咲村 観 上杉謙信 人の巻 目 次  第十四章 楚歌  第十五章 波濤  第十六章 秋雨  第十七章 冬の虹  第十八章 過雁   あとがき [#改ページ]   第十四章 楚歌  庭で蝉が鳴いている。  景虎は、文机の前に座って、それに耳を傾けていた。  関東出陣から帰って、はや十日が経っている。  疲れは癒えていた。  だが、心のなかは虚《うつろ》であった。  越軍の帰国を機に、北条氏康が早くも蠢動《しゆんどう》しはじめているとの報せが、もたらされたからである。  甲斐勢は、その後、甲信の国境を越えただけで、北信までは兵を進めてこなかった。  それだけが安堵と言えば言えたが、問題は関東経略をさまたげる氏康と信玄の動静であった。  地理的に不利な地位に置かれている越後が、景虎には感じられてならなかった。  しかし、関東は生涯かけても、制覇しなければならない。  眉間にしわを寄せて思いに耽っていると、徳が茶をもって入ってきた。 「合戦から帰られて間もないというのに、そのように心を患わされていたのでは、お体にも障りましょう。  北条様と武田様を向こうに回しての戦いゆえ、ご心労のほどは察せられますが、ここは心を開いて時節を待つことが、肝要かと存じます。  せいては事を仕損じると、古人も申しております。このことわりをわきまえて、万事に当たることが、これからの殿様には、必要なのではないでしょうか」  疲れの見られる景虎をみて、徳はそう言ってきた。  近頃、徳には落ち着きと、女人の賢さが見られる。  それが不安にさいなまれる自分を支えてくれる根源になっている。 「時節を待つとは……なるほどよいことを、教えてくれた。それがしは、一途《いちず》に思い込むくせがある。  そこを、信玄や氏康に、つかれているのかも知れぬ。  とは言え、武田信玄という武将は、したたかだ。  それがしも、これからは見習わなければなるまい」  景虎はそう語って笑った。 「左様でございますな。  そのようなゆとりのある心境で臨めば、万事に成らぬことはありませぬ。殿様には、それ以外の欠点はございませぬゆえ。  関東のことも、諸将を救援する方針で臨まれる方が、最後には勝ちを収められましょう。  これは、天地の理法、神仏の教えとも、わたくしは解しております」 「なるほど」  景虎はうなずいて、安堵の表情を浮かべた。  二人は茶を喫しながら、庭の風景を眺めた。  木々の緑が、眼に沁みるように映る。 �徳がいるかぎり、それがしの将来が損われることはあるまい�ほのぼのとした気持のなかで、景虎はそう胸のうちでつぶやいていた。  七月も半ばを迎えると、暑さが厳しくなった。  関東の状勢は、緊迫の度を加えている。  それが、景虎や部将達に、焦ら立ちの気持を誘った。 「氏康や信玄は、どうにもならぬ佞者《ねいじや》。国攻めをほしいままにするばかりか、諸寺を焼き、人心を乱して悪業の限りを尽くしている。このような人物は、神仏に願をかけても、成敗しなければなりませぬ……」  中条藤資が眼を据えて言ってくる。  他の部将達も、同調の言葉を述べた。  越軍の力で、制圧できぬことが、このような考えへ彼等の心を駆り立てていた。 「確かに両人は、奸計を弄する無道者。武人の風上にもおけぬ。  このうえは、王法の敵として、神仏に調伏を祈るほかはあるまい」  思案した末、景虎はそう判断を下した。  この方針にもとづき七月十八日、景虎は、一千の将兵を率いて、刈羽郡(越後国)の飯塚八幡宮へ祈願に出かけた。  透きとおるような空には、白雲が浮かんでいる。  馬の背にゆられながら景虎は、天下平定が至難な業であることを感じた。  十数年の歳月を費やして得たものは、越後の平定だけに過ぎない。  父為景の時代に比べれば、はかり知れぬ進歩であるが、武将として領国制覇に野望を燃やす以上、生涯かけても、天下制覇は果たさなければならない。  それは越後の守護代の家に生まれた景虎の宿命とも言える道であった。  八幡宮に着くと、古式にのっとって神事を行い、そのあと、次のような願文を奉納した。 「武田晴信・北条氏康当時の佞者、関、信両州を恣《ほしいまま》にし、山門並《さんもんならび》に諸五山末寺寺領《しよござんまつじじりよう》を破壊《はかい》し、人給《にんきゆう》となす。これ誠に仏法王法の敵讎《てきしゆう》、坂《さか》の東《ひがし》(関東)に於《おい》て、悪逆無道の族、何者歟《なにものか》かの両人に如《し》かんや……」  将兵達は首《こうべ》を垂れて、景虎の言葉に聞き入っていた。  儀式が終わると、その場で、直会《なおらい》の宴《えん》がもたれ、全員に酒が配られた。 「今日は佳き日じゃ。これで積年の怨みも晴れた思い。飯塚八幡は、霊験あらたかなことにかけては、諸社のなかでも最たるもの。  これで信玄や氏康は、没身、調伏されたも同然。わが軍の士気もあがろうというものでござる」  中条藤資が性格そのままに、満面に笑みを浮かべて壮語する。部将達は、その言い草に、声をあげて笑った。  八月を迎えると、北条勢の動きが本格化した。  氏康は、野田政朝を味方につけて、古河城を攻め、足利藤氏を「御謀叛人《ごむほんにん》」として捕えて、伊豆に幽閉した。  そして足利義氏を古河に復し、公方としてたてた。  この報に接したときの景虎の驚きは、たとえようもなかった。  半年余を費やして制覇した関東は、再び北条勢の支配下に落ちたのである。 「なんということを……」  吐き捨てるようにつぶやくと、眼を一点に据えた。  眉間にはしわが寄り、顔色は蒼白になっていた。  使僧が去ると、その場で軍議が開かれたが、あまりの大事に、誰一人、言葉を発する者はいなかった。 「いずれまた関東へ出陣しなければなるまい」  熟慮した末、景虎はそう決意した。  執念のような気持であった。  部将達は不安な眼ざしをして、苦悩に沈む景虎の表情を眺めていた。  古河城が北条勢の手中に落ちたことが、景虎にとっては衝撃であった。  しかし、混乱はこれにとどまらなかった。  翌月を迎えると、信玄が再び関東に兵を進め、倉賀野城(上野《こうずけ》)の攻略に乗り出したとの情報がもたらされたからである。この時点において、景虎は関東へ出陣する覚悟を決めた。 「因果応報の心構えをもって、対処しなければ、関東の制覇はおぼつかぬ。精根つきた方が、敗者になろう。  そのゆえに、甲、相両軍が兵を引かぬかぎり、それがしは越山《えつざん》をあきらめぬ」  凜とした声が、広間にひびき渡る。  部将達は、首《こうべ》を垂れて、景虎の言葉に聞き入っていた。  それから一ヵ月余経った十一月初旬、景虎は、八千の兵を率いて、三国峠を越えた。  今年は昨年と違って、積雪は見られない。  だが、兵站線《へいたんせん》がのびたことによる兵糧の補給難が、兵達を苦しめた。  北関東を破竹の勢いで席巻した越軍は、永禄七年(一五六四)の正月を、高崎の近郊で迎えんと、閏《うるう》十二月には、上野の和田城を攻めていた。  北条勢は、頑強に抵抗を試みたが、越軍の敵ではなかった。  四日を経ずして、それを落とすと、景虎は上杉憲政に臣従しながら、氏康に寝返った小田守治を討つべく、鉾先をその拠城(上野)に向けた。 「長年の恩義を忘れて、北条勢に内応する輩《やから》は、生かしておくわけにはまいらぬ」  関東の荒野を、土煙をあげて疾駆しながら、景虎は吐き捨てるようにつぶやいた。  白皙《はくせき》の面はひき締まり、眼は怒りに燃えている。  夜叉《やしや》さながらのその姿に、北条勢はおののきの表情を見せ、戦わずして敗走した。  数日の休息をとったのち越軍は、北条の旗頭、佐野昌綱を下すべく、反転してその拠城を攻めた。  八千の精鋭の怒濤のような進撃に、昌綱は色を失い、命からがら南へ落ちのびていった。 「口ほどにもない要領居士。  このような武将が、関東の一郭を制するとは、いやいや戦国の世も終わりでござるのう」 「いや全く」  高地に佇んで、敗走する敵軍を眺めながら、色部勝長と中条藤資が語って笑った。  季節は、春の気配を濃くしている。  霞がたなびき、山々の風景には、木々の芽生えが感じられる。 �はや三ヵ月半が経ったのか�合戦に明け暮れた日々を思い浮かべながら、景虎はつぶやいた。  ひげはのび、眼は精悍さを増している。  兵達の先頭に立ち、身の危険にさらされながら、北条勢と刃を交じえた記憶が浮かんでくる。  今回の出陣ほど、焦りの気持を覚えたことはない。 「徒労とは言え、やはり打つべき手は、その都度《つど》、打っておかなければならぬ。天下の諸事、すべて同じことわりだと、それがしは考えている」 「言われるとおりにございます。肝心のときに、手をこまねいていたのでは、元も子もなくしてしまいますゆえ」  吹き寄せる風に、髪を乱しながら、景虎は、直江実綱と語った。  関東経略は、一挙には成し遂げられない。長年の布石と努力の積み重ねのなかで、徐々に完成されてゆく。  これまでは国攻めを行い、勝利を得れば、それで足れりと考えていた。  だが、現実はそうではなかった。  執念のように、北信を狙う信玄の心中も同じに違いない。  天下取りには、余人に理解できぬ苦しみが伴う。  それを乗り越えてこそ、道が開かれる。  戦勝を祝う兵達の声に耳を傾けながら景虎は、無心にあたりの風景を眺め渡していた。  三月半ば、越軍は桐生へ兵を進めて、小山城を囲んだ。  北関東最後の要衝だけに、兵達の表情は緊張していた。  旬日の攻防ののち、越軍はこれを落とした。  だが、この頃には、信玄は鉾先を北信に向けて、信越国境をおびやかしはじめていた。  情報は、夜を日に継いでもたらされ、それは甲斐勢の野尻城攻略と越後の同盟者、芦名|盛氏《もりうじ》(会津)の信玄への寝返りとなってあらわれ、越軍の陣地を混乱に陥れた。 「野尻城攻略に加えて、盛氏が信玄になびくとは……」  さすがに、動揺の気持を抑えることができなかった。  部将達も深刻な表情をして、使者の報告に、耳を傾けていた。 「ところで委細は、いかがな状況じゃ」  気持を取り直すと、そう武者に尋ねた。 「野尻城は、信玄の率いる五千の兵によって、先般、落とされました。  甲斐勢は勢いに乗じて、信越国境をうかがう気配にあり、このままでは越後は、脅威にさらされるやも知れませぬ」  報告に景虎は胸をつかれた。  野尻城は、善光寺より北にあり、犀川を越えて、信越国境に迫る要衝の地にある。  加えて、ここが甲斐勢の手中に落ちれば、春日山城への侵攻は、一日でなし遂げられる。  おののきの気持は、たとえようもなかった。 「して、盛氏《もりうじ》の動静は?」  胸のうちを抑えて、先を促した。 「芦名氏は、武田勢の北進に歩調を合わせて、下越へ兵を進める構えを見せております。いや、今頃は侵攻を開始しているかも知れませぬ」 「盛氏が下越へとは……」  景虎は、言葉もでなかった。  藤資が、席を蹴って立ち上がる。  眉は逆立ち、顔色は蒼白になっていた。 「長尾家の愛顧をこうむった盛氏が、主家に弓をひくとは……許し難い。即刻、成敗してくれるわ」  激しい声が、広間にこだまする。  他の部将達も、盛氏の非を鳴らして、わめきたてた。  伝令の武者が急を告げて、武者溜りへ走ってゆく。  軍議を開く必要はなかった。  景虎も部将達も、即刻、帰国の意思を固めていた。  その夜、小山城を発った越軍は、夜を日に継いで三国峠を越えた。  季節は初夏を迎えていた。  畠には菜の花が咲き誇り、蝶が舞っている。  だが、牧歌的な美しい眺めも、景虎の心をとらえることはできなかった。  帰国すると、景虎は、下越へ兵を進め、信越国境の守りを強化して、甲斐勢の脅威を除いた。  形勢を観望していた信玄は、あっさり兵を引いたが、犀川以南の防備は、従来以上にも固められていった。  その気配に景虎は、信玄が再び北信に経略の魔手をのばしはじめたことを悟った。 「どうにもならぬ不埒者。神仏に願をかけても、成敗しなければならぬ」  揚北《あがきた》衆は、度重なる信玄の巧妙な外交戦術と、越軍を翻弄する陽動作戦に、激昂の気配を見せて息まいた。  景虎も同じ気持であった。  氏康や離合反覆常なき関東の諸将の姿を見るにつけ、その要《かなめ》の地位にいる信玄が、奔命に疲れ果てる自分を、冷やかな眼で眺めていると思うと、生来の気性の激しさが、頭をもたげてくるのである。 「今度は、越後一の宮弥彦神社(燕《つばめ》市北西)に、願文を奉納しなければなるまい」  藤資が言ってくる。 「そうするか。信玄の非道を打ち破るには、神仏の力を借りるほかはなきゆえ。加えて、所信を披瀝した祈願書を奉納すれば、関東の諸将も注目し、われわれを理解する一助になろう。  戦いは力だけでは勝てぬ。  信玄や氏康のように、知恵を働かせることも肝要だ。  その意味では、藤資の発案は、思いのほか効果をあらわすかも知れぬ」  景虎はそう言葉を返した。  部将達もうなずきながら、聞いていた。  自室に帰ると、徳に硯と筆、巻紙を持ってこさせて、文机の前に座った。 「なにをしたためられるのでございますか?」 「ちょっとした願文をな」 「武田様の没身、調伏を祈るものでございましょう?」  徳の勘は鋭かった。 「表面はな。だが、本心は違う。  飯塚八幡に納めたのも同じだが、自らの思い通りに事が運ばぬと言って、相手の滅却を願うは、人の道に反すること。ただ、世間のしきたりもあるゆえ、このような建て前をとっているに過ぎぬ。  神仏に願をかけたところで、信玄や氏康は死にはせぬ。  藤資達古式を重んずる家臣は、他の諸将同様、それを信じている気配だが、神仏の御心《みこころ》は、そのような狭いものではない。  筋目をはずし、非分をかえりみざれば、害がその身におよぶ。  神仏は不思議なものじゃ。邪心や悪は、いささかも見逃がされぬ。  たとえ、一時無道が栄えても、やがて亡びよう」  景虎は淡々とした口調で語った。  焦ら立ちの気持は、ぬぐうように消えていた。  正義と人の道を重んずる者が、最後には勝つ。この信念は現在も変わらなかった。 「言われるとおりに存じます。それにしても、神社への奉納文を殿様が自ら書かれるとは……」 「それがしは、信玄や氏康と合戦を交じえているうちに、相手の秀れた点にも気づいた。  その意味では、氏康はともかく、信玄は宿敵であると同時に師でもある」  景虎はさり気なく洩らした。だが、これは本心であった。 「殿様らしい達観されたお考え。そのような見方ができれば、天下取りは間違いございませぬ」 「しかし、関東や北信のことで、足踏みしていてなぜ天下が取れる。  それにひきかえ、尾張の織田信長は、よく国を攻めるよのう。現在の状態では、数年を経ずして、京へのぼるであろう。  それがしと信玄と氏康が、泥試合を演じている間に……」  景虎は語って、自嘲の笑みを浮かべた。  桶狭間の戦い以来、信長は着実に領国の範囲をひろげている。  しかし、自分はいまだに関東を制し得ず喘いでいる。  焦りの気持を、景虎は感じていた。  徳が去ると、正座して姿勢を正した。  心の赴くまま、巻紙に次のようにしたためた。 「輝虎守筋目、不致非分事(輝虎、筋目を守り、非分を致さざる事)。  一、関東江年々成動、致静謐事も、上杉憲政、東管領与奪、依之祖働及其稼事」  と先ず書き、信玄の非と自分の所信を、四項目にわたりめんめんと記載した。  そして最後に、上杉輝虎と自署して花押を押し、宛先を「弥彦、御宝前」と力強く書いた。  北信の状況が、緊迫の度を増すなかで、空しく日々が過ぎていった。  近頃は、京都の動静の変化も、耳に入ってくる。  将軍義輝は、松永久秀の横暴に手を焼き、天下の諸将に書状を送って、救援を依頼している。  なかでも、景虎、信玄を中心とする東国の武将に、権威回復の期待をかけていた。  義輝は、泥沼状態に陥った関東の状勢を憂慮し、氏康と景虎との仲を調停すべく、すでに動きはじめている。  命を受けた大館藤安が、氏康に会うため、関東へ赴いたとの報せも、春日山城下には伝わっていた。  ただ、そのようなことに注意を払う余裕は景虎にはなかった。  加えて、芦名盛氏の指示を受けた小田切弾正が、東蒲原郡津川から、菅名庄を現実に侵している。  合戦の気配が見られなかった国内にも、外患の余波は、およんできているのである。  騒然とした雰囲気のなかで、四月末、大館藤安が供の武者、数名を連れて、春日山城へやってきた。  景虎は、一行を、二の丸に招じ入れて歓待し、将軍義輝からの意向を聞いた。 「足利殿の命を受けて、わたくしは関東に下向し、北条氏康殿の意向をうかがった。しかし、自らの力をたのんでか、同意の表明はなされなかった。  上杉殿の出方次第というのが、その返事であったが、輝虎殿、いかがでござろう。  貴殿の方から、同盟の諸士に、北条勢との停戦を命じては下さらぬか。  そうすれば、北条殿も兵を引かれると思われるゆえ」  藤安の言葉には、景虎の寛容にかける期待の気持が込められていた。 「それがしは、関東管領を承る身、将軍の命とあれば、申し出を受諾せざるを得ん。  ただ、北条殿が約束に背いて事を起こすならば、容赦するわけにはまいりませぬ」  景虎の言葉に、藤安はうなずいた。 「わかりました。わたくしも、貴殿の意向を尊重して、極力、講和の方向へ、努力致します」 「是非お願いしたい。では……」  景虎は、早々に会見を打ち切った。  将軍義輝が調停しても、氏康との仲が収まらぬことは眼に見えている。  しかし、関東管領の立場上、景虎には申し出をことわることはできなかった。 「それがしはよほどのお人よしかも知れぬ。だが、筋を通すことは、関東の諸将の統制上も必要なことゆえ」  そうつぶやいて、自らをなぐさめた。  翌日、藤安一行は、越後を発ち京都へ帰っていった。  景虎は約束に基づき、関東の諸将に停戦を命ずる書状をしたためて、使僧に託した。  七日を経ずして関東には平和がよみがえったが、氏康はその裏で、景虎の盟友、太田|資正《すけまさ》を追放する手術《てだ》てを進めていた。 「氏康らしい奸計だ。  武蔵の松山城は、わが軍の南の砦ゆえ、北条勢が眼をつけているのはわかっていたが……」  景虎はつぶやいて、眉を曇らせた。 「北条殿は、資正の子息、氏資《うじすけ》を引き入れて、父子相対立させようと計っております。  氏資は、資正殿とは打って変わった無道者。北条殿の誘いに応ずるのは、必定と考えられますが」  使僧の言葉に、景虎は息を呑んだ。 「信玄のように、父親を国から追放しかねないというわけか」 「左様でございます」  景虎は、言葉もでなかった。  血族相争う乱世が感じられてならなかった。  二日後、景虎は、中条藤資の提案を入れて、飯塚八幡宮に詣で、「武田晴信|退治《たいじ》、当秋中《とうしゆうちゆう》、甲府《こうふ》に旗を立て、晴信|分国悉《ぶんこくことごと》く、輝虎手に入るべき祈念《きねん》のこと」と題する願文を奉納した。  藤資らしい発案に、景虎は苦笑を禁じ得なかったが、戦国の武将の慣らいとあれば、従わざるを得なかった。 「あまり欲心をおこすと、神仏も擯斥《ひんせき》せられるであろう」 「いや、信玄の願文に比ぶれば、まだ控え目の方でござる」  二人は、冗談を言い合って笑った。  彼方の空には、鳥が舞っている。  気やすめの行事とはいえ、景虎には心の安らぎになった。  六月を迎えると、北信の状況が、急を告げてきた。  そのため、景虎は部将達と協議し、再度、信玄と決戦を交じえる決意を固めた。  天守閣の広間は、人であふれている。  信濃出陣の理由を述べる景虎の声は、覇気に満ちていた。  骨子は、先般作成した弥彦神社への奉納文に要約されている。  小笠原、村上、高梨、須田、井上、島津、ほかの北信の諸士を、信玄の牢道《ろうどう》から救い、越後の分国の西上州に対する武田晴信の妨《さまたげ》を排し、且つ、川中島で、手飼《てが》いの者を数多く討死させた怨みを晴らすというのが、その内容であった。  領主達は、うなずきながら聞き、最後に越軍の勝利を祈念して乾杯を行った。  誰一人、発言に異議をさしはさむ者はいなかった。  領主達は真剣な表情をして、武器、兵糧、軍馬などの調達方法を打ち合わせ、それが終わると、相互の懇親を深めるため、夜を徹して飲み明かした。  うめや徳も、宴《うたげ》の席に列して、接待をつとめた。  こうして、部将達の士気があがったところで、六月二十四日、景虎は一千の兵を率いて弥彦神社へ詣で、盛大な祈願祭を行った。  願文を読みあげる景虎の表情は引き締まり、眼は光を放っていた。  境内に整列した兵達は、粛然と首《こうべ》を垂れ、武田勢と決戦を交じえる覚悟を固めた。  景虎は「武田晴信悪行之事」と題する文章を願文に添え、神主の手を通じて、本殿に奉納した。  直会《なおらい》は盛大を極め、兵達は晴れやかな表情をして、美酒に酔った。  弥彦神社での祈願祭を境にして、越後を取り巻く状勢は厳しくなった。  小田切弾正の下越侵攻は、その後制圧し得たものの、かねて噂されていた太田|氏資《うじすけ》の父資正追放が、氏康のさしがねにより実現し、停戦状態が続いていた関東に、再び戦乱が巻き起こったからである。 「予想していたとおりの状況になった。色部勝長を遣わしてあるゆえ、関東のことは問題ないと思うが、氏康のこと、信玄の信濃侵攻に歩調を合わせて、なにを企てるやも知れず、油断がならない」  軍議の席で、景虎はそう語って、表情を沈ませた。 「相次ぐ不祥事の発生に、殿の心労もさぞかしと察せられますが、われわれ一同力を合わせれば、なんとか切り抜けられましょう。  それゆえ、心を患わされることなきよう」  実仍《さねとみ》が諭すように言ってくる。  景虎は気持を取り直した。  部将達を見渡すと、「今夜は飲み明かそう。明日になれば、また新たな風が吹くゆえ」と明かるい声で語りかけた。  士気への影響を、景虎は慮《おもんぱか》ったのである。  七月を迎えると、北信の状況が、さらに険悪化した。  信玄は兵を率いて、更級《さらしな》郡に駐屯し、さきに発生した飛田の諸族の争いに介入して、越中に侵攻しようと企てていた。 「飛田の領主、広瀬宗盛、江馬時盛らは、領地に関する紛糾から、三木《みつぎ》良頼、江馬輝盛(時盛の子)等と先般来争っております。  武田殿は前者に加担し、良頼らを攻めることによって、境を接する越中へ兵を進めようと謀っております。  これは当国にとり、由々しき大事。  至急に、策を樹てることが肝要と考え、注進にまいった次第でございます」  武者の報告に、景虎は眉をひそめた。 「領主達の争いは、茶飯事のこととて問題とすべきものはない。  ただ、信玄が宗盛らを援けて、良頼らを討つとなると……」  思いをめぐらせてみたが、結果は武者の語るとおりであった。 「とにかく、皆の衆を集めて、協議致そう」と述べて、席を立った。  川中島への出陣の準備は、先般来進められている。  領主達の紛糾がなくても、北信への出兵は、既定の事実であった。  しかし、信玄が別の構想を抱いて、越中への侵攻をはかっているとなれば、機先を制するためにも、出陣の時期を早めなければならない。  加えて、三木良頼等は、越後に対して親近感を抱いている。  採るべき手術《てだ》ては明らかであった。 �良頼らを援けて、先ず飛田の諸士を抑えよう�そう考えをまとめて思いを断った。  関東に駐在する色部勝長は、北条氏康、氏政父子の支援を受けた佐野昌綱に、拠城(沼田城)をおびやかされている。  そのことも景虎にとっては、頭痛の種であった。  不快の念を噛みしめながら、部屋を出て、館の中《なか》の間《ま》へ入っていった。  実仍以下の部将はすでに姿を見せている。  軍議が直ちに開かれた。  今日は、部将達の自粛により、酒は出されていない。  茶菓を喫しながらの真剣な討議が続いた。  景虎が提案した飛田諸士討伐方針は、異論なく承認されたが、問題はいつ川中島へ出陣するかであった。  早ければ早いほどよいのは、誰にもわかっている。  しかし、甲斐勢と決戦を交じえるとなれば、それだけの軍備を整えなければならない。  加えて、色部勝長の軍への支援も、考慮する必要がある。  論議は紛糾して、容易に結論がでなかった。 「信玄は、その後の調べでは、更級郡にはとどまっていない様子。本陣の所在も明らかではございません。  或いは甲府に帰ったのではとの憶測も流れております。  従って、この虚をつけば、飛田諸士を抑止し、江馬時盛父子や良頼らを、帰属させることができると思われます。  出陣の時期でございますが、それがしの考えでは、七月二十九日が諸般の状勢を考慮した場合、適当と判断されますが……」  山吉豊守が意見を述べてくる。  頭脳の緻密な豊守の見解には、誤りがない。  景虎はうなずいた。 「恐らく、それでぎりぎりであろう。八月との見解もあるが、遅きに失する。  合戦に勝つには、機を逸しないことが肝要だ。わずかの手遅れや手違いで明暗が分かれる。このことを、われわれは忘れてはならない。  それはともかく、信玄の所在がわからぬとは、異なことを承る。変幻の術を使う彼のこと、さもあらんと思われるが、それがまことなら、好機じゃ。  影武者をたてるような戦術にも、限度があるからのう」  落ち着いた口調の言葉が、部将達に向けて発せられる。  不快の念は消えていた。  豊守の発言を契機に、意見はまとまりを見せてきた。  信玄の所在不明だけが最後まで疑惑を残したが、出陣の日は、七月二十九日と決められた。  合戦の気配におおわれたなかで、七月半ば長尾政景が突然死去した。原因は水死であった。  その日、政景は、坂戸城の近くの上田郷、土樽村字|谷後《やご》の野尻池に舟遊びし、過って溺死したのである。  その報に接したとき、景虎はさすがに胸をつかれた。  姉、仙桃院の嘆きもさることながら、ここ十年近く、国務を補佐し、出陣の際は、留守居役を勤めて、後顧の憂いをなくしてくれた人物が、この世から姿を消したことに、わびしさを覚えた。 「合戦のさなかとはいえ、通夜と葬儀だけは、丁重に行わなければならぬ」 「左様でございますな」  景虎は、実仍と語って思案に耽った。  政景の実子、景勝《かげかつ》の行く末が気懸りであった。  本庄実仍を中心とする古志長尾家と、政景の上田長尾家とは、古来対立関係にある。  過去に、景虎と政景が争ったのも、そのゆえであったが、景虎の支配が確立して以降は、争いが杜絶えている。  しかし、景虎や実仍が死ねば、再燃する恐れもある。 �それがしには実子がいない。景勝は、姉の子でもあり、上田長尾家を継がせるより、上杉家の養子とする方が、子孫の繁栄のためによいかも知れぬ。  そうすれば、両家の積年の対立関係も解消するゆえ�頭のなかを思いがかすめてゆく。  時期を見て、その措置に踏み切ろうと決意して、景虎は思いを断った。  政景の葬儀は、翌日、景勝が喪主になって、盛大に行われた。  甲斐勢との合戦を目前にしてのこの行事に、国内ではさまざまな噂が乱れ飛んだ。  政景は、景虎に嫌忌《けんき》され、密旨《みつし》を受けた宇佐美定行によって、謀殺されたというのが、その最たるものであった。  噂を耳にしたとき、景虎はさすがに立腹した。  誰が流したのかはわからない。  しかし、武田勢に心を寄せる者の仕業であることは、容易に推測された。 「乱世ゆえ、このようなこともあるのであろう」 「そうでございますな」  景虎は実仍と語って、暗い気持に襲われた。  混沌とした状勢のなかで十数日が経過し、七月二十八日を迎えた。  関東の状勢は、その後悪化の一途をたどっている。  景虎にはそれが不安であったが、北信への出兵だけは進めなければならない。  後髪をひかれるような思いのなかで、辰の刻(午前八時)、景虎は、八千の兵を率いて春日山城を発った。  館の玄関を出たとき、徳が「気持を豊かに持たれて、冷静に対処されることが、いまの殿様には、必要かと存じます」と言ってくれた言葉が、景虎の心に残った。  野山の風景には、秋の気配がただよっている。  信玄との大規模な合戦は、これで五度目になる。  相手の手のうちを知っているため、戸惑いの気持は覚えない。  しかし、景虎には三年前の激戦が、心に傷となって残っている。特に、六千の兵を失ったことが、いまだに悪夢のように、脳裏によみがえってくるのである。 �今回の合戦で、信玄との結着をつけなければならぬ�所在を秘す相手の卑劣さに、怒りを覚えながら、胸のうちでつぶやいた。  その日のうちに、国境を越えた兵団は、夕刻、赤川の高原に野営の陣を張り、翌日の川中島への進攻に備えた。  彼方には犀川が、絵に描いたような佇まいを見せて、夕陽に映えている。  その南の川中島は、すでに暮色に包まれていた。  霧が緑の平原を包み、迫りくる夜の気配に、やがて、視界から姿を消していった。 �北信での戦いは、これで最後になるかも知れぬ�  眺めながらふとそう思った。  翌二十九日の払暁、越軍は陣地を発ち、山を下って、午《ひる》すぎには、善光寺を北に望む地点まで進出していた。  犀川は眼の前である。  焼けつくような陽ざしが、真上から照りつけ、緑一色におおわれた川中島の風景が、眼にあざやかに映る。  景虎は、高所に駒を止めて、あたりを眺め渡した。  風林火山の軍旗がまばらに望見されるだけで、大軍が布陣している様子は見られない。 「一気に川を渡りますか」 「そうするか。三木良頼らの兵も待機しているゆえ、問題はあるまい」  景虎は実綱と言葉を交わすと、川へ馬を乗り入れた。  八千の兵があとに続く。  急流の犀川は、ときをはかって一気に渡らねば、敵軍に攻撃の機会を与えることになる。三年前の合戦で、景虎はそれを身に沁みて感じていた。  無事川を渡ると、良頼らの兵と合流し、川中島の真っ只中へ進出して、布陣を完了した。  武田勢は、攻撃してくる気配を見せない。 「信玄は果たして、北信にやってきているのであろうか」 「さあ」  そんな会話が兵達の間で交わされるほど、あたりは静まりかえっていた。  翌日から、越軍は行動を開始し、宗盛ら飛田諸士の拠城を攻撃した。  戦いはあっけなく片がつき、十日後には平和がよみがえった。  三木良頼や江馬輝盛は、景虎に丁重に礼を述べて、それぞれ領国に引きあげていった。  この間、武田勢は、越軍に対して殆ど戦いを挑んでこなかった。  信玄の指示によることは明らかであったが、それがいかなる理由によるのか、景虎には判断がつかなかった。 「信玄はなにを考えているのであろう。  信濃をほぼ抑えたこともあって、われわれとの正面衝突は、益がないとでも踏んでいるのだろうか」  藤資が、言葉を洩らす。 「さあ」  直江実綱にも、察しがつかぬ様子であった。  打ち合わせの結果、今後は佐久郡へ制圧の鉾先を向けることが決まった。  翌、八月|朔日《さくじつ》、景虎は三千の兵を率いて、更科八幡宮に詣で、「順弓《じゆんきゆう》か、逆弓《ぎやくきゆう》か、神助《しんじよ》定めて枉曲《おうきよく》あるべからず」との祈りの言葉を捧げた。  そして、三日には、川中島の南端に布陣し、その陣中で関東の佐竹義昭宛に書状をしたため、北条氏康の牽制を依頼した。  出陣中にも、関東の情報は刻々入ってくる。  太田資正の追放、小田ほか諸氏の寝返り、足利晴氏、藤氏父子の幽閉と殺害されたとの風評など、どれ一つをとらえてみても、越軍に有利なものはない。  加えて、色部勝長の軍は、佐野昌綱の率いる軍勢に攻められ、苦戦を強いられている。 「信濃はこれで小康状態を呈したが、問題は関東だ」 「そのとおりでございます」  本陣の幕間《まくま》で、直江実綱と語りながら、景虎は憂鬱な気持に襲われた。  心を静めると思案に耽った。  関東の状況を在京の大館晴光に知らせ、将軍義輝の理解に供しておく必要があるのではとふと感じた。  無駄なことではあるが、関東管領の責務のように思えたのである。  祐筆の武者に、硯と巻紙を持ってこさせると、その場で筆をとった。  氏康が、上杉家の旗本にまで、誘いの手を伸ばし、家中を解体させ、佐野、小田ほかの諸氏を味方につけて、晴氏、藤氏父子を押し籠《こ》め、停戦の油断に乗じて太田資正を追放したことを述べ、憤懣やる方なく黙視し難いと、心のうちを披瀝した。  書き終わると、巻紙をもとへ戻して、眼をつむった。  武将としての苦しみが感じられてならなかった。  なにゆえに天下を狙うのか、自分でもわからない。  父為景が残した血とはいえ、その酷烈さを思うと、気持が滅入ってくる。  溜め息を洩らすと眼をあけた。 「天下取りとは、至難な業よのう」  嘆きの言葉が口をついてでる。 「しかし、殿が苦しいときは、信玄も氏康も喘いでいるに相違ありませぬ。  人の世の闘いとは、そのようなものだと、わたくしは考えますが」  実綱の言葉が返ってくる。 「なるほど。そうかも知れぬ」  景虎はうなずいて、思いを断った。  二日後、信玄が塩崎(更級《さらしな》郡)に入ったとの報せが入った。  しかし、その後は陣所を秘匿《ひとく》し、行方が知れなかった。  武田勢との交戦も、散発的なものにとどまり、大規模なものは一度も行われていない。  九月を迎えてもこの状況は変わらず、川中島での合戦の報復に燃える景虎を焦ら立たせた。 「信玄め。どこへ姿を消した」  敗走する武田勢を眺めながら、吐き捨てるようにつぶやいた。  野山の風景は、紅葉の気配を濃くしている。  澄み渡った空を眺めながら景虎は、藤資の言葉を思い浮かべた。  ——信濃をほぼ抑えたこともあって、われわれとの正面衝突は、益がないとでも判断したのだろうか——と。  当たっているように思えてならなかった。  その後も越軍は、武田勢の本隊を追って、北信を駆けめぐったが、遂に兵火を交じえることができず、月日は無為に経過した。 「まあ仕方がない……」  部将達のこのような独白が聞かれるようになったのも、この頃からである。  数日後、景虎は、将来における甲斐勢との戦いに備えて、下高井郡の飯山城の普請にとりかかった。  合戦のないまま北信で過ごすことは、徒労に終わると判断されたからである。  いまは、信玄の存在は意識にない。  城の普請が終われば越後へ引きあげようと、景虎は考えていた。  関東の状勢は、依然悪化の一途をたどっている。  色部勝長ほどの勇将も、北条勢の大軍に囲まれれば、城を守ることが困難なのである。 「とにかく、一刻も早く信濃から兵を引き、関東出兵に備えよう」  景虎は軍議の席でそう提案して、部将達の了解をとった。  飯山城の普請は、九月二十九日に完了した。  それを見届けたのち景虎は、十月一日、八千の兵を率いて北信を発った。  紅葉におおわれた風景が、秋の深まりを感じさせる。  馬の背にゆられながら、景虎は、二ヵ月間の出陣が、徒労の連続であったことを思い浮かべていた。  春日山城に帰って以降は、しばらく平穏な日々が続いた。  この間に、将兵達は合戦の疲れをいやし、景虎も、毘沙門堂にこもって、禅修行に打ち込んだ。  このような雰囲気を徳やうめは喜んだが、関東の状勢の悪化が、景虎に安堵するいとまを与えなかった。  十一月を迎えると、色部勝長からの使者が相次ぎ、北条勢との戦いの苦しさを訴えてきたからである。 「已むを得ぬ。即刻、関東に兵を進め、佐野昌綱を討とう」  初旬の或る日、景虎は使者の武者にそう語って、出陣を決意し、二日後には、三千の兵を率いて、春日山城を発っていた。  色部勝長の軍の援護は急を要する。  この事態が、少数の精鋭を率いての出陣となった。  今年は積雪が、山岳地帯にみられるだけで、関東への道は、さほど難路ではない。  松之山《まつのやま》(町)まで道を東にとり、そこから進路を南東へ変えた。有倉山(六三三メートル)と氷山(六七四メートル)の積雪風景が、左右に見えてくる。  南方には、津南《つなん》の高原地帯の山々が、峨々たる連なりを見せて、ひろがっている。  兵団は、そのなかへ分け入るように、行軍の速度を速めた。  中里《なかざと》(村)を対岸に臨む地で、越軍は信濃川を渡った。  あとは、湯沢《ゆざわ》(町)まで、半日の道程である。  景虎は安堵の笑みを浮かべた。  明日は、�越山�をなし遂げることができるのである。  湯沢で野営の陣を張った越軍は、翌日早朝|出立《しゆつたつ》して、三国峠への七里の道を踏みしめ、午《ひる》過ぎにはそれを越えて、関東の高原に姿をあらわしていた。 「攻めるか」 「そうしますか」  景虎は実綱と、言葉を交わして一気に山を下った。  沼田城攻囲中の敵軍を、刃を交じえることなく敗走せしめた越軍は、そのまま進路を南東の佐野城の方向にとり、二日後には佐野昌綱の率いる軍勢を包囲していた。  援軍の到着に、色部勝長の軍の士気はあがり、三ヵ月間におよぶ合戦の均衡が破れた。  北条勢は、越軍の挟撃に慌てふためき、隊列を乱して南へ落ちのびていった。  だが、自城に執着をもつ佐野昌綱の軍勢は、孤立のなかでよく戦い、三日間の激戦ののちようやく越軍の軍門に下った。  昌綱は、景虎に臣従を誓い、講和の条件の協議が、翌日、佐野城内で行われた。  直江実綱以下の部将が、広間に居並ぶなかを、佐野昌綱が家臣の武者数名を従えて入ってきた。  ひげはのび、顔色は蒼ざめている。  衣類も長期にわたる合戦を思わすかのように、色あせている。  昌綱は景虎の前へ進み出ると、土下座して、首《こうべ》を垂れた。年齢のほどはさだかではない。  しかし、びんに混じる白髪から、四十歳を越えていることは確かであった。  実綱以下が、武装姿のままその風貌に見入る。  猛将揃いの越軍を感じたのか、昌綱の表情には、おののきの気配が走っていた。  緊迫感がただようなかで、和睦の条件が煮詰められた。  越軍の担当者は、中条藤資であった。  二人の話し合いを、部将達は固唾を呑んで見守っていた。 「そなたは長年北条方につき、われわれを苦しめた。  本来であれば、斬首の刑に処すべきところを殿のはからいにより、死一等を減ぜられた。  その辺を考慮すれば臣従のあかしとして、人質を当方に提供するのが至当。  具体的には、そなたの子息、虎房《とらふさ》以下重だった者、三十余名というのが、われわれの腹案である」  厳しい口調の言葉が、昌綱に向けて発せられる。 「人質の件は、世の慣らいゆえ致し方ござらぬ。しかし、虎房以下三十余名とは……」  昌綱はつぶやいて、唇を震わせた。  予想外の苛酷な条件と、感じたのであろう。  だが、藤資は容赦しなかった。 「この程度の条件が呑めぬようでは、恭順の意が疑われる。承服するか否か、われわれはそれだけを聞きたい」  威圧のひびきをたたえた言葉に、昌綱は口をつぐんだ。  座の雰囲気が和らいでくる。  景虎は安堵した。  これで一先ず、関東の問題は結着をみたと思った。  三日後、景虎は、虎房以下の人質を伴って、佐野城を発った。  このようなことはしたくなかったが、北条勢の蹂躙から関東を守るためには、已むを得なかった。  十五歳の虎房にはあどけなさが残っている。  両親と別れを惜しむその姿は、見るに忍びなかった。 「虎房以下はそれがしが責任をもって面倒をみるゆえ、案ずるには及ばぬ」  昌綱に、景虎はそう言葉をかけて、馬に跨がった。  乱世に生を受けた武将の宿命のような気持であった。  不穏な形勢が続くなかで年が明け、永禄八年(一五六五)を迎えた。  