夏樹静子 紅い陽炎 目 次  第一章 デリカテッセンの暦  第二章 カルチャーセンターの疑惑  第三章 ディスコの殺人  第四章 プラスチック・マネーの誘惑  第五章 パーク・イン・シアターの死角  第六章 ノーブラの秘密  第一章 デリカテッセンの暦    1  ドラムのきいたロックのサウンドは、あちこちのビルから街路にまで流れ出していた。午後十時といえば、六本木の夜がそろそろ本格的に盛りあがってくる時分らしい。  梅雨時に似ず冷んやりとした夜風が流れる路上には、ミニスカートやジョッパーズ、パンク・ファッションとかサーファーズ・ルックなどと呼ばれる実に思い思いの服装をした男女が、途切れもなく行き交っている。それがヤングばかりでもなく、一見管理職が部下の女の子たちを連れ歩いている風情とか、OLや人妻風のグループも多い。白人、黒人も随所で目につき、ローマ字ばかりのネオンが煌《きらめ》く下を母国語で喋《しやべ》りあっている彼らとすれちがう瞬間など、ふとここはどこの国だったかと、錯覚を起こしてしまうほどだ。みんな遊びや踊りに来ているのでありながら、たえまないサウンドと性急なクラクション、周囲の喧噪《けんそう》にせきたてられるように、足どりは案外|大股《おおまた》で速い。  増川与志雄と笹井|友梨《ゆり》、渡辺ひろみの三人連れも、そんな街のムードに溶けこむような歩調で交差点を渡り、六本木三丁目の界隈《かいわい》へやってきた。彼らは交差点の反対側にあるシーフードレストランで時間をかけて夕食を摂《と》ったあと、ディスコが賑《にぎ》わい始める頃合いを見計らって、くり出してきたのだ。  広告コピー(宣伝|惹句《じやつく》)などを請負う小さなプロダクションに勤めている増川は、スポーツシャツの上に軽い上衣《うわぎ》を羽織り、笹井友梨はフレンチスリーブのサテンのブラウスと、サッシュベルトの下にフレアの多いシルクのプリントスカート。高級品だがさりげない、踊りやすそうな身なりをしている。それに較べて、ちょうちんスリーブのついたローズピンクのブラウスに真白なジョッパーズ、ブラウスと同色の編みあげ風サンダルという渡辺ひろみのいでたちは、齢《とし》の割にはいかにも子供っぽいし、これから六本木のディスコへ乗りこむのだとでもいった気負いを隠しきれないようだ。友梨もひろみも、もう三十をいくつか越した主婦なのである。 「最初××がいいわね」 「ああ、近頃あそこ流行《はや》ってるからね」 「外人モデルが毎晩来るんですって」  増川と友梨が場慣れした会話を交わし、友梨はひろみの腕に手をかけた。そこはディスコばかりが入っている十階建のビルの前で、ロック・サウンドはいよいよ洪水のように溢《あふ》れ出している。二つある小さなエレベーター付近には、若者や外人が群れをなして、なかなかその前に近寄れないほどだ。 「お姉さん、ディスコ行くの?」  髭面《ひげづら》の外人に肩を叩かれたひろみは、思わずビクリとしたように友梨につかまった。 「放《ほ》っとけばいいの。男だけじゃ入れないから相手を捜してるのよ」 「あっちはそういう男を漁《あさ》って、タダでもぐりこもうと網張ってるんですよ」  増川が少女の一群に顎《あご》をしゃくった。  ようやく押しこまれたエレベーターは、まさにすし詰めだった。 「今日はとくに混んでるみたいね」 「金曜だからな」  増川と友梨は気楽そうに囁《ささや》きあっているが、初めて来たひろみは、つい不安な目つきでまわりの人たちを見較べてしまう。 (うまく踊れるかしら……)  その内心を読んだように友梨が、 「どうせ今夜は芋の子を洗うようなものよ」 「ひろみさんもジャズダンス習ってるんでしょう?」と、増川が遊び慣れたような目で笑いかけた。 「それなら上手《うま》いに決ってますよ」  目的のフロアで吐き出されると、そこは狭い通路の壁いっぱいに、タレントやミュージシャンの写真が貼《は》りつけてあった。この店はその種の客が多いことで人気を集めているらしい。  男三千円と女二千円の、クレープ券付きのチケットを三枚、増川がフロントで買い求めた。もうその辺りから、ロック・サウンドはギンギン、ガンガンと耳を聾《ろう》するばかりとなり、怒鳴らなければ話が通じない。鏡に囲まれたフロアで、人々は肩をぶつけあって踊り、三色のレーザー光線がさまざまの姿態をかすめていく。 「バッグはそこへ入れるのよ!」 「え?」 「コインロッカーに預けるの!」  二、三回怒鳴りあってはじめて、ひろみは友梨のいうことを理解した。ディスコはクラブやバーとちがって自分の席などないも同然だから、持ち物はロッカーへ預けなければならないのである。それでフロントのすぐ内側には、百円のコインロッカーが二列に並んでいた。  三人はたまたまあいたばかりのテーブルを見つけて、その前に腰をおろし、ウエイターにチケットを渡してカクテルを頼んだ。 「ショウタイムには、外人ダンサーが出てくるわよ」  友梨がまたひろみの耳に口を当て、四隅にある円いステージを指さした。フロアの客には、東南アジアやアラブ系の外人も少くないようだ。——と、まるで友梨のことばが合図のように、ストローハットに白スーツの黒人が二人、ステージに現われた。長い手脚を形よく動かしてステップを踏む。  カクテルに一口つけただけで、増川が友梨を促し、友梨もひろみの手を引っぱった。もうジッとしていられなくなったという感じである。  三人はフロアの人波に加わった。一瞬まるで公衆浴場の湯舟に入っていく時のような羞恥《しゆうち》を、ひろみは感じた。  が、抵抗は最初の何秒間かだけだった。エイトビートのロックが頭上から降り注ぎ、ドラムが脳天に響く。ほの暗い空間を三色のレーザー光線が交錯する。その中で、人々は他人のことなどお構いなしに踊りまくっている。男や女同士が向かいあったり、相手のいない人もめずらしくない。年齢や服装もさまざまなら、踊る動作もまちまち。痙攣《けいれん》のように全身を振り続ける男もいれば、むやみに腰をくねらせて手を泳がせている女。共通点といえば、誰もが汗まみれで顔をほてらせ、異様に血走ったような目をしていることだろう。  増川と友梨は、もう別々のほうへ流れていってしまった。ひろみもおずおずと手脚を動かし始めたが、たちまちリズムに乗っていく自分を感じた。ディスコ・サウンドは自然と踊りの本能をかき立てるものなのかもしれない。それにひろみは友梨といっしょに毎週ジャズダンス教室へ通っているのだから、もともと身体《からだ》は踊りに馴染《なじ》んでいた。  だんだん腰が軽くなってくる。  サウンドだけが頭の中で響く。 「キャーッ」とどこかで派手な歓声があがったのは、二人の黒人ダンサーがフロアに降りて踊り出したからだった。長身の黒人が女性客を横抱きにして回転する。  ステージには別のダンサーが姿を見せた。胸の開いたラメのブラウスを着た黒人少年と、水着のバニーガールである。  この頃から、店内はいよいよ熱気に満ちてきた。芋の子を洗うというほどではないにしても、のべつ誰かと肌が触れあう。レーザー光線はしだいに暗くなり、ついにグリーンの一筋が横切るだけとなって、やがてまたべつの光が点《とも》されていく。サウンドは途切れることがない。休憩のないダンスタイムを、人々は刻《とき》の推移を忘れたように踊り狂っている。  ひろみは早くも陶酔の境地に浸りかけていた。  空っぽの意識にドラムが響く。まったくこのリズムは、本能的な踊りの欲求を誘い出すかのようだ。 (ああ、なんて快い発散……)  フロアがまた暗くなり始めた。赤が落ち、グリーンが消えて、今度は白い光線だけが残った。めまぐるしい白光の交錯が、人々の肢体を断片的に照らし出す。  と、その光線の中に突然人の手が浮かんだかと思うと、それが急にひろみの間近に突き出された。つぎの瞬間、襟元を掴《つか》まれ、激しく胸をまさぐられた。布の裂ける感じと同時に、ひろみは無意識に悲鳴をあげた。まわりが振り向いたようだ。  赤い光線が点り、ひろみの胸を直射した。ブラウスと下着が破られ、その下がむき出しになっている。下向きの貧弱な乳房と黒ずんだ小さな乳首。彼女はもう一度声をあげて、両手で胸を被《おお》った。光線はすぐに通過したが、羞恥はまだ全身で脈うっている。垂れさがった乳房もだが、同じくらいに恥かしかったのは、ローズピンクの少女っぽいブラウスの下に、たるんだメリヤスのシャツとブラジャーをつけているのまで人目に晒《さら》されてしまったことだ。今時の、若くて身体に自信のある女は、シャツはおろかブラジャーもなしで、素肌に服を着ているというのに。  それにしても誰が——?  ひろみは怒りの目で周囲を見廻した。みんなもう何事もなかったように、自分の世界に戻っている。身近で踊っているのはたまたま女ばかりで、こんなイタズラをしそうにも見えないのだが……?  ひろみは諦《あきら》めて、また踊り続けようとしたが、それはとても無理だった。ブラジャーは外れただけだから元へ戻せても、ブラウスと下着が無残に破られて、ベロリと垂れ下っている。一瞬の腕力は異常に強かったのだ。  彼女は片手で胸を押さえて、フロアを抜け出した。さっきのテーブルは塞《ふさ》がっていたが、一つだけあいていたスツールを見つけて腰をおろした。  反対側のコーナーで踊り興じている友梨と増川がチラリと見えた。  店内がまたちょっとざわめいてきたのは、ステージの上の黒人少年が服を脱ぎ始めたかららしい。上半身裸になりながら、彼がおどけた仕種《しぐさ》をするたびに、笑いの渦が湧《わ》きおこる。その間にも、みんな休みなく自分の身体を揺り動かしている。興奮と陶酔にうるんだような目をして——。 (こんなこともよくあるのかしら?)  しかし、他人の胸を引き裂く暴力が、今ここではふと異質なものに感じられて、ひろみはまわりのうす闇に怯《おび》えた目を配った。    2  六月八日火曜日の朝——。  少し上背が不足だが、すらりと姿勢のいい身体に明るいグレーの夏背広を着け、同系色のネクタイをしめかけている夫を見ると、友梨は洋服|箪笥《だんす》の中から素早く一本選びとってさし出した。 「このほうがいいんじゃない? 背広が白っぽい時にはちょっとダークなほうが引きしまるものよ」 「そうかな」  笹井は素直に受取ってしめ替えた。黒地にゴールドのワンポイントがあるネクタイを、彼も気に入ったようだ。ポケチーフの形を直すと、それで出勤の仕度は整い、アタッシェケースをさげて玄関へ出る。 「今日の予定は?」 「なるべく早く帰ってくるよ」  判で押したような朝のやりとりである。 「ああ、だけど今夜もちょっと遅くなるかもしれないな。向うの担当者が来てるんでね。毎晩付合っても、タフなんで参るよ」  笹井は眉をしかめて見せたが、彼自身も連日の接待をさして苦にもしていないのだ。向うの担当者というのは、笹井が営業部門に勤めている商社の輸出相手国の会社の役員らしかった。笹井は自動車部の�課長補�で、担当エリアは東南アジア、彼にいわせれば社内で最も忙しくて重要なセクションなのだそうだ。そこで「なるべく早く帰ってくる」時が夜中の十一時か十二時、「ちょっと遅くなる」といえば午前一時や二時も珍しくなかった。  三歳になったばかりの末娘のミチルが、靴をはいている笹井の足許《あしもと》へやってきた。 「パパ、バイバイ」  笹井は娘を抱きあげて頬ずりした。 「今日はミーちゃんの誕生日よ」  友梨がいうと、 「ああ、そうだったな。おめでとう」  昨日もいったのに、もう忘れていたらしい。 「今日はパパお仕事で忙しいけどね、今度の日曜にホテルへお食事に行こうね」 「うん」とミチルはおとなしく頷《うなず》く。でもそれも、当てにはならない。週末近くなれば、大抵ゴルフか何かの付合いが入ってしまう。が、友梨は「いってらっしゃい」と、ミチルといっしょに手を振って、機嫌よく夫を送り出した。  彼の足音がマンションの階段を下っていくと、いつもそれと前後するくらいに、二人の息子がランドセルに手を通しながら、子供部屋から駆け出してくる。小学三年の双子の兄弟だが、日頃から大抵のことは二人で相談してやるように仕向けているので、友梨は案外手がかからない。 「早くしないと遅れるわよ」 「まだ平気」 「鍵《かぎ》失くしてないわね」 「ここにあるよ」  二人共、家の鍵をズボンのベルトに吊るしてポケットに入れている。 「OK。じゃあ、気をつけてね」  息子たちは威勢よくドアをしめて、階段を駆けおりていった。  4LDKのマンションの中は、これでひとまず潮が退いたように静かになった。八時ちょっと前だ。ミチルが手摺《てす》りにつかまって兄たちを見送っているベランダに、梅雨の晴れ間の眩《まぶ》しい陽光が射している。西武池袋線の富士見台から約十分というこの界隈は、まだ緑の残るしっとりとした住宅街である。道路沿いの小公園で藤棚がよく繁り、石榴《ざくろ》の花の愛らしい紅色も二階の部屋から目についた。  ミチルを呼びこんで、トーストとハムエッグとミルクの残りを急いで食べさせる。友梨自身も中腰で朝食をすませ、空いた皿から流しの洗剤の中へ浸《つ》けていく手つきには、今日は忙しいぞと張り切っている気分が現われている。 「早く食べちゃうのよ」と、またミチルを急《せ》かせながら、夫が置きすてていったグレーのネクタイを拾って、洋服箪笥を開ける。  それにしても扱いやすい夫だわ、とでもいった満足感が、友梨の心をチラリとかすめた。笹井は友梨より一つ上の今年三十五歳で、一流私大を卒業して、現在の大手商社に入社している。昭和二十二年のベビーブームに生まれたいわゆる団塊の世代で、社内には同年輩の社員の数がとび抜けて多く、その分ポスト争いは激甚であるらしい。課長補まではすんなり昇れても、つぎに課長になれるのは十人に一人かそれ以下だそうで、笹井自身「プロモーション(昇進)・ウォーズの最前線さ」などとうそぶいているが、案外それにスリルを感じているような節も見受けられる。  競争に疲れて鬱病に罹《かか》る人もいるらしいけど、陽性な彼は、いずれ首尾よく課長のポストを手に入れるのではないかしら。  仕事に夢中なだけ、友梨の生活にはまったく干渉しないのが、彼女には何よりありがたい。もっともその代り、このマンションの購入資金は、藤沢で貸ビル会社を経営している友梨の父親がほとんど出してくれたし、給料の半分は笹井の「交際費」として自由にさせている。毎晩彼の帰宅が深夜に及んでも、こちらもその間の行動を嫉妬《しつと》深く詮索《せんさく》したりはしないのだから、友梨だって十分によくできた妻というものだろうけれど——。  友梨は自分の外出着を選び始めた。今日は十時半からジャズダンスのレッスンがある。大分暑い日になりそうだから、早目のノースリーブで、サマーウールのワンピースにしよう。  服を外すと、鏡台の前で着替えにかかった。友梨は身長百五十八センチ、脚が長くて、腰が上っている。三人も子供を産んだ割に、ほとんど母乳が出なかったせいもあり、乳房がまだ娘のように前向きに引き締っているのを、常々誇りに感じている。それで一年中ノーブラですごし、下着もほとんど着けない。  夏はなおのことで、友梨は素肌にワンピースを着て、背中のジッパーをあげた。そうしながら、先週の金曜に渡辺ひろみを六本木のディスコへ連れていった時のことを思い出した。ひろみはジャズダンス教室で知りあった三十二歳の主婦だが、まだ一度もディスコへ行ったことがないというので、六本木が縄張りの増川を誘って、いっしょに案内してやったのだ。  増川と友梨が踊り疲れて、ひとまずフロアを抜け出してくると、片手で胸を押さえたひろみが泣きそうな顔で腰をおろしていた。誰かにいきなり服を引き裂かれたのだという。ベロリと垂れ下ったブラウスも無残だったが、その下のメリヤスのシャツと、ブラジャーの隙間からたるみきった乳房が覗《のぞ》き見えたのには、同性として思わず顔をそむけたくなったほどだ。 (私より二つも若いくせに、あんな貧弱なバストをしてるなんて……)  思い返しても友梨は憐《あわ》れみが湧いてきて、その分また優越感をそそられもする。  フィーバーの沸騰したディスコでは、あんな出来事も案外珍しくないのかもしれないが、初めてのひろみにはちょっと刺激がきつすぎたようだ。今日はどんな顔をして出てくるだろう……?  友梨が化粧をすませ、ジャズダンス用のレオタードやタイツ、バレエシューズなどをバッグに入れていた間に、食の細いミチルもようやく朝食を終りかけていた。 「お利口さんね。ミーちゃんは今日から三つだもんねえ。今晩のご馳走はなにかなあ」  友梨は歌うようにいいながら、大きな冷蔵庫の横の壁を見あげた。商社のカレンダーの下に、今週のメニューが写真入りでのっている、もう一つの暦が貼りつけてある。これは食品会社が、共働きや忙しい主婦に代って毎日の献立を考え、材料を揃《そろ》え、火を加えるまでに下拵《したごしら》えして配達してくれるという、いわゆる�内食産業�である。友梨は、稽古事のある日を入れた週に四日、一セット二人前で千円のコースを二セット申しこんでいた。どうせ夫は月に二、三回しか、家でちゃんとした夕飯を食べないのだから、あとは子供と自分だけのために毎日献立に頭を悩ませたり、買物に手間暇かけるなんて、頭脳と労力と時間の無駄以外の何ものでもない。その分でもっと自分の知性や魅力を磨く努力をしたほうが、夫も子供たちも満足するにちがいないと、友梨は信じている。 「今日はね、ええっと、カニと豆腐のうま煮と、肉じゃがと柳川とじ、それにキュウリの一夜漬けか。そうねえ、あんまりミーちゃん向きじゃないから、ママがもっと好いもの買ってきてあげようね」  池袋のデパートの地下にあるデリカテッセン(高級|惣菜《そうざい》)の売り場を、友梨は目に浮かべている。 「バースディ・ケーキも予約しとかないとね。さ、早く行こう」  友梨は軽やかな動作でミチルを子供用の椅子から下ろし、今度は彼女の着替えをさせた。友梨がジャズダンスやカルチャーセンターに通う間、ミチルはベビーホテルへ預けるのである。今日はジャズダンス教室へ行く前に、デリカテッセンの売り場でたっぷり買物をして、教室の帰りに持って帰るつもりである。それらをテーブルいっぱい、華やかに盛りつけることを想像すると、友梨はますます心が弾んできた。ミチルの誕生日なのだから家で遊んでやり、手作りの料理で食卓を囲もうといった発想は、露ほども彼女の頭に浮かんではこなかったし、万一考えたとしても、それは大して意味のないことのように感じられたにちがいなかった。    3  笹井友梨たちの住んでいるマンションは、三階建クリーム色の、小ぢんまりとした瀟洒《しようしや》な建物である。二つの階段の両側に一戸ずつが向かいあい、広めにとった踊り場の手摺りには白い石の彫刻などが施されて、一見リゾートマンション風の贅沢《ぜいたく》な雰囲気をかもし出している。  こうした設計だと、階段を挟んだ向かい同士の付合いが、自然と密接になった。  笹井たちの向かいには、主人が製薬会社に勤めている穴吹家の家族四人が入居していた。 「どうやらベン・ホーガンを買わなきゃならん破目になりそうだな」  北側四畳半の隅に立てかけてあるゴルフ道具をいじっていた穴吹が、独り言のように呟《つぶや》くのを、朋江はキッチンで聞いて、(冗談じゃないわ)と、たちまちむかっ腹を立てた。それがアメリカの有名ゴルファーの名前で、ゴルフクラブの商品名にもなっていることは、最近夫がしきりと口に出すので、いやでも聞き憶《おぼ》えている。 「鈴木胃腸病院の院長が、ぼくのこのクラブを見て、こんなのじゃあ飛ぶわけがないというんだ。実際古いもんなあ。俺はベン・ホーガンを使い出してから見ちがえるようにスコアが伸びた、あんたもあれに替えろって……あの先生は何でも自分のいう通りにしないと機嫌が悪いんで弱るよ」  穴吹は苦笑混りに喋り続けながら、背広をハンガーから外して、出勤の身仕度を始めた。日頃はとかく命令口調で物をいう彼が、妙に照れ笑いするような話し方なのは、暗黙のうちに朋江の了解をとりつけているのだ。といって、妻の意見に耳を貸すような夫ではない。反対すればなお意地になって、自分の勝手を押し通してしまう。この家では常に、決定権は夫だけが握っているのだ——。 (馬鹿々々しい。いくら医者が大事なお客だって、他人の持ち物にまで口出しすることないじゃないの。それをまたいいなりに聞いてるんだから、プロパーなんてずいぶん情ない商売ね)  毒づきたい台詞《せりふ》はきりもなく湧いてくるのに、夫に対しては、朋江は何一つそれが口に出せない。代りに、さっきからまだソックスを片方しかはいてない四歳の進に「早くしなさいよ」といった声が棘《とげ》を含んでいた。この家では、小学一年の春子が学校へ行き、つぎが穴吹の出勤、最後に進がギリギリで幼稚園へ駆けていくというのが、朝の日課である。 「今度の日曜はまた鈴木院長とゴルフだからね」  キッチンのほうへ出てきた穴吹は、朋江をチラリと見てそういい、進の頭を軽く撫《な》でてから玄関へ行く。彼は今年三十七歳で、�マリア製薬�の学術部で課長を務めている。肩幅の広いがっしりとした体格をして、鬢《びん》のあたりに若白髪が出ているせいもあって、二十九歳の朋江には一廻りも年上に感じられることもある。国立大学の薬学部を秀才といわれて卒業し、大手の製薬会社に就職した彼は、プロパーとしての成績も上々で、少くとも外見的には齢と共にますます安定した貫禄さえ身につけてきた。長年の習慣とその雰囲気にも圧倒されて、朋江は夫にどうしても口答えできないのだった。 「今度までに道具を揃えなければならないというわけ?」  送りに出た朋江は、むしろ夫に阿《おもね》るようなことをいってしまっていた。 「いや、それほどでもないが」 「高いんでしょう?」 「フルセット揃えると三十万くらいかな。まあ、クレジットカードで買っておけば、来月の十日まで口座から落ちないわけだけどね」 「……」 「贅沢なようでも、これも仕事のうちだからな」  いつもの切り札を口にして、穴吹は出ていった。ドアが閉った途端、 「勝手なこといわないでよ」  朋江は思いきり吐き出すようにいった。 「そんなもの、買える時期だと思うの。どうせゴルフだってヘタクソのくせに!」  実際、目下はマンションのローンに追われて四苦八苦の有様なのだ。  このマンションの3LDKを購入したのは約三年前で、二千八百五十万円だった。七百万円ほどあった預金を全部手持ち資金に充《あ》て、あとは二千三百万円のローンを組んだ。そんなこともほとんど、穴吹の独断で決めたのだったが。  以来、毎月十一万円余りと、ボーナス月にはそのほかに約三十万円を、住宅金融公庫や銀行に返済しなければならない。一方、穴吹の月給は手取りで約三十二万円。そのほかにプロパーの外勤手当てが六万円ほどつくらしいが、それとあと三万円を彼が取り、ローンの分を差引いて、朋江には毎月十八万円しか渡されていない。彼女のわずかなパートの収入を足しても、親子四人の家計のやりくりはまったくギリギリなのである。  その上最近では、夫がクレジットカードを使って、便利そうに買物をしている様子なのも、朋江には我慢ならない。穴吹の口座取引のある銀行のカードで、彼はこの春から会員になっている。そのさい、ファミリーカードといって、朋江名義のカードも作られ、それでも同じように買物ができるわけなのだが、彼は朋江に一応カードを渡しただけで、勝手に使うことは禁じていた。うっかり使いすぎて、翌月に口座から落とせなくなったら大変だというのである。 (自分は仕事といえば何でも通ると思って、そんなに立派なことやってるなら、もっと高給取ってもらいたいわね。外でお客や上役にヘイコラしてる分、家に帰って弱い者に威張るんだから……)  面と向かっては何もいえないだけ、朋江の胸の中では鬱憤がフツフツと煮えたぎってくる。  鼻から荒い息を吐いて、彼女が身体を回転させると、ようやくソックスをはき終えた進が、のろい動作でこちらへ出てくるところだった。ソックスは歪《ゆが》んでいるし、スモックのボタンもいくつか外れたままだ。 「帽子は?」  ああ、といった顔で、進は散らかった居間を見廻す。何度注意しても、進は毎朝帽子を忘れる。それにこの子はどうしてこうもグズで、だらしがないのだろう! 「ダメじゃないの、しっかりしなくちゃあ!」  カッとした瞬間に、朋江は小さな肩を突きとばしていた。これも夫のいる前では抑えている乱暴である。  キッチンのテーブルの角に耳をぶつけた進は、その耳朶《みみたぶ》が赤くなり、顔も紅潮してベソをかいていたが、大声で泣き喚いたりはしなかった。そんなことをしてますます母親を怒らせれば、またどんなひどい仕打ちを受けるかわからないからだ。  あわてて帽子をかぶった進は、下駄箱を開けて運動靴を出し、自分ではいた。こちらを向いた子供の胸元を、朋江は荒っぽく引き寄せて、外れていたボタンを掛けた。 「グズグズしないで走っていきなさい」  再び前を向かせ、小突くように背中を押す。進はもう少しでドアにぶつかりそうになりながら、けんめいにノブを回した。 「いってきまーす」  小さな声でいって、踊り場へ姿を消した。  朋江はキッチンへ戻ったが、まだ無性に苛立《いらだ》ってくる気持を、どうすることもできなかった。顔がのぼせ、広い額に汗が滲《にじ》んでいる。  夫の穴吹とは、九年前、同じ職場での一応は恋愛結婚だった。同僚の女の子たちには、あんなエリートの奥さんになれるなんて——と、羨《うらやま》しがられたものだ。朋江にしても、高校時代はハードルの選手で、成績もよく、校内の人気者だった。就職してからも、自信をもってのびのびと働いていたつもりなのだが。  でもなぜか、穴吹の前では奇妙なコンプレックスを覚えて、最初から緊張していた。それが結婚後まで尾を曳《ひ》いて、いつのまにか夫婦の対話を失ってしまった。穴吹にしても、何につけ妻に相談するのではなく、自分の決定を申し渡すだけの一方的な会話しか知らないのだから。  子供に乱暴すれば、それはいっそう感情を昂《たかぶ》らせるだけなのに、その瞬間の朋江は、どうにも自分を制御することができない——。  と、向かいのドアの閉まるガタンという音が、踊り場から響いてきた。  咄嗟《とつさ》に朋江はまた玄関へ走り出て、小さな覗き穴に目を当てた。  向かいの4LDKに住んでいる笹井友梨が外出するところだった。  ドアに鍵をかけている友梨の後ろに、シックな子供服を着たミチルがまとわりついている。友梨はといえば、白地にモスグリーンの縁取りのあるノースリーブのワンピース。布地はやや厚めらしく、梅雨期だが陽射しの強い今日のような日にはいかにもピッタリの服装に見えた。  笹井家のドアの横には、スーパーにある籠《かご》くらいの体積の、発泡スチロールの箱が置かれている。友梨がしゃがんで、アイスノンのようなものをその中へ入れた。今日もあの「保冷箱」の中に、下拵えのすんだ夕食の材料が配達されるのだろう。  朋江がちょっと視線を泳がせると、進が開けたままにしていった下駄箱の中が目に入った。手近にあったチューブをエプロンのポケットへ滑りこませて、朋江はさりげなく踊り場へ出た。 「お早ようございます」 「あら、お早ようございます」  友梨も愛想よく、朋江の挨拶に応えた。 「お出掛け?」 「ええ、ちょっと」 「ああ、今日はジャズダンスの日ね」 「そうなの」 「ミチルちゃんはホテル?」  友梨は笑って頷く。あまり警戒心のない友梨から、朋江は折にふれ彼女の日常生活をほとんど聞き出していた。 「ミチルは今日で三つなのよ」 「あら、それはおめでとうございます。来年から幼稚園ね」 「そうねえ、三年保育に入れてもいいんだけど、でも幼稚園だとすぐ帰ってきちゃうでしょ。それだとこっちが不便だから、あと一年はホテルのご厄介になろうかと思って」 「お宅はそれができるんだからいいわ。旦那さんも理解があるし」 「でもあなたはおえらいわね。毎日ちゃんと自分で子供さんの世話をしてらっしゃるんですもの」 「それしかしようがないからよ。うちはお宅みたいにゆとりがありませんので」  嫌味に聞こえないように、朋江はわざとあけすけに笑って首を傾《かし》げてみせた。いや、たとえ経済的余裕があったにせよ、吝嗇《りんしよく》で頭の古い穴吹は、友梨のように気儘《きまま》な生活を決して許してはくれないだろう。友梨の夫は穴吹より二つ年下なだけなのに、遥《はる》かに若々しくてスマートなムードを身に付けている。友梨などは朋江より五つも年上なわけだが、軽やかに装って外出する彼女と、化粧もせずにエプロンをしめている自分とを人が見較べたら、友梨のほうがずっと若いと思うのではないだろうか——?  ミチルに手を引っぱられて、友梨は立ち話を切りあげた。 「じゃあ、失礼しますわ」 「いってらっしゃい。気をつけてね」  朋江は相変らずにこやかに答えて、ミチルの頬っぺをちょっと指先で突っついた。  二人がすっかり背を向けて、階段を降り始めた直後に、朋江はエプロンのポケットからさっきのチューブを取り出した。赤茶色の靴クリームである。朋江の手が素早くのびて、友梨のワンピースの腰へ、思いきってクリームを押し出した。波うっている白いギャザーの上に、それは潰《つぶ》れたみみずみたいにこびりついた。  中二階の踊り場で二人がこちらを向いた時、朋江は笑って会釈した。それから振り返りざま、足許の保冷箱を力一杯踏みつけたい衝動に駆られたが、それはどうにか抑えた。もしそばに進がいたら、代りに彼が被害に遇《あ》っていたかもしれなかった。    4 〈三歳の坊や、せっかんで死なす——チョコレートを無断で食べたわが子に腹を立て、全身にたばこの火を押しつけたうえ、粘着テープで手足を縛って逆さづりにし、背中などを殴って死亡させた母親が、傷害致死の疑いで逮捕された。  調べによるとこの母親は、日頃から××ちゃんを夜間ベランダに放り出したり、真冬に水をはった洗たく機につけるなどのせっかんをし、××ちゃんの全身には九十か所以上の皮下出血とやけどの跡があった……〉 〈わが子をいびる・食塩水・とうがらし——わずか四歳のわが子がいうことをきかないからと、ご飯やラーメンの中にとうがらしを多量に入れて食べさせたり、濃度約十五パーセントの食塩水を無理に飲ませたりしていた母親を、暴行、傷害の疑いで逮捕した。ふだん××ちゃんはほとんど食物を与えられず、電気ゴテを押しつけるなどの虐待を受けていたため、病院へ運ばれた時は自力で立上がれないほど衰弱していた。この家にはほかに六歳と五歳の子供がいるが、二人には虐待されていた形跡はない……〉 〈幼い命・死の隣——近所のアパートの軒下に大きな段ボール箱が置いてあるのを見つけて、不審に思った主婦が開けたところ、中に××ちゃん(五つ)が下半身ハダカにして縛りつけられていた。箱の上には勝手に外へ出られないよう、角材一本と新聞紙、週刊誌の束などが重し代わりに置かれていた。母親は、「泣き声がうるさいし、外出するとき家に残しておくと部屋をよごすので外に置いた」と自供し、監禁罪の疑いで逮捕された……〉  これらはみんな、最近日本で発生した幼児虐待やせっかん死の実例で、女性月刊誌に解説つきで紹介されていた。  鰻《うなぎ》の寝床みたいに細長い、ひっそりとした文房具店の奥で、半田|教子《のりこ》は惹《ひ》きこまれるように、その記事を読み耽《ふけ》っている。 〈——戦争のない平和な現代の先進国で、子供を虐待する病気がひそやかに進行している。アメリカでは年間約百万人の子供が被害にあっているという。医師たちはそれを�潜在的流行病�と呼ぶようになった。子供たちはきわめてささいな原因から、未熟で狂暴な親たちのフラストレーションを解消するための犠牲者にされる。しかも、八十パーセント以上のケースは、実の親によって惹き起こされているのだ。  日本でも、核家族化の進行が、それに拍車をかけている。狭い公団アパートやマンションの密閉空間の中で、母子は密着しすぎている。子供と向き合っているだけで、母親は情緒不安定となる。そしてどんな虐待行為がなされたとしても、外部の者、時には父親ですら、窺《うかが》い知ることはできない。  タバコの火を押しつける、鞭《むち》で打つ、骨折させるなどの病的な虐待は、母子を隔離する以外には、好転の見込みはほとんどないだろう。しかしながら、もう少し軽度の行動で、くさくさした時に当るとか、子供の反応にすぐカッとなる、あるいはしつけの行き過ぎなどの、いわゆる�虐待的症候群�は、本人の意志や、環境の変化によって、意外に立直り易いという。子供を可愛いと感じる瞬間が訪れたり、夫の出世や、逆に挫折《ざせつ》などが、立直りの契機をつくることもある。——〉 「虐待的症候群か……」  教子は口に出して呟《つぶや》いて、ちょっと可笑《おか》しくなった。彼女が毎月購読しているその女性誌は、この六月初めに発売された七月号で、�妻の非行�を特集に組んでいた。人妻が非行に走りやすい時代なのだという。それにも各種あって、アル中、万引、サラ金、売春、幼児虐待、等々。それらの原因を分析した上で、一つ一つに症候群の名前が付けてある。総称して�主婦症候群�——。  近頃は何にでも�症候群《シンドローム》�をくっつけることが流行《はや》りであるらしい……。  国電|西日暮里《にしにつぽり》駅から徒歩で数分の、尾竹橋通りに面したこの文房具店へ、教子は五年前、二十六歳で嫁いできた。見合いの話があった時、相手が両親と同居の長男というのはいささかうっとうしい気がしたが、商売屋なら自分の性に合いそうだとも思われた。狭いが便利な場所にある店を毎日忙しく切り盛りしていれば、舅《しゆうと》や姑《しゆうとめ》との摩擦も避けられるだろうし、きっと間もなく可愛い赤ちゃんが生まれる。子供は三人くらい欲しい。テレビのホームドラマに出てくるような、よくはやる下町の商店の明るい女将《おかみ》さんになって、子供たちに囲まれて賑《にぎ》やかに暮すことが、結婚する時描いていた教子の幸福のイメージだった。  しかし、そのあては、ことごとく外れてしまった……。  デスクの上で電話が鳴り、教子は手をのばして受話器を取った。 「お早ようございます。半田文房具店でございます」 「××事務所ですが、ええっと、そんなに急がないけど、いつものボールペン一ダースと、ルーズリーフ、それから……」  得意先の注文をメモし、夫が帰りしだい届ける約束をして、電話を切った。店内はまたもとの冷んやりとした静けさに包まれた。外の道路には真夏のような陽が照り始めているが、間口が狭くて細長い店の奥までは光線が届かないので、教子のいるデスクのあたりは一日中|仄暗《ほのぐら》い。街の騒音がたえず地鳴りのように聞こえ、電車の響きも伝わってくるが、慣れている者の耳には、それも何も聞こえないのと同じだった。  教子は雑誌に目を戻した。小説でもノンフィクションでも、主婦の悲劇を読むことが、教子は日頃から大好きだ。とりわけ子殺しや幼児虐待の実話には、なんともいえない刺激的な快感を与えられる。それはおそらく、�子供があっても十分に不幸な女たちがいるのだ�という認識によって、教子の救われない飢餓感が束《つか》の間でも償われるからかもしれなかった。  後ろの襖《ふすま》が開いて、六十一歳になる姑が姿を見せた。舅夫婦はこの店の奥で暮している。二階で寝起きしている教子たちとは一応別世帯になっていて、毎朝十時頃、姑が店の様子を見にくるのが常だった。 「徳雄は?」 「七時前から釣りに行きました」 「あら、また」 「今日は荒川土手で、三時までには帰ってくるって」 「しようがないわね」  姑は形ばかり眉をしかめた。教子より四つ年上の夫の徳雄は、いたって無口で、世の中のことにはほとんど興味がなく、釣りだけが趣味という男である。店が閑《ひま》で、電話番は女たちでもつとまるのをいいことにして、シーズンともなれば三日にあげず出掛けている。徳雄に店を譲った舅が叱言《こごと》の一つもいってくれればと教子は思うが、舅は「あいつもほかに楽しみがないからなあ」と、まるでそれまで教子に子供ができないことのせいにするような口吻《くちぶり》だった。 「教子さん、今日は行かなくていいの」 〈6月8日・火曜〉の日めくりに目をやって、姑が訊《き》いた。 「ええ……今度の金曜でもいいんですけど」 「いいわよ、行ってきても。あたしが店番してるから」 「そうですか。じゃあ……」  教子は渋々のように雑誌を伏せて、腰をあげた。 「もうすっかり望みがなくなったってわけじゃないんでしょ。それなら根気よく通わなくちゃね」 (根気よく四年も通ったんですよ)  教子は胸のうちでいい返し、唇を噛《か》んだ顔を伏せて、入れちがいに襖の奥へ上った。  お茶の水にある国立病院産婦人科の不妊症外来をはじめて訪れたのが、結婚後二年目だったから、もう足かけ四年になる。その外来受付けがあるのが、火曜と金曜だった。  本当に根気と忍耐の要るさまざまの療法が試みられた結果、教子は今年の二月に初めて妊娠した。ところが、四箇月に入っていた五月なかばに、突然流産してしまった。  教子の無念と落胆は、とうてい口にいい表わせるようなものではなかった。