咲村 観 上杉謙信 天の巻 目 次  第一章 春雷  第二章 行雲  第三章 風雪  第四章 霹靂《へきれき》  第五章 風林火山  第六章 花洛《からく》の宴  第七章 流水 [#改ページ]   第一章 春雷  庭に雪が降っている。  虎千代は廊下に佇《たたず》んで、その風景を眺めていた。  南西には、春日山《かすがやま》城が灰色の空に聳《そび》えている。  山の頂に霞むその姿は、美しい絵であった。 �父上の病はなおるだろうか�眺めながらそう思った。  切れ長の澄んだ瞳、憂いをたたえた白皙《はくせき》の面、越後|上布《じようふ》の衣装をまとったその姿には、今年七歳を迎えた少年とは思えぬ風格がただよっている。  ここ林泉寺に虎千代が勉学修業のため預けられて、はや数ヵ月が経っていた。  合戦に明け暮れ、春日山城内にとどまることのなかった父、長尾為景《ながおためかげ》も、いまは病の床に伏している。  苦悩にゆがんだその顔には、領国内に割拠する国人や豪族達を制圧し得なかった無念の思いが秘められている。  無精ひげののびた父の鬼気迫るような相貌を、虎千代は思い浮かべた。  不安な気持であった。  乱世をよそに、菩提《ぼだい》寺のこの寺にこもって、住職の天室光育《てんしつこういく》から、学問を学び、人の道を教わることに、虎千代は無上の喜びを感じていた。  だが、父が死ねばその安らぎは消え失せてしまう。  越後守護代の家督は、今年八月に十八歳年長の兄、晴景が継いだ。  虎千代はそのために、春日山城を出なければならなくなった。  父の意思は、守護代は嫡男の兄が継ぎ、自分は僧侶への道を歩めということにある。  虎千代には漠然と、そのことわりがわかっていた。  神経が鋭敏で、不安にさいなまれている自分には、仏道修行が合っている。  そのため、将来ともこの寺にこもり、曹洞禅をきわめたいと考えている。  一陣の風に、雪が舞った。  春日山城は、視界から消えている。  鉛色の空を見上げながら、�なにか異変が起こったのでは�と胸のうちで思った。  寺の本堂付近が慌しくなってくる。  女中や修行僧が、廊下を往き来しはじめる。  自分の名を呼ぶ光育の妻女の取り乱した声に虎千代は振り向いた。 「お殿様が……」  あとは言葉にならなかった。  吹雪は激しさを増した気配である。  ごう然と鳴る松籟《しようらい》が、不気味感を誘う。 「わかった」  虎千代には、それだけの言葉しか返すことができなかった。  顔色は蒼白になり、声は震えていた。  昨夜来、予感していたことが適中したように思われた。  光育が墨染めの僧衣をまとって、廊下から姿を見せる。  四十歳を越えた年齢であろう。表情にはまだ若さが残っている。  禅を極めた名僧にふさわしく、取り乱した気配はない。  しかし、偉丈夫を感じさせたその風貌が、今日は影をひそめている。 「聞かれたとおりにございます。これからすぐ城のお館へまいりましょう」  光育は静かな口調でそう言ってきた。  虎千代はうなずいた。  戦乱の絶え間のない国内の情況が、脳裏をよぎってゆく。  今後、その風波は、兄は勿論、年少の自分にも及んでくる。  長尾家の異変をついて、明日にでも結束した豪族達の軍勢が、春日山城に攻め寄せてくるかもわからない、これが虎千代の偽らざる気持であった。  光育と妻女は、すぐ本堂へ去っていった。  かわってやってきた女中によって、虎千代は着替えをさせられた。  吹雪の舞う音が、わびしさを誘う。  悲しみにふと涙がこぼれ落ちた。  喪服の腰に大小を差すと、女中と一しょに部屋を出た。  風が顔に吹きつけてくる。  池には氷が張り、その向こうの築山は雪におおわれている。  春はまだ遠いように、虎千代には思えてならなかった。  林泉寺は名刹にふさわしく、広大な屋内の佇まいである。竜を描いた壁画が、異様に眼に映る。  襖《ふすま》があけられて、光育と妻女が墨染めの衣装をまとって姿を見せた。  三人は棕櫚《しゆろ》の繊維と稲藁で編んだ雪沓《ゆきぐつ》をはき、蓑《みの》と笠《かさ》を身につけ、供の者二人を連れて寺を出た。  平坦な道はわずかで、すぐ急坂にさしかかった。  松風の音が鳴りひびき、時折吹雪が顔に吹きつけてくる。  敵方の間者の不意打ちを、一行は警戒していた。  いまは国内の秩序が乱れ、片時とて心をゆるすわけにはいかない。  血なまぐさい出来事は、茶飯事のようにおこっているのである。  山を登るにつれて、雪は深くなった。  つづら折りの道は、山頂へ向かって果てしなくのびている。  半刻余登った頃、城の石垣と門が見えてきた。  鎧をまとった警備の武者の姿に、虎千代は安堵の気持を覚えた。  道が平坦になり、幅が広くなってくる。  庭園風にしつらえられたあたりの風景が美しかった。  雪は小やみに変わっていた。  樹齢三百年を超える松の巨木が、白雪をいただいて、聳えている。  長尾家の歴史を象徴するその佇まいに、虎千代はしばし見とれた。  山頂に石垣を築いてつくられた春日山城は、壮大な規模を誇っている。  自然の嶮《けん》を利用した巧みな築城技術は、他の豪族の城の比ではない。  何万人の軍勢が押し寄せても、二、三年は持ちこたえられると、かつて父が語っていた言葉を、虎千代は思い浮かべた。  一行は城門に向かって歩いた。  正面には天守閣が見事な姿を見せて、空に聳えている。  二の丸、三の丸の建物が、めぐらされた城壁と櫓《やぐら》のはざ間に見え隠れする。  ……桓武平氏の血筋を引く長尾家は、初代守護代の景忠から数えて、兄晴景で九代目になる。  越後へ入国する以前は、相模国《さがみのくに》鎌倉郡長尾荘を本貫とし、千葉、梶原、土肥、三浦、大庭、秩父、上総《かずさ》の諸氏とともに坂東八平氏と呼ばれ、鎌倉幕府の御家人《ごけにん》の主流を形づくっていた。  しかし、鎌倉初期の地位はさほど高いものではなく、三浦氏の被官(家来)にすぎなかった。  宝治合戦で三浦一族が殲滅《せんめつ》せられたとき、本領を没収され、景忠の父景為は浪人となったが、のちに上杉家を頼って、その被官となった。  景忠の代になって、上杉|憲顕《のりあき》にしたがって越後に入り、以後守護代を相伝して現在に至っている。(以上「謙信と信玄」〈井上鋭夫、至文堂発行〉による)  一行は警備の武士の了解を得て、城の小門をくぐった。  庭園と館、めぐらされた城壁、城壁と城壁の間を縫う迷路のような道、白壁の至るところにもうけられた矢ざま、武器、兵糧倉、家人の住居など、さまざまな施設がなつかしさを伴って眼に入ってくる。  虎千代は積雪におおわれたそれらの佇まいを立ち止まって眺めた。  人の往き来は、今日は杜絶えている。  心なしかうらぶれた気配さえ、城内にはただよっていた。 「さあ、行きましょうか」  光育が静かな口調で言ってくる。  虎千代はうなずいて、本丸への道をたどっていった。  父の館へ着いたときには、時刻は午《うま》の刻(正午)を回っていた。  広大な屋敷のなかは、家人達で埋まっている。  右往左往する男女の緊張した面持ちと、不安につつまれた雰囲気が、肺腑をえぐってくる。  虎千代は光育とともに、父の部屋へ入っていった。  母も兄も、枕辺に座って掌を合わせ、経《きよう》を口ずさんでいた。  居並ぶ武者達や奥女中のなかから、すすり泣きの声が洩れてくる。  灯明があげられた仏壇では、僧侶が数人、読経の声をあげていた。  為景は白地の越後上布のふとんに寝かされて、眼を閉じていた。  こけた頬、のびたひげ、白ろうのような顔色、この世のものとも思えぬ凄惨な死に様である。  二十数年、戦いに明け暮れて世を去った父が、虎千代にはあわれであった。 �越後の国はなぜこうまで争いが続くのだろう�と心で思った。  晴景は、ただ一人|直垂《ひたたれ》を身につけていた。  二十五歳の年齢にふさわしく、若さにあふれている。  だが、百戦錬磨の父に比べてどこかひ弱さが感じられる。  生前父が、よく兄を呼んで領国内の豪族の情勢を説き、それに対処する術《すべ》を忘れぬよういましめていた情景を、虎千代は思い起こした。 �長尾家は大丈夫だろうか�ふとそう思った。  虎千代は父為景と気性が似かよっている。  微細な点にまで知恵が回り、いささかの脱漏も見逃がさない鋭敏さを、生まれながらに備えている。  しかし、晴景は違う。  母|虎御前《とらごぜん》に似て、鷹揚なのだ。  それは別の観点から見れば、鈍感で人に利用されやすい性質《たち》とも言えた。  それゆえに、父のように家人や国内の領主を統率して、守護勢力に闘いをいどむなどのことは、期待できなかった。  三十畳ほどの部屋は人であふれ、襖があけられた次の間にも、家人達がひしめいている。  皆不安な顔である。  明日以後の長尾家がどうなるか、それによって自分達の運命がどう変わるかを、お互いが心のなかで考えているのである。  枕辺には近親者以外に、これまで為景と行動をともにしてきた山本寺左京進や志駄、毛利、安田などの国人、一族の長尾|中務少輔《なかつかさしようゆう》も座を連ねている。  かつて為景と意を通じて、守護の上杉|房能《ふさよし》を破った宇佐美、中条《なかじよう》、黒川など下越《かえつ》の諸豪族は、いまは上杉一族の上条《かみじよう》定憲方につき、同族の長尾房景ですら、永正六年(一五〇九)関東管領、上杉|顕定《あきさだ》が上州勢八千余騎を率いて、為景討伐のために越後に乗り込んできたときは、敵方に寝返っているのである。  二十数年前、いやそれ以前から、越後の国内ではこのような情況が続いていた。  戦国の乱世のなかで、守護の上杉氏にとってかわろうとした為景は、敗戦と勝利の繰り返しのなかで、永正十一年(一五一四)主君に擁していた守護、上杉|定実《さだざね》を、自邸内に幽閉して、国主としての実権を握ったが、三年前の天文二年(一五三三)前記上条定憲を中心とする守護勢力の巻返しに遭い、大熊、宇佐美、柿崎の兵が、為景の勢力圏の府内(直江津)に攻め込んでからは守勢に立たされた。  そのため為景は、今年五月春日山城に逃がれ、悶々のうちに病を得て遂に死に至ったのである。  生涯における合戦百余回、心の安らぐ暇《いとま》もなく一生を終えた為景の死顔には、越後制覇の夢が破れた英雄のわびしさが宿っていた。  上条一族との闘いは、まだけりがついていない。  参列者のなかに武装姿の者が多数みられることが、それを物語っていた。  読経が一区切りつくと、室内に溜め息が洩れた。  長尾中務少輔が、悲痛な面持ちをして、晴景に話しかける。 「このような不穏な形勢のなかゆえ、葬儀は明日早朝に林泉寺で行おう。  敵方も寺内までは攻め込んではこぬと思うが、大熊政秀や宇佐美定満のことだ、いかなる手段にでてくるやも知れぬ」 「左様でございまするな。ではそのような段取りで、今夕、父上の納棺の儀を行おう」  二人の会話に、室内は水を打ったように静かになった。  天文六年(一五三七)の正月をあと七日に控えていることを、お互いが忘れていた。  いまはそのようなことに思いをめぐらせている余裕は誰にもないのである。  庭先から武者の激しい声が聞こえてくる。  乗馬のまま城内に乗り入れたのであろう。  蹄《ひづめ》の音が静寂を破ってひびいてくる。  参列者の表情が引き締まる。  と見る間に、鎧《よろい》姿の武者が数名、格子戸を開けて、縁側へ飛び出していった。  馬から降り、白雪のうえに正座した武者の紅潮した顔が、視界をかすめてゆく。 「如何《いかが》いたした」  長尾中務少輔の激しい声が飛ぶ。 「殿の喪を知ったと見えまして、宇佐美、柿崎の軍勢約五千が、府内に迫りつつあります」  武者は息せき切ってそう報告した。 「なに、府内へだと」  少輔の声は震えていた。  府内は、春日山城とは眼と鼻の先の位置にある。  晴景以下の武者は、そのときには席をたっていた。 「合戦の準備を致せ!」  激しい声の下知が下されたと思うと、家人達は叫び声をあげながら、庭へ降り、くもの子を散らすように館から姿を消した。  いまは殿の喪に服している場合ではなかった。  部屋のなかには、光育を含めた僧侶と、虎千代、女中の主な者しかいなくなってしまった。  下女が昼餉《ひるげ》を膳にのせて運んでくる。  一同はそれを不安な気持のなかで食べた。 �なぜ武士は、お互いを傷つけ合わなければならぬのだろう�疑念とともに、空しさがかすめてゆく。僧侶への道をめざす自分には、武士の意地や領国制覇の夢などは、なんのかかわりもないように思われる。  しかし、兄や家人達の必死の面持ちを見ていると、子供心に胸がうずいてくる。  長尾一族を守るために、自分も協力しなければとの気持になってくるのが、虎千代には不思議であった。  夕刻になると、防衛の準備が終わったと見えて、兄達が席へ戻ってきた。  打ち合わせの結果、当初の方針どおり、翌朝林泉寺で葬儀を行うことが決定し、夕食後、納棺が家族や近習《きんじゆう》の者によって行われた。  虎千代も母や兄とともに、白布で父の遺体を浄めた。  生命の失せた人体の冷たさに、驚きを覚えたが、おののきは感じなかった。  通夜は、しめやかであった。  明日の葬儀に備えて、それぞれ交代で睡眠をとったが、常に二十数名の者が部屋に待機していた。  虎千代も亥《い》の刻(午後十時)までは、母や兄とともに起きていたが、子《ね》の刻(午前零時)には、睡魔に抗しきれず、別室で眠りについていた。  眼をさましたのは、卯《う》の刻(午前六時)を回った頃であった。  廊下を通る慌しい足音と人声に、胸をつかれて身を起こしたとき、光育の妻女が部屋へ入ってきて次のように語った。 「上条《かみじよう》方の軍勢は、葬儀が行われる巳《み》の刻(午前十時)頃には、お城へ攻め寄せてくる見込みとのこと。  それゆえ、虎千代様も鎧と冑《かぶと》をめされ、太刀を佩《は》いて、殿様の柩《ひつぎ》を晴景様とともに護送下されたくとのことでございます」 「なに、それがしに戦さの姿で、父上の葬儀に参列せよとの儀か」  虎千代は緊張のため、体の震えがとまらなかった。  そのような姿で、公の場へ臨むのははじめての経験であったからである。 「左様にございます」  妻女の言葉に虎千代はうなずいた。覚悟はできていた。  葬儀の途中、万一敵襲に遭えば、兄達ともども父の遺体を生命《いのち》にかけても守るつもりであった。  墨染めの衣装に着替えると、部屋を出て、武者溜りへ行き、係りの者の指導を受けて、父が自分のためにしつらえてくれた鎧、冑を身につけ、太刀を佩いた。  晴景以下も、同じ姿になっていた。  警護の武者達は、槍、薙刀《なぎなた》、弓矢をたずさえている。 「馬上」と呼ばれる騎馬武者は、館の外の広場にすでに二百騎ほど勢揃いしていた。  兵達のざわめきの声に混じって、馬のいななきが聞こえてくる。  出陣さながらの城内の雰囲気に、虎千代は身が引き締まるのを覚えた。  父を失った悲しみの気持はすでに消えている。  武者溜りを出ると、廊下を歩いた。  朝日に映える庭園の風景が美しかった。  風はなぎ、雪をいただいた築山や松、石灯籠の風雅な佇まいが、気持を落ち着かせてくれる。 �あと六日で正月か�春日山城内で、父母や兄とともに過ごした昔の情景を思い浮かべながら、胸のうちでつぶやいた。  林泉寺に身を寄せた以上、今後、城に帰ることはあるまいというのが、虎千代の気持であった。  台所へ入ると、女中に膳をしつらえさせて、その場で食べた。  葬儀の日とは言え、今日は事情が違う。  母や兄、光育も同じような形で、慌しい食事を取っていた。  家人達も昨夜女中がつくった握り飯を頬張って、空腹を充たしている。  食後は武者溜りへ行って休憩した。  過去にも、そこへよく出かけて、母に叱られたことがある。 �そなたは家督をつがぬゆえ、武士の振舞いに意を用いる必要はない�というのが、母の言い分であった。  だが、父はそのような虎千代をみても、笑みを浮かべるだけで、たしなめることはしなかった。  武者と語り合っていると、出発を告げるほら貝の音《ね》がひびき渡った。  虎千代は席を立った。  武者達も慌しく部屋を出、わらじを履くと、次々に外の広場へ発っていった。  虎千代は母や兄、光育、部将達と玄関で落ち合うと、序列に従って外へ出、武者がかついだ柩のあとに従った。  春日山城は巧妙な設計になっている。  本丸から広場まで達するには、城壁と城壁の間の見通しのきかぬ道を、ぐるぐる回らなければならない。  加えて、その間に、堅固な門や行き詰まりの迷路がいくつかある。  しかし、今日は別に設けられた階段式の間道を通った。  両側には警備の武者が立ち、途中のいくつかの門にも、番兵が立っている。  ものものしいとも言える警戒振りではあった。  広場へ出ると、柩の前後に騎馬隊が配置され、「手明《てあけ》」(重装備の歩兵)が、その間隙《かんげき》を埋める出陣時に似た戦闘体制をとって、城門を出た。  待機するおびただしい武装兵が、それに合流して山を下る。  三千名を超える人数である。  府内を発ち、林泉寺へ向かうかも知れない上条《かみじよう》勢に備えるためである。  城内にも勿論、多数の兵が屯《たむろ》して、敵の襲撃に備えている。  一行が城を出ると、門は閉ざされ、普段とかわらぬ静まりかえった雰囲気にかえった。  虎千代は兄と左右に分かれて、父の柩を守って歩いた。  深雪を踏みしめて歩くことは辛かったが、いまはそれよりも、周囲の樹林に潜んで弓をひき、不意打ちをかけてくるかも知れない敵兵の存在の方がこわかった。  隊列はえんえんと続き、つづら折りの道を見え隠れしながら、ひっそりと下っていった。  聞こえてくるのは、馬のいななきだけである。  馬に乗ることを部将達はすすめたが、二人はことわった。  半刻足らずで山を降り、やがて林泉寺に着いた。  本堂の祭壇へ、父の柩が安置されたとき、はじめて虎千代は安堵の念を覚えた。  寺内へは、三百名ほどの参列者と、警護の武士が入っただけで、大多数の者は、寺を囲んで、合戦の準備を整えた。  葬儀はすぐはじめられた。  参列者は皆、城を出たときの姿のままである。  晴景も虎千代も鎧、冑をつけたまま床几《しようぎ》に腰を下ろして、読経の声に耳を傾けた。  菩提《ぼだい》寺にふさわしい、広大な堂内の佇まいが、越後守護代を九代にわたって勤めた長尾家の格式と権威をあらわしていた。  葬儀の最中にも、敵方の情報は入ってくる。  府内に屯《たむろ》して、林泉寺を攻める気配を示しているというのが、敵方へ放った間者からの一致した報告であった。  兄や部将達の顔は蒼ざめている。  だが、いまは取り乱した姿は見せられない。参列者はお互いにそのことを意識しながら、葬儀の進行を見守った。  やがて焼香に移った。  晴景に続いて母が立ち、虎千代はそのあとに、名を呼ばれた。  床几から立ち上がると、錦の布におおわれた父の柩の前に立った。  数珠《じゆず》をはめ、心のなかで父の冥福を祈った。  長尾中務少輔の席へ、ひっきりなしに伝令が往き来する様が、不安の気持をかき立てた。  焼香が終わると、後節の読経がはじまった。  その重々しい声を、虎千代は眼をつむって聞いていた。  今後自分がどのような運命をたどるかは、判断がつかなかった。 �林泉寺に無事とどまっておられるだろうか�おののきとともに、思いがかすめてゆく。  半刻余で葬儀は終わった。  参列者の間に溜め息が洩れる。  あとは寺の墓地へ、柩を埋葬するだけである。  ざわめきのなかで、虎千代は席を立った。  参列者も次々に本堂を去ってゆく。  その時、伝令の武者の激しい声が聞こえてきた。 「敵はいましがた林泉寺へ向かって出陣を開始致しました。宇佐美、柿崎勢を中心とする三千の兵でございます」 「とうとう来おったか。すぐ全軍に合戦の準備を下知致せ」  長尾中務少輔の悲痛な叫び声が、堂内の空気を震わせたと思うと、参列者は先を争って、庭へ飛び降り、門外へ駆け抜けていった。  寺内は混乱状態を呈してきた。  母や兄の顔は、ひきつっている。  右往左往する武者のなかを、寺僧達にかつがれた父の柩が、光育の先導で堂外へ運ばれ、一部の者を従えて、白雪の道を裏手の墓地へ向かって移送された。  虎千代は兄とともに、父の柩を守って歩いた。  林泉寺は壮大な規模を誇っている。  巨大な山門、その前の小門と土塀、生い繁る木々、風雅な趣きの池、連なる付属建物、これらが雪をいただいてひろがる風景は美しい絵であった。  だが、今日はその思いは得られない。  むしろ恐怖の感覚を伴って眼に映じてくるのである。  山門を焼き、塀を破壊して、敵方の騎馬武者が、葬儀の行列になだれこみ、長尾一族を血祭りにあげて、父の首級をうばってゆくのではとの錯覚さえよぎっていく。  手足は震え、鎧と冑の重みが胸にこたえた。  三千の兵のざわめきが、地鳴りのような音となって耳にひびき、塀の外ではためく無数の軍旗が、緊迫感をかきたてる。  やがて山手の墓地に着いた。  しつらえられた祭壇に柩が安置され、再び読経がはじまる。  虎千代は数十人の参列者とともに、立ったままの姿で、首《こうべ》を垂れた。  柩の埋葬さえ終われば……ただそれだけを心のなかで念じた。  読経が終わると、柩は僧侶達の手によって、予《あらかじ》め掘られた穴におさめられ、土がかけられた。参列者はそれを周囲に立って見守り、最後の別れを惜しんだ。  墓石は後日、光育達によって建てられる。  地ならしをし、そのうえを雪でおおって元の状態にかえすと、光育が参列者を見て、埋葬の終了を告げた。  安堵の溜め息が洩れる。  母や兄の顔にも安らぎがかえっていた。  しかし、それが束の間のものであることは、誰もが知っていた。  晴景が部将を見て下知を飛ばす。 「皆の者ご苦労であった。これから直ちに部署につけ。宇佐美、柿崎の兵は、上条方の主力だけに手ごわい。ぬかるではないぞ」  震える声である。  はじめて戦いの指揮をとることが、緊張感を誘うのであろう。  部将達は雪を蹴散らして、山門へ走っていった。 「母上は警護の武者とともに、直ちに春日山城へ帰って下さい。虎千代は林泉寺に残れ。しばらく会えぬかも知れぬが、達者でのう」  晴景は二人を見てそう告げると、部将達のあとを追った。  母も警護の武者とともに、すぐその場から去っていった。  虎千代は呆然《ぼうぜん》と佇んだ。 �これからどうすればいいのだろう�わびしさとともに、思いがかすめてゆく。  敵方の軍勢が攻め寄せてきたのか、静止していた軍旗が動き出し、ときの声が空にひびきわたった。  騒然たる雰囲気である。  自らをどう処置すべきか虎千代には判断がつかなかった。林泉寺が攻められれば、光育ともども敵の刃《やいば》にかかって果てるように思われた。  焦りと恐怖感が苛ら立ちの念を誘う。 �殺《や》られる前に殺《や》らねば……�と思った。  なぜこのような心境になるのか、自分でもわからなかった。  両軍のときの声が、天にとどろいた。  山門を突き破り、雪煙をあげて自分達に襲いかかってくる騎馬武者の姿を、虎千代は心に描いた。 「和尚《おしよう》、わたしも合戦に参加する」  思わずそう叫んだ。  危険と孤独から逃がれる術《すべ》は、それ以外にないように思えたのである。  蒼白な虎千代の顔を、光育は慈愛の眼ざしで眺めた。 「そなたは僧侶への道を歩む者。浮き世のことに心をまどわされてはならぬ。上条勢は長尾一族を攻めても、この寺を焼き払ったりはせぬ。それゆえ安心するがよい」  落ち着いた口調の言葉を、虎千代は噛みしめながら聞いていた。  光育が語ることには偽りがない。その安堵感がすさんだ気持を和らげてくれた。  二人は並んで境内の風景を眺めた。  彼方には、山門が雄大な姿を見せている。  いらかを連ねて山手へ向かってのびる本堂と付属建物の佇まいが、寺の格式と歴史を感じさせた。 「さあ、戻ろうか」  光育の言葉に、虎千代はトボトボと歩き出した。  わびしい気持であった。  陽ざしに映える白雪が眼に焼きつくように映る。  春日山城の天守閣を仰ぎながら、虎千代は鎧、冑に身を固めた父の雄姿を思い浮かべていた。  陽ざしが縁側に注いでいる。  虎千代は書物から眼を離すと、明かり障子をあけて、庭の風景を眺めた。  越後の冬は長い。  築山もその向こうの松林も、まだ白雪におおわれたままである。  父の死後、晴景はその遺志を継いで、領国支配に心血をそそいでいる。  豪族達を、自分の傘下におさめるため、後奈良天皇に内乱平定の綸旨《りんじ》を請《こ》い、年が明けてからは、父為景が廃した守護、上杉|定実《さだざね》をたてた。  力を持たない晴景にとっては、已《や》むを得ぬ措置であったが、一族のなかには妥協的なこのやり方に、早くも不満がではじめている。  為景の墓参りにやってくる部将と光育との語らいのなかに、虎千代はそれを感じた。 �兄上は、うまく家人を統《す》べていけるだろうか�不安が胸のうちをよぎってゆく。  政治向きのことは、虎千代にはわからなかった。  しかし、生来の鋭敏な神経と判断力で、その後、春日山城内がどのような状態になっているかは凡そ察しがついた。  溜め息を洩らすと、障子戸を閉めて、隣りの部屋へ入っていった。  そこには虎千代のために、父が細工師につくらせた城攻めの模型が並べられている。  操り人形を動かして、どう天守閣まで達するかを考えさせる一間四方の大きさの玩具である。  八歳を迎えた虎千代は、普通の少年より成長が早い。  体はさほど丈夫ではなかったが、運動神経は群を抜き、剣も巧みであった。  為景は早くから、そのような虎千代に眼をかけ、家督を継がせたいと考えたが、世間のしきたりだけは、如何《いかん》ともなし難《がた》かった。  加えて、虎千代と晴景は、年齢の開きが大きい。  兄弟と言うより、親子ほどのそれなのだ。家督を晴景が継いだ背景には、このような事情があった。  虎千代は模型の城を、じっと眺めた。  いまは、このようなもので遊ぶつもりはない。城攻めのやり方は、物心ついて以来の工夫で会得してしまっているからである。  これからは、むしろ乗馬や剣の道を心がけたいと考えていた。  思いをめぐらせていると、光育が姿を見せた。 「相変わらずじゃのう。合戦がそなたは好きか」光育の顔には笑みが浮かんでいた。 「はい」  虎千代は心のままを答えた。  光育は複雑な表情をつくった。  僧侶にもふさわしく、また武将としても名をなすかも知れない虎千代を感じて、判断に迷っているのである。 「どうだ、久し振りに庭へ出て、剣の素振《すぶ》りでもしてみんか」  虎千代の健康を慮《おもんぱか》ってか、光育はそう促して、格子戸を開け放った。  虎千代は床の間の刀かけから、二尺三寸の太刀をとると、雪沓をはいて庭に降り立った。  白雲が空を飛んでゆく。青空に浮かぶ春日山城が、視界をよぎるのを覚えながら、虎千代はさやを払った。  父を死の床に追いやった上条勢の部将の顔が浮かんでくる。 「おのれ!」裂帛の気合いとともに、得も言われぬ光芒を放って、抜身が虚空に舞った。 「そなたは文武両道の使い手じゃのう」  笑みを浮かべて語る光育の声を聞き流しながら、虎千代は素振りを繰り返した。  陽ざしに映える庭の風景には、春の気配がただよっていた。  二年の歳月が経過した。  晴景が、守護上杉定実をたてて以降、越後には平和がよみがえった。  豪族が統合されたというには程遠い状態であったが、色部勝長や竹俣氏の帰降により、戦乱が一まず収まったのである。  しかし、晴景のこのやり方にはやがて破綻《はたん》が訪れた。  守護という旧勢力を擁して、その場をおさめること自体が、時代の流れに逆らうものであったからである。  戦乱のなかで各豪族は、虎視|眈々《たんたん》と一国支配を狙っていた。  越後だけでなく、越中や越前、信濃、甲斐、駿河、美濃その他の諸国においても同じであった。  応仁の乱(一四六七〜七七)を契機とする戦乱の世は、すでに七十年間続き、足利将軍の権威は地に落ち、天下は千々に乱れている。  美濃では斎藤道三が、昨年(天文七年=一五三八)四十五歳で守護代を継ぎ、今年になってから稲葉山城(岐阜県)を修築してこれに拠り、守護|土岐頼芸《ときよりなり》を追放しようとはかっていた。  甲斐では武田|信虎《のぶとら》、晴信《はるのぶ》(信玄)父子が、覇を唱え、密かに隣国信濃の経略を進めている。  関東の北条、上杉両氏の抗争、駿河の今川義元の台頭、尾張の雄、織田信秀の活躍、安芸《あき》の地頭、毛利|元就《もとなり》の山陽、山陰七ヵ国平定を目指しての動きなども、すでに春日山城には伝わっていた。  そのようななかで、越後の国内が、群雄割拠の状態を呈し、守護の地位の争奪をめぐって、虚々実々の闘いが繰り返されていたとしても、なんら不思議なことではない。  晴景は父が廃した守護上杉定実をたてることによって、戦乱を一応収めはした。  しかし、それは一方で諸豪族に国内制覇の野望を遂げるための、勢力の蓄積期間を与えることになった。  表面上平和が回復しただけで、諸族|鼎立《ていりつ》の実態は、いささかも変化を見せていなかったのである。  果たせるかな、今年になってそれが表面化した。  上杉定実には子供がなく、豪族の一人|中条藤資《なかじようふじすけ》の勧めで、その妹が嫁した伊達《だて》晴宗の二男、実之を上杉家の養子にしようとしたことから、下越《かえつ》の豪族の不満が爆発し、国内は再び戦乱の渦に巻き込まれた。  晴景が反中条派の旗がしらであったのは、言うまでもない。  色部勝長、本庄房長と結び、中条藤資の行為に反対を唱えはじめたのである。  初夏を過ぎる頃から、春日山城内には緊迫した空気がただよい、武者の往来が繁くなった。  林泉寺で仏道修行に励む虎千代にも、その噂は伝わってきた。 「和尚様。また戦さですよ。晴景様がうまくおさめてくれればと、わたしは念じていたのですが、威光と器量の不足のため、とうとう二手に分かれて争うことになりました」  長尾一族の誰かであろう。  光育の書斎で、声高に語る言葉が耳にひびいてくる。  虎千代は筆を止めて耳をすませた。 「伊達様と中条の連合軍を相手にしたのでは、晴景様も勝ち目はありますまい。  もう少し思慮深くあらせられればよいのじゃが……」  光育の溜め息混りの言葉がかえされる。  虎千代は唇を噛んだ。  兄の不手際が腹立たしく感じられてならなかった。 �父上が存命であれば、さぞなげかれることであろう。乱世に処するには、智恵と力しかないことが、兄上にはわからぬのであろうか�  そう思いながら、席を立った。  戦乱の気配におおわれた城下町の状況を見たいと、虎千代は考えていた。  林泉寺から北へ向かって、城下には、五千戸の家が立ち並び、将来もふえてゆく気配を示している。  廊下を歩いて、本堂の玄関へ出ると、雪駄をはいて外へ出た。  緑一色におおわれた境内の佇まいが、眼に入ってくる。  万象すべてが、活動の時期に入ったのである。  砂利道を踏み山門を目指して歩いた。  近頃は眼に見えて背丈が高くなり、たくましさを増している。  学問や仏道修行にも慣れ、寺での孤独な生活にも、ようやく安らぎを見出せるようになった。  将来は光育のあとを継いで、この寺の住職になり、諸国の名刹を行脚《あんぎや》して回りたいと考えている。  特に京都の寺々と高野山を訪れることが、虎千代の夢であった。  母|虎御前《とらごぜん》(青岩院)は、観音に帰依し、先祖伝来の曹洞宗を信奉した父為景とは、宗旨を異にした。  しかし、二人の信仰心は、それほど強いものではなく、普段は祖法である曹洞宗に従って、先祖のまつりごとを行った。  虎千代もこの考えを受けて、宗派そのものには、あまりこだわりを持たず、仏の道であれば、どのような宗教でもよいと、子供心に考えていた。  林泉寺は、祖父長尾能景が、亡父重景の菩提を弔うために国衙《こくが》(新井市大字国賀)にあったものを、春日山城外に招致したもので、曹洞宗に属することが、長尾家の宗教と一致し、以後菩提寺としての権威を振るった。  曇英恵応禅師を開山とし、天室光育は、六世の住持にあたる。  山門を抜けると、ひなびたあたりの風景を眺めながら、人家が密集する地域へ歩を進めた。  かやと板葺きの商家が、街道に軒を連ね、山手に密集する武家屋敷と対照的に眼に映る。  魚類、海産物、米、味噌など食品を売る店に混って、研師《とぎし》、鍛冶師、土産物店、菓子舗なども最近はふえてきている。  しばらく見ぬ間に、町が見違えるほど賑わいを呈していることに、虎千代は驚きを覚えた。  将来とも、このような平和な状態が続くことを、祈りたい。だが、さきほどの噂では、それはかないそうにない。 �誰かが早く国内を統一しなければならないのだ�かつて父が口ぐせのように語っていた言葉を、虎千代は思い浮かべた。  ふところ手をして歩いていると、人の叫び声が聞こえてきた。  ただならぬ気配に、虎千代はその方を振り向いた。  春日山城を出陣したらしいおびただしい人馬の群れが、蹄を鳴らし土煙をあげて、山道から姿をあらわしてくる。 「また合戦だ!」  商人達のおびえの声がひびき渡ったと思うと、あたりは騒然となってきた。  虎千代は物かげに身を潜めて、様子をうかがった。  本庄房長、色部勝長らの部将を含む、晴景の軍勢であった。 �やはり噂はほんとうだったのだ�頭のなかを思いが走ってゆく。  兵団が街道を通過すると、再び賑わいがかえってきた。  虎千代は道をひき返した。  不安な気持であった。 �越後にはまだ戦乱が続く。それがしが死ぬまで、或いは続くかもしれぬ�  五月晴れの空に浮かぶ春日山城を仰ぎながら、そう胸のうちでつぶやいていた。  七月半ばに、兄晴景の軍の敗戦が伝えられた。  光育からそれを聞いた虎千代は、予感の適中を覚えた。 「晴景様の軍には、さほど死傷者はでなかった模様だが、本庄様の軍勢は、伊達、中条の連合軍に打ち破られ、羽前《うぜん》大宝寺(山形県鶴岡市近辺)で殲滅的な打撃を受けたとのこと。  大将の本庄房長様が討ちとられたことが、それをあらわしております」  光育の声は沈んでいた。  虎千代は言葉もでなかった。  兄のやり方に不満を唱える部将達の顔が、浮かんでくる。  高梨政頼《たかなしまさより》、本庄|実仍《さねとみ》、大熊政秀《おおくままさひで》、直江実綱《なおえさねつな》らがそれである。  加えて、兄は病弱で痼疾に悩んでいる。  諸将の統率者としては、不適格なのだ。  九代目守護代の看板で、わずかに面目を保っているに過ぎない。  最近になり、虎千代にはそれがわかるようになった。 「今度の敗戦で、守護の上杉定実様は、晴景様の庇護に疑問を感じられ、隠棲《いんせい》の意を洩らされたという。しかし、晴景様のたっての願いで取り止められたとのことでもあります」 「左様でございますか。それにしても兄上は、なぜそこまで守護様の擁立《ようりつ》にこだわるのでございましょう」  疑問の気持を、虎千代は禁じ得なかった。 「古い権威を重んずるのは、人の常でございますゆえ」 「なるほど」  自分がもし守護代になっても、力を貯えるまでは、或るいはそうするかも知れぬと虎千代は思い直した。  あながち兄を批判できない気持であった。  戦乱の絶え間のないなかで、三年の歳月が経過し、天文十一年(一五四二)を迎えた。  虎千代は十三歳になり、心身ともに見違えるように成長していた。  林泉寺での六年間の生活が、いまは夢のように感じられる。  充実した日々であったと、自分でも思う。  学問と仏道修行に打ち込むことによって、心の不安からはようやく解放された。  父の死によって受けた傷は、すでに癒えている。  学問の傍ら心がけた乗馬や剣術にも習熟し、現在では腰に長刀を佩いて、府内の海岸まで、馬で遠出する毎日が続いている。  長尾家の出身者であることを秘すため、外出時には、越後上布の白布で顔をおおうよう心がけている。  合戦の絶え間のない国内の情勢から、心をゆるめることは許されないからである。今日も虎千代は府内にやってきていた。  果てしなくひろがる海を眺めていると、心が和んでくる。  そよ風が頬を撫で、彼方には佐渡の島山が浮かんでいる。  左手には能登の雄大な山容が、霞んで連なっている。  眺めながら、虎千代はかつて父が、苦難の日々を送った佐渡ケ島の状況を思い浮かべた。  永正六年(一五〇九)七月、関東管領上杉顕定が八千余騎を率いて、越後に攻め込んだとき、剛勇をもって鳴る父も、味方の離反で敗戦の憂き目に遭い、四面楚歌のなかで佐渡に逃がれた。  しかし、翌年四月には越後にもどり、豪族達を統率して関東勢を撃破し、六日町《むいかまち》(新潟県六日町盆地)に顕定を追い込んで討ちとっている。  越後の覇者にふさわしい人物だったのだ。  不幸にして、志半ばにして病に倒れ、空しく世を去ったが、その武勇と叡智は、豪族達の語りぐさになっている。  しかし、兄晴景は三年前の敗戦に続き、今年は下越《かえつ》の諸豪族を巻き込んだ伊達|稙宗《たねむね》、晴宗父子の戦いを未だに収め得ず、喃々《なんなん》として日時を経過させている。  越後守護代の権威を失墜させたも同然の状況にあるのだ。このような状態では、やがて部将達も離反してゆく。  自分にはかかわりのないこととは言え、虎千代の心は暗かった。  さわやかな風が岸辺を吹き抜けてゆく。  広大な海の彼方は、どこがそのはずれなのか、見当がつかない。  波の音に安らぎを覚えながら、虎千代は駒を進めた。  馬のいななきが、聴覚をかすめてゆく。  振り向くと、二騎の武者が遠くから近づいてきていた。  抜刀した姿に虎千代はただならぬ気配を感じた。 「長尾晴景一味の者とお見受け申した。名を名乗られよ」  近づくなり一人が、鋭い眼ざしを向けて、そう言ってきた。  二人とも鎧、冑に身を固め、顔、形はさだかではない。 「わたしは仏道を志す者、怪しい者ではござらぬ」  虎千代は相手を見据えて言葉を返した。 「林泉寺に身を寄せられる、長尾虎千代殿でござろう」  相手は白布で包んだ虎千代の顔を、喰い入るように見詰めて、激しい口調で聞いてきた。  虎千代は答えなかった。  相手の一方的詰問に応ずる必要はないと考えたからである。  殺気に似たものを、二人の気配から感じたが、素知らぬ振りをして、駒の方向を変えた。  二人が左右から襲ってきたのは、その直後であった。  兄晴景を誅しようと計る一味の間者であることは、虎千代にはわかっていた。  馬と馬がぶつかり合う寸前、虎千代は腰の備前長船《びぜんおさふね》の刀を払っていた。  刃《やいば》と刃《やいば》がつばぜり合ういとまもなかった。  一人が叫び声をあげ、身をのけぞらせて渚《なぎさ》に水しぶきをあげたと思うと、返す刀でもう一人の武者の下腹が水平に切り裂かれていた。  返り血が、顔の白布に飛び散ってくる。武者は声もたてずに、波打ち際に落ちた。  主を失った二頭の馬が、いななきの声をあげて東へ走ってゆく。  闘いはそれまでであった。  虎千代は呼吸一つ乱していなかった。  馬上からじっと武者の死に顔を眺めた。  鎧の胴の一部が切り裂かれ、結び綱が、波にたゆたっている。  馬から降りると、海へ足を踏み入れて、衣服と白布を浄めた。  さわやかな気持であった。  剣の修錬が、これほどの成果をもたらそうとは、想像も及ばぬことであった。  岸にあがり馬に跨《また》がると、西へ向かって進んだ。  霞に煙る能登の山々が、行手にあざやかな姿を見せて、浮かんでいた。  季節は夏を迎えた。  庭の木々で鳴く蝉の声が、聞こえてくる。  虎千代は文机の前に座って、道元禅師があらわした「正法眼蔵」を読んでいた。 「はづべくんば、明眼《みようげん》の人をはづべし」と言われた師の教えが、心に浮かんでくる。面をあげると、庭の風景を眺め渡した。  眼の前の池では、緋鯉が列をなして泳いでいる。  一糸乱れぬ見事な回遊である。 �主従もあのような姿でなければ、国内統一はなし遂げられぬ�兄晴景に対する部将達の悪評を思い浮かべながら、そう思った。  御影石の石灯籠や築山の松が、見事な姿を見せて、眼に入ってくる。  虎千代は無心にその眺めに見とれた。  乱世をよそに、仏道修行に打ち込める自分を幸せだと思う。  甲斐の国では、武田晴信(信玄)が、父信虎を駿河に追放して、昨年二十一歳で覇者の地位につき、美濃では斎藤|道三《どうさん》が、かねての狙いどおり、守護土岐頼芸を尾張へ追放した。  血なまぐさい噂は、毎日のように春日山城下に伝わっている。  そのようななかで、自分だけが安泰の道を歩んでいるように思えてならなかった。 �兄上の手助けをして、国内統一に力を尽くさねば……�そんな思いに、虎千代はふと駆られた。  織田信秀の子、信長が今年九歳で父とともに出陣し、武名をあげているとの市井《しせい》の噂を、虎千代は思い浮かべていた。  人が来訪してきたのか、光育の書斎から、話し声が洩れてくる。  内容はさだかでなかったが、兄晴景の統率力の弱さを批判していることだけは、察しがついた。  語らいのなかで、自分の名前もでている。  虎千代は耳をすませたが、小声のため聞きとることができなかった。  客が帰ると、光育が部屋へ入ってきた。  顔には笑みが浮かんでいる。  虎千代が三ヵ月前、府内の浜で敵の間者を斬ったことを、光育は知っていた。  しかし、そのことについて、叱言を言われたことはない。 「どうだ、学問の方ははかどるか」  光育はさり気なく聞いてきた。 「なにぶん、この暑さでございますので」  虎千代は照れて答えた。  背丈は光育と同じ位になっている。  だが、白皙の面には、まだ少年の面影が残っている。  虎千代は来訪者の名前を、さり気なく聞いた。自分の名前が、会話のなかにでていたことが、気になったからだ。 「中条藤資《なかじようふじすけ》殿だ」  光育の言葉に、虎千代は驚いた。 「中条様はいまは兄上と手を結んでおられるのですか」と思わず聞き返していた。 「左様、乱世の現在、伊達様や武田様のように父子相争ったり、敵、味方の和合、離反は常のことだからな」  光育の眉間《みけん》にはしわが寄っていた。  虎千代はうなずいた。  藤資が来訪してきた目的を聞きたかったが、遂に聞くことができなかった。  十月を迎えると、越後は冬の気配におおわれてきた。  揚北《あがきた》(阿賀野川以北の土地)の諸豪族を味方につけた伊達稙宗とその嫡子《ちやくし》晴宗との闘いは相変らず続いている。  中条藤資が、その妹の子、伊達実之(晴宗の二男)を守護上杉定実の養子にしようとしたことから起こった三年前の闘いが、その後、稙宗が実之に譜代の精兵百騎をつけて、越後に送ろうとしたため、考え方を異にする嫡子晴宗の怒りを買って再燃し、まだ結着がついていないのである。  そのため、守護代の晴景に対する諸豪族の批判は、高まった。  しかし、降雪の季節を迎えたことが、両者の闘いを中断させ、一時平和がかえった。  このことを晴景は喜んだ。  来年の雪解けの季節までは、豪族達の批判が杜絶え、戦乱の終息とともに、権威が回復すると見透しているのである。  春日山城の冬景色を眺めながら、虎千代は兄の見込みどおりの結末になることを念じた。  近頃は心を煩わすものがない。  冬ごもりの季節を、学問に励み、光育夫妻と語らうことに、無上の喜びを感じている。  正月前には、修行僧と餅つきを行い、元旦には近くの春日神社へ、光育達と揃ってお詣りに出かけた。  参道を着飾って歩く、庶民や武士の姿を眺めていると、心が安らいでくる。  かたときとは言え、城下に平和がよみがえったことを、人々は喜んでいた。  道の両側には、食べ物や土産物を売る店さえたっている。 「虎千代様も来年は十五歳、お城におられれば、元服されてさぞかし、立派なおさむらいになられたでしょうに」  雑踏のなかを歩きながら、光育の妻女が言ってくる。 「いやいや、それがしは仏に仕える身、戦いに明け暮れる武士とはかかわりがございませぬ」  虎千代はさり気なく答えた。  だが、心のなかはゆらいでいた。合戦に出て、敵の城を攻めてみたい気持を、幼少の頃から抱いていたからである。  乗馬を心がけ、剣の道に励むのもそのせいであった。  拝所に立つと、兄の武運と長尾家の安泰を念じた。  光育達は、境内のはずれから、付近の風景を眺めている。  しかし、虎千代は毘沙門天《びしやもんてん》を祀った御堂の前から離れることができなかった。  甲冑《かつちゆう》に身を固め、眉を吊りあげて悪魔をにらむその姿に、自分の心理に共通するものを見出したように思われたからである。  四天王の一人で、仏法の守護神である毘沙門天の像には、言われぬ雰囲気が、ただよっている。  眺めていると、不安が解消し、勇気が湧いてくる。それは霊感とも言えるほどの不可思議なものであった。 「そろそろ引き揚げようか」  光育の言葉に、虎千代はわれにかえった。  陽ざしが樹林に降り注ぎ、空では鳶が弧を描いて舞っている。  一行は初春《はつはる》の喜びを噛みしめながら、石段を降りていった。  雪解けの季節を迎えると、下越の戦いが再燃した。  晴景や虎千代の願いは、通じなかったのである。  初夏から夏へと、季節が移り変わるにつれて、戦乱は拡大していった。  晴景は収拾にやっきとなっていたが、病弱の悲しさ、兵を率いて出陣することすら、かなわなかった。  豪族達の不満がつのったのは、言うまでもない。  秋を迎える頃、中条藤資を筆頭に、高梨政頼《たかなしまさより》、本庄|実仍《さねとみ》、大熊政秀、直江実綱《なおえさねつな》の五人の部将が、打ち揃って林泉寺へやってきた。  彼等は光育に面会を求め、本堂の隣りの間で話し合った。  只ならぬ気配に、虎千代は心が落ち着かなかった。  彼等の目的が、自分を春日山城にかえし、長尾一族の総帥に祭りあげることにあることを、知っていたからである。  晴景も、心身の疲れから、最近はその方向へ心が動いている。  しかし、光育も虎千代も、それを受けるつもりはなかった。  話し合いが難航しているのは、そのためであった。  廊下を歩く足音が聞こえてくる。  やがて、格子戸があけられて、修行僧が姿を見せた。 「和尚様から、座敷へきてもらいたいとの伝言にございます」  予想された言葉に、虎千代は立ち上がった。  部屋へ入ると、光育を囲んで、五人が車座をつくっていた。  眼光の鋭い荒武者ばかりである。  彼等は具足をつけたままの姿で、座ぶとんにあぐらをかいていた。 「和尚は、頑固でかなわぬ。虎千代様はわが子同然だから、絶対に離さぬと言ってきかんのだ」  藤資が出された料理を食べ、酒を喰らいながら言ってくる。  どこまでが本心なのか、虎千代には察しがつかなかった。 「晴景様は病弱ゆえ、われわれも困り果てております。このままでは、長尾家の威光は地に落ちるやも知れませぬ。虎千代様、一刻も早く春日山城へ帰って、一族郎党の指揮にあたって下さりませ。  敵方の間者二人を一刀のもとに斬り捨てたあなたなら、合戦を行っても、必ずや勝つに相違ありませぬ」  本庄|実仍《さねとみ》が、深刻な表情をして言ってくる。  誠意のほどが、虎千代の心を打った。  直江実綱や高梨政頼も同じ趣旨のことを述べて、帰城を促した。  光育は腕組みしたまま語らない。 「突然のことゆえ、それがしにも判断がつきかねる。もう一度冷静に考えたうえで、ご返事申し上げることとしたい。  ただ、僧侶を志してきた者が、若輩《じやくはい》の身で合戦の指揮をとれるか否か、甚だ疑問に感じられる。  この点はおのおの方も、よく考えておいていただきたい」  虎千代は五人を見渡して、そう言葉を返した。 「言われる点はごもっともに存じます。  しかし、いまの越後は、虎千代様のような勇気のある武将を求めております。  群雄割拠の状況に終止符を打つには、それ以外に術《すべ》がございません。  その辺をお察し下されたく」  藤資が五人を代表して、意見を述べる。 「わかった。では」  虎千代は答えて、席を立った。  長居は無用だと、心で思っていた。  確答が得られぬことに、部将達は不満の表情を見せたが、あきらめて部屋から出ていった。  それを見送ったのち、虎千代は自室に帰った。  予想していたこととは言え、心は暗かった。  合戦に出て城を攻めてみたいとは思う。  しかし、林泉寺での七年間の生活にも、未練があった。  それに僧侶になって、諸国を行脚《あんぎや》してみたい夢もある。  あけられた障子戸から見える庭の風景を、虎千代は無心に眺め渡した。  暑さは残っていたが、あたりは秋の気配である。 �一度は捨てた武士だが……しかし、それがしの体内には、越後平定に生涯をかけた父の血が流れているのかも知れぬ�仏道修行の傍ら、乗馬や武道に励んだ過去を思い浮かべながら、そう思った。  澄み切った空を、鳩が飛んでゆく。  陽ざしに映えるその羽の輝きが、幼少の頃を過ごした春日山城内の風景を思い起こさせた。 �思い切って城に帰ってみよう。そして兵を率いて国内を平定し、将来は天下をとるのだ�壮大な気宇に浸りながら、そう考えた。  自分には父為景のような生き方が、似合っている。  それは成長に伴う不可思議な心の変化であった。  立ち上ると、襖をあけて、光育の書斎へ入っていった。  思いに耽っていたらしく、光育は文机の前に正座して、庭の風景を眺めていた。 「やっと決心がつきました」  虎千代は、静かな口調で語った。 「やはり城に帰るのか」 「はい」 「まあよい。そなたには僧侶がふさわしいと思っていたが、晴景様があのような状態では、庶民は生業《なりわい》にいそしむこともできまい。  今後は国内統一に力を尽くしてもらいたい。  越後の現状では、それは至難に近いが、そなたならば、きっと成し遂げられるであろう。  合戦は、心が安定し、邪心のない者が勝つ。呉々もそのことを忘れぬようにな」  光育の言葉に虎千代はうなずいた。  正義のための闘いに今後は徹しなければならぬと心で思っていた。  妻女が、茶を持って入ってくる。  