[#表紙(表紙.jpg)] 南十字星ホテルにて 喜多嶋隆 目 次  さよなら、チャーリー  裸足でサンセット・カクテル  |通り雨《シヤワー》のちホームラン  そのリクエストは歌わない  シャネルにお別れ  ナンバー1224に賭けて   あとがき   文庫版あとがき [#改ページ]   さよなら、チャーリー       □ 「なあ、ケンジ」  とバーテンダーの芳《フオン》。カウンターの中から、僕に声をかけた。 「3ドルほど賭《か》けないか?」  と言った。 「賭ける?」  カウンターにヒジを突いたまま、僕はきいた。 「ああ。あそこに、青いビキニの娘《こ》がいるだろう?」  とフォン。グラスを磨きながら、アゴでさした。 「金髪《ブロンド》を束ねたグラマーな娘《こ》か?」  そっちをながめて、僕はきいた。  僕とフォンがいるのは、ホテルのプールサイド・バーだ。僕らの前にズラリと並んでいるプールサイドのデッキ・チェアー。その中に、ひときわ目立つ白人の娘がいた。  プラチナ・ブロンドをポニー・テールに結んでいる。  小さなビキニからはみ出しそうなバストに、スプレー式の|陽灼け《サンターン》オイルを吹きかけている。耳には輪になった金のピアスをつけている。肌は白く、金色のうぶ毛が陽射しに光っている。 「あの娘がどこからきたか。そいつを賭けるのさ」  とフォン。細い眼でウインクしてみせた。 「なるほどね」  僕も微笑《わら》ってみせた。世界中から観光客がやってくるハワイのホテルならではの賭けだろう。退屈しのぎには、悪くない。 「で、あんたは、どこに賭ける」  僕は言った。 「あの肌の白さは」  とフォン。 「ずばり、カナダだね」  フォンは言った。1ドル札を3枚、パシッとバーのカウンターに置いた。  ホノルル。午後1時。  眼に痛いほどの陽射しが、ホテルのプールに反射していた。  さまざまな国からきた客たちが、さまざまなやり方で午後を過ごしていた。  体を灼《や》いている白人。泳いでいる日本人。カードをやっている黒人。プールにエアー・マットで浮かんでいる少女は、チャイニーズの客だろう。日本人の新婚さんは、サンターン・オイルの塗りっこをやっている。イタリー人らしい男は、となりにいる娘をくどいていた。 「さて……」  僕は、つぶやいた。フォンが言った青いビキニの白人娘をながめた。 「言っとくけど、〈|アメリカ本土《メイン・ランド》〉ってのはダメだぜ」  とフォン。 「メイン・ランドなら、州まで当てなきゃ」 「オーケイ、オーケイ」  うなずきながら、僕は答えた。 「よし。あの立派なバストはカリフォルニア育ち」  と言った。何も根拠はない。ただ、その娘の明るい表情を見てそう思っただけだ。  サーフ・パンツのポケットから1ドル札を3枚出す。カウンターに置いた。       □  20分後。その娘《こ》が、プールサイド・バーにやってきた。 「やあ、お嬢さん。何をご注文?」  とフォン。客の残した灰皿を片づけながら言った。 「ジンジャエール。うんと冷えたやつ」  と、その娘。きれいな英語でにこやかに言った。フォンはうなずく。クーラー・ボックスの蓋《ふた》を開けて、手を突っ込んだ。 「暑いねえ」  と、あいそよく言いながらジンジャエールを出す。 「本当にね」  と娘。フォンは、ジンジャエールを氷入りのグラスに注ぎながら、 「お嬢さん、どこから?」 「モントリオールよ、カナダの」  金髪娘は、ニコリと白い歯を見せた。  カウンターの上。1ドル札に印刷されてるワシントンが、僕に向かって〈残念だね〉と苦笑いしたように見えた。 「やられたみたいね」  背中で声がした。僕はふり向く。  ミス・エイヴィングだった。  彼女は、このプールサイドに面したレストラン〈レインボー・ルーム〉のマネージャーだ。  白人。40代の半ばだろう。少し茶色がかった金髪を、ピチッと後ろにまとめている。  年齢《とし》のわりに張りのある肌が、女優のJ《ジエーン》・フォンダを思わせた。  白いジャケットのソデには、紺のラインが1本入っている。それは、このホテルではマネージャーより上の役職の印だった。いつも、背筋をのばし、仕事場である〈レインボー・ルーム〉やその周辺をさっそうと歩いていた。 「何ドルとられたの? ケンジ」  とミス・エイヴィング。 「ほんの3ドルばかり」 「まあ、しょうがないわね」  と彼女。カウンターの向こう側にいるフォンをながめて苦笑。 「彼には、みんなやられるのかい?」  僕は、きいた。彼女は苦笑しながら、 「新しく入ってきた人は、だいたいね」  と言った。 「インチキ?」 「それは知らないけど、勝ち目のない賭《か》けはしないのよ。商売上手なチャイニーズだもの」  とミス・エイヴィング。 「ま、ポケットをからっぽにされないようにね、探偵さん」  と彼女。ジャカランダの花のように青い瞳《ひとみ》が、ニコッと微笑《わら》った。眼尻《めじり》に、小じわが見えた。それは、池の水面に立つさざ波のようだった。人生のキャリアを感じさせる感じの良い小じわだった。  彼女は、レストランのウェイターたちに、テキパキと仕事の指示をしはじめる。 〈探偵さん、か……〉と、僕は胸の中でつぶやいてみた。まぶしい空を見上げる。カラカラと風に揺れているヤシの葉をながめた。       □  同じようにヤシの葉を見上げていた5日前を、ふと思い出していた。  午後だった。僕は、自分のアパートメントのラナイ、つまりベランダにいた。デッキ・チェアーに寝っ転がって、空を見上げていた。  僕のアパートメントは、カピオラニ|通り《ブルヴアード》に面していた。11階建ての3階に部屋はある。テニスができるほど広くはないが、無理すればピンポンはできる。  静かな日だった。  空には雲ひとつなく、ヤシの葉も揺れず、おまけに僕は失業していた。  ホノルル市警を退《や》めたのは、自分の意志だった。  クビになったわけではない。  が、失職していることに変わりはなかった。辞表を叩《たた》きつけて退めたからといって、誰も感心してくれなかったし、ドアの前に札束を置いていってもくれなかった。  気分転換にサーフィンにいこうにも、オアフ島のどこにもヒザより高い波は立っていない。そうラジオの93FMQがアナウンスしたばかりだった。  そして部屋には、ヘタをするとヒザより高く、請求書と督促状が積み上げられていた。電気代。ガス代。水道代。VISAカード。クルマの修理費。その他いろいろ……。  部屋の電話が鳴った。  幸い、電話はまだとめられていない。  僕は裸足のままラナイから部屋に入った。5回目のコールで、受話器をとった。友人のタケシだった。  同じハワイ大学を出ている。同じ日系人だ。  いまは、コンピューター関係の会社に勤めている。 「仕事は見つかったか?」  とタケシ。 「いや」  アクビまじりに、僕は答えた。 「きょういった仕事先で、人を捜してるって噂《うわさ》をきいた」 「仕事先?」 「ホテルだ」 「おいおい、きゅうくつな制服が嫌で警察をやめたんだぜ」 「それが、プールの救助員《ライフ・ガード》だか掃除人だか、そんな仕事らしい。制服はきっと海水パンツだぜ」 「プール……」 「日本語と英語がちゃんと話せる若い人間が欲しいって話だ」 「ふうん……」 「ま、とにかくいってみろよ。プール掃除だろうとなんだろうと、失業してるよりはマシだろう」  とタケシ。彼の言うことはいつも正しい。  このままいけば、来月にはこのアパートメントも追い出されることになっていた。故郷のマウイ島に帰ったら、親はがっかりするだろう。それに、まず、マウイ島に帰る飛行機代がなかった。 「で? どこのホテルだ」 「南十字星《サザン・クロス》ホテル。ほら、ワイキキの東端の」 「ああ、知ってる」  ワイキキ・ビーチの東のはずれ。ダイヤモンド・ヘッド寄りにあるホテルだ。シェラトンやヒルトンほどではないが、規模はかなり大きい。  南十字星というと南半球のものと思われているけれど、ハワイでも季節によっては見える。そんなところから名づけられたホテルらしい。       □  翌日。午後1時。  結局、僕は南十字星《サザン・クロス》ホテルのオフィスにいた。  仕事がプール掃除だった場合のことを考えて、プールのゴミとり網《ネツト》をかついでいこうかとも考えたけれど、さすがに思いとどまった。  タケシがアポイントメントをとっておいてくれたので、すぐにオーナーの部屋に案内された。  オーナーの部屋は、2階にあった。  ドアにPRESIDENT(社長)と刻まれた金のプレートが光っていた。もし仕事にありつけなかったら、その金のプレートをしっけいして帰ろうと思った。  しかし、プールの掃除人の面接なら、ボスと会うはずもない。  網《ネツト》をかついでこなくてよかったとも思った。  金髪の秘書が、ドアを開けてくれた。デスクの向こうで電話をかけていたのは中年の日系人だった。  彼は電話を切った。立ち上がった。 「やあ、そこのソファーにかけて」  と英語で言った。  まだ40代だろう。仕立てのいい麻のスーツ。細いストライプのシャツはサンローランのようだった。そしてよく陽に灼《や》けた顔。絵に描いたようなバリバリの若手実業家だった。  渋い色調のタイは、ヨットの舵《かじ》の柄だ。濃紺の地に、白でヨットの舵が散りばめてあった。あの陽に灼け方から考えて、どうやらクルーザーを趣味にしているらしい。 「英語で話そうか? それとも日本語で?」  彼は英語できいた。感じのいい微笑を浮かべていた。が、眼は鋭くこちらを見つめている。 「どちらでも」  僕は、英語で答えた。 「じゃ、日本語でやろう」  キビキビと、彼は言った。もう日本語だった。 「私はタダシ・ヤマザキだ。よろしく」 「僕は、ケンジ・マツモト」  短く握手した。  僕は、簡単な履歴書をMr.ヤマザキに手渡した。 「マウイ島ワイルア生まれの日系三世……家族は、いまもあっちに?」  とMr.ヤマザキ。デスクで履歴書を読みながらきいた。  僕は、うなずいた。 「ハワイ大学を卒業後、ホノルル市警に入る。2年半で退職か……。理由は?」 「理由その1としては、あの暑っ苦しい紺の制服が好きになれなくて」  苦笑しながら、僕は言った。  Mr.ヤマザキも苦笑を返す。 「私もあの制服は好きになれないがね。で、理由その2は? もしかしてポリス・カーの色が好きになれなかったとか?」  Mr.ヤマザキ。 「いや。そのポリス・カーに同乗してた上司が好きになれなくて」  僕は微笑《わら》いながら言った。 「上司?」 「つまり、その……ああいう階級社会に、どうも適性がなかったらしくて」 「他人《ひと》の言いなりになるのが嫌だった?」 「それもあるし、上の連中の考えてることときたら、部下の手柄を自分のものにすることと、昇進することばかりで」 「知ってるよ。あそこの実態は」  とMr.ヤマザキ。微笑いながら、 「で? 上司を殴った?」 「あんなやつらに手を出したりしたら手が汚れるんで、かわりに辞表を出した」  Mr.ヤマザキは、うなずいた。 「警察に2年半いたってことは、格闘技は?」 「柔道とカラテなら、少しは。場合によっては茶道と華道も少々」  Mr.ヤマザキが白い歯を見せて笑った。 「大学時代にライフ・ガードをやっていたと書いてあるけど、もちろん水泳は得意だね?」 「少くとも、格闘技よりは」 「オーケイ。じゃ、話のつづきは、昼食《ランチ》でも食べながらにしよう」  とMr.ヤマザキ。立ち上がった。       □ 「探偵?」  僕は、思わずきき返した。 「そう。いま欲しいのは、このホテルの探偵なんだ」  とMr.ヤマザキ。ペッパー・ステーキを切りながら言った。  プールサイドに面した〈レインボー・ルーム〉。ランチ・タイムを過ぎているので、すいていた。  僕とMr.ヤマザキは、プールをながめる席に陣どっていた。  海から吹く風が、プールサイドを渡って、このレストランの中を気持ち良く吹き抜けていく。 「探偵っていうと、アロハの上にトレンチ・コートを着て38口径をわきの下に吊《つ》って?」  僕はシュリンプのフライをつまみながら言った。僕の前にはフライの盛り合わせがある。シュリンプ。|はまぐり《クラム》。白身魚だ。  Mr.ヤマザキは、また苦笑。 「面白いジョークだが、それに近いことをいまやっているだけに、大声では笑えないね」  と言った。 「いま、うちには、1人、チャーリーっていう探偵がいるんだ。もちろん、正式には〈保安《セキユリテイ》サービス部門〉の社員っていうことだがね」  僕は、うなずいた。  どの大ホテルでも、その仕事のプロは雇っているものだ。 「うちのチャーリーは、シカゴ市警から前の社長が引き抜いてきたんだが」  とMr.ヤマザキ。前の社長とは彼の父親で、Mr.ヤマザキは父親からこのホテルの経営を引き継《つ》いで半年になると言った。  彼は、ひと息、言葉を選ぶと、 「彼が、あと1週間で定年になるんだ」 「定年?」 「ああ。60歳のね」  Mr.ヤマザキは、肩をすくめる。 「ちょうど彼が退職するのを機会に、やり方を少し変えてみようと思ってね」 「変える?」  シュリンプを口に運びながら、僕は、つぶやいた。プリモ・ビアーをひと口飲んだ。 「ポイントは、2つある」  とMr.ヤマザキ。 「その1は、日本人対策だ」 「日本人対策?」 「ああ。このところ日本人客が急増してね」  僕は、うなずいた。いずれ、ホノルルの看板がすべて日本語に変わるだろうと、いつかラジオのDJがジョークを飛ばしていた。そのうちにジョークではなくなるかもしれない。 「私も日系人だし、日本人の客は気前よく金を使うし、それ自体は悪いことじゃないんだが、日本人客のトラブルが当然のように増えてきた」 「…………」 「ところが、ガンコなわれらがチャーリーおじさんは、〈サシミ〉と〈ベントー〉以外の日本語を覚えようとしないのさ」 「それで、日本語と英語が自由に使える人間を雇おうと?」  Mr.ヤマザキは、うなずいた。ステーキをひと切れ口に運んだ。 「そして、ポイントその2は?」  |はまぐり《クラム》のフライを食べながら、僕はきいた。 「まあ、野球で言えば、さしずめ守備位置《ポジシヨン》だな」 「ポジション?」 「そう。チャーリーみたいにいかにも探偵らしくホテルの中を巡回して回るのもいいが、もっと合理的でいい方法があると私は思う」  とMr.ヤマザキ。僕を正面から見ると、 「こういうリゾート・ホテルで、一番、客の様子をつかめるのは、どこだと思う?」 「さあ……」 「ここさ」  とMr.ヤマザキ。フォークで、眼の前のプールサイドをさした。 「プールの救助員《ライフ・ガード》を兼ねた探偵?」  クラムをフォークに刺したまま、僕はきいた。 「そういうこと。正確に言うと、ライフ・ガードを装った探偵というところかな」  Mr.ヤマザキは言った。  プールサイドとプールサイド・バーをながめて、 「客がホテルで一番長く時間を過ごすのが、ここだ」  と言った。 「おまけにプールサイドには、宿泊客以外の人間も出入りするし、つまり、いろんなトラブルの種が一番多く落ちているのがプールサイドだ。これは私の経験から言っても確かだ」  僕は、うなずいた。正しいと思えた。 「で、ライフ・ガード探偵を置こうと?」 「そういうことだ。ライフ・ガードなら、プールサイドの客たちを監視していても誰も不思議に思わない。おまけに、探偵やガードマンの持ついかめしさも客に感じさせないしね」  とMr.ヤマザキ。 「平常は、プールの監視員をやっていて、何かトラブルやその芽を見つけたら、私に報告してくれればいい。悪くない仕事だと思うがね」  Mr.ヤマザキは、白い歯を見せた。  彼の提案した仕事の内容は全く合理的なアイデアだった。しかも、プールのゴミ掃除よりは100パーセントましな仕事に思えた。 「週給は450ドル。君に異存がなければ、明日からでもきて欲しい」  Mr.ヤマザキは、キビキビと言った。いかにも、切れ者でやり手の若手経営者だ。 「何か質問は?」       □  翌日。午前10時。  僕はホテルの社長室にいた。  Tシャツ数枚とウインド・ブレーカーを支給された。Tシャツは白地に赤で人命救助の十字マーク。そして〈|LIFE GUARD《ライフ・ガード》〉の文字がプリントされている。  薄いペパーミント・グリーンのウインド・ブレーカーには〈Southern《サザン・》 Cross《クロス・》 Hotel《ホテル》〉の文字が白でプリントされていた。  自分の|波乗り《サーフ》パンツの上に、それを着た。  足もとは、いつものスニーカー。AVIA《エイヴイア》の白だ。 「オーケイ、いいだろう」  とMr.ヤマザキが言ったとき、ドアにノックの音。 「チャーリーか? 入れよ」  とMr.ヤマザキ。英語で言った。  ドアが開く。初老の白人が入ってきた。  ひと目でわかる。刑事顔だった。  七・三に分けた硬そうな髪は|ゴマ塩《ソルト&ペツパー》。濃い眉《まゆ》もゴマ塩。その下の眼は、鋭い。西部劇によく出てくる脇役俳優に似ていたけれど、名前は思い出さなかった。  ほかの男性スタッフと同じ薄茶のジャケット。ソデには紺の一本線。  ジャケットのわきの下が、かすかにふくらみを持っている。拳銃《けんじゆう》を吊《つ》っているんだろう。  ほかのスタッフとちがうのが、もう1つ。胸につけたバッジだ。星型の銀バッジ。〈SECURITY《セキユリテイ》〉と刻まれている。  片手にウォーキー・トーキー、日本式に言えばトランシーバーを持っていた。胸板が厚く、姿勢がいい。知らない人間にも、威圧感を与える雰囲気をみなぎらせていた。  どこから見ても、警備関係の人間と一目でわかる。 「紹介しよう、チャーリー」  Mr.ヤマザキ。 「あんたの後任のケンジだ。ホノルル市警に2年半いた」  チャーリーは、一瞬、鋭い眼つきでこっちを見た。 「よろしくな」  うなずきながら、そう言った。 「チャーリー、残りの6日間でホテルの中のことをケンジに説明してやってくれ」  とMr.ヤマザキ。 「とりあえず、いまから、ほかのスタッフに紹介してきてくれ」 「わかりました」  とチャーリー。敬礼するかと思ったが、さすがにしなかった。       □  チャーリーと並んで社長室を出る。廊下を歩きはじめた。 「ホノルル市警にいたんだって?」  とチャーリー。僕を見て言った。  うなずきながら、僕はチャーリーを見た。僕らの背は、ほとんど同じだった。ただし、体重は倍ほども違うだろう。僕は痩《や》せ型でチャーリーは水牛のようにがっしりしている。 「ホノルル市警ってやつは、何を教えてくれるんだい」 「いろいろね」 「おぼれた女の子へのマウス・トゥー・マウスとか?」  とチャーリー。ちょっと皮肉っぽく微笑《わら》いながら言った。 「そんな簡単なことは教わるまでもないさ」  微笑いながら、僕は言った。 「あんたは、シカゴ市警だって?」 「ああ。20年ほどね」 「もしかして、カポネが暴れてた頃の話かな? 機関銃とオノをかついで密造酒の工場を叩きつぶしにいったのか?」  僕は言った。チャーリーが、こっちを見る。ニヤリと微笑った。 「言うじゃないか、この若造が」  と、僕のヒジを突ついた。       □  チャーリーに案内されて、ホテルの中を回る。  最後に、 「そうか。お前さんの新しい仕事場はプールサイドだったっけな」  とチャーリー。  従業員用の階段をプールのある1Fにおりていく。  8Fから7Fへおりながら、チャーリーが言った。 「プールサイドにライフ・ガード兼探偵を置くとは、ボスも思いきったことを考えたもんだな」 「まあね……」  僕は、軽く答えた。7Fから6Fへ。6Fから5Fへ。 「私にも、わかってはいるんだ」  チャーリーが、ぽつりとつぶやいた。