流産の原因は物理的なことで、母胎の決定的な欠陥によってではないと医者にいわれても、一時はその後も通院を続ける気力を失くしかけたほどだった。  でも結局は、また通って、一から治療を受けるほかないのだ。赤ちゃんが欲しいという女の渇望を、ほかのことにすり替えたり、紛らせることなど、めったにできはしない。その望みが叶《かな》えられない限り、どこまでも癒《いや》されるすべはないのだ。  姑の前では気の進まない顔をして見せても、時間がくれば病院へ出掛けずにはいられないことを、教子自身が知っていた。  教子は陽当りの悪い茶の間に電灯を点《つ》けて、着替えと化粧を始めた。背は低いが胸と腰にはふくよかな肉付きがあり、彼女は小柄なりにプロポーションのいい身体《からだ》をしている。丸い大きな目は親しみやすい愛敬《あいきよう》をたたえて、見たところはまったく健康そうで、齢をとりにくいタイプだった。 「自転車に気をつけてね」  とくべつのニュアンスをこめた姑の声を背後に聞いて、教子は外の舗道へ足を踏み出した。  その途端に、予想以上の炎暑に照りつけられた。遠い地鳴りのように聞こえていた街の騒音が、直接の激しさで鼓膜を圧迫した。  教子は西日暮里駅へ向かって歩き出した。ずっと先に見えるガードの下に、自転車がぎっしり置かれている。そこまではゆるい下り坂で、ちらほら商店が並び、街路樹が濃い影を落としている。  この店には子供がいるだろうか?  あの家はどうかしら?  歩きながら一軒ずつに目を注いで、教子は奇妙な想像にとりつかれた。  どの家にも、主婦は住んでいるにちがいない。  彼女たち一人々々の、人知れない苦悩、欲望や怨嗟《えんさ》や、さまざまのエネルギーが、無気味な熱い陽炎《かげろう》になってジリジリと立ちのぼってくるさまが、ふと教子には見えるような気がした。  第二章 カルチャーセンターの疑惑    1  池袋のデパートの地階にあるデリカテッセンの売り場へ、笹井友梨が降りていったのは、十時を五分ほど回る頃だった。ミチルはもうベビーホテルへ預けたあとなので、身軽になっている。それと彼女は、今朝富士見台のマンションを出た時とは別の、縞模様でざっくりした麻のブラウスにスカートという身なりに変っていた。  友梨が日頃利用しているベビーホテルは、池袋にある高層ビルの四階の一室にあった。ミチルは夫のニューヨーク勤務中に、マンハッタンの病院で生まれた。一昨年帰国して以来同じベビーホテルを利用しているので、すっかり常連である。ミチルも保母によくなついていた。  いつも、見るからに清潔で優しげなピンクのスモックを着けた若い保母が、ほとんど愛《いと》おしそうにミチルを受けとり、「ママ、イッテラッチャーイ」と、ミチルの手を持って振りながら送り出してくれる。  ところが今朝は、友梨が背を向けて歩き出した直後に、 「あら、奥さま、何かついてますわ、スカートの後ろに!」  保母が頓狂な声をあげた。友梨も驚いて首を捩《ねじ》ってみると、ウエストより少し下のギャザーの上に、ベトベトした赤茶色のものがこびりついているのが目に入り、思わず「キャッ」と悲鳴をあげた。 「靴クリームみたい。どうしたのかしら、こんなところに……」  保母が首を傾げた。  よく見ればかなりの量が、押しつけられたように付着していた。白い服だけに、異様なほど目立つ。電車の中ででも、誰か注意してくれればよかったのに……。  友梨は恥かしさと恨めしさで身体が熱くなった。 「電車の中で付けられたんでしょうか。この頃はずいぶん悪質なイタズラが流行るそうですからねえ」  保母は別の発想をしていた。  だが、いずれにせよ、いつまでも物事にこだわらないのが、友梨の身上である。とりあえずスカーフを借りて、腰に巻きつけて汚れを隠し、同じビルの一階のショッピング・フロアへ出向いた。開いたばかりのブティックで手早く別の服を買い、脱いだワンピースはその店に預けて、ミチルを引き取りに来る時にもらって帰ることにした。  今日はとりわけ忙しいというのに、余計なことで時間を潰してしまい、デパートの地階へ下るエスカレーターを駆け降りるころには、友梨はなかば服のことを忘れかけていた。  地下のフロアには、常時なんともいえない高級食品の芳香が漂っている。フランス料理、ドイツ料理、パテとサラダ、懐石料理、各種弁当、パン、デザートケーキ等々、みんなホテルや有名レストラン、割烹《かつぽう》などの出店が並んでいるのだ。  友梨はまずケーキの売り場へ歩み寄って、ミチルの名前入りのバースディ・ケーキを注文した。今から頼めば午後三時頃までに出来てくるというので、ちょうど好都合だった。クレジットカードで、先に支払いをすませた。  それから彼女は、銀食器やワインなどあしらった西洋料理のショウケースの中へ、慣れた、だが熱心な眼差《まなざし》を注ぎ始める。エスカルゴ、フォアグラ、鴨《かも》のテリーヌ、平目のムースリーヌ、鮭《さけ》のアスピック……どれも毒々しくない程度で美しい色どりに仕上げられ、買って帰ればすぐそのまま食べられる�高級惣菜�なのである。 �デリカテッセン�ということばを、友梨が最初に聞いたのは、十年以上も昔のような気がする。長いこと、どこかのレストランの名前だろうと思いこんでいた。その後夫の転勤に伴って三年間アメリカで暮らし、ニューヨークでも時たまそのことばを耳にしたが、それは中流以下の共稼ぎ家庭のための、質素なおかずを指していたようである。  ところが、日本へ帰ってきて、ここ二、三年のうちに、デリカテッセンの売り場がデパートやフードストアの随所で目につくようになり、それがドイツ語の�惣菜�という意味であったことを、友梨は偶々《たまたま》はじめて知った。フランス語では�シャルキュトリー�というのだそうで、パリの有名シェフと提携してその名を付けている店もある。要するに日本でデリカテッセンといえば、有名店の高級惣菜を指し、それを家庭へテイクアウト(持ち帰り)することが、主婦の間で大流行になったのだった。  友梨にとっても、これは便利な風潮にちがいなかった。子供たちには簡単に外国の料理を食べさせてやれるし、手を加えなくてすむのが何よりありがたい。その上、高級料理を食卓に供している満足感、わが家はまちがいなく中流かそれ以上だといった安心感まで、知らず知らず味わっているようであった。  彼女は、今日の夕方までに家に配達される夕食の材料との兼ね合いを考えながら、�ボンレスプロシェット�、�サーモンパロンティーヌ�などの三品を選んだ。 「あ、それからこのガランチンプレーオリーブ入りを二百グラムね」  白いコック帽をかぶった店員が、それらをアルミホイルのケースに詰めながら、 「今日はカリーはご入用ではありませんか」 「今日はいいの。カリーライスはしないから」  デリカテッセンの売り場では、カレーはなぜか決まってカリーと表示されているのである。  時間があれば奥の喫茶室で、アイスクリーム・スフレグランマルニア風を賞味していくのだが、今日は我慢しなければならない。 「三時すぎにまた来るから、預かっといてくださらない? 午後になると混むし、売り切れになるものもあるので、先に寄ったのよ」 「よろしいですよ」  顔馴|染《なじみ》の店員は愛想よく頷《うなず》いた。六千円余りになった勘定は、ここでもクレジットカードで支払った。友梨は銀行系のクレジットカードを二種類持っている。一枚は夫が口座取引のある銀行のカードで、ファミリー会員として友梨も作っている。もう一枚は、実家からの仕送りを振り込んでもらっている友梨の口座のある銀行のカードである。カードの会員になるためには原則として本人に収入がなければならないのだが、父親の顔で友梨自身が会員になっていた。  売上げ伝票にサインしながら、友梨は今着ている服をさっき実家のほうの銀行カードで買ったばかりなのを思い出した。ブラウスとスカートを合わせて、二万四千五百円したから、もしカードがなくて、キャッシュで払っていたら、あとの買物ができなくなっていたところだ。友梨はホッとしたような気持を覚え、余分な金を使ったという意識はそのぶん稀薄《きはく》なのだった。  ともかくこれで、ミチルの誕生日の夕食は、ほとんど出来上ったも同然である。  友梨は腕時計を見ながらエスカレーターを上り、軽い足どりで池袋駅に向かって急いだ。ジャズダンス教室は西日暮里にあり、彼女は火曜日の十時半から十二時のクラスに入っている。もっとも先生が出てくるのは十一時前後で、それまでは初心者が先輩に教わったりしながら、各自で練習している。通い出して半年になる友梨は、近頃では十一時ギリギリに駆けこむ日が多かった。  西日暮里は山手線で池袋から五つ目。友梨がホームへ吐き出された時、 「あら、やっぱりこれだったわ!」 「待っててよかったわね」  かん高い声と共に、二人の女が走り寄って、彼女を挟んだ。渡辺ひろみと今野佐知子だった。佐知子は四十一歳になり、三人グループの中ではいちばん年長である。友梨が木曜日に通っているカルチャーセンターの小説教室では先輩だが、ジャズダンスには友梨が誘って入れたのだった。 「あなた方も今来たの?」 「私たちは一つ前よ。笹井さんがつぎかもしれないからって、一電車待ってみたのよ」 「あら、ごめんなさい。池袋でちょっと買物してたもんだから——」  三人はさっそく声高に喋《しやべ》りあいながら、急ぎ足で歩き出した。 「この間は大変だったわね」  階段を下りながら、友梨がひろみに顔を向けていったのは、ディスコの出来事を思い出したからである。思わずひろみの胸に目をやると、今日はつまった丸襟のオレンジ色のワンピースを着ていた。 「ああ、そのせつはお世話になりました」  ひろみが照れたように笑って、ちょっと頭をさげた。 「あのままタクシーで真直ぐ帰ったんでしょ?」 「勿論《もちろん》よ。あの恰好じゃあ、どこへも行けないもの」 「泣いて帰ったんじゃないかって、増川さんと心配してたのよ」 「家へ帰ったら、子供は寝てたけど、母が吃驚《びつくり》しちゃって……」  ひろみは夫が出張の間に、実家の母親に留守番を頼んで、ディスコへ出掛けてきたのである。 「だけどねえ、あの程度のことは、大して珍しくもないみたいよ」  三人続いて改札口を出たところで、佐知子が会話に割りこんできた。 「なに?——何事があったの?」 「いえね、先週の金曜にひろみと六本木のディスコへ行くっていってたでしょ。予定通り繰り出したのはよかったんだけど——」  友梨が説明役を買って出た。最近人気のある店を選んで入り、踊り始めて間もなく、ライトがいちばん暗くなった時、突然何者かの手がひろみの胸に——。  ひろみがブラウスと下着を引き裂かれたいきさつを、店の模様からその時の状況まで、友梨は早口でまくしたてた。ひろみが時々補足的にことばを挟む。話に夢中になり、その上威勢よく大股《おおまた》に歩いていたので、三人は駅を出るところで、横合いのエスカレーターで上って来た親子連れとぶつかってしまった。西日暮里では山手線と地下鉄千代田線が交差しているため、尾竹橋通りに面した駅の出入口は、両方の乗客の合流点になっている。  三人のうちの誰かが、女の子の足でも踏んだらしく、子供が小さな悲鳴をあげ、母親は咎《とが》めるような目をこちらへ投げた。が、三人ともろくに気付かず、お喋りと歩みを止めなかった。ここでは大抵いつも、出合い頭《がしら》に人とぶつかってしまうのだ。  ガードをくぐると、尾竹橋通りとは直角に急な上り坂の石敷道がついている。道路沿いの石垣の上から、濃い緑の樹木が被《おお》いかぶさるように繁って、眩《まぶ》しい陽光を遮蔽《しやへい》している。そこが西日暮里公園で、ジャズダンス教室はその先の、お寺など集った静かな住宅街にあった。 「へえ、災難だったわね」  聞き終えた佐知子が、苦笑混りの合槌《あいづち》を打った。画家の妻で、若い頃は新劇の劇団に所属していたという彼女は、黒っぽい服が好みで、三人の中ではひときわ個性的なタイプといえる。 「でも、ディスコでは、深夜になるとトップレスも珍しくないんじゃない?」 「そうなのよ。ちょっとイタズラされただけなのよ」  佐知子と友梨がこともなげに笑っているので、ひろみも仕方なく承服した。 「それほど深夜でもなかったのに……たちが悪いわ」 「たちが悪いっていえば、私も今朝はひどいイタズラに遇ったの」  友梨は靴クリームの一件を思い出して、また勢いこんで喋り出した。 「——だから途中でこの服買って、着替えてきたの。それで今朝はよけい遅れちゃったのよ」 「まあ、ひどいことするものねえ」 「欲求不満の人間の、衝動的犯行じゃないかしら」  三人はいつの間にか、ダンス教室の前に着いていた。サンゴ樹の高い生垣に囲われた古い木造の洋館で、一階がレッスン場になっている。もともとは三十年も昔、経営者自身がタップダンスを教えていたそうだが、やがて社交ダンスの全盛期になるとその教習所に替わり、現在はジャズダンスの爆発的流行に合わせて、人を雇って教室を開いているのである。  レッスン場のガラス窓からは、クイックなジャズ音楽と、「一、二、三、タラッタラッ!」といった掛け声が聞こえている。  友梨とひろみが門を入り、ふと見ると佐知子が立ち止まって、今来た道路の先を振り返っていた。 「どうかしたの?」 「いえ……なんだか、誰かがついてくるような気がしたもんだから」 「え?」 「この頃時々そんな感じすることあるの。人に尾《つ》け廻されているみたいな……」  佐知子がいつになく真剣な顔つきなので、友梨も首を伸ばして、彼女が見ているほうへ目を向けた。  お寺の土塀と、家々の垣根や植込みに挟まれた石敷道の先に、西日暮里公園のこんもりとした樹林が横たわっている。路上には強い陽射しが照りつけているだけで、今は人っ子一人見えなかった。大都会の一画に、時たまふっと舞い落ちる無人の光景が、そこにあった。  しかし——この時一つの人影が寺の門柱の背後にひそみ、敵意にみちた二つの眸《め》がこちらへ注がれていたことに、三人の誰も気付かなかった。    2  診察台をおりた半田教子は、ある種の予感に似た心配で、胸の鼓動がにわかに激しくなるのを覚えた。それで、脱衣籠の隅に丸めておいたパンティを取る手がかすかに震えている。  大抵いつも、診察を受けている最中より、その直後のほうが、異常に気持が昂ったり、息苦しくなってきたりする。診察後には医師から何らかの所見を告げられるわけで、多少でも妊娠の期待が持てる時などは、かえって緊張のあまり貧血を起こしそうな気さえしたものだった。  教子が身繕いを終えてカーテンの外へ出る間に、医師の穂積も手を洗って、デスクへ戻っていた。例によって、教子はその前の丸椅子に腰掛ける。  穂積はカルテに横文字を書きこんでいる。三十代なかばの体格の良い医師で、黒縁眼鏡をかけた精力的な顔つきを見るたびに、教子は高校時代の生活指導の先生を思い出す。彼は不妊症外来を受持っている三人の医者のうち、教子の担当医だった。  不妊症の患者は、ふつう五、六年まで諦《あきら》めずに通ってくる。長くは十年近く通院を続けている人もいて、教子のように四年目などというのは決して珍しくない。その間、担当医には夫との性生活の方法やタイミングまで指示を受けるわけだから、教子が生活指導の教師を連想するのも、まるで見当外れなことではなかったかもしれない。  穂積はようやく顔をあげると、患者の全体を観察する、習慣的な眼差を教子に注いだ。 「しばらくでございます」と、彼女は頭を下げた。 「ああ、久しぶりですね。ぼくが出張の間、一度も来なかった?」 「はい。なんだか気落ちしちゃって、それに先生がいらっしゃらないのじゃ張りあいがなかったから……」  無意識に甘える口調になっている。 「すると二週間余り休んだわけだな……」  その間は、穂積がアメリカの学会へ出席していた。彼は患者の経過を改めて頭に入れるために、カルテを読み返しながら確認した。 「HMG・HCG療法は、一応効果をあげていたんですがねえ……流産したのが、五月十一日か」 「はい……」 「朝の十一時頃道路で転んで、夕方六時頃から下腹部に膨満感を覚えて少しずつ出血が始まり、近所の開業医へ行ったという話でしたね」 「出血があってから、しばらくは家で休んでたんですけど、ひどくなる一方でしたので……」 「開業医では進行流産と診断して、午後七時に掻爬《そうは》したわけだね」 「あの、やっぱり無理しても、こちらへ来ればよかったんでしょうか」  無論最初はこの国立病院へ電話して、ポケットベルで穂積を呼んでもらったのだが、連絡がとれなかった。その間にも腹痛と出血がひどくなってきたので、車で五分ほどの近所にある産婦人科医院へ、夫に送ってもらった。そこは戦前からある古い開業医で、現在は二代目の院長がすでに六十歳を越えていた……。 「いや、おそらくどこでも同じ結果ですよ。まあ、やむを得なかったでしょうね。ただ、そのあとで炎症を起こしたのがちょっと悔まれるんだが」 「……」  流産と掻爬のあと、教子は開業医に二日入院していた。三日目に退院したところ、また翌日から軽い発熱と、下腹部の痛みを覚えた。再び医院へ行って処置を受けたが、どうもはっきりしないので、この国立病院へ来た。穂積にいきさつを報告して診察を受けると、子宮周囲炎と診断され、三日ほど通院しておさまった。  間もなく彼はアメリカへ出張し、教子もすっかり気力を失くして、今日はそれ以後はじめての来院だった。 「炎症は一応治癒しているようですね」 「それじゃあ、また以前の療法を続けていけば、妊娠できるわけですね」 「うむ……いや勿論、まったく望みがなくなったというわけではないんだがねえ……」  穂積が唇をへの字に曲げて、またカルテに目を落としたので、教子はドキリとして心臓が縮むような思いがした。 「掻爬後の子宮周囲炎によって、卵管|閉塞《へいそく》を起こしている疑いがあるのでね」 「え? すると、掻爬のやり方が悪かったわけですか」 「いやまあ、よくあることなんですがね。つまり、流産すれば、それによってホルモンのバランスが変ることと、今いったように、その後の附属器の炎症から、子宮卵管|内腔《ないこう》の器質的変化を生じる恐れがあるわけです。まあ、もともと妊娠しにくい体質の上に、せっかくできた子供が流産という結果になると、どうしてもその後は……」  その後はいっそう条件が悪くなる、といいかけて彼が口をつぐんだように、教子には感じられた。 「では、もう駄目なんでしょうか」 「いやいや、だから卵管閉塞の疑いがあるというだけですよ。検査をすればはっきりすることです。あと二週間おいてノアルデンの投与を始め、生理がすんだら子宮卵管造影撮影をやることにして……」  穂積は壁のカレンダーを見ながら今後の予定を検討していたが、教子はほとんど耳に入らなかった。 「せっかくできた子供が流産……その後はいっそう条件が悪くなる……」  穂積が口に出したわけでもないことばが、鼓膜に貼《は》りついたように消えない。 (やっぱり流産が取り返しのつかないことだったのだ……)  この前来て、いきさつを報告した時にも、彼は多少そんなニュアンスを匂わせていたが、流産直後のショックを配慮してか、それほど強くはいわなかった。卵管閉塞の疑いも、今日が初耳なのだ。 (きっともう駄目なんだわ)  冷え冷えとした絶望が胸底から湧《わ》き上ってきた。四年も通院したのも、水の泡になってしまった……。  視線を戻した穂積は、教子の目に涙が盛り上っているのを見て、短く溜息《ためいき》をついた。 「四箇月のなかばに入っていたから、もう流産の危険は少いと思ってたんですがね。残念だったね。——しかし、何度もいうように、これですっかり望みがなくなったというわけではないんだから、あんまり落胆しないで……」  二週間後の金曜日にまた来るようにと告げて、彼はカルテを傍らの束の上に重ねた。  教子が廊下に出ると、つぎの患者が呼び入れられた。長椅子がいくつも並んでいる廊下には、まだ二十人余りの患者が順番を待っている。教子と顔見知りになっている人もいて、会釈を交した。ここの不妊症外来は全国的に有名なので、その受付のある火曜と金曜は、とりわけ混むようだ。それでも、朝早くか、逆に昼休み前のほうがまだ待ち時間が少いので、教子はどちらかを選んで通院していた。  今は、廊下の時計が十一時五十分を回っている。  病院を出た教子は、地下鉄の駅とは反対へ足を向けた。大学や出版社などの長い塀が続く道を、汗を滲《にじ》ませながら急いで歩いた。  やがて、目立たないビジネスホテルの前に来て、建物の横についている石段を降りた。突き当りのガラス扉は、地下の喫茶室の出入口である。  教子はスウィングドアを押して、仄暗《ほのぐら》い店内をすかすように見廻した。  奥の鉢植の陰になるテーブルで、田部朗が書類に何か記入している姿が、ようやく見つかった。ほかには、手前の席で学生風の男女が三、四人、コーヒーを飲んでいる。ここはめったに混むことがなく、国立病院へ来るほかのプロパーにも利用されてない穴場だと、田部はよくいっていた。  紺のブレザーを着た田部も、教子に気が付いて、軽く手をあげた。  教子は急いで奥まで行き、田部の向かいに腰をおろした。眉がすんなりとして、くぼんだ目に甘さのある彼の細面《ほそおもて》を、ふいに胸がしめつけられるような思いで眺めた。 「やあ、しばらく」 「ほんと……」 「今度は大変だったね」 「……」 「どう、穂積先生いらした?」  鼻にかかったソフトな声も懐しい。田部に会うのも、流産のあとはじめてだった。診察の結果を心配していたらしい表情で尋ねられると、教子はこらえていた涙が急にあふれてしまった。  今年二十八歳になる田部朗は、マリア製薬のプロパーで、教子の通院している国立病院の担当である。医者に自社の薬の宣伝と、使用を勧めるために、毎日病院へ来ているが、内科と産婦人科が受持ちなので、産婦人科外来の前の廊下で診察時間の終るのを待っていることも少くなかった。  昨年の夏、教子はしばらく毎日注射を受けるために、昼休みのあとに通院していた時期があった。昼食から戻ってきた穂積に簡単な診察と、注射を打ってもらい、ガランとした廊下へ出た時、べつの医師と話しこんでいた田部が、追いかけるように出てきて、教子に声を掛けた。  それが付合いのはじまりだった。  田部は教子より三つ年下で、しかも独身なので、教子の目にはまだ学生のようにみずみずしい若さに映った。優しい心遣いをそのままことばや態度に表わせる世代でもある。こちらから話しかけなければ二時間でも三時間でもむっつり黙りこんでいる夫とは、まるで人種がちがうように感じられた。 「どうしたの、何か悪いことでもいわれたの?」 「……」  ウエートレスが来たので、教子はやっと涙をおさめた。 「何を飲む?」 「あなたと同じものでいいわ」  彼はアイスコーヒーを注文した。 「——結局、中絶のあとの炎症が原因で、卵管が閉塞している恐れがあるんですって。再来週から薬を飲み出して、七月初め頃、造影撮影をやるの」  教子はやっと、穂積の話を田部に伝えた。流産のことは、彼にも一通り電話で知らせてあった。今朝は家を出たあと教子が公衆電話でマリア製薬に掛けると、折よく田部はまだ会社にいたので、この喫茶室で落合う約束をした。医師の診察中は、逆にプロパーの待ち時間なのである。 「レントゲンの結果で、また今後の方針を考えるらしいわ……」 「でもそれなら、もう全然期待が持てないというわけじゃないね」 「だけど、四年もかかってやっとできた赤ちゃんなんですもの。だんだん条件が悪くなれば……きっと、もう無理よ」 「そんなに諦めるのは早いと思うけど……惜しかったね」 「ごめんなさい」  教子は小さな声で謝った。 「いや……別にぼくは……」  田部はうろたえたように視線を泳がせた。つぎには急に真剣な顔を向けて、 「駅前で転んだのが流産の原因だって?」  電話では簡単にそう伝えてあった。  ウエートレスがアイスコーヒーを運んできた。教子は、グラスの横に立ててあるストローの先を凝視して、しばらく沈黙していた。  やがて彼女は、一度深く息を吸いこんで、きっぱりした声で答えた。 「後ろから自転車につっかけられたのよ」 「ほんと……」 「あのへんは自転車が多いの。駅前のガード下にもいっぱい駐《と》めてあるわ。私が駅へ入ろうとしてたら、後ろから来た自転車がお尻にぶつかって、私、つんのめって倒れたのよ。乗ってたのは高校生くらいの男の子で、ごめんともいわずに走っていってしまったわ」 「ひどい話だなあ」 「だから、まるで一方的な被害に遇《あ》ったのよ。私がぼんやりしてたわけじゃないわ」 「勿論さ。何もあなたが……」 「最初は姑《はは》も私の不注意を責めるような顔してたけど、自転車と聞いて、納得したみたいだったわ。自分もぶつけられて捻挫《ねんざ》したことがあったの」 「どっちにしても、あなたには罪はないよ。たぶんその、運命みたいなものじゃないのかな」  田部はいいにくそうに呟《つぶや》いて、腕時計を覗《のぞ》いた。アイスコーヒーの残りを吸いこんで、テーブルの上の書類を片づけ始めた。 「あら、もう行くの」 「昼休みに内科の先生が会ってくれることになってるもんだから」 「じゃあ、私、用事がすむまで待っててもいいけど」 「いや、ちょっと長くなるかもしれないなあ。それとねえ……」  彼は少し憂鬱げに眉をひそめて、ブレザーの内ポケットから財布や名刺入れなどを取り出して見せた。 「クレジットカードが見当らないんだよ。さっき中元用の買物をした時に気がついたんだけど」 「落したの?」 「いや、会社に置き忘れたのならいいんだけど、もし紛失してたら、すぐカード会社へ届けなきゃならない。あれは現金と同じだからね」  彼が日頃、えんじ色の革のカード入れを持ち歩いていたのを、教子は思い出した。ラブホテルの支払いまで、彼はクレジットカードですませていた。 「それで、今日はなるべく早く会社へ戻りたいんだよ。——駅まで送ろうか」 「ええ……でももう少し休んでいくから」 「あんまり気を落とさないようにね」 「再来週からまた通院することになると思うわ」 「来週中に一度電話してよ」 「ええ……」  田部はアタッシェケースをさげて、席を立った。  ヤング風のブレザーがよく似合うスリムな後姿が、スウィングドアを押して出て行くまで、教子は身体を捩《ねじ》って見送っていた。彼が自然に身につけている甘いソフトな雰囲気に、まだ心を包まれている。溺《おぼ》れていないつもりでも、別れ際には寂しさが尾を曳《ひ》いた。 (頭も良さそうだし、あの人なら不足はないわ……)  かなりプレイボーイらしくもある年下の彼の誘いに応じて、関係を持ったのは、彼が夫と同じ血液型だと知ったからだった。しかも、夫より彼のほうが、教子を妊娠させられる可能性は高いと推測された。自分の胎内に宿るわが子であれば、父親は問わない。血液型さえ夫と同じなら、あとあと問題の起る気遣いはほとんどないのだから。 (ああ、赤ちゃんが欲しい——)  間歇《かんけつ》的に襲ってくる発作のような思いに、教子はまた胸をしめつけられた。このせつなさは、古今東西、当事者の女でなければとうてい理解できないだろう。しかもその願いは、まさにそれが叶《かな》えられるまで、ほかの何によっても償われることはないのだ。 「運命みたいなもの」と、さっき田部はいった。 (でも、私はそんな運命に承服できない)  と、再びスウィングドアが開いて、マタニティドレスを着た女が入ってきた。豊かに膨らんだ腹部を見た途端、教子は鳩尾《みずおち》に吐き気を覚え、同時に大声で叫び出したいような衝動に駆られた。    3  国電代々木駅からほど近い、各種学校や予備校などが集まった文教地区的な環境の中に、いささか不似合いな新しい十二階建のビルができている。明るいべージュ色の化粧レンガに被われ、花壇付きの階段が外側に設けられたデザインは、一見して、近年都会の随所に出現し始めたいわゆるファッションビルの趣《おもむき》である。  中へ入ると、中央部が吹き抜けの構造で、一階から六階までがショッピング街とレストラン。素通しのエレベーターが、大部分若い女性の客をのせて忙しく上下している。  そのビルの八階から十階までの三フロアに、三年前からある新聞社の経営によるカルチャーセンターが開設されている。  都内でも評判の高いそのカルチャーセンターの科目は、およそ考えうる限りの多岐にわたっていて、現在約二十コースにそれぞれ五つ六つの講座が設けられ、毎日三十くらいの教室が開かれている。生け花、茶道、書道などの昔からあったお稽古事風の講座に加えて、最近とくに話題を集めているのは、健康、文学、ビジネス、ボランティアなどのコースであろう。たとえば健康コースではヨガ、ジャズ体操、文学コースでは小説やエッセイ教室、ビジネスコースではマイコン教室や外国為替の実務、ボランティアコースでは点訳や手話などを教えている。全部で約一万八千人の受講生の、七十パーセント以上が女性だった。  わけても、ここの文学コース・小説教室の人気は大変なもので、目下は新規の募集をストップしている。定員六十名が満パイで、予約待ちの状態が続いているのである。女性のカルチャーセンター通いが大流行の折柄、近頃ひときわ盛んなのがジャズダンスと小説教室だといわれているが、とりわけここに希望者が殺到するのは、受講生で雑誌の新人賞を受賞した者も数人出ているという実績が物を言っているらしかった。  小説教室は、毎週木曜日の午後と夜の二回開かれている。  七月八日木曜の午後にも、十階にあるいつもの教室で、講座が始まっていた。  正面の黒板に向かって、片肱《かたひじ》にメモ用の台が付いた椅子がぎっしり並び、定刻の午後二時までには、ほとんどの椅子が受講生で埋まっている。三十代から五十代にかけての主婦らしい女性が圧倒的だが、薄手のジャンパーやスポーツシャツを着た自由業者タイプの男性もチラホラ混っている。みんなよく本を読むせいか、眼鏡やサングラスを掛けた人が大半を占めていた。  黒板の傍らにあるデスクの前に腰かけていた講師が、二時五分になったところで、おもむろに立ち上った。講師は五十代なかばの痩身《そうしん》の人物で、現代小説も時代小説も書く、キャリアの長い作家である。  彼が黙って立ち上るのが、いつも講義開始の合図となり、ざわめいていた室内はしだいに静かになった。遅れてきた者が二人ほど席に着くまで、彼は窓の外へ視線を注いだ。から梅雨のまま、まだそれの明けないどんよりとした空の下に、密集した家並と、明治神宮の暗い緑が横たわっている。  講師は顔を戻して、低い淡々とした声で、まずいった。 「××さんの短篇が、今度の�文学世界�十月号に載ることになりましたから」  あちこちで嘆声が洩れ、教室の中が再びざわめいた。本人を捜して、周囲を見廻す者もいる。仲間の受賞はもとより、作品が編集者の目に止まって小説雑誌に掲載されることは、受講生たちに何よりも強烈で、一種複雑な衝撃《インパクト》をもたらすのである。  講師は淡々とした表情のまま、黒板へ歩み寄った。手にしていたうすい雑誌の目次を見てから〈嵐のてんまつ〉とチョークで書き、また椅子に戻って掛けた。それで受講生たちも、手許《てもと》にある同じ雑誌を開いた。  笹井友梨と今野佐知子は、窓に近い後方の席に並んで掛けていたが、友梨は講師が黒板に文字を書いた時から、首をすくめるようにして、下を向いている。それは彼女の作品のタイトルだった。  ここでは毎月、受講生の作品を数篇集めた同人雑誌風の作品集を発行していて、教室は主にその合評という形で進められる。先輩格の佐知子はすでに三回も提出して掲載されているが、友梨は今度がはじめてだった。商業雑誌ではないから原稿料をもらえるわけではなく、逆に原稿一枚につき百円の負担金を払う決まりになっている。 「みなさん、読んでこられましたか。——感想のある方、発表してください」と、講師が声をかけた。最初はみんなちょっと黙っていたが、やがて二、三人が手を挙げた。 「じゃあ、山田さんから聞きましょうか」  山田と呼ばれた女性は四十代の主婦で、この教室開講以来の受講生だった。 「笹井さんの作品は初登場なので、とても期待して拝見したんですけど、やっぱりまだ文章がこなれてないっていうのか、あちこちでガタガタひっかかるんですね。それでこちらの気持がスーッと入っていけない憾《うら》みがありまして……」  鼻にかかった歌うような声で、その声に似合わずいつも辛辣《しんらつ》な意見を吐く。彼女自身の作品と同じに擬声語が多すぎる、などと、友梨は聞きながら思っている。 「それと、登場人物の性格が観念的で、一応パッとイメージは湧くんですけど、よく考えてみればみんなどこにでもいるような人なんです。主人公だけが、自分を被害者にして甘えているみたいなところが、かえって読者の反発を買うんじゃないでしょうか」  続いて、開襟シャツにカーキ色のズボンをはいた一見ブルーカラー風の青年が立った。 「これは作者の実体験なんですか」  いきなりいったので、室内に爆笑が湧いた。 〈嵐のてんまつ〉は、人妻の浮気をテーマにした小説だからである。  大勢の視線が友梨に集り、友梨も笑ってうつむいている間に、青年は発言を続けた。 「あちこちでかなりどぎつい描写が目につくんですが、ここまで書く必要があったかどうか。たとえばその、表面が刺激的なことばで飾られていて、中身はからっぽだというような……」  合評の席で出される意見は、大抵批判的なものが多い。これまでの例で、それは十分承知していたつもりでも、いざ自分が苦労して書いたものに、たて続けに悪口をいわれると、友梨は忌々しさを抑えきれなかった。やっぱり出すんじゃなかったと、後悔の念も湧いてくる。雑誌に作品を発表することは、別に受講生の義務ではないのだから。  それに、友梨は最初、この教室ではもっと技術的な小説作法、たとえばストーリーの組み立て方とか文章の区切り方、句読点の打ち方まで教えてくれるものかと期待していた。いつか、思いきってそのことを講師に尋ねてみたら、「ここでは文章は教えません」と、例の淡泊な調子で、だがすげなく断わられてしまった。それならほかのカルチャーセンターに「文章教室」といったものがあるから、そちらへ行ったほうがいいだろう。「ぼくはただ、小説を書く姿勢を学んでもらえば十分だと考えているのです」——。  青年はまだ喋《しやべ》り続けている。 「主人公が甘ったれているという意見には、ぼくも賛成です。それはつまり、作者自身の甘えじゃないんですか。小説を書く以上は、もっときびしい問題に真正面から切りこんで、血を流す覚悟がなければ……」 「いや別に、血を流さなくたっていいんですよ」  講師がちょっとまぜ返す感じで口を挟むと、また笑いが湧いた。 「それと、何も無理して大問題に真正面から切りこむことは要らない。小さな事柄でも結構なんです。だから小説というんだから」  こんなふうに、受講生の発言に対して、講師が時折意見を挟み、それが自然とレクチュアにもなっているのだった。 「笹井さんは、もともと文章の勘はいい人だと思いますね。初めての作品にしては、要領よくまとまっています」  続けて講師は自分の批評をのべた。 「あとは、腰の据え方だね。モデルに仮託して、どれくらい己の内面をさらけ出せるかという……」 「腰が据わってないってことは、要するに、作者自身の苦悩が足りないということなんでしょうか」  別の声が挙った。これは常々講師が、「苦しみの多い人ほど小説が書ける。苦悩は財産です」といっていることを思い出しての質問にちがいなかった。 「そう、哀《かな》しみと置き換えてもいいんじゃないかな。哀しみや苦悩のないところから、感動は生まれませんね」  友梨の隣で、佐知子が納得したように幾度も頷《うなず》いている。今日も彼女は、黒いサマーセーターに縞のスカート、全体に黒を基調にした装いに、太い象牙《ぞうげ》のネックレスとブレスレットでアクセントをつけている。頬骨が高くて顎《あご》のしゃくれた横顔にも一風変った個性があり、苦悩ということばも彼女の雰囲気にならしっくりおさまりそうな気もする。 (でも、彼女にはいったいどんな悩みがあるのかしら……)  友梨はといえば、むしろ何事につけ、苦しまずにすませられることが、自分の特技だとさえ考えている。つまりは、苦悩などという代物が、最も苦手で厄介な観念なのであった。  友梨の小説は原稿用紙三十枚足らずの短いものだったから、合評も比較的簡単に終り、彼女はホッとした。  講師が立って、また別のタイトルを黒板に書き、つぎの小説が俎上《そじよう》にのせられた。  今度の作者は、いわれた批評に対していちいち反論するタイプだったので、議論が沸騰した。  午後四時になると、講師がひとまずそれを打ち切らせて、クラスは終りになった。ここの教室はまた別の講座に使われるので、時間はきちんと守られなければならない。まだ講師に質問があったり、作品の相談をしたい人は、このあとで彼が立ち寄る喫茶店まで追いかけて行って、長時間話しこんでいくのが常だった。  あちこちの教室から受講生がいっせいに吐き出されてくるので、休み時間の廊下は大変な混雑になる。人いきれと会話の声に埋まりながら、友梨と佐知子は化粧室へ向かった。 