[#表紙(表紙.jpg)] 水平線ストーリー 喜多嶋隆 目 次  ラスト・シーンが泣かせた  湘南ガール  マギーの店は、きょうもOPEN  若いビールにはかなわない  64歳  恋とは何か君は知らない  貝殻《シエル》ジンジャーの花  カラカウア・アベニューの通り雨  そして彼女はカムバックした  ジェット・ストリーム  夏雲とロケット  オンリー・イエスタデイ  初秋ならハーフ&ハーフ  彼女はウィンディー  パイナップルが歩くとき  ルビー・チューズデイ  少年は、いつの日か風になる  ソバ屋でラガー・ビール  遅い午後のウオッカ&ペリエ  ソルティー・レイン  ドレスダウン  その夜、二人で流れ星を見た  カンパリ・サンセット  ミス・パイナップルの失敗《ミス》  ハリケーン  ジョンとメリー  レインボー・シャワー・ツリーが咲いていた  U・S・A  ジン・トニックが汗をかく  カリフォルニアで寄り道  二人のチャイナ・タウン  赤と白  夜明けにバラード  海に向かって「グッド・ラック」とつぶやいた   初出誌   あとがき [#改ページ]   ラスト・シーンが泣かせた  水平線が、夕陽のパイナップル色に染まっていた。  ワイキキに吹く風が、少しひんやりと涼しさをましていた。  同時に、風は昼間より軽くなったような気がした。  芝生の上。すべてのものが長い影を引いている。  黄色い消火栓。誰かが忘れていったらしいビーチボール。のんびりと歩いている茶色い犬。みんな、長い影を引いている。  僕は、一眼レフを持って、芝生に坐《すわ》っていた。  そして、10メートルほど右で、彼女が本を読んでいた。       □  ホノルル。9月。  僕は、ひとり、ワイキキ・ビーチに面したコンドミニアムに滞在していた。  CFディレクターの仕事をしながら、同時に小説を書きはじめた頃だった。  すでに数冊の小説を世の中に送り出していた。その本たちの評判は悪くなく、それなりに売れてもいた。  メジャーな出版社からの原稿依頼も、ふえてきていた。  そんなタイミングにもかかわらず、その1か月、僕は小説を書く気になれずにいた。  たかが数冊を書いただけで、小説を書くことにあきたわけではなかった。疲れたわけでもなかった。  ひとことで言えば、物語を書くための動機を見失っていたのだと思う。  小説などなくても、明日はくる。地球は回っていく。  原稿用紙を文字でうめていくことが何になるのだろうか……。そんな単純な疑問が心に引っかかってしまったのだろう。ちょっとした失速状態だったのかもしれない。  そんな時だった。ハワイでCF撮影の仕事があった。撮影は順調に終わり、スタッフは帰国した。僕はひとりホノルルに残り、ぼんやりと時を過ごしていた。  部屋の机には、書きかけの原稿用紙が広げてあった。けれど、ここ数日、1文字も書いてはいなかった。  毎日、夕陽をながめ、写真を撮っていた。  僕の滞在しているコンドミニアムのすぐとなりは、公園だった。広い芝生があり、昼間はスポーツや日光浴をする人たちでにぎわっていた。  夕陽の時間。ひとけが少なくなってくると、僕はその広い芝生に出ていった。  沈んでいく夕陽をぼんやりとながめ、夕焼けが美しければ、ときには写真を撮ったりもした。  夕陽は、すぐ眼の前のワイキキ・ビーチには沈まず、少し西寄りのアラ・モアナあたりの方向に沈んでいった。  そんな、のんびりとした夕陽の時間、いつも芝生に本を読みにくる女の子がいた。       □  最初に気づいたのは、いつだろう。  とにかく、気づくと、彼女はそこで本を読んでいた。  いつも僕が坐《すわ》る場所から10メートルぐらい、海に向かって右側だった。  年齢《とし》は、10代の終わりか、|20歳《はたち》前後に見えた。地元の娘《こ》だろう。  東洋系もふくめて、いろいろな国の血が入っていそうな顔だった。もちろん、ここハワイでは珍しくもなんともない。  学生なのか、仕事をしているのか、わからなかった。  とにかく、夕陽の時間になると、1冊の本を持って芝生にあらわれた。  いつも、カジュアルな服で、L・Aギアのスニーカーをはいていた。  彼女は、いつもの場所にくると、まず腹ばいになる。  両足からL・Aギアを脱ぐ。ゆっくりとした動作で、持ってきた本を広げる。読みはじめた。  ときどき、ページから顔を上げ、夕陽と空をながめる。また、ページに視線を戻す。  読んでいるのは、どうやらラヴ・ストーリーのようだった。       □  僕が彼女に気づきはじめて2日目。本は、まだ読みはじめられたばかりだった。  その日の夕陽は、美しかった。けれど、僕は、夕陽を撮るかわりに、彼女にカメラを向けた。小説に熱中している横顔が美しかったからだ。  1度だけ、シャッターを切った。乾いたシャッター音が、たそがれに響いた。けれど、本に熱中している彼女は気づかなかった。       □  翌々日。  彼女の本は、3分の1ぐらいまで読み進められていた。その日の夕陽は、いまひとつだった。  海からの風だけが、本のページを揺らしていく。       □  さらに1週間後。  彼女の本は、ほとんど残り少なくなっていた。ラスト・シーンに近くなっているようだった。  彼女は、じっと、活字を眼で追っている。  そのまつ毛に涙がたまっていることに気づいたのは、その時だった。  アラ・モアナに沈む夕陽が、芝生と彼女の横顔を照らしている。  その夕陽に、キラリと光るものがあった。彼女の瞳《ひとみ》にあふれた涙だった……。  彼女は、そのまま、本に没頭している。  涙が、頬《ほお》にこぼれそうになる。  気づいた彼女は、指で涙をぬぐった。1度だけ、軽く、すすり上げた。また、ラスト・シーンを読みつづける。  僕は、そっと芝生から立ち上がった……。       □  僕は、夕陽の中をコンドミニアムに歩いていく。  トンネルから抜け出た。そんな気がした。  確かに、小説がなくても、地球は回る。けれど、1冊の物語が、誰かの涙を誘うほど心を揺らすことができる……。それもまた、まぎれもない事実なのだ。  自分の部屋に戻る。FM局のKRTRが、B《ボズ》・スキャッグスを低く流していた。  広げた原稿用紙を、アラ・モアナの夕陽が照らしていた。  僕は、冷蔵庫からミネラル・ウォーターを出しひと息に飲んだ。原稿用紙の前に坐る。ペンをとった。また、走りはじめられそうな気がした。  B《ボズ》・スキャッグスのバラードを聴きながら、ゆっくりとペンを動かしはじめた。 [#改ページ]   湘南ガール 「ほら、まただよ」  と友人のケン。僕の肩を突ついた。  ホノルル。カラカウア|通り《アベニユー》。遅い午後。  ケンがアゴでさした方を僕は見た。  なるほど。まただ。左右色ちがいのゴムゾウリが歩いていた。  正確に言うと、ハナオが色ちがいのゴムゾウリをはいた地元少女《ロコ・ガール》が歩いていた。  近頃、ハワイで流行しているという。アラモアナ|S・C《シヨツピング・センター》にある1軒の店で、つくってくれるらしい。いろんな色のハナオから選んだものを、その場で底《ソール》につけて、色ちがいのゴムゾウリをつくってくれるという。 「1つ、つくったら?」  とケン。僕はうなずきながら、ふと思い出していた。左右色ちがいのゴムぞうりをはいていた夏が、かつてあった……。       □  確か大学1年の夏休みだった。  僕は、湘南の葉山でバイトをしていた。といっても、同級生の実家でやっている海の家を手伝っていただけだ。  砂浜にズラリと並んでいる海の家の1つだ。そこを、大学の同級生たちで手伝っていたのだ。  遊び半分のバイトだったから、よくサボった。  サボっては、かき氷を食べにいったりした。  砂浜から海岸道路に上がる。海岸道路に面して、1軒の食堂があった。  冷やし中華。カツ丼《どん》。かき氷。とにかく、なんでも用意してある食堂だった。地元の中年の夫婦がやっていた。  その店の気どりのなさが気にいって、僕らはよくそこで時間つぶしをしていた。そして、僕が桂子と出会ったのも、その店だった。       □  桂子は、その店でバイトをしていた。  といっても、僕らのように泊り込みではない。家が鎌倉なので、通いのバイトだった。  50�のバイクを走らせて、桂子は鎌倉から葉山まで毎朝やってくる。当時、50�のバイクにヘルメット着用は義務づけられていなかった。当然のように、桂子もノーヘルだった。  肩までかかるストレート・ヘアーを風になびかせて、海岸道路を走っていた。  典型的な地元っ子だった。ダブッとしたTシャツ。スリム・ジーンズ。一日中、首からかけるエプロンをしていた。エプロンには、前にポケットがついている。それが、桂子のバッグがわりになっていた。  といってもポケットに入っているのはハンカチとバイクの免許証ぐらいのものだった。  口紅をつけているのも、見たことがない。そして、足もとはいつもゴムゾウリだった。  ペタペタとゴムゾウリを鳴らせて、桂子はよく働いていた。  大きな氷のかたまりを持ち上げる。手動式のかき氷機でガリガリとかき氷をつくる。右手でかき氷にシロップをかけながら、左手でウドンの玉をお湯に放り込む。そんな風に、一日中よく働いていた。       □  僕と桂子が親しくなったのは、ごく自然にだった。  たまたま1人で彼女の店にいった。たまたま、店にほかの客はいなかった。僕はカツ丼を食べながら彼女と話した。  彼女も春に高校を卒業したばかり。つまり僕と同じ年齢《とし》だった。  アメリカに留学したい。その資金稼ぎのためにバイトをやっている。  立ったまま店のカウンターにもたれ、両手をエプロンのポケットに突っ込んで、彼女はそんなことを話した。話し方は少し照れていたが、笑顔は明るかった。       □  7月も終わりに近づく頃、僕らはよく二人きりで出かけるようになっていた。  バイトが終わってから、夕食にいったり、砂浜をブラブラしたり、ときには逗子《ずし》の町まで映画を観《み》にいったりした。  8月のはじめ。鎌倉の花火大会があった。僕と桂子は、材木座の海岸で待ち合わせた。  1度家に帰って出なおしてきた彼女は、ユカタを着ていた。藍《あい》の地に紫陽花《あじさい》の柄のユカタだった。  赤い帯が、たそがれの海岸道路に鮮やかだった。うっすらと口紅をつけていた。 「はい」  と彼女。2本持っているウチワの1本を、僕に渡した。  花火からの帰り。最初のキスは、人通りのなくなった海岸道路だった。  そんな風にして、つき合いははじまった。  はじめて彼女と寝た日の翌日だったと思う。僕らは、ゴムゾウリを買いにいった。  彼女のゴムゾウリは底がすり減っていたし、僕のはハナオが切れかかっていた。 「いっそ、同じサイズの色ちがいを買って、片方ずつ交換してはかない?」  いたずらっ子のようにそう言ったのは、彼女だった。僕は笑いながら賛成した。紺《こん》とペパーミント色のゴムゾウリを買った。僕のサイズのを買ったから、彼女には少しだけ大きかった。けど、彼女は気にするようすもなかった。  左右色ちがいのゴムゾウリをはいて、僕らは夏を駆け抜けていった。  8月の終わり。湘南の沖に白い三角波が立つ頃、僕らのつき合いは終わった。  3年がかりのバイトでためたお金を持って、彼女はアメリカに旅立つ日がきたのだ。9月からボストンの大学に入学するために。  彼女が発《た》つ前日は、徹夜で過ごした。砂浜に並んで坐って、砕ける波をじっと見ていた。夜光虫が、波を薄蒼《うすあお》く光らせていた。風はもう、秋の匂《にお》いがした……。       □  クラクション。僕は、われに返った。僕とケンは、カラカウア|通り《アベニユー》がワイキキ・ビーチに面しているあたりを歩いていた。  たそがれ近いビーチ。色ちがいのゴムゾウリが脱いであった。ブルーとイエローだった。持ち主は波乗りにでもいっているのだろう。  僕は、眼を細める。そのゴムゾウリにカメラを向けた。そっと、シャッターを切った。 [#改ページ]   マギーの店は、きょうもOPEN  陽《ひ》が西に傾いていた。ホノルルの街が、パイナップル色の夕陽につつまれはじめていた。  僕は、借りているコンドミニアムのラナイ、つまりベランダで、アロハ・シャツを干していた。  持っているアロハは、みな古着《アンテイツク》なので、洗濯を人まかせにすると、すぐボロボロになってしまうのだ。必ず自分でもみ洗いをする。優しくていねいに絞る。針金を曲げてつくったようなハンガーにかける。それを、ラナイの手すりにかける。  ひと晩、サラサラしたハワイの風に当たれば、アロハは乾いて、着られるようになる。  僕は、アロハを干しながら、ホノルルの街をながめていた。  ホテルの白い建物が、夕陽の色に染まりはじめている。  すぐ前のワイキキ・ビーチ。日光浴をしている人たちの影が、かなり長くなってきた。  海を渡ってくる風も、少しひんやりとしてきた。  アロハを干しながら、マギーの店にいってみようと思った。夕食の約束までには、かなり時間がある。ちょうどいい。僕は、アロハを干し終わると、ショートパンツ、ゴムゾウリのスタイルで部屋を出た。ホノルルの街に歩き出した。       □  街は、そろそろ夜に向けての準備に入っていた。  ビーチ帰りの人たちは、丸めた中国ゴザをかかえ、ちょっと疲れた足どりで自分たちのホテルに向かう。シャワーを浴び、着がえた観光客たちも、ちらほらといた。男はパリッとした新品のアロハ。女は同じ柄のムームーを着て、夕食前の一杯を飲みに、ゆっくりと歩いていく。  そんなホノルルの街角を歩きながら、僕は思い返していた。マギーの店にいくようになって、もう5年にはなるだろう。       □  マギーの店は、古着屋だった。  アンティックのアロハが専門だ。同じ古着屋でも、〈ベイリーズ〉のように女物のドレスやアクセサリーを置いてある店もある。けれど、マギーの店〈パイナップル・カンパニー〉は、アロハ・シャツしか置いてなかった。  はじめて僕がいったのは、約5年前。CFのロケでホノルルにきていた時だ。クヒオ|通り《アベニユー》の裏通りを歩いていて、偶然に見つけた。ごく普通の一軒家にちょっと手を加えた店だった。〈アンティック・アロハ パイナップル・カンパニー〉と描かれた木の看板が風に揺れていた。通りに面した出窓の中に1枚のアンティック・アロハが飾ってあった。  僕は階段を3、4段上り、木のドアを押して店に入った。まだオープンしてすぐらしく、ダンボール箱がすみに積んであった。ずらっと並んでいるハンガーの、半分にしかアロハがかかっていない。そして、簡単なレジのとなりで、金髪の女性がアロハを修理していた。彼女は僕に、ニコリと微笑《わら》いかけ、 「まだ、商品を全部出していないんだけど、自由に見て」  と言った。積まれているダンボール箱を眼でさして見せた。 「オープンしたばかり?」 「そうなの。ハワイのほかの島やカリフォルニアから、アンティックを集めてきたんだけど、まだ整理もできなくて、修理も……」  と彼女。手にしている破れたアロハをながめた。  彼女はマギーと名のり、僕も自分の名前を言った。握手をした。マギーは、20代の半ばだろうか。ちょっとブラウンがかった金髪。薄いブルーの瞳《ひとみ》。アンティック・アロハを着て、ショートパンツをはいていた。  彼女は、ハワイ生まれハワイ育ちだと言った。よくビーチにいくらしく、きれいに陽灼《ひや》けしていた。フランスパン色の長い脚に、Kスイスのテニスシューズがよく似合っていた。  その日、僕は2枚のアンティック・アロハを買って帰った。  以来、マギーの店にはよく顔を出すようになった。ホノルルにくると必ずいく。長く滞在するときは、週に1回はのぞいてみた。彼女はいつも、針と糸で、アンティック・アロハを修理していた。アロハに合った色の糸で、ていねいにていねいに、シャツのほころびをつくろっていた。  マギーに恋人ができたことに気づいたのは、2年ぐらい前だった。  夕方。ぼくが店にいると、男が入ってきた。年齢は20代の後半。白人。きちっとした身なりをしていた。マギーと短くキスをかわす。奥の部屋に入っていった。 「恋人?」  ときく僕に、マギーは微笑《ほほえ》み、うなずいた。  彼の名前はエリック。ロス・アンゼルスに本社があるレンタカー会社の社員で、ハワイに転勤になったのだと言った。  エリックは、会社が終わる夕方になると、マギーの店にやってきた。きさくな男で、僕らは何回か一緒にレストランにいったりした。       □  あい変わらず、マギーはアロハの修理をしていた。僕が店に入っていくと、頭を上げ、ニコリと白い歯を見せた。 「ひさしぶり」 「日本での仕事が忙しかったんだ」  僕は言った。ハンガーにかかっているアロハを、ゆっくりと見はじめた。       □ 「エリックは?」  僕はきいた。そろそろ、仕事を終えたエリックがやってくる時間だった。 「こないの」  マギーは言った。手を動かしながら、ぽつりぽつりと話しはじめた。エリックと仲たがいしたこと。ちょっとした仲たがい、がこじれて、決定的な別れになってしまったこと。  そして、エリックはロスに帰ったということ。マギーはゆっくりと話してくれた。 「アロハを修理するのには慣れてるけど、男と女の仲を修理するのはヘタだったのよね」  とマギー。カラリと言った。 「でも、とにかく、お店はがんばるわ」  僕は、うなずいた。  店のラジオから、きき慣れた曲が流れていた。〈Honolulu《ホノルル》 Citylights《シテイライツ》〉。ハワイのローカル・ヒットだ。この美しい街から、立ち去るのは難しい……。男のコーラスが、ちょっと皮肉な内容の詞を唄《うた》っていた。  僕は、アロハを1枚買うとマギーの店を出た。ゆっくりと歩く。カラッと乾いた風が、クヒオ|通り《アベニユー》を渡っていく。ホノルルの街に、たそがれが迫っていた。 [#改ページ]   若いビールにはかなわない  その11月、僕はまたハワイにいた。コマーシャルの撮影のためだ。  たそがれ近いカピオラニ通りを走っていた。       □ 「いいシャツが見つかって、よかったわね」  現地コーディネーターのクリスが言った。 「ああ」  僕は微笑《わら》いながら言った。  クリスが運転するHONDA《ホンダ》は、カピオラニ|通り《ブルヴアード》を東へ走っていた。  撮影がはじまって2日目だった。  スタイリストが日本から持ってきた男性モデル用のアロハ・シャツが、いまひとつ、CFコンテのイメージに合っていない。  僕はどうしても、自分のイメージに合ったアロハをモデルに着せて撮りたかった。  撮影を一時中止。その午後、僕は1枚のアロハを捜してホノルル中を走り回ることになった。  クルマを運転してサポートしてくれたのは、クリス。現地スタッフのひとり。なじみの仕事仲間だ。  彼女は20代の終わり頃。ホノルル生まれの白人だ。  少し麦わら色がかった金髪を、後ろに束ねて、青いバンダナを結んでいた。その年齢の白人にしては、肌はピンとはっていた。  左の耳だけに、ふたつ、ピアスの穴を開けていた。小さめのダイヤがふたつ、ハワイの陽《ひ》ざしに光っていた。  よく灼《や》けた肌に、白いタンクトップ、薄いピンクのショートパンツ。エイヴィアのテニスシューズでHONDAのアクセルをふんでいた。       □  昼から約5時間。僕らは、ホノルル中の店を走り回った。  そして、夕方近く、やっと気に入ったシャツを見つけることができた。アンティックではない。けれど、渋く美しい色調のアロハ・シャツだった。 「じゃ、とりあえず乾杯しよう」  僕は言った。ノドが乾いていた。クリスもうなずく。ステアリングを左に切った。       □  クリスは、Sホテルのパーキングにクルマを入れた。  僕らはホテル1階のロビーを通り抜けていく。海に面したガーデン・バーに歩いていく。  ガーデン・バーは、プールサイドの端にあった。すぐ前の砂浜からも入れるようになっている屋外のバーだ。  丸いカウンター。テーブル席も10個ぐらい。  夕方の一杯を飲む客たちが、パラパラと坐っていた。  僕らは、並んでカウンターに坐った。 「よお、クリス」  と初老のバーテンダー。笑顔を彼女に向けた。クリスとは、かなり親しいらしかった。 「とにかくビール」  僕は言った。クリスは、うなずく。  カウンターの中のバーテンダーに向かって、 「ねえ、ダグ、今日は何ビールがおいしいの?」  と、きいた。バーテンダーは、ビール類の入っているクーラーを開ける。のぞき込む。しばらくビールのビンを調べて、 「入ったばかりのクアーズがあるね」  と、クリスに言った。クリスは、 「じゃ、それを2本」  と言った。バーテンダーは、うなずく。僕らの前に、クアーズのビンとグラスを置いた。  僕は、自分でクアーズを注ぎながら、胸の中でうなずいていた。  いま、クリスがバーテンダーにきいたことの意味がよくわかる。  簡単に言うと、こうだ。ビールの味を決めるのは、とにかく新鮮さなのだ。