三人は雑談を交わした。  木々の緑が、眼に焼きつくように映る。  眺めながら、夫妻とともに過ごした七年間の幸せであった日々を、虎千代は思い浮かべていた。  帰城の意向は、二日後、中条藤資《なかじようふじすけ》に伝えられ、その時点で、虎千代は正式に林泉寺を去ることが決まった。  供の者を連れて、寺をあとにしたのは、三日後であった。  あたりの風景には、秋の気配がただよっている。  武家屋敷のなかを抜けると、山手へ道をとった。  生い繁る木々にさえぎられて、見透しはきかない。  つづら折りの道をたどりながら、虎千代は七年前、鎧、冑に身を固めて、父の柩を守って歩いた遠い記憶を思い浮かべた。  あの頃の悲愴感は、いまは消えている。  だが、群雄割拠の国内の情勢を思うと、心をゆるすわけにはいかない。  城門の前の広場に着くと、立ちどまって付近の風景を眺めた。  松の巨木が聳え立ち、彼方には、府内の青い海がひろがっている。  歳月の経過にかかわらず、幼少の頃の印象と違うものは、なに一つ見当たらない。  城内へ入ると、近道を通って、兄の館へ向かった。  古風な天守閣、付属建物の数々、眼に映るすべてが、虎千代にはなつかしかった。  敵襲に備えて、邸内の造りは巧妙を極めている。  無数の小窓が設けられ、合戦の際には、それが矢ざまの代わりになる。  廊下も曲折が多く、慣れないと迷路に入って、外へ出られない。  眺めながら、父為景が、城の補強に心血を注いでいた昔の光景を、思い起こした。  母虎御前に対する印象は殆どない。  地味でおとなしく、それでいて冷たい母、それが頭のなかに残るすべてであった。  語り合ったこともあまりない。  しかし、それが当たり前だと、当時の虎千代は考えていた。  母親としての親近感は、この七年間を育ててくれた光育の妻女の方が、むしろ強い。  館に入り、自室でくつろいでいると、武者がやってきて、兄晴景が所用だと告げてきた。  虎千代はそのままの姿で部屋を出、武者のあとについて、回廊をたどった。  視界はきかず、至近距離に迫った城壁だけが、不気味さをたたえて、眼に入ってくる。  行き止まりのところで階段をあがり、天守閣へ出る。  高所のせいか、冷え冷えとして気持がよい。  北東には佐渡ケ島が霞のなかに浮かんでいる。  久し振りに見る、壮大な眺めに、心が安らぐ思いがした。  山麓の町やその彼方に点在する人家が、豆粒を並べたように眼に映る。  ここに立てば、攻め寄せてくる敵軍の状況は手に取るようにわかる。  父がこの城は、数万の軍勢に囲まれても落ちないと語っていた理由が、虎千代にはわかったように思われた。  廊下を歩き、格子戸をあけてなかへ入る。  広間になった部屋では、三十数名の武者が屯《たむろ》して、軍略の打ち合わせを行っていた。  高座には、兄晴景が座り、部将達から意見を聞いていた。  不精ひげが目立つ、蒼白い顔である。  三十二歳の働き盛りにかかわらず、その気配は見られない。  数日前、林泉寺へやってきた五人の部将の姿も見える。 「こちらへ参れ。家人達にひろめを致すゆえ」  晴景の言葉に、虎千代は前へ進み出、その隣りに座った。  部将達の射るような眼ざしが、注がれてくる。  それぞれ家紋を染め抜いた衣裳をまとっている。  守護代晴景の存在など、眼中にない気配でもあった。  越後の豪族達は、味方とは言え、主従の意識は薄い。  それぞれが、一国一城の主《あるじ》を気取っているのである。  父為景も、その統制には手を焼いていた。  由緒のある国人が、広大な土地を領して割拠している国柄のせいであった。  やがて、初顔合わせの儀は滞りなく終わった。  女中達が、酒食の膳を運んでくる。 「ごらんのとおり、わしは病弱のため、守護代の執務もままならぬ。下越の争いもいまだに収め得ず、困り果てている。  そなたを林泉寺から呼び戻したのは、そのためだ。  今後はわしの片腕となって、守護代の面目を保てるよう、協力願いたい」  晴景は静かな口調で、そう言ってきた。  母に似た温順な顔である。だが、猜疑心《さいぎしん》が強い。  幼少の頃からの経験で、虎千代はそれを知っていた。 「わかりました」 「ところで、そなたは明後日にでも、下越の紛争を鎮撫するため、城を発ってもらいたい」  晴景の言葉に、虎千代は驚いた。  自分を呼び戻したのは、敵を撃たせるためで、春日山城内に留めるためではなかったのである。 �兄上はそれがしを嫌っている。このまま城内にとどまれば、確執に発展するやも知れぬ�頭のなかを思いがよぎってゆく。 「虎千代様は明日は元服の儀式を行うご予定、その翌日に出立《しゆつたつ》とは、あまりにも慌しいご日程ではございませぬか」  本庄|実仍《さねとみ》が、晴景をみて異議を申し立てる。 「いやいや、いまは一刻の猶予もならん。  この度の出陣は、そなたと直江殿の軍が主力のこと、遺漏はないと存ずるが、時の利を逃がせば、いかなる結末になるやも知れぬゆえ」  晴景はゆずらなかった。  実仍は不審の面持ちを見せながらも、了承した。  明日、元服の儀式が行われることは、中条藤資から聞いて知っている。  しかし、その翌日、本庄実仍、直江実綱の軍とともに出陣の予定とは、寝耳に水であった。  半刻余を費やして酒宴が終わると、晴景以下は、席を立って自室へ去っていった。三日を費やして協議を重ねた�下越出兵�の件は、これで落着をみたのである。  本庄実仍、直江実綱以下の部将十数名が、虎千代を囲んで車座をつくった。 「虎千代様を奉戴できて、われわれ勇気百倍に存じます」  実仍が言ってくる。 「いやいや、はじめての出陣ゆえ、かえっておのおの方に迷惑をかけるやも知れぬ。  もし下知に誤りがあれば、遠慮なく申し出ていただきたい」と虎千代は答えた。  出陣を思うと、心が躍ってくる。  率いる兵、二千という初陣《ういじん》には珍しい多数であることも、気持を明るくした。  長尾家が即時に徴用できる兵は、八千名だと言われる。  これは父為景以来の安定数である。  その四分の一に相当する人数が、今回の戦いに投入されようとしているのだ。  興奮のため、虎千代は体の震えがとまらなかった。  細部の打ち合わせを行ったのち、全員本丸をあとにした。  自室に帰ると、虎千代は着替えをしてくつろいだ。  元服の儀式のことが、脳裏に浮かんでくる。 �それがしは、もう虎千代ではないのだ�  光育と相談した改名案を思い浮かべながら、胸のうちでつぶやいた。  寅《とら》年生まれゆえつけてもらった�虎�の字は、一生自分の呼び名のなかに残しておきたい。加えて、勇猛果敢な�虎�が、虎千代は好きであった。  翌日は、いつもより早目に起きて、風呂を浴び、身を浄めた。  さすがに晴れやかな気分であった。  束帯に着替えた虎千代が、本丸の天守閣へ姿をあらわしたのは、巳の刻(午前十時)前であった。  母や兄も盛装に身をこらし、中条藤資以下の部将も、上下《かみしも》姿で座に列していた。  金屏風がたてられ、飾りつけがなされた広間は、人であふれている。  元服の儀式は型どおり進められ、午《うま》の刻(午前十二時)には、滞りなく終わった。  虎千代は、長尾家に受け継がれている�景�の字と、�虎�を組み合わせて、景虎《かげとら》と名乗った。  儀式終了後の宴席で、景虎ははじめて酒杯を口にし、美酒に酔った。  白皙の面は紅潮し、窓から差し込む陽ざしに輝いて見えた。 �今日からそれがしは、長尾家の部将の一人になる�  明日の初陣に、闘志に似た気持が湧くのを覚えながら、景虎は胸のうちでつぶやいていた。 [#改ページ]   第二章 行雲  翌朝は丑《うし》の刻(午前二時)に眼をさまし、前夜供の武者が整えてくれた新しい鎧、冑を身につけ、備前長船の名刀を腰に佩いた。  なお習慣に従って、顔は白布でおおった。  用意が整うと、武者溜りへ行って、家人達を督促し、準備を急がせた。  寅の刻(午前四時)前になると、ほら貝の音《ね》が、静寂を破ってひびき渡った。  家人たちが一斉に武者溜りを飛び出してゆく。  景虎は見送ってくれた女中達に後事を託し、館を出た。  夜はまだ明けていない。  広場へ出ると、松明《たいまつ》の明かりのなかに、三百騎ほどの武者がひしめき、槍、弓などを装備した兵が、集団をなして待機していた。ざっと八百名ほどの人数である。  景虎は、馬にまたがると、出陣の下知を下した。  松明の火は消されている。  つづら折りの道を、兵達は黙々と下っていった。  山麓に達すると、北東方向へ、進路をとった。  夜が白みはじめる頃、本庄実仍の軍が加わり、次いで、直江実綱の率いる兵団が合流した。  二千を越える軍勢は野を渡り、林を突き切って進んだ。  三日を費やして、兵団は三条《さんじよう》(新潟県三条市)に着いた。  景虎は駒をとめると、山麓での夜営を命じた。  二千の兵は、月明かりのなかを、蟻《あり》の群れのように、木陰へ消えていった。  大荷駄、小荷駄(輜重《しちよう》隊)の兵が、松明の明かりをつけて、夜食の準備をはじめる。  今回の出陣には、医者、算勘《さんかん》、出家、鍛冶、具足師、槍細工、革屋、弓細工、金掘りなども加わっている。  三条の東南の栃尾《とちお》(新潟県栃尾市)を本拠と定め、下越での長期戦に備えるためである。  いまは春日山城に対する未練の気持はない。  栃尾城に拠って、合戦の腕を磨き、将来の領国制覇に備えようと景虎は考えていた。  食後は、部将達と明日の予定を打ち合わせたのち、横になった。  酒を飲んだせいか、眠りが襲ってくる。  兵達も見張りの者を除いて、全員寝入っていた。  夜半、景虎は眼をさました。  地鳴りのような音が、聴覚をかすめていったのである。  蓙《ござ》をはねのけて身を起こし、枕元の刀に手をかけると、立ち上がっていた。  敵襲を告げるほら貝の音が、静寂をひき裂いたのは、その直後のことであった。  叫び声があがり、兵に指示を下す指揮者の声が、闇のなかにこだまする。  あたりは一瞬にして修羅場《しゆらば》と化していた。  襲ってくる騎馬武者の姿が、月明かりのなかに浮かんでくる。 「弓をひけ!」  景虎は闇に眼を据えて、無意識に叫んでいた。  抜刀し叫び声をあげながら、本陣に向かってくる騎馬武者に、弓矢の射かけが開始される。  馬がいななきの声をあげて立ち上がる。  数十騎とおぼしき騎馬武者は、隊列を乱しはじめた。 「引け!」  敵方の部将の激しい声が、ひびき渡る。 「追え!」  景虎はとっさの判断で、そう指示を下すと、馬に飛び乗り、刀をかざして月明かりのなかを突っ走った。  騎馬隊が後を追う。  応戦の速さに、敵方は蹄の音を鳴らして、西へ逃げのびていった。  景虎は追うことをやめた。  つまらぬ兵力の消耗はしたくなかったからである。  騎馬隊が、馬首をめぐらせて、本陣へ帰ってくる。  景虎は呼吸一つ乱していなかった。  寝所へ帰り着くと、馬を降り、幕間《まくま》に入って、蓙《ござ》のうえに仰向けになった。  雲を渡る月を眺めながら、景虎は府内の浜で、二人の武者を斬ったときの光景を思い浮かべていた。  翌日、午《ひる》すぎ日蓮宗の本成寺に着いた。  景虎は実仍、実綱の二人を従えて、住職の日意に会い、遠征の趣旨を伝えるとともに、寺領安堵の朱印状を与えた。  下越平定の軍をおこした理由を、庶民に説くには、僧侶を介する方が効果的だと判断したからである。  食事を取ったのち、兵団は南東の栃尾へ向かって移動を開始した。  戦乱の絶え間のない下越の田畑は、荒れ果てていた。  危険が身におよぶのを恐れて、農民達は安全な地へ引っ越してしまったのである。  水田には夏草が生い繁り、手入れがなされた形跡さえ見られない。  乱世とは言え、あまりの荒廃ぶりに、景虎は胸をつかれた。  陽は西に傾いている。  山野の緑の風景が、陽光を浴びてあざやかな姿を浮き彫りにする。  残照が空をあかね色に染めたと思うと、薄暮が襲ってきた。  兵団の動きが、自然に停止する。  今日の行軍はこれで終わったのである。  兵達の疲れを慮《おもんぱか》って、景虎は夜間の行動を禁じた。  冷気が膚に沁《し》みてくる。  昨日と同じく、山麓で夜営の準備がはじめられた。  幕囲いの本陣がしつらえられ、景虎と実仍、実綱の床几が並べられる。  入口の両側には、鉄製の篝火《かがりび》台が置かれ、松明《たいまつ》の火がともされている。  三人は食事をとったあと、今後の予定について語り合った。 「明日はいよいよ栃尾入りでござるな」  実綱が言ってくる。  二十八歳、実仍とほぼ同年齢の働き盛りである。  二人は不思議に気心が合った。  実綱は円満な人格者である反面、微細な脱漏も見逃がさない神経の細かさをもっている。  分別があり、みだりに事を構えない思慮深さも備え、一軍を統率するにふさわしい人物であった。  ここ数日の語らいのなかで、景虎はそれを見抜いていた。 「左様、これからはわれわれにとり、正念場の事態を迎える。ゆめ怠りなく、その手術《てだ》てだけは、進めなければならぬ」  実仍が答える。  景虎を、主君に奉戴できて夢がふくらむ思いなのであろう。  その表情は、輝いていた。 「栃尾に入れば、まず城を修復し、城下の庶民に安堵の下知を下さなければなるまい」 「そのとおりだ。民衆の生活を安らげることが、一国の覇者となる条件ゆえ」  二人の会話を、景虎は笑みを浮かべて聞いていた。  よい部将を得られて、幸せだと思った。 �地の利は人の和に如《し》かずか……�かつて、光育から教えられた孫子の兵法の一節が、浮かんでくる。  やがて二人は、幕間から去っていった。  景虎は祐筆《ゆうひつ》の武者を呼んで、硯と筆を持ってこさせ、巻き紙に光育宛の書翰《しよかん》をしたためた。  それは読んでもらうためではなく、後日、自分のなした行為を、師に評価してもらうためのものであった。  書き終えると、蓙のうえに横たわった。  兵卒同様の姿で眠りに就くことが、景虎は好きであった。  このような行為の背景には、将来関東攻めを行い、東国の覇権を握って、やがて天下に号令したい壮大な夢が秘められている。  関東への道は遠い。  国境の三国《みくに》峠(谷川岳南西の県境)を越えることすら、至難の業なのに、長尾家の発祥の相模まで達するには、さまざまな苦難が控えている。  それに耐えることができなければ、勝利を収めることも、領国をひろげることもおぼつかない。  景虎は勘で、そのことわりを把《つか》んでいた。  翌日は夜明けとともに、栃尾へ向かって行軍を開始した。  時候がよいせいか、脱落者は見られない。  午の刻を回る頃、人家がまばらに並ぶ城下に着いた。景虎は冑をぬぎ、額の汗をぬぐった。  青空がひろがり、山の頂きには栃尾城が聳え立っている。  春日山城とは比ぶべくもない、貧弱な姿であるが、古志長尾家の本庄一族が築いたこの城には、百年を越える歴史が秘められている。  眺めながら景虎は、気分がさわやかになるのを覚えた。  明日から小規模ながら、一城の主《あるじ》になることが嬉しかった。  一刻の休憩をとったのち、兵団は栃尾城へ向かった。  ゆるやかな山道が、蜿々《えんえん》と続いている。  越後の秋は短い。  木々の葉には、すでに紅葉の気配があらわれていた。  城門に達すると、そのままなかへ駒を進めた。  小城のため、敷地は狭い。  家人達が住まう館《たて》の数も少なかった。 「おのおの方、ご苦労であった。今後の出陣に備えて、ゆっくり休養をとられよ」  景虎はそう家臣達に告げると、天守閣の方向へ馬首をめぐらせた。  城主の実仍が先に立って案内する。  一行は嶮《けわ》しい間道をいくつか曲がり、開かれた門を通って、奥へ進んでいった。  景虎が武装を解いて、実仍以下の家臣が待機する天守閣の広間に姿を見せたのは、それから間もなくのことであった。  女中達が酒食の膳を運んでくる。  なかには、若年の景虎をみて、驚きの眼を瞠る者もいる。  酒宴が、その場で開かれた。  景虎は、ついでくれる酒杯を、たてつづけに飲み干した。  美味だとは思わなかった。  しかし、酒には、心を和らげるなにかがある。  元服の儀式の際、はじめて酒に口をつけたときから、景虎はそれを感じていた。  実仍や実綱も、顔をあからめている。  いまは誰もが、戦いのことを忘れていた。  一刻余で、顔合わせの儀は終わった。  陽は西に傾いている。  景虎は外へ出ると、回廊の手すりに手を置いて、足下に展ける風景を眺めた。  春日山城と違って、海の景色は見られない。  しかし、北に向かって平野がひろがりを見せ、ところどころ、小山の風景も見られる。  眺めながら景虎は、林泉寺で自分の安否を気づかっている光育夫妻の姿を思い浮かべた。  期待にそえる武将にならなければとの気持であった。  残照が、空をおおい、寝ぐらにかえる鳥が鳴き声をあげて、飛んでゆく。  故国を離れたわびしさを、景虎は噛みしめていた。  下越平定の準備は、翌日からはじめられた。  普請役の部将により、人夫が調達され、兵の一部も加わって、栃尾城の修復が夜を日に継いで行われた。  守護代長尾晴景の指示を無視し、伊達父子の争いに名を借りて、地領拡大のための戦いを繰り返す諸豪族を鎮撫《ちんぶ》するには、拠点の城を堅固にすることが、第一の要件であったからである。  それと併行して、弓矢、刀、槍などの武器の製造や鎧、冑らの、具足の整備、軍馬の調達、食糧の確保の手術《てだ》ても進められた。  これらには城下の商人や研師、鍛冶、細工師も動員されたため、城下町は久し振りに活況を呈した。  景虎は彼等を優遇した。  給金も標準以上にはずみ、各地からもたらされる生活物資も、高く買い上げた。  長尾家は古来資産にめぐまれている。  国内の支配地から得られる糧米が豊富なうえに、金山、銅山が、他国より多いため、貨幣に不自由はなかった。  佐渡の金山は、地元の豪族の支配下にあり、長尾家とは関係がなかったが、他の地域にも、小規模ながら鉱山が散在している。  このような越後の特殊事情が、国内に群雄割拠の状態をもたらす因《もと》にもなっていた。  豪族たちが住まう館には、堀と土塀がめぐらされ、小規模のものでも、二千坪の面積を持っている。  屋内には、地面を一段高くした祭礼の場所がつくられ、それぞれ信ずる神仏が祀られている。  砂を敷き詰めた�タタキ�が北辺にあり、そこには良質の粘土でつくられた厨房設備もある。  武器を製造、修理する吹子《ふいご》施設も、館内には設けられている。  住まいは平均四百坪の建面積を持っている。  柱石を用いず、原木を直に地面にたてて、茅葺《かやぶき》の家を建てる工法が、昔からとられ、古くなればその都度、柱の位置を変えて建て替えられる。  衣服は普段は麻布、または芋の繊維を織ったものを着用するが、儀式や祭礼時には、越後上布の衣装を身につける。  京都の雅人《みやびと》の間で流行している綿布は、越後にはまだ伝わっていない。  館の下手には、家人の居宅が密集し、普段彼等は土地を耕して、収穫をあげ、年貢の穀物を領主に納める。  他方、槍、刀、竹槍、武具などを自家製造し、一旦緩急の際は、一族郎党をあげて領主とともに合戦に参加する。  最近は国内の治安の不安を反映して、「地下鑓《ちかやり》」が彼等の間に浸透しつつある。  槍、竹槍を主体にした武器を、自宅内に蔵して、普段は農耕に励み、合戦の際は、それらをたずさえて、戦場へ赴く農民たちである。  実仍や実綱の軍勢のなかにも、「馬上」と呼ばれる騎馬武者や重装備の「手明《てあけ》」以外に、地下鑓が多数含まれている。  城郭の補修と増築は、その後予定を上回るはかどりを見せ、十月初旬には見違えるような姿にかわった。  弓矢、槍、刀、その他の武具の製造も、家人の技術者や地元の業者の協力により、はかどった。  軍馬も馬喰《ばくろう》を介しての調達が功を奏し、新たに二百騎が付加されることになった。  十月中旬、景虎は実仍と実綱を従えて、山麓の武家屋敷や城下町を見て回った。城の修復工事は、毎日つぶさに見て知悉《ちしつ》している。  しかし、武家屋敷等における武器の製造状況は、報告を聞いただけでは、さだかではない。  特に、春日槍《かすがやり》と命名された三間柄の槍の製造は、騎馬武者の充実とともに、景虎が合戦に勝ち、乱世を制する要《かなめ》の事項として、心にかけていただけに、現物を自分の眼で見、その効用を確かめるまでは納得できなかった。  三人は馬に跨《また》がり、数人の供を従えて山を下った。  一ヵ月前と違って、周辺には晩秋の気配がただよっている。  長尾家の発祥の地、相模へ越してみたいとの思いがふとよぎってゆく。それは物心ついて以来のあこがれのような気持であった。  関東を制する者は天下を制すると、最近になり、景虎は信ずるようになった。  いまは京都が中心である。  しかし、将来は国土の広い関東へ、必ず政治の中心地が動いてゆくように思えるのである。  越後を平定したあとは、関東を経略し、しかるのちに天下をとる。これが景虎がここ一ヵ月間の栃尾城居住のなかで得た構想であった。  山麓に着くと、まばらに建つ武家屋敷を、順次見て回った。  どの家でも使用人達が、槍の製造に余念がない。  土間に設備された吹子《ふいご》が作動し、炭火が赤い炎をあげる。  そこから取り出された鉄の棒が、鎚《つち》によって鍛えられ、研《と》ぎにかけられて、鋭利な穂先に形を変えてゆく。  根気のいる至難な仕事であるが、家人達は汗を流しながら、それをこなしていた。  あとは、さまざまな形をした穂先を、竹製の目釘《めくぎ》で柄に固定するだけである。やがて、一行は屋敷町をあとにした。  そのまま広い通りを、鍛冶屋町《かじやまち》と称せられる一郭を目指して道を下っていった。  最近は町に活気があふれている。  千五百戸ほどの人家の集まりにすぎないが、住人の数はふえてきている。  鍛冶屋町に着くと、店を一軒々々訪れた。  本職のせいかさすがに、刀や槍の製作は早い。  店の奥に蔵置されているそれを、景虎は丹念に眺め、手に取って使ってみた。  刀は別にして、春日槍はすばらしい出来ばえであった。  非力の者には、使用が困難であったが、剛の者が使えば、威力を発揮する。  特に馬上武者が、敵陣を突破する際の強力な武器になるように思われた。  とある店で、景虎は出来たての春日槍をもって、庭先に降り立った。  木を突き、竹を払って、その出来ばえを試してみたいと考えたのである。  孟宗竹《もうそうちく》の籔《やぶ》の前に立つと、一本の青竹に眼を据え、槍を構えた。  そのとき、風を切る鋭い音が、聴覚をかすめていった。とっさの判断で、景虎は身を沈めた。  矢が板壁に突きささる激しい音が聞こえたのは、その直後のことであった。  垣根越しに脱兎のように逃げる曲者の姿が、見える。  身なりはみすぼらしいが、体つきには百戦錬磨の武士の気配がただよっていた。 「待て!」  絶叫が、あたりの空気を震わせたと思うと、景虎の身は槍の柄に支えられて、軽々と垣根を越えていた。  槍をもったまま馬のつなぎ場所へ走ると、次の瞬間には馬上の人となっていた。  馬に乗って逃げる相手の姿が、遥かに見える。  景虎はたづなをしごいた。  街並みが、激しい勢いで後ろへ飛んでゆく。  距離はみるみるちぢまった。  郊外の林を突き切ったところで、景虎は追いついた。  槍を小脇に構えると、狙いを相手の背中につけた。  武者は振り向き様、くらに隠していた長刀を払った。  槍と刀の闘いである。  馬の息づかいが聞こえ、たてがみの乱れが、網膜をかすめてゆく。  景虎が馬の勢いを利用して、武者の背中を突いたのと、相手が身を沈めて、刀を払ったのと同時であった。  絶叫が、耳底を走ってゆく。  景虎の馬は並ぶいとまもなく、相手の馬の前方を駈け抜けていた。  きびすを返すと、武者の姿を眺めた。  眼を見開き、口をあけたままの姿で、武者は畠のなかに倒れ、背中からおびただしい血を流していた。景虎は息を呑んだ。  春日槍の威力を、眼のあたりに見た思いであった。  実仍達が馬を駆ってやってくる。  一行はくつわを並べて、栃尾城へ向かった。  陽ざしに映える野山の風景には、冬の気配がただよっていた。  下越平定は、下旬から開始されたが、伊達《だて》父子の争いに加担した諸豪族は、景虎の敵ではなかった。  二千の軍に加えて、装備、騎馬武者の数の相違が、戦わずして彼等を屈服させたのである。  合戦らしい合戦を経ずして、翌年の春には平和がよみがえった。  頑強な抵抗を予想していた景虎は、唖然となった。だが人馬の損傷もなく国内が鎮撫されれば、越したことはない。 「やはり、軍備を充実したことと、栃尾城を修復して、敵方の襲撃に備えたことが、よかったのかも知れぬ」 「左様でございますな」  景虎は実仍と言葉を交わして、安堵の表情を浮かべた。  実戦を体験することができなかったのが、景虎には残念であったが、下知の要領を会得し、野営の体験を経たことは、今後の合戦に貴重な教訓を残した。  戦乱の終息とともに、景虎の生活は再び林泉寺でのそれに似たものになってきた。  禅と仏道修行、読書、乗馬、剣の修錬が毎日繰り返され、成長期にあることと相俟《あいま》って、日毎に心身は充実していった。  だが、安泰の日々は、長くは続かなかった。  翌、天文十四年(一五四五)を迎えると、豪族の一人の黒田秀忠が、病弱の晴景を侮《あなど》り、新山(新潟県三島郡)と黒滝(西蒲原郡)の二城に拠って、叛旗をひるがえしたからである。この報を、景虎は五月の半ばに得た。  しかし、守護代の兄の追討の指令がない限り、軍をおこすことはできない。  不穏な形勢のなかで、年の瀬を迎えた。  部将達に対する統率力を失った晴景は、秀忠征討の挙兵に踏み切ることもできず、月日は無為に経過した。  この間、直江実綱や信州の高梨政頼、中条藤資から、景虎のところへ春日山城へ帰るよう懇請があったが、自分を嫌っている兄の心中を察して、景虎は動かなかった。それに働き盛りの晴景に代わって、采配を振るうことに対する後ろめたさの気持もあった。  人の道に反する行為は、景虎には行えなかったのである。  年が明けても、秀忠の姿勢は改まらなかった。  守護や守護代の指示を無視するばかりか、国内支配を狙って領地の拡大をはかる始末である。  ここにきて、春日山城内は、騒然となってきた。  病弱なうえに守護代としての器量に欠ける晴景を追放しようとの諸将の動きが活発になり、雪解けの三月以降、ひんぱんに前記部将の使者が、栃尾城を訪れるようになったのである。 「景虎様、一日も早く春日山城へお帰り下さい。さもなくば、国内は再び戦乱の巷《ちまた》と化してしまいます」  高梨政頼の使者は、景虎に面会を求めて、そう告げた。  近頃は仏道三昧に打ち込んでいる。  政治向きのことに、関わりたくなかったためである。  時節が来るまでは動かぬ、これが景虎の考えであった。  実仍からも、何回か説得を受けた。  だが、いまは自分のでる幕ではないと、景虎は頑なに拒否してきた。  現在もその気持に変わりはない。 「折角の申し出だが、それがしの意向は、先般来述べているとおりだ。  高梨殿ほかがいかに心を使われても、兄上の指示がない限り、わたくしは春日山城には帰れぬ」  景虎の答えは、一貫していた。 「しかし……」  実仍が困惑の表情を浮かべて、とりなしの言葉を述べてくる。 「ならぬ。それがしの考えは一つじゃ」  景虎は気迫のこもった声で、実仍の説得を封じた。 「わかりました。それでは中条様ほかの方々にはかって、殿さまの了解をとりつけるよう働きかけてみます」  使者はそう言葉を返してきた。  景虎は答えず、席を立った。  自室に帰ると、縁側に腰を下ろして、庭の風景を眺めた。  十七歳を迎えた現在、なにが�筋目《すじめ》�かは判断がつく。 �それがしには、甲斐の武田晴信のように、父親を他国に追放して、覇者の地位につくようなことはできぬのだ。それに斎藤道三の如く守護を追放してそれにとってかわることも……乱世とは言え、そのようなことをすれば、必ず庶民の擯斥《ひんせき》を買う。  天下取りは、地の利、時の運、人の和が一致しなければなし遂げられぬ�  築山の風景が視野をよぎるのを覚えながら、景虎は胸のうちでつぶやいた。  この考えは、終生変わらぬように思われる。  仏道を修めてきた者の宿命のような気持であった。  二十日後、再び高梨政頼の使者がやってきた。  政頼は景虎達兄弟の叔父である。  それだけに、晴景の不甲斐なさが、気になっているのである。  今回は、政頼が直々《じきじき》に書いた書状を、使者はたずさえていた。  館の広間でそれを受け取ると、景虎は開封して読んだ。  晴景は部将達の説得により、景虎が帰城することを認めたという。  しかし、晴景自身の書翰を、使者はもたらしてはいなかった。  問い質しても、首をかしげるだけで、答えは得られない。 「まあよい。取り敢えず帰城することにする。しかし、内乱がかたづけば、栃尾へ帰らせてもらう。このことだけは高梨殿にしかと伝えてもらいたい」  景虎は思案した末、そう言葉を返した。  使者は素直にうなずいた。  景虎は家臣に硯と筆をもってこさせると、政頼宛に丁重な返書をしたためた。  文書には文書をもって答える、これが武人の道だと考えたからである。  そのなかに景虎は、�考えもあって、帰城は十月初旬と致したい�と書き添えた。  使者はそれをたずさえて、すぐ館から去っていった。  その日から景虎は、家人達に命じて、武器と食糧を調達させた。  今回の件は、最終的に武力による解決以外に、打開の術《すべ》がないと判断したからである。  城内には三年振りに緊迫感がみなぎった。  城下町でも、�景虎出陣�の噂が流れはじめている。  そのようななかで、十月五日、景虎は手勢数百人を率いて、栃尾を発った。  春日山城までは、二十数里の道程《みちのり》である。  無理をすれば二日で到着できるが、景虎は三日の日程を組んだ。  出陣の実感はなかった。  景虎には、血を流さずに秀忠を屈服せしめる自信があった。  三日後、予定どおり、春日山城に着いた。  三年振りにみる付近の風景が美しかった。  城門の外に駒をとめると、北にひらける蒼い海を眺め渡した。  翌日、部将達の主だった者が集まって、晴景の館で軍議が開かれた。  成長した景虎に、皆の視線が集まる。  晴景は不機嫌な顔をして、ものも言わなかった。  景虎にはそれが気懸りであったが、いまはその気持を捨てなければならなかった。  打ち合わせの焦点は、黒田秀忠の拠城を如何《いか》にして攻めるかにしぼられた。  中条藤資や直江実綱は、景虎の指揮のもとに、明日からでも攻撃を開始し、降雪の季節に入る前に、結着をつけるべきだと主張した。  これに対し、大熊政秀と高梨政頼は、雪解けの季節までに、軍備を充実して然るのちに、総攻撃をかけるべきだと説いた。  議論は二手にわかれて白熱した。  しかし、結論は得られなかった。  晴景は意見を述べる気力さえ失い、顔を曇らせて、諸将の言葉に耳を傾けていた。  景虎も腕組みしたまま発言しなかった。  論議が尽きたとき、中条藤資が景虎をみて、質問を発してきた。 「ごらんのとおり、意見は二手に分かれておりますが、景虎様は如何《いかが》考えなされまする?」  藤資の言葉に、景虎は姿勢を正した。  白皙の面には笑みが浮かんでいる。 「おのおの方の所見には、一理がある。  しかし、合戦は敵を力で攻めて勝てばよいというものではない。戦わずして勝つことも、兵法の一つだと考える」  景虎の答えに、部将達は息を呑んだ。 「俗にいう無手勝流でござるか」  藤資が聞いてくる。 「左様」 「しかし、そのような方法は、理屈として成り立っても、現実にはございますまい。  特に、今回の戦さには通用せぬと、それがしは考えますが……」 「だが、術《すべ》はある」  景虎の言葉に、部将達は膝を乗り出した。  精悍な眼が不気味に光る。  さすがは百戦錬磨の武者達である。  見渡しながら、景虎は次のように語った。 「兄晴景の名に、それがしの名を副署して、明日にでも国内の諸領主に回状を発してもらいたい。  相手の地位の高下は問わない。とにかく領主と名のつく人物には、すべて知らせるのだ。  黒田秀忠は、守護の権威を無視し、その命にそむいて領国の拡大をはかっている。ついては、それを誅するための義軍を募るゆえ、志のある者は、春日山城に馳せ参ぜよとの内容でな」 「なるほど……。景虎様は下越平定で武勇が轟いておりますゆえ、領主の多数が、ご意向に従うに相違ありませぬ」  実綱が言ってくる。  他の者も相づちを打った。 「ただ、このような手術《てだ》ては、相手によって効きめがある場合とない場合がある。黒田秀忠が、そのいずれに属する人物かはわからぬ。  しかし、試みてみて守護代の軍勢に恐れをなし、恭順の意を表すれば、それで事は落着する。もし、寝返れば、そのときにほんとうに討てばよい」 「なるほど」  部将達は、景虎の考えに従う気配を示した。  さきほど来の論議がうそのように、室内は静かになった。 「ではそうすることにして、七日後に諸領主を天守閣の広間に集めることに致そう」  景虎の提案で、軍議は幕となった。  二日後、景虎は林泉寺を訪れた。  山門の佇まいが、眼にさわやかに映る。  玄関を入り、広間で待機していると、光育夫妻が変わらぬ姿であらわれた。  邂逅《かいこう》を三人は喜び合った。  景虎の成長が、夫妻には驚きであったのであろう。  背丈は光育を上回り、体形にも、昔のひ弱さが影をひそめている。 「黒田殿の謀反《むほん》の件は、困ったものじゃ。しかし、景虎様が春日山城に帰られれば、諸領主の統制も、うまくゆく。  やはり、そなたは為景様の跡を継がれる定めを担っておられるのかも知れぬ」  光育は静かな口調で、語った。 「いやいや。それがしは、今回の件が片づけば、栃尾へ帰る予定。兄の跡目を継ぐ所存はございませぬ」  景虎は笑って答えた。  自分でもほんとうにその気持であった。 「まあよい。ところで主な国人達に、回状を発送されたとか、いま城下町はその噂で持ち切りのようだ」 「左様でございますか」  初耳だけに景虎は驚いた。 「この状況だと、強気の黒田殿も、衆寡敵せず降服を申し出てくるに違いない」 「そうであってくれればよろしゅうございますが」 「それにしても、そなたは智慧者じゃのう。戦わずして勝つ、これは禅の境地でもある。今後もこの心掛けを忘れるではない」 「わかりました」 「戦いは仕掛けるものではない。受けて立つ心構えが肝要だ。義のための戦いならば、天運が味方する。さもなくば、一時は勝ててもやがて滅びよう。  この理法は、古今を問わず、変わらぬものじゃ」  景虎は光育の言葉を、噛みしめながら聞いた。  やはり仏道修行には捨て難いものがある。  それは、城攻めに血を燃やす心理とは別のものであった。  一しきり話し合うと、広間を出て、本堂や自分が使っていた部屋を見て回った。  寺を去ったときと同じ状態で、書物や文机などが保存されていることが嬉しかった。  城攻めの模型も、そのまま残っていた。  樹林の彼方には、春日山城が西陽を浴びて聳えている。 �それがしは、師が語ったように、長尾家を継ぐ宿命を担っているのかも知れぬ�眺めながら、そんな思いがよぎるのを、景虎は感じていた。  五日後、回状の趣旨に賛同した諸領主が、馬に乗って春日山城へやってきた。  天守閣の広間は、立錐の余地がないほど、人で埋まった。  景虎は彼等を丁重に遇し、はるばる馳せ参じた労をねぎらった。  高梨政頼や中条藤資は、領主達の姿勢をみて景虎の統率力に舌を巻いた。  しかし、景虎自身は彼等の参集そのものを、それほど高く評価してはいなかった。  今日の会議には、守護、上杉定実も列席し、領主達に対して、黒田秀忠の非を鳴らした。  実質的な権限を持たぬとはいえ、さすがに守護の権威は高い。  長年の伝統と、越後の閉鎖的な国柄のなせる業《わざ》であった。  定実は高齢のうえ、実子がいない。  この事実が将来、国内に波乱をもたらす要因になることを、景虎は恐れていた。  ともあれ、守護の出席を得て、気勢が盛りあがった。今日の軍議は成功であった。  酒宴は夜間におよび、多数の者が酔いつぶれて、その日は城内の館に分宿した。  この情報は、噂となって敵方に伝わり、新山、黒滝の二城にたてこもる武者達に、動揺を巻き起こした。  景虎の狙いは的中したのである。  十月下旬を迎える頃から、脱落者がふえ、黒田一族の統制力は弱まっていった。 「思うつぼになりましたな」 「左様。これで敵方は戦意を喪失したも同然。しかし、秀忠は名うての豪族ゆえ、簡単に音《ね》をあげぬかも知れぬ」  館の一室で、直江実綱と語りながら、景虎は眉をひそめた。 「それはいかなるゆえでございますか」 「なんとなくそう感じられるのだ」 「なるほど」  実綱は答えて、思案に耽った。  過去から景虎の勘はよく当たる。  異常と思えるほどの洞察力なのだ。  下越平定への同行で、実綱はそれを知っていた。  幼少の頃から、神経が鋭敏で不安にさいなまれた経験が、現在の年齢を迎えて、人の心や世情の変化を見極める方向へ、効用をあらわしはじめているのかも知れなかった。  二人は茶菓を喫して雑談に耽った。  今日は神無月の入りである。  やがて、降雪の季節を迎える。  しかし、今年は小春日和を思わせる日々が続き、その気配は見られない。 �黒田勢にとっては、これが頭痛の種であろう�語りながら、そんな思いに景虎は駆られた。  廊下の気配が慌しくなる。  二人は会話をやめて、耳をすませた。 「景虎様にすぐ注進して参れ。使者はそれがしが、中の間へ案内致す」  高梨政頼の声である。 「秀忠からの使者だ」と二人は思った。  景虎は羽織を着ると、実綱とともに部屋を出た。  廊下をいくつか曲がり、館の�中の間�へ入っていった。  晴景は最近、陽当たりのいい別室に移り、寝たり起きたりの生活を送っている。  公務を遂行できぬ状態なのだ。  そのため、来客の応接には、部将達や景虎が当たっている。  二人は高座に並んで座り、使者を引見した。 「主人黒田秀忠から、長尾景虎殿へのご伝言にございます」  相手はそう述べて、一通の書面を差し出した。  景虎は使者を見据えた。 「なんというたわけたことを申す。  守護代は兄晴景じゃ。所用があれば、兄上宛になされるのが、筋でござろう」  激しい言葉が口をついて出る。  使者は狼狽の気配を見せた。  実綱がとりなしながら立ち上がって、封書を受け取る。  景虎はその場で、開封して読んだ。  乱雑な文章で、兵を解散し、恭順の意を表するとしたためてあった。 「黒田殿の意向がまことなら、われわれは追討の兵は起こさぬ。ただし、今後再び今回のような事態を惹起されるなら、守護上杉様の指示を得て成敗仕《せいばいつかまつ》る。左様、黒田殿にお伝え願いたい」  問答はそれまでであった。  席を立つと、実綱とともに部屋を出た。 �これで一先ず、栃尾へ帰ることができる�自室に向かって歩きながら、景虎はそうつぶやいていた。  黒田秀忠は約束どおり、翌日、籠城の体制を解き、一年間続いた内乱は終息した。  上杉定実や晴景は、安堵の表情を見せ、守護勢力の復活を喜んだ。  春日山城下は再び賑わいを呈し、商売繁昌の兆しを見せはじめた。  そのようななかで十一月十日、景虎は手勢を率いて、栃尾へ発った。  春日山城にとどまることは、晴景との間に不和をもたらすと感じて、いち早く行動を開始したのである。  景虎の手並みを、諸将はたたえた。  晴景がそれを不快に思ったのは、いうまでもない。  加えて、長尾一族のなかにも、景虎の評判をねたむ者があらわれてきた。  古志長尾家(栃尾)の本庄実仍に抗した、上田(新潟県塩沢町北東)の長尾|政景《まさかげ》がそれであった。  本庄氏が景虎をたてるなら、自分は守護代の晴景を擁護するとの姿勢をあらわにしてきたのである。  黒田秀忠が再び叛旗をひるがえすと景虎が踏んだ背景には、このような事情があった。  ともあれ、内乱を終息できて景虎は、安堵した。  栃尾へ帰ると、正月までの一ヵ月余をのんびり過ごした。  書物を読み、剣の修錬を積み、家人達と馬を駆って狩に出かけることが、その間の日課になった。  今年は冬の到来が遅い。  年の瀬を迎えても、わずかの積雪を見ただけである。  大晦日の日は、家人達を集めて酒を飲み、女中達と雑談を交わして過ごした。  近頃は妻をめとることを、諸所からすすめてくる。  しかし、景虎は応諾の返事をした試しがない。  女人に対する関心がないわけではない。気に入りの者がおればというのが偽らざる気持であるが、周囲に左様な者はいなかった。  加えて景虎は、仏道を極める者には、女色は禁物との意識を、早くからもっていた。  女犯《によぼん》をすることは、仏の道に反するように思えるのである。  甲斐の武田晴信が、国内平定を進めるなかで、次々に敵方の女を側室に迎え、精力の強さを誇示していることを、景虎は知っていた。  しかし、そのような人物は、好みではなかった。  むしろ、若年ながら、切れ者の噂の高い、尾張の織田信長のがむしゃらな生き方と胆力に、共感を覚えていた。  晴信は二十六歳、信長は十三歳で、景虎はその中間にあたる。  両人の武勇伝を聞くにつけ、景虎は、将来の敵は、この二人だと思った。  しかし、自分には越後の平定という当面の課題が控えている。  それを果たさなければ、天下平定への道はひらけない。  修身《しゆうしん》、斉家《せいか》、治国《ちこく》、平天下《へいてんか》、孔子のこの教えが、事を成し遂げるに当たっての基本要件であると、景虎は信じていた。 「今年は雪が降らぬゆえ、明日のお宮参りは楽しゅうございますね」  同年齢の春《はる》が、外の景色を眺めながら言ってくる。  面長の美しい顔である。  越後上布の絵模様の入った衣装が、似合っている。 「左様、久し振りにのどかな正月となろう」 「ところで、景虎様は明日は城下へはお出かけなされませぬか」 「城下の正月は、是非見たいと思っている。ついでにお宮参りもせねばとな」 「それで供の者は、如何《いかが》なされます」 「供はいらぬ。しかし、春ならば連れてゆく。そなたは万一のときには、男共より役に立つゆえ」  景虎の言葉に、春は頬を染めた。 「嬉しゅう存じます。それでは、明日は早目にお起こし申しあげますゆえ」  二人の会話を、他の女達は笑みを浮かべて聞いていた。  栃尾へ移って以来、春はなにかと景虎の身の回りの世話をやいている。  しかし最近は春に女の恥らいが見られはじめた。  活発な彼女は、それを言葉と素振りで、ごまかしている。  神経の細かい景虎は、心の広い女人を好んだ。  その意味では、光育の妻女とともに、春もその一人にあてはまる。  夕食後は、風呂を浴びたあと、自室にこもって思いに耽った。 �天文十五年も、波乱のうちに暮れた。  来年は今年以上に国内が乱れるかも知れぬ�とふと思った。  春が夜具をのべに入ってくる。  近頃は女らしさを増している。  犯したいと思うときもあるが、景虎には実行できなかった。 「では、早くお休み下さいませ」  春は敷き終わると、そう述べて、部屋から去っていった。  酔いはまだ残っている。  もうろうとする意識のなかをさまよいながら、景虎は春のあでやかな後姿を思い浮かべていた。  元旦は、夜明けとともに、眼をさました。  春に起こしてもらう必要はなかったわけである。  そのような景虎を春は、神経が細かい人だからと言って笑った。  食後、二人は目立たぬ服装をして、城を出、城下への道をたどっていった。  二人の間には、主従の犯し難い隔たりがある。  しかし、景虎はそれを忘れていた。  麓へ着くと、神社に詣で、参道の屋台店を眺めて歩いた。城へ帰り着いたのは、夕刻であった。 「いいお正月だったわ」と春が別れ際に語った言葉が、景虎の心に残った。  庭に雪が積もっている。  昨日は終日降り続いたが、今日はやんでいる。  眼の前の池には氷が張り、水底に潜む緋鯉の姿が、ぼんやり浮き出している。  二月を迎えて、寒さがかえってきたようなあたりの佇まいではあった。  廊下の彼方から、実仍がやってくる。 「黒田秀忠が、また叛旗をひるがえしました……」  動転した口調の言葉に、景虎は息を呑んだ。 「高梨殿からのその後の連絡では、守護上杉様は、黒田勢の討伐を望んでおられる由にございます」 「武力で秀忠を滅ぼせとの意か?」 「左様でございます」  出陣のときがやってきたことを、景虎は感じた。  翌日、上杉定実からの正式の指示が、栃尾城へもたらされた。  文面には、速やかに軍勢を整えて、新山と黒滝の二城を攻め、黒田一族を殲滅《せんめつ》せよと記載してあった。  一旦恭順の意を表しながら、景虎が栃尾へ去ると、掌《てのひら》を返したように、守護勢力に反抗する秀忠の心根《こころね》が、定実には許せぬのであろう。  景虎は思いに耽った。 「成敗は已むを得ぬ」というのが、考えた末の結論であった。  決心すると、行動は速かった。  地下鑓《ちかやり》を含めて、八百名の軍勢を組織すると、二日後には、栃尾城を発っていた。  春《はる》は、景虎を、城門まで見送った。 「お達者で」と静かな口調で言っただけであったが、その祈るような眼ざしが、景虎の心に焼きついて離れなかった。  二日を経ずして、兵団は黒滝に着いた。  ここは三条の北西にあたり、黒田一族の拠点になっている。  郊外の野に駒をとめると、景虎は山のうえの城を仰いだ。  一ヵ月もあれば、攻め落とせるというのが、そのときの判断であった。  山麓で野営すると、翌日から局部的な戦闘に入った。  敵は騎馬武者による後方|攪乱《こうらん》戦術と、糧道を断つことに、戦略をしぼっていたが、備えのある景虎の軍には通じなかった。  二月半ばには、執拗な攻撃を排除して、半円型に城を囲み、外界とのつながりを断つことに成功した。 「これで、敵は袋のネズミも同然。あとは相手の焦りに乗じて、一挙に決着をつけるまでだ」  毘沙門天の「毘」や「龍」の字を描いた軍旗がはためくなかで、景虎は部将達に語った。  表情には覇気があふれている。 「持久戦ともなれば、大荷駄、小荷駄が充実し、栃尾まで糧道が続いているわれわれが有利でございます。しかし、黒田勢如き弱敵に、余分の日数を費やすのは勿体《もつたい》のうございます。  月末を期して、一挙に攻め落としてはいかがでしょう」  経験による勘なのであろう、実仍が言ってくる。 「では、そうするか」  景虎は了承して、席を立った。  部分的な城攻めに終始しているうちに、月末を迎えた。  景虎が予想したとおり、この頃になると敵方に焦りの気配が見られはじめた。  膠着《こうちやく》した戦局を打開しようと、城から討ってでて攻撃をかけてくる回数が多くなったことが、それをあらわしていた。  景虎は、部将達を集めて、城攻めの打ち合わせを行い、明日の明け方を期して、総攻撃をかける方針を決めた。二月二十八日のことである。  その夜は、全員早目に眠りに就いた。  作戦どおり、軍が動けば、城は落ちるはずである。  中天にかかる月を眺めながら景虎は、城攻めの遊びに夢中になっていた遠い昔の情景を思い浮かべていた。  翌朝は、夜明けとともに眼をさました。  食事が配られ、腹ごしらえが終わると、全員出撃の配置についた。  東の空が白みはじめる。  それとともに、巨大な城の姿が、眼の前に浮かびあがってきた。  城内に人の動く気配はない。  接近の好機を感じた景虎は、出撃の下知を下した。  薄明かりのなかを、八百の兵が動きはじめる。  弓矢をたずさえた兵団が先行し、そのあとに槍部隊が続く。最後方には、騎馬武者の一団が、春日槍を構えて攻撃の機をうかがっていた。  囲みが縮められるにつれて、道は嶮しくなった。  木々があたりをおおい、見透しはきかない。  しかし、城の石垣は、立木の彼方に、常に見え隠れしている。  城門は眼の前に迫っていた。  正面の兵のなかに、ときの声があがったと思うと、ほら貝の音がひびき渡った。  城内が、騒然となってくる。  弓矢の射かけが開始され、それが合図のように、敵方は城門を開いて、討ってでてきた。  数十騎の騎馬武者が姿をあらわし、わめき声をあげながら槍、刀を振るって、襲ってくる。  景虎は総攻撃の下知を下した。  絶叫が天にとどろき、ほら貝の音がひびき渡る。  攻防は、延々と続いた。  しかし、半刻後には、城門は景虎の軍の手中に落ちていた。  あとは屯《たむろ》する敵軍を撃ち、黒田秀忠を成敗するだけである。  槍部隊が、敵を追い詰めてゆく。  景虎は馬を鞭打って、間道を駈けあがった。  道が、どのように続いているかは、勘でわかる。  敵の防禦《ぼうぎよ》の死角が、どこにあるかも景虎は知悉《ちしつ》していた。  馬を御しながら、天守閣の真下に到着した。  兵達があたりに火を放つ。  あわてふためく気配が、聴覚をよぎったと思うと、馬に乗った武者が数騎、間道を駈け降りてきた。  景虎は、それをやり過ごしたのち、背後から襲いかかった。  黒田秀忠の馬に、漆黒の駿馬が追いすがった瞬間、秀忠の首は、胴を放れて虚空に舞っていた。  戦いは、巳の刻(午前十時)過ぎになって終わった。  くすぶり続ける城内を眺めながら、�これで新山城は攻めずとも落ちる�と景虎は思った。 [#改ページ]   第三章 風雪  三月初旬、黒田一族は、ことごとく征伐され、越後に平和がよみがえった。  景虎の武名は国内にとどろき、庶民の評価は、兄晴景を凌《しの》ぐ状勢となった。  ここにきて、高梨政頼や中条藤資は、古志長尾家と結んで、守護代に景虎を推す運動をおこした。  晴景がこれに対し嫌忌《けんき》の感情を抱いたのは、言うまでもない。かねての噂どおり、上田の長尾|政景《まさかげ》と結んで、景虎排除の運動を起こしはじめた。  景虎はそれを、栃尾城で耳にした。  