[#表紙(表紙.jpg)] いらっしゃいませ 夏石鈴子 目 次  いらっしゃいませ  『いらっしゃいませ』のこと [#改ページ]   いらっしゃいませ      1  朝、八時二十五分、とんとんとんと地下鉄の階段を急ぎ、顔を上げて目の前に道路が見えてくると鈴木みのりは思う。あー、きのうもわたし、この時間はこうしてた。おとといもそうだった。わたしの八時二十五分は毎日同じだよ、きのうと今日の区別がつかない。  でも地上に出てしまえば、その続きはもう思わない。ビルの一階が地下鉄の駅になっている。右手にパン屋さん。左手に眼鏡のチェーン店が入っている。パン屋さんはもうお店を開けていて、お客さんも結構入っている。父親ぐらいの男の人が割と多い。この人たちは、このパンが朝食なのだろうか。これを今から会社の机で食べるんだろうか。  何を買っているのかまでは見ない。できたてのパンはおいしいだろうな、と思う。みのりの朝食は、母が作るご飯とおみおつけ、具はわかめとじゃがいも。そしてきのうの残りのがんもどきの煮物だった。朝からきちんと食べないと、会社で力が出ないわよ、とうるさく言う。力は全然使わない仕事なんだよ、わたしは。そう言いたいけれど、それを言うと、自分をいじめているような気持になるから口には出さない。みのりの仕事は、受付だ。それも、出版社の。  本当は、出版社の入社試験を受けるつもりはなかった。化粧品会社で働く伯母がいて、少なくとも伯母の話ではそこに簡単に入れることになっていたのだ。  就職なんて、どこでもいいと思っていた。みのりの通っていた短大は英語科しかなく、学生の多くはスチュワーデスになりたがる。英語を生かせる仕事をしたい。一年生の終りぐらいになると、ほとんどの女の子たちが、目をきらきらさせてそう言う。  なかには、もっと勉強して国連の職員になりたい、とか翻訳家になりたいと言う子もいる。みのりは、そんな大志を耳にすると、ふん、と思うのだった。英文講読の教師が言ったことが忘れられない。この黒田という教師は、授業の合い間に自分の意見を発表するので油断がならないのだ。 「みなさんのほとんどは、ご自分の英語を生かした仕事をしたいとお思いでしょう。でも英語科卒って、かわいそうなんですよ。みんなに英語が上手だと思われるんですから」  みのりは声を出して笑ったが、クラスの誰も笑わなかった。 「英語を生かす仕事といってもいろいろありますけれど、米兵相手のバーのママだって英語を生かす仕事なんですよ。あの人たちは、英語で生きている」  黒田という男は、あの学校の学生が嫌いだったのだろう。きれいごとばかり言う、カトリックの学校。英語の発音が上手だというだけで、有頂天になっている女の子たち。英語という鍵で扉を開ければ、国際人という特別な人間になれると思っている、ただ若いだけの女の子たち。英語を教える教師というのは、彼女たちにとっては、英語を生かす仕事ではない。英語を使って、外国人と話さなくては意味がない。  黒田はこうも言っていた。人間、変わることは簡単なんですよ、すぐできる。でも、ずっと変わらずにいることのほうが、難しいんですよ、と。  スチュワーデスの試験の前と、その後ではクラスの雰囲気が全然違う。試験後は、日溜《ひだま》りのてんとう虫のように、あっちでこそこそ、むこうでこそこそ、二、三人がかたまっている。  Aクラスのあの人が、わたしよりも背が二センチ低いのに合格したのは、お金をうんと積んだから。  Cクラスのあの人は、本当は目が悪いのに視力回復の訓練をずっとしていて合格した。  Dクラスのあの人は、スチュワーデスの試験に合格したからって、お母さんがサファイアの指輪買ってくれたんだって。そのお母さん、お鍋でおしるこ煮て、そのお鍋ごと宅配便で寮に送ってきたらしいよ。よっぽど嬉しかったんだね。  よく見ていると、背中を丸くして話をしているのは不合格組で、背筋を伸ばしてきらきらした顔で話をしているのが合格組だった。試験の前までは仲が良かったのに、試験後はもう口もきかないというのも珍しくなかった。  みのりは、スチュワーデスになろうと思ったことは一度もなかった。背は一五六センチしかないし、だいたい「美人の職業」を希望するということ自体笑われそうだ。そのぐらいの自覚はある。でも、えっと思うような子も、実はスチュワーデスの試験を受けて、そして落ちていたのを知ると、人って案外見かけに寄らないと思うのだった。  化粧品会社で働こうと思ったのは、伯母がいるということもあったが、いい仕事だと思ったからだ。人をきれいにすることはいいことで、それでお金をもらえたら嬉しい。青臭い、御伽《おとぎ》の国のような考え方。  あの頃の短大生は、二、三社入社試験を受けるだけだった。みんな何も迷うことがなく、アクセサリーの売場で、イヤリングを選ぶように、自分が入りたい会社の求人票を選ぶことができた。  みのりには、どうもそれがよくわからない。一体、何を決め手としてその会社に入りたいと思うのか、自分がその会社に入って何ができるというのか。  旅行代理店や広告代理店も、人気が高かった。旅行が好きだから受けるのだという。旅行が好きなら、自分で行けばいいのだ。他人の旅行の細々《こまごま》とした世話を、青いアイシャドーを丁寧に塗って、並んで買ったというトレーナーを自慢気に毎日着ている女に、できるというのか。  広告代理店は堅い仕事ではないから、わたしの個性を生かせると、言った女もいる。いつも黒ずくめの服で、銀のスクーターで一時間かけて通学している。口紅は時々シルバーを塗るらしく、赤みの少ない顔は爬虫類になりたがっているとしか思えない。個性、感性。この言葉を使って受験の理由を話す女は、いつも目をきょろきょろさせて、自分と他人の違いを意識していた。他の人がしていないことをしようと、がんばっていて、その力みようがばれても恥しくはないようだった。変わった服を着ること。学校で誰も行ったことのないような店に行くこと。誰も知らないアーティストの音楽を聴くことが個性なら、試験会場ではその個性をどう伝えるのだろう。  彼女は、糸井重里が、とか、林真理子が、とやたらと有名人の名前を口にする。そんな人たちのやったことを知っていれば、自分もそうなれるとでもいうのか。みのりは太宰治ではないけれど、彼女の近くに行き、肩でも軽く叩いて「ワザ。ワザ」と一度言ってやりたかった。  求人票には、よく知っている会社もあったし、全然知らない会社もあった。有名だからといって、お給料がいいわけでもなかった。地味な漢字の名前の会社で、土曜日も出勤でお給料も少しの所もある。よくわからないのは、聞いたこともない会社で、週休二日、そしてお給料も良くて、ボーナスも八カ月とか十カ月出るという会社だ。業種・職種の欄には「製造・販売」と書いてあって、女性社員の平均年齢が二十六・五歳となっていた。どういう会社なのかよくわからないけれど、結局長くは働けない会社なのだろう。この会社のファイルは、学生に何度も手にされたのか、角が少し切れていた。  やり甲斐のある仕事がしたいの。多くの子たちが、そう口にしていた。つい最近まで、ただ机に坐って勉強していただけの人間に、最初から、重要な仕事ができるとは思えない。やり甲斐があるかどうか、それは自分の心の問題ではないか、とも思う。ただ、分別臭くなり過ぎる自分自身も、みのりは好きではない。  お金を稼ぐのであれば、できたらいい仕事でお金をもらいたい、とは思った。ひどいことではお金をもらいたくない。でもそのひどいことというのは、一体何なのかよくわからなかったが。  学生のなかには、就職を考えなくてもいい子たちもいた。働く必要がない家の子たちだ。きれいな髪と、手入れのいい指先をしている。そういう子たちは、四年制の大学へ編入するために勉強をする。大学へ入ったら、留学をするか、大学院に進む。働かないために、ずっと学校へ行くのだ。でも、一生学校に通うわけにもいかない。そのうち、学生であることをやめたくなれば、すぐに結婚する。結婚する相手もお金持で、彼女のめんどうをみるのが父親から、旦那さんへと引き継がれるような結婚だ。そういう場合、就職しなかったことは「すれたところがないから」と喜ばれる。  なかには、就職を希望するいい家の子もいる。社会勉強のために働くのだと言う。一度働いてみないと、旦那さんになる人の苦労がわからないから、というのが理由だ。そういう子たちは、仕事につくことを就職と呼ばずに、お勤めと呼んでいた。腰かけ、なんて彼女たちを笑う人もいるけれど、現実に腰かけしか必要としない会社もあるのだ。  だから、よく目を凝らして探さなくちゃ。そこが、長く働いてもいい会社なのかどうか。そして長く働ける会社なのかどうか。  絶対大丈夫、と伯母が言っていたのに、みのりは化粧品会社の入社試験に落ちた。筆記試験はせずに、一回の面接だけだった。なぜここの会社に入りたいのか、入ったら何をしたいか。その二つを訊かれた。  伯母が勤めているので、親近感があったこと。お化粧をする人は、これから先、五十代、六十代の人も増えると思うので、年齢が上の人の役に立つ仕事をしたい。みのりは、夏の暑い日、紺色のスーツを着てそう答えた。  伯母が言うことには、どうも試験は形式的にしただけで、本当は採用する子はもう決まっていたらしい。でも、面接をした人からは、鈴木みのりさんは、はきはきしていてとても良かったと、名前を出して言ってくれたのよ、伯母はそう言った。それは、本当かもしれないし、そうじゃないかもしれない。  落ちてしまえば、そこの会社で働きたかったのかどうか、もうみのりにはわからなかった。案外良かったかもしれない。伯母は優しい人だけれど、自分もそこの会社に向いているかどうかは別な気がするからだ。それに、自分のこれから先を決めることに、親戚の手を借りるなんて、最初からこぢんまりしてしまうではないか。  みのりは、小さい時から、みいちゃん、みいちゃんと呼ばれて大きくなった。あの小さかったみいちゃんが大きくなって、お勤めをする。その後はお嫁に行くのね。  父も母も、伯母もそう思っているに違いない。  きっとそれは本当のことで、間違ってはいない。でも、みのりには、そうやって簡単に想像がついてしまう、自分のこれからが頭にくる。勝手に想像するな、そして、その通りになるな、と言いたい。呪文《じゆもん》を唱えて自由になることはできないのだろうか。わたしは結局、いつも親が思っていることしかできないのか。娘であるということ以上には、決してなれない自分にいらつく。  そんなことから出ていくのだとしたら、それはきっと今しかない。  みのりの父は、普通のサラリーマンだが、母が陰でこっそり悪く言うほど「中小企業だから」とか「お給料がやっぱり安い」などとは思ったことがない。家には、娘が二人いるだけだからか、父は仕事の話をすることもない。  母は野心はあるけれど、主婦だった。いつも「本当は、わたしは……」と言って、かつて一度は抱いた夢を、長女のみのりに言うのだった。 「本当は、わたしは頭が良かったから、もっと上の学校へ行きたかった。勉強がしたくても『女は勉強はしなくてもいい』って、あの時代はそんなものだったから、学校にもやらせてもらえなかった。お前たちは、しあわせだね。好きなだけ勉強していいんだから」 「本当は、わたしは栄養士になりたかった。なんでならなかったんだろう」  みのりは、同じパターンで「洋裁の先生になりたかった」と母が言うのも聞いた。  母は、みのりがうらやましいのだろう。高校を受験する時も、まるで母が通う学校を決めるような勢いだった。  みのりが大学受験に失敗した時、短大に通いながら翌年受けなおせばいいと言ったのも母だった。母は、自分の代わりに娘を大学を出た女にしたかったのだ。  みのりは、大学でも短大でも、どちらでも構わなかった。ただ大学へ受かれば母が喜ぶし、もう受験勉強をしなくて済むと思った。母ががっかりすれば悪いと思うし、喜べば嬉しいと思う。心に自動的にスイッチが入ってしまっている。でも、そのスイッチを入れたのは母なのだろうか、みのりなのだろうか。そのスイッチは永遠に入ったままなのだろうか。  母は、みのりがうらやましいのではない。母は、みのりになりたいのだ。それがはっきりわかったのは、就職先を決める時だった。  短大は、神奈川の山の中にあって、自宅からは三時間かかる。とても通える距離ではないので、みのりは学校の敷地内にある食事付きの寮に入ることにした。もう一度大学を受験する娘にとって、日々の負担が減るし、ここだったら生活も乱れないだろうと母は考えたのだ。  結局二度大学受験に失敗し、そのまま短大を出て就職することをみのりは選んだ。両親は伯母の持ってきた就職話が流れたことに、みのりがびっくりするほどがっかりした。  わたしという人間は、誰かのコネ無しではやっていけないとでもいうのか。やっと素手で好きなものを手に入れようと、張り切っているのに。  母は毎日、電話と手紙で「とにかく商社に入るように」と言ってくる。その理由は、商社には有名な大学を出た男の人たちが多いからだ。その人たちに見初《みそ》めてもらえばいい、旦那さんが海外に転勤することになれば、せっかく勉強した英語が生かせるじゃないの。  母が考える就職とは、こういうことでしかないのだ。見初めてもらうために会社を選ぶなんて、そんな魂胆、恥しい。父以外の男をつかまえ、もう一度自分の人生をやり直したいのは母ではないか。お母さん、わたしに乗り移らないでよ。お母さんは、お母さん。わたしは、わたしなの。わたしは、お母さんみたいになりたくないの。だから就職するんじゃないの。全然わかってない。  母は、みのりが子供の頃からよく言ったものだ。お母さんの言う通りにしていたら間違いないの。お母さんは、お前がどこで失敗するか、今からちゃんとわかっているんだよ。だから、こうして言ってやっているんだよ。そう言われるのが、何よりも嫌だった。おそろしかった。お母さんの言う通りにしていたら、わたしは何も考えなくてもいい人になるじゃないの。いつも、お母さんの言うことをきいていたら、お母さんが死んでいなくなった後、困るじゃないの。  中学生になる前、六年間ずっと続けていたバレエ教室をやめた。中学校に行くと勉強が大変だから、と母が言ったのだ。確かに、わたしは教室のなかで一番踊りは下手だったけれど、バレエは好きだったのだ。大人になったらやればいいじゃないの、と母に言われ、それもそうかと思った。  高校を受験する時、母はみのりに、東京の高校を受験してはいけない、と言った。地元の千葉の公立高校以外にも、すべり止めを受けなくてはならないのに。東京の学校に行くと不良になるからいけない、と母は言った。みのりは、埼玉のミッション系の学校を受けた。そこは、英語の教育に熱心なことでよく知られていた。不良になる、ということを母は一番おそれていた。たぶん、みのりの体の中には、不良になる種が埋まっていて、それが母からはよく見えていたのだろう。映画を見ると不良になる。母はそう言っていたから、みのりが映画館に行くようになったのは、短大を卒業してからだった。  みのりが、地元の進学校に合格した時、母は喜んだ。みのりも嬉しかったけれど、受かったから嬉しかったのか、母が喜ぶから嬉しかったのか、わからなかった。  いつまでたっても、自分の意志で、自分の行く先を決められない。大学を落ち、浪人することもなく短大に入ることにした、みのり。物事を決める時、自分の気持を基準にして決めることができない。自分の判断に自信が持てない。そんな自分は、本当に「自分」なのだろうか。考え事をする時、いつもこっそり自分の中に「母」が流れ込んでいることに気が付く。わたしは、わたし。そうは言っても、本当はこわくてたまらなかった。  商社になんて就職したくない、銀行にも行かない、わたしは出版社を受ける。みのりがそう電話で言った時、母は、お前は気でも違ったのと言った。  みのりの短大には、ある出版社の学校推薦枠が二名分あって、まだ誰も応募していないことに気が付いたのだ。その出版社が、指定した短大の学生だけが、受験することができる。  マスコミの試験は難しい。受かるわけがない。みんな最初からそう思っているから、誰も推薦枠に応募しないし、スチュワーデスにばかりなりたがるここの学生には、あまり価値がなかったのだ。  そこの会社の雑誌は、みのりのような女を相手にしているとは思えない。名前は知っているけれど父が読んでいるなぁ、というぐらいでしかなかった。  みのりだって受かるとは思わなかった。いつか結婚して、自分の夫となった男がこの会社の雑誌を買ってきたら、その時、言えばいい。 「わたし、この雑誌を出している会社の試験を受けたことがあるの。でも落ちたのよ」  そのぐらいでいい。平凡で、華やかなことは何もない自分の暮らしで一度でもいい、この誰でも知っている出版社の名前を口にしてもいいではないか。みのりは、ただそう思っただけだった。  それに、落ちて当り前の試験は、落ちても恥しくないのだから、やっぱり受けようと、思ったのだ。  母は、一度も応援しなかった。絶対、落ちる。落ちたらどうするのか、と何度も言った。落ちても、どこかに仕事はきっとある。でも、それは母に言わせれば、「小さく」て「お給料も悪く」て、「よくない仕事」らしい。母は、自分が聞いたことのない会社は、みんな「よくない会社」と言った。  その出版社に入れなかったら、みのりは二つ、応募する先を考えていた。一つは、競艇の選手。もう一つは、ハンブルクに数年赴任する家族が求人を出していた、ベビーシッターだった。外国に住める。個室をもらえる。日曜日は仕事は休み。もちろんお給料をもらえて、家事をする必要はなく、子供の世話だけでいい。これにはかなり心を動かされた。  帰国後はどうするかとか、その家族との人間関係はうまくいくのかとか、子供の世話はできるのかとか、そんなことはみのりには、どうでもよかった。母が言う、商社に行って見初めてもらうということ以外だったら、何でもやる、まるで反対のことをしてやりたいと思っていたのだ。  競艇の選手に、カトリックの短大の卒業生がなったら面白いと思った。みのりは、高校時代、陸上部だったし、勝負事は好きだ。精進していい選手になろう。若い時に、うんと稼げばいい。求人票にあった賞金の額を思った。活躍したら、落ちるだろうあの出版社が取材にくるかもしれないな。  みのりがハンブルクで子守りをしなかったのも、競艇の選手にならなかったのも、筆記試験の前日に『時代屋の女房』を読んでいたからと、最終面接で涙ぐんだからだった。  筆記試験は、表参道にある大学を借りて行なわれた。受験生の多くは、「こんなにたくさんいて、一体誰が受かるというのだろう」という顔つきだった。ごくほんの少しの学生が、「わたしはきっと受かる」という顔で、他の受験生を品定めでもするようにいちいち見ていた。  その女は、みのりの短大にいたような「個性ちゃん」とは違っていた。連れと一緒に坐って、大声で(聞きたくもないのに)話をしている内容からすると、マスコミ研究会というクラブに入っているらしい。この出版社だけではなく、もう別な会社の試験も受けたようで、面接の日程まで口にしていた。  こんな話をすれば、他の学生が動揺するとでも思うのだろうか。それも、マスコミ研究会で身につけた術《すべ》なのだろうか。多くの子たちが、紺色の普通のどう工夫してもパッとしないスーツなのに、その「自信ちゃん」は上着は着ずに、花柄の(きっと、ブランド物だろう。みのりにはわからない)スカーフを白のブラウスの首にまいていた。  紺色のスーツの子たちは、ちらちらと自信ちゃんを盗み見する。あの人、あんなことを言ってる。あの人、あんな恰好している。あの人、髪の毛、長くしたまま。なんで。きっとみんなそう思っているのだろう。みのりは、この手の女が、おかしくてたまらない。 「おたくさ、ここと、あとはどこを受けているの」  自信ちゃんは一体どうしたことか、ななめ後ろに坐っていたみのりに声を掛けてきた。それでも、最初、自分がおたく、と呼ばれたことがみのりにはわからなかった。みのりのまわりには、そういう言葉を使う人がいなかったし、みのりの学校はとても小さくて、すれ違う者同士、みな顔見知りだったからだ。 「わたしのことですか」 「そうだよ。その黒いおリボンをしているおたくだよ」  これはおリボンじゃなくて、カチューシャだし、この女は、おじさんのような口のきき方をすると、みのりは思った。 「わたし、他はどこも受けていないの」 「うわぁ、強気だなぁ、じゃあ、自信があるんだ」 「そんなことはないけど、受けたかったの」 「それじゃあ、記念受験っていうわけ?」  自信ちゃんは笑って言った。その顔を見ていたらああ、そうか、何もかも本当のことを他人に言わなくてもいいんだと、大発見のようにひらめいた。こんな失礼なことを平気で言う女に、わたしのことを教えてやらなくてもいい。  自信ちゃんをよく見れば、わたしよりも五キロは体重がありそうだし、紺色の透明なストッキングから見えている脚には、わたしにはない長い毛が生えていた。この女は、自信満々になる前に、まずこの無駄毛を始末したほうがいい。付き合っている男の子もいないんだろうな。寮にいる女の子たちは、木曜日や金曜日にはいつも無駄毛の手入れをしていた。みのりにはそんな毛は生えていなかったし、付き合っている男の子もいなかった。  みのりは、自信ちゃんの目の前に自分の脚をまっすぐに伸ばし、腕も伸ばして、伸びをする振りをした。自信ちゃんは、みのりの脚を見たことだろう。 「記念受験なんかじゃないよ。ここの雑誌、好きだもの。自分が読んでいる雑誌の会社で働けるなんて嬉しいと思ったから」 「そうだよね。ここの面接じゃ、ずいぶん会社の雑誌や本のこと訊かれるらしいしさ。マスコミだったらどこでもいいやっていうような子は、すぐに見破られるらしいよ」  自信ちゃんは、まわりに聞かせるために、わざとそんなことを言う。自信ちゃんの鼻の下には、割と大きいホクロがあって、ハナクソみたいに見える。 「あなたは、どこを受験したの?」  きっと訊いて欲しいんだろうな。訊いてあげたからって、損をするわけじゃないし。 「マスコミばっかりだよ。テレビ局も受けたし、代理店もね。柔らかいところばっかり。そういうところのほうが気軽だしね。いろんな人に会えそうだし、何がチャンスになるかわからないじゃない」 「チャンス?」 「自分を生かすチャンスだよ」  ふーん、あなたのチャンスって有名な会社に入らないとだめなんだ、と一瞬思ったけれど、何もそんな本当のこと、他人に言う必要もない。 「髪の毛、細そうだね」  自信ちゃんが振ってきた。 「うん、猫毛なの」 「赤いね」 「そうなの、地毛なんだけど」 「大丈夫なの、染めてるみたいに見えるよ」  自信ちゃん、わたしはこんなことには負けないんだよ。 「ああ、あまり気にしたことがなかったけど。それじゃあ面接の最初に、この毛は染めてませんって言おうかなあ」 「そんなこと言わないほうがいいよ」  言うわけないじゃない。 「うん、ありがとう。あなた、初めて会ったのに優しいのね」 「そうでもないよ。じゃあ、筆記試験がんばろうよ」 「ありがとう、がんばるね」  みのりは自信ちゃんには「一緒にがんばろう」とは言わなかった。  一般教養と呼ばれる出版社の試験は、確かに変わっていた。紙に言葉が、ぽつんぽつんと十個ぐらい書いてあって「これらについて知っていることを全て書け」とあった。  わかるものもあったし、わからないものもあった。化学物質の隣に書かれた女の名前はその年にずいぶん活躍した女優の名前だった。その映画は、実際には見に行かなかったけれど、天晴《あつぱ》れな脱ぎっぷりばかりが話題になった。でも、元々は確かバレリーナで、外国にも留学したはずだった。結局、腰を痛めてバレエはやめ、女優になったのだ。そのことを出演したラジオ番組で言われて(本当はその話題に触れない、という約束だったらしい)、オン・エア中ずっと黙っていた。みのりは、それも面白くて、よく名前を覚えていた。「胸が大きいばかりではない」ときちんと書いた。  この女優の隣に書いてあったのが、『時代屋の女房』だった。この本は、きのう読み終ったばかりだからいくらでも書ける。映画になったこと、その映画の監督と主役の俳優と女優の名前も。そして、そのお店が実際にある町の名前も書くことができる。  あとは、漢字の問題だ。桝目が印刷されていて「ショクと読む漢字を知っているだけ書け」と書いてある。 「牛若丸とかけて、できの良い部下を持った上司ととく、そのこころは」なんていう、ふざけたような問いもあった。「師匠は天狗」と書いたけれど、こういう問題で一体自分の何を調べているのか、みのりにはわからなかった。きっちりした答えが見つからない問題を突き付けられて、こんなことに対策なんて立てられないと思うしかなかった。  ある程度の時間が過ぎたら、解答用紙を提出して部屋を出てもよかった。がたがたと音をたてて椅子を引き、出ていく子もいた。  みのりは、最後まで坐ってともかく、一字でも多く書こうと思った。ななめ前の自信ちゃんが、白い大きな背中を丸めて書いているのを見ていると、もったいなくて途中で席を立とうという気は起らなかった。  思いがけず筆記試験に通り、次の面接試験の日程が電報で届いた。良かった、嬉しい、というよりも、えっ、あれで一体何点になったのだろうと思った。  面接会場は、会社だった。筆記試験の時には、大学の教室にあんなにたくさん人がいたのに、面接に来ているのは二十人もいなかった。意外なことにというか、自信ちゃんもちゃんと選ばれていて、みのりの顔を見ると笑った。相変わらず首にはスカーフをまいて、他の子とは違う恰好をしていた。自信ちゃんの隣の椅子は空いていた。偉い人が使う部屋なのだろう、茶色のカーペットはふかふかしている。他の子たちは前を向いて黙って坐っていたり、面接対策のためなのかこの会社の雑誌を読んでいた。 「ここに坐ったら」  自信ちゃんが、空いている椅子を軽く叩いて言う。嫌だけど、そこに坐っても構わない。 「うん」 「会えたね、やっぱり」 「本当にね。こんなに減っちゃうのね。びっくりした」  みのりは小さい声で言った。 「おたくさ、このうち何人が残るか知ってる?」 「知らないわ。求人には若干名ってあったけど」 「今年は三人だね」 「どうしてわかるの」 「去年、ここはね男子四人、女子の短大卒も四人とったの。で、今年の男子の採用は三人らしいから、女子も三人」 「なんで男子のことを知っているの」  この部屋には女の子しかいない。それに、男子の採用がもう終っていることも、みのりは知らなかった。この会話を今耳にしている他の子たちも、きっと知らないだろう。それにしても、三人なのか。 「うん、ちょっとね。わたしたちには情報網があるから」  この子は、いつでもどこでも自分をひけらかすのが好きなのだ。この日は、ストッキングの脚に長い毛はなかった。 「もう他の出版社は試験が終ってるの。ここが一番遅いんだよ。わたし、他のところも受かったけど、ここが本命だから蹴ってきた」 「ふーん、そうなの」  それも、本当なのかどうなのかわからないじゃない。それに、受験しているだけなのに、この会社のことを「ここ」なんて呼んでいいのだろうか。  面接の前に作文を書かされた。題は「おふくろの味」だ。あー、こういう題の作文って嫌だ。きっと煮豆とか、きんぴらとか、肉じゃがって書くんだろうなぁ、本当は。そういう決まりきったことが一番嫌いなの、と、みのりは「前の晩のおでんの、残り汁をおじやにしたもの」について、原稿用紙に五枚書いた。この日の朝に食べたものだった。  寮から直接、面接会場に行くよりも、前の晩、家に戻り、そこから都内に出たほうが遅刻しないで済む。みのりはそう考えたのだ。  面接は二人一組で部屋の中に入る。自信ちゃんより先にみのりは名前を呼ばれ、そしてもう一人、髪の短い水泳部にいそうな女の子が名を呼ばれ、はいと返事をし、椅子から立った。みのりは、その子を見た。その子もみのりを見て、にこっと笑った。  みのりの方がドアに近かったので、ノックしてドアを開け、おじぎをし、もう一人の子のためにドアをおさえた。部屋のまん中に椅子が二つ置いてあり、その向こうに面接をする人が三人坐っている。みのりたち二人は椅子の前に立ったままだ。「どうぞ」と言われる前に坐ってはいけないと、面接の本には書いてある。  三人の面接官は、じろじろと見ている。こういう時は、一体どうすればいいのか、みのりは今、自分は緊張している、と思う。 「あっ、どうぞ坐って下さい」  まん中の、肩幅が広くて色の黒い、坊主頭の人が言った。その人は黄色の地に墨が飛んだような柄のネクタイをしていた。 「君は『鼻声で歌へ君が代』って、書いたんだね」  えっ、それは「裏声」じゃないの、有名な本。 「ええ、すみません」  みのりの隣の子が答える。 「あんまり、本を読まないの?」 「読みますけれど、この本は読みませんでした」  三人の面接官は、あっはっは、と笑い、いやぁ、最近のお嬢さんは凄いなぁと、まん中の人が言った。何か自分たちに関する資料が配られているのだろう、書類を読みながら顔を見ている。 「佐藤さん、会社に入って結婚して、赤ちゃんが生まれたら、どうするの」 「はい、わたしは会社を辞めません。子供は実家の母に見てもらいます」  もうそんなことまで考えているの。すごい。みのりは前を向きながら、この隣の佐藤という子の言うことを聞いていた。 「おうちは板橋なんだね。ここから近いしね。みんなそう言うんだよ。でもね、それが辞めちゃうんだなぁ。残念ながら」  わたしにも何か訊いてくれないかな、志望理由とか、好きな作家は、とか。 「鈴木みのりさんは」  と、まん中の人がやっとわたしに何か訊いてくれる。みのりは、その人を見た。 「英語科なんだね」 「はい」 「でも、この会社、英語は使わないよ」 「はい」 「はいって、それでいいの、君は」 「はい。構いません」  質問はそれだけだった。じゃあ、ごくろうさま。そう言われて、ドアを開けおじぎをして部屋を出た。何、今の。何も訊かれなかった。あんなこと言われて。どう答えるのが良かったんだろう。佐藤という子は、入社後のことまで訊かれていたのに。わたしは、役に立たないようなことを言われて。もうだめだろう。椅子に坐ったまま、足元に置いてあった紙袋を手で、たぐり寄せた。  その時、「大和田さん」と次の人が呼ばれ、隣の自信ちゃんが元気よく「はい」と返事をし、部屋に入っていった。でも、そんなこと、みのりにはもう、どうでもよかった。  それでも最終面接の日時を知らせる電報が届いたのは、一体どういうことだったのか。みのりはあの面接の後、寮の子たちにずいぶん同情されたのだ。  二人いたのに、みのりには何も訊いてくれなかったんでしょう。かわいそうだけど、もう見込みがないんだよ。あきらめたほうがいいよ。まだこれから間に合う求人を探したほうがいいよ。筆記試験に受かっただけでも運が良かったんだよ。  みのりは、うんうんと聞いていたけれど、最後の運のところは、そんなことは他人のあんたに言われたくないよ、と思った。  この寮は修道院が運営していて、一年生と二年生がそれぞれ五十人ずついる。二年生の多くは、地元に戻り就職する。東京に残る子は、それほど多くない。寮を出て東京でアパートに住むと、せっかく就職してもほとんどお金が残らない。親のほうも、車を買ってやるから帰ってこいと言うらしい。早くに内定をもらった子たちは、ここでの生活——親はいないし、新宿に出るには二時間かかるけれど、とりあえず東京に近いとは言えるこの場所——に、未練を残さないようにせっせと忙しくしていた。  就職先が決まっていないのはみのりぐらいなもので、あとは年明けに大学の編入試験を受ける子が三人いるだけだった。  親元を離れているから、その分しっかりするようになるし、お互いに親の役割をしていたところもある。突然という感じで、最終面接の日時を知らせる電報がきた。寮の子たちは、一週間前にあきらめなよと言った同じ口で、良かった良かった、受かっていたんだねえ、と、みのりを励ました。  あの面接で、三人の面接官はみのりの何を見ていたのだろうか。 「わたしの話も訊いて下さい」  などと、言わなかったことが良かったのか、ドアを佐藤さんのためにおさえていたことが良かったのか、何も訊かれなくても平気で前を向いていたことか。  みのりは、自分がたった今、神様に作ってもらったばかりの小さな虫になったような気がしていた。自分の姿は何も知らない。おそるおそる手を足を見、ほんの少し動かしてみる。自分がどんな生き物なのかも、わからない。でも、わかったところで一体何だというのか。自分の自信なんて、実は全然必要ないのかもしれない。自分以外の人が、これでいいのだと決めてくれたら、もうそれで十分なのではないか。みのりの頭はいつもひまだから、自分のことばかりつい考え過ぎる。でも、その頭も実はあまりあてにはならないのではないか。大袈裟なような気もするけれど、あの面接に通ったことで、みのりは自分の頭から、少し離れてみようとやっと思えたのだ。自分が決めたこと以外のことも、現実にこうして起るのだから。  そう自分の部屋で思ったら(この寮は、個室だ。