5Fから4Fへ。 「何を?」 「……いまのボスのMr.ヤマザキが、私のやり方を旧式だと思ってることさ」 「…………」  4Fから3Fに。 「しかし……たとえ古いと言われようと、私は私なりにベストをつくしてきたと思っているよ」 「…………」  僕は、ゆっくりとうなずいた。たぶん、そうなんだろう。異議を申したてる気はなかった。  3Fから2Fへ。 「ここをやめた後は?」 「弟が故郷のテネシーで牧場をやってるんだ。ナッシュビルの南にある牧場で、牛が500頭以上いる。手伝って欲しいとずいぶん前から言われててな」 「いくつもりは?」 「ああ」  チャーリーは、うなずいた。 「まあ、騒がしいホノルルにおさらばして、ゆったりとした牧場暮らしさ」  と微笑《わら》った。2Fから1Fへ。 「奥さんや子供は?」 「ワイフはとっくに死んだ。子供はいなかった」  何か言おうとした僕を、チャーリーは手でとめた。 〈同情はけっこう〉表情でそう言いながら、1Fのドアを開けた。まぶしいプールサイドに出る。  プールサイド・バーに、僕らは歩いていく。       □ 「バーテンダーの芳《フオン》だ」  とチャーリーが紹介する。 「やあ、よろしく」  とフォン。僕に向かって、同じ東洋人のせいか、気安い笑顔を見せる。  ハワイアン・スタイルの握手。  フォンは、僕より若い。まだ20代の前半だろう。  ボタンダウンのアロハ・シャツ。いちおう|長ズボン《ロング・パンツ》をはいている。漫画によく出てくる中国人の顔だった。細いドジョウひげをはやして中国服を着て、〈シェーシェー〉と言ったら似合うだろう。 「まあ、あいさつ代わりに1杯」  とフォン。グァバ・ジュースをグラスに注いでくれる。レストランの方から白人の女性スタッフが歩いてくるのが見えた。 「ああ、紹介しよう」  とチャーリー。 「彼が、私の後任のケンジ」  と、その女性スタッフに紹介する。 「こちら、その〈レインボー・ルーム〉のマネージャーで、ミス・エイヴィング」  とチャーリー。やけに照れた表情で言った。 「よろしく」  僕とミス・エイヴィングは短い握手を交した。       □  翌日。昼下がり。  プールサイドは平和なものだった。白人客の子供が転んでヒザをスリむいたのが、唯一、出来事らしい出来事だった。 「なあ、不思議じゃないか?」  プールサイド・バーのカウンターにもたれて、僕はフォンに言った。 「何が?」 「あれさ」  僕は、アゴで〈レインボー・ルーム〉の方をさした。  チャーリーが、巡回のとちゅうでミス・エイヴィングと立ち話をしている。 「チャーリー、やたら照れてると思わないか?」  僕は、フォンにきいた。  こわもてで通しているチャーリーが、彼女と話すときだけは、少年のように硬くなっているのが、はたから見てもわかる。 「惚《ほ》れてるのさ」  とフォン。  BUD《バドワイザー》をグラスに注ぎながら、こともなげに言った。 「このホテルの連中は、みんな知ってるよ」 「なるほど。で、彼女の、ミス・エイヴィングの方は?」 「まんざらでもないようだ。チャーリーは頑固者だが、温かい所のあるいいおっさんだからね。あるいは、彼女も惚れてるのかもしれない。しかし、かんじんのチャーリーが、あんなに照れてるんじゃなァ」  とフォン。 「シカゴ市警じゃ鬼刑事だったって話だけど、女にゃまるでダメだな」  と微笑《わら》いながら言った。 「もっとも、格闘や拳銃《けんじゆう》の腕も、まだ誰も見たことがないらしいけど」  とフォン。  BUDの空きビンをゴミ缶に放り込んだ。ガシャンと鋭い音がした。 「口の悪いやつは、シカゴ市警でずっと交通整理をやってたんじゃないかなんて言ってるよ」  フォンは、細い眼をさらに細くして微笑った。       □  チャーリーの南十字星ホテル最後の日は、金曜日だった。  アロハ・フライデー。  ハワイの人間は、金曜日をそう呼ぶ。この日は、ビジネスマンも役人も、ほとんどがアロハ・シャツで出勤する。女はムームーだ。  チャーリーも、ジャケットの下に渋い色のアロハを着込んでいる。黒地にヤシの葉を描いたアロハだった。  午後3時。チャーリーがプールサイドに姿を見せた。  きょう4回目の巡回だ。  ロビーの方へ抜ける出入口にチャーリーは立つ。いつものように、プールサイドを見回している。 「ケンジ、ちょっと手伝ってくれないか」  とフォンが言った。カウンターの中で、重い生ビールの樽《たる》を動かそうとしていた。  僕はカウンターの中に入る。かがみ込む。フォンと2人、樽をゆっくりと動かしていく。  そのときだった。  悲鳴!  鋭い女の声が響いた。 「泥棒!」  という叫び声は、英語だった。  僕はもう立ち上がっていた。  痩《や》せた男が1人、駆けてくるのが見えた。  若い、フィリピーノ。プールサイドの客じゃない。砂浜の方から入ってきたにちがいない。ほかのホテルと同じで、ここのプールも砂浜に面している。砂浜からも自由に出入りできるようにできているのだ。  ひったくりだろう。  男は、女物のビーチ・バッグをつかんでいた。 「誰か! つかまえて!」  プールの向こうからまた叫び声がきこえた。  日光浴をしていた客たちが、驚いて体を起こしている。  男は全速で走る。ロビーの方へ突っ走る。ロビーを抜けて逃げるつもりだろう。  だが、そこにはチャーリーがいた。  チャーリーは、男の前に立ちはだかる。  男が何か叫んだ。つかんでたビーチ・バッグをふり回した。  チャーリーは、体を沈めてそれをかわす。  チャーリーのがっしりとした腕が、男のエリもとをぐいとつかんだ。  柔道の投げ技。  男の痩せた体がチャーリーの上で1回転。背中から落ちた。  僕も、カウンターから飛び出していた。  男は、バッグをはなしてヨロヨロと立ち上がる。こっちに逃げてこようとした。  僕は、その腕をつかんだ。  軽く足払い。  フィリピーノの体は、また一瞬、宙に浮く。  プールサイドのアスファルトに背中から落ちた。  僕は、その腕を背中でねじ上げた。  それでも、男は暴れようとする。そのとき、 「それ以上ジタバタしない方が身のためだ」  落ちついた声がした。  男が顔を上げる。  チャーリーが、拳銃《けんじゆう》をかまえていた。38口径のリボルバー。俗にチーフ・スペシャルと呼ばれるものだ。銃口がピタリと男の額《ひたい》に向けられていた。チャーリーは、両足を広げ、余裕たっぷりに拳銃をかまえていた。  さすがに観念したらしい。フィリピーノは、暴れなくなった。 「ケンジ」  とチャーリー。ベルトの後ろについているホルスターから手錠を出す。こっちに渡した。  僕は、それを男の両手にす早くかける。 「ほら」  と、やつを立ち上がらせる。 「だいじょうぶ!?」  という声。ミス・エイヴィングだった。チャーリーに駆け寄ってくる。 「どうということないさ」  とチャーリー。拳銃をわきの下のホルスターにおさめながら言った。  その声に、ほんの少しだけ、誇らしげな響きがあった。 「ケンジ、そいつを保安《セキユリテイ》ルームにぶち込んで、警察を呼んでくれ」  とチャーリー。 「了解」  僕は、男の背中を押して、歩きはじめた。       □  夕方6時。プールサイド。チャーリーの最後の勤務時間が終わった。 「まあ、1杯やってくれよ」  とフォン。グラスにPRIMO《プリモ》を注ぐ。 「いやあ、本当にカンフー映画みたいなアクションだったよ、チャーリー」  とフォン。ビールのグラスを、チャーリーの方に押しやる。 「大げさだな」  とチャーリー。苦笑い。  それでも、ビールをグイとノドに流し込んだ。  フーッとひと息つく。こっちを見た。 「私はともかく、お前さんの足払いと犯人の扱いも、落ちついていて悪くなかった」  と僕に言った。 「若造のわりには、かい?」 「まあな」  とチャーリー。ゴマ塩の眉が、かすかに下がり、微笑《わら》った。  チャーリーは、自分の胸から、ゆっくりと〈SECURITY〉のバッジをはずした。5、6秒、銀のバッジをながめる。  やがて、無言で僕に渡した……。ワイキキ・ビーチの方向から射してくる夕陽が、銀色のバッジを光らせていた。バッジは、思っていたより重さがあった。  僕も無言で、数秒、それをながめた。  そして、ウインド・ブレーカーの内側に、ピンを刺してとめた。  チャーリーが、白い歯を見せた。 「ま、しっかりやるんだな」  と言った。がっしりした大きな手で、僕の肩を叩《たた》いた。       □  プールに、照明がついた。水が、中からエメラルド・グリーンに光る。  夕焼けの残る空。ヤシの葉がシルエットで揺れている。  プールサイドに客の姿はない。皆、ディナーに出かけたか、部屋でそのための身じたくをしているんだろう。 〈レインボー・ルーム〉で、ピアノ・トリオが演奏をはじめた。  週末はバンドが入るらしい。  客の何組かが、スロー・ダンスを踊りはじめた。  プールサイド・バーのスツールから、チャーリーが立ち上がった。  ゆっくりと〈レインボー・ルーム〉に入っていく。  壁ぎわに立っていたミス・エイヴィングのところへ、チャーリーは歩いていく。  何かささやいた。  どうやらダンスに誘ったらしい。  ミス・エイヴィングが、一瞬、とまどった表情をした。いま仕事中だから。そんな表情だった。  彼女は、ふり返る。  いつの間にか、Mr.ヤマザキが立っていた。 〈かまわないよ、今夜は〉  そんな風に微笑《ほほえ》みながら、Mr.ヤマザキはうなずいた。  やがて、チャーリーとミス・エイヴィングは、フロアに出ていく。  2曲目が、はじまった。  バンドマンは、チャーリーの故郷を知っているんだろう。流れはじめたのは、〈テネシー・ワルツ〉だった。切なく、美しく、少しホロ苦いメロディーが、ゆったりと流れはじめた。  2人の体が、ゆっくりと揺れはじめた。 「なあ、ケンジ、またひとつ賭《か》けないか」  とフォン。レモンをスライスしながら言った。 「何に?」 「チャーリーが、彼女を故郷にかっさらっていくかどうか」 「で、お前さんは?」 「かっさらっていく方に10ドル」  とフォン。  僕は、かすかに苦笑い。いつかきいたミス・エイヴィングの言葉を思い出していた。 〈フォンは、勝ち目のない賭けはしないの〉  ということらしい。 「まあ、やめておこう」  僕は言った。その背中で、 「私でも、その賭けには乗らないね」  という声。  Mr.ヤマザキだった。  僕と並んでプールサイド・バーのスツールに坐《すわ》った。彼は昼間と同じ服装だった。上質な麻のスーツをピッチリと着こなし、渋い色のネクタイをしめていた。  Mr.ヤマザキは、踊りはじめた2人をながめる。  カウンターの中のフォンに、 「ベテラン探偵と同時に有能なレストラン・マネージャーも失いそうな、あわれなオーナーに、1杯つくってくれないか」  と言った。 「何をつくります?」 「ダイキリのオン・ザ・ロック」  とMr.ヤマザキ。僕の方を見る。フォンに指で〈2杯〉とサインを出した。  Mr.ヤマザキと僕の前に、ダイキリが置かれた。背の低いグラス。大きな氷。そこへ半透明なダイキリが注がれていた。 「さて、何に乾杯するかな……」  とMr.ヤマザキ。 「まず、あなたのみごとなシナリオに乾杯しなくちゃ」  僕は言った。 「シナリオ?」 「そう。チャーリーの引退を飾ったあなたのプレゼントと言いかえるべきかな」 「…………」  Mr.ヤマザキは、じっと僕の横顔を見た。 「うむ……。面白い話だな。もう少しわかりやすく謎《なぞ》ときをしてくれないかね」  Mr.ヤマザキは言った。 「謎ときってほどのものじゃないけど」  僕は、話しはじめた。 「あの、ひったくりのフィリピーノは初対面じゃなくてね」 「…………」 「ホノルル市警にいた頃、1度、ブチ込んだことがある。アントニオっていう立派な名前のわりには、ケチな大麻《パカロロ》の売人《プツシヤー》でね」 「…………」 「けど、やつの専門はパカロロ売りだけで、ひったくりとか強盗とかっていう荒技は、まずやらない。何か事情がない限りね」 「…………」 「しかも、近くに保安《セキユリテイ》の人間がいるところでひったくりってのも、偶然にしちゃできすぎだ」 「だが、金に困ったドジなチンピラなら、やるかもしれないよ」  とMr.ヤマザキ。  僕は、うなずいて微笑《わら》いながら、 「じゃ、決定打。あいつをポリス・カーの警官に引き渡すとき、クルマの陰でそっと金を渡していたのは、僕の眼にまちがいがなければ、あなただと思うんだけど」  さすがに、Mr.ヤマザキも、言葉につまる。 「警官だけじゃなしに、ひったくりにまで金をくれてやる人間ってのも珍しいと思うけど」 「…………」  やがて、Mr.ヤマザキは白い歯を見せた。  苦笑いしながら、 「悪くないカンと観察力だ」  と言った。 「君を雇ったのは正解だったらしいな」  苦笑いしたまま、つぶやいた。 「あれがやらせだったことにチャーリーは?」 「ご心配なく。まるで気づいていない」  僕は答えた。 「じゃ、私の退職祝いはまずまず成功したわけだ」  とMr.ヤマザキ。 「見てのとおり」  僕は言った。  ロック・グラスを持った手で、踊っている2人をさした。  チャーリーの背筋は若々しくピンと伸びて、ミス・エイヴィングをリードしていた。  この日のことは、彼の胸の中で、錆《さ》びることのない銀バッジとして輝きつづけるだろう。  海風。  海の方から、乾いた風が吹いた。  陽射しに灼《や》けた頬《ほお》を、ひんやりとなでて過ぎていく。  カウンターのペーパー・ナプキンが、かすかに揺れた。  Mr.ヤマザキも、ダイキリのロック・グラスを持つ。 「じゃ、とりあえず、われらがチャーリーの再出発に乾杯といくか」  とMr.ヤマザキ。  踊っている2人をながめてグラスを持った。 「|幸運を《グツド・ラツク》、チャーリー」  僕らは、グラスを軽く上げた。  がっしりとしたチャーリーの肩。そこに置かれたミス・エイヴィングの細く白い指。  ゴマ塩の髪と金髪が、静かに揺れている。 〈テネシー・ワルツ〉が、ゆったりと、プールサイドに流れていく。  僕らのロック・グラスの中で、氷がチリンと鳴った。 [#改ページ]   裸足でサンセット・カクテル       □  叫び声!  観光客の誰かの叫び声が、プールサイドに響いた。 「ケンジ!」  とバーテンダーの芳《フオン》。  プールサイド・バーのカウンター。ハンバーガーをかじろうとしていた僕は、ふり向いた。  プールの水面。  不自然な水しぶき!  ひょうたん型のプールでも一番深いところ。2メートル以上あるところだ。  水をかく手!  苦しそうな顔がチラリと見えた。  誰か、溺《おぼ》れている!  僕はもう、ハンバーガーを放り出していた。  プールサイドに立っているヤシの樹。  その幹に、白い浮き輪がかけてある。  僕は、駆け寄る。  浮き輪をつかむ。  プールのへりに走る。  溺れかけているのは、日本人の娘《こ》だった。 「つかまれ!」  僕は日本語で叫んだ。  浮き輪を、彼女に向かって投げた。  こういう場合の救助法では、これがベストだ。  あわてて自分が飛び込んだら、溺れている人間に全力でしがみつかれる。かえって、やっかいなことになる。ヘタをしたら、自分の命だって危ない。まず、何かにつかまらせるのが一番いい。人命救助《ライフ・ガード》のバイトをしていた学生の頃、それを覚えた。  浮き輪は、もがいてる彼女のすぐそばに落ちた。  彼女の両手が、それをつかむのが見えた。  僕は、もう、ウインド・ブレーカーをパッと脱ぎ捨てていた。  スニーカーも、蹴《け》るように脱ぎ捨てる。  |波乗り《サーフ》パンツ、Tシャツのまま、水に飛び込んだ。  4、5メートル、落ちついて泳いでいく。  彼女はもう、両手で浮き輪につかまっていた。  浮き輪にしがみついて、むせている。  たいしたことはないだろう。  僕は、正面からゆっくりと近づいていく。  立ち泳ぎをしながら、 「だいじょうぶか?」  と、日本語できいた。  彼女は、むせながら、うなずいた。 「オーケイ、じゃ、上がろう」  僕は、彼女の腕をつかむ。両足で水を蹴る。ゆっくりと、浅い方に彼女を引っぱっていく。  立ち上がっていたプールサイドの客たちの安心した表情。  みんな、自分のデッキ・チェアーに戻っていく。  僕らは、プールの一番浅いところまでいく。  水の中についているゆるい階段を登らせる。彼女を、水からプールサイドに上がらせる。  プールのへり。彼女は、坐《すわ》り込んだ。 「……脚が、急につっちゃって……」  と彼女。  言いながら、また、むせた。 「部屋で休んだ方がいいな。荷物は、あそこだね?」  僕は、デッキ・チェアーの1つを指さした。彼女は、坐り込んだまま、うなずいた。  僕は、彼女のデッキ・チェアーに歩いていく。       □  彼女のことは、さっきから気づいていた。  特別注意していたわけではない。が、1人だけの客は、自然に目立つのだ。それが、団体行動の得意な日本人とくれば、なおさらだ。  彼女が1人でプールサイドに出てきたのは、2時間ぐらい前だった。  日本人。年齢《とし》は|20歳《はたち》ぐらい。  まだ学生かもしれない。髪はまん中分けのストレート。まずまずの美人といえる。  はじめて見る顔だった。きのうかきょう、チェック・インしたんだろう。  彼女は、ゆっくりと、あいているデッキ・チェアーに歩いていった。  なれた動作で、デッキ・チェアーに荷物を置く。  Tシャツとショートパンツを脱ぐ。かなりハイレッグなワンピースの水着。  水着も、ビーチ・バッグも、センスのいいものだった。  かなり陽に灼けていた。それも上手に、きれいなチョコレート色に灼けていた。茹《ゆ》でたエビのように赤くなってはいない。ハワイがはじめてではなさそうだった。  あるいは5回10回ときている娘《こ》かもしれない。  その娘に関して僕が気づいたことといえば、そのぐらいだ。問題を起こしそうではない。プールサイドで酔っぱらったり、大麻《パカロロ》を吸ったりもしないだろう。       □  2時間前に彼女が脱いだTシャツや何かを、僕はビーチ・バッグに入れる。肩にかける。  少しヒールのついているサンダルを片手に持った。 「さあ、部屋にいこう」  僕は言った。彼女はうなずく。 「立てるかい?」  と言いながら、片手を彼女に貸す。  少しよろけながら、彼女は立ち上がった。水中でつった左脚が、まだ完全になおっていないらしい。  彼女に肩を貸して、エレベーター・ホールの方に歩きはじめる。  1301号室。  ドアを開ける。彼女に肩を貸したまま中へ。  彼女をソファーに横にならせた。  1301は、いい部屋だった。  ダブル・ベッド。ソファー。そして、広いベランダ。眼の前は海だ。 「ここに1人で?」  僕は彼女の荷物を置きながらきいた。彼女は、うなずいた。  その耳に光ってるピアスは、どうやら本物のダイヤ。  半分開いているクローゼットには、高価《たか》そうな服が並んでいる。  その下に並んでいるハイヒールのパンプスには、イタリーの高級ブランドのマークがついていた。  僕の給料じゃ、片方も買えないだろう。  金持ち娘であることは、確からしい。  僕は、受話器をとる。ルーム・サーヴィスを呼ぶ。 「ああ、保安《セキユリテイ》のケンジだ。1301号室に、ブランディーをたらした紅茶を持ってきてくれ」  と英語で言った。彼女の顔は、まだ少し蒼《あお》ざめている。へたな薬より、ブランディー・ティーの方がいいだろう。 「あなた、ここの従業員なの?」  と彼女。僕はうなずく。