梶山季之 罠のある季節  お触り|酒場《バー》     一  ——空は青く澄み切っていた。こんなに澄んだ空の色を見ることは、春先には珍しいことのような気がする。それに暑くもなく、寒くもない。旅行するには、まったく快適な気候である。  宝田十一郎は、特急〈第一つばめ〉の食堂車で、浮かぬ顔つきでビールを飲んでいた。列車は京都駅を過ぎ、関ヶ原あたりにさしかかっている。  食堂車の窓の外には、黄色の|でんぶ《ヽヽヽ》を敷きつめたような、菜の花畑が続いていた。そして緑色の麦畑——。 〈名神高速道路が開通し、東海道新幹線もオリンピック前に営業を開始した……。この近代的な、二つの交通機関を利用して、視覚に訴える広告というと……やはり野立看板か!〉  宝田は、爪楊枝の袋をひらき、皿の上のチーズに刺して、のろのろした動作で口に運んだ。  一本のビールは、ほとんど空になっていた。昨夜おそくまで、大阪の梅田新道あたりで酒を飲んでいたので、半ば二日酔気味である。それに、朝食も摂っていない。  ふだんの彼だったら、食堂車で、うんと冷たいトマト・ジュースを注文し、それから熱いコーヒーを飲んで、酒の香を一掃しようと図るところだった。でも今日は土曜日で、名古屋へ途中下車する用事も、さほど公式ばった性質のものではない。東京には、日曜日いっぱいまでに帰れば良かった……。  その日程の気楽さが、宝田にビールを注文させたのであろうか。  しかし、その空腹で飲んだビールが、かえって昨夜からの酔いを、呼び戻したような恰好になって、なんとなく|物憂《ものう》かった。  彼は、|生《なま》|欠伸《あくび》をひとつすると、手をあげて女給仕を呼んだ。 「ビールを呉れ……」  会計を頼もうか、と思っていた癖に、宝田は逆に新しい酒を注文していた。 〈名古屋へ降りず、このまま東京へ帰るかな?〉  二本目のビールを口に含みながら、彼はボンヤリそう思った。名古屋へ降りる用事というのは、テレビ局に新任の挨拶のため顔を出す……という儀礼的なものだったのである。だが本来ならば、宝田の方はスポンサーなのだから、先方が新任の祝いを兼ねて、挨拶に来るのが当然だと思われた——。 〈高速道路は百キロのスピード。新幹線は約二百キロ。この二つから眺められる野立看板というと、かなり遠距離に、しかも大きな規模でつくらねば駄目だな……。ふん、金がかかる!〉  宝田は、ピースを|咥《くわ》えて、かすかに充血した眼を、明るい車窓に向けていた。 「ここ……空いてます?」  女の声がした。 「ええ、どうぞ……」  慌てて言葉を返しながら、その声の主の顔をみて、彼は〈おや?〉と首を|傾《かし》げた。  年齢は三十前後であろうか。  背はあまり高い方ではない。ビロード地のような黒のスーツを着て、頸には真珠のネックレスが艶やかに光っている。服装は洗練されているといって良かった。  顔は混血児のように、浅黒く健康そうな肌である。眼は大きく、鮮かな|二重瞼《ふたえまぶた》で、ちょっぴり斜視がかっていた。その黒い瞳の色と、マニキュアに合わせた唇の色とが、なぜかその彼女の顔をコケティッシュな感じに見せるのである。  一度見たら、忘れられる顔ではない。宝田の記憶に、うっすらと残っている女性の顔であった。 〈誰だったろう?〉  職業意識が|甦《よみがえ》って来た。姿勢を正し、彼の方から声をかけようとしたとき、宝田の正面に席を占めた彼女の方が、 「朝から、おビールですの、宝田さん」  といった。  宝田は一瞬たじろぎ、慌てて頭を下げた。 「|自棄《やけ》酒ですよ……」 「まァ、ご冗談!」  声は、ハスキーだった。その声音は、中年男の胸の裏側を、強く|擽《くすぐ》ってくるのだ。宝田は、〈いい女だ〉と思った。〈だが、どこの誰だったろう? 昔ではなく、ごく最近、どこかで会った女性なんだが……〉  先方から親しく挨拶されたのに、その相手の正体が一向に思いあたらず、当惑した経験を、サラリーマンなら二度や三度は持ち合わせているものである。  しかも、ただ単なる顔見知りではなく、先方は自分の名前も知っている……ということになれば、当惑するというより、|狼狽《ろうばい》に近い感情に包まれる。宝田十一郎の場合が、そうであった。  彼は、商売柄よく行く銀座あたりのバーや、新宿のキャバレーのホステスの顔を、素晴しいスピードで思い浮かべて行った。  だが、服装から推すと、そうした玄人筋の女性ではない。かといって、知人や上司の奥さんにも、顔の心当たりはなかった。  女性は、給仕を手招きして、しばらくメニューを覗き込んでいたが、ふッと宝田に笑いかけて、 「あたしも、部長さんの真似をして、黒ビールでも頂こうかしら?」  と云った。 〈部長さん?〉  宝田十一郎は、低く心の中で唸った。  彼が〈東西製薬〉の取締役兼広告部長に|抜擢《ばつてき》されたのは、三月の株主総会の席上である。だから、|殆《ほとん》ど半月と経っていない。 〈そうだ……。彼女はたしか、広告関係の……〉  彼が、そう思いあたって、|愁眉《しゆうび》をひらきかけたとき、女が白い歯をみせた。 「東京エージェントの|桂巴絵《かつらともえ》でございます。多分、お忘れでしょうが……」  ……なんとなく、|小癪《こしやく》な女であった。なにからなにまで、先手をとられている感じである。でも、それだけ頭の回転が早い、ということなのかも知れない。 「就任以来、どッと大勢の方に、お目にかかったもんですからね。顔を覚えるのが大変です。しかし、桂さん……貴女のような美人を、私が忘れていると思いますか?」  宝田十一郎は、ようやく安堵した気持になって、顔を|綻《ほころ》ばせた。 〈東京エージェント〉は、広告代理店としては、営業の扱い高も大したことはなく、二流の代理店に属するが、マスコミではかなり有名だった。というのは一つは経営陣——重役がすべて独身の女性ばかりだったからである。  宝田の記憶に間違いがなければ、いま目の前にいる桂巴絵は、たしか専務か、常務の地位にある筈であった。 「あら、部長さん。本当に私のこと、すぐ思い出して下さいました?」  桂巴絵は、|揶揄《からか》うような悪戯っぽい眼つきをして、黒ビールを口に運ぶのだ。 「いや、正直にいうとね、女優さんじゃないかと考えたんです。ときどき、広告写真のモデルになって頂くそうだから……」 「まァ、お口がお上手ですこと! こんなお婆さんを、女優だなんて……」 「たしか、私が就任して直ぐ、会社の方へ挨拶に見えて下さったんですな」 「ありがとうございます」 「え?」 「いいえ、本当に覚えていて下さったから、お礼を申し上げたんですわ」  桂巴絵は、低い声で|微笑《わら》った。  微笑すると、巴絵の|躯《からだ》から、奇妙な色気が発散して、また宝田の胸の裏側を、むずむずとさせた。〈いい女だ……〉彼は、ふたたびそう思った。  列車は、大垣を過ぎて、岐阜にさしかかっている。 「どちらへ?」  宝田は、三本目のビールを注文した。美人と同席して、酒が飲めるというのも、食堂車の一得である。 「部長さんは?」  女は答えず、逆に質問して来た。 「名古屋に降りようか……それとも、東京へ直行しようかと、考えているところです」  宝田十一郎は正直にいった。 「名古屋で下車しましょうよ」 「ほう。貴女も名古屋へ?」 「ええ。部長さん……岐阜へ行かれたこと、ございます?」  桂巴絵はそのときだけ、|妖《あや》しい謎めいた瞳の色を|湛《たた》えた。 「岐阜?」 「面白い所ですわ」 「私は、長良川の鵜飼しか、見たことはないが……」 「そうですか?」  巴絵は、ぱッと顔を輝かせ、上半身をテーブルに乗りだすようにした。 「今夜……岐阜でお泊りになりません?」  低く|囁《ささや》くような声だった。その声には、|苺《いちご》のような匂いが混っている。おそらく、ルージュの香料だと思われた。 「悪くないですな」  宝田は|狡《ずる》くニヤニヤした。  相手は、広告代理店の女重役である。  そうして彼は、製薬会社の広告部長だった。 〈誘惑して、仕事をとる気か?〉  代理店とスポンサーの関係は、かなり複雑で、一概に割り切ってはいえない。しかし世間で見ているように、家来と殿様のような立場だと、考えても良いだろう。  殿様であるスポンサーは、|気紛《きまぐ》れで、我儘である。そして家来の広告代理店は、殿様の機嫌を|損《そこ》ねまいと、あの手この手で気を使っている——。 「面白い所へ、案内いたしますわ」 「というと?」  宝田は、ピースを咥えた。すかさず桂巴絵は、金色の女持ちのロンソンを鳴らして、焔を彼の方に近づける。バーの女の子よりも、素早く的確な動作であった。 「それは、蓋をあけてからのお楽しみ、というところですわ、部長さん……」 「なるほど。しかし、桂さんは岐阜に用件でも、おありですかな」 「いいえ。用事は名古屋の方です」 「ふむ、ねえ。岐阜か……」  彼は、窓の外に眼を投げかけた。  ある期待に、胸が軽く|弾《はず》んでいる。女の真意は、彼にご馳走でもして、この際コネをつけておこうという|肚《はら》だと|睨《にら》んだ。  長良川畔には、何軒も静かな旅館が並んでいる。清流のせせらぎに耳を澄ましながら、蒲団の中で瞑想にふけるのも、悪くはなかった。宝田は仕事のアイデアを、寝床の中で思いつくタイプだったのだ。 「五時に、駅前のホテルのロビーで、待ち合わせしません?」  桂巴絵は、手帳にホテルの名前と、位置を走り書きして、彼に手渡すのである。 「しかし……鮎には、まだ早いが」  宝田がいうと、〈東京エージェント〉の女重役は、意味深長な返事をした。 「鮎はだめですけど、鯉は食べられますことよ?」  特急〈第一つばめ〉は、もう名古屋市内に入ったらしく、速度を落しはじめていた。  タクシーで長良川畔の旅館に着いた時は、まだ明るかった。川の水は少く、そしてまだ冷たそうである。  桂巴絵は、宝田と隣合わせの部屋をとり、夕食のときだけ、彼の部屋に来た。宝田は一風呂あびて、浴衣がけだったが、彼女の方は昼間の洋服姿であった。  食事のあと、宝田は彼女に|奨《すす》められるまま、外出の支度をした。外は、もう真ッ暗で、金華山のロープ・ウェイの照明灯が、くっきり夜空に浮かび上って見える。風があって、岐阜の街は肌寒い感じであった。  柳ヶ瀬通りのはずれあたりで、タクシーを捨てると、桂巴絵は、さらりとした口調でいった。 「最初に、ストリップを見ましょうね」  と——。  宝田十一郎は、キャバレーヘでも連れて行かれるのだろうと、想像していただけに、この意表をついた彼女の言葉に唖然となった。男性から誘われたことはあるが、女性から——しかも美貌の独身女性から、ストリップに招待されるなんて、生れてはじめての経験である。 〈しかし、単純な考え方だな。男はみんな女の裸を見たがると、思ってやがる!〉  彼は苦笑しながら、しかし桂巴絵の言動に興味を抱いて、黙ってあとに従った。  二百人も入ったら満員になるような、小さな劇場である。  中央に花道が突き出ており、その左右だけは、どういう訳か、タタミ席になっていた。そうして、その桟敷にだけ、客がむらがっている。椅子席は、かぶりつきを除いて、ほとんどガラガラだった。  宝田たちは、後方の椅子席に、並んで腰をおろした。  舞台では、銀色の|緞子《どんす》の衣裳をつけた、〈隠密剣士〉スタイルの女が、刀を落し差しにして、白扇を持って舞っている。  音楽は、レコードらしかった。かなり厚化粧のストリッパーである。  二曲ばかり真面目に舞い終ると、ストリッパーは舞台の袖に立って、厚ぼったい衣裳をぬぎ、水色の長|襦袢《じゆばん》姿に一変した。拍手が湧いた。  朱い|扱帯《しごき》を巧みにあやつって、白い太腿をちらつかせて一曲舞うと、矢庭に女は、|双肌《もろはだ》をぬいだ。  客席から、感嘆の声が洩れた。  おそろしく巨大な乳房である。しかし|紡錘《ぼうすい》型ではなく、垂れ乳であった。 「いやなオッパイですわね」  桂巴絵は、宝田の耳に顔を寄せた。 「気味が悪いな、ああ大きいと……」  彼は答えた。  女は、客席に色眼を使いながら、扇を片手に花道を歩いてきた。  拍手が強く湧いた。 「頼むでよオ!」 「待ってました!」  桟敷席から、野次が飛んだ。  ストリッパーは、襦袢の裾を、扱帯にはさみ、下腹部に拡げた扇をあてがい、ライトに向かってぐっと腰を落した。桟敷席の客が、花道めがけて立ち上る。女は、下になにも|穿《は》いてなかった。  客は、若い労働者ばかりである。  背広を着た男の姿は珍しく、中には宿の浴衣に羽織姿の中年男も混っている。劇場の中は、じめじめしていて、獣の巣のような|饐《す》えた匂いがした。  ストリッパーは、拍手に応じて、その位置へ行き、客を|揶揄《やゆ》するように、パッ、パッと扇をあてたり、はずしたりしている。客はそのたびに、素直に覗き込もうとし、尻を引っ込められて失望するのだった。  にも|拘《かかわ》らず、拍手はあちらこちらから、催促するように湧き起るのだ——。入場料を払った以上、たっぷり楽しみたいと、客は考えているのだろうか。  二番目に出たストリッパーは、均整のとれた白い肉づきの、若い女性だった。  乳房は皿のように薄いが、垂れ乳の大女のように意地悪ではなく、すぐ裸になって、緑のスカーフ一枚を小道具に、アクロバット的な踊りを舞った。  そして拍手に満足したように、それこそ客の鼻先に、恥部をこすりつけるポーズで、まだ毛の生え揃っていない部分を、たっぷり観賞させるのである。  宝田十一郎は、年甲斐もなく興奮した。そばに桂巴絵がいなかったら、自分もかぶりつきに駈け寄って、その若いストリッパーの躯を、下から斜めに見あげたい……と思ったほどである。  そんな彼の気持を見抜いたように、隣に坐った広告代理店の女重役は、含み笑いしながらいうのであった。 「なぜ、男の人って、見たがるんでしょう? ただ見たって、どうっていうわけでもないでしょうに……」  宝田は、未練を残しつつも、でも威厳をとりつくろって答えた。 「お言葉の通りだね。つまらないから、そろそろ出ましょうか」 「そうですか?」 「ああ。ストリップより、酒でも飲んだ方がいい」  彼は|微笑《わら》い声を立てた。  劇場の外へ出ると、星が美しかった。  桂巴絵は、彼に寄り添い甘ったるくいった。 「じゃァ今度は、お|触《さわ》りバーを見学してみましょうか?」 「ええッ、お触りバー?」  宝田十一郎は、思わず足を止めた。     二 〈この女……どういう積りなのだ?〉  宝田は、喰い入るような視線を、桂巴絵に投げかけた。ネオンの明滅する|光芒《こうぼう》に、彫りの深い女の横顔が、浮き上って見える。  ストリップ劇場に男を誘うという行為だけでも、常識を逸脱した行動だと思うのに、彼女は劇場を出たその足で、〈お触りバー〉へ行こうと提案するのであった。これでは、宝田十一郎も、|躊躇《ちゆうちよ》せざるを得ないのである……。 「桂さん。あんたって人は……」  彼は、言葉を途中で区切って、広告代理店の女専務の顔から眼をそらした。 「あら、なんですの?」  ハスキーがかった桂巴絵の声は、なんとなく浮き浮きと弾んでいる。それがまた、彼の|癇《かん》にさわるのだ。 「いや、なんでもありません。ただ、変った方だ、と言いたかっただけですよ」  宝田は歩きだした。  柳ヶ瀬通りは、アーケードのある商店街と、ネオンの美しい歓楽街とに大別されている。  二人の行手には、キャバレーや酒場の電気看板が、銀座ほどの規模ではないにしろ、かなりの密度で|犇《ひしめ》いていた。あまり人通りはないみたいであった。  桂巴絵は、とある一軒の酒場の前まで来ると、自然な調子で彼の腕をとった。 「ここですの……」  伸び上るようにして、彼女は囁いた。  なんの変哲もない店構えである。そして店の名前も、どこにでも転がっていそうな、平凡な名前であった。  肩を押される恰好で、宝田は、その黒い塗装のドアを押していた。店の中は、真っ暗である。そうして、入口近くのボックスに、七、八人の女たちが|屯《たむろ》していた。  意識的に、照明を暗くしていることは、店に足を踏み入れた時の感じでわかる。何ルックスかは知らないが、おそらく警察あたりでも許可にならない程度の明るさである。  カウンターが右手にあり、奥には、昭和初期に流行したカフェーのような、背の高い椅子が置かれてある。そのボックスの部分の照明は、更に一段と落ちて、青い深海の底にでも|辿《たど》りついたような錯覚を、一瞬だが宝田に与えた。 「いらっしゃいませ」  彼等の姿を認めて、立ち上った女給の一人が、無表情に声をだした。 「一番奥の席へ、行きましょうよ」  桂巴絵は、物馴れた足取りで、奥へ歩いて行く。途中、一組のお客がいるボックスにぶつかったが、酔った男の膝の上に、和服姿の女給が向きあってまたがっていた。宝田は、どきりとした。なんだか、異様な雰囲気である。 〈ふむ! これが岐阜名物の、お触りバーか!〉  女給が二人やってきた。  巴絵は、てきぱきと二人の酒を注文して、煙草を|咥《くわ》えるのである。熱いお絞りが運ばれて来た。  宝田は、|粘《ねば》っこいストリップ・ショーの記憶を払い退けようと、早速そのお絞りを取って顔を拭こうとした。  不意に、女の手が伸びて、彼の手首を強くつかんだ。桂巴絵であった。 「なんだね?」  彼は、不意を|喰《くら》った形で、驚いたような声になる。女専務は、首をかるくふった。 「駄目ですわ……」 「ええ?」 「手だけ、拭くのよ……」  なにが面白いのか、東京エージェントの専務は、上半身をくねらせて笑うのである。宝田は、あっけにとられた。 「顔を拭いてはいけないのかね?」  彼は、不服そうに、隣に坐った女給をみた。光線の加減なのか、死んだ魚のような印象の残る女だった。瞼の上の、青いアイ・シャドウと、口紅の濃さが目立っている。不健康な生活をしている女性に特有の、肌の荒れ方であった。 「構いませんけど……」  女給は、怒ったように返事をした。  桂巴絵は、鳩が啼くように、|咽喉《のど》を震わせて、含み笑いを続けていた。宝田十一郎は、当惑しながらも、彼女の言葉に従って、顔を拭くことを中止したのである。  彼女が、それを制止したわけは、後ですぐわかった。そのお絞りは、ペッティング行為のあと、濡れた不潔な指先を拭うために、用意されたものだからである。  真偽はあきらかではないが、客の中には、そのお絞りを使って顔を拭いたために、|風眼《ふうがん》になった者もあるそうであった——。  それにしても、この種のエロ・サービスが売り物の酒場に、アベックで現われる客も珍しいのではないだろうか。恋人同士ならともかく、彼と桂巴絵のような間柄で——。  彼等にはビールが、そして二人の女給のためには、注文もしないのに、青い色をしたカクテルが運ばれて来ている。  宝田は、グラスを目八分に捧げて、意味もなく、 「じゃア、乾杯……」  と言った。巴絵の隣に坐った女給は、髪をひっつめにした和服の女で、大柄であった。胸がこんもり|膨《ふく》れている。彼は、ストリップ劇場での、意地悪な垂れ乳の踊り子を、連想していた。  ビールは、あんまり冷えていなかった。女との情事の最中に、躯が燃えたたないような、もどかしさを感ずることが多くなった宝田は、その|生温《なまぬる》いビールの感触に、自分の夜の生理との共通点を見出していた。  そのとき、女給が顔を寄せて低い声で、 「ねえ……」  と云った。事務的な声音だった。 「なんだね?」  彼は、ピースにガス・ライターの焔を移しながら、無感動に応じる。 「会計は……どっち? あんたでしょ?」  女給の口からは、ニンニクの匂いがした。夕食に、|餃子《ギヨウザ》でも食べたのであろう。 「さあ……どちらでも構わんが」  彼は答えた。 「あんたで、いいのね?」 「ああ、いいとも!」 「じゃア、うんとサービスするわね。その代り、こっそりチップを頂戴よ……」 「いくらだい?」  ようやく興味が湧いて来た、とでも云うような表情をつくって、宝田は隣の女を見詰めた。彼の欲情をそそるタイプの顔ではない。しかし、相手の発言には、無関心では居れなかった。 「二千円呉れる?」  |媚《こ》びるように、女給は云った。宝田は|頷《うなず》いて、財布から千円札を抜きとった。 「駄目よ……。あの人が見てないとき、こっそり頂戴……」 「ややこしいんだな」  宝田は苦笑しながら、前に坐っている和服の女をみた。  和服の女は、彼を見て薄ら笑いをしている。視線に気づいたからであろう。 「ねえ……早く渡して!」  女の手が、背中から彼の右手に触れてくる。チップの催促だった。宝田は、ズボンの中で紙幣を八つ折にして、女の掌に握らせた。 「ありがと……。うんと、サービスするわね!」  そう囁くと、俄かに女は右膝を立てながら、彼の手をとると、アコーデオン・プリーツの裾からそれを誘い入れたものである。  暖かい女の太腿が、指に触れた。意外にもすべすべした皮膚だった。 「もっと、奥よ……」  女は、低い声で笑った。  宝田は、内腿ふかく指を忍び込ませながら、矢張り赤面していた。その恥かしい行為を、桂巴絵に見られているということで、照れたのである。しかし、暗い店内の照明設備は、その彼の表情の動きを、目立たせなかった。宝田は大胆になった。 「お絞り……持って来るわね」 〈死んだ魚〉のような顔をした女給は、スカートを|翻《ひるがえ》しながら、カウンターにと立ち去った。  巴絵は、彼を眺めて、悪戯っぽく|皓《しろ》い歯を見せた。 「お驚きになって?」  ……その言葉の意味は、二つに解釈できた。一つは、そのものズバリのサービスで、驚いただろうという解釈であり、もう一つは、女性のはしたない行為に驚いたのではないか、という問いかけである。  宝田十一郎は、|曖昧《あいまい》に首をふった。こんな場合には、言葉を使用しないで、薄ら笑いでも浮かべている方が利口である。  女専務は、彼の空になったコップに、静かにビールを注いだ。 〈この女は!〉  宝田は、小さく唸った。  女給が、お絞りと、二杯目のカクテルを運んできた。そうして、席に着くや否や、その赤い色の液体を、一気に二人で飲み乾している。色のついた砂糖水か、なにからしい。売上げを水増しするための、経営上の作戦と思われた。 「あたし……幾子というの。変な名前でしょ?」  彼のサービス係は、自分の名を名乗って、今度は宝田をズボンの上から触れてくるのだ。 「あら……まだなの?」  幾子は彼の顔を覗き込み、意味深長なウィンクを送ってみせた。下手なサーカス芸人のような、ウィンクだった。  女の手は、ズボンの|釦《ぼたん》を手際よくはずして行く。宝田は慌てた。  |檜《ひのき》の香が、まだ強く匂っている浴槽である。  一寸ちかくも厚味のある檜板が、舟の形に組み込まれていて、蛇口をひねると湯水が溢れるのであった。  宝田は、生欠伸をして、湯に浸したタオルで顔を拭った。  朝っぱらから、食堂車でビールを飲んでいた|所為《せい》か、酔いが躰の隅々にまで、平均して行き渡っている感じである。湯加減も、やや熱めで、その皮膚からの作用も、多少はあったのかも知れない。  頸筋を、浴槽の縁にあてがい、体を長々と横たえた宝田は、不図、先刻の〈お触りバー〉での、異様な光景を、まざまざと記憶から甦らせる。  忘れようと思っても、忘れられるものではなかった。それほど異常で、ショッキングな光景だったのである。  巴絵は、ぞーっとするほど、残忍そうな瞳の色をしていた。そして彼の相手の女の表情の動きを、ちょっとでも見逃すまいとするかのように、覗き込んでいたものである。 〈あの女……とに角、変っている!〉  宝田は、またタオルを使った。お絞りで顔を拭くな、と注意されたことを思いだし、彼は苦笑を頬に浮かび上らせる。  なんでも、客にお触りをさせるたびに、女給はカウンターにお絞りを取りに立つ。このお絞りの使用回数が、巧妙に記録され、高価な飲食代に加算される仕組みだった。  ある時、その仕組みに気づいた、土地の新聞記者が、女の躰を抱いて、お絞りを取りに立たせなかったことがある。しかし女給は、触られるたびにマッチを必ず擦り、カウンターに合図していたそうである。  長良川畔の旅館に帰るタクシーの中で、桂巴絵はそんな内幕めいた話を聞かせて呉れて、嬉しそうに含み笑いを続けたことである。  宝田十一郎は、女性である巴絵が、ストリップだのお触りバーだのの存在を、男性以上によく心得ていることに疑問を抱いたが、しかし彼女の堂々とした態度に出会うと、質問する気持は|萎《な》えた。 〈ふむ! 変っている!〉  広告代理店の専務なのだから、それは日本国中を旅行しているに違いない。しかし、女性としての常識からは、やや軌道をはずれている——。  宝田は立ち上った。  そのとき、浴室の戸を、軽くノックする音が聞えた。  彼は首を傾げて、音の方をみた。そして、大変なことに気づかせられた。  その浴室は、隣の部屋からも、あけられるようになっていた。つまり、浴室だけが、共用だったのだ。  またノックの音。  その片方の戸を|敲《たた》いているのは、|紛《まぎ》れもなく隣の部屋の主——あの混血児のように浅黒い肌と、彫りの深い美貌をもつ桂専務でなければならぬ。 〈面白いことになりそうだ……。しかし、危険ではある。でも、彼女がどんな人間かを知るには、良い機会であることだけは間違いない……〉  彼は返辞をした。  いや、ノックに応じながら、その片方の戸の鍵をはずしていた。 「入ってよろしいかしら?」  女は甘ったるく問いかけてくる。戸が細目にあいていた。 「どうぞ……」  宝田は急いで湯槽に身を沈めた。  彼の脳裏には、宿の布団の上でからみあう二人の姿が、抽象画のように浮かんでいる。その形は判然としないが、二人の肌は、湯で濡れ、そして汗ばんでいる……。 「失礼します」  戸が開いた。宝田は目を閉じた。  湯気のこもった浴室の中の空気が、かすかに揺れ、女の香水の匂いが彼の鼻を|撲《う》つ。  彼は、二番目に出演した、親切な白い肉づきのストリッパーの肢体を空想した。桂巴絵も、洋装が似合う以上、均整のとれた体格に違いなかった。だが、あのストリッパーのように、恥毛は薄いのではないだろうか?  宝田は、タオルで顔を拭い、そっと眼をあけた。目の前に、浅黒い肌をもった美女がいた。しかし、彼の期待は、裏切られた。桂巴絵は全裸ではなかったのだ。     三 「お背中を、お流し致しますわ」  ——女は、旅館の浴衣に着替えていた。そして左手で、着物の裾をからげている。そのポーズは不思議と新鮮で、女であることを意識させた。 「わざわざ、そのために?」  湯槽の中から、宝田は声をかける。 「もちろんですわ」  桂巴絵は、快活に答えた。  もっと|淫《みだ》らな情景を空想し、そして期待していた宝田としては、浴衣姿で、背中を流す目的だけで浴室に|這入《はい》って来た彼女が、大いに不満である。  しかし、考えようによると、自分から男の背中を流そうと申し出ることは、ある承諾を意味するものではなかったか。普通の女性なら、躰の結びつきを暗示している。  宝田十一郎はわずかにためらい、|微《かす》かに首をふった。 「ご親切は有難いが……しかし、結構です。それに、もう出る所だから……」  彼のその言葉をきくと、何故か巴絵は、|妖《あや》しく瞳をキラキラ輝かせた。黒曜石のように艶があり、しかも濡れて光っている大きな瞳であった。 「お背中を、流すだけですわ、部長さん」 「それは判っている。でも、私は男だからね……」  桂色絵は、含み笑った。  そして構わず、浴室のタイルにしゃがみ込むと、タオルに石鹸を擦り込んでいる。 「さあ、部長さん、ご遠慮は、ご無用よ」  無邪気そうに話しかける、その態度が小憎らしい。多分に、演技だとは思うのだが——。 「私は、借りを作ることが嫌いでね」 「と、云いますと」 「私の背中を流す以上、桂さん……貴女の背中も流させて貰うよ……」  宝田は一気に立ち上って、檜の浴槽をまたいだ。そして、彼女に背を向けて、そっと腰を下ろした。|蹠《あしうら》に、タイルが冷たく感ぜられる。女は返事をせずに、背中をゆっくりこすりはじめた。香水の匂いが、タオルが上下するたびに|仄《ほの》かに鼻腔を|擽《くすぐ》るのである。宝田は緊張していた。背中に、すべての神経が集っていた。  桂巴絵は、桶をとって石鹸の泡を洗い流すと、黙りこくったまま、入って来た浴室の戸をあけて、外へ出て行った。  宝田は、湯から上ると、女中に冷えたビールを注文した。  自分から積極的に行動したくはないが、次から次にと欲情を屈折した形で刺戟し続けられた今夜は、酒の酔いでも借りなければ、寝つかれないような気がしたのだ。  ビールの栓を抜き、コップに満たすと、彼はそれを持って窓際へ行き、立ったまま旅館の庭を|俯瞰《ふかん》する姿勢となった。  水銀灯に照らし出された、築山のある庭園は、薄暮の中に沈んでいるように見える。樹はすべて芽を吹き、柔かい若葉で|梢《こずえ》を飾っていた。大きな木蓮の花が咲き、燈籠の根本にある|躑躅《つつじ》は、今を盛りと咲き誇っている。  彼はビールを一息に飲み乾した。  座敷に戻って、二杯目を注いでいるとき、 「部長さん……」  という、低い声がする。浴室あたりから、呼んでいる声である。 〈ふむ、あの女……俺に肌を見せる決心をしたらしい!〉  宝田は二度、三度、女の方から声をかけさせておいてから、コップを置いて浴室へ行った。戸をあける。  湯槽の中に、女は躯を沈めていた。  宝田は、巴絵と視線を合わせないように努めながら、タオルに石鹸をこすりつけた。 「さ、流しましょうか」 「はい……」  女は大胆だった。立ち上ると、顔の色に似合わず、白い躯をしている。一度、子供を産んだ経験でもあるのか、乳首は|黝《くろず》んで発達していた。  しかし、宝田の目を細めさせたのは、下腹部の黒い繁みである。彼は、どういうわけか、毛深い女が好きだった。 「恐れ人ります」  桂巴絵はタオルで前を|蔽《おお》いながら、静かに背を向ける。宝田は、震える手を意識しなければならなかった。興奮している証拠である。  初対面の間柄ではないが、今朝、食堂車で会うまでは、親しく口を|利《き》いたこともない二人であった。その二人が、岐阜の旅館で、お互いの背中を流し合っている——。  宝田は、彼女の裸体を見た瞬間、この岐阜での一夜が、バラ色に輝きわたるのを知った。  彼が欲情をそそられ続けていたように、女盛りの桂巴絵だって、同じことなのである。あとで知ったのだが、彼女は三十五歳であった。結婚して二年目には夫と別れ、それ以来は、広告代理店の仕事一途に生きて来ていた。  男を知っている三十五歳の独身の女。その女性が、男の眼に素肌のすべてを|曝《さら》すということは、自分も燃えている、ということなのではないのか?  そして、その謎を解かない男性は、野暮の一語に尽きようというものである。 〈据え膳……か!〉  宝田は、湯桶で手を洗うと、素早く自分の浴衣を脱いだ。そして自分も、生れたときの姿になると、泡だらけの巴絵の躯を、夢中で抱いた……。  だが、それは〈据え膳〉ではなかった。桂巴絵の——正確には東京エージェントの桂専務が仕掛けた、甘い肉体の〈罠〉だったのである。 「あッ、いけません——」  女は叫んだ。そして、身を|捩《よじ》った。  石鹸の泡のために、するりと宝田の腕はすべり落ち、都合よく女の太腿に触れた。 「あ、止めて!」  だが、それは声だけの抵抗に過ぎない。  ——宝田十一郎は顔を|綻《ほころ》ばせた。 「あとで、君の部屋に行く。浴室の鍵は、はずして置くんだぜ……」  巴絵は、恥かしそうに頷いた。  ビールを更に一本飲んだあと、宝田は浴室を伝わって、彼女の部屋へ行った。彼の方は日本座敷だが、浴室を隔てた隣の部屋は洋室であった。  そして桂巴絵は、もうベッドの中で、夕刊を読んでいる所である。彼が入って来たのを見届けると、巴絵は|枕許《まくらもと》のスイッチを押した。  無駄のない動作であった。二人は長いあいだ、接吻を繰り返した。  宝田は次には乳房を吸い、女の恥かしい部分に触れた。そこは、すでに濡れており、彼の手を吸い込むように受け容れた。  ベッドの上の二人は、やがて獣になった。  一匹ずつの雄と雌に化身した。雌は、何度も、何度も体を|痙攣《けいれん》させ、のけぞり、呻き声を立てた。雄はその度に、快楽の坂道の途中で、それに耐えねばならなかった。  ……一時間後、一匹の獣は、|咆哮《ほうこう》に似た唸り声を立てて、狂おしい動きに移り、やがて雄は苦しそうに顔を伏せる。雌はしかし|貪婪《どんらん》に、まだ下半身を|蠢《うごめ》かせていたものである。  ガーゼが用意されていた。  宝田は、またしても、〈この女は!〉と思った。食堂車で会って以来、なにもかも彼女からリードされているような工合なのだ。  身仕舞が終ったあと、桂巴絵は、ひっそりと歌うように、 「あたし達……もう他人じゃなくなったのね」  と云った。  流石に宝田は、その女の言葉に、はっと胸を衝かれたものだ。彼には、妻も子供もあった。いや、〈東西製薬〉の重役という、地位も名誉もあった。 「他人でなくなった?」 「ええ……。違います?」  宝田十一郎は、毛布を|剥《は》いで起き上った。躰が汗のためにべたついていたのである。  それにこれ以上女の傍にいるのは、危険な気がした。  彼自身は、大人の遊びの積りでいたのである。むろん、桂巴絵の方もその積りだと思っていた。  旅先で知り合った男女が、意気投合して、一夜の契りを結ぶ……ということは、現実にあり得ないことではない。宝田は、自分と桂巴絵の仲を、そのように解釈したかった。  彼は、黙って暗闇の中で、浴衣を着た。  そのまま彼女の部屋から、立ち去る積りであった。ところが、そうはゆかなくなったのだから、世の中は皮肉である。それは桂巴絵が、「部長さん……」と呼びかけたことに原因がある。 「部長さん……お宅で今度売りだす新製品の宣伝を、うちに担当させて頂けません?」  ——宝田は、小さく息を|嚥《の》んだ。  極秘裡に生産計画が進められ、三月下旬にようやく量産化に着手したばかりで、社内でも担当者以外は、まだその新製品の内容すら知らない者が多いのである。 〈どこから、情報をキャッチしたのだろうか?〉  彼は先ず、そんな点について危惧を覚え、次には彼女がどの程度まで情報を握っているのかと、興味を持った。 「新製品って、何のことだね」  宝田は、べッドに腰を下ろし、枕許のテーブルから外国煙草を一本抜き取った。 「あら、お芝居がお上手ですこと」  桂巴絵は、長いあいだ含み笑いを続けた。 「芝居だって?」 「そうですわ。あたし、ちゃーんと知っているんですから!」 「ほう?」 「女性の生理用品でしょ……」  またしても宝田は、暗闇で眉をひそめねばならなかった。事実、その通りだったのである。 〈東西製薬〉が女性の生理用品に着目したのは、一口にいうと需要層が厚いからであった。日本の人口を一億とすれば、半分は女性であり、その女性の六割が、毎月メンスを体験していることになる。東西製薬では、多角経営化の方針を立て、その第一弾として、日本のメンス人口三千万人に眼をつけたわけであった。  