元旦は、春日神社に詣でて、初春を寿ぎ、午後からは年始に参上した部将達と、館で酒宴を張って過ごした。  乱世にかかわらず、越後は逐年栄える気配を示している。城下も、春日山城を南端にして、北へ向かって町が連なり、賑わいは昔日の比ではない。  近頃は、北信の問題よりも、関東のそれの方が、神経をそばだてさせる。 「最近、甲斐勢は、われわれとの戦いを避けるようになった。加えて、国攻め自体にも、意欲が失せてきている。  どういう了見なのだろう」  直江実綱が、不審の面持ちを見せて本庄実仍に語りかける。 「信玄のこと、或いは鉾先を転じはじめているのかも知れん」  二人の会話に、景虎は笑みを浮かべた。  さすがに勘が鋭いと思った。  中条藤資が面をあげる。 「信玄は易筮《えきぜい》により、吉凶を占うという。  永禄元年の北信出兵の際も、水内《みのち》郡戸隠神社に奉った願文をもとに、易をたて、『外之九三』つまり『外虚邑《そときよゆう》、疑うところなし』と出たところから出陣を決め、和すべきか戦うべきかについても、『坤卦之吉文』を得たがゆえに、われわれに合戦を挑んだと噂されている。  先年、近江|朽木谷《くつきだに》にあった将軍義輝が、殿との和睦の調停をした際も、易の示すところに従い、それを拒否した。このような信玄のこと、急に心変わりがしたとしても、不思議ではあるまい」 「なるほど、それで藤資の考えでは、どのように信玄が心変わりしたというのだ」  景虎は、さり気なく聞いてみた。 「それは……」  藤資は言葉に詰まった。  部将達の間に、笑い声があがる。 「信玄は、今後は恐らく鉾先を南に転ずるであろう。兵を率いての上洛が、最終の狙いだからだ」  景虎は、眼を据えて語った。予感のような気持であった。  今年、四十五歳を迎えた信玄は、織田信長の活躍に焦慮しはじめている。  信濃をほぼ手中におさめた現在、西進の兵を進めたところで、何ら不思議ではない。 「となりますと、今後は北条殿が信玄にとり、後門の狼になるのでは……」藤資の眼が輝いてくる。 「そうなるかも知れぬ」  景虎は、笑みを浮かべて答えた。  この考えが的中すれば、久しく越軍を苦しめた、甲、駿、相三国同盟が崩壊する。  渡りに舟の思いは強かった。 �これからはわれわれにも、運が開けてくるかも知れぬ。しかし、天下取りへの道は、まだ遠い……�  盃を傾けながら、景虎はそんな思いを胸のうちでめぐらせていた。  三月に将軍義輝が越、相両国の和睦に乗り出してきた。  しかし、それが稔らぬうちに、五月に政変がおこり、義輝は松永久秀に殺されてしまった。  報は、忽ち諸国に伝わり、天下を狙う諸将を驚かせた。 「殺されたとなれば、由々しき大事じゃが、それはまことか」  使僧からの報告に、景虎はそう聞き返していた。 「自殺されたのが真相でございますが、その裏には久秀の悪逆無道の振舞いが、糸を引いております。  脅迫による謀殺との噂が京都では流れ、世情の不安に、庶民は家財をまとめて町から引っ越す始末。  いやはや、大へんな世とはなったものでございます」 「して、将軍の後継者は?」 「義輝殿の弟、義昭殿が十五代将軍の地位に就いた由にございます」 「なるほど」  景虎は溜め息を洩らした。  先年、上洛したとき、景虎は義昭に会っている。  人格円満な義輝に比べて、義昭は野心のかげを宿していた。  精悍な眼つきと人を恐れぬ態度に、それがあらわれている。 �あの短慮者に、将軍の職務が勤まるだろうか�胸のうちを思いがかすめてゆく。  七月を迎えると、関東の状勢が再び緊迫化してきた。  上杉方の里見義弘の拠城を、氏康が攻めたからである。  景虎は、信玄の動きを牽制するため、信濃に兵を進めたが、旬日を経ずして春日山城に帰ってきた。  勿論、甲斐勢と戦いを交じえる意思はなく、信玄もそれに一顧だに与えなかった。  この陣中で景虎は、信玄が織田信長と結び、さらに松平元康ともはかって、今川氏を亡ぼす計画を立てていることを知った。 「それがしの勘はやはり当たっていた。今後信玄は、西上をめざして、制圧の兵を進めるであろう」とそのとき洩らした。  近頃は、甲斐勢の侵攻に神経をそばだてる必要はない。  このゆとりが景虎に、関東経略に目標をしぼって、機動的な軍事行動を展開させることとなり、十一月には、氏康の総武侵略を阻止するために関東に出陣して、北条勢を駆逐した。  猛将に率いられた越軍に、敗戦はなかったのである。  士気はあがり、敵軍は景虎の緋おどしの鎧と顔の白布を見ただけで、おののきの気配を見せ、戦わずして敗走していった。  折しも、佐野城は、北条氏政が率いる三万の大軍に囲まれ、昌綱は援けを景虎に求めてきた。 「わかった、ただちに全軍を率いて、救援に赴く」  景虎は使者の武者にそう告げると、床几《しようぎ》から立ち上がっていた。  出陣を知らせるほら貝の音が、ひびき渡る。  八千の精鋭は、久保田(足利市南東)の陣地を発ち、土煙をあげて、佐野城へ向かって進軍を開始した。渡良瀬川を渡ると、あとは約一里半の道程である。  三倍を超える敵兵のことは、念頭になかった。緋おどしの鎧が夕陽に映え、眼は輝きを放っている。  佐野城は落城寸前の状態に置かれていた。  北条勢の軍旗が、城を囲んで林立し、三万の大軍のときの声が聞こえてくる。  景虎は駒を止めると、部将達に語りかけた。 「包囲の突破は、そなた達に委せる。  それがしはこれから手勢の者を率いて、昌綱の軍の援護に向かうゆえ」 「しかし、それではあまりに無謀に過ぎます」  直江実綱が止めたが、景虎はきかなかった。  馬から降りて鎧をぬぎ、黒色の木綿の道服をまとうと、家臣の武者二十三名を選んで、同じ姿に服装を変えさせた。  八千の将兵は、それを固唾を呑んで見守った。  二十四騎の武者は、十文字の槍をたずさえた景虎を先頭に、氏政の本陣の前を、馬を歩ませて通過した。  無心の気持であった。  毘沙門天の像を脳裏に描く限り、恐れの気持は覚えない。  北条勢は鳴りをひそめてその光景を眺めていた。 「夜叉《やしや》か、それとも羅刹《らせつ》か!」  驚きの声が、敵陣のなかから洩れてくる。  景虎は笑みを浮かべた。  弓矢や鉄砲は、射かけられてくる気配はない。  二十四騎の武者は、悠々と城内へ入っていった。  実綱の下知に応じて、越軍が怒濤のような進撃を開始したのは、それから間もなくのことであった。  佐野昌綱の救援に成功した景虎は、合戦の疲れをいやすため、数日その居城にとどまった。  関東に勢力を及ぼしたいま、心に懸るものはない。  昌綱と語らい、付近の神社や仏閣に詣でることに、景虎は喜びを感じていた。  だが、好事は長くは続かなかった。  越後へ帰国する日、盟友佐竹義昭の死と、小田守治の北条方への寝返りを同時に聞いたからである。  落胆の気持は、たとえようもなかった。  出立を知らせる陣鉦《じんがね》の音が聞こえてくる。  馬に跨がると、軍配をかざした。  思いに沈む景虎の胸のうちをよそに、八千の兵団は、軍旗を連ねて、三国峠への道を歩んでいった。  庭の石灯籠が吹雪に霞んでいる。  景虎は廊下に佇んで、その眺めに見とれていた。野鳥が鳴き声をあげて、空を飛んでゆく。  矢のように西へ向かうと見る間に、身をひるがえして、視界から消えてゆく。 「殿様、なにを考えておられます」  いつの間にやってきたのか、うめがそばに立っていた。  三十三歳の年齢を迎えたにかかわらず、面長の顔はいささかも、妖艶さを失っていない。 「なにも考えてはおらぬが」  景虎はさり気なく答えた。 「近頃、殿様は風格がでてまいられました。  お体も心なしか肥えてきて」 「そうかな。三十七歳の年齢のせいであろう」  話し合っているところへ、徳が姿を見せた。  三人は、庭の風景を眺めながら、春先の行事のことについて語り合った。  午後、景虎は、関東からやってきた使僧と会った。  小田守治は、北条勢の先鋒となって、上杉方の属城を攻撃しているという。 「そのような状態に。しかし、いずれ平定の兵を進めるゆえ」  状況を聴取したのち、景虎は、そう答えた。  甲斐勢の脅威が除かれたいま、関東のことはさほど心にかからなかった。  戦えば勝つ自信が、景虎にはあったからである。  二月初旬、景虎は五千の兵を率いて三国峠を越え、小田城を攻略すると、勢いに乗じて、両毛、下総、安房の諸国を平定した。  この時点において越軍は、関東全域において、北条勢に優位に立った。  平定は、まだなし遂げられたとは言えない。  しかし、景虎には、その目安がついてきたように思われた。  本庄実仍が馬を駆ってやってくる。 「殿、足利義昭殿の使者が陣地を訪れてまいりました」  報せに景虎は驚いた。  義昭は、織田信長とは意を通じていても、自分には関わりがない人物と決めていたからである。 「取り敢えず、本陣の幕間に招じ入れるほかはなかろう」  と答えると、やってくる公卿の姿を眺めた。  目的がなんであるかは、わかっていた。  氏康、信玄との講和を進めるために、京都から、ここ我孫子《あびこ》(下総)まで、赴いてきたのである。  両者は挨拶を交わしたのち、床几に腰を下ろして語り合った。  先方の来意は、推察したとおりであった。  だが、次のような言葉を聞いて景虎は、表情を引き締めた。 「上杉殿は、織田、武田両氏と並ぶ勇将。  甲、相二国と和して、天下の治安回復に貢献していただくことは勿論、上洛して諸将に号令し、足利幕府の権威回復に努めてもらわなければなりません……」  使者の言葉に、景虎は苦笑した。 「北条、武田両氏との和睦は、関東管領の職位の手前もあり、考慮してもよいとは考えている。  ただ、上洛の件は、然《しか》く、簡単にはまいらぬ。  先年、五千の兵を率いて、京へのぼったときとは、世情が変わってきているからだ。  それがしが、西進の兵を進めれば、北条殿や武田殿は勿論、織田殿も容認されますまい。必然、合戦となり、現在以上に天下が乱れることとなる。  そのようなことは、足利将軍自身が望まれぬはず……」 「上杉殿らしい筋の通った考え方。  しかし、天下の形勢は、貴殿のような義を重んじ、道理をわきまえた武将の出現を希求しております。  下剋上の風潮が浸透して久しくなりますが、これを払拭《ふつしよく》し、治安回復をはからねば、国が立ってゆきませぬ。  三好、松永などの佞臣が、力を頼んでまつりごとの采配を振るっているがゆえに、天下が乱れているのです。  主君、義昭は、貴殿や武田、織田、北条殿などに、京都回復の期待をかけておられます。  その辺をお汲みとりいただき、上洛の兵を一日も早くおこされるよう、重ねてお願い申し上げます」  使者はなおも説得してきた。  景虎は判断に迷った。  義昭と意を通じておくことは、将来の天下取りに当たって、役に立つ。  取り敢えずは、将軍の意向に沿う方向で、応諾の返事をしなければなるまいと、思案した末決意した。 「それほどまでに言われるならば、お受け致す。  しかし、上洛は至難な業ゆえ、それが遂げられるか否かは約束できない。  その辺を含んで、足利将軍にそれがしの意を伝えてもらいたい」  景虎の言葉に、使者は安堵の笑みを浮かべた。 「これで、わたくしも京都からまいった甲斐があったというもの。ご承諾に対して、厚くお礼申し上げます。  ついては、それを証する書面を頂戴致したく存じますが、いかがなものでございましょう」  都育ちの使者は、さすがに抜目がなかった。 「口頭の返事では、用をなさぬと申されるのか」 「なに分にも、乱世のことゆえ……」 「なるほど」  相づちを打つと、祐筆の武者を呼んで、硯と巻紙を持ってこさせた。  部将達は、景虎がどのような書状をしたためるかを緊張の面持ちを見せて見守っていた。  筆をとると、思いつくまま次のように記載した。 「輝虎、氏康に真実和談あって、輝虎、利を失わなければ、これを成立させ、�神力、仏力を添えられ、信州、甲州、当秋中に、一宇《いちう》なく焼《や》き放《はな》ち、輝虎、騎馬を甲府にたて、即時、武田晴信父子退治のこと�……」と一気に書き、最後に次のように文章を結んだ。 「然るのちに上洛して、三好、松永が一類《いちるい》、頭《こうべ》をはね、京都公方《きようとくぼう》、鎌倉公方様《かまくらくぼうさま》とりたて申し候」  筆を擱《お》くと、書面を部将達に回した。 「結構に存じます」  実仍の言葉がかえってくる。  巻紙を封に納めると、足利将軍殿と表記して、使者に手渡した。ほっとした気持であった。これで会見は終わったのである。  使者が去ると景虎は、その場で部将達と語り合った。 「少々、壮語に過ぎたきらいがあるが、あのように書くのも、乱世に処する手術《てだ》て。  諸将に勝つには、誠実だけでは足りぬ。信玄や氏康との合戦を通じて、それがしにはそれがわかるようになった。  いやはや、世渡りとは難しいものだ」  景虎の表情には、将軍義昭との繋がりができたことに対する満足の笑みが浮かんでいた。  取るに足らぬ存在とは言え、その権威を利用することは、事を成就させるに当たって援けになる。  信玄はいざ知らず、信長や元康は、それを心がけている。  盃を傾けながら景虎は、さまざまな生き方をする戦国武将の面影を思い浮かべていた。 「言われるとおりにございます。  やはり、武将たるものは、柔剛兼ね備え、緩急自在であることが、第一の要件かと存じます。  信玄のように権威を否定し、武力と権謀だけで天下を取ろうとしても、遂げられるものではありません。  その点、織田殿は、心底に権威を恐れぬ厳しさを蔵しながら、機に臨み変に応じて、行き方を変えておられます。現在の殿と相通ずるものがあるようにわたくしには思えるのですが。  それにしても、あのような文面を、さらさらと書きあげるとは、殿も見あげたものでございます」  実綱が言葉を返してくる。 「信玄のような行き方がよいか、信長のそれがよいかは今後を見なければわからぬ。  しかし、それがしの判断では、信長は、今後、われわれにとり、兵火を交じえなければならぬ最大の敵になってゆくように思われる……」  景虎はつぶやいて、眼を一点に据えた。  予感のような気持であった。  国境の山々が、霞のなかに浮かんでいる。  茫漠《ぼうばく》たるその眺めに、景虎は本格的な春を感じた。  関東から帰国して、はや一ヵ月が経つ。  北条氏康との講和は、北条《きたじよう》高広と由良成繁が中心になって相手方と折衝を進めているが、成果ははかばかしくない。  氏康が、将軍義昭の斡旋を無視する態度に出ていることと、即時講和が北条方にとり不利であることが、その原因であったが、高広と成繁が、氏康の甘言に迷わされていることも、成約をさまたげる因になっていた。  成繁は、上野金山城に拠る関東の武将であり、高広は、景虎の命を受けて、現在は厩橋城を守っている。  ともに、関東の事情にくわしいことから、折衝を一任したが、過去に自分に叛いたことがある二人を、景虎は信用していなかった。 「殿、北条殿と由良殿が只今、帰着されました」  武者の注進に、景虎は不吉な予感を覚えた。  部屋を出ると、館の中の間で、二人を引見した。  北条方との講和は、不成功に終わったと、成繁は淡々とした口調で語った。  ふてぶてしいその態度に、景虎は眉をひそめた。  高広は、視線を伏せたまま語らない。 「已むを得ぬこととは存ずるが、率直に言って、そなた達の熱意が足らぬことが、破談の原因だと思料する」  景虎はそれだけを述べて、二人を見据えた。 「殿ともあろう人が、なぜそのようなご判断を……わたくしは誠意をもって北条方と折衝に当たったつもりでございます」  成繁が、言葉を返してくる。 「言いわけはいくらでもたとう。しかし、事実だけはまげることができぬ」 「そのようになじられたのでは、わたくしの立つ瀬がございませぬ。  不満ならばそれで結構。仕える武将は、天下に万とおられるゆえ」  成繁は怒りを面にあらわして高言した。 「いまの言葉が、そなたの本心であろう。  それがしのもとを去るのなら、それでもよい。しかし、後悔してもはじまらぬことだけははっきりと言っておく」  景虎の口調は、迫力を帯びてきた。  藤資が血相を変えて立ち上がる。 「貴様のような人物は、この場で成敗してくれるわ」  激しい声が、あたりの空気を震わせる。  他の部将達も、成繁を見据えた。 「捨て置け。それがしは合戦の場以外で、人を殺《あや》めたことがない。  成繁の言葉は、それを見越してのことと思うが、このような不埒者は、われわれが成敗せずとも、神仏が罰してくれよう」  景虎の表情には、怒りの気配が走っていた。  成繁と高広が、関東へ帰れば、自分の非を鳴らすに違いない。  それによって、利にさとい坂東武者が、北条方につくことは、眼に見えている。  しかし、それを知りつつも、景虎は成繁を手にかけることはできなかった。  緊迫した空気のなかで、話し合いは終わった。  二人は、不敵な笑みを浮かべて、館から去っていった。 「金山城は、今年中に攻め落とす!」  藤資が、激怒した口調で言葉を吐く。  広間にこだまするその声が、耳底をよぎるのを覚えながら、景虎は無心の気持で、自室へ向かって歩いていった。  講和の不調を契機に、宇都宮、新田、皆川、成田の諸将が、次々に北条方に寝返った。  成繁が流した�景虎不信�の流言のせいであった。  加えて成繁は、北条氏政の意を受けて越後の国人を誘い、景虎に叛旗をひるがえさせようと、企てていた。  この状況に、さすがに景虎は立腹した。 「已むを得ぬ。成繁を討つ!」  と軍議の席で決断を下すと、三千の兵を率いて春日山城を発ち、七日後には、上野《こうずけ》の金山城に猛攻をかけていた。  三日を経ずして城は落ち、成繁は北条氏政を頼って、小田原に落ちのびていった。 「口ほどにもないたわけ者。これで思い知ったであろう」  散り散りになって、敗走する敵軍を眺めながら、藤資がつぶやく。  翌日、武田信玄が箕輪城(前橋市西方)を攻撃しているとの報せが景虎のもとへもたらされた。さすがに驚きを禁じ得なかった。 �疾《はや》きこと、風の如しか……�胸のうちを思いがかすめてゆく。 「兵を返して、甲斐勢を討ちますか」  直江実綱が聞いてくる。 「五千の武田勢に囲まれれば、箕輪城は、二日と持つまい。残念だが、ここはひとまず越後に引きあげるほかはない」  思案した末、景虎はそう判断を下した。  箕輪城の落城を契機に、上野《こうずけ》で、上杉、武田、北条三氏の所領が、互いに接することになった。  諸将の離反とともに、このところ越軍の関東における勢力は、後退しつつある。  時の流れとはいえ、関東制覇を目指す景虎にとっては辛いことであった。 「なにごとも一時には成就せぬ、長年の間には盛衰もあろう。しかし、成繁の謀叛を契機に関東がこのような様になろうとは……」  足下に展ける風景を眺めながら、景虎はつぶやいた。  今年、永禄九年は、越軍にとって、不運続きであった。  佐竹義昭の子義重が、信玄に内応する気配を見せ、厩橋城の越将、北条高広も、昔の気質をよみがえらせて、北条方になびこうとしている。  関東管領の栄誉に伴ったものは、内憂外患と兵力の損耗以外のなにものでもなかった。 「人の一生に浮沈はつきもの。天下取りも同じでございます。関東のことも、時節を待てば、わが軍に有利な状況が、必ず醸成されてまいります。  そのときまで辛抱することが、われわれには、肝要かと存じます」  実仍が、諭すように言ってくる。  景虎はうなずいた。  翌日、越軍は帰国の途についた。  関東は、はや晩秋の気配におおわれている。  落葉が風に舞い、野山の風景には、わびしさがただよっている。  ここ七年間、三国峠を行きつ戻りつして、奔命に疲れ果てた自分を、景虎は感じていた。  慌しさのなかで、二ヵ月が経過し、永禄十年(一五六七)を迎えた。  年初から関東の状勢は、混迷の度を増し、信玄に応じた佐竹義重は、結城義親を白川城(佐野市南東)に攻め、北条高広も景虎を離れて、北条氏康の傘下に入った。 「信玄になびいたと思うと、今度は氏康か。高広は、部将の風上にも置けぬ不埒者。  だが、これが乱世かも知れぬ」  関東の情報を得たとき、景虎はそうつぶやいて、自嘲の笑みを浮かべた。  数年前、小田原城をおびやかした越軍は、古河公方を失い、いまは上野の一郭を保持するにとどまっている。  北条氏康に抗する者も、関宿(古河市南東)の簗田晴助、結城城(栃木市南東)の結城晴朝があるばかりで、昔日の面影はない。  落胆の気持を、景虎は禁じ得なかった。  近頃は、毘沙門堂にこもる毎日が続いている。  そのような景虎を、徳は不安な眼ざしで眺めていたが、とりたてて意見はさしはさまなかった。  景虎のなすがままに委せれば、国攻めに伴う精神の疲れから解放されることを知っているのである。  どのような考えで世に処せば安泰が得られるかは、景虎にはわかっている。  修身、斉家、治国、平天下、これ以外に、武将として生き方はない。  混沌とした状勢のなかで、五ヵ月が経過した。  将軍義昭の斡旋による越、相講和は、遂に実現を見なかった。氏康が信玄を憚《はばか》ったからであり、義昭が、越、相、甲、三国の和睦をその根底に置いていたためでもあった。  だが、この時期を迎えて、甲、駿、相、三国同盟に変革が生ずる事態が発生し、春日山城内は沸き立った。 「武田殿は、今年、嫡男義信を自殺に追いやり、その妻女(今川義元の娘)を駿河に追放してしまいました。  そのゆえは、かねて徳川家康と画策していた今川氏討伐計画を、実現するためでございます……」  使僧からの報告に、景虎は驚いた。 「駿河がそのような状態に……それにしても、信玄らしいやり方だ。  同盟関係にある今川|氏真《うじざね》を滅ぼそうとはかっていることはわかっていたが、嫡男を自殺させ、その妻女を追放してまで、国攻めを敢行しようとは……。  常識では考えられぬことだ。父親を放逐して権力を握った信玄のこと、それほどの悪業を犯したところで不思議ではないが。  それはともかく、信玄が南進攻策をとりはじめたとなれば、諸国の地図は、今後変わってこよう」  景虎は語って、思案に耽った。 「言われるとおりに存じます。  これで、三国同盟の一角は崩れ去り、やがて、信玄と氏康の間にも不和が生じてくると思われます。  そうなれば、紛争の埒外にいるわれわれが、有利になるのは必定。  なお、今川氏真は、殿に援けを求める気配を見せているとか、専らの噂にございます」 「なに、氏真が」 「左様でございます」  二人の会話を契機に、室内は緊迫感におおわれてきた。  部将達は、ざわめきの声をあげ、今後、越軍がとるべき方向について語り合った。  久しく苦しい戦いを強いられていただけに、諸国の形勢の変化が、彼等に国攻めの夢をそそるのである。景虎は思いをめぐらせた。  氏真が、援を請うてくれば、応じなければなるまいと、考えた末決意した。 「なお、余談ではございますが、現在、甲州は、駿河、相模の両国から、塩の輸送を止められる状勢にあり、庶民は暮らしの恐怖におののいております……」  使僧の言葉に、景虎は眉をひそめた。 「そのようなことを、氏真や氏康ともあろう人物がなぜやるのだろう。  いかに乱世とはいえ、なしてよいことと、悪いことがある。  塩は人間の暮らしに欠かせぬもの。それを知りながら報復の手術《てだ》てに使うとは、人の道に反するも甚しい」 「そのとおりでございますが……。しかし、駿河ではすでにその措置に踏み切っている様子。大へんな事態になったものでございます」 「駿河がその手術てにでることはうなずけるが、相模までがとなると、解せぬものがある。  憶測だが、氏康は、信玄の南進を阻止する意図を抱いているのかも知れぬ」 「まだその気配は見られませぬが、殿のおっしゃるとおりかも知れませぬ」 「…………」  氏康が氏真を援けて信玄に対抗すれば、三国同盟は完全に崩壊し、逆に越、相、駿三国の合従連衡が形成される。  思案に耽りながら、景虎はようやく越軍が、主導権を握れる時代が訪れたと思った。  しかし、外交戦術に長けた信玄のこと、いかなる手段に出てくるかわからない。  油断は禁物というのが、偽らざる気持であった。  三日後、今川氏真の使者が、春日山城へやってきた。  諸国の状勢の変化に、城内では非常体制が敷かれ、軍備を整えるための会議が、連日開かれている。  そのなかを使者は、中条藤資ほかの部将に案内されて、天守閣の広間に姿をあらわした。 「主君氏真は、父義元亡きあと、武田殿と徳川殿の圧迫をうけて、苦慮致しております。  なんとか術《すべ》を講じて、それを払いたいというのが、家臣一同の願いでございますが、時世の移り変わりだけは、どうすることもできませぬ。  上杉殿、主君氏真をご援護下さいませ。  北条殿は信玄の奸計を見抜いて、われわれに手を差し延べてくれる様子。  これに貴殿が加わっていただければ、甲斐勢の野望から、駿河を守ることができます」  使者は、板敷に手をついて、切々と訴えてきた。  真摯な態度に景虎は打たれた。 「わかった。氏真殿をおたすけ申そう。甲斐勢は、われわれにとり不倶戴天の敵でもあるゆえ」  景虎は即座にそう言葉を返していた。  使者は礼を述べ、その場で部将達と具体的な援助の方法について打ち合わせをはじめた。  眺めながら、景虎は、越、相、駿、三国の合従連衡が、九分九厘成立したことを悟った。  問題は、氏康父子の今後の出方であった。  二日間を城内で過ごしたのち、使者は帰っていった。  景虎は、信玄を挟撃する秘策を練ったが、それを見抜いているのかのように、信玄は、越後を内外から脅かす外交戦術を、それ以降、花々しく展開してきた。  会津の芦名|盛氏《もりうじ》、羽前の伊達輝宗、越中の椎名康胤、本願寺門徒、越後小泉本庄の本庄繁長らが、その対象にあげられていた。  かつての大熊朝秀同様、乱世も大詰めの段階を迎えれば、将来の天下の覇者をにらんで、かつての盟友や国内の領主までが、思惑を馳せはじめる。  将軍の威光は地に落ち、庶民すら、台頭する武将達に治安回復の期待をかけていた。永禄十年とは、そのような価値観の転換が急速に遂げられようとしている波乱の年でもあった。  信玄の駿河進攻の姿勢があらわになるにつれて、北条氏康と今川氏真の連繋が見られはじめた。  景虎はそれを越後から観望しながら、氏康が、三国同盟を破棄して自分に接近してくる時期を待った。  今川氏真の夫人は、北条氏康の娘である。  そこに、甲、相が長年の提携《ていけい》を捨てて、相戦う根拠があった。 「氏康は、信玄とは人物が違う。  自分の娘が、身の危険にさらされるとなれば、信玄の駿河分割案に反対を唱え、氏真に肩入れするは必定。そうなれば当国にとり、事態は有利に展開する」 「そのとおりでございます。噂では、信玄は、駿河を富士川を境にして分割する提案を、徳川殿に対して行っている様子。その結果は、やがてあらわれるものと思われます」 「そうなれば、当方にとっては願ってもないこと。  しかし、信玄もさるもの。越中の本願寺門徒は勿論、わが国の執事の本庄繁長や父為景以来の与力の椎名康胤にまで書状を送って、味方につくことを勧誘してくるに違いない。  利にさとい繁長や康胤のこと、或いはそれがしを見限って、信玄につくやも知れぬ。  四十七歳の信玄に、天下制覇の期待をかけているのであろうが、然《しか》くうまくいくものかどうか。  最近、それがしは、家臣の離反が気にならなくなった。  去る者は追わずの心境だ。乱世のこととて、このような事態は諸将の常、あながち責めるわけにもまいらぬ。  それがし自身も、宿敵、氏康と手を結ぼうとしているのだから。  いやはや、乱世を、生き抜くことは難しい」  三十八歳の年齢を迎えて、ようやく信玄の行き方が、わかってきたように思われた。 「殿は最近変わられました。よいことだと、わたくしは考えますが……」  景虎は実仍と言葉を交わして笑った。  氏康が信玄の駿河分割案をしりぞけ、今川氏真を援護する姿勢を明らかにしたのは、それから間もなくのことであった。  ここに、久しく越軍を苦しめた三国同盟は崩壊し、越、相、駿三国の合従連衡が形成される素地が整った。  それはやがて、実現へ向かっていった。  陽ざしのきつい七月末、北条氏康の意向を受けた使者が、春日山城を訪れ、景虎に提携の申し入れをしてきたのである。 「北条殿も、わが子の可愛さには勝てぬと見えるのう。  いや、それでこそ、人の親というものだ。  今後は、長年の怨念を捨て、ともに甲斐勢の撃破に当たろう」と景虎は使者に向かって語った。 「快く受諾下され、それがし望外の喜びに存じます。早速主君に伝え、越軍との共同作戦について協議致す所存ゆえ、今後の当方の報せをお待ち下されたく」  合従連衡の主導権を握ろうとしているのか、使者はそう述べて、景虎の表情をうかがった。  氏康の心のうちは、景虎には読めている。  離合反覆常なき、坂東武者と同じなのだ。 「委細、承知仕った。駿河と相模が、甲斐勢の南進を阻み、それがしが北信を衝けば、いかな信玄とはいえ立往生しよう。  しかし、包囲しようとする者は、また包囲されるはず、その辺が戦さの難しいところでござる。  北条殿も才たけた人物、このことわりはわかっておられようが、なに分にも越後は偏地のこと、提携の実はなかなかあげられぬかも知れぬ。その辺だけは、よくわきまえておいてもらいたい」  景虎には、氏康に積極的に協力する意思はなかった。  信用するに足る人物ではないからである。 「ご意向はよくわかります。  ただ、今回の件は相模にとり、国をあげての一大事。ことの成否は、将来にも影響をおよぼします。  長年のうらみを捨てて、貴殿と結ぶ主君の真意もそこにあります。  それゆえに……」  氏康から含められているのであろう、使者の言葉には、頑なさが感じられた。 「わかった。可能な限りの協力をおしまぬことを約束する。ただし、甲斐への塩の輸送を差しとめる措置だけは、それがし納得がまいらぬ。  両国が敢えてそれに踏み切るなら、越後は人道の立場から、救援しなければならぬと考えている……」  景虎の口調は、いつのまにか厳しさを増していた。  使者は表情を曇らせた。 「塩の輸送差しとめは、武田殿の行いに対する報復措置。  その辺をよくお汲み取り下さいませ。われわれが手段を尽くして甲斐勢を苦しめても、それを背後から越後が援けたのでは、用をなしませぬ」  氏康への申し開きがたたぬと感じたのか、使者は必死の面持ちを見せて、抗弁してきた。 「その点はわかっておる。だが、戦さと庶民の暮らしの安定をはかることとは、別のことだ。  氏康殿も、その辺は存じておられるはず。とにかく、駿河にしろ、相模にしろ、合戦にかこつけて、このような措置にでることは許されぬ」  景虎の言葉に、使者はうなずいた。 「わかりました。貴殿の考えが当を得ているか否かは別にして、ただ今のご意向をそのまま主君に伝えます」 「ともあれ、越後と相模が、駿河の件に関連して歩み寄ろうとしていることは、めでたいことだ。  今後は、相たずさえて、氏真殿の救援に努力仕ろう」 「左様でございますな」  二人の駆引《かけひき》を秘めた会談は終わった。  女中が酒食の膳を運んでくる。  景虎は、自ら使者に酒をついで歓待した。  あいあいたる雰囲気のなかで、相、越の提携は、その第一歩を印した。  だが、道は遠い。  今後、氏康がどのような手術《てだ》てにでてくるかわからないからである。  館の広間は、人であふれている。  景虎と氏康が心底において合わぬことは、誰もが知っている。  しかし、それを殺して部将達は、使者の一行を手厚くもてなした。 �これも天下取りを進める手術《てだ》ての一つかも知れぬ�眺めながら、景虎は、そう思っていた。  信玄の南進の姿勢があらわになるにつれて、相、駿両国の結束は強まり、景虎の忠告を無視して、氏康と氏真は甲斐への塩の輸送をとめた。  この措置に、さすがの信玄も音をあげ、景虎宛に書状をしたためて、援けを請うてきた。 「信玄め、とうとう弱音を吐きよったか。  しかし、甲斐の住民に罪はない。  即刻、必要量を調達して、送ってやれ」と景虎は、家臣に指示した。  翌日から、越後産の塩がカマスに詰められ、馬の背に乗せられて信越国境を越えていった。  景虎のこの処置に信玄は喜び、丁重な礼状とともに、太刀一振りが送られてきた。 「誰の作かはわからぬが、見事な業物じゃ。  これで信玄の首級をあげられれば、幸いこれに勝るものはない」  景虎は、冗談を言って笑った。  不穏な形勢をはらんだなかで年が明け、永禄十一年(一五六八)を迎えた。  天下の諸状勢は、混迷の度を増し、南進を志向する信玄とその腹背をおびやかそうとする氏康、信玄や信長と結んで、領国の拡大をはかろうとする家康、天下の覇者を意識して国攻めに猛威を振るう信長など、大詰めを迎えた戦国の世は、中部の平原を舞台に、めまぐるしい変転の時期を迎えていた。  桶狭間の戦いに勝利を収めた信長は、徳川家康と手を結び、美濃の雄、斎藤|竜興《たつおき》(道三の孫)の拠城、稲葉山城を攻め落として、武勇を天下にとどろかせ、正親町《おおぎまち》天皇からも諸国平定の綸旨《りんじ》を受けている。  この状勢に、利にさとい足利義昭が動かぬはずはなく、信長に書状を送って幕府の再興を依頼し、自らを奉戴して京都を治め、「天下|布武《ふぶ》」の旗印《はたじるし》を鮮明にすることを命じたという。  使僧からもたらされる報せを分析しながら、景虎は、天下取りの争いから、一歩後退した自分を感ぜずにはおられなかった。  だが、いまはそれどころではない。  信玄に応じて、叛旗をひるがえした椎名康胤や本庄繁長を討ち、越後の安泰を先ずはからなければならないのである。 「信玄は、信長が上洛する気配に、明らかに焦慮している。  鉾先を駿河に向けたのは、そのためであろう。  今年、永禄十一年は、越後にとっても天下の諸将にとっても、明暗をわける波乱の年になる。  しかし、焦ってはならぬ。  両雄並び立たずと古人も申すごとく、上洛を狙う信長と信玄とは、歳月を経ずして激突するはず。  三河の徳川家康は、二人をあやつりながら、その時期を、たんたんとうかがっている。  見上げた心根《こころね》だ。  われわれもいまは、内憂外患に喘いでいるが、いつかは、京へ攻めのぼる時期が訪れてくる。それを待ちつつ、当面は先ず国を治めなければならない。  そのためには、康胤、繁長の二人を討つことが先決。  あとは、氏康父子の出方をうかがい、越前の朝倉茂景とも交わりを深くして、天下の形勢を観望することが肝要だ」  三月下旬に開かれた軍議の席で、景虎はそう所信を述べた。  異議を唱える者はいなかった。  二日後、景虎は二千の兵を率いて、越中に侵攻し、椎名康胤等一向宗徒を討った。  戦いは熾烈を極めたが、一ヵ月余の攻防ののち康胤は降服した。  景虎は一旦兵を引き、八月には、越後、小泉本庄の本庄繁長に、討伐の鉾先を向けた。  だが、折しも天下の風雲は急をつげ、噂どおり、信長は岐阜へ赴いた義昭を奉じて、京都へのぼる構えを見せた。 「織田殿は、尾張、美濃の軍勢を率いて、来月(九月)岐阜を発つ予定とか。  殿のことにも心を配られ、いずれ書状を送って親交を結びたいと申されておりました……」  使僧からの報告に、景虎は息を呑んだ。  今年に入り、春日山城へは、家康や信長から、ひんぱんに使者が届く。  その都度、景虎は丁重に遇して、返書を託している。  将来の友好関係の確立が目的であるが、お互いに相手を牽制しながら、作戦行動を有利に進めるための手術《てだ》てであることにかわりはない。  近頃は、諸将入り乱れての外交戦が、特徴となっている。  その風潮に乗り遅れぬためにも、有力な武将と意を通じておくことは、役に立つ。  景虎もこの考えに従って、信長や家康とは書状を交わしていた。  顔を合わせずとも、相手の人物は読める。  武将同士のそれは以心伝心とも言える不可思議な感覚であった。 「信長が京へとは……」  間を置いて、景虎はつぶやいた。  先を越されたというのが、偽らざる気持であった。  しかし、いまさら落胆しても詮なきこと、信長が上洛するのであれば、それを祝福し、兵火を交じえるときがくれば、全力を振るって、雌雄を決しようと景虎は決意した。  翌日、景虎は、三千の兵を率いて春日山城を発ち、本庄繁長の拠城を囲んだ。  国内における合戦に、庶民は不安な表情を見せ、成り行きを見守った。  加えて、繁長の軍勢は、自分の部下でもある。  味方同士が傷つけ合う愚を避けるためにも、景虎は繁長の投降を期待した。  だが、繁長はよく闘い、九月を迎えても、城は落ちなかった。  月の半ば、信長の使者が突然陣地を訪れてきた。  景虎は、本陣の幕間に招じ入れて歓談し、手渡された書状を読んだ。  岐阜出立の三日前にしたためられ、上洛の理由を語り、今後の厚誼を依頼すると書いてあった。 「さすがは織田殿、足利将軍を奉じての上洛となれば、天下に覇を唱えられるは必定。それがし、謹んで、前途を祝福申し上げる」  景虎は、武装姿のまま、そう使者に告げた。  いまはわだかまりの気持はなかった。  尾張、美濃の軍勢を率いて、上洛したであろう信長の雄姿を、景虎は脳裏に描いていた。 「有難きお言葉。主君信長にかわり、厚くお礼申し上げます」  使者は丁重に言葉を返して、首《こうべ》を垂れた。  外では、繁長の軍勢のときの声が聞こえてくる。  耳を傾けながら景虎は、信長とあまりにも違う運命の皮肉を思い浮かべた。 �三十五歳の信長が、天下取りの一番手になろうとは……だが、まだ結着がついたわけではない�そう心で思った。  酒を酌み交わした後景虎は、上洛を祝する返書を信長宛にしたため、使者に託した。 「殺伐とした雰囲気は、いずこも同じでございますな」  ほら貝の音に、使者が笑みを浮かべて言ってくる。 「左様、戦乱の世は、いつ果てるとも知れぬ、わびしいものじゃ」  二人は言葉を交わして、席を立った。  繁長の軍勢を攻めあぐねた景虎は、その後一旦春日山城に帰ってきた。  いまは、関東の佐竹、里見等の諸将も忠誠を誓い、太田資正も松山城に復帰して、反北条陣営の旗頭として活躍している。  信玄と氏康の離反、信長の上洛、氏康の関東における相対的地位の低下など、めまぐるしく変わる世相が、利にさとい坂東武者をして、再び景虎に臣従する気持をおこさせたのである。 「信玄の南進を機に、関東の地図は、大きく変わった。  これまでは、力で関東を制するつもりでいたが、今後はその必要はあるまい。  時の流れに身を委せ、そのときどきに必要なことだけを行っておれば、道は自然に開ける。  それにしても、信玄は無理をするものじゃ。  信長の上洛に焦りの気持を覚えたのであろうが、現在のようにしゃにむに、京都を目指すようでは、いつか破綻が訪れる。  武将にとり、焦慮ほどこわいものはない。  賢明な信玄に、なぜそれがわからぬのであろう」  庭を眺めながら、景虎は実仍に語りかけた。 「信玄ほどの人物でも、我欲にとらわれれば、正常な判断ができなくなるのでありましょう。  いまの状態は、自らの手で首を締めているも同然といわなければなりません」 「信玄はもうすぐ、四十九歳。男盛りを過ぎようとしていることが焦りを誘い、京への道をめざす気持になったのであろう」 「そうかも知れませぬ」  二人は語り合って、溜め息を洩らした。  