部屋には作りつけの本棚、部屋のすみを利用した三角の机と、かたい椅子。ベッド、戸棚がコンパクトにおさまっている。あまりにもコンパクト過ぎて狭いホテルのようにも、牢屋《ろうや》のようにも感じる。その感じ方の違いは、その日の気分と出来事で決まる。どの部屋もベッドの上にはマリア様の絵が貼ってあって、百部屋あるうちの一部屋のマリア様だけ裏に血だらけのマリア様が描かれている、と意地悪な二年生は、一度は一年生に話をする)、むくむくと楽しい気持がわき起り、次の面接には一体どんなことがあるのか、何を訊かれるのか、あの意地悪を言った面接官は何をしているのか、たった一度だけ行ったあの会社のピカピカと輝く黒いビルを思った。わたしはもう一度あそこに行けるのだ。あそこで働き、本を作っている人たちに話をしてもらえるのだ。みのりは、ベッドの中で、うーんと力いっぱい伸びをした。  最終の面接の場に自信ちゃんはもういなかった。佐藤さんもいない。来ていたのはみのりも入れて五人だった。五人。若干名というのは何人なのか。四捨五入でいけば、四人よりも少なくなければ、若干という気がしない。やはり自信ちゃんが言っていたように、今年は三人採用されるのか。他の子の顔を見れば、どの子も自分とは全然違う気がする。そうだ考え事をしない訓練をしよう。みのりは他の子を見ないように、自分の指ばかり見ていた。  面接の前に、また作文を書かされた。今度の題は「一冊の本」だった。  ふーん、出版社らしい作文を出すな、とみのりは思った。この題を出すということは、自分がこれまで読んできて一番好きな本や感動した本のことを書けということだ。それはみのりにだってわかることだ。何だったっけ、それは。子供の頃に読んで一番良かったのは『赤毛のアン』だった。あの本は良かった。四歳ぐらいの時に読んだ幼年版のさし絵だって、今でも覚えている。アンの面白いところはいつでも想像していることだ。あの本で想像力という言葉も覚えたのだ。  でも、この入社試験で本を一冊ほめたたえて何になるのだ。みのりは方針を決めた。『赤毛のアン』のことは書かない。まして、自分を立派に見せるための嘘の「一冊の本」のことも書かない。たった今、ひらめいたばかりの本のことを書こう。  みのりは書いた。「一冊の本。その本は、ここにはない。なぜならこれからわたしが書くからだ」  みのりは本を書こうなんて思ったことは一度もない。でもこの瞬間、ほめちぎりの作文を書くのが嫌で、そう書いた。もういいのだここまで来たのだから。最後までやりたいようにやってみよう。  面接は、もちろん一人ずつ部屋に入る。名前を呼ばれ「はい」と返事をして、ドアを三回ノックして開け、おじぎをしながら部屋に入って、顔を上げる。そこには、大きな窓を背に、ゆるいカーブ状に十人ぐらいの男の人が坐っていた。椅子にどっかり坐り、逆光になっているから、みんな黒い岩のかたまりに見える。この間の人たちとは感じが全然違う。一番偉い人たちなんだ。その人たちの前に、みのりが坐るための椅子がポツンと置いてある。みのりは知らない人の前に、本当に一人だった。 「どうぞ坐って下さい」 「はい。失礼します」 「鈴木みのりさん、あなたはなんでこの会社で働きたいの。出版社なら他にもあるでしょう」 「はい、ここは女性誌を出していないからです」  そう答えると、大きな岩は少しざわつき、今質問した人とは違う人が、 「なんで女性誌は嫌なの」  と、言った。 「どの会社のもみんな同じに見えるからです。出てくる人も同じです」 「でも、この会社だって出すかもしれませんよ」 「そうしたら、他のとは違うものを出したらいいと思います」 「あなたに、それができるの」 「それはわからないのですけれど、一生懸命考えます」 「そう、じゃあ考えてみてね」  ひとつの岩が笑うと、他の岩も笑った。 「鈴木さん、これで面接は終ります。最後に言いたいことはありますか」 「はい」  みのりは、しっかり前を向いた。正面に坐っている白髪の音楽家みたいな人の顔をまともに見た。 「わたしは、この会社にどうしても入りたくて、この会社しか受けていません。運が良くて、思いがけず最後の面接にまで残りました。もし落ちてしまっても、わたしはそれをありがたいことだと思っています。どうもありがとうございました」  そう言っておじぎをした時、一体どうしたことだろう涙が出そうになった。全部は本当じゃないのに。でも言ってしまえば本当のような気もする。  だから合格を知らせる電報がきた時、みのりは、わたしはあの会社で一生懸命働こう。わたしを信じて入れてくれたのだから、と思ったのだ。  とんとんとんと地下鉄の階段を上がって、みのりは大急ぎで左手の角を曲り、坂を下っていく。八時半には会社の鍵を受け取って扉を開けなくてはならない。四人いる受付のうち八時半から始まる早番は、今のところ新人のみのりの仕事なのだ。  採用されたのは、男子・女子それぞれ二名ずつで、三月末の研修の時に初めて会った。伊藤春子はお化粧気のない、少し色黒な丸い顔でみのりを見ると、にっこりした。面接の時にも、もちろん会場にいたのだろう。けれどみのりは覚えていなかった。うわぁ、この人もあの試験に通った人なんだ。すごいなぁ。すごいけれど、見た目は全然すごくないなぁ、と思った。 「こんにちは」 「こんにちは、わたし、鈴木みのりっていうの」 「わたしは、伊藤春子。よろしくね。お互いよく受かったねぇ」 「本当にねぇ。とっても嬉しい」  先に部屋に来ていた男の子二人は、黙って椅子に坐っていた。みのりは、井上純一という人は、どっちの人だろうと思った。前もって送られてきた採用者一覧には、名前と学校名が書いてあり、井上純一は東大の学生だった。  東大。すごいねぇ、本当に東大の人っているんだ。みのりは出たことはなかったけれど、みのりの学校の子たちは、東大生とのコンパとなると、うんとおしゃれをして出掛けていった。他の大学とのコンパと力の入れ方が違っていた。 「今日のコンパ、どこ?」 「東大!」 「それはすごい!」  女の子たちは別に真剣に東大の人と、お付き合いしたいと思っていたわけでもないだろう。それは、芸能人に会うのに似た興奮があったのだ。東大は、誰でも知っている。うんと頭のいい人が行く大学だ。そこに行っている人は一体どんな人だろう。どんな顔をしているのだろう、何を話すのだろう、やっぱりむずかしいことが好きなのかな。それとも面白いことも言うのだろうか。それをこの目で確かめたい。女の子たちは、押しかけるような勢いでコンパに行って、翌日は「どうだった」と訊けば、必ず「うん、普通だった」と答えて、そして笑う。  考えてみれば、みのりは生まれてから一度も東大生を見たことがなかった。東大の人って、むずかしいことを考えても短時間で答えがわかるんだろうか。短大卒の自分とは、頭の仕組みがどう違うんだろう。すごいな、東大だって。今、同じ部屋にそういう人が椅子に坐っていて、息をしているのかと思うと、みのりにはおかしくてたまらない。一体どっちの人だろう。二人とも利口そうに見える。  みのりは伊藤春子の隣に坐った。 「伊藤さん、あのさ試験、難しかったね」 「難しかったね。わたし、受かると思わなかったよ」  伊藤春子の口は小さい。唇の端が切れている。 「わたしはね、面接が嫌だった。最初の時、わたしのこと、何も訊いてくれなくて、もう落ちたと思ったよ」  伊藤春子は笑った。 「わたしも、ひどいことを言われたよ。わたし、少しアトピーがあるの。だから、あんまりお化粧もできないし、指もね、切れるの」  ほら、とみのりの前に出した手には、ばんそう膏が巻いてあった。 「日によって違うんだけどね、それを言ったら『そんなので、仕事はできるんですか』って言われたの。あれには驚いたよ」 「そう。かわいそうだったね。で、その時何て答えたの?」 「一生懸命働きますって言ったよ」 「そうだよ。一生懸命働こうよ」  それは一体どうすることかわからなかったけれど、とにかくそうしなければいけないと思った。  ドアがノックされ、時間になりました、移動します、と人事部の人が言った。学校の先生のような女の人についてエレベーターに乗り、五階にある役員室に行く。このフロアーは、他の階よりも明りを少し落してある。最終面接に来たのも、このフロアーだった。みのりたち四人が立っていると、奥から小柄な人が出てきた。年をとった浦島太郎は、きっとこうであっただろうと思える、昔風の顔だ。 「あっ、今度の新人さんね。今日から研修ごくろうさま。そうそう、このなかでね、本を書くと作文に書いた娘さんは誰?」  みのりが書いた「一冊の本」のことだ。 「はい、わたしです」  みのりがそう言うと、他の三人はみのりをちょっと見た。 「そう、あんたなの。やってごらんなさい。どうせできないから」  それだけ言うと、浦島はすたすたとまた奥の部屋に戻って行った。  あー、ひどい意地悪を言うなぁ、あんな作文、放っておけばいいのにさ。大人じゃないなぁ、小娘の書いたことじゃない、むきになっちゃって。みのりは自分がそんな風に書いたことも、今、言われるまで忘れていたのだ。 「鈴木さん、今のはねぇ」と人事部の人が笑って言う。「あの人、社長よ」  えっ。社長さん。どうしよう。 「あの人、いつもああなの。だからあんまり気にしなくて大丈夫よ」  それでは、社内を案内します、と言われ、新人四人はぞろぞろ階段を降りて行ったが、みのりは今言われたことばかり気になり、全然心は晴れなかった。 [#改ページ]      2  みのりは、八時二十七分には通用口の守衛さんから鍵を受け取り、引き換えに「鍵受け渡し表」の「一階」の部分に、「鈴木※[#○に「み」]」と青いボールペンでサインする。表には一階から七階までサインする欄があり、大抵、みのりが一番乗りの出社だ。日によって、二階の欄に守衛さんの右上がりの字で「週刊・校了」と書かれている。これは、週刊誌の締切り作業で夜通し作業をしていて、編集部の錠は開いている、ということを意味する。三階には月刊誌編集部があり、総合誌と文芸誌を作っている。月刊誌の校了は、月末から月初めにある。  守衛さんが渡してくれるその鍵は、ピアノの蓋を開ける鍵と同じ形をしていると思った。くすんだ金色の鍵を右手に、左肩には入社祝いに伯母から届いたHANAE MORIの黒い小さなショルダー・バッグをかけてみのりは、地下から一階へ上る階段を急ぐ。八時半には受付のシャッターを開けなければならない。階段を上って目の前に大きなガラスのドアがあり、錠はそのドアの一番下にある。かがんで開ければいいのだろうけれど、どうせこの時間は誰もいないのだ。みのりは、ぺったりと床にしゃがんで鍵をさし込む。この時、いつも左肩からバッグがどさっと、前に落ちる。  お財布って重くできている。バッグをもう一度肩に戻す時、みのりはいつも思う。なんで、このバッグはこんなに重いんだろう。たいしたものは入れていないのに。定期入れ、小銭入れ、お財布、手帳、ハンカチ、ティッシュ、化粧なおし用のコンパクト、そして口紅とリップクリーム。それでもうバッグは一杯で、文庫本を入れると、ぱんぱんだ。名刺入れは持っていない。受付には、自分の名刺を渡す相手がいないのだ。だから「総務部 鈴木みのり」と印刷された名刺は、一枚だけケースから抜かれ、あとの九十九枚はそのままロッカーに入っている。その一枚は、四月一日の夜、母に、ほらね、と渡した。  母はその名刺を手に取り、女の人にもこんな立派な名刺を作ってくれるのね、やっぱり出版社って意識が違う、と言った。  そうなんだろうか。  女だから名刺を作ってくれないなんて、そんな時代遅れなことって考えもつかなかった。会社に入ったんだもの、名刺を持つのは当り前のことだと、みのりは思っていた。けれど、実際に名刺を渡され、会社の名前と部署名と一緒に印刷された自分の名前を見た時、何だか自分が立派な人になったような気がした。この名刺だけをじっと見ていると、これまでずっと立派な人だったような気持さえわいてくる。これはこわいな、と思った。人に嘘をついているみたいだ。ああ、このことか、とも思った。  新人研修の初日に、みのりたちは言われた。 「君たちは、この会社に入ったからといって決して勘違いしないように。君たちは全然たいした人間ではないんです。会社の名刺を持っていれば、取引き先の方や、著者の方々、初めてお目にかかる方々も、きっと親切にして下さることでしょう。  それは、会社の名前に対して親切にして下さっているだけなんですよ。しかも、この会社の名前だって、先輩方が作って下さったもので、君たちはまだ会社のために何もしていない。それでも、給料は出るし、ボーナスも出る。いい気になってはいけないんですよ。会社に入れば、仕事が始まる。人間は愚かにできていて、まるで最初からここにいたような気になってくる。君たちは、会社の名前がなければ何もできない人間なんですよ。それを決して忘れてはいけない。ま、会社のなかには間違ってしまっている人間もいるけれど、みっともないだけです」  みのりたち四人の新人の顔をのぞき込むようにして、その人は言った。背の高いがっちりとしたその人と目が合った時、あっ、この人、面接の時に会った人だとみのりは思った。週刊誌の編集長だという五条さんは、日に焼けているのかそれとも地黒なのか、黒い黄金バットのようだった。  みのりは、名刺を使わない部署で、かえって良かったかもしれないと思った。五条さんのあの目を見て(みのりの働く会社では、上司をさん付けで呼ぶ。肩書きでは呼ばない)そんなみっともないことをするのは、きっと自分だと思い当ったからだ。  錠を開け、重いガラスの扉を押して中に入る。暗くしーんとしたフロアーの半分にだけ電気を点ける。一階には受付と広告部と営業部が入っている。  みのりは、この電気を点ける瞬間が好きだ。寝ているものを「起す」というよりも、むしろ「命を吹き込む」感じがする。みんなのデスクは、暗い光の中だと残骸に見える。全てがやり残しのまま置かれているようだ。それでも、みのりの点ける半分の光でも当ると景色が変わってくる。机だって、もう人を待っているように見えるのだ。受付に行く途中にあるコピー機のスイッチを入れる。ブィーンと鈍い音がして、小さな緑のランプが点き、次にはウィーンという音に変わり、ガシャガシャと機械も動き出す。  こんな時、死んだおばあちゃんだったら、「電気をくれてやる」って言うなぁ、とみのりは祖母を思った。毎年夏休みになると、団地のみのりの家にやってきて過ごした。いつもは、埼玉の伯父さんの家にいる。公園で遊んでいた小学生のみのりの髪を、いきなり後ろから掴み「きれいな毛だから、お金に困ったら売りなさい」と、こわい目で言ったおばあちゃん。母にそれを言うと「うちはずっと貧乏だったから、すぐにお金のことを思うんでしょう。かわいそうなばあさんだよ」と、自分の母親をそんな風に言った。祖母は夏の間、毎日、たまのれんの木のビーズを磨く。「やることがないから」と言って、汚れていない木の玉を布で拭いていた。かちゃかちゃ音をさせながら「みのりは、大きくなったらどんな子になるのかな。おれはきっと、見られないだろうな」と言う。  みのりはそれを聞くのが嫌だった。女なのに、おれ、なんて言うのは田舎っぽいし、みのりをじっと見る祖母の目が好きになれなかった。瞳のまわりに薄い色の輪が見える目だ。そんな目をしている人は、もうすぐ死んでしまいそうではないか。「ばかばか」と言いたくなる。優しくしてやれば良いことは、その時もわかっていた。  大宮の駅前で、炭を並べて売っていたのよ、と母は言った。あのおばあさんは、一度来たお客さんなら、その人が前に買った炭の名前を全部覚えていたのよ、だから記憶力がいいのはうちの家系だよ。そう言った後は、頭はいいんだからもっと勉強すればいいのに、と必ず続いた。  記憶力がいいことと、頭がいいことは違うのではないか、とみのりは思う。記憶力の良さは、ただの体の特徴に過ぎないのではないか。足が速い。手先が器用だ。歌がうまい。虫歯になりにくい。そんなことと同列で、物の考え方が深い、ということとは別だと思う。  こんな所に来ちゃって、なんだか、自分一人だけ、まるでバカみたいな気がする。その気持は、入社試験に受かってからずっとみのりの心の中にある。  たまたま知っていることが問題に出た。それについて覚えていることを、ただずるずると脳みそから引き出して書いた。それだけだったのに。本当に、ここにいていいのかな。自分のことを考えないようにとはするけれど、なかなかやめられない。  受付は考え事をしやすい職場なのだ。  八時三十分に、受付のシャッターを開ける。みのりたちが坐るカウンターの右端のスイッチを、ONにする。これは電話の交換台に通じていて、受付が出社したことを知らせる。椅子は二脚ある。椅子の下の赤いカーペットは縦長の楕円にすり切れて、灰色のPタイルが見えている。  一日に何度も椅子を引きますでしょう、もう何度も直したんですけれど、しょうがないんですの。恰好悪いんですけれど、でも、お客様からは見えませんからね。  みのりが受付に配属された日に、木島さんは恥しそうに、このカーペットの穴を説明した。ふーん、けもの道みたい。みのりはそう思った。  四月一日に、新入社員に配属先が伝えられる。みのりたち新人は、名前を黒いマジックで大きく書かれた名札を付けて、研修会場の会議室に坐っていた。研修中、まずするのは、この名札を付けるということだ。 「この名札は配属先でも四月中は、ずっと付けていて下さい」  人事部の人は言った。 「それでは配属先をお伝えします。井上さん、児玉さんは週刊に、伊藤さんは営業部、鈴木さんは受付です」  みんなは、それぞれの配属先に、はいと返事をし、そしてみのりが受付に決まったことを、きっと心の中で、ああ、やっぱりと思ったことだろう。みのりも、そう思った。なぜなら、前の日、社内を案内してもらっていた時、みのりたち新人が受付に着いた途端にカウンターに坐っていた女の人の顔が、ぱぁっと輝き、「鈴木みのりさんは、どなた?」と立ち上がったからだ。 「はい、わたしです」  紺色の就職活動用のスーツ姿のみのりは、ぺこんとおじぎをした(研修中は、毎日このスーツを着てブラウスだけ替えていた。研修は一週間だし、第一、みのりには他に「まともな」「きちんとした」服はなかったのだ)。  顔を上げて、にこにこ笑うその女の人をまっすぐ見た時、あっ、この人の顔、見たことある、えーと、どこだっけ。美術の教科書だ。歴史の教科書でも見た。何だっけ、手に珠《たま》を持って立っている人。そうだ、あれに似ている。それは、吉祥天立像《きつしようてんりゆうぞう》というのだと、その夜、みのりは家の百科事典の美術の巻を調べて知った。  何で、わたしの名前を受付の人が知っているんだろう。その答えは、もうわかっているのに、それでもみのりは考えた。何かで、もう有名になっちゃったのかな。本を書くって作文に書いたからかな? それとも試験の出来が良かったとか、悪かった、とかで?  みのりがじっとその人を見ていると、隣に坐っていた、セミ・ロングでぐるんぐるんにパーマのかかった若い女の人が、 「木島さん、もうだめですよ、そんなこと言っちゃあ」  と、笑いながら言った。  木島さんと言われた人は、慌てて急に真顔になり、 「あっ、ごめんなさいね。どうぞ研修を続けて下さいね」  と、言った。  研修は、この社内見学で終りなのに。 「じゃあ、あとは広告部と営業部だけですから行きましょう」  人事部の高木さんがちょっと笑ってそう言うと、受付の二人はみのりたちに、坐ったままおじぎをして見送った。  ああ、わたし、受付嬢になるんだ。だからあの女の人は、わたしのことを確かめたかったんだ。そうはっきりわかったから、広告部と営業部で説明を聞いても、もうどこか他人事だった。  四月一日、初出勤の日、みのりはBIGIの黒いワンピースを着ていた。もう研修は終ったんだもの、あのスーツの役目は終った。胸のところがVの字形にあき、ボタンがずっと下まで続くそのドレスは、みのりがこの日のために取っておいた服だ。黒地に赤や黄色のクレヨンで数字を落書きしたような、柄が入っている。  高木さんは配属先を告げ、それでは各部署にお連れします、と言った。  新人四人は立ち上がった。男の子二人は同じ部署で、しかも週刊誌だとわかったからか、これまでよりぐっと近しい感じで笑っている。みのりは、伊藤春子を見た。春子は、うん、と目でみのりに言ってうなずいた。  それぞれが手荷物を持ち、部屋を出ようとした。先に部屋を出て、みのりたちを連れて行こうとした高木さんは、くるりと振り返って言った。 「みなさんは、今日から配属先でお仕事するわけですけれど、忘れないで下さいね。同期って競争相手じゃないんですよ。何かあっても、最後は同期なんですから」  同期。わたしたち四人は同期っていうかたまりになったんだ。四人は一瞬お互いを見、少し笑って、そして前を向く。  井上純一と児玉善彦は、二十三歳と二十四歳で、二十歳のみのりと伊藤春子にしてみれば、ずいぶん大人という気がした。共学の公立高校卒業後、短大では寮生活をしたみのりには、本当に久し振りに側で見る、若い男の子だった。何を話していいのかわからないし、どう接したらいいのかわからない。研修中、口をきけないでいて、見ていることが多かった。  それでも澄ましているわけじゃない、もちろん敵意を持っているわけじゃない。何かで目が合えば、みのりは、にこっとする。  アイ・コンタクトだ。  オーラル・イングリッシュ(口頭英語)のシスター・コンセプションは、この言葉をよく使った(短大のこの授業は、一切日本語を使ってはならなかった。二人の先生はネイティブ・スピーカーで、日本語がわかるのに決して話さない。たまに反抗して日本語で受け答えをする学生は、もうそれだけで及第点を与えられない。生きた英語を学ぶどころか、生きた英語しか学べない授業)。相手の目を見て話すこと。それがどれだけ簡単ではないか、みのりはすぐにわかった。  日本人同士では、まともに相手の顔を見るということが、失礼になる場合だってある。日本人がじっと目を見て話すなんて、だいたい文句を言う時ぐらいではないか。  学生の多くは、最初は照れてしまい、上を向いたり下を向いたりして、英語を話す。そうすると、シスターは教壇から、にこにこ笑って降りてきて、その学生の前に立ち、耳元で、 "Hello! I'm here."  と大きな声で言って、自分に顔を向けさせる。そうされると、もう観念してやっとまっすぐシスターの目を見て話せる。シスターも、ずっと学生を見続けるわけだから、英会話には見つめ合う能力も必要だと、みのりは感じた。  もちろん、中には平気で堂々とシスターの目を見て話をする子もいる。そういう子たちは発音も普通ではなく、帰国子女か、とりわけ英語教育に熱心な私立の高校から来た子たちだった。  ぶすっとしているよりは、まあ、にこっとしていたほうがいい。でも、みのりに笑いかけられた井上純一と児玉善彦は、何だろう、と思ったことだろう。二人に笑いかけていたので、別に気を引くために笑ったわけではないことは、伝わっていたはずだ。  同期という言葉は、空豆を思わせる。しっとりとした白く、そして青臭い綿の上にじっと並ぶ緑の豆。豆の大きさも、形もそれぞれ違う。今、さやがパリっと大きく開けられ、豆は一粒一粒取り出され、外へ出て行く。同じさやに入っていた豆たちが、出発するのだ。  四人で階段を降り、二階で純一と善彦が「じゃあ、がんばれよ」と、みのりと春子に声を掛け、週刊誌の編集部へとガラス扉を押して入って行った。そして、高木さん、春子、みのりの順で階段を降りていく。みのりは、さっき高木さんが言ったことを思っていた。あれは、高木さんの気持から出た言葉ではないのか。今まで、研修中、高木さんは引率の先生のように新人に付いていた。きっと、ああいうことを言ってきかせるというのは、研修のプログラムにはなかったであろう。あれは、どんな意味だったのか。同じ編集部に配属された純一たちを思いやったのか。それとも、男の子たちは編集部、そして、みのりたち女の子は業務部、そのことについて、ひがむことではない、と言ってくれたのか。  みのりにしてみれば、ひがむなどという気持は全くなかった。もし、そう見えたとしても、それは間違いだ。編集という、むずかしくて大変そうな仕事を、自分がやれるわけがない。受付と言われて、むしろ、ほっとしたぐらいだった。受付の仕事をバカにしているわけではないけれど、自分にはそういう仕事が丁度良さそうだと思った。  春子はどうであったか。  研修の間、話をしてわかったことは、春子もやはりマスコミ志望の学生で、あの「自信ちゃん」と同じようにマスコミ研究会に入っていた。お父さんは、よく名前を聞く食品会社に勤め、四歳違うお姉さんは保険会社で働き、お母さんはうちにいる。春子の通った短大は、大学と同じ敷地にあって、交流もずいぶんあったらしい。研究会を通じて、その大学の子はもちろん、他の大学の人とも知り合いになって、みんなで沖縄に旅行にも行ったと言う。へぇー、楽しそうだね、それは。みのりがそう言うと、春子は丸い目で、じっと見て、鈴木さんは短大の時、何をしていたの? と訊いた。  みのりの短大は、神奈川の山の中にあった。聞いた話では、本当は系列の大学に医学部を作る予定だったけれど、それにはお金がかかり過ぎる。最近この大学を、たくさんの女子学生が受験して、そしてたくさん落ちる。それなら、短大を作ろう、ということで作られたらしい。地方からの受験生の中には、合格後、あの東京のキャンパスは、ただの試験会場に過ぎず、自分が通うのは実家と似たような風景に立つ建物だと知ると、泣き出す子もいたという。「地方から地方への移動ですね」と、英文講読の教師の黒田は言っていた。  寮の門限は、九時だけれど、六時からの夕食を、学校のカフェテリアで取ると、もう後は、自分の部屋に戻るしかなかった。  みのりの部屋の窓からは、遠くに高速道路を流れる車のライトが見えた。夜、みのりは、部屋の電気をつけずに暗いまま、あの光の帯を見るのが好きだった。いいな、みんな行く所があって。そればかりを思った。  けれど、恋愛をしようとは思わなかった。淋しい時の恋愛は、どうせろくなことがない。目が淋しさでいっぱいでは、男をよく見ることができない。  高校時代から付き合っていた男の子がいた(好きだったけど、セックスはしていない)。その子は、みのりが寮に入った途端、自分が入った大学で、すぐ新しい女の子を見つけた。ふーんだ、あんた、もうセックスしたね、と電話でもごもご別れを切り出す男にみのりは思ったが、どうせ、セックスしても、遅かれ早かれ、別れることになっていただろう。本当に好きだったから悔しかったけど、もういいや、と思ったのだ。  二番めの男というのは、カスを掴みやすいと短大の女の子たちは言っていた。 「最初に好きになった人とだめになると、淋しいし、恋愛なんて癖みたいなものだし、今まで側にあったものがなくなると、なんかこう、すうすうしちゃう感じ。金曜日になっても誰からも電話が来ないとみじめだし。だから、なんでもいいかっていう感じで、選んじゃうんだよねぇ、二番めは。だから、二番めの人って思い出したくないんだけど、すごく嫌だから、なんだか忘れられない」  そう言ったのは、寮でみのりの隣だった、二年生の新村貴子だ。みのりたちにしてみれば、貴子の一体どこがいいのかわからないのに、貴子はよくもてた。土曜日の朝、九時二十分になると寮の少し前に青黒い左ハンドルの車が停まった。貴子は、それを二階の自分の部屋から確認すると、九時三十分には、その車に乗ってどこかへ行った。あの男は何番めなのかわからないけれど、男の人ってバカだなぁと、みのりは思った。何を見ているんだろう。  貴子の部屋の汚さは、百部屋ある寮の誰もが知っていることで、去年は夏休み前の大掃除が終らなくて、シスターは帰省の許可を出さず、結局函館までの飛行機をキャンセルしたらしい。それでも全然こりずに、夜中に食べたカップラーメンの器をそのままにして、変な虫がわいたり、ストッキングを洗濯するのがめんどうだからと、素足につっかけのまま学校へ行ったりする。それでも、コンパの時は、ちゃんときれいにして行くから、必ず男の子をつかまえてくるのだ。  そうかと思うと、夏休み後、もう寮に戻って来ない一年生もいた。一つ先の駅にキャンパスのある大学の男の子と「結婚するから」と言っていた。その大学というのが、医学部は医学部だけれど、悪口以外聞いたことのない学校で、「医者のうちの子が、親のお金で入れてもらった学校」だの、「救急車で、あそこに連れて行かれるんだったら、車を停めさせて這ってでも帰ってこないとだめ」などと、地元の人に言われている。  みんな淋しくて、切羽詰まっている。男の子と女の子がいれば、必ず恋愛しかなくて、ただの友達ではいられない。身近に、独身のシスターたちがいたせいもあって、恋愛恋愛と騒がないように二年間を過ごしたみのりには、春子から聞いた沖縄旅行のようなイベントが自分の学生時代になかったことが、少しだけ損をした気持だった。  春子は、スーツを何着も持っているようで、この日は茶色で上着はぴったりと上から下までホックでとまっており、スカートは少しギャザーが寄っていて全体的に大きな小公女という感じでかわいかった。ショートカットの春子によく似合う。純一たちがいなくなり、高木さんは階段の踊り場で春子たちに言った。 「これから行くのが伊藤さんの営業部と、鈴木さんの行く受付です。営業って、書店さんからいっぱい電話が来る部署なの。電話が来ないとだめなんだけどね。だから、伊藤さんの仕事は、電話を取ることから始まると思う。最初はこわいかもしれないけど、みんながやってきたことだから大丈夫。最初に営業部に行くっていいことだと思うよ。出版社って、本を作る所だけれど、本を買っていただく所でもあるんだから。それがよくわかる部署よ。鈴木さんは受付で、まだ社員の顔も名前もわからないのに大変だけど、あそこは会社の仕組みがよくわかる部署なの。出版社の受付って、きっと普通の会社とは違うと思うから。木島さんっていう方があそこにはいらっしゃるの、よく教わってね」  高木さんは、茶色っぽいまっすぐな髪を肩までの長さにしていて、この日も白いブラウスだった。この人が学校の先生に見えるのは白いブラウスとタイトスカートのせいだ。 「じゃあ、行きましょうか」  階段に、コツコツと小さく固い音が残る。かかとのある靴に慣れていない、みのりがたてる音だ。  一階は電話のベルの音、人の話し声、席にいない人を呼ぶ大きな声、立ったり坐ったり、せかせか歩く人たちでいっぱいだ。取引き先の方なのだろう、スーツ姿で名刺を交換しておじぎをしている人がいる。他のフロアーに比べて、一番会社っぽいな、とみのりは思った。  みのりは一体どれだけ、出版社について知っていただろうか。研修で社内見学をして、何も知らなかったんだな、とつくづく思った。出版社にあるのはもちろん、編集部だけではない。他の会社と同じで、経理部、総務部、管理部、国際部だってある。辞書がたくさん置いてあって、ゲラ(原稿が印刷された状態になったものを、そう言うの、と高木さんは言った)に誤字脱字はないか、内容に間違いがないかを調べる校正部を見れば、ああ、やっぱり出版社なんだな、とは思ったけれど。本に間違った字が載っていないのは、当り前なことだ。でも、それは自然に当り前になっているわけではなく、校正部の人たちの仕事の結果なのだ。それを知り、みのりの目には、もう本は今までのように読むだけのものには見えなくなった。みのりにとって、本は、いろいろな人がベストを尽くして出来上がる美しい製品に見えてきた。  このビルの中で、本を印刷しているわけではなかった。自分の幼稚な思い違いも、研修を受けた後のみのりには、なんだか笑える。このビルの中では、本の内容を作って、外側は、印刷会社と製本会社が受け持つ。本の一番最後の奥付というページにはちゃんと印刷会社と製本会社の名前が印刷されている。  今まで、自分が読んできた本にも、きっと奥付があり、印刷所や製本所の名前もあったことだろう。でも、みのりはそこを読んではこなかった。あの奥付というページは、一体誰に読んでもらうためにあるんだろう。読まれないかもしれないページを作る人がいる。それなら、わたしは、そのページまでちゃんと読もう。奥付って、映画のエンド・ロールに似ていると、みのりは思った。  営業部に着くと、春子はみのりに右手を上げ、それが春子の「バイバイ」のやり方なのか、掌を「にぎにぎ」と動かし、みのりを見送った。奥の中央の席から、ずっとみのりたちを見ていた背の高い、福助のような人がやってきて「ほら、新人さんが来たよ」と春子を迎えた。春子は、顔をみのりに向けたまま笑っている。  高木さんと、みのりは営業部と広告部を通り過ぎ、受付にやってきた。中の様子が見えないように、受付の入口にはベージュの衝立が立ててある。 「木島さん。新人の鈴木みのりさんをお連れしました」  高木さんは、衝立を軽くノックし中にいる木島さんに声を掛けた。 「あっ、はい、ごめんなさいね、気が付かなくて」  そう言って衝立の奥から出てきた木島さんは、この日も吉祥天立像によく似ていた。