが動き、子供が生まれた。おかしいけれど、生まれていった、と感じた。そして、一度わたしは死んで、もう一度戻ってきた思いがした。  お湯できれいに洗われ、白いタオル地の肌着を着せられたお前は、もう泣いていなかった。顔の色は赤に変わり、目はぴったりと閉じられていた。  まだ動けずにいるわたしの左側に、看護婦さんは来てくれ、抱いているお前を見せてくれた。それは知らない顔だった。きれいな顔だと思った。この子は、わたしの何を受け取ったのだろう。 「赤ちゃんも、生まれてくる時に疲れているから」  と、看護婦さんは言った。  それでも、探し物をするように、わたしは子供を見た。指が長いと思った。指先はやわらかく、そして、ふやけている。爪は、もう白く伸びていた。わたしの体のなかで伸びた爪だった。わたしは自分の人差し指を伸ばし、そのきれいな指をそっと触ってみた。力は全然入っていない。柔らかくて弱かった。わたしはその指から、自分の指を静かに離し、今度は目の前のほっぺを触った。もう一度触りたい。小さい子、わたしたちやっと会えたね。  そう声に出してみたら、わたしの声はかすれていたけれど、それでもお前は、ゆっくりその目を開き、そして見えない目でわたしを見た。  ドアの向こうから、ススムの低い声が聞こえてきた。看護婦さんが、生まれましたよ、と言ったのだ。ススムは、どっちですか、と訊いていた。あれ、男の子だって知っていたのに。それでもやっぱり訊くんだね。ススムずっとそこにいたの。わたしが困っていたのも、体を絞っていたあの時の声も、もしかしたら全部聞いていたの。それを一人で、廊下で坐って引き受けていてくれたの。ススム、ありがとうね、ごめんね。心配させちゃった。 「元気な男の子ですよ。奥さんも無事ですよ」 「そうですか。ありがとうございました」  ススムは、そう言っていた。あの人、猫背気味の大きな背中を、うんと丸めて御辞儀をしているんだろうな。わたしは、銀色の大きなライトのある手術室の天井を見ながら思った。 「無理を承知だけれど」  と、前置きして、ススムはあの夏、どうしても、ねぶたを見に行きたいと言った。わたしはすぐに返事ができず、それを言ったススムの本当の気持を知るためにじっと顔を見た。  わたしのお腹は、ほんの少し大きくなっていた。けれど、妊娠していることは、誰にも言えない。会社ではエプロンをして、お腹が見えないようにしていた。届け出れば、一時間時間をずらして出社することも、仕事を早く終わらせることもできた。でも、わたしにはそのどちらよりも、人に知られないことの方が必要だった。未婚の母だなんて、そんな名前で呼ばれたくない。お腹は、いつか大きくなってしまうだろう。それでも、言わなくて済む間は、ススム以外の誰にも知らせたくなかった。夏休みが終わったら、もうそれも無理になるから、会社にも母にも言わなくては。わたしは、そうススムに言ったのだった。  それを、あの人は祭りを見に行きたい、と言ったのだ。二人で自由に動けるのは、これがきっと最後だろうし、前から、ねぶたは見たかったし、お前と一緒に行きたいんだよ。ススムは表情を変えずに、同じことを二度言った。  やっと膨らみかけたお腹なのに、あの人はその意味を全然わかってない。今、ここで大切にしないと、流産してしまうかもしれないのに。あの人の狙いが、そんなことだとは思いたくなかった。それよりも、この男に何か狙いがあるなんて思いたくない。 「今、本当に行きたいの? わたしが、こんな体なのに?」 「そうだよ。お前が動けるのは、今しかないじゃないか」  ススムは、そう言った。  本を見れば、どの本も旅行は決して勧めていない。なかには、「妊娠中の旅行は、きっぱりとあきらめるべきです」と書いてあるものもあった。  わたしは、その時、どう思っていたか。  わたしのあの残酷な覚悟は、一体どこから出てきたのだろう。わたしは、この体でススムに付いて行こうと思った。もし、それでだめになるのなら、結局、生き残れない子供のような気がしたし、だめになったらなったで、その現実をススムに見せつけたかった。そうすることでしか、あの人は気付くことができないのだ。でも、だめになればいいとは、一度も考えなかった。お前を試すようで悪いけどね、とまだ物体でしかない自分の子供を思った。  個人でねぶたを見に行くのは、簡単ではないようだった。飛行機やホテルの多くは、ツアー客のために何カ月も前からおさえられている。最初からツアーに入るつもりはなかった。前に、国際会議のプロジェクトに参加した時に一緒に仕事をした、旅行代理店の人を思い出した。あの人にお願いしてみよう。国際課の人だけど、こんなちっぽけな旅も手配してくれるかな。小さな旅ではあるけれど、こんなに遠くにススムと行くのは、もうこれが最後という気がしていた。  山田さんは、わざわざわたしの会社まで来てくれて、行く人数、名前、年齢、目的地を書く紙を渡してくれた。その紙に、 「木ノ内進 五十一歳・山本美穂 三十四歳」  と、山田さんの前で書いた。普通に見れば、まともな旅には見えない。まして仕事でお世話になった人の前では。山田さん、あなたには全然わかってないと思うけど、今、わたし妊娠しているのよ。本当だったら、自転車にも乗らない。なるべくゆっくり歩く、重い物は持たない。普通の女の子だったら、そんな風にして過ごしたがる時期にね、わたしは飛行機にも乗るし、電車にもいっぱい乗って、遠くに行くことにしているの。ひどいでしょう。その手配を、あなたにお願いしているの。  山田さんは、銀のフレームの眼鏡をしていた。わたしの書いた書類を見ながら、 「おさしつかえなければ、このご旅行の目的をうかがってもよろしいでしょうか。予約を入れるホテルを選ぶ基準になりますから」  と、言った。  ああ、この人、ちゃんと仕事をする人だと思った。この口調は、むかし不動産屋で聞いた台詞と同じだった。あの時わたしは、やっぱりずい分年上の男と一緒に、わたしが暮らす部屋を探しに行ったのだ。にこやかに応対した中年の女は、部屋の間取り、駅からの道順、大家の人柄を説明した後、ごく自然に「で、こちら様とのご関係は? お顔が似ていらっしゃいますけど、ご親戚の方ですか」と、全くなんでもない風に言ったのだ。あまりにさらりと言うから、本当は、それを一番最初に聞きたかったのだと、はっきり伝わった。世の中に対して、ばれちゃったなぁ、と思うのはこんな瞬間だ。本人がどう理屈をつけても、そして洒落たつもりでいても、疚《やま》しさは、こうやってまともな人たちから教えられる。結局、あの時は、あの不動産屋の物件はやめたし、教訓として不動産屋へは男を連れずに、一人で行くことにした。それでも、その男とは長くは続かなかった。  この旅の目的を、わたしはどう言えばいいだろう。 「苗字も違うし、年もずい分違いますけど、もう何年も一緒に暮らしていて、まぁ、言ってみれば新婚旅行みたいなものです。今年、わたしは勤続十五年目で、一週間のリフレッシュ休暇をいただけるんです。ですから、それに合わせて出かけようかな、と思いまして」  それは説明だった。説明しなければいけないということ自体、何かに負けていた。それでも、わたしは平気な顔をしていなければならない。  山田さんの顔は、ちょっとゆるんだような気がした。秘密が少ない客の方が、やっぱり楽だろう。 「そうですか。わかりました。それでしたら、できるだけ団体のお客様とはフロアが重ならないように、手配してみますが、何分予約が集中していますので、どれだけご希望に添えますか」  きちんとした仕事をする人は、丁寧で優しかった。  ススムは、どうせなら、ねぷたとねぶたを見ようと言った。わたしは、「ねぷた」と「ねぶた」の違いも知らなかったのだ。ひとつのお祭りを人によって言い方が違うだけなのかと思っていた。ねぷたは、八月一日から弘前で。ねぶたは、八月二日から青森で。そういえば「東北三大祭り」なんていうパンフレットを、旅行代理店の店先でよく見ると思った。わたしはずっと働いていたし、会社全体がお休みになるお盆休み以外、夏休みをずらして取ったこともないし、お金のかかる旅行に自分が行くことも考えたことがなかった。いわば、こんな「メジャー」なお祭りを見に行くのは、安定していて幸福で、何もかも持っている人たちが、更に贅沢な暇つぶしをしに行くのだと思っていたのだ。  妊娠しているのだから、わたしたちは、お金は少しでも使わずに取っておかなくてはならなかった。予定日は十二月だから、会社は十月の終わりまで行く。お給料がもらえる産休だけでは、きっと休みが足りないだろう。育児休暇を少し取るにしても、この間はどこからもお金は入ってこない。一体、何カ月、お給料無しで暮らせるのか。病院のお金のことも、赤ん坊のためにかかるお金のことも、考えなくてはいけない。無事に生めるのかということも、確かに心配だった。けれどもそれ以上に、赤ん坊に自分たちの生活を潰され、赤ん坊自身が暮らせないような状態になることを恐れた。  それに、この旅に、わたしの体と十六週めに入った赤ん坊は耐えられるのか。吐き気もおさまり、安定期と言われる時期には入った。けれど、この安定という意味は「もう、大丈夫。何をやっても平気」ということではなかった。むしろ本には、安定という言葉に安心して、警戒をゆるめることを諌める記述が多かった。この時期にもし、流産して赤ん坊が出てきてしまったら、あまりの小ささに、子供は助からないとあった。もっと子供が体のなかで育ったら、八カ月とか九カ月の段階でなら、早く生まれてきたとしても、赤ん坊の体の機能は十分できている。だから助けることができる。でも、十六週というまだ五カ月で二五〇グラムにも満たない人間は、どんな高度な医療を施しても外界では生きていけない。旅行を「きっぱりとあきらめるべきです」と書いてあるのは、そのためだった。  それでも、ススムが行きたいと言うなら、こんな体でもわたしは一緒に付いて行きたかった。何かを決心して、そして現実を受け入れるために、あの人には不必要で大袈裟な仕掛けが必要なのだろう。  わたしは、確かに自分の男を甘やかしている。それは知っている。他人からそれを嗤われても、そんな思いは、男にはうっとうしいだろうと言われても、ちっとも構わない。ただ口をゆがめて笑うだけだ。鼻先で笑いもしない。大丈夫、安心して。あなたには、決してそうはしないから。恋愛なんて、会員制なのよ。全員に、そうするとでも思っているの?  無事にこの旅が終わったとしても、わたしたちには、しなければならないことがあった。母に、このことを伝えなくてはならない。このこと。つまり、わたしは十年近くも、実はこの男と一緒に暮らしていること。男が仕事を失い、日々の生活は、この数年わたしの会社員としてのお給料でまかなっていて、これから先のことも、この人が一体どうなるのかもわからないということ。そして、わたしは妊娠している。その妊娠も、もう五カ月を過ぎているのだ。妊娠したということすら母親に伝えずに、ここまで一人の覚悟で時間を過ごした娘を、一体母親はどんな思いで見るというのか。自分の知らない、ふてぶてしい、男に寄り添った女に見えるに違いない。そもそも、自分の娘が全く知らない男に寄り添う姿を想像できるのか。 「誰かいないの?」  お正月や夏休みに、家に帰ると母は必ず言った。帰っても、決して泊まらずにすぐ帰る。ススムがいるからだ。本当に、顔を見せるためだけに戻るのだった。  わたしより三歳下の妹は、早くに高校の同級生と結婚していた。もう子供も二人いる。母は、娘たちからは「パパちゃん」と呼ばれている宮本さんを、全く評価していない。大学を出ていない。気が利かない。会っても自分から話そうとしない。わたしに会うと、今も必ず何かしら悪口を言う。母は、婚約指輪にもケチをつけたのだ。小さいダイヤがちりばめられた指輪だった。「こんなのをもらった」と、喜んで見せにきた妹に「お金がないから、こんな小さい石の指輪しか買えないんだよ。見てごらん、このデザイン。そのうち、石と石の間にゴミが詰まって黒くなるよ」。  妹は、そう言われ、それはあんまりだ、と怒ったらしい。  あの指輪がいかにちゃちな物だったかを話す母の顔を、わたしは思い出す。目を輝かせ、まるで良いニュースを伝えるように、生き生きとわたしに言うのだった。  それでは、母はダイヤの指輪を持っていたのか。それは、石と石の間に、ゴミの詰まらない、立爪のダイヤなのか。母は、瑪瑙の指輪と、父が香港で買ってきた翡翠の指輪と、韓国で買ったアメジストの指輪を、たんすの一番上の引き出しに入れていた。翡翠とアメジストは、石の価値はどうあれ、台は野暮ったく、いかにも安い品物だけを見て空港の売店で買ったのだろうな、と思わせた。実際、母もその指輪は使っていなかった。指輪のケースに入れられたままだった。  母は、とにかく、宮本さんが気にくわない。大学を出て、お給料の良い仕事をする、もっとセンスのいい人と結婚すれば良かったのに。そう母が言うたびに、わたしは言う。 「おかあさん、そういう人が、早苗を好きになるとでも思うの。早苗をよく見てごらんよ。宮本さんのような人だから、もらってくれたんでしょう」  母は、宮本さんを高校しか出ていない、と嗤うけど、早苗だってそうだ。決して美人じゃないし、痩せてもいない。テレビに、なんとかいう引退した女子プロレスラーが出ると、わたしは必ず妹と似ている、と思う。わたしたちが並んでいても、きっと姉妹だとはわからないはずだ。宮本さんは、一体早苗のどこが気に入って結婚したのか。わたしにはわからない。宮本さんのご両親は、早苗が自分たちの長男と結婚する女だと知った時、どう思ったか。母は、自分の娘にどれ位の価値があると、思っているのだろう。  その母に、わたしはススムのことと、そして十二月に生まれてくる子供のことを伝えなければならなかった。娘であるということは、一体どこまで追いかけてくるのだろう。この状況でススムを母に会わせるということは、「おかあさん、わたしはこの人と、ずっとセックスをしていました。そして避妊もしないでそのままだったから、子供ができて、だから生むんです」と言うのと同じことだ。いっそのこと、母のことなど考えなくても済む体になりたいものだ。わたしの体に溶けている、娘という成分を全て除去できたら、どんなに楽だろう。けれどどうあっても、わたしは平凡な娘でしかなかった。母に叱られるのが、何よりも苦痛な、つまらない娘なのだ。  ススムは、俺が行ったら却って心配するだろうから、君、一人で行ったほうがいいんじゃないの、とずっと言っていた。ススムだって、恥は苦痛なのだ。けれど、わたしの気持は変わらなかった。娘がたった一人で来て妊娠を告げるのと、ともかく「相手」を連れてくるのでは、意味が違う。このことを、わたしは、旅が終わったらしなければならなかった。  弘前には、祭りの前日に入った。ぎりぎりまで準備に忙しく、公園には行灯《あんどん》型のねぷたが何台も置かれていた。どこでも金槌の音がしている。いろいろ心配事はあるけれど、ここで心配するのはよそう。そんなの損だ。わたしは、先を歩くススムの背中を見ながら思った。あんまり、明るい光の下でススムと一緒に歩いたことは、なかったように思った。ススムは時々、くるりと振り向き「お前、大丈夫?」と、わたしを気遣った。  大丈夫なのかどうか、今、どういう状態なのか、実はわたしにもよくわからない。お腹は痛くない。吐き気もない。これは、きっと問題がない状態なのだろう。わたしは、鞄のなかに忘れずに入れてきた母子手帳を思った。ブルーの表紙にはピンクのセーターを着た長い髪の女が、丸顔の赤ん坊を抱いて笑っていた。子供と母親は似ていない。きっと父親似なのだろうと思った。この女とわたしは全然違う。こんな表紙は嫌だと思う。レッテルを貼られたような気持になる。「外出する時は必ず母子手帳も持って行きましょう」、本にはそう書いてあった。何かあった時のために、必要なのだ。何かあった時。それは、一体、何か。わたしは想像したくはなかったけれど、それでも手帳は持ってきた。  遠くからやってくる光は、美しい。わたしは、この旅で、それを一番に思った。掛け声と、太鼓とお囃子のなか、遠くから大きな光がやってくる。ああ、もうすぐいいモノがやってくる。そんなわくわくした気持で一杯になってそのひとつひとつを見送る。わたしは、歩道の端に新聞を敷き、ススムと並んで一緒に見た。ぎっしりの人で、わたしたちは、うんとくっついて坐っていた。やってくるモノを待つ気持。そして、遠ざかるモノを見送る気持。わたしたちは、その二つの気持を、お囃子のなかで同時に味わっていた。 「このお囃子は、妙に気持をかき乱す」  ススムが、低い声で小さく言った。青森でのねぶたの夜だった。鉦《しよう》と太鼓が微妙にずれ、そのずれで心が責められる。激しいお祭りなのに悲しくなるのは、あの鉦のせいだ。ずっと身動きできずに坐っていたからだろうか、お腹の内側が急に固くなり、鈍く痛んだ。これを、お腹の張りと言うのだと、わたしは初めて知った。 「ススム、わたし、お腹が痛くなってきちゃった」 「大丈夫か」 「うん、平気。ずっと坐っていたからお腹が苦しくなっちゃったんだと思う。わたし、立って近くの喫茶店の二階から見るよ。ススムはここにいてまだ見てて」  この辺りの喫茶店は、二階の窓際の席を「ねぶた見られます」と張り紙をして宣伝していた。今、行っても、きっと席は無いだろう。それでも、わたしは立って動かないといけない。 「もう、いいよ。見たから行こう」 「まだいいよ。ススム、あんなに見たがっていたんだから。わたしなら大丈夫よ」  お祭りは、まだまだ続くだろう。わたしたちは、三十分も見ていなかったはずだ。 「いいよ。行こう。もっと人が出てきて押されたら危ない。宿に戻ろう」  そう言って、ススムはわたしの手を取り、立ち上がらせた。わたしたちが立つのと同時に、紺色のプリーツプリーツを着て白い帽子をかぶったおばさんと、その亭主らしい首からカメラをぶら下げたおじさんが、「ああ、ここ、空いた、空いた」と、坐った。  わたしたちは、次の日、青森から山形へ行った。ススムが、まだ東京に戻りたくない、どこか温泉に行きたいと言ったのだ。青森の駅前に、この旅の手配をしてくれた、山田さんの会社の案内所があった。わたしたちはそこに入り、山形までの電車の手配をしてもらい、ホテルも探してもらった。ここではクレジットカードを使える。もう、手持ちの現金がいくらもなくなっていたから、それもありがたかった。 「最近できたばかりのホテルで、こちらはお薦めです」  そう言われて出されたパンフレットは、全部片仮名の長い名前のホテルで、一泊が一万五千円だった。そこに、一泊の予約を入れてもらい、山形から東京までの電車の手配はしなかった。  電車は、二回乗り換えをした。なんだか、ずい分遠い気がした。山形に入ると、急に雰囲気が変わり、ホームに並んでいても、どやどやと列に関係なく人が乗り込んできた。弘前でも、青森でも、空気はおっとりとしたものだったから、ことさら乱暴に感じた。たいして若くない人たち、男も女も平気で人を押しのけていた。でも、それはどうもその人たちには当たり前のことらしく、坐ってしまえば、わたしとススムのために座席を詰めた。  亡くなった父は、山形の出身だったな、と思い出した。わたしにはわからなかったけれど、あの厳しさや、きつい叱り方には、きっと気質というものもあったのだろうと思った。  山形のそのホテルは、急な坂をタクシーで上った所にあった。温泉も女性客を意識したらしく、青や緑の色の付いた浴衣が何枚も用意されていた。大浴場の外には、小さな露天風呂があり、ガラス戸を引いて、白い石を踏んで入りに行った。お湯に入ると、もう、とんぼが飛んでいるのが見える。後ろから入ってきたおばさんが「これから、今日は秋田の竿燈《かんとう》祭りに行くの?」と声をかけてきた。秋田に宿を取れなかった人たちは、山形に泊まり、そして祭りを見に行くんだろう。 「いいえ。行かないんです。ここで、のんびりしているつもりです」 「まぁ、そうなの」  その口調は、「まぁ、もったいない」と言っているように聞こえる。この人は色白で、髪は短く柔らかくパーマがかかっている。少し染めているのだろうか、苦《にが》そうなチョコレートの色だ。 「今、妊娠しているんです。だから、もうあまり動きたくなくて。弘前と青森をまわってきたので、疲れました」 「そうだったの」  その人は、お湯のなかのわたしのお腹を見たはずだ。 「今、どの位なの?」 「五カ月に入りました」 「そう、いいわね。これから、楽しみね。大変になる前に旅行だなんて、ご主人、お優しいのね。うらやましいわ」 「ありがとうございます」  わたしは素直にそう言った。 「それなら、無理して秋田へは行かないほうがいいわ。大切にして下さいね」  その人は、これから行くのだと言って、早めにお湯から出た。一人になったお湯を、わたしは両手を伸ばし、ゆっくりとかきまぜた。お湯がお腹に当たる。せみが鳴いている。会社のみんなは、今、仕事中だ。お湯の光は、強くて白くて、なんだか粉っぽく見える。わたしは目をつぶる。まだ残っている休みを数えた。そして、この後に待っていることを考えた。  お湯から上がり、わたしは、うぐいす色の浴衣を選んで着た。身頃を体に合わせ、巻き付けるように着ると、お腹の線がずい分出た。さなぎのようだと思った。これじゃあ、昔の女の子は困っただろう。結婚もしていないのに妊娠したら、死ぬ程、恥ずかしかったことだろう。結婚しているにしても、臨月の着物姿はどうだったのか。帯は結べたのだろうか。わたしは、紐のような帯を、お腹より少し高い位置にゆるく締めて、思った。  部屋に戻ると、ススムは畳の上に肘を付いて横になっていた。下からわたしを見て「お前、腹そろそろ出てきたな」と言った。わたしも「うん」と返事をして、ススムの隣に足を伸ばして坐った。 「苦しくないのか」 「苦しくない。自分のお腹が勝手に大きくなるのが、こわい感じがする」  そう言うと、ススムは眉をしかめた。 「こわいこと、言うな」 「だって、本当のことなんだもん」  中身は、まだ二五〇グラムしかないのに、どんどん、わたしの体は変わってきている。わたしは、その意志がこわい。そして、それと同時に、変化のひとつひとつを思い知らされ、受け入れるしかないのだった。わたしとススムの間に、その感覚に対してのズレがきっとあるのだろう。ズレが距離に変わることが、わたしにはこわい。その距離とは、わたしがススムを引き離す距離ではなく、ススムがわたしよりもうんと先へ行ってしまい、わたしには追い付けなくなるぐらいの距離だった。  この部屋は広い。八畳と六畳が二間続いている。窓の下は谷のように下へ下へと畑が広がっている。あの青々とした葉っぱは何だろう。枝豆かもしれない。時々、父は気が向くと、ゆでた枝豆をさやから出し、すり鉢ですった。すり鉢を押さえるのは、わたしの仕事だった。明るい緑色の餡《あん》を白いお餅にからめて、日曜日の午後、みんなで食べた。わたしたちには珍しい、凪に似た時間だった。父は、わたしたちのために作ったのだろうか。それとも、あの味が懐かしかったのか。ずんだ餅と言ったけれど、ずんだとはどんな意味だったのか。風に揺れる丸い葉っぱを見ながら、ぼんやりと思った。なんだか全然知らない所まで来ちゃったなぁ。わたし、ここから、うちに帰れるのかな。こんなに知らない風景の所で暮らしても、厚生年金とか保険料とか税金とか、やっぱり追いかけてくるのかな。ただ生きているだけなのに、どんどんお金は取られてしまう。わたしが住める所って、地球の上にもうどこにも無い感じ。そんなには熱くなかったけれど、お湯に長く入っていたせいだろうか、頭の芯が、ぼやけるように眠い。そういえば、妊娠してからいつもいつも、わたしは眠かった。 「ススム、わたし、ちょっと眠くなっちゃった。寝ていい?」 「疲れたんだろう。今、布団を敷いてやるから、ちょっと待ってろ」  ススムはそう言うと、陽のささない奥の六畳にわたしの布団を敷いた。布団に入っても、ススムはそこを動かず、側に坐っていた。わたしは体の左側を下にして、体を曲げてススムの方を向いて、目を閉じた。仰向けに寝るよりも、お腹が楽なのだった。  眠ろうかと思ったその時、ふいにススムの大きな手が、わたしの髪に入り、そして五本の指が髪をすくった。 