[#表紙(表紙.jpg)] 愛を乞《こ》うひと 下田治美 目 次  1、日傘のなか  2、赤い長靴  3、ヒキトリ  4、おとうと  5、せっかん  6、あたらしい朝  7、望まれぬ子  8、生まれた証《あかし》   9、炎暑の国  10、予期せぬ血縁  11、|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》の青春  12、故郷《ふるさと》ふたつ  13、みえない出口  14、夢の階段  15、初秋供養  16、孤 影 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   1、日傘のなか  私鉄の沿線にあるN町駅に降りたったとき、小雨がちらつきはじめていた。気温は朝から三十度をこしていたから、これでいっそうむし暑くなるにちがいない。晴雨兼用の傘が役にたつことにほっとしながら、わたしは駅まえの商店街を目をふせ足早にとおりぬけていく。  ほっとしたのは、傘が役にたったことより傘のなかに顔を隠せるからかもしれない。  あれから——この町をでてから、二十二年という歳月がながれている。四十歳になるわたしの現在の顔から高校生のころのおもかげを、だれがみつけだそう。だれに出会ってもわかりはしないのに、わたしは内心ビクビクしていた。  この町を歩くことは、それだけで、自分のルーツにふれることになる。自分の過去にちかよることは、なんと重苦しく気がふさがれることなのだろう。  ファーストフードの店やブティック、フラワーショップなど、みたことのない商店が目のすみにとびこんでくる。たしかこのあたりには、乾物店と豆腐店と雑貨店がならび、そのつぎには鮮魚店と佃煮《つくだに》店が軒をつらねていたはずだ。  商店街のなかほどにある路地を右に折れると、区役所への近道になる。その路地の両側の建物も、まったく見覚えがない。こんなにせまい路地の奥まで、この町は変貌《へんぼう》をとげたのだ。路地をつきぬけると、大通りをはさんでななめむかいがN区役所である。 「むかしの戸籍謄本をとりたいのですが」  窓口の中年の男性が慣れた手つきで申請書をゆびさしたとき、わたしはあわてて首をふった。まだ肝心なことを告げていない。 「わたしの父の戸籍謄本なのです」 「N区にご在住ですか」 「いいえ。もう死んでいるのですが、死んだときの住所か、それ以前の住所でもわかればと……」 「死亡時の住所ですか。N区にお住まいのとき亡くなったのですね」 「ちがうんです。わたしが住んでいただけなんです、N区は」  職員は首をかしげながら、おしだまった。 「わたしがN区にいたときには、すでに死んでいるのです。でも、わたしの住所をじゅんじゅんに過去にさかのぼってゆけば、父の生前の住所がわかるのではないかと」  いいですか、というしぐさをして職員がメモ用紙に図を描きはじめた。わたしはカウンターに上体をもたせかけてメモをのぞきこみ、説明をうけた。  戸籍謄本というものは、住民票とちがって一人ひとりに作成されるものではない。  一世帯に一通であり、記載事項は戸籍筆頭者をはじめ家族全員の氏名、その戸籍に入籍した原因・年月日、およびそれぞれの実父母の氏名とその続柄、出生地・出生年月日・本籍地などである。  ジョセキ、コンイン、ショウホン、テンシュツ、テンニュウ……  あまりなじみのない単語がとびかう。それについていちいち補足説明がなされ、そして、わたし自身が申請することのできる範囲など、彼の説明は順序をふんでこまかくていねいにすすんでいく。わたしはききもらすまいと、全身を耳にしていた。  二十分ほどついやしてわたしが理解したことは、N区役所の戸籍課では父の生前の住所を知ることは不可能だということだった。 (そんなものかもしれない)  あまりにもふるい事柄だけに、かんたんにはわかるまい。わたしには、うすうすだが最初からあきらめていたふしがある。「それでは謄本はいらないんですね」という職員の声に背をおされて、わたしはかくべつ気落ちもせずに、予定どおりにつぎの目的地のK市にむかうことにする。  雨足は遠のきつつあった。思いだしたように、ときおり頬《ほお》にぽつんと雨がふりかかる。すぐに陽《ひ》が顔をだしそうなほど、上空の雲のうごきがはげしい。わたしはふたたび傘をひろげて、N町駅にひきかえした。  グレードの高いベッドタウンとして発展をとげているK市は、東京のはずれ、北西部に位置している。N町駅から乗りかえなしに一本でいける、ほんの十五分ほどの距離だ。  わたしはそれを、中学に入学したころから承知していた。しかし出向こうとはしなかった。中学生のわたしにとっては、荷が重すぎたように思う。いや、その行動を隠しとおせる自信がなかったからかもしれない。  K駅のホームは、一方が巨大な石垣にたちふさがれていた。まるで武家時代の城の跡のように、頭上高くそびえたっている。圧倒されそうなその光景は、あのとき、子どもだったわたしの瞳《ひとみ》を輝かせただろうか。  改札口をでると、新興都市らしいこざっぱりしたロータリーがひろがっていた。中央部に円錐《えんすい》形の台がしつらえてあり、そのうえにある御影石《みかげいし》のオブジェがひとめをひく。その周囲にぐるりと噴水がとりまいていて、白い水が長くのびたりちぢんだり上下におどっていた。バスの発着場には、乗客を誘導するためのものか細長い花壇がくねりをみせている。雨はあがっていたが、厚い雲が何層もかさなって陽射《ひざ》しをさえぎり、夕暮れのようだ。わたしはタクシーに乗った。 「K病院へ」  駅を背にして直角にほんのわずか走っただけで、車はいきなり住宅街のなかにすべりこんだ。  わたしは窓の外を、くいいるようにみつめる。  ガードレールで仕切られたせまい歩道を、にょっきりと電柱が占領している。家族をまもるようにブロック塀《べい》でかこわれている家々。  住宅街をぬけると畑があらわれた。どんな野菜ができるのか、膝《ひざ》の高さの青々とした葉が密生している。そうして、すぐまた建売住宅。機械の音をひびかせているふるびた町工場。  車はグレーのタイルでおおわれたビルのまえで停車した。カギ型に折れている七、八階だての建物である。屋上の右端に白い洗濯物が何列もひるがえっていなかったら、病院とは気がつかなかったかもしれない。公立のK病院は、結核の専門病院として都内随一の規模をほこっている。結核といえばすぐにK病院を連想するほど、歴史もふるい。  正面玄関の『K病院』と書かれた看板のまえに、わたしは両足をふみしめてたった。  この玄関ガラスも、ピロティも、病院全体もふくめて、はじめてみたような気がする。K駅におりた瞬間からここに到着するまでのあいだも、なにをみてもなんの記憶もよびおこさなかった。何回か曲がった道の一本、あるいは新興住宅のあいだにはさまれているふるい民家の一軒、あのとき歩きながらぶつかってしまった黒い板塀さえも、脳裏にしまいこまれていない。記憶のヒダを一本いっぽんさぐってみても、なにひとつみたおぼえがないのだ。  道路も民家も畑も病院も、三十年まえのあの日に、一度は完全にわたしの網膜にうつったはずなのに。  玄関の自動ドアがひらくと、すがすがしくかわいた涼気がからだをつつみこんだ。ライトブルーのリノリウムの床が清潔にみがかれていて、雨あがりの足跡もついていない。待合室は比較的すいていた。ピンクの制服をきた看護婦がいきかい、パジャマ姿の入院患者たちがテレビのまえにじんどっている。わたしはまっすぐ受付のカウンターにすすむ。見舞客らしき女性が、そこをたちさったばかりだった。 「山岡照恵と申します。事務担当のかたにお会いしたいのですが」  父がここに入院していて、ここで息をひきとったことを、受付嬢に述べる。彼女はすぐに内線電話で連絡をとり、応接室で待つようにと、その位置をおしえてくれた。  わたしは指定された応接室にむかっていく。左方に曲がって、廊下のつきあたりのひとつ手前の左側の部屋が応接室である。  事務職員がお茶をはこんできたところだった。わたしが腰をおろすまもなく、白衣をきた小柄な初老の男性があらわれた。事務長だという。  わたしの来訪の目的がよくわからないせいか、彼は挨拶《あいさつ》もそこそこに性急に用件をたずねた。 「わたしの父は、陳文珍《ちんぶんちん》といいます。こちらでながくおせわになりました。じつは、父のお骨をさがしているのです。ここが最期の死に場所でしたから、なにか手がかりがあるのではないかと」  事務長はすこし目をみはって好奇の表情をあらわにした。 「お遺骨がない……それはどういう意味ですか」 「棺桶《かんおけ》のなかにはいっている父の姿を、ここで見たのです。そしてそれ以降のことは、なにもおぼえていないのです。わたしも子どもでしたから」 「なぜ、おかあさんにきかないのです」 「母もそののちすぐに、死んでしまいましたので」  彼は納得したとばかりに小刻みに首をふってから、 「おとうさんは、当院で亡くなったのですね。それならコンピューターで、おとうさんのカルテをさがしてみましょう。そのまえに、もうすこし具体的なデータがありますかね。入院した年月日だとか、生年月日、入院のさいの保証人……」  彼の声がすこしずつ高くなった。それは乗り気になってくれた証《あかし》のようだ。夢に一歩ちかづいた。父に関するありったけの記憶をひきずりださねばならない時機《とき》が、やっと到来したのだ。  ——昭和三十二年。  石ころのまじったデコボコの道を、わたしはスキップしながら、どんどん先にすすんでいく。きっと、背なかがからっぽのせいだ。だってU学園の敷地から外にでるときには、いつもランドセルを背負っているんだもの。まるで地面がトランポリンでできているみたいに、わたしのからだは、ぽん、ぽん、上下にはずんでいたにちがいない。  道の両端に、丈のみじかい雑草が緑のベルトのように走っている。その道をはさんで両側に、土の肌をみせている畑や、ふるい木造の農家や、トタン屋根が青く塗られた文化住宅などが混在していた。お店は荒物屋さんと文房具屋さんの二軒だけだ。朝夕かよいなれた通学路のその風景は、わたしも学園の子たちもみんなよく知っている。荒物屋さんのおばあちゃんが神経痛でながいあいだ寝ついていることだって、知っているのだ。  その道をずっとまっすぐにつきすすんでいくと、大通りにでる。その道は、大道《おおみち》とよばれていた。大道にはほんのときどきだけど自動車がとおるから、小学生はここであそんではいけないことになっている。わたしは大道にさしかかったときにスキップをやめて、うしろをふりかえった。  ずっとむこうにちいさくみえる寮母先生が、早足になった。なれないハイヒールをはいているせいで、すこしヨタヨタしている。陽射しをまともに目にうけてしまって、わたしは、クシュン、とくしゃみをした。  寮母先生の後方に、白い舗装道路が三角のかたちでのぞいていた。五、六人の子どもが手をつないで横にならんで歩けるほど幅のたっぷり広い舗装道路は、ゆるやかな弧をえがいた上り坂である。両側は樹木がうっそうと生い茂り、その坂をのぼるときもくだるときも空はみえない。  その坂道から、わたしたち孤児の収容施設、東京都立U児童学園の敷地がはじまる。坂をのぼりきった右側に職員棟があり、その真うしろから左にむかって七軒の平屋が扇状に配列されている。一寮から四寮までが男子寮で、五寮から七寮までが女子寮だ。それぞれ、小学一年から中学三年までの二十人前後の子どもたちが生活している。わたしのいるひまわり寮では、わたしが二番目にちいさい。いちばんちいさい子は、小学二年のユウコちゃんだ。  わたしがここに措置されたのは、昭和二十七年か八年、五歳か六歳のどっちかだ。だって、まだ学校にあがっていなかったから、まちがっていないと思う。 「照恵ちゃんったらはやいんだもの、追いつくのがたいへんだわ」  先生は鼻のあたまにうっすら汗をうかべていた。わたしはすこし笑いながら、あごをツンとあげて先生の顔をみあげた。先生がいつもよりやさしい気がした。  わたしと先生は大道をゆっくり左に折れる。反対の右の方向に、U学園の子どもたちがかようU小学校とU中学校がある。  大道は線路にそっていて、背のびをするとU駅のホームがみえた。わたしは学校を欠席して、これから先生とふたりで電車に乗る。電車に乗ることは、ここにきてはじめての経験だから四、五年ぶりである。わたしの父が入院している結核病院に面会にいくためだ。昨夜、夜なかに先生に起こされて、「あした、おとうさんの病院にいきましょうね」と耳打ちされたのだった。  もう寒さがとけていたから、晩春かあるいは初夏のころにちがいない。小学四年になって、まだ日があさかった。  駅につくと先生が腰をかがめて、木の枠でできた窓口をのぞきこんだ。先生が腰をかがめて切符を買う姿や、構内の壁にかかっている掲示板、映画のポスターなど、どこにでもあるありふれた駅の風景なのに、はじめてみるようにものめずらしい。ひさしぶりに電車に乗ることに、わたしはうきうきしていた。  四人がけのシートに、先生とむかいあってすわる。ほどなくして、先生は網棚におさめたボストンバッグをおろすと本をとりだした。わたしはズックをぬぎ、横むきにすわって窓の外の景色をながめはじめる。  電車がトンネルにはいり、窓の外がいきなりまっ暗になった。ほんのすこし間をおいて、車内の天井につぎつぎに電灯がともってゆく。電灯をつけて走っている電車をはじめてみた気がした。わたしは興奮してシートのうえにたちあがると、背もたれにつかまりながら伸びあがり、天井の電灯の数をかぞえはじめる。  乗りかえの駅のホームで、寮母先生がアイスクリームを買ってくれた。  電車とおなじように、アイスクリームも四、五年ぶりである。わたしはベンチにすわって、カップのふたをそっとはずした。目にいたいほどまっ白なクリームが、両手のなかでたっぷりの重さをつたえてくれる。わたしは平べったい木のスプーンの先に、ほんのすこしずつだいじそうにすくって口にはこんだ。  アイスクリームは、わたしになつかしい思い出をよびおこした。  U学園にくるまえに、わたしは『上野のおじさん・おばさん』の家に一時期あずけられていたことがある。一週間くらいなのか数カ月なのか、その期間はおぼえていない。喀血《かつけつ》をくりかえしていた父が、いよいよ入院せねばならなくなったからだ。  わたしは四歳か五歳になっていたが、父が発病したのはいつごろだったのだろう。わたしがものごころついたときには、すでに発病していたはずだ。咳《せき》の音と痰《たん》をはく音は耳になじんでいたし、わたしと話すときは、菌が伝染することをおそれて、父はかならず白いハンカチを口にあてていた。そのせいで、わたしの脳裏にやきついている父の顔は、口もとが白く四角に切りぬかれている。  それまでは父とふたりきりで、当時、東京でぽつぽつできはじめていた木造アパートの一室に住んでいた。そこから上野にあずけられ、上野のつぎには女性がふたりで住んでいた家にもいたことがあるし、そのあと『児童相談所』というところで暮らし、そののちやっと、わたしはU学園におちつけたのである。  上野の家は、一階がおじさんの経営する食料品店だ。三方の壁に、缶詰が床から天井まで、すきまなくぎっしり陳列されていた。住居になっている二階には、外についている鉄の階段からあがっていく。  わたしをあずけたあと、父が上野にたずねてきたことがあった。何回かきたのか、あるいはそれだけだったのかはわからないが、それ一回だけを鮮明におぼえている。なぜかというと、父とおじさんが、わたしのまったくわからない、きいたこともないことばで会話をかわしていたからだ。それがとてもふしぎで、わたしはふたりの唇にみとれていた。わたしのわからないことばをつかっている父が、とてもえらくみえた。  おじさんもおばさんも、わたしをかわいがってくれた。銭湯にいくと、頭もからだもあらってもらい、毎晩寝るまえには本を読んでくれたり、おぜんのうえでオハジキの相手もしてくれた。わたしはちっとも気がねをしなかった。あたたかな家庭の味というものを、この家ではじめて身にしみて味わった気がする。  わたしをあずかってくれたといっても、おじさんもおばさんも父の血縁ではない。おじさんと父が台湾人どうしの友だち、というささやかな関係にすぎない。しかもおばさんは日本人だ。それなのに、夫の友人のむすめを、たいせつにあずかってくれた。  わたしはイソウロウのくせに、毎日おこづかいをもらっていた。その硬貨をにぎりしめると、すぐちかくにある松坂屋デパートにいくことが日課である。ときどきではなく毎日だったことは、エレベーターガールがあるとき、「この子、毎日くるのよ」とだれかに話していたことをおぼえているからだ。わたしはかならずエレベーターに乗って屋上にあがった。お目当てのアイスクリームは屋上で売っている。わたしはベンチにすわってそれをなめると、またまっしぐらにおじさんの家にかえるのだった。  わたしは寮母先生に買ってもらったアイスクリームをなめながら、上野にたずねてきたときの父の顔を思いだしていた。 「字が書けるようになったんだって? えらいなァ」  父はそういって、クシャクシャッと目尻《めじり》にシワをつくり、両手でわたしの頭をなでた。ちょっと、しゃがれた声だった。  学園では子どもたちに月一枚のハガキが支給されていた。だからわたしは毎月一回、父の病院あてにハガキを書いていたことになる。いつのころからだったか、父からのハガキの差出人の欄に、陳文珍(代理)という文字がみられるようになった。 「代理って、なあに」 「おとうさんのかわりに書きました、ということよ」 「ふーん……」  寮母先生からおしえられても、さっぱり意味がわからなかった。意味がわからないまま、しつこくたずねるでもなく、調べるでもなく、わたしはそのまま放っておいた。しかしそのおかげで、父が、もう、手紙を書くこともかなわぬほど重体であることを(代理)の文字からさっした先生を、こまらせないですんだわけである。  電車を何回か乗りついで、やっと父の病院にたどりついたとき、正午をまわっていた。寮母先生は疲れたような顔をしていた。  ながい廊下を曲がって案内されたところは、病院にしてはめずらしい畳敷きの部屋である。  左側のだだっぴろい壁が、もとの色が判別できないほど汚れていた。おまけに電気のカサもヒビがはいっていて、そのヒビが黒い線になっている。きたないところだな、と思った。こんなきたないところにいるなんて、父がかわいそうだ。  右側の壁にそって、おとながたくさんすわっていた。たくさんといっても、十数人くらいだろう。部屋の奥にあるガラス窓が外のあかるさを映しだしていた。その窓のすぐ手前に、真あたらしい木でできた、とっても大きな細長い箱がおかれている。ちかくにいた男のひとがその箱ににじりよった。寮母先生はそのひとと目を見かわすと、すこし口ごもりながらわたしの耳もとでささやいた。 「照恵ちゃん。おとうさんは亡くなったのよ」  わたしはどういうわけか、さもさもとっくに承知していたかのように深くうなずいていた。いや、わたしはこの部屋に足をふみいれた瞬間に、もう察知していたのかもしれない。  何台ものベッド、そのうえに起きあがったり横になったりしている病人たち、クレゾールのにおい……そういう病室のイメージのみじんもないこの部屋は、まるでなにかの集まりのために使用される部屋のようだったから。  箱の大きなふたがもちあげられた。 (あ、|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》だ)  わたしはひさしぶりに父と対面した。  上野いらいたった一度も、もう五年以上も顔をあわせていなくても、まちがいなく父の顔である。あさぐろかった顔から色がぬけて、青みのまじった白いきれいな色にかわっていた。唇はかるくとじていたが、まぶたが半分ひらいていていまにも起きだしそうだった。 (眠っているのかな?)  父の首からしたは、浴衣《ゆかた》のようなながい着物でおおわれていた。  それまでぼんやりつったっていたわたしは、きゅうに思いついたように膝をつくと、両手で父の肩をゆさぶった。父の肩はぴくりとも動かず、わたしの手のひらは着物の生地をひっぱっているだけだった。ぷん、と父のにおいが鼻をさした。いつもいつも、かぎなれたにおいだ。わたしはそれを鼻の奥までたっぷり吸いこんで、喉《のど》の奥で飲みこんだ。  それからわたしはお棺のなかに上半身をのりだして、こんどは両手で父の胸をゆさぶりはじめた。どんどん力をいれて、夢中でゆさぶった。そうしてから、父がなんの反応もしめさないことにじれて、たちあがりざまにわたしは父の脚のあいだに片足をグイとつっこんだのである。お棺のなかにはいりこんで、そこから全身の力をこめて父のからだをゆり動かそうとしたのだ。 「照恵ちゃん」  寮母先生の厳しい声がわたしを打った。わたしは片足をお棺につっこんだまま仁王立ちになり、にらみつけるように先生を見た。先生の顔がみるみるゆがんで、ひしゃげていき、そうしてハンカチのなかに隠れていった。  あわただしくおとなたちがそばによってくる。そうして、お棺のふたがとじられた。  先生がわたしの腕をそっとおして、すわるよううながした。わたしはまっさきに、父の顔のいっとうちかくに正座した。  すぐにだれかがわたしの手のなかに、なにかをおしこんだ。いったんにぎりこんでからひらいてみると、純白にかがやく美しい小石である。  男のひとが、ふたのうえから釘《くぎ》を打ちはじめた。そして、父の顔にちかい部分にさした釘に手をあてながら、その小石を三回打ちつけるようにと小声でおしえた。わたしは素直にそれにしたがい、一、二、三、と声をだしてかぞえながら腕をふりあげた。そのとき、壁ぎわにすわっていたおとなたちが、いっせいにすすり泣きの声をあげた。  涙をながしていないのは、わたしひとりだけである。  わたしは周囲のおとなの指示をよくまもり、葬式での役割を冷静にこなしてゆく。たった九歳のちいさな子どもは、父親の葬式の喪主だったのだ。  この記憶が、父のお骨をさがす唯一の手がかりである。  内線電話が、チッ、と音をたてた瞬間に、事務長は受話器をとりあげていた。  みじかいやりとりからさっして、電話の内容はかんばしくないようだ。わたしはすこし不安になった。  どうもまいったな、とつぶやきながら彼は受話器をおいた。そして、まるでわたしを避けるように、腕組みしながら天井に目をやった。そのさまをみていると、よけいに不安がつのる。  しばらくしてから彼はわたしに視線をもどし、なんともたどたどしい口調できりだした。 「病院設立いらい、カルテはぜんぶ保存されているのです。それなのに、残念ながら、陳文珍さんの名はありませんでした。それで事務の連中が、なんとかしようと手分けしてOB会の役員たちに連絡をとったのです。OB会というのは、退院した患者さんと、退職や転勤になったドクターとナースの同窓会のようなものです。結核は入院がながいから、どうしてもみんな親しくなる。それでできた会なのです。もちろん陳文珍さんが入院していたと思われる三十年まえのメンバーもいます。それらのかたがたに、かたっぱしから電話をかけてみたのですが、陳文珍という名におぼえがない、とみなさん異口同音におっしゃったということです」  そんなこと信じられない。わたしは激しく首をふった。 「父の顔を最後に見たのはこの病院なんです」  彼は眉根《まゆね》にふといシワをきざんで、どうしたものかと思案している。 「ここに入院して、ここで死んだのです」  父につながる糸が切れてしまう。  とりすがるようなわたしに、彼は気の毒そうな目をむけた。それから、どうも、お役にたてませんでしたな、とひとりごとのようにつぶやいて、かるく頭をさげた。 [#改ページ]   2、赤い長靴  背なかのなかほどまであるロングの髪をくるっとうえに巻きあげると、深草《みぐさ》はかくだんにおとなっぽい顔になる。そのヘアスタイルで口をとがらせて文句をいうときなど、びっくりするほど死んだ裕司に似ていて、そのたびにはっとさせられる。 「それじゃ、役所も病院も、ラチあかなかったわけ」  そのときも深草はそんな顔をつくってみせた。  テーブルには夕食がととのっていた。  冷ややっこ、ホウレン草の煮びたし、そして、先週ふたりで二キロのひき肉を練って冷凍しておいたハンバーグ。ごていねいにも、みそ汁までつくってある。具は、自分の好物の麩《ふ》とワカメだ。「死んだおとうさんは、お麩が好きだったのよ」となにげなくわたしがいったときから、好きになったようだ。 「いぜんとして、お骨は行方不明か」 「K病院に入院した痕跡《こんせき》のないのがふしぎなのよ。だってあそこで|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》の最期の顔を見たのだから」 「戸籍からも病院からもさぐれないんじゃ、どうしたらいいのよ」  深草は麩をおわんのなかでちいさく切って、そろそろと口にもっていく。そのときの唇のうごきは、やはりネコ舌だった裕司のそれだ。  深草のオムツがやっととれたころ、父親の裕司は交通事故であっけなく死んだ。だから深草は、アルバムの写真とわたしの語る思い出話からしか父を知らない。深草はこの春高校生になったが、私立高校にいけるのも、建築設計事務所の役員だった裕司が、この家と、こまらないていどのものを遺《のこ》してくれたからだ。わたしの給料だけでは、とてもふたりの生活はまかなえない。わたしは裕司の死後、この事務所の総務課にむかえられている。  リビングの壁にかかっている裕司の遺影にチラッと目をやってから、深草はいった。 「おかあさんって、よく考えてみるとかわいそうよね。両親がふたりともいないんだもん。しかも高校卒業するまで孤児院で育ったなんてねェ」  裕司もおなじことをいったことがある。「家族がいないまま生きてきたんだから、ぼくの家族になりなよ」というプロポーズのことばに、わたしはなんのためらいもなく飛びついたのだ。 「わたしね、おとうさんがいなくて寂しいと思ったことないよ」 「あら、ほんと」 「だってさ、ちいさいときからずっと、『そんなことするとおとうさんに叱《しか》られますよ』とか、『おとうさんも喜んでるわよ』とか、いわれっぱなしだったもの。まるでおとうさんが生きているみたいに断定的にいうの、おかあさんったら。だからちっとも、おとうさんが死んでいる気がしない」  その思いは、わたしとておなじである。わたしは毎日かかさずお仏壇に話しかけている。いや、話しかけているというより、裕司に甘えているのだ。十四歳も年上の裕司は、わたしにとって夫を超えて父親としての存在でもあった。死んで十五年以上もたっているのに、なぜかわたしには家族がへったとは思えない。 「おとうさんは、かあさんの恩人でもあるのよ。生まれてはじめて一緒に暮らす家族をあたえてくれたんだもの」 「おとうさんとわたしね」 「そうよ。死んでも家族は家族だもの」  深草は両手をあわせて、ごちそうさまのポーズをとると、 「お骨さがしは、今後どうなるの」  首をかしげてわたしの顔をのぞきこんだ。  結婚したとき、一緒にお骨をさがそう、と裕司は約束してくれた。けれど、それがはたせないまま、裕司は逝《い》った。わたしはあかん坊の深草とふたりだけの生活になってしまい、どうしてお骨をさがすゆとりなどあろう。深草に手がかからなくなるまで、母親のわたしには自由になる時間がなかったのだ。  そして、いま、深草が高校生になってはじめての夏休みをむかえたいま、お骨さがしを開始したのである。夏休みの期間なら、わたしも休暇をとりやすいという条件もあった。 「どうなるのかなあ」  わたしもとほうにくれる思いである。N区役所とK病院の、たったふたつしかない手がかりをうしなってしまったのだ。 「あきらめちゃだめよ」  深草はおこったように眉《まゆ》にしわをよせた。 「わたしだって死んだおとうさんをだいじにしてるのよ、毎朝ちゃんとお茶をあげてるし。おかあさんはおじいちゃんに、お水をあげるどころか、かねを鳴らしてお線香あげることもしてないんだよ。お骨がないからお墓まいりもしてないでしょう。ほっとくなんて、不謹慎よ」  十六歳のむすめの口からでた、フキンシン、ということばに、笑いをさそわれる。 「ね、おかあさん」  深草はテーブルの食器を流しにはこんで、意識してわたしに背をむけた。そしてうしろ姿のまま、なんとなくいいにくそうに口ごもりながらいった。 「おかあさんは、おじいちゃんのお骨さがしは一生懸命やるくせに、どうしておばあちゃんのことは知らん顔してるの。おばあちゃんはちゃんとお墓があるんでしょ、でもわたし一度もつれてってもらったことないよ。お墓まいりは、おとうさんのお墓だけ……」  いたいところをつかれた気がした。わたしがいままで話した内容が、どこかで矛盾していたのだろうか。  深草がこちらをふりかえっていた。いくらか頬《ほお》をふくらませていて、わたしへの不満をにじませている。  もし真実を知ってしまったら、深草はきっとショックをうけるだろう。だが、お骨さがしをはじめたからには、避けてとおれない。いつかは、とわたしは覚悟をきめていた。 「ちょっと、かあさんの部屋にきて」  わたしは返事をまたずに、二階にあがっていく。  二階には部屋が三室あり、わたしの部屋をはさんで、左側が裕司の書斎で右側が深草の部屋である。  わたしは自分の部屋にはいるとすぐカーテンをひき、エアコンのスイッチをいれた。そして、ローチェアに腰をおろして足をなげだす。  この部屋は、もとはわたしと裕司の寝室だった。けれどいまは、わたしのベッドだけおいてある。裕司のいない空のベッドは、みるのもやるせなくて書斎にうつしてしまった。裕司の書斎は、そのベッド以外、なにもいじっていない。デスクのうえの書きかけのメモまで生前のまま遺してある。  深草はわたしのとなりのチェアをわきにおしやって、じゅうたんのうえにじかにすわりこむ。それと同時にわたしはひと息にいった。 「嘘《うそ》ついていたの、いままで。母は死んではいないと思う」  深草はぎくりと目を見張った。 「かあさんと|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》は、彼女に追いだされたの」  深草は瞳《ひとみ》をいよいよむきだしにした。やや茶色がかった瞳のなかに、かすかなおびえがにじんだ。遠くのほうで、暴走族のはなばなしいクラクションが響いていた。  ——あの日。  わたしは父に手をひかれて家をでた。わたしたちが玄関さきで靴をはいているあいだ、母はわたしたちより一段高いところにいた。こわい顔して仁王立ちになり、わたしと父を憎々しげににらみつけていた。  外にでると、土砂降りの雨だった。よろけるほど、ものすごい風がふいていた。  わたしたちは手をつないで、ひとつの傘で歩きだす。靴店にさしかかったとき、父がわたしにゴム長靴を買ってくれた。その店さきで、わたしは父の肩につかまって、足をあげたりさげたりしながら、ズックから長靴にはきかえさせてもらったのだ。赤くてあたらしい長靴。わたしはうれしくて、はしゃぎながら、わざわざ水たまりのなかに足をつっこんだものである。二歳か三歳のときのことだ。 「それから母に会っていないのよ。だから知らないの」  深草はゆっくりうなずきながら、ため息をしぼりだした。 「なんでそんなことをするの、母親なのに」 「捨てられたのよ」 「死んだというのは嘘だったのね」 「生きているでしょうね、たぶん」 「母親がなんで子どもを捨てるの」 「…………」 「母親が子どもを捨てるなんて、信じられない。どうしてそういうことができるの。おかあさんも、わたしを捨てたいと思ったことあるの」  二日ごし、三十数時間にわたる陣痛は、からだからあかん坊のからだがぬけた瞬間に、ぴたりとおさまった。  そのとき、えもいわれぬふしぎな、そう、いってみれば、力強いエネルギーのようなものが空中から太い螺旋《らせん》となっておりてきて、一瞬のうちに腹の空洞になった部分に埋まりこんだ。子宮のなかに、焼けつきそうな熱いそんな感触があった。あかん坊と熱いエネルギーを同時にさずかった——気がした。  ひとりでに涙がながれていた。あかん坊の誕生は、裕司という家族を得た喜び以上のものをはこんできたのだ。  わたしのもの。  だれがなんといおうと、このちいさなあかん坊はわたしのものだ、わたしだけのものだ。わたしの体内にいた、わたしひとりのものだ。  わたしのものが、この世にある。いま目のまえにある。わたしの手が、それをたしかにつかみとっている。わたしは生きてゆける。このさきずっと生きてゆける、この子さえいれば。  動物の母親は危機がせまると、生んだばかりのあかん坊をたべてしまうという。その気持がいたいほどわかる。もしこの子に危害がふりかかるなら、わたしは自分の腹を裂いて、そのなかにこの子をもどしてしまおう。  わたしに、まもるものができた。まもるものを持ったことのないわたしは、はじめて、自分の人生の主人公になれたのだ。 「捨てるどころじゃないわ、深草がふたりほしいくらいよ。家族は何人いてもいい。  しかも、深草がかあさんを生きさせてくれる。だからおとうさんが死んでも、生きてこられたのよ。深草より大切なものは、かあさんには出現しない。もしそんなときがきたら、かあさんは自分を殺す」  深草はくちびるをかみしめていた。手のひらがいつのまにか、わたしの腿《もも》のうえにおかれている。わたしはその手を両手でつつみこんだ。 「捨てられたこと、うらんでる?」 「ううん。捨てられたこと自体は、ちっともうらんでいない」 「どうして。きれいごとにきこえるわ」 「だって、彼女は子どもを捨てて幸福になったのよ」 「……母親が? 子どもを捨てて幸福になった?」 「そう。自分の幸福のためなら果敢に行動するひとなの」 「わたしには信じられない。じゃ、おかあさんは母親をゆるしてるの」 「一度『いらない』と捨てたものを、生涯《しようがい》、覚悟をもって捨てきるならば、それはだれにも非難できないと思うのよ。でもね、おめおめ拾いにもどったりしたら、決してゆるさないけど」  深草は感心したとでもいうように、首をこきざみにふった。 「ときどき感じてたんだけど、おかあさんって、けっこう激しいところがあるのよね。底力《そこぢから》がある、っていうか。これはほめたんだよ、いちおう」 「自分のつごうで勝手に捨てるのだから、せめて拾いにいかないことよ。捨てきることよ。拾いにいくことは、捨てることより身勝手な行為なんだから」  アッ。  深草がいきなり大声をはなち、 「わたしって、あたまいいッ」  アップにゆいあげた髪のてっぺんを、ことさらおおげさになでながら、得意顔をつくった。 「お骨さがしの手がかりが、まだ残っているじゃないの。ドンマイよ。U学園にいけばわかるわ。寮母先生につれられて、お葬式にいったんでしょう」  思わずわたしは手を打った。なぜいままで、こんなことに気がつかなかったのだろう。よかった、休暇はあと一日ある。 [#改ページ]   3、ヒキトリ  ひまわり寮の前庭には、七つの寮のなかでいっとうおおきな花壇がある。うちの寮母先生が、お花が大好きなせいだ。しらかば寮なんて、男子寮のせいかもしれないけど、花壇がぜんぜんないんだ。お花がないどころか、一本の草もありゃしない。でもそれは、あの子たちが、一羽だけどニワトリを飼っているからかな。ニワトリって、草が好きだもん、なにを植えてもすぐたべちゃうんだから。  わたしは花壇がなくても、しらかば寮のように前庭ぜんぶがあそび場所のほうが好き。ケンケン飛びも温泉飛びもできるじゃない。おおきい男の子なんか、自転車まで乗りまわしているくらい。それに、お花が咲くと、寮母先生がいちいちなまえをおしえこむのも、ほんといってめんどうくさいんだ。だって先生ったら、おぼえるまで毎日しつこくおしえるんだもの。  わたしはヤマツツジのまえにしゃがみこんでいた。  花壇を区切っているまるい石に、つぎつぎにロウセキで目鼻をつけて顔を描いていくのだ。その石はわたしのあたまくらいのおおきさで、表面がつるっとしていてロウセキの線があざやかにのるから、胸がワクワクしちゃう。ホンコのオハジキより、わたしの大得意の三ツ玉のお手玉より、このころはだんぜんこのあそびのほうが気にいっていた。  白いツツジのまえの石のつぎには、からだを横にずらして、だいだい色のキンセンカのまえの石、白い花弁の先端だけがピンクのヒナギクの石、と、どんどんカニ歩きしながら描きこんでゆく。淡い紫のスミレ、白スミレ、首がとれて茎だけになったチューリップ、シャクヤク、サクラソウ、ヒナゲシ、黄色のフリージアまですすんでくると、カニ歩きの終点だ。すみっこに、雨がふるとさみしそうな色になるオランダアヤメがなぜか一本だけすっくとたっている。  ひまわり寮でいちばんおおきいサチねえちゃんが、窓ごしにわたしをよんだときは、白スミレのところだった。  サチねえちゃんは手紙の当番だ。だから|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》からくる手紙は、サチねえちゃんが必ずもってきてくれる。 「ほれ、とうちゃんからだよ」とかならず手紙でわたしのあたまをポンとたたくんだ。いつもかわいがってくれるんだけど、来年中学を卒業すると、ここをでていってしまう……。学園の子は全員、ギムキョウイクがおわると、カイシャに就職することになっているんだもの。 「テル坊、職員寮の応接室にいきな。高田先生がこいってサ」 「高田先生が?」  高田先生は事務室の先生で、子どもたちとじかに接することはあまりない。それに職員寮は、ふだんは子どもたちが出入りしない場所である。わたしはちょっとこまってしまい、どうしていいかわからなくて、もじもじした。しかたなくなって、べつのことを口ばしる。 「テル坊じゃないもん」  ひまわり寮でいちばん齢《とし》も背もちいさかったから、最初はみんながわたしのことを、「チビテル」とよんでいた。そういうときわたしはいつも抗議した。 「チビテルじゃないもん。※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]はテルテルとよんでたもん」  みんなはわたしがいちいち抗議するものだから、おもしろがってよけいいうようになる。でも、わたしより二年ちいさいユウコちゃんが、ついこのあいだここにきてからは、さすがに「チビテル」はやめて、「テルテル」か「テル坊」とよばれるようになった。わたしは「テル坊」というあだ名はかわいらしい気がしていやではないけれど、おおきいねえちゃんたちはすぐふざけて、「テルテル坊主、テル坊主」と歌いだすから、いつも警戒していたんだ。 「わかった、わかった。テルテル、早くいきな」  サチねえちゃんはながくてまっすぐな髪にブラシをあてながら、せかすようにいった。 「お客さんみたいだよ」  わたしは、ハーイ、と返事をして、窓のまえをよこぎり、職員寮につづいている階段をおりていく。  六段の階段を、ち・よ・こ・れ・え・と、と歌いながらおりると、こんどは平らな横道。そこはケンケンしながら、ぐ・り・こ、で、いったん足をおき、つぎに、ぱ・い・な・つ・ぷ・る、と大声で歌いながら跳ねてすすむ。 「こらーッ、テルテル、あそんでないではやくいきな」  わたしの声より大きな声がさけんだ。サチねえちゃんが、わたしを追いはらうように、ブラシをブンブンふりまわしていた。わたしがちゃんと職員寮にいくかどうか、見張っていたのだ。見張ってなくても、ちゃんといくのに。  わたしは両手でメガホンをつくり、 「はーい」  と最高に大きな声で返事した。夏休みにはいったものだから、ねえちゃんたちが口やかましくなって、ちいさい子たちはいやになっちゃう。  職員寮の玄関をあけると、室内が夕方みたいにうす暗かった。すぐ右の部屋が事務室だ。職員の先生たちの個室はその奥にあるらしい。寮母先生が、ひょいと事務室のとなりの部屋から顔をのぞかせた。先生は、こっち、というふうに手のひらをふった。  はじめて足をいれた応接室は、ことのほかせまかった。そして、とってもくさい。かびくさい臭《にお》いとは、これではないかしら。どうしておとなは平気なんだろう。  はいって左が窓で、むこう側にオルガンがおいてあった。赤がよごれたような色の、ふるくさいカバーがかかっている。そのうえにのっているフランス人形のケースも、白濁していて人形の輪郭がぼやけているくらいだ。  白いカバーのかかっているソファに、高田先生と、もうひとり、女のひとがすわっていた。  わたしはむかい側のひとり用のソファにすわらされ、となりに寮母先生が補助|椅子《いす》をひきずってきた。寮母先生はその子ども用みたいなちいさな椅子に腰をおろすと、横むきになってわたしの顔をのぞきこんだ。そして、いった。 「照恵ちゃん、おかあさんよ」  寮母先生の顔がうれしそうにほころんでいた。いや、わたしが玄関についたときから、にこにこしていたっけ。先生は、ずっともう先、「わたしの東子《はるこ》という名は、両親が、東風のようにさわやかでおだやかな子になるように、とつけてくれたのよ。照恵ちゃんというなまえはね。お陽さまがいっぱい照って恵まれた子でありますように、と願いをこめてつけられたのよ」とおしえてくれたことがある。  わたしはむかい側にすわっている女のひとをじーっと見た。紺地に白の水玉の、袖《そで》なしのワンピースを着ているそのひとは、わたしと目があうと、にこっと微笑《ほほえ》んだ。  たしかに、わたしを生んだ母が目のまえにいた。二歳か三歳のころに別れたのだけど、ちゃんと顔をおぼえていた。  いまここで再会した母については、鮮烈な思い出がある。  ひとつは、かけぶとんのうえから馬乗りになって、寝ている父を殴りつけていたこと。  もうひとつはべつの日のこと。追いつめられてふすまを背にしてたった父に、ハタキをふりかざして殴りかかっていたこと。母の背なかが、とても大きくみえた。  しかしいま目のまえにいる母は、背は高そうだったが、ふとってもいないし格別大柄でもない。そして、とくにこわいひと、という印象もない。生母の思い出は、まるで壁にかかった絵画のように、わたしのなかでは動きをとめて静止していたのだろう。 「おかあさんが、照恵ちゃんをヒキトリにきたのよ」  寮母先生はうれしそうなくせに、目をあかくしていた。高田先生はいつもよりいっそうおだやかな微笑を顔にはりつかせている。先生たちがなぜこんなに喜んでいるのかふしぎだった。わたしはぽかんとして、母の顔と先生たちの顔をみつめた。  ヒキトリ、ということばは、施設の子どもたちの常用語である。  年にほんの数人だけど、ここからでてゆく子どもがいる。親子が生き別れのばあい、親は自分のほうの事情さえ好転すれば、手放した子どもをひきとりにくるし、またほかには、親と死別した子どもに、子をほしがるひととの里子縁談がまとまることもある。これらを称して、ヒキトリ、といった。 「A子ちゃんは、来月いなくなるんだって」 「ヒキトリでしょ」  孤児たちにとっては、ヒキトリとは幸福を象徴するものであり、羨望《せんぼう》の的だった。ヒキトリのきまっている子は、鼻たかだかだ。それをうらやましがる子がおおぜいいた。生後まもないうちに親と離別して家庭そのものをまったく知らない子は、家庭にたいしてロマンティックな夢を抱《いだ》いている。わたしはそういう子たちを、子どもっぽいと見下げていた。  先生たちがうれしそうな顔をしているのとはうらはらに、わたしは黙りこんでいる。  わたしはこまっていたのだ。退院した父がわたしをヒキトリにくる想像は、いままでに何回も何十回もしたけど、母にひきとられるなんて、あたまにかすめたこともなかったから。  わたしは母に追いだされたときも、  ふーん。  わかった。  と、だまって家をでたし、父が入院するときさえ、  ふーん。  わかった。  すこし涙ぐんだけれど、体温の高い父の胸のなかで抱っこされているうちに泣きやんだし、よそにあずけられれば、  ふーん。  わかった。  と、文句もいわずにだまってしたがった経験しかもっていない。ダダをこねたり、泣きわめいたことなんて、一回もないのだ。  だから、母からヒキトリといわれても、(ふーん、わかった)と素直に服従するにきまっている。子どもは、おとなのいうとおりになるものだもの。わたしは、いつだってそうして生きてきた。  わたしのヒキトリは決定した。  母の名は、中島豊子、現在二十九歳だということを、寮母先生からきいた。わたしは満九歳。  父が死んでからまだ一、二カ月しかたっていないころである。  さっきからしきりに胸さわぎがしていた。それでつい早足になってしまう。深草が大股《おおまた》でついてくる。わたしは、ハッ、ハッ、あらい息をはきながら、ついには小走りになっていた。  U駅の駅舎が木造からコンクリートにかわろうと、あの石ころだらけのデコボコ道がアスファルトでおおわれようと、それから、大道《おおみち》に車が数珠《じゆず》つなぎになっていようと、それは三十年間という歳月を考えてみれば、きっとあたりまえの変化である。胸さわぎがはじまったのは、当時は一カ所しかなかったあの交差点からU学園がみえなかったからだ。  ミカン畑をつぶして建てられたU学園は、高台にあった。だから、あの交差点から、その全貌《ぜんぼう》が姿をあらわすものなのだ。  しぜんに速度があがってゆく。  コンビニエンスストア、薬局、生花店……二軒だけあった荒物屋と文房具屋を、目でさがす。  