「先生の今日のお話、とてもよくわかったわ」  後半の討論にも参加していた佐知子は、興奮のさめない面持でいう。 「でも、苦悩がなければ小説が書けないなんて、それじゃあ作家はみんな苦労ばっかりしてるのかしら」 「だからそれは、単に自分の生活が恵まれているとかいないとか、そういう問題とは——」  間に人が挟まって、二人の会話は中断された。廊下の角の化粧室の前へ辿《たど》りついたところで、佐知子が、 「そんなこととは、次元がちがうと思うのよ。自分の内面にある哀しみを、どんなふうに見据えて、作品の中に結晶させられるか……」  女性トイレが満員になるのも、例の通りである。二時間の緊張のあとでは、大抵の者が生理的欲求を覚えるようで、三つのドアの前には行列ができている。鏡や洗面台のまわりにも人が集中して、狭い化粧室の中は押しあいへしあいの有様だった。  やっと用をすませた二人は、今度はエレベーターのほうへ進み出した。中央が吹き抜けの構造のビルには、それに沿って素通しのエレベーターが一台あるほか、建物のコーナーでも三台が運行している。  ビジネスコースのクラスに出ていた男性たちも合流するので、エレベーターはいよいよすし詰めとなる。この時間の受講生には学生風が多い。それぞれ自分たちの話題を、人の肩越しに喋りあっている。  定員を少々オーバーした満載のケージが、一階に着き、友梨と佐知子は弾き出されるように解放された。  冷房のきいたビルの外へ出ると、にわかに蒸し暑い空気に包まれた。 「寄っていかない?」  佐知子が訊《き》いたのは、クラスのあとの溜《たま》り場になっている喫茶店のことだった。 「そうねえ……」 「私、ちょっと覗いていくわ。先生に相談したいこともあるから」  彼女はまた新しい小説にとりかかっているらしい。 「私は、今日は失礼——」  失礼するわ、といいかけた友梨は、ふっと息をのんだ。佐知子の黒い服の胸に、何やら奇異な感じを覚えたからである。  目を近付けて、「あらっ」と強い声をたてた。やや厚手のサマーセーターが、胸元からウエストにかけて、縦に切れている。鋭利な刃物で二十センチほども一気に切られたような感じで、黒のブラスリップが下から露出している。それにも切れ目はついていたが、肌には達していないようだ。  佐知子もはじめて気が付いた様子で、頬が蒼《あお》ざめている。 「カミソリかしら……」 「そうみたいね。切られた時、わからなかったの?」 「全然……いえ、そういえばちょっと変な感じがしたような気もするけど……」 「どこで?」 「さあ……」 「お教室を出た時には、なんでもなかったわよ」 「じゃあ、トイレかエレベーター……?」  二人は思わず周囲を見廻したが、今さら犯人を見分けられるはずもない。 「痴漢かしら?」 「いやねえ。警察に届ける?」 「とにかく服を着替えないと……」  佐知子はノートや雑誌で胸を押さえた。 「駅の近くに、Tシャツなんか売ってる店があったんじゃない?」  佐知子は頷くなり、足早やに歩き出した。今出てきたビルへ戻れば、ブティックは何軒もあるのだが、すぐにはもう中へ入りたくない気分なのだろう。 「いつだったか、あなたも途中で服を着替えたっていってなかった?」 「ええ、ひと月ほど前ね。あの時はスカートに靴クリームを塗りつけられたのよ」 「そういえば、渡辺さんも……?」 「ああ、ひろみはディスコでね」  ブラウスと下着を無残に引き裂かれ、たるんだ乳房をむき出しにしていた渡辺ひろみの姿が、友梨の瞼《まぶた》に浮かんだ。 「まさか、それとは関係ないでしょうねえ」 「まさか……」  二人はまた目を見合わせ、すると一瞬、何か暗い疑惑が友梨の身内を走った。  その答えを、同じ日の夜、彼女はおそろしい形で知らされることになった。    4  佐知子と別れた友梨が、富士見台のマンションへ帰ってきたのは、六時を少しすぎた頃だった。池袋のデパートで息子たちの夏服を買い、ついでのことに婦人服のプレタポルテを覗いた。  それからベビーホテルへミチルを迎えに行って、ビルを出る頃から、雨が落ちてきた。ミチルが風邪気味だったことを考えて、タクシーを拾った。ところが目白通りがひどく渋滞して、電車の何倍も時間がかかってしまった。 「お腹《なか》すいたわねえ、今日のおかずは何だったかな」  そんなことをいってミチルの手を引っぱりながら、マンションの階段を上った。  ドアの鍵《かぎ》を開けて、土間を見ると、小さな運動靴が二足、てんでに脱ぎすてられている。小学三年の二人の息子たちが、先に塾から帰っていた。  家の中に声をかけ、上り框《がまち》に荷物を置くと、友梨はまた踊り場に出て、ドアの横にある発泡スチロールの保冷箱の蓋を開けた。  今日も夕食の材料はきちんと届いていた。スライスされた豚肉と切り身の魚、野菜と漬物も、ビニール袋やプラスチックの容器に分けて入れてある。料理の方法は、あらかじめ配られている今週のカタログにくわしく書いてあるのだが、材料にはソースや煮汁まで添えてあるのだから、いずれそう手間のかかることではなかった。  それらを急いで取り出そうとして、友梨の手が止まった。プラスチックケースの間に、一通の封筒が挟まれていた。  抜きとってみると、どこにでもある白い封筒で、表に〈笹井友梨様〉と、やわらかいペン字で記されていた。裏には何も書いてない。食品会社からの通信とも少し感じがちがっていた。  友梨は怪訝《けげん》な気持で、その場で封を切った。四つ折にした便箋《びんせん》が一枚出てきた。表と同じ文字である。 〈突然で失礼します。私は�文学世界�の編集者、北里啓子と申します。今日の午後、外出の帰りにお寄りしたのですが、お留守で残念でした。じつは、小説教室の雑誌に発表されているあなたの作品を拝見して、大変感銘を受けました。ぜひ、うちの雑誌にも掲載させて頂きたいと思い、お訪ねしたしだいです。……〉  読み進むうち、友梨の顔中に輝きがあふれ、疲れや空腹はたちまち吹きとんでしまった。 〈今月は間もなく締切りになりますし、つぎのご相談もありますので、なるべく早くお会いしたいのです。今夜私は、八時半から九時半の間、池袋のホテル・モリッツの地下にある�サザン・クラブ�におります。会員制のディスコですが、フロントで私の名前をいって下さればわかるようにしておきます。できればお出かけ下さい。お待ちしております。  笹井友梨様                     北里啓子〉  友梨は二回読み返した。息苦しいほど胸が弾んできた。 「××さんの短篇が、今度の�文学世界�十月号に載ることになりましたから」  今日、教室の最初にそういった講師の声が、耳に甦《よみがえ》った。部屋中がざわめいて、みんな驚嘆や羨望《せんぼう》の眼差を本人に注いでいた。来月は自分もあんなふうに紹介されるのだ……!  向かいのドアが開く音で、友梨ははじめて手紙から目を離した。エプロンをつけた穴吹朋江が出てきて、友梨の様子を認めると、細い目に好奇心を光らせて歩み寄ってきた。 「どうなさったの、そんなところで」  高校時代ハードルの選手だったという朋江は、骨太の大柄な身体つきで、汗っかきらしく、いつも広い額と頬を多少ほてらせている。その顔を突き出して、不躾《ぶしつけ》に手紙を覗きこんだ。  が、今の友梨は、この降って湧《わ》いたような幸運を誰かに喋らずにはいられない気持だった。 「私の小説が�文学世界�に載せてもらえるらしいの!」  彼女は朋江の目の前に手紙を示した。 「�文学世界�って……ずいぶん有名な雑誌じゃないの」 「そうよ。うちの小説教室でも、生徒の作品がそこに掲載されるなんて、半年に一回か、もっと珍しいかもしれないわ」 「まあ、それに笹井さんの小説が……?」 「私、初めて書いたのよ。今、うちの教室の作品集に載ってるの。だけど編集者って目ざといのねえ。三十枚くらいの小品でね、ほんの軽い気持で書いてみたんだけど……」  いよいよ満足感がこみあげてきた。今日の合評会でさんざんの酷評を浴びせた受講生たちにこのニュースを聞かせたら、どんな顔をするだろう——?  朋江も手紙を読んで、 「池袋のサザン・クラブ……?」 「有名な高級ディスコなのよ。外国の大使館員がよく夫人同伴で現われるとかって。男性はネクタイ着用、女性もカジュアルウエアでは入れてもらえないんじゃないかしら」 「凄《すご》いのね」 「私はまだ行ったことなかったけど、ホテル・モリッツならわかるわ。ミチルのベビーホテルがある隣のビルだから」 「今夜、いらっしゃるの?」 「そうねえ、向うは急いでるらしいから、行かなきゃ仕方ないわね」  渋々の口調に反して、友梨の内心は、小説教室から真直ぐ帰宅しなかったことに、くやみきれないほどの後悔を覚えている。それで編集者と行きちがいになってしまったのだ。今夜はどうしてもサザン・クラブへ出掛けなければ、先方のせっかくの熱意が冷めてしまうかもしれない。 「主人はどうせ遅いから、ミチルはベッドに入れて、お兄ちゃんたちに留守番させとくわ」 「私が時々様子見てあげますよ」 「ありがとう、それなら安心よ」 「だけど、いいわねえ、笹井さんは。いろんな楽しみがあって、その上才能にも恵まれてらっしゃるんですもの」 「それほどでもないけど……何事もやる気があればできるんじゃないの」 「いいえ、あなたは幸せなのよ」  その幸福を素直に讃仰《さんぎよう》するような、好意に満ちた声で、朋江はいった。だが彼女もまた、その口調とは裏腹に、笑顔の中の細い眼にはどうにもならないヒステリックな炎が燃えたち、刺すように友梨を見据えていた。  友梨は、編集者の名刺でも入っていないかと、封筒の底を覗いた。が、それはなかった。サザン・クラブくらいの高級ディスコなら、中はほかより静かで、小説の話もできるのだろうか——?  ともあれ彼女は、朋江の手から便箋を返してもらい、大事そうに封筒におさめた。    5  それから約二時間の、友梨と朋江のすごし方は、まことに対照的であった。  配達された夕食の材料を両手で抱え、玄関口で遊んでいたミチルの手を引いて家へ入った友梨は、さっそくサロンエプロンをつけて、食事の仕度にかかった。  今夜の献立は、甘鯛《あまだい》の煮付と、豚肉となすの中華|炒《いた》めで、幸い調理法はとりわけ簡単だった。豚肉は「酒少々ふって片栗粉をまぶす」とカタログの説明に書いてあるが、そこは省略して、いきなり支那鍋《しななべ》に放りこんだ。「調理時間約四十分」とも付記されているのを、友梨はその半分の時間で、子供たち三人分の夕食を整えてしまった。自分は、料理の合間にチーズやカステラをつまみ、牛乳を飲むだけで十分だった。  七時半頃、ようやく子供たちの食事が終ると、食休みもなしに、ミチルを浴室へ連れていった。五分ほど湯舟につけただけで、バスタオルにくるんで、ベッドのそばまで抱えてきた。 「今晩はね、ママ、とっても大事なお仕事のご用があるのよ。だから、お利口におねんねして待っててね」  子供部屋で騒いでいる息子たちには、 「お風呂に入って、九時までには寝るんですよ」と、上機嫌な声でいった。 「ママはたぶん……十一時頃までかかると思うから」  月末と月初がとりわけ忙しい夫は、十二時まえに帰る気遣いはなかった。  それからようやく、自分の身仕度を始めた。今夜何を着ていくかは、キッチンに立っている間からあれこれ思い迷っていたのだが、結局、ライトブルーの地にトリミングのあるシャネルスーツに決めた。下には清潔な白のブラウス。相手は女性なので、あまり華やかに装っても、かえって反感を買うかもしれない。が、センスがよくて知的な印象は、絶対に欠かせないのだ。あとは白のバッグとパンプスでまとめることにし、バッグにさっきの手紙を入れた。  一見控え目でいて念入りな化粧をして、鏡の中を眺めると、「女盛りの新進作家」などということばが、浮き浮きしている意識にのぼった……。  一方、穴吹朋江はといえば、友梨が外から帰ってきた頃には、すでに夕食の仕度はすんでいた。小学一年の春子と四歳の進をテーブルにつかせて間もなく、踊り場からミチルの声が聞こえたので、さりげなく様子を見に出てみたのだった。  また戻ってきた時の朋江の顔は、ふだん以上に赤く上気して、額に汗が滲《にじ》んでいた。  子供たちは黙って食事を続けている。夫の穴吹は、今日は顧客の開業医の家で麻雀《マージヤン》があるといっていたので、帰宅は深夜になるだろう。高い賭麻雀で、しかもプロパーの穴吹は、決して医者に勝たぬよう気をつけて打つのだというから、朋江にはずいぶん馬鹿らしい話に感じられる。  朋江もまた箸《はし》を取りあげて、二、三度口へ運んだが、ひどく苛々《いらいら》して、食欲が失くなっていた。  そのうち、進が鶏肉の一切れを箸から落とした。とろみのあるスープがヌルリとテーブルにひろがった。見れば進は、口のまわりや服の胸にも、汚らしく食物を付着させている。  つぎの瞬間、彼女は斜め横から進の肩を突きとばした。 「どうしてこぼすの! 何度いったらわかるのよ!」  進は椅子ごと倒れそうになり、あやうくテーブルにしがみついた。隣にいた春子が咄嗟《とつさ》に進の腕をつかまえたので、その拍子に春子の肱がお椀をひっくり返した。味噌汁がテーブルの上を流れ、油揚げといっしょに床へこぼれ落ちた。  朋江はもう見境いもなく、進の頬や耳のあたりをひっぱたいた。 「あんたが悪いのよ!」  まったく朋江にとっては、何につけ、進だけが無性に癇《かん》にさわるのだ。進はグズでだらしがないし、それでいてどことなく物腰が夫に似ている時がある。夫への憤懣《ふんまん》を進にぶつけているのか。まだほかにも、朋江自身気付いてない理由が潜在しているのかもわからない。いずれにせよ、子供が虐待される場合、必ずしもその家の子供全部ではなく、なぜか一人だけが苛《いじ》め抜かれるという奇妙な特徴がある。それを朋江は無意識に実践していた。 「自分で片づけなさい」  進の前に布巾を叩きつけて、朋江は椅子を立ってしまった。  北側の四畳半へ入り、まだ荒い息遣いをしながら、ガラス窓へ顔を向けた。すっかり夜の色に包まれた戸外には、梅雨期の陰気な雨が降りしきっている。  朋江は鏡台の前にすわった。急に考えこむ面持になって、化粧を始めた。それから、汗ばんだTシャツを脱いで、目立たないグレーのワンピースに着替えた。  つぎには、開いていた窓やガラス戸に鍵を掛け始めた。  子供たちはいつの間にか食事を終えて、居間の隅で遊んでいた。  朋江はキッチンへ戻った。味噌汁の後始末は、とうてい気に入らなかったが、今度は黙っていた。なかば上の空のまま、汚れた皿を流しへ運んだ。  やがて——踊り場のほうから、向かいのドアの閉まる音が響いてきた。朋江は皿を放して、玄関へ走っていった。  覗《のぞ》き穴に目を当てた。  明るいブルーのシャネルスーツを着こなした友梨が、ドアに鍵をかけて、階段へ身体《からだ》を向けたところだった。髪のウエーブもさっきより形よく整え、表情の張りつめたその横顔は、未来への期待と興奮で輝いているかに見えた。  彼女の姿が下り階段に消えてしまうと、朋江は忍び足で部屋へ戻り、押さえつけた低い声で春子にいった。 「お母さん、用事があって出掛けてくるからね。今日はお風呂入らずに寝ときなさい」  吃驚《びつくり》している子供が何も答えないうちに、朋江は音をたてないようにドアを閉め、外から鍵をかけた。  階段を降りきって外を見た友梨は、意外に雨脚が激しいのに驚いた。ベビーホテルからの帰りがけには、細かい粒が時折肌に当たる程度で、そんな小雨が続いているものと思っていた。  こんなことなら、タクシーを呼べばよかった。  時計を見ると、もう八時十七分になっている。  友梨は迷わずに、手にしてきた折畳み傘を開いて、雨の中へ歩き出した。西武池袋線の富士見台駅までは、女の足でも十分足らず。日頃からタクシーを呼ぶには半端な距離だった。  藤棚のある小公園を斜めに横切ると、あとは舗装された六メートル幅くらいの道路がゆるくカーブしながら、駅まで続いている。さほどの豪邸もない代り、しっとりとした住宅街で、やがて古ぼけたネオンのついたアーチをくぐり、駅前商店街へ入る。  夜は九時頃まで開いている店々が、明るい電光を点して、通勤帰りのサラリーマンが軒伝いに歩いていた。  駅はそろそろ混雑のピークをすぎる時分で、逆コースの池袋行フォームはことにすいていた。  富士見台には急行が停まらないので、友梨は通過電車をじれったい気持で見送り、つぎの普通に乗った。  各駅停車で池袋まで約十四分。まだ人混みの溢《あふ》れる東口へ出た時は、八時五十分を回っていた。  ホテル・モリッツのビルも、駅からはちょっと半端な位置で、昼間なら街並の先に高くそびえ立って見える。一見近そうなのだが、歩くとやはり十二、三分はかかった。今は雨の幕に烟《けぶ》って、灯火が滲んでいた。  友梨はタクシーに乗った。  車の中でコンパクトを覗いた。いよいよプロの編集者に会うのだという快い緊張に胸をしめつけられている。何よりもまず相手に好印象を与えなければ。友梨は鏡に向かって、歯を覗かせて微笑してみせた。  車では三分とかからなかった。ホテルの玄関前で、タクシーは乱暴に停止した。  ホテルの回転扉の内側には、オレンジがかった電光が輝き、ずいぶん賑《にぎ》わっているように見えた。雨はいっそう激しくなり、風も出て、妙に肌寒い夜なので、ホテルのロビーで待ち合わせする人も多いのだろう。路上には、時折タクシーが着くだけで、人影はほとんど見えなかった。  友梨は、ロビーの前を素通りし、灯りが消えているブティックのウインドウのそばを通りすぎた。やがて左手に、幅の広い階段が現われた。このビルの半地下へ降りる階段で、上の壁には�サザン・クラブ�の洒落《しやれ》た小さなプレートが貼《は》りつけてあった。  階段を下ると、広々としたコンコースになっていた。壁と床には、淡い煉瓦色の光沢のあるタイルが敷きつめられ、ところどころに、太い柱と噴水が配置されている。噴水のそばには、小さな花壇とベンチが設けられ、まるで西洋の宮殿の柱廊みたいな趣を醸《かも》し出していた。  今そこは森閑として、誰もいなかった。暑い夏の夜なら、アベックがベンチに掛けていたかもしれない。またいっそもう少し夜更けになれば、ディスコの客が集まってくるのだろう。だが、九時少し前という時刻では、高級ディスコはまだ閑散たるものだ。  冷たく光るタイル張りの床に、円柱が淡い影を落としている。コンコースは凝ったデザインで、あちこちの壁にひっこんだ空間が造られ、全体の陰影にバリエーションをもたらしていた。  友梨は立ち止って、四方を見廻した。大都会の真ん中にふっと舞い落ちる無人の静寂——時折実感する奇妙な感覚を、今も彼女は味わった。  すぐに彼女は目を凝らして、瞬《まばた》きした。コンコースの突き当りに黒いドアがあって、横の壁に�Southern Club�と金文字で表示されているらしいのが、どうにか読みとれた。  友梨は背筋をのばし、バッグを形よく左腕にかけ直して、黒いドアに向かって歩き出した。柱廊は不思議なほど長くて、そのドアが遥《はる》か遠くに感じられた。  事実、彼女はついにそこへ辿り着くことはできなかった。彼女が数歩進んだ時、突然柱の陰から人影が現われて、行く手を塞《ふさ》いだからであった。  第三章 ディスコの殺人    1  半地下コンコースのタイル張りの壁がひっこんで薄暗がりになっているスペースに、ライトブルーのスーツを着た女が、俯《うつぶ》せに倒れていた。  それを最初に見つけたのは、十時十五分頃サザン・クラブへやってきた四十すぎのサラリーマンと連れの女子大生だった。  倒れていたのが男ならば、酔っぱらいと思ったかもしれないが、鈍く光るタイルの床に白いパンプスをはいた二本の脚が投げ出されているのが、最初に目についた。身体を折り曲げ、壁のくぼみに上半身を突っこんだ恰好で横たわっていた。  二人は驚いて走り寄った。  女は額を床に押しつけ、右の横顔をわずかに覗かせて、目をつぶっていた。薄闇の中で、その肌が異様に白く見えた。 「もしもし、奥さん……どうかなさったんですか」  発見者は声をかけ、つぎには肩に手を当てた。揺すった拍子に、胸のあたりが見え、咄嗟に異常を感じとった。  彼は倒れている女のそばにしゃがんで、思いきってその上半身を起こすようにした。同時に、連れの女子大生がけたたましい悲鳴をあげた。女はスーツの下のブラウスを引き裂かれ、左の乳房を露《あらわ》にしていた。その下にはナイフが突き立てられ、溢れ出た血がブラウスとスカートの腹部にべっとりと染みてひろがっていた。  サラリーマンはディスコへ駆けこみ、マネージャーに事態を伝えた。彼も倒れている女を確かめた上で、一一九番に電話して救急車を呼んだ。  五分とたたずに救急車が到着したが、乗っていた隊長は即座に女の死を確認した。 「しばらく経ってますね」  彼は低く呟《つぶや》いて車に戻り、消防庁センターへ無線で報告した。  消防庁センターから警視庁へ、警視庁から所轄の池袋署へ、無線連絡が回った。警視庁と池袋署から、捜査員、鑑識係、機動捜査隊などがつぎつぎと到着したのは、十時四十分前後で、その頃にはどこから出てきたかと思われるほどの野次馬が、現場を取り囲んでいた。サザン・クラブと上のホテル・モリッツにいた者や、周辺のビルの地下にあるバーの客などが、騒ぎを聞きつけて、雨の中を集ってきたらしい。 「左胸を二回刺されていますね。最初の傷は比較的浅いようですが、二度目の、ナイフを突き刺したままになっているものは、刃先が心臓に達しています。ほとんど即死の状態ではなかったかと思われますが」  警視庁の鑑識課員が、捜査一課の警部に報告した。 「死後経過は、そうですね、現時点から逆算して、およそ二時間……ですから、九時から九時半くらいの間にかけて襲われた可能性が強いと考えられます」 「九時から九時半……」  警部は呟いて、周囲に群らがっている野次馬に目を向けた。 「すると、目撃者があったはずだな」 「いや、それが、ここの半地下は盲点というのか、その時間帯にはパタリと人足《ひとあし》が途絶えてしまうんですね。近くに盛り場がないのと、どこかへ抜けられるわけでもないもんですから。かえって十時をすぎると、ディスコの客が集ってくるんですが」  池袋署の当直主任の警部補が横から説明した。署はここから車で数分の距離にあった。 「まあ、誰か通ったとしても、気が付かなかったのかもしれませんが」  いずれにせよ、事件の目撃者が存在した可能性がないとはいえない。その場を目撃しないまでも、血痕《けつこん》を付着させたなどの不審な者を見かけた人がいるかもわからない。現場検証と並行して、捜査員が周辺の聞込みに走った。  左胸に二箇所の刺創があるほかは、死体にはとくに外傷は認められなかった。凶器のナイフは突き立てたままだ。その犯行の前後で、犯人はブラウスを襟元から引き裂いた模様である。女はブラウスの下には何も着けておらず、小ぶりだが形よく引き締った乳房を露出させていた。ナイフは、料理に使われるような、刃渡り十五センチほどのステンレス製で、木の柄はまだ新しそうに見えた。  死体の上半身が押しこまれていた壁のくぼみには、花柄の折畳み傘と白いハンドバッグも置かれていて、おそらく被害者の持ち物であろうと想像された。  バッグの中には、コンパクト、小銭入れ、ハンカチ、キイホルダー付きの鍵などが入っていたが、財布は見当らなかった。小銭入れには四百七十円の硬貨があるだけで、財布は犯人に抜き取られた公算が強かった。ほかに名刺や定期券などもなく、女の身許《みもと》を示すものは何一つ残されていないわけだった。  犯人は物盗《ものと》りが目的だったのか、それとも被害者の身許を不明にして時間を稼ぐために財布等を奪い去ったのか——?  サザン・クラブは、会員制のディスコだから、会員かその同伴者でなければ入れない。が、マネージャーは、この人は会員ではなかったと否定した。このような客が来るという紹介を受けた覚えもないそうである。また、九時から九時半の間には、客は出入りしなかったと答えた。  女性は見たところ、三十二、三歳。服やバッグが高級品なので、当面は裕福な家庭の人妻風、という程度の推測がなされただけだった。  ようやく彼女の身許が割れたのは、翌七月九日金曜の正午をすぎてからである。  九日午前十一時半に、練馬区富士見台に住む笹井光一という商社員が、最寄りの石神井《しやくじい》警察署へ、昨夜から妻が帰宅しないと、捜索を依頼してきた。一方、本庁からは、池袋で発見された身許不明の女性の他殺死体について、各署へ照会が届いていた。  笹井は妻が昨夜池袋へ出掛けたかどうか、また服装や所持品などを尋ねられても、ほとんど答えられなかったが、妻の年齢、顔立ち、身長や体格などが、変死体とおよそ一致していた。そこで石神井署の係員が、遺体が保管されている大学病院の冷凍室へ彼を連れて行き、対面させたところ、妻の友梨にまちがいないと認めた。  彼はその足で、捜査本部の設置された池袋署へ出頭した。  笹井光一は三十五歳で、妻の友梨より一つ年上だった。スポーツ選手のように短く髪を刈り、引締った小麦色の顔にメタル・フレームの眼鏡を掛けている。勤務先の商社では、営業部門で、自動車部の課長補を務めているという。  彼が相当に動転した様子ながら、前日からのいきさつを語ったところでは—— 「昨晩私は、夜中の十二時半頃まで、大手町の会社で仕事をしていました。外国へ送る入札書類と、それに、十日すぎにある決算会議のための書類を作るよう、課長から命じられていたもんですから。——いえ、そんな時間になることは、べつに珍しくありません。自動車部はとくに忙しくて、深夜会社の前にタクシーの列が並ぶことで有名なくらいですから。  タクシーで富士見台のマンションへ着いたのは、午前一時十分頃でした。自分の鍵でドアを開けて入りますと、三人の子供たちは眠っていましたが、家内の姿がどこにも見えません。大抵は先に寝《やす》んでいて、私が帰ってくると、目を覚ましたり、覚まさなかったりなんですが。  食事は会社ですませていましたから、サッと入浴して、ベッドに横になりました。家内はそのうち帰ってくるだろうと思いながら、私も眠ってしまったようです。私は常日頃睡眠不足がたまっていますし、それに家内は友達の家へ遊びに行ったりして、たまには私より遅く帰宅することもあったのです。——いや、友達というだけで、どこの誰とまで詳しく聞いたことはありませんが。私たち夫婦はお互の生活を尊重して、些細《ささい》なことまで詮索《せんさく》しあわない主義でやってきたもんですから」  翌九日の朝七時前に、笹井は習慣的に目を覚ました。が、隣のベッドはカバーがかかったままだった。彼はちょっと驚き、多少腹も立てたが、おそらく友梨は昨夜急に実家か友達の家に泊ることになり、電話を掛けてきたが、自分は眠っていてベルに気付かなかったのだろうと解釈した。  小学三年生の双子の息子に、パンとミルクの朝食を摂《と》らせて、ともかく学校へ行かせた。そのあと彼は、藤沢の友梨の実家へ電話を入れてみたが、昨夜は泊ってないし、連絡もないという返事だった。笹井の実家は高崎にあり、日頃ほとんど行き来していなかった。友梨の友だちは大勢いたらしいが、笹井には一人も具体的な氏名や連絡先は浮かばなかった。 「——あるいはお向かいの穴吹さんの奥さんに、何か伝言でもしてあるかと思いまして、尋ねてみましたが、そちらでも全然聞いてないということでした。でも、私はまだ、家内がそのうち帰ってくるにちがいないと考えていましたから、会社へ行きたかったのですが、ミチルを一人で置いておくわけにもいきません。すると、穴吹さんが、家内が戻るまでミチルを預かってあげようといってくれました。それで私は、家内に戻りしだい会社へ電話させてくださいと頼んで、急いで出勤したわけです。昨夜からの仕事がまだ残ってまして、非常に気がせいていたもんですから」  午前十時をすぎても電話がないと、さすがの笹井も心配になってきた。自宅へ電話しても応答はないし、穴吹家に掛けると、友梨はまだ帰ってこないという。  十一時すぎには、彼は再び自宅へ戻り、友梨が帰宅した形跡がないのを見届けると、最寄りの警察署へ出向いた……。 「昨日、奥さんが何時頃家を出られたのかも、はっきりしないわけですか」  池袋署の刑事課長が聴取に当った。 「いえ、それは、夜八時少しすぎだったそうです。今朝息子たちから聞いたんですが、家内は、大事な仕事の用があるとかいって、十一時頃までかかるので、先に寝ておくようにと……」 「仕事の用というと、奥さんは何か職業に就いておられたわけですか」 「いや、別に。ただ、いろいろ稽古事をやってまして、子供たちにはそれを仕事だと話していたのかもわかりません」 「どういった稽古事ですか」 「ジャズダンスと、もう一つはカルチャーセンターの小説教室に通っていたようです」 「ジャズダンスと小説教室……」  五十まえの刑事課長は、口の中で反復したが、どちらもさっそくにはイメージが湧かなかった。 「ええ。昨日は木曜ですから、確か小説教室へ行ったはずです。六時頃ミチルを連れて帰ってきて、それからまた八時すぎに出掛けたと、息子たちがいってましたし」 「稽古事には下の娘さんを連れていかれたわけですね」 「いえ、その間はベビーホテルに預けていたと思います」 「ベビーホテル?」  課長はまた目をむいた。 「娘さんはおいくつでしたか」 「三歳になったばかりです。五歳くらいまで預かってくれますので。まあベビーホテルにもいろいろあるようですけど、そこは一流ホテルの経営で、多少費用はかさむ代りに、設備などはきちんとしていたようですから」  笹井は心なしか言訳する口調でいってから、眉をひそめた。 「そういえば、ベビーホテルは、現場の隣のビルにあったと思います」 「ほう。するとその往き帰りなどに、奥さんはサザン・クラブやホテル・モリッツに出入りしていたと考えられますか」 「さあ……とくに聞いたことはありませんが」 「ほかのディスコへはどうですか」 「六本木あたりへは行ったことがあったかもしれません。友だちと夜、遊びに出掛けるとすれば、バーかディスコくらいでしょうが、家内はそんなに飲めるほうではなかったですから……」 「その友だちというのは、カルチャーセンターなどで知合った人ですか」 「短大の同級生なんかともよく会ってたんじゃないですか。ぼくはあんまり詳しくは聞いてなかったですけど」 「失礼ですが、奥さんが深く付合っていた男友だちなどは……?」 「さあ……」 「さっきお話した通り、奥さんは心臓を刺され、ブラウスの胸を引き裂かれています。その点では変質者の仕業との疑いもあるんですが、奥さんが妙な男に追いかけられたとか、そういった話を、最近聞かれた憶《おぼ》えはないですか」 「いや……別段……」  笹井は首を垂れて、額の汗を拭った。妻の日常生活について、彼はほとんど具体的な事柄を把握していなかったようだ。 「しかしですね、奥さんは友達の家へ遊びに行って、あなたよりあとに帰宅することもあったと、さっきいわれましたね。仕事が常時深夜に及ぶあなたより遅いとすれば、午前一時、二時になったわけでしょう?」 「まあ、それはごくたまにですが」 「そんな場合、ご主人として、不審を抱いたり、誰とどこへ行ってたのか、詳しく訊《き》き糺《ただ》すこともされなかったんですか」 「いや、ですからその、私たち夫婦はお互の生活を大事にするというか……私も毎日仕事で神経をすりへらしてますのでねえ。要するに、妻を信じていましたから」  頭をゆるく左右に振りながら、笹井は疲れきった声で答えた。  一通りの事情聴取が終りかける最後に、刑事課長は現場に残されていた白いイタリア製のハンドバッグを彼の前に置いて、止め金を外した。 「日頃奥さんが持ち歩いていて、この中には見当らないというものはないでしょうか」  笹井は一つ一つ中身を取り出し、時間をかけて検《あらた》めた。それから、まるで難しい問題を突きつけられた子供のように、唇をへの字にして考えこんでいた。 「……ああ、財布が見えませんね」 「どんな財布を持たれてましたか」 「たぶん、赤っぽい革の……そういえば、ぼくの名刺を一枚入れてたかもしれません」 「そのほか、免許証、定期券、手帳などは?」 「免許証は携帯してなかったと思います。学生時代に免許は取ったようですが、ペーパードライバーでしたから。定期も買ってなかったはずですが……」  手帳はどうだかわからないという。 「では、財布にはいくらくらい入れてあったでしょうか」 「さあ……せいぜい二、三万円程度じゃないですか。大抵カードで買物するようなことをいってましたから」 「カード? クレジットカードですか」 「ええ、二枚使ってました。一枚は私が会員になっているやつのファミリーカードで……」  刑事課長の目がはじめて光を帯びた。 「どこのカードかはおわかりになりますね」 「はい、どちらも銀行系のカードですが……」  傍らにいた刑事が、カードの名称を聞いてメモした。 「カード会社へはこちらで盗難の連絡をしておきます。犯人が使用する可能性がありますので」 「ああ……もし使えば、その場で逮捕されるわけですね」 「現金とカードのほかには、財布に入れてあったものはわかりませんか」  笹井はまたしばらく黙っていたが、別の考えに意識を奪われたような顔で、逆に尋ねた。 「財布が失くなっているということは、これは物盗りの犯罪でしょうか」 「いや、まだどちらとも決められませんが、痴情や怨恨《えんこん》の線も考えられますね。何かお心当りがありますか」 「いえ……ただ……」  彼はうつむいて眼鏡を押しあげ、目許や鼻の上が皺《しわ》だらけになるほど顔をしかめた。 「万一、家内に男がいたような場合……そういったことも、新聞に出るんでしょうね」    2 「一、二、三、タラッタラッ!」 「一、二、三、二、二、三、タッ!」  早いテンポのジャズ音楽と、若い女の先生の掛け声に合わせて、けんめいにステップを踏んでいるのは、三十歳前後から四十代にかけてくらいの女性約二十人。みんな、黒、紫、ブルーなどのレオタード、赤やグリーンのタイツにバレエシューズというカラフルな身なりである。 「三、二、三、四、二、三、タッ……ほら、もっとお尻を突き出して……顔はこっちへ残す……そう、凄《すご》みをきかせてね——」  先生の注文に応えて、各人は精一杯の所作をしているのだが、なんといってももともとダンスなどとは無縁な主婦がほとんどのようで、筋肉はたるんでいるし、脚は彎曲《わんきよく》している。そんな彼女たちが、レオタード姿でラインダンス風の踊りをやっている姿は、やはり一見珍妙というほかはなかった。  が、生徒たちの表情はみなすこぶる真剣で、汗の滴《しずく》がとびちり、激しい息遣いがレッスン場の外にまで伝わってくる。 「ああ……見ちゃあいられないなあ」  部長刑事が目をつむって溜息《ためいき》をつくと、 「いや、別に見かけはどうだっていいわけですよ。なりふり構わず、自分で楽しんでるんですから」  若手の刑事が応酬した。池袋署の捜査員の二人連れが、外の廊下で囁《ささや》きあっている。 「どうしてこんなものが急に流行《はや》り出したわけかね」 「ここ一、二年ですね。最近ではどこの教室でも希望者が殺到して、キャンセル待ちだそうですよ」  それを裏付けるかのように、彼らのほかにも、見学の女性たちが十人余りも廊下に佇《たたず》んで、レッスン場の中を熱心に覗きこんでいる。 「それにしても、あの恰好を亭主が見たら、何と思うかねえ」 「いやあ、ご亭主たちも最初はいやな顔をしても、そのうち大いにやれやれと奨励するそうですよ。奥さんがシェイプ・アップして見映えがよくなるとか、肩こりが解消したり、それに第一、ストレス発散して家庭サービスも向上しますから。——いや実は、うちのも始めてるんですよ」  三十すぎの刑事が、しきりにジャズダンスの肩をもつ理由がそれでわかった。 「それとね、ほかのスポーツやるより安上りなんですよ。まあ教室にもよるでしょうが、うちのなんか、近所の公民館で、週一回やって月謝は二千円です。水泳やテニスだって月に五、六千円はかかるそうですからね。かみさんたちはそのへんをよく心得てますよ」  午後二時から始まったレッスンが、四十分もたつといったん休憩になり、生徒たちはそれぞれ床に腰をおろして、汗を拭きながらお喋《しやべ》りを始めた。  ここの所長であるスタイルの良い中年女性が、彼らの横を通って室内へ入り、生徒の一人に歩み寄った。耳許で何か囁かれた彼女は、吃驚した顔をあげて、こちらを見た。それがおそらく、笹井友梨と親しくしていたという主婦にちがいない……。  笹井光一の出頭によって、昨夜の被害者の身許はようやく判明した。が、彼は妻の交際範囲の具体的人名を、一人も挙げられなかった。ただ、彼女は週に何回か、ベビーホテルとカルチャーセンターとジャズダンス教室を往復していたようだという。  七月九日金曜の午後二時すぎ、二人連れの捜査員が、西日暮里のジャズダンス教室を訪れた。  朝のテレビで事件を知っていた所長は、被害者がここへ通っていた主婦だとわかって、ひどく狼狽《ろうばい》した顔を見せた。 