顔が白くてつるつるしている。この人は、自分が、あれに似てるって知っている、とみのりは思った。  今日の木島さんは、見るからに高そうな立派なスーツを着ている。布地は、渋い黄緑色に金色の糸がからんでいて、こんなのをゴブラン織っていうのかな、ちょっと緞帳《どんちよう》にも似ている。ボタンは中央が金で、外は薄い茶色で、フランスのお土産のキャラメルよ、と言われれば、そのまま信じて口に入れてしまいそうだ。木島さんって、いくつなんだろう。会社で働いている女の人は、着ているものも、髪も、そして表情も、母とは全然違う。そういえば、みのりは「働く女」を、その現場で目にするのも、自分が就職するまで一度もなかった。四十歳ではなくて、五十歳だろうなぁ。五十歳過ぎているのかな。どうだろう。二十歳のみのりは残酷だ。四十にも五十にも、何の違いもない。年が上の方、であるだけだった。みのりは、早生まれの二十歳なので、新人であるということ以外にも、とにかく、ここの会社で働く人間のうち、一番若い。会社では、若いということは何の意味もない。一番下で、みんなに敬語で話し、挨拶をし、おじぎをしなくてはいけない人間、というだけのことだ。 「木島さん、今日から受付に配属される、新人の鈴木みのりさんです」 「どうぞ、よろしくお願い致します」  みのりは、おじぎをする。 「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。じゃあ、みなさんにご紹介しますから、どうぞ」  そう言われて、みのりは今まで一緒にいてくれた高木さんにおじぎをした。高木さんて何歳ぐらいなのかな。三十歳ぐらいなのかな。  木島さんに付いて中に入ると、カウンターには女の人が二人坐っていた。 「新人さんがいらしたのよ」  そう木島さんが声を掛けると、二人はみのりを見て、坐ったままおじぎをした。手前に、きのうも見た、ぐりんぐりんのパーマの人がいる。この人は、きれいだけれど目が吊り上がって、芸者さんだったら「鬼奴《おにやつこ》」だの「虎奴」だのという名前がぴったりだ。  鬼奴は「加藤紅子です。どうぞよろしくお願いします」と、言った。  奥にいる人は、加藤さんより小柄で、こけしのような頭をしている。目は本当は大きいのかもしれないけれど、まぶたが三重とか四重ではきかないほどで、結局は目がしょぼしょぼ見えて、小さくなっている。こんな目はアイシャドーがしわに入ってしまう。それでも、この人は目の上がラメの入った薄いグリーンになっている。一体、何度塗ったことだろう。まぁ、そんなこと、どうでもいいんだけれど。 「宮本です。よろしく」 「どうぞよろしくお願いします」  木島さんは、少し顎を引きにっこり笑って、 「宮本さんと、加藤さんは同期で入社二年めですの。宮本さんは、去年、やっぱり新人さんで受付にいらして、今は二年め。だからもうベテランさんね。加藤さんも、今度の四月の異動で週刊の編集部からいらしたの。引き継ぎがてら、きのうからもうお坐りいただいているんです。これから四人で、仲良くやってまいりましょう」  と、全部を丁寧な言葉で言った。木島さんは受付だから、そんな風に話せるのだろうか。おうちでも、こんな風に、だんなさんや、子供(きっと、みのりよりも年上だろう)と、話をするのだろうか。わたしも、こんな風に話をするようになるのかな。でも、そういう話し方、わたしは好きかな? みのりは、優しそうな木島さんを見て、今、自分の心に浮んだ考えを、あっ、ごめんなさいと、木島さんに伝わらないように、大急ぎで消した。 「それでは、鈴木さんには、いろいろご説明がありますからこちらにいらして下さい」  受付の二人が坐っているスペースの幅は狭い。椅子を少し後ろに引く余裕があるくらいだ。椅子の背後には木でできた、古めかしい戸棚のような物入れがあり、その物入れの後ろに木島さんが、こちらに、と言ったスペースがある。  そこは、受付と隣り合せている広告部のロッカーの裏側と、物入れの裏側で囲われた場所だった。床には受付のカウンターの下にあるものと、同じカーペットが敷いてある。ここは別に擦り切れていない。スチール製の大きな机が二脚向かい合せに置いてある。机の脇は、人が体を横にしてやっと通れるぐらいのスペースしかない。机の上には、木製の本立てがそれぞれ置かれている。会社が出している本や雑誌、そして広辞苑が並べてある。白い一輪挿しには、リボンフラワーというのだろうか、ビロードのような布でできた赤いバラが挿してあって、少し色褪《いろあせ》せた花びらには薄くほこりが付いていた。 「あの、きのうはごめんなさいね。びっくりなさったでしょう」  受付から声を掛けたことを、言っているのだ。奥の席にどうぞ、と言われ、みのりと木島さんは向かい合って坐った。椅子には誰が編んだのか、かぎ針編の茶色い座布団が置いてある。 「あの後、わたくし、加藤紅子さんに叱られたんですの。せっかく会社にお入りになるのに、配属が受付だなんて先にわかったら、がっかりしてお辞めになるって。でも、いらしていただけて、本当に良かった」 「わたしは、がっかりなんてしていません。でも、美人じゃありませんし、いいんですか」 「うふふ。いいんですの」  木島さんの笑い方は、かわいい。 「そんな風に申し上げると、鈴木さんが美人じゃないみたいですけれど、そうじゃなくて、ここは、普通の会社の、いわゆる受付じゃないんです。ここでは機械みたいに、決まりきった応対をするのではなくて、人間味のある応対を心掛けているんですの。出版社ですからね、とにかくまあ、いろいろな方がいらっしゃいます。  作家の先生もお越しになるし、本を買いにいらした方も、原稿をお書きになって、読んで欲しいと持ってこられる方もいらっしゃいます。その都度、ひとつひとつ丁寧に対応しなくてはならないんですの。で、前の台にお二人ずつ坐っていただくんですが、今日は初日ですからね、まだ無理なので、二人坐っている隣に、お客様にあまり見えない所に坐って夕方の六時半まで、見ていて下さい。それから、誰が社員で、誰がよその方か区別がつかないと思いますので、社員の顔を早く覚えて下さい。ここに写真が入っています」  木島さんはそう言うと、緑の地に黒い花が描かれているクッキーの缶をみのりに渡した。ふたを開けると、中には身分証明書用に撮影したのだろう、切手ぐらいの大きさの写真がたくさん入っている。 「名前は、まだ覚えられないと思いますからいいです。名前といえば、ああ、そうそう。その名札ですけれどね、前に坐る時は、なさらなくて結構です。名前を覚えられて、変な電話とか来たら困りますから」 「変な電話って来るんですか」 「それはね。ここではいろいろなことが起るから、注意していたほうがいいですよ」 「はい」 「鈴木さん」 「はい」 「いらっしゃいませって、今、ちょっと小さい声でおっしゃってみて」  みのりは息を一回大きく吸ってから言った。 「いらっしゃいませ」  木島さんは、みのりを見ている。 「いいんですけれどね、語尾が少し上がって『いらっしゃいませぇ』って聞こえるので、そうならないようにして下さい」  そうかな。上がっているのかな。自分ではそんなつもりは全然なかったので、ちょっと意外だった。みのりだって、そんな話し方は好きではないのに。はやりのしゃべり方や、はやり出している言葉を、すぐに使いたがる子は、短大にもたくさんいた。ふん、その流行の前は、あんたたち、どう話してたのよ、その流行が終ったら、今度はどう話すのよ、と、みのりは馬鹿にしていたのに。それでもやはり染まっていたのか。 「はい、すみません」  もう一度、息を吸う。 「いらっしゃいませ」 「今のほうがいいですけれど、語尾が甘くならないようにしたほうがいいです」 「いらっしゃいませ」 「そうですね。そのほうがいいです。そのうち、おできになると思いますけれど、そんなことも気を付けて、他の人はどうしているか、前に坐って見ていて下さい」  今のも、「いらっしゃいませぇ」と木島さんに聞こえたんだろうと、みのりは思った。  受付は二人ずつ坐り、一時間半、あるいは一時間四十五分ごとに交替する。そうでないと、気持を集中させて坐るので疲れるのだ。前の台に坐らない時は、受付の物入れの後ろの机で待機している。待機中は、まぁ、会社の近所なら銀行とか郵便局、本屋さんぐらいには行ってもいい。でも、本当は、あまりふらふら受付より外へは出て欲しくないようだ。木島さんの丁寧な言葉のうち、この人が伝えたいと思っていることは、言葉の底にほんの少しあるだけで、あとの残りは、気配りの言葉なんだろう。 「いいんですけれどね」  気が付くと、木島さんはよくこの言葉を使って説明する。でも、これは、木島さんがして欲しくないこと、いいとは思っていないことに対して付く枕詞のようなものだった。 「まぁ、お若い方に、こんな狭い所にじっとしていろ、ということ自体無理なんですけれど。ただ、女の人は会社の中では目立ちますからね。男の方の三倍は気を付けなくてはならないんですの。努力は六倍しないといけないし」 (三とか六という数字は、どこから出てきたものなのだろうか。なんで三の倍数なんだろう。木島さんが決めたのかな?) 「会社では、人は見ていないようで、案外見ているものなんですよ」 (ふーん。何を見ているのかな?) 「受付が他の部署や、外に、しょっちゅういる、って思われますとね、ひまだと思われてしまうんです。そうすると四人もいる必要ないじゃないか、ということになって三人に減らされてしまうと、困るんです。四人体制だと、お一人が、もしお休みになられても三人でできますけれど、三人でやっていて、一人休むと、二人ですることになって、ちょっと、それはできないことなんです。だから、すみませんけれど、なるべく、ここにいて下さい」  そう木島さんは、みのりに説明した。なるべくというのも、他に選択の余地があるわけでもなく、それは木島さんの希望なのだった。 「はい、わかりました」  みのりは、そう答えたのと同時に、「はい、わかりました。これからは言われたことを、そのまま受け取らないで、本当は、これはどういう意味だろうと一度考えることにします。大人の日本人って、手続きがいろいろ大変なんですね」と、まるで外国人のような気持になった。 「ですから、すみませんが、ここにいて、ご本をお読みになったり、会社の雑誌に目を通して、どんな方がどんなことをお書きになっているか、著者のお顔とお名前を覚えたりですとか、新聞を読んで、社に関連のあることをよその方から教えられるよりも前に知っておくとか、そんな風になさって下さい」 「はい、わかりました」 (わたし、こればっかり) 「いろいろ、ご苦労があるとは思うのですけれど、お願いします」 「はい」  みのりは、わかりました、は言わなかった。  みのりは、奥にあった回転椅子を、受付の台まで持って行った。宮本さんと加藤さんの二人が並んでいる。加藤さんから少し間をあけて、その椅子を置いた。  受付は正面から見ると、木のフレームで囲まれた空間だ。カウンターが少し高めに作ってあるから、お客様からは、受付の胸ぐらいから上が見える。カウンターの右端には花が生けてある。これも受付のメンバーが順番に近くの花屋さんで月曜日に花を買い、生けるのだ。予算は二千円。このぐらいの値段だと、大袈裟でもなく、淋しくもない量の花になる。花のお金は月末に精算して戻ってくると、加藤さんは、みのりに説明した。  受付の台は、裏から見ると結構ごちゃごちゃしている。  カウンターの裏には、メモがいくつも貼ってある。 「三時に、出版の新沼さんの所に、久保田様ご来社。いらっしゃったら、応接室へ」 「今日は、宅配便の最終時間は五時半!」 「飯塚さんに、タクシー代一二〇〇円貸しています」 「五時に週刊の五条さんに、お客様が四人いらっしゃいます。みなさん、そろったらまず木村さんに連絡」  みのりは、じっと、そのメモを見る。 「あのさ、前もって何時にお客様がいらっしゃるか、教えてもらっていると、お客様がいらした時に『お待ち申し上げておりました』って言えるじゃない。だから、こう書くの。交替する時も、このメモのことは見りゃわかるんだけど、これもいちいち引き継ぐの」  今、お客さんが誰もいないので、それでも前を見ながら、鬼奴の加藤さんは小さい声でみのりに言う。加藤さんの隣の宮本さんは、ため息をついたり、髪に手をやったりしている。  受付の二人が坐っている後ろには、透明なボックスがあって、そこには大きい封筒や、雑誌や紙の手提が入っている。 「これはね、お客様からのお預りもの。ここで受け取ったら、メモに宛名を書いて、受付のスタンプを押して、受け取った時間を書くの。たまったら持って行くんだけど、急ぎのものは、すぐに持って行くようにしているの。前にね、週刊の編集部が急ぎの原稿を待っていたんだけど、受付で止まっていたの。で、すごく怒られたんだって」 「そういう時は、前もって『これこれ、こういうの待っているから』って、教えてくれないんですか」 「うーん、教えてくれる人もいるけど、でも、教えてくれない人が怒る」 「じゃあ、困りますね」 「そうなんだけどさ。でも、仕事だから。だから、まめに持っていくようにしているの」 「そうですか。わかりました」  加藤さんは、うーん、どうしようかな、と言って、腕時計を見た。十一時。さっきからお客様は来ない。 「宮本さん、わたし、鈴木さん連れて、お配りに行ってくるよ」 「あら、そう」  宮本さんは、髪をいじりながら、笑って言った。「あらぁ、そぅおぅ」と聞こえる。この人は、いつも目をキョトキョトさせていて、みのりを見ようとしない。それでいて、気が付くと、じっと、上目遣いでみのりに焦点を当てていたりする。目が悪いのかな、とみのりは思った。更に笑いながら加藤さんに言う。 「週刊の分があるなら、置いていって。それはわたしが持って行くから」 「はいはい、わかりました。もう、宮本さんは」  加藤さんは一度手に取った荷物を、もう一度確認して、茶色のA4サイズの封筒をケースに戻した。 「じゃあ、行ってくるよ。木島さん、鈴木さんとお配りに行ってきます」  加藤さんは衝立の後ろの木島さんに声を掛け、行こうよ、と言った。  広告と、営業の側を通って行く。春子の席は、中庭が見える奥のところだった。書類に何か書いている。茶色のスーツの背中が見えた。  階段のところまで来ると、あのさー、と加藤さんが、みのりに言った。みのりにも訊きたいことはある。 「今さ、宮本さんが、自分で週刊の分は持って行くって言ったでしょ。あれ、なんでだか、わかる?」 「わかりません」 「あのね、週刊って、若い男の人が多いからだよ」 「えっ。それが理由なんですか」 「そうなの。嫌でしょう」 「はい、嫌です」  加藤さんは、本当にそれは嫌なんだけど、おかしくてたまらないという風に笑うから、その顔だけを見ると、楽しそうだ。  でも、若い男の人って、ああいう女を好きだろうか。宮本さんを一言で言えば、干からびたヒヨコだ。しょっちゅう、キョロキョロしているところなんて、そっくりだし、本物のヒヨコの顔って全然かわいくなくて、いつも不機嫌そうだ。胸なんて、ぺったんこだし、目はしわの中に埋まっているし、いやぁ驚いた。おずおずと笑いながら、それでもそんな恥しいことを、きちんと主張するんだ、あの人。 「もうね、困っちゃうの、宮本さんは」 「でも、同期なんですよね」 「同期って言ってもね、宮本さんの方が一歳上なんだよ」 「そうなんですか。そうは、見えなかったですが」 「そうでしょ。それもね、宮本さんの自慢なの。若く見えるって」 「あのー、そういう意味じゃ……」 「そうなんだよ。でも、宮本さんだけが、そう思っているの。きっとね、鈴木さんにも変なこと言うと思うけど、気にしないでね」 「えっ、変なこと、言うんですか。嫌だなぁ。どんなこと言うんですか」  鬼奴は、ますます笑う。 「それが普通の人には、わからないから宮本さんなんだよ」 「はぁ、そうですか」 「何か言ったら教えてね。知りたいから」 「はい。お知らせします」  お届け物は、出版部あてのデザイン事務所からの大きい封筒と、総務部に届いたカタログの見本と、経理の人あての紙の軽い手提だ。荷物は、みんな、みのりが持つ。加藤さんは、透明なフォルダーに入った各フロアーの座席表を持っている。  総務と経理は四階で、出版部は六階にある。 「あのさー」 「はい」 「木島さんって、あれに似てると思ったでしょう、手に丸いの持って、前向いて立ってる女の人。ほっぺた、ぷうっとしているの」 「吉祥天立像。鎌倉時代のものです」 「嫌だぁ、もう調べたの」 「はい」 「意地悪」  どっちが。  加藤さんは、話をするために階段で行くつもりらしかった。 「わたしさぁ、紅子っていうの。変な名前だと思ったでしょ」 「いいえ」 「いいよ。普通は、思うって。わたしだって、そう思うよ」 「そういう名前の人、今まで会ったこと、ありません」 「うちの父親が付けたの」 「そうですか」 「それが、ひどくてさぁ。母親が言っていたんだけど、紅子って母親と結婚する前に、付き合ってた女の人の名前なんだよ」 「えっ、そうなんですか。お母さん、よくそんな名前を許しましたね」 「だって、そんなこと言わないで付けちゃったんだよ」 「困りましたね」 「困るでしょ。でも、気に入っているからいいの」 「お母さんは、それでいいんですか」 「最初は嫌だったみたいだけど、もういいみたいよ。うちには、あと妹と弟がいるけど、もう父親は名前を付けさせてもらえなかったんだよ」 「おかしいですね」 「本当だよね。みんな、わたしのこと紅ちゃんて呼ぶの。自分でも名前を呼ばれるほうがピンと来る。加藤さんって呼ばれると、自分じゃない気がする」  加藤さんは、人気があるのか、どのフロアーに行っても声を掛けられる。 「おっ、紅ちゃん新人連れてんな。いじめんなよ」  とか、 「そうか、紅ちゃんも先輩になったのか」  とか、 「週刊から受付じゃ、朝が早くて大変でしょう」  とか。  加藤さんは、その都度ちょっと立ち話をして、笑って答えている。 「加藤さんは、週刊誌の編集部から異動されてきたんですよね。そういうことって、よくあるんですか」 「だからね、紅ちゃんって呼んでいいよ。異動のことだけど、この会社って多いの」 「受付と週刊誌じゃ、仕事が全然違いますよね」 「まあね。あのさ、週刊誌の編集部ってどんな仕事をすると思う?」 「編集者っていうことですか?」 「あのね、そうじゃないの」  紅ちゃんは、笑っていない。みのりと紅ちゃんは、六階のエレベーターホールで話をする。 「編集部で、電話が鳴るじゃない。そうすると遠くにいても、走って取るの。犬みたいに。席に、坐っている人もいるけど、全然取らないから」 「どうして電話、取らないんですか」 「仕事中だからじゃないの。記事を書いているとか、考え事しているとか、我慢強いとか、理由は、いろいろあるんだけど。それとか、イラストレーターの方の事務所へ、イラストいただきに行ったり。原稿できたからって言われれば、いただきに行ったり。ここの会社はなるべく、FAXは使わないようにしているの」 「なんでですか」 「そのほうが、失礼じゃないから」  そういうものなのか。 「面白そうですね」 「うん。でも、それ、ただのお使いなんだよ」  まぁ、そうだけど。 「あとはね、新聞綴じしたり、夜食の出前の器、下げたりするの」 「食べた人が、自分でしないんですか」 「そんなこと、自分でしないよ。食べたらそのままだよ。家族じゃない人の食べ残しのお皿って、結構気持ち悪いよ」 「そうでしょうね」 「ここの会社に入ってくる男の人って、みんな頭いいじゃない。あれはさぁ、小さい時から、ツトムちゃんは、お勉強だけしてればいいのよ、あとはみーんな、ママがやってあげるわねっていう母親に育てられたんじゃないかな」 「ツトムちゃんて誰ですか」 「もう、そんなのたとえだよ」 「ああ、はい」  紅ちゃんは、ちょっと笑う。 「そしてさ、大きくなるとなんでもしてくれる、女中さんみたいな奥さん見つけてさ、一生自分じゃなんにもしなくていい仕組みなんだよ。でも、ここは会社なんだから、奥さん役をさせないで欲しいよ、もう。あんたたちに養ってもらってるんじゃないんだから。編集部っていうと、行きたい人がいっぱいいるけど、わたしは、もう嫌だったから、人事の面接の時に、異動したいって言ったの」 「面接で言うと、だいたい通るんですか」 「あんまり通らないと思う。でもさ、わたしは、週刊から受付に行きたいって言ったんだもん。普通は逆だから」 「そうなんですか」 「そうだよ」  紅ちゃん、あの鬼奴の目をして笑う。 「だって、受付って、女の三大地獄って言われてるんだよ」  紅ちゃんによると、この会社で女の三大地獄とは、受付、秘書室、そして経理部なんだそうだ。そのどの部にも共通して言えることは、女の人しかいない、あるいは、女の人が多い職場だということ。古くからずっとその部にいる女の人がいるということ。そして、行ったらなかなか異動がない、ということだそうだ。 「えー、ひどいこと言いますね。地獄なんですか」 「そう言うんだよねぇ」  紅ちゃんは、他人事のように笑っている。 「誰が言うんですか」 「その部以外の人」  なんだ。それなら、話はちょっと違ってくる。 「確かに編集部と違って刺激はないけど、でも編集部に行っても、みんなのお手伝いさんだし、どっちもどっちだと思うよ。それなら時間もきっちり決まってて、ちゃんと帰れる仕事のほうがいいと思ったし」 「編集部だとやっぱり不規則なんですか」 「うん。だって、相手があって、それを待つ仕事だからね。自分の都合じゃ動けないよ」 「でも、お原稿、締切りまでに書いて下さるって約束はいただいているんですよね?」 「そうなんだけどね、やっぱりさ、書くってそんな機械的なことじゃないんだと思うよ。よく知らないけど連載の担当を持っている人は、ずっと会社にいるよ」  そうか、大変なんだな。井上純一や児玉善彦もそんな仕事をするんだろうか。 「去年はさぁ、大変だったんだよ」 「どうしたんですか」 「去年は、木島さんと、さっきの宮本さんと、出版に異動した倉持さんっていう人と、あと、一人、杉山さんっていう人が受付だったんだけど、その杉山さんが、途中で、もうこんな仕事嫌だって、会社辞めちゃったの」 「受付が嫌だから?」 「そう。それも、宮本さんは新人だし、また、これがふにゃふにゃして仕事ができなくて、ずいぶん、杉山さんは、嫌だったみたい」 「何歳ぐらいの方だったんですか」 「三十より、少し前だと思うけど」  その杉山さんも、ちょっとひどかったらしい。カウンターに坐っているのに、お客様に一言も口をきかなくて、一緒に坐っている人が、その場を取り繕って(宮本さんも、その時は必死だったそうだ)、どうにか切り抜けたのに、その次の日も、一言も口をきかない。そんな人が、カウンターにいても困るから木島さんが何とか話をしようとしたのに、杉山さんは、横を向いたままで話にもならない。前に坐っている時は、そんな状態で、それなら、待機している時はどうだったか、と言うと、これもひどくて、ぷいっと、どこかに行ってしまい(本当に、どこに行っていたのか、わからなかったらしい)、交替の時間になっても、全然帰ってこない。それを一カ月通して、会社を辞めたんだそうだ。辞める最後の日、干からびたヒヨコの宮本さんは杉山さんに「このバカ女。お前が辞めろ」と言われ、平手打ちされたという。それも、あんまりな気がするが、杉山さんには、それなりの理由があったかもしれない。話は一方の側からだけでは、完全じゃないし。 「杉山さん、木島さんに挨拶もしないで、ロッカーや机に荷物全部置いて、黙っていっちゃったんだよ」 「木島さん、困ったでしょうね」 「そうだよ、とっても、かわいそうだった。あの人、円形脱毛症になっちゃったんだよ」 「そうでしたか」  だから、一、二、三月は三人体制で、誰も熱があっても休めずに、やり通したんだそうだ。 「その杉山さんは、今、どうしているんですか」 「よく知らないけど、どこかの出版社に転職したらしいよ」 「ふーん、受付やっているんですか」 「あー、意地悪言っているね。違うよ、編集の仕事しているんだって。元々、そういう仕事をしたかったみたいだから、ここにいても無理だったんだよ」 「無理なんですか」 「無理だよ。だって、わたしたち短大卒だもん。ここにはさ、すごい大学出た男の人がいっぱいいるじゃない。短大卒の女に順番が回ってくるわけないって」  紅ちゃんの説明は、わかりやすい。 「入って早々、こんな話、聞かせて悪いけど、最初から期待していないほうがいいこともあるからさ」 「はい」 「じゃあ、戻ろう。宮本さんが一人だから」  受付に戻ると、宮本さんは、あっ、と紅ちゃんに言った。 「加藤さん、ひどいじゃないの」  みのりは端の椅子に坐って、宮本さんを見る。宮本さんは、右手に配りに行かなくてはいけない、週刊編集部あての茶色の封筒を持っている。 「あれ、一人で大変だった? お客さん、たくさん来た?」  紅ちゃんは、来客者の名前を書き留めるノートを見ている。来たのは、二人だけだった。十一時五分と、十一時八分。このノートには、来社時間と、お客様のお名前、会った社員の名前を書く。 「そうじゃないって。これ、五条さんあてのものじゃない」 「どうして。だって、宮本さん、週刊の分は自分でするって言ったから、残しておいてあげたんだよ。頼まれた通りにしたのに。なんで、わたしが怒られるの」 「もう、意地悪」  みのりには、何を言っているのかわからない。 「鈴木さん、これ五条さんのところへ持っていって」 「ちょっと、今、配ってきたんだから、鈴木さんは行かなくていいよ。今日、宮本さんは一度もお配り行っていないじゃない。自分で二階に行きたいって言ったのに」 「だって、五条さん嫌なんだもん」 「ほら、そんなこと言ってると、また怒られるよ」 「もう、いいわよ」  宮本さんは、がたがた音をさせて椅子を引き、体をやや斜めにして早歩きで、行った。 「なんなんですか」 「前にね、原稿を届けるのが遅いって怒ったのが、五条さんだったの。その時、配りに行かなくちゃいけなかったのが宮本さんだったし、前から、五条さんって宮本さんにいろいろ厳しかったから。だから、嫌だったんでしょう」  でも、紅ちゃんだって、あれが五条さんあてのものだと知っていて、置いていったのだ。 「ふんだ、あんなことばっかし言っているから、杉山さんにぶたれるのよ」  そう紅ちゃんが言った時、後ろから、物入れを、トントンとノックする音がして、「これこれ、お静かに」と木島さんの声がした。  四月と五月は、新人の出す「わたしっていい人でしょう光線」と「僕って面白いでしょう光線」が飛び交って目が痛い。最も強く飛び交う時間帯は夕方で、仕事が終って三十分ぐらいたった頃だ。会社の一番近くの交差点で、発生しやすい。紺色のスーツを着た集団が、ことさら大きな声で笑ったり、相手の話(みのりにも聞こえたけれど、全然たいしたことじゃなかった。出身が青森だと、女の子が言っただけだった)を聞いて「へえ、そうなんだ。すごいね」なんて、目を丸くして大袈裟なリアクションをしている男を見ると、ああ、見たくもないシーンが脳に伝達されたと、みのりは思った。笑おう、笑わせようとしている人たちを見ていると息苦しくなる。普通にしていればいいのに。声も、きっといつもより一段高くして話をしている。 「ねえ、どこに行く?」  なんて言っても、そんな多人数が一度に入れる店は限られているだろうし、新人だから、会社の近所の店の様子が、まだわからない。でも、その日の出来事が終って、その興奮をお互い話したい。それに、早く新人同士友達になりたい。自分を知った人間がいないと、人はとりわけ饒舌《じようぜつ》になるようだ。これまでやってきたことを帳消しにして、新しい自分を演じているように見える。ふんだ、そんなことしても、絶対ばれちゃうのに。だんだん打ち解け合って、そして次にあるのは、仲間割れだよ。  寮で、そんなシーンを何度も見た。だから、みのりは、ゆっくり知り合っていきたい。仕事が終って、受付のシャッターを閉めている時、春子が一緒に帰ろう、とやってきた。みのりは、自分を気遣ってくれる春子の気持が嬉しかった。営業部は六時に終るのだ。受付の遅番は六時半までだから、この人は三十分、みのりを待っていたのだ。でも、手放しで春子に飛び付くのではなく、少しずつにしようと思った。春子とは、ずっと仲良しでいたいから。  茶色のスーツの春子と交差点まで行くと、紺色のスーツの集団がいた。信号が青になっても、移動しないで話をしている。他の人たちのことまでは考えがいかないのだ。煙草を吸っている男の子もいる。「会社人間とは違うんだ」というジェスチャーだろう。今まで学生だった子たちには、たった一日でたくさん目にした会社人間がショックだったのだ。自分もああなってしまうのか、と。敬語を正しく使い、名刺の渡し方、受け方にもルールがあり、エレベーターに乗る時も乗る位置にも決まりがあり、行き先ボタンを押すのも自然と、その場で決まる。降りる順序も、ドアを押さえる係も、臨機応変にわかっていないといけない。そういうルールが身に付いてしまうと、自分が平凡になるような気がして、嫌なのだ。新人は紺色がよく似合う。それは、中・高と着ていた制服の呪いのようだ。 「きっと、新人だよね」  春子が横断歩道を渡りながら言った。みのりたちは、立ち止まることもせず駅に向かっている。 「そうね。よその会社の新入社員ってたくさんいるのね」  みのりたちの同期は四人で、そのうちの男の子二人は、まだずっと編集部にいる。春子が先に行って、様子を見てきたらしい。みのりは、そんなこと、気にもしていなかった。春子にはどうも、「こんな時には、こうするものだ」という正しい行動パターンがすぐに浮ぶようだった。自分のやるべきことだけしかわからない、みのりとは違う。 「お茶しに行こうよ」 「うん。そうしよう」  そうは言ったものの、お茶をするという言い方を、これまでみのりはしたことがなかった。それは当然、どこかのお店に、お茶を飲むために入るけれど、おしゃべりをする、という意味だ。短大時代、みのりは、お茶をしたことがなかった。お茶は、それぞれの部屋に人を呼んで飲むものだった。高校生の頃は、校則で喫茶店への出入りは禁止されていた。寮の近くには、「不二家」があって、日曜日外出せずに「お籠《こも》り」になった子同士でチョコレートパフェを食べに行った。あれは、甘い物を食べに出掛けたのであって、お茶をしに行ったのではない。寮では毎日一緒に暮らす者がお金を出してお茶を飲む、という発想もなかった。わたしも、いよいよ、お茶をする。大人っぽい、わたし。みのりは嬉しくてたまらない。母は、お茶をしたことがあるだろうか。 「ちょっと、高めのお店なんだけど、いいかな」 「うん、いいよ。知っているお店なの?」 「銀座なんだけど、ずっとバイトしていたの」  そうか、東京にキャンパスのあった学生ならバイトもするだろう。  地下鉄に乗って四駅め。春子は、銀座と築地の境目にあたるらしい場所を、こっち、こっちと、先に歩いてみのりを案内する。春子は、何に対しても慣れている風に見える。春子が連れて行ったお店は、白いタイルのビルの二階に入っていて、「月の音」といった。暗いお店の中は、いたるところにステンドグラスがあって、なんだか短大のお祈りをするお御堂《みどう》に似ている。低くシャンソン(のようなもの。みのりには、よくわからない)が流れていて、中央のぎっしりと生けられた白いバラが柔らかく匂う。「いらっしゃいませ」。そう言って出てきた女の子は、髪にレースの飾りを付け、ウエストの締まった黒いドレスの制服を着て、その上にやっぱりレースの短いエプロンを着けている。映画に出てくる、外国のメイドさんのようだ。春子にも、きっと似合ったことだろう。 「あれ、春ちゃんだ」  女の子は、澄ました声を地声に変えて笑って言った。 「よっ!」  春子は、男の子のように手を上げ挨拶をする。 「今日、初出勤だから来たんだよ。こっちは、同期の鈴木みのりちゃん」 「こんにちは」 「いらっしゃいませ。春ちゃん、奥の席に坐ってね」 「うん、ありがとう」  春子とみのりは、奥の四人掛けのソファに坐る。もう七時近いというのに、そんなには込んでいない。 「何にする?」  春子に渡されたメニューを見て、みのりはえっ、と思った。それは、場所柄なのだろうか、紅茶に千円という値段がついている。コーヒーも、千円だ。世の中って、そんなものなのだろうか。今日は二千円しか持っていない。それでも、みのりは普通の顔で紅茶を頼んだ。春子も同じものを頼んだ。 「今日は、伊藤さんは何をやったの?」 「あのね、春子とか、春ちゃんでいいよ。あんまり、伊藤さんって、呼ばれたことないんだ」 「そうなの。わかった。そうするね」 「今日は、電話注文の受け方を習ったよ。書店さんから注文をいただくとね、まず、お店の名前と、取り次ぎのお店の名前とね、番線を訊くの」 「取り次ぎとか、番線って何?」 「取り次ぎって本の問屋さんのことでね、番線は、そのお店の番号のこと」 「へえ、そうなの」 「それから、本の名前と注文の数を短冊に書くの」 「短冊に書くの?」 「取り次ぎ別に、書くものがあるの」 「知らなかったなぁ。