往来する車、自転車、すれちがう人々がどんどん後方へながれていく。  そして、そこにくると子どもたちがなぜかかけだしたくなった、わたしたちの坂道……。  このあたりと見当をつけた場所は、坂がけずりとられて平地になっていた。左右にずらりと、それぞれよく似た建売住宅がならんでいる。  ぼんやりたたずんでいるわたしの背後から、深草がそっと日傘をさしかけた。 「なくなっちゃったの……U学園」  わたしは力をこめてうなずいた。怒りに似たやるせなさがわきあがっていた。あれほど平和でのびのびと暮らした故郷《ふるさと》さえ、わたしはうしなってしまったのだ。 [#改ページ]   4、おとうと  リビングと隣接している和室のガラス戸をとおして、深草《みぐさ》の上半身がみえる。からだの周辺をくるくる回りながら、白い大きな輪が幾重にも描かれていた。ポニーテールの髪が左右に振り子のようにゆれ、トレーナーをとおして乳房もかすかにゆれている。  高校に入学すると、深草はチアリーダークラブに入部した。それいらい、日曜になると庭にでて練習する習慣になっている。  庭といっても、深草がバトンをふりまわしていると、だれもそばによれないほどせまい。深草の生まれたときに、記念になにかを植える、と裕司が計画していたことがあったが、裕司がいなくなってそれっきりになっている、なにもない庭だ。  わたしはこたつに足をいれて、日曜の午後の眠くなるようなけだるさにひたっていた。  四角いガラス戸のなかにたっている隣家の柿《かき》の木も、葉をそぎおとしてとうとう黒い骨格だけになった。冬ただなかのひときわ濃い青空から、その骨格だけを切りぬいたようだ。風はなさそうである。  深草の顔が上気して、うっすらピンクに染まっていた。このぶんでは、また大さわぎして浴室を占領するにちがいない。えりあしから三十センチはある自慢の髪をていねいにシャンプーすることは、手入れというよりもはや趣味と化している。もうすこしみじかく切ってもよさそうなものだが、深草はがんとしてのばすにまかせていた。  裕司が生きていたら、深草のこのはちきれそうな若さをどんなにいとおしむことだろう。  深草が乱暴にガラス戸をあけた。 「練習おわりッ」  さけびながら、上体だけを座敷のなかにどすんと投げだした。肩が波うっている。若いむすめ特有のあまずっぱい匂《にお》いが、つんと鼻をさす。運動したあとの深草のそばにいると、周囲の空気までしめっぽい熱気をふくむようだ。  深草は寝そべった姿勢のまま、足の爪先《つまさき》だけを上下にふってスニーカーをぬぎすてると、四つん這《ば》いになってちかよってきた。そうして、卓上のミカンにちらと目をくれただけで、ローワゴンのうえの串《くし》ダンゴに手をのばす。時刻は三時をまわったばかりだ。 「時計をみながら練習してたの」 「そう。三時はおやつの時間だもん」  わたしは読みかけの雑誌をとじた。 「さて、と。おふろにはいろう」 「エーッ、ずるい。いまわたしがはいろうとしたんだよ、汗かいたから」 「だめ。あんたは二時間もかかるから。日曜くらい、夕飯まえにはいりたいのよ」  わたしはそういいすてると、さっさとたちあがる。 「長湯しないでよ、ねェ、はやくでてよ」  深草の声をしりめに、わたしは浴室のドアをあけた。  エビ、キス、イカ、サツマイモ、ゴボウとニンジンの千切り、レンコン、ピーマン。  それぞれ仕込んだ材料をバットのなかにならべおえると、天ぷらの準備はととのった。あとは深草がおふろからでたときに、コロモをつくるだけである。  浴室のドアのあく音がした。それを合図にガスに点火すると、天ぷら粉をふりいれたボウルにすこしずつ冷水をそそぐ。 「すぐ揚げるわよ」  深草に声をかけると、返事のようにバタバタッと二階にかけあがっていく音がした。  ほどなく、パジャマに着がえた深草がリビングにもどってきた。それなのに、テーブルにすわりこんでいる。いつもならわたしがキッチンにたっているときは、かならずそばにきて手伝いをするのに。  わたしは菜箸《さいばし》をもったまま、テーブルのほうに首をひねった。深草は怒ったような顔で、待ちかまえていたようにわたしの視線をとらえた。 「ききたいことがあるの」 「いま、天ぷら揚げるところなのよ」  なべの油の温度は現在百五十度で、百八十度まであとひと息である。  深草が突然こちらにむかって突進してきた。そうしてあっというまもなく、荒々しい手つきでガスのコックをひねった。 「なんて乱暴な」 「話があるっていったでしょ」 「わがままね。ものには順序があるのよ、ごはんのしたくはどうするの」 「おかあさんがウソツキだからいけないのよ」  眉をつりあげて、うわずっている。わたしは深草の腕をとって、ひきずるようにリビングの椅子にすわらせた。そうしてから、ストーブに点火し、同時に加湿器のスイッチもいれる。  むかい側にすわると、深草はぬれぬれとした瞳でわたしをにらみつけていた。この娘《こ》がときどきみせる気性のはげしさに、わたしはそのつど本気でおびえてしまうところがある。  深草の背なか、ちょうど肩のむこう側から、加湿器の温度のない湯気がいきおいよく立ちのぼっていた。その白くふとい尾はまるで深草の髪とつながっているように、上方にむかって逆立っている。  深草がぴしゃりといった。 「おかあさんにはおとうとがいるの? ほんとうにいるの」  一瞬、息をのみこむ。喧嘩腰《けんかごし》でつっかかってくるような態度より、おとうと、ということばが刃物となって斬《き》りかかってきた気がした。  おとうと。なつかしいことばだ、いまとなっては。  おとうと、彼は、父親からも母親からもあめあられの愛情をそそがれて誕生した。多くの女が夫婦の愛の証《あかし》として希求するように、母親もまた、彼を孕《はら》むことを熱望した。熱望せんがために、すでに生んでいた幼子を捨てた。彼の誕生を拍手をもってむかえんがためには、前夫とのあいだの子どもは、自分の幸せをはばむ存在だったのだ。  それなのに、ひとは、捨てられた子どもにむかって、新しく生まれた子をさし、血をわけたおとうと、といううやうやしい称号をあたえる。わたしは、血をわけたおとうと、が生まれるために、じゃまな子どもだったのだ。  ねえ、おかあさん。  おかあさんには、いったいどういう生いたちがあるの。このあいだ話してくれたことは、ほんとうにあれでぜんぶなの。ほんとうに嘘《うそ》ついてないの。ほんとうなの。母親に捨てられ、つぎには父親に死なれ、高校を卒業するまで孤児院にいて、現在の母親のことはなにも知らないといってたことも、ほんとうなの。  おかあさんって、どこかうわの空のところがあるのよね。わたし、ちいさいときから気がついていた。わたしと一緒になにかをしていても、ふっと放心しているの、自分だけの世界に身をひそめちゃうの。さみしかったわ、そんなとき。いまもそうなのよ、おかあさんは。自分の殻にとじこもっている。おかあさんは、なにかを隠している。  おかあさんは、嘘をついている。わたしに嘘をついている。  なめらかに語る声に、わたしは耳をかたむけていた、こころのなかでべつの感慨にひたりながら。  深草の息づかい。かすれたりかん高くさけんだりする声の表情。彼女の怒り。そして悲しみ。抱きしめたときの体温。そして、わたしを求めるときにさぐった幼いときのかぼそい指。  これら深草のまるごとぜんぶが、わたしが絶対にうしなってはならない唯一《ゆいいつ》のものだ。うしなわないためには、わたしはなんでもするにちがいない。たとえそれが、深草のこころに修羅《しゆら》をきざむことになっても。  いま、わたしのなかの奥深くに眠っている核が、はじけようと揺れはじめている。何度も上塗りをして、姿の片鱗《へんりん》さえ見えぬようにおおいつくしたはずだった、こころのなかの堅牢《けんろう》な核。 「警察から電話があったのよ、おかあさんがおふろにはいっているとき」 「警察?」  意気ごんでいたものが肩すかしをくい、いっとき安堵《あんど》感がおしよせた。が、警察がなぜ。  深草はわたしの顔からつと視線をはずすと、その視線をしばらく宙にさまよわせ、そして、裕司の遺影にぴたりととめた。それから、ややおちつきを取りもどした口調で語りはじめた。 「おかあさんがおふろにはいっているとき、電話があったの。『山岡さんのおたくですか。山岡照恵さんのおたくですか』と、異様にしつこくたずねるのよ。そうして確認してからやっと、電話の主はなのったの。××警察署の者だって。 『ワチタケノリさんのおねえさんの、山岡照恵さんですね』というから、びっくりしたわ。おかあさんにおとうとがいるなんて、考えたこともなかったから。思わず『母におとうとがいたんですか』ときいちゃったわよ。そうしたらむこうのひと、とても気まずそうになって、なにかモゴモゴつぶやきながら、逃げるように電話を切っちゃったの。  わたしの手は受話器に吸いついたままだったわ、ながいこと。  おかあさんのおとうと……わたしの叔父《おじ》さん……?  愕然《がくぜん》としたわ。なぜいままで隠していたんだろう、と思った。おかあさん、おとうとがいたの? おとうともおかあさんと一緒に捨てられたの? おとうとも孤児院で育ったの?  でもなぜ警察が、そのおとうとのことを知っているのだろう。  不吉な予感がしたわ。なんか、うちの家庭が根こそぎなぎたおされそうな不安で、いてもたってもいられなかった。あたまのなかが破裂しそうになって、シャンプーしているときも、からだをあらっているときも、こころここにあらずといった感じだった」  深草のひきつっている顔とはうらはらに、わたしはこわばりかかった自分の顔が徐々にほぐれていくのを自覚した。わたしはわざと声をあげて笑った。 「それはきっと、なにかのまちがいだわ。かあさんには関係ないことよ」  さっき揺れうごきはじめた核の芯を、ぴたりと封じることにわたしは成功した。 「ごまかさないで」 「ごまかしてないわ」 「おかあさんの母親は、もうひとり子どもを生んだんでしょう」 「そんなこと、かあさんは知らないわ」 「嘘ついてるわ、おかあさんは」  突然、申しあわせたように電話が鳴った。深草の顔に緊張がはしる。電話はリビングと二階の両方においてある。  深草と目があった。背なかで冷たい汗がツーッとつたわった。自分の顔色が変わっていないか気になる。  電話はまるで幸福をはこぶオルゴールのように、上階と下階で二重奏をかなでていた。それは、受話器をもちあげなければ、地球のはてまで永遠に鳴りつづけるのだ。わたしはのろのろとたちあがった。 「山岡さんのおたくですか。照恵さんはおられますか」  のんびりした口調だが警察にちがいない。一瞬のうちに皮膚という皮膚がいっせいに毛穴をとじ、甲殻となって全身をおおう。蟻《あり》のはいる隙間《すきま》さえとざし、すべてをはねかえす甲殻化した皮膚のもとで、わたしはわたしの幸せ、深草との家庭をまもるのだ。 「わたしですが」 「ご本人ですか。そうですか。和知武則さんのおねえさんの、山岡照恵さんですね」 「はい」 「××警察のWと申します」 「…………」 「武則さんから伝言があるんですが」 「…………」 「じつは、武則さんは、詐欺・窃盗の現行犯で逮捕されて、現在拘留中なんです」 「……それは、なにかのまちがいではないでしょうか。あの子がそんなことをするなんて」 「いや、いや、現行犯ですからまちがいありません。それでですね、武則さんがおねえさんに、『セブンスターと下着のシャツとパンツを差しいれしてくれるように』といってるのですが」 「なぜ、わたしにそんなことを。あの子には母親がいるんですよ。母親にたのむのが筋ではありませんか」 「いや、当人がおねえさんに伝えてくれといっておるものですから。警察はそれをちゃんと伝えなければならん義務があるのです」 「そんなこといわれても、こまります。あの子の用件は、どうか母親におつたえください」 「それがですねェ、おねえさん。当人は中学をおえてすぐ母親のところをとびだしているんです。それっきり、一回も母親と会っていないらしい。それで、おねえさんしか頼むひとがいないんですよ」 「わたしも十八のときに家をでています。それいらい、母にもあの子にも会っていません。もう二十年以上も会っていないのですよ。いまさらどうしてわたしがあの子の責任を負わなければならないのでしょう」 「いやいや、警察はおねえさんに責任を負わせようなんて思っていません。ただね、拘置所は寒いんですよ。暖房はないしねェ。せめて、下着くらい差しいれしてやってくれませんか、血をわけたおとうとなんだし」 「遠慮させてください。自分の生んだ子なら責任を負いますが、あの子の責任までは負えません。あの子の責任は、生んだ母親にとらせてください」  深草がいきなりわたしをおしのけ、ひったくるように受話器をうばいとった。そして必死に大声をはりあげた。 「もしもし、いきます。そちらにいきます。場所をおしえてください」  受話器をフックにもどし、書きこんだメモを手のなかににぎりしめた深草は、いまの絶叫調をけろりと忘れて、じゃれるようにわたしの肩を両手でかるくおした。  わたしはどさりと椅子にからだを投げだすと、肺の底からため息をおしだした。ヒューッと笛の音がした。するするっと甲殻がとけて、すっかりやわらかい皮膚にもどっている。深草にちからずくでおしのけられた瞬間に、わたしは殻をぬいで無防備になってよいというゆるしをえたのだ。  深草はお茶をいれて、わたしのまえにおいた。まなこにとろけそうな笑みをうかべている。親のわたしをつつみこもうとするような、おおらかな笑顔がまぶしい。 「やっぱり、おかあさんにおとうとがいたのね。わたしにとって、叔父さん。そして彼は犯罪者となって警察にやっかいになっている。そういうことなのね」  堅牢《けんろう》な核が、ぷちんと砕けた。わたしはこのときを、待っていたのかもしれない。深草に理解されたいという思いが、つきあげるようにわいた。 「あんたのいうとおり、かあさんは嘘つきよ。おしえたくなかったの。かあさんは、深草の顔をくもらせるようなことは、いっさいおしえたくなかった」  調理台においたボウルの外側に、天ぷら粉をといた白い水が筋をつくっていた。今夜の天ぷらはどうなるのだろう。時刻は七時をすぎている。  ストーブが赤々ともえていた。テーブルのすみにあるクリスタルの灰皿にそれが反射して、美しくきらめいている。十余年間、家具の一部のようにそなえつけられている裕司の愛用品である。 「かあさんは、施設には小学校四年の夏休みまでしかいなかったの、ほんとうは。母親にひきとられたのよ」  やっぱり、とばかりに深草はうなずいた。 「八月のお盆すぎね、たぶん二十日ころだったと思う。その日はカンカン照りで……」  ——昭和三十二年。つい数日まえに十歳になったばかりのわたしは、朝礼台にひとりたたされていた。  U児童学園の運動場は、学校の校庭のようにひろい。約百四十人の子どもと職員の全員があつまっている。はじめて高いところにたたされて、わたしはコチンコチンに緊張していた。真夏の太陽がわたしのあたまをジリジリ灼《や》いている。 「柴田照恵ちゃん(どういうわけか学園では、ほんとうの姓の陳ではなく、生母の旧姓の柴田姓を名乗っていた)が、おかあさんにひきとられてゆきます。みなさん、さようならをしましょう」  男の職員の挨拶《あいさつ》のあとに、全員が「さようなら」と唱和した。わたしもぺこりと礼をする。そのつぎにはどうしてよいのかわからずに、ぶすっと黙ってうつむいていた。  わたしは真あたらしいうすいオレンジ色のワンピースを着ていた。エリもとがぐるりとまるくあいて、その周囲にイチゴのアップリケが放射状についている。とてもステキなワンピースなのに、エリもとからシュミーズがはっきりのぞいていた。それがことのほか恥ずかしかった。エリもとばかりが気になって落ちつかない。幼児じゃあるまいに、四年生にもなって下着がまるみえの服を着るなんて。みんなのてまえもある。ヒキトリがきまってこの壇上にたつ子は、下着などみえないきちんとした服装をしているのだ。こんな恥ずかしいヒキトリの子なんて、いままでひとりだっていやしない。どうしてこんなものを買うのだろう。しかしわたしには、おとなの命令指図にはしたがう習性が身にしみついている。なにも口にはだしはしない。  パンツ、シュミーズ、ワンピース、ソックスにいたるまで、母があたらしい物を用意して持参したのだ。学園の子どもたちの着るものは、パンツにいたるまですべて東京都からの貸与品である。だから退所するときには、すべてを返還しなければならない。  母につれていかれたところは、豊島区C町の家である。幅六十センチほどの縁側のついた六畳ひとまきりの間借りだった。しかも玄関がなくて縁側から出入りするという、かわった部屋だ。台所とトイレは家主の老夫婦と共同である。共同井戸をかこんだ六軒の家のなかの一隅だ。  その部屋には、男性と男の子がいた。 「このひとがおとうさんよ」  母から紹介されたとき、わたしはびっくりして腰をぬかしそうになった。その男性の顔に見覚えがあったからだ。すっかり忘れていたむかしのできごとが、唐突に息をふきかえす。  両親とわたしの三人で暮らしていたころ、わが家は中華そば店をやっていた。テーブルのないカウンターだけの店だったような記憶がある。父は奥の座敷で臥《ふ》せっており、店は母がひとりで切り盛りしていた。「おとうさん」と紹介されたこの男性、中島武八は、この店の常連だったのだ。毎日のように顔をだしていた。ほんの二、三軒さきに住んでいた近所のひとだ。この中島の存在によって、住居をかねた中華そば店の裏玄関から、父はゴホゴホ咳《せき》こみながらわたしの手をひいてでたのである。  母はピシャッと命じた。 「おとうさんとよびなさい」 「はい」 「はやくよびなさいよ」 「え、いま」 「いまッ」  わたしはすぐさま棒読みした。 「オトウサン」  彼はちょっとはにかんだように笑った。 「この子はおまえのおとうとよ。武則《たけのり》というの。二歳」  武則は、壁に顔をむけて昼寝していた。  わたしの母であり陳文珍の妻である陳豊子は、むすめが施設にいて、しかも夫の生存中に、中島武八と結婚して子どもまでもうけていたのである。姓名も、中島豊子となのっていた。母親が結婚できるということが、ふしぎだった。その意味がよくわからなかった。ただただ、胸のなかでびっくりしていた。  六畳ひとまに四人の家族が寝起きする生活がはじまった。  ほんの数日して二学期をむかえ、わたしはちかくの区立O町小学校にかようことになる。このときわたしは施設時代のなまえの柴田照恵という名で転入する。 「柴田照恵さんは、算数が得意です」  担任の先生は、みんなにこんな紹介をした。わたしの成績のなかでは算数がいちばんよかっただけで、クラスのなかで群をぬいていたわけではないのに。わたしはひとりで顔をあかく染めて、もじもじした。  その日のうちにシッペ返しがきた。  算数の問題——七十八円の買い物をしました。いちばんすくないかたちで硬貨を何枚用意すればいいでしょう」 「はい、柴田さん」  いきなりさされて、わたしは立ち往生した。まちがっていても答えられればいいのだが、まったくわからない。  施設育ちの特有の現象である。施設の生活のなかでは、子どもが金銭にふれることは皆無だった。衣服も食事も、生活必需品はなに不自由なくあたえられ、学校におさめる教材費や給食費等は、施設側が全員の分を一括して納入する。そんな生活を五年ほどもしたから、硬貨にどんな単位があるのかさえ忘れてしまっているのだった。また、ヒキトリの二年前の昭和三十年に発行された五十円玉についても、まったく知識がなかった。 「わかりません」  蚊《か》のなくような声で答えると、先生は「緊張してるのね、でもすぐなれるわよ」とやさしく微笑《ほほえ》んでくれた。  日いちにちと学校が好きになっていく。  それは家での生活から逃げる意味もあったかもしれない。わたしは、家ではいつもおどおどしていた。U学園では明朗で活発な子どもだったのに、母と暮らしだしてからは、手のひらを返したように無口で内気な子になっている。わたしは母にいつも遠慮しながら生活していた。  母は地声の大きなひとで、いつでもどなっているように語調が荒々しい。わたしをよぶときもかならずよび捨てだった。 「照恵ッ」  照恵ちゃん、とよばれていたわたしにとって、それは怒られているようなこわさをよびおこした。  ふしぎなことに、この家はあいさつのない家だった。「おはよう」「おやすみなさい」という声が、だれからもあがらない。  わたしが学校からかえってきても、「おかえりなさい」ともいわずに、母はチラッと冷たく目を動かすだけだ。それに射すくめられて、わたしはピーンと緊張の糸をはりつめた。  母はいつでも、えたいの知れぬ威圧感をただよわせていた。立居ふるまいが、いちいちわたしをジリリと無言で圧迫する。そんな性格になじめなくて、いつもおびえながら、わたしは仮の宿に住んでいるイソウロウのような気分ですごしていたのだ。  U学園とちがってひとりで通学することや、茶色の集金袋に教材費をいれてもっていくことや、体育のときはブルマーに着がえることなどにすっかりなれたのは、転校してからひと月ほどたったころだ。秋の長雨がつづいていた。わたしはなぜか傘をもつことが好きだったから、雨はちっともいやではない。  月曜日の一時間目、道徳の時間がはじまる。 「柴田さんはおうちの事情で、きょうから中島さんという姓にかわります」  先生の声に、教室内に一瞬水をうったような静寂がはしる。そうしてのち、いっせいにざわめきがたった。 「なんで」 「親が結婚したんだろ」  そんなささやきが耳にしのびこむ。わたしはまっ赤になってうつむいた。恥ずかしくて穴にはいりたい気持である。姓がかわることは、昨日母にいいわたされていたが、まさか先生がみんなのまえで発表するとはうかつにも想像していなかったのだ。  親が結婚したんだろ……家庭の内情がすっかり見通されている。でもみんなには、親が結婚する恥ずかしさなんて、わかりっこない。そして、教室の顔ぶれのかわる年度はじめならまだしも、学期の途中で突然姓のかわる恥ずかしさも。わたしは泣きだしそうになった。  どうして母は、こんな心ないことをするのだろう。転校というはじめての経験をこころぼそくうけいれているのに、それに追いうちをかけるように姓を変更させるなんて。わたしの恥ずかしさなど一顧だにしてくれない。やっとクラスのみんなになじみつつあったのに、これでまたひとり浮きあがってしまう。  生まれたときは陳照恵なのに、U学園では柴田照恵、O町小でも柴田として転入したのに、いま突然わたしは中島照恵になってしまった。  しかしわたしは母にひとことも抗議をしない。  母に男ができてから、病中の父と家をでてふたり暮らしをしたかとおもうと、父の病状が悪化して、あちこちたらいまわしにあい、施設でやっと安定した生活をおくれるようになったら、こんどは当の母親の出現である。そうして、母との同居、転校、そして一カ月おくれの姓の変更。  たった十年間にすぎないわたしの人生は、ネコの目のように激変していた。わたしはすべてを胸の内にしまいこみ、なにも感じないふりをすることによって、つぎからつぎへとおそってくる運命の変化をうけいれていたのだろう。  このできごとと前後して、母が夜のつとめにでるようになった。店はターミナル駅になっている街にある。  わたしをひきとったので、オトウサンの賃金だけではやっていけなくなったらしい。それらしいことを母に告げられて、わたしは恐縮した。わたしはますます彼女に遠慮がちになり、ものがいえなくなっていく。  うちのカレンダーには、日にちのところに母の字で、六七〇、七二〇、八〇〇、という数字が書きこまれている。石工職人であるオトウサンの日給額だということを、わたしは自然に知っていた。オトウサンは毎日自転車で現場にかよっていた。  母は夕食のしたくをしてから家をでた。わたしが学校から帰宅するのとすれちがうような時刻である。二時か三時頃。母の姿がないと、わたしはなにがなしほっとした。  オトウサンがかえってくるまで、わたしは武則とふたりでずっと家のなかにとじこもっている。べつに子守をするためではなく、施設をでてから、わたし自身が子どもらしく外であそびたがらなくなったのだ。周囲が知らない子ばかりだったせいもあるが、性格がちぢこまって、ひとと接することが苦手になった。わたしは学校の図書館で借りてきた本を、日がな読んですごしていた。  オトウサンが帰宅すると、わたしは食器棚にしまわれているおかずを、おぜんにならべる。三個十円のコロッケの日が多かった。 「酒屋にいってきてくれるか」  オトウサンはときどきそういって、小瓶をとりだす。そのころの酒店は、ショウチュウをはかり売りしていた。死んだ父もそうだったが、中島のオトウサンも、もの言いのおだやかなひとである。  瓶をもっておつかいにいく夕暮れどきの商店街が、わたしは好きだった。昼間は暗くくすんでいるような店に灯がともると、きゅうに店内が生き生きときれいにみえる。色とりどりのお菓子がならんでいるショウケース。天井に電気のかさがいっぱいぶらさがっている電器店。美しい着物が蝶《ちよう》のように羽根をひろげているウインドウ。  それらはわたしのこころを浮きたたせた。田園のなかのU学園のふきんには商店街がなかったので、商店街そのものが、わたしにとってはめずらしいものだった。  そまつな夕食がすんだあと、オトウサンはわたしと武則をときどきアンミツ屋につれていってくれる。飲食店にはテレビがおいてあり、オトウサンはそれが目当てなのだ。野球とプロレスの熱心なファンだったから。わたしは両方ともちっともおもしろくなかったが、お店でものをたべることはうれしかった。  母がつとめだしてどのくらいたってからか、わが家はC町からおなじ区内のO町へひっこしをした。  六畳ひとまの間借りで台所とトイレは共同と、いままでとかわらないが、あたらしい家は縁側から出入りするのではなく、三尺の玄関がついていた。おまけにわたしのかよっていたO町小学校のすぐ真裏にあり、始業のベルが鳴りだしてからかけだせば、ちゃんとまにあうちかさだった。  C町での生活は期間もみじかかったし記憶がうすいが、O町での生活はほとんどのことが鮮明に記憶にたたみこまれている。  一日の生活は、朝、オトウサンが起こしてくれる声ではじまる。 「着がえしてやれな」  オトウサンは毎朝おなじことをいう。わたしは眠い目をこすりこすり、武則を着がえさせてやる。オトウサンはそのあいだに、自分と武則と二人分の弁当をつくる。わたしには給食があるが、武則がかよいだした保育園には給食がなかったのだ。  おぜんのうえには、湯気のたったごはんとみそ汁がならんでいる。これとおしんこだけの食事である。わたしたちは三人で食卓をかこむ。  オトウサンは朝食がすむと、弁当を荷台にくくりつけてひと足さきに自転車でうちをでる。そのあと武則がでて、わたしはいちばん最後である。  オトウサンが起きてからわたしが登校するまで、母はぐっすり眠りこんでいる。三人とも口数がすくないので、おなじ部屋に寝ていても、さわがしさで起こされることはない。  彼女は昼までたっぷり眠れるからいいのだが、わたしとオトウサンは寝不足である。  昨夜も母は酔っ払って帰宅して、大さわぎをした。わたしとオトウサンは、夜なかにいっぺんは起こされる毎日だった。彼女は毎晩かならず吐くのだ。  くェッ。  かーアッ。  母はなぜか、合いの手のようなかけ声をかけながら吐く。ひとが寝ていようと、おかまいなしだ。枕《まくら》もとに洗面器をはこぶのはオトウサンの役目で、そして、これが死ぬほどいやだったが、洗面器のなかの吐瀉物《としやぶつ》をトイレに捨てにいくのはわたしの役目だった。 「ひっくりかえすといけないから、捨ててこいな」  オトウサンは母の背なかをなでて吐かせると、わたしにいう。わたしは首だけでうなずいて、まず、大きく息を吹いこむ。そして息をとめて、洗面器をささげもつ。こうすれば腐ったような悪臭は鼻に侵入してこない。それでもわたしはできるだけ洗面器から顔をそむけて、そろそろ歩く。トイレからもどってくると、母はすでに死んだように眠りこんでいた。オトウサンは電灯を消すために、いつもたったまま待っていてくれる。わたしはいそいでふとんにもぐりこんだ。  母の化粧が日ましに濃くなっていく。顔と首のさかいがはっきりわかれる厚化粧だ。下着も、いままでは白の木綿のパンツをはいていたのに、紫のナイロンのパンティにかわり、洋服ダンスのなかにはきれいなドレスがならび、着物を収納するためにあたらしく和ダンスがはこびこまれた。毎日、美容院にいくようになり、その足で店にむかう。 「中島さんのおかあさんって、きれいなひとね」  クラスの友だちにいわれたのは、授業参観のときである。ひっつめただけの髪や、お化粧もしない母親たちにまじって、うちの母の姿はたしかにきわだっていた。二十歳のときにわたしを生んだのだから、他の母親たちよりは格段に若いうえに、濃厚な化粧とだれよりも高価な着物姿。しかしふだん着のままかけつけてくる素朴《そぼく》な母親のほうが、わたしにはうらやましかった。 「わたしは、おとうさん似《に》なの」  友だちは、はじけたように笑った。わたしも一緒になって笑う。うれしくてしょうがなかった、だってわたしは上野で「おとうさんにそっくり」といわれつづけていたのだから。  とはいえ母は、仕事とひきかえに家事を手ぬきしたりはしない。それどころか、朝食のしたくをしないだけで、夕ごはんのおかずは買っておいてくれたし、家のなかはいつも完璧《かんぺき》に掃除がゆきとどいていた。わたしは友だちの家にあそびにいくと、その乱雑さやきたなさにおどろいたものである。服がなげだされていたり、部屋のすみにものがころがっていたり、新聞紙がかさねて放置されていたり……。  うちの障子の桟《さん》を指でなぞってみても、かすかなホコリもつかなかった。共用トイレの窓の桟のホコリさえみたことがない。ガラスも畳も毎日ふくから一点の汚れもない。板の間に、へいきで顔をつけることができた。  そのうえ彼女はタライと洗濯板をつかって毎日かならず洗濯をする。四人分の洗濯物は、たいへんな量にちがいない。にもかかわらず、毎日、雨がふっても彼女は洗濯板に洗濯物を熱心にこすりつけていた。  彼女はとても潔癖症で、きれい好きなのだ。それも寸暇をおしんで精をだし、むだなくテキパキうごく。掃除と洗濯に熱心にとりくんでいる姿から、わたしは、一心不乱、ということばを連想した。自分で完璧にやらないと気がすまない性格なので、わたしに家事を手伝わせることはほとんどなかった。  夕刻の街なかの喧噪《けんそう》を背にしてドアをあけると、そこにはものものしい雰囲気がたちこめていた。  わたしたちの右方に、ジュラルミンの楯《たて》をもった大男たちが数人かたまって立ち話をしている。コンクリートの塊の重さにも耐えられそうな無骨なかたちの靴。これも制服の一種なのか、目にもあざやかなあかるいブルーの仕事着が場ちがいな印象をあたえるが、それはわたしたちを安心させはしない。  数人の警官がどやどやと中央の階段からおりてきた。  わたしは途方にくれてたちすくんだ。深草がわたしの腕をかたくにぎりしめている。  室内の中央から左方にむかってデスクがかたまっていた。  事務をとっていたななめむこうの男が顔をあげて、どなりつけるような語調でさけんだ。 「なに? なんの用?」  こちらを見すえている目つきが猛禽《もうきん》類のようにするどい。まるでわたしたちが犯罪者みたいな威圧感だ。人相も凶悪で、胸がどきどきして喉《のど》がひっついてしまう。おなじ警察の人間なのに、昨夜の電話のどこかのんびりした話しかたをする刑事とは、なんというちがいだろう。  男は、逃がしてなるものかとばかりに、大股《おおまた》でこちらにちかよってきた。 「なんですか」  みあげるような大男である。  わたしは口ごもりながら、昨夜の刑事の名をいった。 「何課?」  癇性《かんしよう》にもこめかみをピクピク震わせていて、わたしはいよいようわずり、ちゃんと記憶していたはずの課の名を度忘れしてしまった。 「課がわからなければ、よびようがないよ。たくさんひとがいるんだからッ」  完全にどなりつけている言い方に圧倒されて、深草と顔をみあわせながらわたしは一歩あとずさりした。わたしは深草の耳もとにささやいた。 「いやだ、こんなとこ。かえっちゃおう」  深草はしゃくるように首をよこにふり、いきなり男にむかって大声をはりあげた。 「なんでそんなにおどかすんですか。わたしたちがなんかわるいことをしましたか。来いといわれたから、きてあげたのに。母は会社から、わたしも学校から、家にももどらずに直行したんですよ」  思いがけないけんまくに、男は一瞬ひるんだ。深草はそれを見のがさなかった。 「失礼ですよ、よびつけておいて。いいですよ、かえりますよ。でもそれは、あなたの責任になりますよ。もう二度とよびつけないでください」  深草はそういい捨てると、くるりとふりかえってわたしの肩に腕をまわした。そのままわたしたちはドアにむかった。  むこう側から、あわててひきもどす声が追う。べつの男である。その男がわたしたちのまえにまわりこんだ。 「うちの者がおよびしたのはどんな用件でしたか。それでどの課かわかります」  案内されたところは地下の殺風景な部屋だった。奥に檻《おり》らしきものがみえた。それを目にしたとたん、血の気がひいた。この奥に武則がいる……。  三方が打ちっぱなしのコンクリートでかこまれていて、なんとも陰惨な部屋である。そのなかにひっかき傷だらけの木の机がぽつんとひとつだけあり、そこにすわっていた中年のやせた男が顔をこちらにむけた。昨夜の刑事にちがいない。ほかには椅子《いす》のひとつもおいてない。 「山岡さんですか。きのうはどうも失礼いたしました」  彼はわたしのもっているデパートの紙袋にすばやく目をはしらせた。 「申しつかったものです」  わたしは紙袋をわたしながら、さっそく武則の件を問いただした。 「ほんとうはいっちゃいけないんですけど、まあ、おねえさんですから……、口外されたらこまりますが。  窃盗のほうは、犯行現場は自動車修理工場の社員寮です。彼は中学をでたばかりのころ、そこの用務係をやっていました。だから、室内の事情にあかるい。そこで各部屋にしのびこんで、時計や貴金属、ある部屋ではコンポまで盗みだして入質したんです。それでアシがつきました。被害件数は十二件です。詐欺は、百科事典をつかって。当人が現在、いや元かな、百科事典のセールスマンですから、やはりローンの仕組みなどにくわしい。顧客と信販会社を手玉にとって総額二百三、四十万の詐欺をはたらきました。被害件数は九件です」  書類を見ながら彼は淡々と語る。深草は身をのりだしてきいていた。しかしわたしには、なんとしても信じられない。極端に無口で、ゴロ寝が好きだった武則。いつもひとりだけの世界にとじこもっていた武則。奇矯《ききよう》なところは一部あったにせよ、総じておとなしいあの子が悪事をはたらくなんて……。 「わたしは信じられないのです。だってあの子が、ひとさまをだませるでしょうか。ひとさまの家にこっそりしのびこむような芸当が、あの子にできるものでしょうか」  わたしのいうことが信じられないとばかりに、彼はあいまいな薄笑いをうかべた。 「おねえさん、彼の体格を知っていますか。一八三センチ、八二キロと立派な体格です。空き巣にはいられたほうが、彼の顔を知っているのにとがめられなかった。こわがられていたんですよ」  ああわたしは、背のひくいわたしより、もっとちいさな武則しか知らない。その武則が、ひとさまに恐れられるような人間になっていた……? 「とにかく達者なんですよ。室内を物色しているさいちゅうに住人とばったり出っくわすと、ぱっとその住人の肩に腕をまわして、『ひさしぶりだなあ。呑《の》みにいこうよ』とニコニコ笑いかけてごまかすんです。とにかくからだが大きいから、みんなびびってしまう」 「きけばきくほど、信じられなくなります。あの子はとても内気で無口な子でしたから」  彼がいきなりハッハッハと哄笑《こうしよう》をとばした。その笑い声は、窓のないこの部屋の壁にぶつかって反響した。 「無口ということはないです、無口ということは」 「……」 「実に饒舌《じようぜつ》ですよ、話もうまいし」  なぜか彼はうれしそうに目をかがやかせながら話をつづけた。  天才的な演技者です。たとえばひとに、「セールスやって、どれくらいかせぐの」と問われると、うーん、とあたまをかかえて、しばらくおいてから、「こまかく計算してないから自分でもよくわからないけど……」と、また間をおく。そうしてから、首をひねったり遠くのほうをみる目つきをして、最後にはうすく目をつむって指でソロバンをはじくジェスチャーをしながら「やっぱり八十にしかならないな、今月は」と残念そうに答える。これでひとは、彼が毎月八十万円はかせぐ辣腕《らつわん》のセールスマンだと信じちゃうんですよ。  それから彼の本番がはじまります。「百科事典をあとワンセット売ると、今月のトップセールス賞をもらえるんだ。賞金は三十万。なまえだけ貸してくれないかな、ワンセットのちがいで三十万ちがっちゃうんだよ。買ってくれたことにしてくれれば、代金の十九万八千円はもちろんおれが払う。送られてくる百科事典はあげるよ。古書店にもっていけば、三万でひきとってくれるから、それで一杯やってよ。おれのほうも、これで実入りが十万ふえるんだし、もちつもたれつだ」。  これで若いひとなんかは、いそいそ印鑑をとりだすそうですよ。  帰り道は北風がつよかった。わたしたちはことばすくなのまま家にたどりつく。  わたしは和室のほうに深草をさそった。  ふたりしてこたつにもぐりこんで間近に顔をよせると、深草が憔悴《しようすい》しているのがありありとわかる。たっぷり気疲れさせてしまったのだろう。  ストーブのうえのヤカンが、シュンシュン鳴りだした。深草がぽつんとつぶやいた。 「わたしの叔父さんって、どろぼうだったのね」  ドロボウという有無をいわせぬ音《おん》に、わたしはすくみあがった。 「忘れよう。このことは今日かぎり忘れるの。叔父だと思わなくていいんだから。わたしにもあんたにも関係ないことよ。うちの家族には関係ないわ」  わたしは武則を愛していない。いや愛していないというまえに、とうとう彼に関心をもてなかった。八歳も齢のへだたりがあるから、対等な話相手にならなかったせいもある。そして、あの子の顔をみるたびに、「この子を生みたいために、わたしと父は捨てられたのだ」という思いが、いつもつきまとっていたせいもある。彼に罪はないのに。 「子どものときから非行児だったの」  深草はなおうつむいたまま弱々しい口調でつぶやいた。わたしは即座に否定する。 「そんなことはない。あの子の名誉にかけていうけど、そんなにわるい子じゃないの、おとなしくて。刑事さんがあの子のことを饒舌だといってたわね、でもかあさんは信じられないのよ。それにしても刑事さんがそんな嘘をつくわけはないし……、正直いってあたまのなかが混乱してるわ」  武則は、幼児らしく飛びはねたり奇声をあげたりせず、いちにちでもじっとすわりこんでいた。オモチャであそぶわけでもなく、いたずらするわけでもなく、ただただ落ちつきなく瞳をキョトキョトうごかしながら、すわりつづけている。そしてふいとおもてにでると、さいげんなくどこまでも歩きつづけてしまうところがあった。保育園の無断欠席は再々である。このころは親が送り迎えをしなかったので、案じた保母が武則につきそって帰宅したこともある。夜なかに警察から電話があって、オトウサンが保護されている武則を迎えにいったこともあった。  小学校にあがっても、知的好奇心はわかなかったらしく教科書はおろか、絵本や漫画や目あたらしいものにも無関心だった。なにか、こころが外にむかって窓をあけないような性質である。ただ黙然としていた。 「たいていのことは、オトウサンがめんどうみるのよ。母は昼間寝ていて夜はいないし、家族とめったに顔をあわせないから、ほとんどのことは知らないままじゃないかしら。オトウサンというひとは、これがまた口数のすくないおとなしいひとで、母親のいいなりになっていた」 「それにしても、高校に入らないってどういうこと? 専門学校にいったわけでもないんでしょう、仕事をしてたんだから」 「そのへんのことは、かあさんにはよくわからないの」 「おかあさんの育った家庭って、いったいなんなのよ」  深草の瞳が底光りしていた。それからのがれるように、わたしは顔をふせた。 [#改ページ]   5、せっかん  C町からO町にひっこす直前、施設からひきとられて二カ月ほどたった秋祭りの夜、地獄の洗礼はなんのまえぶれもなく突如やってきた。  その日は、学校の友だちの康子ちゃんと夜店にいく約束をしていた。転校したばかりでものおじしていたわたしにとって、はじめてできたいちばんの仲良しである。 「晩ごはんをたべてから、いけばいいわ」  店が休みでたまたま家にいた母は、きげんよく了承してくれた。でもそれがわたしには手放しではよろこべなかったのだ。 「照恵ちゃんはいくらもっていくの。うちはおかあさんが二十円くれるって」  ひるま康子ちゃんからいわれていたせいで、わたしは喉《のど》から手がでるほど、お金がほしかった。それなのに、母にいいだせなかったのだ。  学校からかえったのが三時ごろで、約束は七時半だったから四時間半というながい猶予があった。母が台所にいればそばにたたずんで、いまいおう。母がおぜんの用意をしていれば、そのときこそいおう。茶碗にごはんがよそられたとき、こんどこそいおう。そう思うだけで、わたしはひとりでおろおろしていた。胸のなかで、サァ、サァ、と自分をけしかけながら。  母親に一度もあまえたことも、せがんだこともないわたしは、どう切りだしてよいのかわからなかったのだ。  時計の針は、おそろしいいきおいで七時半にむかっている。時計を横目に見ながら夕食をおえたときには、わたしは精も根もつかいはたしたように、ぐったりしているありさまだった。 「照恵ちゃーん」  ガラス戸があけはなされている縁側のところに、康子ちゃんが笑ってたっていた。浴衣《ゆかた》を着ていることに目を見張る。黄色い蝶《ちよう》のとんでいる浴衣に、まっ赤な帯がかわいらしい。お祭りには浴衣を着ることさえ、わたしは知らなかったのだ。  オトウサンと母はふたりでむつまじく晩酌をしていて、武則は寝ころがっている。  わたしは康子ちゃんに笑いかけようとした。が、顔はひきつっただけだった。わたしは縁側にいってすわると、康子ちゃんに小声でささやいた。 「お金もらってきたの」  祈るような思いだった。どうかもらっていませんように。もしもらっていなければ、わたしとおんなじだ。わたしはそのまま縁側からおりてサンダルをつっかければよい。それなのに願いむなしく、 「三十円ももらっちゃった」  と、うきうきはずんだ答えがかえってきた。ふうっと胸がしぼみ、進退きわまった気がした。わたしはうしろをふりかえって、すがりつくように母を見た。  おかあさんはお金をくれることを、忘れているだけなのよ。だって、お祭りにはどこの家も、子どもにお金をくれるものでしょ。お願い、思いだして。十円でいいから。  たのみの母は、オトウサンとたのしそうに談笑している。わたしは話がとぎれるのを待った。いや、思いきって口にだす勇気をかきたてていたのかもしれない。 「いこうよ」  わたしがお金をもっていないことを露知らぬ康子ちゃんは、無邪気にわたしの腕をひっぱった。わたしはひきつった顔でうなずきながら、もう一度母に視線をむけた。母がわたしを見た。目があった。チャンスだ。わたしははやりたった。にもかかわらず、わたしの口はぱくぱく空気をかむだけで、「お金をください」ということばがどうしてもだせなかったのだ。 「いこうよ、照恵ちゃん」  康子ちゃんがふしぎそうに目をしばたいた。それに触発されたように、母がいきなりどなり声をはなった。 「はやくいきなさいよッ」  周囲にどなるひとなどひとりもいない生活をおくってきたわたしは、その声の烈しさに息をのんだ。おびえがはしった。  このときわたしは、いくべきだったのだ。たとえお金がなくても、お祭りの夜店にいくべきだったのだ。しかし世間の知恵の身についていないわたしには、お金をもたずに夜店にいくことは考えられなかった。お金がなければいけない。単純にそう思いこんでいた。夜店というのは、施設育ちのわたしにとって、生まれてはじめての経験なのだった。  わたしは立ち往生した。進むことも退くこともできずに、どうすることもできずに、縁側のヘリに無意味に足の裏をこすりつけていた。  きいたこともない、怪獣のような声が耳もとで炸裂《さくれつ》した。  わたしの首はいきなりうしろからはがいじめにされ、すごいいきおいで座敷にひきずりこまれた。頭がガーンと畳に叩《たた》きつけられ、頬《ほお》に往復ビンタの嵐《あらし》がおそった。母は鬼のような形相でわたしの髪をつかんでひきずり、胴体をところかまわず蹴《け》りつけ、その合間にこれでもか、これでもか、というふうにビンタをはった。  なにが起きたのかわからなかった。それまでに一度も体験したことのない恐怖と激痛が、からだのすみずみまでブスブスと刺しつらぬいた。わたしはただただ悲鳴をあげながら、殴打からのがれようと部屋のなかをころがりまわっていた。  