向田邦子 あ・うん 目 次  狛  犬  蝶  々  青 り ん ご  やじろべえ  四角い帽子  芋  俵  四 人 家 族  あ と が き  狛  犬  門倉修造は風呂を沸かしていた。  長いすねを二つ折りにして焚《た》き口にしゃがみ込み、真新しい渋うちわと火吹竹を器用に使っているが、そのいでたちはどうみても風呂焚きには不似合いだった。三つ揃いはついこの間銀座の英國屋から届いたものだし、ネクタイも光る石の入ったカフス釦《ボタン》も、この日のために吟味した品だった。  小使いの大友が、 「社長」  と何度も風呂場の戸を開け、自分が替りますと声をかけたが、そのたびに門倉はいいんだと手を振った。 「風呂焚きはおれがやりたいんだよ」  あいつが帰ってくる。親友の水田仙吉が三年ぶりで四国の高松から東京へ帰ってくる。長旅の疲れをいやす最初の風呂は、どうしても自分で沸かしてやりたかった。今までもそうして来た。  サビ落しの灼《や》ける匂いがきつくなった。新しいブリキの煙突にはじめて熱い煙が廻るときの匂いである。新しいのは煙突だけではなかった。借家だから、家だけはどうにもならなかったが、檜《ひのき》の風呂桶も流しの簀《す》の子も、新しい木の匂いをさせていた。  門倉は門倉金属の社長である。年はあと厄《やく》の四十三だが、あと厄どころかこのところアルマイトの流行に乗って急激にふくれ上り、社員も三百人を越して景気がいい。新聞は軍縮軍縮と騒いでいるが、支那も欧州もキナ臭いし、軍需景気はこれからというのが大方の見通しらしい。注文は坐っていてもころがり込んで来たが、門倉はこの半月ほど仕事は二の次だった。  水田仙吉から言って来た社宅手当の金額は月三十円である。これで手頃な借家を探さなくてはならなかった。あと五円あればと思うが、中どころの製薬会社の地方支店長からやっと本社の部長に栄転した仙吉は、門倉と違ってつましい月給暮しである。贅沢《ぜいたく》はいえなかった。何軒も見て廻り、結局自分の家にも近い芝白金三光町のここに決めたのである。仙吉のところには間取りもなにも知らせなかった。二十年あまりのつきあいだが、仙吉が地方に出ては東京に舞いもどるたびに、門倉は社宅探しをやって来た。仙吉は安心して任せていた。  借家が見つかると、それからが門倉の楽しみだった。まず大家に大きな菓子折を届けて挨拶する。畳を入れ替えるのは大家持ちだが、植木を入れたり垣根のつくろいは、門倉が金に糸目をつけずにやった。小使いの大友夫婦に心附けをはずみ、台所の灰汁《あく》洗いや、当座の所帯道具を調《ととの》える手伝いをさせた。万一、チッキの着くのが遅れても、一日二日不自由はないようにして置くのである。  門倉がシャボンと湯上りタオルをたしかめ、大友を呼んで便所に紙は入っているだろうなとどなった時、魚屋が来た。頼んでおいた栄転祝いの鯛が届いたのである。門倉は腕時計を見た。水田一家が東京駅から円タクに乗り込んだ頃あいである。こんどはどういう趣向で出迎えようか。門倉にとってこの三年は、今日のこのときのためにあったようなものだった。 「水田仙吉」の表札を見つけたのは、女房のたみだった。  地図の通り、産婆の看板のところで円タクをおり、仙吉を先頭に、たみ、十八になる長女のさと子、すこし遅れて仙吉の父初太郎が、それぞれトランクや籐《とう》のバスケットを手に路地を入ったところで見つけたのである。たみは疲れが出たのか、汽車の中からひどく大儀そうにしていたのに、こういうことには目が早かった。 「お父さん、ほら」  仙吉は門倉とあい年である。門倉は羽左衛門をもっとバタ臭くしたようなと言われる美男で、銀座を歩けば女は一人残らず振り返るといわれたが、仙吉のほうは、ただの一人も振り返らない男だった。見映えのしない外見に重しをつけようというつもりか、鼻の下にチョビひげを蓄えている。その分だけ分別くさく見えた。 「何様じゃあるまいし、馬鹿でかい表札出しやがって」  嬉しい時、まず怒ってみせるのが仙吉の癖である。 「三十円にしちゃいいうちじゃないの」 「そりゃ奴がめっけたんだ。間違いないよ」  玄関のすぐ横手に大きな木蓮がある。二つ三つ蕾《つぼみ》がふくらんで、暗い紫色の艶《つや》のいい舌をのぞかせている。木蓮が開くと桜が咲いてお花見になるのだが、東京は高松より風が冷たい。さと子は首をすくめた。  仙吉とたみは、玄関の前で待っていた。さと子は、六年前のことを思い出した。仙台から、東京の本社へ転勤になり、今日のように門倉が借家の世話をしてくれたときのことである。あのときは、一家四人が着いたところでいきなり玄関の戸があいた。ばあと、かくれん坊の子供が出てくるように門倉の笑顔が出迎えた。今度もそうかしら、と仙吉に言うと、 「そうだよ。なかへ入ると火鉢に火はおこってる。座布団はならんでる。風呂は沸いている。びっくりするおれたちの顔見たくてさ」  自分のことのように得意になった。 「それで門倉さん、駅に迎えにこないのね」  たみも相鎚《あいづち》をうったが、門倉は出てこなかった。  玄関の戸は、仙吉が手をかけると、するりと開いた。  なかは仙吉の言ったとおりだった。  青畳。いま貼りかえたばかりの糊の匂いのしそうな障子と襖のまんなかに、炭火をいけた瀬戸の火鉢があった。鉄瓶がたぎり、茶の道具が揃っていた。炭取りには炭があり、部屋の隅には新しい座布団が積んである。  仙吉は、床の間の籠盛りを見つめた。鯛、伊勢海老、さざえが笹の葉を敷いてならび、隣りに「祝栄転」の熨斗紙《のしがみ》をつけた一升瓶が立っていた。 「相変らず下手糞だね。字だけはおれのほうがうわてだな」  鼻のつまったようなくぐもり声で仙吉は笑った。  押入れをあけたたみが声を立てた。 「お父さん、夜具布団、絹布《けんぷ》よ」 「チッキが着くまでなんだから、貸布団でいいじゃないか。無駄遣いしやがって」  下の段には、覆いをかけた枕や寝巻まで入っていた。  間取りも申し分なかった。  茶の間が六畳、客間が八畳。つづいて夫婦の寝間の六畳。はばかりに近い玄関脇の四畳半に、煙草盆の用意があるのは、初太郎の部屋のつもりであろう。老父と息子の折り合いが悪く、口も利かない間柄を門倉はのみ込んでいて、夫婦の部屋と離れたところに心づもりしたのである。二階は四畳半と納戸兼捨部屋の三畳である。四畳半には、ここはさと子ちゃんの部屋だよというように、一輪差しに桃の花があった。  風呂場のガラスが湯気で曇っている。  仙吉は風呂桶の蓋《ふた》を取り、着衣のまま手を突っ込んで、そのまま動かなかった。湯加減を見ているだけでないことは、さと子にもよく判《わか》った。  台所ではたみが、米櫃《こめびつ》をあけていた。米がいっぱい入り、枡《ます》が乗っていた。たみはてのひらに米をすくい上げてはこぼしている。 「お母さん、高松のお米と東京のお米は違うの」  さと子が声をかけたが、聞えないのかたみは答えなかった。たみは綺麗にみえた。丸一日の船と汽車の旅のあとである。髪も衣服も乱れている。油煙のせいか首筋のあたりも薄汚れてみえる。それなのに綺麗だった。いままでさと子は、母を格別綺麗だと思ったことはなかった。からだも小作りだし、色の白いだけが取柄のありきたりの顔立ちである。  なにかというとすぐムキになり、ムキになると「いい年をして、一年生が駈《か》けっこしてるような顔」になると仙吉は言っていた。そのときの顔は好きだったが、ひとりの女として美醜を考えて見つめたことはなかった。米をすくい上げてはこぼしているたみの、目の下の盛り上ったところが、いつもよりふくらんでうす赤くなっている。急に笑ったり泣いたり、気持がたかぶったとき、母はこういう目になる。門倉のおじさんの心遣いが嬉しいのだなとさと子は思った。もうひとつわけがあると気がついたのは、しばらくあとのことである。 「バタビヤ」は目黒駅前のカフェである。  門倉は、奥まったボックスで煙草をふかしていた。開店前なので、四、五人の女給たちが眉を引いたり出前の支那そばをすすりこんだりしている。  もとは畳屋だったというはなしだが、なるほど、おもてはネオンや色ガラスでせいぜい妖《あや》しげに見せているが、昼間は地金を見せて昼寝しているような気のおけなさがあって、門倉はよく顔を出す。仙吉の家を白金三光町にした理由のひとつは、この「バタビヤ」に近いことだった。  もう半月早かったら、と門倉は残念だった。せめて十日、仙吉たちの上京が早ければ、雛人形を飾ることが出来た。さと子は雛人形を持っていなかった。持ってはいたが、掌に乗りそうな内裏雛である。「ひとり娘じゃないか」と門倉が仙吉をなじると、 「転勤の多い商売なんだぞ。四段も五段もの雛人形かついで動けるか」  引越しの費用は会社持ちである。融通の利かない仙吉は、会社の負担を考え、三年に一度の引越しのために家財道具を増やさないように心掛けているのである。  一家四人が無人のうちへ上ってゆく。客間に雛壇、緋毛氈。わざと顔を出さないで、びっくりする顔よろこぶ顔を想像するたのしみも倍三倍になったのにと、門倉はまだ未練である。  あったかい塊が隣りに飛んできてぶつかった。若い女給の禮子である。門倉のすいかけのたばこを取り上げ、口にくわえた。  去年のクリスマス・イブに、この店を借り切って大騒ぎをやった。他人でなくなったのもその晩だが、あれ以来、禮子は店ではほとんど口を利かなくなった。口を利かない代り、体で示威行動をする。体温の高い女で、体をくっつけてくると、オットセイに寄りかかられたようだ。夏場が思いやられるなと苦笑いしながら、門倉は新しいたばこに火をつけた。  仙吉の新しい玄関に門灯がついて、鰻屋の出前持ちが帰っていった。近所の魚屋にたのんで鯛と伊勢海老をつくってもらい、仙吉が湯上りでいっぱいやっているところへ、鰻重が届いたのだ。門倉の心づくしである。いつもの通り大舟に乗った気で待っていればいいのである。  玄関を閉めようとしたたみは、四角い大きな箱を抱えて入ってくる門倉に気がついた。 「門倉さん」  茶の間から仙吉が飛び出して来た。はだしで三和土《たたき》に飛び下り、物も言わず首ひとつ背の高い門倉をどやしつけた。 「ラジオつけるの忘れてさ。よせよ。真空管がゆるむだろ」  門倉は、殴りかかる仙吉を防ぎながら、たみのうしろのさと子に先に声をかけた。 「別嬪《べつぴん》さんになったねえ。もうお嫁にゆけるねえ」  仙吉は「まだ早いよ」たみは「いいとこ、あったら、お願いします」の返事に、 「夫婦で別っこのこと言ってんだから、おじさんもやりにくいよ」  と笑いかけた。  たみが上りかまちに両手をついた。 「門倉さん。このたびは何から何まで」  仙吉が、はだしの泥をはたきながら、割って入った。 「水臭い挨拶するなよ。そんな仲じゃないんだよ。なあ」 「おう」 「鴨居に気をつけろ」  背の低い仙吉に言われて、門倉はひょいと首をすくめ、さと子に背を押されるようにして茶の間へ入っていった。たみは門倉の靴を揃えた。夫よりひと廻り大きいコードバンの新品である。新しい皮は、若いけものの匂いがする。甲高盤広《こうだかばんびろ》の型崩れした仙吉の靴の隣りにならべ、思い返して門倉のだけ沓脱《くつぬぎ》の上に置いた。  茶の間で、仙吉は、早速ラジオを取りつけにかかる門倉に文句を言っていた。 「荷物がつきゃ、ラジオあるのにさ」 「新型が出たんだよ」 「お前みたいのをな、大飯《おおめし》食って大糞《おおぐそ》垂れるっていうんだぞ。大きく稼いだって、こう豪勢に使っちゃさ」 「遺《のこ》す人間、いないんだから、いいじゃないか」  門倉は子供がなかった。 「奥さん、お変りは」  たみの問いに、門倉は真空管をいじる手をとめ、刺繍の真似をしてみせた。 「明けても暮れても、これですよ」  門倉の妻は、刺繍に凝っているらしい。  初太郎は、皆に背を向け、暗い庭を見て坐っていた。 「おじいちゃんのために、ちょいと植木、奮発して入れたんだけどなあ」  門倉が声をかけると、この正月で七十になった老人は、よおという風に片手を上げ、 「こんなのは、木のうちに入んないよ」  にこりともせず無愛想な口を利いた。  初太郎よりもっと無愛想な顔をしたのは仙吉で、 「木のはなしはよせ」  低いがきつい声でたしなめた。門倉がわざと明るく、 「もう虫は起らないだろ」  と取りなしたが、 「死ぬまで治らないな、あの病気は」  仙吉の言い方には、棘《とげ》があった。  鳥屋は鳥に似てくるし、鰻を割く職人の顔はだんだん鰻に似てくるというが、初太郎は木に似ていた。古木である。からだつきもがっしりしていたし立派な顔立ちだが、暗く孤独で鬱蒼《うつそう》としていた。耳の穴には御丁寧にも剛毛が生えていた。  初太郎は山師である。もと山師、といった方が正しいかも知れない。山師には金、銅、マンガンなどという鉱物の山師と、松杉檜など木の山師があるが、初太郎は木偏である。山に入れ揚げ、仙吉はそれがもとで昼間の大学へゆくことが出来なかった。一度こじれたものは、血の濃い分だけ余計こじれ、父も子も譲ることの出来ない気性が災いして、一軒のうちで敵味方になって暮していた。たとえ無愛想にしろ、初太郎が口を利くのは、門倉を悪く思っていない証拠である。  さと子は、父の仙吉がいて、門倉のおじさんがいて、そのまんなかで母のたみがお茶をいれたりお酌をしたりする光景が子供の頃から好きだった。日頃は仏頂面で叱言《こごと》ばかり言っている仙吉だが、門倉がいると冗談を言ってはよく笑ったし、たみやさと子の落度にも寛大であった。短気な夫に叱《しか》られまいとして、びくびくしているたみも、門倉が一緒だと、伸び伸び振舞い笑い上戸であった。 「仙吉は神田の或る秤屋《はかりや》の店に奉公している」  これは志賀直哉の「小僧の神様」の書き出しだが、さと子はこれを読んだとき、声を立てて笑ってしまった。仙吉というのが、父と同じ名前ということもあったが、屋台のすし屋に飛び込み、すしを手にしたものの、すしの値段に気がついて立往生している小僧が、若い頃の父の姿に思えてきた。  仙吉は何を着ても着映えがしなかった。体つきもよくなかったが、つまりは華《はな》がなかったのだろう。門倉は偉丈夫で、仙吉はせいぜい番頭だった。門倉がつけばステッキだが、仙吉が持つと按摩の杖になった。門倉を花とすれば、仙吉は葉っぱである。門倉には、そこにいるだけでまわりをたのしませるものがあるが、仙吉が入ってくると、一同理由もなく気づまりになり気くたびれがした。なにからなにまで正反対のふたりがどうしてこんなに気が合うのか、さと子はいくら考えても判らなかった。  雑音まじりに聞えはじめたラジオが軍縮関係のニュースを流したことから、仙吉と門倉のはなしはもっぱら時局のことである。 「軍需景気で笑いがとまらんだろ。大丈夫か、お前のとこは」 「なにが」 「軍需景気でウケに入っている工場で、職工を虐待してるとこがあるそうじゃないか。新聞に出てたぞ。警視庁の工場課で、抜き打ち的検査を行っておると」 「大工場のはなしだよ」 「なんのかんのいいながら盛んじゃないか。軍縮軍縮は掛け声だけか」  さと子は、たみが鰻に手をつけないのが少し気になった。汽車の中で、のどがかわいたと言って、蜜柑ばかり食べていたせいかも知れない。 「山本──イソロクと読むのか、海軍予備会議の日本代表──航空母艦は全廃しよう、主力艦もやめようなんて主張しとるようだけどなあ」 「くわしいじゃないか」 「地方へ出てるほうが、新聞読むね」  突然、たみが口を押えた。袂で口許を被い、台所へかけ込んだ。流しもとでえずいている気配である。中腰になったさと子を押しのけるようにして、仙吉が台所へ飛んでいった。二度三度えずく音がした。箸をとめたさと子は、たみがえずくたびに、門倉ののど仏が生唾をのみ込むときのように動くのに気がついた。箸を動かしているのは初太郎ひとりである。  仙吉がもどってきた。 「汽車弁にあたったんだ」  そんな筈はない、とさと子は思った。 「汽車弁ならあたしだって食べたわよ。みんなも食べたじゃないの。どしてお母さんひとりあたるのよ」  そのときの腹具合だろ、と坐った仙吉のほうを見ずに、初太郎が呟いた。 「うまれるんじゃないのか」 「うまれる? まさか」  仙吉が笑いかけたとき、たみが入ってきた。  さと子は、「あ」と思った。  たみは泣くとも笑うとも怒るとも恥じらうともつかない目をしていた。四つの気持がまじってどうしていいか判らない目に見えた。 「汽車のなかで、蜜柑ばかり食ってたのは、そのせいか」  仙吉はポカンとしていた。ひげを生やした男が口をあけているのは、ひどく間が抜けて見える。 「めでたいじゃないか」  門倉が笑いながら、冷や酒のコップを仙吉にぶつけた。笑いながら何度もぶつけた。さと子はコップが割れはしないかと気を揉《も》んだ。  闇のなかを人魂《ひとだま》のようにふたつの提灯が揺れて動いてゆく。白金三光町の裏手の、伝研と呼ばれる伝染病研究所の横の道である。提灯はひとつが高く、ひとつが低い。門倉と仙吉である。酔った門倉がどうしても提灯行列をするのだと、仕舞いかけた荒物屋のガラス戸を叩《たた》いて調えた提灯だった。 「万歳! 万歳!」  連呼しながら歩く二人だけの提灯行列に、風呂帰りや工場の夜勤帰りの職工らしいのが、びっくりして振り返っていた。「日本帝国万歳」を連呼して提灯を振る門倉を、仙吉は「よせやい」ととめた。 「お巡りにめっかったら引っ張られるぞ」 「なに言ってんだ。お国の宝がひとり増えるんだそ。弥栄《いやさか》じゃないか」 「年考えろよ。おれ、あと厄だぞ。いま三月《みつき》として、生れるときはたみのやつ、四十の恥かきっ子だよ」 「そういうことは、そねんだやつが言い出したの」 「娘は十八だよ」  もつれながら歩いていたふたつの提灯の、背の高いほうが燃え上った。威勢よく振り廻し過ぎたのだ。あわてて消しているらしく、高い提灯と低い提灯が、闇の中を右往左往していた。  門倉と仙吉は「目黒キネマ」の横手の屋台にならんで坐っていた。灯を消した提灯がひとつ、仙吉の足許に置いてある。  人が変ったように押し黙っていた門倉が、妙に重い声で切り出した。 「ものは相談だけどな」 「判ってる」  仙吉も、重い声で応じた。 「二十年のつきあいだぞ。そのくらい判らなくてどうする」 「判るか」 「名前はおれにつけさせてくれ、だろう」 「ちがうんだよ」  門倉は、てのひらで酒のコップを廻しながらつづけた。 「うまれた子供なあ。大砲がついてたらお前にとってもはじめての男の子だよ。おめでとう、でかしたで引き下るよ。もしも、ついてなかったら」 「女の子だったら……」 「おれにくれないか」  仙吉は門倉の煙草に手をのばした。「エアシップ」である。大事そうに一本抜いて火をつけた。 「駄目か」 「──嬉しいんだよ」  門倉が低く呻《うめ》いた。水田、と言ったようだがはっきりとは聞きとれなかった。仙吉は、恩賜の煙草でも喫《す》うような手つきで、エアシップの煙を吐いた。 「男だったら勘弁してくれ。女だったら喜んで進呈する」 「いいのか」  仙吉は大きくうなずいた。門倉の「しかし、奥さんが」という不安げな声に、 「もとは、おれだよ」  大まじめに見得を切った。  さと子は、流しで空《から》になった鰻の重箱をすすいでいた。新しい台所は、水道の栓ひとつひねるにも使い勝手が判らない。勢いよくほとばしって、顔に飛沫《しぶき》を浴びてしまう。  母にかくれて読んでいた「家庭大医典」のなかの「妊娠」の二字が見えて来た。さと子は、まだこのことばを声に出して言ったことはなかった。うちには関係のないことだと思っていたのに、母が子供をうむ。「家庭大医典」の「産科・妊娠」の第一章「妊娠の成立」の一行目、「妊娠は精子と卵子の結合によってはじまります」というあたりが浮かんできた。急にうちのなかの空気がねばついてきたように思えた。卓袱台《ちやぶだい》に、手をつけてない鰻重がひとつ乗っていた。  たみは座布団二枚をつなげ、着物のまま横になっていた。さと子が、新聞紙を敷いた洗面器を枕もとに置くと、目をつぶったまま声をかけた。 「お前よかったら鰻おあがりよ。残すともったいないから」 「たくさん。なんだか胸がつっかえて」  言い方がきつかった。さと子は、すこしあわててつけ足した。 「あたしよかお母さん食べたほうがいいよ。子供の分も二人前食べなさいって、よく書いてあるじゃないか」  たみはうすく笑ったが、目はつぶったままだった。五燭のおやこ電球の光のせいか、母が急に老けてみえた。足許に脱ぎ捨てた汚れた足袋の片方に、もう片方を突っ込んであるのも、妙に猥《みだ》りがましく思えた。  仙吉が上機嫌で帰って来たのは、夜中過ぎである。 「門倉の奴、何て言ったと思う?」  起きてきたたみの頭に、自分の中折れ帽をのせた。 「生れた子が女だったら、くれとさ」  うたた寝をしていたたみは、すぐには意味が判らなかった。 「おれは涙が出たね。本社へもどれたのもうれしいけど、あいつに子供をくれといわれたほうがもっとうれしかったな」 「酔っぱらって」  笑いかけて、急に顔がこわばった。 「本気なの?」 「おれ、約束してきたからな」 「子供、やるってそういったんですか」 「大砲がついてたら諦《あきら》めるってさ。ついてなかったら」 「冗談じゃありませんよ」 「おい」 「冗談じゃないわよ」 「お前、嫌なのか」  返事の代りに、たみは仙吉のかぶせた中折れをとり、荒いしぐさで卓袱台に置いた。 「どしてだ」 「どしてって、そんなこと、聞くほうがどうかしてますよ」 「どうかしてるのはお前だろう。ほかの人間じゃないんだよ。門倉だよ」 「判ってますよ。門倉さんには、そりゃお世話になってますよ。転任だ引越しだっていえば、ほかの人には手をつけさせないで、至れり尽くせりのお世話してくれるわよ。お金で受取ってくれないから、そりゃお返しできない借りはたまってますよ。でも、どんな義理があっても子供だけは」 「義理じゃないよ」  しみじみとした声だった。 「お前はうれしくないのか。あれほどの男が、おれたちの子供を欲しいと言ってるんだよ」  つぶれた中折れの山を直しながら、仙吉はつづけた。 「あいつはなんでも持ってるんだよ。地位もある。金もある。いい親戚もある。弁も立つし友達も多いよ。人にも好かれるよ。背も高いし男っぷりもいい。女にももてる。おれはな、お前だから言うけど、今度うまれたら、ああいう男になりたい。心底思うね。それと」  すこし言いよどんで、 「あいつは、お前を買ってるよ。あれだけ女にうるさい奴が、お前の言うことだけは聞くじゃないか」  梯子段の途中に足をとめて、さと子は動けなかった。 「奴は、おれとお前の子だから、欲しいといってるんだぞ」 「あなた、平気なの」  さと子は梯子段の上りはなのところに、細い光の帯が伸びているのに気がついた。初太郎が襖をすこしあけて、聞き耳を立てているらしい。 「あたし、嫌だわ」  低いがはっきりした、たみの声が聞えた。 「断ってくださいな」  それきりだった。  音も立てずに光の帯が消え、閉まった襖の奥から初太郎が重い咳をした。  門倉の住まいは、広尾である。  事業が大きくなるにつれて家も大きくなった。家具調度も贅沢になったが、その分だけガランとして、他人のうちのように思えた。門倉は寝に帰るだけだから、妻の君子と、耳の遠いばあやの二人住まいのようなものだった。君子は五つ年上である。門倉が軍隊から帰って肺を患い、三年ほど療養所にいた時に縁が出来た。顔立ちも整っているが、気性のほうもよく出来た女で、女道楽の文句を露《あら》わに言ったこともないし、門倉が何時に帰っても、髪の毛一筋乱さず出迎えに出る。そういうとき、君子のまわりから消毒液の匂いがするようだと、酔った門倉は仙吉に話したことがある。  その夜、門倉は、はやっている「ダイナ」を口ずさみ、ステップを踏むような足どりで君子に上衣を渡した。 「子供、もらうことにした」  君子は、上衣を抱えてしばらく立っていた。洗面所でシャボンで手を洗う門倉のうしろから声をかけた。 「子供もらうなんて、うまい言い方、なさるもんね」  水を出していたので、これは門倉には聞えないらしかった。 「もらうんじゃなくて、引き取ると、はっきりおっしゃったらどうなんです」 「そうじゃないよ。もらうんだよ」 「子供はあなたの子でしょ」  こんどは門倉が棒立ちになる番だった。 「いま、なんて言った」 「子供はあなたの子でしょ、と言ったんですよ」  門倉の濡れた手が、君子の頬で鳴っていた。 「なんてことを言うんだ。おれは指一本触れたことないよ。子供は、あいつと奥さんの子供だよ」 「あいつ──」 「水田のとこだよ」と言ってから、「口、大丈夫か」詫びともいたわりともつかぬ声になった。 「水田さんとこ、生れるんですか」 「十八年ぶりだってさ。