「——ええ、笹井友梨さんは火曜の午前のクラスでしたですね。その時間は私が直接指導してましたから、よく憶えてます。もう半年あまり、めったに休まずに通ってらっしゃいました。いつも朗らかで、元気のいい奥さんでしたのにねえ……」  しかし、個人的な生活についてはほとんど知らないと断った。 「うちは毎日午前と午後と夕方の三クラスあって、平均二十人、一週間にすれば三百人以上の生徒さんが見えてるんですよ。まあ、週に二回来てる方が多いですけどね。そんなわけで、あんまりプライベートなことまではねえ……でも、笹井さんは確か、渡辺さんや今野さんと三人グループで、いつもいっしょに来てらしたんじゃないかしら」  渡辺ひろみと今野佐知子も家庭の主婦で、三人のうちひろみだけは週に二回通っていて、ちょうど金曜午後のクラスにも来ているはずだということだった。  そこで刑事たちは、レッスン場の外の廊下で、めったに見られないような光景を眺めながら、休憩時間を待っていた……。  所長に声を掛けられた女性は、明るい紫のレオタードに、オレンジ色のタイツ。額の上で髪をくくり、色白のぽってりした顔は三十をすぎたばかりくらいに見える。所長から友梨のことを聞いたのか、呆然としたように目を瞠《みは》り、ちょっとぎごちない動作でこちらへ歩いてきた。 「この方が渡辺ひろみさんです」  所長がいって、 「どうぞ、応接室をお使いになってください」  レッスン場と見学者たちとの両方から注がれている好奇の眼差《まなざし》を断ち切るように、反対側のドアを指さした。  刑事たちは、所長室と衝立《ついたて》で仕切られただけの応接セットで、渡辺ひろみと向かいあった。  ひろみも、昼のニュースで事件はちょっと聞いていたと答えた。 「でも、殺されたのが友梨さんだなんて……とても信じられないわ」  ひろみは涙を浮かべて、声を詰まらせた。うつむくと、項《うなじ》から汗が匂った。 「笹井さんとは、日頃親しく付合っておられたそうですね」 「はい、もともとここの火曜日のクラスで、お友達になったんです。火曜の朝はいつも、西日暮里のホームで、彼女と、もう一人今野さんて方と落ち合ってから、三人でここへ来てました。帰りも大抵、お茶を喫むか、お昼を食べていったり……」 「笹井さんが誰かに怨まれているとか、家庭の問題や人間関係で悩んでいるというような話を聞かれた憶えはありませんか」 「いいえ」  ひろみはショックで声も途切れがちだが、その点は迷いなく首を横に振った。 「彼女が人に怨まれるなんて、考えられません。物事にこだわらないサッパリした性格でしたし、ご家庭もうまくいってらしたんじゃないですか。ご主人はすごく寛大で、彼女のすることに全然干渉しないらしいから、私なんかいつも、羨《うらやま》しがってたくらいです」 「ご主人が浮気したなんて話も出なかったですかね」 「さあ、そこまでは……」 「では、笹井さん自身には怨まれるような憶えはなくても、たとえば変質者につけ廻されたとか——?」 「……」 「いや、それというのも、笹井さんはナイフで刺された上、ブラウスの胸を引き裂かれているんです。その種の行為は、変質者の犯人にありがちなことでね」 「胸を、引き裂かれて……?」 「何かその点にお心当りがありますか」  いよいよ蒼《あお》ざめたひろみの顔へ、二人は注意深い視線を向けた。 「いえ、関係があるかどうか……たぶん、偶然だと思うんですけど……もうひと月くらい前になりますし——」  六月四日金曜日の夕方、友梨たちにはじめて案内してもらった六本木のディスコで、自分もブラウスの胸を引き裂かれた経験を、ひろみは少し躊躇《ためら》いながら打ちあけた。 「ディスコではいろんなハプニングが起きるそうで、そんなことくらい珍しくもないって、あとから笑われましたけど」 「なるほど。六月四日なら、ひと月以上経っているわけだな」  二人は目を見合わせたが、それと今度の事件との関連は、やはり即断できなかった。 「友梨さんたちに案内してもらったと、今いわれましたが、ほかにも連れがいたんですか」  若手の刑事が、ひろみのことば尻を捕えた。 「ああ、彼女のお友達で、何かのプロダクションに勤めてらっしゃる男の方といっしょで……。事務所が六本木にあって、ディスコにもすごく通《つう》なんだとか……」 「その男性の氏名やプロダクションの名はわかりませんか」 「増川さんとか……。会社の名前も、確か聞いた憶えはあるんですけど……」 「笹井さんとは親しい感じでしたか」 「ええ、とっても。増川さんの噂《うわさ》は、よく友梨さんの話に出てましたし」  ジャズダンス教室を後にした二人連れは、つぎに世田谷区代沢の今野佐知子の家へ赴いた。佐知子は四十一歳で、夫は画家だそうだが、名前を聞いても刑事たちの耳には馴染《なじ》みがなかった。大学生の息子が一人いるという。  あらかじめ電話を入れておいたので、佐知子は二人の刑事を、居間兼応接室といった雑然とした洋室へ請《しよう》じ入れた。住居は、四室ほどありそうな、プレハブの二階屋だった。  佐知子は骨張った身体に黒と白の縞のTシャツを着て、顔は頬骨が高くてちょっと顎《あご》がしゃくれている。刑事たちは自然と、彼女がレオタードを着てジャズダンスを踊る恰好を想像した。  佐知子もテレビと新聞で昨夜の事件は知っており、被害者が笹井友梨であったことは、ひろみからの電話ですでに聞いたらしかった。それで比較的感情を抑えた態度で刑事たちと対座した。 「——笹井さんが人に怨まれていたとは思えませんわ。万一そんなことがあったとしても、たとえばそれは彼女自身まったく意識してないところで人を傷つけていた結果であって、従って私たちにも想像のすべがありません」  小説教室の受講生だけあって、佐知子の話しぶりはしっかりしていて、多少理屈っぽかった。 「とりわけ深刻な問題を抱えてらしたふうにも見えませんでしたけどねえ。生来彼女は、物事に思い悩まないたちでしたから。苦悩とか懐疑などには無縁で、いつもおおらかな顔をしてらしたわ。それだけに、あまりにも痛ましいという気がしますけど……」  最近変質者に追いかけられたような話は聞かなかったか、との質問に対して、佐知子はそれまでとは別種の表情で顔をこわばらせた。 「変質者かどうかはわかりませんが、友梨さんが知らない間に服に靴クリームを塗りつけられたという話は聞いてました。それは六月の初旬だったと思います」  もう少し詳しく尋ねると、渡辺ひろみが六本木のディスコで服を破られた出来事よりは四、五日あとのことらしかった。 「それと、これは同じ昨日のことなんですけど、実は私もサマーセーターの胸を切られたんです」 「切られた?」 「カミソリだと思います。下着も切れてました。辛うじて、肌までは届いてなかったんですけど」  昨日の午後四時すぎ、カルチャーセンターの十階からすし詰めのエレベーターで降りてきた直後に気が付いたそうである。友梨に付合ってもらって、近所のブティックでTシャツを買って着替え、警察には届けなかったという。 「なんだか気恥かしかったし、どうせそれほど重大には扱っていただけないと思ったもんですから。でも、セーターはそのままとってありますよ」  刑事の求めに応じて、彼女はそれを別室から持ち出してきた。やや厚手の綿のサマーセーターで、襟の少し下から縦に二十センチほど、鋭利な刃物で切られていた。 「友梨さんはどうだったかわかりませんけど、私は最近、なんだか人に尾《つ》け回されてるような気がしたこともありました。そんなことと、友梨さんがあんな目に遇《あ》われたこととは関係があるのかどうか、さっきからずっと考え続けていたんです」  佐知子はだんだんに抑揚のない低い声になって呟き、自分の手で両腕を抱えた。身内に満ちてくる恐怖を必死で抑えているような姿勢だった。 「なるほど。——参考までにこれをお借りできませんか」 「どうぞ……」 「今野さんは昨日の午後、小説教室で笹井さんと会われているわけですが、彼女が夜には誰かと待ち合わせしているというようなことは聞かれませんでしたか」 「いいえ、別に……」 「何か変った様子などは——?」 「いえ、とくには……」  佐知子は昨日の小説教室の模様をおよそ話した。 「ほお。笹井さんが小説を書いて、それが教室の雑誌に載ってるんですか」  部長刑事が興味をそそられて訊き返した。 「それはどういう小説です?」 「三十枚くらいの短篇で、一口でいえば人妻が浮気する話です。一時は愛人と駆け落ちの相談までするんですけど、相手のささいな仕種《しぐさ》や癖などから急に熱がさめて、結局家庭へ戻るというストーリーなんです。かなり大胆なセックス描写も随所に出てくるんですね」 「その話は、彼女が経験から書いたものなんでしょうか」 「それも含まれているらしい口吻《くちぶり》でしたわね」  佐知子は考えこむように、ゆっくりと頷《うなず》いた。 「ではつまり、笹井さんには現実に愛人もあって……?」 「親しく付合っていた男性は、今までにも何人かいたようですけど、どの程度の間柄だったのか……」 「相手はどういった男性でしょうか」 「マスコミ関係に魅力を感じてらしたみたいですね。テレビ局とか広告代理店に勤めてる人なんか……」 「小説に出てくる人妻の相手は何をやる人ですか」 「わりと小さなプロダクションに勤めている男なんです。広告コピーを作ったりする——」  それから佐知子は、中指のペンダコを左手の指で押さえながら、急にしんみりした涙声でいい添えた。 「やっぱりあの作品の中には、彼女の実体験が生かされていたと思います。そうでなければ書けないほど、リアルな描写がありましたもの……」  二人連れの刑事は、胸を切られたサマーセーターと、〈嵐のてんまつ〉が載っている雑誌とを借りて、その家を辞去した。    3  笹井友梨殺害事件は、捜査員たちの間では、〈ディスコの人妻殺し〉と呼ばれていた。友梨が刺されていた場所は、ディスコの中ではなかったのだが、夜間あのビルの半地下コンコースを通るのは、突当りにある有名な高級ディスコ、サザン・クラブへ出入りする客が大部分のようだった。友梨は日頃から六本木や新宿のディスコへは出掛けていた模様なので、あの晩もサザン・クラブへ行くつもりだったのではないか。それは誰かに誘われたからか、あるいはサザン・クラブが会員制であることを知らずに、一人で遊びに行こうとしたのか?  一方、犯人は、あのコンコースに人気が途絶える盲点のような時間帯を狙ったことも、大いに考えられるのだ。  こうした点から、友梨の死はディスコとは無関係ではなかろうとの観測が、本部内では有力であった。  殺人の動機については、およそ三通りの見方がなされている。  一つは、変質者や物盗りによる流しの犯行である。この場合には、渡辺ひろみと今野佐知子がほかの場所で服の胸を引き裂かれたり切られたりしたこととは一応無関係という考え方である。渡辺ひろみのケースからは一箇月以上経過しているし、その程度のことならディスコでは日常茶飯事であるらしい。今野佐知子は同じ日に被害に遇っているわけだが、カルチャーセンターのあるファッションビルのエレベーターでも、若い女性がイタズラされるケースが珍しくないことを、捜査員が聞き込んできた。  第二の見方は——友梨たちグループに敵意や反感を抱く者が、つぎつぎに嫌がらせをした揚句、友梨を殺したのではないか。友梨は実家の仕送りで金に不自由なく、好き放題のことをやっていたように見える。いわゆる翔んでる女の暮しぶりが、欲求不満で鬱屈している人間の殺意を誘発したとは想像できないか。この場合には、犯人はどこかから友梨の日常生活をひそかに観察し、交友関係もある程度|掴《つか》んでいた模様である。  そして第三は、あくまで友梨一人が目的、との見方である。動機は嫉妬《しつと》、痴情、怨恨などの線が強い。犯人は捜査を脇道へそらせるために、わざとブラウスの胸を引き裂き、身許を示すものを奪い去った。以前に渡辺ひろみと今野佐知子にもイタズラしたのは、変質者の一連の犯行と思わせるための擬装工作であったのか。それとも、二つの出来事は無関係な偶然として切り離して考えてもいいかもしれない……。  本部内では、第三の見方が優勢であった。やはりそれが最も現実性が強いと感じられた。  捜査員は最初、渡辺ひろみと今野佐知子に事情聴取したが、同時に彼女たちも容疑者の圏内に含まれていた。傍目には仲良しグループと見えても、各人の間にはどんな確執がひそんでいたかもわからない。  別の捜査員たちが、二人に関する内偵も試みた。自宅付近の主婦たち、ジャズダンス教室のほかの生徒、今野佐知子については小説教室の受講生たちにも、聞込み調査を行った。 「今野さんのご主人は、絵描きさんということですけど、あんまりお名前聞いた憶えないですわね。個展をなさったという話も出ないし。ご自宅で近所の小中学生に絵を教えてらっしゃるのが、主たる収入源じゃないのかしら」  小説教室で先輩格の四十五、六になる女性が、捜査員の耳に囁いた。 「ところが今野さんは、頭も切れるし、あんなふうにちょっと個性的なタイプでしょ。昔、新劇の劇団に所属してらした頃、今のご主人と知合われて、女優への道をすてて家庭にお入りになったということですから。でもご主人が、まあなんというか、いつまでもうだつが上らないので、彼女は大いに不満なんじゃないでしょうか」 「本人が日頃そんなことを洩らしているわけですか」 「いえ、口ではおっしゃらないけど、彼女の作品のテーマは、みんなそれですもの。自分はもっと立派な夫を持ってもよかった、自分の女としての値打ちは、もっと高かったはずだ、そう思いながら中年にかかろうとする女の焦りと、大袈裟《おおげさ》にいえば怨念《おんねん》みたいなものが、彼女の原点だと思いますね……」  渡辺ひろみ三十二歳の自宅は、渋谷区役所の近くにあるアパートで、彼女は四つ年上の夫と、八歳と七歳の男の子二人との四人暮しだった。夫は食品関係のメーカーに勤めるサラリーマンである。  ひろみは昨年秋からジャズダンスを習い始めていたが、その半年ほど前の初夏の頃には、ノイローゼ寸前の不安定な精神状態に陥っていたみたいだと、同じアパートに住む二人の主婦が口を揃えて話した。 「あれは鬱病といったほうがいいのかしら。私にも似た経験があるからわかるんですけどね、下の子も小学校へ上って、家族中が朝みんな出掛けていってしまうでしょ。家の中に一人でとり残されると、侘《わび》しいような、虚《むな》しいような、今まで自分は何のために生きてきたんだろうかなんて考えちゃって……それも庭でもある家なら、また気が紛れるのかもしれませんけど、狭いアパートの中で、子供にももうあんまり手がかからなくなると、急に生きる張りまでなくなっちゃうんですね」 「あの頃のひろみさん、なんか異様に太ってたわね」 「太って?」  捜査員は怪訝《けげん》な思いで訊き返した。 「ええ。あとで彼女自身に聞いたことですけど、寂しさのあまり、やたらと食べたんですって。のべつ何か口に入れてないと落着かないみたいになって……大体に、主婦が食べすぎて太るのは、性的欲求不満だそうですね。いえ、それは週刊誌に書いてあったんですけど」  自分も決してスリムとはいえない主婦が、捜査員には意外な意見を披露した。 「だからたぶん、ご主人にもあんまり相手にされてなかったんじゃないかしら。——でも、肥満を解消するためにジャズダンスを始められてから、彼女、精神的にもすごく明るくなったみたいですね。最近はとても元気そうですもの」  女たちがそれぞれに内包している�主婦症候群�を、捜査員らは垣間見る思いがした。  が、友梨との間に、犯罪に繋《つな》がるほどの軋轢《あつれき》があったかといえば、そんな手掛りはこれといって浮かんではこなかった。今野佐知子も渡辺ひろみも、事件当時は家にいたとのべている。証人は家族だけだが、彼女らがひそかに外出したような形跡もなかった。  友梨の周囲にいたほかの女性の中にも、今のところ動機関係といえるほどのものは見当らない。  一方六本木のプロダクションに勤める増川与志雄三十四歳が、七月九日の夕方、池袋警察署へ任意出頭を求められた。  プロダクションは総勢六人のごく小さな世帯で、貸ビルの一室を事務所に充てていた。仕事は主に、印刷媒体、つまり新聞や雑誌などに載せる広告のコピーとレイアウトを作成することで、大手広告代理店の下請けが多い。そのほかに、フリーのルポライターのような仕事をやっている者もいる。  増川とプロダクションの名前は、捜査員がひろみと佐知子から聞き出した。二人の口吻では、友梨と増川はどうやら深い仲だったらしいという印象が強かった。  二人連れの刑事が六本木の事務所を訪れた時、増川は広告主の会社へ出掛けていて不在だった。そこで刑事は、居合わせた者たちに、増川についての聞込みをした。  午後六時すぎに彼が戻ってきたので、今度は彼から話を聞こうとすると、彼は周囲の目を意識して、落着かない様子だった。そこで任意出頭を求めた。彼は不安そうな態度ながらおとなしく従った。  池袋署では、警視庁捜査一課の警部と署の部長刑事が聴取に当った。 「笹井友梨さんと知合ったのはいつごろからです?」  恰幅のいい四十五、六の警部が、多少威圧的な響きの声で訊いた。現在の段階で、増川は最も有力な容疑者と目されている。 「去年の春頃から……」 「きっかけは?」 「いや大してきっかけといっては……うちの事務所の近くにあるスナックで口をきいたのが最初で……その時は確か、彼女は短大の同級生といっしょで、ぼくも仕事の連れがいたんですが、何かの拍子にディスコの話になって……」 「それで?」 「ぼくが始終ディスコに出入りしていると聞くと、ぜひ一遍案内してくれと彼女がいい出しまして……近頃の主婦は何事にも好奇心が旺盛《おうせい》ですからね」 「それで案内した?」 「ええ。二、三日あとだったか、彼女が約束通り事務所へ電話を掛けてきたもんですから」 「つまり、ディスコが付合いのきっかけというわけか」  増川は当時を回顧するようにちょっと目を伏せていたが、急に顔をあげると、 「でも、池袋へ出掛けたことはありません。ぼくはサザン・クラブの会員でもないですし」  増川は今年三十四歳だから、友梨と同い齢であったわけだ。痩《や》せ型で、面長の知的な顔立ちをしているが、前髪の両側が切れこむようにうすくなっているのや、白目が黄色く濁っているせいか、どことなく垢《あか》っぽく疲れたような雰囲気も感じられた。  友梨との肉体関係を尋ねると、約一年前から、と素直に認めた。すでに内偵されていて、ごまかしきれないと観念したようだ。十日か半月に一度くらい、午後から夕方にかけて会い、都内のホテルやラブホテルで関係を持っていたという。 「彼女のご亭主はスポーツマンタイプの立派な体格をしてるくせに、仕事に精力を絞りとられて、彼女は何箇月もほったらかされていたそうですよ。それで欲求不満を持て余して、彼女のほうから積極的だったんです」  いってしまってから、増川はさすがに照れ臭そうに自分の頬を叩いた。 「なるほど。しかし、濃密な関係が一年も続くと、男は飽きがくるものじゃないの」  老練な部長刑事が、くだけた口調で話に割りこんだ。 「ところが女はいよいよ執着を深めて、そこらへんから厄介な事態が生じてくる」 「いや、ぼくらは別に……」 「あんたも妻子のある身だからね。たとえば家庭をすててまでと迫られた場合には……」 「とんでもない。彼女にそんな気はみじんもなかったですよ。ご亭主にはすこぶる満足してたんです」 「何箇月も構ってもらえなくてもか」 「彼女の亭主は一流商社マンで、仕事が女房より飯より好きというタイプだそうですよ。だから、激烈な競争を勝ち抜いて、いずれ課長のポストを手に入れるだろうと、彼女はまるで自慢たらしく話してましたからね」  増川は雄弁そうなうすい唇を歪《ゆが》めた。彼自身は、以前は大手化粧品メーカーに勤めていたが、いつまでも係長になれない職場に嫌気がさしてとび出し、二、三の仕事を転々としたのち、現在のプロダクションに入ったということである。そうした経歴は、事務所へ出向いた捜査員が、プロダクションの社長やほかの職員から聞いていた。  友梨は、夫の仕事熱心を誇りにしながら、一方では、夫と対照的な遊び上手の愛人を拵《こしら》えて、欲求不満を補っていたというわけだろうか——? 「しかしね、亭主のほうだって、算盤《そろばん》をはじいてたにちがいないんですよ。今住んでるマンションはほとんど彼女の実家が買ったも同然だし、彼女は亭主の給料の半分しか受取ってなかった。残りは交際費に持たせて、生活費の足りない分や彼女自身の小遣いは、みんな実家の金で賄ってたそうですから。その代り、亭主は彼女がどこへ出掛けようが、ほとんど干渉しなかった。もっとも、自分が浮気をしても文句はいわせなかったらしいですがね」 「ご主人にも女がいたわけですか」  部長刑事は目をむいてみせた。 「いや、決った女がいたかどうかまでは知りませんけど、仕事で外国に出張してくると、旅先で関係した女との手順を、こと細かに語って聞かせたというんですから」 「へえ。それでも妻として平気でいられるものかね」 「とにかく彼女は、誰にも束縛されない現在の生活を存分にエンジョイしてたんですよ。今さら家庭を破壊して厄介なトラブルを起こすほど、若くも純粋でもなかったというか……もう少し打算的に割りきってたと思いますね」  笹井光一と友梨の夫婦、それにこの増川にしても、三十四、五歳の、いわゆるニューファミリーのはしりの世代だろうかと、一回り年上の警部はふと考えた。彼らが結婚する頃から、核家族化が急速に進み、しかもそのニューファミリーはしだいに遠心的になってきていると、どこかに書いてあったのを思い出した。共同生活への努力がうすれ、個々が自分の欲求を充足させることばかりに熱中して、家族同士の結びつきが失われている……とか。  友梨は生来悩まない女だったと、友達が異口同音に語っていたという話を、警部は続いて思い浮かべた。 「——なるほど。確かに昨今のナウな女性は賢く割り切っていて、妻子ある男に結婚を迫って殺されるような愚はおかさない。それはいえるかもしれないがねえ」  部長刑事が、爪楊子《つまようじ》でも使う時のようにチラリと歯を覗《のぞ》かせて、皮肉な笑顔をつくった。 「ところがその分、近頃は反対のパターンが増えているらしいね」 「……」 「男が未練を出して、逃げる女を殺すというケースですよ。去年の秋頃から、銀行の支店長代理だとか、かなりの地位にある男の愛人殺しがつぎつぎと発生しているね。いい歳の男が、割り切った女に愛情を弄《もてあそ》ばれた結果の犯行ですよ」 「冗談じゃない。ぼくだってそれほど彼女にうつつを抜かしてたわけじゃありません」 「そうかな。笹井さんの書いた〈嵐のてんまつ〉という小説を、あなたも読みましたか。あの中には広告のプロダクションに勤める三十すぎの男が出てくるね。ヒロインの人妻が、男に嫌気がさして逃げ腰になる心理が、なかなかリアルに書けてましたよ」 「あれは小説ですよ。別に……別にぼくがモデルってわけじゃない」 「一応参考までに伺いますが——」  警部が語気を改めて訊《き》いた。 「昨晩の九時頃はどこかへ行かれてましたか」 「八時半頃まで、事務所で仕事をしてたんです」  増川も再び目を落として、重い声で答えた。いずれアリバイを問われることは、予期していたにちがいない。 「そのあと、百合ケ丘まで出掛けました」 「小田急線の?」 「ええ、自分の車で行ったんですけど。仕事でちょっと人を訪ねる用がありまして……」  詳しく訊くと——増川は個人的にあるノンフィクション作家の取材の手伝いをしている。昨夜はその仕事で、損害保険の査定マンに会って話を聞くため、相手の自宅を訪ねたということである。 「その人がいつも十時前頃家へ帰ってくるというので、少し早目に出掛けたつもりだったんですけど、雨で道路が混雑して、百合ケ丘へ着いたら九時五十分くらいになってました。駅前から電話してみると、まだ帰ってないということで、喫茶店に入って三十分ほど時間を潰《つぶ》しました。もう一度掛けると、今度は本人がいましたから、すぐに出向いたわけなんですが……」  先方の家を訪問したのは十時半近くになってからだという。 「八時半に六本木の事務所を出て、百合ケ丘の訪問先へ着いたのが十時半。その間は誰にも会わなかったわけですか」 「車でしたから……まあ、喫茶店は別ですが」  駅前の喫茶店は狭くて暗い店だったが、かなり混んでいて、増川は二人用の席で仕事の資料を読んでいたとのべた。つまり、八時半から十時半までの二時間、彼のアリバイはどうも判然としないようである。 「途中では誰にも会わなかったということですが、ちょっとの間、笹井さんと会ってたんじゃないの」  部長刑事が粘っこく訊く。 「いいえ、彼女とはここんとこ、ずっと会っていません」 「いつから?」 「ええっと……先週の金曜日以来……」 「電話は?」 「いや、別に……」 「最近ではいつ話をしましたか」 「さあ、ちょっとすぐには思い出せないですけど……」 「昨日は?」 「いや、昨日は……全然……」  細い顔をかすめた動揺の波が消え去らぬうちに、警部がきびしく決めつけた。 「そんなはずはない。昨日あなたは、午後八時すぎに、笹井さんに電話を掛けたはずだ」 「……」 「プロダクションの人が、帰りがけにドアのそばで聞いている。あなたは事務所から時々彼女に掛けていたので、喋《しやべ》り方ですぐにわかったということだ」  わずかな沈黙ののち、増川は急に頬を痙攣《けいれん》させて笑い出した。 「そ、そうでした。うっかりしてたんです。突然彼女があんなことになって、ショックが強すぎたもんで……」 「その電話で彼女を池袋へ呼び出したんじゃないのか」 「とんでもない。——第一、彼女はほかの用事ができて、急いでたみたいでしたから」 「ほかの用事?」 「ええ……」  もともとは電話を隠しておくつもりであったらしい。が、話すとなれば、必死な早口になった。 「実は、電話を掛けた時、彼女はひどく興奮してましてね。小説教室の雑誌に載った彼女の作品が、編集者の目に止って、その件でぜひ会いたいといわれたと……」 「なに……それはどこの編集者ですか」 「�文学世界�じゃないかと思います。あそこの教室の作品は、時たま�文学世界�に転載されているそうですから」 「笹井さんが、昨夜編集者と会う約束で急いでいたと……それは、彼女に先方から電話が掛ってきたというわけですか」 「いや、留守中に置手紙が入っていたとか……なんかそんなことをいってましたね。とにかく気がせいている様子だったので、長話はしなかったんです」 「編集者が会いたがっていると、あなたがそういって無理に誘い出したんじゃないのか。そんな話なら、彼女は何を措《お》いてもとんできただろう」 「ちがいますよ。ほんとにぼくは、絶対に彼女と会ってないんです」  増川はうろたえた顔で、いく度も首を横に振り続けた。もし彼のいうことが事実なら、犯人は証拠の手紙を友梨のバッグの中から奪い去ったのだ。警部の脳裡《のうり》をその思いがかすめた。 「ぼくにはべつに、彼女を殺す動機なんてなかった。それに——」  増川は真剣に訴えるような眼差《まなざし》を警部に注いだ。 「それに、なんというか、友梨さんは彼女の生き方そのものに起因した理由で殺されたんじゃないかと……そんな気がして仕方ないんです」  第四章 プラスチック・マネーの誘惑    1  笹井|友梨《ゆり》が殺された七月八日の、午後から降り出した雨は、十日土曜の夜まで降り続き、日曜にはようやくちょっと夏らしい太陽が顔を出した。ところが、月曜の夜半には再びつぎの低気圧が接近して、十三日火曜はまた朝から雨だった。六月には空梅雨《からつゆ》の水不足が心配されていたのに、七月に入ってからは冷たい雨天の日ばかり多い。  マリア製薬のプロパーである穴吹義行は、火曜の朝、八時四十分頃まで家にいた。長女の春子と長男の進は、もう小学校と幼稚園へ出掛けた。ふだんなら、進より彼のほうが早いのだが、その日から彼は九州支店へ出張の予定である。毎朝出勤の途中で、担当の病院や開業医に寄るところを、今朝は直接新宿の会社へ行くつもりだった。  子供たちが出ていったあとのマンションの中は、朋江と二人きりだが、穴吹はことさら妻に話しかけもしない。朋江もキッチンで黙々と片づけをしていて、テレビの声だけが妙に空《むな》しく響いている。三十七歳と二十九歳の夫婦は、年齢の隔たりのせいばかりでもなしに、気軽く会話を交わす習慣を、もう長いこと失ってしまっていた。  とくに穴吹は、このところ自分自身の問題に頭を占められていて、妻の存在などほとんど眼中になかった。朋江の様子がまたどことなくおかしいことにも、気付くはずもなかった。  北側の四畳半の隅に立てかけてある新品のゴルフバッグを開けて、艶《つや》やかに光るクラブを、彼はいっとき眺めていた。短く重い息を吐いて、ジッパーを閉めると、出張用のボストンバッグをさげて、キッチンへ姿を見せた。 「お出かけ?」 「ああ」  エプロンで手を拭きながら、朋江は玄関まで送ってきた。 「お帰りは金曜でしたね」  黙っていることは、肯定の返事と同じだった。  彼は靴ベラを朋江に渡して、ドアを開けた。  踊り場の向う側のドアはひっそりと閉って、いつも自然と目に入る発泡スチロールの箱が消えている。 「笹井さんとこは、どうしたんだ?」  彼は妻を振り向いて尋ねた。 「日曜日に引越しなさったのよ」 「ああ……そうか」 「子供さんたちは、藤沢の奥さんの実家に引き取られて、ご主人はひとまず会社の独身寮へ入るんですって。一昨日は笹井さんがミチルちゃんを連れて挨拶に来られたわ……」  穴吹は答えずに踊り場へ出て、多少ゆっくりとドアを閉めた。いつも上気しているような朋江の顔が、妙にほの白く見えたことが、わずかの間、彼の意識に留《とど》まっていた。  彼はボストンバッグを持ち直して、階段を下りた。今日からの出張は、部長のお伴で九州の主要な支店を廻り、新薬の宣伝指導と、開発中の薬の説明を行うためである。目下会社が主力を注いでいる製品は、この秋に発売される新種の抗生物質と、もう一つは、まだ厚生省から商品としての製造許可がおりてないので、試供品の段階だが、〈プロスタン〉という人工妊娠中絶を促す薬剤だった。この膣坐薬を使えば、ほとんど掻爬《そうは》手術の手間が省け、妊娠中期までの胎児を流産させられるので、すでに都内の大病院には、サンプルとして配って、産婦人科の医師に試用してもらっている。今までは、アメリカの会社と、国内の一社だけで開発されていたものだが、マリア製薬でも別の製法でパテントを取り、商品化の準備を進めている。製造許可申請をするためには、できるだけ広範囲に多数の使用例を集める必要があり、今度の出張では福岡や熊本などの国立病院の医師にも、サンプルを配ってくる予定だった……。  マンションの駐車場は、建物の裏手にある。十台余りの車が二列にパークできるが、今は四台ほどが残されて、雨にうたれていた。マイカー通勤の人は、かえって時間がかかるので、朝早く出てしまうようだ。  穴吹が会社から貸与されているブルーのカローラの横には、いつもの通り、シルバーグレーのクラウンが駐《と》まっていた。  彼は雨の中を走って、カローラとクラウンの間へ駆けこんだ。  手にしていたキイを、ドアの鍵穴《かぎあな》へ差しこもうとして、ふとその手を止めた。足許《あしもと》の水溜《みずたま》りに落ちている何か鮮やかなオレンジ色のものが、視野の端をかすめたからである。  視線を戻すと……それはクレジットカードのようだ。白地のプラスチックにオレンジ色のマークが描かれ、カードの名称がグリーンで印刷されている。穴吹の利用している銀行系のカードとはちがうが、やはりよく名の通ったカードだった。  クレジットカードが落ちているとわかった瞬間、なんともいえない複雑な動悸《どうき》の波が、彼の胸を横切った。  手をのばして、拾い上げた。  カードのナンバーが十箇以上の数字で打ちこまれ、その下に持ち主の氏名がローマ字で示されている。〈NAOHITO TORIKAI〉。有効期限は八三年三月までだから、現在有効で、インターナショナルの標示もあるので、国内は勿論《もちろん》、外国のホテルや加盟店でも利用できるカードである。  裏返すと、〈鳥飼直人〉と漢字で持ち主の署名があった。あまり聞かない名前だ。このマンションの住人ではなく、あるいはよそから来た人が落したのかもしれない……。  そんなことを考えながら、穴吹はなかば無意識で、周囲に目を配った。駐車場にも、マンションの出入口付近にも、雨に烟《けむ》る視界に人影は見えなかった。 「警察へ届けなければ」  彼はまるでそばに人でもいるように呟《つぶや》いて、拾ったカードをポケットにしまった。  運転席に掛けて、車を発進させた。  マンションの敷地を出る時、彼はもう一度注意深くバックミラーを覗いた。動くものは何も目に入らない。彼はなんとなく安心した。  しかし——マンションの脇についている非常階段の陰で、一人の男が先刻からつぶさに穴吹の行動を見守っていたことに、彼は気が付いていなかった。    2 (警察へ届けなければ……)  穴吹は心の中で繰返しながら、運転を続けた。  目白通りは雨とラッシュで混雑していた。都内での車の通勤はかえって時間のロスになると、彼は常々感じているが、病院を訪ねて廻る仕事柄、車を使わないわけにはいかない。  会社へ着いたら、十時から会議があり、そのあとすぐ部長といっしょに空港へ向かう予定になっている。家でグズグズしていたので、さほど時間に余裕があるわけでもない——。  派出所を目で捜しながら、彼はそうも考えた。道路の反対側だと、そちらへ停めるのが厄介だ。  やがて、練馬署の付近にさしかかったが、曲りにくいという理由で、そのまま前進した。  新宿警察署が、会社の少し手前にある。あそこのほうが、何かと好都合だろう。漠然とそう思うと、彼は道路脇へ目を配るのをやめた。とにかくどこかへ届ければいいのだ。だが、絶対に届け出はしなければならない。今度こそは——。  すでにひと月余り以前の記憶が、いやが上にも生々しく甦《よみがえ》り、また不快な動悸に襲われた。  会社の洗面所の鏡の前で、えんじ色の革のカード入れを拾ったのは、六月八日火曜日の午前十一時前だった。その日時を、穴吹はおそらくこの先長く、忘れることができないだろう。  あの日はいつもの日課で目白と上落合にある担当の病院を廻り、会社へ着いたのがその時刻だった。自分のデスクへ行く前に、洗面所へ寄って、足許を見るとあれが目に入った。  最初は名刺入れかと思ったが、手に取るともう少しうすくて、中には銀行系のクレジットカードが一枚入っていた。  カードには〈田部朗〉の氏名がローマ字で打ちこんであった。穴吹より八、九年後輩の、二十八、九になるプロパーで、確かお茶の水にある国立病院の担当だった。彼は毎朝いったん出社して、書類の整理などをしてから外廻りに出掛けるというパターンなので、穴吹とは入れちがいになり、社内で短い時間顔を合わせることもあった。直接仕事の関《かか》わりはなく、個人的に親しいわけでもない。むしろ穴吹の目に、田部はほどほどに働いて辻褄《つじつま》を合わせている要領のいい若者といったふうに映っていた。医者と会っている時間以外は、女の子とデートしたり、映画を観たりしているようだ。先日も、船橋にある車の中から映画を観られるパーク・イン・シアターとやらへ行ってきた話を、面白そうに喋っているのが耳についた……。  出掛ける前には決って、洗面所の鏡に向かい、胸ポケットから櫛《くし》を出して髪をときつけているお洒落《しやれ》らしい田部の姿を、穴吹は脳裡に浮かべた。カードはその時落としたものだろう。  プロパーの属している学術部の部屋へ入ると、やはり田部はすでに外出していて、姿が見えなかった。  戻ってきたらカードを渡してやるつもりで、穴吹もデスクワークを始めた。  医師に使用してもらっている薬の臨床経過のデータを整理しながら、突然ある誘惑が、彼の心に忍びこんだ。それが、彼が毎日通っている上落合の鈴木胃腸病院のデータだったからかもしれない。  そこの院長は大のゴルフ好きで、穴吹もたびたび接待したり、付合わされたりしていたが、その院長からゴルフのクラブを買い替えるように勧められていた。自分がアメリカ製のベン・ホーガンを使い出してから急にスコアが好くなったといって、穴吹にもしきりに勧める。何でも自分のいう通りにさせたがる上に、いい出したら固執するたちだった。とはいえ、月間一千万円以上もマリア製薬の製品を使ってくれる上得意なので、機嫌を損ねては困るのだ。  穴吹のクラブは、実際もう十年近くも使っていて、もともと安物の上にすっかり古びている。彼にしても買い替えたいのは山々なのだが、マンションのローンを考えると、躊躇《ためらい》が働いた。ベン・ホーガンは一セット揃《そろ》えると三十万円余りかかるらしいのだが、毎月手取り三十二、三万円の給料から十一万円余りのローン返済をしている身には、かなりの痛手になる。  