緊迫した状勢のなかで、十二月を迎えた。  予想したとおり、信玄は、二万三千の兵を率いて甲斐を発ち、本栖街道を通って東駿河に侵入、興津城に向かって怒濤のような進撃を開始した。  沿道の民家は焼かれ、抵抗する今川勢は、騎馬隊の蹄にかけられて、朱に染まった姿を野にさらした。 �風林火山�の旗印のもと、殺戮《さつりく》の刃を振るう甲斐勢の猛威には、上洛に人生の夢をかける信玄の執念がにじんでいた。  興津城の城門は無惨に打ち砕かれ、火を放たれた天守閣は、吹き寄せる風に、炎を天に吹きあげた。  一夜が明けると、周辺には民家も人もなく、武田勢の軍旗だけが、荒涼たる眺めのなかにひるがえっていた。 「とうとう信玄は西上を開始しはじめたか……」  武者からの報告に、景虎は静かにつぶやいた。  なんの感慨も湧いてはこなかった。  むしろ、信長の軍と激突するかも知れない甲斐勢に、風前の灯火を見るようなはかなさを覚えた。  燃え尽きる前に炎を燃やす、そんな印象が、脳裏をよぎったのである。  興津城を奪われた今川氏真は、遠江の掛川城に入り、そのとき氏康は、三百人の海兵隊を救援にさし向けた。  信玄は、徳川家康と連繋をとり、氏真の軍を殲滅《せんめつ》しようと企てていた。  氏真が、景虎に救援を求めたのは、言うまでもない。  早馬に乗った今川方の使者が、春日山城に着いたのは、年の瀬も押しつまった二十七日のことであった。  鎧は色あせ、髪は乱れていた。  景虎は、使者を館の一室に招じ入れて事情を聞いた。  氏真は、景虎に北条氏康と和を結び、越、相、駿三国で甲斐勢に当たることを提案してきた。 「申し出の趣旨はわかるが、いますぐ兵を進めるわけにはまいらぬ。  ご存じのように、わが国は、川中島での戦いで、万におよぶ尊い人命を失った。  この愚は再び繰り返してはならぬと、それがし肝に銘じている。  駿河には北条殿の援兵も着いていること、そうむざむざと、甲斐勢の餌食になることはなかろう。  いましばらく時節をお待ちなされ。そのうちに道が開けようから」  景虎には、そう答えるより術がなかった。  氏真を信玄の攻撃から守ってやりたいとは思う。  しかし、その後の氏康の行動には、疑問な点がある。  信玄の西進を見越して関東を制圧し、あわせて甲斐にも国攻めの触手をのばそうとしているのである。  そのゆえに景虎は、越、相、駿三国の合従連衡締結には、消極的にならざるを得なかった。  使者は不承の面持ちを見せながらも、後日の検討を依頼して、春日山城から去っていった。  七日後、そのための軍議が開かれたが、関東から出席した佐竹義重と太田資正は、合従連衡の結成に反対を唱え、氏康は信用できないと息まいた。  事情にくわしい二人だけに、景虎は、信用しないわけにはいかなかった。 「取り敢えずは、結成延期の方向で考え、北条方の出方をみることとしよう」と最後に結論を下していた。  なお、この席で二人は、北条勢の脅威から関東の属城を守るため、兵力の増員を要求してきたが、景虎は、時期をみて派兵するとだけ答えて、具体的な方針は示さなかった。  いまは、関東のことばかりに、眼を向けている場合ではないからである。  二日後、北条氏邦(氏康の子で、武蔵鉢形城主)の使者が、越軍の沼田城を訪れ、越、相講和について申し入れがあったとの報せが、春日山城へもたらされた。  信玄の駿河出兵を機に、氏康は急速に越後への接近をはかりはじめたのである。 「氏康は、信玄以上に権謀をろうする武将ゆえ、いましばらく形勢を観望する方が、得策かも知れぬな」 「そうでございますな」  景虎は、実仍と言葉を交わして、思案に耽った。  外では、吹雪が舞っている。  耳を傾けながら景虎は、あと数日で、惑わずの年齢を迎える自分を、思い浮かべていた。  十二月三十日には、恒例により、餅つき行事を行い、景虎も家臣の若者とともに参加した。  早朝から女中達を相手に、きねを振るっていると、気分が爽快になってくる。 「殿様がこのようなことをなされたのでは、女中達は心が張って、仕事もはかどりませぬ」  もろ肌ぬいで汗を流す景虎を見て、徳がたしなめてくる。 「たまにはよいではないか。このとおり、皆で賑々しくやっているのだから」  景虎は答えて笑った。  土間では、かまどが炎をあげている。  巨大な大黒柱がなかほどに聳え立ち、それを軸にして、原木のままの梁が、縦横に渡されている。  排煙を考慮して、土間の天井部分は吹き抜けになり、傾斜のきつい屋根の構造が、下から手に取るようにわかる。  あがりがまちの板間では、女中達が平台に載せられたつきたての餅を、語り合いながらちぎっている。  和気あいあいたるその眺めに、景虎は気持が安らぐのを覚えた。  餅つきは、夕方まで続いて終わった。  館の広間は、並べられた餅であふれている。  これほどの量を、一ヵ月余の間に、家人一同で食べるのだから驚きである。  夜は灯明の明かりのなかで、家臣達と酒を酌み交わして過ごした。  遠く近くから、哀感を秘めてひびいてくる除夜の鐘の音を、景虎は酔い心地のなかで聞いていた。  新年の顔合わせは、五日に行われた。  天守閣の広間は、正装に身をこらした部将達であふれ、賑々しい声に、初春《はつはる》の喜びが感じられた。  だが、未《ひつじ》の刻(午後二時)を回る頃、訪れた北条|氏照《うじてる》の使者によって、その雰囲気は破られた。 「殿、緊急の用件とか。一行の者五名は、館の中《なか》の間《ま》に通してございます」  武者からの注進に、景虎は席を立った。  本庄実仍や直江実綱もあとに従ってくる。  正月気分は吹っ飛んでいた。  中の間に入ると、挨拶を交わしたのち、直ちに用談に入った。使者は、氏照直筆の書状をたずさえていた。  受け取ると、その場で読んだ。  合従連衡結成の必要性がめんめんとしたためてある。  しかし、それは相模の国の安泰を基礎に展開された論理であって、越軍に有利なものではなかった。  景虎は眉をひそめた。  氏康の真意が奈辺にあるのか、すぐには判断がつかなかった。 「事情はおおよそわかった。  それがしも、同盟関係の確立には、かねてより関心を抱いていた。だが、内外の状勢が不安な現在、すぐにそれに踏み切るわけにはまいらぬ。  いま、しばらく様子を見たいというのが、偽らざる気持だ」と使者を見て告げた。 「なにごとも一度には成就せぬこと、主君氏照もその辺のことは承知致しております。いずれまた沼田城へ使者を遣わし、談合を煮詰めたいと存じますゆえ、よろしくお願い申し上げます」  書状をもたらすのが目的だったのか、使者は深くは追及してこなかった。  一日城内に逗留しただけで、一行は、関東へ帰っていった。 [#改ページ]   第十五章 波濤  二月を迎えると、氏康と今川氏真の命を受けた使僧が、北条氏政の署名入りの誓書をたずさえて沼田城を訪れ、そこで太田資正と講和に関する具体的な話し合いを行った。  結果はすぐ春日山城へ伝えられたが、資正は、北条方に誠意なしとして、この機に関東を平定すべしと、景虎に進言した。なお、佐竹、里見ほかの諸将も、連署して同趣旨のことを訴えてきた。  景虎は、眉を曇らせた。 「困ったことになったものだ。関東の諸将が、こう鼻息が荒くては、いますぐ講和に踏み切るわけにはいくまい」 「左様でございますな。北条方にとっては、焦眉の急のことかも知れませぬが、われわれには、さほど関わりなきこと。ここは一つ、じらす戦法に出るのが得策と、わたくしは考えますが」 「では、そうするか」  景虎は実綱と語って、笑みを浮かべた。  信玄の戦略転換が、これほどまでに越軍に有利な事態を生み出そうとは、想像も及ばぬことであった。  積雪におおわれた庭には、淡い陽ざしが注いでいる。  眺めながら景虎は、四面楚歌に囲まれたなかで喘いでいた遠い記憶を思い浮かべていた。  三月を迎えると、将軍義昭の使者がひんぱんに春日山城を訪れ、甲、越の和睦を説いてきた。  義昭は、信玄と景虎に権威回復の期待をかけ、「天下|布武《ふぶ》」の方針に基づいて、京都の町を制圧した信長に、対抗させようと図っていた。  信長は、それにすでに気づいている。  短慮者の義昭と信長とは、所詮火と水の間柄であった。  信長は、それを知りつつ、天下取りを正当化するために、将軍の権威を利用しているに過ぎず、義昭もまた同じ感触で信長に接していた。  本心は、信長、信玄、景虎の三武将を自らの傘下におさめて、幕府の再興をはかりたいのである。  乱世もこの時期を迎えると、虚々実々の外交戦が常となり、各武将はその成否に、自らの命運をかけていた。  近頃は、北信の三木《みつぎ》良頼が春日山城にやってきて、岐阜との同盟を切々と説いてくる。  信長との親交を深めることによって、景虎の運命が開かれると判断しているのである。  中旬を過ぎる頃、景虎は再び本庄に赴き、繁長の軍勢と戦う越軍を指揮した。  城が落ちるのは時間の問題であったが、景虎は焦らなかった。  下旬の或る日、景虎が本陣の幕間で部将達と酒を酌み交わしていると、沼田城将の松本章繁が、供の武者を従えて姿を見せた。  突然のことに、景虎は驚いた。 「いかが致した、報せもなく」  言葉をかけながら床几に腰を下ろして、事情を聞いた。 「先日、北条氏政の使者が城へみえ、例の講和の件について、重ねて懇望してまいりました。  殿の同意を得たいというのが、先方の意向でございますが、武田殿の駿河攻めに焦慮している氏康の心のうちが、使者の口上からありありとうかがえました」  章繁の言葉に、景虎は笑みを浮かべた。 「どうやら氏康も、本気で和睦に乗り出してきたようだ。  だが、まだ油断はならぬ。取り敢えずは、応諾の意志を伝えて、先方と折衝してみよう。  講和を結ぶか否かは、その結果いかんだ」と答えていた。  部将達と協議を行ったのち、章繁は去っていった。  三日後、本庄繁長の使者がやってきて、和を乞うてきた。北条氏康との和睦折衝が決まったことを、察知したのである。  景虎は申し出を認め、繁長以下が誓詞を提出することと、人質を春日山城に置くことを条件に、兵を収めることを約した。  降服してきた将兵を罰しない景虎の方針は、諸国に知れ渡っている。  戦国武将には珍しいこの姿勢が、部将達の離合を誘い、事態を紛糾させたとも言えるが、景虎自身には、それなりの判断があった。  人心を収攬《しゆうらん》することは難しい。  軍律を厳しくすることもその方法であるが、そればかりでは衆望は得られない。  合戦に勝つには、人の和が根幹をなす。  天下取りも同じである。  長年の経験をとおして、景虎はそのことわりを知っていた。  北条方との折衝は、その後精力的に進められ、四月上旬、北条氏邦の拠城の新田城で、講和の談判が行われた。  越後からは、中条藤資、太田資正以下が出席し、北条方からは氏邦以下の部将が列席して、激しい論議を闘わせた。  上杉側は、予め打ち合わせた方針に従い、足利藤氏の古河復帰と上野、武蔵両国の領有を主張したが、北条側は藤氏が永禄九年に死亡したため、足利晴氏の跡目は義氏が継いだと抗弁し、義氏を公方としてたてることと伊豆、相模、武蔵、三ヵ国の領有を固執して譲らなかった。  春日山城へもたらされる談判の内容を検討しながら、景虎は、北条氏康が、聞きしに勝る策士であることを感じた。 「やはり氏康は、それがしが予想していたとおりの人物だった。  講和に名を借りて、巧妙に領国の拡張と関東における地位の確立をはかっている。従って当方の二条件は、絶対にゆずってはならぬ。  それに、年初以来の駿河の状勢を見ると、信玄と徳川家康との間にも、波風がたっている。  甲斐勢が、家康の了承を得ず、遠江へ侵攻したことが、その発端だが、そのために信玄は、掛川城攻略を見合わせざるを得なくなり、家康への弁明や誓紙の交換、織田信長への親書の送付など、織田、徳川連合軍との衝突回避に、懸命になっている。  いかな信玄とはいえ、信長と家康の疑惑を買ったのでは、思うように事はおこせぬ。駿河侵略をあきらめて遠からず甲府へ引きあげるというのが、それがしの見透しだが、そうなれば、越、相の講和にも、変化が生じてくる。  駿河への甲斐勢の脅威が除かれれば、北条方は、講和を急ぐ必要がないからだ。氏康とは、そのようなことができる人物なのだ。  それを踏まえて、今後の折衝に当たるよう、中条藤資に伝えてもらいたい」  予感のような気持を覚えた景虎は、新田城からやってきた使者の武者にそう語った。 「わかりました。殿の意を含み、万遺漏なきよう談判を進めます」  武者は答えて、すぐ春日山城から去っていった。  年初、甲軍の秋山信友ほかの率いる兵が、遠江へ侵入したことにより、信玄に対する徳川家康の疑惑が深められた。  家康は甲斐勢の非を責め、信玄もこれを認めて、掛川城攻撃を見合わせ、正月八日、家康にことの次第を明かす使者をたて、九日には、織田信長宛に同趣旨の親書を送った。  だが、それで事態は解決せず、二月二日には、家康の要請により、誓紙を交換させられている。策士信玄も、上洛して「天下布武」の方針を実現してゆく信長と智恵者家康の前には、手も足も出なかったのである。  報に接したとき景虎は、信玄の西進が、足踏みすることを悟った。  一旦、甲府に兵を引くと判断した根拠は、その辺にあった。  しかし、それ以上に、景虎が考えさせられたことは、関東を制したのち、鉾先を西に転ずるという従来の構想が、いかに甘いものであるかということであった。 「やはり、越中、加賀、能登、越前を制し、京都へ向かうべきなのだろうか」とそのとき思い直した。  答えは、まだ得られてはいない。  ただ、越後の地理的条件を勘案すれば、その方法が最も、無難なように思えるのである。  常道を通れば、破綻する恐れは少ない。しかし、諸将との合戦が熾烈を極め、おびただしい兵力を損耗する。  この点が、やはり気懸りであった。  二日後、織田信長の使者が、京都からやってきた。  信玄が、北条勢の攻撃を腹背から受けることを恐れて信長に書状を送り、景虎との和睦の斡旋をして欲しいと申し出た結果であった。  景虎は驚いた。 「甲斐勢が置かれている立場を考えれば、うなずけぬことはないが、それがしは信玄にとって、不倶戴天とも言える仇敵、まさかそのようなことがあろうとは……」  さすがに、信用する気持にはなれなかった。 「しかし、まことのことでございます」  使者の口調は真剣であった。  景虎は思案に耽った。  権謀術数を弄する信玄のこと、窮地に陥れば、このような手術《てだ》ても、考えるかも知れぬと思い直した。 「左様でござるか。ただ、それがしは武田殿とは和を結ぶつもりはない。これだけは、はっきりと申し上げておく」  景虎の言葉に、使者はうなずいた。 「主君、信長も、�無理であろうが……�と前置きしてのわたくしの派遣ゆえ、敢えてとは申し上げませぬ」  両者の話し合いは、簡単に落着をみた。  使者が去ると、景虎は、本庄実仍と語り合った。 「この状況だと、信玄は、駿河から兵を引くかも知れぬな」 「左様でございますな。  そうなると、北条方は、講和を急ぐ必要がなくなり、談判の成立に、影響を及ぼすやも知れませぬ」 「その辺が心配だ。氏康のこと、この機をとらえて、藤資達をゆさぶってくることも考えられるゆえ」  景虎の眉間には、しわが寄っていた。  この予感は、不幸にして的中した。  家康の不信を買った信玄は、遠征による兵糧の補給難も伴って、東駿河に陣を構えたまま窮地に立ち、加えて、北条、徳川両軍の攻撃を腹背から受ける可能性も出てきて、四月下旬、遂に兵を引いて、甲府に引きあげたのである。  噂は忽ち諸国に伝わり、その時から、北条方の講和に対する姿勢がかわった。  従来の主張を破棄し、改めて、上野を半国宛に分割することと、越軍の急速なる信濃出兵、およびかつての越将、北条《きたじよう》高広の赦免などを要求してきたのである。  ときに応じて、考えを変える氏康の姿勢に、景虎は疑念を覚えた。  しかし、信玄が甲斐に引きあげたとなれば、その脅威を除くためにも、北条勢とは手を結んでおかなければならない。 「いやはや、信玄とは人騒がせな人物だ。その挙動一つで、天下の諸将の動きや考えが変わるのだから」  山吉豊守が、軍議の席で言葉を洩らす。 「裏返して言えば、信玄はそれだけ武将としての器量が大きいわけだ。  信長や家康とて、太刀打ちは容易ではあるまい。  ただ、信玄はもう齢だからのう。  その辺に、天下の覇者たり得ない要因が潜んでいる。  それはともかく、信玄が西進の兵を進めたおかげで、われわれは、北条方と手を結んで、甲斐を挟撃できる可能性がでてきた。  氏康の行き方には、不審な点があり、われわれも悩まされたが、それにも限度があるからのう」  景虎には、講和の結末は読めていた。  氏康は策を弄しながらも越後と和を結んでくる。これがその見透しであった。  五月を迎えて、ようやく、北条方との和が成った。  その主体は、対甲斐軍事同盟であったが、北条方の意向も景虎の裁量により、その殆どが認められた。  氏康は同盟の成立を喜び、特派使節として、天用院一行を越後に遣わしてきた。  天用院は、氏康の家中の石ノ巻下野守の弟で、年の頃五十歳、闊達な僧侶で酒もたしなんだ。  三十余名の使節団は、五月十八日に、景虎の家臣の進藤家清に塩沢で迎えられ、十九日下倉、二十日小千谷、二十一日|北条《きたじよう》に着き、ここで直江実綱、山吉豊守などの重臣の出迎えを受けた。  剃髪し、錦の衣をまとった天用院は、武装姿の武者に前後を警護され、悠揚せまらざる態度で馬に跨がり、実綱と語らいながら、城下町の風景を楽しんだ。  沿道には黒山の人だかりができ、庶民は、越後はじまって以来の華やかな行列を、驚きの眼ざしをして眺めた。  春日山城に着くと、景虎以下の部将や奥女中の主だった者の賑々しい出迎えを受けて、二の丸の館に通された。  天守閣での顔合わせ、和睦を祝しての酒宴、女たちの歌舞音曲の披露など、春日山城内は遠来の客の歓待に、三日三晩、晴れやかな雰囲気に包まれていた。  そのなかで景虎と天用院により、対甲斐軍事同盟に関する諸条項が確認され、双方の神文誓詞、血判による約書が取り交わされた。 「使節の役目を果たせて、それがし満足至極に存ずる。お互い、仏門に帰依する身、両国の和平は、仏のおぼしめしによるものと思われます。  このうえは、無道者の信玄が天罰を受けて成敗される日の一日も早からんことを、お互い御仏に祈念致したいものでございます」  調印の式場で天用院はそう語って、和約成立の言葉とした。  陽ざしに面が輝き、眼は光を放っている。  僧侶というより、才長けた軍師の印象である。  酒を浴びるほど飲み、まわりに愛嬌すらふり巻く器量人。  どうみても、仏道に心底から帰依する人物とは思われなかった。  一行は、選りすぐられた武者だけに、粗忽《そこつ》さはみられない。  しかし、越後方の歓待にかかわらず、心を閉ざし自国の権威を誇示する気配に、景虎は、乱世を生き抜く武者のしたたかさを感じた。 �関東には、このような群像がひしめいている。これが下剋上の世のなかというものかも知れぬ�と眺めながら思った。  閏《うるう》、五月三日、景虎は北条氏照宛に書状をしたため、そのなかに「すでに、神名《しんめい》、血判《けつぱん》を以《も》て、申合《もうしあ》う上《うえ》は、毛頭《もうとう》、別条《べつじよう》これ有《あ》るまじく候」と書き添えて北条方の疑念を払い、最後に「甲《こう》に向かい出馬《しゆつば》の儀《ぎ》、その意《い》を得《え》しめ候」と記載して、北信への侵攻を約した。  だが、これはあくまで儀礼上のことであって、天下の形勢が変われば破棄する心構えも、一方で抱いていた。  戦乱の世は、駆引を度外視して渡れるほど、なまやさしくはない。  それを景虎は、長年の経験を通して身に沁みて感じていた。  越、相両国の講和を知った信玄は、今川氏真の攻略を、信長と家康に委せて、上杉と北条方を敵とする戦略態勢を強化していった。  景虎に臣従して北条方と戦ってきた下総、関宿城の簗田政信に、武蔵への出兵や北条方に対する攻撃を勧めたり、里見義弘を自軍の傘下に入るよう誘ったりしはじめたのである。  信玄に特有のあくの強いやり方に、景虎はほぞを噛んだが、以前ほど心にはかからなかった。  いまは関東の主導権を、氏康とともに握っていたからである。 「信玄はまだ西上をあきらめてはいない。当面の国攻めの目標も、海道の伊豆、駿河においておろう。  そのゆえに、二面作戦を避けるため、われわれの動きを封じようとしているのだ」  使僧から報せを受けたとき、景虎はそう語って、眉をひそめた。  徳川家康は、現在、今川氏真と対陣している。それを甲斐から観望しながら、信玄は策をめぐらせている、これが景虎の判断であった。  七月はじめ、将軍義昭の使者が春日山城へやってきて、越、甲、両国の和睦を説いてきた。  その際、使者は信玄が義昭に書状を送り、越後との講和につき、斡旋してもらいたい旨懇請してきたと語った。 「伊豆、駿河をおかそうとしている信玄にとり、もっとも無気味な存在は、北信と境を接するわが国ゆえ、そのような依頼をするのであろう。  だが、それがしは、北条殿と和している。乱世とはいえ、盟約の趣旨を無にするようなことはよほどの事情がない限りできぬからのう」  景虎は、そう答えて、斡旋をことわった。  信玄や氏康は、己れの利益になるとみると、恥も外聞も忘れて、手段を弄する悪辣《あくらつ》さをもっている。  それは乱世を生き抜く術かも知れぬが、景虎の好みではなかった。  その後も、義昭と信長は、しばしば使僧を越後に下向させ、景虎と信玄との和を説いたが、景虎は了承しなかった。  この間信玄は、上杉方の佐竹義重に書状を送り、�徳川殿には、織田殿の加勢が得られるゆえ、掛川城の落城は間近い。それがしは、その間に、小田原城を攻めるゆえ、そなたは、北条方に味方する諸将を攻めてもらいたい。而して、相、越|和融《わゆう》なきよう、調略《ちようりやく》、偏《ひとえ》に、貴辺御前《きへんごぜん》にあるべく候�と述べて、越、相講和の妨害を指示した。  義重からこの報せを受けたとき、景虎はさすがに立腹した。 「そなたの心に隙があるゆえ、信玄からこのような誘いを受けるのだ。  以後、甲斐からの使者には、会ってはならぬ」と義重を見て、厳しくたしなめた。  関東の盟友ですら、他国の武将から誘いをうけると、自らの安泰を考えて心が迷う。  乱世とはそのようなものかも知れぬと、そのとき思った。  信玄の画策にかかわらず、越、相両国の協調体制は、着々と具体化していった。  関宿の簗田政信を攻撃していた北条氏照は、五月、兵を引き、六月には、景虎の命をうけた使僧が小田原に赴いて、氏康に誓書を提出し、氏康、氏政父子も、見返りの誓書を景虎に送った。  そして、そのなかで、氏政の次子国増丸が、景虎の養子になることが決まった。  領国については、上野一国と武蔵の岩槻までが最終的に上杉領となり、(八月十五日)景虎は、一応、所期の目的を達することができた。  なお、軍事同盟については、越軍は今後、信州に討ち入り甲斐にいたること、北条勢は、駿州口より甲斐に侵攻する基本方針が決まった。  こうして、越、相講和の実はあがったが、景虎は安堵する気持にはなれなかった。  諸国の状勢は混迷の度を増し、諸領主の離合反覆常なく、今日の味方が、明日は敵に回る状態が、毎日のように繰り返されているからである。  越後内部でもかつて叛旗をひるがえした椎名康胤が、再び越中で謀叛を起こし、景虎に反抗する気配を見せている。 「康胤は困ったものじゃ。成敗するには可哀そうだし、かと言って捨てても置けぬ」  報に接したとき、景虎はそう語ってなげいた。 「殿が寛容すぎるから、内紛が絶えないのです。一思いに斬殺すべきだと、わたくしは考えます」  藤資が気性の激しさを見せて言ってくる。 「しかし、父以来の家臣のこと、そうもいくまい」  景虎の口調は、沈んでいた。  信玄は、その後、小田原に鉾先を向けて、着々と軍備を整えている。  西上にあたって、先ず腹背の敵、氏康を滅さなければならぬと考えているのである。  それを知りつつ景虎は、八月、越中に兵を進めて椎名一族を討った。  その間に、信玄は、二万の兵を率いて小田原城を囲んだ。  疾《はや》きこと風の如き、武田勢の本領を発揮したのである。  しかし、小田原は北条勢の本拠、加えて、堅城小田原城は、十万の大軍が囲んでも抜くことができない。  甲斐勢は北条勢の激しい反撃を受けて、撤退を余儀なくされたが、北条勢は、追撃戦に移って、かえって敗北してしまった。  景虎は、この報せを越中の陣中で得た。 「信玄は、やはり康胤と意を通じ合っていたのだ。このままでは関東の分国が侵されてしまう」  吐き捨てるようにつぶやくと、その場で軍議を開いた。  河田長親の兵だけを留めて、全軍、越後に引きあげ、軍備を整えたうえで、関東へ出陣することがそのなかで決まった。  翌日、景虎は越中を発った。  春日山城に帰り着くと、合戦の疲れをいやすいとまもなく、出陣の準備に取りかかった。  越後は、降雪の季節に入っている。  この状況に景虎は、早目に三国峠を越える決心を固め、部将達に指示を発すると、十一月はじめ、八千の兵を率いて春日山城を発った。  行先は、越軍の拠点、沼田城であった。  景虎の出陣に、信玄は色を失った。  北条勢を攻めあぐねているところへ、越後の精鋭がそれに加担したのでは、勝敗の帰趨《きすう》は明らかだからである。  沼田城に入って間もなく景虎は、信玄が織田信長に親書を送り、甲、越和親について、再度斡旋を依頼していることを知った。 「信玄らしい抜け目のないやり方。しかし、それに惑わされてはならぬ。この手を使う武将は諸国に万といるが、皆利にさとい。泣き言を言っていると見せかけて、相手の虚を衝く作戦なのだ」  景虎は部将達にそう語って、注意を促した。  十日後、信長の使者が沼田城へやってきたが、景虎は言葉を濁して確答を避けた。  いまは、将軍義昭や信長の意思に従うつもりはない。  友好関係を保つだけで充分だと、景虎は考えていた。  越軍の関東出陣に、北条方に敵対していた太田資正もこの時期になってようやく鉾をおさめ、岩槻城の返還と小田原に人質を送る条件のもとに氏康と和した。  佐野昌綱も、その後北条方の圧力に屈していたが、改めて景虎に臣従を誓った。  沼田滞在中に、北条氏政は景虎に使者を立てて、養子問題に関する講和条件の緩和について願い出てきた。  実子、国増丸は幼少のため、越後へ赴かせるのは親として耐えられないというのが、その言い分であったが、氏政直筆の書状には、次のように書かれてあった。 「……(国増丸は)五歳、六歳にて候《そうろう》を、手元《てもと》を引《ひ》き離《はな》すべき儀《ぎ》、親子《おやこ》の憐愍何共弁済《れんびんなんともべんざい》に及《およ》ばず……」  読みながら景虎は、氏政の心に打たれた。 「北条の言い分は、無理もない。  それがしには子はいないが、親子の憐情についてはわかるつもりだ。  それゆえ、人質の変更については、申し出どおり氏政殿の弟、氏秀殿で問題はない」と使者をみて即答していた。  景虎の情けに氏政は喜び、翌、元亀元年(一五七〇)正月、氏秀を景虎のもとへ遣わしてきた。  沼田城の館で、二人は会った。  氏秀は甲、相断交までは、武田信玄の養子(実質は人質)として甲府に送られていたが、三国同盟の解体により、小田原に帰されていた。  景虎はそれを知っているだけに、氏秀の数奇な運命があわれに感じられた。 「そなたは幼少の頃より甲府へ送られ、今度はそれがしの養子になることになったが、十八歳の身でよく承知してくれた」  景虎は、氏秀を見て静かな口調で語った。  忍耐強い性格が、表情にあらわれている。  眺めながら景虎は、氏秀と長尾政景の息女を娶《めあわ》せ、自分の呼び名�景虎�を名乗らせようと考えた。  政景の遺児景勝については、自らの後継者として、姉仙桃院の許しを得て、正式に養子縁組を結んでいる。  養子二人が、将来相争うことになりはしないかが景虎には気懸りであったが、いまはそこまで思いをめぐらせている余裕はなかった。  二人は雑談を交わし、茶を喫して別れた。  景虎のこの予感は、後年になって不幸にして的中した。  景虎の没後、氏秀と景勝は争い、氏秀は滅されてしまったのである。(御館《おたて》の乱)  氏秀は、その意味から、乱世の人質として、数奇な運命にもてあそばれた典型的な人物と言える。  なお、北条方との約束により、越後から小田原へ送られた人質は、部将の柿崎晴家であった。  こうして、越、相講和は完成を見、景虎は公方に足利義氏をたてることを承諾したが、同盟の根幹をなす軍事上の相互援助については、双方の利害が錯綜して統一行動がとれず、問題を後に残すことになった。  越軍の関東出陣により、武田勢は兵を引き、戦乱は収まった。  それを見届けてから、景虎は兵を率いて越後に帰った。  だが、この頃には信玄の西上の動きが、再び開始されていた。  小田原城を攻囲したのち、三増峠で追撃してくる北条勢を破った信玄は、帰国後兵力をたて直すと、十二月には駿河に攻め込んで、岩淵を焼き、蒲原城を陥れて今川、北条両陣営の連絡を断ち、築城中の府中を占領、進んで駿河一国を分国とした。  報に接したとき景虎は、信玄の執念と底力を感じた。 「これで信玄は、念願の南下を果たした。  だが、難敵は、腹背の氏康と智略に長けた徳川家康だ。  この二人をどうさばくかによって、天下の覇者としての力量が決まる」とそのときつぶやいていた。  近頃は信長と信玄、景虎の三人に、天下の諸将の耳目が注がれている。  信玄が南下を果たしたことは、その意味では、景虎にとって衝撃であった。  なお、今川氏真はその後、北条、徳川の和の成立を契機に、家康の仕立てた船により沼津に護送され、さらに北条氏政の手により伊豆の戸倉に移された。そして氏政の子の国王丸を養子として、駿河、遠江の支配権を委譲された。  しかし、信玄の駿河侵攻により、さらに撤退を余儀なくされ伊豆の早川に移住した。  この一連の事態と、昨年三月の信玄の駿河撤兵により、家康は労せずして掛川城を手中に収め、今年正月には、岡崎から遠江引間(浜松)に本城を移した。信玄の行手を阻む勢力として、のしあがってきたのである。  混沌とした形勢のなかで、元亀元年の五月を迎えた。  景虎は、春日山城に留まって、軍備を整える傍ら、甲斐勢の動きをつぶさに追った。  駿河に拠点を得た信玄は、月初に、伊豆への侵攻を開始し、北条氏政の軍勢を各地で破った。  氏政は景虎に救援を求めたが、講和条件の履行、特に関東における領国の区分が不明確なまま、放置されていることを理由に、出兵の要請に応じなかった。  越、相講和は、その意味では、形ばかりの存在ではあったわけである。  八月に甲斐勢が再び伊豆を侵したときも、同じであった。  景虎の眼は、この時点には、天下制覇の裏街道である越中に注がれていた。ここには、父祖以来の仇敵の一向一揆が強大な勢力を誇っている。  これを除かぬ限りは、京への道は開けない。  現に椎名康胤を討って以降も、越後勢は巻き返しに遭い、河田長親が守る富山城は奪回されている。  越中の禍根は、断たなければならぬと景虎が決意したのは、その頃からであった。  十月を迎えると信玄は、背後をおびやかす北条勢を牽制するため、反転して上野を攻めた。  この地は、越、相講和では、上杉側の領国と決められたが、現在もなお、北条勢の支配下にある。  この事実が、景虎には不満であった。  氏康のさし金によるものであったが、折しも氏康は重病にかかり、月の半ば、五十六歳で歿した。  景虎はさすがに驚きを覚えた。 「策士氏康が、突然他界しようとは……」とつぶやいたきり、言葉もでなかった。  しかし、それによって、国攻めの方針が、揺らぐことはなかった。  天下の形勢は、信長、信玄、および台頭してきた徳川家康を中心に、すでに回りはじめていたからである。  むしろ、景虎には、信玄の上野出兵が自領への侵犯であるとの意識から、黙視できなかった。 「直ちに、兵を率いて、関東へ出陣する」と軍議の席で部将達に達したのは、そのためであった。そして、八千の兵を率いて越後を発ち、風雪をついて三国峠を越えていた。  上野に着いて甲斐勢と対陣したのは、三日後であった。東方には、平井城が、指呼の間に望まれる。  信玄が、正面の本陣に居を構えていることは、景虎には察しがついていた。  だが、往年のように単騎、敵陣に切り込む気持にはなれなかった。  風林火山の軍旗が、眼に沁みるように映る。  翌日、景虎は北条氏政宛に使者を遣わし、同陣を要請したが、三日後もたらされた返書には、服喪のため、出陣できぬと記載されてあった。  講和とは名ばかりで、利害がからめば、一片の紙切れと化してしまうことを、景虎は改めて悟った。 「氏政は氏康ほどではないにしても、なかなかの策士だ」  読み終えた景虎は、そう語って笑った。  北条勢の救援は、最初から期待していなかった。  伊勢宗瑞以来関東の歴史を彩ってきた北条氏が、策士、氏康の死により、急速に勢力の衰えをみせはじめていることを、景虎は知っていたのである。 「北条勢など問題ではござらぬ。  信玄ですら、最近は影が薄く感じられる。  ほんとうの強敵は、信長ただ一人だ」と酒宴の席で壮語した中条藤資の言葉が、現在の越軍の姿をあらわしていた。  七日間の対陣ののち、信玄は兵を引いて甲斐に帰った。  その間、合戦らしい合戦は行われなかった。  上野への出陣は、西上を目指す信玄の明らかな陽動作戦だったのである。  数日、関東に滞在して疲れをいやしたのち、景虎は兵を率いて越後に帰った。  いまは、越中の制圧が当面の課題であった。  信玄が海道を西へ進むなら、それに歩調を合わせるためにも、裏日本一帯を手中に収めなければならないのである。  翌、元亀二年(一五七一)正月、信玄は六回目の駿河侵攻を行い、北条勢と激しい戦いを交じえた。 「信玄は、西上の障害となる北条勢と決戦を交じえる覚悟を決めたようだ。しかし、氏政もさる者、簡単には決着はつくまい」  使僧から報告を受けたとき、景虎はそう思った。 「これで天下の形勢は、また変わってきましょう。面白いことになったと、それがしは考えますが」  藤資が精悍な面を輝かせて言ってくる。 「われわれが西上への動きを開始するときが、訪れたという意か」  景虎は、さり気なく聞いた。 「左様でございます」 「そう見えるかも知れぬが、まだ、その時節ではない。  ただ、準備だけは進めなければならぬ。越中、加賀、能登を制したときに、はじめて、上洛への道が開けよう」  予感のような気持であった。  彼方には、二の丸と三の丸の建物が、絵に画いたような佇まいを見せて、空に聳えている。  二の丸には、長尾政景の息女を娶った氏秀が住まい、三の丸には景勝が居を定めている。  ともに、二十歳前後と年齢は変わらない。  二人は、表面上は仲がよい。  だが、景虎の甥の景勝と北条氏康の七男の氏秀とでは、城内における部将達の評価が違う。  上杉憲政はその辺を慮って、なにかと氏秀の相談に乗っている。  景虎は二人を同様に愛して、わけ隔てをしなかった。  将来、裏日本を制すれば、景勝に越後と越中の半ばを、氏秀には佐渡と能登を与えようと、ひそかに考えていた。 「わたくしも殿の考えに賛成でございます。  宿敵信玄に勝つには、正面からの決戦を避けるのも手でございますから」  藤資らしからぬ見解に、景虎は笑みを浮かべた。 「なるほど、そなたは、最近、考えが変わってきたようだな」 「どう変わったと申すのでございますか」 「昔の一途さがとれて、賢くなったということだ」  景虎の言い草に部将達が沸く。  信玄はその後、沼津の垪和氏続《はがうじつぐ》を興国寺城に攻め、それを落とすと、勢いに乗じて、北条氏繁が守る深沢城(御殿場市)を囲んだ。  このとき信玄は、降伏を勧告する矢文を城中に射放ったが、奏功しなかった。  氏政はこの状況に驚き、景虎のところへ早馬の使者をたてて、救援を求めてきた。 「一大事にございます。このまま推移せんか、わが軍は、甲斐勢に殲滅されてしまいます。なにとぞ援軍を……」  使者の武者は、息絶え絶えにそう語った。  額からは汗がしたたり、顔色は蒼白になっている。 「動転するではない。信玄の狙いは遠江じゃ。深沢城を攻めても、それを落とすまでには至るまい」  景虎は相手を見据えてたしなめた。  氏政の策に乗ってはならぬとの気持であった。 「しかし、城は二万の軍勢により、とえはたえに囲まれております」 「そこが問題だというのだ。信玄はよく見せかけの戦法を使う。小田原城を攻めたときがそうではないか。  加えて、越後から援軍を送ると申しても、かなわぬことは、氏政殿自身が存じておられるはず。  虚構の戦法に対するには、それをもってしなければ、合戦に勝てるものではない。  わが国から関東へ兵を移動させれば、信玄はそれに心をうばわれて、城の囲みを解くであろう。  それがしはいま、その方法を考えている」  氏政への援護はしたくない。しかし、越、相講和の趣旨も、或る程度は考慮しなければならぬと、景虎は考えていた。  使者はようやくうなずいた。  礼を述べると、やがて武者溜りから去っていった。 「なんという様だ。あの野郎は……」  藤資が後姿を眺めながら、吐き捨てるようにつぶやく。  部将達は、声をあげて笑った。  翌日開かれた軍議で、養子の景勝が、二千の兵を率いて沼田へ発つことが決まった。  景勝は合戦の経験もあり、兵団を指揮する能力にも長けている。  上杉家の家督相続者としての風格を身につけるためにも、関東への遠征はさせなければならぬと景虎は考えていた。  三日後景勝は、景虎と徳に見送られて、春日山城を発っていった。 「景勝殿も立派な武将に成長され、養育を委せられていたわたくしも、安堵致しました。  氏秀殿も、妻女を娶《めと》られてからは、見違えるように落ち着きがでてまいられました。  これで、お二人に仕える家臣さえ得られれば、上杉家は末長く栄えてゆきましょう」 「そうであってくれればよいが」  緋おどしの鎧をまとった景勝の姿を眺めながら、二人は言葉を交わした。  お互いに、四十二歳、三十六歳の年齢を迎えた現在、心の通じ合わぬものはない。  徳の内助により、今日の地位を得られたことを、景虎は幸せだと思った。  二人は城門を出て、広場を散策した。  樹齢、数百年を超える松の巨木が、周囲を囲んで聳えている。  彼方には、府内の海がひろがりを見せ、照りつける陽光に、海面が輝いている。  白波が立つ荒涼たる眺めは、今日は見られない。 「あとふた月もすれば、春でございますね」 「左様、月日が経つのは早いものだ」  二人は石垣のはずれに佇んで、将来のことに、思いを馳せていた。  二月を迎えると、信玄は鉾先を西に転じて、一気に遠江に攻め込んだ。  深沢城の北条勢を攻めると見せかけて、本来の目的地を攻略する機をうかがっていたのである。  予感の的中に、景虎は笑みを浮かべた。 「やはり信玄の狙いは遠江だった。  徳川家康がこれにどう対処するかが見ものだ」 「そうでございますな。これで天下の地図は、また変わろうというもの。  わが軍が、越中へ兵を進める好機が訪れたと、わたくしは考えます」  実綱が、覇気にあふれる口調で言ってくる。 