「お前、もういいよ」  ススムが静かに言った。  えっ、何だろう。わたしは顔を白い木綿カバーのかかった布団から上げ、ススムを見る。ススムも、わたしを見ていた。 「本当は、これが終わったらもうお前に引導を渡すつもりだった。かわいそうだとは思うけれど、やっぱり、俺にはお前とか子供のことは無理だ。でも、こんな体になっちゃって、あんなに嬉しそうな顔で付いてくるお前を見ていたら、これでもいいかと思った。もう、そんなお前を見ていられない」  わたしは、ススムから目をそらさずにじっと見る。 「そう。いつ、そう思ってくれたの」 「今だよ。お前が部屋に戻ってきた時だよ」  この人は、惨《むご》い。わたしは何も知らなかった。同じ思いで同じ風景を見ていたと思っていたのに。それじゃあ、電車から青い小さなりんごが木に実っているのを見た時も、ねぷたが終わり、宿に戻る道で、町内会の子供たちの引く小さなねぷたの後ろに付いて行った時も、朝、納豆をうんとぐるぐるかきまぜて笑っていた時も、ススムは、わたしを「もうすぐ置いていく女」として見ていたのか。わたしはそんなススムの気持を全然知らずに、やっぱりお祭りが嬉しくて、二人で見られて良かったなぁと、後のことは忘れたふりをしてここにいたのに。ススムの目は、後のことばかり考えて、わたしを見ていたのか。 「ススム、もう、どこへも行かない?」 「行かないよ」  わたしは今、哀れまれている。けれど、そう思ってくれているのはススムなのだ。この人にそう思われても、もう構わない。 「明日、帰ろう」 「うん」 「だから今は寝ていれば」 「わかった。側にいてくれる? わたしのこと、こっそり置いていかない?」 「ここにいるよ。ずっと、いる」  わたしはそれを聞くと、布団から出していた右手を伸ばし、目の前のススムの右手をそっと触った。ススムはわたしに、されるままでいたけれど、ススムの手に力が入り、わたしの手を握った。この指が、どうかほどけませんように。わたしも指をススムの指にからめた。それは短い蛇がからみつくようでもあったし、祈りのかたちにも似ていた。それが、わたしたちの指なのだった。わたしは、お腹の子供に、付いて来られるのなら生まれておいで、と思っていたけれど、なんていうことはない、試されていたのは、わたしだったのではないか。それが今、やっとわかった。  旅が終わり、母に言わなくてはならなかった。まず、わたしが一人で母の所へ行き「結婚するから」と言い、その後、ススムを連れて行くことにした。わたしのお腹は、もう大きくなっていたけれど、服によっては、どうにか隠せる位の大きさだった。ただし、もうワンピースしか着られなかった。 「わたし、結婚することにしたから」 「誰と?」 「木ノ内さん。木ノ内進さん」  母には名前だけは伝えてあった。 「あなたたち、別れたんじゃなかったの?」 「別れていないよ。ずっとつき合っていた」 (あの人は、ずっと、わたしの所にいる。そして、わたしのお給料で暮らしている) 「だって、そんな話、全然しなかったじゃない」 「おかあさんに、いちいち言うわけないじゃない」 (親に言わない秘密があるのが大人じゃないの) 「なんだか、変じゃない」 「別に変じゃない」 「結婚するっていうのにちっとも嬉しそうに見えない」  母親って何かを必ず見抜くものだ。今のわたしが、どうして手放しで嬉しがることができるだろう。結婚だって、今すぐするわけじゃないし、もしかしたらできないかもしれないんだよ。それを、こんな風に言いに来たのは、わたしが妊娠したからだよ。別に、自分のために、姑息なことをしているわけじゃない。おかあさんに、やっばり悪いと思うからだよ。自分の知らない間に、「孫」がお腹のなかで、すくすく育って、いきなり「生まれたよ」って言うのは駄目でしょう、いくらなんでも。わたしはね、おかあさんのことは好きじゃない。それでも大事なことは、やっぱり母親に伝えなくちゃいけないんだ。娘だということが、突然あぶり出しでのしかかってきた気分なのだ。だからこんなこと、全然嬉しくない。 「まぁ、いいじゃないの。来週連れて来るから会ってね」  その日、わたしたちのために、母は料理し、そしてお寿司をとって待っていた。スモークサーモンのマリネ、マヨネーズのたくさんかかったサラダ、ゆですぎの枝豆、トマト、鳥の唐揚。そのどれもが、わたしが子供だった頃の、ごちそうだった。こんなものをテーブルに並べて、入学や卒業を祝ったものだ。少し時間がたって乾いたイクラ。もう黒っぽく見えるマグロ。これを用意してくれた母を思うと悲しくなる。おかあさんには、これが上等なんだね。それと同時に、ススムはこの料理をどう思うだろうと思った。  母は、ススムに、そして、わたしにビールを注ぎ、最後に自分のグラスに注いだ。 「乾杯」  と、笑って母は言った。  わたしは、ほんの少しだけビールを口にした。母は、ススムに仕事のことをあれこれ聞いた。ススムは、にこやかに答える。ただし話している大半のことは、過去のことだ。  わたしは、そんな二人のやりとりを、足を前に投げ出し手を後ろについて聞いていた。つわりが収まったとはいえ、暑さで体がつらかった。  ススムと話をしていた母が、わたしを見た。 「あんた、なんて恰好しているのよ。それにそんな、だぼだぼのワンピースなんか着て」 「実は、もう子供がいるんです。お腹のなかに。お気付きになりませんでしたか」  ススムは、それを上手に、そして、あっさりと言った。母は大きい声で、えっ、と言って、わたしを見た。もう笑っていなかった。 「今、五カ月」  わたしは、体を起こした。数秒前のわたしとは、別な人間に見えるだろう。 「いつ生まれるの」 「十二月」 「あっという間じゃないの。なんだか急に太ったから、もしかしたら、と思ったけれど。つわりは?」 「あまりなかったし、もう大丈夫」 「あんた、赤ちゃんがいるなら、もっと食べなさい」  母は、おどけて自分の皿の唐揚を、わたしの皿に移した。  ススムは、商談のように淡々と話をした。今、経済的に不安定なので、すぐに結婚できないこと。生まれてくる子供は、もちろん自分の子供として育てるので、安心して欲しい。妊娠した時、彼女の決意はとても強かったから、いろいろな大変さも、このまま乗り切れるのではないかと思っている。  ススムは、言葉を選びながら母に伝えた。 「で、正式には結婚しないんですか」  母は、やっぱりそんなことに、こだわっている。 「いえ。いずれするつもりです」  ふーん、ススム。そうなの? 知らなかった。 「できているんだったら、生んで欲しいと思うけど。木ノ内さん、子供欲しいんですか?」  なんでこんなことを訊くんだろう。いいえって言ったらどうなるのか。そもそもそんなことを、この場で言える男っているんだろうか。 「あんた、子供、育てられるの?」  母は、わたしをまっすぐに見て言った。 「おかあさん、そんな難しいことを訊かないで下さい」  ススムは笑ってしまった。  話はもう済んだし、これ以上、ここにいる理由もない。料理はまだ半分残っていたけれど、帰ってもいい雰囲気だった。  母は、ススムに頭を下げ、どうぞよろしくお願いしますと言ったけれど、これで済むはずがないことを、わたしは知っていた。  それから何日かして、妹から電話があった。わたしたちは、電話のやり取りはおろか、会うこともない間柄だった。ああ、話が行ったな、と思ったけれど、わたしは普通に話をしようと思った。 「おかあさんから訊いたと思うけど、わたし子供を生むんだよ」 「うん、聞いた」  わたしと妹は、声が似ていると言われる。でも似ているのは声だけだ。妹は着実に駒を進めている。二人の娘を育て、家も去年買った。義弟に当たる妹の夫は、母が何と言おうと、子供たちには好かれ、いつも「パパちゃん、好き」と後を追われている。 「あのね、もっと、おかあさんに相談にのってもらったらどうなのかな。淋しそうだったよ」  わたしは、さっきまで笑っていた自分の顔が、すうっと変わっていくのがわかった。 「えっ、母親に何を相談しろって?」 「だから……」 「あんたにね、わたしの何がわかるっていうのよ。先に子供生んだぐらいで、何をそんなに偉そうに言うわけ?」  玄関に、自分たちの結婚式の写真をピンクのクマのフレームに入れて、恥ずかし気もなく飾っている妹。持っているスカートのウエストは、全部ゴムで、いつも肌が荒れている。それでも、それを全然気にせず、夫との暮らしに安心しきって、その安心の度合いが、体重にそのまま出ている。わたしは、母よりも、妹のような女が嫌だ。わたしは、こんな女と一緒ではないと、いつも言っていたい。 「別に、そんなこと言っているんじゃない。ただ、ママがかわいそうだよ」 「何がかわいそうなのよ。わたしはね、あんたが誰と結婚しようと、いつ子供を生もうと何も言わなかったでしょ。放っといてよ」  わたしは、ありったけの力を込めて受話器を置いた。そして、その勢いで母に電話した。 「何を言ったのよ」  声ですぐわかったらしい。 「当たり前でしょ、あんな大事なこと。結婚もしていないのに子供が生まれるなんて、みっともない」  へぇ、驚いた。そんなこと、世の中の人と同じ顔で言えるの? ふーん、ママ、それなら自分の結婚はどうだったのよ。あれが、しあわせだったなんて言わせないからね。ただ離婚しなかったっていうだけだったじゃないの。そんなに立派なものだったの? 勝ち誇ったように結婚、結婚って。離婚しないのは、あんたたちのためだって、そればっかり。恨んでばっかり。文句ばっかり。子供さえいなければって、平気で何度も言って。それって、虐待じゃないの。あのさ、母親って子供にこんなことしていいの? 仲の悪い親のもとで育って、わたし、すごく嫌だった。苦労しちゃった。ママ、あなたの娘は二人とも、大人になったらさっさと家を出ちゃって、何のために我慢してきたのか、もう、わからないじゃないの。わたしは、自分の親を見てきたから、結婚なんてできないと思ってた。夢なんか持てなかったし、だから妹が、あっさり結婚して平気な顔でのんびり暮らしているのを見て、拍子抜けした。  ママ。わたしはね、決めたの。わたしはね、ママより進化するつもり。わたしはね、ママの子供だから、ママよりましになる。そして、わたしの子供はね、ママがわたしに言っていた「いらない子供」じゃないし、わたしだって、ママみたいに男にバカにされながら我慢しているような女じゃないのよ。わたしはね、必要とされている人間なの。だから、今、結婚していなくても何もこわくないの。順番なんて、全然関係ないの。たぶん、ママには永遠にわからないだろうけれど。 「なによ、どうせ堕ろせばいいと思っているんでしょ」  結婚しているのに、最初に妊娠した子供を、夫から、堕ろすんでしょ、と言われた女は、ママ、あなたじゃないの。わたしの相手は、結婚していないけど、一度だってそんなこと言わなかったわよ。わたしはね、堕ろされることもなく勝ち残った子供なんだよ。そしてわたしが生む子供も、勝ち残る子供なんだ。 「そんなこと、誰も言ってないじゃないの。おめでたいことだから心配しているんじゃないの、このひねくれ者」  今度は、母が受話器を叩きつけた。  わたしは、ツーツーと音のしている受話器を静かに置いた。体調の良くない人間に、よくもそんなことができるもんだ。立派なお方。それだから、パパともうまくやっていけなかったのよ。パパだけが悪いんじゃない。別にいいのよ。悲しくない。わたしの妊娠を知った人は、必ず、えっ、生むの? と思うのだ。他人の頭のなかで、一度は殺されてしまうわたしの子供。生まれる前から名前が付けられている子供。私生児。なんて嫌な名前だろう。たった一人で、まるで水溜まりからわいてきた子供のように聞こえる。それだったら、まだLOVE CHILDの方がいい。一体誰だろう。こんな名前を考えてくれた人は。わたしは、一度も堕ろそうなんて考えなかった。一瞬でもそれを考えてしまったら、負けだから。わたしと、わたしの子供の進化が止まってしまう。だから考えない。平気。わたしは、ママとは違うんだから。そう思って立ち上がったら、わたしは泣いていた。  ススムはわたしを見ていた。 「おかあさんが驚くのは当たり前だよ。君のことが、うんと心配なんだよ」  そして、赤ん坊のこともね、と付け加えた。 「むかしからね、あの人は、言いたいことをそのまま平気で、何でも言うの。わたしの子供の頃から」 「でも、君だってそういう所、あるんだよ。気が付いていなかったの?」  わたしは、ススムを見た。  この人は、時々こんな風に冷静に判断する。周りががやがやしていても、ぽつんと、とても正しく考えることができる。それは、わたしには、なかなかできないことだ。そんな場面に出会うたび、頭がいいってこういうことかなって感じる。その頭の良さは、めちゃくちゃさと同時に、この人のなかにあるものだ。  そうね。  わたしはきっと、とても母に似ているのだ。それは、考えたこともなかったけれど。だから、母には、まるで自分のことのように、わたしの心配事が透けて見えてしまうのだろう。  母は翌朝、会社に電話をしてきた。朝一番の直通電話を取ったら母だった。 「きのうは、悪かったわね」  声はどこか明るく、でも一生懸命な感じがした。 「うん。もう、いいよ」  丸めた紙が元に戻るように、悲しみがほどけてゆく。 「体、大丈夫なの」 「うん、大丈夫。大事にしているから。今日、これから会社に届けるつもりなの。そうすると、一時間遅い出社にしてもらえて、電車が楽だから」 「そう。そのほうがいいわね」  母は言葉を探していた。 「困ったことはないの?」 「うーん、だんだん着られるものがなくなってきて、どうしようかなぁって思ってる。デパートにマタニティを見に行ったんだけど、着たいようなのがなくてね」  マタニティウエアは、ベビー服売り場の隅にひっそりとあった。婦人服のフロアにはないのだ。どれもパステルカラーで、ひらひらとフリルが付いていて、着ればみじめになりそうなものばかりだった。大人が着る服ではなかった。 「じゃあ、縫ってあげる」  小さい頃のわたしたちの服は、全て母が縫ったものだった。 「会社で着ていてもおかしくないものにしてね。ジャンパースカートなんて嫌だからね」 「わかっているわよ」 「うん、じゃあお願いね」  そして週末に、紺のパンツスーツが届いた。  子供は男の子だって。七カ月の時にそれがわかって、ススムに言うと、それは、だめ、とこわい顔で言った。だめって言っても、もう男の子になっちゃっているんだから、そんなことを言っても無駄よ。わたしたちは浅草のおそば屋さんで、おそばを食べていた。 「わたしは、小さい男の子を育てたかったから嬉しい」 「男の子は、だめだよ」 「どうして」 「俺に似ると困る」 「わたしだって、女の子だと困ったと思うよ。だから、あなたのその気持はよくわかる。わざわざつらいめにあうような、そんな女の子になったら悪いもん。だから、男の子でほっとした」 「お前ら、二人で結託したな」 「うふふふ。そうよ。あなたに似た小さい男の子を、うんとかわいがるの。その子が最初に会う女がわたしだなんて、わくわくする」 「俺は、おふくろが俺の前で平気で着替えるのが嫌だった。母親って、そういうことが平気だな」 「だって、子供じゃない。平気よ」 「それが違うんだな」 「そんな風に思っていたなんて、あなたはどんな子供だったの」 「もう忘れた」  わたしはススムの亡くなったおかあさんに、会いたかった。彼がどんな子だったのか、いろいろ訊きたかった。赤ちゃんだったススムなんて想像できない。半ズボンをはいた小さいススム。いたずらをして叱られるススム。きちんと椅子に座っておやつを食べるススム。おつかいに行くススム。甘えて泣くススム。おかあさんがもういないということは、そんな小さい頃のススムの断片の全てがこの世から消去されているということだ。おかあさんは、ススムを生んだ時、一体どんな風に思ったのだろう。わたしは、そのひとつひとつをなぞりたくて、男の子が欲しかった。  もしも女の子だったら。  女の子だとしても、もちろんわたしは一生懸命育てるだろうし、かわいがる。けれど、その子にどこかしら自分と同じ癖を見つけるたびに、その子を抱き締めずにはいられない。そうか、やっぱりそうなの、と。かわいそうに、とは決して思わない。けれど、あきらめに似た気持で、髪をなでることだろう。でもそんな小さな女の子を、ススムが名を呼び、抱き上げてくれたら、わたしの心はどれだけ静まるだろう。  大人になった男と女の間に、記憶を持たない小さな男や女が生まれてくるわけは、自分自身が欲しかった幼年時代を与えるためかもしれない。わたしには、そう思えるのだった。  生まれた子供は、わたしより先に病室へ運ばれて行った。ゆっくり歩いて病室に戻ったら、ススムが子供を見ていた。小さな透明な箱のようなベッドに子供は寝かされていて、ススムはまるで、泉の水を飲むように身を屈《かが》めて見ていた。 「ススム、わたし、生んだんだよ。がんばったよ」  ススムは体を起こして、振り向いてわたしを見た。 「お前は、がんばったね」  わたしは、壁に手を付きながら、ススムの近くまで行った。 「もう歩いてもいいの」 「ゆっくりなら大丈夫だけど、もう寝るよ」  ススムは、ベッドのお布団をめくってくれた。シーツの下には、ビニールのシートが敷いてあるのだろう。ごわごわする。 「夕食がさっき来たから、テーブルの上に置いておいたよ」 「うん」  ハヤシライスに、ラップがかけられていた。  わたしは、一呼吸置いてからススムに訊いた。 「あなたは、この子のことが気に入った?」 「ああ」 「そう。それは良かった。わたし、とても嬉しい」 「お前が戻ってくるまで、二人でいたんだよ」 「そうね」 「こいつが会った最初の人間は俺だよ」  ススムが言った。 「こいつの爪と、俺の爪は同じかたちだなぁって思った」  わたしは、さっき見た白い幅広の爪を思った。 「遺伝子って、芸が細かいわね」  ススムは、病室にある小さい冷蔵庫からいちごを出してくれた。 「洗ってあるよ。さっき買っておいた」  この冬、わたしたちはたくさんのいちごを食べた。一日の終わりに、この赤い実を、まるで儀式のように二人で向き合いつまんで食べた。 「目は、君の目だ」  子供は、目を閉じて眠っている。まるで落とし物のように、箱のなかに入っている。 「目? そう? 自分では、わからない」  わたしは、枕に身をあずけ、体を少し起こして子供を見た。 「自分の顔は、自分じゃあわからないから。それに、今、寝ているもん」 「さっき、じーっと見られた。君と同じ顔だ」  ススムは、白いお皿にのったいちごをひとつ指でつまみ、子供の口にそっと含ませ、そして、その実を食べた。 「さっき、君のおかあさんに電話したよ」  ススムは、ハヤシライスのラップをはがしてくれた。 「そう。なんて言っていた?」 「いつ入院したんですかって、びっくりなさってた。でも、喜んで下さっていたよ。明日の朝、来て下さるって」  もう九時近かった。 「わかった。じゃあ、ごはん食べて力を付ける」 「そうしたら」  ススムは、いちごをひとつつまみ、わたしにくれた。  病院の面会時間は九時からで、その日、母は九時半に来た。ススムも、まだ来ていない時間だ。そして、妹も四歳と一歳の子供を連れて一緒に来た。意外だった。ここの病院は診察室の上に個室が四つある。  ドアをノックして、母は入ってきた。 「わぁ、いた」  と、ベビーベッドをのぞき込んだ。 「抱いてもいい?」 「うん」  母は、コートを脱いで椅子に置いた。バイ菌が付いているといけないからと、手を洗いに行った。 「顔がはっきりしている」  きのう生まれたって聞いて、夢を見たよ、と母は言った。そして、その夢のなかで赤ん坊の顔を見たと言う。 「とってもきれいな顔の子で、猿みたいな赤ん坊じゃなかった。夢のなかでも、ああ、生まれたんだなぁって思った」  四歳のサトコは、あーちゃん、赤ちゃん見せて、と母のスカートを引っぱって言った。母は孫に、あーちゃんと呼ばれているのか。お顔には触っちゃだめよ、と言って、母は椅子に坐り、赤ん坊を抱いてサトコに見せた。 「お前のいとこだよ」  妹の早苗が、サトコの手を握って言った。下の子のマリコは、早苗にしがみついている。わたしは、写真でこの子の顔を見たことはあったけれど、会うのは初めてだった。 「こんなに早くから子供を連れて電車に乗るのは、大変だったでしょう」  わたしは、まだ早苗に謝っていなかった。 「うん、少しね。だから、マリちゃんが今、眠いみたい」 「そう、悪かったね」  わたしは、ベッドの近くに置いたハンドバッグから、お財布を出した。 「サトコちゃん。近くに来て。もっとお顔、よく見せて」  サトコは、もじもじしながら来た。きれいな二重《ふたえ》。ピンクのワンピースを着ている。妹が付けたのか、白いフェルトで子犬のアップリケが付いていた。 「赤ちゃん、見えた?」  わたしは、サトコの手を握りながら言った。湿って柔らかく、そしてあたたかかった。 「うん。小さい赤ちゃん。ミホちゃんの赤ちゃん」 「そうよ。だから、ミホちゃんは忙しくてお正月にサトコちゃんには会えないから、今、お年玉をあげようね」  わたしは五百円玉を、ティッシュに包んでサトコのその小さな手に渡した。サトコは嬉しそうに笑い、母親である早苗の方を振り返った。 「よかったね。こんな時は、なんて言うの?」  サトコはわたしを見て、 「ミホちゃん、どうもありがとう」  と、言った。 「さあ、わたしたちはもう帰るわ」  母が、子供をベッドに戻して言った。 「えっ、もう? 今、来たばっかりじゃない」 「体が疲れているだろうから、あんたはゆっくり休まなくちゃだめ」  赤ちゃんを見せてもらったから、もういいと言った。 「名前は決まったの?」 「ううん、まだ。彼が考えてくれるの」 「そう。子供って不思議だよ。名前が決まると、ちゃんとそんな様な顔に見えてくるんだよ」  マリコが、早苗にしがみつき、ぐずり出した。 「じゃあ、もう行こう」  そして、母は黒いショルダーバッグから御祝と書かれたのし袋をくれた。 「一人でがんばったごほうびだよ」  母が行ってしまってから中身を見ると、二十万円が入っていた。わたしは、その包みをサイドテーブルに置き、ベビーベッドを引き寄せ,子供を見た。口を少し開けて、よく寝ている。子供を起こさないように、額を触った。この先、わたしは一体どれだけ、この子のことを許していくんだろう。すくい取るように、子供をベッドから抱き上げた。  病院は工場に似ている。  朝の七時になると全てが動きだす。看護婦さんにお風呂に入れてもらって、子供はぴかぴかになってベッドごと運ばれてくる。ごとごとごと。廊下から聞こえてくる音が待ち遠しい。子供は朝一番にできあがった製品のように、わたしに届けられる。わたしは、この瞬間がとても好きだ。ちゃんと目を覚ましていたら、早起きをして待っている。六時半から何度も時計を見る。もうすぐかな、もうすぐかな、と思いながら待つ。  子供の体は、湿った熱とぐんにゃりした重みでできている。わたしは顔を近づけて見つめる。半分は珍しいものを観察する気持から。もう半分は、わたしのなかで新しく始まった気持で。わたしは、この子供のことを自分の体全部で吸い取りたい。どんな小さなことも、この目で見ていたいのだ。  生まれたばかりの子供には、表情がない。子供は、宇宙人のような生真面目な顔をして、わたしを見ている。  頭のなかで考えていたことって、全然あてにできないな、と子供の顔を見ながら思う。この子は、わたしの分身でもないし、コピーでもない。まして、わたしとススムの部品の組合せで全身できているわけでもない。まるで知らない、これまでこの世界にいなかった新しい人間なのだ。  その考えは、わたしの気持を軽くする。わたしは、わたし。この子は、この子。わたしたちは別な人間。わたしには、それが嬉しい。水からはい上がったような思いがした。  ススムがやってくるのは、だいたいお昼過ぎだ。手ぶらで来ることはなくて、アイスクリームや、ケーキを持ってきてくれる。  ススムは、子供をこわがらずに抱く。椅子に坐って、ぐにゃぐにゃの子供をバスタオルに包み、そして自分のひざの上に置く。