[#表紙(表紙.jpg)] 8月のカモメたち 喜多嶋隆 目 次  1 夕陽の当たるバー  2 17歳の冬、サガンを読んでいた  3 待っている男  4 少年の眼をしている  5 海に向かって、グッド・モーニングと言った  6 雨の夜はジャズ・バラード  7 スキャンダル  8 漂うヨットのように  9 南風がページをめくっていく  10 一発波  11 ウイスキー・ティーに泣かされて  12 夢が走りはじめるとき  13 ストーリーは、潮風がくれた  14 世の中とうまくやっていけない者たち  15 ムーンライト・キス  16 もう一度、リングに……  17 サヨナラは言わないから    エピローグ    あとがき [#改ページ]  1 夕陽の当たるバー       □ 〈轢《ひ》かれる!〉  水面に顔を出した瞬間、あたしは、そう思った。白いモーター・ボートが、ものすごいスピードで、こっちに突っ走ってくる! あと30メートルもない!       □  うかつだった。  アワビを獲《と》るのに、熱中していた。あたしの頭の中には、アワビのことしかなかったのだ。  あと1枚、アワビを獲ろう。そう思って、いつもより深く潜っていた。  気がつくと、肺が苦しくなっていた。息が上がりかけていた。急いで、岩を蹴《け》る。浮上する。やっとのことで、水面に顔を出した。  その瞬間だった。  すごいスピードで飛ばしてくるモーター・ボートに気づいた。  モーター・ボートは、まっすぐに突っ走ってくる。もう、眼の前に迫っていた。  素潜りのダイバーは、走る船からは見つけづらい。このボートも、水面にいるあたしに気づいていない。  このままだと、轢《ひ》かれる!  プロペラに引っかけられたら、おしまいだ。  あたしはもう、体をジャック・ナイフ型に折って、水に潜っていた。必死で潜る。足ヒレで水を蹴る。  足ヒレの先に、軽いショックを感じた。頭上の海面をボートが走り過ぎるのを感じた。  体を反転させた。海面を見た。  陽射しが揺れている海面。ボートがつくった曳《ひ》き波が見えた。ボートは通り過ぎた。  あたしは、ゆっくりと浮上する。水面に顔を出した。  走り過ぎていくボートの後ろ姿が見えた。100馬力ぐらいの船外機をつけたモーター・ボートだった。あい変わらずのスピードで飛ばしていく。轢きそうになったダイバーのことには、まるで気づいていないらしい。  男の子だったら、 〈バッカヤロー!〉  と、どなるところだ。  あたしは、どなるかわりに、シュノーケルから水と空気をプッと吐き出した。思いきり吐き出した。  海面に浮いて、周囲を見回した。  40メートルぐらいはなれた所に、磯《いそ》がある。小さな磯が、海面にちょこんと頭を出している。  そこに上がって、ひと休みすることにした。あたしは、ゆっくりと泳ぎはじめた。       □  磯にたどり着いた。  磯には海藻がついていて、滑りやすかった。それでも、なんとか、あたしは磯に腰かけた。  手に握っていた磯鉄《いそがね》を、わきに置いた。  シュノーケルを口からはなす。水中メガネも、おでこに上げる。ほっと息をついた。  さっきショックを感じた足ヒレの先を見た。  左の足ヒレ。その先端が、少し裂けていた。どうやら、モーター・ボートのプロペラにやられたらしい。  きわどかった。  あと1秒遅れたら、足ヒレじゃなくて、体のどこかを切り裂かれていただろう……。  あたしは、顔を上げた。けど、あのモーター・ボートの姿はもうない。7月の海が、広がっていた。夏のはじめの陽射しが、海に反射していた。  あたしは、ふと、思い出していた。  小学生の頃だった。となり街の逗子で事故があった。  シュノーケルで素潜りをやっていた中学生の男の子が、モーター・ボートのプロペラにやられた。ほとんど即死だったという。  その男の子は、まっ黒のウエット・スーツを身につけていたらしい。黒なので水面で目立たず、ボートに轢《ひ》かれたという話だった。  あたしは、グレーに鮮やかな黄色いラインが入ったウエット・スーツを身につけていた。  プロの漁師は、安全のために、赤やオレンジの、目立つウエット・スーツを身につけていることが多い。  逆に、密漁をやっている人間のほとんどは、目立たないように黒のウエット・スーツを身につけている。  あたしも、はじめ、黒のウエットにしようかと思った。  けど、それじゃ、密漁をやっているのが露骨にわかってしまうし、安全性の問題もあるので、こういうデザインのものにしたのだ。  ウエストには、1キロの|重り《ウエイト》を2個つけている。  そして、ウエストのベルトに、網《ビク》を結びつけている。  ビクの中を見た。アワビが2枚。そして、サザエが3個、入っていた。  収獲としては、不満だった。けど、アワビの1枚は、黒アワビだった。何種類かあるアワビの中でも、一番、値のはるものだ。  腕のダイバーズ・ウォッチを見た。  午後4時近い。  そろそろ、陸《おか》に上がらなければ……。収獲を売りにいく時間だった。  しょうがない。上がろう。  あたしは、水中メガネを顔に当てた。シュノーケルをくわえる。磯鉄《いそがね》は、ウエスト・ベルトに結びつけた。  水に入る。砂浜に向けて、泳いでいく。       □  葉山の森戸《もりと》海岸が近づいてきた。  あたしは泳ぎながら、砂浜を見渡した。  幸い、漁師や漁協の人間らしい姿は見えない。ウインド・サーファーが何人か。それに、大学生のヨット部員らしいのがいるだけだ。  あたしは、波打ちぎわで、足ヒレをはずした。それと網《ビク》を手にぶら下げて、砂浜に上がっていく。  砂浜に、あたしのナイロン・バッグが放り出してある。かなりくたびれたナイロン・バッグだった。  そのそばに歩いていく。  とりあえず、収獲の入っているビクをバッグの中に入れて、かくした。  それから、ゆっくりと、ウエット・スーツを脱いでいく。  上半身、脱いだとき、 「おい、サザエ泥棒!」  という声がした。       □  ふり向く。  珠美《たまみ》がいた。あたしと同じ葉山育ちで、子供の頃からの友達だ。昔から、あたしは珠美《タマ》と呼んでいる。  珠美《タマ》は、ウインド・サーファーだった。いまも、派手な蛍光カラーのウエット・スーツ姿で砂浜にいた。タマのウエット・スーツは、ショートジョンだ。筋肉質の脚が、濡《ぬ》れている。やはり、海から上がったところらしい。 「とれたか、サザエは」  とタマ。ニヤニヤしながら言った。 「うるさいわね」  あたしは、ウエット・スーツを脱ぎながら言った。  下には、競泳用の水着を着ていた。あたしは、バッグからショートパンツを出した。  潮で少しゴワゴワしているショートパンツ。それを、水着の上に身につけた。上半身には、ゆるいTシャツをかぶった。 「あたしはね、あんたみたいにチャラチャラしたサーファーとは、ちがうんだから」  とタマに言った。 「これでも、生活かけてるんだからね」  と言いながら、荷物をバッグにつめこんだ。 「ほっといて」  タマに、アカンベーをしてみせた。  ビーチ・サンダルをはいた。バッグを肩にかけた。スタスタと歩きはじめた。       □ 「え? やめた?……」  あたしは、思わずつぶやいていた。 「ああ。近藤のやつは、やめたよ。きのういっぱいで」  とマネージャーらしい中年男。ボソッと言った。  レストラン〈ラ・メール〉の裏口だった。  このシーフード・レストランで料理人をやってる近藤さんが、いつもあたしからアワビやサザエを買ってくれていた。あたしのアワビやサザエが、密漁してきたものだと知っていながら、 〈店にはないしょで〉  と言って、買ってくれていた。  きょうも、ここで買ってもらおうと思っていたのに……。 「近藤に、なんか用?」  とマネージャー。とがめるような眼つきで、あたしを見た。 「い、いえ……。いいんです」  あたしは言った。回れ右。歩きはじめた。       □  パタ……パタ……。  ビーチ・サンダルの足音が、海岸通りに響いていた。  あたしは、重い足どりで歩いていた。たそがれ近い海岸通りに、自分の影が長い。  新しい買い手をさがさなければ……。いくらアワビを獲《と》っても意味がない。  そのことを考えながら、ぼんやりと海岸通りを歩いていた。葉山マリーナの前を通って、元町商店街につづく道路だ。  まだ、7月のはじめだ。海水浴のシーズンには少し早い。  梅雨もあけていない。梅雨のあい間の気まぐれな陽射しが、海岸通りを照らしていた。  道路は、カーブしていた。京急バスが、きゅうくつそうに道路を曲がっていく。  あたしは、立ち止まった。立ち止まって、バスをやり過ごした。  また歩き出そうとして、ふと、右を見た。  海岸通りから、わき道がのびていた。クルマがやっと1台通れるぐらいのわき道だ。歩いていけば、森戸海岸に出る道だった。  その道のとちゅうに、1軒の店があるのが、ちらりと見えた。  あれは、確か、バーかレストランだった。入ったことはないけど、たぶん、飲食店にまちがいなかった。  あたしは、そのわき道に入っていった。  30メートルぐらいいった右側に、その店はあった。  ごく普通の一軒家。その1階をお店にしている。そんな感じだった。  全体に、サーフ・ショップみたいな雰囲気だった。店の外観は板張りで、白いペンキが塗ってある。ペンキは、ところどころ、はげていた。  窓が広くとってあり、窓枠には、ペパーミント・グリーンのペンキが塗ってあった。  カリフォルニア風とでも言うのか、とにかく、明るい感じの店だった。  ドアのわきに、やはり、板でつくった看板が出ている。あまり大きくはない。白地にブルーで〈SUNSET〉と描《か》かれている。その下に小さめの字で〈BAR〉と描かれている。それだけだった。  店の名前は〈サンセット〉らしい。  あたしは、その看板をながめていた。サンセット……。平凡だし、なんとなくイージーなネーミングだと思った。  けれど、しばらくながめているうちに、その理由がわかった。  夕陽が、もろに、店に当たっているのだ。  その店のある所から、道路はゆるい下りになっている。店の前に立つと、海が見えた。家の屋根と松林の向こうに、水平線が見えた。  水平線の少し上に、夕陽があった。黄色い陽射しが、店に当たっていた。白いペンキの外観が、黄色っぽく染まって見えていた。  夕陽が当たるから〈サンセット〉と名づけたんだろう……。それにしても、イージーな名づけ方にはちがいない。  店のとなりは、駐車スペースになっている。2台分のスペースだった。いま、赤錆《あかさ》びだらけのホンダ・シビックが1台だけ駐《と》まっていた。  あたしは、店の外に立って、10秒考えた。  そして、入ってみることにした。  迷っていても、はじまらない。当たって砕けろだ。  ドアの前に立った。ドアのガラスに映っている自分の姿をちょっと見た。  海に入る時は後ろで束ねている髪も、いまはほどいている。陽射しを浴びて歩いているうちに髪は乾いていた。  髪は、肩までとどく長さだった。前髪は、眉《まゆ》にかかる長さで切り揃《そろ》えてある。自分で切ったんで、うまく揃ってはいない。毛先がパラパラと眉にかかっている。  このところ毎日のように海に潜っているので、髪は潮灼《しおや》けして、少し赤茶っぽくなっていた。  顔は、まんべんなく陽に灼けている。  手脚は長いけれど、どうまちがってもグラマーとは言えない。いまはまだ伸びる方に栄養をとられて、お肉の方に回らないんだろう。  あたしは、前髪をちょっと指でとかした。そして、店のドアを開けた。       □  カウンターだけの店だった。10人ぐらい座れるカウンターがあり、テーブル席はなかった。  客はまだ1人もいなかった。窓から入る夕陽だけが、店にあふれていた。  カウンターも、棚に並んでいるグラスも、ペーパー・ナプキンも、みんな夕陽の色に染まっていた。  カウンターの中に、若い男が1人いた。  男は、包丁を使っていた。見れば、ショウガの皮をむいているところだった。  彼は顔を上げた。あたしを見た。 「いらっしゃい」  と言った。あまり、あいそのいい言い方じゃなかった。この店のコックだろうか……。 「あの……」  彼の方に歩きながら、あたしは言った。 「お店の責任者の方……いますか?……」  彼は動かしていた包丁を止めた。 「責任者?」 「ええ」 「……もしかしたら、おれのことかもしれないな。たいした責任は持ってないけど……」 「っていうと、あなたが店長?……」 「ああ……。店長で、バーテンで、コックで、皿洗い」  彼は言った。かすかに微笑《わら》った。ちょっと皮肉っぽい微笑だった。  年齢《とし》は、20代のまん中あたりだろう。細面《ほそおもて》の顔つきだった。半ソデの白いポロシャツを着ていた。顔も、首筋も、ポロシャツから出ている腕も、チョコレート色に灼《や》けていた。  いくら海岸町の人間でも、7月はじめにこれだけ灼けている人は少ない。サーファーだろうか……。  彼は、手を止めたまま、あたしを見ていた。 〈それで、用件は?〉  と眼が訊《き》いていた。 「あの……アワビ、買ってくれませんか?」  あたしは、思いきって言った。 「アワビ?」  あたしは、うなずいた。 「あ、あの、サザエもあるんです」  と言った。ナイロン・バッグを床に置いた。手を突っ込む。ビクに入ったアワビとサザエを取り出した。それを、カウンターの上に置いた。  彼は、包丁を置く。ビクから、アワビを取り出した。  黒アワビを、手に取った。 「クロか……」  と、つぶやいた。身の重さを、手で測っている。アワビのわきに指を突っ込んで、雄《オス》か雌《メス》か、見ている。手ぎわが良かった。海のものを扱いなれている動作だった。  彼は、もう1枚のビワアワビも手に取る。重さを手で測った。3個のサザエも、チラリと見た。そして、また、包丁でショウガの皮をむきはじめた。  ダメかな……。  あたしは、心の中でつぶやいた。どう見ても、密漁してきたとわかるだろう……。それで、買うのをためらっているのだろうか……。 「あの……どうですか?……」  あたしは訊いてみた。  彼は、あたしを見る。小さく、うなずいた。意外にも、 「いいよ」  と言った。 「いい?……」 「ああ。買うってこと。……全部で4千円ってところだな。それでよければ、買う」  彼は言った。  4千円……。それは、あたしが予想していたのとまったく同じ金額だった。あたしは、うなずいた。  彼は、レジにいく。千円札を4枚、取り出した。黙ってあたしにさし出した。 「ありがとう」  あたしは、お金をショートパンツのポケットに突っ込んだ。ナイロン・バッグを、肩にかけた。 「あの……また、買ってくれます?」  ドアの前でふり向いて、あたしは訊《き》いた。彼は、包丁を持ったまま、うなずいた。 「じゃ……また、明日も持ってきます」  あたしは言った。彼が、また、うなずいた。店を出ていこうとするあたしの背中に、 「密漁取締り船に気をつけろよ」  と彼が言った。あたしは、ふり向いた。彼は包丁を動かしながら、 「今年は、やけにうるさく取締まってるみたいだぞ」  ぼそっと言った。言いながら、ショウガの皮をむきつづけている。あたしは、 「ありがとう。でも、大丈夫」  と言った。バッグを肩に、店を出た。  それが、あたしと彼との出会いだった。 [#改ページ]  2 17歳の冬、サガンを読んでいた       □  彼には〈大丈夫〉と言ったものの、あまり大丈夫ではなかった。  翌日。海には、密漁取締り船が何|艘《そう》も出ていた。  取締りには、小型の伝馬船《てんません》を使っている。それに、漁協の人間が2人ずつ乗っている。〈密漁取締船〉と描《か》かれた赤い旗を立てて、伝馬船は海の上をパトロールしていた。  ひどく目立つ旗を立ててパトロールしていることで、密漁者を追い払う効果を狙《ねら》っているのかもしれない。  でも、安心するわけにはいかなかった。いつ、本気になってダイバーをつかまえにこないとは限らない。こっちは、証拠品を腰のビクに入れているんだし、もしそれが見つかれば、警察に連れていかれる。  あたしは、潜る場所を、きのうとは変えた。  一色《いつしき》海岸のそばにある芝崎《しばざき》の磯にいった。そこは、ただ遊びでシュノーケリングをやっている人も多いんで、やりやすいと思ったのだ。  磯にナイロン・バッグを置く。腰に2キロのウエイトをつけ、磯鉄《いそがね》を握って、海に潜った。  取締り船を気にしながらなので、思うようにいかない。  おまけに、潮が少し濁っていた。午前中、雨が降っていたせいだろう。海中の視界があまり良くない。  それでも、一生懸命潜った。  磯のすき間に、小さめのビワアワビがいるのを見つけ、磯鉄ではがした。  アワビは、結局、それ1枚しか獲《と》れなかった。  そのかわり、赤ウニを5つ、獲った。  赤ウニは、直径7、8センチぐらい。トゲは短く、赤茶っぽい色をしている。一見さえないけれど、これはおいしい。特にいま頃は、身がつまっていてベスト・シーズンだ。  黒っぽいウニを獲るのは観光客で、地元の人間はみな、この赤ウニを獲ろうとする。  あたしは、アワビ1枚と赤ウニ5個をビクに入れて、磯に上がった。  あい変わらず、取締り船が赤い旗を立てて、行ったり来たりしている。  あたしは、収獲をナイロン・バッグに入れた。  きょうは、これ以上やっても無駄だろう……。上がることにした。磯鉄をバッグにかくし、ウエット・スーツを脱ぎはじめた。       □ 〈よお〉  そんな感じの表情で、彼はあたしを見た。  バー〈サンセット〉。きょうも、黄色い夕陽が窓から入ってきていた。  主人の彼は、カウンターの中にいた。グラスを洗っていた。入っていったあたしを見ると、 〈よお、収獲はどうだった?〉  という表情をした。唇と目尻《めじり》が、かすかに微笑《ほほえ》んだ。  あたしは、ビクをカウンターの上に出した。彼は、小さめのアワビを手にとった。あたしは、ビクからウニも取り出した。 「赤ウニか……」  彼が言った。ウニを手に取った。  ウニをまな板にのせる。なれた手つきで出刃包丁を使い、ウニの殻を割った。中身がつまっているのを確かめた。 「全部で、2千500円」  と言った。あたしは、〈オーケイ〉という表情でうなずいた。彼がレジからお金を出した。  あたしは、 「ありがとう」  と言い、店を出た。店の前で、1度だけふり向いた。  そのとき、窓ガラスのところに貼《は》り紙がしてあるのに気づいた。 〈アルバイト求む〉  貼り紙には、サインペンでそう書かれていた。〈午後6時から11時頃まで。委細面談〉と、その下に書かれていた。  バイトか……。  あたしは、胸の中でつぶやいた。  密漁の取締りは、まだまだつづくだろう。おまけに、夏休みに入ると、地元の子供たちまでが、アワビやサザエを狙って海にやってくる。  しばらくの間、たいした収入は期待できない。それに、どっちみち、夜は暇だ。  バイトか……。その手もあるなあ……。  あたしは、また、胸の中でつぶやいていた。  そして、5秒後には、店のドアを開いていた。何事もあまり迷わない性格だった。       □ 「バイト? 君が?」  と彼。グラスを洗う手を止めて、あたしを見た。 「高校生だろう?」 「卒業したわ。この春に」  あたしは言った。それは本当だった。彼は、あたしをじっと見ていた。 「あの……バイトの内容は?」  あたしの方から口を開いた。 「店の手伝いだな。皿の上げ下げとか、食器洗いとか……。もし魚がさばけるなら、バイト料も多めにできるけど……」  彼は言った。 「普通の魚なら、さばけるわ」  あたしは言った。彼は、うなずいた。冷蔵庫を開け、アジを2匹、取り出した。それを、まな板にのせた。 「こいつをタタキにしてくれないか」  と言った。 「テストね」  あたしは、笑顔を見せながら言った。 「そんな硬苦しいことじゃないよ」  と彼。 「きょうは群れに当たって、山ほど釣れたんだ。客がくる前にこいつで一杯やろうと思ってたところだから」 「これ、あなたが釣ったの?」  彼は、小さくうなずいた。特に自慢げな表情ではない。  あたしは、カウンターの中に入って行った。まな板を前にした。  アジは、20センチぐらいのものだった。釣ってすぐ氷水でしめたんだろう。魚体がピンと張っていて、新鮮そうだった。  あたしは、出刃包丁を握った。  アジのウロコを落とす。ゼイゴを削《そ》ぎ取る。三枚におろす。包丁を使わず、手で皮をひいた。ネギとショウガをもらうと、アジと一緒に包丁で叩《たた》いた。  2匹のアジが、タタキになった。5分もかかっていないと思う。  彼は、冷蔵庫からビールを取り出した。2つのグラスに、ビールを注ぐ。1つを、あたしに渡してくれた。そして、 「時給千円。よければ、明日からでもきてくれ」  と言った。       □ 「家は?」  グラスを片手に、彼が訊《き》いた。  あたし達は、アジのタタキを肴《さかな》に、ビールを飲みはじめていた。  窓からは、きょう最後の陽射しが入ってきていた。店のオーディオから流れているのは、FM横浜らしい。今井美樹のバラードが、ゆったりと流れていた。 「家は、葉山の町内よ」  あたしは言った。 「ウナギ屋の川正《かわしよう》があるでしょう。あの少し先を左に入ってすぐの……」  と、家の場所を説明しはじめた。S銀行の保養寮のとなりと言うと、 「ああ、門にペンペン草がはえてる家か」  と彼が言った。  あたしは、思わず、飲んでたビールを吹き出すところだった。  確かに、うちの門には、ペンペン草がよくはえている。古い和風の門なのだけれど、苔《こけ》だけじゃなく、ペンペン草まではえている。 「よく知ってるわね」  あたしは言った。 「学生時代にヨットやってて、合宿所が、あの近くにあった」  彼は言った。あたしは、うなずいた。  うちの近くには、ヨット部の合宿所がいくつかある。大学のヨット部が、一軒家を借りている。 「あの家の娘か……」  彼が、ビールを飲みながら言った。 「ペンペン草がはえてる家の娘じゃ、まずい?」 「いや。そういうわけじゃないけど」  と彼。ちょっと苦笑した。 「あんな広い屋敷の娘が、アワビの密漁をやるなんて、少し意外だったもんで」  と言った。陽灼《ひや》けした顔の中、歯が白く光った。珍しく、はっきりと笑顔を見せた。  あたしは、何もそれ以上、説明しなかった。彼も、それ以上は訊《き》いてこなかった。  1杯目のビールが空になる頃、 「名前は?」  と彼が言った。 「早川。早川|薊《あざみ》」 「あざみ?」 「そう。花のあざみ」  あたしは、カウンターの上に、指で〈薊〉という字を書いてみせた。 「うちの庭で、毎年、薊の花が咲くんで……それで、こういう名前になったみたい」  彼は、うなずいた。しばらく無言でいた。 「何か?」 「いや……。小説の中で、あざみの花が出てくる場面を思い出してたんだ」 「…………」 「……少年が、あざみの花束を、年上の女の所に持っていく場面があって……」 「〈青い麦〉? コレットの……」  あたしは言った。彼は、不思議そうな表情であたしを見た。密漁娘が小説を読むのは、やはり意外なんだろうか……。 「ひとりっ子だから、本を読むしか楽しみがなかったのよ」  あたしは言った。まんざら嘘《うそ》ではない。       □  あたしは、門にペンペン草のはえている古い家で育った。  住所で言うと、葉山の堀内《ほりうち》。海沿いの商店街から山の方に少し入ると、古い屋敷がつづいている。  一年中、人が住んでいる屋敷もあり、夏だけの別荘になっている屋敷もあった。うちは、そんな家の一軒だった。  ここに住みついたのは、祖父の代らしい。  祖父は、学者だった。海外文学の研究をしていた。  といっても、たまに評論や何かを発表するぐらいじゃ、食べていけるはずはない。祖父は、海外の小説の翻訳をやって収入を得ていた。どちらかといえば、ささやかな収入だけれど……。  祖母は、書道の先生だった。  まだ元気だった頃は、近所の子供を集めて習字教室をやっていた。  それに、町内の看板や表札書きもやっていた。当時、看板や表札はみな、木に筆で書いていた。 〈八百繁〉〈魚政〉釣り船屋の〈勇次郎丸〉などなど、そんな看板を、祖母はよく書いていた。祖母が書いた看板のいくつかは、まだ、葉山の町内に残っている。  祖母は、草木を育てるのが趣味でもあった。200坪以上ある敷地には、いろいろな草木が植えられていた。きちんと造園した庭という感じではない。それでも、季節が変わるたびに、いろいろな花が咲いた。  あたしの母は、ひとり娘として、この古い家で生まれ育った。  母は、この和風の古い家が好きではなかったらしい。  学者と書道家というカビくさい両親に反発していたのかもしれない。  母は、高校を卒業するとすぐ、東京に出てひとり暮らしをはじめた。美術学校に通いはじめた。  当時の母のスナップ写真を見ると、笑ってしまう。  ベル・ボトムのジーンズ。ピース・マークのついたTシャツ。ノーブラ。長い髪はストレート。そして、手にはフォーク・ギター。  70年代。もう戻らない日々だ……。  母は、美術学校でイラストを勉強し、卒業するとデザイン事務所に勤めた。  25歳の時、恋人ができ、妊娠した。けれど、当時の風潮で、結婚はしなかった。流行していた未婚の母として、あたしを産んだ。  母は、葉山の両親にあたしをあずけ、東京での仕事に戻った。イラストレーターとして、注目されはじめた頃だったという。  けれど、ある日、乗っていた私鉄が大きな事故を起こし、母は死んだ。あたしはまだ、1歳にもなっていなかった。       □  あたしは、両親も兄妹《きようだい》もいない子供だった。  けれど、そのことは、ほとんど気にならなかった。  生まれつき、楽天的だったし、何事も前向きにしか考えない性格だった。  優しい祖父母に育てられ、幸福な子供時代を送った。  周囲からはよく同情されたけれど、自分では幸福だと思っていた。  けれど、小学校に上がると、1つだけ問題が起きた。テレビだ。  学校にいけば、話題のほとんどがテレビ番組のことだった。  うちには、テレビがなかったのだ。  理由その1として、祖父母がテレビというものを観《み》なかったこと。  理由その2としては、生活がひどくつましかったことがある。  祖父母の収入を合わせても、普通のサラリーマンより少なかっただろう。この広い家を維持するだけで大変だったらしい。  うちには、冷蔵庫と洗濯機はあったけれど、掃除機もクーラーもなかった。いまも、ない。ほとんど、原始人の生活だ。  けれど、祖母は、昔ながらのやり方で掃除をしていたし、家がどっしりした和式の二階家なので、夏はクーラーがなくても涼しかった。  そんな生活なので、あたしは祖父母に、〈テレビを買ってくれ〉とは言えなかった。ないものは、しかたない。そう思って、明るくふるまっていた。  テレビはなかったけれど、あたしには海があった。  学校が終わると、同級生たちと別れて家に帰ってきた。ランドセルを放り出して近くの海岸に走って行った。  漁師の子供や、釣り船屋の子供たちと、毎日、遊んだ。  海に潜ること。魚を釣ること。磯《いそ》でワタリガニや藻《も》エビを獲《と》ること。それが、あたしの放課後だった。  海で遊んで帰ってくれば、あたしには本があった。  祖父の仕事がら、家には本が山ほどあった。翻訳された海外の小説ばかりだったけれど、本だけは読んでも読んでも読みきれないほどあった。  そんな本たちとともに、あたしの少女時代は過ぎていった。  10歳の春。沈丁花《じんちようげ》が香る家の縁側で、シャーロック・ホームズを読んでいた。  12歳の夏。水着で防波堤に寝転がって、〈嵐ヶ丘〉を読んでいた。  15歳の秋。海岸におりていく石段に腰かけ、涼しい風に吹かれながら、〈武器よさらば〉を読んでいた。  17歳の冬。砂浜のたき火でサザエを焼きながら、〈悲しみよ こんにちは〉を読んでいた。  その頃、あたしが海に持っていった本は、いまも、すぐにわかる。ページが潮風でゴワゴワになってしまっているから……。  けれど、そのことで祖父にしかられた覚えはない。  書斎の本棚から1冊ずつ抜き出していくあたしを、祖父はいつも優しく見守っていてくれた。  パイプにタバコの葉っぱをつめながら、優しい眼であたしを見ていた。  そんな祖父があっけなく死んだのは、いまから5ヵ月前の冬の日だった。 [#改ページ]  3 待っている男       □  その日は、よく晴れていた。寒い日だった。  あたしは、高校最後の期末テストを終えると、家に帰って来た。  家の前に救急車がとまって、赤いランプを点滅させているのが見えた。祖父が、救急車に乗せられるところだった。  突然の心不全だったという。病院に着いて30分後に、息をひきとった。72歳だった。冷たい病院の廊下で、セーラー服のあたしは祖母の肩を抱きしめていた。       □  祖父が死んで、祖母は、がっくりときてしまったらしい。やっていた習字教室も、やめてしまった。  以来、祖母は、ぼんやりと過ごしていることが多くなった。家事は、いままで通りやっていた。けれど、ぼうっと庭をながめたり、ただ墨をすっていたりすることが多くなった。やはり、ショックが大きかったんだろう。  あたしの方は、ぼんやりしてる場合じゃなかった。  バイトをしながら短大に進学しようとしていたのを、とにかく、やめた。  高校は卒業した。  祖母の様子を見ながら家の整理をしているうちに、春は終わってしまった。  気がつくと、家には、ほとんどお金がなかった。  いくら原始人なみの質素な生活でも、お金は必要だった。 〈ほら、がんばらなくちゃ、薊〉と自分自身に声をかけた。  といっても、稼ぐためにあたしができることは限られていた。その1つが、アワビやサザエを獲《と》ることだった。本格的にはじめて、もう2ヵ月になる。       □ 「なるほど……」  彼は、つぶやいた。グラスのビールを、ぐいと飲んだ。  あたしは、これまでの事情を、すごく短いダイジェスト版にして話し終わったところだった。  彼は、無言できいていた。きき終わっても、同情めいたことは言わなかった。ただ、 〈なるほど……〉  とだけつぶやいて、ビールを飲んでいた。もう話すこともないんで、 「それじゃ」  と、あたしは立ち上がった。彼は、 「明日からよろしく」  と言った。