現在、都会の女性たちの間で、喜ばれているのは、水に溶ける紙綿製品であった。しかし業界でトップを切る〈パンネ〉だって、月産三百万ケースである。つまり、メンス人口の一割しか、市場を占拠していないのだ。  会社の調査では、日本の女性の一割が紙綿を使い、残り九割は旧態依然として、脱脂綿か、それに代るものを使っていた。  東西製薬は、栄養剤でのし上って来たメーカーであるが、生理用品に進出するに当って、脱脂綿の郷愁から脱し切れない女性たちに注目した。そして米国式のタンポンを、二年前から研究していたのである……。  脱脂綿が、日本女性の生理用品として、使われだしたのは、日清戦争以後の現象である。  肌ざわりが良くて、吸収力のつよい脱脂綿が、ボロ布や紙を使って処理していた、当時の日本女性に歓迎された理由もわかる。  ただし、脱脂綿には、不便な点もあった。それは綿が、縦にしか吸引性を持たず、水洗に流せないという点である。  メンスの血量は、人によってさまざまだが、五〇ccから三〇〇ccまでの間といわれる。しかも、五日型とか、七日型があって、期間も経血量も、いちがいには定められない。  都会で働くBGたちが不便を感じるのは、水洗に流せないことよりも、それぞれの個人差によって、その都度、綿をちぎり人目を避けて、トイレに立つというその行為である。男性には判らないが、自分が生理日にあたっていることを、異性に知られるということは、女には非常に辛いことらしかった。  そこで、考え出されたのが紙綿である。  綿が点状に、しかも縦に吸収するのに対し、紙は横に、広がりをもって吸収する。その上、水に流され、一回分ずつ衛生的にセットできるのだった。つまり、トイレに立つときでも、これだと小さなポケットにも入るし、異性に生理日にあたっていることを、気づかれないのである。  ……こうして売り出された〈パンネ〉は紙綿と防水紙と不織布の三つを組み合わせ、しかも水に溶けるし、手軽に使用できるというので、若いBGたちに拍手をもって迎えられたものだ。それに宣伝も上品で、しかも女心をゆさぶる巧妙なキャッチ・フレーズを用意していたのである。  この〈パンネ〉の大当りに目をつけて、類似の紙綿を使った生理用品がその後どっと市場に売り出され、現在では日本全国に八十六社もある。 〈東西製薬〉では、八十六社もの同業者が|鎬《しのぎ》を削っている、紙綿の世界に進出するのは、利口ではないとみた。そこで、米国では六〇パーセントの女性が使っているという、タンポン型の用品に着目したのである。  パッドやテックスの欠陥は、値段が高いということである。  また薬局で、その製品を買い求めると、脱脂綿のように他に使途がないため、逆にまた男性たちに、 〈ははあ、メンスなんだな、彼女……〉  と悟られてしまうというマイナスもでてきた。一割しか市場を占拠できない紙綿に、対抗するものは何か? それは値段の安い脱脂綿をおいてない。  ただ容量がかさばるのと、取り替えの不便さを克服すればいいのだった。 〈東西製薬〉では、アメリカの製品を研究し、日本の既婚女性のサイズをはかり、圧縮綿花を棒状にして、生理日にはそれを挿入するというタンポンを試作してみた。これだと、外部からは全くわからないし、一度挿入しておくと、しばらく放置しておけるという利点があるのだった。ただし、未婚女性には使用にあたっての抵抗感があろう。でも、男を知った女性ならば、二、三日使用すれば、異物感や違和感は消えるのである。  三千万人の生理人口のうち既婚者を半数とし、妊娠中の女性が二割あるとしても、千二百万人がタンポン型生理用品の購買対象になる——と、東西製薬ではソロバンを弾いたのであった。  製品は、ようやく量産化に入り、発売は秋の予定であった。まだ、製品名も決定していない。  月産三百万ケース(半打入り)の予定だが、発売にさきがけて、試供品を二十歳から四十歳までの女性に無料で配布し、一大宣伝戦に乗り出す企画だけは、重役会議で内定している。  だが、宝田十一郎に云わせたら、それは基本的な宣伝方針がきめられたというだけで、どのような手を打って行くかは、未決定の状態なのだ……。そうして、彼が広告部長として就任した、第一の仕事がこれである。 〈それにしても、この女……どこで新製品の情報を、入手したのだろうか? いったい誰が洩らしたのだ……〉  宝田は、僅かに鼻白みながら、東京エージェントの美人の専務を見詰めた。  桂巴絵は、妖しい|媚態《びたい》をちらっと肩から腰にかけて示し、 「いかがかしら?」  と云った。  瞳が濡れて輝いている。  旅行には、いつも用意するのか、なまめかしいネグリジェを着ている女。それは汗ばんで、肌に|貼《は》りつき、ことさら乳房の位置を強調している。しかも、べッドの上に、足を投げだして坐っているポーズなのだ。  桂巴絵のその肢体には、他人でなくなった女性の、図々しさが匂っている。 「そんなニセ情報を、いつ、誰から仕入れたんだね?」  彼は鷹揚な構え方で、煙草をくゆらせる。 「おとぼけにならなくたって、いいんですのよ、部長さん。あたし、誰にも話してませんから……」 「しかし、桂さん……」 「これが他の製品だったら、私はなにもお願いしません。ですけど、女の気持は、女にしか判らないんじゃありません? メンスだって、そうなんですわ……」  女専務は、甘く囁くように云った——。  秘密ショー     一  営業局のなかは騒々しかった。昼日中は静かなくせに、夕方になると、それこそ蜂の巣をつついたような騒がしさになる。営業マン達が、それぞれの獲物をかかえて帰ってくるからである。  だが、五十あまりある事務机のうち、まだ半数は坐り主を迎えていない。五台あるテレビは、すべて〈東洋テレビ〉の放送を流していた。しかし、誰も注目していなかった。  井戸|毅《つよし》は、営業局の入口に一瞬立ち停って、いつもの光景を確認すると、ゆったりした足どりで営業第一課長の、|熊生《くまお》一男の席へ歩いて行った。  熊生は、廻転椅子の背に、頸筋をあてがうような恰好で、だらしなく両脚を床に投げだし、|咥《くわ》え煙草で電話を聴いている。しかし、眼だけは帰ってくる部下の表情や、動作を鋭く追っていた。井戸は微笑した。熊生課長の視線が、自分を捉えたことに気づいたからである。  熊生は、あまり機嫌のよくない様子だった。  ふだんから愛想のいい方ではないが、いつもより表情に生気が乏しく、そうして神経質にこわばっている。 〈なにか、あったのか?〉  井戸毅は、微笑を絶やさず一礼すると、近くにある空いた椅子を引き寄せて、椅子の背を前にしてまたがった。 「……なにをいってんだよ、お前さん! 何年テレビで飯を食ってんだい? そんなに良い加減なわが儘が、通ると思うのかい? もっと強気で行けよ……」  熊生は、|癇癪《かんしやく》を起しかけている声音であった。言葉使いが乱暴なのは、電波関係の営業マンの、共通した悪い癖である。なぜだか判らないが、仲間同士で話し合うときは、|殊更《ことさら》に乱暴になる。 〈叱られているのは、代理店か? それとも、東洋テレビの人間だろうか?〉  そんなことを考えながら、井戸はポケットをまさぐって、外国煙草をとりだした。  東洋テレビは、東京にある五つの民放テレビ局の中で、営業成績ではトップにランクされる会社であった。この東洋テレビが、常に独走をつづけている秘訣は、独特の営業体制をとっているためである。  それは、他局と違って、東洋テレビでは、営業局の力が強く、自分の手でスポンサーを獲得している点にあった。他のテレビ局は、大部分の番組を、広告代理店の探してくるスポンサーに売るだけのことで、あまり自分の方から積極的には動かないのである。つまり、広告代理店まかせであった——。  ところが東洋テレビでは、開局当時は、他局と同じように代理店に委託していたものを、四年前から方針を切り換え、凄じい肉弾戦を展開したのだ。新しく就任した、小野寺営業局長の命令であった。そうして、この作戦により、このところ東洋テレビは、常に営業成績では首位に立っている。  テレビ局自身で企画をつくり、それを直接スポンサーに売り込むのだから、常識的に考えると、局とスポンサーの間に、広告代理店が存在しなくても良いように思える。しかし東洋テレビでは、自分の手でスポンサーを獲得したレギュラー番組であっても、必ず代理店を指名して、スポンサー→代理店→テレビ局という形をとっている。  これは何故かというと、番組がはじまったとき、目に見えないような雑用があり、また放送のさいの事故だの、スポンサーが途中から番組を下りることなどあって、そうしたマイナスを、広告代理店が仲介することによって、カバーしておこうとする為である。  たとえば、あるビール会社の提供番組で、劇中に必ず一度、生ビールで乾杯するシーンが挿入されることが決定したとする。  スポンサーとしては、放送の画面における、生ビールの乾杯シーンだけが、関心事となるわけだが、視聴者には何でもない簡単なシーンのように思えても、放送する側にとっては大変なことなのだった。  先ず第一に、その生ビールが、いかにも美味しそうでなければならない。泡が平均して盛り上り、よく冷えた生ビールだということが、すぐ視覚的にわかる状態でなければならぬのだ——。  裸でいても、ライトの熱のために汗ばんでくる、スタジオの中であった。この中で、ドラマの進行にあわせて、冷えた美味しい生ビールを、必要な数だけ用意しておく……ということになると、これは困難な仕事になってくる。ぶっつけ本番の、ナマ放送の場合となると、係の人間は、ノイローゼ状態に陥ることになる。  また、テレビ局としても、貴重な営業マンを、その生ビールの準備係に、いちいち使えないのだった。ビデオ撮りの場合は、スタジオの都合で、午前二時、三時になることだって、珍しくないからである。  ——そこで、広告代理店の人間が、ここでも必要となる。  スポンサーを見つけ、その番組を扱わせてやる代りに、そうした雑用の一切の責任を代理店に負わせるわけである。  担当となった代理店の人間は、スタジオの中に氷やジョッキを持ちこみ、乾杯のシーンに間に合うように、最上のコンディションで生ビールをジョッキに注ぎわける。それが仕事の一つに、課せられるのだから仕方がなかった。  そして、もし泡の立たない、|不味《まず》そうなビールの乾杯シーンとなった場合には、スポンサーからの叱られ役を、広告代理店が引き受けねばならない。また、スポンサーが腹を立てて、電波料を支払って呉れないような事態が発生したとしたら、今度は代理店が、テレビ局に対して責任をとらねばならなかった——。  東洋テレビに関する限り、広告代理店は、どことなく弱い立場にあった。井戸毅は、広告代理店の人間として、それを苦々しく思っている一人である。  熊生一男は、乱暴な手つきで受話器をおくと、すぐ近くで立ち話をしている部下の一人を手招きした。 「なんですか、課長……」  流行の細い|襟《えり》の背広。胸のポケットには、青いハンカチが覗いている。食品と製菓を担当している、竹林という男だった。  竹林は、目だけで井戸に挨拶している。 「原田なんだが……単発をカバーしてやって呉れ」 「またですか?」  竹林は不服そうな顔をした。 「駄目か?」  熊生は、威圧する口調になる。竹林は、眼鏡を指でぐいと一つ押し上げてから、軽く舌打ちをした。 「いつだって、原田の奴の尻拭いだ……」  原田というのは、同じく営業第一課に勤めている、竹林の同僚なのだった。 〈ははあ。単発にアナがあいたな?〉  井戸毅は、原田が担当しているスポンサーの名前を、頭の中で素早く並べ上げながら、〈少し恩を売っておくか!〉と考えた。 「まだ見込みがない訳じゃない。でも、念のため、考えといて呉れ……」  熊生課長は、部下の気持を無視して、そう強く命令すると、煙草を揉み消してから、体を起した。 「一日ぐらい、ゴタゴタの起らない日があっても、良さそうなもんだがね。そう思わないかね、井戸君……」  熊生は、表情を動かさずにいった。 「私だって、そう思いますよ……」  すかさず彼もそう応じてから、低い声でつけ加えた。 「でも何だったら、私のところで、面倒みますよ……」 「いまのかい?」  営業一課長は、眼を光らせた。いまスポンサーからキャンセルされかかっている、単発ドラマに新しいスポンサーをつけて呉れる気なのか、と相手は|訊《き》き返しているのである。 「三十分のでしょう?」  井戸は微笑した。  彼は、まだ四十前であった。しかし、大男の上に、でっぷり肥えているから、見様によっては四十六、七に見られた。|小鬢《こびん》のあたりに、若白髪があるためである。 「流石は〈クラウン広告〉の井戸部長だな……。勘がいいや!」  熊生一男は、皮肉な口を利いた。井戸毅が〈クラウン広告社〉の、第一連絡部長として迎えられたのは二年前のことだった。そうして現在では熊生あたりの十倍近い高給を貰っている。 「勘は悪いんですが、この間、原田さんが、単発はもう嫌になった、と云って居られたもんですからね……」  彼は、人|懐《なつ》こい笑顔を浮かべた。 「もしかしたら、お願いするかも知れない。どこだね? 相手は……」  営業一課長は、油断なく訊いてくる。 「さあ、どこにしますかな?」  彼は、とぼけた。  相手は、あてにしていた単発ドラマのスポンサーが急に下りると云いだして困惑している所なのである。その弱味につけこんで、恩を売るのだから、スポンサーの斡旋をする側の人間の方が、有利な立場にあることは勿論だった。  民放局では、サス番組を|忌《い》み嫌う。サス・プログラムとは、スポンサーのつかない自社制作の番組のことである。  スポンサーのない番組を流すのは、対外的に云って、恥かしいことだとされているのであった。  だが、単発ドラマの場合は、多くは午後十時すぎの深夜に限られていて、視聴率のぐッと低くなる時間だから、スポンサーからは敬遠される。いわば買手市場の、テレビ局の担当者にしたら、値段があって無いも同然の、いやな売り時間であった。 「いくらで売って呉れるね?」  粘っこい口調で、熊生一男は云った。蝶ネクタイがよく似合う男である。顔は、ゴルフ焼けしているが、毎日の不節制を裏書するように、どことなくむくんでいる。 「それは、ちょっと……。二、三の心あたりに口をかけてみます」 「足許を見ないで呉れよ、な?」 「滅相もない!」 「二本はどうだね?」 「買った! 二十万なら安い!」  井戸毅は、おどけてみせた。相手は、苦笑して、彼を打つ真似をした。 「殴るぞ、こいつ……」 「おや、|桁《けた》が違いましたか?」 「とぼけるなよ、井戸君! 痩せても枯れても東洋テレビだ……。単発だって、百万円以下じゃァ売らん!」  熊生は、芝居がかってそう云い、ハイライトを抜き取っている。井戸毅は、ガス・ライターを鳴らした。 「本当ですか、熊生さん……」 「なんだよ?」 「この間、大正製菓に売ったのは、四十五万円だったそうじゃないですか……」  声を低めていた。しかし顔は、ニコニコ笑っている。この奇襲に遭って、熊生課長はかるく狼狽の色を示した。 〈案の定だったな……〉  井戸は心の中で、|北叟笑《ほくそえ》みながら、今度は真顔になって他のことを囁いた。 「この間……お耳に入れておいた、秘密ショーが今夜あるんですがね。どうします?」 「秘密ショーか……」  熊生は、あまり関心のないような|口吻《くちぶり》だったが、瞳にある種の感情が、うっすらと滲み出ている。 「今夜のは、面白そうですよ」  井戸は、努めて快活に云った。 「面白い? なにか、趣向でもあるのかね?」 「外人女と、犬のショーです」 「えっ、ワン・シロかい?」  熊生は腰を浮かせた。  広告代理店に勤める人間は、スポンサーの宣伝関係者は云うに及ばず、媒体であるテレビ局や新聞社の担当者の、趣味や性格を委しく調査しておく必要があった。むろん出身地や、卒業した大学、現住所、家族の構成なども、丹念に調べあげてある。 〈クラウン広告社〉は、戦後に誕生した、いわゆる戦後派の広告代理店であった。新聞の三行案内を主に扱っていたが、民間放送がはじまると同時に、この目に見えない電波広告に、いち早く取り組んだ。これが、クラウン広告社に大きな変化をもたらした。  だが発足した|許《ばか》りの当時、誰が今日の民間放送の繁栄を予測できたであろうか?  その頃は、スポンサーも余りラジオ広告に、興味を持たなかった。目で見る広告ばかりに馴らされていたからである。  井戸毅は、大学を卒業すると同時に、大阪の広告代理店に勤めた。そうして、民間放送の開始と共に、この新しい広告を手がけて来たのだった。  はじめのうち、いくらスポンサーを説得して歩いても、十人が十人そっぽを向いた。 「ラジオちゅうたら、音やろ? あんな目に見えん、電波みたいなものに、金が出せまっかいな! まだオナラの方がましやないか。あれは音がして、匂いもしよるさかいにな!」  そんなことを真剣な顔つきで云う、一流会社の重役もいたのだから、思えば感慨無量であった。  ラジオ広告よりは、放屁に金を出した方が良い、と断言した、その関西の製薬メーカーは、いま彼の抱える最大の広告主となっている。しかし発足の頃はそうした無理解なスポンサーの方が多かった……。  そのうち、テレビ局が誕生した。  ラジオの時代は去り、テレビ広告の時代がまたたく間に到来した。井戸毅は、関西系の製薬会社、弱電メーカーを握っていたため、テレビ局に対しても、強いことが云えたし、バリバリ仕事ができた。  彼のお蔭で、ラジオ時代には、月商い七、八千万円だった水揚げがぐんと増加して、三億円を越えるようになったのだから、夢のような話である。テレビを使う広告の場合には、一にも二にも企画であった。  良い企画を持ち、より局に対して強い発言のできる広告代理店を、スポンサーは求めていたのである。その意味で、彼は、うってつけの企画マンであり、ファイトマンでもあったのだ……。  だが、企画の新鮮さもさることながら、井戸毅が成功したのは、スポンサーにしろ、民放局にしろ、その人事関係の事前調査を怠らなかったからである。  ……それは、いちばん文化の尖端的な仕事をやりながら、広告という世界が、実は人間同士の〈顔〉と〈顔〉によって、左右されているという鉄則に、彼が気づいたからだった——。  顔が通用する、ということは、古めかしい義理人情の世界であることを物語っている。たとえば、スポンサーの方だって、なにも買いたい時間ではないが、 「井戸が頭を下げて頼んで来たのだから、三十分の単発ドラマ位なら、つきあってやろうか……」  という風に考えて呉れるのだ。  東京に本社をもつ〈クラウン広告社〉が、大阪の代理店にいた彼を、有利な条件を示して引き抜いたのは、いうまでもなく局とスポンサーと両方に効く、その井戸毅の〈顔〉のためであった。  クラウン広告社は、テレビに関して云えば業界のトップ五社に食い入っている、従業員五百名をかかえる大会社である。  三十六歳の若さで、その大きな広告代理店の連絡部長に迎え入れられた彼は、一部の人からその出世の早さを|妬《ねた》まれた。  しかし、広告業界は、実力の世界でもある。実力のない人間は、脱落して行くだけであった。 「どうします?」  ……井戸毅は、真顔のまま、熊生課長を見詰めた。 「そうだな……。人と会う約束も、ないことはないが……」 「じゃあ、またの機会に、お誘いしましょうか?」  彼は、狡くそんな言葉を吐いた。相手の心理を、読み抜いた上での言葉である。 「何時からだい?」  熊生は、勿体ぶって、手帳をとりだして覗き込んだりしている。 「九時ジャスト。八時半に、六本木に集ることになっています」 「ああ、それだったら間に合う。六本木というと……例の?」  営業一課長は、彼を注視した。 「そうです。八時半に、お待ちします」  六本木の例の店というのは、コール・ガールの溜り場になっている奇妙なレストランであった。  井戸毅は、相手の肩に軽く手をおいて、素早く立ち上っていた。     二  営業局を出ると、井戸毅は、その足で第三スタジオを覗いた。スタジオでは、人気者の歌手を集めて、音楽番組のカメ・リハが行われている最中だった。  カメ・リハとは、省略の好きなテレビ業界の用語の一つで、カメラ・リハーサルのことである。いわば本番のビデオ撮りに入る前の、カメラや演技者の位置を決める、最終的なテストであった。  スタジオの中は、見学者や芸能記者が這入り込んでいるため、実に雑然としている。 「二カメ、もう少しゆっくり、奈津ちゃんの顔を、|舐《な》められないかな? うん、そうそう。そこで奈津ちゃん、泣き顔になって……ハイ、その調子、その調子……。おい、バックのライト、早く点けすぎるよ! 奈津ちゃんの唄が流れだしてから、徐々に……だめ、だめ! 早すぎるんだよ!」  演出の田島五郎の、女性的なくせに、ひどくドスの利いた言葉が、調整室のマイクを通じて、第三スタジオに流れている。 〈また、鏡奈津子か! どうも田島旦那は、あの歌手に気があるらしいな……〉  井戸は眉をしかめた。  鏡奈津子という歌手は、さいきん売り出した新人で、さほど歌は上手だとは思えないが、スタイルのいい、ちょっと男心をそそるような美人であった。なんでも、ファッション・モデルをしていたことがあるというから、洋服その他の着こなしも、上手なのであろう。  しかし、井戸の眼からみたら、大根役者でお義理にも演技のうまいタレントとは云えなかった。  田島は、なかなかの色事師で、女優などとも、とかく噂の多い男だった。  嘘か本当か知らないが、女に一銭の金も使ったことがないそうで、〈早乗り田島〉とか〈乗り逃げ五郎〉という|渾名《あだな》もあるという。井戸毅も、仕事の派手な関係上、妻以外の女性との交渉が少い方ではない。だが、いわゆる〈商売もの〉には手を出さない方であった。  彼の性格として、自分の仕事に密接な関係にある、たとえば職場のBGなどに手を出すのは、男性として、もっとも卑劣だと思っている。井戸が、田島を毛嫌いするのは、そんな意味からだった。でも、〈東洋テレビ〉では、音楽番組をつくらせたら、田島五郎の右に出る人間がいないのも事実である。  井戸は、しばらくスタジオの風景を眺めていて、すぐ入口の脇にある階段を昇って行った。この階段は、中二階の調整室に通じているのである。  真ッ赤なポロシャツを着て、首からストップ・ウォッチをぶら下げた何時ものスタイルで、田島は|強《きつ》い眼つきで、テレビ・カメラの動きを追っている。やはり仕事となると、眼の色が違うのを、井戸は|不図《ふと》、たのもしく眺めた。 「……はい、それまで。大体、いいでしょう。本番のとき、奈津ちゃん、もう少しハッスルしてよ、いいね……」  スタジオとを連絡するマイクのスイッチを切ると、田島は大きな声で、 「全く、大根だなあ、鏡奈津子は! 見ちゃァいられねえや!」  と、|傍若無人《ぼうじやくぶじん》に呟いている。  つい今しがたまで、鏡奈津子を猫撫で声で、|煽《おだ》てていた演出家とは全く別な人間が、そこにはあった。 〈奴さん……照れ隠しに、悪口を云ってるな……〉  井戸毅はそう感じたが、そんな感情はおくびにも出さず、近づいて肩に手をあてた。 「やあ、来てますね……」  田島五郎は、片頬だけをニヤッと崩し、マージャン|牌《パイ》をつまむ手つきをした。 「いや、今夜はジャンの話じゃありませんよ……。もっと、怖い話」  井戸は微笑した。 「怖い話? おっかないなあ……」  ディレクターは反応しながら、外国煙草を一本咥えている。井戸は、ポケットからライターを取り出した。 「今夜……九時。ワン・シロのショー」  彼は囁いた。 「ワン・シロ?」  田島は流石に|駭《おどろ》いた声になっている。 「興味ない?」 「ありますとも、さ! 映画じゃないんでしょう?」 「それが、実演でね。犬はなんと、グレートデンだそうで……」  井戸は、さらに声を低めた。 「グレートデン? そいつは凄いや! で、女は?」 「白系露人だとか、云ってましたがね」 「よし、行く。行きますよ、なにがなんでも?」 「ビデオ撮りは、あがる?」 「大丈夫。あと十五分で本番だから……」 「じゃあ、酒井さんを誘ってらっしゃいよ。八時半までに、六本木……」 「あ、知ってる、知ってる! イーさんの好きな店ね。コール・ガールの……」  井戸毅は、真顔になると、念を押すように云った。 「八時半だよ、集合は? 他言無用。酒井さんを誘ってね」 「オーケイ!」  ディレクターは、スタジオヘの通話スイッチを入れて、放送しはじめた。 「十五分休憩。十五分たったら、きっちりはじめますから遅れないで下さい……」  井戸はニヤリとしながら、調整室の薄暗い部屋の中を見廻した。酒井の姿は、見当らなかった。正面の広いガラス窓を通して、明るいスタジオのセットの有様が、俯瞰できるだけであった。  酒井は、その音楽番組のスポンサーである、〈フラワー化粧品〉の宣伝課に勤めている青年であった。ただのサラリーマンではなく、フラワー化粧品の社長の甥にあたる人物でもある。  もともとフラワー化粧品は、口紅で売り出したメーカーだが、五年前、電気洗濯機に使用する洗剤を新しく市場に出して成功したのであった。  倒産の寸前にあると云われていたフラワー化粧品が、今日の大をなしたのは、この洗剤の新発売が契機となっているが、一つには〈クラウン広告社〉のライバルである〈東宣社〉が、このフラワーの宣伝役を買って出たからである。東宣社は、広告代理店のトップに立つ大手であった。  広告代理店にもピンからキリまであるが、群小を加えると、その数は東京で八百社、大阪に五百社と云われている。地方にもないことはないが、いずれも大都市に集中していた。  その中で、クラウンのように、電波を専門に扱っているのは、まず二十社内外とみてよいだろう。そうした広告代理店の取扱い高は、昭和三十八年度で二、八〇〇億円。不景気な今年でも三、〇〇〇億円は越えるだろうと、予想されている。この数字は、面白いことに、日本の特殊現象である、パチンコ業界の売上げに匹敵するものであった……。  テレビの普及率が、二千万台をオーバーしていると云われている今日、スポンサーは矢張り、視覚と聴覚の二つから訴えかける、テレビ広告を無視できなかった。いや、テレビを媒体に使うと、目に見えて商品の売上げも急上昇するのである。  ……そのいい例が、フラワー化粧品の売り出した洗剤〈フラワーS〉である。  代理店となった東宣社では、商品名をとり入れたコマ・ソン(コマーシャル・ソングの略語)を作り、スポット広告で集中的に宣伝したのであった。いわゆるステ・ブレ広告である。  ステ・ブレとは、ステーション・ブレークの省略で、番組と番組のあいだにもうけられた、四十五秒間の谷間を利用しての広告が、ステ・ブレ・スポットということになる。  放送の都合で——たとえば機械の故障などあって、放送時間がずれてくると、次の番組に支障を来たす。それをカバーするために、テレビ局ではスポンサーに、番組と番組の繋ぎ目に、四十秒ほどの余裕をとることを、あらかじめ宣告してある。  だからスポンサー側から云わせると、三十分の番組を買っても、実際には二十九分十五秒しか使えない訳であった。そして、この四十五秒ずつのステ・ブレが、テレビ局にとっては、大きな収入源になっているのである。悪口を云えば、三十分の電波料をスポンサーから貰っておきながら、四十五秒のステ・ブレを二重売りしている形なのである。 〈フラワーS〉は、このスポット広告を巧みに利用することによって、家庭の主婦たちへの訴えかけに成功したのであった。 〈東洋テレビ〉の時間料金は、五段階にわかれていて、A・特B・B・C・Dの五種類があった。  たとえば平日のAタイムは、夕方七時から十時までの三時間であるが、この間の三十分を買うとすると、そのタイム料金は六十万円である。しかし、同じ三十分間でも、朝七時までのDタイムになると、二十万円しかかからない。もっとも、それだけ広告効果が少いことも、事実であるが——。  ところで、この時間料金のほかに、スポット料金があって、これはひどく割高に制定されている。三十秒の料金が、Aタイムで二十万円、特Bタイムで十五万円、Cタイムですら九万円である。  だが、回数による割引率というものがあって、たとえば六カ月間の契約だと、Aタイムで三十秒の料金は、一割引の十八万円になるのであった。 〈東宣社〉は、東洋テレビ、文化テレビの二局をえらび、全国ネットで、毎日十回、つづけてスポット広告を放送させた。もちろん、マスコミに勢力を張る東宣社のことだから、局で規定した料金通りに、支払っている筈はない。  実は、このあたりの駈け引きが、広告代理店のいわば仕事の醍醐味で、お互いの手の内のカードを隠して、丁々発止と渡り合うのが楽しみの一つである。  テレビ局の営業としては、一日十回も、しかも毎日続けてスポット広告をして呉れるスポンサーは、滅多にいなかった当時のことだから、それこそ心の中では大歓迎であった。  それにテレビ会社としては、スポット広告のスポンサーを探すのは、大変な苦労なのである。十五秒でも、一時間でもスポンサーには変りはない。そして、それぞれにスポンサーとしての権利を主張するのだ……。  井戸毅は、東宣社がテレビ局の営業の、そんな足許を見透して、半値以下に値切り倒したに違いないと思っている。  が、なにはともあれ、東宣社の大胆な、繰返しスポット戦術のおかげで、洗剤〈フラワーS〉は信じられない位に売れ、フラワー化粧品も窮地を脱したのである。  それ以後は順調そのもので、現在は、化粧品六、洗剤四の割合で、美粧メーカーの中でも業績のいい会社にランクされていた。  井戸が、今夜の秘密ショーに、フラワー化粧品の宣伝課員である、酒井哲二を誘おうとした魂胆は、年間七億円の広告宣伝費を使う〈フラワー〉を、クラウンに結びつけたかったからに他ならない。  つまり、東宣社扱いのフラワー化粧品の電波広告を、クラウン広告社扱いに鞍替えさせよう……という、遠大な計画であったのだ。  田島ディレクターに声をかけたのは、その最初の布石であった。  六本木の〈タムズ・レストラン〉へ行く前に、井戸毅は銀座に出た。一時間あまり、余裕ができたからである。  今夜の秘密ショーは、個人の家で行われるので、食事をあらかじめ済ませておく必要もあった。  井戸は、東宣ビルの前で車を降りて、運転手に、「もう帰って良い」と告げた。運転手は、不服そうな顔をした。自分も、秘密ショーを見せて貰えるものと思っていたのであろう。  手を挙げて、井戸は並木通りに向かって歩みだす。  西銀座には、ネオンがともり、|黄昏《たそがれ》の中を|遽《あわただ》しく行き交っている、夜の蝶たちの姿が随所に眺められた。 「井戸さん!」  ——不意に呼び止められて、彼は、ゆっくり首を回転させた。濃い化粧をしたキャバレーの女の子が、彼の|小鬢《こびん》のあたりを見詰めながら、通り過ぎて行く。 「こっちよ、井戸さん……」  声の主は、反対側の舗道にいた。 「ああ、きみか!」  井戸は、目尻に皺を寄せる。タクシーの途絶えるのを見澄して、一人の女性が彼の方へ駈けてくるところであった。名前は失念していた。が、顔には記憶がある。 「どちらへ?」  彼は、誰にでも云うように、愛想よく声をかけた。 「食事に行く所なの……」  女性は答えた。こんな時間に、財布だけをハンカチに包んで持ち、踵の高い靴をはいてウロウロしている女性なら、バー勤めの、しかも早番のホステスに違いなかった。 「ほう? 何を食べるんだね?」  井戸は訊いた。女は笑った。 「だから、考えてるの。毎日、カツ丼じゃあ飽きちゃうでしょ」 「ふむ……朝鮮料理はどうだい? 美味しい冷麺を食わせる店があるんだが」 「あら、ご馳走して下さるの?」 「朝鮮料理なら、ね」 「嬉しいわ……」  女は、彼の腕に|縋《すが》りついて来た。 〈どこの店のホステスだったかな? 名前も憶えていないが……〉  普通の人間なら、名前も|碌《ろく》すっぽ覚えていない酒場の女性に、食事を奢るなんて考えないであろう。しかし、井戸のような職業の人間には、そんな無駄に近い時間が、必要なのであった。頭脳の切り換えには、もって来いのリクリエーションとなるからである。  その店は、すぐ近くにあった。  二人は並んで、二階の窓際の席に腰を下した。女の頸から、良い匂いがしている。  井戸は、焼肉とビールを注文し、女に話しかけた。さいきんの映画の話から、近く完成される劇場の設計の話になり、そのうち彼は、その女性が比較的よく使う、七丁目のクラブ〈唇〉に勤めている、克美というホステスであることを憶いだした……。  仲好く冷麺を食べ終ると、ちょうど八時十分である。 「克美ちゃん。ママに、よろしくな。今夜あたり、行くかも知れん……」  井戸毅は、立ち上りながら、克美にそう云った。 「あら、イーさん。私の名前……いつ憶えたの……」  克美は、不思議そうな顔をした。クラブ〈唇〉では、彼女はまだ新顔だったのである。他のホステス達と違って、|すれ《ヽヽ》てない所がいい。井戸は、勘定を支払うと、すぐ六本木にタクシーを飛ばした。  待ち合わせ場所に指定した〈タムズ〉は、名目はレストランであるが、不良外人たちの溜り場として栄え、現在ではコール・ガール達の巣になっている店で、酒場と呼んだ方が適切である。  彼は、入口に背を向けて、カウンターで黒ビールを飲んだ。  八時半までに、面白いように、同伴者たちが集って来た。こうした秘密ショーの待ち合わせに限り、遅刻者がないというのは、人々が異常な関心を持っている証拠である。  東洋テレビの熊生課長、同じく演出部の田島五郎、フラワー化粧品の酒井哲二、それにクラウン広告社からは徳力専務と彼——合計五名であった。  案内役は、自称カナダ生れの二世の、フランク・若槻という洋酒ブローカーである。  フランクの運転する大型車に乗り、連れて行かれたのは、青山墓地の近くの、鉄筋三階建の邸宅であった。  門柱のベルを押すと、怪し気な日本語で、|誰何《すいか》する言葉が間近に聞えた。インターホンが取り付けてあるらしい。  しばらくすると、十七歳ぐらいの女中が出て来て、無表情に鉄の扉をあけた。内側から電気仕掛になっている模様である。  女中が先に立って、邸宅の中へ案内して呉れたのは、二階の八畳ほどの和室である。中央に、マットレスが敷かれ、夜具がのべてあった。  六人は、その夜具の周囲に、思い思いの位置に腰を下ろす。不意に、電燈が消えた。そして暗がりの中を、真ッ白い裸女が、ゆったりと這入ってくるのが感じられた。     三  ショーが終って、玄関から吐き出されたとき、案内人を含めた六人は、さも自分が実演者であったかのような、疲労|困憊《こんぱい》した表情で、肩を落してぞろぞろと歩き出していた。  乗って来た大型車は、門の外にパークさせてある。  流石に案内役のフランク・若槻は、なんどか見物している|所為《せい》もあって、すぐ正気に立ち戻り、駈けて行って車のエンジンをかけていた。  しかし、大袈裟な表現を使うと、残りの五人は、さながら|幽鬼《ゆうき》に化身したかのような、夢うつつの足の運び工合なのである。  