そうすると、うんと小さく見える子供は、巣から落ちたひな鳥のようだ。生まれる前、この子はわたしにとって「ススムの子供」だった。でも、こうして生まれてしまえば、この子は、すっかり「わたしの子供」なのだった。  ススムが、子供を抱く時や、ススムが身を屈め、子供のベッドをのぞき込む時、「わたしの子供」を大事にしてくれて嬉しいと感じるのだ。そして、もっとおかしな気持に気が付いた。ススムが子供をかまってくれる時、わたしは、自分がきちんと評価されているように感じるのだ。余計なことは何も考えず、平和な気持でいられる。子供ではなく、わたし自身が大事にされているような気がした。  こんな気持を、頭は、はじき出してくれなかった。頭の考えって、現実に追い付かないものかもしれないな。わたしは、いつも考えてばかりいたけれど、きっと体はうんと強く、頭はひ弱なものなのだ。 「名前、考えてくれた?」  ススムは、ベッドに子供を戻して、バスタオルを胸までかけてやった。 「うん。いろいろ考えているんだけどね。まだ決まらない。何日までに決めればいいんだっけ」 「二週間よ」 「そうか。わかった。どの名前も知り合いの顔が浮んで、そうじゃない名前にしたいんだよ」 「今までなかった、新しい名前にしてやってね」  誰かと同じではなくて、この子だけの名前が欲しい。 「だから、もう少し待ってくれるか」 「うん。平気よ、待っていられるから」  この時、思った。  神様は、この世をお創りになり、それぞれに名前を付けたけれど、その作業は全部一人でできたのだろうか。やっぱり、こうして誰かと相談したように思えてくる。今のわたしたちは、神様からは一番遠い存在だけれど。  神様は、きっとセックスはしない。  セックスをして、子供を生むのは人間の特権かもしれないな。この子供は、セックスの製品だ。たくさんのセックスの果てに、この子は実った。セックスは、わたしにとってもはや主食なのだと、この時初めてわかった。  ススムしか与えることのできない栄養で、わたしの毎日は作られている。あの人は、それに気付いているだろうか。こんなことは、どこか悲しくて、そしてみっともない。自分以外の人に、身をあずけるなんて。でも、もういい。わたしは、飢えることのないように、彼と一緒にいよう。わたしは、この子供の手を引き、彼とはぐれないように付いて行くだろう。そして子供はきっと、わたしのススムへの思いを吸って、育つだろう。この子の主食は、今はわたしなのだ。  遠いむかし、きっとわたしにもそんな日々があった。でも、今、自分で選んだ男へと、私の体は食べ物を切り換えたのだ。  ススムは、じゃあ、また明日、と言って帰る。懐かしい台詞だ。わたしたちは、もう長い間一緒にいるから、しばらくこんな言葉を、聞いていなかった。 「うん、また明日ね」  わたしは、いいよ、と言うススムを、やっぱりドアの所まで行って見送った。  夜の九時になると、看護婦さんが子供を迎えに来る。夜は新生児室で過ごすのだ。 「また明日ね」  口のまわりを、ガーゼで拭いてやりながら、その日二回目の台詞を言う。ごとごとと、子供のベッドが運ばれて行く音が廊下を通り、新生児室のドアが開かれ、そしてパタンと閉まる音がする。それを聞き終えてから、わたしは部屋の明りを暗くする。  わたしは、自分のベッドのなかから、さっきまで子供のベッドのあった場所を見る。そこにはもう、子供のいた跡なんて何も残っていない。わたしは上を向いて、今、何をしているのかな、泣いていないかなって思う。  夕佳ちゃんが、病院に来てくれた。ドアがノックされ、ススムだと思って、どうぞと言ったら、夕佳ちゃんだった。手に赤いチューリップの鉢を持っている。温室栽培とはいえ、十二月にチューリップなんて珍しい。 「あっ、夕佳ちゃん。来てくれたの」 「うん。疲れているかなって思ったんだけど、考えてみたら、退院して、おうちに戻ったらもっと疲れて大変だと思ったの。だから会うのは今のうちだと思ったから、来ちゃった」  結婚していないので、会社ではわたしの妊娠が、どういう質《たち》のものか、わからない人がだいたいだった。気の毒なこと、と思われたのかもしれない。  大きくなったお腹を見て、 「あれ、おめでた? 山本さん、結婚したの?」  と、笑顔で聞いてくれた人に、 「いいえ、結婚していません」  と、答えるのは、悪いことのような気がした。わたしの答えを聞くと、 「えっ」  と、まず驚き、そして次に、 「でも、それはそれで、おめでたいことだから」  と、言える人はまだましだった。 「へえ」  と、言ったきり、次の言葉が出てこない人もいた。見ているわたしの方が、気の毒になるほどだった。  なかでも、一番驚くようなことを言ったのは、卒業した短大のシスターだった。わたしの妊娠を誰かが「卒業生の近況」として、伝えたのだろう。シスターは、わざわざうちに電話をかけてきたのだ。 「あなた、おかあさんになるんですって。素晴らしいわ。おめでとう」  そう、シスターは言った。シスターたちはキリストを生んだマリア様を崇めている。生んで育てることを、尊いことと思っている。でも、それは実際には決して生むことのない人、決してセックスをしない人の、頭の考えでしかないのではないか。マリア様と違って、生むためには、わたしたちは、この地上でセックスをするのだから。それを、大きな声で素晴らしいと言われても、なんだか恥ずかしいだけだ。わたしは、自分の妊娠をシスターに言うのは、母に言うより嫌だった。 「シスター、わたしは、おかあさんになると言っても、ただ子供を生むだけですよ。おかあさんっていう人になるんじゃないんです。それに、わたし結婚していないんです」 「えっ」 「そうです。結婚しないで子供を生むんです。それでもシスター、素晴らしいですか?」  シスターの困ったような声を聞き、むらむらと「ざまあみろ」という気持になった。妊娠なんて、子供なんて、シスターが考えたようなことばかりじゃないんだから。世の中は「原則」だけでできているんじゃないんだから。原則からはずれた時どうするのか。その時、知恵を使うのが人間なのに。 「まあ、そうなの」  シスターの声は、急に冷えた。 「それでは、あなたのためには祈りませんが、赤ちゃんのためにはお祈りします」  そう言って電話は切れた。聖書には、敵のためにも祈れとあるのに。わたしは、敵ですらないのだ。それでも構わない。たとえ祈る人がいなくても、わたしには子供を生める。  夕佳ちゃんに、赤ん坊を見てもらいながら、わたしはその時のことを話した。夕佳ちゃんは、すごく怒ってくれた。 「その人、ひどくない? シスターなんでしょ。そんな人のお祈りって価値のあることなのかな。そんなこと平気で言える人って、こわいと思う。別に、祈ってくれなくてもいいですって、言えばよかったのに」  夕佳ちゃんは、そう言ってくれた。今までは、仲の良い会社の友達としか思っていなかったけれど、なんだか急に、夕佳ちゃんをうんと好きになった。産休に入る前に、夕佳ちゃんは、病院に赤ちゃんを見に行ってもいい? と訊いてくれた。本当に来てくれなくても、そう言ってくれた人が一人でもいたことが嬉しかった。恰好悪いわたしを知っているのに、そんなこと、なんでもないって夕佳ちゃんは、思ってくれているみたい。ススムはどうだろう。わたしの恰好悪さを、それはしょうがないって思っているのかな。  夕佳ちゃんは、ベビーベッドにいる子供をのぞき込んだ。わたしは持ってきてくれた鉢を、テーブルの上に置いた。赤いチューリップは、白ばかりの部屋を、ぽんと音をたてて明るくしてくれた。 「きれいな赤ちゃん。かわいいね」 「そう? ありがとう」  自分の子供を見てもらうことが、嬉しいものだなんて、知らなかったな。思えば、わたしには、子供を生んだ友達がいなかった。 「生む時、大変だった?」 「うん、こわかったよ。一体、どうなっちゃうんだろう、ここでわたしががんばらなくちゃ子供が死んじゃうんじゃないかって、思った。でも、ああ、もうだめ、どうしようって思った瞬間に生まれたの」 「そう。それはこわかったね。美穂ちゃん、本当にがんばったね」 「うん」  そして夕佳ちゃんは、寝ている子供に向かって、 「生まれてきて良かったね。おめでとう」  と、笑って言った。  退院の日は、大晦日だった。よく晴れていて、病院は住宅街にあるから、静かなただの冬の日だった。  ススムは、九時に来て部屋の荷物をまとめた。入院中の洗濯物は、ススムが持って帰ってくれていたし、荷物はバッグ一つだった。  わたしは子供を着替えさせた。病院のタオル地の産着を脱がせ、買っておいた新品の肌着と、わたしが縫った白いネルの産着を着せた。子供は、古風な抱き人形に見える。  そして、夕佳ちゃんの持ってきてくれた熊のプリントの帽子をかぶせた。これが、この子の生まれて最初の服だ。 「用意は、もういいか?」 「うん。忘れ物もないし」  わたしは、白い毛糸のおくるみで子供を包んで、ベッドに腰かけた。子供はぐにゃりと重い。ずっと起きずに寝ている。 「ススム、このチューリップは?」 「もういいだろ。ナースステーションにでも置いてもらったら」  運ぶのはススムだけれど、わたしはこのチューリップが欲しい。 「あのね、良かったら、これ、持って帰りたいの」 「それはいいけど」 「このチューリップ、花が終わったら球根を取ってね、来年も花を咲かせたいの。そして、この子に見せてやりたい。お前が生まれた時に、咲いていた花だよって」  わたしは自分でそう言いながら、ぐらりと時間が動くのを感じた。  この子は、一週間前にはまだ生まれていなかった。それなのに、もうあっさりと、わたしはこの子の一年後を考えている。わたしは子供を抱き締めて立ち上がった。子供からは、甘くあたたかな匂いがしている。息の匂いも柔らかい。 「そうか、じゃあ、この花は持って帰ろう」  ススムは、大きな紙の手さげ袋に鉢をそっと入れた。 「じゃあ帰ろうか」 「うん」  そうだよ。お前は、まだここしか知らないんだけれどね、お前にはちゃんと帰る場所があるんだよ。今から、わたしたちは、三人で帰ろうね。今までは、二人だったけれど。それだって、最初は、わたし一人だったのだ。一、二、三だね。  受付に挨拶を済ませ、わたしは子供を落とさないように、うんと気を付けながら、ゆっくり歩いて表に出た。  光がまぶしかった。  寝ていた子供は一瞬目をきつく閉じた。  ススムは荷物を持ちながら、ゆっくり前を歩いている。その時、すうっと風が吹き、子供は驚いて首をすくめた。  風が吹いているね。冬の風なんだよ。  わたしは立ち止まり、おくるみを少し子供の頭の方にずらしてやった。  この子は光に驚いて、そして風に驚いている。この子が困らないように、ずっと側にいてやりたいな、とわたしは思った。指で、ちょんと、ほっぺたを触った。ああ、わたし、死にたくない、とこの時思った。ずっと死なないで、この子が困ったら助けてやりたい。この子は、どんな風に生きていくんだろう。それを全部見ていたい。  また少し風が吹いた。  でも、と、わたしは思った。おくるみごと自分の胸に抱き寄せた。歩けなかった。子供は、もぞもぞ動く。  この子が大きくなって、そしておじいさんになって死ぬ時、わたしはもう側にはいられない。せめて、この子が死ぬ時、こわくありませんように、苦しくありませんように、痛くありませんように。そして、どうかどうか、その時この子が一人ぼっちではありませんように。わたしは、自分もまた、きっといつか死んでしまう生き物であることが残念だった。  子供は、風の中で小さくそして悲し気に泣き出した。これは、わたしを呼ぶ声なのか。わたしは、覆いかぶさるように子供を抱いた。それは、何かから守る形だった。わたしは、ここにいるからね。だからわたしを探さないで。ずっと、ここにいるから。 「おい、大丈夫か」  ススムが、荷物を持って引き返してきた。 「どうした? 重いか?」 「ううん、大丈夫」  だらだらと涙を落とし、それが子供の額に落ちていることに気が付いたのに、ススムは何も言わない。 「さあ、帰るよ」  ススムは子供に言った。ススムだって、わたしの所に来た人だった。  わたしたちは、ゆっくりと一緒に歩いた。右手にマンションがあって、エントランスのガラスの扉に、わたしたちの姿が一瞬映った。  重いソフトをかぶり、大きな荷物を両手に持った男。  だぶだぶの、緑のコートを着て、白いおくるみに包まれた赤ん坊を、捧げ持つように歩く女。それが、わたしたちだった。なんだかそれは、これから旅に出る人のように見えた。汽車ではなく、長い船の旅に出る人に似ている。  わたしがあんなにも慎重に選んだ船は、平凡へとゆっくり進む船だった。わたしは、時間をかけて平凡になった。こんな風になりたかったのだと思えばなんでもない。  子供が、また泣いた。寒いのかもしれない。ススムは、タクシーをつかまえに表通りに急いだ。  わたしは一体、何をあんなに恐れていたのだろう。前を行くススムの大きな背中を見ながら、まるで終わってしまった時代のように、わたしには、もうそれがわからなかった。 [#改ページ]   鉄紺  今朝、同じ電車だった人のことが忘れられない。一日中、その人のことばかり考えていた。  彼女は、わたしの目の前に立っていた。ドアの近く、手すりに背を向けて立っていた。携帯電話を、せわしなくいじっていて、メールでも打っているのだろう。そんな女の子はいっぱいいる。わたしの目の前には、彼女の右肩があって、最初はそれをぼんやりと見ていた。そこには、ケロイド状の跡があった。予防注射の跡? まだ若いのに、そんな大きな跡が残る注射って何? そう思って、もう一度彼女に目をやった。何かが変だった。携帯電話のキイを、せわしなく押しているのが、左手の親指だ。あれ、左利きなんだ。ふーん、と思って右手を見たら、親指がなかったのだ。第一関節から指を折り曲げたように、指先が丸くなっていた。  隣の人差し指は、肉色のアスパラガスに見える。爪は、米粒位だ。肩のケロイドも、これならわかる。事故だ。  マニキュアの色は、メタリックなブルーだった。米粒大のその爪にも、ちゃんとはみ出すこともなく塗ってある。携帯ばかり見ているその人は、一度も顔を上げない。でも、わたしの視線を感じていたと思う。  白いコットンパンツ。サンダルから見えている足の爪は、銀色だ。足元には、紀ノ国屋の赤いナイロンのトートバッグが置いてある。  電車は表参道に着き、彼女はひょいとそのバッグを掴んで降りていった。赤と白のニットのノースリーブを着て、肩の傷を見せていたあの人。平気になるまで、どれだけの思いをしたのだろう。  あの人は、マニキュアをしていた。それは事故の前、親指を失う前からしていたことなのだろうか。塗るたびに、親指を思うのだろうか。マニキュアを塗る時、あの人は、そっと息を詰めるだろうか。小さな爪に、ちょんちょんと色を落す時に。  わたしは、自分が降りる駅に着くまで、あの小さな爪のことばかり考えていた。ああ、こんな感じなのだろう、とわたしは思った。あの人たちが、わたしについて、あれこれ訊きたがるのは。そうか、こういうことか。地下鉄は停まり、扉は開く。  わたしは人に押されないように、そして邪魔にならないように降りる。歩くのが早いと言われる。杏子は、怒っているみたいに歩くねと、男に言われたことがある。歩幅が広いのだろうか。それとも、小さい頃から母に、前を見てちゃんと歩きなさい、と言われ続けてきたからだろうか。ちゃんと歩くのよ、なんでもないんだから。母は、そう言った。わたしの太腿には、大きな青いしよう痣《あざ》がある。右の脚だ。それが、わたしの印。青いダリアのように、白い肉に浮く。  男は、どうしていつも同じなんだろう。わたしの青痣に気がつくと、必ず、どうしたのここ、と訊く。唇をそっと吸う。次に、力を込めて吸う。それから、ブラウスのボタンに手をやる。首筋にキスをする。ブラジャーをはずす。スカートをたくしあげる。そして、次に目に入るのがわたしの痣だ。ぶつけたの? と、正気に返ったような声で訊く。だから、わたしは答える、今まで通り、これまで何回も言ってきたように。生まれつきなの、と。その時、もう少し優しい気持の時は、母は蒙古斑《もうこはん》だと思っていたんだって、でも、他の痣が消えたのにこれだけは残ったのよ、と言う。  男は、ふーんとか、そうか、と言って、わたしの痣を指でなぞる。ダリアの形。それは大きく広がっている。そして次にこう言う、「舐めてもいい?」と。でもそれは「舐めてあげようか?」と、わたしには聞こえる。  なぜ、これを舐めようと思うのか、わたしには、わからない。それとも人は、セックスの時、太腿を舐めるものなのだろうか。他の女の子たち、太腿に痣を持たない女も、太腿を男の唾液で光らせるというのか。  男の舌は柔らかい。内臓の柔らかさなのか、筋力の柔らかさなのか。こんな大きな体、こんなごつごつした体の、一体どこにこの柔らかさが残っていたか。わたしは、おちんちんの固さよりも、舌の柔らかさを好む。  舌が痣の上を走る時、皮膚の下で青い色素が一斉に目をさまし、わたしは、ちょっと苦しくなる。男の舌は磁石だ。わたしの太腿は砂鉄のように、ざわざわと大騒ぎになる。男の舌の動きに、ついてまわる青の色。ここ一カ所に集められ、普段はおとなしくしているというのに。  わたしは、この感じ、舌に慣らされていく感じを、男に知られたくない。舐めたいのなら、舐めればいい。舐めさせてあげる。わたしのために、身をかがめ、舌を伸ばす男の姿は、いつ見てもいい。そんな男が顔を上げ、ちょっと笑うと、少し悲しくなる。その顔は赤ん坊と似ていると思う。妹の七カ月の女の子を抱いた時、その子は、ふいにわたしの顔をぺろぺろと舐めた。髪もまだそんなに生えていなくて、派手なてるてる坊主のような顔をしていた。薄甘い息と、びっくりする位強く吸う口。小さな赤ん坊は、わたしを舐めて嬉しそうに笑った。赤ん坊は笑うか、泣くか、あるいはじっと見ているか、その三つの顔しかない。  わたしは、ほっぺたを赤ん坊の唾液でべとべとさせたまま、笑う赤ん坊を見た。笑う赤ん坊がかわいくて、わたしもにっこりした。  けれど、わたしはわたしに笑いかけた男に、笑い返してきただろうか。  わたしは見る。わたしの青痣をきれいに舐めている男を。そして、決して舐め取られることのない色を見る。もう、いいわ。わたしは男の頭を抱き、髪に口づける。男の頭って、骨が大きい。ふと、そう思う。男の髪の匂い。汗の匂い。わたしは、髪に顔をうずめる。  男の唾液は皮膚に穴をあけ、舌は心の奥底に隠しておいた思いに不遠慮に触れてくる。そのせいで、わたしは男に笑い返せない。もう、いいの。男の体を起こし、腕をまわしてしがみつく。太腿は、舐められることに慣れているから、わたしはもうすっかり濡れてしまっている。それで、男がいい気になれば、それまでのこと。だから、わたしは男と三回までしか続かない。 「まぁ、女の子がそんな所に。奥さんどうしたんです?」  母といつも行くお風呂屋さんで、そう言われたことがある。いくつの頃だろう。父の会社の社宅にいた頃だから、四つか五つか。わたしたちは、だいたい九時頃、ちょっと遅めにお風呂に行く。その時間だと、わたしと同じ位の子供は、あまり来ていないから。  わたしたちが使う洗い場は、いつも左の列の一番入口に近い所だった。人が出入りするたび風が入ってきて、冬は嫌だった。ある時、珍しくその場所に別の人がいて、仕方なく、わたしたちは右側の列の湯船に近い洗い場に行った。その日は混んでいて、そこしか空いていなかったのだ。母がわたしの体を洗ってくれていた時、湯船のなかにいたおばさんが、そう声をかけてきた。そこにいた人たちが、みんな「えっ」という感じではなかったかと、思う。わたしは、そのおばさんを見た。初めて見る顔だった。お風呂で会う人たちは、名前を知らないまでも、だいたいは顔なじみばかりなのに。 「奥さん。ここはお風呂屋なんだから、人の体のこと、言うのは駄目ですよ」  湯船に向かいそう言ったのは、わたしたちとは背中合わせの場所で、体を洗っていた小さなお婆さんだった。肉がすっかり落ちて、骨に茶色の皮が平らに付いているような体だ。  その一言で一瞬止まった水音が、また変わりなく聞こえてきた。  湯船のなかのおばさんは、わたしたちにくるりと背を向け、小さなお婆さんは、また鏡の方を向いてタオルに石けんをつけていた。  母は、お婆さんの所に行って、お背中洗います、と言った。杏子ちゃん、自分で洗えるわね、とわたしに黄色いスポンジを渡した。  わたしは、いつも母がしてくれるように、石けんをよく泡立てて、青痣の所から洗う。なでるようにゆっくりと。右脚の次は左脚だ。いつもは立ったまま洗ってもらうけど、今日は椅子に坐って洗う。おしり、おなか、首。泡だらけになったわたしは、肩からそっとお湯をかける。二回めのお湯で、太腿の所の白い泡はすっかり消えて、青黒い色が見える。でも、わたしは、別にそれが嫌ではない。あっ、見えたと思うだけだ。  杏子ちゃん、もう一回お湯に入ったら出るわよ。  さっきのおばさんは、あれからすぐに出た。わたしと、母と、小さいお婆さんは、一緒に湯船に入る。 「すいませんでした。ありがとうございます」 「いえね。あの人、見かけない顔だし、あんまりお風呂に来たことがないんだと思ったから、ついね」 「ええ」  わたしは、おかっぱの髪がお湯につかないように気をつけながら、洗い場の女の人たちの裸を見る。おばさん、おねえさん、お婆さん。みんなせっせと、自分の体のめんどうをみている。 「どうしたのって、訊いたところで、他人が何かできるわけじゃないし」 「ええ、そうなんです」 「そんなことも、わからないんですよ。いつもね、入口の所で洗っているでしょ。だからね、なんだかね」 「ありがとうございます」 「こっちこそ、ありがとね。背中、洗ってもらって気持ち良かったですよ、奥さん。また見かけたら、声をかけて下さいよ」  それじゃ、おやすみなさい、とお婆さんはがに股気味に歩いて先に出た。わたしも、おやすみなさい、と言う。そして、また体を洗っている人たちを見る。痣のある人なんて、わたし以外誰もいない。体のどこも同じ色。わたしはいつも思う。わたしが痣のある体を見せているのではない。わたしが、痣のない人たちの体を見ているのだと。  女の子が、そんな所に。  あれ以来、口にはっきりと出されたことはないけれど、わたしの痣を見てしまった目は、もう一瞬たりともそらすことができなくなってしまう。はっとしたあの表情。それは恐怖に似ている。冷静に表情を戻そうとするから、驚いたことが、余計わたしに伝わる。そして、女の子がそんな所にと思っていることも、わたしに伝わる。  その度に、わたしの横顔は固く平らになる。なんでもない、わたしは今、別のことを考え中です。そう痣を見てしまった人に伝えるために、わたしは一度下を向き、そしてちょっと上目使いになって、下唇をかむ。  この場所に痣があるということは、それ程ぞっとすることなのか。見るとそれ程、心を乱すのか。色なのか場所なのか。あまりにも男が舐めるものだから、みんなこうなると知っていて、その時のわたしの姿を見ていたのか、とも思う。  わたしは、ブルーと呼ばれていた。  中学生の時も、高校生の時も。もちろん面と向かっては言わない。英語の教科書に、Blueの単語が出てきた時、一番前の列の男子の肩がぴくりと動き、そして下を向いて、くくく、と笑った。吉田君、と大田まゆみが強い口調で言ったから、わたしのことだとわかった。  青葉・青空・青虫・青のり・青かび。どんな言葉でも、青が付けば、みんながわたしのことを思うような気がした。いつもそんな風に他人のことを思うから、まるでわたしのなかに、誰かもう一人の人間が住みついているような気がしていた。  体操着に着替えて表に行く時、わたしは一人で歩いていく。最初の体育の授業の時、わたしは裸を晒す以上の気持で、ブルマーになる。みんな、何も言わない。男子も女子も、そして先生も。わたしは、見られていることを全身で感じて、見ていない人はもういない? もう、みんなちゃんと見た? という気持になる。嫌なのは、二度めの体育の時だ。 「山村さん、こっちで一緒に着替えようよ」  必ず、そう明るく声をかけてくれる人がいる。