あたしは、バッグを肩にかけ、店を出ていこうとした。 「あ、そういえば」  とつぶやいて立ち止まった。彼を見た。 「明日から、なんて呼べばいいの? マスター?」  彼は、苦笑した。 「マスターは、やめてくれよ。なんか古くさいから。名前でいいよ」 「じゃ、名前は?」  あたしは訊《き》いた。彼は、壁に貼《は》ってあるプレートを指さした。 〈防火責任者〉とあって、そのわきに〈朝倉浩一〉と書かれていた。あたしは、うなずいた。笑顔を見せ、店を出た。       □ 「ただいま」  玄関をガラガラと開けて、あたしは言った。返事はなかったけれど、夕食のしたくをする匂《にお》いが漂っていた。  家に入っていく。台所をのぞいた。  祖母が、夕食のしたくをしていた。和服のふだん着の上に、白い割烹着《かつぽうぎ》。まな板に向かって何かトントンと切っていた。 「おばあちゃん、ただいま」  あたしが声をかけると祖母は、ふり向いた。老眼鏡をちょっとずらすと、あたしを見た。 「あざみか、お帰り」  と言った。台所には、かなり大きなイサキが2匹あった。イサキは、いまが旬《しゆん》の魚だ。 「政《まさ》さんが届けてくれたんだよ」  祖母は、イサキをながめているあたしに言った。政さんは〈魚政〉のおやじさんのことだ。昔、店の看板を祖母が書いた。政さんは、その看板が気に入ったらしく、いまも、店にかけてある。そして、時どき、魚を届けてくれる。 「塩焼きでいいかい?」  と祖母。あたしは、うなずいた。  シャワーを浴び、ウエット・スーツを庭に干した。  たそがれの庭には、蛍袋《ほたるぶくろ》の花が咲いていた。釣り鐘の形をした、薄い赤紫の花だ。ウエット・スーツを干しているあたしの膝《ひざ》のあたりで、蛍袋は風に揺れていた。       □  夕食をすませると、あたしは、2階にある自分の部屋に上がった。和室にベッドを入れた8畳の部屋だ。  部屋の窓を開け、1階の屋根に出た。  カワラ屋根の上。大の字になって寝っ転がった。  この屋根の上は、家の中でも気に入っている場所だ。大の字になって、空をながめるのが好きだ。  いま、頭上には夜空が広がっていた。星が出ていた。濃紺の空を針で突ついたように、星がいくつも光っていた。  あたしは、持ってきた小型のラジオをつけた。このあたりは山が近いんで、FMはよく入らない。AMの810KHZにチューニングした。  米軍の極東放送、FENだ。  早口の男性アナウンサーが、湾岸情勢についてしゃべっていた。  テレビがないんで、ずっと、この小型ラジオが友達だった。  しかも、好きなロックやポップスを聴けるのはFENしかないんで、こればかり聴いていた。  FENを聴いていると、ついでにニュースも耳に入ってきてしまう。  おかげで、英語のヒアリングはかなり得意になったと思う。  けど、サザエ獲《と》りの役には立たない。  あたしは、頭の後ろで両手を組んで、星空をながめていた。  ニュースが終わった。M《マイケル》・ボルトンの唄《うた》う〈|Dock Of The Bay《ドツク・オブ・ザ・ベイ》〉が流れはじめた。あたしは、M・ボルトンのしゃがれ声を聴きながら、じっと空をながめていた。  いつの間にか、朝倉浩一という名前が、胸の中に浮かび上がってきていた。  なぜなのか……。自分では、わからなかった。それ以上、深く考えようとも思わなかった。  夏は、まだ、はじまったばかりなのだから……。       □  翌日。午後6時。  あたしは、〈サンセット〉で働きはじめていた。  カウンターの中で、グラスを洗っていた。そばでは、浩一が浅葱《あさつき》を包丁で刻んでいた。  この日、最初のお客は猫だった。  カウンターの奥に、小さなキッチンがある。キッチンには裏口があった。風を通すためか、裏口は開けっぱなしになっていた。  あたしがグラスを洗い終わった時、キッチンの方で、ニャオという声がした。  見れば、裏口から、1匹の猫が顔をのぞかせていた。  猫は、のそりのそりとキッチンに入ってきた。白と茶のブチだった。漫画の熊《くま》みたいに、鼻と口のあたりが茶色をしていた。歩くとき、左の後ろ足をちょっとしか下につかない。その足が悪いらしかった。 「小次郎か」  浩一が言った。猫の名前は、小次郎らしい。 「飼ってるの?」 「いや。エサをやってるだけ。ノラなんだ、こいつ」  と浩一。キッチンのすみから、ふちの欠けたお皿を出してきた。  お皿にご飯を入れる。その上に、身をほぐした煮魚をのせた。煮汁もかけた。ご飯と魚をまぜた。浩一は、それをキッチンの床に置いた。  猫の小次郎は、それを食べはじめた。  魚は、アジだった。きのう釣ったものだろう。けど、アジを煮たものは、メニューにのっていない。猫のために、わざわざ煮たのだろうか……。  ご飯を食べている小次郎はそのままにして、浩一とあたしは、開店の準備をつづけた。  カウンターの中に、黒板がある。浩一は、そこに、きょうのメニューを書いていく。 〈イサキの刺身〉 〈タコの刺身〉 〈マグロ納豆〉 〈サザエのつぼ焼き〉 〈アジのさんが焼き〉 〈イワシのつみれ汁〉  そんなメニューを、浩一は書いていく。どちらかというと不器用な字だ。彼は、ふと、あたしに向きなおった。 「ばあさんが習字の先生だって言ってたよなあ。なら、字、うまいか?」 「それほどでもないけど……」 「でも、おれの字よりはましだろう。書いてくれよ」  あたしは、うなずいた。少なくとも、浩一の字よりは読みやすい字を書けるだろう。あたしは、チョークを持ち、浩一が口で言うメニューを書きはじめた。       □  キイッとドアが開いて、最初のお客が入ってきた。  50歳ぐらいのおじさんだった。痩《や》せていて、髪がだいぶ淋しくなっている。けど、人の好さそうな顔をしていた。やはり、よく陽灼けしていた。サンダルばきだった。地元の人らしい。 「ビールちょうだい」  と、そのおじさん。カウンターに座るなり言った。1杯目のビールをグイと飲み干す。 「きのう、アジ、入れ喰《ぐ》いだったんだって」  と浩一に言った。 「ああ……かなり」  と浩一。 「どこいら辺で」 「小坪の沖。30メートルぐらいのところ。底から7、8メートルで当たった」  と浩一。  きけば、このおじさんは、近所の釣り道具屋の主人だという。手こぎの貸しボートもやっているって話だった。本人も、かなり釣りが好きらしい。  店の名前は〈茂田《しげた》釣具店〉。浩一は、おじさんを〈茂さん〉と呼んでいた。       □  浩一は、あまりあいそのいい主人とは言えなかった。  どちらかというと、口数の少ない方だった。本人の性格なんだろう。口数は少なかったけれど、陰気ではなかった。  特に海の話になると、客とも気軽に言葉をかわしていた。  海岸町という場所がら、海に関係しているお客が多かった。  ヨット・ハーバーの人。釣り船屋の人。サーファーっぽい若い連中。そんな潮っ気のある人たちが、この店のなじみ客らしかった。  風のこと。  波のこと。  魚のこと。  飾り気のない言葉が、客同士の間でかわされていた。  それをききながら、あたしはお皿を洗ったり、刺身をつくったりしていた。       □  そのお客が来たのは、10時過ぎだった。  ピークが過ぎて、お客たちはつぎつぎに帰って行った。残っているのは、ウインド・サーファーだという若いカップルだけだった。  あたしは、山盛りになっているお皿を洗っていた。  ドアが開き、男の客が入って来た。  ひとりだった。年齢《とし》は、浩一と同じぐらい。20代のまん中辺だろう。  その客は、ほかの客たちと、あきらかに人種がちがっていた。  白っぽいサマー・スーツを着ていた。紺のシャツを着ていた。ネクタイはしめていない。痩《や》せ型。髪はオールバックにしている。  眼つきが、鋭かった。  男は、ズボンのポケットに片手を突っ込み、ゆっくりとした足どりでカウンターに歩いてきた。  浩一と眼が合う。 「よお」  と男は言った。浩一は、グラスを洗いながら、うなずいた。顔見知りらしい。  男は、カウンターの一番奥に座った。  浩一は、酒棚から、I・W・ハーパーのボトルを取った。水割りをつくる。男の前に置いた。  男は、無言のまま、グラスに口をつけた。ゆっくりと、ひと口飲んだ。  そのアゴに、傷があることに、あたしは気づいた。左アゴに、はっきりとした傷がひと筋あった。  なんの傷かは、わからない。  けれど、あたしには、刃物傷のように見えた。  男は、無言で、ゆっくりとI・W・ハーパーを飲んでいる。カウンターに両ヒジをつき、黙って飲んでいた。  その姿には、一種の殺気みたいなものが感じられた。  波や風や釣りの話をしているほかの客とは、はっきりとちがった雰囲気が、その男のまわりに漂っていた。  やがて、ウインド・サーファーの客たちが帰って行った。  客は、その男ひとりになった。  ひとりになっても、男は無言で水割りを飲んでいた。浩一も、特に話しかけようとはしなかった。  男のグラスが空になると、浩一は、I・W・ハーパーのボトルを取り、水割りをつくった。  男は、それを、ゆっくりと飲んでいた。浩一は、客たちのお皿を下げる。あたしは、それを洗っていく。  男は、水割りを3杯、飲んだ。3杯目のグラスが空になる頃、男がぽつりと口を開いた。 「来たか」  と、浩一に言った。低い声だった。  浩一は、動かしていた手を止めた。そして、 「まだだ」  とだけ言った。  それだけの会話だった。けれど、それだけで、男と浩一には充分だったらしい。それ以上、何もしゃべらなかった。  男は、水割りを飲み干す。ゆっくりと、立ち上がった。黒い皮のおサイフを、上着の内ポケットから出す。1万円札を1枚、取り出した。  それをカウンターに置く。お札の上に、空になったグラスをのせた。男は、浩一に、〈帰るよ〉という感じでうなずいた。浩一も、うなずき返した。  1万円。水割り3杯にしては、かなり多い金額だったけど、男はおつりをうけ取らなかった。  男は、あたしの方を見ずに、店を出て行った。       □  男が店を出て行くと、もう、11時少し過ぎだった。 「お疲れさん」  と浩一。冷蔵庫からビールを出した。2つのグラスに注いだ。1つを、あたしにさし出してくれた。  まじめに仕事をしたので、気がつくとノドが乾いていた。ビールが、おいしかった。  飲み終わり、あたしが帰ろうとすると、 「明日、潜るのか?」  と浩一が、きいた。あたしは、首を横に振った。 「たぶん、潜らないわ」  と言った。きょうの午後も、いちおう、潜る用意をして海岸まで行った。けれど、赤い旗を立てた密漁取締り船が、何|艘《そう》も海に出ていた。  とても、アワビやサザエを獲《と》れる状態じゃなかった。  あたしがそれを言うと、浩一は、うなずいた。 「ここしばらく、漁協の連中も取締りに力を入れてるみたいだな」  と言った、 「潜らないんなら、魚の仕入れ、手伝ってくれないか?」 「仕入れ? どこで?」  あたしは訊《き》いた。 「沖」  とだけ浩一は言った。 「釣りに行くの?」 「ああ。釣り、できるだろう?」 「ものによるけど」 「カワハギ」  あたしは、うなずいた。カワハギ釣りは、湘南《しようなん》じゃポピュラーな釣りだ。あたしも、子供の頃からよくやった。 「じゃ、1時頃、来てくれ。釣れた分だけ、バイト料にプラスするよ」  と浩一。 「わかったわ。じゃ、明日」  あたしは、笑顔を見せると、店を出た。  家に向かって歩きながら、考えていた。あのアゴに傷があるお客のことだ。あれは、どう見ても、カタギの人間じゃない。  あの鋭い眼つき。全身から漂っていた殺気のようなもの……。それは、やはり、普通の人間のものとは思えなかった。  ヤクザ。暴力団関係。そんな人種にしか見えなかった。  あの男と、浩一は、どうやら知り合いらしい。ただのお客と店の主人という関係には見えなかった。  それに、あのやりとり。 〈来たか〉と男が訊《き》き、〈まだだ〉とだけ浩一が答えた。あれだけで、話は通じていたらしい。  なんだったんだろう……。  あたしに想像がつくことは1つ。  あの男は、何かを待っている。誰かを待っているとも思える。何かが届くのを待っているとも思える。  とにかく、待っていることだけは確かだろう。  けど、何を、なんのために……。  あたしの胸の中に、クエスチョン・マークが消え残っていた。  ふいに、すぐそばで車のクラクションが鋭く鳴った。考えごとをしていたあたしは、ハッとわれに返った。跳びのいた。体のわきをかすめるように、赤いオープンカーが走り過ぎる。  赤いユーノス・ロードスターだった。男と女が乗っていた。他県ナンバーだった。  跳びのいていなければ、引っかけられていたかもしれない。  狭くて曲がりくねった葉山の道路を、こんなスピードで走るなんて、この馬鹿! あたしは、どなってやろうと思った。けど、ユーノスの後ろ姿はもう小さくなっていた。  あたしは、どなるかわりに、落ちていたコーラの空き缶を蹴飛《けと》ばした。 [#改ページ]  4 少年の眼をしている       □  翌日。午後1時。  あたしが〈サンセット〉に行くと、浩一がアサリの身をむいていた。湘南では、カワハギ釣りのエサはアサリのむき身なのだ。  浩一は、果物ナイフを使い、上手にアサリの身をむいていた。殻の閉じているアサリを、ほとんどむき終わるところだった。  むき身になったアサリは、小さなポリバケツに入れられていた。  浩一は、最後の1個をむき終わる。むき身をぽんとポリバケツに放り込む。 「よし、行こうか」  と言った。立ち上がった。  釣り竿《ざお》が2本、カウンターに立てかけてあった。2メートルぐらいの船竿だった。中型の両軸リールがついていた。あたしがその竿を持った時、店のドアが開いた。釣り道具屋の茂さんが入って来た。 「カワハギ、行くんだって?」 「ああ。これから」  と浩一。クーラー・ボックスに氷を入れながら答えた。 「なら、このシカケ、使ってみなよ」  と茂さん。薄いボール紙に巻いた釣りのシカケを、浩一にさし出した。 「鉤《ハリ》は関西型のハゲ鉤《バリ》で、ハリスをぐっと短かめにしてあるんだ。つい先週、つくってみたんだがね、こいつはいいと思うぜ」  茂さんは言った。  浩一は、そのシカケを手に取ってながめる。 「良さそうだな。使ってみるよ」  と言った。 「4セットあるから。結果を、すぐに教えてくれよな」  と茂さん。浩一とあたしに、ニッと、歯ぐきをむき出して笑顔を見せた。 「了解」  と浩一。笑顔を返す。クーラー・ボックスと釣り道具の入った箱を持った。  あたし達は、店を出た。  店の前のゆるい下り坂を、海に向かって歩きはじめた。  晴れていた。まだ梅雨あけ宣言は出ていないけれど、青空が広がっていた。高気圧が北西から張り出して、梅雨前線を太平洋側に押し下げた気圧配置だった。  歩いていく道の向こう。松の木の先に、海が陽射しを照り返していた。  少し歩くと、海岸に出た。森戸海岸の北の端だった。  そのあたりは、小さな漁港になっていた。ハの字型の防波堤が海に突き出して、港を守っていた。  コンクリートでかためたゆるい斜面《スロープ》が、海の中につづいていて、船の上げおろしが出来るようになっていた。  いかにも漁師のものらしい小船が何|艘《そう》か、スロープの上にあげてあった。その近くの砂浜にどこかのラーメン屋から持ってきたようなビニール張りの椅子《いす》が置いてある。年寄りの漁師が腰かけていた。漁師は、伊勢《いせ》エビ獲《と》りに使う網を修理していた。  クルミみたいな色に陽灼《ひや》けしているその漁師は、浩一を見ると、 「釣りかあ?」  と大きな声で言った。浩一はうなずく。 「カワハギ、やってくる」  と言った。漁師は手を動かしたまま、 「きょうは潮が澄んでるから、カワハギは、いいかもしんねえ」  と言った。浩一は、またうなずくと歩いて行く。  コンクリートのスロープの端。1艘のボートがあった。4、5メートルぐらいのボートだった。クリーム色のボディはFRPらしい。かなり色は褪《あ》せていた。25馬力の船外機がついていた。  いちおう運転席があり、ハンドル操作で船外機を動かすようになっていた。  ボートは、車輪のついた船台に載っていた。小さなタイヤが3つついた、簡単な船台だ。  浩一は、エサの入ったポリバケツやクーラー・ボックスを、そのボートにのせた。 「あなたのボート?」 「ああ。かなりボロだけど、走ることは走る。バックもできる」  浩一が言った。 〈バックもできる〉には、笑ってしまった。あたしは、釣り竿《ざお》を、そのボートにのせた。 「よく、ここに置けたわね」  あたしは言った。湘南の場合、海岸に船を置くのは、かなり難しい。特に、ここみたいな漁師の|縄張り《テリトリー》では、うるさく言われるだろう。 「漁協に、文句を言われなかった?」  あたしが訊《き》くと、 「タダ酒を、山ほど飲ませた」  と浩一は言った。陽灼けした顔の中、白い歯をニッと見せた。 「なるほどね」  あたしも笑いながら言った。  浩一は、台車のタイヤの後ろにかませてある木製の車止めをはずした。  台車にはワイヤーが結びつけられている。ワイヤーは、スロープの上にある|巻上げ機《ウインチ》につながっていた。  浩一は、手動式のウインチをゆっくりと回しはじめた。ワイヤーをくり出していく。ボートを載せた台車は、ゆっくりと、スロープを下りはじめた。そろそろと、バックで下って行く。  台車が、水の中につかった。上に載っているボートが、水に浮かんだ。  あたしは、ジャブジャブと水に入っていった。ショートパンツのスソが濡《ぬ》れたけど、かまわず入って行った。水は温かかった。  ボートのへりに手をかけ、乗った。浩一も乗ってきた。手なれた動作で、船外機のエンジンをかけた。  浩一は、しばらくエンジンをアイドリングにしたままでいた。エンジン音を聴きながら、調子をみているらしい。  やがて、レバーを〈後進《リヴアース》〉に入れる。ボートは、ゆっくりと後ろ向きに動きはじめた。船台をはなれ、海に出て行く。防波堤に守られているので、波はなく、水面はなめらかだった。  あたしは、船べりから海の中を見た。水は透き通って、下の砂地が見えた。このあたりで〈トウゴロウ〉と呼ばれている小さなボラの一種が、群れで泳いでいた。ボートがそばまで行くと、トウゴロウの群れは、さっと向きを変えた。  浩一は、ボートの向きを変えた。船首を防波堤の切れ目に向ける。レバーを〈前進《フオアード》〉に入れた。  ゆっくりとしたスピードで、ボートは防波堤の切れ目を出て行く。出ても、海は凪《な》いでいた。  かすかな北西風が海の上を渡っていた。  ヨットもウインド・サーフィンも、歩くようなスピードでノロノロと動いていた。  そんなウインド・サーファーの1人が、 「あざみ!」  と叫んだ。見れば、珠美《タマ》だった。浩一がボートの方向を変えて、そっちに寄せてくれた。スピードを落とした。 「何してるんだよ、あざみ! デートか!?」  タマがボートの上で叫んだ 「釣りよ! 釣り!」 「釣り?」 「そう! バイト!」 「釣りがバイト!? 漁師になったのかよ!? だっせえ!」 「うるさいわね! あんた、そんなスピードだと、クラゲに追い抜かれるわよ!」  あたしは叫び返した。浩一に振り返る。眼で〈行って〉と言った。ボートがスピードを上げた。タマからはなれて、さらに沖に向かった。       □  ほとんど真西に走って、約5分。  浩一は、船のスピードを落とした。周囲を見回している。漁師の言葉では〈ヤマ立て〉と言う。釣りのポイントをさがしている。やがて、 「この辺だな」  と言った。レバーを〈中立《ニユートラル》〉にした。先が十文字になった錨《アンカー》をつかむ。海に放り込んだ。少しバックする。  アンカー・ロープが、ピンと張った。 「オーケイ」  と浩一。エンジンを切った。あたし達は、釣りの準備をはじめた。  浩一が、道具箱から、茂さんのくれたシカケを取り出した。あたしも、そのシカケを手に取った。 「へえ……」  と、つぶやいた。釣り具メーカーが売っているカワハギのシカケとは、ちょっとちがう。まず、鉤《ハリ》の形がちがう。 「こいつは、カワハギの小さな口にかかりやすいような鉤なんだ」  浩一が言った。あたしはまた、 「へえ……」  とつぶやき、そのシカケをながめた。鉤は3本で、ハリスがかなり短い。売っているシカケとは、ずいぶんちがう。 「茂さんて、研究熱心なのね」  シカケをセットしながら、あたしは言った。 「道具の発明に、こってるんだ」 「道具の発明?」 「ああ。鉤《ハリ》とか、浮きとか、コマセ籠《かご》とか……いろいろ、つくってるよ、新型を。いずれ、〈茂田式〉って名前をつけて売り出すのが夢らしい」 「ふうん……発明家なのか……」 「ところが……道具いじりにこりすぎて、店の方はほっぽりっぱなしでさ」  と浩一。苦笑しながら、 「カミさんに逃げられる寸前らしい」  と言った。 「それは大変じゃない」 「まあ、しかたないなァ」  浩一は、苦笑したまま言った。  釣りの準備ができた。あたし達は、鉤にアサリのむき身をつける。海に落とした。       □ 「うまいじゃないか」  浩一が、釣り竿《ざお》を握って言った。  釣りはじめて約1時間。あたしは、5匹目のカワハギを釣ったところだった。平べったいカワハギを、海面から抜き上げた。  20センチぐらい。まずまずの大きさだった。あたしは、カワハギの口から鉤《ハリ》をはずす。クーラーに放り込んだ。  カワハギは、おいしいけれど、釣るのが難しい魚だ。1時間で5匹は、まずまずだろう。 「このシカケが、いいみたい」  あたしは、つぎのエサをつけながら言った。確かに、この茂さんのシカケだと、魚のかかりがいいようだ。 「おっ」  と浩一。その握った竿先がふるえている。かかったらしい。浩一は、す早く正確な動作でリールを巻いていく。慣れていた。  慣れているし、熱心だった。  沖に出てから、ずっとそうだ。はしゃいではいないけれど、浩一は、釣りに熱中しているようだった。魚がかかると、一瞬、その眼が少年のように輝く。竿《さお》を持ち、じっと静かにアタリを待つ間も、気持ちを集中しているのがわかった。  いまも、眼を輝かせ、リールを巻いていた。竿先がゴツゴツと海中から引っぱられている。カワハギ独特の硬い引きだった。  あたしは、船べりからのぞき込んだ。青い水の中で、平べったいカワハギが鋭く左右に走っていた。  浩一は、カワハギを海面から抜き上げた。水しぶきが、陽射しにキラキラと光った。       □  潮が上げ切って、止まった。同時に、魚のアタリも止まった。  あたしは、ひと息ついた。  ふと、あのことを浩一に訊《き》いてみようかと思った。  きのう店に来た、あの客のことだ。無言でI・W・ハーパーを飲んでいた、眼つきの鋭い客……。あのヤクザっぽい男のことを、訊いてみたいと思った。  あたしは、釣り竿を握ったまま、浩一の方を見た。  浩一は、竿を上下させていた。竿が下がり切ると、道糸がゆるんだ。どうやら、オモリで海底を叩《たた》いているらしい。  カワハギ釣りで、アタリが遠のいた時によくやる手だった。海底を叩いて、魚の注意をエサに向けるのだ。  浩一は、竿先に神経を集中していた。とても、関係ない話を切り出せる様子じゃなかった。  あたしは、あきらめた。       □  午後4時。  あたしと浩一は、港に帰って来た。  水の中で、ボートを船台に載せる。浩一は、ウインチを巻いていく。ボートを載せた船台が、ゆっくりとスロープを上がっていく。  2、3分で、船台はスロープを上がり切った。あたしは、船台のタイヤに車止めをかませた。 「よし」  と浩一。あたし達は、ボートから荷物をおろした。  向こうから、珠美《タマ》が歩いて来るのが見えた。もう、ウエット・スーツ姿じゃない。Tシャツとショートパンツに着がえていた。 「よお、釣れたか」  とタマ。あたしは、シカトしていた。  いちおう、浩一にタマを紹介した。浩一は、微笑しながら、 「どうも」  とだけ言った。 「そうか……。あんたが、あの〈サンセット〉でバイトをねえ……」  とタマ。あたしに、 「まあ、いつまでもサザエやアワビの密漁やってるよりは、いいよなあ」  と言った。 「それじゃ、さっそく、あんたの就職祝いをやらなくちゃね」 「就職祝い?」 「そう。あんたが、あたしにビールをおごってくれるの」  とタマ。図々しく言った。子供の頃からつき合ってるあたしは、驚かなかった。となりの浩一は、軽く苦笑しながら、 「ビールぐらいならいいさ。ついでに荷物、持ってくれないか」  と言った。 「オーケイ!」  とタマ。クーラー・ボックスを持つ。あたし達3人は、〈サンセット〉の方に歩きはじめた。       □ 「へえ……。この店、できて3年になるんだァ……」  とタマ。浩一が出してくれたポテトチップスをパリッとかじった。ビールの〈一番|搾《しぼ》り〉をぐいと飲んだ。  カウンターの中で、あたしは、カワハギをさばきはじめていた。浩一は、使ったリールを水洗いしていた。  リールを洗いながら、タマの話相手をしていた。  話し相手といっても、ほとんど、タマがしゃべっている。浩一は、ポツリポツリと返事をするだけだ。  浩一は、誰に対してもそうだった。  必要なことだけを口にし、よけいなおしゃべりはしなかった。  無口で陰気というわけじゃない。誰の相手をしていても、間に一定の距離をおいているように感じられた。  いまもそうだ。  タマの質問に、必要最小限の言葉を返していた。冷淡な感じはしないけれど、自分のまわりに見えない壁のようなものをつくっているように思えた。  浩一は、リールを洗い終わった。 「ちょっと、八百屋に行ってくる」  と言った。店を出て行った。後には、タマとあたしが残った。あたしは、カワハギをさばいていた。窓からは、黄色いたそがれの陽射しが入って来ていた。オーディオから、J《ジエームス》・イングラムのバラードが流れていた。 「そうか……。あれが、サンセットの主《ぬし》か……」  とタマ。浩一が出て行ったドアの方を、チラリと見てつぶやいた。 「どうかしたの?」  カワハギをまな板にのせながら、あたしは訊《き》いた。 「いや、ね……。誰かに噂《うわさ》をきいたことがあってさ……」 「噂って?」 「彼の」  とタマ。ドアの方をまた、チラリと見た。どうやら、浩一のことを言っているらしい。 「噂って、どんな噂?……」  ちょっと気になって、あたしは訊いた。 「彼……葉山の人間じゃないのよね。確か、鎌倉の人なんだって」 「……へえ……。鎌倉……」  あたしは、包丁を止めてつぶやいた。タマは、ビールのグラスをゆっくりと口に運んだ。 「それで?……」  あたしは、また包丁を動かしながら訊いた。タマは、しばらく無言でいた。話そうかどうしようか迷っている。そんな感じだった。  でも、〈葉山放送局〉とあだ名をつけられるほどおしゃべりなタマのことだ。話さないわけはない。あたしは、黙って包丁を動かしていた。 「その……鎌倉で、いろいろあって……」  とタマ。 「あっちにいられなくなって、葉山に来たって噂なんだけどね……」  と言った。 「……いられなくなった……」  あたしは、思わず、包丁を止めた。 [#改ページ]  5 海に向かって、グッド・モーニングと言った       □ 「いられなくなったって……どうして?……」  あたしは、包丁を止めたまま訊《き》いた。タマは、ビールをひと口飲んだ。 「うん……そこのところは、あたしもくわしく知らないんだけどね……」  とタマ。 「とにかく、なんか事件を起こして、鎌倉にいられなくなったって噂だよ」  と言った。 「…………」  あたしは、無言でいた。じっとタマの顔を見ていた。 「ま、それは単なる噂だからさ」  タマは言った。噂が本当かどうか、あまり自信がないんだろう。ちょっとあわてて、 「まあ、あんまり気にしない気にしない。ただの噂なんだからさ、ほんと」  と言った。ポテトチップスをバリバリとかじる。ビールをぐいと飲んだ。急に話題を変えた。 「そうそう。高校で理系のクラスだった佐川っているじゃない」 「佐川?」 「そう。ほら、すぐそこの薬局の息子」 「ああ、ゴンズイみたいにツルっとした顔のやつね」  あたしは言った。 「ゴンズイか」  とタマ。ゲラゲラと笑った。ゴンズイは、毒針を持った魚だ。ウロコがなくて、ナマズみたいにツルツルとしている。 「そのゴンズイが、どうしたの?」 「いや、それが、ばったり会ってさ。すぐそこのバス停で。ちょっと、立ち話したんだ。あいつ、横浜国大いってるんだって」 「へえ……。確かに成績よかったもんね」 「そうそう。それで、あいつと話してたら、あざみの名前がよく出てくるのよ」 「あたしの名前?」  タマは、うなずいた。 「あざみ、短大いかなかったじゃない?」 「うん……」 「いまどうしてるかって、けっこう熱心に訊《き》いてたよ」 「ふうん……」 「ありゃ、どうも、あんたに気があるね」  タマは言った。 「どうする? 今度会ったらまた、あんたが何してるか訊くと思うけど、ここでバイトしてるって言っとく?」  あたしは、首を横に振った。 「海でサザエ獲《と》りしてるって言っといて」  と言った。  あたしは、同じ年頃の男の子をあまり好きになれなかった。彼らのほとんどは、自意識だけがやたらに強く、自分をひけらかすように、ひどくおしゃべりだった。相手にとっては面白くもなんともない話を、機関銃のようにしゃべりまくるのだった。  そんな同年代の男の子と、デートしたこともある。横浜まで映画を観《み》に行ったり、|茅ヶ崎《ちがさき》あたりに新しくできたコーヒー・ショップに行ったり……。  けれど、結果はいつも悲惨だった。  あたしは、ただ、ぐったりと疲れて帰って来た。  こんなことなら、海に行くか本でも読んでいた方がよかったと、いつも思った。  高3の秋から、そういうデートはしていない。これからもしないだろう。       □ 「じゃあね。ごちそうさま」  とタマ。グラスのビールを飲み干すと帰って行った。  入れちがいのように、茂さんが店に入って来た。 「どうだった、あのシカケ」  と茂さん。入ってくるなり訊《き》いた。 「ごらんの通り」  あたしは言った。調理台の上。山盛りになっているカワハギを眼でさした。 「ほう……たくさん釣れたなあ……カタもいいし」  と茂さん。 