よみがえった平和が、長尾家の内紛によって、破られようとしていることに空しさを覚えたが、いまは自分の力では、どうすることもできなかった。  兄晴景とは、所詮、決着をつけなければならない運命にあったのである。  ただ、景虎自身は、味方の軍に対して、武力行動を行うことを、固く禁じた。  戦いは仕掛けるものではない、受けて立つことが肝要だと、かつて光育から諭《さと》された言葉を守ったのである。  両者の対立のなかで、天文十六年(一五四七)は暮れた。国内は不穏な形勢を孕んだまま、長い降雪の時期を迎えた。  景虎は十九歳になり、越後の覇者にふさわしい風格を備えてきたが、その表情には、憂いのかげがただよっていた。  兄弟相戦わざるを得ない宿命のなせる業である。  今日も景虎は、庭をおおった雪を眺めながら、もの思いに耽っていた。  長尾政景が雪解けを機に、栃尾城を攻める意向を表明し、その準備をすすめていることが、心を暗くした。  鳥が群れをなして空を飛んでゆく。  その行方を、景虎はぼんやり追った。  たとえようもない悲しい気持であった。  十二年前、敵の襲撃におびえながら、兄とともに父の柩を守って歩いた遠い記憶が、脳裏をかすめてゆく。  あのときは、子供心にも必死だった。  兄を援《たす》けて、守護代長尾家の権威を守らねばと、悲しみの気持のなかで考えた。  現在もその心境に変わりはない。  黒田一族を黒滝の合戦において、殲滅したのも、長尾家の地位を守るためであった。  だが、結果は自分の名声を高め、兄の権威を傷つけることになった。已むを得ぬこととは言え、その後の部将達の動きをみると、気持が滅入《めい》ってくる。 「あまり物思いにお耽りになると、お体に毒でございますよ」  いつの間にやってきたのか、春《はる》がそばに立っていた。  景虎はだまってうなずいた。  兄との反目が表面化して以来、春はなにかにつけて、気をつかってくれる。  妻のようなその心根が、景虎には嬉しかった。 「景虎様も、奥方を迎えられれば、少しは気持も安らぎましょうに」 「いやいや、それがしは妻はめとらぬ」 「なぜでございますか?」 「春がおれば、その必要がないからだ」  景虎はさり気なく答えた。  だが、これは本心であった。  城内には女人《によにん》は、余るほどいる。  妻をめとらずとも、生活そのものには不自由はない。  その気持が、景虎の婚期を遅らせるいま一つの理由になっていた。加えて、女犯により精力を消耗することが、今後の合戦に影響をおよぼすことを、景虎は知っていた。  生来丈夫でない体質が、その方向へ思考を誘うのである。  部屋へ帰ると、二人はこたつにあたって、雑談を交わした。  春と話し合っていると、心が和んでくる。  なぜだか自分でもわからなかった。  季節は、初夏を迎えた。  青空がうえをおおい、無限のひろがりを見せる平野には、霞がたなびいている。  景虎は城の櫓に佇んで、足下に展ける風景を眺めていた。長尾政景が、大軍を率いて、上田から栃尾へ向かったとの噂が、心を暗くする。  城を囲まれれば、受けてたたねばならぬとの気持であった。  近頃は宇佐美|定行《さだゆき》、本庄|慶秀《よしひで》らの部将が中心になって、城の守りを固め、高梨、中条、直江などの味方の軍も、馳せ参ずる気配を見せている。  思いに耽っていると、廊下の気配が慌しくなった。  慶秀《よしひで》の配下の武者が、情報をもたらした様子であった。 「政景様の軍は約四千、当地への到着は、明日の夕刻の見込みにございます。なお、春日山城を発した晴景様の軍は、途中で本隊に合流するとのこと。総勢は五千を上回るものと思われます」 「なに、晴景様が直々のご出陣とは、……これは由々しき大事じゃ。すぐ万全の手配を致せ」 「承知仕りました」  慶秀《よしひで》と武者との会話は終わった。  聞きながら、景虎は戦わなければならぬときがやってきたと思った。  館へ帰ると、思案に耽った。  五千の兵を打ち破る構想は、できていた。  問題は城内に女達を留《とど》めるか、否かである。  安全を踏んで、今日中に里《さと》へ帰そうと景虎は決心した。  呼び鈴《りん》を鳴らすと、春《はる》が姿を見せた。 「明日以降、兄の軍との戦いになる。それ故、そなた達には本日をもって暇《いとま》をとらす。直ちに仕度をして、明日、巳の刻(午前十時)までに城を去ってくれ」  景虎の言葉を、春は視線を伏せて聞いていた。だが、面をあげると次のように答えた。 「合戦のことは存じております。そのため、昨日も皆で協議致しました。  景虎様をはじめ、お城の方々を見捨てるわけにはまいらぬというのが、わたくし共の一致した考えにございます。何卒、心をわずらわされることなく、合戦にお励み下さいませ」 「そなたは生命《いのち》が惜しくないのか」 「惜しゅうございます。しかし、景虎様とご一しょならば悔いはございません」 「それがしと心中すると申すのか」 「左様でございます」  二人は語り合って笑った。 �春の生命《いのち》を守るためにも、政景《まさかげ》の軍を撃破しなければならぬ�景虎は胸のうちで、そう決意していた。  翌日から城内は、緊迫した空気に包まれた。  景虎は城外での小ぜり合いによる兵力の損耗を嫌った。  持久戦についても同じであった。  城の守りを堅固にし、敵軍の兵站《へいたん》線の延長による戦力の衰退を待って、局面を有利に開く術《すべ》もある。  しかし、そのようなやり方では、国内の治安が乱れる。  長尾家の内紛により、庶民の生活がおびやかされることは、今後の国内統一のためにも避けなければならない。  これが景虎の基本的な考えであった。  いずれにしても、今回の戦いは短時日に決着をつける必要性が、諸般の事情からみてあるのである。  この判断のもとに、景虎は敵軍を可能な限り引きつけておいて、機をみて総攻撃をかける作戦を、脳裏に描いていた。  入城する兵達によって、城の広場は立錐の余地もないほどの状態になった。  軍旗がはためき、慌しく動く兵のざわめきが、緊迫感を盛り上げる。  女中達は早朝から炊き出しに余念がない。  しかし、人数の増加のため、城内の厨房設備では間に合わず、大荷駄、小荷駄の兵によって、臨時の炊飯施設が、設けられた。  春達も、いまは鉢巻き姿である。  万一落城の運命に見舞われれば、兵もろとも自害する覚悟なのだ。  城内を見回りながら、景虎は身が引き締まるのを覚えた。 �勝たねばならぬ�この一言しか、念頭になかった。  やがて、兵の入城が終わり、城外待機の軍勢は、騎馬武者を主体にした遊撃隊だけになった。  兵員の移動が完了すると、城門は不気味な音をたてて閉ざされた。  景虎は、館にかえって休息した。  眼は床の間の毘沙門天《びしやもんてん》の掛け軸にそそがれている。  気迫をたたえたその姿を眺めていると、勇気が湧いてくる。  日が暮れかかった頃、宇佐美|定行《さだゆき》の使者が、政景の軍が郊外に到着したと告げてきた。 「きたか。今夜は見張りの兵を残して全員早目に眠りにつけ。正念場は明日以降ゆえ」  景虎は即座にそう言葉を返していた。  使者は了承して、部屋から去っていった。  夕食後、景虎は城壁のはずれから、敵軍の状況を眺めた。  松明《たいまつ》の灯が、山麓付近に点々とひろがっている。  決戦が、うそのような美しい眺めである。  灯の分布状況から、地形を利用した巧みな布陣であることが一目でわかった。 �政景はさすがに、一族のなかの豪の者だ。油断がならぬ�と思った。  館に帰ると、武装を解いて横になった。  疲れが眠りを誘う。  春《はる》がやってきて体にふとんをかけてくれたことを、景虎は知らなかった。  翌朝、景虎は間道を通って、裏手の櫓へ行き敵軍の状況を視察した。  ここは足下が、切り立った崖になっている。  そのため、視界をさえぎるものはない。  政景の軍は、予想どおり、城を半円型に囲んで気勢をあげていた。  右往左往する人馬の動きや、軍旗のはためきが、手に取るようにわかる。  軍旗は士気の象徴である。  そのため、各豪族とも、その作成には工夫をこらしている。  景虎が、越後上布の布に、日の丸を描き、「毘」または「龍」の字を配するのも、白兵戦の際に兵達に勇気を振るい立たせるためであった。  陽がのぼるにつれて、敵方の布陣が鮮明になってきた。  景虎は、眼を据えてそれを眺めた。 「小荷駄が意外に少ないようだ」  眺めながら、そうつぶやいた。  宇佐美定行が、驚いたような表情をして、その方向に見入る。 「なるほど、言われるとおりにございます」 「この状況では、敵方は短期決戦をもくろんでいるのかも知れぬ」 「左様でございますな」 「数日中に恐らく決着がつくであろう」  予感のような気持であった。  巳の刻(午前十時)を回る頃から、敵軍は波状攻撃をかけてきた。  そのため、小ぜり合いが日没まで続いた。  予期以上の精力的な攻撃に、景虎は政景の意図を見抜いた。  兵力にまかせて、一気に城を攻め落とす作戦なのだ。  だが、夜襲はかけてこなかった。  翌日は、終日血みどろの戦いが繰りひろげられた。  次の日も、その次の日も、敵軍は城門攻撃の戦法に出てきた。だが、景虎の軍の巧妙な応戦に阻《はば》まれて、目的を果たすことができなかった。  四日目を迎えると、攻撃は下火になった。  積極的な戦法が裏目に出たことを、政景は悟ったのである。  戦いを指揮しながら、景虎は敵の城攻めが終わったことを感じた。 「今度はこちらから攻めさせてもらう。全軍に夕刻までに出撃態勢を整えるよう達してもらいたい」と本庄|慶秀《よしひで》に告げた。 「夜襲をかけるとの意でございますか」 「そのとおり。敵方は今夜のうちに、栃尾を去るに違いない。それを背後から襲うのだ」  景虎の説明に、慶秀はうなずいた。  下知は伝令によって、全軍に伝えられた。  日は暮れかかっていた。  西の山があかね色に染まる。  景虎は無心に、その眺めにみとれた。 �今夜は月夜だ�と思った。  予想したとおり、敵軍は本陣の幕間《まくま》を畳みはじめたとの情報が、まもなく入った。 「よし、腹ごしらえをしたうえで、日没とともに、城を打って出る」  景虎の口調には、気迫がこもっていた。  握り飯を、その場で頬張り、水を飲むと、白布で顔をおおい、鎧、冑の紐を締め直した。  毘沙門天の像が、脳裏に浮かんでくる。  景虎は勝利を確信していた。  部将達を従えて天守閣を降りると、待機していた駿馬に跨った。  薄暮があたりをおおいはじめる。  間道を伝って、広場に降り立つと、兵団を見渡した。  ざっと四千人の数である。城外待機の騎馬武者を合わせれば、五千の兵にふくれあがる。  夜の帳《とばり》があたりをおおうのを待って、景虎は出発の下知を下した。 「手明《てあけ》」を先頭に、出陣がはじまる。  兵団は、黙々と夜道を下っていった。  山麓に着くと、道を西へとった。  月光があたりを照らしはじめる。  景虎の軍は、野を渡って、急速に、敵軍の背後に迫っていった。  南西へ向かって移動する政景の軍の長蛇の列が、見えてくる。  それは大蛇のうごめきのように、景虎の眼に映った。  全身の血がたぎり、闘志が湧いてくる。  景虎は軍配を天にかざした。 「かかれ!」  静寂を破る激しい声が、口をついて出る。  それを待っていたかのように、ほら貝の音が、闇を震わせた。  五千の兵が、ときの声をあげて走りはじめる。  刀身が月光にきらめき、鞭がうなる。  敵の騎馬隊が、逆襲に転じてくる。  だがそれより早く、景虎の軍は、蹄を鳴らし、土煙をあげて、敵陣の真っ只中に突入していた。  阿鼻叫喚の修羅場が現出される。  景虎は、ガムシャラに敵をなぎ倒した。  はじめて経験する凄絶な闘いであった。  額からは汗がしたたり、胸は鼓動で波打った。  騎馬隊と騎馬隊の激突が、地獄絵の様相を見せて、眼に映じてくる。  いななきをあげて立ち上がる軍馬、叫び声をあげて鞍から落ちる武者達、そのうえを踏み越えて進む兵と騎馬武者の集団、巨大な塊は、もつれ合ったままじりじりと西へ向かって移動していった。  力と力の闘いである。  合戦の実態を、眼のあたり見た思いに、景虎の胸は躍った。  敵兵の返り血で、鎧がどす黒く染まる。  何人切ったのか見当がつかなかった。敵兵をなぎ倒し、蹴散らしながら、景虎は敵の本隊に迫っていった。  政景の蒼白な顔が、浮かんでくる。  このまま進めば、その首級をあげることは難事ではない。  背をかがめ、馬を鞭打ちながら景虎は、政景が逃げのびてくれることを念じた。  春日槍をかざした一団が、敗走する騎馬武者を、背後から突き落とし、蟻の群れのように走り去る敵兵を串ざしにして駈け抜けてゆく。  両手をあげ、断末魔の叫び声をあげて地面に崩れ伏すその姿は、正視に耐えなかった。  勝利が確定したことを、景虎は感じた。  だが、心はうつろであった。  一族の政景が、味方の豪の者に討ちとられ、首をはねられた死体となって横たわる姿を想像すると、気持が滅入ってくるのである。  逃げる敵兵の姿が、月光のなかに浮き彫りにされてくる。  景虎は眼をつぶると、夢中で追撃停止の下知を下していた。  敵軍の姿が、小さくなり、やがて視界から消えた。  あたりに静寂がよみがえってくる。  誰もが、精根尽き果てた表情をしていた。  松明の火がともされ、野営の準備がはじめられる。  景虎は冑をぬぎ、額の汗をぬぐった。  宇佐美定行と本庄慶秀が、馬を駆ってやってくる。  敵軍を打ち破ったことが嬉しいのであろう。  篝火《かがりび》に映る二人の顔には、覇気がみなぎっていた。 「このまま追い詰めれば、政景を討ち取ることができましたものを……」  定行が言ってくる。 「いやいや、今日のところはこれでよいのじゃ。あまり追うと、敵方の術中にはまることも考えられるゆえ」  晴景の顔を思い浮かべながら、景虎は答えた。  ほっとした気持であった。  これで政景|殺戮《さつりく》の罪を犯さずに済んだと思った。  三人は幕間《まくま》に入って夜食をとり、酒を飲んだ。 「今夜は風流な月よのう」  慶秀が空を見上げながら、言葉を洩らす。  三人は声をあげて笑った。  勝利の酒が、これほどうまいとは景虎は知らなかった。  明日は米山を越え、柿崎(新潟県|中頸城《なかくびき》郡柿崎町)付近に拠点を置く、兄の本隊を攻める予定である。  その数は五千を越えている。  だが、士気が微弱であることを、景虎は見抜いていた。  晴景の命により、已むを得ず兵を進めた部将達が、そのなかに多数混じっているからである。  それに激戦に勝ったいま、景虎の胸中に不安はなかった。  二人が去ると、莚《むしろ》のうえに仰向けになった。  月が淡い光をなげかけてくる。  野犬の遠吠えを耳に感じながら、景虎は栃尾城で自分の帰りを待ち佗びている春《はる》の姿を思い浮かべていた。  翌朝は夜明けとともに、柿崎へ向けて兵を進めた。  柏崎《かしわざき》と府内の中間にあるこの地は、海を背景にしているため、城攻めが難しい。  晴景が春日山城からここへ兵を進めたのには、それなりの理由があったのである。  空は晴れ、樹間では小鳥がさえずっている。  昨夜の死闘がうそのような、付近の佇まいに、景虎は心が晴れるのを覚えた。  兵達も疲れを回復したのか、いまは語り合いながら、のんびり歩いている。  政景の軍の死傷者数に比べて、味方の被害はわずかであった。  騎馬武者の数を増やし、装備を充実したことが、このような結果をもたらしていた。  将来の関東攻めを考慮すれば、騎馬隊の充実は、合戦に勝つ必須の要件となる。  甲斐の武田晴信は、つとにその点に気づき、富士の裾野で、騎馬武者の養成と訓練を行っている。  その狙いがどこにあるかは、景虎にはわかっていた。  海がなく、物資に恵まれない甲斐の住人が、もとめてやまぬのは、犀川《さいがわ》と千曲川《ちくまがわ》の流域のゆたかな土地なのだ。  昔から信濃の商人が、越後へ流れてきていることが、それをあらわしている。 �利にさとい晴信が、それに気づかぬはずはない。それがしにとって当面の敵は、智略をもって鳴る勇将、武田信玄かも知れない�  馬の背にゆられながら、景虎はそんな思いを頭のなかでめぐらせていた。  長尾政景の軍を撃破したいま、越後の国内で警戒しなければならない敵はない。  畠には菜の花が咲き誇り、彼方ではかげろうが舞っている。  陽が西の山に沈む頃、米山(柿崎北東、九九三メートル)の山麓に着いた。  敗走した政景の軍は、米山城に拠って、柿崎の本陣を攻める景虎の軍の挟撃を狙っていた。  しかし昨夜の戦いでおびただしい人馬と武器を失った敵軍に、その余力があるはずはない。  柿崎を奇襲によって陥れ、反転して米山に向かう。  そして一気に春日山城に迫る。これが定行と慶秀を含めて、協議した結果の方針であった。  野営の準備が整うと、早目に食事をとり、見張りの兵だけを残して、全員眠りに就いた。  明け方、景虎は物の怪《け》の走る気配を感じて眼をさました。  かつて、感じたことのある地鳴りのようなひびきが、鋭敏な神経を刺激したのである。 「誰かおらぬか!」  起きあがると、激しい声で怒鳴った。  あたりは静まりかえって、物音一つ聞こえてこない。  見張りの兵が、息せき切って駆け寄ってくる。 「いかがなされました」  兵はおどおどした口調で聞いてきた。 「夢のなかで、大軍の動く気配を感じた。  そなたにはそのひびきが聞こえぬか」 「さきほど来、警戒にあたっておりますが、一向に……」 「そうか、やはり空耳だったのか」  景虎はつぶやいて、再び眠りについた。  だが、その音は次第に大きくなり、近づいてきていた。  敵襲だと、景虎は勘で悟った。  蓙《ござ》をはねのけて起きあがると、 「出陣の準備を致せ。行き先は柿崎の本陣だ!」と怒鳴りながら、馬をつないでいるところへ走った。  ほら貝の音がひびき渡り、あたりは、騒然とした気配におおわれてきた。  景虎は馬に跨がると、北西に向かって突っ走った。  騎馬武者がおくれじとあとを追う。  八百騎の精鋭は、土煙をあげ巨大な塊となって、闇のなかを駈け抜けていった。  手にはさやを払われた春日槍が握られている。  森や林の黒い影が、眼にもとまらぬ速さで、後ろへ飛んでゆく。  晴景の軍に、奇襲をかけられれば、防衛の備えのない味方の軍は、ひとたまりもない。  景虎が騎馬隊を先行させて、機先を制する手に出たのは、そのためであった。  柿崎の城は、眼の前に迫っていた。  出陣の準備を整えているのか、篝火があちこちでたかれ、ざわめきが聴覚をかすめてゆく。  予感の的中を、景虎は感じた。  至近距離に近づいたところで、停止の下知を下し、木陰に馬をとめて敵状をうかがった。  晴景の軍は、松明をともして、すでに動きはじめていた。  敵軍を横合いから攻めて分断し、戦力を半減させる作戦を景虎は考えていた。  先発の敵兵が、城下を離れた頃を見はからって、怒濤のような進撃を開始した。  予期せぬ騎馬隊のじゅうりんに、敵兵は、恐怖の叫び声をあげ、隊列を乱して敗走しはじめた。  浮き足立った軍勢は、烏合《うごう》の衆に等しかった。  景虎は騎兵隊を二手に分けて、敵軍を追わせた。  陽が東の空に昇りはじめる頃には、晴景の軍は、柿崎を捨てて春日山城への道をたどっていた。  合流した景虎の軍は、そのまま鉾先を東の米山城に向けた。  だが、政景の軍は、柿崎での敗戦の報に浮き足立ち、落ちのびてきた晴景を擁して、米山越しに府内(西方)へ退却しはじめていた。  景虎は兵を米山城下に集め、追討《おいう》ちをかける機をうかがった。  陽は西に傾いている。  晴景の軍が、山の下りにさしかかったことを察した景虎は、全軍に追撃の下知を下した。「手明」を先頭に、五千の兵が、蟻の群れのように山を登りはじめる。  頂に着いたときには、夕陽が空を染めていた。  あと一刻を経ずして、あたりは夜の帳におおわれるのである。  景虎の軍の追撃に、敵兵はあわてふためき、散り散りになって、山を下っていった。 「追え!」  激しい下知の声とともに、五千の兵のときの声が天にとどろいた。  無数の岩石が、逃げまどう敵兵の頭上に落下し、騎馬隊の怒濤のような攻撃に、あたりは血の海と化した。断末魔の叫び声が樹林にこだまする。  槍をかざした精鋭が、右往左往する敵兵を、血祭りにあげてゆく。  追い詰められた敵軍は、絶叫をあげながら、亀割坂《かめわりざか》の崖下に落下していった。  闘いが終わるのに、一刻とはかからなかった。  薄暮があたりをおおいはじめる頃には、景虎の軍は山を下っていた。  命からがら逃げのびる騎馬の一団が、視野をかすめてゆく。 「追討ちをかけますか」  宇佐美定行が聞いてくる。  だが、景虎も本庄慶秀も、それを認めなかった。  そのなかに、兄晴景と長尾政景がいることが、明白だからだ。  景虎は馬に跨ったまま、一団の行方を追った。  喜びも、安堵感もなかった。  一族|相食《あいは》む争いの空しさを、景虎は胸のうちで噛みしめていた。  庭に雪が降っている。  景虎と春《はる》は、廊下に佇んで、その眺めに見とれていた。  正月をあと六日に控えて、城内にも城下町にも活気があふれている。  合戦が片時とは言え、絶えたことを、人々は喜んでいた。  恒例の餅つき行事も、昨日盛大に済ませた。  あとは正月を迎え、そのまま雪解けの季節まで冬ごもりの生活に入るだけである。  雪国の人々にとって、この時期ほど心の安らぐものはない。  城内に住まう人達にとっても同じである。  しかし、二人の心は落ち着かなかった。  二日後に景虎が栃尾城を去り、大晦日の日に、春日山城へ帰ることが、決まったからである。  晴景の軍の敗戦を機に、春日山城内はゆれ動いていた。  高梨政頼を筆頭とする景虎擁護派の部将が、長尾政景の反対を無視し、守護、上杉定実に直訴《じきそ》して、守護代の地位を、景虎に与える運動を展開しはじめたからである。  晴景も、景虎の器量を認めて、その後は家督をゆずる方向へ、心境の変化を遂げている。  そのようななかで、十二月はじめ、定実の斡旋により、晴景と景虎は和解し、景虎が晴景の養子になる形で、守護代の地位を継ぐことが決まった。  一年有余におよぶ内紛は、こうして解決を見たのである。  景虎の本意ではなかったが、国人や部将達の要望を考えれば、この斡旋に従わぬわけにはいかなかった。 「景虎様とはあと二日しか、一しょに暮らすことができなくて、春《はる》は寂しゅうございます。  しかし、越後のお殿様になられる景虎様のことを考えると、わがままは言っておれませぬ。  どうかお体を大切になされますよう、春はただそれだけを、お祈り申し上げております」  寂しさを殺した春の言葉を、景虎は胸のうちで噛みしめた。  栃尾へ移って以来、早五年の歳月が経っている。  その間、景虎は春の世話を受け、ともに大人へ成長していった。  多感な時代を、心を寄せ合いながら、二人は生きてきたのである。 「それがしは栃尾を去っても、春のことは忘れはせぬ。  よい婿《むこ》を得て、幸せな日々を送ることを、かげながら祈っている」  景虎は静かな口調で、そう言葉を返した。 「ありがとう存じます。景虎様のような方がおられれば別ですが、いまはそのようなあてはございませぬゆえ」  春の表情には、さびしさが宿っていた。  景虎はそれ以上言わなかった。  夜、景虎が床に就いて間もなく、春が襖をあけて入ってきた。  灯明の灯《ひ》に映えるその姿には、成熟した女のなまめかしさがただよっている。  春は顔を伏せると、部屋の隅へ行って、衣装をぬぎ、薄着の姿になった。そして黙って景虎の床のなかに入ってきた。  景虎はなすがままに委せた。  宿命のような気持であった。  二人は並んで寝て、眼を閉じた。  女の匂いが、胸に伝わってくる。  女犯をしまいと決心した心がゆらぐのを、景虎は感じた。  春の腰ひもを解くと、衣類をはだけた。  豊かな乳房と発達した臀部が、十九歳の女を感じさせた。  景虎は夢中で犯した。  処女膜が破られる苦痛に、春は耐えていた。  だが、貫いたあとは、安らぎがかえっていた。  景虎に身を捧げることによって、春は惜別の情をあらわしたのである。  情事は、夜半まで繰り返され、満足を味わった二人は、体を寄せ合ったまま、深い眠りに落ちた。  翌朝、眼をさますと、春の姿はなかった。  夢ではないかと疑ったが、そうではなかった。 「お早ようございます。やっとお目ざめでございますね」  いつの間にやってきたのか、血色のいい顔が、目の前で笑っていた。  表情には、女になった喜びがあふれている。  景虎は救われたような思いがした。  起きあがると、風呂場へ行って身を浄めた。  時折、心をさいなむ不安が、今日はぬぐうように消えている。  自分でもそれが不思議であった。 �春のような女人には、今後めぐり合えぬかも知れぬ�湯船に身を沈めながら、景虎はそう胸のうちでつぶやいていた。  翌日、景虎は供の者を連れて、栃尾をあとにした。  自分の子を生むかも知れない春に、後髪をひかれるような思いを覚えたが、いまはその気持を捨てなければならなかった。  春日山城への道は遠い。  白雪におおわれた野山の風景が、冬の厳しさを感じさせる。  春日山城に着いたのは、三日後であった。そして翌日の晦日《みそか》の日に、上杉定実以下関係者列席の下に、家督と守護代相続の盛大な儀式が行われた。  こうして、景虎は名実ともに、越後の覇者となった。  一年の歳月が流れ、天文十九年(一五五〇)を迎えた。  景虎は二十一歳になり、守護代の仕事にも慣れ、部将達のなかにも、臣従する者がふえてきた。  越後の支配者としての地位が、ようやく固まってきたのである。  折しも、この年の二月、守護、上杉定実が病没して家系が断絶したため、景虎は自然に越後の国主の地位に就くことになった。  だが、その頃から、国内に再び内乱の兆しがみられはじめた。  坂戸《さかと》城(新潟県南魚沼郡六日町)に拠って富強を誇っていた長尾政景が、かねての風評の如く、若年にして覇者の地位に就いた景虎を除こうと謀って、不穏な行動に出たのである。  この気配は、夏を過ぎる頃からあらわになり、�政景謀叛�を報ずる情報が、上田庄《うえだのしよう》近辺の領主から、相ついでもたらされた。  景虎との決戦に備えて、政景は上田《うえだ》一帯の土豪を傘下に収めつつあるというのが、その内容であった。 「またか。どうしようもない奴だ」  報告を受けた景虎は、二年前の死闘を思い浮かべて、憂鬱な気持に襲われた。  近頃は、兄晴景との仲も、うまくいっている。  加えて春日山城に帰ってからは、生活をともにしたことのない姉、仙桃院《せんとういん》とも、心を開いて話し合うことができるようになった。  兄弟三人が、十数年を経て、昔の状態にかえることができたのである。  先年生母、虎御前が亡くなったことが、そのきっかけになっていた。  二十四歳を迎え、婚期を逸しかけている仙桃院は、独身の政景に秘かに思いを寄せている。  それを知っているだけに、景虎の心は暗かった。 �それがしが政景を討てば、姉は昔のように、仏門に入るかも知れない�胸のうちを思いがよぎってゆく。  政景の反抗は、十二月に入ってあらわになってきた。  山上の堅城、坂戸《さかと》城に拠って、景虎に反旗をひるがえし、春日山城を攻める準備をはじめたのである。  しかし、景虎はすぐには応戦しなかった。  その間、政景の部将の発智《ばつち》長芳、穴沢新右衛門尉、宇佐美|定満《さだみつ》らが、景虎に寝返り、思わぬ破綻が敵方に生じた。  政景の謀叛が、私欲に根ざすものであることが、諸将の悪評をかったのである。  景虎は政景を討つことを決意し、翌天文二十年(一五五一)、先ず中条、上野らの諸将に命じて、攻撃の火蓋を切らせた。  しかし、政景は堅城に拠ってよく防ぎ、戦局は一進一退の状況を呈した。  ここにきて景虎は、八月、自ら征討することを決意し、出陣の指令を、配下の部将に下した。  この報に、政景は動転の気配を見せ、父房長と協議した。 「諸将が景虎に心を寄せるなかで、戦いを交じえれば、われわれはつぶされてしまう。  要害堅固な坂戸城とは言え、一ヵ月とはもつまい」  房長の口調は慎重であった。 「しかし、若輩の景虎に、名をなさしめることは、それがしには我慢がなりませぬ」  政景は、積年の憤懣《ふんまん》をぶちまけるように叫んだ。  眼は血走り、声は怒気に震えていた。  房長はじっと、わが子を見詰めた。 「そなたの気持もわからぬではない。しかし、かねがね述べているように、一族|相食《あいは》む争いだけはやめなければならぬ。  正直言って、景虎の方が、そなたより器量は上じゃ。  これは国人や豪族達の評判をみればわかる。国主の地位に就く者は、それにふさわしい人物でなければならん。  その点、いまの越後の国内で、景虎の右にでる者はいない」  諭すような房長の言葉を、政景は眼を据えて聞いていた。  いまが人生の岐路であることを、感じているのであろう。  表情には、苦悩の気配があらわれていた。 「そなたは仙桃院を嫁に望んでいる。  晴景や景虎も、それを存じているゆえ、決して無体な処置にはでぬと思料される。結論から言って、それがしは、仙桃院をそなたの嫁にする条件のもとに、景虎と和睦したいと考えている」  房長の口調には、決意のほどがあらわれていた。廊下を歩く足音が聞こえてくる。長い沈黙のときが流れた。  政景は面をあげた。 「父上が言われたように、景虎は類い稀なる人物だ。  部将達が国主に推すだけのことはある。無念だが、これだけは如何《いかん》ともなし難《がた》い。  仙桃院を嫁にもらえば、景虎との仲も円満にゆくであろうが……しかし……」  あきらめのひびきをたたえた言葉が、切れ切れに語られる。  蝉の声に耳を傾けながら二人は、八ヵ月余におよぶ戦いの空しさを噛みしめていた。  八月半ば、政景が供の者数名を従えて、春日山城へやってきた。  一年振りのことである。  和睦の議は、紛糾をみずして合意に達し、その証《あかし》として、政景は景虎に臣従の意をあらわす誓詞を提出した。  打って変わった政景の姿勢に、景虎は心が開ける思いがした。 �これで信濃経略を進め、越後にも触手をのばしはじめている武田信玄に対抗することができる�と心で思った。 「今回の議を契機に、一族の繋がりが堅固になったことは、子孫の繁栄のためにも、同慶に耐えぬ。  ついては、姉、仙桃院との婚礼の儀、兄晴景とも謀《はか》った結果、長尾家の隆盛のため、こよなきこととの思いに達した。仙桃院においても、勿論異存はない。  それがしもこの慶事を契機に、そなたと昵懇《じつこん》になりたきゆえ、よろしくお願い申し上げる」  景虎は、静かな口調で語った。 「ありがたき幸せ。それがしは生涯、景虎殿にご奉公仕る所存ゆえ、末長くご指導下されたく」  政景は首《こうべ》を垂れて、そう言葉を返した。  晴景も笑みを浮かべている。  盛大な祝宴がその場で催された。  一族の雄、政景が臣下の誓いをたててくれたことが、景虎には嬉しかった。 �今後は関東の北条氏康とも、長駆して戦いを交じえることができる�  酒杯を傾けながら、景虎はそう考えていた。 [#改ページ]   第四章 霹靂《へきれき》  十月半ばから、信濃の情勢が慌しくなった。  毎日のように、北信の高梨、井上、島津らの領主から、信玄の信濃|蹂躪《じゆうりん》の報がもたらされはじめたのである。  ……甲斐勢の北信経略は、天文十七年(一五四八)二月、雪の大門峠(霧ケ峰東方)を越えて、土地の雄、村上義清と信玄が兵火を交じえたことにはじまる。  諏訪一族を滅ぼした信玄は、鉾先を北に転じ、海野口城(八ケ岳東方)を前進基地として、佐久平《さくだいら》に進み、天文十五年、前山城(小宮山)を、翌十六年|閏《うるう》七月には、笠原新三郎清繁が守る志賀城を攻めた。  そして、これを援護するために派兵された関東管領、上杉憲政の軍を、その年の八月、浅間山麓の小田井原に破って、清繁以下の首級をあげた。  その余勢を駆って、今度は難敵、村上義清に戦いを挑んだのである。  だが、この合戦で信玄は大敗を蒙り、板垣信方をはじめ、甘利、財満《さいま》、初鹿根などの部将を失い、信玄自らも負傷した。  そのため、三月には諏訪に退却の已むなきに至った。  信玄の作戦計画が狂ったことは、生涯のうちでも稀にしかない。  従って、この敗戦は、例外の一つと言える。  この頃は、連年の信濃出兵のため、住民の生活は疲弊《ひへい》し、従軍兵士の間でも�信州御陣の迷惑、言語に及ばず�との悪評が流れて、戦意は極度に低下していた。  このような情勢のなかで、北信の小笠原長時が、村上義清や安曇《あずみ》の仁科、伊那の藤沢氏らとはかり、四月以降、信玄の支配下の下諏訪を、七月には上原城(長野県諏訪郡、諏訪氏拠城)を攻めた。甲府を立った信玄は、上原に着くと、長時の軍を塩尻峠(諏訪湖北西)に破り、ついで湖西の地侍を平らげて、信濃制圧の大勢を決した。  そして、九月には佐久郡に向かい、田口城を陥れて、郷士、数百人を血祭りにあげ、春の敗北の雪辱を果たした。  風林火山の旗印のもと、怒濤《どとう》のように敵軍を打ち破り、殺戮《さつりく》の刃《やいば》を振るう信玄の信濃攻略は、以後猛威を振るってゆく。  二年後の天文十九年(一五五〇)七月には、筑摩郡に侵入して諸城を陥れ、小笠原長時の拠城、林(深志)城(松本市)を破却して、城代に部下の馬場信春を据えた。  そして、八月には小県《ちいさがた》郡(小諸市北西)に兵を進めて、砥石城を包囲し、千余名の犠牲者を出しながら、真田幸隆《さなだゆきたか》に命じて、執拗に城攻めを続けさせた。  一方、村上義清は、小笠原長時を助けて、信玄支配下の深志城を脅かし、佐久郡、安曇郡にも進出して、攻防を繰り返した。(以上「謙信と信玄」による)  景虎が守護代の地位に就く前後から、信濃ではこのように緊迫した状勢が続いていたのである。  それが隣国、越後に影響をおよぼさぬはずはない。  北信からの移住者の増加や善光寺平の住民の不安な表情が、それをあらわしていた。  高梨政頼ほかの北信の豪族は、信玄の手段を選ばぬ攻撃におののきを覚え、景虎にすでに庇護を願い出てきている。  いまは、越後の国内統一にのみ、眼を向けている場合ではないのである。仙桃院と政景との婚儀を盛大に済ませた景虎は、信玄の信濃経略に対する対策を、部将達を集めて練りはじめた。  そのなかで、いち早く決定を見たのは、僧侶や商人を信濃に侵入させて、敵状を探らせること、武器、騎馬武者の充実、各豪族に出陣の義務を課すことであった。  それに基づき、部将達や領主は、それぞれ領内の住民に、厳しい非常体制を敷いた。  城下町や農村に緊迫した空気がみなぎり、武器を製造する鎚音《つちおと》が、ひびき渡るようになったのは、それから間もなくのことである。  甲斐勢は、やがて越後に攻め寄せてくるとの噂が、最近は流れはじめている。 「大へんな事態になったものです。しかし、越後は、われわれの手で死守しなければなりません」  直江実綱が、眉間にしわを寄せて言ってくる。 「左様、国内への侵入を許せば、信玄の天下取りに奉仕することになるからのう」  景虎は静かな口調で、言葉を返した。  そのようなことは、許せぬとの気持であった。  中条藤資以下の部将も、深刻な表情をして考え込んでいる。  近頃は、もたらされる情報をもとに、戦略会議がその都度開かれている。  隣国の状勢が慌しくなった以上、看過するわけにはいかぬからである。 �いつかは、信玄と雌雄《しゆう》を決しなければなるまい�というのが景虎の偽らざる気持であった。  ざわめきが、武者溜りからあがったと思うと、庭先に、僧侶姿の武者が姿をあらわした。  火急の用件で、帰ってきたのであろう。  額には汗がにじみ、顔は紅潮していた。 「どうしたのだ」  景虎は廊下へ出て尋ねた。 「武田信玄は本月はじめ、甲府を発って深志城に向かい、そこを拠点にして、平瀬城をすでに攻め落としております……」  武者の言葉に、景虎は眉をひそめた。  平瀬城を五日前後で抜くなど、常識では考えられぬことだからである。 「村上義清殿が佐久、安曇二郡に入ったことに対抗しての処置なのか?」と思わず聞き返していた。 「左様でございます。信玄は平瀬城には原美濃守虎胤を置き、深志城の馬場信春と連繋をとらせて、小笠原長時殿の諸城を攻めさせております」 「なるほど。ところで真田幸隆が指揮をとっている砥石城攻めは、その後、いかがな状況になった?」 「あの城は、昨年九月以来、攻防が続けられておりましたが、今年の五月にすでに落ちております」 「なに、陥落したと……」 「左様でございます。この情勢では、一時優位に立った村上義清殿や小笠原長時殿も、今後は苦戦を強いられると思われます」 「そうか……」  つぶやいたきり、景虎は言葉も出なかった。  村上、小笠原の二豪族が敗北すれば、北信は信玄に制圧されたも、同然になる。  落胆の気持は、たとえようもなかった。  細部の情報を語ったのち、武者は去っていった。 �信玄は北信を手中に収めれば、南信に鉾先を転ずるに違いない。鈴岡城(長野県下伊那郡松尾)の小笠原信貞や知久郷の諸氏、木曾義昌らが、越後攻めに当たっての障りになるからだ……�頭のなかを想いがかすめてゆく。  何《いず》れにしても、二年後が問題だと景虎は考えていた。  庭に雪が降っている。  築山の松がそれに霞み、風雅な趣きを見せている。  風はなく、静かな正月風景にあたりはおおわれていた。  女中達が陽気に語りながら、廊下を通り過ぎてゆく。  景虎はこたつにあたりながら、春《はる》と過ごした五年間の生活を思い浮かべた。  あの時代が、心身ともに最も充実した時期であったように思われる。  しかし、その春も、いまは人妻になって、一児の母親になっている。  歳月の経過が、すべてを変えてしまったのである。  景虎には、女人に対する興味はなかった。  犯そうと思えば、その対象になる女は余るほどいる。  しかし、その気持にはなれなかった。 �女は春だけでたくさんだ�との思いは、三年余経った現在も変わらない。  足音が近づいたと思うと、襖があけられて、女中の徳が姿を見せた。 「お殿様、退屈でございましょう。よろしければ、わたくしが、話し相手になってさしあげましょうか」  屈託のないものの言い方に、景虎は苦笑した。  十七歳の徳は、春に似て態度がさばけている。  ほかの女中のように、かしこまらぬところが、景虎は好きであった。 「お前と話し合っても、つまらぬからのう。でもよい、なかへ入れ」  自分の妹のように思えて、景虎はそう言葉を返した。  女中達は皆、容貌がすぐれ、性格や人柄も、立派な者が揃っている。  そのなかでも、徳の利発さと心の広さは目立っていた。  加えて徳は、景虎の心を読むことに長《た》けている。  二人はたわいのない冗談を言い合って笑った。  徳と話していると、心が和んでくる。  半刻ほど経った頃、武者の慌しい声が聞こえてきた。  正月になにごとだろうと思いながら、景虎が神経をそばだてたとき、襖があけられた。  中条藤資であった。  城下の館で過ごしているはずの藤資が、突然姿を見せたことに、景虎は驚いた。 「関東管領の上杉憲政様が、一刻ほど前、供の者数十名とともに、それがしの館に見えました……」  藤資は動転した口調で、そう語った。 「なに、上杉様が……」  さすがに景虎は、二の句が継げなかった。 「左様でございます。それがしも、あまりの唐突さに、最初は疑いましたが、庭先に姿をあらわした上杉様を見て、それがまことであることがわかりました」  景虎は、身が引き締まるのを覚えた。  関東管領ともあろう人物が、雪の三国峠を越えて、正月早々自分を訪ねてくるには、余程の事情があるに違いない。 「わかった。ところで上杉様はいまどこにおられる」 「城門の外で、馬に乗ったまま待機しておられます」 「それはいかぬ。すぐここへお通し申せ」  藤資は了承して、引きさがっていった。  徳の注進によって、館のなかは緊迫した空気に包まれた。  女中を指揮する武者の声が、ひびき渡る。  のどかな正月風景は、跡かたもなく消えていた。  景虎は徳に手伝わせて正装に着替え、大小を腰に差した。 「上杉様の接待は、女中頭のとよとお前が中心になってやってくれ」 「承知致しました」  言葉を交わしながら、景虎は部屋を出た。  玄関へ赴くと、当番の武者や女中が、威儀を正して待機していた。  やがて、馬に乗った六名の武者が、姿をあらわした。  藤資ほかの部将達の姿も見える。  鎧のうえに蓑《みの》をつけた一行の姿は、落武者そのものであった。  乱世とは言え、威光天下に鳴りひびいた関東管領のこれが現実の姿かと思うと、気持が滅入ってくる。  家臣達も、驚きの表情を見せて馬から降りる武者達の姿に見入っていた。  憲政の表情は蒼ざめ、頭髪は白味を帯びている。  景虎は一行を丁重に迎え入れた。  何日も風呂を浴びていないせいか、体からは臭気を発している。  合戦に敗れて、命からがら落ちのびてきた、そんな印象であった。  玄関を入ったところで、一行は、女中の手助けを受けて、鎧、太刀などを取り、運ばれてきた湯で、手足をぬぐった。  風呂を浴び、新しい衣装に着替えた一行が、景虎以下が待機する広間に姿をあらわしたのは、一刻後であった。  人心地がついたのか、憲政の表情には、安らぎがかえっている。  酒食の接待を受けながら、憲政は越後へ落ちのびてきた理由を、次のように語った。 「ご存じのように、関東ではいま、北条氏康の天下が続いている。  天文七年(一五三八)、北条早雲の子氏綱が、|扇ケ谷《おうぎがやつ》上杉家の属城、江戸、川越を奪い、国府台《こうのだい》に里見を破って、南関東を制圧して以来、それがしは旧来の怨念を捨てて、扇ケ谷上杉家と手を結んだ。  山ノ内、扇ケ谷の両上杉家が団結すれば、北条氏に対抗できると考えたからだ。  天文十四年、扇ケ谷家は、武蔵の松山城(埼玉県東松山市)に拠り、それがしは上野《こうずけ》の平井城(前橋市南西)を拠点にして、北条氏の川越城(埼玉県川越市)を攻めた。  乾坤一擲《けんこんいつてき》の戦いのつもりだった。  この挙兵の背景には、今川義元の援護が得られるとの見透しがあった。  しかし、期待に反して義元は、北条氏康と和し、ために上杉家の連合軍は、翌年四月、一敗地にまみれた。  それがしは平井城に、扇ケ谷家の晴氏《はるうじ》は、古河《こが》(茨城県古河市)に走り、上杉朝定も陣中に歿して、松山城は北条氏康の支配下に落ちることになった。  上杉家の没落は、このときからはじまった。  天文十六年七月、それがしは、海野幸義を援けようとして、武田信玄の病に乗じ、信濃に兵を進めたが、ご存じのとおり成功しなかった。  その後、北条氏康は二万の兵を発して、岩槻《いわつき》城(埼玉県岩槻市)の太田|資正《すけまさ》を攻め、ついで箕輪《みのわ》城(前橋市西方)の長野|業正《なりまさ》を破り、昨年七月には、それがしの拠城、平井城に押し寄せてきた。  しかし、兵力に乏しいそれがしには、氏康と合戦を交じえる自信がもてなかった。  部将の曾我祐俊ほかの勧めもあり、それがしは、父祖以来縁故の深い長尾家を頼ることに決め、城を放棄して、越後に向かった次第……」  憲政はそこまで語ると言葉をつまらせた。  眼はくぼみ、声は震えている。  聞きながら景虎は、関東管領の権威が地に落ちたことを感じた。  部将達も、唖然として憲政の表情を見守っていた。 「よくわかりました。ところで上杉様のご嫡男、竜若丸様はいかがなされました?」 「くわしいことはそれがしにもわからぬ。しかし、伝え聞いたところでは、平井城落城の際北条氏康に捕えられ、その後、小田原に送られて、足柄海岸で斬殺されたとか……」  憲政は答えて、唇を震わせた。  景虎は溜め息を洩らした。  関東一円を制覇しつつある氏康の強大さが、感じられてならなかった。 「このような次第で、それがしには、なす術《すべ》がない。  関東管領でありながら、その職責を果たし得ない自分を振り返って、不甲斐なさに断腸の思いがするときもある。  しかし、非力だけは如何ともなし難い。  正直言って、刀折れ矢つきた心境だ。  このうえは、景虎殿の援けを得て、上野を回復する以外に道はないと、それがしは熟慮の末判断した。  何卒《なにとぞ》、意のあるところを汲みとられ、力添え賜《たまわ》るようお願い申し上げる」  憲政はそう語って、頭を下げた。  苦悩が表情にあらわれている。  景虎はどう答えるべきか、言葉を見出すことができなかった。  上杉家と長尾家は、憲政が語ったように、ゆかりがある。  しかし、関東管領ともあろう人物が、越後の国主の自分に救援と、関東の回復を依頼してきたこと自体に、景虎は、驚きを禁じ得なかった。  関東経略は、将来の夢である。  憲政の言葉に偽りがなければ、その時期が予想外に早く訪れたことになる。  関東管領からの依頼は、�筋目�を重んずる景虎にとり、事を起こすにあたっての名目となるからである。  ただ、実力を蓄えずして、軽挙妄動《けいきよもうどう》することは、師の光育《こういく》から堅く戒められている。  加えて、近頃は、越後と境を接する北信の状況が、武田信玄の侵略により、緊迫の度合いを増している。  信濃の守護、小笠原長時やこれと唇歯輔車の関係にある村上義清でさえ、武田勢の猛攻の前に、風前の灯火《ともしび》の状況にあるのである。  そのようななかで、鉾先を関東に転ずれば、信玄に乗ずる隙を与えることになる。  景虎には、その点が気懸りであった。  しかし、憲政の懇請を無下《むげ》にことわることは、越後の国主としての立場からもできなかった。  接待に余念のない徳の姿が、視野をかすめてゆく。  女人のもてなしを受けることが嬉しいのであろう。供の武者は、顔をあからめ、安堵の表情を浮かべて杯を重ねていた。  うぐいすの鳴き声が聞こえてくる。  新年を寿《ことほ》ぐかのような、さわやかな音色に、景虎は心が安らぐのを覚えた。 「わかりました。ご意思に沿う方向で、それがしも、努力してみましょう。  ただ、北条殿は、武田氏や今川氏、斎藤、織田氏と並ぶ勇将のこと、若輩のわたくしが越後から兵を進めても、失地回復は容易ではございますまい。  その点は含んでおいていただきたく存じます」  景虎の言葉に、憲政はうなずいた。 「ご承引賜りかたじけない。  厚く御礼申し上げる」  正月を、越後で送れることが嬉しいのであろう。憲政の表情には、笑みが浮かんでいた。  翌日から、憲政は城下の館に住まうことになった。  戦乱のなかで心の休まる暇《いとま》もなく、加えて嫡子を失った傷心のため、しばらくは健康を損なっていたが、春を迎える頃には昔の姿を取り戻した。  関東管領の越後滞在は、噂となって京都に伝わり、朝廷や将軍足利義輝の知るところとなった。  大覚寺義俊らが景虎の行為に好感を覚え、上杉憲政を通じて、叙位任官の奏請に動きはじめたのは、その頃からであった。  気候の良化とともに、憲政はよく春日山城を訪れ、若年の景虎に、なにかれと政治向きの智慧をさずけた。  竜若丸にかわる後継者として、景虎をみているのである。  しかし、景虎自身はそのようなことに、関心を示さなかった。 �天下取りは、時期と運がめぐってくれば、巧まずとも成し遂げられる�というのが、少年の頃からの信念であったからである。  それに当面は、憲政が失った平井城の回復をまずはからなければならなかった。 「大覚寺殿から、最近それがしのところへよく書状が届く。将軍足利義輝様も、景虎殿の力量に、秘かに期待をかけられている由。  一方、朝廷でも、足利氏にかわる覇者の出現を、千秋の思いで、待ち望んでおられる。見込みをつけられている人物は、五人居るとのことだが、そのなかに景虎殿も入っておられる」  庭の風景を眺めながら、憲政は、さり気なく洩らした。  いまは見違えるように血色がよくなり、体も肥えてきている。  景虎とは、二回り近く年齢の開きがあり、はた目には親子のように見える。  憲政は、景虎の覇気と信義を重んずる姿勢に心をひかれ、自らが果たし得なかった夢の実現を秘かに託していた。  大覚寺義俊らと連絡をとり、景虎の叙位任官の手続きを進めているのは、そのためであった。 「それがしが五人のなかに、……それは初耳でござるな」  景虎は答えて、笑った。 「いや、まことのことだ。最有力者は武田信玄殿で、あとは駿河の今川義元殿、中国の毛利元就殿、そして、景虎殿と尾張の織田信長殿が、互角の形勢で、評判をとっているとか。  しかし、このうち誰が覇者の地位に就くかは、予断が許されぬ……」 「なるほど。しかし、わたくしは、武田殿などと違って、天下取りを終生の目的とは、考えておりませぬ。  いまは乱世ゆえ、いつ武運つたなく命を落とすやも知れず、明日のないはかない人生を思うと、そのような気持にはなれませぬ。  修身、斉家、治国、平天下、この順序で進まなければならぬとわたくしは考えておりますが」  語りながら、景虎は当面制圧しなければならない敵は、関東の北条氏康だと心で思っていた。  武田信玄は、上洛を急ぐあまり、将来は駿河、美濃方面へ経略の鉾先を転じ、越後に脅威を与えることは、あり得ぬと判断されたからである。 「景虎殿らしい考え方、それも結構であろう。ただ、現在はどの武将も、京への道をめざしている。  そのなかで、順序を踏み、筋目を正していると、時代の流れに乗り遅れることにもなりかねませぬ」  憲政は語って、眉間にしわを寄せた。  景虎の律儀さが、天下制覇のさまたげになりはせぬかと憂えているのである。 「言われる意味はわかります。しかし、幼少の頃より仏道修行を志してきたわたくしには、理にかなわぬ戦さや、おのれの器量にそぐわぬ行為はできませぬ。  わたくしが、もし、天下の覇者たる力を備えれば、京への道は、自然に開かれましょう。  さもなくば、越後の国主にとどまるのが、せいぜいであろうと思われます。  