Tシャツの胸についている十字マークと〈|LIFE GUARD《ライフ・ガード》〉の文字を指さして、 「プールの監視員なんだ」  と言った。 「ちょっと失礼」  と、彼女のつった左脚をさわった。ふくらはぎは、まだ硬くこわばっている。  僕は、そこをゆっくりともみはじめた。  ドアにノック。ルーム・サーヴィスが紅茶を持ってきた。       □  1時間後。 「もうだいじょうぶだ」  僕は言った。立ち上がる。  彼女の頬《ほお》には淡いピンクが戻っていた。脚のこわばりも完全になおった。  僕は、部屋を出ていこうとした。  その前に、彼女が立った。ドアを背中に、僕の首に両腕をすっと回した。 「まだ、帰らないで……。お礼がしたいの」  と、つぶやいた。  彼女の片手が、自分の肩にいく。水着の肩ヒモを、パラリと肩からはずした。  じっと、僕を見つめた。 「もしかして……誘惑されてるのかな?」  僕は言った。 「もしかしなくても……」  と彼女。  ささやくように言った。 「あなたは、標準的なハンサムじゃないけど、面白そうだし……恋したみたい……」  と彼女。 「…………」  僕は、そっと彼女の手首をつかんだ。首に回されてる腕を、ゆっくりと、はずした。 「いくらハワイでも、出会ってからベッドまで1時間というのを、恋とは言わないんだ」  と言った。 「君は美人だし、服のセンスもいい」  僕は言った。微笑《わら》いながら、 「けど、アバンチュールのセンスは、もう少し磨いた方がいいかもしれない」  と言った。  落ちている水着の肩ヒモを、そっと上げて肩にかけてやる。 「臆病《おくびよう》なのね」 「ああ……。火曜日は臆病に過ごす日なんだ」  僕は、彼女に微笑《ほほえ》みかけた。  部屋を出ていく。       □  帰りにフロントに寄る。彼女の宿泊カードをさがし出す。  1301号室。  名前は Eriko《エリコ》 Saito《サイトウ》。21歳。学生。  住所は東京の Se《セ》ta《タ》ga《ガ》ya《ヤ》。  8日間の宿泊代は、トラベラーズ・チェックで支払い済み。  僕は、肩をすくめる。宿泊カードを戻す。       □  翌日。午前10時半。  彼女が、エリコが、プールサイドに出てきた。  僕は、プールサイド・バーのカウンターにいた。バーテンダーのフォンと立ち話をしていた。明日、アラ・ワイ運河でおこなわれるカヌー競技の予想をしていたところだった。  ふり向いた僕と、エリコの視線が合う。  エリコは、プイと視線をそらした。そのまま、並んでるデッキ・チェアーの方に歩いていく。  フォンが、ニヤニヤしている。僕のヒジを突つく。 「マウス・トゥー・マウスの人工呼吸がヘタだったんじゃないのか、ケンジ」  と言った。 「ほっといてくれ」  微笑《わら》いながら、僕は言った。 「おい、見ろよ」  とフォン。並んでるデッキ・チェアーの方を眼でさした。カウンターでジンジャエールを飲んでた僕は、ふり返る。  エリコだった。  となりの白人客と、しゃべっている。  というより、となりの白人客が、エリコに話しかけている。  白人客は、30歳ぐらい。  どこか、ラテン系の血が入っていそうだった。  少しちぢれた黒い髪。黒い瞳《ひとみ》。かすかに胸毛が生えている。よくきたえた体つきをしていた。スポーツでできた体というより、トレーニング・マシーンでつくった体という感じだった。  ハンサムと言えないこともない。けれど、まともに仕事をやっている人間の雰囲気ではなかった。  どこか、ジゴロの匂《にお》いがする。  男は、熱心に彼女に話しかけている。  内容までは、きこえない。  が、わかりやすい英語を使っているんだろう。  身ぶり手ぶりをまじえて話す男。エリコが、ときどき白い歯を見せて微笑《わら》う。  男は、さらに、調子を出して彼女に接近する。  フォンが、肩をすくめて見せた。  やつが言いたいことは、わかる。  このハワイの、いたる所で見られる光景だった。  早い話、白人に簡単にひっかかる日本娘。そういうことだ。白人男たちは、日本娘のことをよくイエロー・キャブと呼んでいる。イエローはもちろん黄色人種のことだ。そして、誰でも乗せるからイエロー・キャブ(タクシー)なのだ。  それはそれで、1つの事実だ。  が、彼女の場合にも、それが当てはまるのかどうか……。  僕の胸の中に、クエスチョン・マークが残った。  同時に、何か、トラブルの予感がする。体の中のカンが、エリコに話しかけてる男に注意信号を点滅させている。  プールサイドのタオル係のところにいく。客に、ビーチ・タオルを貸すところだ。 「やあ、ジョー」  僕はハワイアンのジョーに声をかけた。 「あそこで日本人の娘《こ》と話してる白人、彼の部屋番号《ルーム・ナンバー》は?」  と、きいた。宿泊客は、ここでタオルを借りるとき、名前とルーム・ナンバーを書くことになっている。 「ええと、確かあの客は……」  とジョー。カウンターに置いたリストをながめる。 「これだ。816号室のマイク・コステロ」 「サンキュー」       □  フロントにいく。また、宿泊カードを調べる。  マイク・コステロ。32歳。職業は俳優。住所は、ロス・アンゼルス……ウィルシャー|通り《ブルヴアード》……。  僕は、それを持って保安《セキユリテイ》ルームに入る。ホノルル市警に電話した。  日系人の警官、カート・ナカジマに電話する。ナカジマは、元同僚だ。いまも、よく一緒に波乗りにいく。 「ケンジか。どうした」 「ちょっと宿泊客のことで調べてもらいたいんだ」  おれは、マイク・コステロの名前と住所を言った。 「この男の素姓を知りたい。犯罪歴のあるなしも」 「おい、FBIまで問い合わせることになるんだぜ」 「わかってる。口実は、なんとでもなるだろう。恩にきるよ」 「それだけか?」 「お前が欲しがってたサーフ・ボードをやるよ」 「あの、トライ・フィンのやつか!?」 「もちろん」 「……わかった。やってみよう」 「待ってる」  電話を切った。       □  |電話の返事《コール・バツク》があったのは、もう夕方だった。ロビーで電話をとる。 「どうだった」 「どうもこうも、やっかいなお客さんだな」  とナカジマ。苦笑しながら、 「こいつは、イタリー系アメリカ人で、俳優なんて嘘《うそ》っぱちだ。ただのチンピラだな」 「チンピラ?」 「ああ。3年前には、ビバリー・ヒルズの金持ちの娘を妊娠させて、親から金をゆすろうとしてあげられてる」 「…………」 「そのほか、結婚サギで2回、強姦《ごうかん》で2回、恐喝で3回、つかまってる。ご立派なもんだ」  とナカジマが言ったとき、そのコステロとエリコが歩いていくのが見えた。  ロビーから玄関へ出ていく。 「さらに、不起訴になった事件も入れると」  と言うナカジマに、 「わかった。また後で連絡する」  電話を切る。玄関に小走り。  コステロが、助手席のドアを開けて、クルマに彼女を乗せるところだった。レンタ・カーだろう。白いシボレーだ。  コステロのクルマは、走り出す。僕も、自分のワーゲンに向かって駆け出す。       □  待っていた。  ワイキキの東のはずれ。高級イタリアン・レストラン〈シシリアン・ガーデン〉。  その駐車場。僕は、駐めたワーゲンの運転席で待っていた。カー・ラジオから流れる曲を聴きながら待っていた。M《マライア》・キャリー。ウィルソン・フィリップス。U2。G《ジヨージ》・マイケル。ウィル・トゥー・パワー。G《グレン》・メディロス。 W《ホイツトニー》 ・ヒューストン……。  コステロとエリコが店に入ってから、2時間。  やっと2人が出てきた。  車係が、シボレーを玄関に回す。  コステロは車係にチップをやると、自分で助手席のドアを開けた。エリコを乗せる。日本人には絶対サマにならないエスコートぶりだった。  白いシボレーは、出ていく。僕はもう、ワーゲンのエンジンをかけていた。  気づかれないように用心しながら、尾行しはじめた。自分のクルマがワーゲンであることに感謝した。安い割りに塗装のいいワーゲンは、潮風のハワイじゃ山ほど走っている最も目立たないクルマと言えるだろう。  ひとけのないカピオラニ公園に、シボレーは入っていく。  広く薄暗い公園。その中の道路。シボレーは、スピードを落とした。止まるつもりらしい。  僕は、ワーゲンのヘッドライトを消した。スピードを落とす。  シボレーが止まったのが見えた。その40メートルぐらい後ろ。ワーゲンを止める。  シボレーのテール・ランプはついたままだ。ヘッドライトは消して、スモールライトだけにしているらしい。  静寂がつづく。5分……10分……15分……。  ふいに!  シボレーのドアが開いた。  飛び出してくる人影。薄いブルーのサマー・ドレス。エリコだった。  白いヒールのパンプスが、芝生を蹴《け》る。駆け出す。  コステロも飛び出してきた。追いかける。  20メートルもいかないうちに、コステロは彼女に追いついた。つかまえる。芝生に押し倒すのが見えた。  僕は、ワーゲンのドアを開けた。おりる。全力疾走!  芝生の上。2人は、もみ合っていた。  押し倒されたエリコ。その上にコステロ。  やつの手は、彼女のスカートにもぐり込んでいた。  エリコはもがく。が、体格がちがう。完璧《かんぺき》に、押さえつけられていた。  僕は、コステロの後ろに回った。  やつのエリ首をつかむ。  思いきり、後ろに引っぱる!  コステロは、もんどりうって芝生に転がった。  さすがにチンピラ。す早く立ち上がる。  僕をニラみつけて、 「お前……ホテルのプールの……」 「そういうこと」 「じゃましやがって!」  とコステロ。1歩、つめ寄る。左パンチを振り回してきた。  が、女扱いほど、荒技は得意じゃないらしい。  大振り過ぎた。  沈み込んで、かわす。  頭の上を、スピードのないパンチが走り過ぎる。パンチが空振りした、その勢いで、コステロは体のバランスをくずしている。トレーニング不足だぜ、この色事師が。僕は胸の中でつぶやいた。  体を起こしながら、右フック。コステロのわき腹に入れた。 「ウッ」  こもったうめき声。 「南十字星《サザン・クロス》ホテルの特別サービスさ」  僕は言った。  うずくまりかけたコステロのアゴ。 「追加サービスも、いかがかな?」  ヒザで蹴《け》り上げた。  やつは、のけぞる。芝生に転がった。体をシュリンプみたいに丸めて、うめいている。 「チップは、いらない」  僕は、コステロに言い捨てた。ふり返る。エリコはもう、立ち上がっていた。僕は無言。彼女の肩を抱く。自分のワーゲンに向かって歩いていく。       □  クルマに彼女を乗せて、説明しはじめた。  コステロの素姓。そして、僕がライフ・ガード兼ホテル探偵だということを。  ブレーキ。  ワーゲンを〈タコ・ベル〉の駐車場に駐めた。〈タコ・ベル〉は、メキシカン・フードのチェーン店だ。 「どうするの?」  とエリコ。 「晩メシを食べるのさ」  僕は言った。 「君らは高級なイタリー料理を食べてきたんだろうが、こっちは空腹なんでね」  クルマをおりながら、僕は言った。 「いいから、こいよ。アイスティーぐらいなら、おごってやるから」       □ 「海外で?……男と?……」  僕は、思わず、きき返した。かじりかけていたタコスが、宙で止まった。 「海外で、男と寝たことがないのは、君だけだから?……」  エリコは、うなずいた。 「……女子大のグループじゃ、私だけなの……そういう経験がないのって……」  と彼女。元気のない声で言った。  僕は、軽く、ため息。タコスをひと口、かじる。 「そうか……それで、きのうも、僕を誘ったわけか……」  エリコは、うなずく。そして、静かに泣きはじめた。スコールのように激しい泣き方ではない。静かにヤシの葉やハイビスカスの花を濡《ぬ》らしていく小雨のような泣き方だった。僕は、無言でタコスをかじる。  3個目のタコスを食べ終わったとき、彼女は泣きやんだ。 「気がすんだか?」  彼女は、うなずく。 「自分のバカさかげんが、くやしくて……」  と、つぶやいた。店のペーパー・ナプキンで、涙をふいている。 「〈ブライト・ライツ・ビッグ・シティ〉って小説、知ってるかい?」  僕は、ふと、言った。 「ジェイ・マキナニーの?」 「ああ……あの、最初の1行は、君にふさわしい」 「最初の1行って……確か……〈きみはそんな男じゃない〉って、あれ?……」  僕は、うなずいた。そして、 「君は、そんな女の子じゃない」  と言った。ニコリと微笑《わら》った。 「……こんな時間に、タコ・ベルなんかにいるような女の子じゃない?」  とエリコ。半ベソから、かすかな微笑《ほほえ》み……。 「そうじゃなくて」  と僕は苦笑い。 「そんな、女子大生同士の見栄のはり合いに参加するような女の子じゃない。少くとも、僕はそう思う」  と言った。かじったタコスをアイス・ティーで流し込んだ。砂糖をあまり入れていないアイス・ティーは、少し苦かった。が、エリコの気持ちはもっとホロ苦いのだろうと僕はふと思った。       □  タンタラスの丘。  ホノルルを見下ろす道路にワーゲンを駐めた。おりる。ホノルルの夜景が、眼の前に広がっていた。ブラブラとしばらく歩く。  やがて僕らは、並んで街の明りをながめた。 「軽蔑《けいべつ》してない?」  とエリコ。 「いや……。同情している」  と僕。皮肉ではなく、 「日本の女子大生も大変だな、と……」  と言った。彼女はうなずく。 「考えてみたら、本当にバカみたいね。グループの、誰よりいい服、いいクルマ、いい血筋のボーイフレンド……」  とエリコ。 「そんな見栄のはり合いを、つづけているんだものね……」  と言った。そして、 「……もう、いち抜けた」  と、つぶやいた。 「そう……。君は、そんな女の子じゃない」  僕は言った。 「あ……」  とエリコ。しゃがんだ。 「どうした」 「さっき、あの男ともみ合ったときのあれで、ヒールが折れちゃった」  彼女は、立ち上がる。ヒールの折れた白いパンプスを持っていた。  エリコは、数秒、それをながめる。やがて、 「ええい!」  と、パンプスを放り投げた。ホノルルの夜景に向かって、思いきり投げ捨てた。  もう片方も脱ぐ。同じように、投げ捨てた。 「ああ……なんか、さっぱりした」  とエリコ。 「ねえ」  ふいに、彼女が言った。立ち止まった。僕らは、駐めたワーゲンに戻るところだった。 「裸足《はだし》で道路を歩くのって……すごく気持ちいいのね……」  彼女が言った。 「ああ……。だから、ハワイの人間は、みんなよくそうしてるだろう?」  と僕。エリコは、うなずく。 「よく見かけてたけど……こんなに気持ちいいとは思わなかった……」  と彼女。実感のこもった声で言った。 「なんか……ヒールの靴でホノルルを歩いてた私ってなんだったんだろう……」  と彼女。夜景をながめて、つぶやいた。 「……きっと、心にまでヒールをはいてたのかも、ね」  僕は言った。 「心にヒール……か。当たってるわね」  と彼女。  僕らはまた、駐めたクルマに歩いていく。       □  6日後。午後6時。 「さて……」  僕は、腕のダイバース・ウォッチを見てつぶやいた。ライフ・ガードとしての仕事は終わりだ。心の中で〈OPEN〉のプレートを引っくり返して〈CLOSED〉にした。  プールサイド・バーにいく。カウンターのスツールに腰かける。 「終わりかい?」  とフォン。カウンターの中で言った。プールサイドのテーブルから下げてきたグラスを洗っている。 「ああ」  僕は、プールサイドを見回した。もう、人影は少ない。  ガランとしたプールサイド。エリコが歩いてくる。  水着の上にダブッとしたTシャツをかぶっている。顔も手脚も、きれいに灼《や》けている。そして、彼女は裸足《はだし》だった。  ピタピタと歩いてくる。サンダルをはいていたときより、歩き方が元気だ。彼女は、カウンターにやってきた。 「1杯おごらせて」  と僕に言った。 「きょうが最後だから」 「そうか……」  きょうは滞在8日目。あしたの朝、彼女はこのハワイを発《た》つ……。 「それじゃ、貧乏なライフ・ガードとしては、喜んで、おごってもらおう」  微笑《わら》いながら、僕は言った。 「ジン・トニック」  とフォンに言う。 「私には、カンパリ・オレンジ」  と彼女。カウンターのスツールにかけた。  夕陽は、水平線まで3インチ。  プールサイドのすべてのものが長い影を引いている。  デッキ・チェアー。誰かが忘れていった、|陽灼け《サンターン》オイルのチューブ。やはり誰かが忘れていったサングラス。  そして、バー・カウンターの上の灰皿。僕が腕からはずしたダイバース・ウォッチ。みんな、長い影を引いている。  やがて、僕らの前にグラスが置かれた。 「さて、何に乾杯しましょうか」  と彼女。 「……君が投げ捨てたハイヒールに」  僕は言った。彼女は、うなずく。 「心のハイヒールね……」  と、つぶやいた。  グラスを合わせる。彼女は、カンパリ・オレンジをひと口。 「また……来るわ……」  と、つぶやいた。遠くをながめて、 「女の子じゃなくて、一人前の女になってね」  と言った。 「……首を長くして待ってる」  僕は言った。ジン・トニックを、ひと口。  彼女の足を見た。  裸足《はだし》の両足。爪《つめ》に塗られた淡いピンクが、夕陽に染まっている。バーのラジオから、ビートルズの〈ハロー・グッバイ〉が流れていた。 [#改ページ]   |通り雨《シヤワー》のちホームラン       □ 「悪くない」  とバーテンダーの芳《フオン》。  プールサイドをチラリと見て言った。  ホテルのプールサイド・バー。カウンターのスツールにかけていた僕は、ふり向く。  フォンの視線がす早くさした方を見る。  プールサイドの東側。白人《ハオレ》の娘が、体に|陽灼け《サンターン》オイルを塗っていた。 「|40………《フオーテイー・》|20………《トウエンテイー・》|40………《フオーテイー》」  とフォン。あわただしくマイタイをつくりながら言った。40、20、40は、彼女のスリーサイズのことだ。単位はインチ。  センチに換算すると、バスト100、ウエスト50、ヒップ100。そんなことになる。  僕は苦笑い。  フォンの観測は、大げさとは言えない。それほどグラマラスな娘《こ》だった。  スプレー式のサンターン・オイルを塗っている。それでも、背中あたりは、塗りにくそうだ。 「どうだい、ケンジ」  とフォン。僕に向かって、 「チップなしでも手伝ってやりたくならないか」  と言った。細い眼をさらに細くして笑った。 「まあな」  僕がつぶやいたときだ。 「君は、ここの従業員だね」  という声。背中できこえた。  ふり向く。太った白人のおっさんが立っていた。すぐ後ろには、もっと太った白人のおばさん。夫婦者の客だろう。 「ええ」  僕は言った。 「ごらんの通り」  ウインド・ブレーカーにプリントされた、〈|Southern Cross Hotel《サザン・クロス・ホテル》〉の文字をさして見せた。 「何か?」 「ああ」  と白人のおっさん。 「ホテルの専用ビーチにいた私らに、マリファナを売りつけようとした者がいるんだ」 「マリファナ?」  言うまでもない。大麻のことだ。  僕らは、普通、パカロロと言う。マリファナと言うのは、観光客か、地元でも、ネクタイをきっちりしめた人種だ。 「それで?」 「もちろん私たちは断わったがね」  と、おっさん。 「了解しました。調べてみましょう。あなたのお名前とルーム・ナンバーは?」 「いや、私らはきょうこれからチェック・アウトするからいいんだが、ひとこと注意しとこうと思ってね」  僕は、うなずいた。 