「すごくいいみたい、あのシカケ」  あたしが言うと、 「そうかそうか」  茂さんは、歯ぐきをむき出して、ヒャヒャヒャと笑った。自分のシカケが当たったので、ひどく嬉《うれ》しそうだった。 「あっ、茂さんが来たらビールをおごっといてくれって」 「浩一《コー》ちゃんが?」  あたしはうなずいた。冷蔵庫からビールの瓶を取り出した。茂さんの好みはキリンのラガーだった。  茂さんは、あたしがグラスに注いだビールを、おいしそうに飲み干した。  そのとき、キッチンの方で、ニャニャという猫の鳴き声がきこえた。  小次郎だった。エサをもらいに来たらしい。のそのそと入って来た。  あい変わらず、左の後ろ足は、ちょっとしか下につかない。  カウンターの外から小次郎を見て、 「こいつも、元気になったなァ……」  と茂さんがつぶやいた。 「事故にあったんだって?」  あたしは言った。  小次郎の足のことは、浩一にきいたことがある。その時、浩一はただ、 「車に轢《ひ》かれたんだ」  とだけ言った。それ以上は、何も言わず、小次郎にエサをやっていた。 「この猫、もともとノラで、浩一《コー》ちゃんがときどきエサをやってたんだけどね」  と茂さん。 「あれは3ヵ月ぐらい前かなあ……すぐそこのバス通りで車に轢かれてね……。かなりひどく、左足のあたりが潰《つぶ》れちゃってさ」 「…………」 「それを、コーちゃんが病院に運び込んでさあ」 「病院に……」  茂さんは、うなずいた。 「毛布にくるんで、自分の車で、長柄《ながえ》にある犬猫病院に運び込んだんだよ」 「…………」 「2週間ぐらいは入院してたかなあ……。退院してからも、コーちゃん、こいつの面倒を見てたよ。そのキッチンにダンボール箱を置いて、そこに寝かせて、面倒を見てたね」  と茂さん。小次郎に向かって、 「そうか、お前も歩けるようになったか……よかったなあ」  と言った。  電話が鳴った。あたしは、タオルで手を拭《ふ》いて受話器を取った。 「はい、サンセットです」 「茂田ですけど、うちの主人、行ってませんか」  相手が言った。ちょっとキンキンした女の声だった。 「奥さんみたい」  あたしは受話器を手で押さえ、小声で言った。 「あちゃっ、まずい」  と茂さん。あわてて受話器をつかんだ。 「あっ、悪い悪い、店まかせっぱなしで……いや……その……コーちゃんと、ちょっと、道具の話をしてて……いや、すまん……すぐに帰るから……わかったわかった……」  と茂さん。頭をかきながら、受話器を握っている。電話を切った。あたしに、照れ笑いをした。 「いやあ、店をおっぽり出してきたもんで……」  と言った。 「じゃ、とりあえず、帰るから、コーちゃんによろしく言っといて」  と、あわただしく店を出て行った。       □  ニャニャという声。足もとできこえた。  小次郎だった。あたしの足もとに座っている。こっちを見上げて、また、アニャと鳴いた。空腹らしかった。  ちょうどその時、浩一が戻って来た。ネギが上に突き出たビニール袋を持っていた。 「小次郎、エサがほしいみたい」  あたしが言うと、浩一はうなずいた。キッチンのすみから、ふちの欠けたお皿を出してきた。  お皿にご飯をのせ、その上に煮魚の身をほぐしてかける。魚は、イサキだった。きのう、店で刺身にして出した、その残りを煮ておいたらしい。  浩一は、イサキの身をていねいにほぐしている。小骨も慎重にとりのぞいている。イサキの骨は特に硬いからだ。  ほぐした身は、ご飯の上にのせ、まぜた。  小次郎は、それを食べはじめた。 「ゆっくり食えよ」  浩一は小次郎に言った。ビニール袋からネギやショウガを取り出しはじめた。 「あっ、さっき茂さんが」  あたしが言いかけると、 「そこで会ったよ」  浩一は言った。 「店をおっぽり出してきたんで、カミさんにどやしつけられたらしいな」  と浩一。苦笑した。       □  翌朝。7時半。  まぶしい陽射しに、あたしは目を覚ました。タオル地のブランケットをはねのけ、ベッドから出た。  パジャマは着ていない。薄い生地のショートパンツと、大きめのTシャツがあたしの寝間着だった。  そのままのかっこうで窓を開けた。窓から、1階の屋根に出た。  屋根瓦は、もう、陽射しをうけてあたたまっていた。裸足《はだし》の足の裏に、太陽を感じた。  あたしは、大きく両手を広げた。朝の風を、体でうけとめた。  Tシャツのソデやスソが、パタパタとはためいた。風が強い。西風だった。海の方から吹いてくる風だ。  あたしは、胸いっぱいに風を吸い込んだ。海の方に向かって、グッド・モーニングと胸の中で言った。  ここでこれだけ風が吹いているってことは、海の上はかなり吹いているだろう。たぶん荒れている。きょう、アワビ獲《と》りはできなさそうだった。  あたしは1階におりた。顔を洗っていると、冷蔵庫にカワハギがあるのを思い出した。  きのう、釣ったカワハギをお客に出した。刺身をキモあえにして出しても、さすがにあまった。  バイトが終わって帰る時、浩一が3枚くれた。そのカワハギが、冷蔵庫に入っていた。  あれを、風干《かざぼ》しにしよう。  あたしは、そう思った。いまから風干しにすれば、ちょうどお昼には食べ頃になるだろう。  あたしは、冷蔵庫からカワハギを取り出す。皮をはぎ、出刃包丁で三枚におろした。おろした身に、塩をふる。  塩をふっていると、祖母が台所に入って来た。まな板の上を見て、 「おや、カワハギかい……。ひさしぶりだねえ……」  と言った。 「お昼は、これを焼いて食べようね」  あたしは言った。 「いいねえ……。そりゃいいねえ……」  と祖母。ゆっくりと何回もうなずいている。       □  あたしは、塩をふったカワハギの身を持って、庭に出た。  庭に洗濯物を干すロープが張ってある。そのロープに、洗濯バサミでカワハギを吊《つ》るしていった。すぐに終わった。  あたしは、庭に出しっぱなしになっている錆《さ》びだらけのデッキ・チェアーに腰かけた。台所から持って来たオレンジを、皮ごとかじった。果汁がむき出しのヒザに飛び散った。  庭では、紫ツユクサが風に揺れている。ロープに吊るしてあるカワハギの身も、同じ風に揺れていた。  あたしは、そのカワハギをながめて、ふと思い出していた。  昨夜。あたしが帰る時、浩一は残った4枚のカワハギのうち、3枚をあたしにくれた。そして、1枚を冷蔵庫に入れた。  あれは、たぶん、猫の小次郎のためのものだろう……。煮つけて、小次郎のきょうの夕食にするんだろう。  あたしは、そんな浩一のことを考えていた。  不思議に思えた。  浩一は、誰に対しても、一定の距離を置いているように見える。  店のお客に対しても、あたしやタマみたいな女の子に対しても、一定の距離を置いているように思えた。  人間嫌い、とまでは言い切れないけれど、それに近いものがある。  人と人のつき合いに対して、醒《さ》めた態度をくずそうとしない。  なんに対しても、ちょっと皮肉っぽく苦笑いしているように思えた。 〈まあ、そんなものかもしれない〉と、何事に対してもかまえている。そんな感じがした。  あたしは、浩一を魚みたいだと思った。  海に潜っていると、いろいろな魚と出会う。  特に、黒鯛《くろだい》みたいな大きい魚は、人間の姿を見ても、逃げようとはしない。悠々と泳いでいる。  けれど、こっちが、ある距離以上に近づくと、魚は、スッと身をひるがえしてしまう。  そして、少し離れた所を、またゆっくりと泳ぎはじめるのだ。  浩一の他人《ひと》に対する距離のとり方は、それによく似ていた。  やはり、ある意味で、人間嫌いなのかもしれない。  その分、猫の小次郎を大切にしている。  あたしは、茂さんにきいた話を思い出していた。浩一が、ケガをした小次郎の面倒を見ていたという話だ。  人間嫌い。  猫好き。  あたしは、頭の中で、その2つの言葉を書いてみた。それは、けして矛盾するものじゃないだろう……。  同時に、タマからきいた、噂話《うわさばなし》も、気になった。  浩一が鎌倉の人間だということ。何かあって、鎌倉にいられなくなり、葉山にやってきたということ。  その話は、やはり、気になった。  鎌倉で何があったんだろう……。  そして、あの、ヤクザっぽい男の人とは、どういう関係なんだろう……。  わからないことだらけだった。あたしは、オレンジをかじりながら、かすかに揺れているカワハギの身をながめていた。  陽射しのまぶしさに、眼を閉じた。まぶたに、陽射しを感じる。アブラゼミが、鳴きはじめていた。       □  その客が来たのは、水曜日だった。  梅雨のラストのふんばり。そんな感じの雨が、しとしと降っていた。  客は、あまり多くなかった。ウインド・サーファーの若い客が3人。それに地元商店街のおじさんが2人。それだけだった。  9時半頃。1人の客が店に入って来た。  男だった。普通の常連客とは、服装がちがっていた。少しくたびれた感じのスーツを着込んでいた。白いYシャツに地味なネクタイをしめていた。  年齢《とし》は、30代の中頃というところだろうか……。  色白で、やや太りぎみだった。陽射しに弱そうな肌をしていた。メタル・フレームの眼鏡をかけていた。  髪は七三に分けてあるけれど、少し耳にかかっていた。  スーツにネクタイだけど、ごく普通のかたいサラリーマンという感じじゃない。職業のわからない雰囲気だった。  男は、カウンターに歩いてくる。浩一に、 「よお、ひさしぶり」  と言った。スツールに座った。どうやら、顔見知りらしい。  浩一は、ボトルキープの酒棚から、サントリーの角瓶を取った。その瓶には、〈五味岡〉と書かれていた。この客の名前らしい。  浩一は、角瓶で水割りをつくった。濃い目の水割りだった。けど、五味岡という客は何も言わず、口に運んだ。  アジのタタキを肴《さかな》に、その五味岡はウイスキーを飲む。  1杯目で、顔に電灯がついたように赤くなった。顔に出やすいたちなんだろう。  ほかの客たちが、つづけて帰って行った。客は、彼ひとりになった。  五味岡は、ウイスキーのグラスを重ねる。顔には出ても、お酒には弱くないらしい。  というより、かなりな酒好きという雰囲気だった。ぐいぐいとグラスを重ねていく。  アジの塩焼きを、五味岡が注文した。浩一は、ちょうど水割りをつくっているところだった。あたしに、 「塩焼き、頼むよ」  と言った。あたしは、うなずく。キッチンに入った。刺身やタタキはカウンターの中でやるけど、煙が出る塩焼きなどは、キッチンでやることになっていた。  あたしは、アジに塩をふりはじめた。  五味岡と浩一の声が、きこえる。 「どうなんだ、店の調子は……」  と五味岡。少し酔いの回った声で言った。 「まあまあ……」  と浩一。 「つぶれない程度には、ね」  と答えた。そっけない調子だった。 「女の子、入れたんだな……」  と五味岡。 「バイト。地元の娘《こ》なんだ」  浩一は言った。あたしにきこえているのがわかっているので、それ以上、何も言わなかった。  しばらくの沈黙……。そして、五味岡が口を開いた。 「どうだ」  と言った。 「どうだ、もういいだろう……岩田」  五味岡は言った。浩一のことを〈岩田〉と呼んだ。浩一の苗字は〈朝倉〉なのに。  アジを焼いていたあたしの手が、思わず止まってしまった。 〈岩田〉と呼ばれた浩一は、それに対して何か言っている様子もない。五味岡がまた、 「そろそろ、いいんじゃないか?……」  と言った。  その時、あたしは思わず、 「あっ」  と声を上げてしまった。アジの塩焼きが焦げてしまっている。もうもうとした煙が、上がっている! [#改ページ]  6 雨の夜はジャズ・バラード       □ 「ごめんなさい……」  あたしは、グラスを洗いながら言った。  夜11時半。店を閉めた後だった。 「あの塩焼きのことか?」  と浩一。カウンターを拭《ふ》きながら訊《き》いた。  あたしは、うなずいた。  五味岡って客に出すアジの塩焼きは、まっ黒に焦げてしまった。まるで炭だ。アジはまだあったので、すぐにやりなおした。 「いいさ。気にするな」  浩一は言った。カウンターの上を、片づけていく。  結局、五味岡は、閉店まで飲んでいった。かなり酔っていた。カウンター席から立つとき、体がふらついた。あたしは、思わず手を貸そうとした。けれど、 「だいじょぶ、だいじょぶ」  と五味岡。少しロレツの回らない口調で言った。浩一に、 「じゃ、また」  と軽く手を振る。店を出て行った。呼んでおいたタクシーに乗って、帰って行った。 「あの人、家、近いの?」  あたしは、浩一に訊いた。 「逗子」  浩一が包丁を洗いながら言った。逗子は葉山のすぐとなりだ。  五味岡に関して、浩一は、それ以上、何も言わなかった。  あたしと浩一は、店の片づけをだいたい終えた。  浩一は、いつものように、冷蔵庫からビールを出した。グラスは2つ。あたしと浩一は、カウンター席に並んで腰かける。 「お疲れさま」  と言って、グラスを口に運んだ。  外では、雨が静かに降っていた。店のオーディオからは、スタンダード・ジャズが低く流れていた。  あたしは、ビールをグラスに2杯飲んだ。軽く、酔いが回った。その勢いをかりて、訊いてみた。 「あの五味岡っていうお客さん、ちがった名前で呼んでたわね」 「おれのことか?」  あたしは、うなずいた。 「岩田とかなんとか……」  と言った。浩一の横顔を見た。浩一の表情に、変化はなかった。ビールのグラスを口に運ぶ。飲む。そして、 「そうだったかな……」  とだけ、つぶやくように言った。それ以上、何も言わなかった。どうやら、貝が閉じるように、心を閉ざしてしまったらしい。  あたしも、それ以上は、突っ込んで訊けなかった。ビールを飲みながら、ジャズ・ピアノのバラードを聴いていた。雨粒が窓ガラスを濡《ぬ》らしていた。       □  五味岡が口にした〈岩田〉という名前は、やはり、気になった。足の裏に刺さったウニのトゲみたいに、やっかいだった。けれど、その数日後、ちょっとした事件が起きて、謎《なぞ》はとけた。       □  月曜日。  朝から快晴だった。梅雨あけ宣言は、おとといの土曜日に出ていた。もう、頭上の空には雲ひとつなかった。ワイパーで雨をぬぐったように、青空が広がっていた。  この日、密漁取締り船は、あまり出ていなかった。土・日、忙しかったので、休んでいるのかもしれない。  チャンスだった。あたしは、したくをして海に入った。  潜っても、もう、水温が高い。水温が高いと、気分的には楽だった。午後1時から4時半まで潜った。  収獲は、黒アワビが3枚と大きめのトコブシが5枚。いい方だろう。  あたしは、気を良くして収獲をサンセットに持ち帰った。浩一は、6千500円で買ってくれた。そのお金は、バイト代とは別に、その場で渡してくれた。  あたしは、サンセットの2階で、シャワーを浴びて着替えた。  浩一が、そうすれば時間のムダがないと言ってくれたので、最初からその予定だった。確かに、一度家に戻っていると、開店準備に間に合わなくなりそうだった。  あたしは、初めて、この店の2階に上がった。  キッチンから、階段を上がった。廊下があり、左側が浩一が住んでいる部屋らしい。右側に、トイレ、洗面所、バス・ルームがあった。  あたしは、バス・ルームでシャワーを浴び、乾いた服に着替えた。洗面所で、ドライヤーを借りて髪を乾かした。  バス・ルームも洗面所も、男のひとり暮らしとしては、清潔な方なんだろう。  男のひとり暮らし……と胸の中でつぶやいて、あたしはつい、洗面所をながめてしまった。  いま、あたしが知る限り、浩一はここでひとり暮らしをしている。  訪ねて来る彼女は、いないのだろうか……。あたしは、見るともなしに洗面所を見回していた。  まず気がついたことは、1つ。浩一は、およそ、男性化粧品のたぐいを使わないということだ。  バス・ルームには、シャンプーと石鹸《せつけん》。そして、洗面所には、石鹸がある。洗面所の石鹸は、アワビの殻に入っていた。  それ以外、男性化粧品のようなものは、見当たらなかった。  あたしがここを使うので、片づけたのだろうか……。  そうとも思えなかった。傷や火傷《やけど》に塗るためのタイガー・バームがひと瓶あった。瓶の蓋《ふた》をとったまま、置き忘れられていた。ずいぶん古いものらしく、ほとんど空《から》になっている。  かなり錆《さ》びてしまっている安全カミソリもひとつ、洗面台のすみに放ってある。そのとなりには、なぜか、釣りに使うルアーが1つ、転がっていた。  片づけた様子はない。  歯ブラシは、1本だけ。コップに立ててあった。ほかに、誰かのものらしい歯ブラシも、女性用の洗顔石鹸も、何もなかった。  このとき、あたしは気づいた。  浩一を、ひとりの男性として意識している自分に気づいた……。  同時に、ひとりの女の目として、彼の洗面所をながめている自分が、ひどく恥ずかしかった。  あたしは、ドライヤーのスイッチを〈強〉にした。勢いよく吹き出る熱風で、バサバサと髪を乾かしていく……。いつも通り、淡いピンクのリップ・クリームだけつけると、下におりて行った。       □ 「いらっしゃい」  あたしは、カウンターの中で言った。店のドアが開いたところだった。  入ってきた客は、五味岡だった。  五味岡は、赤い顔をしていた。いまは、10時。もう、どこかで飲んできたらしい。カウンター席に座る。正面にいるあたしに、 「やあ」  と笑顔を見せた。いつものやつ、と言った。あたしは酒棚から五味岡のキープ・ボトルを取った。濃いめの水割りをつくった。       □  その夜も、五味岡は、閉店までひとりで飲んでいた。11時半。浩一とあたしは、店じまいのしたくをはじめた。 「じゃ、そろそろ帰るよ」  と五味岡は言った。あたしは、タクシー会社に電話をかけた。けれど、タクシーは、たまたま出払っているらしい。かなり時間がかかる、と配車係の人は言っている。  あたしは、そのことを五味岡に言った。 「じゃ、いいよ、歩いて帰るから」  と五味岡。あたしは、電話を切った。 「本当に、大丈夫なんですか?」  と五味岡に訊《き》いた。 「大丈夫さ。のんびり歩いて帰るよ。今夜は天気もいいし」  と五味岡。皮のショルダー・バッグを、スーツの肩にかけた。浩一に、 「じゃ」  と手を振った。浩一も、うなずき返す。五味岡は、店を出て行った。その足どりが、少しふらついていた。五味岡は、かなり酔っているようだった。 「大丈夫かしら……」  あたしは、五味岡が出て行ったドアの方を見て、つぶやいた。 「まあ、大丈夫だろう」  と浩一。グラスを洗いながら言った。 「五味岡さんの家って、逗子だって言ってたけど、逗子のどの辺?」 「葉山と逗子のさかい目を越したあたり。渚橋《なぎさばし》より手前だったと思う」  浩一は言った。あたしは、うなずいた。それなら、歩いても20分かそこいらの距離だろう。  店の片づけは、ほとんど終わっていた。 「もう、いいよ」  浩一が言った。あたしは、エプロンをはずす。2階から自分の荷物を持ってくると、サンセットを出た。  ナイロンのバッグを肩にかけ、歩きはじめた。もう夜中だった。けれど、風の中に、昼間の熱気が残っている。真夏なのだ。  海岸通りに出た時だった。何か、争っているような声がきこえた。  あたしは、足を止めた。  夜ふけの海岸通り。車が駐《と》まっていた。白っぽい国産車だった。  そのそばで、何か争っているらしい人影が見えた。4、5人だった。  そのうちの1人は、どうやら、五味岡らしかった。あたしは、思わず、バッグを肩からおろした。       □  3人の男と、五味岡が、ケンカをしていた。いや、ケンカというより、もみ合っていた。  五味岡が、3人のうちの1人につかみかかった。けど、酔っているから動きがにぶい。逆に、相手のパンチを顔にくらってしまった。五味岡は、後ろによろける。道路に尻《しり》もちをついた。  あたしは、足もとにある自分のナイロン・バッグを開けた。中から、磯鉄《いそがね》をつかみ出した。  それを右手に握って、連中の方に近づいて行った。 「ちょっと、あんたたち」  と言った。3人が、こっちをふり向いた。3人とも若い。|20歳《はたち》ぐらいだろう。  暴走族とか、チンピラとか、そんな感じじゃない。車は他県ナンバーだった。たぶん、湘南までドライブにきた大学生というところだろう。 「あんたたち、何やってるのよ」  あたしは言った。 「3人で1人を相手にして、恥かしくないの?」  と言った。連中を、にらみつけた。 「なんだとォ」  連中の1人が、あたしをにらみ返してきた。こっちが女なんで、なめてかかっている。ニヤリと笑うと、1歩、ふみ出してきた。 「でしゃばるんじゃねえよ」  と言った。ニヤニヤ笑いを浮かべたまま。あたしの方に迫ってこようとした。  あたしは、右手に握っていた磯鉄《いそがね》を、ナイフのように突き出してかまえた。  相手の表情から、ニヤニヤ笑いが、消えた。足が、ピタリと止まった。ニヤニヤ笑いが消え、顔が引きつっていた。  当然かもしれない。街灯の光をうけて、磯鉄はギラリと光っている。知らない人間には、凶悪な武器のように見えるだろう。  実際に、磯鉄をケンカに使った例もある。あたしが高校1年の時だった。地元の男の子同士のケンカだった。片方が、磯鉄で相手を殴った。  殴られた子の頭は、ウニの殻を割るようにパッカリと割れたらしい。3日後に病院で死んだ。殴った方の子は、久里浜《くりはま》の少年院に送られた。そんなこともあった。  あたしは、磯鉄を握りしめ、相手を見すえた。怖くはなかった。いざとなったら、本当に磯鉄を振り回すつもりだった。  相手は、もう、ひるんでいる。1歩、後ずさった。 「な、なんだよ……」  と言った。 「そんな物、出しやがって……」  と言った声に、力がなかった。勝ったと思った。 「3対1のケンカなんて、やめたら? すぐに地元の若い連中がきて、あんたたち、袋叩《ふくろだた》きにされるわよ」  あたしは言ってやった。  このセリフもきいたようだ。相手は、3人とも、ジリッと後退した。 「この……このオヤジが、おれらのセドリックを蹴飛《けと》ばしたんだ」  と相手の1人。倒れている五味岡を指さして言った。 「それで、言い争いになったんだ。悪いのは、このオヤジの方だぜ」  相手は言った。 「1発殴ったんだし、もう気がすんだでしょ。これ以上もめてると、本当にやばいわよ。このあたりの若い連中は気が荒いんだから」  あたしは言った。 「へたすると、あんたたち、その大切なセドリックごと、森戸の海に沈められちゃうわよ。まあ、魚のエサになるのもいいか」  と言ってやった。 「……わ……わかったよ……」  相手が小声で言った。勝負はあった。       □ 「立てる?」  あたしは、五味岡に訊《き》いた。 「あ、ああ……」  と五味岡。のろのろした動作で、立ち上がろうとした。あたしは、彼に肩を貸して立ち上がるのを助けた。相手の3人組は、車に乗って走り去って行ったところだった。あたしはホッとして五味岡に肩を貸した。 「大丈夫? 歩ける?」 「ああ……なんとか……」  五味岡は、うめくように言った。       □  10分後。  あたしと五味岡は、森戸海岸にいた。ゆっくりと五味岡を歩かせて、ここまでやってきた。  殴られた傷の方は、たいしたことはないみたいだった。唇の端が少し切れて血がにじんでいるだけだ。  それより、酔いの方が、かなり回っている。しゃべるのはともかく、歩くとかなりふらつく。いますぐに歩いて家まで帰るのは、無理みたいだった。  五味岡は、波打ちぎわまで行き、海水で顔を洗った。あたしは、そばにある自動販売機で、ウーロン茶を2缶買った。1缶を五味岡に渡した。五味岡は、 「すまない……。ありがとう」  と言うと、ウーロン茶をひと口飲んだ。  あたしたちは、砂浜に座って、ウーロン茶を飲みはじめた。  夜中の砂浜は静かだった。ヨット部の連中は、とっくに寝てしまっているだろう。海の家も、みんな閉じて電気を消している。波が、ピチャピチャと、かすかな音をたてている。フラットな海面に、月が映っていた。 「あの連中の車を、蹴飛ばしたの?」  あたしは訊いた。 「まあ……ね。じゃまな場所に駐めてあったもんで、つい……」  うなずきながら、五味岡は言った。 「酔ってるんだな、やっぱり……」  と苦笑しながら言った。 「ずいぶん飲んでたものね」 「まあ……」  と五味岡。ウーロン茶をひと口飲む。 「ストレスのたまりやすい仕事なんでね……。つい、飲み過ぎるなあ……」  と自嘲《じちよう》ぎみに言った。  あたしは何気なく、 「五味岡さんて、なんの仕事してるの?」 と訊いていた。 [#改ページ]  7 スキャンダル       □ 「編集者なんだ」  五味岡は、あっさりと言った。自慢げでもなく、気負ってもいない言い方だった。 「編集者……」  あたしは、つぶやいていた。  胸の中で、うなずいていた。それで、かなり納得《なつとく》できたことが多い。五味岡には、どこか、普通のサラリーマンぽくないところがある。それも、職業が編集者ときけば、うなずける。  ネクタイ姿なのに、皮のショルダー・バッグを肩にかけている。  その中には、資料や原稿が入っているのかもしれないと、あたしは想像した。 「どこの出版社?」  あたしが訊《き》くと、五味岡はKという大手出版社の名前を言った。誰でも知っている出版社だった。けれど、その名前を口にする五味岡の口調に、得意げな響きはなかった。  あたしは、五味岡に、一種の好感を持ちはじめていた。思い切って、あのことを訊いてみようと思った。 「あの……」  あたしは、口を開いた。五味岡が、こっちを見た。 「この前、お店に来た時、岩田って呼んでたわよねェ?」 「ああ……浩一のことか……」  あたしは、うなずいた。 「本名は朝倉なのに、なんで岩田って呼んでるのか、不思議だったんだけど……」  と言った。 「うん……」  と五味岡。ちょっと言葉をにごした。 「浩一からは、そのことについて、何もきいてないのかな?」  と言った。あたしは、うなずいた。 「何も……。1度だけ、訊いてみたんだけど、何も答えなかったわ」 「……そうか……。あいつらしいな……」  と五味岡。3、4回、うなずきながらつぶやいた。しばらく、ウーロン茶の缶を口に運んでいる。  やがて、口を開いた。 「別に、たいした秘密ってわけじゃないから、いいだろう」  と言った。また、ウーロン茶でノドを湿らす。話しはじめた。       □ 「ペンネーム?」  あたしは、思わず訊《き》き返していた。 「そう。岩田ってのは、やつのペンネームなんだ」  五味岡は言った。 「そう……いまから5年ぐらい前になるかなあ……」  つぶやきながら、思い出している。 「おれがいる出版社でやっている小説雑誌の新人賞に、1本の小説が送られて来てね……。それが、やつの書いた小説だったんだ」 「…………」 「小説雑誌の新人賞ってのは、何百編っていう応募作を外部の人に読んでもらって、ざっと、選ぶわけだ。まあ、予選みたいなものだね。第一次審査と言ってるけど。その審査をパスした作品が、おれたち編集者のところに回ってくるわけだ」 「…………」 「その小説をはじめて読んだ時のことは、よく覚えてるよ。東京に雪が降った日だった」 「…………」 「小説のタイトルは〈舵《ラダー》〉。作者のペンネームは岩田浩一。本名、朝倉浩一。住所は鎌倉だった」 「……小説の内容は?……」 「船をつくる少年たちの話だった」 「船をつくる……」 「ああ……。舞台は湘南で、主人公は高校1年の男の子だった。沖を走るヨットに憧《あこが》れる少年が、友達2人と一緒に、1艘《そう》のヨットをつくるストーリーだった」 「…………」 「少年3人の友情がストーリーの軸になってて……そう、わかりやすく言えば、映画の〈スタンド・バイ・ミー〉みたいな感じだな」  あたしは、うなずいた。 「たぶん、やつの、岩田の体験がベースになってると思うんだけど、船づくりのディティールや、その年頃の少年の心理が、過不足なく書き込まれていてね。文章も簡潔で」 「…………」 「それに、何よりも、書き手が海が好きだってことが、ストレートに伝わって来るんだな……。だから、小説に力があってね……」 「で、五味岡さんは、その小説をおしたの?」 「ああ。編集者のカンとしても、いけると思ったし、おれも湘南で育った人間だから、親しみもあったしね。編集部の中でも、一番強くおしたよ」 「それで……新人賞は?」  五味岡は、うなずいた。 「受賞したよ。プロの作家たちによる最終選考会でも、ほとんど満場一致だった」 「……じゃ、その小説は、雑誌に載《の》ったの?」 「もちろん。単行本にもなった。その頃は、かなり話題にもなったよ。〈太陽の季節〉以来、湘南やヨットを正面から扱った小説は、意外になかったからね」 「で、五味岡さんが担当編集者に?」 「ああ、もちろん。やつは鎌倉、おれは逗子だしね。最終選考に残った段階で、会いに行ったよ」 「…………」 「知ってるかもしれないけど、やつはテンプラ屋の息子でね」 「知らなかったわ……」 「そうか……。やつの家は、鎌倉の長谷《はせ》で何代もつづいてる老舗《しにせ》のテンプラ屋なんだ」 「へえ……。それで名前が浩一ってことは、長男?」 「ああ。ほかに、姉さんが1人だけいたけどね」 「じゃ、跡取り息子?」 「まあ、父親としては、浩一に店を継いで欲しかったようだな。浩一のやつ、子供の頃から、テンプラのための鱚《キス》をさばいたり、エビの殻をむいたり、いろいろやらされたって言ってたよ」  と五味岡。  あたしは、うなずいた。浩一が魚を扱うのが上手な理由が、わかった。 「でも……浩一のやつには、店を継ぐ気はなかったな」  五味岡が言った。 「もともと、独立心の強い人間なんだろうなァ……。代々つづいている店を継ぐなんて、性に合わなかったらしい。おれが、はじめて浩一に会った頃、父親はすでに浩一に店を継がせるのをあきらめていたようだな。姉さんに、婿《むこ》をとらせる準備をはじめていたらしい」 「その頃、浩一は、大学生?」 「ああ。大学3年でね。ヨット部に入ってたから、鎌倉の自宅と、葉山にある合宿所を行ったり来たりしてたよ」  と五味岡。  その合宿所とは、うちの近くにある。5年前、大学生だった浩一と中学生だったあたしは、近所ですれちがっていたことになる。ちょっと不思議な気分だった。 