フラワー化粧品の宣伝課員など、ふと足を停めて、名残り惜しそうに、ショーのあった二階の和室とおぼしき窓の明りを、見あげているのであった……。 〈どうやら刺戟が強すぎた……。今夜はみんな、荒れそうだぞ……〉  井戸毅は、いま目撃して来た、世にも不思議なショーの光景を、頭の中から追い払おうとするかのように、強く首をふった。  それは健康な人間なら、目を疑いたくなるような、いや……気が変になりそうな、異常なショーであった。 〈美女と野獣〉という映画があった。この題名から想像するのは、少くともロマンティシズムの香り高いドラマである。が、現実の美女と獣の戯れは、どうであったか——。  目を閉じるまでもなく、その白系露人の年増美人と、よく訓練された体格のいい洋犬との、三十分間にわたる実演の光景は、粘っこく彼の網膜に貼りついている。これでもか、これでもか、というように、大脳皮質の|襞《ひだ》のあいだに沈着し、そして走馬燈のように再現を図っている。 「酒井さん……」  井戸は声をかけた。  化粧品会社の社長の甥は、彼の声にようやく我に返ったように、歩きはじめる。 「どうも、変なものを、お互いに見物したようですね」  彼は、自嘲めいた笑いを、唇の端に浮かべた。むろん相手にも、反応があった。でも、その反応の仕方は、年が若いだけに、いささか彼とは違っていた。 「あんな美人が……なぜ、あんなグロテスクな犬なんかと……しかも、見世物に……」  酒井哲二は、|囈言《うわごと》のように呟いている。 〈なるほど。彼は、女に同情したのか! どうやら、外人の女性に、弱いらしいな〉  井戸は、心の中で、そんなことを考えながらも、意外にさらりとした口調で云った。 「縁起直しに……どうです。二人だけで、一杯やりませんか……」  酒井哲二は答えないで、 「彼女のあれ……演技なんでしょうか?」  と、車のドアをあけながら訊いた。車の後部座席には、東洋テレビの熊生と田島、それに彼の会社の徳力専務とが、むっつりした表情で腰を下ろしている。  カナダ生れの自称二世は、キングサイズの煙草を|咥《くわ》えたまま、ハンドルに頬を押しつけるようにして坐っている。それは、妄想を愉しんでいるような、|淫《みだ》りがましいポーズに見えた。 「フランク……。僕と酒井さんは、銀座で下ろして呉れないか?」  彼は先手を打って云った。  演出の田島や、熊生課長にまつわりつかれると、今夜の仕事がやりにくくなると判断したのである。 「じゃあ、銀座廻りだね。あとのお二人は、私が神楽坂にでも、ご案内しよう……」  徳力専務が、すぐ彼の言葉を引き取って、うまく処理して呉れた。徳力は、井戸をクラウン広告社に引き抜いた人物だけに、いわば仕事の面ではツーカーだったのである。  車が走りだすと、|堰《せき》を切ったように、美女とグレートデンの牡犬との、ショーの感想をお互いに述べあう反省会となった。 「不潔だねえ、どうも。地上最大の愚劣なショーを見たような感じだ……」  と、田島五郎が云うと、熊生一男の方は|反駁《はんばく》して、 「そうかなあ。エロ、グロ、ナンセンスという言葉があるが、僕ァこの三つの粋を集めたショーのような気がしたな。牡犬と外人女だから、まだしも見られるんで、あれが日本人の男と、牝犬だったひにゃァ、ヘドが出るだろう……」  と、礼讃するのだった。 「あの犬は、相当に訓練しているんですよ。仔犬のときから、家の中で飼って、発情期の直前から仕込むんだそうです。家の中から、一歩も外へは出さない。だから、あの牡犬は、まるで競馬のタネ馬みたいに、一度も仲間の女は知らずに、育てられているわけですよ……」  フランク・若槻は、得意そうに、そんな知識を披露した。  競馬のタネ馬は雌の|臀部《でんぶ》の形をした器具を見ただけで、発情するのだそうである。つまり、条件反射であった。タネ馬の方は異性ならぬ、その精液採取器にペニスを挿入して、結構それで性的な満足感を得ている。だが、射精した先には、トタン板の筒があって、その先には魔法瓶がぶら下っている……。  井戸毅は、ようやく異様な興奮が収まって来た。そうして、このカナダ生れの自称二世と、いつ、どうした因縁で、こんな仲になったのかと考えはじめた。  車は、土橋の高速道路の下を潜り抜けて、右手の|眩《まばゆ》い西銀座のネオンに、迎え入れられていた。  ……その夜、銀座七丁目のクラブ〈唇〉は宵のうちから満員であった。午後三時ごろから、財界とマスコミ関係のパーティが二つあって、店のホステスが二組にわかれて出席し、それぞれにお客を勧誘したためであろう……。  銀座のバーで、財界人の主催するパーティに、店の女の子をホステス役に何名か出して呉れ……と依頼されるようになると、一流の資格ができたと云われている。  ということは、それだけ訓練された美女を集めているから、パーティのホステス役に懇請を受けるわけで、また逆に云うと、そんな店だから、政財界その他の有名人も、お客として通うわけであった。  つまり、美人を大勢集めなければ、銀座では一流の店になれないし、また繁昌しないわけである。  いくら飛び切りの美人を、二人、三人かかえていても、パーティに出ると、|自《おの》ずから店の優劣がはっきりする。なぜなら、小さな店では客が少いので、政財界のパーティに出ても、有名人の顔を知らない。それで、どうしても、知っている客の傍に、その店のホステス同士で、固まることになってしまう。  ……これでは、日当三千円を支払って、出席者にサービスしてもらおうと思っている、主催者にとっては、バカバカしい限りだ。特定のお客にサービスするのではなく、大勢のお客に、サービスして貰おうと、彼女たちを呼んだのだから——。  そこで、パーティのホステス役に駆り出される店の名前は、自然と固定されてくることになる。クラブ〈唇〉だって、店を改装して大きくなり、やっと半年目にパーティの口がかかった位である。  招待状を貰い、お義理に出席する人は、銀座の酒場のホステス達は、単なるパーティの色どり位にしか考えてないだろうが、裏に廻ってみると、なかなかに競争がはげしいのであった。  だから、一流のバーのマダム達の中には、マスコミや政財界のパーティの会場となる、ホテルの宴会係につけ届けをして、一カ月も前から、そのパーティの日時と主催者の氏名をキャッチし、必ず自分の店から、ホステスを出すように事前工作を怠らない女傑もいる。  有名人の集ったカクテル・パーティの席上で、店の名前をPRすることほど、効果の大きいものはない。  ある店では、外人か、或いは混血の美人ホステスだけを、パーティに出席させ、一カ月足らずのうちに一流クラブの名声と地位を、築き上げてしまった。日本人が、外人に弱いという盲点を、逆に利用したのであった。  ——ところで、クラブ〈唇〉に勤めるホステスの一人として、西村克美は、マダムから一度も、その名誉あるパーティに、出させて貰えないことを、不満に思っている。  克美は、勤めだして四カ月目の新顔ではあったが、彼女より新しいホステスに、マダムは声をかけ、彼女を無視していた。なぜだか、よく判らない。  女の子は、五十人あまりいた。  開店したのは五年前だそうだが、マダムの辰子は、男にかけてはなかなかの凄腕で、これまでに三度も旦那を代えている。旦那が代るたびに、店の位置が移り、そして店の規模も、大きく|膨《ふく》れ上って来ていた……。  最初のパトロンは、年下の、新聞を賑わした汚職官吏だそうである。次は、証券会社の重役で、株で儲かっているとき、現在の靴会社の社長に乗り換えた。  店は、ビルの三階にあったが、一階には、パトロンの経営する靴店があり、クラブ〈唇〉のホステス達は、マダムから、〈ローマ靴店〉を必ず利用するようにと、命令されていた。また顧客への贈答品も、全国に販売チェーンを持つ、ローマ靴店の商品券にしろと、要請されている。 「二人して儲けようと云うんだから、|敵《かな》わないやね……」 「しかも、ビルの上と下でさァ。唇には酒を、足にはローマ靴を、だわ……」  クラブ〈唇〉のホステス達は、マダムの辰子がいないと、よくそんな陰口を利いた。辰子は、経営者としては、冷たい方であった。  日給制の月給だから、店を休むのは、個人の勝手なのに、叔父が死んで葬式に出席するために休んだホステスを、怒ってクビにしたりしている。また、子供が急病で、三万円の前借りを申し出た女の子に、それと金の必要な事情を知っていながら、 「私は、金は貸さない主義なの。それより自分で作る方法なら、教えて上げるわ……」  と、冷酷に突き放したりしていた。  ホステスは、歩合制と、日給制の二派にわかれている。喫茶店からスカウトされた克美には、まだ固定客がないから、歩合制に転向することはできない。だから、千五百円の日給で、当分のあいだ辛抱するより、仕方がないと思っている。  しかし、千五百円の日給では、二十五日働いたとしても、三万七千五百円である。そのうち春秋の旅行会だの、国民健康保険だのという積立金にとられて、手取りは三万五千円であった。  アパート代に一万五千円、食費と交通費には一万四、五千円かかる。すると大切な化粧品代、衣裳代には、たった五千円しか廻せないことになる。  だから西村克美は、パーティに出席させて欲しいのであった。パーティで、三時間ぐらいお客にサービスするだけで、二千円から三千円の収入になるからである。  パーティの流れの客が、ひとしきり騒いで潮が引くように帰ったあと、ひょっこりと姿をみせた美男子があった。映画スターの、|隈部《くまべ》亮二である。しかも、一人であった。 「いらっしゃいませ……」  入口の近くにいた克美は、|弾《はじ》けるように立ち上がると、隈部の傍に飛んで行った。 「隅のボックス……空いてる?」  美男スターは、気取った云い方をした。 「いま、ふさがっていますけど、なんでしたら、空けて頂きますわ」  克美は、目をくりくりと動かした。その表情が、もっとも愛嬌のある表情であることを、鏡をみて訓練していたのである。 「頼む。あとから、黒メガネをかけた、女のお客が一人来る。僕のボックスに、黙って案内して呉れ。いいね」  隈部亮二は、その儘、トイレに立ち去って行った——。  クラウン広告社の連絡部長井戸毅が、客を一人連れて姿を見せたのは、カンバン間際の午後十一時ごろである。  克美は、隈部の席から立って、その井戸のボックスに移った。 「さきほどは、どうも……」  彼女は、夕食をご馳走になったお礼を、真ッ先に、耳許で囁くように云った。 「よう、どうだい? ママに叱られなかったか。ニンニク臭いって……」  井戸は相変らず、朗らかだった。 「大丈夫よ。そう思って、肉はあまり食べなかったもの……」 「なるほど。商売熱心だな」  井戸は、ブランデーを、注文したあと、連れの客を、マダムである辰子に、紹介しておきたいと云いだした。 「いま直ぐ?」 「ああ。どうせ、カンバンだろ?」  井戸は、克美の膝小僧を、指先でぴちんと弾いた。マダムの辰子は、映画スターの隈部の所に、坐りきりであった。有名人に弱いのである。  克美は、井戸に告げた。 「もう少し待ってね、ママは今、隈部亮二の席にいるの」 「隈部って、あの、しょぼくれた二枚目かい……」 「まあ、口が悪いわね。|美《い》い男じゃないの」 「だが、あいつはもう四十を越えてる。スタミナのない色男なんて、絵にかいた餅みたいなもんだ……ねえ、酒井さん。そうじゃァないですか……」  井戸は愉快そうに、笑い声を立てている。一番奥のボックスだから、会話の内容は、いくら大声で話しても届かないと思うが、やはり気兼ねであった。 「こちら……酒井さんと|仰有《おつしや》いますの?」  克美は、|鉾先《ほこさき》を転じて、慌てて酒井に話しかけた。まだ若い青年である。年の頃は、二十六、七であろう。  色は白く、髪の毛をポマードで、きちんと七三にわけ、|櫛《くし》の目を入れている。胸ポケットには、ハンカチが覗いていた。しかも、ネクタイとお揃いの柄であった。 〈お|洒落《しやれ》らしいわ……〉  克美はそう思い、上品な顔立ちをした酒井哲二に、好感をもった。 「きみたち、フラワー化粧品を使ってるかい?」  井戸毅が、集って来たホステス達を、見廻しながら不意に訊いた。  彼が、そんな質問を発するときは、自分の連れが、〈フラワー化粧品〉に関係しているから、製品を賞めないまでも、悪口を云うな……という暗号である。 「あら、使ってるわ。口紅は、昔からフラワーよ」  |姐《ねえ》さん格の、万紀というガラガラ声の女性が、得意そうに答えている。 「昔からと云うと……酒井さん、フラワーは三十年も前に設立されてましたかね?」 「いや、うちの会社は、戦後派ですから……」  と、生真面目に酒井が応答するのを、井戸はすかさず引き取って、万紀の方に向き直った。 「やい、嘘つき! 三十年前から、フラワー口紅をつけてるだなんて、云いやがってからに……」 「あら、失礼しちゃうわ!」  万紀の方も、ベテランのホステスだから、それと悟って、怒った拗ねた顔をしてみせる。 「あたしの年を、幾つだと思ってるのよ! 終戦のとき、女学生……」 「の、子供があった!」 「なぐるわよ、井戸ちゃん!」  ——一座は、華やかな笑い声に包まれた。酒井哲二も、井戸と万紀というホステスの、軽妙なやりとりに、大口をあけて笑っている。  井戸毅の席は、いつも猥談に終始するのであった。だから、この程度の会話は、まだ序の口なのである。  人をさんざん笑わせておいてから、井戸は不図、真面目な顔に戻ると、克美の耳に顔を寄せた。 「おい……マダムは、まだかい?」 「いま呼ぶわ。|焦《あせ》らないで……」 「もう一軒、廻りたいんだ。隈部なんて、いつだって会えるじゃないか、銀幕の上で!」 「ところが、そうは行かないのよ」 「なぜだい?」 「隈部さん……|篝《かがり》千代子と一緒だもの……」 「なに、篝千代子?」  井戸毅は、思わず大きな掌で、口をおさえた。どうしたのか、井戸の瞳が、燃え上るように光りはじめていた。  同 性 愛     一 「なあ、千代坊……本当に僕と組んで、仕事をやらない?」  隈部亮二はブランデー・グラスを、指先でくるり、くるりと廻すような|仕種《しぐさ》をしながら、粘っこい口調で話しかけて来る。篝千代子は、意味もなく微笑しながら、そっと左脚の位置を移動させていた。  男の脚の体温が、ナイロン・ストッキングを通して、まだ暖かく残っている。  それは隈部が、わざとズボンの裾をたくし上げるようにして、脚の皮膚を露出させ、直接、彼女の脚に触れさせていたからに他ならない。 〈エッチな男!〉  篝千代子は、|性懲《しようこ》りもなく、またしても男の脚が、自分の左脚を追ってくるのを知ると、心の中でそう呟いていた。 「本当に、そうなさったら良いのに! 篝さんのことを本気で考えて呉れない会社に、なにも義理を立てる必要ありませんわ……」  マダムの辰子が、隈部亮二に|媚《こ》びるように、そんな言葉を吐いている。 「そうかしら?」  彼女は、大きな眼を動かして、クラブ〈唇〉のマダムの顔を|凝視《みつ》めた。 「そらァそうですよ……。あたしは、そう思いますけどね。この世の中は、義理人情も大切ですけど、それだけじゃァありませんよ……」  辰子は笑うと、話題を変えるように、 「甘いカクテルでも、如何ですの?」  と訊いた。 「ええ、ありがとう。でも、そろそろ失礼しますわ……」  ハンドバッグを膝の上に引き寄せながら、篝千代子はまた脚を動かした。 「まだ、いいじゃない? これから赤坂へでも行こうと思ってるんだが……」  隈部は、額に垂れた髪の毛を、さらりと左手で掻き上げながらいった。 「でも、パパに叱られるんです」  少女のように純情そうな声音をだして、彼女は答え、自分でも可笑しそうに笑ってみせる。だが、その笑い声は、|空虚《うつろ》であった。  ……この半年あまり、篝千代子は、会社から|乾《ほ》されていたのだ。一級の主演スターでありながら、会社では、もう篝千代子の主演映画には、いっさい興味がないような素振りを示している。  いや、いろんなプロデューサーが、篝千代子主演の企画を立てても、重役会議で通らないというのが実情である。  会社との契約が切れるのは、今年の九月一杯であった。だから正確には、あと五カ月ちかく残っている。  去年の彼女なら、その五カ月のあいだに、二本から三本の主演映画を、消化させられていたものだ……。 〈新興映画〉との契約は、年に四本だった。しかし、全盛期の一昨年あたりなど、主演だけで年七本、お義理のチョイ役を入れると、年間十三本も出演している。  その現象は男優陣が充実している割合に、女優層のうすい新興映画の悩みを、率直に物語る証拠でもあった。  映画というものは、まったくのところ、水ものである。水商売という言葉があるが、映画ほど奇妙な商売も珍しい。なぜなら、映画には、製作費という原価があっても、売り値はないからである。  映画は、企画がいくらよくても、脚本家や監督の選定をあやまったり、映画スターの配役に失敗したら、もうお終いだった。それに宣伝の上手下手もある。  その意味で、篝千代子は、会社にとって貴重なスターであった。  篝千代子は、華族の血を引いて生れ、宝塚歌劇時代にはパッとしなかったが、新興映画入りしてから、瞬く間にスターダムにのし上った女優である。  代表的な日本美人で、時代劇にも、現代劇にも使えた。しかも、歌も上手なので、ミュージカルにも使える。興行的にあたる女優に乏しい、新興映画としては、便利で重宝な、決して手放したくないスターの一人なのである。  彼女のマネージャーを兼ねている、|榧原《かやはら》春江が、契約本数外の出演については、一本三百万円……というような、ベラ棒な値段を吹っかけても、会社が直ちにオーケイしたのは、そんな篝千代子の利用価値を、十二分に知っていたからなのであろう。  半年前までは、彼女は、会社のドル箱的なスターだった。営業的にいうと、篝千代子は三十歳を越えたとはいえ、まだまだ稼げる俳優なのだ……。  その彼女が、なぜ不意に、会社から乾されるようになったのか?  スポーツ新聞や、芸能誌あたりでは、さっそくこの不思議な現象をとらえて、  ≪なぜ乾されたか、篝千代子≫  だとか、  ≪契約更新に不服か?≫  などという派手な見出しで、あれこれと好き勝手なことを書き立てている。  でも、彼女にいわせたら、その記事のうち、一つとして真相を把握しているものはなかった。  いずれも、もっともらしい解説なり、臆測なりを行ってはいるが、真実の姿を|衝《つ》いてはいない。 「パパに叱られるんだったら、僕が詫びてあげるからネ、いい子にしてるんだよ……」  ——隈部亮二は、彼女の口調に合わせて、自分も子供のような|口吻《くちぶり》でそう答える。すると、クラブ〈唇〉のマダムは、|大袈裟《おおげさ》に笑い声を立てるのだった。 〈あらこのマダム……隈部ちゃんに、気があるらしいわ……〉  篝千代子は、永遠の青年などとよく形容詞をつけられる、俳優の隈部の顔を盗み見しながら、 〈結局のところ、この人だって、私に同情するような言葉を吐きながら、仕事の面で私を利用しようとしている……〉と思うのである。  今夜、この銀座七丁目の酒場へ出向いて来たのは、隈部亮二の|執拗《しつよう》な誘いがあった為なのであった——。 「じゃあ、あと一時間だけ、おつきあいしますわ……」  そういって、篝千代子は|一揖《いちゆう》すると、バッグを持って立ち上った。いつ掛けたのか、用心深く黒メガネをしている。 「パパに、電話かい?」  すかさず隈部は、声をかけた。会社から目下乾されている大女優は、目と唇を動かして、電話ではないことを教えた。  最近、少し肥り気味ではあるが、相変らずすらりと美しい篝千代子の脚である。  彼は、その後姿を見送って、 〈今夜こそ、チャンスだ……〉  と思った。  これまで映画その他のパーティで、篝干代子にはよく顔を合わせたし、週刊誌の対談などで、一緒に食事したこともある。しかし、いつも周囲に誰かがいた。  せめて映画会社でも同じならば、チャンスに恵まれることも多かったのであろうが、残念なことに、隈部亮二は、〈新興映画〉にとっては、ライバルにあたる〈亜細亜キネマ〉の専属スターであった。この二大映画会社は、俗っぽく云うと犬と猿の間柄で、お互いにスターを貸したり借りたりする習慣も、長年のあいだ拒否し続けていた……。  人間には、自分の好みの異性像というか、理想の相手が幻のごとく胸に巣喰っている。  隈部亮二は、つねに自分の理想の女性を求めると称して、絶え間なく愛の遍歴をつづけてきた。  現在は独身だが、過去に三度ばかり結婚した経験もある。いずれも相手は、女優とか、歌手であった。そして、長いもので五年、短いのになると二年あまりで離婚している。  ……これは彼が、浮気な所為もあったが、家庭では、極端にヤキモチ焼きで、その癖、|吝嗇《けち》だったことが原因していた。  だが少くとも世間では、その真相を知らない。隈部が表面では、非常に派手好きで、たとえばテレビのチャリティ・ショーあたりに、他の人が二、三千円の品物を出品するとき、自分だけは四、五万円もする物を寄付する……という態度をとるから、世間では彼が|吝嗇《りんしよく》漢ではない、と考えがちなのだった。でも、正確にいうと、それは間違っている。  もし、人生を演技であると割り切るならば、彼はその点で名優だと云えた。  ところで隈部が、新興映画の篝千代子に目をつけたのは、実は三年ぐらい前に、彼女の映画を見たときからである。  それは彼女が、富豪の令嬢の役で、しかも海岸の別荘で、強盗に|凌辱《りようじよく》される……というシーンを演じた映画であった。  監督が新人の、いわゆるヌーベルバーグ派だったから、そのポイントとなるシーンを、こってり画面に|収《おさ》めてあったのだが、そのとき意外に大きく形のよい篝千代子の乳房に、彼は息を|嚥《の》んだ。  女性の躯の部分に限って云うならば、隈部は乳房に弱いのである。その好みの順位を云うと、大きく形のいい乳房に先ず関心を|惹《ひ》かれ、次にすらりと長い脚、それから顔と体つき……ということになる。  篝千代子は、隈部に云わせると、理想の体格をした女性であった。  隈部は今年、四十六歳になる。  髪の毛は半白に近くなっているが、絶えず染めて、手入れを怠らないから、ちょっと見には三十二、三にしか見えない。銀幕の上では、二十数年も美男の主人公を、演じつづけて来たことになるのだが、つねにスポーティな服装を心掛け、また絶えず女性とのゴシップをふりまいているから、映画界にいる人々だって、彼の正確な年齢を忘れがちであった……。 「ねえ、隈部さん……」  不意に、顔に生暖かい息がかかった。その息は、ブランデーの匂いがした。クラブ〈唇〉のマダムが、声を潜めつつ顔を寄せて来たのである。 「なんだい、ママ……」  彼は、外国煙草を器用に箱から一本くわえながら、目を動かさずに訊いた。 「一度……あたしとデイトして呉れない?」 「ほう? こんな爺さんとかね?」 「あら! あたしだって、お婆ちゃんよ」 「ふふ……美人で若いお婆ちゃんだ。そんなことを云うと、本気にするぞ!」 「まあ、嬉しい。勿論、本気よ」 「嘘つけ!」 「嘘じゃないわ」 「おや、おや、無理しているな、ママ……」 「いやな人。この眼を見てよ。真剣よ。真剣そのものよ……」  隈部亮二は、マダムの顔を覗き込んだ。瞳がある情欲をそそるかのごとく、濡れてキラキラ輝いている。唇は、なにかを誘うように、半開きの形で息づいていた。 〈一度ぐらいなら、面白そうだな……〉  そう思いながら、胸許をみると、洗濯板のように平板で、|膨《ふく》らみに乏しかった。彼は失望しつつも、着物の合わせ目から、すーっと左手を忍び込ませていた。 「じゃあ、いつ?」  声が芝居がかって低くなる。 「いつでも……」 「靴屋の旦那に叱られないかい?」 「あれはあれ、これはこれよ。あたし、女学生の時から、隈部さんのファンですもの……」 「よし、決まった! そのうち、電話しよう。家の電話を教えて貰おうかね……」  甘ったるくそう囁きながら、隈部の眼は、あらぬ彼方に注がれていた。ちょうど、篝千代子が店のトイレから出て来たところなのだが、その彼女の前に立ちふさがった人影がある。  顔は見えないが、後姿を見たところでは、牛のように、のっそりした大男のようであった……。  女優も人間である以上、人並みに生理的な排泄行為もあれば、他人に対して、好悪の感情をもつ。  ところがファンの中には、崇拝のあまり篝千代子がトイレに行くことを、不思議がる者がいた。特に、地方ロケに行って困るのは、野外で生理的な要求に迫られたときである。  まさか人前で、野原にしゃがむわけにも行かないので、ロケ・バスの中で、窓にカーテンを下ろし、人払いしてから用を足すのだが、そのときの|遽《あわただ》しさ、恥かしさと云ったらない。  一度、宿の料理に中毒して、三日ほど下痢が続いたことがあった。まだ、売出しの頃だから、|我儘《わがまま》も云えず、下痢を辛抱してロケを終えたのだが、このときほど、辛かったことはない。  宝塚時代の先輩で、映画入りの話をもって来て以来、彼女のマネージャーを兼ねている榧原春江の庇護がなかったら、おそらく彼女は、そのとき女優になることを、断念していたような気がする……。  隈部の、ベタベタとすり寄せてくる脚の攻撃を避けて、クラブ〈唇〉のトイレに立った彼女は、化粧を直して外に出たとき、出会いがしらに、大男とぶつかる感じになった。 「あ、失礼!」  彼女は叫んだ。  相手が同じように、生理的な欲求に迫られ、順番を待っていたと思ったのである。  トイレの入口には、|洒落《しやれ》た目隠しの飾り格子があって、熱帯植物の鉢が、左右においてある。男は、その鉢に片足をかけて、待っていた様子であった。 「篝さんでいらっしゃいますね?」  大男は、前に立ちはだかったまま、快活に云った。  彼女は|駭《おどろ》いた。顔を知られまいとして、わざわざ黒メガネをかけて、トイレに立ったのである。しかも、知らぬ人物であった。  篝千代子は、一瞬、当惑した。  大男は彼女の沈黙をよそに、平然と語りかけて来た。 「私……貴女の猛烈なファンです」 「それはどうも……有難うございます」  女優は、ファンという言葉に弱い動物であった。篝千代子は、相手を無視しようと思いつつも、自分の正体を肯定する形になった。 「実は、お仕事のお願いもあるのですが……一度、お会いする機会をつくらせて、頂けませんか?」 「仕事と云いますと?」  思わず緊張した。それは矢張り、会社から乾されている|所為《せい》であろうか。彼女は、相手の言葉に、さっと敏感に反応する自分が、なんとなく怨めしかった。 「私……クラウン広告の、井戸と申す者でございます。こんな所で、大変、失礼とは存じましたが……」  見ると、いつのまにか、男の手には、白い名刺が握られていた。 「はじめまして……」  篝千代子は一礼しながら、〈広告写真かしら? テレビかしら?〉と考えた。  広告代理店の人間から、仕事の話だと云われる以上、その二つ以外にはちょっと思い当らなかったからである。 「いつか、お時間を、つくって頂けましょうか?」  井戸という連絡部長は、微笑をたやさず、しかも鄭重に云うのであった。篝千代子は、第一印象で、先ず好感を抱いた。  でも、それは考えてみると、トイレから出てくる所を待ち構えられ、奇襲作戦に出られたため、自分の方でドキマギしていた所為かも知れない。 「お急ぎでしょうか?」  篝千代子は相手と入れ替りながら、自分も微笑していた。 「ええできますれば……」 「では、自宅の方に、お電話下さいません? マネージャーの榧原と申す者が、居る筈でございますから……」 「榧原マネージャーですね?」 「ええ、そうですわ。では、失礼します」 「どうも、失礼しました……」  井戸毅のきびきびした口吻は、なんとなく爽やかに彼女の鼓膜を|擽《くすぐ》って、楽しい気持にさせて呉れた。少くとも、隈部のような、ベタベタした口説きでない所がいい。  ——席に戻ると、慌ててマダムの辰子が、隈部亮二の傍から離れる所であった。マダムは上気した頬を隠せないでいる。 〈ここにも、隈部さんのベターモーションに、夢中になっている、醜い牝ブタがいるわ!〉  篝千代子は、これ幸いと、マダムを間にはさんで坐った。     二  ……あと一時間、という約束だったが、結局、看板まで粘る形となった。隈部亮二が、これから横浜の面白い酒場に、案内すると云いだしたためである。  篝千代子は、自宅に電話を入れた。父と、マネージャーの榧原春江に、遅くなることを伝える積りだった。  だが、電話の呼び出し音は鳴っているのに、なかなか相手は出なかった。彼女は、僅かに|苛立《いらだ》った。  彼女が、電話を切って、かけ直そうかと思っているとき、やっと相手が出た。父の声であった。 「あ、パパ? あたし……。どうしたのよ、電話。いつまで待っても、誰も出やしない!」  篝千代子は、|歯痒《はがゆ》そうに云った。 「御免、御免……みんなで、テレビに夢中になってたもんだから……」  父は答えた。その父の声音は、ひどく息苦しそうで、なにか、うろたえたような響きがあった。彼女は、目を光らせた。  自分の留守中に、もしや父親が、マネージャーの榧原春江と、変な仲になっているのではないか、という不安が、強く|衝《つ》き上げてきていた。しかし一方では、あの春江に限って——という気持もあった。  春江は、三十五歳であった。千代子より三歳あまり年上である。美人だとは云えないけれど、宝塚時代には、踊りの上手な男役として、一部のファンから熱狂的な声援をうけていた月影みどりが、彼女の前身だといえば、納得する人々も多かろう。  月影みどり——いや、榧原春江は、実質的には、彼女のマネージャーであると同時に、私生活では、彼女の|男《ヽ》であった。つまり、恋人であった。だが、これは誰にも打ち明けられない、一身上の秘密である。  正直に云うと、篝千代子は、春江なしには生きてゆけないような、そんな|歪《ゆが》んだ肉体関係の持主となっていた。わかり易い言葉で云うと、同性愛である。 〈新興映画〉の金看板——大スターの地位にありながら、彼女が浮いた噂一つないのは、実は、榧原春江という〈男〉が存在していたがためであった。  マネージャーという隠れ|蓑《みの》にかくれて二人の秘密めいた仲は、つねにマスコミの目を|潜《くぐ》って来ている。それというのも、春江が世間に気を使って、いつも女らしい服装を心がけ、努めてスラックスなどを|穿《は》かないようにしているからであった。 〈篝千代子は、同性愛だそうだ……〉  というような噂が立つと、それこそ人気がガタ落ちになってしまうのである。人気が|凋落《ちようらく》したスターほど、惨めなものはない。榧原春江も、そして篝千代子自身も、いくつかの例を、その目で見て来て知っていた。  ……でも、彼女はときどき、なぜ自分は、同性にだけしか興味を示さない、歪んだ女になってしまったのだろうと、反省してみることがある。  どう考えても、それは異常であった。  二人の仲は、宝塚時代からだから、かれこれ十年ちかくなる。  彼女は、生れてはじめて、上級生の月影みどりから、|愛撫《あいぶ》を受けた夏の夜のことを、忘れないであろう。  父親は、割合に|躾《しつけ》に厳しい方で、彼女がこっそり宝塚歌劇の試験を受け、合格したことを知ったとき、目を吊り上げて叱ったものだ。一人娘を、そんな学校にはやれない、というのが父親の云い分だった。  家出同様にして、彼女は宝塚へ行き、そうして女の集団生活の、あの|饐《す》えたような|妖《あや》しい匂いに馴染みだした頃——月影みどりから愛の告白を聞かされたのである。 「男というものは、不潔な動物よ。いいこと? 女は、みんな男に欺され、自分の意志に反して、子供を産むんだわ。男は、愛情なしに、女の躰を抱くことができる動物なの。わかる? つまり、性欲だけの汚い獣よ。でも私たちは違うわ。愛情があるの。女の体は、女の心理は、所詮、女にだけしか理解されないものなのよ……。男と女は、住む世界が違うわ。永遠の平行線なのよ、男と女は……。ね、そうでしょ? 女同士の愛情こそ、真実の姿なの。それに私たち……幾ら愛し合ったって、子供は生れないわ……」  月影みどり——いや、榧原春江は、そう云って口説いたのだ。そして、男知らずだった篝千代子は、女同士の|欣《よろこ》びが、これほど強烈で、しかも陶酔と|恍惚《こうこつ》を誘うものだ……ということを、はじめて教えられたのだった。つまり、その夜以来、彼女は春江の女になったのである。  ついでに説明すると、篝千代子が、〈新興映画〉から乾された原因は、実は、社長の息子であり、宣伝担当の取締役である鮎川米夫のプロポーズを、一も二もなく蹴ったためであった……。  鮎川米夫は、四十五歳になるキザな紳士で、いつも社長の令息という肩書を、鼻にかけていた。  仕事は、できる方だった。特に、スターづくりにかけては、業界で右に出る者がない、と云われるほどである。篝千代子を〈新興映画〉に入社させると共に、半年目にはもうブームの波を築いたことでも、はっきりその手腕を証明していた。  鮎川米夫は、決して初婚ではない。今までに結婚しては離婚するという、派手な話題をばら|撒《ま》いている人物であった。  それはそれで良いのだが、鮎川宣伝部長がツムジを曲げたのは、彼女のマネージャーである榧原春江を料亭に招き、結婚の意志を|仄《ほの》めかしたときである。 「帰って、本人の意向を聞いてみます」  という調子で、やんわり受け答えしておけば良かったものを、男嫌いの榧原春江は、このときばかりは冷静さを|喪《うしな》い、頭からニベもなく断ったのだった。 「折角ですが、お断りします。千代坊には、まだ結婚の意志はありませんし、いまのところ、仕事一本槍で進ませたいのです」  と——。  坊ちゃん育ちの鮎川米夫は、|侮辱《ぶじよく》されたとして、父親の社長に訴えた。どこの世界でも父親は、子供には甘いものらしく、 「誰が、これまで育ててやったと思ってるんだ! 篝千代子なんか、もう使うな!」  と、社長は呶鳴ったのだそうである。  ……これが、彼女が〈新興映画〉から乾される原因であった。  考えてみたら、随分奇妙な話である。  だが、その根底には、彼女とマネージャーとの、同性愛の間柄が、いわば癌となって存在しているのであった。もし二人が、世間を|憚《はばか》る、そんな奇妙な仲でなかったら、鮎川米夫のプロポーズも、スムーズに受け容れられていたかも知れないのである。もっとも、単なるロマンスとして、すぐに消え去ったかどうかは、疑問であるが——。  クラブ〈唇〉を出たのは、午後十一時半であった。  店の外には、大型のハイヤーが来て待っており、彼女が車に乗り込むと、続いて隈部亮二が坐り、助手席には当然のことのように、マダムの辰子が乗り込んだ。  篝千代子は、〈これで口説かれなくて済む〉と思う反面、彼女がトイレに立っているあいだ、隈部と辰子の二人が、今夜、なんらかの約束をかわしたのだと悟って、不愉快になっていた。  隅のボックスは、店では一番暗い位置にあった。だから、隣合わせに坐っていた映画スターと酒場のマダムは、人眼を気兼ねすることなく、ある種の愛撫をかわすことは、できた筈である。 