「で、そのマリファナを売ろうとしたやつはどんな男でした」 「男じゃないよ、女だったよ」  と、おっさん。 「しかも、若い娘《こ》よ」  と、おばさん。眉《まゆ》をひそめて言った。 「若い娘……」       □  プールサイドのまわりを半周。僕は、プールサイドから、ビーチに出る。  ホテルの前は、ワイキキ・ビーチだ。  その一画。ホテルのすぐ前は専用ビーチになっている。  細い鎖で、仕切られている。〈当ホテルの宿泊客専用〉の小さな看板。  専用ビーチの中には、10本ぐらいのパラソルが立っている。パラソルの下には、 〈|Southern Cross Hotel《ザサン・クロス・ホテル》〉と書かれたビーチ用の背もたれ。  そのホテル専用ビーチにいるのは、ほとんどが年寄りの白人客。パラソルと背もたれの必要な連中だ。  とても大麻《パカロロ》を買いそうな人間はいない。  売りつけようとしたその娘は、ほとんど素人《しろうと》だろう。  僕は、ビーチを見回した。  そして、すぐに見つけた。  となりのホテル。その庭とビーチを仕切る低い手すりに、彼女は腰かけていた。  16歳か、17歳。  典型的な地元娘《ロコ・ガール》だった。ハワイアン、白人。それに、どこか東洋の血が入っている。  髪は、少しくすんだ金髪。ダーク・ブロンドというやつだ。ポニー・テールに束ねている。  オフ・ホワイトのTシャツ。首回りも、スソも、ちょっとのびている。  ピンクのショートパンツは、かなり色が落ちていた。  ミルク・チョコレート色の長い脚。ゴムゾウリをはいていた。左右色ちがいのゴムゾウリをはいている。アラモアナ|S・C《シヨツピング・センター》のサーフ・ショップで売っているやつだ。地元《ローカル》の若い連中の間で流行《はや》っている。  やはり素人《しろうと》だ。プロなら、いざというとき逃げやすいようにスニーカーをはいている。  肩に、濃いブルーのデイ・パックをかけている。その中に、売りもののパカロロが入っているんだろう。  彼女は、海に向かって、手すりに腰かけていた。  いかにも観光客らしい人間が前を通ると、声をかけている。  声のかけ方は、かなりぎこちない。  いまも、日本人らしい若い男の2人組に声をかけている。  ひとこと、ふたこと。日本人は、首を横に振る。歩いていってしまった。彼女は、一瞬、気落ちした表情。手すりに腰かける。  また、つぎの客に声をかける。また、断わられる。  また、手すりに腰かける。  その、くり返しだ。  僕は、苦笑しながら、ながめていた。  マッチ売りの少女などという童話を、ふと思い起こしていた。  また1人、白人の男がビーチを歩いてくるのが見えた。  少女は、手すりから腰を上げる。男に近づいていこうとした。  そのときだった。  僕の中で、注意信号が点滅した。思わず、早足で彼女に近づいていく。  白人男は、見るからに観光客だった。  中年。小太り。〈HA《ハ》WA《ワ》II《イ》〉と大きくプリントされたTシャツ。いかにもカラカウア通り《アベニユー》の店で売っていそうなジョギング・パンツ。〈WAI《ワイ》KI《キ》KI《キ》〉とプリントされたビーチ・バッグを持っていた。ABCストアで売っている中国ゴザも丸めて持っている。  その男に近づいていこうとした彼女。その後ろに、僕は追いついた。 「やあ」  と、彼女に声をかけた。わざと大きな声だ。 「待たせて、ごめん」  彼女の肩を抱いて言った。彼女が、ふり向いた。  驚いた表情。  その耳もと。 「あいつは、ポリスだ」  と僕はささやいた。  彼女の表情に、混乱が走る。それでも、僕に肩を抱かれたまま、立ち止まった。  やがて、僕らのそばを、その白人男は歩いていく。通り過ぎる。  男は、30メートルぐらいいき過ぎた。  僕は、彼女の肩をはなした。  向かい合う。 「きいていい?」  と彼女。茶色がかった黒い瞳《ひとみ》が、僕を正面から見た。 「あなたは誰?」 「マイケル・ジャクソンさ。また整形したんだ」  微笑《わら》いながら、僕は言った。  彼女は、一瞬、ムッとした表情。腕組み。どうやら、質問その1は、あきらめたらしい。 「なぜ、あの男がポリスなの?」  と、彼女。 「警察用語で、アンダー・カバーって言うんだ」  僕は言った。 「私服で犯罪者をとり締まる役さ」 「あんな、観光客まる出しのやつが?」 「そこが、ミソだ。観光客らし過ぎるスタイルが、かえってあやしい。見てみろよ、その割りに、靴は、はきなれたスニーカーだ」  僕は言った。遠ざかっていく男を、眼でさした。  男はK・スイスのテニス・シューズをはいていた。いざというとき、犯罪者を追いかけるためだ。 「でも、服装だけでポリスだなんて……」  と彼女。不服そうな表情。 「ほかにも、いろいろある。眼つきとか、物腰とか、まあ、ひと口に言えば匂《にお》いだな」  僕は言った。  まだ不満そうな彼女の肩を叩《たた》く。 「よし、いいだろう。あれがパカロロ好きな観光客のおじさんじゃなくて、アンダー・カバーのおとり捜査だって証拠を見せてやろう」  僕は、彼女の背中を押す。早足で歩きはじめた。 「ほら、あそこではじまる」  僕は彼女に言った。       □  南十字星ホテルから、200メートルぐらい。  ワイキキ・ビーチに面したホテル群がとぎれる。芝生のビーチ・パークになっている。  観光客風の白人男は、のんびりとそこを歩いていく。  シャワー小屋の陰から、若い男がスッと出てきた。  フィリピーノだった。ヨレたタンクトップとジーンズ。肩までの長髪だった。パカロロ売りのチンピラだろう。  フィリピーノは、白人男に声をかけた。白人男は、立ちどまる。  2人は、シャワー小屋のわきで立ち話。 「パカロロの値段を交渉中なんだ」  僕は、彼女の耳もとで言った。  値段の交渉が終わったんだろう。フィリピーノは、あたりを見回す。警官の姿がないのを確かめる。  ジーンズのヒップ・ポケットから、ビニール袋らしいものを出した。す早く白人男に渡した。  白人男は、うけとる。うなずく。自分のビーチ・バッグに手を突っ込む。  パカロロと入れかわりに出てきたのは、100ドル札ならぬ38口径のリボルバーだった。フィリピーノにつきつける。 「そのまま動くな」  と言ったらしい。口の動きでわかった。  フィリピーノは、口を半開き。  動くヒマもなかった。どこからか、若い白人男が駆け寄ってきた。  若い方も、Tシャツにショートパンツ。足もとは走りやすいスニーカーだ。やはり、アンダー・カバーだろう。  若い方は、フィリピーノの両手を後ろに回す。す早く、手錠をかけた。  中年男は、38口径を引っ込める。バッグから、ホノルル市警の警察手帳を出す。フィリピーノに、チラリと見せた。  2人のアンダー・カバーは、フィリピーノの両腕をつかむ。早足で歩かせる。  50メートルぐらい先。カラカウア|通り《アベニユー》にポリス・カーが駐まっている。  一瞬の出来事だった。まわりの観光客も、ほとんど気づいていない。 〈安全な観光地ハワイ〉のイメージを守り通すためのやり方なのだ。  フィリピーノは、ポリス・カーに押し込まれる。  ポリス・カーは、サイレンも鳴らさず、走り去る。 「あれで、現行犯の一丁上がりだ」  僕は言った。  となりで、彼女が、大きく息を吐いた。       □ 「何をするのよ!」  彼女が言った。僕は、答えなかった。  彼女のデイ・パックに手を突っ込む。  ビニール袋を、とり出した。パカロロが入っていた。小分けにしてあるビニール袋。その1つを開ける。パカロロをとり出す。  匂《にお》いをかぐ。 「いちおう本物だな」  ワイキキあたりで売ってるパカロロには、ニセ物も多い。  芝生や雑草を乾燥したものを売っていたりするのだ。  が、はじめて買う観光客は、よく騙《だま》される。当然、本物とニセ物の区別がつかないからだ。 「しかし……」  僕は、手のひらに出したパカロロを指でほぐしながら、 「品種もそう悪くないが、乾燥が足りないな」  と、つぶやいた。  早い話、しけった煙草と同じなのだ。吸った人間は、頭が痛くなったり、吐きけをもよおしたりする。ひどい時はその両方だ。 「どんな売人《プツシヤー》から仕入れたかしらないが、これじゃ、吸った客は悪酔いするぜ」  僕は言った。 「返してよ」  と彼女。それは無視。 「名前は?」  彼女にきいた。 「忘れたわ」  と彼女。 「じゃ、しょうがないな」 「どうするのよ……」 「あそこに立ってる黒人がいるだろう」  僕は、指さした。カラカウア|通り《アベニユー》の信号にもたれて、若い黒人が立っている。派手なショートパンツ。タンクトップ。耳に、ウォークマンのイヤホーン。 「やつも、アンダー・カバーのポリスだ。あいつに君を引き渡す」  僕は言った。  とたん。  彼女の右足が動いた。僕のスネを蹴《け》ろうとした。  スネを蹴って、そのすきに逃げ出すつもりだろう。  が、予測していた。す早く、蹴りをかわす。  かわされて、彼女の体勢がくずれた。その左軸足を、僕は右足で横に払った。  彼女の体が、一瞬、宙に浮く。ヒップから、芝生に落ちた。 「このジャジャ馬娘が」  微笑《わら》いながら、僕は言った。 「さあ、どうする。ポリス・カーのシートにおさまるか、それとも素直に名前を言うか」  彼女を見おろして言った。  数秒の沈黙……。やがて、 「……レニー・キムラ……」  ブスッと言った。 「日系か……」 「父親がね……」 「学校は?」 「……ルーズベルト高校《ハイ》……」  ルーズベルト高校は、ホノルルの北側にある。ごく普通のハイスクールだ。 「いい子だ。いま何年だ」 「……11年生」  と彼女。日本式に言えば、高校2年ということになる。 「どうするの?」  と彼女。芝生に尻《しり》もちをついたまま言った。かなり、あきらめた表情。 「あたしをポリスに引き渡すの?」  と、きいた。 「……それもいいが、そろそろ腹が減った。何か食いながら考えよう」  僕は言った。       □ 「質問していい?」  とレニー。ジップ麺《メン》をすすりながら言った。  店は、〈ジッピーズ〉。安く、早く、ほどほどうまいチェーン店だ。僕らは、そのカパフル|通り《アベニユー》店で向かい合っていた。  2人とも、ジップ麺、つまりハワイ風のラーメンを食べていた。ハワイ式のラーメンは、普通、サイミンと呼ばれている。干した帆立貝やエビでダシをとるらしい。早い話、シーフード味のラーメンだ。僕は好きだ。たいていのハワイアンは好きだ。 「質問はいいが、せいぜい3つまでにしてくれ」  シーフード味の麺をすすりながら、僕は言った。 「名前は?」 「ケンジ・マツモト」 「サザン・クロス・ホテルの救助員《ライフ・ガード》なのに、なぜ警察のことにくわしいの?」  僕のTシャツやウインド・ブレーカーにプリントされている文字を見て、彼女はきいた。 「以前、市警にいたんだ」 「本当に?」 「残念ながらね」 「警察が好きになれなかったの?」 「ああ。だから、こうしてホテルに勤めてる」 「で、あたしをポリスに突き出さなかったの?」 「それもあるが……」  僕は、1度、言葉を切った。 「……マウイ島に妹がいるんだ。君とほとんど同じ年齢《とし》の」  レニーが、ハシをとめて僕を見た。 「あたしに、似てる?……」 「質問が、もう3つをこえたぜ」 「超過料金を払うわよ」  僕は苦笑い。 「ジャジャ馬なところは君に似ているが、パカロロは売らない」  今度は、レニーが苦笑い。ジップ麺《メン》をすすった。 「しかし、なぜ、あんなバイトを?」  僕は、きいた。 「もちろんお金よ」  とレニー。 「金?」 「あと1週間のうちに250ドル欲しいの」  とレニー。その眼を見て、 「誰かへのプレゼントだな」  と僕は言った。レニーは、うなずく。 「恋人《ステデイ》か……」 「まだただのボーイフレンドだけど、その250ドルに賭《か》けてるの」 「誕生日か何か?」  レニーは、うなずく。 「すごくしゃれたジャケットを、アラモアナ|S・C《シヨツピング・センター》で売ってるの」 「そいつが250ドルか……」 「そういうこと。で、もしあたしのことが好きなら、これを着てデートに誘ってって言ってプレゼントするの」 「なるほど、悪くない手だ」 「とにかく、彼があたしを好きかどうか、白黒がはっきりするわ」 「で、パカロロ売りか……」 「しょうがないでしょう」 「250ドルぐらい、親にもらえよ」 「嫌よ、親にそんな小遣いをもらうなんて。だいいち……」 「だいいち?」 「うちは、楽じゃないのよ」  とレニー。ジップ麺をすする手を止めた。 「このところ、家賃が倍に上がっちゃって」 「倍?」  レニーは、うなずいた。 「うちは、借地に建ってるんだけど、その借地代が、突然、倍になっちゃって……」 「日本の企業か……」  僕は、思わずつぶやいた。レニーは、少し肩を落としてうなずいた。  日系企業による土地の買いしめは、ワイキキから、周辺の住宅地にまで広がっていた。とっくに、社会問題になっている。  テーブルの上に、沈黙の数秒……。  僕もレニーも日系人なだけに、胸の中を複雑なものがよぎる。 「……だから、しょうがないでしょう。そんな短い時間に250ドルも稼げるバイトなんて、ほかに」 「あるかもしれない」  僕は言った。 「どこに」 「ここさ」  僕は自分のウインド・ブレーカーにプリントされた〈|Southern Cross Hotel《ザサン・クロス・ホテル》〉の文字をさした。 「プールサイド・バーのウエイトレスが、やめたばかりなんだ。いま、募集してる」  いまは、フォンが大忙しで働いている。 「でも、ウエイトレスのバイトじゃ、1週間で250ドルなんて……」 「1カ月分を前借りできるかもしれない」  僕は言った。 「少なくとも、パカロロ売りよりはましだと思うけど」  レニーに向かって、白い歯を見せた。       □  結局、レニーはウエイトレスのバイトにくることになった。  僕が、自分の親戚《しんせき》だと言ってレストラン・バー部門の責任者《チーフ》に紹介した。特に問題はなかった。  毎日、学校が終わった3時から、プールサイド・バーの閉まる7時まで、レニーはバイトにくることになった。  普通、バイトは週給だ。けれど、1カ月の前借りもできた。ボーイフレンドの誕生日プレゼントには充分な金額だった。 「|2《ツー》マイタイ、|2《ツー》バドワイザー、|1《ワン》フローズン・ダイキリ、|3《スリー》ブルー・ハワイ」  とレニー。バーテンダーのフォンに、新しいオーダーを伝える。さげてきたグラスを、キビキビとカウンターに置いた。 「イェッサー」  とフォン。カクテルをつくりはじめる。レニーは、客のいなくなったテーブルの片づけにいく。  ホワイト・ラムのキャップを開けながら、フォンが、 「助かったよ」  と僕に言った。 「もう少しで過労で倒れるところだったからな」  とフォン。  僕は、うなずいた。レニーは、確かに有能なウエイトレスだった。テキパキとしている。いつも笑顔をたやさない。オーダーをまちがえたりもしない。 「あんたらチャイニーズと同じで、日系人《ジヤパニーズ》も働き者なのさ」  僕は言った。フォンは、うなずきながら、レニーを見た。 「働き者のうえに、いいプロポーションをしてる」  とフォン。僕も、ふり返る。  レニーは、プールサイドのテーブルを、|ふきん《ウエス》で拭《ふ》いていた。トロピカル・プリントのシャツ。青いショートパンツ。ウエイトレスのユニフォームだ。  テーブルを拭いているレニー。そのショートパンツのヒップが、パチッと張っている。 「35……25……35……」  とフォン。彼女のスリー・サイズのことだ。 「いや、あのヒップなら、38インチはあるね」  僕が言ったときだった。レニーが、ふり返った。僕らの話がきこえてたんだろう。 「このバッド・ボーイズが!」  とレニー。濡《ぬ》れたウェスを丸めて、投げつけてきた。僕は、微笑《わら》いながらウェスをキャッチ。それにしても、 「いいフォームしてるじゃないか」  僕は言った。ちゃんとした野球のフォームになっていた。 「これでも、学校のベースボール・チームじゃ3番を打ってるんですからね」  とレニー。 「女の子なら、ソフトボールじゃないのか?」 「あたしは、女の子だけのソフトなんて嫌いだから、ベースボール・チームに入ってるの」  レニーは両手を腰に当てて言った。 「怖いな。つぎはバットでぶん殴られるぜ」  とフォン。おどけて首をちぢめた。       □ 「あ、まちがえた」  とレニー。バーのカウンターで、 「フローズン・ダイキリじゃなくて、ピニャ・カラーダだった」  と言った。 「珍しいね、オーダーをまちがえるなんて」  とフォン。微笑《わら》いながら、カクテルをつくりなおしはじめる。 「なに、理由は簡単さ」  カウンターにもたれて、僕は言った。  きょうは、レニーがバイトにきはじめて6日目。確か、ボーイフレンドの誕生日だったはずだ。 「そうだろう?」 「……さすがは探偵さんね」  とレニー。僕がプールの救助員《ライフ・ガード》兼探偵だと、誰かからきいてきたらしい。 「で、250ドルのジャケットは、プレゼントしてきたのか?」  レニーは、うなずいた。 「さっき、学校が終わったときにね」 「で?」 「……もし、あたしのことを好きなら、これを着て今夜、デートに誘いにきてって言ったわ」 「ここに?」 「そう。7時までバイトしてるから、その気があるならきてって、はっきり言ったわ」  とレニー。カウンターに両ヒジをついて言った。 「はい、ピニャ・カラーダ、でき上がり」  とフォン。グラスをその前に置いた。  レニーは、カクテルをトレイにのせながら、チラリとバーの時計を見た。  4時35分……。       □  5時55分。 「あと1時間だな」  と僕。 「1時間と5分あるわよ」  とレニー。       □  7時10分前。 「タイム・アップまで、10分だな」  と僕。 「わざと、ギリギリまでじらす気なのよ」  とレニー。       □  7時5分前。 「残り5分だぜ」 「きっと、タイを結ぶのに手間どってるのよ」  とレニー。       □  ジャスト7時。 「タイム・アップだな」  僕は言った。レニーは、軽くため息。カクテルを運ぶトレイを、カウンターに置いた。 「試合は負けか……」  とレニー。 「こういう場合は、なんて言えばいいの、探偵さん」 「敗戦監督は、何も言わないものさ。ま、1杯やるんだな」  僕は言った。フォンも、 「そういうこと」  とカウンターの中で言った。レニーは、 「わかったわ……。じゃ、何か飲ませて」 「何がいい」 「お酒、飲んだことないもの。わからないわ。考えてよ、ケンジ」 「うむ……」  僕は腕組み。 「初体験で、しかも、こういう場合の1杯か」  と、つぶやいた。1分考える。 「オレンジ・ブロッサム」  とフォンに言った。       □ 「苦い……」  とレニー。オレンジ・ブロッサムのグラスに口をつけてつぶやいた。  フォンも心得ていて、かなりドライにつくっていた。 「まあ、それが| 人 生 の 味 《テイスト・オブ・ライフ》っていうやつさ」  とフォン。柄にもないセリフをつぶやいた。 「ベストをつくしてもダメなことって、あるものなのね……」  レニーが、つぶやいた。僕は、うなずく。 「17歳で、そんな人生の真実をつかむなんて、めったにないチャンスだと思うぜ」  と言った。 「人生の真実?」 「まあ、そのシッポぐらいのものだろうけどね」  僕は、微笑《わら》いながら言った。 「テイスト・オブ・ライフ……」  とレニー。つぶやきながら、またグラスに口をつける。 「……やっぱり、苦い……」  と、つぶやいた。