テレてたよ」  門倉はタオルを君子に渡して、 「お前が反対なら、おれひとりでも育てるからな」 「誰が反対だなんて言いました」 「賛成か」  鏡に君子の笑い顔がうつっていた。左の頬が指の形に赤くなっている。哀しみと嫉妬は見たくない。門倉は、いつもそうするように、知らん顔をした。 「いつなんですか、予定日」  多分、この秋だろうという返事は、背中で答えた。寝室で着替えをしたが、君子はすぐには来なかった。やりかけの刺繍の、きりのいいところまで刺してからくるのである。  仙吉の家に荷物がつき、どうにか落着くところに落着いた頃、たみが朝起きてみると初太郎の姿が見えなかった。たみは、仙吉を揺り起した。  毎度のことだ、ほっておけ、と仙吉は布団にもぐり込んだが、たみに引っ張られ、渋々初太郎の部屋に入った。敷きっぱなしの布団の上に寝巻が畳んでのせてある。布団にぬくみが残っている。 「そう遠くには行ってないな」 「一番電車、まだじゃないの」 「始発、何時だ」 「まだしらべてないわ」 「馬鹿、どうして調べておかない」  とどなり、ひとっ走り駅まで、と駈け出しそうにするたみを、もう一度、馬鹿とどなった。 「お前、走るな。さと子!」  起きて来たさと子にすぐ駅へゆけとどなった。 「一円上げるから」  小さく言ったたみの言葉を聞きとがめて、またどなった。 「一円なんかやることないよ。五十銭で沢山だ」  さと子は、玄関から飛び出し、門の閂《かんぬき》をはずしかけて、気がついた。  初太郎は、庭で焚火《たきび》をしていた。引越しに使った家具の枠や縄を燃やしている。  仙吉は更にもう一声、たみにどなった。 「朝っぱらから焚火することはないだろ。人騒がせな真似をするなって言え」 「おやこでしょ。自分で言ってくださいよ」  言い返すたみの鼻先で、手荒く玄関のガラス戸をしめ、仙吉はうちへ入っていった。  初太郎は、名前を言えば大抵の人が知っている一流の物産会社の勤め人だった。かなりの地位までいったのだが、たまたま木材の買いつけを担当したことから、残り半分の人生が大きく狂ってしまった。山にとり憑《つ》かれてしまったのである。  山を見て、五年先、十年先に杉や檜がどのくらいの大きさに育つか、それこそ瞼《まぶた》の裏に幻の山の絵を描き、値を推《はか》り、売り買いする醍醐味が忘れられなくなった。当れば濡れ手で粟の儲けを自分のものにしたいとも思ったのであろう。初太郎は会社をやめ、山師としてひとり立ちした。小さく当ったこともあったが、あとは見込み違いがつづき、不遇のうちに妻、つまり仙吉の母親を死なせた。仙吉が昼間の大学の試験に合格しながら、諦めて夜学に切り換えたのもこの時期である。資金繰りにつまり、仙吉の実印を無断で持ち出し、定期を解約してひと騒ぎしたこともあった。  賭けごとの嫌いな堅物の仙吉は父を許さず、扶養の義務は果す代り、ひとことも口を利かなくなって、かれこれ十年になる。  布団に腹這《はらば》いになって煙草をすう仙吉に、たみは来たばかりの朝刊を渡した。 「焚火するんならな、山の地図や地下足袋、燃やせって、そう言え」 「もう、やりゃしませんよ。足腰だって弱くなってるし、第一、お金がなきゃ動きとれないでしょ」 「持ち出されないように、気をつけろ」 「おやこで、いやねえ」 「門倉の奴にも言ってあるんだ。じいさんにだけは金貸さないでくれって。売り買いした山の中で、ぶら下られたりして新聞種になってみろ。笑い者になるのはおれだからな」  たみは黙って雨戸を繰った。  初太郎は松の木の根方に巻きついたつるを取っていた。自分の庭の木だけではない、街路樹でも神社の木でもつるが巻きついていると丁寧に取った。こうしないと木が大きく育たないからだという。木を見るとき、葛桜のような初太郎の目は別人のように輝いている。  たみは井戸端にしゃがんで、濯《すす》ぎ物をしていた。二階からは、さと子の弾く琴が聞えている。駅の近くに同じ流派の琴の師匠をみつけ、明日から通うことになったので、久しぶりに琴柱《ことじ》を立てて復習《さら》っているらしい。あれから胸のむかつきは時折襲ってくる。本当は琴の師匠より産婆を先に探さなくてはならないのだが、たみは一日のばしにしていたのである。  目の前に、緑色のモダンなハイヒールがあった。狐の襟巻をした洋装の若い女である。髪はいま流行《はや》りの断髪だった。突き出した唇を真赤に塗っているせいか、縁日で売っている狐のお面に似ている。カフェ「バタビヤ」の禮子である。 「水田さんの奥さんですか」  禮子は念を押し、たみがうなずくと、 「差し出た真似、しないでくださいよ」  とがった声になった。 「何様か知らないけど、男と女のことに嘴《くちばし》はさまないでもらいたいわね」  なんのことやら、見当もつかない、たみは盥《たらい》に指の先を漬けたまま、ぽかんとしていた。 「あんたのおかげで、あの人、切れてくれっていうのよ」 「あの人……」 「水田の細君に子供が出来て、それもらうことにしたから切れてくれっていうのよ。父親になる男が身持ちが悪くては申しわけがないっていうのよ。ちゃんちゃらおかしいわよ。こんなものじゃ女の気持、けりがつきませんて、奥さんからそう言って返しといて下さいな」  禮子はハンドバッグから、奉書紙に包んだものを出し、ほうり投げた。包み方が雑だったのだろう、包みは開いて、百円札が散らばり、何枚かは盥に浮かんだ。  たみは、泡くって札を拾おうとして前のめりになった。はずみで下駄の鼻緒が切れ、盥の角で下腹をしたたかに打った。  痛みに声も出ないたみを、禮子はあわてて抱き起した。 「大丈夫ですか」 「あたしはいいから、早くお札。濡れるから」  下腹を押えながら、たみは禮子と一緒に札を拾った。濡れた百円札は、碁石をひとつずつのせて、縁側で乾かした。たみは禮子に茶を入れながら、門倉とのいきさつを聞いた。禮子は人のいい女らしく、どうしても遠慮して上ろうとせず、縁側に斜め坐りで、茶をすすっている。 「じゃあ、子供上げないんですか」 「育てられないのならともかく、おなか痛めた子、よそへはやれませんよ。主人に断ってくださいって言ったんですけどねえ」 「ご主人、言いそびれてるんだ」  禮子は、仙吉やたみのことをよく知っていた。門倉が「バタビヤ」で話すらしい。 「水田の奥さん、ていうとき、門倉さんの顔、違うんですよ。男の子が大事にしている飴玉、口のなかで転がすみたいに言ってるわ」  乾いた百円札の束を、返す返さないでふたりの女は、また揉み合ったが、こんどは棘のある争いではなかった。結局、禮子が自分の手で門倉に返すことになったが、たみは、セルの着物が破れ、膝小僧をすりむいていることに気がついた。  その夜、門倉が詫びに来た。  まさか、あの子が奥さんのところへどなり込むとは思わなかったと、たみの前に両手をついた。済んだことだからとたみが手を上げるように言うと、 「そうあっさり勘弁していただくと」  不服そうな口振りだった。仙吉が、 「拍子抜けだよなあ。もっと怒ってやらないと張り合いがないとさ」  と言ったのがまさに図星で、門倉は珍しくうろたえていた。女のことでたみに叱言をいわれたり意見されたりするとき、門倉は幸せそうであった。門倉の肩を持ったり、たみと一緒になって門倉の無頼を度が過ぎるぞと責めたりする仙吉も、同じように嬉しそうだった。この楽しみを、そう簡単に打ち切られては勿体ない。それでなくても、この三年、待っていた楽しみなのである。  たみは、正直いって、さほど腹を立ててはいなかった。禮子に親しみさえ感じていた。 「こんどの人、悪くなさそうじゃないの」 「気は強いけどね」  門倉は頭を掻いてみせた。仙吉が取りなし顔で、 「気が弱くちゃ職業婦人として、やってゆけないだろ」  カフェの女給も職業婦人というのかと、たみはすこし笑った。笑顔に乗じるように、門倉は子供のはなしを蒸し返した。 「大事に育てますよ。どんなことをしても一生不自由は、いや贅沢三昧《ぜいたくざんまい》──」 「それが困るのよ。苗字が変ったって、さと子とは姉妹ですからね。でこぼこがあっちゃ両方可哀そうよ」 「でこぼこがまずいんなら、同じにしますよ。おい、水田」  目顔でうながされた仙吉が、うむと唸った。  たみは、唸ったのは自分かと思った。からだのなかで、なにかが引き攣《つ》れねじくれて煮えている。さっきから打ち消しこらえていたものが、ぎりぎりのところに来ている。早くはなしにけりをつけて、手洗いに立たなくてはいけない。 「門倉さん、それだけはあたし」  堤防が決潰《けつかい》したように、熱いものが溢れた。烈しい痛みで言葉がつづかなかった。  ことばを呑み込んだたみを、仙吉はけげんそうに見た。 「おい、どした」  機嫌のいい、のんびりした調子だった。 「どうしたんだよ」 「すみませんけど、出ていってください」  ふたりは顔を見合せた。 「おい」 「あたし、立てないの。電気消して、あなたもここ出ていって」  たみは、お腹《なか》を押え、からだを二つ折りにした。顔中脂汗になっていた。  さと子は林檎《りんご》の入った紙袋を抱え、走って帰って来た。水菓子が切れていたので使いに出されたのである。たみに言われた八百屋は早仕舞いで、表通りまで駈け出したのだが、さと子は弾んでいた。門倉が訪ねてくると、自分まで胸に灯がともったようになる。それと、果物屋で聞いたはなしがさと子を昂《たか》ぶらせていた。  入りしなに見上げた木蓮の蕾が割れ、暗紫色のはなびらが一枚垂れている。犬の舌に見えた。玄関の戸をあけて、どなってしまった。 「ねえ、聞いた? 忠犬ハチ公、死んだのよ。今朝、駅のそばで息引きとったって。あの犬、とし十三だったんですってよ」  上りかまちのところに初太郎がうずくまって煙草を喫っている。 「おじいちゃん、そんなとこでなにしてるのよ」  沓脱に見馴れない男の靴と、白い女の靴がならんでいる。 「だあれ。お客さま?」 「医者と看護婦だよ」  ひと呼吸おいて、初太郎は呟いた。 「子供は流れたらしいな」  医者と看護婦が帰り、さと子は玄関の戸をしめた。  仙吉が奥へもどっていった。不意に男の号泣が聞えた。門倉だった。縁側の障子の外で、庭を向いて坐っていた門倉が、声を上げて泣いていた。仙吉が、すこし離れたところに坐った。門倉と同じ姿勢で、膝を抱き、暗い夜の庭を見ていた。横になっているたみの目尻から、急ぎ足で涙が落ちた。  初太郎が、ぽつんと言った。 「狛犬《こまいぬ》だな」  神社の鳥居のところにいる同じ格好をした石造りの犬だと言った。同じように見えるが口の形が違う。一頭は阿《あ》であり、一頭は|※[#「口へん」+「云」]《うん》である。  そういえば「こまいぬさん、あ。こまいぬさん、うん」というのを聞いたことがあった。不意にさと子は、教育勅語の一節を思い出した。 「夫婦相和シ」 「朋友相信ジ」  白い手袋をはめて、校長先生が奉読し、一同頭を垂れて聞いたが、父と母と門倉のおじさんの場合は、それだけではないのだ。  ふたつの言葉の奥に、暗いどきどきするような洞穴があるような気がしていた。  蝶  々  仙吉がヴァイオリンを習いはじめて三カ月になる。  無趣味無器用が売り物で、安月給取りの仙吉が、ひとりでそんな大それたことをする筈もなく、すべて門倉のお膳立てだった。  たみが流産して間もなく、門倉が細長い大荷物を抱えてやって来た。あけてごらんと言われて、さと子が包みをほどくと、黒皮の瓢箪《ひようたん》型のケースがふたつあり、パチンとあけるとヴァイオリンだった。 「おれ、習うことにしたから、水田、お前もつきあえよ」  稽古《けいこ》日は毎週土曜の午後、場所は、ここを貸してくれ、本式でいきたいから先生も白系露人の女史を頼んできたという。  仙吉は音痴である。ハーモニカも覚束《おぼつか》ないのが、ヴァイオリンはとても無理だ、勘弁してくれと尻込みしたが、門倉はきかなかった。たみもさと子も、随分強引なことをするものだと思ったが、やがて真意が判った。  門倉は、たみを笑わせたかったのだ。  土曜の午後、たみもさと子も笑ってばかりいた。半ドンで仙吉が会社から帰ってくる。つんのめるように大汗かいて帰ってきてあわただしく昼食を済ませると、威勢をつけると称して生卵をのむのだが、女ふたりはもうそのへんからおかしくて仕方がない。やがて門倉が来て、先生のペチョーリンスカヤ女史がくる。名前だけでもおかしいのに、日本語が頓珍漢である。かなり達者なのだか、母国語でないかなしさで、 「五十歩百歩」  というのが判らない。百五十歩のことだと思っている。小学唱歌の「ひよどり越え」を、 「イカも四足、馬も四足」  と歌ったりする。  ほっそりした中年増なのに大足で、門倉の靴とならべて遜色がない。ひとつおかしいと、何を見ても笑いの種で、二人の男がヴァイオリンを持って女史の前に立ち、音を出しはじめると、母と娘は台所で折り重なるようにして笑いをこらえた。  水を飲みに来た仙吉にみつかり、 「何がおかしい」  とどなられたことがある。 「そんなに笑いたけりゃ、朝のうちにしっかり笑っとけ」といわれたのがまたおかしく、声を噛《か》み殺して七転八倒した。  ほかのことではかなり器用な門倉も、ヴァイオリンは別らしく、なかなか音らしい音が出なかった。 「羊の腸を縒《よ》ったものに、馬の尻尾をこすりつけて音を出そうというほうが手品なんだ」  仙吉は威張っていた。  仙吉と門倉がどうして知り合ったか、ふたりがペチョーリンスカヤ先生に説明しているのを聞いたことがある。  ふたりは寝台戦友だという。  徴兵検査で甲種合格者になると兵役の義務があった。  そこで、ならんだ寝台のふたりは一組とみなされた。ベッドをつくるのも二人一緒だし、一人が官給品を失《な》くすと、二人一緒にビンタをくらった。 「ベッドの友達ね」  女史の目に微妙なものを見てとったふたりは、きびしく打ち消した。断じて不埒《ふらち》なものではない。世間なみの友情を清羹《コンソメ》とするならは、これはポタージュである。いまは平時だが、一旦緩急ある時は、死なばもろともという間柄である。女史は判ったといったが、判らないようであった。軍隊時代の仲間が集ることがある。二次会にゆき勘定というときに、相手のポケットから札入れを出し、 「払っとくぞ」  ごく自然に出来るのが寝台戦友だと説明すると、女史はよく判ったとうなずいたが、やはり判ってはいないらしかった。  ヴァイオリンの稽古がはじまってから、さと子は土曜を心待ちにするようになった。  門倉は社長で自由が利く。仙吉より一足早くやってくることも多かった。初太郎の部屋をのぞき必ず声をかけた。元山師の老人と町の鋳物工場からのし上った門倉は、はなしの合うところがあったようで、息子とは口も利かず、食事も事を構えて別にする初太郎が、門倉だと、世間ばなしをした。  門倉は、初太郎の煙管《キセル》を借りて刻みを喫い、いまアルマイトの折り畳み弁当を試作している、当ると大きいと話したし、初太郎は昔、山を見て歩いた頃、木の根方に古い草鞋《わらじ》が捨てられていたら、その山は「買い」だという。人が足で手入れをした山だというのである。一番おっかないのは雨だとも言った。川が暴れると筏《いかだ》がばらばらになり、儲けは海へ出ていってしまうんだと、ヤニのついた黄色い歯をみせて笑うこともあった。  ヴァイオリンの日は、朝から活気があった。たみは仙吉が出勤すると、花を活け、髪に鏝《こて》をあてた。火鉢の上に鏝をのせて熱し、生紙《きがみ》をはさんで熱さをためす。紙は狐色になり、髪油の灼ける匂いと紙の焦げる匂いが漂った。たみの瞼の下が赤くふくらみ、目がうるんだようになった。  梅雨が近いせいか、青桐の葉の重なりが濃く深くなっている。さと子は、此の頃、体が甘くけだるいことに気がついていた。気がつくと茶箪笥や柱に寄りかかっている。夜、寝汗をかくこともあった。ヴァイオリンの音色は、人の心にも体にも溜息をつかせるところがあるように思えた。仙吉が弾くときは、笑いながらも、しくじらぬようにと祈る気持になったし、門倉だと一層その思いが強かった。そのせいか稽古が終ると、さと子はぐったりした。たみも同じらしかった。  門倉の来ない日、このうちはいつもの通りすこし陰気な空気になる。  日が暮れて門灯がともる頃になると、初太郎は便所掃除をはじめる癖があった。会社が退《ひ》けて仙吉が帰ってくる頃に、便所の戸を半開きにして、金隠しを塩酸で洗ったりする。たみが、袂で鼻を押えながら、それだけは勘弁してくださいと頼むのだが、初太郎はそのときだけ金聾《かなつんぼ》になった。  その日も初太郎はたみのとめるのも聞かず依怙地《えこじ》に便所掃除をしていた。仙吉は、息を詰めて上って来た。ちょうど茶の間あたりで、苦しくなる。 「おい!」  たみを呼び、 「出たぞ」  茶色い大き目の封筒を、出した。賞与である。  たみは押しいただき、 「踏み台、踏み台」  とうろうろした。  封を切る前にまず神棚に上げるのである。 「出る日、見当がついてるんだから、踏み台ぐらい、出しておけ」  とどなり、 「中、見てから上げろよ」  いつもより多いそれを、たみに数えさせたいのである。 「賞与のたびに同じこと、言わすなよ」 「すみません」  いつものように夫は空威張りし、妻は下手《したで》に出ているが、仙吉の顔は頬のゆるむのを無理にこらえているところがあった。  風向きのせいか廊下のあたりから、薬品の強い刺激臭が襲った。 「お風呂、先ですか、お酒?」  初太郎の咳《せ》き込む気配がした。 「金、気をつけろ」 「一軒のうちで……」 「前にやられてるんだから。お前、肌から離すな」 「あした一番で積んで来ますよ」 「夜学だなんだって言われながら、汗水たらして半年働いた分なんだ。徒《あだ》や疎《おろそ》かに扱わないでくれ」  聞えよがしの大声だった。  仙吉が風呂場にいったあと、夕御飯の膳立てに茶の間をのぞいたさと子は、びっくりしてしまった。  たみが、いきなり帯をとき単衣《ひとえ》を脱ぎ、腹巻と汗とり襦袢《じゆばん》ひとつになったからである。 「蚤《のみ》いるの? もう蚤出たの」 「蚤なんか、いないよ」  たみは、賞与を、袋ごと腹に巻いた。 「おじいちゃん、お金のほう、全然見てなかったわよ」 「そういうときのほうが、かえって危いんだよ。いやだけど、なんかあってからじゃあ、おたがいもっと嫌だものねえ」  言いかけて、 「お前、顔が赤いねえ」  たみは帯代裸《おびしろはだか》のまま、さと子のおでこに自分のおでこをくっつけた。  さと子は、町医者の診たてで、肺門|淋巴腺炎《りんぱせんえん》の疑いがあるといわれた。  その晩、仙吉と門倉は珍しく言い争いをした。 「そりゃ立派な肺病じゃないか。町医者じゃ駄目だよ」 「何様の娘じゃないんだよ。医者も身分相応ってものがあるんだ」 「婚礼や葬式は身分相応が大事だよ。医者だけは違うんだよ」 「縁起でもないことをいうな!」  二階のさと子を気にしてたみは気を揉むのだが、ふたりともあとへひかなかった。  徹底的に治せ。おれは若いとき「胸」で棒に振ってるから、ひとごとじゃないんだ、と門倉は、この男にしては珍しく湿った声になった。 「さと子ちゃんの嫁入り支度、いくらかける?」 「まず、千円かな」  たみが横から口をはさんだ。 「千円じゃ、箪笥一棹よ、お父さん」 「じゃあ千五百円か」 「その分の通帳、ここへ出せ」  自分の取引先で、大学病院に|つて《ヽヽ》のあるのがいる、さと子ちゃんを担《かつ》いででも、連れてゆくぞ、と、激しい見幕だった。  たみは、声を震わせて仙吉に喰ってかかっている門倉を涙のこぼれるほど有難いと思いながら、例の賞与を仕舞い込んである腹巻のあたりの、あまりのかゆさについボリボリと掻いてしまい、仙吉に「何やってんだ、お前は」ととがめられた。 「汗疹《あせも》がかゆいのよ」 「汗疹なんて言ってる場合か、馬鹿!」  門倉がとりなした。 「人間なんてそんなもんだよ。おふくろが死んで、胸がつぶれるってのはこのことか、と思うくらい参ってたって、腹もへるし、眠くもなるんだよ」  仙吉は、もう一度門倉にどなった。 「葬式のはなしはよせ」  人間の病気は、上へゆくほど上等とされる。さと子も水虫より頭痛のほうが格が上に聞えたし、おなかが悪いというより胸が悪いというほうが素敵だと思っていた。九条武子夫人も胸だから人気があるのだ。  しかし、現に自分が肺病かも知れないと思うと、朝の食卓で卵を割ったとき、ほんのすこし血がまじっているのを見ただけで胸がふさがった。  死ぬと判ったら、大きくて太い樹の幹に抱きついて、声を上げて泣いてやる。女に生れたのに愛も恋も知らず、抱きつく相手が樹というのは口惜しいが、さしあたって見廻すと、女学校の体操の先生か門倉のおじさんしかいないのである。  さと子は、たみと門倉のまんなかに坐ってレントゲンの順番を待っていた。門倉の紹介の大学病院である。両脇のふたりは、ひとことも口を利かなかった。つい今しがた、看護婦が、ふたりをさと子の両親と間違えたばかりである。幼い頃、さと子は門倉が父だったらよかったと思ったことがある。門倉はよくみんなに気の利いたみやげものを買って来た。仙吉には、舶来のライター、さと子にはビロードの黒猫のハンドバッグ、初太郎には印伝《いんでん》の煙草入れ。しかし、たみには、帯締め一本買ってきたことはなかった。今まで気づかなかったが、買わないことが門倉の気持だったのだ。  さと子は名前を呼ばれて立ち上った。レントゲン室のドアを入るときふり向くと、ふたりは、そのまま離れて坐っていた。生まじめな顔をして正面を向き、見合いでもしているように固くなっていた。仙吉抜きで門倉がたみと出掛けたのは、これが初めてなのである。そこだけ病院ではないようにみえた。 「バタビヤ」の禮子に子供が出来た、と門倉が来たのは、たみが帯を解き、汗疹に風を入れていた時である。  さと子の肺門淋巴腺炎はごく初期だった。滋養をとり、半年もぶらぶらしていればよろしいと言われて、ほっとしたところだった。初太郎も昼寝をしているし、さと子も午後の安静時間で二階で横になっている。湿った札に風を入れ、赤くなった肌に天花粉をはたいているとき、玄関にとび込んで来たのである。 「いいでしょう、奥さん。生んでもいいと言って下さいよ」  あわてて締めた帯を気にしながら出て来たたみに、門倉は繰り返した。 「女房をどうこうしようっていうんじゃないんだ。あっちはちゃんと立てた上で、血のつながった子供が欲しいんですよ」  白麻のズボンの裾が泥と血に汚れている。どうも馬力《ばりき》にぶつかったらしいという。 「こりゃひどいわ。とにかく上って、足洗わなきゃ駄目だわ」 「そりゃいけない。水田のいない留守に上り込んで、靴下なんか脱いじゃいけないよ」 「怪我してる人がなに言ってるんですか。早く」  引っぱり上げようとしたたみは、茶の間のほうで、かすかな物音を聞いた。たみは小さく「あ」と叫ぶと、奥へ駈け込み、棒立ちになった。  初太郎のほうも、晒《さらし》を二重にしたたみの腹巻から、賞与の袋を出し、百円札を手にしたまま凍りついた。二人向い合って棒立ちになったところは出来の悪い菊人形である。 「おじいちゃん」 「貸してくれ。必ず返す。半年で倍にして返す」 「勘弁してくださいな」 「うまい山、めっけたんだよ。天竜のなあ」 「山はやらない約束でしょ」 「一回こっきり。これが最後だよ」 「最後、最後って、何度あたしたちを泣かせたら気が済むんですか」 「おれ一人じゃないんだ。金歯とイタチと三ナカでやるんだよ。金歯の奴、歯はずして金つくるってさ」  金歯とイタチは、初太郎の山師仲間である。三ナカというのは、三人合同でという意味あいらしい。 「おじいちゃんも自分で作ってくださいな」 「作れるくらいなら、嫁の肌着に手は掛けないよ」  たみは返してください、と札を引っぱり、初太郎は、 「盗っ人でいい。殴るなり蹴るなり好きにしてくれ」  しっかりと札を握ってはなさない。  うしろに立って聞いていた門倉が、 「おじいちゃん」  とやわらかく声をかけ、札を握ったままこわばった初太郎の指を、一本一本はずすようにするのだが、初太郎は、そうはさせまいとからだを二つ折りにして頑張っている。  門倉は手を離し、内ポケットから鰐皮の札入れを取り出した。 「やめて下さいよ、門倉さん」 「これは奥さん関係なし。ぼくとおじいちゃんの取引きですよ」 「お気持は嬉しいけど、それだけは。うちうちのことだし、こんなことから門倉さんとうちのお父さんが食い違ったりしたら、あたし嫌だもの」  門倉はたみの目を見て、うなずくと出しかけた札を仕舞った。  手の切れるような新しい百円札を見つめていた初太郎が、ポツリと呟いた。 「贋札《にせさつ》でも作るかな」  水っ洟《ぱな》をすすり精いっぱい笑ってみせたが、やはり泣き顔になった。 「おじいちゃん」  門倉は呼びとめると、 「贋札もいいけど、証文のほうがいいんじゃないの」  それから、たみに必死に頼み込んだ。 「奥さん。