〈不潔だわ……〉  彼女は、なるべく窓に身を寄せて、隈部の躰から遠ざかる姿勢でいた。  店が|閉《は》ねる時刻のせいか、西銀座は人と車で埋まっていた。ハイヤーは二米進んでは停り、三米進んでは、また停っている。酔っぱらいの中には、黒メガネをかけて、外を|凝視《みつ》めている彼女に気づき、車の窓に顔を寄せ覗き込む者もいる。 「あら! 隈部さんだわ……」  素顔のままの隈部亮二は、酔った女給たちに発見されて、慌てて窓をしめ、運転手に冷房を入れるように云っていた。 「厄介な所で、停ったもんだな……」  満更でもなさそうな声で、隈部は笑いかけてくる。 「仕方ありませんわ……」  篝千代子は含み笑った。 「千代坊……面白い|悪戯《いたずら》を、教えてやろうか?」  不意に、隈部が云う。 「悪戯って?」  彼女が問い返すと、隈部は返事もせず、駐った車の外に、群がった女給の一人を手招きした。  窓が閉まっているので、声は聞えないが、一人の女の顔が近づいて来るのが見えた。隈部は、窓ガラスを胸ポケットの絹ハンカチで拭き、|恰《あたか》も接吻を求めるように、唇をその窓ガラスに押しつけている。  車の外の女給は、それと悟って、自分も隈部亮二の唇に、自分のそれを合わせた。なんのことはない、窓ガラス越しの接吻である。 「わあーい!」  というような歓声が、車の外に起き、つぎつぎと窓ガラスに、女性の唇が押しつけられはじめる。隈部は面白がって、いちいち、そのガラス越しの接吻に応じていた。  やっと車が動き出した。  車の窓ガラスには、大小七つの口紅の痕が、歴然と残されている。  隈部亮二は、絹ハンカチで自分の唇を拭いながら、 「彼女たちの唇は、ガラスのように冷たかった!」  と、|巫山戯《ふざけ》て云った。すると、マダムの辰子が|嫉妬《やきもち》を焼く感じで、 「みっともないからお止しになって!」  と、前方を見たまま叫んだ。  隈部が案内して呉れたのは、横浜橋の近くの、市電通りにある一軒の酒場である。〈パルテノン〉という店だが、入口に意味のわからない、赤いギリシャ文字のネオンが輝いているだけだった。  ドアを押すと、陽気な拍手と、音楽が聞え、そして煙草の|濛々《もうもう》たる|烟《けむり》と、潮の匂いがした。  右手の奥に、曲線をもったカウンターがあり、入口の近くや、左手の壁際は、ボックスになっている。  客は外国人ばかりだった。  隈部亮二の説明によると、いずれもギリシャの船員ばかりで、店主は、日本に居ついたギリシャの船員だということである。  船員たちは、ほとんど色のついたシャツを着こみ、名前は判らないが透明な洋酒をコップで飲んでいた。店の中央には、五、六人が踊れるスペースがあり、いましも三人の男と、一人の女とが、指を鳴らし、ギリシャ独特の踊りに興じているところであった。  その踊っている三人は、明らかにギリシャの船員だが、女性は日本人だった。  この酒場で働いているホステスかと思えたのだが、実際は違うのだそうである。 「毎晩、どこからともなく、現れて来る女らしいんだね。そして、ギリシャ人の男しか、相手にしない。日本人の僕なんかが、声をかけても、ジロリと見返すだけで、返事もして呉れないんだ……」  |口惜《くや》しそうに、映画スターは教えて呉れるのだった。  マダムの辰子は、この異国情緒たっぷりな〈パルテノン〉の雰囲気が、いっぺんに、好きになったと云い、 「ねえ、あの踊りを習いたいわ……」  と、隈部に|コナ《ヽヽ》をかけている。  だが、四十六歳の美男スターは、うるさそうに首をふっていた。彼の関心は、もっぱら自分に注がれている……と篝千代子は知っていたが、相手をじらせてやることに快感の|疼《うず》きを覚えて、不意に起ち上った。 「ママ。踊りましょうか」  彼女が誘うと、辰子は|頷《うなず》いて、自分も起ち上った。  レコード音楽が止み、すぐに次の曲が流れはじめている。  豊満な乳房をもった彼女と、和服をきた年増美人のコンビを、踊っていたギリシャの船員たちは、拍手をもって迎えた。  踊りの基本は、かなり簡単で、ただ踊り手の創意工夫が加えられるところに、面白味があるらしい。  二人は、間もなく、その踊りの輪に加わったが、席についていた奇妙な日本女性たちから彼女が日本の映画スターだということが、船員たち仲間に、いち早く伝わったらしく、次から次にと踊りの仲間が増えだした。  ある年若い船員など、上衣をぬぎ、派手な縞シャツの|裾《すそ》をしぼって、前で結ぶと、頭上にビールの入ったグラスを載せて、両手の指を鳴らしながら加わって来たものだ……。  二曲つづけて踊り、隈部の待っているボックスに戻ると、不機嫌な顔つきで、男は云った。 「これから、外人墓地をドライヴしようじゃないか?」  篝千代子は、微笑しながら云った。 「お二人で、どうぞ……」 「え、きみは?」 「あたしは、ここに暫く残って、タクシーを拾って帰りますわ……」  隈部は、首をふった。 「そんなこと、できないよ」 「あら、どうして?」 「まるで飢えた狼の群の中に、小羊を一匹おいておくようなものだからさ」 「|大袈裟《おおげさ》な表現ね……」  彼女は、含み笑った。 「いや、本当だよ。ギリシャ人の気質は、日本人によく似ている。温和しいが、すぐ附和雷同するんだ……」 「それ……どういうこと?」 「わからないかな……。とに角、連れて来たんだから、僕はきみを東京に連れて帰る義務がある」 「あら、そんな風に、堅苦しく考えなくても、結構ですわ。ねえ、ママ?」  クラブ〈唇〉のマダムは、返事に窮して、曖昧な言葉を吐いている。  辰子の気持としては、篝千代子の存在は、たしかに邪魔なのであった。マダムは隈部に、夢中になっている。チャンスを逃すまいと、それだけを考えている。 「そうね。あたし、矢っ張り東京へ帰るわ。隈部さん……送って下さいますわね?」  篝千代子は、不満そうなマダムの顔を|一瞥《いちべつ》しながら意地悪くそう云った。     三  帰りは、隈部亮二を真ん中にして、二人の女性が美男スターを間にはさむ恰好になった。  篝千代子は嫌だったのだが、その場の成り行きで致し方なかった。助手席に坐ると思っていた酒場のマダムが、自分も後ろの座席へ入り込んで来たためである。  ハイヤーは、東京をめざして、第二京浜国道を走っていた。  クラブ〈唇〉のマダムは、酔ったふりをして、隈部の肩に顔を押しつけている。そうして、美男スターの左手を、必要以上に自分の膝の上に、引き寄せていた。  その隈部の左手は、おそらく着物の割れ目から、柔かい彼女の肌に触れているのだと思われる。しかも、その左手の動きは、ふわりとその上にかけた着物の袖によって巧妙に|隠蔽《いんぺい》されているのであった。 「酔っちゃったわァ……隈部さん……」  などと、マダムの辰子は云いながら、ときどき足の位置を移動させ、尻をもぞもぞ動かしている。  だが、隈部の方は、真っ直ぐ前方を向いたまま、銀座からの話の続きである二人の共演の件について、くどくど語りかけて来ていた。 「……僕ね、本当に自信あるんだよ。僕だって、いつまでも青年はやって居られない。あと除夜の鐘を四回聴くと、五十なんだからなあ。驚くよ、全く……」 「信じられないわ、五十だなんて!」  篝千代子も、相手に|喋《しやべ》らせる一方では、悪いと思うから適当に|相鎚《あいづち》を打つ。すると四十六歳の美男スターは、彼女が傾聴しているものと錯覚して、またしても、語りかけてくるのであった。 「まだ内緒なんだがね……亜細亜キネマで、近い中に、専属スターのテレビ出演を、認めるという発表がある筈なんだ……」 「あら、テレビ出演を?」 「そうなんだ。テレビは映画の敵だなんて放言していた重役たちも、最近になって、やっと映画界は今後、テレビと手を組まねば、生きて行けないことが、判って来たらしいんだなあ……」 「それは良いことね……」 「気がつくのが、二、三年遅れたが、まあ、気づかないで居るよりは良いやね」 「でも、これから先……映画はどうなるんでしょう」 「映画の動員人口は、ぐんぐん減って行くだろうね。昭和三十四年の映画配給収入は、ざっと三百億円だった。それをピークに収入は毎年、三パーセントから五パーセントずつ減って来ている」 「そうなんですってね」 「収入は減るのに、製作費、人件費は逆に増えているだろう?」 「うちの会社なんか、凄い赤字ですって」 「どこもそうだよ。亜細亜キネマぐらいなもんじゃない、黒字なのは? もっとも、うちの場合なんか、特殊だからねエ」 「そうね。この間も、あるプロデューサーが云ってたわ。鮎川社長の失敗は、自分が映画を作れば、必ずプラスαがある、と錯覚していたことだって……直営の映画館を持たない悲劇が……」 「そうだろう? 亜細亜キネマの場合、劇場の|収入《あがり》と、輸出が大きいんじゃないかな」 「考えてみたら、映画では売れなかった人でも、テレビに出演して人気が出てますわね」 「うん、杉本鋭子とか、金巻九州男とかね。それに無名の役者が、帯ドラマに主演して、完全にスターになっている」  不意に、クラブ〈唇〉のマダムが、小さな呻き声をあげた。  そのときだけ隈部亮二は、辰子の方に体を向けた。 「どうした? 気分でも悪くなったの?」 「ううん、なんでもないの。二人が、ひどく仲が良さそうだから、|妬《や》いているだけ……」  うわずった声音で、マダムはそう云い、ことさららしく弾けたような笑い声をあげる。  そっと横眼を使って見ていると、隈部はマダムの唇に、軽く素早いキッスを送り、左手を今度は背中に廻していた。  篝千代子の家は、隈部とおなじく世田谷の成城町である。マダム辰子の家の方角は知らない。 「ねえ……運転手さん。多摩川ぞいに行って下さらない?」  彼女は云った。成城学園に抜けるには、それが一番早いと思ったからである。いくらお附合いでも、二人のラヴ・シーンを長く見せつけられるのでは|敵《かな》わない。  それに……千代子には、気懸りなことが一つあった。榧原春江と父親のことである。少しでも早く家に帰って、真偽をつかみたい感情が、胸の底では|疼《うず》いているのだ……。  多摩川大橋は、青白い月の光に照らし出されていた。そうして、かなり遅い時刻なのに、スポーツ・カーに乗った若い男女や、ヘルメットに革ジャンパーを着て、オートバイにまたがったハイティーンの一団が、横浜めざして彼等のハイヤーと擦れ違うのであった。  橋を渡り、左折して、堤ぞいにしばらく走った頃である。  どこかで悲鳴みたいなものが聞え、それと同時に土堤の草を踏みしだいて、追いつ追われつする足音がした。  運転手は、車のスピードを落し、クラクションを鳴らした。 「なんだろう?」  窓をあけて、隈部は左手にひろがった、暗い|草叢《くさむら》の方を見やっている。 「アベック強盗でも、出たんでしょ」  マダムの辰子は、つまらなそうに煙草を|咥《くわ》えだした。篝千代子は、前方を指さして、 「あッ、あそこよ、早く!」  と叫んだ。  ヘッド・ライトの、光の届かない前方の暗闇の中から、なにか白い人影のようなものが、こっちを目指して駈け寄って来るのが、ボンヤリ感じられたのである。  もう一度、クラクションを鳴らして、車は速度を早めた。  ……その女の子は、スリップ一枚だった。しかも右肩の紐は切れ、背中あたりは、カギ裂きになっている。髪の毛は、俗にいうザンバラ髪であった。 「助けて! 助けて下さい!」  急停車したハイヤーに、取り|縋《すが》りながら、女の子は叫んだ。眼は、恐怖に|痙《ひ》き|吊《つ》っている。運転手が、助手台の扉をあけてやった。 「済みません……」  女の子は肩で、ハア、ハア、ハアと大きな波を打たせながら、暗闇を|怯《おび》えたように|見遣《みや》っている。息苦しそうであった。  だが、四辺は一瞬のうちに、シイーンと|鎮《しず》まり返っている。月光に照らしだされた多摩川堤は、ただ、風にそよぐ草の葉ずれの音だけに支配されていた。  車の中の三人は、あっけにとられた形だったが、やがて隈部亮二が、この不意の|闖入者《ちんにゆうしや》に興味を抱いたように、 「きみ……どうしたんだね?」  と訊いた。 「とつぜん、変な男たちが」  女の子は、顔を振り向けた。そして言葉をつづけた。 「強盗なんです……」  思いがけず色の白い綺麗な顔立ちだった。外人のように鼻が高い。篝千代子は、〈あ、混血だな〉と思った。眉が濃く、眼のあたりに外人のような|陰翳《いんえい》がある。  年齢は、いくつ位であろうか。  皮膚のみずみずしい色は、彼女がまだ大人でないことを教えている。 「ほう、強盗だって?」  隈部は、思わずどきりとした表情になり、慌てて車の窓を閉めている。千代子にはその臆病な、隈部亮二の変化の方が、面白かった。 「じゃあ、警察に届けなくちゃあ、いけないわね」  篝千代子は云った。  すると女の子は、おろおろした声音になり、急いで首を強くふった。 「いいんです!」 「しかし君……強盗に|襲《おそ》われたんだろ?」 「は、はい」 「だったら、被害を受けてるんじゃないかね? そんな恰好に……」  隈部は、なにかを云いかけて中止した。 「いいんです、大してお金も入ってませんでしたし……」 「なにとなにを盗られたの?」  鋭くマダムの辰子が訊いた。その口調には凶悪な罪人を取調べる鬼検事のような、強い|侮蔑《ぶべつ》が働いている。 「ハンドバッグと……洋服です」 「えッ、洋服も?」 「ええ。脱げと云われたんです……」 「それで黙って脱いだのかい?」 「だって相手は三人でストッキングで覆面をしてナイフを持っているんですもの」  言葉は、ハキハキした標準語である。 「きみ、一人だったの」 「いいえ……男の人と一緒でした」 「すると、その連れの男の人は……どうしたんだね?」 「わかりません。二人が追いかけて行きましたから……」 「ふーん。別れ別れになったのか」 「それで私……残った男の人に、洋服だけは勘弁して下さいと云ったら……」  女の子は、低く息を吐いた。 「乱暴しようとした訳ね?」  辰子がズバリと云った。 「そうなんです……」  三人は暫く黙りこくった。  運転手が、ニヤニヤしながら、 「とにかく、警察署へ行きますか……」  と云った。 「止めて下さい!」  女の子は、ヒステリックに叫んだ。 「どうして、警察へ行きたがらないの」  辰子の方は、不審な表情である。 「あたし……家出して来たんです」 「なに、家出だって?」 「まあ、家出してきたの!」  隈部と辰子とが、同時に叫んだ。さも、それが重大な犯罪ででも、あるかのように——。 「じゃあ、泊る所は? どこなの?」 「今夜は……|あて《ヽヽ》がないんです」  女の子は、済まなそうに、辰子に答えた。本当に困惑したような表情である。 「お家は、東京?」  篝千代子は訊いた。  家出といえば、彼女だって、宝塚歌劇入りしたときに経験がある。希望に胸をふくらませて寄宿舎入りしたものの、第一日の夜などは家が恋しくて、シクシク忍び泣きしたものだ。だが、家出同然に、父親の反対を押し切って出て来たのだから、いくら恋しくとも帰られはしなかった……。 「いいえ、北海道です」  女の子は答えた。 「そう、北海道なの……」  篝千代子は、|顎《あご》に指をあてて考えこんでいたが、運転手に云った。 「成城学園へやって頂戴」 「はい」  車はスタートした。なにかを云いかけようとする隈部の、機先を制するように彼女は云っていた。 「この人……今夜は、私のところに泊めるわ。貴女……いいわね?」  女の子は、感謝の目差しで篝千代子をみつめていたが、俄かに表情をサッと輝かせた。 「あのう……貴女は新興映画の……」 「わかったのね。あたし、篝千代子。あんたは?」  優しく千代子は云った。 「あたし……メリーというの。メリ—・|保富《やすとみ》よ」  メリー・保富は、十八歳だそうであった。  |睨《にら》んだ通り、混血児であった。敗戦の落し子である。父親は、ヨーロッパ系の米軍将校で、彼女の母親が、メリーを産み落すと、入れ違いに、本国へ帰還したのだそうである。  メリーは、親切な外人牧師の家に引きとられて育った。命名してくれたのも、その牧師であった。  北海道の大自然とおなじように、育ての親の牧師は、メリーを自由奔放に愛しながら育てて呉れた。  母親が、空軍将校のオンリーだったということを、彼女が知ったのは、新制中学に入るときである。自分の過去の秘密を知ってから、メリーは|ぐれ《ヽヽ》はじめた。  外人牧師夫妻の愛情も、この思春期を迎えた混血の少女には、もはや通用しなくなっていたものである。  メリーは、歌手志望であった。  均整のとれた外人ばりの体格。声量は豊かである。  彼女は、高校を卒業すると、養父母に置手紙して東京に出てきた。就職のあてがあったわけではない。  高校時代の音楽の教師が、東京へ赴任したのが、唯一の頼みのツナだった。彼女は、上野の近くの小さな旅館に、僅かな荷物をおくと、学校に電話して、その音楽教師を訪ねて行った。  放課後、渋谷駅の忠犬ハチ公の銅像の前で、落合うことになった。彼女は、地図を片手にウロウロしながら国電に乗り、やっとのことで渋谷についた。地下鉄があることを知らずに、上野から間違えて京浜線に乗り、横浜から泣きべソをかきながら、引き返したのだそうである。 「すると……東京へ着いた第一日目の晩に、大変な被害にあったわけね?」  篝千代子は、|劬《いたわ》りの意味をこめて云った。 「はい……」  彼女の家で、さっと一風呂あび、彼女のネグリジェに着換えたメリーは、すっかり元気をとり戻していた。  ソファーに坐って、|含羞《はにか》んでいる所をみると、これが十八歳の処女だとは思えないほどである。  千代子の寝室には、内側から鍵がかけられ、防音装置がしてある。それは春江との愛情をかわしあうためであった。  ドアがノックされた。 「はい」  返事をすると、榧原春江の声が、 「どうしたの、こんなに遅く……」  と響いて来た。 「ううん、ちょっと……」  胸に一物ある篝千代子は、わざと寝ている春江を起さなかったのである。  彼女が帰って来たのを知っているのは、女中の佐保子だけであった。父親にも、知らさなかったのである。 「ねえ、どうしたの……」  控え目な声音だが、その春江の顔が想像できるようであった。 「もう、|寝《やす》んでいいわよ……」  千代子は大きな声で云った。 「どなたか、お客さま?」 「ええ、ちょっと……」  彼女は、今夜だけは、いくら彼女から云われても、寝室のドアは開けない積りであった。わざと、春江をじらせてやる作戦である。  おそらく彼女のマネージャーは、女中の佐保子から、来客が年若い混血娘であることを、聞いているであろう。その事実は、春江を|動顛《どうてん》せしめるに充分な材料なのであった。 「ねえ、お千代。ちょっと開けてよ」 「もう遅いから、寝んで頂戴な。明日、お話しするわ」  彼女は、ドアに近づいて云った。  ドアの外で、春江がイライラして|佇《たたず》んでいる姿を想像し、千代子は〈いい気味だわ〉と思った。 「お願いよ、お千代……」  その声には、哀願の響きがある。 「いいから、お寝み……」  千代子は、|甲高《かんだか》い声で命令するように云い捨てると、メリーの傍へ戻った。  寝室は、彼女の休息室をも兼ねていたから、ダブル・べッドや三面鏡のほかに、ゆったりした応接用の椅子なども置いてある。混血のメリーは、ネグリジェを着たまま、物珍しそうに寝室の中を見渡している。 「お酒でも飲む?」  篝千代子は微笑しながら訊いた。 「お酒?」  メリーは暫く考えていたが、含み笑うと、 「まだ、飲んだことないの」  と、答えて首を|竦《すく》めた。 「飲んでみる?」  千代子は、浴室の隣にある小さなカウンターに入って、棚に並んだ洋酒瓶を見上げた。その一瞬、どういうわけだか彼女は、この十八歳の美しい混血娘を、自分の手で女にしてみたいという衝動に駈られた——。     四  女が、女を、女にする——。  まことに奇妙な論理ではあるが、現実にはそういうことが、起り得るのであった。たとえば、篝千代子がそうである。  彼女は、榧原春江によって、女にさせられたのであった。というよりも、異性を拒否する女性に、仕込まれた訳である。  だが、いま彼女の手許に、メリー・保富という混血の娘が飛び込んで来た。酒も飲んだことがないという、十八の発達した|躯《からだ》をもった女性であった。  その混血娘を眺めているうちに、篝千代子の心の底には、ある残忍な疼きが、湧いてきたのである。  ……それは、|嘗《かつ》て自分が、年上の榧原春江からそうさせられたように、メリーを自分の手で〈女にしたい〉という欲望なのであった。メリー・保富の処女を、自分の手で奪いたいという奇怪な感情——。これは、同性愛の経験者でないとわからない。  東京や、大阪のような大都会には、ゲイ・バーと称する怪し気な酒場がある。  これは、同性愛の男たちが、集ってくる酒場であった。  だが、客筋には大別して三種類ある。  一つは、単なる好奇心から、見学に来る人々である。だから、この種の人々には、刺戟に飢えた中年の紳士とか、金持の有閑マダムなどが多い。  残りの二つは、いわゆる同性愛の傾向をもった人々である。それも男役と、女役との二種類にわかれた。  男役とは、男性本来の行動をとるものである。女役は、その逆であった。  だが、この男役か、女役かということは、その人物の素質にもよるが、男役から女役に〈どんでん〉する傾向が強い。 〈どんでん〉とは、この怪奇な趣味をもった人々の特殊な用語だが、どんでん返しという程の意味である。つまり、いままで男としてしか相手を愛せなかった人物が、ある日とつぜんに、〈女になりたい!〉と思いはじめる。  これを俗に、〈|どんでん《ヽヽヽヽ》が来た〉と称し、どんでんが来ないと一人前ではないとされているらしい。一人の人間が、男役もすれば女役も兼ねるわけである。  篝千代子の、メリー・保富に対する感情は、男性のホモ達のいうところの、いわば〈どんでん〉であったのだ……。  彼女は、榧原春江の〈女〉であった。そして榧原春江は、篝千代子に対しては〈男〉なのである。この関係は、永遠に続くもの——と千代子自身は思っていた。  でも、メリーのよく発達した白い肌をみたとき、篝千代子は、心の底に潜んでいた〈男〉を刺戟させられたのだ。メリーを犯してみたい、と思った瞬間、彼女に|どんでん《ヽヽヽヽ》が訪れたのである。そうして、榧原春江と彼女との均衡は、そのとき破綻しようとしていた。 「テキサス・フィズを作ってあげるわね」  千代子は、きょろきょろと広い寝室の中を見廻しているメリーに、そう声をかけた。メリーは嬉しそうに頷いて、 「あたしのお|祖母《ばあ》さん……いまでもテキサスで牧場を持っているんだって……」  と云った。 「そう。じゃあアメリカと日本との混血なの?」  ジンの瓶をとり、冷蔵庫の氷をザルにあけながら、千代子は訊く。 「ううん、違うのよ」 「あら、テキサスはアメリカでしょ?」 「お|祖父《じい》さんという人がね、アイルランド人とアメリカ・インディアンの混血なんですって……」 「まあ、本当?」 「嘘は云わないわ。お祖母さんは、ドイツ人なのよ」 「へーえ」 「だから、私の体の中には、四カ国の血液が流れているわけ。ママが日本人だから」 「むずかしいのね」  千代子は、氷を入れたグラスに、思い切ってジンを半分ぐらい注いだ。そして甘いオレンジの濃縮ジュースを入れ、あとを炭酸水で満たした。これだと口当りがいいため、すぐ飲んでしまう。  しかも、ジンの容量すら、飲み手は気づかないのだった。従って、気がついたときには、動けない位に酔っている……。 「さあ、召し上れ……」  篝千代子は、自分はジンの少い方のグラスをとって、多い方をメリーに手渡した。  メリーは素直にそれを受けとり、一口飲んで味をためすような表情をしたが、 「おいしいわ!」  と、明るい声で云った。  それから暫く|俯《うつむ》いて、もじもじしていたが、ペコリと頭を下げた。 「今夜は、本当に済みませんでした」 「あら! 案外、礼儀正しいじゃない?」  千代子は微笑した。 「でも、貴女を多摩川土堤に連れて行った、音楽の先生は大丈夫だったかしら?」 「わかりません……。あたしを捨てて、自分だけ逃げるような卑怯な人、大嫌い!」 「そうね。先生の癖に、ちょっと|酷《ひど》いわね」  千代子は、相手のグラスに、自分のそれを軽く打ちつけた。 「でも、こうしてお互いに知り合えたんだから、愉快じゃない? 強盗が出なかったら、私は貴女に会えなかったわけよ……」 「あら! それは私のセリフだわ。私の方こそ、強盗のお蔭で、篝千代子さんや、隈部亮二さんのような大スターに会えて……とっても光栄です」  メリーの瞳は、黒かった。  目だけが日本人で、あとは高い鼻も、形のいい唇も、赤味がかった髪の毛も、つくづく見ると外国の血を感じさせる。千代子は、そのメリーの唇を、強く吸ってみたい衝動に駈られた。  二杯目のテキサス・フィズをお代りする頃から、メリーの口がひどくなめらかになりはじめた。酔いが廻りはじめた証拠である。 「あたしね……四種類の血が混っているでしょう? だから、とっても変なの」 「変って?」  千代子は、そんなメリーの変化を心|密《ひそ》かに愉しみながら、なるべく相手を陽気にさせようと仕向けた。 「すぐ淋しくなったり、悲しくなって、教会の礼拝堂でボンヤリしているかと思うと、急にね、急にジーパンか何か|穿《は》いてさ、踊りだしたくなったりするの」 「おや、まあ!」 「そうかと思うと、川で魚を釣ったり、庭を掘って木を植えたりすることも好きなのよ」 「へーえ?」 「変でしょう? 本当は、とても理屈っぽい所があるんだけど……」 「それは、お|祖母《ばあ》さんの血の|所為《せい》ね。ドイツ人は理屈っぽいから……」 「あら……すると、急に踊りだしたりしたくなるのは、アメリカ・インディアンの血の所為かしら?」 「そうかも知れないわ。魚を釣ったり、木が好きなのは、自然を愛するアイルランド人の血なのよ……」  二人は顔を見合わせ、どちらからともなく笑いだした。楽しそうな笑い声だった。  千代子は、位置を変えて、メリーの隣に腰を下ろした。いよいよ接近である。 「あたし……自分では日本人の積りなのに、混血児だな、と相手に思われていることが、ピーンとくるでしょ? そのとき、こん畜生! と思っちゃうの」 「いやなのね、そう思われることが?」 「そう。とっても嫌!」 「でも私に云わせたら、メリーさんは、とっても羨ましいわ」 「あら、なぜ?」 「だって、そんなに美しく生れたんだもの……。混血であることを、誇りに思うべきよ」 「篝さんこそ、そんなに美人なのに……」 「ねえ、メリーさん」 「はい」 「篝さんと呼ぶの、止めて頂戴」 「あら……なんと呼べばいいの?」 「そうね……」  篝千代子は、グラスを置いて、メリーの白い顔に見入った。 「ねえ、あんた……今夜はここで泊るとして、明日からどうする積り?」  ——その言葉は、現在のメリー・保富にとって、いちばん重大で、かつ関心事であった筈の問題を、鋭く衝いていた。  十八歳の混血児は、それを聞くと、とても悲しそうな表情になり、かすかに首をふった。 「わからないわ……」 「でも、それでは困るでしょ?」 「うん……」 「歌手になりたい、と云ってたわね?」 「そうなの。でも、どうしたら良いのか、わかんないし……」 「先ず、東京で生きるためには、職を持たなきゃァね」 「ええ……」 「就職のあては?」 「全然ありません」 「じゃあ、大変じゃない?」 「はい……」 「北海道に、帰る?」 「それは……厭です!」  メリーは強い口調で云い切った。 〈そろそろ網の中に、入って来たわ〉  千代子は、そっとメリーの躰に手を廻し、顔を近づけた。 「ねえ、メリーちゃん……あなたさえ、その気なら、ずーっと私の家に居させてあげてよ?」 「えッ、本当?」  混血児の表情は、いきいきとした喜色に|彩《いろど》られはじめる。 「嘘は、云わないわ……」 「でも、それはできません……。だって、助けて頂いた上に、図々しいもの……」 「いいのよ。でも、ただで置いて上げるとは、云わないわ」 「はい?」 「あたしの、妹になって欲しいの」 「え?」 「どう?」 「妹って……」 「つまり、Sよ。わからない?」 「わかりません」 「そう。じゃあ、教えてあげる!」  メリーは|怪訝《けげん》そうに、黒い瞳を光らせた。篝千代子は、命令する口調で云った。 「目を閉じなさい」  メリーは頷いた。そして素直に目を閉じている。千代子の胸は、羽根を掴まれた鳩のように|妖《あや》しく騒いだ。躯の中を、ある強い情感が、電気のように突走るのが感ぜられる。 「コップを置いて!」 「はい……」  千代子は、メリーの白い咽喉仏が、微かに|痙攣《けいれん》するのを見た。なにかを期待しているような、なにかに|怯《おび》えているような、その可愛い|仕種《しぐさ》! 千代子は、胸を弾ませながち、そっとその形のいい|朱《あか》い唇に、自分のそれを重ねて行った。  メリーは、顔を上気させ、|微《かす》かに|喘《あえ》いでいる。しかし、目は開けなかった。 「妹になるって意味……わかって?」  混血児は、首を上下に動かした。 「私の家にいたら、食うには困らないわ……。それに芸能界の人が出入りするから、いい音楽の先生を紹介して貰ったげる……」 「ええ、ありがとうございます」 「じゃあ、妹になって呉れるのね?」  また、ためらいがちに顔が上下に動いた。千代子は一瞬、歓喜が爆発して、大きな音を立てるのを、耳にしたと思った。体が、嬉しさに|震《ふる》え|戦《おのの》いている。 「さあ……メリーちゃん!」  篝千代子は、自分が榧原春江にされたように、優しく肩を抱き寄せると、またしても唇を吸った。はじめは柔かく優しく、次第に強く——。  酔っているメリーは、息苦しそうに喘ぎながら、それでも彼女の腰のあたりに右手を廻して来ている。 「私の大事な妹になったのよ、貴女は……。だから、もう誰にも上げないわ……」  千代子の手は、その固く青い乳房に触れている。掌をあてがうような形で、ゆっくり|揉《も》みしだきはじめている。 「あ……|擽《くすぐ》ったいわ」  メリーは、躯を僅かによじるようにした。しかし、千代子の掌は、吸盤のように胸の|膨《ふく》らみから離れなかった。 「いいこと……私のする通りにしていて! いいわね……」  篝千代子は、長いこと乳房のマッサージをつづけた。すると、どういう訳なのか、メリーは次第に吐く息を荒くしはじめたではないか——。 〈もう、|堕《お》ちるわ!〉  三十歳を過ぎた映画女優は、自分で自分の行為に興奮を覚えるのであった。相手が自分の云いなりになって、しかも予期した以上に反応を示して来るのが、ひどく|堪《たま》らないのである。 「さあ……場所を変えるのよ、メリーちゃん……。立ち上って!」  混血娘は、酒の酔いと、突然教えられた快感とに、|翻弄《ほんろう》されたのか、自分ひとりで立ち上ることさえできない。千代子は、そんなメリーの躯を助け起して、天蓋のついた寝台にと誘いながら、背筋がぞくぞくして仕方なかった。  女が、女を犯す——。  これまた奇怪な光景であるが、混血のメリーはその夜、篝千代子のテクニックによって、完全なエクスタシーに到達したのだ。新鮮な果実だけに、千代子の方も、生れてはじめての恍惚境を|彷徨《ほうこう》できたのである。メリーには、軽い|腋臭《わきが》があって、それがまた堪えられない刺戟となっていた。  ネーミング     一  企画会議は、午後一時から開かれる予定であった。新しく十月から発表される製品の、ネーミングとパッケージを決定する最終会議である。  ……その日、宝田十一郎は、朝からそわそわと落ち着かなかった。  米国式のタンポン型の生理用品。  その生理用品が、果して日本の女性たちから、拍手をもって迎えられるか、どうかは自信はなかった。しかし、広告部長に就任してからの初仕事なのだ。どうしても、当って貰わぬと困る。そうして、その成功の鍵をにぎるのは、やはり宣伝なのであった——。  だが、宣伝するにしても、先ず、その商品名が問題である。類似商品である〈パンネ・ナプキン〉が当ったのも、その斬新なネームの|所為《せい》だと、宝田は思っている。  従来、生理吸収綿には、pad—当てるという意味の、パッドという言葉が使われていた。だが、アメリカでは生理用品を、サニタリー・ナプキンと呼んでいるという事実にヒントを得て、パンネ・ナプキンというネーミングを採用した。  これが清潔で、衛生的な感じをもって、女性層に訴えかける直接の原因となったのである。  ネーミングにおける母音構成は、開口母音と破裂音——たとえば〈アイウエオ〉のうちア、エ、オの文字や、パ、ピ、プ、ぺ、ポのような破裂音を使うのが、もっとも耳触りがよいとされていた。  特に薬品メーカーの間では、破裂音を使うことと、最後を「ン」で結んだ商品名が、つねにヒットすると云われている。これはジンクスというよりは、業界の|掟《おきて》みたいなものであった。 〈東西製薬〉が大当りをとった二大栄養剤——〈ポンシロン〉と〈ビタグロン〉の名前をみても、破裂音と〈ン〉との組合わせなのである。  しかし、今度売りだすタンポン式の圧縮綿花は、いわゆる薬品ではない。また薬品のような響きをもったネームでは、宣伝にも困るのであった。  その日の会議は、社運を|賭《と》したその新製品の名称と、包装その他のパッケージについて基本方針を決定する大切な会議だったのである。宝田広告部長が、落ち着かなかったのは、そのためである。  なぜなら、何百となく部員たちに、商品名を考えさせたが、これといって|際立《きわだ》ったものがなかったからだった。  米国には、いろいろ圧縮綿花の生理用品が出ているが、その代表的なネーミングは、タンパックスである。そして部員たちの考えたネーミングは、みなこれにヒントを得たもので、宝田は気に入らなかった。  重大な会議だけに、社長の葛原耕平《くずはらこうへい》以下、常勤の重役も、定刻きっちりに会議室に姿をみせた。これは近頃では、珍しいことである。  宝田は、社長の承認を得て、ようやく量産に入った新製品を、出席者に披露しつつ、議事進行の口火を切った。 「みなさま方の御手許にございますのが、来る十月から、わが東西製薬が新発売いたしますところの、タンポン式生理用品でございます。いささか方角違いで、|戸惑《とまど》いの方もいらっしゃいましょうが、この新製品の将来性、および米国におけるマーケット・シェアにつきまして、開発部長の加倉井さんから、かんたんに御説明をしていただきます」  宝田は、加倉井に一礼して坐った。  加倉井は、葛原社長の娘を|娶《めと》っている。そうして近い将来に、社長のポストに坐るであろうと云われている人物だった。  加倉井部長は、このタンポン式の生理用品は、アメリカ土産であることを自慢そうに語り、試作の過程において苦心したことは、|挿入《そうにゆう》する圧縮綿花の、太さと長さと固さの三点であったと述べた。 