いや、それでも絶対に買えないというわけではなく、無理しても少しずつ揃えざるをえないだろうと、決心しかけていたのだ。  しかし、いったん忍びこんだ誘惑は、容易に払いのけることができなかった。 (このカードでクラブを買ったら——?)  田部は仕事で病院へ出掛けているのだから、すぐにもクレジットカードを使う機会もないだろう。すると紛失したことにも気付かないまま、時間が経過する。たとえ出先で気が付いたとしても、会社に置いてあるかもしれないと考えて、戻ってくるのではないか。つまり、田部がカードの紛失をカード会社へ届けるのは、その日の夕方以降になる可能性が強いと推測された。  その前にこちらが素早く利用して、カードを捨ててしまえばどうか?  他人のカードを不正使用しても、盗難や紛失の連絡が回っていない限り、買物の現場で捕《つか》まる恐れは、まず十中八九ない。それは自分もカードの会員である穴吹には、確信をもっていえるのだ。カードで買物をするさい、売上伝票にサインを求められるが、売り場の人間は、その文字と、カードの裏にある会員のサインとを照合するような作業はまったく行っていない。  それというのも、カードの不正使用による損害は、原則としてすべて損害保険会社の負担となり、持ち主はもとより、カード会社や加盟店にも実害が及ばないので、割に大ざっぱなのだと、ローンで付合いのある銀行員から聞いた憶えがあった。 (絶対に見つからないし、誰の損にもならないのだから——)  十二時半頃、穴吹は再び会社を出た。朝立ち寄った目白の病院で、昼休みに医師と会うアポイントメントを取りつけていた。  会社を出てしばらくは目白の方向へ車を進めていたが、突然方向転換して高速道路に乗り、日本橋まで夢中で走らせた。  デパートのスポーツ用品売り場で、ベン・ホーガンのドライバー一本と、アイアンの3番と5番と9番を買い求めた。合計八万八千円余りとなり、田部のカードを使った。田部朗のサインは、カードの裏を見て、車の中で十回ほど練習しておいた。角張った字なので、比較的真似やすかった。伝票に指紋を付けないように注意しながらサインする時には、さすがに心臓が割れるように搏《う》ったが、店員は何も不審を抱かなかった様子だ。  穴吹はその足で銀座のゴルフ用品専門店へ向かい、アイアンの7番とピッチングウェッジ、ウッドの4番、それにクラブを入れるバッグを買った。デパートより値引きしてくれたので、八万三千円ですんだ。再び田部のカードを提示して、サインした。  これでベン・ホーガンがあっという間にハーフ以上揃ったわけだ。穴吹には、まるで熱にうかされたような小一時間だった。  だが、二軒目の店を出た途端に、ハッとして立ち竦《すく》んだ。いずれ田部がカードの紛失を届け出て、カード会社が調査すれば、紛失後どこの店でどんなふうに使用されたかは、詳細に判明するだろう。その場合、ゴルフ用品ばかり買われていたとなれば、おのずと犯人像を特定してしまうではないか。  一方、鈴木胃腸病院の担当プロパーは、マリア製薬では穴吹一人だが、彼が院長にベン・ホーガンを勧められて最近購入したなどのことは、よそのプロパーを通して社内に伝わらないとも限らない。するとしだいに、疑惑の目が彼の上に注がれるだろう……。  穴吹は続いて銀座のデパートへ駆けこんだ。そこで、自分よりずっと小さなサイズで地味目のカッターシャツ三枚と靴二足、高校生が持つ学生|鞄《かばん》などを購入した。この買物も調べられれば、カード不正使用の犯人は、ゴルフ好きの上、穴吹より年上で小柄な、高校生の息子を持つ男、といった推測がなされるのではあるまいか——?  締めて二十二万四千五百円の買物になった。  穴吹はカードを折り曲げてデパートの包装紙に包み、トイレの屑籠《くずかご》に捨てた。  目白の病院へ引返す途中にあった団地の焼却炉に、銀座のデパートで買った品物を押しこんだ。  新しいゴルフバッグとクラブは、家に持ち帰り、今のところは鈴木院長のゴルフに付合う時だけ使っている。  その後、田部がいつカードの紛失に気付き、どうしたかといった話は、何一つ穴吹の耳に届かなかった。田部とはデスクも離れているし、日頃雑談を交わすような間柄でもない。  あれからもうひと月以上がすぎた。おそらく、田部の連絡を受けたカード会社では、追跡調査を行ったにちがいないが、不正使用者がどこの誰かわからないまま、保険会社に損害を補填《ほてん》させて、処理してしまったのだろう。  あの日の�完全犯罪�は成功したようである。カードを使用する場合、一時に十万円を越す買物をすると、店員がカード会社に電話して、問題がないかどうかを確認している。だが、一回十万円以内の限度を守ってさえいれば、極端にいえば一千万円だって買物できたわけなのだ。  穴吹は、早々とカードを捨ててしまったことをいささか惜しかったと悔む心理さえ、時には覚えている。一方では、自分で自分の犯した行為が信じられないような、空恐ろしさに迫られる。日頃は常識的な社会人のつもりでいても、人間は自分で考えている以上に、誘惑に弱いのかもしれない……。  ともかくも、発覚しないですんだことを感謝すべきなのだ。  今度こそは、すぐさま警察に届けなければ——。  穴吹の車が新宿署の手前にさしかかった時は、九時四十五分になっていた。予想以上に道路が渋滞して、時間を食ってしまった。  十時からの会議には遅れられない。 (会社へ行って、女の子に届けさせよう)  名案を思いついたように、穴吹はホッとした。  地下駐車場へ車を入れ、エレベーターで三階の学術部へ上る。一人きりのエレベーターの中で、さっき拾ったカードをポケットから取り出して眺めた。  アメリカではこれが「プラスチック・マネー」と呼ばれているそうだ。プラスチック・マネーは個人の社会的信用のバロメーターとされ、カードがなければガソリンも売ってもらえないことがあるという話も聞いた憶えがある。  日本でも最初にクレジットカードがスタートしたのは、昭和三十五年頃だった。当初は会員になるためにはきびしい審査が行われ、カードを持つことがステータスシンボルみたいに思われた。ところが近年では、銀行系と信販系のカード会社が続々と生まれ、会員と加盟店の獲得競争が熾烈《しれつ》であるらしい。ショッピングばかりでなく、キャッシングサービスやさまざまのローンシステムも付随して、全世帯の六割に普及したとか、サラリーマンの半数は二枚以上のカードを持っているなどとも喧伝《けんでん》されている。 (キャッシュレス時代か……)  掌の上にあるプラスチックのカードの軽さが、なんとなく金の観念を変えてしまったような気がした。  自分のデスクに鞄を置いて、穴吹は室内を見廻した。警察署まで使いを頼める女子事務員を捜したのだが、あいにく今は姿が見えない。  その時、二つほど離れたデスクから同期のプロパーに呼ばれた。 「穴吹さん、電話——」  彼は受話器を受取って耳に当てた。 「もしもし」 「もしもし、穴吹義行様でいらっしゃいますか」 「そうです」 「こちらは××クレジットサービス管理部の枇杷島《びわじま》と申しますが」  クレジットと聞いて、穴吹はドキリと心臓にショックを覚えた。が、つぎの瞬間には、それは自分が会員になっているカードの会社だと気が付いた。 「ご承知の通り、先月のご利用代金が、今月十日の引落しになっておりまして……」 「ええ」  そのカードの利用代金は、毎月十五日に集計され、翌月の十日に会員の銀行口座から引落される。先週の土曜日が十日だったと、穴吹は思い返した。先方の話しぶりがいたって穏やかなのも、彼の気持を落ち着かせた。 「実は、ご口座の残高が十一万円ほど不足しておりますので、誠に恐れ入りますが……」 「なに、残高が不足?」  今度は思わず大きな声を出し、周囲の耳を感じてあわてて声をひそめた。 「何かのまちがいじゃないんですか」 「いえ……ご請求合計額が三十二万五千九百十円で、ご口座の残高は二十一万四千二百五十円ですので、差引き十一万一千……」 「請求額が三十二万?——いや、そんなはずはないですね」 「二十五日に明細書を発送しておりますが、届いておりませんでしょうか」  カード利用代金の明細書は、必ず毎月二十五日すぎに家へ送られてくる。先月はうっかりして、確かめなかったのかもしれない。 「しかし、三十二万円も使った憶えはないですがね」 「六月十一日に、ファミリーカードで二十六万五千円ご利用になってますが」 「ファミリーカード? じゃあ、家内が使ったわけですか」  穴吹は動揺したが、つぎにはまさかと打ち消した。 「何かのまちがいかもしれませんよ」  同じことばを繰り返した。 「もう一度調べてみてくれませんか。いや、場合によっては——」  彼は送話口を掌で囲い、頭に浮かんだことを口に出した。 「家内が落としたものを人に拾われて、不正使用されたのかもわかりませんから」    3  穴吹朋江は、マンションのベランダに面したガラス戸にもたれて、雨の降り続く戸外を眺めている。二階の部屋からは、すぐ下にある小公園と、道路沿いに生垣やブロック塀をめぐらせたしっとりとした家々が見下ろされた。公園のベンチや藤棚、盛りをすぎかけた小さな紅い花をつけている石榴《ざくろ》の木も、冷たい雨に濡れて、どこにも人影がない。まだ随所に緑の残る住宅街は、絶え間ない雨脚の灰色の縞模様に包まれて、妙にうら寂しく静まり返っていた。  月水金の午前中には、朋江は石神井にある歯科医院までパートに通っているが、今日はそれのない日である。  マンションの内部は、キッチンのテーブルや流しに汚れた皿が重ねられたままで、居間も子供たちが出ていったあと、しまわれていない布団や脱ぎすてられた服などで散らかっている。ふだんの朋江なら、それらを手荒く片づけていきながら、なんともいえない苛立《いらだ》ちに襲われて、独り言に毒づいてみたり、物を放《ほう》り投げることさえあったが、今朝の彼女は、何かしかけても意識がふと虚《うつろ》になって、知らぬ間にぼんやりと考えこんでいる。  向かいの4LDKからも、物音一つ聞こえてこない。それは当然だった。笹井家は一昨日の日曜日に引越して行き、今は空き家になってしまったのだから。  向かいの家には、もう誰も住んでいない。朋江が今まであれほどの嫉妬《しつと》や羨望《せんぼう》や、さまざまに屈折したどうにもならない苛立ちをかきたてられた家庭は、あっけなく、跡かたもなく消滅してしまったのだ。シックな装いに身を包んだ友梨がドアを開けて現われ、発泡スチロールの保冷箱へアイスノンを入れる姿を、こちらの覗き穴から盗み見ることは、この先絶対にないのだ。無神経だがどこか人が好くて、警戒心のない友梨から、ジャズダンスやベビーホテルの話を聞くことも、永久にできなくなった。  あのおおらかそうな笑顔も、ノーブラを自慢にしていた若々しい肉体も、冷たい骸《むくろ》となり、灰と化して、この世から消えてしまった……。  そのさまを想像すると、朋江は底知れぬ恐ろしさと同時に、どこか憑《つ》き物が落ちたのに似た虚脱感にも襲われる。そして、これまで自分が友梨に対してとった行為の一つ一つが、今さらのようなおぞましさと共に、繰返し繰返し甦ってくるのだ。 (どうしてあんなことまで……!)  日頃は無性に憎らしかったミチルの姿まで、いく度となく思い出された。  引越しのトラックが出発したあと、笹井がミチルを連れてこの家に顔を出した。彼と朋江が簡単な挨拶を交わしている間、ミチルは少し上目使いに、刺すように朋江を見上げていた。父親に手を引かれて、階段を下りしなにも、彼女は小さな顔を捻《よじ》って、まだ必死に朋江を凝視していた。  三歳の幼児の、まるで精一杯の怨みと敵意を含んだような眼差が、朋江の眼底に焼きついて離れない。 「ああ……」  朋江は思わず声を洩して、深い溜息をついた。 (せめてあの時、真っ直ぐに警察へ行っていれば……!)  間歇《かんけつ》的に襲ってくる鋭い悔恨が、またも朋江の胸裡を貫いた。 (でももう、今となってはとても……)  その後悔は、だが反面、彼女の心に微妙な安堵《あんど》をもたらしてもいた。  七月九日金曜日の昼すぎに、前夜発見された死体が友梨だと判明して以後は、刑事らしい人影がこの付近の聞込みに歩き廻っていたようだ。無論、ここへも来た。朋江は、思い当ることはないと首を振った。その朝笹井に、一晩帰ってこなかった友梨の行先などを尋ねられた時、何も知らないと答えてしまっていたから、警察に対しても、それを繰返すほかはなかった。  刑事たちは、昨日も姿を見せていた。この一帯には、在来の家々のほか、三、四階建の小ぢんまりしたマンションが散在しているので、そうした一軒々々にも聞込みをかけていた気配だ。でも、どうやらそれも、昨日いっぱいで打ち切られたらしい。  警察ではおそらく、友梨の家庭の外での生活に、捜査の重点を移し始めたのだろう。ジャズダンス教室、カルチャーセンター、ベビーホテル等々、友梨の人間関係は派手にひろがっていたはずだ。稽古事のない日にもドレスアップして外出していたから、男友達や、愛人くらいいたのかもしれない。  笹井たちも引越してしまえば、警察はもうこのマンションには関心を持たなくなるだろう。こちらはただ息をひそめて、時がたつのを待っていればいいのだ。一日も早く月日が流れて、そして自分は友梨という女がいたことさえ、何もかも忘れ去ってしまえば——。  朋江はもう一度深い息を吐くと、ベランダのそばを離れて、北側の四畳半へ入った。そこにも夫のパジャマなどが脱ぎすてられている。  壁の隅に立てかけてある鮮やかなスカイブルーのゴルフバッグが目に映ると、朋江は不快なものを見たように、口許を歪《ゆが》めて横を向いた。  その時、ブザーが鳴った。  テレビの上のデジタルは、もう一時半近くを示している。進が幼稚園から帰ってきたのだろう。  朋江はのろい動作で玄関へ出た。友梨の事件以来、ドアはいつもロックしている。  ノブがガチャガチャ音を立てているので、やはり進にちがいないと思い、ロックを外した。  ドアが勢いよく開くと、踊り場に二人の男が立っていた。紺の背広と、一人は白いワイシャツで上衣《うわぎ》を腕にかけている。朋江は息をのみ、たちまち全身が硬直した。男たちの発散する独特の雰囲気が、彼らの職業を直感させた。  案の定、背広の男が冷たく響く声でいった。 「池袋署の者ですが」  内ポケットから警察手帳を出して、形ばかり示した。 「……」 「さっそくですが、笹井友梨さんの事件について、もう少しお尋ねしたいことができましてね」  二人は玄関に入って、間近から朋江を凝視《みつ》めた。ワイシャツの男が、後ろ手にドアを閉める。 「事件のあった木曜の夜、笹井さんは八時頃外出する前に、その用件などを、奥さんに何かいわなかったでしょうか」  背広の男が訊《き》き役だった。二人共まだ三十すぎの刑事である。 「いいえ」 「本当に奥さんは、何も聞いてなかったですか」 「いいえ、別に……」  朋江は心臓が早鐘のように搏つのを覚えながら、夢中で首を振り続けた。  二人は軽く目を見合わせ、背広の刑事が再び口を開いた時、その声は突き放すように聞こえた。 「おかしいですね。別の筋から、笹井さんは雑誌の編集者と会うことになって、喜んで出掛けたという話が浮かんでいる。その連絡には、留守中に手紙が置いてあったらしいというんですがね」 「……」 「奥さん、笹井さんとこの女の子も、見たといってるんですよ」  ワイシャツの刑事が割りこんだ。 「そこの踊り場で、ママがお向かいのおばちゃんに手紙みたいなものを見せて、お喋《しやべ》りしてたって。その子は、われわれが尋ねても何も答えなかったんだが、藤沢の友梨さんの実家に引きとられてから、おばあさんにポツリと洩したんだね。それをおばあさんがこちらへ伝えてきたわけです」 「奥さん、あなたもっと詳しい事情を知ってるんじゃないんですか」 「隠さずに話してもらわないと、かえって厄介な事態になるんですよ」 「いずれ、必ずわかることなんだから」  ミチルの刺すような視線が、朋江の瞼《まぶた》をかすめた。血がのぼっている頭の中で、迷いが交錯した。 「べつに……べつに隠してたってわけじゃありません」  やがて彼女は、吃《ども》るように答えて、口許に不自然な笑いを浮かべた。 「そういえば……忘れてたんです」 「何を忘れていたんですか」 「あの日、六時すぎに外から帰ってらした友梨さんと、そこで偶然顔を合わせて……その時、お惣菜《そうざい》配達の保冷箱の中に、手紙が入っていたとかって……そうそ、彼女そんなこといってましたよ」 「手紙には何と書いてあったんです?」 「彼女の小説が専門の雑誌に掲載されることになったって……」 「あの晩彼女はそれで外出したわけなんですね」 「さあ、……べつに、いつどうするって聞いたわけじゃなかったですから」  刑事たちはまた疑わしそうな目を見交わした。 「そんな重大な話を、奥さんはどうして警察に隠してたんですか」  ワイシャツのほうが、詰問調を鋭くした。 「だから、隠してたんじゃありませんよ。なんとなく忘れてたんです。自分のことじゃないんですもの」 「奥さんもその手紙を読んだんですか」 「いいえ、友梨さんが持ってるのを見ただけです」 「手紙の用件で急に出掛けたんじゃないんですか」 「そこまではどうだかわかりません。はっきりそう聞いてれば、私も忘れたりしなかったんでしょうけど」  刑事たちはなおも同じような質問を繰返したが、朋江もそれ以上はわからないと突っぱねた。今の対応が最も賢明だという確信があったわけではない。だが、いったん口に出したことを、またも訂正したりすれば、いよいよあやしまれ、今度こそ取り返しのつかない破目になるだろう。 「もう一度署で事情を聞かせてもらうことになるかもしれませんが」  若い刑事たちは、釘《くぎ》をさすようなことばを残して、ようやく引揚げていった。  ドアが閉まった途端、朋江はその場にしゃがみこんだ。背中や腋《わき》の下に冷たい汗が滲《にじ》んでいた。膝《ひざ》の間に顔を埋めると、全身の血が激しく脈打っているのが、耳に響くようだ。それは絶望的な切迫感の響きだった。 (刑事たちの目は、露骨に私を疑ぐっていた。彼らはきっとまた引き返してくるだろう……)  どれほどかたち、周囲がほの明るくなったような気がして、彼女は顔をあげた。ドアが開いて、幼稚園のスモックを着た進が入ってきた。  一、二歩足を踏み入れた進は、上り框《がまち》にしゃがんでいる母親を見て、軽く息をのんだ。大きく見張った眸《め》の中には、子供らしい驚きと怪訝《けげん》さと、それに淡い怖《おそ》れも湧《わ》きあがっていた。のべつ母親に苛《いじ》められている進は、本能的に彼女の機嫌を窺《うかが》う習慣を身につけていた。 「ただいま……」 「ああ、お帰り」 「お母さん、どうしたの?」  進は怖る怖る尋ねた。 「別に、なんでもないわよ」  朋江は膝を伸ばして立ち上った。進は、母親がいつになく沈んでいるので、何かあって父親が帰っているのかと思ったが、それらしい靴も見当らなかった。  進は自分の運動靴を脱ぎ始めた。  と、再びブザーが鳴った。戦慄《せんりつ》が朋江の身内を走り、咄嗟《とつさ》にドアをロックしようとした。あわてていたために足許がふらつき、下駄箱に片手をついた。もう一方の指先がノブに届く直前に、ドアが外へ動いた。  ゆっくりと開かれたドアの向うに、黒っぽい背広を着た男が一人立っていた。さっき来た刑事とは別人だったが、年配は同じくらいだ。痩《や》せた小柄な男で、ちょっと貧相な顔の、くぼんだ目で、すかすように朋江を見た。 「失礼ですが、穴吹朋江さんでしょうか」 (彼らはもう引き返してきたのだ……!)  棒立ちになっている朋江に向かって、男は一歩踏みこんだ。——その時、靴を脱ぎ終えていた進が、ふいに裸足《はだし》で男の前に出た。彼はまるで精一杯母親を守ろうとするように、小さな肩を張って闖入者《ちんにゆうしや》の前に立ち塞《ふさ》がった。    4  スリムで脚の長い田部朗の裸身が、バスルームのドアの陰に消えると、やがて威勢のいいシャワーの水音が響いてきた。彼は房事の前後に、決って丹念にバスを使う。 (プレイボーイのくせに案外神経質なところがあるんだわ……)  半田|教子《のりこ》はちょっと揶揄《からか》うような気持でそう思い、シーツの上でゆっくりと手足を伸ばした。こちらはしばらくこのままで、せめていっとき嫌なことを忘れ、心身の快い気怠《けだる》さに浸っていたい……。  朝からの雨は、まだしつこく降り続いている。七月中旬になってやっと梅雨が本格的になってきたらしく、今日などは肌寒いくらいだったが、ホテルの室内にはほどよいエアコンが施されている。湯島天神の近くにある、外見がさほどけばけばしくないラブホテルで、田部と教子がもう何度か利用している場所だった。  教子は、今日もお茶の水の国立病院へ行くといって家を出てきたが、実は湯島の喫茶店で田部と落合い、このホテルへ直行した。不妊症の治療は約十日先の七月二十日すぎから再開され、卵管通水法の処置を受けることになっている。  五月の流産のあとの障害を検査するために、卵管造影撮影が行われたのが、七月六日だった。結果は、教子と、そして担当の穂積医師も恐れていた通りになった。「卵管通過性が以前に比べて不良、中絶後の炎症による癒着の疑いあり」との診断が下された。  足かけ四年の治療がようやく効を奏して、教子の卵巣は正常な排卵機能を果たしてくれるようになっていたのに、今度は卵管が癒着してしまったのでは、せっかく排卵された卵子が子宮までおりてこられない。  そこでつぎには、卵管の癒着を剥離《はくり》して、通過性を取り戻す通水法を試みるのだという。だが、それでまた妊娠の期待が持てるようになるかどうか、百パーセントの保証はできないと、医師は首を傾《かし》げていた。 (きっともう駄目だわ……)  白っぽい天井を見上げて、教子の気持は、やはりそこへ沈みこんでいく。近頃では、胸の底に絶望の固い痼《しこり》が居すわっていて、時々指先でそれに触れているような感じでもあった。  結婚以来この五年余り、子供が欲しいと、せつなく祈らない日はなかった。無口な夫はまだしも、舅《しゆうと》と姑《しゆうとめ》は何かにつけて、石女《うまずめ》の嫁に露骨な不満を示した。三人ずつ子供のある夫の姉妹が来るたびに、あてこすりをいわれて、いっそう惨めな思いに耐えなければならなかった。  自分の胎内に宿るわが子なら、父親は誰でも構わないとさえ、思い詰めた。そんな矢先、産婦人科の廊下で自然と顔|馴染《なじ》みになっていたプロパーの田部に声を掛けられ、お茶を喫んだり、映画やドライブに誘われるような付合いが始まった。彼の血液型を尋ねてみると、夫と同じO型だという。  それを知って間もなく、教子は田部のいいなりになった。排卵日を狙って、教子から誘ったこともある。夫よりも彼のほうが、教子を妊娠させてくれる可能性が高かったからである。  というのは、不妊症外来へ通い始めた当初、夫の半田も一通りの検査を受けた。すると、精液検査の結果は正常だったものの、精子の免疫適合性のテストが必ずしも良好ではないといわれた。つまり、教子との組合せの条件も、あまり有利ではないのだった。 (赤ちゃんが欲しいばかりに田部に許したのに、今ではその関係だけが残ってしまった……)  教子はふと自嘲《じちよう》的に思った。が、それではいつでも別れていいかといえば、若くて優しい彼に、やはり未練が尾を曳《ひ》くようだ。  バスルームの水音はまだ続いている。今は二時まえで、病院の午後の診療時間に当る。プロパーは医者の休み時間に彼らをつかまえて、薬の宣伝や説明を聞かせるので、診察が始まれば、逆にプロパーには待ち時間になるわけだった。  その間、もっぱら資料を整理したり、医者に頼まれた雑用で走り廻っているプロパーもいるそうだが、田部は若いだけに、適当に遊ぶすべを心得ている。映画好きなので、遠くまで車をとばして観に行くこともあるらしい。教子と付合う前は、どうせ別の女とデートしていたのだろう……。  教子は素肌のまま、腹這《はらば》いになった。小柄ながら、教子はプロポーションがきれいで、乳房も形よく盛り上っている。「あなたの身体《からだ》で、子供が産めないはずはないよ」と、田部はいつも元気づけてくれる。  サイドテーブルの棚に置いていた週刊誌が目に入ったので、手をのばして、パラパラと頁をめくった。教子は日頃から活字を読むことが好きだが、とりわけ、新聞や雑誌に載っている�主婦の悲劇�にはやや異常な興味をそそられる。親子心中や子殺し、幼児虐待のケースなどでは、奇妙な快感に似た刺激を与えられた。世の中には、子供があっても十分に不幸な女たちがいるのだと再確認することで、無意識に心の空洞が埋められているのだろう。  彼女が今朝西日暮里の駅で買ってきたその週刊誌には、母親がパチンコに熱中していた間に、五歳の坊やが行方不明になったという事件が載っていた。子供は数時間後に、同じビルの使われていないエレベーターの中に閉じこめられて、ぐったりしていたところを保護されたという。  この記事はもう地下鉄の中で読んで、子供が死ななかったことに、教子は軽い失望を覚えていた。  記事のあとには、こうした怠慢な主婦が増えているおかげで、弁当販売のような外食産業や惣菜配達の内食産業が急成長しているという現象まで紹介してあった。最近では朝夕に弁当を買いにくる主婦も珍しくなくて、朝買った分は夫と子供の昼食に持たせ、夕飯もまた弁当で間に合わせる。 「今の子供はおそらく、おふくろの味など知らずに育つのでしょう……」  弁当会社の社長の談話の中に、また子供の話が出てきたので、教子は頁をとばした。  同じ週刊誌に、人工中絶に関する特集が組まれていた。堕胎は相変らず年々増加しており、その母体に及ぼす影響と、精神的、肉体的後遺症について——。  その中のコラムで囲われている短い記事に、教子はちょっと目を惹《ひ》かれた。 〈コーヒー一杯で人工中絶?〉という見出しで、こんなことが書かれていた。  ——人工妊娠中絶といえば、一般に掻爬《そうは》を想像する。掻爬には当然、苦痛や危険が伴う。しかし実は、簡単に流産を促すとくべつな薬品が、すでに開発されている。プロスタグランディンという薬物群の中のE1誘導体で、目下は膣坐薬にしてサンプルがつくられている。  これだと、妊娠中期までの妊婦の膣内に挿入するだけで、ほとんど副作用もなく、ほぼ確実に流産させることができる。  日本では現在大手製薬会社二社で開発されているが、厚生省の製造許可がまだ下りていないため、商品化の前の段階で、指定された大病院の医師にサンプルとして配られ、患者に試用されている。  投与法にもさまざまな形が考えられ、飲み薬も研究中だが、これはまだ副作用が強くて、有効率も未確認だという。しかし、いずれ近い将来には、その薬をコーヒーに溶かして飲むだけで、やすやすと人工中絶ができる日が来るかもしれない。考えてみれば空恐ろしいような話……。  終戦後間もない頃には、人工中絶の失敗による死亡者が毎年多数にのぼっていたと、何かの本で読んだ憶《おぼ》えがあった。それが、設備や技術の進歩によって、最近ではそんなケースはほとんど聞かれなくなった。ところが今度はさらに、薬一錠でらくらくと中絶できる時代が到来するらしい。  不公平な話だと、教子は心底忌々しさを覚えた。フリーセックスのつけが回って、できては困る子供を孕《はら》んでしまった女たちは、苦痛も危険もなしにその生命を闇に葬ることができるようになる。そこまで薬や医学は発達しているというのに、一方では、長年の努力と忍耐を重ねても、どうしてもわが子に恵まれない女たちもいるのだ。 「運命みたいなもの」と、いつか田部はいった。 (でも私は、承服できない——)  その時、バスルームのドアが開いて、タオルを巻きつけた田部が出てきた。 「実はね、今朝はちょっとした罠《わな》を仕掛けてみたんだよ」  ブリーフ一枚の田部は、濡れた髪を気持よさそうにタオルでこすりながら、少し唐突な感じで話しかけた。何か突飛なことを考え続けていたみたいに。そういえば彼は、今日会った時から、どこか奇妙に興奮しているように見えた。 「クレジットカードのことさ」 「え?」 「ぼくがクレジットカードを失くしたって、いつかいっただろう?」 「ああ……」  教子はやっと思い出した。たぶんひと月以上前、国立病院の近くにある地下の喫茶店で、彼がそんなことをいい出して、早めに会社へ帰った。そのつぎ会った時に尋ねると、カード会社に届けて、再発行してもらったといっていた……。 「でも、あれがどうかしたの?」  田部はちょっとじらすように間をおいてから、甘さのある黒い眸を宙に凝らして呟いた。 「ぼくのカードを拾って使った犯人が、そのうちわかるかもしれないぞ……」    5  田部はバスタオルを放り出して、椅子に掛け、煙草に火をつけた。目を細めて煙の行方を見守りながら、やはり妙に浮き浮きした調子で喋り出した。 「カードの紛失を、ぼくがカード会社に届けたのが、六月八日だった。会社ではそれをコンピューターに記憶させる。ところが、その後の対応は、意外と悠長なんだね。今度の経験ではじめて知ったんだけど」 「悠長って?」 「いや、紛失カードのナンバーや会員名なんかを、即刻全国の加盟店に連絡して、不正使用防止の処置をとるのかと思ったら、なんと、その種の無効カードの通知は月末までためといて、一括して郵便で知らせるんだそうだ。銀行系のカード会社六社で共同印刷してる専用の文書があるらしい」 「それじゃあ、紛失届を出しても、その月の末までは、加盟店に連絡が行き渡らないというわけ?」  教子も多少興味を覚えて訊き返した。彼女自身はクレジットカードを使っていないが、常日頃、新聞や雑誌を読み漁《あさ》っているので、およそのシステムは理解していた。 「そうなんだよ。もっとも、強盗にあったとか、とくべつ悪質なケースでは、緊急無効連絡をするそうだけど、ふつう紛失したという程度なら、月末まで放置される。最近みたいに各カードの会員が何百万人という桁《けた》まで普及してくると、紛失件数も非常に多くなるし、その上、加盟店は全国に二十万店近くもあるので、とてもいちいち連絡してはいられないらしいんだね」 「……」 「一方、加盟店の側では、カードを提示されたさいに、その裏のサインと、利用者のサインの筆跡とを、いちいち照合したりはしてないからね。見較べたところで、うまく真似されたらわからないし、それよりもお客に不快な印象を与えないように気をつけている。だから結局、他人のカードを拾った人間が、素早くそれを使えば、ちょっとした完全犯罪が成立するわけなんだなあ」  田部は口許《くちもと》を尖《とが》らせて、長い煙を吐いた。 「クレジットカードは、キャッシュと同じだって、よくいうわね。落したり盗まれたりしないように、自分で用心するしかないわけかしら」 「いや、それは、保険が掛ってるんだ。紛失したカードを不正使用された金額は、損害保険会社が原則として全部負担してくれる。だから会員は年間二百五十円程度の保険料を口座から引落されているけど、代りに、この種の事故に遇《あ》っても、どこも損はしない。カード会社も加盟店も、それで呑気に構えているわけだよ」 「警察にも届けないの」 「最初はカード会社の管理部の人が、一応追跡調査をやるんだそうだ。無効カードがいつどこで使われ、何が買われたかといったデータは、一週間以内にカード会社に回ってくるものらしいね。でも小額だと、大抵そのままになってしまう。よほど金額が莫大《ばくだい》で、たとえば一千万円以上も使われてたりした場合だけ、警察に届けるんだって。逆にいえば、警察も被害額が大きくなければ、動いてくれないというのが実状らしいよ」 「それでは、犯人はほとんど捕まえようがないじゃないの」  田部が、犯人がわかるかもしれないといったことを、教子は頭に浮かべた。 「だからさ、どうしても捕まえてやりたいと思えば、自力で内偵するしかないんだよ」  彼は煙草を消して、ジャーの水をグラスに注いだ。その横顔にも、何かに夢中になっている者の熱っぽい表情が浮かび出ている。 「飲む?」 「ええ、ありがとう」  二つのグラスに注いで、一つをベッドに寝そべったままの教子に渡してくれた。さりげない親切を、彼は自然と身につけている。冷たい水が教子の弛緩《しかん》した身体の中へ、快く流れこんだ。 「実はね、ぼくは最初から、カードは社内の人間に拾われてるんじゃないかって気がしてならなかったんだ。それならすぐ出てくるだろうと思ったのに、一向に連絡もない。一方、さっきいったように、紛失カードについては、管理部の人が一通りの追跡調査をして、その結果はぼくにも知らせてくれた。それによるとだね……」  田部は目を光らせて、声をひそめた。  調査の結果、彼のカードは、彼が紛失に気付いた六月八日の当日中に、三箇所で使用されていた。日本橋のデパートで、ベン・ホーガンのゴルフクラブ四本、銀座のゴルフ用品専門店で、やはりベン・ホーガンのクラブ三本とゴルフバッグ、それから銀座のデパートでは、カッターシャツ、靴、学生|鞄《かばん》などが買われ、使用金額は合計二十二万四千五百円に達していた。  九日以後には一度も使われていないので、犯人はその日限りでカードを破棄したものと想像された——。 「なかなか用心深いというか、手堅いやり口じゃないか。拾ったその日のうちに使って捨ててしまえば、まず十中八九、売り場で捕まるような恐れはないからね。それでぼくはいよいよ、犯人は社内の者じゃないかという観測を強めた」 「カード会社の人は、デパートやお店の売り場へ行って調べることはしないの」 「いや、一応そこまでやったそうだよ。だけどもう一週間近くたっていたし、売り場では毎日大勢の客を相手にしてるんだから、ぼくのカードを使った者の人相特徴など、とりたてて憶えているはずはない。伝票のサインも、ぼくの字とそっくりだったらしいよ」 「……」 「しかしだね、まだいくつか、有力な手掛りが残されているわけだ」  彼はカラになったグラスを、わざと音をさせないようにサイドテーブルに置いた。ふだんは気楽そうな甘いムードを漂わせて、ソフトな声で喋る彼の、意外な一面を見るようで、教子は真剣に聞き入っている。 「まず第一に、犯人は男に決っている。ぼくの名前を使って買物したんだから。第二は、その買物の内容さ」 「ゴルフの道具が多かったみたいね」 「そう、犯人はおそらく、ベン・ホーガンのゴルフクラブが欲しくてたまらなかったんだろうな。その点に絞って、社内の人間を内偵してみた……」  六月八日以後、新しいゴルフクラブを購入した者はいないか。犯人はそれを周囲に知られないようにしているかもしれないので、以前からゴルフクラブを買いたがっていたとか、とくにベン・ホーガンの製品を話題にしたり、興味を示していた者などについて、それとなく聞込みを始めた。  すると間もなく、一人のプロパーが浮かんできた。田部より九年先輩の三十七歳になる課長で、エリートの堅物らしい雰囲気を身につけ、田部は日頃挨拶程度しか口をきいたことはなかった。どちらかといえば多少の反発を覚えていた相手だけに、田部はいよいよ闘志を煽《あお》られた。 「目白と上落合にある個人病院が、そいつの担当でね。今度は、同じ病院を廻っているよそのプロパーに訊いてみたんだよ。すると、まさに図星だった。上落合にある鈴木胃腸病院の院長が、大のゴルフ好きで、おまけに誰にでもコーチしたがる。お前のショットはどこが悪いの、クラブはベン・ホーガンに替えろ……」  当のプロパーも、院長に勧められて、最近ベン・ホーガンを揃《そろ》えたという話を、ついに田部は突きとめた——。 「彼の子供はまだ小学生と幼稚園らしいけど、学生鞄は進物にするつもりか、あるいは、自分の犯行を紛らすために、わざと要らないものまで買ったのかもしれない。それくらいの擬装もやりかねない知能犯だからな」 「でも……証拠はあるの」 「いや、刑事でもない限り、証拠を掴《つか》むことまでは不可能だと諦《あきら》めたんだ。そこで、罠を仕掛けた……」 「……?」 「今朝、別のカードを、彼の目の前に落しておいたんだ」 「会社で?」 「いや、富士見台のマンションの駐車場。陰で見張ってたら、彼はそれを拾って、ポケットに入れたよ。まんまと餌《えさ》に食いついたわけだ」 「あとはどうするの」 「あとは、待つだけさ。しかしね、一回成功の旨《うま》みを味わった者は、必ずまた誘惑に駆られるに決ってるんだ。そう思わないかい?——いや、もしかしたら彼は、過去にも他人のカードを使って、同じ犯罪を犯していなかったとも限らないな。今度こそ、あの優等生|面《づら》をひんむいてやるぞ……」  田部はかすかにうわずった声でいい、雨の降り続く窓の外へすかすような目を据えた。  教子はベッドの上で身体を起こした。眉のすんなりとした甘くて優しげな彼の横顔が、ふいにひどく酷薄に見えることに、内心で当惑していた。  第五章 パーク・イン・シアターの死角    1  穴吹朋江は、黒っぽい背広を着た小柄な男を、六畳の居間へ通した。座敷には、子供たちが脱ぎすてていったパジャマや服などが散らかったままだったので、きまりの悪い思いをしたが、とりあえずそのへんを片づけて、座布団を勧めた。  