今日はぼくの一番嬉しい日だよ。その日に、笑ってる人間のすぐ隣りで、泣いてる人間がいるのは、辛《つら》いんですよ。うまれてくる子の景気づけと思って、見て見ぬ振りしてくれませんか」 「門倉さん、それとこれは別よ。あたし、お父さんに叱られます」 「水田には黙ってりゃあいいじゃないですか、めでたい日なんだから、この怪我に免じて」  言いかけて、 「おおっぴらにめでたいなんていうと叱られるかな」 「やっぱりおめでとうございますでしょうねえ」  自分もいくらか用立てるという門倉にこれ以上反対することは、子供の誕生にケチをつけるような気がして、たみはそれ以上押せなかった。  初太郎がじろりとたみを見た。  口ではめでたいと言っているが、門倉と禮子の間に子供が生れることを、お前さん心底から喜んじゃいないな、と言っている目であった。 「バタビヤ」を辞めた禮子にアパートを見つけたのは仙吉である。アパートを見つけながら、門倉がつき合っていた禮子以外の女に手切れ金を配って歩いたりするのだから大変である。 「驚いたねえ。門倉の奴、おれに隠してるのもいてさ。あんまり数が多いんで、言いにくかったんだな」  こういうとき、たみはあまり口を利かない。切れて駄目になった電球を使って、仙吉の靴下の繕いをしている。 「資生堂のパーラーで泣かれてねえ。どう見たってカフェの女給だから、みんな見るしさ。おれの女じゃありませんて看板下げとくわけにゃいかないし、もうくたびれたよ」  日頃のお返しに役に立つのはいいが、くたびれたくたびれたと愚痴をこぼす仙吉の口調に、いつにない弾んだものをかぎつけて、たみは面白くなかった。 「結構楽しかったんじゃないんですか」  仙吉は、「宮本武蔵」第二巻をひろげた。 「武蔵は、一梃の鎖鎌を外して手に取った」 「アパート、見つかったんですね」 「探すとなると無いもんだねえ。奴のうちと遠くてもいかん。近くてもいかん。いやもう」 「浮気の気分味わったでしょ」 「梅軒は醒《さ》めない。顔をのぞいて、武蔵は、鎌の刃を爪でひき出した」  たみは、ぎゅっと唇をつぶり針を動かしている。 「宮本武蔵」は随分人助けをしているな、とさと子はおかしくなった。  門倉の妻の君子が、仙吉のうちにやってきたのは、それから一週間ほどあとのことだった。  どういうつもりか、加賀紋のついた紗《しや》の羽織姿で、馬鹿でかいカステラの木箱を差し出し、折り目正しい挨拶をした。 「このたびはいろいろお世話になりましたようで」  仙吉夫婦はどきんとした。  目黒に見つけた禮子の文化アパートヘ、たみは岩田帯と犬張子を届けにゆき、棚の上の物を取ったり、バケツに水をいっぱい入れて持ってはいけないと諭《さと》し、丈夫ないい子供をうみなさいねと励まして帰ったばかりなのである。 「いやですよ。お世話になってるのはうちのほうですよ」 「そうだよ。門倉に病院紹介してもらったおかげでさと子も落着いたんだから」 「そんなのお世話のうちに入りませんわ」  たみの手が、そっと仙吉の尻を突ついた。 「あの、門倉、なにか」 「なにも申しませんけど、『持つべきものは友達だなあ』なんて。滅多にあんな声出す人じゃありませんもの」 「そりゃこっちのことばですよ。なあ」  うしろめたい分だけ仙吉の声は小さくなった。 「あたくしの気の利かない分、こちらさまで代ってくださってると思って、これだけはご挨拶しとかなくては心残り……」  いつも落着いている君子だが、とりわけこの晩は落着いていた。物静かな微笑まで浮かべている。「うちの女房は、腹立ててるときほど機嫌のいい顔するんだよ。昔、看護婦してた時分に、死にかけている病人に向って、大丈夫ですよ、必ずよくなりますよ、と言ってきかせた癖が直らないんじゃないかねえ」と門倉が言っていたことがあったが、このときもそういった按配であった。 「寝台戦友って陸軍さんだけなんですってねえ」 「海軍はハンモックですからねえ。寝台とは言わんでしょう」 「寝台戦友。ほんとにすばらしいわ」  また静かに笑いかけた。  夫の寝台の、つまり女の世話までしていただいて、と言われているようで、夫婦はまた小さくなった。 「そういえば、あの歌も題は『戦友』でしたわね」  君子は、低い声で、 「ここは御国を何百里」  と歌い出した。  仙吉ははっとした。 「はなれて遠き満州の 赤い夕陽に照らされて 友は野末の石の下」  頼まれもしないのに律義に一番を全部歌った。 「ほんとにいい歌。何度聞いても涙が出て来て。特にあたくし『あとに心は残れども』ってとこ大好き」 「あら、奥さんも。あたしもなんですよ」  たみが引き取って、あとは他愛のない世間ばなしになり、小一時間ほどで君子は帰っていった。  仙吉は、湯上りに足の爪を切る癖があった。  人間がごついせいか爪も分厚く固いので、湯上りのほうが切り易い。 「夜、爪切ると親の死に目に逢えませんよ」 「逢いたかないね」  吐き出すように言ったときに、手洗いから出てきた初太郎が仙吉のうしろを通ったので、夜具を敷きながら、たみは気を揉んだ。 「縁側へいってやって下さいよ」と言う代りに敷布団で追っぱらって、 「奥さん、知ってるのかしら」  君子のはなしになった。 「調べるつもりになりゃ判るだろ」 「奥さんともつきあいがあるのに、二号さん……」  たみは、ちょっとことばを呑み込んで、 「陰の人の世話やくこっちも悪いけど、禮子さんも身寄りがないらしいから」  仙吉は返事の代りに、パチンパチンと爪を飛ばしている。  たみは敷布を敷き、枕カバーの匂いを嗅《か》ぎながら鼻唄をうたった。 「あとに心は残れども 残しちゃならぬこのからだ  それじゃゆくよと別れたが ながの別れとなったのか」  仙吉が、ググッと喉《のど》のつまった声でうなった。  鋏《はさみ》をおっぽり出すと、たみと布団を蹴飛ばしてうちを飛び出していった。  君子は軒下に取り込んだ竿に、肌襦袢と腰巻を干していた。夜干しはすっきりと上らないが、二度と着ないつもりだから構いはしない。  どこかで赤んぼうが泣いたような気がするが、空耳かも知れない。食卓の書き置きをたしかめ、干した腰巻の皺《しわ》を叩いて伸ばした。それから昇汞水《しようこうすい》と大きく書いた紙の貼ってある瓶を手に持った。  飲めば死ねるものを手にして、なにかを待っているという感じだった。玄関のドアも縁側のガラス戸も、みな開けてある。  仙吉が飛び込んで来たのは、このときだった。  仙吉はものも言わず、昇汞水の瓶をもぎ取った。 「水田さん。あたし、生きてるの嫌になった」  身を揉んですすり上げる痩《や》せたからだを、仙吉は強く抱きしめた。いま出来ることはこれしかなかった。これしかないがこれから先、どうしたらいいのか。  はだけた君子の衿元《えりもと》から、白い胸がのぞいている。子供を生んだことがないせいか、いつか門倉が岡山から送ってくれた白桃のように大きく豊かである。目の下に大きな二つの白桃が息をして、すこしひしゃげて上ったり下ったりしている。 「奥さん」  ヘンなところから声が出たせいか、仙吉はかすれ声になった。  本当にこれから先どうしたらいいのか。立往生したとき、玄関に気配があった。仙吉は昇汞水の瓶を持って出ていった。  門倉は玄関の三和土《たたき》に立って、大きく外股に脱ぎ捨ててある仙吉の庭下駄を見ていた。  仙吉は昇汞水の瓶を門倉に突き出すと、目は見ないで、精いっぱい威張ってどなりつけた。 「女房泣かすような真似しちゃ駄目じゃないか。気をつけろ、馬鹿!」  門倉に瓶を渡し、そのまま反っくりかえって出ていった。  仙吉がうちへ帰ったとき、たみは風呂に入っていた。 「おい、おい」  いつもより少し威勢の悪い声でたみを呼んだ。 「もいっぺん風呂に入るぞ」 「いまお母さんが入ってます」  茶の間でレース編みをしていたさと子は、レースの目数を間違えないためか機械みたいな早口で、目を上げないで答えたので、仙吉は助かったような気分になった。  風呂場の曇りガラスの戸が指三本ほど開いている。そこから晒の白い紐《ひも》が這って、脱衣籠の腹巻につながっているのを仙吉は見つけて、いかに汗疹がかゆいからといって、女のくせに戸も閉めずに泡くって風呂に飛び込むとは何たるたしなみの無さかとあきれたが、すぐにそうではないことに気がついた。  たみは用心しているのだ。  用心しているのは賞与かそれとも臍《へそ》くりか。仙吉は何気なく腹巻のなかを覗《のぞ》いてみた。汗臭い札と一緒に借用証が出てきた。  金参百円也。父親の初太郎である。連帯保証人は門倉修造となっていた。 「だあれ? さと子かい」  ガラス戸の隙間《すきま》から、湯気と一緒にたみの顔がのぞき、仙吉を見て、 「お父さん」  と絶句した。  仙吉は黙って証文を仕舞い、何も言わずに出ていった。  初太郎は縁側に坐って、庭を見ていた。門倉が身銭を切って入れてくれた松や楓《かえで》は、暗くて薄ぼんやりとしか見えないが、初太郎の葛桜の目は、その向うにある見えない杉や檜の林を見ているのだ。仙吉はここでも何も言わず父親のうしろを通って茶の間へ戻った。  たみが湯上りの顔をほてらせて出て来たとき、仙吉は一升瓶を引き寄せてコップで冷や酒を飲んでいた。  証文のことでいきなりどなられるのを覚悟して坐ったが、仙吉はなにも言わない。 「門倉さんの奥さん……」  たみは用心しいしい口を利いた。 「なにかあったんじゃないんですか」 「いや別に」 「大丈夫なんですか」 「大丈夫だ」  それでお仕舞いである。たみはほっとしたが、まだ気は許していない。  ところが仙吉は、もうひとつコップを出すと、いっぱいに酒をついだ。 「あらお父さん、あたしは駄目ですよ。飲むと足の裏までかゆくなるから」  仙吉は答えの代りに、縁側の初太郎をあごでしゃくった。こんなことははじめてである。 「どしたんですか。なんだか変ねえ」  仙吉は答えの代りに、ごくごくと音を立ててコップ酒を飲んだ。  たみが初太郎のうしろに酒を置いた。初太郎はほんのすこし、口をつけ、また夜の庭へ目を移した。  土曜ごとのヴァイオリンの稽古は、夏いっぱいつづいた。先生が休みでも、門倉はやって来て、ふたりで合奏をした。やっと「蝶々」が弾けるようになった。仙吉は門倉に追いつこうとし、門倉はへたな仙吉にせいいっぱい合せようとした。たみは、冷たい麦茶を入れている。   蝶々 蝶々 菜の葉にとまれ   菜の葉にあいたら サクラにとまれ   サクラの花の 栄ゆる御代に   とまれよ遊べ 遊べよとまれ  さと子は、仙吉も門倉も、そしてたみも、このままのかたちがいつまでもつづくことを願っているにちがいないと思った。  仙吉とふたりのときのたみは、暮しに追われる三十九歳の主婦である。門倉とふたりだけでならんで坐っていたときは、学校の先生みたいにみえた。いま、ふたりの男の間にいて、ゆったりとうちわの風を送るたみは、別の女のようにみずみずしくみえる。たみは、汗っかきの仙吉をあおぎ、三度に一度の割合いで門倉にも風を送っていた。  青 り ん ご  新調のスキー服を着て、スキーとストックをかついだ仙吉が様子をつくり、門倉がライカを構えて撮っている。雪の中ならともかく、まだ青いものの残っている近所の原っぱだから、見物のたみもさと子もおかしくて仕方がない。  この間から、仙吉は犬を飼いたいと言い出して、たみと小競り合いをした。門倉が、ワイヤー・ヘアード・フォックス・テリヤという長ったらしい名前の西洋犬を飼った。名前の通り、針金のようにバリバリした剛《こわ》い毛をした大型犬である。仔が生れたら一頭もらう約束をしてきたのだが、たみは、餌代はどうなりますか、と反対した。すったもんだのあげく、スキーになったのである。 「スキーは毎日、肉食わないぞ」  ポマードでも、はやりことばでも、門倉の使うものは何でも真似をした。珍しい到来物があると、一番いいところを門倉のところへ届けさせた。松茸をもらっても、仙吉のうちには、傘のひらいたのと虫喰いしか残らなかった。  スキーの格好をしたせいか、仙吉は風邪を引き勤めを休んだ。欠勤が嫌いで、三十九度の熱があっても這うようにして出かけた仙吉にしては珍しいことである。風邪のせいか、どうも仙吉は元気がない。目下のところ、うち中で一番威勢のいいのは初太郎で、 「敵は幾万ありとても」  などと口ずさみ、廊下で出逢いがしらにたみとぶつかりそうになると、おどけて敬礼をしたりする。  門倉の口利きでたみに賞与の一部を用立ててもらい、あとはどこでどう工面したのか、山師仲間の金歯とイタチと組んでひと仕事するメドがついたらしい。  物音がしないので、昼寝でもしているのかとさと子が部屋を覗くと、鳥打ち帽を頭にのっけた初太郎が古ぼけた地図をひろげている。押入れが開いて、時代のついた小さな柳行李を引っぱり出し、地下足袋や雨合羽、水筒などが散らかっている。天竜あたりを眺めているのであろう。  産婆の帰りだといって、門倉の二号の禮子が寄ったのはそんな昼下りである。 「おかげさまで順調ですって」  そろそろおなかの目立つ禮子は、奥さんにそれだけ言いたくて、と玄関先で挨拶するとすぐに帰り支度になった。  たみと寝巻姿の仙吉が、手をとって引っぱり上げた。 「仇《かたき》のうちへ来ても、お茶ぐらい飲んでくもんだって言うじゃないの」 「いいんですか」  遠慮するのを押すようにして客間に通し、たみは仙吉の着替えを手伝いながら、 「苗字何ていうんですか」  小声でたずねた。 「奥さんて言うわけにはいかないでしょ」 「馬鹿だな、お前も。いちいち名前呼ばなくたって、はなしぐらい出来るだろ」  目の前に突きでたおなかがあると、どうしても生れてくる子供のはなしになってしまう。 「男の子じゃないかしらねえ」  たみが、禮子の顔をしげしげと眺めて、 「顔がきついもの」 「あら、顔がきついと男の子ですか。うちのほうはおなかが四角いと男の子だっていいますけど」 「腹、四角いんですか」  仙吉までまぶしそうにのぞき込んで、 「どっちにしても門倉、可愛がるよ。あいつ一日中おんぶして会社へ行かないんじゃないかねえ」  女たちを笑わせたところで、 「ごめんくださいまし」  玄関で女の声がした。 「どなたかお客さま」  言いかけた禮子は、ぎくりとして顔を見合せた夫婦から相手が誰か見当がついたらしい。 「あたし、お勝手から」  失礼します、と腰を浮かした。  仙吉は片手拝みに拝みかけたが、たみは素早く、茶の間でつまみ食いをしているさと子を呼んだ。 「お客様、お前の部屋」  二階へご案内しなさいということばは目くばせで、玄関へ駈け出した。 「すみません、お待たせして。いま着替えしてたとこなもんで」  言いながら、沓脱の上にならべてあるコルクの上に畳表のついた禮子の草履を下駄箱にほうり込み、禮子が二階へ上るのを見とどけて衣紋《えもん》などつくろいながら、にこやかに玄関の戸をあけるあたりは、隅に置けない芝居上手である。  客は門倉の妻君子だった。 「駅前まで刺繍の糸を買いに出たもんで。それとちょっとお目にかけたいものがあって」  客間では茶碗や茶菓子を引っこめようと右往左往している仙吉の姿が見えた。  禮子は、二階の出窓に斜めに腰かけて空を見ていた。おなかが出っ張ると胸も張ってくるのか、禮子の姿は英語のBという字そっくりだった。  さと子は、自分の花柄の座布団を差し出しながら、下に本妻がいて、二階におなかの大きい二号さんがいるという場面は、読みかけの「明治大正文学全集」のどこにも載っていないな、と思った。  階下からは、父や母の声にまじって、もう一人の女の話し声笑い声が聞えてくる。禮子はそんなものは全く耳に入らない風に、屈託のない顔をしている。  どう話しかけていいか判らないので、さと子は立てかけてあった琴をおろした。  爪弾きはじめると、禮子がそばへ来て坐った。 「いくつから習ったの」  返事の代りに、さと子は両手をひろげてみせた。琴は数えの十歳ではじめたのである。 「あたしはその頃、これ」  禮子は、背中に赤子を背負いあやす真似をしてみせた。子守りをしていたということらしい。 「それから──」  拭き掃除のしぐさをしてみせ、もう一度それから、といって、さと子にしなだれかかり、横目を使って酒をつぐ格好をした。 「ずうっと働いてたでしょ。大正琴はいたずらしたことあるけど、本物のお琴はさわったことないのよ」  さと子は琴爪を差し出した。  禮子はおっかなびっくり絃をはじいた。ボヨヨンとおかしな音が出てしまい、二人の女は折り重なるようにして笑いをこらえた。  君子は勿体ぶった手つきで紫の風呂敷から若い男の写真を出して見せていた。さと子の縁談を持ってきたのである。 「奥さん」  無精ひげを気にしながら、仙吉が写真を押しやって頭を下げた。 「お心にかけていただくのは嬉しいんですが、うちのさと子、まだ十八だから」 「十八はすぐ十九になるのよ。十九になったらアッという間にはたちになって、気がついたら二十一になってるんですよ」 「そりゃそうですけど、まだここが」  たみが胸を押えてみせた。 「治ったも同然だっておっしゃってたじゃないの。病いは気から。いいおはなしがありゃ肺門淋巴腺炎なんてすっ飛んでしまいますよ。元看護婦が言うんだから間違いなし」  うなずきながら、もうひとつ浮かぬ顔の夫婦に、 「あたしの持ってきた縁談じゃお嫌かしら」 「とんでもない」 「だったら、逢うだけでも逢って下さいな。あたしもひとつくらいはお役に立ちたいんですよ」  ことばはやわらかいが、夫婦をのぞき込む目の色には有無《うむ》を言わさないものがあった。  さと子は生れてはじめて見合いをした。  お下げの髪をおろして大きなリボンをつけ、お化粧をしてもらったら、鏡のなかの顔が母親そっくりになった。  見合いの相手は、辻[#底本では二点のしんにゅう。以下すべて]村研一郎といい、来年三月に帝大を卒業する。さと子は、帝大という言葉に、もう半分恋をしていた。  仙吉とたみのうしろから、門倉のうちの門を入ると、大きな犬小屋から、ワイヤー・ヘアード・フォックス・テリヤが顔を出した。 「バロン」  と声をかけ、頭をなでると、熱い舌がさと子の顔をなめた。大きいけものに甘えられるのは悪くない気持で、なまぐさい匂いも嫌ではなかった。  辻村は、怒ったような顔をして坐っていた。あごの下に、小さな剃刀傷があり、血がこびりついているのが見えた。色白の凛凛《りり》しい顔によく似合って、さと子はどきんとしてからだが熱くなるのが判った。門倉ははしゃぎ、君子は立ったり坐ったりして気を遣った。たみはさと子と同じのぼせた顔で、口で息をしていた。くる途中は何故かふさぎ気味だった仙吉も、辻村の顔を見ると、おかしくもないのに笑ったりして、これもいささか逆上気味だった。  はなしがとぎれて、柱時計の音が急に大きくなった。君子が、 「さと子さん、お琴なさるんですよ」  目顔で辻村をうながした。 「琴の糸、何本ですか」  さと子が答える前に、動転してしまったのはたみだった。 「あ、何本だったかしら。やだ、何本だったろ」 「馬鹿、お前に聞いてんじゃない」  仙吉がどなり、さと子が、 「十三本です」  と答えた。たみはハンカチで汗を拭いていた。  また、はなしがとぎれた。門倉が、 「十三て数は、外国じゃ、縁起が悪いというなあ」 「縁起のいいおはなし、してくださいな」  おっかない顔をして君子がさえぎった。 「あのう、実家《さと》の母ですけど、地震のとき」  と泡くってたみがいい、 「地震のどこが縁起がいいんだ!」  仙吉がどなった。 「ですから、そういうとき『鶴亀』『鶴亀』って言うんですよ、って言おうとおもったんじゃないの」  門倉が、 「先、聞いてからどなれよ」  仙吉をたしなめた。はなしが弾んだのは、それからだった。  新しいスキーの道具が入ったぞ、と門倉が仙吉を書斎に誘った。おれ達ははずしたほうがいいという合図である。 「滑り初《ぞ》めはやっぱり赤倉かなあ」  正ちゃん帽の先に毛糸玉のついた舶来のスキー帽は門倉には似合ったが、仙吉がかぶると漫画になった。漫画にしては深刻な顔である。 「見合いだけどなあ、断ってくれないか」 「気がすすまないのは判ってたよ。ただ、なんていうか、こういう形で、まじりたい、なかに入りたいっていううちの奴の気持も判るんで、よせとは言えなくてさ」  仙吉はスキー帽を脱いで、テーブルにのせた。 「金のかかることは駄目なんだよ」 「嫁入り支度だったら、おれにも助《す》けさせてくれよ」 「使い込みが判っちまってさ」 「使い込みって、お前がか」 「おれに使い込みが出来りゃ、もうちょっと偉くなってるよ」  使い込みをしたのは、高松支店長をしていたときの次長だという。お前が弁償することはないだろうという門倉に、仙吉は、「ひびくんだよ」と呟いた。 「おれ、夜学だからな。それでなくたって一段低く見られてるんだ。表沙汰になったら」 「出世に障《さわ》るか」 「出世ってほどの大会社じゃないよ」 「大きい小さいは関係ないさ」 「真面目に働きゃいいってもんじゃないね。どうもおれは」  言いかけて、きついな、これは、とスキー手袋をはずした。 「神仏《かみほとけ》か、そういうのに可愛がられないように出来てるらしい」 「いくらだい」 「さと子の胸も、まだ本当じゃないから、そのへん理由に、ひとつ、上手に断ってくれや」 「いくらだと聞いてるんだ」 「人を馬鹿にしないでくれ。用立ててもらおうと思って言ったんじゃないよ」 「人、馬鹿にしてるのはそっちだろう。おれは役に立たないのか。おれには都合のつかない金か」  門倉は口をつぐむ仙吉を問いつめ、部下の使い込み金が五千円であることをつきとめた。 「あした一番で届ける」  仙吉はなにか言いかけて、そのままうつむいてしまった。それから、脱いだスキー帽で門倉を殴りつけた。何度も何度も殴った。  その晩、夫から事情を打ちあけられたたみは、しばらく布団の上に坐っていた。腹這いになって煙草を喫っていた仙吉も起き上り、壁の日めくりをビリッと一枚めくった。うしろを向いたまま、 「あいつはおれに用立てたんじゃないよ」  と言った。 「お前が泣くの、見たくなかったんじゃないのか」  何度も水を潜《くぐ》った仙吉の浴衣の寝巻が、闇のなかで急に見すぼらしく見えた。六畳の空気が重たくなった。こういうときは大きな息をしたり溜息をついたりしてはいけない。だが、それも一瞬のことで、 「物好きな男だよ、あいつも。工場のほうも資金繰りが忙しいってのに」  振り向いた仙吉は、 「あけ方は冷えるっていってたぞ」 「毛布出しときましょうか」  いつもの夫婦にもどっていた。  さと子も遅くまで寝つかれず、寝返りばかり打っていた。暗い天井に、水田さと子と書いて消し、辻村さと子と書いてみたりした。  だが、見合いは断ることになった。  若過ぎるし、胸が治り切っていないから、というのが表向きの口上だったが、仙吉がポツリと洩らした。 「おれの器量からいやあ、帝大出の婿は気が重いな」  それと、他人に金を用立ててもらってて縁談でもないだろうというのが本当の理由である。  門倉も積極的にすすめなかった。君子の仲介《なかだち》でさと子を結婚させるのは、気がすすまない、というところがあった。  さと子は、ふさいでいた。たみは、見合いはこちらから断ったと言っているが、向うに断られたに決っている。気持を傷つけないためにそう言っているとしか思えなかった。あれがいけなかったのだ。見合いの席で気を利かした君子が、たみをさそって庭に下り、若いふたりだけにしたのだか、そのとき、辻村が、 「新聞、どちらから読みますか」  とたずねた。 「うしろの、三面記事からです」  答えてから、しまったと思った。 「女はそのほうがいいですよ」  思いがけないことばに、はじめて辻村の目を見て、やさしい人だな、と思ったのだが、やはりあれはお世辞だった。  さと子は、「滋養をとらないと、体が本当にならないよ。お見合いしても、また断らなくちゃならないよ」とたみがすすめる牛乳を、そっと流しに捨て、布巾で涙を拭いた。  心が晴れないときは、上天気より雨の日のほうがしっくりしていい。さと子は、二階から外を見ていた。 「巷に雨の降るごとく  わが心にも 雨ぞ降る」  自分に詩が作れたら、こううたっていたと思った。ヴェルレーヌという人も、見合いをして断られたのだろうか。  蛇の目をさし、雨ゴートに中歯《ちゆうば》という格好でたみがお使いに出ていった。一輪ざしの水も取りかえてやらないので、小菊は枯れ、水が腐ったのか青みどろのような匂いがする。  台所で戸をあけたてする音がするので、野良猫でも入ったかと下りてみたら、初太郎が酒を探していた。  たみの留守を狙ったように、昔の山師仲間がたずねてきたのである。客は同じ年格好の老人で金歯とイタチだという。イタチは顔が似ていたが、金歯は真白な歯をしている。