そういう仕組みなのね。春ちゃん、営業だねぇ」 「そうでしょ、わたしは営業だねぇ」  みのりは、するりと、春ちゃんと呼べた。 「みのりは、受付で何していたの?」  春ちゃんは、穏やかに、みのり、と呼び捨てにし、それはずっと、そう呼んでくれていたような感じがした。 「今日はね、まだ何もできないから、他の人がやることを、坐って見ていた」 「そうだよね、いきなりは『いらっしゃいませ』は出ないよ」 「あのね、語尾は下げるの。甘くなっちゃ、いけないの。『いらっしゃいませぇ』じゃなくて、『いらっしゃいませ』って言うんだよ」 「あっ、お店の癖が出てたかも」  そうだな。喫茶店には喫茶店の、八百屋さんには八百屋さんの、そして、受付には受付の、「いらっしゃいませ」がある。それが、今日からはみのりの商売道具になったのだ。  紅茶が運ばれてきた。頼んではいない、ダークチェリーのパイが付いている。 「あっ、千波ちゃん、ありがとう」 「春ちゃん、これ、好きだったもんね。マネージャーが、お客さんで来てくれて嬉しいって。お祝いだよ」 「ありがとう。みのり、これ、おいしいよ」 「わたしまで、すみません。いただきます」  お酒がたくさん使ってあるのだろう、あまり甘くない。でもケーキなんて、こんなに普通に食べちゃって、もったいないな、と思った。 「あのさ、受付に変な人、いるんでしょ?」 「変な人? 誰のこと?」 「宮本さんっていう人。前に会社を辞めた人が、最後の日に、その人のことぶって泣かしたんでしょ」 「春ちゃん、もう知ってるの?」 「うん、お昼の時、営業の人が言ってたよ」 「そうなの」  確かに宮本さんは変だけれど、何も、今日来た新人にそれを言わなくても、いいんじゃないかと思う。おかしなことをすると、こうして餌食《えじき》にされるんだ。  それまで、「あのね」と笑いながら、春子に聞いてもらいたかったことがあった。でも、もう言うのはよそう。変な人だけれど、とにかく一緒に働く人のことを悪く言うのは嫌だ。みのりは、そう決めた。  あの人は、さっき、社を出ようとバッグを持ったみのりを、「あっ、鈴木さん」と言って走って追いかけてきたのだ。 「何でしょうか」  と、振り向いたみのりに、宮本さんは笑いながらも、目は笑っていなくて、 「鈴木さん、貯金、いくら?」  と、言ったのだった。 [#改ページ]      3 「木の芽時には、確かにあるんですけれど、もう七月なのに、おかしいわね。今年は異常気象なのかしら」  木島さんは、おっとりと笑って隣のみのりに言った。首にかけている真珠の三連のネックレスがきれいだ。前に「真珠がね、好きなんですの。それも、丸くなくて、バロック真珠っていう、いびつな形のものが好きなんですの」と、言いながら、これなんです、と首からはずして見せてくれた。この日、木島さんはあのネックレスをしていた。少し灰色がかって見えるその真珠は、貝が苦しみながら吐き出した生々しい形だ。完璧な球形よりも生き物らしい。 「本当に、一体どういうことなのかしらね。よく、わからないことって、たくさんありますね。ともかく、仲根さんにお礼を申し上げなくては」  木島さんは、えーと、と言いながら電話番号表をじっと見て、総務の仲根さんに電話をした。  この日の十一時、受付に「熱海の殿様」がやってきたのだ。その人は、玄関を入った時から慣れた風に、まっすぐ受付に向かって、白いヘルメットをかかえ大股で歩いてきた。背はそんなに高くなくて、白いTシャツの上に、もう暑いだろうに黒い革ジャンを着ていた。下も黒い革のパンツだった。あっ、この人、お使いさんで、何か受け取りに来たのかな、と、みのりは、近付いてくる少し薄い頭と、よく日焼けした顔を見ながら思った。 「いらっしゃいませ」  木島さんと、みのりは一緒に言った。  会社に入って二週間めから、みのりもお客様に「いらっしゃいませ」と言うようになった。ちゃんと言えるかな、声が大きくなり過ぎないかな、とお客様が受付に向かって歩いていらっしゃる時から、どきどきした。でも、思い切って言ってしまえば拍子抜けするほど何でもなかった。あっ、言えちゃった。みのりは、自分が違う人になったような気がした。あの時、木島さんは前を向いたまま、上出来、上出来と言ってくれたのだった。一度いらしたお客様のお名前は、するりと頭に入った。それは炭を売っていたうちのおばあちゃんの血かもしれないと、みのりは思った。 「あの、ちょっと、言うことがあって来たんだけど」  えっ、何だろう。この人は、お使いさんじゃないんだ。雑誌の記事への抗議だろうか。実際、そういうケースもあって、編集長を出せと、怒って言いにいらっしゃる。抗議しに来た人に、いらっしゃる、は変だけれど、その人だって読者で、雑誌を読んで来て下さったわけだから、受付としては、やっぱり敬語の対象になる(そういう時は編集部の若手に電話をして、話を聞きに来てもらう。忙しい編集長に、この手の用件をつなぐわけにはいかない)。  でも、みのりは、まだこんなイレギュラーなケースに応対したことがない。 「あの、失礼ですが」  木島さんが、言った。「いらっしゃいませ」だけではなくて、お客様のお名前をうかがう「失礼ですが」も、受付の商売道具なのだ。 「あっ、俺はね、熱海の殿様」 (えっ、殿様なの? この人) 「熱海から、オートバイに乗ってきたんだけど」  この人は変なんだとわかったけれど、みのりはもちろんのこと、木島さんは普通の顔をしている。そして、次にこの人が何を言うのか、目を大きくした顔で、じっと待っている。 「あのね、おたくでなんとかっていう賞を出しているでしょう、小説に。だけど、今回は該当者がいないって聞いたから、俺がもらってやろうかと思ってね。それで来たの」  あっはっはっ、と受付で、大声で笑えたらどんなにいいだろう。「いやだぁ、もう全然わかっていませんね」と、笑いながら言えればそれも、きっといい。でも、この人は大真面目(に見える顔)で、静かにこんなことを話し、もし、それが本当なら、熱海から、わざわざオートバイに乗って、東京の出版社まで道を調べながら、賞をもらうためにやってきたのだ。笑うどころではない。どうにかしなくてはいけない。 「はっ、左様でございますか。それでは、只今《ただいま》担当の者を呼びますので、少々お待ち下さいませ」  みのりは、担当の者って、そんなの、誰? と、思ったけれど、木島さんはカウンターから出て、受付の応接コーナーにある四つの席のうち、一番受付からは遠い奥の椅子を「こちらにお掛け下さい」と殿様をご案内して、おじぎをした。そして、戻ってくると、 「みのり、総務の仲根さんに電話して。今、お客様がおっしゃったこと、全部をそのままお伝えするの」  と、小さい声で言った。 「はい」  みのりは、仲根さんに電話をする。 「受付です。熱海の殿様がいらっしゃいました」  みのりは、自分が今、笑ったら絶対だめだと、強く自覚したから笑わなかった。むしろなんだか涙が出そうだった。電話には、仲根さんではなく、違う人が出た。女の人だ。きっと同じ部署の若林さんだろう。 「えっ、殿様が来たの」 「はい」 「ちょっと、待ってね」  受付ではどんな場合でも、 「仲根さん、いらっしゃいますか」  という電話のかけ方はしない。そうすると、あとで都合の悪い人だとわかっても、居留守が使えなくなるからだ。これも、木島さんに最初に教えてもらったことだった。  仲根さんは、少し離れたところにいるのだろう。受話器から若林さん(だと思う人)が、「受付に、変な人が来たそうです」と仲根さんを呼んでいる声が聞こえてくる。若林さんは、ちょっと声が大きい。これを聞かせないためにも、木島さんは受付から一番遠い席に殿様を坐らせたのかもしれない。 「あっ、もしもし、今、仲根さんに代わるね」  若林さんは、そう言いながら、 「殿様、ちょんまげしてる?」  と、笑って仲根さんに代わった。 「はい、仲根です」  仲根さんの声は、穏やかだった。 「受付です。熱海の殿様がいらっしゃいました。今回の賞に該当者がないことを聞いたので、賞をいただきにいらっしゃったそうです」  そうだ、木島さんは、お客様のおっしゃったことを全部お伝えするようにと、言ったんだっけ。 「熱海から、オートバイでいらしたそうです」  殿様は、みのりの方をじっと見ている。普通なら「受付です。仲根さんに熱海の殿様がいらっしゃいました」と、言うべきだけれど、特別なお客様の場合、下手に社員の名前を言って覚えられても困るので、受付では名前を言わずに電話をする。  みのりが、きちんと用件を伝えたことがわかると、殿様は、もうみのりは見ずに前に向き直った。 「そう、わかった。それじゃあ、今から受付に行きます」  仲根さんは、そう言った。 「只今、担当者が参ります」  そうみのりが伝えると、殿様は軽くうなずく。  総務部は、社員のための細々《こまごま》とした仕事を一手に引き受ける部だ。文房具のストックを切らさないこと、社員全員の定期券の手配、出勤簿の管理(みのりの会社に、タイムレコーダーはない)、出張する時の電車や飛行機のチケットの手配、会議室の予約と管理、会社で飲むお茶の管理(お茶の種類は、緑茶・ほうじ茶・麦茶がある)、お祝いと不祝儀の手配。なんでも手配と管理だ。自分以外の人のための仕事が、その人の本業だなんて一体どんな気持だろう。雑用が本業なのだから。 「総務は大事な仕事だよ」  そう言う人はいるし、確かにそれは本当だ。でも、体でたとえたら、総務部ってどこだろう。心臓だと言う人は、あまりいないのではないか。手足、あるいは、手の指か。手も足も、そして指も、もちろん必要だし、大事なものだけれど、心臓とは、また一味違う大事さだ。切迫度が違うというか。  どの部署も、失敗せずにきちんとするのが当り前だけれど、とりわけ総務部は、ちゃんとしていて当り前と、思われている部だ。 「でも、それでお給料をもらっているのだから」と言う人がいるかもしれない。「雑用でお給料もらえるんだから、いいじゃない」とも言うかもしれない。 「そんなに大事な仕事なら、あなたがどうぞ」と、返事をしたところで、言われた人の目は、きっと輝かない。  みのりの働く受付だって、組織的には総務部に属するのだ。会社のためのサービス業という点では、同じだった。  仲根さんが、熱海の殿様の話を聞くことや、熱海の殿様のようなお客様に応対することは、正規の総務の仕事ではないはずだ。でも、仲根さん以外の誰がする仕事になるのだろう。経理でもないし、人事でもない、まして、編集部でもない。結局は、総務の一番偉い仲根さんしかいないのだった。仲根さんは、眼鏡をかけていて髪が薄い。水木しげるのマンガに出てくる、一般人によく似ている。外国人が描くマンガのニホン人にも似ている。あと、五年ぐらいで定年だ。仲根さんがいなくなったら、誰が次の仲根さんになるのか。  仲根さんは、ちゃんと上着を着て、受付に来た。他にお客様はいないから、「あっ、この人か」と、すぐにわかったのだろう。木島さんに、ちょっとうなずくと、すぐに熱海の殿様に向かいあって坐った。  受付からは、二人が何を話しているのかは、聞こえない。  殿様は、きっと独自の主張をしていることだろう。真面目な顔で熱心に話している。顔が少し赤くなっている。それを、じっと聞いて、受け止めている仲根さんの心の中は、一体どんなだろう。けんかっ早い人も、怒りん坊の人も、威張りん坊の人も、決して仲根さんになることはできない。  みのりは、受付に坐りながら、「熱海の殿様は、なんで殿様なのかな。いいところの家の人なのだろうか。それとも、広いうちに住んでいるのかな。今の時代に、殿様っていう発想は、なかなかできないことだ」と、思いながら、二人を見ていた。  あの時、木島さんは、どう思っていたのだろう。ここに、他のお客様がいらっしゃらないことを、まずは、ほっとしていたに違いない。 「ここには、いろいろなお客様がいらっしゃいます」と、木島さんから言われた時、それはどんなお客様なんですか、とみのりは訊いたことがあった。もちろん、こんなお喋りは、交替時間を待つ間、受付の戸棚の後ろのスペースでする。 「そうね、本当にいろんな方がお見えになるから。この頃はいらっしゃらないけれど、受付の応接コーナーのテーブルに乗って、大きな声で歌を歌ってしまうお客様が、よくいらしたの」 「よく、いらしたんですか」 「そうなんですの。毎年、春先にね。春って、植物が急に伸びるでしょう。花も咲きますしね。きっと、あの匂いとか、強い生命力とかが、あの方たちに作用してしまうんでしょうね。どうやって、ここまでの道順とか、乗り継ぎとかを調べるのかしらね。それにしても、あのお婆さん、どうなさっているのかしら」  木島さんは、ちょっと懐かしそうに言う。 「他には、どんな方がいらっしゃるんですか」  みのりは、仕事の参考にというより、ただ聞きたい。 「時々あることなんですけれどね、ご自分のお書きになった論文が、何年何月号の雑誌に載っているんだけれど、雑誌を失くしてしまったので、コピーを下さいって、お見えになる方がいらっしゃるんです。ここでは、コピーサービスはしていなくて、申し訳ないんですが、大抵は大宅壮一文庫のことをお教えしているんです。でも、ご執筆者が直接お見えになって、お困りなんですから、そんなことも言ってられなくて、資料室に、裏でこうして待機していた方にその雑誌を見に行っていただいたんですの。で、少ししてから、資料室からその方が電話をかけてらして、その論文がないって、おっしゃるの。もしかしたら、月号が違うのかもしれないと思って、前後の号を見ても、ないんです。じゃあ、資料室の著者別のカードで、掲載号を調べようと思ったけれど、そういうお名前の著者のカードはなかったんですって」  みのりは、幽霊が横切る時、こんな感じかと思った。 「で、どうしたんですか」 「わたくし、困ってしまいましてね、もう一度、お名前と、何年の何月号なのかうかがいましたの。でも、やっぱり同じことをおっしゃるから、資料室の松田さんにお願いして、その号を受付まで持ってきていただいたの。本当は、雑誌のバックナンバーは、持出し禁止なんですけれど、この場合は仕方ないですからね。そして『申し訳ございませんが、どちらの論文でしょうか』って、その方に探していただいたの」 「そうしたら、どうなさいましたか」 「しばらく目次をじっとご覧になっていたんですけれど、『やっぱり無かったです』って、おっしゃって、お帰りになったの」 「そうですか」 「なんだか、わたくし、悲しくなってしまいましてね。きっと、何かにご応募下さった方じゃないのかしら。ご自分の中では、雑誌に載ったことになっているんでしょうね。でもね、そういう方々って、どこも変じゃなくて、普通に見えるんですの。だから、余計に悲しい気がするんです」  木島さんは、ちょっと笑った。 「悲しいって言えば、前にね、赤ちゃんをおんぶして、もう一人、小さい坊ちゃんを連れた女の方が北海道からいらしたの。その方、『先月の連載分の原稿料が、まだ届いていないんです』って、おっしゃりにいらしたの」 「電話じゃなくて、わざわざいらしたんですか」 「そうなんですの」 「で、その方、ご自分をどなただっておっしゃるんですか」 「『山口瞳ですけれど』って」 「えっ、だって、ちょっと、それは」 「ね、困るでしょう。坊ちゃんは二歳ぐらいで、とてもお利口そうなの。お母さんの側にじっとしていてね、わたくしのことを見ていたんですの」 「で、どうしたんですか」 「その時は、経理の女の方に来ていただいて、山口瞳先生は、もうお亡くなりになって、今はご執筆いただいていないことを、ご説明いただきました」 「その方、それでお帰りになったんですか」 「ええ。あの方、どうなさっているのかしらね。おうちの方は、ご存じなのかしら」 「本当に、北海道から来たんでしょうか」 「さぁ、どうでしょうね。でも、そういうお客様って、不思議なんですけれど、大抵、どこからいらしたのか、ご自分でおっしゃるの」  木島さんは、つくづくという感じで言った。 「人間って、不思議ね。いろいろなことを、してしまうものね。もっと不思議なのは、その人の丸ごと全部が変ではなくて、ほんの少しの部分だけが、おかしなことになっていて、あとはまるで普通に見えるっていうことなんです。だから、普通に見えていても、本当はちっとも普通じゃないっていうこと、たくさんあると思うんです」  本当、そうだな、とみのりは思った。人を殺した犯人を、テレビのワイドショウでは、「道で会えば挨拶もする、普通の人でした」と、近所の人は言っている。きっと、普通の人が、どんなことでもするのだ。  熱海の殿様と仲根さんは、三十分ぐらい話をしていたのだろうか。「それじゃあ」という感じで、殿様が立ち上がり、仲根さんに右手を軽く上げ、そして最後に受付をちらりと見て出ていった。仲根さんも、受付を見て、会釈をして、そのまま行ってしまった。仲根さんは、何と言って殿様を納得させたのだろう。でもみのりは、何だか疲れてしまい、自分の表面にあった柔らかい層が、ざっくり削られた思いがした。  水商売ではないけれど、受付にお客様がたくさんいらっしゃる時間と、全然いらっしゃらない時間がある。  忙しいのは、十一時半、一時、三時、五時だ。 「三時って、約束しやすい時間なんだと思う。ご飯はもう食べちゃったし、夕方までには、まだ少し時間があるし。人に会った後、もう一仕事できるからね」  紅ちゃんは、そうみのりに言った。だから二人が、こうして坐っている二時、しかも、夏の二時は、あまりお客様が来ない。配ってこなくてはいけない書類もない。仕事は、自分で作るものだ、ともっともらしく(お説教じみて)言う人がいるけれど、こんな時はどうすればいいのか。  受付は、顔を上げてまっすぐ前を向いているのも仕事で、お客様が来ないからといって、本を読んでいるわけにもいかない。  紅ちゃんと、みのりはしばらくは黙って前を向いていた。けれど、人間が二人並んで、ただ前を向いているというのも、実は疲れることで、おまけに、そんな風に坐っていると、仲が悪いように人からは見えるし、それにもくたびれてしまう。  顔は前を向いたままで、みのりは、後ろで待機している木島さんや宮本さんに聞こえないように紅ちゃんに話しかける。 「紅ちゃん、あのさ」 「何?」  紅ちゃんも、顔をまっすぐ前にしたまま小さな声で言う。 「サザエさんって、嫌じゃない?」  紅ちゃんは、えっ、と笑ってみのりを見て、さっと、また前を向く。 「やだぁ、また何、やぶから棒に」 「紅ちゃん、やぶから棒にって、そんな言葉、よく使うの? わたし、今まで、それ、一度も使ったことがない。大人っぽいよね、やぶから棒って」 「うーん、そうかな。でも、やぶから棒が急に出てきたら、やっぱり驚くよ」 「うん、蛇かと思ってね」 「まぁね。で、サザエさんのどこが嫌なの。あの人、明るいじゃない。元気そうだし」  紅ちゃんは、まるでサザエさんの知り合いのような言い方をする。サザエさんを、全然知らない日本人っているんだろうか。 「だって、あの人、買物に行くのにお財布、忘れていくんだよ。バカだと思わない? あんな人と一緒に仕事したくないよ」 「そんなこと言っちゃ、かわいそうじゃない」 「かわいそうじゃないよ。ああいう人は、悪気がないから、なおさら嫌なの。きっとね、平気で同じことをするし、気が付かないし、なおさないと思うよ。一緒にいるほうが、損をする」 「あっ、嫌なこと言ってるなぁ」  紅ちゃんが、にやりと、みのりを笑って見た。 「紅ちゃん。仕事を一緒にするならさ、性格が良くて仕事のできない人と、性格が悪くて仕事のできる人のどっちがいい?」  紅ちゃんは、にやにやしたままだ。 「みのりはさ、どっちがいいの」 「わたしは、ともかく、性格が悪くて仕事ができない人は、一番嫌です」 「あー、また意地悪言ってる。嫌だなぁ、この人」 「わたしは、意地悪ではなくて、本当のことを言っているだけです」 「みのり、宮本さんのことは嫌だろうけど、透明人間のつもりでいないとだめだよ。いちいち気にしていたら、やっていけないよ」  紅ちゃんは、ことさら声を小さくして言った。 「あれ、紅ちゃん。宮本さんの話をしていたの? わたしは、別にそんなこと言ってないよ」 「もう、嫌だな。みのりは」  そう言って紅ちゃんは、 「わたしは、灰皿取ってくるよ」  と、言って給湯室へ行った。  受付には「早番の人がする仕事」と「気が付いた人がする仕事」がある。 「早番の人がする仕事」は、お湯を沸かしてポットに入れる、四人それぞれのお茶碗を用意する、そして新聞を綴じる、みんなにお茶をいれる、という四つだ。  お湯は待っている時には、なかなか沸かない。やかんが、しゅうしゅう音をたてるのを待つ時、みのりはいつもそう思う。会社の給湯室には、蛇口が二つあってお湯も出る。けれど、木島さんは、「このお湯は使わないで、水から沸かして下さいね」と、最初の日に、みのりに言った。 「いいんですけどね。でも、管を通ってきているお湯ですから、わたくしなんだか気持ち悪くて、嫌なんです」  水だって管を通ってくるわけだし、それを沸かすのだから、よく考えれば同じような気がするけれど、木島さんがそう言うのだから、水から沸かそうと思う。嫌なわけではない。紅ちゃんが早番の時は、紅ちゃんも水から沸かしているだろう。でも、宮本さんって、どうだろう。ちょっと怪しい気がする。  お湯が沸いたらポットに入れる。そして、四人のお茶碗を、棚から取り一度お湯にくぐらせる。それを言ったのも木島さんだった。 「ごめんどうを、お願いするのですが、お茶碗はお湯を通して持ってきて下さいますか。ここでは、お茶碗を洗って下さる方がいらして、わたくしたちは洗わなくていいんです。でも、お茶碗の数が多いから、ちゃんと洗うのは大変なのかもしれません。前にね、お茶碗のふちに、前の日の口紅が残っていたことがあるんです。気持悪いでしょう。それに、洗剤が残っていると嫌ですし。ですから、すみませんが、お湯にくぐらせて持ってきて下さい」  でもそのお湯は、蛇口から出るお湯を使うのだ。お茶碗にかける分には、管からきたお湯でも気持ち悪くないのだろうか。それとも本当は、やっぱり水から沸かしたお湯を使って欲しいけれど、そこまで言うのは「あんまりだから」と、木島さんは我慢しているのか。本当の本当のところは、きっと、四人のお茶碗をもう一度洗って持ってきて欲しいのかもしれない。そうすれば、やっと木島さんは安心できるのだろう。  木島さんは、えーと、と言いながら、お盆にお茶碗をのせる。木島さんの指には、透明なマニキュアが塗られていた。木島さんのはぽってりとした萩《はぎ》焼のお茶碗、紅ちゃんのお茶碗は、白地に紺の兎が描かれている。そして、宮本さんのは、ピンク色のマグカップで、ドーナツ店の景品らしく、お店の名前が入っている。 「宮本さんのは、これなんですの。お茶を飲むのですから、普通のお湯飲みのほうがいいんじゃないかと思うのですけれど、あの方、気になさらないたちですから」  木島さんは、それぞれのお茶碗にお湯をかける。中にも、外側にも、そして、お茶碗の底にも。 「今日は、鈴木さんのお茶碗がありませんから、会社のを使いましょう。明日から、ご自分のを持っていらして下さい」  そう言って、木島さんは、紺地に白い水玉模様のお茶碗をひとつ取り、お湯をかけてくれた。  お茶の仕度が済むと、次は新聞を綴じる。朝日・毎日・讀賣・サンケイ・日経。それぞれの朝刊と夕刊を、穴あけパンチで穴をあけて、ホルダーに綴じる。この時、前の日に綴じた穴の位置と、あまりずれないようにしなくてはいけない。それも木島さんから言われたことだ。位置をずらさないように、新聞が波打たないように、そして、失敗していくつも、新聞に穴をあけないように。新聞綴じもめんどうと言えば、めんどうだけれど、慣れればなんでもないことだ。誰にでもできる仕事って、落し穴だな、とみのりは思う。その仕事をバカにしていい加減にすると、あの人はいい加減だから、とそれより上の仕事はさせてもらえないだろう。そう思いながら、修業のような気持で、新聞に穴をあける。  こんな、細々とした早番の仕事をしていると、九時半になり、二番めの人が出社する時間になる。三番めの人は、十時に、そして四番めの人は十時半に来る。  そして、自分の分と、二番めの人にお茶をいれる。 「お茶くみといっても、ここは四人だけですからね、お茶はいれて下さい。お茶くみもね、大事な仕事なんですけれど、女の人にはお茶くみしか仕事がないっていうのであれば、問題だと思います」  木島さんは、珍しくそうきっぱり言った。新入社員がお茶くみに対して心得違いをしないようにと思ったのだろうか。それとも、前に何かお茶くみのことで問題があったのだろうか。新人なんて、まだ何もできないのだ。これが仕事だと言われれば、どんなことも仕事だった。  世の中って、ちゃっかりしている人と、ちゃっかりしている人にちゃっかり使われてしまう人の二通りしかいないんじゃないか。みのりは宮本さんと組んで仕事をしていると、そう思えて仕方がない。  二番めの人は、九時半に来なくてはならない。木島さんはそう言ったし、紅ちゃんが二番めの日は「おはよう」と走って九時半には来る。みのりが二番めの日は、なるべく九時二十五分には来るようにしている(木島さんは新人の来る四月以外は、いつも三番めと四番めでローテーションを組む。このことについて誰も不平はない)。  でも宮本さんは、九時半に来たためしがない。来るのはだいたい九時四十分から四十五分の間だ。走って玄関から入ってくるわけでもなく、上目遣いでちらりと一度、みのりを見てから時計に目をやる。それだけだ。みのりに「おはよう」も言わない。ただ黙って受付に入ってきて、そのまま受付に坐るのだ。みのりが「おはようございます」と言っても、それに返事をするわけでもなく、みのりがお茶をいれても何も言わない。それどころかみのりのいれたお茶を一口も飲まず、交替後に湯のみを給湯室に持っていき、一度あけてから、自分でいれ直すのだ。  初めて、宮本さんがそれをやっていることに気付いた時、みのりはぞっとした。干からびたヒヨコにしか似ていないこの女は、平気でこういうことができるんだ。背骨と平行して、強い憎しみが全身を通っているんだ。ふーん、バカはバカなりにいろいろなことをするものだ、とみのりは思った。  宮本さんは、みのりに「貯金、いくら?」と、入社初日に訊いたけれど、あの質問が宮本さんの全てを象徴していた。  宮本さんを構成している二本の柱は、お金はいっぱいあるといいということと、少しでも条件のいい男の人を見つけて結婚したい、ということだった。 「鈴木さんの同期の井上さんって、東大なのよね」 「ええ」 「すごいわね」 「そうですよね」  ここまでは、普通の会話だった。みのりは今でも覚えている。四月の二週めの水曜日で、みのりは宮本さんと組んでいた。 「国立大学だなんて、学費も安いし、井上さんも親孝行よね」 (えっ、東大卒って、そういうことじゃないんじゃないか?) 「井上さんって、確か住所は世田谷だったはずよね。どうして、東大生なのに世田谷なのかな」 「えっ、そうでしたっけ、世田谷だったかな」  同期の誰がどこに住んでいるかなんて、それ程重要だろうか。伊藤春子は、埼玉の自宅から通っていると聞いた。でも、あとの二人は一体どうだったか。 「ここが実家なのかしら。でも、あの人の住所は確かマンションの名前が書いてあったから、独り暮らしかもしれない。どうなのかな。そうだと、あの辺はお家賃が高いから、もったいないのよね。井上さんは長男なの。でも、わたしは、次男の人が希望だから」  宮本さんは、笑ってそうみのりに言った。 「はぁ?」  と、言えればよかったけれど、まさかそうはできない。口には出さないみのりの意見が次々に、心の中にわいてきた。  まだよく知らない相手に対して、まず長男かどうかを判断する宮本さんは、全くみのりとは種類の違う人だった。  宮本さんは、井上純一の住所を「なんとなく覚えていた」ように言ったけれど、本当はそうではなかった。社内報に出た「新入社員の住所」から、純一の住所と善彦の住所だけを自分の手帳に書き写して覚えていたのだ。待機している時だった。みのりが、地階にある自動販売機で牛乳でも買ってこようと思って宮本さんの後ろを通った時、宮本さんはロッカーから出してきた住宅情報誌と自分の手帳を、机の上に広げていた。何をしているのかな、とは思ったけれど、宮本さんのことはあまり気にしないようにしたかったので、それ以上考えなかった。  みのりが、右手に牛乳のパックを持って帰ってきた時、宮本さんは、あぁと、笑ってみのりに言った。 「井上さんが住んでいるところのマンションが売りに出ているのよ。井上さんのおうちは、五階みたいだけど、これは二階でね、ほら、パークサイドって書いてあるし、住所も同じだし。三LDKで、四千万円を切っているの。これは掘り出し物じゃないかしら」  それが一体、何だというのか。  これが、美人で目が大きく、そしておっぱいも大きくて、肌も白くてすべすべで、脚もきれいな女が言えば、それも嫌らしいが、それはそれでなんだか納得もできる。  でも、お前は何なのだ、と言ってやりたい。どうして、何の疑いもなく、簡単に男というものは自分を必ず好きになり、恋愛に発展して、自分がその男と結婚する、ということまで考えられるのか。とりわけ、今日は肌もかさかさして粉がふいているし、唇もひびが入っていて、「わたし、この色が好きなの」と言っていたパールの入ったベージュに近いピンクの口紅もうまく塗れていなくて、皮がむけてしまっている。そのため、いつもより一層干からびている印象が強い。  それは、確かに女の子、特にこれから馬場に出ていこうとしている若い女の子の胸の中では、「いい人と巡り合いたいな」「そして、その人と暮らしたいな」「だから、お金はあったほうがいいな」と、風船のようにこんな思いがいつもゆらゆらしているだろう。みのりだってそうだし、みのりの母がみのりに言った「とにかく商社に入って、そこで働いている人に見初めてもらえばいい」という言葉は、母の考える「女の子が就職する目的」を端的に語っている。  でも、会社は働きにきている場所なんだから、毎日の仕事を、きちんとすることに頭を使うべきだし、とりわけ宮本さんには、そうしてもらいたい。  宮本さんは新聞綴じが下手だ。いつも、前の日に綴じた分とは、一センチぐらいずれている。木島さんは、前の日の新聞とずれないように、と言ったのに、宮本さんは、全然気にしていない。だから、宮本さんの次にみのりが早番の時は、前日の分を一度ホルダーから引き抜き、もう一度やり直さなくてはならない。新聞にだって、余計な穴が二つあくことになる。新聞綴じぐらい、ちゃんとやって欲しいと思う。こんなに簡単なのだから。  朝、まだ誰も来ていないフロアーで、半分しか電気を点けずに新聞を綴じていると、部屋の隅に、小さな神様が隠れながら、みのりを見ているような気がする。みのりは、本当はずるい人間だから、まっさらな状態だと、やっぱりいい加減なことをしてしまいそうになる。そんなことではだめ、といつも自分を叱っていないと、やるべきことを正しくできないような気がする。前の日の新聞にその日の朝刊をそっとのせ、目を一瞬こらしてから、パンチで穴をあける。ああ、神様、どこかで、これを見ているのですねと思いながら。  受付には、「気が付いた人がする仕事」というものもある。  お茶の仕度の時、お盆に、お茶碗、急須、お茶筒、そして飲んだ後のお茶っぱをあける小鉢(茶こぼしではなく、本当の小鉢)も、持っていく。二回ぐらいお茶を飲むと、この小鉢はお茶っぱでいっぱいになるから、給湯室の隅にある青いバケツにあけに行く。これを「気が付いた方にしていただくんですけれど」と、木島さんは言った。でも、この手の仕事って、二人人間がいたら先に気が付いてしまったほうが負けではないだろうか。気が付かないほうは、本当に気が付かないのか。それとも、気が付かない振りをしているのだろうか。  みのりが紅ちゃんと組む時は、一番楽だ。みのりが小鉢をあけに行くと、「次は、わたしが行くね」と紅ちゃんは言ってくれる。そして、本当に紅ちゃんは行く。みのりと紅ちゃんが組む時、木島さんと宮本さんが組んでいるのだけれど、二人とも小鉢は持っていかないから、すぐにお茶っぱは溜《たま》る。  木島さんは、こんな仕事をしなくてもいいと思うし、するべきではないとも思う。もしかしたら、木島さんは宮本さんに気付かせるために、小鉢をそのままにしているのではないか。それでも、どうかすると、十回に一回ぐらい木島さんが、やっぱり高そうな布地のしっかりしたスーツを着て(木島さんは、スーツが多い)、小鉢を持って給湯室へ行こうとする時があって、それこそ、それに「気が付いた」みのりか紅ちゃんが、「あっ、木島さん、いいですよ」と、木島さんを追いかける(それも、なんだか大袈裟で、安手のテレビドラマみたいだけれど)。でも、そんな時、一番それをしなくてはならない宮本さんは、ぼんやりとして、木島さんの後ろ姿を見ることもなく、ただ前を向いて坐り、髪をいじっているか、爪のささくれを剥いているのだった。  気が付かないって、強いのだ。  別に、小鉢を持っていくのが嫌なわけではない。