それまで特に話をしたこともなく、帰る方向も違うし、卒業した学校も違う、何も共通項がない人なのに。 「うん、ありがとう。でも、わたし、平気だから」  庇ってもらう、たかが痣ぐらいのことで。わたしは、それがなんだか恥ずかしい。負けを認めているような気がする。別に何も負けていないのに。わたしは、この痣が無かったらいいのに、と一度も思ったことはない。ただ、他の人にも痣があればいいのに、と思うだけだ。  優しい申し出を断わると距離ができる。誰ももう何も言わなくなる。だから、わたしには友達がいなかった。たとえば、一緒にトイレに行ったり、ナプキンの貸し借りをしたり、ちょっとした秘密を打ち明けあったり、好きな男子の話をしたり、席替えの時に一緒に坐りたがる、そんな友達はいなかった。いつも並んで歩いている二人組を見ると、あの人たちは一体何を話しているのだろうと思った。  女の友達を作るには、何か手順が必要なのだろう。お互いの弱点を、笑いながらさりげなく見せ合い、女としてのレベルを確認しあう。出し抜きません、このままで行きます。そう誓いあっているように見える。  学校にいる間、わたしの太腿は男子よりも女子に、見られていたと思う。男子は、はっとして、見てしまった、もっとよく見たい、でもそんな場所をじっと見るわけにいかないという、あわてたような視線だった。でも女の子たちは、ふと気が付くと、じっと静かに、確かにわたしの太腿の内側を見ていた。そんな所に、そんな痣があるなんて。しかも、隠そうともしないで、平気な顔で見せていて。同情や、あわれみではなくて、その多くは非難だった。痣を恥ずかしがろうとしないわたしは、女の子たちの怒りを買うのだった。  学校を卒業し、社会人になったわたしには、いつも男がいた。手に入れるためには、訓練も練習もいらなかった。わたしは、あまりにも人に見られてきたから、平然と相手を見ることができる。臆することがない。それを良しと思う男が、わたしの所へやってくる。  虎太は、バイク便のドライバーだ。会社のエレベーターのなかで会った。二人並んで階数を示す数字を見ていた時、ふと彼の腕時計を見たら、わたしの時計よりも五分進んでいた。 「あれ、あなたの時計、五分進んでいる」 「ええ、進めてあるんですよ」 「それはあなたの考え? それとも、会社の方針なの?」 「自分で進めてあるんですよ。やっぱりこういう仕事だから」 「ふーん、偉いのね」  そう言って、わたしは六階で降りた。このビルは、十階建てで、上には建築事務所とか弁護士事務所とか、会計事務所とか、いくつもの事務所がテナントとして入っている。わたしは、短大を卒業した後、ここの特許事務所で、OLでも会社員でもなく事務員として働いている。上司と一対一で仕事をするから、相性が悪かったら最悪だけれど、このひっそりとした小さな職場を、わたしは気に入っている。社員旅行もなく、異動もなく、噂好きな女子社員もいない。わたしの前任者は、五十代の女性だった。  虎太を、それからも時々見かけた。  ある時エレベーターホールで、二人だけでエレベーターを待っていた。わたしは声をかけた。 「こんにちは。わたしも、あれから、五分進めてあるの」  わたしは、自分の腕時計を見せた。それは手巻で、でもアンティークとは呼べない、まだ新しくて、中古品と言われるものだ。最初のお給料をもらった日に、雑貨屋で買った。  虎太は、わたしの時計を見て、そして自分の時計を見た。茶色の革の太いベルト。文字盤は黒。わたしたちの時計は、三時二十分をさしていた。 「本当ですね。どうですか、五分早いと」 「朝はね、いいの。遅刻しないから。でも帰りがね。あっ、五時半だ、と思っても、本当はあと五分あるから、ちょっとがっかりするの。いつまでたっても慣れないの」 「仕事は、五時半までなんですか」 「そうなの」  エレベーターが来て、わたしたちは乗った。虎太は、九階の編集プロダクションによく来るのだと言った。 「それでは偉い人、さようなら」  わたしは六階で降りた。虎太は笑った。その時わたしは、まだ虎太の名前を知らなかったけれど。彼の名前を知ったのは、それから二時間二十分後だった。虎太がビルの入口に立っていた。  杉本虎太は、一緒に飯を喰いに行きましょうと、ビルから出てきたわたしに、まっすぐ言った。わたしは、かわい気のある男が好きだ。  虎太はわたしに、帰国子女なのか、と訊いた。 「なぜ?」 「目を見て、映画の台詞みたいに話すから。他の女の子は、エレベーターのなかで、話しかけてきたりはしないから」 「わたし、そういうことは、恥ずかしくないの」 「それじゃあ、どういうことが恥ずかしいの」 「子供の頃は、ずい分恥ずかしがり屋だったけど、今は恥ずかしいこと、もうあまりないわ。たいていのことって、黙っていれば相手にばれないって、わかったから」  わたしたちは、いきなり焼肉屋に行った。それは、わたしのリクエストだ。一緒に焼肉を食べている男と女はできているらしいけど、わたしたちは例外になりましょうと言ったのだ。そういうポジションは、わたし向きだから。  虎太は、わたしが虎太の名前の由来を訊かなかったから、あれ? と、思ったと言った。わたしだって、虎太なんていう名前の人に、初めて会った。 「寅年なの、とか、大阪出身なの、とかいつも訊かれるんでしょ」 「まぁね」 「でも、たぶん、いつも最初に名前のこと言われて嫌だろうから、わたしは訊かないの。それとも、それを話さないと落ち着かない?」 「そうでもないけど」  わたしは笑って、タンを焼き過ぎないうちに皿に取る。絞ったレモンが、少し指先にしみる。 「俺が生まれた時、親父が名前をどうしようかってうんと考えたんだよ。で、親父の同僚が子供の名前なんて、なんだっていいんだ、あれこれ考えたって、親の願いをパーフェクトに表わす名前なんてあるわけないんだからって言ったんだよ。だから親父は、その人の名前から一字もらって、俺に虎太ってつけたんだよ」 「えっ。それが由来? で、その人はなんていう名前だったの?」 「虎蔵」 「すごい名前」 「その人大岩虎蔵っていうんだよ」 「堅い名前ね。その虎蔵さんの親は、なんでそんな名前にしたのかな」 「そこまでは知らないけどな。きっと虎蔵さんの親がいろいろ考えたから、逆に虎蔵さんはめんどくさくなったんじゃないか」 「で、あなたはその虎太っていう名前はどう思っているの」 「突然飛び込んできた、いい名前だと思うよ。それに、人に覚えてもらえるし」 「覚えてもらいたいの?」 「そりゃあ、忘れられるよりも覚えていて欲しいよ」  そうかな。わたしは、そんなこと考えたことがなかったな。どうだろう、わたしが会った人たち。わたしを見た、正しくは、わたしの太腿の青痣を見た人たちは、わたしをずっと覚えているんだろうか。それは、わたしを、というより、青痣のある女、としてだろうと思う。わたしと別れてきた男たちはどうだろう。わたしの次の女とセックスをする時、青い色素のない、きっと白い太腿を見ると、一瞬でも何か物足りなさを感じるのだろうか。そしてそれでも、わたしにしたように、その女の太腿を唾液で濡らすのだろうか。その答えを聞くためだけに、誰か昔の男に会ってみたい。わたしは肉を焼く虎太を見ながら、そう思った。  学校を卒業してから、たぶんわたしは変わったと思う。体操着にならなくて済むこと、水泳のクラスが無いこと、更衣室で大勢の人の前で着替えなくて済むこと、運動会の行進をしなくて済むこと。これらのひとつひとつの事柄が、わたしのなかに住んでいたもう一人の人間を、すうっと消していった。今は、自分が選んだ男だけが、わたしの青痣を知るだけなのだ。その男ですら、自分の意志で別れることができるのだ。  セックスをして、わたしは身軽になった。わたしは、自分が嫌われ者なのかと思っていた。欲しいとは思っていなかったけれど、同性の友達、セックス抜きで思いやれる友達がいないことは、自分の欠陥のように思っていたから。  男を手に入れると、わたしは、ほっとする。この男と、うまく楽しく過ごしていこうと、ただそれだけを思うのだ。「みんなと仲良くしましょう」。学校を卒業して良かった。わたしは自分の本当に仲良くしたい人と、仲良くするだけだ。嫌いな奴とは、仲良くしなくてもいい。普通に、接すればいいだけのことだ。「こっちで一緒に着替えようよ」。わたしに、ああ言ってくれた人たち。あの人たちは、わたしと仲良くしてくれた。わたしを別に好きでもないくせに。青痣を見たから、仲良くしてくれただけだ。わたしは、それが淋しかった。  唾液、汗、体液。男の体が作った水は、わたしの体に確かに染み通り、細く光る水脈を作った。それは、わたしに自信を与える水脈だ。  青痣を見られれば、どうしたの、とは訊かれる。でも、それだけではないか。指でなぞり、舌を青痣のかたちに走らせる。嫌じゃない? 気持ち悪くない? そう思ったのは一瞬だけだった。最初、わたしは生贄《いけにえ》のように自分自身を男に差し出す。けれど、そのうちに、この困った生贄は閉じていた目を開き、むっくりと起きあがる。 「もう、いいわ。そんなに痣の所ばかりをいじってくれなくていいから」  そう言うと、男はどぎまぎする。ばつの悪そうな顔になる。ああ、こんなことつまらないな、とわたしは思う。どうせ、汚い所を舐め取っているぐらいのつもりだったのだろう。ちっとも、ありがたそうにしないわたしに、男はうっすらとした怒りを感じるのだ。間近で見れば、きっと痣なんて、なんていうこともない。黙っていれば、他人には決して目に触れないのだ。脚を閉じて、わたしは笑う。それを実感してせいせいとした。そして、笑ったまま、まだ怒っている男を抱く。  虎太の指は、太くてごつごつしていた。オートバイのハンドルをいつも握っているからかなと、わたしのシャツのボタンをはずそうとしている指を見て思った。 「はずれない。ちぎっちゃいそうだから、悪いけど自分で脱いで」  虎太にそう言われ、わたしは白いシャツを脱ぎ、虎太は、わたしを見ながらグレーのTシャツを脱いだ。腕の筋肉がきれいだと思った。わたしは、ちょっと笑う。セックスをする前に、もう一度キスしたいと思う。  虎太は、わたしの前にしゃがみ、腰に手をまわすように、スカートのホックをはずした。紺色のフレアースカートが床に、くしゅくしゅになって落ちる。BIGIの秋の新作、きのう買ったばかりのスカート。  わたしは立ったまま、虎太の髪を指でいじる。指で両肩のスリップのストラップを落す。目を閉じる。今、虎太の目の前に、わたしの青痣があるはずだ。  虎太は、ストッキング越しに指で痣を押した。 「ここ、どうしたの。青くなってる」  わたしは、虎太の髪から指を抜き、自分でストッキングを脱いだ。 「生まれつきなの。ずっとあるのよ。消えないの」 「そうか」  虎太は、そう言った。今までわたしが知った男と同じように。けれど、虎太は、 「健三と同じだ」  と言ったのだ。 「健三って誰?」  虎太は椅子に坐り、わたしにおいでと言った。上半身裸で、下はジーンズのままの虎太に、またがるかたちでわたしは坐る。腕を虎太の首にまわし、虎太の耳にキスをしながら小さい声で言う。 「健三って誰?」 「健三は、小学校四年の時、同じクラスだったんだよ」  虎太は、わたしの肩や背中を指でさわる。 「顔の、左のほっぺたに茶色の痣があって、みんな子供だからひどくてさ、健三は『焼けあと』なんて言われたりしていたんだよ。俺は言わなかったけどね」  わたしは目を閉じて虎太に体をべったり重ね、話を聞く。 「ドッジボールが強くて、すごい球を投げるんだよ。逃げるのも早くて、いつも最後まで残ってさ。俺は好きだったな、健三。図工の時間に、ペアを組んで友達の顔を描きましょうって。杏子はしなかった? 俺は、健三と組んだんだよ。描いているうちに、あれ、俺、どうしよう、健三の顔、やっぱり茶色にしなきゃだめなのかな、顔描いてからその上から茶色で塗るのかな、うえ、どうしようって、思ったんだよ」  わたしは、虎太を抱き締める。虎太もわたしを強く抱く。 「で、あなたはどうしたの?」 「健三の顔、うまく描けたんだよ。あいつ、ちょっとつり目で、俺の描いた絵、似てたんだよ。どうしようかなぁって思って、絵を健三に見せて、健三、お前どうする? このままにするかって訊いてみたんだよ。そうしたら、健三は、嬉しそうに笑って、このままでいいって言ったんだよ。俺が描いた絵と健三が描いた絵を交換してうちに持って帰ってさ。そうしたら、その日の夜、健三と健三のかあちゃんが、うちにケーキを持ってきて、『ありがとうね』って、おばさんが言って。そのケーキがさ、まだ少しあったかくて。あれ、おばさん大急ぎで焼いて持ってきたんだろうな」 「なんのケーキだったの」 「黒い糸みたいな筋がいっぱい入っていて、なんだかわからなかったけど、うちのお袋が『これは、バナナケーキだわ』って言ったから、俺はバナナもケーキになるのかと思った」 「健三、どうしてた?」 「健三は、笑ってたよ、おばさんの側で。ピースしていたよ」 「そう、良かったね。健三、嬉しかったと思うよ」 「そうだといいけど」 「わたしの、この太腿の青痣はいつも人に見られていたわ。みんな、わたしのここばかり見ていたの」  わたしは、虎太の体から自分の体を起こし虎太を見た。 「いつも恥ずかしかった」 「そうだよな」  虎太は、わたしの髪に指を入れ、そしてまた自分に引き寄せる。 「嫌だったのはね、恥ずかしいんだけど、恥ずかしくないようにしていることだったの」  虎太は何も言わない。二人の肌は互いの体温であたたまり、体の匂いがしている。 「虎太。ぞうさんの歌ってあるじゃない。ぞうさんに『鼻が長いね』って言った動物の鼻はきっと長くないと思うの。わたしに、『痣あるんだね』って言った人たちには、痣がないから。あの歌は、いい歌だと思う。『鼻が長いね』なんて、意地悪を言われたのに、あの象はほめられたんだと思って、嬉しくて『おかあさんも長いんだよ』って言うんだから。あの象かわいいよね」 「そうなのか? あの歌は、そういう歌なのか?」 「わたしは、そう思うのよ。わたしの母には痣はないけどね」  でもわたしは忘れない。大きな青黒い痣を持つ赤ん坊に、花の名前を付けてくれた母の気持を。病院から家に戻る時、かわいいピンクの花が咲いていたと言った。それが嬉しくて、杏子、とわたしに付けた。 「母はね、この痣のこと、ずい分気にしていてレーザーを当てるとか、そんな治療のことも考えたの。でも、父がそんなことはしなくていいって、やめさせたんだって。見えない場所なんだから、そのままでいいって。まぁ、見えないけど、見えるのよね、ここは」 「杏子は、その痣、無いほうがいいと思っているの?」  そんなこと、初めて訊かれた。わたしは脚を少し大きく開き、自分で青痣を指でなぞる。 「わたし一人の時は、あってもいいの。でも他の人がいる時は、無くていい」  虎太も、わたしの痣を指でさわる。 「たかが痣なのに、じろじろ見られたり、何か言われたり、めんどうだから」 「そうか」 「そうよ」 「健三は、手術したらしいよ。もう茶色い痣は無かったって、前に会った奴から聞いた」 「わたし、やっぱり手術しなくて良かったと思っているの。治療でもね、脚、こんな風に開くの嫌だもん」 「そうだよな」  虎太は、わたしを抱き締める。 「杏子、お前はその脚で遠足行ったり、林間学校行ったり、運動会に出たりしたのか」 「そうよ。ブルマーで、太腿丸出しだったわ」 「そうか。お前、偉かったな」 「うん、そうよ」 「杏子」 「うん?」 「もう、その痣見せるな、他の奴に」 「うん、見せないよ、もう」  わたしは、虎太にキスをする。わたしの中身をみんなこの男に喰われて、この男の体の中に入り込みたい。  虎太、わたしとして。わたしと、いっぱい、いっぱいして。わたしを好きだったら、いっぱいいかせて。そしてわたしにも、うんとうんと優しくして。そう思って、わたしは虎太とたくさんキスをして、ああ虎太、とても好き、と言って笑った。 [#改ページ]   ぬるぬる  濡れてくると、ほっとする。いく時よりも嬉しいぐらいだ。わたしの思いがわかりやすく伝わるから。どんなに、わたしがあなたを思っているか。どんなにこれを待っていたか。どんなにあなたを欲しがっているか。そして、どんなにわたしが今、気持ちいいか。  その全てをちゃんとあなたに伝えることができるから。それに比べれば、いくことなんて、一人だけの作用のような気がして、本当にあなたに伝わっているのかわからない。なんだか淋しいから、今いくの見ててね、とわたしはいつもかすれた声で言うのだけれど。それも、あなたに伝わっているのか。それすらわたしにはわからない。  ずっと前のこと。まだセックスの後、わたしが自分の部屋に戻らなくてはいけなかった頃のこと。まだ鈍くじーんと共鳴している体で、一時間くらい電車に乗って、それからわたしはタクシーを待つ列に並ぶ。もうバスは終わっていて、大きな桜の木の前に長い行列は続く。そこであと三人ぐらいでわたしの番、という時に決まってわたしの体から、ぼんやりとあたたかい液が、滑って抜け落ちていく。わたしは、ちょっと笑う。きっともう寝ているであろう、マサルを思う。この液の量は、一体どんなものなんだろう。一人分前につめて歩く時わたしは思う。これはマサルの液の全部なんだろうか。それとも、わたしの体が吸った分の残りなんだろうか。この液の量が多いほど、マサルが気持ち良さそうな気がして、私の体から出てきてしまった液体をかわいいと思う。行列を、もう一人分前に進む時、よく滑る液の感触を、わたしは味わう。これは、マサルの液と、わたしのぬるぬるが一緒になった量なんだと、思いたい。マサルは今、どうしているだろう。家についても、この液をシャワーで流してしまいたくない。そっと、脚を閉じて、そのままうつ伏せで寝てしまいたい。タクシーが、わたしの前に、すーっと停まる。わたしは、ちょっとかがんでシートに坐る。そうすると、最後の液がそっと出てくる。そして、その日のセックスがやっと終わる。  セックスの後、わたしはマサルのことを、まあちゃんと呼ぶ。まあちゃん、冷たいお茶飲みたい? とか、まあちゃん、毛布をかけないと風邪を引くよ、とか。セックスをしていない普通の時は、ねぇとか、あのねって呼んでいる。セックスをすると表の殻がすっぽりとはずれて、むき出しの心になっても平気でいられる。体のいやらしさをぶつけているというよりも、そんなまっすぐな心に戻りたくてセックスをしているような気がする。ゆで卵やバナナを食べる時、一瞬心が「よい子」になるように、セックスはわたしの心の色をあっさりと変える。  いつもじゃないけれど、時々マサルはわたしに、もっと俺にしがみつけ、と言う。だからわたしは手と脚をうんと伸ばして、きつくマサルの体にからみつくのだけれど、マサルは、もっといいから強くしがみつけ、と叱るようにわたしに低い声で言う。わたしは、わたしの体の全てが、この人に吸い取られてしまいたいと思う。巻きつき、包み込まれ、抱きとめられたいと思う。でも一体どうすれば、そうしてもらえるのか。どれほど裸になっても、どれほど角度を変え、深く差し込まれ、気持ち良さを教え込まれても、それでもわたしはあなたには決してなれない。  もっと俺にしがみつけ。  わたしに、そんなことを言った男はいなかった。そう最初に言われた時、わたしは突然自分が小さい人、まるで五歳の子供になったような気がして、うっかりすると泣いてしまいそうだった。そんなこと、してもいいの。嫌いにならないの。負担じゃないの。大丈夫なの。わたしは、自分のことはいつも自分でしなくてはいけなかったし、人に迷惑をかけない、というのが何をするにしても、考えなくてはいけないことだったから。  マサルは、会社のコーヒーメーカーのコーヒーやカップの注文を取りにくる、営業の人だった。  わたしは、もう十二年、同じ会社で働いている。雑誌の記事では「働く女のための」とある場合、たいていきびきびとしたタイプのモデルが、高くて、まるで鎧のような堅いスーツを着て、「わたしがしている仕事は、他の人にはできない仕事です」という態度で、パソコンや外国人の上司(に扮したモデル)に囲まれて笑っている。  わたしは、そういうページを見るたびに、ふーん、とも思わないし、そんな人、いるわけないじゃない、とも思わない。わたしだって働いているけれど、わたしは「働く女」じゃないな、と思うだけだ。わたしは、ただ働いているだけの人だ。  わたしの仕事は、別にわたしにしかできないものじゃない。わたしがいなくなれば、ごく自然に次の新しい人がやってきて「前からやっていました」という顔でできるものだ。  出版社で働いている、と言うと決まって「何の編集部にいるの」と訊かれるから嫌なのだ。わたしがいるのは、編集部じゃなくて業務部なの、と言うと、相手の興味はそこでもうストップして、口に出して「なぁんだ」とは言わないものの、もうそれっきり仕事のことが話題にならないから、相手の気持はよくわかる。  朝、新聞を綴じる。お茶を飲むためのお湯をわかして、ポットに入れる。コーヒーを作る。電話が鳴ったら取る。いろいろな書類の清書を頼まれる。で、そんな仕事の最中に「プリンターのトナーがなくなりましたって、サインが出ているよ」と言われれば、自分の作業の手を止めて五階から一階へ行き、トナーをもらってきてセットする。プリンターを使っていたのは、わたしじゃないのに。使っている人自身が補充することは決してない。そういう「仕事」は、わたしがすることだと、わたし以外のみんなが思っている。コピー用紙がもうないよ、天井の蛍光灯が切れているよ、八十円切手がなくなっているよ。  そういう仕事を言われるたびに、「へぇ、そうですか」と一度言ってみたくなる。わたしは、自分の作業の手を止めない。まっすぐ机に向かったまま。わたしのそばにはコピー用紙の補充もできない人が立っている。えっ、まいったなぁ、という顔してわたしを見るのだろう。きっと会社のどこにコピー用紙が置いてあるのかも知らないだろう。二十年以上働いているのに。わたしよりずっと高いお給料もらっているのに。  でも、わたしはそんなことはしないし、できない。はい、わかりましたと言って、すぐに台車を押してエレベーターに乗って、わたしよりも力持ちの男の人のために、A4のコピー用紙を四箱運ぶだけだ。 「松田さんはあんな仕事で、お給料をもらっているんだから」と、他の人は思うのかもしれない。わたしにしてみれば、入社してずっとこの手の仕事をしているわけだから、もしかして違う部署にいたら、もっと違うことだってできたかもしれないのに、という思いがある。わたしだってこの仕事が、会社のなかでどの程度の意味があって、どれ程の価値のあることかは、わかっている。でも、これがわたしに与えられ、するべきこととされている仕事なのだ。しょうがない。やっとそう思えるようになったのは、つい数年前だった。  コーヒーメーカーの備品の補充は、二週間に一度、その会社の男の人が伝票を持ってやってくる。ストックの入っている引き出しを開け、何がどれだけ足りないか調べて、注文する。わたしの仕事は、在庫を点検する時に立ち会い、二週間後、その品物が届いた時、伝票にサインする。それだけだ。  ある時、嫌なことがあった。在庫の点検にその営業の人が来た時、たまたまわたしは席をはずしていた。わたしだって家具のようにいつも席にいるわけじゃないのだ。そうしたら、二週間後、いつもの注文数よりも多い数のコーヒーや、カップが届いた。 「これ、変じゃないの?」  わたしは、いつもの男の人に言った。名前は知らない。小柄で、太い黒縁の眼鏡をしている。 「この間、うかがった時、いらっしゃらなかったものですから、数をこちらで記入しました」 「でも、いつもの数よりずっと多いし、コーヒーの減り方なんて、毎回そんなに変わらないじゃない」  仕事をしていると、ずっといい人でいることは、なかなか難しい。こんなの自分のお金が損をするわけじゃないし、どうでもいいと思えば、それで済むことで、黙って伝票にサインをすれば、嫌な人にならないで済む。それは、よくわかっているのに。 「わたしがいないのに、いつもより勝手にたくさんコーヒーを持ってきちゃうなんて、変な感じがするけど。わたしは、そういうのいいと思わない。