世のなかに、せっかん、というものがあることを、わたしは生まれてはじめて知ったのである。その恐ろしいことを、こともあろうにともに暮らしはじめた母親がするということも。  こののちも高校を卒業して家をでるまでの八年というながい歳月を、月に二、三回ほどの頻度でせっかんされながら生きていくことになるとは、わたしのおさない頭ではまったく想像できないことだった。 「もうやめろよ」  オトウサンが苦々しげな口調で、やっと止めにはいった。そうして、それでも狂ったように殴りつけ蹴りつづける母の腕をつかんだ。オトウサンに引きよせられてわたしから離れた母は、苦しげに息をハァハァきらせていた。彼女はわたしをせっかんすることに、全力をふりしぼってのぞんでいたのだ。わたしはなんというひとにヒキトリされたのだろう。  康子ちゃんは目のまえでくりひろげられた光景に、金縛りにあったように棒立ちになっていた。  その康子ちゃんの姿が目ざわりだったのか、こんどは母は彼女にむかってどなりつけた。 「おまえも殴《や》られたいかッ」  その声でわれにかえった康子ちゃんは、おびえた表情をいっぱいにうかべて、一歩あとずさりした。康子ちゃんまで殴られたらどうしよう。わたしは本気で心配して、康子ちゃんを守ろうと腕だけでにじりよろうとした。が、わたしのからだは、どうにも自分の力では動かすことができなかった。  どうか康子ちゃんをぶたないで。お願いだから康子ちゃんだけはぶたないでください。康子ちゃんのかわりにわたしをぶってください。  ジョウロで水を流すような音がした。康子ちゃんの足もとに水たまりができた。  うわーん。  康子ちゃんは突然泣き声をあげ、ころげるようにかけだした。その声がだんだんちいさくなっていく。わたしは気をうしなった。  翌日、わたしは紫色に腫《は》れあがった顔で登校した。鏡を見る習慣がなくて幸いだった。  康子ちゃんは、おじけづいたような顔をわたしにむけた。わたしは目をふせた。そのわたしのそばを、彼女はバタバタッとかけ足で去っていった。そうしてほかの友だちと、わたしをおそるおそる遠巻きに見ていた。せっかく仲良しになれた康子ちゃんは、わたしを見捨てたのだ。たったひとりの友だちだったのに。 (しかたない……)  あのような母親のいることがばれてしまい、そのうえ、わたしは友だちの目のまえで、さらし者にあってしまったのだ。  あの母の存在自体が、わたしの恥となる。『恥』というものを、はじめて認識したのはこのときだ。もうぜったいに自分の家に、友だちをよぶのはやめよう。ぜったいに母をひとに見せまい。  母の暴力ぶりがたちまち学校じゅうのうわさになったことを、わたしひとりが知らないでいた。母の怒号とわたしの悲鳴が近所じゅうにひびきわたり、心配した母親たちが学校に報告したことも、もちろん知らないままである。  母はほんのときどき、わたしにおつかいをたのむことがある。  そのときは、歯医者さんにあずけてある保険証をとりにいく用事だった。彼女がタクシーで治療にかよっていたその歯科医院は、歩いて二十分くらいの距離にある。わたしはよろこびいさんでかけだした。用をいいつけられたことがうれしい。母親がわたしを必要としている。その実感がわたしをくすぐったくさせ、足をぽんぽんはずませた。 「おかあさんのなまえは、なんというの」 「中島豊子です」  受付の女性はかがんだり、あるいは背のびしながら、たてにながい棚のなかをしらべだした。  が、みつからない。 「うちにはないわよ。どこかほかのお医者とかんちがいしてるんじゃないかしら」  そういわれれば、わたしにはなすすべがない。わたしは息せききって家にかけもどり、母にその旨を報告した。 「保険証がないだとッ」  いきなり彼女はジリッとせまってきた。恐怖がはしった。すでに眉《まゆ》がつりあがっている。それだけでわたしは震えあがった。 「そんなわけないッ」  彼女は自分の思うとおりにことがはこばないと、瞬間的にあたまに血がのぼり怒声を発する。いらだちを、決して一秒たりともおさえない。そうしてつぎには、わたしのからだにとびかかってくるのだ。だからわたしは彼女のどなり声ひとこえだけで総毛だち、恐れおののいた。 「もう一回いってきなさいッ」  わたしはただただ母が恐ろしくて、歯科医院への道のりをひきかえす。  もしまたおなじ結果だったら、どうしよう。半殺しの目にあうにちがいない。その予感で顔をこわばらせながら、わたしは受付の女性にがんとして告げる。 「ぜったい、ここにあるって」  彼女はもう一度、ノートケースのようにこまかく区切られた棚のなかを、上から下まで、そうして左から右までひとつひとつ、くまなくさがしてくれる。 「中島豊子さん、というのよね」 「そうです。中島豊子です」  父は中島武八、母は中島豊子、子どもは中島照恵と武則。むすめが母親のなまえをまちがえるわけがない。わたしはカウンターに両腕をつき、せいいっぱい爪先《つまさき》だって彼女の指さきを目で追った。まばたきもせずに追う。保険証を手にしなければかえれない。保険証をさしださなければ、まためった打ちにされるのだ。わたしは必死だった。  しばらくして、彼女が残念そうに首をふった。子どもごころにも、これだけさがしてみつからないのなら、ほんとうにないのだろう、と思う。そう思ったとき、わたしの目から涙がどっとふきだした。わたしはせっかんされる家にもどらなければならないのだ。膝《ひざ》ががくがく震えてくる。  わたしは涙をぬぐいぬぐい家路をたどる。一歩あるけばビンタがはられ、もう一歩すすめば蹴りがとび、そしてもう一歩いけば髪の毛をつかまれてひきずりまわされる、せっかんの家にちかづいてゆく。  父といるとき、わたしはこわい目にあったり悲しい思いをしたことがない。ただ父の顔をみあげているだけで、父の手のひらをもてあそんでいるだけで、こころが安寧にみちていた。父が死んだいまとなっては、いやヒキトリにあってからは、あたまのなかにはぎっしり「こわい」という文字だけが埋まっている。  わたしは家の玄関の三和土《たたき》に土下座して、気も狂わんばかりに泣きあやまった。 「ほんとうにないんです。ごめんなさい、ごめんなさい」  母の目にするどい光がはしった。こめかみの血管が切れんばかりにふくれあがっていた。顔の上半分にしみこんでいるケンがぼうっと黒ずみ、左右の口角がぱっくり切りひらかれ、一見笑ったような顔になる。この般若《はんにや》そっくりの顔になると、きまってせっかんがはじまるのだ。わたしは土間につけた尻であとずさりしながら、大声で、ごめんなさい、ごめんなさい、と絶叫していた。 「おまえがあやまったって、しょうがないだろッ。もう一回いけッ。ぜったいにとってこいッ」  わたしはバネじかけの人形のようにとびあがって、身をひるがえす。  医院への道をすでに二往復して、三度目の往路である。夕暮れになっていた。 「ぜったい、あるって」  と涙声でうったえる女の子を、医院ではさぞかしもてあましたことだろう。受付の女性は、もう何度も見たんですけどねェ、とつぶやきながら、再度、棚のなかをのぞきこんだ。  そうして、ない。  ないものはないのだ。  絶望で胸がふくれあがる。たすけて、と悲鳴がとびだしそうだ。  彼女は痛ましそうな目つきで、わたしをしげしげと見た。近所のおばさんたちが、よくこのようなまなざしをわたしにむける。  同情してるわ、でもなにもしてやれないの。  そう語る、他人のやさしい眼。  わたしは泣きじゃくりながら、かえり道をのろのろと歩きはじめた。  無人踏切にさしかかった。わたしはたちどまって、柵に両腕をもたせかける。ずっと遠くにつづいている線路が、おちてゆく夕陽をあびて銀色に光っていた。薄暮れのなかでぽっかりうかんだ線路が、さァ、おいで、とわたしを招いているようだ。  そうだ、この線路をたどっていけば、U学園にかえれる。  わたしは学園が好きだった。親に死なれ、あるいは捨てられた孤児にとって、施設は天国なのだ。なぜって、そこには子どもをじゃまにするおとなが、ひとりもいないもの。ほんとうに、たったひとりもいないもの。  わたしはふらーっと枕木《まくらぎ》のうえを歩きだした。夕暮れが闇《やみ》を吸って、あたりがどんどん暗くなっていく。  どのくらい歩いたのだろうか、わたしは目前にせまっている電車の鳴らす警笛に、われにかえった。 (ここをどかなくてもいいんだ)  ほんの一瞬、ふしぎな覚悟が閃光《せんこう》のようによぎる。「自殺」ということをはじめて意識した瞬間だった。こわいひとから逃げる手段がある! おどりだしたくなるような、うれしい発見だ。せっかんからのがれる方法が、あるのだ。それは八方ふさがりのなかにいたわたしにとって、ひとすじの光明となった。いざとなれば自殺すればいいのだ。  しかし、あかるい希望のようなその光明につつまれても、問題はいぜん解決していない。ああ、盗んででも保険証がほしい。わたしは母の顔を思いうかべて、ふたたび嗚咽《おえつ》した。  玄関の取っ手に手をかけたとき、せっかんされる確信で胸が早鐘をうっていた。指も唇も、からだじゅうがわなわな震えている。  母の姿はなかった。母のいないよろこびが、じんとしみわたる。しかしわたしは免責をえたのではない、今日のせっかんを明日にのばしただけのことなのだ。  昭和三十四年四月十日。わたしは新六年生になった。  皇太子(今上天皇)ご成婚のこの日は、わたしにとって忘れられない日である。  その日、学校は休校だった。  母はめずらしく朝のうちに起きて、せかせかと掃除や洗濯にとりかかった。それがすむやいなや、そそくさと鏡台にむかい、美しく身をととのえると、「テレビを見なくちゃ」とひとりごとをのこして、あっというまに家からでていった。  わたしはとりのこされた。口でねだりはしないわたしの、もの欲しそうな表情。わたしは母親から顔さえ見てもらえない子どもだったのだ。わたしのほうは、オトウサンと武則を圏外において、母の顔だけを注視している生活だったのに。  この皇室の行事で国民はわきにわいていた。  学校ではクラスメートたちが、さかんにこの日のことを話題にしていた。 「おかあさんの親戚《しんせき》のうちに、テレビ見にいくんだ」 「うちは近所のうちに、見にいく約束なの」 「おそば屋さんで見るの」  めったにあることではないこのイベントは、後学のために子どもに見せる、というのがおおかたの親のやりかただった。  だから母が「テレビを見なくちゃ」とそわそわしながらつぶやいたとき、わたしも見につれていってくれるのではないかと、つきあげるような期待がわいた。  ただしくいうと、忘れられない日はその翌日である。  図画の時間。 「きのうのご成婚パレードを見たひと」  ハァーイ、ハァーイという歓声とともに全員が手をあげた、わたしひとりをのぞいて。  教師は全体を見渡して満足そうにうなずいた。手をあげないわたしに気づかなかったのは、わたしがまったくめだたない子だったからだろう。 「それではそのパレードのようすを絵にしましょう」  ワリバシを鉛筆のようにけずって、その先に墨汁をつけて描く手法である。  わたしは友だちが「馬車」といったことばをたよりに描きだした。とはいえ、なんのイメージもわかない。わたしは四角の箱を描き、窓をつけ、下部に車輪を四つ描きこんだ。  生徒がひとりずつ教壇にあがって、自分の描いた絵をかかげる。どの絵も、ゆりかごのようなかたちのオープンな馬車である。わたしの番がきた。わたしは無表情に、箱型の馬車の絵をかかげた。  校庭のイチョウの葉が青々としげり、ふきぬける風がソックスをはかない足をなでてゆく。もうじき学校のプール開きである。施設にいるときは、夏になると海水浴につれていってもらう楽しみがあった。けれど母にひきとられてからは、遊園地のプールも海もどこにもいったことがない。学校と家を往復するだけの毎日である。  母も店と家を往復する日々——母は雇われマダムに昇格し、まえにもまして勤めに励むようになった。日曜も休まないほど、彼女の生活は店中心に変化している。まるで、家にいることがいやになったみたいに、夜の仕事なのに正午ごろには家をでる。お店にいくことが、楽しくてしょうがないとばかりにみえた。  母がわたしの帰宅まえに家をでることは、大歓迎だった。彼女とでっくわすと、いきなりとびかかられて殴られることがあったから。  彼女の衣装はいっそう数をまし、化粧箱のなかには宝石のように美しいガラス瓶の化粧水や金箔《きんぱく》のふたのクリームなどがぎっしり詰まっていた。わたしは母のいないとき、それをこっそり手にとってながめることが、ひそかな楽しみだった。  そんなある日、学校の昼休みの時間にわたしは保健室によばれる。保健の先生はわたしが顔をだすなり、 「栄養失調! ひょろひょろして」  さげすんだ眼をヒタとわたしにむけた。わたしが栄養失調だとなぜ先生が怒るのだろうか、わたしは理解できずにどぎまぎした。 「もう六年生なんだから、今度からおまえが夕食のしたくをしなさい」  母に命ぜられたのは、新六年に進級した始業式のその日である。  学校からかえってくると、わたしはタンスのうえにのっている百円玉をにぎりしめて商店街にいくことが日課になっていた。わたしはこれまで、家庭的なしつけをまったくうけていない。だから煮炊きはできず、いきおい総菜店でもとめたできあいのおかずを食卓にのせることがおおかった。  豚コマが百グラム三十円である。百円のうちの三割をも占めるものは、とうてい買えずに、コロッケやメンチ、天ぷら、豆腐などばかりがおかずになる。育ちざかりの子どもふたりと男親の三人分のおかずと、弁当のおかずふたり分の食費としては、百円は貧弱にすぎた。おかずの材料をいろいろ買ったら九十三円つかってしまい、乾物店で弁当のおかずとして、「デンブを七円ください」と恥ずかしさをおし隠しながら注文したことがある。おばさんがあきれて目をまるくし、そうして七円で何グラムなのか頭をひねっていた。それでも、白い紙袋に、ほんのひとにぎり売ってくれた。 「かわいそうだから……」とだれかに耳打ちした声が背なかに突き刺さる。  そんなみじめな食生活にあまんじていたし、しかも栄養のバランスを考える知恵もない。わたしばかりか、武則もオトウサンも栄養失調だったろう。 「栄養失調だってかまわないわよ、それはあんたのおかあさんの方針なんだから」  先生は、おかあさん、と発音するとき、ことさら声をはりあげて薄笑いをうかべた。  先生にばれていた!  わたしはいきなりまっ赤になった。  母は出勤するとき、わたしの学校の正門のまえでタクシーを拾う。遠目にも母とわかるアイラインにかこまれた目、チェリーのような朱《あか》い口紅、まっ白にぬられた顔。そのうえ、首にきらきら光るネックレスをつけていたり、みるからに高価そうな毛皮のショールをはおっている姿は、校内で評判だったのだ。地味な所帯の多い下町では、かっこうの噂《うわさ》のたねだったらしい。先生のいう「おかあさんの方針」は、子どもを栄養失調にしても母親だけは着飾ることを、さしている。 「だけどおふろぐらい、はいりなさいよ。きたない手で目をこするから結膜炎になるのよ。ほかの子にうつったら迷惑でしょ、PTAで問題になってるのよ」  わたしと武則はふたりとも、まぶたのふちが赤くただれていた。学校の検診で慢性結膜炎と診断されている。  毎日の百円玉いがいに銭湯代をもらったおぼえがないから、子どもたちは何カ月も入浴していない。人間らしいしつけをうけていない子どもには、自分のからだが汚れているという自覚もない。そのうえ鏡を見る習慣もなく、ふたりの子どもの耳の裏には、日いちにちとうすぎたない垢《あか》がたまっていたにちがいない。わたしのうすよごれた姿は、美しくよそおいさっそうと輝いている母の姿と、ひとに白い眼でみられるほど対照的だったろう。  わたしはこの日、学校からかえるとすぐ銭湯にいく。  鏡にうつった自分の姿に、わたしはしばし呆然《ぼうぜん》とした。ショートカットだったはずの髪が、肩にたっぷりかかるほどながくのびていた。銭湯の鏡を最後にみたのは、いったいどれくらい前なのだろう。わたしは一時間かけて、全身を念入りにあらった。今度いつこれるかわからないのだ。  この日の夕食はイカだけしか買えなかった。オトウサンがそれを煮てくれた。明日はふたりとも弁当のいらない日曜で幸いだった。このころからか、オトウサンの帰宅が日ましにおそくなってゆく。母とオトウサンは、まったく会話のない夫婦になっていた。  小学校生活もあとわずかをのこす寒いその日は、お昼すぎまで霜柱がぴんとたっていた。  わたしが学校からかえると、めずらしく母がいた。武則までいる。  まるでひっこしのように、彼女はわきめもふらずに風呂敷《ふろしき》やダンボールに物をつめている。わたしはランドセルを背負ったまま、所在なく母の手つきをみていた。  おもてに車のとまる音がした。  小型のトラックからおりてきた作業着の男は、母の梱包《こんぽう》した荷物をつぎつぎに荷台にのせる。荷台に荷物がぜんぶおさめられたとき、母はいった。 「車に乗りなさい」  母は武則を抱いて助手席に乗りこんだ。  なにが起きたのかさっぱりわからないが、わたしは吹きっさらしの荷台にあがりこむ。車の走っているあいだじゅう、わたしは手のひらに息を吹きかけていた。  私鉄沿線のN町駅のすぐちかくのアパートの一室で、男が待っていた。  わたしはすべてを了解した。  母は十年まえとおなじことを、またやってのけたのである。あたらしい男をつくって、そして、いまの男、中島武八を捨てた。わかれ話さえせずに、夜逃げのようにだまって蒸発したのだ。十年まえにわたしの父を捨てたときとちがう点は、こんどはふたりの子どもをつれてでたことである。  なぜそうしたのか。わたしにはその理由がわからない。武則をつれてゆくのはわかる。彼女は武則を愛していたから。しかしどうしてわたしまでも? せっかん責めにするほどわたしを嫌っているのに。十年まえとおなじように、なぜ捨ててくれないのだろう。そうしたらわたしは天国のような施設にもどれるのに。一日おきのおふろ。髪をあらってくれるおねえちゃんたち。栄養士がつくってくれる食事。清潔な下着。そして、どなり声や暴力の皆無の生活。 「あたらしいおとうさんよ」と母は男を紹介した。  母のあたらしい男、和知三郎《わちさぶろう》は都庁の職員である。母より二十も年上で、背がひくくて小太りだ。だが態度風体には貫禄があり、日銭かせぎの中島のオトウサンよりずっと社会的に立派なひとにみえた。  彼は役所がひけると毎晩、店をやめた母のもとをたずねてくる。そしてわたしたちと一緒に夕食をかこむと、ヒトヤスミしてから自宅にかえっていく。 「ヒトヤスミするか」  食事がおわると、だれにともなく彼はつぶやく。そうするとわたしと武則は外にだされるのだった。 「武則と外にあそびにいきなさい」  なぜだされるのか、わたしはうすうす知っていた。O町にいたとき、夜なかに、「ねエッ」「ねエッ」という、母のかん高い声で目をさましたことがある。自分がよばれているのかと思って、わたしははね起きて電気をつけた。母は横むきになって、オトウサンによびかけていたのだ。一糸まとわぬ裸体だった。黒々とした繁みが目をかすめた。わたしはあわてて電気を消した。  外はすっかり暮れている。初春の夜は寒い。でも見たくないものを見るよりは、寒い外にいるほうがずっといい。わたしは四歳の武則の手をひいて、あかるい商店街を小一時間ほど散歩する。ちょっとかえるのが早かったりすると、母がドアごしにこわい声で、「もう一回、いってきなさいッ」とわめきたてる。だからわたしは散歩しながら、時計を見るためにときどき駅にもどった。  あたらしいオトウサンは数年まえに妻を亡くし、そののち、バーあそびをはじめた。そして母と知りあい、愛しあうようになったらしい。彼は長男夫婦と同居していたので、長男夫婦をだしてから、わたしたち親子を家にいれるつもりだった。それまでのつなぎの期間のアパート暮らしである。わたしは小学校ののこりすくない日々を、電車で通学した。  小学校の卒業式をおえてすぐ、長男夫婦のひっこしさきがみつかり、わたしたち三人は和知家にはいった。あたらしいオトウサンと母とわたしと武則の、はたからみれば、かたい職業の父親を柱とした平凡な生活がはじまる。  わたしに三畳の個室があたえられた。母と距離のはなれた空間が、わたしを天にものぼる心地にさせた。ひとりで寝られることがうれしかった。これで見たくないものを見ることもなくなる。  座敷のガラス戸にうっすら水蒸気がたちこめている。  わたしはたちあがってストーブを消した。 「もうおそいから、階上《うえ》にいこうか」  女所帯は深夜は階上のほうが安心感がある。 「じゃ、わたしの部屋にしよう」  深草は、ジャーを腕にかかえこんだ。 「その三番目の父親の家から、おかあさんは中学にかようのね」 「N区立のN中に入学したときの姓は、またもや柴田なの。柴田照恵なの。どうして母はこんなことばかりするのだろうと思ったわ。O町小学校には柴田として転入して、一カ月後に中島にかえたでしょう。卒業時は中島照恵なのよ。それが中学に新入学したら、また、柴田にもどってしまった。それでも、中島から柴田にかわったことが、学校のだれにもばれないことがうれしかったわ。でもね、そのうれしさはつかのまだったの。またもや、みんなのまえで赤面の憂き目にあう。『柴田照恵さんの苗字《みようじ》が和知さんにかわります』と教師がみんなにいったのは、まだ一学期中よ」 「恥ずかしかった?」 「顔をあげられなかった、涙がでそうでこまったわ。クラスの友だちにたいして、いうにいわれぬ負い目が生まれて……プライドがズタズタに切り裂かれるみたい」 「まわりも気をつかうよね、きっと」 「気をつかってくれる子もいるし、男の子なんかはさっそく、『ワチ』『ワチ』とはやしたてたり」 「母親はなにを考えているの。子どもにすまないと思わないの」 「だって、母親が姓をかえるときは、それは幸せを約束される意味なのよ。自分は幸せなの。子どもにとっては、改姓がちっとも幸せではないことに、彼女は関心をもたないの。いつだって自分への関心だけであたまがいっぱいなのよ。年頃のむすめのこころの内など、歯牙《しが》にもかけやしない。どうしてわたしを和知のうちにつれてきたの、と歯がみする思いだったわ。  いつかの夜、母と和知のオトウサンの会話を偶然きいたことがあるの。 『子どもはひとりだっていうから信用してたら、ふたりつれてくるんだものおどろいたよ』 『わたしは照恵なんかいらないのよ。武則だけをつれてでようと思ってたの。だけどまさか、中島のところに照恵をおいてくるわけにはいかないでしょうよ』  これをきいたとき、心底うれしかった。照恵を置きざりにしたかった、という彼女の本心がうれしかったわ。置きざりにされたほうが、まちがいなく幸せだったもの。母にとって幸福な選択は、むすめにとっても願ってもない選択だったのよ。その選択をつらぬいてくれれば、みんなのまえであんなに恥ずかしい思いをしなくてすんだのにね」 「このあいだ社会科の授業で、夫婦別姓についてやったの。中国は、結婚しても夫婦の姓はべつべつなんだってよ」 「結婚しても、女性の姓はかわらないってことね」 「そうなの。だから子どもの姓も、生まれたときに決められた姓が、一生かわらない」 「日本でもそうなるといいのに。母親が結婚するたびに姓がかわるのじゃ、子どもはやりきれないもの」  そうすると、と深草は指をおって、 「まず、生まれたときが陳で、つぎに柴田になって、そのつぎが中島、そしてまた柴田にもどって、最後に和知。おかあさんは和知照恵として山岡家に嫁いだんだね」 「生まれてから中学に入学するまでのたった十二年間のあいだに、何回も何回も姓の変更を強要されたから、結婚して改姓したときにはうれしかったわ。これでもう一生、かわらなくてすむんだもの」  北海道に住んでいる義父のひとのよい笑顔がよぎる。裕司の父親は裕司が亡くなったあと、おずおずと切りだしたものだ。 「照恵さんは若いんだから、再婚の可能性もある。山岡姓にとどまらなくてもいいんだよ。深草はたしかに山岡家の跡継ぎだった裕司の忘れ形見だけど、あんたの人生をしばりつけるわけにはいかないからなァ。山岡家がとだえても、あんたと深草のふたりの幸せのほうがだいじだ」  ひとり息子をうしなったショックを胸におさえて、わたしたち母娘のことを考えてくれる義父にたいし、「お義父《とう》さんのお気持はありがたいけど、わたしはこのまま一生、山岡家の人間として生きてゆきたいのです」と答えるのが精一杯だった。山岡姓をうしなうおそれよりも、わたしは山岡裕司の位牌《いはい》と、山岡深草を、一生まもりぬく人生をおくりたかったのだ。  わたしはセーラー服をきて、あたらしいオトウサンの家から中学にかよいだした。  N中には都内有数のひろいグラウンドがある。野球が四面できる広さだ。雨のふる日はグラウンドの奥のほうがけぶっている。コンクリートでかためない、ぬかるみになるグラウンドがわたしは好きだった。  入学式の日から数日のあいだ、説明会や掃除だけで学校のはやくおわる日がつづく。  そんな矢先にわたしはいきなり、せっかんにみまわれた。もちろんせっかんはいつだって、母の気分のまにまに予告なしに突然やってくるのだが。  このときオトウサンが家にいたのが幸いだった。脇腹を蹴《け》られてうずくまったわたしの頭にゲンコツの雨がふった瞬間、オトウサンが母をはがいじめにしたのである。 「女の子になんてことするんだ」  オトウサンはすこし興奮して声を荒げていた。そうして、あらためて、つぶやいたのである。  おそろしい……  と。  たすかった、とこころの底から安堵《あんど》の波がおしよせた。いまのせっかんから救われただけでなく、今後のせっかんもオトウサンがとめてくれるだろう。  せっかんがおそろしい、とオトウサンは目で見ただけでわかってくれた。自分の身に殴打をあびなくてもわかってくれた。このオトウサンは、わたしの救いの主だ。わたしはオトウサンがいっぺんで好きになった。  ところが、わたしの熱い期待はうらぎられてしまう。  せっかんを「おそろしい」と一度は身を震わせた和知三郎が、阿鼻叫喚《あびきようかん》の絵図が展開されているすぐそばで、平然と新聞を読めるようになるまで一年とかからなかったのである。彼はけして気のよわい男ではなかったけれど、しだいに二十も若い妻のいいなりになってゆく。老後のめんどうをみてもらうという負い目もあったのだろうが、なにより彼は親戚中の反対をおしきってまで母と一緒になりたかったのだ。そのくらい母を愛していた。  もう過去となった中島もおなじである。自分が愛した女に、病中の夫と幼な児を捨てさせた。それほど母を愛したのだ。  たしかに母は気性は荒いが、おんなの色気に満ちている。  中島を口ぎたなくののしった、その舌の根もかわかないうちに、一転こんどは中島の肩に頭をあずけて笑いさざめく。こたつのなかでは、中島にも和知にも、かならず男の足に自分の足をからませる。「ブラジャーのホックとめて」と男にせがむときの顔など、まるで童女のようにあどけない。年頃のむすめのまえで堂々と甘える女に、社会にあっては実直な公務員である和知でさえも相好《そうごう》をくずす。男からみれば、むしゃぶりつきたいようなかわいい女なのだ。  しかしながら、自分の愛している女がこれほど狂ったように暴力にふける現場をみても、その愛は変質しないものなのだろうか。言語道断の暴行劇をみても、なおおなじ分量で愛しつづけられるのだろうか。それとも、ふたりの男にとってわたしが血をわけた子ではないから、みすごしてしまうのだろうか。  和知にとついで専業主婦になってから、母のせっかんはいよいよ激しさをます。  夕方になってきゅうに雨がふってきたその日、母は家にいなかった。わたしはあわてて庭にとびだし、四本の物干し竿《ざお》にかかっている洗濯物をとりこんだ。サービスにこれつとめれば、母のきげんをそこねまい。わたしは喜々として、竿一本分ずつ洗濯物を腕にかかえて庭をはしりまわった。  母が帰宅した。きげんのよさそうな顔だ。そのまなこが廊下につんである洗濯物を、ちらっと一瞥《いちべつ》した。その瞬間、くるりとこちらに向けた顔が般若《はんにや》顔に一変していた。血の凍るような戦慄《せんりつ》がはしった。重ねつまれた洗濯物の山が、彼女の逆鱗《げきりん》にふれたのだ。  激高した怒声が、ビリリと空気を切りさいた。 「なんでたたまないんだよッ」  動転した。せっかんがはじまってしまう!  いきなりからだが震えだし、胸の鼓動が爆音のように高鳴った。壁にビシャッとたたきつけられた鮮血がまぶたにうかび、視界一面まっ赤にそまる。  何度やられても、せっかんには決してなれることはない。そのつど、まるではじめて経験するような鮮烈な恐怖に震えあがる。おびえるあまり毛細血管の一本一本まで体温をうしない、氷点下で凍りつく。笑顔もこころも、すべてが凍りつく。  ひざまずいて泣きあやまっているのにゆるしてもらえず、わたしは素裸にされた。ただし、彼女がわたしの衣服をはぎとったのではない。わたしがみずからの手で、自分の衣服をぬぎ捨てたのだ。 「ブラウスをぬぎなさい」  したがわなければ、その瞬間にせっかんがはじまる。わたしはそれを、ほんの一秒おくらせたいがためにぬぐ。汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにぬらしながらぬぐ。ヘビににらまれたカエルのように、彼女の意志には毛一筋ほどもさからえない。 「スカートもとりなさい」  どんな命令でもきくイイコでなければならぬ。したがわなければどうなる。 「シュミーズもぬぎなさい」  わたしは媚《こ》びて、ハイッ、と泣き声で返事までして、つぎになにがくるかを承知のうえ、ぬぐ。  命令されてパンツも自分の手でとった。わたし自身の手で。このほかにいったい、どういう方法があるというのか。  胸もおなかも涙でビショビショにぬれる。わたしの泣きわびる声は絶叫そのものだった。腕をのばし足をちぢめて衣服をとりながら、 「ごめんなさい、ゆるしてください」 「ごめんなさい、ゆるしてください」  何回、何十回絶叫してもききいれてもらえない。  |※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》、たすけて、たすけて。こわいよーッ。のんきに死んでないでたすけてよーッ。  わたしは着物のヒモで、廊下の柱にしばりつけられた。羞恥心《しゆうちしん》がしばりつけられた。  わたしは十三歳になっていた。胸がほんのすこし、盃《さかずき》をふせたくらいふくらみはじめている。初潮を経験し、少女の部分にも、ひとすじの柳の葉をおいたような変化もある。それなのに、隠すすべがない。恥ずかしさで、血がにじんだように全身がまっ赤に染まっていく。  死にたい。どうか、殺してください。こんな恥はいや、拷問のようなせっかんもいや。ああ、どうか、どうか、殺してください!  裸をひとに、ことに親に見られる恥ずかしさは、しかし、歯をガチガチ鳴らし、ぶるぶる震える恐怖心にとってかわってゆく。せっかんの恐怖のまえには、羞恥心がケシ粒のように吹きとんでいく。羞恥心に耐えればせっかんからまぬがれるなら、わたしは天下の大道でさえ全裸になってみせよう。  床に尻をつけさせて、胴を柱にくくりつけた素裸のわたしを、彼女は竹のモノサシでめった打ちにした。わたしの腹、胸、肩、腿《もも》、脚、頭、もちろん顔にも、モノサシの一打、一打が赤くふとい模様を描いてゆく。モノサシは皮を打ち肉にめりこみ、ゴンッという衝撃とともに骨ではねかえる。  いつものせっかんも素裸にされたいまも、彼女はこのんで顔をねらう。顔には憎悪がたたきつけやすいのかもしれない。  鼻と口から血がふきだした。そこいらじゅうに血しぶきがとんだ。一面に赤黒いアザがしみついた皮膚のうえに、ぬれた血痕《けつこん》があざやかに光る。わたしが血をながすと、彼女の逆上が上塗りされる。畳や床が血でよごれるからだ。きれい好きな彼女にとって、「ぶっ殺してやる」ほど憎いわたしの血液は、汚物同然けがらわしくてたまらないものなのだった。 「ごめんなさい、ごめんなさい」という絶叫と号泣をバックにして、母の怒号とピシッ、ピシッ、とわたしの肉や骨を打つ音が交錯していた。  ビーン。  ちいさなふしぎな音がした。ふと、殴打の嵐がやんだ。  モノサシが割れたのだ。竹のモノサシは横には割れない、縦にまっぷたつ細長く二本になる。彼女からみると、モノサシが割れたことはわたしのせいである。彼女のあらたな怒りがビシビシつたわってくる。 「割れちゃったじゃないよッ」  天井をビリビリ震わせる怒声と同時に、鉄拳の制裁が襲来した。彼女は狂ったように烈しく両手両足をフルにつかって、殴る、蹴る、をつづけた。  気絶する。しかし次の一撃で覚醒《かくせい》する。そしてまた気をうしなう。覚醒。  このくりかえしで、意識全体がもうろうとしてくる。その意識のなかに、|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》の顔がとびこんでくる。  ※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]ーッ。※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]ーッ。  わたしは胸のなかで、激しくよびさけんだ。  ※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]の顔は、楕円形の鏡のようなもののなかで浮かんでいた。くちもとが白く切りぬかれているが、微笑をふくんだ柔和な顔だ。「死ぬな、死ぬな」と、眼つきだけではげましてくれる。  せっかんの終末は、彼女の気がすんだときではなく、彼女の体力が消耗したときにおとずれる。もう力つきて、一打もふるえなくなったとき。  彼女の顔が汗みずくになり、なお頭のなかから滝のように汗がながれおち、肩が上下に大きくあえぎ、もはやこれ以上暴行をつづけられないほど体力をつかいはたしたとき、せっかんは幕をとじる。時間にして延々三十分から五十分前後である(これはのちに近所のおばさんからきいた。時計を見い見い耳をふさいでいたという)。  せっかんのおわったあと、頭からあらたに血がしたたっていた。右足の親指の爪がなくなっていた。わたしは魂がぬけたように放心していた。人間としてのあらゆる感情をねこそぎうしない、うつろさのなかにぼんやりただよっている。胸の幅いっぱいにぽっかり穴があいていた。なにも埋めえぬほど深い空洞——。  父の顔が、安心したようにぽわり、ぽわり、と遠ざかっていく。鏡がだんだんちいさく、卵になり、ピンポン玉になり、最後に点になって、かすれて消えていく。  また※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]にまもられた。殺されずにすんだ。※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]がまもってくれたのでなければ、殺されなかった理由が説明できない。息の根はとめずにおこうとする、せっかんする側の慈悲心など、わたしは一点たりとも信じない。  わたしのそばで汗みずくになり片膝ついてあえいでいる母は、浜辺にうちあげられた溺死者《できししや》のわたしを、力のかぎりひっぱりあげた美談の救助者と見まがう姿である。  彼女はのちにいったものだ。 「裸のほうが殴《や》りやすいね、着てると殴《や》りにくい」 「やっぱりモノでぶっとばさないと、こっちの手のほうが痛いよ」  せっかんがはじまり、わたしのわめき声がひびきわたると、それにたまりかねて近所のひとが庭の垣根ごしに、声をかけてくれることがある。 「奥さん、やめて、もうゆるしてあげて。わたしが代わりにあやまるから」  半泣きになって懇願してくれる。そんなとき母のことばはいつもおなじだった。 「大きなおせわだよ。うちの子どもだもの、煮てくおうと焼いてくおうと勝手だろッ」  わたしは文字どおり生殺与奪権を彼女ににぎられているのだった。  彼女はうちにくるお客と世間話をするときに、わたしをせっかんすることを、とてもほこらしそうに、「ぶっとばしてやった」という。「やきいれてやった」ということばもきいたことがある。「子どもなんてサァ、親はこわいものだ、と思わせなきゃなめられるわよ」と、たのしそうに笑う。なんの脈絡もなくいきなり「正月には初叩きしてやらなきゃ」といったこともある。そのひとことだけで、わたしは血の気がひき、ブルブル震えはじめるのだ。  わからない。わからない。わからない。わからない。  なぜわたしがこんなにせっかんされるのか、わからない。なにもわからない。  素裸のせっかんから寝ついて床あげしたのは六日後である。ちょうどからだ各所の傷がふさがったころだ。こぶでデコボコになった頭部も、どうやらおちついてきた。ながいあいだ学校を休んでしまったから、わたしは勉強がおくれることにあせっていた。  それなのに、六日ぶりの登校というその朝、机からカバンを取りあげたわたしの目前に、彼女がヌウッと立ちはだかったのだ。  まだ殴《や》りたりなかったの! 深い絶望感におそわれて、わたしは膝《ひざ》からくずれおちた。苦い胃液が噴出して、床のうえにきたなくとびちった。彼女はきっかけをつかんだ。はじまった。  少女からおとなになる端境期《はざかいき》にあるわたしは、紫色にはれあがった顔を学校でみられることがたまらなくいやになっていた。わたしはせっかんされているあいだじゅう、「ごめんなさい、ごめんなさい」とわめきながら、「顔をぶたないで、顔をぶたないで」と泣きさけんでいた。そうして両手で顔をかばってころがりまわった。  せっかんがおわった。  せっかくふさがった頭部の傷も二の腕の傷も、また口をあけていた。鼻血がだらだら流れていた。  母のゼイゼイという声が、室内をみたしている。彼女は、やりたいことをやる。わたしを半殺しにすることも、やりたくてやる。そのためには、肩で息するまでの捨て身の根性をふりしぼるのだ。  母のスカートのうしろに、わたしの血の飛沫《ひまつ》がとんでいた。これを母は、あとでかならず気づくはずだ。そうしたら、くやしまぎれに、またせっかんするにちがいない。恐怖に心臓をわしづかみにされた。 (自殺しよう)  それを決意すると、ふうっと気が楽になる。死ねばせっかんされない。死ねば幸せになれる。ふつふつとうれしさがわいてくる。死ぬことが、こんなにうれしいなんて。  そうだ、どうせ死ぬのだから、勇気をふるってたずねてみよう。ずっと、ずっと、気にかかっていた、あのことを。  からだが、殴られすぎて起きあがれなかった。わたしはうつ伏せのまま、畳をみつめながらかすれ声を発した。 「なんで、わたしを施設からひきとったのですか」  間髪《かんはつ》いれず、どなり声がかえってきた。 「しょうがないだろッ。孤児院かなんかにいれられちゃってヨ、みっともなくてしょうがないだろッ、世間体がわるくて」  しょうがないからひきとった……。世間体を気にして……。  わたしは首をすこし左右にふりながら、懇願するようにいった。 「わたしがかわいくて、ひきとったんでしょう」  そうよね。ぜったいそうよね。自分の生んだ子だもん、わたしのこと、かわいいわよね。かわいい、といってください、かわいい、と。  その願いは、愛を乞《こ》うよりもっとみじめな、強奪してさえ愛をほしがる強盗|者《もの》に身をやつしての願いだった。愛に餓《う》えて餓えぬいた末の、最後の希望の灯だった。 「そんなことないッ。かわいいなんて、思ったことないッ。一度もない。わたし、きらいだもの、おまえ」  母は大きく首をふり、けがらわしそうに顔をしかめてビシリとはねつけた。わたしはこころの底から了解した。  わたしはこれ以降おとなになっても、この場面を思いだすと、きまってみじめさがつきあげ涙をあふれさせてしまう。わたしは愛乞食だったのだ。愛をめぐんでほしかったのだ。これほどめった打ちにされ、半殺しの目にあっているのに、その張本人から、「おまえがかわいい」という返事をひきだしたかったのである。その期待のもとに問うた質問であることを、なによりわたし自身が承知していた。「おまえがかわいいからひきとったのよ」という期待どおりの答えがかえってきたら、わたしはたったいま暴行をうけて半殺しの目にあったことを、瞬時に忘れただろう。わたしは、自分を虐待する者にさえ愛されたがっていたのだ。  つぎの問いを発したとき、わたしはこの問いに、このさき三十年ちかく苦しむことになろうとは想像だにしなかった。 「なぜ、わたしを生んだのですか」  かわいかったからよ、という返事を、なおかつわたしは強盗者に堕《お》ちて欲していた。そうして、たったいま、わたしは、自分がなぜここまで生母から虐待されるのか、その理由を完璧《かんぺき》に理解したのである。 「強姦されたんだよッ。おまえは強姦されてできたんだ、しょうがなく生んだんだよッ」  奇妙なうれしさがわいた。さわやかな気分につつまれてくることを、とまどいながら自覚した。わたしはすこし微笑《ほほえ》んだかもしれない。それは、理由がわからぬままにせっかんされるよりは、せっかんされる理由がわかるほうがよい、というよろこびだった。わたしはずっとながいあいだ、なぜせっかんされるのか、という疑問に苦しめられていた。いま、その疑問が氷解した。彼女は強姦して子を生ませた父を憎み、そして、生まれた子を憎んでいる。  胸がちぎれるほど悲しいことに、わたしはもらいっ子ではなく、まぎれもなく彼女が腹をいためた実の子だった……。  彼女は無抵抗のわたしに虐待のかぎりをつくすことによって、強姦されたことと、その子を生まされたことへの、復讐《ふくしゆう》をはたしていたのだ。わたしには、せっかんされる理由がある。せっかんされるのは、運命、だったのだ。  わたしは強姦という衝撃的なことばを、胸の底にかかえこむ。  この夜、わたしは自殺しようと体温計をもちだした。体温計を割って水銀を飲もうという計画である。ところが、おっかなびっくり割った体温計から、水銀が粒となってコロコロ四方にころがってしまった。あわててその粒を指でおさえると、それはふたつに分裂してしまう。全部を集めることは、とうてい不可能だった。仮に集めたとしても、こんなに微量では死ねないと、中学生のわたしにも想像できた。  彼女はにこにこしているその顔で、いきなりふきげんに怒りだす。気分がガラッとかわるのだ。きげんよくても、すぐ雲ゆきがあやしくなる。その豹変《ひようへん》ぶりにはめんくらう。だからわたしは、その一言半句をいつもおよび腰できいていた。母の表情の変化を一毫《いちごう》のがさずキャッチせねばならない。彼女の笑顔につられて、こちらもついはしゃごうものなら、完全に足もとをすくわれる。とにかくいつ気まぐれを起こして飛びかかってくるかしれないのだから。せっかんの種は、そちこちにワナをしかけている。わたしは年がら年じゅう、彼女の一挙手一投足に目をくばり、かたときも心をやすめず、神経をピーンとはりつめ、身がまえていた。彼女は、ささいなきっかけを、たちどころに血みどろのせっかん沙汰《ざた》にエスカレートさせる達人だから。  彼女の気まぐれは、活火山のように続発する。だからわたしは、間断のない緊張感をしいられていた。  彼女はサソリのように刃をふりたてて、じわりとわたしにせまってくる。わたしという存在は、彼女のいらだった気をしずめる、かっこうな玩具《がんぐ》だった。あれだけ思う存分、殴り、蹴れば、ビンタをはれば、さぞかし気が晴れるにちがいない。 「なぜ逃げないの。逃げればいいのに」  といったひとがいる。そのひとにわたしは質問をかえしたい。 「どこに逃げるのですか」  と。自立できない子どものわたしに、逃げてゆく避難場所があるのですか、と。  どこに逃げても、もどるところは、絶望的に母のもとしかない。このひろい地球上に、どこにもない、安全で気がねのない避難場所は。わたしは暴力と恐怖で、がんじがらめにしばりつけられていたのだ。  せっかんの恐怖は、えたいの知れぬ恐怖ではない。実体験したうえでの恐怖である。肉をえぐる力がからだにあたえられ、その力は骨にぶつかると骨のほうがきしんでしまう強烈な力である。そして、つぎはなにがくるのかと恐れおののく。つぎにくることは、いつもとおなじことなのだ。それを知っていてもなお、頬《ほお》をはられたつぎに蹴りがくることがおそろしい。  それに輪をかけて罵詈雑言《ばりぞうごん》のかずかずが、わたしの身に雨あられとなってふりかかる。「このやろう」「うすばかがッ」「ぶっ殺してやる」「あたま割ってやる」「骨、たたき折ってやる」「でていけ」「死んじまえ」「足腰立たなくしてやる」。これに、いまや堂々と、「強姦っ子」がくわわる。彼女のひとこと、ひとことが、わたしのこころにひっかき傷をつくっていく。  母の憎々しげな視線がくいこんだと同時に、恐怖の衝撃に打ちのめされる。わたしのあたまのてっぺんからつま先まで一瞬にして凍りつく。おろおろたちすくんでブルブル震える。あるいは噴きだす涙をみせることによって、娼婦《しようふ》のように媚《こ》びた。しかし、涙で媚びることは、よりいっそう彼女の逆上に火をつけることになってしまう。  あるときは、一、二発ぶん殴られたくらいでは泣かなかった。めった打ちまで進展させないよう、わたしはわざと、「あ、イタ」と芸人のようにひたいをたたいた。