「左様。後顧の憂いがなくなれば、思う存分、一揆と戦うことができるゆえ」  近頃は海道の合戦の情報が、毎日、春日山城にもたらされる。  それを部将達と検討しながら、越中、能登へ侵攻の兵を進める機を、景虎はうかがっていた。  遠江へ入った甲斐勢は、先ず小山、能満寺に砦を築いて大熊朝秀に守らせ、三月を迎えると、高天神城の小笠原長忠を攻めた。  信玄は、家康に遺恨を抱いている。  それは、昨年三月の撤兵のこともさることながら、以後、家康が、景虎に誓書を入れて、信玄との連合を断つことを申し出たり、盟友、織田信長に勧めて、信玄と婚姻関係を結ぶことを、やめさせようとしたからである。  今回の遠江侵攻は、それらが発端になっている。  だが、予想に反して、高天神城は容易に落ちなかった。  そのため甲斐勢は、内藤昌豊を陣地にとどめて、信州高遠まで、一旦兵を退いた。  この報に接したとき景虎は、越中へ兵を進める決意を固めた。 「いまが、一向一揆を討つ好機だ。  直ちに出陣の準備を致せ」  軍議の席でそう指示を下すと席を立っていた。  ざわめきがあたりをおおい、部将達は越中攻めを行う方法について、検討しはじめた。  一揆は、北条勢以上に手強い。  敗走することを知らず、蓆旗《むしろばた》をかかげ、念仏を口ずさみながら、鎌、くわ、竹槍、なたなどをかざして、ガムシャラに襲ってくるのである。  そのすさまじい気迫を知っているだけに、部将達の表情には、緊迫感がただよっていた。  四日後、景虎は、五千の兵を率いて越後を発ち、海岸沿いの道を、富山城に向かった。  松林の彼方には、紺碧の海がひろがっている。  戦乱の世が、うそのようなさわやかな眺めに、気持が安らぐのを覚えた。  国境の山を越えると、あたりの状勢に気を配りながら、平野のなかを進んだ。  一揆は、どこに屯しているかわからない。  平和そのものののどかな眺めのなかから、突然喊声をあげ、土煙をあげて、猛襲してくるのである。  近頃は農耕馬に跨がり、野良着姿の腰に、自作の太刀を佩いている。  武士以上のすさまじさなのだ。  宗教によって支えられているだけに、死を恐れぬところが、越軍の将兵にとっては、脅威であった。  野には青草が芽ばえ、緑一色におおわれた森や林では、小鳥がさえずっている。  農民達は畠に出て、仕事に余念がない。  しかし、蹄の音を轟かせて、西へ向かう越軍の姿を発見すると、くもの子を散らすように、森のなかへ身を潜めてしまった。  眺めながら景虎は、一向宗禁制が、数十年におよぶ長尾家の祖法であることを思い浮かべた。  一揆に包囲されて、非業の死をとげた先祖もいる。  なぜ、そのように確執を繰り返さなければならないのか、最近になり、景虎には、わかるようになった。  本願寺が、宗徒の農民を中核とする巨大な戦闘集団に化しているからである。  その勢力には、信長とて一目置いている。  僧兵と一揆、これは天下取りを狙う武将が、いつかは殲滅しなければならない仇敵であった。  富山城に到着すると、椎名康胤の軍を主力とする一揆の集団に猛攻をかけた。  兵達の表情には、気迫がみなぎっている。  精鋭をもって鳴る越軍が、農民を主力とする兵団に敗れたのでは、名折れだとの気持が、彼等の士気をかき立てていた。  合戦は激しい攻防ののち、七日で片がついた。  康胤以下は散り散りになって敗走し、富山城には、白地に日の丸を描いた越軍の軍旗がひるがえった。 「これで越中攻めの足固めができた」  流れ落ちる汗をぬぐいながら、景虎はつぶやいた。  そよ風が頬を撫で、空には白雲が浮かんでいる。  春空に聳え立つ天守閣を、景虎はさわやかな気持で眺めていた。  河田長親を城にとどめると、越軍は神通川を渡り、付近の諸城を攻めて、塩屋秋貞等を降した。  越中勢の主体は一向一揆であり、その采配は、井波瑞泉寺と土山勝興寺(安養寺)が振っている。  瑞泉寺の証心和尚は、ふてぶてしい人物である。  昨日、和平交渉のため、馬に跨がって陣地へやってきたその表情には、一筋縄でゆかぬしたたかさが秘められていた。  墨染《すみぞ》めの衣《ころも》をまとい、剃髪《ていはつ》して外見は僧侶にみえるが、心のうちは、権謀術数に生きる武将と変わりはない。 「人質を交換せねば、証心はまた叛くに相違ありませぬ」  実綱が言ってくる。 「それがしも、いまそのことを考えていた。  思い切って厳しい条件をつけねばなるまい」  二人は言葉を交わして、思案に耽った。  二日後、瑞泉寺で双方の折衝がもたれ、証心の弟を越後に、越軍の部将、上田隼人を同寺に人質としてとどめることが決まった。  景虎は一息ついた。  あとは、西進の兵を進めるだけである。 「上杉殿、越中、能登への野望は、捨てた方がよいと、それがしは考えますな」  廊下に佇んで、庭の風景を眺めていると、証心が近づいて言ってくる。  背丈は、景虎より高い。  五十歳前後の年齢を思わせるように、頭髪は白味を帯びている。 「なぜでござるか」  景虎は、笑みを浮かべて聞き返した。 「宗徒の勢力は、西に向かうに従って強くなります。  現在の貴国の兵力では、太刀打ちは困難と思料されるゆえ」  証心の顔には、敗者の面影はみられなかった。 「なるほど」  景虎は答えて、築山の風景に眼を移した。  翌日、伝令の武者がやってきて、信玄が信濃と上野へ出兵する気配を見せていると告げてきた。  さすがに驚きを禁じ得なかった。 �信玄はどこまで、それがしの邪魔をすれば、気が済むのだろう�怒りの気持とともに、思いがかすめてゆく。  軍議を開いた結果、一旦兵を引くことが決められ、二日後、越軍は越中をあとにした。  所期の目的を達することができなかったのが残念であったが、将来のことを考えれば、あきらめなければならなかった。  その後信玄は、北条勢攻撃と見せかけて、四月中旬、東三河へ侵入し、足助《あすけ》城(愛知県東加茂郡)を、続いて野田城(愛知県新城市)を攻略し、二連木《にれんぎ》の戦いで徳川軍を破って、酒井忠次の拠城の吉田城(豊橋市)に迫った。  風林火山の兵法そのままの怒濤のような進撃であったわけである。  家康は、大軍を率いて浜松を発ち、その日のうちに吉田城に入った。  そして、守りを堅固にして出撃せず、兵站線ののびた甲斐勢が、補給難に苦しむのを待った。  この作戦に信玄も城攻めをあきらめ、付近の牛窪、長沢等の砦を焼き払って、五月に甲斐に帰った。 「信玄は、家康がにが手と見えるのう」  合戦の報を得たとき、景虎はそう語って笑った。 「信玄は長年にわたって、われわれを苦しめましたが、今度は苦しまされる立場に回った。  世のなかは、うまくできているものでございます」  実仍が言ってくる。 「神仏は無道を許されぬ。信玄も現在のような合戦振りでは、天下制覇は無理かも知れぬ」 「左様でございますな。  人間焦ると、それが形にあらわれてまいります。甲斐勢もこう休みなく東奔西走していたのでは、戦力を消耗するは必定。  賢明な信玄に、それがわからぬはずはないと思うのですが」 「わかっていながら、どうすることもできぬのが、信玄の心のうちであろう。  いやはや武将とは哀れなものだ」  景虎はつぶやいて、視線を庭の風景に移した。  近頃は、さしたる合戦もない。  武田勢の活躍に比べて、越軍は鳴りを潜めたままである。  しかし、景虎の命により、武器や兵糧、軍馬の調達は、着々と進められている。  それを今後の国攻めに、如何に有効に使うかが、当面の課題であった。  甲斐に引きあげた信玄は、氏康の死後急速に冷たくなった越、相関係を見抜き、且つ、氏政のその後の接近に応じて、甲、相同盟の復活を企図していた。  氏政には信玄と違って、上洛の計画がない。  関東の平定のみを念願し、それに腐心しているのが、現実の姿であった。  加えて、駿河、遠江が信玄の勢力下に入った現在、今川氏を援けて、甲斐勢と戦う必要はなかった。  越後を離れて甲斐と手を結べと、死に際に指示した氏康の言葉も、その後の北条勢の行き方を変えていた。 「氏政は、やはり本性を見せはじめた。  しかし、これでよいのだ」  使僧からの報に接したとき、景虎はそう語って、深くはせんさくしなかった。  甲、相の同盟が復活しても、信玄が鉾先を西に向ける以上、越後にとってさほど脅威にならないことが、腹立ちの気持を抑えさせていた。  平穏な状勢が続くなかで、五ヵ月が経過した。  越後の冬は早い。  十一月を迎えると、野山は積雪におおわれ、銀世界の様相を呈した。 「近頃は、城内に、落ち着きがかえってまいりました。半年間、殿様がお城にとどまられることは、珍しいことでございますから」  徳が言ってくる。 「左様。自分でも不思議だと思っている。しかし、心労だけは絶えぬ。  来年あたり、また合戦になるのではと、そんな気がしてならぬのだが……」  景虎は答えて、自嘲の笑みを浮かべた。  近頃は、うめも部屋へやってくることはない。  景虎には徳のような女人が、ふさわしいと悟っているのかも知れなかった。 「殿様もこれからの御身、無理はなされませぬよう。待てば、道は自然に開かれます。  それを信じて、心を豊かにもたれることが、肝要かと存じますが」 「そのとおりだ。  これまでそれがしは、そのような簡単なことが悟れずに悩んでいた。禅修行に打ち込んだのもそのゆえだ。  しかし、それ以上に、気持の持ち方が大切であることが、最近になりわかるようになった。人間とは不思議なものじゃ」  景虎はつぶやいて、視線を空に据えた。  十二月に北条氏政と武田信玄は、相互援助の同盟を結んだ。  箕輪城の内藤昌豊(武田方)と厩橋城の北条高広(上杉方)ほかが推進し、甲斐の宿将、跡部勝資に申し入れたものであったが、それは越、相、甲三国の和睦が骨子になっていた。  ところが信玄は、甲、相二国の同盟を主張し、同月二十七日に、その趣旨の誓詞が交わされたのである。  関八州を北条領とするが、以前から武田領であった西上州については、北条方は領有に干渉しないという不可侵協定が、その主な内容をなしていた。  同盟締結の結果、北条方から上杉方に「手切れ」の一札が送られ、上杉方からも、同じ趣旨の書面が北条方へ送られた。  なお、人質については、氏政の弟の氏規と氏忠が、甲斐の都留郡に送られ、今川氏真は、伊豆早川より追放されて、浜松の家康のもとに身を寄せることになった。  折りしも、景虎は、佐竹義重に攻められている小田守治を援けるため、急遽、上野に出陣し、西上野の武田方の諸城を攻略中であった。  甲、相の盟約成立を耳にしたのは、その後厩橋城に入城して、越年したときであった。 「氏政は氏康に似てきた。藤氏を切腹させ、天道、神慮、筋目をわきまえず、法様《ほうざま》を知らず、親子兄弟の好みをも誓詞《せいし》の罰《ばつ》の分別《ふんべつ》もなく、これで武将として生きてゆけるのだから、世のなかも変わってきたものだ」  と景虎は語って、眉をひそめた。  道義観の相違を、感ぜずにはおられなかった。  元旦は、付近の神社や仏閣に詣でて戦勝を祈願し、翌二日は、部将達と酒を酌み交わして新年を祝った。  降雪のない関東の冬が、景虎は好きであった。  越後のそれのように落ち着いた心境にはなれなかったが、町の賑わいが、新しい年にかける夢をよみがえらせてくれるのである。  その頃、織田信長が伊勢長島の一揆を討ち、延暦寺の堂塔をことごとく焼き払ったとの報せが入った。  さすがに驚きを禁じ得なかった。 「一揆を打つ気持はわかるが、延暦寺まで焼き討ちするとは……」  仏道修行を志す景虎には、到底理解できぬことであった。 「織田殿は豪毅な武将、それ位のことはやりかねぬとの世評でございますが、庶民に畏怖の念をおこさせたことは、否めぬ事実。  これがきっかけになって、山門派の怒りが爆発するは必定と考えられます。  さしずめ、石山の本願寺の動きが微妙なものとなってまいりましょう」  藤資が精悍な眼を輝かせて言ってくる。 「そのとおりだ。本願寺は、信玄の上洛を待ち望んでおる。足利将軍も肌の合わぬ信長を嫌って、信玄に心を寄せる気配を見せている。  そうなると、両雄の激突は時の問題。わが軍にとり、有利な状勢になってきたとは言えよう」 「いかにも。越前の朝倉義景、近江の浅井長政の連合軍は、一昨年(元亀元年)姉川の戦いで、織田、徳川の連合軍に敗れましたが、まだ亡びるまでには至っておりませぬ。  この二人の去就が、われわれの将来を占う鍵になると思われます」 「なるほど。しかし、そのときには当国と織田勢との合戦が、開始を告げているやも知れぬ」 「領国が境を接することとなれば、自然そうなりましょう。  しかし、織田殿の軍勢を敵に回せば……」  藤資はそこまで語って、言葉を止めた。 �大変なことになる�とのあとの言葉が、隠されていることを、景虎は知っていた。  不穏な形勢が続くなかで、一ヵ月が経過した。  氏政と同盟を結んだ信玄は、厩橋城と沼田城との連絡を断ち、越軍を背後から脅かそうと図っていた。  甲、越の戦いは、舞台を関東に転じて、再開される気配を見せてきたのである。 「久し振りに甲斐勢と対決か。川中島での遺恨を、この際晴らさねば……」  藤資の表情には、早くも覇気がみなぎっていた。  景虎は笑みを浮かべた。 「いまは、十年前とは事情が変わっている。  合戦も、それに合わせて冷静に行わねば、将来に禍根を残すことになる。  甲斐勢と対陣しても、信玄は恐らく攻撃を仕かけてはこまい。わが軍と戦えば、それだけ西上のための兵力が損なわれるからだ」 「なるほど」  藤資はうなずいた。  閏《うるう》正月、景虎は五千の兵を率いて武田方の上野石倉城を攻めた。そしてこれを破却して一旦厩橋に引きあげたのち、再び出陣し、石倉付近に進出してきた信玄の軍と、利根川をはさんで対陣した。  濁流がひろがりを見せて、うねるように川下へ流れている。  彼方には風林火山の軍旗がはためき、その連なりが、武田勢の兵力の巨大さを感じさせた。 「ざっと八千と見受けたが」 「そんなところでございましょう」  景虎は馬に跨がったまま、実綱と言葉を交わした。  寒風が音を鳴らして吹いてゆく。  冬枯れにおおわれた荒涼たる眺めは、どこがそのはずれなのか、見当すらつかない。  両軍の対峙は八日に及んだが、合戦らしい合戦は、遂に行われなかった。  信玄は、甲、越の和睦が噂となったため、それを否定する意味で、今回の出陣に踏み切ったにすぎず、当初から越軍と刃を交じえる心算《つもり》はなかった。そのためか、九日目には、甲斐勢は、対岸から姿を消し、ようとして行方が知れなくなった。  越軍は陣地を移動し、利根川べりの要地を選んで、城砦の構築にとりかかった。  無為に日時を過ごすことを嫌った景虎の発案にもとづくものである。  三月初旬までかけてそれを終えたとき、信玄の率いる軍が、再び対岸に姿をあらわした。  風林火山の兵法そのままの神出鬼没ぶりに、越軍の将兵は首をかしげた。 「なんのための出陣だろう?」 「さあ」  信玄の心のうちは、誰にも察しがつかなかった。 「越後と和を結ぶより、甲斐と手をつないだ方が、北条勢にとり有利であることを、信玄は氏政に示したかったのであろう。  こうして、わが軍の進出を阻んだかに見せかけて、北条勢を信頼させ、西上に際しての後顧の憂いを断ちたかったのかも知れぬ」景虎は語って笑みを浮かべた。 「なるほど。そうすると、狙いはあくまで、遠江以西に?」 「左様。信玄は、このような戦法をよく使う武将ゆえ」  景虎の説明に、部将達はうなずいた。  前回と同じく、甲斐勢は七日を経ずして、関東から姿を消した。  陽動作戦と解される一連の動きに景虎は、信玄が上洛の兵を進める決意を固めたことを悟った。 「以前から信玄は、将軍義昭と意を通じていた。  元亀元年四月、駿河の山西で一万疋(百貫)の料所を将軍へ、五千疋のそれを義昭の近臣一色藤長に贈ることを約しているのがそのあらわれだが、風評では信玄は将軍に誓書を送り、忠節を抽《ぬき》んでる旨を、言上したという。  義昭がそれに触手を動かさぬはずはない。  そうなれば、信玄の上洛は、焦眉の急の問題と化してくる。われわれもゆめ警戒を怠れぬわけだ。  信玄の西進と越中、加賀、能登の一揆の蜂起は、その間のわが軍の動きを封ずる意味で、密接な関連をもっている……」  景虎の言葉に、部将達は息を呑んだ。  信玄の西上を契機に、天下の風雲が急を告げてくることを、彼等は感じているのである。  近頃は連日のように、春日山城から報せがもたらされる。  その最たるものは、越中の一揆の主謀者、椎名康胤の動きであった。  越軍の度重なる越中攻めに拘らず、康胤は信玄と結び、景虎に反抗する気配を見せている。  今年は越軍の主力が関東に在陣している関係もあって、井波瑞泉寺と土山勝興寺を中心とする一揆が、再び勢力を盛り返し、加賀金沢御堂(金沢大学構内)の青侍、杉浦壱岐法橋も、門徒衆を率いてそれに合流し、河上五位庄《かわかみごいのしよう》に陣を敷いている。  そのため、日宮城(富山市南西)の神保覚広らは、新庄城(富山市南東)の越将、鰺坂《あじさか》長実に援助を求めてきていた。 「困ったことになったものだ。越中には長実以外に、河田長親が富山城を守り、天神山城にも長尾景直が陣を構えている。  しかし、一揆の大軍が攻め寄せれば、この程度の陣容では、防戦は容易ではない。春日山城の直江景綱を遣わすことを、取り敢えず考えなければならぬと思うのだが、各々方はいかが考える」  軍議の席で景虎はそう提案し、部将達を見渡した。 「一揆の旗上げが信玄の西上に呼応するものであることは、火をみるよりも明らかなこと。  そのゆえに信玄は、康胤の働きに期待をかけているのでありましょう。彼等の力は強大。  昨年の伊勢長島への信長の軍の侵攻に際しても、織田方の柴田勝家が負傷し、美濃三人衆の一人、|氏家ト全《うじいえぼくぜん》(大垣城主)も戦死するなど、その威力を知らされて、信長もやむなく兵をかえしたと報ぜられております。  北陸の一揆も、これと差はなく、結束を強化しつつあるだけに、今後はあなどれぬと存じます。  場合により、当方の越中の拠点が奪われることも、覚悟しなければなりません。  従って、殿の発案は時宜を得たもの、むしろそれ以上の兵力の投入を考慮すべきではないかと、わたくしは考えます」  直江実綱が、言葉を返してくる。 「なるほど。しかし、いますぐ関東から兵を移動させることはできまい。北条氏政が、北陸の一揆の旗上げを機に、関東全域の制覇を狙っているゆえ」 「では、取りあえず景綱を河田長親、鰺坂長実などの援護のために差し向け、形勢をみることと致しますか」 「そうしよう。いまはそれしか術がない」  二人の意見は、一致をみた。他の部将達も、異議をさしはさまず、軍議は滞りなく終わった。  しかし、景虎は安堵する気持にはなれなかった。  一揆との戦いは、今後、果てしない泥沼に落ち込んでゆくような予感を覚えたからである。  五月半ば、織田信長と朝倉義景の使者が、厩橋城へやってきた。  用件は、信玄との和睦のことであった。 「足利将軍は、主君信長の権勢を嫌忌《けんき》し、このところ武田殿との交流を密にしておられます。  確かな情報では、武田殿が将軍に宛てた誓書の見返りとして、�天下|静謐《せいひつ》の策をめぐらすべきこと�を命じたと言われます。  威光地に落ちた足利殿の所為ゆえ、主君は歯牙にもかけておりませぬが、この状勢が続けば、織田、武田両軍が激突するのは必定。  主君信長はこのことを憂え、朝倉殿の同意を得て、上杉、武田両軍の和睦を先ずはかり、相たずさえて、乱世を治めたいと念願致しております。  如何でございましょう。われわれのこの趣旨を汲み、武田殿との講和を御考慮下さいませぬか」  使者は、景虎をみてそう持ちかけてきた。  信長からの使者は、最近ひんぱんにやってくる。  将軍義昭の信玄懐柔策に対抗するものであることは、景虎にはわかっているが、その意向に従うことは、将来の天下取りに当たって役に立つ。  この考えから景虎は、信長とは常に歩み寄る姿勢でこれまで接触を保ってきた。 「織田殿と朝倉殿の意向とあれば、受けぬわけにはいくまい。  問題は、武田殿がどのような態度に出られるかだ。  或いは拒否の答えを返してくることもあり得ると、それがしは判断するが」  景虎には、信玄の心のうちは読めていた。  だが、それをそのまま、言葉にあらわすことは、さすがにできなかった。 「その辺はわれわれにお委せ下されたく。よきにはからいますゆえ」 「左様でござるか。では……」  両者の話し合いは、簡単に落着をみた。  信長はその後信玄にも同趣旨の言葉を伝えて、和睦を説いたが、同意は得られなかった。景虎の予想したとおりになったのである。  七月を迎えると、富山城の河田長親宛に、将軍家の内書が届けられ、信長も松井友閑ほかの使者を越後に遣わして「この節《せつ》、一和《いちわ》を遂《と》げられ候《そうら》わでは、余《あま》りに尽期無《じんきな》く候」と書状にしたためて、講和の説得を続けた。 「信長は、それがしをなだめて信玄に恩を売り、甲斐勢の鉾先をそらせようと考えている。  ところが信玄は、将軍義昭への接近をはかり、上洛の目的を果たそうとはかっている。  この駆引《かけひき》、まことに興味深く、いずれが勝ちを制するかが見ものだ」  使僧からもたらされた書状を読んだとき、景虎はそう語って笑った。  虚々実々の外交戦の実態を、眼のあたり見せられた思いであった。  信長は上洛を志したときから、信玄には辞を低くして接している。  美濃を経略すれば、信玄の所領の�木曾�と境を接し、両者の間に争いが起こることを恐れたのである。  そのため、信長は妹婿の美濃苗木の城主、遠山友勝の娘を自らの養女として、武田四郎勝頼に娶せた。  しかし、その女人は一子を生んで間もなく死亡したため、信長は信玄の六女、お松御料人を自分の嫡子、信忠の妻とすることを約した。  こうして信玄と信長は、姻戚関係を通じて、表面上は結ばれた。  だが、内実はそうではなかった。  信玄は、信長と雌雄を決する覚悟を決めて、西上の準備を進め、心のうちでは信長を擯斥《ひんせき》していたのである。  一方、信長も家康と同盟を結び、景虎とも意を通じて、甲斐勢の西進を牽制しようとはかっていた。  各武将の思惑が入り乱れる混沌とした状勢のなかで、月初、越中の拠点の日宮城が一揆に奪われ、五福山(婦負《ねい》郡長沢郷)の戦いでも、越軍は大敗を喫したとの報せが、厩橋城の景虎のもとへもたらされた。  直江景綱が率いる軍は、すでに越中に侵攻し、景虎の指示に従って六月十五日から、能化衆《のげしゆう》に摩利支天法を修せしめ、加賀、越中の凶徒退散と信州、関東ほかの分国の安全祈願を行わせている。  一揆との戦いは、越軍にとり、関東制覇と同等の重要性を帯びて、解決を迫られてきたのである。  相次ぐ敗戦に、景虎は色を失い、この時期になってはじめて、全軍を率いて救援に向かう決意を固めた。 「日宮城が落ち、五福山の合戦にも敗れたとなれば、捨て置くわけにはまいらぬ。これからは一揆討伐に全力を注ぐ」と軍議の席で、所信を披瀝していた。 [#改ページ]   第十六章 秋雨  八月はじめ、越軍の主力は厩橋城を発ち、越中に向かった。  野山の風景は、秋の気配を濃くしている。  五千の兵団は荒野をよぎり、高原を越えて、三国峠への道を進んでいった。  陽ざしが緑一色の大地に降りそそぎ、荒漠たるそのうねりが、地平の果てまで続いている。  馬の背にゆられながら景虎は、上洛の兵を起こす時期が到来したことを感じた。  加賀、越中の一揆は手強いとはいえ、甲斐勢に比べれば、ものの数ではない。  北陸を収め、それを拠点にして京をめざせば、信長の軍と武田勢の激突の虚をつくことができる。  いまは、それしか道がないように景虎には思われた。  信玄は、本願寺顕如と手を結び、その勢力を利用することによって、反一揆の姿勢をとる信長と対抗しようとはかっている。  越軍の西上に対しても、加、能、越、三国の門徒衆をあやつって、阻む策をめぐらせている。  それは、類い稀なる知恵と洞察力によって、実現の緒につこうとしていた。  しかし、そのふてぶてしいとも思える高姿勢は、死力を尽くしてでも撃破しなければならない。  信長も同じ思いから、石山の本願寺を焼く決意を固め、年初以来、行動をおこしている。  信玄の勢力を減殺《げんさい》させ、その野望を打ち砕く方法は、それ以外になかった。  織田、武田両勢が雌雄を決すれば、天下の形勢は変わってくる。  そのときが越軍が天下取りへ向かって行動を開始する時期だと、景虎は考えていた。  越中の新庄城へ着いたのは、八月の半ばであった。  折しも信長は、甲斐勢に味方する上口《かみぐち》近江の拠城に猛攻をかけていた。だが、一揆の総帥、杉浦壱岐は、金沢御堂の坪坂伯耄らに、近江への救援を取り止めさせ、「一騎、二騎|宛成共《ずつなりとも》、早々|駈《か》け付けらるべき事《こと》、肝要たるべし」と指示して、越軍を迎え討つ態勢を整えさせた。  新庄城は、富山城とは一里の隔たりしかない。  八千の越軍と六千の一揆が、指呼の間に軍旗と蓆旗をかかげて対陣する風景は、壮観であった。  喊声が山野にこだまし、白兵戦を演ずる光景が、城内から手に取るように望見される。  双方の攻防は、三ヵ月を経てまだ決着がついていなかった。 「一揆は、わが軍によって、陸路からの補給が断たれている。  それを含んで、持久戦に持ち込む方が、得策だとそれがしは考えるが」  眺めながら景虎はつぶやいた。  直江景綱はそれを受けて、翌日以降、包囲作戦に切り換えた。  予想したとおり糧道を断たれた一揆は、焦りの気配をあらわにし、それ以降、短期決戦の構えを見せて越軍の陣地に猛攻をかけてきた。  だが、待機していた騎馬隊の餌食になって、みるみるその数を減じていった。 「合戦は、気負い立った方が負ける。このことわりは、天下取りにも通じるもの。ゆめ忘れてはならぬ」と景虎は部将達を見て語った。  眼は一揆との戦いに注がれていても、心は天下の形勢に向けられていたのである。  信玄は、佐竹義重、簗田晴助、里見義弘等関東の反北条勢力と連携を密にして、景虎や北条氏政を牽制する一方、飛騨を経略し、信長の本拠の美濃をも制しようとはかっている。  長島の一揆の中心である願証寺や長円寺とも連絡をとり、旧勢力の国司、北畠具教やその残党とも手を結んでいた。  大和志貴山の松永久秀や延暦寺、園城寺、さらに景虎の盟友の朝倉義景や浅井長政、美濃の遠藤加賀守とも意を通じている。  関東、東海、濃飛、北陸、摂津、山城、大和、伊勢に跨がる「大環円」が、信長、家康の連合軍を挟撃する体制として、整備されつつあるのである。  諸国の情報を分析しながら景虎は、信玄が信長に勝るとも劣らぬ武将であることを悟った。 �信玄は或いは、天下を取るかも知れぬ�近頃は、そんな錯覚すら覚えることがある。  持久戦が続くなかで、九月十七日、飛騨の江馬輝盛が、三千の兵を率いて越軍の陣地に加わった。  噂は忽ち敵方にひろまり、翌日の未明から一揆は、富山城から退散しはじめた。  かなわぬとみて、兵団を解いたのである。  作戦の成功に、越軍の士気はあがった。 「農民は武器を捨てて、野に帰るのが自然なのだ。それを本願寺顕如が野望を燃やして蜂起させるから、この様になるのだ」  二十年前、本願寺を訪れたときの状景を思い浮かべながら、景虎はつぶやいた。  その後一揆は、衰退の一途をたどり、十月には、椎名康胤以下の諸将も越軍の軍門に下った。  新庄城にやってきた康胤を、景虎は館の広間に通して引見した。  さすがに怒りの気持を抑えることができなかった。  部将達も刺すような眼ざしを、康胤に向けていた。 「そなたは、長尾家に代々仕えてきた名門の出。それなのになぜ、信玄と意を通じて、それがしに叛旗をひるがえす。一度ならず二度、三度ともなれば、許し難い」  景虎は康胤を見据えて、激しい口調で叱責した。  康胤は、唇を結んだまま答えなかった。  反抗の気配を含んだふてぶてしい態度に、中条藤資が立ち上がる。 「貴様のような不埒者は、成敗してくれるわ!」  叫びざま、藤資は腰の太刀を払った。眼は血走り、顔色は蒼白になっている。  他の部将達も口々に康胤の非を鳴らして、斬殺を主張した。  だが、景虎は認めなかった。 「康胤もこうして降服を申し出てきた以上、かつての北条《きたじよう》高広同様、命だけは助けてやれ。  それが人の道というものだ」 「しかし、道義をわきまえぬ者を、生かしておくわけにはまいりませぬ。寛容さもほどほどにしませぬと、命取りになりまするぞ。  なぜ、殿は信玄や信長のように是々非々に徹し、弓を引く者を成敗なされませぬ」  藤資は、髪を振り乱して激昂した。 「仏道に帰依するそれがしには、無力な者を殺戮することはできぬのだ。  康胤はかつての家臣、たとえ我欲に走ろうとそれは乱世のなせる業。人間の宿命とあきらめなければならぬ」  凜とした声が室内にひびき渡る。  部将達は鳴りを潜めて、景虎の言葉に聞き入っていた。  今後康胤が、再び、叛旗をひるがえすことは眼に見えている。  しかし、天下取りを狙う武将として、自らの生き方だけは貫かなければならぬと、景虎は考えていた。  誓書に署名したのち、康胤は席を立った。  顔には、笑みさえ浮かんでいる。  部屋を去るその後姿を、景虎は無念の思いを噛みしめながら眺めていた。  数日を経ずして、越中には平和がよみがえった。  だが、このときには信玄は、三万の大軍を率いて、西上を開始していた。  元亀三年九月二十九日、甲斐勢は、山県昌景の兵を先発隊として、伊那谷を通り、東三河へ侵入した。  信玄は、十月三日、氏政の援軍とともに甲府を発ち、遠江へ向かった。  長槍をたずさえた幻の騎馬隊の怒濤のような進撃に、徳川方はなす術もなく各所で敗退した。  今回の出陣には、上洛に夢をかける信玄の執念が込められている。  その覇気は兵達にも伝わり、甲斐勢の進むところ沿道は火の海と化し、殺戮された敵兵の死体が累々と重なった。  天下取りには、情も容赦もない。  合戦に勝つこと、ただこの一言しか信玄の念頭にはなかった。  それは甲府|出立《しゆつたつ》に当たり、浅井長政父子宛にしたためた書状に、如実にあらわれている。  ……只今、出馬し候《そうろう》。此《こ》の上《うえ》は、猶余《ゆうよ》なく行《てだて》に及《およ》ぶべく候。八幡《はちまん》大菩薩、富士浅間《ふじあさま》大菩薩、氏神《うじがみ》、新羅《しんら》大明神|照覧《しようらん》あれ。  偽《いつわ》りに非《あら》ず候。義景に相談《あいだん》ぜられ、この時運を開かるべき行尤《てだてもつとも》に候。恐々謹言。  十月三日      信玄  浅井下野守(久政)殿  同 備前守(長政)殿  この書状を、景虎は知る由もない。  だが、信玄の悲壮とも思える決意のほどは、その合戦振りからうかがえる。  ……海道を快進撃した武田勢は、遠江、乾《いぬい》城主、天野宮内右衛門を案内者として飯田城を囲み、火を放って攻め落とすと、二俣街道を南下して久能城に迫った。  家康は十月十三日、本多忠勝、大久保忠世等を見付《みつけ》に派遣して、信玄の軍を迎撃させた。  しかし、甲斐勢の猛威には抗すべくもなく、信玄の軍の到着を待って決戦する決意を固めて、全軍を一言坂《ひとことざか》に集結した。  信玄の率いる本隊は、撤退する徳川軍を、激しく追撃し、荒野を血に染めた。本多忠勝らはよく防戦したが、力及ばず、浜松へ兵を引くことを余儀なくされた。  信玄は馬場信春の軍を浜松にとどめ、自らは、一万八千の兵を率いて、天竜川上流の磐田《いわた》郡野辺に移動し、武田勝頼、同信豊、穴山|信君《のぶきみ》らに二俣城を攻撃させた。  合戦は夜を日に継いで行われ、火の手が空をこがした。  水の手を断たれた徳川軍は、十九日、遂に城を放棄して敗走し、甲斐勢の勝利が決まった。  信玄は兵を率いて天竜川を渡り、姫海道を通って、三方《みかた》ケ原の台地に進み、二十二日、祝田《ほうだ》の坂上で野営の陣を張った。  三河を突くと見せかけて、浜松城の家康を誘い出す作戦であった。  浜松城には、佐久間信盛、平手|汎秀《ひろひで》、滝川一益、水野信元らが率いる織田方の援軍が到着している。  家康は、西進する武田勢を追撃することを決意し、その日の夕刻、甲斐勢に対して猛攻を開始した。  こうして、三方ケ原の合戦が幕を切って落とされた。  寒風が肌をつき、残照が西の空を染めている。  雪はやみ、あたりは薄暮におおわれていた。  武田勝頼の率いる騎馬隊と、佐久間信盛の指揮する織田方の援軍との激突で、勝敗は片がついた。  三万の武田勢に対し、一万の徳川、織田連合軍ではなす術がなかったのである。  信盛は敗走し、後陣の平手|汎秀《ひろひで》の軍が甲斐勢の騎馬隊の襲撃を受け、汎秀を含めて、三百余人が討ち死し、家康の部下の中根、青山の両将も戦死した。  家康は夜陰に乗じて兵を返し、浜松城に逃げ込んだ。  三方ケ原の合戦で大勝を得た武田勢は、浜松を突かず、そのまま西進し、刑部《おさかべ》(静岡県|引佐《いなさ》郡細江町)へ向かった。  信玄の狙いは家康ではなく、天下|布武《ふぶ》の方針のもとに、強大な兵力をたくわえてきた織田信長に向けられていたのである。(以上、「謙信と信玄」による)  景虎が以上の報に接したのは、十月二十五日のことであった。  北国《きたぐに》の落日は早い。  夕映えが西の空を染め、積雪におおわれた野山の風景が、その光のなかに浮かんだと思うと、越中の平原には夜の帳が降りていた。  騎馬武者が一騎、城門をめざして疾駆してくる。  三河へ遣わした間者の武者であることを、景虎は勘で悟った。  広間をあとにすると、階段を降りて、自室に帰った。  奥女中によって、灯明の火がともされる。  いまは心を患わすものはない。  一揆のその後の動きが気懸りと言えば言えたが、信玄と家康の軍の激突の報せに比べれば、とるに足らぬことであった。  部将達の声が聞こえたと思うと、襖《ふすま》があけられて、直江実綱以下が間者の武者を伴って入ってきた。  一同は車座になってあぐらをかき、冷酒《ひやざけ》を呑みながら武者の報告を聞いた。  信玄は、労咳《ろうがい》(結核)を患っているという。  初耳だけに景虎は驚いた。三方ケ原の合戦の模様もさることながら、いまはその衝撃の方が大きかった。 「労咳とは……それはまことか」  と思わず聞き返していた。 「まことでございます。甲府を発つ日も、当初は十月朔日(一日)と決められていたものを、越中のわが軍に対する防備を固めることと自身の病のため、三日に延期になったとか。  なお、三方ケ原の戦いでは、寒風をついて陣頭指揮にあたったため、病を悪化させ、その後は籠に乗って、刑部《おさかべ》へ向かったとのことでございます」 「なに、籠に乗ってだと」 「左様でございます。この分だと、上洛を果たすまでに死去するのではと察せられますが」  武者の言葉に、景虎は息を呑んだ。  労咳は死に至る病。いかな信玄とて、それから逃がれることはできない。  予期以上に西上が早まったこと、三河侵攻以来の合戦に、執念にも似たすさまじさが感じられることなど、不可思議に思っていた謎のすべてが、これで解けたように思われた。 「信玄は信長の上洛に焦慮するあまり、わが身を傷つけたのであろう。  やはり人間焦ってはならぬ。一途にことを急いでも、地の利、時の運が伴わなければ成るものではない。  信玄はこのことわりを知りながら、敢えて上洛の兵を進めたのかも知れぬ。  高齢と病ゆえに、死に花を咲かせる気持に、或いはなったのであろうか」  景虎はつぶやいて思いに耽った。  宿敵であるだけに、病を押して上洛の兵を進めた信玄が、あわれに感じられてならなかった。 「しかし、三方ケ原の合戦振りをみると、信玄はまだ死なぬとそれがしは考えますが。大勝に気宇が壮大になれば、労咳とはいえ治癒《ちゆ》することもありましょうから」  中条藤資が言ってくる。 「信玄も恐らく、その気持であろう。そうでなければ籠に乗ってまで、刑部へ向かうはずがない。  それにしても見上げた人物だ。これほどのすさまじい気性ゆえに、信玄は信長を脅かす第一の武将の地位を得たのであろう」  景虎は語って、視線を空に据えた。  信玄の心のうちがわかるように思われた。  二日後、信長の使者が新庄城へやってきた。  武田勢の西上を機に、信長は景虎への接近を強めてきている。  景虎は家康とはすでに同盟を結び、相互援助を約しているが、信長とはまだそこまでの結びつきはない。  領国が隔たっているせいであるが、景虎自身も朝倉義景とは意を通じても、将来の敵、信長と提携して天下取りを進めるつもりはなかった。  しかし、先方から求められれば、応じてもよいとの気持も一方でもっていた。  加えて、信長も景虎も、本願寺を敵とする考えでは一致している。  双方が歩み寄る素地は、その意味ではできていた。 「主君信長は、今般、武田殿との盟約を破棄致しました。  本願寺と結び、われわれを亡きものにしようとはかっているからです。  ついては、新たに貴殿と相互援助の同盟を結びたく、こうして参上仕った次第でございます!」  使者は、そう述べて、首《こうべ》を垂れた。  景虎は思案したのち、次のように答えた。 「これまでの厚誼もあり、それがしには織田殿の申し出をことわるつもりはない。  ただ、乱世のこと、誓詞を確認する意味からも、慣例による人質の派遣については、御考慮願わねばならぬと考えるが」 「その件については、主君も当然のことと思料され、自らの子息を越後へ送る腹づもりをしております」  使者は景虎を見て、そう即答してきた。  人質を交換《ヽヽ》すると言わない信長の姿勢が、景虎の心を打った。 「そのような条件ならば、異存はござらぬ。  いずれ、当方の長尾景綱を介して、折衝を進めたく存ずるゆえ、よきに計らい下されたく」 「承知致しました」  両者の話し合いは、紛糾を見ずして落着をみた。  景虎は、信長の竹を割ったような性格が好きであった。  しかし、乱世のこと、盟約を結んだところであてにはできない。  織田方との交渉は、その後急速に進み、軍事援助を骨子とする同盟が結ばれ、十一月二十日、双方の間に誓詞が交換された。  景虎は家臣の長《ちよう》景連を京都へ遣わし、信長に誓書を示して捺印を乞うたが、信長は牛王《ごおう》を翻《ひるがえ》し、自らの指を切って血判を押した。  そして景虎に、越中をひきあげ、信濃と上野に出兵して、甲斐勢の背後を衝くことを要請した。  景連はそれを快く承諾し、同盟関係は正式に成立した。 「血判を押すとは、信長も面白い人物じゃのう」  帰国した景連から誓書を受けとったとき、景虎はそう語って笑った。  さすがは天下を取る知恵者だと、心で思っていた。  一揆の不穏な動きが続くなかで、天正元年(一五七三)を迎えた。  元旦は新庄城で部将達と新年を祝い、戦乱のなかで平和な正月を送れることを幸せだと思った。  いまは将兵達も、越後へ引き揚げる準備を進めている。  越中の治安が回復をみた以上、長居は無用だからである。加えて、関東へ出陣して以来、一年以上の年月を彼等は他国で過ごしている。  景虎はその辺も慮り、年末から、兵を引く決意を固めていた。  