仕事とも言えないぐらいのことなのだ。ただ、それをしないで済まそうとする宮本さんの心が嫌なのだった。  だから、宮本さんと組むと最悪だ。小鉢をあけに行くのは、いつもみのりで、それを見ても、宮本さんは何も思わないらしく、相変わらず髪をいじっているだけだった。  紅ちゃんと宮本さんが組む時も、結局は紅ちゃんばかりがすることになる。  紅ちゃんが言った。 「わたしさ、あんまりだから宮本さんに言ったの。『宮本さんも、お茶っぱあけに行ってよ』って。そうしたら、宮本さんたら、『だったら、わたし、これからここでお茶飲まないから、関係ないじゃない』ってへらへら笑うんだよ。もう、あきれたね。こんな人に言ってもさ、もう無駄だと思ったから、いいやと思って自分ですることにしたの。宮本さんのことで疲れるの嫌だ」  紅ちゃんは、最後のほうは声が小さくなり、うんざりといった感じだった。  宮本さんがお茶を飲まないというのは、半分本当だった。紅ちゃんがいれたときにはほんの少し口をつけることもある。でも、みのりがいれたお茶は飲まないと決めたみたいだった。  そして、宮本さんは自分が早番の時でも、みのりにお茶をいれなくなった。  純一の住む同じマンションの値段を言われた時、みのりはぞっとした。顔には出さないようにしたけれど、出してもいいと思った。宮本さんは、笑った顔で、そのままみのりに、 「鈴木さんが住んでいる団地の値段も、出ているのよ。ほらここ」  と、言ったのだった。 「それが何だっていうんですか」  汚い手でいきなり顔中触られたと、思った。その手はべとべとしていて、臭くて、触られたら、もうそのにおいは決して取れない。  みのりの住む団地は、千葉にあって、六歳の頃から住んでいる。みのりたちの部屋より、一回り小さいタイプの部屋は「千五百万もしないんだって」と、つい先週母が言っていた。「ずいぶん価値がなくなっちゃったのね」と、付け足した。  安くたって、古くたって、そして狭くたってどうだっていいでしょう。あなたのような人にそれを知られたくないし、何も言われたくない。みのりが猫だったら、今、全身の毛を逆立てているところだ。もうこの人とは、きっちり線を引かなくてはならない。 「じゃあ、宮本さんのおうちはどこなんですか」  なんて、笑っていい人ぶって話を合せては絶対だめなのだ。バカはバカのまま一生を過ごせ。 「宮本さんって、お金のことばっかり言うんですね。わたしは、両親にお金のことを口にするのは卑しいと、しつけられてきました」  そう言って、宮本さんの向かい側に坐って買ってきた牛乳を飲んだ。こんな時、どこかへ飛び出したって、時間がくれば結局は戻らなくてはいけないのだ。みのりだってうんざりだけれど、ここは平気な顔をしていなければならないシーンだ。この手の女ってどこにでもいる。好奇心が強いというのではなく、ただ慎みがないだけなのだ。きっと結婚すれば、他人の夫の職業と年収を知りたがることだろう。  宮本さんは何かを言うわけでもなくのろのろと立ち上がり、住宅情報誌をロッカーにしまい、あーあ、と一度小さく言って、もうその後は何も言わなかった。  給湯室から、きれいになった灰皿を持ってくる。受付の応接コーナーにある観葉植物の葉っぱを、濡れ雑巾で拭く(案外と汚れている)、煙草の吸いがらを受付の裏側にある小さな赤い金属のバケツにあけて、灰皿を給湯室へ持っていく。これは、みんな気付いた人がやる仕事だった。でも、宮本さんと組む時は、いつもみのりがやり、受付に届いた書類も宮本さんは配ろうとしないので、みのりが配りに行く。 「あーあ」「なーんだ、なんだ」「バカみたい」。宮本さんと一緒に坐っていると、いつもこの三つの言葉ばかりが、ぐるぐると心の中にわいてくる。会社に入ってまだ三カ月だというのに、みのりはぐっと年を取ったような気がした。  八月の最初の月曜日、九時二十五分に二番めの順番で出社した紅ちゃんは、新しい時計をしていた。いつものは、黒い細い革のベルトで小さな金色の時計だったのに、この日の時計のベルトは銀色だった。 「おはようございます」 「あっ、みのり、おはよう」  紅ちゃんは、そう言って小走りに入ってくる。みのりは紅ちゃんにお茶をいれようと思って立ち上がる。紅ちゃんがロッカーを開ける音がしている。髪を少しなおして、口紅をちょっと塗りなおす。そうして出番になる。 「あっ、紅ちゃん。時計、新しくしたの」 「うん。そうなの。六月にボーナスが出たでしょう。あれからずっと、どうしようかなぁと思っていたんだけど、やっぱり欲しいと思って、きのう買いに行ったの」  そして、最後に、 「彼とお揃いなんだ」  と言って、左手から時計をはずして見せてくれた。  丸い文字盤も銀色で、普通の女性用の時計より少し大きめか。数字は、12と6しかなく、3と9が入るべき位置には、小さいダイヤモンドがあった。もし、ダイヤモンドがなくても、この時計はとても高いんだろうと思わせた。全体のデザインは、あっさりとしているけれど、有無を言わせない迫力がある。 「すごいね、紅ちゃん。とてもすてき。壊すとこわいから、もういいよ、腕にして」  紅ちゃんはパチンと時計をはめてから、ベルトの留金のところを、そっと触った。  紅ちゃんは、きれいだから、付き合っている人はいるだろうと思っていた。でも、そんなことを訊いたことはない(宮本さんではないのだ)。相手がまだ言ってないことを、先に口にするなんて、野暮な感じだ。紅ちゃんが男の人のことを言うのは、これが初めてだった。 「中学の時の同級生でね、美容師なんだよ。この頭もね、彼がするの。まぁ、練習台なんだけど」  ああ、だから紅ちゃんの髪は、いつもきれいに、ぐりんぐりんのパーマなのか。 「紅ちゃん、いいね。好きな人に髪の毛、やってもらえて」  そうすれば、いつも一番すてきにしてもらえる。 「うん、そうなんだけど、なかなか相手が忙しくてね。時間が合わないんだぁ。仕事が違うから、しょうがないんだけどね」  紅ちゃんは、この時計は彼とお揃いだと言った。それなら、彼の分は紅ちゃんがプレゼントしたんだろうか。美容師さんで、そしてまだ若ければ、きっとお店ではやらなければいけない仕事がたくさんあることだろう。なかなか会えないなぁと悩みながら、それでも紅ちゃんは、二人お揃いの時計をしたかったのだ。 「時計がお揃いだと、ほら、なんかつながっているっていう気持になるじゃない。今、わたしの時計が九時三十五分なら、ああ彼の時計もそうだなって思うと嬉しいし。でも、もっとも、向こうは仕事中に時計はしないみたいだけど。それだったら、仕事が終って時計をはめる時、わたしのことちょっと思ってくれればいいかな、と思って」 「きっと、思ってくれますよ。この時計、すてきですもん」 「うん、そうだといいけど」  そう紅ちゃんは言って、みのりに、 「好きな人、いる?」  と訊いた。 「ううん、今はいないです」  みのりがそう答えると紅ちゃんは、 「そうか。わたし、新しく知り合いになったり、友達になるんだったら、ちゃんと男の人と付き合っている女の人がいいの」  と、言った。 「えっ、どうしてですか」 「だって、男がいない女って、ひがみっぽいんだもん」 「えー、そんなことないですよ」  みのりは笑ってしまった。そんなことってあるだろうか。 「でも、前は好きな人はいたでしょ」 「はい、いました。やっぱり同級生でしたけれど、でも、短大の時、わたしが寮に入ったら、すぐに別の人を好きになって、振られてしまいました」 「そうか。遠距離って、やっぱり難しいのかな」 「会いたい時に会えませんしね」  本当にそうだった。会いに行きたかった。毎日一緒にいたかった。顔を見て、抱き合って、そして、そして。みのりは、何をどうしたらいいのかわからなかったけれど、もっと直也の心を全部掴んでいたかった。あの時の、体から飛び出すような、会いたいという気持は、もう他の人に思うことはないかもしれない。初めて好きになった人だったから、あの男、前田直也のことを少しでも思い出すのは、三年たった今でも、みのりには苦しい。今、直也はどうしているだろう。 「近くにいたって、会えないんだもん、つらいよ」 「そうですよね」  みのりは、お茶を一口飲んだ。お茶碗には白地に青い鳥が描かれている。 「わたし、今は付き合っている人はいませんけれど、別に紅ちゃんのこと、ひがんでませんよ」 「うん、わかってるって」  紅ちゃんもお茶を飲む。九時五十分になる。 「世の中にはさ、きれいな女の人っていっぱいいるじゃない。だからさ、心配なんだよ」  何を言っているのだ、この人は。こんなにきれいなのに。 「魔法が使えて、彼の目はもう、他の女の人が見えなくなればいいなぁって、バカみたいだけど真剣に思うよ。それに、仕事だけれど、他の女の人の髪を触るでしょう。髪の匂いもかぐだろうし。それも本当は嫌だ。こんなことを思っていると嫌われるって、それはわかっているんだけど、どうしても思っちゃうんだ」 「本当にね、その気持、わかりますよ」  今度男の人を好きになったら、もうどこへも行けないように、小さな部屋に閉じこめておきたい。ずっと自分のためだけの男でいて欲しいと思う。あんなに直也を好きで、直也もみのりを好きだったのに、どうして心は、ああもあっさり変われるものなのだろう。やっぱり、セックスしていなかったからだろうか。セックスしていたら違っていたのか。みのりは今もわからない。紅ちゃんは、と、みのりは少しうつむき加減の紅ちゃんのうなじを見ながら思った。きっと、紅ちゃんは、その彼と、もうセックスもしている間柄なんだろうな。そんなことは、もちろん口に出して訊けないけれど、最初にセックスをした相手も、きっと彼なんだろうな。  女の子は、やっぱりうんと考えて、そして迷って最初のセックスをするだろう。そんなに簡単なことじゃない。自分の体の中に、他人の体の部分が入ってきてしまうのだから。大変なことなのだ。みのりは、まだしたことがないから、わからない。でもきっと、外見は、それを通過したように見えることだろう。  短大の寮にいた時、女の子たちが二、三人集り、話すべきことを話した後、いつも行きつく先は、結局「あのこと」だった。セックスだなんて、あまりに恥しくて口には出せない。  女の子たちの共通した考えは、「最初というのは、相手が自分を好きで自分も相手が好きだったら(つまり、愛し合っている状態だったら)、しちゃうのは構わない」し、「しちゃうものなのかもしれない」ということだ。ただ問題は、「二回め以降」のことで、なぜそれなら、最初のセックスの後、またその人と会って、またセックスすることになるのか? (みんな、ぼんやりとセックスって何度でも継続的にするものらしい、とは感じていた)二回め以降のセックスの動機に悩んでいた。 「気持いいから癖になる」。そんなおそろしいことに、はまったらどうしよう。そう、心の中で思っていたのだ。セックスしている時の自分の姿は想像できない。でも、結局そうなってしまうのだろうか。いい子で、真面目な自分の体の一番底に、自分の知らない生き物が棲んでいるのかもしれない。そのことに、なんとなく気付き出す。セックスのことを考えるのは、こわい。そのこわさは、その生き物の息遣いのせいなのだ。  もうすぐ十時になる。お客様もいらっしゃる頃だ。みのりはお茶碗を、お客様から見えないようにカウンターの奥にずらした。 「あのね」 「はい」 「信じられないかもしれないけど、宮本さんにも、付き合っている人、いるんだよ」 「えっ」 「びっくりするでしょう」 「はい」  紅ちゃんは、さっきの悲しそうな口調とは変わって、いつもの意地悪さを復活させた。 「もうお客様がいらっしゃるから、あとで教えてあげるよ。知りたいでしょう」  そう言って、紅ちゃんは鬼奴の目をして笑った。  待機時間に、紅ちゃんは宮本さんの「彼」について教えてくれた。銀行に勤めているらしい。 「でも宮本さんって、週刊の編集部には若い男の人がいるからって、お届け物を持っていきたがるし、わたしの同期の井上さんたちの住所を手帳に書いているんですよ。おまけに、住宅情報誌を買ってきて、今住んでいるマンションが賃貸なのか分譲なのか調べているんです。それって変じゃありませんか。付き合っている人がいるんなら、もっと変ですよ」 「そうなんだよね。それでさぁ」  と、紅ちゃんは笑った。 「どうして、新人の男の人の住所を宮本さんが控えていたかわかる?」 「わたしの脳を、こういうことのために使いたくありません」 「まぁ、まぁ、そう言わないで、宮本さんのことを考えてみてよ」 「何なんですか」 「来年のお正月に年賀状を送るの」 「なんだ、そんなことですか。年賀状ぐらい普通じゃないですか」 「それがさぁ、違うの。宮本さんが着物を着て、一人で椅子に坐っている写真の年賀状が届くんだよ」 「えー、なんですか、それ」 「ね、笑うでしょう。それもね、わたしたち同期の女の子のところには、ただの印刷の年賀状でね、同期の男の子とか、社内の独身の男の人にはその着物で宮本さんが笑っている写真の年賀状がいくの」 「わかり易いですね」 「去年、みんなで大騒ぎになっちゃってね。もっとおかしいのは、独身でも三十七歳の人のところには、宮本さんは送らなかったらしいよ。だから、上限は三十六っていうことみたい」 「でも、付き合っている人、いるんですよね」 「うん。その人、追川さんっていう人らしいんだけど、宮本さん、もうあんまり追川さんのことが好きじゃないんだって」  あんな人でも、そんなことを言うのだろうか。干からびたヒヨコの自分を好きでいてくれるのだから、ありがたいと思うべきではないのだろうか。宮本さんは身の程知らずだ。 「それじゃあ、別れればいいのに」 「それがね、あと二年は別れられないんだって」 「二年は、ですか」 「うん。追川さんって銀行員だから利率がいいんだって。宮本さん、追川さんの名義を借りて定期を組んでいるんだよ。満期の前にやめると損だから、満期になってから別れるらしいよ。だから今、次の人をせっせと探しているんでしょう」  お金のために、普通そこまでするだろうか。でも、それは、みのりにとっての「普通」であって、宮本さんの「普通」とは違うのだ。人それぞれに、普通があるのだろう。紅ちゃんではないけれど、新しく知り合いになって、友達になるのだったら、「嫌いなこと」と「恥しいこと」が、できたら似ている人がいいと、みのりは思った。でも会社って、いちいちそんなことは言っていられない。年齢も、そして性別も(たまたま受付は女の人だけだけど)、性格も全然違う人を乱暴に一緒にして「仕事」をしていくのだから。うまくやっていくには知恵がいるのだ。友達になるわけでもない。とりわけ仲良くしなくてもいい。わたしたちは、年は違うけれど同僚になるだけのことなのだ。不必要な波風は立てずに、やるべきことを、きちんとする。それが会社で一番必要とされていることだ。今までは、友達かどうか、それしかなかったけれど、友達というスイッチは、会社では使わないものなのだ。それに気が付けば、なんでもないのかもしれない。 「でも、どうして宮本さんは、お金と男の人のことだけなんですか」 「うーん、どうしてかな。会社に入った時から、あの人はああだったよ」 「いつか自分を王子様が迎えに来てくれると、思っているんですかね」 「まあね」 「わたし、宮本さん見ていたらつくづく思いましたよ。あのシンデレラの話、女の子は本当は知らないほうが、いいんじゃないかって」 「どうして」  紅ちゃんは訊く。 「迎えに来てくれるのを待っているなんて、時間の無駄なような気がするし、無意味に自分に自信持つ女ばっかりになるから」 「じゃあ、みのりはどうしたいの」 「自分から、好きになる人を探しに行くの。そっちのほうが、わたしの好みです」 「なんで」 「今のわたしのこと、好き、なんて言う人、わたしのどこが好きなのか信用できないから」 「何、それ」 「紅ちゃん、あのね。わたし会社で仕事をしている時、まぁ、きちんとしているでしょう」 「うん、そうだよね」 「でもね、自分では、なんだかこれは仮の姿だっていう気がするの。一生懸命やって、わたしはやっと真面目にきちんとできるの。元々、こうじゃない。わたしなんて、団地の子だし、ここの会社の人みたいに、いいうちの子じゃないの」 「団地なんて、別に関係ないよ。うちも練馬の団地だよ」 「この前ね、応接コーナーの植木の葉っぱを拭こうと思ったんだけど、雑巾がなかったの。そうしたら木島さんがね、物入れの棚からビニール袋に入ったタオルを出してくれて、『雑巾にしましょう』って言ったの。それね、銀行の人がくれるやつだったの」 「ああ、薄手のね」 「うん。あの時ね、ああ、わたしのうちってここの会社の人たちより、生活のレベルが低いんだってつくづく思った。だって、うちはみんなあのタオルで、顔を拭くんだよ。雑巾にするなんて考えたこともなかった」 「木島さんは大きなお料理屋さんのお嬢さんだったから、また特別なんだよ。で、みのりはどうしたの」 「本当は、そのタオルをもらって帰りたいぐらいだったけど、わたしは平気な顔をして、それで葉っぱを拭いたんです。結構ほこりで汚れていて、すぐ黒くなったのね。その時、わたし、自分がここの社員の役を演じてるなって、感じたんです。台詞は敬語と『いらっしゃいませ』とか『失礼ですが』とかの、決まり文句を言っている。だんだんこの仕事に慣れてくると、反対に何か乱暴なことをしたくなっちゃうんです。お上品なことをしていると暴れたくなってくる」  正しく言えば、木島さんと一緒にいると時々暴れたくなる。広告部からもらったりんごを剥いていた時もそうだった。みのりは給湯室から包丁と、まな板を持ってきて、待機部屋の机の上で剥いた。受付は他の部からの、おすそ分けの多い部だ。くるくると皮を剥き、ああ皮が切れないでずいぶん長くなったな、とみのりが思っていたら木島さんが笑って、「あら、みのり。おりんごは最初に四つに切って、それから皮を剥くものよ」と言った。えっ、そうなのかな。うちではずっと先に皮を剥いて、それから四つに切るのに。 「ほら、そうすればおりんご、汚れませんもの」  でも、うちのやり方だって別に汚くない。どうだっていいのに。みのりは大きな声を出し、木島さんに言い返したかったけれど、さもど忘れをしたかのように、 「あっ、そうでしたよね。すみません」そう笑って、二個めからは木島さんの言ったやり方で剥いた。こんな時、自分の成分が薄まっていく、と感じる。別にそんな成分、薄くなっても構わないのだ。でも、なんだか淋しくもなる。木島さんを優しいいい人だと思う。でも、そんな風に思ってしまったことも本当なのだ。  木島さんには決して口答えはしない。宮本さんとは冷戦状態。みのりは会社帰りに、ドラッグ・ストアに寄り小さな瓶のマニキュアをいくつも買う。赤やピンクは選ばない。メタリックの紺だの、黒だの、深緑だのわざと変な色を選ぶ。それを夜、こっそり十本の足の指に次々と塗るのだ。受付では指に濃い色のマニキュアをしてはいけないことになっている。それも最初の日、木島さんが教えてくれたことだ。じゃあこれならどうだ、とすっかり邪悪な色に染まった足の爪を見る。自分でも、こんなのは人でなしの足だと思うけれど、こうすることでみのりはなんだか、すかっとするのだった。 「暴れないでよ」 「暴れないけど、ちゃんとしている時のわたしを見て、好きになられたら嫌だな、と思っているんです」 「難しいじゃない。じゃあ、どんな時のみのりを見て、好きになったらいいわけ?」 「うーん、よくわからないけど、とにかく会社でのわたしは、だめなんです。にせ者だから」 「じゃあ本物はどこへ行ったの」 「休憩中です」 「ふーん」 「わたしは、ともかく宮本さんには、いろんなことをちゃんとやって欲しいんです。会社で男の人のこと考えるのは止めて欲しい」 「まぁね」 「紅ちゃん、あの人、どうしたらちゃんと働くんですか」 「そうね、雷に打たれてそのショックで、いい人に生まれ変わるとか」 「雷、来ますかね」 「あんまり、ここには来ないよね。うーん、じゃあね、前みたいに五条さんに叱ってもらう。もっとビジネスライクに徹しなさいって言ってもらう」 「それでもなおらなかったんでしょう」 「そうなんだよね」 「じゃあ、宮本さんの彼の追川さんに責任を取ってもらって、結婚しておうちに引き取る」 「追川さんには責任はないよ。迷惑しているかもしれないけど」 「それじゃあ、宮本さんを入れた人が責任を取って、自分の部署に引き受ける」 「そうしてもらいたいよね、本当は。でも、みのりも新人なんだから、あんまり宮本さんのこと、言うのはいけないよ」 「はい、じゃあ、来年になればいいですか」 「もう、そんなのもだめだよ。それにさ、もしかしたら来年、宮本さん、異動になるかもしれないじゃない。それまでの我慢だよ」 「そうなんですか」 「来年の三月でまる二年になるから、変わるんじゃないかな。宮本さんも、そう思っているみたいだし」  そんなことを話していたら、二人の待機時間は残り十分になり、みのりは化粧ポーチを持ち、洗面所へ行った。  洗面所には同期で営業部の春子がいて、鏡に向かって、しきりに目をこすっていた。みのりに気付くと、鏡の中からみのりを見て「やあ」と言った。  なんだか目が赤い。あれ、変だなぁと、みのりが黙って見ていると、春子は二度鼻をかみ、ティッシュで目を押さえた。春子は泣いていたのだ。泣いていたというよりも、泣かないように、あれこれ工夫していたのかもしれない。 「春ちゃんどうしたの」 「大丈夫。何でもないよ」  確か春子は十時半頃、「お使いに行くんだよ」と、茶色の大きめの書類袋を持ち、受付のみのりに手を「にぎにぎ」して出掛けていったはずだった。ちょうどその時、遅番の木島さんが玄関から入ってきたところで「あの方、かわいいわね」と、みのりに笑って言ったのだ。  営業の春子は、電話で書店さんからの注文を受ける他にも、「お使い」といって、ポスターや、ポップという本の宣伝文句を書いた札を書店に届けに出掛ける。そのうち外廻りといって、担当の書店にうかがって注文をいただく仕事もするんだよ、と言っていた。少しずつ、上の段階の仕事をしていくようになるなんて、うらやましいな、とみのりは思った。何カ月たってもみのりの仕事は、ただ坐っているだけだから、成長なんて何もない。でも、それはしょうがない。受付と営業は全然違うんだから。同期は競争相手ではないと、四月の最初の日、人事の人がそう言った。その言葉は、折々にみのりの心に甦る。 「春ちゃん、さっき、お使いに行ったんでしょう。何かあったの」  この日の春子は、グレイのカットソーを着ていて、首には星形にラインストーンをあしらったネックレスをしていた。襟刳《えりぐ》りは深く鎖骨がくっきり見えている。 「あのね、本を届けに行ってきたの」  春子は話す気になったのか、ティッシュで鼻を押さえながら言った。 「朝、交換台から読者の方ですって、電話がきたの。その人、今読んでいる文庫に誤植があるって。部長の森田さんに訊いたら、営業部宛に送っていただいて、重刷分から誤植がなおっている本をお送りしてって言うから、そう答えたの。でもその人、今、読んでるんだから、今すぐ新しい本を持ってこいって言うの」 「で、どうしたの」 「また森田さんに訊いたら、『じゃあ悪いけど、届けてくれる』って言うから、そうすることにしたの」  春ちゃんは、背の高い福助のような森田さんのファンで、みのりと一緒に帰る時はまず最初に森田さんの話をする。森田さんは、年若い部下を立てる人だという。ある時、無茶な数の本の電話注文がきて、そんなにたくさんは今、出せないと入社二年めの望月さんという女の子が言ったら、書店の人が急に怒り出して、お前じゃ話にならないから、男を出せと言い出した。その時、泣きそうな望月さんの代わりに森田さんが電話に出て、「望月が出せないと申しているようでしたら、申し訳ありませんが、やはりお出しできません」と言ったんだそうだ。そして、望月さんに、職場では決して泣かないように、と言ったという。そうでないと、女の人に仕事をまかせられないよ、と穏やかに言ったらしい。 「本当に、いい人なんだよ。あの人の部下で嬉しいよ」  春ちゃんは、あの時そう言った。 「誤植があるって言ってきたお客さんはね、マリオンの近くのビルで働いていて、そこに持ってこいって言うの」 「だってあの時間じゃ仕事中でしょ。その人、本を読んでいるの?」 「うん、行ったら窓の近くの席で、本当に本を読んでいた」 「ふーん」 「それでね、申し訳ありませんでしたって言って、新しい本をその人に渡したの」 「うん」 「そうしたら、その人、わたしのことは全然見ないでね、黙って今まで読んでいた本を床に投げてよこしたんだよ」 「えっ。本当? それ、ひどいね」 「うん。わたしもそう思った」 「まわりに人はいたんでしょ」 「そうだよ。たくさんいた。女の人もいた」 「で、どうしたの」 「わたし、拾ってきたよ」  春ちゃんは黙ってしゃがんで、右手を伸ばし、床の上の本を拾ったことだろう。この日着ていたカットソーの襟刳りだったら、かがめばもしかしたらブラジャーが見えたかもしれない。 「それでも、失礼しますって言って帰ってきたの。そしたら、その人、『君の会社もずいぶん落ちたもんだねぇ』って、それだけ言ったんだよ」  でも、誤植をしたのは春ちゃんじゃないし、何人もの目で点検するけれど、やっぱり誤植はゼロにはならない。 「でね、電車の中で、受け取った本をめくってみたら、赤い線が引いてあって、何かと思ったら、そこが誤植の場所だった。句読点の丸がね、二つあったんだよ。誤植は誤植だけどね、これのことなのか、これのことで、わたしはあんな目に遭うのかと思ったら、泣けてきた」 「ちょっと、それはひどいよ。誤植だけど、意味が通らないわけじゃないし、そこまで言わなくてもいいよ」  みのりは、鏡の中の春子を見ながら言った。 「森田さんには言ったの?」 「えっ、そんなこと言わないよ」  春ちゃんは、振り向いてみのりを見る。 「だって、心配かけるから、そんなことは絶対言いたくないよ。このままの顔じゃ席に戻れないから、直そうと思っていたんだけど、みのりに会ったら、なんだかだめになっちゃった」  そう言って、春ちゃんは、うっうっと声を我慢しながら泣き出し、手を目に当てている。  まだ知り合って四カ月しかたっていないけれど、春子の感情の波というのは一定していて、目盛で言えば弱に近い中だった。穏やかでいつもにこにこしている。その穏やかさというのは、大事にかわいがられて育った証《あかし》ではないかと、みのりには思われた。  最初のお給料日、春子は社員食堂でお昼ごはんを食べながらみのりに言った。 「みのり、わたしね、このお金、三万円は自分用に取っておいて、あとは今月は全部使っちゃうんだ」 「ふーん、春ちゃん、何に使うの」 「親がね、まだ一度もホテルに泊ったことがないからね、泊めてやろうと思って。先に言うと『もったいない』って、きっと言うから、こっそり予約して驚かすんだ。あとはね、高校の時の部活の先生に、何かお礼をしたい」 「何の部活していたの」 「ブラスバンド部。フルート吹いていた」 「へえ、春ちゃん、すてきだね」 「みのりは何かしていたの」 「陸上部。わたしは、グループ行動だめだから。一人で走っている分には、いいの」 「ふーん、そうだったの」  でも、もう最近は全然走ってないなぁと、「今日のランチA」の八宝菜のにんじんを食べながら、みのりは思った。春子の指先は、白いばんそう膏が巻いてある。電話注文を短冊に書いたり、書類をたくさんコピーしたり、営業部は毎日何度も紙を触る。ただでさえ、紙は指先の脂を吸うから、アトピー体質の春子はつらいことだろう。 「で、春ちゃん、あとのお金は何に使うの」 「おねえちゃんに、ケーキを買いたい」 「なんでケーキなの」 「おねえちゃんも、最初のお給料でわたしにケーキを買ってくれたから」 「どんなケーキだったの」  春子は「今日のランチB」のチキンライスを食べながら言う。食べながらだけど、中のグリンピースをスプーンですくっては、お皿のふちにそっと置いている。豆は一列に並んだ。 「あのね、上はババロアで、その白いババロアの中には、ピンクやむらさきの花びらが入っていてホール形なの。下はスポンジ。あんなきれいなケーキ見たことがなかった。おねえちゃんは、何日も前に予約しておいてお給料日に買ってきてくれたの」 「春ちゃんも、それ買うの」 「最初はそうしようかと思ったけど、やっぱり違うケーキにしたんだ」 「どんなの」 「あのね、ハリネズミのケーキ」 「そんなの見たことがない」 「この前、お使いで銀座一丁目に行った時に見たから、それにしたの。チョコレートでできているんだよ」 「へえ、見たいな」 「今日、帰りに取りに行くから一緒に来る?」 「うん。そうする」  ご両親のホテル代、部活の先生へのプレゼント、お姉さんへのケーキ代。それでもまだお金は残るはずだ。 「春ちゃん、三万円を自分用にしても、まだお金、残るでしょう。それは、どうするの」 「うん、残ったお金でね、上等な喪服を買うの」 「えっ、喪服? あのお葬式の時に着るやつでしょう」 「だって、社会人になったんだもん、これから必要だよ。わたしは、最初のお給料でまず喪服を買おうって決めていたんだ。みのり、喪服、持っていないでしょう。だったら、みのりも喪服は買っておかなきゃだめだよ」 「ふーん、そうかな」 「そうだよ」 「春ちゃん、今日、喪服も買うの?」 「今日は買わない。ケーキがあるから」 「そうだよね。じゃあ、わたしも喪服は買うから、春ちゃんが買う時、わたしも一緒に行っていい?」 「いいよ、一緒に買おうよ」 「喪服って、どんなの? かわいくなんかないよね」 「かわいい喪服なんてないよ。黒くて、ちゃんとしていればいいんだよ」 「うん、わかったよ、春ちゃん」  春ちゃんが取りのけたグリンピースは、十粒ぐらいか。 「缶詰のグリンピースって、かたくて味もしないし、好きじゃない。でも、チキンライスは好き」 「春ちゃん、そのお豆ちょうだい。わたしの八宝菜に欲しい」 「えっ、いいよ」  みのりは春子の残したグリンピースを、まだ三分の一残っている八宝菜のあんの上にちらした。  春子は、自分の考えを強く言うことはなく、それは思えば後にも先にも、この喪服のことだけだった。  その春子が泣いている。うっうっという泣き方は、「もう社会人なんだし、仕事中だから会社で泣いてはだめだ」という強い考えと、それでも、他人が見ているなか、床に投げだされた会社の文庫本をしゃがんで拾い、「君の会社もずいぶん落ちたもんだねぇ」と言われた、どうしようもない悔しさ、その二つがぶつかって、そんな泣き方になっているのだろう。  優しい穏やかなこの人が、こんなに傷付き、こわがって泣いている。なんてひどいことをするんだろう。こんな時、どうしてあげたらいいんだろう。映画だったら、アメリカの映画だったら、女の子同士抱き合い、優しい言葉をささやきながら慰めもするだろう。でも、ここは日本だし春子もみのりも日本人だ。抱き締めるなんて、そんなわざとらしい恥しいことはできない。 「春ちゃん」と、言いながら、みのりはそこに立っているしかない。  春子のことを心配しながら、みのりは、あっ、もうそろそろ、交替時間だと思い、同時にいつまでも、ここで春子を泣かせておくわけにはいかないと思った。新人がトイレで泣いていた、なんて他の人に見られたら、後から何か言われるに決まっている。 「みなさん、よく見ていますからね」  と、木島さんは言っていた。  会社の女子トイレは、和式と洋式それぞれ一つずつあり、あとは大きな鏡のある洗面台だ。泣く時、泣きたいような時、会社の女の子たちが席を立って行けるのはこの場所しかないけれど、そういつまでもいられる場所でもない。 「みのり、ごめんね。もう大丈夫だよ」  まだ春子の目は赤い。もう少し時間がたたないとだめだろう。  その時、扉が勢いよく開き、あれ、と思ったら紅ちゃんが入ってきた。 「あっ、みのり。ここにいたの」 「紅ちゃん。ごめんなさい。もう交替時間ですか」 「そうなんだけどさ、そうじゃないのよ、もう」  春子は、紅ちゃんに背を向けまた鼻をかむ。 「頭にくる」  紅ちゃんは、新しい時計を腕からはずして洗面台の上に置き、水道の水をじゃあじゃあと出し(ちょっと出し過ぎ、もったいないというぐらい)、白い石けんで、手にいっぱい泡をたて、ごしごし洗い出した。 「紅ちゃん、どうしたんですか」  みのりは、猛然と手を洗う紅ちゃんを、鏡の中から見ながら言った。 「宮本さんだよ。宮本さん、ひどいの。今さ、わたしが裏で本を読んでたら、すうっと宮本さんが入ってきて『時計新しくしたのね』って言うの。『ボーナスで買ったの』って答えたら、『高いの』って、訊くの。『まあね』って、返事して、言わなきゃ良かったんだけど『彼とお揃いなんだ』ってつい言っちゃったら、宮本さん何て言ったと思う?」 「何て言ったんですか。値段訊いたんですか」 「そうじゃないよ」  紅ちゃんは、手を髪にやり、宮本さんのように、体をぐにゃぐにゃさせ、目をぱちぱちしながら言う。 「あらぁ、そうなの。でも、時計って、安くても高くても時間は同じじゃない。もし、彼と別れたら、それ返してもらうんでしょう」 「えっ、そんなこと言うんですか」 「そうなんだよ、もう、頭にきた」 「そんなバカ、殴ってやればいいのに」 「だから殴ってきた。