数を変更するならその後、電話でもファックスでも連絡して下さればいいのに」  わたしがそう言っても、相手の男は何も言わない。正しいことでも、間違っていても、何か言えばわたしだって楽なのに。五階のフロアの人たちは、全員このやり取りを聞いている。わたしだって、別に嫌な人になりたくないし、こわい人にだってなりたくない。いい人でいたいのに。  黙って立っている男に、もう何を言ってもしょうがないと思ったから、目の前のテーブルに置かれた伝票にサインした。その人の名前は田川だと、その時知った。担当者名、田川。田川さん、わたしを嫌な女にしないで下さい。田川さんは、ありがとうございますとも、すみませんでしたとも言わず、そのまま帰っていった。わたしは席に戻ったけれど、やっぱり誰も何も言ってくれなかった。「どうしたの?」とも言ってくれない。でも、これだって、わたしの仕事のうちなのだ。しょうがないじゃないの。  仕事をしていると、わたしはどんどんこわい人になる。淋しい人とこわい人の、一体どちらがつらいんだろう。わたしは、田川さんのことや田川さんのしたこと、そして、わたしが田川さんに言ったことを、もう一度考えながら、机の上に置かれたままになっているファックス用紙を整理した。かさかさと音をたてて、紙を重ねる。こわい人の方が損かもしれないなぁ、と思った。こわい人は淋しいだろう。でも、淋しい人が必ずこわい人だとは限らないから。これって、三段論法って言うんだっけ。高校の時に習ったことだったか、短大の時に習ったことだったか。学校で習ったことって、こんな程度にしか役に立たない。別に役に立っているってわけでもないけれど。  いつから、わたしはこんな風になっちゃったのかな。ただのいい人でいたいのに。せっかく女なんだし。学校を卒業して、就職難って言われていても、どうにか希望の会社に就職できた。それは、とってもいいことなのに、仕事をしていると、わたしはどんどん風化していくような気がする。優しい親切な人でずっといたいのに。誰ともかかわりを持つ必要のない、たった一人でいられるような職場だったら、わたしはいい人でいられるのだろうか。  もう定年で退職した前の部署の上司が、忘年会の二次会で「松田さん、女のコなんて、英語なんかより結局、お化粧の仕方を覚えた方が、人生楽なんですよ」って言っていたな。男の人は、酔った勢いで何かを言っているようだけど、本当は全然酔っていないんじゃないかと思う。お化粧が上手でも、かっこいい服を着こなせても、こわい人だったら、まるでだめじゃない。わたしのやっていることは、全部裏目に出るなぁと思うのは、こういう時だ。  二週間後、コーヒーの注文を取りにきたのは、田川さんではなかった。ばつが悪いから良かったと思った。松田様はどちらですか、と言って、その人は五階のフロアに入ってきた。わたしは、返事をして、訊かれるままにコーヒーメーカーが置いてある場所まで案内した。田川さんに会ったら、わたしは別に謝るつもりはないけれど、しこりを残さず平気で普通にしていようと思っていた。田川さんが、もし謝ったら、にっこり笑って、これからもよろしくお願いしますと言っただろう。  田川さんじゃないその男の人は、田川さんより若くて手が大きかった。引き出しを開け、コーヒーやカップの数を調べ、伝票の束をめくり、いつもと同じ数でいいですか、と訊いた。わたしは、はい、お願いしますと答え伝票にサインした。その人は、わたしのサインした字を見て、どうもありがとうございましたと言って、帰っていった。  次に来たのも、田川さんではなくて、この間の男の人だった。注文した品物を、引き出しにおさめて、わたしがサインした伝票を受け取った。そして、そのままエレベーターホールに行ったから、ちょっと迷ったけれど、わたしは小走りであとを追った。その人は、台車に手を置きエレベーターを待っていた。 「あの」  声をかけると、振り向いた。 「あ、何でしょうか」 「あの、いつもいらっしゃる田川さんは、お休みなんですか」  わたしの言葉を聞いたその人は、顔を心もちちょっと上にあげ、それから、わたしをまっすぐ見た。エレベーターが来たけれど、その人はなかにいた人に、すみません、と言って乗らないで、わたしの方をまた向いた。 「お客様からクレームがあったということで、担当が替わりました」  クレーム? クレームって、この間のこと? それとも、別の会社とか、別のフロアでのことなんだろうか。この男の人は、目をそらさずに、わたしを見ている。 「クレームって、それ、もしかしたらわたしのことなの?」 「くわしいことは、聞いていませんが、松田様からお叱りがあり、ご迷惑をおかけしたと聞いています」  わたしは別に叱ったんじゃないし、迷惑をかけられたんじゃないわ。ただ、変だと思ったことを変じゃないの、と言っただけなのに。わたしが言ったことで、担当を替えるなんて。これじゃあ、わたしがすごく嫌な人みたいじゃないの。 「わたしの言ったことは、クレームなんかじゃないわ」  わたしは、なるべく声を大きくしないように、普通に話そうと思った。 「その時わたしが、たまたま席にいなくて、田川さんは、いつもより多めの数を自分で判断して、伝票に書いて、そして品物を持ってきたの。そのこと、わたしに全然知らせてくれなかったし、そういうやり方は困るから変じゃないですかって言っただけなのよ。それを大袈裟にクレームってとられて、担当の方を替えられたら、わたしはとても恥ずかしい。なんてことのない、ささいなことで、普通にしてくれればいいだけのことなのに。それなら田川さん、担当替わる前に、わたしにすることあるでしょう」  変だと思ったから、変だと言う。そんなことも、わたしには許されないのか。いつでも、相手には「はい」としか言えないのか。「はい」以外の言葉が、わたしから出ると、相手はそんなにダメージを受けるというのか。  その男の人は、わたしが言い終わった後も、黙ってわたしを見ていた。 「どうもすみませんでした」  その人は言った。 「それは、嫌な思いをなさったことでしょう。申し訳ありませんでした」  謝られるというのは淋しいことだと思う。 「ええ、もういいんです。これもわたしの仕事なんですから」  わたしがそう言うと、その人は、ご注文いただくのが仕事ですから、これからもよろしくお願いします、と言った。  それがマサルだった。宮本勝。わたしの日常に新しくやって来た男だった。  暑苦しいか、暑苦しくないか。マサルに言わせれば、世の中はこの二通りしかないのだそうだ。田川さんは暑苦しい、それを変だと言ったわたしは別に暑苦しくない。変だと言わずに黙っていたとしたら、そっちの方がよっぽど暑苦しい。マサルは、そう言った。  だから「働く女」なんていう言い方は暑苦しいのだと、マサルは言う。働く男なんて誰も言わない、働くことに、仕事をすることに男も女もないんだから。そういう要素が必要なのは、性的なことにだけだ、とマサルは言うのだった。  セックスをすると、満たされるのと同時に、わたしのなかで過剰にあふれてしまっていたものが、すっかり吸い取られる。その余分なものが無くなって、やっとわたしは、平らになれる。マサルはわたしを包み込む毛布というよりも、大きなスポンジだ。  マサルの体を存分に与えられ、そして、その体は、わたしの中身を解放してくれる。髪が額や頬にはりついてしまうのは、快楽からの汗だけではなく、ゆっくりとにじんでしまう涙のせいだと、マサルは知っているだろうか。  わたしは自分の身体の器官を、どれだけ知っていたというのか。あり得ないような声を出し、広げたことのないような角度にすら、脚は開く。舌は、あさましいほどに、つい動いてしまうのだ。マサルの体が入ってくるというだけで。あの人の体が欲しいという、ただそれだけのことで。かわいそうな、わたしの体。他人の体がこんなにも恋しいだなんて。自分以外の体を、こんなに必要としてしまうなんて。みっともない、自立していない、気の毒な、わたしの体。  別の人みたい。マサルは、最初の時、わたしにそう言った。わたしの体があんまりにも獰猛《どうもう》で、そして、よく濡れたから。それは、何度もはずれてしまうほどに。  だって、セックスしているんだもん。いつもと同じはずがないじゃない。わたしは答える。男の人が好きなの、わたしをすっかりなだめてくれるから、好きな人とでなければ、こんな風になれないし、わたしをこんな風に平気でしてくれる男の人のこと、好きって思えて嬉しいの。  よく濡れた。わたしの体も、あなたのことが好きだって、心だけじゃなくて。わたしはほっとする、自分の体に。  セックスは、いつだって秘密を打ち明けさせてしまう。暗い光、裸の肌でなければ伝えられないことがあって、それがセックスのたびに、浮びあがる。あなたのことがとても好き。こんな風になってしまうわたしを、嫌いにならずにいてくれる、あなたが好きよ。それを言葉と体で、伝えることができる。素直でいられること、自由にさせてくれること、それは、この男にしかできないことなのだと知ってしまうと、一人でないということはなんて楽なんだろうと、わたしは体を動かしながら思うのだった。  会社に、自分の男がやってくるというのは、なかなかおかしい。まるで何もないように「おじゃまします」と言って入ってくる。わたしは、仕事の手を止めて、コーヒーメーカーのある、フロアの隅へ行く。二人きりになっても、別に何も特別なことは言わない。マサルの大きな手が、残っているコーヒーのパックを数える。わたしがよく知っている手だ。わたしは、その手を見る。その時、目が合うとちょっと笑うかもしれない。笑わない時もある。伝票にサインする。マサルは、ありがとうございました、と言って、エレベーターホールに行く。わたしは歩きながら、足を止めないで、こちらに背を向けているマサルを、ちらりと見る。この男が、わたしの心と体を自由に使うのよ。その男が、今、ここに平気な顔で立っているのよ。そんな、誰にも言えないことを思い、そして仕事に戻る。  でも、本当はわたしは、仕事をしている時の自分を、マサルには見られたくない。  はい、わかりました、そのようにさせていただきます、かしこまりました、確かに申し伝えます。敬語を使って仕事をしていると、自分が小さいウニのような気がする。うっかり油断すると、相手にどんどん侵入されてしまうから、バリアを張っておかなければ。敬語は、自分と相手の境界線だ。ここまでが、わたしの陣地。その先は、もう違う。  マサルは、たかが仕事なんだから、とよく言う。手を抜く、いい加減にするという意味ではない。時間が来て、その場所から出てきてしまえば、それで終わりじゃないか。一緒に働いている人たちだって、別に親や親戚でも、なんでもないんだから。確かにそう思うことで乗り切れることもあるけれど、嫌な思いというのは、いつまでも消えずに、細く長く、とぎれることなく心に残るのも本当だった。  それは、金曜日のことだった。明日、朝からで悪いけれど、打合せをしたいので、全員出席して下さい。そう木曜日に言われた。だから、わたしも、いつもより三十分早い八時半に自分の席にいた。でも、おかしなことに、出社してきた人たちは、わたしを見るとみんななんだか、ぎょっとするくせに、何も言わないのだ。何だろう、何かしただろうかと思っていたら八時四十分になって出社した上司がわたしを見て、あれ、松田さん早いね、今日はどうしたの、と言った。  あの、全員出席の会議とうかがったので、四十五分までにと思って早く参りました。上司は、にこやかに笑った。あはは、ごめんごめん、そうか、全員って言っちゃったもんな、それは悪かったよ、松田さんはね、よかったんだよ、それは悪いことをしたね、じゃあせっかくだから、申し訳ないけど、みんなにお茶をいれてくれる?  せっかくだと? この男は、本当に人の気持がわからない男だ。彼の部下になった「女の子」たちは、仕事はともかくとして、この男の無神経さに疲れてしまい、一年ももたずに異動していく。こんな男に養われている妻や子供がいるんだから、全く笑っちゃう。出張でたまったマイレージをチケットと交換し、「うちの奥さん」と旅行に行った、と平気で人前で言うのだ。わたしはこの程度の男に、こういう扱いをされることが心底悔しい。  狭い会議室にお茶を持っていくと、そこに坐っていたのは、全員男だった。今年の四月に入社した人もいる。ああ、そういうことか。でも、わたしの役目は、みんなにお茶をいれるだけだ。そして、会議が終わったら、灰皿を片付け、お茶碗を下げ、テーブルの上を拭くのだろう。わたしが吸った煙草ではないのに。わたしは、そういう扱いをされる人間なのだ。もう、三十も過ぎているというのに。結局いつもそうなのだ。それはわかっていたけれど。でも、やっぱりね、いつまでたっても慣れることができないでいる。  空っぽになったフロアに、一人でぽつんと坐り、電話番をした。あまり電話も鳴らない。わたしは、今、どんな顔をしているんだろう。その時、おじゃまします、とマサルの声がした。わたしは、はい、と答え、いつものように、こちらにお願いします、と言った。  今日は朝から会議だから、わたしはいないと思うけれど、注文はいつも通りに、いつもの数にしておいてね。わたしは今朝、部屋を先に出る時、そうマサルに言ったのだ。だから、わたしが一人だけここにいることに、マサルはちょっとびっくりしている。  引き出しを開け、マサルはコーヒーの残りを数えている。周りに人がいないのを確かめて、おい、どうしたんだよ、会議だって言っていただろう、どうして、ここにいるんだよ。わたしは、小さい声で答えた。あのね、全員って言われたから、わたしも早く来たんだよ、そうしたら、わたしはね、出る必要がなかったの、朝、席に坐ってたら、どうしたの、早いねって、言われた。だって、全員なんだろう。違うんだよ、マサル。わたしはね、全員のうちに勘定してもらえない人間なんだよ、ごめんね、マサル。マサルは、えっ? という顔をして、わたしを見る。マサルが大事にしてくれているわたしはね、結局ね、会社ではこんな風に扱われているゴミ人間なんだよ。わたしは、やっと顔をあげて、マサルを見ることができた。  おまえはね、ゴミなんかじゃないよ。そんなこと言うな、わかっているから。たかが仕事じゃないか。電話番だって、なんだって、そこの現場のことをわかってる人間じゃなければ、まかせられないじゃないか。だから、そんなこと、自分で言っちゃだめだ。俺の仕事だって、見てみろよ、ただコーヒーの数を数えて、それを間違えないように届けるだけだ。コーヒーのメーカーで働いていたって、別に、今までなかったような味のコーヒーを作っているわけじゃない。みんな、そんなもんだって。特別重要で、他の奴に譲れない仕事をしている人間の数なんて、ほんの少しで、後の大勢はその誰かのために、つまらない仕事をそれでもまじめにしているだけなんだから。元気だせ、こんなこと、なんでもないじゃないか。お前の値打ちが下がることじゃない。  マサルは、それだけ言うと、いつものように、ありがとうございました、と言って平気な様子で台車を押してエレベーターホールへ行った。わたしが、早足で付いて行くと、早く帰ってこい、今日は、何かうまいもんでも食いに行こう、と言った。  その夜、わたしは、あんまり濡れなかった。お肉もたくさん食べたし、赤いワインもいつになく、いっぱい飲んだのに、それでも、それほど濡れなくて、まあちゃん、ごめんね、わたし、今日あんまり濡れなくて、まあちゃん、痛くない?って訊いた。  マサルは、体を起こし、なめてやろうか、と言った。わたしは澄ましているわけではないのだけれど、それはあまり好きではないのだ。  ありがとう、まあちゃん、でも、それ好きじゃないの、恥ずかしいし。じゃあ、どうしたらいい? どうしたら濡れる? うんと、いやらしいことでも、何でもしてやるから言ってみろ。マサルは、もう一度、わたしの横に来て、わたしの顔をのぞき込んで言った。  わたしは、目を閉じて、そして大きく開いた。本当? 何でもしてくれる? どんなことでも? 恥ずかしいことでも? 他の人に絶対言わない?  何でもしてやる、おまえがそれで濡れるんだったら。だから、大丈夫、言ってみろ。  うん、わかった。わたしは、マサルのあたたかい胸を引き寄せ、顔をうずめた。  あのね、髪をなぜて、わたしの名前を言って、そしてね、わたしのこと、かわいいって言って。ずっと好きだって、そうしたら、わたし、うんと濡れると思うから。  わたしは、そこまでやっと言うと、その時までこらえていたものが、どっとあふれてしまい、マサルにしがみついて、声をたてずに、しばらく泣いた。 [#改ページ]   ショートストーリーズ  きっと、大丈夫  洗面所のコップに、お揃いの白とオレンジの歯ブラシを二本見た時、わたしは玉木さんと別れることにした。  奥さんと、何年か前に離婚したという玉木さんは、女の扱いが確かにうまい。わたし一人に一生懸命になってはくれないけれど、会えば「やっと会えた!」と、やっぱり嬉しくなってしまう。  玉木さんとのことは、好きとか、将来結婚したいとか、そういう気持ではなかった。うんと年上で、離婚歴もある男の人に興味を持たれたということが、私の値打ちを上げたような気がしたのだ。  ただそれだけだったけれど、セックスをすれば心はつい傾いてしまうし、一緒に時間を過ごせば、うっとりすることだってある。  玉木さんには、わたし以外に何人も女がいることは最初からわかっていた。シャワーを浴びた後、はい、と手渡されたのは、くたっとした古い木綿のバスローブだった。ベージュで、襟元にレースが使ってある。奥さんが残していったものなのか、それとも、他の人のものなのか。 「わたしは、こんな誰かの使い古しは着ないの」  そう言って、バスタオルで体を拭いて、そのままの裸で玉木さんとセックスした。玉木さんは、君って面白いね、と言った。それは、わたしには褒め言葉に聞こえたのだ。  玉木さんは、素直なまともな気持を平気で踏みつけて、そしてその後どうするだろうと、じっと観察するようなところがある。わたしと一緒に食事をする約束だったのに、待合せのお店に、もう一人わたしと似たような年恰好の女を呼んでおいて、三人で「仲良く」おしゃべりをし、お酒を飲み、食事をしたことが何度もあった。わたしは、笑いながら目の端で女を観察し、丁寧な言葉で礼儀正しく会話を進めたし、女は酔ったふりをして怒りできらきらした目で、彼に、それじゃあ、おやすみなさいと言って店を出るのだった。その後姿を見送り、わたしたちはセックスをする。そんなことは、なんでもない。そう振舞うことが玉木さんと一緒にいる時のルールだった。  でも、二本の歯ブラシを見た時、こんなことやっぱりやめようと思った。こう出てきた女の気持が浅ましかったし、これをわたしに見せる玉木さんの気持が嫌だとはっきり思ったのだ。もうこんなことからは降りよう。わたしは決めた。好きじゃない人とはセックスしない。簡単だけど、大切なルールを、その時やっと手に入れた。 [#改ページ]  良人  結婚して一年、夫の転勤で全然知らない土地にやってきた。海も山もなく、便利だけれどただそれだけという町だ。  あの人が朝会社に行ってしまうと、わたしは気が抜ける。子供がいるわけじゃないから、わたしは本当に一人だ。  結婚するまで、美容部員として七年仕事をした。仕事は好きだったから、辞めて家にいて欲しいと言われて、迷いがなかったわけじゃない。でも、わたしはあの時、この人の言うことはきこうと思ったのだ。彼のことが好き、という気持も本当だったけれど、世界中の女のなかからわたしだけを選んでくれた男に逆らいたくなかったのだ。  きれいな女は、後から後から湧いてくる。わたしはカウンターのなかに立って、いつもそう思っていた。ほんの少しいつもと違う色の口紅を選ぶことで、女は歩き方まで変わるのだ。わたしたちの仕事は、お客様に自信を差し上げることだから、とチーフはいつも言っていた。お似合いですよ。わたしは、あの頃一日に何回そう言っただろう。お客様は、嬉しそうに、少し照れて、わたしの選んだ口紅を買って下さる。  でもどうなんだろう。本当は見ず知らずのわたしが言うより、いつも一緒にいる男の人にこそ、言われたいはずだ。いいじゃない、よく似合うよ、と。夫や恋人が言わないから、私たち美容部員が何度も何度も言うのだ。  夫という男たちは、とても寛容なのではないか。わたしには、そう思える。言葉で褒めはしないが、とりわけ文句も言わない。そのままでいいと、思ってくれている。結婚するまで、わたしは嫌われないように、彼を失わないようにと、どこかびくびくしていた。何度も恋愛を繰り返すのは苦しい。結婚が決まった日、ああ、これでもう恋愛しなくていいのだと、ほっとしたものだ。  日曜日の午後、二人で買い物に出かける。買うのは、お米とかティッシュとか洗剤とか。毎日の生活に必要なものを二人で見て選ぶ。前は服やちょっとした宝石を、同じように二人で見て選んだというのに。けれど、それでもわたしはちっとも構わない。二人の暮らしに使うものを、二人で選ぶのだ。よく見て買わなくては。  貴子、ほら見てごらんよ、すごい夕焼けだよ。  先週の日曜日、あの人はわたしを呼び捨てで呼んだ。ああこの人、わたしの夫に本当になったんだ。そう思って、わたしは笑いながらベランダに行った。 [#改ページ]  うふふ  あの人とセックスしてから、わたしは小声で話すようになった。そしてよく笑うようになった。あたたかい暗がりでいつも笑っている。  何がそんなにおかしいの? あの人は、わたしの肩に唇を押し当て、ちょっと噛んで言う。  あのね、あなたが、わたしにこんなにいやらしいことをするのがおかしいし、わたしもあなたに、いやらしくされることが嬉しくて、それがおかしいの。あなたは、いやらしいことをするのが上手なのね、こんなにいい人なのに。ちっとも知らなかった。優しくて親切で頭もいいくせに、いやらしいのね。それがおかしいの。  わたしの体もね、いやらしいことが、好きなの。気持がいいの。でも、自分一人じゃ、こんな風になれなくて、男の人がいてくれないとだめなんだけど、誰でもいいわけじゃない。それでも、どういう人だったらいいのか自分でもわからない。結局、セックスしてみないとわからない。  体がうんと気持ちいいと、セックスが好きなのか、あなたが好きなのか、時々わからなくなる。だから、セックスの途中でわたしに訊いて欲しい、好きかって。気持がいいかって訊かないで。それは体が十分答えてる。  あなたとセックスするようになって、わたしは肌の手入れに熱心になった。あなたに包まれる体だから、うんとすべすべでいたい。目を閉じればマニキュアは見えない、抱き合えばお化粧は落ちる。肌だけが、素直にあなたにたどりつく。  この暗がりに、わたしたち二人しかいないというのに、小さな声でこそこそと用心して話す。気持がいい、もっと続けて、もっとして、まだやめないで。わたしは、あの人が笑っているのをいいことに、どんどん強欲になる。  わたしが気持ちいいと、なんであなたは笑うの。わたしのために、そんなにたくさん動いてくれて、あなた、いい人ね。気持ち良くしてくれるたびに、あなたのことがもっと好きになる。そして、いやらしいわたしを、嫌いにならないあなたが、本当に好き。  好きな男に、こんなにいやらしくされて、わたしは嬉しくて気持ち良くて、笑ってばっかりだ。 [#改ページ]  埴生の宿  ナースになったのは、父が死んでいくのを見たからだ。入院して三カ月。治る病気ではなかったから、家に帰れないことは、父以外のみんなが知っていた。  わたしはその時十八だったから、あれからもう十年たったのだ。  本当は、わたしが二十になったら父と母は離婚するはずだったと、後から聞いた。あと二年だったのに。父も母も本当に運が悪い。父には、もうずい分前から他に女の人がいたらしい。お正月の朝に、うちに電話をしてきたこともあって、薄々みんな知っていた。みんな、というのは二人の姉と兄だ。受話器を置いた父は、誰も訊いていないのに、前に会社にいたデザイナーで、今は宝石のデザインをしているらしいよ、と言った。お正月の乾杯をする前に、そんな電話が来たのだ。今考えると、うっとうしい女だと思う。  入院中、母はその人に連絡してあげようかしら、どうしよう、と上の姉に言った。