製造されてから何日たっているかが味を決める。  ハワイのオリジナル・ビールとされているプリモだって、実はカリフォルニアでつくられているのだ。あとは鮮度だけだ。バドワイザーでも、ミラーでも、サッポロでも、とにかく、新しいビールがおいしいビールなのだ。 「じゃ、あのアロハ・シャツに乾杯」  僕とクリスは、軽くグラスを合わせた。 「それと、第二の独身生活に」  僕は、つけ加えた。クリスが先月離婚したことを、僕は本人の口からきいたばかりだ。クルマを運転しながら、明るい口調で彼女は話してくれた。  やはり同じ撮影関係の仕事をしていた夫に、19歳の恋人ができた。子どもはいなかった。離婚は簡単だった。そして、クリスはまた、仕事に完全に復帰した。  海風が涼しくなってきはじめていた。僕らはのんびりとビールを飲んでいた。グラスのクアーズをながめて、クリスがふと、 「やっぱり、新鮮なものにはかなわないわねェ……」  と、つぶやいた。かすかに苦笑いを浮かべた。耳のダイヤが、たそがれの陽《ひ》ざしに淡く光った。 [#改ページ]   64歳  バーには、古いジューク・ボックスがあった。  アンティックと呼べるほど、風格のあるものではない。  けれど、ジューク・ボックスを置いてあるバーは、ホノルルの街でも少ない。  好きな曲を聴きながら、たそがれの一杯を飲むのが、僕は好きだ。  滞在しているホテルから近いこともあって、僕はよくその店にいった。  その日の撮影《ロケ》が終わった日没の頃、ぶらりと1人で飲みにいった。  古いジューク・ボックスには、やはり、お似合いの古い曲が入っていた。  60年代、70年代の曲が多かった。まだ僕が10代だった頃の曲……。  少しくたびれたスピーカーから流れてくるそんな思い出のフレーズに耳をかたむけながら、グラスを口に運ぶのは、悪くなかった。  その老人と出会ったのも、そのバーだった。       □  金曜日だったせいもあって、バーはかなり混んでいた。  5つあるテーブルも満席。カウンターのスツールは、僕のとなりの1つしか空《あ》いていなかった。  その老人が入ってきたのは、そんな時だった。  白人。60代だろう。太りぎみの体をアロハ・シャツに包んでいた。  アロハの柄からして、地元の人間ではない。ごく普通の観光客だろう。  老人は、僕のとなりに歩いてきた。スツールを指さすと、 「空いているかい?」  と言った。僕はうなずく。そのスツールに置いてあった自分のトレーナーをどけた。 「ありがとう」  老人は僕に微笑《わら》いかける。どっしりとした体を、スツールにのせた。バーテンダーに、COORS《クアーズ》を注文した。  やがて出てきたCOORSを、グイとひと息。グラスの半分ぐらいが空になる。  老人は席を立つ。ジューク・ボックスに歩いていく。  |25セント玉《クオーター》を入れる。スイッチを押す。  流れはじめたのは、ビートルズの曲だった。  席に戻ってきた老人は、僕の表情を見ると、 「何か不思議かい?」  と、きいた。 「その年齢《とし》でビートルズとは……」  微笑《わら》いながら言いかけた僕に、 「特にビートルズが好きというわけじゃないんだ。あの曲名が気に入っててね」  老人は、微笑い返しながら言った。 「そうか……」  曲は〈ウェン・アイム・シクスティー・フォー〉だった。 「もしかして、あなた自身が64歳?」  ときく僕に、老人は、うなずく。 「そう……私も妻《ワイフ》もね」  と言った。 「奥さんも? ということは、学生時代に知り合ったとか?」  老人は、うなずく。 「アラバマ州の小さな町の小さな高校でね」 「そのまま、結婚?」 「私が大学を卒業して、会社に勤めてからだがね」  と老人。大手の食品会社の名前を言った。 「じゃ……いまは、会社をリタイアして、優雅にハワイ旅行?」  老人は、軽くうなずくと、 「新婚旅行《ハネムーン》が、このハワイだったんだ」  と言った。 「それ以来、毎年、いまの時期になると、ハワイにやってくるわけさ」  と言った。  僕は、うなずく。 「奥さんには、ひと目|惚《ぼ》れ?」  と、きいた。老人は半分苦笑い。ゆっくりと、うなずきながら、 「ギンガム・チェックのワンピースが似合う、かわいい少女だった……」  と、つぶやいた。 「あなたは?」 「ニキビだらけのフットボール選手だった」  と老人。白い歯を見せると、 「よく2人でバスケットを持ってピクニックにいったもんだった……」  と、つぶやいた。遠くを見た。 「で? その奥さんは、いま?」 「ああ、ちょっとカゼぎみで部屋にいるよ」  と老人。話題を変えると、 「ところで、君は観光に?」 「いや。広告写真の撮影にきていて……」  と僕は話しはじめた。たそがれの陽《ひ》が、グラスのふちに光っていた。       □  翌日も、老人は1人でバーにやってきた。  僕のとなりに坐ると、とりとめのない話をした。  翌々日も、同じだった。  さらにつぎの日。カラカウア|通り《アベニユー》で老人を見かけた。1人で、少し淋《さび》しそうに歩いていた。  僕は、ふと思った。老人の妻は、もう、いないのではないか。妻と毎年きていたハワイに、思い出を求めて老人はやってきたのではないか……。  1人で歩いている老人の姿をクルマの窓から見て、僕は思った。  2日後。撮影は、タレントのつごうで|休み《オフ》。  遅い午後。僕は、部屋のベランダでパパイヤを食べていた。  ホテルのとなりに広がっている公園。その芝生で、老夫婦がピクニックをしているのが見えた。  あの老人だった。やはり太りぎみの妻と並んで、陽ざしを浴びていた。  僕は望遠のズーム・レンズをカメラに装着して、見た。  老人は、あい変わらずビール。妻は、白ワインを飲んでいた。プラスチックのコップのビールと白ワインに、昼下がりの陽ざしが揺れていた。  いつか僕が64歳になったとき……。  あんなふうに、陽ざしの中でおだやかに微笑《わら》っていられるのだろうか。  そんなことを思いながら、僕はレンズをズーム・バック。芝生をめいっぱい広くフレームに入れて、シャッターを切った。 [#改ページ]   恋とは何か君は知らない  風が吹いた。  プールサイドを、たそがれの風が渡ってきた。風は、ココナツ・オイルの匂《にお》いと、ピアノの音を僕のところに運んできた。  ピアノは、エレクトリック・ピアノだった。といっても、安っぽい音ではない。かなりタイトで重みのある音だった。  軽くジャズのワン・フレーズを演《や》った。ビル・エバンス風のフレーズ。その切れっぱしを、サラリと弾いた。  デッキチェアーに寝っ転がっていた僕は、思わず体を起こした。       □  タイ。プーケット島。  リゾート客のための島だ。その島にいくつかあるホテルの1つに、僕は滞在していた。  かなりグレードの高いホテルなんだろう。日本人のパックツアー客は、いなかった。僕以外の客は、すべて白人だった。  いまは、たそがれの5時。  ほとんどの白人客たちは、プールサイドから部屋に引き上げていた。  僕は、プールサイドのデッキチェアーにかけていた。たそがれていく空の色をながめていた。ピアノの音がきこえてきたのは、そのときだった。  僕は、音のした方を見た。僕のいるところからほんの15メートルぐらい先。低くて小さなステージがある。ステージには、ドラム・セット。ギター・アンプ。そして、エレクトリック・ピアノがあった。  もうしばらくすると、このプールサイドでディナー・タイムがはじまる。そのときに演奏するためのステージだった。  いまはまだ、客の姿はない。タイ人の従業員たちがテーブルをセッティングしている。ステージの上。中年の白人男が1人だけ、ピアノの前に坐《すわ》っていた。音質のチェックをしているらしかった。  男は、僕に気づいた。僕は彼に微笑《わら》いかけ、 「ワン・モア・フレイズ」  と言った。彼は、小さく肩をすくめた。さらに、ワン・コーラス弾いてくれた。  彼は、やがてピアノの前から立つ。音質チェックを終えたんだろう。ゆっくりと、僕の方にやってきた。 「ジャズが好きなのかい?」 「まあね。大学のとき、1年ほどジャズ・バンドにいたんだ」  と僕は言った。 「お礼に、ビールでも1杯、おごらせてくれないか?」  と言う僕に、彼は、うなずいた。  僕は、タイ人のウエイトレスを呼んだ。小柄でかわいいウエイトレスがやってきた。 「僕はバドワイザーにするけど?」  と僕は彼にきいた。 「私もバドワイザーがいい」  と彼。ウエイトレスは、優しく微笑《ほほえ》んでバーの方へ歩いていく。その後ろ姿を見送って、 「タイの女の子はみんなかわいい。けど、ビールはいまいちだな」  僕は、つぶやいた。ピアニストの彼も、 「同感だよ」  と白い歯を見せた。フィルという名前だと自己紹介をした。僕も名のる。軽く握手した。  やがて、よく冷えたバドワイザーが運ばれてきた。       □ 「キハラっていう日本人のジャズ・プレーヤーを知らないか?」  フィルが、きいた。何か、雑談をしている最中のことだった。急に思い出したように、フィルがきいてきたのだ。 「キハラ……」  僕は、つぶやいた。少なくとも、ジャズ・プレーヤーとしては、きき覚えがなかった。 「知らないなァ……」 「そうか……」 「で、そのキハラがどうかしたのかい?」  フィルは、ビールをグイと飲む。 「つい2、3年前、キハラはこのタイで演奏してたんだ」  と話しはじめた。 「彼は、キハラは、サックス・プレーヤーでね……」 「腕が良かった?」 「そりゃもう……」  とフィル。ちょっと遠くを見る表情。 「鋭いナイフみたいな切れ味のフレーズを吹くサックス・プレーヤーだったよ」 「ナイフか……」 「キハラは、その頃、イエロー・バードと呼ばれていたんだ」 「イエロー・バード?」 「そう……。つまり、東洋人のバードって意味さ」  とフィル。ニッと微笑《わら》った。そうか……。あの伝説のジャズ・プレーヤー、チャーリー・パーカーは確かバードと呼ばれていた。 「そして彼は若かった。いつか一線のプレーヤーになるだろうと、私たちはみんな思っていたよ。ところが……」 「ところが?」 「彼は、タイ人の娘と恋に落ちたんだ。黒くて大きな瞳《ひとみ》をしたかわいい娘だった」 「…………」 「そして……彼の演奏は、急に鋭さがなくなっていった」 「…………」 「鋭く、とがって、聴く者に鳥肌を立てさせるようなフレーズを、彼は吹かなくなった。吹けなくなったのかもしれない……」 「それで?」 「彼は、リゾート地のホテルやクラブによくいる、私たちみたいなごく平凡なプレーヤーになった……。自分でそう望んだのかもしれない。やがてそのタイ娘と結婚したらしい」 「いまは?」 「バンコクで見かけたという噂《うわさ》もきいたし、シンガポールのホテルで演奏してたという噂もきいたが……いまは、わからない……」  とフィル。暮れていく水平線を見つめて、 「いまも、ふと思うんだ。あのタイ娘と出会ったことが、彼、キハラにとって幸福だったのかどうかってね……」  僕は、軽いため息をついた。冷たいビールを、かみしめるように飲んだ。 「それは、神様にもわからないんだろうな、きっと……」  と、つぶやいた。       □  僕は、足を止めふり向いた。プールサイドでフィルたちの演奏がはじまった。ごく軽い調子で〈You Don't Know What Love Is〉を弾きはじめた。〈恋とは何か君は知らない〉。  この〈君〉とは、フィルであり、僕であり、すべての男なのかもしれないと思った。僕は、自分の部屋に向かって、ゆっくりと歩きはじめた。 [#改ページ]   貝殻《シエル》ジンジャーの花  引っ越しの手伝いをしてくれないか。  モデルのヒロコにそう頼まれたのは、確か土曜の午後。撮影地をヴァンで移動しているときだった。  ヴァンの窓の外。オアフ島の風景が流れ過ぎていた。       □  M化粧品の夏キャンペーン。そのためのハワイ・ロケだった。  モデルは、ヒロコ・スチュワート。日米のハーフだ。カウアイ島育ち。18歳でホノルルに出てきた。日系企業で秘書をやっているとき、スカウトされて、モデルの仕事をはじめたという。  いまは21歳。ハーフといっても、外見は、ほとんど白人だ。長くてまっすぐな脚。バニラ・アイスクリームのように白い肌。薄茶色の瞳《ひとみ》。  サラリと肩までたらした黒い髪と、同じ色の濃いまつ毛は、どうやら日系人の母親からもらったらしい。 「引っ越し?」  ときき返す僕に、 「一軒家から、ワイキキのコンドミニアムに引っ越すの」  ヒロコは言った。 「で、いつ?」 「あした」  明日は日曜日。現地スタッフ全員が|休み《オフ》。当然、ロケは無しだ。 「もしできれば手伝ってもらえると……」  ヒロコは、すまなそうな声で、僕に頼む。荷物はたいしてないんだけど、私の〈|かぶと虫《ビートル》〉じゃさすがに積めなくて。いま使っているこのヴァンなら積めそうなんで、もしできれば……。  話をすべてきき終わる前に、僕は、オーケーと答えていた。  撮影機材を積んでいるこのヴァンも、僕ら日本人スタッフも、明日は暇だ。そして何よりも、このロケが終わるまで、僕らとヒロコは同じチームの一員なのだから。       □  翌日。朝の10時。  僕とアシスタントのAは、ヒロコが借りている一軒家にヴァンを走らせた。  その家は、ホノルルの北側。U・H(ハワイ大学)の近くにあった。そして、僕が想像していたより、はるかに大きな家だった。  ハワイの一軒家としては、ごく庶民的な大きさだろう。けれど、女の子が1人で住むにしては、広い家だった。  その理由は、すぐにわかった。  彼女は、ひとり暮らしではなく、誰かと住んでいたらしい。  家の中は、きれいに整理されてカラッポだった。けれど、この家に住んでいたもう1人の誰かの存在感が、細かいホコリのように、空気の中に漂っていた。  僕らは、ヒロコの荷物をヴァンに積み込む。荷物は、30分たらずでヴァンにおさまってしまった。  アシスタントのAは、荷物がとちゅうでガタつかないように、荷物のすき間にクッションをつめはじめた。  僕とヒロコは、ガランとしたリビング・ルームから家の前庭をながめた。 「きれいな庭だな」  僕は言った。ちょっとした広さの庭だった。芝生は、きれいに刈り込まれ、手入れされている。そして、庭の周囲では〈|しょうが《ジンジヤー》〉の花が咲いていた。  ハワイの人たちにとって、ジンジャーは、ハイビスカスやプルメリアと同じように花を楽しむものなのだ。  まっ赤な花をつけている〈|赤しょうが《レツド・ジンジヤー》〉。スズランのように白い花がいくつもついているのは〈|貝殻しょうが《シエル・ジンジヤー》〉……。5、6種類のジンジャーが、庭に咲きほこっていた。どれも、よく手入れされているようだった。 「ジンジャーが好きなんだ……」  つぶやくように僕が言う。 「彼がね……好きだったの……」  ヒロコが、小声で答えた。しばらくの沈黙。 「……それにしても、よく手入れしてあるなァ」 「……彼が〈庭師《ガーデナー》〉だったから……」 「ガーデナーか……」  僕はつぶやいた。ハワイには、庭を大切にする金持ちが多い。ガーデナーはいい技術職だ。 「彼は、たくさん稼いだ?」  ヒロコは、うなずいた。 「でも……1年前、私がモデルとして売れ出すと、収入は逆転したけど……」 「……うまくいかなくなった原因は、そこ?……」  約10秒の沈黙。 「たぶんね……」  それ以上、立ち入ったことをきこうとは思わなかった。僕らは、最後に家の中を見て回った。  バス・ルームの窓ぎわ。貝殻の上に男物の安全カミソリがぽつんと置き忘れられていた。ヒロコは、それを手にとる。ゴミ箱に落とした。乾いた音がした。       □  僕はヴァンの運転席に。エンジンをかける。助手席のヒロコは、家をふり返る。庭に咲いているジンジャーを、じっと見つめている。  僕は、その横顔をながめた。これから彼女が暮らすのは、ドアマンつきの高級コンドミニアムだ。けれど、ジンジャーの花が咲く庭は、そこにはないのだ。 「出していいかい?」  ステアリングを握って、僕は、きいた。彼女は、何かをふっ切るようにうなずいた。きっぱり微笑《ほほえ》む。涙は見せなかった。  僕はセレクターをDレンジに。アクセルを踏み込む。家が、ミラーの中で遠ざかっていく……。 [#改ページ]   カラカウア・アベニューの通り雨  雨粒が、ひとつ、ふたつ、ショートパンツから出ている僕の足に当たった。陽《ひ》に灼《や》けた足に、雨粒の冷たさが気持ち良かった。  僕はレストランの出口で立ち止まる。空を見上げた。となりでパメラが、 「|通り雨《シヤワー》ね……」  と、つぶやいた。昼下がりのホノルル。カラカウア|通り《アベニユー》に、キラキラと光る天気雨《シヤワー》が降り注いでいた。  僕はまた、ハワイにきていた。CFの撮影《ロケ》だった。現地モデルを使い、泊まっているホテルのプールサイドで撮影する予定だった。  きょう、プロデューサーのJは、モデル・オーディションの打合わせにいっている。ディレクターの僕は、プールの撮影について打合わせをする必要があった。いつ、どんな角度からプールを撮影するのか、ホテル側と打合わせをすることになっていた。  ホテルのオーナーは、ミスター・ハワード。白人の資産家で、ハワイ銀行の役員でもあった。が、ホテルの実質的な切り回しは、夫人のパメラに任されていた。  パメラは、ハワイ育ちの白人だった。資産家の夫人らしく、上品で知的だった。けれど、いかにもハワイ育ちらしく昼間はいつも、ポロシャツにショートパンツで、ホテルの中を動き回っていた。  僕が撮影の打合わせにいくと、 「お昼を食べながら話をしましょう」  とパメラ。気さくに微笑《ほほえ》んだ。僕を、カラカウア|通り《アベニユー》の日本食レストランに連れていった。僕に気を使ったのではなく、ハワイ育ちの人はみな、日本食が好きなのだ。  僕らは、プリモ・ビアーを飲み、巻き《ロール》寿司を食べながら、撮影の打合わせをした。大きな問題点は何もなかった。  僕らがレストランを出ようとしたときだった。通り雨が降りはじめていたのだ。 「行こう。濡《ぬ》れて困るスタイルじゃないし」  僕は言った。僕もパメラも、ショートパンツにスニーカーだった。僕らは、ゆっくりと歩きはじめた。僕らと同じように、地元の人はみな、光る雨粒の中を平気で歩いていた。雨やどりしているのは、だいたい日本人観光客だった。それを見て、 「国民性なんだな」  僕は、苦笑まじりに言った。 「でも……ああいう日本人が、うらやましいと思ったこともあるわ」  とパメラ。微笑《ほほえ》みながら言った。 「うらやましい?」  ときき返す僕に、パメラはしばらく無言。僕と並んで歩く。やがて、ぽつりと、 「私が、まだ、ハワイ大学の1年生の頃だったわ……。恋をしたの……」と言った。 「恋?」 「そう。相手は、仕事も持ってないハワイアンのサーファーでね。好きだったけど、まだ子供だった私はそれを告白できなくて……。最後に会ったのは、カラカウアのハンバーガー屋だった。告白できないままハンバーガーを食べ終わって、店を出ようとしたら、いまみたいにシャワーが降ってきたの。でも、二人ともハワイ育ちだから、ごく自然に歩き出すしかなくて……。もしこれが日本人だったら、そこで雨やどりして……もしかしたら、その間に告白できたかもしれないなんて、ふと思ったこともあったわ……」 「……もし、告白できてたら?」 「さあ……。どうなってたか……」  とパメラ。淡く苦笑い。空を見上げた。  通り雨のように過ぎていった日のことを思い出しているのだろうか。僕には、わからない。昼下がりのカラカウア通り。ヤシの葉に、ホテルの白い建物に、天気雨は降りそそぐ。僕とパメラは、そのシャワーの中を、ホテルに向かってゆっくりと歩いていった。 [#改ページ]   そして彼女はカムバックした  その日。僕は、南カリフォルニアにいた。  ロス・アンゼルス。  ウエスト・ハリウッドにあるレストラン兼バーに、1人で入っていった。  たそがれの一杯を飲むためだ。  3日間にわたるオーディションで、少し疲れていた。  仕事は、新発売されるグレープフルーツ・ジュースのキャンペーンだった。  CM、ポスター、雑誌広告のための撮影《ロケ》だ。  少年少女から初老の男女まで、かなりな数のモデルが必要だった。  3日間で、たぶん500人近いモデルやタレントと会っただろう。  そのオーディションも、やっと終わった。僕が入ったのは、オーディション会場のプロダクションからすぐ近くにある店だった。  店には、けっこう客が入っていた。  空いている席はなさそうだった。ウエイターが、申し訳なさそうな顔をする。  そのときだった。  窓ぎわの席にいる中年の女性に、僕は気づいた。向こうも、ほとんど同時に僕に気づいた。  彼女は、オーディションの最後から2人目にやってきたタレントだった。 〈こっちへいらっしゃいよ〉そんな手ぶりを、彼女はした。