城下町は、越軍の兵士であふれ、初詣でに出かける人々の賑わいに、彩りを添えている。 「見納めに、富山の町へでも出かけてくるか」  景虎はそう部将達に持ちかけた。 「それはよいご発案。是非お供させていただきます」  藤資が言葉を返してくる。  実仍以下の部将も、それに賛意を表した。  巳の刻(午前十時)前、一同は打ち揃って馬に跨がり、城門を出た。  さすがに晴々とした気持であった。  陽ざしを浴びた積雪の風景が、眼に風雅に映る。  あと二日で故国に帰れる喜びを、景虎は噛みしめていた。  初詣での人波のなかを、藤資と語りながら駒を進めた。 「康胤も投降以来鳴りを潜めているゆえ、もう心配はいらないと思いますが」 「そうであってくれればよいが。  しかし、信玄の西進が続く限りは、油断がならぬ」  正月三日には越後へ発つ予定にしている。  しかし、遠からずまた越中に兵を進めなければならぬと、景虎は考えていた。  一行は神社の境内で馬を降り、本殿に詣でて今後の武運を祈願した。  あとは休憩所の床几に腰を下ろして、初詣での風景を楽しんだ。鳩が群れをなして、餌をついばんでいる。  平和そのものののどかな眺めに、景虎は気持が安らぐのを覚えた。  二日後、越軍は新庄城をあとにした。  兵達の表情には、故国に帰れる喜びがあふれている。  八千の兵団は、冬枯れにおおわれた風景のなかを、国境の山脈をめざして進んだ。  一年振りに徳に会えることが、景虎には嬉しかった。  だが、この思いは数刻後には、はかなく消えていた。  山麓で野営の陣を張って間もなく、伝令の武者から、椎名康胤が守りの薄くなった富山城を囲み、それを陥れたと知らされたからである。 「なんということを……」  さすがに驚きを禁じ得なかった。  軍議を開き、部将達の意見を徴した結果、明日、新庄城へ引き返すことが決まった。  兵達の落胆の気持を思うと、心が暗くなる。  しかし、越中の禍根だけはこの際断たなければならなかった。  翌払暁、越軍は陣地を発ち、夕刻には富山城に猛攻をかけていた。  攻防戦は十日に及んだが、容易に城は落ちなかった。  景虎は兵力の損耗を慮って、前回同様、待機戦法に切り換えた。  命知らずの一揆に対するには、心にゆとりを持たなければならない。  過去の経験から、景虎はそれを身に沁みて感じていた。  その頃、一時杜絶えていた甲斐勢の情報が、再び耳にはいりはじめた。  ……天正元年正月十一日、信玄は刑部《おさかべ》より豊川に兵を進め、右岸の三河野田城(愛知県新城市)を攻囲した。  この城は菅沼|定盈《さだみつ》の拠城で、家康の家臣松平忠正の援護を得て、四百の兵で守りを固めていた。  急を知った家康は、三河吉田(豊橋市)に陣を敷いて、攻撃をかける機をうかがったが、兵力の差が大きく手の施しようがなかった。  武田勢は、地道をうがって井泉を断ち、給水を阻止する戦法をとって、持久戦に持ち込んだ。  一方、三河に侵攻した山県昌景の軍は、諸城を落としながら長篠にいたり、軍を分けて野田城の城下を焼き払い、井平へ兵を進めて、信玄の本隊と合流した。  なお、別動隊の秋山信友の軍は、高遠衆ほかの信濃勢を率いて、伊那口から美濃を侵し、すでに岩村城を陥れていた。(以上「謙信と信玄」による)  甲斐勢の破竹の進撃に、景虎は信玄の気迫を感じた。 「労咳の身でありながら、よく軍を指揮できるものだ。  しかし、この無理が命取りにならなければよいが」と静かな口調でつぶやいた。  富山城もようやく手中に落ち、一揆の姿は、新庄城近辺からは消えている。  あとは康胤の松倉城(富山市の南東)を落とせば、神通川以東は確保できる。  このゆとりが、景虎に再び、天下の形勢に眼を向ける気持をおこさせていた。 「噂では信玄は重態に陥り、長篠に引き返しているとか。一説によれば、鳳来寺に移って、静養中とも言われております。  このような状態で、なお西進をあきらめぬとはよほどの執念。それがしも感服致しております」  実仍が言葉を返してくる。 「いまは、どの武将も苦しんでいる。  信長は昨年七月、近江小谷山に浅井長政を攻め、来援した朝倉義景の軍、一万五千と対陣したが、信玄の部下の秋山信友の兵団が東美濃に侵入すると、三国《さんごく》(濃、尾、勢)の本願寺門徒がそれに呼応して、岐阜を脅かす形勢となり、已むを得ず十二月三日、岐阜に兵を引いている。  信玄の包囲網のなかで、困難な立場に追い込まれているわけだ。  それがしに対し信長が同盟の締結を求めてきた背景には、このような事情がある。  一方、信玄も、朝倉義景が信長の軍の重囲を突破して、浅井長政を救ったとき、織田軍を挟撃してくれるものと期待していたところ、義景は信長の岐阜帰陣とともに越前に兵を引き、ために西上計画にそごを来たしている。  十二月二十八日、信玄が義景宛に送った書状には、次のように書かれてあったという。  ……御手《おんて》の衆《しゆう》、過半《かはん》帰国の由《よし》、驚き入り候。  おのおの兵《へい》を労《ろう》すること勿論《もちろん》に候。  然《しか》りと雖《いえど》も、此《こ》の節《せつ》、信長滅亡の時刻到来候処《じこくとうらいそうろうところ》、唯今《ただいま》、寛宥《かんゆう》の御備《おんそなえ》、労《ろう》して功無《こうな》く候……。  要するに、義景に信長攻略のための出兵を求めているわけだ。  それがしも、加賀、越中の門徒衆の蜂起に悩まされている。皆、同じなのだ。苦しみを乗り越えたときに、希望の曙光が見出せる。信玄も同じ思いで、病の苦しみに耐えているに違いない。  だが、やがて力の均衡が破れるときがくる。  そのときが、わが軍が上洛の兵を進めるときだと考えている」  景虎の言葉を、部将達は、神妙な面持ちをして、聞いていた。  ……甲斐勢の包囲を受けた野田城は、その後、菅沼|定盈《さだみつ》が身を挺して城兵を助けんことを請い、信玄もこれを許して、二月の半ばに落ちた。(以上「謙信と信玄」による)  そのときも信玄は、将軍義昭の家臣の東《あずま》芳軒を通じて、朝倉義景に出兵を説いている。  本願寺顕如も遠、三、尾、濃の門徒に指令を発して信長に反抗させ、江北十ヵ寺に、浅井長政への援助を指示し、併せて義景に近江へ出陣することを促している。  信玄を軸とする「大環円」は、こうしてその威力を発揮しはじめたが、一方、これに対する信長や景虎の反撃態勢も、着々と整えられていた。  三月を迎えると、加賀、越中の一揆との戦いはほぼ終息し、越軍は神通川以東の地を確保した。  この安心感が、景虎に信長との接触を密にさせていった。  折しも信長は、信玄の西上に策応して、近江石山、今堅田に城を設け、叛旗をひるがえした将軍義昭の軍の討伐に忙殺されていた。  二月、これを破ると、岐阜を発して上洛し、義昭を二条城に囲んだ。  権威の象徴足利幕府は、十五代にして、滅亡の危機にひんしてきたのである。  このようななかで、三月半ば景虎は、信長宛に書状をしたため、かねて意向打診のあった浅井長政の処遇について�信玄滅亡の際は、長政のことは貴殿の存分に委す�と、その意思を伝えたが、朝倉義景のそれについては、態度を保留した。  義景は、長政を援けて信玄や本願寺の意向に追随し、反信長勢力の旗頭であったが、景虎とは長年友好関係を結び、利害の衝突は何一つなかったからである。  加えて、景虎は延暦寺を焼き払った信長の処置に、不満を抱いていた。  思案したのち�延暦寺の再興についても考慮下されたく�と、書状の後段に、理由を述べて付記した。  足利幕府を亡ぼし、天下に覇を唱えようとしている信長とて、景虎にとっては、心を圧迫する要因ではなかったのである。 �信長とはやがて興亡の一戦を遂げなければなるまい�これが偽らざる気持であった。  書状は三日後、「脚力《かくりき》」によって京都の信長の許に届けられたが、浅井長政の件については了承するとの返書がかえってきただけで、義景の処遇や延暦寺の再興については、なんの意向も、示されていなかった。 「信長とそれがしとは、考えに似通ったところがありながら、根本は違うのであろう」  返書を読み終えた景虎は、そうつぶやいた。 「天下取りを狙う武将は、皆強い個性をもっております。  それゆえにこそ、今日みられるような乱立《らんりつ》状態が、生まれたのでございましょう。  寄らば大樹の陰と申しますが、わたくしも殿の栄達にかけて幸せだったと、いまになって考えております」  実仍が言葉を返してくる。 「ばかなことを申すではない。それがしは、信長や信玄のように天下を取れる器ではない」 「殿がそのように弱気では、われわれ家臣の夢が、果ててしまいます。  武士は、主君に自らの生涯を託しております。このことだけはお忘れなきよう」 「わかった。せいぜい精進仕ろう」  景虎は答えて笑った。  四月を迎えると、越中に平和がよみがえった。  農民達は野にかえり、畠仕事や田植えに余念がない。  新庄城からそれを眺めた景虎は、越中の半ばが完全に、越軍の支配下に落ちたことを感じた。  明日は、越後へ発つ予定である。  松倉城を落としたいま、心に懸るものはない。  境(富山県下新川郡)、市振、たりの木(新潟県|西頸城《にしくびき》郡玉の木)、宮崎(下新川郡)の地下《じげ》人にも、槍、小旗を用意させ、敵船が近づけば襲うよう命じ、鉄砲も用意させて、一揆の奇襲に備えさせている。  廊下を歩く足音に、景虎はわれにかえった。 「殿、織田殿がとうとう、足利幕府を亡ぼされました……」  直江実綱が近づいて言ってくる。 「なに、幕府が亡びたと……」 「左様でございます。  四月六日、織田殿は義昭を二条城に囲み、勅命を奉じて和したあと、将軍を大和へ追放したのです」 「…………」  景虎は言葉も出なかった。  信長は信玄との決戦を前にして、思い切った処置に出た、そうとしか判断できなかった。  信長はその後岐阜に帰り、甲斐勢を迎え討つ態勢を整えている。  なお、京都からの帰途、六角承禎が守る近江の鱠江城を包囲し、兵糧を送った百済寺をも焼き討ちしたと、実綱は語っていた。 「これで畿内には、信長に対抗する者が居なくなった。  しかし、まだ天下取りが確定したわけではない。  信玄をはじめ、朝倉義景、浅井長政など、信長が殲滅しなければならない強敵は、数多くいる……」 「殿もその一人ではござらぬか」 「そうかも知れぬ」  二人は語り合って笑った。  翌日、越軍は越中をあとにした。  故国へ帰れば、合戦の疲れをいやしたのち、関東へ出陣しようと景虎は考えていた。  これまで越軍は、信玄の陽動作戦に悩まされたが、現在はその逆の立場にある。  この機をとらえて、関八州を手中に収めたいというのが、景虎の構想であった。  春日山城に帰り着いたのは、二日後であった。  一年半振りの帰国に、徳やうめは喜んだ。 「殿様もはや、四十四歳、月日の経つのは、早いものでございます」  部屋へやってきたうめは、そう語って笑みを浮かべた。 「そう言うそなたも四十歳、すっかり女中頭の貫禄が身についたな」  日焼けした顔から白い歯がのぞく。  さすがにほっとした気持であった。  話し合っているところへ、徳が姿を見せた。 「直江様が急用とか。なんでも、遠州へ遣わした武者の方が、帰ってこられた由にございます」 「なに、遠州から……」  身が引き締まる思いであった。  武者溜りは、騒然とした雰囲気におおわれていた。  間者の武者を囲んで、部将達が車座をつくっている。 「殿、信玄が陣中で病歿したとの噂が、諸国にひろまりつつあります」  実綱の言葉に、景虎は胸をつかれた。 「信玄が……それはまことか」 「噂ゆえさだかではございませぬが、これなる者の調べでは、信玄は、野田城攻囲中に、すでに重態に陥り、ために長篠に引き返し、さらに正月十六日には鳳来寺に移って、療養中であったとか。  しかし、病は快方に向かわず、一旦、甲府へ帰ることとなり、信濃の駒場《こまんば》にいたって、ついに没したとのことでございます。  日は四月十二日、享年は五十三歳であったとか」 「そうか、信玄がなあ……。して、武田勢はその後いかが相成った」 「西上をあきらめて、甲斐に引き揚げました。  海道一帯は、その噂で現在もちきりでございます」 「しかし、病とはいえ、信玄が簡単に死ぬはずはない。  なにかの間違いではないのか」  景虎は、まだ信用する気持にはなれなかった。 「申されるのも、無理はございませぬ。ただ、甲斐勢が上洛を断念したのは、確かな事実。  これには、よほどの事情があるものと思われます」 「なるほど。とにかく、今後の報せを待ったうえで、対策を考えよう」  景虎は答えて、思案に耽った。  武者の報告だけでは、真相はわからぬというのが、率直な気持であった。  翌日、江馬輝盛の臣、河上中務丞富信が、富山城の河田長親に宛てた書状が、春日山城へ届けられた。  景虎はそれを、館の広間で部将達とともに読んだ。 「信玄の儀《ぎ》、甲州へ御納馬候《ごのううまそうろう》。然《しか》る間《かん》、御煩《おんわずらい》の由《よし》に候。又《また》、死去成《しきよな》され候とも申《もう》し候。如何《いかにも》、不審《ふしん》に存知《ぞんじ》候……。  巷説の実否はわかり兼ねるとの注釈つきながら、この分だと、ほんとうに信玄は死んだのかも知れぬ」 「そうでございますな。しかし、信玄が死せば一大事。  天下の形勢も、これで変わろうというものでございます」  総大将の死だけで、甲斐勢が天下取りから遠のいたと即断することはできない。  現に、武田方には、勝頼という勇将がおり、富士の裾野で訓練された幻の騎馬隊も健在である。  ただ、信玄が駆使したような外交戦略を展開できる部将は、一人もいない。  そこが天下の覇者たる資格に欠けるというのが、景虎の判断であった。 「とにかく、信玄の死が事実ならば、わが軍も行き方を変えなければなるまい。  信越国境の懸念もこれで消え、関東も、北条氏政だけが相手なら、問題ではない。  今後の目標は、念願の加賀、越中、能登の制覇だ。  これらさえ、手中に収めれば、信長も朝倉義景も恐るるに足らん。  知っての通り義景と浅井長政は、織田勢の圧迫を受けて、風前の灯火の状況にある。  信玄の死が事実ならば、天下の形勢は信長を中心にして回ろう。  その意味では、今後は織田勢が、われわれの前面に立ちはだかることとなる。  信長の部下には、明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家などの勇将がいる。  それだけでも、われわれにとっては脅威だ。  だが、わが軍にも実仍、実綱以下の有能な部将が揃っている。  合戦を行っても、よもや負けることはあるまい。  今後は、裏日本の制圧に、戦略の重点をしぼらなければならない。  おのおの方もそのつもりで、家臣の訓練、武器の整備などに怠りなきよう、この席で改めて達しておく」  景虎の心は、すでに未来へ馳せていた。  宿敵信玄の死が、これほどの心境の変化をもたらそうとは、思いもおよばぬことであった。 「噂が事実ならば、われわれにとって願ってもない幸運。  今後は、なに憚ることなく、国攻めに力を振るえる。甲斐勢の脅威さえなければ、天下を取ったも同然。たとえ信長の軍であろうと、武田勢と死闘を演じてきたわれわれには通じまい。  思う存分戦って、織田方の諸城を攻め落としてくれるわ」  藤資が、面を輝かせて壮語する。 「そのとおりだ。これからは、関東を往きつ戻りつしたり、信越国境への敵方の脅威に、おびえることもない」 「加賀や越中の一揆も、本願寺と手を結ぶ信玄がいなくなれば、手足をもがれたも同然。  今後は衰退の一途をたどるであろう」  部将達の会話が耳にひびいてくる。室内は興奮状態に包まれて、誰もが、天下制覇の夢に酔っていた。  四月|晦日《みそか》には、河田長親から春日山城の老臣、吉江資堅あてに、濃州、遠州へ遣わした間者の「脚力」による書状がもたらされ、そのなかに「信玄、遠行必定《えんこうひつじよう》の由《よし》、穏便《おんびん》ならず申《もう》し廻《まわ》る由《よし》に候。如何様《いかさま》、煩《わずら》いの儀《ぎ》は、疑いなく存じ奉り候」と記してあった。  五月を迎えても、信玄の死の噂は絶えず、信長や家康は、出陣を見合わせて、真相の究明に懸命になっていた。  間者が甲斐へ放たれ、諸国入り乱れての情報合戦が展開されたのは、言うまでもない。  景虎も、特別編制の忍者を信越国境を越えて送り込み、刻々もたらされる情報を分析した。  だが、影武者をたてるほどの武田勢のこと、口を閉ざして、真相の把握は困難を極めた。  そのようななかで、徳川家康が信玄の死の実否を確かめるべく、駿河や東三河に攻め入り、武田方の属城を攻撃しているとの情報が、春日山城へもたらされた。 「家康らしい抜け目のないやり方。信長もまだ静観中だというのに……」  景虎は語って笑みを浮かべた。 「三河では、現在、二つの流言が流されております。  一つは、野田城に伊勢芳休という笛の巧みな武者がいて、毎夜城壁に佇んで、笛を吹いていた。  ところが信玄も笛が好きで、城外でこれを聴いていたところ、城中から鉄砲で狙撃されたというもの。  いま一つは、野田城落城の際、退散する城兵が甲斐勢の本陣に発砲し、信玄が傷ついたというものでございます」  間者の武者は言葉を続けた。 「恐らく徳川方の誰かが、敗戦を糊塗するために、作出したものであろう」 「しかし、野田城主菅沼定盈の家には、狙撃した鉄砲が、末代まで伝えるべき家宝として保存されてある由……」 「なるほど、乱世ゆえ、そのようなこともあろう」  景虎は、取り合う気持にはなれなかった。 「ところで、武田家の一族の御宿《みしゆく》大監物信綱が、小山田信茂に宛てた書状によりますと、信玄はかねて『肺、肝の病患に苦しみ、忽ち腹心《ふくしん》に萌《きざ》していた』との由。そのため、医薬の術をつくしたが、『業病更《ごうびようさら》に癒《い》えず、日を追うて病枕に沈む』状態になったとのことでございます。  駒場《こまんば》で、嫡子勝頼を枕頭に呼び『我《われ》、三戸《さんこ》の小国を以て、隣国他郡《りんこくたぐん》を攻《せ》め伏《ふ》し、一事《いちじ》として宿望《しゆくぼう》の果《は》たさざるはなく、ただ、旌旗《せいき》を帝都《ていと》に挙《あ》げざる儀《ぎ》、妄執《もうしゆう》の随一《ずいいつ》なり。  信玄|亡命《ぼうめい》の由露顕《よしろけん》せば、当方の怨讎《おんしゆう》、時節《じせつ》を窺《うかが》い、蜂起《ほうき》すべきや必《ひつ》せり。  三、四|星霜《せいそう》の間喪《かんも》を秘《ひ》し、国内防備《こくないぼうび》を固《かた》め、士卒《しそつ》を撫育《ぶいく》して、一度《いちど》、花洛《からく》(京都)に攻めのぼることができれば、たとえ死んでも歓喜《かんき》たるべし』と遺誡《いかい》して、斃《たお》れたとも言われております。  わたくしは、これが実相ではないかと思いますが」 「そうかも知れぬ。  とにかく、信玄という武将は、類い稀なる知恵と事をなすに当たってのねばり強さを備えていた。  それゆえにこそ、これほど天下の諸将を震撼させているのであろう。  それがしも、信玄との二十余年にわたる攻防を通して、武将とは如何にあるべきかを、知らされた気がしてならん。  その意味では、信玄はそれがしの人となりを養ってくれた師でもある。よきにつけ、悪しきにつけてな」  景虎は静かな口調で語った。  信玄の欠点と長所を知ることによって、自らの人格が陶冶されたように感じられてならなかった。  六月を迎えると景虎は、いち早く信玄の死を確信した。  徳川家康も同じであった。  だが、信長や氏政、毛利輝元、小早川隆景らは、まだ信用していなかった。  依然、真相の究明をめざしての情報合戦を繰りひろげていたのである。  ……それを尻目に景虎は、上野白井城の長尾|憲景《のりかげ》宛に書状を送り、「信玄果て候儀《そうろうぎ》、必然《ひつぜん》に候」と述べ、家康、信長も駿河に乱入するであろうと予測し、「其《そ》の方《ほう》、本意《ほんい》も漸《ようや》く近付《ちかづ》き、越中|日《ひ》を追《お》い、存分《ぞんぶん》の儘《まま》に候《そうろう》」と付記して、好機の到来を喜び合った。(以上「謙信と信玄」による)  その頃信長は、信玄死去の噂に動揺を来たした朝倉義景と和平折衝を進め、それによって、なお幕府再興に野望を燃やす義昭の意図を封じようとはかっていた。  噂は忽ち加賀一揆の間にひろまり、信玄の陣歿と相まって、北国門徒を混乱に陥れた。  義景は優柔不断な男であった。  一揆への対抗上景虎と結びながら、信玄の西上が開始されると、義昭の斡旋に応じて一揆と和睦し、しかもそれを貫くことができず、いままた信長の誘いに応じて、反一揆の立場をとろうとしているのである。 「信玄の死により、義景の心がゆらいでいるのはわかるが、こう豹変しては誰にも信用されまい。  武将たる者は、そのときどきの状勢に応じて、判断を誤らぬことが肝心。  義景の行き方には、巧妙に立ち回っていると見えて、味方にも敵方にも信頼されない自己中心の考え方が看取される。  如何に乱世とはいえ、人が納得する生き方ができる人物でなければ、諸将も庶民も従わず、運勢も開けぬ。  信長や信玄、家康などにはそれがあるが、義景にはない。  越前という絶好の地位を占めながら、また浅井長政というよき協力者を得ながら、信長の前に手も足も出ぬのは、そのためだ。  武将は旗幟《きし》と去就を鮮明にし、義と筋目を重んずる姿勢がなければ、大成は期し難い。その意味では、義景は策におぼれて自滅する典型的な武将と言えよう」  信長との和談の噂を伝え聞いたとき、景虎はそう語って、表情を沈ませた。 「なるほど。しかし、義景の変心で一揆が動揺していることは、われわれにとり、得難き好機。  そうは思われませぬか」  藤資が言ってくる。 「それはそうだが……」  景虎は答えて、はじめて愁眉を開いた。  庭の木々で、蝉が鳴いている。  景虎は自室にこもって、思案に耽っていた。  信玄の死は、現在では公知の事実となり、武田家では勝頼が信玄の病気療養を理由に、家督相続を行い、七月十四日、北条氏政も長延寺の師慶を通じて、同盟の誓書を交換したいと、甲斐に申し入れている。  家康も駿河に兵を進めて長篠を破り、作手《つくで》を降して、領国の範囲をひろげていた。  信玄の陣歿によって、一躍、海道の雄にのしあがってきたのである。  これと時期を合わせて、景虎や信長も攻勢に転じていった。  信長は、義景との和談を破棄して、朝倉、浅井の連合軍と一戦を交じえる覚悟を決め、稲葉一鉄、明智光秀、羽柴秀吉、細川藤孝等の諸将に命じて、北上の軍を組織させている。  去就の定まらぬ地方大名、義景と長政は、織田勢の攻勢の前に、大海に浮かぶ木の葉と化していったのである。  七月半ば、景虎は八千の兵を率いて越中に侵攻した。  椎名、神保一族の拠城を攻め落とし、越中全域を平定すると、余勢を駆って加、越国境に迫った。  そして下旬、国境の陣地から、富山城を守る山田修理進宛に書状をしたため、「本願寺、加賀一揆、朝倉などは、将軍の命を力にしているが、将軍が追放せられた以上、大坂(本願寺)も追いこまれ、加賀一揆討伐の好機である」と述べて、士気の鼓舞を指示した。  近頃は本陣の付近を散歩するのが日課になっている。  越中を収めたいま、天下取りに対する不安はなかった。  あとは時期をはかりながら、西進の兵を進めるだけである。  信長は、予想どおり大軍を率いて、朝倉、浅井の連合軍に戦いをいどみ、義景の一乗谷《いちじようだに》と長政の小谷《おだに》城に猛攻をかけていた。 「義景もこれで命運が尽きたというもの。落城は、日時の問題であろう」 「そうでございますな。しかし、朝倉、浅井が滅びれば、織田方は、加賀への侵攻を開始するは必定……」  実綱はそう語って、言葉をとめた。  景虎は笑みを浮かべた。 「加賀への侵攻を策するわが軍と、衝突することになるといいたいのであろう」 「左様でございます」 「織田勢は鉄砲を三千挺揃え、装備もゆき届いている。  だが、合戦の経験は、わが軍の方が豊富だ。  よもや負けるとは思わぬ」  景虎には、信長の軍を打ち破れる自信があった。  現在、越、尾両国は、同盟関係で結ばれている。しかし、やがて、破綻が訪れる。  景虎も信長も、それを見透していた。  そのゆえに信長は、北進の兵を進め、景虎は裏日本の制圧に、いち早く乗り出したのである。  両軍の接点は現在のところ、南加賀と想定されていた。  ただ、ここには、一揆が強大な勢力を張っている。  それを殲滅《せんめつ》することは、信長や景虎とて、容易ではない。  八月八日の朝、景虎がいつものように、高原のはずれを散策していると、実仍が伝令の武者を伴ってやってきた。 「殿、とうとう朝倉義景と浅井長政は、滅ぼされてしまいました……」  注進に景虎は息を呑んだ。  予想されたこととはいえ、越前、近江の勇将がこの世から姿を消したことが寂しかった。 「信長は、信玄同様叛旗をひるがえす武将は、生かしておかぬ方針ゆえ……」  複雑な思いを噛みしめながら、そうつぶやいた。  長政はまだしも、盟友、義景の死が心を暗くした。実仍は言葉を続けた。 「そのこともさることながら、われわれにとり大事は、信長が現在、越前豊原に陣を構え、稲葉、明智、羽柴、細川の諸将に、南加賀の能美《のみ》、江沼の二郡を占領させ、檜屋《ひのや》、大聖寺《だいしようじ》の二城に守備兵を駐屯させていることです」 「なに、信長が越前へ……そして、加賀の二郡をすでに抑えているとは」  義景の死を悼む気持は、吹っ飛んでいた。  伝令の武者から細部の情報を聞くと、二人は本陣にとって返した。  幕間《まくま》のなかは、騒然とした気配におおわれていた。  部将達はすでに、出陣の準備を部下に指示している。 「直ちに加賀への侵攻を開始せねば、織田勢に先を越されてしまいます」  藤資が、眉を逆だてて言ってくる。 「わかっておる。加賀には一揆の精鋭が、鉄砲や槍などを揃え、織田、上杉勢の挟撃に備えていることは、周知の事実。  そのようなところへ進攻すれば、わが軍とて、殲滅の憂き目に遭いかねん。  現在、一揆は追い詰められている。  窮鼠《きゆうそ》、猫を噛むのたとえもあり、そのわなに陥ることだけは避けなければならぬ」  景虎は床几に腰を下ろすと、厳しい口調でたしなめた。  緊迫感に包まれたなかで、軍議が開かれた。  卓上に地図をひろげ、織田勢の進路と兵力を分析しながらの会議が、午の刻(午前十二時)まで続けられ、そのなかで八月十日に国境を越えて、加賀へ出陣することが決まった。 「一揆の兵力がさだかでない点が気懸りだが、相手の力をはかるつもりで、合戦を交じえてみよう。  加賀全域の制覇は、時節を待つ方が得策だと、それがしは判断する」  景虎はそう語って、軍議を締めくくった。  予定どおり、十日の朝、越軍は陣地を発って国境を越え、朝日山の要害を攻撃した。  ここを落とせば、一揆の本拠の金沢御堂へは半日で達することができる。  直江実綱以下の将兵は、宿願を果たす好機と果敢に城攻めを行ったが、追いつめられた一揆は、総力をあげて反抗し、とりわけ鉄砲の乱射が越軍を悩ませた。  兵達は業を煮やして、弾丸のなかを馳せ回り、柿崎源三以下の将兵が傷ついた。  景虎は、射程距離外に退くことを命じたが、彼等は聞かなかった。 「士気が盛んなのは結構だが、これでは犬死になりかねん」 「そのとおりです。直ちに兵を引かせるようはかります」  景虎は実綱と言葉を交わして、眉をひそめた。  彼我入り乱れての白兵戦は、延々と続いた。  しかし、一揆はたじろぐ気配を見せなかった。  追い詰められた人間の執念を眼のあたり見せられた思いに、景虎は溜め息を洩らした。  北陸だけで数十万と言われる一揆を味方につければ、天下制覇はまず成し遂げられる。  信玄は、それを脳裏に描きながら、西上の軍を進めていた。  陣中に歿しさえしなければ、「大環円」による包囲網を縮めて、信長の軍を破っていたかも知れないのである。  十六歳の吉江与次(景泰)らが、敵の鉄砲隊めがけて突進してゆく。  景虎は胸をつかれた。  馬を駆り疾風のように、彼等に追いすがると、 「直ちに陣地へ引け。もし、弾にあたって討ち死でもしたら、故国《くに》の両親が、なんと言ってなげかれることか」と厳しく叱責して、陣地へ追い返した。  本陣に帰ると、「経験の少ない若武者は、出陣させてはならぬ」と指示をくだした。  与次らは異議を唱えてきたが、景虎は認めなかった。 「一揆のために討ち取られたとあれば、武人の名折れであろう。  功名は急がずとも、機会はいつでもめぐってくる。  そのときに備えて、そなた達は観戦しておればよい」と戒めた。  養子の景勝や氏秀(景虎)も、今日は指揮をとっている。  村上義清の子、国清も部将の一人として、合戦に参加していた。  一揆との戦いは、その後も続けられたが、北条氏政が上野へ出陣したとの報せに接したため、景虎は急遽、杉浦壱岐と和睦を結んだ。  二十日の夕刻、景虎が戦乱の収まったあたりの風景を眺めていると、信長の使者が馬を駆ってやってきた。  本陣の幕間に招じ入れ、手渡された書状を読んだ。  朝倉義景と浅井長政を亡ぼしたことにふれ、そのあとに、景虎に「越中から加賀へ侵攻することを勧める」と書いてあった。 「ごらんのとおり加賀へは、去る十日から侵入し、一揆と合戦を交じえている。だが、諸般の事情から明日、兵を引くことになった。  御申し越しの件は、ありがたく拝承する。  その旨を織田殿に誤解なきよう、お伝え下されたく」と景虎は使者に答えた。  信長の心のうちは、読めている。制圧が困難な一揆の討伐を、越軍に委ねようとの心算なのだ。  使者は、祐筆の武者がしたためた返書を受けとると、すぐ陣地から去っていった。  書状は、信長自らしたためたものではなかった。  二十日の日付から、信長の命を受けた羽柴秀吉が、南加賀からもたらしたものであろうというのが、部将達の一致した見解であった。 「羽柴秀吉は、信長の部下のなかでも、知恵者の一人。われわれが加賀へ侵攻しているのを知りつつ、無意味の書状を使者に託して、朝日山城の攻防戦の様子をうかがいにきたのかも知れぬ」と中条藤資は語った。  翌日、越軍は帰国の途についた。  越中を平定したとはいえ、一揆はまだ制圧できたわけではない。  現在も各地で、小ぜり合いが続いている。  天下平定への道が遠く険しいことを、景虎は思わずにはおられなかった。  春日山城に帰り着くと、休む暇もなく、関東の動静を探ったが、予期したほどの危機は見られなかった。  当分は小康状態が続くとの見通しに、景虎は安堵の胸を撫でおろした。  九月を迎えると、越後には晩秋の気配がただよってきた。  農民達は、冬ごもりの準備に余念がない。 「光陰矢の如しか。こうして合戦に明け暮れているうちに、齢《よわい》を重ねてしまった。  人の一生とは、はかなきものよのう」  戦乱のなかで生涯を終えた氏康や信玄の姿を思い浮かべながらふとつぶやいた。 「左様でございますな。あれほど、殿様の心を悩ませた武田様も他界されましたし」  徳が言葉を返してくる。 「信玄の遺骸は、塗籠のなかの壺中に納められ、甲府の躑躅《つつじ》ケ崎に葬られたと伝えられている。  三年後にそれを取り出し、棺に入れて、恵林寺で盛大な葬儀が営まれる由。上洛に執念を燃やした彼らしい末期だ」 「そうでございますな。しかし、殿様が、そのようなことに関心を寄せられようとは……」  徳は語って、寂しそうな表情を見せた。  景虎が死せば、どのような運命が待ち受けているかわからぬだけに、わびしさを覚えたのであろう。 「それがしも武将の身、いつ果てるやも知れぬ。そのときのことをいまから考えておかねば、子孫が没落の憂目に遭う……」  信玄の死を契機とする、予感のような気持であった。  徳はだまってうなずいた。  二人は茶を喫しながら、紅葉におおわれた庭の風景を眺めていた。  信玄の死後、禰知谷(新潟県西頸城郡)方面の武田軍も兵を引き、信越国境の危機は薄らいだが、越中の状勢は再び険悪化した。  本願寺門徒が、増山城の神保惣右衛門尉と結託して、九月五日、越後方の神保民部大輔を攻めて殺戮し、椎名康胤の拠城を攻撃したからである。 「信玄の死後、われわれに寝返った康胤らを、門徒衆は憎悪したのであろう。  奴のような生き方は、常道ではないからな。いつの世にも、このような人物はいる。なげかわしいことだが、いまは乱世、或る程度までは許してやらなければなるまい。  ところで、康胤が援を請うてきたとなれば、越中の守りを固めるためにも、派兵に踏み切らなければならない……」  景虎の眉間には、しわが寄っていた。 「言われるとおりです。  一揆は、その都度制しませぬと、勢力を増大してゆきますゆえ」  実綱が言葉を返してくる。  二日後、景虎は、五千の兵を率いて越中へ向かった。  近頃は、出陣がひんぱんなせいか、兵達はさほど負担には感じていない。  国境の山を越えると、一揆の砦を順次落とし、一ヵ月後には神保惣右衛門尉を、能登へ敗走させていた。  越軍はそのまま越中に駐屯して、治安の回復にあたった。  越後へ兵を引けば、一揆が再び蜂起する気配がみられたからである。  平穏な状勢が続くなかで、二ヵ月が経過した。  十二月はじめに、能登の畠山氏を通じて、神保惣右衛門尉が投降を申し出てきた。  関東の状勢が急を告げてきた折でもあり、景虎はそれを認めて、急ぎ帰国した。  そして、五日後の十二月十日には、八千の兵を率いて、三国峠を越えていた。  行先は上野であった。  北条氏政は、景虎が越中、加賀に眼を向けている間に、関東を席巻しようと企てていたのである。  だが、越軍の遠征を知ると、合戦を交じえずして、小田原に兵を引いた。  景虎は陣中で正月を迎え、その後も関東にとどまって、北条勢の制圧につとめた。  その間に加賀の一揆は、勢力を盛り返し、年初以降南進して織田軍の占領地を奪回し、さらに越前を制して、守護代、下間頼照の指揮のもとに、各地に要害を築いた。  信長の力をもってしても、潮《うしお》のように押し寄せてくる彼等だけは、如何ともなし難かったのである。  厩橋城でその報に接した景虎は、かつて、信長が加賀への侵攻を勧めてきた経緯を思い起こした。 「信長は、今日《こんにち》の事態を予測していたに違いない。  それにしても、加賀への侵攻を早目に思いとどまってよかった」と実綱をみて語った。 「そのとおりです。信長は今年、伊勢長島の一揆を討ち滅ぼしましたが、来年は、再び越前に進攻し、さらに加賀を討つ予定とか、もっぱらの噂でございます」 「恐らくそうなるであろう。  狙いは、越中以西の領国化にあるのだから。  昨年信長は、毛利輝元の使者、安国寺|恵瓊《えけい》に、関東に出陣して武田、上杉、北条等の凶徒を征伐すると語っており、また奥州の伊達輝宗にも、越前平定ののちは『若狭、能登、加賀、越中、皆|以《もつ》て分国《ぶんこく》として、存分《ぞんぶん》に属し候』と報じている。  儀礼上の辞と言えばそれまでだが、信長は、公に述べたことは、必ず実行に移している。その点が、それがしには気懸りだ。  将来加賀、能登の両国が、上杉、織田両勢の激突の場となることは、火をみるよりも明らか。  われわれはそれに備えて、天下の動静を見極めなければならぬ。  時代の流れが、わが軍に有利に傾くときを待つのだ。  そして、機が熟したときに、一気に上洛の兵を進める。  それがしは、ここ一年間そのことを考え続けてきた」  景虎は、決意を秘めた口調で語った。 「わたくしも同感でございます。越中は別にして、当面、加賀、能登の一揆は、織田勢に委すが適切。  われわれは関東を治めつつ、それを観望しておればよいと存じます」 「そのとおりだ」  二人は語り合って、安堵の表情を浮かべた。  八月末、厩橋城の景虎のもとへ、信長から時候見舞いの挨拶状とともに、一対の屏風絵が届けられてきた。  景虎の関東出陣の労を慰《ねぎら》ってのものであったが、信長らしからぬ贈り物に、部将達は首をかしげた。 「どういう風の吹き回しであろう」 「さあ」  信長の心のうちは、誰にも察しがつかなかった。  六曲一双の右隻に、洛中から東山一帯を、左隻に洛中、洛西、洛北方面を描いたもので、京都の町の風景や社寺、公武の邸宅、商人、宮人《みやびと》、庶民の生活、老若男女の風俗などが活写されている。  狩野永徳の作で、題は「洛中洛外図屏風」となっていた。  なお、これは永禄七年(一五六四)の京都を描いたものであった。 「信長は地方大名のそれがしに、京洛《けいらく》を掌中にし、天下統一をめざす己れを誇示したかったのであろう。それとも、それがしに臣従を誓えという意かな」と景虎は眺めながら語った。 「われわれは、永禄二年に五千の兵を率いて京へのぼり、町の内外は知悉《ちしつ》しております。  それを織田殿は、存ぜぬのでありましょうか」  実仍が不審の面持ちを見せて、言葉を返してくる。 「信長のこと、その辺は知っておろう。だが、知っていながら敢えて送ってくるところに、この贈物の意味がある」  景虎の言葉を、部将達はうなずきながら聞いていた。  その後も天下の形勢は、めまぐるしく変転した。  武田勝頼は、父の遺志をついで西上の途につき、信長の軍と激突する気配を見せている。一方、加賀の一揆は、越前を制圧する勢いを見せながら、内部分裂から、崩壊の兆しを見せていた。  ……一揆は、領主と村落の老《おとな》百姓を含む長《おとな》衆を成立の基幹としており、村落共同体の形成と地主層の統合が進むにつれて、内部から崩れ去る必然性をもっていた。  統合の中心は金沢御堂であったが、当時それは、本願寺から派遣された役者(青侍)と、小領主層ほかとの寄合いで運営され、集団指導制の弱点から、内部の意見対立が顕著になっていた。  一揆の総帥杉浦壱岐と、七里三河、坪坂伯耄、下間筑後など御堂主流派の確執がそのあらわれであり、杉浦は天正二年、金沢に追放され、翌年殺されてしまった。(以上「謙信と信玄」による)  皮肉なことに、この事件が、その後の景虎の運命を変えることになった。  これまで武田勢に応じて、越軍を悩ませていた張本人(杉浦)が姿を消し、上杉派の幹部が主導権を握りはじめたからである。 「今後、一揆は、或いはわが軍に味方するやも知れぬ」 「それは言えるが、問題は一揆殲滅の方針を堅持する織田方との関係だ。  足利義昭と本願寺顕如が、信長討伐のため、殿と中国の毛利氏を誘う気配にあることから、今後、織田勢との間に、ひびが入る恐れもある」 「そうなれば、そのときのことだ。信長と一戦を交じえるほかはあるまい」  このような会話が、近頃は部将達の間で交わされている。  聞きながら景虎は、四十五歳の年齢を迎えて、ようやく天下取りへの道が開けてきたことを感じた。  不穏な形勢が続くなかで三ヵ月が経過し、天正三年(一五七五)五月を迎えた。  一揆の越中侵攻を懸念した景虎は、年初にすでに越後に帰り、西進の軍を進める時期をうかがっていた。  近頃は、足利義昭と本願寺顕如から、ひんぱんに書状が届く。  中国の毛利輝元と結び、信長討伐の兵を起こしてもらいたいというのが、その内容であった。  しかし、信長、家康と同盟を結んでいる景虎は、その気持にはなれなかった。  