一本も金歯は見当らないが、これは景気のいいときに金やプラチナを歯にかぶせ、いざという時には売って|もとで《ヽヽヽ》にするのだと聞いて、さと子は魂消《たまげ》てしまった。  金歯とイタチの前で、初太郎は別の人間だった。仙吉がヴァイオリンを習おうと、さと子が見合いをしようと、一切無関心だった老人が、昼酒に酔い、歯の土手でするめをしゃぶりながら、木曾の檜や秋田の杉についてしゃべっている。祖父の威厳をみせて、 「ぼおっとしてないで、お酌しなさい」  と言ったりする。  さと子が馴れない手つきで、金歯に酌をしたとき、襖があいた。仙吉である。 「何やってんだ。芸者じゃないんだぞ。お前は」  それから、たみ、たみ、とどなった。急に出張することになったので、鞄《かばん》と猿股をとりに来たという。 「お母さん帰ってきたら、わけのわからん連中をうちに上げるなと言え」  手荒くしめた襖が反動でまた開いてしまった。初太郎は盃を置き、金歯は何も見なかった聞かなかったという顔で立ち上った。 「ぼつぼつ行くか」  イタチは意地汚く残りの酒を飲み、するめをポケットに仕舞った。初太郎がよおと手を上げた。ふたりとも、はなしは威勢がよかったが、靴は可哀そうなほどくたびれていた。仙吉は、箪笥の抽斗《ひきだし》を全部あけ、下着をカバンにほうり込んでいた。  雨は夜中までやまなかった。  夜鍋《よなべ》をしながらうたた寝をしていたたみは、玄関を叩く音で目をさました。 「はい。お帰りなさい」  仕立物を蹴とばして玄関へとび出し、鍵をあける段になって気がついた。 「あらお父さん。出張やめになったんですか」  立っていたのは、門倉だった。吹き降りの雨で髪も洋服もずぶ濡れだった。 「奥さん。会社、つぶれました」  新しく開発したアルマイトの折り畳み式弁当箱は、はじめは当ったものの、競争相手続出で苦しいらしいと、仙吉から聞いてはいたが、まさかと思っていた。 「せいせいしたなあ。負け惜しみじゃなくて本当の気持ですよ。軍需景気のおかげで、大したことない人間が社長なんておだてられて、倍にも三倍にもでっかく見せて無理してたのが、もとにもどっただけですよ。何もがっかりすることはないんだ」  これで「もとっこ」ですよ、と門倉は笑った。目は血走り、無精ひげが伸びていた。 「むさ苦しいとこ、お目にかけてすみません。今まで債権者にやられてたもんだから。一番先に奥さんに知らせたくて」  たみは、襟にかけていた手拭いをはずして、門倉に手渡した。髪のしずくを拭いてもらいたかった。それから、台所へ走った。灯を節約した暗い廊下を、別珍の臙脂《えんじ》の足袋が走った。一升瓶とコップを掴むと取ってかえし、手拭いで濡れた肩を拭いている門倉にコップを持たせた。なみなみと、あふれるほど酒をついだ。 「素寒貧《すかんぴん》になったけど、奥さん、今まで通りつきあってもらえますか」 「門倉さん。あたし、うれしいのよ」  一升瓶を胸に抱えるようにして、たみは言った。 「門倉さんの仕事がお盛んなのはいいけど、うちのお父さんと開きがあり過ぎて、あたし、辛かった。口惜しかった。これで同じだとおもうと、うれしい」 「ありがとう。いただきます」  門倉はぐっとひと息にあけた。  もしかしたら、これは、ラブ・シーンというものではないか。梯子段《はしごだん》の途中までおりかけ、そこでためらっていた素足のさと子は息が苦しくなった。  狭苦しい玄関の三和土いっぱいに犬小屋があった。  門倉の新しい住居は、仙吉から見ても粗末の一語であった。表札がわりの名刺が貼ってあった。こんなところに長く居てたまるかという門倉の気持が仙吉には痛いほど判った。  顔馴染みのバロンが飛びついてきた。 「バロン」  と呼ぶと、ワイヤー・ヘアードという名前通り、ワイヤーブラシのような剛《こわ》い尻尾を振って飛びついてきた。餌が悪くなったのか手入れがよくないのか、毛艶が落ち、顔つきも面やつれしてみえた。ところが、 「まあ水田さん」  小走りに出てきた君子は、前の大きなうちにいた時分より艶々してみえる。 「奥さん、申しわけありません」  上りかまちに両手をついて、と言いたいが、犬小屋の屋根に両手をつき、からだをおかしな方向にねじ曲げて、仙吉は詫びた。 「自分の不始末から、門倉に無理な金、都合させたんですよ。あの金がありゃ、ここまでのこと、なくても済んだんじゃないかと」 「反対よ。あたし、水田さんにお礼言いたいの」  白い割烹着《かつぽうぎ》の君子は、姐様《あねさま》かぶりの手拭いをはずして頭を下げた。 「お金がないっていいことねえ。あの人、三日に一度はうちでご飯食べてくれますもの。夫婦らしい暮ししたの、久しぶり」  水田さんのおかげよと笑う君子は、たしかに五つ六つ若返ってみえた。  そこまで煙草を買いに出る、という門倉と一緒に仙吉はうちを出た。酒屋の裏手までくると、門倉は、「おい」と仙吉の脇腹を突つき封筒を渡してよこした。 「あっちへとどけてくれないか」  二号の禮子は産み月が迫っていた。 「毎日債権者と話し合いで、行けないんだ。あっちには潰れたこと言えないからな」 「文化アパート、そのままか」 「おう」 「かなり、かかるだろ」 「もうすぐ生れるんだ。言えないよ」  門倉も犬のバロンと同じくらい面やつれしている。男ぶりのいいのがやつれるのを見るのは痛々しい気がして、仙吉は目をそらした。 「男の見栄ってやつだ。笑ってくれ」  門倉は、ははは、と笑ったが、仙吉は笑うことが出来なかった。  禮子は、金の入った包みをすぐには受取らなかった。 「あの人、仕事のほう思わしくないんじゃないですか」 「いや。軍需景気で、奴の開発したアルマイトの折り畳み式弁当箱は」 「嘘!」  身ごもったせいか禮子は眉が薄くなった。そのせいか、ひと皮まぶたの細い目は一層つり上ってみえた。 「あたし、工場へ行ってみたんです。赤い旗が立ってさわいでるな、と思ったら、この間から工場、閉じてるんです。門がしまって、守衛さんもいなくなって、門倉金属の看板もはずされて」  仙吉は、ゴールデン・バットをくわえ、火をつけた。 「奴に惚れたんじゃあないんですか」 「惚れたわよ。惚れてなきゃ籍も入ってないのに、子供なんかうめないわ」 「惚れたんなら、男の言うこと、信用してやってくださいよ。奴の会社は景気よくやってるよ。心配しないで、丈夫な子を生んで、奴をよろこばしてやってくださいよ」  禮子は、子供みたいにこくんとうなずくと金包みを押しいただいた。細い目から、えんどう豆ほどの大粒の涙がぱらぱらっとこぼれた。こぼれた涙が、これもこぼれそうに突き出した腹の上に落ちてゆくのを、仙吉は辛い気持で眺めていた。  その晩、仙吉はたみをぶん殴ってしまった。  へそくりを出してやってくれ、と頼んだのを、 「そんなもの、ありませんよ」  たみが断ったからである。 「ないわけないだろう。お前ほどの女が、へそくりがないなんて、そんな馬鹿なことがあるか」  おれは生れてはじめて月給の前借りをした。門倉のために、おなかの子供のために、お前の分としてアパートヘ金を届けてやりたいと仙吉は頼んだが、たみは首を振った。 「あたし、出せません。へそくりはあるけど、出したくないの」  仙吉の手がたみの頬で激しい音を立てた。  たみの気持は判らないでもないが、無性に腹が立った。持ってゆき場のない気持を、どうしたらいいか見当がつかなかった。大切にしている大きな壺でもあったら、それを叩きこわしたかった。仙吉は自分を殴る代りに、たみを殴ったような気がしていた。どなるのは毎日のことだが、手を上げたのは十年ぶりのことである。  稽古ごとは、終ってからのほうがたのしいものである。琴のお師匠さんにありがとうございましたとお辞儀をしておもてへ出る。相弟子と三人五人連れ立って、ターキーとオリエ津阪とどっちが好きかなどとしゃべりながら、蜜豆を食べたりするのだが、この日だけはそういう具合にいかなかった。見合いをした辻村研一郎が、電柱のかげに立っていたからである。  さと子は、はじめて、男と喫茶店に入った。「蛾房」という暗い小さな店である。珈琲《コーヒー》の香りで、めまいがするようだった。 「うちでは、飲ませてくれないんです。女の子が珈琲のむと色が黒くなるって、父が……」  辻村は笑いながら、砂糖をいれてくれた。  辻村は断った本当の理由を聞かせて欲しいと言う。 「反対です。あたし、新聞を三面記事から読むっていったでしょう。それで断られたとおもってました」 「ぼくは、あのとき、あ、いい人だなって」 「お見合いして断ったのに逢うのは、いけないことではないでしょうか」 「自由恋愛なら、いいじゃないですか」  男とふたりだけでのむ黒くて重たい液体と自由恋愛ということばに、さと子は体が熱くなった。  この日、さと子は嘘をついた。友達とお汁粉を食べて遅くなったと言い訳をした。嘘と珈琲はよく似合うことに気がついた。  夜遅くなって門倉が来た。青りんごというのを手土産に持って遊びにきたのだ。青いくせにすっぱくない。珍しいので千疋屋あたりで大流行《おおはや》りだという。  たみが大事そうに皮をむいた。途中で切るまいと気を遣い、長く垂らしてむく手許を、仙吉と門倉がじっとみている。食べてみると一人前の赤いりんごの味がした。  さと子は、一番大事なことは、人にいわないものだということも判った。白い歯をみせてサクサクと青りんごを食べる母も、父も、門倉のおじさんも、みな本当のことはいわないで生きている。大人の仲間入りをしたような気がしたさと子は、サクサクという噛み音を母と合せるようにして口を動かした。  仙吉が不意に頬を押えた。 「うむ、沁《し》みる」  奥のほうに虫歯があって大きな洞《うろ》が出来ているのだが、歯医者のおっかない仙吉は治療を一日延ばしにしているのである。  やじろべえ  仙吉は朝の町を韋駄天《いだてん》走りで走っていた。新聞配達を抜き牛乳屋を追い越し納豆売りを突き飛ばして、オリンピック・マラソンの村社講平《むらこそこうへい》になったような気がした。  禮子に男の子が生れたのだ。夜中からたみと一緒に文化アパートに泊り込みで詰め、いましがた産ぶ声を聞いたばかりである。肺炎で寝ている門倉に一刻も早く知らせたかった。  門倉は君子に芥子《からし》の湿布を取り替えてもらっていた。白いネルの布に水で溶いた芥子をべったりと塗りつけ胸に貼って熱を取るのである。肋《あばら》の浮いた門倉の胸に油紙をあてる君子のそばに、熱でカパカパに乾きひび割れた使用済みの湿布があった。  新しい芥子が目に沁みる。仙吉は涙を拭いた。 「峠は越したそうじゃないか」 「肺炎なんて子供の病気だと思ってたよ」  子供というところに意味をもたせて、門倉は目で仙吉に問いかけた。仙吉は言いたい。門倉も聞きたい。だが君子はそばを離れない。 「どうなすったの、水田さん。こんなに早く」 「早番なもんで。会社のゆきがけに見舞いにね」 「部長さんにもなって早番があるんですか。それに、おひげも剃《そ》らないで、会社へいらっしゃるの」  いいところをついてくるのである。 「気になったもんで。おい門倉、会社盛り返したって社長がくたばっちゃ元も子もないぞ」 「人の説教より、ひげ剃ってけよ。おい、蒸しタオル」  やっとのことで君子を追っぱらった。 「ウマレタ」  声を出さす唇だけでしゃべると、どういうわけか電報になる。 「オトコ」  白くひび割れた門倉の唇が、男と復唱した。 「ボシトモニゲンキ」  君子が入ってきて、「熱上ったんじゃないの」と額をくっつけた。 「どしたんですか。男のくせに涙なんかこぼして」  目尻の涙を君子は指で拭いてやった。 「四十度の熱が続けば気も弱くなるよなあ」  門倉の目尻から、また涙が伝わった。  仙吉は、ひび割れた芥子の湿布を踏んづけないようにそっと立って、玄関へいった。格子戸の隙間から朝刊が差し込まれている。支那をめぐる情勢はますます風雲急である。バロンをかまいながら、門倉の子が徴兵検査までには、あと二十年だなあと当り前のことを考えて溜息をついた。  さと子と辻村は、琴の稽古の帰りに、「蛾房」で落ち合い、珈琲を飲んだ。  辻村は厨川白村《くりやがわはくそん》や美濃部達吉の話題が多かったし、さと子はもっぱら父と母と門倉のことだった。 「愛だな、それは」 「でも、うちの母と門倉のおじさんは、手を握ったこともないと思うんです。手どころか、ことばに出して好きだと言ったこともないと思うわ。父も知っていると思うんです。知っているのに、ひとことも言わないで、かえって、それを自慢におもっているところがあるみたい。それでも愛っていうんでしょうか」 「やっぱり愛だと思うな。プラトニック・ラブですよ」  字で読んだことはあるが、男の口から聞くのははじめてだった。 「北村透谷が言い出したことばです。肉欲を排した精神的恋愛という意味です」 「恋愛。やっぱりそうなのねえ」  恋愛ということばを、声に出してしゃべり、今まで誰にも話したことのない父と母と門倉のことを話すことは、これも恋愛の一種ではないかと思いながら、辻村のすすめで砂糖を入れない珈琲をのんでみた。苦《にが》くて中将湯《ちゆうじようとう》のような味がした。  玄関を入ったところでさと子は、いきなり仙吉に頬を打たれた。辻村と逢っていたことが判ったらしい。 「おれはな、そういうけじめのない真似は大嫌いなんだ。いったん断った相手だぞ。親に嘘ついて密会するとは何事だ」  言うだけ言うと、仙吉は茶の間へ引っ込んだ。 「お前、嘘ついてたね」  玄関の鍵をしめながら、たみは今までにない目の色でさと子を見た。 「お稽古の帰りに、お友達とお汁粉食べて来たっての、嘘だったんだろ」  子供だと安心していたのが、急に自分と同じ女になっていたという、狼狽《ろうばい》とほんの少量の意地悪さ。さと子は、お母さんと同じプラトニック・ラブよ、と言いたいのをこらえていた。湯加減の催促をする仙吉に答えながら小走りに駈け込むたみの足音に、仙吉への媚《こ》びを感じながら、さと子は下駄を揃えた。  初太郎がやわらかくさと子の頭を小突き、袂から鉄砲玉をひとつ出して、てのひらにのせてくれた。袂のごみや刻みたばこがついている黒い飴玉を口に入れて、右のほっぺたにやり左のほっぺたにやりしていたら、わけのわからない涙がこぼれた。  琴の稽古には初太郎が送り迎えをすることになった。辻村と逢っているのが判ったとき、気短かな仙吉は、「もう琴の稽古など止《や》めてしまえ」といきまいたが、たみは、どうしてやめたかということになると縁談に障《さわ》るから、と監視つきで当分つづけることになったのである。  ところが、次の稽古日の夕方、初太郎はひとりで帰ってきた。 「さと子、一緒じゃなかったんですか」  お師匠さんのうちの前で待っていてくれたんじゃないんですか、とたずねると、 「待っていたことは待っていたんだが」  繰返すだけで要領を得ない。仙吉も一緒になって問いつめると、どうも琴の師匠の門前にトランクを提げた学生が立っていて、出てきたさと子を連れていったということらしい。 「その人と逢わせないために、おじいちゃんがついていったんじゃないの」  いきり立ったところで、 「帰りには豆腐屋に逢わなかったぞ」  自分に都合が悪くなると、ボケた振りでごまかすのがこの老人の癖である。 「部屋をしらべろ」  仙吉が大きな音を立てて梯子段を駈け上り、たみもあとに続いた。  洋服も着物も持ち出した形跡はなかったが、紙屑籠のなかから、いたずら書きがみつかった。  辻村研一郎。辻村さと子。プラトニック・ラブ。北村透谷の文字があった。もう一枚には駈落。鬼怒川塩原。とあり、塩原は棒線を引いて消してあった。更に水月の字も読めた。  仙吉とたみは、着替えもそこそこで東武電車に揺られていた。 「お父さん。北村透谷って自殺した人じゃないんですか」 「縁起でもないこと言うな」 「大丈夫。間に合うわよ」  ことばは威勢がいいが、声のほうは急に涙声になった。たみは袖口から長襦袢を引っぱり出して、目を拭いた。 「旅館に着いていきなり死にゃしませんよ。その晩は」  寝て、と言うことばは、泡くって呑み込んだ。 「その晩はなんなんだ」 「ですからゆっくり──眠って」 「プラトニック・ラブって書いてあったろ」 「でもあたし、お父さんと一緒になったの、十九よ」  そのあと仙吉は、鬼怒川へ着くまで口を利かなかった。  水月という旅館はすぐ見つかったが、駈落騒ぎは行き違いということが判った。東京の門倉から電話が入って、さと子はうちへ帰っているという。  耳がつぶれるほど受話器を押しつけ、ガアガア雑音の入るのを、大声でどなりながら聞いた門倉の説明によると、間違っても仕方のないことが重なったらしい。  迎えに行った初太郎のほうにも金歯が逢いに来て、仲間のイタチになけなしの資金を猫ババされたはなしをしていたところへ、父親の病気で郷里へ帰っていた辻村がトランクを提げて駅からじかにやってきた。初太郎は自分のはなしに夢中て、孫のほうは見て見ぬ振りをしたのであろう。 「なんだって駈落だの鬼怒川だのと書いたんだ」  仙吉は電話口に八つあたりした。 「そう誘われたらどうしようと思って書いたんだとさ」  塩原と書いて消したのは、塩原多助を思いだして興ざめしたから。水月という名の旅館は、お琴の師匠のところで読んだ講談本にあったと聞いて、仙吉もたみも拍子抜けで帳場に坐り込みたくなった。 「せっかく鬼怒川まで行ったんだ。今晩は温泉にでも入ってゆっくりして来いよ。お前たち、新婚旅行してないって言ってたろ」 「そんなもの、おれたちの身分で」 「テレるとどなるのは、お前の悪い癖だぞ」  くわしいはなしは帰ってから、と電話を切りかけた門倉を、仙吉は「待て、切るなよ」ととめた。 「お前、こないか」 「こいって、鬼怒川へか」 「おう」 「なに言ってるんだ。夫婦水入らずでやれよ。こんなことは一生にいっぺんだぞ」 「だから呼びたいんだよ」  お父さん、とたみが仙吉の袖を引っぱったが、仙吉は取り合わず、受話器に向ってどなった。 「お前の仕事も盛り返したし、肺炎の全快祝いも兼ねて飲もうじゃないか。こいよ。電車が終ってたら、円タク飛ばしてこいよ」  嫌と言わせない口調だった。 「いいのか」 「待ってる」  電話を切った仙吉の横で、たみが詰めていた息を大きく吐いた。  どてらに着替え、夫婦差し向いで炬燵《こたつ》に入ったものの格別のはなしはなかった。温泉の湯気で髪が濡れたせいか、どてらの上に羽織った半纏《はんてん》の黒い別珍の衿のせいか、たみはいつになくなまめいて見えた。受けこたえが上《うわ》の空で、からだを固くしているのが判る。門倉を待つ気持を悟られまいとしているのか。 「まだ着かないだろう。ひとっ風呂浴びてくる」  仙吉は、二度目か三度目の風呂に立っていった。  岩風呂をかたどった湯舟にからだを沈めていると、戸があいて湯気の向うから風呂番の老人の顔がのぞいた。 「すぐ上ってくださいな」  湯を落すのかい、と言いかけると、シッと声をひそめて、 「猿股だけははいときなよ。いざってとき、みっともないから」  脱衣籠を抱えさせると、いきなり電気を消した。 「布団部屋にかくれてな。前《ぜん》にも鉢合せして、刃物三昧《はものざんまい》になったことがあるんだよ」 「鉢合せって、誰と」  広くとった天窓からさし込む月明りのなかで、風呂番が小汚い親指を立てているのが見えた。 「お客さん、駈落だろ」  門倉もたみも、釣られて仙吉も涙をこぼして笑い転げた。 「お前たち夫婦が駈落と思われたわけだ」 「東京から円タク飛ばして亭主が乗り込んで来たと思ったんだ」  三人は、炬燵に折り重なるようにしてまた笑った。 「おれが間男」  くくと仙吉がのどを鳴らし、 「奥さんとおれが夫婦」  門倉が胸ポケットからハンカチを出して涙を拭いたが、そのあと、誰もなにもいわない真白な間があいてしまった。  その晩、仙吉と門倉はしたたかに酔った。 「おれ、先死んだらなあ」  門倉の盃に酒をついでから、仙吉がすこし改まって切り出した。 「馬鹿言うな」 「まあ聞けよ。おれが死んだら、頼むぞ」  ちらりとたみを見て繰返した。 「たのむぞ」  門倉は黙って盃を含み、たみは塩豆をひと粒ずつ前歯で割っていた。 「シャキシャキしているようで抜けてるから、お前、たのむぞ」 「その代り、おれが先死んだら」 「おう。子供はおれたちで育ててやる。なあ」  たみは大きくうなずいた。 「おれは、男としての器量がないから、子供の面倒しか見られないけどさ」  門倉が仙吉に酌をして、仙吉がつぎ返した。 「来世なんて、おれは信じないけど」  珍しくしみじみと門倉が言った。 「もういっぺん生れ変っても、こういう具合にいきたいね」  門倉の先細の長い指が、仙吉夫婦を指し、少し置いて自分を指さした。仙吉が首を振った。 「いや。今度はこう──」  仙吉のずんぐりむっくりした指が、門倉とたみをひとつにまとめ、自分ひとりを別にした。 「今晩間違えられた通りでいい。おれはこっちでいいや」 「なに言ってんだ。馬鹿」  三人はまたすこし笑った。  仙吉と門倉は更に徳利を三本ばかり倒して、炬燵に足を入れたまま畳に伸びてしまった。  たみは眠れなかった。  炬燵のなかには、二人の男の足がある。大の字になっている、甲高盤広のずんぐりした足は、仙吉である。たみのほうを避け、反対側に寄っているのは、骨ばって大きい門倉の足である。見なくても判っている。  たみの白い素足が、門倉の足のほうに探るように近づいた。もうすこし、というところで、たみの足がとまり、またもとへ戻った。二人の男は安らかな顔をして寝息を立てていた。  君子が仙吉の家へやって来たのは、夫婦が鬼怒川から帰ってすぐだった。 「申しわけありません」  仙吉は玄関に手をついた。 「落着いたら雁首揃えてお詫びにあがろうと言ってたとこなんですよ。見合いを断っといてかげで勝手につき合ってたとは」 「結構なことじゃありませんか。お似合いと思ったからこそおすすめしたご縁ですもの。実はつき合っていましたなんて、仲人役としては、かえって鼻が高いわ」  そのはなしで伺ったのではないと客間に通り、夫婦を前に改まって切り出した。 「実は、あたくし別れようと思って」 「別れるって、門倉さんとですか」  思わず口をすべらせたたみを、君子は微笑みながらおだやかに見つめた。 「ほかに誰がいます?」  茶の支度をして客間に入ろうとしたさと子は、襖のかげで身を固くした。早く茶を出して、出かけたいところがあるのだが、いま入っては具合が悪そうである。 「わたくしが身を退けば、八方丸く納まるんじゃありませんこと?」 「そう簡単に言われても」  仙吉は弱り切って、たみを突つき、たみも夫を突つき返してゆずり合っている。 「そういう問題は夫婦で話し合って、他人がくちばし入れることじゃないでしょう」 「そうですよ。でも水田さんたちは別よ。あたくし、水田さんに決めていただきたいの。水田さんというよりも奥さんに」  君子は、正面からたみと向き合った。いつもの取り澄ました微笑は消えていた。 「奥さんのおっしゃることは、うちの主人、聞きますもの。そうでしょ」  返事の出来ないたみに代って、仙吉がすこしおどけて自分の鼻を指した。 「立ててくれてるんですよ。友達の女房を」  君子は仙吉には取り合わなかった。たみだけを見つめ、たみだけに言っていた。 「今までに別れようって何度も思ったわ。こんな暮しは夫婦じゃない。でも、あたし、主人に未練があって、惜しくて人にやれないの。今も地獄だと思うけど、別れたらもっと地獄だろう。たしかにこんな暮しは夫婦じゃないけど、世の中にはずい分不思議な夫婦もいる。友達が自分の女房に惚れてるのを知っていながら、仲よくつき合って」 「奥さん」  たみが言いかけたのと、仙吉がのんびりした調子で、茶の間へ呼びかけたのと一緒だった。 「おい、りんごあったんじゃないか」 「りんごもりんごよ」  言ってから、君子が吹き出した。 「嫌だ、あたし。奥さんも奥さんよ、と言うつもりで」 「りんごもりんごか」  仙吉が繰返し、三人は笑った。笑うことだけが救いだった。 「あれ、なんていったかなあ、ほら、将棋の駒、ぐしゃぐしゃに積んどいて、そっと引っぱるやつ」  ああ、こういうのねと女二人が、積み将棋の手つきになった。 「一枚、こう引っぱると、ザザザザと崩れるんだなあ」  女二人は、そのままの手つきで次のことばを待った。 「おかしな形はおかしな形なりに均衡があって、それがみんなにとってしあわせな形ということも、あるんじゃないかなあ」  君子がたずねた。 「ひとつ脱けたら」 「みんな潰れるんじゃないですか」  君子は黙って夫婦をみた。それから小さく笑い出した。笑いがだんだん大きくなり、笑いながら大粒の涙をこぼした。  さと子は、母親の鏡台の前で口紅を濃くつけ、足音を立てないように勝手口から出ていった。  初太郎が倒れた。  場所は、東京駅一、二等待合室だった。  山師仲間の金歯とイタチと三人で、儲けばなしの相談中に倒れたのだ。