4人がけのテーブルに1人で坐っていた。  僕は、そっちに歩いていった。 「いいかな? 同席して」 「もちろん」  彼女は、花が咲いたような笑顔を見せた。  僕は、彼女と向かい合って坐る。飲み物とフレンチ・フライを、ウエイターに注文した。  彼女は、ダイエット・ペプシを飲みながら、カニとアボカドのサラダを食べていた。 「オーディションは終わったの?」  と彼女。少し茶色がかった金髪に、たそがれの陽《ひ》ざしが光る。 「ああ。結果を出すのは、たぶん明日になると思うけど」  僕は言った。 「ところで、あなたはだいぶ以前に、ここハリウッドで女優をやっていたんだって?」  と僕はきいた。アメリカ人のキャスティング係が、そう言っていたのだ。  彼女は、うなずく。ちょっと苦笑いして、 「ずいぶん昔ね。10代の終わり頃よ」  と言った。 「ずっと女優の仕事をやめてたらしいけど、なぜか理由《わけ》があって?」 「まず理由その1。大スターになれそうにもなかったから」 「理由その2は?」 「お金持ちで素敵な相手にプロポーズされたから」 「それをうけたわけだ」  彼女は、アボカドを突つきながらうなずく。 「結婚して、ずっとニューヨークで暮らしてたわ」 「それが……こうやって仕事にカムバックした理由《わけ》は、きいていいかな?」 「たいした理由はないわ。単純よ。離婚して、ロスに帰ってきたの。はじめのうち、彼からの慰謝料で暮らしていこうと思ってたし、そうしてたんだけど……」 「けど?」  彼女は、無言。しばらく窓の外をながめていた。 「また仕事をはじめるきっかけになったのは、あのクルマなの」  彼女は、つぶやくように言った。 「あのクルマ?」  僕は、彼女の視線を追って窓の外を見た。  店の前の道路に、1台のクルマが駐《と》まっていた。ピンクのオールド・カー。50年代か60年代のクルマだろう。  古い。けれど、きれいに手入れされていた。 「あのクルマ……私が19歳のときに新車で買ったものなの」  と彼女。ぽつりぽつりと話しつづける。 「しばらくして彼のプロポーズをうけて、女優をやめて、有頂天でニューヨークにいったわ」 「あのクルマは?」 「もちろん、売り飛ばしていったわ」  と彼女。カニの身をつまんでつぶやいた。 「離婚してロスに帰ってきても、あのクルマのことはすっかり忘れてて……」 「…………」 「……ちょうど1年ぐらい前だったわ。ラ・シェネガBLVD《ブルヴアード》を歩いてて、あのクルマに再会したの」 「ラ・シェネガ?」  彼女は、うなずく。 「中古車屋に並んでたの」 「中古車屋か……」 「でも、これがあのクルマ? と思うほど、よく手入れされていたわ」 「本当に、あなたが持ってたのと同じクルマ?」 「私が驚いて、あちこち見たわ。でも、まちがいなかった。シートのすみにつけた煙草のコゲあととか、スピード・メーターのガラスについている小さな傷とかね……」 「……感激した?」 「まず驚いて……それから、胸が熱くなったわ……」 「…………」 「私がのうのうと結婚生活を送って、離婚して、ボサーッとしたままオバサンになっていこうとしているのに、このクルマはその間もずっと走りつづけていたんだなあって……」 「…………」 「もちろん、その間のオーナーの手入れが良かったせいもあるだろうけど、ピカピカでがんばってるクルマを見たら、やはり胸が熱くなって……」 「…………」 「私もこうしちゃいられないと思ったわ」  と彼女。そのクルマをすぐさま買い戻すと、タレント・エージェンシーに連絡をとったと言った。そして、仕事にカムバックしたということらしい。  やがて食事を終えると、彼女は僕と握手。背筋をのばして店を出ていった。駐《と》めてあるクルマに乗り込む。エンジンをかける。  よく磨き込まれたバンパーが、南カリフォルニアの夕陽《ゆうひ》に光った。 [#改ページ]   ジェット・ストリーム 「あれ?」  先に気づいたのは、僕の方だった。  彼女は、足をとめる。2、3秒、僕を見て、 「ああ……」  と言った。  ホノルル。午後4時。Sホテルのロビー。 「あのときは、失礼しちゃって」  と彼女。 「いや。気にしなくていいさ」  僕は言った。あのときとは、約10時間前。高度1万メートルでの出来事だ。       □  僕は、ホノルル行きジャンボ・ジェットの通路側《アイル》シートに坐っていた。広告の撮影《ロケ》のためだった。  アメリカの航空会社だった。そして、彼女はその便のスチュワーデスだった。顔かたちは、日米のハーフかクォーター。胸のネーム・プレートには〈Mayumi《マユミ・》 Johnson《ジヨンソン》〉と刻まれていた。  20代の半ばだろう。ショート・カット。長身。日本語も完璧《かんぺき》に話せた。  日本からハワイに飛ぶ約6時間。その終わり頃だった。  僕の後ろのシートの日本人客が、彼女にオレンジ・ジュースを頼んだ。コップに入れたジュースを|お盆《トレイ》にのせて、彼女は運んでくる。まちがえて、僕にジュースを渡そうとした。 「僕じゃないよ」  と言った。  彼女はトレイを持って、一瞬、見回した。  そのときだった。トレイが、僕の前のシートにぶつかった。ジュースのコップが、僕のヒザに落ちてきた。下半身にかけていた航空会社のブランケットに、ジュースが飛び散った。  が、ブランケットの上だ。僕のジーンズもスニーカーも、濡《ぬ》れなかった。       □ 「でも、本当にごめんなさい」  と彼女。きれいな日本語で言った。 「本当に気にしなくていいさ」  僕は、苦笑まじりにくり返した。 「でも、ユニフォームじゃないから、一瞬、わからなかった」  と彼女に言った。彼女はオフ・ホワイトのニットを着ていた。 「あなたは、そのアロハでわかったわ」  と彼女。  確かに、僕は飛行機の中と同じアロハを着ていた。古着《アンテイツク》だが、派手な色調のものだ。 「このホテルに泊まってるの?」  と彼女にきいた。彼女は、うなずく。 「ここが、うちの乗務員《クルー》の常宿なの」 「偶然だね。僕らも、今回はここなんだ」  僕は言った。 「|撮 影 隊《シユーテイング・クルー》の方でしょ?」 「どうしてわかる?」 「それは、職業的なカンよ」  と彼女。微笑《わら》いながら、 「それに、あなたのシートの下に、プロ用のカメラ・ケースがあったわ」  と言った。 「そうか……ところで、今夜の夕食でも、どう?」  軽い気持ちで、僕は言った。 「ほかのスタッフの人達は?」 「連中、ケアモク|通り《ストリート》の焼き肉屋にいくっていうんだけど、僕は焼き肉があまり好きじゃなくて」  と僕は言った。彼女は、白い歯を見せて笑った。       □  ホノルルの西。ケワロ湾《ベースン》に面したシーフード・レストラン〈ジョン・ドミノス〉。  僕と彼女は、窓ぎわのテーブルについていた。窓の外には、帰港してくるトローリング・ボートが見えた。 「ひとつききたいんだけど、君、眼が悪いんじゃない?」  僕はきいた。 「なぜ、わかったの?」 「職業的なカンさ」  僕は、白い歯を見せた。  彼女は、僕にジュースをこぼす前にも、客の顔をまちがえていた。 「飛行機の中って、乾燥してるでしょう。だから、コンタクト・レンズをつけっぱなしにできないの」  と彼女。 「コンタクトつけててもかなり近眼なのに、機内食のサーヴィスが終わったら、はずしちゃうから、お客の顔は、よくまちがえるわ」  彼女は、苦笑い。 「勉強のやり過ぎ?」  生|牡蠣《かき》を1個つまみながら、僕はきいた。 「大学生の頃、ひとの分までタイプを打ったのがいけなかったみたい」 「ひとの分?……恋人《ステデイ》?」  彼女も牡蠣をつまみながらうなずいた。 「U・C・L・Aの学生だった頃の話」  と彼女。カラリと言った。そんな風に言えるほど、遠く過ぎた恋らしい。 「私はスチュワーデスになる夢。彼は作家になる夢を持っていたわ」 「作家?」 「そう。彼がノートに鉛筆で書いた細かい字を、私がタイプして、出版社に送ってたわ」 と彼女。 「その細かい字を読んでいるうちに、もともとの近眼がひどくなっちゃったみたい」  と、軽く苦笑い。 「で、彼は作家になれた?」 「さあ……どうなったか……」  彼女は、つぶやいた。もうカラになった牡蠣を、まちがえてフォークで突ついた。 「近眼って、嫌ね」  彼女はまた、少しホロ苦く微笑《わら》った。 「……でも……あまりはっきり見えちゃわない方がいい事って、世の中にけっこう多いのよ」  彼女は言った。僕は、ゆっくりとうなずいた。       □  翌日。夕方の5時。  ロケから戻った僕は、ホテルのベランダに出た。たそがれていく海と空をながめた。  空港の方から、1機、離陸していくのが見えた。腕時計を見る。彼女が乗務しているロス行きかもしれなかった。  きのう。別れぎわ。彼女とかわした短いキスを、僕はふと思い出していた。眼を細める。  はるか上空のジェット・ストリーム(偏西風)めざして高度を上げていくジャンボ・ジェットを見つめた。  彼女が窓から望むたそがれのホノルルの灯は、やはり、少し、かすんで見えるのだろうか……。 [#改ページ]   夏雲とロケット  夏雲が好きだ。青い空をゆっくりと動いていく白い雲を、眼を細め、ながめているのが好きだ。そして、僕の個人的な記憶の中で、夏雲はなぜかロケットや宇宙衛星と結びついている。不思議なことに……。  まだ半ズボンの少年だった夏。僕は、近所の野原にいた。その頃、都会にもまだ原っぱというものがあった。そこは、僕ら子供の解放区だった。  僕らは、草野球にあきると、よくロケット遊びをした。鉛筆のキャップを使ったロケット遊びだ。危険だということで学校からは禁止されていたけれど、僕らはまるで平気だった。鉛筆のアルミ・キャップに切ったセルロイドや火薬などをつめ、火をつける。シュッという鋭い音。白煙を引いて、小さなロケットは夏雲に向かって飛んでいった。子供だった僕らにとって、ロケットはただの夢だった。       □  20歳だった夏。僕は、伊豆七島の|式根島《しきねじま》にいた。  大学の同級生たちとロック・バンドを組んでいた。僕はドラムスだった。一年中、指にタコをつくっていた。その夏はバンドのバイトで式根島にいた。屋外のビアホールのような店で演奏するバイトだ。演奏は夜だけで、昼間は自由だった。  よく、島で知り合った女の子たちのグループと遊んだ。昼間は4対4でにぎやかに遊び、いつしか2人ずつに分かれて夜ふけの砂浜に出ていく。そんな夏がピークをむかえた頃だった。  その午後も、僕らはビーチにいた。2日前に知り合った女の子のグループとビーチで灼《や》いていた。サンオイルを塗りながら、ラジオを聴いていた。ラジオはいつもFEN、つまり米軍の放送局にチューニングしてあった。  いつもは音楽を流しているFENが、珍しく音楽を流さない。何かの中継のようなものをえんえんと流している。英語の話せる仲間の1人が〈アポロ11号が、月面に着陸したんだ〉と言った。どうやら宇宙船が月面着陸を成功させ、はじめて人間が月面に立ったらしい。僕らは、不思議な気分で夏雲をながめた。白い雲の彼方を、ぼんやりながめた。まぶしいビーチに、早口のアナウンスが響いていた。その夜、海に蒼《あお》い夜光虫が光った。すでに秋が近づいていた。       □  撮影《ロケ》でハワイにいた。2月だったけれど、オアフ島の空には、あい変わらず夏雲が動いていた。僕はもう、小説の新人賞を受賞していた。数冊の本を世の中に送り出していた。  その日。僕は撮影スタッフとホノルルのダウンタウンにいた。  ダウンタウンの通りに、人だかりができていた。新聞の号外が出ているらしかった。スタッフの1人が号外を手に戻ってきた。スペースシャトル・チャレンジャー爆発の見出しが眼に飛び込んできた。日系人飛行士オニヅカはハワイ出身だった。  その夜は、花火のような爆発の瞬間をくり返しテレビでやっていた。  翌日、きれいに晴れたオアフ島の空に、半旗になった星条旗がひるがえっていた。僕は、L《ライオネル》・リッチーのバラードをカーラジオで聴きながら、それをじっとながめていた。       □  鉛筆キャップのロケットから、アポロ宇宙船、そしてスペースシャトルへと時代は変わるけれど、夏雲の白さは変わらないなどと、ふと思っている。 [#改ページ]   オンリー・イエスタデイ  助走なし。ゆっくりと、頭からプールに飛び込む。  ジュッ。  一日中|陽《ひ》ざしに焼かれた体が、そんな音をたてたような気分だった。  僕は、水面に顔を出す。フーッと大きく息を吐いた。仰向けに浮かぶ。頭上で、ヤシの葉が揺れている。       □  インド洋の西端。セイシェル諸島。  その島々の中でも、おそらく最大のホテルに、僕は泊まっていた。  前半の10日間は、広告のロケ。新発売される水着の雑誌広告とポスターだ。4人のモデルと25着の水着。このホテルのあるマヘ島と、ほかの島々で、約150本のフィルムを使った。  ロケ隊のスタッフが日本に帰り、僕はひとり、セイシェルに残った。半分は休息。半分は、小説の取材のためだ。  広告の仕事をしながら、僕はときどき小説を雑誌に載せていた。ほとんどが、エッセイに近い短編小説だった。  が、このセイシェルを舞台に、何か長編が書けそうな気がしていた。一見、平和で美しいこの共和国にも、かなり複雑な国情があるのだ。  イギリスやフランスの統治から独立して、まだ日は浅い。おまけに、赤道のほぼ真下にある。軍事上、重要な位置らしく、港にはヨーロッパ各国の巡洋艦が停泊している。島の中心には、アメリカの衛星追跡ステーションもある。  南洋の美しい島を舞台にした冒険と恋のストーリー。悪くない。  プールに浮かんで、僕はそんなことを思い描いていた。そのときだった。 「きょうの仕事は終わり?」  と明るい声がした。  首を曲げる。歩いてくるシルヴィーが見えた。あい変わらず、背筋をピンと伸ばして歩いてくる。  薄いシルクの半袖《はんそで》ブラウス。タイト・スカート。少し茶色《ブラウン》がかった金髪は、後ろできちっと束ねてある。       □  シルヴィーは、確か26歳。だが、その若さで、ホテルのガーデン・レストランのマネージャーをやっていた。  この南洋のホテルでは、メイン・ダイニングは、ガーデン・レストランになっている。  1階のテラスが、そのままプールサイドにつづいている。テーブル席の一部が、プールのすぐそばまでセットされている。  客たちは、空の星と、青い灯の入ったプールをながめてディナー・タイムを過ごすのだ。  いまは夕方の4時半。プールサイドに客はいない。従業員が、テーブルにフォークやナイフのセッティングをはじめていた。 「これでも仕事中なんだ」  プールのへりにつかまって、僕はシルヴィーに言った。 「頭の中で、脳細胞がワープロのキーを叩《たた》いてるのさ」  と言いながら、プールから上がった。シルヴィーは僕の耳もとで、 「キーを叩く音が、きこえないけど」  と言った。まっ白い歯が夕陽《ゆうひ》に光った。  シルヴィーは、ロケ隊がいた頃から、僕らに親切にしてくれた。ロケ隊が帰ってからは、さらに親切にしてくれた。彼女の仕事が休みの3日前は、2人だけで島のはずれのビーチに泳ぎにいったりもした。  僕は、タオルで濡《ぬ》れた髪を拭《ふ》きはじめる。  シルヴィーのところへ、若い男の従業員がやってきた。 「あの、今夜のリザーヴ客のリストです」  と、ファイルをシルヴィーに見せる。シルヴィーはマネージャーの顔に戻る。リストをチェックしていく。ふと、 「ヘルマン・ベッケンバウアー?……」  と、つぶやいた。 「ええ、Mr.アンド Mrs.ベッケンバウアー。フランクフルトからのお客様です。ハネムーンなので、特にいい席をとのことです」  と従業員。シルヴィーは、5秒、そのリストを見つめる。やがて、 「わかったわ」  と、リストを従業員に返した。       □ 「知り合いなんだね」  僕は、デッキチェアーに坐《すわ》ってきいた。 「ええ……たぶん、まちがいないわ」  とシルヴィー。僕のとなりに坐った。しばらくの沈黙。やがて、ぽつりと話しはじめた。 「……もう8年も前のことよ。この島にシルヴィーというフランス人の女の子と、ヘルマンというドイツ人の少年が住んでいたわ」 「恋人だった?」 「……ただのボーイフレンドね……」  とシルヴィー。遠くを見る瞳《ひとみ》。 「高校を卒業すると、私はマネージメントの勉強のために母国のフランスに渡り、彼の一家はドイツのフランクフルトに戻っていったわ……」 「それっきり?」 「……手紙が3通……」  とシルヴィー。ぽつりと、つぶやく。やがて、パッと明るい顔に戻る。 「とにかく、|過ぎたことよ《オンリー・イエスタデイ》」  と言った。立ち上がる。 「じゃ、仕事に戻るわ」  とシルヴィー。テキパキと従業員に指示しはじめる。 「Mr.アンドMrs.ベッケンバウアーには、その一番いい席を」  という声が、風に乗ってきこえた。僕は、眼を細めてプールをながめる。きょう最後の陽《ひ》ざしが、青い水面に揺れていた。 [#改ページ]   初秋ならハーフ&ハーフ  その秋、僕はニューヨークにいた。  モデル・オーディションのためだ。CFに使うモデルを決める。そのためのオーディションだった。  本番の撮影は、たぶん、陽《ひ》ざしの明るいハワイかロスになる予定だった。  けれど、女性モデルは、一流中の一流を使いたかった。そうなると、どうしてもニューヨークでオーディションする必要がある。  そのために、CFディレクターの僕ひとりで、モデル選びのために日本から飛んできたのだ。       □  モデル・オーディションは、3日間にわたって続けられた。  僕は、コーディネーション会社のオーディション・ルームに朝の10時から夕方までいた。  パーク・アベニューの57丁目にあるビルの18階。ガランとしたダンス・スタジオのような部屋だ。  簡単なテーブル。イス。電話やメモ用紙。それに冷蔵庫も置いてあった。オーディオからは、S《サリナ》・ジョーンズの曲が低いボリュームで流れていた。  広い窓からは、セントラル・パークが見渡せた。公園の樹々は、もう深い秋の色をしていた。  僕の手伝いをしてくれる女性は、サリーといった。  20代の前半だろう。白人と黒人のハーフらしかった。  映画〈フラッシュ・ダンス〉のジェニファ・ビールスに、どことなく似ていた。  オーディションの合い間の雑談で、彼女がいまニューヨーク大学の大学院にいっていることを僕は知った。  コーディネーターの仕事はアルバイトで、将来は作家か脚本家になりたいと言った。  それはともかく、サリーはよく働いてくれた。  つぎつぎと、一流のモデル・エージェンシーからやってくるモデルたち。  それぞれのポラロイド写真を撮る。  選ぶときにまちがえないように、ポラの余白にモデルのオーディション番号を書く。  モデルたちの身長、体のサイズを本人から確認していく。  サリーがそうしてモデルとやりとりをしている間に、僕はモデルをながめて、リストに〇×△などをつけていく。  そんな作業を、3日間続けていた。  3日目の昼休み。 「ランチはレストランにいかないで、テイク・アウトですまさないか」  と僕はサリーに言った。2日半のオーディションで少し疲れていた。 「レストランの混雑が、わずらわしいんだ」  と僕は言った。サリーは、微笑《わら》いながらうなずいた。  僕らは、ビルから出る。  近くのデリにぶらぶらと歩いていった。  デリで、マスタードをきかせた七面鳥《ターキー》のサンドイッチを買った。また、ぶらぶらと戻っていく。僕らの足もとに、枯葉が風に吹かれて飛んできた。セントラル・パークからやってきた枯葉なんだろう。  しかし、秋にしては陽ざしは明るく暖かかった。  僕らは雑談をしながら、オーディション・ルームに戻った。  サリーは、グラスをふたつ、テーブルに出す。冷蔵庫を開けた。 「ビールはどう?」 「いいね」  僕は答えた。このところ、レストランの昼食ではワインだった。が、この暖かい陽ざしにはビールも悪くないと思った。  サリーは、普通のビールと黒ビールをとり出した。それを半分ずつ、グラスに注いだ。 「私と同じで、ハーフ&ハーフよ」  微笑いながら言った。  黒ビールと普通のビールのハーフ&ハーフ。僕も日本で飲んだことがある。確かに、真夏より、秋に似合う。  僕らは、ハーフ&ハーフのグラスで軽く乾杯。口に運ぶ。  黒ビールの持つ、独特の麦の香り。普通のビールの透明な味。そのふたつが、うまくミックスされて、ノドを滑り落ちていく。  ハーフ&ハーフのグラスが、窓からの陽ざしに透けている。その茶色は、セントラル・パークの枯葉の色であり、サリーが着ているカシミアのセーターの色でもあった。  深い秋の香りを飲みながら、僕は七面鳥《ターキー》のサンドイッチを食べた。  作家になったいまも、ときどきハーフ&ハーフを飲む。そして思い出す。あのサリーも、いまごろ、タイプライターに向かっているのだろうか……。 [#改ページ]   彼女はウィンディー 「また読書なの?」  明るい声が、砂浜に響いた。僕は、読んでいた文庫本から顔を上げた。  眼に痛いほど白い砂浜を、彼女が歩いてくるのが見えた。ピンクの水着が、赤道直下の陽射《ひざ》しに鮮やかだった。       □  2月だった。僕はひとり、インド洋のモルディヴにいた。  モルディヴには、1200もの島々がソバカスのように散っている。1200の中の60ほどの島々が、それぞれ独立したリゾートになっている。そんなリゾート島の1つに、僕は滞在していた。  もう、広告の仕事はあまりやっていなかった。1年のほとんどを、小説を書くことについやしていた。  モルディヴも、小説のための取材だった。インド洋の小島を舞台にしたラヴ・ストーリー。いずれ書くそんな物語のために、島に滞在していた。  島には、建て物と呼べるようなものは無い。宿泊施設は、すべて1戸建てのコテージだ。ヤシの樹《き》の間に、白い小さなコテージが点在している。  僕が泊まっているコテージから海までは30メートルだった。朝起きると、裸足《はだし》で砂浜に出て泳いだ。水音に驚いた小魚の群れが、水面でいっせいに飛びはねた。  小説の取材といっても、島中を走り回るわけではない。インド洋の陽射《ひざ》しを肩にうける。足の裏に、小麦粉のような白砂を感じる。そんなことが、心の中のメモに刻まれていくのだ。  午後になると、砂浜で読書。ヤシの葉影で昼寝。気が向けば、シュノーケルで魚見物。あきると、また読書。昼寝。  彼女が僕に声をかけたのも、そんな、ゆったりとした午後だった。  僕は文庫本から顔を上げて彼女を見た。 「ごらんの通り、読書中さ。君の仕事は?」 「きょうは、レッスンは休み《オフ》よ」  と彼女。深くきれいに灼《や》けた顔の中で、白い歯が光った。       □  彼女はボード・セイリング、つまりウインド・サーフィンのインストラクターだった。いまは、このリゾート島の専属だった。毎日、薄いグリーンの浅瀬で初心者にレッスンをしていた。  名前はウェンディー。だけれど、誰からもウィンディーと呼ばれていた。 「風を相手の仕事だから、もう何年も、そう呼ばれてきたわ」  彼女は言った。僕らが、はじめて島のバーで口をきいたときだった。  以来、毎晩のように僕とウィンディーはバーで飲んだ。いろいろな話をした。  ウィンディーはカリフォルニア育ち。19歳から、ウインド・サーフィンのインストラクターとして世界中を回っている。  ハワイ諸島。ミクロネシアの島々。タヒチ。オーストラリア。そしてインド洋。 「どこでも、風のあるところが私の故郷よ」  ウィンディーは、そう言って微笑《ほほえ》んだ。グラスを口に運んだ。 「でも、そんな生活じゃ、特定の恋人《ステデイー》をつくるのが難しいんじゃないのかな?」  ときく僕に、ウィンディーは数秒考える。 「ウインドのボードは、一人乗りよ」  と言った。 「ときどき2人乗りしてるのを見るけど」 「ああ、あれは遊びか、アクロバットね。でも、どっちみち長くは続けられないわ」  ウィンディーは、微笑《わら》った。笑顔の中に、かすかな苦さが漂っていた。風のように自由に生きていくことは、孤独を友にした旅なのかもしれない。グラスを口に運びながら、僕はそんなことを思った。       □  僕は、読んでいた文庫本を閉じた。ウィンディーは、突っ立って水平線を見つめていた。 「何してるんだい」 「匂《にお》いをかいでいるのよ、風の」 「風の匂い?」 「そう。どこの風にも、それぞれに匂いがあるわ」  とウィンディー。 「たとえば、ハワイ・マウイ島の風にはパイナップルの匂いがするし、タヒチの風にはティアレっていう花の匂いがするの」  僕は、ゆっくりとうなずいた。 「じゃ、いま、ここの風は?」 「とりあえず、スコールがくるわ。雨の匂いがする」 「雨?」  僕は、思わずきき返した。空はどこまでも青く、陽射《ひざ》しはまぶしかった。  けれど、ウィンディーの言葉は正しかった。10分もしないうちに、スコールがやってきた。  僕とウィンディーは、すぐ近くの僕のコテージに逃げ込んだ。天気雨だ。すぐに上がるだろう。僕らは窓ぎわで、ヤシの葉を打つスコールをながめた。 「あなた、小説家よね」 「ああ。いちおう」 「たとえば、こんな小さな島を舞台にしたら、どんなストーリーを書くの?」  僕は、しばらく考える。 「ラヴ・ストーリーさ」 「ラヴ・ストーリー?」 「……たとえば、僕みたいにひとり旅をしている日本人が、美しい娘と出会って、ちょっとしたきっかけで恋に落ちる……」 「ちょっとしたきっかけ?」 「ああ……」 「どんな、きっかけ?…」  眼が合った。ゆっくりと、顔が近づいていく。唇と唇が、そっと触れ合う……。  やがて、ウィンディーは唇をはなす。そっと微笑《ほほえ》む。 「第1章は、ここまで、第2章は、後で」  と、ささやいた。コテージを出ていった。  もう、スコールは上がっていた。ハイビスカスの花に、水滴がのっている。水滴は、午後の陽射しに光っていた。       □  1週間後。  僕は、帰国するために船に乗っていた。ドーニと呼ばれる小船だ。リゾート島から、空港のある島に向かっていた。  ドーニがリゾート島を出発して、1、2分後だった。ウインド・サーファーが見えた。  青い水平線。ピンクの水着と、同じピンクのセイル。ウィンディーだった。  ウィンディーは、波の上を疾走しながら、僕に片手を振った。白く光る歯が、チラリと見えた。反転して、遠ざかっていった。すぐに見えなくなった。 [#改ページ]   パイナップルが歩くとき  レニーが描いたパイナップルやバナナと出会ったのは、もう、3、4年前のことになる。  ホノルルだった。よく晴れた日だった。僕は、ひとり、ユニバーシティ|通り《アベニユー》を歩いていた。  ふと、1軒の店の前で足をとめた。〈Gallery《ギヤラリー》〉と木の看板が出ていた。ハワイらしく、カジュアルなつくりの店だった。僕は、ぶらりと中に入った。  床は板張り。狭いギャラリーだった。壁に何点かの絵がかけてあった。僕は何気なく1枚の絵の前に立った。  不思議な絵だった。パイナップルが青で描《か》いてあった。それでいて、変な感じはしない。 「それ気に入ったの?」  と声がした。ふり向く。店員らしい女の子が立っていた。日系ハワイアンらしい。ポチャッと、可愛《かわ》いらしい顔立ちだった。 「その絵、気に入ったら安くしておくわよ。私が描《か》いたものだから」  彼女は微笑《ほほえ》みながら言った。 「君が?」 「そう。もっとあるわよ。見る?」  と彼女。奥から6、7点の絵を持ってきた。どれもパイナップルやバナナだったが、青とか銀とか不思議な色調で描かれていた。それなのに、なぜかトロピカルでほのぼのとした雰囲気が漂っている。  彼女はレニーと名のった。絵描きの卵で、このギャラリーでバイトしているのだと言った。絵は売れるかときく僕に、これから売れるはずよ、とレニーは言った。  そのとき絵は買わなかったけれど、ホノルルにくるたびに、そのギャラリーに立ち寄るようになった。レニーはいつも店番をしていた。  絵は売れたか、ときく僕に、レニーはいつも、これからよ、と答える。彼女の絵の売れゆきはあまり良くないらしい。けれど、そこはのんびりしたハワイ育ちだ。いつも、ニコニコしながら、たぶんそのうち売れるわよ、とレニーは言うのだった。  最初にレニーの絵と出会ってから、2年ぐらいたった夏。僕はまたホノルルにきた。そのギャラリーに寄ってみた。  あい変わらず、レニーは店番のバイトをしていた。けれど、彼女が着ている服を見て、僕は思わず、 「え?……それ……」  とつぶやいた。レニーが着ているアロハ・シャツの柄は、彼女の絵そのものだった。青いパイナップルの柄だった。 「売れたのよ、絵が。シャツの会社に」 「アロハ・シャツの会社?」 「そう。そこの社長が気に入ってくれて、私の絵をプリントしたアロハが、何種類か、今月から街で売られているの」  レニーは、嬉《うれ》しそうに言った。 「そりゃ良かった……」  僕は言った。レニーの描いた絵がプリントされて、街でみんなが着ているところを想像してみた。 「ホノルルの街全体を会場にして個展をやっているようなものだな」 「そういうことね」  ニコニコしてレニーは言った。 「それに、私が描いたパイナップルにしても、絵の中におさまってるより、街中を歩き回される方が楽しいに決まってるものね」 「歩き回るパイナップルか……」 「そう。いいでしょう」  とレニー。店の外を指さして、 「ねえ、見て。絵が売れたおかげで買いかえられたの」  と言った。店の前に、ホンダの新車が駐《と》めてあった。 「バイトが終わったら、あれでチャイナ・タウンにいって乾杯しましょう」  心の底から嬉しそうに、レニーは言った。 [#改ページ]   ルビー・チューズデイ  たそがれが近かった。  陽《ひ》ざしも、かなり斜光になっている。砂浜の小さな起伏に、光の陰影ができていた。  ビーチにいた観光客たちも、もう、ほとんど引き上げていった。ガランとしたワイキキ・ビーチに、黒い犬が1匹、のんびりと歩いていた。  僕は、ロイヤル・ハワイアン・ホテルの前にいた。ピンク・パレスとも呼ばれる、ワイキキでも最高級のホテルだった。  カメラを片手に、砂浜にいた。日没直後の海と空を撮ろうと思っていた。  カメラマンとしての仕事は終わっていた。それは、自分の作品として撮っておきたい写真だった。       □  彼女に気づいたのは、そんなときだった。  ロイヤル・ハワイアンのパラソルの下に彼女はいた。ワイキキのホテルでも、ここだけが、前の砂浜にパラソルを立てている。もちろん、ホテルの客専用だ。  そのパラソルのまわりで、彼女は何か捜していた。砂浜に、何か落としたらしい。真剣な表情で、捜していた。 「何か失《な》くしたんですか?」  僕は、英語で彼女に声をかけた。彼女は顔を上げた。かすかに微笑《わら》いながら、 「指輪を、落としたらしくて」  と言った。  白人。年齢は、僕より少し上。30代の真ん中辺だろう。  ゆるくウエイヴしたブロンド。かなり日数をかけて灼《や》いたらしいココア色の肌。大きな青い瞳《ひとみ》が、O《オリビア》・ニュートンジョンに似ていた。 「どんな指輪?」  僕は、きいた。 「赤い、ルビーの」  と彼女。  僕は、水平線をふり返った。日没までには、まだしばらく時間がある。指輪捜しを手伝うことにした。       □  キラリ。  砂の中に、光るものがあった。僕は、それをひろい上げる。  赤いルビーのついた金色の指輪だった。 「もしかして、これかな?」  と彼女に見せた。彼女の顔が、パッと明るくなった。  指輪を手にとると、 「本当にありがとう」  と言った。 「いや。どっちみち時間つぶしをしていたところだから」  と僕は微笑《わら》いながら答えた。       □ 「不思議に思ってるんでしょう」  と彼女。僕の眼を見て言った。 「いい大人が、なぜ、こんなオモチャみたいな指輪を捜しているのか」 「まあね」  僕は、小さくうなずいた。  確かに、そうだ。指輪は、ほとんどオモチャに近かった。ルビー色をしたガラス玉。金メッキのリング。  それは、さりげなく高価そうな彼女の水着やビーチ・バッグと、いかにも不似合いだった。 「何か、思い出のある指輪なのかな?」  僕は、言ってみた。 「日本人って、カンがいいのね」  と彼女。青い瞳《ひとみ》が、明るく微笑った。       □  僕らは、砂浜に並んで坐っていた。海をながめて、ポツリポツリと話していた。 「〈ルビー・チューズデイ〉って曲、知ってる?」  と彼女。僕は、うなずいた。 「ローリング・ストーンズの……僕も好きな曲だ」  彼女も小さくうなずく。 「あの曲がはやってた頃、もらったの」 「じゃ、ずいぶん昔だ」  彼女は、また、小さくうなずいた。 「13歳だったわ」 「なるほど。じゃ、そんなオモチャでも当たり前だな」  僕は、彼女の指輪を見て言った。そして、 「初恋の相手?」  と、きいてみた。 「たぶん、そうだったのね」  と彼女。 「……よく、あの曲を唄《うた》いながら、自転車の2人乗りをしたわ……」  と、つぶやいた。 「で、その初恋の相手は?」 「ヴェトナムから、帰ってこなかったわ」  水平線を見つめて、彼女は言った       □  僕らが立ち上がったとき、ちょうど、 「エレン」  という声がきこえた。白人男が1人、ホテルの方から歩いてきた。彼女の夫だろう。薄いブルーのラコステを着ていた。 「遅いんで心配して見にきた。レストランの予約もしてあるし」  と夫。彼女は、 「ごめんなさい」  と夫に優しく微笑《わら》いかけた。ビーチ・バッグを肩にかけた。最後に1度だけ、僕にふり向いた。手を振った。その指に、ルビー色が光っていた。  僕は、たそがれの海にカメラを向けた。ストーンズの唄う〈ルビー・チューズデイ〉が、ふとどこかから聞こえたような気がした。 [#改ページ]   少年は、いつの日か風になる  少年は、ヤシの実をかかえて走っていた。       □  その光景を見たのは、滞在しているリゾート・ホテルの裏庭だった。  南太平洋のクック諸島。  タヒチとニュージーランドの間にある島々。その中心にあるラロトンガ島に、僕はいた。  滞在しているホテルは、砂浜沿いに横長につくられていた。僕の部屋は、一番端に近い。  玄関《フロント》の前の駐車場にレンタカーを駐《と》めるより、部屋の近くに駐める方が便利だった。  その午後も、僕はホテルの裏にある空きスペースにレンタカーを駐めた。広々とした裏庭を横切って、自分の部屋に戻ろうとしていた。  そのときだった。  走っている少年の姿を見かけた。  正確に言うと、少年と少女だった。2人とも、12か13歳ぐらい。あきらかに地元の人間だった。  ポリネシア系の顔立ち。チョコレート色の肌。  少年は、ショートパンツ1枚だった。  色の落ちた青いショートパンツ。裸足《はだし》。  たぶん、ガールフレンドなんだろう。少女の方も、質素な身なりをしていた。  あまり色のはっきりしないTシャツ、スカート。足もとは、ゴムゾウリだった。  少女は、ココヤシの実を1つかかえていた。  少年が、眼で合図する。  少女が、ヤシの実を4、5メートルはなれた少年に投げた。  少年は、ヤシの実をつかむ。わきにかかえる。  走り出す。  芝生の庭。そこに生えているヤシの樹《き》。  3、4メートルおきに生えているヤシの樹をジグザグにぬうように、少年は全速で駆けていく。  庭の端までいくと、少年はゆっくりと戻ってくる。また、同じことをくり返す。  どうやら、ラグビーの練習をしているらしかった。  体は細い。が、少年の動きは早く、力強く、しなやかだった。僕はクルマのキーを片手に、彼らの練習をながめていた。       □  声がした。僕は、ふり向いた。  ホテルの従業員だった。太ったボーイがやってくるのが見えた。  ボーイは、少年たちに早口で何か言った。ホテルの敷地に勝手に入るな。そういう意味のことだった。  僕は、 「まあ、いいじゃないか」  とボーイに言った。ショートパンツのポケットから、|1《ワン》ニュージーランド・ドルを出す。 「誰にも迷惑がかかるわけじゃないし」  と言いながら、1ドル硬貨をボーイにポンと渡した。  ボーイは、肩をすくめる。〈まあ、それもそうか〉という表情。僕に笑顔を見せる。 「サンキュー・サー」  と言う。建物の方へ戻っていった。       □ 「ありがとう」  少年が言った。 「ラグビーの選手なのかい?」  僕はきいた。 「ああ。少年チームの左ウイングなんだ」  と少年。 「彼、チームでナンバー・ワンの選手なのよ」  わきから、少女が言った。  ほんの少し、照れたような表情が少年の顔に走った。 「じゃ、大人になってもラグビーをやるのかい?」  僕は、きいた。  少年は、はっきりと、うなずいた。眼に、強い光……。 「絶対に、オール・ブラックスに入るんだ」  と言った。  そうか……。  世界一のラグビー・チーム〈オール・ブラックス〉は、ニュージーランドのチーム。  そして、ここクック諸島はニュージーランド領だ。  島のあちこちにラグビー場があったことを、僕は思い出していた。  アメリカの少年たちがアメリカン・フットボールのスター・プレーヤーに憧れるように、この島の少年たちはラグビーの有名選手を夢見るのだろう。 「じゃ、がんばって」  僕は言った。 「ああ」  と少年。チョコレート色の胸で、汗が光った。  少女の顔で、白い歯が光った。       □  3日後。  僕は、空港にクルマを走らせていた。  カー・ラジオがビートルズの〈|She Loves You《シー・ラブズ・ユー》〉を流しはじめたとき、ふと、クルマをとめた。  海沿いの道路。その前に、ラグビー場が広がっていた。  この島にふさわしく、素朴なラグビー場だった。ゴール・ポストが立っていなければ、ただの空き地に見えただろう。  が、確かに、ゴール・ポストは立っていた。  日本の高校でも見ないような貧しいゴール・ポストだった。けれど、強い海風の中で、その細いゴール・ポストはしっかりと立っていた。  あの少年の姿が、そこにダブる。  彼の褐色の脚が、外国の美しいグリーンの芝生の上を駆ける日はくるのだろうか。 〈オール・ブラックス〉の黒いジャージを着て、ノー・サイド(試合終了)のホイッスルをきく瞬間が、くるのだろうか……。  僕は、カメラをとり出した。誰もいないラグビー場にレンズを向ける。  その島での最後のシャッターを切った。  空港に向かって、また走りはじめた。カー・ラジオでは、J《ジヨン》・レノンが〈She Loves You〉を力強く唄《うた》いつづけていた。 [#改ページ]   ソバ屋でラガー・ビール  クラクション。  短く3回。本郷《ほんごう》通りに響いた。  僕は、足をとめた。ふり向く。  真夏だった。まぶしい陽ざしの下、白いクルマがとまっていた。スカイラインGT、いわゆるスカGだ。  僕は眼を細めた。運転席のウインドがおりて、女の子が手を振っていた。直美《なおみ》だった。       □  僕と直美は、幼なじみだった。  本郷で生まれ育った。小学校、中学校は同じ。高校で分かれた。  僕は都立高校へいき、彼女はエスカレーターで進学できる女子大の附属高校に進んだ。  学校が別べつになっても家が近いから、よく遊んだ。恋人とかガールフレンドという感じではない。近所の遊び仲間といったところだ。  そして、その夏はふたりとも大学3年だった。       □ 「よお」  僕は言った。直美のスカGに歩いていく。 「エアコンが故障しちゃって、いま、修理屋からとってきたところ。まいったわ」  と直美。運転席から顔を出して言った。 「エアコンか……そりゃ、きついな」  と僕。ここ何日か、暑い日がつづいていた。エアコンの故障は確かに大変だったろう。 「どこにいくの?」  と直美。 「レコード屋」  僕は答えた。もちろん夏休み中だ。自宅が東京だから、帰省する郷里もない。 「じゃ、ヒマなんだ」 「まあね」  僕は答えながら空を見上げた。 「それにしても暑いな」  と、つぶやいた。午後3時なのに、陽《ひ》ざしはカリカリと照りつけていた。 「ビールでも飲みにいこうか」  と直美。 「ああ、いいよ」 「じゃ、ちょっとクルマ置いてくる」  と直美。クルマのギアを入れた。本郷通りから、わき道に入っていく。  彼女の家は、本郷通りから50メートルぐらい入ったところにある歯科医院だった。  5分ぐらいして、直美が戻ってきた。  デッキ・シューズ。スリム・ジーンズ。VANのロゴが入ったTシャツを着ていた。  まん中分けのストレート・ヘアー。歯科医の娘らしく、歯並びがきれいだった。  僕らは、近所の日本ソバ屋に入った。小さいころからいきつけのソバ屋だった。三代つづいた古い店がまえ。だけれど、古ぼけているわけではない。  むしろ逆だ。紺地に白文字のノレンはいつも清潔で、しょっちゅう店の前に打ち水がされていた。入口のわきには、必ず季節の花の鉢植えが置かれていた。  僕らは店に入る。午後のソバ屋は、ひんやりとして、静かだった。  テレビなど置いていないから、高校野球の中継などもやっていない。和服にエプロンをかけた店のおばさんに、僕らはビールとおつまみを注文した。  いま思い出しても、そのころから、近所の仲間と軽く飲むときはよく、そのソバ屋にいくことが多かった。喫茶店やカフェバー風の店もあったけれど、なぜか日本ソバ屋なのだ。  たぶん、それは自分たちの親や、近所のダンディーなおじさんたちの姿を見て、ごく当然のように覚えたのだと思う。夏はビール。春秋は冷や酒。冬は熱燗《あつかん》。そんな好みの酒を、すいているソバ屋の片すみで飲んでいる近所の大人たちが、僕ら若い連中から見て、絵になっていたのだと思う。  鳥ワサをつまみに、僕と直美はビールを飲みはじめた。