「浩一は、小説家になるつもりで、新人賞に応募したのかしら」  あたしは訊《き》いた。 「まあ……小説は好きだったんだろうけど、プロになるつもりっていうより、自分の少年時代を書きとめておきたかったらしいな」 「…………」 「でも、やっぱり、あの受賞作はいい小説だったと思うよ」  五味岡は言った。 「ペンネームは、なんで岩田に?」  あたしは訊いた。 「おれも、本名の朝倉浩一の方がスマートでいいと思ったんだけど、本人は、どうも気に入らなかったらしい」 「へえ……」 「浩一の話だと、朝倉じゃ、なんか気どった感じがするっていうんだな。逆に、ゴツゴツした男っぽい名前がいいんで、応募する時に、岩田とつけたらしい」  と五味岡。  あたしは、苦笑しながらうなずいた。浩一は、とりすました人間や物事に対して、かなり強烈な皮肉をぶつけることがある。 「やつの文章も、あの性格そのままでね、ムダな飾りの一切ない文章だった。おれは、それをすごく高く評価したんだ。事実、小説が単行本になってからの評判も、かなり良かった。派手なベスト・セラーにはならなかったけど、ファンレターもずいぶん来てたしね」 「…………」 「ひさびさに、本格的な青春小説の書き手があらわれたと、おれは期待してたんだけど……」 「だけど?……」  あたしは訊いた。五味岡は、首を左右に振った。 「あんな事件さえ起こらなければ……」  と、つぶやくように言った。       □ 「あんな事件?……」  あたしは訊き返した。  五味岡は、ゆっくりと、頭を左右に振っている。また、ウイスキーの酔いが回ってきた、そんな感じの動作だった。しばらく、そうして頭をゆっくりと振っていた。 「事件って……どんな事件だったの?……」  あたしは、また訊いた。五味岡は、しばらく無言。ゆっくりと頭を振っていた。  やがて、ぽつりと話しはじめた。 「あれは、浩一の小説〈舵《ラダー》〉が出版されて1ヵ月ほどたった頃だった。確か6月で、浩一は、とっくに大学4年になっていた」 「…………」 「〈舵《ラダー》〉の増刷が決まったんで、おれと浩一は、その祝いと2作目の打合せをかねて飲んでいたんだ。鎌倉の駅近くの店で飲んでいた」 「…………」 「ところが、その店で浩一にからんできたやつがいたんだ。男3人で飲みに来てたグループの1人で、おれと同じぐらいの年齢だった」 「…………」 「その頃、浩一の顔は、鎌倉じゃけっこう知られてた。メジャーな出版社の新人賞をとった学生作家ということで、地元の新聞や雑誌がよくインタビューしていたからね」 「…………」 「そんな浩一に対して、ねたみを持つ人間も多かったんだと思う。その夜、浩一にからんできたのも、そんな連中の1人だったんだなあ」 「…………」 「カウンターで浩一のとなりに座ってたその男は、かなりしつこくからんできた。〈いい気なもんだ〉とか、〈あの程度の小説で〉とか、たちの悪いからみ方をしてきたんだ」 「…………」 「相手も、おれも、浩一も、みんなかなり酔ってた。けど、最初、浩一はその男を相手にしなかった。その男と言い争いをはじめてしまったのは、おれなんだ」  と五味岡。  また、頭を3、4回、振った。 「おれも若かったんだな……。まだ、20代の終わり頃だったし……。自分が手がけた小説をけなされたんで、ムカッとして、からんできた男と言い争いをはじめちまったんだ」 「…………」 「言い争いが、どんどんひどくなっていってね……。相手の男が、おれの顔にグラスの酒をぶっかけようとしたんだ。ところが、酒は、相手とおれの間にいた浩一にかかっちまって」 「…………」 「それまでは、言い争ってるおれを止めようとしていた浩一も、さすがに頭にきて、相手の肩あたりにヒジ鉄をくらわせたんだ」 「…………」 「相手はかなり酔っぱらってたんで、カウンターのスツールから、ひっくり返って落ちてね……。後ろにあったテーブルに頭をぶつけて、額《ひたい》を少し切っちまったんだ」 「…………」 「額の傷はたいしたことなかったし、ちょっとした小ぜり合いですんだはずなんだけど、相手の仲間が警察を呼んだもんで、話は大事になってしまった」 「…………」 「浩一にとって不運だったことが2つあった。その1つは、ケガをした相手が、地元で手広く事業をやってる男の息子だったってこと。つまり、有力者の息子だったってことだ」 「…………」 「それより、もっと悪かったのは、相手が体の不自由な人間だったってことだ」 「体の不自由な?……」  あたしは、訊き返した。五味岡は、うなずいた。 「相手は、元暴走族まがいのことをやってたらしいんだが、車の事故を起こして、右足を少し引きずるようになってしまったということだった。おれも浩一も、相手が座ってたんで、まるで気づかなかったけどね」 「…………」 「かけつけた警察官に、相手の仲間たちが言いはったんだ。浩一が一方的に暴力をふるったんだとね」 「…………」 「こっちも相手が悪いと主張して、結局、裁判ざたになってしまった。示談にできそうな感じだったんだけど、浩一が示談にしないと言いはってね」 「…………」 「浩一のやつ、もともと不器用な性格だし、ガンコなところもあるしな……。相手が悪いんだから、裁判で決着をつけると言いはったんだ」 「…………」 「ところが、裁判になったら、相手は、ケンカのあった店の人間を抱き込んでてね」 「店の人間?……」 「ああ……。公平な証人になるはずだった店の主人と従業員を抱き込んでいたんだ。なんせ、地元の有力者の息子だからな……。金と力にものを言わせて、さも浩一が一方的に暴力をふるったような証言をさせたんだ」 「…………」 「結局、こちら側に非があるという裁決が出て、こっちは、相手の治療費やらなんやらを支払うはめになったんだ」 「…………」 「その金額はたいしたことなかったんだが、問題は、その反響だった」 「反響?……」  五味岡は、うなずいた。 「スポーツ新聞や写真週刊誌がかぎつけて、かなり大きく扱ったんだ。新鋭の学生作家のスキャンダルとしてね」 「…………」 「浩一は、鎌倉の老舗《しにせ》の息子で、ヨットをやってて、新人賞をとった学生作家で……世間の人間からねたまれるような存在ではあったわけだ。スポーツ紙なんかに、足をすくわれやすい状況でもあったんだ」 「…………」 「そこへ、おあつらえ向きのスキャンダルが起こったわけだ。暴力事件で、しかも、相手は体にハンディキャップのある人間だし……。連中は、待ってましたとばかり、書き立てたよ」 「…………」 「チヤホヤされていい気になっている学生作家が、バーでほかの客に暴力をふるった。しかも、相手はハンディキャップのある人間ってことで、いかにも弱い者いじめという内容のスキャンダル記事が出てしまってね」 「…………」 「いくら抗議しても、一度出てしまった記事は、もう取り返しがきかないし、読者はそれを本当だとうけとってしまうしね」 「…………」 「そのスキャンダル記事が出てしまってから、おれの出版社に、読者からの手紙がかなり来たよ。ほとんどが、浩一を非難する内容だった」 「…………」 「浩一の読者はみんな若い連中だったから、そのスキャンダルには敏感に反応してしまったらしいな……。そういう手紙のほとんどは浩一に見せずに捨てたけど、中には本人に直接送りつける読者もいたらしい」 「直接……」 「ああ。鎌倉にある有名なテンプラ屋の息子だし、スポーツ紙がその店名まで書いてしまったから、本人に直接、非難の手紙を送りつける読者も多かったみたいだ」 「…………」 「鎌倉は東京に比べればぐんと狭い街だし、浩一の顔はかなり知られていたから、本人も鎌倉に居づらくなったらしくてね……。葉山に、部屋を借りたんだ」 「葉山の、どこに?」 「いま、店にしているところさ」 「あの、サンセット?……」  五味岡は、うなずいた。 「あそこは当時、ごく普通の一軒家で、貸し家になっていたんだ。浩一は、それを借りて、引っ越して来た。2階から海が見えるのが気に入って借りたと言ってたよ」 「…………」 「でも……その頃、浩一はすでに決心していたんだな……」  五味岡は言った。 「決心?……」  あたしは訊きなおした。  砂浜の端の方で、シュルシュル……パンッと音がして、小さな打上げ花火が夜空に散った。若い連中の笑い声が、遠くできこえた。 [#改ページ]  8 漂うヨットのように       □ 「あの日のことは、よく覚えているよ」  と五味岡。ウーロン茶を、ひと口飲む。また、ぽつりぽつりと話しはじめた。 「浩一が葉山に家を借りて1ヵ月ぐらいたった日だった。おれは、様子を見にここへやって来たんだ」 「…………」 「もう夏の終わりで、ツクツクボーシが鳴いていた。残暑って感じの日だった」 「…………」 「おれが来てみると、家の1階で工事をしてるんだ」 「工事?」 「ああ。大工が入って、かなり大がかりな工事をしているんだ。おれは浩一に、〈何をしているんだ〉と訊《き》いた。すると、やつは、〈店をやるんだ〉と答えた。〈バーをやるのさ、ここで〉と言った。家主との話もついてるし、準備はできてるんだと言うのさ」 「…………」 「浩一のやつ、〈舵《ラダー》〉の単行本で入った印税を使って、バーをはじめるつもりらしかった」 「…………」 「で、おれは訊いたんだ。小説はどうするんだと」 「…………」 「浩一の返事は、そっけなかったよ。ただひとこと、〈やめた〉。それだけさ」  五味岡は言った。  あたしは、心の中でうなずいていた。その時の、浩一のそっけない口調が、すごくリアルに想像できた。  店の閉店時間になって、〈さて、終わりだ〉と言う、あんなさりげない調子で言ったんだろう。 「さすがに驚いたおれは、浩一をいろいろ問いつめたよ」  と五味岡。 「そうすると、浩一は、自分の部屋から、封筒をひとつ持って来たんだ」 「封筒?……」 「ああ。かなり大きさのある封筒だった。宛《あ》て先は、鎌倉にある浩一の実家だった。浩一が葉山に引っ越して来る少し前に送られて来たものらしい。どうやら、読者からの封筒らしかった」 「…………」 「中からは、バラバラに切り裂かれた〈舵《ラダー》〉の単行本が出てきたよ。ハサミでバラバラに切られたらしかった」 「…………」 「浩一は、無言で、それをおれに見せると、ゴミ箱に放り込んだ。そして、ひとこと、〈もう、おりるよ〉と、つぶやくように言ったんだ」 「…………」 「やつは、物書きとしての人生から、本気でおりてしまうつもりらしかった」 「…………」 「まだ走りはじめたばかりのバスから、おりてしまう、そんなつもりらしかった」 「…………」 「浩一にとっては、スキャンダルを書きたてられたことより、それに対する周囲や読者の反応がこたえたんだろうなあ……」 「…………」 「地元の鎌倉でも、スキャンダルが出た後、浩一を白い眼で見る人間が多かったようだ。それにもまして、読者から送られて来る非難の手紙が、こたえたんだろうなあ」 「…………」 「見ず知らずの人たちから、〈あなたがそんな人間だったとは思わなかった〉だの、〈お前には失望させられた〉だの、〈死んでしまえ〉だの、そんな手紙が来たり、バラバラに切り裂かれた本が送られて来たりする、そんなことに浩一は嫌気がさしたんだろうと思う」 「…………」 「浩一は、こう言ったよ。好きな海に出て、魚を釣って、それを客に出す、そんな店をやるつもりだ。そう言ったよ」 「…………」 「おれも、いろいろと説得してみたんだが、あまり効果はないみたいだった。もともと、名声とかその手のものには欲のない人間だったからなァ」 「…………」 「その上、かなり不器用で一本気な性格だから、自分をとり巻くいろんなものに嫌気がさしたんだろうな」 「…………」 「浩一は自分を船にたとえて、こう言ってたよ。外海を走ってた船が、たまたま湾に入ったら、プロペラにビニールゴミやロープの切れはしがからみついてしまった……。いまの自分は、そんな状態なんだと言っていたよ」  と五味岡。あたしは、小さくうなずいた。  浩一の言ったことがわかると思った。  たまたま新人賞をとって本を出してしまったために、いろいろなトラブルをかかえ込んでしまった……そういう意味を、船にたとえて言ったんだろう。よくわかる。 「プロペラにからみついたゴミを取りのぞいて、もう一度、外海に出たいんだ。潮にのって漂うヨットみたいに、気楽な生活をしたいんだ。浩一のやつは、そう言ったよ」 「…………」 「その日の夕方、おれと浩一は、歩いてすぐの、この海岸にやって来た。あそこにある防波堤に立って話をしたんだ」  と五味岡。  森戸海岸の端にある突堤を指さした。 「おれは、とにかく、小説を書きつづけるように説得したよ。やつには、まぎれもない才能があると思っていたからね。それを埋もれさせてしまうのは、どう考えてもおしかった」 「…………」 「あんなスキャンダルに関係なく、うちの会社としては、浩一の小説は出版していくつもりだった。上の方のOKもちゃんと取れている。そのことを浩一に言ったんだけど……」 「…………」 「もう、当分、小説を書く気になれない。浩一は、夕方の防波堤でそう言った。ポケットから、それまで使ってた万年筆を出すと、それを、海に、ポイと投げ捨てたよ」       □ 「海に……万年筆を……」  あたしは、つぶやいた。  同時に、思っていた。浩一が、その万年筆と一緒に投げ捨てたものはなんだったんだろうと……。 「その光景は、よく覚えているよ……。万年筆は、夕陽をうけて光りながら、海に落ちて行った。ポチャンと小さな音がしたよ」  と五味岡。ウーロン茶を、ぐいとひと口飲んだ。しばらく、夜の海をながめている。 「おれは、とりあえず、冷却期間を置こうと、その時に決心したよ」  と口を開いた。 「浩一のやつは、一本気だし、ガンコでもある。一度こうと決めたら、それを曲げないところがある。君も、なんとなく感じてると思うけど……」  あたしは、小さく、うなずいた。 「だから、自分が筆を折る、つまり小説を書かないと決めたら、まず、ダメだろう」 「…………」 「けど、おれは、あきらめるつもりはない。浩一をあのスキャンダルに巻き込んだ責任のほとんどはおれにある。それに、浩一には小説家としての才能があると見込んだ、編集者としての自負もある」 「…………」 「とにかく、何年でも待つつもりだよ。……いつか、浩一の気持ちの中にある氷みたいな決心が溶けて、また、ペンを握る日がくるまで、おれは、あきらめないよ」  五味岡は、力を込めて言った。  ちょっとりきみ過ぎた自分に気づいたのか、 「いや、まあ」  と、照れたように言った。頭をかいた。 「ちょいと力《リキ》を入れ過ぎたなあ……」  と苦笑まじりに言った 「まあ、とにかく、そんな出来事が浩一の過去にはあったってことで……」  と言葉尻《ことばじり》をにごした。あたしは、ゆっくりとうなずいていた。  いまの話で、いくつかのクエスチョン・マークが消えた。  まず、五味岡が、浩一を〈岩田〉と呼んでいたこと。  それから、五味岡が口にした言葉の意味も、よくわかる。 〈どうなんだ、店の調子は〉  と訊《き》いていた。あれは、言葉どおり、浩一の店のことを気にかけていたんだろう。そして、 〈そろそろ、いいんじゃないか?〉  と言った。  あれは、こういうことだろう。 〈そろそろ、また、小説を書く気になってもいいんじゃないか?〉  そんな意味のことなんだろう。あたしは、胸の中でうなずいていた。       □ 「ずいぶんおしゃべりしちまった……。じゃ、そろそろ行くよ」  と五味岡。立ち上がった。お尻《しり》についた砂を、手で払い落とした。  もう、足どりはしっかりしている。口調も、正常に戻ってきていた。  あたしと五味岡は、ゆっくりと歩きはじめた。海岸道路に向かって歩きはじめた。 「いま、おれが話したことは、浩一にはオフレコにしといてくれるよな?」  五味岡が言った。 「さあ、どうしようかなあ……」 「おいおい」 「冗談よ、冗談。言わないわよ」  微笑《わら》いながら、あたしは言った。 「そのかわり、お願いが1つ、あるんだけど……」  と言った。 「お願い?……」  あたしは、うなずいた。 「彼が、浩一が書いた、その〈舵《ラダー》〉っていう小説を読みたいんだけど……ダメ?」  と言った。並んで歩いている五味岡を見た。 「別に、ダメじゃないさ」  五味岡は言った。 「あの単行本なら、まだ会社に何冊もあると思う。1冊、君にあげるよ」 「本当?」 「もちろん。……しかし、バイト先のあの店で渡すのは、まずいかなあ……。浩一に見つかると、やつは嫌がるかもしれない」 「じゃ、家に送ってくれる?」 「OK。いいだろう。住所を教えてくれ」  と五味岡。ショルダー・バッグから、メモ帳を取り出した。  あたしと彼は、海岸道路まで来ていた。その街灯の下で、五味岡はメモ帳を広げた。あたしは、まず、 「神奈川県三浦郡葉山町堀内……」  と住所を言う。五味岡がメモをしている。そして、 「早川|薊《あざみ》」  と名前を言った。その時だった。 「葉山町、堀内の早川?……」  と五味岡がつぶやいた。動かしていたボールペンが、ピタリと止まっている。 「君のおじいさん……もしかして、英米文学の早川敬太郎?……」  と訊いた。       □ 「そ……そうだけど……」  あたしは答えた。けど、突然だったんで、ちょっと、どぎまぎしてしまった。 「どうして、あたしの祖父のことを?」  と訊いた。  五味岡は、突っ立ったまま、あたしをじっと見ていた。 「そうかァ……偶然だなあ……。君が、あの早川敬太郎の孫とは……」  五味岡は、しみじみと言った。あたしは、訳がわからず、突っ立っていた。  しばらくして、五味岡は、口を開いた。 「いや、ごめんごめん……。じつは、おれがまだ大学生だった頃、君のおじいさんに手紙を書いたことがあるんだよ」 「手紙?……」 「ああ……。訳を話すと、こうなんだ。おれは、その頃、大学の英文科の学生で、将来は翻訳家になろうと思っていたんだ。……いまからもう、15年ぐらい前になるけどね」 「…………」 「実際には、ちょっと方向が違って、編集者になったんだけど、|20歳《はたち》のその頃は、本気で翻訳家になろうと思っていたんだ」 「…………」 「その頃、日本人が翻訳した英米文学をいろいろ読んだんだけれど、君のおじいさん、つまり早川敬太郎の訳したものに特にひかれてねえ」 「…………」 「出版社を通じて住所を教えてもらって、早川敬太郎に手紙を書いたんだよ。確か、翻訳家になるための心がまえみたいなことを教えて欲しいとか、そんな内容の手紙だった」 「へえ……」 「見ず知らずの大学生からの手紙なのに、君のおじいさんは、親切な返事をくれたよ」  と五味岡。  あたしは、うなずいた。祖父なら、たぶん、そうしただろう。 「合計で3回ぐらい手紙のやりとりがあったかなあ……。近いことだし、一度、家を訪ねようかとも思ったんだけど、なんだか、畏《おそ》れ多いような気がしてねえ……。当時はおれも、青二才だったから」  と五味岡。  ちょっと照れたように笑った。 「結局、君のおじいさんとは手紙のやりとりだけだったけど、住所は、よく覚えていた。……まあ、種を明かせば、そういうことなんだ」  あたしは、うなずいた。 「おじいさん、いまは?」  五味岡が訊いた。 「死んだの。この前の冬。突然の心臓発作で……」 「……そうかァ……」  と五味岡。しばらく無言でいた。30秒ほど、無言でいた。 「近いうちに、お墓まいり、させてもらうよ」  と言った。 「祖父も、きっと喜ぶわ」  あたしは言った。  五味岡は、また、あたしをじっとながめていた。 「そうかあ……君がねえ……早川敬太郎の孫娘かァ……」  と言った。なんだか、嬉《うれ》しそうだった。 「じゃ、君はいま大学の英文科あたりに通ってるのかい?」  と訊いてきた。 「いや、それが……」  あたしは言葉をにごした。 〈お金がなくて、ちょっとアワビの密漁を〉  とは、さすがに言えない。 「いろいろ事情があって……いまは、その、アルバイトを中心の生活で……」  と言って、ごまかした。 「そうか……。まあ、いいや」  と五味岡。しばらく、何か考えている。       □ 「感想?……」  あたしは、訊きなおしてしまった。五味岡は、うなずいた。 「そう。感想をきかせて欲しいんだ。浩一の〈舵《ラダー》〉を読んだ、その感想を、きかせてくれないか」 「でも……」  あたしは、尻ごみしかけた。 「ぜひとも、ききたいんだ。あの早川敬太郎の血をひく君が、〈舵《ラダー》〉を読んでどう感じたのか、ぜひ教えて欲しいんだ」 「…………」 「そうだ。それを条件に、〈舵《ラダー》〉を君のところに送ってあげよう。感想を口で言うのが難しかったら、感想文でもいいよ」 「感想文?」 「ああ。100字でも200字でもいい。感想文を書いてくれるって約束してくれたら、本を送ろう」  五味岡は言った。  100字や200字なら、何か書けるかもしれない。  それで浩一が書いた本が読めるなら……。 「わかったわ」  あたしは言った。  それが、自分の人生を大きく変えるターニング・ポイントになるとはまるで予想もせず、気楽に答えてしまった。 [#改ページ]  9 南風がページをめくっていく       □  2日後。朝。  本が速達で送られて来た。五味岡の出版社の封筒に入っていた。  中を開けると、本と一緒にメモ用紙が1枚入っていた。ボールペンの走り書きで、 〈読み終わりしだい、感想文を書いてくれ。楽しみにしている〉  とあった。  あたしは、ナイロン・バッグにその本を入れ、家を出た。軽く、ひと潜りするつもりだった。  一色海岸に近い芝崎の磯に行った。まだ午前中なので人はそう多くなかった。真夏。快晴。昼頃になれば、磯は人でいっぱいになるだろう。  密漁取締り船は、もう海に出ていた。この磯のまわりも、パトロールしている。  ウエット・スーツ姿で潜るのは、まずいだろう。  あたしは、水着で潜った。水は暖かく、柔らかかった。水中から見上げる海面は、陽射しをうけてグリーンに光っていた。  水深2、3メートルのところに潜る。海藻のカジメをつかんで体を固定する。周囲を見回した。  サザエが1つ、カジメの葉にへばりついていた。カジメの葉は、サザエの好物なのだ。  あたしは、カジメを食べているサザエをはがして獲《と》った。ウエストにくくりつけてある網のビクに入れた。  1時間ぐらいで、7個のサザエが獲れた。いまの時期としては、まずまずだろう。  あたしは、サザエの入ったビクを、深さ2メートルほどの海底に置いた。そばにあったゴロタ石をのせて動かないようにした。  その場所をしっかりと覚えて、水面に上がった。誰も見ていない。いいだろう。磯に上がり、水中マスクとシュノーケルをはずした。  磯から、防波堤に上がった。  コンクリートの防波堤に腰かけた。陽射しをうけている防波堤は、もうかなり熱くなっている。  濡《ぬ》れている体が、どんどん乾いていくのがわかる。  あたしは、バッグから、持ってきたトマトを出す。トマトをかじって、ひと息ついた。  しばらくして、バッグから浩一の小説をとり出した。       □  あたしは、その本の表紙をながめた。  派手じゃないけれど、きれいな表紙だった。  全面、青い波のイラストになっている。水彩画らしかった。透明感のある色調で、波が描かれていた。  そのまん中。四角く、白いスペースがとってある。そこに濃いブルーの文字で〈舵《ラダー》〉というタイトル。〈岩田浩一〉という作者名が印刷されていた。  あたしは、防波堤に腹ばいになった。本を開いた。 〈僕らは十六歳だった。三人で力を合わせて、一隻のヨットをつくろうとしていた。〉  そんな書き出しで、小説ははじまっていた。  あたしの眼は、活字を追いはじめた。  真夏の陽射しを、肩や背中に感じる。本のページを、影がよぎった。顔を上げて見ると、カモメが1羽、頭上をゆっくりと飛んでいく……。あたしは、また、ページに視線を落とした。       □  フーッ。  あたしは、軽く、息を吐いた。本のページから顔を上げた。  20ページほど読み進んだところだった。たいして時間はたっていない。あっという間に、20ページ読んでいた。  ひとことで言って、気持ちのいい小説だった。  まず、文章がいい。浩一の文章は、とにかく、読みやすかった。あたしの視線は、スイスイと水中を泳ぐ魚のように、なめらかに活字を追うことができた。  そして、浩一の文体は、簡潔で飾りがなかった。よけいな形容詞や接続詞を、みんな削り落としてあった。  ちょうど、ヨットやボートの船底にこびりついた貝殻やフジツボを削り落としたような感じだった。なめらかな船底になったヨットが、きれいに水を切って走っていく。そんな感じの文体だった。  物語も、シンプルなものだった。3人の少年たちが1隻のヨットをつくるというストーリーだ。  まだ読みはじめだからわからないけれど、ヨットづくりをストーリーの軸に、友情や恋がからんでくるらしかった。  あたしは、また、ページに視線を落とした。       □  その日から1週間、あたしは、その小説とともに過ごした。  昼間、アワビやサザエの密漁をやりながら、防波堤でその小説を読んだ。太陽は、いつもまぶしく照りつけていた。南風が、ページをめくっていった……。       □  8月最初の大潮の日、あたしは〈舵《ラダー》〉を読み終えた。  最後の10ページぐらいは、ゆっくり、ゆっくりと読み進んだ。ああ、あと7ページで終わりなんだ……。そんなことを心の中でつぶやきながら、ページをめくっていった。  午前11時半。最後の1行を読み終えた。  あたしは、本を閉じた。  ゆっくりと深呼吸した……。  五味岡の言ったとおり、いい小説だった。  ヨットの物語だから、海や風の描写がよく出てくる。その描写にリアリティーがあった。  海や、風や、ヨットをよく知っている人間でなければ書けない描写がいっぱいあった。  作者が、海や船を心の底から好きだということが、行間から痛いほど伝わってくる。そんな小説だった。  あたしは、本を閉じてしばらくは、ボーッとしていた。ぼんやりと、防波堤に寝転がっていた。  その時、 「おーい、サザエ娘!」  という声がした。あたしは顔を上げた。  近くに4WDのハイラックス・サーフがとまっていた。上に、ウインドのボードとセイルを積んでいた。  運転席には、若い男の子がいる。助手席から、珠美《タマ》がおりてくるところだった。タマは、こっちに歩いて来る。 「ナマコみたいに寝っ転がっちゃって、何してるのさ」  と言った。 「ナマコでもタラコでもいいでしょ。ほっといてよ」  あたしは言い返した。4WDの運転席にいる男の子を、チラリと見た。この前まで、タマがつき合ってた相手とは違っていた。 「あんた、また、男を乗りかえたの?」  あたしは訊《き》いた。タマは、うなずく。 「前のは車検切れ。下取りに出したわよ」  と言った。 「ひとのことより、あんたこそ、男できたの?」  タマが訊いてきた。あたしは知らん顔。 「その様子じゃ、まだだな」  とタマ。 「漁業に忙しいのよ」 「あい変わらず、密漁か……。それもいいけど、海に潜ってばかりいると、体がフジツボだらけになっちゃうぞ」  タマは言った。 「うるさいわねえ」  あたしは、ぶんむくれて口をとがらせた。 「悪いこと言わないから、そろそろ男のひとりもつくりなよ、あざみ」  タマが言った。 「そうそう。今度の土曜に、〈マカプー〉でパーティーがあるんだ」  とタマ。〈マカプー〉は、逗子にあるレストランだ。 「若くてかっこいい男の子もいっぱい来るから、あんたもおいでよ。5千円で飲み放だい」  タマは言った。  あたしは、首を横に振った。だいたい、土曜はサンセットのバイトがある。それに、 「あたしみたいなビンボー人には、5千円も払えないわよ」  と言ってやった。 「そうかそうか。まあ、しょうがないなあ。サザエの密漁で細々と生活してるんだもんなあ……」 「そうよ。あんたみたいに家のレジからお金をかっぱらえるやつとは違うんだから」  あたしは言った。タマの家は、肉屋だ。そのレジから、タマはしょっちゅう、お金をしっけいしてるらしかった。 「ま、せいぜい、潜り、がんばって」  とタマ。 「タコやウツボによろしくね」  と言い捨てた。4WDの方に歩いて行った。       □  夜の11時過ぎ。  若いカップルのお客が帰って行った。店には、もう、お客はいない。 「もういいよ」  浩一が言った。あたしは、うなずいた。店の2階に行く。自分のナイロン・バッグをとって来た。今日も、海から直接、このサンセットにやって来た。2階でシャワーを借りて、着がえもすませたのだ。  あたしは、ナイロン・バッグを持つと1階におりた。  エプロンをかけっぱなしなのに気づいた。エプロンは2日に1度、家に持ち帰って洗濯している。  あたしはエプロンをはずした。たたむ。カウンターにのせたナイロン・バッグに入れようとして、バッグのファスナーを開けた。  その時、バッグから〈舵《ラダー》〉の単行本が転がり出てしまった!  昼間、読み終わって、バッグに入れておいた。その本が、店の床に転がり落ちた。  浩一は、ちょうど、すぐそばでカウンターを拭《ふ》いていた。  床に落ちた本に気づいてしまった!  あたしは、あわてて本をひろい上げた。けど、もう遅かった。  浩一は、じっと、あたしが手にしている本を見ていた。それが自分の本だと気づいてしまっている。 「あ、あの……」  あたしは、あせりまくって、口をパクパクとやっていた。何をどう言おう……。頭の中が、まっ白になっていた。  浩一は、無言で、あたしの手の中にある本を見ていた……。  その時、 「説明がききたけりゃ、おれがするよ」  という声がした。       □  あたしは、思わずそっちを見た。  あまりあせっていたので気づかなかったけど、店のドアが開いていた。そこに、五味岡が立っていた。  仕事帰りなんだろう。半袖《はんそで》のYシャツにネクタイ。いつもどおり、皮のショルダー・バッグを肩にかけている。  五味岡は、カウンターの方に歩いて来る。 「説明するのはいいが、ノドが乾いたな。まだ閉店じゃないだろう? 何か飲ませてくれよ」  と浩一に言った。  浩一は、うなずく。カウンターの中に入って行った。五味岡は、今日は酔っていなかった。 「さっき、校了を終えたばかりなんだ。とりあえずビールをくれよ」  と言った。あたしを見ると、 「君も一杯やっていかないか。この前、世話になったお礼に、おごるよ」  と言った。       □ 「まあ、そんな理由《わけ》なんだ」  と五味岡。グラスのビールを、ぐいと飲み干した。  もう、3本目の大瓶が空になりかけていた。五味岡も、あたしも、そして浩一も、ビールを飲んでいた。  五味岡は、この前のことを、上手に話してくれた。こんな調子だ。  五味岡が酔って、海岸道路でケンカをしそうになった。それを、あたしが助け、あたし達は砂浜で何気なく話をはじめた。  話は自然に浩一のことになった。5年前のことに話はさかのぼった。浩一が大学のヨット部員だったこと。小説の新人賞に応募し、受賞したこと。その後のゴタゴタ……。  浩一の受賞作を読んでみないかと五味岡があたしにすすめて、あたしの家に本を送りつけた。五味岡は、そんな風に説明してくれた。 「彼女は、ただ、それを読んだだけなんだよ」  と五味岡。浩一に言った。 「彼女に読ませたことで気を悪くしたんなら、謝るよ」  五味岡は言った。浩一は、かすかに首を横に振った。 「気を悪くしたとか、そういうことじゃないんだ。ちょっと驚いただけさ」  と言った。苦笑まじりに、 「ふいにあの本が目に飛び込んできたんで、驚いたんだ。別れた女と、街中でばったり会ったようなものだな」  と言った。  かすかに苦笑しながら言った。五味岡は、浩一をじっと見ている。 「その、別れた女と、またつき合ってみる気はないのか?」  と言った。 「また小説を書いてみないかってことかな?」  と浩一。 「まあな……」  と五味岡。浩一は、答えない。いつもどおり、ゆっくりとしたペースでビールを飲んでいる。何か言葉をさがしているみたいだった。けれど、言葉は見つからないのか、あい変わらず黙っている。  いまはFM横浜にチューニングしてあるオーディオから、P《フイル》・コリンズの曲が流れていた。       □  あたしと五味岡は、一緒に店を出た。  五味岡は、海岸道路で待っているタクシーで家に帰るところだった。 「かばってもらっちゃって、ごめんなさい」  タクシーに歩きながら、あたしは言った。 「いいんだ、そんなことは。それより、浩一の小説、読み終わったかい?」  あたしは、うなずいた。 「ちょうど、今日」 「そうか。で、よかったかい?」  あたしは、また、うなずいた。 「とっても、よかった」 「そうか……。じゃ、さっそく感想文を書いてくれよ」 「なんだか、夏休みの宿題みたいね」  笑いながら、あたしは言った。 「そうだな。宿題だと思って、まじめに書いてくれよ、いいね」  五味岡は言った。あたしに手を振る。タクシーに乗って帰って行った。       □ 「うーむ……」  あたしは、つい、声に出してしまった。ポールペンのお尻《しり》で、ノートをポンポンと叩《たた》いた。  午後2時。  あたしは、水着姿で防波堤にいた。朝の10時から潜って、アワビ2枚とサザエ5個を獲《と》った。収獲は、ビクに入れて海の中にかくしてある。  あたしは、防波堤に上がった。自分でつくってきたオムスビを食べた。そして、ノートとボールペンをとり出した。  防波堤に腹ばいになる。ノートを広げた。  五味岡に言われた感想文を書こうと思っていた。ボールペンを握った。  けど、いざ書こうとすると、何をどう書いていいか、わからない自分に気づいた。まるで、わからない。  ノートの片面に、大きな字で書いてみた。 〈とても面白い小説だった。終わり〉  ダメだ、こりゃ。これじゃ、小学生だ。  あたしは、ボールペンのお尻を唇に当てた。ぼんやりと、防波堤の上をながめていた。中学生ぐらいの男の子が2人、釣りをしていた。〈ブラクリ〉という仕掛けを使って、防波堤のきわにエサをおろしていた。  ぼんやりとそれをながめているうちに、考えが決まった。  そうだ。もっともらしい理づめの感想を書こうと思うから、大変なんだ。もっと力を抜いて素直になればいいんだ。  あたしが、浩一の小説を読んだ1週間。その1週間のことを、日記みたいに書けばいいんだ。  そうだ、それがいい。  あたしは、ポールペンを握りなおした。 [#改ページ]  10 一発波       □ 〈朝6時半に起きる。快晴〉  そんな出だしで、書きはじめた。  1冊の本と一緒に過ごした、真夏の1週間の記録だ。飾らずに正直に書いていく……。 〈朝、起きる。  ふとももを、蚊に刺されていた。  セミの声をシャワーのように浴びながら、祖母と朝食。だし巻き玉子。納豆。つけもの。お味噌汁《みそしる》。たまには、フランス映画みたいな朝食をしてみたいと、ふと思う。  オニギリをつくって海に行く。  密漁取締り船がたくさん出ているので、ウエット・スーツをつけず、水着で潜る。  アワビ1枚。トコブシ3枚……。〉  そんな、生活の記録を出来るだけていねいに書いていく。  その1週間、毎日、海に潜っていたので、記録は密漁のことが中心になってしまった。  まるで密漁日記だ。  密漁のあい間に、小説を読んだ。そのことを書いていく……。 〈防波堤に腹ばいになり、58ページ目で笑った。〉 〈116ページ目でジーンとした。〉 〈275ページ目で、思わず涙がこぼれそうになる。あわてて顔を上げる。〉 〈水平線がボーッとにじんでいた。〉  そんな調子で、正直に書いていった。 〈酒とバラの日々〉っていう映画があったけど、この日記は〈アワビと小説の日々〉だ。とても、洒落《しやれ》た映画にはなりそうもない。  それでも、しかたない。  あたしは、防波堤に腹ばいになったまま、ボールペンを動かしていく……。       □  ノート7ページで、日記を書き終えた。 〈こんなもので、ごめんなさい〉  というメモを、一緒に封筒に入れた。出版社の住所と〈五味岡様〉と書き、郵便局から送った。       □  翌週の火曜日。  午前中は、密漁取締り船がたくさん出ていて、ダメだった。あたしは、一度、家に帰って来た。  門の郵便ポストをのぞく。ポストに、1通の封筒が入っていた。封筒には〈葉山町〉という文字が見えた。どうやら、葉山町から来た封筒らしい。  あたしは、封筒を開けてみた。 〈固定資産税〉っていう文字が眼に飛び込んで来た。  固定資産税……。きいたことはある言葉だった。確か、土地や家にかかる税金だった……。  あたしは、その書類をよくながめた。それは、固定資産税の督促状だった。  そういえば、この税金の支払い通知が、ずいぶん前に来ていたような気がする。けど、祖父が死んだ、そのドタバタの最中だったんで、どこかにしまい込んでしまったような気がする。  とにかく、まだ払っていない固定資産税をさいそくする手紙らしかった。  あたしは、その督促状を持って、1階の居間に行った。祖母にきいてみようと思った。 「おばあちゃん」  と声をかけた。  祖母は、居間の畳の上に座っていた。夏物の白っぽい和服を着ている。前には、書道の道具があった。祖母は、墨をすっていた。ぼんやりと、墨をすっている。あたしがまた、 「おばあちゃん」  と声をかけると、やっとふり向いた。 「あのさ、固定資産税なんだけど」  あたしが言うと、祖母は、〈え?〉という顔をした。 「固定資産税のことなんだけど」  あたしは、また言った。祖母は、 「館石《たていし》さんが、どうかしたのかい?」  と訊《き》き返してきた。館石さんていうのは、2軒先の家のことだ。  こりゃダメだ……。  あたしは、つぶやきながら、ダイニング・キッチンに行った。よく考えてみれば、税金とかそういうことは、死んだ祖父がやっていたのだ。  あたしは、海で食べるつもりだったオニギリをキッチンのテーブルに出した。それをかじりながら、もう一度、督促状をながめた。  その瞬間、 〈え!?〉  と胸の中で叫んでいた。       □  なんと。  あたしは、数字を読みちがえていたのだ。さっきから、ひとケタ少なく読みちがえていたのだ。  7万いくらだと思っていた。  けど、それは70万円を超えていた!  あたしは、かじっていたオニギリをノドにつかえさせてしまった。あわてて水を飲んで流し込んだ。  何回見なおしても、同じだった。70万円にまちがいなかった! 7万円でも、どうしようと思っていたのに、70万円なんて……。  頭を殴られたようなショックだった。あたしは、茫然《ぼうぜん》として、その督促状を見つめていた。       □  平静をとり戻したのは、1時間後だった。  なんとか切り抜けなくちゃ……。税金の支払い期限は、1ヵ月後に迫っている。  家中ひっくり返したって、そんなお金、出てくるはずもない。  ということは、誰かに借りるしかないだろう。でも、誰に……。  そこで、あたしは思いついた。そうだ。銀行という手がある。時どき、家にやって来ていた銀行員がいたはずだった。  あたしは、祖父の部屋に行った。名刺のファイルから、その銀行員の名刺を見つけた。さっそく電話した。  ちょうど、その人は、銀行にいた。あたしのことも、すぐにわかったみたいだった。あたしは事情を話して、お金を借りるにはどうしたらいいのか、ストレートに訊いてみた。  銀行員の人は、親切に相手をしてくれた。彼の話は、こうだった。  うち、つまり早川家とは昔からの付き合いだから、出来る限り、相談にはのりたい。けれど、お金を貸すとなると、どうしても担保というものが必要になる。彼は、そう言った。 「返済のめどが立ってらっしゃるんなら、土地の一部でも担保にされたら、どうですか?」  と彼は言った。  あたしは、とにかく、その人に来てもらって相談することにした。       □  翌日。その中川さんという中年の銀行員はやって来た。いろいろ話をした。やはり、土地の一部を担保にして、お金を借りるしかないみたいだった。  1年間借りるとして、1年後には利子を含めて80万円ぐらいを返すことになる。 「返済のあては、大丈夫なんですよねえ」  と彼は訊いた。あたしは、つい、うなずいていた。 「え、ええ……。あたしも働いてますから、そのぐらいのお金は、大丈夫です」  と言った。とにかく、そう言うしかなかった。  また数日後、正式な話をすることにして、銀行の人は帰って行った。       □  銀行の中川さんを門で見送って、あたしは庭に戻った。庭を、ゆっくりと歩きはじめた。  夕方だった。  セミがミーン、ミーンと鳴いていた。たそがれの陽射しが、木々の間からさしていた。昼間に比べれば、少しは気温が下がっていた。  あたしは、ビーチ・サンダルで庭を歩いて行った。その庭の半分は、もうすぐ、担保になる予定だった。  庭では、伶人草《レイジンソウ》が咲いていた。紫色をした花が咲いていた。これは、死んだ祖父が好きだった花だ。この花が咲くと、 〈ああ、夏だなあ……〉  と言って、じっとながめていたものだった。  その奥では、夏水仙《ナツズイセン》が花をつけていた。薄赤い花が、たそがれの風に揺れている。これは、祖母が好きな花だった。ときには切って、一輪ざしに入れていることもあった。  あたしは、そんな庭をゆっくりと見回していた。  祖父にも、祖母にも、そしてあたしにとっても、かけがえのない庭だった。この庭を手離すことは、考えられない。  とにかく、いや絶対に、銀行から借りたお金は返さなきゃ……。  あたしは、唇をきつく結んでいた。       □  3日後。  日本の太平洋側に台風が近づいて来た。今年はじめての、上陸しそうな台風だった。  台風は、まだ、小笠原《おがさわら》諸島のあたりにいるけれど、海はもう、荒れはじめているだろう。  チャンスだった。  海が荒れはじめれば、潜ろうという人間はいない。当然、密漁取締り船も出動していないだろう。  ということは、アワビ獲りのチャンスだった。あたしは、したくをすると家を出た。  森戸神社を抜けて、海へ出た。  昼過ぎの海に、陽がさしていた。けれど、風がかなり強い。沖の名島のあたりに、白い波が見えた。波の高さは、まだ、それほどでもないようだった。  けど、荒れはじめていることは確かだった。泳いでいる海水浴客はいない。  あたしは、森戸神社の石段を、砂浜におりて行った。  ウエット・スーツ姿の珠美《タマ》と会った。タマは、海から上がったところみたいだった。 「どうしたの。昼ご飯?」  あたしは訊いた。タマは、首を横に振った。 「いや、今日はもう上がるよ」  と言った。 「朝一番から出てたんだけどさ、風がパワフルで疲れた。もう上がるよ。あざみはこれから漁業か」  あたしは、うなずいた。 「ひと稼ぎしてくるわ」  と言った。〈森戸の鼻〉と呼ばれている磯に向かって歩きはじめた。       □  ウエット・スーツを身につけ、海に入った。  体を海に浮かべたとたん、はるか彼方にある台風の力を感じた。うねりがあたしの体をフワリと大きく持ち上げた。  一見、波はあまり高くない。けれど、うねりは大きく、力があった。海に入ってはじめてわかるうねりだった。  あたしは、慎重に、水に潜った。  水の中では、海藻のカジメが、うねりに合わせて大きく揺れていた。トウゴロウの群れも、群れごと、うねりに揺られていた。  あたしは、岩やカジメにつかまりながら、アワビをさがしはじめた。       □  うねりは大きかったけど、アワビはけっこう見つかった。後から思えば、それがかえっていけなかったんだろう。  あたしは、アワビを見つけるのに夢中になって、海に対する注意を忘れてしまっていた。  うねりがさらに大きくなっていたことに、気づかなかった。  その日、4個目のアワビを岩からはがした。ウエストにくくりつけたビクに入れた。  水を蹴《け》って海面に上がった。顔を出した。その時だった。  思わず、息をのんでいた。  とんでもなく大きな波が、かぶさるように迫って来るところだった!  海の言葉では〈一発波〉と言う、そんな波をくらったら、船でも一発で転覆してしまうからだろう。  これも、そんな一発波だった。しかも、荒れている海の一発波だから、とんでもなく大きかった。  空が半分かくれる!  そんな感じで、小山のような波が迫って来る。波の頂点が、かぶさるように迫って来る!  あたしは、とっさに潜ろうとした。  けど、遅かった。  もう、体が波に巻き込まれていた。波のパワーに、体が持っていかれる!  そして、体を、岩に、叩《たた》きつけられた!  額《ひたい》をぶつけたらしかった。一瞬、気が遠くなった。  水を飲んで、ハッと気づいた! むせながら、水をかく。海面に顔を出した。けど、そこへまた次の波がやって来た。  波が、かぶさって来る。波にまかれた。水の中に引っぱり込まれた。また水を飲む。  やっと海面に顔を出した。けど、ゴホゴホとむせる。  必死で水をかこうとした。けど、左足がしびれてしまっている。あまりうまく動かない。  たぶん、左ヒザを岩にぶつけたんだろう。  あたしは、手と右足だけで水をかいた。波の中で泳ごうとした。  5、6メートル先に、岩が頭を出している。そっちに向かって泳ごうとした。  けど、片足が使えないのは、致命的だった。体の自由がきかない。水も飲んだ。パニック状態だった。  それでも、死にたくないと思った。懸命に水をかいた。  岩まで、あと3メートル……2メートル……1メートル……。  やっと、片手が岩にかかった。  波に、体を持っていかれそうになる。必死で岩にしがみついた。  両手で岩につかまった。なんとか、体をささえた。  岩は、畳1枚分ぐらいしかなかった。  両手と右足を使って、そこに体を引きずり上げようとした。  左ヒザをつくと、ズキッと痛んだ。やはり、左ヒザを打ったらしかった。  手と右足だけで、なんとか、体を岩の上に引きずり上げた。  岩の上に腹ばいになって、少し水を吐いた。ゴホゴホとむせた。       □  5分ぐらいは、むせていただろうか。  やっと、ひと息ついた。岩にしがみついたまま、あたりを見回した。  海の荒れは、ひどくなっていた。一面に白波が立っていた。風も、潜りはじめた頃とは比べものにならないほど強くなっていた。  太陽は、かなり低くなっている。海の上を飛んでいく波しぶきのせいで、太陽はぼんやりとかすんで見えた。  時どき、大きな波が打ち寄せて来る。あたしは、両手で岩にしがみついた。体が波に持っていかれそうになるのを必死でこらえた。  ちらりと、ダイバーズ・ウオッチを見た。いま、4時45分。  確か、いまはまだ上げ潮のはずだった。海面は、じりじりと上がって来るだろう。この岩も、海面にかくれてしまうだろう。  おまけに、波は、どんどん大きくなってくるはずだった。  悪いことに、もうすぐ陽も沈んでしまう。  この岩にしがみついていられるのも、せいぜい、あと30分……。  そうしたら、暗く荒れた海に放り出されることになる……。  体がこの状態じゃ、まず、助かる見込みはないだろう。  ああ、死んじゃうのかなあ……と思った。  同時に、あんまりだと思った。18歳で死んじゃうなんて、あんまりだ。  こんなことなら、〈旭屋〉のコロッケも、もっと食べておくんだった。〈大《おお》やラーメン〉の担々麺《タンタンメン》も、もっと食べておくんだった。  それに、読みたい本だって、もっともっとあったのに……。  だいいち、あたしが死んじゃったら、祖母はどうなるんだろう。残された祖母は……。  強烈に、死にたくないと思った。  神様に誓った。 〈もう、密漁なんかしません。アワビもサザエも獲《と》りません〉 〈だから、命だけはなんとか……〉  神様に、そう誓った。  けれど、波は、どんどん荒くなっていく。岩にしがみついているのが、難しくなっていく。  太陽も沈みはじめた。あたりが、薄暗くなりはじめた。  体温がうばわれて、寒くなってきた。  絶望感が、押し寄せてくる……。  その時、かすかな音がきこえてきた。エンジン音に似たかすかな音が、きこえてきた。  あたしは、ハッと顔を上げた。 [#改ページ]  11 ウイスキー・ティーに泣かされて       □  まちがいない。エンジン音だ。  あたしは、あたりを見回した。エンジン音は、だんだん大きくなってくる……。  波しぶきの中。1隻の船が見えた! あたしは眼をこらして見た。それは、浩一のボートだった。  ボートは、こっちに近づいて来る。  波と波の間をぬって、確実に近づいて来る。  操船している浩一の顔が見えた。向こうからも、あたしが見えているらしい。まっすぐに、こっちに向かって来る。  浩一の操船は、大胆だった。  あたしのいる岩に、どんどん近づいて来る。  30メートル……20メートル……10メートル……5メートル……。そのまま来ると、岩にぶつかる。そんな位置まで来て、浩一はギアを後進に入れた。ボートは、ぐいとふみとどまる。大胆で落ちついた操船だった。  あたしのいる岩からボートまでは、3、4メートル。  浩一は、もやい綱みたいな太いロープを、投げてよこした。あたしは、それを片手でつかんだ。 「体に巻きつけてしばれ!」  ボートから浩一が叫んだ。  あたしは、寄せて来る波を見た。波と波の間を狙《ねら》って、ロープをウエストに巻きつけてしばった。岩から海中に飛び込んだ。  浩一は、ギアを後進に入れたまま、岩からゆっくりと離れていく。そうしながら、ロープをたぐり寄せた。  あたしの体は、ぐいぐいと引っぱられていく。  やがて、ボートの船べりに手がかかるところに来た。あたしは、最後の力をふり絞って船べりをつかんだ。  浩一が、あたしの腕をつかんだ。引っぱり上げる。  あたしは、ボートの中へ転がり込んだ。  浩一はもう、ボートのレバーを前進に入れていた。ステアリングを大きく切る。ボートをUターンさせた。岩を離れた。  ボートは、波に向かって突き進んで行く。  波に当たると、ボートの船首《バウ》は大きくはね上がる。空に向くように、はね上がる。しぶき《スプレー》が左右に飛ぶ。それでも、ボートはリズミカルに波を切って進んでいた。浩一は無言。落ちついた動作で、ボートを操っていた。       □  15分後。  ボートは、防波堤に守られた森戸の漁港に入った。  あたしは、ボートからおりると、座り込んでしまった。 「歩けるか?」  と浩一が訊《き》いた。浩一が、ウエット・スーツを着て、ライフ・ジャケットを身につけていることを、あたしは、はじめて気づいた。  浩一は、ライフ・ジャケットを脱いで、ボートの上に放った。あたしに手を貸そうとした。  出来るだけ心配をかけたくないんで、あたしは、自分で立ち上がった。やはり、左ヒザが、ズキッと痛んだ。よろける。  浩一が、肩を貸してくれた。 「……ありがとう……」  あたしは言った。浩一にささえられて、ゆつくりと歩きはじめた。サンセットに向かって歩きはじめた。 「あたしがあそこにいることを、どうして?……」  あたしは、歩きながら訊いた。 「店に来るのが遅いんで心配してたんだ。そしたら、珠美《タマ》が来て、あざみが森戸ノ鼻で潜ってるって言ったんで……」  と浩一。 「そうか……。タマが……」  あたしは、つぶやいた。 「くわしい話は後だ。とにかく、温まって休むのが先だ」  浩一が言った。サンセットが見えてきた。店のドアには〈臨時休業〉のプレートが下がっていた。       □ 「ほら、これに着替えて」  と浩一。Tシャツとショートパンツを、あたしにさし出した。自分のものらしい。 「ありがとう……」  あたしはお礼を言い、それを持った。バス・ルームに入った。ウエット・スーツと水着を脱いだ。  ひどい姿だった。  額《ひたい》には、切り傷があった。岩に叩《たた》きつけられた時にできた傷だろう。血はもうかたまって、こびりついていた。  唇は、蒼《あお》ざめている。頬《ほお》に、海藻の切れっぱしがへばりついていた。  左ヒザには、青黒いアザができていた。骨折や脱臼《だつきゆう》はしていないみたいだった。それでも、体重をかけるとズキッと痛んだ。  あたしは、温かいシャワーを頭から浴びはじめた。髪からも、海藻の切れっぱしが流れ落ちてきた。       □  バス・ルームを出た。浩一のTシャツとショートパンツを身につけていた。両方とも、洗濯したてらしく、洗剤の香りがしていた。ショートパンツは、かなり大きかった。ショートパンツというより、キュロット・スカートをはいているみたいだった。  タオルで髪を拭《ふ》きながら、廊下に出て行った。 「こっちで休めよ」  浩一が言った。あたしを、部屋に入れてくれた。  あたしは、初めて浩一の部屋に入った。  男の人の部屋に入るなんて、生まれて初めてだった。  部屋は、8畳ぐらいだろう。洋間だった。床には、ゴワゴワした麻布のようなカーペットが敷いてあった。  壁ぎわに、ベッドがあった。あとは、机と本棚。家具らしいものは、それだけだった。クローゼットは閉じられている。  あたしは、ベッド・カバーがかけられているベッドに腰かけた。  浩一が、 「これ」  と言って、コップを渡してくれた。湯気が立っている。どうやら、ウイスキーを入れた紅茶らしかった。あたしは、 「ありがとう」  と言うと、コップを両手で持った。 「おれもシャワー浴びてくるから」  と浩一。部屋を出て行った。  あたしは、熱いウイスキー・ティーをすすりはじめた。コップの半分ぐらい飲むと、体中に温かい血が回りはじめたのがわかった。  やっと、ひと息ついた。  あたしは、なんとなく、部屋をながめた。本人がいないのに、その部屋をジロジロと見ることは、あまりしたくなかった。  けど、浩一の生活に対する好奇心も、やはり、あった。  失礼にならないよう、ベッドに座ったまま、ゆっくりと部屋を見回した。  部屋全体の雰囲気は、浩一の性格そのままだった。そっけないほど、さっぱりとしていた。なんの飾りっ気もなかった。  机の上には、国語辞典と英和辞典。それに、1年間の潮の大きさを示す潮時表があった。辞典のわきに、I・W・ハーパーの瓶と、飲みかけのグラスがあった。  本棚は大きく、ぎっしりと本がつまっていた。海に関係する本が多い。ヨットやボートの操船についての専門書。海洋学者の書いた本。海洋小説。翻訳物のミステリー小説なんかもあった。  本棚のわき。釣り竿《ざお》が、5、6本、立てかけてあった。海釣りで使うリールもいくつか、そのそばに転がっていた。  それだけだった。  必要な物以外、何もない、いかにも男の子の部屋。そんな感じだった。       □  浩一が、部屋に戻って来た。  白い半袖《はんそで》のポロシャツ。カーキ色のショートパンツをはいていた。手に、ウイスキー・ティーの入ったコップを持っていた。まだ、髪が濡《ぬ》れている。あたしのとなりに座った。  あたしの額を見て、 「血が出てるぜ」  と言った。一度部屋を出ていくと、救急箱を持ってきた。あたしの額の傷に薬を塗り、バンソウコウを貼《は》ってくれた。  浩一は、窓を開けて、海の方を見た。 「ひどくシケてきたな……」  と、つぶやいた。  あたしも、首を回して、海の方を見た。  もう、外はまっ暗だった。暗いけれど、風の強さは、わかる。台風独特の湿った風が、松の枝を大きく揺らせていた。防波堤に波が当たって砕ける音が、ここまできこえてくる。  浩一は、窓を閉じた。あたしのとなりに座った。 「それにしても、こんな荒れそうな日に、なんで潜りに行ったんだ?」  浩一が訊《き》いた。責めるような口調ではなかった。言葉どおり、あたしが海に出た理由を知りたがっているみたいだった。  あたしは、ウイスキー・ティーをひと口飲む。  ぽつりぽつりと、話しはじめた。  固定資産税のこと。  銀行から、土地を担保にお金を借りること。  その返済のために、これからは1円でも多く稼ぎたいこと。  でも、あたしに出来るのはアワビ獲《と》りだけなので、取締り船のいなそうな荒れもようの日に海に出たこと……。  潜るのに気をとられているうちに、どんどん海が荒れてきて、一発波をくらってしまったこと……。  話しているうちに、さっきの恐怖感がよみがえってきた。  同時に、助かったという安堵感《あんどかん》が、心の底からわき上がってきた。  気がつくと、あたしの頬《ほお》に、涙が流れはじめていた。  最初は、ひと筋……。やがて、涙は、どんどん、あふれ出てくる。止まらない。  やはり、精神的に動揺していたんだろう。紅茶に入っていたウイスキーのせいもあっただろう。  あたしは、肩を震わせて泣きはじめていた。  祖父が死んでから半年以上、精一杯、がんばってきた。気持ちを張りつめて、やってきた。  その、張りつめていた糸が、プツンと切れてしまった。  あたしは、祖父が死んで以来、初めて、本格的に泣きはじめていた。 「ごめんなさい……」  と言いながら、しゃくり上げていた。 「いいんだ」  浩一が言った。あたしの肩に手を置いた。そして、あたしの肩を抱き寄せた。あたしの頬は、浩一の胸に押しつけられていた。浩一は、両腕で、あたしを抱きしめていた。  しゃくり上げながらも、心臓がドキドキしているのが自分でわかった。男の人に抱きしめられたのなんて、生まれて初めてだった。どうしていいか、わからなかった。  小説や漫画だと、この後は、だいたい、キス・シーンということになっている。  でも、浩一はそれ以上、何もしてこなかった。ただ、じっと静かに、あたしの体を抱きしめていた。浩一の胸もとからは、石鹸《せつけん》の匂いがしていた……。  どのくらい時間がたっただろう。  あたしはもう、泣きやんでいた。じっと、浩一にもたれかかっていた。  ふいに、あたしのお腹が、ググッと鳴った。  静まり返っていたんで、もろにきこえてしまっただろう。 「腹、減ったなあ……」  浩一が言った。あたしも、浩一の胸の中でうなずいた。  もう、とっくに夕食時間を過ぎている。  緊張感がとれると、ひどく空腹だった。 「じゃ、下へ行って何かつくろう」  浩一が言った。あたしの体から手を離した。  あたしは、そっと立ち上がってみた。さっきより、ヒザの痛みは少ない。たぶん、軽い打撲なんだろう。なんとか、普通に歩けそうだった。  あたしと浩一は、1階の店におりて行った。       □ 「じゃ、サンセット・オリジナルの焼きソバをつくるか」  冷蔵庫をのぞいていた浩一が言った。 「キャベツ……キャベツ……」  と言いながら、冷蔵庫の中をかき回している。  浩一が、いつもより無口じゃなくなっているのに、あたしは気づいた。わりと普通にしゃべるようになっていた。  さっきのことで、お互いの間の、見えない壁みたいなものがなくなった。そんな気がした。 「手伝おうか?」  カウンターに両ヒジをついて、あたしは言った。 「まあ、ケガ人は静かにしてろよ。おれがつくるから」  と浩一。カウンターの中で、テキパキとキャベツを刻みはじめた。 「でも……さっきのボートの操船、すごく上手だった……」  あたしは言った。 「ヨット部にいたからな」  手を動かしながら、浩一は言った。 「ヨット部にいて、しょっちゅう救命《レスキユー》艇を操船してたから……」  と言った。 「そうかァ……」  あたしは、うなずいていた。  大学のヨット部はだいたい、小型のヨットと、エンジン付きのレスキュー艇が一緒に海に出て行くのだ。ヨット5、6隻に、レスキュー艇が1隻、ついている。そんな光景をよく見かける。  ヨットが転覆して、どうしようもなくなると、レスキュー艇がかけつけるんだろう。 「練習してるうちに、急に海がシケだすこともあるからなあ……」  と浩一。 「いくら海が荒れても、部員を海からひろい上げなきゃならないし、レスキュー艇の操船は、かなり大変なんだよ」  と言った。イカを切りはじめた。 「レスキューの操船をやってれば、かなりなシケでもあせらなくなる。さっきぐらいの波なら、何回か経験したことがあるよ」  浩一は言った。  あたしは、うなずいた。それで、あれだけの波の中でも、浩一は落ちついてボートを操っていた。そういうことだったらしい。  浩一は、イカとエビの入った焼きソバをつくった。あたし達は、それを食べはじめた。 「おいしい……」  ひと口食べて、あたしはつぶやいた。 「料理、なんでも上手なのね……」  と浩一に言った。浩一は、ビールを飲みながら苦笑した。 「家が食い物屋だってこともあるけど、特にヨット部の合宿で料理をやったからなあ……」 「合宿?」 「ああ。うちの大学は、年間150日ぐらい合宿をやるんだけど、1年生が食事当番をやらされるんだ。おれも、1年生の時は、食当をやったよ」 「へえ……」 「安くて、早くて、うまい。それが合宿メニューの三原則だからな……。その時に、料理の腕はかなり上がったんだろうなあ……」  浩一は言った。  