この待合室は、本来は二等の切符を持っていないと入れないのだが、初太郎たちは、滅多に駅員にとがめられることはなかった。  椅子には白いカバーがかかっているし、冬はスチームも入っている。何より席代が無料というのが助かった。三人は、ときどきここで落ち合って、あてのない計画や儲けばなしに花を咲かせていたのである。イタチの猫ババをとがめ、イタチは必死でいいわけし、あとはお決りの初太郎の自慢ばなしだった。札入れが百円札でふくれ上っていた全盛時代のはなしをしながら、初太郎は前のめりに倒れた。  白金三光町のうちにかつぎこまれたときは、もう死相が出ていた。  門倉がとび込んで来た。  出迎えたたみが、目でもう駄目なのよ、と教えた。門倉は布団の裾に坐る仙吉にはひとこともいわず、初太郎の枕もとに坐ると、懐から、札入れを出した。どこで工面したのか分厚い百円札の束を出すと、初太郎の顔の上で振ってみせた。 「おじいちゃん。もうひと山当てるんじゃないの。資本《もとで》の金、倍、三倍にして、おれに、返してくれるんじゃないの」  初太郎は、かすかに反応したようだった。  門倉は、仙吉の腕をつかみ、初太郎に札を持たせてやれと、突っついた。仙吉は、はねのけた。門倉は、力ずくでもう一度、仙吉の腕をとろうとしたが、仙吉はもっと強い力で振りほどいた。 「おい、水田」  たみが、横手から、札束をひったくった。 「おじいちゃん。門倉さんが、資本《もとで》出してくれるって」  門倉がのり出した。 「次のヤマはどこなの。木曾か? どうだい、オレと二ナカでやらないか」  たみが、初太郎の手に札束をにぎらせた。 「いくら、ある」  初太郎の目に小さな灯がともった。  晴れ晴れとした大きな声で、門倉はけしかけるように呼びかけた。 「自分で数えてみなさいよ」  こわばった右手が、白く乾きかけた唇にゆき、苔の浮いた舌が親指のハラをなめた。一枚かぞえて、しめりをくれ、二枚かぞえて、またしめりをくれた。最後の力をふりしぼって、札に手をのばし、力尽きた。  胸に顔に百円札が散り、たみが、嗚咽《おえつ》した。  仙吉が、ぐうとのどを鳴らし、初太郎にとびついた。自分の顔を白髪頭にこすりつけ、 「おとっつぁん」  とうめいた。それから、子供のように声を立てて泣いた。  さと子は、辻村の下宿で、はじめて接吻をした。  急にあお向かされ、本箱にならんだむつかしい本の背文字がくるぐる廻ったかと思うと、生あたたかいものがおしつけられた。一瞬、なんのことか判らなかった。学生服の脂くさい匂いと、煙草の匂いがした。甘い味がすると書いたのを読んだことがあったが甘くなんかなかった。  バロンになめられた時と同じような、なまぐささがあとに残った。それでいて、すこしも嫌ではなかった。大仕事をしたあとのような気がした。お天気雨のように、泣きたくないのに涙が出た。  さと子がうちに帰ったとき、初太郎の顔には白い布がかかっていた。  枕頭の小机には、香華《こうげ》がゆれ、いつも初太郎の使っていた飯茶碗にごはんが山盛りになり、飴色に使い込んだ初太郎の象牙箸が一本、突っ立っていた。  布団の裾にたみがすわり、両脇に、仙吉と門倉が、同じように腕組みして坐っていた。  初太郎は、ふたりを、「こまいぬ」だと言っていた。  こまいぬさん あ  こまいぬさん うん  |阿※[#「口へん」+「云」]《あうん》という字も教えてくれた。  初太郎は、門倉がたみを好きなこと、たみもまた門倉を好きなことを知っていた。しかも仙吉がそれを知っていることも、よく知っていた。息子に口を利かなかったように、そのことはひとこともしゃべらずに死んで行った。  おとなは、大事なことは、ひとこともしゃべらないのだ。 「どこへ行っていた」  とどなりかける仙吉をたみがとめた。顔にかかった白い布をのけて、 「お別れをしなさい」  鼻のつまったような声でうながした。  手の甲で自分の唇を拭い、たみのさし出す筆に水をつけて、初太郎の半分あけた唇を濡らした。多すぎた水が、あごのあたりに涙のようにつたわって落ちて行った。  通夜は、にぎやかだった。  初太郎の顔も見たことのない仙吉の勤め先の男たちや、門倉の会社関係の連中が焼香し、酒をのみすしをつまんだ。例によって、雑用一切を取りしきるのは門倉である。  さと子は客の履物をそろえ終り、燗番をしているたみと代った。たみは、座敷へゆき、挨拶をしたり酌をしたりしているらしかった。  しばらくして、たみが入ってきた。  両手で、お銚子の首を持ち、ぶらぶらさせながらしばらく立っていたが、さと子のそばに坐った。 「お前、これ、飲んでごらん」 「あたし、お酒飲めないもの」 「いいから、飲んでごらん」  さと子は、母が酔っぱらったと思った。  それとも、初太郎の死で、気が動転したのだろうか。  たみは、そばの湯のみに、お銚子の酒をあけ、さと子の口のそばに突き出した。  顔をそむけようとして、さと子は気がついた。  酒ではない。 「だしなんだよ」  たみは、茶碗にあけたうすい色のものをごくりとのむと、 「門倉さん、これ、だまって飲んでるんだよ。他人に飲まれると大変だと思って。自分で二本とも抱えこんで。小さな声で、奥さん、これ、違ってますよって。お父さんに知れると、どなるから、お母さんの落度が判らないように、あのひと……」  たみは、泣くような声でくく、と笑った。 「おじいちゃんのお通夜に笑ったりして、お父さんにみつかったら叱られるね」と言いながらまた笑った。  瞼の下の盛り上りがうす赤くなってふくれていた。さと子は母を綺麗だなと思った。  開け放った客間で仙吉が門倉に手を上げて、一言二言、言っている。門倉が大きくうなずきかえした。新しい弔問客が来たらしく、仙吉は、いやに格式張って、両手をついていた。門倉が客に座布団をすすめている。  さと子は漬物を出しに台所へ立った。  隣りのラジオが、ニュースを伝えていた。  勢いよく蛇口をひねり水を出しているさと子には、南京特電、蒋[#底本では「くさかんむり」に「將」]介石、徹底抗日、抗日即戦主義を避け、柔軟なる和平外交を以て臨みたい、というような言葉がきれぎれに聞き取れただけだった。  蘆溝橋事件が起きたのは、この半年あとである。  四角い帽子帽子  坊さんが来る前に玄関横の蜘蛛《くも》の巣を払っておくれと母親に言われて、さと子は気持の悪いのを我慢して二、三度|庭箒《にわぼうき》を振り廻した。  井戸端で手を洗い、うちへ上りかけると座敷から言い争う声が聞えた。  仏壇の前で胸倉を取らんばかりにやり合っているのは、父親の仙吉と門倉である。仙吉の亡父初太郎の一周忌の席であった。門倉が仏壇に供えたお経料の包みの分厚さを仙吉がとがめ、差し出がましい真似はよせよと、包みをポケットに押し戻したのが悶着《もんちやく》のはじまりである。 「息子がついてるんだ。他人がこういう心配することないよ」  門倉も引き下らなかった。 「仏さんはおれのこと他人と思ってなかったぜ」  ひとり息子のお前とは口も利かなかったが、おれにはひと山当てて札ビラ切っていた全盛時代のはなしを聞かせてくれた、と仙吉の痛いところをついて逆襲した。 「他人にゃいいとこ見せてたんだよ。尻拭いさせられたこっちの身になってみろ。そうそういい顔出来るか」 「それにしちゃ葬式張り込んだじゃないか。馬鹿でかい仏壇買い直して、毎日お灯明あげてるっていうしさ。邪慳《じやけん》にしたんで気がとがめてるんだろ。なんのかんのいったって、父子《おやこ》なんだよ」  気持だから固いこと言わずにと、力ずくで仏壇にもどしたが、 「気持がどうしてこんなに分厚いんだ」  融通の利かない仙吉はその場でなかを改め、十円札一枚だけを残して札入れに仕舞わせ、ようやくけりがついた。  そういえば死んだ初太郎が、仙吉と門倉の小競り合いをたみが取りなしているのを見て、 「猪鹿蝶《いのしかちよう》のラジオ体操だな」  と嗤《わら》ったことがあった。  猪は仙吉、鹿は門倉である。二人の小競り合いは、ラジオ体操のごとく日常茶飯であり、これを繰返しながら、二十年以上のつきあいになる。  このあと、物かげで門倉はたみに叱言を言われた。 「この間も言ったじゃありませんか。門倉さんが軍需景気で羽振りのいいのは判るけど、うちは一介の月給取りなんですよ。暮しには、高低《たかひく》があるのよ。こういうことされたんじゃ、とてもおつき合い出来ませんよ」 「申しわけありません。以後気をつけます」  五尺八寸の偉丈夫が、五尺そこそこのたみの前で、小学生のように直立不動の姿勢をとり、キチンと頭を下げた。たみはちょっと困ったような顔をして座敷へもどっていった。  門倉はそのままでしばらく立っていた。出過ぎたことをしでかしたり、女道楽のゴタゴタを起して、たみに叱られ諭《さと》される。これが門倉にとって一番幸せなのだ。至福のときはひとりで噛みしめたい。すぐ動いたりしては勿体なかった。  仙吉は仏壇の前でゆっくりと煙草を喫《す》っていた。女にはうるさい門倉が女房のたみにだけは一目置いている。そのことが得意でもあり喜びなのだ。  正月、雛祭り、お花見、海水浴、松茸狩りにクリスマス。なにかあるたびに門倉は金にあかして過分なことをやり、そのたびに仙吉と揉め、たみに叱られる。これが我が家の四季だったんだなあと、さと子はおかしくなった。さと子は十九になっている。  玄関の戸があいたので、坊さんが来たのかとたみとさと子は出迎えに走ったが、立っていたのは門倉の二号の禮子である。お誕生を過ぎたばかりの守を連れていた。 「遅いじゃないか」  守を抱き上げながら門倉が文句を言った。 「電話かけてよこして、すぐ来いったって、女はいろいろ支度にかかるのよ。ねえ奥さん」  目を白黒させているたみに、禮子は笑いかけた。入ってくるなりすぐ門倉が、女房の君子は頭痛でこられないと言いわけをしていたが、急に思い立って禮子に声をかけたらしい。 「お忙しいとこ、わざわざ」  仙吉も当惑しながら四角ばった挨拶をした。 「あら閑《ひま》ですよ。閑で閑で閑もて余してたとこ。呼んでいただいてもう嬉しくって。あら、法事なのに喜んじゃいけなかったかしら」 「いや、にぎやかなほうが仏もよろこびますよ」 「枯木も山のなんとやらだよ。お前のとこ、東京に親戚すくないからさ」  門倉は守を抱いて、自分のうちのような身ごなしで奥へ入っていった。  禮子はこのあと、お経の最中に洟《はな》をすすり涙をこぼして、たみやさと子をびっくりさせた。 「どうしたんだよ。お前、ここのおじいちゃんとは逢ったことなかったじゃないか」  けげんな顔の門倉の胸からハンカチを抜きとると、禮子は泣き笑いになった。 「馬鹿ねえあたし。お経聞くと、いつもこうなの。泣かないと悪いと思ってるのかしら」  これだから御座《おざ》に出せないんだよ、といいたげに門倉は苦笑してみせたが、ひっくり返せばこういうところが気に入っているんだよということらしい。  ところが、お経の最中に、本妻の君子があらわれた。 「半端なときお邪魔してすみません」  一分の隙もない黒の紋付き姿で詫びの口上を言った。 「頭痛が少し治まったもんですから、お線香だけでも上げさせて頂こうと思って」 「そうかそうか。そりゃよかった」  といいながら、門倉は大汗をかいていた。  たみの機転で、禮子と守は二階のさと子の部屋に避難をしていたが、飽きたらしく守がお経の最中に大声で泣き出した。 「また泣いてやがる。隣りの子だな」  言いわけする仙吉の目が天井を見上げるのを、君子は見逃さなかった。 「お隣りさん、二階家でした?」 「あ、いや」  と絶句するのに、もうひとこと、 「男の子だわねえ。泣き声に力があるわ」  と感心してみせた。  看護婦上りでよく出来た女だが、こういうところが門倉の気に入らないのである。  君子が帰ってから、たみとさと子は二階へ上った。禮子は押入れのなかで布団にもぐり込んで守と一緒に眠っていた。  神楽坂の料亭八百駒の奥座敷で、仙吉は床柱を背にして、そっくり返っていた。 「御前。お流れを頂戴いたします」  うやうやしく盃を受けながら、綺麗どころに、水田子爵と紹介した。  門倉は、馴染みの芸者を見せたいのだが、それがなかなか現れない。 「遅いなあ、まり奴《やつこ》は。せっかく御前がお運びくださってるのに」  女将《おかみ》が恐縮して、 「中貰《なかもら》いをかけてるんでございますけどねえ」 「中貰いじゃ駄目だよ。是非で呼んでくれ」  是非ということばを仙吉が聞きとがめた。 「御前は是非をご存知ない。やんごとないお育ちだけあって、下下《しもじも》のことにはうとくておいでになる。よその座敷に出ております流行《はやり》っ妓《こ》を呼びたいときは、『中貰い』というのをかけますが、ヤボな客で断るのがございます。そういう場合、『是非貰い』と申しまして、線香のほうは糸目をつけないから、こっちの座敷に」 「それが是非か」 「是非でゆけ──と」 「なるほど」 「こういう席で芸者衆を呼んで遊びますのをヒラと申します。お気に召したのを待合なんぞに呼びますのをカゲと申しまして」 「そのくらいは存じておる」 「恐れ入りましてございます」  とやっているところに、まり奴があらわれた。門倉がのぼせるだけあって、上背のあるたっぷりした美人である。門倉は、こちら水田子爵と引き合せ、うちの会社の金主だよ、とつけ足した。 「上には上があるのねえ。身についた威厳がおありになるわ」  おべんちゃらを言われながら、酌をされていた仙吉は、すぐに降参してしまった。 「門倉、もう勘弁してくれよ」  と手を合せた。 「実は趣向なんですよ。いつもこいつにおごられているもんだから、たまにはお前が上座に坐れっていわれてね」 「おい水田」 「あら、こちら子爵様じゃないの」 「子爵どころか、持ち合せてるのは癇癪《かんしやく》ぐらいのもんですよ。おい、門倉、席替ってくれ。床柱背負ってたんじゃあ飲んだ気がしないよ」 「芝居っ気のない男だなあ」 「人間にゃニンてもんがあるんだよ」  仙吉は席を替り、まり奴の前に両手をついた。 「だまして申訳ありませんでした」 「惚れたわ」  あたし水田子爵に惚れたわ、とまり奴は色っぽい流し目になった。 「おい水田。神楽坂切っての美形に惚れていただいたんだ。男|冥利《みようり》につきるだろう」  仙吉はビリビリッとからだになにかが走った。電気時計を直していて感電して、踏み台から墜落したときとそっくりだった。  門倉が帰ってしまうと、急にうち中の電灯が暗くなる。たみとさと子は残り物でつましい夕食の膳についた。 「男はいいな」  竹輪の煮たのを箸ではさんで、さと子は言った。 「精進落しだなんてお料理屋へ上って騒いでるんでしょ。よくそんな気持になるね」  たみは、冷やご飯を茶漬にしている。 「早く帰って謝るとか」 「どっちに謝るんだい」 「あ、そうか。可哀そうっていえば、門倉のおばさんも二号さんも、同じだものねえ」 「お前ねえ。二号さん二号さんて言ってると癖になるよ。あの人の前で言ったりしたら、それこそ引っ込みがつかなくなるよ」  禮子さん、禮子さんとさと子は、名前を繰返した。 「お母さんもねえ、あんな鉢合せしたあとで遊びに出かけたりしていい気なもんだと思うけど、門倉さんもやり切れないんだろうよ。今晩だって、さてとなると、どちらへ帰っていいか判らない」 「このうちに残って、一緒にご飯食べてゆけばいいじゃないか」 「うちに残りゃあたしに怒られるもの」 「あ、そうか」 「お前、いい音するね」  沢庵《たくあん》のことである。 「お母さんだって、音するじゃない」 「音が違うんだよ。女は子供うむと歯が駄目になるから。お前、若いんだねえ」  さと子は、母に聞かせるように大きな音を立ててバリバリと沢庵を噛んだ。門倉のおじさんが帰ってしまうと、母が二つ三つ老けた顔になるということは、言わずにおいた。  こういう夜は、さと子はなかなか寝つかれない。  電気を消すと、部屋の空気が黒くて四角い羊羹《ようかん》のように重たく感じられる。門倉のおばさんも二号さんの禮子も、門倉の帰りを待っているに違いない。階下の茶の間では母のたみも、父の帰りを待っている。さと子も、ひそかに待っているものがある。一回の接吻で、別れてしまった帝大生の辻村である。辻村はあのあとすぐ肺結核にかかって故郷へ帰った。一度手紙が来たらしいが、仙吉の命令でたみが熱湯消毒と称して湯気にあてたので、字がにじんで読めなかった。それきりになっている。諦めようといいきかせているが、やはり尾を引くものがあった。日本中の女の何かを待つという思いが、夜の空気を重たくしているのだと思った。  仙吉は、夜遅く帰ってきた。 「水田子爵のご帰館だぞ」  千鳥足でふざけ、 「梅ヶ枝の 手水鉢《ちようずばち》 叩いてお金が出るならば」  と調子っ外れで歌った。「梅ヶ枝の 手水鉢」はこのあともときどき歌っていた。  夕方の買物からもどってきたたみは、二階から琴が聞えたので腹を立てた。 「しようがないねえ、さと子は。二階に上ってたら、留守番にならないだろ」  空巣にでも入られたらどうするんだろうとぼやきながら勝手口から上って、肝をつぶしてしまった。  仏壇の前に七十格好の老人が坐っている。お盛りものの饅頭をむしゃむしゃやりながらお経を唱えていたが、たみを見つけると、あんたが嫁さんだったなと向き直り、 「どういう料簡《りようけん》だ。一周忌だっていうのに誰もいねえ」  いきなり文句を言った。 「これじゃ兄貴も浮かばれないよ」  兄貴と言われてやっとたみは合点がいった。  この老人は作造と言って、死んだ舅《しゆうと》初太郎の腹違いの弟である。こみ入った事情があったらしく、たみの婚礼のときも並ばなかった。親戚の寄り合いにも声をかけなかった。だか、初太郎は、息子と折り合いが悪くなってから人恋しくなったとみえ、伝手《つて》をたのんで探し出し、十年ほど前に一度だか二度だか、うちへ引っぱって来たことがあった。初太郎が死んだときも、山の地図の間に作造の名古屋の住所があり、電報を打ったのだが、どう行き違ったのか、葬式には間に合わなかった。建具職人で羽振りのいい時期もあったようだが、いまは勤め人の息子の世話になり尾久に住んでいるという。  初太郎が生きていた時分は、父親をうとむ分だけこの作造の存在も目ざわりだったらしく、仙吉はいい顔をしなかったのだか、死なれてみると、人が変ったように手厚くもてなした。 「よく思い出してくれたなあ。仏も喜びますよ」  自分から台所へ顔を出して、鳥鍋にしろよと指図をした。  ところが作造老人は耳が遠い。 「ずっと名古屋だったんですか」 「固いカシワだな、こりゃ」 「名古屋だったんですか、息子さんの勤めは」 「名古屋コーチンといってねえ、名古屋のカシワ食ったらよそのは食えん」 「息子さん、元気ですか」 「固いな」  といった具合である。  それでも仙吉は嫌な顔もせず、固かったら吐き出してくださいよ、とちり紙に受けてやる。 「おい、鳥屋、代えろよ」  とたみに叱言をいい、 「じいさんの布団でいいだろ。毛布一枚余分に掛けたほうがいいなあ」  泊めるつもりでいるので、女たちはびっくりしてしまった。死んだ父親には、こんなやさしいことばをかけるのは一度も聞いたことがなかったからである。  作造老人のほうも、仙吉のもてなしを至極当り前と思っているらしく、文句を言い言いかなりの健啖《けんたん》で鳥鍋を突つき泊っていった。  血がつながっているから当然だが、初太郎に似た立派な顔立ちで耳が大きく、中に剛毛が生えているところもそっくりだ。初太郎よりも、|飄 飄《ひようひよう》として、とぼけたところがあった。  次の日、さと子は作造と一緒に早稲田大学へ出かけた。作造がそこの学生に届け物をするというので、耳が遠いのであぶないからと、仙吉がさと子を供につけたのだ。  老人とならんで、四角い帽子の右往左往する大隈講堂の前で待っていると、背の高い学生が走ってきた。これも、とりわけピンと張った四角い帽子をのっけている。 「坊ちゃん。大きくなったなあ」  作造は、手にした大きな風呂敷包みで学生をブン殴った。持ちますとさと子が言ったのに、これはいいんだ、と強情を張って持たさなかった包みである。  学生は痛いだろ、とよけながら、「もう坊ちゃんて年じゃないよ。突然電報よこすんだもの、びっくりするじゃないか」  作造は返事の代りに、風呂敷をほどいてみせた。白木の大きな軍艦があらわれた。  学生は、あ、と叫ぶと、何か思い出したらしい。いきなり作造の肩を小突いた。作造も学生を小突いて、嬉しそうに笑っている。 「釘一本も使っていないじゃないか」  作造の耳が遠いのを知った学生は、大きな声でどなるようにゆっくり繰返した。 「そりゃ組子《くみこ》だもの」 「桜?」 「檜《ひのき》だよ」 「凄え」  覗き込んださと子を孫と思ったらしく、学生は、 「よく覚えていてくれたなあ」  と前置きしてから、問わず語りに作造との間柄を説明してくれた。 「うちに出入りしてた建具屋でね。可愛がってもらったんだけど、子供の時分に軍艦作ってやるって約束したっていうんだなあ。こっちは忘れてるんだけど、三年に一回年賀状が来て、『あれは忘れてはおりませぬ』うまくない字で書いてあるんだ」 「約束果さないうちにお迎えが来ると後生が悪いからさ」  作造は、ほっとしたのか坐り込んで、煙管を出し、刻みをつめている。 「いい格好だ」  学生も腰をかがめ、檜の軍艦をなでさすっている。さと子は軍艦もさることながら、座布団のような帽子が珍しくて仕方がない。すぐ目の下にあるそれの角をちょっとさわってしまった。見上げた学生の視線にたじろいで、 「ごめんなさい」  と謝った。 「角《かど》のとこ、どうなっているのかと思って。うち、早稲田の知り合いないもんだから」  母親の手伝いで、座布団を縫うのを手伝ったことがあるが、四隅を縫って引っくり返し、針の先で突つき出すのだが、うまくピンと出来なくて苦労をしたので、と言おうかと思ったが、初対面の男に向ってはしたないと思ってやめにした。  学生はどうぞという風に帽子を脱ぎ、突き出した。さと子は改めて、男臭い匂いに鼻が曲りそうになった。天辺《てつぺん》の部分は黒いラシャの布というより脂のにじんだ革である。父の仙吉が、昼過ぎから雨になるでしょうという天気予報のとき履いてゆく、古い黒靴そっくりだった。不思議なことに、汚いとも嫌だとも思わなかった。  さと子は裏をのぞいた。ポマードで濡れたように光っていた。すこし惜しかったが、さと子は帽子を返した。学生は受取るとひょいとさと子の頭にのっけた。そばのガラス窓を指さし、見てきなさいよ、というしぐさをした。 「いいんですか」  うなずくのを見て、さと子は駈け出した。  四角い帽子をかぶってガラス窓にうつったさと子は、ターキーかオリエ津阪みたいだった。うしろに廻った学生が、帽子の歪《ゆが》みを直してくれた。怒ったような学生の顔が、さと子と一緒にガラス窓にうつっていた。作造は、うしろでしゃがみ、掌を灰落し代りに煙管《きせる》をはたいていた。  なにかしている途中で、ふっと気持が宙にいってしまい、手が留守になっている。さと子は、あの日から、そういう癖がついたことに気がついた。もしかしたら、恋というのかも知れないと思った。  洗面所の鏡に、歯ブラシをくわえたままぼんやりしている顔がうつっている。あのときは首ひとつ上にあの人のムッとしたような顔があったが、いまは父の仙吉である。うっすらとひげの伸びた寝起きの顔が、さと子と同じに歯ブラシをくわえて、放心している。 「お父さんもさと子もなにぼんやりしてるの」  たみのとがった声に、二人はあわてて、手を動かし、歯磨き粉を鏡に飛ばした。たみは、此の頃ときどきこういうきつい声を出すことがある。  仙吉のうちは米の飯に味噌汁、納豆、生卵だが、門倉はパンとコーヒー、半熟卵である。  卵の殻の天辺をナイフで器用に払いながら、 「あいつも男だね」  と苦笑した。仙吉が神楽坂の芸者まり奴にのぼせているのを知ったからである。 「水田さんは男の中の男よ。いままで気がつかなかったんですか」  女房の君子は、いつもより丁寧にパンにバターを塗って夫に渡した。滅多に世間話などしない夫婦なので、君子はひどく上機嫌である。 「あいつに限って、そっちのほうは大丈夫だと思ってたがなあ」 「自分で引っぱり込んどいて」 「それにしても相手が悪いよ」 「性悪《しようわる》な人なんですか」 「性悪じゃないが、及ばぬ鯉の滝上りに決ってるじゃないか。それ、奴さん、三日に一度は通ってるっていうから」  言いかけて、おい、言うなよ、と釘をさした。 「奥さんにですか。言うわけないでしょ」  君子の声はますます弾んでいる。 「大分深いんですか」 「それがな、手も握ってないんだとさ。相手は芸者だよ。