スカGで白バイをぶっちぎった話をしている直美もまた、古い日本ソバ屋の中で、ごく自然でサマになっていた。付け焼き刃ではなく、時間をかけて身についたこととは、そういうものなのかもしれない。       □  数年後。クルマ好きの直美は、クルマの設計にかかわるエンジニアと結婚した。会社から派遣された夫と一緒に、いまは西ドイツで暮らしている。  僕はいまも、そのソバ屋にいく。ひとりで、ときには悪友と、静かな午後の店で、よく冷えたビールを飲む。アウトバーンを時速200キロで走っているだろう直美のことを、ふと思い出しながら……。 [#改ページ]   遅い午後のウオッカ&ペリエ 「おい、どうした」  僕は言った。  並んで坐っているマークの肩を、軽く突ついた。  マークは、われに返る。僕のほうをふり向く。 「いや……」  と、口ごもった。ぬるくなったビールを、ひと口飲んだ。  午後3時半。  ミクロネシアの島。そのリゾート・ホテルのプールサイドだ。  僕とマークは、プールサイド・バーのカウンターに並んでビールを飲んでいた。  マークとは、かなり長いつき合いだった。  彼はカリフォルニア育ちの白人。この島に住みついてウインド・サーフィンのインストラクターをやっている。  20代の終わり頃で、ハンサムだった。当然のように、プレイボーイだ。  何年か前。僕は、この島にコマーシャルの撮影にやってきた。ウインド・サーフィンのシーンが必要だった。マークに、出演してもらった。それ以来のつき合いだった。  今回も、僕らはロケでやってきた。が、今日は天気がひどく安定しない。しかたなく、午後は|休み《オフ》にした。マークも、午後は仕事がないらしい。で、ふたりでビールを飲んでいた。  僕が彼の肩を突ついたのは、そんな時だった。  マークにきかなくてもわかった。彼は、ひとりの女性客をながめていたのだ。それもかなり熱心に。 「珍しいな。あんたが日本人に興味をしめすなんて」  と僕は言った。  マークが一緒にいる女は、いつも白人だった。日本人観光客の多い島なのに、日本人と歩いているのは、見たことがなかった。  が、いま、彼がながめているのは、まぎれもなく日本人の女性客だった。  プールサイドに並んだ白いデッキ・チェアー。そこにひとりでいた。背もたれに体をあずけ、両ヒザは立てていた。いかにも、リゾートなれした雰囲気だった。  20代の中頃だろうか。ココア色のビキニ。きっちりとまとめた髪。もちろん、なかなかの美人だ。が、 「わかったよ」  とマークが言った。 「俺は、白人の女が好きなんじゃなくて、プールサイドやビーチで本を読んでる女が好きなんだな……」 「なるほど……」  僕は、つぶやいた。  確かに、そうだ。リゾート地で、白人は本当によく本を読んでいる。けれど、日本人の女性で本を手にしている姿は、まず見かけない。ところが、いまマークが熱い視線を注いでいる日本人客は、1冊の文庫本を読んでいた。  カバーをはずしてあるから、本のタイトルはわからない。薄茶の文庫本を読みながら、そばのテーブルに置いたグラスを口に運んでいた。  プールサイド。ビキニ。1冊の本。そして、1杯のグラス。  それらが、さりげなく、絵になっていた。もちろん、本人は意識していないのだろうが。 「どうして、プールサイドで本を読んでる女っていいんだろう」  とマーク。僕は微笑《わら》いながら、 「簡単さ。水着姿、つまりボディと、本、つまり知性の組み合わせが、男にとっちゃ魅力的なのさ」  と言った。僕自身、マークと同じ好みだからわかるのだ。  やがて彼女は通りかかったウエイターにグラスのおかわりを注文した。  ウエイターがバーに戻ってくる。彼女が何を飲んでいるのか、マークが注目しているのがわかる。ウエイターは、バーテンダーに、 「薄目のウオッカ&ペリエに、ライムを絞って」  と彼女の注文を伝えた。遅い午後に飲む酒としては、悪くない。少なくとも、知性が感じられる。  マークも、同じことを思ったらしい。軽く片方の眉《まゆ》を上げて見せた。  彼女は、読み疲れたのか、文庫本をテーブルに置いた。休憩らしい。  足もとに置いたサンターン・オイルをとる。腕に塗りはじめた。  そのときだった。  彼女に声をかけるために、マークがバーのスツールを立った。  プールを渡ってきた風が、文庫本のページをパラリとめくって過ぎた。 [#改ページ]   ソルティー・レイン 「ハロー」  すぐ近くで声がした。僕は、デッキ・チェアーに寝っ転がったまま、ゆっくりと眼を開けた。サングラスをしていても、まぶしい陽射《ひざ》し。逆光のシルエットで揺れているヤシの葉が眼に入る。  そして、1人の少女が、そばに立っていた。       □  サイパン。午後3時。  マイクロ・ビーチにあるDホテルの前の砂浜。僕は、砂浜に置いてあるデッキ・チェアーに寝っ転がって、日光浴をしていた。  テレビCFのロケが終わったところだった。  幸い天気が安定していて、10日の予定のロケは、1週間で終わった。主なスタッフは帰国した。といっても、フィルムの編集スケジュールにはまだ余裕がある。ディレクターの僕とカメラマンのJは、2、3日、のんびりしていくことにした。  Jは、いま、ジェット・スキーをやりにいっている。僕は、砂浜でぼんやりと日光浴をしていたところだった。  サングラスをかけたまま、僕は体を起こした。声をかけてきた少女を見た。少女は明るい表情で、 「貝、いらない?」  と言った。 「貝?」 「そう。お土産に、どう?」  と少女。手に丸めて持っている布のようなものを開いた。古いサマー・スェーターを切ったらしい。その布の中に、貝殻がいくつか入っていた。  僕は、のぞき込んでみた。けれど、思わず軽く苦笑していた。少女が持っている貝は、たぶんその辺でひろってきた物だろう。僕らでも、砂浜をちょっと歩けばひろえるような貝殻ばかりだった。おまけに、こわれかけた貝殻もずいぶん混ざっていた。       □ 「そう……。やっぱりダメか……」  と少女。微笑《わら》いながら、肩をすくめた。僕は、貝から視線を上げた。少女を見た。15歳か16歳ぐらい。白人とチャモロ人の混血らしかった。肌は薄いココア色。手足はスラリと長い。髪は少し麦わら色がかった金髪。まん中分けで、肩までたらしている。くすんだピンクのTシャツ。オフ・ホワイトのショートパンツをはいていた。足もとはゴムゾウリだった。 「小遣いかせぎかい?」  少し気の毒になった僕は、少女にきいた。少女は、うなずくと、 「まあ、そんなところ。ボーイフレンドへのプレゼントを買うためよ」  と言った。 「ボーイフレンド? 学校の同級生かい?」 「そんな子供じゃないわ。ちゃんとした大人で、おまけにアメリカ人よ」  と少女。ちょっと胸をはって、 「あの船に乗ってるの」  と言った。海の方に視線を向けた。僕もそっちを見る。沖に大型の貨物船が1隻、停泊していた。 「あの貨物船?」 「ただの貨物船じゃないわ。あれは米軍の船なの」 「米軍の?……」  僕は、ききなおした。となりのグアムはともかく、このサイパンに基地はないはずだ。 「あの船には弾薬が積まれてるの」 「弾薬?」 「そうよ。グアムの基地に大量の弾薬を置いておくと、何かあったときに危ないでしょう。だから……」  と少女。 「そうか。弾薬を積んだ船だけ基地から離してサイパンの沖に……」  と僕はつぶやいた。少女はうなずく。 「私の彼は、あの船で水や食料を調達する係をやってるの」 「……なるほど……食料を調達するために上陸して、君と知り合った?」  僕がきいた。少女はまた、微笑《ほほえ》みながらうなずいた。けれどその笑顔がすぐに曇った。 「でも……近いうちに、船はよそへ移動しちゃうんで……」 「それで、彼に何かプレゼントを?」 「そう……。離れていても、私のことを忘れないようにね……」 「で、お金は、たまった?」  少女は、ゆっくりと首を横に振った。 「Tシャツ1枚、買えないわ」  と言った。そのとき、天気雨が降ってきた。僕は、カメラだけ、ビニールのバッグに入れた。あと、濡《ぬ》れて困るものはない。天気雨は、灼《や》けた肌に心地良かった。少女も、突っ立ったまま空を見上げる。 「ソルティー・レイン……」  とつぶやいた。 「ソルティー・レイン?」 「そう。サラサラと細かくて塩みたいでしょう?」  僕はうなずいた。確かにそうだ。 「おまけに、海の方から降ってくる雨だから、ちょっと塩っぽいの」  と少女。僕は、細かい天気雨を口でうけてみた。少女の言うとおり、雨はかすかに塩っぽい味がした。 「なるほどね。ソルティー・レインか……」 「私たちは、よくこう言ってるわ。自分たちのかわりに、空が泣いてくれてるんだって……」  少女は言った。 〈塩っぽい雨……空の涙……〉  僕は、胸の中でつぶやいてみた。眼を細めて、キラキラと陽射《ひざ》しに光る雨粒を見つめた。       □  天気雨は、すぐに走り去った。同じように立ち去ろうとする少女に、僕は声をかけた。  少女が持っていた貝殻を並べさせる。カメラのレンズを向け、シャッターを切った。 「じゃ、これ、お礼に」  と、5ドル札を1枚、少女に渡した。少女は、一瞬はにかむように微笑《わら》う。ドル札をポケットに入れ、手を振りながら砂浜を歩いていった。       □  3日後。僕とJは、サイパンを去ろうとしていた。ホテルのベランダから見ると、きのうまでいた沖の船は、姿を消していた。水平線だけが広がっていた。  空港に向かうクルマに乗ると、天気雨が降りはじめた。細かいサラサラとした雨粒……。ソルティー・レイン……。僕は、走るクルマの窓からヤシの樹《き》の並木に降る天気雨をじっとながめた。カー・ラジオが、バングルスの唄《うた》う〈|Eternal Flame《エターナル・フレーム》〉を流していた。 [#改ページ]   ドレスダウン  サンディと出会ったのは、真冬のハワイだった。       □ 「困ったなあ……」  と撮影コーディネーターのケン。太い腕を組んでつぶやいた。オフィスの窓には、青くまぶしいホノルルの空が広がっている。  僕らは、広告の夏キャンペーンの撮影にきていた。その日の午後から、ロケハンがはじまることになっていた。  ところが、その日、僕らのガイドにつくはずのスタッフがケガをしてしまった。  2月のハワイは、エキサイティングだ。  オアフ島の北海岸《ノース・シヨア》には、高い波とサーファーが世界中から押しよせ、南海岸《サウス・シヨア》のホノルルには、僕らのようなコマーシャル関係者が押しよせる。  とても、遊んでいる撮影ガイドなどいないだろう。 「プロのガイドじゃなくてもいいかい?」  とケン。僕らは、うなずいた。 「じゃ、ときどき頼むバイトの娘《こ》にしよう」  ケンは電話に手をのばした。       □  僕らがケンに案内されたのは、カピオラニ|通り《ブルヴアード》にある1軒の店だった。  トロピカルなインテリアを売っているセンスのいい店だった。サンディは、そこで働いていた。  正確に言うと、姉さんがその店のオーナーで、サンディはよく店の手伝いをしているらしい。 「きょうの午後は、店を抜けられるらしいから」  とケン。サンディを僕らに紹介した。  サンディは、白人。金髪。よく動く青い瞳が、僕らにニッコリと微笑《ほほえ》んだ。  そして、ワンピースにテニスシューズをはいていた。  リゾート・ドレス風のコットンのワンピース。まっ白いテニスシューズ。  一見、ちぐはぐな組み合わせだ。けれど、テキパキと動き回るサンディには、それが実によく似合っていた。  サンディは、店を出る。  僕、プロデューサー、カメラマンの3人を、自分の4WDに乗せる。 「じゃあ、離陸よ!」  と親指を立てる。アクセルをふみ込んだ。       □  サンディは、オアフの海岸線にくわしかった。  おかげで、ロケハンは順調に終わった。  午後5時。僕らは、泊まっているコンドミニアムに戻ってきた。  たそがれの海を望むベランダで、飲みながらミーティングすることにした。  午後に見て回ったビーチの中から、撮影に使う1か所を決めるのだ。  テーブルにオアフの地図を広げる。めいめい勝手に、キッチンの冷蔵庫から飲み物を出してくる。  僕とプロデューサーは、プリモ・ビアー。飲めないカメラマンはジンジャエール。  そして、サンディは白ワインのオン・ザ・ロックだった。  ストレート・グラスに氷をひとつかみ入れる。そこへ白ワインを注いだ。  意外そうな顔をしてる僕らを、逆に驚いた顔でサンディは見た。いつも、そうして飲んでいるんだろう。 「ワインのオン・ザ・ロックか……」  と言う僕に、 「これならぬるくならないし、適当に薄まるから酔っぱらわないしね」  とサンディ。ニコリと白い歯を見せた。その金髪のロング・ヘアーが、海からの風にフワリと揺れた。  ワインのロックは、それ以来、ロケ隊の間で大流行した。  僕は、大切なことをサンディから教わったような気がした。  ワンピースにテニスシューズ。そして、ワインに氷……。  常識的に言えばおかしくても、本人がよければ、それでいいのだ。本人がそれを快適だと心の底から感じていれば、それがサマになってしまうのだ。  ドレスアップの良い意味での対称語である〈ドレスダウン〉という言葉を、僕はふと思い浮かべていた。  世間のルールよりも、自分の好みや快適さ。そんな当然のことを、僕はあらためて彼女に教わった気がした。  いまもワインをロックで飲むたびに、サンディの明るい笑顔を思い出す。  彼女はきょうもまた、まっ白いテニスシューズで、さっそうとホノルルの街を歩いているのだろうか。 [#改ページ]   その夜、二人で流れ星を見た  陽《ひ》ざしの中を歩いていく僕とミッシェルを、牛の引く車が追いこしていく。  木でできた牛車には、イギリス人やフランス人の観光客たちが乗っていた。みなピンク色に陽灼《ひや》けして、カメラを持っていた。メトロノームみたいに揺れる牛のシッポをながめながら、僕とミッシェルはゆっくりと歩いていた。       □  インド洋。セイシェル。  僕はまた、この島々を訪れていた。前回ここにきたときは広告のロケだった。今回は完全なプライベート。書くべき小説をほんの少しと、読むべき小説をたくさん持って、南緯4度のこの島にきたのだ。  いま僕が滞在しているのは、セイシェル諸島の中の1つ、プララン島。海は遠浅で、双子椰子《ココ・デメール》のしげる谷は深い緑だ。ブーゲンヴィリアや、白いバニラの花が、モンスーンの微風に揺れている。  この島で、僕はレンタカーを借りていた。クルマは日本製の小型ジープで、こっちでは〈SA《サ》MU《ム》RAI《ライ》〉と名づけられていた。そして、ミッシェルはレンタカー・オフィスで働いていた。       □  ミッシェルは、|20歳《はたち》ぐらいだろう。白人の血に、少しだけ現地人の血が入っているらしかった。その分、肌がなめらかだった。  まっすぐな金髪を肩までのばしている。瞳《ひとみ》は薄いブルー。よく陽《ひ》に灼《や》けて、うぶ毛が金色に光っていた。  南洋の人間には珍しく、テキパキと仕事をこなし、きれいな英語を話した。イギリスの大学にいくための学費をためているところだという。 「日本のクルマはかなり島に入ってくるけど、それを借りて運転する日本人は珍しいわ」  と、クルマを借りる僕にミッシェルは言った。  僕らは、ごく自然に話をするようになった。  そんなある日、僕は近くにあるラディーグ島にいこうと思った。クルマのかわりに、牛車が観光客の足になっている、のどかな島らしい。 「ラディーグ島にいくなら私が案内するわ」  ミッシェルが言った。 「あの島は私が生まれ育った所なの。あなたに見せたいものもあるし」  と彼女。ニコリと白い歯を見せた。結局、彼女に案内してもらうことにした。彼女の仕事が休みになる土曜日、僕とミッシェルは船に乗ってラディーグにやってきた。       □  ゆっくり歩いていく僕らを、観光客たちが乗った牛車が追いこしていく。桟橋から島のメイン・ストリートへの道を、僕らはのんびり歩いていく。メイン・ストリートといっても、雑貨屋と土産物屋が数軒あるだけの静かな通りだ。 「こっちに家族は?」  と僕がきいた。 「両親は小さなホテルをやっているわ。コテージが12あるの。兄は、フランスの大学にいってるの」  とミッシェル。 「あとで、うちのホテルに案内するわ」  と言った。僕らは、ラディーグ島のメイン・ストリートを抜ける。店やホテルがとぎれる。ココヤシの影だけが、砂地の道に揺れている。 「あなたに見せたいものが、もう少しいくとあるの」  とミッシェル。僕の腕をとって歩いていく。  ミッシェルは、ブーゲンヴィリアの茂みやヤシの木の間を抜けていく。やがて、広い所へ出た。 「あれよ」  とミッシェル。立ち止まって、上を見た。僕も立ち止まって見上げた。  岩山が、そびえ立っていた。セイシェル独特の花崗岩《かこうがん》の岩山だった。岩山は、かなりけわしかった。 「見せたいものって、あそこに立っているヤシの木だったの」  とミッシェル。上を指さした。  岩山の山頂に近いあたりに、1本のヤシの木が立っていた。 「あんな高い所に1本だけ立ってるなんて、不思議だと思わない?」  ミッシェルは言った。じっと、ヤシの木を見上げている。 「ああ、不思議だな……」  僕も、つぶやいた。普通、ヤシの実が木から地面に落ちて、そこから新しいヤシが生えるのだ。けれど、あの岩山に立っているヤシの木は、いったいどこからきたというのだろう……。  僕は、眼を細めてヤシの木を見上げていた。       □ 「キリマンジャロの雪って知ってるかい?」  僕は、ミッシェルにきいた。 「ヘミングウェイの小説ね。読んだことはないけど……」 「その小説のはじめに、確かこんな内容の一節があるんだ。キリマンジャロの山頂に、凍りついた豹《ひよう》の死体があるんだけど、その豹がなぜ、雪をふみしめて命がけでそんな高い所まで登ったのか、誰にも説明ができない」 「…………」 「いま、あのヤシの木を見てたら、ふっとそのことを思い出した」 「……あのキリマンジャロに……」  ミッシェルは、つぶやいた。ここセイシェルからアフリカは近い。 「その豹の話、本当なのかしら……」 「さあ……小説だからフィクションかもしれないし、伝説みたいなものかもしれないな」  僕は言った。 「ただヘミングウェイが書きたかったことは、なんとなくわかるな。結局、人間の知恵とか、あさはかな常識とかじゃとても理解できない、〈|何か《サムシング》〉が、僕らの世界にはいろいろとあるってことなんだと思う」 「…………」 「あのヤシの木を見てたら、それがわかる気がしてきた」  ミッシェルが僕の横顔をじっと見ている。 「そんなふうに言ってくれた人、はじめてよ。私があのヤシの木を見せても、みんなたいした興味を示さないの。私は、子供の頃からあの木が好きだったから、それがとっても悲しかった」 「子供の頃から、あのヤシの木を好きだった?」 「そう……。何か特別な思いを抱いてたのね、あのポツンと孤独な木に……。でも、きょう、あなたにあの木を見せてよかった」  ミッシェルは言った。僕らは、陽《ひ》ざしに眼を細めて岩山を見上げた。ヤシの葉が、ゆったりと揺れていた。  その夜は、ミッシェルのホテルに泊まった。彼女と二人、コテージのベランダで流れ星をながめた。セイシェルの風は、タルカム・パウダーのようにサラリと乾いて、バニラの花の匂《にお》いがした。 [#改ページ]   カンパリ・サンセット  その日、僕とKは南カリフォルニアにいた。  僕はCFのディレクターで、Kはプロデューサーだった。  これから撮影するCFのために、2人でロス・アンゼルス周辺をロケハンしていた。  ロケハンは順調に終わった。撮影場所は、ほとんど決まった。  あとは、2日後に日本から到着するロケの本隊を待てばいい。  そんな、ひと息ついた日の夕方だった。  5時過ぎだったと思う。  僕とKは、マリナ・デル・レイのバーにいた。  マリナ・デル・レイは、ロスの南。世界で最も大きいといわれるヨット・ハーバーだ。  ハーバーの中には、レストランも何軒かあった。そのひとつに、僕らはいた。  アメリカでは、たいていのレストランにバーがついている。  食事前の1、2杯をそこでやるのもいい。バーで待ち合わせするのもいい。もちろん、ただ飲むだけでもいい。  僕とKの目的は、その最後のものだった。  そのシーフード・レストランのバーからのながめが、抜群に良かったのだ。  特に夕方。たそがれていくハーバーが、並んでいるボトルの向こうにある。  ハーバーに戻ってくるヨットが、ゆっくりと夕陽の中をよぎっていく。  そんな風景をながめながら飲む一杯は、悪くない。  よくぶつかった僕とKの意見も、それだけは、みごとに一致していた。       □  彼女が入ってきたのは、僕らのグラスが半分ぐらい空いた頃だった。  バーは、ガランとすいていた。長いカウンターにいるのは、僕とKだけだった。  