人間には、それぞれ能力に見合った運命というものがあります。  それに逆らえば、戦いにも敗れ、身を滅ぼすことにもなります。  これはわたくしの世に処する基本の心構えにございます」  景虎は、淡々とした口調で語った。  語りながら�吹けばゆく、吹かねばゆかぬ浮雲の、風にまかするわが心かな�の禅の境地を思い浮かべていた。  憲政はそれ以上言わなかった。  いまは説いても、無駄だと判断したのであろう。  二人は一息入れて、茶を飲んだ。  野鳥のさえずりが聞こえてくる。 「ところで上杉様、懸案の関東出兵の件でございますが、現在、僧侶を北条氏の支配下の国々に入れて、情勢を探らせております。  それゆえ、いましばらくお待ち下されたく……」  景虎は心に浮かぶまま洩らした。 「はや手回しを。それはかたじけない」 「出陣の時期は、はじめての出兵のことでもあり、積雪の季節は避けたいと考えておりますが」 「それがよろしかろう。雪の三国峠越えは、至難な業《わざ》ゆえ」 「そうでございますな」  語り合ったのち、憲政は席を立っていった。  景虎は玄関まで見送って別れた。  自室にかえると、文机の前に座って、読みかけた書物を読んだ。  徳が茶をもって入ってくる。 「相変わらず几帳面な毎日の過ごされ方。  結構に存じますが、お体には、くれぐれもお気をつけ下さいませ」  年齢に似合わぬ大人びた口調に、景虎は苦笑した。 「そなたは、日増しにしっかり者になってくる気配じゃ。この分だと、いまにそれがしがやり込められるかも知れぬのう」 「意地悪なお殿様。でもわたくしは、そのようなお殿様が好きでございます」  徳の言葉には、男女のわだかまりが見られなかった。 「そなたは、美しくなったし、それに体も一回り成長したかに見える」  女らしさを増してきた徳の顔を眺めながら、景虎は答えた。  春《はる》の面影に似てきているように、思えてならなかった。  丈夫で、心が明るく、ものごとにこだわらないところが、景虎は好きであった。  徳は頬を染めた。  体が肥えてきていることを指摘されたように思えて、恥ずかしさを覚えたのであろう。  雑談を交わしたのち、彼女は立ち上がって部屋を出ていった。  越後上布の衣装をまとったそのあでやかな後姿が、景虎の心に残った。  六月半ば、上野方面に派遣していた使僧が相ついで、春日山城に帰ってきた。  刻々もたらされる関東の情報に、中条藤資以下の武将達は色めき立ち、上杉憲政の指示を体して、北条氏康と一戦を交じえることを説いた。だが、景虎は認めなかった。  国内の治安になお不穏な要因があるうえに、北信の村上義清、小笠原長時の敗戦が伝えられ、越後の国境が脅威にさらされはじめたからである。  この時期を境に、国内は再び慌しい空気に包まれてきた。  北信からの移住者は数を増し、甲、越決戦の噂が、庶民の間に流れた。  武田勢の侵攻の焦点と目されている善光寺平(長野市南方)では、農民が浮き足立ち、家財をまとめて移住する者もあらわれる始末である。  信玄との対決の時期が迫ってきたことを、景虎は感じた。  軍勢を強化せねば、甲斐の騎馬隊に、国内は蹂躪《じゆうりん》されてしまう。  危機感が春日山城をおおい、軍馬と武器、兵糧を充実することが、軍議で決められ、その日から、城下町は勿論、農村においても、武器を製造する鎚音がひびき渡った。  干魚、芋類、海藻、味噌などの保存食糧が、領主の命により調達されはじめたのも、その頃からである。  北信に近い諸城では、非常体制が敷かれ、戦いの準備が進められた。  春日山城への連絡のために、山の頂きの見やすい場所には、のろし台も築かれた。  越後の国はじまって以来の緊迫した状勢に庶民はおののきの気配を見せた。  騒然たる雰囲気のなかで、七月末、沼田(群馬県沼田市)の北条軍と戦いを交じえることが、天守閣の広間で開かれた軍議で決まった。 「平子《ひらたく》孫太郎および庄田定賢が中心になって作戦を練り、兵を発して沼田城を攻め落とせ」  景虎は、席上、そう結論の言葉を述べた。  自ら軍勢を率いて、沼田攻めを行いたいと思う。  しかし、北信の危機がつのっている現在、そのようなことは許されない。  指名を受けた両人は、承諾の返事をした。 「わが国の軍勢が、三国峠(谷川岳南西の県境)を越えるのは、今回をもってかぶら矢とする。  ゆめ油断するではない。なお、今後のこともあり、関東の情勢については、つまびらかに調査致してまいれ。  それから、積雪の時期を迎えれば、往来杜絶のおそれもあるゆえ、遅くとも十月中には兵をひけ」 「承知致しました」  一刻半におよぶ軍議は、これで幕となった。  はじめての関東出兵のせいか、室内は緊迫した空気に包まれていた。  ざわめきのなかで、景虎は席を立った。  北条軍との戦いは、今後の合戦の試金石になる。それだけに気持が落ち着かなかった。  広間を出ると、廊下に佇んで、足下に展ける風景を眺めた。  国境の連峰が、紫色の山膚を見せて、雲海を貫いている。 �あの向こうが、甲斐の国か……�まだ面識のない武田信玄の馬上姿を思い浮かべながら、景虎はつぶやいていた。  十日後、平子《ひらたく》孫太郎と庄田定賢に率いられた軍勢三千が、越後を発っていった。  春日槍をたずさえた騎馬武者が、軍旗を押したてて三国峠への道を進む姿は、壮観であった。  直江実綱《なおえさねつな》とともに、それを見送った景虎は、軍備の新鋭化が、今後の合戦を分けるもとになると思った。  なかでも、九年前の天文十二年(一五四三)、中国貿易に従事するポルトガル船が、大隅(鹿児島県)の種子島《たねがしま》に漂着し、その際、二挺の鉄砲を島主、種子島|時堯《ときたか》が買い取り、製造技術を学びとったとの噂が、心にかかっていた。  鉄砲が、どの程度の威力を秘めた武器であるかはわからない。  しかし、諸国の武将は、その採用に関心を払い、それを反映して堺では鉄砲の製造が、盛んになりつつある。  関東攻めが本格化し、甲、越の決戦が迫っているなかで、鉄砲隊の編成は、焦眉の急の課題のように、景虎には思われた。  二人は兵団の姿が遠ざかったあと、城下へ駒を進めながら、そのことについて語り合った。 「誰か鍛冶職に堪能な者を、至急堺に遣わして、鉄砲のつくり方を学ばせねばなるまい」 「左様でございますな。しかし、鉄砲は弓以上に威力のあるものでしょうか。それがしは疑問に感ずるのですが」 「火縄を用いて、火薬という薬物をほとばしらせて、筒のなかの鉄を飛ばす仕組みのようだが、弓以上の威力があるとのもっぱらの評判だ。軍師の間では、将来これが大筒《おおづつ》にまで発達し、築城の術《すべ》に変化をもたらすだろうとも言われている」  昨年、紀州の根来《ねごろ》からやってきた鍛冶師が語った言葉を思い浮かべながら、景虎は答えた。 「なるほど。取り敢えず一門衆のなかから、適当な者二名を選び、これに鍛冶職人をつけて、近畿へのぼらせることにしてはいかがでございましょう」 「そうするか」  二人の考えは一致した。  城下町へ入ると、庶民が土下座して、二人を見送った。  白布で顔をおおった景虎の姿は、国内でも評判になっている。  戦いに敗れたことがなく、兵の先頭に立って獅子奮迅の働きをする勇猛さが、彼等に尊崇の念を抱かせていた。  商家の賑わいや武器製造の状況をみたのち、二人は春日山城へ引き返した。  五日後、松本|杢助《もくすけ》と才野伊豆守が鉄砲方の責任者として選ばれ、数名の鍛冶師とともに、城下を発っていった。  行き先は、紀伊|根来《ねごろ》の杉ノ坊であった。  一方、関東へ向かった三千の軍勢は、予定どおり越山《えつざん》(三国峠越え)をなし遂げ、下旬には北条氏康の軍と沼田で対峙して、合戦の火蓋を切った。  越軍優勢の報は、一里ごとに設けられた鐘やのろしによって、春日山城へ伝えられた。朗報に景虎は安堵した。  北条勢恐るるに足らずというのが、そのときの率直な印象であった。  季節は秋を迎え、朝夕の涼しさが、膚に沁みてくる。  景虎が毘沙門堂で、座禅の修行を行っていると、当番の武者が、北信へつかわした使僧が、火急の用件で帰ってきたと告げてきた。  眼をあけると、立ち上がって部屋を出た。  この御堂は、父為景がつくったものを、景虎が一年前に改修したものである。  寺の本堂と似た造りになっており、周辺には手摺のついた回廊が設けられている。  武者溜りへ赴くと、部将達が、使僧から事情を聞いていた。  小笠原長時の拠城は、その後次々に攻め落とされ、いまは越後の国境近くまで、追い詰められているという。  景虎は、眉をひそめた。 「小笠原殿の状況はわかったが、村上義清殿のその後の動静は?」と促すように聞いた。 「村上殿も、いまは小笠原殿を援ける余裕がなく、最後の要害の塩田(上田市北西)にたてこもっておりますが、戦況は、徐々に不利に傾きつつあります」 「…………」  景虎は言葉も出なかった。  両氏は、すでに越軍に救援を求めてきている。  しかし、北信への派兵は、兵站線がのび、兵力の消耗を伴うだけに、すぐには踏み切れなかった。細部の事情を聞いたのち、景虎は自室に帰ってきた。  庭の木々は、はや紅葉の気配を見せている。  思案に耽っていると、徳に案内されて、上杉憲政が入ってきた。  越後での生活を楽しんでいる気配に、景虎は安堵した。 「大覚寺義俊殿が奏請していた叙位任官の件が、ようやく決まった。  近日中に、朝廷から沙汰がある予定だが、弾正|少弼《しようひつ》、従五位下に叙せられることになった」と、憲政は語った。  予期せぬことに、景虎は驚いた。 「わたくし如き者に、叙位とは……」と動転した口調で、言葉を返していた。 「よいことではござらぬか。  景虎殿には、ゆくゆく関東管領の職位を譲りたいと考えているゆえ」  憲政の顔には、笑みが浮かんでいた。  景虎は答えることができなかった。将来の関東経略を考えれば、憲政の言葉は、降って湧いたような幸運と言える。  ただ、権威の失せた関東管領の地位を得て、なんになるとの気持も一方であった。  権威よりも実力、これが乱世の定めだからだ。  間もなく憲政は館へ帰っていった。  庭の風景を眺めながら�人にはまことを尽くしておくものだ�と景虎は思った。  叙位の通知は、三日後に届いた。  書面を読んだ景虎は、機会をみて京へのぼり、朝廷や幕府に謝恩に参上せねばと考えた。  武人としての儀礼のように感じられたのである。  十月下旬、沼田で攻防戦を演じていた三千の軍勢が、命に応じて帰還した。  兵力の損耗を避けるための措置であったが、沼田一帯から北条軍を駆逐し得たことは、今後の上野《こうずけ》回復に、貴重な足がかりを残した。  緊迫した状勢のなかで二ヵ月が経過し、年の瀬を迎えた。  城内では餅つきや味噌の仕込み、塵払い、庭掃除などの行事が行われ、女中達や武者の賑やかな声が、館内をおおった。  あと三ヵ月経てば、城内は勿論、城下町も、蜂の巣をつついたような状況に変わってゆく。  それがわかっているだけに、景虎は気持が落ち着かなかった。  風林火山の旗印のもと、疾風のように敵兵を殺戮《さつりく》して駆け抜ける武田勢の騎馬隊の存在が、妙に心を揺するのである。  景虎の心理は、普通人とは違っていた。  決意を固めると、恐怖心が去って、精神の昂揚が見られ、それが戦いの場に臨んで、神業とも思える力量を発揮するもとになったが、普段はそうではない。  自身では、そのことわりがわかっていたが、事情を知らぬ部将達は、不思議がった。  大晦日の日は、終日自室にこもって酒を飲み、夕食後は、女中や当番の武者と歌舞音曲《かぶおんぎよく》を楽しんで過ごした。  元旦は、徳と家臣一人を連れて、馬で山を降り、麓の春日神社に詣でた。  参道の賑わいと、立ち並ぶ屋台店の様《さま》がなつかしかった。  商人の威勢のよい声が、初春《はつはる》のめでたさをよみがえらせてくれる。  眺めながら景虎は、光育夫妻と一しょに、同じ雰囲気を味わった遠い昔の記憶を思い浮かべた。  あのときは、拝所で詣でたのち、毘沙門天の像の前に佇んで動かなかった。  その頃から、景虎と毘沙門天との縁《えにし》が深まった。  長尾家の宗教は、曹洞宗であるが、景虎自身は、それにあまりこだわってはいなかった。  父為景が毛嫌いした一向宗や加賀を中心とするその一揆《いつき》についても、問題をおこさぬ限り、寛容な態度をとりたいと考えている。  仏道修行によって培《つちか》われた人生観が、その方向へ心を誘うのである。  本殿に着くと、神主に招じられるまま、なかへ入ってお詣りを済ませた。  合戦のことは脳裏から消えている。茶菓の接待を受けたのち、三人は道を引き返した。語らいながら石段を降りかかったとき、横合いの森のなかに、怪しい人影が走った。  景虎は、すぐそれに気づいたが、雑踏のなかで、騒ぎをおこしたくはなかった。  そのため、素知らぬ振りを装って、急坂の階段を降り、屋台店の並びのなかを通り抜けた。  賑わいが杜絶えると、道の両側に樹林が開けてきた。さきほどの人影が、そのなかに潜んでいることを、景虎は知っていた。  徳をさきに馬に乗せると、故意に曲者に背を向けて、馬に跨った。  思ったとおり、風を切る鋭い音がして、矢が飛んできた。  景虎は身を沈めて、それをかわした。  そして次の瞬間には、馬首をめぐらせて、林のなかを突っ走っていた。  蹄の音が静けさを破り、木々の幹が後ろへ飛んでゆく。  景虎の馬は、みるみる相手の馬との距離を縮めていった。  絶叫が天にとどろいたのと、相手の武者が鞍からころげ落ちたのと、同時であった。  供の武者が息せき切って、後を追ってくる。  しかし、近づいたときには、景虎は駒を止めていた。 「捨て置け。武田方の間者に違いない」  そう告げると、その場を立ち去った。  林を出たところで、徳の馬と合流した。 「お怪我はございませんか」 「ごらんのとおりだ」  景虎は答えて、笑みを浮かべた。  三人は駒を並べて、林泉寺への道をたどっていった。  雪かきが行われていないせいか、人家の屋根は、積雪でおおわれている。  林泉寺に着くと、光育夫妻に挨拶をしたのち、裏手の墓地に詣でた。  白雪をいただいた父の墓は、風雅な趣きをたたえている。  夫妻と話し合い、接待を受けた一行が春日山城に帰り着いたのは、午の刻(午前十二時)前であった。  午後からは、城内の広間で蹴まりなどに興じて過ごした。  こうして、正月三ガ日は、平穏のうちに暮れた。  しかし、四日以降、城内は再び、緊迫した空気に包まれてきた。  北信で武田軍と激しい攻防を繰り返していた小笠原長時が、手勢三百騎ほどを率いて、積雪のなかを、春日山城下へ落ちのびてきたからである。  連絡を受けていたとは言え、事態の急変に、景虎は色を失った。  武田信玄との対決の時期が迫ってきたことを、思わずにはおられなかった。  信濃勢の到着に、城下は騒然とした気配におおわれ、気の早い者は、家財をまとめて郊外に立ち退く始末である。  城内でも非常体制が敷かれ、武田勢との決戦の準備が整えられた。  正月気分は、景虎の心からは消えていた。  小笠原長時以下は、中条藤資ほかの部将のはからいにより、それぞれの家人の家に引き取られて、合戦の疲れをいやした。  ひげはのび、体からは臭気を放って、放浪者同然の姿であったと、藤資は語っていた。  長時自身も、信濃の守護の威厳が失せ、相次ぐ合戦に精根尽き果てた表情をしていた。  景虎が武者溜りへ出向いたとき、来訪してきた長時の使者は体を震わせて、積雪におおわれた庭に立っていた。  髪は乱れ、鎧や直垂《ひたたれ》はほころび、この世のものとも思えぬ凄惨な相貌に、景虎は息を呑んだ。  招じ入れると、すぐ別室で休養をとらせ、供の若武者二人から、その後の合戦の模様を聞いた。訥々《とつとつ》と語る言葉に耳を傾けながら景虎は、武田信玄が聞きしに勝る勇将であることを知った。  風林火山の兵法に対するおののきの気持は、たとえようもなかった。 「……そのような城攻めの方法を使うのか……」とつぶやいたきり、言葉も出なかった。  信玄は型にはまった戦法を用いない。  そのときどきに応じて、変幻自在なのだ。  無理攻めをせず、勝ちに乗じて深追いすることもない。  利あらずと見れば、あっさり兵を収めて撤退する作戦も使う。  本陣も各所に定めて、誰が総指揮者なのか判断がつかぬよう、常に神経を配っている。  士気の喪失を慮って、部将が戦死した場合には、同じ姿をした影武者を立てることもする。  信玄の鎧、冑と似たものを着用している部将は、合戦の場に臨めば、数人はいるという。  聞きながら景虎は、背筋に寒気が走るのを覚えた。  小笠原長時や村上義清が、数において勝る軍勢を繰り出しても、勝てぬはずだと思った。  加えて、性格、ものの考え方、処世観、戦術、天下取りの構想などことごとくが自分と正反対であるように、景虎には思えるのである。 �信玄はそれがしにとって、不倶戴天の敵になるかも知れぬ�語り合いながら、そう感じた。  長時直筆の書状を読んだのち、景虎は、 「わかった。小笠原殿に安堵して滞在下さるようお伝え下されたい」と決意を秘めた口調で答えていた。  七日後、長時が景虎の館へやってきた。  休養をとったせいか、顔には、生気がよみがえっている。  居合わせた直江実綱、本庄|実仍《さねとみ》とともに、景虎は自室に招じ入れて懇談した。 「信濃の守護としての職責が果たせず、無念でならない。しかし、いまはどうすることもできぬ。  村上義清殿もよくそれがしを援けてくれた。  一時は武田勢を破ったこともあったが、ここ数年は敗戦続きだった。  武田勢の騎馬武者に対抗できる精鋭を養成できなかったことが、その原因のように思われる。  しかし、言ってみても詮なきこと。  今後は長尾殿にすがる以外に道はないと決意し、こうしてはるばる落ちのびてまいった。  ご迷惑であることは、重々承知している。  しかし、われわれの心中を察して、何卒ご寛恕《かんじよ》下されたく」  長時はとぎれとぎれに語って、首《こうべ》を垂れた。  景虎は返す言葉を見出すことができなかった。  自分と同じ立場の人物だけに、その心のうちが察せられるのである。 「勝敗は時の運。今後再び信濃の地に、返り咲かれることもございましょう。  それゆえ、心を煩わすことなく、ごゆるりと滞在下されませ。  関東管領の上杉殿も、一年間当地にとどまられ、近く平井城に帰られる決意をされております。  乱世の事柄とはこのようなものだと、それがしは考えております。  幸い、村上義清殿も健在のこと、それがしともども力を合わせれば、甲斐勢を撃破することは難しいことではございません。  北信の高梨(長野県下高井郡中野城)、島津(上水内郡長沼城)、井上(上高井郡井上城)の諸氏も、われわれと協力態勢を整えております。  たとえ、二万の武田勢が当地へ侵攻してこようとも、五分に戦いをいどめる自信が、越軍にはございます」  景虎は神妙な口調で答えた。  師の光育から、受けて立つ戦いに徹すれば敗けることはないとかつて教えられた言葉が、確信の気持となって心を支えていた。 「さすがは長尾殿。聞きしに勝る胆力と叡智《えいち》に、それがし感服|仕《つかまつ》った。  武田晴信の向こうを張る人物と、かねて考えておったが、やはり間違いではなかった。  越後へ落ちのびてきてよかったと、つくづく思う」  長時は答え、安堵の表情を浮かべた。  これで二人の武将から頼られることになったと景虎は思った。  雑談を交わしたのち、長時は帰っていった。 「この状態では、村上義清殿もやがて殿を頼って、越後に落ちのびてこられるやも知れぬ」  本庄実仍が、直江実綱に語りかける。 「恐らくそうなるであろう。それにしても殿は大へんな器量人じゃ。  ゆくゆく天下を取られるに相違ない」 「馬鹿なことを申すではない。それがしは天下取りなど考えておらん」  景虎はさり気なく語った。  しかし、本心はそうではなかった。  信玄の軍を破り、関東の北条氏康を制すれば、京への道は、夢ではないからである。 �修身、斉家、治国、平天下か……�口ぐせの言葉が、脳裏に浮かんでくる。  軒端でさえずる雀の声に耳を傾けながら、景虎は、遠い将来のことに思いを馳せていた。 [#改ページ]   第五章 風林火山  信濃勢の到着を契機に、春日山城下は騒然とした気配におおわれてきた。  武者の往来が繁くなり、毎日兵糧を運ぶ荷車が、南の善光寺平へ向けて発っていった。  そのようななかで、二月初旬、村上義清の使者が、春日山城へやってきた。  ちょうど、景虎が天守閣の広間で、軍議を開いているときであった。  居並ぶ部将のなかを、使者はぼろぼろの衣装をまとって、姿をあらわした。 「いかが致した?」  景虎は高座から、言葉をかけた。  使者は声を震わせて、次のように語った。 「われわれは現在、川中島の南東の葛尾《かつらお》城(長野県|埴科《はにしな》郡|坂城《さかき》)にたてこもり、武田勢の猛攻を支えております。しかし、人馬や武器は日毎に損じ、兵糧もあと二ヵ月で尽きようとしております。  塩田の要害による主力軍も孤立し、救援を頼むことは、不可能な状態にあります。  いまは長尾殿だけが望みの綱、何卒お助け下されたく……」  眼は血走り、顔色は蒼白になっている。部将達は息を呑んだ。あまりの唐突さに、誰一人言葉を発する者はいない。  全員の眼が、使者の姿に注がれる。 「して、葛尾城を攻めている武田勢の兵力は?」  景虎は落ち着いた口調で尋ねた。 「騎馬武者が二千騎、弓矢、槍などをたずさえた重装備兵が千五百、鉄砲方が二百、その他は竹槍、鎌、なたなどをもった雑兵、千五百にございます」  景虎は胸をつかれた。 「騎馬武者が二千騎のうえに、鉄砲方が二百名と……」  部将達のなかにざわめきの声があがる。  鉄砲方二百という使者の報告が、動揺の気持をかき立てたのである。 「救援は、雪解けの四月初めを期して必ず行う。だから、それまで死力を尽くして持ちこたえるよう、将兵達に達してもらいたい。援兵は約五千を予定している」  思案した末、景虎はそう答えた。  正念場に追い込まれた気持であった。  翌日から城内に、兵糧や武器が持ち込まれ、武田勢の侵攻に備えて籠城の態勢が整えられた。  そのようななかで、二月十日、かねて病気療養中であった兄晴景が死去した。  景虎は姉、仙桃院とはかり、一族の長尾政景ともども、盛大な葬儀を林泉寺で行い、先祖代々の墓に手厚くほうむった。乱世の慣らいなのか、この葬儀を契機に、景虎の兄謀殺の噂が、他国でひろまった。だが、景虎は心にも留めなかった。  真実は誰よりも、越後の住民が知っていると、判断したからである。  後に晴景の古牌は、景虎が創建した華岳院に安置され、上杉家(長尾家)が米沢に移封されて以降は、米沢林泉寺に移されて、先祖代々の霊屋《れいおく》に合祀された。  三月を迎えると、越後には春の気配がただよってきた。  森や林では小鳥のさえずりが聞こえ、野には青草が芽生えている。  天守閣から、その風景を眺めながら、景虎は、生命の息吹きの季節がやってきたことを感じた。  葛尾城への出陣は、目前に迫っている。  春の訪れは、二十四歳の景虎にとって、天下取りへ向かって兵を起こす、人生の門出の時期でもあった。  白雪をいただいた連峰が、未来の夢をかき立ててくれる。  欄干に手を置き、景色に見とれながら、景虎は思いに耽った。  鎧、冑に身を固め、本陣の床几に腰をおろしている武田信玄の威圧するような風貌が、景虎の脳裏に浮かんでくる。  まだ信玄と顔を合わせたことがないとはいえ、噂などから、その風貌がどのようなものであるかは察しがつく。  九歳年うえの信玄は、三十三歳の働き盛りである。  分別もあり、外交の術《すべ》にも長《た》けて、若輩の景虎では足許にも寄れぬ。  だが、そのゆえにこそ、景虎は、強敵にいどむ武者振るいのような気持を覚えるのである。  白皙の面は紅潮し、眼は連峰の彼方を凝視していた。 「なにを考えておられます?」  徳の声に、景虎はわれにかえった。  血色のいい顔が、目の前で笑っていた。  胸元と腰の張りが、衣装のうえからも感じられる。  二人は並んで風景に見入った。 「明後日はいよいよ出陣でございますね」 「左様。それがしにとっては、他国の兵とのはじめての合戦になる」 「呉々もお体には気をつけられますよう。武運を殿様にかわって、毘沙門天様にお祈り申し上げておりますから」 「そうしてくれ。徳をこの世に残して死ぬのはいやだからのう」  景虎は、冗談で返した。  二人は天守閣の階段を降り、廊下を歩いて中の間へ入っていった。  寒さはまだ厳しかった。  掘りごたつにあたって、雑談を交わした。  ここは、来客の宿泊室でもあり、小宴の場所にもなっている。  自分を追ってきた徳の心のうちを、景虎は知っていた。  陽ざしが、明かり障子に映えて、春の訪れを感じさせる。  景虎はじっと徳の表情を見詰めた。 「それがしもこれからは、戦さに明け暮れる毎日となる。敵兵の刃《やいば》にかかって果てるとは思わぬが、武田勢は、鉄砲という南蛮渡来の飛び道具をもっている。  矢玉は眼に見えぬ速さで、胸板を貫くと言われている。それだけに、戦さに臨めば、死は覚悟しておかなければならぬ。  生きれば生き、死せば死せ、これがそれがしの死生観だが、やはり長尾家の血だけは絶やしてはならぬ。兄晴景には知ってのとおり、世継ぎがいない。姉、仙桃院は、一子をもうけたが、これは上田の長尾家を継がなければならぬ。  そのようなことで、出陣に臨み、それがし、そなたに頼みがある……」  景虎の言葉に、徳は頬を染めた。  しかし、狼狽の気配は見せなかった。 「殿様のお心は、つとに察しておりました。こうしてまいったのはそのためです。ただ、わたくしが殿様に身を捧げるのは、殿様が好きだからでございます」  徳は静かな口調で語った。  燃えるようなまなざしに景虎は成熟した女を感じた。  二人はそれ以上、言葉を交わさなかった。  徳は立ち上がると、押し入れをあけて、上布のふとんを取り出して敷き、衣装をぬいだ。肉づきのいい肢体が、薄着のなかにあらわになってくる。  景虎の胸は高鳴った。  女体を眼のあたり見るのは、はじめての経験であった。  徳は恥じらいの気配を見せながら、ふとんに入り、仰向けに寝た。  眼は閉じられている。  景虎は徳の胸元をひろげると、うえからおおいかぶさっていった。痛みに徳の顔が紅潮し、かすかにゆがむ。  だが、声は発しなかった。  景虎は夢中で犯した。  吐息と心臓の鼓動が、胸に伝わってくる。  景虎は蓄積した生命の液体を、徳の肉体の奥深くほとばしらせた。新たな生命が、そのなかから芽生えてくることを、期待したのである。  体を離すと、仰向けになって寝た。  快い疲労感が襲ってくる。  二人は体を寄せ合ったまま、深い眠りに落ちていった。その夜も、翌日の夜も景虎は徳を犯した。  若い二人に、疲労感はなかった。  抱き合い、法悦を味わい、汗を流すなかで二人は、お互いの愛を確かめ合った。  二日間の行為のなかで、景虎は自分の生命のすべてを、徳の肉体のなかに注ぎ込んだつもりであった。  明けて四月二日、景虎は村上義清との約束に従い、五千の兵を率いて城下を発った。  いまは春日山城に、思い残すことはなかった。 �生きれば生き、死せば死せ�馬の背にゆられながら景虎は、禅修行のなかで会得した言葉を、胸のうちでつぶやいた。  樹間では小鳥がさえずり、澄み切った空には白雲が浮かんでいる。  白布でおおわれた精悍な顔、腰に佩いた長刀、漆黒の駿馬に跨った若き国主を先頭に、五千の兵は軍旗を連ね、長蛇の列をなして、黙々と南へ向かって進んでいった。  高田(上越市)を過ぎると、昔から踏みならされた道(北国街道)を通って、新井(新居市)へ向かった。  起伏の多い地形が、さわやかな眺めを見せて、ひろがりを見せてくれる。  姫川原(新居市の南方)に達したところで、兵団は、歩みをとめた。  道が二手に分かれ、左のそれをとれば、高梨政頼の拠城のある飯山《いいやま》(長野県飯山市)に通ずる。  景虎は、そのまま右手の街道へ駒を進めた。  中郷《なかごう》(中郷村)を通過し、田口に着いた頃、日は西に沈んだ。  明日は速度を早めて、信越国境を越え、一気に善光寺平へ入る予定である。  野営の準備が、馬上武者の下知によってはじめられる。  篝火《かがりび》が焚かれ、その明かりが、兵達の精悍な表情を映し出す。五千の兵は、山麓の木陰に身を潜めて、一夜を明かした。  翌日は、払暁、陣地を発ち、高原の山道を踏みしめた。  妙高を通過し、国境を越えると、野尻湖が眼の前に迫ってきた。  休憩をとり、そのまま南下して、牟礼《むれ》(牟礼村)に向かう。  馬上武者の緊迫した声がひびき渡る。  武田勢の勢力圏にすでに入っているのである。  やがて道を東にとり、倉井、川合を通過して、飯山街道との合流点に達した。  善光寺までは、南西へ約四里の道程である。 「いよいよだな」  善光寺平の風景を、脳裏に描きながら、実綱に言葉をかけた。  太陽は、真上にさしかかろうとしていた。 「夕刻までに、川中島を通過できればよいのですが」  二人は語らいながら、馬首を西にめぐらせた。  平坦な道のため、兵達の歩みは早い。  左手には、信濃川が、平野のなかを、巨大な川幅を見せて、北東方向へ流れている。  津野、大町を瞬く間に通過すると、兵団は善光寺を北西に臨みながら、無限のひろがりを見せる平原(善光寺平)に、足を踏み入れていた。  犀川と千曲川の合流地点に達したのは、一刻後であった。  南西の方向には、川中島の原野がひらけている。  彼方には、茶臼山の城郭が、空に聳えていた。  堤に馬を止めると、あたりを眺め渡した。  雪解けにより、水嵩《みずかさ》が増したのか、川幅が広まった気配である。  そよ風が頬を撫で、対岸の堤には、青草が芽生えている。  本格的な春が訪れたことを、景虎は感じた。  休憩を告げるほら貝の音がひびき渡る。  五千の兵は歩みを止めて、堤のうえに憩った。  景虎は馬から降りると、岸辺に佇んで、川の流れに見とれた。  清流が岩を噛み、さわやかな音色が、心を和ませてくれる。陽光に川面がきらめき、小鳥が水面を、矢のように飛んでゆく。  合戦に赴く厳しさをいまは忘れていた。  兵が運んできた握り飯を、景虎は堤に腰を下ろして食べた。  やがて、兵団は川を渡り、対岸の堤沿いを、南へ向かって進んだ。  平野が切れ、道が険しくなってくる。  原始林のなかを、兵達は列をなしてのぼった。  野鳥の鳴き声が、無気味に耳にひびいてくる。  誰もが、敵軍との遭遇を警戒していた。  緊迫感がただよい、注意を促す馬上武者の声が、樹林にこだまする。  景虎は、馬を御しながら、実綱と並んで進んだ。  警護の武者が、弓や槍をたずさえて、眼を光らせる。  葛尾城へは四里ほどの道程である。  頂上で夜営し、翌朝を期して、城を包囲している武田勢を側面から攻める作戦を、越軍はたてていた。 「そろそろでございますな」  実綱が言ってくる。 「左様、甲斐の騎馬武者の守備範囲は広いからのう」  兵糧を運ぶ荷駄隊のかけ声が、後方から聞こえてくる。  信州への道は、聞きしに勝る難路であった。  武田勢がそれを克服して、北信を手中に収めかけていることが景虎には、驚きであった。 �信玄は、それがしなど足元にも寄れぬ大器なのかも知れぬ�斎藤道三と結んで、武名を馳せはじめた織田信長とともに、信玄は天下取りの夢を破る宿敵のように、感じられてならなかった。  越後は連峰に囲まれ、他国の武将が制覇を狙っても、兵の疲労と兵糧の枯渇のため、途中であきらめざるを得なくなる。  これまで景虎は、この地の利を考えて、甲斐勢の信濃経略には、ゆとりの気持をもって対していた。  だが、いまは違う。  葛尾城が落ちれば、善光寺平への侵攻は、半日で成し遂げられる。  春日山城は、それにより、敵軍の脅威にさらされることになる。  北信の諸族の救援依頼がなくても、川中島をめぐる甲、越両軍の激突は、必然の道であったのである。  陽は傾きかけている。空があかね色に染まり、白雲が風に乗って東へ流れてゆく。  野鳥の鳴き声に耳を傾けながら景虎は、徳の姿を思い浮かべた。  いかなる試練に見舞われようと、生きて帰らなければならぬとの気持であった。  山国の落日は早い。  残照の光芒が空に走ったと思うと、あたりは薄暮におおわれていた。  道がゆるやかになってくる。  山頂が近づいたことを、景虎は感じた。  樹林が切れ、視界がひらけてくる。  馬をとめると、山あいに姿を見せる葛尾城を見下ろした。  おりはじめた霧にさえぎられて、攻防の状況は、さだかではない。 「あと半刻もたてば、松明の灯がともされるはず。それまでゆっくり待ちますか」  実綱が言ってくる。 「そうするか。とにかく兵達の疲れをとらなければならぬゆえ」  二人は言葉を交わして馬から降りた。  騎馬隊はすでに夜営の準備をはじめていた。  今夜は炊飯や、松明の明かりをともすことは、禁じられている。  景虎は部将達とともに、早々に食事をとった。  打ち合わせることは特にない。  夜の帳があたりをおおうと、立ち上がって、敵軍の陣地を眺め渡した。  城を囲むように、灯が半円型にひろがっている。  美しい眺めである。  状景から、敵の主力が、東方に布陣していることを、景虎は知った。 「北東方向から攻めれば、挟み撃ちの形になるゆえ、敵は兵力を二分するに違いない。味方の騎馬隊で結構、太刀打ちは可能と、それがしはみるが」 「左様でございますな。この分だと、明日は武田信玄の武装姿が、みられるかも知れませぬ」 「しかし、どの武者が信玄かわからぬ場面に行き当たるかも知れぬでのう」 「それは言えますが」  二人は笑った。  半刻が経つと、月光があたりの闇を照らしはじめた。 「風流な月夜よのう」  高梨政頼が空を仰ぎながら、言葉を洩らす。  言い草に、一同がどっとくる。  合戦の前夜とは思えぬ和やかさに、景虎は安堵した。  一刻が経つ頃には、全員眠りについていた。  景虎は岩かげに横たわって、眼をつむった。  疲れが眠りを誘う。  夢心地をさまよいながら景虎は、春日山城で、自分の身を案じている徳の姿を、思い浮かべていた。  翌朝は食事をとると、すぐ馬に跨った。  兵達は、すでに出撃態勢を整えている。  景虎は、眼下に展ける敵陣を眺め渡した。  本陣の幕囲いやのぼり旗のような軍旗が散見されるだけで、状況はさだかでない。  城内でもまだ兵の動く気配はみられない。  軍配を掲げると、出発の下知を下した。 「手明」が槍をたずさえて、蟻の群れのように、山を下《お》りはじめる。  景虎は騎馬隊に守られて、その直後につけた。  手勢は、春日槍をたずさえた数十騎だけである。  白兵戦に備えての訓練は、普段から積んである。  軍配一つで、将棋の駒のように正確に、兵達は動く。  武田勢の騎馬武者と遭遇しても、敵陣の真ッ只中を突破しうる自信が、景虎にはあった。  兵達の歩みは早い。  半刻後には、山あいの原野に降り立っていた。  ゆるやかな勾配の高原が、南東方向へ無限のひろがりを見せている。  西方には葛尾城が、山のうえに聳え立っている。  北信は、山と谷におおわれた起伏の多い山国である。  平地は、他国に比べて、きわ立って少ない。  雑木林のなかを五千の兵は、音もなく進んだ。  野鳥の鳴き声と馬のいななき以外に、耳をそばだてるものはない。  緊迫感に、兵達の表情が引き締まる。  いまは全員が、武田勢の奇襲を警戒していた。  林の切れ目から、軍旗のはためきが見える。  景虎は、全軍に停止の下知を下した。  武田勢はまだ、越軍の接近に気づいてはいない。  伝令の武者が、馬を駆ってやってくる。 「武田勢の間者が、われわれの動きを察知したようでございます!」  武者は息せき切って、そう告げてきた。 「なに、目撃されたと」 「左様でございます」 「なぜ斬らなかった」 「馬を駆って追ったのでございますが……」 「とり逃がしたと申すのか」 「左様でございます」  景虎は愕然となった。  勇猛をもって鳴る武田の騎馬隊が、予想を上回る訓練を経て、編成されていることを思わずにはおられなかった。  武者が去ると、景虎は眼を敵陣に据えた。  その時、城内から、巨大なときの声があがった。  越軍の到着を知って、村上勢が撃って出る作戦に転じたのである。  呼応するように、武田勢の陣営からどよめきの声があがり、土煙が舞った。  抜刀した景虎の下知の声が、静寂を引き裂いたのは、その直後のことであった。  嵐のような進撃が開始される。  雑木林を抜けた兵達は、喊声《かんせい》をあげながら、立木におおわれた荒野を突っ走った。  ほら貝の音が、ひびき渡る。  景虎はゆっくり手綱をしごいた。  老獪《ろうかい》な信玄の作戦に対するには、血気は禁物である。  静には静、動には動をもって対しなければならない。  荒涼たるあたりの風景が網膜をかすめてゆく。  景虎の眼は、敵の本陣に据えられていた。  鉄砲の発射音が空にとどろき、土煙があがる。  と見る間に前方に、敵の主力部隊が姿をあらわしてきた。抜刀し、わめき声をあげながら走ってくる光景が、馬上から手に取るようにわかる。  だが、一定の距離に近づくと、水を打ったように鳴りをひそめ、枯れ草のなかに身を沈めた。  景虎は胸をつかれた。  このような戦法は、はじめての経験であったからである。  このまま味方の兵が進撃すれば、敵兵の弓矢と鉄砲の餌食になる。  冷水を浴びせられたような気持のなかで、全軍に、�停止�の激しい下知を下した。  兵団の動きが、止まる。  鉄砲の発射を警戒して、「手明」や雑兵は、枯れ草のなかに身を潜めた。  無気味なにらみ合いが続く。  両軍は相対峙《あいたいじ》したまま、攻撃の火蓋を切る機をうかがった。  彼方には、紺地《こんじ》の軍旗をかかげた敵の騎馬隊が、姿をあらわしていた。 �疾《はや》きこと風の如く、徐《しず》かなること林の如し……�孫子の兵法を地でゆく不敵なその光景に、景虎の神経はわなないた。 �いまに眼にもの見せてくれるわ�  吐き捨てるようにつぶやくと、敵陣を凝視した。  緋おどしの鎧をまとった馬上武者が、騎馬隊の並列のなかから、進み出てくる。  金をあしらった冑が、陽ざしにきらめいて光る。  敵将、武田信玄であることを景虎は感じた。  顔かたちはさだかではない。  しかし、景虎には直感でその察しがついた。  いつかは刃《やいば》をまじえ、雌雄《しゆう》を決しなければならぬ相手だと思った。  敵軍の先兵《せんぺい》が、じりじり距離を縮めてくる。  鉄砲の有効射程距離が、五十間以内であることを考えているのだ。  南西の方向では、村上勢と武田勢との小ぜり合いが、演じられている。  しかし、信玄は、それを意に介する気配はない。  視線は、漆黒の馬に跨った景虎に注がれていた。  鉄砲、弓矢などをたずさえた一団のあとを、騎馬隊が散開した形で進んでくる。  景虎は刀をかざすと、総攻撃の下知を下した。  ほら貝と太鼓の音がひびき渡る。  弓矢の射かけが開始され、それとともに、槍を構えた味方の兵が、敵陣めがけて進撃を開始した。  五千の兵の喊声が、山野にこだまする。  攻め寄せる敵兵の姿が眼に映じた瞬間、景虎は一団の騎馬武者を率いて、疾風のように、敵の主力部隊のなかに、突入していた。  騎馬隊同士の激突が、視野をかすめてゆく。  景虎は襲ってくる敵兵を、ガムシャラに刃《やいば》にかけた。  返り血が、顔の白布を染める。  地獄絵を眼のあたりみた思いに、胸は高鳴った。  景虎は無意識に、緋おどしの鎧の武者を追った。  刃を交じえたい気持に駆られたのである。  だが、襲ってくる敵兵に眼をうばわれているうちに、その姿を見失った。  敗走する敵兵の姿が、網膜をかすめてゆく。  戦いは一瞬の激突で、片がついていた。  作戦が成功したことを、景虎は感じた。  馬から降りると、冑をぬいで空を仰いだ。  さわやかな気持であった。  その場で部将達と今後の作戦を協議する。  地の利のよいこの場所を本陣と定め、敵の逆襲に備えて、構築物を設置することがそのなかで決まった。  信玄は決して無理攻めをしない。  戦い利あらずとみれば、正面衝突を避ける作戦も使う。  だが、油断は禁物であった。  陣形をたて直して、反撃に転じてくることは、過去にしばしば見られたことだからである。 �侵掠《しんりやく》すること火の如き�武田勢の猛攻は、戦国武将の間で定評になっている。  それを如何にかわし、葛尾城の村上勢を救援するかが今後の課題なのだ。  思案をめぐらせていると、城内から、使者が馬を駆ってやってきた。 「今回のご出陣の件、まことに感謝に耐えませぬ。  兵糧も尽き、あと数日で落城を覚悟していただけに、われわれ一同救われた思いにございます。  なお、今日の合戦は、当方の勝利に終わり、遮断されていた糧道も開けました。  この分だと、当分はもちこたえ得るものと思われ、主君以下安堵致しております……」  武者の口上を、景虎は眼をつむって聞いていた。  半刻の休憩ののち、陣地の構築が開始された。  騎馬隊を除く四千の兵が、動員されたため、作業ははかどった。  付近には雑木林が多く、材木に不自由はない。岩場が多い高原地帯であるため、石材も得られる。  日が暮れる頃には、各所に頑丈な防衛設備が、できあがっていた。  葛尾城は、目の前に聳え立っている。  はためく軍旗が、将兵の士気の回復をあらわしていた。  小ぜり合いが続くなかで、七日が経過した。  戦線は膠着状態のまま、さしたる変化を見せなかった。  景虎は毎日、高原のはずれに立って、武田勢の状況を眺めた。  信玄の陣立ては、八陣の構えと称せられ、総大将の右方に、地、虎、天の三陣、左方に風、雲、竜の三陣、前に鳥陣、後方に蛇陣が控えている。  その光景が、越軍の陣地から手に取るようにわかる。  特に本陣の敷地が広い。  色を好む信玄は、戦陣のなかでも、女人衆を従え、奥小姓や御使衆、小人なども、側にはべらせている。  それでいて、城内におけると同じく、略式の輪袈裟《わげさ》をかけて、毎日神仏に戦勝を祈願しているという。  そのような信玄が、景虎には想像を越える�怪物�のように思われた。�敵軍の女を側室にする不埒者《ふらちもの》め。生臭坊主《なまぐさぼうず》は、生かしておけぬ�敵陣を眺めながら、そう胸のうちでつぶやいていた。  二十日が経っても、武田勢は、反撃に転じてくる気配を見せなかった。  糧道をめぐる小ぜり合いが、間断なく続いているだけで、それ以外に戦いらしい戦いは行われていない。  景虎も、味方の兵の損耗を慮って積極的な戦法にはでなかった。 「動かざること山の如しか。信玄らしい作戦だ」  高梨政頼が、渋い顔をつくって、言葉を洩らす。 「あせるな。これも敵の計略の一つだ。  信玄はよくこの手を使う。しかし、戦いをあきらめたわけではない。こちらの士気が、ゆるむのを待っているのだ」  酒を飲みながら、景虎は言葉を返した。  外は雨が降っている。  兵達は板葺小屋や張られた幕間に入って、晴れ上がるのを待っていた。  部将達も酒を飲んでいる。  ここ十日間で、野山の風景は、見違えるように変わった。青草が芽生え、れんげの花が咲き、蝶さえ舞いはじめている。  あと四日経てば、五月を迎える。  徳の姿がふと浮かんでくる。  十八歳の彼女を犯した罪の意識を、景虎は感じていた。  かつて、女犯はすまいと決めた誓いを、若気の至りから破った意志の弱さが、後ろめたさを誘う。 �これで、二人の女人を、手にかけてしまった……�悔恨《かいこん》の念とともに、思いがかすめてゆく。  地鳴りのようなひびきが、景虎の思考を停止させた。  立ち上がると、「敵軍が反撃に転じてきた。ただちに迎え討つ準備を致せ!」  と激しい声で、下知を飛ばし、刀を把んで幕間を飛び出していた。部将達も、あとを追って外へ出てくる。  騎馬隊の蹄の音を、景虎は確かに聞いたと思った。  霧にさえぎられて、視界はきかない。  だが、音だけは、刻々近づいてくる。  景虎は馬に跨った。  兵達が、あわてふためきながら、「馬上」の指示を受けて、迎撃態勢を整えはじめる。  感知されるのを警戒して、ほら貝は鳴らされていない。  無言の戦闘準備は、やがて終わった。  千騎の騎馬武者も、いまはいつ指示が下っても、出撃できる態勢になっていた。  伝令の武者が、馬を駆ってやってくる。 「敵軍は、山手と正面の二手にわかれて、われわれの陣地を、挟撃する作戦に出ております!」 「なに、両面からだと……」  景虎の声は、うわずっていた。  信玄の戦術の巧みさを、思い知らされた気がしてならなかった。  武者が去ると、景虎は、兵を二分して、それぞれの方向への配置につかせた。  馬上武者の声が、ひびき渡る。  五千の兵は、半円型に陣型を整えて、敵の襲来を待ち受けた。  霧は深みを増し、至近距離しか、視界がきかなくなった。雨が鎧を濡らし、甲冑からは雫《しずく》がしたたり落ちる。  景虎は、騎馬隊の中央に位置し、抜刀して、敵兵の出現を待った。  あと少し気づくのが遅ければ、味方の陣地は、敵の騎馬武者に蹂躪されたに違いない。  思いをめぐらせながら、景虎は背筋に寒気が走るのを覚えた。  地を震わせるようなひびきが、迫ってくる。  兵達は、身を伏せた。  あたりは静寂におおわれ、降りしきる雨の音だけが、耳にひびいてくる。  前方に、黒い人馬の一団が、姿をあらわした。  それはみるみる形を大きくし、激しい勢いで、接近してきた。 �侵掠すること火の如し�信玄の兵法が、脳裏をかすめてゆく。  景虎は出撃の下知を下した。  ほら貝の音が山野にこだまし、太鼓の連打が、鼓膜を震わせる。  喊声《かんせい》があがり、五千の兵の怒濤のような進撃が開始された。  山手から敵の騎馬隊が姿をあらわしたのは、その直後のことであった。  迎撃を指示する実綱の絶叫が、聞こえてくる。  景虎は、眼を正面の敵に据えた。  山手の軍勢は実綱に委せ、三千五百と推定される、敵の主力部隊を先ず撃破しなければならない。  武田勢は、軍旗を背負った騎馬武者を先頭に、斜面を駈けあがってきていた。  景虎が、攻撃の下知を下したのは、この好機を逃がさぬためであった。  高原を突っ走った味方の軍は、やがて下り坂に差しかかった。 「撃て!」  景虎は叫びながら馬に鞭打ち、騎馬武者とともに、敵軍のなかに突入していった。  意表をついた越軍の反撃に、武田勢は行き足を阻まれ、陣型を乱した。  馬がいななきの声をあげて立ちあがる。  馬上武者が制止しようとしても、馬は言うことをきかない。  景虎の眉は逆立ち、表情は引き締まっていた。  闘志が、全身にみなぎってくる。  刀を右手にかざすと、混乱する敵陣の真ッ只中に突入した。  春日槍をたずさえた七百騎の武者が、後に続く。  無我夢中の気持であった。  襲ってくる騎馬武者を、景虎はガムシャラに斬り伏せた。  全身を朱《あけ》に染め、血しぶきをあげて鞍から落ちる敵兵の姿が、視野をかすめてゆく。  絶叫があたりの空気を震わせ、緒戦を上回る凄惨な場面が、各所で展開されはじめた。  気迫と気迫の闘いである。  敵の騎馬武者と渡り合う兵達の表情が、あわれの気持を誘う。  助けてやりたいとは思う。  だが、いまはなす術がなかった。  両軍の力は、互角であったが、地の利は越軍にあった。  やがて、甲斐勢は斬り立てられ、じりじり後退していった。  景虎は、シャニムニ突き進んだ。  全身が、敵兵の血で染まってくる。  何人刃にかけたのか、見当がつかなかった。  汗が、滝のように流れ落ちる。  正念場に追い込まれた自分を、景虎は感じていた。 �死せば死せ″胸のうちでそうつぶやきながら、馬を駆った。  眼は血走り、呼吸は乱れていた。  体力の限界状態が襲ってくる。 「ひけ!」  敵方の部将の声が、どこからともなく聞こえてくる。  景虎は、救われたような思いがした。  やがて敵軍は、一斉に方向を転じた。  しかし、騎馬武者だけは、最後まで、抵抗をやめなかった。  追い討ちをかけられて、犠牲者がふえることを、阻止しようとしているのである。  徒歩の兵が撤退したのを見届けてから、彼等は馬首をめぐらせた。  敵ながら、見事な転進振りである。  景虎は追撃することを禁じた。  深追いすれば、どのような落とし穴が待ち受けているかも知れないからだ。  勝利感も安堵感もなかった。  武田勢の猛攻を、なんとか食い止めることができた。それだけの気持であった。  休戦を告げるほら貝の音が、聞こえてくる。  兵団が陣地へ引きあげてきたのは、夕刻であった。  直江実綱の率いる軍も、防戦には成功したが、相当の犠牲者を出していた。  沈んだ雰囲気のなかで、点呼がとられ、戦死者を確認したのち、それぞれ部署へ散っていった。  戦いは今後も続く。いまは戦死者のことを考えている余裕はなかった。  今日は無事でも、�明日は我が身�かも知れないのである。  景虎は部将達を集めて、軍議を開いた。  今日の合戦で痛手を受けた武田勢は、兵糧の補給の必要もあり、城攻めをあきらめて、ひきあげるのではというのが、多数の意見であった。  軍議が終わると、本陣の外へ出て、敵兵の血を、水で流した。  慣れているとは言え、さすがに気持が滅入った。  鎧をぬぎ、脛当《すねあて》をはずすと、兵が沸かした野天風呂に入った。  残照が、西の空を染めている。ねぐらにかえる鳥が数羽、鳴き声をあげながら飛んでゆく。  山国らしい静かな風景に、景虎は心が安らぐのを覚えた。  風呂から上がると部将達と一しょに食事をとった。  今夜は兵達の労をねぎらって、全員に酒が配られている。そのせいか、陽気に語り合い、歌をうたう光景が、各所で見られた。  おぼろ月夜の北信の夜は、際限なく更けていった。  三日間が、平穏に経過した。  しかし、武田勢の反撃の気配は、失せてはいなかった。  間者が夜陰に乗じて、間断なく出没することが、それをあらわしている。  