何も金つかって料理屋へ上らなくたって、お前の前だけど待合へ呼べば」 「簡単だわねえ」 「それ水田の奴が、双葉山気取りで正面からぶつかってるんだ」  あれじゃ金がたまらないな、と門倉はコーヒー茶碗を持ち上げ、また「おい、言うなよ」と念を押した。  門倉は、仙吉のうちへくるときは、白金三光町の表通りで運転手つきの自家用車を降り、あとはゆっくりと歩いてくる。雨が降っても雪が降っても、門倉は、車を横付けにすることはしなかった。  その晩は宵の口から急に土砂降りになったが、大通りから走って来たとみえて、門倉のコードバンの靴は、雨を吸って重たくなっている。さと子は玄関にしゃがみ込んで古新聞を丸めて詰めていた。御真影が載っていないかたしかめながら詰めなくてはいけない。  さと子は靴の匂いにも男と女があることに気がついていた。門倉の靴は父の仙吉の型崩れした盤広の靴にない好い匂いがする。雨降りの日に、客があると湿りをとるために古新聞を靴に詰めるのはさと子の仕事だったが、客が門倉だとさと子は、ゆっくりと楽しみながら、新聞を丸めた。  父のいない晩、門倉がたずねてくることがあると、たみはいつも用をつくってはさと子を茶の間に呼びつけた。門倉と二人きりにならないためだが、その晩は珍しく声をかけてこない。  このところ、毎晩仙吉の帰りが遅いので、そのはなしをしているのだと見当がついた。 「門倉さんだから言っちゃうけど、ポケットから月給の前借り伝票が出て来たんですよ」  なにか具合の悪いことがあるのじゃないかと声をひそめた。門倉は、たみの刺しかけの雑巾を手にとった。古い浴衣をほどいて、赤い糸で麻の葉の模様に丁寧に刺してある。久しぶりに見るたみは、暗い電灯のせいか面やつれしてみえた。  水田に限って大丈夫ですよ、といったとき、玄関の格子戸を叩く音と一緒に酔った仙吉が帰ってきた。 「梅ヶ枝の 手水鉢」  鼻唄まじりにうたいながら、水田子爵のご帰館と玄関でふらつく仙吉のとんびは、雨で光っている。 「またおつきあいですか」  固い顔でたずねるたみに、 「門倉と一緒でさ」  酔ったときの癖で、中折れをたみの頭にのせた。 「奴さん、帰さないんだよ。ここのとこ会社の接待が続いているんだ。勘弁してくれってのを、あの野郎、羽交いじめにして、こうだよ」  ひとり相撲をやってみせた。 「門倉とおれじゃ体が違うよ。ねじ伏せられて」  ひとり相撲が凍りついた。  雑巾を手に、上りかまちに門倉が立っている。  仙吉は、いきなり笑い出した。ここは笑うより仕方がなかった。 「『天網|恢恢《かいかい》疎ニシテ漏ラサズ』老子かありゃ。大したもんだ。さすがうまいこというよ」  そっくり返って茶の間へ入っていった。たみの目が、階段の上りはなに立つさと子に、お前はもうおやすみと言っていた。  茶の間に坐った仙吉は、気の利かない奴だなと、たみをどなりつけた。 「門倉に番茶出す奴があるか。朝っぱらならいざ知らず。子供じゃあるまいし」 「お前がいれば酒出すさ」 「そんなつき合いじゃないだろ。融通が利かないにも程があるよ」  話がとぎれると、柱時計の音が馬鹿に大きくなる。  仙吉はまたどなった。 「おれは謝らんぞ。男には口実ってもんが必要なんだよ。どこそこで会社の誰と取引先の某《なにがし》を招待しました。七面倒くさいことをいちいち女房に報告出来るか。玄関入るときの口実に友達の名前使う。みんなやってることだよ」  たみも門倉も何も言わないので、仙吉はもうひとつ大きな声で門倉に言った。 「お前だって、おれの名前、だしにしたことあるだろ」 「しょっちゅうだよ」 「ほれ見ろ。世の中持ちつ持たれつだ」 「そうだけどさ」 「現にお前と一緒のこともあったよなあ、例の神楽坂の。今晩もあそこだよ」  門倉は黙って雑巾を仙吉の前に置いた。 「なんだよ。雑巾で顔拭けって洒落か」 「丹精してあるだろう。よく見ろよ、って言いたいんだよ」  痛いところをつかれた仙吉は、また笑ってみせた。 「女房泣かせてる男が偉そうに」  たみが口をはさんだ。 「門倉さんはいいのよ。門倉さんは馴れてるもの。抵抗力があるもの。でもお父さんは」 「奥さん、申しわけありません」  頭を下げたのは門倉である。 「おい門倉、なんでお前が謝るんだ」 「道つけたの、おれだからさ」 「そうよ。門倉さんいけないわよ。さと子、嫁にやるまでは、お父さんに曲られたら困るんですよ」 「針金じゃあるまいし、そう簡単に曲るか」  強がってみせる仙吉のほうは見ないで、たみは門倉に文句を言った。 「門倉さんだって、これ以上、まわりの人、泣かせないほうがいいんじゃないんですか」 「一言もありません」  門倉は畳に両手をついた。仙吉の分も詫びているように見えた。  駅前や盛り場に、千人針を持った女たちの姿が見られるようになった。  腹に巻けるほどの白布に、筆の尻に朱をつけ、虎の型などに小丸を千個押して、その上に赤糸で結び目をつくってゆくのである。五銭玉と十銭玉が一緒に縫いつけてあるのは、死線や苦戦を越えるという願いらしい。虎は、千里行って千里帰るということから、寅年の女は、年の数だけ針を抜くことが出来た。  たみは亥年だったから一針のご奉公だったが、呼びとめられれば、買物包みを足許に置いて針を引き抜いていた。  日支事変はますます拡大しているらしいが、土曜の昼下りは穏やかであった。会社から帰った仙吉は昼寝をしていたし、さと子は琴の発表会にそなえて、二階で六段をさらっている。  葱《ねぎ》や大根を抱えて上ってゆくと、うちの中の空気が、たった今掻き廻したという具合に、揺れている。仙吉は夏掛けを引っかぶって鼾《いびき》をかいているが、どうもわざとらしい。通帳の入っている茶箪笥の小抽斗が半分口をあけ、ペロンと紙がぶら下ったりしている。たみは物もいわず夏掛けを引っぱぐった。仙吉は半分ねぼけ声で、 「なんだよお前。いい年して昼間から。さと子が降りて来たらどうするんだ」 「ごまかしたって駄目ですよ」  たみは炭俵を引っくり返すように仙吉をごろんと引っくり返した。体の下に通帳があった。 「これ、なんですか、お父さん」  しっかりと握っている仙吉の右手に、たみは歯を立てた。あいてて、とたまらず掌をひらき、実印が畳に転がった。  仙吉は、抽斗のなかがどのくらい片付いてるのか点検したんだと尚も屁理屈をこねたが、問いつめられて、会社のつき合いに百円入用だと居直った。 「男にはここ一番というときがあるんだ。そういうときにケチケチしてたら、ケチケチした人間で終るんだよ。門倉を見ろよ、門倉を。あいつの器量は遊ぶべきときには豪気《ごうぎ》に遊ぶというとこから来ているんだぞ」 「そうですか」  たみは手荒いしぐさで経木に包んだコロッケと薄いトンカツを取り出した。 「コロッケひとつ五銭。お父さんだけ奮発したカツが一枚十五銭。近所にもあるけど駅の向うのほうが安くておいしいって聞いて、歩いて買いに行って来たんですよ。女は一銭二銭、考えてお金つかっているんですからね。それ忘れないでくださいよねえ」 「出かける前にゴタゴタ言うな」  やり切れなさと自己嫌悪で、仙吉はどなるしかない。カッとなって何か言いかけたたみは、いきなりコロッケを口に押し込み、食べはじめた。 「おい」 「なにか、口に入れてないと、取りかえしのつかないことを言いそうで嫌なんですよ」  あふれそうになる涙をこらえこらえ、おいしい、ああ、おいしいと口を動かし、のどにつかえて息をつまらせた。 「馬鹿。いちどきに押し込む奴があるか」 「ほっといてくださいよ」  背中を叩こうとする仙吉の手を激しく振りはらい、夫婦は揉み合いになった。仙吉の膝の下で、コロッケやカツが、刻みキャベツとまざってつぶれている。  二階から降りてきたさと子は、ちらりと眺めると、足音を殺して二階へ上っていった。今までだったら、父と母のこういう諍《いさか》いを見ると、それこそいま見たコロッケのように胸が潰れたものだったが、今日は少し違っていた。あの人から手紙が届いたのである。 「もう一度四角い帽子をかぶってみませんか」  待ち合せの時間と場所が大きな字で書いてあり、石川義彦となっていた。あれ以来、建具の建てつけを直すと称してやってくる作造老人が手渡してくれたものだった。恋をすると、親のことなど二の次、三の次になるものだということがよく判った。  梅ヶ枝の手水鉢ではないが、たみを泣かせ、金を工面して神楽坂へ出かけた仙吉は、まり奴が落籍《ひか》されたと聞いて呆然となった。やけ酒を飲む気力もなく、うちへ帰ったのだが、たみの姿が見えなかった。やりかけの針仕事のそばに、解いた帯が廊下を這って湯殿へ伸び、水音が聞えた。 「今晩、お湯沸かさない日じゃなかったのか」  言いかけて、たみは水を浴びているのだと気がついた。 「そんなにおれは汚らわしいか」  勢いよく二、三ばい浴びる音が返事の代りに聞えたが、これは仙吉の思い過しだった。針仕事をしながらうたた寝をしたたみは、門倉に抱かれる夢を見たのである。いままでに一度もそのたぐいの夢を見なかったわけではない。だが、いつも、一歩手前で心を鬼にして、エイッ! と号令をかけ、目を覚ましていたのである。このときだけは、仙吉に腹を立てていることもあって、いつもよりほんの少し、号令をかけるのを遅目《おそめ》にした。たみははじめて門倉の胸に抱かれた。勿論、着衣のままであるが、バッタのごとくはね起き、湯殿へ走って水を浴びていたのである。  仙吉は勤めからまっすぐ帰るようになった。晩酌もやめ、元気がない。元気なのはたみとさと子である。  さと子は、この頃お針に精を出すようになった。二階へ上りっきりで、針を動かしているが、縫っているのは浴衣ではない。人絹のルパシカである。学生演劇の舞台監督をしている石川義彦から頼まれたのだ。  手紙で呼び出されて二度目に逢ったとき、義彦は憧れの四角い帽子は被っていなかった。うす汚れた菜っ葉服で、腰にはトンカチを入れたズックの袋を下げていた。ガチ袋というのだと教えてもらった。  小さな舞台では、演劇部の学生たちが稽古《けいこ》をしていたが、ゴボチンスキーとか、デボチンスキーと言い合うのが聞え、さと子は笑いをこらえるのに汗を掻いた。 「名前はおかしいけど真面目な芝居なんだ」  ゴーゴリの「検察官」だという。 「あ、名前だけは聞いたことあります。何だか固そうな名前だなと思ってました」 「ゴーゴリ──本当に固そうだ」  膠臭《にかわくさ》い大道具のかげで、笑ったら、ゴミをすい込んでくしゃみが出た。切符を買いますと言うと、切符よりも衣裳を縫って欲しいと頼まれたのである。洋裁を覚えたいと思っていたのでちょうどよかった。 「でもうち、ミシン無いんだわ。手縫いでいいかしら」 「ロシアの民衆は貧しいんだから。ミシンなんて持っていなかったよ」  そんなわけで、さと子は見本を見い見いルパシカの仕立てに精を出していた。  門倉の二号の禮子が守を連れてやってきたのは、日曜の昼下りである。門倉が三号をつくったという。 「ちゃんと証拠があるのよ」  もともと狐に似ていたが、目を釣り上げ口をとがらすと、お稲荷さんの鳥居の前にならんでいるのとそっくりになる。 「あたし、敵前上陸でいきますから」  仙吉とたみが、まあまあととりなした。 「まあ、ここはどんと大きく構えようじゃないの。門倉はああいう男ですよ。浮気のひとつやふたつ無くなったら、あいつの商売も落ち目だ。軍需産業が落ち目ってことは日本も落ち目だ。ここはひとつ大きい目で」  仙吉はじっとにらみつける禮子の小さい目にあわてながら、 「あんたには子供がいるんだ、それも男の子じゃないか」 「そうよ。門倉さん、子煩悩でしょ。守くん、抱くときの顔ったら」 「この半月、抱いてないわよ。守もあたしも」  こんなことは無かった。病気でもしたのではないかと調べたら、と禮子は紙きれを見せた。三軒茶屋の番地が書いてある。 「三軒目のうちが三軒茶屋なんて、ふざけるのも大抵にしろっていうのよ」  相手は判らないが、若くて凄い美人だという。  これからすぐに乗り込むといきり立ち、こういうことは時間をかけて、ととめる夫婦に守を引き寄せて啖呵《たんか》を切った。 「性《しよう》に合わないのよ。子供抱いてアパートでうじうじ考えてるくらいなら、もう爆弾抱えて飛び込んで一六勝負に出るほうがすっきりするんです」  その家はすぐに見つかった。  凝った造りの門には、「森川寓」と控え目な表札が出ている。守を抱いた禮子と引っぱるように連れてこられた仙吉は、庭木戸の奥に耳を澄ました。  女の忍び笑いにまじって男の声がする。門倉に間違いない。縁側で耳掃除をしてもらっているらしい。 「いつもあたしがやってたのに」  と禮子は目を釣り上げ、守に日の丸の小旗を持たせた。 「いいか。そこのとこ入ると、パパがいるよ。守、パパ、大好きだろう」  大きな声でパパ、と言えるねと、小さな声で言い、そっと庭木戸をあけ、小さな尻を叩いた。 「前へ進め!」  息をこらす二人に、パパァ、という守の声が聞えた。仙吉は、もうこのあたりで居たたまれず、通りの電信柱のかげに避難をした。血の気の多い禮子のことである。硫酸だか塩酸をぶっかけでもしたら大事《おおごと》だとくっついて来たのだが、ここから先の修羅場を見る度胸はなかった。  禮子は木戸にはりついて、なかをうかがっている。  女の声で、ねえ、この子、どこの子、といっている。 「さあ、どこの子だろ」  門倉の声は、明らかに狼狽していた。 「近所の子じゃないかな」 「パパァ」  守の声に重なって、 「パパなんかいないよ。そうか坊や迷子になったのか。よし、おじさんが連れていってやろう」  そして守を抱いた門倉が、 「どこのお子さんですか」  大声でどなりながら出てきた。 「あんたのお子さんに決ってるじゃないの」  待ちかまえていた禮子につかまり立往生しているのを見てから、ゆっくりと仙吉は近づいた。 「おい門倉」  仙吉は、ゆとりをもって意見をした。 「前とは違うんだぞ。その子の父親なんだぞ。馬鹿な真似はよせ」  あんた、と胸倉をとる禮子を、これもゆとりをもって押しとどめた。 「言わない言わない。言わぬは言うにいやまさる。どうしたらいいか、どうすべきか、門倉はちゃんと判ってる。今日はこれで帰ろう」  禮子もうなずいた。 「たのむぞ、門倉」  もうひとつゆとりをみせて、頭ひとつ背の高い門倉の肩を、伸び上るようにして仙吉が叩いたとき、木戸から女が飛び出してきた。 「あなた」  ことばの尻尾を長く引っぱって甘えながら、 「坊やこれ落してったわよ」  子供靴の片方を手に出てきた若い女をみて、仙吉は肝をつぶした。女はまり奴だった。 「水田子爵」  まり奴も口をあけて立っていた。  渋谷のガード下の焼鳥屋で、仙吉と門倉はならんで酒をのんでいた。  門倉の右目のまわりが、黒出目金のように腫《は》れているのは、まり奴に守の靴をぶつけられたせいである。 「痛いだろ」  門倉は黙ってコップ酒をのんでいる。 「軍隊の頃は、お互いにいろんなものでぶん殴られたな。木刀、ベルト、上官の上履。でもなあ、子供の靴、ぶつけられたほうが」 「ずっと痛いね」 「一人の女が、籍入れないで子供を生むってことがどれほど重たいか、考えたことあるのか。日陰者になるってことは、親戚づきあいもあきらめて、世間様に下向いて、普通の女の一生、諦めるってことなんだぞ」  門倉はまた無言になった。 「お前は子供がない。だから二号までは認める。うちの奴も言ってたよ。だけどな、三号は断るね。つき合いきれないよ。第一、不愉快だ。娘の手前もあるよ。教育上よくないよ」  言っているうちにたかぶってきた。 「どっちみち金で、札束で横っ面張って落籍《ひか》したんだろうが、金さえありゃ何でも出来るってやり方は、男としちゃ下の下だよ」  門倉がポツリといった。 「言い方、しつこいんじゃないかな」 「おい」 「友達の浮気責めるのに、何も青筋立てて鼻の頭に脂浮かせて言うことないだろ」 「子供抱いて、うちへ泣きついてきたあの人の気持考えたら、青筋ぐらいあたり前だろ」  少し間があって、門倉は低い声で言った。 「それだけか」  嫉妬《やきもち》がまじったように聞えたからさ、とつけ足した。 「まじってるよ。まじらなかったら、男じゃないだろ」  おれは確かにお前には世話になっている。おごってももらっている。だからといって、人のものをかっ払うことはないだろう、ととがった言い方になった。 「人のものって、あれはお前のものだったのか」 「恥かしながら、惚れてたよ」 「それだけか」  念を押してから、 「相手は芸者だぞ。手も出さずに惚れてただけで自分のものだというんなら、おれなんぞ綺麗どころはみんな自分のものだね。お前いくつだ。物知らずも大抵にしろ」 「そう言われれば、それまでだけどさ。生れて初めて女にのぼせたんだ。気を利かすのが、友達ってもんだろ。選《よ》りに選ってその女|落籍《ひか》すことはないだろ」 「だから落籍せたんだよ。かっぱらったんだよ」  門倉は酒のお代りをたのんだ。 「このまま突っ走ったら、お前は必ず身を過《あやま》る。芸者に血道をあげたら、生易しい金じゃ済まないよ。月給の前借りから使い込みになるんだよ。そうなったら奥さんはどうする。おれは辛いよ。そういう奥さんの顔見ていられないよ」 「じゃあ、うちの女房のためにやったのか。たみのために何万だか金使って、まり奴落籍せたのか」  触れてはいけないものに触れてしまった息苦しさを、二人は重い溜息で吐き出した。  突然、仙吉が、綺麗ごと言うなよ、とどなった。 「屁理屈つけやがって。どこの世界に、ひとの女房の泣き顔見たくないって大金使う馬鹿がいる。女好きなんだよ。助平なんだよ」 「まあ、それが全然ないとは、言わないけどさ」 「見ろ。それ見ろ」  門倉も仙吉も、理由をそこへ落ちつけたかった。 「自分の卑しいとこ棚に上げて人のせいにしやがって」  汚ねえ野郎だよ、と毒づき、顔を見たくないから、当分顔を出さないでくれと、言いたい放題だった。  その晩、仙吉は、今日明日というわけにはいかないだろうが、ガーンと言ってやったから、いずれ近いうちに手を切るだろう、と三号の件をたみに報告した。 「手切るとまたお金がいるんでしょ」 「鉄砲玉作って儲けた金だ。鉄砲玉みたいにバンバン使えばいいんだよ」  たみは、いつになく仙吉が自分の横顔や衿元のあたりに視線を這わせているのに気がついた。 「どうしたの。なにかついてます?」  おくれ毛をかき上げるたみに、 「お前は幸せな奴だな」  そういうと、 「たまには雨戸でも閉めるか」  戸袋のところに立って、大きな音を立てて雨戸を引っぱり出している。一年に一度か二度の珍しいことで、たみは、さと子に、「あしたは雨だよ」と言って首をすくめてみせた。  芋  俵  天長節である。仙吉の家にも国旗が出ていた。白地に赤くといいたいが、灼けて端が破れた、かなりくたびれた日の丸である。風がないのかダランと威勢悪く下っていた。 「愛馬白雪号に召された大元帥陛下におかせられては」  ときどきガアガアと雑音の入るラジオが、天長節式典のニュースを叫んでいる。縁側では仙吉と門倉が碁を打っていた。休みというと門倉が碁を打ちにくる。碁は金のかからない娯楽である。いつも門倉におごられている仙吉だが、たみやさと子に茶を入れろ、水菓子はないのかとどなるときだけは、大きな顔でゆったりしていた。  石を置きながら、尻取りでやりとりをする。仙吉が「無い袖は振れぬ」と呟くと、門倉が、 「塗り絵はベティかテンプルちゃん」  とつづけ、仙吉に負けた門倉が、「よよ」と肘《ひじ》で涙を拭う真似をして、「よよよよ」と男泣きして女たちを笑わせると、 「四場所優勝、無敵双葉山」  と仙吉が得意になるという具合である。お返しに門倉がいいところにピシリと置き、仙吉がアイタタタとうなって、門倉が、 「タンクに日の丸南京入城」  と胸を張ったとき、いきなり玄関の格子戸があいて、男がひとり飛び込んで来た。  年の頃は五十五か六。大工か鳶《とび》という格好で、酔っているらしく目が据わっている。挨拶もなしで上り込み、仙吉と門倉を見ても物も言わない。きょろきょろとあたりを見廻すと、いきなり押入れをあけた。 「あんた、誰だい」  仙吉も門倉もポカンとして、とがめるのも忘れて見ていた。男は茶の間に飛び込み、さと子とぶつかりそうになった。さと子が小さな悲鳴をあげ、たみが体で娘をかばった。仙吉が、 「おい、何者だ、こら」  派出所の巡査のような口を利き、 「誰だ、あんたは」  と門倉も叫んだが、男は目もくれず、台所をのぞき、廊下を走り、初太郎の部屋をあけ、便所から湯殿まであけてなかを調べている。仙吉と門倉は男のうしろについて廻り、どなり誰何《すいか》するが、男は二人を突き飛ばすだけである。 「そうだ。二階だ!」  と叫んで、梯子段をかけ上ろうとする。 「待て」  と追いすがる仙吉と門倉に、 「くるな。くると叩っ殺すぞ」  ドスの利いた声でおどすと、そのままかけ上った。 「おい、お前、知らないのか」  門倉が仙吉にたずね、 「これじゃないのか」  頭の上でぐるぐる渦巻きをつくってみせたとき、どどどと落っこちるように男がおりてきた。  梯子段の下で固まっている四人に、 「どこ、隠した。おれの嬶《かか》あ、どこへ隠した」  据わった目でにらみつけた。 「嬶あ?」 「とぼけやがって」  男は仙吉と門倉を見くらべると、いきなり門倉の胸倉をとって締めあげた。 「手前《てめえ》だな、盗っ人は」  何のことかさっぱり見当がつかないまま、男三人は団子になって揉み合い、いっぺんに酔いが廻ったらしい男と一緒に畳にへたり込んだ。  荒い息をつく三人の前に、水の入ったコップをひとつ差し出したのはたみである。仙吉が手を伸ばしたが、たみはやわらかく「どうぞ」といって男の手にコップを持たせた。 「おかみさん、お幾《いく》つなんですか」  男は水をひと息に飲み、まだ肩で息をしている。 「お綺麗なかたなのねえ」  男はフンといってコップを置いたが、満更でもない様子である。 「お名前」 「ふみ」 「あたしとそっくり。あたし、たみっていうんですよ」  たみはコップを手に取って、 「この人は門倉さんといって、主人の一番のお友達ですよ。軍需工場やってて景気はいいし、お道楽のほうも威勢がよくて、二号さん、三号さん」 「奥さん。さと子ちゃんの前で恥かかさないでくださいよ」  門倉は頭を掻きながら、仙吉を指さした。 「この男もやらないよ。石部金吉で細君にぞっこんだから、死んでもやらないよ」 「うちを間違えたんじゃないのかい」  仙吉に言われて、男は、「おかしいなあ」と首をひねって出てゆきかけた。 「ちょっと待って下さいな」  静かな声でたみが呼びとめた。 「飛び込んできたときもご挨拶はなしだったけど、帰りもなしですか」  ひと息入れて男の顔を見て、 「今度飛び込むときは、よく調べて相手をたしかめてから飛び込むことだわね。あんたさんも男として引っ込みつかないでしょ」 「どうもご無礼しました」  男は上りかまちに手をつくと、少しふらつきながら出ていった。  この騒ぎで女を上げたのはたみだった。 「男はかたなしだね」  門倉は何度もこう言った。 「水田やおれが意気地なしだと言ってるんじゃないんだよ。ああいうとき、普通の声が出なかったということだよ。『おかみさん、お幾つ』『お綺麗なかたなのねえ』男のツボですよ」 「よしてくださいよ」  それから男の女房の品定めになった。年の頃は三十七、八。色白、骨細、柳腰。大森あたりの小料理屋の仲居をしていたのを拝み倒して女房にしたんじゃないかということになった。乱れた碁石をもとへ戻して、また尻取りで石を置きはじめた。 「拝み倒してカミさんにした」 「したはいいけど気がもめる」 「もめる筈だよ、鴨居女房」  と門倉がつづける。 「なんだそりゃ」 「カミさんのほうが一段上ということさ」  仙吉はちらりと、たみを見てから、 「門倉のとこと同じじゃないか」  とやり返した。  玄関の戸があいた。さと子が、 「また来たんじゃないかな、あのひと」  一同腰を浮かしたが、聞えてきたのは作造老人ののんびりした声であった。 「なにを遠慮してるんだ。早く上った上った」  玄関に腰をおろした作造は、首に巻いた手拭いで足をはたきながら、格子戸の外に声をかけた。 「さあ、おふみさん」  おふみさん。一同が聞きとがめたとき、曇りガラスの向うに人影が動いて、女が入ってきた。五十がらみの色黒、小肥り。白粉気なしで手拭いをかぶり身なりもむさ苦しい。お世辞にも美人とはいえなかった。野太い声で、 「おじゃまします」  と挨拶して玄関に立っているのだが、肥っているのでいやに場所をとる。 「仙吉つぁん。この人、二、三日預ってもらえんかな」  作造老人はごく当り前のように言ったので、一同はもう一度驚いた。 「そりゃたしかにうちの亭主ですよ」  ふみという女は、落着きはらってそう言った。  庄吉といって大工だという。腕はいいのだが酒乱で、飲むと人が変る。落度がないのに殴る蹴るの乱暴で、ふみは傷だらけ膏薬だらけできまり悪くて銭湯へもゆけなかったという。 