当面は、三千挺の鉄砲を揃えて、武田勝頼と長篠で戦っている織田、徳川両軍の帰趨を見極めたいと思っていた。  信玄亡きあととはいえ、武田勢には勇猛をもって鳴る騎馬隊が力を誇っている。  それと革命的兵器である鉄砲の威力のいずれが勝ちを制するかも、景虎には興味深かった。 「それがしは、武田勢の勝ちと判定する」 「いや、そうはゆくまい。  近頃鉄砲は、射程距離がのび、弾も鉄から鉛にかわっている。加えて、その数三千挺となれば、如何な武田勢とはいえ太刀打ちできまい」 「同盟側は、信長、家康という名将が采配を振るっている。それだけでも織田勢の勝ちは明らかだ」  武者溜りでは、このような会話がここ数日交わされている。部将達の誰もが、長篠の戦いに関心を寄せているのである。  だが、やがて、その結果が、春日山城へ報ぜられてきた。 「やはり連合軍の勝ちか。  今回の戦いは、鉄砲の威力だけで、勝敗が決したものではあるまい。むしろ、士気と采配の差が、明暗を分けたと思われる」  武田勢を撃破して、岐阜に凱旋しつつある信長の雄姿を思い浮かべながら、景虎はつぶやいた。  生涯における最大の敵が、行手に立ちはだかってきた、これが実感であった。  八月を迎えると、信長は鉾先を北に転じて越前を攻め、一向一揆を血祭りにあげた。  逃げ惑う農民を騎馬隊の蹄にかけ、槍で突き殺し、首をはねて虐殺の限りを尽くしたのである。  越前の野は、血の海と化し、生い繁る夏草のなかに、一揆の死体が累々と重なった。  長年その横暴に手を焼いていた怨念を、一気に晴らしたと言わなければならなかった。  越前を平定した織田勢は、余勢をかって加賀に侵攻し、湊川(手取川)縁《べり》までを焼き払った。  黒煙が天に沖し、かや葺の農家は炎をあげて焼け落ちた。織田勢に追われた一揆は、女、子供ともどもに火の海に身を投げて、自ら命を断ったという。  だが、信長は湊川までは焼いても、�北の二郡�(河北郡、石川郡)は、そのままの姿で残した。  越軍を刺戟することを恐れたのと、越軍と一揆とを争わせて、兵力を損耗させるためであった。 「信長は賢明な男だ。しかし、北二郡へ逃げ込んだ一揆が、今後、どのような手術《てだ》てにでてくるかについては、予測がついていないに違いない」  春日山城で合戦の報を得たとき、景虎はそう語って笑った。 「と申されるのは?」  藤資が、不審の面持ちを見せて聞いてくる。 「わからぬかな。ならばよい」  景虎は答えて席を立った。  その後北二郡の旗本、組衆《くみしゆう》は、おのおの�粉骨《ふんこつ》を竭《つく》して�御堂を防衛し、一方本願寺顕如も七里三河頼周を�御上使《ごじようし》�として下向させ、混乱の収拾にあたらせた。  こうして、信長の一揆討伐は一先ず終息をみたが、北二郡の緩衝地帯を挟んで、越、尾の二大勢力が期せずして相対峙することとなった。  かつて景虎が予想したとおりの形勢になってきたのである。  しかし、信長も景虎も相手への心理的影響を慮って、前進基地へは出馬せず、城内にとどまって成り行きの変化を見守った。  一方、九月を迎えると、�越前の大虐殺�から身をもって逃がれた一揆の間から、織田勢恐るべしとの声があがり、それはやがて、景虎に救援を求める意思の表明となってあらわれた。  長尾家に対する積年の怨みを捨て、和を乞おうというのである。  噂を耳にしたとき景虎は、上洛への道が確実に開けてきたことを感じた。 「思ったとおりの結果になった。  だが、まだ油断はならぬ。  信長は機を見るに敏な勇将、どのような防衛策をめぐらせているかも知れぬゆえ」  と部将達をみて語った。 「殿が先般言われたことは、この一揆の変心を指しておられたのでございますか」  藤資が聞いてくる。 「左様」  景虎は答えて笑みを浮かべた。  ……九月八日、越前の土蔵能勝、河島次正、石場総老、小木吉連、印牧正秀、原義親などの長《おとな》衆が、越中駐在の河田長親に書状を寄せて、「還国《かんこく》の望《ぼう》」を述べ、出陣の際は案内《あない》すると申し出てきた。  なお、この書面には、「加州《かしゆう》の諸侍中《しよさむらいちゆう》よりも、連署《れんしよ》を以《もつ》て、御出馬《ごしゆつば》の儀《ぎ》、申《もう》し入れらるるの由……」としたためてあり、一揆の旗本衆も、越軍と提携する意志があることが明らかになった。(以上「謙信と信玄」による) 「加賀、越前の一揆がわれわれに味方すれば、たとえ、信長が十万の大軍を率いて攻め寄せてきても、敗れることはあるまい」  景虎の胸中には、天下取りの構想がすでに固まっていた。  北進する織田勢と合戦を交じえ、そのまま越前、近江を通って京都へ攻めのぼる。  かつて、上洛の兵を進めたと同じ経路をたどれば、作戦にそごがない限り、信長の天下を覆し得るというのが、景虎の考えであった。  その背景には、中国の覇者毛利輝元と結び、本願寺と力を合わせ、信長が捨てた足利義昭を利用するという、綿密な伏線が敷かれていた。  加えて、時代はその方向へ流れている。  この好機をのがす手はなかった。  ここ八ヵ月間、春日山城にとどまって、天下の形勢を観望してきたのはそのためであった。 「それにしても、越前の大虐殺が、このような結果をもたらそうとは……」  藤資の眼は輝いていた。 「信長は気性が直情径行的で、己れに叛く者を許さぬところが欠陥だ。  それでは諸将や家臣との間も、うまくゆくまい。力でそれらの者を制圧し得ても、心に怨みが残る。  天下取りを狙う武将として、慎まなければならぬことだとそれがしは考える。孫子も、�地の利は人の和に如かず�と説いておられる。  それがしが降服してきた武将を殺さぬのも、また城攻めにあたって敵方に逃げ道を残しておくのも、後々のことを考え、庶民の評判を慮るからだ。  その点信長は違う。  今回の大虐殺にも、彼の非情な心根が、あらわれている。しかし、苛酷さは必然怨念となって返り、己れを傷つけることになる。  そのことわりが、四十一歳の信長にはわからぬ様子。  それとも一揆の反撥など、意に介しておらぬのであろうか」  景虎には、信長の心のうちがはかりかねていた。 「ところで殿は、中国の毛利氏と手を結ぶことに近頃、意を用いておられますが、それはどのような理由からでございますか。  信玄や信長もあまり心がけぬこととて、不審に感じておったのでございますが」  実仍が聞いてくる。 「氏康が死に信玄も果てたとなれば、その次の勢力の毛利輝元が、浮かびあがってくる。  輝元には、天下制覇の野望がない。奥州の伊達輝宗や北条氏政と同じなのだ。  しかし、これらの浮動勢力を味方につけておくことは、信長への牽制になる。  信玄も『大環円』の構想のなかで、同種の考え方をしていた。しかし、信玄は外交戦略にみられるとおり、即物的、戦力的にしか相手の武将を見なかった。  それはそれで結構だが、打算的な行き方は一たび破綻すれば、瓦解する恐れがある。  信玄はそれを叡智で補ってきたが、権謀への腐心と心労のために、不治の病を患った。  加えて、焦慮の気持が強かったがゆえに、無理を押して上洛の兵を進め、自ら墓穴を掘ってしまった。  信玄に打算を廃し時節を待つ心があれば、あれほどの知恵者、必ず天下を取っていたであろう。  それはともかく、それがしが毛利氏に提携を求める当面の理由は、一つは足利義昭の意をしんしゃくしたため、いま一つは、信長に敵意を燃やす本願寺が、それがしと毛利輝元には好感を抱いているからだ。  信玄が存命であれば、勿論、このような事態にはならぬが、そこが時代の流れというもの、不可思議なものじゃ。  孫子は兵法の要諦として、�遠きと交わり、近きを攻める�ことを、説いておられる。輝元との提携は、その法則を考慮した結果でもある」  景虎の言葉に、実仍はうなずいた。  いまは心に懸るものはない。  巧まずとも時節を待てば、自然に道が開けると景虎は確信していた。  越中、加賀の一揆の越軍への歩み寄りと併行して、この頃から、足利義昭と本願寺顕如の使者が、足繁く春日山城を訪れるようになった。  義昭は、信長に追放されたとはいえ、一大名になり下がった松永久秀と違って、天下の武将や庶民の尊崇をいまだに集めている。  本願寺も信長に攻められて権威を失いつつも、門徒衆は勿論、一般庶民からも、根強い信頼感をもって見られている。  景虎はその点を慮り、信長に対する牽制策から、両者との繋がりを密にしていた。  十月半ば、義昭の使者が、密書をたずさえて春日山城を訪れ、足利幕府の再興を依頼してきた。  景虎は快く了承の返事を返し、「いずれ、信長とは興亡の一戦を遂げる」ことを約束した。  しかし、その裏で本願寺顕如の命を受けてやってきた浄興寺の管長に、越前、加賀の一揆に援兵を送るかわりに、一揆内部の反上杉派を掃討するよう厳命していたのである。 「越軍に叛旗をひるがえす者は、たとえ門徒の長《おさ》とは言え成敗致す。  それを容認するならば、織田勢の攻撃から、金沢御堂ほかの諸寺をお守り致そう」  と景虎は管長に提案した。 「わかりました。公にはできぬことゆえ、それがしの胸のうちに含んでおきます。  上杉殿は宗派こそ違え、仏道に帰依される奇特な御仁。理にかなわぬことは、なされぬと信じて、お受け致します」  管長は思案したのち、そう言葉を返してきた。 「それがしは信長と違って、宗教を否定したり、諸寺を焼くようなことは致さぬ。そのようなことをすれば、天罰が下るからだ。  信長のように叡山を焼き、無辜《むこ》の宗徒を殺傷するようでは、やがて禍《わざわ》いが我が身に及んでくる。近頃それがしは、そんな気がしてならぬのだ」 「言われるとおりに存じます。  今後も、織田勢の一揆虐殺は続く模様でございますが、空恐しいことだとわたくしは考えております」 「もっともなことだ。しかし、本願寺にも責任がある。勢いをたのむあまり、まつりごとや天下のことに口ばしを入れはじめたことが、そもそもの誤りだ。  宗教人は仏道を極め、庶民の心を安らげ、道義心を培わせるのが務めなのに、近頃の山門衆はそれから逸脱している。  そなたには、その辺のことわりがわかるか」 「わかります。  しかし、なにぶんにも乱世のこと、門徒の身を守ることも、一方で考えなければなりませぬゆえ」  管長の表情には、苦悶のかげが走っていた。  景虎は、それ以上言わなかった。  論議しても無駄だと思ったからである。  長篠の戦いで武田勝頼を破ってから、信長の景虎に対する姿勢がかわった。  越軍を、天下取りを阻む最大の敵と見なしはじめたのである。  安土城の築城が、そのあらわれであった。  信長は戦略の拠点を、固定的に考えなかった。  そのときどきの状態に応じて、名古屋、清洲、小牧山、岐阜と移動させ、次第に京都に近づいている。  武田勢の主力部隊を撃破した現在、東方に敵はなく、最も警戒しなければならないのは、越前、近江を経て上洛の兵を進めてくる越軍であった。  安土は琵琶湖に面し、北陸、東海の喉元を扼する要地にあたる。  信長はここに城を築き、侵攻してくる越軍を迎え撃つとともに、景虎と本願寺との連繋を断とうと考えていた。  築城は夜を日に継いで行われ、見る見る城の巨大な姿が、空に浮かんできた。 「信長は、それがしの戦略を見抜いている。  安土に城を築くとはさすがだ。しかし、城攻めを得意とするわが軍には通じまい」  間者の武者が写し取ってきた安土城の絵図面を眺めながら、景虎はつぶやいた。 「信長は、安土に拠点を設けるだけでなく、越前の北ノ庄(福井)にも、勇将、柴田勝家を配し、神保長住の軍をも抱えて、われわれの西上に対し、万全の策を講じております。  この分だと、越前、近江は容易に抜けぬと存じますが」  実綱が言葉を返してくる。  一同は車座になり、酒を呑みながら、上洛の進め方を検討した。  春日山城では、ここ二ヵ月、織田勢を敵方とみなしての軍議が、毎日のように開かれている。  城下や農村でも、武器を製造する鎚音が絶えず、例年の冬ごもりの時期とは違う、緊迫した空気に包まれていた。  天正四年(一五七六)の正月は、あと四日に迫っている。  だが、景虎も部将達も、それを忘れていた。 「そのとおりだが、……しかし、北ノ庄の勝家の軍を抜く術はある……」  景虎は語って、卓上にひろげられた地図を見ながら、合戦の要領を説明した。  打ち合わせは、亥の刻(午後十時)まで続いてなお終わらなかった。  徳が女中達に指示して、夜食を運ばせてくる。 「こう毎夜お務めでは、年寄りの本庄様や直江様のお体が持ちませぬ。  殿様は、酒を召しあがっておれば、それで満足でございましょうが、下戸の方には芯の疲れるもの。  少しはお察しなされませ」 「わかっておる。ただ、われわれはこうして、夜中に集まり、語り合うのがまた楽しみなのだ」 「殿の言われるとおりゆえ、案じなされますな。それより、徳殿こそわれわれにかまわず、お休みなされ」  実仍がとりなしの言葉を述べる。  女中達が下がると、酒食を喫しながら、再び作戦会議が続けられた。  夜はしんしんと更けていた。  語り合いながら一同は、天下平定の夢に酔っていた。 [#改ページ]   第十七章 冬の虹  年末年始を、景虎は部将達と充実した気分で送った。  元旦は、馬を連ねて城下へ下り、春日神社に詣でて、戦勝を祈願した。そして、そのあと、林泉寺を訪れて先祖の墓参を行い、寺の風景を賞でて過ごした。  天室光育《てんしつこういく》夫妻は、すでに世を去っている。  三十年の歳月の経過が、すべてを変えてしまったのである。  正月三ガ日は平穏に過ぎたが、それ以降は、再び緊迫感が城内をおおっていった。  かねて政情不安を伝えられていた能登の状況が、この頃を境に険悪化したからである。  天正二年七月、能登の守護、畠山義隆(八代目)は逆臣に攻められて殺され、その子義春が七尾城主となったが、幼少のため、城内に家臣団の対立が生じ、上杉派と織田派にわかれた。  ことしになってそれが明確な形をとり、長《ちよう》対島(続連《つぐつら》)、三宅備後(長盛)などが信長に応じ、温井《ぬくい》備中(景隆)、長《ちよう》九郎左衛門(綱連)、遊佐四郎右衛門(盛光)らが、越後方について政権を争った。  状況は直ちに春日山城に伝えられ、部将達の血を沸かした。 「能登もいよいよ二派にわかれた。信長がこれに眼をつけぬはずはない。早目に手を打たなければ、制覇の時期を逸してしまうかも知れぬ」 「左様、織田方はすでに触手をのばしはじめている。手をこまねいていたら、大へんなことになろう」 「これを機に信長と断交し、西上の旗印《はたじるし》を明らかにすべきだ」 「そのとおり。中国の毛利氏と結び、本願寺の力を借りれば織田勢に敗れることはあるまい」  口々に語る言葉が、館の広間から洩れてくる。  聞きながら景虎は、盟友織田信長と雌雄を決しなければならない時期が迫ってきたことを感じた。  二月を迎えると、越後派の長綱連らが、相ついで春日山城を訪れ、援を請うとともに、織田派の部将達の悪業を鳴らした。 「そのような状態にまで……わかった。いずれ能登へは制圧の兵を進めるゆえ、いましばらく辛抱なされ」  彼等から事情を聞いた景虎は、そう言葉を返した。  能登の状勢紛糾と併行して、この頃から、足利義昭の書状が、相ついで景虎のもとへもたらされた。  本願寺顕如からも、信長討伐を要請する使者が届く。  ここにきて景虎は、義昭の意に応じて、上洛の兵を進める決意を固め、部将達を天守閣の広間に集めてその旨を達した。 「信長とは、いずれ興亡の一戦を遂げねばならぬと考えていた。  そのため、中国の毛利氏にも足利殿を介して、意向を打診しておったところ、このほど提携の返書がもたらされた。本願寺とも、近く和睦を結ぶ手筈になっている。  このように四囲の状勢は、刻々、わが軍に有利になっており、それがしもその辺のことを慮って、先ず能登を制圧する決意を固めた。  天下取りは一度には成り難い。  信玄のように上洛を焦るあまり、大軍を率いて西上をめざす愚は避けなければならぬ。不都合が生ずれば、無理をせず兵を引く心構えも、一方で持つことが肝要だ。  出陣にあたり、ひと言皆の衆に注意を促しておく」  上洛の構想を明らかにしたのち、景虎はそう述べて、部将達を眺め渡した。  異議を唱える者はいなかった。  広間は人であふれている。ざわめきがあがり、出席者は、織田勢との熾烈な合戦のことを語り合った。  川中島での死闘に比ぶれば、ものの数ではないというのが、彼等の一致した見解であった。  酒盛りは夜を徹して行われ、美酒に酔った彼等は、城内で二日間逗留したのち、それぞれの領国に帰っていった。  景虎はよく酒宴を開き、部将達と懇親を深めることを心がけた。  諸領主乱立の越後の国柄を改め、お互いの和をはかることが、合戦に勝つ秘訣であることを知っていたからである。  二月下旬、景虎は、信長に能登の国内紛争を理由に断交を通告し、毛利輝元と手を結ぶことを明らかにした。  諸将は、景虎のこの姿勢を信玄にかわる信長への挑戦のあらわれと受取り、両雄の激突を興味の眼ざしをもって眺めた。  そのようななかで三月、景虎は、日宮城の神保長職の要請により、甲州派の守山城(富山市北西)を攻め、畠山義則(永禄八年内紛により出奔)を七尾城へ還住させる目的のもとに、越中へ侵攻した。  しかし、守山、湯山の城攻めにかかろうとしたとき、六動寺川の増水のため作戦行動に支障をきたし、三月二十五日、放生津(富山市北西)の陣を払って一旦、越後に兵を引いた。  無理をしない景虎の方針のあらわれであった。  五月を迎えると足利義昭は、上杉、武田、北条三氏の講和を企図し、そのための使者をひんぱんに春日山城に遣わしてきた。  景虎は義昭の心のうちを察して、敢えてそれに反対は唱えなかった。 「足利殿もあわれな人物だ。十五代将軍の地位に就いたばかりに、権威の回復にいまだに汲々としておられる。  人間とは、あさはかなものよのう。しかし、それがしも足利殿の立場に置かれれば、同じことを画策したかも知れず、あながち非難することはできぬ」 「もっともに存じます。しかし殿は、筋目を重んじ慎重にことを運ぶ性質ゆえ、信玄や足利殿のような運命はたどられぬと思われます」 「そうであろうか。ともあれ、人間にとり、我執ほどこわいものはない。  それがしが合議でことを決めるのは、自らの一存による判断が、どれほど誤った結果をもたらすかを、知っているからだ。  乱世を生き抜くことは難しい。  苦しいときに耐え、好機に飛躍する。この考えに徹すれば、万事に成らぬことはない。わが軍が敗戦の憂き目を知らぬのは、機を見て兵を引く術を、皆の衆が心得ているからだ。  攻めるだけが合戦ではない。  敵を知り己れを知って、守りを固めることも、兵法の要諦。また、意に沿わぬ敵方と和することも、ときに心がけなければならぬ。  徳川家康は、これらを巧みに使い分ける天賦の才を備えている。それゆえに信長に臣従しながら、東海一の武将にのしあがったのであろう」  景虎は部将達をみて、諭すように語った。  天下取りの難しさを、現在ほど感じたことはなかった。  義昭の構想による三勢力の和睦は、その後も進められた。そして、そのなかで、景虎と本願寺顕如との歩み寄りが実現し、五月初旬には、両者の間に講和が成立した。  信長を共通の敵とする双方の考えが、越前の大虐殺や能登の内乱を契機に、一致をみたのである。  二十二年前、上洛を機に石山の本願寺を訪れ、証如に�長尾家の祖法を捨てる�と申し出、盟約を結んだ実績が、その後の景虎の誠実な生き方とともに、相手方に評価された結果でもあった。  予期せぬ事の運びに、景虎自身も驚きを禁じ得なかった。 「やはり人間、そのときどきに、打つべき手は打っておくものだ。二十四歳のとき本願寺に礼を尽くしたことが、現在の困難な状況のなかで、これほどの成果をもたらそうとは、思いもおよばぬこと。  これで、信長の天下を覆し得る素地は整った。  あとは能登を制し、後顧の憂いなき状態に国内を固めて、上洛の兵を進めるだけだ」  景虎の表情には、覇気がみなぎっていた。  四十六歳の年齢を迎えて、ようやく運が開けてきた思いであった。 「一揆を味方につけることができれば、織田勢を打ち破ることは、さほど難しいことではございませぬ。  ただ信長もさるもの。われわれが本願寺と手を結んだとなれば、石山攻めを強化する手術《てだ》てにでるは必定。  その辺が、今後の難しいところでございます」  直江実綱が言葉を返してくる。  本願寺との講和を、手放しで喜んではおれぬとの気持なのであろう。眉間にはしわが寄っていた。 「そなたらしい慎重な考え方。確かに、その辺も考慮しなければならぬ。  加賀、越中の一揆のなかには、いまだに武田勢に肩入れし、われわれを不倶戴天の敵とみるものが多い。  しかし、時代の移り変わりが必ず彼等に、われわれを受け入れる気持をおこさせるに違いない。  一揆を殺戮する織田勢より、刃向かわぬ限り、その存在を容認するわが軍の方に彼等が傾くのは、理の当然だからだ。  降服した諸将を許すわれわれの方針は、今日《こんにち》のような、二者択一を迫られるせっぱ詰まった状況となれば、有利な事態をもたらす要因となって働いてくる」  景虎には、一揆を傘下に収め得る確信があった。 「なるほど。殿の寛容さが、このような時期にわれわれの好運となって返ってこようとは……ともあれ、人間|情《なさけ》は施しておくものですな。  殿の行き方を手ぬるいと感じたときもございましたが、いまにして思えば、それが正しかったと近頃になり、わかるようになりました」 「いかなる事態に見舞われようと、武将たる者、人の道をはずさぬことが肝要だ。  これは古今東西を問わぬ、理法でもある」  景虎は答えて、庭の風景に眼を移した。  さわやかな風が、木々の葉をゆらして吹いていた。  翌日、景虎は、加賀一向衆の有力者で反上杉派の旗頭である奥|政堯《まさたか》に、直筆の書状と馬を送り、本願寺との盟約の趣旨にのっとって和睦を申し入れ、了承を得た。  こうして、加賀の一揆との講和も成立をみたが、この機をとらえて本願寺顕如は、五月下旬、四度目の旗上げを門徒衆に指示した。  無謀と思えるほどの強硬姿勢に、景虎は眉をひそめたが、いまはなす術がなかった。  織田方の治下の越前でも、これに呼応して二十四日、数千名を越える農民が蜂起し、前田利家が守りを固める陣地を攻撃した。  武者からの注進によりそれを知った景虎は、息を呑んだ。 「これでは犬死も同然。一揆に憎悪の念を抱いている織田勢が、前回以上に厳しい姿勢で臨んでくるのが、顕如にはわからぬのであろうか」  と吐き捨てるようにつぶやいていた。  景虎のこの予感は、不幸にして的中した。  前田利家は合戦の末、彼等を打ち破ると、敗走する一揆の群れを騎馬隊に追わせて、そのうちの約千人を生け捕りにし、数珠つなぎにして陣地内に拉致《らち》した。そして竹矢来の囲みをつくって、衆人の環視にさらす一方、全員を磔刑または釜ゆでの刑に処したのである。  惨状は、眼をおおうものがあった。  囲みのなかに無数の柱が立てられ、織田勢の兵士に両腕をかかえられた農民が、それに荒縄でくくられ、陣鉦の音を合図に槍で体の各所を突かれ、身もだえして果てていった。  他の場所では、大釜を据えたかまどが数ヵ所、炎をあげて燃えさかり、そのなかへ後手《うしろで》にしばられた一揆のものが虫けらをころがすように投げ込まれ、絶叫をあげて息絶えた。  死体は野原に打ち捨てられ、それを処刑を待つ農民達は、恐怖の眼ざしをして眺めていた。  陽は西に傾きかけたが、早朝から行われた虐殺は、半ばを終わったばかりであった。  黒山の人だかりは、ふえこそすれ減る気配はない。  織田勢の騎馬隊の猛々しいとも言える姿が、陽光を浴びて眼に異様に映る。  やがて、夜の帳が降りてきた。  篝火がたかれ、その明かりが、刑場の地獄絵のような情景を映し出す。  絶叫が夜空にひびき渡り、そのたびごとに一揆のものの命が消えていった。  真夜中を迎える頃、処刑は終わった。  馬上武者によって、柱とかまどの撤去が命ぜられる。  越前の野原は、おびただしい血で濡れていた。  死体があたりをおおい、血なまぐさい夜風が、埃《ほこり》を巻いて吹き抜けてゆく。  翌朝、朝日がのぼりはじめる頃には、野犬の群れが死体を食い荒らし、無数の烏《からす》が死臭をかぎつけて、付近の木の枝に蝟集してとまっていた。  織田勢の姿は、かげも形もない。  前田利家を先頭に、長蛇の列をなして荒野をよぎる光景が、明け方の光のなかに、幻のように人眼に映じただけであった。  一揆敗北の報は、翌日、景虎の耳に達した。 「利家ともあろう人物が、このような残虐な処置に出ようとは……。  いまは乱世ゆえ、すべての人間の心が、すさんでいるのかも知れぬ」 「左様でございますな。  誰の責任でもない、自然の結末と考えなければなりますまい」  景虎は、実綱と語り合って溜め息を洩らした。  五月二十八日に、藤丸勝俊、奥|政堯《まさたか》などの旗本衆が春日山城を訪れ、越前の危機を報ずるとともに、景虎に出陣を要請してきた。 「織田勢の極悪非道振りは、殿もご存じのはず。盟約にもとづき一刻も早く、加賀、越前へ兵を進められたく」  政堯は眼を血走らせ、激しい口調でそう申し立ててきた。 「越前のことには、それがしも心を痛めている。  だが、そなた達の内部の争いが、かかる結末をもたらした遠因であることも事実。  春以来、旗本衆の間には意見の相違が見られ、いまだに武田勢をたのみ、それがしを嫌忌する傾向が根強く残っている。  松任《まつとう》本誓寺(金沢市南東)と一体をなす鏑木頼信が、『逆意《ぎやくい》の子細《しさい》』があるとみなされ、金沢御堂の七里三河殿から、館の攻撃を受けていることが、それをあらわしている。  頼信のような反上杉派が、なお采配を振るっているようでは、それがしも安心して出陣に踏み切るわけにはまいらぬ。  また、加賀の北二郡は、昨年誓詞血判をもって、上杉、織田両勢を仮想の敵とする『一味申《いちみもう》し合《あわ》せ』をしている由、それがいまだに効力を有していることは、上杉派の洲崎藤八郎景勝が誓詞を破り、諸事《しよじ》をほしいままにした廉《かど》をもって成敗されたことに、如実にあらわれている。  このような有様では、まだそなた達を信用するわけにはまいらぬ」  混沌とした一揆内部の紛争を思い浮かべながら、景虎は答えた。 �政堯、そなたもそれがしを快く思わぬ一味の一人であろう�そう言ってやりたい気持であったが、さすがに言葉に出すことはできなかった。 「われわれが誓詞血判をもって、一味申し合せをしているとは、滅相もございませぬ。  それに景勝の成敗は、別の理由によるもの。そう邪推されたのでは、それがしの立つ瀬がございませぬ」  政堯は強気を装って反論してきたが、声は震えていた。  景虎は笑みを浮かべた。 「噂ゆえ、その点についてはあまり詮索は致さぬ。  しかし、門徒衆内部の意向の不統一は、早急に改めてもらわなければならぬ。  それが実現をみるならば、そなた達の申し出を認めてもよいと考えるが、如何であろう」 「わかりました。その旨を七里に伝え、善処方をわれわれの方で考えてみます」  景虎に心のうちを見抜かれたと感じたのであろう、政堯は一転して、神妙な口調で答えてきた。  酒食の接待を受けたのち、彼等は春日山城から去っていった。 �これで、頼信や政堯らの反越後派は、勢力を失っていく�荒々しく馬を駆って城門を出てゆく彼等の後姿を眺めながら、景虎はそう胸のうちでつぶやいていた。  六月初旬、景虎は小早川隆景に書状を送り、「越、賀一和」のうえ、秋に上洛の兵をおこす考えであることを伝えた。  しかし、その後の一揆内部の足並みの乱れが、それを狂わせた。  七里三河のやり方に対する不満が旗本衆の間にひろまり、本願寺の家老、下間頼廉に直訴する事態が発生したのである。  彼等は七里が鏑木頼信を�逆意�であると触れたのは、いわれなき企てであるとし、逆に、七里が加賀へ下向以来、要害の築造を怠り、敵を防ぐ術を講じなかったとして告発した。  だが、景虎は、直訴の真意を見抜いていた。 「足利殿が本願寺に命じて、加賀一揆を説諭し、わが軍を越前へ出陣させようとはかっていることを旗本衆が察知し、それを阻むため越後派の七里殿を槍玉にあげたに過ぎぬのだ。  例の誓詞血判が、いまだに旗本衆の間に効力を有している証拠だが、これを破棄せぬかぎり、越前へ兵を進めるわけにはまいらぬ」  春日山城へやってきた七里三河の使者に、景虎はそう語って、眉をひそめた。  使者は驚きの表情を見せた。 「さすがは上杉殿。われわれの内情に、よく通じておられます。  しかし、われわれも本願寺と連繋を密にし、必ず彼等を説得致す所存ゆえ、何卒ご安堵下されたく」 「それがしはこの点の疑問のため、出陣をためらっていた。  その旨を七里殿に伝えて、然るべく善処方をお願いしていただきたい」 「承知仕りました」  二人の話し合いは、落着をみた。  一揆内部の紛争が続くなかで、二ヵ月半が経過した。  この間景虎は、軍備を充実しながら、西上の兵をおこす機をうかがっていた。  暑さは遠のき、季節は本格的な秋を迎えている。  天守閣の回廊に佇んで、景虎はあたりの風景を眺め渡した。彼方には能登の山々が、無限の連なりを見せている。�加賀、能登への侵攻を開始する時期が、いよいよやってきた�と胸のうちで思った。  一揆の内紛は、その後収まりの気配を見せ、七里三河から吉江資堅宛に、越軍の出陣を要望する書状が届いている。  ……春以来、旗本身上《はたもとしんじよう》、種々|異見《いけん》せしめ候《そうろう》と雖《いえど》も、同心《どうしん》なく、終《つい》に逆心相止《ぎやくしんあいや》まず、若《も》し、彼《かれ》(鏑木頼信)の遺恨《いこん》、押《お》し埋《う》められあるに於《おい》ては、御出馬《ごしゆつば》の刻《きざみ》、必ずその妨《さまたげ》をなすべしと考え、鏑木|一城《いちじよう》に攻《せ》め寄《よ》せ、既《すで》に国中一統《くにじゆういつとう》に罷《まか》り成《な》りし折《おり》に、早速《さつそく》、出勢下《しゆつせいくだ》されば、満足《まんぞく》に存ずる  ……とのその内容から、一揆に対する危惧の念はようやく去った。  しかし、加賀の一向衆の内訌は、織田勢と戦いを交じえるうえに重大な支障となる。  そのゆえに今朝、景虎は、本願寺顕如宛に、事態の円満解決を求める書状をしたためた。 �これでまず、上洛の準備は整う�というのが、そのときの気持であったが、結着をみるまでは細事《さいじ》たりとも、ゆるがせにはできない。  一揆との協調態勢がとれるか否かは、作戦行動を制する要《かなめ》の事項であるからである。  思案した末、景虎は、顕如のはからいを条件に西上の軍を発する決意を固めた。  天守閣を去ると、武者溜りへ行って直江実綱らにその旨を伝えて、軍議の取りまとめを依頼した。  不安も懸念の気持もなかった。  信長の軍を打ち破れる自信が、景虎にはあったからである。  徳が茶をもって入ってくる。 「越中方面へまたご出陣とか。大へんでございますね。  これからは時候も厳しくなってまいりますゆえ、くれぐれもお体には気をつけられますよう。殿様も齢《よわい》を召されましたこと、昔のような無理はききませぬ。  どうかお命だけは、大切になさいますよう」  今回の出陣が、これまでと違うものであることを知っているのか、徳の表情は引き締まっていた。 「それがしが合戦に敗れて死ぬのではと案じているのかも知れぬが、心配は無用じゃ。織田勢は確かに手強い。しかし、負けはせぬ」  景虎の顔には、笑みが浮かんでいた。 「それを聞いてわたくしも、安堵致しました。  本来であれば、天下取りなどあきらめて、越後で豊かな毎日を送っていただきとう存じますが、殿様にそのようなことを申し上げても詮なきこと。  せめて、一年なりとも生き長らえてもらいたいと、近頃はそんなことばかり考えるようになりました」 「四十歳の若さでなにを申すか。それがしは、上洛がかなえば延暦寺を再興して、そなたを迎えたいと考えている。  二十七歳のとき、苦しみに沈むそれがしを救い、越後の国主に返り咲かせてくれたのは、そなただからのう」  庭の風景が、眼に風雅に映る。  徳を幸せにするためにも、天下取りは果たさなければならぬと景虎は考えていた。  九月半ば、景虎は八千の精鋭を率いて春日山城を発ち、越中へ兵を進めた。  十日を経ずして栂尾、増山の二城を落とすと、飛州口に防塞を二ヵ所つくり、湯山の砦を攻撃した。  越中には、まだ、越軍に叛旗をひるがえす領主や一揆がいる。  それらを殲滅し、西上に当たっての後顧の憂いを断ちたいと景虎は考えたのである。  湯山を落とすと、越軍は鉾先を能登に向けた。 「先ず使僧を遣わし、畠山の諸将に和親を申し入れてみよう。  応じてくればそれでよし。もし、拒否してくれば、征討の軍を進めるまでだ」  軍議の席で景虎は、そう結論の言葉を述べた。  中条藤資の奔走により、使僧は柏崎《かしわざき》の妙楽寺住持と決められ、直ちに護衛の武者をつけて、七尾城へ遣わされた。  平穏な数日が過ぎたが、この間に兵達は合戦の疲れをいやし、武具、武器などの手入れを行った。  洗濯をしたり、川へ釣りに出かける者もいる。  景虎も実綱らと釣りに出かけたり、付近の社寺を訪れて、気分を晴らした。  稲穂《いなほ》が風にゆれ、森の彼方からは、秋祭りの鐘の音が聞こえてくる。  耳を傾けながら景虎は、これからの苦難に満ちた遠征のことを思い浮かべた。  予定の日を経た頃、使僧の一行が陣地に帰ってきた。  だが、もたらされた先方の返事は、越軍の意向を無視するものであった。 「長《ちよう》続連、三宅備後らが、織田勢をたのんで叛旗をひるがえす気配にあることはわかっていたが、越後派の長綱連までが寝返るとは……。  加えて、それがしが推す畠山義則を諸将が忌避したことは、理にかなわぬ。  彼らはかいらいの主君(義春)を擁し、実際は国内を己れの意のままに支配しようと企てているに相違ない」  報告を聞いた景虎は、そう語って、能登への侵攻を決意した。  十月初旬、越軍は陣地を発ち、津幡、高松、一ノ宮を経て天神河原(七尾市南東)に達し、そこで野営の陣を張った。  季節は冬の気配を濃くし、あたりの風景にはわびしさがただよっている。  彼方には七尾城が、異国の気配をたたえて、灰色の空に聳えていた。  景虎は武装姿のまま、それを佇んで眺めた。 �畠山氏累代の居城にふさわしく、築造は妙を極めている。或いは八千の兵をもってしても、抜くことができぬかも知れぬ�と胸のうちで思った。  兵達は敵方の襲撃に備えて、陣地の構築に余念がない。  日は暮れかかっていた。  山寺の鐘の音が、不気味に耳にひびいてくる。東西に果てしなくのびる石動《いするぎ》山脈には、雪がつもっている。  薄暮があたりをおおい、一陣の風に枯葉が音を鳴らして舞う。  緊迫した気配を景虎は感じた。  林のなかに視線を据えると、耳をすませた。  無数の枯れ枝が、北国の冬の厳しさを感じさせる。  木々の幹の連なりのなかを、音もなく近づいてくる人影が、ふと眼にとまった。  黒装束に身を固めているため、形はさだかではない。  だが、背をかがめ、飛鳥のように見え隠れしながら、越軍の陣地をうかがう気配は、武士ではなかった。 �鳥追いだろうか�頭のなかを、思いがかすめてゆく。矢音が、鼓膜を震わせる。  景虎は、身を伏せた。  矢はうなり音を発して、彼方の地面に突きささった。 「間者だ。出会え!」  部将の激しい声が飛ぶ。数騎の武者がわめき声をあげながら、林のなかへ疾駆していった。  間者は、木々のなかを縫い、獣のような跳躍を繰り返して視界から消えた。  実綱が、駆け寄ってくる。 「お怪我はございませぬか」 「大丈夫だ。しかし、あの弓のさばきは尋常ではない。それがしに武術の心得がなければ、間違いなく、心臓を射抜かれていたであろう」  景虎は語って笑った。 「それにしても何者でしょう」 「武士でないことは確実。或いは、この付近に屯《たむろ》する山暮らしの農民かも知れぬ」 「しかし、われわれとはかかわりなきことと存じますが」 「寝返った長綱連が、土一揆を仕組んだとも考えられる。  能登の農民は、貧困ゆえ昔から鍛えられている。弓矢を幼少の頃より心がけ、精悍さと闘志は武士以上だとも聞く」 「そこへ綱連が眼をつけたわけですな」 「左様。しかし、山男相手の合戦ともなれば、一揆以上に手強い。  ゆめ油断はならぬぞ」 「わかりました。早速兵達に達し、守りを堅固に致させます」  二人は緊張した面持ちを見せて、言葉を交わした。  篝火が焚かれ、監視の武者が陣地の周辺を往き来しはじめる。  厳重な警戒態勢が敷かれたなかで、兵達は食事をとった。  景虎は、本陣の幕間で部将達と酒を酌み交わし、明日以降の城攻めについて打ち合わせを行った。 「七尾城は聞きしに勝る堅城のこと、容易に落ちぬかも知れぬ。  このぶんだと、能登で越年することも覚悟しなければなるまい」  景虎は、眉間にしわを寄せて語った。 「七尾城を落とすには、孤立化をはかることが一番。そのためには、周辺の地域の鎮定に先ず当たることが、大切かと存じますが」  山吉豊守が言ってくる。 「なるほど。よい考えじゃ」 「しかし、これしきの城を落とせぬとなれば、越軍の沽券にかかわります」  藤資が不満の表情を浮かべて、反論してくる。 「意気込みは結構だが、そればかりでは戦さは勝てぬ。  綱連はなかなかの知恵者、城の守りも格別に固めていることであろう。  そのようなときには、周辺の地域を制するのが最も賢明な策。  ただ、城攻めを行って、敵方の手ごたえをみるのも、必要だとは考えるが」  景虎の言葉に、部将達はうなずいた。  兵達はすぐ眠りに就いた。  景虎は武装姿のまま、幕間のなかで横になった。  敵方の夜襲を、今夜は警戒しなければならぬと感じたからである。  肌をつく寒気が襲ってくる。  野犬の遠吠えを耳に感じながら景虎は、いつしか深い眠りに落ちていた。  真夜中を過ぎる頃、物《もの》の怪《け》の走るような気配を感じて、景虎は眼がさめた。  地鳴りのような音が近づいてくる。  それは、越軍の陣地を半円型に囲んで、焦点を狭めてきていた。  景虎は耳をそばだてた。  しかし、そのときには、鳴りを潜めたように音は消えていた。 「幻覚かも……」景虎はつぶやいて、再び眼を閉じた。  寝つかれぬまま、寝返りを打っているうちに半刻が経った。  殺気に似た気配が、頭のなかを走ってゆく。 �敵襲だ�と景虎は悟った。  ござをはねのけて起きあがると、隣りの藤資を起こした。 「一揆かも知れぬ。敵方に悟られぬよう、直ちに全軍に合戦の準備を下知致せ」と声を殺して指示した。  敵兵は数千、しかも背後の林のなかに身をひそめて、越軍の陣地をうかがっていた。  二人の会話に、他の部将達も起きあがる。  藤資はすぐ幕間から去っていった。  陣地内は、緊迫した空気に包まれてきた。  将兵達は藤資の下知に応じて、寝たままの姿で待機した。  敵兵は、至近距離に迫ってきていた。  息を殺したにらみ合いが、半刻ほど続く。  松明《たいまつ》の明かりが、あたりの闇を不気味に照らしていた。 「敵方は、夜が白むのを待っているのであろう」 「そうかも知れませぬ。