彼女がバーに入ってきたとき、ごく自然に僕らはそっちを見た。  白人。20代の前半だろう。  肌が、きれいに陽灼《ひや》けしていた。時間をかけて、自然にできた陽灼けの色だった。  このハーバーの中にコンドミニアムを持っているのかもしれない。あるいは、ハーバーの中で仕事をしているのかもしれない。  とにかく、週に1、2回はクルージングに出ているように思えた。  そんな肌の色に似合う、オフ・ホワイトのニットを着ていた。きびきびとカウンターに歩いてきた。  彼女はアメリカ人らしく、僕らに軽く微笑みかける。僕らと3つはなれた椅子《スツール》に坐った。  坐りながら、ちらりと腕時計を見た。たぶん、誰かとここで食事をする約束になっているんだろう。  バーテンダーが、彼女に近づいていく。僕とKは、自然、彼女のオーダーに注目した。  彼女は、カウンターに両ヒジを突く。まず、 「カンパリ」  と、ひとこと。そして、 「アンド・ウォーター。レモン・スライスもお願い」  と、迷いのかけらもない声で言った。  カンパリの水割りということらしい。Kが僕を見て微笑《わら》った。〈やるもんだね〉という微笑いだった。  食前の1杯に、カンパリの水割り。カンパリ・ソーダでもカンパリ・トニックでもなく、水割り。  カンパリのホロ苦さは好きだけれど、炭酸が好きではないのかもしれない。炭酸が、ときには食欲のじゃまをすることを知っているのかもしれない。  いずれにしても、粋《いき》なオーダーだった。  氷。カンパリ。そしてミネラル・ウォーター。最後にレモン・スライスを浮かべたグラスが、彼女の前に置かれた。  落ち落いた動作で、彼女はそれを口に運ぶ。  南カリフォルニアの夕陽が、彼女の整った横顔に、カンパリの赤に、照りはえている。  その横顔に向けてムービー・カメラを回したいと、僕は思った。Kも、同じことを考えているようだった。  彼女のグラスの中で、氷が涼しげにチリンと鳴った。 [#改ページ]   ミス・パイナップルの失敗《ミス》  彼女と再会したのは、スーパーマーケットの中だった。       □  ハワイ。マウイ島。  ラハイナの町はずれにあるスーパーマーケットだ。  僕は、夕食の買い物にきていた。  カートを押しながら、食料を選んでいた。  塩。コショウ。香辛料。そんなものを並べた棚の前で、女の客のカートとぶつかりそうになった。 「|ごめんなさい《エクスキユーズ・ミー》」  と言って、彼女は僕を見た。それが、デビーだった。  最初の3、4秒、お互いに顔を見合わせていた。やっと、 「もしかして、デビー?」  と、僕は言った。 「やっぱり……」  と彼女。僕をじっと見つめて、 「やっぱり、あなただったのね……」  と言った。  映画の|1《ワン》シーンみたいに抱き合いはしなかった。かわりに、腕ずもうみたいなハワイ式の握手を僕らは、かわした。       □  もう、4年前になる。  僕は、やはり撮影でマウイにきていた。  雑誌の仕事だった。男性雑誌のハワイ特集だった。  ちょうど、航空会社や旅行代理店が、マウイ島やハワイ島に観光客をよぼうとしている頃。そのタイミングにのった企画だった。  ホノルルから足をのばしてマウイ島へ飛ぼう。そんな16ページの企画だった。  カメラマンの僕。アシスタント。そして編集者。その3人でやってきた。  空港からラハイナにレンタカーを走らせているときだった。カー・ラジオのニュースで、ミス・パイナップルが決定したと地方《ローカル》局がアナウンスしていた。  ラハイナに着いて、すぐに、そのことを調べた。  マウイ島は、パイナップルが多くとれる島だ。その観光PRのために、毎年、ミス・パイナップルを選んでいるのだという。  僕らは、さっそく、取材にかけつけた。  ミス選びのコンテストは終わっていた。けれど、今年のミス・パイナップルに会うことはできた。それが、デビーだった。  白人。19歳。父親は実業家だった。広大な|玉ねぎ《オニオン》の農場とマウイ最大の銀行を持っていた。  デビーの屋敷には、オリンピック・サイズのプールがあった。  取材にいった僕らに、 「観光協会がパパの銀行に力を貸してほしくて、私を選んだのよ」  とデビー。照れながら言った。  それが本当かどうかは知らない。が、デビーは十二分に美しかった。  大学にいくまでの休暇《ヴアカンス》中だというデビーに頼んで、雑誌に出てもらうことにした。 〈ミス・パイナップルが案内するマウイ島〉と企画を少し方向チェンジして、1週間、撮影に走り回った。毎日、デビーがつき合ってくれた。マウイ育ちだという彼女に、いろいろなことを教わった。 「あのとき君が教えてくれた、パイナップルの選び方、覚えてるかい?」  僕は言った。デビーと僕は、ちょうど、パイナップルが並んでいる所にきていた。 「そんなことまで教えたっけ?」  と言うデビーに、 「ああ。こうやるんだって教えてくれたよ」  僕は、パイナップルを1個とった。片手の人さし指で、パイナップルのお尻、つまり底《ボトム》をはじいた。指の爪《つめ》で叩《たた》いた、その音をきいて、パイナップルの良しあしを判断するという。 「あれは、ずいぶん、役に立ったよ」  と僕。カートを押しながら言った。デビーは、微笑《わら》いながらうなずいた。  僕らは、4年前の思い出話をしながら、買い物をつづけた。 「今回も、撮影の仕事?」 「ああ。広告の撮影で、コンドミニアムに泊まってるんだ」  僕は言った。キャッシャーで、支払いをすませる。       □  僕とデビーは、スーパーから出た。  たそがれの駐車場を、ゆっくり歩く。僕らの影が、アスファルトに長い。 「そういえば、結婚したんだっけ」  僕は、きいた。確か、2年ぐらい前。知らせの葉書が、東京の僕にも届いた。  金髪の彼と家の玄関に並んでいる。そんな写真の刷《す》られた葉書。わきに〈大学を中退して結婚しました〉という自筆の走り書き……。  デビーは、しばらく無言。やがて、 「離婚したの、1年前に……」  ポツリと言った。僕の眼が、その理由《わけ》をきいていたらしい。 「相手は……財産目当てだったみたい」  と、デビーは言った。僕も、しばらく無言。やがて、 「ミス・パイナップルの失敗《ミス》か」  と言った。デビーは、まっ白い歯を見せる。  声を出して笑った。  その笑顔は、4年前と変わらず、美しかった。  クルマに歩きながら、 「だって、男の人はパイナップルじゃないから、お尻を叩いて良しあしを判断するわけにいかないものね」  デビーはカラッと言った。  今度は、僕が声を出して笑った。  やがて、デビーは立ちどまる。BMWのトランクを開ける。スーパーの買い物袋をそこに入れはじめた。  マウイの夕陽《ゆうひ》が、クルマのバンパーに光る。  頭上のヤシの葉が、たそがれの乾いた風に揺れていた。 [#改ページ]   ハリケーン  風が、さっきより一段と強くなっていた。  ヤシの葉が、激しく揺れている。プールサイドのテーブルから空き缶が落ち、コンクリートの上を転がっていく。  グレーの雲が、低く、速く、流れていく。雨は、まだ降ってこない。  僕は、旅行用のバッグを持ったまま、ホテルの玄関を入った。ロビー兼ダイニングに、ホテルの主人がいた。僕をみると、 「やっぱり、飛行機は飛ばなかったか」  と言った。       □  ポリネシアの小さな島。ハワイで友人の結婚式に出た僕は、ぶらりとこの島を訪れていた。  にぎやかなホノルルで1週間ほど過ごした。つぎは、対照的にローカルな土地にいきたかった。ごく自然に、この島を選んでいた。  タヒチ、フィジーといった観光ルートからは、かなりはずれている。小さな島だった。  ハワイから、エアー・フランスに乗って赤道をこえる。さらに、10人乗りのプロペラ機に乗りかえて、この島についた。  島には、ホテルが1軒しかなかった。海岸のヤシの木立ちの中に、ささやかなホテルが建っていた。  平屋だった。ロビー兼ダイニング。ツイン・ルームが、10室ほど、L字型に並んでいる。ロビーや客室に囲まれるように、小さなプールがあった。プールサイドには、ピンクのブーゲンヴィリアが咲いている。砂浜には、1匹の茶色い猫が、のんびりした足どりで歩いていた。  昼間の陽《ひ》ざしは強かったが、夜になると涼しく、ハイビスカスの茂みでは虫が鳴いていた。南十字星も見えた。  ホテルは、フランス人らしい主人がやっていた。3、4人のポリネシアンを使っている。客は、僕以外にはドイツ人の老夫婦がいるだけだった。  きのう、帰りの飛行機の予約を確認した頃から、雲ゆきがおかしくなりはじめた。そして、きょう、天候はさらに悪くなり、飛行機は欠航になった。       □ 「まあ、ちょっとしたハリケーンさ」  とホテルの主人。 「あんたがさっき出ていった部屋は、いま掃除しているが、そこにあと1日2日泊まっていけばいいよ」  と、上手な英語で言った。 「そのうちに、ハリケーンもいっちまうだろう」  僕は、うなずいた。急いで日本に帰る必要はなかった。南洋のハリケーンを体験するのも悪くないと思った。 「まあ、バッグを置いて、ワインでもやらないか」  とホテルの主人。自分が昼食のテーブルで飲んでいる白ワインを、僕にすすめた。       □ 「あんた、小説家なんだってねえ」  主人がきいた。 「ああ」  ワインを飲みながら、僕は答えた。 「いままでに、ハリケーンが出てくる小説を書いたことはあるかい?」 「……いや。ないね……」 「そうか……。でも、いつか書くといい」 「それもいいけど、素材がまだないんだ」 「素材か……」  と主人。何回も、うなずく。この昼食で2本目らしいワインの栓を抜いた。自分と僕のグラスに注いだ。ワインを注ぐその手は、少しシワっぽい。60歳前後だろうと、僕は思った。       □ 「私が、まだ20代だった頃のことだ」  ホテルの主人が、ポツリと話しはじめた。 「私は、農業技術者として、フランスから、この南太平洋にやってきたんだ」 「農業技術者?」 「そう。早い話、ヤシの実から、ココナッツ・ミルクをとるんだ」 「ココナッツ・ミルクか……」 「そうだ、ココナッツ・ミルクをとって缶づめにして輸出する。そんな仕事の技術者として、ある島の大きな農園にやってきたんだ」  と主人。ワインをグイと飲んだ。 「当時、その島はまだフランスの植民地で、当然、農園主はフランス人だった」 「…………」 「その農園主には、2人の息子と1人の娘がいた」 「娘?」 「そう……娘だ。それも、若くてきれいな娘さ」  と主人。僕に向かってウインクしてみせた。 「あなたは、その娘に恋をした?」 「……ああ……もちろん……」  と主人。テーブルの上のバターナイフを手でオモチャにして、ちょっと遠くを見る目つきになった。 「若い技術者も娘に恋をしたが、娘の方も彼に恋をした。熱っぽくね」 「…………」 「ところが、娘の父親は怒った。そんな、ペエペエの若い技術者との恋愛なんて許さないと言ってね」 「…………」 「せっぱつまった2人は、その農園から駆け落ちすることにした……。ある朝、ジープを空港に走らせた……。ところが、そこへハリケーンがきていたんだな」 「…………」 「いまでも思い出すよ。ヤシの葉が、ちぎれてしまいそうなほど風が強くて、空港の小屋みたいな建物もいまにも吹っ飛びそうでね……。飛行機が飛ぶかどうかわからないし、農園から追っ手が出ているだろうし……」 「で? その結末は?」  と僕がきいたときだった。ポリネシア人の従業員が、部屋の掃除が終わったと言いにきた。ホテルの主人は立ち上がると、 「話のつづきは、また夕食のときにしよう」  と言って、おだやかに微笑《わら》った。       □  僕は、部屋のベッドに横になった。  主人のワイフのことを思った。品のいい銀髪をきちっとまとめ、あまり目立たないようにホテルの中で仕事をしている主人のワイフの姿を思った。彼女が、そのとき一緒に駆け落ちをした農園主の娘なのだろうか……。  そうなのだろうと、僕は勝手に決めた。そして、ハリケーンの空港で肩をよせ合う若い2人の姿を思い描いていた。  窓の外では、ヤシの葉が狂ったように揺れている。ちょっと感度の悪いラジオから、G《ジヨージ》・マイケルの新曲が流れていた。 [#改ページ]   ジョンとメリー  たそがれのホノルル。  アラ・モアナ|通り《ブルヴアード》を、鮮かな色の熱帯魚が泳いでいた。  僕は、 「ストップ」  と思わず言った。クルマのステアリングを握っていたケンが、ブレーキをふんだ。  FORDのヴァンは、つんのめるように駐《と》まった。       □  僕とケンは、駐めたヴァンからおりる。歩道を、そのショー・ウインドウに向かって歩いていく。  ビルの1階。小ぎれいな店のショー・ウインドウに、その熱帯魚はいた。  正確に言うと、熱帯魚の形のネオンサインは飾られていた。  熱帯魚だけではない。さまざまな形のネオンサインが飾られていた。  ヤシの樹。パイナップル。星。そして、ひときわ赤く、〈ROMEO《ロミオ・》 &《アンド・》 JULIET《ジユリエツト》〉をハート型が囲んだネオンサインが輝いていた。  どうやら、ネオンサインの店らしい。 「面白そうだね」  ケンが言った。僕もうなずく。 「のぞいてみるか」  と言った。きょうのロケハンは、もう終わった。あとは、シャワーを浴びて夕食にいくだけだ。時間は、たっぷりとある。  僕とケンは、その店の入口に歩きはじめた。       □  ポスターと雑誌広告の撮影《ロケ》だった。  新発売される缶ジュースのキャンペーンだ。ポスターはとにかく、雑誌広告のカット数が多い。ホノルルを中心に、あちこちで撮影する必要があった。長いロケになりそうだった。  ロケ場所さがしに、アート・ディレクターのMとカメラマンの僕が、まずハワイにやってきた。僕は、現地コーディネーターで親友のケンと、Mはケンの事務所のスタッフと、2組に分かれてオアフ島をロケハンしていた。  ロケハンも4日目。ロケ場所のめやすも、かなりつきはじめていた。気分が楽になってきたところだった。  僕とケンは、店のドアを押す。中に入った。  中年の白人男がいた。太って眼鏡をかけていた。テーブルに足をのせて〈ホノルル・アドバタイザー〉を読んでいた。  僕らを見ると、白人男は読んでいた新聞をたたむ。 「やあ」  と白い歯を見せた。どうやら、この店の人間らしかった。 「オーダーかい?」  と、僕らにきいた。 「オーダーでネオンをつくってくれるのか?」  僕は、きいた。男の太い首が、うなずいた。 「もちろん。なんでもつくるよ。あそこにあるのは、ほんの見本さ」  と白人男。ショー・ウインドウに並んだネオンを指さした。  僕は、ショー・ウインドウのネオンたちをながめた。それぞれに、値段がついていた。  白人男は僕の視線に気づくと、 「見本用につくったんだけど、欲しい客には売るんだ」  と言った。 「けど、やっぱり、オーダーがいい」  と白人男。自分のすぐ横にあるネオンを指さすと、 「こいつなんかも、3日前にできたオーダー品でね」  と言った。それは、ショー・ウインドウの〈ロミオとジュリエット〉と同じデザインだった。ハート型の中に〈JOHN《ジヨン・》 &《アンド・》 MARY《メリー》〉の文字。赤く輝いている。 〈ジョンとメリー〉……。確か、かなり以前にヒットした小説のタイトルだ。ダスティン・ホフマンの主演で映画化もされた。パーティーで出会った男と女が一緒に暮らしはじめるストーリーだった。 「オーダーした二人の名前なんだ」  白人男が言った。つけくわえて、 「なんでも、もうすぐ結婚する二人で、自分の家の窓にこいつを飾るらしい」  僕は、うなずいた。ジョン。メリー。平凡な、どこにでもある名前だ。       □  ロケハンが終わって、ロケの本隊がやってきた。スタッフたちと、忙しく駆け回りはじめた。  そんなロケの2週間目。  僕らは、たまたま、あのネオンサイン屋の前を通った。 〈ロミオとジュリエット〉のとなりに、〈ジョンとメリー〉のネオンも並んでいた。  僕はクルマを駐《と》めさせる。店に入った。白人男が、ビッグ・マックをかじっていた。 「あいつは、売り物になったのかい?」  僕は〈ジョンとメリー〉のネオンを指さした。ウインドウにある〈ジョンとメリー〉には、値段もついている。 「ああ、いつまでたってもとりにこないし、何回電話しても出ないんでね」  と白人男。 「結婚が何かでぶちこわしにでもなったんじゃないのか」  と言った。やれやれという表情で、肩をすくめた。       □  さらに5日後。ロケの最終日。たそがれ。  僕らのヴァンは、また、ネオンサイン屋の前を通った。僕は、クルマを駐めさせる。助手席から、ショー・ウインドウをながめた。 〈ジョンとメリー〉のネオンサインは、姿を消していた……。  物好きな誰かが買っていったのか。オーダーした本人たちがやっととりにきたのか。  クルマをおりようとして、僕は、やめた。本人たちがとりにきた。そう思うことにした……。  助手席の窓ガラスをおろす。僕は、キャノンF—1をとり出した。フィルムはまだ何枚か残っている。  望遠レンズを、店のショー・ウインドウに向けた。〈ロミオとジュリエット〉をフレームいっぱいに入れる。  たそがれのアラ・モアナ|通り《ブルヴアード》。涼しく乾いた海風が吹いていく。  F5.6。8分の1秒。僕は、息をとめ、そっとシャッターを切った。 [#改ページ]   レインボー・シャワー・ツリーが咲いていた  その花の名前を教えてくれたのは、ジニーだった。もう、ずいぶん前のことになる。       □  僕はまた、ハワイにきていた。  CFのためのロケだった。アイドル・タレントを使った清涼飲料のCFだった。  タレントやロケの本隊より数日前に、僕はホノルルにきていた。ロケ隊が着く前に、ロケハンをすませておくためだ。  毎日、オアフ島を走り回っていた。  クルマのドライバーは、ジニーといった。アルバイトで、撮影コーディネート会社の手伝いをやっていたらしい。  19歳だといった。  白人の血が半分。ハワイアンの血が4分の1。日本人の血が4分の1。ハワイにはいくらでもいる|混血娘《チヨプスイ・ガール》の1人だった。  少しグレーがかった金髪。スラリと細い手脚。頬《ほお》に、かすかなソバカス。  もう少女ではない。けれど、まだ女と呼ぶには早過ぎる。そんな季節の顔立ちをしていた。       □ 「ん」  そのとき、僕は、思わずつぶやいた。クルマを運転しているジニーに、 「ちょっと止めてくれないか」  と言った。ジニーのカルマンギアは、スッと通りの端に寄った。  ホノルル。午後3時。  カラカウア|通り《アベニユー》とクヒオ|通り《アベニユー》の交わるところ。  公園とは呼べないほどの、小さな芝生のスペース。  そこに、その樹《き》は立っていた。  7、8メートルの樹。花が咲いていた。  ピンポン玉ぐらいのつぼみが開いたところだった。薄い黄色。そこに淡い赤が混ざっている。  一見、目立たない花が、樹の枝からつらなってたれ下がっていた。  僕はカメラを手に、その花を見上げた。 「この花が好きなの?」  クルマからおりてきたジニーがきいた。 「ああ。ずいぶん前から気になっていたんだ」  カメラをかまえながら、僕は言った。 「この樹の名前、知ってるかい?」  ふり向いてジニーにきいた。ジニーは、うなずくと、 「〈|虹の通り雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》〉っていうの」  と言った。 「なるほど……」  僕は、つぶやいた。虹のように淡い色の花が、|通り雨《シヤワー》のようにたれ下がっている。そこから名づけられたんだろう。 「もっときれいなレインボー・シャワー・ツリーがあるけど、見たい?」  ジニーが言った。 「もちろん」  僕は答えた。ロケハンは、順調に終わったところだ。きょうの午後は|休み《オフ》だ。 「オーケー。じゃ、案内するわ」  とジニー。自分のカルマンギアに歩いていく。       □ 「ここよ」  とジニー。クルマをとめた。  ホノルルから東へ30分走った。カイルアの丘の上。小さな家の前だった。  ジニーは、家に入っていく。 「かまわないのか?」 「もちろん。私の家だもの」  ふり向いて、ジニーは微笑《ほほえ》んだ。  家の前庭には、1本のレインボー・シャワー・ツリーがあった。ホノルルの木とは比べものにならない数の花が、樹から流れ落ちるようにたれていた。 「この花が好きで、この家を借りたの」  とジニー。僕は、うなずいた。 「よそからハワイにくる人はみんな、ハイビスカスの派手な色や、プルメリアの香りに気をとられているけど、私は子供の頃からこの花が好きだった」  とジニー。微笑みながら、 「よそからきた人で、この花を好きだと言ったのは、あなたがはじめてよ」  と言った。 「ビールかワインでも飲む?」 「もちろん」       □  翌日。ロケ隊がホノルルに着いた。撮影がはじまった。  