そのため、越軍内部では非常体制が敷かれ、神経の、休まる暇がなかった。  ところが、四日目の朝を迎えたとき、敵の陣地は、跡形もなく消えていた。休戦の間隙《かんげき》を狙って、兵を引いたのである。景虎は驚きを禁じ得なかった。  信玄の用兵の妙を、このときほど感じたことはない。  武田勢の撤退に、越軍内部は湧き立った。  一ヵ月振りに故国に帰れることが、兵達には嬉しいのである。  信玄が南下した確証をつかんだのち、景虎は全軍に、帰国の意思を伝え、翌日、北信をあとにした。  国境から眺めるあたりの風景が美しかった。  善光寺平が南に無限のひろがりを見せ、千曲川と犀川が、緑一色の風景のなかに、あざやかな姿を、浮き彫りにする。  いまは、武田勢の侵攻に悩まされている。しかし、今回の戦いで、それに太刀打ちできる見透しが立った。  この自信が、二十四歳の景虎の血を沸かせた。  春日山城へ帰り着いたのは、二日後であった。  しばらく見ぬ間に、あたりは新緑におおわれていた。  北に展ける蒼い海に、感慨をかきたてられながら、景虎は城門をくぐった。  御影石の石垣の連なりや、そのうえの城壁、庭園の木々の緑などが、眼に映じてくる。  先祖伝来のこの城を守るためにも、武田信玄とは、戦わなければならないと思った。  家臣達と別れると、馬に乗ったまま、間道を通って、館に向かった。両側の松の緑が、眼にさわやかに映る。  玄関前で馬を降りると、武者や女中達の出迎えを受けてなかへ入っていった。  一ヵ月間の野営生活から解放されて、ほっとした気持であった。  自室に入ると、徳に手伝わせて着替えをし、風呂を浴びた。  その夜、景虎は、寝所へ入ってきた徳を抱いた。  豊かな女体の感触が、情熱をかきたてる。  心の安らぎが得られた景虎は、徳の寝息を聞きながら、深い眠りに落ちていた。  翌日から、景虎には、国主としての多忙な生活が待っていた。  来客の応接や部将達との打ち合わせ、行事の主催などのため、体は休まる暇がなかった。  このようなことは神経を使うため、景虎は好まなかったが、越後の国主である以上、責務だけは果たさなければならない。  精神の疲労を覚えるときは、毘沙門堂へ入って、座禅を行った。眼を見開き、両足を踏んばった像を眺めるだけで、心が落ち着いてくるのである。  五月も半ばを過ぎた頃、紀伊、根来《ねごろ》の杉ノ坊へ遣わしていた松本杢助と才野伊豆守が、鍛冶職を伴って帰国した。  城内の武者溜りで引見した景虎は、彼等が語る諸将の鉄砲への関心に、驚きの眼を見張った。 「織田信長が三千挺の調達を目標にしているとは……それはまことか」と杢助の説明に、思わず反問していた。 「まことでございます。織田殿は先月、尾張|富田《とだ》の正徳《しようとく》寺で、妻女の父の斎藤道三と対面した際、長柄《ながえ》の朱槍《しゆやり》五百本、鉄砲五百挺の行列を組んで、乗り込んだと噂されております。現在でも、堺の鉄砲鍛冶に、大量の注文を発している由。  ゆくゆく三千挺を越えることは、間違いございませぬ。  それに駿河の今川、関東の北条、甲斐の武田殿も、鉄砲の調達には、やっきになっております」  杢助の言葉に、景虎は息を呑んだ。  鉄砲の威力には、まだ疑問な点がある。  だが、弓矢より正確に、敵兵を射殺《いころ》すことができること、将来、射程距離がのび、大型化して、敵陣を破砕する強力な武器になることは、衆目の一致するところである。  武田勢でさえ、すでに二百挺を整えている。 「そうか。越後は僻地でもあって、噂の伝来が、どうしても遅くなる。今後はその辺に意を用いなければなるまい。  それはともかく、そなた達が会得した技術で、今後は鉄砲の製造を、精力的に進めてもらいたい」  景虎は決意を秘めた口調で語った。  自室に帰ると、徳が茶をもって入ってきた。  近頃は女らしさを増している。  景虎とは、時折肉体交渉をもつとはいえ、主君は主君、女中は女中であった。  その辺のわきまえを、徳は心得ている。  そのため、二人がしとねをともにすることについては、まだ他の女中達は知らない。 「合戦の気配が、国内をおおっておりますが、これからは、やはり、ご出陣なさる機会が、多くなるのでございましょうか」  気懸りなのであろう。徳は不安な表情を見せて聞いてきた。 「北信の村上義清殿は、その後、依然、苦戦を強いられている。  武田信玄が、葛尾城の攻略をあきらめて、鉾先を塩田の要害に転じたからだ。  この状態では、また諸侯の求めに応じて、甲斐勢と一戦を交じえることになるやも知れぬ」  景虎は眉間にしわを寄せて、答えた。  徳はだまってうなずいた。  表情は、心なしか沈んで見える。  自分の身を案じているその心のうちが、景虎には痛ましかった。 「そなたは、そなただけのことを考えればよい。それがしは、自分の身を守る術《すべ》は、心得ているゆえ」と静かな口調で諭した。  自分の子をはらめば、徳を正室に迎えようと、景虎は最近になり、考えるようになった。  女人に手をつけた男の責務のような気持であった。 「有難うございます。でも合戦は、戦国の慣いゆえ、致し方がございませぬ。  殿様は、いずれは、天下を取られる器量人、甲斐の武田様や関東の北条様を宿敵と見立てられて、国攻めに血を燃やされる御心のうちは、わたくしにもよくわかります。何卒、夢の実現をめざして、お励み下さいませ」 「そなたのような、心の広い女人を得られて、それがしは幸せだと思う。  いつか述べたように、長尾家の後継ぎの子を、一日も早く生んでくれ。  そなたならば、きっと丈夫で、聡明な子に育てるに違いない」  景虎の言葉に、徳はうなずいた。  木々の緑が、眼に焼きつくように映る。  二人は思いに耽りながら、築山の風景を眺め渡していた。  季節は夏を迎えた。  照りつける陽光が庭に降り注ぎ、藍色の空には、積乱雲が浮かんでいる。  景虎は廊下に佇んで、その眺めに見とれていた。  心のなかは、使僧や商人によって伝えられる北信の状況のことで、一杯であった。  塩田の要害に拠る村上義清は、その後、武田勢の猛攻を受けている。  小笠原長時を越後に走らせたいま、北信で信玄に叛旗をひるがえす武将は、村上義清ただ一人であった。  執拗な抵抗に信玄は、一万五千の兵を発して、付近一帯の城を攻めている。  塩田が武田勢の手中に落ちれば、鉾先はやがて越後に向けられてくる。  いや、信玄は当初から越後攻めを目標に、兵を進めているのである。  海に面し、平野が多く、物資に恵まれた越後は、駿河、遠江とともに、信玄が天下取りを実現する過程のなかで、確保しなければならない国の一つであった。  客が訪れたのか、邸内の気配が慌しくなる。  やがて、武者に案内されて、上杉憲政が部屋へ姿をあらわした。  当地に滞在して久しいせいか、すっかり落ち着きを取り戻している。  高齢に拘らず、血色もよい。  二人は挨拶を交わし、向かい合って座った。 「実は、昨年沙汰のあった叙位任官の件だが、その後の大覚寺義俊殿からの書状では、一度京へのぼって、天皇や足利義輝様にお目通り致し、臣下としての礼を尽くされるほうが、そなたの将来のためによいとのことづてである。  乱世のこととて、上洛は至難な業《わざ》だが、その点いかがでござろう」  憲政は、そう聞いてきた。  景虎は思案したのち、次のように答えた。 「大覚寺殿や上杉様のお心遣いには、それがし感謝に耐えません。  ただ、ご存じのような北信の状況でございまして、いますぐ上洛というわけにはまいりませぬ。  それに京へのぼるとなれば、途中如何なる危難に遭遇するやも知れず、わずかの手勢を率いての出立《しゆつたつ》は、危険のようにも思われます」 「なるほど、それも一理。しかし、諸国の武将が関心を寄せるなかで、名目を得て、朝廷や将軍家を訪問できる機会は、此度《こたび》をおいて恐らく訪れまい。  それがしには、なんとなくそう感じられてならぬのだが……」  憲政の口調には、景虎の将来にかける期待の気持が込められていた。 「その点は、もっともに存じます。それがしも、朝廷や将軍家に、叙位のお礼に参上する必要は、つとに感じておりました。  可及的すみやかにと思いつつ、ついおろそかになったのが実情でございますが、これを機会にその手術《てだ》てを、部将達と諮《はか》り、考えてみます」  景虎は思い直して、そう答えた。  いかに儀礼上のこととはいえ、群雄がひしめくなかで、京へのぼることは至難に近い。  途中でそれを阻まれるばかりか、合戦を仕かけられて、生命を落とすことも考えられる。  しかし、景虎には、その妙法があるように思えるのである。  それは数多くの合戦を経ながら、傷一つ受けず、身を守り得た経験からくる勘のような気持であった。  景虎には、複雑な仕組みのなかをくぐり抜ける叡智が、生まれながらに備わっている。  敵兵の襲撃を、そのときどきの判断でかわすのと、それは同じことわりであった。 「承諾が得られて、それがしも、注進に及んだ甲斐があった」  憲政は語って、安堵の笑みを浮かべた。  陽は西に傾いている。  蜩《ひぐらし》の鳴き声に耳を傾けながら、景虎は、思いを京都の町に馳せていた。  鉄砲の製造は、その後順調にはかどり、ようやく五十挺ほどが整備された。  それとともに、鉄砲方が、軍の新たな組織として誕生した。  城内にそのための訓練所が設けられ、景虎も時折、射的場へ行って兵ともども練習を行うことがある。  近頃は鉄にかわって鉛が、玉の主体になり、その製作場もつくられた。火薬も併行して、鉄砲方の武者によって、製造されている。  軍備において劣っていた越軍も、ここにきて、世間の水準に達してきたのである。  そのようななかで、八月初め、村上義清の使者が、春日山城へやってきた。  予感していたとおり、至急、救援を頼むとの意味のことが、もたらされた書状にしたためてあった。  景虎は了承して、すぐ出陣の準備にとりかかった。  そして、八月五日、六千の兵を率いて春日山城を発ち、北信に向かった。  わが子を生むかも知れない徳のことが、気がかりであったが、いまはそのことに思いをめぐらせている余裕はなかった。  兵団の先頭に立つと、四月に通った道をたどって、善光寺平をよぎり、犀川を渡った。  川中島が、目の前にひらけてくる。  幅約二里、長さおよそ十里におよぶ広大な平野を眺めながら、景虎は、父為景が北信の高梨一族と提携して、この地に合戦を展開し、長年の苦難を経て、勢力を及ぼした経緯を思い浮かべた。  北信の諸族と長尾家とは、父の代においてすでに結ばれていたのである。  勢力関係からみても、中越、下越よりこの地が早くから、長尾家の支配下にあった。  文化的には、北信の高井郡、水内郡の信州大坊ほかの影響を強く受け、その下道場の浄興寺、本誓寺、勝願寺などの名刹が、この付近には建っている。  善光寺平は、長尾、高梨両家の姻戚関係に表現される歴史的事情が背景となって、今日の姿をとっているのである。  駒を進めながら景虎は、父が経略して、その拠点としたこの地域は、全力を傾けても、武田勢の侵攻から守らなければならぬと思った。  陽光が真上から降り注ぎ、緑一色におおわれた森の風景が、眼にさわやかに映る。  民家ののどかな佇まいが、平和がよみがえったこの地域の現状を物語っていた。  原始林のなかの道を登り、山頂を越えて、塩田の要害に兵団が到着したのは、翌々日の午《ひる》過ぎであった。  この付近には、小規模の城塞《じようさい》が、二十数ヵ所点在している。  村上一族の長年にわたる経略の結果なのだ。  起伏の多い高原に、点々と散らばるその光景を眺めながら、景虎は、信濃が、越後以上に諸領主が割拠する、貧困な国であることを感じた。  眼の前には、村上義清が本陣を構える城砦が聳え立っている。  峻険《しゆんけん》な山と谷あいを利用した巧みな設計であるが、城攻めにくわしい景虎には、その欠点が一目で見抜けた。  背後の山から通じているであろう糧道を断ち、側面の丘陵から攻めれば、城門付近の険しい地形にかかわらず、旬日を経ずして落ちるというのが、率直な印象であった。  六千の援兵を送っても、一万五千の武田勢が攻め寄せれば、城は間違いなく落ちる。  眺めながら景虎は、落胆の気持を覚えた。  しかし、いまさら越後へ引き返すわけにはいかない。  中条藤資や直江実綱、本庄|実仍《さねとみ》らも、眉間にしわを寄せて、城の姿を眺めていた。  山膚が、褶曲《しゆうきよく》をあらわにして、強い陽ざしに映えている。  緑一色の壮大とも見える眺めである。  高原のうねりが、南東へ果てしなくのび、彼方の高台には、武田勢の軍旗がはためいている。  塩田の要害をめぐる攻防は、残暑の季節を迎えて、絶頂に達しようとしているのである。  土煙があがり、喊声が山野にとどろいたと思うと、凄絶な白兵戦が、足下で演じられはじめた。  景虎の位置から、その光景が、手に取るようにわかる。  村上義清の居城は、鳴りをひそめたまま、人の動く気配もない。 「村上勢は、もはや戦う力を失っているのかも知れませぬな」  中条藤資が言ってくる。 「そうかも知れぬ。このようなばらばらの戦い方では、敗れることは、火を見るよりも明らかだ。それに、長年の合戦で、兵糧や武器も尽きかけていることであろう」  景虎の口調は、沈んでいた。  武田勢との死闘は、これから本格化する。  そのためにも、人馬や兵糧、武器の損耗は、可能な限り防止しなければならない。 「とにかく、村上義清殿を援けて、武田勢の攻撃を受けとめ、戦況の如何《いかん》により、生き残った村上勢を越後に迎え入れ、今後の合戦の戦力に加える、この方針で臨むべきだと、わたくしは考えますが」 「なるほど」 「加えて、大覚寺殿から書状が届けば、いつ上洛しなければならないかも知れませぬゆえ」 「それもある。とにかく今回の合戦は、受け身の難しい闘いとなろう」  白雲が風に乗って、東へ流れてゆく。 �浮雲《うきぐも》の風にまかせるわが心かな�眺めながら、師の光育から学んだ禅の境地を、景虎は思い浮かべていた。  夕刻、村上義清の使者が迎えにきた。  景虎は馬に跨がると、直江実綱らとともに、陣地を発った。  点在する民家の佇まいが、わびしさを誘う。  越後とあまりに違う住民の生活振りが感じられてならなかった。  城門に着くと、迎えの武者によって、なかへ案内された。  春日山城とは、比較にならない小さな規模の城である。城壁の間を縫うようにして、天守閣の近くの館に着いた。  出迎えた義清の表情には、苦悩のかげがただよっていた。ひげはのび、衣服はくたびれて、噂に聞いた勇将の面影は、どこにも見られない。  一行は、古風な広間に案内された。  北信で、覇をとなえてきた家柄にふさわしく、風格のある室内の佇まいである。  床の間には、仏画が架《か》けられ、その手前の刀架けには、長刀が飾られている。  高い天井、原木をそのまま使用した黒光りのする柱、山国の領主の住まいらしい雰囲気に、景虎は驚きを覚えた。合戦さえなければ、義清は平和な生活に明け暮れたに違いない。  出された茶菓を喫し、雑談を交わしたのち、義清は次ぎのように語った。 「北信の地を甲斐勢の侵略から守らなければと、守護、小笠原殿と結び、信玄に叛旗をひるがえして戦ってきたが、いまは刀折れ矢尽きた心境だ。  このままでは、あと半月も持ちこたえられまい。長尾殿の援助を乞うたのは、そのためでございます。  小笠原殿同様、それがしも、やがて国を追われよう。  無念だが、いまはさだめとあきらめなければならない」  訥々《とつとつ》と語る言葉には、国盗りに敗れた武将の悲哀がにじんでいた。  四十歳を越える年齢であるが、風貌からは、それ以上の老け様が感じられた。 「村上殿の心のうちは、それがしにも、よくわかります。武田殿が、信濃を攻めさえしなければ、このような事態には、ならなかったでありましょう。  しかし、それは言ってみても詮なきこと。要は武田勢を打ち破る術《すべ》を考えなければなりませぬ。  高梨殿ほかの諸侯とは、すでに同盟の意思を固めております。それに貴殿が加わってくれれば、甲斐勢の侵攻を食い止めることは、難しいことではございません。  武田殿は、現在、駿河の今川義元、関東の北条氏康と三国同盟を結ぶ手術《てだ》てを進めております。  今川|氏真《うじざね》が、北条氏康の女《むすめ》を娶《めと》り、武田殿の女《むすめ》が、北条氏政に嫁することを、条件としているようです。  しかし、その狙いが、北信の経略と越後攻めを、後顧の憂いなく進めることにあるのは、言うまでもございません。  武田殿は、才たけた人物です。  合戦とかけ引きの両刀使いであることには、それがしも感服しており、そのゆえにこそ、尾張の織田殿と並んで、天下取りの第一人者にあげられるのでございましょう……」  蜩《ひぐらし》の鳴き声が、静けさを破って聞こえてくる。  合戦に明け暮れる毎日がうそのような、あたりの佇まいであった。 「天下の形勢は、そのようにまで変わってきているのでござるか。  甲斐勢が大挙して、われわれを攻めにくるはずだ」  義清は語って、視線を伏せた。 「三国同盟は、確かな情報ゆえ、間違いはございませぬ。それを考えて、それがしは、北信の諸侯との提携を進めてきたのです。越後に滞在の上杉憲政公や小笠原殿も、同じ考えでございます」 「なるほど。近頃は、小笠原殿からも使者がとどいて、越後入りをすすめてくる。  長尾殿は若いが、筋目を重んじ、義に厚い武将だからというのが、その言い分である。思い切って救援依頼の書状を差しあげてよかった。  六千の兵を率いて、長尾殿自ら当地へ赴いてこられようとは、それがしは正直言って考えてもいなかった。  このうえは、長尾殿の旗印のもとに入って、協力仕るゆえ、何卒よろしくお引き回し下されたく」  義清の言葉に、景虎はうなずいた。  眼は自然に、庭の風景に移ってゆく。  苔むした石灯籠や見事な枝振りの松、築山やその手前の泉水など、村上家の歴史を象徴するあたりの佇まいに、景虎は胸を打たれた。  義清は思案に耽った。  他国へ落ちのびるわびしさを噛みしめている気配に、景虎は語りかけることすらできなかった。  越軍の救援が、暫定的なものであることは、義清にはわかっている。  それゆえにこそ、城を捨てる決心を固めたのであろう。  乱世に処することの難しさが、景虎には感じられてならなかった。  それは合戦に勝つこと以外に、人格、ものの考え方、器量、ことをさばく叡智、決断、行動力などの総合されたもののように思えるのである。  これらを円満に兼ね備え、天運を得た者のみが、覇者の地位に就く。  そんな気がしてならなかった。 「当面の問題でござるが、それがしは、兵糧が尽きる前に、このあたり一帯の要害を引き払いたいと考えている。いかがでござろう」  義清は視線を戻して、語りかけてきた。 「それも一方法でございましょう」  景虎は答えて、考え込んだ。  塩田の要害を引き払って、越後への撤退作戦を展開し、武田勢の兵站線がのびる弱点をついて、反撃に出る……。  山頂へ着いたとき思い浮かんだこの作戦が、諸般の事情を考慮した場合、もっとも妥当なように、景虎には思われた。 「ではその考えで、武田勢に対することにします」 「そうでございますな。しかし、村上殿が突然、当地から姿を消せば、武田殿もさぞ驚かれることでございましょう」 「そうかも知れませぬ」  二人は最後に、冗談を言って笑った。  その夜、一行は城内に宿泊し、翌朝、馬を駆って高原の陣地に帰った。  武田勢は、城を中心に、要害一帯を遠巻きにするだけで、積極的な戦いは、その後、仕掛けてこなかった。  時折、小部隊による兵糧、武器の争奪戦が、双方の間に演じられただけである。  八月も下旬を迎えると、高原には、秋風がたちはじめた。  朝夕の涼しさが膚に沁み、あたりの風景は移ろう気配を見せている。  義清は、この時期をはかって、各要害に使者を発し、越軍の支援のもとに、越後に撤退する意思を明らかにした。  そして、二日後の早朝、それを実施に移した。  城を出た義清の軍は、先祖伝来の家宝を馬に積み、越軍と合流して、北へ向かった。  各要害に駐屯していた兵も、同じ時刻に、城塞を放棄し、武田勢の追撃を受けながら敗走した。  越軍はそれを援け、追ってくる甲斐勢と闘いながら、善光寺平への道をたどっていった。  なお、この日一日で、要害十六ヵ所が、武田勢の手中に落ちた。  村上義清は、川中島に到着すると、落ちのびてきた兵を、�布施《ふせ》�に集結し、武田勢を迎え撃つ態勢を整えた。  やがて武田勢との間に激しい戦いが演じられ、義清は、回復した士気に支えられて、善戦健闘したが、力及ばず、越後へ向かって落ちのびていった。  ここにきて、景虎は、甲斐勢と戦う意思を固め、全軍に下知を下すと、迎撃態勢を整えて、武田勢の主力が駐屯する更級《さらしな》郡八幡(川中島)に向かった。  八月三十一日のことである。  空は晴れ、秋の陽ざしがあたり一面に注いでいる。  合戦の気配に住民達は、家を捨て、すでに安全な地に引越していた。  善光寺平は、国外とは言え、長尾家とはゆかりがある。  この地域を武田勢が勢力圏に収めれば、越後が脅威にさらされるだけでなく、将来の関東経略にも影響をおよぼす。  その意味から、川中島は、景虎が全力を傾けても、死守しなければならない生命線であった。  森や林のあざやかな緑が、眼に沁みるように映る。  八幡原の手前に布陣を完了したときには、日は暮れかかっていた。  幕間《まくま》その他の設備は、設けられていない。  敵を追っての機動的な戦闘を、景虎は脳裏に描いていた。  平坦な土地だけに、血みどろの白兵戦が、展開される可能性もある。  しかし、景虎は兵力の損耗を慮って、犠牲の多い接近戦は、できるだけ避けたいと考えていた。  勝てば追い、敗ければ退く。この作戦に徹するつもりであった。  残照が西の空を染めたと思うと、夜の帳が降りてきた。  今夜は篝火を焚くことは、禁じられている。  握り飯の食事をとると、武装姿のまま草原に仰向けになって寝た。  月が中天にかかり、淡い光をなげかけてくる。  森や林は、いまは形さえない。  景虎は眼を閉じた。  不安も迷いもなかった。 �生きれば生き、死せば死せ″口ぐせの言葉が浮かんでくる。  夜半、景虎は見張りの兵の声に眼をさました。  敵の間者が、様子を探りにきた気配である。 �信玄め、明日の払暁《ふつぎよう》を狙っているな�と思った。  間者を追う蹄の音がひびいたと思うと、伝令の武者から報告がもたらされた。 「敵の隠密は仕止めました」 「そうか、それはでかした」  景虎は答えて、再び深い眠りに落ちていった。  翌朝は夜明けとともに、眼をさまし、食後すぐ馬に跨った。  兵達は、すでに出撃態勢を整えている。  景虎は出発の下知を下した。  南東に峨々《がが》たる連なりを見せる山並みが、威圧するように胸に迫ってくる。  西方の低い山脈群とは違う荒削りな山膚である。  景虎の眼は輝き、頬は紅潮していた。  敵陣を一挙に攻め落とさねば収まらぬ気持であった。  武田勢は、かげも形もない。  だが、地鳴りのような蹄のひびきから、こちらへ向かっていることだけは、確かであった。  陽がさしはじめたときには、敵軍は目の前に迫ってきていた。  野戦に強いことを誇示するように、長槍をたずさえた騎馬の一団が、悠然と越軍の前を横切ってゆく。  景虎は心を静めると、攻撃の機をうかがった。  八陣の構えの武田勢には、隙がない。  中央には信玄とおぼしき、緋おどしの鎧をまとった武者が、騎馬隊に守られて、視線を景虎に向けている。  二度目の対決に、景虎の胸は高鳴った。 �信玄め。目にもの見せてくれるわ�心のなかでそうつぶやくと、相手の相貌を凝視した。  敵の右翼の一団が、動きはじめる。  越軍の側面をつく、作戦なのだ。  注意を促す馬上武者の声が、ひびき渡る。  緊迫した空気に、あたりはおおわれてきた。  抜刀し、槍を構えた「手明《てあけ》」の一団が、敵の回り込み作戦を感じて、ゆっくりと方向を変える。  合戦の気配に、馬がいななきの声をあげる。  相対峙した二つの軍勢は、中央の総大将を軸にして、間隔を保ったまま、向きを変えていった。  緊張が絶頂に達したとき、敵の左翼の軍団が、喊声をあげ抜刀して攻め寄せてきた。  矢が激しく射かけられ、鉄砲の発射音が鼓膜を震わせる。  あたりは修羅場と化していった。  本庄実仍の絶叫が、聞こえてくる。  合戦は南西の方向から、火蓋が切られていた。  だが、本隊は双方とも動く気配はない。  ぶつかり合う人馬の一団が、視野をかすめてゆく。  敵の騎馬隊が、景虎めがけて疾風のように駒を進めてきた。 「かかれ!」激しい下知の声が、無意識に口をついてでる。  景虎は手勢の騎馬武者を率いて、襲ってくる敵軍のなかに突入していった。  土煙が、もうもうとあがる。  善光寺平は、阿鼻叫喚の巷と化していた。  瞬時の激戦が繰りひろげられ、やがて敵軍は、馬首をめぐらせて敗走していった。  近くでは直江実綱の兵団と、敵の主力部隊が、白兵戦を演じている。  中条藤資や高梨政頼の軍も、敵兵を斬り立てて進んでいた。  景虎は実綱の軍を援護するため、騎馬武者とともに、白兵戦の真ッ只中に突入していった。  恐れをなした甲斐勢は、つばぜり合ういとまもなく、総くずれになって敗走した。  攻防は一進一退の状況のなかで、半刻近く続けられたが、全体的には、越軍が優勢であった。  信玄の姿は、どこにも見られない。  甲斐勢の兵力は、眼に見えて減ってきていた。  午前中の戦いは、越軍の勝利に終わった。  休憩をとると、撤退する甲斐勢を追って、追撃戦を展開した。  信玄の率いる軍が、至近距離の荒砥《あらと》城に拠って、反撃に出てくることは、景虎には目に見えていた。 「今日中に、城攻めを敢行しますか」  実仍が聞いてくる。 「そうするか」  景虎は即答した。  六千の兵団は、巨大な塊りとなって、速度を速めた。  食事も進みながらとった。  越軍の追い討ちに、武田勢は陣型を乱した。  景虎は勝利を確信した。  陽が西に傾く頃には、越軍は、荒砥城を囲んで、猛攻をかけていた。  城攻めが得意な景虎の下知には、誤りがない。  一刻を経ずして、城は落ちていた。  薄暮が迫るなかで、越軍は、山麓に野営し、戦勝を祝った。  翌二日には、長駆して筑摩郡に入った。  そして、三日の払暁から、�青柳�(東筑摩郡)一帯で合戦を展開し、武田勢の要害に火を放った。  ここにきて、景虎は、安堵の気持を覚えた。  夜空をこがす火を眺めながら、一応所期の目的を達することができたと思った。  翌日は、�会田�(長野県東筑摩郡|明科《あかしな》町東方)の虚空蔵要害を囲んだ。  武田勢は、勢力圏への越軍の侵攻に、果敢な反撃に出てきたが、勢いに乗る越軍の敵ではなかった。  午《うま》の刻(午前十二時)を回る頃には、城を放棄して、南へ落ちのびていたのである。  眺めながら景虎は、�これでしばらく信玄は、戦いをいどんでくることはあるまい�と思った。  幕間《まくま》の設営が開始され、夕刻には、兵達は、ぶん取った兵糧を喫しながら、合戦の疲れをいやしていた。  景虎も部将達と酒を酌《く》み交わし、戦いの思い出に耽った。  春日山城を発って以来、はや一ヵ月が経っている。  こうして北信の状況が一段落してくると、大覚寺義俊からすすめられた上洛の件が、改めて気になった。  中条藤資もそのことを思案しているらしく、昼間から相談を持ちかけてきた。 「やはり、上洛はすべきだと思いますな。  戦国の乱世とはいえ、足利幕府や朝廷は、諸国の武将にとって、権威の象徴でございますから。上杉憲政殿のご判断では、朝廷から、越後および隣国の兇徒治罰の綸旨《りんじ》が下されるとのことでもありますゆえ」 「やはり京へはのぼらなければなるまいか。  朝廷から綸旨を賜われば、兵を起こす名目も立つ。  武田、北条、織田、今川の諸氏も、それを望んでいる。  乱世とは言え、ことを起こすには、�筋目�が必要だからのう」  上洛は至難な業だが、果たさなければならぬとの気持であった。  それは、武田勢の善光寺平への侵攻を食い止める以上に、自分の将来を分ける重大事のように思えるのである。  加えて、叙位任官に対するお上への返礼を尽くさねば、武人としての見識が疑われる。  律儀な景虎にとっては、そのことも、上洛の意思を固めさせるもとになっていた。  その夜、景虎は久し振りに、付近の寺で、ふとんに横たわって寝た。  武装を解くと、さすがに救われたような気持になる。  部将達も景虎と床を並べ、菜種油の明かりのなかで、眠りについた。  翌日は、越後で兵糧と武器を補充した村上義清の軍が到着し、軍勢は八千を超えた。  しかし、最大二万三千の徴兵力を持つ信玄には、及ばない。  景虎の悩みの種は、その点にあった。  越軍の兵力は、八千が限界である。  諸将の来援を得ても、一万を超えることはあり得ない。  それだけに兵の精鋭化と装備の充実、戦術の巧みさが要求される。  平穏ななかで、八日間が経過した。  この間に信玄は、兵糧や武器を補充し、再度、善光寺平へ侵入する機をうかがっていた。  景虎は、全軍に下知を下して、攻め落とした城などの防備を堅めさせたが、戦勝による油断が、ねばり強い武田勢に、反撃の機会を与えることになった。  九月十三日、信玄の率いる軍は、別道を通って、越軍が守りを堅める山間の尾見(現在の東筑摩郡|麻績《おみ》村……青柳の北東)城と荒砥城を囲み、夜陰に乗じて火を放った。  炎が空に冲し、その様は、景虎が野営している場所からも望見された。 「尾見のとりでが落ち、荒砥も奪回されたのでは……」  高所に立って、その光景を眺めながら、景虎は眉をひそめた。  漆黒の闇があたりをおおい、はだ寒い風が吹き荒れている。�一瞬の油断、不測の大事を生ず�と光育から戒められた言葉を、景虎は胸のうちで噛みしめた。  信玄の底力が、感じられてならなかった。 「直ちに出撃だ。このままでは、善光寺平は、甲州勢に蹂躪されるやも知れぬ」  景虎は、実綱に言葉をかけた。 「言われるとおりにございます」  二人は言葉を交わしながら、山道を駆け降りた。  伝令の武者が、馬を駆ってやってくる。 「尾見、荒砥の両城が忍び焼きされ、四十数名の首級が、敵方にあげられました」  武者は息をはずませて、そう語った。  松明の明かりに映えるその表情は、蒼ざめている。 「なに、四十数名だと。それは由々しき大事じゃ」  景虎は、吐き捨てるようにつぶやいた。  武田勢に対する憎悪の念が、湧いてくる。  合戦の慣いとはいえ、死人の首級をあげることは、人の道に反する。甲州勢のそのような残忍さが、景虎には我慢ならなかった。  武者が去ると、全軍に、出陣の下知を下した。  ほら貝の音がひびき渡り、陣地内は、緊迫した空気に包まれてきた。  兵達は、慌てふためきながら、出発の準備を整えた。  松明の火がともされ、やがて越軍は、長蛇の列をなして、闇のなかを行進していった。  善光寺平の南端に陣を構える武田勢に、八千の越軍が対峙したのは、十五日の夕刻であった。  景虎は直ちに攻撃の下知を下した。  小部隊による夜戦が各所で展開され、放たれた火が、空を染めた。  明け方を迎える頃には、武田勢は、合戦を回避して、撤退しはじめていた。  景虎の書状を受けて、内応の意思を表明した地元の禰津《ねづ》治部少輔と奥村大蔵少輔の軍が、越軍と呼応して、これを挟撃すべく、戦いをいどんだが、敵の騎馬隊に逆襲され、十六日夕刻、両名以下の将兵が、全員討ちとられた。  武田勢のしたたかさに、景虎は闘志を燃やし、移動する甲斐勢を追って、十七日早朝には、埴科《はにしな》郡南条(現在の坂城町)に兵を進め、敵の陣地に火を放って、勝利を手中のものにした。  川中島をめぐる攻防戦は、この時期を迎えて高まりを見せてきたが、信玄も景虎も、一連の局部的な戦闘だけで、決着がつくとは考えていなかった。  九月以降の戦いにそれがあらわれており、信玄がやがて南信に鉾先を転ずると、景虎が読んだ背景にも、このような事情が関連していた。  燃えさかる南条の火を眺めながら、景虎は、川中島をめぐる戦いは、この時点で一応休止しなければならないと思った。  越軍が、武田勢を押しかえした形勢のなかで、二日が経った。  信玄も、越軍の制圧が至難であることを感じたのか、目標を南信に変える気配を見せていた。  そのようななかで、十九日、春日山城から使者が、一通の書状をたずさえてやってきた。  それには大覚寺義俊の直筆で、十月初旬までに上洛し、朝廷、足利家に参上して儀礼をつくされたくと記載してあった。  昨年の叙位任官の返礼として、景虎は今年に入り、在京の家臣、神余《かまり》親綱に命じて、剣、黄金、巻絹《まきぎぬ》を朝廷に、太刀、馬、青銅三千疋を将軍足利義輝に献じ、大覚寺義俊ほかの奏請者にも、金品を贈っている。  あとは参内《さんだい》して礼を述べ、戦乱平定の綸旨《りんじ》を賜わり、併せて強大な勢力を誇る本願寺と接触して、将来の関東経略のさまたげになる加、能、越、三国の一向一揆の統制を依頼するだけであった。  書状を読み終えると、「直ちに兵を引き、春日山城へかえる」と思案することなく、武者に告げていた。  上洛の件は、部将達も知っている。  それゆえ、使者が去ったあと軍議を開いても、異議を唱える者はいなかった。  加えて、五十日間におよぶ北信転戦で、兵達は疲れ果てていた。  いまが、故国へ引き揚げる潮時であることを、誰もが感じていたのである。  越軍が善光寺平から兵を引けば、北信一帯は武田信玄の掌中に帰する。  しかし、今回の合戦の経験から、それを奪回することは、さほど難しいことではない。そう景虎や部将達は考えていた。  翌九月二十日、越軍は信濃をあとにし、越後へ向かって、撤退作戦を展開した。武田勢は好機とばかりに、攻勢に転じてきたが、越軍はそれを振り切って、国境の山を越えた。  第一次川中島合戦は、こうしてその多彩な幕を閉じたのである。  春日山城に帰り着いた景虎は、上杉憲政に会って、至急上洛する旨を伝えた。 「合戦のさなかに、大へんでござろうが、よろしくお願いする。して、京へのぼるには、どのような手術《てだ》てで?」  心に懸るのであろう、憲政は神妙な口調で聞いてきた。 「種々考えたうえのことでございますが、屈強な武者二十数名を連れ、舟で能登を回り、三国《みくに》、敦賀を経て、京への最短路をとることに決めました。越前は、山も峻険で、合戦の気配のないひなびた国ゆえ、凶徒の襲撃も、まずございますまい。もしあったとしても、夜盗、野武士の類いと、それがしは踏んでおりますが」  景虎の顔には、笑みが浮かんでいた。  合戦の経験を積み、齢《よわい》を経るに従って、その風貌には、威厳がにじみ出てきている。  だが、若さだけは如何ともなし難い。  それが、大熊朝秀などの老臣が、治政その他で、幅をきかす因《もと》にもなっていた。  十九歳で、越後の覇者の地位についた景虎の、これが宿命とも言える弱点であった。  それを上杉憲政や譜代の本庄|実仍《さねとみ》、直江実綱、高梨政頼などの諸将が補っている。  少なくとも三十歳までは、陰に陽に、景虎をみてやらなければならないというのが、憲政達の偽らざる気持であった。 「なるほど。敦賀に上陸して、京へのぼるとは、名案を考えられた。  この道を通れば、加賀の一向一揆のさまたげも受けず、中国の毛利|氏《うじ》の国攻めにも関わらず、尾張の織田殿や斎藤殿の領地を通ることもない。  さすがは景虎殿じゃ」  憲政は、安堵の表情を浮かべて、そう言葉を返してきた。  翌日、景虎は部将達を集めて、上洛中の執務代行者の選任について協議した。  長老の大熊朝秀を推す者もいたが、多数の者は、実力者の本庄実仍を推薦《すいせん》した。  朝秀や揚北《あがきた》の諸領主は、不快の表情を浮かべたが、景虎は衆議を尊重して、実仍を指名した。  越後の国内には、隠然たる勢力をもつ豪族が、多数いる。  それらのうちの反抗者を武力で誅し、或いは斬殺、切腹という手段に訴えて、統制をはかる手術《てだ》てもある。  しかし、仏道修行を志し、人の道を重んずる景虎には、そのようなことは、できなかった。  戦国武将として、それが致命的な欠陥であることは、自分でもわかっている。  しかし、自分は自分、人は人というのが、国主の地位に就いて以来の景虎の信念であった。 �道をはずし、策謀をろうして天下をとっても、やがて滅びる�権謀術数型の信玄の行き方をみるにつけ、景虎は、そのような思いに駆られた。  諸将との協議が終わると、自室にかえって憩った。  三日前までの合戦が、いまはうそのように感じられる。  庭の風景を眺めながら、思案に耽っていると、徳が茶をもって入ってきた。  血色のいい、生き生きとした顔である。  まだ自分の子供をはらんでいないことが、景虎には気懸りであったが、肉体交渉をもって間もないこと、そのようなこともあろうと、最近は思い直している。 「明後日は、京へ向けて出立とか、大へんでございますね。体には、くれぐれも気をつけられますよう」 「それがしは、滅多なことで死にはせぬ。それより、滞在が長期にわたる見込みゆえ、留守中のことを頼む」  景虎の言葉に、徳はうなずいた。  二人は茶を飲みながら、雑談を交わした。  近頃、徳は冗談を言わなくなった。  成長のせいとも考えられるが、景虎には必ずしもそうではないように思えるのである。  徳が去ると、入れ代って、女中のうめが、入ってきた。 「京へのご出立に関連して、用意しなければならぬものがありますゆえ、ご相談にあがらせていただきました」  うめはそう告げて、景虎の前に座った。  面長の美しい顔である。 「その件なら、いま徳がやってきたので、ついでに申しつけたが」  景虎は笑みを浮かべて答えた。 「左様でございますか。それは……」  先を越されたことに、不快感を覚えたのであろう、うめは眉を曇らせた。  眺めながら景虎は、徳が冗談を言わなくなったのは、自分の身を案ずる以外に、うめとの間が、うまくいっていないせいかも知れぬと思った。  部屋の片づけなどをしたのち、うめは去っていった。  景虎は気にもとめず、地図をみながら、上洛の道順に、思いをめぐらせた。 [#改ページ]   第六章 花洛《からく》の宴《えん》  二日後、景虎は水軍指揮者の平田尾張守と直江新五郎および新保孫六、香坂弥平太ほかの武者を従えて、春日山城を発った。  二十七名とわずかの人数であったが、景虎には、それで充分であった。  馬に乗って郷津(府内の西海岸)へ出ると、自軍の帆船六隻に分乗し、能登半島の北端に向かって突っ走った。  順風を受けて、船は矢のように進んだ。  空は晴れ、行手には能登の連峰が、紫色の連なりを見せている。  海上から眺める越後や越中の風景が、美しかった。  冬の気配におおわれた寒々とした眺めであるが、合戦に明け暮れ、神経をすり減らしてきた景虎には、心が安らぐ思いがした。  数刻後に陽は沈み、やがて、夜の帳《とばり》が降りてきた。  灯明がともされた船底の部屋で、景虎は、供の武者と食事を取った。  風がでてきたのか、船が軋《きし》み音を鳴らして揺れる。  板の間に横になり、波の音に耳を傾けているうちに、景虎は深い眠りに誘われていた。  翌朝、目をさますと、船は能登半島の先端に、接近していた。  そのまま半島を西へ迂回して進む。  切り立った岸辺の断崖に、白波が寄せている。  景虎は、舳先《へさき》に突っ立って、その眺めに見とれた。  将来は越中、加賀をあわせ、能登をも制圧したいと思う。加賀を中心とする一向一揆の反発が問題であったが、時機が到来すれば、彼等は必ず鉾を収めると、景虎は見透していた。  海岸線沿いの航路をとっているうちに、日が暮れ、再び夜の帳がおりてきた。  越前の�三国�に近づいたのは、翌日の午《ひる》すぎであった。東尋坊《とうじんぼう》の景観に眼をうばわれているうちに、船は、岸辺に着いた。  馬もろとも、船からあがると、海岸の適地を物色して、幕間をしつらえた。  三国はさびれた漁港である。うらぶれた民家が散見されるだけで、町らしい面影は見られない。  しかし、非公式の上洛を目論《もくろ》む一行にとっては、その方が都合がよかった。  沈む夕陽を眺めながら、武者達は酒を飲み、食事をとった。船酔いから解放されたことが嬉しいのであろう。彼等の表情には、生気がよみがえっていた。  翌日は、夜明けとともに船に乗り、海岸沿いを南下して、夜、敦賀に着いた。  この付近は、朝倉義景の勢力圏である。  越後とは直接の関わりはないが、乱世のことでもあり、注意は怠れない。そのため、一行が陸へあがると、船はすぐ岸辺を離れて、海上へ去っていった。  二十八人の武者は馬に跨がると、東へ向かって進み、月光があたりを照らしはじめる頃、馬首を南へめぐらせた。  あとは山間の道を、琵琶湖方面へ向かうだけである。  景虎の頭のなかには、その道順が正確に刻まれていた。  一行は荒野を、眼を配りながら進んだ。  森や林の黒ずんだ佇まいが、無気味に眼に映る。  野犬の遠吠えが、静寂を破って聞こえてくる。  他国を無防備のまま、旅している実感を、景虎は噛みしめた。  野をよぎり、山地にさしかかったとき、はじめて安堵の念を覚えた。  山麓に馬をとめると、荷物を下ろし、馬を付近の木に繋いだ。  一行は鎧、冑は着用せず、またたずさえてもいなかった。  儀式用の衣装と烏帽子《えぼし》、衣類、下着、食糧、炊飯用具、腰に佩く太刀一式が、荷物のすべてであった。 「今夜は、ここで野宿しよう」  景虎は一同にそう告げると、寝袋に入って、眠りについた。  家臣達も、見張りの者を除いて、それにならった。  獣《けもの》の遠吠えが聞こえてくる。  それを耳に感じながら、景虎は人伝てに聞いた、京都御所の壮大な風景を、思い浮かべていた。  陽ざしが、紅葉におおわれた山に降り注いでいる。  景虎は馬を進めながら、あたりの風景を眺め渡した。  平地が尽きると、やがて山路にさしかかる。  道を縫うようにして、峠を越えると、景色が展け、人家がまばらに建つ里が近づいてきた。  越前のこのあたりは、このような地形の繰り返しである。  越後は晩秋の気配におおわれているのに、近江に近いこの地域は、秋たけなわの風情である。  褶曲のあらわな山、谷間の緑の平原、そのうえの澄み切った空、戦乱の世がうそのようなあたりの佇まいに、景虎は、気持が安らぐのを覚えた。  馬に乗った一行が珍しいのか、農婦が、畠を耕やす手をとめて、振り向いてくる。  合戦の恐ろしさを知らぬ、のどかな顔である。  子供達が声をあげて、あとを追ってくる。  夜明けとともに発ってから、すでに三刻半が経過している。  喉の渇きを覚えた一行は、小川のほとりに立ち止まって、ひしゃくで清流を汲んで飲んだ。  さわやかな気持であった。  山越えに体力を使ったせいか、額からは汗が流れている。  筒袖の軽装をまとい、腰に長刀を佩いた景虎の姿には、越後の国主の面影は見られない。  こうして故国を離れ、上洛への道をたどっている自分を振り返って、不思議な感にさえ打たれた。  一行は、馬を止めて、炊飯を行った。 「もう近江《おうみ》の国に入っているはずだが」  景虎は、木かげに腰を下ろしてつぶやいた。 「日暮れまでに、琵琶湖のほとりに着きませぬと、明日中に、京へは入れませぬゆえ」  新保孫六が言ってくる。 「日は充分にある。  急がば回れ、瀬田の唐橋じゃ」  琵琶湖の風景を思い浮かべながら、そう答えた。  再び馬を進める。  平地がとだえ、険しい山道にさしかかってきた。  両側に原始林が続き、視界はきかない。  蹄の音に、野鳥がけたたましい鳴き声をあげて、飛び立ってゆく。  昼なお暗いあたりの佇まいである。  半刻が経過する頃、山頂に着いた。  視界がひらけ、南に琵琶湖の壮大な風景がひろがってきた。  馬をとめると、その眺めに見とれた。  京へあと一息のところへ着いた、そんな気持であった。  一行は下り道にさしかかった。  原始林が切れ、ひなびた山間の僻地が展けてくる。  人里が近いことを、景虎は感じた。  麓には人家に混じって、古めかしい寺院が建っている。  武者や野盗と遭遇しないよう、景虎は心のなかで念じた。  緊迫感に襲われながら、一行は、麓に降り立った。  あとは、琵琶湖の北端へ向かうだけである。  陽は西に傾いていた。  森や林や孟宗竹の繁みが、ひろがりを見せてくる。  集落をさけ、蹄の音を殺して、一行はゆるやかな道を下っていった。  途中で鍬をかついだ農夫と出会う。  相手は立ち止まり、おびえの表情を見せると、声もたてずに、竹藪のなかへ駈け込んでいった。 「急ごう。この地域には、武者の集団が屯《たむろ》しているゆえ……」  勘のような気持であった。二十八騎の武者は、鞭をうならせて疾駆した。  予想したとおり、行手に蹄の音が聞こえてきた。  武者の一団が、景虎達の存在に、気づいたのである。  音は、みるみる大きくなり、近づいてきた。 「いかん、西だ」  景虎は叫ぶと、馬首をめぐらせた。  騎馬武者のわめき声が背後から迫ってくる。  槍を小脇に抱えた、五十騎ほどの武者である。  彼等と戦うことはたやすい。  しかし、それでは上洛の責務が果たせなくなる。  道を選びながら、景虎はガムシャラに馬を駆った。  林や人家が、眼にもとまらぬ速さで、後ろへ飛んでゆく。  家臣達も背をかがめ、前方を凝視しながら、激しくたづなをしごいていた。  やがて、蹄の音は遠のいた。  景虎は、馬の速度をゆるめた。  いつの間にか、湖岸の集落に着いていた。塩津浜である。  この付近には、長尾家のゆかりの者が住んでいる。  それを景虎は、事前に調べて知っていた。  一行は、湖を見下ろす高台に居を構える、地主の家にたどり着いた。  さすがに、ほっとした気持であった。  庭先に馬をつなぐと、広い屋敷のなかへ入っていった。  館風になったこの家は、越後付近のものより造りが立派である。  主人に迎えられて、一行は、座敷に通された。  挨拶を交わし、酒食の接待を受けながら、世情の変化などについて、語り合う。  隣国、美濃に戦乱の気配が濃くなってから、琵琶湖を舟で渡る武者が、ふえてきたという。  特に、東国から京へ向かう者が多くなったと、主人は語っていた。 「陸路より舟を利用する方が、近道のためだろうか」  景虎はさり気なく聞いた。 「舟を利用すれば少なくとも、大津までは安全に行けますからね」 「なるほど」  身の危険を避けるためにも、当初の予定どおり、舟便を利用して、京へ向かおうと、景虎は決心した。  家臣達と協議の結果、十名をこの館に残し、馬の管理と美濃、駿河など、状勢がつまびらかでない国のその後の変化を、把握させることが決まった。 「特に織田殿の国攻めの状況と戦力については、遺漏なく調べておいてもらいたい。  越後からの使僧派遣は、まだ、その地域には及んでおらぬゆえ」  景虎は、同心の力丸をみて、念のためそう告げた。  武田信玄とともに、台頭著しい織田信長とは、いつかは、戦いを交じえなければならない運命に見舞われる。  京への接近を、上杉憲政が景虎に説く背景には、最も地の利に恵まれた信長に、先を越されてはならぬとの焦りの気持があった。 「承知しました」  力丸は答えて、残留の者とすぐ打ち合わせをはじめた。  一行は、黒装束の忍者を思わせる衣装を、身につけている。  行動のさまたげにならず、身分を秘すのに適しているからである。  しかし、それも上洛するまでで、それ以降は、かなわない。  車座になって語り合う同心の姿を眺めながら、景虎は越後の国主で、弾正|少弼《しようひつ》従五位下の官位にある自分を、改めて思い起こした。今後は、粗略な振るまいは、できぬとの気持であった。  翌朝は、早目に眼をさまし、武者の姿に衣服を改めると、十七名の供の者を従えて館を出た。  湖岸に聳え立つ山並みが、眼にさわやかに映る。  あと二日の旅が、無事であるよう景虎は、心のなかで念じた。  岸辺へ降りると、館の主人が調達してくれた舟が、杭につながれて、波に揺れていた。  近くの船着場へ行けば、定期便の舟もある。  しかし、万一のことを慮って、一行は特別仕立ての漁船に乗ることにした。  全員が乗り込むと、ともづなが解かれ、水夫の手によって、舟は藍色の湖中にのり出した。  水軍方の平田尾張守と直江新五郎が、舳先と、艫《とも》に立って指揮をとる。  舟は、帆に風をはらんで、南西の方向へ突っ走った。  海を思わせるような湖の広さが、景虎には驚きであった。  水面が果てしないひろがりを見せ、どこがそのはずれなのか、見当がつかない。  彼方には比良山や比叡山が、紫色の山並みを見せて聳えている。  景虎は、壮大な気宇にうたれた。  諸将が、なぜ京への道をめざすのか、その気持がわかるように思われた。  平穏な航海のなかで、夕刻、舟は大津の岸辺に着いた。  一行は、荷物をもって桟橋をあがり、徒歩で、町への道をたどっていった。  着流しの衣装に、わらじをはいた景虎の姿は、旅の武者としか、人々の眼に映らなかった。  大通りへ出ると、両側に、旅籠《はたご》が軒をつらねていた。  京への道順にあたるだけに、この付近には旅人が多い。  町の賑わいは、春日山城下を彷彿《ほうふつ》させるものがあるが、雪国と違って、人家の並びのなかには明るさが、ただよっている。  不安も警戒心もなかった。  景虎は、晴れやかな表情をして、町並みを、眺め渡していた。  一行は、とある旅籠に入ってくつろいだ。  商人達との相部屋であったが、景虎には、その方がかえって、心が安らいだ。  食事をとり、風呂を浴びると、部屋に敷かれたふとんに入って、横になった。  商人が、上方弁で話しかけてくる。 「あんさん、どちらからお出で……」 「越中の富山からです」  景虎は思いつくままを答えた。 「薬で知られた富山から、左様でござるか。わたしは堺じゃ。