「……つまり、女性のサイズの標準値をだすことが、なかなかに困難な仕事でございました。(笑い)たとえば、一人の女性を考えてみましても、処女であるか、どうかで違いますし、結婚しましても、子供を産んだか、産まないか、また子供を何人産んだかによって、サイズが違ってくるのでございます。(笑い)こういった研究は、一朝一夕ではできませんので、各大学病院の産婦人科医に、全面的な協力をいただき、やっと三つのサイズを決定したのでございます。お手許にございます商品のうち、小さい方から順に、ジュニア、レギュラー、スーパー(笑い)の三種類でございます……」  加倉井の語り口は、軽妙なもので、笑わせる所は笑わせ、|肝腎《かんじん》なポイントだけは傾聴せしめるという、宝田などには真似のできない所があった。まだ四十にはなっていないのに、こうした技術を身につけているのは、やはり葛原社長が見込んだ通り、育ちの良さのせいかも知れない。  開発部長は、三種類の試作品を、洋裁学校の生徒、団地に住む人妻、丸の内界隈で働くBGの三グループにわけ、それぞれ百名ずつのモニターを極秘に募って、その使用後の感想を求めたことを説明している。 「……結論を先に申し上げますと、最初の月のアンケートでは、悪評ふんぷんたるものでした。異物感を訴えたものが多かったことは勿論でございます。それはそうでしょう、生理期間中、いつも男根状のものが(笑い)挿入されているわけで、なかには大きすぎて頭痛がすると憤慨されたBGの方もございました。(笑い)しかし、二カ月目からは、人妻とBGの支持が増えて参りまして、三カ月目には依頼したモニターの四十七パーセントが、この新製品の便利さを認めて呉れたのでございます。第一に棒状になっておりますので、ハンドバッグの中に|納《しま》っておいても、容積をとらない。第二に外部からは全く判らない。第三に紙綿のように三時間おきに取替える必要がない。第四に挿入したまま入浴できる……などと利点を数え立てればきりがありませんが、とにかく好評だったわけです。それもその筈、外国では、このタンポンの市場占拠率はかなりの高率でありまして、アメリカの例で申し上げますと、ええと……既婚者と未婚者の二つに分けまして……」  加倉井は、要領よく十分ぐらいで、この新製品が、いかに有望であるかという見通しについて語ったあと、こう述べて言葉をむすんだ。 「製品は、すでに生産に入っております。そうして、この新製品の将来を左右するのは、何といっても商品名であり、そうして消費者に訴えかける広告宣伝の方法にある、と私は考えるのであります……」  会議は、いつになく白熱したものとなった。宣伝課長の若尾が、つぎつぎと読みあげた百二十七のネーミングのうち、六点だけが残され、その六点を投票によって採決しようとしたところ、〈エスコート〉と〈エースパックス〉と〈ミセス・ナプキン〉の三つが、それぞれ同じ票を獲得したからである。  宝田の感想から云うと、その三点の中では、〈ミセス・ナプキン〉が一番いい。しかし、パンネの真似をするようで、どこか心の中で引っかかるものがあるのは事実である。  エスコートとは、護衛という意味で英語であった。生理日の護衛をして呉れる、というわけである。  社長の葛原耕平は、どういうわけか、エースパックスを支持していた。葛原は、薬の名前には、〈ラ行〉の文字と〈ン〉の文字の組合わせが、一番いいと信じている人物だけに、エースパックスなどという商品名には、頭から反対するのではないかと、宝田十一郎は心|密《ひそ》かに恐れていたのである。  |甲論乙駁《こうろんおつばく》で、三つの商品名は、いずれにするかを論じているうちに、すぐ午後三時になった。葛原社長には、午後三時半に結婚式の仲人をする約束がある。  宝田は、それと気づいて、 「社長。どうか一つ、決裁をいただきたいのですが……」  と声をかけた。いわば鶴の一声で、ネーミングを決定しない限り、これ以上、議事は進行しないと悟ったからである。  葛原は、七三にわけた白髪に手をやり、しばらく天井をにらんでいたが、 「宝田君。明後日、もう一度、会議をひらこう」  と云った。 「明後日ですか?」 「うむ。エースがいい、ミセスがいいと議論するのは、つまり、それだけネームに魅力がないからじゃろう。違うかい」  痛い所を、衝かれた感じで、宝田は頭を下げた。開発部長や、総務部長の小気味よさそうな目差しが、自分に注がれているのを知り、彼は〈畜生め……〉と腹の中で舌打ちをしている。 「明後日までに、全員がこれだ! というようなネーミングを考えたまえ」 「はい。しかし、広告部員だけでは、もう知恵は出し尽した感じでして……」 「そうか。じゃあ、社内だけは|緘口令《かんこうれい》をといて、全員から募集してみたらどうだ?」  社長は恩着せがましく云った。  東西製薬が、タンポン式の生理用品に進出するという事実は、社内でも一部の人間しか知らされていなかったのである。 「でも社長……明後日までに、社内から募集するというのは、どうも……」  宝田は、自分で時間を稼ぎたいという意味もあって、そう反撥していた。 「よし。では一週間だ……。一週間あれば、なんとかなるかな?」 「はい、努力してみます……」  彼が頭を下げたとき、社長の娘婿が、縁なし眼鏡ごしに、きらッと鋭い視線を投げかけて来た。 「宝田さん……一つ、提案があるんですがね」 「はあ、なんでしょう」  自分より年下の男に、敬語を使うのも、新参の重役だからであり、相手の加倉井が、葛原の娘を妻にしているからに他ならない。 「広告は、どんな方法を考えています」 「はい。今のところ、印刷|媒体《ばいたい》を主力に考えています」 「というと週刊誌を?」 「いいえ、一流の全国紙です。そのほか四大婦人雑誌、女性週刊誌が二冊ぐらい……」 「電波媒体は?」 「スポット程度に考えますが」 「なるほど、その他は?」 「車内吊りと、薬局用のポスターですか。あとは出来るかぎり、パブリシティを利用しようと思ってます」 「ふーむ。勿論、広告代理店を使うんでしょう?」 「はい、その積りです」  加倉井は、眼鏡を人差し指で、ぐいと|鼻梁《びりよう》の上方に押し上げる|仕種《しぐさ》をして、ゆっくり唇を舌の先で湿した。 「実は、私の提案というのは、この点なんですが……ネーミングも、広告代理店に考えさせたらどうですか」 「代理店に?」  宝田十一郎は、反射的にある小さな広告代理店の、美人の女専務の顔を思いだしている。 「そうです。ネーミングの社内募集をやれば、いずれ数日中に、うちが新製品を発売するというニュースは業界に流れる……」 「はい、その通りでしょう」  彼は|曖昧《あいまい》に答えた。加倉井部長の言葉に、なにか作意的なものを、本能的に彼は嗅ぎとったのだった。だが、それが何だかは、すぐには嗅ぎとれない。ただ彼は、危険を予知しただけである。それはサラリーマンとして身についた、悲しい自衛本能だったのかも知れない。 「その通りでしょう、ではなく、その通りになりますよ。だからですね、この際、思い切って十社ばかり選定して、ネーミング、広告プランの競争をやらせたらどうですか?」 「なるほど……」  彼は|頷《うなず》いてみせた。しかし、瞳は強く光りを放って、社長の女婿の顔に貼りついているのだった。 「電報堂ばかりに、仕事をまかせないで、こういうチャンスに、枠をひろげて、|衆知《しゆうち》を集めようじゃあないですか」  なぜか知らないが、宝田十一郎は、またしても本能的な小さな|怯《おび》えを感じ、それと同時に、あの桂巴絵に新製品の情報を流したのは、この加倉井|紀彦《のりひこ》ではないか——と考えたのである。 「若尾君……今夜、つきあわんかね?」  宝田は、部長室を出ようとしている若尾課長に、そう声をかけた。  若尾は、色の黒い大男だった。しかも髭が濃く、若い女子社員たちから、〈ニューギニア〉と|渾名《あだな》されている。しかし、ファイトマンで、仕事はよくやる方である。 「いいですな……」  若尾は、嬉しそうに目を細め、太い手首をみた。腕時計は、午後六時を廻っていた。  宝田と若尾は、今日の企画幹部会議で、社長が命令したネーミングの社内募集の要項と、加倉井の指示したことについて、討論をしていたのである。  二人は肩を並べて、会社の玄関を出た。 〈東西製薬〉は、京橋から昭和通りに向う都電通りの、四つ角にあった。六階建の、シルバー・グレイの渋いビルである。  二人は京橋の地下鉄まで歩き、やがて銀座に出た。宝田も若尾も、酒は嫌いな方ではない。仕事で疲れたとき、一杯の酒が、サラリーマンにどれだけの快楽を与えてくれることか——。  尾張町の角で、宝田はちょっと思案して、やはり〈V〉という酒場に、若尾を連れて行くことにした。小さな店だが、美人は揃っている。それに五丁目だから、場所的にも近いのである。  ビルの地下にある〈V〉をのぞくと、誰も客は居らず、冷房が入ったせいか、肌寒いぐらいであった。 「おや、マダムは居ないのか?」  宝田は奥まったボックスに陣どると女の子たちに声をかけた。 「今日は、お休みですって!」  |年嵩《としかさ》の英子というホステスが、意味ありげに微笑しながら、宝田の傍に坐った。 「休み? また新しい男と、京都にでも行ってるんだろう?」  彼はビールを注文して、熱いお絞りで首筋を拭いた。今日の会議で決定されるものが、一週間も延期になったことで、彼の気持は重く沈んでいる。  優秀なネーミングを発見できなかったことは、直接、彼の責任ではない。しかし、広告部長として、みんなが圧倒的に支持してくれるような、そんな商品名を提示できなかった事実が、彼の気持を暗くしているのである。 〈あと、一週間か……〉  彼は、むっつりと煙草をくわえた。  すかさず英子が、マッチを|擦《す》って呉れながら、低く|囁《ささや》くように云った。 「ねえ……使っているわよ……」  それは、恋をしている人間が、なにかを相手に訴えかけるような、そんなうっとりとした声音であった。宝田十一郎は一瞬、彼女がなにかを口説きかけたのかと、錯覚したぐらいである。 「え? なんだって?」  彼は訊き返した。すると英子の、|朱《あか》くマニキュアされた長い爪が、彼の太腿に突き立った。 「大きな声だしちゃあ、厭!」 「なんだよ……」 「あれ……使っているの、今日」 「ああ!」  宝田は素ッ頓狂な声を上げている。英子は、彼の会社の新しい生理用品を、いま使用中だと云っているのである。彼が、個人的なモニターとして、意見を聴くために、この酒場のホステス達に、米国製と嘘をついて、提供したのであった。 「どうだい、工合は?」  宝田は、部下の若尾課長の顔を見ながら、英子に顔を寄せた。 「一日目は、なんだか変だったわ。でも、外に漏れないことが判ってから、安心しちゃった……」 「なるほどね。きみは、強い方?」 「かも、ね。五日型よ」 「そうか。二日目が矢張り、一番ひどい?」 「わからないわね、夏は……」 「え、なぜだい?」 「だって冷房が入るでしょう、お店に。そのせいか、不順になって、早く終ったり、ああ終ったなと思っていると、最後の日が|酷《ひど》かったりするんだもの……」 「ほう、そうか。一度、挿入している所を、見せて呉れないかな……」  途端に、宝田は飛び上った。英子の爪が、手の甲に喰い入ったのである。しかし英子の眼は、きらきら輝きながら|微笑《わら》っていた。 「そんなに、見たい?」     二  そのとき、宝田十一郎は、まだ|素面《しらふ》の状態にあった。宣伝課長の若尾と、やっとビールを一本あけたばかりの頃である。  酔っているのならとも角、英子から、「そんなに見たい?」と誘われても、大真面目に、うん見たい、とは返事はできなかった。  でも、新製品の広告宣伝を担当する宝田としては、正直にいって、一度その圧縮生理綿を女性が使用している状況を、この目でみておきたい……という気持は強い。  男性の彼にとって、女の生理とは、やはり〈神秘〉そのものであった。  子供のころ、彼は婦人雑誌などに、〈月やく〉とか〈月のもの〉とか云う文句の広告が|氾濫《はんらん》しているのをみて、母親に質問して叱られたことがある。宝田は、そのとき母親が、いつになく狼狽した表情で、 「子供がそんなことを知らなくても良いの!」  と、声を荒らげたことだけを、鮮やかに記憶している。  近頃では、小学生も上級生になると生理衛生のことを教わるのだそうである。なぜなら、初潮の年齢が、ぐっと早くなって来たからだった。早い娘になると、小学校五年生あたりで、既に生理帯が必要になるという。  だが昔は、誰も大人は教えて呉れなかったし、特に都会で育った子供たちは、その意味で晩熟であった。  宝田は、中学二年生のとき、薬局の息子である同級生から、月経とは血液であると聞いたとき、頭から信じられなかったことを思いだす。  しかも毎月、きまった周期に訪れてくるのだというのだ。 「バカ云うな! そんなに血が出たら、死んでしまうじゃないか!」  宝田十一郎は、その友人に強く抗議したものである。彼は、信じられなかった。その血液が毎月、しかも最も女性の|羞《はずか》しい部分から流れてくるだなんて——。  大人になってから、その女性の毎月の生理は、排卵作用なのだと知るようになったが、それでも矢張り、メンスが彼にとって、神秘的な存在であることには変りはない。 「ねえ……そんなに見たい?」  英子は、今度は低く|囁《ささや》くように云った。女の吐く息が、|耳朶《じだ》には|擽《くすぐ》ったい。 「見たい、と云ったら、断るくせに!」  彼は冗談めかしながら、含み笑いをしてみせた。英子は、すかさず云った。 「見せると云ったら、部長さんこそ、断るくせに!」 「さあ、どうかな?」  宝田はビールを口に含みながら、〈月に一度の日清戦争か!〉と心で|呟《つぶや》いた。この文句は、〈パンネ〉の宣伝課長がつくりだしたもので、〈四十年間お待たせしました〉というキャッチ・フレーズと共に、業界の人々を唸らせた言葉でもある。 〈製品の名前もできない先に、キャッチ・フレーズを考える気もしないが、せめて世間をあッと云わせてみたいもんだな……〉  彼の頭の中は、この頃では、一にも二にも宣伝のことだけだった。広告部長に就任したのだから、それは当然のことであろう。しかし、骨休めに訪れた酒場の席でまでも、たえず仕事のことを考えているのは、なんとなく憐れなような気もする。 「あら——。どうかな、って部長さん、本気で見る気ある?」  英子は、ますます声を潜めた。  向い側にいた|百合江《ゆりえ》というホステスが、若尾の腕に手をかけて、 「あら、あら! お二人とも、もう熱々だわ、……私たちも、ハッスルしましょう……」  などと鼻声をだしている。  宝田は、若尾課長の顔を見据えたまま、低く呟いた。 「ああ、見たいね」 「本気?」 「うむ。その積りだが……」 「目的は?」 「別に、ない。どんな風になるのか、後学のため、見ておきたいだけだ」 「まあ、つまらない! そんなだったら、奥さんのを見せて貰えばいいじゃない?」 「婆さんのを見たって、参考にならんだろうよ。もっと若い女性のじゃなくてはね」 「そう。それだけで、私のを見たいの」  英子は怒ったように云い、本気で手の甲に朱い爪を立てた。 「痛ッ!」  宝田は、大袈裟に痛がってみせる。 「あたし、部長さんに気があったんだけど、もう、止めたわ」 「おや、おや。それは残念なことをした!」 「もっと、情のある人かと思ってたのに損をしちゃった!」  英子は、ちょっとばかり、口惜しそうな表情を、つくってみせるのだ。酒場女の他愛のない演技だとは思いながらも、宝田はつい釣り込まれて、 「じゃあ今夜、一緒に食事しようか」  と口に出してしまっていた。 「ほんと! 嬉しいわ」 「行くかい?」 「もち、よ。どこで待ってて下さる?」 「そうだな。〈嵯峨野〉はどうだ?」 「オーケイ。十一時半になったら、すぐ店を出ます」 「じゃあ、約束したよ」  彼が念を押すと、英子は返事の代りに、自分の小指を、宝田のそれに絡ませた。バー〈嵯峨野〉は、もと女優だった嵯峨千恵子が経営している店である。  宝田は、中学生の頃から彼女のファンであった。嵯峨千恵子のブロマイドを親に内緒で買い、机の|抽出《ひきだ》しの奥深くに納い込んでは、深夜、それに|頬擦《ほおず》りしたり、接吻して自慰にふけった記憶がある。  むろん|嘗《かつ》ての大女優に、そんな思い出話を自分から語れもしないが、憧れの女性だっただけに、バー〈嵯峨野〉へ行くと、なんとなく胸が弾むのは止むを得ない。  だが、〈V〉の英子と、そんな約束をした直後から、彼はもう何となく後悔しはじめていた。英子は自分では二十七歳と云っているが、彼の見た目では、もう三十を一つ二つ越えていたのである。そうして、ホステスも三十を過ぎると、危険であった。とくに決まった男性がいない場合は、とくに危険である。  バー〈V〉を出たあと、宝田と若尾は連れ立って、七丁目にある〈公爵夫人〉に顔をだした。  このクラブ制の酒場は、かなり高級な店の部類に属する。ビルの地下にあって、専属のバンドが二組も入っており、通ってくるのは社用族の、それも部課長クラスであった。どういうわけか、特に広告関係の仕事をしている連中が多い。  宝田は、週に一度は、この〈公爵夫人〉を覗くことにしていた。放送局の営業課長だの、広告代理店の連絡部長だのといった、知った顔にぶつかることもあり、その人間の紹介によって、カメラ会社や、ビール会社などの宣伝課長クラスと知己になるのが、狙いの一つであった。  つまり業界に顔を売り、広告を担当する同業者と仲好しになる必要があったのである。薬品メーカーの広告関係者と、交際することはなるべく避ける方針であったが、向こうが交際を求めて来たら、逃げないだけの心積りはできている。  いまの宝田十一郎に必要なのは、広告に関する知識の吸収ではなくて、人間関係をつくることだった。  不思議なことに、日本の広告業界は、まだまだ〈顔〉で|繋《つなが》っているのだ、ということを宝田は直感していたのである。 「おや、部長! 東洋テレビの|熊生《くまお》課長が来てますよ……」  入口で鞄を預けながら、若尾はこの道十年のベテランらしく、すぐ店内の客の顔を発見して、彼に告げていた。 「熊生というと、営業の……」 「そうです。小野寺局長の右腕ですよ」  たしか東洋テレビに就任の挨拶に行ったとき、名刺を交換した記憶はあるが、顔はよく憶えていない。就任して二カ月目なのだから、むりもなかった。  だが、宝田は部下から教えられた熊生課長のボックスに、意外な人間の顔を発見して、ぎくりとならなければならなかったのだ——。  その意外な人間とは、〈東京エージェント〉の桂専務である。  特急〈第一つばめ〉で会い、岐阜で濃厚な一夜を送らせて貰った、広告代理店の女専務——桂巴絵なのだった。  テレビ局の人間と、広告代理店の重役とが、この〈公爵夫人〉で歓談していたとしても、それは何も不思議ではない。  しかし宝田十一郎は、あの岐阜の一夜の記憶を、今日の企画会議の席上でも、強く|甦《よみがえ》らせていただけに、単なる偶然の出遭いとは云えないような気持になった。  熊生一男の方は、彼と若尾に気づいたらしく、手を挙げてサインを送って来た。 「あ、もう一人は、桂女史ですよ……」  若尾は新任の部長に対して、いろいろと親切に気を使って呉れている。宝田は、眉を曇らせながら、 「知っているよ」  と答えた。  テレビ局の営業一課長は、スポンサーに対する礼儀だ、とでも云うように、自分から席を立って、彼等の方にやって来た。珍しく店の中は|空《す》いていた。 「宝田さん、お忙しいでしょう……」  相変らずゴルフに精をだして、陽焼けした顔つきの熊生一男は、水玉の蝶ネクタイを気にしながら、笑顔で話しかけてくる。 「やあ、どうも! 貧乏、ひまなしでしてね」  彼は、桂巴絵を意識しながら、当り障りのない返事をしていた。 「今夜は、お二人ですか?」 「うん。少し広告の勉強をしようと思ってね。よろしく頼みますよ、熊生さん。いずれ貴方からは、|虐《いじ》められるだろうから!」 「ご冗談を。それより部長さん、もしお二人だったら、ご一緒しませんか。桂女史は、ご存じでしょう?」  熊生は厚い顎をしゃくって、自分の席の位置を示した。いよいよお出でなすったな、と宝田は思ったが、別に逃げる理由もない。  岐阜から帰京して以来、桂巴絵の方からは一度も電話はかかって来ていなかった。彼の方も、また自分から連絡をとったこともない。だから、こんなクラブで不意に顔を合わせると、なんとなく後めたいような気持と、懐かしいような感情とを覚えるのである。 「部長、どうします?」  若尾課長は、そう訊いた。 「熊生さんの方は、ご迷惑じゃないんですか?」  宝田十一郎は|曖昧《あいまい》に云っている。 「いいえ、迷惑どころか! 桂女史が、ぜひ宝田部長と、お近づきになりたいと申してますので……」 「柱さんが?」 「ええ。なんでも一度、会社へ彼女が伺っただけとか……」 〈畜生め!〉  と、彼は思った。  桂巴絵は、岐阜の一夜のことは、頬かむりで通し、熊生課長の橋渡しで、彼に接近するようなポーズを取っているのだ。でも、なかなか賢明な方法であった。 〈ふむ。向こうがその気なら、こっちも少しは楽になる!〉  宝田は笑顔になって、東洋テレビの営業一課長に大きく頷いてみせた。 「喜んで、お目にかかりますよ。なにごとも勉強ですから、な」  彼は桂巴絵の|黝《くろず》んだ乳首と、毛深い下腹部とを思いだしながら、なぜか奇妙な優越感に支配されはじめていた。  桂巴絵は、まったく小憎らしい女であった。  あれほど長良川畔の旅館では、狂おしい痴態を大胆に演じてみせた癖に、そんなことなど綺麗さっぱり忘れ去ったような顔つきで、 「いつぞや、ご挨拶に伺った、東京エージェントの桂でございます。お忘れでございましょうけれど」  などと、しおらしく名刺を差し出すのである。  今夜の巴絵は、着物姿であった。  |珊瑚《さんご》の大きな帯留めに合わせて、指にも珊瑚の指輪をしている。そして小首を|傾《かし》げるような仕種が、僅かに斜視がかった大きな瞳の動きと共に、成熟した女の色気を、つくづくと感じさせるのであった。 「宝田です。貴女とは、どこかでお目にかからなかったですかな?」  図々しく彼は云ってみた。  巴絵は、眼だけで微笑し、また小首を傾げてみせた。 「あら、そうですかしら?」 「違いましたかね」 「あたし、憶えておりませんけれど」 「そうかなあ……」  途端に、桂巴絵は、草履の先で彼の靴を踏みつけた。 〈云うな〉という合図らしかったが、宝田は逆にもっと多く何かを云ってやりたいような衝動にかられる。 〈この女は、東西製薬が、タンポン式生理用品を売りだすことを知っていた……そうして、広告を担当させて呉れと、俺を口説いた女だ……〉 〈危険な女ではある。しかし、興味もある!〉  宝田十一郎は、もう一度、靴の尖端に、草履の重味を感じると、意味もなく微笑した。女の、彼の口から云わせまいとする、必死な気持が強く感じとられたからである。 〈もう少し|苛《いじ》めてやるかな……〉  彼がそう考えているとき、熊生一男が、不意に話しかけて来た。 「ねえ、宝田さん。うちの夜十時十五分からの番組……興味ありませんか?」 「十時十五分から、というと?」 「三十分のドラマ番組なんですけれどね」 「ほう?」  宝田は、部下の若尾を見た。若尾は、片眼を軽く|瞑《つぶ》った。その様子では、若尾課長はなにかを知っているらしい。 「若尾君……なんだい?」  彼は質問した。  若尾功は、黒い顔を綻ばせ、 「ぜんぜん話になりませんや」  と首をふるのだった。 「なんだい、それは……。僕は、なにも聞いていないがね」  彼は、不機嫌な声音になる。若尾から何一つ東洋テレビの三十分ドラマのことなど、耳にしたことはない。自分の仕事に関連のあることで、少しでも上司の自分が、カヤの外に置かれているのは不愉快なのである。  若尾課長は一瞬、真顔になると、彼と熊生を交互に見較べた。 「いま東テレで、火曜日にやってるドラマがあるんですよ、〈三人の野郎たち〉というオリジナル物が……」 「ああ、知っている。スタジオ物だろ?」  宝田は、安堵したように云った。 「俳優はすべて〈新興映画〉から借りて、ワン・クール撮り終ったんです」 「スポンサーは?」 「たしか〈インペリアル自動車〉でしたね、熊生さん?」  若尾功は、そのときだけ、東洋テレビの営業一課長の顔に視線を貼りつけた。 「そうです、インペリアルですわ」  桂巴絵が、断定するように云い切った。 「ところが視聴率は、わずかに、三パーセントで、スポンサーが下りると云いだしたんですよ」 「なるほど。インペリアルさんらしいね」  宝田は|相鎚《あいづち》を打って、煙草を|咥《くわ》えた。すかさず、巴絵の腕が伸びた。その指先には、ガス・ライターの朱い焔が、立ちのぼっている。彼は黙って吸い付けたあと、慌ててお礼を言った。  岐阜の寝室での出来事が、甘酸っぱく彼の胸の裏側を擽っている。 「それで結局、四回分の穴があいた訳ですよ。東テレさんとしては、ドラマは最後まで放送しなければならない。それで最後の四本分だけ、〈東西製薬〉にスポンサーになって呉れと云って来られたんです……」  若尾は、ニヤリとして言葉をつづけた。 「特Bの電波料だけで、買って呉れないか、と云うんです。視聴率三パーセントのドラマをですよ?」  宝田は、また靴の尖端に、広告代理店の女専務の草履の重味を感じた。     三  ——それは、宝田の勘に狂いがなかったら、〈東京エージェント〉の女専務の、なんらかの意味をこめた合図であった。だが、それは二つの意味にも、受けとれた。  インペリアル自動車が九回で下りた、テレビ劇〈三人の野郎たち〉の、残り四回分のスポンサーになりなさい、と教えているようでもあるし、断るんですよ、と催促しているようにも思える。 〈東洋テレビ〉は、もっとも視聴率の高いナイター番組を、放送するのでも有名なテレビ局である。  宝田の前任者の広告部長は、三年のあいだこの東テレのナイターを取ろうと努力して、遂に果せなかったのだ。  社長の葛原耕平は、それを大いに不満に思い、新しく取締役となった宝田十一郎を、広告部長に据えたのだという噂もある位であった。どういうわけか、ナイターのスポンサーになれないメーカーは、業界ではトップに立てないというような風潮——もしくはジンクスが、広告業界にはあるのであった。 〈ふむ。高い買い物だが、東テレの実力者といわれる熊生一男に、ここで恩を売っておくのも損はないかも知れないな……〉  ふッと宝田はそう思い、着物姿の桂巴絵を微笑しながら見詰めた。 「ところで桂さん、貴女が、私の立場だったら、どうします? インペリアルさんの食べ残しを、頂きますかな?」  彼は、冗談めかして訊いている。 「さあ。お腹が減ってたら、平気で食べるものじゃありませんこと?」 「ほう? 視聴率三パーセントでも」 「ええ。その代り、時間を午後十一時十五分以後の、Dタイムに移して頂くわ」  さらりと、女専務は云った。  特Bなら三十分で五十万円だが、一時間たらず遅くなったDタイムなら、三十分で二十万円ちょっとである。 〈四本で八十万円強か……〉  宝田は算盤を弾いた。視聴率ゼロに等しいドラマ番組を、特Bタイム・五十万円で買う気はしないが、二十万円ならば、買い物だという気がする。  最近は、視聴者の好みも変っていて、夜遅い番組でも、ドラマさえ面白ければ、結構たかい視聴率を示すのであった。その点で宝田は、テレビ・ドラマは脚本と演出家だと思っている。  いかに原作が優秀でも、腕の悪い脚本家にかかったら、箸にも棒にもかからない拙劣なドラマになる。それと演出家の腕だった。  だが、その放送劇の視聴率がわるいとなると、脚本家も演出家も、スポンサーに向かって、「原作が悪い」とか、「いい俳優が使えなかったから……」と、手前勝手な言い逃れをするものなのだ。  しかし、それは|飽《あ》くまで言い逃れであって、原作の面白さを生かせなかった脚本家の責任であり、たとえ新人の俳優でも、その演技力を導き出せなかった演出家の責任なのではないか——。宝田は、そう考えるのである。 〈三人の野郎たち〉というオリジナル・ドラマを、インペリアル自動車が下りたということだが、これはスポンサーにも努力が足りない点があるのではないだろうか? つまり、パブリシティである。 「熊生さん……」  東西製薬の広告部長は、ふッと顔を綻ばせながら、煙草の火を|揉《も》み消した。 「どうせ、スポンサーがつかなんだら、お宅ではDタイムに移して、サス・プロで放映するわけでしょう?」 「と、いうことになりましょうな」  熊生は、二、三度目ばたきして、桂巴絵の方を向き、 「ひどい人だよ、桂さんは!」と自嘲するように云った。 「なにもかも手の内を|曝《さら》されては、商売がやりにくいじゃないかね……」  |怨《うら》むような表情はしているが、テレビ局の営業一課長の声音には、内心ほっとしたような響きもある。宝田十一郎は、相手がよほど困っていたのだな、と思った。  商業放送局が、スポンサーのつかない番組を、電波に乗せるのは、対外的にも恥かしい行為なのだ。ロハで放送する位なら、それこそ五万円でも、十万円でも、売りたいのである。  宝田は、インペリアル自動車が東洋テレビの水曜日のナイターを買っていることを、ついでに思い浮かべた。  東洋テレビのナイターは、NBSのドラマ、春秋テレビの娯楽物と共に、一番強力な番組だった。だから宝田の前任者は、東テレのナイターに切り込めなかったのだ。広告代理店の〈電報堂〉の担当者が、弱かったこともあるが、一つには広告部長の努力が足りなかったとも云える 〈ふむ。ここで熊生課長の顔を立ててやり、それを|橋頭堡《きようとうほ》に、来年のナイターに喰い込むというのも、一つの手だぞ?〉  宝田十一郎は、そんなことを考えながら、部下の宣伝課長の黒い顔を眺めやっている。  若尾は、不安そうな瞳の色で、彼を注視していた。その瞳は、〈部長! 本気なんですか?〉と訴えかけている。彼は、軽く頷いてみせた。 「熊生さん。明日の午前中にでも、お目にかかることになりましょうな。いずれ、連絡はさせますが」  東洋テレビの営業一課長は、蝶ネクタイに指をやりながら、照れたように微笑した。 「どうやら、〈東京エージェント〉さんに、感謝しなければならないようですね」 「さあ。鬼が出るか、蛇が出るか……」  宝田は、おかしくもないのに、笑い声をあげていた。  ナイターをめぐる争いは、シーズンの終りから、ペナント・レースの開始される一カ月前あたりにかけて、争奪戦が三つ巴で展開される。テレビ局、広告代理店、スポンサーの三つが、入り乱れて|鎬《しのぎ》を削るのだ。  ナイターの放送時間は、一時間半である。かりに東洋テレビの火曜のナイターを買ったとすると、放送予定回数は二十一回|乃至《ないし》二十二回である。  むろんシーズン中に、雨のため野球が中止になることだってある。しかし、火曜日が雨で流れることは、シーズン中に四日か、五日であり、しかも東洋テレビあたりだと、地方の基幹局のナイターに切り換えができるから、完全にナイター中継が中止となるのは、シーズン中に僅か一・五日だと云われている。しかしネット局の少い春秋テレビあたりだと、同じくナイターを買っても、雨で流れる率が多いということになるのだった。  だから、ナイター番組を買おうとするスポンサーは、絶対の強味をもつ〈東洋テレビ〉に殺到する。雨で流れる心配がないし、好カードが多く、常に視聴率は、確実に二〇パーセントをオーバーするからであった。  雨で流れても、支払う料金は、変らないからである。ナイター中継を、二社あるいは数社のグループで提供するのは、その電波料金が高いからに他ならない。  もし仮に一社で単独に、火曜日なら火曜日のナイター中継を買い切ったとすると、一シーズンに支払う料金は、ざッと三億円なのである。  二社の相乗りスポンサーでも、一社あたり一カ月に約三千万円は支払わなければならないのだ……。  でも、一カ月に三千万円を投じても、平均一七パーセントの視聴率を集めることができるのだから、スポンサーにとっては損ではない。  テレビの普及率を二千万台として、一七パーセントだったら、三百四十万台のテレビが東洋テレビのナイターを受像しているのだ。  五人家族のうち三人が、それを見ているとしたら、ざっと一千万人の人間が、野球の試合と共に、毎週スポンサーの広告も眺めているわけである。  一カ月を四・三週の計算で行くと、三千万円を支払って、四千三百万人の人間に、スポンサーは否応なしに視聴覚を通じて、商品名を売り込んでいる勘定になる。つまり、一人あたま七十銭——という、微々たる広告宣伝費につくのであった……。 〈来年はきっと、東テレのナイターを、ものにしてみせるぞ!〉  宝田十一郎は、心の中で決意しながら、仕事の話はそれで中止して、三人の誰にともなく話しかけた。 「河岸を、変えませんか。どうです?」  ——桂巴絵が、素直に応じた。 「賛成ですわ……」  熊生一男の方は、ただ応じるというのではなく、自分から条件をつけた。 「クラブ〈唇〉なら、お供しましょう」  宝田は、名前は聞いているが、そのクラブにはまだ顔を出したことがなかった。 「きみ……知ってる?」  彼は、若尾課長を|顎《あご》でしゃくった。大男の若尾功は、白い歯をみせて、 「部長。私は銀座で、十年飲んでます」  と答えた。  宝田は安堵したように立ち上った。おなじ社用でも、顔の利かない店では、どうも工合が悪いのである。  連れ立って〈公爵夫人〉を出るとき、階段の下で、桂巴絵といっしょになった。巴絵は素早く彼の掌に、なにやら紙片を握らせて、 「安いお買物をなさいましたわね」  と囁いた。 「そうですかな?」  人前もあるので、彼は太い声で応じたが、|苺《いちご》の匂いの混った女の囁きは、岐阜での一夜を思い起させ、ふたたび宝田を優越感にと誘い込んだ。  クラブ〈唇〉は、すぐ近くにあった。ビルの三階である。そのビルには、一階のローマ靴店をのぞいて、地下も上も、すべて酒場で占領されていた。酒場だけのビルがあるなんて、これは日本の——しかも銀座という特殊地帯だけではないのだろうか?  宝田はクロークに荷物を預けると、すぐにトイレに立った。桂巴絵の結び文を、読むためでもあった。 『冷たい方! 今夜は、つき合って頂きますよ。十二時に、六本木の〈タムズ・レストラン〉で——。巴絵。お仕事の話も、ございます』  手帳を破ったような紙片に、鉛筆で走り書きしてある。字はあまり上手ではなく、誤字も一つ二つ混っていた。  宝田は小さく破り捨ててから放尿し、水洗装置のペダルを靴の先で踏んだ。 〈困ったな……。二人の女と、約束ができちゃった!〉  彼は、英子と巴絵の二人を、頭の中で比較していた。いずれも三十を過ぎた独身の女たちである。そして片方とは躯の交渉があり、片方は未知数であった。しかも、大なり小なり、自分の仕事に|繋《つなが》っている。  宝田十一郎はトイレから出ると、熱いお絞りを貰い、ゆっくり手を拭ってから客席へと歩きだした。  彼等が位置を占めたのは、ちょうどカギの手になったコーナーのボックスである。