わかる、と思った。浩一の料理は、早い。雑にやるわけじゃなく、それでも早い。たぶん、思い切りがいいんだと思う。迷わない。動きが、スパッとしている。やはり男なんだ。あたしは、そんなことを考えながら、焼きソバを食べていた。  食べ終わる頃、店のドアが開いた。  あたしと浩一は、同時にふり向いた。  五味岡だった。外はかなり風が強いんだろう。やや長めの髪が、クシャクシャになっている。 「〈臨時休業〉って出てるけど、どうしたんだ。休みか?」  と五味岡。雨も降りはじめたらしく、ズボンのスソが濡《ぬ》れている。 「いいよ、あんたなら」  浩一は言った。五味岡は、店に入って来た。 「今日はいろいろあってね」  と浩一。食べ終えた食器を、カウンターの中に運んだ。  五味岡は、あたしの額に張ってあるバンソウコウを見た。 「どうしたんだ。店でケンカでもあったのか?」  と訊いた。 「いや、そういうわけじゃないんだけど」  と浩一。五味岡のキープ・ボトルを出した。水割りをつくる。 「いろいろあったって、何があったんだい」  と五味岡。  しかたないんで、あたしは話しはじめた。今日の一件を、ゆっくりと話しはじめた。 [#改ページ]  12 夢が走りはじめるとき       □  その夜は、浩一が家まで送ってくれた。  あたしはまだ、左足を引きずっていたし、風がかなり強くなっていたからだ。  雨まじりの風は、ひどく強かった。ふんばれないあたしは、時どき、よろけそうになった。浩一が、ささえてくれた。  家の門のところで、浩一と別れた。 「明日は台風だし、1日おとなしくしてろよ」  と浩一は言った。 「じゃ」  と帰って行った。  家に入ると、祖母はとっくに寝ていた。あたしは、自分のベッドに大の字になった。ラジオをつけて、いろいろと考えはじめた。  さっき、浩一はあたしを抱きしめた。あれは、なんだったんだろう……。  あたしが泣いているんで、なだめるために抱きしめたんだろうか。泣いてる赤ん坊をあやすように……。  それとも、別の何か。つまり、ひとりの男としてのことだったんだろうか……。  いくら考えても、わからなかった。  ラジオのFENが、台風情報をやっていた。台風は、本土に近づきつつあると早口の英語が言っている。  あたしの胸は、なぜか、ざわつきはじめていた。自分の心にも、台風が近づきはじめているのを感じていた。  浩一に抱きしめられた、あの感覚が、よみがえってくる。自分の心臓がまたドキドキしはじめたのがわかった。  外では、風がどんどん強くなっていくようだった。木々や電線が、ピューピューと鳴っている。  あたしの気持ちも、強風に揺れる木のように、大きく揺れていた。ベッドに寝転がったまま、天井を見上げていた。  風の中に雨粒がまざって、ガラス窓を叩《たた》いていた。FENが、あい変わらず台風情報を早口の英語でアナウンスしている……。       □ 「え? あたしが小説を?」  思わず、訊《き》き返していた。あたしは、カウンターの向こうにいる五味岡に、訊き返していた。  動かしていた手を止めてしまった。  台風が関東地方を通過してから、10日ぐらいたっていた。  夕方の6時過ぎだった。  五味岡が、珍しく早い時間にサンセットにやって来た。浩一は、近くの魚屋に行っていた。あたしは、ショウガをすりおろしていた。ほかの客はまだいなかった。  五味岡は、 「とりあえず、ビールだけでいいよ」  と言うと、カウンターのスツールに座った。いつも通り、ネクタイをしめ、皮のショルダー・バッグを持っていた。  五味岡は、カウンターにヒジをつき、ビールを飲みはじめた。そして、 「突然の話なんだけど、小説を書いてみないか?」  と言ったのだ。       □ 「小説?………」  あたしは、思わずショウガをすりおろす手を止めていた。  五味岡は、うなずいた。 「じつは、今度、うちの会社で〈青春小説大賞〉というのをやることになったんだ」 「〈青春小説大賞〉?」 「そう。早い話、青春小説の新人賞ってことで、公募なんだ」  と五味岡。皮のバッグから何かとり出した。あたしにさし出した。あたしは、手を拭《ふ》くと、それをうけ取った。  コピーだった。雑誌の1ページをコピーしたらしかった。 〈第1回青春小説大賞〉と大きく印刷されている。その下に〈作品募集中〉とあった。  あたしは、その下も読んでみた。  五味岡が言うとおり、青春小説の新人賞ということらしかった。  若い読者を対象とした小説。ジャンルは問わず。  応募資格。年齢、性別に関係なく誰でも自由に応募ができる。  400字詰原稿用紙で枚数は自由。ワープロ原稿でもよい。  締め切りは……。  あたしは、そんな応募方法を読んだ。  選考委員には、有名な作家が4人、顔写真とともに並んでいた。小説を応募する締切りは、来年の1月末日だった。 「でも……どうして、あたしに?……」  そのコピーを手にしたまま、あたしは五味岡に訊いた。  五味岡は、ニコリとした。 「これさ」  と言って、皮カバンから、また何かとり出した。あたしに見せた。それは、前にあたしが書いて五味岡に送った、浩一の小説の感想文だった。ノート7枚に、走り書きしたものだった。 「これ、面白かったよ」  五味岡は言った。 「単純な感想文がくるかと思ってたんで、ちょっと意外だったけど、とにかく面白かった」 「…………」 「アワビやサザエの密漁でお金を稼いでいる女の子の、夏の1週間の記録ということなんだけど、心に残る部分がいっぱいあったな」 「……でも……あたしは……そんな大げさなつもりじゃなくて、ただ、浩一の小説を読んだその1週間の日記ってつもりで書いたんだけど……」  あたしは言った。  五味岡は、うなずいた。 「もちろん、そうだろう。だけど、そんな心づもりには関係なく、おれから見れば、これは面白かった」  と五味岡。 「同時に、君には小説を書ける才能があるような気がするんだ」  と言った。 「ちょうど、いま、うちで青春小説の新人賞を募集してるところなんで思ったんだ。この機会に、小説を書いてみないかなあと」 「…………」 「編集者としてのカンが、おれにささやいてるんだよ。あの娘《こ》にはいい小説を書ける才能がある……と」 「そんな……」  あたしは、とまどってしまった。 「それに、もし、君が、この新人賞をとるようなことがあれば、ほら」  と五味岡。コピーの1ヵ所を指さした。そこには〈賞金100万円〉と印刷されていた。  100万円!?  そのところを見落としていたあたしは、思わずドキリとしていた。 「ほら、この前、台風の時、君は無理に海に出て遭難しかかっただろう? あの夜きいた話じゃ、固定資産税を払うために、お金が必要なんじゃなかったっけ」  五味岡は言った。  あたしは、うなずいた。  確かに、そうなのだ。  お金は必要だった。けど、あの日以来、密漁には出ていない。浩一に止められていた。同時に、あれだけ怖い経験をすると、しばらくの間、海に出ようという気にならないのも確かだった。  だから、いまのあたしには、この店のバイト代以外に収入はない。バイト代は、あたしと祖母の生活費で、ほとんど消えてしまう。  もし、100万円があれば、固定資産税を払える……。  あたしは、じっと、その〈賞金100万円〉という文字を見つめていた。 「100万円は魅力だろう?」  五味岡が言った。あたしを見て、微笑《わら》っている。 「君にとっては、賞金稼ぎのつもりでいいんだ。編集者のおれにとっては、いい小説が手に入れば、それでいいのさ」  と言った。 「どうだろう。考えてみちゃ」  五味岡が言った時、浩一が店に戻って来た。裏のキッチンの方から入って来た。 「どうした、熱心に話し込んでるじゃないか」  と言った。 「そうだそうだ。浩一にもきいてもらいたい話なんだ」  と五味岡。新人賞募集のコピーを、浩一に見せた。       □ 「というわけで、彼女に小説を書かせたらどうかと思うんだが、どうだろう」  五味岡は、浩一に言った。ひととおり、事情を話し終えたところだった。 「なるほど……こんな新人賞ができたのか……」  と浩一。コピーを手に、ながめている。 「でも……あたしに小説なんて書けるかしら……」  つぶやくように、あたしは言った。 「絶対に書けるとは、おれも保証はできないよ」  と五味岡。 「でも、とりあえず、やってみたらどうだろう。いいコーチもいることだし」  と言った。 「いいコーチ?」  あたしは訊いた。五味岡は、うなずく。微笑《わら》いながら、浩一を見た。 「おれが?……」  と浩一。五味岡は、うなずいた。 「そうさ。お前がコーチしてやればいいんだ。自分自身は小説を書かなくなっても、ひとが書くのをコーチするぐらいはできるだろう」  と言った。  浩一は無言でいた。 「まあ、とにかく、考えてみてくれよ」  と五味岡。あたしと、浩一に言った。グラスのビールを、ぐいと飲んだ。       □  翌日。  銀行の人が来て、正式にお金の融資をうけた。これで、税金は払える。けど、庭の半分は、担保になってしまった。もし銀行にお金が返せないと、庭の半分は手離さなきゃならなくなるんだろう。  銀行の人が帰った後、あたしは、トマトをかじりながら、庭に出てみた。ビーチ・サンダルで庭を歩いた。  遅い午後だった。黄色がかった陽射しが庭にさしていた。  ツクツクボーシが、鳴いていた。  あたしは、足を止めた。ツクツクボーシの鳴き声を聴いていた。  ああ、もうすぐ夏が終わるんだなあ、とあたしは思った。  真夏は、アブラゼミの鳴き声が、この庭にあふれている。ミーン、ミーンという鳴き声が、降るようにきこえている。  アブラゼミの鳴き声が、ツクツクボーシに変わると、もう、夏も最終章に入っている。  野太いアブラゼミの声は、いかにも真夏を感じさせる。けれど、どこか切ないツクツクボーシの鳴き声がきこえてくると、夏が終わりに近づいているのを感じるのだった。  そんなツクツクボーシの声を聴きながら、あたしは庭を歩いていた。  庭の花たちも、そろそろ、夏から秋へ変わろうとしていた。  あたしの名前のもとになっている野原薊《のはらあざみ》が、蕾《つぼみ》をふくらませていた。もうすぐ咲くだろう。  あたしは、庭を歩きながら考えていた。小説を書くということを、考えていた。  当然、小説なんて書けるんだろうかという思いが、まず胸をよぎった。  でも、そんなこと、やってみなくちゃわからないじゃないかとも思った。  子供の頃から、考える前に走り出すのが、あたしの性格だった。  不器用だから失敗ばかりしてきたけれど、それもしょうがないと思っていた。  あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、コブをいっぱいつくりながらやっていくのが自分の性格なんだろう。  小説なんか書いたら、大恥をかくことになるかもしれない。でも……それでも……何もやらずにいるよりはいい。  1歩を踏み出さなければ、何もはじまらない。いいじゃないか、失敗したって、恥をかいたって……。あたしは、自分自身にそう言いきかせていた。  小説を書いてみよう。そう決心していた。       □ 「何か、言いたいことがあるんじゃないのか?」  双眼鏡で沖を見ながら、浩一が言った。  午後1時。快晴。  あたしと浩一は、逗子マリーナの防波堤にいた。沖のヨット・レースを見物していた。  今日、逗子の沖では、大きなヨット・レースが行なわれていた。清涼飲料の会社がスポンサーになっているレースだ。  海外からも、有名なヨット・マンが来ているらしい。  レースは、マッチ・レースと言って、2艇《てい》による1対1のレースだった。アメリカズ・カップなんかと同じ方式だと、浩一が説明してくれた。  沖には、何隻もの船が出ていた。  レース関係者の船。取材の船。そして、ひときわ高く帆《セイル》をはっている2艇が、レース用のヨットだった。セイルは遠くから見てもかなり大きい。巨大と言ってもいいだろう。気持ちのいい南西風をうけて、きれいなカーブを描いていた。  浩一は、双眼鏡を眼からはなした。 「言いたいこと、あるんじゃないのか?」  と、また言った。 「……どうして、わかったの?」  あたしは訊いた。浩一は、かすかに微笑《ほほえ》んだ。 「そりゃ、わかるさ。あざみは、考えてることが全部顔に出るたちだからな」  と言った。あの台風の夜以来、浩一は、あたしのことを〈あざみ〉と呼ぶようになっていた。  それまでは、用事があると、〈あのさ〉とか、〈ちょっと〉とか、そんな風にしか呼ばなかったのに、少しは昇格したらしい。 「あの……」  あたしは、口を開いた。 「五味岡さんが言ってた、小説の新人賞のことなんだけど……」  と言った。浩一が、あたしを見た。 「やる気になったのか?」  と訊いた。あたしは、ゆっくりと、うなずいた。 「ダメでもともとで、やってみようかって……思ってみたんだけど……」  と言った。浩一が、あたしの横顔をじっと見ている。 「でも、自分ひとりじゃとても無理だってことはわかってるの……。だから、浩一が本気でコーチをしてくれるのなら、やってみようかなと思うんだけど……」  あたしは言った。  浩一の顔を見た。今度は、浩一が視線をはずした。沖のヨットを見た。  沖で、船のホーンが鳴った。レースがはじまったらしい。2艇のヨットは、巨大なセイルに風をはらませて、走りはじめた。浩一は、じっと、そのヨットを見ていた。  わきに置いてある缶のバド・ライトを、浩一はぐいと飲んだ。 「ひとつ約束してくれるんなら、小説書きのコーチをするよ」  と言った。 「約束?……どんな?……」  あたしは訊いた。自分のバド・ライトを、ひと口飲んだ。 「あざみに金が必要なのは、わかってる……。でも、小説を書いている間、アワビの密漁はしない。そのことを約束して欲しいんだ」  浩一が言った。 「その約束さえしてくれたら、小説のコーチをするよ。もっとも、どれだけうまくできるか、わからないけどな……」  と言った。  しばらく考えて、あたしは、うなずいた。 「……約束するわ……。密漁は、当分、やめる……」  と言った。 「オーケイ。それならいい」  と浩一。微笑しながら言った。  沖のヨットが、黄色いマークを回り込んだ。ヨットは、マークを回ったとたん、追い風用の帆、スピンネーカーを開いた。スピンネーカーは、まっ赤だった。青い海と空を背景に、まっ赤なスピンは、ハイビスカスみたいだった。  スピンネーカーに風をはらませて、ヨットは海を走って行く。  あたしは、眼を細めてそれを見ていた。いま、自分の心の中でも、ひとつの夢が走りはじめたのを感じていた。 「じゃ、新人賞に乾杯」  と浩一が言った。  あたしたちは、バド・ライトの缶をゴチッとぶつけた。       □  しばらくは、ビールを飲みながら、無言で沖のヨット・レースをながめていた。  浩一は、ヨット・レースに関して、あまり説明をしなかった。  少年の頃からヨットに乗っていて、大学のヨット部にいたんだから、ヨット・レースに関する知識は、いっぱいあるだろう。  となりにいる女の子に、知識をひけらかしたくなっても、不思議じゃない。普通の男の子なら、そうするだろう。  けど、浩一は、沖のヨット・レースについて、ほとんど何も説明しなかった。ただ、ビールを飲みながら、沖を見ていた。そこが、いかにも浩一らしいところだと、あたしは思った。  そんなタイプの男を、あたしは、悪くないと思う。  あたしも、気持ちのいい南西風に吹かれながら、黙ってヨット・レースをながめていた。  ふと、口を開いた。 「あの……」  と言った。 「密漁をするなってことは、命を粗末にするなってこと?」  あたしは、ぽつりと浩一に訊いた。浩一があたしのことを心配してくれているのだろうか……。そのことが、ちょっと気になっていた。 「まあな……」  浩一は、ボソッと答えた。また、しばらく、無言でいた。ビールをゆっくりと飲んでいる。そして、口を開いた。 「アジやカサゴを上手にさばけるバイトを、失《な》くしたくないからな……」  と言った。かすかに笑いながら言った。 [#改ページ]  13 ストーリーは、潮風がくれた       □  翌日。昼下がり。  あたしと浩一は、佐島《さじま》にいた。佐島は、葉山から三浦半島を南に下ったところにある。漁港もあり、ヨット・ハーバーもあった。  漁港の近くに、一軒の魚屋があった。  魚屋といっても、観光客は見過ごしてしまうかもしれない。魚をずらりと並べてあるわけじゃない。コンクリートでつくったイケスがいくつもあって、魚はその中で泳いでいるのだ。  その日、漁港で上がった魚が、海水をポンプでくみ上げたイケスの中で泳いでいるのだ。当然、新鮮だし、驚くほど安い。  魚を買っている客のほとんどが、地元の人間だった。食べ物屋の人間、つまりプロもいるみたいだった。あたしも、何回か、ここで魚を買ったことがある。  けど、浩一と来るのは、初めてだった。  きのう、バイトが終わった時、 「じゃ、さっそく明日から、小説書きのコーチをはじめよう」  と浩一は言った。明日の昼頃に、店に来てくれという。  あたしが昼ちょっと前に行くと、 「じゃ、いこうか」  と浩一。クルマにあたしを乗せて、ここ佐島までやって来た。  魚屋のそばにクルマを駐める。浩一とあたしは、魚屋の中に入って行った。イケスの魚を見ていく……。       □ 「この石鯛《いしだい》、どうかな」  と浩一。イケスの中をのぞき込みながら言った。店の仕込みをしているらしい。  イケスの中には、何匹かの石鯛が、悠々と泳いでいた。 「おいしそう……」  あたしは、石鯛をながめてつぶやいた。石鯛は、とにかく、おいしい魚だった。 「じゃ、こいつをいこうか」  と浩一。あたしと浩一は、石鯛を選びはじめる。1・5キロぐらいのやつを1匹買った。  中型のメバルを5匹……カワハギを3匹……。  そんな感じで、あたし達は魚を買っていく。       □ 「ねえねえ」  あたしは、クルマの助手席で言った。 「小説のコーチは、どうなったの?」  と浩一に訊《き》いた。  佐島で魚を仕入れて、クルマは、葉山に戻るところだった。134号線を、北に向かっていた。 「小説のコーチは、もうはじめてるよ」  クルマのステアリングを握って、浩一は言った。 「もう、はじめてる?……」  あたしは、思わず訊き返した。浩一は、うなずいた。微笑《わら》いながら、 「とっくにはじめてるさ」  と言った。 「はじめてるっていったって……いまは、魚を仕入れただけじゃない……」  あたしは言った。 「それが、小説のコーチ、その1さ」  と浩一。 「魚を仕入れるのが?」 「そのとおり」  浩一は、軽くうなずきながら言った。 「さっき、魚を仕入れてて、何を考えてた?」  浩一が訊いた。 「何って?……」 「何を考えながら、魚を選んでた?」 「……そりゃ……できるだけ新鮮ないい魚を選ぼうと……」  あたしは言った。浩一は、うなずいた。 「小説の書き方、その1も、まるで同じなんだ」 「っていうと……」 「つまり、新鮮な魚が、おれ達の店には必要だ。同じように、新鮮でいい材料を手に入れることが、小説を書く第一歩なんだとおれは思う」  浩一は言った。 「新鮮な魚がなけりゃ、どううまく料理しても、たいしたものはつくれない。だから、材料選びには、力を入れる」 「…………」 「小説も同じじゃないかな。まず、何よりもいい材料。つまり、書くための素材だと思う。読む側が新鮮に感じられる素材。もっと欲を言えば、ほかの誰かが書いていない珍しい素材。それを見つけるのが、面白い小説を書く第一段階だと思う」  浩一は、運転しながら言った。  あたしは、助手席で、うなずきながらきいていた。  魚にたとえたその話は、よくわかった。 「でも……あたしに、そんな素材が見つかるかしら……」  と、つぶやいた。 「まあ、とりあえず、考えてみろよ」  と、浩一。路線バスを追い越しながら言った。 「こんな素材で書きたいってのが見つかったら、相談にのるよ」  と言った。       □ 「いやあ……石鯛《いしだい》は、刺身の王様だねえ」  と茂さん。おハシを動かしながら言った。 「この歯ごたえが、たまらないよ」  と言って、冷酒をひと口飲んだ。ウヒャヒャと、歯ぐきをむき出して笑った。  茂さんは、また、新しい釣り道具を発明しようとしているらしかった。今度は、キス釣りに使うテンビンだという話だった。  試作中のテンビンの話を、熱心にしている。話をしながら、石鯛の刺身を突ついている。  その夜、佐島で仕込んできた石鯛は、お客に大好評だった。みんな、〈うまいうまい〉と言って刺身を突つき、焼いた石鯛の皮を口にしていた。  それを見ながら、あたしは思った。  やはり、浩一が言うとおり、素材が大切なんだ、と思った。でも……面白い小説が書けるような、そんないい素材が、自分に見つかるだろうか……。  カウンターの中でお皿を洗いながら、あたしはそんなことを考えていた。       □  それから5日間、あたしは、小説の素材さがしをしていた。  素材さがしと言っても、うろうろと歩き回るわけじゃない。自分の経験の中で、何がいい素材なのか、考えていたのだ。  18年間という短い人生経験の中で、他人に面白がってもらえるようなことがあっただろうか……。  あたしは、家の庭で、ぼんやりと考えていた。  庭にある古いブランコに腰かけ、キーキーと揺れながら、考えていた。  自分の、これまでの18年間を、思い返していた。  結局、小説を書くっていう作業は、自分自身ともろに向かい合ってしまうことだと気づいた。  そう考えて、自分の短い人生経験のページをめくってみた。  それほどドラマチックではない。  海外生活をしているわけではない。異母|兄妹《きようだい》が突然あらわれたりしたこともない。暴走族に入ったこともない……。  よくマンガに出てくるようなそんな体験は、何もない。  困ったなあ……。  あたしは、胸の中でそうつぶやきながら、庭のブランコに揺られていた。錆《さ》びだらけのブランコは、キーキーと小さな音をたてていた。  その時、風が吹いた。  西風。海の方から吹いて来る風だった。風の中に、海の匂いがしていた。あたしは、その匂いを、胸に吸い込んだ。  そして、思った。 〈そうだ……。やっぱり、海のことを書くしかないだろう〉  そう思った。  子供の頃から、海岸町で育ったから、海とのつき合いだけは深かった。小学校3年ぐらいから、海に潜って、アワビやトコブシ、ウニやサザエなんかを獲《と》っていた。  そんな経験なら、かなりある。  小説に書けば、少しは面白がってもらえるかもしれない。  それしかないだろう。  あたしは、決心した。迷わなかった。不器用だから、いろいろ考えてもムダなのは、わかっていた。  あたしは、ブランコから立ち上がった。家を出ると、サンセットに向かった。       □  浩一は、包丁を握ってアジのウロコを落としていた。  FM横浜が、B《ボビー》・コールドウェルの曲を流していた。  あたしが店に入っていくと、浩一は、まな板から顔を上げた。〈よお〉という感じで、微笑《わら》った。あたしは、エプロンをかける。魚をさばく手伝いをはじめた。  しばらくすると、 「書く素材、見つかったらしいな」  と浩一が言った。 「……顔に出てる?……」 「ああ……」  と浩一。アジのゼイゴを削ぎ落としながら言った。 「やっぱり、海のことを書こうと思うんだけど」  あたしは言った。 「海に潜って、アワビやサザエを獲《と》る、そんなことを材料に、書こうと思うんだけど……」  と言った。浩一は、包丁を持ったまま、うなずいた。 「やっぱり、それがいいだろうな」  と言った。 「あざみが、よく知ってて、自信を持って扱える材料っていったら、やっぱり海に潜ることだろうな……。つぎは、それをどう料理するかってことだ」 「料理かァ……」  あたしは、つぶやいた。 「いまはまだ、材料を手に入れた段階なわけだ。たとえば、アジを仕入れてきた、その状態ってことだ。そのアジを、どう料理するか、考えるのがつぎにやることだな」  浩一が言った。 「海に潜ることを素材にして、どんなストーリーをつくるかってことね……」 「そういうこと。どんな小説に仕上げるかっていうプロットづくりが次の段階になるわけだ」 「どうすればいいの?」 「そうだなあ……。とにかく、思いつくまま自由に考えてみろよ。ノートでも、チラシ広告の裏でもいいから、書いてみな」 「チラシの裏は、ビンボーくさすぎるんじゃない?」 「それもそうか」  と浩一。苦笑しながら、包丁を動かしている。       □  その夜。例の客が、ひさびさに店に来た。  あの、ヤクザっぽい客だ。  今夜も、かなり遅く、やって来た。閉店近くだった。ひとりで入って来た。ベージュのスーツを着ていた。細いストライプの入ったシャツを着ている。髪は、あい変わらず、オールバックにしている。 「よお」  と低い声で言った。 「ああ」  と浩一が、同じようにぶっきらぼうな声で答えた。男は、カウンターのスツールに座った。ほかの客はいなかった。  男は、酒ビンらしいものを1本、カウンターの上に置いた。 「土産《みやげ》だ」  と言った。 「どっか行ってたのか」  と浩一。 「沖縄」  と男。浩一は、うなずいた。酒ビンの包みを開けた。焼酎《しようちゆう》らしい。沖縄産の焼酎なんだろう。 「珍しいな、土産なんて」 「たまには、な」  浩一と男の間で、そんな会話が、ボソッ、ボソッとかわされた。男は、今夜も、I・W・ハーパーの水割りを3杯、飲んでいった。帰りぎわ、 「まだか……」  と浩一に訊《き》いた。浩一は、うなずく。 「もうそろそろだろう」  と言った。男は、 「わかった。じゃ、な」  と言った。1万円札を置くと、店を出て行った。       □ 「じゃ、こいつを、ひと口、やるか」  店を閉めた後、浩一が言った。あの男が置いていった焼酎《しようちゆう》を手に取った。グラスを2つ、出した。  グラスに氷を入れる。焼酎を注ぐ。そこへ、レモンをかなりたくさん絞った。グラスの1つを、あたしに渡した。 「お疲れさま」  とグラスを上げ、飲みはじめた。きついけど、すっきりとした味だった。あたし達は、アジのタタキを突つきながら、焼酎を飲む……。  グラス2杯も飲むと、かなり酔ってきた。その酔った勢いで、あたしは浩一に訊いてみた。 「あの人……ちょっと怖い雰囲気ね」 「あの人って……この焼酎を置いてったやつか?」  あたしは、うなずいた。 「なんか、ちょっと、ヤクザみたいで……」  と言った。 「みたいも何も、本物のヤクザさ」  と浩一が言った。 [#改ページ]  14 世の中とうまくやっていけない者たち       □  あたしは、思わずむせるところだった。 「本物の……ヤクザ?……」  と、訊《き》き返していた。浩一は、微笑《わら》いながら、うなずいた。 「ああ……。本物だ」  と言った。グラスを口に運んだ。 「あざみも小説家をめざそうっていうんなら、そんなことで驚いてちゃダメだぜ」  と浩一。あい変わらず、微笑したまま言った。 「……でも……本物のヤクザなんかと……どうして……」 「同級生だったんだ。小学校と中学校で」  浩一は言った。 「まあ、かくすほどのことじゃないな」  と言い、ぽつりぽつりと話しはじめた。  彼の名前は沢口。生まれ育ちが鎌倉で、浩一とは幼ななじみだった。小学校時代、特に仲が良かったという。  沢口も浩一も、ケンカっ早い子供だった。 「2人とも、口ベタだったんで、すぐに手を出しちゃうガキだったんだ」  と浩一。  小学生時代から中学2年ぐらいまで、浩一はよく、沢口と組んではケンカをした。15歳ぐらいになると、浩一はヨットに熱中しはじめ、ケンカはあまりしなくなったという。 「口ベタだから、すぐ手を出しちゃうガキか……」  あたしは、笑いながら言った。いまの浩一を見ていても、それは想像できる。 「高校に入ると、沢口のやつは本格的に不良の道に入っちゃってな……。高校を中退して、ヤクザになった」  浩一は言った。 「ヤクザって、どこで?」 「横浜にある組に入ったんだ。いまじゃもう、いっぱしの兄貴|面《づら》をしてるらしい」  と浩一。かすかに苦笑した。 「結局、世の中とうまくやっていけないんだなァ……」  と、つぶやくように言った。口調が、ホロ苦かった。 〈世の中とうまくやっていけない〉  そのつぶやきは、沢口だけでなく、自分自身にも向けられている。あたしは、そんな気がした。  浩一は、ゆっくりと、グラスを口に運んでいる。オーディオからは、E《エルトン》・ジョンのバラードが流れていた。  あたしは、沢口のことをもう少し訊《き》きたかった。沢口が、 〈まだか……〉  と訊き、浩一が、 〈そろそろだろう〉  と答えた。  それがなんのことなのか、訊きたかった。けど、浩一は黙り込んでグラスを口に運んでいる。それ以上、何か訊ける雰囲気じゃなかった。あたしは、あきらめてグラスに口をつけた。E《エルトン》・ジョンが、友について唄《うた》っていた。       □ 〈ストーリーか……〉  あたしは、寝っ転がったまま、心の中でつぶやいた。頭上の赤トンボをながめていた。  昼下がりだった。  あたしは、一色海岸の見える芝崎の防波堤にいた。防波堤に寝っ転がって、小説のストーリーを考えていた。  陽射しは明るかった。けど、真夏のような強さはない。もう、肌をカリカリと叩《たた》くような夏の陽射しじゃなくなっていた。  頭上には、赤トンボがたくさんいた。  あたしは腕枕《うでまくら》をして、赤トンボの群れをながめていた。  ストーリー……ストーリー……と、頭を働かせていた。  海に潜るストーリーといっても、いろんなものが考えられるだろう。冒険小説にもなる。海洋ミステリーにもなる。007みたいなスパイ・アクションにもなるだろう。  でも、あたしには、そんな大がかりな話は書けそうにもなかった。  軽くため息をついた。体を起こした。  防波堤に腰かけて、海をながめた。  眼の前には、磯《いそ》があり、海があった。海は、真夏に比べると、よく澄んでいた。かなり深いところまで見通せた。  けど、平日なので、潜っている人はいない。  あたしは、ガランとした海をながめていた。  そして、思った。  冒険小説だとか、ミステリーとか、そんなものが書けるほど、あたしは器用にできていない。やはり、書けるのは、身近かなことだろう。