笑ってもらうために、全身全霊をかたむけて媚びるのだ。気がとおくなるくらい土下座をくりかえすのはあたりまえだった。だれにもまけない大声で、「ごめんなさい」と連発して必死にあやまることも。彼女にとりいるためなら、なんでもできる。「おかあさん」「おかあさん」と愛情こめてまとわりつくことさえできる。そしてわたしは、いつも祈っていた、彼女の気がかわることを。  彼女の体力の限界がきてせっかんがおわっても、放免されないこともあった。最後の血の一滴まで底知れぬ絶望感にみたされているわたしにむかって、彼女はこう命令する。 「笑いなさい」  わたしは、ぬかるみにはまったボールのようにきたなく血だらけの顔を、ゆがめようとする。 「笑いなさいッ」  鬼がどなる。  わたしは渾身《こんしん》のちからをふりしぼって、鬼に笑いかける。  わたしはグレている少年少女がうらやましかった。グレることによって、ちゃんといやな家庭や学校から逃げているからだ。グレることもできないほど、母親がおそろしいなんて、だあれも信じやしない。初恋に出会ったり、将来の夢に胸をときめかせるべき思春期という季節をせっかんされつづけ、傷のたえないからだで、それを世間や学校に隠し隠し、生きるほかないのだ、強姦されて生まれた子は。  中学と高校の六年間、わたしはほとんど毎晩、ふとんのなかで泣いた。まるで日課のように泣いていた。地獄のなかで生きるしかないひとりぼっちの女の子にとって、泣くことだけが自分をなぐさめる方法だった。  わたしは手のなかにすっぽりはいるちいさなコケシをもっている。カスリの着物をきた、男の子のコケシである。にぎりしめるわたしの手アカにまみれて、どろどろによごれている。でもあらおうとはしない。あらったら、かわいらしい目鼻がきえてしまいそうだから。  もともとは男の子と女の子の対《つい》だった。男の子は紺、女の子は赤のおそろいのカスリ模様の着物姿である。  父の形見である。父の形見はこれしかない。施設におくられたとき、わたしの荷物のなかに父がしまいいれてくれたのだ。「このコケシを両親だと思ってがんばりなさい」という、親ごころのあらわれだろうか。  わたしはこのN町にきてから、母にせっかんされるたびに、深夜自室にこもって女の子のほうのコケシを、学校の教材の彫刻刀でなぶるようになった。この習慣は、高校を卒業するまで六年間つづく。あいらしい瞳《ひとみ》をめがけ、脳天をめがけ、心臓をめがけて、三角になっている彫刻刀の刃先をあてる。ほんとうは、全身くまなく裏側にぬけるまで、グサリと突き刺してやりたい。木肌をえぐりとってやりたい。ところがこのコケシは、おそろしく堅い木でできていた。木肌のなかに刃先が一ミリもはいってゆかない。  それでわたしはコケシの表面を、猫《ねこ》が鼠《ねずみ》をいたぶるように、刃先でねめまわしてやる。かすかに、コリ、という音がする。ゴリゴリ、と小気味のよい音をひびかせて、カツオブシのように削ってみたい、一度は。  この女の子のコケシは、高校を卒業する直前に、夜がしらじらとあけるまでいたぶった末、通学途中のゴミ箱にほっぽり捨てた。  このセレモニーにあきると、わたしは日記帳をとりだす。  ——こわいおかあさんはいらない。やさしいおかあさんがほしい——  どの日も最初の一行は、こう書く習慣になっている。こう書きつづけることによって、何万遍も書くことによって、いつか願いがかないそうな夢をみる。  わたしは自分に「恋愛」のおとずれる日を夢想した。わたしにとって世界一だいじなひとがあらわれて、恋愛から結婚へとすすんだら、母のこころが理解できるかもしれない。好きで好きでたまらない男性が出現したら子どもなどじゃま者にすぎない心情を、しんそこ理解したかった。  またわたしは、結婚して子どもを生む日を待ちわびた。蹴りたくなり、殴りたくなるほど、子どもが理不尽な存在であることを、この身で体験したかった。  このふたつを、身をもって知りたい。もしわたしがこれを体得すれば、母の心情に共感できるにちがいない。いや、じつはもっと不遜《ふそん》なことを考えていた。わたしは母を理解し、納得し、そうして、彼女をゆるそう、と祈るように切望していたのだ。  あの夜——  海の底のような闇《やみ》のなかで、わたしはこっそりふとんからぬけだした。そしてだれにもみつからないよう足音をころして、台所にしのびこんだ。泣きすぎたので、まぶたが腫《は》れあがって視界がせまい。  わたしは手さぐりで流し台までいき、そしてまた手さぐりで包丁をさがしあてた。わたしは出刃包丁を手にとった。刃が手のひらのうえでひいやり冷たかった。  母を刺すか、自分の手首を切るか。あるいは両者とも、その肉に刃先を突きたてるか。  ふたつの想念が、ミラーボールのようにめまぐるしく点滅した。刃先をぼんやりみつめながら、ずいぶんながいあいだ、暗闇のなかでたたずんでいた気がする。わたしはどうして、どちらかをやらなかったのだろうか。自殺しても、殺人者としてつながれても、完璧《かんぺき》にせっかんから解放されるのに。  高校生になった。  わたしは母から愛されていないことに、コンプレックスを感じるようになっていた。そしてまた、自分自身も母を愛していないことを認識していた。わたしは、母も武則も、だれも愛していなかった。わたしはひとを愛することを知らない子どもとして成長してしまったのだ。いま、じっさいに生きている現実の生活のなかで、母親に愛されたことのない子どもが、どうして他者を愛することができよう。愛することも愛されることも知らない自分を、情緒のバランスをたもてない偏頗《へんぱ》な人間として、わたしは自分を責めた。  わたしはなににたいしても無気力でなげやりに生きていた。そんなわたしを、「一年じゅう生理みたいな顔してるわね」と、友だちは評したものだ。  自殺へのあこがれは、日に日につのってゆく。  鴨居《かもい》にヒモをかけて首をつる。電車にとびこむ。高いところからとびおりる。自殺の方法は、際限なくあるように思われた。でもわたしは現実には、母の着物のヒモ一本盗むことができず、そして急接近する電車にあわててとびのき、ビルの屋上から地上に目をむけるだけで、膝がしらが震えた。わたしはいくじなしの、弱虫だった。 (睡眠薬がほしい)  痛切にほしい。睡眠薬なら弱虫のわたしにも、楽に死ねそうな気がした。わたしはいさんで薬局にいく。が、「子どもには売らない」と剣もほろろにことわられる。  自殺することはわたしにとって、見果てぬ美しい夢と化していた。  いつかは。  きっといつかは。 [#改ページ]   6、あたらしい朝  スクリーンに雲ひとつない秋の青空がひろがり、その空のなかに男の黒人選手の顔がいっぱいにあらわれた。鼻からうえのアップである。ひたいをびっしり埋めつくしている汗の粒が、中近東の女たちが飾るカフタンのようだ。バックのブルーと黒い肌があざやかなコントラストを主張し、透明にきらめく水の粒がそれにくわわってアンサンブルの妙をかなでている。その美しさにわたしたちは息をのんだ。  わたしたち生徒全員は、市川|崑《こん》監督の手による記録映画『東京オリンピック』を課外授業として観ていた。オリンピックは前年の昭和三十九年の秋に開催された。  この映画のあと、わたしたち高校三年生には就職活動が待っている。  オトウサンは、女の子の大学進学には無理解だった。 「女が大学にいってどうするんだ。女というものは、高校をでてから二、三年勤めて結婚するものだ」  わたしは彼が、わたしが養女だから進学をはばんでいるのではないことを知っている。  事実、実のむすめにも、父親の望むとおりの人生をあゆませていた。典型的な明治の男なのだ。 「就職は学校できめてくれるのか」 「たぶんそうだと思います」  オトウサンはかるくうなずいたあと、 「もしきまらなかったら、おとうさんにいいなさい」  学校できまらなかったら、自分がなんとかする、と請けあってくれた。このようなときは、若い妻に腑抜《ふぬ》けになっているこの老人が、たまらなくたのもしくみえる。彼の役所での地位からすれば、就職先のひとつやふたつは簡単にみつかるにちがいない。とはいえ、わたしは就職がきまらないなどとは露おもわない。東京オリンピックがはなやかに幕をとじて、日本は高度経済成長のただなかにある。内定を十社ももらって、どこをえらぼうか就職者のほうが悩んでいる、という話が周囲にいくらでもころがっていた。  就職活動がはじまったばかりのとき、わたしは夢のような発見をする。求人各社の就職条件を読んでいるとき、  ——初任給——  世にもすてきなことばが目にとびこんできたのだ。  はたらけばお金がもらえる、という。わたしは一瞬ぽかんとした。  なんというすばらしいことが起きるのだろう。わたしは目をこすって、もう一度、『初任給』という文字を確認した。  なぜ十八歳になるこんにちまで、こんな単純なことに気がつかなかったのか。自分のおろかさに、まったくあいた口がふさがらない。知能や感受性が、成長過程のどこかで発達を止めているのだろうか。いつもわたしが周囲の友だちから「年齢のわりに幼稚だ」と笑われているのも、むりはない。  はたらけばお金がもらえる→お金がもらえるなら、ひとりで生活できる→ひとりで生活できるなら、家をでられる→家をでられるなら、母のもとを去れる→母のもとを去れるなら、せっかんされることはない。  たちまちのうちにわたしのあたまには、このような構図が描かれる。  ぞくぞくした。目のまえが、ぱァーッとあかるくなった。このわたしも、ひとなみに幸せになれるのだ!  幸せ——それは、膝《ひざ》にだかれて父のにおいにつつまれたとき。結核患者特有のすえたにおい。父のあのにおいは、いつもわたしを安心させた。悲しみや、せつなさや、寂しさとは、きっぱり無縁の、おだやかな微笑だけがたゆとう世界。  わたしは快活に笑うだろう。わたしは小鳥のようにおしゃべりするだろう。わたしは精一杯、四肢をのばして大の字に寝ころぶだろう。そして、いきいき活発にうごきまわるだろう。  もう痛い思いをしなくていいんだ。こわくてからだがカタカタ震えることもないんだ。血をながすこともなくなる。涙のしみのついた枕《まくら》とは、さよならだ!  太陽がわたしのためにだけ輝き、花がわたしのためにだけひらく。バースデイとクリスマスとお正月が、いっぺんにきた。生きる勇気が底のほうから轟音《ごうおん》をたててたちあがった。わたしは順風にむかって帆をいっぱいにあげ、就職戦線にダッシュした。  就職希望者にとって、当時の花形は金融関係である。  夜おそくまでかかって書いた履歴書は、幸せへのパスポートだった。  ところが、熱い願いは一方的にからまわりしただけで、わたしは試験をうけた会社から、かたっぱしから肩すかしをくう。  国民金融公庫。  農林中央金庫。  それと生命保険会社が二社。  なぜこの四社をうけたかというと、残業がない、ときかされていたからだ。  わたしは夜間の大学にすすむつもりでいた。『はたらけばお金がもらえる』ことを知ったばかりの女の子が、ほんのいっときのあいだに、『残業のない会社なら夜学にいける』ことに気づくほど成長したのである。それなのに……全滅した。 「ほう。おとうさんは、せっかく男の子が生まれたのに、その二年後に亡くなられたんですねえ」  封印のついたまま提出された戸籍謄本をめくりながら、面接のえらいひとはいった。わたしはその謄本をみていない。 「ちがいます。おとうとは死んだ父の子ではありません。二度目の父の子です」  わたしはおそるおそる訂正した。 「エエッ」  おじさんは奇異にみえる大仰な声をあげる。わたしはわかってもらおうと、必死になって説明した。 「わたしは一番目の父の子で、おとうとは二番目の父の子なのです。三番目の父の子はいません。あ、います。亡くなった奥さんの子です、三人」 「エエッ」  そのおじさんはまたもや悲鳴のような声をはなつと、眉間《みけん》にシワをきざんだけわしい表情になって、あわただしく謄本をめくりなおした。  顔をあげたおじさんの表情には、えもいわれぬ不信がにじんでいた。まるで謄本に嘘が記載されているような印象が、わたしの胸にきざまれた。  こんなぐあいの面接など、合格するわけがない。  他社の面接も大同小異だった。途中で、泣きだしてしまった局面もある。わたしにはわかりようもない戸籍上の複雑なことを、あまりにも問いつめられ答えよどんで。  どうして親のことばかり問われるのかふしぎだった。わたしが応募しているのだから、わたし自身のことをたずねてくれればいいのに。  女子の就職はどのみち、結婚までのこしかけである。どうせこしかけなら、家庭に問題のないお嬢さんがのぞましい。会社がもとめるのは、育ちがよくてあかるくて職場の花たりうる女子なのだ。こんな企業の論理は、もとよりわたしにはわかりようもない。  履歴書が四通もどってきたとき、母はあざけ嗤《わら》った。 「実力もないくせに、いいところばかりうけるからよ。実力もないくせに」  実力もないくせに、という言い方が、ずしりと胸にこたえた。  学校の試験ならおちても、自分に学力がなかったと認めることができる。しかし就職試験におちると、自分の全人格が否定されたような気がした。それだけでわたしは、(やっぱりわたしはだめな子なんだ)とはなはだしく落胆する。  そのうえに、さらに追い討ちをかけるように「実力もないくせに」と冷笑されたことは、わたしをいっそう打ちのめした。 (わたしの戸籍をよごしたのはだれなの)と、口にだして反撃してみたかった。しかしただのひとことさえ口答えできないわたしが、母と対等にわたりあうなどとんでもない夢物語である。  クラスメートたちがぞくぞくと内定通知を手にしていた。夏休みまえに、クラスの八割の内定がきまる。教室でときおりわきあがる、オメデトウ、という歓声の輪のなかにくわわりながら、わたしは内心ひどくあせっていた。  秋がふかまり、内定のない生徒がクラスで二、三人だけ、という状況になった。わたしは青い顔をして求人リストを繰っていた。そんなある日、わたしは担任によばれた。 「提出書類のなかに戸籍謄本のいらない会社があります。ちいさな会社ですが、うけてみますか」  わたしは文句なしにとびついた。天のめぐみだと思った。  T建設は社員八十人くらいの、わたしがねらっていた一流会社からみれば、吹けばとぶような中小企業である。残業もあるだろう。でもすでに自分をとりまく状況の厳しさを認識しているわたしには、そんなことはなんの問題にもならなかった。夜間大学にいけなくてもいい。謄本で選別するより、受験者のわたし自身をみてくれる会社と出会いたい。  戸籍謄本さえなければこっちのものだ。わたしは喜々として五枚目の履歴書を書いた。  捨てる神あれば、拾う神あり。T建設は、どの会社もうけいれてくれなかったこのわたしを拾いあげてくれた。わたしのパスポートは、幸せの国からスタンプを押してもらえたのだ。  母と離れられる幸せに、ほんの一歩だけちかづいた。  T建設。わたしは入社したら一生懸命はたらこう。わたしを採用してよかった、と思ってもらえるようにがんばろう。  そうしてお金をためよう。一日もはやくアパートをかりよう。幸せになろう。  わたしは一日千秋の思いで、卒業を待ちわびた。  三月三日に卒業式をおえて、旅行やコンパで最後の自由を楽しんでいる友だちをしりめに、わたしは早々と三月五日に初出社する。  一日も早くはたらいて、一日分でも多く給料を手にしたい。そして一円でも多くお金をためて、一刻もはやく家をでるのだ。  就職のお祝いに親からそろえてもらうスーツやハイヒールやハンドバッグのフレッシュマンのファッションにまじって、そういうものに縁のないわたしは高校の制服で通勤する。化粧もせず、美容院にもいかず、セーラー服に白ソックスのまま、わたしのOG(現在のOL)生活がはじまった。  仕事は、予想外におもしろかった。学校の勉強より、工夫する楽しさがあるだけおもしろい。なれないながら夢中になれた。わたしは一生懸命はたらいた。そのせいか、わたしは周囲の先輩や上司からかわいがられ、よけいに会社が好きになっていく。  世間のおとなはやさしい。身をもってこれを感じた。わたしは母の干渉のないあたらしい世界をえたのだ。そのうえ、遠い夢物語でなく、すぐそこに確実に実現化する未来のひとり暮らしが、まばゆく輝いている。ああ、めくるめく想い。母から離れられる、こんな幸せがめぐってくるなんて。  毎日が楽しい。生きていくことが楽しい。八年間、すっかり忘れさっていた生きる楽しさを、わたしはふたたび取りもどしたのだ。日に日にあかるくなってゆく自分がいた。  桜前線が東上をはじめていた。樹木の黄緑色の芽吹きは、あかちゃんの誕生だ。わたしももうすぐ新生する。  道ゆく人々が、いっせいにコートをぬぎはじめた。いくらなんでも、もうそろそろ制服から私服にかえなければならない時期である。わたしは高校時代の親友の美枝子から、お古の私服をもらう約束になっていた。背が百五十センチしかないわたしのために、彼女がいま、スカートの裾《すそ》をあげてくれている。  その朝もわたしは制服に着がえてから食卓についた。オトウサンは新聞を読んでいた。武則はパジャマのまま足をなげだして、先にたべていた。 「毎朝七時半に家をでるのに、なんでかえってくるのが六時半なのよ。なんで毎日あそんでくるんだよッ」  いきなり母の口から詰問がとびだした。ずきんと心臓に針がささる。緊張して胸がどきどきした。入社してから丸一カ月、幸運にもせっかんの憂き目にあっていない。そろそろ彼女の血がさわぎだすころかもしれない。  会社は八時半にはじまるから、七時半に家をでればぎりぎりまにあった。そこで彼女の論法は、会社は五時におわるのだから六時には家に着いているべき、というものに展開する。  会社は新宿駅から歩いて十五分ほどの距離にある。朝の通勤はわきめもふらずに急ぎ足で歩き、最初に乗る電車も乗りかえるつぎの電車も一分きざみのスケジュールでうごくから、なるほど通勤時間は一時間である。  しかし帰りは、だれが時計を見い見い歩くだろうか。五時になってから仕事をかたづけはじめ、湯飲み茶碗《ぢやわん》や灰皿をあらってのちに帰宅準備をするのだ。会社をでるのが五時二十分くらいになるのがふつうである。それからまっすぐ帰宅しても六時半前後にはなる。  わたしはこれを、慎重に説明した。しかしどんなに意をつくしても、彼女にはわかってもらえない。朝夕の通勤時間の差、三十分を「あそんでいる」と、強硬にいいはるのだ。彼女は、ビシリと厳命した。 「朝、一時間でいけるんだから、かえりも一時間でかえってきなさい!」  わたしはため息をおしころして、したがうしかない。  もうおとななのだ。せっかんされるのはいやだった。手と足と首と顔——衣服からでている皮膚に赤黒いアザをつけて外にでるのは、もういやだ。アザや傷だらけの姿で会社に出勤するなんて、とんでもない。もう罵声《ばせい》をあびるのもたくさんだ。頬で炸裂《さくれつ》するビンタの音もききたくない。ギィ、と不気味に骨のしなる音に、もうもう二度とおびえたくない。  ならば、それならば、この厳命にしたがうしかないのである。  わたしは夕方の五時になると、周囲がふしぎがるほど、いやほんとは不興をかっていたにちがいない、わきめもふらずに家にむかって突進した。道をはしり、階段もかけあがり、息をきらせながら——まるでポールをまわってもどってくる徒競走のように。  もうすこしのしんぼう、もうすこしのしんぼう、と自分にいいきかせることは、家をでると決意してからの習慣である。もうすこししんぼうすれば、幸せが両手をひろげてわたしを待ちうけている。それだけがたよりだった。  四月五日、待ちに待ったはじめての給料日である。  わたしの給料は支給額が12000円で、手取りは10800円である。このとき、昭和四十一年の高卒女子の初任給は平均して9000円代から10000円だったから、期せずしてわたしは破格の高給取りだったのだ。  わたしが心づもりしていたアパートの家賃は、三畳間で4200円。会社に一時間以内でかよえる私鉄沿線にある。敷金と礼金がそれぞれ一カ月分の時代だったから、その他の生活用品を計算にいれても、独立に要する費用は20000円もあれば充分である。これを貯金の目標額にしよう!  わたしは昼食代を月額2000円(一回80円——タンメンやおかめうどんがたべられる)におさえて、800円だけを小遣いにつかい、のこりを全額、貯金するつもりだった。服も靴も口紅もいらない。このままセーラー服で通勤してもかまわない。ほしいのは母のいないねぐらだけだ。 (8000円も貯金できる)  うれしくて胸がはちきれそうになる。この計算でいくと、二カ月で16000円、三カ月で24000円、六月五日の給料をもらったら、家をでられるではないか!  |※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》。もうじき幸せになるからね。見守っていてね。  もうオドオドしないで生きるよ。ちゃんとはたらいて生活するよ。わたし、もう泣かない。ニコニコ笑いながら生きていくよ、※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]のように。誓います!  その待望の初任給の支給された日、わたしの顔をみるのを待ちかねたように母はぬっと手をさしだしてきた。 「はい、給料」  びっくりしたなんてものじゃない。給料袋を彼女にわたすなんて、想像だにしたことがない。目玉むきだして愕然《がくぜん》とたちつくしているわたしにむかって、彼女は荒々しく大声をはりあげた。 「おとうさんだって給料袋をよこすんだ。あたりまえじゃないかッ」  即座にしたがわなければ、またはじまってしまう。わたしは気がぬけたまま、指だけがうごいて給料袋をさしだしていた。目のまえで手をヒラヒラふられても正気づかなかったにちがいない。  彼女は袋のなかをのぞくと、5000円をぬきとった。そしてのこりをわたしに返してくれた。 「おまえの食いぶちは月5000円にしとく。はたらくようになったらあたりまえだッ」  十枚のお札が五枚になった。夢がうちくだかれた。  わたしは夢遊病者のように、母の手で封をきられた給料袋をつかんでふらふらと自分の部屋にはいった。  またもや、わたしの幼稚さが露呈したのだろうか。はたらきだしたら、5000円も食費を家にいれるものなのか。友人たちにきいてみると、 「服やバッグをそろえなければならないから、最初の一年間だけは免除してくれるって」 「手取りの一割という約束なの」 「結婚資金は自分でためるという条件で、食費なし」  全体的に、はたらくようになったら食費を家にいれるのはあたりまえのようである。でも、そのような申しわたしが母から事前になかったせいもあって、幼稚なわたしは思いもつかなかった。それにしても手取りの半分は多額すぎないだろうか。  わたしは、しんぼう、しんぼう、とわが身にいいきかせる。そうして気をとりなおして、五枚の千円札と八個の百円玉をサイフにしまいいれた。  こんなふうになってしまったけれど、のこったお札は五枚ともぜんぶ貯金しよう。小遣いは一円もいらない。わたしはあらたに決心したのである。そうすればいまからかぞえて三カ月目の七月五日の給料日で、貯金額が20000円になる。ドンマイ、ドンマイ。計画が一カ月のびるだけだ。わたしは涙をふきふき、自分で自分をはげました。  会社のちかくの食料品店で、二枚の食パンにコロッケをはさんだものを売っている。ミミのついた食パンにマーガリンもぬらずに、ソースのしみたコロッケをはさんだものだ。25円である。わたしは毎日これを昼食にした。わたしの自由になるお金は、月額800円だけなのだ。  さて、首をながくして待ちわびた七月の到来である。暑く照りつける太陽も、そよぐ風も、わたしの幸せの象徴だった。この季節がくることを、母の顔色をうかがいながら、薄氷を踏む思いで待ちつづけたのだ。  わたしは五日後の給料日を、ゆびおりかぞえて待った。  あと四日——あと三日——。  きらめく幸せが、ヒタヒタとしのびやかな足音をたてながら、わたしにちかづいている。その音を、わたしはこの耳でたしかにききとった。  わたしのサイフにはお札が15000円、だいじにしまわれていた。銀行にあずけなかったのは、わたしの作戦である。いつでも、たったいまでも、家をでられるように、肌身はなさずもっている必要があるのだ。家をでるということを、わたしはいまだに母にいいだせないでいた。母はわたしがそむくことに激怒するだろう。そしてせっかんがはじまる……わかりきった展開になるにきまっているのだ。勤務先がばれていなければ、蒸発してしまう手もあるのだが。  六時の門限は、この四カ月でなしくずしに六時半になっている。毎夕毎夕、玄関をあけるのがおっかなびっくりだったが、どうしても六時ぴったりには帰宅できなかった。かえりがけに電話も鳴るし、残業する男性社員のお茶の所望もある。他の課からの申し送りもあれば、わたし自身が仕事に熱中していて五時になったことに気がつかないこともあった。かえり道に、デパートのショーウインドウのしゃれた婦人服に、思わずくぎづけになることもある。たかだか一分間みとれることが、そんなに、半殺しにされるほどわるいことなのだろうか。  給料日を翌日にひかえた四日の日、わたしが帰宅したのは六時三十二分である。居間の時計でそれを確認した。居間につづく台所から母がでてきた。わたしは中腰になって、自分でつくった布のバッグからハンカチをとりだすところだった。 「毎日あそんでこなきゃ気がすまないのかよッ」  するどい金切り声と同時に母の足が思いっきりわたしを蹴《け》りつけた。腰がつんのめった。母の手がわたしの肩につかみかかった。  その瞬間、その瞬間なのだ、わたしは電光石火サイフをわしづかみにすると、いきなり身をひるがえしたのである。  自分でも予期せぬ行動だった。はだしのまま玄関から外にとびだすと、そのまま夢中でかけだした。おりている遮断機の下も、われを忘れてくぐりぬけ、かけつづけ、とうとうN町駅まで一目散にかけぬいた。  そして駅までつくと、ものかげに身をひそめて、母が追いかけてこないかじっとうかがった。いくら待っても母の姿はみえなかった。それでもゆだんはできない。わたしは小学五年のとき、気の遠くなるようなながい道のりを、母に髪をつかまれて地面にあおむけにされたまま、ずるずる家までひきずられたことがある。わたしは念には念をいれ、N町駅をとおりこして裏道にはいり、そうしてまた曲がりくねって逃げまわった。そうしながら赤電話をさがす。  美枝子の声がきこえたとき、気がゆるんだのか、わたしはいきなり声をはりあげて泣きじゃくってしまう。  おどろきながらも美枝子は、泣き声のなかにとぎれとぎれにまざる「家をとびでた」「はだし」ということばをききとらえて、じつに冷静な口調でいった。 「照恵、照恵、おちついて、おちついてききなよ。駅のちかくにはかならず履物《はきもの》店があるから、まずサンダルを買って、すぐ電車に乗りなさい。そうして池袋でおりて、山手線に乗りかえて、恵比寿《えびす》でおりな。わたし、駅で待ってるから」  わたしはN町駅のとなりの駅まで、裏道をえらんで歩きだした。涙がとまらない。いくらでもいくらでもわいてくる。サンダルを買うときも、「これください」といえないくらい、しゃくりあげていた。そして、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま電車に乗った。家をでられた興奮が、からだじゅうどよめいていた。  その夜は美枝子の家に泊めてもらうことになる。  お金を銀行にあずけなくて、ほんとうによかったと思う。母から逃げるということは、一生を逃げきることだ。だからいままでどんなにせっかんされても逃げられなかった。  お金があるから逃げられたのだ。はたらいているかぎり、一生を逃げきる自信がある。その自信がふつふつとわいていた。  家をでたい、とどうにもいいだせなかったのに、たくまずしてこのようなチャンスに恵まれたことをだれに感謝しよう。 「今日ははやく寝たほうがいいよ」  美枝子は自分のベッドのわきに、ふとんを敷いてくれた。彼女のパジャマをかりて床についたとたん、なぜか猛烈な睡魔におそわれた。かつて経験したことのない激しい眠気だった。わたしは死んだように眠りこんだ。  翌朝、美枝子のおかあさんが、「こんな顔で会社にいったら、嫁のもらい手がなくなるよ」とからかいながら、泣き腫らしたわたしの顔を蒸しタオルでマッサージしてくれた、ひざまくらをして。ついでに耳そうじまでしてくれて、母性のあたたかさが、こころに熱くしみた。その日は下着の類まで美枝子にかりて出社する。  わたしはなにくわぬ顔をして、仕事についた。今日、会社がひけてからアパートをみつけにいくことを考えると、自然に顔がほころんでしまう。なんて幸せなのだろう。わたしひとりのねぐらになる部屋がみつかったら、もっと幸せになれる。ひとつひとつの行動が、ぜんぶ自分の幸せに直結するなんて、おどりだしたいような気分だ。 (お昼はなにをたべよう)  そう思うだけで胸がはずむ。もう『コロッケはさみ食パン』をたべなくていいんだ。お昼休みの時刻を待つことさえ楽しい。わたしはうきうきしながら仕事にはげんでいた。  正午の十分ほどまえに、予想だにしなかった電話が取りつがれた。 「おまえ、だれのおかげで大きくなったんだ、ひとをばかにしやがって。なんで会社になんかいるんだよ、エッ! 社長にいって、やめさせてやるッ」  母の怒声が耳のなかにするどく突き刺さった。われ知らず膝が震えだし、血の気がひく。  彼女ならやるにちがいない。むすめがなんでも意のままになると、信じきっているひとだ。強引に横車《よこぐるま》をおすことなんか、あたりまえなのだ。そして、彼女のつよさをもってしたら、不可能なことはなにもない。  わたしは幼稚にも、母のことばをすっかり信じてしまう。 「やめてください、そんなことしないでください」  涙がふきだした。ここが会社だということも忘れて、わたしは泣きながら懇願した。 「おねがいします。そんなことしないでください」 「やってやる、徹底的にやってやるッ」 「おねがいします、はたらかせて——」  電話は一方的にきれた。きれたことで、わたしは動転した。母がすぐさまのりこんでくる!  わたしのデスクからふたつとなりの、T建設ただひとりの女性の課長がたちあがってきた。すっかり自制心をうしなったわたしは、心配そうに眉をくもらせている彼女に泣きついてしまった。 「昨日、家をでたんです。母が怒って、会社をやめさせるって。社長にいって、やめさせるって」  あとはしゃくりあげるばかりでことばにならない。そこに偶然、社長がとおりかかった。  面接のとき、『なぜ当社をうけたのか』という質問に、学校でおそわった模範回答(住宅というものにふかい理解をもちたいからです)をころっと忘れてしまい、つい本音どおりに「戸籍謄本いらないからです」と答えてしまったことを、大笑いした社長である。  社長はふしぎそうにたちどまった。課長が報告するようにいった。 「和知さんのおかあさんが、社長にいって、会社をやめさせる、といってきたのです」  わたしは泣き顔をみられないように下をむいた。そのわたしを社長はじっとみつめた。痛いような視線が感じられた。 「おまえさんは、会社をやめたいの」  社長はおもおもしいゆっくりした口調で問うた。 「やめたくないです」  涙声だったが、わたしははっきり答えた。課長が、それならねェ、とつぶやく。社長はそれをうけて、断定的にいった。 「親がなにをいってきても、当人がやめたくないなら、やめさせないよ」  ふうっと、肩がかるくなった。でも、どなりこみがきたらどうする! 「母がどなりこんできても?」  社長も課長もほかの課員も、みんなが一瞬たがいに顔をみあわせた。だれもこんな母娘をみたことがないのだ。  社長は二度、うん、うん、とうなずいた。わたしを救ってくれるひとがいた。そうだ、おとなはやさしいのだ。  よかったねェ、と課長がわたしの肩をたたいた。げんきんにも、わたしの顔がぱーッとかがやいたという。さいわいなことに、母のいやがらせはこれ一回きりだった。  これ以降、わたしは母の顔を一度も見ていない。彼女がN区から転出したことを、いつだったか、唯一《ゆいいつ》うわさできいたきりである。 [#改ページ]   7、望まれぬ子  深草の部屋で話しこんで、六、七時間もたったろうか。かかえてきたジャーは、すっかりからになっていた。東側の窓の半びらきにしたカーテンのむこうの空が、ほんのり薄白く染まりはじめている。ヒーターの針は二十三度のまま静止していた。  ピンクと白のタータンチェックのカーテン。ミニコンポのよこには、豆粒のようなガラス細工の亀、犬、鰐《わに》などが雑然とならんでいる。手前右の壁には、さかさまに貼《は》った世界地図。赤とうがらしのような日本列島が大洋の底にしずんでいる。あれは死んだ裕司の提案だった。地球には上も下もないんだよ、と。もう十数年の歳月をへているから、紙が赤茶けている。深草がまだおっぱいを飲んでいるあかん坊なのに、有頂天になった裕司はさっそくこの部屋を深草の部屋ときめて、この地図や玩具や絵本を買いあつめたものだった。  深草の部屋は、どれひとつとっても、幸福な青春の証《あかし》だ。それに自信がある。深草の幸せは、母親のわたしの誇りである。すくなくとも深草の枕カバーには、涙のしみあとは、ひとつとてついていない。  深草が派手な音をたてて鼻をかんだ。まぶたのふちが、あかく染まっている。 「つまり、生きてるんだね、おかあさんの母親は」 「……生きてるみたいね、あの刑事さんの話では」 「おかあさんは、自分の母親を憎んでいる?」  打たれたように目をとじた。これこそ三十年間も悩みつづけてきたことだ。  母のもとを去るまでは、逃げたいと思う一心だけで生きてきた。そして逃げた瞬間、それが成功したというだけで、わたしは人生ではじめて幸せをつかみとったのだ。  ひとりで生きてゆくことの幸せに酔っているとき、わたしは彼女のことを考えまい、考えまい、としていた。ふっとなにかのはずみに彼女のおもかげがちらつくだけで、反射のように涙がうかんでしまう。泣くのはもうやめよう、とわたしは|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》に誓っていたのだ。  おそろしい鬼のことは、考えまい。  むりやりこころの底に封じこめていくうちに、たしかにおもかげは遠くなる。裕司と結婚し、和知の姓を捨てて山岡姓になったとき、彼女はひとっとびに、ぐうんと遠ざかった……彼女は完璧に過去のひとになるかにみえた。でも彼女はいまだに夢のなかにあらわれて、わたしのからだじゅうに汗を噴きださせる。完全に忘れることは、不可能なのだ。  鬼畜。  いまは彼女のことを、そう思う。  わたしは彼女を憎んでいる。腹わたのよじれるような修羅場をあたえたあのひとを、暴力と恐怖でわたしを完全に支配したあのひとを、その爪《つめ》のかけらから毛髪の一本まで憎んでいる。  この憎しみの感情は、深草を生んでから、なぜかあらためて噴出した観がある。深草の産声と同時に、わたしのなかであのひともよみがえってしまったようだ。深草を愛《いと》しく思えば思うほど、その量に比例した憎しみが生まれ、深まっている。  そして、そして、わたしは身をもって知った。子どもは、せっかんしたくなるほど理不尽な存在ではなかったことを。まして、子どもを捨てて男にはしるほど、子どもはじゃまな存在ではありはしなかったことを。子の笑顔、泣き声、あるいは指のうごき、それらが視野のなかに見え隠れするだけで、わたしは母としての幸福に酔った。  わたしはおびえたことがある。  わたしも子捨てをしないか。暴力をふるう母親にならないか。  肌が粟立《あわだ》つほどおびえたことがある。わたしは自分がこわかった。なぜなら、わたしのからだには、あのひとの血がながれているから。どんなにあのひとの血をわたしのからだから抜きとりたかったか……しれない。  でもわたしは、裕司ひとりを愛しぬいた。そうして、彼からこの世のものとは思われぬほど真摯《しんし》に愛された。わたしは愛することと、愛されることを同時に体得した。そしていま、わが子をいつくしむ平凡な母親として生きている。あのひとの血は、わたしのからだから抜けたのだ! 「憎んでいるわよ、こころの底から憎んでいる。だから、ひとことあやまってほしいと、いまでも願っているのよ。ひとこと、わるかった、といってくれれば、ゆるすのに」  彼女にたいしての思いが生涯《しようがい》憎しみだけか、と問われれば、わたしはとまどうにちがいない。 「ゆるす? わたしはゆるさないわよ」  深草の瞳がギラギラいやな光をはなった。わたしははっとする。この激しさは、あのひとの血ではないかという不安だ。 「わたしはゆるさないわ。ゆるすなんて、おかあさんは傲慢《ごうまん》よ。ゆるすという行為をできるのは神だけなのよ、人間はゆるしちゃいけないんだわ。子どもを捨てたり、そのうえ八年間もせっかん責めにするなんて、そんな仕打ちは親のすること? 人間のすること? どうして恨まないのかふしぎだわ」  深草はふたたび目をうるませながら、「おかあさんは甘ちゃんよ」とつぶやいた。そうして乱暴にティッシュをひきぬくと、また、チーン、と鼻をかんだ。 「そのオンナ、頭がおかしいんじゃないの」 「……精神を病んでいるのかもしれないね」  おかあさんは甘ちゃんよ、と、深草はもう一度つぶやくと、いままでのするどい語調からきゅうにやわらかい口調にかえていった。 「おかあさんの|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》、わたしのおじいちゃんは、いいひとだったみたいね」 「それはもう。ああいう父親をもてたことは、大いなる救いだったわ」 「やさしかったの?」 「もちろんよ。母のような荒くれとはちがうわ。子どものわたしにさえも、どなったりしないもの。子守歌のように静かにものいうひとよ。  こんなことがあったわ。かあさんがうんとちいちゃい頃、海にいったの。かあさんはひとりで波打ちぎわであそんでいた。夢中になってあそんでいたのね、ふっと気がつくと、大きな大きな夕陽がしずむところだった。海面がもえるようにまっ赤に染まっていて、自分の腕をみたら、腕まで赤くなってるじゃない、びっくりしてこわくなっちゃったの。うしろをふりかえると、※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]がすわってこちらをみていた。かあさんは、わーん、と泣きだして、※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]のところに走っていったの。『照恵が赤くなっちゃうよう』と、わァわァ泣いてねぇ。そうしたら※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]がかあさんを抱きあげて、『赤くならないよ、大丈夫だ、※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]がついてるもの』と、あやしながらかあさんの腕をごしごしこすってくれたのよ。泣きながら腕をみたら、たしかに赤くない。かあさん、泣きべそかきながら笑っちゃった」 「やさしいひとだったのね」 「亡くなったうちのおとうさんとおなじよ」 「そんなにすてきなおじいちゃんが、なぜそんな暴力オンナと結婚したんだろう。おじいちゃんは、そのオンナを愛したの?」  重しをつけて沈めたはずの、強姦ということばが浮きあがる。父に強姦されたから、母は泣く泣く結婚した……そんなばかな。それほどしおらしい女ではない。病人とはいえ、父も男だ。その父にハタキふりかざして殴りかかっていた母の背なかがうかぶ。なぜ父は、彼女と結婚したのだろう。 「謎《なぞ》だわ、永遠の」  深草はゆっくりうなずくと、きゅうに思いついたように、 「ね、おかあさん。おじいちゃんの写真みせて」  わたしは首を左右にふる。 「ないの?」 「あるときふっと気づいたら、遺品がぜんぶなくなっていたの。※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]の衣類や、たがいにだしあった手紙の束は、たしかに施設でふろしきにつつんで持たせてくれたのよ。ところがいつのまにか、ふろしきごとなくなっていたの。母が捨てたのでしょうね。写真だって、※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]とふたりでならんで写っているのが二枚あったのよ。施設の私物箱のなかにちゃんとあったんだから。コケシだけ助かったの、ふろしきからだして机のうえに置いておいたから」 「おかあさんのベッドのところにあるやつね、ちいさな座布団のうえの。でもひどいなあ、写真まで捨てちゃうなんて。子どもの父親の写真じゃないの」 「自分のやりたいことは、なんでも手加減なくやるひとだからね」 「鬼みたいなオンナだ」  なにがなし肩のあたりがかるくなっている。深草にすべてをうちあけたせいだろう。わたしは深草という完璧《かんぺき》な理解者を得たのだ。  深草はふっとまぶたをしばたいて、ちょっといいにくそうに唇をゆがめた。それからためらいがちに小さな声を発した。 「おかあさんのその親指の傷、やけどのあとみたいね。それもせっかんの跡なの」 「やけどのあとにみえる、そう? これはむかしからあるのよ、施設にいったときにはもうあったの。自分ではいつできたのかわからない」  あらためて、どれどれ、というふうに深草はわたしの右腕を無造作に自分のほうにひっぱり、手のひらをつかんだ。そうして大豆粒ほどのヒキツレをしげしげとみつめる。わたしは深草のこういうしぐさが好きだ。母親のからだがまるで自分のもののように遠慮がない。わたしは終生、わが母のからだのあたたかさに触れることなく、生をとじるのだ。 「これも母親のしわざだとしたら、ひどいもんだ」 「どうなのかわからないのよ、自分でころんだか何かしたのかもしれないし」 「いままできいちゃわるい気がしてきけなかったんだけど、おかあさんの足……」 「あ、そうよ、これはせっかんの後遺症よ」  左側の股関節《こかんせつ》と膝の骨が変形していて、わたしはすこし跛行《はこう》する。若いうちはずいぶん気に病んだものだが。 「いい機会だから、おしえようね」  わたしは右のすねをゆびさした。 「ほら、ここの肉がすこしへこんでいるでしょ。マキでせっかんされたとき、どういうわけかマキに釘《くぎ》のあたまがのこっていたのね。その釘でえぐられたあと。えぐれた瞬間、肉の色はそれはきれいな純白だった。左手の親指のここはね、突きとばされてガラス戸のなかに腕をつっこんでしまい、ガラスで切って肉がペロリとめくれたときの傷。骨がみえたのよ、傷が深くて。唇の左側のこの傷は裂傷、殴り裂かれたものよ。この指がまがっているのは骨折したから。耳は深草も知っているね」  わたしは左の耳をおさえた。難聴である(ビンタは左頬に集中する)。  せっかんされて傷をおっても、ただの一度も医者にかかったことがない。鼻血が一時間以上とまらなくて、おそるおそる「お医者にいっていいですか」とたずねたときも、「医者は無料《ただ》じゃないッ」とはねつけられた。 「満身|創痍《そうい》って、おかあさんのことね。せっかく五体満足に生まれたのに」  深草はしんみりして涙声になり、手のひらで涙をぬぐいとった。そして、キッと姿勢をただすなり、あらためて厳といいはなった。 「復讐《ふくしゆう》しようよ」  復讐しようよ、そのオンナに。八つ裂きにしてもたりないよ、極悪非道ってそのオンナのことだよ。  深草のまなこが血走っていた。深草のこんな顔をみるのはいやだ。わたしはあわてて話題を転じた。 「武則のことだけどね、ゆうべ警察にいったとき、深草はみた? あの檻《おり》の鉄格子」 「みた。こわかったァ、胸がどきどきしちゃった」 「かあさんね、あの檻のなかに武則がいると思うと、胸がいたかったわ。あの子も幸せじゃなかったのだな、と悲しかった。そりゃあ、三十二歳にもなる男がすることじゃないわよ、詐欺・窃盗なんて。でもね、どう考えたって、あの子が親もとを去るなんてへんよ。高校にもいかないで十五のときからひとりで生きてきたなんて、かわいそうすぎる」 「叔父さんもせっかんされたの、母親に」 「徘徊癖《はいかいへき》があったから、何度かはみたことあるけど……あのひとはヒステリーが起きると、みさかいなくなるのよ。でも間違いなく武則を溺愛《できあい》してたわよ、よく抱きあげて頬ずりしていた」  わたしは望まれて生まれた子ではないから、虐待のかぎりをつくされた。けれども、武則はちがう。あのひとが中島と愛し合って、わたしと父を捨てるほど、それほど武則を生みたかったのだ。 「でも家をとびでたんでしょう」 「刑事さんはそういってたけど……ひょっとしたら追いだされたんじゃないかしら。子どもをたたきだすくらい平気よ、あのひと。かあさんと※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]だってそうされたんだもの」 「自立してない子を追いだすの……そんなことまでするの」  ひょっとすると……あのひとの夫、和知はもう亡くなっているのかもしれない。