けれど、タレントのスケジュールのつごうで、|休み《オフ》の日がよくあった。  タレントが雑誌のための取材撮影をやっている日、僕らCFチームはオフだ。  そんな日は、ジニーと過ごした。二人で、ビーチを歩いた。崖《がけ》の上から、沖の鯨《くじら》をながめた。そして、一番よく時間を過ごしたのは、彼女の家だった。  家の庭に、木のテーブルとイスを持ち出す。ジニーの得意なシーフード・サラダを食べながらカリフォルニア・ワインを飲んだ。僕らの上では、いつもレインボー・シャワー・ツリーの花が揺れていた。  彼女に関するいろいろなことを、僕は知った。彼女がカイルア島育ちだということ、良い仕事を求めてオアフ島にひとりできていること。どこでも裸足で歩く習慣。そして、唇の柔らかさ……。       □  つぎのハワイ・ロケは、3か月後だった。  彼女の電話番号を回した。コールの音だけが、くり返し僕の耳もとで響いた。  借りたクルマを、僕はカイルアへ走らせた。  彼女の家の前。FOR RENT(貸し家)の看板が立っていた。  窓のカーテンは閉じられていた。庭にも、もう、木のテーブルとイスはなかった。  レインボー・シャワー・ツリーの花だけが、カイルア湾《ペイ》からの風に揺れていた。僕は、眼を細めてそれを見ていた。  いまも、あの花を見ると、ふとジニーの長い金髪を思い出すことがある。 [#改ページ]   U・S・A  部屋のラジオが、8ビートのフレンチ・ポップスを流しはじめた。  ちょっと巻き舌の女性シンガーが、早口のフランス語で唄《うた》っている。  僕は、ベッドの上で目を開けた。ゆっくりと昼寝からさめていく……。       □  赤道の南。  フレンチ・ポリネシアの小さな島。  僕は、クリスマス前の数日を、のんびりと過ごしていた。  ハワイでコマーシャルの撮影をやった。春先からオン・エアされる予定のコマーシャルだった。撮影は順調に終わった。東京でフィルムを編集するまで、少し間があった。  僕とプロデューサーのFは、スタッフと別れてエアー・フランスでこの島に飛んできた。  忙しかったロケ中の疲れを、ほぐしていくつもりだった。  小さいけれど美しい島だった。ブーゲンヴィリア。ハイビスカス。そして、ティアレという白い花が咲き乱れていた。  島には3軒のホテルしかなかった。僕らは一番高いホテルに泊まった。といっても、2階建ての小さなホテルだった。東京のシティ・ホテル1泊分の料金で4、5泊できた。  昼食はフランス式。ワインを飲みながらゆっくりと片づける。朝から砂浜で本を読んだり泳いだりしているから、当然、眠くなる。僕とFは、それぞれの部屋に戻って昼寝をする。  そんな昼下がりのことだった。僕は、つけっぱなしにしてあったベッドサイドのラジオを消した。ベッドからおりる。アクビをしながらスニーカーをはく。部屋を出た。  僕らの部屋は1階だった。ベランダからそのまま外に出られる。すぐ前は砂浜だ。  ホテルの食堂へいってミネラル・ウォーターをもらってこようと思った。部屋の裏へ回った。そのときだった。逃げていく人影が見えた。  部屋の裏側はただの空き地だ。プルメリアの木にロープをはって、自分たちの洗濯物を干せるようになっていた。僕らも、洗濯物を干してあった。  人影は、どうやら洗濯物泥棒らしかった。僕のTシャツを1枚つかんで走っていく後ろ姿が見えた。  僕は、走り出す。追いかける。  逃げていくのは女の子だった。おまけにゴムゾウリをはいていた。スニーカーをはいている僕は、すぐに追いついた。女の子の腕をつかんだ。  彼女はバランスをくずす。つんのめる。草の上に転んだ。       □ 「ごめんなさい」  彼女は、この島では珍しく、英語でそう言った。肩で息をつきながら、草の上に坐っていた。  15歳か16歳。白人だった。フランス人だろう。  少しくすんだ色の金髪は、ポニー・テールに結んでいる。ギンガム・チェックの半袖《はんそで》シャツ。カットオフ・ジーンズをはいている。一見、ハワイの娘《こ》みたいだった。 「これ……」  と少女。握っていたTシャツをさし出した。僕はそれを持つ。広げてみる。  かなり古いTシャツだった。5、6年前にロスで買ったものだ。袖は白。それ以外はブルー。胸に〈LOS《ロス》 ANGELS《アンジエルス》〉と描いてある。いかにもアメリカっぽいTシャツだった。それにしても、 「どうして、こんな古ぼけたTシャツが欲しいんだい」  僕は少女にきいた。少女の身なりは、カジュアルだけど、そう貧しそうには見えなかった。少女は無言で僕を見上げた。痩《や》せているけれど、リスのようなかわいい顔をしていた。       □ 「アメリカ製だから?」  僕は、きき返した。少女は無言でうなずく。  少女をつかまえてから10分後。僕らは、ヤシの並木をゆっくりと歩いていた。 「なぜ、アメリカ製が好きなんだい?」  僕は微笑《わら》いながら英語できく。少女もかなり上手な英語で、 「とにかく、アメリカが好きなの」  と答えた。 「アメリカが? 好き?」 「そうよ。服も、音楽も、何もかも好き」  少女は言った。声の調子が明るくなった。眼が、輝いている。  僕らは、島のメイン・ストリートにやってきた。メイン・ストリートといっても、小さな商店が3、4軒あるだけだ。午後の陽《ひ》ざしが、くっきりとした影を落としている。通りに人影はなかった。 「見て、あれが私の初恋の相手よ」  少女が言った。  彼女が指さしたのは、商店の壁。金属製の看板がはってあった。それは、マルボロの広告だった。おなじみのカウボーイが、煙草に火をつけていた。 「なるほどね……」  僕は、かすかに苦笑した。 「いつの日か、アメリカにいくの」  少女が言った。きっぱりとした調子だった。僕は、苦笑しながら、うなずいた。 「ノドが乾いたな、何か飲もう」  と言った。少女と一緒に店に入った。僕はライム・ソーダ。少女に、 「何か飲んでいいよ」  と言った。少女は明るい声で、 「コーク」  と言った。冷えたコカコーラの缶が出てきた。僕はパシフィック・フランで払う。  僕と少女は、店の入口にもたれて缶のトップを開けた。少女は元気よくコークを飲む。彼女にとっては、コークもまた夢のアメリカの一部なんだろう。  こんなに美しく静かな島から、わざわざアメリカにいかなくても……。僕はそう思った。けれど、ふと思いなおす。  考えてみれば、僕らの少年時代もそうだった。U・S・Aの3文字に、わけもなく憧《あこが》れたものだった。  それがアメリカでなくてもいいのだ。誰もみな〈ここではないどこか〉を夢見る。そして旅立つ。  そして〈ここではないどこか〉を夢見なくなったとき、人は退屈な大人になるのかもしれない……。  僕は、少女に、 「あげるよ」  とTシャツを渡した。また、冷えた缶を口に運ぶ。眼を細めて空を見上げた。紺《こん》に近い南太平洋の青空に、ヤシの葉が揺れていた。 [#改ページ]   ジン・トニックが汗をかく  あれは、僕が大学4年の夏だった。  僕とクラスメートのY《ワイ》とK《ケイ》は、湘南《しようなん》の葉山《はやま》でバイトをすることになった。  同じクラスメートの実家が、葉山で海の家を経営していた。  日帰り海水浴客のための、どこにでもある海の家のひとつだ。  その学生アルバイトが、夏休みの後半、不足することになってしまったという。僕らは、遊び半分、そこに泊まり込んでバイトをすることになった。  玲子《れいこ》と出会ったのは、そんな8月だった。       □  玲子も、その海の家でバイトをしていた。  僕らと同じ大学4年生だった。そのこともあって、僕らと玲子はすぐに仲良くなった。  1日の営業が終わると、僕らは前の砂浜を掃除する。燃えるゴミは燃やす。  そんなとき、ホウキや熊手をふり回して、僕らと玲子はよくカンフーごっこをやった。  天気が悪くてヒマなときは、店の裏でキャッチボールをやった。  けれど、仕事中の玲子は、じつによく働く娘《こ》だった。  地元の娘《こ》だという話で、毎朝、自転車に乗って海の家にやってきた。  洗いざらしのボタンダウン・シャツ。ホワイト・ジーンズ。それにゴムゾウリというのが、いつもの彼女のスタイルだった。  その上にエプロンをかけて、彼女は働いた。  よく笑い、よく食べ、よく仕事をした。ほかのバイトの娘《こ》が嫌がるような仕事も、ほとんど彼女が引きうけていた。ときには、僕らと一緒になって力仕事を手伝うこともあった。僕ら3人は、みんな、彼女に好意を持った。いま思えば、恋愛感情に近いものだったかもしれない。  けれど、いつもそうであるように、夏は短い。気がつくと、もう終わろうとしていた。  いよいよ海の家を閉める日。  午後の3時頃、すべての片づけは終わった。  僕ら3人と彼女で、飲みにいこうという話がまとまった。  ところが、その頃の葉山には、あまり洒落《しやれ》た店はなかった。  いろいろ相談しているうちに、Kが、 「君んちで飲むってのはどう?」  と彼女に言った。彼女は2、3秒考えると、 「いいわよ。たいしたことはできないけど」  と微笑《わら》った。自宅の地図を描《か》いて、ひと足先に、自転車で帰っていった。       □ 「ここかよ……」  と、思わずYがつぶやいた。  彼女が描いてくれた地図どおり、20分ほど歩いていった。彼女の家の前に立ったところだった。  海岸から少し山寄りに登った静かな住宅地の一番奥。どっしりと落ちついた日本建築の屋敷があった。広い敷地の奥には、竹やぶや木立ちがあるようだった。  これが、いつもゴムゾウリでバイトにくる彼女の家とは……。僕らがあっけにとられていると、彼女が門のところに出てきた。  彼女は、朝顔のもようのユカタを着ていた。黄色い帯をしめていた。  いつもは肩にたらしているまん中分けのストレート・ヘアーは、簡単な髪どめでアップにしてあった。  カタカタとゲタの音をさせて、彼女はやってくる。いつもどおりまっ白い歯を見せて微笑《わら》うと、僕らを門の中に案内した。 「父も母も、仕事で海外だから、気軽に飲みましょう」  と彼女。僕らは、広い庭を見渡すエンガワで飲みはじめた。家の裏にある木立ちでは、セミが鳴いていた。  彼女は、ジン、トニック・ウォーター、そして氷を持ってきた。  そして、グラスは陶器だった。大きめの湯のみ茶わん。そんな感じの器で、彼女はジン・トニックをつくってくれた。  素焼きのようなシンプルな茶わん。その表面に、やがて冷たさがしみ出してくる。器が、しっとりと汗をかく。 「夏は、こうして飲むのが好きなの」  彼女は言った。確かに、気持ちよかった。ガラスの冷たさとはちがう。汗をかいた茶わんは、手にも唇にも、ひんやりと涼しかった。 「茶道の器から思いついたんだけど」  と彼女。自分でもそれを口に運びながら言った。  やがて、中年のお手伝いが皿を持ってきた。そこには、キュウリをスティックに切ったもの、エシャロット、そして味噌《みそ》がのっていた。  キュウリとジン・トニックの香り。夏の終わりの夕陽《ゆうひ》。セミの声。  結局、僕ら3人のだれも、彼女の恋人にはなれなかった。けれど、彼女と出会えてよかったと思った。  また、夏がくる。僕はそろそろ、食器棚からジン・トニック用の茶わんを出そうと思っている。 [#改ページ]   カリフォルニアで寄り道  ロス・アンゼルス。午後2時。  サラサラとした、パウダーのような陽射《ひざ》しが、南カリフォルニアの空から降り注いでいた。気温は夏なのだけれど、陽射しも風もサラリと乾いて、歩いている僕らは、汗ひとつかかなかった。  僕とエミーは、ロスの中の学生街、ウエスト・ウッドを歩いていた。エミーは、日本の撮影《ロケ》チームのガイドだった。専門用語では、コーディネイターと言う。  CFディレクターの僕とエミーは、撮影に使うジョギング・シューズを探していた。ウエスト・ウッドはU・C・L・Aのある学生街だから、スポーツ用品の店も多い。目的のジョギング・シューズは、すぐに見つかった。  スポーツ用品店を出た僕とエミーは、ひと息つくために、カフェに入った。イエスタデイズ。過ぎた日々という名の店だ。僕らは、2階のベランダにある席に坐った。僕はフローズン・マルガリータ。エミーはワイン・クーラーを注文した。ウエスト・ウッドの通りをながめながら、ゆっくりと飲みはじめた。  エミーは日系三世だった。顔は、100パーセント、日本人。英語と日本語を自由に話せる。年齢《とし》は、僕より少し下。27歳か28歳というところだろうか。  カリフォルニアの人らしく、よく陽灼《ひや》けしていた。笑うと歯が白い。そして、よく笑う。コットンのサマー・ドレスを着て、白いテニスシューズをはいていた。  エミーはウエスト・ウッドにくわしかった。僕がそのことをきくと、大学がU・C・L・Aだからと答えて、校門の方を指さした。 「U・C・L・Aを卒業したのか」  僕がそうきくと、 「まだ卒業はしていないの」  微笑《ほほえ》みながら、エミーは答えた。  U・C・L・Aには、美術史の勉強のために入った。けれど、2年までいって、学費がたりなくなってしまった。親に頼るのは嫌なので、学費を自分で稼ぐことにした。大学は休学。撮影のコーディネイターとして働きはじめた。そんなことを、エミーはぽつりぽつりと話しはじめた。アルバイトのつもりではじめたいまの仕事が、とても気に入ってしまい、もう8年になるという。 「もう大学へは戻らないのかい?」  僕がきくと、 「いずれ戻って卒業するわ。いまは、ちょっと寄り道よ」  とエミー。ワイン・クーラーを飲みながら言った。微笑んだ。  僕ら日本人は、ベルト・コンベアーのような生き方をしていると安心する。高校は3年、大学は4年で、きっちり卒業する。そして就職。ほとんどの人間が、そんな流れ作業のような生き方をしている。それがいいのか悪いのかは、僕にはわからない。  ただ、〈ちょっと寄り道よ〉と言ったエミーの口調は、ごく自然で、とても良かった。8年間の寄り道。そして、その気になったら大学に戻る。そんな自由な生き方も悪くないと僕は思った。エミーが年齢よりずっと若く見えるのも、まだ大学を卒業していないせいかもしれない。そう思った。  東京にも、卒業のシーズンがやってきた。FMから流れる〈卒業写真〉を聴くたびに、僕はふとエミーのことを思い出す。 [#改ページ]   二人のチャイナ・タウン 「たまらなく麺《めん》が食べたい」  編集者のSが言った。僕らは、撮影機材を片づけながら笑った。笑い声が、オアフ島の風に運ばれていく。  ホノルルの東。カピオラニ公園。  僕らは、午前中の撮影を終えたところだった。カメラマンの僕。アシスタント。編集者のS。そして、現地コーディネーターのK。4人で、昼に何を食べにいくか話しはじめたところだ。       □  雑誌の仕事だった。男性誌の中のハワイ特集ページ。その取材だった。  広告のロケとちがって、撮るカット数が多い。僕らは、この5日間、ホノルルの周辺を走り回っていた。  食事は、なぜかアメリカンが多かった。昼はバーガー・キング。夜はリブ・ステーキ。そんな日がつづいた。Sが〈麺を食べたい〉と主張したのも、当然といえば当然だった。僕らの誰も反対しなかった。 「どこへいこうか」  僕は、コーディネーターであり友人でもあるKに言った。Kは、ちょっと考えて言った。 「そうだなあ……。ラーメンやサイミンもいいけど、ちょっとちがうやつにもトライしてみようか」 「もう、麺ならなんでもいい」  Sが、また言った。僕らは笑いながら、撮影用のヴァンに乗り込んだ。       □  Kの運転するヴァンは、チャイナ・タウンに入っていった。  ホノルルのチャイナ・タウンは、それほど広くない。むしろ、他の都市のチャイナ・タウンに比べれば、狭い方かもしれない。けれど、古びた街並みには、それなりに独特の雰囲気があった。  Kは、あいているパーキング・メーターの前にヴァンを駐《と》めた。チャイナ・タウンの端の方だった。僕らは、Kに案内されて1軒の店に歩いていく。 「僕も、はじめて入るんだけど」  と言いながら、Kは店に入っていく。一見、中華食堂のようだった。けれど、窓ガラスをよく見ると、ヴェトナミーズ・レストランと描かれていた。  越南という2文字も見える。越南とは、ヴェトナムのことだ。どうやら、それはヴェトナム料理の店らしかった。  もう、午後2時近かった。店はガランとすいていた。入っていく僕らに、 「いらっしゃい」  若い東洋人の娘が英語で言った。その顔を見て、 「あれっ、君は……」  僕は思わず言った。彼女も、 「あ……」  と、つぶやいた。       □  きのうだった。  僕らは、アラ・モアナ・ビーチで取材撮影をしていた。アラ・モアナの海岸には、地元《ローカル》の若い連中が多い。そんな男の子や女の子のビーチ・ファッションを撮影していた。  彼女とは、そのとき会った。正確に言うと声をかけたのだ。  彼女は、男の子と一緒だった。ビーチでデートしている。そんな感じだった。二人とも東洋人。10代の終わり頃だろう。  日系人には見えなかった。チャイニーズだろうと思った。  彼女の方はストレート・ヘアーを真ん中分け。白黒ストライプのワンピース水着。彼の方は蛍光色の入ったサーファー風のスイム・パンツ。二人とも、小さい頃から海の近くで育った感じがした。絵になっていた。二人に並んでもらって、僕は10回近くシャッターを切った。       □ 「君……ヴェトナム人……」 「そう。ここが、私のパパがやっている店よ」  彼女は言った。きれいに灼《や》けた顔から、白い歯がのぞいた。LOCAL《ローカル》 MOTION《モーシヨン》の青いTシャツを着て、ジーンズをはいていた。  僕らはテーブルに坐《すわ》る。漢字に英文ルビのついたメニューをながめた。  ヴェトナム料理は、チャイニーズに似ていた。国が隣り同士なのだから当然なのかもしれない。  僕は漢字で〈牛丸〉と書かれている麺《めん》を注文した。牛の肉ダンゴと野菜の入った麺だった。中華よりさっぱりとしていておいしかった。  僕らは食事を終える。食器を下げにきた彼女に向かって僕は、 「きのうデートしていた彼、かっこよかったじゃないか」  と言った。彼女は、人さし指を唇に当てる。〈ないしょ〉というしぐさ。店の奥をちらりと見た。店の奥はキッチンだ。たぶん、彼女の親がいるのだろう。       □  店を出る。僕らは、駐めたヴァンに歩きはじめた。後ろで足音。彼女だった。小走りでやってくる。 「ごめんなさい」  と僕らに言った。 「気にしなくていい。君のパパかママが、彼とつき合うのを嫌がっているんだね」  僕は言った。  彼女はうなずく。 「パパがね……チャイニーズの彼とつき合うのをとても嫌がってるの。ほら、ヴェトナムとチャイナの間には、いろいろとあったから……」  彼女は言った。僕は、うなずいた。中国とヴェトナム。国同士の間に紛争があったことは、なんとなく知っていた。こんな小さなチャイナ・タウンにも、その影は落ちているらしい。       □  3日後。帰国する僕らは、ヴァンで空港に向かっていた。アラ・モアナ公園の前を通りかかった。  あの二人が、いた。水色のワーゲンから、おりてきたところだった。気づいたKが、ヴァンのスピードを落とす。クラクション。彼らも気づく。僕らに手を振った。  彼女の長い髪が、彼のTシャツのスソが、海風に揺れていた。  いつか、彼らも正々堂々とつき合える日がくるのだろう。僕は、そう思った。時代は変わる。あのベルリンの壁でさえ、壊れたのだから。  僕は眼を細める。彼らに手を振り返した。カー・ラジオがヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの〈|Power of Love《パワー・オブ・ラヴ》〉を流していた。 [#改ページ]   赤と白 「やっぱり、白ね……」  彼女が、つぶやくように言った。 「ああ……」  僕も、フォークを使いながら言った。  グラスの白ワインを、ひと口、飲んだ。       □  そのたそがれ。僕と彼女は目白《めじろ》にあるビストロにいた。  のんびりと食事をしていた。  その店は、文字どおりのビストロだった。  日本でビストロと名のっている店でも、正確にはレストランである場合が多い。  フランスでビストロといえば、それはごく気軽な食堂のことをさす。市場の近くや、下町の裏通りによくある。  カウンターの上に、つくった惣菜《そうざい》を並べ、客が選べるようになっていたりする。そんな気さくな店だ。  僕らが食事をしていたのも、そんなビストロの雰囲気をうまく東京の街にとけ込ませた店だった。  僕らは、鴨《かも》の料理を食べていた。  秋が深くなっていた。鴨肉にアブラがのるシーズンだった。  僕らは、鴨を食べながら、白ワインを飲んでいた。       □  普通、鴨料理には赤ワインということになっている。レストランでも、赤をすすめられることが多い。  こってりとアブラののった鴨肉には、やはり濃く厚みのある味の赤ワインでないと負けてしまう。