姉は、そんなこと、しなくていいのよ、わたしたちが連絡しなくても、きっと誰かが教えているはずよ、男の人たちって、こういう時、助け合うものだから、と言った。会社に勤めて五年になる姉の言うことは正しかった。わたしたち家族が誰もいない昼間の時間、その人は来たらしい。その日の夕方、父の病室に行くと見慣れない白熊のオルゴールがあった。ねじを巻くと、「埴生の宿」にあわせて首を振った。父があまりじっとその白熊を見るものだから、それ、どうしたの、誰にもらったの、とは訊けなかった。熊は赤い毛糸の細編みのリボンをしていた。父はそのリボンをほどいて捨てた。  父の病室からは一日に何度も「埴生の宿」が聞こえていた。それを聴くたび、わたしたちの知らない、見たこともないアパートの部屋で、顔も知らない女の人が同じオルゴールを鳴らしているようで嫌だった。  父が死んでお葬式は、寒い風の吹く日だった。わたしたちは、来て下さった方々におじぎをしながらも、一体どの人だろうと、上目使いで、その女の人を探した。  結局わからなかったけれど、たった一人、ニットの白いワンピースを着た女の人がいて、その人じゃないかとわたしは思う。母は、あの人じゃないかな、とある人の名前を言った。なぜ、と訊くと、女の人はだいたいお香典は五千円なのに、この人だけは一万円だからと言った。  あのオルゴールは母が棺に入れて、そして灰になった。 [#改ページ]  別れてのち、三年  あの人と別れてから三年が経った。あれから、ずっとわたしは一人だ。  雨の日は、つらい。二人でいた頃は、天気のことなど何も気にならなかった。思えばいつも晴れていたような気もする。一人になってしまうと、外のことばかり気になる。夜、雨が降り出すとすぐわかるようになった。  クリーム色の厚いカーテンを少しあけ、ガラス越しに雨を見る。この雨は、今、あの人のいる所にも降っているのだろうか。あの人は、今、この雨に濡れているだろうか、それとも、あたたかな部屋のなかで雨音を耳にしているのだろうか。  指が覚えてしまって、忘れることのできない番号。それを、もう一度押してしまいそうになるのは、決まって、こんな雨の夜だ。声を聞きたいと思う。今、どうしているのか知りたい。わたしのこと、今は、どう思っているか、それだって本当は知りたい。  別れてしまったのだから、もうどうしょうもない。それは、よくわかっている。この世に男は、彼の他にいくらでもいる。それは何人もから言われたことだ。でも、わたしが欲しいのはあの男だけで、他の男ではだめなのだ。  なんで別れてしまったのだろう。夜になるとそればかりを思う。もっといっぱい謝ればよかったのか、素直に行かないでと、しがみつけばよかったのか。あんなこと、これまでにも何回もあったから、簡単に仲直りできると思った。でも、あの人は、もう疲れたよ、と言ってそれっきりになってしまった。  好きだったの。好きだったからうんと、甘えちゃったの。あなただけにはそうしてもいいと思っていたから。本当に、ごめんなさい。  一度きちんとそう伝えたくて、あの人に電話したことがある。やっぱり雨の夜、別れて一年ぐらいの時。うんと勇気を出したのに、ずっと話し中で結局つながらなかった。もしかしたら、それでよかったのかもしれない。あの人に、うんざりされなくて済んだのだとしたら。  あれから、わたしは誰ともセックスしていない。わたしの体は、こんなにきれいなのに。誰にも知られずに三年経った、わたしの体。誰のことも気持ち良くしないし、誰からも気持ち良くしてもらえない、空っぽの体だ。  三年間セックスしていないこの体で、今、あの人としてみたい。雨を見ながら、どす黒く思う。この体はどんな感じがするのか、それがわかるのはあの人だけだから。未練は心にも体にもあって、わたしの肉は白いままだ。 [#改ページ]  MOTOR DRIVE  免許は持っていない。取る時間がなかったし、車がなくてもちっとも不便じゃなかった。  運転をすると性格が出るってよく聞く。時々、いきなり飛び出してきて、そのまま走り去る女の運転を見るたびに、やっぱり、わたしは運転向きじゃないなぁと思うのだ。  全然知らなかったけど、会社の同期のみっちゃんは、車がうんと好きで、黒の小振りのベンツに乗っている。へぇ、みっちゃんが? その組合せは、なんというか、クラスの恥ずかしがり屋の女の子がすごい絵を描いて、いきなり文部大臣賞を取ったぐらい、わたしにはびっくりすることだった。みっちゃんは、自分でもどうしてかわからないくらい、車だけは好きなんだよ、と、にこにこして言った。  あのね、免許を取った時に思ったよ、これでいつでもどこへでも自分で行けるんだなって。眞紀子、想像してごらんよ、自分の目の前の道を走ってね、そのまま北海道にだって行けちゃうんだよ、すごいことでしょ? みっちゃんにそう言われて、あっ、本当だ、この人は、すごいことができる人になったんだと思った。  ある時珍しく、眞紀子、一緒にお昼を食べようよ、と誘われた。仲良しだけど部署が違うから、あまり一緒にごはんは食べたことがなかった。うん、と返事をしたけど、何だろうと思った。みっちゃん、何か悪いこと? わたし、何かした? わたしは席についてすぐに、みっちゃんに言った。みっちゃんは、評判の悪いわたしの行いを、それとなく言ってくれる唯一の人だったから。うん、あのね、みっちゃんはゆっくりわたしを見た。わたし会社を辞めるんだよ、眞紀子を置いていくようで悪いんだけどね。そうみっちゃんは言った。自分で決めたことなのに、わたしのことまで気遣ってくれていた。そんなこと、いいのに。  今週の土曜は、みっちゃんの四十九日だ。同期のみんなで、お花を贈ることにした。みんなのために世話を焼くのはみっちゃんの役だったけど、今度はわたしがするね。みっちゃん、もういないみっちゃん。わたしね、長生きしたいと思うよ、みっちゃんの分も。わたしは、百年も二百年も生きたい。そして見たことを、今度みっちゃんに会う時に、あのね、って言うから、だからみっちゃん、その時、へぇ眞紀子、そうなんだって言ってね。 [#改ページ]   家内安全  お正月も四日を過ぎた頃、夫が、もうきっとそれほど混んでいないだろうから、みんなで初詣に行こうよ、と言った。みんな、というのは、彼とわたしと、年末に一歳になった娘の笑子だ。やっと立てるようになった。  この子が生まれたばかりの去年のお正月は、お正月どころではなかった。わたしは一月の三日に退院した。その日から一日中パジャマで、顔を洗う時間もなく、おっぱいとオムツに追われる毎日が始まったのだ。  この一年で、わたしの手はすっかり変わってしまった。一日に何度も手を洗うから、いくらハンドクリームを塗っても、かさかさしてしまう。赤ん坊の世話をしてつくづく思うことは、母親の手というのは汚いものを触る手だということだ。そして、その同じ手で決して汚してはいけないものも触るのだ。手を洗わずにはいられない。赤ん坊を抱く時、ああ、爪は凶器なのだと知る。だから深爪ぎりぎりの長さにいつも爪を切る。長い間、エナメルも塗っていない。乾いた手に、ささくれの目立つ指。こんな手に一体どんな色を塗るというのか。他人に知らせなくていい自分の生活は、いくらでも化粧が封じ込めてくれる。眉の形、マスカラの濃さで。けれど手は頑固者だ。そのままの生活しか表わさない。だから今のわたしは、手を見ただけで、その人に小さな赤ん坊がいるかどうかがわかる。  そうだ、一年かけてゆっくり手の手入れをしよう。今年はそう思ったのだ。あまりにも地味な目標だけれど。  あたたかくした笑子をわたしが背負い、夫の伸一とゆっくり歩く。一歳で九キロ。この頃は、おっぱいはもう飲まない。ごはんをのり巻きにしてやると、手づかみで口に入れる。背負うと重い。神社まで歩いて十分ぐらいだから、ベビーカーでもよかったのだ。それでも、神社には長い階段があって、ベビーカーは持って上らなくてはいけないのだ。結局どうあっても重い。  わたしたちは並んで歩く。 「重くない?」 「重いけど、平気よ」  わたしは彼にそう答えながら、あれ、いつからわたしたち、手を組まなくなったんだろうとふと思う。もう長いことのようにも思う。手が触れそうに歩いているけれど、つながない。でも別に不満でもない。なんだかそれがおかしくて、わたしは右手を彼の左手に伸ばした。 「なんだよ」 「うん、ちょっとね。やっと、お正月だなぁと思って」  彼はそれでもわたしの手をにぎったまま歩く。 「そうだよな。去年はそれどころじゃなかったし」 「本当ね。あなた、去年お雑煮食べたの?」 「食べるわけないじゃないか、一人で」 「そうよね。わたし、病院でお雑煮食べながら、あなたは何を食べているのか、そればっかり考えていた」 「病院でも雑煮が出るのか」 「そうよ。きんとんもいただいた」  一月一日の朝食に、病室でわたしはお雑煮と栗きんとんをいただいた。それは料理の本の表紙になりそうなきれいなお雑煮だった。小松菜、大根、そして大きな海老が入っていて、お澄ましにゆずが匂う。このお雑煮を作ったのは先生の奥さんなんだろうか。よそのおうちのお雑煮だな、と思った。  わたしは、それを食べながら家にいる夫を思った。お正月なのに、あの人は何を食べているのだろう。トーストだろうか。お茶漬だろうか。  これまで、と言ってもまだ二回しか一緒にお正月を迎えていないけれど、あの人は小松菜と鶏肉のお雑煮をおいしいと言った。彼の育った家では、アゴで出汁をとり、お雑煮にはブリを焼いて入れると言った。 「アゴ? それ、何?」 「魚だよ。それだといい出汁が出るし、生臭くないんだよ。今度作ってやるから」  自分でも料理をする人なのだ。でも、一人の部屋でお雑煮は作らないだろう。そして、おせちも。お正月は、一人で食事をしなくてはならない人間に、残酷だ。クリスマスよりも手厳しい。  病院の窓からは、隣の庭の梅が見えた。小さな、白いつぼみ。そして思った。お昼前には彼は来るだろう。そうしたら、わたしのお昼を分けて食べればいい。ここの食事はおいしくて、量が多いから。  一人暮らしが長かったわたしは、一人の部屋でものを食べることが淋しくてしかたなかった。雑誌の記事では、「一人暮らしのための器」というのは、いつも選び抜かれたセンスを漂わせていた。一人でも居住いを正すための、良い道具に見える。わたしもいくつかそんな器を持っていた。ちょっとした雑貨屋で買った、和風にも洋風にも使える楕円のお皿とか、丸くてころんとしたボウルとか。便利に使えて、確かに出番は多かった。一人でも美しく。わたしもそう思っていた。でもそのうち、美しくしていたって一人なんじゃない、とすぐに思うようになった。  自分が食べるためだけに作る料理。一人分の皿に盛り、黙って食べる。噛むたびに聞く自分の食べる音が、嫌になったこともある。食べるのが嫌だから、ずっと寝ていようと、布団から出なかったこともある。  本能というのは、だいたい相手が必要にできている。寝るにしても、食べるにしても、そしてセックスも。そんなの、ひどい。自分専用の他人を見つけるなんて、大変なことなんだから。きれいにしていたって、勉強したって、お稽古事をしたって、そして自分を高めたって、何にも役に立たない。みんな時間潰しじゃないの。それでも仕事が終わると、そのまま部屋に戻りたくなくて映画ばかり観ていた。でもそれがきっかけで、伸一と出会ったのだから、感謝しなくてはならない。渋谷のミニシアターに、フィンランドの監督の映画を観に行ったのだ。  映画に行く時はいつも一人だ。宣伝で面白そうだと思っても、当りはずれがある。自分が誘って、その映画がさんざんだと相手に申し訳ないし、自分の癖の強い好みで相手を振り回すのも悪い。「話題作!」や「大絶讃」と宣伝していると、すぐに音ばかり大きく、派手なアクションの画面が浮ぶ。そんな映画じゃなくて、あたたかく、ぽっとした気持にさせてくれるものが観たいのだ。一日の終わりに観るのだから。それを観た気持のままで、わたしは丸くなって眠りたいのだ。いい映画は劇場が明るくなった時、観客の顔もいい顔にしてくれている。わたしもきっとそんな顔付きで身支度をしていた。不運続きの夫婦が、苦労してオープンさせたレストランだもの、うまくいって、本当に良かった、良かった。そう思ってコートとマフラーを座席から取ろうとした時、椅子と椅子の間に、黒い定期入れが落ちているのが見えた。神保町から用賀まで。大石達也、三十五歳。まだ買ったばかりの定期だ。これはいけない。  わたしは自分のコートは置いたまま、急いでロビーに走って階段の上に立ち、一瞬迷ったけれど、でも定期入れを持った右手を上げて「大石達也さん、いらっしゃいますか、定期を落されましたよ」と、大きな声で言った。ロビーにいてプログラムを買っていた人、煙草を吸っていた人、おしゃべりをしていた人、電話をしていた人、そして駅へ急ごうとしていた人。みんながわたしを見た。 「大石さんという方、いませんか」  それまで飲んでいた紙コップを置き、わたしを見て、そして一緒に言ってくれた人がいた。黒いタートルを着た男の人だ。  ロビーにいる人は、誰も名乗り出ない。 「もう帰っちゃったのかしら」  わたしは、その人に言った。 「ちょっと、待っていて下さい」  その人は、外に走って出ると、 「大石さん、いらっしゃいますか、定期を落されましたよ」  と、駅に続く坂道を行く人に向かって言った。  結局それでも誰も戻ってこなかった。 「どうしましょうね、これ」  わたしは、黒タートルに言った。 「電車に乗る時、気が付いて探しにくるかもしれないから、受付に頼んでおくのが一番いいとぼくは思います」 「そうですね、それがいいですね。わたし、自分の荷物持ってきますから、これ、お願いしていいですか」 「いいですよ」  そう言って、黒タートルは定期入れを受け取った。  いい映画だったから、わたし、今だけいい人になったのかもしれない。いつもだったらあんな風に、知らない人の名前を呼んだりしないもの。  椅子の上に置いたままにしてあった、ベージュのコートと薄いピンクのマフラーを取った。黒のショルダーバッグはコートの下にある。あっ、危い危い、と念のためなかを確かめた。お財布はちゃんとある。  ロビーに戻ると黒タートルと受付の女の人が話をしていた。 「あっ、すみませんでした」 「今、話していたんですけれど、今回はレイトショウがないから、この回でおしまいなんです。だから、これを落した人が戻ってきても、きっと今日は受け取れないんですよ」 「ああ、そうですか」 「でも、なくしたわけじゃないし、あなたが拾ってあげたんだから、この大石さんは助かりましたよ」 「ええ、そうだといいけど」  念のために、と受付の人に言われて、ノートに名前と連絡先を書いた。黒タートルも書いた。吉田伸一。書かれた住所は赤坂だった。 「じゃあ、これで」と言うわたしに、吉田伸一は「駅までご一緒していいですか」と言った。断る理由は別にない。 「いい映画でしたね」 「そうですね。いい映画でした。この監督は好きなんです」  それから二人で歩きながらだらだらと話した。 「山川さんとおっしゃるんですね。映画はよく観に行くんですか」  わたしは吉田伸一をよく見た。三十三とか四とか、そんな感じだ。 「ええ、時々ですけれど」 「今は、女の人ばかりですよ、映画やお芝居を観ているのは」 「本当にそうですね。男の人は、映画を観ていないで、その間、何をしているんですか。仕事ですか」  わたしが働く小さな商社も、定時の六時に帰る男の人なんて、誰もいない。 「さぁ、何でしょうね。そんなに働いているとは思えないけれど。山川さんはいつもお一人で映画を観るんですか」 「ええ、そうです。気楽ですから。でも、観たのがうんといい映画だった時は、誰かと一緒に話したいなぁとも思います」 「そうですよね。映画ってそういうところがありますよね」  駅がだんだん見えてきた。 「ぼく、寄る所があるので、ここで失礼します」 「はい」  わたしを吉田伸一は見た。 「食事がまだなんで、これから行くんですけれど」 「ええ」 「山川さん、お時間ありますか」 「ありがとうございます、でも今日はこれで失礼します」 「そうですか。じゃあ、また」 「ごめん下さい」  わたしは駅に向かって歩いた。ちょっと、大きく息をした。本当は一緒に行ってもよかった。時間なんていくらでもある。でも、今日会ったばかりの全然知らない人だ。そんな人に付いていくわけにいかない。チャンスを無駄にしたのかな。チャンス。恋のチャンス。今の自分を変えるチャンス。でも、チャンスの厄介なところは、それが最初はチャンスに見えないところだ。  あんまり用心深くすると、運を逃しますよ。前に占いの人に言われたことがある。やっぱり映画の帰りに、一人で商店街を歩いていたら声をかけられたのだ。「占いますよ」と。一回三千円。今のわたしにどんなことを言うのだろう。ただそれだけの興味で見てもらったのだ。 「何を見ますか」 「うーん、これから先、注意しなくてはいけないことを教えて下さい」  その化粧気のない、首に花柄のスカーフを巻き、髪をひとつに束ねた女の人は、わたしの名前と生年月日を聞くと、ノートに鉛筆で書いた。名前の隣に数字が書いてある。 「ちょっと手を見せて下さい。両方の手です」  わたしが掌を開いて見せると、その人は細いすべすべの指でわたしの手を触った。 「あなたは本当は素直だけれど、それが上手に出せない人です」 (それなら、なぜ素直だとわかる?) 「あなたには、あなたのことを心配してくれる人がたくさんいるんですよ。でも、あなたはそれに気付いていない状態です」 (へえ、それ、誰のこと? 名前を教えて) 「弁が立つ方だから、必要以上に物を言ってしまうかもしれません。気を付けて」 (はぁ)  そして、最後に「あまり用心深くすると、運を逃しますよ」と言ったのだ。これには、ぎくりとした。 「これで三千円なんですけれど、あなたはちょっと変わっていますね」 「えっ、どういうことですか」 「普通、女の人の場合だと、だいたいね、恋愛のことを訊かれるんですよ。でも、あなたは違いますね」  わたしは、白い顔の、そして話す言葉に少し訛りのあるこの人を見た。さっきまで、彼女がノートに書いた字ばかり見ていたのだ。 「ええ、今、恋愛はちょっといい、と思っているんで」 「ああ、そうでしたか。それもやっぱり少し出ていたから」  この人は、それが商売のやり方なのだろうか。もっとお金を払えばその先を言うのだろうか。花柄のスカーフを侮っては駄目だ。わたしは黙っていた。 「男の方のこと、出ているんですけれど、あまりいい感じではなかったので言いませんでした。複数は出ていないから、今は、ちょっとお休みっていうところみたいですね」  わたしの手のどこにそんなことが出ているのか。わたしの名前か。生まれた日か。 「男運って良くなるんですか」 「運っていうのは全体で見るもので、それだけっていうことはないんですよ。急に変わるものじゃないし」  運の話はどうもわからない。 「じゃあどうすればいいんですか」 「特別なことじゃなくて、今は生活を正すことがいいと思います。ひどいことはしない、お金の使い方に気を付けるとかですね。運があんまり良くないなぁっていう時は、とにかく基本に戻って静かにすることです」 「そうですか。わかりました。ありがとうございます」  料金は三千円でいいと言う。そうですか、と答えて、気持だけ、と持っていたのど飴を渡した。占いってどこまで出るのだろう。あの人はわかっていたのだろうか、わたしと遠藤さんのことを。そして、わたしのやったことを。  遠藤さんは、わたしと同じ会社にいた人で、わたしと一緒にほんの少し時間を過ごした。  同じ会社だったけれど、会社のなかでは話をしたことがなかった。その頃わたしは、アメリカの衣料品のカタログ販売会社で働いていて、仕事は電話のオペレーターだった。注文とクレーム係だ。遠藤さんは本国とのやりとりをする管理部にいた。  この会社の服は、コットンの質の良いこと、そして発色の良さで、ことに子供服には定評があった。色使いが、赤やピンクにしてもべたべたと甘くない。日本の子供服のように、くまや、うさぎも付いていない。今年の冬の女の子用のコートの柄は、淡いオレンジ色の地にグレーのバラの花だ。どこかの雑誌が取り上げてくれたのだろう、結構な値段なのに一日に二十枚はオーダーがある。  雑誌に出ると朝の九時から電話が鳴りっぱなしだ。九時から夕方五時のシフトのわたしのグループは九人いる。会社の方針で、朝九時から夜九時まで電話を受け付けるので、三つのシフトに分かれる。中番といって、注文が多い十二時から一時、それから三時までをカバーするシフト、そして夜番はそれから後を受け持つ。  電話の仕事は嫌だな、と思う。電話が混む日は最悪だ。 「大変お待たせいたしました」 「もう、一体何度かけたらおたくは電話がつながるわけ? どうなってんのよ」 「誠に申し訳ございませんでした。ご注文をうかがいます」  これの繰り返しだ。全然知らない相手にいきなり怒られて謝る。儀式のようなものだと頭では思っていても、耳はいつまでも慣れたがらない。耳と心は直結しているからしょうがない。  たかがさ、洋服じゃない。そんなにいらいらしなくてもいいじゃない。思ってはいけないことだろうけれど、いつもそう思っていた。  朝の九時からカタログを見て注文してくるのは、だいたいが家庭の主婦だ。お昼休みの注文は、働いている女の人が多い。注文の仕方もてきぱきしていて「えーと」とか「あら、どこいっちゃったかしら、ちょっと待ってて」と言う人はあまりいないらしい。夜の注文はいろいろだ。家に帰ってきたOLとか、学生っぽい人、電話の後ろから赤ん坊の声が聞こえる注文とかいろいろで、男の人からの注文は夜に多い。  わたしたちオペレーターは、電話の後ろの音に敏感になる。テレビの音、かけている音楽、車の走る音、他の人の話し声。電話をかけてきている人の生活の上澄みが、いちいち流れ込む。仕事を始めた頃、最初に疲れるのはこれだった。  わたしたちは、注文以外にクレームも受ける。「返品自由! お客様のご満足を保証します」。カタログにはそう書いてある。  クレームの多くは、製品がアメリカのものだけに、だいたいがサイズ違いだ。「返品自由!」とあるけれど、これは「返金自由!」ではないのだ。マニュアルがあって、返品希望の品と近い値段の別の商品を買っていただくようにするのだ。同じ値段でなければ、その差額を返金する。でもだいたいは、数ドル高い別の物を買うことになる。ここのシステムは支払いはドル立てで、カード決済しか受けない。  それもまたクレームになる。さんざん注文をして「それでは、クレジットカードの種類と番号をお知らせ下さい」と言ったところで「カードなんて持っていない」というお客様もいるのだ。年配の女の人に多い。 「申し訳ございません、カードでなければご注文をお受けすることができないのですが」 「振込み用紙を送ってよ」 「それが申し訳ないのですが……」 「えっ、できないの。他の通販じゃやってるわよ。どうして他でやっていることを、そちらでできないのよ」 「ドル立てのご請求になりますので、カード決済のみとさせていただいています」 「ああ、そうなの。ドルってずい分偉いのね、もういいわよ。もうおたくでは買わないから」  言いたいことだけ言って電話は切られる。  子供服のクレームは、大きすぎるので返品したいというのがほとんどだ。そういう場合は「少し大きめに作ってありますので、数回お洗濯なさるか、乾燥機をお使いになるとよろしいかと存じます」と言う。そもそも体型が違うのだ。シャツの袖は少し長いし、ズボンの長さも違う。子供の頭が大きすぎて、トレーナーから頭が出ないというクレームも実は多い。そういう場合はボタン開きの物を注文してもらうことにする。向こうの子は、手と足が長くて頭が小さいのね、とつくづく思う。  怒られ、謝り、また意地悪を言われる。怒りたい人って世の中にたくさんいる。耳から毒ガスを入れられる。そう、この仕事の一番嫌なところは、相手の悪意が耳から体に入り、それがなかなかわたしたちの体から出て行かないことだった。  わたしたちオペレーターの人間関係は最悪だ。客の意地悪が体に層を成して溜り、目と口元に出る。