自分の体験をベースにしたものしか、書けないだろう……。  それはそれで、しかたないじゃないか。できることをやるしかないじゃないか。そう思った。  決めた。そうしよう。  あたしは、ひとり、うなずいた。持って来たデイ・パックから、お弁当を出した。自分でつくった焼きタラコのオニギリと麦茶を取り出した。海をながめながら食べはじめた。       □ 「ストーリーが、できた?」  と浩一。小次郎にエサをやる手を止めて、ふり向いた。  翌週の月曜日だった。  夕方の5時半。あたしは、サンセットに行った。店に入ると、浩一が、猫の小次郎にエサをやっているところだった。甘鯛《あまだい》を煮たものをほぐして、やっていた。  浩一は、小次郎にエサをやり終わる。手を洗った。 「で? どんなストーリーになった?」 「ストーリーまでいってないんだけど……」  あたしは言った。破ったノートの1ページを、浩一に渡した。浩一は、グラスに注いだビールを飲みながら、それを読みはじめた。ノート1ページに、20行ぐらい、走り書きみたいになっていた。きのう書いたものだった。内容は、こんなだ。 〈主人公は、18歳の女の子。湘南育ち〉 〈子供の頃から、海に潜るのが好きだった〉 〈小学生の頃から、海に潜ってはアワビやサザエを獲《と》っていた〉 〈18歳になった主人公は、やはり、アワビやサザエを密漁しては、大学にいくためのお金をためていた〉 〈その夏、海には漁協の密漁取締り船が出ていた〉 〈取締り船の1隻に乗っているのは、地元の漁師の息子。20歳。陸《おか》での仕事をきらって、船に乗っていた。いずれ、漁業で生活するつもり〉 〈密漁する主人公の娘と、取締る側の漁師の息子は、ふとしたきっかけで知り合い、友情を感じる〉 〈友情は、やがて恋に変わっていく〉 〈海岸町を舞台にした、一種のロミオとジュリエット物語〉  と、ここまでしか書いてない。 「そこまでしか、まだ思いつかなかったの」  あたしは言った。浩一は、グラスのビールを飲みながら、うなずいた。ノートの1ページを、何回か読みなおしてる。そして、 「いいんじゃないか」  と言った。  あんまり簡単に言われたんで、あたしは、驚いてしまった。浩一は、顔を上げ、あたしを見た。 「いいって……本当に、いい?」  あたしは、恐る恐る、訊《き》いた。浩一は、うなずいた。 「プロットとしてはいいと思うぜ」  と言った。 「まず、アワビやサザエの密漁をやる女の子っていう設定がいい。あの五味岡さんも、あざみの書いた日記の、そこのところを見て、面白いから小説を書かせようと思ったんだと思う」 「…………」 「青春小説の新人賞っていうと、どうしても、ロックだとかバイクだとか、その手の世界を描いたものがいっぱい来ると思うけど、そういう世界は、編集者にとっても、選考委員にとっても、あまり珍しくないしなあ……。よっぽど大胆なアイデアがないと受賞しないと思う」 「…………」 「その点、アワビの密漁をやってる湘南ガールってのは、面白いかもしれない。しかも、密漁取締り船に乗ってる漁師の息子とのラヴ・ストーリーってのは、いけるかもしれないな」  浩一は言った。ビールをぐいと飲んだ。  あたしの目の前は、パッと明るくなった。  このプロットを浩一に見せたら、馬鹿にされるか、笑われるかもしれないと思っていたのだ。 「つぎは、もう少し細かく、ストーリーを考える段階だな」  と浩一。走り書きを、あたしに返した。 「……やっぱり、ラヴ・ストーリーだから、恋敵《こいがたき》とか、いろいろいた方がいいのかしら……」  あたしは訊いた。 「まあ……それもいいけど……ストーリーをあまり複雑にしないことが大事だと思う」 「複雑にしない?……」 「ああ……。初めて小説を書くと、どうしても、登場人物やドラマをもり込み過ぎちゃうんだ」 「…………」 「魚の煮つけをつくるつもりなのに、鍋《なべ》の中に、ダイコンやニンジンや玉ネギや、そんなものまで入れてゴッタ煮になっちゃったような小説は、やっぱりダメだよな」 「…………」 「魚の煮つけは、魚とショウユと酒だけでシンプルにつくるのがいいんでさ、小説も同じさ。枚数にもよるけど、できるだけ登場人物は絞った方がいい」  浩一は言った。  あたしは、うなずいた。わかりやすいたとえだった。 「それよりも、ひとつひとつの描写をていねいにすることの方が大切だろうな」 「ていねいに……」 「ああ。とにかく、一生懸命、ていねいに書くことだ。編集者はもちろん、選考委員も、みんな大人だし、小説を読むことにかけちゃプロ中のプロだからな」 「…………」 「いくら青春小説の新人賞だといっても、相当に厳しい目で選ばれると覚悟しとかなきゃ」 「…………」 「だから、若さやパワーは必要だけど、同時に、小説としてきちんとていねいに書かれてないと、落とされるだろうなあ」  浩一は言った。  選考委員の顔ぶれからしても、そうだろうな、と、あたしも思った。 「とにかく、もう少しくわしく、ストーリーをつくってみな」  と浩一。グラスのビールを飲み干す。長ネギを出して刻みはじめた。あたしも、エプロンをかけて開店準備を手伝いはじめた。キッチンの床では、食事を終えた小次郎がスリッ、スリッと顔を洗っていた。       □  その外人客が店に来たのは、水曜日だった。  今年4つ目の台風が、関東地方に近づいてきていた。晴れていたけれど、雲がかなり早く動いていた。台風が接近している空もようだった。  夕方の5時半。まだ、開店前だった。  あたしは、店のカウンターにノートを開げていた。小説のストーリー、その細かいところまで考えていた。浩一は、カウンターの中でサバをおろしていた。味噌煮《みそに》にして客に出る予定のサバだった。  ドアが開いた。若い外人が入って来た。  確かスティーヴという。横須賀の基地《ベース》に所属している兵隊だった。ときどき、店に飲みに来る。  金髪を短かく苅り込んでいる。Tシャツから出ている腕には、鮫の刺青《いれずみ》があった。細い口ヒゲをはやしていた。  スティーヴは、片手を上げ、浩一とあたしに微笑《わら》いかけた。いつもは、兵隊仲間2、3人でやって来るのに、今日は珍しく1人だった。  あたしは、ノートを閉じる。カウンター席から立ち上がった。そろそろ、開店の時間だった。  スティーヴは、カウンター席に座る。 「イチバンシボリね」  と言った。浩一が冷蔵庫からビールの一番|搾《しぼ》りを出した。  スティーヴは、何か、荷物を持っていた。発泡スチロールの箱だった。ガムテープを巻いてあった。 「これ」  とスティーヴ。その発泡スチロールの箱をカウンターに置いた。ちょっと重そうな感じだった。  あたしは、エプロンをかける。キッチンに入った。味噌煮の下ごしらえを、はじめた。  スティーヴと浩一は、英語で話しはじめた。そのやりとりが、キッチンにいるあたしにもきこえてくる。 「全部でいくつだ?」  と浩一が訊《き》いた。スティーヴが、 「|4《フオー》」  と答えた。そして、 「全部、オートマティックだ」  と言った。 「弾丸《ブリツト》は?」  と浩一が訊き、 「100」  とスティーヴが答えた。  思わず、あたしの手は止まってしまっていた。確かに、浩一は〈弾丸〉と言った。まず、まちがいないと思う。あたしが、米軍放送のFENをよく聴いていて、英語のヒアリングが得意になってしまったことを、浩一は知らない。  それにしても……。〈弾丸《ブリツト》〉そして〈オートマティック〉とは……。  じゃ、あの箱の中身は、拳銃《けんじゆう》……。  あたしは、手を止めたまま、思わずきき耳を立ててしまった。 「で、全部でいくらだ」  と浩一が訊いた。 「50万円」  とスティーヴが言った。 「高いな」  と浩一。 「そうでもない。もしばれたら、おれは刑務所入りなんだぜ」  スティーヴが言った。 〈ばれたら刑務所入り〉ってことは、やっぱり、あの箱の中には、基地から持ち出してきた拳銃が入っているんだろうか……。 「金は、いまはない。買い手が持って来る。たぶん、2、3日中だろう」  と浩一。 「わかった。信用してる。物は置いていく。買い手が現金を持ってきたら、連絡をくれ」  とスティーヴ。  それをきいていて、あたしは気づいた。いま話に出ていた〈買い手〉とは、ヤクザの沢口なんじゃないだろうか……。  この前の会話。沢口が、〈まだか……〉と訊《き》き、浩一が〈そろそろだろう〉と答えた。あれは、このことだったのかもしれない。  沢口が待っていたのは、この拳銃だったんじゃないだろうか……。  その確率は、かなり高いと、あたしは思った。  スティーヴは、ビールを1杯飲むと帰って行った。  あたしは、また、味噌煮《みそに》の下ごしらえをはじめた。はじめてすぐ、ショウガがたりないことに気づいた。それを浩一に言った。 「コンビニに行って買ってきてくれ」  と魚をさばいている浩一。あたしは、お財布を持つ。店を出た。海岸通りまで出たところで、思わず足を止めた。ドキッとした。       □  パトカーがいた。  回転灯を光らせて、もう暗くなっている海岸道路に駐《と》まっていた。あたりに、制服の警官が5、6人動いているのが見えた。  あたしは、回れ右。店に帰った。 「どうした」  と浩一。急いで戻って来たあたしを見た。 「パトカーが、そこの海岸道路にいるわ。警官も何人か、いる」  あたしは言った。浩一は、包丁を動かしていた手を止めた。じっと、あたしを見ている。 「あの……さっき、スティーヴが置いていったの……なんか、危い物なんでしょう? そう思って……」  あたしは言った。浩一は、5、6秒、あたしを見ていた。やがて、 「ああ……。まずいな……」  と言った。あわてては、いない。落ち着いた動作で、包丁を置き、手を洗った。キッチンに置いてあった箱を持った。 「どこへ行くの?」 「こいつを、浜のボートに、かくしてくる」  と浩一。 「あたしも一緒にいくわ。ふたりの方が、あやしまれないわ」  あたしは言った。浩一と一緒に、店の裏口から出た。  海岸に出るまで、誰とも出会わなかった。砂浜に出た。上げてあるボートに歩いて行く。浩一は、箱をボートの中に置いた。その上に、ビニールのシートをかぶせた。  かぶせ終わったその時だった。むこうから、懐中電灯の光が近づいて来るのが見えた。光は2つだった。やがて警官の姿が見えた。2人、ゆっくりと、こっちに歩いて来る。 「いま逃げるのはまずいな……。アベックのふりをしよう」  と浩一。小声で言った。  あたしの肩に手を回した。ボートのへりによりかかった。ふたりで夜の海をながめているようなかっこうをする。  懐中電灯は、近づいて来る。あたしの胸はドキドキしていた。警官は、すぐそばまでやって来た。  懐中電灯の光が、あたしと浩一に向けられた。 [#改ページ]  15 ムーンライト・キス       □  警官たちは、立ち止まった。 「あの……地元の方ですか?」  と1人が訊《き》いた。浩一が、うなずいた。 「何か?……」  と警官に訊いた。 「いや。明日から、御用邸に皇族の方が見えるんで、いま、特別にパトロールしているわけなんです」  と警官は言った。  葉山の御用邸は、ここからも近い。皇族の誰かが来ている時、葉山のあちこちで警備している警官の姿は見かける。 「じゃ、どうも……」  と警官。軽く敬礼の動作をする。歩き去って行った。あたし達が、あやしい者じゃなく、ただのアベックだと判断したんだろう。懐中電灯の光が、遠ざかって、見えなくなった。 「やれやれ……」  と浩一。あたしの肩に手を回したまま、つぶやいた。  あたしも、緊張がとけて、がくっときた。ためていた息をフーッと吐いた。浩一の体に、よりかかった。  しばらく、そのままでいた。  夜空には、月が出ていた。けど、雲が低く早く動いていた。台風が近づいているらしかった。潮風も、湿りけを含んでいた。なんとなく、胸さわぎのする夜風だった。  ふと顔を上げる。すぐ近くに、浩一の顔があった。  眼と眼が合った……。浩一の表情から、いつものクールな微笑《わら》いが消えていた。あたしの肩に回した手に、かすかに力が入った。あたしの肩を抱き寄せた。  あたしは、眼を閉じた。ちょっとアゴを上げた。やがて、そっとキスされるのを感じた……。  生まれて初めてのキスだった。  何もわからず、ただ、頭の中はまっ白だった。キスそのものは、特別に気持ちのいいものだとは思わなかった。それより、浩一とキスした、そのことが胸を熱くさせた。嬉《うれ》しかった。  ほんの5秒ぐらいのキスだった。  唇をはなす。そっと眼を開けた。上弦の月が、くっきりと出ていた。浩一は無言で、あたしの肩を抱いていた。       □  30分後。  店に戻った。浩一もあたしも、口数が少なくなっていた。話すのが、照れくさかった。  客は、ほとんど来なかった。店の客は、漁港やヨット・ハーバーで仕事をしている人が多い。台風が近づいてくると、そういう人たちは忙しくなるのだ。台風にそなえて、船を固定したり、陸に上げたり、夜でも働くのだ。  夜10時半。 「早じまいにしようか」  と浩一が言った。ドアに出してある〈OPEN〉のプレートを〈CLOSED〉にひっくり返した。  浩一は、この前、ヤクザの沢口が持ってきた焼酎を出した。ソーダで割り、レモンを絞った。あたし達は、冷蔵庫に残ったアジのタタキを突つきながら、グラスを口に運んだ。  さっきのキスが、浩一を無口にさせているらしかった。口数が少なくなっただけ、酒を飲むピッチが早くなった。  浩一も、たぶん、照れくさかったんだと思う。かなり早いペースで、飲んでいた。あたしもつられて、グラスを口に運んだ。酔いはじめていた。その勢いで、浩一に訊いた。 「さっきスティーヴが持ってきたの……拳銃《けんじゆう》なんでしょ?」  と訊いた。浩一は、しばらく無言。グラスに口をつけた。やがて、 「ああ……」  と言った。 「買い手は、あの沢口さん?」 「……ああ……そういうこと……」  と浩一。 「拳銃を欲しがっているヤクザがいて……小遣い稼ぎをしたがっているアメリカ兵がいて……。おれは、その間にたってやっただけのことさ……」  と言った。 「……沢口さんは、あの拳銃を、どうするのかしら……」 「何倍かの値で売りさばくと言ってたなあ……。どっちみち、おれには関係のないことだ」  浩一は言った。ニコリと白い歯を見せた。グラスを口に運んだ。グラスの中で、氷がチリンと鳴った。       □  2日後。  台風が関東地方を通過して北陸に抜けた。  走り過ぎた台風は、かすかに残っていた夏の気配を、完全に消していった。台風が過ぎて静かになった海は、もう、はっきりと秋の色をしていた。澄んで濃いブルーだった。  その午後。  あたしと浩一は、ボートで沖に出ていた。森戸の沖。深さ10メートルぐらいのところに錨《アンカー》を打った。  浩一は、あたしが書いた小説のストーリーを読んでいた。ノート5ページにわたって、細かいストーリーが書いてある。浩一は、ボートに寝っ転がると、それを読んでいた。  あたしは、キス釣りをしていた。  茂さんが発明したテンビンを使っていた。  試してみてくれと茂さんが持ってきたテンビンを使って、キス釣りをしていた。  茂さんがつくったテンビンは、普通に売っているものより小型だった。その分、魚のアタリが敏感にわかるような気がした。  キスは、初心者でもある程度釣れる魚だ。けど、数を釣ろうとか、大物を釣ろうとすると、それなりに難しい。  茂さんのテンビンは、調子がいいみたいだった。魚がエサにくいつきはじめた、その瞬間のアタリが、ピクピクと竿の先に感じられる。そこで竿をしゃくって合わせると、うまくキスがかかった。  10匹目のキスをクーラー・ボックスに放り込んだところで、あたしはひと休み。冷たいウーロン茶を飲む。ノートを読んでる浩一に、 「どう?」  と訊いた。 「ああ……。だいたい、いいんじゃないか」  と浩一。寝っ転がったまま言った。あたしが渡した缶のウーロン茶を、ぐいと飲んだ。       □ 「あ、茂さん」  あたしは、包丁を止めて思わず言った。  その夜。7時過ぎ。  あたしと浩一が、釣れたキスをさばいているところへ、茂さんが入って来た。  あたしと浩一は、6時前からキスをさばきはじめた。ふたりとも、魚をさばくのは手早い方だろう。それでも、7時過ぎまでかかって、まださばききれない。  それほど、キスはたくさん釣れたのだ。  とちゅうから、浩一も釣り竿《ざお》を握った。釣りは浩一の方が上手だから、どんどん釣れはじめた。  5時頃までかかって、ふたりで100匹近く釣っただろうか。ずっしりと重いクーラーを持って、店に戻って来た。 「あのテンビン、すごくいいよ」  と浩一。茂さんにビールを出しながら言った。 「そうかそうか」  と茂さん。調理台の上に山盛りになってるキスを見て、ヒャヒャッと嬉《うれ》しそうに笑った。 「とりあえず、乾杯しよう。すぐにテンプラ、揚げるから」  と浩一。自分たち用にも、グラスを出した。ビールを注いだ。 「じゃ、茂さんのテンビンに乾杯だ」  浩一が言った時、 「テンビンだけじゃなくて、もう1つ、祝いごとがあるんだ」  と茂さんが言った。 「祝いごと?」 「そう」 「どうしたの」 「女房のやつが、出て行ったんだよ」  と茂さんは言った。 「出て行った……」  ビールのグラスを持ったまま、浩一とあたしは、言葉を呑《の》み込んでしまった。 「あの、クソ女房のやつ、とうとう出て行ったよ。離縁状を置いて。これが祝わずにいられますかってんだ」  と茂さん。 「とにかく、さっぱりしたよ。これで、釣り道具の発明も、やりたい放だいさ。おれはね、釣り道具のエジソンと呼ばれるようになるからね、コーちゃん。まあ、見ててよ」  と言った。歯ぐきを見せて、ヒャヒャヒャッと笑った。       □  ツンツン。  あたしは浩一の腕を突ついた。テンプラを揚げていた浩一は顔を上げた。カウンターの向こうにいる茂さんを見た。  飲みはじめて、2時間近くたっていた。茂さんは、ビールを3、4本と、日本酒を2合ぐらい飲んでいた。  茂さんがそんなに飲むのを、あたしは初めて見た。いつも、30分以上ここにいると、家から電話があって、あわてて帰って行く。  浩一が揚げるキスのテンプラをつまみながら、茂さんは、飲んでいた。  にぎやかにしゃべっていた茂さんが、ふと、静かになっているのに、あたしは気づいた。  よく見ると、茂さんの頬《ほお》が濡《ぬ》れていた。両ヒジをカウンターについている、その茂さんの頬が、濡れている。どうやら、それは涙らしかった……。  あたしと浩一が見ていることに、茂さんは気づいた。それまで、ボーッとカウンターを見つめていたのが、ハッと顔を上げた。  自分の頬に流れている涙を、手の甲でゴシゴシとぬぐった。  照れた笑いを浮かべた。 「いや、これは、嬉《うれ》し涙さ。そう! 正真正銘の嬉し涙!」  と言った。ヒャヒャッと笑った。けど、その顔は、泣き笑いといった感じだった。       □ 「やっぱり、こたえてるのかしら、茂さん……」  あたしは言った。  お客が帰ったあとの店。あたしと浩一は、残りのテンプラを食べながら、ビールを飲んでいた。 「いくらきつい女房でも、いざ出て行かれると、ショックなのかもしれないな……」  浩一は言った。キスと一緒に釣れたメゴチのテンプラを、サクッとかじった。 「茂さん……いつも女房をひどくけなしてたけど……心の底からあいそをつかしてたわけじゃなかったのかもしれないなあ……」  と、つぶやいた。  あたしも、うなずいた。 「大人も……大変ね……」  と言った。  FM横浜が、ビートルズの〈|The Long And Winding Road《ザ・ロング・アンド・ワインデイング・ロード》〉を流していた。それを聴きながら、思った。人間をやっていくってことは、長く曲がりくねった道を歩いていくってことなのかもしれない……。  これから書く小説にも、そのことを描こうと思った。  生きていくには、光もあれば影もある。その影の部分も書こうと思った。  たとえば主人公たちは、若く輝いていても、その周囲には大人もいるのが当然だ。疲れたり、挫折したりしている大人が……。  そんな周囲の大人たちの姿もていねいに描く。そうすれば、主人公たちの若さも、くっきりと描き出すことができるだろう……。  あたしは、そう思った。そう思うと、これから書こうとしている小説の姿が、かなりはっきりと見えてくる……。心の中に、力があふれてくるのを感じていた。頬《ほお》が、カッと熱くなっていた。あたしは、冷たいビールを、ぐいと飲んだ。ビートルズが、〈長く曲がりくねった道〉を歌っていた。       □  書きはじめた。  あたしは、HBのシャープペンシルを握って、400字詰の原稿用紙に向かった。家では、祖父の机を使って書いた。サンセットでは、カウンターに原稿用紙を広げて書いた。  小説のタイトルは〈ディープ・ブルー〉。海の潜りを素材にした物語だから、ストレートにつけたタイトルだった。予定枚数は150枚。書きはじめる前の浩一からのアドバイスは、ただひとつ。〈うまい文章を書こうと思うな。素直な文章を書け〉。そのアドバイスを胸の中でくり返しながら、あたしは書きはじめた。  書きはじめると、止まらなかった。原稿用紙に向かっていると、時間を忘れてしまった。夜中に書きはじめ、気がつくと窓の外が明るくなりはじめていた。そんなことがよくあった。自分の18年間の中で、これほど何かに熱中したことはなかったと思う。あたしは、シャープペンシルを握りしめ、秋を駆け抜けていった。       □  家の庭でコスモスの花が揺れている朝。最初の10枚を書き終えた。浩一に読んでもらった。〈そして〉とか〈また〉とかの接続語をもう少し減らした方がいいとアドバイスされた。接続語を使い過ぎると、文章のスピード感がなくなるという。       □  今年初めて秋刀魚《サンマ》がお店のメニューにのった日。34枚目を書き終えた。浩一に読んでもらった。読みづらい漢字は、できるだけ使わないようにというのが、浩一のアドバイスだった。読みやすい文章が、きれいな文章だという。       □  この秋初めて長ソデのコットン・セーターを着た日。55枚目を書き終えた。浩一に読ませたけれど、何も言わなかった。OKらしい。五味岡が店に来た。新人賞に向けて小説を書いていることは話した。けど、中身については話さなかった。応募する前に編集者を巻き込むのは、反則のような気がしたからだ。〈できしだい、すぐに見せてくれ〉と言って、五味岡は帰って行った。       □  それは、よく晴れた秋の日だった。  あたしは、お昼頃、サンセットに行った。祝日で店は休みだったけれど、その午後、浩一とキス釣りに行く予定になっていた。  いま頃のキスは〈落ちギス〉と呼ばれている。海の深場に移っているからだろう。夏に比べると大物が多い。  あたしがお店に入って行くと、浩一が電話で誰かと話していた。切ると、 「珍しいこともあるもんだ……」  と、つぶやいた。 「どうしたの?」 「沢口、いるだろう?」 「あの、ヤクザの?……」 「ああ……。あの野郎、いま、鎌倉にいるんだって。おれ達が釣りに行くと言ったら、やつも一緒に行くって」 「一緒に釣りに?……」 「ああ……。何を考えてるんだか……」  と浩一は、つぶやいた。       □  1時間後。  沢口が店にやって来た。あい変わらず、髪はオールバック。白っぽいスーツを着込んでいる。  どこか近所で買ってきたらしい釣り竿《ざお》を持っていた。安い竿とリールがセットになっているやつだ。中学生あたりが使うような、初心者用のセットだった。  それを見て、浩一は苦笑した。 「ヤクザと釣り竿は、どう見ても似合わないぜ」  と言った。 「いいだろう。ほっといてくれ」  と沢口。 「これでも、鎌倉育ちだからな。キス釣りぐらい、朝メシ前よ」  と言った。       □  沢口を乗せて、ボートを出した。沖にある定置網のブイにボートを結んだ。釣りはじめた。 〈朝メシ前〉と言ったわりに、沢口はあまり上手じゃなかった。糸をからませたり、鉤《はり》を服に引っかけたりしていた。それでも、楽しそうに釣りをやっていた。 「この前の、あれ、売りさばけたのか?」  と浩一。竿を握って訊《き》いた。〈あれ〉とは、拳銃《けんじゆう》のことだろう。 「ああ……。さばけた。おかげさんで、フトコロがあったかいぜ」  と沢口は言った。そのとたん、沢口の竿先が、ググッと引き込まれた。沢口は、あわてて竿を立てる。ブルブルと震えている竿を握り、リールを巻きはじめた。 「でかいぞ。バラすなよ!」  浩一が言った。自分の竿は置いて、玉網を持った。沢口は、真剣な顔でリールを巻いている。  キスが、海面に姿をあらわした。大物だった。海面で暴れているキスを、浩一が玉網でさっとすくい上げた。  30センチ近いキスだった。 「どうだ」  と沢口。上気した顔で言った。 「ヤクザをやめて、漁師になれよ」  笑いながら浩一が言った。鉤《はり》からはずしたキスを、クーラーに放り込んだ。       □  その日は、大物が7、8匹、釣れた。  店に帰って、さばいた。刺身とテンプラにした。沢口は、本当にフトコロがあったかいらしく、シャンパンのドム・ペリを持ってきていた。それを抜き、3人で飲んだ。沢口は、上機嫌で帰って行った。  その夜。店を閉める時。明りを消した店の、ドアのそばで、浩一があたしにキスをした。この前のキスは、偶然のようなキスだったけれど、今夜のそれは、はっきりと意志を持ったキスだった。決して上等なシャンパンのせいだとは、思いたくなかった。あたしも、彼の首に腕を回して抱きしめた。       □  翌日の月曜日。夕方。  あたしは、お店で開店準備をしていた。カウンターの中で、カサゴのホイル焼きに使う玉ネギを切っていた。  配達されてきた夕刊を、浩一が広げた。そして、 「ん……」  と、つぶやいた。くい入るように新聞を見つめている。あたしも、 「どうしたの……」  とカウンターから出て行った。浩一が広げている三面を見た。 「え!?……」  と、つぶやいていた。 [#改ページ]  16 もう一度、リングに……       □  まず眼に飛び込んできたのは、沢口の顔写真だった。そして、 〈暴力団組長 射殺される〉  の見出し。黒ベタに白ヌキで大きく扱われていた。あたしは記事を読みはじめた。内容はこうだ。 〈今日の午前11時。横浜市|関内《かんない》の路上で、暴力団組長・佐山健三(57歳)が射殺された〉 〈組事務所の前で駐めた車からおりたところを、待ちぶせていた男に短銃で射たれたもよう〉 〈犯人は、佐山と対立する暴力団組員の沢口洋次(26歳)〉 〈佐山は即死。犯人の沢口は、30分後に自首し逮捕された〉 〈このところつづいていた2つの暴力団の抗争が、この事件の背後にあるものとして神奈川県警では……〉  そんな記事を、あたしは2回読みなおした。沢口の写真をじっと見た。確かに沢口の顔写真だったけれど、それはまるで別人みたいだった。  一見ヤクザ風だったけれど、よく見れば、やんちゃ坊主の面影を残していた沢口の顔を、あたしは、思い出していた。  浩一が、夕刊をバサッとたたんだ。       □  あたしと浩一は、たそがれの防波堤にいた。夕陽は対岸の伊豆に沈んだけれど、雲はピンク色に染まっていた。ひんやりとした風が、海に吹いていた。  浩一は、釣り竿を持っていた。それは、きのう、沢口が買ってきた竿だった。釣りをして、そのまま、お店に置いていったものだ。  いま思えば、きのうの沢口は、覚悟を決めていたんだろう。対立している暴力団の組長を殺す、その役目を引きうけていたのは確かだろう。  うまく相手を殺せても、当分は刑務所だ。へたをしたら、その場で敵に殺される。  そんな前日、ふと、釣りでもしたくなったのかもしれない。子供の頃に帰りたかったのか……。浩一に別れを告げに来たのかもしれない……。 「あの馬鹿が……」  浩一が、つぶやいた。  手に持っていた沢口の釣り竿を、バキッと2つにへし折った。海に投げ込んだ。  リールがついている方は、リールの重さで沈んでいった。けど、残りの半分は沈まない。たそがれの海面にプカプカと浮いている。 「安物だな。沈みもしねえ……」  ボソッと浩一が言った。あたしは、浩一の横顔を見た。その頬《ほお》に、一筋の涙が光っているのを見た……。  浩一は、涙を拭《ふ》こうとはしなかった。じっと、海面に浮いている釣り竿を見ていた。海を渡って来る秋風が、浩一の前髪を揺らせていた。  あたしは、浩一の体に、自分の体をもたれかけさせた。浩一の左手が、あたしの肩を抱いた。じっと抱いていた。沖で、船のホーンが鳴っていた……。       □  うちの庭で、この秋初めて、南天萩《なんてんはぎ》の花が咲いた。  南天萩は、マメ科の草だ。紫色のかわいい花を咲かせる。うちの庭でこの花が咲くと、もう、晩秋だ。  その日、あたしは小説の94枚目を書き終えた。  夕方、原稿を持ってお店に行った。浩一に読んでもらった。浩一は、小さくうなずきながら原稿を読んでいる。読み終わると、 「いいんじゃないかな」  と言った。 「細かいところは、後でなおせばいい。いまは、とにかく、書きたいように書いてみろよ」  と言って、包丁を持った。長ネギを切りはじめた。       □  その夜。11時に、最後の客が帰って行った。  あたしがカウンターの上を片づけていると、浩一が冷蔵庫から、お皿を出してきた。お皿には、刺身がのっかっていた。  きれいに切った刺身が、お皿に丸く盛りつけられていた。 「これ……」  と浩一。刺身のお皿をカウンターに置いた。 「どうしたの? これ……」  あたしは訊《き》いた。 「誕生日だろう、今日……」  と浩一は言った。  確かに、今日は、あたしの19回目の誕生日だった。けれど、小説を書くのに熱中していて、ほとんど忘れていた。あたしは、 「あっ、……」  と、つぶやいた。お皿の上の刺身は、よく数えると19切れあった。 「そういうこと」  と浩一。 「おれ、ケーキを焼いたりするのは苦手だからさ……。刺身……」  と言った。ちょっと照れたように微笑《わら》った。 「ありがとう……。これ、石鯛《いしだい》?」 「ああ……。昼間、沖まで行って、釣ってきた」  浩一は言った。  冷蔵庫から白ワインを出してきた。       □  その夜。あたしは浩一のベッドに入った。  ごく自然に、そうなった。