月夜ならまだしも、このような暗がりでは、夜襲を仕かける方が不利でございますから」  景虎は実綱と言葉を交わした。  やがて、東の空に明るさが見られはじめた。  林のなかはまだ漆黒の闇である。  緊張感が絶頂に達しかけた頃、ほら貝の音が静けさを破ってひびき渡った。  喊声が樹林にこだまし、抜刀した敵兵が、蟻の群れのように姿をあらわしてくる。  景虎の血はたぎった。 「撃て!」  下知を下すと、眼にもとまらぬ早さで馬に跨がり、襲ってくる敵兵めがけて突進した。  兵達も一斉に立ち上がり、巨大な塊となってあとを追った。  両軍は、荒野の真っ只中で激突した。  景虎が予感したとおり、来襲してきたのは、馬上武者に指揮された土一揆であった。  鎧や冑を着用した者は、数えるほどしかいない。  皆、黒装束の衣装をまとい、鉢巻を締めていた。  山刀を振るい、手製の弓を射ながら、越軍の兵士に向かって阿修羅のように襲いかかってきた。  敏捷《びんしよう》な身のこなしから、まともに刃を交じえれば、味方に犠牲者がでる。  景虎はそれを慮って、彼等に騎馬隊を差し向け、ひるんだところを槍部隊に襲わせた。  絶叫が天にとどろき、山男達は全身を朱に染めて息たえた。  山刀と、歴戦の武者がしごく長槍とでは、勝負にならなかった。  数千の一揆は、越軍の騎馬隊に周囲を囲まれ、蜂の巣をつつくように攻められてのた打った。  あたりは血の海と化し、敵兵の死体が累々と重なった。 「引け!」  激しい下知の声がひびき渡る。  浮き足立った能登勢は、一斉に越軍に背を向けた。  敗走する一揆は弱かった。  騎馬隊の追撃を受け、犠牲者をふやしながら、彼等は命からがら林のなかへ逃げ込んでいった。  翌日、越軍は陣地を発って、七尾城を囲んだ。  松尾山(三八六メートル)の嶮を利用した巧みな設計は、他城の比ではない。  城内には色とりどりの軍旗がはためき、越軍の包囲をあざ笑うように、時折、喊声がとどろいてくる。  本丸の天守閣は、微動だにしない威容を誇って、冬空に聳え立っていた。  景虎は駒をとめて、その姿を仰いだ。  かつて小田原城を攻めあぐねたときと、同じ威圧感が、胸のうちをよぎってゆく。 �無理攻めはできまい。血気にはやれば、長綱連の術中にはまることになる�と直感で悟った。  休憩を告げるほら貝の音が聞こえてくる。  思いを断つと、馬から降りて本陣の幕間に入って憩った。 「昨日の土一揆は、やはり長綱連が仕組んだものとのことでございます。  笠師村(中島町)の番頭や長浦徳昌寺(中島町川崎)、潟崎上向寺、土川村の小森、吉田村の蒲左衛門等が、配下の農、山民を�国の一大事�を名目にあおったようでございます。  彼等の残党は、殆どが城内にたてこもった様子。  昨日の勢いからして、無理攻めを行うと、当方にも相当の犠牲者がでる見込みゆえ、控えた方が賢明かと存じますが」  実綱が進言してくる。 「なるほど。しかし、能登の精鋭が、ことごとく城にこもったとなれば、ほかの地域の制圧が容易になる。  かえって好都合じゃ」  景虎の顔には、笑みが浮かんでいた。  二日後から越軍は、城攻めを敢行したが、容易に抜くことができなかった。  城門に接近すると、どこからともなく激しい弓矢の射かけが開始され、進むことが不可能になってくるのである。  五日間の攻防戦ののち、越軍は待機戦法に切り替え、同時に、兵を分割して、国内の熊木、富木、穴水、甲山、正院の諸城を攻めた。  それぞれ斎藤帯刀、藍浦長門、長沢筑前、平子《ひらたく》和泉、長与市景連がその任にあたり、旬日を経ずして、それらをことごとく攻め落とした。  能登の国内には越軍の軍旗がひるがえり、十一月末を迎える頃には、七尾城は完全に孤立状態に陥った。 「これで綱連の命脈は、尽きたも同然。  城兵の士気も、近頃は眼に見えて衰えを見せてきている」  城内の光景を眺めながら、景虎はつぶやいた。  能登はほぼ制し得たというのが、実感であった。 「こう籠城が長びくと、敵方のなかに不満が芽生え、内訌が生ずるは必定。  われわれは、それを待てばよいということになります」  実綱の表情には、明るさがかえっていた。 「城内には、遊佐|続光《つぐみつ》、温井景隆らの越後派が、雌伏《しふく》して、われわれの入城を待ち受けている。  如何な綱連とはいえ、破綻の憂目をやがてみるに違いない。  そのときが、わが軍が能登全域を制するときであろう」  景虎の言葉に実綱はうなずいた。  累々と小石を積みあげた石垣が、樹林のなかに見え隠れする。  七尾城に特有の築城技術である。  寒風が頬を撫で、彼方には佐渡の山並みが浮かんでいる。  二人は、佇んだまま、足下に展ける風景を眺め渡していた。  冬の陽ざしが、七尾城に注いでいる。  近頃は、合戦らしい合戦もない。  諸城に駐屯する部将達からも、平和がよみがえったとの報せが届いている。  手持ち無沙汰のまま景虎は、祐筆の武者を呼んで、硯と巻紙を持ってこさせ、勝興寺の住持宛に書状をしたためた。  遠征の状況を簡略に報じ、そのなかに「城中《じようちゆう》、日《ひ》を追《お》い、力無《ちからな》く候《そうろう》。落居《らくきよ》(落城)疑《うたがい》あるべからず候歟《そうろうか》」と書き添えた。  巻紙を戻し武者に手渡すと、席を立って外へ出た。  城内は静まり返って、物音一つ聞こえてこない。  寒空に舞う鳶《とび》の姿を、景虎は無心に眺めた。  上洛への夢が湧いてくる。  敵は、織田信長ただ一人であった。 �来年あたり、いよいよ織田勢と激突することになろう�と眺めながら思った。  能登を制すれば、北陸一帯はほぼ掌中に帰する。  加えて、本願寺との結びつきが堅固になった現在、一向一揆の応援も得られる。  どう思いをめぐらせても、信長の軍に負けるはずはなかった。 �信玄のように上洛は焦るまい�自らにそう言い聞かせて、道を引き返した。  風が音を鳴らして、樹林のなかを吹き抜けていった。  天正五年(一五七七)の正月を、景虎は能登で迎えた。  織田信長はすでに安土城に移り、西上の兵を進める越軍をにらみながら、天下|布武《ふぶ》の方針を実施に移していた。  朝廷から、大納言兼右大将に任じられた信長は、天下取りを九分どおり成し遂げたかに見える。  だが、その心のうちは、決して安らかではなかった。  信玄なきあと景虎、毛利輝元という強敵が、手を結んで挟撃の態勢に出てきたからである。 「信長は、それがしを第一の敵と見立てて安土城に居を移したが、書状を送って、興亡の一戦を遂げようとでも申し入れてみるか」  本陣の幕間で部将達と新年を祝いながら、景虎は冗談を言った。 「そうしてみますか」  藤資が言葉を返してくる。  一同は声をあげて笑った。  その後も越軍は、能登にとどまったまま動かなかった。  七尾城の攻囲を続けなければならぬことと、加賀の治安が乱れているため、その方へも兵を差し向けなければならぬためであった。  国攻めは、一度の出陣だけではなし遂げられない。そこに戦国武将の悩みがあった  能登の鎮圧にあたっているうちに、二ヵ月が経過した。  近頃は、加賀の守山城を守る神保氏張から、援兵依頼の書状が届く。  加えて、関東の状勢も北条氏政の蠢動《しゆんどう》により、険悪の度を増していた。 「加賀はまだしも、関東の属城が当面問題だ。  このまま放置すると、北条勢に奪われかねぬ」  軍議の席で、景虎は眉間にしわを寄せて語った。  予想されたこととは言え、関東のことは、やはり気になった。 「七尾城の落城はみえておりますゆえ、この際、ひと先ず、越後へ兵を引きますか」  実仍が意見を述べてくる。 「そうするか。能登へ遠征して半年近く経過しているし、本隊が越後へ帰国したとなれば、氏政のこと、恐らく小田原へ兵を引くことであろうから」  思案した末景虎は、そう結論を下した。  上洛は急ぐ必要がないとの考えが、判断の根底にあった。  三月初旬、越軍は二千の守衛兵を残して、帰国の途についた。  野には青草が芽ばえ、せせらぎは雪解けの水を流して、陽光にきらめいている。  馬の背にゆられながら景虎は、季節の移り変わりの早さを、思わずにはおられなかった。  春日山城に帰り着くと、家臣や女中達が出迎えてくれた。  留守居役の景勝や氏秀も、姿を見せている。 「未の刻(午後二時)頃、二人揃って、それがしの部屋へきてもらいたい」  玄関をあがりながら、景虎はそう言葉をかけた。後継ぎの二人に、一言達しておかなければならぬことがあるように感じられたのである。  自室に入り、徳に手伝わせて平服に着替えたとき、景虎ははじめて安堵の気持を覚えた。 「かわったことは?」 「特にございません。それよりお体の方は如何でございます」 「変わらず元気だが」  やってきたうめを含めて、近況のことなどを語り合う。  それぞれ、惑わずの年齢を越えているせいか、昔のような感情のわだかまりはみられない。 「景勝様や氏秀様も年とともに成長され、たのもしくなられました。ただ、最近お二人の間に気心の行き違いがあるやに、わたくしには見受けられるのでございますが」  うめが言ってくる。  景虎は溜め息を洩らした。  二人はこれまで仲違いをした試しがない。  景虎が平等に二人をたて、特に氏秀には、上杉憲政に意を含めて後見を依頼し、家中で不利な立場にたたぬよう配慮しているせいであったが、本人同士の間では、景虎の血を引く者と、そうでない者との微妙な対立意識が芽ばえていた。  それを景虎は薄々感じていたが、女中達の噂にのぼるまでになっているとは知らなかった。 「それがしも能登に在陣中、二人のことが気になっていた。  そのようなことにならぬよう、願っていたのだが……」  景虎はつぶやいて、眉をひそめた。  死後のことを考えると、心が暗くなる。  しかし、二人の良識に委す以外に、術は見出せなかった。  午後、景虎が廊下に佇んで庭の風景を眺めていると、景勝がやってきた。  二人は、部屋に入って雑談を交わした。  長尾政景の血を引いたのか、景勝は才走っている。  加えて、父に似て野望も強かった。 「父上が天下を取られることを、わたくしは一日千秋の思いで待ち望んでおります。  どうか、お体に気をつけられまして、無事、望みを果たされますよう、かげながらお祈り致しております」  と景勝は言ってきた。 「天下取りは、地の利、時の運、それに、武将としての天運が伴わなければ、なし遂げられるものではない。  それがしがその器であればよいが」  景虎は、淡々とした口調で答えた。 �生きれば生き、死せば死せ!�  禅修行のなかで会得したこの死生観は、現在も変わらない。  織田勢との合戦に敗れれば、それが己れの運命だと、景虎は最近考えるようになった。  話し合っているところへ、氏秀が入ってきた。  二人と膝を交じえて語り合うのは、久し振りのことである。  出陣の疲れを景虎は忘れていた。 「呼んだのはほかでもない。  承知のとおり、それがしは現在、武将としての岐路に立たされている。  織田勢との激突がそれだが、これだけは避けて通るわけにはまいらぬ。  万一、それがしが合戦に敗れて死せば、そなた達に遺志を継いでもらいたいと思って、こうしてきてもらった。  それと、それがしも齢《よわい》四十七歳、五十年の人生にあと三年と迫っている。  信玄のように、いつ病で倒れるやも知れず、そのときのことを考えて、領国の相続について、これを機に達して置きたいとも思ってな」  景虎は改まった口調になって、そう語った。  二人は緊張の面持ちを見せて、景虎の次の言葉を待った。 「結論から言って、越後と越中の半ばを景勝に、あとの佐渡、能登、越中の残りを氏秀にというのが、それがしの率直な気持だ。  国主の地位は、縁組の早い景勝が、先順位者として継ぐのが至当と考える。  なお、領有に確信のない関東と加賀については、いましばらく様子をみたうえで、決めることとしたい」  景虎の言葉を、二人は視線を落として聞いていた。近況を語り合ったのち、三人は席を立った。  木々の緑が、眼に沁みるように映る。  能登はまだ制し得たとは言えない。  七尾城は落城寸前にあるとはいえ、長綱連のこと、いかなる策をめぐらせているかわからない。  その点が、景虎には気懸りであった。  関東の状勢は、その後北条勢の戦略転換により、平穏裏に推移していた。 「この分では、出陣に踏み切っても無駄になるかも知れぬな」 「左様でございますな。いましばらく様子をみるほうが、得策と思われますが」  実綱の言葉が返ってくる。  六月を迎えると、能登の状勢は険悪の一途をたどり、景虎の懸念が現実の姿をとってあらわれた。  七尾城の畠山勢は、越軍の囲みを突破すると、兵糧と武器を補充し、兵力を整えて先ず斎藤帯刀が守りを固める熊木城に迫ってきた。  越軍はよく闘ったが、衆寡《しゆうか》敵せず、城を放棄するの已むなきに至った。  勢いに乗った能登勢は、撤退する越軍を追って富木城を囲み、これを七日間の攻防ののち落とすと、能登最大の拠点の穴水城(穴水町)に向かって進撃を開始した。  ここは長沢筑前が八百の兵を率いて守りを固め、遠く七尾城をにらんで、警戒の眼を光らせている。  長綱連はそれを知りつつ、兵力をたのんで、興亡の一戦を挑んできたのである。 「綱連め、よくもこのような手術《てだ》てに……」  武者からの報に接したとき、景虎はつぶやいて、眉を吊りあげた。 「畠山勢は、織田方の援護をたのんでいるのかも知れぬが、そうはさせぬ」  色部勝長が、気色ばんだ表情を見せて息巻く。 「そのとおりだ。われわれの底力をこれから見せてやる」  中条藤資が相づちを打つ。  武者溜りは、二ヵ月振りに、緊迫した空気に包まれてきた。  部将達は皆、信長の軍との合戦を、覚悟していた。  軍議を開く必要はなかった。  全兵力を動員しての能登侵攻が、その場で決まった。  景虎は姿勢を正した。 「いよいよ、織田勢と一戦を交じえるときがやってきた。  長綱連が、信長に援兵を求めるは必定。  そうなれば、数万と言われる織田勢とわが軍が、加賀で激突することとなる。  当方の兵力はわずか八千。一揆の加勢を得ても、一万を超えるに過ぎぬ。  それだけに戦略を誤れば、一敗地にまみれることになろう。  だが、合戦は、兵力だけで決まるものではない。  そのときの状勢に応じて、対処の策さえ誤らなければ、寡兵で大敵を破ることも難しいことではない。  今回の出陣には、上洛の兵を進め得るか否かの見透しがかかっている。  その辺をわきまえて合戦に臨むよう、これを機に特に達しておく」  気迫のこもった言葉が、広間にひびき渡る。  打ち合わせが終わると、直ちに出陣の準備がすすめられ、部将達はそれぞれ領国に伝令の武者をたてて、人馬、武器、兵糧の調達を指示した。彼等の表情は、覇気にあふれている。  織田勢との合戦の可能性が、武勲をたて、栄達をはかる野望をかきたてるのである。  越軍が織田勢の主力部隊を撃破すれば、天下取りへの道は、開けてくる。  しかもそれは、そのまま、彼等が一国一城の主となる道へつながってゆく。  部将達は、信長の異常とも思える越軍への敵対意識から、それを感じていた。  騒然たる城内の雰囲気をよそに、景虎は廊下に佇んで、庭の風景を眺めていた。  出陣に対する不安はなかった。 �生きれば生き、死せば死せ�この考えで合戦に臨む限り、恐れは覚えない。  信玄と違って、信長は手心を加えることを知らない。  延暦寺の焼打ちや越前の虐殺、執拗とも思える本願寺攻めに、それがあらわれている。  非情とも豪毅とも観られるほどの果断さなのだ。  それがまともに発揮されれば、八千の越軍など、ひとたまりもない。  だが、信長の戦略の弱点を、景虎は見抜いていた。  攻めに強い反面、守りや兵を引く術が拙劣なことが、それであった。これまでの合戦をみれば、それが如実にあらわれているように、景虎には思えるのである。 �信長は、類い稀なる資質を備えた武将だ。その才の切れは、それがしの遠くおよぶところではない。  しかし、攻めと守りの両刀使いでなければ、天下取りはなし遂げられぬ。  加えて信長には、人の和をはかる気持が欠けている。  孫子の兵法に反する最たることだが、これが将来命取りになるであろう。  それがしが天下を取れば、信長の行き方の逆をゆく。  山門派の存在を容認し、朝廷をたて、庶民の心情を慮ったまつりごとを行う。  仁と徳と力を兼ね備えれば、万事に成らぬことはあるまい�  胸のうちを思いがよぎってゆく。  合戦のことは念頭になかった。  能登を制すれば、確実に上洛への道が展けることを、景虎は知っていた。  七日後、越軍は西上の途についた。  野には夏草が生い繁り、樹間では小鳥がさえずっている。  空に浮かぶ積乱雲を、景虎は無心の気持で眺めた。 �生きれば生き、死せば死せ�口ぐせの言葉が脳裏に浮かんでくる。  六千の兵団は、土煙をあげ、長蛇の列をなして国境の山を越えた。  夕陽が、兵達の精悍な表情を浮き彫りにする。  景虎は駒をとめた。 「今日は、ここで野営しよう。明日は越中の氷見をめざすゆえ」 「左様でございますな」  実綱と言葉を交わすと、馬から降りた。  誰もが、今回の出陣に期待をかけていた。  能登を制すれば、部将達は知行がふえ、それは兵達の処遇にもおよんでくる。  乱世とはいえ、暮らしの豊かさを求める彼等の願望は、根強いものがある。  その達成をかけて、各人が自らの生命を、合戦の場にさらそうとしているのである。  間者の武者が、馬を駆ってやってくる。 「長綱連は、わが軍の出陣におののき、穴水城の囲みを解く気配を見せております……」  注進に景虎は笑みを浮かべた。 「これで、穴水城は安泰だ。  綱連は兵を引いて、七尾城に籠るに違いない。  それゆえ、氷見に達すれば、天神河原への最短路をとる。信長に援兵を求めるいとまもなく、能登はわが軍の手中に落ちるであろう」  景虎の脳裏には、織田勢の侵攻を食いとめる作戦が、綿密に描かれていた。  長綱連が、越軍組みしやすしと判断し、独力で能登の回復を企てたところに誤算があった。 「畠山勢は、わが軍の術中にうまくはまった。  これで、七尾城内には内訌がおきよう。  遊佐|続光《つぐみつ》、温井景隆らの越後派が、われわれの侵攻に、呼応しないはずがないからだ」  藤資が不敵な笑みを浮かべて、成り行きを予測する。 「さすがは藤資。読みが早い。  合戦は兵力だけではないと、それがしが説いた所以はそこにある。  だが、信長もさるもの。われわれの機先を制する手術《てだ》てに、必ず出てくるに違いない。ゆめ油断はならぬ。  問題は、湊川まで兵を進めている織田勢が、今後どのような行動に出るかだ」  景虎の言葉を、部将達はうなずきながら聞いていた。  信長との知恵比べに勝たねば、上洛の兵を進めることはできぬと、景虎は胸のうちで考えていた。  翌払暁、越軍は山麓の陣地を発って、氷見に向かった。  兵達の歩みは早い。  あたりはまだ、夜の帳におおわれていた。  進むにつれて、穴水城の攻防の状況が、刻々伝えられてきた。  長綱連は城の囲みを解き、追いすがる長沢筑前の兵を振り切って、七尾城に向かいつつあるという。  戦況の好転に、越軍内部は沸き立った。 「今日は七月十六日、綱連は、わが軍の到着を明日と見込んで、全兵力を七尾城に集結するに違いない。  その裏に、七尾城は不落との思惑が潜んでいる。  しかし、これで袋のねずみも同然。  今度ばかりは容赦せぬ」  景虎の表情は、引き締まっていた。  未の刻(午後二時)を回る頃、越軍は氷見に達し、そのまま津幡、高松方面へ迂回して、天神河原へ向かった。  畠山勢が、七尾城へ逃げ込む時刻をはかった巧妙な戦略であった。  敵軍の行手を制して、野戦に持ち込む方法もある。  だが、兵力の損耗を慮って景虎は、この作戦をとらなかった。  すべてを、今後の織田勢との決戦にかけていたからである。  兵団は日暮れとともに行進をとめ、石動《いするぎ》山脈を南に望む平原で野営の陣を張った。  松明の火は消され、死に絶えたような静寂のなかで一夜が明けた。  その頃、長沢筑前の兵に追われた畠山勢は、慌てふためきながら、七尾城に入っていた。  兵糧や武器を補充するいとますらなかったのである。 「これで、七尾城は落ちたも同然。  あとは、織田勢の進攻を、どこで食いとめるかだ」  中条藤資の壮語を、景虎は笑みを浮かべて聞いていた。  陽がのぼりはじめる頃、出立《しゆつたつ》を知らせるほら貝の音がひびき渡った。  景虎は床几から立ち上がった。  六千の兵は、七尾城の天守閣を望みながら、天神河原への道をたどっていった。二千の越軍と合流したのは、その日の夕刻であった。  景虎は、筑前以下の将兵の労をねぎらい、その夜は盛大な酒宴を催した。  盛夏を迎えて、七尾城内の飲料水は枯渇しかかっている。  加えて、食糧不足が、城兵を悩ましていた。  城を囲んで、糧道と織田勢との連絡さえ断てば、畠山勢は自滅する。  景虎はそう見透していた。  城内からは、物音一つ聞こえてこない。  かがり火が二つ三つ、消え入るような光を放っている。 「今回の戦いは、手に汗握る攻防戦の連続。暑さのなかで、兵達はよく頑張りました。  その報いをしてやらねばと、わたくしは考えるのですが、いかがなものでございましょう」  筑前が、精悍な眼を輝かせて言ってくる。 「結構であろう。寡兵の不利に、そなた達はよく耐えた。厚く礼を言う」  景虎は静かな口調で答えた。 「なお、熊木、中島の常念寺の門徒衆が、わが軍に協力してくれたことが、彼我の力の均衡を破るもとになっております。  わたくしの判断では、同寺の忠功に報ゆるため、稲田、五百苅と四十俵の地を与えるのが至当と考えますが」 「それもよかろう。  恩義に報ゆるは人の道。それを守ってこそ、皆の衆との融和がはかれるというもの。合戦に勝つことだけが、国攻めの目的ではない。そのことを今後も忘れぬようにな」  景虎の表情には、満足の笑みが浮かんでいた。  ざわめきが、風に乗って聞こえてくる。  畠山勢が逆襲に転じてきたことを、景虎は感じた。  だが、動じなかった。  気勢をあげても、城を打って出る気力が、敵方にないことを知っていたからである。  双方の対峙が続くなかで、七日が経過した。  午《ひる》すぎ、景虎が戦況を視察するため、城のほとりを馬に跨がって通っていると、城壁の間から煙があがっている光景が、眼にとまった。 「なんだろう、あれは?」  と駒をとめて、直江実綱に聞いた。 「さあ」  判断がつかぬらしく、実綱は首をかしげた。  それから三日経った日の午後にも、同じような煙があがった。  越軍の陣地はその噂で沸き立ち、さまざまな憶測が流れた。  景虎は間者を発して、様子を探らせることにした。  七尾城は、越軍の包囲を受けているとはいえ、外界との連絡が遮断されたわけではない。  畠山氏累代の名城にふさわしく、間道は随所に設けられている。  間者の武者はその一つを探り、城内に潜入することに成功した。  その第一報が、七月二十九日の真夜中にもたらされた。  蹄の音に景虎が身を起こしたときには、陣地内は、騒然となっていた。  武者が、息せき切って駆け込んでくる。 「煙のいわれがわかりました……」  武者はそう語って息を呑んだ。  部将達の表情が緊張する。 「なにゆえじゃ」  景虎は、語気を強めて聞いた。 「城内では、暑さと水質の悪さのため、畠山勢が入城して間もなく、悪疫が流行し、死者が続出しはじめました。  士卒の病死する者数知れず、当初は死体を土を掘って埋めたのですが、それがもとで、病魔はさらにまんえんし、手がつけられなくなってしまいました。  そこで、長綱連は、死体を荼毘《だび》に付すことを決意し、その準備を進めておりましたところ、二十三日、城主、畠山義春が五歳で病没し、その葬儀を兼ねて火葬が、翌日行われました。  殿が発見された煙は、そのときのものです。  続いて二十六日には、義春の叔父、二本松伊賀守が同じ病で死を遂げ、翌日、他の死体とともに荼毘に付されました。  現在は小康状態を保っているものの、士気は沮喪し、城内は火が消えたような状態になっております……」  武者の報告に、景虎は驚いた。 「そのような状態に……」とつぶやいたきり、言葉もでなかった。 「畠山義隆を殺した長綱連一派に、天罰が下ったのだ。これで、彼等の命運はつきたも同然。やがて、その結果があらわれよう」  藤資が吐き捨てるようにつぶやく。  部将達は固唾を飲んで、武者が語る詳報に耳を傾けていた。  景虎は、戸口から見える七尾城の灯を仰いだ。  松明のあかりのなかに、天守閣が不気味な姿を、空に浮かべている。  義隆の怨念が、あたりを徘徊しているように、感じられてならなかった。 �合戦とは、不思議なものじゃ。  このようなことで、それがしの運命が開けようとは……。  それにしても、義隆の霊をとむらうためにも、未亡人と残された幼児の面倒はみてやらなければなるまい�  眺めながら、そんな思いに景虎は駆られていた。  その後、城内の様子は、逐一越軍の陣地に伝えられてきた。  合戦らしい合戦も交じえず、ただ城を包囲するだけで、畠山勢は日毎に兵力を低下させていった。  焦慮した長綱連が、弟、連竜を信長のもとに遣わし、援軍を求めたとの報せが景虎の耳に入ったのは、八月半ばのことであった。  さすがに、身が引き締まる思いがした。 「綱連め、とうとう、奥の手を出しよったか。  それにしても、聞きしに勝るしたたかな人物だ」  と思わずつぶやいていた。  信長の軍は、あと数日たてば動き出す。  過去の合戦の経験から、景虎にはそう判断された。  直ちに軍議が開かれ、織田勢を迎え撃つ態勢を整えることと、その動静を探るため、間者を加賀に潜入させることが決まった。 「九月半ばまでには、七尾城を落とさなければならぬ。  さもなくば、逆にわが軍が敵方の挟撃を受けることになろう」  景虎は沈んだ口調で語った。  打ち合わせを行っているところへ、伝令の武者がやってきた。 「一大事にございます。  長綱連の命を受けた鳳至《ふげし》郡小伊勢村の番頭らが一揆を組織し、わが軍の背後を衝くべく、進撃を開始致しております……」  報告に、景虎は眉を逆立てた。 「往生際の悪い綱連め、眼にものみせてくれるわ」  激しい口調でつぶやくと、軍議を中止して席を立っていた。  直江実綱以下が顔色を変えて、幕間から飛び出してゆく。  下知の声がひびき渡ったと思うと、騎馬隊が蹄の音を鳴らし、土煙をあげて、荒野を疾駆していった。  その日から越軍は、七尾城に対して猛攻をかけた。  大木を倒してつくられた橋が、城壁に渡され、鉄砲隊の援護射撃のなかを「手明」が、城内へなだれをなして殺到していった。  越軍の怒濤のような攻撃に、畠山勢は色を失い、動揺の気配を見せた。  そのようななかで九月はじめ、城内に内訌が発生したとの報せが、石動《いするぎ》山(松尾山の西方)に本陣を移した景虎のもとへもたらされた。 「やはり思ったとおりの結果になった。  これで、七尾城は、攻めずとも落ちよう」 「左様でございますな。  遊佐続光らは開城を長綱連に説いており、聞き入れなければ、斬殺も辞さぬ心構えとか。  城兵の多数も、続光らに同調の気配ゆえ、遠からず城は落ちるものと思われます」  火の手のあがる七尾城を眺めながら、景虎は実綱と言葉を交わした。  その頃から、信長が兵を組織して、北上の構えを見せているとの報せが入りはじめた。 「やはり動き出したか。して、兵力は?」  景虎は間者の武者をみて、聞いた。 「織田勢の主力部隊、数万が南加賀の拠点に集結しており、出陣は間近と判断されます」 「なるほど。それで、七里三河殿の率いる一向一揆の動静は?」 「本願寺顕如からの示達により、織田勢を迎え撃つ構えにございます。  現在、金津口、串、塩沢、粟津口、御幸塚の各|砦《とりで》には、〆めて二万の一揆が待機して、織田勢の侵攻に備えております」 「それは上首尾。その程度の兵力では、織田勢は打ち破れぬが、時をかせいでくれればそれでよい。  七尾城を落とせば、全軍を率いて救援に赴くゆえ」  景虎の表情には、覇気がみなぎっていた。  信玄の軍と互角に戦った経験が、自信となって心を支えていた。  武者は了承して、すぐ加賀へ去っていった。  二日後、織田勢が長綱連の軍の援護のために、南加賀を発したとの報せがもたらされた。  しかし、景虎は動じなかった。  出陣の態勢は、整えられていたからである。  緊迫した状勢のなかで、七日が経過した。  越軍の猛攻を受けて、七尾城内は揺れ動いていた。  城門は焼け落ち、乱入した越軍が天守閣へ向かって、絶え間のない攻撃をかけ、火の手と煙で城の姿すら霞む状態になった。  一方、北上を開始した織田勢は、金津口の砦を一日で落とし、敗走する一揆を追って串、塩沢の拠点を攻め、速度を早めて粟津口、御幸塚の砦に迫っていた。  数万の大軍が近づきつつある気配に、部将達は緊張した。 「七尾城の攻略を中止して、鉾先を南に向けるべきだと、わたくしは考えますが」  藤資が、表情を引き締めて意見を述べてくる。 「ばかなことを申すではない。  七尾城を手中に収めれば、数万の織田勢の攻撃を受けても、意に介するに足りぬ。加えて、城内ではいま、内紛が生じている。  遊佐続光らが、長綱連一派の殺戮を決意したとも伝えられ、落城は間近に迫っている。  この機を逃がす手はない。今朝ほど来、城兵の抵抗が下火になってきたことが、それをあらわしている」  景虎の言葉に、藤資は息を呑んだ。  緊迫した状勢のなかで、一刻が経過した。  七尾城は黒煙をあげて、燃え続けていた。  河田長親と鰺坂《あじさか》長実の率いる兵は、最後の猛攻をかけているらしく、喊声が絶え間なく、空にひびき渡った。  景虎は眼を閉じて、言葉すら発しなかった。  心のなかは、織田勢をどこで迎え撃つかの思案で、一ぱいであった。  蹄の音が、静寂を破って聞こえてくる。  城内の異変を、景虎は感じた。  部将たちも、緊張の面持ちを見せて、耳をそばだてた。  やがて、二人の武者が、越軍の兵士に案内されて本陣の幕間に、姿をあらわした。  温井景隆が発した使者であった。  景虎は、その場で引見した。 「ただ今、われわれは、長綱連一派を城内の一室に追い込み、ことごとく成敗致しました……」  一人が声を震わせて、そう告げてきた。 「やはりそうなったのか……」  景虎はつぶやいて、溜め息を洩らした。  城内は、静まりかえっている。  越軍の喊声も消え、燃えあがる火の手だけが、不気味な音をたてて、夜空をこがしていた。  使者がたずさえてきた温井景隆の書状には、明日九月十五日、午の刻(午前十二時)を期して、開城したいとしたためてあった。  景虎は安堵の笑みを浮かべた。  これで後顧の憂いなく、加賀へ兵を進めることができると思った。 「よくぞ決意なされた。温井、遊佐殿の誠意に対しては、感謝の言葉もない。  城兵達にはなんの咎《とが》も科さぬゆえ、心を安らげるよう達せられたく。  なお、明日の開城には、河田長親と鰺坂長実を立ち合わせることとする」と答えた。  攻めあぐんだ七尾城は、血の粛清のなかで、遂に落ちた。  織田勢の北上が開始されているだけに、その喜びは大きかった。  使者の言葉では、長綱連は遊佐続光らの行動に激怒し、館の広間で一味の者とともに、刀を抜いて斬りかかり、彼我入り乱れての乱戦ののち、一室に追い込まれて、耳を切られ、手を落とされ、最後に首をはねられて果てたという。  凄惨さに、景虎は言葉も出なかった。 �守護、畠山義隆の霊が、城内にいまだにとどまっているのかも知れぬ。それにしても、恐ろしいことだ�  悪夢をみているような思いに駆られながら、景虎は、燃えさかる七尾城の火を、茫然と眺めていた。  夕刻、景虎は長沢筑前を呼んで、珠洲郡の松波城を攻めることを指示した。  畠山一族で長綱連派の松波義親は、七尾城の開城を知っているにかかわらず、越軍に反抗する気配を見せているからである。 「松波城を落とせば、能登の平定は完了する。それを見届けてから、それがしは加賀へ発つ」  景虎は、決意を秘めた口調で語った。  筑前は了承して、陣地を発っていった。  翌日、河田長親らが七尾城の開城に立ち合い、遊佐続光らと戦勝を喜び合った。  城内には、畠山義隆の未亡人とその幼児も健在で、今後の二人の処遇が、部将達の間で問題になったが、景虎は「織田勢を加賀から駆逐した時点で、改めて協議致そう」と答えただけで、結論は出さなかった。  信長の軍との戦いに勝てるか否かで、すべてが決まると考えたからである。  三日後、長沢筑前から使者が届き、松波城を攻め落とし、義親を誅したとの報せがもたらされた。  これで能登全域は、越軍の手中に帰したのである。  だが、その翌日、織田勢が粟津口と御幸塚の砦を落とし、十八日、加州湊川を越えて付近に布陣したと聞いて、景虎は色を失った。 「一難去ってまた一難か。しかし、これしきのことでおののいていたのでは、天下は取れぬ」  そうつぶやくと、出陣の旨を伝えて席を立った。  部将達も立ちあがる。  正念場に追い込まれた自分を、景虎は感じていた。  陣鉦の音が、静けさを破ってひびき渡る。  八千の兵団は隊列を整えて、南へ向かって進んでいった。 [#改ページ]   第十八章 過雁  その夜、越軍は月明かりのなかを越中へ進み、翌日には、加賀の北端に達していた。  そこで野営の陣を張り、翌日の夕刻、織田勢の陣地を指呼の間に臨む地にしのび寄り、蹄の音を殺して、敵状をうかがっていた。  越後軍の加賀侵攻を、信長の軍は知らなかった。  南東には笈《おいずる》ヶ岳が白雪をいただいて聳え立ち、その南には、白山が七千尺の高峻を誇って天を貫いている。  落葉が風に舞い、冷気が膚をさしてくる。  景虎は馬に跨がったまま、あたりの風景を眺め渡した。  枯れすすきの荒野が無限のひろがりを見せ、彼方には、織田勢の軍旗がはためいている。  湊川は北西方向へ向かって、あざやかな曲線を描いてのびていた。  落日が荒野を染め、その佇まいが眼に沁みるように映る。  川の流れは、深く早かった。  織田勢がここに陣を敷いて、すでに二日が経っている。  しかし、北上する気配はみられない。 「柴田勝家らは、なにを考えているのでございましょう」 「さあ、それがしにも察しがつかぬ」 「或いは、七尾城落城を聞きおよんで、救援をあきらめたのかも知れませぬな」 「それは考えられるが……」  景虎は実綱と言葉を交わして、思案に耽った。  寒風が、すすきの原を揺らして吹いてゆく。  陽は西の山に沈んだ。  霧があたりをおおい、織田勢の軍旗は視界から消えていた。  八千の兵団は、高台の木陰に姿を潜めて、夜を迎えた。  荷駄兵が、握り飯と干魚の副食を配布して回る。  食糧が豊富なことが、越軍の強味であった。  かがり火を焚くことは、禁じられている。  薄暮のなかで食事が終わると、兵達は交代で眠りに就いた。  間者の武者が馬を駆って坂道をかけあがってくる。  織田勢が動き出すのを待って、背後から奇襲をかける作戦しか、景虎は考えていなかった。  蹄の音が近づいたと思うと、武者が馬から降りてやってきた。 「織田勢は七尾城の落城を、今しがた知った様子。  そのためか、陣地内は騒然とした気配におおわれております」 「なるほど、そうすると、明日あたり動き出すかも知れぬな」 「左様でございます。進むか退くか、いずれかでございましょうが、わたくしの判断では、湊川を渡って、南加賀へ兵を引くのではと思われますが」 「それはなにゆえだ」 「陣地内で現在、荷駄隊が兵糧、武器をまとめ、一部を馬に積んで、川の渡し場へ運んでいるからです」  景虎は眼を輝かせた。  部将達も身を乗り出している。 「それはまことか」 「まことでございます……」  語り合いながら景虎は、千載一遇の機会が訪れたことを感じた。  湊川は、犀川と似て流れが早く、武装し武器をたずさえての渡渉は、容易ではない。  かつて、越軍が犀川渡河中に、武田勢の急襲を受け、二千の兵を失った苦い記憶を景虎は思い起こした。 �あのときの甲斐勢の戦法をとればよいのだ�ひらめきが、頭のなかを走ってゆく。  部将達も同じ思いなのか、表情には覇気がみなぎっていた。 「これで数万の軍勢と、或いは互角に渡り合えるかも知れぬ」  景虎は静かな口調でつぶやいた。  武者が去ると、その場で軍議を開き、各部隊の配置と連繋行動を決めた。  あたりは、いつの間にか闇におおわれていた。  織田勢の陣地の灯が、点々とひろがってみえる。  壮観とも言えるその眺めに、景虎は、信長の力を感じた。 �勝てるだろうか。いや、勝たなければならぬ�胸のうちでつぶやくと、月あかりのなかで盃を傾けた。  冷気が頬を撫でてゆく。  雲を渡る月を眺めながら景虎は、春日山城で自分の帰国を待ち侘びている徳の姿を思い浮かべていた。  翌日は雨であった。  晩秋には珍しく、豪雨が朝から降り続き、激しい雨足に視界はきかなくなった。  八千の兵は雨に打たれながら、木陰に身を潜めて、織田勢の動静をうかがった。  しかし、動き出す気配はみられず、武者からの報告では、数万の軍勢は陣地の各所に屯して、酒を呑み、歌をうたって、解放感に浸っているという。  夕刻になり雨がやんでも、その状況は変わらなかった。  晴れあがる霧のなかに、織田勢の巨大な陣地が浮かびあがってくる。  景虎は、その光景を眼を据えて眺めた。 �明日は必ず動き出すに違いない�想いが胸のうちをかすめてゆく。  その夜、兵達は景虎の下知に応じて、早目に眠りに就いた。  そして翌朝、陽がのぼる頃には、木陰から姿をあらわして出陣の態勢を整えていた。  織田勢は、越軍の接近に気づいたらしく、早朝から陣地内は、ものものしい気配におおわれていた。  やがて、大軍は、ほら貝の音を合図に、湊川に向かって移動を開始しはじめた。  越後勢の攻撃など、意に介さぬ素振りである。 「いまに眼にものみせてくれるわ」  眺めながら、景虎は吐き捨てるようにつぶやいた。  戦機は熟していた。  織田勢が陣地を離れ、縦一列の形を整えた頃、景虎は攻撃の下知を下した。 「手明」を先頭に兵達が、蟻の群れのように、丘陵を下りはじめる。  霧はまだ晴れあがってはいなかった。  越軍は、獲物を狙う鷹のように、織田勢の背後に迫っていった。  景虎の眼は血走り、胸は高鳴った。  敵軍との距離は、みるみる縮まってくる。  織田勢はすでに川を渡りはじめていた。  渡れば増水中の湊川のこと、容易に引き返すことはできない。  越軍は四つの部隊に分かれ、三方から織田勢を囲んでいった。  騎馬隊はすでに突撃を開始していた。  ほら貝の音がひびき渡り、慌てふためく敵兵の姿が、視野をかすめてゆく。  景虎は、ガムシャラに馬を駆った。  右手には、伊豆長光の長刀が握られている。  織田勢は陣形を立て直して、一斉に反撃に転じてきた。  だが、それより早く、越軍の騎馬隊は、敵陣の真っ只中に突入していた。  阿鼻叫喚の修羅場が現出される。  体勢を崩した大軍は、烏合の衆に等しかった。  鉄砲隊が威力を発揮するいとまもなく、五万を越える敵軍は、総崩れとなり、湊川をめざして潮のように撤退していった。 「手明」と騎馬武者があとを追う。  荒野は血の海と化し、逃げおくれた敵兵の死体が累々と重なった。  景虎の鎧はどす黒く変色し、冑からも血がしたたった。  