隣の相棒は、さらに南の紀州からじゃ」  相手の語り口は、さばけていた。景虎は話し合いたい気持に駆られた。  南蛮人との交易で殷賑《いんしん》を極める堺や、紀州の高野山へは、上洛を機会に、行ってみたいと考えている。  孫六が注意を促すのを無視して、景虎は、商人二人に、近畿の町や紀州の状況について聞いた。  信長が堺の鉄砲鍛冶に、大量の鉄砲を発注したとの噂は、やはりほんとうであった。  将来は大筒《おおづつ》の製造にも、踏み切るという。  聞きながら景虎は、信長が信玄に勝るともおとらぬ器量人であることを感じた。 �天下を取るのは、三十三歳の信玄ではなく、二十歳の信長かも知れぬ�  想いがふと胸のうちをよぎってゆく。  堺の町や高野山の状況、そこへの道順などを聞いたのち、景虎は眠りに就いた。  灯明の明かりが、薄暗く天井を照らしている。 �堺へは是非行ってみよう……�睡魔に襲われながら、景虎はそう胸のうちでつぶやいていた。  翌日は、商人達と一しょに旅籠を出た。  皆、京都を目指しているのか、同じ方向へ歩いてゆく。  昨夜、話し合った商人は、景虎が武士であることを知ってか、今日は語りかけてこない。  大津から京都へ入る道は、起伏に富んでいる。  しかし、合戦で体を鍛えている一行には、さほど難路ではなかった。  陽が西に沈む頃、一行は京都へ入った。  政治の中心地にふさわしく、広大な町の佇まいである。  瓦葺《かわらぶき》の巨大な寺院や伽藍が、荘厳さを秘めて、心を圧迫してくる。  板葺の人家の連なり、大路《おおじ》を往き交う牛車や馬上武者の姿、賑わいを見せる商店街、眼に入るすべてが、景虎には驚きであった。  家臣達も唖然として、あたりの風景に見入っていた。  陽が西の山に沈みかける。  無数の寺院が、その光を浴びて、美しさを浮き彫りにする。  上洛の喜びを、景虎は噛みしめた。  蹄の音が、聞こえてくる。  われにかえると、その方向を振り向いた。  大路を武装した武者が数騎、土煙をあげて近づいてくる。  人の群れが、叫び声をあげて散りはじめる。  あたりは騒然とした気配におおわれてきた。  地鳴りのような蹄の音がひびき、先導の武者の後ろから、百騎を越える武者の一団が、姿をあらわしてきた。  緊迫感が胸のうちをよぎってゆく。  応仁の乱以来、戦乱の絶え間がない京都の町を見せられた思いであった。 「どけ!」  激しい声が聞こえたと思うと、すさまじい形相をした武者が、むちを振るって、逃げまどう群衆を追い散らした。  景虎の神経はわなないた。  だが、いまはそれどころではなかった。  家臣達に指示すると、物かげに身を潜めて、騎馬武者をやりすごした。  わめき声をあげながら馬を駆る彼等の姿は、尋常ではなかった。  やがて、蹄の音は、東へ遠のいた。  ざわめきがあたりをおおい、往来は、再びもとの和やかな雰囲気にかえった。 「どこの武将でしょう」  孫六が姿をあらわして聞いてくる。 「さあ」  景虎自身にも判断がつかなかった。  残照が空を染めたと思うと、薄暮が町をおおってきた。  その夜、一行は四条の旅籠に泊まった。  体は疲れていた。しかし、心はさわやかであった。  天下を狙う諸将のうち、自分のようなやり方で、忽然と京都へ姿をあらわした者は、まだいない。  至近距離にある信長でさえ、このような芸当は、考えもおよばぬに違いない。  それをなし遂げた事実が、自信となって、景虎の心を支えていた。 「今度は、五千の兵をひきいて、上洛して見せる」  景虎はさり気なく洩らした。 「それは、まことでございますか?」  孫六が、ふとんから身をおこし、眼を丸くして、聞いてくる。 「まことだ。近い将来、必ず実現してみせる」  景虎は笑みを浮かべて答えていた。  嵯峨にある神余《かまり》親綱の館に着いたのは、翌日の午後であった。  一行は旅の疲れをいやしたのち、購《あがな》った馬を駆って、市内に住む大覚寺義俊等と連絡をとった。  その結果、十月十六日、巳の刻(午前十時)に、禁裏へ参内することが決まった。  上杉憲政の力添えもあり、事はすべて順調に運んだ。  将軍、足利義輝も、景虎の上洛を聞いて、会いたいと、申し入れをしてきている。  親綱の館で、参内の日を待つまでの間、景虎は、毎日馬を駆って、京都の寺院を見物した。  応永四年(一三九七)足利義満が創建した金閣寺や、文明十五年(一四八三)足利義政が造営した銀閣寺へもすでに訪れて、それぞれのよさに胸を打たれた。  金閣寺の華麗さや、禅宗の思想をあらわした銀閣寺の書院造りのすばらしさもさることながら、それらを中心にして栄えた北山、東山文化に、景虎は、より興味をそそられた。  今日は馬を駆って、嵯峨野の天竜寺を訪れた。  延元四年(一三三九)足利尊氏が後醍醐天皇の霊をとむらうために建てたこの寺は、臨済宗の総本山でもあり、禅宗に帰依する景虎には、興味深かった。  駒をとめて、寺の境内を眺めるだけで、心が安らいでくるのである。  夢窓疎石《むそうそせき》の手になる枯山水の庭を、いつか訪れて眺めて見たいものだと思いながら、道を引き返した。渡月橋から眺める、嵐山の風景が美しかった。  清流が岩を噛み、淀んだ水面は、底知れぬ青さをたたえている。 �徳は元気だろうか�とふと思った。  所用を終え、堺、高野山を見物して、帰国する頃には、越後は雪におおわれているに違いない。  保津川の眺めに見とれながら、景虎は、将来の天下平定に思いを馳せていた。  軒端でさえずる雀の声が聞こえてくる。  寝床から身をおこすと、景虎は、障子戸をあけて庭の風景を眺めた。  築山の彼方には、青空がひろがっている。  今日は、禁裏へ参内する日である。  景虎が、新保孫六ほか二名の供を従えて、親綱の館を発ったのは、辰の刻(午前八時)頃であった。  京都御所へは、馬を駆れば、半刻を経ずして行ける。  景虎は衣冠束帯の衣装をまとい、烏帽子をいただいていた。  大路を疾駆しているうちに、京都御所の壮大な姿が眼に入ってきた。  予想を越える広さである。  門前に駒をとめると、あたりの風景を眺め渡した。  木々がうっそうと繁るなかに、宮人たちの館が立ち並んでいる。  宮中へ参内する公卿であろう。  牛車が、通りから姿をあらわしてくる。  巨大な土塀は、威圧感をたたえて、果てしなくのびていた。  大路には、人影は見られない。  内部の木々の連なり、飛び立つ野鳥の群れ、聳え立つ門、眼に映るすべてが巨大であり、華麗であった。眺めながら景虎は、朝廷の伝統と権威と格式の高さを感じた。  馬から降りると、警備の武者に令状を示して、なかへ入っていった。  緊迫感が胸のうちをよぎってゆく。  広大な庭園、そのなかに植えられた見事な松、築山とその手前の風雅な池、御影石の灯籠、彼方に連なりを見せる建物の群れ、はじめてみる壮大な眺めに、景虎は驚いた。  だが、それらには、年数の経過と、財政の疲弊がもたらす落魄《らくはく》のかげがただよっている。 �朝廷の台所も、なみなみならぬ状態なのかも知れぬ�  眺めながら、そんな思いに駆られた。  やがて執務所に着く。  出迎えた女官に案内されて、なかへ入り、長い廊下をいくつか曲がった。  衣冠束帯の衣装をまとった役人が、忙しそうに、廊下の彼方を往き来する。  公卿の生活が、どのようなものか、景虎にはわかるように思われた。  庭の眺めに見とれているうちに、一行は、禁裏の中枢の建物のなかに入っていた。  どっしりしたこの建物が、どのような名称なのか、見当がつかない。  しかし、城の天守閣、或いは西の丸に相当する建造物であることだけは、勘でわかった。  高い天井、巨大な柱の並び、正面の神殿と、その手前の御簾《みす》の連なり、それらが威圧感をたたえて胸に迫ってくる。  四人は、しつらえられた床几《しようぎ》に腰を下ろして、時刻の到来を待った。  庭園が、陽ざしを浴びて輝いている。  景虎は無心に、その眺めに見とれた。  役人達が、廊下から姿をあらわしてくる。  やがて、係りの者に先導されて、後奈良天皇が入ってきた。  そのまま奥の席へ行って座る。  式はすぐはじめられた。  御簾があげられ、高座《たかくら》の天皇の姿が、浮き彫りにされてくる。  眼は、景虎の姿に注がれていた。  司会の役人によって、天盃、劒《つるぎ》下賜の儀式の開始が告げられる。  指名に従って、景虎は席を立ち、天皇の前へ進み出て、頭を下げた。  天皇は立ち上がると、三方のうえに載せられた朱塗りの箱を、景虎に手渡し、次いで白木の箱に納められた劒を下賜した。  役人が、それを景虎の席へ運ぶ。  天皇は、次のように、景虎に言葉をかけた。 「越後の国内ならびに、隣国の秩序|回復《かいふく》のため、そなたが多大の功績を尽くしていることは、大覚寺義俊ほかから、つとに聞き及んでいる。  その忠誠を賞するため、昨年は、廷内の評議にかけて、弾正少弼従五位下の叙位に付した。  その後も引続き、国内の治安の維持につとめ、庶民の生活を安らげ、敵心を挟《さしはさ》む者を平らげしこと、あっぱれの所為と思料する。  今後もその志を忘れず、務めるよう、これを機会に、特に依頼するものである」  重々しい声が、肺腑《はいふ》をえぐるように聞こえてくる。  景虎は首《こうべ》を垂れて、耳を傾けた。  安堵する暇《いとま》もなく綸旨《りんじ》下付の儀式が行われる。  役人がさしだした白木の箱を、天皇はひもを解いてあけ、なかから巻物を取り出すと、ひろげて読みあげた。 「平景虎《たいらのかげとら》、任国《にんごく》並びに隣国の、敵心を挟《さしはさ》む輩《はい》、治罰《ちばつ》せられるところなり。  威名《いめい》を子孫に伝え、勇徳《ゆうとく》を万代《ばんだい》に施《ほどこ》し、いよいよ勝《かち》を千里《せんり》に決《けつ》す。  宜《よろ》しく忠《ちゆう》を一朝《いつちよう》に尽《つく》すべきの由《よし》、景虎に下知せしめることとす。  天文廿二年  」  読み終わると、天皇は巻物をもとへ戻して、景虎に手渡した。 「数々の栄誉を賜わり、且つまた、戦乱平定の勅許を下付下されしこと、それがし、身にあまる光栄に存ずる次第であります。  このうえは、御意を体し、誠心《せいしん》相務める所存にございますゆえ、なにとぞ御安堵下されたく。臣《しん》景虎、伏して御誓約申し上げます」  景虎は、面をあげ、後奈良天皇を見詰めて、そう答申の言葉を述べた。  迫力のあるその声に、場内は粛然とした気配におおわれた。  閉会の言葉が、耳底をかすめてゆく。  景虎の頬は紅潮し、眼は光を放っていた。  退席する天皇の姿が、視野をよぎるのを覚えながら、景虎は自席に帰り、式場をあとにした。  築山や風雅な趣きをたたえた池の佇まいが、陽ざしを浴びて眼に沁みるように映る。  四人は、もときた道を引き返した。  果てしなくのびる廊下を、景虎は姿勢を正して歩いていた。  二日後、景虎は自らの発心により、禁裏修理料を、朝廷へ献じた。  金、銀を産する越後の豊かな財政が、このような措置に踏み切らせていた。  景虎のこの行為は、忽ち京都の庶民の間に噂となってひろまった。  そのようななかで、十月二十五日、将軍、足利義輝の使者が、嵯峨の親綱の館へ、景虎を訪ねてやってきた。  用件は、�天下のことに関する打ち合わせの件�についてであった。 「わかった。明日、北山の御館へ参上仕る」  使者の言上に対して、景虎はそう言葉を返していた。  朝廷と違って、足利幕府に対しては、景虎はそう忠誠心を抱いていなかった。  威光が地に落ちたことと、天下の乱れを、応仁の乱(一四六七〜七七)以降、八十年余経つにかかわらず、いまだに収め得ず、自らの権威の保持に汲々としているその姿勢が、さげすみの気持を誘うのである。  しかし、名目的な存在とはいえ、将軍と手を結んでおくことは、将来の天下取りに役に立つ。  その気持が、景虎に応諾の返事をかえさせていた。  当日は、新保孫六と直江新五郎の二人を伴って、早朝嵯峨を発った。  北山は遠いため、人家の密集しない町中《まちなか》では、馬を駆った。  近頃は景虎の上洛を、庶民も知っている。  そのため、服装も地味にし、頭巾をかぶって、表情の殆どをかくしている。  大路を土煙をあげて、疾駆していると、幕府の警護の武者にあやしまれて、追跡された。 「弱ったな」 「つかまると面倒ですから、撒きますか」 「そうしよう」  三人は言葉を交わすと、鞭を入れて速度を速めた。  庶民が驚きの表情を見せて逃げ惑うが、背に腹はかえられなかった。  騎馬武者を振り切ったときには、北山の孟宗竹の繁る屋敷町《やしきまち》に入っていた。  東山と並んで、�幕府の町�であるだけに、付近には格調の高い雰囲気がただよい、武家屋敷が、樹林や孟宗竹の繁みのなかに見えがくれする。  京都は、人口四十万人を越える都市とはいえ、山地《やまち》にかかる面積が多いため、いまだにひなびた面影を残している。  足利義輝の館は、山の中腹の見晴らしのよい場所に、建っていた。  豪壮な構えと、敷地の広さに、景虎は驚きを覚えた。  威光地に落ちたとはいえ、さすがは将軍であった。  敵兵の襲撃に備えて、造りは、城砦と同じ形になっている。  一見、邸宅風に見えて、内実は違うのだ。  武者が警戒の眼を光らせるなかを、一行は門をくぐった。  庭園がひろがりを見せ、彼方には風格のある建物が、建っている。  山地の部分には、堀がめぐらされたなかに、城壁が築かれ、天守閣のような建物が、そのなかに聳えている。  背景の山の緑が、白壁《しらかべ》と対照をなして、眼に風雅に映る。  京都は風土に恵まれたよい国だと景虎は思った。  繋留所に馬をつなぐと、係りの武者に案内されて、正面の建物のなかへ入っていった。  外の明るさに比べて、暗い邸内の佇まいである。  廊下を歩き、武者溜りの横を通って、広間へ案内された。  三面に、明かり障子がめぐらされているせいか、採光はよい。  座布団に、三人はあぐらをかいて座った。  将軍に対する恐れの気持はない。  むしろ、将来はそれにとって代わる心構えを、景虎は抱いていた。  義輝が、供の武者を従えて入ってくる。  絹の衣装をまとい、面長の顔には、口ひげがたくわえられている。  年齢は、二十歳前後であろうか。  景虎は正座すると、高座に座った義輝と挨拶を交わした。 「よくぞ京へお越しなされた。戦乱の世に、越後からわずかの手勢を率いて、上洛されたと聞いて、それがし、貴殿の胆力と叡智のほどに感じ入った次第。  さすがは長尾殿じゃ。  勇猛をもって鳴る武田勢と川中島で、互角の戦いを演じたとの噂は、諸国の武将の間にもひろまっている。  今後は、貴殿にはなにかと世話になると思うが、よろしくお願いする」  義輝は、笑みを浮かべて、そう語った。 「いやいや、それがしこそ。それにしても、こう天下が乱れては、将軍様も大変でございまするな」  景虎は穏やかな口調で、言葉を返した。 「それがしは、将軍の地位に就いて、八年になるが、いまだに戦乱を収め得ず、不甲斐なさに、無念の思いを噛みしめている。  長尾殿に今日来ていただいたのは、諸国の戦乱、とりわけ関東のそれを、収めてもらう依頼をするためだ。  どうであろう。朝廷から綸旨《りんじ》を賜わったのを機に、関東管領の地位に就いてはみられぬか」  義輝の言葉に、景虎は驚いた。  実力で、関東制覇をなし遂げてみたいとは、思う。  しかし、中世的な管領の地位にあこがれるほど、心は姑息ではなかった。  たとえ、それを得ても、北条氏康が覇権を握っている現状では、有名無実に等しい。  ただ、それをそのまま言葉にあらわすことは、景虎にはできなかった。 「関東管領は、上杉様が代々引き継いでおられる御役職《おやくしよく》、越後の一武将のそれがしが受けるのは、不遜であり、理にかなわぬと存じ上げますが」と言葉を選びながら答えた。 「その点はわかっておる。ただ、上杉憲政は将来、家督をそなたにゆずる意向を洩らしている。それでもかなわぬと申されるのか」  義輝の顔には、笑みが浮かんでいた。  景虎の力量に、権威回復をかけている気配が、口振りにあらわれていた。 「しかし、そのようなことは……」  景虎は、言葉につまった。  上杉憲政が、そこまで考えていようとは、想いもおよばぬことであった。 「驚かれるのも無理はない。しかし、この件については、将来のこととして、考えておいて下されたく」 「それがしは正直申し上げて、官位や地位には、魅力を感じておりませぬ。  それゆえ、只今の件は、固くおことわり申し上げます」 「なるほど。貴殿が望んでおられるのは、信玄や信長同様、足利家を倒して、天下に覇を唱えることであろう」  義輝は語って、景虎を見詰めた。 「そのようなことは、それがし、考えてはおりませぬ」  景虎は平然と答えた。 「いまの言葉は冗談として、今後は、天下の治安回復に、力を貸していただきたい。それだけを取り敢えず、正式にお願いしておく」 「承知致しました」  腹の探り合いを含めた両者の会談は終わった。  義輝も、景虎の人柄を感じたのか、満足の笑みを浮かべていた。  その場で酒宴が催され、二人は美酒に酔った。 「今後の合戦で勝敗を分けるもとは、鉄砲をどのようにみるかにかかっている。  それがしも、その点を考慮して、配下の部将に、製造方法を研究させている。  いずれ機会があれば、長尾殿に、その秘伝をお教え致そう」  雑談のなかで、義輝はそう語った。  景虎を将来、利用しようと考えているのであろう。その口振りには、歩み寄りの気配があらわれていた。  語り合いながら景虎は、足利尊氏が、延元三年(一三三八)征夷大将軍に任ぜられて、幕府を京都に開いて以来、二百十五年におよぶ治政が、終わりを告げようとしていることを感じた。 「それは有難き幸せ。それがしも鉄砲の威力については、つとに感じ、その製造に意を用いておりますが、何分にも、鍛冶の技法が未熟なため、なかなか思うに任せませぬ。  現在でようやく百挺、この程度では、合戦の用にたたぬと焦りを覚えていた矢先に、只今のお言葉。是非、その技法を御伝授下さりませ」 「承知仕った。長尾殿には、信玄や信長ともども、天下を平定してもらわなければならぬからのう」  義輝は答えて、笑みを洩らした。  権謀術数をもって諸将をあやつり、自らの威光の回復を企図しているその心のうちが、読めたように景虎は思った。 「いやいや、それがしは、天下のことに望みはござらぬ」  景虎は笑って言葉を返した。  あいあいたる雰囲気のなかで、宴《うたげ》は終わった。  さきに、神余《かまり》親綱を介して、太刀、馬、青銅三千疋を献上してあるせいか、義輝は、多数の引出物を、景虎のために用意していた。  それらを供の武者にもたせて、未《ひつじ》の刻(午後二時)前、景虎は将軍の館を辞した。  都大路は、人で賑わっている。  景虎は、のんびり駒を進めた。  これで京都での所用は、つつがなく終わったのである。  あとは、関東経略のさまたげになる一向一揆の脅威を除くため、大坂石山の本願寺へ赴き、管長の証如と盟約を結ぶだけである。  上洛の目的を果たして、景虎はさわやかな気分であった。 �ことを成すには、布石と人の和が肝要だ。信玄を牽制するためにも、将軍義輝とは当分手を結ばなければなるまい�都大路の賑わいを眼に感じながら、そんな思いを胸のうちでめぐらせていた。  庭の木々を木枯らしがゆすっている。  景虎は自室にこもって、越後から脚力《かくりき》(飛脚)がもたらした書状を読んでいた。  さきに、実仍《さねとみ》宛に発した書状には、帰国は十二月下旬と記しておいた。  だが、それに対する返書としてもたらされた今回の手紙には、大熊朝秀との間がうまくゆかぬゆえ、帰国の時期を早められたくと書いてきている。  景虎は、溜め息を洩らした。  父、為景以来のこととはいえ、国内の統制がいまだにとれぬことが、心を暗くする。  大熊家は、越後の国、中頸城郡板倉村、山部地内の箕冠《みかんむり》城主で、元来は上杉家の被官であったが、景虎が国主の地位に就いて以降は、「御内《みうち》」の一人となり、段銭方《たんせんかた》を勤める家柄である。  加えて、春日山城内では、高齢の部将であることもあって、隠然たる勢力をもっている。  その朝秀が、上野村節黒城主、上野家成と津南の下平修理亮との間に、中魚沼郡川西分の土地の帰属をめぐって係争が生じたことから、実仍と意見を違《たが》え、それがもとで、両人の間に不和が生じたというのが、書状にしたためられた内容であった。  なお、川中島合戦後、武田信玄は、甲、駿、相三国同盟の確立をすすめる傍ら、越後国内の分裂を策し、北条《きたじよう》城主、北条高広に内乱を策するよう働きかけているとも付記してあった。  実直な実仍ゆえ、根拠のないことは書いてこない。  読みながら景虎は、この二件は、質こそ違え、自分の運命をかえる要因になるように思われた。  加えて、大熊朝秀は、本庄実仍、直江実綱などの譜代の部将を蔑視《べつし》し、景虎を離れて、信玄に内応する気配をみせている。 �困ったことになったものだ。しかし、いますぐ帰国するわけにはまいらぬ�  思案した末、景虎はそう結論を下した。  襖があいて親綱が姿を見せる。 「本願寺の住持への面談申し入れの件ですが、いかが取り計らいましょう」  腹心の部将の一人である親綱は、外交の術《すべ》にも長けている。  それを見込んで景虎は、京都に赴任を命じ、朝廷や幕府、公卿などと、接触を保たせてきた。  年齢は三十歳と若いが、そつのなさと智恵のまわりは、宿将達のなかでも異彩を放っている。 「それがしが直接、書状を書こう。その方が、念が届いてよいと判断されるゆえ」と景虎は答えた。 「ところで、訪問にあたっての引出物は、太刀と馬鴾毛、鳥目などがよいと存じますが、いかがでございましょう」 「それでよかろう。特に太刀は、証如殿も欲しがっているゆえ、金に糸目をつけずに購ってくれ」  本願寺の武装化を脳裏に描きながら、景虎は答えた。  武器を求めている者には、武器を与えて、他心なきことを示す方がよいとの判断が、その根底にあった。 「現在の本願寺は、大名と同じだからのう。的をはずした貢物を贈って、つむじをまげられたのでは、その甲斐がないゆえ」 「言われるとおりに存じます」  二人は語り合って笑った。  親綱が下《さが》ると、景虎は文机に向かって、証如宛に書状をしたためた。  本願寺の法嗣《ほうし》顕如の妻と姻戚関係にある信玄が、横槍を入れて、一向一揆に叛旗をひるがえさせさえしなければ、今回の訪問申し入れは、将来効果をあらわすと、書きながら思った。  信玄と景虎の外交戦術は、基本的に違う。  信玄が権威を否定し、軍事力と経済力に焦点を置いて、即物的な折衝を行うのに対し、景虎は常識と秩序を重んじ、精神的な歩み寄りによる相互援助を指向した。  処世観、人生観の相違が、そのまま、対外折衝にも、あらわれているのである。  十一月を迎えると、寒さは厳しくなった。  道往く人々は、袂で顔をおおい、背を丸めて歩いている。  景虎が外出先から帰ってくると、本願寺から返書が届いていた。  十一月十三日が都合よきゆえ、その日に出頭下されたくというのが、その内容であった。  読みながら景虎は、上洛のいま一つの目的が、これで果たせたと思った。  十一月十日、景虎は京都を発った。用意した引出物は馬に積み、十七名の家臣に警護させて、淀川沿いの道を、大坂へ向けて送らせた。  自らは、親綱とともに、伏見の船宿から、十石船に乗って、川を下った。淀川の水量は豊富で、流れも早い。  途中、枚方宿《ひらかたじゆく》で船を降り、付近の風景を賞《め》でたのち、次便の船に乗り継いだ。  下りは半日で大坂へ行けるが、上りは船を人足に綱で曳かせて、川を遡《さかのぼ》るため、一昼夜はかかる。二十数人の客は、酒食を喰らいながら、船旅を楽しんだ。  季節のせいか、付近は、荒涼たる眺めである。  枯れすすきが、吹き寄せる風になびき、堤のうえでは、旅人達が荷物を肩に、黙々と歩いている。  守口《もりぐち》宿を過ぎる頃、陽は西の山に沈んだ。  灯が、船内にともされる。  二人は莚《むしろ》のうえに座って、雑談に耽った。 「引出物は確か、太刀四|口《ふり》と鳥目千疋であったな」 「左様でございます。なお、馬鴾毛は、越後から後日のぼせる旨、目録に記載しておきましたが」 「なるほど」  景虎はうなずいて、眼をつむった。  天満《てんま》に着いたのは、戌《いぬ》の刻(午後八時)であった。  船からあがると、道の両側に明かりをともして立ち並ぶ船宿を物色した。  噂に聞いたとおりの賑わいである。  明応六年(一四九七)蓮如《れんによ》が、この近くの上町台地に、浄土真宗の根本寺院(石山御坊——のちの本願寺)を建立して以来、諸国からの参拝客で、天満の船宿は栄えた。  明かり障子の連なりが、眼に風雅に映る。  とある宿の暖簾をくぐると、二人は案内《あない》を乞うた。  女主人と女中があらわれて、言葉をかけてくる。 「本願寺へお詣りで?」 「左様でござる」  越後上布の衣装をまとった二人が、立派に見えるのであろう。  女主人の表情には、緊張感がただよっていた。  翌朝は、辰の刻(午前八時)に宿を出て、付近を見物し、巳の刻(午前十時)に、京都からやってきた新保孫六達と、旅籠で落ち合った。  大坂は人口が増えてきたとはいえ(十五万人)、まだ京都にはおよばない。  ただ、本願寺が建立されて以来、わが国でも代表的な寺内《じない》町が形成され、昔の難波《なにわ》の宮の繁栄を取り戻しつつある。  十一日と十二日は、参詣客の往き来で賑わう町を見物し、諸国の土産物などを買った。  門前町の様相を呈する広い通りは、本願寺の建物へ続いている。  高台の一郭に、聳え立つその佇まいは、壮観であった。  山門を仰ぎながら景虎は、一向一揆のために殺害された祖父能景や、越中の一揆を平定した父為景の姿を思い浮かべた。  一向宗禁制は、数十年に及ぶ長尾家の祖法であったのである。  だが、乱世のいま、天下平定の夢を抱く景虎にとり、その巨大な勢力を敵に回すことは、戦略上不利になる。  本意ではないが、当分、本願寺とは手を結ばなければならないというのが、偽らざる気持であった。  明日、正式に訪問する予定になっているため、なかへは入らず、参詣客の賑わいのなかを、一行は道を引き返した。  通りの彼方から、騎馬武者の一団が、土煙をあげて近づいてくる。  墨染《すみぞ》めの僧衣をまとい、顔は白布でおおわれている。  僧侶というより、荒法師と呼んだ方が適切な、いかめしい姿であった。  長刀を佩き、小脇に薙刀《なぎなた》を抱えた者もいる。  わめき声をあげながら、彼等はみるみる近づき、道をあける参詣客のなかを、地ひびきをたてて駆け抜けていった。 「あれが僧侶だから、世のなかも変わったものですよ」  孫六があざ笑うような口調で言ってくる。 「全くだ」  町の雰囲気を楽しんでいるうちに、旅籠に帰り着いた。  手持ち無沙汰のまま、景虎は、座敷を借り切って、家臣達と酒宴を張った。  明日は、証如と話し合ったのち、堺へ発つ予定にしている。  三日間の大坂滞在であったが、得るところは大きかった。  宴《うたげ》が終わると、自室に帰り、巻き紙に日誌をしたためた。  翌日は、辰の刻(午前八時)に旅籠を出、馬に乗って本願寺へ赴いた。  時刻が早いせいか、参詣客はまばらであった。  巨木が生い繁るなかに、寺の建物が、ひろがりを見せている。  砂利道を踏んで境内を突き切り、奥の本殿へ行ってお詣りを済ませると、執務所を訪れて、証如に面会を求めた。  住持の居宅は、高台のはずれの見晴らしのよい場所に建っている。  あらわれた修行僧に案内されて、景虎と親綱はなかへ入った。  引出物は孫六の手により、係りの僧に引渡された。  剃髪し、僧衣をまとった僧が数人、じっと景虎の表情を見詰める。 「恐れ入りますが、当寺の規則により、腰のものを預からせていただきます」  そのうちの一人がそう述べて、二人の前に立ちはだかった。  威圧するような姿勢に、景虎は腹立ちを覚えた。  だが、いまは相手の意向に従うほかはなかった。  応接間に案内され、座布団に座って待っていると、衣ずれの音が聞こえ、襖があいて、証如が供の僧二人を従えて入ってきた。  五十歳を越える年齢であろう。  表情には、修行によって鍛えられた人間の風格がただよっている。  挨拶を交わしたのち、向かい合って座った。 「越後からわずかの手勢を率いて上洛されたと聞いて、それがしも驚いている。さすがは長尾殿じゃ。  ところで、朝廷や将軍家と接触されて、よい功徳でも得られましたか」  証如は一呼吸置くと、そう語りかけてきた。  景虎は笑みを浮かべた。 「上洛は儀礼上の責務を果たしたまでのこと、それ以外の目的は、それがしにはございませぬ」 「なるほど」  証如はうなずいて、茶に口をつけた。  景虎は用件を切り出した。 「本日お伺いしたのは、ほかでもございませぬ。ご存じのとおり、長尾家は代々曹洞宗を信じ、一向宗とは相容《あいい》れざる立場にございます。  そのため、祖父能景以来、貴宗の門徒とは争いを繰り返しております。  しかし、それがしの代になってからは、信濃の門徒衆が、多数、越後の国内に移住してきております。  宗派が違っても、仏道に変わりはないとの考えから、庶民が一向宗を迎えている結果でございますが、それがしは、よいことだと考えております。  今後もこの方針を貫く所存でございますが、何分にも越中、越前、加賀、能登の門徒衆とは、犬猿の間柄、容易に過去のしこりがとれぬのが、実情でございます。  ただ、このようにお互いが、自己の立場を主張して争っていたのでは、仏の道にも反すること。それがしは、その点を憂慮致し、でき得れば怨念を捨て、手を結びたいと念願致しております。  上洛を機に、ここへお伺いしたのは、そのためでございます」  景虎は語って、証如の表情を見詰めた。 「祖法を捨てると申されるのか」  気迫のこもった言葉がかえされる。 「左様でございます」  景虎はきっぱりと答えた。  証如は、眼を閉じて考え込んだ。  緊迫した空気が、室内をおおってゆく。  供の僧二人は、景虎の申し出を予想外と感じたのか、疑いの眼ざしを向けてきた。  双方の無気味な、にらみ合いが続く。  沈黙が耐え難いものに感じられたとき、証如が眼をあけて、次のように語った。 「仏道修行を志された長尾殿のこと、言われる意味は、よくわかる。ただ現在は、乱世ゆえ、誓約を交わしても、無に帰する恐れがある。  その点を、それがしは慮《おもんぱか》るのだが、貴殿は、いかが考えなさる」  疑念を含んだ、厳しい口調である。  円満な表情が消え、眼光は鋭さを増していた。 「門徒衆が、越後に叛旗をひるがえさぬ限り、それがしは約束は守る所存にございます」  景虎は決意を秘めた口調で答えた。 「なるほど。そのような考えならば、納得できる。長尾殿は若いが、智慧者じゃ。  いまに足利殿に代わって、天下を取るやも知れぬ」  証如の表情に、笑みが浮かんだ。 「滅相なことを。それがしは、天下のことなど、念頭にはございませぬ」 「それは冗談として、申し越しの件、しかと承った」  二人の折衝は、波乱を見ずして落着をみた。  景虎は救われたような気持であった。  証如が語ったように、盟約を結んでも、いつ破棄されるかわからない。  しかし、本願寺と意を通じておけば、将来なにかの役に立つ。  証如は、引出物の礼を述べ、二人は諸国の状勢などを語り合って席を立った。  廊下を歩きながら、「長尾殿の将来の敵は、織田信長殿かも知れぬのう」と語った証如の言葉が、景虎の心に残った。  風が頬を撫でて吹いてゆく。  大坂が遠のき、堺の町が近づいてきたことを、景虎は感じた。  麦畠の彼方には、寺院や民家が、ひなびた面影を見せて建っている。  陽ざしが真上から降り注ぎ、陽光に映える白い道には、人影が杜絶えている。  十八騎の武者は、縦一列の並びをなして、平野のなかを進んでいた。  蹄ののどかなひびきが心を和らげるように聞こえてくる。  午《ひる》過ぎ、一行は堺の町に入った。  人口三万人と言われるだけに、京都とは比較にならない狭小さが感じられる。  しかし、南蛮交易港のせいか、町の風景には、異国の気配がただよっている。  応仁の乱以降の絶え間のない戦乱の時代が、平和を求める人々を、自治都市堺へ誘《いざな》った。  武野紹鴎《たけのじようおう》も、その一人である。  大林宗套《だいりんそうとう》和尚から一閑居士の号をうけ、現在、津田宗達や今井宗久などの豪商に、茶の湯を教えている。  板葺の商家が、港へ向かって連なりを見せ、往き交う人々の群れが、町の賑わいを感じさせる。  豪商が、茶の湯や和歌などをたしなみ、町人文化の担い手になっているのも、堺の特徴である。  市内には、乱世の面影は見られない。  自由を謳歌する町人の活気が、町全体に満ちあふれているのである。  鮮魚を籠に入れ、天秤でかついだ魚屋が、数人、かけ声をあげながら、通り過ぎてゆく。  銅吹《どうふ》きや鍛冶職にたずさわる者も、堺には多い。  一行は馬を付近の空地に繋いで、大通りをのんびり歩いた。  武士の姿が、珍しいのであろう。  道往く人々が、けげんな表情をして振り返る。  彼方から、風変わりな衣装をまとった巨人が三人、話し合いながら近づいてくる。  噂に聞いた異人である。  立ち停まると、話し合いながら通り過ぎる彼等を見送った。  家臣達も、唖然として、その後姿を眺めていた。  一行は、港へ出た。  潮風が海から吹いてくる。久し振りに見る壮大な眺めに、景虎は、気分が晴れるのを覚えた。  巨船が、遠く近くに、帆柱を聳えさせ、波に揺れている。  一際大きい南蛮船が、威圧感をたたえて、眼に入ってくる。  岸辺には、手漕ぎの舟が往き来し、岸壁では貨物の荷役《にやく》が行われている。  歩み板(舟と岸壁との渡し板)のうえを、荷物を担いで往き来する人足の姿が、蟻の群れのように眼に映る。  交易港、堺の偉容を眼のあたり見て、景虎の胸は高鳴った。�噂に聞いてはいたが、これほどのものとは……�眺めながらそうつぶやいていた。  彼方には、淡路島や四国の山々が、紫色の山膚を見せて、海に浮かんでいる。  景虎は、無心にその眺めに見とれた。  陽は西に傾いている。海原をあまねく照らすその光が、少年の頃、馬を駆って見物に行った府内の海を思い起こさせた。  やがて一行は、道を引き返した。  商店街は、人で賑わっている。  景虎は国への土産に、南蛮渡来の珍しい品々を買った。  さらさ、金米糖、地球儀、ろうそくなどが、それである。  その夜、一行は、南旅籠町の南宗庵の近くに、宿をとった。 「とにかく、大へんな町の様相でございますな。  この分では、�種子島《たねがしま》�の製造も大規模に行われているに、相違ありませぬ」  直江新五郎が言ってくる。 「左様。明日はその状況をとくとみてまいろう。  堺へやってきた目的は、織田信長が発注した鉄砲の鍛冶の状況を調べるためだから」 「そうでございますな」  翌朝、本願寺からの使者が、宿へやってきた。  予期せぬ訪問に、景虎は驚いた。 「なんの用件だろう?」とつぶやくと、宿の主人とともに、玄関へ出た。  麻生と名乗る男が、供の者二人を連れて、馬で昨日の引出物に対する返礼の品をもってきていた。  景虎は挨拶を交わし、自室に招じ入れて、輸送の労をねぎらった。先方からの送り物は、太刀二口、緞子《どんす》十端、縞織物二十端であった。  やがて使者は帰っていった。 「今回の本願寺訪問は、成功とみなければなりませぬな」 「左様。しかし、礼儀は礼儀、事は事というのが、現世のならいゆえ、油断はできぬ」 「なるほど」  景虎と孫六は、言葉を交わして、表情を引き締めた。  翌日から四日間、一行は手分けして、市内における鉄砲鍛冶の状況をさぐった。  秘密の厳守が指達されているせいか、鍛冶所や吹所《ふきしよ》の門前には、監視の武者が立って、眼を光らせている。  そのため、なかの状況を伺うことは、できなかった。  しかし、勘の鋭い景虎には、その全貌は、おおよそわかった。 「織田信長は、やはり只物ではない。この状況では、三千挺を調達するのに、二年とはかかるまい」  吹所《ふきしよ》の煙突からあがる製錬の煙を眺めながら、景虎はつぶやいた。  十一月下旬、一行は、堺を発ち、奈良を経て紀州に向かった。  大和路の古蹟をみて回りながらの旅であったが、これらに関心が深い景虎には、楽しい日々であった。  法隆寺、東大寺などを見物したのち、一行は、道を南にとって高野山へ向かった。  途中、御所《ごせ》、五条、高野口で宿をとり、その翌朝、三千尺の高さの高野山に徒歩で登った。曲折の多い山道は、諸国からやってきた見物客や信者であふれている。  陽が西に傾く頃、山頂に近い寺に着いた。弘法大師の開山にかかる金剛峯寺《こんごうぶじ》は、壮大な規模を誇っている。  本堂を中心に、付属建物が、連なりを見せ、参道は杖をつき、脚絆をつけた人々であふれている。  一行は、身分を秘すため、彼等と同じ恰好をして、参詣客の流れのなかに、身をゆだねた。  お詣りを済ませ、宝物殿などを見物すると、�宿坊�へ行って、わらじをぬいだ。 「これで上洛に伴う所用は、すべて終わった。  根来《ねごろ》へ行って、鉄砲鍛冶の技法を確かめたいと思うが、杢助(松本杢助)達が学びとっていることでもあり、今回は取り止めることに致そう。それに、朝秀と実仍との確執の件もある。  早く故郷《くに》に帰らねば信玄の罠に、はまるやも知れぬゆえ」  夕食後、一同を集めて、景虎はそう語った。  心はすでに越後へ飛んでいた。  翌朝、一行は日の出とともに眼をさまし、本堂での勤行に参列して、心を浄めた。山に囲まれたこの付近の佇まいには、俗塵を離れたすがすがしさが、ただよっている。  読経の声に耳を傾けながら、景虎はいつの日か、このような雰囲気のなかで過ごしてみたいものだと思った。  精進料理の食事を、他の宿泊者とともに、広間でとると、一行は高野山をあとにした。  越後へ帰れば、上杉憲政の平井城への復帰を先ず実現し、そのあとは、北信経略を進める武田信玄の野望を打ち砕くことに、全力を傾けなければならぬと景虎は考えていた。  最短路を取って、大坂に着くと、淀川沿いの道を京都へ向かい、親綱の館で旅の疲れをいやした。そして、翌朝、黒装束の衣装に身を固めて、大津へ向かって馬を駆った。  上洛のことが噂となってひろまった現在、京都に長居することは、身に危険をもたらすと景虎は判断していた。  大津へ着くと、馬を捨て、舟で琵琶湖を渡った。  長尾家ゆかりの地主の館に着き、十名の家臣と合流したとき、景虎ははじめて、京都を離れた実感を味わった。  だが、まだ安心はできない。  敦賀に着き、自国の船に乗るまでは、どのような危難が待ち受けているかも知れないからである。  そのため、館も、未明に人知れず発った。  往路と同じ道をたどって、一行は北へ向かった。  しかし、季節の移り変わりによる積雪が、行手を阻んだ。  馬を鞭打ち、山路《やまじ》の難路を克服したときには、日は暮れかかっていた。  白雪におおわれた荒野が、冬の厳しさを感じさせる。  敦賀へ帰着する日は、実仍に知らせてあるため、迎えの船は、岸辺に着いているはずである。  だが、現物をみるまでは、気持をゆるめるわけにはゆかない。  加えて、越前は、一向一揆が警戒の目を光らせ、領主の朝倉義景も、景虎の動静に関心を寄せている。  あと二里の道程《みちのり》が、景虎には正念場のように思われた。  山麓の木陰に馬をとめ、夜の帳が降りるのを待ってから、一行は海岸へ向かった。  犬の遠吠えが聞こえてくる。  緊迫感を景虎は感じた。用心する旨、家臣達に達すると、先頭に立って駒を進めた。  あたりは、漆黒の闇におおわれている。積雪の明かりを頼りに、蹄の音を殺して、野を渡った。  氷るような寒さが、膚をさしてくる。  海岸に近づいたのか、打ち寄せる波の音が、聞こえてくる。  見覚えのある風景を眼に感じたとき、松明《たいまつ》の灯が、闇のなかに浮かびあがってきた。 「追手だ!」  直江新五郎が、気づいて声をあげる。  景虎は、「西へ向かえ!」ととっさの判断で、下知を下した。  海岸へ馬を乗り入れると、船の到着予定地へ向かって、疾駆した。  追手は野を横切って、行手を阻む手術《てだ》てに出てきた。  十五騎ほどの数である。  刃を交じえれば必ず勝つ。だが、味方に犠牲者が出ることを、景虎は恐れていた。 �頭目《かしら》とおぼしき武者を、おれが斬ろう。そうすれば、あとの者は、慌てふためいて逃げるに違いない�手綱をしごきながら、そう考えた。  双方の距離は、見る見る縮まってくる。  景虎は、馬の速度をゆるめなかった。  払った刀を、水平に構えると、追手の群のなかへ、激しい勢いで突入していった。  馬と馬が接触した瞬間、先頭の武者の首が宙に舞い、水しぶきをあげて、打ち寄せる波のなかに落ちていた。  叫び声があがり、馬のいななきが、夜空にひびき渡る。  闘いはそれまでであった。  隊列を乱して逃げる武者の姿が、網膜をかすめてゆく。  景虎は馬を止めた。 「誰の指示なのでしょう」  孫六が聞いてくる。 「朝倉殿の命を受けた者であろう。野武士や夜盗は、われわれの上洛を知らぬからのう」  勘のような気持であった。 「なるほど」  孫六はうなずいて、安堵の表情を浮かべた。  月光が、あたりをほの暗く照らしはじめる。  六隻の帆船が、海上から音もなく近づいてくるのを、景虎は知っていた。 [#改ページ]   第七章 流水  庭に雪が降っている。  築山の松がそれに霞み、池のほとりの石灯籠が眼に風雅に映る。  廊下に佇んで思いに耽っていると、当番の武者がやってきて、上杉憲政が帰国の挨拶に見えたと告げてきた。  上洛中、執務を代行していた本庄|実仍《さねとみ》のはからいもあって、憲政の平井城復帰の手術《てだ》ては、ぬかりなく進められていた。  正月を、故国で送りたいという憲政の願いにより、年の瀬も押し詰まった今日、旅立ちに踏み切ることになった。  北条氏康は現在、駿河の今川義元と抗争を繰り返している。その間隙をついて、上杉の家臣達により、関東管領の地位への復帰が、極秘裏にはかられ、実現の運びとなったのである。  自室に帰ると、憲政が部屋へ入ってきた。 「景虎殿のはからいにより、平井城へ帰ることができて、感謝の言葉もない。越後での二年間の滞在は、戦乱に明け暮れてきたそれがしには、心の救いになった。  帰国しても、いつ北条勢の反抗を受けるやも知れず、心もとない次第だが、景虎殿の救援を信じて、可能な限り頑張ってみたい。何卒《なにとぞ》今後ともよろしくお願いする」  憲政はそう語って、表情を和らげた。 「それがしこそ、今後とも厚誼のほどをお願い申し上げます。ご存じのような内外の状勢のため、関東への出陣は、思うに委せぬかも知れませぬが、でき得る限りご援助申し上げる所存ゆえ、何卒ご安堵下されたく」  景虎は丁重に、言葉を返した。 「小笠原殿や村上殿も、いまは当地に骨を埋める覚悟を決めておられる。  乱世のなかで、落ちのびてきた武将を庇護するなど、余人にはできぬこと。それだけでも景虎殿は天下人《てんがびと》の器量を備えていると、それがしは判断している」 「いやいや、わたくしは、人の道を踏んだまでのこと。それほど恩義に感じられたのでは、かえって恐縮でございます」  二人は言葉を交わして、笑みを浮かべた。  午《ひる》過ぎ、憲政は三百騎ほどの武者を従えて、城下を発っていった。  雪の三国峠越えは、至難な業であるが、この季節を利用すれば、北条軍も手を出せない。  その辺の計算を、憲政はしていた。  平穏な三日間が経過し、天文二十三年(一五五四)を迎えた。  元旦は春日神社に参詣し、そのあと林泉寺へ赴いて、先祖の墓に詣でた。  二日と三日は、女中達や家臣の若者と遊びに興じ、酒を飲んで過ごした。  善光寺平をめぐる甲、越の対立が、日増しに険悪になりつつあるなかで、このような生活に耽ることは、許されない。  しかし、合戦を恐れてもどうなるものではないとの気持が、景虎の心を開かせていた。  諸国へ遣わした使僧からの連絡は、この時期を境にして、繁くなった。  武田信玄は、三国同盟の締結を急ぎ、ほぼそれを実現する見透しにある。  楽観は許されない状況になってきているのである。  北信の諸侯との盟約は、すでにできているが、それだけでは、信玄の強力な外交戦術に抗すべくもない。  そこで、遠く安房の里見義堯や常陸の佐竹義昭、越前の朝倉義景、飛騨の三木《みつぎ》良頼などとの同盟も、景虎は画策していた。  一月下旬、そのための使者が発せられ、第一回の折衝がもたれたが、応じたのは、里見義堯と三木良頼だけで、朝倉義景と佐竹義昭は、すぐには返事を返してこなかった。  ところが、三月を迎えて、諸国の情勢が険悪になるにつれて、両氏とも歩み寄りの姿勢を見せてきた。  景虎と手を結んでおけば、有事の際に、頼みになると判断したのであろう。  先ず、佐竹義昭の使者が、三月中旬、春日山城を訪れて、同盟締結に賛意を表し、続いて朝倉義景の使者が、応諾の書状をもたらした。  さほどの紛糾を見ずして、武田勢を脅かす態勢が固まったことに、景虎は安堵した。  ただ、越前の朝倉義景以外は、頼みとするに足らない。  そこに甲、越決戦を目前にしての景虎の悩みがあった。  四月を迎えると、越後にも本格的な春が訪れてきた。  城内の桜が咲き誇り、庭園の彼方ではかげろうが舞っている。  築山の松も、あざやかな緑を取り戻し、池では、鯉が列をなして泳いでいる。  気候の良化を感じさせる眺めであるが、それとは裏腹に、景虎の心は晴れなかった。  老臣、大熊朝秀が本庄実仍との不和を契機に、景虎に反抗する気配を見せていることと、刈羽郡の北条《きたじよう》高広が、信玄に内応の意を表明したとの噂が、気持を暗くしたのである。 �若年のそれがしには、諸将を統制する力がないのだろうか�近頃は、そんなことすら考える。  諸将乱立の国内の情勢が、天下取りを進めるさまたげになるように景虎には思えてならなかった。  眉間にしわを寄せて、思いに耽っていると、中条藤資がやってきた。 「只今、甲州へ遣わしていた使僧が帰着して甲州、駿河、相模、三国の同盟が成立したと伝えてまいりました」  藤資の言葉に、景虎はうなずいた。  動揺は覚えなかった。 �来るべきものがやってきた�そんな気持であった。  二人は語り合いながら、廊下を歩いた。  自室にかえると、徳が茶をもってはいってきた。  二人は、雑談を交わした。 「まだ子供は生まれぬのか」  景虎はそれとなく聞いてみた。 「はい」  徳の口調は、沈んでいた。 「そうか。それがしには、子種がないのかも知れぬ」  景虎はつぶやいて、視線を伏せた。  健康な徳に子供が生まれぬはずがない。  春《はる》との場合も、肉体の感触から子をはらめる状態にあった。二人の女人と交わって、なんの徴候も得られなければ、自分自身に欠陥がある。  最近になり、景虎はそう考えるようになった。 「因《もと》は殿様ではなく、わたくしなのかも知れませぬ」 「いや、そうではなかろう。そなたには、月のものが、正しくあるゆえ」  景虎は答えて、溜め息を洩らした。  世継ぎの子が生まれないことは、国主として寂しいことである。  しかし、神の業とあれば、あきらめなければならなかった。 「そなたは十九歳、これからの人生ゆえ、暇をとって嫁《とつ》いだらいかがじゃ」  間を置いて、景虎は静かな口調で語った。  徳を手許に置くことは、女としての幸せをうばうように感じられた。 「わたくしにはそのようなつもりはございませぬ。殿様さえよければ、一生お側で仕えさせていただきとう存じます」 「子供が生まれなくても、よいと申すのか」 「はい」  徳は決意を秘めた口調で答えた。 「まあよい。そなたが居てくれれば、それがしも励みになるゆえ」  景虎はそれ以上、この問題にはふれなかった。  二人は城下の噂話などを語り合った。  廊下を歩く足音が聞こえてくる。  それは近づくにつれて、音の気配を消していた。  うめであることを、景虎は感じた。  だが、徳はまだそれに気づいてはいない。  女二人の確執は、その後も続いている。  好ましいことではなかったが、若年の景虎には、なす術がなかった。  ただ、うめから徳を守ってやらなければとの気持だけは、常に抱いていた。  足音がこちらへ向かってくる気配に、景虎は目くばせをした。徳は驚いて立ち上がると、反対側の襖をあけて、部屋からでていった。  うめはなかの様子を伺っている気配であったが、やがて遠ざかっていった。  景虎は笑みを浮かべた。  女心の複雑さが、感じられてならなかった。  不穏な形勢が続くなかで、半年が経過した。  信玄の越後攻めはこの時期を迎えて、いよいよあらわになった。  それに対抗して、越軍内部でも軍備が充実され、戦略会議が毎日のように、城の天守閣で開かれた。 「北条高広殿は、噂どおり武田方に内応する意向を明らかにし、合戦の準備を進めております」  協議をしている席へ入ってきた武者が、景虎を見て、そう告げた。 「なに、高広が……」  景虎の眉は逆立っていた。  許せぬとの気持であった。 「北条《きたじよう》城には現在、兵糧と武器が運び込まれ、城下には人馬の往来が絶えませぬ。加えて、信越国境の小谷五人衆や、加賀、越中の一向一揆、飛騨の江馬時盛、美濃の遠山氏等も、武田方に呼応する気配を見せております」  武者の言葉に、景虎は息を呑んだ。  四面楚歌に囲まれた心境であった。  中条藤資と直江実綱が、表情を変えて立ち上がる。  直ちに応戦の準備をしなければ、間に合わぬと、誰もが感じていた。 「高広め、息の根をとめてくれるわ」  景虎は激しい口調でつぶやくと、備前長船《びぜんおさふね》の刀を手にとって、席を立った。  大熊朝秀は、腕組みしたまま、動こうともしない。  腹立ちを景虎は覚えたが、いまはそれに、かかわってはおれなかった。  