それが一般的なセオリーだった。  けれど、僕は逆の好みを持っていた。  鴨《かも》に限らず、こってりとした肉類には、さっぱりとした白ワインというものだ。アブラっこくなった口に、冷たい白を流し込むのが好きだった。いつも、そうしている。  赤と白。それは、人それぞれの好みでいい。自由にやればいい。  ただ、僕と彼女がつき合うきっかけになったのは、鴨と白ワインだった。       □  そのころ、僕はCFディレクターをしていた。彼女は、ヘア・メイク。ロケ隊のスタッフだった。  たまたま、八ケ岳にロケにいった。スタッフ全員で小さなホテルに泊まった。やはり晩秋で、夕食には鴨が出た。  僕が白ワインを頼むと、ホテルのオーナー兼シェフがしぶった。頭の硬い男らしかった。そのとき、 「私にも、白ワイン」  と明るい声で言ったのが彼女だった。後できけば、彼女もやはり、肉料理のときは白ワインを飲むという。  そんなことがきっかけで、個人的につき合うようになった。 「こってりした料理とさっぱりしたお酒。つまり、対照的なものだからうまく合うのよね」  と彼女は言った。僕も同感だった。  そういえば、僕と彼女も対照的だった。  僕は、いつもジーンズにスタジアム・ジャンパー。ナイキやケッズのスニーカーをはいていた。  彼女は、ヨーロピアン・スタイルが好きだった。  秋だと、よくキャメル色のカシミア・セーターを着ていた。  その下にコーデュロイのスカートをよくはいていた。  首には、バーバリーのマフラーを巻いていた。  やせて色白の彼女には、確かにそれが似合っていた。  すべて、アメリカ対ヨーロッパだった。僕がヘミングウェイを読んでいると、彼女はサガンの新刊を読んでいた。僕がスティービー・ワンダーを聴いていると、彼女は僕の知らないフレンチ・ポップスを聴いていた。  対照的だから、つき合いが面白かった。  けれど、対照的だから、結局、長つづきはしなかった。  つき合いはじめて2年目。街路樹から枯葉が落ちつくした日、別れた。  最後のデートも、目白のビストロにいった。鴨《かも》を食べ、白ワインを飲んだ。 「自由にやることが、結局は一番大切なのよね」  自分に言いきかせるように、彼女はつぶやいた。  肉の味を白ワインが洗い流していく。そんな感じで、僕らのつき合いは過去形になった。  僕らは、グラスに残った白ワインを飲み干すと店を出た。東京の街に、その年、最初の雪が降りはじめていた。  僕はいまも、秋の鴨には白ワインを合わせる。そして、街でバーバリーのマフラーを見かけると、一瞬、彼女のことを思い出す。 [#改ページ]   夜明けにバラード  その夜明け。  僕らは、船着き場で待っていた。  南太平洋。フレンチ・ポリネシアの島の1つ。  その船着き場だ。  ここから、連絡船で飛行場のある島に渡る。  そこからまた、飛行機を乗りついで日本に帰るためだ。  約1週間の撮影《ロケ》。そのエンディングだった。  スタッフの1人は、岸壁に坐り込んで煙草を吸っていた。別の1人は、あたりをブラブラとしていた。  僕は、撮影機材を入れたジュラルミンのケースに腰かけていた。  南洋といっても、明け方はけっこう涼しい。ヨットパーカーをはおって、機材ケースに腰かけていた。 「あの、ちょっと申しわけないが」  と声をかけられたのは、そんなときだった。       □  ふり向く。男が1人立っていた。  白人。30代の後半だろう。金髪が少し後退していた。ウエストまわりにも、贅肉《ぜいにく》がついている。  中年。そんな言葉がそろそろ似合いかけているように見えた。  男は、オフ・ホワイトの上着《ジヤケツト》を身につけていた。  左手には、小さなボストンバッグ。右手には、楽器ケースのような物を持っていた。 「何か?」  ときく僕に、 「ちょっとトイレにいってきたいんだが、これを見ててくれないか」  と男。右手に持った楽器ケースを眼でさした。  船着き場から少し離れたところに、ごく簡単なトイレがあった。  しかし、そのあたりにいるのは、ほんの数人。  人間と荷物をホテルから運んできたマイクロバスの運転手。  岸壁で釣り糸をたれている少年。  白人の観光客が2人。  それに、僕ら日本人のロケ・スタッフ。  そのぐらいのものだ。彼の楽器ケースを盗んでいきそうな人間は、まず見当たらなかった。それでも男は、真剣な顔で、 「すぐ戻ってくるから」  と言った。僕は、うなずいた。どっちみち、いまはただ船を待っているだけだ。  男は、楽器ケースを、僕らの機材ケースのわきに置く。ボストンバッグも、となりに置く。トイレの方に歩いていた。  その後ろ姿を見送りながら、僕は思い出していた。       □  男は、昨夜、僕らの泊まっているホテルのバーでアルト・サックスを吹いていた。  同じ白人の女性ピアニストと彼。二人だけのバンドだった。  僕らや白人観光客たちの飲んでいるバーのすみで、彼らは演奏していた。僕は、聴くともなしに、演奏に耳をかたむけていた。  男の演奏は、いかにも観光客用のものだった。  もともと甘ったるいラヴ・ソングを、思い入れたっぷりに、さらに甘く甘く演奏していた。  しかし、それはそれでいいのかもしれない。おもに初老の白人観光客たちは、うっとりとした表情でそれを聴いていた。曲に合わせて、スロー・ダンスを踊っている老夫婦もいた。  そんな光景を思い出しているうちに、男がトイレから戻ってきた。 「やあ、すまないね」  と男。僕は微笑《わら》いながら、 「別に」  と答えた。船は遅れているらしかった。男は上着のポケットからマルボロを出すと、 「日本に帰るのかい?」  と、きいた。僕はうなずくと、 「あんたは、どこへ?」  ときき返した。 「ロスさ」  と男。少し間をおいて、 「あっちのフュージョン・バンドから誘いがかかってね。いくことにしたんだ」  と言った。煙草の煙を吐き出す。  ロス。フュージョン。ということは、第一線での演奏。そんな連想が、僕の頭のすみをかすめる。  同時に、意外そうな表情が、僕の顔に出たんだろう。それに気づいたのか、 「そういえば、きのうの夜、あんたたち、ホテルのバーで演奏を聴いてたな……」  と男。僕は、うなずいた。男は、苦笑しながら、 「弁解させてもらえば、あれはいわば金稼ぎのための仕事でね」  と言った。僕は、なんとなくうなずく。 「そうだ。あんな演奏が本当の私だと思われちゃ心外だ。楽器を見張ってもらったお礼に1曲聴いてもらおう」  と男。楽器ケースから、ゆっくりとアルト・サックスをとり出した。  くわえてた煙草を、海に弾き飛ばす。唇をサックスのリードに触れる。息を吸い込む。一瞬ためる。そして、吹きはじめた。  岸壁の端から、鳥が飛び立った。僕は、思わず、男の横顔を見た。  聴いたことはある。が、タイトルは知らないジャズ・バラードだった。アルト・サックスから流れる音は、力強かった。鋭かった。気持ちよく乾いていた。そして、叙情的《リリカル》だった。  明るくなってきた空。夜明けの淡い陽《ひ》ざしが、楽器に光る。  男は、眼を閉じてアルトを吹いていた。その、前夜とは別人のような音を聴きながら、僕はふと思い出していた。きのう、一緒に演奏していた女性ピアニストのことだ。  休憩時間《インターミツシヨン》にも、二人は、バーのすみで飲んでいた。ただの仕事仲間にも見えたし、もっと親しい間柄のようにも見えた。その彼女の姿は、いまはない。  しかし……と僕は思った。そんなことを考えたり想像してみたところで、なんの意味もないのだ。  僕は、明けていく空を見上げた。ひんやりとした空気を胸に吸い込んだ。  男の吹くバラードが、岸壁に流れつづけていた。 [#改ページ]   海に向かって「グッド・ラック」とつぶやいた 「あの……もしかして……」  という声。僕の斜め後ろからきこえた。  ぼんやりと立っていた僕は、ふり向いた。 「やっぱり……」  と彼女。 「真紀《まき》……」  僕も、思わずつぶやいた。  数秒は、お互いに無言。うまく言葉が出てこない。じっと相手を見つめていた。  まっすぐに相手を見つめる真紀のくせは、5年前と変わっていなかった……。       □  午前9時。  ホノルル。Hホテルのロビー。  僕ら撮影《ロケ》隊は、この1階ロビーで待ち合わせをしていた。  スタッフのほとんどは集合していた。が、カメラマンとそのアシスタントが、まだ部屋からおりてこない。  僕らは、のんびりと雑談をしながら、カメラマンがおりてくるのを待っていた。  真紀に声をかけられたのは、そんなときだった。  僕は、ほかのスタッフから数メートルはなれる。真紀と、あらためて向かい合った。 「……ひさしぶり……」  と僕。 「本当に……」  と真紀。僕と一緒にいた撮影スタッフたちをチラリと見ると、 「あい変わらず、ロケ?」  と、きいた。僕は、うなずく。 「君は?」  僕は、彼女をながめた。  彼女は、ひとりだった。ストレート・ヘアーは以前のまま。青いタンクトップ。小さな金のピアス。ホワイト・ジーンズ。トップサイダーをはいていた。  顔や腕に、5年前ほどの陽灼《ひや》けはない。  無言の彼女にかわって、 「ハネムーン?」  と僕はきいた。今度は、彼女がうなずいた。 「そうか……で、ダンナは?」 「いま、レンタカーを借りにいってるの」  と彼女。 「それにしても、遅いわねェ」  と言った。腕時計を見た。オーソドックスなデザインのローレックスを左腕にしていた。  僕がそれをじっとながめているのに、彼女は気づく。 「何か不思議?」  数秒考えて、僕はうなずいた。 「あの頃の君は、絶対に腕時計をしなかった……」  と僕は言った。 「そうだったわね」  と彼女。僕らは、ふと黙り込む。お互いに、過ぎた日のことを思い出していた。  はじめて彼女と出会ったのは7年前。  きっかけは、仕事だった。  その頃、僕は駆け出しのCFディレクターだった。  缶ジュースか何かのCFで、ウインド・サーフィンができてルックスのいい女の子が必要になった。  いろんな大学の部やサークルを回った。そして見つけたのが真紀だった。  撮影は、やはりハワイだった。10日間、彼女を使ってあちこちのビーチで撮影をした。  彼女は、19歳だった。笑顔が無邪気だった。どんな風の強い日でも、怖がらずに海に出ていった。  おかげで、撮影は順調に終わった。  帰国する。彼女のCFがオン・エアされる。いくつかのモデル・クラブやタレント事務所から誘いがあったらしい。けれど、彼女はすべて断った。  そのかわり、いつしか僕と個人的につき合うようになっていた。ひとり暮らしをしていた僕の部屋に、よく遊びにくるようになった。  彼女は意外に家事ができた。きちんとした家庭に育ったようだ。よく、僕のアロハ・シャツをつくろってくれた。  その頃から、僕は古着《アンテイツク》のアロハが好きだった。ハワイ・ロケにいくたびに何枚も買い込んできた。  しかし、いいアンティック・アロハはよくほころびた。それを彼女はていねいにつくろってくれた。そんな優しさがあった。  けれど、彼女にも恋人としての欠点はあった。腕時計を決してしないのだ。きゅうくつで嫌だという。おかげで僕は、よく待ちぼうけをくわされた。 「そうだったわね……」  と彼女。苦笑い。 「やっと、腕時計をするようになったか」  という僕に、 「5年もすれば、人間、変わるわよ」  彼女はホロ苦く微笑《わら》った。ささいなことから別れた5年前を、僕はふと思い出していた。 「あなたも、アロハをつくろってくれる人を見つけたみたいね」  と彼女。エリもとがつくろってある僕のアロハを見た。  僕は、まだ独身だった。たまたま、すでにつくろってあったアンティック・アロハを店で買ったのだ。  けれど、僕はそのことを言わなかった。微笑《ほほえ》みながら、うなずいた。彼女も、かすかにうなずき返す。 「また、たそがれの一杯を一緒にやれたらよかったのにね……」  彼女が、つぶやいた。 「きょうのたそがれは?」 「彼がはじめてのハワイだから、サンセット・クルーズよ」 「じゃ、君は船の上、僕はホテルのベランダで、時間を合わせて乾杯しよう」  僕は言った。 「君はもう時計を持ってるんだし」 「……そうね」  彼女は、ほんの少し淋《さび》しそうにうなずいた。       □  午後6時10分前。  ロケから帰った僕は、ホテルのベランダに出た。みごとな夕焼けが広がっていた。  海面にサンセット・クルーズの船が出ていた。その上で、彼女はカクテル・グラスを手にしているのだろう。  6時ジャスト。決めておいた時間だ。  彼女は、左腕のローレックスを見たかもしれない。  僕も、ベランダの手すりにヒジをついたまま、グラスをほんの少し上げた。彼女への〈長いお別れ〉と〈グッド・ラック〉を胸の中でつぶやいた。  海風……。ひんやりと涼しい貿易風が、アロハのスソを揺らして過ぎた。 [#改ページ] 〈初出誌〉 ラスト・シーンが泣かせた MEN'S CLUB 90年8月号 「アラ・モアナ・サンセット」を改題 湘南ガール 三菱DCカードPR誌 『THE CARD』89年6月号 マギーの店は、きょうもOPEN MEN'S CLUB 90年12月号 「ホノルル・シティライツ」を改題 若いビールにはかなわない プチコミック90年1月号 「たそがれにクアーズ」を改題 64 歳 三菱DCカードPR誌 『THE CARD』89年1月号 「シクスティー・フォー」を改題 恋とは何か君は知らない MEN'S CLUB 90年7月号 「イエロー・バード」を改題 貝殻《シエル》ジンジャーの花 MEN'S CLUB 90年3月号 「ジンジャー・ガーデン」を改題 カラカウア・アベニューの通り雨 相模鉄道PR誌『相鉄瓦版』90年9月号 「カラカウア・アベニューはきょうも通り 雨」を改題 そして彼女はカムバックした 三菱DCカードPR誌 『THE CARD』89年5月号 「カリフォルニア・ドリーミン」を改題 ジェット・ストリーム 三菱DCカードPR誌 『THE CARD』89年2月号 夏雲とロケット 相模鉄道PR誌『相鉄瓦版』90年7月号 オンリー・イエスタデイ MEN'S CLUB 90年2月号 初秋ならハーフ&ハーフ プチコミック89年11月号 「枯葉色のビール」を改題 彼女はウィンディー MEN'S CLUB 90年5月号 「ウィンディー」を改題 パイナップルが歩くとき 相模鉄道PR誌『相鉄瓦版』90年11月号 ルビー・チューズデイ 三菱DCカードPR誌 『THE CARD』88年10月号 少年は、いつの日か風になる 三菱DCカードPR誌 『THE CARD』88年12月号 「ノー・サイド」を改題 ソバ屋でラガー・ビール プチコミック89年9月号 「ソバ屋の午後3時」を改題 遅い午後のウオッカ&ペリエ プチコミック89年5月号 「知的なウオッカ&ペリエ」を改題 ソルティー・レイン MEN'S CLUB 90年9月号 ドレスダウン プチコミック89年6月号 「ドレスダウンしてワイン」を改題 その夜、二人で流れ星を見た MEN'S CLUB 90年10月号 「セイシェル」を改題 カンパリ・サンセット プチコミック89年4月号 ミス・パイナップルの失敗《ミス》 三菱DCカードPR誌 『THE CARD』89年3月号 「ミス・パイナップル」を改題 ハリケーン MEN'S CLUB 90年11月号 ジョンとメリー MEN'S CLUB 90年1月号 「ジョン・アンド・メリー」を改題 レインボー・シャワー・ツリーが咲いていた 三菱DCカードPR誌 『THE CARD』88年11月号 「レインボー シャワー・ツリー」を改題 U・S・A MEN'S CLUB 90年6月号 ジン・トニックが汗をかく プチコミック89年7月 カリフォルニアで寄り道 相模鉄道PR誌『相鉄瓦版』91年3月号 二人のチャイナ・タウン MEN'S CLUB 90年4月号 「チャイナ・タウン」を改題 赤と白 プチコミック89年12月号 夜明けにバラード 三菱DCカードPR誌 『THE CARD』89年4月号 「アイランド・バラード」を改題 海に向かって「グッド・ラック」とつぶやいた 三菱DCカードPR誌 『THE CARD』89年7月号 「ロング・グッドバイ」を改題 [#改ページ]  あとがき  いま僕は、1年のかなりの時間を湘南の葉山で過ごしているのだけれど、そこでちょっと不思議な光景に出会ったことがある。  2、3年前のことだと思う。  僕は、自分の家のすぐ近くにある防波堤にいた。  夕方の4時頃で、遅い午後の陽射しが、海面に照り返していた。僕は、ただなんとなく海をながめていた。  海面に光るものを発見したのは、そのときだった。白く、ときには銀色に見える小さな光たち。  よく見れば、それは小魚の群れだった。小さな魚が群れをなして泳ぎ、ときには魚体を反転しているのだった。  小魚の群れを、このあたりで見ることは、特に珍しいことではない。イワシ。サバの幼魚。サヨリの子供。そんな魚たちが、ときどき、群れをなして泳いでいる。  けれど、その小さな魚たちには見覚えがなかった。僕が不思議そうな顔をして海面をのぞき込んでいると、知り合いの漁師が、 「そりゃ、アユだよ」  と教えてくれた。 「アユ?」  と思わずきき返した僕に、 「ああ、アユの子供だ。もう少ししたら川に登っていくんだ」  と漁師は教えてくれた。  アユは完全な川魚だと思っていた僕に、それはちょっとした驚きだった。  と同時に、胸の中でうなずいていた。そういうこともあるだろうな、と……。  川が海に流れ込むあたりで、淡水と海水がまざる。そういう場所を、海に関する言葉では汽水域と呼ぶ。  湘南にも、いくつかの川が海に流れ込んでいて、汽水域はある。  僕の家からそう遠くない所に、1軒のレストランがある。レストランは、川に沿って建てられている。ヨーロッパの一軒家を思わせるそのレストランには、庭もあり、庭の木立ちが、川面に影を落としている。  その川をながめていると、海の魚であるボラたちが群れをなして泳いでいたり、ときには黒鯛の子供までが姿を見せることもある。  その場所から海までは、ほんのわずかの距離であり、そこは淡水と海水のまざり合った汽水域なのだから、ごく自然なことなのだ。僕は、木立ちの影が落ちている川面をながめながら、ふと、そんなことを考えていた。  なぜ、こんなことを書きはじめたかというと、この短編集をつくる作業をしているうちに、ふと、汽水域という言葉が頭のすみをかすめたからだ。  こういうショート・ストーリーを書いていると、読者の人や、ときには編集者から、 「このストーリー、体験談なんですか?」  と、きかれることがある。しゃべるのが上手でない僕は、そのたびに、いつも困ってしまうのだ。  今回の短編集に入っている34編の物語にしても、そのなりたちは、さまざまだ。  自分の体験を、ほんの少しだけ味つけして書いたストーリーもある。  逆に、どこかの島の潮風の中で、一瞬すれちがった光景が、頭のすみにやきついていて、それをもとに大きくふくらませて書いたストーリーもある。  つまり、ほとんど体験談というものから、ほとんどフィクションというものまで、さまざまで、ほとんどの物語が、その中間にあるといっていいだろう。  体験とフィクションのまざり合い、とけ合ったところ……。これは、まさに、淡水と海水のまざり合った汽水域のように思える。  この短編集の校正刷りに目を通していて、僕は、ふと、そう思ったのだ。  こういう、ストーリーが生まれる背景というのは、かくしておいた方がミステリアスでいいのかもしれないけれど、その辺をぼかしておくのはあまりフェアーでないような気がして、あえて書いてみた。  大切なのは、どこまでが体験談なのかなどということではないと思う。でき上がったストーリーたちが、あの、汽水域を生き生きと泳ぎ回る魚たちのように輝いているかどうか……。そこが大切なのではないかと思っている。  34編のストーリーの、どれとどれに作者の体験が色濃く描かれているか、想像したりしてみるのも、こういう短編集の楽しい読み方のひとつかもしれません。  さて、もうひとつ打ち明け話のようなことを書けば、この本にも小説がはじまる前の口絵グラビアとして、僕が撮った写真が計6枚使われていますが、この6枚の写真は、どれも物語の中の1シーンです。  わかりやすいものもあれば、見つけるのが少し難しいものもあるかもしれませんが、気が向いたら、さがしてみてください。  今回も、初出誌でお世話になった方々、角川書店編集部の大菜生さんには、感謝します。  そして、この本を手にしてくれたすべての読者の方々に、ありがとう。また会いましょう。  リゾートなどにいけず、都会の片すみや、自分ひとりの部屋でこの本を読んでいる人にも、南洋の島々からの潮風が届けば、作者としてはとても嬉しいと思います。  では。また。 [#地付き]喜 多 嶋 隆   角川文庫『水平線ストーリー』平成3年8月10日初版発行