進には、「よそで遊んできなさい」と耳打ちして、外へ追いやった。それから朋江はまだ、座敷には戻らず、お茶の仕度をするような恰好でキッチンに立った。食卓や流しのまわりにも汚れた皿などが山積みされていて、居間からはまる見えなので、コンロで湯を沸かしている間に少しは片づけないと、いかにもみっともないのだ。乱雑な家の中を見た客は、なるほどこんな家庭の主婦なら、金銭的にもルーズなのだろうと、最初から悪印象を植えつけられたにちがいない。ふだんはこれほどでもないというのに、今日に限って運悪く……。  朋江はいよいよ絶望的な狼狽《ろうばい》に襲われ、頭がほてって、思考がまとまらない。  二人連れの刑事が引揚げて間もなく、再びドアの外に現われた男は、しかし刑事ではなかった。今度こそ警察へ出頭させられるものと思い、呆然としていた朋江の前に、男はおもむろに名刺を差し出した。 「突然上りまして、私は××クレジットサービスの枇杷島と申す者で……」  朋江はまだうろたえた目を名刺に落し、活字を見てはじめて、それが夫が会員になっているクレジットカードの会社らしいと気がついた。〈管理部・枇杷島敏浩〉とそこには印刷されていた。 「実はですね、今日伺いましたのは、先月のカードご利用代金のことなんですが……その合計が三十二万五千九百十円になってまして、ご口座からの引落しが今月の十日なんですけれども……」 「……」 「ところが、ご口座の残高が二十一万四千二百五十円ですので、差引き十一万一千六百六十円不足しておりまして……」  よく聞けば、相手の口調もとくに威圧的というわけではなかった。三十まえくらいの痩《や》せた浅黒い男で、小さな顔は目がくぼんで、鼻が上を向いている。くぼんだ目の奥から、彼は少し眩《まぶ》しそうに朋江を見ていた。 「それで今朝ほど、ご主人の会社へお電話しましたところ、家のほうで確かめてくれといわれまして……今日から九州へご出張だそうですね。飛行機の時間があって急いでおられたようですし、ご利用額のうちの二十六万五千円はファミリーカードを使用されたものですので……」  三階の主婦がドアの外を通りかかり、胡散《うさん》臭げな眼差《まなざし》を投げていった。 「あの、ちょっとお入りになりませんか。ここでは話もできませんから」  返事に窮した朋江は、前後の考えもなく、そういってしまった……。  汚れた茶碗などを流しへ移し、あいたスペースにトレイを置いた。カップとティーバッグを取り出しながら、朋江の指先は細かく震えている。  相手は何しに来たのか?  不足額を今すぐ支払えというのだろうか?  この種の取り立ては情容赦もないと聞くから……。  枇杷島と名乗った男は、「どうぞお構いなく」といったきり、あとは黙って、勧められた座布団にすわっている。最初上った時には、なぜかしげしげと朋江の顔を眺めていたみたいだったが、その後はベランダの外へ目を向けて、さほど用件を急ぐふうでもない。それがまた、朋江には薄気味悪く感じられる。  いつまでも放っておけないので、紅茶を淹《い》れて、彼女は座敷へ運んだ。 「どうぞ……」  カップをテーブルに置く間、相手はまた奇妙に熱心な眼差を、朋江の顔に注いでいた。あまりまともに凝視されて、朋江は気詰まりになり、少し離れた畳にすわった。 「どうも」  多少ずれたタイミングで相手が礼をいい、朋江がちょっと顔をあげた拍子に、視線がぶつかった。——と、枇杷島のくぼんだ三角形の目に、驚くほど人懐こい微笑が浮かんだのだ。 「あのう、もしかしたら、山下朋江さんじゃないでしょうか、××高校で陸上部だった——?」  旧姓と出身校をいわれて、朋江もはじめて注意深く相手の顔を見返した。 「ああ……枇杷島君……」  三年のクラスにそんな変った苗字の生徒がいたことを思い出し、続いて、とりわけ小柄だった男の子の色黒で素朴な顔立ちの印象が、目の前の男とゆっくり重なった。 「ああ、やっぱりそうだったんですね」  枇杷島は鼻の上に皺《しわ》を寄せて、またなんともいえずうれしそうな表情をした。 「今年の春、クラス会があったでしょう? ぼくは出席しましてね、その時配られた名簿で、山下さんが穴吹さんになってるのが、なんとなく頭に残ってたんです。それで、今日ここへ伺う時、名前もいっしょだし、もしかしたらと思ってきたんですが……」 「でも、よくおわかりになりましたね。私、ずいぶん変ってるのに……」 「いやあ、全然」  枇杷島は真剣に首を横に振った。 「ほんとに変ってませんよ。ことにその、広いおデコの感じなんか。おデコに汗を浮かべて、ハードルの練習をやってらしたでしょう?」 「あら……」  朋江は今も汗が滲《にじ》み出ている額を、あわてて掌で拭った。 「実はぼくも、これでも砲丸投げやってたんですよ。三年間、補欠ばっかりでしたけどね。でもそれでよく放課後、山下……いや、穴吹さんの練習を見てたんです」 「そうだったんですかあ……」  思わずほほえみ返したが、枇杷島の砲丸投げは記憶になかった。代りに、彼が「ネズミ」という渾名《あだな》で、先生にまでそう呼ばれていたことが頭に浮かんだ。 「グラウンドでトレーニングしてる時のあなたは、ほんとに素晴らしかったですよねえ。脚がすらりと長くて、なんというか、気迫に満ちててね。ひそかに憧《あこが》れてたやつが、ずいぶんいたんですよ」  枇杷島は、本当に当時の朋江の姿を思い描いている眼差をした。すると朋江も、ふいに吸いとられるような懐しさを覚えた。高校時代の自分は、真底明るくて、何もコンプレックスなど抱いてはいなかった。いや、マリア製薬に就職してからだって、自信を持って、のびのびと働いていた。いつの間に、今のように変ってしまったのだろう……? 「いやあ、こういう仕事やってると、いろんな人にお会いするんですけどね。こんなめぐり遇いはめったにありませんよ」 「ほんと、奇遇ですわね……」  でもそれで、彼の訪問の理由が、再び朋江の胸を脅やかした。 「こちらには長らくお住まいなんですか」 「今年で三年ですけど」 「この辺はまだ静かでいいですねえ」 「枇杷島さんは?」 「ぼくは板橋のほうの公団住宅にいます。東上線の線路のそばで、便利な代りに一日中騒々しくってねえ。でも、世間て案外狭いもので、そこにも高校で同学年だったやつが住んでるんですよ……」  彼はまたひとしきり、共通の友だちの噂話《うわさばなし》などをした。が、朋江の表情が曇っているのに気がつくと、紅茶カップにかけた手を放して、傍らの鞄を引き寄せた。 「いや実は、今日お伺いしたのは、さっきも申しあげた通り、先月のご利用金額を確認する必要があったもんですから……」  鞄から書類を出して、朋江のほうへ向けた。仕方なく、彼女もテーブルに近付いた。 「ここがご利用日、ご利用内容、それから金額になってるわけですが……」  各欄を指で示した。 「この、六月十一日のジュエリー・マツハシ、二十六万五千円というのは、奥様がファミリーカードをお使いになったものでしょうか」  仕事の話になると、彼は朋江を奥様と呼んだが、べつに態度が急に事務的に変ったというわけでもなかった。 「ええ……」 「まちがいなく、ご自分で買物なさったわけですね」  朋江は頷《うなず》くほかなかった。 「現在、カードはお手許にお持ちですか」 「はい……」  枇杷島がそれを見たいような口吻《くちぶり》なので、朋江は四畳半へ立っていき、バッグを持ってきた。財布に挟んであったクレジットカードを示すと、彼は手に取って両面を検《あらた》め、安心したように頷いた。 「いや、ご主人が、その件には憶えがないので、家内がカードを落して、誰かに不正使用されたんじゃないかなどといわれたもんですから」 「ちょっと衝動買いをしてしまったので……主人にはいいそびれてたんですわ」  悪戯《いたずら》っぽく笑うような感じで朋江は答えたが、最後は妙な泣き笑いみたいに顔が歪《ゆが》んでしまった。  あの日、六月十一日金曜には、石神井の歯科医院へ、いつものパートに出掛けた。電車で一駅先の石神井公園駅近くにある新しいビルの中で、朋江は月水金の午前十時から午後一時まで、受付や医療器具を揃えるような簡単な仕事をして、時給は八百円である。  その帰り、朋江はとりわけ苛々の虫にとりつかれていた。定期的に通ってくる患者の中に、テレビ番組の制作会社に勤めている女性がいる。いつも奇抜な服を身につけ、時にはテレビの台本を丸めて持ちながら、受付ではちょっと自慢らしくスタジオの話など小出しにしては、忙しそうにとび出していく。自分と同年配のその女が来るたびに、朋江は神経を逆撫《さかな》でされるような気がした。  だが、もっと大きな原因は、ベン・ホーガンだった。その三日前の六月八日夕方、夫は真新しいスカイブルーのゴルフバッグを抱えて帰ってきた。中には勿論《もちろん》、新品のクラブも数本入っていた。朋江には一言だけ、「これも仕事だからな」と断った。  今はマンションのローン返済に追われて、毎月朋江に渡される生活費は十八万円。パートの収入を足しても、家計はギリギリだというのに。夫は便利なクレジットカードで勝手な買物をして、しかも朋江にはカードの無断使用を禁じているのだ。  面と向かってはどうしても口答えができないだけに、夫に対する憤懣《ふんまん》が限界まで煮えたぎっていた。  発作のように噴きあげてくる苛立ちを持てあましながら、朋江はビルの一階まで下った。そこはブティックや靴屋、宝石、アクセサリーなどの店々が並ぶショッピング街になっていた。銀座や池袋の高級品店からの出店も混っていて、華やかにディスプレーされたウインドウが、いやでも女の欲望をかきたてるかのようだ。  朋江はなんとはなしに、高級アクセサリー店へ足を踏み入れた。宝石、七宝、ゴールドやシルバーの指輪やネックレスが、黒いベルベットを敷いたショウケースの中で、きらびやかに輝いていた。  店内には、裕福らしい中年の女性客が一人いて、奥のカウンターで売り子と声高に話していた。その手前の、フロアの真ん中に置いてある円形のガラスケースの上には、指輪が二つほど、出されたままになっていた。女性客が物色したあとのようだ。  朋江はその一つを何気なく手に取って、思わず心を吸い寄せられるような気がした。ゴールドの上に色のついた宝石がいくつか配置されているファッション指輪で、朋江の目にはまさしく夢のように美しく映った。それを見ている間だけは、嫌なことを忘れて、豊かに和んだ気分に浸っていられるかのような——。  薬指にはめてみると、ほんの少しゆるい程度だった。  中年の客は、店の女の子と喋《しやべ》り続けている。三つぐらい指輪をはめた手で、また新しいのを選んでいるのだ。肥満した後姿に遮られて、朋江の手許は店員の死角になっている。 (このまま盗んでしまおうか?)  閃光《せんこう》のような誘惑が心をかすめた。 (いや、はめたままより、バッグへ入れていったほうが——)  ともかく急いで指輪を抜きとった直後、 「お気に召しました?」  すぐ後ろから声をかけられ、朋江はとびあがるほど驚いた。垢抜《あかぬ》けした黒い服の女店員が、口許に微笑をたたえ、眸は冷やかに朋江の手許を凝視していた。どこからか朋江の様子を見守っていた彼女は、万引の意志を読みとったのではないか? 一種のインスピレーションで、朋江もそれを直感した。いや、その時の朋江には、そうとしか思えなかった。 「サイズはいくらでもお直ししますけど」 「いえ、ちょうどいいみたいだから……頂きますわ」 「そうですか。ほんと、とてもよくお似合いになりますわ。指輪と対《つい》で、ネックレスもございますのよ」  別のショウケースから、彼女はそれを出してきて、朋江の胸元にあてがった。朋江はろくに値段も聞かずに、ネックレスも買うと答えた。どこか高慢ちきな女店員の鼻をあかしてやりたいような心理も働いていた。クレジットカードを使えばいいのだ。夫もこんなふうに、贅沢《ぜいたく》な買物をしているのだから。  合わせて二十六万五千円といわれ、朋江は一瞬|眩暈《めまい》がしたが、もう後へは退《ひ》けなかった。  夫の穴吹には、何もいわなかった。とてもいえないことが最初からわかっていた。カードの利用額は、毎月十五日締めで、翌月の十日に口座から引落される。ばれた時のことだと、肚《はら》をくくるしかなかった。万一の幸運で、夫がその金額の引落しに気が付かない場合もないとはいえないだろう。指輪とネックレスは、箪笥《たんす》の引出しの奥にしまって、時折一人で眺め、ほかのことは考えないようにしていた。  そのうち、もっと重大で恐ろしい事件が突発し、朋江の意識の中で、カードの一件は多少うすれかけていた……。 「衝動買いってのは、誰でも一度や二度経験のあることでね。その場合、カードを持ってるのが良し悪しという面もありますよね」  枇杷島はまた鼻の上に皺を寄せて苦笑した。 「たぶん口座から落せると思ってたんですけど、毎月初めに住宅金融公庫と銀行に、マンションのローンを返済するもんですから、それでちょっと足りなくなっちゃったんですわ」 「では、今月の不足分は、たとえばご主人の給料が入金されしだい引落せると考えてよろしいでしょうか」 「ええ、それは勿論……七月は二十日頃にボーナスも入りますし……主人が出張から帰ったら、よく話しあいまして……」  朋江はけんめいに自分を励ますような気持でいった。 「そうですか。じゃあ、よろしくお願いします」  枇杷島は軽く頭をさげて、書類を片づけ始めた。  そのままもうカードの話をする気配もないので、朋江が思わず、 「あの、それでいいんでしょうか」 「ええ」と、彼は三角形の目を瞠《みは》って頷いた。冷めた紅茶のカップに指をかけながら、 「いやあ、この種の取り立てはずいぶんシビアなもんだと、世間では思われてるらしいんですけどね、十日の決済が月末に延びる程度は、まあほとんど問題ないんですよ。どちらにも家庭の事情はありますからね。会社によっては、一定期間がたつと取り立て専門の業者に委託して、その種の業者には相当乱暴なことをやるところもあるようですが、銀行系のカード会社ではそこまではしません。あくまでぼくらみたいな管理部の人間が、先方さんと話合うんです。それでぼくらは、いろんな人に会うわけですよ」 「ええ……」 「先方に誠意があるかどうかは、話してればおのずとわかりますね。払う意志さえあれば、見通しがついてからで結構ですといって、会社では欠損処理をして待つんです。そういう人が、三年も五年もたってから返済してくれると、それはもう実にうれしいですね」  彼が小さな歯を覗《のぞ》かせて喋ると、「ネズミ」とからかわれていた高校時代の顔が、ありありと朋江の目に浮かんだ。 「でも……ほんとに世間て狭いんですね」  朋江はそっと息をつき、実感をこめて呟《つぶや》いた。すると、ほの温い空気がふっと胸の中へ流れこんでくるのを覚えた。もう何年も忘れていたような、それでいて不思議に新鮮な感覚でもあった。  枇杷島は三口で紅茶を飲み終えて、座布団から腰をずらした。 「江古田にうちのサービスショップがあって、この辺もよく通るんですよ。それで今日は電話もせずにいきなり伺いまして……」 「またいつでもお寄りになって」 「ありがとう」  彼は鞄を引き寄せて立ちかけ、朋江もテーブルの上のカードを取りあげた。 「ああ、先程もちょっと申しましたが、カードは現金と同様に、注意深く保管してくださいね。カードが普及している割に、そのへんがまだ行き渡ってないんです」 「ええ……」 「いや実際近頃では、紛失カードを不正使用されるケースが増えてましてね」  朋江と間近に立つと、彼はさっきのように彼女の顔をまじまじと眺めた。 「朋江さん、ほんとに全然変ってませんよ」    2  五十七年三月に部分開通した首都高速湾岸線は、東京の東雲《しののめ》付近から、文字通り東京湾沿いにゆるい山型を描いて、千葉県に繋《つな》がる。道路は大部分、埋立地の上を走り、両側には工場用地と新興住宅地の緑の少い風景がひろがっている。  夜には、その道路の両側に縁飾りのようなオレンジのライトが点《とも》され、遠くからでは、二本の光の筋が流線型を描きながらところどころで交差しているのが、美しく眺められる。  船橋市の埋立地にある�パーク・イン・シアター�へは、この湾岸線か、京葉道路を通って、東京や千葉方面からやってくる車が多い。シアターは高速道路のすぐ下に位置していて、縦八メートル、横十八メートルの超大型スクリーンが通りがかりの車からでも見えるほどである。  夜、自分の車の中で映画が観られるというパーク・イン・シアターの発想は、土地が豊富にあるアメリカで生まれたものだが、日本でもここ一年ほどの間に、船橋とほか二箇所でオープンしている。上映設備と広い駐車場とが必要なため、日本では映画会社とショッピングセンターの提携によって造られている。企業側には、駐車場の夜間再活用のメリットがあるし、観客には、「広い星空の下、ご家族水入らずで、煙草も飲食もご自由」といったキャッチフレーズが用いられていた。  七月二十三日金曜の夜は、星空ではなかったが、二百台余りの車が収容できる船橋のパーク・イン・シアターに、一回目の上映時には四割弱の約七十台が入っていた。映画は毎晩二回ずつ、この日はアメリカのSF映画で、六時四十分と九時から開映だった。  八時四十五分に一回目が終ると、観客の車はゲートから順に出て行き、代りにつぎの車が入場券を買って入ってくる。一回目の観客がそのまま居残っていることもできるし、途中からでも入れるのは、一般の映画館と同じである。  入ってきた車は、好みの場所を選んで駐車し、近くにあるコネクターを車のアンテナにつなぐ。これで、車のAMラジオから映画のサウンドが流れ出て、音量は自分で調節できる。スクリーンは、フロントガラス越しに、どの位置からでも見える高さにあった。  映写室は駐車場の後方にあり、またその背後には、大規模なショッピングセンターが建設されている。映画が上映される頃にはデパートやスーパーは閉っているが、飲食街はまだ営業している。これも映画のセットみたいな感じのレストランや喫茶店が軒を連ね、クレープを売る屋台なども明るい電飾を点していた。  海の向うには、羽田空港の多彩なライトや、川崎周辺の灯火も瞬《またた》いているが、この辺から見える東京湾の夜景は、さほどきらびやかではなかった。  二回目の上映は、午後十一時五分に終了した。この頃には、飲食街も全部閉店して、高速道路を除くシアターの三方は、ひっそりとした夜陰に沈んでいた。 「ありがとうございました。お帰りは、通路に向って前進のお車から先に出てください——」  アナウンスに促されるように、車はぼちぼち動き出した。混乱を避けるために、バックで出る車は待たせて、前進する位置にある車を優先させている。  二回目は約五十台入っていた車が、走り去ってしまうと、シアターの警備員が出入口にチェインをかけようとした。その前に後ろを振り返り、残っている車はないかと、念のために駐車場を見渡した。  横六列に区画してある駐車場の、スクリーンに向かって最後列左端のほうに、小型車が一台|駐《と》まったままだった。ライトも点《つ》けてないので、運転者は車内で眠りこんでいるのにちがいない。初老の警備員は、舌打ちして、そのほうへ歩いていった。  クリーム色のカローラ一四〇〇である。窓を閉めきっているのは、クーラーをかけているからだろう。梅雨はまだ明けていないが、今日は一日中晴天で、気温は三十度近くまで上った。夜になって雲がひろがったようだが、かえって蒸し暑さを加えていた。  警備員は車の中を覗き、暗いので懐中電灯を照らした。案の定、運転席のシートを倒して、男が眠っていた。車内にはその男一人だけらしい。  警備員は懐中電灯の先で、窓ガラスを軽くノックした。が、中の男は目を覚ます様子もない。ドアを開けようとすると、ロックされていた。  今度はもう少し乱暴にガラスを叩いたが、一向に効き目がない。警備員は後ろのドアに手をかけて、そこもロックされていることがわかった。  助手席のドアも同様だった。車にはエンジンが掛り、キイは差しこまれたままのようだ。ボンネットの横のアンテナに音声のコネクターがクリップで接続されているので、運転席の男はやはり、クーラーをかけ、シートを倒して映画を観ているうちに、ぐっすり寝こんでしまったらしい状況なのである。  警備員は運転席のそばへ戻った。眠っている男の顔へ、懐中電灯の光を直射して、拳《こぶし》で窓を強く叩いた。 「もしもし、お客さん、もし……」  ふいに彼は息をのみ、拳も自然に止まった。ガラスに額をすりつけて、車内の男の顔と、ワイシャツの襟のあたりを凝視した。ブルーのワイシャツは襟のボタンを外し、ネクタイも緩めてあるが、その下にはなぜか別のネクタイらしいものが巻きついて、頸《くび》の後ろで交差しているみたいなのだ。まだ若そうな顔は、よく見ればむくんだように腫《は》れ、暗紫色とでもいうのか、異様な肌色を帯びて、半分開いた瞼《まぶた》の下から白目が覗いていた。  警備員はもう一度窓ガラスを叩き、相手がピクリとも動かないとわかると、ゲートの横にある事務所へとって返した。  そこにいた三十すぎの主任と、ほか二人の職員が車に駆けつけた。  主任が若い者に指図して、スパナを持ってこさせ、後ろのドアのガラス窓を叩き割った。そこから手を入れてロックを外し、続いて運転席のドアも開けた。  男はぐったりとして、身体を揺すっても何の反応も示さなかった。が、肌にはまだ温《ぬく》もりが感じられた。ワイシャツの下の首筋にみみず腫れのような索溝《さつこう》が見え、ネクタイで後ろから頸を絞められたらしいことは、素人目にも容易に推測できた。  主任は事務所へ駆け戻って、自分で一一九番した。警察より救急車を呼んだのは、男の肌に体温が残っていたからである。咄嗟《とつさ》の判断だったが、これはまことに適切な処置といえた。  約三分後には救急車が到着した。  救急隊長は男の心臓に耳を当て、手首を取って、 「まだ脈がある」と呟いた。  男は、救急車の中で酸素吸入を受けながら、病院へ運ばれた。  その約十分後には、船橋西警察署から、刑事課の捜査員と鑑識係ら十名余りが現場へ駆けつけた。べつの捜査員は救急病院へ向かった。  被害者が運び去られたあとの車の中には、頸に巻きついていたネクタイ、紺の背広の上衣とアタッシェケースなどが残されていた。  ダッシュボードの上に、ここの入場券が置かれている。  背広の内ポケットに入っていた運転免許証により、被害者の身許が判明した。田部朗、二十八歳で、住所は東京都北区上十条。勤務先は名刺から、マリア製薬とわかった。アタッシェケースにも社名が表示してあり、中身は薬品の資料や報告書などだった。  現場検証が進むうちにも、田部が収容された病院へ赴いた捜査員から、状況が無線で知らされてきた。田部は意識不明のままで、今後の見通しもなんともいえないという。頸部《けいぶ》の索溝と、眼瞼《がんけん》に溢血《いつけつ》点が現われているところから、ネクタイで頸を絞められたことはまちがいない。犯人は彼が死んだものと思って逃走したらしいが、彼は一時的に呼吸が止まっていただけで、幸いすぐに息を吹き返した模様である。そうした状態から推して、頸を絞められたのは、発見の二、三十分前くらいで、長い時間は経っていなかったものと考えられる……。  その晩当直をしていた船橋西警察署の警部補が、それらの情報を頭に入れた上で、パーク・イン・シアターの主任ら数人の職員から事情聴取をした。 「これを見ますと、最初は一人でお入りになったみたいですね」  ブルーの入場券を示された主任が、即座に答えた。 「お一人様用の、千五百円のチケットですから」 「車内の人数によって、料金がちがうんですか」 「一台一名様ですと千五百円、二名様以上は三千円です。ふつうフロントシートのほうが観やすいですから、前で三名様ご覧いただく場合には、お一人千円|宛《ずつ》で割安になるわけです」 「客の人数は、入る時に係の人が数えて、チケットを売るわけですか」 「一応お尋ねして、あとはザッと車の中を見る程度ですが」 「すると、後ろのシートの下に子供が隠れてたりすれば、ごまかされるかもしれないですね」 「まあ、それはそうですが……あんまり不躾《ぶしつけ》に覗きこむのも感じが悪いですから」  今夜二回目の上映時に、ゲートの窓口にいたのは、二十歳《はたち》すぎくらいの職員だったが、彼は、田部が来た時のことは思い出せないと首をひねった。上映効果のために駐車場の一帯は暗くしてあるし、窓口では客の人数を聞いてチケットを売るだけなので、よほど変ったことでもない限りは記憶に残らないという。 「ただまあ、今夜二回目のお客さんは、上映開始後三十分以内にはみんなお入りになってたみたいでしたから、九時半頃までにはいらしてたはずだと思いますが」  田部が一回目から続けて観ていた可能性もあるので、警部補は一回目の窓口係にも尋ねてみた。が、やはりわからないと答えた。  つぎに、田部のカローラが駐まっていた位置について訊《き》くと、主任が、 「ふつうやはり、二列目か三列目から埋まっていきますね。でもまあ、お客さんによっては、わざと近くに車のいない場所を選ぶ方もありますけど」  今夜の二回目、田部の車のまわりも広くあいていたようだと、別の職員が答えた。 「上映中、観客はほかの車などに、あまり注意を払わないものでしょうか」 「まったく無関心じゃないですか」  一人がいって、みんな同意するように頷いた。 「第一、よその車の中なんか暗くて見えないですよ。自分のカーラジオではサウンドトラックがガンガン鳴ってるわけですし」 「それに今夜みたいに蒸し暑ければ、大抵クーラーかけて、窓を閉めてますから……」  周囲には人が大勢いながら、互にまったく無関心で、顔も見えず、声も聞こえない。野外映画劇場のそんな盲点を衝いて、犯人は田部の車に侵入し、後ろから頸を絞めたのか?  しかし、どんな動機で?  犯人は田部の車を東京から尾行してきたのだろうか——?  それらの疑問に対する有力な手掛りが、車の中から発見された。  カローラの車内には、随所に物色の形跡が認められた。たとえば、アタッシェケースには書類がくしゃくしゃに押しこまれていたし、ダッシュボードの物入れの中もひどく乱雑で、ロードマップの端が蓋の隙間からはみ出していた。  が、金品を盗まれたようでもない。背広の内ポケットには、現金二万円余りとクレジットカードの入った財布が残されていた。  捜索を続けた結果、ダッシュボードの物入れの底から、二つ折りにした便箋《びんせん》が一枚出てきた。それには、四角張ったボールペンの文字で、つぎのように記されていた。 〈貴方が犯した犯罪について、話しあいをしたい。七月二十三日金曜の夜九時から、私は船橋のパーク・イン・シアターにいる。最後列にカローラを駐車しているので、そこへ来てもらいたい。誰にも聞かれずに、安心して話ができる。来なければ、ありのまま警察に届ける〉  宛名も署名もなく、よく見ればそれはコピーであった。    3  田部朗は、意識不明の状態が続いている。ネクタイで首を絞められ、眼瞼に溢血点が現われていたくらいだから、一時は呼吸も停止したにちがいない。それで犯人は、彼が死んだと思って逃げた。  ところが、彼は一、二分で息を吹き返したものと想像される。これは、体内に酸素が不足して、炭酸ガスがたまり、その刺激によって呼吸が戻るからだと考えられている。  病院では、意識|覚醒剤《かくせいざい》や細胞|賦活剤《ふかつざい》を投与しているが、このままいつまで眠り続けるか、間もなく目を覚ますかなどは、まったく予測がつかないという。  千葉県警では殺人未遂事件と見て、七月二十四日朝から船橋西署に捜査本部を設置した。  犯人の遺留品は、田部の頸に巻かれていたネクタイだけだが、縞柄の平凡な物で、出所を辿《たど》ることは難しそうである。  当面は、ダッシュボードの物入れの底から出てきた手紙のコピーが、唯一の有力な手掛りであった。これを田部の両親に見せたところ、角張った文字が彼の筆跡に似ていると答えた。彼はまだ独身で、小規模な石油販売会社の役員をしている父親と母親との三人で、北区上十条にある家に住んでいた。ほかに姉が一人、建設会社の技師と結婚して、武蔵小杉のマンションで暮している。  手紙は筆跡鑑定に廻されたが、もしこれを田部が書いたのだとすれば、彼は何者かを脅迫していた疑いが持たれるのである。彼はその脅迫状を相手に送り、念のためコピーを一通とっておいた。  一方、手紙を受取った人間は、その指示通り、パーク・イン・シアターへ出向き、車内で田部を絞殺しようとした。その後、脅迫の証拠が残っていないかと、アタッシェケースや車の中を物色したが、コピーを見つけ出せないまま逃走したのではないか。それは物入れの底の、部厚い東京区分地図の下に、貼《は》りついたようにしまわれていたのである。  ではつぎに、田部は何を理由に、誰を脅迫していたのか、との疑問が生まれてくる。いっしょに暮していた両親は、何も思い当る節はないし、そんな素振りも感じられなかったとのべている——。 「社内の人間に訊いても、脅迫など全然考えられないという答えばかりなんですが……」  マリア製薬の聞込みに当ったグループの中で、年配の部長刑事が二十四日夕刻の捜査会議で報告した。 「もっとも、何か不祥事があったとしても、会社では隠そうとするでしょう。根気よく聞込みを続けているうちに、どこかから洩れてくるという可能性もありますが」 「被害者は、お茶の水にある国立病院担当のプロパーだということでしたね」  県警本部から派遣されている警部補が確認した。 「そうです。内科と産婦人科の受け持ちで、毎日国立病院へ通っていました。朝いったん出社してから、病院へ出向き、診療の休み時間に、一日平均三、四人の医者と会って、薬の宣伝をしたり、サンプルを届けたりということをやっていたようです。人当りが良いので、医者のウケもまずまずだったらしいですが」  事件当日は午後八時少し前まで、国立病院で産婦人科の当直医と話しこんでいたことが確認されている。その後船橋へ向かえば、二回目の上映が始まる九時までにはパーク・イン・シアターへ着いただろう。  社内でも、とくに悪い評判は聞かれなかった。プロパーによっては、販売成績を上げるために、まるで医者の秘書か小使いみたいに一日中彼らの雑用でとび廻っている者もいるというが、その点田部は若いだけに、仕事の合間は適当に遊んでいたようだ。 「映画好きで、医者に会うまでの待ち時間によく池袋や新宿の映画館へ入っていたらしいし、夜はディスコとか、パーク・イン・シアターへもオープン以来何回か行って、その様子をまわりに喋ったりしていたそうです。これは同じ課のプロパーたちに聞いたわけですが」  恋人はいなかったのか、との質問が出た。 「お洒落《しやれ》で遊び上手だったから、ガールフレンドの二人や三人はあったにちがいないんですが、決った恋人とか婚約者といった話は、誰も聞いたことがないということですね」  両親も、その点は首を横に振っていた。  再び脅迫状の問題に焦点が戻ると、 「たとえば、医者の秘密や不正を嗅《か》ぎつけて、強請《ゆす》ろうとしてたんじゃないですか」という意見が出された。 「その疑いは、十分考えられるね。今後も医者、看護婦、それに他社のプロパーなどにも、綿密な聞込みを続ける必要があるでしょう」  議長役の刑事課長が同意してつけ加えた。  会議室にいっとき沈黙がたちこめたあとで、署の若い刑事が、急に意を決したような勢いで手をあげた。 「そのう、万一の可能性を想像してなんですが……今度の事件は、七月八日夜の、ディスコの人妻殺しとは関係ないでしょうか」  その発言は、本人が予想したほど、見当外れとは受取られなかった。池袋の高級ディスコの前で三十四歳の人妻が刺殺された事件から、まだ二週間余りしかたっていない。最近首都圏で起きた事件の中では、それがとりわけ強烈な印象で、しかもまだ犯人は挙っていなかった。新しい事件が発生すれば、過去の未解決事件との関連を一応想定してみるのは、むしろ捜査員の習性ともいえた。 「別にその、確たる理由があるわけではなくて、みんな単なる偶然かもしれないんですが、一つは被害者田部の住所が北区上十条にあること。区はちがいますが、池袋からはすぐ近くで、赤羽線なら二つ目の駅です。それに田部はディスコも好きだったということなら、日頃池袋のディスコへも出入りしていたと思われます。すると、去る八日の夜、サザン・クラブの前で人妻殺しの現場を目撃するとか、逃走する犯人と行き遇《あ》うなどして、相手の身許《みもと》を突きとめ、脅迫しようとしたとは考えられないでしょうか」 「いや、必ずしも偶然ばかりではないかもしれません」  少し先輩に当るやはり若手の刑事が、ふいに思い出したように強くいった。彼も今日はマリア製薬の聞込みに当った一人である。 「というのが、同じ学術部のプロパーで、あの事件の被害者となった主婦の向かいに住んでる者がいるって話を、会社で小耳に挟んだものですから」  ざわめきが生まれ、つぎには各自がその意味を検討するような沈黙が落ちた。  しかし、果してそれが二つの事件を結ぶ鍵《かぎ》となるのか、あくまで単なる偶然であるのかは、まだ判断できる段階ではなかった。  いずれにせよ、可能性がある限り、それを見逃がすことはできない。  船橋西署の捜査本部は、警視庁を通して池袋署へ、〈ディスコの人妻殺し〉の捜査経過を詳しく知らせてくれるよう要請した。  一方、池袋署の本部では、捜査が一巡して、また振り出しに戻ってしまったようなタイミングであった。  被害者笹井友梨の夫笹井光一は、最初から容疑の対象に含まれていたが、彼には当夜十二時半まで大手町の会社で仕事をしていたという明確なアリバイが成立した。  続いて、広告プロダクションに勤める増川与志雄が、友梨と愛人関係にあった事実が浮かんだ。アリバイもはっきりせず、容疑は濃厚だが、もう一つ決め手がなかった。  そのうちにわかに、友梨が通っていた代々木のカルチャーセンターが、捜査の焦点に浮かび上った。というのは、事件当夜、彼女は�文学世界�の編集者の手紙に誘い出されて、池袋のディスコへ行き、被害に遇ったとの推測が生まれてきたからである。手紙の内容は、小説教室の雑誌に掲載されている彼女の作品〈嵐のてんまつ〉を、文学世界に転載したいといった話であったらしい。  だが、文学世界の編集部では、笹井友梨に接触を求めた事実はまったくないと否定した。  すると、何者かが、そんな口実を設けて、彼女をおびき出したことになる。  代々木のファッションビルの中にあるカルチャーセンターの八階ロビーには、講座案内のパンフレットなどといっしょに、小説教室の作品を載せた雑誌が常時展示されている。誰でも手にとって見られるし、希望者は五百円で買い求めることもできた。  カルチャーセンターの受講生の誰かが、友梨に殺意を抱き、巧みな手紙で彼女を誘い出して殺し、バッグから証拠の手紙を奪って逃げたのではないか——?  その想定に基づいて、丹念な聞込み捜査が開始された。最初は当然小説教室を中心に、続いてほかの講座にも内偵を進め、約一万七千人の受講生の中から、数人の容疑者が浮かんだものの、また一人ずつシロになって、圏外へ消えていった。  捜査の目は、改めて、友梨のより身近な人間関係へ注がれた。  増川与志雄は、依然として、容疑圏内に残されていた。彼ならば、友梨の生活や交友関係も知悉《ちしつ》していたはずである。彼は、友梨を殺すほどの動機はなかったと主張しているが、たとえば彼女からまとまった金を借りていたという想像もできぬことはない。おまけに友梨は、〈嵐のてんまつ〉の中に、増川とそっくりの男を登場させて、女主人公がその男に嫌気がさしてくる心理を、これでもかというほど書き並べているのだ。  船橋西警察署から照会があった直後、池袋署の捜査員が、もう一度六本木にある広告プロダクションを訪れた。増川与志雄に会い、七月二十三日金曜の夜九時から十一時頃までのアリバイを質《ただ》した。彼が友梨を殺し、その事実を田部朗に握られて脅迫されたため、田部をも殺害しようとしたのではないかとの疑いによるものだった。  しかし——二つの捜査本部にとっては残念ながら、プロパー殺害未遂事件が発生した時間帯、増川には堅固なアリバイが成立していた。その日は夕方から夜十時すぎまで、事務所でほかの仲間と共に広告コピーとレイアウトを作る仕事をして、その後六本木七丁目にあるパブへ出掛け、午前一時頃まで飲んでいたという。彼とずっと行動を共にしていたプロダクションの社員二人と、パブの従業員も、躊躇《ちゆうちよ》なくそれを認めた。 「友梨さんとは、ほんとに別段何もトラブルはなかったんですよ。それなのに、ああいう小説のモデルに、手近なぼくを平気で使うんです。彼女は何事にも、苦しまずにすませられる人だったから、そういう神経もちょっと独特だったんでしょうかねえ」  増川は複雑な感慨をこめていった……。  池袋署がこうした捜査を行っていた二十四日夜、一人の男が船橋西警察署を訪れて、刑事課長に面会を求めた。