「このままじゃ殺されちゃうよって、作造さんが侠気《おとこぎ》出してくれたんですよ」  今日こそうちを飛び出そう、今日こそと思っても、女はひとりじゃ駈け出せない。おれにまかせろという人がいないと決心がつかなかった、とふみは言いかけて、 「あ、間違えないでくださいよ」  作造とは断じて色恋沙汰ではない、と一同をねめ廻した。 「なまじ年がくっついてたら、あたし、やめてますよ」  作造も、「もう、こちとら薪ざっぽで水気なんぞありゃしねえ」と威張っている。 「とにかく女房かくしたの、かっぱらったなんて、そんな目で作造さん見たら罰あたりますよ」  神様や救世軍に向って泥棒呼ばわりするようなもんだと当るべからざる勢いに、一同げんなりした。作造までが、騎虎の勢いというのか、いきり立って、 「庄吉の奴、ぶん殴ってやる」  と言い出す始末である。さすがにあきれた門倉が、ぶん殴るのもいいが外でやってくださいよ、と口火を切った。 「気の毒だとは思うが、巻き添え食う身にもなってくださいよ。年頃の娘がいるのに、酔っぱらいに飛び込まれて、嬶《かか》あ出せの盗っ人のとやられたんじゃ、たまったもんじゃないよ」  勢い込んで言う門倉に、ふみは、 「こちら、ご主人さんですか」  門倉は一瞬たじろき、主人はあっちだと仙吉を指さした。本人は言いにくいから代りに言うのだが、と前置きして、親戚といっても、血のつながった縁ではない、自分のうちとカン違いしてるのではないかと、かなりはっきりした口を利いた。  門倉は、この間うちからちょくちょく顔を合せていた作造老人をあまり好きでないらしい。死んだ初太郎と気が合っていたこと、初太郎には邪慳《じやけん》だった仙吉が作造をもてなすのが気に入らないとみえる。  本当に聞えないのだか聞えないフリをしているのか、作造は悠々と煙管をくわえていたが、仙吉はやわらかく作造を突っついて、物かげへ呼んだ。 「放したほうがいい」  面倒なことになるから今のうちに放したほうがいい、と言ってきかせたが、作造は、 「綱引きじゃあるめえし、途中で手が放せるかい」  と取り合わない。見かねた門倉が、大きな声で、 「いいとこ見せたい気持は判るけど、自分の身の丈考えてやらなきゃなあ」  あてこすりを言うがこれにも、 「身の丈は五尺五寸五分」  頓珍漢な答えがかえってくるばかりである。  一同顔を見合せ溜息をついたところで、事情を察したらしいふみが、「おじゃましました」と頭を下げた。 「薄情なようだが、血相変えて飛び込んでくるとこみると、旦那はおかみさんに惚れてるよ」  もどったほうがいいと仙吉も言い、結局、作造に送られてふみは戻っていった。 「物凄い美人かと思ったら反対でしょ。門倉のおじさんたら芋俵だなんて」  三日逢わないと三日分の出来ごとを、さと子は石川義彦に話すのが楽しみだった。  酒乱の夫に虐待され耐え忍んだ末飛び出した女のはなしから、話題の新聞小説「路傍の石」のはなしになった。 「みんなに踏みつけられている道ばたの小さな石ころにも怒りがあるんですねえ」 「君、読んでたの」 「うち、新聞は朝日なんです。吾一少年の運命、どうなるんだろうと思ってドキドキして。山本有三って人、どして途中でやめちゃったんですか」  やめたのではない、やめさせられたのだと義彦は言った。 「政府にですか、弾圧ですか」  このくらいのことは、さと子も言えるようになっていた。ルパシカの布地代もいりませんと言った。 「カンパします」 「知ってるじゃないか」 「もっとほかにも知ってますよ。『マルクス・エンゲルス』」 「それだあれ」 「ロシアの人でえらい人。ひげはやした立派な顔の」 「どっちが」  さと子はキョトンとしていた。義彦は、二人の人の名前だと教えてくれた。 「カール・マルクス」  大事そうにさと子が復唱すると、義彦は、笑いながら抱きしめた。 「フリードリッヒ・エンゲルス」  外国語の詩を読むように言うと、義彦の唇がさと子の唇をふさいだ。  二号の禮子のアパートにご無沙汰がつづいたとき、門倉は必ず仙吉をさそって出かけてゆく。 「芋俵だか炭俵だか知らないけど、はなし、出来過ぎじゃないんですか」  禮子は、作造とふみのはなしに興ずる門倉と仙吉に冷たい目を向けた。 「いや、本当なんですよ」 「いいのよ、水田さんまで無理しなくたって。この人ねえ、敷居が高いとき、いつもこうなのよ。『おい、名古屋の金の 鯱《しやちほこ》 の鱗《うろこ》盗まれたの、知ってるか』変ったこと言いながら入ってくりゃ、あたしにどなられないと思って」  門倉はすねる禮子の機嫌を取りながら、仙吉が作造に甘過ぎると文句を言った。 「そういうけどさ、息子夫婦にもあまり大事にされてないらしいし、年とって仕事は大儀だろうし」 「あのじいさんにくらべりゃ、死んだおやじさんのほうが依怙地だったけど骨があったね。こんどのはありゃチャランポラン」  言いかけると、禮子が、 「自分のことじゃないんですか」  待っていましたとばかり、自分のほうへはなしを手繰《たぐ》り込む。 「守にね、数を教えてるの。一、二、三、四。二つというとき、ここのとこ、キューとなるの。どうしてかしら」  胸のあたりを押えてみせる。 「三ていうとき、ここがカアッとなるの。不思議でしょう」  頭の地肌を掻いてみせるあたり、なかなかの役者である。 「そのはなしはもうけりついたじゃないですか」  仙吉が間に入り、門倉も守の寝顔を突つきながら、 「三日見ないと大きくなるねえ」 「牡丹の蕾じゃあるまいし、なに言ってるのよ」  こういう日は何を言っても裏目に出る。門倉がそっと座布団の下にすべり込ませた毎月のお手当の封筒も、 「あら、これ、なんでしょう。一号二号三号」  と見ている前で百円札をかぞえられてしまう。 「よせ」  こういうときの門倉を見ていると、仙吉は自分のほうが幸せかも知れないなと考えるのである。  その夜遅くうちへ帰った門倉は、もう一度、びっくりしなくてはならなかった。 「お帰りなさいまし」  とドアをあけ、鞄を受けとったのは白い割烹着を着た、芋俵のふみだったからである。  しかも、出迎えの君子に、 「いい人みつかったでしょ。作造さんがみつけてくれたんですよ」  当分女中としてうちへ置くことにしたと言われて、門倉は広い玄関に案山子《かかし》のように立ちつくした。  騒ぎが起きたのは、それからひと月ばかりあとである。  用達《ようた》しに出かけた君子が忘れものに気づき、戻ってくると、茶室に使っている離れ座敷の障子が半開きになり、そのかげから、職人のドンブリがけと、割烹着が脱ぎ捨ててあるのが見えた。建具を直しに作造が来ていたが、あの人のではないか、割烹着はふみのかしら、と気がついた。障子に男と女のむつみ合う影が、田舎芝居の影絵のように薄くうつっている。  その時、電話室からベルの音が聞え、君子は大きくハーイと返事をした。障子の影法師は急に消えた。君子は、自分の頭を二つ三つぶん殴ってから電話室へすっとんでいった。間違い電話の受話器を置いた君子に、白い割烹着のふみが、 「奥様、お忘れものでございますか」  とのんびりとたずね、その向うで、作造がカンナを使っているのが見えたという。 「自分の気持に満たされないものがあると、女ってこんな浅間しい妄想を見るものか。そのときはそう思って出かけ直したんですけどね。待てよ、やっぱりおかしい。そう思って、もう一度、戻ったんですよ。そしたら」  今度は庭木戸から入った。井戸端に盥《たらい》を出して作造が濯《すす》ぎものをしていた。洗っているのは赤い腰巻だった。大きくひろげ、バサッと水気を切ったところで君子に気づき、赤い四角いものをひろげたまま、老人は活人画になった。 「現場押えられちゃ、ジタバタしてもしようがねえな」  縁側のところで、長襦袢姿のふみが、身も世もないといった格好で頭を下げた。  仙吉とたみ。門倉と君子。二組の夫婦の前で、作造は悪びれた風もなく淡々としていたが、ふみは絵に描いたようにうつむき、洋間なので、畳のケバの代りに、ソファにかかったカバーのリリアンの端っこをいじっていた。芋俵なので、肩を落してというわけにはいかないらしい。 「は、は、はなしが違うじゃないか」  仙吉は珍しくどもっていた。若い時分、どもる癖があり、何とか矯正会で直したというが、激すると出てくる。 「色気じゃない、侠気だ、もう水気などありはせんといってたのはありゃ、嘘か」 「薪ざっぽにも水気は残ってたんだよ」  仙吉のほこ先は、ふみに向った。 「あんたもあんただよ。神様だ救世軍だといってたが、あんた救世軍と間違いしたのか」  ふみにつめ寄る仙吉の手を、作造は煙管でひょいと押えた。 「悪いのはおれだよ」  といった。 「亭主に知れたらどうする。出るとこへ出られたら、あんた姦通罪だよ」  ありゃ懲役二年だぞ、と門倉が言った。 「覚悟は出来てるよ」  作造は、煙管にゆっくりと刻みを詰めた。 「人の女房盗ったんだ。赤いべべ着て監獄入ろうじゃないか」  ふみが小さく作造さんと呟いたようだったが、門倉の大きな声に掻き消されて、恐らく作造の耳には届かなかったに違いない。 「参った。参った」  門倉は、参ったと五、六回叫ぶと、次は、偉いとみごとだよを各三回ずつ繰返した。 「人間なんてものは、いろんな気持隠して生きてるよ。腹断ち割って、はらわたさらけ出されたら、赤面しておもて歩けなくなるようなもの抱えて暮している。自分で自分の気持に蓋《ふた》して、なし崩しにごまかして生きてるよ。みんな思い通りにやりたいんだよ。やりたいけど度胸がないんだよ」  門倉は、仙吉、たみ、君子、一人一人を見て、自分に言ってきかせるように呟いた。 「たった一度しか生きられないんだ。自分に正直に振舞えばいいんだよ。それをみんなまわりに気兼ねして、お体裁つくって綺麗ごとで暮しているんだよ」  丸太ン棒で頭のうしろをブン殴られたみたいだとも言った。作造に、あんたのこと見直したと言った。 「そうそう持ち上げるなよ」  仙吉のほうはそう手放しで喜べないというところがあった。 「現実問題として、あの亭主が知ったら、ただじゃ済まないよ」 「いいじゃないか。男として責任とると言ってるんだ。深編笠かぶって腰縄打たれて、姦通罪で懲役にゆくといってるんだ」  男ならこうありたいね、と言いかける門倉に、 「水入りにしません」  君子がにこやかに割って入った。 「大演説でのどが乾いたでしょ。お茶かビールかどっちがいいかしら」  ひとつ気を抜いてから、 「ふみさん、あんたやさしいのね」  やわらかく笑いかけた。 「男に、というより年寄りに恥掻かせちゃ可哀そうだってかばうあなたの気持も判るけど、あと面倒なことになるんじゃないの」 「あの奥様、それ、どういう」 「あたしに言わせるの」  君子は、仙吉と門倉、それからたみに聞かせるように、低い声で、ゆっくりと言った。 「年寄りってよくそういうことがあるのよ。若い時分、看護婦してたから覚えがあるんだけど、年とると、『こうだったらいいなあ』と、『こうした』の境目がぼんやりしてしまうのねえ」  じっとふみをみつめた。 「それじゃ奥様、あたしたち、なんにもなかったとおっしゃるんですか」 「それ言ってしまうと、恥かかせることになるわねえ」 「ほんとだったんです。作造さん、『お前さん、可愛いよ』『惚れたよ』って、あたしの手、ギュッと握って。うちの亭主も力だけは強いけど作造さんにゃかないやしません。あたし、亭主に済まないと思って、柱にしがみついたんだけど、肝腎の体のほうが山吹鉄砲の芯が抜けたみたいになってしまって」 「そこまででいいじゃないの。そこまでなら罪にならないわ」  門倉が君子にどなった。 「おいお前はなにを言ってるんだ」  作造は、体を斜めにして頭をかしげ、耳を突き出すようにするが聞きとれないらしい。  君子は作造にはおかまいなくつづけた。今度はたみのほうを向いていた。 「どんな男だって、主人は主人よ。よしんば主人よりも魅力のある男に誘われたからって、許したりしないもんですよ。そうじゃありませんか、奥さん」  たみがうなずくのを見てから、次は仙吉を見て、 「水田さんもそうお思いになるでしょ」 「うむ。まあ、それが人の道というものではあるなあ」 「待ってくれ」  門倉の口調はひとごとでない切実なものがあった。 「長い間、胸のなかで大事にしてきた精神的なものが、或日突然マッチの自然発火みたいに、バーンと爆発したんだよ。こりゃ神様だって見て見ぬ振りをなさるんじゃないかねえ」 「あなた、いやにリキんでおっしゃるわねえ」  君子がやんわりと、しかし多分に意味をもたせて念を押した。 「じゃあ、あたくしがそうなってもいいとおっしゃるの」  門倉もあとへ引けなかった。 「いいよ。一生に一度くらい」 「あたしは嫌だわ」  たみだった。 「どんなことがあっても、主人を裏切っちゃいけないわよ」 「そうよ。そうですよ」  君子が同調した。そして、 「ふみさん。なんにもなかったんでしょ。作造さんの思い違いなんでしょ」  耳を傾けていた作造が叫んだ。 「余計な心配はしないでくれ。男として責任とるといってるんだ。赤いべべ着るといってるんだ」 「なにもしないのに、赤いべべですか。もう還暦終ってらっしゃるでしょうに」 「いや、枯木に花が咲いたんだ。本当に咲いたんだ」  君子の胸倉を取らんばかりの作造を、たみがとめようとしたとき、ふみがガサツな調子でこう言った。 「うたた寝してたから、夢見たんだ」  作造は絶句した。 「おふみさん、あんた、なにをいうんだ」  しかし、ふみは作造には一瞥《いちべつ》もあたえず、仙吉と門倉に頭を下げた。 「亭主が気になるんで帰らせていただきます」  作造だけが信じられないという風で、首を振っていた。  仙吉とたみは、夜道を歩いていた。仙吉の半歩あとから、たみがついてゆく。 「門倉もおかしな男だよ」  仙吉は思い出し笑いになった。 「ありゃ奴さんの願望だね。おれもこうありたい。七十になっても、人の女房にチョッカイ出して、腰巻洗濯して、枯木に花が咲いたんだ、そう言いたい。判るねえ」  言いながら、たみをちらちらと覗いた。 「四十や五十なら、嫌だよ。許せないよ。でも七十だもの。怒るよかめでたいじゃないか。そうは思わないか」  目許は笑っているが、仙吉の口許は固かった。冗談にことよせて、たみの本心を聞きたい、ためしたいというところがある。 「あたしは嫌だわね」  仙吉は足をとめた。 「お父さん、いいんですか」  仙吉は返事に困った。何か言うとどもりそうである。  たみも困っていた。目を白黒して、必死にことばを探した。 「あたし、お父さんが門倉さんの奥さんとそんなことになったら」 「なに言ってるんだ。おれがどうして門倉の細君と」 「例えばのはなしですよ。そういうの、女房としては嫌だと言ってるんですよ。七十になっても八十になっても、絶対嫌よ」 「嫌か」 「嫌ですよ」 「でもなあ、可哀そうじゃないか」  たみは黙って歩き出した。仙吉は半歩あとからついて、たみの影法師を踏みながら、 「そうか。女は嫌か」  と繰返した。支那そばの屋台がみえた。 「おい支那そば食ってくか」  急に元気になっていた。  支那そば屋の屋台から人恋しい匂いと一緒に湯気が立ちのぼっている。屋台につながれているやせた犬が、二人に尻尾を振った。  袷《あわせ》の下に追加のルパシカをかくして縫っているところをたみに見つかったさと子は、仙吉から相手の名前を言えと責められた。 「どこのどいつだ」  とどなられた。ドイツじゃなくてロシヤですと言いたかったが、さと子は黙っていた。 「正直に言ってごらん。怒らないから」  とたみは言ったが、正直に言えば怒られることは十九年の経験で判っていたから、このときも答えなかった。 「よし。言いたくないのなら言うな。その代り、言うまでそこに坐っていろ。水も飲むな、便所にもゆくな。どれだけ頑張れるか、やってみたらいいだろう」  たみがとりなしたが仙吉は許さず、さと子は茶の間に宵の口から夜中まで坐っていた。  何時間でも何日でも坐っててやると決心していた。のどが乾こうと、タレ流しをしようとかまいはしない。それが恋なのだと気持の中で凄んでみたものの、二時間もたつうちに、ご不浄へゆきたくなり、総毛だって小刻みに震え出した。 「腎臓が悪くなったらどうするんです」  たみが仙吉に食ってかかり、その晩は許してもらったが、結局、言うだけのことは言わされる破目になった。  仙吉は、義彦をたずねた。腰にガチ袋を下げた格好に、仙吉は露骨に嫌な顔をした。 「あんた、親はなにしてるんだ」 「親はかかわりないでしょう。恋愛や結婚は一対一だと思いますが」 「その一対一を生んだのは誰なんだ。親じゃないのか」  からはじまって、 「収入」 「ありません」 「将来の見通し」 「ありません」 「ない?」 「将来の見通しのないのは、ぼくだけじゃないでしょう。日本という国も、このままゆけはアジアも世界全体も」  帰ろう、と仙吉はさと子の手を引っぱった。  収入もない将来の見通しもない男とつき合ってどうなる、とどなった。古いのよ、と抵抗するさと子に、 「赤毛なんかのっけて騒いでるやつの手伝いなどするから新しがりにかぶれるんだ」  とどなって力ずくで引っぱり、 「乱暴はよしてください」  とかばった義彦に、 「親が子供の手引っぱって、何が乱暴だ」  と揉み合いになり、談判決裂となった。  ところが、数日後、訪れた門倉と君子は、義彦が財閥系の製薬会社社長の息子だと報告した。 「なんのかんの言ったって、女は肩ならべる男次第よ、女がどれだけ歯ぎしりしたって、パッとしない男と一緒になってごらんなさい。一生下積みで泣かなきゃならないのよ」  自分のことばがたみを傷つけていることなど判らないらしい。いや、途中で気がついたのか、 「大したことない女が、主人の羽振りがよくなったばっかりに肩で風切ってるってこともありますけどね」  とつけ足した。 「どっちにしても玉の輿《こし》よ、水田さん」  しかし、どうみても、苦学生か叩き大工の下っ働きにしか見えなかったと、仙吉は呟いた。 「大分金に困ってて、芝居の衣裳の布地代は、さと子が身銭切ってたらしいけどねえ」 「あり過ぎる人は、かえってそうなのよ。見栄はるのは、無い人間」  結局、家柄をさと子にも言わなかったことが奥床しいということになった。  仙吉やたみの態度が変ってきた。月給取りといっても先行き高の知れている仙吉が、頭の隅に出世の二字を思い描いても、責めてはいけない、とさと子は思った。  近々に、うちですきやきでもしよう。あの男を引っぱってくるか、と、仙吉はわざとぞんざいな口を利きながら、実は多少卑屈な目の色で、義彦を招くことになったのだが、一足先に、思いがけないことになってしまった。  日取りの打合せに、さと子がはじめて義彦の下宿をたずねたときに、特高の手入れがあった。  表戸を叩く音で義彦はそれと悟り、さと子に裏から逃げろ、万一、つかまったら、何も知らない、頼まれて衣裳だけ縫ったと言えと教えたが、さと子はいきなり電気を消し、湯の入ったヤカンなどを玄関に投げつけて抵抗し、警察へ引っぱられてしまったのである。  顔の広い門倉が裏から手を廻し、仙吉と二人で貰い下げに行って、さと子はその晩遅くうちに帰された。  仏壇に灯明を上げていたたみが転がるように迎えに出た。玄関の戸をしめた仙吉は、いきなりさと子を殴りつけた。 「お父さん、どうしてぶつの」  さと子は、仙吉の前に立って、父の目を見据えた。 「あたし、なにしたのよ。なに悪いことしたのよ。ぶつのなら、この前、あの人とつき合ってるって判ったときにぶてばいいじゃないか。家柄がいいって、親が社長だって聞いたらとたんにコロッと引っくり返って、ヘコヘコしといて、そんでまたひっくり返るなんて」 「屁理屈いうな。命がけで戦争してる人間がいるっていうのに、お前は」 「水田。今晩はもうよせ」  門倉とたみが間に入り、さと子は、涙もこぼさず二階へ上っていった。  灯明の消えた仏壇に、初太郎の写真が暗い顔をしていた。 「バカなことする血は一代置きか」  仙吉が呟いた。 「でっかいことする血だよ」  門倉が言い直して、 「おじいちゃん死んでから、世の中どんどん悪くなるなあ」 「お前のとこは儲かっていいかも知れないが」  門倉は黙って煙草に火をつけた。  たみが言った。 「なんとか諦めさせる方法はないかしらねえ」  しばらく沈黙があって、門倉が言った。 「むつかしいなあ」 「門倉。お前から言ってくれよ。お前のいうことなら、さと子、聞くから」  門倉は、首を振った。 「むつかしいな。みすみす実らないと判ってたって、人は惚れるんだよ」  仙吉も黙って、煙草をくわえた。  二人の男の指先から、紫色のうすい煙が上るのを、たみは黙ってみつめていた。  四 人 家 族  土曜の昼下り、門倉は大きな西瓜《すいか》をぶら下げて仙吉のうちを訪ねた。守の手を引いた禮子も一緒である。  門倉は二十年のつきあいにしては他人行儀なところがあって、いつもは玄関の格子戸から声をかけるのだが、この日は守が半開きになっていた庭木戸を押してしまい、大人たちもあとを追って庭先から入る格好になった。  縁側に近づいた門倉は、時候の挨拶をしようとして棒立ちになった。たみが白麻の背広の上衣を着て、大まじめな顔で姿見の前に立っていたからである。男物だから身丈も袖丈もダブダブで、おまけに下はズボンなしの肌襦袢だから、旗でも持ったらチンドン屋だった。たみは見られているとは気づかず、茶色に変色した古いカンカン帽を頭にのっけて様子をつくったりしている。  ひと足遅れて入ってきた禮子が、けたたましい声で笑い出した。たみはアッと叫んでこれも棒立ちになったが、 「やだ。どうしよう」  そのまま畳にガバと打ち伏した。カンカン帽が笑うような音を立てて縁側まで転がってきた。たみは諦めたらしく、身を起した。 「あーあ。えらいとこ見られちゃった。みんな出掛けてるから大丈夫だと思ったのに」  禮子は、笑い転げてことばにならない。 「それ、水田さんの夏服でしょ」 「一昨年《おととし》の。白麻ってふた夏も着ると衿がベンジンで灼けて駄目になるでしょ。無理して作ったのに勿体ないなあと思って。廃物利用なんて言われるご時世だし、さと子のシャツにでもならないかと思って着てみてたのよ」 「それにしても着てみなくたって」  柱にしがみついて笑っている禮子を見て、たみも一緒になって笑ったが、涙を拭きながらふとそばの門倉に気づいた。  門倉は西瓜を手に、雷にでも打たれたように立っていた。 「どうしたの、ねえ」  禮子がゆさぶると、のどの奥をぐうっと鳴らして、縁側に西瓜をおっぽり、そのまま飛び出していってしまった。  二人の女は顔を見合せた。 「どうしたのかしら、門倉さん」 「我慢出来なくなったのよ。あの人、男のくせして笑い上戸なんですよ。でもここで笑ったら奥さんに悪いと思って。今頃その辺の電信柱につかまって涙こぼして笑ってるわよ」  その通りだった。  門倉は通りの電信柱におでこをくっつけて寄りかかっていた。「カンの虫寝小便の薬」や「どもりよ来たれ」「花柳病」などの貼紙のある電柱におでこを揉み込むようにして、 「いいなあ。いい」  何べんも繰返した。  これなんだよ、これなんだよ、と呟いた。長い間、憧れていたものはこれだったのだ。あのまじめさ。おかしさ。可愛らしさ。 「あぶないな。あぶないな」  とも呟いた。 「おじさん、気分でも悪いんじゃないの」  お使いの帰りらしい、簡単服を着たさと子が立っていた。 「いや何ともないんだ。なんともない」  門倉はやたらに汗を拭いた。 「あっちのほうはどうした。石川君は」  低い声になって、 「出ては来たんだろ。留置場から」 「でも、どこへゆくんでも特高の目が光ってるから、逢うと迷惑がかかるって言うんです。もうこれっきりにしてくれって」 「さと子ちゃん、辛いなあ」  強いことばには意地で刃向えるが、やさしいことばには他愛なく涙がにじんでくる。 「人生にはねえ」  さと子はびっくりした。いつも冗談ばかり言っている門倉が人生などというのははじめてである。 「人生には、諦めなくちゃならない、思い切って断ち切らなくちゃならないことがあるんだよ」  しみじみいうと、 「元気出して」  門倉は手を出した。  けげんな顔をしながら、さと子が握手をしかけると、門倉は急に手を引っこめた。 「恋人のいる人と握手なんかしちゃいけないな」  うちへきたんじゃないの、というと、帰るとこだよ、西瓜持ってきたからお上りといって手を振り、歩いていった。酒にでも酔ったようにふらふらしていた。 「さよなら」  さと子が呼びかけても、振り返らなかった。  酒の席で、仙吉は門倉にからまれた。  芸を所望された仙吉が、いつもの通り無芸大食だから勘弁してくれと言ったとき、犬の真似をしろよと嗤《わら》ったのである。 「犬はむつかしいよ。