ほんの一瞬、手の甲で眼尻《めじり》をぬぐった。  |通り雨《シヤワー》のような涙だった。誰もいないプールに、灯が入った。エメラルド・グリーンが、たそがれの中で揺れる。空に、星が出はじめていた。       □  翌日、朝9時半。快晴。  クルマをホテルに走らせていた僕は、思わずブレーキをふんだ。  僕が走っているカピオラニ|通り《ブルヴアード》沿いに、グラウンドがある。  グラウンドでは、野球の試合をやっていた。白いユニフォームのチーム。青いユニフォームのチーム。  青いユニフォームの中に、レニーがいた。男の子たちの中で、ポニー・テールが揺れていた。  僕は、ワーゲンをグラウンドの駐車スペースに入れる。おりる。歩いていく。まぶしいハワイの陽射し。芝生のグリーンが鮮かに光る。  相手チームの攻撃が終わったところだった。レニーたちが守備位置から戻ってくる。  彼女は、僕に気づいた。手を振る。駆けてくる。 「対抗戦か?」 「そう。プナホ高校《ハイ》とのね」  とレニー。  そうか……。きょうは土曜日。学校は休みの日だ。 「レニー! 打順だぞ!」  と誰かの声。レニーは、ふり向く。 「いまいくわ!」  と叫ぶ。 「じゃ、1発、かっとばしてくるわ」  とレニー。その表情が晴れている。 「3時からバイトだぞ」  僕は言った。 「バイト代、1カ月前借りしてるの忘れるなよ」  レニーは、うなずく。 「わかってる。じゃ、あとでね」  と、まっ白い歯を見せた。駆けていく。青いユニフォームに、黄色で、背番号5。  レニーは、バッター・ボックスに入った。かまえる。キリッとした横顔……。リラックスした、いいかまえだった。  ピッチャーは白人の男の子。サウスポーだった。ガムをかみながら、キャッチャーのサインを読む。  1球目。外角低め。あきらかなボール。レニーのバットはピクリとも動かない。  2球目。やや内角。が、ウエストの高さ。打ちごろ。  レニーは、すっと体を開く。鋭くバットを振った。思いきりのいいスウィングだった。ポニー・テールが、大きく揺れた。  カーンといい音。  ハワイの青空。白球はレフトの頭上。ぐんぐんとのびていく。  歓声が、グラウンドに響き渡った。 [#改ページ]   そのリクエストは歌わない       □  RRRRR!  電話が鳴った。プールサイド・バーの電話だ。  バーテンダーの芳《フオン》がとる。僕に向かって、 「ボスからだ」  と、受話器をさし出した。  プール周辺を監視していた僕は、そっちに歩いていく。受話器をとる。 「ケンジか?」  と落ちついた声。ホテルのオーナー、Mr.ヤマザキだ。いつも通りのきびきびした口調だった。 「何か?」 「ああ。ちょっと気になる報告が、ルーム・サーヴィスからきてるんだが」 「気になる報告?」 「うむ。客の1人が、部屋でやたら酒を飲んでいるらしい」 「部屋で酒?」 「ルーム・サーヴィスで、もう、ウォッカ・トニックを12杯だそうだ」 「何日で?」 「今朝からいままでさ」  とMr.ヤマザキ。苦笑い。  僕は、腕のダイバース・ウォッチを見た。まだ、午前11時40分。  きょうも、ホノルルは快晴。プールサイドに落ちる人の影が短く濃い。 「客の名前と部屋番号《ルーム・ナンバー》は?」  僕はきいた。 「ジョン・マードック。713号室だ」 「街の女を連れ込んで、昼間から乱痴気《ワイルド》パーティーをやってるとか?」 「その様子はない。ルーム・サーヴィスが3回いったが、いつも1人でベランダで飲んでたそうだ」  とMr.ヤマザキ。 「プールサイドに出ていったりしたら、特に注意して監視してくれ。プールで心臓|麻痺《まひ》ってのも困るし、ほかの客にからんだりするのもまずいからな」 「了解」  僕は、電話を切った。       □  ホテルのフロントにいく。宿泊カードをめくる。すぐに見つかった。  ジョン・マードック。713号室。  きのうの夕方、チェック・インしている。宿泊予定は10日間。国籍U・S・A。住所はテキサス州オースチン。  職業は、野球選手。  野球選手……。いまは、11月の中旬。シーズン・オフの休暇だろうか。  僕は、宿泊カードを戻す。プールサイドに出ていく。       □ 「ハイ、ケンジ」  明るい声がした。プールサイド・バーのウエイトレス、レニーだ。  ショートパンツのユニフォームを身につけて、プールサイドに出てきたところだ。 「きょうは、早いじゃないか」  僕は言った。まだ、午後1時だ。レニーはバイトの高校生。いつもは、午後3時からだ。 「きょうは日曜だから、2時間よけいに働くのよ」  とレニー。  そうか……。ウエイトレスは時間給だった。 「そんなに稼いで、何に使うんだ。新しいビキニか?」  レニーは、首を横に振る。 「残念でした。野球のグラヴ」 「そうか……」  レニーは、高校で野球チームに入っている。男の子にまざって、一人前にやっている。 「前から欲しかった、いいグラヴがあるの」  とレニー。僕は、うなずく。同時に、思いついた。 「そういえばレニー、ジョン・マードックっていう野球選手を知らないか?」 「ジョン・マードック?……」  とレニー。しばらく考えると、 「そういえば、なんか、前にKZOO《ケイ・ズー》で聞いたような気がするわ……」  KZOOは、ラジオ局の名前。日系人向けの日本語放送だ。 「あ……たぶん……」  とレニー。何か、思い出したらしい。 「たぶん?」 「去年、本土《メイン・ランド》の大リーガーから、日本のプロ野球に入ったピッチャーがいて……確か、彼の名前がジョン・マードックだったような気がするわ」  とレニー。今度は、うなずきながら、 「うん、まちがいない。ジョン・マードックよ」  と言った。 「日本のプロ野球に、か……」  僕はつぶやいた。それなら、わかる。  シーズン・オフ。日本のプロ野球選手は、よくハワイにやってくる。チーム全体でくることもある。個人でくることもある。休暇や、キャンプのために。 「それにしちゃ、ウォッカ・トニックを12杯ってのは、ちょっとおかしいなあ……」  僕は、つぶやいた。不思議な表情のフォンとレニーに、マードックの件を説明する。 「やっこさんがプールサイドに出てきたら、気をつけてくれ」  と2人に言う。 「でも、顔を知らないんだぜ」  とフォン。肩をすくめた。       □  フォンの心配は、無用だった。  午後4時。プールサイドに出てきたマードックは、一目でわかった。  いくらハワイのリゾート・ホテルでも、午後の4時に足もとのフラついている人間は珍しい。  おまけに、体が大きい。さすがプロのスポーツ選手だ。190センチ以上は、あるだろう。  オフ・ホワイトのTシャツ。青いショートパンツ。茶色のデッキ・シューズ。  フラついてる姿に、デッキ・シューズだけは似合っていた。そう。揺れるヨットの甲板《デツキ》を歩く人間のように、マードックはプールサイドを歩いてきた。  プールサイド・バーのスツールに、ドスッと坐《すわ》る。手に持っていたルーム・キーを、ガチャッとカウンターに置いた。  キーの番号は、713。まちがいない。 「ウォッカ・トニックを」  とマードック。フォンに言った。  フォンは、うなずく。カウンターの端にもたれている僕を見た。  僕は眼で合図。フォンは、薄目《ライト》のウォッカ・トニックをつくりはじめる。  マードックの眼は、酒で赤くにごっている。その眼で、プールサイドをながめる。  僕は、さりげなくマードックを観察した。  年齢《とし》は、30代のはじめだろう。短く刈った金髪。がっしりとしたアゴ。もっとがっしりとした左手……。サウスポーのピッチャーなんだろう。  Tシャツのウエストあたり。少し、ぜい肉がつきはじめていた。 「はい、お待ちどう」  とフォン。マードックの前にグラスを置いた。マードックは、うなずく。  がっしりとした左手が、グラスをつかむ。グラスが、ずいぶん小さく見えた。 「あのォ……」  とレニー。グラス片手のマードックに、 「野球選手のマードックさんですよね?」  と、きいた。  マードックは、レニーの方を見て、 「ああ」  と答えた。ぼんやりしていた顔に、ほんの少し、微笑が広がる。  午後6時過ぎ。プールサイドもガラガラになってきた時間だ。 「あの……あたし、高校で野球チームに入ってるんですけど」  とレニー。 「ときどき、ピッチャーをやらされるんです」 「ほう、君が……」  とマードック。かすかな笑顔。レニーをながめた。 「でも、いまのところ、ストレートとカーブしか投げられなくて」  とレニー。 「あの……もし、迷惑じゃなかったら、シュートの投げ方、教えてもらえますか?」  レニーは言った。  それは、マードックへのおだてじゃない。このところ、レニーは本気でシュートの練習をやっていた。仕事のあい間。僕も、ときどきキャッチャーをやらされる。 「ふうむ……シュートか……」  とマードック。その笑顔が、自嘲《じちよう》的に変わっていく。 「しかし……いまは、ごらんの通り酔っぱらってるし、しかも……」 「しかも?……」  とレニー。マードックは、視線を持ったグラスに移すと、 「おれは、元野球選手だからね」  と皮肉っぽく言った。 「元野球選手?」 「……ああ、そういうこと」 「日本のプロ野球を、クビになった?」  そばにいた僕は、思わずきいた。 「ああ、早い話、そういうことさ」  とマードック。 「正確に言えば、来期の契約金のことで球団のフロントとケンカ別れしてきたんだが」 「ケンカ……」 「ああ……。言い争いの最後に、君ぐらいのピッチャーなら掃いて捨てるほどいる、と言われたよ」  とマードック。自嘲的に苦笑い。 「……それほど、年間の成績が悪かったの?」  レニーが、ズバリときいてしまった。 「…………」  マードックは、しばらく無言。 「思っていたより日本のバッターのスウィングはす早くて、しかも、ストライク・ゾーンときたら、国の狭さに比例してえらく狭いときてやがる」  マードックは、吐き捨てるように言った。 「あのジャッ……」 〈ジャップ〉と言いかけて、マードックは言葉を切った。  僕は完璧《かんぺき》な日系人。レニーも日系の血が濃く入った顔をしている。それに気づいたらしい。 「いや、ごめん……」  とつぶやきながら、グラスのウォッカ・トニックを、ひと息で飲み干した。悪い人間ではないと僕は感じた。 「とにかく、噂《うわさ》にきくヴェトコンみたいに、す早くチョコマカした日本のバッターを力でねじふせるには、おれは少し年をとり過ぎたんだろうな」  とマードック。また苦笑い。 「同じやつを、もう1杯」  とフォンに言った。そのアゴの不精ヒゲに、夕陽が光っている。       □ 「今年も、もうカントリー・ウイークか……」  とフォン。グラスを洗いながら言った。  プールサイドからつづいているホテルの庭。イスとテーブルが並べられている。従業員たちが、ステージの準備をしている。  南十字星ホテルのサーヴィスの1つ。カントリー・ウイークがはじまるらしい。  もうすぐ11月の第4木曜日。アメリカの感謝祭《サンクス・ギビング》だ。  この時期、日本人の客は少なく、逆に本土《メイン・ランド》からの客は多い。そんな白人客のために、カントリー&ウエスタンの歌手がステージを演《や》る。七面鳥《ターキー》の料理も出る。  そのための準備が、庭ではじまっていた。 「ケンジ」  という声。ふり向く。オーナーのMr.ヤマザキだった。金髪の女を連れて、プールサイドにやってきた。 「紹介しよう。今夜から1週間、そこのステージで唄《うた》ってくれる歌手のマリー・トンプソンだ」  とMr.ヤマザキ。 「彼は、プールの救助員《ライフ・ガード》を兼ねたホテル探偵のケンジだ」 「よろしく」 「こちらこそ」  僕らは短く握手。  マリーは、30歳ぐらいだろう。腕まくりしたカントリー・スタイルのシャツ。ストレート・ジーンズ。美人といえる。青く大きな瞳《ひとみ》が、O《オリビア》・ニュートンジョンに似ていた。 「毎年、ステージをやってる間は、白人の団体さんがえらく盛り上がるんだ」  とMr.ヤマザキ。 「中には、ハメをはずしてステージに上がってきたりするのもいる。つまり」 「その間は、ステージのまわりでガードマンもやれということかな?」  僕は言った。 「そういうこと。もちろん特別手当ては出す」  Mr.ヤマザキがそう言ったときだった。 「マリー……」  という声。3人同時にふり向く。グラス片手のマードックが立っていた。 「ジョン……ジョン・マードック……」  とマリー。青い瞳が、大きく見開かれている。 「あなた……新聞の記事じゃ、確か、日本のプロ野球で投げてたはずじゃ……」 「そりゃ、なんかの間違いだろう」  とマードック。酒でトロンとにごった眼で、マリーを見た。 「君こそ……こんなところで……」  と言いかけて、マードックはステージにかかった横断幕に気づく。 〈テキサスの美しい星 マリー・トンプソン 今夜出演!〉 「そうか……君はまだ唄っていたのか……」  マードックは、つぶやいた。 「今夜から1週間、ここで演《や》るわ」  とマリー。 「そりゃいいや。おれもぜひ聴きにこよう」 「……待ってるわ、ジョン」 「オーケイ。じゃ、おれの好きだったあの曲を唄ってくれるな?」 「あの曲?」 「そう。大学のグラウンドのすみで、いつも君がギターを弾きながら唄《うた》ってくれた」 「ああ……〈アゲインスト・ザ・ウインド〉ね……」 「そうだ……。楽しみにしてる。じゃ……今夜」  とマードック。グラスを手に歩いていく。       □ 「そう……日本のプロ野球でうまくいかなくて……酒びたりに……」  とマリー。ジンジャエールのグラスを手につぶやいた。軽いため息……。  夕方のプールサイド・バー。僕が簡単にマードックのことを説明したところだった。 「ところで、きいてもいいかな?」 「ジョンと私のこと?」  僕は、うなずいた。 「無理にとはいわないが」 「……いいのよ。かくすほどの事じゃないもの」  とマリー。ジンジャエールをひと口。 「テキサスのオースチンっていう街にある大学《カレツジ》でのことよ」 「君とマードックは、そこの学生だった」  マリーは、うなずく。 「彼は野球チームのエースで、私は、その頃からカントリーの学生バンドで唄ってたわ」 「恋人《ステデイ》だった?」  僕は、ズバリときいた。マリーは、軽くうなずく。 「2年間近くね」 「でも、終わりがきた?」 「そう。……卒業して、彼は大リーグにスカウトされたわ。そして、街をはなれた……」 「君は?」 「地元のお店で、唄《うた》いはじめたわ。プロとしてね。それ以上説明しなくても、わかるでしょう?」  僕は、うなずいた。 「彼の活躍や消息は、ときどき新聞のスポーツ欄で読んでたわ」  とマリー。青い瞳《ひとみ》が、遠くを見る。 「……私の方は、新聞に名前が載るような歌手にはなってないけど……とりあえず、唄いつづけてきたわ……」  僕は、うなずいた。ふと、思い浮かべていた。  大学のキャンパス。がっしりした青年。となりでギターを弾いている金髪の女の子。流れる〈アゲインスト・ザ・ウインド〉。もう10年ぐらい前のヒット曲だ。 「唄うのかい? 彼のリクエスト」 「さあ……」  とマリー。腕時計を見る。 「さて、そろそろステージの準備をしなくちゃ」  と、立ち上がった。       □  拍手。歓声。夜空に響き渡る。  マリーの3《スリー》ステージ目が、はじまった。  バック・バンドの軽快な演奏。ウエスタン・スタイルのマリーが、ステージに出てきた。  テンガロン・ハット。カウボーイ・ブーツ。腰には拳銃《けんじゆう》まで吊《つる》している。  このステージの1曲目、T《タニヤ》・タッカーの曲を唄いはじめる。僕はステージ下の端に立っていた。客席を、ながめていた。  マードックは、最初のステージから聴いていた。一番前の右端のテーブルを、1人で占領していた。  1《ワン》ステージ目。マリーは、彼のリクエストを唄わなかった。  2《ツー》ステージ目。やはり、唄わなかった。  ステージが1回終わるたびに、マードックの表情が不機嫌になる。ウォッカ・トニックを飲むピッチが早くなる。  朝から数えれば、30杯や40杯は飲んでいるかもしれない。  3《スリー》ステージ目も、マリーは淡々と唄いつづける。そして、 「さて、このステージもそろそろラストの曲になりました」  と、マイクを通して客たちに話しかける。 「では、最後の曲は、エミルー・ハリスのナンバーから〈ブルー・ケンタッキー・ガール〉」  そのときだった。  マードックが、立ち上がった。イスが倒れるのが見えた。 「マリー!」  とマードック。ステージの彼女に叫びかけた。 「なぜ、おれのリクエストを唄《うた》わないんだ!」  とマードック。  会場は、ふいに静まり返る。客たちは、首をのばしてマードックの方を見ている。 「なぜなんだ、マリー」  とマードック。  ふらつきながら、ステージに近寄っていく。低いステージに上がっていこうとした。  僕はもう、彼の後ろに追いついていた。 「ミスター・マードック」  と言う。彼の腕をつかんだ。  マードックは、ふり向いた。赤くにごった眼に怒り……。 「じゃまするな!」  と、僕の腕をふりほどく。ろれつの回らない口調で、 「おれのことをじゃますると」  と言いながら、パンチを振り回してきた。  サウスポーだから、当然、左パンチ。  予想していた。  スッと沈み込む。  マードックの左パンチが、頭の上をかすめる。  体勢のくずれたマードック。そのエリ首をつかむ。  柔道の小内刈り!  マードックの右足を、サッと横に払う。  1秒後。  マードックの体は、尻《しり》から芝生に落ちていた。 「あんたは酔っぱらってるんだ。部屋に帰った方がいい」  と言う僕に、 「うるさい!」  立ち上がったマードックは、つかみかかってこようとした。  そのとき。  銃声!  ステージの上で響いた。  すべての動きが止まる。  僕は、そっちを見た。マリーだった。腰に吊《つ》っていた拳銃《けんじゆう》を、空に向けていた。  音からして、空砲だろう。  が、さすがのマードックも動きが凍りついていた。  マイクから、マリーの声。 「なぜ、あなたのリクエストを唄《うた》わないか、言ってあげるわ、ジョン」  マードックの背中に響く。 「あなたの好きだった〈アゲインスト・ザ・ウインド〉は、いまのあなたには似合わないからよ」  マードックが、ステージの上を見た。 「いまのあなたは、風に向かって走るどころか、風に吹かれてよろけているただの腰抜けよ」  マリーは言った。 「こ……腰抜け……」  とマードック。 「おれを、腰抜け呼ばわりするのか?……」 「……私は、これでも、唄いつづけてきたわ。これからも、唄いつづけていくわ。何があっても、あなたみたいにお酒に逃げたりしない」  とマリー。 「私から見れば、いまのあなたはただの腰抜けよ」  マリーは、きっぱりと言い切った。  マードックの口が、パクパクと動いた。体がグラリと揺れた。よろけながら、体をひるがえす。空いているイスにけつまずきながら、会場から出ていく。  静けさが破れる。会場がザワつく。軽妙な司会者が、七面鳥《ターキー》の丸焼きを持ってステージに出てきた。 「みなさん! いま、マリーが撃ったターキーが、ほら、もう丸焼きになって出てきました」  と、会場を笑わせる。バック・バンドが、にぎやかなインストロメンタルを演《や》りはじめた。  ステージをおりてきたマリーに、 「だいじょうぶか?」  僕は、きいた。 「いろんな店で演ってきたわ。酔っぱらいの1人や2人、なんでもないわ」  とマリー。腰の拳銃《けんじゆう》をポンと叩《たた》いた。