店のつくりが、L字型になっているため、その席からは店の全体が見渡せた。ただし薄暗いので、客の顔までは確認できない。  熊生と彼は、桂巴絵を間に|挟《はさ》む恰好となった。 「部長さん……」  広告代理店の女専務は、そっと前を向いたまま、囁きかけてくる。熊生が、ホステスの方に躰を乗りだしている隙をみて、話しかけてくるあたり、なかなか場馴れた演技であった。 「む……なんです?」  彼は戸惑いながら答えた。 「ネーミング……決まりまして?」  桂巴絵は、グラスを持ちながら、独りごとのように云うのである。 「ネーミングとは?」 「あら……まだシラを切る積りですの? お宅の生理用品ですわ。企画会議……一週間お流れになったんですって?」  宝田十一郎は肩先をピクリと|顫《ふる》わせた。今日の午後の会議の模様が、なにもかも、この〈東京エージェント〉の女専務には筒抜けになっているのである。 〈誰だ? 誰が彼女に通報しているのだ?〉  彼は一瞬、姿の見えぬ敵の、黒い影に|怯《おび》えた。桂巴絵が既に知っている以上、これは企画会議の出席者の誰かの口から、洩れたと考えるべきであろう。  宝田は、開発部長加倉井紀彦の縁なし眼鏡を思い描いた。新製品の生産開始と云い、ネーミングのことと云い、あまりにも早く、かつ正確に情報が流れすぎる。  新製品のことは、まだ社内でも部課長クラスしか知らない筈なのである。  東西製薬の広告部長は、しばらく黙りこくっていた。返事をすることが、ためらわれたのは、矢張り、それが重大な機密に属することだったからである。  しかし、桂巴絵の方は、そんな彼の困惑ぶりは意に介さぬように、バッグから手帳をとりだして、頁を繰り、 「ねえ。いかがでしょうか?」  と、開いた部分を示すのだった。  見ると、何行か文字が並んでいる。宝田は苦笑しながら胸ポケットを探った。昼間ならとも角、薄暗くなると、老眼鏡が必要な年齢になっていたのである。  手帳には、幾つかのネーミングが並んでいた。あきらかに、東西製薬のために、考えられた名称ばかりである。  しかし、彼らが考えたネームと大同小異であり、その上、女性らしい甘さがあった。  宝田は、一つ一つ頭の中に叩き込むように読んで行った。 〈レディス・セット。ノン・リスク……危険なし、か! ペット・マジック……ふむ、愛すべき魔術師という意か……ソレイユ・パッド。ネオパックス……これはちっと、いけそうな名前だな。ええと、次はソワレ……ああ、夜会か! こいつは駄目だ………シニア・テックス。うむ! 成人向きテックスか。ええと……セルローズ・シニア。成人用の繊維素……セルローズ・シニア……〉  彼の心にひっかかったのは、〈ネオパックス〉という名称と、このタンポン型の生理綿を、セルローズと名づけたアイデアの二つだけである。 「どうも有難う……」  宝田は退屈そうな表情で、その手帳を彼女の手許に戻した。 「なんです?」  向かい側に坐っている若尾功が、女の子の膝を撫でながら、不審そうに訊いてきた。 「なんでもないんだ……」  彼は、ぎくりとしながら、慌てて老眼鏡を納い込んでいる。なんとなく、ちぐはぐな感じであった。 「お気に入りません?」  桂巴絵は含み笑いしながら云うのである。彼は低く囁いた。 「六本木で、お会いした折に……」  宝田十一郎は、〈ああ、とうとう云ってしまったな〉と思った。英子にするか、彼女にするかと迷っていたのだが——。  四人は、他愛のない雑談にふけった。熊生一男は、このあいだ体験した〈ワン・シロ・ショー〉の話を、とくとくとして語ってきかせ、対抗上、宝田も岐阜でみたストリップ・ショーの話を披露する羽目になった。  桂巴絵は、そんな男たちの、どんな凄じい|猥談《わいだん》にもたじろがず、「あら、見たいわ」とか、「私、行ってみようかしら?」などと相鎚を打つのである。 〈今夜……この女から、聞かねばならぬことが一つある! 絶対に、酔えないぞ!〉  宝田は自らを戒めながら、ブランデー・グラスを口に運んだ。 「そろそろ、おいとましますかな?」  若尾課長がそう切りだしたとき、店の入口で、ちょっとしたざわめきが起きた。見ると二人の女性が|這入《はい》って来る所である。 「おッ!」  熊生一男が、入口の方を見て、小さな叫び声をあげた。 「あ、篝千代子ですよ、部長!」  若尾が、浮かしかけた腰をおろして、顎をしゃくった。  篝千代子の名前は、宝田だって知っている。〈新興映画〉の看板女優であった。しかし最近は、どうした訳か、あまり映画に出ていない。  でも宝田の眼は、篝干代子よりも、|寧《むし》ろその連れの若い娘に注がれていた。背の高い、黒い髪をもった外人娘である。〈混血なのか?〉と、彼は思い、次にはその美しい篝千代子の連れの女性を、新製品のテレビ・コマーシャルに使えないだろうか、と考えついたのである——。  赤 い 戦 雲     一  井戸毅は、たいてい朝七時半には目覚める。  子供が、早起きの|所為《せい》もあった。  起きると、長年の習慣で、朝風呂が|沸《わ》いている。井戸は、人間の生活で、不思議に思うことが幾つかあった。  たとえば、朝起きて、歯を磨くことであった。ムシ歯にかからないために、歯を磨くのだとしたら、これは夜、就寝前に磨く方が正しい。  風呂もそうだった。垢を落し、血液の循環をよくするためには、朝入った方が、理窟から云っても筋が通ると思うのである。  夕方、風呂に入ってから飲むビールの一杯は、たしかに美味しいし、熟睡を誘ってくれる。だが、正常な夫婦なら、一風呂あびて夕食後、ただちに寝る——ということはあり得ない。冬の夜だって、お互いにべッドの中で汗を掻くことだって、あるのである。  だから彼は、人間は朝入浴する方が、気分を爽快にし、清潔な躯で、一日を過すことができると思うのだ。  また、彼のように、夜遅い商売だと、酔って入浴するのは危険だった。それよりは朝風呂の方が、体調を整えるにも良い。  二日酔いのとき、彼は、風呂の中で冷えたジュース類を飲むのが、癖であった。そうすると、二日酔いも消えて行くような気持になる。  湯に入ったあと、彼は新聞に目を通しながら、コーヒーを二杯ぐらい飲む。  八時半には、迎えの車が来ていた。 「今夜は?」  と、妻の信子が訊く。 「わからないな」  と、井戸毅は答える。 「そう。じゃァ行ってらっしゃい」  妻も淡々としたものだった。こんな生活が、七年あまり続いているからである。  幼稚園へ通っている一人息子を、途中で降して、東銀座七丁目にある〈クラウン広告社〉に着くのが、九時五分前ごろ——。この時間は、彼がクラウン広告社に引き抜かれて以来、変化したことはない。  三十分以内に通えるように、都心の麹町の借家に入っているのである。高い家賃を支払って……。  勤務時間は、九時から午後五時まで、という規定である。  午前中は、連絡会議が必ず一時間あったし、月・水・金には、課長以上が出席する綜合会議が、午前中をつぶして行われる。だから、連絡部長の彼は、どんな二日酔いでも、午前九時までに、会社へ入らなければならないのであった。  課長や営業マンは、業務折衝で、スポンサーの会社や、テレビ局、新聞社などに外出している。井戸は、自分の大きな机の前に坐って、部下からの電話を受け、あれこれと指示を与えるのであった。  つまり午前中は、もっぱら事務的な処理のための時間である。スポンサーという、金を出す絶対の権力者と、テレビ局という、制限のある電波帯をもった実力者の、中間に立って商売をするのだからイザコザは絶えなかった。  たとえば、同じ十五秒のスポットでも、Aタイムに挿入するか、Bタイムにするかでは、ガタンと値段が違う。十万円と六万円の差があるのである。  しかしAタイムの番組の視聴率がわるく、逆にBタイムの視聴率の方が、ぐっと良い場合だってあるのだから、Aタイムのスポンサーは肚を立てる。また、局によっては、同じ時間に長期のスポットを継続して呉れるスポンサーに対して、思い切った割引きをして呉れるところもあった。  建前としては、スポットの回数割引率は、六カ月で一割という規定になっている。  だが、このあたりの交渉が、実は代理店の腕の見せどころで、井戸毅の手にかかると、六カ月で三割引きになるものが、部下の課長の交渉では、せいぜい二割引きということになってしまう。  製薬会社などには、集中スポットの料金だけで、月に一千万円を支払うスポンサーもいるのだから、 「たかが、スポット位で……」  とは、云って居れない。  午後、井戸毅は、必ずテレビ局を一巡することにしている。  番組の企画、VTRやタレントの打合わせ、スポンサーの|苦情《クレーム》など、用件はいくらでもあった。  大男の上に童顔であり、|小鬢《こびん》のところにだけ若白髪のある井戸毅は、どこに行っても人目をひいた。テレビ局の中でも、代理店が折衝するのは営業関係が多いのだが、クラウンの井戸連絡部長は、芸能局や、制作局にも顔が売れていた。  そして夜——。  これが、井戸毅にとっては、商売の本舞台になる。  彼の手帳には、ぎっしりと夜のスケジュールが、書き込まれてあった。  良い企画をもち、テレビ局に発言力のある広告代理店でなければ、スポンサーはつかない。そうして、良い企画を産むというのは、良き個人的なブレーンを持つことであり、発言力を持つというのは、テレビ局の人間と個人的に親しいからに他ならない。  ……そのためにも、彼には、夜の交際が必要になって来るのであった。井戸毅は、いかにこの夜の交際において、スポンサーの心を捉え、またテレビ局の人間の信頼を深めたことか——。  その日、企画会議に出たあと、井戸は東洋テレビの熊生課長に電話して、赤坂の料亭に行った。  昼食を、こうした日本座敷でとるというのも、なかなか|乙《おつ》なものである。 「やあ、この間は……」  熊生は床柱を背負って坐ると、仲居のさしだす熱いお絞りで、顔を拭いた。 「たまには、昼間に会うのも、いいもんですなあ」  井戸は目を細めた。  笑うと、童顔だけに、子供のように無邪気な表情になる。この笑顔が、玄人筋の女には、もてるのであった。 「おい、おい。ただ誘いだしたんじゃァ、あるまい?」  熊生一男は、上衣を脱いでいる。 「お察しの良いことで……」 「用件を先に聞いとこう。話次第じゃ、箸を取れなくなるからね」  営業第一課長は、面白そうに笑った。むろん冗談なのである。勤め先では、こんな打ちとけた話し方はしない男なのだった。 「いやね……昨夜、さる酒場を覗いたら、熊ちゃんと、宝田部長とが、しんねこで飲んでた、と聞いたもんだから……」  井戸毅は、相手のグラスに、ビールを注いだ。用談中は、人払いしてあるのであった。これも、彼の流儀である。 「ほう。耳が早いね。〈公爵夫人〉か、〈唇〉の方かどっちだい?」 「両方ですよ」 「ふむ。鰯の回遊コースと同じで、きみも俺も似たような酒場のコースを|辿《たど》っているからな。バカバカしい話さ」 「|誤魔化《ごまか》さないで下さいよ。|巴御前《ともえごぜん》が、一緒だったそうじゃないですか?」  井戸は笑顔をつくったが、瞳だけは油断なく光っていた。 「そこまで、知っていたの?」  熊生課長が駭いたような表情をみせるのを、井戸は少しオーバーだなと看て取ったが、しかし追及の手は|緩《ゆる》めなかった。 「熊ちゃん。僕たちの仲でしょう? 隠さなくたって、良いでしょう。なにを企んでるんです、三人で?」  すると、東洋テレビの課長は、笑いだした。なぜだか知らないが、嬉しそうな笑い声である。 「井戸ちゃん。そいつは誤解だよ。俺と巴御前が飲んでいるときに、宝田大明神が、若尾の功ちゃんと現れたんだ……」 「本当ですか?」  井戸毅は、故意に疑わしそうな表情をしてみせた。  昨夜、クラブ〈唇〉に行ったとき、彼はホステスの|克美《かつみ》や、|姐《ねえ》さん株の|万紀《まき》から、四人が飲んでいた……という耳寄りな情報を、入手していたのであった。  井戸が、この情報に、目を光らせた理由は二つある。  一つは、業界でも|寝業《ねわざ》師で通った〈東京エージェント〉の桂専務が、なにやら手帳をみせ合って、〈東西製薬〉の宝田広告部長と、ヒソヒソ話をしていた——ということであった。  東西製薬の広告部は、電波関係を大手の代理店〈電報堂〉に、活字関係を二流どころの二社に、まかせっきりにしている。  電波を主力とするクラウン広告社としては、どうしても喰い込みたいスポンサーの一人なのであった。だが、これまでは老舗の電報堂が、がっちり押えていて、身|揺《ゆる》ぎもしなかったのである。  井戸毅としては、新しく宝田十一郎が、広告部長に坐ったことは、切り崩しのチャンスの訪れだと思っている。  それで機会を狙って、いろんな企画を立てさせている矢先に、桂巴絵と宝田部長が、会っているという情報が、入って来たのである——。  もう一つの理由は、クラブ〈唇〉に入って来た、映画スターの篝干代子をみて、矢庭に宝田部長と、部下の若尾課長が、声をひそめて語りだした、ということである。  若尾は、篝千代子に面識があったらしく、彼女の席に行って挨拶し、十分ばかり坐り込んでから、席に戻って来たそうである。  そのとき、若尾は、拇指と人差し指とで、丸い輪をつくって、宝田に示したというのだ……。  栂指と人差し指でつくる丸い輪。それは一般の世間では、マネーの意味に使われている。  だが、テレビ局などでは、〈オーケイ〉の意味に使用されるのであった。 〈なにがオーケイなのか?〉  井戸毅としては、それが知りたかったのである。  どんな事情があるのか知らないが、その〈新興映画〉のドル箱女優は、ここ一年ちかく会社の企画から|乾《ほ》されている。そうして、この九月が契約更新——という噂だった。  井戸毅には、この篝千代子を、テレビに引っ張りだしたら、絶対に当る番組がつくれる自信があった。  そのためにも、先ず、彼女を口説かなければならないのだ……。  だが、宝田十一郎や若尾功の動きは、彼の思惑より一歩、先んじている様子なのである。  なぜなら、広告代理店を立てずに、女優と直接に交渉している気配が、濃厚だからだった。 「井戸君。きみも図体が大きい割合に、神経が細かいんだね」  熊生課長は、運ばれて来た玉子豆腐を、一気に|啜《すす》り終って、唇の端を拭いた。 「でも、熊生—桂—宝田と三拍子揃えば、誰だって勘ぐりたくもなりますよ」 「本当に、偶然なんだぜ。もっとも、巴御前の方が、宝田部長に紹介して欲しいと云ったんだがねエ」  熊生は、ビールを受けながら、屈託のない声であった。 〈あの男|蕩《たら》しめ!〉  ——井戸毅は、低く心の中で|呟《つぶや》きながら、桂巴絵の日本人ばなれした容貌と、ちょっと斜視がかった|黒瞳《くろめ》とを思い描いていた。  かつて彼は、この女専務に、手痛いドンデン返しを食わせられたことがあるのである。まだ井戸が、大阪の広告代理店で、働いているときだった。  関西系のある製菓会社が、新しくクイズ番組を出すことになり、広く代理店にプランを求めたことがあった。  そのとき井戸たちは、有馬温泉に三日間も|籠《こも》って、新しいクイズの趣向を考えだし、これなら絶対にあたる——という自信をつけた。  その企画書をタイプ印刷するのも、わざわざ田舎の小さな町のタイプ屋を使うぐらい、彼等は用心をした。タイプ印刷の段階で、社外もしくは社内から、企画が洩れることが、よくあるからである。  企画——つまりアイデアなんて、盗まれてしまえば一銭の値打もない。日本では、まだアイデアのみを登録することは、できないのである。  それだけに用心に用心を重ねた企画だったのだが、フタをあけてみると、〈東京エージェント〉がその番組の広告代理店に指名されていた。  そうして、当選した番組プランとは、井戸たちが考えだした企画に、ちょっぴり毛の生えた程度のものだったのだ。  井戸毅は、腹を立てた。  そうして、企画のブレーン・ストーミングのために、有馬温泉にこもった仲間の中に、裏切り者がいると思い込み、仲間をひとりひとり詰問した。だが、全部がシロだった。  なぜ〈東京エージェント〉に、彼等の貴重な企画が、盗まれたのか?  その功労者は、女専務の桂巴絵だった。そうして、その企画を洩らした責任者は、あろうことか、スポンサーである製菓会社の、宣伝部長だったのである。  ——桂巴絵は、宣伝部長に自分の体を張って|誑《たぶら》かし、その代償に、各社の企画書を全部見せて貰っていたのだった。  アイデアは、コロンブスの卵の|譬《たと》えに似ている。思いつくまでは大変だが、知ってしまえば他愛のないものなのだ。  桂巴絵は、井戸毅たちの考えた番組企画に、他社の企画を若干加味して、徹夜でタイプを打たせ、翌日の午前十時までの締切りに、間に合わせたのだった……。 〈女狐め……また画策しているな!〉  井戸は、そう思った。  数年前のことだが、女の武器をフルに使って、アイデアを盗まれ、スポンサーを占領された恨みは、決して忘れていない。 「それよりね、井戸ちゃん……」  熊生は、食欲旺盛だった。  鮎の塩焼きを骨まで平らげたあと、今度は鶏の唐揚げに武者振りついている。 「なんです?」  彼は、浮かぬ口調で、ビールを|呷《あお》った。このあと〈東西製薬〉に顔を出す約束があったので、自重しようと思いながらも、ついビールに手が出ている。 「よく判らないがね……宝田先生のところ、新製品を出すらしいぜ……」 「ほう? どうせ、強カビタグロンとか、ポンシロンSなんて云う、二番煎じの薬でしょう?」 「いや。それが、どうも違うらしい」  井戸は、坐り直した。  大男の彼が、|胡坐《あぐら》から正坐にもどると、仔象が動きを変えたような感じを、人に与えるのは奇妙である。 「今朝ほど、〈パンネ〉の佐渡課長から、電話があった」 「佐渡さんから?」  井戸は、見事なキャッチ・フレーズを、次から次につくり出して行く、〈パンネ〉の宣伝課長を思い浮かべた。 「えらい|藪《やぶ》から棒にね。会長の命令だから、九月から一時間ぐらい買っても良い、というんだなア、これが……」 「一時間も?」 「まだ内緒だぜ。この点は、恩に着て呉れないと困る」  そのときだけ、熊生は、口惜しそうな眼の色で、勿体ぶった云い方をした。 「わかってます。どうも、有難う」  井戸は、|畏《かしこま》って頭を下げた。こういう所が、矢張り夜の交際の範囲と深さで決まってくるのであった。熊生課長はつい口をすべらせた模様だったが、この情報は有難い。 「しかし熊生さん。いままで〈パンネ〉は、電波は、いくら勧誘しても、乗って来なかったじゃないですか」 「だから、変に思ってね、佐渡課長に雑談的に聞いてみたんだ。すると、なにかの拍子にだな……対抗上、止むを得ない、という言葉が飛びだして来た……」 「対抗上、止むを得ない……」 「他に、なにが考えられる? あそこは、生理用品の一貫メーカーだ。他に、対抗するものといえば、何もない」 「なるほど。それで東西製薬と、結びつくんですか」 「じゃァないかな? 俺の勘だけんどね」  熊生は、また鶏の唐揚げを口に|抛《ほう》り込んだ。よく動く客の|顎《あご》を見詰めながら、井戸毅は、〈これから佐渡課長にあたってみよう〉と考えていた。  俄かに、戦雲が立ち|罩《こ》めて来た感じであった。     二  株式会社〈パンネ〉は、本社を銀座の並木通りに置いていた。新築の八階建のビルの、五階と六階を占領している。  井戸毅は、わざと電話もかけずに、とつぜん五階にある宣伝部を訪ねて行った。  宣伝部といっても、部長は重役が兼ねているから、課長の佐渡が、すべてを切り廻している。また、佐渡は、株式会社〈パンネ〉の、実際の経営者——いや、出資者かも知れない——である森本会長の、信任の|篤《あつ》い人物でもあった。  井戸は、ときどき会合で顔を合わせるぐらいだが、佐渡の仕事に対する情熱ぶりには、いつも感心している。  もちろん、クラウン広告社とは、取引きはなかった。  なぜなら、〈パンネ〉の宣伝部では、活字による説得広告を重視して、テレビの映像による印象広告を、回避する立場をとって来たからである。  それは、宣伝課長としての佐渡の、識見でもあったが、事実、製品が生理用紙綿であってみれば、製品そのものをテレビに映し出すことは、あまりにも強烈だったからである。  ……だが、そのテレビ嫌いのパンネが森本会長の命令で、秋から一時間ぐらい、〈東洋テレビ〉の放送時間を買いたい、と云って来たと云うのである。  井戸毅は、その情報を教えて呉れた、東洋テレビの営業第一課長に感謝すると共に、ある予感と軽い興奮を覚えていた。  長いあいだ、広告のセールスマンをやっていると、嗅覚が鋭くなると共に、非常に勘が発達してくる。それは俗に、第六感と呼ばれるものであるかも知れない。  彼は、エレベーターに乗ったとき、なんとなく佐渡に会ったら、とんとん拍子で仕事の話が、まとまりそうな気がした。  宣伝部のドアをノックすると、すぐ入口の机にいる女の子が顔を覗かせ、名刺に目を落すと、 「あ、どうぞ」と云った。 「佐渡さんは?」 「いま、会長が来られていますので、会議中です。でも、すぐ終ると思います」  女の子は、てきぱきと応じた。 「ほう? なぜ、判ります?」  井戸毅は、ニコニコしながら云った。 「だって、碁盤の注文がありましたもの」 「ああ、会長の……」  彼は、ことさららしく顔の汗を拭いた。大男で、しかも童顔である井戸が、そんな動作をすると、ひどく汗かきのように人の眼には映る。しかし、これは相手に印象づけるための演技であって、彼は別に多汗症なのではなかった。  森本会長が、碁に凝っているというゴシップを、彼は経済雑誌かなにかで、読んだことがあった。スポンサー側の人間の、個人的な趣味を知っておくことは、アド・マンとしては大切なことである。 〈碁を使って、攻め込む手もあるなあ〉  そんなことを思いながら、宣伝部の一隅につくられた応接用のソファーに腰をおろしていると、間もなく佐渡課長が、大きな耳を光らせながら入って来た。兎のような顔をした男である。  東大を中退して新聞記者となり、その才腕を買われて、森本会長からスカウトされた人物でもあった。  三十九歳なのにいまだに独身というのも変っている。 「このビルに用事があったので、ちょっとお寄りしてみました」  井戸毅は、|鄭重《ていちよう》に云った。 「ほう。それはどうも!」  佐渡は、早口で答え、ハイライトを一本とりだしている。立った儘の姿勢であった。 「なにか、用?」 「いいえ、別にこれという訳ではないんですがね……」  彼は、またハンカチで額を拭う|仕種《しぐさ》をしている。 「じゃァ、お茶でも飲みましょうか」  佐渡は、黒板の「会長室にて会議中」という文字を消して、新しく「地下アマリリス」と書いた。  白墨の粉を払うと、 「さあ、行きましょう」  と、自分からドアをあける佐渡だった。 〈会議のあとなのに、実に、きびきびした態度だな? すると何かが決定したので、もう別に今日は|慌《あわ》てる必要がない、という訳だ……〉  井戸は、そんな推測を行い、胸の中である安らぎを覚えていた。  広告の研究会の後などで、バーを飲み歩いたことはあるが、昼間、お茶を飲みに行くのは、考えてみれば初めてであった。  自動エレベーターの|檻《おり》の中で、二人きりになって地下へ降りて行くとき、井戸毅は、微笑しながら云った。 「いよいよ、やるそうですな」  ——その彼の言葉を耳にしたとき、かつての敏腕記者だった宣伝課長の、ドキリとした表情を、井戸はしばらく忘れられなかった。  佐渡課長は、ちょっと|吃《ども》るような|口吻《くちぶり》で、 「な、なにが?」  と、|狼狽《うろた》え気味に、云ったのである。 「おや、違いましたか?」  彼は、首を傾げてみせる。  相手が動揺を示したことは、やはり熊生一男の情報通りであった事実を、物語っているのであった。井戸毅は、あとはもう、自分のほうからは積極的に、口を出さない方針に決めた。そうして、この作戦は、成功したのである。  このような|狡《ずる》い作戦は、相手が、鈍感な人間だったら成功しない。佐渡のような、頭の回転の早い、秀才タイプにだけ通用する作戦であった。  ——案の定、地下の喫茶室に入ると、佐渡は、なるべく隅のボックスを選び、坐るや否や、開口一番こう云って来たのである。 「誰から聞いたね?」 「ジャの道は蛇ですよ」 「うまく逃げるなあ」  口惜しそうに佐渡は苦笑し、自分の方から、 「東テレだろう?」  と訊いて来た。 「さあ、ね……」  井戸は、空|恍《とぼ》けてみせながら、しかし真顔になって一礼した。 「やられる以上、視聴率の高い番組を、つくって下さい。これは仕事を離れて、心からお祈りしてます」  この言葉は、スポンサーの泣き所である。ジャーナリスト出身の〈パンネ〉の宣伝課長にも、井戸毅のこの文句は、かなり親身なものとして、胸の内に訴えかけた模様である。 「ありがとう」  佐渡は、素直に答えた。 「誰だって、そう思っている。まして僕は、責任者だからねエ」 「わかりますよ、佐渡さん。でも、対抗上、止むを得ないんじゃないですか……」  二人の間に、白い火花が一瞬散った、と井戸は思った。  熊生から聞いて来た言葉を、彼はそのまま無造作に投げつけていた。相手の反応によって、なにかを探るためである。  あいにくウェイトレスが、|珈琲《コーヒー》を二人の席に運んで来て、その反応を見定めないうちに佐渡の方が、「ちょっと失礼」と云って、トイレに立った。 〈しまった。失敗したな〉  と、彼は思った。  火花が散った直後の緊張した瞬間。それが勝負だったのである。その大切な瞬間を、ウェイトレスによって崩され、佐渡はタイミングよく手洗いに立った……ということになる。  そうして宣伝課長は、小用を足しながら、彼がどの程度まで知っているのかを、臆測しているに違いなかった——。 〈対抗上、止むを得ない……と佐渡が熊生に云ったからには、競争相手の出現はあきらかだ……。だが、メーカーは新興か? それとも既成のメーカーか?〉 〈もし、パンネに失敗しても、競争相手に喰い込むんだ……〉  井戸毅が、あれこれ考えをめぐらしているとき、〈パンネ〉の宣伝課長は、ゆっくりと浮かぬ顔つきで席に戻って来た。 「お先に……」  彼は、珈琲カップをもって挨拶した。 「いやあ、どうも……」  佐渡は、黙って砂糖を、カップに注ぎ入れている。その表情は、なにか心のためらいを浮き彫りにしていた。 〈もう一球だけ、放って見るか!〉  井戸毅は、微笑して佐渡課長を見詰め、低い声で云った。 「話は別ですが、さいきん東西製薬さんも、なかなか積極的に動いてるようですね……例の〈インペリアル〉の残りを買ったそうですから……」  今度は、歴然と反応があった。 「なに、東西製薬が?」 「おや、ご存じなかったのですか」  彼は、佐渡をじらすように、珈琲を音高く|啜《すす》りはじめる。 「いつのことだね、それは……」 「今朝ですよ。視聴率三パーセントの、他人の喰べ残しを、東西製薬さんが、黙ってポンと買う。なかなか、意味深長じゃないですか……」 「ふーむ!」  佐渡は、大きな耳をピクリと動かして、腕を組んだ。眉のあいだに、縦皺が寄っている。 〈やっぱり、本筋だったか! 熊生の勘は優秀だぞ?〉  このゲームは、井戸毅の方が勝ちだった。どうやら、パンネの新しい競争相手とは、〈東西製薬〉らしいのである。 「井戸君よ……」  不意に、佐渡課長が話しかけて来た。その声音には、半信半疑めいた響きが、こもっている。なにかに迷っている人間の、自信のなさそうな口吻であった。 「なんです?」 「きみは、タンポン型の生理用品が、日本で成功すると思うかね」 「さあ、どうですかなァ」 「そりゃ東西製薬さんとしてもさ、自信があるから、お出しになるんだろうが、これは問題だよ、きみ……」 「どうしてです?」 「だって考えてもみろよ……あんなバナナみたいなものを、挿入するんだぜ、第一、歩きにくくて仕方がない……」 「それはそうですな」 「未婚の女性に、宣伝したって、使ってくれるとは思えないね。不潔そのもので、夢がないじゃァないか……」  佐渡は、俄かに雄弁になっていた。井戸としては、思う壺でもあった。人間は奇妙な動物で、こちらから聞き出そうとする時には、口を固く|噤《つぐ》んでいる癖に、自分から口を割るときには、つい重大な情報も、口をすべらせるものだからである。語るに落ちる——というのは、真理であった。 「僕はね、いままで口にすることすら、タブーにされて来たメンスの手当てに、夢を与えたことで、少しは貢献したと思っている。これはパンネの功績の一つだよ。月経、月のもの、メンス、月やくなんて言葉は、もう聞かれなくなった。そうだろう? やっと、女性たちが生理に対する屈辱感をなくし、清潔な手当ての方法を覚えて来たときに、紐のついたソーセージみたいな、原始的な生理用品が発売される。このタンポン式を、図解入りなどで宣伝されたんじゃァ、たまったもんじゃァないよ……。また女性たちは、メンスとは不潔なものだという、暗いイメージに取り|憑《つ》かれてしまう。違うかい? 僕には、いやだな。もし、東西製薬のタンポン型生理綿が成功したら、僕ァ〈パンネ〉を辞めるよ。女性の夢を壊したくないんだ……」  井戸毅は、相鎚を打ちながら、このジャーナリスト出身の宣伝課長が、対抗馬として出現する新しい生理用品のメーカーに、激しい闘志を燃やしているのを知った。  その反面、女子中学生がその生理用品を使用している姿を空想して、なんだか憂鬱な気分に陥ったのである——。  東銀座七丁目の〈クラウン広告社〉に帰ってきたとき、井戸毅は、妖しい胸騒ぎを覚えた。部下が、スポンサーを失敗したりするとき、きまって彼には予感がある。これは奇妙なほどである。  彼は、連絡部長として、自分が部下と共に守備している、スポンサーの名前や顔を思い描き、〈そんな筈はない〉と、心の中で否定しながら、自分の机に歩いて行った。 「部長……」  すぐに、部下が寄って来た。 「なんだね?」  井戸は、立ったまま応対する。 「留守中に、東西製薬から、電話がありましてね……」 「なに、東西製薬?」  彼は、目を吊り上げた。  偶然とは云いながら、〈パンネ〉の佐渡課長から、その新しい強敵について、いろいろと訴えられてきた所だったからである。 「部長クラスを、一人寄越して呉れという連絡なんです」 「なるほど?」 「赤坂へ電話したんですが、もう、お出かけになったあとで……」 〈ああ、不吉な予感は、これだったんだな〉  と、彼は思った。 「二時までに来て呉れというので、仕方なく他へ廻しました」  部下の言葉の意味は、彼が上司である連絡第一部ではなく、ほかの第二部か、第三部に仕事を手渡した——ということである。井戸毅は、むッとした表情で、部下をみた。 「吉田君か、瀬木君は、いなかったのか?」  二人とも、彼のすぐ下で、次長のポストにある男である。 「はい。二人とも局へ行ってまして……」 「だったら、局へ連絡して、吉田君か瀬木君を行かせたら良かったじゃないか!」 「はあ。でも、専務に相談しましたら、第三部へ担当させろと……」 「仕方のない奴だな!」  井戸毅は、むっつり吐き捨てた。 「でも、東西製薬は、電報堂の扱いですし、どうせ大きな仕事じゃないでしょう」  したり顔で云う部下を、遂に彼は呶鳴りつけていた。 「バカッ! 東西製薬で、こんど新しい製品が発売されるんだ! 広告部長は宝田さんになったし、いろいろと情報をさぐって、動いていた矢先なのに……」 「ほ、本当ですか?」 「嘘は云わん。……大きな魚を、第三連絡部にやったなあ……」  もとはと云えば、彼が連絡もとらずに〈パンネ〉の佐渡課長を訪ねたのが、悪かったのである。しかし、部長の彼がいなくとも、どんな用件か知らないが、次長の誰かが、代理で行けば済むことだったのだ……。  井戸毅は、機転のきかぬ部下のとった処置が大いに不満であった。 「第三部長が帰って来たら、すぐ知らせたまえ!」  彼は、部下にそう命じたあと、徳力専務の部屋へ小走りに駈けて行った。  徳力は、所用でもない電話の、応対をしている所だった。多分、新橋か、赤坂あたりの芸者からの、誘いの電話であろう。徳力は、「じゃあ、またな……」と返事して、受話器をおいた。 「これ……ですか?」  井戸毅は、小指を示した。 「|莫迦《ばか》な……。くだらない女さ」  専務は苦笑しながら、机の上のシナ|胡桃《くるみ》をとって、鼻の脇にこすりつけた。脂をつけては、中風の予防に、日がな一日、掌の中で揉んでいるものだから、その落葉喬木の果実は、飴色に輝いている。 「専務……〈パンネ〉が、ようやくテレビに乗りだす肚らしいです」  彼は、ゆっくり云った。 「ほう。どこで?」 「東テレに、|唾《つば》をつけてます」 「くじっちゃァ寝るに、唾つけた、か! |猥褻《わいせつ》だな……」  徳力専務は、そんな冗談を云ったが、顔は笑っていなかった。  放送業界は省略語も好きだが、|駄洒落《だじやれ》も好きである。東洋テレビのチャンネルは、九チャンネルだった。それを、|く《ヽ》じっ|ちゃ《ヽヽ》ァ、|寝る《ヽヽ》という風に、猥褻に表現したのは、どこの誰だろうか。この方式で行くと、NHKの第二は、三チャンネルだから、〈|見ちゃ《ヽヽヽ》ァ|寝る《ヽヽ》〉ということになる……。  井戸毅は、さらに言葉をつづけた。 「東西製薬が、新しい生理用品を出すんです。パンネはそれに対抗するため、かなり宣伝費を使う予定です。もちろん、東西製薬の方も……」  そのとき、専務の机の電話が鳴った。     三  徳力は、電話をすぐに取り上げて、耳に軽く押し当てていたが、 「おい、きみだ……」  と、井戸毅に受話器を手渡した。  電話は、彼の部下からだった。第三連絡部長の谷が、戻って来たというのである。彼は電話を切ると、専務に向き直った。 「実は専務……東西製薬の仕事は、私に担当させて頂きたいんですが」 「ほう。どうしてだね?」  徳力は、またシナ胡桃をとって、鼻脂をこすりつけている。 「私が狙っていたんです。そのために、いろいろ下工作もしておりますし……」 「ふーん。それは知らなかった」 「宝田さんが広告部長になったのを機会に、電波だけでもクラウンに貰おうと、アプローチしてた所なんですよ。新製品の売出し計画もありますしね」 「そうだったのか……。だが、東西製薬には、谷君が出掛けている」 「知ってます。彼は、もう社に帰って来てます」 「しかし、悪い男を行かせたなあ。第二の堀井君なら、オーケイするだろうが……」  徳力専務は眉根を寄せて考え込んだ。  第三連絡部長の谷啓吉は、いわゆる外交から叩き上げた苦労人で、それだけに仕事に対する縄張り根性というものが強い人物だったのである。  特に、自分で開発した仕事に対しては、病的なほど執着を持つ男だった。 〈東西製薬〉の場合は、先方から電話して来たことではあり、谷啓吉自身が、開発した仕事ではない。だが、谷連絡部長の性格としては「私が行って引き受けて来たのだから……」という事実を|楯《たて》にとって、第三連絡部の仕事として扱いたい……と固執するに違いなかった。  