もう我慢できない。わたし、まだ、この手を洗っていたいから、みのり、悪いけど先に行って引き継ぎしておいて」  紅ちゃんがそう言うから、みのりは、春子を見て、目で「バイバイ」を言った。春子もうなずいたから、もう大丈夫だと思い、受付に急いだ。  受付には、木島さんが一人で坐っていた。宮本さんはいない。どこに行ったんだろうか。 「木島さん」  と言って、みのりは木島さんの隣の空いている椅子に坐った。お客様はいらっしゃらない。 「みのり、今、それはそれは大変でしたの」 「はい。トイレで、紅ちゃんに会いましたから、もう聞きました」 「宮本さんもねぇ、あの方、悪い人じゃないんだけれど」 「でも、あんまりいい人でもないですよ、木島さん」 「まぁ、みのりったら。でも、あの方は確かに、お勤め向きの方じゃありませんしね」 「何に向いているんですか」 「さぁ、何かしら。わたくしにはわかりません」  木島さんも案外、平気でひどいことを言う。 「ただ、あの方、加藤さんにぶたれても、前の時も泣きませんでしたからね、それは感心です。今、お配りに行っていただいています。あの方、人との距離の取り方がわからないんでしょうね。何もあんなことを加藤さんに言わなくてもいいんですから。言わなくていいことを、大きい声で言う人は、赤ちゃんね。ただ暴力はいけません、暴力は」  でも、みのりは父から、「言ってわからないんだから」と、ぶたれたものだ。その結果、言うことをきくようになったというよりも、ぶたれたくないから言うことをきくようになった。 「ああいうのは、きっと義憤って言うんだと思いますよ。宮本さんは、紅ちゃんからぶたれて当然です」  みのりがそう言うと、木島さんは、 「まぁ、義憤だなんて、そんな難しい言葉、よくみのりが知っていたわね」  と、笑った。  紅ちゃんも、宮本さんも戻ってこない。交替時間を五分過ぎている。受付はしーんと静かだ。 「木島さん、もう大丈夫ですから、裏で休んでいて下さい」 「そうですか、大丈夫ですか」 「ええ。わたし一人で大丈夫です」 「それではお願いしますね。本当にね、普通に過ごしていてもいろいろなことが起きますね」  木島さんはそう言って、裏の部屋に入っていった。  木島さんは、「大きなお料理屋さんのお嬢さんだった」と、紅ちゃんは言った。一緒に組んでいる時、あまり木島さんは自分の生活のことは喋らない。この年齢の女の人がきっと口にするであろう、旦那さんのことや子供のことも言わない。なんとなく、木島さんは独身じゃないかな、と思ってはいるけれど、そんなことも訊けない。女の人って大変だ、とみのりは思う。人から「何歳ぐらいだろう」とまず思われ、次には「結婚しているのかな」と、思われ、その次は「子供はいるのかな」と思われる。女でいるだけで、勝手に推測されてしまう。だから、せめて自分も女なのだから、木島さんのことは「推測」しないように、とみのりは思った。 「大変ね」っていうのは、木島さんの口癖だ。二人で組んで仕事をしている時、木島さんは一日に何度も口にする。 「警備の方って大変ね」  木島さんは言った。  玄関の外には警備の人が立っている。そして、裏の通用門のところには、警備の人たちの詰所があって、通用門を出入りする人に、「お帰りなさい」とか「いってらっしゃいませ」と声を掛けたりする。玄関の外に立っている人は、確かに大変だ。雨の日は、雨合羽と長靴で濡れながら外に立っているし、暑い時も、アスファルトの照り返しの中、やっぱりずっと立っている。夜勤もあるそうだし、大変な仕事だ。警備の人は、「何か」の時のためにいてくれるのだけれど、本当に助けてくれるんだろうか。それに「何か」の時って、一体どんな時だろう。 「ああいうお仕事なさっている方たちって、前にどこかの会社で働いていらした方が、再就職していることが多いんですって。お年もばらばらでしょう。これまでいろいろなことをなさってきた方たちだから、新しく人がいらしても、なかなか難しいんですって」  木島さんは、そんなことも総務の人たちから聞くこともあるのだろう。 「難しいんですか」 「ええ、新しい方にいろいろお仕事を覚えていただこうとしても、うまくいかないこともあるらしいですよ。これまで、ずっと別の会社で何十年も机に向かって働いていたんですもの、それはそうでしょうね。  おかしいんですのよ。前にね、冬の寒い日に、一人の方が薄着でビルの中から出ていらして、外に立っている方に笑いながら『追剥《おいはぎ》』っておっしゃったの。外の方のぶ厚いジャンパーをね、その場で着て交替なさったんです。うまいことおっしゃるでしょう。  今はもういらっしゃいませんけれど、敬礼がうんと上手な方がいらしたの。あの方、以前は警察の方だったんじゃないかって、みなさんおっしゃっていました。社員が定年退職する日は、夕方会社からハイヤーで家まで送っていただけるんですけれど、あの方は、直立不動の敬礼でお見送りして下さるの。ハイヤーが見えなくなってもずっとそのままでね。社員でもないのに、あれはありがたいことでした」  受付に配属された最初の日、会社までどのぐらい時間がかかるのか、まだよくわからず、遅刻を心配するあまり六時半に家を出て、八時前に着いてしまった。仕事を教えてくれる木島さんとは、八時二十五分に通用門で待ち合せだったのに。みのりが、門の前で立って待っていようとした時、 「どうしたの」  と、声を掛けてくれたのは、帽子の下から白髪が見えている警備のおじさんだった。 「今日から受付で働くんですけれど、早く着き過ぎたから、立っているんです」 「それだったら、警備室で待っていたら。新人さんが風邪を引いたら大変だ」  そう言って案内された詰所には、小さな机とソファがあった。奥の部屋にはベッドがあるようだ。帽子をかぶったおじさんは、窓口の前にある机に坐って出入りする人を見ている。他に帽子をかぶっていない、もう少し若い(それでもみのりの父よりは年上だと思われる)おじさんが二人いて、一人のおじさんがお茶をいれてくれた。熱いけれど、あまり味がしない。でも少し冷えた体にはおいしかった。 「受付にまわされる人はね、優秀なんだよ。がんばって」  おじさんは、そう言った。  八時二十五分に来た木島さんに「木島さん」と、警備室からみのりは声を掛けた。 「あら」  と、木島さんは驚き、みのりが「ここで待たせていただきました」と、言うと、何度も何度も、「お世話になりまして、ありがとうございます」とおじぎをした。母親のようだった。  木島さんは、お掃除をしてくれる人たちのことも「大変ね」と、言った。モップで床を拭く人、各フロアーで集められたゴミを、大きな袋に入れて、地下に集める人。時々、下りのエレベーターに乗ると、そんなゴミの台車と一緒になる。お掃除の人は「すみません」と言って、手でゴミ袋を押さえるようにするけれど、でもそれは、みのりの会社のゴミなのだ。  お掃除をする人たちは、女の人も男の人もいる。警備の人よりは若い。全員で八人ぐらいだろうか。全員をまとめて見たことはない。 「あら、あんなお兄ちゃんがいる」  木島さんが言った。  受付の台から顔を上げて玄関に目をやると、背の高い若い男の人が、床にモップをかけていた。その人は掃除の仕事よりも、オートバイに乗るとか、写真の勉強をするとか、なんだかそんなことが似合う感じだった。木島さんとみのりが見ているのに気が付いたのか、それとも、視線には気付いていたけれど、もう下を向いていることが限度だったのか、その男の人は顔を上げ、受付を向いて、ペコンとおじぎした。首が太いところ、厚い唇の感じが、遠くから見ても、俳優の佐藤浩市によく似ていた。 [#改ページ]      4  受付で見ていると、やっぱり女の人ってだめなんじゃないか、と思わされることがある。  受付にいらした男のお客様は、大抵、まず自分の名前を名のるか、名刺を手渡し、約束の有無を言う。そして、最後に会いたい人間の部署と名前を受付に言う。これが当り前だけれど、不思議なことに女のお客様の場合、ほとんどがこの順番ではないのだ。  まず「——さん、いらっしゃいますか」と、相手の名前を言う。みのりたちに「あの、失礼ですが」と、訊かれてから「あっ、わたくし——と申します」と、やっと名前を言う。約束が有るか無いかを言う人は、まずいない。  どうしてなんだろう。  なかには、「えっ、名前を言うんですか」と言った人もいる。  紅ちゃんと、みのりが坐っている時だった。その女の人は三十歳を少し越えているぐらいだろうか、髪はセミ・ロングで柔らかくウェーブがかかり、十月の末だったけれど、もう薄手のベージュのコートをはおっていた。黒くて小さい箱のようなバッグを持ち、白いモヘアのセーターに、高いヒールの靴をはいている。あまりお化粧をしていないのにその人をきれいだと思ったのは、肌が明るくつるんとしていたからだ。みのりがこの人はきれいだな、と思う女の人は美人というより、肌がきれいなのだ。受付にいたって、きれいな人には、やっぱり最初に「きれいな人だ!」と思う(きれいでないお客様に対しては、「あっ、お客様がいらした」とだけ思う)。  このきれいな人は、誰に会いに来たんだろう。 「いらっしゃいませ」  紅ちゃんが言った。 「紺野さん、お願いします」 「あの、失礼ですが」  お客様は顔を上げ、紅ちゃんを見て、 「名前、言わなくちゃいけないんですか」  と、言ったのだった。  さっきまでは、あー、きれいな人だなー、なんてわくわくしながらじっと見ていたみのりだったが、たちまち心の中で、あんたね、バカなんじゃないの、名前を言わなくちゃ、どうやって紺野さんに連絡するんだよ、もう大人なんだし、ここは会社なんだから、ふざけたことを言わないでよ、と思った。そうは思っていても、ちゃんと普通の顔をして、前を向いていた。こんなの、紅ちゃんにまかせておけばいい。 「二時に約束しているから、わたしが来たって言えばわかるんですよ」  わたしって、誰よ、とみのりは思ったけれど、紅ちゃんは平気な顔をして、「はい、かしこまりました」と言って、出版部の紺野さんに電話をした。 「受付です。紺野さんに、二時お約束のお客様がいらっしゃいました」  電話に出た紺野さんが、名前を訊いたんだろう、紅ちゃんは「あの、それが」と言っている。そして「はい、そうです」とも言っているから「その人、女?」とでも、紺野さんが言ったのだろう。どっちにしても、みっともないことだ。この女の人も、こんな女の人と約束のある紺野さんも。  電話を切った紅ちゃんは、「紺野、こちらに参ります」と言った。でも、その「わたし」は、はい、とも何も言わずに、立ったまま玄関のガラス扉の方を向いている。上着を着た紺野さんが来ると、「わたし」はそのままガラス扉を押して出ていった。紺野さんは、受付にぺこっとおじぎしてから「わたし」を追うように外へ行った。 「どうでもいいけど、あれ、仕事の人じゃないね」  紅ちゃんは言った。お客様は他にいない。 「お名前をおっしゃらないから、このノート、どうやって書けばいいですか」  受付では、時間と、お客様のお名前、会った社員の名前をノートに控えておく。この記録が、何の役に立っているのか、結局はわからないけれど、それでも毎日、その日の応対を記録することで「字に残した、これで大丈夫」という気持になる。受付の戸棚には、こんなノートが何年も前の分まで、全部取ってある。ノートは、お菓子の包装紙でカバーをしてあって、これも待機時間中に誰かがするのだ。戸棚にぎっしりと積んである古いノート。これを再び開くことが、果してあるのだろうか。木島さんも、なんだか笑ってしまい、「まぁ、本当はもういいのかもしれませんけれど、もしもっていう時に、ノートがないと調べられませんからね、全部取ってあるんですの。時々なんですけれど、あの時、あの人からお原稿が届いたのはいつだったっけ、なんて出版部の方が調べに来たりするんですの。その時にね、これがあれば助かるんです。場所ふさぎで、ごめんなさいね。捨てるのはいつでもできることですから、今は、置かせて下さいね」と、すまなそうに最初の頃、みのりに言った。  思えば、受付の戸棚は木島さんの言う「もしも」の時に備えているものでいっぱいだった。しみ抜きセット・ベンジン・裁縫箱・黒い折りたたみ傘二本・風呂敷・お菓子の包装紙・ひも・ウールのひざかけ(おなかが痛い時、後ろでこれにくるまり、机にうつ伏せになると楽になる)・カイロ(その時、おなかをあたたかくするともっと楽になる)・懐中電灯・枕・孫の手・綿棒・紙皿。これらは会社の物なのか、それとも木島さんが揃えてくれた物なのか、もうなんだかわからない。みんなそれを当り前のように使い、当り前のようにそこにある物として見ていた。出番はなくても、もしもに備えておくこと。それも受付のしていることなのだった。 「ノートね」  紅ちゃんは言った。 「お客様のところは空けておいていいよ。紺野さんのところだけ名前を書いておけば、こんなことがあった、って後からわかるし」 「そうですね」  みのりは紅ちゃんの言う通り、時間と紺野さんの名前だけを書いた。  仕事の用でなくても別にそれはいい。でも、ことさら、それがばれるやり方をしなくても、いいんじゃないか、とも思った。普通にすればいいのに。女の人は、普通のことをすると損をするとでも思っているようだ。  自分が会いに来た人の名前を忘れてしまった、という人だっている。これも男のお客様には無いことで、やっぱり女のお客様だけのことだった。  珍しく最初に自分の名前を言った。でも、その後がいけない。 「あれ、わたし、誰にお目にかかるんだったかしら、ちょっと、待って下さいね」  その人は、慌ててショルダー・バッグから手帳を出したけれど、手帳にも書いてないようだった。「すみません」と言って、玄関にある公衆電話に電話をかけに行った。  そう若くはない人なのに、なんだかがっかりしてしまう。電話は自分の会社にかけているのだろう。  何と言ってかけるんだろうか。 「あの、すみませんけれどね、わたしの机の上のカレンダー見てくれますか。そう、左側の辞書の隣にあるカレンダーですけれど、今日のところ、一時に誰の名前が書いてありますか」  そんなことを電話に出た人に言うんだろうか。それでカレンダーに名前が書いてあればいい。書いてなかったら、一体どうするんだろう。  木島さんは、「女の人は男の方の三倍は気を付けなくてはならないんですの」と言った。こういうことも含まれているんだろうか。  受付で、自分の名を名のり、そして相手の名前を言う。それは本当に、ささいなことではないか。それすら順序良くスムーズにできる女の人は、稀《まれ》だ。女の人に、がっかりしたくない。どうぞお願い、ちゃんとやってと祈るような気持になるし、いつか自分が他の会社に行ったら、まず自分の名前から言おうと、みのりは心に決めた。同時に、他の会社の受付で名のっている自分は、やっぱり受付としてのお使いの仕事でもしているのだろうか、そんな風に思うのだった。  宮本さんを殴ってから、紅ちゃんは少し変わった。紅ちゃんは、あまり大きな声で笑わなくなり、怒らなくもなり、何事にも丁寧になった。紅ちゃんは平坦になったのだ。殴られた宮本さんはどうかというと、意外なことに明るくなった。紅ちゃんと組んでいる時は、紅ちゃんをかばうように、配り物も自分から行くようになった。もっとも、みのりと組んでいる時は、その明るさや積極性はたちまち消え、前と何も変わらず、ただ坐っているだけだったけれど。みのりは、宮本さんて紅ちゃんと冷戦状態にならなくて、案外偉いと思ったのだ。そう思ったからこそ、いつもよりきれいな緑色になるようお茶をいれたけれど、宮本さんはやっぱり口を付けなかった。この頃は、それでも構わないと、みのりは思っている。宮本さんは、「そういう人」なのだ。本当は、どういう人なのか全然わからないけれど、なんだか、もうこれ以上はいいや、という気持になってきたのだ。世の中には、いろんな人がいるのだし、それでたまたま四人しかいない職場に、それこそ大当りの変な人がいるということで、手を打とうじゃないか、という気になった。好きな人に好かれるより、嫌いな人に嫌われてこその自分だと、乱暴に心を決めたら、あっと驚くほどすっきりしたのだ。  でも紅ちゃんは、どう思っていたんだろう。あの日の次の朝は、紅ちゃんは遅番だった。表には、二番めの宮本さん、三番めの木島さん、そして裏には早番のみのりがいた。そこに紅ちゃんが、交替の時間よりも十分早くガラス扉から、さぁっと小走りに入ってきて、木島さんの言い方によると「それはそれは真剣なお顔で、お顔が池の氷のように割れてしまうんじゃないかと思うぐらいの真剣さ」で、紅ちゃんはバッグを持ったまま宮本さんの前に立って(でも本当はその時、また殴るのではないかと、木島さんは「わたくし、少し心配してしまいました」と言っていたが)、 「宮本さん、きのうは殴ってごめんね。痛かったでしょう」  と、言ったのだった。もちろん、その時はお客様はいらっしゃらず、そんな風に紅ちゃんが言っても平気な状態だった。 「宮本さんの言い方は、ひどくて、わたしにはすごく嫌だった。宮本さん、それはわかって。でも、宮本さんを殴ったことは、やっぱりわたしが悪かった。ごめんね、許して」  紅ちゃんが、そう言っているのは、みのりにも聞こえた。かわいそうな紅ちゃん。偉い紅ちゃん。  宮本さんは一体何と言うのだろうと、みのりはじっと聞いていたが、何も聞こえてこなかった。そしてその代わりに木島さんが、 「まぁ、本当、良かったわ」  と、晴れ晴れと言ったのだった。  紅ちゃんは、あの時、心のチャンネルを、カチャリと違う目盛に合せたのだと、みのりは思う。 「紅ちゃん、偉いね」  みのりは、何度めかの交替の後、紅ちゃんと一緒に坐った時、小さい声で言った。 「朝のこと?」  紅ちゃんは、顔をまっすぐ前に向けたまま、目の端でちろりとみのりを見て、また目を前に戻して言った。 「そう。朝のこと。あんな風に言えて、紅ちゃんは偉いね」 「そんなことないよ」  紅ちゃんは、小さい声で、本当につまらなそうに言う。 「わたしって、本当に嫌な人間。だって、全然あんな風に思ってないのに、ああいう顔もできちゃうし、ああも言える人間なんだよ。みのり、わたしはね、本当は、あれからずっと怒ったままだよ」 「えっ」 「どう考えてもさ、宮本さんがわたしに謝るのが筋でしょう。でも、あの人、正真正銘のバカだから、それはしないと思うよ。そうしたら、やっぱり、わたしがああやって折れてやらないと、収まんないじゃないの。だからやっただけのこと。心なんか、込めてない」  みのりは黙って、右隣の紅ちゃんを見るだけだ。紅ちゃんの腕には、あの時計がちゃんとしてあって、ほっとしたけれど。 「わたしはね、木島さんのためにしただけのことなんだよ」 「木島さんのためにしたの、紅ちゃん」 「そう。それだけ。だって、あの人、あんなにいい人じゃない。それなのに、去年は杉山さんが途中で会社を辞めちゃって、三人体制でずっと大変で、人事に何度も何度も三人じゃ無理だから四人体制にしてもらいたいって頼みに行ったの。でもさ、会社って、何とか三人でやっているんだから、まぁいいじゃないかって、考えがちでしょう。経費削減も必要だし。でも、それでも、このまま三人体制じゃ困るって木島さんが言って、四月に新人のみのりが来たっていうわけ。あの時、木島さん、すごく喜んだんだよ」 「そうでしたか」 「木島さんね、知ってる? 正面玄関から外に出るじゃない。会社の前に、チリ紙とか落ちてると、あの人、拾ってスーツのポケットに入れるんだよ」 「えっ」  丸まって地面に落ちているチリ紙って、うんと汚く思える。 「金とか銀とか混ってる生地のスーツのポケットに、『あら大変、会社の前にゴミが落ちてるわ』とか言って、平気で拾って入れるの。前にお昼ごはんに行く時、そうしているのを見たから、木島さんを困らせたらいけないな、と思えてきた。考えたらあの人、わたしたちの母親より年上だし、もうすぐ定年なんだから」 「あと何年ぐらいなんですか」 「よく知らないけど、四、五年じゃないの」 「そうですか」 「だから、みのりも木島さんに心配かけちゃいけないよ」 「はい、わかりました」 「宮本さんに、こういうこと言ってもわからないんだから、わたしたちが気を付けないとだめなんだよ」  紅ちゃんは、結局は宮本さんに期待することをやめたのだった。 「紅ちゃん」 「うん、何?」 「紅ちゃん、手、つないで」 「えー、何で」 「紅ちゃん、面白くて好きだから」 「変なの。でも、いいよ。一回だけね」 「うん」  みのりは、前を向いたまま、右手を伸ばした。紅ちゃんも、前を向いたまま、時計をした左手を伸ばす。みのりの体温の高い少し大きい手が、紅ちゃんの乾いてぴんと固い指先を、ぎゅっと掴みぱっと放した。  木島さんを困らせないように働く。そう決めたから、八月から後は、全てがクリアだった。ただ一生懸命働く、と四月の心のままだったとしたら、困ることも受付にはあった。お客様がいらっしゃらなければ、一生懸命になりようもなく、坐っているしかないのだけれど、じっと前を向いて坐っていさえすれば、木島さんは安心してくれるのだ。そう思えばなんでもなかった。  待機時間や、お客様がいらっしゃらない時にこっそりしてくれる、木島さんの話は面白かった。 「わたくしの知り合いの方には、お嬢さんばかり四人いらっしゃるの。一番上は種子さんで、二番めの方は早苗さんで、三番めの方は美穂さんで、四番めの方は、米子さんておっしゃるの。よく考えると、なんだか順番が逆なんですの」 「昔はね、会社でも、みんなソロバンを使ったんですの。わたくしも、経理部にいた頃があって、あの頃は一円でも合わないと、何時間もかかって、計算をしなおしたんです。あら、あの時のソロバン、みなさん、どうしたのかしらね。わたくしは、ソロバンって、好きでしたのよ」  昔の会社の話をしている合い間合い間に、木島さん自身の話が出てきて、それは、ジグソーパズルのピースを合せていくようなものだったし、時として、はっと、胸を衝くものがあった。 「うちは、日本橋の近くで料理屋をしていたんですけれどね、この会社の何代か前の社長さんも、お客様でね、偉い先生方もいらして下さったんですのよ。母が亡くなりました時に、あっ、こんな名刺が、なんて思いましたの。あのお名刺、どこにしまったのかしら。うちには弟がいて、弟なんて言ってももうおじさんですけれどね、弟が結婚してお嫁さんが来てから、母は店の仕事が無くなりましてね、今から思うとだんだん病気になったんだと思うんです。一緒にいると、なかなかそうは考えないものなんですの。あの頃が、一番大変でした。わたくしも仕事があるし、母のこともあるし。お嫁さんがよくして下さっても、やっぱりどうしても、実の娘とは同じというわけにもいきませんしね。母が亡くなった時は、なんだか死なせてしまった、という気持ばかりでしたよ」 「母が亡くなりましてからね、わたくし一人で暮らすようになって、水道の蛇口から、こう、おみおつけが出てこないかなぁ、なんて思ってしまいましたの。おかしいでしょう。いい大人が何でも母にやってもらっていましたから、自分でやるっていうことがね、最初はおかしくて、たまりませんでしたのよ。まるで一人で、ままごとでもして、誰かお客さんを待っているような気持になりましてね」 「母は何でもできたんですの。死んでしまいましたけれど、今でも、母のことが好きで、幽霊でも何でもいいから出てきてくれないかなぁ、と思いますけれど、もう最近は夢にも出てきてくれなくて、あれはどんなシステムになっているのかしらね。わたくしが子供の頃はね、学校から帰ると、今の方にはおわかりにならないと思いますけれど、銘仙《めいせん》の着物に着替えたんですのよ。その着物も、母の着物も洗い張りをして、全部取ってあるんですの。銘仙は、柄が柄ですから、もう着られるわけではないんですけれど、母が選んでくれたかと思えば粗末にできませんでね。座布団を作ると言っても、そう何枚も必要なわけじゃないし。ですから、布は布として持っていようかなぁと思いましてね。母の着物の中には、今はもうできないような織物もあるので、自分の物になおそうなおそうと思っているんですけれど、そのままなんですの。母に申し訳ないと思っているんですけれどね」  木島さんの話に出てくる家族の話は、だいたいが、お母さんのことで、お父さんや、弟さん、そしてその家族のことは出てこなかった。  木島さんは、中央区のマンションに住んでいる。紅ちゃんの言い方だと「スキップして会社にも来られちゃう」ぐらい、会社から近いらしい。昔、お店のあった日本橋に、「切手みたいに小さい部屋が二つと、台所」という間取りだという。日本橋といっても、最寄り駅が茅場町《かやばちよう》の日本橋だそうだ。それにしてもきっとオフィスばかりだろうに、そんなところにも、やっぱり住む人がいる。一時間半も通勤に時間のかかるみのりには、うらやましいというより、ただびっくりすることだった。  確かに近所にスーパーはないけれど、 「コンビニエンス・ストアーがありますし、案外困ることはありません。野菜もお肉も、お魚も会社の帰りに近くのデパートで買うんです。今は一人用の分量を売っていますからね、お高いようですけれど、そのほうが結局無駄にならないんですの」  そんな風に、木島さんは言う。  みのりの母が、こんな木島さんの生活を聞いたらなんと言うだろう。みのりたちの住む団地には、大きなスーパーが二つあって、安売り合戦をしている。母は嬉々としてその成果を、夕飯の仕度をしながら報告する。普通のサラリーマンの暮らしで、子供が二人いるのだ。それは少しも恥しいことではない。でも、母にとってこれまでで一番大事なことは安いかどうか、得かどうかということで、きっとこれからも、ずっとそうだろう。デパートには、お正月の初売りセールぐらいにしか行かないのだ。その日の買物が済むと、上の階にある食堂で、奮発してお寿司を食べるのが決まりだけれど、注文の品が来るまでに、他のお店で買った和菓子(たいていは大福)をこっそり出して「食べる?」と、みのりによこす母(そんな時、みのりは厳しい顔で「いらない」ときっぱり断わり、「もう、やめてよ」と言う。それでも「あら、同じデパートで買ったんだからいいのよ」と母は平気で食べる)。  みのりの母は、木島さんとも、木島さんのお母さんとも全然違う。それなら、わたしはどっちなんだろうとも、みのりは考えるのだった。母のことを、もう貧乏臭いんだから、田舎っぽいよ、と思うものの、やはり木島さんのような暮らしも、自分の身の丈には合わない。わたしのおばあちゃんは、大宮の駅前で炭を並べて売っていたんだもの、わたしは、そういう家の子だよ、とみのりは「どうせ」と自棄《やけ》にはならないけれど、自分のレベルは、決してごまかすまいと思うのだった。 「わたくしが、ちょっと遅く帰る時、十時近くなんですけれどね、地下鉄の階段を上がってすぐのところに、大きな金物屋さんがあるんです。もう、そんな時間では当然お店は閉っているんですけれど。で、そこのお店の二階の窓のところにね、白い割烹着を着た、小さいお婆さんがいて、じーっと外を見ているんです。いつも気になっていて、わたくし、なんとなくおじぎをして帰っていたんです。でも、このところ、夜、窓が閉っていて、あら、お見かけしないわ、と思っていたら、お亡くなりになったのね。今朝、お店のシャッターが閉めてあって、忌中の紙が貼ってありました。わたくしね、一度でも手を振って差し上げたら良かったのにって思って、なんだか申し訳なくて。あの小さいお婆さん、どんなお気持で何を見ていたのかしらね。そう考えたら、お気の毒になりました」  木島さんは、待機時間にも、みのりによく話した。みのりも、木島さんの話を聞くのが好きだ。聞いているうちに、ふと気付いたのは、人は一人では生きていけないと言うけれど、それは、うんと小さなレベルでも確かにそうで、人には話す側と聞く側が少なくとも一つずつ必要だということだった。  木島さんが話してくれる内容は、あまりにも、木島さんの心そのままだったし、毎日の生活の中の一瞬だった。もし、木島さんに一緒に暮らす人がいたのなら、きっとそんな話は、その人にしたことだろう。  今日は、こんなことがあったよ、今日は、あの人、こんなこと言ったんだよ、今日は、こんな人が会社に来たよ。  みのりは、そう夕食の時、だらだらとしゃべる。それについて、母や妹が笑いながら感想や自分なりの意見を言ったりする(父とは食卓が別だから、父が何かを言うことはない。子供と一緒だとうるさくて飯が喰えない、と言って父はリビングで食事をした。みのりたちは、台所のテーブルで食べる。短大の寮のシスターが「えー、家族で一緒に食事をしないなんて、あなたのうちは異常ね」と言ったけれど、人それぞれだし、異常ね、なんて平気で口にするあなたのほうこそ異常だとみのりは思った)。その日にあった出来事は、みのりの口から言葉になって、みのりの体からシャワーのように外へ出る。けれど、聞く相手がいなければ、見たもの、聞いたもの、自分の気持は外へ放出されることなく、ただ体に溜るだけだ。今では、なんだかみのりは、木島さんのお母さんをよく知っているような気持にすらなっている。自分が聞いておかなければ、木島さんのお母さんのことを覚えている人がいなくなってしまうのではないか、と気になってしまう。それは、木島さんへの哀れみなどではない。紅ちゃんは、木島さんに心配をかけちゃいけないよ、とみのりに言った。みのりは、そうだ心配をかけないようにしようとも、もちろん思ったし、それ以上に木島さんて、本当にいい人だな、いい人にはずっとついていこう、いい人のことは、もっと知りたい、なんでも聞きたいと思うようになったのだった。 「みのり、今日のお昼は外に出られる?」  十一時半頃、春子がそーっとやってきて、受付に坐っているみのりに言った。春子はキャメルのタートルの薄いセーターを着て、それと同じ色のカーディガンを着ていた。ひざよりやや上までのスカートも同じ色のニットだったから、こういうのをアンサンブルというのだろう。春子は目立っておしゃれではないけれど、清潔な感じのするおしゃれが得意だった。この日は、一粒だけの真珠のペンダントが、セーターによくはえている。 「うん、出られるよ」 「じゃあ、一緒に行こうよ。玄関で待ってる」 「うん。お配りがあるから十二時十分でいい?」 「いいよ、待ってる」  この日、みのりは宮本さんと組んでいるので、お配りはみのりが行かなくてはならなかった。宮本さんは、さすがに二階の分は自分が行くとはみのりには言わなかったし、みのりも自分から「宮本さん、週刊誌の分です」と言って配る物を分けたりもしなかった。自分が下手《したて》に出て、それで何事も起らなければそれでいいのだと思うことにした。  紅ちゃんが宮本さんに謝ったこと。あれはみのりにとっては、大きな学習だった。白か黒かだけではない、あんなやり方・考え方もあるんだ。キャラメルが喉を通り、その甘さと栄養が体のすみずみまで行き渡るように、あの出来事は、みのりの大切な栄養となってみのりを動かしている。  受付の引き継ぎは、いつも交替時間の五分前にする。受付に坐っている二人の後ろに、次に坐る二人が立つ。ちょうどそんな時に居合わせるお客様が、 「おや、勢揃いですね」  などと、笑っておっしゃることもある。  早番の二人は、引き継ぎまでに食事を終えていないといけない。こんな時は大抵、地階にある社員食堂へ行くことになる。食堂は十一時半からやっているので、早番の二人はその頃になると「行ってきます」と、台についている遅番の二人に声を掛け食事に行く。この時間だと、秘書室の早番組に会うから、決まりではないけれど、なんとなく一緒に食べることになる。  みのりは広い食堂で、誰かと一緒に物を食べるのは本当は苦手だ。短大の寮にいた二年間、平日の朝・夕の食事が、いつもこのスタイルだった。班ごとに(二十《はたち》近くになって、班もないけれど、あの寮はそういうシステムだった)時間になると、学校の敷地内にある寮からだらだら歩き、別棟のカフェテリアへ行った。好きでも嫌いでもなくただ一緒にいることと決められた人たちと取る食事(当然だんだん八人の班の中でも仲良しはできていったけれど)。早番の時の食事は、ふとあの頃の食事を思わせる。ことに、入社して間もない頃はみのりは「鈴木さんは、どちらのご出身?」「ご兄弟は?」「どうやって通っているの?」と、そんなことばかり訊かれていた。新人だから「新人である」という以外、何も話題がない。優しい人たちが気を遣ってくれたのだろうけれど、みのりは「そんなこと訊いてどうするの」「そんなことしか話題がないって、新人ってしょうがないなぁ」「そんなこと、どうでもいいじゃない」と心の中で思いながら答えていた。真面目に答えたけれど、訊くほうも別に真剣にそのことを知りたいわけでもなかった。それは、ただ黙って食事をする気まずさを紛らわすためだけのことだ。  寮にいた頃、ああ好き勝手なところへ行って一人で食べたいなぁ、と思ったものだ。どうしたことか、なかにはびっくりするぐらい食べ方の汚い女の子もいるのだ。