白い歯を見せる。笑顔は、ほんの少し無理しているように見えた。       □  翌日。午後2時。僕はルーム・サーヴィスに電話した。 「713号室のマードックは、どうだ」 「ああ。さっき、いったぜ」  とルーム・サーヴィスのチーフ。 「また酒か?」 「いや。サンドイッチだ」 「サンドイッチ?」 「ああ。クラブハウス・サンドイッチとコークだ」 「……何か異状は?」 「いや、別に」 「……そうか。サンキュー」  僕は、電話を切る。肩をすくめる。       □ 「ほら見て、ケンジ」  とレニー。ま新しい野球のグラヴをとり出して見せた。 「買ったのか」 「そう。ちょっと相手してくれない?」  とレニー。  午後5時過ぎ。  ガランとしたプールサイドだ。きょうは特に客が少ない。もう、1人もいない。 「オーケイ」  僕はレニーの古いグラヴをはめる。キャッチボールの相手をしてやる。 「シュートいくわよ」  とレニー。ボールの握り方を変える。そのときだった。 「それじゃダメだな」  という声。……マードックだった。  マードックは、麻のサマースーツを着ていた。スーツケースが足もとにある。 「やあ、君。昨夜は迷惑をかけたな」  とマードック。僕に向かって手を上げた。 「いや……そんなことより、もう出発?」 「ああ。いま、チェック・アウトしたところさ」 「予定より早いんじゃ?」  マードックは、うなずく。 「テキサスに帰ってトレーニングがあるからね」 「トレーニング?」 「うむ。来期に向けての自主トレさ」  とマードック。 「来期……」 「そういうこと。物好きなマイナー・リーグのチームから、声がかからないとも限らないからな」  マードックは、軽くウインク。  その眼は、もう、にごってはいなかった。不精ヒゲも、いまはきれいに剃《そ》られている。きのう、どこかでぶつけたのか、額にバンドエイドが1枚貼《は》ってある。 「いいかい、シュートの握りはこうだ」  とマードック。ボールを握る。レニーに見せる。僕に、〈受けてくれ〉と手で合図。僕は、キャッチャーのようにしゃがむ。グラヴをかまえる。 「よく見てろ」  とマードック。レニーに言う。  ゆっくりとした投球動作。ごくリラックスしたフォーム。左腕がしなった。  ボールが手を離れる。すごいスピードで飛んできた。  パシ!  ボールは伸び上がりながら、僕のグラヴに飛び込んできた。  僕がとったわけじゃない。僕のかまえたグラヴめがけて投げられただけのことだ。  2秒後。左手が、ジーンとしびれているのに気づいた。グラヴをはずす。左手のひらが、赤くなっている……。 「わかったかい? いまのがシュートさ」  とマードック。レニーの頭を、ポンと叩《たた》く。 「じゃあ、また」  マードックは、僕らに手を振る。スーツケースを持ち上げる。ロビーの方に歩きかける。  ふと、立ちどまった。ふり向く。  ひとこと、 「マリーに、伝えてくれ。きのうは、すまなかったと」  僕は、うなずいた。  マードックは、また1度、軽く手を振る。がっしりとした長身が、ロビーの方に消えていった。       □  マリーは、部屋にいなかった。  僕は、ホテルの前の砂浜《ビーチ》に出てみた。  ビーチから、コンクリートの小さな桟橋《さんばし》が海に突き出している。  マリーは、そこにいた。  Tシャツ。ジーンズ。桟橋に腰かけて、ギターを調弦していた。  太陽の下端は、水平線にとどこうとしていた。海面は、グレープフルーツ色に染まっている。  僕は、マードックのことを話し終える。 「そう……」  とマリー。調弦する手を止めて、 「よかった……」  と、つぶやいた。また、ゆっくりとした手つきで、調弦をつづける。きょう最後の陽射しが、細いスチールの弦に光っている。       □  ステージが、はじまった。  バック・バンドの連中が、ステージに出ていく。司会者の、軽いジョークとマリーの紹介。  トロピカル・カクテルを前にした客たちから、拍手。口笛。  ステージ中央に、スポット・ライトが当たる。  その中に、ギター片手のマリーが出てきた。  ひときわ高い歓声……。  マリーは、ギターを肩に吊《つ》る。客席の歓声がおさまるのを待って、 「今晩は。よくいらっしゃいました」  とステージはじめのあいさつを、ひとこと、ふたこと。 「じゃ、さっそく、はじめましょう。みなさん、いいですか?」  白人の団体客たちから、大きな歓声。  マリーは、バック・バンドにふり向く。  カウボーイ・ブーツのつま先で、出だしの合図《カウント》。  カッ(|1《ワン》)カッ(|2《ツー》)カッ(|3《スリー》)カッ(|4《フオー》)  イントロが、流れ出した。  おやっと思った。それは、あの〈アゲインスト・ザ・ウインド〉のイントロだった。  マリーは、リズムに乗せてギターを弾く。弾きながら、空を見上げた。  まだ青さの残る空。  ジャンボ・ジェットの航行灯が1つ。ゆっくりと東へ動いていく。  本土《メイン・ランド》の方向だ。  点滅するジャンボの灯は、ゆっくりと高度を上げていく。  もしかしたら、マードックを乗せた飛行機かもしれない。もちろん、ちがうかもしれない。  マリーも、僕と同じことを思っているらしい。ギターを弾きながら、眼は、航行灯を追っている。眼を細めて追っている……。  やがて、イントロが盛り上がってきた。  マリーは、唄《うた》いはじめた。  B《ボブ》・シーガーのヒット曲〈アゲインスト・ザ・ウインド〉。向かい風の中を走りつづける者の歌だ。  マリーの張りのある声が、ホノルルの空に響きつづける。  点滅する赤い航行灯が、ヤシの葉のかなたに遠ざかっていく。 [#改ページ]   シャネルにお別れ       □  ピュー……。  バーテンダーの芳《フオン》が、口笛を吹いた。  グラスにビールを注ぐ手をとめて、見ている。  ラジオのKIKIを聴いていた僕も、ふり向いた。  予想どおり。プロポーションのいい女性客が、1人、プールサイドを歩いてくる。  珍しく、日本人だった。  まん中分けのストレート・ヘアー。サングラス。  スラリとしなやかな手脚。ワンピースの水着は、相当なハイ・レッグ。色はハイビスカス・レッド。  片手に、しゃれたデザインのポーチを持っていた。  身長も、165センチは軽くあるだろう。  背筋をのばして、歩いてくる。  白人客たちの視線にも、ものおじしていない。それが、歩き方に出ていた。  彼女は、僕のいるプールサイド・バーの前を通り過ぎようとした。  ふいに、立ち止まった。  サングラスごしに、僕を見ている。けげんな表情。3秒……4秒……。そして、 「……もしかして、ケンジ?……」  と、つぶやくように言った。  僕が何かつぶやくより先に、 「やっぱり、ケンジね……」  と彼女。 「私よ! 私!」  と、サングラスをはずした。ニッコリと白い歯を見せた。 「……もしかしてマユミ!?」  僕は、思わず言った。 「もしかしなくても、私よ」  と彼女。  僕らは、しばらく無言……。お互いの顔をながめた。 「……いやあ……もう何年になるかなあ……」  と僕。 「ちょうど3年じゃない?」  と彼女。 「そうか……もう、そんなになるのか……」  僕は、つぶやいた。カウンターの向こうから、フォンが僕らを見ている。細い眼が興味しんしんに光っている。 「ああ、紹介しよう」  僕は、フォンに言った。 「彼女は、マユミ・エンドウ。U・H(ハワイ大学)で、同級生だったんだ。彼女、日本からの留学生でね」  と僕。 「彼はフォン。このプールサイド・バーの主さ」  と言った。 「よろしく」  とフォン。日本語で言った。カウンターの向こうから手をのばす。マユミと握手。 「……でも、ケンジ……どうして、ここに? 確か、卒業したあとホノルル市警に勤めたんじゃ……」 「それが……いろいろあって、退《や》めたんだ」  僕は言った。 「で、いまは」  と、着ているTシャツの赤十字マークと〈|Southern Cross Hotel《ザサン・クロス・ホテル》〉の文字を指さして、 「このホテルのプール救助員《ライフ・ガード》ってわけさ」  と言った。ニコリと笑った。 「そうだったの……」 「で、マユミは? 旅行?」  ときく僕に、彼女は、ひと呼吸。 「いえ……。ハネムーンなの」  と言った。 「ハネムーン……」  僕は、思わずつぶやく。  そうか……。大学を卒業して3年。彼女だって、もう20代の中頃になるはずだ。なんの不思議もない。 「正確に言うと、ハネムーンはまだなんだけどね」  と彼女。 「っていうと?」 「こっちの教会で結婚式を挙げるの」 「そうか……いずれにしても、おめでとう」  僕は言った。彼女は、うなずく。 「で、その幸せな彼は?」 「まだなの」 「まだ?」 「彼、仕事でニューヨークにいってて、こっちで合流することになってるのよ」 「なるほど……。で、彼はいつやってくるんだい」 「夕方よ」 「きょうの?」 「そう。夕方に着く便でくることになってるの」  とマユミ。 「で、結婚式は?」 「あしたの朝から、リハーサルや貸し衣装のフィッティングがあって、本番は、あさってよ」 「そうか……。じゃ、その後は、マウイ島かカウアイ島にでも?」  彼女は、首を横に振った。 「彼がハワイはじめてだから、ハネムーンの1週間は、ここにいるわ」  僕は、うなずいた。 「結婚式は、2人だけで?」  今度は、彼女がうなずいた。 「もちろん、東京に帰ったら世間並みの披露宴はやるつもりだけど、いま、彼が大きなプロジェクトにかかわってるんで、それが終わってからになるかも」  とマユミ。       □ 「どうしたんだい、ケンジ」  とフォン。カウンターにもたれていた僕に言った。 「何か、考えごとかい?」  とフォン。 「ああ……」  僕は、なんとなく、うなずいた。心の中に、何か、引っかかることがあった。さっきの、マユミとのやりとりの中だ。いまは、午後4時。マユミは、婚約者を空港に迎えにいっている。 「まあ、ブルーな気分になるのもわかるけどね」  とフォン。ニッと細い眼をさらに細くすると、 「どうだいケンジ、たそがれに、ドライ・マティーニってのは」  と言った。ジンのボトルを指さして見せた。 「少しは、気がまぎれるぜ」  とフォン。 「おいおい、誤解するなよ」  僕は、フォンに言った。 「彼女と僕は何も……」  と言いかける僕に、 「まあまあ、無理するなって」  とフォン。ウインクして見せた。       □  パシッ。  僕の投げたボールが、レニーのグラヴにおさまる。  パシッ。レニーの投げたボールが、僕のグラヴにおさまる。  夕方の6時。ホテル前の砂浜。僕とウエイトレスのレニーは、キャッチボールをしていた。 「気を落とさないで、ケンジ」  とレニー。 「どうして気を落とすんだい」  僕は、ボールを投げた。パシッと、レニーのグラヴにおさまる。 「だって、さっき、フォンが言ってたわよ」  パシッ。 「なんて」  パシッ。 「ケンジの昔の恋人が、結婚式を挙げるために、このホテルに泊まってるって」  パシッ。 「そいつは、フォンのつくり話さ。彼女は、昔の恋人なんかじゃない」  パシッ。 「じゃ、何?」  パシッ。 「まあ、すごく仲のいい同級生だったけどね」  ボールを投げながら、僕は思い出していた。       □  ハワイ大学の広いキャンパス。チューブから出した絵具みたいに鮮かなグリーンの芝生。そして、ビーチを渡る風……。  彼女は、程度《レベル》の高い留学生だった。  ハワイには、留学生とは呼べないような、まがいものの日本人学生も多い。けれど、彼女は、F─1ビザ(政府発行の留学生ビザ)を持った正式な留学生だった。  もちろん、英語は上手だった。そして、サーフィンは、もっと上手だった。  確か、生まれ育ちが海の近くのチガサキという湘南《しようなん》の町だった。日本にいた時から、サーフィンはやっていたらしい。  彼女は、たちまち、サーフィンをやる僕ら地元《ローカル》の学生と仲間になった。  毎日のように、授業が終わると海に入った。日没まで、サーフ・ボードの上にいた。  そして、陽の落ちたビーチで、岸壁で、とりとめのないことを話しながらビールを飲んだ。  北海岸《ノース・シヨア》にサーフィンにいった帰り、ビールで酔っぱらった彼女が、運転していたクルマを道路わきのパイナップル畑に突っ込んだこともあった。  そして、もっと馬鹿騒ぎのハロウィンやクリスマス……。そんな風にして、日々はあっという間に過ぎていった。  やがて、卒業。親との約束どおり、彼女は日本に帰っていった。彼女が日本に帰る日、ホノルルは珍しく雨だった。 「空に泣かれちゃ、自分じゃ泣けないわね」  そう苦笑しながら、彼女は空港のゲートをくぐっていった。  日本に帰ってしばらくして、外資系の企業に勤めはじめたというエア・メールがきた。誰でも知っている大企業だった。       □  そんなことを、ぼんやりと思い出していた。そのとき、 「ケンジ、ここだったの」  という声。僕は、ボールを持ってふり向く。マユミが立っていた。  彼女は、1人だった。  僕の眼が〈彼は?〉ときいていたんだろう。 「彼、飛行機に乗っていなかったの」  とマユミ。 「ホテルに戻ってきたら、彼からの伝言があったわ」  と彼女。片手に持ったホテルのメッセージ用紙を、ヒラヒラと振ってみせた。 「ギリギリまで仕事をやっていたんで、ホノルルに深夜着の飛行機に乗るって」 「そりゃ、しょうがないな」  と僕。 「というわけで、夕食、1人になっちゃったんだけど、つき合ってくれる?」  とマユミ。 「もちろん、いいよ」 「よかった。じゃ、1時間後にロビーで」       □  きっかり1時間後。彼女はロビーにおりてきた。  着替えていた。淡いピンクのサマー・ドレス。細いベルトのバックルは、シャネルのマークだった。  そういえば、確か彼女の実家は資産家だった。大学時代も、よく、おごってもらったものだ。シャネルのドレスぐらいなんでもないんだろう。 「こんなスタイルでゴメン」  僕は言った。昼間と同じTシャツ、ショートパンツ、ゴムゾウリ。上に〈|Local Motion《ローカル・モーシヨン》〉のウインド・ブレーカーをはおっただけだった。 「ま、学生時代にさんざんおごってもらったから、今夜は、おごるよ」  僕らは、ホテルの駐車場に歩いていく。端に、僕のワーゲンが駐まっている。 「わあ、このクルマ、まだ乗ってるの!?」  とマユミ。僕のワーゲンを見て言った。  ペパーミント・グリーンに、あちこち錆《さ》びの出たワーゲン。確かに、学生時代から乗っていた。僕は苦笑。 「でも、替える理由がないからなあ」  と言いながら、クルマのドアを開けた。 「この店、まだ、やってたんだ……」  とマユミ。クルマからおりるなり、つぶやいた。  ハワイ大学から近い、ベレタニア|通り《ストリート》。〈O《オ》KA《カ》ZU《ズ》YA《ヤ》 KI《キ》MU《ム》RA《ラ》〉だ。〈OKAZU〉は、現地語化した日本語だ。  日本式にいえば、そうざい屋を兼ねた食堂という感じだろう。  僕らは店に入る。学生時代の仲間、グレン・木村が、ふり向いた。  3秒……4秒……5秒……。そして、 「マユミじゃないか……」  と、思わずつぶやく。持っていた|お盆《トレイ》を、落としそうになった。 「マユミ……なんだか、あの頃より、キレイになったんで……わからなかったよ」  とグレン。 「まあまあ、そう驚いてないで、客を席に案内してくれよ」  と、僕は言った。グレンは、この店の息子《むすこ》なのだ。 「変わってないのね、何もかも……」  とマユミ。店を見回して言った。確かに。グレンのオカズ屋は、何も変わっていなかった。壁時計が8分遅れているところまで。  やがて、グレンが豚の角煮とキンピラゴボウを持ってきた。 「ほかのオーダーは、いまつくってるからね」  と、また奥に入っていく。  僕らは、とりあえず、酒屋《リカー・シヨツプ》で買ってきた缶のBUD《バドワイザー》で乾杯。グレンの店は、リカー・ライセンスを持っていない。客は各自、酒を持ち込むのだ。 「グレンは、いま、何してるの?」  とマユミ。僕にきいた。 「ごらんの通り、この店のあとつぎさ」 「だって……あんなに成績良かったじゃない、彼。IBMにでも入ってるかと思ったわ」 「うん……でも、好きなときにサーフィンをやりたいから、会社勤めは嫌なんだとさ」  キンピラをつまみながら、僕は言った。事実、波の立った日、グレンの店は勝手に臨時休業になってしまったりする。  マユミも、ビールをひと口。 「ところで、ケンジの話、きかせてよ」 「話って?」 「どうして、1度勤めた市警を退《や》めたの?」  僕は、10秒ほど考える。 「たいした理由はないんだ。ただ……警察勤めが性に合わなかっただけだな」 「でも、大卒で入れば、かなり上の役職までいけるでしょうに……」 「けど、ダメなものはダメだったんだ。あの制服も、システムも、何もかもね」 「でも……もったいない……」 「いや、僕には、プールの救助員《ライフ・ガード》が似合いさ」  ライフ・ガード兼ホテル探偵だということは言わなかった。言ったって、意味がない。 「そんなことより、君のフィアンセとは、勤めてた会社で知り合ったのかい?」  ビールを飲みながら、僕はきいた。マユミは首を横に振った。 「彼とは、お見合いよ」 「……見合いか……で、どんな人?」 「うーんと……ストレートで一橋大に入って、いまは商社勤め」  と彼女。有名な商社の名前を言った。ハワイ育ちの僕でも知っているビッグ・ネームだった。 「おまけに、学生時代はラグビー部のキャプテン」 「すごいじゃないか」  皮肉じゃなく、僕は言った。 「結婚相手としちゃ、理想的だな」  と言いながら、豚の角煮を口に放り込んだ。       □  グレンの店を出て、もう1軒。学生時代によくいったカパフル|通り《アベニユー》の居酒屋に寄った。あい変わらず、日本人の学生や若い観光客が飲んでいた。  そして、ホテルまで戻ってきた。  ホテルの前のワイキキ・ビーチを、ブラブラと歩いていた。  ふと、 「私……変わったでしょう?」  とマユミがつぶやいた。 「…………」  僕は、どう答えていいかわからなかった。  けれど、数秒後、胸の中で〈あ……〉と、つぶやいていた。  きょうの昼下がり。プールサイドで再会したとき。彼女の言った中にあった言葉。 〈世間並みの披露宴〉。その〈世間〉だ。それが、胸の中に引っかかっていた。  何か、ノドに引っかかって飲みづらい錠剤のように、胸の中にストンと落ちないでいた。  学生時代、僕らの仲間の中では決して出てこない言葉だった。もちろんマユミの口からも……。  マユミは、立ち止まった。海を見ている。  もう、夜ふけだ。ホテル周辺のざわめきもない。|波の音《サーフ・ブレイク》だけが、ビーチに漂っていた。  ふいに、すすり泣きがきこえた。  マユミだった。しゃくり上げている。 「……どうした……」 「だって……あの波の音が……」  と彼女。しゃくり上げながら言った。  マユミは、砂浜にしゃがみ込む。両手を顔に当てる。  そして、思いきり激しく、泣きはじめた。  泣きながら、切れ切れに言葉を吐く。 「……どうしてなの……どうして、そんな風にしていられるの?」 「…………」 「もう学生じゃないのに……そんなかっこうして……錆《さ》びたクルマに乗って……プールのライフ・ガードなんてして……」  僕は、答えにつまった。 「……そう言われても、ここはハワイなんだし……」  通りかかった白人の老夫婦が、不思議そうな顔で見ている。 「とにかく、もうちょっと落ちついて話そう」  僕は言った。彼女を立ち上がらせる。       □  僕らは、南十字星《サザン・クロス》ホテルのプールサイドに戻った。  もう、プールサイドに客の姿はない。エメラルド・グリーンのライトが、プールの水中につけられている。  僕は、泣きつづけるマユミをデッキ・チェアーの1つに坐《すわ》らせた。彼女は、あい変わらず激しくしゃくり上げながら、 「……ねえ、どうしてなの?……あなたにしても、グレンにしても……ちゃんと大学を出てるのに、ちゃんとした大人にならなきゃいけない年齢《とし》なのに……そんなフラフラしてて……」 「…………」 「将来のこと……考えないの!?」 「そんな……将来なんて……考えたことないよ」  しかたなく、僕は本音を言った。  本当のところ、そうなのだ。このホテルの仕事だって、いつまでやっていられるか、わからない。でも、その先のことまで、心配したことはない。 「……そんなこと、許されないのよ……」  とマユミ。 「許す許さないって……誰が……」 「誰って……まわりや、世の中や……」  とマユミ。 「……みんな……ちゃんと勤めて……出世して……家を持って……」 「そんなこと言われても……困るな……」  と言う僕に、 「……あなたなんか、大っ嫌い!」  と彼女、泣きながら、スカートで涙をふいた。 「ほら、せっかくのドレスが濡《ぬ》れるぜ」  と僕は言った。 「何よ、こんな服!」  と彼女。立ち上がる。3歩。4歩。5歩。  足の方から、プールに飛び込んだ。  水しぶきが上がる。  僕はプールのへりに立った。彼女は、仰向けに、水面に浮かんでいた。  エメラルド・グリーンに輝くプールの水面。彼女は浮かんでいた。ピンクのサマー・ドレスが、フワフワと水面にひろがっている。  仰向けに浮かんだまま、彼女は、あい変わらず泣いていた。しゃくり上げる。プールの水を少し飲んでゴホゴホとむせる。  しょうがない。僕は、ウインド・ブレーカーとゴムゾウリを脱ぐ。プールに飛び込んだ。  マユミを、無理やりプールから引き上げる。デッキ・チェアーに坐《すわ》らせる。       □  フロントにいく。彼女の部屋の鍵《かぎ》をとる。  マユミとその婚約者は、結婚式の前日まで、となり合った別々の部屋をとっていた。式を挙げた日から、最上階のデラックス・スウィートに移ることになっていた。さすがに、相手はきちんとした性格の男らしい。  プールサイドに戻る。ズブ濡《ぬ》れのマユミを、従業員用のエレベーターに乗せる。  幸い、部屋に入るまで、誰にも見られなかった。  部屋のドアは、少し開けておく。僕らが客室に入るときのルールだ。 「風邪《かぜ》ひくぞ。着替えろよ」  僕は言った。マユミは、ズブ濡れドレスのまま、バスルームに入った。  僕はラナイに出る。前に広がっている夜の海をながめた。  20分ぐらいして、彼女はバスルームから出てきた。体にバスタオルを巻いている。そのまま、ベッドのへりに坐《すわ》った。もう、ほとんど泣きやんでいた。 「……大嫌いなんて言って、ゴメンなさい……」  ぽつりと言った。 「あれは嘘《うそ》よ。……なんか……あなたやグレンと会って……波の音をきいていたら……」 「わかるよ。……きっと、あの頃を思い出して、頭が混乱しただけさ」  僕は言った。彼女のとなりに坐った。 「きっと、あしたになれば」  僕がそこまで言いかけたときだった。  ドアの音。僕とマユミは、同時にふり向いた。開いたドアのところ。若い日本人の男が立っていた。  マユミの婚約者だと、直感でわかった。僕は、立ち上がろうとした。  が、相手は誤解したらしい。深夜。彼女の部屋。バスタオル1枚巻いただけの彼女。ベッドの上。そして、僕。当然かもしれない。 「なんだ! 君は!」  と婚約者。立ち上がりかけた僕を、突き飛ばした。  さすが、元ラグビー部のキャプテン。僕は、後ろに吹っ飛ぶ。壁に、背中をぶつけた。  彼は、さらにつかみかかってくる。  しょうがない。  僕は、彼の右手をす早くつかむ。  柔道の小外刈り! だが、きちんとは決まらなかった。  よろけた彼の体が、部屋の冷蔵庫にぶつかる。冷蔵庫の上のグラスが床に落ちる。 「やめて! 2人とも!」  マユミの鋭い声が部屋に響いた。 「1人にしといて! お願いだから!」  僕らの動きが、さすがにとまる。       □ 「そうか……君は従業員で……」  とマユミの婚約者。グラスにスコッチを注ぎながら言った。  マユミのとなりの彼の部屋。とりあえず、事情を説明したところだった。 「そりゃ、誤解して悪かった」  と彼。水割りのグラスを、僕にも渡した。僕は、さらに細かくいままでのことを説明する。 「きっと、僕ら学生時代の仲間に会ったり、波の音をきいたりして、一時的に気持ちが揺れたんだと思う」  僕は言った。彼は、なんとなくうなずく。 「しかし……あすの朝9時には、式のリハーサルだというのに……」  と、彼。そのときだった。  ドアの下から、何か、さし込まれた。  このホテルの封筒だった。彼がとる。開ける。ホテルの便せんに、走り書き。  彼はさっと読む。僕に渡した。  右下がりのマユミの字だった。 〈ごめんなさい。結婚の決心が揺れています。ひと晩、考えさせて下さい。もし、あすの朝9時、ロビーにおりていかなかったら、結婚は白紙にして下さい〉  少し間をあけて、 〈わがままを言って本当に申し訳ありません。真由美〉  僕は、軽くため息。その手紙をテーブルに置いた。窓の外を見ている彼に、 「きっと、あしたの朝はくるさ」  と言った。気休めではなく、本当にそう思ったから言ったのだ。たぶん、彼女はロビーにおりてくるだろう。 「そう願いたいものだがね」  背中を向けたまま、彼は言った。       □  翌朝9時。  5分ほど遅れて、僕はホテルのロビーに入っていった。  婚約者の彼が1人、立っていた……。  片手に、またホテルの便せん。 「これが、フロントにあずけてあったよ」  と彼。それを僕に見せた。マユミの字で、 〈本当に、本当に、本当に、本当に、ごめんなさい。すべての責任は私にあります。それなりの覚悟はしています。真由美〉  きのうの走り書きよりは、しっかりとした字だった。 「負けおしみを言うわけじゃないが」  と婚約者。 「僕は、合理性を重んじる実務型の商社マンだ。波の音をきいたぐらいで結婚の決心が揺れるような女性は、すでに妻としては不適格だね」  と軽く苦笑い。 「まあ、人種が違うのかもしれないな」  と言った。迎えにきた結婚式のコーディネーターと、流ちょうな英語で、みごとに実務的に、キャンセルの打ち合わせをはじめた。       □  プールサイドに出る。  タオル係のジョーが歩いてきた。 「日本人の娘《こ》から、あんたに」  とホテルの封筒を渡す。  開けてみた。便せんに、しっかりした字で、 〈いろいろと迷惑《めいわく》をかけてすみませんでした。日本に帰ってからの3年間、少しずつ、自分をだましていました。本当に着ごこちの良くなかったシャネルの服を、自分に似合うんだと思い込もうとしていたようです。でも、もう、やめました。一生自分をだましつづけることはできないから……。MAYUMI〉  僕は、手紙をポケットにしまう。  館内電話《ハウス・テレフオン》で、マユミの部屋にかけた。  出ない。コールの音だけが受話器から響く。  僕は、受話器を置く。  ふと、思いついた。  プールサイドから、砂浜に出ていく。  ホテルのすぐわき。レンタル・サーフボード屋が店開きしたところだった。僕はレンタル屋のおっさんに、 「日本人の娘《こ》が、ボードを借りていかなかったかい?」  ときいた。 「ああ。ついいましがた、貸したよ」  と、おっさん。 「サンキュー」  僕は、近くにあるライフ・ガード・タワーに歩いていった。  オレンジ色のタワー。上で海を監視しているのは、友達のロイだ。  僕は、ライフ・ガード・タワーに登っていく。 「やあロイ、ちょっと双眼鏡を貸してくれ」 「どうしたケンジ。すごいハイ・レッグでもいるのか?」  と白人のロイ。首にかけていた双眼鏡を僕に渡した。高倍率の双眼鏡を眼に当てる。  まだ人の少ない朝の海だ。すぐに見つかった。  波打ちぎわから100ヤードぐらい沖。  ワイキキ・ビーチの|波乗り《サーフ》ポイントだ。普通、切り立った鋭い波は立たないが、おだやかで長い波乗りができる。  青い海面。マユミの水着のハイビスカス・レッドが揺れていた。  ボードに腹ばいになって、波を待っている。  ほかに、サーファーはいない。  沖に、ぽつんと1人で揺れている姿は、ほんの少し頼りなさそうにも、淋《さび》しそうにも見えた。  2つ……3つ……。波をやり過ごす。  5つ目。ちょっといい波がきた。  マユミは、腕で水をかく。少し左へパドリング。陸の方へボードを向けた。  波がせまってくる。腕が水をかく。  波に押し上げられながら、ボードが走りはじめた。ボードに腹ばいのまま、ひと呼吸。  そして、|立った《テイク・オフ》。  マユミの髪からはじけた水滴が、朝の陽射しにキラリと光った。 [#改ページ]   ナンバー1224に賭けて       □ 「嫌よ!」  という声。 「絶対に嫌よ!」  と、くり返し響いた。若い女の声だった。ホテルのロビーを通り抜けようとした僕は、思わず足をとめた。  午後2時。  南十字星《サザン・クロス》ホテルのチェック・イン・タイム。  そのフロントの所だった。  若い女の客。それに客室係のサムが、カウンターをはさんで何かやり合っていた。  客の娘は、これからチェック・インするところなんだろう。  肩には使い込んだショルダー・バッグ。荷物は、それだけだった。  日本人だった。正確に言うと、日系人だった。  顔つき。態度。服装。そんなものをミックスした全体の印象ですぐにわかる。  日本からの観光客じゃない。このオアフ島か、どこかほかの島。とにかく、ハワイ育ちの娘《こ》だろう。  おまけに、彼女はサムと早口の英語でやり合っていた。 「そう言われても……」  とサム。 「嫌なものは嫌だって言ってるでしょう。こっちは、ちゃんと予約してあるんだから」  と彼女。両手を腰に当て、ピシリと言った。  サムは困った表情。  立ち止まっている僕を見た。  眼で〈ちょっと来てくれ〉と言っている。  僕は、そっちへ歩いていく。 「何か、トラブルでも?」  と言った。彼女が、ふり返る。  |20歳《はたち》ぐらい。髪はショートカット。よく陽に灼《や》けていた。左の耳だけに、パイナップル型をした金のピアスをつけている。  ほかの血は入っていない。純粋な日系人らしかった。  スポーツ選手のようにスリムな体つき。  だが、イルカが小さくプリントされた白いTシャツの胸のあたり。立派なバストが、ちゃんと自己主張している。  青いショートパンツ。まっすぐに伸びたフランスパン色の脚。白いスニーカーは、AVIA《エイヴイア》だ。  彼女も僕を見る。黒目がちの眼が〈あなたは?〉ときいている。 「僕はケンジ・マツモト。このホテルの保安《セキユリテイ》と苦情処理をうけ持っているんだ。特に日本人客のね」  と英語で言った。  彼女は、僕の胸もとを見た。  Tシャツの上にはおったウインド・ブレーカー。その胸にプリントされている〈|Southern Cross Hotel《ザサン・クロス・ホテル》〉の文字を見た。 「そう……。じゃ、この受付の人に言ってちょうだい」  と彼女。 「なぜ私が、予約しておいた部屋に泊まれないのかって」 「予約の部屋に泊まれない?」  僕は、きき返した。そして、サムを見た。 「いや、その、確かに彼女の予約はちゃんと入ってるんだ」  とサム。予約カード片手に、 「1224号室に1泊っていう予約は、4か月も前から入ってるんだ」  と言った。 「けど」  と眉《まゆ》を八の字に寄せると、 「エアコンの配管が故障して、1224号室の壁紙に、3日前からシミができちまってね」 「シミ?」 「ああ。小さなシミなんだが、いちおう修理が終わるまで、1224は使わないことにしてあるんだ」  とサム。彼女に向かって、 「という事情なんで、となりの1226号室にお泊まりいただきたいんですが」  と言った。 「1224と全く同じ間取りですし、ホテルからのペナルティーとして宿泊料も20パーセントさし引かせてもらいますが」  とサム。ところが、 「そんな問題じゃなくて、とにかく1224号室じゃなくちゃ嫌なんだって言ってるでしょう」  と彼女。両手を腰に当てたまま、 「そんなシミなんて気にしないから、とにかく、1224号室を見せてよ」  と言った。       □ 「ああ、こんなシミ、気にしないわ」  と彼女。あっさりと言った。サム、彼女、そして僕。3人で1224号室に入ったところだった。  1224は、12階の24号室。ツイン・ルームだ。 「ここなんです」  とサムが指さしたところ。確かに、壁紙にシミがある。部屋のすみ。床の近く。人間の手のひらぐらいの薄茶色のシミ……。 「こんなもの、そう言われなきゃ気がつかないわ」  と彼女。確かに。そうかもしれない。 「とにかく、|問題なし《ノー・プロブレム》よ」  彼女は言った。もう、荷物をほどきはじめている。サムは〈しょうがない〉という表情。肩をすくめて見せた。       □ 「いちおう、ボスに報告しといた方がいいと思うぜ」  とサム。エレベーターで下りながら僕に言った。 「ああ」  僕は答えた。フロントにいく。彼女の宿泊カードを手にとった。  名前は〈Hi《ヒ》ro《ロ》ko《コ・》 A《ア》nn《ン・》 Na《ナ》Ka《カ》ga《ガ》wa《ワ》〉。  19歳。  住所は、オアフ島、ワヒアワ。  ホノルルから北へ1時間ぐらい走ったあたり。島の内陸にある町だ。  内線電話をとる。  オーナーのMr.ヤマザキは、すぐに出た。事情を簡単に説明する。 「ツイン・ルームを1人で?」  とMr.ヤマザキ。 「いや。後から連れがくるとは言ってたけど」 「荷物は?」 「ごく少な目」 「そうか……。いちおう、要注意だな」  とMr.ヤマザキ。 「どんな事情かわからないが、12階なら、飛びおり自殺には充分な高さだしな」  ジョークを言っている口調ではなかった。が、自殺志願ではないと僕は思った。飛びおりるなら、となりの1226号室でもいい。       □  チェック・インしてから1時間後。  彼女、ヒロコは、プールサイドに出てきた。  青いビキニ。その上に、オフ・ホワイトのTシャツをかぶっている。ハワイの娘《こ》らしく、裸足《はだし》だった。  僕は、プールサイド・バーのカウンターにもたれて、あたりを監視していた。  ヒロコは、僕に気づく。こっちに歩いてくる。 「保安《セキユリテイ》の仕事って言ってたけど、プールの監視もやるの?」 「なんせ、このホテルは人使いが荒いんでね」  僕は、微笑《わら》いながら答えた。ヒロコも、白い歯を見せて、 「さっきは、ごめんなさいね。手間をかけちゃって」  と言った。プールサイド・バーのスツールに腰かける。バーテンダーの芳《フオン》に、グァバ・ジュースを注文した。 「あんなことはいいんだけど」  と僕。 「もしよかったら、理由《わけ》をきかせてくれないか。なぜ、1224号室にこだわるのか」  思いきって彼女にきいた。  彼女は、しばらく無言。 「何か、あの部屋に思い出があるとか?」  ときく僕に、 「……そうじゃなくて、思い出をつくるためかなァ……」  とヒロコ。つぶやいた。グァバ・ジュースをひと口飲んだ。 「……いいわ。わけを話すわ」  ヒロコは僕を見た。 「不審に思われるのも嫌だし、別に、かくしておく程のことじゃないし……」       □ 「パイナップルのお酒?」  僕は、思わずきき返した。 「そう。パイナップル・ワインが、すべてのはじまりなの」  とヒロコ。ぽつりぽつりと、話しはじめた。 「私の家はワヒアワのはずれにパイナップルの農場を持ってるの」 「…………」 「パパは日系三世で働き者よ。おじいさんから引き継いだパイナップル畑を、2倍の広さにしたわ」 「…………」 「でも、それだけじゃ満足できなくて、パパはもう1つの仕事に夢を託したのね」 「もう1つの仕事?」 「……そう。パイナップルでワインをつくるっていう夢よ」  とヒロコ。 「でも、マウイ島にパイナップル・ワインがあるじゃないか」  僕は言った。 「でも、甘さが強すぎて、本当のワインとは少しちがうわ」  とヒロコ。僕はうなずいた。確かにそうだ。マウイ島のパイナップル・ワインはすごく甘い果実酒だ。ワインと呼ぶのは少し違う感じもする。 「パパは、ワインらしい味と香りのパイナップル・ワインをつくろうとしたの。周囲から反対されたり冷笑されたりしながらね」 「で? うまくいった?」  ヒロコは、苦笑い。首を横に振る。 「それがなかなかうまくいかなくてね」 「そりゃそうだろうなァ……」 「で、パパはカリフォルニア・ワインの会社を経営してる知人に頼んで、技術者を1人、貸してもらったの」 「技術者?……」 「そう。ちょうど半年前よ。ロジャーっていう若い技術者が、カリフォルニアの醸造所《ワイナリー》からやってきたわ」 「なるほど。で? その結果は、うまくいった?」  ヒロコは、また苦笑い。 「それが、今度は別の理由でダメだったの」 「別の理由?……」 「うん。私のパパと、どうしても意見がぶつかっちゃってね……。彼、ロジャーは化学を専攻してきた技術者で、パパは根っからの職人タイプでね」 「なんとなく、わかるよ……」 「あれは、彼が、ロジャーが、カリフォルニアからきて2カ月目だったわ……。この屁理屈《へりくつ》ばかりの若造! お前に何がわかる! ってパパがどなって」 「ケンカ別れ?」 「そう……。結局2カ月いただけで、ロジャーはカリフォルニアに帰っていった。……けど……」 「けど?」 「その2カ月でパイナップル・ワインは生まれなかったけど、別のものが生まれたわ」  とヒロコ。 「当ててみせようか」  と僕。ヒロコに、 「君との恋」  と言った。彼女の言った〈He〉の発音に、どこか甘いニュアンスがあった。  ヒロコは、微笑《ほほえ》む。ゆっくりと、うなずいた。 「彼は、ロジャーは、日系人?」 「100パーセント白人《ハオレ》よ」 「年齢《とし》は?」 「29歳」 「10歳年上か……。まあ、たいした問題じゃないな……」  ヒロコは、微笑《わら》いながら、 「ただ、1つだけ、たいした問題があったの」 「結婚していた? 彼が……」  と僕。ヒロコは静かな口調で、 「大学で一緒だった人と結婚していたの。……でも、5年目で結婚生活は暗礁に乗り上げていたらしいわ」  と言った。 「……うまくいってなかったわけか」 「そういうこと」 「で、君と恋愛を?」  ヒロコは、また、ゆっくりとうなずいた。僕も、フォンの出してくれたペプシに口をつける。 「で、パイナップル畑の恋の結末は?」  と、きいた。 「結末は、これからよ」  とヒロコ。 「これから?」 「そう。きょう、その結果がわかるの」 「っていうと?……」  ヒロコはジュースをまたひと口。 「4カ月前、彼がハワイから帰る日に約束したの」 「約束?」 「そう。彼は、クリスマス・イヴまでに離婚を成立させて、私を迎えにくるって約束したわ」 「…………」 「で、4カ月後のクリスマス・イヴに、ホノルルで落ち合うことにしたわけ」 「家で彼を待てばいいのに」 「ダメよ。パパがいるもの」 「そうか……」 「ロジャーは、あれだけワインづくりのことでケンカした相手ですもの。私と一緒になるなんて、パパが許すわけがないわ」 「……じゃ、君は家出をしてきたわけか」  ヒロコは、無言。つまり、YESということらしい。そして、 「クリスマス・イヴに、このホテルで彼と落ち合う約束になっているの……」  と言った。  そうか……。 