国内の有力な部将の一人が、自分に見切りをつけ、信玄に内通したことが悲しかった。  飼い犬に手を咬まれたような動揺が、胸のうちをよぎってゆく。  部将達は口々に、高広の非を鳴らした。  軍議は中止され、二十数名の出席者は、先を争って、天守閣から去っていった。  景虎は自室へ向かった。  庭の風景には、冬の気配がただよっている。 �賢明な高広がなにゆえに……�空しさに襲われながら、景虎はそうつぶやいていた。  月明かりがほの暗く、室内を照らしている。  景虎は寝返りを打った。  国内の分裂を策する信玄の悪辣《あくらつ》さもさることながら、それに屈して自分に叛旗をひるがえす高広の心根《こころね》が許せなかった。  乱世とはいえ、情理は重んじられなければならない。  それを、国政の枢要な地位にある高広が、破ろうとしているのである。苛ら立ちの念は、たとえようもなかった。  北条家の宗家である毛利景之父子も、景虎に書状を寄せて、高広の非を詫びてきている。だが、利にさとい高広は、景之の説得を一笑に付している。  乱世に、義理人情は不要というのが、その言い分であった。  本来であれば、拠城を攻めて斬殺しても、理にもとることはない。  しかし、景虎には、祖父以来の家臣である北条家をつぶす気持にはなれなかった。  松籟《しようらい》の音が、わびしさをそそるように聞こえてくる。  結論が得られぬまま、景虎は浅い眠りに落ちていた。  十二月を迎えると、信玄の家臣、甘利昌忠と北条高広との接触が、密になってきた。  間者の武者からの報告では、両者の間に、盟約が結ばれ、旬日を経ずして、挙兵に踏み切る見込みという。  ここにきて、景虎は高広を攻める決意を固めた。  二千の兵を整えて、相手の出方を伺ううち、中旬になって高広は、北条城に拠って叛旗をひるがえした。  その報せを得た景虎は、 「已むを得ぬ、正月早々に高広を討つ」と、部将達が居並ぶなかで、決断を下していた。  年末年始の城内は、暗い雰囲気におおわれた。  景虎は、毘沙門堂にこもったまま、外へ出なかった。  信玄との決戦の構想を、毘沙門天の像を眺めながら練っていたのである。  そして、年が明けると、予定どおり兵を率いて、春日山城を発った。  合戦の気配に庶民はおののきの表情をみせ、城下町は閑古鳥が鳴くような状態になった。  景虎の本意ではなかったが、いまは已むを得ぬことと考えなければならなかった。  空は晴れ、白雪におおわれた荒野が無限のひろがりを見せている。  森や林のなかを縫って、二千の兵団は、善根(現在の柏崎市)へ向かって進んだ。  高広は、そこへ兵を進め、武田勢の来援を見込んで、景虎の軍を迎え討つ構えなのである。  春日槍をたずさえた騎馬武者の前を、鉄砲隊が進む。  現在は、二百挺ほどの数であるが、将来はその倍以上にしたいと景虎は考えていた。  松林の彼方には、紺碧の海がひろがり、佐渡ケ島が手に取るように望見される。  水平線が空と海を区画し、その果てがどこなのか、見当さえつかない。  夕刻、毛利景之父子の手勢、五百騎と合流した。  高広の謀叛を許せぬとの気持が、景之を出陣に踏み切らせたのである。  陽が西に沈む頃、敵陣を隔てること四里の地に到着し、そこで野営の陣を張った。  十里の道を行軍したせいか、兵達は疲れていた。  食事が終わると、篝火を焚いて暖をとり、そのまま枯れ草のうえに横になった。  灯が無数の連なりを見せて、夜空をこがしている。  武田勢との合戦では、このようなことは許されぬが、高広の兵力を知っている景虎は、敢えてそれを認めた。  戦わずして敵を呑み、犠牲者を少なくして合戦を収拾する心理作戦であった。  予想したとおり、敵の騎馬武者が、戌の刻(午後八時)を回る頃から、偵察のために出没し、陣地を騒がせたが、景虎は追手を差し向けなかった。 「こちらの兵力を知れば、高広も、或いは降参してくるかも知れぬ」 「左様でございますな。北条殿は、甲斐勢の援軍をたのんでいるのかも知れませぬが、孤立したこの地域では、無理でございますから」 「私利に眼がくらむと、人間、正常な判断ができぬものだ」 「いや、全く」  本陣の幕間で、景虎は部将達と言葉を交わした。  篝火が彼等の精悍な表情を浮き彫りにする。  四ヵ月振りにみる覇気にあふれる姿に、景虎は、心が安らぐのを覚えた。  翌日の午の刻(午前十二時)頃から、両軍の戦いがはじまった。  二千五百の寄せ手に対し、北条方は、わずか千三百の兵力であった。  しかも装備が違う。  甘利昌忠の援兵がついても、勝敗の帰趨《きすう》は明らかであった。  それを見越して、景虎は、総攻撃をかけなかった。  持久戦に持ち込み、敵軍の士気の低下をまって、降服を勧告する肚であった。  小ぜり合いが展開されるなかで、二月を迎えた。  高広は、焦りの気配を見せてきた。  援兵が得られないことが、その原因であった。  城内の兵糧が尽きたと思われる頃、投降を申し出る敵方の使者が、本陣へやってきた。  景虎は部将達とともに引見した。  中条藤資ほかの部将は、高広の行為を不埒として、斬殺を主張したが、景虎は認めなかった。 「高広は、信玄の術中に陥ったあわれな人間だ。  それに命乞いを申し出てきた以上、殺すわけにはまいらぬ」 「しかし、一度叛旗をひるがえした者は、また同じことを繰り返します。  これは戦乱の世のならいではござらぬか」  藤資は、気色ばんだ声で、まくしたててきた。  景虎は笑みを浮かべた。 「そなたの言い分も、わからぬではない。  信玄ならば、恐らく、謀反者は、斬殺または切腹の刑に処すであろう。しかし、仏道に帰依するそれがしには、そのようなことはできぬのだ」  景虎の言葉に、藤資は息を呑んだ。  他の部将達は、視線を伏せて、二人の会話に耳を傾けていた。  二日後、高広が供の武者三名を従えて、本陣に姿をあらわした。  一ヵ月余の合戦が身に沁みたのか、表情は蒼ざめている。  土下座すると、「申しわけございませぬ。何卒お許しを……」  と震える声で言って、ひれ伏した。  景虎は、高広を見据えた。 �たわけ者め!�胸のうちを激しい言葉が走ってゆく。  だが、それを景虎は、口にはしなかった。 「非に気づいたのであれば、それでよい。しかし、二度、同じ過ちを犯せば許さぬ。よいな」  と静かな口調で、たしなめた。  高広はだまってうなずいた。  緊迫した空気が和らいでくる。  景虎は席を立つと、外へ出て、味方の兵団を眺めた。  竹矢来や土塁が、蜿々《えんえん》と連なり、吹き寄せる風に、軍旗がはためいている。  戦死者は、わずかの人数であった。  彼方には、松林がひろがりを見せている。  白雪におおわれた寒々とした眺めに、景虎は冬の厳しさを感じた。  だが、心はさわやかであった。  寒風に髪を乱しながら、景虎は海鳴りの聞こえる岸辺へ向かって歩いていった。  季節は初夏を迎えた。  青空がうえをおおい、国境の山々が、絵巻物のような佇まいを見せて眼に入ってくる。  北信は、その後不穏な形勢におおわれていた。  三国同盟の成立を機に、信玄の越後攻めの気配が、あらわになってきたからである。  間者を善光寺平に入れて、諸領主を説得し、景虎と手を結べば身分を保障せぬと脅して、忠誠を誓わせたり、和田峠(諏訪市北方)を越えて、毎日のように兵糧、武器、人馬を輸送したりしはじめた。  信玄は、戦略の拠点を�善光寺�と定めていた。  諸国の信者の崇拝を集めるこの寺は、治政上も北信一帯の住民を支配する力を持っている。  人心を読むことに長《た》けた信玄が、それに目をつけぬはずがない。  善光寺さえ掌握できれば、北信経略は完成し、それを起点に信越国境を脅威することによって、景虎の関東攻めを、牽制できると見透していた。  それを実現する鍵は、同寺の別当栗田氏を、味方にひき入れることにある。  景虎は勿論、そのことを知っていた。  ただ、仏道に帰依する栗田氏が、人の道に反する行為を敢えてする信玄に、傾倒するとは、考えられなかった。  事実、栗田家両家のうち、大御堂主の里栗田家は、景虎と昵懇《じつこん》な間柄にある。  問題は、小御堂主の山栗田家であった。当主が僧侶にふさわしからぬ人物との噂を聞いているだけに、景虎は気懸りであった。 �山栗田家さえ謀反をおこさねば……�天守閣の回廊に佇んで、あたりの風景を眺めながら、景虎はつぶやいた。  合戦の勝敗を分けるこれが要《かなめ》の事項のように思えるのである。  眉間にしわを寄せて、思案に耽っていると、階段をあがってくる足音が聞こえてきた。  上野家成であった。 「殿、一大事でございます。山栗田家がとうとう信玄に内応する意向を明らかに致しました……」  家成の言葉に、景虎は胸をつかれた。 「それはまことか」と思わず聞き返していた。 「はい、武田殿の旗あげに呼応して、旭《あさひ》の要害(川中島北西)による構えとか。只今、遣わした使僧から、報せが入ってまいりました」  景虎は言葉もでなかった。  館にかえると、武者溜りは騒然とした気配におおわれていた。  善光寺平が、武田勢の手中に落ちれば、山一つ隔てた越後の安泰は、風前の灯火となる。  甲斐勢を殲滅し、禍根を絶たねば、国内の平和は失われるのである。  山栗田家が叛旗をひるがえせば、その支配力が強大であるだけに、戦勝の見込みはない。  策略の成功にほくそ笑んでいる信玄の姿が、景虎には眼に見えるようであった。  加えて国内には、大熊朝秀という異端の家臣が、天下の形勢をにらみながら、武田方に内通する気配を見せている。  乱世そのままの不穏な状勢が、城内にも醸成されてきているのである。  景虎は暗澹とした気持に襲われた。  足は毘沙門堂へ向かってゆく。  白皙の面は引き締まり、眼光は鋭さを増していた。  なかへ入ると、毘沙門天の像を祀った御堂の前に正座した。  右手に法棒をもってへいげいするその姿を眺めていると、勇気が湧いてくる。  あたりは静まりかえっていた。  高い天井、巨大な柱、精緻《せいち》を極めた室内の彫刻、仏像の壁画、それらが威圧感をたたえて、胸に迫ってくる。  あぐらをかくと、眼をつむって、座禅を行った。  雑念が去り、気持が落ち着いてくる。  そのままの姿勢で、半刻が経過した。  眼をあけて立ち上がると、部屋を出た。  中庭の松が、陽ざしを浴びて、あざやかな姿を浮き彫りにする。 �平穏そのものの、城内の雰囲気にも、やがて終焉《しゆうえん》が訪れる�自室に向かって歩きながら、景虎はそう考えていた。  緊迫した状勢のなかで、二ヵ月が経過した。  空には、積乱雲が浮かんでいる。  合戦の気配は、この時期を境に高まりを見せてきた。  城下では、武器を製造する鎚音が絶えず、兵糧を運ぶ荷車が、毎日のように南へ向かって、荒野をよぎっていった。  騒然たる雰囲気のなかで、七月初旬、出陣のための軍議が、天守閣で開かれた。  大熊朝秀は、一貫して戦いの不利を説いたが、景虎は認めなかった。 「そなたはなぜ頑なに出陣の非を主張する。他意があるとしかみられぬではないか」  執拗さに業を煮やした景虎は、厳しい口調でたしなめた。  朝秀は顔色を変えた。 「他意があるとは滅相もない。大熊家は代々長尾家に仕える要職の家柄にございます。  それゆえにこそ、殿の身を慮って、武田殿との和合を説いているのです」  朝秀は白髪を震わせて、抗弁した。 「なにを申すか。そなたは中魚沼郡の土地の紛議以来、実仍やそれがしに、たてつく姿勢を示している。  今回の合戦に当たっても、武田方の越後攻めに有利な建言しかしておらぬ。  なにゆえだ。それを先ず聞かしてもらおう」  景虎は眉を逆立てて、問い詰めた。  心のうちを吐かせたい気持であった。 「殿の言われるとおりでござる。善光寺に陣を張ることがなぜ悪い。貴殿は、仏を恐れぬ行為ゆえ、避けるべきだと説かれるが、もしわが軍が同寺を手中に収めねば、信玄がとってかわることは必定。それが貴殿にはわからぬのか」  本庄実仍が険しい表情をつくって、反論する。  中条藤資以下の部将も、朝秀の態度に、気色ばんだ表情を見せた。  長老の権威を傷つけられたと感じたのであろう。朝秀は、激昂の気配を、面《おもて》にあらわした。 「それがしは、お家大事と考えるがゆえに、武田勢との合戦の不利を説いた。それが認められぬとあれば、この席を去るほかはない」  捨て台詞《ぜりふ》にも似た言葉を吐いて、朝秀は立ち上がった。  眼は射るように、景虎に注がれている。 「そなたがそう信ずるのであれば、是非もない。即刻この場から立ち去れ」  景虎は、激しい口調でそう申し渡すと、視線をそらせた。  朝秀は怒りを面にあらわし、足音を鳴らして、広間から去っていった。 �朝秀は、或るいは、信玄に内応するかも知れぬ�眺めながら、そんな予感が走るのを、景虎は感じていた。  軍議は、午の刻(午前十二時)に終わった。  女中達が、膳を運んでくる。  そのなかには、うめや徳の姿も見られる。  それぞれ二十二歳、二十歳の年齢を迎えたせいか、女盛りを思わせる肌色を見せ、輝きを放っているかに見える。  盃を傾けながら、景虎は、徳の横顔を眺めた。  近頃はすべてに繁忙のため、うめのさや当てから、守ってやる暇《いとま》がない。  しかし、徳はそれに耐えて、いまだかつて、ぐちをこぼしたことがない。  明日は出陣の予定である。  しばらく徳の顔を見られぬことが、景虎には寂しかった。  しかし、いまは女人のことに思いをめぐらせている余裕はなかった。  信玄の野望を打ち砕くことで、頭のなかが一杯であったのである。  翌日(弘治元年=一五五五=七月十七日)景虎は五千の精鋭を率いて、春日山城を発った。  今回の合戦は、武田勢の気配から長期戦の様相を呈している。  その見透しが、景虎に機動力を備えた最強の兵を選ばせていた。  三百挺の鉄砲をたずさえた一団のあとに、弓勢九百、春日槍をたずさえた騎馬武者千二百騎が続く姿は、壮観であった。  道を東に取り、やがて進路を南にとる。  国境までは、多少の蛇行はあれ、ほぼ直線に近い山あいの道が開けている。  平地はわずかですぐにゆるやかな登り勾配にさしかかった。  高原が、国境へ向かって果てしないひろがりを見せ、灌木の緑が眼にあざやかに映る。  三千尺を超える山並みが右手に見えたと思うと、兵団は新居《あらい》(新居市)を通過し、中郷《なかごう》に向かっていた。  妙高《みようこう》山(二四四六メートル)を囲む山脈群が、南西に峨々たる連なりを見せて、迫ってくる。  白雪をいただいたその姿を、景虎は無心に眺めた。  陽は西に傾き、なま暖い風が高原を吹き抜けてゆく。  春日山城から約十里の国境を越えるのに、一日とはかからない。  しかし、安全を踏んで、景虎は関山《せきやま》付近で野営の陣を張った。  国境までは、ものの三里の道程である。 「あとは、一瀉千里《いつしやせんり》だな」 「左様でございますな」  景虎は、額の汗をぬぐいながら、実綱と言葉を交わした。  翌朝は、夜が白む頃、陣地を出立し、険しい山岳地帯の道を踏みしめた。晴れあがる霧のなかに、長範《ちようはん》山(七六八メートル)が、姿をあらわしてくる。  国境を越えたことを、景虎は感じた。  緊迫感が、兵達の間にみなぎってくる。  五千の兵団は、土煙をあげながら野尻《のじり》湖への道をたどっていった。  風が、頬を撫でてゆく。  無限のひろがりを見せる湖が、朝日に照らされて、姿をあらわしてくる。  合戦がうそのようなあたりの風景に、景虎は気持が安らぐのを覚えた。  野尻で休憩し、水を補給した越軍は、黒姫山(二〇五三メートル)の無気味とも思える姿を右手に見ながら、行軍の速度をはやめた。  牟礼《むれ》まで一気に南下すると、景虎はそこで馬を止めた。  東へ迂回し、善光寺を西に見る地から、進撃を開始するのが常道であるが、景虎も実綱も、それをきらった。 「このまま真南へ、善光寺の北に出よう」 「そうしましょう」  二人は言葉を交わすと、馬を鞭打った。  飯綱《いいづな》山(一九一七メートル)の奇怪とも言える山容が、西の空に浮かんだとき、景虎は、武田勢との接近を感じた。  休憩ののち、善光寺を東にみながら、犀川《さいがわ》の堤防へ向かって進んだ。川中島の広大な平原が展け、三方を囲む山並みが、威圧感をたたえて、胸に迫ってくる。  武田勢の姿は、見当たらなかった。  伝令の武者の報告では、信玄はすでに諏訪を発っているという。  越軍は、苦もなく犀川の渡渉《としよう》に成功し、堤防を背景に、陣地の構築を開始した。  一夜が無事明けた。  もやがたちこめるなかに、森や林が、黒い影を見せている。  景虎は、食事を終えると、堤防に馬を進めて、あたりを眺め渡した。  武田勢の一団が、一里の距離を置いて、林のなかに陣地を構えていた。  さすがに驚きを禁じ得なかった。  風林火山の軍旗が、晴れあがるもやのなかに、くっきりと浮き出してくる。 「しずかなること、林の如しか」眺めながらそうつぶやいた。  緑一色の原野が、曙《あけぼの》の光のなかに浮き彫りにされてくる。  周囲を囲む山々は、まだ黒ずんだ姿である。 「先攻めをかけますか」  直江実綱が聞いてくる。 「そうするか」  景虎は即答した。  本陣に帰り着くと、直ちに出陣の下知を下した。  ほら貝の音《ね》が、ひびき渡る。  五千の兵は、南へ向かって進んだ。  森や林の風景が、目まぐるしく移ってゆく。  集落には、人影は見られない。  雌雄を決する合戦の幕が、切って落とされたことを、景虎は感じた。  頬は紅潮し、眼は光を放っている。  馬を鞭打つと、兵団の先頭に立って進んだ。  風林火山の旗印が見えてくる。  林立するそれを、蹄にかけて蹂躪せねば、おさまらぬ気持であった。  両軍の距離は、みるみる接近し、ときの声が天にとどろいた。凄絶な白兵戦が、荒野で繰りひろげられる。  武田軍を象徴する紺地の軍旗は、眼の前に迫っていた。  刀をかざすと、それをめざして突き進んだ。  旗手が恐怖の表情を浮かべて逃げ惑う。それが眼に映じた瞬間、巨大な軍旗は、柄をはなれて、虚空に舞っていた。景虎は駒をとめて、戦場を眺め渡した。  戦いはあっけなく片がついていた。  武田勢は、怒濤のような越軍の進撃に、なす術もなく敗退していったのである。  馬から降りると、冑をぬぎ額の汗をぬぐった。  さわやかな気持であった。  三日後、越軍は陣地を払って、善光寺へ向かった。  灼熱の陽光が、真上から降り注ぎ、野原には、夏草が生い繁っている。  五千の兵団は、長蛇の列をなして、黙々とそのなかを進んだ。  原野の風景が杜絶える頃、山門へ向かってのびる参道と門前町の賑わいが、眼に入ってきた。  善光寺は、不思議な寺である。  創建についても諸説があり、さだかでない。宗派も天台、浄土の二宗に属し、真言宗本山の高野山とも関係がある。  古くから庶民の信仰の対象となり、季節を問わず参拝客で賑わっている。  本尊の一光三尊の阿弥陀如来は、欽明天皇の時代に、百済の聖明王が献じた三国伝来の秘仏で、蘇我、物部両氏の抗争の際、難波《なにわ》の堀江に捨てられたとの言い伝えがある。  同寺は、源頼朝や北条時頼の帰依を受け、建物の規模や数においても、諸国の寺のなかで群を抜いている。金堂、山門、仁王門、経蔵などの主要建造物以外に、三十を越える子院が、構内にひしめいて建っている。  それぞれ天台宗、浄土宗に属するものであるが、多宗混交の色彩が強いため、住持達のまとまりは見られない。  加えて、別当の栗田家が二家に分かれて、勢力を争っている。  利にさとい信玄が、それに眼をつけぬはずはなく、山栗田家が誘いに応じたのには、それなりの理由があったのである。  門前町には、土産物店や飲食店、旅籠《はたご》などが軒を連ね、商人の呼び声のなかを、旅人達が往き来している。  春日山城下とは比較にならない賑わいに、景虎は驚きを覚えた。  行手には巨大な山門が威圧感をたたえて聳え立っている。  景虎は駒をとめた。  門前町の賑わいを、合戦のために破ってはならぬと、ふと感じたのである。  考えた末、兵団を寺の北側に布陣させ、武田勢の侵攻に備えることに決めた。  伝令の武者にその旨を伝えると、馬首をめぐらせて、門前町を迂回した。  停止していた五千の兵が、動き出す。  景虎はやがて北上してくるであろう、信玄の馬上姿を思い浮かべた。  自分の弱点を衝く攪乱《こうらん》戦術が、腹立しく感じられてならない。 �今度こそは、容赦せぬ�胸のうちでそうつぶやくと、南に連なりを見せる山脈を凝視した。  和田峠を長蛇の列をなして越えている武田勢が、景虎には眼に見えるようであった。  兵団が善光寺の北側に着き、布陣を完了したのは、夕刻であった。  陽はまだ沈んではいない。  ぎらつくような陽光が、眼にまばゆく映る。景虎は、額の汗をぬぐった。  平原がひろがりを見せ、森や小山の風景が、絵に描いたような佇まいを見せて、眼に入ってくる。  平穏そのものののどかな眺めに、景虎は気持が安らぐのを覚えた。  しつらえられた幕間や小屋では、兵達が憩っている。  篝火を焚く準備も進められている。  武田勢の本隊が到着するまで合戦がないことが、お互いの心に余裕をもたせていた。  眺め渡したのち、景虎は、八名の武者とともに、馬に跨がった。  今夜以降は、善光寺で寝泊りする予定である。  一行は、語らいながら駒を進め、裏門からなかへ入った。  夕陽を浴びた境内の壮大な風景が、眼に入ってくる。  砂利を敷き詰めたなかに、松の古木が聳え立ち、巨大な建物が、あちこちに風格のある姿を見せている。  土塀の連なり、風雅な庭園や池、見え隠れする無数の支院住持の住居など、寺の伝統と歴史を象徴するあたりの佇まいを、景虎は無心に眺めた。  蜩《ひぐらし》の鳴き声に、耳を傾けながら、里栗田家の住まいに向かう。  時刻のせいか、参詣客はまばらであった。  宿坊へ向かう人達であろう。  遍路姿の旅人が十数人、賑やかに語らいながら、歩いてゆく。  一行は、景虎達のいかめしい姿を発見すると、恐怖の表情を浮かべて、足早に去っていった。  残照が消え、薄暮があたりをおおいはじめる。  住持の居宅に着くと、寺僧があらわれて、なかへ案内してくれた。  長い廊下を曲がったのち、一同はとある部屋に招じ入れられた。  予《あらかじ》め、使者を発してあったせいか、当主は快く迎えてくれた。  酒食の振るまいを受け、風呂を浴びたのち、一同はそれぞれの部屋にくつろいだ。  景虎は床の間に、鎧、冑などの具足類、刀を置き、いつでも出陣できる態勢を整えてから、あぐらをかいて酒を飲んだ。  孤独感が、胸のうちをよぎってゆく。  甲斐勢を、打ち破れる自信はなかった。  しかし、今回の機を逃がせば、善光寺平は、敵の手中に落ちてしまう。  巧妙な戦術を使う信玄の老獪さが、感じられてならなかった。  景虎は無意識に、右手に力を入れた。  鈍い音をたてて、盃が三つに割れ床に散る。  気性の激しさを感じて、自分でも、はっとなった。 �いかん、こんな心境では、戦わずして、信玄の軍門に降ったも同じだ�頭のなかを思いがかすめてゆく。  眼を閉じると、想念を断って、気持を落ち着けた。  己れに勝つことが、戦いに勝つことだと、胸のうちで思っていた。  翌朝は、夜明けとともに、眼をさました。  起きあがると、衣服を整えて部屋を出、洗顔をすませた。  不安は消えていた。  本庄実仍以下の部将は、まだ寝入ったままである。  そのまま、廊下を、本堂の方へ歩いていった。  寺の朝は早い。  往き来する僧侶の姿が、視野をかすめてゆく。  本堂に着くと、気持を整えてなかへ入った。  高い天井、頑丈な格子戸、内壁の仏画、金箔をあしらった巨大な仏壇、眼に映るすべてが華麗であった。  中央へ進み出ると、座布団のうえに正座した。  物音一つしない静けさに、あたりはおおわれている。  威儀を正すと、奥の本尊を凝視した。  誰の作かはわからない。  しかし、見詰めた瞬間、霊感にふれたようなおののきが、脳裏を走った。  幼少の頃、毘沙門天の像を眺めたときと同じ、魂のときめきを覚えたのである。  憂いをたたえたその表情は、いまの自分の心を、象徴しているように思われる。  掌を合わせると、首《こうべ》を垂れた。  雑念が去り、勇気が湧いてくる。  合戦のことを、景虎は忘れていた。  本堂を出ると、廊下に佇んであたりの風景を眺め渡した。  陽はまだ昇っていない。  鳩のわびしさを秘めた鳴き声が、郷愁をそそるように、聞こえてくる。越後を発ってから、はや七日が経過したことを、景虎は、思い浮かべていた。  朝食後は、寺内の各所をみて回った。  仏像や壁画、仏舎利塔などが心をひいた。  それらを眺めていると、気持が安らいでくる。  午後からは、部将達を集めて、合戦の打ち合わせを行った。  信玄は大軍を率いて、和田峠を越え、すでに善光寺平に入っている。両軍の激突は、時間の問題であった。  協議の結果、犀川《さいがわ》を挟んで武田勢と対陣し、一挙に勝敗を決する作戦が決まった。  長期戦になれば、味方の士気がそそうする。  それを景虎は恐れていた。  平穏な三日間が経過したが、予想に反して信玄は上田にとどまったまま、北上する気配を見せなかった。  土地の豪族を説得して味方につけ、兵力をふやそうとしているとの報告が、その後もたらされた。  信玄らしい戦略の展開に、景虎はほぞを噛んだ。だが、それに乗せられてはならない。  はやる心を抑えると、善光寺にとどまり、里栗田家とつながりを密にしながら、戦機の熟するのを待った。  いまはこれ以外に、術が見出せなかった。  短期決戦を目論む越軍に対し、武田勢は、長期戦の手術《てだ》てに出てきていた。  部将達のなかには、それに腹立ちを覚え、犀川を越えて進軍することを説く者もあらわれたが、景虎は認めなかった。  勇み足は、林の如く静かな武田勢に対しては、禁物であるからである。  八月を迎えると、暑さも峠を越え、野山の風景は、移ろう気配を見せてきた。  景虎は、敵軍の動静を読みながら、善光寺を出立《しゆつたつ》する準備を整えた。  小御堂主によって、越軍の状況が、武田勢に伝えられていることを、景虎は知っていた。そのため、油断を装って、寺内では部将達と酒を呑む毎日を過ごした。  しかし、両軍の虚々実々のかけ引きは、やがて終わりを告げるときが、やってきた。  信玄の北上を察知した景虎が、善光寺を発《た》つ下知を下したからである。  その夜、越軍は秘かに動き出し、月あかりのなかを、犀川へ向かって進んだ。  決戦の気配を肌で感じているのか、兵達は緊張の面持ちを見せていた。  森や林の風景が、月光を浴びて、不気味に眼に映る。 �生きれば生き、死せば死せ�自戒の言葉を、胸のうちでつぶやきながら、景虎は馬の進むに身を委せた。  犀川の近くに着いたのは、子の刻(午後十二時)頃であった。  直ちに陣地の構築が開始され、土塁や竹矢来、本陣の幕間、板葺の小屋などが、つくられていった。  馬上武者の声がひびき渡り、賑やかな兵達の会話が、活気を盛り上げる。  翌日もその次の日も、布陣のための作業に明け暮れた。  ここを拠点にして、武田勢と死闘を演ずる覚悟を、景虎は固めていた。  七日が経つ頃、敵の襲撃に備える施設が完成した。  山を背にしているため、武田勢に挟撃される恐れはない。  ひろがりを見せる陣地を眺めながら、景虎は、信玄のふてぶてしい影像を思い浮かべた。  陽ざしを浴びた山脈の風景が、眼に風雅に映る。  秋祭りの鐘であろう。のどかさと安らぎを秘めた音色が、どこからともなく聞こえてくる。  景虎は、無心にそれに耳を傾けた。  戦乱の世が、うそのように感じられてならなかった。  蹄の音が近づく気配に、景虎はわれにかえった。 「武田信玄の率いる軍勢八千が、只今、川中島に姿をあらわしました」  伝令の武者は馬を止めると、そう告げてきた。 「なに、信玄が……」  身が引き締まる思いであった。 「左様でございます。陣地は、ここから三里を隔てた大塚(長野県|更級《さらしな》郡)でございます」  報告に、景虎はうなずいた。  これからは犀川を挟んでの攻防戦が繰り返される。  長期戦を目《もく》ろんでいる信玄の心のうちは、景虎には読めていた。  越軍内部の士気の衰えを、待っているのである。 �戦いは、早目に決着をつけなければならない�馬首をめぐらせる武者の姿を眺めながら、景虎はそうつぶやいていた。  武田勢の陣地構築は、その日から開始された。  本陣を広くとり、前後左右を精鋭で固める八陣の構えが、みるみるできあがってゆく。  信玄は、本腰を入れて、善光寺平の制圧に乗り出してきたのである。  犀川を挟んでの両軍のにらみ合いは、五日間続いたが、均衡が破れるときが、やがてやってきた。  山栗田家の当主が、噂どおり、旭の要害(川中島北西)にたてこもって、信玄に内応する意思を明らかにしたからである。  武者からの報告に、景虎は愕然となった。  予想されたこととはいえ、心は暗かった。 「して、兵力は?」  気持を取り直すと、静かな口調で聞いた。 「信玄は、小御堂主の合戦参加に、わが意を得たりと喜んでおります。  そして、八千の兵のうちから、三千をさいて旭の要害へ入れ、弓八百張、鉄砲三百挺を備えて、拠点の一つにしたようでございます」 「なるほど」  景虎は答えて、眉間にしわを寄せた。  武者が去ると、部将達を集めて軍議を開いた。  そのなかで、景虎は、「晴信に対し、興亡の一戦を遂ぐべき」覚悟を披瀝して、出席者の気分を引き締めた。  最近は、無為に経過する日が多いせいか、兵達の士気がゆるんでいる。  加えて、陣中での喧嘩や無道が絶えない。  目的を失った人間にありがちなこととはいえ、景虎の心は痛んだ。  今回の出陣は、七月以降すでに二ヵ月近く経っている。  それに対する不満が、揚北《あがきた》(下越)出身の兵達には強い。  帰心矢の如しというのが、彼等の心境なのだ。 「決戦を目前にして、現在のような陣地内の状況では、さきが思いやられる。  今回の合戦は、おのおの方も存じておるとおり、長期におよぶおそれが強い。  しかし、それに耐えてこそ、越後の安泰が得られる。  それがしの正直な気持を言おう。  合戦にいや気がさした者は、国へ帰れ。  そのような者はおらぬ方が、皆のためによいのだ。  藤資も不満を抱く一人のようだが、この点をいかが考える」  景虎は、席上、単刀直入に聞いた。  甲斐勢との合戦を控えて、解決しておかなければならぬ問題だと判断したからである。 「われわれは殿のおかげによって地位が得られ、安泰の日々を過ごさせていただいております。  それを不満などと……。  配下にもよく達して、合戦に障りなきよう致しますゆえ、何卒ご寛恕《かんじよ》下されたく」  藤資は平身して、そう答えてきた。  景虎は笑みを浮かべた。 「わかればよい。今後同じことを繰り返すなら、そなた達の誓詞をとる。  左様心得ておいてもらいたい」  表情はおだやかであったが、反論を許さぬ厳しさが、口調に秘められていた。  揚北衆は、恐れをなしてひれ伏した。  景虎は席を立った。  さわやかな気持であった。  これで後顧の憂いなく、信玄に決戦をいどむことができると、心で思っていた。  翌日から越軍は合戦の火蓋を切った。  朝もやをついて、犀川の堤にあがると、「手明」を先頭に、川を渡った。  この季節は、水量が少ない。  そのため、流れを横切るのは、さほど難しいことではなかった。  対岸へあがると、兵を伏せて、敵陣の様子をうかがった。  軍旗が、本陣を囲んで林立している。  不気味とも言える佇まいに、景虎は息を呑んだ。  峨々たる山脈が、背後に連なり、朝もやのなかに、浮き出したその姿は、美しい絵であった。  越軍の渡河に、武田勢は気づいていない。  景虎は、軍配をかざした。  一千の兵と三百騎の騎馬武者が堤防に姿をあらわしてくる。  野に降りると、立木《たちき》のなかを進んだ。  騎馬武者が、蹄の音を殺して、あとに続く。  敵陣は、眼の前に迫っていた。  もやのなかに、武田家の家紋を染め抜いた幕間が、浮かびあがってくる。  信玄は、女人衆に囲まれて、そのなかで眠っているに違いない。  ほら貝の音が聞こえてくる。  越軍の侵攻を、武田勢は察知したのだ。  どよめきがあがり、騎馬武者を先頭に、抜刀した兵が、蟻の群れのように、越軍めがけて殺到してきた。 「撃て!」  景虎は激しい声で、下知を下した。  一千の兵は、叫び声をあげながら、立木のなかを突っ走った。  弓矢の射かけが開始され、鉄砲の発射音が、あたりの空気を振るわせる。  凄絶な白兵戦が、眼の前で展開されはじめた。  騎馬武者同士の激突が、手に汗握る興奮をかき立てる。  景虎は、馬上からその光景を眺めた。  お互いに傷つくことを恐れて、無理攻めはしていない。  味方が追えば、敵は退き、間を置いて再び逆襲に転じてくる。  その繰り返しである。  弓矢や鉄砲を受けて、戦死する者もいる。  しかし、その数はわずかであった。  攻防戦は、半刻に及んだが、決着はつかなかった。  越軍は、敵陣に、一たん迫ったが、騎馬隊の猛攻を受けて、退却をよぎなくされた。  陽ざしが、野山に注ぎはじめる頃、景虎は、休戦の下知を下し、兵を犀川の堤防下に集結した。  武田勢も、追ってくる気配はない。  双方の不気味なにらみ合いが続いた。  軍旗が風にはためき、馬のいななきが、静けさを破って聞こえてくる。  騎馬武者が数騎、挑発するように、至近距離に近づいてきた。  だが、越軍は、それを無視して憩った。  午《うま》の刻(午前十二時)が近づくと、小荷駄兵が、食糧を馬に積んでやってきた。  兵達はそれを争って受け取り、堤防に腰を下ろして食べた。  午後からは、武田勢が攻勢に転じてきたが、越軍の反撃に、一刻の攻防戦ののち、陣地に引き揚げていった。 「兵を引きますか」  直江実綱が聞いてくる。  陽は沈みかけていた。 「そうするか。明日も戦わなければならぬゆえ」  夕陽が、武田勢の陣地を浮き彫りにする。  ほら貝の音を合図に、越軍は犀川を渡った。  風雨が顔に吹きつけてくる。  冑からは雫がしたたり、体は、ずぶ濡れになっていた。  景虎は、唇を結ぶと、高所の城塞を凝視した。  旭の要害を囲んで、すでに十日が経っている。  越軍の攻撃を避けて、信玄は現在、ここに本陣を移している。  三千の兵と充実した武器、天嶮に支えられたこの砦は、城攻めを得意とする越軍も、容易に抜くことができなかった。  石垣が、威圧感をたたえて、眼に映じてくる。  景虎は、白布で顔をぬぐった。  攻撃の突破口を見出すことが、どうしてもできない。  足下の樹林では、四千の越軍が、鳴りをひそめて待機している。いまは全員が、これから展開される城攻めに闘志を燃やしていた。  風は高まりを見せ、雨足は激しくなった。  灰色の空に浮かぶ城塞が、威圧感をたたえて、胸に迫ってくる。天下取りの夢を破る障壁のように、景虎には感じられてならなかった。  越軍を見下ろしている信玄の姿が、脳裏に浮かんでくる。  焦りを、景虎は感じていた。  白皙の面は蒼白になり、眼だけが異様に輝いていた。  松籟の音《ね》に、馬がいななきの声をあげる。  城内は静まりかえって、物音一つ聞こえてこない。  石垣のうえには、風林火山の軍旗がはためいている。 �信玄め、……�  胸のうちでつぶやくと、軍配をかざした。  城門に迫り、それを力で制圧する以外に、道は残されていなかった。 「進め!」  激しい下知の声が、ひびき渡る。  景虎は馬を鞭打つと、疾風のように、霧のなかを突っ走った。 「手明」が、ときの声をあげて、山を登りはじめる。  四千の兵は、黒い塊となって、城門へ殺到していった。  陣鉦《じんがね》の音《ね》がとどろき、城内からは急を告げる太鼓の連打が聞こえてくる。  雨足を突き切って、敵の騎馬隊が、突如、姿をあらわしてきた。  心が凍る思いに、景虎の胸はつぶれた。  だが、たじろいではおられない。  闘志をみなぎらせると、腰の刀を払った。 �生きれば生き、死せば死せ�  毘沙門天の像を、脳裏に描きながら、景虎はガムシャラに馬を駆った。  蹄の音が耳をつんざき、くつわを並べて攻め寄せてくる巨大な塊が、形を大きくして迫ってくる。  景虎の胸は高鳴り、心は宙に浮いた。  刀を水平に構えると、眼を見開いて、襲ってくる人馬の一団を凝視した。  槍を構え、自分に狙いをつけている敵兵の姿が、視野をかすめてゆく。  武者のすさまじい形相が、眼に映じた瞬間、景虎は身を沈めて、刀を払っていた。  絶叫があたりの空気を震わせ、阿鼻叫喚の修羅場が現出される。  雨足は激しさを増し、視界はきかない。  刀と刀がふれ合う音が、聴覚をかすめてゆく。  体は、ずぶ濡れになっていた。  吹き寄せる風雨に、眼をあけることすらできない。  景虎は馬を御しながら、シャニムニ、刀を振るった。  眼は血走り、呼吸は乱れている。  激突した両軍は、一歩もひかず、白兵戦を、蜿々《えんえん》と繰りひろげた。  降りしきる雨が、おびただしい血を流し、もつれ合う人馬の姿を、映し出す。  城門は、目の前に迫っていた。  越軍は、それを目指して、怒濤のような進撃を開始した。  だが、城内から繰り出されてくる無数の兵と、騎馬隊に阻まれて、目的を達することができなかった。  武田勢のしたたかさを、今日ほど感じたことはない。  駒をとめると、あたりの光景を眺め渡した。  城門をめぐる攻防戦は、なお続いている。  本庄実仍や直江実綱の絶叫が肺腑をえぐるように聞こえてくる。  城攻めが困難なことを、景虎は感じた。  無念であるが、如何《いかん》ともなし難い。  総攻撃を開始して以来、半刻が経とうとしている。  兵達の疲労を考えれば、これ以上の合戦は、無理であった。  兵を引くほかないと判断した景虎は、休戦の下知を下した。  ほら貝の音がひびき渡り、四千の兵の動きが停止する。  静寂がよみがえり、不気味な緊迫感にあたりはおおわれてきた。 「あとひと月で、閏《うるう》十月でございますな」  中条藤資が言ってくる。  眉間にはしわが寄り、精悍な表情には、疲労の気配がただよっている。 「そうだな、しかし、このまま越後へ引き揚げるわけにはいくまい」  景虎は吐き捨てるようにつぶやいた。  兵達の不満はわかるが、ここで兵を引けば、信玄の術中にはまってしまうように感じられた。 「武田殿も、殿の執拗さには、音《ね》をあげているとのこと。そんな噂が近ごろ、どこからともなく流れております」 「それはまことか」 「まことでございます。  城内では、このまま合戦が続けば、兵の疲労が大きくなると憂慮する声が、あがっているとのことです」 「なるほど」  景虎は答えて、思案に耽った。  越軍内部における不満と同じものは、やはり、敵方にもあらわれているのである。 「合戦は、これだから難しい。  しかし、己《おのれ》に勝つことができなくて、どうして敵に勝てる。問題はその辺だ」  景虎は、静かな口調で語った。  藤資はだまってうなずいた。  景虎の言葉には、偽りがない。  この事実が、藤資に、部下の憤懣を抑えさせる方向へ、心を誘っていた。 「あとしばらく辛抱すれば、きっと道が開けてまいります。武田殿との我慢比べだと、わたくしは思いますが」 「そのとおりだ。城攻めを今後も続ければ、利にさとい信玄のこと、必ず心変わりを見せて、折れてくるに違いない」  景虎ははじめて、心のうちを明かした。  合戦に勝つことだけが、敵に勝つことではない。  かつて、光育から教えられたこの考えが、正しいことを、景虎は、ここ十日に及ぶ攻防を通じて悟っていた。  焦りが、心から消えてゆく。  雨は小やみに変わっていた。  西の空が明るさを増し、黒雲が東へ流れてゆく。  雨足が遠のく気配に、景虎は、安堵の表情を浮かべた。  晴れあがる霧のなかに、砦の全景が浮かびあがってくる。  築かれた石垣や土塁、そのなかの館の連なり、城壁の間に見え隠れする軍旗、武田勢の拠点にふさわしいその眺めに、景虎は息を呑んだ。  信玄の野望が、その姿にあらわれているように感じられてならなかった。  川中島が、足下に無限のひろがりを見せている。  信濃は、はや晩秋の季節を迎えていた。  景虎は、馬首をめぐらせた。  四千の兵は、ほら貝の音を合図に、隊列を整えて、山を下っていった。  翌日もその次の日も、越軍は、城攻めを敢行した。  信玄が音をあげ、砦を放棄するまではやめない。これが、景虎の考えであった。  合戦のなかで、二十日が経過した。  この頃になると、両軍の疲労はつのり、「人馬ノ労《つか》れ申すばかりなく候」と言われるまでの状態に達した。  越後を発って以来、百五十日が経とうとしている。  武田勢内部もさることながら、味方の陣地でも、兵達の不満がつのっていった。  中条藤資が、必死になって説得にあたっても、揚北出身の将兵達は言うことを聞かなかった。  陣地内での無道が絶えず、合戦に参加することを拒否する者まで、あらわれる始末である。  ここにきて、景虎は、士気を引き締めるため、かねて達してあった非常手段に出た。  部将達を本陣に集めると、次のような文言の誓詞に、署名させたのである。 一、在陣が何年に及んでも、命令に従い、馬前で奮戦すること。 一、陣中で、喧嘩や無道をはたらく部下は、成敗すること。 一、防備について、意見あらば、心底を開陳すること。 一、攻撃に関しては、何処へでも命に従い、赴くこと。 一、軍を引いて、再度出陣するときは、一騎でも馳せ参じ、馳走すること。  天文二十四年(弘治元年)十月  本来であれば、このような手段には、出たくない。  しかし、武田勢との決戦に敗れることは、相手方に越後への侵攻を許すことになる。  兵達の疲労が極限に達した現在が、浮沈を分ける岐路だと景虎は考えていた。 「苦しみを乗り越えたときに、希望の曙光が見出せる。われわれは、このことを忘れてはならぬ。  味方が喘《あえ》いでいるときは、敵も苦しんでいる。  信玄は現在、今川義元に使者を送っていると伝えられるが、これはわれわれの攻撃に音《ね》をあげ、和睦に動いている証拠だ。  そのようななかで、敵方に先だって陣地を放棄すれば、どのような結末になるかは、おのおの方にも、わかっておろう。その辺を揚北衆は、よく考えていただきたい」  景虎は色部、黒川、新発田《しばた》、安田、水原《すいばら》などの諸将を見据えて、厳しい口調で達した。  気迫のこもった言葉に、揚北衆は、眼を伏せた。  反論する者は、いない。  本庄実仍や直江実綱の顔に、安堵の笑みが浮かぶ。  中条藤資も、救われたような表情を見せていた。  部将達は、その場で文面に署名した。  士気を回復した越軍の城攻めは、その後も続いた。  執拗さに、信玄は、遂に講和の決意を固め、閏《うるう》十月を迎えて間もなく、使者を越軍の本陣へ遣わしてきた。  風の吹きすさぶ寒い日であった。  野山の風景は、冬枯れの気配を見せている。  あと十日も経てば、善光寺平は積雪におおわれるのである。  長期戦になれば、兵站線の長い甲斐勢は、不利になる。  この見透しが、信玄に北信経略を、一時あきらめる心境にさせていた。  武者からの注進に、景虎は使者を、本陣の幕間に招じ入れて引見した。  年齢はさだかではない。背が低く、肩幅は並みはずれて広い。顔は浅黒く、眼は光を放っていた。  緋おどしの鎧をまとい、腰には、白鞘《しらさや》の長刀を佩いている。  異様とも思える風貌に、景虎は息を呑んだ。  しかし、それ以上に心を驚かせたのは、その武者が隻眼で、左足を引きずっていることであった。 「それがしは、武田入道の軍師を務める山本勘介と申す者、お見知り置き下されたく。  隣なる者は、今川義元殿の家臣、斎藤利助殿にござる」  使者の口上に、景虎は、はじめて納得がいった。  信玄から八百貫の知行を与えられている軍師、山本勘介の名は、越軍内部にもとどろいている。  だが、その姿を眼《ま》のあたりに見た者は、いない。  風林火山の兵法も、信玄の北信経略の構想も、すべて勘介の入れ智慧であることを、景虎は知っていた。  部将達の間に、ざわめきの声があがる。  越軍を苦しめた張本人の一人が、白昼、供も従えずに乗り込んできたことが、彼等を驚かせたのである。  斎藤利助は、悠然と構えて、会釈をしただけであった。  四十歳前後であろう、風格のある姿が、義元の家臣団のなかの有力な部将であることを感じさせた。 「それがしが長尾景虎だが、合戦のさなかに、どのような用件で参られた」  景虎は、床几に腰を下ろしたままの姿で、勘介に聞いた。  宿敵の一人のように、感じられてならなかった。 「今回の合戦は、ご承知のとおり、刃《やいば》を交じえること百五十日余に及び、兵達の疲労は、極限に達しております。  このまま交戦を継続せんか、とも倒れになるは必定。天下の形勢、混沌たるなかで、このようなことは許されませぬ。ついては、わたくし儀、その辺を慮り、武田入道に和睦を結ぶことを進言致しました。  そして、駿河の今川義元殿に斡旋をご依頼申し上げておりましたところ、昨日、斎藤殿を介して、その親書が届けられました。  お目通しのうえ、御意《ぎよい》を賜わりたく、参上仕った次第にございます」  凜とした声が幕間のなかに、ひびき渡る。  語り終わると、勘介は、利助を促して、書面を差し出させた。  恐れを知らぬ態度に、景虎は勘介が只者でないことを感じた。  書状の封を切ると、その場で読んだ。  勘介が述べたと同じ趣旨の言葉が、達筆な字で書かれ、最後に義元自身の署名がしてあった。  予感の的中に、景虎の胸は高鳴った。 「それがしも、武田殿や今川殿の考えに、異存はない。ただし、いますぐ返事をと言われても、分別がつきかねる。  後日、使者を遣わして、正式に意を伝えることとしたい。  問題は、講和の条件を、いかに定めるかだ。  それが、越軍に不利であれば、申し入れを受諾するわけにはまいらぬゆえ、心得置き下されたく」  景虎は、落ち着いた口調で、そう言葉を返した。 「わかりました。では、正式の返事をお待ち申しております」  勘介は答えて、席を立った。  景虎は、幕間の外まで、二人を見送った。  冑を着用し、威儀を正すと、勘介は、景虎を一瞥《いちべつ》して、馬に跨った。  いつかは雌雄を決しなければならない宿命を、お互いが感じていた。  背をこごめるように丸めて荒野を疾駆する勘介の奇怪とも言える後姿が、景虎の脳裏に焼きついて離れなかった。  翌日、景虎は部将達を集めて協議の結果、先方の申し入れを受諾することを決めた。  その日から、両軍は停戦状態に入り、五ヵ月間に及ぶ戦乱が終息した。  越軍の決定は、旭山城の信玄に伝えられ、翌日から、斎藤利助立ち合いのもとに、講和の条件が、双方の部将達によって煮詰められた。  越軍は、旭山城の破却と善光寺以北の越後方諸士の安泰保障を、絶対の条件として主張してゆずらなかった。  そのため、山本勘介と本庄実仍との間に、激論が交わされ、一時は険悪な空気が、両軍の間にただよった。 「勘介は知恵者じゃ、その策に乗ってはならぬ。武田勢が当方の条件を呑まぬなら、合戦の再開も已むを得ぬと、厳しく申し渡せ」  旭山城での会議に臨む実仍以下に、景虎は、決意を秘めた口調で達した。 「承知致しました。弱気を見せた武田勢のこと、恐るるには足りませぬ」  実仍は自信にあふれる声で答えて、陣地を発っていった。  講和条件は、甲州側で起案され、そのなかには、信玄の野心をのぞかせたものが、多数見受けられたが、景虎は交戦の意思を背景に、そのことごとくを蹴った。  閏《うるう》十月十三日の夕刻になって、ようやく講和の条件が整い、越軍の申し入れは、全面的に認められた。 「やはり殿の説得が、味方の兵士の不満を抑え、有利な講和を結べるもとになったと思われます」  実仍が安堵の表情を浮かべて言ってくる。 「なにごとにまれ忍耐が、成果をもたらす根源だ。  関東経略にあたっても、この心掛けを忘れてはならぬ」 「言われるとおりにございます」 「しかし、今回の和睦で、信玄が善光寺平の制圧をあきらめたとみるのは早計。変幻の術を使う信玄のこと、後年、必ず巻き返しに出てくるに違いない」  予感のような気持であった。  二人は、陣地の外に佇んで、冬枯れにおおわれたあたりの風景を眺め渡していた。  閏《うるう》十月十五日に、両軍は正式に講和を結び、陣地を払った。  荒涼たる野山の佇まいが、わびしさを誘う。  景虎は馬に跨って、兵団の先頭を進んだ。  攻めあぐんだ旭の要害が、遥かに見える。  だが、それもやがて破却される。  善光寺以北の諸士の安泰も保障され、越後への甲軍の脅威も除かれた。  長期に及ぶ、酷烈な戦いであったが、景虎にとっては、このことがなによりも心の安らぎになった。  馬の背にゆられながら、景虎は、守護代の地位に就いて以来、念頭から去らなかった諸問題が、これで片付いたと思った。  あとは国内を治め、然るのち関東へ経略の兵を進めるだけである。  五千の兵は、休憩予定地の善光寺へ向かっていた。  家族に会えることが嬉しいのであろう。兵達の表情には、明るさがかえっている。  善光寺に着いたのは、未《ひつじ》の刻(午後二時)前であった。  兵達は直ちに、野営の準備にかかり、一刻を経ずして、それを終わった。  酒が全員に配られ、陣地内は、合戦が終わった喜びで湧き立った。  その夜、景虎は部将達とともに、善光寺に宿泊し、夜の更けるのも忘れて酒を飲んだ。  翌日は早目に起きて、本堂に参詣し、本尊の仏像を仰いだ。  かつて感じた霊感のような気持は、いまも脳裏に残っている。  眺めながら景虎は、本尊を越後へ持ち帰り、城下に御堂を建てて、安置しようと思い立った。  善光寺は、講和の建て前からすれば、今後は甲州勢の支配下に置かれる。しかも、大御堂主の里栗田家は、越軍に味方していた。その報復として、信玄が本堂内の仏像や什宝《じゆうほう》を破却或いは持ち帰ることは、容易に想像される。  景虎はそれを恐れていた。  信玄の手に渡るなら、自分の手で守りたい。  