口を閉じて物を食べない子、肘をテーブルに付けたまま食べる子、器を持たないで、顔をお皿に伏せて食べる子。班で、そんなシーンを目にするたび、やっぱりぎょっとした。あー、やめて、と心の中でいつも思った。目を、ぎゅっとつぶりたかった。あの子のうちでは、みんながあんな食べ方をするのだろうか。食べ方が汚かったら、どんなに好きでも、その男の子とは付き合わない、とも思った(もっとも、みのりは前田直也と別れて以来、誰にも出会わなかったから、男の物の食べ方なんて気にする場合ではなかった)。  学校を卒業し、就職してからも本当は、あまり大勢で食事をするのは好きではない。でも、時間内に食事を済ますというのも、仕事なのだ。だから早番の時は社員食堂へ行く。社員であるコックさんが作っている食堂のメニューは、どれもみなおいしい。ハヤシライスは近くの会社にも評判で、他の会社の人がわざわざ食券を買って食べに来るぐらいだ。  遅番の時は嬉しい。 「それじゃあ、行ってきます」  と、交替した二人に声を掛け、一人で外へ出られる。十二時二十分近くまで本屋さんへ行って、その後食事をしてもいい。一人待機部屋でお弁当を食べて、その後公園へ行ってもいい。受付は、いつも二人でびっしり時間を過ごすから、一人で過ごす一時間は貴重だった。受付にいればそれはお互いよくわかるので、遅番の時は、ぱらっとばらけるから楽だった。もちろん紅ちゃんや木島さん、春子と一緒に外へ食べに行くこともある。  十一時五十五分になり、身仕度を終えた木島さんと、紅ちゃんが「はい、お願いします」と言って裏から出てきた。木島さんは宮本さんの後ろに、紅ちゃんはみのりの後ろに立った。 「はい」  宮本さんが、台に貼り付けたメモを見せながら言う。 「出版の田村さんに、お急ぎのものが届きます。届いたらお知らせして下さい。もしいない時は、届いたことをメモに書いて机の上に貼って下さい。大切なものなので、机の上に置いてこないで下さい」 「はい」  木島さんと、紅ちゃんが返事をする。みのりが左に目をやると、春子が営業から受付に向かって歩いてくるところだった。 「今日、一時から書店さんの集りがあります。みなさん直接三階の会議室へいらっしゃるそうですが、もし受付にいらしたら場所をお教えして下さい」 「はい」 「あちらに坐ってらっしゃるお客様は、週刊の桃井さんのお客様です」  宮本さんは、声を小さくして奥に坐っている男のお客様のことを説明する。 「十二時のお約束で、少し早めにいらしたとおっしゃるのですが、桃井さんはまだ来ていません」 「まあ、また。困ったわね。桃井さん、忘れていないかしら」  木島さんが、少し笑って言う。  桃井さんは、週刊誌の副編集長でいつも忙しい。 「お机の上に、お客様がお待ちだとメモを置いてありますが、もしここから桃井さんが通るのが見えたら、お客様がいらしてることを言って下さい」 「ホワイトボードには何て書いてあるの?」 「それが、何も書いてないの」  編集部に限らず各部署には、社員の名前を上から順番に書いたホワイトボードがあり、みんな行き先と帰社予定時間を書き込むようになっている。昔はホワイトボードではなく、黒板だったのだろう、木島さんは「ホワイトボード」とは言わず「黒板」と今でも言う。  ホワイトボードに「NR」とあるのは、「No Return」つまり今日は出てもう戻らない、という意味だ。それを「不帰」と書いている人もいて、そういう人は名前が上のほうにあった。その人たちは、きっと黒板に「不帰」と書いていたのだろう。  桃井さんのホワイトボードには、何も書かれていなかったが、たとえ書いてあってもあまり当てにならなかった。書かれた時間よりも、三十分も遅れて、 「あ、すみません」  と、言って受付に来ることもしょっちゅうで、お客様も、もうそれに慣れているらしく別に怒る風でもなかった。  桃井さんには、お約束なしでお客様がいらっしゃることも多かった。 「近くに来たから」  とか、 「ちょっと面白い話があるから」  などと、お客様は桃井さんが受付に来るとそう言った。桃井さんは受付の応接コーナーでお客様と話すことはあまりなく、いつも向かいの応接用サロンへ行った。サロンへ入る前、必ず一度受付の方に向きなおり、 「どうもね」  と、言うのだった。  受付は、あまりお礼を言われることがない。仕事だし、その仕事といっても、あれこれ細かいことはあるものの、メインは、ただの応対だ。お礼を言われる程のことはないけれど、言われるとやっぱり嬉しい。ちゃんとしよう、ちゃんとして良かった、と思うのだ。桃井さんは、受付にとっては困った人だけれど、「どうもね」の一言で決して嫌われてはいなかった。  みのりは、右手ななめの壁にかけてある時計を見た。もうすぐ十二時になる。この石坂様とおっしゃるお客様は、十一時四十五分からお待ちだ。桃井さんは来るんだろうか。 「忘れていらっしゃらなければ来るでしょうし、もう、これはしょうがないわね」  木島さんは、年下の桃井さんに敬語を使って言った。 「じゃあ」  そう言って、宮本さんは立ち上がり、椅子の上のピンクの座布団を裏返した。みのりも立って、紺色の小さい座布団を裏返した。落語家のようだと最初は思った。前の人の体温が残った座布団を、「なんだかなぁ」と思いながら使うよりも、こうやってはっきり裏返すほうが気が楽だ。みのりの坐っていた座布団も、そして宮本さんが坐っていた座布団も、もう色も褪せて古びている。ピンクのほうには前にお茶でもこぼしたのだろう、うっすらと輪じみがあった。カバーをかけてあるわけではないから、洗濯もできない。替えたらいいのに、とみのりは思う。いっそのこと、自分できれいな座布団を買ってこようかなとも思う。  でも木島さんが「替えましょう」と言わない限り、この古い座布団を使い続けるのだ。物を大切にする木島さんは、座布団がどんな状態になったら替える気になるだろう。それをこっそり考えると、みのりはなんだかおかしくなってくる。お尻にいつもつぶされているまん中あたりの布が弱り、中の綿が出てきたら替えるだろうか。でも、木島さんはどうも針仕事が得意そうだから、つくろうかもしれない。継ぎを当てた座布団だ。きっとそうだろうな。受付で使う鉛筆には、銀色のホルダーが使われている。鉛筆が三センチぐらいになって、もうホルダーをつけても使いづらくなっても、木島さんは捨てない。戸棚の上の段にある白い箱にそっと入れる。 「これで書いて仕事をしたかと思いますとね、かわいそうで捨てられません」  箱を見せてくれた木島さんは、そう言った。鉛筆は、箱に何段もびっしり並べられていた。よく見ると、そのうちの何本かは、下の方がナイフで削られ、目、鼻、口がペンで描かれていた。  紅ちゃんも、宮本さんも木島さんの方針に従っていた。鉛筆が書きづらい長さになると、ホルダーからはずし、戸棚を開け、鉛筆を箱に入れた。そして、新しい長い鉛筆をおろし、しばらくはホルダーなしで使う。  あの鉛筆の入った箱は一体どうするのか。誰もそのことについては言わなかった。 「木島さんが会社を辞める時、あの箱、持っていくと思う?」  ある時、どうしても我慢できずに、みのりは紅ちゃんに言った。 「えー、嫌だなぁ、もう、みのりは。それは言わない約束でしょ」  紅ちゃんも笑ったのだった。  みのりは時計を見た。十二時だ。春子とお昼を食べる約束をしたこの日に限って段ボールの荷物が二つある。二つのうち一つは、化粧品会社から経理部の人あてのもので、これはなんとなく仕事の物ではないと思われた。 「お荷物、受付に届いています」  と、電話をして取りに来てもらうこともできる。でも、木島さんはあまりそういうやり方は好きではないようだ。 「配る手間は同じですからね。配って差し上げましょう」  と、言う。木島さんはもう偉い人だから、実際にはお配りはしないので、みのりや宮本さんや紅ちゃんが、そんな私用くさい荷物も配っている。 「わたし、お配りに行ってきます」  みのりは台車を、隣の広告部から借りて来ようと思った。 「あっ、いいよ。お配り、わたしが行くから」  宮本さんが言った。 「えっ」 「だって、伊藤さんとお昼に行くんでしょう。もう待っているし、いつもやってもらっているから」  最後のほうは、声が少し小さかったけれど宮本さんは確かにそう言った。 「でも」  みのりは、木島さんと紅ちゃんを見た。 「みのり、宮本さんが、せっかくそう言ってくれたんだから、やってもらったら」  紅ちゃんが言った。 「それじゃあ、宮本さん、すみません、お願いします」  みのりは、宮本さんにお礼を言って春子の待つ玄関へ行った。 「もういいの?」 「うん。宮本さんがお配りしてくれるって」 「そう。悪かったね」  春子は受付の方を向いて、ぺこんとおじぎした。  表に出ると、十一月だというのに思ったよりも暖かだった。コートを着ている人は、あまりいない。まだしっかりと黄色になっていない公孫樹《いちよう》の葉が、道路に落ちている。みのりはBIGIの黒いワンピースに、黒いジャケットを着ていた。  初出勤の日にも着ていたこのワンピースは、出番が多かった。あー、何を着ていこう、もう時間がないよ、という朝(だいたいそれは月曜日だったけれど)、みのりはいつもこのワンピースを着た。このドレスは着ているだけで、ちゃんとしているように見えた。きちんとしていること、それが受付で一番必要なことだった。けれど、このドレスのいいところは、ちゃんとしているのだけれど、胸がV字形にあいているので、程良くうっぷん晴らしにもなることだ。堅いだけの服なんて、みのりにはつまらない。 「春ちゃん、どこに行く?」 「良かったら、裏の公園でもいい? お弁当ね、みのりの分も持ってきたよ」  春子はそう言って、手に持っていたキャンバス地で、持ち手のところだけピンクのギンガムチェックのトートバッグをみのりに見せた。と、いうことは、春子はきのうから「あしたは、鈴木みのりとお昼を食べる」と決めて準備していたのだろう。 「そう、ありがとう」 「うん、いいよ。だって作ったのはわたしじゃないもん」  春子は、そう言って笑った。 「じゃあ、春ちゃんは何したの?」 「ママの応援」 「あっ、そう」  春子は、ママって言うんだ、とみのりは思った。  春子とみのりは、ゆるい坂を公園に向かって並んで歩く。春子が車道側を歩いた。もう寒いだろうに、赤いオープンカーが向こうから走ってくる。乗っているのは、サングラスをして茶色の革ジャンパーを着た男の人だ。へぇ、なんて思い、近づいてくる車をみのりはじっと見ている。春子が、ぼそっと言う。 「みのり、振り返ったらだめ、そのまま、そのまま、まっすぐ前を向いて」  何のことだかわからないまま、みのりは春子の言う通りにしようと思う。もっと、あのオープンカーを見たかったけれど、顔をそのままにしている間に車は行ってしまった。 「あのさ、みのり。ああいう車に乗っている人は、人に見られるのが好きなんだよ。だから、見ちゃだめ。無視してやるのが一番いいの」 「えっ、そうなの、春ちゃん」 「そうだよ。冬にさぁ、オープンカー乗る奴なんて、バカに決まってる。そんな奴、見ないで」  一瞬みのりは、さっきの車に乗っていた男を春子は知っていて、そしてその男にかつて嫌な目に遭わされたのかとも思ったけれど、どうもそうではなく、いい気になっているドライバーにただ意地悪を言っているだけだった。 「春ちゃんさぁ、この公園によく来るの」 「ううん、たまに営業の人とお昼に行って、帰りにお茶する時、ここを通るから。お弁当を食べている人もいて、だからいつか来ようと思っていたんだ」 「ふーん。そうなんだ」 「そうだよ」  公園には、だらりとただ丸いという感じの何の工夫もない池があり、そのまわりのベンチに坐って、みんなお弁当を食べている。空いているベンチはない。 「春ちゃん、空いてないね」 「そうだね。裏の方へ行ってみようか」  裏には何があるのか。  池の脇にある階段を上ると、ほんの少しだけれど山道のようになっていた。案外と木も高く、落葉が踏みしめられて黒く湿っている。道の右側に、大きな切り株がある。あそこに坐って食べるのも、いいかもしれない。 「春ちゃん。あそこにしようよ」 「そうだね」  春子はそれも準備してきていたのだろう、キティがプリントされている一人用の小さいレジャーシートを、バッグから出して広げた。道に背を向け切り株に坐ると、池が見える。こうすれば、後ろの道を通る人も気にならない。 「食べて」  春子は、竹で編んだ大きめの箱形のお弁当箱を開けた。ラップを敷いた上に、のりを黒い帯のように巻いた俵形のおむすびが、きれいに並べてあった。おむすびはピンク色をしていた。ほぐしたたらこをごはんに混ぜてむすんだのだろう。手をかけてあるなぁ、とみのりは思った。みのりの母が作る、三角の大きいおむすびとは大違いだ。 「こっちがおかずね」  春子は、アルミニウムのお弁当箱のふたを取った。ふたには、トッポ・ジージョが描かれている。 「あれ、このお弁当箱」 「そう、わたしが幼稚園に行っていた時のもの。物持ちいいんだ、うちの母親」  今度は、ママ、とは言わなかった。  おかずは、ブロッコリーとウインナーを一緒に、ようじで留めたものがいくつも入っていて、隅にこんぶだろうか、佃煮があった。 「お茶もあるよ」  春子は、バッグからステンレスの水筒と、紙コップを出した。 「ほうじ茶。まだきっと熱いよ。気をつけてね」  そう言って、注いでくれた。もう、十二時十五分になる。食べないと。 「いただきます」  みのりは、春子のお母さんが作ったきれいなおむすびを手に取った。こんなの、二口で食べちゃいそうだ。 「あれ、春ちゃん。中にチーズが入っているよ。春ちゃんのうちは、おむすびにチーズを入れるの」 「ごめんね。ママがやったの。それ当りなんだよ」 「えっ、当りなの。それで当ると、どうなるの」 「何もないの。ただ当るだけなの」 「あっそう」 「ごめんね、バカな母親で」 「ううん。そんなことないよ。面白いお母さんだね」 「あとは、中に入っているのは梅干しだから安心してよ」 「うん。チーズもおいしいよ」 「そうかなぁ」  春子は、黙っておむすびを食べている。なんだか悲しそうだ。 「春ちゃん、どうしたの。お母さんのこと怒っているの」 「ううん、違う」 「そう」  みのりは、紙コップのお茶を飲んだ。ほうじ茶は、湯気までいい匂いがする。 「みのり、聞いて欲しいことがあるんだ」 「うん、何、春ちゃん」  春子は、用があってみのりを公園に連れてきたのだろう。お弁当は、そのついでだったのだ。  みのりは、一体春子が何を言うのだろうかと、紙コップを両手で持ったままじっと待っている。 「あのさ、わたし、お見合いを勧められているの」 「えっ、お見合い?」  早生まれのみのりはまだ二十歳だけれど、春子は、もうすぐ二十一歳だ。それでもちょっと早い気がする。 「うん、そうなんだ」 「相手は、どんな人なの?」 「警察の人」 「えっ、警察の人なの?」  みのりは、春子の言うことをいちいち繰り返し、そして驚いている。  春子は、きれいなピンク色のおむすびを右手に持ったままで食べようとしない。 「うちの伯父がね、警察にいるの。そこからきた話なんだけど。警察官って、だいたい三十歳までには結婚していたほうがいいんだって。仕事に専念しなくちゃいけないからね。その人、もうすぐ三十歳で、とにかく誰でもいいから結婚したいって言っているの」 「だから、春ちゃんとお見合いするの?」 「そう」 「えー、春ちゃん、そんなのひどいよ。嫌じゃない」 「そうでしょ。そうなんだ」  その二十九歳の警察の人は、もう断わるつもりは全然なくて、ただ春ちゃんに会って、春ちゃんの顔を見ることだろう。それは、目が二つあるか、口は一つかどうか、そんなことを確かめるだけなのだ。 「春ちゃん。今、春ちゃんが結婚したいんだったら別だけど、そんな人とお見合いして結婚しなくたって、いいじゃない」 「そうだよね。みのりもそう思うでしょ」 「そうだよ、当り前だよ」  みのりは、なんだか頭にきた。  これは、本当にみのりの偏見だけれど、お見合いって、お金持のうちの子がするか、うーん、ちょっと……という子が、するものじゃないだろうか。野菜だと、白菜の魅力は、いっぺんに伝わらない。そんな白菜のような女の子って確かにいるのだ。春子のうちがお金持かどうか、みのりは知らない。でも、春子はかわいくて、優しい人なのだ。  春子の手帳には、ところどころに「BD」と書かれ、そしてその横に「野口」とか「西山」とか、人の名前が書かれている。 「これ、何?」  と、みのりが訊くと、 「友達の誕生日」  と、春子は答えた。お祝いのカードを送るから忘れないように、手帳に書いておくんだと言った。そして、春子はみのりの誕生日も訊いてくれたのだ。 「二月八日だよ」 「あれ、じゃあ来年の手帳をもらったら、すぐに書いておくね」  そう言って、春子は手帳の一番後ろの、白いページに、 「2・8 BD 鈴木みのり」  と、赤いボールペンで書いた。春子の字はかくかくして、曲線も折れた線のようだった。  お見合いを勧められるって、残酷な宣告をされるようなものだ。 「はっきり言ってあなたの良さはね、まわりの人が説明してあげないとわからないものなの。だから、もうこの辺の人にしておきなさい。この人もね、まあわくわくはしないけれど、いい人だから、安心よ」  そんなことを言われて嬉しがる、二十一の女がいるだろうか。自分のこれまでを、つまり、学歴、家族構成、そして勤務先を字に書き、さあどうぞと相手に見せ、相手とその家族は、それを見るのだろう。じろじろ。どこかに変なところはないかな? じろじろ。どこか、うちに釣り合わないところはないかな? じろじろ。  そんな風に、全然知らない人たちに「吟味」されるなんて、みじめな気がする。  お見合い当日だって、嫌なものだろう。お互いの親が、きっと母親だろうけれど、一緒についてきて、相手をじーっと観察するのだ。それは、ひどい言い方をすれば、自分がこれからセックスをする相手を、親が「してもよし」と認める、ということなのだ。相手の男だって、きっとそうだ。 「この女とね」  と、心の中で思っているだろう。  そんな恥しいこと、絶対嫌だとみのりは思う。自分の「実力」にそれほど自信があるわけではない。でも、自分の力で、どこまで行けるかやってみたい。それは、就職する時と同じ気持ではないか。最初からコネに逃げるのは嫌だった。  ただ、みのりには、春子の気持もわかるのだ。そんなに自信満々でもない。これから本当に、誰かに出会えるかどうか、それはわからない。みのりたちは、世の中に出たばかりなのだ。その「わからなさ」は、時々、淋しくなるようなこわさにもなる。  若干名採用という試験に受かって、入りたかった会社に入った。小さい時から「一生懸命勉強して、いい学校へ行って、いい会社に入りなさい」、そう言われてきた。いい会社かどうか、それは別にして、確かに会社に入った。それで言われてきたことは果した。これは双六《すごろく》の上がりであったはずだ。  でも一体どうしたことだろう。上がったけれど、それで特に何かが起るわけでもなく、ただ新しい毎日、つまり、会社員としての日常が始まっただけのことだった。 「なんだ、これ」  と、みのりは思った。  会社員になったからといって、ファンファーレが鳴るような、華々しい日々が始まったわけではなかった。「新人」が「新人」として、みんなに面白がられたのは最初の一カ月だけではなかったか。その後は、仕事を覚えることに一生懸命で、その時期が過ぎると、なんだか慣れてきて、その次にくるのはただの繰り返しだった。会社員だということは、この繰り返しに耐えるということなのだ。会社に入ってまだ一年もたっていないのに、みのりはこんな風に思ってしまう。  受付が早番の時には、仕事は四時半に終る。早番の人は、地下の通用口から外へ出なくてはいけない。それも木島さんが、そうして欲しいと言ったのだ。  規程では会社の仕事は六時で終りだ。経理や営業や宣伝や、業務部の多くは六時には帰る。でも編集部にとっての終りは、仕事が終った時の時間を言う。九時や十時も早いくらいで、日付けが変わった後に帰ることも、別に珍しいわけではない。  そんな人たちがいる中で、四時半に、いくら八時半から働いているとはいえ、正面玄関から帰っていくというのは、申し訳ないことだ、と木島さんは思っているのだろう。  それとも、 「えっ、四時半に仕事が終っちゃうの?」  と、他の部署の人たちに言われ、受付は楽だと思われ、三人体制にされることを恐れているのか。  両方の気持があってのことかもしれない。それは、それでいいのだ。木島さんが決めたことなのだから。  それでも、早番の仕事が終り、通用口を出る時の、あの気持を一体どう言えばいいだろう。  人に見つかりませんように。すみません、こんなに早く終ってしまって。でも、今日の分の仕事はきちんとしたし、これ以上することがないんです。  そう思って、五時前の明るい空の下を地下鉄の駅に向かうのだ。そして、一時間半かけて、電車を二回乗り換えバスに乗り、家に帰るだけなのだった。  会社に入ったって、社会人になったって、何も起らない。これは部活をしてない高校生のようではないか、とみのりは思った。制服は着ていないし、お化粧もしているけれど、会社が終れば自分に残るのは、ただ放課後にも似た長い時間だけだった。  春子にしたって、同じような気持だったのだろう。みのりが六時半の遅番と知ると、二人で帰った。駅に直行することもあったし、地下鉄に乗って銀座に行くこともあった。行ったところでどうするわけでもない。時々デパートに行き、時々、本屋さんに行き、時々、お茶を飲んだ。二人とも家で晩ご飯が待っているから、外で食事はしない。ただなんとなく一時間寄り道をするのだった。  日暮れの弱い光は、淋しさばかりに染み込む。二人で人込みを歩いていると、もし春子がいなかったら、みのりは一人でこの人込みの中を歩けるだろうかと、ふと思う。このたくさんの人たちに交って歩く自分は、別に何の目的もない。他の人は、あんなに楽しそうで、これから行くところがあってそこへ向かって歩いている。みな、いい物を着て、利口そうで、いろいろなことを知っていて、会社でもむずかしい仕事をしているのだろう。  自分だけ、空っぽのような気がする。  若い女だということは、なんと淋しいことか。若いというだけしか価値がなく、それだって有効期限があるのだ。  みのりには、この無茶なお見合いの話を即座に断われない春子の気持が、よくわかる。  自信のない自分を、とにかく引き受けてくれるなら、それもいいか、と思ったのだろう。遅かれ早かれ、きっと結婚もするだろう。この人じゃ嫌、もっといい人がいるはず。そんなことを繰り返して、結局最後に誰も残らなかったらどうしよう。そんなの、こわい。それよりも、そもそも自分は誰かにとって魅力があるのか、恋愛できるのか、それすらもわからない。そのわからなさも、こわい。  そのこわさから逃げるために、お見合いを断われなかったのではないか。 「春ちゃん、そんなお見合い、しなくてもいいんじゃないの」  みのりは、春子のお母さんが作ったおむすびを持ったまま言った。 「結婚は、やっぱり好きな人としたほうがいいよ。だって、そのお見合いの人、春ちゃんのことが別に好きでもなくて、ただ結婚したいって言っているんでしょ。そんなの悲しいよ。春ちゃんは、こんなに優しくていい人なのに。春ちゃんは、春ちゃんのこと、うんとよくわかっていて、春ちゃんが大好きな人と結婚しなよ」 「うん。そうだよね。わたしもそのつもりだったけど、みのりにもそう言って欲しかったんだ」 「わかっているよ、春ちゃん」  みのりは地面を見ながら言った。  黄色くなった落葉が重なりあって地面に落ち、泥に汚れている。秋になれば、葉の色は必ず変わり、そして落ちる。  けれど人間は、いつ何が起るのか何も知らずに日々を過ごし、ただそれを受け入れるだけなのだ。毎日の暮らしなんて平凡なものだ。きのうと今日も、あまり区別がつかない。卒業したって、入社したって、引越したって、ほんの少し日常が変わるだけで、あとはまた新しく日常が続いていくだけなのだ。人間なんて、結局どんなことにもすぐに慣れてしまうものなのかもしれない。  みのりにしたって、もう会社に就職したというのに、時々ぼんやりと、 「大きくなったら、何になろうかなぁ」  などと思ってしまう。もう大きくなったのに。でも、大きくなるということは、こんな日々が待っていることだと、小さいみのりには考えもつかなかった。  一生懸命勉強して、いい学校へ入って、難しい試験に受かって、そしてやっていることは、ただ「いらっしゃいませ」と言うだけのことだ。何も変わらない毎日を過ごし、そうやって年を取っていくのだろうか。「何事も楽しく感じる」——自分の長所をそうコメントしていた女の子を就職情報誌で見た。彼女は、有名な商社に入社が決まり雑誌のインタビューに答えていたのだ。あの子はどうしているだろうか、と思う。新人がきっとやるであろう、コピー取りや、電話番やお使いも、楽しくしているのだろうか。みのりは思う。そんなのやっぱり嘘じゃないか。そんな仕事はちっとも楽しくない。楽しいかどうかなんて重要じゃない。会社で働く女の子にとって必要なのは、つまらないことも我慢できること、そして、その我慢のなかでも何かを忘れないことではないか。その何かとは、入社が決まった時のあの気持だ。会社のためにちゃんと働こう。その思いで体をいっぱいにして会社員になったのに、日々の単調さに心は風化してしまう。  負けちゃだめだ、とみのりは思う。わたしたち、ちゃんとしなくちゃ、こわくても逃げちゃだめだ。そう思うのだった。  みのりは、春子にああは言ったものの、自分が結婚したいのかどうか、はっきりと考えたことはなかった。父や母がいい例だ。恋愛で結婚したとはいえ、今は、ただ一緒に暮らしているような状態で、母はことあるたびに、 「定年になったら、退職金をもらって別れる」  と、言う。この人たちは、とみのりは父や母を醒めた目で見る。この人たちは、時間切れなのだ。この先、きっともうどうにもできないだろう。このまま冷たくただ暮らしていくのだ。他にもう何も選べず、どこにも行けずに、嫌だと言いながら、どうにもできないのだ。  みのりは、自分は違う、違ってみせると思う。自分で会社を決めて入ったように、自分の欲しい生活は自分の手で掴む。そのために、働いてお金をもらっているのだ。お金があれば、どんなこともできる。それは、母を見ていてみのりが手に入れた真実だ。お母さんは、お金がないから嫌でもお父さんと別れて暮らすことはできない。みのりは、別に結婚しなくても、結婚できなくてもいい、ただ恋愛して生きていきたかった。自分が好きな男が、自分のことを好きでいてくれるなんて、なんだか奇蹟のように思えるのだ。 「みのり、ありがとうね」  そう言って、春ちゃんは手にしていたおむすびを食べた。 「まだ少し時間があるから、もう一つ聞いてもらってもいい?」 「うん、いいよ」 「あのさ、わたし営業部で、今少し嫌なことがあるの」 「何、春ちゃん」 「あのさ、みのり、長谷川さんってわかる?」 「わかるよ、ヤギが背広着てるみたいな人でしょ。いつも、眠そうな人。紅ちゃんたちの、一つ上の代の人だよね」 「ヤギね。うん、そうなんだけど、それが悪いヤギなんだよ」 「意地悪するの?」 「そうじゃない。ずるいの」 「なんで」 「営業の電話、取らないの」 「だめじゃない、注文の電話なんでしょ」 「そう。だから困るの」 「なんで取らないの」 「いっぱい鳴ってうるさいんだって」 「いっぱい注文がくるから、鳴ってうるさいんでしょう」 「そうなんだけど、取らないの」  最初、やたらと春子にばかり集中して電話が鳴った。春子は、営業だからそんなものだろうとも思ったし、いっぱい注文がきて、いいことだと、どんどん電話を取った。そのうち、どうも変だと思うようになったのは、 「長谷川さん、いらっしゃいますか?」  と、長谷川さん宛の電話もくるようになったからだ。変だな、営業部員は各自直通の番号を持っているのに、どうして自分に長谷川さんの電話がくるんだろう。疑問を抱いた春子は直接長谷川さんに訊くことにした。 「長谷川さん、どうも長谷川さん宛の電話がわたしにかかるんですけれど」  長谷川さんは、にっこり笑って穏やかに、 「うん、ぼくのところにきた電話、伊藤さんの電話に転送させてもらっているから。伊藤さんは新人だから、電話いっぱい取ってよ」  と、言ったのだった。 「じゃあ、春ちゃんがいっぱい取っていた注文の電話、もしかしたら長谷川さんにきたものだったかもしれないの」 「そう」 「長谷川さん、電話取らない間、何しているの」 「何もしてない」 「ずるいねえ。それで、春ちゃんどうしたの」 「困るからね、転送はやめて下さいって頼んだ」  そんなこと頼むことじゃないけど、頼まないとやめないならしょうがない。 「そう。それでもう大丈夫なの?」 「ううん」 「どうしたの。まだ何かあるの」 「うん。今日はね、長谷川さん、電話の線、抜いちゃっているの。だから全然電話は鳴らないのよ」 「それってひどいじゃないの。なんで長谷川さんって、そうなの?」 「さぁ、編集部に行きたいんじゃないかな。仕事をしなければ、まわりが困るし、そういう人にいられても困るから、異動させると思ってるんじゃないの」 「捨て身の作戦だね」 「そうなんだけど、ああやってやる気のない人と一緒に働くと、そんなつまんない仕事をこっちがしているのかって思えてきて、それが嫌なの」 「上の人は何も言わないの?」 「うん、知ってても言わないよ。ちゃんと電話、取りなさい、なんて恥しくて言えないんだと思うよ」 「困るね、そういうの。一番下にしわ寄せがくるしね。上の人って、恥しいことも我慢してやるために、その分たくさんお給料もらっているんでしょう。両方だめだね」 「そうなんだぁ」  長谷川さんは、編集者になりたくて営業の仕事を、ボイコットしているのだ。でも、長谷川さんって編集者になれる人なのだろうか。長谷川さんって、出版社という会社に就職したのではないのだろうか。こんな姑息《こそく》な意地悪をする人って、作家と付き合えるのかな。いつもぼんやりした顔で、寝癖のついた髪のまま、足を引きずるようにして長谷川さんは歩いている。人を外見で判断してはいけないのだろうけれど、外見からわかることは、いくらでもある、とみのりは思う。受付では、人を見ているしかないのだから。  長谷川さんは、スチュワーデスになりたがった、みのりの短大の子たちを思い出させる。あの女の子たちは、スチュワーデスになりたいというよりも、人から「きれいで、頭が良くて、背も高くて何でも持っている」と認めて欲しくて、スチュワーデスの試験を受けたのではないか。  長谷川さんはきっと、編集者という人になりたいのだ。「いい学校を出て、なんでも知っていて、好奇心がいっぱいで、作家にも会える」、そんな人になりたいのだろう。別に、本が好きでもなく、自分の会社の出版物に愛着があるわけでもない。ただ自分の気持のためだけに、編集者になりたいのだ。ふーん、編集者になったって、仕事ができなければそれまでなのになぁ、とみのりは思った。 「そう、わかった。電話線のことは大丈夫、心配しないで」 「えっ、大丈夫って、みのり何かするんじゃないでしょうね。変なことしないで」 「大丈夫だよ、春ちゃん。わたしも、そんなにバカじゃないから。春ちゃんが困るようなことはしないよ」 「そう、そうしてね。絶対だよ」 「うん。心配しないで」 「じゃあ、もうそろそろ帰ろう。一時には戻らないとまずいでしょう」  そう言って、春子はお弁当をバッグにしまった。二人は歩きながら話す。 「あのさ、受付にいる加藤さん、元気?」 「元気だよ。なんで?」 「あの人、週刊にいた時、かわいそうだったんだって」 「えっ、何のこと? わたし、何も知らないよ」 「ああ、そう。加藤さんはね、週刊にいた時、何か連載の絵を、イラストレーターのお宅にいただきに行く係だったんだって」 「それは紅ちゃんから聞いたよ」 「それでさ、そのイラストレーターの人、加藤さんのことが気に入って、どんどん自分だけで盛り上がって『うちには子供もいないし、妻と別れるのは簡単だから』とかなんとか、加藤さんに言ったらしいよ」 「それでどうしたの」 「加藤さんは、すごく困ってデスクの人にも相談して、それで受付に変えてもらったんだって」 「その人のせいで?」 「うん。仕事も覚えてきたし、いろいろな人にも『加藤さん、加藤さん』って言われて、とっても好かれていたんだって。受付に異動したいって、自分から言うんだから、もしかしたら、他にも嫌なことがあったのかもしれない」  でも、そんなこと、もしかしたらなかったかもしれないと、みのりは思った。 「春ちゃん、それ、誰が言ったの?」 「営業の人だよ」  部署が違うのに、そこまではっきり話は伝わってしまうのか。かわいそうな紅ちゃん。それが本当のことにしろ、そして噂にありがちだけど一部が脚色されているにしろ、紅ちゃんのことを言葉にして、口から外へ出さないで欲しい。誰かがどこかで、その紅ちゃんのつらい話を、わけ知り顔で言葉にするたびに、自分で決めて受付に来て、そして一生懸命仕事をしている紅ちゃんを嗤《わら》っているように思うからだ。  