徳力は、しばらくシナ胡桃を掌の中で、ガチャガチャと|弄《もてあそ》んでいたが、 「とにかく、谷君を呼んで、東西製薬の用件を聞いてみよう……」  と云った。  間もなく谷部長が、腰を低くしながら、専務室に入って来た。井戸とは、全く対照的な性格で、渋|団扇《うちわ》のような顔色をしている。年齢も、二十歳ぐらい上であった。  社内では、〈烏天狗〉という|渾名《あだな》で呼ばれていたが、井戸もこの谷部長のニック・ネームは、傑作の部類に属すると思っている。体格よりは、谷啓吉の性格を、ピタリと云い当てた渾名だからである。 「専務。行って参りました」  谷啓吉は、井戸を気にしながら云った。 「どうだったい? いま、井戸君から、東西製薬の新製品のことを、いろいろと聞いていた所なんだが」  徳力は、巧妙な云い廻し方をした。むろん、自分が眼をかけている、井戸連絡第一部長に対する配慮からである。 「は?」  谷は、|怯《おび》えたような瞳の色で、彼を|一瞥《いちべつ》している。井戸は微笑した。 「留守をしていて、申し訳ありません。東西製薬の件で、ちょっと〈パンネ〉に廻っていたもんですからね」  井戸は、頭を下げた。  谷は半信半疑めいた表情で、徳力と彼の顔を見較べている。 「どうだったね?」  徳力専務は、催促していた。 「はあ……」  谷啓吉は、渋団扇のような顔を、くしゃくしゃと歪めると、不服そうな声で報告しはじめる。 「東西製薬で、今度、新しい生理用品を出すんだそうです」 「それは知ってます。タンポン式の生理綿でしょう?」  井戸毅は、相手に、とどめを刺すように云っていた。  彼は、〈東西製薬〉だけは、他の連絡部に取られたくなかった。自分が狙っていたメーカーなのだ。|況《ま》して、〈東京エージェント〉の桂巴絵が、からんでいるとなると、意地でも他人には渡せない。 「そうです。それで東西製薬では、この製品のネーミングと、宣伝企画とを、広告代理店に求めて来たわけです」 「ネーミングと、宣伝プランを?」  徳力が、駭いたように叫んだ。 「そうなんです。ネーミングと、宣伝プランを一週間後に、提出しろと云うんです。そうして、採用した代理店に、その製品の広告の一切を委任するそうです……」 「ふむ、面白い!」  徳力は、胡桃をまたガチャガチャといわせはじめた。 「期間は……一週間ですか」  井戸の声は、思わず真剣になっている。 「東西製薬の若尾宣伝課長の話では、代理店十社に、このプラン競争の依頼をしたとか……」 「なるほどなァ。みんな狡い方法をとるようになって来た! プランを募集しといて、当選作品なし、なんて云うんじゃないかね?」  専務が、冷やかすように胡桃を鳴らしたとき、〈烏天狗〉は抗議する表情で答えた。 「いや、そんなインチキはしないそうです。応募プランは、各代理店とも三案まで。各社のプランは、選考日の前日に受け付けて、直ちに公開すると云ってます」 「えッ、各代理店から、三つのプランに限って受付けると云うんですか?」  井戸は、つい弾んだ声を出していた。 「その通りですよ、井戸さん……」  谷啓吉の言葉は、相変らず礼儀正しい。 「専務!」  彼は、徳力に乎びかけて云った。 「クラウンとしても、三つのプランを提出できるならば、連絡部で競争してみたら如何でしょう?」 「悪くないね。さっそく、そのように手配して呉れたまえ……」  徳力は、肩の重荷を下ろしたように、そんなことを命じて、井戸毅に目配せしたものである。 「……そんなわけで、連絡三部でネーミングと、宣伝プランの競争をすることになった。よろしく頼むよ」  井戸毅の瞳は、二人の次長の顔に、貼りついていた。 「しかし……東西製薬も、がめついですな。一社から、三つのプランの提出を求めるなんて……」  瀬木秀雄が、苦笑しながら云った。  クラブ〈唇〉には、珍しく客が少い。そうして、彼等の席には、人払いした関係で、ホステスは一人もついていなかった。 「一週間の勝負だ……。頼むよ」  井戸毅は、仕事に関しては秘密主義な方であったが、今夜は、わざと、こうした酒場を利用していた。暗い酒場の雰囲気が、なにか秘密めいた匂いに、相応しいと思ったからである。 「ネーミングか!」  吉田博信が、軽く舌打ちをした。 「まあ、仕事の話は、それだけだ……。今夜は、愉快に騒ごうじゃないか」  井戸毅は手をあげて、ホステス達に合図をした。 「ひどいわ、ひどいわ……」  ホステスの万紀が、ガラガラ声で甘ったれながら、三人の席へ小走りにやって来る。人払いしたことを、|怨《うら》んでいるのであった。 「ごめん、ごめん!」  彼は|微笑《わら》いながら、謝ってみせた。  待合あたりでは商談の済むまで、芸者を人払いしておく習慣がある。しかし、こうした銀座の、クラブ制の酒場で、人払いして用談するというのは、珍しいことだった。それも、井戸のような、酒場にとっては上得意の客なればこそ、出来ることである。 「目が廻るほど忙しい時は、女の子を沢山そばに引きつけておく癖に、暇なときは寄せつけないんだから……勝手な人!」  |姐《ねえ》さん格の万紀は、彼の隣に腰をおろして、素早く彼の膝を叩いた。 「あ、ま、の、じゃ、く!」 「セイム・トゥ・ユウ……」  井戸は、すかさず相手に応じてから、 「さあ、みんな売上げをあげて呉れよ」  と云った。 「いいの?」 「ああ。ただし、国産の酒にして呉れよな!」 「|吝《けち》ん坊!」 「いやなら、自前で飲むさ!」  瀬木も吉田もニヤニヤしていた。井戸の酒場遊びの巧みさは、定評がある。入るほどに陽気になる酒であった。だからと云って、片時も仕事を忘れている訳でもなかったが——。  ホステス達に、一通り飲み物が届いたところで、井戸は云った。 「おい。きみたち……テレビを見ているだろう?」  若い克美が、目をくりくりと動かしながら応じた。 「昼間は、ね」 「だったら、どんなコマーシャルが気に入ってる?」  ……こうした質問は、必ず反応があるものであった。酒場で働く女性たちは、ウィーク・デーは昼間だけしか、テレビを見られない。夜、テレビが見られないと云うことは、一種、損をしているような気持を与えるらしく、その反動でもなかろうが、昼間は|殆《ほとん》どがテレビに|齧《かじ》りついているのである。  だから酒場のホステス達は、よくテレビの番組を知っていたし、コマーシャル・ソングなども誰よりも早く憶えていた。  井戸の質問に対して、ホステス達は思い思いの意見を述べる。喜劇俳優が顔をだす、インスタント料理のコマーシャルの話が出たり、歌手として売り出している人物の、おどけた洋傘の広告の文句が飛び出したりした。  頃合を見はからって、井戸は云った。 「なあ、みんな。きみたち……なにか、テレビの企画を考えてみないか。こんなストーリーで、こんな俳優を使ったドラマなら見てみたいとか、こんなプランのクイズをやったら愉快だとかさ……」 「あら。私たちにプランを考えさせて、それをロハで使う気?」  万紀が、まぜっ返すように云ったとき、いつか彼が朝鮮料理をご馳走してやったことのある克美が、小さい声でいった。 「ねえ、部長さん……」 「なんだね?……」 「篝千代子さん……知ってるわね?」 「ああ、知ってる」 「あの人で、ドラマをやって呉れない?」  ——井戸毅は、正直な話、ドキンとした。それは彼が、かねてから胸で暖めていたアイデアだったからである。  彼は喰い入るように、克美をみつめて、低い声で訊ねた。 「きみ……それ、きみ自身のアイデアなのかね?」  西村克美は、黙って顎を胸に引きつけている。〈その通り……〉という、意思表示であった。井戸毅は、満足そうに頷いた。自分の企画が、そう突飛なものではないことを知ったからである。  でも彼は|貪婪《どんらん》にホステス達を眺め廻しながら云っていた。 「さあ……賞金は出すでえ。他に、プランはないかいな!」  その夜、井戸毅は、かなり|酩酊《めいてい》して、銀座五丁目のバー〈V〉に立ち寄った。多分、午後十一時を廻った頃であろう。  部下の二人は、三軒目か、四軒目の酒場で姿を消していた。  バー〈V〉に彼が立ち寄る気になったのは、部下に逃げられて、所在なかった所為でもあるが、その酒場に、東西製薬の宝田十一郎が、ときどき姿を見せるということを、聞いていたからである。  しかし、宝田は来ている様子もなかった。でも、覗いた以上、一杯の酒も注文せずには帰れない。 「ジン・トニックを呉れないか」  彼は、カウンターに坐りながら、|生《なま》|欠伸《あくび》をしていた。 「あら。こちら、お眠むらしいわね」  熱いお絞りを運んで来たホステスが、微笑いかけながら云った。  顔は知っているが、名前は覚えていない。背は高い方であった。顔の皮膚は、ザラついているが、化粧でうまくカバーされている。目鼻立ちは、はっきり整っていた。 「きみの名は?」 「真知子!」 「こら、本当の名を云え!」  井戸毅は、笑い声を上げた。 「どうか、聞かないで欲しいの」 「なぜだい?」 「名前をきいた途端に、みんな、お見合いの相手が逃げ出しちゃうの……」 「こいつ!」 「本当なのよ。だから、未だに独身で一人なの」 「なんて云う名?」 「酒井熊……」 「くま?」  ホステスは、鼻を鳴らした。 「嘘よ……。英子です。よろしく」  井戸毅は、なんとなく英子と名乗ったホステスに好感をもった。酒場で、初対面に近いお客に対して、こんな会話ができるのは、よほどのキャリアがなければ出来ない芸当である。 「宝田ちゃん……来るかい?」  彼は、バーテンに訊ねたのと、同じことを質問していた。 「ところが、来ないの」 「ずーっとかい?」 「いいえ。いつだったかな……私を、すっぽかしてからよ」 「ほう?」  彼は眼を輝かせた。 「ひどいのよ、宝田さんったら!」 「どうしてだい?」 「ある店で、待ち合わせしたの」 「ほう。やるもんだね、英子ちゃん」 「あたし……その気でいたのよ! 彼さえその積りならね……」 「よく判るような、判らない話だな」 「まあ、そんなことは、どうでもいいわ。〈嵯峨野〉へ来ると云って約束した癖に、なんの連絡もなしよ……」 「へーえ。嵯峨野へ、宝田ちゃんは行ってるのかい?」 「昔……とっても好きだったんですって。あそこのマダム……」 「ああ、嵯峨千恵子か!」  不意に彼の脳裏には、宝田十一郎が、かつて好きだったという、往年の大女優を、テレビでカム・バックさせたらどうだろう、というプランが浮かんだ。 〈ふむ! これは悪くないぞ! 宝田広告部長の、弱い線を攻撃する訳だ……〉  井戸毅は、その英子というホステスが、どうやら宝田十一郎に思召しがあることを嗅ぎとり、彼女と親しくしておくことも、悪くないと悟った。 〈やっぱり、この店へ来て、マイナスではなかった!〉  彼は、英子にブランデーを奨め、優しくこう云った。 「宝田さんが約束を破ったのなら、どうだろう……この僕に、その|償《つぐな》いをさせて呉れないかね?」  と——。 「あら、償いって?」 「さあ、なんだろう。とにかく、六本木あたりで、食事でも|奢《おご》ろうか、今夜……」 「本当?」 「嘘は云わない……」 「嬉しいわ。でも、一対一は嫌よ!」 「当り前だ。こっちだって、宝田さんの手前、ちょっと困る」  井戸毅は、この英子というホステスから、なにか仕事を展開させる意味で、良い情報が入手できるような予感がしていた。そうして彼の勘は、的中したのである。 「じゃあ、カンバンまで待ってて下さる? 井戸さん……」  英子は、ニコニコして云った。酔っているのか、足許が僅かに|覚束《おぼつか》ない。 「もちろんだよ……」  井戸毅は、もう一つ生欠伸をして、ブランデー・グラスを持ち上げた。|琥珀《こはく》色の、香りの強い液体。世間の人が見たら、彼を、よほど酒好きのように思うであろう。 〈だが、違うんだ……。みんな、仕事のためなんだ……〉  彼は、唇をグラスに触れながら、心に|呟《つぶや》きかけていた……。  白 い 咽 喉     一 「ああそこで停めて頂戴」  書類を急いで、大型封筒に納い込みながら、桂巴絵は慌てて云った。銀座尾張町の交叉点を、京橋に向かって渡った所である。  運転手の|蛭田《ひるた》は、ビックリしたように応じた。 「ここでは、駐車できないんですが……」 「知ってるわ。だから、時間をかけて、ゆっくり二、三回、昭和通りでも散歩して迎えに来て」 「散歩ですか?」  蛭田は、不服そうな|声音《こわね》である。彼女が、有料駐車場を利用することを、極端に嫌っているからであった。 「時間は……そうね、十五分ぐらい」 「わかりました」  不意に停車した彼女の乗用車を、|咎《とが》めるように背後のタクシーが、警笛を鳴らしはじめている。  巴絵は、額にうすく青筋を浮かせた。 「がっついてるわ」  自分で車のドアをあけ、巴絵は、ことさら貴婦人のように、ゆっくりした動作で、車を降りていた。彼女は、もう自分の車を見向きもせず、目の前にある真珠専門の宝石店に|這入《はい》って行く。  冷房の|利《き》いた車から、太陽の照りつける舗道へ出ると、流石に皮膚の毛穴が、一時に|膨《ふく》れてくるのがわかった。しかし、宝石店の自動ドアに導かれて入った店内は、軽井沢の朝夕のように涼しい。  彼女は、ためらわず、明るいショー・ケースの前に立って、店員に、 「十万円ぐらいの、首飾りを見せて下さいな……」  と声をかけた。  蝶ネクタイをした店員が、|慇懃《いんぎん》に一礼しながら、|反芻《はんすう》するように云った。 「ご予算は、十万円でございますね?」 「そう……」 「では、連のお好みは?」 「チョーカーの一連にして下さい」  店員は、敬意を払う目の色になった。一連というのは、一重の首飾りのことなのである。  同じサイズの真珠を並べた首飾りは、一般に値段が張るものであった。普通は、大きな玉を中心に、左右に次第に小さく真珠が並べられている。  大体十五インチ物で、真珠の玉は、八十個から百個ぐらいついていて、値段は、真珠の大きさ、色によっても異なるが、だいたい三万円前後であった。しかし、オール・サイズとなると、ぐッと値段はせり上ってくる。  桂巴絵は、四つばかり並べられた真珠の首飾りを、三十秒ぐらい見較べていて、 「これにするわ……」  と云っていた。  十二万円の正札がついている。店員はあまりにも無造作な、彼女の買い物ぶりに、流石にたじろいだが、微笑しながら|一揖《いちゆう》していた。 「贈り物なんだけど……自宅まで、届けて頂けるかしら?」 「都内でございますか?」 「もちろん……」  彼女は、バッグをあけて、メモ用紙をとりだすと、モンブランの万年筆で、住所氏名を走り書きしはじめた。  『中野区向台町××番地   宝田多津子さま』  ——それは〈東西製薬〉の、新任の広告部長の妻の名前である。 「あのね……、悪いけれど、正札を切りとってから、函の中に置き忘れたように、入れておいて下さるかしら?」  桂巴絵は、艶然と|微笑《わら》った。 「正札を、置き忘れたように?」 「ええ。プレゼントしても、値段のわからない人なのよ……。安物だと思われるのは、癪じゃない?」  店員は、苦笑しながら、一万円札を勘定する彼女の、白い指さばきの鮮やかさに見惚れたことである。 〈どうしても、攻め落してやるわ!〉  桂巴絵は、心にそう|呟《つぶや》きながら、腕時計を|一瞥《いちべつ》した。蛭田運転手には、十五分ぐらいと云ってあったが、買い物に費されたのは、五分たらずである。  彼女は領収書と、宝田の妻に配達するための送附伝票を貰い、その足で、隣にある高級専門店に行った。  三階までエレベーターで行き、各階を丹念に見物して、それから舗道に出る。約束の十五分が、そろそろ近づいていた。  桂巴絵が、専務取締役をしている〈東京エージェント〉は、虎の門のビルの中にあった。潜函工法とかで建設した、カーテンウォールの最新式のビルである。銀色のジュラルミンで包まれた、その建物は、新築ビルのふえた虎の門界隈でも、ちょっとばかり異彩を放っていた。 「会社へ戻られますか?」  運転手の蛭田は、時間潰しに苦労したような|口吻《くちぶり》である。 「そうね、パーティは四時からだし、少し余裕があるわね」  桂巴絵は、キングサイズの外国煙草をとりだして、朱い唇に|咥《くわ》える。いま、彼女の頭の中にあることは、ここ一週間のうちに、いかに宝田広告部長を、わが薬籠中の物にするか……ということだけである。 〈東京エージェント〉は、重役が女性だけの珍しい広告代理店だった。  いや、従業員も三分の二が、女性である。  この会社は、彼女が、もと華族の娘である北大路玲子と、代議士の一人娘でアメリカ帰りの森田|昌江《まさえ》の二人を口説いて、八年前に創立した会社だった。  民間テレビ局がスタートし、米国では、このため広告代理店の売上げが、ぐぐッと急膨脹したと、教えられたのが動機である。  ……はじめのうちは、華族と代議士の娘がはじめた、女性だけの広告代理店というので、局からもスポンサーからも面白がられ、思いがけないほど可愛がられた。しかし、二年あまり経つと、企画性がないという意味で敬遠されだしたのである。  むろん、赤字になった。こうなると、世間知らずの看板社長である北大路玲子や、逆に世間体を重んじる森田昌江は、弱腰になる。  それを強引に持ちこたえさせたのは、巴絵の体当り商法だった。食うに困らない二人と違って、巴絵には、この仕事は自分の貯金と未来とを賭けた、大|博奕《ばくち》だったからだ……。  彼女は、その女性の武器を、最大限に利用する戦術を、あるベテランの生命保険の女外交員から教わったのである。  不思議なもので、会社は忽ち立ち直った。仕事は増え、収人も増えた。しかし、依然として、二流代理店の枠からは、抜け出せなかった。それは、男性のように豊かな創造力、企画力がないからである。  でも、桂巴絵は、企画に苦労して、優秀な人材を高い給料で集めるより、もっと安易で有効な隠密作戦がある、と|自惚《うぬぼ》れていた。  ……案の定、そのパーティには、宝田十一郎も出席していた。  ある製薬会社の、創立六十周年記念の、祝賀パーティなのである。  会場はホテルの二階の大広間だった。流石に財界人の顔が多く、あとは関係会社、広告代理店などで、政治家の顔は、いたって少い。  桂巴絵は、宝田と立ち話をしている巨漢の背中を見ただけで、それが〈クラウン広告社〉の井戸毅だと判っていた。 〈あの男には、近づかない方がいいわ〉  彼女は、どうも彼だけは、苦手だった。むかし、彼女の云う女の武器で、井戸のアイデアを盗んだことなどは、すっかり忘れている。しかし、井戸毅には、本能的に警戒する気持が、なぜだか湧いてくるのであった。 「よお、女専務……」  背後から、かなり酔った声が聞えた。ふり返ると、〈フラワー化粧品〉の常務である|草鹿《くさか》という人物だった。 「あら、草鹿さん……」  巴絵は、愛想笑いをした。  草鹿常務のそばには、宣伝課員である酒井哲二が、連れ添っている。酒井は、照れたように目礼した。 「こんなパーティで、お目にかかれるのは、珍しいですわね……」  巴絵は、草鹿の方に向きながら、しかし瞳は若い宣伝課員の顔を見ていた。 「二人とも、社長の名代さ!」 「ああ……社長さんは、日本には居られないんでしたわね」  彼女は、酒井の手にしているグラスが、氷水になっているのを見ると、手を挙げてボーイを呼んだ。こうした小さなサービスが、蓄積され、やがて商売の面で、大きな働きをすることを、女性の本能で桂巴絵は知っている。 「正午は結婚披露宴。二時から大臣の就任祝賀パーティ」 「じゃァ、三つ目ですの?」  彼女は、草鹿常務の言葉を引き取って|駭《おどろ》いたような顔をしてみせる。 「そうなんだ……。これじゃァ躰が持たんよ……」  草鹿の酒好きは有名だった。常務という肩書はついているが、現在のフラワー化粧品では、労務担当で、いわば閑職である。巴絵は彼が、宣伝を担当して居たころに、何度かつきあったことがあった。しかし、根っからの酒ずきで、誘惑したことはない。  ……井戸毅の、|衝立《ついたて》のような背中が、移動するのが見えた。 「失礼します……。酒井さん、またね?」  巴絵は急いで、宝田十一郎の方に歩み寄った。宝田は、小さい声で、「やあ、どうも」と云った。  巴絵は挨拶もせず、相手にだけわかる小声で、早口にささやいた。 「あとで、食事しません?」  宝田の顔が、困ったようにわずかに|歪《ゆが》んだ。巴絵は、同じ言葉を繰り返す。 「先約が、できたんだけどな」  宝田十一郎は、グラスを左手に持ち替えている。 「断って!」 「だめだよ、それは……」 「お願い!」 「でも、本当に都合わるいんだ」 「断って!」  巴絵の口調には、二人だけの秘密をつくった男女の、押しつけがましい響きがある。宝田は、後悔めいた瞳の色で、|怯《おび》えるように彼女を見返している。 「私と、美味しいビフテキを、食べに行くの……。いいでしょう?」 「だめですな」  人の気配を感じて、東西製薬の広告部長は丁寧な口を利いた。 「では部長さん……」  桂巴絵は、近づいて来たのが、今日のパーティの主催者側の人間だと知ると、その方に目礼しながら、 「六本木でお目にかかります」  と、はきはきした言葉づかいになる。ついで彼女は、素早く宝田の耳に顔を近づけると、蓮ッ葉に云った。 「今日、奥さまに、ある品物を送っといたわよ!」  巴絵はそれだけ云うと、すーっと宝田の傍をはなれ、主催者である製薬会社の重役に祝辞を述べはじめた。 (奥さまに、ある品物——か? 我ながら気の利いた文句だわ〉  彼女は、笑いがこみ上げて来るのを、抑えることができなかった。宝田十一郎は、その巴絵の言葉の内容が判らないので、不安になり、先約をほったらかしても、いつもの落合う場所へ、やって来るに違いないのである。  巴絵は独身だったが宝田は妻子のある身であった。彼女との浮気が、妻にばれることがあったら、大変なのである……。  糊とアイロンの利いた、ベッドの白いシーツは、二人の汗のために、ぐっしょりと濡れ、よれよれになってしまっていた。  雄は、疲れ果てたように、ごろんと横になっている。その姿は、まるで|蛸《たこ》をぶち投げたみたいで、憐れであった。  その反対に、雌は、まだ物足りなさそうに、自分の指で、自分の乳房のマッサージをつづけている。 「……何時かな?」  宝田が、咽喉に|痰《たん》でも引っかかったみたいな、かすれ声で訊いた。 「まだ、早くってよ……」  巴絵は、甘ったるく答えた。仕事は、これからなのだった。  宝田は年齢に似合わず、精力的な体質らしかった。筋肉質だからであろうか。 「そうは行かないよ……」 「いやン……」  不意に彼女は、男にかじりついていた。 「さあ……帰り支度をしよう」 「いやよ……今夜は、泊るの」 「ええ?」 「巴絵……淋しいの」 「なにが?」 「わからない?」 「うむ……」  宝田は、疲れて生返事をしている。巴絵は彼にわからないように、不自然な眼の閉じ方を繰り返した。上|瞼《まぶた》の裏側が、表にめくり上がるような、奇妙な瞼の運動。三度、四度とそれを続けていると、どういう効果があるのか、てきめんに涙の玉が浮き上ってくるのである。 「宝田さん……」  涙がにじみ出てくると、声までが、思いつめたような、|泪《なみだ》ぐんだ調子に一変している。男は、その変化に驚いて、背筋を|強《こわ》ばらせた。 「あたし……悪い女ですわ」 「……悪い、女?」 「ええ。いけない女ですの」 「それ……どういう意味だろうね」 「私の評判……お聞きになってるでしょう」 「さあ。何も聞かないが……」 「うそ、うそ!」 「いや、本当だよ。どんな評判?」 「私を、中傷する噂なんです……」 「ほほう?」 「ひどい人が、いますの」  巴絵は、泪声で鼻をすすり上げる。女性の泪というものは、それが真実であれ、芝居であれ、一度、涙腺を刺戟すると、一定の量を出し尽すまでは、|零《こぼ》れるものであるらしい。 「ひどい人? どんな?」 「私が、仕事のために、いろんな男の人と、寝るんですって!」  宝田十一郎が小さく息を嚥み、背筋を再び硬ばらせるのが判った。 「でも、あたし……そんなこと、一度だってしたことは、ないんです!」 「………」 「あたしだって、|生娘《きむすめ》じゃありません。それに、男性だって、欲しい年齢ですわ……三十五ですもの……」 「………」 「あたし……自分の恋人以外と、こんなことしたことありません。それは……それだけは、信じて下さいますわね?」  キラキラと大粒の涙を|湛《たた》えた、大きな目で顔を覗きこまれた宝田は、かすかに狼狽しながら|吃《ども》り吃り答えた。 「そ、それは、信じるよ……」 「あたし宝田さんが好きなんです。正直に云って、夢中なの、もう……」 「おい、きみ!」 「いいえ、云わせて! いけないことかも、知れませんわ! 今日、あんな|我儘《わがまま》を云ったのも、貴方の顔をみたら、もう、どうしようもなくなったんです!」 「桂君……いや、桂さん!」 「自分では、いけないことだ……宝田さんには、奥さんも子供さんもいらっしゃる、と知っていても、どうにもならないの。会ってはならない人だと思ってるんです。でも、会うと、だめなの……」  宝田は、彼女の激してきた声音と、態度とに、すっかり混乱に陥っている。 「あなたのことばかり考えて、このごろ、よく人から|腑抜《ふぬ》けみたいだって、笑われるんです。母からも、躰の調子が、変なんじゃないか……なんて云われて……」  巴絵は、男の胸に自分の頬を、そっと横たえた。 「あたし……男に裏切られて以来、もう、二度と恋はすまい、男の人を愛するのは、止めようと誓って生きて来ました……でも、やっぱり、めぐり合わせですわね……初恋の人にそっくりな宝田さんに、お目にかかったとき、ドキンとしましたわ。そうして、この人にだけは近づかない方がいい、と自分で思ってたんです……。それなのに〈第一つばめ〉で偶然に……。ねえ、なぜあの夜、巴絵を誘惑なさったの? そのために、あたし……」  巴絵は、相手の口を封じるように|嗚咽《おえつ》の声を次第に大きくしながら、肩を|顫《ふる》わせた。     二 〈こ、この女は!〉  宝田十一郎は、桂巴絵の肩を抱きながら、闇の中に眼を据えた。|愕然《がくぜん》たる思いであった。  彼に云わせたら、誘惑したのは、巴絵の方なのである。いま、自分の胸に顔を埋めて嗚咽している彼女の方こそ、誘惑者だったのである。 〈しかし、この女は、俺が誘惑したと、平然と云い切っている!〉  被害者だと思い込んでいた宝田は、彼女の涙の演技によって、一瞬のうちに、加害者の立場にすり替えられたことになる。彼は唇を噛み、目を|瞠《みひら》いた。 〈こいつめ!〉  宝田は少からず腹を立てたが、肩を小刻みに顫わせ、しゃくり上げている彼女に向かって、 「嘘をつくな」  とか、 「誘惑したのは、君の方だ」  とは、流石に云いだせなかった。彼は、ためらいがちに、女の背中をかるく|敲《たた》いた。 「もう、泣かないで!」  でも、女は泣き止まない。  いや、かえって涙を新しく誘われたかのように、大仰に身を|捩《よじ》って、声を顫わせるのである。 「さ、涙を拭いて! 帰る支度をしよう」 「いやいや!」 「さあ、余り人を困らせないで」 「帰さない!」 「莫迦なことを、云うもんじゃァないよ、きみ……」  桂巴絵は、独身であろう。しかし宝田の方には、妻子もあり、家庭もあるのだ。それに彼は、出張旅行のほかに、無断で家をあけたことは、一度だってないのである。どんなに遅くなっても、家に帰っている。 〈なん時だろう?〉  宝田十一郎は、時間の方が気になってならなかった。 「帰っちゃ、いや!」 「しかし……それだけは、困るんだ」 「あたしを……嫌いなの?」 「そうじゃないが……」 「だったら、今夜は、巴絵の傍にいて!」 「無理を云うね、きみは……」 「宝田さん……」  女は不意に、顔を仰向けた。声が、真剣な響きに変っていた。 「な、なんだね?」  彼は、虚をつかれた感じで、思わず|狼狽《うろた》えた口調になる。 「あたしを、好き?」  桂巴絵は、瞳をキラキラ輝かせて、|唐突《とうとつ》に訊くのである。  ……こんな場合、嫌いだとか、好きでも嫌いでもないと、本当のことを云える男性が、この世の中に何人いるだろうか。宝田は、この巴絵の質問にあって、少からず当惑していた。  好きだ——と云えば、オーバーな表現になる。岐阜での一夜は、完全に彼女から挑発されて、その挙句の情事のようなものであった。いわば、排泄行為である。  そうして今夜は、巴絵の謎めいた言葉に心を|魅《ひ》かれて、仕方なくホテルにお供して来たのであった。愛とか、恋とかいった、感情はなに一つ混っていないのである。 「ねえ、宝田さん。あたしを、嫌い?」  ——この質問になら、応答できると宝田は思った。 「嫌いじゃないさ……」 「じゃァ、好きなのね?」 「と、いうことになるんだろうね」  用心深く彼は答えた。相手が、ただの女とは違うという気持が、彼の警戒心を強めている。下手をすると、直接、彼の仕事にも関連して来るのであった。 「あたし……貴方を好きです」 「………」 「愛してますの」 「………」 「奥さんには悪いけれど、とっても愛してますわ、あなた……」  宝田十一郎は、正直に云って、困惑以上のものを感じていた。パーティの席で、彼女に会ったとき、厭な予感がしたが、それが実現したという感じである。 「|贅沢《ぜいたく》は云いませんわ……週に二度……週に二回だけ、巴絵に下さい」 「と、いうと?」 「私のアパートに来て!」 「そ、それは、困る」 「あら、なぜですの?」 「会うのは、どこででも会えるじゃないか」  宝田は、眉を|顰《ひそ》めた。  彼の大学時代の友人で、非常な遊び人がいた。|瘠《や》せぎすで、病弱そうに見えるタイプなのだが、実は|頗《すこぶ》る精力絶倫で、たえず艶ダネを流している。  いつも違った若い女——それも水商売らしい女性を連れて歩いていたが、それでいてスキャンダルの種になったことがなかった。宝田は、この友人を羨ましく思い、〈浮気のコツ〉について訊いたことがある。  すると、その友人は即座にこう答えた。 「浮気のコツは、三つだね。一つは、二回以上その女と寝ないこと。次は、決して女のアパートに行かないこと。最後は、その都度お金で処理すること。この三つを守っていたら、家庭安全さ……」  宝田は、〈なるほど!〉と思った。友人の云う意味は、その禁を犯すと、浮気ではなく本気になってしまう、と云うことだろうと彼は解釈したのである。  早い話が、相手の女性のアパートで、三度以上の情交をもつと、それはもう他人同士とはいえない親密な仲となる。お互いに、ある感情が生れて来て、特別な関係が、二人のあいだには|醸《かも》しだされて来るのだ……。  宝田は、それを思いだし、巴絵のアパートに行くことを|拒《こば》んだのである。 〈この次に、この女の躰を抱いたら、それは三度目になる! しかも彼女は、金銭では処理できない、三十五歳の広告代理店の女専務だ……〉  彼は、強く眉を顰めながら、〈困ったことに、なりそうだぞ……〉と思った。  翌日——宝田が、社員食堂から戻って間もなく、彼に家から電話があった。妻の多津子である。 「ああ、なんだ?」  宝田は、いつもの癖で、横柄に云った。 「ねえ、あなた。桂さんって、ご存じ?」  妻の声は、妙に弾んでいる。宝田は、昨夜のホテルでの苦々しい体験を思い描き、いささかギョッとなりながら生返事をした。 「どこの人だ?」 「東京エージェント専務取締役という名刺がありますけれど」 「ああそれなら知ってる人だ。どうしたんだね?」 「いま、贈り物が届いたの」  宝田は、〈ああそうだった……〉と、安堵めいた気持になった。桂巴絵は、奥さんにアクセサリーを贈った、と云っていたのだ。彼は、そのことを思い|泛《うか》べ、さらに不機嫌な口調で云った。 「品物は、なんだね?」 「真珠よ。真珠のネックレスなの」 「ほう。高いのか」 「それがね、貴方……|外《はず》し忘れたのか、正札が入ってたの。幾らだと、お思いになって?」 「さあ、判らんな」  彼は、妻の浮き浮きした声音に、|反撥《はんぱつ》を覚えはじめていた。 「あててごらんなさいな……」 「バカ。いま勤務中だぞ」 「ご免なさい……ただ私、頂いていいのか、悪いのかをお聞きしたかったのよ……」 「だから、幾らかと云ってる」 「十二万円なの」 「なにィ……」 「十二万円よ……」  宝田十一郎は、受話器を右手に持ち替えながら、思わず息を詰めた。 〈十二万円の真珠の首飾り! いったい、どんな積りなのだ……〉  彼を愛している、と涙ながらに告白した女であった。ベッドの上で、|悶《もだ》え、のけぞりながら、「好きよ、好きよ……」と口走った女であった。その女性が、相手の男の妻に、一面識もない男の女房に、高価な贈り物をする——。これは、どんな意味なのだろう? 宝田ならずとも、誰しも、こんな経騒を味わったら、深く考え込んだに違いあるまい。 「ねえ……頂いて良いの?」 「………」 「それとも、返さなくちゃいけない?」 「まァ、いいだろう。用事は、それだけかね?」 「わあ、嬉しい! あなたから、よくお礼を云って下さる?」  妻の電話を切ったあと、宝田は、しばらく|憮然《ぶぜん》として考え込んだ。  部長室のドアがノックされ、彼の返事もきかずに|把手《とつて》が回転した。 「いいですか?」  顔を覗かせたのは、若尾である。 「ああ、いいとも」  宝田は、気を取り直して部下を見た。彼は|不図《ふと》、若尾課長が、桂巴絵とのスキャンダルを嗅ぎつけたら、どういうことになるだろうかと考え、なんとなく後めたい気持になった。 「部長……わかりましたよ」  若尾は、黒い顔をニコニコ綻ばせ、健康そうな|皓《しろ》い歯をみせた。 「わかったって、なにが?」  彼は、|怪訝《けげん》そうに云った。 「いやですね、部長……」  若尾は濃い髭を撫でて、呆れたような表情をつくる。 「なにか、頼んでたかな?」 「ほれ……この間の晩の……」 「この間の晩?」 「篝千代子と一緒の……」 「ああ、あれか!」  宝田は大きく顎を引いた。  クラブ〈唇〉で、東洋テレビの熊生たちと飲んでいたとき、映画女優の篝千代子と一緒に、姿を現した外人娘がいたのである。  彼は自分の直感で、その外人娘の清潔な美貌が、こんど売りだす新製品のイメージに、ぴったりだと思った。つまり、テレビのコマーシャル・ガールに使えないかと、彼は考えたのである。  若尾功は、彼のそうした意向を訊き、その外人娘が、なに者であるかを調べて、報告に来たという訳だった。 「どうだ……見込みは、ありそうかね?」  宝田は眉を挙げた。 「大ありですよ……」 「ほう、どんな家庭の娘さんだ?」 「それが……部長。彼女は、日本人なんですよ、れっきとした……」 「日本人?」 「ええ、混血なんです」 「なんだ……そうだったのか!」、 「メリー・保富と云いましてね……北海道生れの十八歳!」 「ほう、十八か。すると終戦後の、あれだな……」 「ええ。敗戦の落し子ですよ」 「それで、どこに住んでるんだ」 「それが……驚いたことに、篝千代子の家に同居してるんですよ」 「えッ、本当かい?」  宝田は目をまるくした。