齢《とし》が二十も上だからそれはありうることだ。そうして、またあたらしい男ができた……それで武則がじゃまになった——。  わたしは自分の想像を語った。 「あのひとはものすごくエネルギッシュなひとだから」  子どもとはいえ、わたしのからだごと持ちあげて床にたたきつける瞬発力。自分の息がきれるまで無抵抗の者に暴力をふるいつづける持久力。一瞬の間もおかず罵声《ばせい》がつぎからつぎへととびだすあの活力。狂わんばかりにゆるしを乞う悲痛なさけびにも眉ひとつ動かさない、あの精神力。彼女のように神をも恐れぬ強靭《きようじん》な人間に、年齢とともに衰えがくるとは容易には信じられない。 「叔父さんは母親に復讐したんじゃないかしら、犯罪をおかすことによって」  不意をつかれた気がした。それなら武則は、やはり母親から追いだされたのかもしれない……。  刑事のことばがよみがえる。  ジョウゼツデスヨ……。  歳月は、あのおとなしい武則の人格を一変させたのだろうか。 「叔父さんが敢然と復讐したとするなら、おなじ親から生まれたおかあさんがなにもしないのはおかしいよ」 「…………」 「おかあさんは傷だらけになって、身も心もぼろぼろにされて生きてきたんだよ。子どもは幸せになる権利があるのに、おかあさんは自分を生んだ母親から不幸にされたんだ。傷だらけのからだにされたんだ。おかあさんがしないんなら、わたしが復讐するよ」  復讐……なにをするのだろう。 「復讐って……どうするの」 「おじいちゃんのお骨をみつけるのよ。あのオンナが捨てたものを、ぜんぶ拾いあつめるのよ。  あのオンナが捨てたものは、みんな尊いものばかりなんだよ。  生きていたおじいちゃん。むすめであるおかあさん。そして死んだおじいちゃんのお骨。  どれひとつとっても、この世にふたつとない大切なものなんだよ。それをあのオンナは、ゴミのように捨てたんだ。  それを拾うんだよ、おかあさん」  あのオンナ、あのオンナ、あのオンナ……孫娘が憎々しげに、わが祖母を連呼していた。 [#改ページ]   8、生まれた証《あかし》  両側からおおいかぶさるアーチのような桜並木の内部は、水銀灯の白い光を吸いこんで意外にあかるい。この季節はこの道をとおることが楽しみになる。とくに夜がいい。ここにさしかかると、しぜんに足がとまってしまう。顔をうえにむけながらゆっくり歩くと、視野が桜色一色にそまる。  桜は染井吉野《そめいよしの》。枝垂桜《しだれざくら》にくらべればずいぶん背はひくい。花びらは八重桜《やえざくら》のように密集していず、すっきり五弁だけというのも愛くるしい。  ひさしぶりに残業があった日のかえり道である。この並木をぬけてすぐ左の路地のつきあたりにわが家の灯がみえる。  二年に進級するまえの春休みにはいった深草が、今日は夕食のしたくをしてくれることになっている。 「ただいま」  玄関から声をかけても返事のないときは、たいていドライヤーをつかっているときだ。深草お気にいりの大型のドライヤーは、ゴーゴーとものすごい音をたてる。  わたしはいったん二階にあがり、着がえてからリビングにおりた。ブローをおえた深草が、すでにキッチンでかいがいしくはたらいていた。てかてか光るひたいは、おふろあがりの証拠だ。 「ね。おかあさん。もうわたしに嘘《うそ》ついてないよね」  ひとりで夕食をすませた深草は、わたしのごはんをよそい、みそ汁をすくいながら、焼き魚をレンジであたためている。 「なあんにも。あらいざらいしゃべりましたよ」  母のことか武則のことかはわからないけれど、そのあたりのことにちがいない。  すっかり食卓をととのえて、深草はいつもの席でなくわたしの右よこに腰かけた。わたしがひとりで食事をしているあいだ、豆乳でといたココアを飲みながら待っている。  今日のひるま、深草はひとりでN町にでかけて、和知家の謄本をとってきた。いつぞやわたしがN区役所に出向きながら、あっさりあきらめてしまった、あの謄本である。和知三郎と、その妻豊子、そしてわたしと武則の四人が記載されているはずだ。 「春休みを利用してわたしがやるよ。おじいちゃんが生きていたときの住所まで、ぜったいにたどりついてみせる」  深草が宣言したのは、あの夜どおし語りあかしたときのことである。泣いたり怒ったり、激しく動揺していたけれど、あれいらい、深草はずいぶんわたしにやさしくなった気がする。どうやら、母親のこのわたしをかばうような気持になったらしい。  わたしが食事をおえると、深草はその食器を手早くさげた。そうしてから、分厚い茶封筒のなかからコピーした書類をとりだした。 「おかあさんの委任状をもっていったのは正解だったわよ。委任状がなければ、とれなかったかもしれない」  どういうわけか、わたしはこの齢になるまで自分自身の謄本をみたことがない。みる機会がたまたまなかった。  婚姻届はわたしの署名欄をのこして裕司がぜんぶ記入したし、深草の出生届も裕司が提出した。裕司が亡くなったあと、死亡にまつわる諸種の届けは、みんな裕司の父親が代わってやってくれた。わたしの謄本には、これらのことが記載されているものなのだろうか。 「これを見て」  深草がひろげたのは、三ページ目である。 「ここの欄よ」  武則の欄だ。  和知三郎の養子、武則の実父母の記名欄に、  父——亡 陳文珍  母——和知豊子  となっている。武則が陳文珍の長男として届けられているのだ。  ぎくりとした。  どういう意味なの、これ。 「おかしいでしょ。だからさっき、嘘ついてない、ときいたのよ。このあいだの話とちがうもの」  わたしはその謄本を一ページにもどし、それから全部のページに目をはしらせた。  ない。どこにもない。中島武八の名がない。豊子のページに前夫のなまえがのっていない。  なんということだろう。なぜだろう。  母は、戸籍のうえでは中島と結婚していなかったのだ。それどころか、陳文珍と離婚さえもしてなく、中島の子の武則を、堂々と陳文珍の長男として届けていたのである。  婚姻中の妻の生んだ子は、夫の子である——この法律に、彼女はしたがった。 「これは捏造《ねつぞう》じゃないの」  怒りがこみあげてくる。 「ゆるせない。なんで、なんでこんなことをするんだろう。死ぬまで|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》を苦しめたくせに、あげくのはてには※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]の戸籍まで利用するなんて」 「わたしもゆるせない。死んだおじいちゃんが、あまりにもかわいそうだわ」  まるで他の鳥の巣に自分の卵をひそませ孵化《ふか》させるカッコウのように、母は父の戸籍のなかに中島の子どもをおしこんだ。  これで就職のさいの面接の謎《なぞ》もとける。 「いいえ、それはわたしの父——」 「それは二番目の父——」  わかってもらおうと、面接員に必死に説明していたわたしは、いったいなんだったのか。保険証の謎も。保険証の氏名は中島豊子でなく、陳豊子だったのだ。  母は、なぜ中島と正式に結婚しなかったのだろう。父と連絡がとれなかったから? それなら離婚届を偽造すればよかったではないか。中島という新しい男ができたとき、病中の夫と年端もいかない幼児を捨てさったあの凄腕《すごうで》をふるえば、離婚届の偽造くらいたやすいことなのに。  そうして正式に結婚すれば、ふたりの愛児、武則の実父母の欄に、真実が記載された。  父は息絶えたそのあとまで、徹底的に母に利用された。男をつくって苦しめられた妻の、その不倫のあとしまつまで、おしつけられたのだ。  せっばつまった気持になりながら、わたしは謄本の自分の欄をひらく。  わたしの姓……母が和知三郎と再婚するまで、正式には陳のままになっている!  なんというひどいことを。学校で赤恥かきながら苗字《みようじ》をかえる必要など、まったくなかったではないか。  追いうちをかけるように、次の行の記載がわたしを打ちのめした。  わたしが日本人として帰化した事実が歴然としているのだ。  わたしは父の国籍にはいっている、父の長女のはずだ。あらためて母にたいする怒りがわきあがる。わたしの国籍を勝手にかえ、父とわたしを切り裂くなんて、これ以上の侮辱がこの世のどこにあろう。  これはいったい、なんなのか。あたまをかきむしる思いだ。  ああ、母を問いつめることができたら、この謎が究明できるのに。  私の姓をくるくるとかえた母は、ひょっとしたら、戸籍に異様にこだわる女なのかもしれない。あるいは愛した男と同じ姓をなのりたがる女心の発露か——父をあれほど憎んでいたから、意地でも陳という姓は捨てたかったのだろう。 「おかあさん。復讐《ふくしゆう》だよ、傷讐してやるんだッ」  深草がたきつけるように大声でまくしたてた。わたしの胸のなかに、行き場のない怒りがちろちろと炎の舌をだしていた。  わたしは深草の瞳をみつめながら、折れるほど深く首をたてにふった。 「ぜったいさがそうね、おじいちゃんのお骨。うちのおとうさんだってお骨があるんだもの、おじいちゃんのお骨がないわけないよ。家族のお骨があることはあたりまえなんだよね。おじいちゃんだって、せっかく生まれたのに、死んでお骨がないなんて、存在そのものを否定されたみたいだよ」  せっかく生まれたのに。  せっかく生まれたのに……。  そのことばがわたしの脳天を、矢となって刺しぬらついた。 「深草はえらいッ」  わたしはたちあがって深草の肩をゆさぶった。 「せっかく生まれたんだ。そうよ、せっかく生まれたのよ。深草、かあさんが生まれたとき出生届はだれがだした? ※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]よ、※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]にちがいないわ。うちもおとうさんが届けにいったもの。それにきっと書いてあるわ、※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]の住所が」  定時に退社して、駅までわたしは走りつづけた。乗りかえの階段をのぼるときも、おりるときも小走りだった。定期をみせるわが駅のプラットホームに足がついてからも、また走りつづける。いつもの商店街、そしていつもたちどまってしまう桜並木も、どんどん視野のうしろにとんでいく。  玄関のドアをあけたとき、深草は鼻たかだかの、じつにいい顔をしていた。わたしたちはもつれあってリビングにいく。  テーブルのうえに、一枚の大きな書類がひろげられていた。わたしはそれを手にとると、読みだすまえに深草に礼をいう。 「どうもありがとう。たいへんだったね、遠くまで」  わたしの出生届である。  届出人は陳文珍とある。つまりこれは父の筆跡なのだ。施設にいるときさんざん手紙をもらっているのに、はじめて父の字をみたような気がした。  乱雑な字である。望んでいない子が生まれて投げやりになって書いたのか、もしくは、わたしが生まれて欣喜雀躍《きんきじやくやく》のあまりペン先がおどったのか。どちらなのだろう。     出生届    陳照恵 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]   ○出生年月日 昭和二十二年八月十二日午前一時十五分 届出人は父   ○父母の氏名、及び本籍、又は国籍    父 陳文珍    母 陳豊子    本籍——中華民国台湾省台中縣大甲区|沙鹿鎮《サロクチン》六三    国籍——中国   ○出生時の母の住所・届出人の父の住所は、ともに東京都S区A町一丁目十二番地   ○父母の結婚年月日——昭和二十二年三月十八日 [#ここで字下げ終わり]  わたしはこの結婚年月日の五カ月後の、八月に生まれている。妊娠がわかって、あわてて入籍したようすがほうふつされる。 「このときの現住所は、区画整理でもうないって」 「そうだろうね、四十年もたっているんだもの」 「それじゃ、いく? ここに」  深草がゆびさしたところは、※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]の本籍地である。 「いこう」  日本には身寄りのない父のお骨は、同郷の友だちがもちかえった可能性もある。父の葬式に列席してくれた人々のなかに同郷人もいたにちがいないのだ。父のお骨は故国で無縁仏として、野ざらしになっていることだろう。  本籍地にいけば、なにか手がかりがつかめるにちがいない。  わたしはもう一度、自分にいいきかせるように力強くいった。 「いくわ、台湾に」 [#改ページ]   9、炎暑の国  車輪が大地と接触するかるい衝撃が身をゆすった瞬間、わたしのからだと父の国がつながった。かっと顔があつくなる。胸がざわめきたち、涙ぐみそうになり、わたしは丸い窓に視線をむけていた。外は漆黒《しつこく》の闇《やみ》だった。  タラップをおりたとき、搭乗中あれほど不気味だった暴風雨がおさまり、じめじめしたしめっぽい風が頬をなでた。父の国の五月の風。  なんとなくふしぎな匂《にお》いがただよっている。むかし、うんとちいさい頃かいだことのあるような、なつかしい匂い。この匂いのなかで父は生まれ、育ち、巣立ったにちがいない。わたしは胸ふかく台湾の空気を吸いこんだ。  きたわよ、|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》。とうとうきたわ、あなたの故郷、台湾へ。あなたをつれにきたのよ、日本に一緒にかえるために。  空港から乗ったタクシーに案内されたホテルは、台北市内のビジネスホテルである。十一時をまわっていた。  部屋がとれて、ほっとひといきつくと、わたしは猛烈な空腹感にみまわれた。飛行機がゆれるあまり、機内食にぜんぜん手をつけられなかったからだ。  わたしは階下におりていった。フロントにはさきほどの男性二人と女性がいた。 「ちかくのレストランをおしえてください」  彼らはたがいに顔を見あわせながら、けげんそうに首をかしげた。つうじないのだろうか。 「もし営業しているレストランがなければ、コンビニエンスストアでもいいんですけど」  このホテルにはレストランがない。フロントのななめむかいに一店だけあるティールームは、すでにクローズしている。  彼らは無言のまま、いよいよ困惑した表情をうかべている。  日本語がつうじないのだ。なるほど、さっきチェックインしたときには、パスポートや部屋の価格表をみせあっただけで会話らしい会話は交わしていない。  ここまで乗ってきたタクシーのドライバーも、日本語がつうじなかった。 「台北市内のホテルへ。ビジネスホテルがいいわ」といっただけで、車は走りだしたのだ。タイペイとホテル、ふたつの単語で彼はここまではこんでくれたのだろう。「台湾は日本語がつうじる」と日本でひろく流布《るふ》されていることを、わたしは信じすぎていたのかもしれない。  おぼつかない英語でうったえてみても、おなかをおさえるジェスチャーをしても、まったくだめである。  今夜はたべるものにありつけない。それはいい。それよりも、ことばのつうじないこの国で、三十年もまえの話を掘りおこしてお骨をさがすことが可能なのかという不安がわきあがる。  いったい、だれに、どのように、目的地への行きかたをたずねればよいのだろう。  わたしの出生届に記載されている父の本籍地——。  台中縣大甲区沙鹿鎮六三。  台中県へは、台北駅から台湾海峡ぞいを走っている西部幹線(海線)でゆける。それは東京で調べてきたが、まず、このホテルから台北駅へはどうやっていくのだろう。歩いていける距離なのか、あるいは電車かバス、それともタクシーを利用するのか。そして、台北駅で、はたして日本語で切符を買うことができるだろうか。つぎに、台中駅についたとしても、本籍地までたどりつけるだろうか。たどりついたとしても、そこにはなにがあるのだろう……ただの野原かもしれない……畑にでもなっているか……あるいは、なんの縁もないひとつの家が建っているかもしれない。  わたしを手放したころ、父の経済力は逼迫《ひつぱく》していた。そんな父にたいして、父の実家はなんの援助もしなかった。父を日本で見殺しにするほど、陳家は没落しているにちがいないのだ。  わたしはだれに、なにをおしえてもらうことができるのか。  夜はしんしんと更けてゆく。  シングルのベッド。ほかにイスが一脚。シミのついているビニールクロス。ふるびたバスタブ。蛇口からおちる薄黄色い水。そして、深草のいない異郷の地。  不安と心細さがつのっていく。月明りもない夜の波間に、ひとりだけぽっかり浮かんでいるような心細さ。  これじゃいけない。わたしは自分を叱咤《しつた》する。  いま※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]の国にきたばかりじゃないか。※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]はわたしを待っているのだ。お骨をさがすことは、わたしと深草が唯一できる復讐である。これを忘れてはいけない。母がボロキレのように捨てたものを、わたしが拾いにきた。彼女がきらったもの、憎み、さげすみ、せせら嗤《わら》ったものを、ことごとくわたしが息をふきかえさせてやるのではないか。  明日ははやく起きよう。そして朝日をいっぱい、この身に浴びよう。そうすれば元気をとりもどせるだろう。  開店時間の八時に、わたしはティールームにとびこんだ。  店長らしき二十七、八の小姐《シヤオチエ》が、ひとりで営業している。すぐわたしを日本人だとさっしてくれたようだ。テーブルに、コーヒーと、ママレードをのせたトーストがはこばれてきた。 「謝謝《シエシエ》」  ききかじりの中国語でいうと、彼女ははにかんだような微笑をみせた。おかっぱ頭で化粧っ気もなく、むすめらしさの匂《にお》いたつような小姐だ。  わたしはさっそくトーストに手をのばす。ところがどういうわけか、昨夜の空腹感とはうらはらに、一枚のトーストをコーヒーのちからをかりて流しこむのがやっとである。寝起きのどんよりした疲労感が、まだ糸をひいていた。それでも昨夜よりは気力がいくぶん充実していて、わたしはコーヒーをおかわりしながら、小姐に出生届をさしだして話しかけた。もちろん筆談である。  ※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]。遺骨。探索。本籍地。台中縣大甲区沙鹿鎮。  彼女はわたしのメモと出生届を真剣にみつめた。すぐわたしの意図するところを理解してくれたようだ。父の本籍地をゆびさしながら、 「この沙鹿という地名はたしかに存在する。だが、どの交通機関をつかってゆくかをあなたに説明することができない」  彼女は筆談を駆使して、これをわたしに知らしめた。説明のしかたがていねいで誠実な人柄がつたわってくる。  すまなそうな表情をにじませている彼女に、わたしは目くばせした。  奥のテーブルに先客がいる。ふたりとも年配の男性だ。年配者ならば、日本語は若いひとよりはわかるだろう。  わたしは席をたって、彼らのところに出生届をもっていく。まったくずうずうしい態度だが、背に腹はかえられない。ところが彼らはふたりとも日本語がわからないという。小姐もこちらにきてくれた。彼ら台湾人三人は、頭をかしげながらずいぶんながいあいだ相談していたが、とうとうさじを投げたようだった。それでも異国でうける親切はありがたかった。わたしは三人に丁重に礼をのべて、とりあえず部屋にひきかえす。 (ことばの壁は厚い。ひとすじなわではいかない)  父の本籍地は、たしかに実在していることはわかった。それなのに、区画整理や地名変更のなかった幸運にめぐまれながら、その地がどこにあるかわからない。台北駅の所在さえわからない。どんなひとにたずねたらいいのだろう。役所にでむけばいちばんはやいのだろうが。その役所にさえいくすべがない。  外国にくるくせに日本語を期待していた傲慢《ごうまん》さ。そして、外国にくるのに辞書ひとつ携帯しなかった不用意さ。わたしは頭をかかえるばかりだった。  きのう日本を発ったときにはあれほど使命感にもえ、喜びいさんでいたのに。役たたずの自分がうらめしい。わたしはベッドにごろんと寝そべり、ちいさくまるまってぼんやりしていた。  やっと気をとりなおして街にでてみる気になったとき、小一時間ほどがすぎていた。  まずフロントによって、もう一泊することも伝えなければならぬ。とにかくわたしは、調査の一歩さえふみだしていないのだ。わたしは一階におりた。  めざとくわたしをみつけたティールームの小姐《シヤオチエ》がとびつくようにちかよってきた。そうして、わたしの肩を抱かんばかりにして、一緒にいこう、と外をゆびさす。彼女は、なにかを思いついたのかもしれない。わたしはぼんやりしたまま彼女と玄関ホールにすすんだ。  屋内の快適さと対照的に、玄関のドアのむこうは、まるで大気がもえているような暑さだった。そのうえ湿気もすごい、むっとする空気につつまれるや、わたしはよろっとたちくらみした。熱気からかばうために反射的に両手で顔をおおう。湿気をたっぷりふくんだ熱気とからだからふきだす汗で、あっというまに衣服がミストサウナにいるみたいにびっしょりぬれた。ききしにまさる暑さである。台湾は沖縄《おきなわ》より南に位置していることを、あらためて知らされた。  この暑気に鞭《むち》うたれた瞬間に、朝から感じていた疲労感に輪をかけた異様な疲労が、からだをむしばんでいることにわたしは気がついた。この暑さのなかでは、ただ歩くだけの体力にも自信がない。自分のからだが自分のからだでないようだ。肩から下が、鎧《よろい》をつけたように重い。わたしは重い足を一歩一歩、ふみしめる。小姐の腕が、わたしをかばうように肩にまわっていた。  ホテルのまえは、ちいさな四つ角になっている。道路のアスファルトが鏡面のように陽を照りかえしていた。車の洪水《こうずい》。ゆきかう人々。はでな色彩の衣服。道路の両サイドはビルの林立。一片の雲もない群青《ぐんじよう》色の空。その空の一角に、建築中の高層ビルがたちはだかっている。  わたしたちはタクシーをさがしながら、すこしずつ歩をすすめていく。  横断歩道を無視して、平気で車道をよこぎるひと、ひと。自動車の急ブレーキの音がひんぱんに耳に突き刺さる。歩道上に堂々とテーブルをだしている飲食店。そのまえをとおりかかると、ふわっと独特の調味料の香りにつつまれる。台北の街は、無秩序な、玩具箱《おもちやばこ》をひっくりかえしたような喧噪《けんそう》にみちていた。  凶器さながらの熱した陽光のなかで、冷房のきいたホテルばかりがうかんでくる。  空車が目のまえで急停車した。  東京とかわりない渋滞した道路を、タクシーはのろのろとすすんでいく。そのすきまをねらって、信号を無視した人々が横断する。  ふしぎな光景に目をうばわれた。  すぐそれとわかるイタリアンカジュアルファッションのギャルが、さっそうと歩いていた。アイボリーホワイトにグリーンをきかせた、あかぬけたツートンカラーのスーツは、まぎれもなく高価なものだ。そのギャルのわきを、歴史映画にでてきそうな古色たる編み笠《がさ》をかぶった男が、ゆっくりリヤカーをひいていく。リヤカーというなつかしいものがこの国際都市にはある。イタカジとリヤカーが同居するふしぎな街、台北。  つれていかれたところは、警察署だった。  署内にはクーラーがなく、男たちが汗をふきふき机にむかっていた。首にタオルをひっかけている男もいる。  彼女はわたしの出生届をひろげて、とある係官に説明をはじめた。うなずきながら注意ぶかくきいていた係官は、いったん奥のほうにひきかえすと、分厚い帳簿のようなものを何冊もかかえてきた。そして、椅子《いす》にすわりこんでページをめくりだす。  わたしたちの待っている位置から、彼のうすくなった頭部がみえた。ほんのいっときたって、係官が顔をあげた。わたしたちは彼のそばに歩みよる。彼ははじめて日本語をつかった。 「台中県の沙鹿にいきなさい。そして役所にいきなさい。いけばわかるように、こちらからも連絡しておくから」 「ここからどのようにいくのですか」 「汽車か長距離バス。三時間でいけるよ」  三時間ときいて、わたしはヘナヘナとすわりこんだ。  三時間という時間は、はてしなくながいものに思われた。また炎天下を歩くのか、乗り物にゆられるのか。なによりこの暑さには気がめいる。どうせ現地にいったところで、ことばの壁にぶつかるのだもの、お骨さがしをあきらめる、という選択があってもいいじゃないか。母に復讐しなくても、父は悲しまないだろう。疲労のうえに暑さまけしているとはいえ、尻尾《しつぽ》からげて退散する方向に、こころがぐらりとかしいだ。その変化がわたしの表情にあらわれたにちがいない、係官が叱責《しつせき》するような大声をはなった。 「それは、ひとりむすめの、あなたの、義務です」  わたしははじかれたようにたちあがった。義務ということばが、じんとしみた。父にたいしての義務、わたしにしかできない義務……死してなお父は、わたしにむすめとしての役割をのこしてくれたのだ。  生気の風がふきこまれて、たちまちのうちにわたしは息をふきかえした。 「かならずいきます。あす、かならずいきます」  彼は満足そうに微笑《ほほえ》んだ。  彼が書いてくれたメモを、わたしはひれふしておしいただいた。  台湾の警察は、その役割のなかに役所を兼ねている部分がある。警察にわたしをつれていった小姐の判断は正しかった。  その日の夕刻、わたしは小姐によびだされて林となのる老人とむかいあっていた。彼女のティールームである。彼はこの店の常連らしい。 「コーヒーを飲みにきたら、あの小姐がよろこびましてね。『日本から、台湾人のおとうさんの遺骨をさがしにきている女性がいる。ことばがつうじなくて大変こまっている』というのです。ぜひ日本の小姐のちからになってやってくれと」  林氏は医療器械を販売する会社の社長である。東京のメーカーから輸入して、台湾の病院に売る仕事だという。国内のシェアの六割を自社が占めていると、うれしそうに自慢した。六十八歳という高齢にしては、江戸っ子とみまがうチャキチャキした話しぶりである。日本人のように達者な日本語をあやつり、日本語の手紙をやりとりし、そのうえ「文藝春秋」と「産経新聞」を愛読し、日本茶とタクアンは切らさないという、たいへんな日本通だった。月一回は商用で渡日するそうだ。 「あなたは親孝行ですねえ。ぼく感心したね。むすめさんがたったひとりで、ここまで遺骨をさがしにくるなんて。亡くなったおとうさんが草葉のかげでさぞ喜んでいますよ」 「日本ではどうしても手がかりがなくて……。きっとなにかの具合で、故国にもどっているとふんでいるのです」 「ぼくの車であした沙鹿につれていってあげますよ。バスや電車じゃたいへんだよ、暑くて。びっくりしたでしょう、台湾の暑さに。台中にはうちの支社があるからね、今日のうちに電話して社員に調べさせましょう。あなたの親孝行ぶりに敬意を表して、台湾人として協力するよ」 「地獄に仏の心境です。ありがとうございます。でも、そんなに甘えるわけにはいきません。じつは切符をひとりで買えるかどうか心配だったのです。台中行きの切符を買っていただければ——」 「いやいや、不案内な地に女性がひとりでいくなんてかわいそうですよ。ぼくにもむすめがいてね、あなたよりすこし若いかな。でもあのドラムスメ、あなたみたいに親孝行しないよ」  林氏は、ホッホッホと特徴のある笑い声をあげた。頭ははげあがっているが、態度が若わかしい。メガネの奥のまなこもやさしげで、善良そうなひとだ。もし父が生きていたら、彼くらいの年齢ではないだろうか。 「林さんといると、まるで父といるようです」 「おとうさんだと思いなさいよ、|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》だと思えばいいんですよ。そうすれば遠慮しなくてすむ。袖《そで》ふりあうも他生《たしよう》の縁、というでしょ。ぼくもうれしいよ。おなじ台湾人のおとうさんの遺骨をさがしにきたなんて。おとうさんに代わって、ぼくがお礼をいいたいくらいだ。身につまされるよ」  林氏の瞳が、こころなしうるんでいた。それをみて、わたしは彼の厚意をうけることに決めたのだろう、きっと。 「ぼくはよく日本人のおせわをするんですよ、あちこちから頼まれて。日本人が好きなんだな。だって、ぼくは元日本人だもの。ぼくの戦前の日本名は山下昭男。昭和天皇からとったんです。あのころは日本名にかえると、玄関のところに『日本名の家』と表示されたものだ」  虚をつかれた気がした。敗戦まで台湾はたしかに日本の植民地だった。その、学校で得た知識では、台湾人が元日本人だったことにダイレクトに結びつかなかった。いや、そのまえに、外国の一国の民が、植民地時代だけ、日本人にされたという不条理が、すぐにはのみこめなかった。  贖罪《しよくざい》意識がじわりとわきあがり、わたしのなかでふたつの国の血がせめぎあう……。 「だから日本人がこまっているのをみると、つい手を貸したくなる。日本人も親切ですよ、ぼくは何回も日本にいってるけど、よく迷子になるんですよ。そういうとき、道をきいても日本人は親切だよ。湯島《ゆしま》で迷子になったとき、タバコ店のおばさんに道をきいたんですよ。ホウキもって店のまえの通りを掃いていたんだ、そのおばさん。それなのに、ホウキをほっぽりだしてわざわざ道案内してくれたんですよ。ちゃんとつれていってくれた。恐縮しちゃったよ」  大きな声でほがらかに笑いながら、流暢《りゆうちよう》な日本語がつぎからつぎへとすべりでる。話上手な彼は聞き上手でもあり、わたしはいつのまにか、自分の家庭状況や仕事のこと、お骨さがしにこの地にきた経緯などを説明していた。彼はいちいちうなずきながら、あるいは身をのりだしながら興味ぶかそうに耳をかたむけていた。 「台湾料理は好きですか。台北でいちばんおいしいレストランで夕食をごちそうしましょう」  はじめて会ったひとからごちそうになるなんて……。それでも再度うながされて、ご相伴《しようばん》にあずかることになってしまう。それでは、と、わたしはテーブルのうえの伝票をつかみとった。 「せめてここのお茶代くらい、払わせてください」  林氏は、とんでもないというように、わたしの手を軽くはらいのけた。 「女のひとがひとりではたらいて、ひとりでお嬢さんを育てている。そして一生懸命ためたお金で、ひとりで※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]の故郷にきたんだ。もったいなくて、あなたのお金なんかつかえませんよ。そんなことしたら、ぼくの※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]に怒られるよ。男のくせに、なにごとかって」  このとき、いったいなんだったのだろう、不意に涙がこみあげてしまう。自分でも意外だった。自分で思う以上に、わたしは心細かったのかもしれない。やさしいことばをきいて、いままではりつめていたものがゆるんだのだろう。  その夜、わたしはとびきり上等な台湾料理に舌鼓《したつづみ》をうった。一度はあきらめかかった使命感が、ふたたびもえさかっていることがうれしい。親切な小姐に出会い、そのうえ林氏のような善人とも知りあい、しかも彼はちからを貸してくれると、うけあってくれた。たいへんな幸運に恵まれたものだ。わたしはきっとお骨をみつけられるだろう。そして日本につれてかえれるだろう。あきらめなくてよかった。 [#改ページ]   10、予期せぬ血縁  朝七時。  BMWは一路、台中県にむかって高速道路をとばしていた。林氏の会社の本社の社員が運転している。 「ぼくは酒は呑《の》まないし、車が道楽なのよね。クラウンももってるよ」  林氏の愛敬のある福々しい顔が、いちだんとにこにこしている。 「ところで、あなたのおかあさんは? ぼく、ゆうべ考えたんだよ、どうしておかあさんにきかないのかな、と」 「もう、母も死んでいるのです」  役所で、あるいはK病院で、いったい幾度たずねられただろう。「どうしておかあさんにきかないの」。最初は口ごもっていたわたしも、いつのまにか「母は死んだ」と答えるようになっていた。  窓の外には、頭上はてなく晴天の空がひろがっている。五月の下旬だということを、忘れてしまう真夏の空だ。願いごとがかなう暗示のように、まぶしくきらめきわたっていた。台北から遠ざかるにつれて、道路の両側にときどき木立があらわれる。陽をさんさんとあびて息づく梢《こずえ》。行く手のむこうに、深い緑でおおわれた半円形の山。 「どうするの、遺骨みつかったら台湾にお墓をつくるの」  意表をつかれた気がした。いままでお骨のことしか眼中になく、ついぞお墓のことに思いをよせたことがない。 「台湾のお墓は、日本のように先祖代々のものではなく、ひとりひとりつくるんですよ。台湾人は方角を気にするから、墓地にいくとおもしろいよ。お墓がみんな、あっちむいたりこっちむいたりしてるんだ」  どうしたらよいのだろう、父は台湾のお墓で眠りたいのだろうか。そんなに遠くない未来の課題として、お墓をどちらの国につくるべきかを、いずれ考えねばなるまい。  前方に手をふっている男性がいた。林氏の台中支社の社員だ。  もうこのあたりは、父の本籍地の大甲区沙鹿である。  社員氏は車に乗りこむと、林氏になにやら報告し、あわただしく役所にむかって誘導をはじめた。  到着した役所は、昨日の警察とはようすがちがう。体育館のようにひろい部屋のなかを、長いカウンターが川のように流れていた。その楕円《だえん》型のカウンターをはさんで、室内のすべてが見渡せる開放的なつくりである。  林氏はさっそくわたしの出生届をとりだすと、職員に説明しながら何通もの書類を申請した。  ほどなく書類が手もとにとどく。謄本のたぐいだ。それらの書類を横からのぞいてみたが、うんざりするほど漢字だらけだった。しかも日本の漢字とちがって、画数が多くむずかしい。  林氏はカウンターに脇腹《わきばら》をよりかからせながら、書類をかたっぱしからめくりだした。そしてときおり職員になにかをたずねている。わたしはじゃまにならないよう、コーナーにある椅子にかけて待つことにした。ページをくる林氏の指の金の指輪が、陽を反射してきらめく。  台湾人は純金が好きだ。リング、ブレスレット、ネックレス——だれもかれも純金をギラギラ光らせている。18金の楚々《そそ》としたかがやきに慣れている日本人の目には、たいそうどぎつくうつる。しかし林氏は、「18金じゃ、換金価値がないよ」とすましていた。純金を愛する国民って、ひょっとしたら自国の政府を信じていないのかもしれない。  ある書類に目をとおしていた林氏の手が、ハタととまった。頬《ほお》がさっと紅潮した。  わたしはたちあがった。林氏が大股《おおまた》でちかよってきた。 「すぐいきましょう。この住所ならここから三十分くらいでしょう」  せきたてるような早口だ。ずいぶんあわただしい。父の本籍地がこんなにかんたんにわかったのだろうか。 「どこに」 「あなたのご親族の家ですよ」  親族ですって? 父の? 父と血のつながった親族?  それは、ありえない。金輪際《こんりんざい》ありえないことです。なにかのまちがいですよ。父は、日本で貧しいままひとりぼっちで病死したのです。親族がいれば、結核くらいで死にますか? お金さえあれば特効薬のパスやストマイが買えたのですから、もし親族がいたら仕送りのひとつもしてもらって、簡単には死ななかったでしょう。  それに、お葬式にも親族はだれひとりこなかった。もし親族がいたら、お葬式くらいは出席するものでしょう? お骨を拾わない親族なんて世の中にいませんよ、ハガキ一本こなかったのですから。血のつながった親族などひとりもいないから、他人さまにみとられて孤独に死んだのです。  親族はいないんですよ。九歳の女の子が喪主をするような家系は、没落しているにちがいないのです。なにかのまちがいです。  わたしが否定しているにもかかわらず、林氏の耳にはとどいていない。彼の顔はいよいよ紅潮し、宝物をみつけた少年のように瞳《ひとみ》をかがやかせていた。  いきなり破鐘《われがね》のような声が、室内じゅうに鳴りわたった。 「おとうさんはひとりぼっちじゃなかった。ちゃんと血のつながった親族がいたんですよ!」  しんと静寂の刻《とき》があたりを支配した。  思考がことりと停止した。わたしは林氏の色あせた唇を、ぼんやりみつめていた。 「なにかのまちがいでしょう、父の親族が存在するなんて信じられない。なにかのまちがいです、陳なんていう姓はどこにでもあるから」  わたしは、われながら冷静にいったと思う。しかしことばをうらぎって、わたしの胸にはふしぎなときめきが満ち満ちてきた。それはすこし切なかった。そして光の矢で射られたように、はかなく痛かった。  林氏と社員氏は、両側からわたしを引き立てるかのごとく、あわただしくわたしの腕をとった。 「ここがあなたの実家です」  車は鉄筋四階建ての小ぶりなビルのまえでとまった。一階のフロアの半分が自動車の修理工場になっており、もう半分が玄関をかねた応接間になっている。台湾は、玄関が応接間をかねているつくりの家が多い。上階が住居のようだ。  わたしはおじけづいて、それから顔をそむけた。もしまちがいだったら、そらおそろしいことになる。鳥肌がたちそうだった。  林氏が、「さ、いきましょう」とうながした。わたしは顔をふせてうずくまった。血管という血管がぜんぶ萎縮《いしゆく》して、からだがちぢんでコビトになった気がした。  わたしをのこして林氏と社員氏が車からおりていき、建物のなかにはいっていく。  ほんの一分後に、林氏がかけもどってきた。満面喜色をたたえ、からだごとはずんでいた。 「ほーら、まちがいじゃなかった。台北の警察とさっきの役所から、すでに連絡がきたそうですよ、日本からあなたがたずねてきたと。親族のかたがたが待ちかまえていますよ。さあ、いらっしゃい、陳照恵さん」  なんということが起きたのだろう。  わたしはものいわぬお骨をさがしにきたはずだ。それなのに、あたたかい血のながれている、生きた人間がみつかったという。頭のなかがぽっかりがらんどうになった。わたしはやみくもにおびえて、林氏のシャツの袖口《そでぐち》にしがみついた。  二十畳はあろうかというほどの応接間は、むっとするひといきれに満ちていた。ここにも台湾にきてからかぎなれた匂いがただよっている。  いったい何人のひとがいるのだろう。  シワのなかに目鼻のあるような高齢の女性。五十代くらいの主婦らしきひと。歩行器のなかの赤ちゃん。壮健なからだつきの工員服。老人、中年、ヤング、男、女、学生、少年少女——ひと、ひと、ひと。  十人……いいえ、二十人……総勢三十人といったところだろうか。  ソファセットがひと組だけあり、そこにこの家の主人とおぼしき六十代くらいの男性と夫人らしきひとがすわっていた。わたしたち一行は、すすめられて腰をおろす。ほかの人々はたちっぱなしである。  ガラスのテーブルのうえに書類が何通もひろげられている。見覚えのある写真……父とわたしの顔だ! 施設の私物箱にはいっていたあの写真が、こんなところにもあった。  わたしはその写真を、くいいるようにみつめた。  林氏と主人が書類のあちこちをゆびさしながら、わたしのほうにむきなおった。  カタコトの日本語が、はっきりわたしの耳をうった。 「陳照恵さん。わたしはあなたを陳文珍の長女と認めます」  それはなんと重々しく、朗々とひびいたことだろう。父とわたしには、血のつながった親族がいたのだ。わたしは、ただただ茫然《ぼうぜん》としていた。  林氏が満足そうに大きく何度もうなずいた。  あわただしく何人かの男が外にとびだしていく。また逆に、いそいそとはいってくる者もいる。  さきほどの主人がまた声をあげた。すかさず林氏が通訳する。 「わたしは陳文珍の長兄・陳|秋霖《しゆうりん》の長男です。陳|揚晴《ようせい》といいます。にいさんです。照恵さんはいもうとです」 「わたしとは、いとこ……」 「父親どうしがきょうだいの、いとこの関係になるのですね」  わたしに、いとこ、がいた。ずいぶんちかい親戚……。  ひとがどんどん集まってくる。応接間は立錐《りつすい》の余地もないほど、ひとであふれかえった。 「台湾では血のつながった者どうしは、親しみをこめて、きょうだいのようなよびかたをするんですよ。だから、にいさん、とおよびなさい」  わたしはうわの空でうなずいた。  林氏が、サァ、と、ジェントルマンのようにわたしの手をとった。  わたしはゆらりとたちあがった。  ひとの群れがどよめきの声をあげながらわたしの周囲をとりまいた。  分厚いひとの輪が幾重も幾重もでき、どよめきがいつのまにか、ワーンと天井でこだましていた。  テルエ、テルエ、というコールが、さざなみのように周囲からわきあがっていた。その声の一粒ひとつぶが、わたしの頭のてっぺんから足のつま先まで、からだじゅうまんべんなくぶつかってはじけた。  テルエ。  テルエ。  たくさんのむきだしの腕が、いっせいにわたしにむかってさしだされた。にいさん、ねえさん、おじさん、おばさん——。わたしはひとりひとりと、両手をかたくにぎりかわす。手をにぎりあった瞬間、おなじ血と血が双方をゆきかう。父の血。わたしの血。わたしたちは、みいんなおなじ血がながれているのだ。どの手も熱かった。どの手も身の焦《こ》げるほどいとおしい。いとしい、いとしい。胸がつぶれそうだ。ひとつも欠けることなく、どの瞳も、どの瞳もきらきらぬれていた。それがしだいにぼやけてにじんでいく。  林氏が、もうおいとまする、と腰をうかせた。それはわたしには、唐突に感じられた。ここにきてから、まだ一時間とたっていない。わたしは救いを求めるように、揚晴兄をみた。  戸をあけはなっているとはいえ、クーラーのないこの部屋は足もとから熱気がゆらゆらたちのぼっているような暑さである。だれもが汗をぬぐいながらしゃべっていた。それなのに林氏のまえには熱いウーロン茶があるだけだった。  自分の仕事もそっちのけで、社員まで動員して協力してくれた林氏に、わたしは冷たいものの一杯もさしあげたかった。何遍お礼を述べてもたりないほどの恩人なのだ。わたしのそんなあせりを知ってか知らずか、揚晴兄はひきとめるでもなく、けろりとした表情のままだった。  揚晴兄は自動車修理工場を経営し、フィリッピーナの修理工を数人雇っている。一階の半分をのぞいてこの鉄筋四階建の全館を、自分たち夫婦と長男の家族でつかっていた。 「ご親族に会えてよかったねえ。わたしも涙がでたよ、感動したよ」  林氏はたちあがって、うれしそうにわたしの肩をたたいた。  林氏がいってしまう。袋小路に追いつめられたような心境だ。不安だ。まわりがいくら血のつながった親族ばかりとはいえ、日本語のわかるのは揚晴兄ただひとりだけである。しかも、林氏の日本語が大学の教授クラスだとすると、揚晴兄のそれは失礼ながら幼稚園児なみだ。話がこみいってくると、こちらの意志が彼に伝わらない。わたしはひそかにそれに落胆していたのだ。親族との対面はいわば前座であり、真打ちはあくまでもお骨さがしである。本番はこれからではないか。日本語の堪能な林氏がいなければ、わたしにはなにもできない。わたしは林氏を車のところまでおくりながら、それをうったえた。  林氏は口をひらきかけた。が、すぐ、かすかに首をふっておしだまった。なにか考えあぐねているようすだった。林氏はあらためて、むすめにいいきかすようなトーンでいった。 「こまったことがあったら、わたしのところにいつでも電話くださいよ。ちからになるよ」 「揚晴兄にあまり日本語がつうじないのに。お骨さがしができるでしょうか。これからだというのに。それに、今夜のホテルはどうしたらいいでしょう」 「あれ、にいさんのところに泊まらないの」 「いくら親族だって、はじめて会ったひとのところには泊まれません。それに、いま四十度くらいありそうな暑さでしょう、寝るときくらいクーラーのある部屋で寝ないと、からだがもたないです。暑さまけしているのです、台湾にきてから」 「そうだねえ。まァ習慣のちがう家にいきなり泊まるのは気が重いかもしれない」  林氏は社員氏となにやら打ちあわせると、メモをとったものをわたしてくれた。 「ここのホテルに予約しておきます。電話番号はこれね。タクシーに乗ってこれを運転手にみせれば、つれていってくれますよ。ここから二十分くらいらしい」  わたしはそのメモを、だいじに手のなかににぎりこんだ。  わたしがなかなかもどっていかないせいか、揚晴兄のおとうとの榮作《えいさく》兄がよびにきた。彼はわたしより五歳ほど年長だ。  応接間のなかでは親族たちがそれぞれ数人ずつ輪になって話しこんでいた。  女性陣がテーブルをもちだして。ふしぎなものをたべていた。アイスキャンディみたいに、棒にささった黄色いものだ。形状はパイナップルの芯に似ている。  ねえさんが笑いながらわたしに一本すすめてくれた。おそるおそるひとくちかじってみると、強烈な甘さだった。テーブルのうえには、彼女たちが口からだした繊維のかたまりが山となっている。果肉を噛《か》んで甘い汁を吸い、口にのこった繊維質のものをはきだす果実らしい。