いつもいらいらしていて、他人のことばかり気にしていた。そしてどうかすると意地悪な気持で一致団結して、さらに意地悪がヒートアップするということがある。その矛先がわたしに向けられた。  もともと九人の早番は四対四対一に分かれていた。一はわたしで、あとは四人ずつのグループだった。グループ。いつまでたってもわたしはこれに馴染めない。毎日同じメンバーで固まっていて飽きないのだろうか。お昼ごはんもお財布とハンカチだけを持ち、いつも四人で「今日はどこに行こうか」と声をかけあう。自分が食べたいものを、自分で食べに行けばいいのに。「中華にしよう」と誰かが言うと、前の晩が中華でもまた中華にするなんてバカみたい。四人いっぺんに入れるお店を探すために、うろうろするのもバカみたい。大人なのに。  わたしは小学生の頃からグループ行動が嫌いだった。誰とでも普通に仲良くしていたけれど、次々とグループが決まると、それまで仲が良かった女の子たちは、もうわたしには優しくなくなった。冷たくすることが、グループの結束を強くする証だとでも思っていたのだろう。嫌なのは、遠足の班決めだった。だいたいグループは好きな人同士で、二、三人の小さいグループが合体して、班になる。班決めの時間になると、グループの女の子たちは、ぱっとそれぞれ相手のグループと組み、教室の空間にわたし一人が残る。わたしは、誰ともグループを作らず、わたしはいつも、わたし一人だったから。  高校の修学旅行の時の班決めもそうだった。わたしはもう慣れていたから、いつものようにその場を動かずに、自分のための空間ができあがるのを見ていた。わたし一人が残るのを見ると担任の教師が「じゃあどこか、山川さんを引き取って下さぁい」と、笑いながら言った。それまで、ぼんやり他の女の子たちを見ていたわたしは教師を見た。そして言った。 「先生、今、何て言ったの? あたしはね、物じゃないのよ」  あの教師、亀山という女。家が金持で、趣味で教師をやっているとバカにされていた。絶対忘れない。  それまでがやがやしていた教室がシーンとした。女子は固まって、黙って見ている。男子は、窓際でにやにやしながら見ている。 「あっ、山川さん、ごめんなさい、そういうわけじゃなかったの」  わたしは長いスカートの下で足を少し広めに開き、腕を前で組んだ。 「先生、面白いこと言うじゃない。ねえ先生、現国教えてんでしょ。引き取るってどういう意味よ。わたしはね、別に誰にも引き取ってもらわなくても構わないんだけど」  大学出たてのこの女は、自分を「みんなのお姉さん」のように振舞う、くさい奴だった。そういう、いい人ぶるかまとと女とは、昔から相性が悪い。この女、泣けばいいと思った。  わたしは腕組をしたまま、亀山を見ていた。黙って下を向いている。わたしは亀山より下にいたくないから、現国は猛勉強してテストはいつも百点に近かった。それを、この女は何か勘違いをしている。わたしはね、あんたのお気に入りでもなんでもないのよ。 「おう、小春。お前、もうやめとけ。かわいそうになぁ。お前は俺が引き取ってやる」  そう言ったのは、倉田健司だった。健司はわたしの付き合っている相手で、ラグビー部だった。健司がそう言うと、空気がやっとほぐれ男子が笑った。女子は、ふん、という感じだった。亀山に恥をかかせるためだけに、わたしは本当に健司の班に引き取ってもらった。だいたい、その班の男の子たちは、健司の友達で、だからわたしとも仲良しなのだ。女子にいやいや引き取ってもらうよりも、気の合う男の子たちといるほうが呼吸も楽だ。当然修学旅行では問題になったけれど、それはわたしには関係ない。 「ええ、本当です。亀山先生がわたしを教室の真中に立たせて、女子のグループに向かって、『残った山川さんを引き取って下さい』って、おっしゃったんです。本当に恥ずかしかったです。だから、お付き合いしている倉田君が泣きそうになったわたしを自分の班に入れてくれたんです。途中でわたしたち二人が抜けた理由なのですが、わたし、急に生理が始まってしまい、ナプキン持っていなくて体が汚れてしまったんです。それに気分も悪くなってしまって。生理痛が重いものですから。ですから班長の倉田君が一緒に来てくれて宿に戻ったんです。これが先生方がおっしゃる別行動の理由です」  わたしはこの説明を修学旅行が終わってから、一体何度職員室の奥の応接間で言ったことだろう。校長や教頭や生活指導の先生は信じたかもしれないし、信じなかったかもしれない。でももう修学旅行は終わったことではないか。わたしと健司は修学旅行中ずっとセックスをしていた。古いお寺は、わたしに何もしてくれないけれど、健司はわたしにいろいろしてくれた。わたしはそういう女だ。  体の栓を抜き、種火をつけた健司。時々、健司のことを思い出す。初めてセックスした男だからじゃない。健司はいい奴だったからだ。健司とは卒業後、別れた。  仕事を始めたばかりの頃、わたしはそれでも努力はしたのだ。  ごはんのためだけに、別に仲も良くない他人と一緒にぞろぞろ歩いたり、順番を待つ列に並んだりもした。それで死ぬわけでもない。食事の時の話題が、引き続き会社の人のことで全然休んだ気にならなかったり、前の晩に見たドラマ(わたしは見ていない)のことだったり、わたしの食べているものを「それどんな味、ちょっとちょうだい」と、返事をする前にスプーンで取られたり、いろいろつまらないことはあった。でも一番嫌だったのは、わたしが彼女たちと、いつも一緒に食事を取るもの、と決め付けられていることだった。  十二時になり、いつものメンバーがハンカチとお財布を持ちエレベーターホールに向かった。一人がわたしに「行こうよ」と声をかけた。どうしようかと思ったけれど「今日は本屋さんに行きたいから」と、わたしは言った。「そうなの。わかった」。  彼女たちが乗ったエレベーターが行ってしまってから、わたしは一人で外に行った。ぶらぶらと歩き、ゆっくり本屋に行き、十二時半近くに、一人で前から入りたかったお粥のお店に行った。ここは、カウンターと、奥の小さなテーブルのお店で、大人数では無理なのだ。テイクアウトもやっている。わたしはそこで、一人で松の実とじゃこの入ったお粥を食べ、買ったばかりの文庫を少し読み、一時には席に戻った。  次の日から、少しずつ変わっていった。彼女たちは、お昼になると全員が揃って席を立ち、わたしなんか最初からいなかったように、そのままお互い話しながら、笑いながら廊下へ歩いて行った。まぁ、それでいいんだけれど。わたしはそれから毎日、彼女たちが全員エレベーターに乗ったのを確かめた後、一人で外に行くようになった。  朝から雨の日は、外へ出るのがおっくうだと、彼女たちはお弁当を持ってきていた。フロアのテーブルで食べるのだ。わたしは居場所がないのでいつものように外に出る。一時前に戻ってみると、テーブルの端に白いお皿が乗っていて、りんごが切って置いてあった。大きなお皿にぽつんと二切れ。テーブルに彼女たちはいない。多分、歯を磨いたり、化粧を直したりしているのだろう。でも、このりんごは何だろう。わたしのために残したのだろうか。ばらばらと彼女たちが戻ってきた。わたしがいるのが見えても、りんご、どうぞ、とも言わない。  席に着き、さて、仕事という時、前田という女が「りんごさぁ、本当、おいしかったよねぇ、向井さんのおうちの」と言った。わたしに聞かせるために。他の女たちは、それでもまだ遠慮があったからか「そうだね」と、小さく言った。りんごは午後になってもそのまま置いてあり、変色していった。  そうではないか、と思っていたが、彼女たちは、わたしを仲間はずれにすることで、一致団結し、前よりも仲が良さそうだった。  日曜日、美容院に行き、久し振りにパーマをかけ、短くした。月曜日、朝、髪型を変えたわたしを見ても、誰も何も言わなかった。あまりによく似合っていて、変えたということも、わからないぐらい自然だったのかも。別に、何か言って欲しいわけじゃないけど、言っても損はしないのに。ああ、そうか、損なのかもしれない。この人たち、わたしが坊主頭にしたり、金髪にしても黙っているんだろうか。そうやって無視したりするのも疲れるだろうに。ごくろうなことだ。そうやって、わたしは嫌われていった。  それでも却って、気楽だった。わたしは会社のある青山から赤坂まで足を延ばし、昼休みを過ごした。  よく行ったのはお稲荷さんだった。近くに飲食店が多いからだろう、熱心にお参りする女の人が多かった。いくつも赤い幟が立ち、線香とろうそくが絶えないこの境内が好きだった。どういうシステムになっているのか、時々お供えをあげている人を見た。タイルのように薄くて小さな油揚げと、白とピンクのお餅。それを白い紙の舟のような器に乗せ、祠の前にそっと置く。わたしは遠くからそれを見ていた。たまに、そんなお供えではなく、玉子が二つ舟に乗っていることもあった。  お供えをするのは、たいてい中年と言われるような女の人だ。おばさんと呼べないのは、姿があか抜けていて、そして、どこか淋しそうだからだ。着物姿のもっと年配の女の人を見ることもあった。白髪まじりの灰色の髪をきれいに結い上げた姿に、水商売の長さを思った。  この境内のベンチに坐って、お弁当を食べている人もいた。わたしは、昼休みになるとここに来て、そんな人たちを見て過ごし、帰り道に、どこかスタンド式のお店に入り食事をした。そんな店では、わたしに似た女が、本や雑誌を片手に一人で静かにランチをとっていた。  会社の遠藤さんに会ったのは、この神社だった。ある日、わたしはおみくじを引いてみたのだ。第十四番末吉。ふーん、と思って見ていたら、あれ、山川さんじゃないの、と声がした。少し白髪も混じった短い髪。同じ階だけれど、別の部屋の遠藤さんが黒いコートを着て立っていた。 「あっ、遠藤さん、こんにちは」 「山川さん、なに、いつもここまで来てるの」 「ええ、遠藤さんも」 「ここはね、結構いい梅が咲くんだよ。もう咲いたかなぁと思って、今日は見にきたんだよ」 「ああ、そうでしたか。わたし、それは知りませんでした」 「せっかくだからね、教えてあげるよ。門の近くだから」  遠藤さんは、わたしを右手奥の門の近くまで連れて行った。 「ほら、ここだよ。あれ、まだ蕾が固いな。もう少しだな」  わたしは梅の木を見た。ごつごつと太い幹。 「山川さんはまだ若いから、梅の良さはわからないだろうけれど、ぼくは桜よりも梅が好きだよ」 「若いっていっても、わたし、二十五ですよ」  遠藤さんは笑った。襟元には、薄いむらさきの布が巻いてある。すべすべしていて、これは絹だろう、男の人のもスカーフと呼ぶのだろうか、とわたしは思って見ていた。 「ぼくより、十五も若いじゃないの。何言っているの」 「でも、わたしは、ただ若いだけですから」 「ただ若いだけか。それでもね、それがいいんだよ」  遠藤さんは一緒にごはんを食べようと言って、よく行くという焼鳥屋さんに連れていってくれた。お昼は、焼鳥はなくて親子丼だけを出す。わたしたちは、カウンターの席に並んで坐った。 「おみくじは、何て出ていたの」 「ああ、これですか。末吉でした」  わたしは、ワンピースのポケットからおみくじを出して、遠藤さんに渡した。  ▼このみくじにあう人は、山を掘りて金を得るが如く、始め苦労あれども、後仕合わせよし。天道を敬い、神明を信じて吉▼病人、長びくとも命にさわりなし。大医にかけ、祈祷してよし▼悦事半ばよし、おもわしからずとも、後よし▼そしょう事、さまたげあり、心正しく時のいたるを待つべし▼待人おそし、仕合わせよし▼失物、遅く出ずべし▼争い事、負くべし▼家づくり、転居、元服、婿、嫁とり、旅立ちよし。 「うん、いいじゃない。大吉だと、もうその先は無いからね」 「ええ、わたしもそう思いました」 「そう思えるんなら、山川さんは得だよ」 「それに、元服にもいいし」  遠藤さんは、笑った。 「山川さん、時々ぼくと一緒に昼めし食べてよ」  わたしと遠藤さんは、そうして付き合いだした。待ち合せの電話連絡などは取り合わなかった。あの梅の木の近くにわたしがいる。そこに遠藤さんが、やぁと言って来る。それが、いつものパターンだった。  梅が咲き、そして花が終わる頃には、遠藤さんは夜、うちに来るようになっていた。  遠藤さんは言った。夜、うちに帰ってもね、俺の分の飯は残っていないんだよ。何もなくてきれいにぴかぴかになった台所で、立って麦茶を飲むんだよ、帰る時間がまちまちだから、もう、俺のことは勘定に入ってないんだ。かみさんは、朝、出て行く時はまだ寝てるし、夜、帰ってきたらもう寝てるし、子供が小さいから疲れてるんだよ。だから、小春ちゃんの所でこうさせてもらうと、ほっとするよ、俺のこと大事にしてくれる人がまだいるんだと思えるから。わたしのお布団にうつ伏せで煙草を吸いながら、そう言った。  わたしは遠藤さんを大事にしようと思った。遠藤さんを好きという気持以上に、遠藤さんの奥さんをバカにする気持が働いたのだ。  あなた、何やってんの。遠藤さんが仕事して稼いだお金でごはん、食べてんでしょ? なんで遠藤さんにごはんを食べさせないのよ。奥さんなんでしょ、ちゃんとしなさいよ。子供が小さいからって、いつも寝ていて、そうやって、だんだん、おかあさんとおばさんだけになっちゃうのよ。大事にしないのなら、どうなっても知らないから。自業自得よ。  炊きたてのごはんを食べさせたくて、朝、仕事に行く前に、お米を二合といで、炊飯器にタイマーをかけるようになった。  仕事が終わるとまっすぐに部屋に戻り、遠藤さんを待った。駅に着くと電話が入る。何か必要なものがあるかどうかを訊いてくれる。 「何もないよ。早く来てね」  わたしはいつもそう答えたけれど、遠藤さんはそれでも、ビール二本とか、いちごとか、ガーベラ一本とか、何かしら手に持ってきた。  もちろん、毎日こんな風にできるわけではなかった。 「明日はちょっとだめだから」  夜、うちの玄関を出る時、下を向きながら遠藤さんは言うことがある。そんな時、どうして、なんで、何があるの、とは訊かなかった。うん、わかった。そう言って、わたしはスリップの上にガウンを着たままの姿で遠藤さんと玄関で少し抱き合う。 「じゃあね」  そう言って、遠藤さんは帰る。  遠藤さんは決して泊っていかなかった。セックスをしても、その後少し寝ても必ず帰っていく。電車が無い時間だと車を呼んで帰っていった。  なんで。  いつもわたしは、そう思っていた。  仕事が終わって部屋に戻る時、電車のなかの男の人たちを一人ずつ見る癖がついた。この人たち毎日家に帰るのね、どこか他に行きたくなることはないのかしら。この男の人たちに、それぞれ女の人が付いていて、帰ってくるのが当たり前と思っているのね。みんな、帰る場所のある人なんだ。  遠藤さんが帰っていくと、わたしはまだ遠藤さんの匂いが残っている枕に顔を埋め、遠藤さんの奥さんのことを思わずにはいられなかった。  バカみたい。旦那が家に帰ってくればそれでいいと思っているの。あなたの旦那がここで何をしているのか知っているの。それで平気で子供と寝ているなんて、奥さんなんて哀れなものね。旦那さんに捨てられたら、ごはんも食べていけないんだものね。奥さんを嗤う一方で、遠藤さんとのことに溺れていった。  遠藤さんとわたしのことは、不倫でもなければ、浮気でもなかった。ただのセックスだ。セックスでも、心を与えるというものではなく、それはプレイだった。  遠藤さんはわたしを裸にはしなかった。ショーツは取っても、スリップは付けたままでストラップを下ろしても脱がせることはなかった。それが遠藤さんの好みだった。  遠藤さんはわたしを転がしたままで、決して抱き締めようとしない。ショーツを取り、耳元に、動かないでと囁く。毎回そうやってから、全てが始まる。  きれいな女は、少しいじめるぐらいがいいんだ。遠藤さんはそう言った。小春ちゃんなんて、いつも言うことをきいちゃう、優しい男ばかりだったろう。それじゃあ、まだ駄目なんだよ、わたしの服を脱がせる遠藤さんは、一緒に梅を見た遠藤さんではなく、真面目にいやらしいことを静かに話す男の人だった。  我慢すると、うんとよくなるからね、小春ちゃん、体を動かしちゃだめだよ、別に縛ったりはしないよ、自分の意志で動かないように我慢するほうが女の子にはうんとつらくて、効くんだから。  遠藤さんがわたしにすることは、健康な健司がわたしにしたことや、他の男の子たちがしたこととは全然違っていた。遠藤さんは、わたしの体を練り上げた。  スリップの薄い布地越しに、ゆっくりと指を滑らし、指が目標をさぐりあてると左右両方の人差し指を、静かに弱い力で回す。そして、それは決して終わらない。わたしは背中をのけ反りたくて肩に力が入る。遠藤さんは、それを見て取ると、耳元に囁く。動いたら、もうしない、と。セックスに入ってしまっている時の遠藤さんはうんとこわくて、意地が悪い。そんな人が指先だけで、わたしを気持ち良くしてくれることが嬉しくて、泣きそうになる。 「ごめんなさい。動かない。我慢する」 「いい子だ」  そう褒めてもらうと、もっといい子になろうと思う。わたしは遠藤さんの指先に集中したくて目を閉じる。あっ、もう少しという時に、遠藤さんは必ず止めてしまう。わたしは目を開いて、目の前の遠藤さんの目を見て言う。 「もっとして」  遠藤さんは薄く笑うだけで、わたしを見ている。 「人にものをお願いするんだったら、もっと丁寧に言わなくちゃ、だめじゃないか」  わたしは遠藤さんの体に触ることも許されていない。 「もっとして下さい」  まだ遠藤さんは、笑っているだけだ。 「遠藤さん、もっとして下さい」  セックスをするまでは、遠藤さんは、わたしを小春ちゃんと呼び、うんと優しい。けれどセックスの時は、遠藤さんが絶対に優位だ。その落差にぞくぞくする。わたしたちが交わす言葉は、全て台詞だった。  遠藤さんの指先は胸には戻らず、右の人差し指が一本、わたしのなかに、いきなり入る。そしてそれは動かない。けれど、わたしは口がぱくぱくする。これで体を動かすことができたらどんなにいいだろう。  遠藤さんは、あぁと言いながら目を閉じ、指でわたしを味わっている。そしてやっとわたしは抱き締めてもらえる。体をどんな風に動かしても構わない。わたしはすぐにいってしまう。そして遠藤さんの体を離さないように引き寄せ、「遠藤さん、好き」と息も絶え絶えに、体から言葉がもれてしまう。これは台詞ではなく、体が絞られ最後に残る言葉なのだった。  遠藤さんの歪みようも、わたしには応え甲斐のあることだった。ルールは明快で、繰り返すごとに、わたしたちはそれぞれの役を前回よりも上手にこなすのだ。  けれど、そんなセックスでも、気持ち良さは、わたしの心をノックする。そして、そのノックの音で心の種子が、芽を吹く。わたしは、遠藤さんにずっと、ここにいて欲しくなった。毎日一緒にごはんを食べて、わたしの隣で寝ていて欲しい。体温、寝息、体の匂い。セックスをずっとしていると、セックス以外のことが欲しくなる。二人分の熱で暖まった布団を出て着替えて、寒い夜の道を家に帰る遠藤さん。わたしには、その強い意志がつらかった。帰れば全て帳消しになるというのか。奥さんには、何の傷も残らないというのか。憎しみが体を深く貫き、その痛みは日ごとに増した。  そんな時だった。わたしがあの神社に絵馬を吊したのは。  あの神社には、大小いくつかの祠があった。開運招福、金銭融通、商売繁盛。そして、縁切禍事災難厄除の小さな祠が、境内の後ろに、ひっそりとあった。最初は気が付かなかったのだ。けれどある日、たったっと女の人が中腰のまま、走るようにして祠から出てきて、あれ、あんな所に、と思ったのだ。  その祠をはさむようにして、絵馬を下げる場所が二カ所あった。わたしは二匹の白い狐が描かれた絵馬をひっくり返して、書かれた文字を見た。「佐藤浩(昭和三十五年生)と離婚できますように 淑子」「佐藤浩が、一生わたしの前に現われませんように 淑子」「先月やっと佐藤浩と離婚できました ありがとうございます 淑子」。この、かつて佐藤淑子だった人は何度もお参りしたのだろう。「内田利樹が丸山美知と別れますように 渡辺明子」「飯田務と縁が切れますように 池田正美」。絵馬に書かれた文字は、どれも上手ではなかった。でも正直な気持だけで書かれた文字だ。絵馬を見て肉筆という言葉の肉の生温かさを思った。  わたしは、この一枚五百円の絵馬を社務所で買った。わたしも何か書きたい。わたしの苦しみを全て解決するような願いを何か。何と書けばいいのだろう。 「ペンを貸して下さい」 「はい。終わったら返して下さい」  わたしよりも若い女の子が言った。わたしは彼女から見えないように、カウンターの一番端に移動した。そして大きく息をして「遠藤さんの奥さん死んで下さい 山川小春」と太い字で一気に書いたのだ。  わたしの望みはそれだけしかなかった。遠藤さんと結婚したいとか、結婚できるとか、そんなことを願っていたのではない。ただ、奥さんの所へ帰らないでほしかった。わたしは、こんなにも遠藤さんのためにいろいろしてあげているのに、どうしてごはんの心配もしてあげないような女が、奥さんだということだけで安心しきっているのか。その図太さが、わたしの憎しみの対象だった。  書いてしまえばすっきりした。人でなしでも構わない。わたしには、こうすることが必要だった。ペンを返すと祠に向かった。絵馬を本当に吊すかどうか一瞬迷った。でも、これを持っていても仕方ない。ここの絵馬は、全て絵の方が表向きになって掛けてある。わたしの絵馬も、他の女たちの棘のような願いと一緒になれば、別に際立つこともなくただの絵馬にしか見えなかった。  遠藤さんは、わたしのことを贅沢品と呼んだ。ここに来ることができるから、自分の生活の全てが、みみっちくならずに済むと言った。それから、こうも言った。小春ちゃんみたいなきれいな女が、俺の言うことをきいて肩を小刻みに震わせながら、体を動かさないようにこらえているのを見ると、自分がうんと偉くなった気がするんだよ。他のどんなことでも、こんな思いはさせてもらえない。バカらしいと思うかもしれないけれど、偉いんだと思えることでずい分救われているんだ。ありがとう。  そうなのだ。遠藤さんはセックスの時、わたしが体をがくがくさせていってしまった後、ずっと優しい。意地悪されたことが効いて、気持ち良さも倍になる。強く抱き締めながら、耳元で囁く。今度は優しいことを。そうか、そうか、いっていいからね、うんと我慢して偉かった偉かった、小春はいい子だ。いきなさい。そう囁かれながらいくことは、わたしの日常にも必要なことだった。セックスの時だけ、正直に素直になれる。意地の張り合いのような、昼間の時間しか自分になければ、心は意地悪なままでいただろう。気持ち良さのなかで、いい子だいい子だと囁かれて、泣きながらわたしの心はピンク色に戻ってほぐれていく。昼間吸ってしまった毒は、もうどこにもない。遠藤さんとセックスすることで、わたし自身も救われていた。遠藤さんとのことは、贅沢品ではなかった。わたしには、必需品だった。  いつか来ると思っていた終わりの日は、あっさりと来た。桜が終わり葉桜になった頃だった。夜、遠藤さんの奥さんが子供を連れて、わたしの部屋のチャイムを鳴らしたのだ。  その時、わたしたちは向かい合って横になり、蜘蛛が糸を引くようなセックスを、始めたばかりだった。濡れてきた感覚を覚えながら、何度も連続して鳴るチャイムを聞いていた。ああ、うるさい。無視しようと思ったけれど、こんなにうるさいと、気が散ってしまう。わたしは、スリップの上にローブを着てインターフォンの受話器を取った。 「はい」  新聞の勧誘だと思った。 「遠藤です」  その声はきっぱりと言った。  わたしは遠藤さんを見た。遠藤さんも、わたしを見た。えっ、なんで。二人ともそう思った。そう、来たの、それならいいわ。覚悟は、今した。  ドアを開けた。初めて見る遠藤さんの奥さんは、小柄だった。思ったよりもおばさんでもなく、ブスでも太ってもいなかった。黒くごわごわした髪を短めのボブにしていた。デニムのチャイナカラーのジャケットに、同じ地のスカートを着ていた。首元には見覚えのある薄むらさきの絹の布が巻いてある。あれは彼女のものだったのか。