三十代なかばと見えるその男は、署の入口にいた制服警官に、〈鳥飼直人〉という名刺を渡した。氏名の横には中堅の建設会社名と社のマークが印刷されていた。  刑事課長とデスクを挟んで対座すると、彼は呼吸を整えるように間をおいてから口を開いた。大柄で目尻の吊り上った、ちょっと無愛想な顔つきの男だが、喋り方は意外に柔和な感じだった。 「私は、田部朗の姉の連合いで、朗には義兄に当るんですが、実は三週間ほど前の日曜日、七月四日でしたか、朗が私の家へ来て、少々変った頼みをいたしましてね。偶々《たまたま》家内は子供を連れて外出してたもんですから、私一人が聞いたわけなんですけど……」  武蔵小杉のマンションに住んでいる田部の姉の許へは、すでに捜査員が赴いていたが、その時にはとりわけ手掛りになる話も聞けなかったのだ。 「二人きりの姉弟ですから、家内はひどいショックを受けてまして、こんな話を耳に入れると、また興奮すると思ったもんですから……」  鳥飼はそんなふうに断って、本題に入った。  七月四日日曜日の田部の頼みとは、鳥飼のクレジットカードを貸してほしいというものだった。しかも、田部に貸した直後に、カード会社へは盗難に遇ったと届け出てもらいたいという。 「それも、夜道で強盗に襲われて、鞄《かばん》ごと奪われたというような、悪質な被害に遇った体《てい》にしてくれと……そんな場合だと、カード会社では全国の主要な加盟店に緊急無効連絡をするので、遅くも三日以内には、盗難カードのナンバーや会員の氏名が、各店に行き渡るだろうから……」 「しかし、田部さんはなんでまた……?」 「彼は六月初めに、自分のクレジットカードを紛失して、すぐにカード会社へ届けたんですが、失くした当日に、二十二万円余り、他人に不正使用されていたそうです。その金は保険会社で補填《ほてん》してくれるので、実害はないものの、犯人はわからず終いで気分が悪いといってました。——いや、朗は案外神経質というか、個人の生活を侵されるような事柄については、どこまでも固執する面がありましてね。その後自分で内偵を続けた結果、社内で犯人の目星をつけたというわけです」 「なに……」 「十中八九そいつにちがいないと睨《にら》んでいるんだが、証拠がない。そこで、罠《わな》をかけてみたい。つまり、一遍味をしめた者は、必ずまた同じ誘惑に駆られるはずだと……」 「その不正使用の犯人は、社内の人間にまちがいないと、田部さんは確信していたわけですね」  刑事課長は念を押した。その時彼の脳裡《のうり》には、車内から発見された手紙の文面が浮かんでいた。パーク・イン・シアターの最後列にカローラを駐車しておくというだけで、車の色やナンバーは記されていなかった。田部は相手が自分の車と顔を知っていることを前提として、あれを書いたのではなかっただろうか……?  第六章 ノーブラの秘密    1 〈ディスコの人妻殺し〉の容疑者リストの中に、穴吹朋江の名が有力に浮かんでくるまでには、捜査はちょっと廻り道をしたといわなければならないだろう。  藤沢の母方の祖父母に引きとられた三歳の笹井ミチルが、事件当夜ママは外出する前、お向かいのおばさんに手紙みたいなものを見せて話をしていたと、祖母にポツリと洩した。  それを伝え聞いた捜査本部から、刑事が再度穴吹朋江を訪れて追及すると、彼女はあわてた様子でその事実を認めた。友梨が殺された翌日、最初に友梨の夫、つぎには捜査員から、彼女の外出先や用件について尋ねられた時、何も心当りがないと答えたのは、別に隠していたわけではなく、単に忘れていただけだと言訳けした。友梨がその手紙のために出掛けたのかどうかもはっきりしなかったので、さほど重大には考えていなかったのだという。  この時点で、捜査員は朋江に、胡散《うさん》臭い印象を抱いた。当然、穴吹家と朋江に関して、近隣で聞込みをしたのだが、そのさいにはこれといった情報は掴《つか》めなかった。彼らが住んでいるマンションは、三階建の瀟洒《しようしや》な造りで、広めの踊り場を間に挟んで一戸ずつが向かいあっている。こうした設計だと、向かい同士は親密になっても、ほかとの付合いは驚くほど浅いようだった。ことに彼女と同じ階段のほかの階では、共働きか、主婦がパートに出ている家ばかりで、穴吹家の様子などはほとんど何も知らないと、迷惑げに首を傾《かし》げた。ただ休日に穴吹夫婦が揃《そろ》って外出する姿など、長年誰も見ていないらしいことから、夫婦仲はあまり睦《むつま》じくなかったのではないかと、捜査員は想像した。  穴吹義行と朋江の夫婦に対して、再び本部の関心が注がれ始めたのは、パーク・イン・シアターの殺人未遂事件が発生して以後である。穴吹義行も田部と同じマリア製薬の学術部に勤務しており、穴吹は田部より九年先輩の課長だった。 〈ディスコの人妻殺し〉と〈プロパー殺害未遂事件〉との接点がここにある。いや、もしも二つの事件に繋《つな》がりがあるとすれば、穴吹夫婦が介在している可能性が濃厚だと、池袋署の捜査本部は睨んだ。  穴吹と朋江について、改めて別々に聞込みが開始された。  今度は多数の捜査員を投入して、より広範囲に行った結果、朋江に関しても、少しずつ耳寄りな情報が集められた。 「うちの子が、穴吹さんとこの春子ちゃんと学校で同じクラスなんですけど……ええ、小学一年で、なかなか利発なお子さんらしいですけどね、その春子ちゃんが、いつかいってたそうです、うちのお母さんは、ヒスを起こすと、進をぶったりつねったりするって。話の様子ではずいぶんひどい苛《いじ》め方みたいで、ほら、今よくある、虐待的症候群とかいうんじゃないですかしら」  近所のマンションに住んでいる主婦が、そんなことをいった。  朋江が週に三回パートで通っている歯科医院でも、いっしょに働いている歯科助手や経理の事務員が、複雑な面持で答えた。 「しっかりした頭の良い方だとは思うんですけど、時々すごく苛々《いらいら》してるのが、傍目《はため》にもわかるんですね。同じ年頃のキャリアウーマンとか、いわゆる翔《と》んでる女性を見ると、ムラムラと嫉妬《しつと》が湧《わ》いてくるみたいで……」 「ご主人ともあんまりうまくいってなかったんじゃないですか。もう長い間、ゆっくり話しあったこともないとかって……」  中でも、朋江や、友梨のいたマンションから三百メートルほど駅寄りにある食料品店の主婦の話が、捜査員にはとりわけ強烈な示唆を含んで聞こえた。 「笹井さんと穴吹さんの奥さんが誘い合わせていらしてくださったこともよくありましたですよ。とても親しそうにお喋《しやべ》りしながらね。——ああ、でもそういわれれば、こんなことがありましたわねえ……」  前夜に雪の降った冬の午後、友梨が卵色のジャケットにコーヒーブラウンのスラックスという、いつもながらシックな身なりで買物にやってきた。朋江の服装は、記憶に残るようなものではなかった。友梨が先にレジをすませて外へ出て、あとに続いた朋江が、買物袋を持ちあげた拍子に、道路脇の地面へほうれん草の束を落してしまった。拾いあげるなり、朋江は雪解けのぬかるみにつかって泥だらけの葉先を、いきなり友梨のジャケットの背中へなすりつけた。淡い卵色のきれいなウール地の上に、泥の模様が無残にひろがった。  友梨は軽く後ろを振り向いたが、朋江の行為には気付かなかったようだ。朋江はほうれん草を素早く袋の中へ押しこむと、友梨にまた何か話しかけながら、二人並んで歩み去っていった……。 「私の気のせいか、目の錯覚だったんじゃないかなんて、あとから思ったりしてたんですけど」  食料品店の主婦は、今でもなかば信じられないような顔つきで首を傾げた。  だが、それを聞いた捜査員は、友梨のスカートに靴クリームが塗りつけられていたという話を、反射的に連想していた。二つの出来事には、明らかに共通点が認められる……。  こうしてみると、穴吹朋江は欲求不満でたえず苛立っていたことが推察される。わが子を虐待したり、�翔んでる女�の友梨に陰湿な嫌がらせをした。それが昂《こう》じて、ついには友梨を偽手紙でおびき出し、殺してしまったのではないだろうか——?  七月二十六日月曜日の午後二時半、二人連れの捜査員が朋江の住むマンションへ、事件以来三度目の足を運んだ。周囲の聞込みはおよそ終っており、あとは朋江に任意同行を求め、署できびしく事情聴取する。当面は友梨が殺された夜のアリバイから追及するつもりであった。  同じ頃、朋江は歯科医院のパートの帰り、富士見台の駅前商店街で買物をして、自宅近くまで戻ってきたところだった。  朋江は半年余り前から、今のアルバイトを始めた。給料から住宅ローンの返済と穴吹の小遣いを差引いたあとで渡される生活費では、どうにも家計が賄いきれなくなったからだった。  仕事先は、新聞のチラシで見つけた。  昨今は共働きの家庭が急増し、パートタイムで働いている女性だけでも三百万人を越すといわれているだけに、求人広告のチラシは毎日のように挟まってくる。女性の求人情報専門の週刊誌まで発行されているほどだ。  今の職場を見つけるまでには、朋江はその種の雑誌にも目を通した。 〈あなたの魅力、再発見!〉 〈今日の人生を充実させたい女性に〉 〈希望の予感——ステキな職場との出合い〉  そんなキャッチフレーズといっしょに、多数の求人広告が紹介されている。面白いのは、職種の大部分が片仮名で表示されていることだった。アシスタント、アドバイザー、コンパニオン、コーディネーターといった英語が頁ごとに目につく。なんとなくスマートで、女性の夢を膨らませるような呼び名ではあるが、現実にはそうそう新種の職業が誕生するはずもない。内容を読んでみれば、アシスタントやアドバイザーは大抵店頭の売り子で、コンパニオンとはクラブやスナックのウエートレスなのであった。  結局、とくべつの技術を持たない女性には、会社の一般事務、受付、商店の販売員、飲食店のウエートレスなどが主で、歯科医院のパートも時々混っていた。  ウエートレスとセールス関係は、夫に禁じられていた。たまたま電車で一駅先の石神井公園近くの歯科医院でパートを求めていたので、そこで働くようになった。  仕事は受付や掃除、医療器具の整理などの雑用で、魅力の再発見とか人生の充実などとはまるで縁遠い。むしろ、患者の中に生き生きとしたキャリアウーマンなど見かけると、朋江は無性な苛立ちを煽《あお》られるばかりだった。  ——が、今日の朋江は、いささか複雑な感慨を覚えさせられながら、買物の途中でも、知らず知らず歩みを止めかけている時もあった。  というのは、定期的に通院してくる患者で、テレビ番組の制作会社に勤めている女性が、今朝はいつになく落着いたミセス風のスーツを着て、が、その顔には抑えきれないような弾んだ表情をたたえていた。 「もうじき、カルテの苗字を書き換えてもらわなきゃならないわ」  治療がすんだあと、受付で経理事務員の手許を覗《のぞ》きこみながら彼女は隠しておけない感じで喋り出した。 「あら、どうしてですか」 「私ね、婚約したの」 「まあ、それはおめでとうございます。お式はいつですの」 「この秋……九月十九日に決ったのよ」  彼女はとっておきのニュースを小出しにするような口吻《くちぶり》で答えた。相手は電機メーカーのサラリーマンで、結婚後にはたぶん広島支店へ転勤になるという。だが、地方勤務を嫌がっているふうも見えなかった。 「でも、それじゃあ、今のお仕事はどうなさるんですか」  そばで聞いていた朋江が思わず尋ねた。 「私の仕事? もちろんやめるわよ。どっちみち、結婚したらやめるつもりだったんですもの。時間が不規則だから、家庭とは両立しませんものね」  すっかり満足しきった様子の彼女が出ていくと、朋江は不可解な思いで首を傾げた。 「あんなに仕事に打ちこんでらしたみたいなのに、あっさりやめられるものなんでしょうか」  五十まえでもう子供たちも独立している女子事務員は、どこか皮肉な微笑を滲《にじ》ませた。 「打ちこんでいるとはいっても、彼女、内心では結婚に憧《あこが》れてたみたいだから。どんなにやり甲斐《がい》のある仕事を持ってても、女はどうしてもいっぺん結婚してみないとおさまらないようなところがあるでしょ。あの人ももう二十九で、焦ってたんじゃないかしら。ほんとは結婚がそんなにいいばっかりでもないのにねぇ……」  彼女が自分と同年だったことを、朋江は改めて思い出した。 (いいばっかりどころか、私なんか惨憺《さんたん》たる幻滅だったわ……)  でも、彼女の目から見れば、実は自分は羨《うらや》むべき身分に映っていたのかもしれない。大企業に勤める真面目な夫と、健康な二人の子供にも恵まれて——。  翻ってみれば、自分は本当に得がたいものを手に入れていたというべきなのかもわからない。  しかしそれを、真実の幸せに結びつけることができなかった。  いや——もしかしたら、今後の努力しだいで、まだ万に一つでもその可能性は残されていないだろうか……?  雲の切れかけている遠くの空を見やって、朋江はふっとせつない眩暈に襲われた。  今年は例年になく梅雨が長い。今朝も雨雲のひろがっていた空から、ようやく薄日が射し、風の涼しい午後になった。いつのまにか、自宅のそばまで来ていた。  マンションの敷地内へ足を踏み入れようとして、視線を向けると、駐車場の空いている場所に黒の中型車が停まり、前の席から二人の男が降り立った。一人はグレーの背広、もう一人は白いワイシャツで上衣を腕にかけている。彼らは大股《おおまた》にマンションの私道を横切り、朋江の家のある階段へ歩み寄った。  肩を並べ、規則的な足どりで、二人は階段をのぼり始めた。  たちまち朋江は、路上に立ち竦《すく》んでいた。男たちの発散する雰囲気は、二週間ほど前にやってきた二人連れとそっくりだ。 (彼らは今度こそ私を連れに来たのだ——)  心臓が早鐘のように搏ち、視界がかすんだ。 (今さら何をいっても、とりあってもらえないだろう……)  彼らは中二階の踊り場へ姿を見せた。身体《からだ》を回転させて、二階へ上っていく。二人が朋江の家のドアに達したと思われた時、彼女は踵《きびす》を返して走り出した。  外の道路へとび出し、自転車とぶつかりそうになって、あやうく身をかわした。どこへ行くという当てもない、ただ夢中で逃げた。警察から、そして今までの自分から、自分の生活のすべてから、逃れたいのかもしれなかった。  喘《あえ》ぎながら走り続けていたので、後ろでしきりにクラクションが鳴るのにも、朋江は気が付かなかった。  グレーの小型車が彼女を追い越して停った。  運転席の窓から男が顔をつき出し、振り返って笑いかけた。 「足が速いですねえ。さすがに元ハードルの選手だなあ」    2  朋江の視野の中で、男の顔がはっきりとした像を結んだのは、まだ何秒かのちだった。ただ自然と、足は緩めていた。男はワイシャツの襟ボタンを外し、ネクタイも少々だらしなくねじれている。痩《や》せた浅黒い顔で、目がくぼみ、鼻がちょっと上を向いている。 (ネズミ——)  真っ先にそれが頭に浮かんだ。枇杷島敏浩の高校時代のニックネームである。 「朋江さん、ほんとに全然変ってませんよ」  彼の人懐こい声が耳に甦《よみがえ》った時、彼女はすっかり足を止めた。 「忙しそうですねえ。どこかへお出掛けですか」 「……」 「よかったらお送りしましょうか」 「乗ってもいいんですか」 「ええ、どうぞ」  枇杷島は鼻の上に皺《しわ》を寄せて笑った。先日、朋江が高校の同級生だとわかった時と同じような、うれしそうな顔をして、さっそく助手席のドアを開けてくれた。 「どっちへ行かれるんです?」 「私は……あの、石神井のほうへ……でも、あなたのご都合もあるでしょうから」 「いや、いいんですよ。どうせすぐだし」  彼は今まで走っていた方向へ、車を発進させた。  マンション付近の住宅街を抜けると、往復二車線の舗装道路へ出る。彼は車を右折させて、少しスピードをあげた。 「この間は突然伺って、失礼しました」 「いいえ、こちらこそ」 「——いや、実は今も、お宅へお寄りするつもりだったんですよ。江古田のサービスショップまで来たついでに。そしたらちょうどあなたが出てらしたので……」 「……」 「先月の不足分は、この二十日に無事、ご主人のご口座から引落しさせていただきました。それをお伝えしたり……まあ、その後どんなふうかと思ったもんですから」  七月二十日には夫の夏のボーナスが同じ口座へ振り込まれたはずだ。クレジットカードの未払い分は、それから引き落されたのだろう。ボーナス月には、住宅ローンのほうも、毎月の返済額のほかにあと三十万円余りも払わなければならないので、ボーナスの大半はとんでしまったにちがいない。しかしともかくこれで、クレジットの焦げつきは解消したわけだった。  十五日木曜日の夜、九州の出張から帰宅するなり、穴吹は朋江にクレジットカードの買物について詰問した。彼は昼すぎの飛行機で帰京し、そのまま会社へ出るとさっそく枇杷島に電話して、およその事情を聞き出していたので、朋江ももう言い逃れはできなかった。覚悟していた通り、穴吹は烈火のごとく怒り、手をあげかねぬ見幕だったが、春子と進が襖《ふすま》の隙間から覗いているのに気が付くと、それだけはどうにか自制したようだ。  が、彼としても、現実的には、口座の不足分十一万円余りをつぎのボーナスで埋めるほかなかった。 「いやその、出張から戻られたご主人のほうから、あの件はそちらのまちがいではなかったのかと、再度問合わせてこられたもんで、一応の事情をお伝えするしかなかったわけなんですが……まあなるべく穏やかにお話しといたつもりではありますけど、その後どうされたかと、気になって仕方なかったもんですから……」  どうやら枇杷島は、朋江の家庭内の悶着《もんちやく》に心を痛めてくれていたらしい。それをずいぶんいいにくそうに口に出しているので、朋江は思わずちょっと可笑《おか》しくなった。  車はひろやかな団地群を横切る道路を走っている。建物と道路との間には石神井川が流れ、川べりに緑の草木が繁っている。ようやく夏の訪れを感じさせる風が、窓から吹きこんできた。 「おまえは信用できないって、ファミリーカードを取りあげられちゃったけど……もういいんです。いちいち主人の許可をもらって使うんでは、クレジットカードの意味がありませんもの」 「まあ、それもそうですね」 「あんな買物したあとでは、やっぱり主人に断っておかなければいけなかったんでしょうし……」 「いやあ、どこだっておんなじですよ。うちの女房にしたって、勝手な無駄使いをしといて、利用代金の明細書が送られてくるまで知らん顔してるんだから、ぼくは毎月ヒヤヒヤさせられてますよ。もっと極端な話、ある会社の社長さんが、奥さんのカードを無効にしてくれといってこられたことがありましたよ。奥さんに凄《すご》い浪費癖があって、高価な毛皮や宝石なんかを見境いもなく買いまくるんで、うちは破産しそうだって。そういえば逆のケースもあったなあ。銀座のバーのママさんが、同じことを頼みにきた。こっちはヒモみたいなご亭主が、キャッシングサービスを濫用してどうしようもない……」  二人は自然に声をたてて笑った。 「これはファミリーカードそのものにも問題があるといわれてるんですよ。経済的な信用度《クレデイビリテイ》は個人によってちがうのに、同じ口座で家族に別のカードを発行するわけですからね。将来はファミリーカードでも別口座にされるようになるかもしれません」  枇杷島は赤信号で車を停めた。いつか団地はすぎて、植込みの多いしっとりとした住宅街にかかっている。可愛らしい苗木の畑と造園業者の看板が、ところどころで目についた。 「石神井はどっちのほうに用事がおありになるんですか」  もう少しこのままでいたいという痛切な思いが、朋江の胸をよぎった。 「いえ、用ってわけじゃなくて……気晴らしにジョギングでもしようかと思ってたの」  サンダルシューズに買物袋をさげている恰好は、およそジョギングらしくなかったが、枇杷島は「ああ、それじゃあ……」と気楽になったように呟《つぶや》いた。  しばらくは黙って車を進めていた彼が、急にある種の感慨をこめていった。 「だけど、意外だったなあ」 「何が?」 「いや、高校時代のあなたを思い出すと……ハードルの選手で、都の大会に出場したこともあったでしょう? 勉強の成績も上位だったし、ぼくらの憧れの的だったんですよ。山下さん……いや、朋江さん自身も、何事にものびのびとエンジョイできる人のように見えた……」 「……」 「だから、結婚されてからでも、なんというか、もっとマイペースで生活してらっしゃるかと思ったけど……案外気苦労が多いみたいですね」 「そうなの。最初が悪かったのよ」  朋江はサラリと答えて、自分で驚いた。こうして枇杷島と話していると、たとえば車の外を吹いているさわやかな夏の風が、そのまま胸底まで流れこんでくるような、不思議な解放感に誘われた。 「最初って、ご主人とはお見合いだったんですか」 「いいえ、同じ会社で知り合ったんですけど。八つも年上だと、すごく落着いて、欠点のない人柄みたいに見えたのね。昇進も早くて、エリート扱いされてたから、婚約した当時は、私、まわりから凄く羨しがられたものなんです」 「ええ……」 「それで私も、なんとかして主人にふさわしい奥さんになりたいと思って、それには主人の命令に従って、彼の機嫌を損うようなことは絶対してはならないって……最初からあの人の前ではとても緊張して、無理してたんだと思うの。いいたいこともなんにもいわないで……ああ、こんなこと口に出して喋るのだって、結婚以来初めてみたいな気がするわ」  車はスピードを落して、低い柵《さく》の手前で停った。木立の間にビーチパラソルと二つ三つ屋台が並び、その先には池の水面がうす青く光っている。石神井公園の駐車場へ入っていた。 「少し散歩してもいいですか」  枇杷島が遠慮がちにいって、朋江も頷《うなず》いた。二つの池が豊かな樹木に囲まれているこの広い公園へは、子供たちがもっと幼い頃、何度か連れて来たものだった。それで朋江は、もう夏休みで家にいる二人の子供を頭に浮かべた。おやつのパンが買物袋の中に入っているのだが……。  車の外へ出ると、雲の隙間がひろがり、青空が広く覗いていた。うんざりするような今年の梅雨も、そろそろ明けるのだろうか。  細長い池に沿った散策道を、二人は並んで歩き始めた。ところどころで小学生くらいの子供が釣りをしたり、初老の人がイーゼルを立てている姿が目に映るが、昼下りの公園は全体にひっそりとしている。欅《けやき》、桜、青桐などの大樹が水面に向かって枝葉を繁らせ、その下に入ると空気が冷んやりと感じられた。 「主人も私にはなんにも話してくれないの。一方的に事を決めて、頭から申し渡すだけなんだから。わが家では、夫婦の会話なんて全然ないのね」  その会話に飢えていた気持がふいに堰《せき》を切ったように、朋江はまた喋り出した。  枇杷島が苦笑して頷いた。 「実際、男は家へ帰ったら、風呂と、めしくらいで、それ以上妻と話をする必要はないと思ってるようなところがありますからねえ。奥さんのほうは、子供とテレビだけが相手だから、語彙《ごい》や表現の方法をどんどん失っていくと、何かの本に書いてあったなあ」 「それでいつでも苛々してるの。今の自分は精神状態がおかしいってわかっていても、どうすることもできないのね。その揚句に、見境いのない買物をしたり……」  池の途中に円い石橋が渡してあり、その袂《たもと》でも、小さな子供たちが釣り竿《ざお》を振り回したり、水の中へ手を入れている子もある。そんな姿を見ていると、朋江は急に涙が滲んできた。 「私ね、時々進にひどい乱暴をするのよ。突きとばしたり、ひっぱたいたり……あの子はグズだし、そのくせとても主人に似ている時があるの。だから主人にいえない不満や恨みを、進に八つ当りしてたのね。——呆《あき》れたでしょ?」  最後は泣き笑いのような顔で枇杷島を振り向いた。 (突然こんなことを喋り出した私にも、きっと呆れているわ……)  朋江自身もまた、突然の自分に戸惑っているのだ。友梨の死が、何かを変えたのだろうか。あの常軌を逸した恐ろしい事件を境にして、どこか憑《つ》き物が落ちたような虚脱感に、朋江はしばしば襲われていた。恐怖と悔恨と自己嫌悪が湧き出し、それに奇妙な寂しさまで混りこんだような、心が不安定に揺れていた時期に、思いがけぬ同級生とめぐり遇った。  たぶん枇杷島は、ちょっとしたキッカケだったのかもしれない。それは夫でもよかったはずなのだ。夫がほんの少し、わずかないたわり、思いやりのかけらでも示してくれていたなら、自分はもっと早くに引き返すことができていただろうに……!  枇杷島はただ偶然のキッカケ……と、朋江はしいて胸のうちで繰返した。それによって、彼への恥しさと、まだ何か自分を戸惑わせている落着かない感情を、無意識に紛らそうとしていた。  彼は、眩《まぶ》しそうに眉をひそめ、真剣でどこか思慮深い眼差《まなざし》を、道の先へ向けていた。しばらくたって、 「八つ当りは誰でもやりますよ」と、気軽な口調でいった。 「ぼくらだって、上司に怒鳴られた腹いせに、家へ帰って女房や子供に当り散らしてみたり……つまりその、職場でも家庭でも、やることがみんな裏目に出るとか、人間関係がしっくりしなくて、自分の個性が全然発揮できない状態って、あるんじゃないですか」  枇杷島はことばを捜すふうに、だんだんゆっくりと話した。自らの経験を顧みているようでもあった。 「こんなはずじゃなかったのにと焦るんだけど、どうにもならない。自分の弱点ばかりがむきだしになって、人間が変ってしまったような気さえする。——でもね、そんな状態も、何か些細《ささい》なことを転機にして、また変化してくるものなんですね。それからは、今まで絶望的に見えていた事態まで、意外に大した問題じゃなかったんだと、気が付き始める。大抵みんな、そういうことを繰返しながら生きてるんじゃないのかなあ」 (意外にたくさんの主婦が、その些細なキッカケを待っているのではないかしら……?) 「それに、この間ぼくがお宅へ伺った時、進君はまるであなたを庇《かば》うように、ぼくの前に立ち塞《ふさ》がったでしょう? ぼくは思わず気押されるような感じがしたんですよ」  あの時は、二人連れの刑事が引揚げた直後だった。怯《おび》えていた朋江の内心を直感したように、進は靴を脱ぎ終えた裸足《はだし》のまま、枇杷島の前に立ちはだかったものだ……。 「苦しまない人間なんて、そのほうがよっぽど不自然ですよ。だけど人生には、やっぱり案外思いがけない出来事も起こるし、そのぶん、もう絶対に取り返しがつかないなんてことはないと、ぼくは信じているんですよ」 (今まで私がやってきたことも、取り返しがつくだろうか……?)  ふっと光が射すように、朋江にもそれが信じられるような気がした。  二人はいつか、石神井池から三宝寺池の畔《ほとり》へ歩みを進めていた。こちらのほうがいっそう静かで、風景が変化に富んでもいる。入り組んだ水際には、葦《あし》が群生していたり、睡蓮がかたまってうすいピンクの花を咲かせている。水面は周囲の木々を写して、濃い青緑をたたえていた。  朋江は、雲の隙間の青空を見あげて、深呼吸をした。 「ああ、気持がいい……」  それはきっと、今ほんの少し、胸にわだかまっていたものを吐き出したせいでもあった。あれだけ喋っただけで、こんなに心が晴れるなんて……。  二人はしばらくまた、黙って歩いた。池のずっと奥では、何かのお堂が建築中らしい。そちらの林から、木の葉の香わしい風が吹き流れてくる。葦がざわめき、水面にさざ波が生まれた。  板敷の小径《こみち》を踏む自分の足音を聞きながら、朋江はもっともっと沢山のことをお喋りしたいという欲求が、胸の底から湧きあふれてくるのを覚えた。  とりわけある一つのことを、誰かに打ちあけてしまいたい。今なら案外なんでもなく、口に出せそうな気がする。そして枇杷島なら、静かに耳を傾け、素直に信じてくれるのではないだろうか……? 「今ひょいと思い出したんですけど——」  枇杷島が語調を変えていい出した。 「先月の初め頃だったか、商社マンの奥さんが池袋のディスコの前で殺された事件がありましたね。その人も確か、富士見台に住んでたんじゃなかったですか」  朋江は足を止めて、枇杷島の顔を凝視《みつ》めた。まるでそれさえも、彼が朋江のために話の糸口をつくってくれたように感じられた。 「笹井友梨さんでしょう?」  枇杷島が瞬《まばた》きした。 「あの人のことでも、私、隠していることがあるわ。どうしても怖くて警察へ行けなかったの」  喋り出した途端、朋江の目に涙が噴き出した。彼はまた吃驚《びつくり》しているだろうと思いながら、彼女は夢中で続けた。 「事件の夜、私は友梨さんの後を尾《つ》けていったのよ……」    3  七月十三日の朝、マンションの駐車場で拾った〈鳥飼直人〉のクレジットカードを、穴吹は絶対に使う気はなかった。  二度とあんな過ちを繰返してはならない。田部朗のカードを拾い、その日のうちに素早く買物をして、捨ててしまった。あれは一種の完全犯罪だった。  だからといって、あんなことを二度三度と繰返していたら、麻薬患者のような常習犯になってしまうだろう。  まったく、自分があんな行動をとったことが、いまだに信じられないほどだ。ベン・ホーガンの新しいゴルフクラブを見るたびに、それが事実であることを思い知らされてきたが、だんだんにその都度の嫌なショックもうすれて、ひと月余りもたった近頃では、すべてが夢か錯覚だったのだと、なかば自分をごまかすことさえできるようになった。  まして、田部朗の殺人未遂事件以後は、万一にもカードのトラブルなど起こしてはいけない。田部と〈鳥飼〉のカードは無関係とはいえ、どんなきっかけで過去の一件が掘り起こされないとも限らないのだ。  だから、鳥飼のカードも、最初から拾わずに放置しておけばよかったのだと、穴吹はしばしば鋭い後悔に襲われる。  いや、拾っても直ちに警察へ届ければなんでもなかったものを、つい時を逸してしまった。  本当に、あの朝会社へ着きしだい、女の子に新宿警察署へ持っていかせるつもりでいた。ところが折悪しく、学術部の部屋へ入った直後に、自分のカードの会社から電話が掛ってきた。口座の残高が不足しているといわれ、押問答しているうちに、会議の時間がきてしまった。  会議のあとでは、部長に従《つ》いて急いで空港へ向かい、九州へ出張した。  帰京したのは二日後の木曜日である。今さら……と気後れして、警察の敷居が高くなった。田部のカードの�前科�がなければ、別段|拘泥《こだわ》りは覚えなかったにちがいない。  届けないのなら、捨てればよかったのだ。  事実、穴吹は何度か捨てかけては、間際になって決断が鈍った。 (いつでも捨てられるのだから……)  それに、このカードはまだ使えるという意識が、知らず知らず、頭の隅にひっかかっていた。田部のカードの一件のあと、穴吹は別のカード会社のサービスショップへ出掛けて、それとなく事故処理のシステムを尋ねてみた。すると、ふつうの紛失のケースでは、届け出のあったカードのナンバーを月末に一括して加盟店へ連絡するという話だった。これだけカードが普及し、各カードの加盟店が広範囲に及んでくると、いちいち処理してはいられないらしい。  とすると、鳥飼直人がたとえカードを落したその日に紛失届を出したとしても、七月末までは加盟店に知らされないわけで、その間はまず安全にカードを借用できるということになる。 (二度と使うつもりはない。しかし、使えることも確かなのだ……)  自分の口座の先月分の焦げつきが、カード会社のまちがいではなくて、妻の浪費の結果だったとわかったことも、彼の心理に微妙な影を投げかけていた。どんなに妻を怒りつけたところで、赤字が償われるわけもないのだ……。  今日にも捨ててしまおうと思いながら、穴吹は拾ったカードを財布に入れたまま、しだいにそれさえも忘れている時間が長くなった。  七月二十六日月曜日の夕方、彼は新宿駅前のデパートへ、閉店間際に駆けこんだ。目白にある開業医の家で、六時半から麻雀《マージヤン》に招《よ》ばれていた。医者の中には、ゴルフ好きもいれば、麻雀や競馬に熱中する者もいる。相手しだいで何でも喜んで付合うことが、プロパーの大事な仕事の一部と心得なければならない。  目白へ向かう前にデパートへ立ち寄ったのは、その医院で長年働いている看護婦の結婚祝いを用意するためだった。担当の医院や病院へ快く出入りさせてもらうためには、看護婦の覚えを好くしておくことも忘れてはいけない。今日は他社のプロパーも集まるだけに、遅れをとってはならなかった。  贈り物を何にするか決めてなかったので、意外に手間取ってしまった。これから結婚する女がどんなものを喜ぶのか、男にはなかなか見当がつかない。妻にちょっと相談してくればよかったものの、ふだんからそんな習慣がない上に、カードの無断使用が発覚して以来、ろくに口をきいていなかった。  三階の婦人服売り場では選びきれずに、また一階まで降りてきて、ようやく十八金のネックチェーンに決めた。すでに六時二、三分すぎになり、店内放送が閉店を告げていた。ラッシュ時だから、これから六時半までに目白へ着けるかどうかも気にかかる。 「一万二千円いただきます」  女子店員がいうのと同時に、穴吹は財布からクレジットカードを抜き出した。急いでいたために、二枚のカードがいっしょにとび出してしまった。一枚がショウケースの上をすべって、ちょうど女子店員の手許《てもと》で止った。彼女はそれを取りあげて、レジのほうへ行きかけた。 (あ、ちょっと待って——)  喉元《のどもと》までのぼったことばが、声にならなかった。それは〈鳥飼直人〉のカードだ。が、店員はすでにその名を見てしまった。カードを取り替えようとすれば、彼が別の名前で二枚のカードを持っていることがばれてしまうだろう。 (月末までは安全なのだ……)  彼はにわかに高鳴ってきた胸を静めた。  店員は、すぐには戻ってこなかった。商品のほうは、別の女の子が彼の注文通り、化粧ケースにのし紙をつけている。リボンを結び、包装が出来上っても、カードを預かっていった店員は、どこへ行ったのか姿を見せない。カードで買物すると、たまにひどく時間がかかることもある。心配ないのだ。不安な態度を示してはならない……。  ショウケースの内側ばかり見ていた穴吹は、背広を着た中年の店員が後ろへ歩み寄ったのに気付かなかった。 「あの、失礼ですが——」  声をかけられてはじめて振り返った。 「失礼ですが、鳥飼様ですか」 「……」 「鳥飼様のカードをお持ちの方ですね?」 「あっ……ええ、そうです」 「誠に恐れ入りますが、ちょっとこちらまでお越し願えませんでしょうか」  相手は慇懃《いんぎん》に腰を屈《かが》めた。だが、眼鏡の奥では、冷やかな疑いを含んだ目が、穴吹の狼狽《ろうばい》を見守っていた。彼は頭から血が退くのを覚えた。  彼は事務室のような小部屋へ案内された。そこで、さっきのカードはあなたのものかと問われた。穴吹がそうだと答えると、〈主任〉の名札を付けた中年の店員は、また憐《あわ》れむように目を細めた。 「しかしですね、お客様、あれは会社から緊急無効連絡が届いているものでして……重大な犯罪に関連したカードだということです」 「犯罪……?」  白とオレンジ色のカードが駐車場の水溜《みずたま》りに落ちていた時の様子が、動転している穴吹の脳裡をかすめた。  十分もたたぬうちに、新宿警察署の捜査員がやってきて、彼は車で署まで連れていかれた。取調室で、二人の刑事から改めて事情を訊《き》かれた。  その頃には、穴吹はすっかり観念していた。この件については、もはや言い逃れのすべはないのだ。いつまでも意地を張って、警察の心証を損えば、事態はいっそう悪化するばかりだろう。  彼は、七月十三日の朝、カードを拾った時の模様を、ほぼありのままに打ちあけた。警察に届けようと思いながらつい延び延びになり、今日も決して使うつもりはなかったのだが、うっかり取り出してしまったために、ひっこみがつかなくなった……。 「でも、さっき何か犯罪に関連したカードだとか聞きましたが、ぼくはただ拾っただけです。ほかのことは全然知らないんです」  刑事はそれには答えず、 「あなたを、専有離脱物横領、並びに詐欺未遂の疑いで緊急逮捕する」と告げた。  穴吹はもう一遍最初から細かな状況を話させられ、刑事が調書を作った。  二時間以上たった頃、別の二人が取調室へ入ってきた。それまで聴取に当っていた者のうち、年輩の一人が残り、三人が穴吹を取り囲む形になった。 「わたしは船橋西署刑事課の者ですが——」  あとから加わった三十五、六の刑事が、切口上な調子で話し出した。 「あなたは、先月の八日に、同じ会社のプロパーである田部朗さんのクレジットカードも不正使用したのではありませんか」  あっと穴吹は息をのんだ。 「すでにおよその調べはついている。あなたは最近、ベン・ホーガンのゴルフクラブ七本とバッグを購入しているが、それらは全部、六月八日に田部さんのカードで買われた商品と一致している。