これは習性のちがいなのだろうが、自分の口からだしたものをひと目にさらすことには、ちょっと馴《な》れにくい。  わたしは揚晴兄のまえにすわりなおした。  ガラスのテーブルのうえの書類が、さきほどより増えている。役所関係の書類、手紙類など束になったそれらは、まれには日本語のものもまじっているが、ほとんどが中国語である。揚晴兄がいちいち手にとりながら、説明してくれる。  父、陳文珍は八人きょうだいの末っ子である。八人全員が死亡している。わたしをふくめて、すでに二世の時代になっていた。それだけきょうだいがいても、日本にわたったのは文珍ひとりだけである。  父の父、わたしの祖父は農民だった。祖父が老齢だったせいかどうか、揚晴兄の父は、齢のはなれた末っ子の文珍を、まるでわが子のように溺愛《できあい》したらしい。「どうしても日本で勉強したい」という文珍を、長兄は必死でとめた。それでも文珍は、泣きながら何度も懇願したという。その末に、とうとう長兄が根負けしてゆるした経緯がある。長兄は「苦しいことがあったら、いつでもかえってこい」といっておくりだし、ながいあいだ文珍の部屋をだれにもつかわせずにあけておいたそうだ。  かたわらにいた色の白い中年女性が、揚晴兄になにごとかをうったえはじめた。声を震わせて、涙ぐまんばかりの形相である。怒っているようだった。揚晴兄が通訳した。理解するまでにそうとう暇がかかる。 「長兄がそういって送りだしたのに、三番目の兄が、『ぜったいに成功してかえってこい。そうでなければかえってくるな』といった。そのせいで文珍は病気になってもかえれなくて死んだのだ。わるいのはその兄である」  彼女はわたしの顔と揚晴兄の顔を交互にみながら、さらに声高に、その兄なるひとをののしっていた。何十年もまえの、ふるいふるいエピソードである。にもかかわらず、つい最近起きたことのように激越な口調で語ることに、むしろこちらがとまどってしまう。  同調するような声が周囲からあがった。うつむいて顔をそむける者がいた。ヒソヒソ私語をかわす者あり、そそくさでてゆく者もある。わるい兄なるひとの子孫も、ここにいるのだろう。でも、彼らもまた、わたしの大切ないとこなのだ。  このおおぜいの親族たちは、わたしのために一同あつまってくれたが、ふだんはあまり仲のよいあいだがらではなさそうだ。わたしの出現がきっかけとなって、もめごとでもはじまったら、と本気で心配になる。いとこ同士の仲はどうあれ、陳家は家族主義、長男主義というのだろうか、彼らの中心は長兄の長男である揚晴兄にちがいない。揚晴兄を頂点とした厳然たるヒエラルキーが、そこここに感じられた。 「その兄というのは、どのひとですか」  わたしは、わたしのなまえも記載されている陳家一族の家系図を揚晴兄にむける。父にかんすることは砂粒のようなことでも知りたい。けれど、ことばの壁は厚い。このていどの質問の意味が彼にはつうぜず、 「にいさんはわたしです」  とトンチンカンな返事がかえってくる。  それにしても暑い。まだ正午まえだというのに、太陽のはなつ光線にからだも脳も溶けだしそうである。  お昼どきになった。  みんなで食事にでる相談がまとまったようすだ。それを機にぞろぞろとかえっていく一群もいた。  玄関で見送りながら、もう二度と会えなくなるような寂しさがわきあがる。単なる幸運にめぐまれて対面した親族たちだ。あっけなく得た幸運だけに、またなにかの偶然で簡単にうしなってしまう、はかない縁のような気がした。ここがアメリカならどんなにいいだろう。さよならするときには、おたがいに肩をたたきあって抱きあえるもの。  わたしはまったく空腹を感じなかった。いぜんとして暑さまけから脱していない。しかし客のわたしが同行しないわけにはいくまい。  六台の車の分乗である。わたしは日本の黒の大型車に乗せられた。クーラーの通風口に、思わず抱きついて頬をすりよせた。冷気が肌にふきつけられて、生きかえったみたいだ。じっさい、わが親族たちの、暑さにつよいのには感心させられる。汗をふきふき、熱いウーロン茶を何杯でも喉《のど》にながしこむのだから。  ほんの数分でついたレストランは、クーラーのない開け放しの大衆食堂である。  茶色のシミだらけの壁、油煙がこびりつきススがぶらさがっている天井、金属でひっかいたような傷が無数についているテーブル。飲食店なのに、店内を大きな犬が元気よく走りまわっている。八卓あるテーブルのすぐ上方にはそれぞれ、黒々とした大きなハエが、何匹もいきおいよく円を描いていた。  客席がこのありさまなら、いったい調理場はどんな具合なのだろう。そしてマナ板は、器は、と思わず考えこんでしまう。  ハッ、ハッ、と息あらくはしゃいでとびまわっている犬は、むこうのひとの脚にぶつかり、こちらのひとにぶつかり方向をかえる。犬のこわいわたしは、生きたここちがしない。下半身がみえないのをさいわい、わたしは気づかれぬよう靴をぬいで、老人のように椅子《いす》のうえに脚を折りたたんだ。  つぎつぎにはこばれてくる料理は、ビーフン、焼きソバ風、野菜いため風、色つきジュース……暑い店内で、熱いものをおいしそうにたべる親族たちを横目にみながら、わたしはキャベツを一片、口にいれただけで箸《はし》をおいた。もともと食欲のないうえに、油と香辛料の味が舌になじまない。調味料の異様な香りも、わたしにはむりだ。真の本場物の味は、現地のひとの舌にだけあうものなのだろう。  この暑い国で、父もまた熱いものをたべて育ったのだ。  ホテルにチェックインしたのは、夜もふけて十二時ちょっとまえだった。  林氏がえらんでくれたホテルである。  セミダブルのベッドに四人用の応接セットがおかれていた。テーブルのうえにはウェルカムフルーツがあり、空間がひろい。なにより気にいったのはどこもかしこもピカピカにみがきこまれて、清潔なことだった。もちろんエアコンが快適さをたもっている。  昼食後、わたしはにいさんやらおじさんやらに交互につれられて、空気がかげろうとなって蒸発しそうななかを、とびまわったのである。  ことばがつうじないから、おたがいに無言のままだ。揚晴宅がステーションになり、一軒たずねるごとにひきかえして揚晴兄に報告をする。  一軒目は、『文珍とおなじ船で日本に渡った』というひとの家である。  揚晴宅のまえの川ぞいにすすんでから、車一台とおるのがやっとという路地をくねくね曲がった住宅街の奥にあった。「船のなかで、二、三回、文珍の顔をみただけ」と、そのひとはめんどうそうにいった。  二軒目は、『死んだ親戚が文珍のことを知っていた』ひとの家。  三軒目と四軒目は、揚晴兄にいくら説明をきいても、わたしにはチンプンカンプンだった。  たずねたところは、ぜんぶ文珍についてなんらかのゆかりのある人々である。だが、じつにあいまいな縁にしかすぎない。父のルーツさがしならばそれなりに貴重な人々だが、お骨になってしまった文珍については、だれひとり知らない。みんな首をひねるばかりだった。一軒たずねるごとにわたしは落胆し、すこしずつ期待を捨てることをおぼえていく。努力むなしくこの日、一日の行動は徒労におわった。 「いくらさがしても日本にはないのですから、お骨は台湾にあるにちがいないのです」 「台湾にはありません。日本にあります」 「親族は、お骨をとりに日本にきていないのですね」 「だれもいっていません」 「親族いがいの、台湾の父の友だちがお骨をもちかえっていることはありませんか」 「もしそうなら、遺骨をここにもってくるでしょう」 「その友だちが親族のことを知らなくて、どこかのお寺にあずけっぱなしにしているとか」  ひるまの揚晴兄とのやりとりを思いうかべてみれば、彼は知らなくても、わたしの想像どおり、お骨はやはりこの台湾で野ざらしになっている可能性がある。  雑草でおおわれた広い荒野。その片隅にポツンと石がおかれ、そのうしろにだれの心づもりか卒塔婆《そとば》が一本……そんな寒々とした光景がまぶたにうかぶ。  南国の暑さと、各所で初対面の人々と会い、まったく不明の台湾語を洪水のようにあびて、わたしは綿のように疲れきっていた。そのうえ食欲不振がつづき、夕食のさそいも辞退したので、おなかのなかには昼間たべたキャベツ一片だけというありさまである。途中のコンビニエンスストアで買ったミネラルウォーター一本だけで、一日をもたせたのだった。  わたしはバスをつかう気力もなく、汗もながさずにベッドに寝ころんだ。疲れに疲れた大脳はカラカラと無為な音をたてて、まとまった思考をさせてくれなかった。そうして眠りにもさそってくれない。明けがたの四時すぎに、やっとまどろみがやってきた。  それを中断したのは、ノックの音である。  八時である。ドアの外に、榮作兄が愛想のよい笑顔でたっていた。  昨夜の遅さから考えて、今日のスケジュールをどうして昼すぎからにしないのだろう。こんな約束をしたおぼえはない。でもわたしは、うんざりした気分をおいやって、もうろうとしたままドアをあけはなつ。  揚晴兄が昨夜「八時にむかえにいく」といったのかもしれない。いったにせよ、わたしにはつうじていないのが現実だ。昨日の一日だけでも、このようないきちがいが幾度もあった。  スーツケースをひきずり、フロントでチェックアウトをすましてから、わたしたちはまた台中の街にとびだしていく。揚晴兄の家がステーションになり、一軒まわるごとに報告にもどるやりかたは、昨日と同様である。行き先ごとにべつの親族に交替し、訪問先で知りえたことを揚晴兄に報告する。それをわたしは彼からきくのだが、手がかりといえる情報はいっさいない。わたしをふくめて陳家一族が総力をあげて、走り、訪問し、話をきき、そしてまたあらたなひとをたずねる、というくりかえしの連続である。みんなはたがいに交替するが、わたしひとりだけ出ずっぱりだ。この夜、わたしは揚晴兄の指示により、彼の家のちかくにあるホテルにチェックインする。  翌日。  例によって榮作兄のでむかえからはじまって、昨日とおなじ手順でわたしのスケジュールがうめこまれていく。  二軒まわってもどってきたとき、揚晴宅の応接間に、見知らぬ女性が息せききって走りこんできた。  彼女のかっこうをみて、わたしはたいそうおどろいた。いくらこの地が台中県の片田舎にすぎないにせよ、彼女はいまどき、ハダシだったのだ。年齢は三十代なかばだろう、顔もうすよごれていて身なりもまずしい。彼女の全身からまずしさがにじんでいた。わたしの父について、なにかを知っているらしい。いずれにせよ、勝手にきたのではなく、こちらがお呼びだてしたものである。  彼女は哀訴するような瞳をわたしと揚晴兄に交互にむけながら、懸命になにかを説明した。はえぎわから頬にツーッと汗がはしってもふかないくらい、ひたむきさむきだしの話し方だった。  話はほんの数分でおわった。この瞬間の揚晴兄の態度……。  彼は彼女が話しおえた瞬間、「もう用はない。いけ」とばかりにあごをしゃくったのだ。さも、けがらわしいひとを追いだすように。胸がどきんとした。  自分の時間をさいてくれ、わざわざ炎天下をハダシでかけつけてくれ、そのうえお茶のいっぱいもふるまわれずに、一生懸命しゃべってくれた彼女にたいして、わたしとおなじ血がそういう態度で応えたのだ。  揚晴兄にそのような態度をとられたのに、かえって彼女はすまなそうな表情をわたしにむけた。そうして、ひと呼吸おいて、また、太陽の熱をたっぷり吸いこんだアスファルトの道路に走りでたのである。わたしがわれにかえってかけよったときには、彼女のすがたはずっと先のほうだった。  わたしは彼女を追いかけたかった。「ありがとう」とお礼をいいたかった。そして、揚晴兄の無礼をあやまりたかった。涙がでそうだった。  揚晴兄のこのようなふるまいは、じつは今はじまったことではない。親族たちにものをいうときも、わたしにたいしてさえも、すべて命令調でおしつける言い方をする。乱暴なしゃべり方ではないのだが、なんとなく叱責されているような気にされてしまう。なにか自分ひとりだけ特別な人間だと、錯覚しているようだった。笑顔を一度もつくったことのないその顔をみることが、わたしにはだんだん苦痛になっていた。 「あのかたにお金でも貸しているのですか、家でも貸しているのですか。それともにいさんの会社で雇ってでもいるのですか」  皮肉にきこえるかもしれない質問が口をつく。 「ただの近所のひと」  木で鼻をくくったような返答に、わたしはだまりこんだ。  朝から何カ所もまわったこの日の最終スケジュールは、にいさんだらけの親族のなかでわたしのただひとりの「弟弟《テイテイ》」、三十二歳の青年と同行することである。どこのだれをたずねるのかは、わからない。すべての行動がおわってから、はじめて揚晴兄から自分が父のどんなゆかりのひとをたずねたかが知らされるシステムになっていた。  弟弟はわたしを、「照恵|姉姉《チエチエ》」とよんでくれる。彼は通訳として義妹(妻のいもうと)を同道していた。彼女は二十四歳で、日本の企業の台中支社につとめている。ニックネームはスー。日本語の力は、揚晴兄より格段にすぐれていて心づよい。  揚晴兄からいいわたされたところに出向いた調査が、思いがけなくはやくおわった。わたしたち三人は揚晴兄に隠れるように、喫茶店で腰をおちつけた。風がぴたりととまった夕刻である。 「照恵姉姉、どこかいきたいところある? どこにでもおつれします。義兄《あに》がそういってます。それとも疲れているだろうから、はやくホテルにかえりたい?」  わたしは若い小姐と日本語でおしゃべりできることがうれしく、また弟弟の、こころから姉《わたしのこと》の出現をよろこんでくれている人柄が気にいっていた。もうすこし一緒にいたかった。どうせわたしの時間は揚晴兄にしっかり管理されていて、自分の自由になる時間など、ないにひとしいのだ。 「この涼しいところでコーヒーが飲めるだけで、もう充分よ」  弟弟とスー。考えてみれば、わたしが気をつかわずに一緒にいられたのは、このふたりだけである。気がねも緊張もなく、そばにいるだけで気分がゆったりしてくる。 「もうすこしここにいられたら、それで充分」  スーはいたずらっぽい目でわたしをのぞきこんだ。 「わたしね、ひさしぶりに日本料理をたべたいの。姉姉がそういってると、義兄にいっていいでしょ」  思わずわたしは噴きだし、スーのほうも照れ笑いしながら弟弟に告げている。  弟弟は、即座にOKというしぐさをした。そうして伝票をつかんでたちあがりざまに、ふいにむずかしい顔をしてなにごとかをいった。こきざみにうなずきながらききいっていたスーは、あらためてわたしのほうにむきなおった。 「逃げちゃいなよ、姉姉。義兄がそういってるわよ」 「逃げる……」 「揚晴から逃げるのよ。分家の義兄のほうの親戚《しんせき》たちが、揚晴に手がかりなんかありっこない、といってるんだって。  揚晴は本家の跡取りなのに、文珍父娘になにもしなかったんだってね。だから体裁わるくて、ポーズをとって照恵姉姉をふりまわしているの。  こちらの親戚たちは、みんな照恵姉姉のことを心配しているのよ、朝から晩までひっぱりまわされているから。あれじゃ照恵さんのからだがもたないって、口々にいってるわよ。しかもろくなものたべさせていないって、みんな知っているの。みんなジーッと見てるのよ、はらはらしながら。  揚晴は遺骨のことはなにもわかっていないの。だからそばにいてもむだなの、姉姉をちっともだいじにしないし。だから、逃げちゃいなよ」  逃げる……なんという大胆な発想だろう。  わたしは事情をもっとくわしく知りたくて、スーを介して弟弟にたずねた。 「揚晴兄がお骨についてなにも知らないと、どうしていえるの」 「揚晴の父親の秋霖は貧乏で、文珍さんが結核にかかったときも仕送りをしてやれなかった。照恵姉姉が孤児院にいたことも、文珍さんからの手紙でちゃんと知っていたんだけど、どうすることもできなかったんです。だから秋霖は死ぬときに、『せめて照恵をさがしだして、台湾で暮らさせるように』と揚晴に遺言をのこした。それなのに揚晴はなんにもしないから、分家の親戚はみんな怒っているんです」 「お骨について、なにも知らないというのはたしかなのね」 「確実です。ぼくもふくめて陳家のだれも、何も知らないのです」 「それではいままで、わたしはいったい何をしていたのでしょう。からだをくたくたにして、炎天下うごきまわっていたのに」 「ぼくたち同情していたんです。揚晴の体面をまもるためだけの無意味な行動でした」 「揚晴兄いがいに、だれか知っている親族はいないのかしら。本家でも分家でも」 「本家が、日本に遺骨と照恵姉姉をさがしにいってないのです。なにもしていない。といったって、ぼくたち分家の人間が本家をさしおいてさしでがましい行動をするわけにはいきません。本家と分家の序列がありますから。だから、本家も分家も、遺骨についてはなにも知りません」  せっかく台湾にきたのに、知ることのできたのは、きくにたえないわが親族の実態だけであり、ほんとうに知りたいお骨のゆくえについては、手がかりがみじんも存在しないことが、真相だった。  気分をかえるように、スーがわたしの肩に手をおいて陽気にさけんだ。 「照恵姉姉、おいしいお刺身、たべにいこう!」  わたしたちは弟弟の運転で、すぐにわたしのホテルにひきかえした。そうして荷物をひきあげると、その足でべつのホテルにチェックインしてしまう。弟弟の提案どおり、わたしは揚晴兄の管理下から『逃げた』のだ。  あたらしいホテルは市内の繁華街にあった。わたしたちは、ホテルをでると、夜の繁華街をのんびり歩く。ネオンの洪水。街なかのざわめき。気分がはずんでくる。  弟弟が案内してくれた店は、イケスに魚がおよぎまわっている高級日本料理店である。 「こんな高そうなところじゃ、弟弟がかわいそうよ」  幼い子どもが三人もいるという若い弟弟に、あんまり散財させたくない。揚晴兄たちにつれてゆかれた大衆的な店のほうが、値段の気がねがなくていい。 「いいのよ、姉姉。わたしだってめったにこれないんだから。いままで姉姉がつれていかれた店は、田舎くさい店ばっかりじゃないの。東京からきたお客さまをおつれする店じゃないわよ」  スーは年に数回、東京に出張するから、東京の事情にくわしい。 「義兄が、まかせなさいって」  わたしたちは台湾ビールで乾杯をした。  エビのおどり、活鯛《いけだい》のおつくりなどがはこばれてきて、食欲が目をさます。料理のおいしさもさることながら、若い弟弟が精一杯わたしをもてなしてくれることがうれしい。  わたしとスーはおしゃべりに花をさかせた。深草《みぐさ》と話しているようだ。いままで行動をともにした親族はわたしより年上の五十代や六十代が多かったから、弟弟やスーのように若いひとが新鮮にみえる。 「わたし、陳家の親族ってきらい。だいたいなによあの揚晴ったら、えばりくさって」  スーがいいだしたのは、だいぶアルコールがまわってきたころだ。 「今日わたしと義兄が照恵姉姉をむかえにいったでしょ、揚晴の家に。そしたらあの揚晴が、『なんだ、おまえは』と、わたしをどなりつけたのよ。わたしが姉姉と日本語をかわしてたから、それが気にいらないの。あいつ、自分より日本語のうまいひとに、ものすごくヤキモチやくの、まえからそういうやつなのよ」  日本語のわからない弟弟は、ビールをたのんだり、追加のお皿をたのんだり、一生懸命サービスにつとめてくれる。みていると義妹のスーにもやさしい。 「義兄はほんとうにやさしいの。わたしはマンションでひとり暮らししているから、病気になるとたいへんなの。でもね、熱だして寝ているときも、この義兄が頭を冷やしにきてくれるのよ。肝心の姉は知らん顔」 「子どもが三人もいたら、なかなか家をあけられないものよ」 「それだけじゃないの、義兄は根本的に性格がやさしいの。照恵姉姉があらわれたときだって、揚晴は分家の人間に知らせなかったのよ。でも沙鹿はせまい町だから、ちゃんとわかってしまう。義兄は、おずおずと揚晴の家の敷居をまたいだの。『ひとめでいいから照恵姉姉に会わせてほしい』と。揚晴は、『なにしにきた。おまえなんか関係ない』と冷ややかにつっぱねたそうよ。それでも姉姉に会いたくて、会いたくて、孤児院で育った姉姉をねぎらいたい、できるだけもてなしたい、と義兄は涙をうかべていたわ。姉姉がみんなにかこまれて握手していたとき、義兄もこっそり隅っこにいたのよ。そして姉姉と握手したの。『姉姉と握手した』って、それはそれは喜んでいたわ。姉姉はおぼえてないでしょうけど」 「あのときは、わたしも頭のなかがカーッと熱くなっていて……。弟弟と今日はじめて会ったのかと思っていたけど、そう、二度目だったの。会えてよかった」  わたしはスーのグラスにビールをそそぐ。 「弟弟はどういう仕事をしているの」 「サラリーマンじゃないの。輸入物の雑貨商というのかな、アクセサリーや小物を輸入して販売しているの。ひとりでやっているのよ。そのうち大きな会社にしてみせるからと、いま節約してせまいところに住んでるの、わたしが遊びにいっても泊まれないくらいせまいの。三歳と五歳と小学一年と夫婦が、おりかさなって生活してる」  スーはからかうような瞳を弟弟にむける。 「今日は仕事をやすんで、わたしにつきあってくれたわけね。申しわけないこと」 「なにいってるの、姉姉ったら。義兄だけじゃないわよ、わたしだって会社やすんだのよ」  いける口のスーはビールをぐいぐいあけてゆく。 「あたりまえのことよ、仕事やすむくらい。だって、だいじな親戚があらわれたのよ。仕事やすんでも会いにくるのは当然よ。義兄は姉姉と血がつながっているけど、わたしだって親戚なんだからね、血はつながっていないけど。えーっと、いとこの妻のいもうと、という関係は、日本語でなんというのかしら」  胸に熱いものがこみあげてくる。ふたりになんといっていいのかわからない。わたしを親戚だと、そして一も二もなく会いたいものだといいきってくれる。しかも、出世途上の身なのに、このような高価なものでもてなしてくれ、ありがたさとうれしさで目がくらみそうだ。弟弟にこんなに遇してもらっているのに、わたしは弟弟になにをしてやれる姉姉なのだろう。 「義兄はね、姉姉のためならなんでもする、といってるわ。姉姉が悲しい目にあったり、つらい思いをすることが、いちばんいやだって。してほしいことがあったら、なんでもいってね」  裕司に先立たれてから、こんなにあたたかいことばをきいたことがないような気がする。このことばをきけただけで、台湾にきたかいがあった。わたしは涙ぐみそうになり、あわててうつむいた。 「親族のあたたかさを、今はじめておしえてもらった……ふたりから。弟弟やあなたにめぐり会えてよかった」 「照恵姉姉。親族だって、いいのとわるいのがいるんだからね。こころの底から情のあるひとと、ないひとがいるんだからね。血がつながっていたって、冷たいやつはいるんだから」  ふいに母の顔がよぎる。ついで武則の顔が……。わたしは武則に冷たい姉なのだろう……。 「あのね、ちょっと話があるの」  このことを話すと打ちあわせていたらしく、スーは弟弟に目くばせした。 「姉姉のおとうさんに、『えらくならなければ、台湾にかえってくるな』といったひとは、この義兄の父親なの」  弟弟は心配そうに眉《まゆ》をくもらせて、わたしの顔をはすかいにみつめた。そうしてから、肩をちぢめて視線を床におとす。 「そのこと、照恵姉姉は怒ってる?」 「とんでもない」  わたしは手を左右にふった。 「そのことばは、はなむけとしてもつかわれることばですよ。きっと父をはげましてくれたのよ。もしわたしの父と弟弟のおとうさんが、仲がわるかったとしても、きょうだいが多ければ気のあわないひともいるものでしょう、おたがいさまですよ。  それに、もう何十年もまえのことでしょう。恨むものですか、そんなこと。みんな当事者は仏になって、すでに二代目になっているのよ、わたしたちは。  弟弟にいってあげてちょうだい。そんなこと気にするなって。わたしにはちっとも怒る理由がないって。それより沙鹿にきて、こんなにおいしいものをたべたのははじめてだと、いってあげて。こんなにあついおもてなしをいただいて、こころから感謝していると」  スーの通訳をきいた弟弟は、肩の荷をおろしたように大きく息をはきだした。青年にしてはあどけない微笑《ほほえ》みがうかんでいる。首をすくめて、「謝謝」「謝謝」と何度もくりかえし、抱きしめたくなるほどいとおしい。  父のこの件はいとこ同士のあらそいの具にされていたにちがいない、つまり本家と分家の反目に。こんな幼稚なことを真にうけて、終始、低姿勢でいた分家のみんながいじらしくてならない。しかし本家と分家の対立は、どこの国にもあることだ。もし父の件がなくても、わが親族たちは他の理由をさがして対立するのかもしれない。  血。  美しい絶対性を信じられている血のつながり。底知れぬ不気味さを秘めている、血。  血が血をよんで愛しあう血筋、血で血をあらう争いをくりひろげる血筋。  あのとき——親族の存在を知ったときの、あの熱いたかまりは何だったのだろう。親族と遭遇したときの、あの感動の正体はいったい何だったのだろう。わたしの血がおなじ血を恋い、よんだのだろうか。  それならどうして、わたしの血が独自に、純粋に母をよばないのか。武則をよばないのか。  わたしは血を信じたいのか、期待したいのか。血のつながりに、真実ふかい意味はあるのだろうか……。  ふたりにおくられてホテルにもどってきたとき、わたしたちはびっくり仰天した。  なんと、揚晴兄がロビーにいたのである。そして、わたしたち、いえ、わたしを待っていた。彼はこのホテルを知らないはずだ。どうやって調べたものやら、まるで、わたしたちのあとをつけてきたみたいである。まさかそんなことをするわけもないが。  わたしたちをみとめて、揚晴兄はチェアからたちあがると、つかつかと歩みよった。  そして彼は、ああ、わたしの兄なるひとは、わたしの顔をみるなり、平然といいはなったのだ。 「照恵さん、なんでこんな弟弟なんかとつきあうんですか、こんな貧乏人と。カネもってないんですよ、貧乏人だから」  はじめてきく流暢《りゆうちよう》な日本語である。弟弟をさげすみの目でチラチラ盗み見ながら、憎々しげに語るこの日本語に、わたしはしんそこ圧倒された。  ちょっと立ち直れないくらいショックをうけているわたしを尻目に、彼はこんどは弟弟にむかって叱声《しつせい》をはりあげた。おどろいたことに、通訳としてかりだされたスーにむかっても。  大きなからだの弟弟はシュンとうなだれ、ならんでスーもうなだれている。スーが先ほどいったことが、耳のなかで鳴った。 「よっぽど揚晴に文句いってやろう、と思ったわ。でもわたしの立場は、分家の、しかも義妹でしょう。わたしが文句いったら義兄《あに》の立場がわるくなる。だからがまんしたのよ。ふつうだったら、『なんだ、おまえは』なんて口きかれたら、わたしぜったいケンカしてるわよ。陳家はね、異常に本家分家の序がきびしいの」  親族のなかでただひとり、ほんとうにただひとりだけ、「どこにいきたい?」と、わたしのこころをおしはかってくれた弟弟。そして、わたしのために仕事をやすんでくれたスー。  わたしは割ってはいった。 「揚晴にいさん、なんで弟弟をいじめるの。お願いします、やめてください」 「いじめてませんよ」 「だって、どなりつけているじゃありませんか。ことばがわからなくても、ようすでわかります。弟弟も、わたしのだいじな親戚なんですよ」 「こんなに夜おそくまで、照恵さんをつれまわしたことを注意してます」 「ちょっと待ってください。まだ十時にもなっていません。本家のにいさんたちと、あっちこっちとびまわっていたとき、十二時にホテルにかえったこともありましたよ」 「あれは遺骨調査です。あそびじゃありません。照恵さん、酒呑んでますね」 「はい、ビールをグラスに二杯ほど」 「女のくせに、なぜ酒呑むんですか」  四十をすぎた女が、グラスに二杯のビールを呑んだと詰問されている。ことばのかえしようがなく、さきにため息がもれてしまう。わたしは肩をすくめて、スーと目を見かわした。 [#改ページ]   11、|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》の青春  お骨をもとめて行脚《あんぎや》はつづく。  ぎらぎら太陽が照りつけるしたを、わたしを乗せた車はつきすすんでゆく。  白くまぶしい幹線道路は、果てまでつづくように思われる。飽きるほどまっすぐすすんだとき、ひょいと脇道にはいる。そこはちいさな商店街だ。地下の小都市の風景は、二十年くらいまえの日本のそれに似ていた。  歩道にテーブルをだしている飲食店は、油で揚げたパンが売り物である。時計店、ハンコを彫る露店商人、傘とバッグを売っている店。その一角にある電気工事店に、めざすひとはいる。  また、あるときは砂利まじりの山道をどんどんのぼってゆく。そまつな掘っ建て小屋にたちよってなにごとかをたずねだし、そうしてふたたびおなじ道をくだってゆく。めあてのひとは現在日本の神戸にいて、会えないことが確認された。  目にはるかな大空のなかに、くっきり映えているまっ赤な鳥居のある廟《びよう》を左手におれると、ながいコンクリートの塀がつづいている。右側には空き地と民家が交互にあり、そのむこうに造成中の土地がひろがっていた。土の色があざやかに朱《あか》い。たずねるひとは、その丘をこえたむこうである。  翌日も炎天下を走りまわる。  暑い夏のおとずれのまえに、すでに、ここ台湾は炎暑におおわれていた。  行動範囲は沙鹿《サロク》が中心だが、沙鹿はなにもない退屈な町である。若かった父が日本に渡った理由がわかるような気がした。  自分のしていることは徒労にすぎない。弟弟から真相をきかされたので、それをとっくに承知している。でも、もしかしたら、というかすかな、ほんのかすかな期待が、わたしを行動にかりたてていたのだ。  しかし、この徒労はいつまでつづくのだろう。  ホテルのベッドによこたわりながら、わたしは成田空港で加入した旅行者保険の小冊子を一枚ずつめくっていた。酷使のうえに酷使をかさねたわたしのからだは、ヘトヘトをとっくにとおりこしている。綿と化したからだから、細い繊維が一本、また一本と、はなれて宙に舞う。 (もうたおれるかもしれない)  もしここで、過労でたおれたりしたら、治療費は、入院費は、と不安がつきあげてくる。いてもたってもいられなくなり、つい深刻に考えこんでしまう。異郷の地で、ひとりぼっちで死んだ父の顔がうかぶ。わたしも、いまひとりぼっちなのだった。  あいかわらず食欲がなく、睡眠も不足し、そのうえ冷気あるところは移動する車のなかのみ。あとは長時間|灼熱《しやくねつ》のただなかにいるという状況がつづいていた。からだじゅうから水分が脱けおち、年寄りのように体力がおとろえている。 (もうたおれるかもしれない)  車のはいれない路地を歩きながらよろけ、料理店のまえをとおるだけで独特の香りに吐き、たった十分間たたずんでひとを待つだけで、膝《ひざ》がけいれんしてしゃがみこむ。  いまわたしのたよりになるのは、この手のひらにすっぽりはいる保険の小冊子だけだった。針の先でひと突きされると、パーンとわれてしまいそうに、心があぶなっかしくゆらいでいた。  |※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》。※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]、きこえてる。あなたはなんて子不孝な父親なんでしょう。むすめをひとりぼっちにして遠いところに逝《い》ってしまったうえに、それでも性懲りなくお骨まで行方不明にするなんて。  ※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]のお骨は、※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]の故郷にはないわ。これほどさがしたんだもの、ここにはないわ。  もう照恵はくたくたです。からだがいうことをきかない。風が吹くと、からだがよろけるほど痩《や》せちゃった。わたしはあなたの孫のために、元気で日本にかえらなければならないのよ。あきらめていいでしょ、※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]。もう、あきらめていいわよねえ。あなたをさがしだして、あなたを捨てた女の鼻をあかしてやりたかったけれど、もう、いいわよねえ。  たおれる寸前の過労の極にありながら、医者代を心配しつつ活動するのは、もうやめよう。  明日になったら揚晴兄に告げよう、お骨さがしはあきらめると。そうしてその足で台北にもどり、空港にむかおう。深草《みぐさ》のもとにかえろう。  朝八時だというのに、空はヒステリックな陽光をなげかけ天地をおおっている。ホテルから一歩でた瞬間、島国特有のぬれた空気が、全身をびっしりつつみこむ。それでもわたしは、いまはいくらかさっぱりした気分で、むかえの車に乗りこんだ。  ホテルから揚晴宅まではなんのへんてつもない道のりをたどる。あいかわらず※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]の国の人々は、信号を無視して車の間隙《かんげき》をぬい歩く。  揚晴兄がかわらぬ仏頂面《ぶつちようづら》ですわっていた。昨夜の決心を告げねばならない。もし慰留されても、わたしがたおれるのはもう時間の問題なのだ。  彼に会釈(おじぎの習慣のない彼らに、わたしはおじぎをする)しながら一歩ちかづいた。  その瞬間、いったいなんの啓示か、突如『上野のおじさん・おばさん』が、脳裏にクローズアップされた。胸がざわざわとはやりたった。こんな重要なことを、なんでいままで忘れていたのだろう。台湾の熱気と過労のせいで、頭の歯車がどうかしていたにちがいない。  わたしは最初の予定とまったくちがうことを、息せききってしゃべっていた。昨夜の無力感が嘘《うそ》のようにけしとんでいる。 「上野にあずけられたことがあるのです。おじさんは台湾人で父の友だち、おばさんは日本人です。知りませんか」  彼は、日本語が苦手なのか堪能なのか、はかりしれないところがある。どうかこの日本語がつうじますように。ひざまずいて、神に祈るような思いである。 「ここにいますよ、この沙鹿に。すぐちかくに住んでいます」  こにくらしいほどあっけない返事がかえってきた。  このひとことで、わたしはいきなり興奮のうずにたたきこまれた。  さがしものというのは、どうしてこう突拍子もないところから姿をあらわすのだろう。  今日のわたしの当番は、いましがたやってきたばかりだ。わたしは意気ごんで、にいさん、ねえさん、おばさんをせきたてて、外にとびだしてゆく。  遠い空のはてに、純白の雲がながれていく。樹齢数百年という大樹に目をうばわれるひまもなく車がとまった。  ほんの五、六分しかかかっていない。なんというちかさ……。  ちいさな石造りのアパートである。戦前に建てられたにちがいなさそうなほど、風雪をへたふるびた建物だ。  にいさんが扉をたたいた。その扉の上方に、『許育徳』という名刺が貼《は》ってある。このとき、いったい、いったい、わたしの頭はどうなったのだろう、脳の底に眠っていた記憶がまた突如、息をふきかえしたのである。  母が縁側にタライをおいて、洗濯をしていた。  母にひきとられてはじめて住んだC町である。わたしはなんとなくそばにたっていた。そこにどういうわけか、上野のおばさんがひとりでやってきたのだ。  あ、上野のおばさんだ、とわたしは胸のなかでつぶやいた。五、六年ぶりの再会である。でもなにもいわずに、ただだまっておばさんの顔をみていた。ふっとふりむいた母に、おばさんがなにかをいった。その瞬間、いきなり母が耳をふさぐほどの大声でどなりつけたのだ。 「かんけいないッ」  それは、ひとのこころを凍りつかせるような、あるいは斧《おの》で脳天を一撃するような、なんといったらいいのだろう、だれをもおじけづかせる敵意にみちた言い方だった。他人の子をある一時期おしつけられ育てたおばさんは、その問題の張本人から殴りつけるような怒声をあびたのだ。  おばさんの顔が蒼白《そうはく》になった。そのまましばらく棒立ちになっていた。  母はおばさんを完全に無視して、くるりと背をむけて洗濯を続行した。ややあって、おばさんは口ごもりながら、わたしにむかっていった。 「あなた、照恵ちゃんね」  いつもこんなやさしいしゃべりかたをするひとだった。わたしは、こくんとうなずいた。おばさんはやわらかな美しい微笑をのこして、わたしのまえから立ち去っていった。  そのおばさんが、ここにいるのだ。胸がわくわくした。  おばさんはすこし太っているの。そうして、女らしくてやさしいの。歌がじょうずだったわ。  わたしはひとりでブツブツつぶやいていた。心臓が破裂しそうだ。 「はーい」とはっきり日本語の女性の声が、奥のほうからながれてきた。おばさんにちがいない。わたしは足を一歩ふみだし、みえない奥にむかって声をはりあげた。 「おばさん? 上野のおばさんですか? 照恵です、陳照恵です」  えッ? 照恵ちゃん?  すぐそこまでちかよってきた声は、おどろきのなかにも、照恵という名をはっきりおぼえていると確信させる響きがあった。 「あら、照恵ちゃんだ。ほんとに照恵ちゃんだ」  目のまえにあらわれた女性が、一種、拍子ぬけしたような調子でいった。 「わかりますか」 「わかりますよ、ちいちゃいときからこんな顔してた。おとうさんにそっくり。あごのあたりなんか、生きうつしだわ」  彼女の目に、ふわりと涙がうかんだ。わたしは意外なことに、これほど鮮明な思い出があるのに、肝心のおばさんの顔をすっかり忘れ去っていた。  わたしたちは家にあがりこんだ。  四畳半ほどの部屋がふたつだけの質素な住まいである。ひと間にはベッドがおいてあり、もうひと間にはタタミが敷いてあった。そのタタミの部屋に総勢五人がすわりこむ。  わたしは父のお骨をさがしにきたことを報告して、それから両手をついた。 「おばさんはわたしの恩人です。父の力になっていただき、わたしまでひきとってくださった」 「いいえ、いいえ。あのころはわたしたちも苦しかったから、あなたにも思うようにしてあげられなくて。なにしろ上の子が学校にあがったばかりで、下の子が幼稚園、おまけにおなかのなかにもうひとりいたんですよ」 「子どもさんがいた? ぜんぜんおぼえていない」  なんということだろう。子どもがふたりもいて、そのうえ妊娠中の身で、生活が苦しいさなかに他人の子どもをあずかったという。血のつながった親族にさえ、かんたんにはできぬことだ。それを他人の身でありながら……どうやったら恩返しができるのか、とほうもつかない。 「C町にきてくれたことがありましたね、おぼえています」  おばさんはちいさくうなずいた。そうしてからわたしの顔をみつめた。口にだしていいのかどうか迷っているような眼だ。さっきわたしが思いだしたばかりのおなじことを、思いだしたにちがいない。わたしは先手をうった。 「わたしの母から、すごいけんまくでどなられたでしょう」  彼女は震わすように首をふった。わたしはもうひとおしする。そうしなければ彼女は口をひらかない——わたしの母を語るひとはだれでもこうだ。母をこころの底からこわがっている。 「こわい女だったでしょう」 「…………」  だれに話してもぜったいにひとには理解してもらえないわが母親の性格は、この目のまえにすわっているおばさんならわかるのだ。 「あんなこわいひとと八年も一緒に暮らしたのよ」 「八年……」 「あのとき、母がどなりつけたとき、おばさんはなにをいったの」 「あのときは、うちの主人にたのまれてお宅にうかがったのよ。わたしたちが台湾で暮らすことになったので、日本を発つまえに陳さんのお墓まいりしようと……陳さんのお墓はどこですか、とたずねたの」  彼女は同席している親族たちが日本語がわからないことを承知しているのに、ないしょ話のように声をひそめた。 「あなたのおかあさんの悪口になっちゃうけどごめんなさい。主人からいろいろきかされていたけど、まさかあれほどとは……。あの気の強さにはおどろかされましたよ。ほんとうにおそろしいくらいのひと。これじゃ陳さんがかわいそうだわ、とあのとき思いましたね」 「父のこと、かわいそうだと思ってくださったの」  手をあわせたくなるほど、うれしい。たったひとりでも父に同情してくれるひとがいた。そうでなければ父はうかばれないもの、いいことなどひとつもなくて。 「お骨をさがしているって、照恵ちゃん、あなた、R病院にいってみたの、おとうさんの亡くなった」  ふしぎそうなおばさんの声に、わたしはわが耳をうたがった。めまいがしそうだった。 「死んだのはK病院でしょう」 「なにをいってるの、S区にあるR病院ですよ、亡くなったのは」 「だってわたしはK病院でお葬式やってるんですよ、喪主になって」 「ああ、ああ、照恵ちゃんったらかんちがいよ、それは。おとうさんの亡くなった病院はR病院よ。わたしはお見舞いに何回もいってるのよ」  K病院ではない!  なんという錯覚なのか。わたしは錯覚のうえに乗って、からまわりの行動をしていたのだ。  なぜK病院と思いこんでいたのだろうか。K病院が結核病院としてあまりにも有名だからか。N町で暮らしはじめたとき、おなじ沿線上のK駅にあるK病院は、ぐっと身近に感じられたのに。  なさけないことに、お骨さがしは唯一《ゆいいつ》母親だけにきけないことがらだ。だからわたしは九歳までの幼いときの記憶(それもあまりにもあいまいな)をひとつ掘り起こし、そうしてつぎを掘り起こしながら単身で調査するしかなかった。だからこそあいまいな記憶どころか、この病院まちがいのように、まったくあやまったことが記憶の海のなかにまぎれこんだりもしたのだ。  ともあれ、最高の手がかりがつかめた。台湾にきて得た最大の収穫である。つい今朝しがたまで日本にかえろうとしていたことが、ひとごとのようだ。 「主人が夕刻にはかえってくるから、もう一度こられる? 一緒にごはんでもたべましょうよ。主人がどんなによろこぶかしら、照恵ちゃんがたずねてきてくれたなんて」  彼女は両腕をさしだして、ごく自然にわたしの肩を抱いた。女親がむすめにたいしてやるようなしぐさだ。  またひとつよみがえる。わたしを、このわたしを膝に抱きあげたり、抱いて添い寝してくれたり、目をのぞきこんでやさしく話してくれた女性は、古今東西、世界中で、この目のまえのおばさんただひとりではないか。まるで、おかあさん、だ。  お・か・あ・さ・ん  ああ、なんというやすらぎにみちたことばだろう。なんとあまい味のすることばなのだろう。わたしは生まれてはじめて、こころからあまえて、おかあさん、ということばを喉《のど》の奥でつぶやいた。  わたしは彼女の背なかに腕をまわし、ふくよかな胸のなかに顔をうずめた。わたしの顔が、彼女の体内にジグソーパズルのようにやわらかく埋まる。そうだ、このやわらかさなのだ、おかあさんというのは。子どもが抱きついたとき、自分のからだの肉をほんのひとけずりして、そのくぼみにちいさなからだを埋めこむことができるひとなのだ。  ああ、照恵ちゃん。いやあ、なつかしいなあ、おぼえてるさ、いくつになったの。へぇ、むすめさんがいるの。そう、高校生なの。それで、ご主人は……ああ、それは、それは。  あなたは家族運にめぐまれていないなァ、そうですか。しかし、こうしてみると、文珍くんの若いときにそっくりだ。ちいさいころはそれほどでもなかった、むしろ母親のほうに似ていたような気がするけど。齢とると父親に似るのかな。亡くなって何年になる。えッ、三十年? そんなになる。  台湾から日本にわたったいきさつだって? 忘れてないよ、もちろん。  あの当時、台湾の新聞には、東京の学校の『学生募集』の広告がよくのっていたんだ。  文珍くんは男四人、女四人のきょうだいの末っ子。そのなかでいちばんおとなしい性格だったね。いつでも借りてきた猫みたい。  でも八人のきょうだいのなかで、ちゃんと学校にいって勉強したのは文珍くんひとりだけなんだよ。あとはみんな、読み書きができなかった。あのころのお百姓はみんな貧乏だったからね、なかなか子どもを学校にやれなかったんだ。  あるとき彼は、王くんという友だちにさそわれて、「東京で勉強しよう」と決心したんだね。彼は『漢方薬店』で三年間もコゾー(小僧)やって、学費をためたんだよ。新聞をみた時点で、二年分の貯金がたまっていたから、こころのなかではずいぶんまえから決心していたんだろうね。東京にいったのは、この沙鹿からは、ぼくと文珍くんと王くんの三人グループともうひとりいたな。え、そのひとをたずねた? そのひとは船ではじめて会っただけだからなにも知らないだろう。  忘れもしない、昭和十二年七月七日、ぼくたちは胸をふくらませて日本行きの船に乗った。このころたしか、日本は中国大陸の侵略をはじめたんじゃなかったかな。でもぼくらにはぴんとこなかった、戦争がはじまったってことが。だって、みんなまだ、十六、七だもの、子どもなんだよ。  台湾仲間はぜんぶで十人くらいいたかな。船賃は四十六円だった、氷あずきが五銭の時代だ。  ぼくと文珍くんが入学した学校は、東京・本所にある『東京工業技術学校』。いまはもうなくなったらしいけど。ふたりとも機械科で、ぼくは旋盤、彼は測量が専門だった。王くんはべつの学校だ。  