何人の敵兵を斬ったのか、見当がつかなかった。  湊川の堤は、眼の前に迫っている。  蟻の群れのようにそれをのぼる敵兵の姿をみたとき、景虎は勝利を確信した。  激戦はなお続いている。  だが、追う者と引く者との気迫の差は、歴然としていた。  敵兵は叫び声をあげながら、堤をのぼると、先を争って激流に、身を投じていった。  水嵩を増した川は、荒れ狂っていた。  濁流が岩を噛み、音を鳴らして川下へ流れてゆく。  そのなかを首まで水に没した敵兵が、黒山をなし喘ぎながら、対岸をめざして移動していった。  溺死する者数知れず、激流が無数の死体を翻弄《ほんろう》しながら、彼方へ運び去っていった。  兵達は血ぬられた武器をさげたまま、堤のうえから、その光景を眺めた。  対岸の織田勢は、せきとして声すら発しない。  景虎は空を仰いだ。  白雲が風に乗って、東へ流れてゆく。  緒戦は勝利に終わった。  だが、今後はわからない。  身が引き締まる思いのなかで、当面の対策を考えた。  このまま織田勢を追って、南加賀を席巻する方法もある。  しかし、制覇した能登を治め、信長の軍の反撃に備えることが、より急務のように思われた。  敵軍は逆襲してくる気配を見せず、渡河した人馬を収容すると、隊列を整えて南へ去っていった。 「これで、信長の軍を破れる目処《めど》がついた」 「左様でございますな。  わたくしには、甲斐勢の方が手強いように感じられましたが」 「そうかも知れぬ。織田勢は、まだ死闘を経験したためしがないからのう」  景虎は実綱と言葉を交わして笑った。  翌日、越軍は、守備兵を残して加賀をあとにした。  八千の兵で数万の織田勢を撃破した景虎の武勇は、忽ち諸国に伝わり、数日後には、足利義昭や本願寺顕如の耳にも達していた。  二人が喜んだのは、言うまでもない。  同盟関係にある毛利輝元も、越軍の快挙に、信長恐るるに足らずとの意を強くした気配であった。  関東の諸将や奥羽の諸大名は、早くも景虎に臣従する姿勢をみせはじめている。  このような天下の動きをよそに景虎は、九月二十四日、能登に帰ると、戦火で焼けた七尾城の復旧を決意し、二日後の二十六日に、同城の修築起工式を行った。  これには、非業の死を遂げた、畠山義隆の霊を弔い、治安の回復を祈る気持も込められていた。  当日、景虎は、部将達を従えて登城し、清掃の行き届いた城内をみて回ったのち、本丸で行われた式に列席した。  開城後十日余たった城内には、血で血を洗った惨劇の名残りは、跡形もなく消えていた。  今日は義隆の未亡人や幼児、遊佐|続光《つぐみつ》、温井景隆ほかの能登の部将達も、出席している。  神主がとなえる祝詞《のりと》に耳を傾けながら景虎は、越中、能登、加賀の一部が完全に領国と化したことを感じた。  父為景が、果たそうとして、果たし得なかった夢が、これで実現をみたのである。  喜びの気持は、たとえようもなかった。  起工式が終わると、本丸に佇んで、足下に展ける七尾湾の風景を眺め渡した。  彼方には島山が緑におおわれた姿を見せ、白砂の海岸には、白波が寄せている。  聞きしに勝る眺めの美しさに、景虎は息を呑んだ。  松尾山の頂きには、越軍の陣地がひろがり、「毘」と「龍」の字を配した軍旗がひるがえっている。  その夜景虎は、陣地の山で月を賞でながら、酒宴を催した。  能登を制し、信長の軍を撃破したいま、心にかかるものはない。  美酒に酔い、部将達と語らいながら、夜の更けるのも忘れた。  月の佇まいを眺めているうちに、景虎はふと詩情を催してきた。 �霜は軍営に満ちて、秋気清《しゆうききよ》し、数行《すうこう》の過雁月三更《かがんつきさんこう》、越山《えつざん》併せ得たり能州の景、遮莫《さもあらばあれ》、家郷《かきよう》遠征を懐《おも》う……�胸のうちを、七絶の詩賦がよぎってゆく。  国主の地位に就いて以来、はじめて味わう晴れやかな気分であった。  ……翌日、景虎は、城内で今回の出陣にあたって功績のあった諸士の論功行賞を行い、島倉泰明、飯田与三右衛門ほかの部将に知行を与え、遊佐|続光《つぐみつ》、鰺坂《あじさか》長実らをして、能登鎮撫のための政令を発せしめた。  そして、下間侍従法橋坊、七里三河法橋坊、坪坂伯耆守ほかの加賀旗本衆を被官(家臣)と化し、領国の範囲を越中、能登、北加賀へとひろげていった。(以上「謙信と信玄」による)  これで出羽、越後、佐渡、上野、越中、北信濃、飛騨、能登、北加賀にまたがる広大な地域が、越軍の支配下に入ったのである。  信長がこの状況に畏怖したのは、言うまでもない。  しかも織田勢は、湊川の戦いで千数百名にのぼる兵士を失い、さんたんたる敗北を喫している。  この時点で信長は、景虎と武田勝頼を滅ぼすことに目標を定めて、着々と軍備を整えていった。  だが、景虎は意に介せず、逆に領国の諸将に陣触れして大軍を募り、上洛の兵を起こすことを考えていた。 「いずれ皆の衆には、回状を送るゆえ、その節には忠勤をぬきんでられたく、この席で改めて達しておく」と、行賞披露の席で述べ、覚悟のほどを明らかにした。  居並ぶ諸将は緊張の面持ちをみせ、首《こうべ》を垂れて、景虎の言葉に聞き入っていた。  有功の士の表彰が終わると、引き続いて酒宴が催された。  その席で景虎は、北条高広に次のように語った。 「そなたの子息、丹後守景広は、たしか、三十歳でござったのう」  突然の質問に、高広は慌てた。 「左様でございますが」と表情を硬くして答えて、景虎をみた。  高広は再三、景虎に叛きながら、その都度�戦国の習い�のゆえをもって赦免され、現在も越軍の枢要な地位に就いている。 「丹後守のことを聞いたのは、ほかでもない。  三十にしてまだ妻をめとらずと聞いて、少々心にかかってのう」 「言われるとおりにございます。それがしも、かねてよりそのことを気に病んでおりました」 「それがしによい案がある。  後刻、書状をもって知らせるゆえ、丹後守の意向を聞いたうえで、返事願いたい」 「景広に妻を世話してくれるというわけでございますか」 「左様。相手は高貴の出ゆえ、話がまとまれば、丹後守をそれがしの養子として縁組しなければなるまいが」  景虎の言葉に、出席者は驚きの眼をみはった。  国主の地位にある者が、家臣の子息を自らの養子として、縁組のあっせんをすることは、異例のことだからである。 「殿、丹後守の相手は、どこの誰でございますか」  藤資が聞いてくる。 「それは言えぬ。もし破談になれば、双方が傷つくゆえ」 「なるほど……」  藤資は不審の面持ちをみせて、口をつぐんだ。  寛容な人柄ゆえに、景虎がしばしば不利な立場に立たされたことは、誰もが知っている。  それだけに、高広の子息の面倒をみようとしている景虎の心を、藤資ははかりかねていた。  酒宴が終わると、景虎は、館の自室に畠山義隆の未亡人を呼んで、景広との再婚をすすめた。  両人は、開城後顔を合わせたこともあり、語り合ってもいる。  それを知っている景虎は、未亡人とその幼児の面倒をみてやらねばとの義務感から、丹後守との縁組を思い立ったのである。  幸いに未亡人は、景虎の説得を受け入れた。 「それがしも、これで安心して能登を去れる。  畠山の家名も大切だが、女人《によにん》の幸せは、やはりよき人にかしずくことだからのう」  景虎の言葉には、いたわりの気持が込められていた。  未亡人が去ると、文机の前に座って、北条高広宛に書状をしたためた。 「沙門《しやもん》の進退《しんたい》にて、似合わず候《そうら》えども、丹後守、三十に成る迄、足弱《あしよわ》(女性)がなく、然れどもそれがしが口出しすれば、父子とも迷惑と存じ、黙していた。しかし、義隆|御台所《みだいどころ》は、京の三条家の息女に候間《そうろうあいだ》、年頃も然るべく候かと思い、息《そく》をば、身《み》(景虎)の養子に置《お》き、老母(未亡人)をば、丹後守に申し合わすべし……」との意のことを一気に書きあげた。  筆を擱くと、さすがに安堵の気持を覚えた。  これで七尾城にまつわる内紛のしこりは、永久に消え去ると思った。 �義隆殿、お許しなされ。それがしには、この術《すべ》しか妻子の身を安らげる思案が思い浮かばなかった……�胸のうちを思いがかすめてゆく。  翌日、高広父子から婚姻を了承する旨の返書がもたらされ、吉日を選んで城内で式があげられた。  近頃は、心を患わすものがない。  苦しみを通り越えたときの安らぎの気持を、景虎は味わっていた。  野山は冬の気配におおわれ、北国《きたぐに》能登では、雪がふりはじめている。  越後へ帰還する日が近づいたことを、景虎は感じていた。  二日後、景虎は六千の兵を率いて、能登を発った。  四十八歳の年齢を迎えて、ようやく運命がひらけてきたように思われる。  あとは足利義昭、毛利輝元、本願寺顕如との連絡を密にし、信長の軍と興亡の一戦を遂げるだけである。  その構想は、景虎の胸中ではすでに固まっていた。  傘下の諸将の軍を動員し、一向一揆の協力を得れば、十万の織田勢と対戦しても負けることはない。  これは確信に近い気持となって、景虎の心を支えていた。  上洛を焦った信玄の轍《てつ》は踏まぬ。近頃は、この一事だけを念頭にとめている。  春日山城に帰り着くと、合戦の疲れをいやすいとまもなく、西上の兵を進める準備をはじめた。  景虎の考えには、脱漏がない。  これまで指揮をとった合戦で、一度も敗れたことがないことが、それをあらわしている。  知恵の回りの早さと、勇気と果断さが、その原因であったが、�神は非礼を受けず�との人生観が精神的支柱となり、義のための戦いに徹する信念が、仏道への帰依とともに、その行動を規制する重要な要因をなしていたのである。  信長が武田、上杉勢征討のための軍備を整えつつあるなかで、景虎は余命|旦夕《たんせき》に迫った本願寺を救済すべく、来春を期して上洛の兵を起こすことを決意した。 「取り敢えず、越後、越中、能登、加賀の諸将八十余名に陣触れの書状を発しよう。  そうすれば、関東や奥羽の諸将も、それにならうゆえ。  十万の信長の軍勢を攻めるのに、二十万の兵は必要ではない。  そのようなことをすれば、かえって天下の治安が乱れる。合戦は兵力ではなく、知恵と人の和が肝要だ」  軍議の席で、景虎はそう語った。  関東の諸将を治め、彼等を率いて、海道を西進する方法もある。  だが、いまの景虎には、その手段に踏み切るつもりはなかった。  北陸一帯の兵士を率い、一向一揆の協力を得、裏街道を進んで安土城を攻めれば、信長の勢力は瓦解する。  長年の合戦の経験から、それが最善の策であることを、景虎は知っていた。 「では、そのようにはからいますか」  実綱が言葉を返してくる。  本庄実仍も、同調の意見を述べた。  これで、帰国以来部将達の心を悩ました上洛の軍編成の儀は落着をみた。  ……越後、越中では、大多数の領主が対象者のなかに含まれたが、制圧直後の能登では、長景連、遊佐続光、三宅長盛、同小三郎、温井景隆、平高知、西野隼人佑、畠山大隅守、同将監等が、加賀では下間侍従(頼純)、七里三河(頼周)、坪坂伯耆守、藤丸新介(勝俊)ら、金沢御堂の役者を中心とする人物が選ばれたにすぎなかった。(以上「謙信と信玄」による)  加賀の能美郡以南の地は、織田勢との勢力の接点として、まだ景虎の威光は、およんではいなかった。 「安全を踏んで、この程度の陣容にとどめておこう。われわれには、越前の虐殺以来、北国農民が味方についている。  天下取りを狙う当国にとり、これほど心強いものはない」  中条藤資が作成した八十余氏の氏名と兵力、武器の数などを記した一覧表を眺めながら、景虎はつぶやいた。 「言われるとおりに存じます。  能登では、九月十日、織田方の柴田勝家、滝川一益らが、堀秀政にあてた書状に、『能州《のうしゆう》百姓|共《ども》、悉《ことごと》く、謙信(元亀元年=一五七〇、冬ごろより景虎は不識庵謙信と法名を改めている)と一味を致すについて』、末森《すえもり》まで通行ができないと記してあった由。  七尾からの飛脚が一人も来ないため、勝家が、戦況の判断を誤った語り草として伝えられておりますが、これなど、一揆の農民が、われわれに心を寄せている証拠と言えましょう。  このように庶民の協力が得られることが、天下取りには不可欠のこと、いまになってわたくしは、殿の行き方の正しさが理解できたように思えます。  殿は若年の頃から、小笠原、村上、上杉などの名族を援け、自らの犠牲を省みず、長期の消耗戦に踏み込まれましたが、その功徳が、今日の隆盛をみるもとになったと言えます」  実綱が言葉を返してくる。 「だが、ほんとうの戦いは、これからだからのう。  やはり信長は手強い。それがしが緻密に計画をめぐらせ、慎重にことを運ぶのはそのためだ」  景虎の口調には、覇気がみなぎっていた。  軍議が終わると、その場で酒宴が催された。  いまは、関東の諸将も臣従を誓っている。  盃を傾けながら景虎は、力が正義である乱世の習いを思い浮かべた。 �やはり、合戦には勝たなければならぬ�  四十八年の生涯を振り返って、ふとそんな思いに駆られた。  北陸の諸将への陣触れは、十二月二十三日付で行われ、年末までには、全員から了承の返事が返ってきていた。  大晦日の日は、家臣の若者や女中達と歌舞音曲に興じて過ごし、夜は、本庄実仍と直江実綱を連れて、広間の仏壇に詣でて、読経を捧げた。  徳やうめも列席し、それに耳を傾けていた。 「それがしも来年は四十九歳、いよいよ老境に入った。  合戦に明けくれる生涯であったゆえ、普通人より或いは短命かも知れぬ。  しかし、それでよいのじゃ。越中、能登、加賀ほかの領国を得られただけでも、幸せだと思わなければならぬ。  天下取りの行方がどうなるかは、神仏のみぞ知ること、それがしが関知するところではあるまい。  ただ、やらなければならぬことは、生涯かけても果たすのが、人の道。  いまは率直に言って、そんな心境だ」  読経が終わったあと、景虎はそう語って、表情を和らげた。  僧衣をまとうと、合戦のことが念頭から去ってゆく。  自分でもそれが不思議であった。 「そのようなお言葉は、殿様らしくもございませぬ。  せめて七十歳まで生きてほしいのが、わたくしの気持でございます」  うめが言ってくる。 「酒をたしなむそれがしのこと、そのような長寿は、先ず考えられまい。  それに合戦に臨めば、いつ果てるやも知れぬ。今日《こんにち》まで生き長らえられたことが、むしろ不思議なくらいじゃ」  来年(天正六年=一五七八)は、波乱の年になるように、景虎には感じられてならなかった。  五人は打ち揃って仏間を出、回廊に佇んで、城下の灯を眺め渡した。  普段は漆黒の闇におおわれているのに、今夜はそうではない。  除夜の鐘は、まだ鳴りひびいている。  哀感を秘めたその音《ね》に、景虎は煩悩に彩られた人生を感じた。  こうして北陸を平定し、権勢の絶頂期を迎えたときが、自らの命運が尽きる時期であるようにも思われる。  うめと語り合う徳の声が聞こえてくる。  二人とも近頃は、仏道に関心を寄せている。  将来は名刹にこもって、余生を送りたいというのが、徳の願いであった。  正月の五日間を安らかな気持で過ごすと、六日以降は再び、上洛の兵を進める手術《てだ》てについて、部将達と論議を闘わせた。  最後の詰めのつもりであった。  その頃、会津の芦名盛氏から、能州、加州を入手し、納馬したことを祝福する書状が届いた。 「信玄に肩入れしながら、再びそれがしになびくとは、盛氏も才たけた武将よのう。  でも、これでよいのじゃ」  読み終えたとき、景虎はそう語って笑った。  近頃は、関東の結城晴朝から�越山�を促す書状が届く。  そのため、部将達のなかには、関東出兵を説く者もあらわれたが、景虎は認めなかった。  信長の本願寺攻めが本格化し、それと併行して救援と上洛をもとめる顕如の使者が、相ついだからである。離合常なき関東の諸将の姿勢と�越山�を伴う関東攻めには、労多くして、功少ない宿命がつきまとう。  加えて、北条氏政は勢威が衰えたとはいえ、討伐には歳月を要する。  一方、現在の越軍には、一向一揆の支援を失う方が、より戦略上は不利となる。  その辺を慮っての景虎の判断の結果であったが、軍議の席では、結城晴朝の要望を入れて、関東へ出陣する旨の「陣触れ」を発することが、一応決められた。 「晴朝がほんとうに、危急にさらされているならば、救援の兵を差し向けなければならぬが、われわれには、足利殿や本願寺顕如と約した信長征討の使命がある。  いまは、その方がより大切だ。  それゆえ、関東へは取り敢えず、越中の諸士を遣わすことにして、意向を打診してみよう。それによって、彼等の忠誠心のほどもうかがえるゆえ。  なお、関東へ出陣すると触れれば、信長も決戦の構えをゆるめるはず。そこが、われわれのつけ目でもある」と景虎は、その理由を説明した。  この趣旨にもとづき、景虎は一月十九日、河田長親、吉江景資をして、越中の諸将に「御陣用意」の書状を発せしめた。  異議を唱える者はなく、三月十五日の出陣を、全員が了承した。  数年前まで景虎を悩ました越中の諸将は、ここにきて、越軍の兵力を強化する要因となってきたのである。  なお、諸将には関東出陣と触れながら、直前になって、それを西上のための挙兵に切り替えることを、景虎は考えていた。  近頃は、織田方の間者が僧侶を装って、城下にひんぱんに出入りする。  越軍が今後鉾先をどこへ向けるかが、信長には気懸りなのだ。 「あと一ヵ月半後には加賀へ侵攻か……」  積雪におおわれた庭の風景を眺めながら、景虎はつぶやいた。  かつて小田原城を十万の大軍で囲みながら抜けなかった苦い思い出が、胸のうちをよぎってゆく。 �あのときの愚は、再び繰り返してはならぬ。  加賀、越前を制すれば、かつての上洛の順路を通って、安土城を攻めよう。  五千の兵を率いて、近江の地形をつぶさに見聞した経験が、今回の出陣には、必ず生きてくる�  将軍義輝の招命により、上洛の兵を進めたときから、景虎の今日《こんにち》の構想は描かれていた。  鳩が群れをなして、空を飛んでゆく。  その行方を、景虎は無心に追った。  城攻めが得意な越軍には、にわか造りの巨城も、三千挺の鉄砲も、問題ではなかった。 �地の利、人の和、天運のすべてがこれで揃った�  眺めながら、そんな思いを景虎は、胸のうちでめぐらせていた。  二月を迎えると、景虎は家臣の蔵田五郎左衛門に命じ、京都から画工二人を呼び寄せて、自らの�寿像�を描かせた。  離俗出家して、法体となった自分の風貌を絵姿《えすがた》にして、高野山の無量光院に納めたいと考えていた。 「殿、なぜそのような心境に……」  館の自室で僧衣をまとい、画工の清胤、澄舜に、肖像を描かせている景虎をみて、藤資が聞いてきた。 「それがしも四十九歳、あと一年の�人生�に迫ってきた。  いつ病に倒れるやも知れず、また来月、上洛の兵を進めるとなれば、陣中に歿することも考えられる。  今回の出陣には、それがしの命運がかかっている。  生か死か、二つに一つしかあり得ない。謂わば、乾坤一擲の戦いとも言えるものだ。  信長も同じ気持であろう。  ともあれ、寿像を描かせて残しておけば、子孫が上杉謙信とは、どのような姿の武将であったか、わかろうというもの。  越中、能登を制し、上洛の兵を進める時点で描かせれば、風態に覇気があふれ、みにくき形に輝きを添えようと思い立ち、かく相成った次第じゃ」  景虎は語って笑った。  だが、これは本心であった。  季節の変わり目のせいか、体調がすぐれない。  心にかかるほどではないが、食欲もわずかながら落ちている。  徳やうめはそれを案じて、食事の内容には、気を配っていた。 「なるほど。して、いつまでに仕上げられる予定でございますか」 「出陣の二日前、つまり三月十三日に仕上げ、春日山城を出立《しゆつたつ》する際は、家臣に携行させたいと考えている」 「それはよいお考え。殿らしい発想に、それがしも感服仕りました」  話し合っているところへ、徳が入ってきた。 「相変わらずのご執心振り。殿様の法衣をまとった姿を拝見しますと、寺へ詣でたような心境に襲われます」と笑みを浮かべて言ってきた。 「それがしは、もともとが僧侶、そう見えても致し方があるまい」 「出陣が迫った殿様の心のうちは、わたくしにもよくわかります。しかし、決して無理はなされませぬよう。  武田様のようになられたのでは、元も子もございませぬゆえ」 「わかっておる。それがしは、信玄の二の舞いは踏まぬ」  景虎は答えて、画工の方へ姿を向けた。  庭に陽ざしが注いでいる。  御影石の石灯籠が、その光に映えて、眼に風雅に映る。  雀の声に耳を傾けながら、景虎は廊下へ出て、空を仰いだ。  白雲が風に乗って、東へ流れてゆく。  青空がうえをおおい、季節は本格的な春を迎えていた。 「あと六日で出陣か。寿像も描《か》き終え、心にかかるものはない」  眺めながら、そうつぶやいた。  午の刻(午前十二時)を迎えたのか、太陽は真上に差しかかっていた。  賑やかに語り合う女中達の声が、聞こえてくる。 �明日の桜見物のことを、話し合っているのであろう。女達は幸せだ�と思った。  廊下を歩きながら、緑の装いを取り戻したあたりの風景を眺め渡した。  四季折り折りの風趣こそ違え、その佇まいは、四十年前と変わるところはない。 �父が健在であれば、今回の出陣のことをなんと言おう�胸のうちを思いがかすめてゆく。  体調は相変わらずすぐれない。  景虎は廊下を引き返し、途中で厠《かわや》へ寄った。  用を足そうとしたとき、軽い眩暈《めまい》に襲われて、その場にうずくまった。  中風に見舞われたのではと、虚ろな気持のなかで考えた。  意識がもうろうとなってくる。  うつ伏せの姿のまま、景虎はその場から動かなかった。  人事不省のまま、二日が経った。  三月十一日の夕刻になって、景虎は意識を取り戻した。  灯明の明かりのなかに、医者や部将達の顔が浮かんでくる。  館の自室に寝かされている自分を、景虎は知った。  室内が騒然となってくる。  徳とうめが、枕もとに駆け寄ってきた。  眼に涙を浮かべて、自分を見守る二人の姿がいたましかった。 �あとを頼む�と景虎は、心で語りかけた。  国主の地位に就いて以来、執念のように狙い続けた天下平定の夢は、これであえなく果てたのである。 �信玄の陣歿といい、出陣を前にしてのそれがしの病といい、織田信長という武将は、幸運な男だ。  それがしは神仏の眼からみれば、信玄同様、歴史の一コマを彩る道化役者の武将に過ぎなかったのかも知れぬ�  あきらめの気持とともに、思いがよぎってゆく。  上洛のことも、足利義昭や本願寺顕如との約束のことも、いまは脳裏から消えていた。  すべては川の流れのごとくに、過ぎ去った過去のものとなってしまったのである。  越後が、さらに平定した諸国が、今後どのような変貌を遂げるかも、いまの景虎には関わりのないことであった。  景虎には、むしろ、生涯を支えてくれた徳の行く末が気懸りであった。  上杉憲政は氏秀に味方し、景勝を嫌忌する気配を見せている。  自分が死せば、城内は二派にわかれて、相争うことは眼に見えている。  戦国の慣らいとはいえ、景虎にはそのことが悲しかった。  徳がそのなかでどのように身を処するかを考えると、胸がいたんでくる。  女嫌いの自分が、接して心の安らぎを覚えた女人は、徳だけであった。  四十九年の生涯を振り返りながら、景虎は縁《えにし》で結ばれた二人の苦難に満ちた過去を思い起こした。  翌朝、上杉憲政と景勝、氏秀の三人が、見舞いにやってきた。  口のきけない景虎を察して、三人は一言も言葉をかけてこなかった。  景虎の死後のことを考えているのであろう。  三人の表情には、憂いのかげがただよっていた。 �景勝、それがしの意を体して、北陸一帯の領国を確保せよ。信長は、それがしが死せば機を逸せず、越中へ攻め寄せてくる。  旧富山城主の神保長住を京都へ呼んで、策をさずけているのが、そのあらわれだ。  ゆめ、油断するではない�  景虎は景勝に視線を向けて、そう語りかけた。  遺言のつもりであった。  だが、景勝はそれを知る由もない。 �両人とも、仲違いだけはしてはならぬ。  国内が二派にわかれれば、越後は再び昔の群雄割拠の状態にもどる。ひいては、信長の制圧の対象ともなろう。  それだけは、避けなければならぬ�  懸念の気持を覚えながら、景虎は胸のうちでたしなめた。  翌三月十三日、画工の清胤、澄舜が、完成した絵をたずさえて部屋へ入ってきた。  景虎は笑みを浮かべて、二人を迎え、眼の前に置かれた肖像画に見入った。 �これで安心して、成仏できる�ふと思いがかすめてゆく。  来世のことしか、景虎は考えていなかった。  頬はこけ、顔色は蒼白になっている。  だが、眼だけは光を失っていなかった。  画工が去ると景虎は、意識がもうろうとなるのを感じた。  いまは、誰が枕辺にはべっているのか、見当がつかない。  部将達のすすり泣きの声が聞こえてくる。  死が迫ってきたことを、景虎は悟った。  信玄の影像が、脳裏に浮かんでくる。 �長尾殿、貴殿もそれがしと同じ運命をたどられたな。  所詮、われわれには、天運がなかったのだ。  それにしても、織田信長という男は、強運な武将よのう。  才智と時の運、人の和、地の利だけでは、天下が取れぬことが、それがしにはよくわかった�  殷々とこだまする声が、天界からひびいてくる。  景虎はうなずいた。  言うとおりかも知れぬと、心で思っていた。  ……翌日、景虎の遺体は、景勝や氏秀の手できよめられたのち、甲冑を着せ、甕《かめ》に納めて密閉された。  三月十五日、大乗寺良海を導師として、盛大な葬儀が営まれ、謙信廟に安置された。法名を不識院殿真光謙信と称した。  武田信玄とともに、戦国の歴史を彩った北国の巨星は、こうして、波乱に満ちた生涯を閉じたのである。  景虎の死後、景勝は、三の丸より本丸に移って政権を握ったが、氏秀は、北条氏政や上杉憲政の支援を得て、惣領《そうりよう》を主張し、翌天正七年(一五七九)三月�御館《おたて》の乱�を起こして、憲政ともども景勝に滅ぼされた。  この間、織田信長は、北陸に勢力をのばし、景虎の死の翌月(天正六年四月)、旧富山城主の神保長住を二条城に引見し、これに飛騨の国司、姉小路頼綱や佐々成政等をつけて、飛州口から越中に侵攻させ、翌七年、一部の地域を除いて平定を完了した。  一方、本願寺顕如は、景虎の死後、荒木村重等の挙兵で一時勢力を盛りかえしたが、天正七年末、信長に屈し、翌八年|閏《うるう》三月、石山を退去した。  能登の状勢もこれと軌を一にし、御館の乱による越軍内部の乱れや本願寺の衰退等のため、七尾勢は、石山落城後信長の軍勢に敗れ、天正八年七月、ついに和を請うに至った。(以上「謙信と信玄」による)  こうして、景虎が血と汗で確保した北陸の上杉領国は、その死後三年を経ずして、織田信長の勢力下に入ってしまったのである。  徳とうめは、景虎の死後春日山城を去り、ようとして行方が知れなくなった。  景勝と氏秀の争いを見るにしのびず、また景虎のいない城内に、生き甲斐を見出せなかったせいであるが、その心のうちは、誰にも察しがつかなかった。  ただ、天正六年七月、京都から直江実綱のもとへやってきた脚力(飛脚)の話では、越後上布の衣装をまとった気品のある女人が、嵯峨の神余《かまり》親綱の館を訪れ、一夜のやどりをとったのち、戦火に焼き払われた延暦寺を訪れて、景虎の位牌らしきものを土に埋め、しばしの祈りを捧げたのち、紀州へ去ったという。 「徳殿に違いない。あの方は、殿の心の支えになることに、一生を捧げられた。  今後は高野山の近くにとどまって、殿の冥福を祈られることであろう」  悲しみを抑えて、実綱はつぶやいた。  雁が鳴き声をあげて、空を飛んでゆく。  その行方を追いながら実綱は、景虎が徳とともに過ごした波乱に満ちた生涯を思い浮かべていた。 [#地付き](了)  [#改ページ]   あとがき  上杉謙信という武将は、謎の多い人物である。  終生|女犯《によぼん》をしなかったと伝えられること、戦国の武将には珍しくノイローゼ気質の持ち主で、精神の昂揚期と鬱の状態の反復が、その行跡から看取されること、能登平定後諸将に「陣触れ」を発しながら、出陣の二日前に急死したため、天下取りの意思があったか否かいまだに解明されておらぬこと、将軍義輝の招命に応じて上洛しながら、なんらの行動をおこすことなく、越後へ引きあげていること、有名な「霜は軍営に満ちて……」の漢詩が、後世の作と伝えられていること、筋目を重んずる律儀な武将との評価の反面、気まぐれで粗暴な驕将との評判が一方でたっていたこと、政治力と統率力に欠け、信長や信玄に比べて、戦国武将としては二流の存在であると史家が評していることなどがそれである。  しかし、これらの疑問は、専門家が判断するほど、否定的、消極的なものとは、わたくしは思わない。  少なくとも戦前、上杉謙信は、武田信玄より立派な武将として、歴史の表面に登場していた筈である。  それが戦後の価値観の転換から、現在は酷評されすぎている。  最近の歴史書を読んで、わたくしはそう感じた。  そこで、前記の謎の解明を含めて、わたくしなりの判断を、ドラマにして描いてみたいと考えた。  この小説がそれである。  専門家の判断と違うところを、理由を付して、左に掲げてみよう。  先ず女犯をしなかったことだが、  謙信には正室がなく、子供がなかったこと、或いは仏道に帰依していたことから、�不犯�との推論がなされたのだと思う。しかし、新潟県には謙信の側室の子孫と名乗る人もいる。  それに国主の地位にありながら、不犯を通すことは、よほどの人物でなければできない。  歴史書には、謙信は�インポテ�ではなかろうかと記載したものもある。  その理由として、躁と鬱の状態が交互にくる特異な精神構造や厭世的な性格をあげているが、�インポテ�の人間が、百戦錬磨の勇将として、天下の諸将を震えあがらす筈がない。  史実をたどる限り、謙信は、勇猛果敢、運動神経抜群の�戦いの神様�であったことは、確かである。  頭脳も明晰《めいせき》で、書き残した数々の文書を見れば、平凡な武将でないこともうかがえる。  このような人物が、�インポテ�のゆえに女犯をしなかったとは、到底考えられない。  女犯はしたが、子供が生まれない体質のため、それを恥じて妻をめとらなかった、これが実態ではなかろうか。  二十七歳のとき、国内の諸将の統制が思うにまかせず、まつりごとにいや気がさして出奔したり、関東の諸将の不評をかったなどの事実をあげて、武将として器量不足と評する史家もいるが、これも必ずしも当たらない。  謙信は戦国武将には珍しいヒステリー、ノイローゼ気質の人物であったが、反面頭脳の回転が早く、考え方が緻密で、自ら指揮した合戦で敗れたものは、殆どない。  これは大変なことで、よほどの能力を備えた人物でなければできない離れ業だと思う。  越後という地理的に不利な国にありながら、信玄、氏康などの強敵を向こうに回して、領国の範囲をひろげていった力量は、高く評価すべきである。  能登平定の時点で、関東、北陸の諸将を臣従させ、足利義昭、本願寺顕如、毛利輝元などの信頼をかち得たこと自体が、謙信の人物と政治力を示すものと言えよう。  筋目を重んじ、無道を厳しくいましめたことも、天下の覇者たる条件にかなうものと考える。  利にさとく、非情で、反逆者を容赦なく成敗できる人物が、有能な戦国武将とみられがちだが、信長の非業の死をみれば、そうでないことは明らか。  やはり家康型或いは謙信型の人物でなければ、天下は治めることができない。  ただ、謙信がそれほどの力量を備えた武将であったか否かは、急死を遂げたため疑問だが、少なくとも国攻めのやり方や外交戦略を見れば、史家が評する以上にそつがなく、政治力も抜群であったと判断される。  善人なるがゆえに、凡庸《ぼんよう》とみられ、不運なるがゆえに、能力不足とみられたのが、謙信の実像ではなかろうか。  現在のサラリーマン社会にも、このような人物はいる。  中年以降頭角をあらわし、最後に経営者の座につく社員がそれである。  謙信も、その意味での晩成型武将だとわたくしは思うのである。  つぎに謙信には上洛の意思がなく、越軍の兵力などからせいぜい関東の覇者たるにとどまった地方大名であろうとの史家の評価であるが、これも当たっているとは言えない。  越軍が装備にすぐれ、兵力に勝る信長の軍と戦えば勝目がないというのは推論であって、当時の合戦をみれば、兵力や装備だけで勝敗が分かれるとは断じ難い。  現に能登の攻略では、信長の軍は地理的に有利な条件にありながら、越軍におくれをとり、しかも越、尾両軍のはじめての対戦では、大敗を喫している。(湊川の戦い)  謙信はこのとき、七尾城攻めと加賀攻めの両面作戦を、そのすぐれた英知で成功させている。  また八千が限界と言われる越軍の兵力も、一揆の加勢や越中、能登の戦力、毛利輝元の軍の援護などを加えれば、信長の軍と拮抗し得るものになったと思われる。  当時の鉄砲の威力は知れており、長篠の戦いで信長の軍がそのために大勝したことをもって、越軍不利とは決められない。  その証拠に、その後の合戦で、鉄砲の威力が勝敗を分けた例はない。  家康ですら、大筒《おおづつ》で大坂城を攻め落とそうとして失敗している。(冬の陣)  なお、謙信に上洛の意思がなかったとする史家の判断にも、首肯《しゆこう》し難いものがある。  確かに謙信は、「天下のことに望みはござらぬ」と公言し、それを文書にも残している。  しかし、一方で小早川隆景に上洛の意思を伝え、足利義昭や本願寺顕如にも、西上の兵をおこすことを確約している。  死の直前の「陣触れ」は、関東攻めのためのものであるが、それまでの越軍の�越山�の実績からすれば、これほどの大規模の動員は、考えられぬことである。  明らかに本願寺の救済を志向した�緊急の上洛�とわたくしは判断する。  また史家は、この「陣触れ」をもって、関東—海道—上洛の構想を抱いていたのかも知れぬと説くが、常識からそのような回り道をするとは考えられない。  通い慣れた越前、近江を通るのが自然であり、しかもこの地域は、南北に山並みが走って、その谷間の平地は、人馬の通行に適し、敦賀方面から京都への最短路にあたる。  二十四歳のとき、奇跡の上洛を果たした謙信が、このコースの利用を考えぬ筈がない。  それから将軍義輝の招命により、兵を率いて上洛しながら、なんらの成果をあげずして帰国したことを、天下の覇者たる器量不足と史家は評するが、名目のたたない戦いは行わない謙信の処世観のあらわれと、わたくしは解釈したい。  仏道への帰依と生来の性格が、そうさせたのであって、この事実をもって、覇者不適格者と判断することはできない。  つぎに「霜は軍営に満ちて……」の漢詩は、謙信の作ではないと、最近の歴史書にみえているが、それにも疑問を感ずる。  謙信は和歌はつくったが、漢詩は詠んだためしがないとか、九月十三日の夜、七尾城でよんだというのは、二十六日に初登城した事実から、つじつまが合わないなどが、その理由になっているが、しかく形式的に決めてよいものかどうか。  確かに七尾城は、九月十五日に開城したが、二日前の十三日に、その事実が確認されていたとしても、なんら不思議ではない。  しかも、当時謙信は南西の石動《いするぎ》山にあり、開城の報に接して、夜酒宴を催し、名月を賞でながら、この詩を詠じたとも考えられる。  石動山は、松尾山より七尾湾から遠ざかった地にあるが、松尾山の三八六メートルに対し、五六五メートルの高さがあり、山頂に登れば、七尾城から見ると同じ、明媚な風景に接することができるからだ。  長尾和泉守に「聞き及び候に従う名地、加、能、越、金目の地形と言い、要害山海相応じ、海頬島々の体《てい》迄も、絵像に写し難き景勝迄候」と謙信が報じたのは、二十六日の登城の際の感想がもとになっている。しかし石動山にあったときに、この感懐はすでに得られていたものと思われ、開城の喜びと相俟って、この詩を賦したと判断することもできる。  それゆえ、登城日が二十六日だからと言って、この詩を後人の仮託《かたく》と決めることはできない。  なお、この漢詩は、頼山陽の「日本外史」に載せられて有名になったが、山陽が「武辺囃聞書」ほかの書物に記載のあったものを、一部添削したものであることは、明らかである。  この小説では、二十六日の登城日に詠んだことにしているが、これは描写の複雑さをはぶくためと、十三日作を二十六日作とした方が、物語としてすっきりすると考えたからである。  伝説には作り話の匂いがする反面、事実に合致するものが、数多くある。  同じことは、従来架空の人物とされていた山本勘介の実存についても言える。  勘介の画像は、昔から保存されていた。(甲斐、恵林寺)  その事実に拘らず、確かな証拠がないとの理由から、その存在が否定されてきたが、伝説的な人物の画像を描くほど古人は暇ではなかったことも、思い起こすべきである。  なお、謙信が律儀で温情派の武将であった反面、驕将との印象を関東の諸将に与えていたのは、若年の頃のその性格や精神構造のなせる業《わざ》であるとわたくしは判断する。  しかし、晩年の謙信には、人格者の雰囲気こそ感じられ、奇矯《ききよう》さはみられない。  禅修行と仏道への帰依が、このような人間性をかたちづくったのであろう。  調査した限り、謙信は二流の武将どころか、すぐれた資質を備えたトップグループの武将との印象が濃い。  信長のような好運にめぐまれなかったため、史家の評価をさげることになったというのが実感である。  合戦に連勝することは、よほどの力量の持ち主でなければ、できることではない。  指揮官として優秀な者は、ほかのことにたずさわっても、才能を発揮するというのがわたくしの持論であるが、その意味では謙信は、天下をとれる器と評しても過言ではない。  ともあれ、史実をひもどいてわたくしが感じたことは、戦国時代も現代も、人間の意識構造はかわらぬということである。  善人もおれば、悪人もいる。  虚々実々の駆引がまかりとおり、利害を軸にして離合常なく、そのなかで弱者や無能力者が亡ぼされてゆく。  現代のサラリーマン社会に似たものをみたように、わたくしは思った。  同時に不透明時代を生き抜く術《すべ》は、生き方はと執筆中考えさせられた。  それを謙信の言葉としてあらわしたのが、この小説でもある。  信玄の生き方がよいのか、謙信のそれが正しいのかは、判断の分かれるところであるが、この物語のなかから、現代社会に通じるものを読者が汲み取られ、処世観確立の一助にしていただけるならば、幸いだと思う次第である。  なお、本書の執筆にあたっては、元金沢大学教授、井上鋭夫氏著、「謙信と信玄」(日本歴史新書、至文堂発行)の記述から、多大の知識を得たことを、特に付記しておく。  昭和五十八年二月 [#地付き]咲村 観   —主な参考文献— 「謙信と信玄」(井上鋭夫著)至文堂発行 「人物日本の歴史」小学館発行 「日本史の謎と発見」毎日新聞社発行 「郷土史事典」(新潟県・長野県ほか)昌平社発行 本作品は一九八三年三月、読売新聞社より刊行されました。 底本 講談社文庫版(一九八六年三月刊)。