そのさいサインした売上げ伝票も保管されているので、筆跡を照合すればすぐにはっきりすることです」  穴吹は口をあいたまま、ことばを失っていた。あのあと、鈴木胃腸病院の院長のゴルフに付合った折、彼は穴吹の新しいクラブを点検して、満足げに頷いていた。警察では鈴木院長に聞込みしたのだろうか……? 「田部さんは、カード不正使用の犯人を捕まえることに、非常な執念を燃やしていたようでね。義兄のカードを借りて、それは夜道で強盗に奪われたと、カード会社に届けてもらった。一方そのカードを、わざとあなたに拾わせるように仕向けた。そうやって罠《わな》を仕掛け、あなたがまた不正使用を繰返すチャンスを待ち受けていたわけだが、しかし、それ以前に彼は、あなたの犯行をほぼ確信したのだろうね」 「……」 「あなたは近頃、田部さんから手紙を受取ったんじゃないですか」 「手紙……?」 「脅迫状ですよ。あなたが犯した犯罪について話しあいをしたいので、二十三日金曜の夜九時、船橋のパーク・イン・シアターまで来てもらいたい。来なければありのままを警察に届ける、と。どうです、この文面に憶《おぼ》えがあるでしょう?」  穴吹はかすかに震えながら、首を横に振った。 「あなたはやむをえず出掛けていったが、田部さんの車の中で、後ろから彼の首を絞めた。手紙の写しでも残ってないかと、車内を捜したのはよかったが、ダッシュボードの物入れの底に隠してあったコピーまでは見つけきれずに逃走したわけだ。ちがいますか?」  彼は身体中で否定を示したつもりだが、実際には呆然と目を瞠《みは》っているだけだった。人間は真底|驚愕《きようがく》し、狼狽した時には、まったく声が出なくなることを、彼ははじめて知った。無理に出そうとすれば、無様な泣き声をあげそうな気がした。今まで生きてきた自分とは、まるで別人になっていた。 「どうなんです、田部さんのカードを拾って使ったんだろう?」 「脅迫されて殺そうとしたんじゃないのか?」 「……」 「まあ、これも、時間の問題で明らかになることだよ」  船橋西署の刑事が、威嚇するような笑いをたたえた。 「田部さんが今日の午後、意識を取り戻したからね。徐々に記憶も回復しかけているそうですよ」    4 「あの晩、私は友梨さんの後を尾けていったのよ。彼女は自分の小説が有名な雑誌に載せてもらえるといって、有頂天になってたわ。編集者の手紙をヒラヒラさせて、得意満面で顔中を輝かせて……それを見てるうちに、私は気が狂いそうなほど苛々《いらいら》してきたの……」  三宝寺池のほとりの、ひっそりとした木陰のベンチで、朋江は枇杷島に事件当夜の出来事を打ちあけた。今まで誰にもいえなかった秘密が、突然|堰《せき》を切ってあふれ出たように。そのことばの奔流が、繰返し繰返し、終りのないテープみたいに、朋江の頭の中で回転し続けている。 「後を尾けて、どうするのか、はっきり決めてたわけじゃないけど……たぶん、どこかで邪魔して、待合わせのディスコへは行けなくしてやろうと企んでたんです」  枇杷島は、くぼんだ目でしっかりと朋江を見守りながら、全身を耳にして聞いているようだった。 「でも、なかなかチャンスがなくて……池袋の駅からは友梨さんがタクシーに乗ってしまったので、私も後ろの車を拾った。行先はわかっていたし、自然とすぐあとから、サザン・クラブの前の半地下へ入る恰好になったの」  贅沢《ぜいたく》なスペースをとったタイル張りのコンコースには、太い柱や噴水がしつらえられて、さながら中世の宮殿の柱廊のような荘厳な雰囲気さえ醸《かも》し出されていた。まったく、現代の東京の真ん中とは信じられないくらいに、森閑として、人影も絶えていた。  友梨は一人で、そこへ降りていった。  サザン・クラブの黒いドアが、柱廊の奥で鈍く光っていた。友梨はそれに向かって歩き出した。 「もう今しかないと思って……私、赤インクの壜《びん》をバッグの中に入れてきたので、急いでそれを取り出しながら、後を追ったの。足音を忍ばせて……でも、私が追いつく前に、柱の陰からふいに女の人が現われて……」 「女の人?」 「ええ、黒っぽいレインコートを着てたけど、小柄だったし、声も確かに女でした」 「声も聞いたんですか」 「その女が、友梨さんに話しかけたの、『笹井さんですか、北里ですけど』……友梨さんが挨拶すると、ディスコの中よりここのほうが静かだからって、女は彼女を噴水のそばのベンチに掛けさせたみたいでした。私は仕方なく、柱の陰に隠れて、様子を窺《うかが》うことにしたんだけど、そのうち奇妙な会話が聞こえてきたわ……」 『あなた、いつもノーブラなんでしょ?』 『私はあなたと駅前でぶつかって転んだことがあるの。憶えてらっしゃらない?』  朋江の耳に届いた女のことばを、あとで繋《つな》ぎ合わせると、およそこんな台詞《せりふ》が形づくられた。この通りではなかったかもしれない。それに対して友梨がなんと答えたのかも、聞きとれなかった。ビルの中のコンコースでは、話し声が複雑に反響した。 「それから急に、女が何か鋭く叫んで、やにわに友梨さんのブラウスの胸を引き裂いた。二人とも同時に立ち上って、恐ろしい呻《うめ》き声が聞こえたかと思うと、友梨さんが前のめりに倒れるところだった……」  倒れたまま動かなくなった友梨の身体を、女は後方の、壁がひっこんで薄暗がりになっている場所までひきずっていった。ベンチへ駆け戻り、友梨の白いバッグを取ると、中から何かを掴《つか》み出した。バッグと傘も壁のくぼみへ隠したようだ。  女はそのまま壁に沿って、小柄な黒い影のように逃げ去っていった……。 「私は声も出せずに、立ち竦《すく》んでいたの。あまりの怖さに、気が遠くなりそうだった。女の姿が見えなくなってから、友梨さんのそばへ寄ると、胸が血だらけで、ナイフを刺されているのが見えたんです」  どれほどかして、朋江はよろめきながら歩き出した。夢中で階段をのぼり、気がつくと、雨の中を池袋の駅に向かって泣きながら走っていた。 「駅の近くまで来て、警察に届けなければいけないんじゃないかって……でも、少し我に返ってみると、とてもそんな勇気は出なかったわ。私は濡れ鼠になって、まるで私が今この手で人を殺してきたみたいな顔をしてるに決ってる。——いいえ、絶対に私がやったんじゃない。お願い、信じて。今話していることが真実なのよ。それは、友梨さんが妬《ねた》ましくて憎らしくて、死ねばいいと思ってたくらいだけど……そうよ、私、主人が交通事故か、ガンになればいいと思うことだって、しょっ中あるわ。本気でそう願っても、だけどとても実際に殺せるもんじゃないわ。——でも、それなら、あそこまで何しに行ったのかと訊かれたら、どう説明すればいいの? 今まで私が友梨さんにしてきたいろんな嫌がらせまで、みんな白状しなければならない。そしたら警察では、もう犯人は私しかいないと決めつけるにちがいないわ」 「そのまま家まで逃げ戻ったわけですか」 「家へ着いたら、主人はまだ帰ってなくて、子供たちは眠ってました。私も布団にもぐりこんで……翌《あく》る朝、主人に打ちあけようと思ったけど、やっぱりいえなかったわ。笹井さんのご主人に友梨さんの行方を尋ねられた時も、そのあとでは刑事が事情を訊きに来たけど、いったん隠してしまったら、よけい怖くていえなかった。今はじめて口に出したの。なぜだか、あなたになら話せそうな気がして……ほんとは誰かに聞いてもらわなければ、気が狂いそうだったのよ……」  最後は激しく泣きじゃくって、枇杷島に肩を支えられた。そうしながら、朋江は急にぐったりとなるほどの解放感に包まれていた。  どれほどかして、おそらく彼も長い間思案した末に、口を開いた。 「やっぱりそれは、警察に届けなければいけないと思いますね。真実を話せば、きっと信じてもらえますよ。ぼくだって、信じられますから」  彼自身も、声を励ますようにしていった。 「このまま警察へ行くのなら、ぼくが付合ってあげますよ。でも、ほんとはその前に、ご主人に打ちあけたほうがいいんじゃないかな。——そうですよ、勇気を出して、ご主人に話せば……たぶんそれが、いちばんの解決策じゃないでしょうか」  朋江が少し落着くのを待って、彼は彼女を連れて車に戻り、富士見台のマンションまで送ってくれた。いつか夕暮れの時刻になっていた。 (勇気を出して……きっと信じてもらえますよ。ぼくだって、信じられますから)  枇杷島のことばを思い出しながら、穴吹の帰りを待った。  ところが、夫が帰宅するより先に、思いもかけぬ来客に襲われた。新宿署の刑事が二人やってきて、穴吹がクレジットカードの不正使用で逮捕されたことを告げた。  彼らは、穴吹と田部朗の付合いや、〈鳥飼直人〉という名義のカードについてしつこく尋ねたが、朋江は何も聞いてないと首を振るしかなかった。ただ、田部が襲われた七月二十三日夜には、夫は夜八時すぎに帰宅して、その後は一歩も外出しなかったと証言した。  刑事たちは、穴吹は留置されているので、今夜は帰れないと断わって、引揚げていった。  朋江はジッと立っていられないほど、心が動転した。 (いつもあんなに落着いて、決して過ちなど犯さないように見えた夫が……!)  ほんのわずかの間、激しいショックとは裏腹に、朋江の心はどこかで償われたような、奇妙な快感に浸された。  しかし、刑事たちの口吻では、田部の事件まで、穴吹は容疑を受けているらしい。  明日になれば、今度は池袋署の刑事が来て、友梨の事件で朋江にきびしい事情聴取をするのではないか。そして、朋江が�真実�を告白したら、すべての事柄を結びつけて、穴吹と朋江の夫婦に嫌疑をかけるのではないだろうか——?  そう考え始めると、朋江はまんじりともできなくなった。うす闇の空間に目を開けていると、自分が枇杷島に語ったことばの一つ一つが、エンドレステープのように、朋江の頭の中で回転し続けた……。  長い夜がようやく明けると、七月二十七日、火曜日。  火曜は友梨が午前十時半からのジャズダンス教室へ通っていた日だ——。  わずかにまどろんで、目を覚ました時、朋江は心が決まっていた。  夏休みで朝寝している子供たちの食事だけ用意して、九時に一人で家を出た。雲の消えた空から、真夏のような陽光が照りつけていた。  西武池袋線と山手線を乗り継いで、西日暮里へ向かった。ジャズダンス教室がそこから歩いて十分ほどのところにあることは、友梨に聞いていた。  西日暮里では山手線と地下鉄千代田線が交差しているが、朋江には日頃|馴染《なじ》みのない駅だった。  改札口を出ると、ガード下の自転車がたくさん駐《と》めてある横の電柱に、ジャズダンス教室の広告が貼《は》ってあり、道順の略図も描かれていた。  駅前の大通りとは直角の、急な坂道をのぼっていく。石垣の上から樹木が被《おお》いかぶさって、さかんな蝉《せみ》の声が聞こえていた。西日暮里公園の角を曲り、お寺の土塀の前を通りこした先に、目当ての看板を見つけた。  サンゴ樹の生垣に囲われた古い木造の洋館で、玄関を入ると右手に、受付のような窓口がある。正面のガラス窓の向うがレッスン場らしく、レオタード姿の女性の影が透けて見えた。 「すみません、ちょっとお尋ねしたいことが——」  朋江が声をかけると、髪をひっつめにした、すらりと背の高い中年女性が、奥から歩み寄ってきた。 「あの、こちらの教室の先生でしょうか」 「ええ、私が所長ですけど」  朋江は一度深く息を吸いこみ、昨夜から熟考し続けてきたことを、思いきって口に出した。 「私は、亡くなった笹井友梨さんの部屋の、お向かいに住んでいる者なんです。実は友梨さんが殺された事件について、思い当る節があるものですから、彼女といつもいっしょにこちらへ通ってらしたというお友達の方に、ちょっと会わせていただけませんでしょうか」  所長は驚いて朋江を見た。朋江は広い額に汗の玉を浮かべ、顔中が上気している。何か必死な気迫に押されるように、所長は訊き返した。 「思い当る節っていわれますと……?」 「友梨さんがあんな目に遇《あ》われる前、お友達二人も、服の胸を引き裂かれたり、剃刀《かみそり》で切られたと、週刊誌の記事に書いてありましたね。——友梨さんは、お友達と三人で歩いていた時、どこかの駅前で、誰かとぶつかったことがあるんじゃないでしょうか。たぶん彼女たちは、気にもかけずに忘れてしまった。でも、ぶつかられて転んだ女は、なぜかそのことをひどく恨んでいた。三人のうち、誰が張本人なのかわからない。ただ、その女は、相手がノーブラだったことだけを憶えていたんです……」  二人の周囲には、教室の生徒たちが集り始め、何かただならぬやりとりに耳をそば立てていた。レオタードに着替えている者や、今外から入ってきたばかりの女性たちである。  所長がつと視線を逸《そら》して、その目を朋江の後ろに立っている女の顔へ注いだ。 「今野さん、もしかしてあなたたち……」  所長が問いかけるのとほとんど同時に、今野と呼ばれた女性がにわかに緊張した表情で頷《うなず》いた。黒と白の縞のブラウスが、頬骨の高い個性的な容貌とマッチしていた。 「そういえば私たち、そこの改札を出たところで、しょっ中人とぶつかります」  彼女は傍らの友達を振り向いた。色白でぽってりしたタイプの彼女も、思い当るように首を振った。 「今来る時も、誰かと衝突しそうになったわね」 「あそこは山手線と地下鉄の出入口が合流してるので、外から入ってくる人や、エスカレーターで上ってくる人なんかとごっちゃになるんですね。だからよく出合い頭《がしら》に……」 「小柄な女とぶつかって、相手を転ばせた憶えはありませんか」  朋江がせきこんで尋ねた。二人の女はまた顔を見合わせた。 「さあ、私たちいつもお喋《しやべ》りしてるんで……」 「ほとんど気にもとめずに来てしまいますから……でも、人とぶつかったことは、たぶん何度もあると思うわ……」  今野という女性が、ふと怯《おび》えたように息を引き、両手でブラウスの胸を押さえた。    5  船橋市内の救急病院に収容されていた田部朗が、難に遇って以来はじめて目を覚ましたのは、事件から三日後の七月二十六日月曜の午後三時頃だった。それ以前に、意識レベルが徐々に上ってくる兆《きざし》は認められて、瞼《まぶた》が動いたり、つねるとその腕をひっこめたりした。それから今度はとくに何のきっかけもなく、静かに目を開いた。名前を呼ぶと、声のするほうへ眸《め》を向けた。  こうして意識を取り戻し、何の後遺症も残らない、不幸中の幸いというケースもある。  しかし、彼がすっかり記憶を回復するまでには、まだしばらく待たなければならないだろう。首を絞められて気を失った以後は当然ながら、それ以前の経過なども、「逆行性健忘」と呼ばれて、忘れている場合が多い。一般に、欠落した記憶が戻るまでには、意識を失っていた期間以上の日時がかかるものと考えられている。  捜査本部では、当然ながら、被害者の「証言」を期待するばかりではなく、精力的な捜査を続行していた。  ことに、同じ日の夜、警視庁鑑識課から、「カローラの車内で発見された手紙のコピーの筆跡は、田部本人のものではない」との結論が伝えられて以来、事件の見方は大きくちがってきた。田部がカード不正使用の犯人を内偵していることを知っていた者が、捜査の目をそちらへ集中させるために、偽の脅迫状のコピーを作って、わざと車内に残しておいたのではないか。田部の字は角張っていて真似しやすいので、かなり上手に似せてあったが、多数の報告書や日誌などと対照した結果、別人の筆跡と判断した。結論が出るまでにやや時間がかかったのは、田部自身が筆跡を紛らして書いたという可能性も考慮しなければならなかったからである。  田部が担当していたお茶の水の国立病院を中心として、聞込み捜査にいちだんと力が注がれた。というのは、田部はなかなかのプレイボーイで、産婦人科に通ってくる患者の中には、彼に誘われて親密な付合いをしていた女性も何人かいたらしいという評判が、捜査員の耳に入ったからである。  続いて、国立病院の周辺から、かなりの広範囲にわたり、喫茶店、モーテル、ラブホテルなどへも聞込みが行われた。するとしだいに、最近彼と愛人関係にあったと思われる一人の女性が、絞られてきた。  二十七日の昼前には、産婦人科の医師たちに、再度の事情聴取を求めた。  不妊症外来を担当している三十六歳の穂積医師が、 「そういえば、田部君が廊下で患者さんと立ち話している姿を、時たま見かけた憶えがありますよ」と認めたあと、あまり気の進まない様子ながら、こんな話を洩した。 「——いや、患者さんのことはなるべくいいたくないんですが……あの事件のちょうど一週間ほど前に、ある患者がわざわざ病院へ来て、つまりその日は治療がなかったわけですが、わたしにプロスタグランディンのことをえらく熱心に聞きたがりましてね……」 「プロスタ……?」 「プロスタグランディンというのは、一群の薬物のグルーブなんですが、その中のE1誘導体というのが、妊娠中期の、つまり最も胎児を取り出しにくい時期に、人工流産を促す薬として開発されているんです。目下はマリア製薬ともう一社の大手がサンプルを生産して、国立病院の医者などに配っている。勿論《もちろん》われわれは、胎内死亡とか、妊婦の健康状態から妊娠継続は不可能と判断したケースの、治療的流産に試用しているわけですが」  その薬品について、もう少し具体的な説明を求めたところ——  マリア製薬の製品名は〈プロスタン〉という膣坐薬である。一個に一ミリグラム含有と、三ミリグラム含有の二種類あり、一ミリグラムなら三時間毎に一〜四個、三ミリグラムなら一個を膣内へ挿入するだけで、子宮の持続的収縮を促し、出血が始まって、流産に至る。妊娠中期ならほぼ百パーセントの有効率で、吐き気や腹痛を伴うこともあるが、耐えられないほどの副作用はない。その後|掻爬《そうは》が必要なケースと、それも必要ない場合とあるが、いずれにせよ、堕胎に伴う最も危険な部分の仕事を薬が受持ってくれる形なので、手術は非常に容易となり、患者の苦痛も少い……。 「つまり、膣坐薬の一個か二個で、確実に子供を堕《お》ろせるわけですからね。この薬品が出廻れば、妊娠中絶の形態は一変するといわれています。ただまあ、いろいろ倫理的な問題も伴うので、最初のうちは、優生保護法指定医が所属している日本母性保健医協会が強硬に反対していた。が、近頃では本剤に対する理解が滲透《しんとう》してきて、近く厚生省の製造許可もおりるだろうという見通しですね」  穂積医師はやや重い口調で語った。 「少くとも、現にそういう薬が存在するわけですね」  捜査員も複雑な面持で念を押した。 「で、ある患者が先生に尋ねたというのは……?」 「彼女は最近それについて週刊誌で読んだようでした。その薬のサンプルをプロパーが入手する機会はあるかと、しきりにその点を知りたがってました。まあ、答えは濁しておきましたが」 「実際はどうなのですか」 「ふつうは製薬会社の開発部の人が、直接ぼくらのデスクへ持ってきてくれるんですが、使っていて、きれた場合、こちらから電話して、プロパーにことづけてもらうこともありますね。サンプルを何十個か届けてもらうと、ぼくらは受領印を押すわけですが、いちいち数えませんから、もし一シートくらい不足していたとしても、気が付かないかもしれませんね」 「なるほど」 「実は、田部君がいつかこんなことをいってたのが、印象に残ってるんですよ。たとえば『アメリカの悲劇』の主人公は、妊娠させた女の始末に困って、殺してしまい、死刑になったが、これからの時代にはそんな悲劇はなくなるでしょうね。相手が承知しなくても、こっそり流産させてしまえばいいんですから。殺人を犯すより、堕胎罪のほうが、それこそ罪は軽いでしょうからねえ、と……」  正午すぎに、船橋西署の捜査員二人が、西日暮里駅近くの、尾竹橋通りに面した半田文房具店を訪れた。この時、半田教子は、ひっそりと仄暗《ほのぐら》い店の奥に掛けて、女性誌を読み耽《ふけ》っていた。  自分たちの身分を明らかにした上で、捜査員は最初に告げた。 「昨日の午後、田部朗さんが病院で意識を回復しましたよ」  つぎの瞬間教子の面上に浮かぶであろう恐怖や狼狽が、彼女の犯行を物語るはずだった。だが、予想に反して、彼女の親しみやすい丸い目の中には、徐々に、なんともいえない安堵《あんど》の輝きが漂い出た。 「助かったんですね、彼だけは……」  教子は深い溜息と共に呟《つぶや》いた。  任意同行を求められた彼女は、署で取調べが始まると、しばらくは頑《かたく》なに黙りこくっていた。が、取調官のきびしい追及に耐えきれず、ようやく田部朗殺害未遂の犯行を自供し始めた。その供述の内容は、どうやら笹井友梨殺害事件とも関連している模様なので、本部では池袋署とも連絡をとった。  同じ頃、池袋署へは、穴吹朋江が出頭して、七月八日の事件当夜自分が目撃した事柄を説明していた。 「最初に警察へ行きそびれてしまい、もう今さらとても信じてもらえないと思って、打ちあける勇気がなかったんです。でも、今朝自分でジャズダンス教室を訪ねてみたら、友梨さんのお友達が、私の話に思い当る節があるといってくれたので、やっと届け出る決心がついたんです……」  池袋署の署員が、朋江を船橋西署まで連れて行き、片側からだけ見える窓を通して、半田教子の顔を検《あらた》めさせた。 「ディスコの前のコンコースで見た女の人に、よく似ていると思います」  朋江はどこか物悲しい目になって答えた。    6  半田教子は、田部朗殺害未遂の犯行を認めると、続いて笹井友梨殺害も自供した。事件の目撃者が現われたと告げられ、もはや逃れられないと観念したようだ。彼女は二つの事件の犯行の動機と、そのいきさつを、およそつぎのように告白した。 「結婚以来この五年間、私は赤ちゃんが欲しいという一念だけにとりつかれて生きてきたような気がします。繁盛しない店と、こちらから話しかけなければ何時間でも黙りこくっているような夫だけが相手では、何の生甲斐《いきがい》もありません。自分の胎内に宿るわが子であれば、父親は誰でもいい。田部のほうが妊娠の可能性が高いと思って、排卵日を狙って彼と関係を持ちました。  首尾よく妊娠したとわかった時には、私は天にものぼる思いで、そのことを田部に打ちあけました。うれしさのあまり、その瞬間には、私は彼を心から愛しているとさえ錯覚していたのです。  でも、四箇月目の後半で、私は突然流産してしまいました。  忘れもしない五月十一日朝十時四十五分頃、私は西日暮里駅で、地下鉄の階段を降りるところでした。そろそろお腹の赤ちゃんが動き始める頃ではないかしら、などとうっとり想像しながら、下を向いて歩いていた私は、国電の改札口から吐き出されてくる人波を感じ、ハッとした途端に、激しく人とぶつかってしまった。よろめいて尻もちをつき、振り返った私の目に、見向きもせずに歩き去っていく三人連れの女の後ろ姿が映りました。  あの女たちとぶつかったことは確かなのです。駅の付近で時折見かけるグループで、いつも目につく服装をして、声高に喋りあっている。その時も『レオタード』ということばが耳に入りました。それと、相手はノーブラでした。ぶつかった瞬間の感触と、うすいドレスの下にきれいな乳首が透けて見えたので、それだけはまちがいないと思った。でも、三人のうちの誰かは、わからなかったのです。  とはいえ、私はその直後には大して気にしていなかった。尻もちをついたショックもさほどとは思われなかったし、妊娠四箇月の後半に入ると、もう流産の危険の少い安定期だと聞いていたからです。あまり心配していなかったからこそ、予定通り地下鉄に乗って湯島へ行き、田部と落合って、ホテルで逢曳《あいび》きしました。病院の昼休みの前に会いたいと、彼から誘われていたのです。私は、病院へ行くとさえいえば、いつでも姑《しゆうとめ》に店番を頼んで外出することができました。  ところが、その日の夕方から出血が始まり、私は赤ちゃんを失ってしまいました。四年も不妊症外来へ通い、ようやくにして授かった、自分の命よりも大切な胎児を——。  流産の原因は、朝の出来事以外には考えられません。でも私は、夫や姑には、高校生の自転車に後ろから突っかけられたのだといっておきました。私が下を向いて歩いていて、人とぶつかって転んだなどとありのままを話せば、どんなに私の不注意を責められるかわかりません。  自転車と聞いて、姑も私を叱らなくなりました。自分もぶつけられて捻挫《ねんざ》した経験があったのです。  私はただ内心で、あの三人のうちの誰とぶつかったのかを突き止め、きっと復讐《ふくしゆう》してやると、固く誓っていました。 『レオタード』の一語から、西日暮里駅の近くにあるジャズダンス教室に当りをつけました。見張っていると、案の定、例の三人組が出てくるのを認めました。  つぎに、一人ずつ尾行して、身許《みもと》をつきとめました。最初は渡辺ひろみという女で、名前と住居がわかると、接近するチャンスを狙った。六月四日の午後、私は新座市の実家へ帰るといって家を出て、渋谷にある渡辺ひろみのアパートの近くで張っていました。彼女は六時頃、派手な身なりで出てきて、六本木で三人のうちのもう一人の女と、その男友だちと落合った。私は、後を尾けていくのがやっとで、三人がディスコへ入るまで近付けなかった。  ディスコの騒音と暗がりの中で、私はひろみのブラウスを引き裂いた。彼女はノーブラではなかったけれど、たるんだメリヤスのシャツと、貧弱なみっともない乳房をむき出しにしてやっただけで、私はちょっと胸が晴れた。  世田谷区代沢に住む今野佐知子の家も、ジャズダンス教室から尾行してわかりました。近所の商店で、彼女が代々木のカルチャーセンターの小説教室へ通っていることを偶然聞けたのは、好都合でした。  そこへ出掛けてみると、ロビーで小説教室の作品集が売られていて、中には笹井友梨の〈嵐のてんまつ〉という短篇も載っていました。今野佐知子を尾行している間に〈友梨〉の名前も小耳に挟んでいたので、もしかしたら、と勘を働かせました。  七月六日に、私は国立病院で卵管の造影撮影を受け、結果は、中絶後の炎症のために卵管が癒着してしまっていると告げられました。その治療方法もないことはないが、いよいよ妊娠の望みはうすくなったのです。きっともう駄目だと、私は本能的に悟りました。その瞬間から、女たちへの復讐は、はっきりした殺意に変ったのです。  私は、笹井友梨のマンションもつきとめて、犯行計画を練りました。そうしている時だけ、私は狂い出しそうな絶望から逃れられた。  七月八日木曜日、小説教室が終ったあと、すし詰めのエレベーターの中で、私は今野佐知子のサマーセーターをカミソリで切った。その下に、彼女は黒のブラスリップを着ていました。横から覗《のぞ》いてみた乳首は黒ずんでいて、ぶつかった相手とはちがうと判断しました。  残るは笹井友梨一人になった。  私が友梨のマンションへ着いた時、彼女はまだ帰宅してなく、マンションの中は無人のようでした。  私は喫茶店に入って、手紙をしたためた。  小説教室の雑誌の巻末には、誰それの作品が�文学世界�に転載されたとか、新人賞の候補に挙ったなどというニュースが載っていた。受講生たちにとって、それが垂涎《すいぜん》の的《まと》であることは、容易に想像できた。また、私は渡辺ひろみを尾《つ》けていった時以外、ディスコへ入ったことはなかったけれど、日頃読み漁《あさ》っている週刊誌や女性誌には、高級ディスコの様子などがたびたび紹介されているので、かなりの情報を蓄えていました。私は、もし友梨をどこかへ呼び出す場合には、�サザン・クラブ�のコンコースへ、人気が絶える時間帯に——と、前から当りをつけていたのです。  友梨は私の餌《えさ》にとびつきました。待ち構えていた私は、念のため、彼女がいつもノーブラであることを確かめ、西日暮里駅前で彼女とぶつかって転んだために、私がかけがえのない赤ちゃんを失ってしまったことを告げました。途中から私をあやしみ始めた彼女は、蔑《さげす》みのうす笑いを浮かべて答えた。『私はいつも忙しくて、些細《ささい》なことには構っていられないものですから』——。  そう、ぶつかったあとで、彼女がせめて後ろを振り向いて頭をさげていたら、それともコンコースのベンチで『ごめんなさい』と一言謝ったら、私の決意は鈍っていたかもしれません。でも、あの女には、自分以外の人間の心など、何一つ見えてはいなかったのでしょう。  私は友梨のブラウスを引き破り、瞼に焼きついたあの憎らしいほどきれいな乳首を、もう一度この目にした。続いて、ひと思いにその胸へナイフを突き立てた……。  しかし、私もまた、憎しみのあまり盲目になっていたことを、間もなく思い知らされた。  七月十二日午後、田部と逢曳きしていた折、プロスタグランディンに関する記事が目に止ったのは、皮肉なことに、流産した五月十一日にも彼と会った湯島のホテルの一室でした。  彼と別れたあとで、少しずつ霧が晴れるように、私には真相が読めてきたのです。  五月十一日の昼まえ、田部は私を誘い出したものの、『今、あなたは大事な時期だからね』などと心遣いを見せて、行為を強いることはなく、ただ、私に触れただけでした。それだけでも私のからだは熱く燃えていたから、巧みな愛撫《あいぶ》の途中で薬を挿入されれば、ほとんど気が付かなかったでしょう。考えてみれば、友梨とぶつかった時の衝撃はさほどひどくはなかったし、私は流産の危険の少い妊娠中期に入りかけていたのです。  国立病院の穂積先生に探りを入れてみると、薬のサンプルを扱うプロパーが、それを少しかすめとる機会など、いくらでもありそうです。私の胎児は、田部の手で、恐ろしい薬剤によって始末されたのにちがいありません。  田部への怒りは、友梨たちに対するより何倍も激しかった。彼は私が、長い年月、どんなに赤ちゃんを欲しがっていたか、知り抜いていたはずです。ようやく宿った子が、田部の胤《たね》だと明かしたものの、彼に責任を負わせる気など、みじんもなかった。田部と夫とは、ABO式の血液型が同じだし、わが家には待ち焦れた子供なのですから、問題の起こる心配は全然ないと、田部には断っておいた。それでも彼は、のちのちどんな迷惑が振りかかるかもしれないと恐れて、あるいはただなんとなく煩わしいというだけで、私の大事な赤ちゃんを情容赦もなく葬り去ってしまったのです。日頃は優しそうな素振りをしながら、徹底的に自己本位なその冷酷さに、私は腸《はらわた》が煮えくり返るようだった。  約十日後の七月二十三日、この晩も私は実家へ帰るといって家を出た。実際には、八時に新御茶ノ水駅前で田部の車に乗せてもらい、船橋のパーク・イン・シアターへ出掛けた。彼が時々話題にしていた野外映画劇場へ、一度私も連れていってとせがんだのです。  この三月に開通した高速湾岸線を走って、最寄りのインターで降りると、道路脇に車を停めて、私は後部シートの下へ身をひそめました。シアターのゲートを通る時だけ、車内に彼一人のように見せれば、料金は千五百円で、半額ですむのです。無論私の提案でした。  うわべはあくまで優しい彼は、私の希望通り、駐車場の最後列に車を駐めてくれた。  私たちが着いたのは、八時五十分頃で、上映の合間の休憩時間でした。彼はシアターの後方にあるレストランへ行こうと誘ったけれど、私はあまり食欲がないといって断り、彼にジュースとクレープを買ってきてもらった。これで彼といっしょのところを目撃される危険を避けることができました。  九時から二回目の上映が始まりました。駐車場は暗く、大抵の車は窓を閉めてクーラーをつけ、カーラジオからサウンドトラックを流している。観客の視線は大型スクリーンに吸い寄せられ、田部もたちまち画面に魅《ひ》きこまれていった……。  それでも私は、長い間迷っていた。誤って友梨を殺してしまったおそろしい後悔が、私を怯《ひる》ませていたのです。思えば田部を種馬みたいに利用したり、そのことを彼に喋ってしまった自分もまちがっていたのだと、自分自身をなだめようともした。  十時半を過ぎると、私は決心しなければならなかった。私は何もいわずに後部シートへ移り、バッグの中に入れてきた主人の古いネクタイを取り出した。映画に熱中している田部の後ろから、いきなり頸《くび》にネクタイをかけて絞めつけた。いったん力を緩めて、 『本当のことをいったら許してあげる。あなたが薬を使って、私の赤ちゃんを殺したんでしょ?』  耳許で囁《ささや》くと、田部は幾度も頷きました。私は、再び力一杯絞めた。彼が白目をむいてぐったりしたので、それで死んだものと思った。  偽の脅迫状のコピーは、前の日に作っておいたのです。田部がクレジットカードを紛失したこと、それを拾って不正使用したらしい犯人を自力で突きとめ、罠を仕掛けたという話を、私は湯島のホテルで彼から聞かされていました。ちょっとでも自分のプライバシーが侵されるようなことには、彼はまるで偏執狂的になるのです。きっとそれも、若いくせに保身本能が異常なほど強いからでしょう。  不正使用の犯人は、同じ会社のプロパーらしいと睨《にら》んでいたので、彼がその男を脅迫したために、相手に殺されたような状況を擬装することにしました。筆跡鑑定も予想はしましたが、田部自身が筆跡を紛らして書いたのかもしれないと解釈されれば、本人の字かどうか断定できなくなるのではないかと考えた。とにかくなんとかして捜査を別の方向へ導く工作をしておかなければ、田部と私の関係はいずれ調べ出されて、私は容疑を免れられないと恐れていたのです。  ——でも、結局は、すべてが明るみに出てしまいました。  私も、復讐を仕遂げたあとでは、虚《むな》しさと哀《かな》しみに襲われ、自分の犯した罪の恐ろしさに怯え続けていました。でもまた、友梨みたいな女はいなくなったほうがいいんだと、胸のすくような思いがすることもあった。�翔《と》んでる女�なんて、マスコミでも、見かけだけのあんな女たちばかりもてはやされている。でもそのお蔭《かげ》で、世間には誰にもわかってもらえない飢餓地獄を独りでさ迷うしかない女もいることを、豊かな世の中にもまだ自由に翔べない女のほうが多いんだってことを、みんな気が付かないでいるんじゃないでしょうか。  一度頸を絞めただけで、田部が死んだと思いこんでしまったことも、悔みきれない失敗だった。もし彼が目を覚まして喋り出したら、私の犯行はたちまち露顕してしまいます。病院へ忍びこんで、もう一遍絞めてやろうかとさえ考えた。それでいて——なぜでしょうか、とうとう刑事が私の前に現われて、そして田部が意識を回復したと告げられた瞬間、私はホッと救われていたのです……」  船橋西署でも詳細な事情聴取を受けた穴吹朋江が、ようやく解放されたのは、その日の午後三時を廻る頃だった。  これから朋江は、穴吹が留置されている新宿警察署へ出向かなければならない。穴吹の取調べは一応終り、逃走や罪状隠滅の虞《おそれ》はないと判断されて、在宅送致と決った。朋江が身柄を引取りに行くようにと、船橋西署の係官が連絡を伝えてくれた。 「今日は帰宅させてもらえても、主人は送検されるわけですか」  朋江が不安そうに訊《き》くと、 「カード不正使用の金を全額弁償すれば、おそらく起訴猶予になるでしょう」と相手は答えた。  新宿署までは、船橋西署の車で送ってもらえるらしい。  警官が車を廻してくる間に、朋江は、細い道路を隔てた署の向かいにある黄色い公衆電話へ走り寄った。バッグの中に挟んでおいた名刺を見て、ダイアルした。交換台が出ると、 「あの、管理部の枇杷島さんを——」 「少しお待ちください」  電話が途切れたあとで、朋江はなぜか急に心臓が高鳴ってくるのを覚えた。  しばらくして、同じ交換手の声が答えた。 「申しわけございません、枇杷島はただ今外出しておりますが——」  一瞬胸に落ちた失望のせつなさが、朋江を戸惑わせた。「ネズミ」というニックネームがいかにも感じをいい当てていた、浅黒い小さな顔を、自分でもハッとするほど鮮やかに、眼前に描いていた。くぼんだ三角の目と、上を向いた鼻、そして白い歯を覗かせて笑う時の、あの人懐こい声——。 「だけど人生には、やっぱり案外思いがけない出来事も起こるし、そのぶん、もう絶対に取り返しがつかないなんてことはないと、ぼくは信じているんですよ……」 (そう……たぶん、立ち直れるわね)  穴吹と、半田教子の顔を、朋江は脳裡《のうり》に浮かべた。それから自分自身に向かって、彼女は囁いた。 (少くとも、もう私は夫に対して、無用のコンプレックスを抱かずにすむわけだわ)  いつか電話は切れていた。 「ありがとう」と呟いて、朋江は受話器を戻した。きっと、枇杷島自身が、「思いがけない出来事」だったのだ……。  クラクションを聞いて、朋江は電話ボックスを出た。道路を横切りながら、思った以上の灼《や》けつくような炎暑に身を包まれた。長い梅雨が明けていきなりやってきた真夏の陽光がアスファルトに照りつけ、また強烈な照り返しを誘っている。その辺りの路面からは、ユラユラと陽炎《かげろう》が立ちのぼり、何か声にならない叫びを発しているのが、ふと朋江の耳に聞こえるような気がした。 この作品は昭和五十八年五月新潮社より刊行され、昭和六十一年一月新潮文庫版が刊行された。