ぼくと文珍くんは、ふたりで寄宿舎にはいった。おなじ部屋だよ、いまでいうルームメイト。ぼくはそのころ、月謝と生活費と小遣いで一カ月に二十五円から三十円くらいつかっていたの。そう、それは結構な金額だ。ぼくは両親が十万円くらいもたしてくれたからね。  ぼくのうちは小作人をいっぱいつかっていたのに、戦後の農地改革でスッテンテンになった。お百姓はいい目をみたけど、金持ちがかわいそうだよな。  文珍くんは家が貧乏だったから、一銭もつかわない倹約の徒だった。倹約|居士《こじ》だよ。兄に金の無心をしたくないからと、一カ月十五円をかたく限度にしていた。兄というのは、揚晴さんの父親の秋霖《しゆうりん》兄だね。酒もタバコもやらない、あそびにもいかない、とにかく倹約、倹約で、いつも部屋にいた。外にでると金がかかるから。  なぜ日本の学校にいったかって? あたりまえだよ、台湾より日本の学校にあこがれるのは。沙鹿は田舎だもの、あの当時はみんな裸足《はだし》で生活していたんだよ。  日本のほうがずっとすすんでいた。子どもが日本にあこがれるのは当然でしょう。ぼくだって病気さえしなければ、台湾にかえってくる気はなかったよ。胃潰瘍《いかいよう》で入院したとき、手術代がなかったの。それで親に無心したら、『お金はだしてやるから、なおったら帰国すること』と、条件つきだった。それで昭和三十三年に帰国したんだ、いまの天皇が皇太子だったときのご成婚の前年じゃないかな。それからはじめてサラリーマンになったの。公務員だよ。  卒業したのは昭和十五年一月二十五日。  卒業しても就職口がなかったんだ、あの当時は。日本人でも口がないのに、台湾人はなおさらだった。ちゃんとした会社は雇ってくれない。経営者が台湾人なら、やっとつかってもらえるというあんばいだった。だからぼくたち台湾の青年は、どこか無力感にとりつかれていたなァ。卒業はしたけど、就職はなし……で。  でも、もしちゃんとした会社の社員になっても、初任給が三円くらいだから生活できやしない。そんなご時世だった。  文珍くんは卒業したあと、「昼間はたらいて、夜、法政大学にいく予定だ」といってたね。勉強が好きだったんだな、ぼくとはちがう。  生活状態は、むしろ戦時中のほうがよかったくらいだよ。ぼくも文珍くんも技術者だからね、中島飛行機という会社で、高給をもらっていた。どのくらい高給かというと、芸者屋に何日もいつづけられるくらい。結局、軍需工場しかはたらき口がないんだよ。  でもぼくは軍需工場がきらいで、すぐやめちゃった。いやなんだね、ああいうところは。  とにかく、命令ひとつでどこにでもとばすんだから。青森、仙台、呉《くれ》、王子、武蔵野《むさしの》、蒲田《かまた》。とばされてもまた半年くらいでとばされる。  召集令状? こなかったよ。  文珍くんは東京の軍需工場で、鉄筋の束を胸にぶつけて入院したことがあるんだ。肋骨《ろつこつ》を何本か骨折した。ぼくはこれが、後年、彼が結核にかかった遠因だとにらんでいるんだけどね。  発病したのは、結婚して照恵ちゃんが生まれたあとだよ。結婚生活というのは、肺に負担がかかるんだ。もともと頑丈《がんじよう》なひとではなかったからね。ああ、少年のころからヒョロヒョロしていた。  戦後は、台湾が戦勝国になっちゃったから、状況がかわってきた。台湾人や朝鮮人が差別されて、なかなか企業へ就職ができないのは戦前とおなじなんだけど、自由にかつぎ屋ができた。闇市《やみいち》時代だね、だれもかれもかつぎ屋をやって生きのびたんだ。だけどみつかったら、日本人は物を没収されて、ひどいときにはぶちこまれる。法律違反だもの。  でもぼくたちはつかまらなかった。警察がつかまえられないの、戦勝国の国民は。  ずいぶん足をのばしたなあ。仙台や青森にもいった。米・魚・するめ……。  荻窪《おぎくぼ》・|阿佐ケ谷《あさがや》・高円寺・吉祥寺《きちじようじ》……あのへんに台湾人が密集していた。そこからみんなよく東北地方にかよったよ、闇物資の仕入れに。  文珍くんが荻窪の駅まえで、雑貨店兼食料品店をひらいたのは、かつぎ屋でかせいだ金が元手になっているんだ。知らなかった? そう。なに、商才があったわけじゃないんだ、だって人見知りする性格だからね、商売は苦手なんだよ。声がちいさくてね、蚊《か》の泣くような声なんだ。恥ずかしがり屋で、男なのにすぐ顔をあからめるし。  だれがやっても、かつぎ屋はもうかったんだよ。けっきょくその店は、共同経営した友だちにだまされて、スッテンテンになっちゃったんだ。  それでもPXには出入りできたし、照恵ちゃんはふつうの日本人よりいいものたべて育ったんだよ。おやつにチョコレートをたべていた。日本人はそんなものたべられないよ。  知らない? そうか、照恵ちゃんはまだ一歳か二歳のあかん坊だからな。  中華そば店? それはぼくは知らないなあ。食料品店をつぶしたあとに中華そば店をひらいたのか。つきあいがときどき途切れることがあるからね、知らないこともあるよ。  日本語? 堪能にきまってるじゃないか。ぼくも文珍くんも、少年時代は日本人として育っているんだよ。小学校の国語は、そうさ、日本語だよ。文珍くんの日本名は、田川……えーっと田川なんといったかな。陳姓の家は、たいてい田川だった。  民国十一年(大正十一年)一月十八日、台湾で生をうけた陳文珍は、いまでいう高校生の時期に故国を出て、日本に留学した(昭和十二年当時、台湾は日本の植民地だったから、本土に勉強にいった、とすべきなのかもしれないが)。  十八歳の誕生日をむかえた一週間後に卒業し、昼間はたらきながら夜間大学にかよい、二十五歳になった昭和二十二年に、五歳年下の母と結婚、わたしが生まれる。父親になった文珍は、九年間父親として生き(わたしとともに暮らしたのは五年未満)、そうして三十五歳で死ぬ。日本での生活は約二十年間である。  持参した貯金をおろしながら勉強した時代、そうして昼間はたらいて夜間大学にかよった時代は、生活はくるしくてもそれなりに幸福だったろう。青年の勉学時代の貧乏など、ものの数ではあるまい。あかるい未来を思いえがき、その夢にむかって生きていた文珍の瞳は、きらきら輝いていたにちがいない。文珍の二十年におよぶ日本での歴史は、後半は惨憺《さんたん》たるものだったが、すくなくとも前半十年くらいは幸福だったと、祈る思いで信じたい。不幸になるために日本にきたのではなく、幸福になるために日本にきたのだから。 「父は、母と、どのようにして知りあったのでしょう」 「あ、それはぼくは知らないんだ。王くんが知ってる。結婚の立ち会い人みたいなことしたんだから。いまよんであげるよ、ちかくなんだ」  許おじさんが気軽にたちあがって、電話をかけにいく。  すごいスピードで糸がほぐれている。  父のことをなにも知らないわたしの目のまえに、父の実像が姿をあらわしていた。それならば、その、はじめて会う王さんがくるまえに、わたしのこころのなかにながいあいだ巣くっていた疑問をとかねばならない。許夫婦にしか、うちあけられないあのこと。わたしはひと息にいった。 「わたしは強姦されて生まれた子だと、母にいわれたことがあるのです」  おじさんの顔色がさっとかわり、唇をかんだ歯がむきだしになった。そうして、わたしの顔に厳しい視線をくいこませた。 「文珍くんはそんな男じゃないよッ」  どなりつけるような激しさに一瞬目つぶしをくらい、それにかえってわたしは救われた。「強姦っ子」と何度もののしられたことは、いまだわたしの臓腑《ぞうふ》に突き刺さったままなのだ。 「いいかい、照恵ちゃん。おなじ部屋に住んで一緒に勉強した親友のぼくにさえ、自分の意見を述べるときには、恥ずかしそうに目をふせる男なんだ。友だちに勉強をおしえるときなんか、おしえるほうが恥ずかしがって口ごもり、おそわるほうがえばってる。強姦なんて、そんなメチャクチャなことができる男じゃないよ」 「それ、信じていいんですね。わたしは強姦されて生まれた子ではないんですね」  彼は憤慨をにじませたまま、確信をもって深くうなずいた。 「ぼくは現場を見たわけじゃない。しかし、女性をむりやり犯すのはナラズモノのすることだよ、文珍くんはナラズモノじゃないよ、紳士だよ」  うれしさが胸いっぱいにひろがり、思わずとなりにいた許おばさんの肩に頭をもたれさせる。  彼女はわたしの頭をかきいだいて、耳もとでささやいた。あたたかな息がわたしの耳をつつむ。 「陳さんはそんなひとじゃありません。わたしにたいしても、とてもていねいなことばづかいをするひとでしたよ。とにかく温厚な性質なんだから、ぜったいにそんなひとじゃありません。照恵ちゃん、信じてあげなさい。疑ったら陳さんがかわいそうですよ。あなたが疑ったら、陳さんはうかばれないわ。  陳さんは、それはそれはあなたをかわいがっていてねェ。掌中の珠《たま》のように、あなたを愛していたわ。あなたがうちにいたとき、何回も病院をぬけだしてきたのよ、あなたの顔をみたくて。そうするとあなたの人相が、とたんになごやかになるんですよ。あまり笑わない子だったけど。陳さんにまとわりついて……抱きついたり甘えたりするんじゃないの、陳さんから一メートルくらいはなれたところでウロウロするだけなの。そして、じっと陳さんをみつめているのよ。とにかく、まっ黒な瞳を陳さんにむけているの。そのようすが忘れられないわ。やっぱり父娘だなァ、と感心したものよ。そんなおとうさんを、信じてあげなさい」  強姦、は嘘だった。わたしは強姦っ子ではなかったのだ。わたしがせっかんされたのは、運命、ではなかったのだ。  そう浮きたつこころの奥のほうに、ふと、ふしぎな寂しさがよぎる。  それは、強姦っ子のほうがよかったのに、というささやきである。  父は母を愛したのではない、ただ肉欲の満足のために母とまじわった。そのほうがわたしは救われる。父があのひとを愛してわたしが生まれたなんて、わたしはいやだ。父があのひとを愛したなら、わたしは父をゆるさない。腹わたがちぎれるほどつらかった母との八年間の生活が、父母が愛しあったところからスタートしたなんて、むすめのわたしへの冒涜《ぼうとく》ではありませぬか。  涙ぐんでしまったわたしの肩を、おばさんの手がいとおしむようになでた。わたしをなぐさめるためか、おじさんは力づよい声をはりあげた。 「やさしすぎるんだよ、陳くんは。はがゆいくらいひっこみ思案なんだ。女性のいいなりになってしまうような男だもの。女房があかん坊を殴ったって、とめられないんだから」 「母はわたしがあかん坊のときから、暴力をふるっていたんですか」  初耳である。よもや、あかん坊にまで……。  ふっと、母にたいして同情がわきあがった。自分の腹をいためた子を愛せないなんて、なんて不幸な女なのだろう。まして、愛せないどころか虐待のかぎりをつくすなんて、どこまで幸うすい性分なのだろう。暴力の恐怖を子どもにあたえて、彼女は真に幸福だったのだろうか。  わたしは施設からひきとられるまで、彼女が父に暴力をふるっていた姿は脳裏にやきついていたが、自分自身に暴力をふるわれたことはまったく記憶にない。彼女の暴力癖は、わたしをひきとった、彼女が三十歳のころからはじまったのではなかった。もともと暴力癖のある女なのだ。 「照恵ちゃん。あなた、ひたいに傷がない?」 「あります、ここ。これはなんだろう、とずっと気にかかっていました」  わたしは前髪をめくりあげて、はえぎわにある傷をむきだした。髪のなかからひたいにかけて、まあるく湾曲した傷である。 「その傷はね、おかあさんがハイハイしていたあなたを、足で蹴《け》りとばしたときの傷。あかん坊だもの、おとなに蹴とばされたらひとたまりもないよ。あなたはマリのように部屋からふっとんで、外にころがり落ちたんだよ。落とすまで三回も蹴ったというのだから、正気の沙汰《さた》じゃないね。そのとき地面におちていた貝殻が、ひたいに突き刺さったんだ。その傷だよ。たしか、五、六針ぬったはずだ」  こういうかたちで積年の謎《なぞ》がとけても、むなしいだけだ。母のベールが一枚はげおちるたびに、わたしと父の不幸な歴史が証明される。気のよわい病弱な男が、女にいいように攪乱《かくらん》されていたのだ。父のよわさにも、原因のひとつがある。妻の暴力を、なぜ男がおさえられない。自分の身にかけても、なぜあかん坊のわたしをまもらない。 「あのひとは、精神異常、なんだ」  精神異常……病気がさせたこと、というのだろうか。あの八年間、思春期の時期に苦しみを血であがない、涙をふりしぼって生き、そしてこの齢までいまだ苦悩をかかえているわたしの人生は、病人あいてのただの徒労だと……。  精神異常ということばは、思ってもみないほどの衝撃をわたしにあたえた。  わたしもながいあいだ、うすうすそうは思っていた。思っていたのだ。しかし第三者の口からいわれると、両手ひろげて否定したい衝動にかられる。とんでもないことだ。彼女は精神を病むほどピュアな人間ではない。断じてそうではない、断じて。 「ほんとによくぶたれていたよ、照恵ちゃんは。よくみたよ。かわいそうだった」  そうでしょうね。わたしもよくみましたよ、八年間たっぷり。  わたしはわざとおどけて笑った。 「父は発病してからは、はたらいてないでしょう。おじさんからさぞ、お金借りたのじゃありませんか」  この質問にたいして明確な回答をえたら、時代のながれを考慮して、その十倍は返済しようと、わたしはとっさに判断していた。一万円といわれたら十万円を、五万円といわれたら五十万円を。文珍のむすめとしての当然の責務である。  おじさんは苦笑しながら手をふった。 「ない、ない。そんなふるいこと、忘れた。もしあったとしても、時効だよ」 「だって病人だもの、借りていると思うけど。親族から一円も送金がなかったし。それに、わたしをあずかってくれたとき、父はわたしの養育費をお支払いしてないでしょう、たぶん。あのころの父は、刀おれ矢つきたような状態だったから」  わたしのことばは途中でさえぎられた。おじさんはきっぱり否定した。 「あなたの養育費なんて、もらったかどうかも忘れた。それに、ちいさいあなたがどれだけたべるか」 「でも、毎日おこづかいまでもらっていたこと、ちゃんとおぼえているんですよ」 「そんなもの、いくらでもない。とにかく、なにがあっても時効だよ、あなたが心配することはなにもない」 「そうですよ、そうですよ」  おばさんまで合いの手をいれる。  わたしと父にはさんざん迷惑も損害もかけられたにちがいないだろうに、なにもない、とあっけらかんという。なんという夫婦なのだろう。父は彼らにどんなにすくわれたことか。  金額を提示されたら、わたしは月賦ででも返済する覚悟だった。父の借金はわたしの借金。むしろその返済をすることが、父にたいしての供養《くよう》になる。わたしはこころはずませながら、一生懸命返済するだろう。 「でも返したいな」 「時効だ」  おじさんは、つよくいいきった。苦笑をとおりこして、歯をみせて笑いだしていた。  ふいに楽しい考えがうかぶ。父が天からおりてきたみたいだ。父は命ずる。  わがむすめ、照恵よ。もし借金額の提示があったら、おまえはそれを返済してヤレヤレと肩の荷をおろしてしまうだろう。そうしたらそれっきり、恩人夫婦との縁が切れてしまうことになる。提示がないからこそ、おまえは一生恩返しをせねばならぬのだ。許夫婦には、できるだけのことをしておあげ。※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]のぶんもたのむよ。その恩返しは、おまえにとってはきっと親孝行とおなじ意味だ。親孝行は、するほうが幸せなんだよ。  親孝行ということばと無縁に生きてきたわたしの殺伐とした人生は、後半になってから、甘美で華やかなものに彩《いろど》られるのだ。 「わかりました。借金は時効にしていただきます。そのかわり、時効のない孝行を……」  自分がうきうきとはずんでいることがわかる。わたしの人生、捨てたものじゃないんだ。おじさんとおばさんを、親だと思ってだいじにしよう。  三人で食事しているレストランが、親子だんらんの茶の間のような気がしてくる。豪華ではないがこぎれいなこの店を、しかと焼きつけておこう。  王さんがあらわれたのは、おじさんが電話でよびだしてから一時間とたっていないころである。  おじさんが気をきかせて、わたしのとなりの席をあけてくれ、そこにおさまった。  王さんはあから顔でまるまる太っている。背の高いスマートなおじさんとは対照的だ。陽気にしゃべり、よく笑い、彼がいるだけで座があかるくなる。ニットの機械をあつかう中小企業の経営者である。 「おれはいったんだよ。女きょうだい四人(よったり、と発音した)のうちで、だれがいちばんきれいか、ってね。そうしたら、文珍くんったら、顔をまっ赤にして照れるんだよ。いちばんきれいなのを、おれが嫁にもらってやるから、いってみろ、としつこく迫ってやったら、蚊のなくような声で、みんなおなじだよ、とつぶやいている。だからおれが、みんなおなじにきれいなのか、きれいじゃないのか、と——」  店じゅうのひとがふりむくような大声で冗談をいう。わたしは手をたたいて笑いころげる。こんなに陽気な人柄なら、さぞ生前の父も楽しい思いをさせてもらったことだろう。  九時になると、わたしの親族がここにむかえにくることになっている。その時間を気にしながら、わたしは王さんにむかって本題ともいうべきことを口にした。 「文珍くんとおかあさんがどこで知りあったかって?」  王さんは、ちょっとあらたまった顔をつくって、うーん、とうなった。わたしは彼の顔をじっとみまもる。彼はひたいにシワをよせて首をかしげ、いっていいのかどうか迷っているふうだった。  やはり両親の結びつきには、なにかある。ふたりが月並みに恋愛をして結ばれたとは、わたしには信じられないのだ。深草も、「おじいちゃんは恋愛して結婚したの」と、ふしぎがっていた。 「文珍の遺児が、はるばる台湾まできたんです。なにをきいてもおどろかないから、おしえてください」  王さんははにかんだように、チロッと舌をみせた。そうしてなにを思ったか、わたしの右腕を自分のほうにぐいとひっぱった。からだがななめにかしぐ。彼はわたしの手のひらをこするようになでながら、ひょいと親指をつきたてた。みにくいヒキツレがさらされた。許夫婦の視線が吸いつく。 「この指……このヤケドねえ、おれがわるいんだよ」  王さんはしみじみと、ため息をついた。いまヤケドと知らされたその痕跡《こんせき》から、わたしは目をそらせる。王さんはなおわたしの手首をにぎったまま、ヤケドの跡をさすっている。 「あのとき、おれがむかえにいったとき、ひとあしちがいで文珍くんはでたあとだった。  母親が部屋の中央でこわい顔して仁王立ちになっていた。  照恵ちゃんは涙をぼろぼろこぼしながら、『ココ』、『ココ』と泣きさけんでいるんだ、自分のおさげの先っぽを突きだして。  母親が照恵ちゃんにローソクの火をつけようとしてたんだよ。そうしたら、照恵ちゃんはりこうな子だよ、からだに火をつけると熱いから、どうかここにつけて、といって、おさげを差しだしていたわけだ。  あの家は玄関のガラスが透明で、外からみえるんだ。さわぎをききつけて、近所のひとたちが、おおぜい集まっていたよ。だって、照恵ちゃんが悲鳴をあげて泣きわめいているし、母親が『火をつけてやるッ』と、大声でどなりちらしているんだもの、外につつぬけなんだ。  おれはあわてて部屋のなかにとびこんだよ。そしてとめたよ、必死で。でも母親はおれに『でていけッ』とどなるだけで、消えちゃったローソクにまた火をつけなおすんだ。そうして照恵ちゃんに、くっつけようとする。照恵ちゃんはぺたんとお尻をつけたまま、部屋のなかを壁にそってずるずる逃げるんだ。せまい部屋だからすぐいきどまりになる、そうするとからだをぎゅっとまげて、横の壁ぞいに、部屋の四辺をぐるぐる逃げまわるんだ、お尻で。まるでゴキブリみたいに。『ココ』、『ココ』と泣きながらおさげを突きだしてね。  母親はローソクの火が消えないように、手のひらでこうして風をさえぎって、照恵ちゃんをそろそろ追いかける。  そこに男のひとがとびこんできたんだ。『あんたはなにやってんだ、照恵ちゃんはまだ二歳の赤んぼじゃないかよ』というなり、興奮して母親につかみかかったんだ。近所のひとじゃないかな。その男が母親を殴ってもしようがないから、おれはそのひとをなだめて、外につれだしたんだよ。その間たかだか十秒だよ、たかだか十秒のあいだに、母親は照恵ちゃんのこの指にローソクの火をおしつけたんだ。だから、このヤケドはおれのせいなんだ」  王さんはがっくり肩をおとしてうなだれた。指がはずれた。  わたしは彼の肩をゆさぶった。 「王さんのせいじゃないわ。あのひとは、ああいう女なの、どうしようもない女なの。あのひとのしたことが、王さんのせいだなんて、ぜったいに思わないでください」 「おれ、すぐそばにいたひとに『なんでとめないんだよッ』とどなりつけたよ、中年のおばさんだったけど。そのひと、目に涙をいっぱいためて、歯をガチガチいわせてた。おそろしくて歯の根があわなくなってたんだ。ほかのひとがいってたよ。『とめられるひとですか、あのおそろしいひとが』。なにしろあの母親ときたら、鬼のような顔して、すごい気迫だもの、まわりのおとなたちがカタカタ震えてる」 「…………」 「女の子のからだに傷がついたんだもんな。文珍くんに、おれ泣きながらあやまったよ」 「父はなんといってました」 「こういうことは、はじめてのことじゃない、といってなぐさめてくれた。彼女は文珍くんのまえでも、おなじことをしたことがあるらしい。そのとき文珍くんが、『もし照恵に火をつけたら、ぼくがおまえに火をつけてやるからな』とおどかしたそうだ。だから、文珍くんのいないときにやったんだな」  おばさんがハンカチを目にあてた。おじさんは腕ぐみして目をとじている。悲惨な話をきかせてしまった。 「王さん。わたしの父と母は、どうやって知りあったんでしょう」 「そう、その話だったね」  王さんはまぶしそうに目をしばたいて、首を上下に大きくふった。 「強姦されたんだよ、照恵ちゃんの母親は」  サァーッと血の気がひいた。眼のなかが、まっ白になった。 「あのとき、ぼくと文珍くんは、池袋の西口を歩いていたんだ。西口はバラックの店がひくい軒をつらねていて、通りの照明がうす暗い。そこを歩いていたら、ちょっと遠くのほうから女のひとの悲鳴がきこえた。すごい悲鳴だった、殺されそうな悲鳴だったよ。  びっくりして、ふたりで声のするほうに走っていったんだ。ところが裏道の路地がすごく入りくんでいて、すぐいきどまりになっちゃう。道幅もこんなにせまい。それで、あっちだ、とあっちに走り、こっちだ、こっちだ、と路地から路地をかけぬけて、彼女をやっとみつけたんだ。むこうのほうで、タッタッタッと何者かが逃げていく足音が遠ざかっていた。  彼女……豊子さんといったな、衣服がぼろぼろに裂けていたよ。血をポタポタたらしながら、こちらにむかってよろよろ歩きはじめたところだった。目がうつろになって、放心していた。かわいそうだったよ。  でも、なんであんなうす暗いところを女ひとりで歩くんだろう。女のくせに不注意だよな。ほら、あのひとは目立つでしょう。目のまわりまっ黒に描いて、こんなに胸があいてるワンピース着てるんだもの、あれじゃチンピラはよろこんでひきずりこんじゃうよ。  ぼくたちは金もないのにタクシーを奮発して、彼女をぼくの下宿につれていった。ふとん敷いて寝かせてね。文珍くんは、『かわいそうだ、かわいそうだ』といって、目をうるませていたなァ。彼女がシクシク泣いていたからね、もらい泣きだよ。  それで文珍くんは、一睡もしないで看病してやったんだよね、ぼくは寝たけど。そして翌日になって、文珍くんは古着屋にいって婦人服を買ってきたんだ。自分も金がなくてこまっているくせに。そのやさしさにほだされて、豊子さんが夢中になっちゃったんだよ」  こんどこそ、ぴたりとわたしの呼吸が停止した。 「それじゃやっぱり、わたしは強姦されてできた子なんですか。しかも、文珍の子じゃなかったんですか」  ワッハッハ、と、あたりをなぎたおすような豪傑笑いがとばなかったら、わたしはどうなっていただろう……。 「それはだいじょうぶ。照恵ちゃんは、まちがいなく文珍くんの子どもだ。だって照恵ちゃんが生まれたのは、その事件から二、三年はたっていたもの」  わたしは肩がもちあがるほど、大きく息をすいこんだ。あ、台湾の空気だ、と思う。  強姦の疑いをきれいに払拭《ふつしよく》してくれた王さんにたいして感謝の気持がふくれあがった。思わずわたしは両手をさしだしていた。王さんはそのわたしの手をにぎると、子どもみたいに、ブランコのように大きくゆすった。  ゆうら、ゆら。  ゆうら、ゆら。  彼のまぶたの裏には、二歳のわたしの泣き顔が、いまだに映っているのかもしれない。わたしと王さんは、しばらくのあいだ、つないだ手と手をゆすっていた。  にいさんの運転する車の後部シートにからだをあずけながら、わたしは王さんの最後のことばを反芻《はんすう》していた。 「豊子さんは、すっ裸になって文珍くんにせまったというよ。でも彼女がいくら熱心になっても、文珍くんは逃げ腰だったんだ。『自分はまだ勉学中の身で、しかも貧乏だから幸せにしてやれない』と。本音ではおなじ台湾人と結婚したかったんだろうなあ。ところがあかん坊ができちゃった、照恵ちゃんだよ。  台湾の山のなかからポッと出てきた田舎の青年が、東京のあんな色っぽい女にせまられちゃ、ひとたまりもないんだ、ほんと。木石のような文珍くんも、美人の色香には負けた、というのが真相だろうな。結婚してくれなきゃ文珍くんを殺して自分も死ぬ、と半狂乱になってせまられれば、文珍くんだってほこをおさめるんだよ」 [#改ページ]   12、故郷《ふるさと》ふたつ  東京S区のR病院の名を収穫としてもちかえったわたしは、待ちかまえていた揚晴兄にさっそく報告した。 「やっと、重大な手がかりをえました。すぐにもお骨がみつかる気がします」 「みつかったら台湾にもってきなさい。お墓をつくります」  意外な発言に、一瞬のけぞりそうになった。父のお骨が横どりされる気がした。父のお骨はわたしだけのものではなかったのか。 「分骨すればいい、分骨してもってきなさい」 「分骨……。そんなことができるのですか」 「おじさんたちも、ほかのにいさんたちも、みんなそれを願っています」  ふにおちないまま、なんとなくわたしは了承させられていた。  台中県沙鹿に別れをつげて台北にもどったのは、その翌日である。  地方にいるより都会のほうが、わたしには居心地がよい。一度みただけの台北市内の風景が、たまらなくなつかしい。商店の看板がむずかしい漢字だらけでなかったら、東京と錯覚してしまいそうだ。  マクドナルド、セブンイレブン、そごうデパート、それをとりまくひとの群れ。微風の香り。ギャルたちのファッションの色とりどりの原色が南国らしい。  わたしはお線香を買うことを思いつく。台湾のお線香はダイナミックで、花火のようにながい。三十センチくらいはありそうだ。灰がおちるときには、さぞかし周囲をよごすことだろう。東京にかえりさえすれば、お骨はすぐにみつかるのだ。はじめてたむけるお線香は、ぜひ生まれ故郷のものにしてやりたい。  林氏とホテルのラウンジでおちあった。数日ぶりにあったわたしたちは、まるで旧知の友のように親しみをましていた。 「僭越《せんえつ》だけどね。気になったことがあって、ちょっと調べたんですよ」  林氏が胸の内ポケットから茶封筒をとりだしたのは、窓が茜《あかね》色にそまったころである。わたしは食欲をとりもどして、熱いコーヒーを飲みながらホットケーキをたべていた。 「あなたのおじいさんはお百姓だから、イサンがあるはずだと」  イサンが遺産にむすびつくまで時間がかかった。思いもよらぬことだ。ひとひとり死んでも、だれも骨を拾いにこない貧乏親族に、なにが遺産だと思わず失笑してしまう。 「考えたこともありません。あるわけないじゃありませんか」 「ところが、ありました」  林氏は封筒のなかの書類の一通をわたしのほうにむけた。中国の漢字がびっしりならんでいる。林氏の顔がきゅっとひきしまっていた。緊張がはしり、胸がさわぎはじめた。 「もし遺産がほんとうにあるなら、それでわたしの恩人夫婦の家が買えるかしら。おじさんがもうじき定年だから、いまいる官舎を出なければならないのです」 「…………」 「陳文珍の遺産なら、とうぜんその夫婦に権利があります。父をたすけてくれて、わたしまでめんどうみてもらったのだから」  わたしは許夫婦と再会したことを、くわしく説明した。 「台湾の財産は台湾においておきましょう。許夫婦にぜんぶあげちゃいます」  父の遺産で同胞の恩人が幸せになれるのなら、父も本望だろう。  林氏はちょっと眉《まゆ》をひそめて、笑いだすみたいに唇を片側にゆがめた。 「はっきりいってしまいましょう。文珍さんが日本で入院しているときに、父親が亡くなっているのです。ですから当然、文珍さんは、法律上、遺産として土地を相続している。ほら、ここの一区画です。しかしその土地は、現在、揚晴さんの名義になっている。文珍さんから揚晴さんに、名義が変更されている。揚晴さんが横領したんです。  そしてね、残念だけどもうどうにもならないんだ。遺産横領が、すでに時効になっている。告訴などいっさいの反撃が不可能です。ぼくは律師(弁護士のこと)に調べさせたんだ」  林氏はそういうなり、書類をバンと手のひらでたたいた。口惜《くや》しそうに唇を吸いこんでいる。  遺産、横領、時効と、ききなれぬことばが羅列されて、わたしはぽかんとしていた。  ふいに、新聞やテレビであれほど報道されている中国残留孤児の日本人親族が、なぜあらわれてこないか、その理由がわかるような気がした。もし、その孤児に権利のある財産を横領していれば、なのりをあげるわけにはいかないだろう。 「ご親族の悪口をいっては失礼だけど、ぼくは揚晴さんに会ったとたん、不愉快になったんだ」 「…………」 「ぼくがあなたをはるばる台北からつれていってるのに、礼のひとつもいわないで、顔をみるなり『ふたりはどういう関係なんだ』とぼくに詰めよったんだ。無礼だよ、まったく」 「わたしだけ車のなかで待っていたときですね」 「男女の関係を疑ったんですよ」 「なんでまた、そんなとっぴな」 「男と女がいると、そういう連想しかできない下品な人間なんだよ。ぼくはよっぽど、そのままかえろうかと思ったよ、ふだんならそうするさ。ぼくは下品なひとはきらいだ。でもまだあなたが親族と対面していなかったから、がまんしたんだよ」 「そんな不快な思いをさせていたなんて……ごめんなさい。あの揚晴兄というひとは、わたしも、どうもわからないひとなんですよ」  わたしはもう一度、ごめんなさいと頭をさげる。彼は照れくさそうにニッと笑いながら、 「いや、いや。あなたがあやまることじゃないよ。ところで、あなたはだいじにされたの、揚晴さんから」  わたしがとまどい答えあぐねているうちに、彼は、やっぱり、というふうに首をふった。 「どうも、くせものだねェ、あの揚晴さんは」 「わたしもすこし……苦手かな。だいたい日本語にしても、ささいなことがつうじなかったり、そうかと思うとたいへん流暢《りゆうちよう》だったり、わけのわからないところがありますね」 「揚晴さんは、きっと日本人とのつきあいがないんですよ。つかっていないと、語学は忘れるからね」 「でも自分たちのなまえを日本語読みにしてくれたのは、ありがたかったです。中国語の発音って、むずかしいですもの」 「はじめての対面がすんだとき、あなたが『台湾元もってないから、どこかで両替しなくちゃ』とつぶやいたよね。そのとき揚晴さんが、『銀行にいけばすぐできるよ』と返事したんだ。おぼえていない? そう。ぼくはあきれちゃったね。いもうとが自力でさがしあてて、たずねてくれたんだよ。ほんとうは男の揚晴さんがしなければならないことを、いもうとが女の身でやってくれたんだよ。それならどうして、台湾元くらいあげないのよ。もしぼくが揚晴さんとおなじ立場だったら、いもうとに台湾元なんかいくらでもあげますよ、百万でも二百万でもあげますよ。両替なんかさせないよ。日本円はぜんぶもってかえらせる。男の恥だよ。本家の長男としても恥だよ」 「だってわたしは最初から頼る気なんてなかったですもの。自分のことは自分でしますよ」 「あなた、お金もらってきた?」 「まさか。なんでお金なんかもらうんですか」 「やっぱりね。じゃ、沙鹿にいるときのホテル代くらいは払ってもらった?」  わたしは困惑しながら首を左右にふる。林氏のいわんとすることが、いまひとつピンとこない。 「なに、あなた、ホテル代まで自腹なの。おどろいたねえ。かえりの航空券は買ってくれたの。えッ、航空券まで自前ですか、ひどいな。食事をごちそうしてもらった? あッたりまえでしょ、そんなこと。どうせおおぜいでたべるんだから。それが、あれだけたくさんいたにいさんたちのやることなのかねえ。じゃ、お金だいぶへったでしょう。かわいそうないもうとだ。エエッ、おみやげももらってないの?」 「だって、わたしだって日本からおみやげもってきてないもの。すこし体裁わるかったですよ」 「ちょっと待ちなさいよ、それは話がちがうよ。あなたがおみやげもってこなかったのは、あたりまえだよ、親族がいることを知らなかったんだから。  ほんとに、もらってないの? ウーロン茶の一斤(五百グラム)も? なにも? なんだよ、それは。あきれちゃうなあ、それが親族のやりかたかよ。台湾人の恥だね、まったく恥ずかしいよ。  あのね。本家の長男というのは、|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》とおなじなの。弟妹のめんどうをみるものなんだ。だから弟妹のほうも、長兄にはさからわない。そうでしょ、服従したでしょう。台湾にはそういう伝統があるんだよ。はるばる日本からきたいもうとに、航空券やホテル代はおろか、おみやげももたせないなんて、台湾男児の恥だ、大恥だよ。陳一族のにいさんたちは、顔あげておもて歩けないよ」 「本家の長男がやらないことを、分家の人間がやるのはさしでがましい行為ですって?」 「そうですよ。だから長兄は、あっちに気をくばり、こっちに気をつかう。それでみんなから、いちもくおかれるんだよ。  あのね。ほら、ぼくがそそくさとかえったでしょ。あなたは泣きそうな顔してたけど……。あのときね、ぼくは揚晴さんから『あなたは仕事がいそがしいでしょうから、もうかえりなさい』と追いだされたんだよ。どうも、ぼくをけむたがっている感じがした。  それでピーンときたんだ。日本からたずねてきてくれたいもうとに『両替につれていく』なんて冷たいことをいったり、ぼくを追いだしにかかったりしたのは、こいつ、なんかうしろぐらいものがあるな、と。だから、遺産を調査してみようと思ったんだ。図星だったねえ」  外はすっかり暮れていた。二杯目のコーヒーがほんのわずか、カップの底に輪をつくっている。あかあかと茜色に染まっていた窓が、いまは反射鏡のように外のネオンをきらびやかに映しだしていた。風がすこしでてきたようだ。室内は快適さを忘れてしまうほど、ほどよい温度をたもっている。  林氏が声のない声で、ぽつんとつぶやいた。 「遺産横領ねェ……」  いつのまにかふたりとも黙りこくっていたようだ。 「おとうさんの遺体を、なぜ親族がうけとりにいかなかったのか、それもふしぎなんだよねえ。日本で亡くなったことが、そもそも親族の恥なんだよ。ふつうはまわりからいわれるよ、そんなに悪くなるまえにどうして台湾につれかえらなかったのかと。  事故で急死したのではなくて、結核で長患いしたんだからね。むかえにいく時間はいくらでもあった。しかも遺骨をほっぽらかして、その遺児までほっぽらかしていたんだ。ふつうの台湾人には、考えられないことだよ。言語道断だ」 「貧乏だったのよ、日本に遺体をむかえにいく旅費もなかったのよ。末っ子が病気になっても、お金も送れないくらい貧しかったのだから。父の保護者だった長兄のほうも、きっと断腸の思いだったにちがいないわ」 「そういうけど、台湾人の家族思いは世界一なんだよ。台湾人ほど血族を大事にする民族はいない。どこの家庭も父親と長兄が柱になって、血族の隅々までめんどうみるものなんだ。だいたい揚晴さんが遺産を横領したことを、他の親族がとがめないのもおかしい」 「だって、長兄にはだれもさからえないのでしょう」  わたしはここに住んでいる人間ではないもの、だれがわたしのために揚晴兄のきげんをそこねることをしよう。血がつながっていようといまいと、音信がとだえていればそれを逆手《さかて》にとって、ひとは横領くらいものともしない。人間とはそういうものなのだろう。でも、どうせ横領したのなら、父のお骨くらいさがしてもよさそうなものだったのに、野ざらしにしておかないで。  金銭的に得をする誘惑のまえには、人間としての良心や血のつながりなど、無力なものなのだろうか。揚晴兄のこころのなかを、そっとのぞいてみたい。  他人事なのにすっかり気落ちしている林氏のなぐさめ役にまわりながら、台湾が自分にとってうっとうしいものに変化しつつあることをわたしは感じはじめている。 「もうこないわ、きっと」  わたしのひとりごとを、すかさず林氏はききとらえた。 「そんなこといわないで。ぼく、悲しくなっちゃうよ。台湾はあなたの※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]の故郷なんだよ。ということは、あなたにとっても故郷じゃないか。故郷を捨てちゃいけない。あなたを応援する台湾人だって、ちゃんといるじゃないか。ぼくも許さん夫婦も」  彼は身をのりだして、わたしの手をにぎりしめた。 「また台湾にいらっしゃい。毎年いらっしゃい。でも今後は台湾にくるんじゃないんだよ。台湾にかえってくるんですよ」  台湾にかえってくる!  台湾。父が生まれ育った地。そして日本へとはばたいた地。  わたしはいったい、日本人なのか、台湾人なのか。父の故郷は、わたしにとっても故郷なのか。わたしは日本人だといいきってしまうには、わたしのからだを流れている父の血はあまりにも熱い。  台湾の血へのはるかなる憧憬《どうけい》と、揚晴兄への怒りがよりあわされる。わたしは身のおきどころをうしなったように、ひとりおろおろしていた。  弟弟のはにかんだような笑顔。スーの快活な声。わたしの顔をうめてくれた許おばさんのやわらかな胸。父を語る許おじさんの遠い眼。王さんのユーモアあふれる語り口と、それと対照的なシュンとしたときの上目《うわめ》づかい。親切にしてくれたティールームの小姐《シヤオチエ》。そして、台湾人の誇りにみちている林氏。  彼らの顔が、わたしの周囲をぐるぐるまわる。  大好きなひとたち。そして、わたしを大切にしてくれたひとたち。恩あるひとたち。  国を好きになるということは、きっと、そこに住んでいる人間が好きだということだ。  わたしは台湾を好きになるにちがいない。  おおぜいのパセンジャーがどっとはきだされているなか、深草はすばやくわたしを発見した。飛行機がおくれたから、さぞ心配しただろう。十日ぶりにかぐ日本の匂《にお》いは、なつかしい故郷の匂いだ。 「みつかったの、おかあさん」  深草はなぜか意気ごんでいる。わたしは思わせぶりにフフッと笑ってみせた。 「お骨、みつかったんでしょ」  深草はわたしのまえにたちふさがった。わたしが差しだした重いスーツケースに、無意識のうちに手をのばしている。じれている心のうちがのぞいている。 「顔みてわかるよ、おかあさんの顔がきらきらしてるもん」 「そう、顔にでてるの」 「ぜったい、みつけた」  深草は重いスーツケースをひっぱりながら、それでもわたしの歩調にあわせていた。 「お骨は台湾にはなかったの。いよいよ日本にあることが確実になった。こんどはまちがいないわ、ちゃんと手がかりをつかんできたから」  スカイライナーに乗っている一時間のうちに、台湾でのできごとをおおかた説明しつくしてしまう。  深草が興味をひかれたのは、親族との遭遇ではなく、許おじさん・おばさんとの再会だった。 「おかあさん父娘がこまっていたとき、血のつながっている親戚《しんせき》は知らん顔していたわけね。親戚より他人のおじさんたちのほうが親身になってくれたということは、どういうことなのだろう」 「深草は、血のつながりがぜったいだと思っていたの」 「あのオンナのことをうちあけてもらうまでは、そう信じていたわ。だってわたし、うちのおとうさんのこと、なんにもおぼえていないけど、好きだもの。血が、好きにさせてくれたのだと信じていたわ」 「かあさんもわからないことだらけよ。血が憎しみをかきたてることもあるし」 「血……血液は赤血球と白血球のかたまりにすぎないのよね、ほんとうは。でもわたしは、血のなかに、なんていうか、こう、観念のようなものが含まれている気がするの」  血のなかに愛がとけているのかどうか……わたしは三十年間も血にとらわれているのに、いまだ解けずにいる。 「ね、おかあさん。この先ずっと考えていけば、いつかかならず理解できるかしら。だって台湾の親戚のことをきいたって、ちっとも恋しさがわいてこないのよ。  ところで、おじいちゃんの死んだ病院にはいついくの」  わたしとしては、ただちに調査にかかりたい。もう堂々めぐりはしなくてすむのだから、気持だけは矢のように突っ走っている。だが、わたしには会社がある。十日間も休暇をとり、そのうえなお休暇の続行を申し入れることはむりだ。お骨さがしのように繁雑《はんざつ》なことは、終業後のあいまや休日などのコマギレの時間を利用してできるものではない。朝から晩まで、連日一気に追いつめないと、お骨につながる縁が逃げてゆく。  たっぷり時間のとれる夏の休暇まで待つしかない。休暇は八日間とれることになっている。 [#改ページ]   13、みえない出口  光のない曇天の空から毎日じめじめとふりつづいた梅雨《つゆ》があけ、より高くなった青空に厚ぼったい純白の雲がうかぶ季節の到来である。深草の夏休みがはじまった。ながいあいだ雨にあらわれた樹木の葉は、いよいよその緑の色を深くし、梢をわたる風の音が涼気をはこんでくる。今日から待ちに待った休暇だ。  夏休みなのに、深草は制服に着がえて朝からでかけている。  わたしは裕司の書斎にはいり、机にむかってしばらくのあいだ窓の外をぼんやりみつめていた。思いだしたように、ときおりさわやかな風が頬《ほお》をなでていく。  昨日会社から帰宅したあと、さっそく分厚い電話帳をめくってみた。S区にあるR病院の名が、ひょいと目にとびこんだときには、あまりにもたやすく発見できたことに拍子ぬけしたものだ。  三十年ものあいだR病院が存在していたことは、願ってもない幸運だった。病院名が変更しなかったことも幸いした。みつからなくてもやむをえないほど、ながい歳月をへだてているのに。こまかい字がびっしりならんでいるなかに、まるでわたしに手招きしているように、R病院の名が燦然《さんぜん》と光り輝いていた。  お骨さがしもいよいよ終盤である。ツキがまわってきたのだ、きっと。  わたしは裕司の愛用していたパーカーの万年筆を手にとり、病院長あての手紙をしたためる。  知りたいことは二点である。「遺骨のありか」と「生前の父のようす」。  この手紙が到着したころこちらから電話をする、と末尾にしるしてから、手紙を投函《とうかん》しにいく。速達でだせば、まだ正午まえだから、うまくすると今夜じゅうにつくかもしれない。  わたしはかえり道をのんびりした気分で歩く。もうお骨はわが手中にある。そんな安心感にみたされている。わたしは最短距離でお骨にたどりつくだろう。これはまちがいのない追跡なのだ。  まわり道をして小公園のなかにはいっていく。  密生している緑の葉のなかに、ところどころピンクの葉がまざっているこの樹は、なんという名だったろう。その樹がちょうど影をなげかけているベンチに、老人の夫婦が背をまるめてすわりこんでいた。この小道のむこう側に、たしかちいさな噴水があったはずだ。ベビーカーをおしてくる若い母親。その母親にまとわりついてぐずっている幼児。ちいさなひとを見ると、反射のように微笑がわく。  R病院の院長先生から電話がきたのは、その翌日の昼すぎである。ずんと頭上高く太陽が照りつけ、午前十時には水銀柱が二十九度をしめしていた。 「まことに残念ですが、当病院はおとうさまの亡くなった年の翌年の昭和三十三年に経営者が交替しております。それがわたしの父なんですが、父はすでに他界しており、うちの病院はわたしの代で三代目になっています。それで三十二年以前の書類等の一切がありません」  そういうものかもしれない。そううなずきながらも、期待が大きかっただけに、失望はいなめない。  それでもそちらにおたずねしたい、とわたしはたのみこんだ。  父が臥《ふ》せ、死に、わたしが一度は足をふみいれたことのあるR病院をもう一度この目でたしかめたい。院長先生は快諾してくれた。  今日の陽射《ひざ》しはげんなりするほど強いけれど、大気はからりとかわいていた。わたしの好きな並木の染井吉野《そめいよしの》は、空にむかって濃い緑のつばさをひろげている。  R病院は、大通りから路地にはいり、まがりくねった突きあたりにあった。真あたらしい白亜の近代的なビルである。昔は木造の建物だったような気がする。病院も街も、歳月とともに様相をかえたのだろう、駅からここにつくまで、何ひとつ見覚えのない風景ばかりだった。  