ベージュの口紅を付けていて、あとはマスカラぐらいで、化粧気がなかった。ああ、この手の女っているものだ。例えば、フランス映画なんかに。美人じゃないくせに、女優になっている女。そういう女だった。  奥さんは、トーマスの付いた青いトレーナーを着た三歳ぐらいの男の子の手を引いていた。 「山川小春さんですね」 「ええ、そうですが」  わたしは玄関口で、ローブのまま腕を組み見下ろすように言った。 「わたし、遠藤美咲といいます。遠藤の家の者です」 「わたしは別に、あなたの名前なんて聞きたくないんですけれど」  男の子は、心配そうに、ママ、と言うと奥さんを見上げた。奥さんは、うん、大丈夫よ、ちょっと待ってね、と男の子の髪をなぜた。 「そうですか。でも、やはり、あなたはわたしの名前を知るべきだと思うし、この子の顔も見なくてはいけないんですよ。遠藤は結婚しているんですから」  玄関に置いてある遠藤さんの黒い靴は、じっと、この奥さんの言葉を吸い取っている。わたしはこの靴を、わざと隠さなかった。奥さん、この靴がここに揃えて脱いであるということをちゃんと見ればいい。そして長い間、それを忘れられずに覚えておけばいい。 「結婚しているから、何だっていうんですか」 「あなた、いい大学出ているんだから、それぐらいわかるでしょう」 「いいえ、何をおっしゃっているのか、全然わからないし、なぜわたしの卒業した学校を、あなたが知っているのか、それもわかりません」  この女、興信所を雇ったな、と思った。よく見ると唇のラインは少し濃い茶色で、唇はベージュで塗られている。少し前の化粧法じゃないの。そんな色、あなたの齢じゃ疲れて見えるだけなのに。それにも気が付いていないで。 「遠藤は、ここで何をしているんですか」 「何って、ごはんを食べたり、セックスをしたり、まあ、いろいろですよ」 「子供の前でそんなこと、言わないで下さい」 「子供をここに連れてきたのは、あなたでしょ。わたしには関係ありません」 「ママ、セックスってなぁに」  わたしは、その子の前にかがんで言った。きっと胸元から、わたしの白くて大きなおっぱいが見えるはずだ。男の子は目をそらさずじっと見ているから。 「あのね、パパに訊いて、上手だから」 「パパ、いるの?」  男の子は、母親を見上げて言った。 「そう、パパいるの。何をしているか見てきて」  奥さんはわたしに断わりもせず、男の子の靴を脱がせ、勝手に部屋に上げた。廊下を走っていき、奥の部屋からは「パパぁ」という、甘えた声が聞こえた。わたしは目を閉じた。遠藤さんは今きっと、あの男の子を抱っこしてやっているだろう。あの子は、パパ、セックスってなに、と訊くだろうか。  わたしは奥さんを見た。そして、奥さんもわたしから目をそらさない。 「わたしはあなたがどんな人か、知らなかったけれど、子供にああ言ったので、今よくわかりました」 「何がわかったんです」 「遠藤は、あなたを縛りますか。それとも、転がしたままですか」  えっ、と思った。そして、あまりのことに、返事ができなかった。わたしは今、どんな顔をしているのか。 「ああ、そうですか、やっぱり。あれは、元はと言えばわたしの好みなんですよ」  この女は、一体何を言っているのだろう。ずるりと音がして、空気が裂けてしまった。 「あの人、それは可愛いものなんです」  奥さんは少し笑って言う。 「わたしの言ったことは全て守るし、それを褒めてやると、本当に嬉しそうだし。いい子って耳元で言ってやると、あの人には効くの。人って、いくつになっても、いい子って言われるのが好きなんでしょうね。うちの子供も好きだし。あと謝るのも好きね。いろいろなことを謝りながら、わたしの足の指を舐め上げていく遠藤を見ると、可愛いなぁと思うし。そういう彼を絶対嫌いになれないもの」  こういうことを言う奥さんの顔を見ると、白くことさら柔らかそうな肌や、マスカラばかりの目や、濡れて見える口紅も、全て何か意味があるように見えてくる。 「変態」  わたしがやっと言えたのは、この陳腐な言葉だけだった。奥の部屋からは何も聞こえてこない。 「変態?」  奥さんは、おかしそうに笑った。 「あなただって気持ち良かったはずでしょ。あの人、上手だろうし。きっと、わたしが仕込んだようにやったんでしょうね。それを、あなたがそう言うのは変よ」  奥さんの声は大きくならない。 「ま、変態かもしれないけど、でも、わたしは意地悪じゃないわ。山川小春さん、あなた、結婚している男と寝ては駄目。とりわけ、ああいうセックスをする男とは。あんな味を今から体に叩き込んでどうするの。遠藤は、ずっとあなたとは一緒にいないのよ。時間の無駄よ。  別にわたしは、あなたのためにここに来たわけじゃないけれど。わたし、あなたの書いた絵馬の写真を見ました。だからここに来ました。ああいうの止めなさい。ぞっとするわ。遠藤とのことを止めさせるために来たの。まぁ、こんなこと、最初から終わっていることなのよ。たかがセックスくらいで、結婚している男を、つかまえたつもりにならないでね。世の中には、こういうことは無視してそのまま暮らす女もいるだろうけれど、わたしは違うのよ」 「何をそんなに偉そうに言えるんですか。結婚がそれほど偉いんだったら、子供のことより、旦那さんのことをもっと大事にしたらどうなんですか。ごはんもないって、言っていましたよ」  奥さんは、口を曲げて笑う。 「あの人、そんなこと、あなたに言うんですか。ごはんならちゃんとあるのよ。あの人、お茶漬けが好きだもの」  嬉しくてたまらないという感じで笑った。 「だからね、もうわかったでしょ。最初からこんなことは終わっているの。わたしはね、遠藤を迎えにきたんじゃないの。一緒に帰るだけなのよ」  彼女は、そう言うと、さぁもう済んだわ、帰るわよ、と、わたしを見ずに奥の部屋に向かって声をかけた。  遠藤さんはきちんと着替えて、子供の手を引いて出てきた。普通の顔でわたしを見る。本当、これでおしまい。悲しくも何ともない。遠藤さんが靴をはき、そして子供を玄関に坐らせ、かがんで靴をはかせてやっている。みんなちゃんと服を着ていて、ローブでにょっきり脚が出ているのは、わたしだけだ。奥さんはわたしを見ている。わたしは、子供に靴をはかせ、顔を上げた遠藤さんを見た。こんなことをする遠藤さんを見たくなかった。こんなことを見せて、嫌な女。 「奥さんって、なんだか毛深そうですね」  わたしは遠藤美咲の目を見て言った。 「あなたね、まだそんなこと言ってるの。もう、しょうがないわね。この人、毛深い女が好きなの。あら、嫌だ。知らなかった? もしかして、あなた、毛、薄いんじゃないの。もういいでしょう。あなたの負けなのよ。それじゃあ帰りましょう、充、いい子で偉かったわね、行くわよ」  奥さんは言うだけ言うとドアを閉めて出ていった。奪還とか、救出という感じだった。  何が一緒に帰るよ、バカ。何なのよ、あの女。何よもう全く、何がいい子よ。ふざけるんじゃないわよ。あんな子供まで連れてきて。  遠藤さんのことも思わずにはいられなかった。遠藤さん、本当? 遠藤さんが奥さんに、わたしみたいにしてもらっていたの? それを、わたしにしたの? わたしは、遠藤さんだったの? 見ていて楽しかった? 遠藤さん、ひどい。ひどいよ。  テーブルの上には、まだ夕飯の時の食器が残ったままだった。魚の皿。れんこんの煮物の入った鉢。クレソンのサラダの皿。ビールのコップ。白地に青の縞のごはん茶碗が二客。おみおつけのお椀も二客。これを投げたり壊したりしたらどんなにすっきりするだろう。でもわたしにはできない。床に這いつくばって後始末するのも、わたしだから。  ひどい。そう思って、むき出しの自分の白い太もも両方を、手でぶった。上から勢いよく手を振り降ろした。くっきりと掌の形が赤く残った。もう一度。もう一度。打てば打つほど悔しさが後から後から湧いてきて、じーんとする痛みは悲しみに変わり、それは蟻の姿でわたしの全身を這いまわった。  次の日、わたしはどうしようかと一瞬思ったけれど、行かないで後悔したくないとも思ったので、やっぱりいつもの梅の木の場所に行ってみることにした。もしかしたら、あの女の言ったことは全部でたらめかもしれない。遠藤さんにも訊いてみないとわからない。そうしたら、もしかしたら、またうまく行くかもしれない。そう思えば、行くしかなかった。遠藤さんも、きっと同じ気持だと思ったのだ。けれど、十二時半を過ぎても遠藤さんは来なかった。いつもは、だいたい十二時十五分には来ているのに。わたしは境内でお弁当を食べている人を見て、やっぱり駄目なんだ、あの女が言っていたことは本当だったのかな、それともあの後も、しつこく遠藤さんにあれこれ言ったのかな、だから今日は来ないのかなと、思った。明日はどうなんだろう、そしてその後は。  わたしは、おみくじを引くことにした。こんな時、何と出るのだろう。お金を払い、大きな黒い筒から番号の付いた竹の棒を出す。六十七番。おみくじが入っている小さな棚から、六十七番の札を取った。凶だった。初めて凶を引いた。「このみくじを引く人は、事のほか悪し」。これでもう十分だ。後はもう何も見たくなかった。文面を覚えたくない。わたしは出口の近くの、おみくじを結ぶ柵にこの凶の札を結んだ。柵にはぎっしりとおみくじが結ばれ、悪い札を引いた人間は世の中にこれほどいるのかと思った。  わたしは歩道橋を渡り、お粥の店に行った。ここなら時間もかからない。注文すると番号札が渡され、店員がその番号を呼びながら客の所にお粥を持ってきてくれる。わたしは、ごまのお粥と豆腐のサラダを頼んだ。番号札は、六十六番になります。カウンターのなかの男の子は、明るく笑って「66」と太く大きく数字の書いてある正方形の番号札を、わたしにくれた。  カウンターにその番号札を置き、じっと見た。遠藤さんだったら、これを何と言うだろう。凶よりは、もうましになってきたっていうことだよ、そう言うだろうか。それとも、結局、凶に近い場所にいるというあらわれなのか。遠藤さんと話したい。決してセックスだけではなかった。でもわたしは、もうきっと遠藤さんと話すこともできなくなるのだ。遠藤さんは、きっと明日も、その後も、あの場所には来ないだろう。それがはっきりわかった時、六十六番のお客様と言って、エプロン姿の女の子が笑って、わたしの目の前にトレーを置いた。  わたしはそうやって、遠藤さんが出ていってしまった日常に戻った。お客の欲しがる品物の注文を聞き、理不尽に怒られてもただ謝り、自分で自分を励まし、何を言われても動じないで注文を取った。昼間のわたしは、耳と声だけでしかなかった。一緒に働く人たちは相変らずで、休憩の時には、自分たちの分だけお茶をいれ、クッキーとかマドレーヌとかそんなお菓子を食べていた。前からこんなだったかな。遠藤さんがいた頃は、昼間の出来事なんてどうでも良かった。わたしの一日は、仕事が終わってから始まっていたのだから。けれどこうして一人の生活に戻ってみると、昼間の時間はとても重く、そして仕事の後もその重さを忘れられないまま、一日を終えるしかなかった。  髪型を変えても、新しい服を着ても、結局誰も何も言わない。そんなにわたしは嫌われていたのか。嫌いでもいいけれど、意地悪をしないでいてくれたら楽なのに。客の注文に応えるだけで、あとは一日誰とも話をしなかった。わたしも話しかけることはなかった。それでも、あ、あの人は新しいシャツにしたんだな、とか、髪の色を変えたんだな、とは思っても直接相手に言うことはなかった。わたしを除く八人は四人四人のグループになり、わたしは、わたしに残され与えられた空間にいるだけだった。  時々、セックスしたいと思った。遠藤さんと。こってりとした尋常ではないものを延々と。セックスは何かを体から追い出すものではなかったか。遠藤さんがいなくなった今になってやっと気が付く。自分の力では追い出せない嫌な物を抜いてくれるのが、セックスだった。今わたしのなかには、溜るだけだけれど。そう思うと、遠藤さんという人には一体何が溜っていたのだろう。どれほどのつらさがあったのだろうか。それがわかれば、本当はもっと上手に優しくしてあげられたのに。遠藤さんにはもう優しくすることもできない。わたしは一人だな。毎日電車に乗って、たくさんの人と一緒にいて、たくさんの電話を取って、たくさんの人がいる会社のなかにいる。でも迷子のようにいつも一人で、誰もわたしを知らない。夜、自分の部屋に戻ると、この一人という空気が、ぱりんと割れて、責めのようにわたしを刺した。  仕事を辞めるには、一カ月前に人事部に言えばよかった。辞める理由よりも、ここにはもういないほうがいい理由のほうが多かった。お給料も特別いいわけでもなかったし、他に移れる年齢のうちに決めたほうがいいと思ったのだ。応対ばかりに言葉を使っているだけだと、ブスになる。それも理由だった。遠藤さんと同じ場所にいたくない。それは朝夕、ちらりと一瞬思うことだった。同じ会社だから会うことだってある。わたしを見ても、遠藤さんは表情を変えない。ただ目もそらさず、わたしを見るだけだった。最初から何もなかった。きれいさっぱり跡は残らない。時々寄り道しながら、それでも男の人って奥さんの所に帰れるし、奥さんもそれが当たり前だと思っているのね。敵《かな》わない、そんな図太さ。遠藤さん、恰好悪い。そして、わたしも。奥さんに構わず、また、やあって言えばいいのにな。それで済むのに、奥さんの言うこときいてさ。わたしの居場所はここにないから遠くに行こう。みんなは、ここにいて下さい。わたしはわたしで、遠くで楽しくやることにするよ。ただそれだけだった。自分の部屋で天井を見て決めた。この部屋も置いて行こう。遠藤さんは、ここにいたのだから。自分で決められるのは、こんなことぐらい。あとは何かがきっと動く。そう思って、布団のなかで早くも、捨てていくものをあれこれ考え始めていた。  仕事を辞めることは誰にも言わなかった。けれどそれは、一緒に仕事をする人たちにも伝わったようで、珍しく前田という女が声をかけてきた。前田のリップラインは、いつも少し唇より内側だ。 「山川さん、もうすぐ辞めるんでしょ。お別れのお昼、みんなで一緒に行こうよ」  わたしは前田を見た。前田はどういうつもりか。 「うん、ありがとう。でも、気持だけもらっておく」 「でも」  ここで引っ込まないのが前田だ。 「だって、みんな、わたしのこと別に好きじゃないでしょう。だから、もういいの。ありがとう、気を遣ってくれて」  前田はわたしを見た。わたしは、一度言いたかったことを口に出せてほっとした気分だった。もう辞めるんだから、これで構わない。ここで友達が出来なかったことは残念だったけど、働きに来ている場所だもの気にしない。でも、仕事以外、他の人たちはどんな場面で人と出会うのだろう。わたしがここにいる。それをどうやって知ってもらえばいいのか。前田が行ってしまうと、わたしは窓の外を見た。みんなお昼を食べに歩いている。一人の人もいるし、二人で歩く人、お財布だけを持ち背中を丸めて歩く、女の子たち四人。歩いている人たちは、みんな行き先があってそこに向かって歩いている。蟻みたい。ふと、そう思った。神様が、上からこんな風にわたしたちを見れば蟻のように思うだろう。せっせ、せっせと歩いて、そして帰っていくだけだ。わたしは、歩いていく方向を変えるのだ。そして変えた先で、せっせと歩き、せっせとまた帰るのだ。そう思うと、行った先に、何か正しいことがあるような、そんな気持になれた。わたしは遠藤さんにも誰にも、さよならを言わず会社を辞めた。  移った先は、品川にあるイタリアの食材を扱う小さな会社だった。わたしが一番若いくらいで前とはずい分雰囲気も違い、楽だった。  吉田伸一に、渋谷の映画館で会うまで三年、とにかくわたしは仕事をし、仕事の後は映画に行き、時々、ジムに通った。人間は動物だな、と思うのは走っている時だった。体を動かせば、心に残ってしまうことってあまりない。だいたい三十分走り、汗が出始める頃そう思った。  定期券のことがあって以来、わたしは映画に行くと、なんとなくロビーに吉田伸一を探すようになった。この映画は観にきているかな、どうかな、と。わたしが行くのはだいたいそうやって見渡せる程度の劇場だったから、なかなか会えなかった。会えたのは、台湾の監督の特集の時だった。その日の作品は、男の子が病気の母親の元を離れて、夏休みを過ごすというものだった。わたしがチケットを買っていると、後ろから、こんばんは、と声がしたのだ。わたしは、その声が誰だかわかって、あっと思って振り向いた。 「こんばんは」 「また会えましたね」 「ええ。あの時は、せっかく声をかけて下さったのに失礼してしまって」 「いいんですよ。今日もお一人ですか」 「はい」 「良かったら、一緒に観ませんか」 「はい」 「席はいつも、前と後ろ、どっちですか」 「混む時は前、すいている時は後ろです」 「じゃあ、今日は前だ。ぼくも、もう席を取ってあるから、隣にどうぞ」  映画は良かった。吉田伸一は、隣にいるわたしの方を見ることもなく、ずっと前を向いていた。わたしたちは、映画が終わると一緒に食事に行った。イタリアンだ。食材を納めている店をすぐに思い出し、その店の名前を言った。 「ああ、あの店はワインの品揃えのいい所だ」 「どうして、すぐにわかるの」 「そういう仕事だから」  吉田伸一の勤める会社は、よく知られているお酒の会社だった。よく飲み、よく食べる男だった。それからは、映画を観る時は伸一に連絡し、一緒に行ける時は、一緒に観て、行けない時は別々に観て、それでも次に会う時はその話をする、そんな風にしてわたしたちは付き合うようになった。  遠藤さんのことを思い出すことはなかった。むしろ思い出すのは遠藤美咲のことだった。伸一と結婚した最初の年、わたしは夜中にふと目が覚めると洗面所に行き、鏡に自分の顔を映した。わたしはどこか、遠藤美咲に似ているだろうか。あるいは、似てきただろうかと、自分の顔のなかに何かを探した。  伸一との暮らしのなかで、わたしは二つのことを決して忘れないようにと思った。ひとつは、高を括らないということ。そして、もうひとつは、ごはんを必ず一膳分は、伸一にとっておく、ということだった。  わたしは、自分の目の前に坐り、わたしが作った物を食べる伸一を見て、ある感慨を覚えることがある。この人とわたしの体は、今、同じ食べ物で、できている。血に流れる栄養は同じもの。だけど、別々の生き物で、違うことを考え、違うことをする。栄養をわたしが受け持っているということが、どこか伸一に申し訳なく思う。あなたは、わたしでいいの。ふいに、手を伸ばし伸一に触りたくなる。  伸一は、箸を動かさず自分を見つめているわたしに気付き、目で、何? と訊く。わたしは、やっと笑い、大根固くない? と訊く。  わたしが、この世で油断できるのは伸一だけだ。でも見くびってはいけないと強く思う。遠藤美咲を思い出す。自分の男を取り返しにきた女だった。わたしは、ああなれるか。  あの後、あの夫婦はどんなセックスをしたというのか。自分以外の若い女と寝てきた男と、どうするのが正しいことなのか。遠藤さんは、延々と美咲の体を舐め上げ闇にまみれ許しを乞うのか。そして、その男の耳元に、あの女は低く囁くのだろうか。いい子ね、いい子、もう他に行っては駄目、あなたのうちはここなのよ。遠藤美咲も涙を浮べ、自分の男に囁くというのか。  伸一と初詣に行ったあの時、あの人は何のためらいもなく、太く大きく、そして健康な字で、「家内安全 吉田伸一 小春 笑子」と書き、そしてわたしを見て笑った。わたしも笑いながら伸一を見て、いい子ね、あなたはいい子、と初めて思った。 [#改ページ]  文庫版あとがき  自分の略歴を見たら、わたしは十年前の一九九七年から書き始めていました。あれは冬だった。あのころは、一軒家の二階にある六畳間を借りていた。夜原稿を書いて、時々窓を開けると雪が部屋の中に入ってきた。十年経って出した本は八冊。ペースとしてはのろまだけれど、途中で子供を二人生んだし、これは仕方がないなぁと思う。あのアン・タイラーだって子供が五歳になるまでは書かなかったのだ。わたしは、休んでもやめないをモットーにしてきたので、これでいいと思っている。  取材で、なんで書くようになったのですか、と聞かれることがあるけれど、それを言う人は、取材の前に最初の本『バイブを買いに』を読んでいないということだ。きっかけは、ちゃんとあとがきに書いてあるのに。だからそういう時は「はい、夢の中で赤い小人に、ねえ、思い切って原稿を書いてみたらと踊りながら言われたからです。その小人は『ツイン・ピークス』に出ていた小人とよく似ていました」と答えるようにしている。  わたしは自分が書き続けられるとは、思っていなかった。単行本『バイブを買いに』が出た時点で熱意は失せていたからだ。原稿を書いて欲しいと言った友人・孫家邦との約束は果たしたし、生まれたばかりの赤ん坊との暮らしで、字を書くことなど、とても無理だった。  でも、そこに一人の編集者が現れて、また原稿を書くことになる。彼女の依頼で雑誌にエッセイを書き、それから少し遅れて、小説(わたしの場合は物語と呼んだほうがしっくりくるけれど)を何編か書いた。そして、エッセイ集『きっと、大丈夫』が先に出た。その時だったと思う。わたしの中で欲あるいは意志がやっと生まれ、なんとか二冊めの小説の本を出したいと思った。ああ一冊で終わりたくない。最初の本は、勢いのようなものだ。本当はその次からが本番なのかもしれないな。 『家内安全』は、その二冊めの小説なので、わたしには特別な意味を持つ。それに、この本は、野間文芸新人賞の候補にもなったので、とても驚いた。わたしがやっていることを、誰かが見ているとは全然思っていなかったから。その知らせが来て、担当者に大急ぎで電話したら、彼女は、「ざまあみろ」と言った。あれはありがたかったな。忘れられない。結局受賞はしなかったけれど、それで良かった。もし受賞していたら、愚かなわたしは、もうそこで終わっていただろう。  最後に、装幀について。毎回本の装画は自分でリクエストしている。この本は寺門孝之さんにお願いした。原稿を書く生活になる前から、彼の描く人魚、天使、色っぽい女の人たちが好きで、お金がない時でも個展のたびに一枚、また一枚と、自分のものにしてきた。だから、装画をお願いできた時、こんないいことができるなんて、と思ったものだ。絵が届いたからと、編集部に見に行った。光の白い夏の日だった。なんだか女がぼんやりとベビーカーを押している。でも、中身は空っぽで、子供は空にすっ飛んでいた。わたしはそれを見て、体の力が抜けてしゃがんでしまいそうだった。この本を作っている時、わたしは三番めの子供を妊娠したけれど、胞状奇胎という病気で出産には至らなかったのだ。絵の中の女は、森の中だというのに、あんなに小さなサンダルでベビーカーを押している。そんなのだめ、赤ちゃんが危い、と思う。あの時のわたしって、そんな状態で書いていたのかもしれない。だからあの子は生まれなかったのかなぁなんて、長い間べそべそ泣いた。ああ、そんなことも確かにあった。忘れていたことを思い出しました。終わったことだから仕方ない。今ならそう思える。でも生まれていたら、どんな子だっただろう。絵だと背中しか見えません。空に飛んでいるこの子供を時々懐かしく思うこともあります。  文庫化に際して、お忙しいのに解説をお引き受け下さいました南Q太さんにお礼を申し上げます。ありがとうございました。こうして思いがけない方ともご縁ができ、わたしの知らない方の所に本が届くことを、魔法のように思います。十年経ったら、わたしはこんなこともできるようになっていた。長い十年。大切な十年。新しい十年でした。    二〇〇七年一月 [#地付き]夏石鈴子 夏石鈴子(なついし・すずこ) 一九六三年東京生まれ。九七年、『リトルモア』に小説「バイブを買いに」を発表してデビュー。翌年、他の作品と合わせて『バイブを買いに』を上梓し、注目される。小説は本書の他に、『愛情日誌』『いらっしゃいませ』『夏の力道山』がある。また、エッセイに、『新解さんの読み方』『新解さんリターンズ』『きっと大丈夫』(平間至と共著)がある。 本作品は二〇〇二年八月にマガジンハウスより刊行され、二〇〇七年三月、ちくま文庫に収録された。