第一、おれ、犬飼ってないから」 「いつもの通りやればいいんだよ。人のあと、尻尾振ってついてきてさ、お預け、ちんちん、お廻り」 「どういう意味だ」  芸者の爪弾きがぱたりとやんだ。 「水田の奴、芸なしだっていってるけど、芸あるよ。『奢《おご》られ上手も芸のうち』」  こわばってはいるが、仙吉はつとめて笑おうとしていた。 「門倉、謝れ。酒の上の冗談にするから謝れよ」 「なんでおれが謝るんだ。本当のこと言って謝ることはないだろう。そうだ。もっとぴったりのがあるよ。いいか。『たかり上手も蠅のうち』」  仙吉は盃の酒を門倉に浴びせた。 「酒を粗末にするなよ。これもおれの奢りのうちだからな」  身銭を切ったことのない奴には判らんかと大声で笑った。 「すまんがはずしてくれないか」  芸者たちがそそくさと引き上げたあと、手酌で飲もうとする門倉の盃に、仙吉は手で蓋《ふた》をした。怒りで手が震えていたが、落着け落着けと自分に声をかけていた。 「門倉、お前、酒弱くなったなあ。酔っぱらいやがって、だらしがないぞ。昔なら、おもてへ出ろ。ぶん殴ってるところだが、おたがい年だ。次はおれがやるかも知れん。酒の上のことだ。水に流すよ」 「無理に流すことはないよ」  酔って本心を言うことだってある。ゆすりは罪になるが、たかりは罪にならないからなと門倉は追い討ちをかけた。 「おれは一介の月給取り。お前は軍需景気で金廻りがいい。たしかにおれはお前にしょっちゅうご馳走になってるよ。うち中が世話になってきたよ。だがな、これはお前の好意じゃなかったのか。おれたちが断っても断っても、お前がいろいろしてくれるのは、友情じゃなかったのか」  門倉は、しげしげと仙吉の顔をのぞき込んだ。 「お前、此の頃、顔立ちが卑しくなったなあ」  仙吉はまだこらえた。 「こういうとこへ誘うたびにお前、言ったじゃないか。頼むからつき合ってくれ、仕事の苦労忘れて飲めるのは昔の戦友だけだ。お前の財布はおれのもの。お前の紙入れはおれのもの。ありゃ嘘か、出まかせか」 「たかりにも限度ってものがあるんじゃないかねえ」  ふふふと笑って、 「それにしてもポロリと出たもんだよ。『たかり上手も蠅のうち』」  仙吉は躍りかかるようにして門倉の横面を張りとばした。 「本日限り絶交する」  鼻血が滴って白いワイシャツに赤いしみをつけたが、門倉は拭こうとせず、手を叩いた。 「お客様のお帰りだ。塩まいてお送りしてくれ」  仙吉は、まるで軍靴でもはいているように足音を立てて出ていった。門倉は床柱にもたれて目をつぶった。別の座敷の三味線が軍歌にかわった。  蒼い顔をして帰ってきた仙吉は、たみとさと子を茶の間に坐らせると、門倉と本日限り一切のつき合いを断つと宣言した。 「万万一、奴の細君が遊びにくることがあっても、うちへ上げるな」  たみもさと子もポカンとして、鯉のぼりのように口をあけ顔を見合すだけである。 「喧嘩でもしたんですか」 「喧嘩なんて生易しいもんじゃないよ」  満座のなかではずかしめられた、と話した。お前はたかりだと言われたよとしゃべっていると、またからだが震えてきた。  たみにはまだよく呑み込めなかった。 「たかりって、ゆすりたかりのたかりですか」 「ほかにどんなたかりがある」 「すみません」 「奢る人間より奢られる人間のほうが辛いんだ。辛いけど、その辛さをあいつは判ってると思えばこそ、おれは奢られていたんだぞ」  あとはひとしきり門倉の罵倒になった。  お前たちも絶対つき合うな、かげでこそこそやってるのが判ったらただでは置かんぞ、と申し渡した。  その夜、いつまでも寝つかれず、布団に起き上って煙草を喫っている仙吉の背中に、たみは謝った。  みっともないところを見られてしまった。くず屋に売るのは勿体ないと夫の背広の古いのを着てみたが、門倉さんは何とケチな女房だと思ったのではないか。それで急に嫌気がさしたのではないか。  黙って聞いていた仙吉は、枕もとの水を張った灰落しに、ジュウと音を立てて煙草を突っ込んだ。 「そうじゃないよ」  もう声は震えていなかった。 「深くつき合い過ぎたんだろ」  たみの夏掛けが大きく上下《うえした》に息をしている。仙吉は明方まで寝返りを打っていた。  門倉は、禮子の文化アパートで大の字になって天井を見ていた。  仙吉と絶交してから、カフェや芸者遊びをしなくなったせいか、三日にあけず禮子のところへやってきた。くるとすぐ大の字に引っくり返っている。守が胸や腹にのって遊んでも、返事は上の空で、目はどこも見ていなかった。  水仕事を終えた禮子が、指先のしずくを門倉のおでこにぽとりと落しても黙っている。禮子は門倉の大きなからだをゆさぶった。 「痩我慢はよしなさいよ」  禮子の目は細いが、妙に光って力がある。門倉はのぞかれまいと目をつぶった。 「目なんかつぶったって、あたしには見えるんだから。痩我慢しないでつき合いなさいよ」  子供をうんでから二貫目ほど肥ったからだを門倉は下から抱きしめた。 「いいわよ、代りに抱かなくたって。あんたの本当に抱きたい人は判っているんだから」 「安っぽい言い方はよせ。そんなんじゃないんだ」  禮子のほてったからだを右手に抱き、左手には、父親と母親の間をよじのぼってくる守を抱きながら、門倉の目はやはり天井を見ていた。ひげの剃り残しがあるのを禮子は見逃さなかった。こうなって三年近いがこんなことは一度もなかった。  朝刊をひろげたまま、仙吉は顎ばかりなでていた。門倉とあれこれ時局を論ずる楽しみあればこその新聞である。話の相手がいないと思うと、活字まで死んで見えた。  たみとさと子が「舞踏会の手帖」を見たがっているが、あれは見せて大丈夫な映画か。  おれは今までの軍歌のなかでは「徐州徐州と人馬はすすむ」という「麦と兵隊」が一番好きだと言おうと思いながら、到頭言わずじまいになってしまった。鳴物入りで騒ぎ立てたスフ入り浴衣は結局は日本橋白木屋の宣伝だったそうじゃないか。  ガソリンがあぶないというのは本当か。この秋には統制になるとか、木炭自動車も出るとかいうがどうなんだ。こんなはなしをしてから絶交するんだった。  勤めのある日はまだよかった。  手持ち無沙汰なのは日曜で、仙吉は日がな一日縁側に腰かけ、庭を見ては三箱のゴールデン・バットを煙にしていた。  たみもめっきり口数がすくなくなった。夕食もすぐに終ってしまった。門倉がああ言った、門倉ならこうするな、そこに居なくても、門倉の話題が多かったのが、いまは門倉のカの字も禁句なのである。  さと子は、うちは四人家族だったのだと気がついた。姿はそこになくても、門倉はいつもうちの茶の間に坐っていた。 「金魚でも買いにゆくか」  仙吉が呟いた。  この前の日曜も同じこといってたとさと子は思った。仙吉がゆきたいのは、金魚屋じゃない、門倉のうちなのだ。自分がゆきたいのは、石川義彦のあの下宿なのである。逢いたい気持を押えて逢わないのが愛だということが判った。父も母も門倉のおじさんも、あたしと同じかも知れないと気がついた。  ぼんやりしているのは仙吉だけではなかった。たみは、洗い張りの手がお留守になっていたので、庭木戸から駒下駄の足音が入ってきたのに気がつかなかった。  目の前に君子の顔があった。  うちのなかに逃げこもうとしたが、君子はたみの割烹着の裾をつかんで離さなかった。たみは布海苔《ふのり》のついた両手を万歳して、うしろ向きのまま身を縮めた。 「奥さん、すみませんが、このままお引き取りくださいな」 「こういうところが門倉、好きなのねえ」  素直なやわらかい言い方だった。 「このままでいいの。このままでいいから、はなしだけ聞いてくださいな」 「奥さん、あたしはお目にかかりたいのよ。話したいこともあるんです。でも主人が絶交だっていっているのに」 「門倉、元気ないのよ。なに言っても上《うわ》の空」 「それはうちの主人だって」 「それより、あたしがつまらないの」  今まで聞いたことのない、しみじみとした君子の声だった。 「今までは、日曜っていうとお宅へ入りびたりだったし、ほかにも入りびたるとこの多い人だから、いつもあたしは置いてけぼり。でもね、それはそれで、やきもちやいたり、ヒステリー起したり、ちょっぴり人を恨んだりしながら暮してた、それがあたしの暮しだったのね。この頃、たしかに門倉はうちにいるわ。でも、うちの居間やサンルームに転がってるのは、門倉の脱殻《ぬけがら》よ。死骸よ」  君子は、割烹着を離した。もう逃げ込まないと踏んだらしい。 「女はね、死骸と暮したって、ちっとも楽しくなんかないのよ。生きて生き生きして、仕事して、儲けて、遊んでるあの人のほうが、辛いけど、ああ、あたしはこの人の女房だ、そういう実感があったわ」  君子はたみの顔をのぞき込んで、 「奥さん、あたし、老《ふ》けたでしょ」  ご主人にとりなして、どんなことがあったか知らないが前通りつき合ってやって下さいよ、と頭を下げた。  たみも姐《あね》さま被りの手拭いをとり、君子よりも深く頭を下げた。二階からおりてきたさと子は、お茶を出すと仙吉に叱られるかなと迷い、やっぱり出そうと決めながら、もうすこし、二人の女の話も聞きたくて、台所へ入るのをためらっていた。  心ここにあらざるせいか、仙吉は歩いていて人にぶつかるようになった。毎度のことだから、驚きはしないのだが、そのときは相手のほうからぶつかってきたという感じだった。しかも、はずみで地面に尻餅をついた相手の老人は、 「どこに目つけて歩いてやがんだ」  口だけはすこぶる達者である。  目黒駅をおりたところの人ごみだった。月給取りや工場勤めの連中の退《ひ》けどきで、かなり混んでいた。 「ぶつかったのはそっちのほうだろ」  仙吉は手を差し出した。老人は、七十を越しているらしい。はあはあと荒い息をつきながらも、手を拒んでにらみつけている。 「大丈夫かい」  抱えて起し、着物の裾をはたいてやったら、目と鼻のところにおでん・かん酒の屋台があった。 「ひと息入れてったほうがいいよ」  と誘ったのは、老人が死んだ父親の初太郎に似ていたせいである。 「あんた生れは」 「身よりはあるのかい」  何を聞いてもだんまりで、老人は、のどを鳴らしておでんを食い、卑しい手つきでコップ酒をあけた。 「死んだおやじに似てるもんだから、ひょっとして故郷《くに》が同じかな、と思って」 「目ン玉ふたつに鼻ひとつ、口がひとつに耳ふたつ。くくって言やあ、人間みんな同じ顔だろよ」  煙草のやにで痛めたのか、のどを使う商売か、しわがれた声だった。 「その通りだが、当分、日本人の顔も見納めなんでね」 「応召かい」 「この年じゃ応召はこないよ。薬品のほうやってんだけどね、南方に支店が出来るんで、そっちへやってくれってあっちこっちかけ合ってさ、今日やっと決ったとこ」 「日本で食いつめてかい」  仙吉は、コップ酒をぐっとあおった。 「友達がおれのかみさんに惚れててねえ。いや、あれは惚れた、なんていっちゃ可哀そうだ。『おもってる』ってやつだ」  酒の入ったコップをゆっくり廻すと、家路を急ぐ人の群や街の灯が廻り灯籠のように廻っている。 「勿論そんなことはおくびにも出しゃしない。カミさんのほうも固い女で、あれも知ってて知らんプリだ。門倉っていうんだけどね、こいつがいい奴でさ。ウマが合うっていうか、おれのほうも親兄弟より深いつき合いで来たんだが、突然喧嘩売られてね。こっちも気が短いもんで、絶交だとやったんだが、あとで判ったよ。門倉の奴、ここまでと思ったんじゃないかねえ」  コップの廻り灯籠は、酒に溶けてにじんで廻っている。 「これ以上気持が深くなったら、とんでもないことになる。今まで大事にしてきたものに、汚点《しみ》つけることになる」  聞いているのか、いないのか、老人は、ガツガツと食い、むせながら酒を流し込む。 「欲得離れた友達だったよ。あいつにゃなんでも言えた。あいつと一緒だと、喧嘩してても楽しかった」  仙吉はぐっと呷《あお》った。 「ひとりで飲む酒は酒じゃないよ。逢いたくってねえ。このまま東京にいるとおたがい目と鼻だ。あぶないよ。自分の気持断ち切るために、遠くへゆかなきゃ。そう思ってね」 「もう一ぱい」  老人が小汚い指を立てて、酒の催促をした。 「のろけ料だよ」  仙吉もお代りをした。 「娘のほうもつき合っちゃいけない相手に惚れてるんで、こっちのほうも一緒にひっぱってゆきゃ、八方丸く納まると思ってね」 「男としちゃ、どっちが上だい。お前さんと友達だよ」 「あっちだね。男っぷり。金廻り。いや人間としてもあっちのほうがずっと上だね」 「女房はどっちに惚れてる?」  すこし考えて、「五分五分じゃないかな」と答えた。そう思いたかった。そうあってほしかった。 「男冥利だな」 「だれが」  仙吉を指さしてから、鼻唄になった。 「酔っぱらった振りして、掻っぱらったね」 「まだ掻っぱらわれちゃいないよ。いや、あいつは一生、掻っぱらわないよ」 「お宝が入ってるから、手出すんだよ」 「そりゃそうだ」 「南だか北だか知らねえけど、行くのよしなよ。懐、押え押え、油断しねえで暮すほうが面白いぜ」  よろよろと立ち上り、もう一度仙吉にもたれかかってから、ごっつおさんと出ていった。 「お宝が入ってるから手出す、か。うまいこと言うねえ」  コップ酒の残りを飲み干した。胸にたまったことを吐き出したせいか、久しぶりに酒の味がした。 「たみの奴、お宝って柄かい」  おい勘定とポケットに手を入れて、急に酔いが醒めた。札入れが消えていた。  雨戸を閉めようとしたたみは、縁側のガラス戸に向って思いっきり舌を出しているさと子をみつけてびっくりした。しかも、「ベロって本当に噛み切れるものなのかなあ」と言う。 「舌噛み切って死ぬっていうじゃない。沢庵《たくあん》より固いのかな。牛《ぎゆう》のスジ肉くらいの固さかな」  あの人に逢わせてくれなきゃ死んでやるから──そう言われているようで、たみはあわてて目をそらした。 「お前はもの知らないね。ベロなんてものはね、柔かそうに見えて固いんだよ。歯でも折ったらどうするの」  知識がないなあ、お母さんは、と逆襲されたとき、仙吉が帰ってきた。  玄関で靴の紐をほどきながら、 「ジャワに行くことにしたぞ」  いきなりなので、たみもさと子も全く見当がつかなかった。 「ジャワに支店ができるんだ。支店長として行くことにした」  たみを見て、さと子を見た。 「お前たちも一緒に来てくれ」  二人の女は、声にならない声で、なにか言いかけた。  仙吉はたみだけを見て、静かにつづけた。 「無理にとは言わん。気が進まないなら東京へ残ってもいい」 「あたし、ゆきますよ」  たみが言った。 「夫婦なら当り前でしょ。なに言ってるんですか」 「お父さん、あたし」  言いかけたさと子の口を封じるように、 「玄関先でするはなしじゃないでしょ。さと子、早く鍵しめておくれ」  さと子は三和土《たたき》に下りた。鍵をかけようとして、手がとまった。格子戸の向うに、誰か立っている。曇りガラスにうつる形は男である。背が高い。 「門倉の」  みなまで言わせず仙吉がどなった。 「なに愚図愚図してる。早く鍵をしめないか」 「だって門倉のおじさん」 「電気消すぞ」  玄関の電灯をパチリと消し、肩をそびやかして茶の間のほうへゆこうとした。 「おい、今晩、風呂はいいぞ」 「お父さん、待って」  たみは叫びながら、電灯をつけた。はだしで三和土に飛びおり、鍵をあけようとする。 「あけるな、あけたら離縁だぞ」  たみは戸をあけた。門倉が立っていた。仙吉は上りかまちにうしろ向きに立ったままである。 「門倉さん、あたしたち、ジャワヘゆくんですよ」 「ジャワ……」 「遠いとこなんでしょ。当分、もしかしたらこれっきり逢えないんだから、仇同士じゃあるまいし、背中向けたままさよならなんて、あたし、さびしいわ」  さと子は、母親のこういう声をはじめて聞いた。必死の声だった。必死でいながら、なまめいていた。 「二十何年、仲よくやってきたんじゃありませんか。せめて」  急に涙声になった。 「水田」  門倉の声もうるんでいた。敷居の外から、仙吉の背中に呼びかけた。 「栄転おめでとう」  仙吉は、うん、うん、とうなずいた。 「あっちは暑いから、汗疹《あせも》とマラリヤに気をつけろ」 「そっちも軍需景気軍需景気で調子づくな。お前は調子づくと必ずドカンとやられるんだから」 「判ってる。じゃあ、元気で」  門倉はあふれるものをこらえて、たみを見てさと子を見た。格子戸を閉めようとしたとき、仙吉が待てよ、と声をかけた。 「上っていっぱい飲んでけよ」  さと子が飛びついて、門倉を引っぱり上げた。  門倉はいつもの場所に坐った。三年前、仙吉のためにこの家を見つけてから、いつもそこに坐っていた。向い合って仙吉が坐り、間にたみが入る。たみが二人にビールをつぐのを、さと子は茶の間から見ていた。  男二人は顔を見ないようにしてぎこちなくコップをぶつけた。三人ともことばを探しているようにみえた。さと子は急に母親が憎らしくなった。自分の夫と門倉を両天秤《りようてんびん》にかけている。まん中にいて微妙な揺れを楽しんでいるところは、弥次郎兵衛じゃないか。  父親もうとましく思えた。親友が自分の妻に夢中なのを知りながら、波風立てずに二十年もつき合ってきたというのは、卑怯なのかずるいのか。 「お父さんは、門倉のおじさんを利用して、お母さんを自分のところにつなぎとめてるんじゃないの」こう言ってやったら、みんなはどんな顔をするだろう。  門倉にも言いたかった。「お母さんのこと本当に好きなら、力ずくでも奪えばいいじゃないの」さと子は石川義彦を好きな分だけ、逢いたくても逢えない、口にも出せない気持の分だけ、鬱憤《うつぷん》を三人にぶつけたかった。何か取り返しのつかないことを叫んで、三人の均衡を滅茶滅茶にしたかった。気がついたら、三人の真中に割り込んで、門倉に、あたしを下宿させて、と頼んでいた。 「東京に残りたいの」 「許さん。この時局に、年頃の娘がひとりで暮すなど、とんでもないよ」  仙吉のこめかみに青筋が走った。 「心配なら、門倉のおじさんとおばさんに見張ってもらえばいいじゃないの」 「許さんぞ。そんな勝手は絶対に」 「あたし、ベロ噛むからね」  さと子は、思い切り舌を出し、いまにも噛んでやるという風に歯をあてた。 「いけないといったら、本当に噛むから」  舌に歯をあてて叫んだので、いささか舌足らずな発音になったが、仙吉とたみ、門倉は、「馬鹿な真似はよしなさい」と泡くってとめた。  玄関で男の声がした。 「ごめんください」 「あ、義彦さん」  襖を蹴倒すようにさと子が玄関へとんでいった。  石川義彦が立っていた。 「召集令状がきました」  義彦は、さと子のうしろに立つ仙吉に向って言った。 「一週間後に入隊します」  さと子は、ひとことも口を利かず、全く表情のない顔で立っていた。仙吉が声を絞り出すような声で、 「武運長久を、祈ります」  義彦は一礼して、 「ありがとうございます」  と受けた。  そのまま、さと子に頭を下げ出ていった。振り切るように、座敷へ入ってゆこうとする仙吉に、たみが追いすがった。 「お父さん、お酒かなにかさし上げなくてもいいんですか」  血の引いた白い顔で、柱に寄りかかっているさと子に、門倉が声をかけた。 「早く、追っかけてゆきなさい」  奥へ入りかけた仙吉とたみの足がとまった。 「今晩は、帰ってこなくてもいい」 「門倉」  仙吉がうめくように言って、ふり向きかけるのを、たみが体でとめた。門倉は許しを乞うようにたみを見た。 「おじさんが責任をとる」  立ったままのさと子をうながした。  さと子は、白くなった唇をふるわして小さく、 「ありがとうございます」  と言ったようだか、門倉にもよく聞き取れなかった。 「さと子ちゃん、いま、一番綺麗だよ」  お母さんにそっくりだ、ということばは胸のなかにのみ込んで、門倉はさと子の肩を叩いた。さと子の目が涙でふくれてみえた。仙吉の背中がこんにゃくのように震えているところをみると、彼も声を殺して男泣きに泣いているらしい。三人は、転がるようにかけ出してゆくさと子の下駄の音を聞いていた。  その夜、さと子は帰らなかった。  男たちは黙って酒を飲んだ。 「あの男は、生きては帰れんな」  仙吉がぽつんと言った。特高ににらまれて応召した人間は生きて帰れないという噂があった。 「さと子ちゃんは、今晩一晩が一生だよ」門倉もこう言いたいのをこらえた。  たみは、さと子に晴着を着せて出さなかったことを悔やんでいた。つぎのあたった、寝押ししすぎて嫌な色に光ったスカートで、お嫁にやってしまった──。  初産《ういざん》で長引いたせいか、さと子は生れたとき頭が長く格好が柿の種子に似ていた。 「こう先がとんがっていたんじゃ、嫁にゆくとき高島田が結えないぞ」  仙吉は大真面目な顔で心配した。おっかなびっくりの手つきで抱かせてもらっていた門倉が、 「揉めば大丈夫だよ。おれも生れたときビリケンだったけど、ばあちゃんが揉んで丸めたそうだ」  日の丸の先についている金の玉でも磨くように、大事そうに丸めてみせた。門倉はくるたびにさと子を抱き、同じ手つきでせっせと頭を丸めていた。丸めすぎたのか、さと子は毛が薄くなってしまった。 「格好は直ったって、毛が薄くちゃ島田は結えないよ」  仙吉に文句を言われて謝っていた。どこから聞いてきたのか、毛の薄い赤んぼうは、剃ったほうがいい、剃ると濃くなるといって、さと子を床屋に連れてゆき、天辺《てつぺん》までツルツルに剃り上げてきたことがあった。赤んぼうでもきまりが悪いのか、火のついたように泣いていた。  頭から風邪を引いたらしく、その晩さと子は熱を出した。仙吉は怒り、たみも少し泣き、門倉は小さな布団の枕もとで両手をついて謝った。  七五三のときの、まるで重箱のような塗りの極上のぽっくりも、小学校一年生のときのランドセルも、みな門倉の強引な贈物だった。ランドセルはまだ珍しい時期で、さと子は学校でいじめられ泣いて帰った。あのときも、門倉は手をついて謝っていた。  さと子の十九年の写真帳のなかに、陰になり日向になっていつも門倉がいた。  暗い庭を見ながら酒をのむ二人の男のまんなかで、たみは、門倉の煙草の空箱から銀紙をとり、銀の玉に貼っていた。なにか手仕事でもしていないと、居ても立ってもいられない気持だった。  銀紙で玉をつくり、献納する運動がはやっていた。  門倉と仲違いしてからは、仙吉ひとりだと煙草は一日一箱なので、このところ銀の玉はなかなか大きくならなかったのだ。  倒した徳利の数は多かったが、二人とも口数は少なかった。  門倉も、言い過ぎたよ、などと詫びることばは口にしないし、仙吉も何も言わないが、ジャワヘはゆかないだろうとたみは思った。今まで通り、門倉は、ちょくちょく訪ねてくるだろう。銀の玉は二人の男の空箱で大きくなるだろう。判っているのはそこまでである。これが飛行機になるのか、鉄砲玉になるのか知らないが、こんなものが本当にお国の役に立つのだろうか。自分たちの行末と同じようにたみには見当もつかなかった。  あ と が き 「これは夢だけど」  たしかこう前置きしてから言った覚えがある。 「中川一政先生に題字だけでも書いていただけたらいいなあ」  口走ってから、駈け出しの身がなんと身程知らずなことを言ったものだろうと身を縮めた。  ところが、夢は叶ったのである。  題字だけでなく装釘まで引き受けて下さるという。私は一日二日ぼんやりしていた。嬉しさや感動が大き過ぎると、私はぼんやりする癖がある。  字を書いて身すぎ世すぎをしているのに、私は稀代の悪筆である。目習いということばがあると聞き、十五年ほど前から中川一政先生の書を壁にかけ、朝晩睨んで暮していたが、睨みかたが足りなかったのかお手本が凄過ぎたのか、私の字はますます下手くそになってしまった。御利益はなかったものの、私にとって中川先生は神様の次に偉いかただった。  しかも、先生の装釘は、私の中身よりも早く出来上った。 「これを見せたら向田君も早く書くよ」  とおっしゃったと聞いて、また身が縮んだ。  八十九歳とは信じられない雄渾な「あ」と「うん」二頭の狛犬である。到らぬ中身は「馬子にも衣裳」ではないが、身にあまる果報な衣裳で世に出ることになった。  私はいままで夢を見ることの少ないたちであった。夢を見て叶えられない寂しさがおそろしかったのであろう。臆病であり卑怯であったと思う。  夢は見るものだなと、五十を過ぎた今、思っている。叶わぬ夢も多いが、叶う夢もあるのである。   一九八一年初夏                    向田邦子       「あ・うん」    別冊文藝春秋昭和55年3月151号 「やじろべえ」(あ・うん パート㈼)    オール讀物昭和56年6月号 昭和56年5月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和五十八年四月二十五日刊