院長先生はみずから親切に応対してくださった。が、電話で説明されたこと以外には新事実はでない。父のカルテをぜひともみたかったが、それも存在しない。  職員が応接室にお茶をはこんできた。六十代くらいの女性である。 「あ、陳さんのこと? わたし、おぼえてる」  おどろくべきことばが、あっけらかんと彼女の口からころがりでた。事実はどうしていつもこうあっけないのだろう。 「わたしはこの病院でいちばんふるいの。院長先生よりふるいんです」 「わたしは陳のむすめです、陳文珍の」 「そうそう、陳さんは文珍というなまえだったわ」  目のまえに、生きていた父を知っているひとがいる。なんというひきあわせだろう。わたしはわれを忘れて、彼女の手をおしいただいてしまった。 「どんなひとでしたか、父は」 「そうねェ……おとなしいひとだったわ、とにかくもの静かなひとよ。いつも本を読んでいた。本が好きだったのよ、病室じゅうを回って借りて歩くくらい。しまいには読む本がなくなっちゃって、しょんぼりしてるの。  患者さんは入院がながいから、みんな夜遊びをおぼえたり、隠れてタバコをすったりするんだけど、陳さんは養生に専念してたわね。模範患者。亡くなって残念だったもの、わたし。だって不良患者がピンピンしてるんだから。  検温のときに、いちいち『ありがとう』といってくれるのは、陳さんぐらいなものだった。とてもていねいな日本語をつかうひとだったわよ」  うれしさがこみあげてくる。彼女の唇のうごきに、目をうばわれっぱなしだ。わたしは海綿と化して彼女のひとことひとことを、しみこませてゆく。 「とにかく声のちいさな静かなひとだったわよ。いるかいないかわからないみたい。入院がながいからいらいらする患者さんもいるのね、結核病棟は。ときどき患者どうしでモメることがあるの。でも陳さんは、ぜったいに怒らないひとだった。意地のわるいひとがひとりいてねェ、みんなはケンカするんだけど、陳さんだけは相手にしないの」  父の病院生活を、わたしはまったく知らないのだ。 「父のお骨をさがしているんです、死んだあとのことを何かごぞんじありませんか」 「遺骨を? どうして。おかあさんが知ってるでしょ。うちではわからないですよ、仏さまのことは」  わたしは病院を辞すと、その足で福祉事務所にまわることにした。病院のあるA町管轄の福祉事務所である。S区の福祉事務所は管轄が三カ所にわけられている。  父の死んだS区は、また、父がはじめて母と所帯をもち、わたし自身が生まれた地でもある。わたしの出生届は、深草がS区役所からとってきたものだ。わたしも何度かS区役所をおとずれているが、しかし福祉事務所ははじめてである。  父は生前に生活保護をうけていたかもしれない。その疑問は、台湾にわたってからよりつよい確信となった。そのうえ、わたしは最終的には児童相談所経由で施設におくられている。いずれも福祉事務所の公の力なしには考えられないことだった。  A町福祉事務所は、レンガづくりの瀟洒《しようしや》な建物である。 「わたしの死んだ父が、生前、生活保護をうけていたと思われるのです。その痕跡《こんせき》を知りたいのですが」  メガネをかけた女性が担当のようだ。ピンクのフレームが、色の白いふくぶくしい顔に似合っている。わたしと年齢がちかそうだ。 「いつごろのことですか」 「死んだのは昭和三十二年の夏になるまえです。死ねばその時点で受給は打ちきりになりますよね。その打ちきり時点をさがしていただければ」 「昭和三十二年というと……ずいぶんまえですね。受給開始はいつですか」 「それは……」  わたしが生まれたころかもしれないし、ふたりで母のもとを去ったのちかもしれない。木造アパートでふたり暮らしをはじめてから、わたしがひとりで留守番をした記憶はないから、父は日々悪化する病をかかえて、おそらく職をもっていなかっただろう。 「昭和二十二年にさかのぼって調べられませんか」  彼女はしばらく考えこんだあと、 「書類が倉庫にしまいこまれていますから、二、三カ月の猶予をいただかないと」 「そんなにかかりますか」 「四十年もまえのことですから」 「わかりました。それではお願いします。父の名は——」 「ちょっと待ってください。まず住所からお願いします」 「住所といいますと、死んだときの住所ですね。父は、すぐそこのR病院で死んだのです。R病院はこちらの管轄ですね」 「そうです。でも、病院で亡くなったにしても、死亡時の現住所は」 「病院じゃないでしょうか。病院が現住所というのは、ありえませんか」 「もし病院が現住所なら当方に書類はのこっていると思いますが、管轄外のところに住所があったらこちらではわかりませんよ」 「わたしの出生時の父の住所はわかっているのですが、その後、転々としたので……」  もっと詳細にわたって彼女は説明してくれたが、きけばきくほど、わたしの申し出は雲をつかむようなあいまいなものだった。生活保護の記録からなにかをさぐろうとしても、死んだ時点での住所や年月日も不明では調べようがないという。  結局、手がかりを得られないまま、わたしは帰途につく。でも落胆しまい。まだ福祉事務所が二カ所のこっている。  父はS区でお骨になった。S区のなかで、ぜったいにお骨のゆくえがつかめるはずだ。R病院をK病院だとかんちがいしていたミスは、ここではおかしていない。死んでお骨になった地は、S区以外にないのだ。  明日は一日いっぱいの時間かけて、のこりの二カ所の福祉事務所を徹底的に調べてみよう。  なぜなのだろう? なぜ?  わたしはありったけの脳みそを、ふりしぼる。  なにゆえか、のこりのふたつの福祉事務所も不発だったのだ。いくらふるい記録をひっぱりだしても、陳文珍のなまえがでてこない。  あきらめられなかった。手をのばせばすぐそこにお骨がある。そんな思いに猛《たけ》りつけられている。まちがいない、|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《バ》は今やおそしとわたしの両手がさしのべられるのを待っている。  思考の組み立て方に、あやまりがあったことは歴然としていた。残念ながら、それが事実である。期待した生活保護受給の痕跡がなければ、またべつの推論をたてねばならぬ。そしてそれを追跡しないことには、ふさがった壁をつきやぶることができない。  いままで何度も何度も、うんざりするほど試行錯誤をくりかえしてきた。むだ足をふんできた。でも、それが、『さがす』ということなのだろう。もうあとにはひけない。すでに三十年という歳月が流れすぎている。いま、いましかないのだ。  こころをおちつけるよう自分にいいきかせて、わたしは目をとじる。そうしてあらためて、喪主をつとめた葬式の情景をよみがえらせる。  父の死顔、白い小石、お棺、泣いていた人々、畳の部屋、お棺のむこうの窓から庭がみえた、背のひくい木があった……。  日に日に風化していくその思い出のなかに、なにかが隠されている。  そう信じなければならないのだった。  台湾さながらの暑い夏が日本列島をすっぽりおおい、そのままいなおっている。  いらだちにも似た焦燥《しようそう》がうずまき、肉がしだいにそげ落ちていくような気分におちいっていく。出口がみえない。その気持をもてあましながら、ときは刻々ときざまれてゆく。  そんなさなかに、わたしをなぐさめようとしてか、深草が友人からビデオテープを借りてきた。なんでも、売れっ子の俳優がはじめて監督をつとめた映画だという。若いひとのあいだで、たいそう評判が高いらしい。 「気分転換だよ、おかあさん」  冒頭からいきなり葬式のシーンがながれる。遺族がハンカチを目にあてながら、霊柩車《れいきゆうしや》を見送っていた。黒い喪服の集団が、それぞれ耳打ちしたり走りまわったりしている、あわただしい光景。  まぶたの裏にやきついている父の葬式と、画面の葬式が、いつのまにか重ねあわせられていた。二枚のネガが、ずれて網膜にやきついてゆく。 「どこにいくんだろう」  深草がぼそっとつぶやいた。遺族の若い青年が頬に涙をつたわらせながら、自転車で、はるかかなたに遠去かった霊柩車を追いかけてゆくシーンである。  父の葬式風景のなかに、深草のつぶやきが閃光《せんこう》となって刺しとおった。  そうだ、お棺の父はどこにいったのだろう。この映画のように霊柩車で火葬場にはこばれたのだ。そして炎につつまれ白い仏になった。  わたしには火葬場で父のお骨を拾った記憶がない。火葬にたちあったのかどうかさえ、記憶からすっぽり欠落している。  そうだ、火葬場だ。遺体は病院から火葬場にいくものなのだ。こんなかんたんなことにどうして気がつかなかったのだろう。わたしは電話にとびついた。  R病院の、父のことをおぼえていた女性職員は、しかし途方にくれたようにいった。 「その話、へんねェ。病院でお葬式をするはずはないのよね。お棺のあった畳の部屋というのも、うちじゃないわよ。建てなおすまえから畳の部屋はありませんよ。霊安室も洋室だし」  彼女のいうことが、瞬時には理解できなかった。あまりの意外さにことばをうしなった。わたしはいったいどこで喪主をつとめたというのか。 「そちらの病院でお葬式をしたのではないのですか。いままでずっとそう思いこんでいたのだけど」 「病院はね、仏さまになっちゃったひとのめんどうはみないんですよ」 「それでは火葬場はわからない……」 「だって、火葬場につれていくのは葬儀店でしょう」  ピシャリと手の甲をぶたれた気がした。ちがいない、火葬場のまえには葬儀店の役割がある。 「そちらの病院に、葬儀店の出入り業者がいますか」 「いますよ、業者は二、三います。でもむかしの業者はいないの、院長先生が交替したときに、ぜんぶかわっちゃったんですよ」  あわただしく礼を述べると、わたしは二階にかけあがった。そして、裕司の書斎から電話帳をはこびだす。階段のなかほどで電話帳の一冊がころげおちた。深草が走りよってきた。  リビングのテレビは消えていた。西側のガラス戸から黄色い剣のような陽射しがさしこんでいる。深草がシャーッと音をたててカーテンをひく。室内がほの暗くなる。エアコンのうなる音。 「冠婚葬祭店に、かたっぱしから電話してみる」  目のまえに新天地がひろがった気分である。背なかがぞくぞくした。この道を一直線だ、一直線につきすすめば姿をあらわすのだ。もうまちがいない。※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]がやさしい眼をして、おいでおいでをしている。  まず、S区内の業者に問いあわせてみよう。それでもだめなら都内全域にエリアをひろげる。それでもだめなら、都下にまで手をひろげよう。  都下に市はいくつあるのだろう。保谷《ほうや》市、田無《たなし》市、東村山市、国分寺市、国立《くにたち》市、昭島《あきしま》市、小平《こだいら》市……二十七市。それでもだめなら、東京に隣接している埼玉県、千葉県、神奈川県、山梨県まではおさえたい。  わたしは意気揚々と電話帳にとりくんだ。ページをくる指がとびはねているようだ。うれしい予感に胸がはちきれそうだ。すぐそこ、手にとどくすぐそこに、めざす※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]が微笑《ほほえ》んでいる。  葬祭店がずらりとならんでいるページをみつけた。どきん、と鼓動が高鳴った。そうして、たかまったものが一挙にくずれおちた。この計画の無謀さを、ページが雄弁に語っていた。  おおざっぱに勘定しても、東京都内にはざっと三、四千店くらいの業者がいた。これでは深草と手分けしても、都内全域さえ不可能だ。S区内だけで精一杯だろう。都内から都下へ、そうして隣接県へ、と意気ごんだことなど机上の空論にすぎなかったのだ。  気をとりなおしてS区内だけをピックアップしてみると、業者数は七〇、七五……一〇〇未満である。これなら手におえるだろう。チェックするためのボールペンを右手にもち、わたしは受話器を右の耳と肩のあいだにはさみこんだ。 「もしもし。三十年まえに死んだ台湾人のお骨をさがしているのですが」  ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……  番号を押し、話し、礼をいい、またつぎの番号に指がすべっていく。  ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……  単調な作業なのに、ふしぎに飽きがこない。わたしは期待を抱いて没頭していた。  深草が灯をともしたのは、いつごろだったろう。たしかカーテンごしの西陽のぼんやりしたあかるさのなかで、電話をかけはじめたのだが。東側のカーテンもとっくにひかれていた。時計は十時二十分をさしている。  すべてがおわった。完敗である。創業三十年以内の新設業者が圧倒的に多数であり、老舗《しにせ》の業者も、二代目、三代目と、経営者交替がすすんでいた。業者側に、業務内容を書類にして保存する義務のないことも痛手だった。 「おわった? 夕飯にしよう、つくっておいたよ」  わたしをなぐさめるつもりか、深草がことのほかやさしい微笑をうかべていた。 「負けちゃだめよ、おかあさん」  わたしは自分の頬をピシャピシャたたいてみせた。それから大きく伸びをして、深草にむかってVサインの指をつきたてた。 「おかあさん」  深草がわたしの背後から、抱きつくように腕をまわしてきた。 「あきらめちゃだめよ。お骨さがしは、おかあさんの復讐《ふくしゆう》なんだよ。母親がきらって、はずかしめて、ボロキレのように捨てた父親を、おかあさんが、役割を放棄した妻にかわって、さがし、拾って、抱きしめることが、たったひとつできる復讐なんだよ。負けちゃだめなんだよ」  わたしは胸のまえで深草の手のひらを両手でにぎった。こうしていると、まるで母娘が一体となって神に祈りをささげているようだ。 「負けちゃいけないよね」  わたしはきっとこれからも何でもやるにちがいない、※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]にめぐりあえるまでは。 [#改ページ]   14、夢の階段  わたしはふりだしにもどって、もう一回、一から考えなおさねばならない。  まず、わかっていることは、父はS区のR病院で死亡した。これはわたし自身が確認し、病院の職員の証言もあるから、ぜったいにまちがいない。そして、わかっていることといえば、これしかない。  葬式会場さえあやふやになっていた。他にわかっていないことは、父の死亡時における住所・年月日、父の遺体をはこんだ葬祭業者と火葬場の所在地である。  そういえば、ほかにも不可解なことがある。ふだんは忘れているのだが、どうも目にはみえないちいさなトゲが刺さっているように、気にはかかっていた……。  去年、N町の区役所であっさりあきらめたのち、日をあらためてS区役所のほうにいったことがある。会社の用事で外出したときに、ふと思いついてたちよったのだ。  そのとき、父の戸籍謄本を申請したのだが、ふしぎなことに謄本はとれなかった。うろおぼえだったが、S区のA町はある時期わたしの本籍地だった。なにかのおりに耳にしたのだ。それはのちの出生届で証明されたが。にもかかわらず、事務手続き上の問題ではなく、まるで魔法のように糸がプツンと切れてしまったのだ。それが妙にひっかかっていた。  もう一回、スタートにもどろう。スタート地点はわたしの出生時だ。そこにさかのぼって、最初からやりなおしてみよう。一からやり直しだ。まだ、休暇は三日もある。  雲が空にふたをして、どこにも逃げられない湿った熱い大気が地表をはっている。深草は今日も制服に着がえてでていった。そのあとを追うように外出のしたくをすると、わたしはS区役所に足をはこぶ。 「わたしはS区のA町で生まれたのです」  戸籍課の窓口で、わたしは自分の出生を語る。  わたしの訴えは、要領がわるくてくどくどながい。それなのにその窓口の青年は、眉根《まゆね》にしわをよせながら真剣に耳をかたむけてくれた。その熱心さがつたわり、ともすればくじけがちな勇気がふつふつとわいてくる。すっかり事情を説明したあと、わたしは出生届と和知家の謄本を彼のほうにむけた。彼はちょっと小首をかしげながら二通の書類をくいいるように読んだ。何度もくりかえし読んでいるさまがたのもしい。  区役所は閑散としていた。この広いフロアに、来訪者はほんの数人だけである。新聞をひろげている白髪頭の男性職員、レース編みをはじめた母親らしき女性職員、お茶を飲みながら談笑している若い職員たち。  それらをみるともなくみているわたしの背後の天井の蛍光灯がチカチカ点滅して、網膜に光と影を交互に映しだしている。  考えこんでいた青年がふいに顔をあげると、わたしをまっすぐみすえた。黒い瞳《ひとみ》の色が、より濃く放射していた。彼は、ボールがはねるようにあざやかに、ポンといいきった。 「陳文珍さんの戸籍謄本がいままでとれなかった。それはあたりまえです。陳さんは台湾人なんでしょう、外国人が日本の戸籍にのるはずがない。あなたも帰化するまでは、外国人なのです、だから陳文珍さんと陳照恵さんの戸籍謄本は存在しないのです」  落雷のような衝撃が身をゆさぶった。自分のたっている床が、こまかく震動しながら沈んでいくようだった。  そしてのち、ぷくり、ぷくり、と熱い泡が底のほうからわきあがってきた。それは、感動によく似たものだった。  わたしはこんなにながい期間、かんちがいしていたのである。  そうだった。父と、帰化するまえのわたしは、外国人だったのだ。わたしたち親子は、同じ外国人だったのだ。  父は台湾人、わたしは混血。こう思いこむあまり、とくに自分自身が外国人だった[#「外国人だった」に傍点]という認識が欠落していた。わたしは、どこか日本人感覚でしかものを考えられなかったのだ。いったいわたしの目には、何枚ウロコがはさまっていたのだろう。  いままでたずねた役所は、どの役所のどの職員もこれをおしえてくれなかった。「陳文珍さんならびに陳照恵さんの謄本はありません」という、きまり文句はわたしの耳にタコをつくっている。外国人には戸籍謄本がないという、あまりにもあたりまえの法則を、この青年が指摘してくれたのだ。  ふりだしにもどって行動を開始するしかなかったこの土壇場で、またもやわたしは幸運にめぐり会った。この幸運は、いったいだれがふりまいているのだろう。 「それでは、外国人の謄本はどうやればとれるのでしょう」 「日本の謄本に掲載されていないなら、外国人登録がされているでしょうね」 「外国人登録というのは、戸籍謄本みたいなものですか」 「さあ……よくはわかりませんが、でも、きわめてちかいものだと思いますよ。このフロアの×番の窓口です」  おしえられた窓口にむかって、わたしは小走りで走っていく。外国人登録の窓口の周辺に、褐色の肌の男性とチョゴリをまとった女性がしょざいなさそうにたたずんでいた。窓の外は、雲間から顔をだした太陽が、じりじり照りつけている。  担当の職員に出生届をさしだして、わたしは外国人登録なるものを申請した。  あっけなく手にした『登録済証明書』を、わたしはたったままむさぼり読んだ。父とわたしのと二通。    登録済証明書   国籍 中国   氏名 陳文珍  男 一九二二年一月十八日生 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   上記の者は、外国人登録法第3条第一項の規定により登録済であったが、昭和32年5月24日閉鎖(昭和32年5月23日死亡により)された原票(㈭第91825号)には下記のとおり記載されていることを証明する。      記 [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1、居住地 東京都S区G町2—557櫻荘   2、国籍の属する国における住所又は居所 中国台湾省台中縣大甲区沙鹿鎮六三   3、世帯主名及続柄 陳文珍本人 [#ここで字下げ終わり]  4に居住歴が四カ所書かれていて、閉鎖時(死亡時)の住所は、なぜか「1、居住地」に記されている住所にまいもどっている。  これが、われら台湾人の戸籍謄本なのだ。  金色の光がわたしをとりまき、あたり一面まばゆく輝いた。  頭のなかの血がぐつぐつ沸騰《ふつとう》していた。胸の動悸《どうき》が大合唱をはじめ、わたしを内側からゆさぶっていた。  わたしはお骨にむかって強烈な一歩をふみだした。わたしの願いはかならずかなう。うぬぼれにも似た雄大な自信が、からだの隅々まで充満した。わたしをはばむものは、この世になにもない。鳴り物入りで前にむかってつきすすんでいけばよいのだ。  もしかしたら、これは、わたしが父をさがしているのではない……そうだ、わたしがさがしているのではない、父がわたしを招《よ》んでいるのだ。  台湾で、まず親切な林氏に出会えたこと。そのまえに、縁をつくってくれたティールームの小姐。そして、親族に遭遇したこと。許夫婦に再会したこと。R病院の女性職員、深草の借りてきたビデオ、いましがたの戸籍課の青年。  すべてが偶然の産物である。わたしの努力はからまわりばかりで、ちっとも実をむすんでいない。すべてが偶然によって、みちびかれている。わたしはさがしていない、父が招んでいるのだ。  たたずんでいるわたしのまえに、階段がそびえたっていた。階段ぜんたいが、紗《しや》をかけたようにぼんやり白くにぶい光につつまれている。その白さや横幅のひろさや傾斜角度が、U学園の坂とまったくよく似ていた。いや、あの坂とまったくおなじだ。あの坂はいつもわたしがのぼるのを待っていてくれた。  わたしは登録済証明書を手のなかににぎりしめたまま、さそわれるようにその階段をゆっくりのぼりはじめた。福祉課、ときざまれたプレートが、目のすみをかすめる。なぜ福祉課にむかっているのだろう。三軒の福祉事務所ではなんの痕跡も得られず、もはや福祉課に期待するものはなにもない。それなのに、だれかに命令されたようにわたしの足は一歩一歩、まえにすすんでいる、説明できない誘導の手にひかれながら。  福祉課の窓口に登録済証明書をさしだしながら、わたしはうわごとのようにまくしたてた。  お骨。  お骨。  きりさくようなかん高い声が遠くからきこえる。自分の声だ。わたしはなにをいっているのだろう、口がひとりで動いている。応対にあたった女性が、とまどったような表情をにじませた。  彼女はつと身をひるがえすと、上司らしい男性職員のデスクまで走り、せわしげになにかを相談しはじめた。ふたりとも深刻そうな横顔をこちらにむけている。その光景が、薄絹のカーテンごしにみえるようにぼんやりぼやけていた。男性職員がたちあがった。そして、他のすわっている職員たちにむかって指示をあたえた。  いまいる福祉課の職員全員がたちあがった。六人、いや七人。てんでにあわただしく動きはじめた。すわって待つようにいわれたわたしだけが、長椅子にすわりこんでいた。  周囲に濃い霧がたちこめた。もう、なにもみえない。だれもいない。純白の世界にわたしひとりがとじこめられている。上天からまぶしい光がふってくる。しずかだ。  ふいにからだが楽になる。わたしのからだが、ふわりと持ちあがっていく。翔《と》んでいる。しぜんにまぶたがとじている。わたしはいつのまにか、大きな大きな膝《ひざ》のうえにゆったりと抱かれていた。大きな手のひらがわたしの胸をそっとささえている。やわらかく白い手。綿アメでできているようにやわらかい、巨大な大仏さまがわたしを抱いている。  なつかしいあまい香りが、鼻腔《びこう》いっぱいにはいりこんでくる。やわらかくくすぐる安らぎ。あまやかなあたたかさ。わたしはうっとり身をまかせていた。 「山岡さん、どうぞ」  突然ゆり起こされたような気分だった。わたしはぼんやり薄目をあけた。窓口のむこう側の女性の微笑が、なぜかなつかしさをそそる。彼女のうしろの壁に、まるい時計がかかっていた。あと数分で六時だ。勤務時間はおわっている。わたしはとびあがって窓口に走った。  窓口の小カウンターのうえに、コピーされた用紙がおかれていた。  このような書類があることを、はじめて知った。わたしの眼は陳文珍の名をしかととらえていた。    第四七四号死体埋火葬許可証   死亡者の本籍——中国   死亡時の住所——S区G町二—五五七   死亡者の氏名——陳 文珍   死因——————窒息(肺結核)   死亡年月日———昭和三二年五月二三日午後九時三〇分   埋葬場所————未定   火葬場所————S区H火葬場 「つながりましたッ」  男性のどら声が奥のほうからとんできた。職員全員がたちあがったまま、真剣なまなざしでわたしを注視していた。 「あるって?」  窓口の女性が奥にむかって負けずに声をはりあげた。 「あるって。あるってよーッ」  おうむ返しにかえってきた声は、ほとんどどなっているようだった。いっせいにパチパチと、花火がはじけるような音が鳴った。すでにあちこち電気の消されている広い事務室のなかで、ここの一角だけがあかるい。そのなかで、職員たちがわたしにむかって拍手している。  ふしぎな光景だった。 「あるってよーッ」  まるで怒っているような声が、また奥からひびいた。その声に負けないように、拍手の音がいちだんと高くなった。  かの女性が『死体埋火葬許可証』を指でなぞりながら、はずむような口調で語りだした。「ここに書いてあるH火葬場に電話して、埋葬場所を問いあわせたんです。ほら、埋葬場所の欄が『未定』になっているでしょう。なにしろふるい話ですから、先方の火葬場も倉庫にしまってある書類をひっかきまわして調べてくれたのです。そうして、やっとみつかりました、埋葬場所が。だから、こんどは埋葬場所に問いあわせました。そこでもだいぶ手間どりました。万が一にもまちがいがあってはいけないから、こちらも完全に確認いたしました。  ずいぶんながいあいだお待たせしました。いまおききになったでしょう、あの大きな声。お骨がみつかったんですよ」 [#改ページ]   15、初秋供養  父のお骨のある納骨堂は、悪夢のような六年間をすごしたN町から、偶然にもたったふた駅の距離だった。  父のこんなにちかくで、終生の妻は暴力|三昧《ざんまい》にあけくれ、むすめはその餌食《えじき》になっていた。息の根までとめられなかったのは、すぐそばからわたしを見守ってくれた父の加護にちがいない。執拗《しつよう》なせっかんのただなかに、父の顔はここからとんできてくれたのだ。  父の葬式会場だった畳の部屋は、この納骨堂のなかにあった。納骨堂は、葬祭場も兼ねているそうだ。  あのとき——わたしと寮母先生は、いったん病院にいき、それからこの葬祭場に移動したと思われる。そのときすでに、父の遺体は先にここに安置されていた。そして、わたしたちの到着を待って、葬式が開始された——そう考えるのが筋がとおっているようだ。  父のお骨の担当の僧侶が尼僧《にそう》だったことに、わたしはひれふしたいほどの感銘をうけた。生きているとき女に苦しめられた父が、こんなに美しい尼僧に供養されていたとは、なんという恩寵《おんちよう》だろう。この世で女に苦しめられたが、あの世では女性《によしよう》にまもられていた。父の人生は帳尻《ちようじり》があった。いまの父は、さぞかし安らかな幸せにつつまれていることだろう。  尼僧は、あんじゅさま、とよばれていた。白粉をひとはけはいたような色の白いお顔に、黒の袈裟《けさ》衣が美しく似合う。生きたまま仏になったような、慈愛にあふれたお顔である。  わたしはあんじゅさまに、いままでの不義理をわびた。とにもかくにも、わたしは三十年ものあいだ、お線香一本たむけるわけでなし、供養料も支払うでなし、お骨をほうりっぱなしにしておいたひどい遺族にちがいない。  弁解にすぎないが、わたしは現在までの経過を説明した。  あんじゅさまは、わたしのひとことひとことに首をふりながら、ききいっていた。わたしが口をつぐむのを待って、あんじゅさまはやわらかなほそい声を発した。 「あなたは、親孝行なむすめさんですね」  わたしは一瞬たじろぎ、思わず顔をふせた。過分なことばである。わたしは遺族として、どんなに叱《しか》られても当然の立場にいた。それをゆるしてくれたことに、ことばもない。深草が、膝にのせた手のうえに涙をぽろっと落とした。  父は案の定、『無縁仏』としてまつられていた。野ざらしになっているどころか、このように手厚くほうむられていたのだ。他の無縁者と一緒に、大きな壺のなかに住んでいた。  父がおおぜいのお仲間と一緒だったことが、ことのほかうれしい。わたしと別れてからひとりぼっちで生き、ひとりぼっちで死んだ父が、いまはお仲間がたくさんいるのだ。 「おとうさまにご報告しましょう」  あんじゅさまはわたしたちを別室の仏間に案内した。  前方正面に、みたこともないほど巨大な仏壇が鎮座していた。黒いなめらかな木肌のおごそかさに、思わず瞑目《めいもく》する。あんじゅさまは仏壇の扉をひらくと、左右のローソクに火をいれた。ローソクは、おとなの腕くらいの太さの立派なものである。それから数本のお線香に火をうつす。わたしは台湾から買ってきたお線香を、平伏しながらあんじゅさまに手渡した。花火のようなお線香から、白い煙がまっすぐ上方にのぼった。  お経がはじまる。  あんじゅさまの後方にすわって、わたしと深草は神妙に手をあわせた。あんじゅさまの背なかが神々しい。なだらかな山をのぼるような、抑揚をつけた音声がながれていく。意味不明のやわらかな旋律が、仏間の隅々にまで満ちた。  ふいにわたしたちは顔を見あわせた。いまながれているお経のことばが、はっきりききとれたのだ。 「陳文珍さん。あなたのむすめが、あなたをずっとさがしていましたよ。さがしもとめて、とうとう台湾にまでいきました。そして、たったひとりであなたをみつけだしました。よいむすめですよ。ここにあなたに会いにきていますよ。あなたには孫がいますよ。高校生になるむすめですよ」  このようなことが、お経のなかに織りこまれていた。  熱いものがつきあげ、からだが震えだしそうだった。あんじゅさまのお経は、これこそ父がいま知りたいことにちがいない。  九歳の子をのこして死にゆく父は、どんなに心のこりだったろう。子どもの行く末を、どんなに案じたろう。死んでも死にきれなかったにちがいない。  でもいまはそれをのりこえて、父は最高の供養をされている。深草が鼻をすすった。わたしはあんじゅさまの背なかにむかって、いっそう深く頭をたれた。  さて、わたしにはまだやるべきことがあった。分骨の依頼である。  父のお骨を一部でも台湾にもっていくこと自体が、わたしには不本意である。父はいまはひとりぼっちではなく、たくさんのお仲間とともにいる。そこを離すことは、父にとって幸せだとは思われない。父にとっても、むすめのいない故郷より、異国でもむすめのそばにいたいだろう。 「分骨というのは、骨壺にあなたのおとうさまのお骨だけがはいるわけじゃないのですよ。無縁仏はぜんぶまとめて一カ所にあつめられていますから、まったく他人のお骨が、あるいは他人のお骨ばかりのこともあるのですよ」  分骨を主張した揚晴兄には、それくらいの知識はあるだろう。 「台湾の親族たちの、たっての願いなのです」  わたしは分骨儀式の日取りを約二カ月ほどのちにきめていただき、それを揚晴兄以下、全親族に書きおくった。といっても、日本語のわかるのは揚晴兄ひとりだけだが、遺児の礼として、親族全員に通知した。日本語の手紙をうけとれば、だれもが揚晴兄のところに走るだろう。そして彼は胸をたたいてうけあうにちがいない。  ——OK。わたしが返事を書いておく。  分骨儀式は、秋のさわやかに晴れた日にとりおこなわれた。  わたしはこの日のために黒絹の喪服を新調していた。深草は髪を三つ編みにして、制服姿である。他の出席者は、台湾からかけつけてくれた許夫婦と林氏のみだ。  揚晴兄のいうことを真にうけた自分が、たまらなく恥ずかしい。親族のために分骨するという厚意は、まったく裏目にでてしまったのだ。わたしの手紙がもののみごとに無視されたことについて、林氏はこう語った。 「あなたがあらわれたときは、そりゃあエキサイティングなことだった。だから深く考えずにあなたのことを認めたんだね。あなたが揚晴さんの家につくまえに、役所から連絡がいったせいもあって、とぼけるわけにもいかなかった。もしかしたら、遺産を横領していたことを忘れていたかもしれないなあ、ふるいことだから。  そうして、はっとわれにかえったとき、あらためてあなたの存在がこわくなったんだよ。だから返事を書くどころじゃない、分骨儀式に出席するどころじゃない。あなたにちかよりたくない一心だよ、彼は。だって、あなたがいつ遺産のことをいいだすかわからないもの。揚晴さんは毎日ビクビクしているだろうな、戦々恐々だよ」  父は生きていたときから親族の縁にめぐまれていない。そして、お骨になったいまなおその縁に遠い。むすめのわたしもまったくおなじである。血の宿命だろうか。  五人だけしか出席しないことに、あんじゅさまはたじろいだようすをみせた。それでも口にだしてはなにもいわず、心のこもったお経を詠《よ》んでくれた。小一時間ほどで儀式は終了する。  腕にひとかかえほどのちいさな骨壺は、わが親族からきっぱり見放された。でも、わたしには、このお骨は他人のお骨とは思えない。壺のなかのすべてのお骨が他人のお骨だとしても、わたしはこのお骨を父だと思って供養しよう。わたしはその壺を腕のなかに抱きしめた。  |※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》|※[#「父/巴」、unicode7238]《パ》。いま、あなたを抱いていますよ。ここまでくるのに、三十年もかかってしまいましたね。よく、ここまでわたしをみちびいてくれました。  別れ別れになるとき、あなたがわたしを抱いてくれたように、いまあなたを抱きしめていますよ。せめてあなたがこの世を去るとき、このように抱きしめてあげたかった。とうとう不遇のまま、ひとりぼっちで逝かせてしまいましたね。でもこれからは、わたしがお守りしますよ。だからもう、安らかに眠ってくださいね、※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]。  わたしの命がつきたら、深草が、そのつぎには深草の子どもが……。※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]は永遠に守られますよ。  ※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]。あなたは、あの母をやはり愛したのですね。台湾にいって、それがわかりました。  男として、熱くもえて母を愛しましたか。  母を愛して、つかの間でも幸福に酔いましたか。  わたしは、ふたりが愛しあって望まれて生まれたのですね。それならよかった、といまの照恵は思えます。  そして、※[#「父/巴」、unicode7238]※[#「父/巴」、unicode7238]。  どうして、あれほどせっかんされたのか。  わたしはやっと、考えなくなりました。暴力と恐怖でわたしを支配し、虐待した人間の心情など、理解しなくてよいのだと、やっと気がついたのです。わかってやらなくてよいのです。わたしはやっと、母を捨てられそうになったのですね。 [#改ページ]   16、孤 影  故 陳文珍 とだけ墨痕あざやかにしるされた白木の位牌《いはい》は、仏壇のなかで裕司の位牌とならんでいる。お線香をあげ、そのまえにすわりこんで煙のたなびくさまをみているだけで心がなごむのは、仏の慈愛なのだろうか。  あたらしい仏が家族として到来したことを機会に、わが家は仏壇のあるリビングのカーペットを新調した。そのついでに壁紙の張りかえまで手をのばしてしまったから、わたしと深草、ふたりの家族も気分が一新したようだ。  寝起きに首すじにひやりと涼気が感じられる季節をむかえ、体育祭をひかえていよいよ深草のバトン熱があがっている。夕刻にわたしが帰宅しても、まだ庭でバトンをふりまわしていることもある。  夕食をすませてわたしが寝室にひきさがったのは、まだ九時すこしまえだった。さっそく深草の注文の、編みかけのマフラーにとりかかる。 「極細の三本どりで、白一色。そして両端にイニシャルを編みこみたいの。そのイニシャルのデザインはわたしがするから、そのとおりに編みこんでね」  自分の母親に頼みごとを一度もしたことのないわたしが、喜々としてむすめの指図にはしたがっている。寒くならないうちに完成させねばならない。わたしはベッドに背をもたれさせて、編針に毛糸をすべらせていく。片側の編みこみはおえて中央部にさしかかっているから、いまは機械的におなじ動作のくりかえしだ。 「わあ、けっこうすすんだね」  深草が紅茶をお盆にささげもってきた。  わたしの脇に、おなじようにベッドによりかかってすわりこむ。風が葉をならす音がかすかにざわめいている。カップにあたるスプーンの音が、虫の音のようだ。 「おかあさん、おばあちゃんに会いたくない?」  手がとまる。かるいおどろきがあった。  あのオンナ、とさげすんだ呼称をあたえていた祖母を、深草は、おばあちゃん、とたしかによんだ。  深草は左手にとったカップのなかに、意地になったように視線をおとしている。 「会いたくない」  わたしはぼそりとつぶやいただけで、また左指に毛糸をたぐらせながら右手の針をうごかしていく。ベッドサイドにある時計のきざむ音にあわせて、針はすすむ。それにかさなるように、突風が枝々をすくいあげるつよいざわめきがたった。かすかに犬の遠吠《とおぼ》え。 「生きてるよ、おばあちゃんは。ひとりで暮らしている」  眼のなかで、編み針がいきなりクローズアップされた。その巨大な編み針に、深草の声が毛糸のごとくからみつく。  わたしね、おばあちゃんの住んでるとこをさがしたんだよ。夏休みに毎日であるいていたでしょ、あれはクラブ活動じゃなかったの。おばあちゃんの住所さがし。  おかあさんみたいに区役所めぐりして、やっと住所をつかんだんだよ。そして、こっそり訪ねていってみたの。でも道にまよってね、ひとに道をきけないから、でなおしたりもしたんだよ、あの暑いさなかに。  わたしね、おかあさん。お骨がみつかったとき、ほんとうにうれしかった。これでおかあさんがやっと、わたしとおなじになれたと思ったから。  わたしはおとうさんの写真や、おとうさんが買ってくれたお人形や、おかあさんの思い出話なんかで、いつでもおとうさんをしのんでいるのに、おかあさんはコケシひとつしか形見もってなくて、写真も台湾からもらってくるまでなかったし、父親がちっとも身近じゃなかったでしょう。だからお骨がみつかって、位牌がうちにきて、やっとおかあさんがわたしとおなじように父親を身近にしのべるようになったことが、うれしかったの。  わたしもおかあさんも、それぞれ『父親の子ども』なんだよね。ふたりとも、おなじでなくちゃあ。  もうひとつうれしかったのは、復讐が完遂したことよ。これで一矢むくいることができた。うれしかったわ、鼻をあかしてやったんだもの。子どもだったおかあさんを苦しめるだけ苦しめた母親にたいして、当然の報復だよ。わたし、復讐の鬼だったみたい。  だから、復讐するその相手が生きているのかどうかは、先に確認したかったんだ。死んでるとしたら、ばかみたいだもの。復讐するなら、相手が生きているうちでなきゃね。  わたしね、いつかおかあさんがいってた言葉が忘れられないの。愛乞食、といったでしょう。愛乞食になって母親から愛を乞うた、と。なんてせつない言葉……いまでも涙がでちゃう。  そのときわたしが、「おかあさんは、母親から愛されることに失敗した子どもなんだね」といったの、おぼえてる? おかあさんは、「愛乞食から強盗|者《もの》にまで堕ちてあがいたけど、失敗したのね」と寂しそうに笑ったんだ。  わたし、子どもを愛乞食にさせる母親なんて、最低だと思った。母親の資格がないと思ったよ。子どもは親から愛されてあたりまえだもの。  ねえ、おかあさん。  わたしはおかあさんにもおとうさんにも祝福されて生まれたんだよね。でも、おかあさんが生まれたときは、どうだったのかしら。おじいちゃんはぜったい祝福したわよね、おかあさんの誕生を。でもおばあちゃんはどうだったのかしら。口ではきついことをいっても、本心ではやっぱりうれしかったのかしら、それとも口のとおり欲しくない子どもだったのかしら。  わたしね、おかあさん。  それを確かめたいの。世のなかに、出産する当の母親から祝福されずに生まれる子がいるなんて、耐えられないのよ。自分は望まれて生まれた子だ、という誇りだけで、子どもって生きていけるんだよ。  ヒキトリのあとせっかん責めにしたけど、もし、おかあさんが生まれたときには喜んでくれたのなら、おばあちゃんをすこしはゆるしてあげてもいいかな、と考えるようになったの。それはきっと、お骨がみつかって、家族がふえた分だけ幸せになったからかもしれない。  それと、おかあさんが「ひとことあやまってくれたら、ゆるす」といっていたことも、胸にのこっていたんだ。ほんとうは、おかあさんは母親をゆるしたいんじゃないの?  ね、おかあさん。おかあさんは気がついてる? 父親のお骨をさがす旅は、ほんとうは、母親をさがす旅だったんだよ。母親の愛をさがしていたんだよ。わたし、最近それに気がついたんだ。  なんだかおばあちゃんが、哀れになっちゃった。だって、ひとりぼっちなのよ。年寄りなのに、ひとりぼっちなのよ。  自業自得だよ、たしかに。  そうなんだけど、哀れなんだよね。ふたりいる子どもが、ふたりともちかよらないんでしょう。ふつうの親子じゃないわよね。寂しい思いしてるのは自分なんだから、すこしは自分に非があったと気づいているかしら。  確かめたいのよ、おばあちゃんの本心を。  母の家がこんなに東京から離れているとはおどろきだった。  四両編成の電車で各駅停車しながらやっとたどりついた駅のホームには、中央に民芸風の天井がディスプレイされており、丸太をたてに切った長イスがしつらえてある。改札口は無人だった。  駅のまんまえに時計店が一軒だけひっそり店をあけているほかは、みわたすかぎり畑である。すぐむこうにせまっている小高い山はすっかり紅葉し、その秋の色を陽の光がすっぽりつつみこんでいる。山ぜんたいが照っていた。  深草がメモを見ながら、三歩ばかり先を歩いていく。  踏切をわたって右手におれると、砂利道になった。左側に野原がひろがっており、さまざまな野の花が咲きみだれている。右側には収穫を待つばかりの稲穂が、黄金の波をくねらせていた。 「あそこ。まんなかの家」  深草が指をさした。  遠くに二階建ての家が、ぽつんと三軒だけよりそっている。四周を畑にかこまれていて、その広い畑の向こうは森が古城のようにそびえ立っていた。ここはちょうど家の裏側にあたる。  わたしたちはちいさな林のなかをぐるっと迂回《うかい》して、家の正面にちかづいた。  どの家も、庭先をとおって右手にある玄関から出入りするかたちだ。その庭のてまえこちらは、空き地になっている。  その空き地にさしかかると、ふいに胸がざわめきたって、わたしはしゃがみこんだ。晴雨兼用の傘がわたしの姿をおおい隠す。わたしは顔を隠したいときになると、この傘をさすのかもしれない。  母の家のまえに、目印のように紫のツルフジバカマが群生していた。紫は彼女の好きな色だった。そのてまえに、ピンクのコスモスがゆれている。  足もとのナギナタコウジュが、小粒の花弁からふしぎな香りをたちのぼらせていた。あたり一帯、ジュズダマ、チカラシバ、キツネノマゴ……。  深草があわただしく傘をたたいた。  深草があごをしゃくったところから、ひとがでてくるところだ。母かもしれない。わたしはゆっくりたちあがった。  母だ。体型がかわっていない。背が高く、均整のとれた美しいプロポーション。  あざやかなローズ色の口紅が花びらのようだ。ライトブラウンのショートヘアが、陽をはじいて金色に輝いている。クリーム色のブラウスのうえに、ラベンダーのカーディガンをはおっていた。セミタイトのスカートは遠目には黒にみえるが、紺かもしれない。バスケットのような籐《とう》のバッグが左右にゆれていた。  母はこちらにむかってゆっくり歩をはこんでいる。  横顔がはっきり見えてきた。  ひたいにもまぶたにも、ケンがたっぷりにじんでいた。いや、むかしよりもっと人相がけわしくなっている。いまだに、こころが荒れているのだろうか。  十メートルほどの距離をおいたところで、ふいに母がこちらを見た。とっさにわたしは深草のかげに隠れた。  いつも見ている夢がまぶたの奥に映しだされる。  髪の白くなった母の介護をしている夢だ。わたしは母のオムツをとりかえている。そしてむきだしになった母の尻をたたきながら、さけんでいるのだ。 「おぼえてよ。死ぬまでにおぼえてよ、ひとの愛しかたを」  おぼえるまで、死なせはしない。  いつも見ている白昼夢——  視線を一瞬こちらにむけただけで、母はなにごともなかったように歩きつづけていた。やがて背をむけ、うしろ姿の全体が見えた。深草がわたしの手をにぎった。手が泣いたようにぬれていた。 角川文庫『愛を乞うひと』平成5年4月25日初版発行             平成14年5月25日23版発行