もちろん初めての経験だったけれど、なんとかなった。浩一も、少しぎこちなかった。  夜中の2時過ぎ。ウトウトしていたあたしは、目を覚ました。浩一は、軽い寝息をたてていた。あたしは、そっとベッドを出た。シャワーを浴びに、バス・ルームに入った。  洗面所の鏡に、裸の上半身が映っていた。まだ、陽灼《ひや》けのあとがくっきりと残っている。白い水着を着ているみたいだった。ああ……一人前の女になったんだ、と、あたしは胸の中でつぶやいた。外では虫が鳴いていた。あたしは、シャワーのコックをひねった。眼を閉じて、熱いシャワーを思いきり浴びはじめた。       □  クリスマス・イヴの日。小説が完成した。  午後4時。祖父の机の上。168枚目の原稿用紙。あたしは、最後の1行を書き終えた。フーッと、大きく息を吐いた。  原稿を持って、家を出た。クリスマスなんで、ケーキを焼こうと思っていたけど、間に合わない。あたしは、小さなクリスマス・ケーキを買い、お店に行った。浩一は、小次郎にエサをやっていた。 「クリスマスだから、平目《ヒラメ》だぞ」  と浩一。ヒラメを煮たものを、ご飯にのせて混ぜた。さすがにおいしいらしく、小次郎は、ハグハグと勢いよく食べていた。  店が終わってから、ふたりで、クリスマスと小説の完成祝いをやった。  甘いものが苦手な浩一は、クリスマス・ケーキを見ると、苦笑いして、 「おれは、ながめてるだけでいいよ」  と言った。店の残り物をカウンターに並べはじめた。イナダの刺身。ヒラメを煮たもの。それに、浅葱《あさつき》を散らしたタコ飯。ビールで乾杯した。       □  夜中過ぎ。  あたしは、浩一のベッドにいた。ちょっと汗ばんだ裸の体に、タオル地のブランケットをかけていた。となりには、浩一がいた。あたしは、浩一の胸に、頬《ほお》をくっつけていた。 「あれ? 雪かな?……」  浩一が言った。ベッドのわきにある窓を開けた。サラサラとした粉雪が降っていた。 「寒いなと思ったら、雪か……」 「ホワイト・クリスマスね……」  あたしは、つぶやいた。あたし達は、ブランケットから首だけ出して、雪をながめていた。 「泣いてるのか?……」  ふと、浩一が言った。あたしは、小さくうなずいた。あふれ出た涙が、頬をつたっていた。小刻みに、肩が震えていた。あたしの横顔をじっと見ている浩一に、 「嬉《うれ》し涙……」  と、あたしは言った。本当だった。フランス・レストランでの夕食もティファニーのプレゼントもなかったけど、この夜のあたしは、世界で一番幸せな女の子の1人だった。そう思えた。部屋のすみのラジカセからは、A《アストラツド》・ジルベルトの唄《うた》う〈|Fly Me To The Moon《フライ・ミー・トウ・ザ・ムーン》〉が低く流れていた。雪は、音もなく舞いおりていた。小さな粉雪が、涙でにじんで、大粒のボタン雪に見えた。       □ 「葉山の正月は、静かだなあ……」  歩きながら、浩一が言った。 「鎌倉は、初詣《はつもう》での客でゴチャゴチャだからなあ」  と言った。あたしは微笑《わら》いながら、うなずいた。歩いて、真名瀬《しんなせ》の港に行った。港の釣り船は、大漁旗で飾られていた。釣り船は、大漁旗をなびかせて、つぎつぎと港を出て行った。近くの森戸神社に安全祈願をしに行くのだ。  色とりどりの大漁旗をなびかせて、船は港を出ていく。正月の恒例だった。あたしと浩一は、それをながめると、サンセットに戻った。  カウンターに原稿用紙を広げ、ふたりで小説の手なおしをはじめた。  主に、よけいな部分を削る作業だった。あたしの原稿には、まだ、必要のない接続語や修飾語があった。それを削っていくと、小説は見ちがえるほどスッキリとしてきた。文章にしまりが出てきた。 「まあ、魚の身に塩をかけてしめるようなもんだな」  と浩一。笑いながら言った。とちゅうからは、浩一に指摘されなくても、不要な言葉を削り取れるようになった。何か、確かなものをつかんだと思った。  正月の昼間は、サンセットで原稿の手なおしをして過ごした。夕方になると、ひとり身になってしまった茂さんが飲みに来た。珠美《タマ》も、自分の家からロース・ハムを1本盗み出して、やって来た。キッチンのすみ、小次郎が丸くなって寝ていた。       □  1月24日。原稿の清書を終え、五味岡に送った。168枚あった原稿は、削って157枚になっていた。ペンネームは使わず本名でいくことにした。ただし、〈薊〉っていう字は読みにくいんで〈早川あざみ〉にした。       □  祖母とお昼を食べていると、電話が鳴った。とる。五味岡だった。 「小説、読んだよ」  と言った。小説を送ってから、まだ5日しかたっていない。 「ひとことで言って、面白かったし、いい小説だ。予想以上の出来だよ」  と五味岡。 「もう編集長や、ほかの編集者にも読ませたよ。かなり評判がいい」  と言った。予選通過はまずまちがいないし、最終的な候補作品になるかもしれないと言った。また連絡すると言って、五味岡は電話を切った。  あたしは、お昼をす早くすませ、サンセットに行った。浩一は、きのう客に出したテンプラの残りで、天丼《てんどん》みたいなものをつくって食べていた。足もとで、小次郎が同じものを食べていた。あたしがさっきの電話のことを言うと、浩一はご飯をほおばったまま、 「ほりゃ、よかった」  と言った。〈そりゃよかった〉と言ったつもりなんだろう。浩一は、口の中にあるご飯を呑《の》み込むと、 「本当によかった」  と言って白い歯を見せた。 「……でも、受賞する確立は何百分の一なんだから……あんまり期待しすぎない方がいいぞ」  と浩一。あたしは、うなずいた。浩一は、また、丼《どんぶり》をガシガシと食べはじめた。あたしは、浩一がご飯を食べる姿が好きだった。女の子のちまちました食べ方とは正反対だった。おハシと丼をしっかりと握り、力強く、ガシガシと食べていく……。大学のヨット部員だった頃のイメージが、そこにダブる。あたしは、少年のような浩一の食べっぷりを、じっとながめていた。       □  2月は、よく浩一のベッドに入った。いくら湘南でも冬は寒い。けど、ふたりでベッドに入っていれば、温かかった。気圧配置は西高東低で海には北西風が吹き、白波が立っていた。あたし達は、開けた窓から、そんな海をながめていた。また窓を閉め、ベッドにもぐり込んだ。冬も悪くないと思った。あたしは、確実に大人になっていった……。       □  候補になった。  あたしの小説〈ディープ・ブルー〉が、第三次予選を通過して、最終的な候補5作品の中に入った。その知らせが来たのは、3月の中旬だった。冷たい海風の中に、春の匂《にお》いがしはじめていた。家の庭では、胡瓜草《キユウリグサ》の小さな花が咲きはじめていた。2月はほとんどいなかったウインド・サーファーの姿が、海の上にちらほらと見えていた。 「最後の選考会は、4月の15日だ」  と五味岡。電話で言った。 「夕方の6時から選考会をやるから、7時半頃には、受賞作が決まると思うよ」  と言った。あたしはメモした。 「ところで」  と五味岡。 「このところ、浩一はどうだい」  と訊いてきた。 「どうって……あい変わらずだけど」 「そうか……」  と五味岡。なんか言いたそうだった。 「何か?……」 「……いやね……浩一のやつ、どうやら、また小説を書く気になったらしいんだ」 「……小説を書く気に?……」  あたしは、受話器を握りなおした。 「ああ……。しばらく店に行ってないんで、この前、電話してみたんだ。どうしてるかと思ってね……。いろいろと雑談してる最中に、〈そろそろ、また、ペンを握っちゃどうだ?〉と言ったら、やつ、〈そうだなあ……〉って言うのさ。いままでは、てんでその気がなさそうだったのに」 「…………」 「そのあたりの浩一の変化に、何か気づいたこと、ないかい?」  五味岡が訊いた。あたしは、ちょっと考えて、〈あっ〉と心の中でつぶやいていた。  あれは確か、2月末のことだった。  夜中。あたしは、浩一の部屋にいた。正確に言うと、浩一のベッドにいた。ウトウトして、明け方の4時頃、目を覚ました。そろそろ、家に帰ろうと思った。朝の6時頃になると、祖母が起きてくる。その時までには家に帰るようにしていた。  あたしは、ベッドで起き上がろうとした。その時、気づいた。浩一が、机に向かっているのに気づいた。服を着て、机に向かっていた。Zライトをつけていた。  こっちに背中を向けているんで、よくはわからなかった。けど、机の上に何かを広げているのは、わかった。ボールペンを持っていた。何か考えているみたいに見えた。  あたしが起き上がる物音で、浩一はふり向いた。 「仕事?」  あたしが訊くと、 「ああ……。店の帳簿」  と浩一は言った。広げていた紙を閉じた。よく考えれば、あれは帳簿には見えなかった。原稿用紙みたいだった。  あたしは、そのことを五味岡に言った。〈夜中に〉〈彼の部屋で〉という部分は伏せて、ただ、〈原稿用紙らしいものに向かっているのを見た〉とだけ話した。 「そうか、やっぱり……」  と五味岡。 「どうやら、君のおかげで、風向きが変わってきたみたいだな」  と言った。 「あたしの?……」 「ああ、そうだ。浩一のやつ、君に小説のコーチをして、君が小説を書く姿を見守っているうちに、自分でもまた書いてみようと思いはじめたんじゃないかな」 「…………」 「心の中で眠ってた何かに、君が火をつけたんじゃないかと、おれは思うんだ。たぶん、まちがいない」  と五味岡。 「とにかく、浩一のやつ、もう一度、リングに上がる気になったことは確かだな……。おれにとっては嬉《うれ》しいことだよ」  と言った。  五味岡は、選考会の日時をもう一度言い、電話を切った。  あたしは、壁のカレンダーを見た。選考会までは、1ヵ月もない……。 [#改ページ]  17 サヨナラは言わないから       □  あたしは、電話を切ると、家を出た。〈サンセット〉に行った。店は閉まっていた。  そのまま歩いて、海岸に出てみた。浩一はいた。陽射しを浴びて、ボートの手入れをしていた。冬の間は出さなかったボートを、そろそろ出すつもりかもしれない。浩一は、船外機のカバーをはずして何かやっていた。  あたしが声をかけると、ふり向いた。白い歯を見せた。あたしは、候補になったことを話しはじめた。       □  今年は、桜の花が遅かった。葉山あたりじゃ、4月中頃に、満開になっている桜が多かった。  4月15日の夕方。  あたしが店でグラスを洗っていると、どこかへ行っていた浩一が戻って来た。手に、桜の枝を持っていた。枝には、花がいくつもついていた。 「どこから持ってきたの?」 「近くの庭から、ちょっとしっけいしてきた」  と浩一。ニコリとした。桜の枝を、カウンターにある瓶にさした。この店では、口の広いただのガラス瓶を花瓶にしてあった。どんな花も、むぞうさにそこに入れてしまう。いかにも浩一らしかった。 「花の咲いてる桜ってのは、縁起がいいんじゃないかと思って」  浩一が言った。あたしは、苦笑した。 「入試じゃあるまいし」  と言った。けど、緊張しているのは、自分でもわかった。あと30分もしたら、東京では選考会がはじまるはずだった。じっとしているとかえって気になってしまうので、あたしは、忙しく開店準備をしていた。カウンターの上を拭《ふ》き、床を掃いた。  手を動かしながら、ふと思っていた。 〈たとえ落ちても、これでもう、充分に幸せだ〉  浩一と一緒に書き上げた小説が、新人賞の候補になった。そのことだけで、充分に幸福だった。本気でそう思えた。そう思うと、気持ちが落ち着いた。それは、そばにいる浩一にも伝わったみたいだった。 「きのうまでソワソワしてたのが、落ち着いたな」  釣ってきたメバルのウロコを落としながら、浩一が言った。 「だって……いくら候補っていっても、確率五分の一だもんね。落ちてもともと」  微笑《わら》いながら、あたしは言った。浩一は、うなずいた。 「そういうこと。とれればラッキー。そう思えば気楽なものさ」  と言った。  あたしも、床を掃きながらうなずいた。幸い、候補になったことは、誰にも言っていない。落ちたら、浩一とふたり、ビールで残念会をやろう。そう思った。  6時に、茂さんが店に入って来た。茂さんも、春の訪れとともに、かなり元気を取り戻していた。ビールを飲みはじめ、今度はメバル釣りの仕掛けを発明するのだと話しはじめた。  6時半。店の電話が鳴った。  いくらなんでも、早すぎる。選考会は6時にはじまったばかりだ。あたしは受話器を取った。 「はい、サンセットです」  1、2秒、間があり、 「おめでとう」  と五味岡の声がした。 「おめでとうって……」 「受賞だよ。いま、決まったんだ」 「だって……まだ6時半……」 「そう。あっという間に決まったんだ。選考委員の満場一致でね」 「…………」 「選考委員たちはいま、佳作を出そうかどうしようか、話し合ってるよ。おれだけ、会場を抜け出して電話してるんだ」  五味岡が言った。 「さっそくだけど、明日の昼間、東京に出て来られるかな?」 「明日?……」 「ああ。正式な受賞式はまだ先だけど、とりあえず、編集長が会いたがってるんだ。昼食でも、どうだろう」 「大丈夫……」 「オーケイ。じゃ、とりあえず会社に来てくれ……」  と五味岡。時間と場所を言いはじめた。  電話を切った。ふり向いた。やりとりをきいていて、浩一にはもうわかったらしい。まっ白い歯を見せている。  あたしと浩一は、プロ野球でホームランが出た時の選手同士みたいに、両手をパシッとぶつけた。事情のわからない茂さんは、ポカンとしている。 「今夜は飲み放だいだよ」  と浩一が茂さんに言った。       □  その夜は、さすがにあんまり眠れなかった。かなりビールを飲んだのに、あまり眠れなかった。  それでも、お昼に東京に行かなきゃならないんで、8時に起きた。少し眠かった。  持っている服の中で、一番きちんとしている服を着た。ネイビーのブレザーにグレーのスカート。白いボタンダウンのシャツ。レジメンタル・ストライプのネクタイをしめた。家を出ようとすると、祖母が、 「どっか行くのかい?」  と言った。祖母に説明するのは時間がかかりそうなんで、後で話すことにした。 「ちょっと東京まで行って来る」  と言った。家を出た。9時半だった。ちょっとサンセットに寄ってみた。店のドアは閉まっていた。海岸まで出てみた。浩一のボートはなかった。海に出ているらしい。  きのう、浩一は言っていた。明日は鯛《たい》を釣ってくるから、それをさばいて、ふたりだけで祝賀パーティーをしようと言っていた。いま頃の鯛は〈桜鯛〉と呼ばれ、姿も味も、一年中で一番いいのだ。浩一は、きのうの言葉どおり、釣りに出ているらしかった。あたしは、海岸道路のバス停に向かって歩きはじめた。       □  ちょうど正午に出版社に着いた。  受付で名前を言うと、すぐに五味岡が出て来た。スーツを着た中年の人と一緒だった。それが編集長だった。  3人で、近くのレストランに行った。学生風のブレザーで入るのが恥しいようなフランス・レストランだった。  そこで昼食を食べながら、いろいろと話をした。さっそく、つぎの小説にとりかかって欲しい、と編集長が言った。やはり、受賞作と同じような、海を舞台にした青春小説がいいだろう、と五味岡が言い、編集長もうなずいた。編集長は優しく、 「がんばってください。期待してるんだから」  と言った。  別れぎわ、 「浩一はどうしている?」  と五味岡が訊《き》いた。お祝いの鯛《たい》を釣りに行ってるらしいと、あたしは言った。五味岡は苦笑い。 「あい変わらずだな……。釣りもいいけど、小説の方にもそろそろとりかかれって、ハッパをかけてくれよ」  と言った。あたしは、うなずく。出版社の玄関で五味岡と別れた。       □  葉山に戻ると、もう夕方近かった。  バスをおりると、まっすぐにサンセットに向かった。店の近くまで来ると、様子がおかしいのに気づいた。  店のわきの駐車スペースに、パトカーが駐まっていた。店に、制服の警官が出入りしていた。あたしは、足を早めた。胸さわぎがしていた。  店の前まで行くと、ちょうど、中から茂さんが出て来た。ひどくあわてていた。 「どうしたの?……」 「事故があったんだ、沖で」  と茂さん。 「沖で……事故?……」 「ああ……。釣りをしてたコーちゃんのボートに、漁船がぶつかったんだ」 「ぶつかった……それで!?」  あたしは、茂さんの腕をつかんで訊《き》いた。茂さんは、しばらく無言でいた。やがて、口を開いた。 「……コーちゃんのボートは、まっぷたつになって……本人も、たぶん、漁船の船底かプロペラでやられたんだろう……30分後に、死体で発見されて……」  茂さんは、そこまで言うと、言葉をつまらせた。  あたしは、自分の頭から、血のけが引いていくのを感じた。めまいがした。茂さんが、体をささえてくれた。  あたしは、パトカーに乗せられて葉山警察に向かった。浩一の遺体は、検死のため、そこに運ばれているという。  走るパトカーの中。警官が、いまわかっている事実を話してくれた。  事故があったのは、葉山の沖、3キロのあたりだという。釣りをしていたらしい浩一のボートに、佐島漁港に帰る中型の漁船が衝突した。帰りを急いでいた漁船は、かなりのスピードを出していた。少し波が立っていたので、浩一の小型ボートに気づくのが遅れた。その2つが重なっての事故らしいという。  警官の説明をききながら、ぼんやりとパトカーの外をながめていた。夢を見ているみたいだった。       □  浩一の遺体には、白い布がかけられていた。あたしは、恐る恐る、近づいて行った。 「死に顔はきれいです」  白衣を着た男が、そう言った。白い布を、そっとめくった。確かに、浩一は眠っているようだった。唇が、かすかに開いている。いまにも目を覚ましそうだった。 〈起きなくちゃ……。そろそろ、店を開ける時間よ……〉  あたしは、胸の中でつぶやいていた。       □  それから1週間は、茫然《ぼうぜん》としていた。  五味岡が毎日やって来てくれた。けど、あたしは、ただ、うつろな眼をしていたと思う。事故から3日後。鎌倉の実家で、お葬式があった。けど、浩一の死因と自分の立ち場を考えると、お葬式に出る勇気はなかった。じっと庭のブランコに腰かけていた。まだ、心のどこかで、浩一の死を信じたくないと思っていたのだろう。       □  ちょうど1週間目だった。  あたしは、サンセットに行ってみた。  ひさしぶりに、ドアを開けた。  店の中は、そのままだった。午後の陽射しが、窓から入ってきていた。カウンターの上に、桜の花びらが散っていた。選考会の日、浩一がどこからか持ってきた桜の枝……。花びらはみんな散っていた。しおれて、茶色くなりかけていた。  あたしは、勇気を出して、2階に上がって行った。浩一の部屋に入った。部屋は、何も変わっていなかった。あたしは、ゆっくりと、見回した。  机の上に置いてある原稿用紙を見つけたのは、その時だった。あたしは、机に近づいて行った。  400字詰の原稿用紙が、机の上にあった。薄いクリーム色に、グリーンのケイが入っている原稿用紙だった。  重ねて置いてある原稿用紙の一番上。そこに、ボールペンで何か書いてあった。 〈8月のカモメたち〉  と、大きめの文字で書いてあった。それは、どうやら小説のタイトルらしかった……。文字の大きさからして、どう考えても、タイトルらしい。2枚目の原稿用紙には、何も書いてなかった。  ああ……やっぱり、浩一は、小説を書こうとしていたんだ……。あたしは、そう思った。  けれど、その小説は、1行も書かれることはなかった……。タイトルだけ残して……。書きたかっただろうけど、書かれずに終わってしまった……。  そう思ったとたん、浩一の死を、はっきりと実感した。それまでこらえていた悲しみが、激しくわき上がってきた。不意打ちのように、わき上がってきた。  あたしは、早足でサンセットを出た。砂浜に向かった。遅い午後の砂浜に、人の姿はなかった。あたしは、砂浜に座り込んだ。ヒザに額をくっつけ、小さな子供のように、思いきり泣きはじめた。涙は、あとからあとから出てくる。止まらない……。あたしは、声を上げ、思いきり泣きじゃくった。       □  何時間泣いていたんだろう。気がつくと、夜だった。  ゆっくりと顔を上げる。前に夜の海が広がっていた。波が、静かに、打ち寄せていた。遠くで、江の島の灯台が、チカッ……チカッと光っていた。  あたしは、ぼんやりと、その灯台の光を見つめていた……。  近くで猫の鳴き声がした。そっちを見た。砂浜を、小次郎が歩いて来るのが見えた。ケガをしている左の後ろ足を下につかず、3本足で砂浜を歩いて来る……。ギクシャクした足どりで近づいて来る。あたしのそばまでやって来た。  ニャニャとひと声鳴いた。あたしの腕に、体をすりつけた。それは、 〈元気を出してくれよ〉  と言っているみたいだった。そういえば、この1週間、小次郎はどこで何を食べていたんだろう……。それに気づくと、小次郎がかわいそうに思えた。浩一がいなくなって悲しいのは、あたしだけじゃないんだ。そう思った。しっかりしなくちゃ、と、自分を勇気づけた。小次郎を見た。小次郎は、じっと、あたしを見上げていた。また、あたしの腕に体をすりつけた。  それは、やはり、 〈元気を出してくれよ……〉  と言っているように感じられた。あたしは、小次郎の背中をなでてやった。小次郎をなでながら、思った。  何があっても、浩一とふたりで過ごしたこの10ヵ月が消えてしまうわけじゃない。  出会った。  惹《ひ》かれ合った。  不器用だったけれど、力いっぱい愛し合った……。  この10ヵ月は、何があっても消えはしない。あたしの心の中で、永遠に光りつづけるのだろう……。あの灯台の光みたいに……。  そう思うと、悲しみに立ち向かっていけるような気がしてきた。  あたしは、ゆっくりと立ち上がった。お尻についた砂を、手で払った。足もとにいる小次郎に、 「お腹すいてるよね……。帰って、ご飯にしようか」  と言った。小次郎は、小さく、ニャッと鳴いた。あたしは、歩きはじめた。小次郎が、後をついてくる。ちょっとヨタヨタした足どりで、後を追いかけてくる……。あたしは、歩く早さを、小次郎に合わせた。ゆっくりと、サンセットの方に歩いていく……。  砂浜が見えなくなるところで、立ち止まった。一度だけ、ふり返った。そこは、浩一と初めてキスした砂浜だった……。じっと佇《たたず》んでいるあたしに、風が吹いた。一瞬の海風《ブロウ》だった。  それは、浩一が送ってきた風みたいに思えた。いつもの調子で、〈じゃあ、また〉と言ったように思えた。  あたしは、唇を結んで海を見つめた。浩一に向かって〈サヨナラは言わないから〉とつぶやきかけた。  浩一は、いなくなったんじゃない。ちょっと遠くへ出かけているだけなんだ……。そう、自分に言いきかせた。また、歩きはじめた。空に星が出ていた。明日も晴れか……と、あたしは思った。 [#改ページ]  エピローグ       □  その午後。あたしは、砂浜でインタビューをうけていた。地元の新聞の取材だった。  受賞作が掲載された小説誌は発売されていた。取材の申し込みが、3つ4つ、あった。勝手がわからないので、とりあえず、全部、引きうけていた。そんな取材の1つだった。30代らしい男の記者と、もう少し若い男のカメラマンが二人組みでやって来た。  小説の舞台になった葉山の海岸で取材をすることになった。  記者の人があたしにインタビューして、同時に、カメラマンがあたしの写真を撮っていた。  記者の人は、まじめそうだった。小説をていねいに読んできたらしく、質問が的確だった。空はよく晴れて、もう、初夏の色だった。インタビューは、気持ちよく進んだ。  ひととおり、話し終わった。記者の人は、話題を変えた。 「きいたところによると、この受賞が決まるのとほぼ同時に、非常に親しかった方を失《な》くされたという話ですが……。いま、こう話していると、もうかなり元気そうですね?」 「ええ……」 「立ちなおるまでは、大変でした?」 「まあ……かなり……」 「そうでしょうねえ……。立ちなおるために、何か、努力されたとかは……」  あたしは、微笑した。 「もともと楽天的な性格なもので、自分にこう言いきかせたんです。……死んだ人に対して、あたしたち生きている人間がやれることは、その人の分まで力いっぱい生きることだけだと……」  記者の人は、ゆっくりと、大きくうなずいた。 「そうですね」  と言った。 「最後に、つぎの作品は書きはじめられているんですか?」 「はい……。ストーリーづくりを、いまやってます」 「タイトルは、決まってるんですか?」 「はい」 「もしよかったら、きかせてくれます?」  あたしは、うなずいた。そして、 「〈8月のカモメたち〉です」  と言った。       □  インタビューを終えると、あたしはサンセットに戻った。  ヨットパーカーのポケットから鍵《かぎ》を出し、店のドアを開けた。  この店は、あたしが引き継いだ。いつか浩一が言ったセリフを借りれば〈店長で、バーテンで、コックで、皿洗い〉ということになるんだろう。  店を引き継ぐことに、迷いはなかった。  浩一と出会い愛し合ったこの海岸町で、あたしは生きていく……。そのことに、迷いはなかった。  元気にお店をやる。がんばって小説も書く。  そう決めたのだ。  あたしは、開店準備をはじめた。  引き継ぐための手続きや何かで、1ヵ月ほど必要だった。きょうが、お店を再開する初日だった。       □  そろそろ、6時近い。  あたしは、カウンターの上をきれいに拭《ふ》いた。カウンターの中に入る。流しに置いてある洗面器。そこに、矢車草が入っていた。うちの庭から切ってきた青い矢車草が、10本ほど、洗面器の水につけてあった。あたしは、それを、カウンターにあるガラス瓶にさした。10本、ばさっとガラス瓶にさした。これで、開店準備はOKだ。  ふと、冷蔵庫をふり返った。  冷蔵庫のドアには、仕込みのメモが貼《は》ってあった。 〈ショウガ1。長ネギ3。豆腐3。ワサビ2〉  そんな走り書きのメモが貼ってある。そのとなりに、1枚の写真があった。サービス・サイズの写真が、セロテープでとめてあった。  あたしと浩一が写っていた。いつ撮ったものか、正確には思い出せない。けど、まちがいなく、去年の夏のものだった。  あたしと浩一は、海をバックに並んでいた。あたしは、ちょっとボサボサの髪をしていた。陽に灼《や》けていた。少しエリの広がってしまった黄色いTシャツを着ていた。  浩一は、グレーのポロシャツを着ていた。エリのボタンは、2つともはずしてあった。ちょっと照れたような表情をしていた。  あたしは、2、3分、その写真を見つめていた。そして、写真の中の浩一に向かって、つぶやいた。 〈じゃ……店を開けるからね……〉  と、つぶやいた。  あたしは、店のドアを開けて外に出た。陽射しに眼を細めた。黄色い夕陽が、いっぱいに、店を照らしていた。たそがれの陽射しなのに、熱く、まぶしかった。空に積乱雲がわき上がっていた。  また、夏が来るんだ……。あたしは、海から吹いてくる風を、思いきり吸い込んだ。  そして、店のドアにかかっている〈CLOSED〉のプレートを、〈OPEN〉に引っくり返した。 [#地付き]END   [#改ページ]  あとがき  ある雑誌のインタビューで、こんな質問をされたことがある。 「よく女性を花にたとえることがありますが、どんな花にたとえられるような女性が好きですか?」  僕は迷わず、 「矢車草。しかも、青い矢車草の花」  と答えた。若い女性のインタビュアーは、ちょっと意外そうな顔をした。バラとか、ユリとか、トロピカルな蘭とか、そんな花を予想していたらしかった。  切り花にも流行があるのか、最近は花屋でも見かけることが少なくなった矢車草だけれど、僕が子供だった頃は、よく身近かにあった。  僕は、東京の文京区で子供時代を過ごした。本郷通り沿いの片町という所にあった家だった。はじめは、庭に井戸があった。やがて井戸はなくなったけれど、かわりに池がつくられた。池には鯉が泳いでいた。そんなちょっと古めかしい家だ。  5月。端午の節句が過ぎると、自分の誕生日が近づいてくる。ヨロイやカブトが片づけられた和室に、よく、矢車草の花を見たものだった。特にその青い花の色は、子供心にも印象的だった。  大人になったいまも、矢車草は好きだ。  野の花の可憐さがある。  咲いている姿に、飾りけや媚《こ》びがない。  初夏の花らしい若さが感じられる。  と同時に、その深い青は、どこか切ない……。  今回、湘南を舞台にしたラヴ・ストーリーを書こうとして、まず思い浮かべたのが、そんな矢車草だった。  青い矢車草のような女主人公《ヒロイン》を描いてみたいと思った。そこから、物語はスタートした。  小説のストーリーは、ある程度きっちりと決めて書きはじめる方なのだけれど、今回は、あまりストーリーをかためずに書きはじめた。  恋に落ちるふたりの人物像。そのバック・グラウンドとなる海岸町の空気感。それだけを頭に置いてペンを動かしはじめた。  ただし、ラスト・シーンだけは別だった。ヒロインが、矢車草の花をガラス瓶に入れて、店の開店準備を終える。そのシーンだけは、最初から決めていた。作者の勝手な思い入れなのだけれど、どうしても書きたいシーンだった。  小説を書き終えたいま、自分なりには、矢車草のようなヒロインが描《か》けたと感じている。  ヒロインが矢車草だとすると、相手の浩一は、たとえれば何だろう。矢車草を揺らす風か?…………いや、それは、読者のイマジネーションにまかせることにしよう。  作者としては、湘南の海岸町を舞台にしたこのラヴ・ストーリーに、ひととき、ひたってもらえれば、それで嬉しい。  なお、素潜りの細部《デイテール》については、地元の友人である佐久間浩さんに教えてもらいました。ここでお礼を言いたいと思います。  細かい注文にもかかわらず、イメージにピタリのイラストを描いてくれた松原健治さんにも感謝します。いつもながら、仕事の遅い作者とダブルスでがんばってくれた編集部の大塚菜生さん、お疲れさまでした。  最後に、この本を手にしてくれたすべての読者の方に、ありがとう。また会える日まで、少しだけグッドバイ、です。    初夏の葉山で [#地付き]喜多嶋 隆   角川文庫『8月のカモメたち』平成5年7月10日初版刊行