「それでわかった」  僕は彼女を見た。 「きょうは、ちょうど12月24日。クリスマス・イヴだ。しかも、君が予約した部屋は、1224。12月24日に1224号室で逢《あ》う。そういうことか」  ヒロコは、微笑《ほほえ》みながらうなずいた。 「絶対にまちがえないでしょう?」 「そうか……。それで部屋番号《ルーム・ナンバー》1224にこだわったわけか……」 「そういうこと。これで不審な客じゃないって、わかった?」  ヒロコは、ニコッと白い歯を見せた。 「で、この4カ月間、彼からの連絡は?」  ヒロコは、首を横に振った。 「もともと、連絡をとり合わないことになっていたの」 「…………」 「つまり、私という恋人ができたことが彼の奥さん側《サイド》に知れたら、その……離婚訴訟に大きく響くでしょう」 「それはそうだけど……」  僕は言葉を切った。 「不安じゃないのかい? 連絡をとらなくて」 「不安がまるでないっていったら嘘《うそ》になるけど……」  とヒロコ。眼を細める。プールをながめた。遅い午後の陽射しが、プールの青に弾《はじ》けている。 「……賭《か》けに、不安はつきものでしょう」  彼女は言った。 「賭け、か……」  と僕。 「……そりゃ、彼を信じているわ。でも、やはり、これは私にとって1つの賭けだと思うわ……」  と彼女は言った。眼を細めたまま、遠くを見ている。 「男と女のことだもの。何が起こるか、誰にもわからないでしょう?」 「そりゃそうだ」 「でも……もし万が一、この賭けに負けるようなことがあっても、私きっと、後悔はしないと思うわ……」  と彼女。自分自身に言いきかせるように、つぶやいた。  視線を僕に戻す。ニコリと微笑《わら》うと、 「ほら、1224なんて、エンギのいい数字じゃない。賭博場《カジノ》のカード・ゲームなら、絶対に勝ちよ」  と言った。  なるほど。1224をたせば9になる。 「約束を12月25日にしなくてよかったな」  微笑いながら、僕は言った。       □  RRRRR!  プールサイド・バーの電話が鳴った。フォンがとる。 「あんたにだ」  受話器を僕に渡した。  午後6時。もう、プールサイドに日光浴の客はいない。ヒロコも、部屋に上がっている。  僕は受話器を耳に当てた。声は、フロントのサムだった。 「どうした」 「どうしたもこうしたも、ほら、あの1224号室の、日系の娘」 「ヒロコ・ナカガワか?」 「ああ。あの娘《こ》の父親ってのがフロントにきて、娘の部屋を教えろって言いはってるんだ」  とサム。たぶん、奥のオフィスから電話してるんだろう。それでも、少し声を低くして言った。 「……わかった。すぐにいく」  僕は電話を切った。フロントに向かう。       □  日系人の男が、フロントにいた。  50歳ぐらい。痩せていた。背もあまり高くない。  が、赤銅色に灼《や》けた顔の中で、眼が鋭い。  NIKE《ナイキ》のスニーカー。グレーのズボン。もう少し薄いグレーの上着《ジヤケツト》。中はポロシャツ。頭には青い野球帽《キヤツプ》。  ガンコで一徹なパイナップル農場の経営者。それを絵に描《か》いたような姿だった。  サムとやり合っている。 「いいか、ヒロコがこのホテルに泊まってることはわかってるんだ。私は父親のテツ・ナカガワだ。娘の部屋をさっさと教えろ」 「しかし……どういう根拠で娘さんがこのホテルに滞在していると……」  とサム。 「娘の友達からきき出したんだ」  と父親のテツ・ナカガワ。  そうか……。ヒロコの家出に気づいて、追いかけてきたらしい。 「どうした。なぜ娘の部屋を教えない!」  とテツ・ナカガワ。フロントのカウンターを右手で叩《たた》いた。その背中へ、僕は歩いていく。 「それは、お嬢さんに、教えないようにと言われているからです」  と言った。彼は、ふり向く。ジロリと僕を見た。このホテルの従業員だとわかったらしい。 「なんだと……」  その眼に怒り。 「あんな小娘の言うことをきいて、私の言うことはきけないと言うのか」 「あなたにとっては小娘でも、このホテルにとっては、立派に一人前のお客様ですから」  僕は言った。 「……この若造……」  とテツ・ナカガワ。ジャケットの内ポケットに右手を突っ込む。拳銃《けんじゆう》をつかみ出した。  ジャケットの内ポケットがふくらんでいるのには気づいていた。それが、このリボルバーだったらしい。口径は25あたり。 「これでも言うことをきけないか」  と彼。銃口をこっちに向けた。ヒロコの友達からも、たぶんこういう手荒なやり方で、行き先をきき出したんだろう。  カウンターの中。サムがハッとした表情。警察への直通電話をとろうとした。  僕は眼で〈だいじょうぶだ〉とサムに合図。サムの右手がとまる。 「僕のウインド・ブレーカーに穴を開けたところで、何も解決しないと思いますが」  落ちついた声で言ってやった。  彼は酔ってもいなければ、まして麻薬中毒《ジヤンキー》でもない。まず引き金をひくことはないだろう。そう思えた。  銃口を向けても相手がたじろがない。それは、素人《しろうと》にとって逆のショックとして弾《は》ね返ってくるものだ。 「たとえバズーカ砲を持ち込まれても、お嬢さんの部屋を教えるわけにはいきません」  僕は、きっぱりと言った。相手の眼を、正面から見た。  5秒……10秒……15秒……。  先に眼をそらしたのは、彼の方だった。銃口が、ゆっくりと下がっていく。 「クソ……」  とテツ・ナカガワ。肩を落とす。力なく、言葉を吐き捨てた。 「そんなぶっそうな物はしまって、落ちついて話しましょう。いちおうの事情は娘さんからきいているし」  僕は言った。       □  1時間後。1階奥にある〈ハイビスカス・バー〉。  僕とテツ・ナカガワは、グラスを手に向かい合っていた。僕は1杯目のジン・トニック。彼は4杯目のウイスキー・ソーダだった。 「娘は……ヒロコは、あのロジャーのやつに騙《だま》されているんだ……」  とテツ・ナカガワ。うめくように言った。 「あいつが、ワイフと別れて迎えにくるわけなんか、絶対にあるものか……」  僕は、苦笑い。 「いくらワインづくりで意見がぶつかったからって、そう決めつけるのは、いき過ぎじゃないかな?」 「そんなことはない。あの白人の若造……拳銃《ガン》で脳天をぶち抜いてやりたいよ……」  と彼。酔いの回りかけた口調で言った。 「ぶっそうだな……」  僕はまた苦笑い。 「とにかく、あんたの娘はいま、人生で最初の大きな賭《か》けを、自分だけの責任でやっているんだ。それだけは認めてやってもいいんじゃないのか」  僕は言った。 「賭け?」 「ああ……。あんたがパイナップル・ワインに自分の夢を賭けているようにね」 「私が、パイナップル・ワインに賭けている夢……」  と彼。酔った視線を上げた。 「そういうこと。それが他人《ひと》から見てどんな不確かなものだとしても、そいつに自分を賭ける権利を、誰もみな持っているんじゃないのかな」  僕は、ゆっくりと言った。 「あんたの娘も、そういう年齢《とし》になったってことさ」 「…………」  テツ・ナカガワの視線が、宙をさまよう。どこか遠くを見ている。  バーのスピーカーから、〈ホワイト・クリスマス〉が流れている。       □ 「え!? パパが!?」  とヒロコ。さすがに驚いた表情。  夜の8時過ぎ。まだ、ロジャーは着いていない。ガランと広く見える1224号室。 「うまく酒を飲ませて追い返したけど、まだホテルの近くにいるかもしれない。君は外に出ない方がいいな」 「わかったわ……」 「腹が減ってるだろう。ルーム・サーヴィスで何かとり寄せてやるよ」  僕は部屋の電話をとった。 「ああ、ルーム・サーヴィスか? 保安《セキユリテイ》のケンジだ。1224号室に、ローストビーフのサンドイッチ。それに、ピンク・シャンパンを。よく冷やして頼む」  受話器を置いた。壁のシミを指さして、 「いまのは、あのシミへのホテルからのペナルティー・サーヴィスってところさ」  と、微笑《わら》いながら言った。  ルーム・サーヴィスが、シャンパンを運んできた。軽く音をたてて、栓を抜く。 「じゃ、メリー・クリスマス」  と、グラスを合わせる。ベランダからホノルルの灯をながめる。山側の斜面に散りばめられた街の灯が、文字通りクリスマス・ツリーみたいだった。 「今夜、サン・フランシスコから着く便は、あといくつあるのかしら」  ヒロコがきいた。 「確か、1便か2便」 「…………」  ヒロコは無言。唇を結んで、斜面にまたたく灯を見ていた。僕は口笛で〈ホノルル・シティライツ〉を切れ切れに吹く。メロディーの切れっぱしが、海からの風に流れて消えていく。       □  翌朝9時。  軽い二日酔いのまま、僕はホテルのロビーを横切っていく。  昨夜、ヒロコの部屋に長くはいなかった。賭《か》けの最後のカードがめくられる時は、1人にしておいてやりたかった。  街に出て、仕事仲間のフォンやレニーと飲んだ。クリスマス・イヴだから、当然のように飲み過ぎた。  重い頭を手で叩《たた》きながらフロントにいく。サムに、 「ルーム・ナンバー1224の連れは?」  と、きいた。サムは、無言。首をゆっくりと横に振った。 「わかった……」  僕はエレベーターに乗る。  12階。1224のドアをノックした。 「僕だ。セキュリティのケンジだ」  と声をかける。すぐにドアが開いた。ヒロコは、Tシャツ、ビキニのボトム、サングラスをかけていた。 「おはよう。気分は?」 「上々よ。ラナイで日光浴してたんだけど、陽射しが強くて気持ちいいわ」  とヒロコ。確かに、ベランダにはもう陽が当たっている。けれど、サングラスをかけるほどは強くなさそうだった。  もしかしたら、泣き腫《は》らした眼をかくすため……。  僕は、なるべく彼女の顔を見ないようにした。 「チェック・アウトは何時だっけ、ケンジ」 「10時だけど」 「わかったわ。それまでには、荷物をまとめておりていく」  とヒロコ。僕は、うなずく。部屋を出ていこうとした。その背中に、 「あの……私のことは心配しないで」  とヒロコの声。 「もう家には戻れないけど、ホノルルに友達も沢山《たくさん》いるし、仕事も簡単に見つかると思うから」  僕はふり向かずに、またうなずいた。1224号室を出ていく。       □  1階のフロントにおりた。 「1224の彼女はどうだった?」  とサム。 「だいじょうぶだ。定刻の10時にチェック・アウトするとさ」  僕は答えた。そのときだった。 「そのチェック・アウト、ちょっと待ってくれないか」  という声。背中できこえた。  ふり返る。すぐ後ろ。若い白人男が立っていた。  がっしりした体格。金髪。左手にはサムソナイトのスーツケース。右手には脱いだサマー・ジャケットを持っていた。  スーツケースを持ってロビーへの階段を駆け登ってきたんだろう。肩で息をしている。すぐにピンときた。 「あんた、ロジャー?」 「ああ……」  額の汗をぬぐいながら、彼は答えた。 「かなりな遅刻だな。これ以上待たせると、彼女にベランダから投げ落とされるぜ」  僕は言った。 「ああ、わかった」  とロジャー。息を切らせながら言った。かすかに笑った。  ロジャーがエレベーターに歩き出した。そのとき、見覚えのある人影。ヒロコの父親テツ・ナカガワだった。ロジャーの正面から近づいてくる。 「ミスター・ナカガワ……」  とロジャー。思わず立ち止まった。 「この若造が……」  とテツ・ナカガワ。その上着の内側がごつくふくらんでいる。  それに気づいた。僕は走り出した。けれど、遅かった。  テツ・ナカガワの右手が上着の内側に滑り込んだ!  そして、ワインのハーフ・ボトルをつかみ出していた。 「見ろ!」  とテツ・ナカガワ。ハーフ・ボトルを、ロジャーの前に突き出した。 「私が自分の醸造法でやっと完成させたパイナップル・ワインだ。1本くれてやる。これでも飲んで、自分の未熟さを思い知れ」  とテツ・ナカガワ。乱暴に言い捨てる。ボトルを、ロジャーに渡す。あっけにとられている僕とロジャーに、 「ふん」  と軽く一瞥《いちべつ》。肩ひじはって、ホテルのロビーから外へ出ていった。 「…………」 「…………」  すぐに、僕らはわれに返った。 「さあ、早くいってやれよ」  僕はロジャーに言った。肩を押す。 「わかった」  とロジャー。ジャケットとワインを一緒に持って、エレベーターに乗り込んでいった。エレベーターのドアが閉まる。階数表示のランプが、ゆっくりと動いていく。  4……5……6……7……8……。ゆっくりと、だが確実に、ロジャーの乗ったエレベーターは12階に昇っていく。  僕は、エレベーターの前をはなれた。ゆっくりと、プールサイドに出ていく。       □  まだひとけの少ないプールサイド。  タオル係のジョーが、客に貸す新しいタオルをきちんと積み上げている。  バーテンダーのフォンが、G《グロリア》・エステファンの曲を鼻歌でやりながらプールサイド・バーのカウンターを拭《ふ》いている。  まだ涼しい海風が、僕のウインド・ブレーカーを揺らせて過ぎる。僕は、ひんやりとした空気を深呼吸。  きょうも、南十字星《サザン・クロス》ホテルの1日がはじまろうとしていた。 [#改ページ]  あとがき  初秋だった。風が涼しい夕方だった。この連作短編のためのアイデアを考えていた。 D《デイオンヌ》・ワーウィックのバラードを聴いているとき、1つの思いが胸のすみをよぎった。  よく知られているように、グランド・ホテル形式というものがある。1つの大ホテルに滞在している客たち。彼らがくりひろげる人生のドラマが、同時進行で描かれていく。この方式は、くり返し小説や映画で使われてきた。  僕も、ホテル、特に南洋のホテルが好きだ。いつか、南洋のホテルを舞台にしたストーリーを書きたいと思っていた。  けれど、僕の胸をよぎったホテル物語への思いは、いわゆるグランド・ホテル形式とはちがうものだった。  南洋にある1つのリゾート・ホテル。そこをつぎつぎと訪れる客たちのドラマを、1話ずつ、短編連作の形で書きたいと思った。  花を1輪ずつ糸に通してハワイのレイをつくっていくように描けたらいいと思っていた。  リゾート・ホテル形式とでも言えばいいのだろうか。ホテルのロビーを、プールサイドを、渡る風のように過ぎていく物語たち。出会い。別れ。夢。失望。恋。再会。そして1杯のカクテル……。  そんな短編連作を、サラリと乾いたタッチで書こうと思った。気がつけば書きはじめていた。僕の場合いつもそうなのだけれど、とても楽しい仕事になった。連作はまだつづいているけれど、6話でとりあえず1冊にまとめてみた。  ページの中から吹く乾いた南洋の風が、カクテルのホロ苦さが、読者の方々に届けば作者としてとても嬉しい。      1989年 初夏 [#地付き]喜 多 嶋 隆   [#改ページ]   文庫版あとがき  この小説のなり立ちについては、前ページにある単行本用のあとがきに書いてしまったので、ここでは、小説の舞台になっているハワイについて少し書いてみようと思う。  いつの間にか、僕はハワイ通の小説家ということになってしまったらしく、ハワイに関するインタビューやエッセイの依頼をうけることが多い。  自分自身、ハワイ通などとは全く思わないけれど、ハワイ好きであることは確かだと思っている。  インタビューの話題がそのことになると、よく、 〈それじゃ、ハワイのどういうところが好きなんですか?〉  と質問されます。  その答えは自分の中ではわかっているのだけれど、口で言うのはなかなか難しくて、いつも苦労してしまう。    誤解されやすい言い方だと思うけれど、僕がハワイを好きな一番の理由は、その〈いい加減さ〉だと思う。  僕が広告の仕事をやっていて、毎月のようにハワイにいっていた頃のこと。  若いプロデューサー見習いが初めてハワイ・ロケにいくと、着いて5日目ぐらいでノイローゼ気味になることがある。東京でなら半日で揃う小道具が、3日もしないと揃わない。約束していたスタッフがこない。モデルが遅刻をする。クルマがこわれた。予約しておいた撮影機材がまちがえて現場にやってきた。  まあ、そんなトラブルの連続に、カリカリとしてしまうのです。  僕も、最初の頃はそうだった。けれど、ある一線をこえると、不思議にナチュラル・ハイな気分になってしまうのですね、これが。  何ごとも正確にきっちりと進んでいく日本の方が不自然で、ハワイの方が自然なんじゃないかと思えてくる。  そういう気分になれる人となれない人がいるようだけれど、僕は完全になれる人だった。そして、麻薬におぼれるようにハワイが好きになっていったのです。  たとえば。  高層ホテルやビルのあるホノルルの街角を、裸足でペタペタと歩いている女の子を見る時。  午後3時で仕事からずらかって波乗りしている人と出会う時。  赤錆びだらけで、片方のドアがとれてなくなっているクルマとハイウェイですれちがう時。  ゴムゾウリでゴルフ・コースを回っている人を見る時。  定休日でもないのにCLOSEDにしてしまってる店の前に立つ時。  スワップ・ミート(青空市)で、使い古した鍋の蓋を並べている人を見た時。  いいなあ、と思ってしまう。  未開の島ならともかく、アメリカの州であり、ハイウェイが走っている場所で、この、お気楽さ、いい加減さ、いいなあと心の底から思ってしまうのだ。同時に、自分の中にあるお気楽さが目覚めるのを感じる。  やはり雑誌のインタビューなどで、 〈ハワイにいったら、何をするんですか?〉  ときかれることがあるけれど、 〈何もしません。ただナマコのようにゴロゴロしているだけ〉  と答える。これは本当なのです。ハワイにいっても、プールサイドに寝そべっているか、カフェで人をながめているか、ビーチをぶらぶらと歩いたりするだけです。  僕にとってのハワイは、〈何もしないことをしにいく〉そんな土地なのかもしれません。  何もしないでいると、ハワイはいろいろなものを僕にくれる。たとえば、プールサイドには出会いと別れの物語がある。風の匂いで、通り雨がくるのを感じることができる。午前中と午後で変わっていく海の色を知ることができる。  けれど、残念なことに、多くの日本人観光客は、忙しく勤勉に遊んでしまうようです。3泊5日のハワイ滞在で6種類のマリン・スポーツをやったという人の話をきいたことがある。他人のことをとやかく言う気はないけれど、ご苦労なことだと思う。  よく、ハワイは日本人にとって一番なじみやすい海外のリゾートと言われるけれど、精神風土と言う意味では、日本人にとって一番遠い土地なのではないかと僕は思っている。  そんな気持ちを込めて書いたのが、この連作短編集なのです。ここに登場する人々の生き方や恋の行方には、僕のハワイに対するそんな思いが色濃く投影されているようです。  もちろん、ハワイも変わりつつあります。その原因の多くは日本人が持ち込んでいるのだけれど……。いずれ、ハワイの人々も常にデジタルの腕時計をはめ、皮革《かわ》の靴で歩くようになるのかもしれません。  そんな時がきても、この輝けるおおらかな日々を思い出せるように、小説を書いているような気がします。たとえささやかな出会いと別れの物語でも、そんなハワイの断片が描けていれば、原稿用紙に向かったかいがあるというものです。  この文庫化にあたっては、角川書店編集部の大塚菜生さんのお世話になりました。ありがとう。そして、この本を手にしてくれたすべての読者の方へ、THANK YOU! また会いましょう。 [#地付き]喜 多 嶋 隆   この作品は平成元年6月、天山出版より単行本として刊行されたものに加筆したものです。 角川文庫『南十字星ホテルにて』平成3年6月10日初版発行