これが偽らざる気持であった。  お詣りを済ませると、住持の居宅を訪れて、その旨を申し出た。 「いまは乱世のこと、長尾殿の言われることも、わたくしにはよくわかります。  信玄は、無道を行っても罪の意識を覚えない冷酷な人物。大御堂の本尊以下を破却し、小御堂主を善光寺の総帥にたてることもやりかねませぬ。  あの仏像は、三国伝来の由緒あるもの。それを破却されては、里栗田家がたってゆきませぬ。  貴殿は、仏門に帰依される奇特なお人柄。当節の武将には珍しい筋目を重んずる姿勢に、わたくしはかねてより敬服致しておりました。  仏像の有難さは、この道にたずさわる者でなければわかりませぬ。その点、長尾殿には保管を依頼しても、果たしてくれるとの信頼感がございます。  越後へ持ち帰られる儀についてはそれゆえ、異存はございませぬ」  住持の言葉に、景虎は安堵の表情を浮かべた。 「左様でござるか。当主の言葉を聞いて、それがしも安心した。  本尊以下は、一時、長尾家で預かることに致し、戦乱が収まった時点で、当寺へ返すことと致す。これはそれがしの沽券にかけても、確約申し上げるゆえ」  景虎はそう言葉を返した。  住持の居宅を去ると、部下に命じて、本尊を箱に納め、併せて金銅|五鈷《ごこ》、仁治《にんじ》二年および貞応三年の銘のある金銅鈴、善光寺如来宝印、金牛仏舎利塔などの什宝を梱包させて、寺外に運ばせた。  そして、午後これらを馬に積んで、善光寺を発った。  春日山城に帰り着いたのは、翌日の午後であった。  留守居の部将達が出迎えるなかを、自分の館へ向かって、駒を進めた。  さわやかな気持であった。  信濃口も小康状態を呈し、案ずるものはない。今後は仏道修行と読書三昧の毎日を送ろうと、景虎は考えていた。  庭の木々を、風が揺すっている。  景虎はそれに耳を傾けながら、思いに耽っていた。  現在は、国内の治安も回復し、庶民の生活にも安らぎがかえっている。  春日山城下も、北信からの移住者で、日毎に振わいを見せ、人口は一万人近くにふくれあがっている。  豊かな国、越後を象徴する姿を見せはじめていたのである。  だが、景虎の心は、空虚であった。  老臣大熊朝秀と本庄実仍、庄田定賢らの確執が相変わらず続き、城内の空気が殺伐としていることが原因であったが、合戦の気配が失せて、若さのはけ口がなくなったことも、生来の心の憂鬱を誘うもとになっていた。  近頃は、物思いに耽る日が多く、剣や馬術の修業は、なおざりになっている。  五ヵ月余におよぶ武田勢との死闘が、これらへの拒否反応をおこさせていることを、景虎は知っていた。  文机の前に座って眼を閉じていると、徳が茶をもって入ってきた。  自分に子種がないことを知って以来、景虎は、徳との肉体交渉を、恥じるようになった。  憂鬱の原因は、その辺にもあった。 「毎日、毘沙門堂にこもっておられたのでは、体に毒でございますよ。  ご家来衆を連れて、狩りにでもでかけられたら、気持も晴れましょうに」 「狩や剣、馬術などが、心の病によいことはわかっている。しかし、神経の不安に襲われると、動作そのものが億劫《おつくう》になってくる。なにゆえか、自分でもわからぬ。  朝秀と譜代の臣との確執も、それがしには心にこたえている。一層のこと、まつりごとを家中《かちゆう》の者に委せて隠棲し、仏道修行三昧に耽りたいとも考えているのだが」  景虎の口調は、沈んでいた。 「二十六歳の若さで、なにをおっしゃいます。  そのような言葉を聞くと、徳は悲しゅうございます」 「しかし、家臣達が、自我をむき出しにして争う姿をみると、そのような気持にもなってくる。  やはり、それがしには、武将より僧侶が似合っているのかも知れぬ」  景虎の表情からは、かつての勇将の面影は消えていた。 「殿様ともあろう人が、なぜそのようなお考えを。徳には理解できませぬ。  心の病がそうさせていることは、わたくしにも察しがつきます。しかし、お気持さえ転換できれば、きっと昔の殿様にかえられます。  いまは心豊かに、毎日を送られることが肝要かと存じます」 「それがしの病は、生来のものゆえ、容易になおらぬ。  高野山にでもこもればと、近頃は、真剣に考えるようになった。哀れなものだ」  景虎は語って、自嘲の笑みを浮かべた。  信玄のように、力で家臣達を統御できない自分が、みじめに感じられてならなかった。  打って変わった景虎の姿勢に、徳は眼頭をうるませた。  風の音に耳を傾けながら二人は、物思いに耽りつづけていた。  年の瀬を迎えても、景虎の憂鬱は晴れなかった。  今年は、年末の諸行事も、本庄実仍や直江実綱に委せて、毘沙門堂にこもる毎日が続いている。  そのような景虎を、家臣や女中達は案じたが、いまはなす術《すべ》がなかった。  朝秀一派の不穏な動きは、この頃からあらわになった。  実仍らは、それを力で制して、表面上はことなきを得ているが、景虎の発病を契機に、春日山城内は、揺れ動いていた。  信玄に内応する気配を見せる者も、あらわれる始末である。  長尾政景は、この情勢を憂慮し、部将達を説諭したが、はかばかしい成果はあげられなかった。  暗い城内の雰囲気のなかで、弘治二年(一五五六)の元旦を迎えた。  その日、景虎は、徳と武者一人を連れて、馬で山を降り、麓の春日神社に詣でた。  城内にこもりきりであったせいか、外出すると、さすがに気分が晴れてくる。  徳は安堵の表情を浮かべて「春を迎えれば、きっと、殿様の病も、よくなられますよ」と慰めの言葉をかけてくれた。いまは彼女だけが頼りであった。  二月を迎えると、一時小康を保っていた景虎の病状は、再び悪化し、自室にこもる毎日が続いた。  そのようななかで、三月はじめ、景虎は部将達を館の広間に集めて、隠居する旨を告げ、政務から身を引くことを、明らかにした。  突然のことに、長尾政景や本庄実仍は、色を失った。 「なぜそのようなことを、殿は越後の国主ではございませぬか。先年はみかど(後奈良天皇)より、兇徒討伐の綸旨《りんじ》を賜わり、将軍足利義輝様からも、天下平定の望みを託されました。  そのような殿が、二十七歳の若さで、まつりごとを放棄すれば、諸国の武将のもの笑いの種になります。  なにとぞ隠居の儀だけは、思い止まられますよう」  政景は、必死の面持ちを見せて、そう進言してきた。  実仍や実綱、高梨政頼らも、同じ言葉を述べて、翻意《ほんい》を促した。  しかし、景虎はきかなかった。 「それがしは、若年にして国主の地位に就き、曲折はあったが、ともかく越後を現在の姿に、もってくることができた。これでそれがしの務めは終わったと、率直に考えている。あとは皆が協議して、政務を遂行《すいこう》してくれればよい」  景虎は心のうちを抑えて、そう語ると、大熊朝秀を見据えた。本来であれば、朝秀以下は、斬って捨てても、おしくはない。  だが、仏道を志す景虎には、そのようなことはできなかった。憂鬱のほんとうの原因は、その辺にあった。政景は姿勢を正した。 「しかし、殿。あなたが隠居なされれば、誰が執務を代行されます。そのような器量を備えた者は、部将達のなかにはおりませぬ。  殿には、それがおわかりにならぬのでございますか」  眼は血走り、声は震えていた。  政景は現在、景虎の補弼《ほひつ》役として、敏腕を振るっている。一族の雄でもあり、その発言には、景虎とて、耳をかさぬわけにはいかない。  しかし、いまは違っていた。  朝秀ほかの奸臣が、城内で幅をきかせている限りは、関東経略はおろか、国内統一さえおぼつかない。  その絶望的な気持が、景虎に天下取りの夢を捨てて、僧侶への道を指向させていた。 「言われる意味は、それがしにもわかっている。  しかし、城内が現在のような状態では、執務に打ち込む気持になれない。  とにかく、それがしは、越後に平和がよみがえったのを機に、まつりごとから身を引かせてもらう」  景虎はゆずらなかった。  政景は視線を伏せて、思いに耽った。  暗い空気が室内をおおってゆく。  朝秀以下は、腕組みしたまま、語ろうともしない。  諸将乱立の越後の特殊事情を、そのままあらわした室内の光景ではあった。  やがて、打ち合わせは終わった。  部将達は、沈んだ表情を見せていたが、朝秀達はそうではなかった。  景虎の引退を、勢力をのばす好機と感じているのか、顔には笑みさえ浮かんでいた。  季節は夏を迎えた。  さわやかな風が、館のなかを吹き抜け、松の緑が、眼に沁みるように映る。  景虎は、廊下に佇んで、思案に耽っていた。  白皙の面は、生気を失い、眼はうつろであった。  執務を停止して以来、早、三ヵ月半が経っている。  この間、城内では、長尾政景が中心になり、譜代の家臣がそれを援けて、まつりごとだけは、滞りなく進められていた。  病状はその後、快方に向かっている。  しかし、心の憂鬱だけは、容易にとれなかった。  大熊朝秀の不穏な動きが、神経を刺激するのである。  いまは、天下取りの夢を追う覇気は失せていた。  京へのぼったとき、眺めた比叡山の風景が浮かんでくる。�越後を離れて、延暦寺《えんりやくじ》へ行ってみよう。そこで、修行を積めば、心の不安から解放されるかも知れぬ�  考えた末、景虎はそう結論を下した。  自室に帰ると、文机の前に座って、筆をとった。  最近は、宗心《そうしん》という入道名に、呼び名を改めている。  仏道修行に、本格的に打ち込もうと考えたからである。  書翰は、禅の師である長慶寺、衣鉢侍者禅師(天室光育)宛にしたためた。 「今般出奔の事」と題して、隠退の経緯を述べ「愚意《ぐい》の有増《あらまし》」を、誤解している者に、説諭して欲しいと依頼するつもりであった。  これは越後を去る景虎の書き置きの書面でもあった。  気持を鎮めると、思いつくまま文章を連ねた。  守護上杉家に対する為景没後の忠誠と、国内平定に先ずふれ、次いで北信の諸侯の領土を安らげた経緯を述べ、長尾家歴代の功績が、自分の代になり、不足があったのではとの反省を、率直に記載した。  あとは最近の状勢にふれ、家臣達の覚悟がまちまちで、統制が困難である内情をありのまま書き、進退を改める方が、事態の円満解決のためによいとの意見を付記した。  つづいて、先祖の功績にふれ、長尾家は高景(魯山)・実景(因幡守《いなばのかみ》)・重景(実渓)・能景(正統)・為景と武名が高く、自分も栃尾に自立して長尾家を再興し、先年は上洛参内して、天盃《てんぱい》、御劒を賜わり、名利過分至極であると、記載した。  そして最後に、越後は豊饒《ほうじよう》な国であるが、自分が永く政権の座にあれば、無理が生ずるおそれもある。 「功成り名遂げて身退く」のたとえもあり、この際、身を引き、遠国にとどまりたいと意思のほどを表明し、今後は家中、譜代の者にまつりごとを委せ、自らはそれを見守ることとしたいと書き添えた。(以上「謙信と信玄」による)  六月二十八日の日付と�宗心�の署名をし、�衣鉢侍者禅師殿�と書いて、筆を擱《お》いた。  半刻が書状作成のために費やされたことを、景虎は知らなかった。  面をあげると、眼を閉じた。  動揺を覚えるなかで書いたこの書面が、本来の自分の考えをあらわしたものであるか否かについては、自信がなかった。ただ、景虎の心理状態は、この程度の内容のものを書くことで、精一杯の状況であったのである。  蝉の声が、静けさを破って聞こえてくる。  月が改まれば、早々に越後を発とうと、景虎は決意していた。  翌日、景虎は、本庄実仍を呼んで、叡山へ赴く旨を告げた。  覚悟を決めていたのか、実仍は驚かなかった。 「殿はここ数年、心労の連続でございましたゆえ、まつりごとにいや気がさしたのでございましょう。  比叡山や高野山に赴き、仏道修行三昧の生活を送られれば、心の病も癒《い》え、昔の面影を取り戻されるに違いありません。  朝秀が殿の出奔により、どのような姿勢にでてくるかも、見ものでございます。揚北《あがきた》衆を統御するよい機会でもありますゆえ、思い切ってお出かけ下さいませ。  あとは、それがしが、政景殿と協議して、よきに計らいますゆえ」  栃尾以来の直臣にふさわしく、実仍の言葉には、深謀遠慮が秘められていた。 「ではよろしく頼む。  ただ、それがしの考えはそなたとは違う。  ほんとうにまつりごとを捨て、僧侶への道を歩みたいのだ」  景虎の口調は、真剣であった。  実仍は、景虎の表情をじっと見詰めた。  怒鳴りつけたい衝動に駆られているのであろう。こめかみには、青筋がたっている。 「政景殿や直江実綱、中条藤資が、只今のお言葉を耳にしたら、なんと言われるか、殿にはわかりませぬか。  しかし、病を得られた殿に、このようなことを申し上げても詮なきこと。  とにかく、叡山でも高野山でも、殿が行きたいところへ出かけて、心を鎮めて下さりませ。  ただ、現在は乱世のこと、呉々もお命《いのち》にだけは気をつけられますよう。供には、安田惣介以下をつけますゆえ、安堵されたく」  実仍は心のうちを抑えて、そう答えた。  景虎は溜め息を洩らした。  自分の一存で、わがままを言っていることは、わかっている。  だが、いまは自分でもどうすることもできなかった。  越後を去らなければ、気がふれてしまうように思えるのである。 「そなたには、十四歳のときから、苦労をかけた。済まぬと思っている。  しかし、今回の件だけは許してくれ。いずれ書状を寄せて、そのときどきの心境を知らせるゆえ」  景虎の声は、震えていた。暗澹とした気持であった。  なぜ国元を離れたい心理になるのか、自分でもわからなかった。  実仍は、悲しみの表情を浮かべてうなずいた。  蜩《ひぐらし》の鳴き声が聞こえてくる。わびしさを秘めたそのひびきを、二人は、思いに耽けりながら聞いていた。  七月二日、景虎は惣介以下、五名の供を従えて、早朝、春日山城を発った。  館の玄関を出るとき、徳が、「どうか体には気をつけて下さいませ。徳は一日も早く、殿様が越後へ帰られることを、毘沙門天様にお祈り申し上げております」と涙ながらに語った言葉が、景虎の心に残った。  徳は、これまで泣いた試しがない。それだけに景虎は悲しかった。  朝日が、東の空にのぼりはじめる。  洞然《どうぜん》として、いまだ光はない。  いまの自分の姿を象徴しているように思えてならなかった。  十九歳で守護代の地位について以来、早八年が経っている。天下取りの夢に支えられ、国主の体面をけがさぬ思いだけで、なんとか過ごしてきた。  だが、いまはその覇気も失せてきた。  武将よりも、僧侶が、自分の気性にあっている。  ここ数ヵ月、思案した末のこれが結論の考えであった。白皙の面は蒼白になり、頬はこけている。  黒装束の衣裳をまとい、顔を白布でおおっているものの、昔の精悍さを秘めた景虎の面影は、跡かたもなく消えていた。  間道を通って広場へでると、朝もやのなかに聳える城門を仰いだ。  再び春日山城に帰ることはあるまいと、心で思った。  門を出ると、つづら折りの道を下った。  二十年前、父の柩を守って歩いた記憶が、脳裏に浮かんでくる。  あの頃から、景虎には、苛酷な運命が待ち受けていた。  家臣の要望を担って、武将へ志を変えてみたものの、行きつくところは、師の光育と同じ道であったのである。  山麓に降り立つと、道を北へとり、郷津に向かった。  そこには、水軍の基地がある。  先年上洛したときと同じ経路をたどって、比叡山へ登ろうとしている自分を、景虎は知っていた。  城下町は静まりかえっている。  後髪をひかれるような思いがするが、いまはこの考えを捨てなければならなかった。  一行は、海岸へ出た。  水平線が東西に果てしなくのび、照りつける陽光に、海面がキラキラ輝いている。  他国で安らぎの日々を送れる喜びを、景虎は噛みしめていた。  帆船が一隻、海上から音もなく近づいてくる。  やがて、さざ波の立つ岸辺に着くと、人馬を載せて、とも綱を解いた。  順風に乗り、舟は、矢のように能登半島の先端へ向かって進んでいった。  上洛のときと違って、日時に制限がない。  そのゆとりが、景虎に能登の風景を賞《め》で、釣りに興ずる気持をおこさせた。 「こうしてのどかな日々を過ごしていると、病の気配が失せてくる。  不思議なものじゃ。  やはりそれがしには、俗塵を離れた暮らしが、合っているのかも知れぬ」  東尋坊の景観を眺めながら、景虎はつぶやいた。 「いまは病ゆえ、そのような心境になられるのでございましょう。しかし、殿は越後の国主でございますから……。  将来は、天下を取っていただきませぬと、われわれの望みも失せてしまいます」  三十歳の惣介には、人生にかける夢があるのであろう。  口振りに、それがあらわれていた。 「それがしには、天下取りなど関わりなきこと。  国攻めにも興味をおぼえなくなった……」  景虎は語って、視線を海の彼方に移した。  かもめが海面を、鳴き声をあげて飛んでゆく。  その行方を追いながら景虎は、惣介に長尾家にゆかりのある「景」の字を許し、政務の枢要な地位につけようと考えた。  惣介ならば、実仍や実綱の跡を継いで、国を治めることができると判断したのである。 「これはそれがしの変わらぬ心じゃ。  どうであろう。今後、そなたは、景元と名乗っては……」  景虎の言葉に、惣介は驚いたような表情を見せた。 「そのような滅相なことを。景の字は、長尾家の方のみに許される格式のある呼び名。わたくし如き、小領主が名乗ったのでは、実《じつ》が伴いませぬ」 「いや、いや、そなたには、景の字を冠するだけの器量が備わっている。実仍達のあとを継いで、長尾家を盛り立ててはくれぬか。  それがしのたっての頼みじゃ」  景虎の説得にかかわらず、惣介は了承の返事を返してこなかった。  船は�三国�へ向かって進んでいた。  夕刻、一行は、岸辺の目立たぬところに船を止めて、夜を明かし、翌日早朝、敦賀へ向かって発った。  昨年の川中島合戦の際、同盟を結んでいた朝倉義景は、叔父の宗滴(教景)に加賀に攻めこませ、一向一揆が、景虎出陣の虚をついて越後へ攻め込むことを、防いでくれた。  その意味では、越前は�安全な国�になったわけであるが、問題は、長尾家と不倶戴天の関係にある一向一揆であった。  身分を秘した旅立ちとはいえ、捕縛されれば、いかなる仕置を受けるかわからない。  景虎は、それを恐れていた。  夕陽が、西の空を染めたと思うと、海面が金色《こんじき》の輝きを放ってきた。  しかし、風景の美しさを賞でる余裕は、景虎にはなかった。  薄暮が迫るのを待って、船は海岸の波打ち際に近づいて、人馬を降ろした。  蹄の音が、かすかに聞こえてくる。  一行の存在に、何者かが気づいたのである。 「船はすぐ海上へ去れ。われわれは、進路を東へ取る」  追手が三十数騎の多勢であることを感じた景虎は、そう指示を下すと、水しぶきをあげて、海岸へ駈けあがり、馬首をめぐらせた。  不安は消えていた。  鞭を一せんすると、海岸沿いを東へ向かった。  六騎の武者は、黒い塊となって、闇におおわれはじめた漁師町を疾駆した。  夕餉《ゆうげ》の煙が、視野をかすめてゆく。  敦賀の東を、さらに東へ向かっている自分を、景虎は知っていた。  蹄の音に飼い犬が、激しい鳴き声をあげる。  景虎は身の危険を感じたが、いまはなす術《すべ》がなかった。  武者のわめき声が、耳底をかすめてゆく。  地鳴りのような音が轟き、かや葺《ぶき》の民家の連なりが、眼にもとまらぬ早さで、後ろへ飛んでゆく。  住民達が、刀や竹槍をかざして、行手に姿をあらわしてきた。  一揆の姿を、眼のあたり見て、景虎は胸をつかれた。  彼等を斬殺し、蹄にかけることはたやすい。しかし、本願寺証如と盟約を結んでいる景虎には、越後の国主の体面にかけても、そのような行為に、出ることはできなかった。  手綱をしごきながら、馬を激しく鞭打った。  追手は、背後に迫っていた。  刀をかざしている光景が、脳裏に浮かんでくる。  追いつかれれば、流血の騒ぎに発展し、家臣達も傷つく。  襲いかかってくる一揆の群れのなかを、一行はガムシャラに突き進んだ。  彼等の顔、形はさだかではない。  だが、憎しみに燃える眼ざしだけは、はっきりと認められた。  やがて村落を突き切り、野にさしかかった。  一揆の姿はあとかたもなく消え、蹄の音も遠のいていた。  景虎は、安堵の溜め息を洩らした。  速度をゆるめると、馬首を南西へ転じた。 「越前は聞きしに勝る剣呑《けんのん》な国でございますな」  惣介が言ってくる。 「左様。このあたりは近頃、合戦の気配におおわれている。  今後はますます殺伐な国に変わるであろう」  予感のような気持であった。  国攻めに猛威を振るう織田信長の触手は、ゆくゆく越前にも及ぶ。  朝倉義景を倒すことが、天下取りを果たす基本的な条件であるからである。  一行は荒野を、黙々と進んだ。  民家の灯が、眼にわびしく映る。 �徳はいま頃、どうしているだろうか�とふと考えた。  悲しみに沈んでいるその顔が、景虎には眼に見えるのである。  こうして他国を旅していると、かえって心が安らいでくる。自分でも、それが不思議であった。  人里離れた山麓に、一行は馬をとめた。 「今夜はここで憩い、明日早朝、琵琶湖へ向かおう」と景虎は、家臣達に告げた。  剣や馬術の修業から、遠ざかっているせいか、体が綿のように疲れていた。  食事を済ませると、すぐ寝に就いた。  月が中天にかかり、淡い光を投げかけてくる。  眺めながら景虎は、今後の身の処し方に、思いをめぐらせていた。  翌朝は、夜明けとともに眼をさまし、山間の平地を選んで、馬を駆った。  幸いに野盗や一揆の襲撃を受けることはなかった。  琵琶湖の北端に着くと、付近の旅籠に宿泊した。  馬は供の者に託して、長尾家ゆかりの地主の家へ預けさせた。  薄暗い灯に映える天井を眺めながら、景虎は思いに耽った。  国主の地位を捨て、僧侶への道を歩もうとしている自分が、みじめに感じられてならない。  苛酷な道を避け、安泰なそれを選んでいるように思えるのである。  寝つかれぬまま、景虎は何度か寝返りを打った。  翌日は、上布の衣裳に身なりを変えて、付近の舟着場から、渡し舟に乗った。  上洛の際の経験が、景虎の行動には生かされていた。  湖岸に聳え立つ比叡山を眺めながら、�こんなことでよいのだろうか�と自問してみたが、答えは得られなかった。  陽が西に傾く頃、舟は大津に着いた。  三年前より人がふえている気配に、景虎は驚きを覚えた。  乱世を象徴するかのように、政商や武者の往来が繁くなっているのである。  比叡山は眼の前に聳え立っている。  景虎は歩をとめて、その眺めに見とれた。  緑一色におおわれた山容が、褶曲の多い山膚をあらわにして、空をおおっている。  延暦寺は、その頂き近くにある。  目的地に近づいた喜びは、たとえようもなかった。  憂鬱な思いが晴れ、勇気が湧いている。  同寺の僧兵が、ここ数百年猛威を振るっている経緯を、景虎は思い起こした。  白河天皇をして、意のごとくならざるもの、鴨川の水、双六《すごろく》の賽《さい》、山法師となげかせた彼等は、現在も、強大な勢力を誇っている。  乱世の覇者が、いずれは対決しなければならない相手に、本願寺以外に、彼等がいることを景虎は知っていた。  一行は、町並みのなかへ、歩を進めた。  上洛時に泊まった旅籠が、眼に入ってくる。 「あそこがもっとも立派なようでございますので、投宿致しますか」  惣介が聞いてくる。 「いや、もう少し、山手の方のものを選ぼう」  先年の上洛のことは、考えたくなかった。  現在の落魄振りが、身にしみて感じられるからである。  一行は、旅人達で賑わう通りを奥へ進み、閑静な雰囲気のなかにある旅籠に、わらじをぬいだ。  さすがにほっとした気持であった。  翌日は、早々に出立《しゆつたつ》し、比叡山への道を、踏みしめてのぼった。  三千尺の高さと言われるだけに、延暦寺《えんりやくじ》への道は遠い。  つづら折りの道を、参拝客の流れに身を委せ、展ける風景を、賞でながらたどった。  暑さは厳しかったが、樹間を吹き抜ける風が、気持を和らげてくれた。  いまは心を煩わすものはない。  俗塵を離れ、仏道修行三昧に打ち込める自分を、幸せだと思った。  午の刻(午前十二時)前、一行は、東塔の寺房に着いた。  延暦寺は、最澄が七八八年に根本中堂《こんぽんちゆうどう》をたてて、自作の薬師仏を安置し、一乗止観院と呼称したことを、起こりとする。  八二三年に延暦寺の称号を朝廷からたまわり、桓武天皇の時代に、皇室の勅願寺となり、鎮護国家の道場とされてから栄えた。  全山は、東塔、西塔、横川《よかわ》の三塔に大別され、最澄が東塔、弟子の円澄が西塔、同じく円仁が横川を開いて、現在の寺の基礎が整えられた。  その後、九六七年に、良源が天台座主となって、全山の伽藍をおこし、衆徒が三千人に達して、勢い並ぶものなしと言われるほどの繁栄を極めたが、九九三年に智証大師の末徒、千人余は三井寺《みいでら》に移り、山門派の慈覚大師円仁の末徒と、数百年間相争うこととなった。  一〇〇〇年代後半の白河上皇の時代に、社寺領荘園の新興国司との間に対立が生じ、衆徒は、結束して僧兵となり、山麓の日枝《ひえ》神社の神輿《みこし》をかついで強訴したときから、兵団としての色彩を、あらわにしてきた。  現在もその状態に変わりはない。  足利幕府を覆すいま一つの勢力、延暦寺を脳裏に描きながら、景虎は、本堂の棟続きの建物のなかへ入っていった。  参拝客の喧噪《けんそう》が遠のき、静けさがよみがえってくる。  庭園のなかの石畳を歩いて、玄関に着いた。  案内を乞うと、寺僧があらわれた。  外形は、僧侶であるが、風貌には武士の気配がただよっている。 「越後の長尾景虎殿でござるか」  相手は鋭い眼ざしを向けて、そう聞いてきた。 「左様でござる。ここなるは供の者……」 「委細は本庄殿の書状により、承っております。どうぞこちらへ」  二人の緊迫した会話は終わった。  天下取りを狙う武将の一人と、相手は景虎をみている様子であった。  玄関をあがると、奥へ進んだ。  苔むした中庭の風景が、眼に風雅に映る。  延暦寺で仏道修行三昧の生活を送ることは、物心ついて以来の夢であった。  いまそれが果たせたのである。  喜びの気持は、たとえようもなかった。  住持と挨拶を交わし、与えられた居室にくつろいだときには、陽は西に傾いていた。  平服に着替えると、座布団にあぐらをかいて、思いに耽った。  不安は消えている。  家臣達の紛糾が、心の病を惹き起こさせた原因であることを、景虎は改めて悟った。  なすこともないまま、畳のうえに仰向けになる。  そのままの姿で、景虎は日が暮れるまで寝入っていた。  翌朝は、早目に眼をさまし、洗顔を済ませると、本堂へ行って勤行に参列した。  剃髪し、錦の袈裟をかけた高僧を最前列に、二百名を超える修行僧が、堂内に座って、経を唱えている。  景虎は、持参した僧衣をまとって、その並びのなかに加わった。  天台宗がどのようなものかは、教典の文言を口ずさんでいると、自然にわかってくる。  惣介以下も、いまは神妙に経を唱えていた。  金箔をあしらった仏壇、高い天井、広大な畳敷きとめぐらされた頑丈な格子戸、眼に映るすべてが巨大であり、華麗であった。  さすがは、天台宗の本山である。  加えて延暦寺は、兵力を蓄えている。  勤行が終わると、棟続きの道場で、精進料理の食事をとった。  広間や廊下は磨かれて、光を放っている。  食後は、僧兵の武道修業を見学した。  薙刀、剣、弓矢、その他、実戦に備えてのさまざまな訓練が、一刻余の時間をかけて道場で行われる。 「本願寺といい、叡山といい、いずこも同じでございますな」  惣介が言ってくる。 「左様。いまは戦国の乱世だからな。  仏道にたずさわる者とはいえ、自らの身を守る術《すべ》だけは、心得ておかなければならぬからのう」  眺めながら、景虎は力が正義である現在の世相を思い浮かべた。  自室にかえると、付属の部屋にこもって、座禅を行った。  拘束を受けず、自由に振舞えることが、景虎には有難かった。  春日山城では、国主の地位の手前、行動はままならないが、ここではそうではない。  その解放感が、景虎に急速に、昔の落ち着きを取り戻させていった。  午後からは、文机の前に座って、天台宗の教典を読み、教義を極めた。  疲れを覚えると、そのまま、仰向けになって寝た。  このような生活は、物心ついて以来、はじめての経験である。  うとうととなった頃、修行僧がやってきて、夕餉ができたことを告げてきた。 「はや、そんな時刻に?」 「左様でございます。  長尾様は昨日来《さくじつらい》、寝てばかりでございますな」  修行僧は、そう言って笑った。  明けられた障子戸から見える、庭の風景が美しかった。  二十日間が瞬く間に過ぎた。  毎日の勤行に参列し、住持と仏道のことについて語らい、座禅を行っていると、政務や合戦のことが、脳裏から遠のいてゆく。  自分でもそれが不思議であった。  現在では、心の病は、ぬぐうように消えている。  自室にこもって、天台宗の教典を読んでいると、管長が姿を見せた。 「相変わらずご精進の様子、近頃は、すっかり落ち着きを取り戻されましたな」  五十歳を越える年齢であろう。  表情には、修行によって培われた僧侶の風格がにじみ出ている。 「お蔭さまで。これでやっと昔のわたくしにかえることができました」  景虎は答えて、笑みを浮かべた。  庭の風景には、秋の気配がただよっている。  午後の休憩に入ったせいか、寺内は静まりかえっていた。 「ところで景虎殿。そなたは越後に帰る心算《つもり》はござらぬのか」 「はい、そのつもりでございますが」 「しかし、そなたは、天下平定の望みをかけられた武将の一人。  武田殿や織田殿も、その器の人物との評判だが、素行や人格に、天下人としての資格に欠けるところがある。  朝廷や幕府が、両人に警戒の目を向けているのは、そのためだ。だが、長尾殿は違う」  管長は語って、景虎の表情を眺めた。 「…………」 「武田殿や織田殿は、現在、本願寺やわれわれに対して、友好の態度を持しておられる。  しかし、それは天下平定をなし遂げるまでのことであって、ゆくゆくは、宗教勢力の排除を企図している。  これは余人が語らずとも、それがしには察しがつく。ところが長尾殿は、幼少の頃より仏門に帰依され、現在もそれを捨てておられぬ。  そこに彼等と基本的な相違がある。本願寺証如殿も同じ考えだ。  晴信や信長が、足利幕府を倒せば、われわれにとり由々《ゆゆ》しき大事が、年月を経ずしてやってくる」  予感のような気持なのであろう。  管長の眉間には、しわが寄っていた。 「本願寺や延暦寺を抹殺する手術《てだ》てにでてくるという意味でござるか」  景虎は、さり気なく聞いた。 「左様。この二人ならばやりかねん。これまでの国攻めに当たっての行状が、それをあらわしている」 「なるほど」  景虎は答えて、視線を落とした。  管長の言うとおりかも知れぬと、心で思っていた。 「われわれや本願寺が、兵力を蓄えて、乱世に処す心構えを固めたのは、そのためだ。  晴信や信長ならば、必ず当寺や本願寺を焼打ちするであろう。  そのようなことにならぬよう、祈りたい気持だが、神仏を破却することを恐れぬ彼等のこと、警戒は怠れぬ。  僧兵の数を増《ふ》やし、武装と訓練を強化している背景には、このような事情がある。  長尾殿はたとえ天下をとっても、武力でわれわれを滅ぼすことは、先ずなされまい。  本庄殿の書状によって、貴殿を当寺に招じたのも、将来、われわれと共存の道を歩まれる人物と判断したからにほかならない」  管長の口調は、厳しさを増してきた。  景虎は息を呑んだ。  延暦寺がこのような思惑を秘めて、自分の滞在を認めているとは、想像も及ばぬことであった。 「それがしは、ごらんのとおりの世捨て人。  僧侶への道こそ目指せ、天下のことに望みはござらぬ。この点は、誤解なきよう」 「しかし、貴殿は二十七歳の若さで、ほんとうに国主の地位を退かれるおつもりなのか。  率直に申し上げて、僧侶への道を歩まれるなど、惜しいことと、それがしは思料する。  どうであろう。病いが癒えた時点で、もう一度、越後へ帰られては。その方が貴殿の将来のためにもよいと思われるが」 「それがしは、覚悟を決めて、越後を出立してまいった。国主の地位に対する未練の気持はありませぬ」  僧侶の身でありながら、諸国の形勢に関心を払う管長の姿勢が、景虎には不思議であった。 「いまはなにを申し上げても、貴殿には通じまい。  しかし、やがて越後に帰らなければならぬ事態に、必ず見舞われる。  長尾景虎という武将は、そのような宿命を担って、生まれてきた人物なのだ」  管長はそう語って笑った。  境内の木々を、風がゆらしている。  澄み渡った空には、雲一つ見られない。  朝食を終えた景虎は、本堂の廊下に佇んで、あたりの風景を眺めていた。  彼方から惣介がやってくる。 「殿、一大事でございます。  只今、脚力(飛脚)がもたらした報せによりますと、殿の出奔以降、城内のまとまりが乱れ、長尾政景殿以下の部将は、困り果てておられるとか。取り敢えず部屋に帰って書状をお読み下さいませ」  惣介の言葉に、景虎は胸をつかれた。  懸念していたことが、現実の姿をとってあらわれてきたように感じられてならなかった。  自室に帰ると、景虎殿と墨書された書状の封を切った。  長尾政景からであった。  景虎の出国後、部将達の間に不穏な形勢が見られはじめ、まつりごとが滞るだけでなく、諸領主の間に、いさかいが絶えなくなった。  なお、懸案になっていた上野家成と下平|修理亮《しゆりのすけ》との土地紛争が、その後険悪化し、不利な立場に追い込まれた大熊朝秀は、遂に越中に走り、武田信玄に内応するに至った。  信玄は、会津の芦名|盛氏《もりうじ》の将、山内|舜通《しゆんつう》に朝秀を援護させる一方、景虎不在の虚をついて、旗上げをそそのかしているというのが、内容のあらましであった。  なかでも、出国の件が諸国の武将に洩れれば、弓矢を捨てる臆病者と評されかねないと付記してあった政景の意見が、景虎の心にこたえた。 �やはりそれがしの考えは、間違っていたのだろうか。それにしても、朝秀が、それがしを見限って、信玄のもとへ走るとは……�  病は、仏道修行と座禅により、なんとか克服できた。  だが、いつ再発するかわからない。  武将として、それが致命的な欠陥であることを景虎は知っていた。 「思い切って越後へお帰り下さいませ。国内の乱れを収め得る人物は、殿をおいてほかにはおりませぬ。  幸いに病も癒えられたこと、帰国されれば、これまでのように国主の務めを果たし得るに相違ありませぬ。  それに、大熊朝秀が越中に走ったとなれば、合戦は必至と判断されます。  この期に及んで、逡巡しておれば、ほんとうに、臆病者と諸国の武将から見られかねませぬ。  そうなれば、北信の諸侯や越前の朝倉義景、関東の同志も、殿を裏切って、信玄に味方することとなりましょう」  迷う景虎を見て、惣介は、厳しい口調でたしなめた。  仏道修行には、正直言って未練がある。しかし、国内に波乱の気配が見られはじめた現在、自らの意思を貫くことは許されない。再びいばらの道にさしかかった自分を、景虎は感じていた。  信玄の攪乱戦術には、憤りを覚える。  合戦をいどんで息の根を止めてやりたいというのが、偽らざる気持である。  だが、本年三月、隠退を宣し、師にも所信を披瀝して国を去った手前、国主の地位に復帰するわけにはいかない。  物笑いの種になると言うのが、景虎の判断であった。 「そなたの言い分もわからぬではない。  ただ、それがしは国を捨てた身。いまさら帰国するわけにはまいらぬ。  それに病いも、完全に癒えたとは言い難い。  国内のことは、それがしが居なくても、長尾政景や本庄実仍が采配を振れば治め得る。  信玄の策略に対しても、過去の合戦の経験を生かせば、太刀打ちは可能なはずだ。  やはりそれがしは、今回の件には、立ち入らぬ方が、よいと考える」  思案した末、そう答えた。 「しかし、殿。それではあまりに勝手に過ぎます。  政景殿や本庄殿の心のうちもお察し下さい」  惣介は必死の面持ちを見せて、説得してきた。  しかし、景虎には、決心がつかなかった。 「とにかく、いましばらく様子を見よう。そのうえで去就を決めても、遅くはあるまい」  と結論の言葉を述べていた。  二人は諸国の状勢について語り合った。  延暦寺に居れば、京都に近い関係もあって、国攻めの情報が、毎日のように入ってくる。  越後には、関わりなきこととはいえ、それらを総合すると、乱世の動きが、手に取るようにわかる。  尾張を手中に収めた織田信長は、今川義元と雌雄を決する覚悟を見せている。  戦乱の世は、両雄の激突という形で、最初の淘汰の時期を迎えようとしているのである。  関東では北条氏康が、平井城に復帰した上杉憲政に対する包囲網を縮め、甲斐では武田信玄が、北信経略の完成を目指して、越後攪乱の手術《てだ》てに腐心している。  諸国の状勢は、ここ数ヵ月間に、めまぐるしく変化し、楽観の許せるものは、なに一つない。  語らいながら、景虎は、越後を取り巻く環境が、日毎に厳しさを増してきていることを思わずにはおられなかった。 �やはりそれがしは、国に帰るべきなのだろうか�ふと、思いが走ってゆく。  惣介が去ると、廊下に佇んで、思案に耽った。  大熊朝秀の謀叛の件が、心を暗くする。  予想されたこととはいえ、自分の出国を契機としているだけに、腹立ちの気持はたとえようもなかった。  しかし、病気あがりの景虎には、征討の軍を起こす決心はつかなかった。  合戦に臨む気力さえ湧いてこないのである。  陽ざしが、築山の風景を浮き彫りにする。  思いに沈みながら景虎は、越後へ向かって怒濤のような進撃を開始している信玄の馬上姿を思い浮かべていた。  長尾政景からの書状は、その後ももたらされた。だが景虎は帰国する気持にはなれなかった。  そのような或る日、徳が下女二人を伴って遍路姿で延暦寺にあらわれた。  ちょうど、景虎が僧兵の訓練を、垣根越しに眺めているときであった。  門衛の僧と言い争う気配に、視線を向けると、見覚えのある姿が、眼にとまったのである。  参詣客のなかには、女人もみられる。  だが、禁制の立て札が立っているため、なかへは入れない。 「どうしたのだ。そんな恰好をして……」  景虎は近寄って聞いた。 「本庄様にお願いして旅立ちの許しを得、殿様と同じ経路をたどって、やっと今日……」  徳の表情には、安堵の笑みが浮かんでいた。 「無事でなによりであった」  言葉をかけると、門衛に事情を告げて、入門の許可が得られるよう、計らってもらった。  徳が景虎の部屋へ姿を見せたのは、半刻後のことであった。  三人は、寺のはからいによって、宿坊にわらじをぬいでいる。 「よくぞきてくれた。そなたがいないため、心に空白ができたような思いだったが、これで安心して、修行に打ち込める」  やはり、徳がいると、心が安らいでくる。 「実仍は元気か」  間を置いて、さり気なく聞いた。 「はい、ただご存知のような国内の状況のため、殿様の出国以降、城内には不穏な空気がただよっております」 「なるほど」  いまは、帰国へ心が傾きかけている。  だが、出立《しゆつたつ》に踏み切る決心は、容易につかなかった。  迷いの見られる景虎を、徳は悲しそうな表情をして眺めていた。  その夜、景虎は徳を抱いた。  禁欲の生活を送っていただけに、安らぎは大きかった。  翌朝、眼をさましたときには、不安が消え、普段の覇気にあふれる自分にかえっていた。  勤行を済ませると、自室に帰って、長尾政景宛に書状をしたため、 「それがしの進退については、貴殿に一切を委せる」と記載した。  やはり臆病者とは、言われたくなかった。  その気持が、�不安�の解消とともに、景虎に、帰国に踏み切る決心を固めさせていた。  惣介にその旨を伝えると、「それはよろしゅうございました。わたくしも、肩の荷が下りたような思いでございます」との答えが返ってきた。  食後、景虎は管長の部屋を訪れて、滞在の礼を述べ、二日後に出立する旨を伝えた。 「やはり、それがしの見立てどおりの結果になった。それでこそ、長尾殿じゃ。  今後はなにかと世話になることと思うが、よろしくお願いする」 「こちらこそ。いずれ京へは、兵を率いてのぼる所存ゆえ、そのときにまたお会いしたいと考えております」  かつて、新保孫六に五千の兵を率いて上洛すると語ったことを、景虎は思い浮かべていた。  天下取りは武力だけでは、なし遂げられない。  朝廷や幕府、本願寺、延暦寺などとの意思疎通を密にし、自然の形で事を運ぶことが肝要なのだ。  戦乱の世に、そのようなことは至難に近いかに見える。  だが、先年の上洛を契機に、景虎には、それは可能のように感じられていた。 「兵を率いてとは?」  管長は驚きの表情を見せて、聞き返してきた。 「左様。越後は京へ遠いようで、実は近いのです」 「なるほど。敦賀へ船で回れば、あとはわずかの道のりだからな。  その意味では、武田殿や織田殿より、そなたの方が、天下を先取りするやも知れぬ」  管長は笑みを浮かべた。  景虎の慧眼《けいがん》に、感じ入っている気配であった。  八月十一日、景虎は延暦寺をあとにした。  憂鬱な思いは、ぬぐうように消えている。  つづら折りの道を下りながら、景虎は天下平定の夢が湧くのを覚えた。 「殿の出国は、国内の統制上、よい結果をもたらすかも知れませぬな」  惣介が言ってくる。 「そうであってくれればよいが」  一行は、参拝客の列を眺めながら、のんびり山を下った。  大津に着くと、渡し舟に乗った。  故郷へ帰れる喜びが湧いてくる。  湖岸に聳える比叡山を、景虎は無心の気持で眺めた。  延暦寺での日々が、いまは夢のように感じられる。  なぜ武将を捨てる気持になったのか、自分でもわからなかった。  景虎には、生来、精神の昂揚期と鬱の状態が、交互にやってくる。  三月の隠退宣言は、その最悪期にあたっていたせいかも知れなかった。  対岸に着いたのは、夕刻であった。  湖面を渡る風は冷たく、季節は本格的な秋を迎えていた。一行は、岸辺の旅籠《はたご》に向かって歩いた。  朝秀の謀叛の件は、念頭から去っていた。  奸臣が去り、諸領主が忠誠を誓えば、国内は、まとまりを見せてくる。雨降って、地固まる思いを、景虎は胸のうちで噛みしめた。  一夜を旅人達と過ごした一行は、翌朝、馬に乗って、敦賀へ向かった。  越前の朝倉義景とは、同盟関係にあるため、所領を通過することに、恐れの念は覚えない。  問題は一向一揆と、野盗、野武士の類いであった。  今回は女三人を伴っているだけに、その点が、景虎には気懸りであった。  野道をたどっているうちに、日が暮れた。寺の鐘の音が、わびしさをそそるように聞こえてくる。  一行は、付近の地主の家を訪れて、一夜の宿りを乞うた。  女人を伴っているせいか、主人は快く承諾してくれた。  土間には、吹子《ふいご》の施設が設けられ、武器や農具の製造が行われている。  一揆の一味であることが、屋内の状態からうかがえた。  囲炉裏《いろり》のある居間へ招じ入れられ、夕食の馳走をうける。 「戦乱の世に、叡山参りとは、結構な身分でござるのう」  主人は景虎を見て、そう言葉をかけてきた。  風格のある室内の佇まいが、由緒ある家柄を感じさせる。 「いやいや、普段は無信心でござるが、先祖の納骨の件もあって、已むを得ず」 「なるほど。天台宗とは、よい宗教をお持ちなされた。わが家は一向宗じゃ。  近頃は、無道な領主が多くてのう。法外な年貢を求められ、ために暮らしもままならぬ。  物騒な世のなかとは、相なったものじゃ」 「左様でございますな」  景虎は、相手に言葉を合わせた。  馬のいななきが、聞こえてくる。  不安をはらんだその気配に、景虎は耳をそばだてた。  主人のすすめにより、その夜は早目に床についた。  疲れが眠りを誘う。  思いをめぐらせるいとまもなく、意識はもうろうとなっていた。  夜半、景虎は眼をさました。  人の気配が屋外に感じられ、話し声が、耳底をよぎっていったからである。  身分が発覚したことを、景虎は悟った。  馬に積んである荷物から、相手はそれを知ったに違いない。  起きあがると、惣介以下を起こして、身仕度を整えさせた。 「どうも怪しいと思っていたが、やはり武士だったのか。取り敢えず、明朝、事情を聞いてみよう」  主人の声が聞こえてくる。  一行は、居間へ通ずる格子戸を閉めて、息を殺した。  夜はしんしんと更けていた。  人影が遠のく気配に、景虎は安堵した。  女達を先にして、屋外へでたのは、それから間もなくのことであった。  月明かりが、あたりをほの暗く照らしている。  景虎は馬を繋いでいるところへ忍び寄り、手綱の結び目を解いた。  女達を乗せて出立しようとしたとき、飼犬の鳴き声が、闇のなかにひびき渡った。  家のなかが、騒然となり、男達が叫び声をあげて飛び出してくる。  手には、刀や槍が握られている。  かつてみた一揆そのままの姿であった。 「已むを得ぬ。襲ってくる者は斬れ!」  景虎は、そう指示を下すと、徳の馬に跨った。家臣達も、それにならう。  一行は、土煙をあげて、野を疾駆した。  一揆が十数騎、わめき声をあげながら、追ってくる。  景虎は、渾身《こんしん》の力を込めて、馬を鞭打った。  一揆の刃から、徳を守らねばとの気持であった。  木々の黒い影が、後ろへ飛んでゆく。  女達は、馬のたてがみにしがみついたまま、顔を伏せている。  景虎の胸は高鳴り、額からは汗がしたたり落ちた。  下女の叫び声が、肺腑をえぐってくる。  長い恐怖の時間が過ぎた。  蹄の音が遠のく気配に、景虎は面をあげた。 「どうやらあきらめたようでございますな」 「そのようだ。しかし、もし追いつかれていたら……」  景虎はつぶやいて、慄然《りつぜん》となった。  一行は、敦賀の海岸へ向かって、月明かりのなかを、進んでいった。  春日山城に帰り着いたのは、十五日の朝であった。  館に入ると、さすがにほっとした気持になった。  その日は、旅の疲れをいやし、翌日から景虎は、本格的な活動を開始した。  昔の面影をとり戻した采配振りに、長尾政景以下の部将は、救われたような表情を見せた。  翌十七日、景虎は諸将を天守閣の広間に集めて、今後の方針について協議した。  国内の混乱が、心に応えたのか、部将達は神妙な面持ちを見せて、景虎の言葉に耳を傾けていた。 「それがしは、政景殿に進退を一任してある。  だが、これには条件がある。  一つは、その方達が、今後それがしに忠誠を誓い、指達に対して、なんらの異議をさしはさまぬこと。  いま一つは、その証《あかし》として、一紙連署の誓詞を提出してもらいたいことである。  なお、内外の状勢が、緊迫の度を加えている折、そなた達のうちの重だった者は、領地に帰らず、春日山城に常駐することも、併せて申しつける。それがしの所見は以上だ。  もしこの考えに、異議があれば、直ちに申し出ていただきたい」  景虎は部将達を見据えて、そう発言した。  気迫のこもった言葉に、出席者は首《こうべ》を垂れた。  長尾政景が、意見を述べる。 「殿の申し出は、当然のこと。  これまで当国は、諸領主が割拠して、まとまりが見られなかった。その欠陥ゆえに、信玄に北信侵攻を許すことになった。  朝秀が永年の恩義を忘れて、越中に走ったのも、そのあらわれだ。  今後もこのような事態が発生すれば、国内は、統一以前の状況に戻るは必定。  甲斐勢との決戦を目前にして、それは許されぬ。  殿の申し出に異議がある者は、即刻、越後を去ってもらいたい。  これを機に、はっきりと申しつけておく」  揚北衆ほかを抑える好機と感じたのか、政景の口調には、気迫がこもっていた。 「言われるとおりだ。今回の国内混乱で、それがしはほとほと神経をまいらせた。  不満は、誰にもあろう。だが、それを個々に主張しておったのでは、国内はまとまらぬ。部将とは如何にあるべきかを、皆の衆はこの際、神妙に考えてもらいたい」  本庄実仍があとを追って、所見を述べる。  反対派の部将は、一言も反論を展開しなかった。  景虎が激怒すれば、ほんとうに成敗の憂き目に遭うことを、彼等は知っているのである。  中条藤資が、面をあげた。 「今回の件に関し、殿の心を煩わしたこと、まことに申し訳なく、それがし、揚北衆を代表して、深くお詫び申し上げます。  なお、ご提案の件については、われわれ一同、異議なく受け入れる所存にございますゆえ、今後も変わらぬ愛顧のほどをお願い申し上げます」  普段の藤資に似合わぬ神妙な口調に、景虎は表情を和らげた。 「そなたの誠意はわかった。だが、問題は色部以下の者だ」  白皙の面は紅潮し、眼は光を放っていた。  昔の覇気を取り戻した景虎の姿に、揚北衆は、おののきの気配を見せた。 「われわれの意見も、中条殿と同じにございます」  口々に唱える声があがる。  景虎は笑みを浮かべた。 「わかった。それではこれから誓詞の書面を回すゆえ、全員署名してもらいたい。  それがしも、さきほどの発言を証する書面を、政景殿宛にしたためるゆえ」  諸将のまとまりが見られた現在、高姿勢に出る必要は、景虎にはなかった。  座の雰囲気が和らいでくる。  係りの武者が回す書面に、部将達は次々に署名した。  景虎も筆をとると、政景宛の誓詞を書き、弘治二年八月十七日と最後に記載した。  朝秀が去ったいま、城内に敵対者はいなかった。  守護代を相続して八年目に、国内統一がなし遂げられたと、景虎は思った。  陽ざしには、秋の気配がただよっている。  国境の山々を眺めながら景虎は、武田信玄と再び川中島で対決する決意を、胸のうちで堅めていた。 本書は一九八三年三月、読売新聞社より刊行されました。 底本 講談社文庫版(一九八六年二月刊)。