全く余計なことをする男だと、みのりは思った。仕事で行っているんだから、紅ちゃんはいつも、にこにこしていただろうし、きちんともしていただろう。仕事への熱心さを、自分への関心だと感じたその男は、自惚《うぬぼ》れるにも程がある。まして結婚しているのなら、そんなことを考えるべきではない。嗤われるべきはその男なのだ。  そんなことは我慢して、とにかく仕事をしなくてはいけない。そう言う人がいるかもしれない。でも、どうしても嫌だということは人それぞれで、紅ちゃんだって、うんと迷って決めたことだろう。あの人はあんなに賢いのだから。 「春ちゃん。その話、もう他の人にしないでくれる?」 「しないよ。みのりが受付にいるから言っただけだよ」 「怒っているわけじゃないけれど、紅ちゃんのこと、他の誰かが『ねぇ、知ってる?』って、こそこそ、きっと笑いながら話すのが嫌なの。だから、もう紅ちゃんの話、広めないで」 「みのり、ごめん。悪かったよ。もう誰にも言わないよ」  春子は静かに謝った。それはもういいんだけれど、この体に入ってしまった嫌な話はどうやったら追い出せるだろうと、みのりは考えていた。  洗面所で歯を磨き、口紅をつけ直したら十二時五十五分で、ちょうど引き継ぎだった。 「はい」  と、言ってみのりが紅ちゃんの後ろに立ち、前を向くと、桃井さんのお客様の石坂様はまだ桃井さんに会えずに、待っていた。 「そうなの。困りました」  木島さんが、小さい声で言った。 「桃井さんのお客様以外、引き継ぎはありません。田村さんのお荷物は、さっき無事、お届けしました。石坂様の件は、念のため交換台にも連絡してあるので、外から桃井さんが会社に電話をしてきたら、受付にも廻してもらえます」  紅ちゃんはそう言い、自分の椅子を引き、座布団を裏返し、 「木島さん。お配りに行ってきます」  と、木島さんに声を掛け、「行ってくるね」と宮本さんとみのりにも声を掛け、エレベーターホールへ通じるガラスの扉を押していった。  紅ちゃんのこと、知っていたつもりだけれど、知らなかったな、とみのりは紅ちゃんの後ろ姿を見ながら思った。と、同時に、全部を知らなくたって、全然構わない、何の問題もない、とも思うのだった。 「桃井さん、困ったわね」  宮本さんが言った。 「ええ、本当に」  一時間以上待たされている石坂様は、別に困る風でもなく、持ってきた単行本を読んでいる。普通の会社員ではない、という感じがした。上着を脱いで、黒いセーターのままだし、坐っている隣の席に上着を置き、その上にソフト帽を載せていた。本を読む石坂様をよく見れば、左手の薬指に、青い大きな石の指輪があった。男の人でも、あんな指輪をするんだ。受付に坐っていると、自分たちの目の高さに、お客様の手がくる。男の人の指輪は、素気ない銀色のものばかり見てきた。あんな指輪は見たことがなかった。石坂様は、外国でお仕事をしたか、海外の生活が長いのかもしれない。みのりはそう思った。ああいう指輪をした男の人を、映画で見たことがある。 「『四つ葉』か、『シャルマン』に電話、してみましょうか」  宮本さんが言ったのは、会社の近くにある喫茶店で、二軒ともよく桃井さんが行くところだ。桃井さんを探す時、ここも候補に入れる。受付の電話帳には、そんなお店の番号も書いてある。 「わたし『四つ葉』にかけるから、鈴木さんは、『シャルマン』にかけて」 「はい」  宮本さんから渡された電話帳は、年代ものだ。表紙が少し破れていて、それをセロテープで補強してあった。「サ」行をあけると「シャルマン」の番号は確かにあり、番号を書いてあるその文字は、木島さんのものでも、宮本さんのものでもなく、きっとかつて受付で働いた、みのりの知らない誰かのものだった。 「あの、お忙しい時間にすみません。そちらに、わたくしどもの桃井はおりませんでしょうか」  宮本さんが電話をしている。もうお店の人もわかっている、という感じだ。みのりも「シャルマン」にかけなくては、いけない。  どうせいないと思った桃井さんは、そこにいた。電話に出たお店の人が、 「はい、いらっしゃいます」  と、答えたのだ。「シャルマン」は会社を出て、最初の交差点を渡ったところにある。 「すみませんが、桃井と代わっていただけますか」  石坂様にも聞こえたのだろう、本から顔を上げ、みのりを見ている。 「こちら、社の受付ですが、桃井さんに十二時お約束の石坂様がお待ちです」 「えっ、石坂さん、今日だっけ? ずっとそこにいるの」 「はい、十一時四十五分からお待ちです」 「やっばいなぁ」 (まったくだよ) 「えーっ、本当に今日だっけ」 (そんなの、わたし、知らない) 「ちょっと、電話、石坂さんに代わってくれる?」  桃井さんは明るく困っている。 「石坂様、恐れ入ります、桃井が電話に出ておりますので、お話しいただけますか」  石坂様は椅子から立ち上がり、受付に近付き、みのりから受話器を受け取った。これはコロンなのか、柑橘系とは違うもう少し濃く苦い匂いがしている。石坂様は笑ってる。 「石坂です。ええ、今日、十二時に御社にうかがうということでしたので」  そういいながら、石坂様は右手で物を書くジェスチャーを、みのりにした。みのりは、ボールペンとメモ用紙を電話の近くに置く。そして、字がぶれないようにメモ用紙に指を伸ばして押さえる。石坂様はメモ用紙に「シャルマン」と書く。きっと、おなかも空いたことだろう。「シャルマン」で、何か、それはカレーとか、サンドイッチとか、そんな簡単なものだろうけれど食べながら、桃井さんは石坂様と話をするつもりなのだろう。 「どうもすみませんでした。桃井さんを見つけて下さったようで、ありがとう。『シャルマン』というお店は、この近くですか」 「はい、社をお出になりまして、最初の交差点をお渡りになった先です」 「そう、どうもありがとう」  石坂様は、みのりに礼を言うと出て行った。 「桃井さん、困るわね。お客様を忘れて、自分だけお茶を飲んでいたんだから」  宮本さんが言う。 「ええ、本当に。困りますね」  みのりも答えた。もし「シャルマン」に桃井さんがいなければ、石坂様はあとどのくらい待つつもりだったのだろうと、ぼんやり考えた。  その電話がかかってきたのは、その日の午後四時だった。みのりは待機中で、電話は表に坐っていた紅ちゃんが取った。 「はい。あ、少々お待ち下さい」  紅ちゃんは、戸棚の脇から、ぴょこっと顔を出し、 「みのり、外から電話だよ」 「はい、すみません」  会社に電話がくるなんてなんだろう。うちの誰かが怪我でもしたのだろうか。 「あのね、一時頃、右側に坐っていた黒いワンピースの人にって、電話が入ってるの。だから、みのりだと思うんだけど」  ちょうど宮本さんは、どこかに行ってここにはいない。この日、宮本さんは、薄いオレンジのスーツを着ていた(ついでに言えば白いブラウスには、大きなフリルがいっぱいついていた)。  何だろう、この電話は。 「はい、出てみます」  一体、誰だろうと思いながらみのりは電話に出た。 「お電話代わりました。鈴木でございます」 「あの、石坂といいます。今日、桃井さんをお訪ねした者ですが、覚えていらっしゃいますか」  ああ、あの石坂様だ。 「はい。大変お待たせして申し訳ありませんでした」 「もう、それはいいんだけれど、あなた、今日、仕事は何時に終るの」 「六時半ですが」 「それから、ぼくに会うことはできますか?」  えっ、なんだ、この人? 「まあ、そこからじゃ他の人もいるし、監督係みたいな人もいるから答えられないでしょう。じゃあ、そちらの会社を右手に出ると、ホテルがあるでしょう。ぼくは、六時半からそこの一番上の階のバーで、あなたが来るまでお待ちしていますから。ご存じでしょうが、ぼくは待つのは平気ですからね」  そう言って、電話は切れた。テレビで見るようなこと、する人っているんだ。笑っちゃうな。そんなことが自分の身にも起るなんて。  電話が切れた後、木島さんと紅ちゃんがみのりをじっと見ている。だいたいもう、二人には、この電話が何だったかわかっているのだろう。 「昼間いらした、桃井さんのお客様の石坂様から電話がきました」 「まぁ」 「やっぱりね。あの人、みのりのことばっかり見てたからね。わたしには、わかったよ」 「みのり、それで何ですって?」 「仕事が終ったら、会えないかって。この先のホテルのバーでずっと待っているって」 「うん、まぁ、じゃあ、みなさんいらして、石坂様にご馳走になれば?」 「もう、木島さんたら、そういうことじゃないでしょう」  紅ちゃんは、笑ってしまう。 「で、みのり、どうする?」 「そんなの、行きませんよ」  紅ちゃんは、みのりをじっと見ている。 「行きませんたら」 「行きたければ行っておいでよ。でも、三十分後に、わたしがバーに電話してあげる。それで帰ってくれば。案外、面白いかもよ」  紅ちゃんは、本気で言っているのだろうか。 「それとも、桃井さんに、石坂さんのこと訊いてあげようか。危ない人だったら困るじゃない」 「ううん、本当に、わたし、そんな人に会いに行きたくない。仕事で来たのに、そういうことするの変だから」  それに、石坂様は左の薬指に大きな指輪もしていたのだ。結婚している人と、待ち合せなんかしたくない。 「そうね、みのり、おやめなさい。こんなことするなんて、あの方、少し不良ね。良くないわ。お若い方はお気の毒。これから先、うんとこんなことがあるんですからね」  木島さんはそう言うけれど、なんだか嬉しそうだ。 「ふーんだ、木島さんも、たくさんあったんですか」  紅ちゃんが言う。 「そりゃあ当然ですよ。それを振り払い振り払いしていたら、最後にこうなったのです」 「はいはい、よくわかりました」  紅ちゃんと木島さんが笑い、そこへ宮本さんが、ちょこちょこ歩いて帰ってきて、 「あれ、何、みんなで揃って。引き継ぎまだでしょう」  と言った。 「うん、ちょっとね」  紅ちゃんは、そう言って、電話のことは宮本さんには言わなかった。  みのりは、あーあ、こんなことつまらない、と思った。石坂様のコロンを一瞬でも、いい匂いと思ったことすら、石坂様の思うつぼだと思った。甘く見られたのだろうか。なぜ、宮本さんでもなく、紅ちゃんでもなく、自分なのか。受付だから、お客様のためにと思い、ただそれだけでしたことなのに。義務感と親切心からしたことを、あの石坂様は、何かもっと湿ったあたたかさ、と受け取ったのだろうか。  名前もわからない受付に電話をかけてくるのが、まず大胆だし、相手に有無を言わせない誘い方には、何度もそうやってきた人が持つ、なめらかさがあった。  そんな人に声を掛けられるなんて、嫌だな。この気持の悪さは一体なんだろう。 「みのり、大丈夫?」  紅ちゃんはお配りに行くのだろう、右手にいくつも大きい封筒を持ったまま、そっと待機部屋に顔をのぞかせた。 「はい、平気です」 「ああいう人っているんだよ。勝手に待たせておけばいいんだから、気にすることないよ。『嫌です』って言うことは、大事だよ。特に会社で働く女にはね」  紅ちゃんは、それだけ言ってお配りに行った。  受付にいる自分たちは、お客様を見ているのだと、みのりは思っていたけれど、それは同時に、お客様もまた、みのりたちを見ているということだった。それを石坂様のことでみのりは、はっきりと知った。  それでも、見ていること、それはみのりにとって唯一与えられた娯楽だった。仕事中に娯楽という言葉がなじまなければ、チャンスとでも言えた。  みのりにとって、誰にも言わない楽しいこと、それは、掃除をする佐藤浩市を見ることだった。佐藤浩市が働くのは、どうも午前中いっぱいで、午後にその姿を見ることはなかった。お掃除をする、おじさん・おばさん(と呼ばれるような年齢の人たち)から離れ、いつもぽつんと一人離れたところで、大きな手でモップの柄を持ったり、掃除機を引いたりしていた。  どうして、あんな若い人がこの仕事をしているのかな。午後からは、何をしているんだろう。みのりは、うつむき加減の佐藤浩市のうなじを見たり、少し汚れてきたスニーカーを見て、勝手に想像するのだった。  早番だと、佐藤浩市が受付の台の下を掃除するところが見られた。近くで見ることができて嬉しいのだけれど、カーペットが擦り切れて丸く穴があき、それを見られるのが恥しかった。掃除しやすく椅子をどかす時、座布団が目に入り、色褪せていることが恥しかった。側で、ずっと見ていたかったけれど、かがんで掃除しているところはやっぱり見たら悪いような気がして、みのりは観葉植物の葉っぱを拭くことにした。  掃除が終ると、佐藤浩市は椅子を元の位置に戻し、ガラガラと掃除機を引っぱっていく。みのりは「ありがとうございました」と声を掛けるけれど、佐藤浩市は何も言わずに行く。  みのりは、最近では早番の、佐藤浩市の掃除が終る、この瞬間が一番好きだ。  まだ誰も出社してこない、この空っぽの職場に一人佐藤浩市の後ろ姿を見ていると、この時だけ自分は出版社で働く会社員でも、「いらっしゃいませ」を言う受付でもなく、ただの二十歳の女の子なのだと思えるのだった。  青春なんていう、おかしな言葉がある。  青春って、バカで乱暴という気がする。それなら自分には青春があったのだろうかと思う。高校生の時は、日に焼けて汗まみれでただ走っていた。受験に失敗して進んだ先のカトリック系の短大では、人里離れた寮に幽閉されたようなもので、十八、十九を窓から山の景色を見ているだけで終らせてしまった。  会社に入ってみればどうだろう。いつも、きちんとしていて、敬語でがっちり固めた台詞で話し、毎日会うのは立派な人たちだけ。立派というのは、おじさんで、社会的に地位があって、もうすっかり出来上がっている、ということだ。そんな人たちを、受付に坐って見ていれば、「目が肥えちゃう。職業病だよ」と、紅ちゃんは言った。それは肥えるというより、「目が老ける」ということではないかと、みのりは思う。  まだ二十歳なのに、何かがいっぺんに終ってしまったと、みのりは感じる。会社にいると、自分は顔だけが二十歳、中身はすっかり固まった人、と思えてくる。そんな気持を、時々ゆり動かしてくれるのが、佐藤浩市なのだった。  春子によると、あれ以来、長谷川さんは電話をちゃんと取っているということだ。もう自分の電話を新人の春子に転送することもないし、電話線を抜くこともない。  みのりは、春子に「良かったね」と答えたものの、そんなのは当り前じゃない、と思っていた。 「みのり、何かした?」 「した」  春子はじーっとみのりを見る。 「何をしたの」 「うん、早番の時、まだ誰も人が来ていない間にね、長谷川さんの席に行って、電話線のところをセメダインで固めておいた。ほら、そうしたって長谷川さんは『ぼくの電話線、セメダインで固めた人、誰?』なんて言えないんだよ。だって、それは自分から『せっかく電話線抜いていたのに』って言うことだから」 「あっそう。そんなことしてくれたんだ。みのり、頭いいね」 「えっ、そうかな。自分のこと、意地悪だと思っていたけど、頭が良かったのかな」 「そうだよ。天才だね」  電話ががんがん鳴り、うるさいなぁと、電話線をはずそうとして、がっちりセメダインで固められているのを見た時、長谷川さんは一体どんな顔をしたのか。その瞬間を目撃できなかったのが、残念だ。 「春ちゃん、わたしね、決めたよ」 「えっ、何を?」 「わたしは、世直しOLになる」 「何、それ」 「世の中を良くするために暗躍する人」 「だって、みのりは受付じゃない」 「誰もが油断する受付をしつつ、暗躍する。春ちゃんもやらない?」 「地味なんだか、派手なんだかわからないね、それ。それにさぁ、わたしたち、だいたいOLなの?」 「女だし、若いし、会社にいるし、そんなに重要なことはやってないからOLじゃない」 「えっ、そうかなぁ」 「まぁ春ちゃん、OLはお昼ごはんを食べたら、ちょっと甘いものでも食べようよ」 「OLはね」  春子もそう言い、二人でコンビニエンス・ストアで、小さいアイスを買い、公園で食べた。  十二月になると、ざわざわと慌しくなった。午前中にいらっしゃるお客様の数が急に増え、五時から六時の間にいらっしゃるお客様も多くなった。  年末進行といって、雑誌の編集部はこの時期が一番忙しい。印刷所が休みに入る年末からお正月にかけて、締切りがいつもより一週間以上早まるばかりか、次の号の準備もしておかなくてはならず、つまり一カ月のうちに数冊分の仕事をするのだ。  年末進行の慌しい空気の中で、社内にぱぁっと人事異動の噂が広まった。みんなは「どうしてこの暮れの大変な時期に」と、言いつつも、なんだか浮き浮きしていた。 「いつもね、本人が辞令を受ける前に、だいたい噂でわかっちゃうんだよ」  二人で受付に坐っている時、紅ちゃんが教えてくれた。 「どうしてわかっちゃうんですか?」 「うーん、よくわからないけど、異動後の名刺は早い段階で発注しているから、その名刺を作るところからもれてくるとか、会社がわざと先に情報を流して、心の準備をさせておくとか、いろいろ言っているけど」  十二月でも、あまりお昼にはお客様は来ない。時々、「約束ではないのですが」といらっしゃるお客様もいて、会いたいとおっしゃった社員は、お昼ご飯を食べに行ったのだろう、席にいないことが多い。そんな時は、 「申し訳ございません。只今《ただいま》、昼休みで外に出ているようです」  と、言う。でも、それは当り前じゃないかなぁと思う。だいたいご飯時に来るのが変だし、十二時二十分頃に、その人が席にいると思うのも変だ。みんな用がなくても外へ出るのだから。うっかり席にいると、お昼の電話当番のようになってしまい、全然休みにならない。だから、外に出ない社歴の長い偉い人が電話を取っている部署もある。 「人事異動ってどうやって決めるんですか」  ここの会社では、あっと驚く異動があるらしい。経理にいた人が週刊誌へ行ったり、総務部にいた人が営業部へ行ったり、受付にいた人が出版部へ行ったり、営業にいた人が受付に行ったり(そして受付の仕事をボイコットして、会社を辞めて、辞める最後の日に宮本さんを平手でぶったり)、広告から経理に行ったり、とにかくびっくりする異動らしい。そのため、異動の前には自分の情報を仕入れようと、社内がそわそわして、もう仕事どころではなくなるという。 「どうやって決めるのかな。日頃、誰かがどこかでじーっと社員を見ていて、何かを手帳に書いておく。そして新たな可能性を発見するのかも」 「紅ちゃん、ふざけているでしょう」 「ふざけてないけど、そうとでも思わなくちゃ、やってられないよ」 「わたしが働いていることも、誰かが見ているのかな」  今、受付には誰もいない。それでも二人は並んで坐り前を向いている。こんな状態も、その誰かは知っているのだろうか。 「みのり」 「はい、紅ちゃん」 「みのり、がんばんな。そして、これからも一生懸命仕事しな。わたしは、みのりのやること、ずっと見ていてあげる」 「はい、紅ちゃん。ありがとう。わたしも、紅ちゃんのやること、見ている」 「わたしは、いいんだ、もう」  紅ちゃんは下を向き、鉛筆削りに鉛筆を入れ、ガガガーと鉛筆を削っている。左手にはあの時計がある。みのりは、紅ちゃんを見ていて気が付いた。この日の紅ちゃんは、つま先が茶色の革で、あとは黒いローヒールの靴をはいているけれど、きのうもこの靴じゃなかったかな。紅ちゃん、外泊したのかな、と思った。 「あのさ、宮本さん、髪を切ったでしょう。あれ、何でだかわかる?」  鉛筆を四本削り終った紅ちゃんが言う。  十二月に入り、宮本さんは髪をうんと短く切ってきた。それは、短距離選手のようで、でもこんなに細くて弱そうな正選手はいないだろうと、みのりは思った。驚いたことに、それも宮本さんが注文したのか後ろは刈り上げていて、短く、案外太い毛が、濡れた砂のようにざらざらしていた。宮本さんは、その髪形で、今まで通りパステルカラーのスーツを着ているから、「えー、どうしちゃったの、この人は」と思わせるのだが、みのりはもう、宮本さんに関しては、「さらっ」と流すことにしていたから、ただ事実を受け入れるだけで、理由は考えなかった。 「あの髪形に何か、わけがあるんですか」 「宮本さんはね、どうしても編集に異動したいんだよ」  それが、髪を切ることと、どう関係するのか。 「はい、そうですか」 「あっ、そんな言い方して、みのりは。まぁ、いいや。でね、髪を切ると活動的に見えていいと思っているんだよ」 「誰がですか」 「宮本さんが」 「それは、宮本さんの考えなんですか」 「そうだよ。宮本さんは宮本さんなりに考えているんだよ。よくわかんない考えなんだけど」 「はい、わかりました」 「えっ、何がわかったの」 「宮本さんの考えです」 「まぁ、会社なんてさ、四月に新人が入ってくることと、異動と、社内結婚ぐらいしかみんなで盛り上がることがないから、仕方ないよ」  社内結婚は多いらしい。編集部に行ったら男の人は、朝から晩まで忙しくて女の人に出会うといっても、社内がせいぜいで社内の女の人を見初めて結婚する、というパターンらしい。思えば会社って不思議だ。年齢も性別も違う大人同士が力を合わせて一緒に働いていて、ふとした瞬間に、男だとか女だとか、そんな要素がくっきりと匂い立つのだから。 「宮本さん、張り切ってお配りもしているし。あの人バカだけど、なんだか、見ていてかわいそうにもなるよ。本当は、こんなところにいなければ、あの人の良さだってもっと生かされただろうに」 「なんで会社の試験に受かったんでしょうね」 「運が悪かったんでしょう、きっと」  紅ちゃんは、そう言って少し笑った。  噂によると、どうも受付にも異動があるらしく、宮本さんはますます元気になり、紅ちゃんはそれを見守り、みのりは黙って見ていた。  噂は本当らしく、十二月も二週に入ると時々、木島さん宛にどこか社内から電話が入り、その都度、 「ちょっと、すみませんね」  と、言って木島さんは下を向いて、早足で出掛けていった。それが台に坐っている時でも木島さんは、持場を離れていった。木島さんが行ってしまうと、受付は一人で応対しなくてはならない。時々、たて込んでくるとお客様をお待たせしてしまう。そんな時は、カウンターの隅に置いてある小さなベルを鳴らす。その音がしたら、待機している誰かが坐るのだ。  木島さんがいなくなるのは、十分ぐらいだった。そんなことが三回続いたけれど、戻ってくる木島さんは、毎回元気がなく、悲しそうだった。何か言うかと、宮本さん、紅ちゃん、みのりはじっと木島さんを見るけれど、木島さんは、 「まぁ、みなさん、すみませんでした」  と、言うだけだった。  十二月二十日、みのりは遅番で十時二十分に会社に着いた。受付に坐っている木島さんと紅ちゃんに「おはようございます」と挨拶をし、待機部屋に入り、宮本さんにも挨拶をしようとした。この日の宮本さんは早番だった。十時に交替したのだろうが、おなかでも痛いのかクッションを抱き、そこに顔を埋めるようにしてじっとしている。 「あっ、鈴木さん。ちょっと、こちらにいらして」  木島さんが衝立を少しあけて、みのりに言った。何か怒られるのだろうか。いつも「みのり」と名前で呼ばれているのに、急に名字で呼ぶなんて変だと思った。鈴木という名字を持つ人間は、良くないことが起きた時、名字で呼ばれるのだ。  木島さんは先に立って歩き、どこへ行くのかと思ったら、営業部の人たちが「小部屋」と呼んでいる、会議室に入った。  大きなテーブルを二つ合わせて置いてあり、椅子が六脚並べてあった。 「坐りましょう。こちらにいらして」  木島さんが先に坐り、自分の隣の椅子を引いた。 「みのり、辞令が出ましたよ。一月から週刊誌の編集部で働いていただくことになりました。良かったわね」 「えっ、わたしがですか」 「はい」 「宮本さんは?」 「宮本さんは、動きませんでした」 「ああ、そうですか」  だから、ああやってクッションをかかえていたのか。せっかく髪の毛も切ったのに。 「あの、わたしの代わりに誰が来るのですか」 「それが、誰も来ないのです」 「えっ、三人体制ですか」 「ええ、本当に困ってしまいましてね、それで、何度もお願いに上がったのですけれど。今回、増員はなくて、とりあえず四月まで三人体制で、ということなのです」 「そうですか。わたし、自分が動くとは思ってもいませんでした」 「そうね、早かったですね。週刊で、会社をお辞めになる方があるの。赤ちゃんができたんですって。今まで何回か、おつらいことがあって、やっと授かったんですって。良かったわね。で、その方四十近くて、いろいろお考えになって、お辞めになるそうなの。今、ちょうど体調が、ほら、おつらくて、大事をとりたいんだと思いますよ」 「誰ですか」 「山下さん。あとで、ご挨拶に行ってらっしゃい。それから編集長の五条さんにもね」 「木島さん」 「はい」 「わたし、まだまだ受付で仕事したかったんですよ」 「ええ、みのりはよくやってくださいましたもの。わかっています」  木島さんは過去形で言った。 「ちょっと待って」と、みのりは言いたい。わたし、もっとよく働かなくちゃいけなかった。紅ちゃんを助けて、そして本当は宮本さんとも仲良くしなくちゃいけなかった。木島さんの話だって、もっともっと聞きたい。わたしは十分じゃなかった。間に合わなかった、もう終ってしまうんだ。みのりはそう思った。 「異動なさっても、同じ会社ですもの。会えなくなるわけではありません」 「はい」 「じゃあ、戻りましょう。宮本さんが、がっかりなさっているから、お気の毒ね。でも、あの方、みのりを恨むとか、そういうことはしないから、やっぱり偉いわね。引き継ぎがあるけれど、先に週刊のお部屋に行って、ご挨拶していらっしゃい」 「はい」  みのりと木島さんが小部屋を出ると、もう知っていたのだろうか、春子が電話を受けながら、みのりを見て笑っていた。目で「良かったね」と言っている。  受付だということ。それは全然悪いことではなかった。でも、週刊誌へ異動することを「良かった」と、木島さんからも春子からも言われると、いいことなのかもしれないとみのりは思う。  とんとん、と階段を上り、週刊の編集部の扉を押して開ける。まだこの時間だと、同期の井上純一も児玉善彦も来ていない。部屋はちらかっているだけで、空っぽだ。ずらりと並んだ机の上は、どれも書類がめちゃくちゃに置かれ、山脈のように本が並べてある。  奥のソファが置いてあるコーナーに、テレビが点いている。あれ誰かいるのかなぁ、と思ったら編集長の五条さんが一人、みかんを食べながらBBCのニュースを見ていた。 「あっ、今度こちらに参ります、受付の鈴木みのりです。よろしくお願いします」 「来たな、蟻娘《ありむすめ》」  五条さんは、にやりと笑ってみのりを見る。 「蟻娘?」 「いっつも黒い服着て、黒いリボンの触角出して、ちょこちょこ物を運んで。お前さんのことだよ」  みのりは、どう出ようかと五条さんを見る。 「蟻娘、しっかり働けよ。がんばれ」  五条さんが言う。 「はい」 「年内はもうあと少しで終るから、引き継ぎは来年だな。それまで風邪を引くな」 「はい」  五条さんは、みかんを一個みのりに投げてくれた。 「それから、会社で泣くな。そういう奴はめんどうだ」 「はい、泣きません」 「じゃあ、もう行ってよし」 「はい、行きます」  みのりは急いで受付に戻ろうと思った。もう、交替の時間だ。編集部の重い扉を押して外に出ると、佐藤浩市が誰もいない廊下に掃除機をかけていた。  みのりは、もう自分は受付でなくなるのだとこの人に伝えたいと思った。 「あの、わたし」  みのりは、掃除機の前に出た。佐藤浩市はえっ、とスイッチを切って、みのりを見る。 「あっ、ごめんなさい。わたし、もう受付じゃなくなるんです。一月から、こっちで働くんです」  佐藤浩市は、みのりをじっと見て、確かに口の端でちょっと笑った。 「そう、それは良かった。ぼくも、この仕事、今月で辞めるんです」  えっ。そうなんだ。どこへ行くのかな。 「じゃあ」  そう言って、佐藤浩市は、何でもなかったようにスイッチを入れて、また掃除を始めた。  みのりは腕の時計を見る。そうだ、わたし早く受付に戻ろう。みのりはみかんを持って階段を、とんとんとんと急いで降りる。わたし、「いらっしゃいませ」って、今日もたくさんお客様に言おう。  自分では何もしなくても、どんどんいろいろなことが、向こうからやってくるんだ。そんなことが大好きなのだと、今、みのりにははっきりわかった。 [#改ページ]   『いらっしゃいませ』のこと  出版社の受付に配属された、新入社員・鈴木みのりの物語を、一年かかって書きました。初めての長篇作品です。本が出来上がると、いつも嬉《うれ》しいのですが、ピンク色の単行本が届いた時、わたしは悲しくなりました。 「本が出来たけど、みっちゃんに見てもらえないんだな。『わぁ、すごいじゃない。良かったね』って、もうあの人からは言ってもらえないんだ」  そう考えた時、ああ、わたしは泣く、と思いました。  みっちゃんは、わたしの同期の友達でした。「でした」と過去形で書かなくてはいけないことが、今でも信じられない。みっちゃんは二〇〇一年の秋、突然亡くなったのです。  わたしは原稿を書く仕事をしていますが、昼間は出版社で働く会社員でもあります。編集者ではありません。  みっちゃんは穏やかで優しい人でした。どんなに悲しいことでも、 「あのね」  と、みっちゃんに話し、 「ふーん、そうだったんだ」  と言ってもらうことで心は収まるのでした。  そのみっちゃんが亡くなり、「そうだ、みっちゃんと過ごした時間のことを字に書いて残そう」と思いました。彼女のことを、ではないのです。あの空気、新入社員としておどおどしながらも「会社員」として振る舞おうとする懸命さ。失敗したり、立ち止まったり、困ったり。あーあ、とうんざりしたり。そして、一日の仕事が終ると訪れる、長い長い放課後のような時間のこと。それを何としても残しておきたかったのです。  わたし自身、二十年前、新入社員として受付に配属されました。けれど、この物語に出てくる鈴木みのりは、わたしではありませんし、伊藤春子は、みっちゃんでもありません。この二人は、会社という「異文化」と、どうにか折り合いをつけようと、日々闘うように働いています。わたしは、こうではなかったような気がするのです。何もかもが、ただただ新しく、全てが刺激的で、受付という台に坐《すわ》りながら、大きく目を開いたまま日々過ごしていた。そんな気がしています。  人が新人である時間。それは実にほんの一瞬のことです。過ぎてしまった今、そのことがよくわかる。お料理をなさる方は、おわかりになるかと思うのですが、じゃがいもを炒めていると、すうっと一瞬、色が透き通って変ります。新入社員にも同じような瞬間があるのではないでしょうか。新入社員が仕事を自分のものにして、ただの「社員」となる瞬間です。  働くということは、一体どういうことか。この『いらっしゃいませ』を書きながら、ずっと考えていました。それは、会社に漂う透明なDNAを受け継ぐということではないか。そう思えるのです。仕事への取り組み方、考え方、熱意、あるいは愛情とも言えるのかもしれませんが、それを日々、皮膚で感じ確実に自分のものにすることではないでしょうか。  そんなことは、会社の壁に貼紙がしてあるわけでも、上司から「ちょっといいかな」と、別室に呼ばれ「うちの会社はね」と、言葉に出して言われることでもありません。上司や、その会社でかつて働いていた人たちが大切に守ってきた「気持」に、自分で気付くことができるかできないか。愛社精神などと言うと笑われそうです。ですが、かつて自分は、この会社に「入りたい!」と思って入ったのだ。その気持を思い出すことは、もう新人でなくなった会社員にこそ必要ではないか、と思うのです。  わたしは、会社員としての自分の生活に不満があって、物を書いているわけではありません。会社員の生活も、物を書く生活もどちらも本当の、わたしの生活だと思っています。 「ぼく(わたし)は平凡なサラリーマン(OL)になりたくない」  青春を生きている人々は、そんなことを口走りやすい。でも、平凡なサラリーマンになることだって簡単じゃない。なりたいと思っても、なかなかなれないことにびっくりするでしょう。時間を守ること、相手に信頼されること、繰り返しの作業も手を抜かないこと。そんな日々の積み重ねで、一人ではできないことが、大勢の人たちの力で大きく動いていく。良い会社員であることは、大きな才能だと信じています。  この物語を書いている間は、みっちゃんが側にいてくれるようで、ずっと嬉しかった。でも原稿は、いつか終りにしないといけません。  発売日よりも数日早く、見本が三冊届き、一冊をみっちゃんのお姉さんにお送りしました。すぐにお葉書を下さり、「みちのにも読めるように、写真の前に供えさせていただきます」と、ありました。みっちゃんは、千々石みちのといいます。わたしの大切な友達でした。    (「一冊の本」(朝日新聞社)二〇〇三年五月号掲載に加筆) 本書は二〇〇三年四月、朝日新聞社より刊行された単行本を文庫化したものです。 角川文庫『いらっしゃいませ』平成18年3月25日初版発行