まさか天下の大スターの家で、あの混血娘が、一緒に暮しているとは思えなかったのである。 「本人よりも、篝千代子の方が喜びましてね……今日にでも会いたいと、申しました」  若尾功は、くしゃくしゃになった色物のハンカチをとりだすと、真ッ黒い顔を拭きはじめた。  盛り塩が、白く眼にしみて綺麗だった。宝田十一郎は、いつも、その料亭に来るたびに、門の入口の盛り塩をみて、〈この家は、毎年どれだけの塩を使うのだろう〉と思う。根が貧乏性なのかも知れなかった。  門から玄関までは、大きな敷石が敷きつめられて、両側に笹竹が青く繁っている。打ち水をした敷石が、いかにも涼し気であった。 「いらっしゃいませ……お連れ様は、お待ち兼ねでございます……」  顔馴染みの仲居が、玄関に立った彼と若尾を見るなり、愛想笑いをしながら挨拶した。 「ほう?」  宝田は、腕時計をみた。約束は午後六時だったから、ちょうど五分前ぐらいに到着するように、二人はこの赤坂の料亭に、ハイヤーを横づけにしたのである。  しかし、篝千代子と、メリー・保富の二女性は、彼等より早く来ていた模様なのである。  奥まった二階の一室が会見の場所にあてられていた。 「驚きましたな……」  若尾は、篝千代子と食事ができる、という喜びでいっぱいらしく、浮き浮きした声音で云うのだった。 「流石は、大スターだね。時間に遅れない」  宝田十一郎は、仲居に続きながらそう返事をしたが、心の中では、別なことを考えていた。別なこととは、もちろん、桂巴絵のことである。  彼は、妻への贈り物のお礼を兼ねて〈東京エージェント〉に電話を入れた。すると桂専務は、関西に旅行中だ……ということだったのである。  昨夜あれだけ狂態を示し、一緒に泊ることを主張していた女性が、今朝はケロリとして関西に飛んでいるというのだ。宝田は、なんだか彼女の、二重人格的な一面を、覗き見したような感じであった。 〈愛している、と云ったのは、言葉の綾かも知れない〉  彼は、座敷に|這入《はい》りながら、ふっとそう思った。桂巴絵の言葉を、そのまま真に受けるほど、宝田も純情ではなかったのである。 「はじめまして……」  彼は、正座して名刺をだした。篝千代子は、下座に席をとっている。 「東西製薬の部長をしております。本日は、わざわざご同席いただきまして……」  頭を下げると、女優はさらに深く頭を垂れて、 「篝千代子ですわ。メリーちゃんのことを、いろいろと御心配いただきましたそうで……」  と、歯切れのよい声で挨拶して来た。 「さあ、さ……どうぞ、あちらに……」  若尾課長が、床の間の方を指し示しても、なかなか彼女たちは、席を移そうとはしなかった。今日は、仕事のことで招かれているのだから、末席に坐るのが当然だというのである。 「しかし、今夜はお客さまですから、どうぞ、遠慮なさらず……」  押し問答の末、やっと篝千代子も折れて、 「じゃあ、メリーちやん。あちらに坐らせて頂きましょう……」  と、微笑しながら立ち上った。  つづいて混血のメリーも、彼女を見|倣《なら》って立ち上ったのだが、途端に、「きゃーッ!」と悲鳴をあげて、宝田の肩の上に倒れ込んだ。  |吃驚《びつくり》したのは、彼の方である。  柔かく、弾力性のある大きな女の躰が、突然のしかかって来たのだ。びっくりしない方が、どうかしている。 「す、すみません!」  メリー・保富は、真ッ赤になって、詫びを云った。  篝千代子が、急いで助け起したが、そのとき、どちらの女性のものかは判らないが、軽い|腋臭《わきが》の匂いが、宝田の鼻腔を|擽《くすぐ》った。 「し、しびれが、切れちゃって……」  メリーは、泣き出しそうな表情である。宝田は微笑した。 「この子……タタミの生活に、馴れてませんの」  千代子は、弁解するように口を添えた。メリー・保富は、緊張と、馴れない正座とで、すっかり足を|痺《しび》らせてしまったらしいのだ。  でも、この小さな失敗のお蔭で、座の空気はすっかり一変した。 「どうぞ、足を投げ出して坐って下さい」  若尾は、大声で笑っている。  間もなく料理が運ばれだした。宝田は、四人のグラスに、ビールが注ぎわけられるのを待って、改まった口調で云った。 「では、お忙しいところを、どうも……」  四人は、目の近くまでグラスを上げ、ゆっくりビールに口をつける。  宝田十一郎は、自分の向かい側に坐ったメリー・保富の、白い頸の色に見惚れた。そうして、その咽喉のあたりが、静かに上下するのを眺め、〈こんな女を、犯してみたいな〉と、密かに考えた——。     三 〈東西製薬〉の宝田十一郎が、篝千代子と会っているころ、〈東京エージェント〉の専務桂巴絵は、篝千代子のマネージャーである|榧原《かやはら》春江と会おうとしていた。ところは、新橋のレストランである。  彼女は今日から、関西へ旅行に出かけたことになっていた。むろん、これは多くの敵を|欺《あざむ》くための口実である。  宝田が電話して来たとき、彼女はちゃーんと会社にいたのだが、交換手には、すべて旅行中と云わせるように、命令してあったのだ……。それに宝田広告部長には、すぐ会わない方が、得策であった。  もし宝田から、彼の妻にプレゼントした、十二万円の真珠の首飾りを、返すと云われたら困るのである。  東西製薬が各広告代理店から、新しい生理用品のネーミングと、今後一年間の宣伝プランを求め、提出を締切るのは、あと四日後であった。そうして五日目の午後一時から、本社の会議室で、各社プランの読み上げが行われ、夕方までの秘密会議で、どの代理店のプランを採用するかが、決定される予定である。だから、桂巴絵としては、各社のプランが出揃った四日目の夜か、五日目の午前中早くに、宝田に会う必要があった。  つまり、彼女としては、できることなら四日目の夜に、すべてを賭けているのである。  従って、その夜まで、宝田に会わない方が得策だった……のである。  でも彼女は、〈東洋テレビ〉の熊生営業第一課長と飲んでいた夜、クラブ〈唇〉で同席していた宝田広告部長が、映画女優の篝千代子をみた途端、部下になにかを囁いていたのを知っていた。  彼女の鋭敏な鼓膜は、宝田が若尾課長にむかって、 「きみ、あの子を今度のCMに……」  と、性急な口調で呟いたのを、聞き逃していなかった……。  桂巴絵は、〈なるほど!〉と思っていた。  清純ムードで押しまくって来た、篝千代子を、新発売の生理用品の、イメージ広告に使う……。これはたしかに、ちょっとしたアイデアだと、云うべきだった。  彼女は、さっそく手を打ちにかかったのである。  スポンサーの広告部長が、〈あの女優を……〉と目星をつけた以上、必ず、なんらかの形で篝千代子に、誘いの声がかかるのは、わかっている。  彼女の調査によると、篝千代子と新興映画との専属契約は、近く切れる筈であった。  桂巴絵が、篝千代子のすべてをとり仕切っている、マネージャーの榧原春江に面会を申し込んだのは、契約切れをチャンスに、電波関係の出演契約を結んでおこう、という肚に他ならない。つまり、映画以外のラジオ・テレビの出演は、すべて〈東京エージェント〉を通じて行うことに、この際、とりきめておきたいのである。  そうしておけば、コマーシャル・タレントとしての交渉があったときも、スポンサーに対して、堂々とギャラを交渉できるし、逆に篝千代子を提供するということで、自分の代理店に有利な広告プランも、つくりだせるのであった。  ただ、桂巴絵にミスがあったとするならば、それは最近になって、篝千代子と榧原春江が、不仲になったという事実を知らなかったことであり、また〈東西製薬〉の広告部長の関心が篝千代子の新しいぺットであるメリー・保富に向けられていた、ということに気づかなかったことであろうか——。  芸能界の人間関係は、刻一刻と変化している。若いタレントは、自らを売り込むためには、あらゆるサービスを|吝《おし》まないし、一夜にして主演の座を、引きずり下ろされることだって、ないとは云えないのだ……。  でも、桂巴絵は、決して正攻法で榧原春江を攻めようとは、思っていなかった。  ちゃーんと二段構え、三段構えの秘策を、胸の底に秘めて、その新橋のレストランに姿を現したのだ……。  マネージャーの榧原春江が、そのレストランにやって来たのは、約束の時間から、一時間ちかくも遅れてからである。 「申し訳ありません。お千代が、行き先も云わずに外出しましたもんで……」  榧原春江は、弁解めいてそう云った。 「あら、構いませんわ……」  初対面の相手だから、巴絵は愛想よく微笑しながら、今夜の商談の相手を、鋭い眼で観察している。  予約されたのは、四人掛けの個室だった。防音装置がしてあって、会話が外に漏れぬように設備してあるのが自慢である。むろん、冷房装置もついている。 「勝手に注文しておきましたけど、よろしゅうございますか?」 「はい、結構ですわ」  巴絵は、暑さに向かっているのに、相手がハイカラーのシナ服を着ているのが、なんとなく気になった。 「あのう、それで篝さんの行方は、わかりまして?」 「ええ。ある製薬会社の重役さんに、夕食を招待されていたんですの……」 「製薬……会社……」  思わず、口ごもった。榧原春江は、さらりと受けて、自分の頸の右側だけに、ひどく気を使いながら、 「東西製薬ですの。宝田さんって方、ご存じですかしら?」  と云った。  桂巴絵は、背筋を凍らせた——。 〈しまった! 敵の方が、一歩早かったみたいだわ!〉  あたりに人がいなかったら、彼女はナプキンを床に叩きつけ、大きな舌打ちをしていたに違いない。  桂巴絵は、そのマネージャーの言葉を聞いた途端、ぐずぐずはして居れないぞ、という気持になった。  まさかと思った宝田十一郎が、彼女が、女優のマネージャーと会っているとき、直接その本人を口説いているらしいのだ……。本人とマネージャーと云えば、交渉する相手としては、本人の方が強いに決まっている。 〈どうしよう?〉  彼女の心の|焦《あせ》りは、どうやら敏感に、その表情にも浮き出たらしく、榧原春江を一瞬、戸惑ったような瞳の色にさせた。 「あのう……どうか、しまして?」 「いいえ、宝田さんをよく存じ上げていたものですから……」 「まあ、そうですか……。あら、お宅は、広告関係でしたわね!」  マネージャーは、笑い声をあげた。 「率直に、かつ事務的に、お話ししたいんですけれど……」  桂巴絵は、スープを|啜《すす》りながら、せっかちに切り出していた。 「はい。なんでございましょう」  榧原春江は、低く応じた。 「篝千代子さんの、お仕事に対するマネージメントの一切は、榧原さんが現在、やってらっしゃいますのね?」 「その通りですわ……」 「では、契約なども?」 「はい。私が、お千代に相談して、全部やっております」 「新興映画と契約中は、テレビ出演は、できないんですわね」 「ええ、そうなんです。テレビはおろか、コマーシャル写真も、禁じられてますの」 「そうでしたか……。ところで、たしか近く契約が切れる筈でしたわね」 「はい、九月に……」 「契約更新の意志は、おありなんですの」 「さあ……それは本人に、たしかめてみませんと……」 「なにか、お可哀想みたい……」 「え?」 「だって、いま|乾《ほ》されてらっしゃるような形で……」 「あら、乾されてるなんて云うのは、世間のデマですわ。本人の気に入る|脚本《ほん》が、みつからないんです」 「そうですか……」  桂巴絵は、ナプキンで唇の端を、かるくおさえると、改まった口調で云った。 「篝さんでしたら、もう、フリーになられても、困らないんじゃないかしら?」  榧原春江は、そのときだけ強く目を光らせたが、呟くように、 「そうですかしら……」  と答えた。 「私たち、広告代理店としては、篝千代子さんがフリーになることを、お祈りしてますわ……」 「有難うございます……」  桂巴絵は、手をのばして自分のバッグを引き寄せた。留め金を、ピチンとはずして、小切手帳と万年筆をとりだす。彼女は、女優のマネージャーの視線を意識しながら、大きな字で、  ——壱百万円也。  と記入した。  印鑑を捺し、その小切手をきり取ると、そっと榧原春江の前に差し出す。 「あのう……これは……」  明らかに、マネージャーは驚いている。 〈勝負だわ!〉  巴絵は、心の中で叫んだ。 「いずれ……このお金の意味は、契約を更新なさらなかったときに、説明いたしますわ。一応、篝千代子さんのマネージャーとしての貴女に、お預り頂きたいんです。あ、そうですわ。ほんの形式的なことなんですけれど、ここに預り証を用意してますので、サインと日付だけ、ご記入いただけまして?」  ためらいがちに、榧原春江が、万年筆を握ったとき、桂巴絵は、東西製薬の宝田広告部長の顔を思い泛べ、 〈これで……勝ったわ!〉  と、小さく胸を躍らせていた——。  会見の結果は、宝田十一郎にとっても、若尾功にとっても、ほぼ満足すべきものだったと云える。  メリー・保富は〈東西製薬〉の生理用品のCMタレントになることを承諾し、カメラ・テストを受けることを、自分の方から進んで申し出たのであった。  だが、宝田にとって嬉しかったのは、篝千代子のメリー・保富に対する、一種異常なまでの熱心さである。 「この子……とっても可哀想な身の上なんですもの。ですから私、メリーちゃんのためならば、出来るだけの援助をしてやりたいと、思っていますのよ……」  篝千代子は、その混血の十八歳の乙女が、テレビのCMタレントであれ、ファション・モデルであれ、とにかく世の中に出ることを、|庶幾《こいねが》っている模様であった。 「でも世間知らずの、ネンネエですから、よろしく、お引き廻しのほどを、お願い致しますわ、部長さん……」  新興映画の金看板である大女優が、それほどまでにメリー・保富に気を遣うのは、やはり自分の家に引き取って、なにくれとなく面倒をみているせいかも知れない。  食事のあと、宝田は、二人をお茶に誘っていた。  お茶でも……と云ったのは、言葉のアヤであって、本当は銀座の酒場に、二人を連れて行く積りであったのだ。  ところが篝千代子は、 「では、お言葉に甘えて、ナイトクラブにでも、お供させて頂きますわ……」  と云ったのだった。  宝田は、ダンスは不得手である。  タンゴとか、ワルツぐらいなら踊れないこともない。しかし、若い人達の間で流行しているツイストとか、サーフィンとかは、まるっきり駄目だった。でも、篝千代子が希望するのだから、厭とも云えない。  幸い遊び人の若尾課長が、マネージャーと懇意にしているナイトクラブが、すぐ近くにあるということだった。  赤坂界隈は、一方通行だの、右折禁止だのと、道路のいたる所に標識が立っている。  四人は、ハイヤーをぐるぐる乗り廻して、料亭から目と鼻の先の、そのクラブの建物にやっとの思いで到着していた。 「いらっしゃいませ!」  制服のボーイが数人迎えに出たが、たちまち一人は奥に伝令に走り、支配人が飛んで出て来た。 「これはこれは若尾さん、今夜は有名な方をお連れ頂きまして……」  支配人は、若尾功に一応の挨拶をすると、宝田には目もくれず、篝千代子とメリー・保富に|恭《うやうや》しく|一揖《いちゆう》している。 「篝さん……本日は誠に光栄でございます。私、支配人の青木と申します。こちらの、外国のお客さまは、ハリウッドのお方で?」  宝田は思わず失笑した。  しかし、篝篝千代子も、人が悪かった。 「ギリシャ女優のクレオパトラさん。よろしく、どうぞ……」 「え、ギリシャの女優さんで? どうも、ギリシャ語は弱いな……」  青木は苦笑しながら、ボーイに向かって今度は横柄に、 「一卓の貴賓席に、ご案内しろ! 粗相のないようにしろよ!」  と、大声で叫んだ。 〈ふむ! ギリシャ女優か!〉  宝田十一郎は、黒い髪をもち、容貌だけは外人のように彫りの深い顔立ちの、メリー・保富の背後につづきながら、彼女を、毎週、世界各国の女性に扮装させて、その国の言葉で、新製品のコマーシャルを云わせたら、どんなものだろうか、と考えた。  四人が、暗い客席に入って行くと、不意に楽団が演奏を止めた。  そうして、四人が席につくと、それが有名人を迎える合図になっているように、ドラムがひとしきり独奏をつづけ、タキシードを着た司会者が低いステージに現れた。 「みなさま。ただいま、新興映画の篝千代子さんと、ギリシャの女優さんがお客さまとして、当クラブにいらっしゃいました……」  七色のスポット・ライトが、宝田たちのテーブルに突如として、殺到して来た——。  |牝《め》 |狐《ぎつね》 の 罠     一  興信所からの中間報告書に、目を通し終えた井戸毅は、 〈畜生め! やっぱりだ……〉  と、舌打ちしていた。  大阪の代理店で、仕事をしてきたときの失敗に|鑑《かんが》み、彼は〈東西製薬〉から、各代理店に宣伝プランの提出が求められた日、興信所員を呼び、〈東京エージェント〉の専務・桂巴絵の、尾行調査を命じていたのである。  期間は、各代理店のプランが公開される、いわば選考日の前日までの一週間である。  だが、三日間の尾行記録によると、桂巴絵は、彼が予期していた以上の、活動ぶりを示していた。  第一日目は〈春秋テレビ局〉を訪ねたあと、銀座の宝石店でなにか贈り物をし、会社にもどって、午後四時からA製薬会社のパーティに出席している。  このパーティには、井戸自身も出席し、彼女が〈東西製薬〉の広告部長と、立ち話をしているのを目撃していた。それは、ほんの僅かな時間だったので、彼の方は安心していたのだが、これは|迂闊《うかつ》だった。  興信所の〈行動調査報告書〉によると、被調査人の桂巴絵の、パーティ以後の行動は次のようであった。 『一七時二〇分 〈ニュー赤坂ホテル〉より出て、タクシーにて六本木に向かう。  一七時三五分、六本木〈タムズ・レストラン〉に入る。間もなく中肉中背の紳士(推定年齢四十七、八歳)、とタクシーを拾い、虎の門方面に向かう。  一八時一〇分、田村町〈C飯店〉前にて下車。徒歩にて、ステーキ・ハウス〈そのみ〉に入る。  一九時四五分、|件《くだん》の紳士と同店より出でて、田村町交叉点に向かう。不意に、通りがかりのタクシーを呼び停め、乗車。空車を探すも、現場付近には見当らず、タクシーの番号〈5ち9019〉だけを確認し、追尾を断念す』  問題は、四十七、八歳の、中肉中背の紳士であった。東西製薬の宝田十一郎は、背丈といい、年齢といい、ピッタリなのである。その夜——桂巴絵が、自宅に戻って来たのは午前一時すぎであった。  つまり、件の紳士と、夜八時ごろから、午前一時ごろまで、時を過していたものと、考えられるのである。  二日目は夕方まで虎の門の会社にいて、夕方から新橋のレストランに出掛けていた。  面会者は、同年配らしい女性であるが、背恰好から考えると、華族の娘である〈東京エージェント〉の北大路社長のようでもあるが、それはよく判らない。  また、毎日顔をつきあわせている二人が、なにもこと改まって、別々に新橋のレストランで落合う必要もないであろう。だが、二人はこのあと、なにごともなかったように、レストランの前で、右と左に別れ、桂巴絵も自宅に帰っていた。  三日目は、朝早くから竜ヶ崎のゴルフ場に出掛けていた。彼女が組んだ相手は、〈フラワー化粧品〉の草鹿常務と、N銀行の貸付部長であった。他のメンバーはわからない。  ゴルフを終えて、東京に戻って来たのが、午後四時ごろである。  いったん自宅に帰った桂巴絵は、午後六時に和服姿で外出し、そのまま自家用車を〈ニュー赤坂ホテル〉に走らせている。車を帰して、午後十時ごろ、背の高い、縁なし眼鏡の男と出て来て、その人物にセダン型の外車で、自宅まで送られていた。  行動調査報告書の備考欄には、「該当の外車のナンバーによれば、所有者は大田区調布嶺町に住む、東西製薬開発部長・加倉井紀彦(四二)と判明す」と記載されている。  井戸毅は、加倉井紀彦が、社長葛原耕平の一人娘を|娶《めと》り、将来、社長のポストに就任するだろうと、予定されていることを知っている。また今度の、新生理用品の開発には、もっとも加倉井が熱心だったことも、噂に聞いていたのだ……。 〈あの牝狐め……。加倉井に食い込んでやがったのか!〉  井戸毅は、|歯軋《はぎし》りしたいような、|苛立《いらだ》たしい気持であった。  第一連絡部の部屋のなかを、歩き廻っていた井戸毅は、ふと二人の次長の姿に目をとめると、 「おい、瀬木君と吉田君!」  と、呼んだ。  先刻から、彼の様子に気づいていた二人は、待っていました、というように立ち上っている。瀬木秀雄も、吉田博信も勘は良い方であった。 「なんです、部長?」  井戸は、顎をしゃくった。〈ちょっと、来て呉れ〉という意味である。  彼が行くところは、この場合、専用応接室しかなかった。社内での密談は、たいてい、この応接室か、あいている重役室を利用している。 「例の、ネーミングは、どうなってる?」  井戸毅は、二人の次長に向かって、かなり|険《けわ》しい顔つきで訊いた。 「まァ、まァと云うところです」  瀬木次長は、そんなことは、連絡部の責任ではない、とでも云いたげな表情だった。第一連絡部の専属のコピーライター達がいて、五日間の期限つきで、東西製薬の試作品をひねくり廻している筈である。 「谷部長の方は、どうだ?」 「あまり気の利いたネーミングもできない様子です」 「そうか。実は、ちょっと気懸りなことができて来た……」  井戸毅は、桂巴絵のことを語りながら、上衣をぬいで、ワイシャツの袖をたくし上げる。太い腕が、その下から現われていた。 「……すると部長は、以前にも〈東京エージェント〉の女専務に……」  吉田次長が、掌の垢を|縒《よ》り出すような|仕種《しぐさ》をしながら、低く声をひそめた。 「そうなんだ……。この報告書をみると、奴さん、また策謀している!」 「各社のプランが出揃ったところで、スポンサー側の担当者に、各社の企画書を見せて貰う……という筋書ですな」 「この間の時は、ね」  井戸毅は、鼻に|皺《しわ》を寄せながら、懐中から|櫛《くし》をとりだして、若白髪のある|小鬢《こびん》のあたりを撫でつけた。 「敵はどうやら、加倉井開発部長と、宝田広告部長に喰い込んでいる!」  瀬木は、ハイライトを|咥《くわ》え、遠くでも眺めるような目つきになった。 「とにかくポイントには、体を張る女だ……。その点だけは、目が肥えている」  井戸が口惜しそうに云うと、瀬木は、咥え煙草のまま、 「しかし部長……。社運をかけた新製品の発売なんでしょう?〈東京エージェント〉と〈クラウン広告社〉とでは、規模から云って、問題にならないと思うんですが」  と云った。 「いいかい? これが電報堂と、クラウンと彼女の会社の三社ならば、誰だって危ぶむだろうよ……」 「ははあ……」 「今度は、対象が十社だ。東京エージェントよりも、規模の小さい代理店も混っている」 「そう云えば、そうですね」 「東西製薬は、従来、電報堂にだけ依存して来た。それが、宝田部長になってから、十社の競争という形になった……」 「ふーむ。すると新しく特定の一社に、広告を|委《ゆだ》ねるための下工作とも、考えられないことはありませんな」  吉田次長が足を組み直した。 「その通りだよ、吉田君。向こうは、東西製薬に強いコネをつけている。もしくはつけつつあると考えねばならん……」 「ははあ……」 「しかし、企画で争い、公正を期すると言明した以上、これは表面的には、あくまで企画の勝負だ……」  井戸は、また鼻に皺を寄せた。 「だったら部長……東西製薬に申し入れて、十代理店とも、立ち会いの上で企画を提出、その場で公開するように、して貰ったらどうでしょう?」  瀬木は、考え考え云った。 「だが、云いだしっぺの〈クラウン〉は恨まれるぞ?」 「誰にです?」 「わかってるじゃないか! 加倉井か、宝田の二重役にだよ……」 「なるほど……」 「私の勘では、桂巴絵が勝負をするのは、選考日の直前だ……」 「締切りが前日の午後三時ですから、どうなりますかな?」 「翌日、午前十一時に公開。ただちに企画決定会議に入って、午後三時に正式決定を発表することになっている」 「すると敵には……約二十時間の余裕があるわけですな」 「という訳だ……」  彼の脳裡には、金庫に納めた各社の企画書を、こっそり持ちだす重役の姿が、海底にゆらぐ藻のように浮かび上っている。そうしてホテルなどの一室で、それを夢中で|貪《むさぼ》り読んでいる、桂巴絵の姿も——。 〈こんどは、その手は喰わない!〉  ——そう思うものの、問題は、スポンサー次第であった。  たとえクラウン広告社が、ずば抜けて優秀なプランを提出しても、社長の女婿である加倉井紀彦あたりが、 「感心しないと思うが……」  と駄々を|捏《こ》ねれば、その折角の名企画も、おシャカになるのであった。  一番いいのは、競争プランを公開する午前十一時まで、銀行の金庫あたりに保管して貰うことだが、これを進言すれば、東西製薬の誰かから、クラウンは反感を買ってしまう。しかし、黙っていたら、一夜のうちに企画は盗まれてしまう危険性は大きい。 「どうしたものかな?」  井戸毅は、二人の部下の顔を、交互にみつめた。 「要するに、各社の企画書が、提出されてから盗み読まれなければ、いいわけですな」  瀬木次長が、なにか名案を思いついたようにそう云った。 「その通りだよ、瀬木君……」 「だったら、各社に電話して、鍵のかかる函か何かに企画書を入れて提出し、公開のとき立ち会いで鍵をあける……ということにしたらどうでしょう?」 「ふむ。それも一案だが……各社とも、足並みを揃えて呉れるかな?」  井戸毅は、また櫛をとりだしている。 「そんなことより、選考日の前日から、桂専務を尾行させて、怪しい素振りがあったときには、公開に先立って、追及すればいいと思うんですが……」  吉田博信は、こともなげにそう云った。井戸毅は、低く唸った。  広告業界は、顔と顔の世界から、いまやアイデアの世界に移行しつつある。つまり、企画がすべてを決定する、ということを、スポンサー達も反省しはじめている時期なのであった。  その意味で、クラウン広告社には、若手のすぐれた人材が集っていた。だから、企画の点では、決して他社に負けない自信はある。  でも、現段階では、まだ浪花節の殻を残しているから、人為的な特殊関係——たとえば金銭や肉体的な——によって、左右されることを、矢張り計算に入れておくべきなのであった。  ……吉田次長の言葉を聞いたとき、井戸毅の頭に|閃《ひらめ》いたのは、桂巴絵を、二つの興信所を使って、あと四日間、徹底的に追い詰めることである。  興信所を二つ使用するのは、一社だけでは|信憑性《しんぴようせい》がうすいからであった。つまり、二社とも同じ報告が来れば、その重なった部分だけは、事実だとして主張できるわけである。 〈もう一人の男が、宝田部長か、否かを早急に知る必要がある!〉  彼は、そう思った。  もしも、桂巴絵と肉体関係をもっているのが、加倉井開発部長だけだとしたら、その事実を、宝田十一郎にこっそり教えることによって、加倉井を牽制できる。  また、二人とも関係があるとしたら、両方にその事実を教えて、お互いに憎悪の焔を燃え立たせても、損はないのであった。要は、桂巴絵の〈東京エージェント〉に対して、東西製薬の重役である二人が、悪感情をもって呉れれば良いのである……。 〈ふむ! 悪くない!〉  井戸毅は、にやりとしながら、瀬木と吉田の二人に云った。 「ポイントは、桂専務だよ。あの女狐の、不明朗な動きだけを、封じればいい」 「と云って、適当なプランがありますか」 「うん。いやらしい手段だが、こんな彼女の隠密行動がわかっている以上、こちらとしても対抗せざるを得ないだろうよ」 「どうするんです?」 「選考日の前日、この行動調査報告書をコピーにとって、加倉井部長と宝田部長に送りつけるんだ……」 「ははあ……」  意味が判らないのか、瀬木次長は|曖昧《あいまい》に|相鎚《あいづち》を打って、腕を|拱《こまね》いている。 「いいかね? 誰から送って来たか、わからない処がミソだよ……」 「さぞかし、女狐と交渉のあった男なら、慌てるでしょうな」 「自分たちが尾行されていたという、その事実だけで、普通の人間なら震え上る」 「でしょうね。ウス気味わるいもんでしょうから……」 「先ず、調査を依頼した人間が、誰だかわからない。ワイフかも知れないし、会社の中の人間かも知れない……」  井戸毅は、満足そうに云った。 「また、調査の目的だって、報告書をもらった本人にはわからないだろう?」 「しかし、桂巴絵を洗っていることだけはわかるでしょう?」  吉田博信は、煙草を|揉《も》み消して、新しく一本咥えた。 「そいつは、判ったって良い。本人たちを疑心暗鬼に駈り立てるのが、心理的な効果がある」  不意に、瀬木秀雄が喰いつくように、井戸にいった。 「だったら、女の方に、このレポートを送っておいた方が、効果的じゃアないでしょうかね?」  井戸毅は、しばらく考えていたが、貧乏ゆすりをしながら答えた。 「いや、無駄だね。あの女狐めは、こんな報告書をもらったって、驚くようなタマではない。逆に、誰かが中傷している……などと持ちかけて、二人の男ぐらい手玉にとるような豪傑だ……」 「そんなものですかね」  瀬木次長が、感心したように云ったとき、応接室のドアがあいて、女の子が顔をのぞかせた。 「部長さん。ちょっと……」  女の子は、いつになく興奮した面持ちである。 「なんだい?」  井戸毅は、微笑しながら云った。 「あのう……お客さまですけれど」 「お客さま? どなた?」 「それが……隈部亮二さんなんです!」  彼は、女の子がいつになく上気して、声を詰まらせている意味が、わかったと思った。映画スターに憧れるのは、若い女性の共通した心理なのである。  しかし彼には、なぜ隈部が不意に、自分を訪ねて来たのか、さっぱり意味がわからなかった。  クラブ〈唇〉で、ときどき姿を見かけ、名刺を交換したことはあるが、親しい仲などでは決してない。 「おい……なにか、聞いているか?」  井戸は、女の子に、お客を重役室に案内するように、と命じたあと、二人の部下に不審そうに訊いていた。 「さあ……知りませんが」 「なんの、用事だろう?」  瀬木も吉田も、狐につままれたような顔つきをしている。  井戸毅は、いつか隈部が、クラブ〈唇〉で篝千代子とおなじボックスに坐り、親しそうに話していた情景を思い描き、〈まさか?〉と、心の中で呟いた。その瞬間、桂巴絵のことは忘れていた。     二  井戸毅が隈部亮二について知っていることといえば、彼が〈亜細亜キネマ〉の専属スターであり、そろそろ五十歳に手が届こうとしていることと、それに夜の酒場で、彼が〈マダム・キラー〉であるということ位のものである。  人間の顔には、いろいろあるが、隈部亮二は|老《ふ》けないタイプであった。いつも若々しい服装をしている|所為《せい》かも知れないが、スクリーンの上でも、実物でも、全く四十六歳という年齢を感じさせない。声も、若やいだ張りのある声であった。  だが、たしかに美男ではあるが、隈部亮二の欠陥は、芸域の狭いことである。いつも善良な、お坊ちゃんタイプの紳士しかできない。年齢から云うと、そろそろ老け役を手がけても良い筈なのだが、どうやら隈部亮二は、一生涯、主役の美男スターを演じていたい様子であった。少くとも、局外者には、そうとしか思えない。  それに井戸毅が気に喰わないのは、美男子を鼻にかけて、酒場のマダムたちと彼が浮気をすることであった。  考えようによると、これは遊びとしては、上手な方法である。ホステスと浮気すれば噂を立てられた上に、いろいろと面倒なことが起きる。  だが、曲りなりにも、一軒の店のマダムともなると、パトロンもいることだし、他の客の手前、決して自分の口から浮気の事実を、他人に公表することはない。あくまでも、秘密を守ろうとするのであった。  その上、汚い臆測だが、たとえ勘定が溜ったとしても、肉体関係ができている手前、あまりやかましく催促されずに済むのである。  井戸毅には、酒場マダム・キラーである隈部亮二が、そうした打算を働かせて、他の美人ホステスには眼もくれず、マダムとばかり親しくしているように思えてならなかった。  ……だが、その隈部が、とつぜん〈クラウン広告社〉に、しかも彼を名指しで面会を求めて来たというのだから、彼が首をひねったのも無理はない。 〈なにしに来たのだろう?〉  彼が、ワイシャツの純金のカフス|釦《ぼたん》をとめながら、|怪訝《けげん》そうな表情をしていると、次長の瀬木が不意に、 「隈部さんと部長とは、大学が一緒じゃなかったですか?」  と訊いた。 「大学?」 「よくあるじゃないですか……大学の登山隊だの、探検隊だのの寄附金|募《つの》りが……」 「ああ、なんだ。そのことか!」 「違いますか?」 「さあ……それは判らない。しかし、隈部本人が来るとなると、こりゃァ寄附金でも、一口十万円の方だぞ……」  井戸毅は上衣に腕を入れ、一瞬、厳しい眼の色になって云った。 「なにはともあれ、〈東京エージェント〉の牽制方法を、よく考えておいて呉れ。わかったな。なにがなんでも、〈東西製薬〉だけは、うちが取りたい……」 「……本当ですな」 「なァに、いけますよ!」  二人の次長は、それぞれの性格を示す返事をしていた。瀬本次長は、戦後アメリカに留学して、広告学の勉強をして来た新しがり屋で、秀才タイプである。吉田次長の方は、猪突猛進型の熱血漢タイプで、スポンサーに食いついたら離れないという、意地っぱりでもあった。  重役室に行くと、珍しくダーク・スーツを着た隈部亮二が、端然と背中をのばして、煙草をくゆらしている所である。テーブルには、紅茶が出されていた。 「第一連絡部の井戸でございます」  彼は、声をかけた。 「やあ……、隈部です」  映画俳優は、眉をぐいと吊り上げながら、自分から微笑みかけて来ている。 「ときどき、お顔はクラブ〈唇〉あたりで、お目にかからせて頂いてます」  井戸毅がそう云うと、隈部は軽く頷いた。 「実はそのクラブ〈唇〉のマダムから、井戸さんのことを伺いましてね……」 「ほう?」  井戸毅は、心の中で、〈なァんだ……〉と思った。酒場のマダムから、彼の噂をきいて訪ねて来るようでは、|碌《ろく》な用事ではない、と|看《み》て取ったからである。 「どうせ、悪口でしょう」  井戸は、名刺を|納《しま》いながら、ソファーに尻をやんわりと落した。 「いや、井戸さんは、ホステスにもてるんですねえ。驚きましたよ……」  隈部は、低姿勢である。 「いえ、いえ。隈部さんこそ!」  彼は、|揶揄《やゆ》するように、相手の言葉を受け止め、|俄《にわ》かに生真面目な表情にもどった。 「ところで、御用件は?」 「実はこの度、亜細亜キネマでは、私たち専属契約者のテレビ出演を、大幅に認めることに内定しましてね」 「ははあ」 「私は、かねてから、必ず視聴率の高いテレビの帯ドラを、制作できる……という信念を持っていたんです」  隈部の口調は、わずかに熱を帯びはじめている。 「なるほど、ね」 「その視聴率の高いドラマを、どうして作りだすかは、一先ず|措《お》いて、問題はスポンサーです」 「視聴率の高い番組だったら、スポンサーだって、飛びつきますよ、隈部さん」  彼は、皮肉を云った。井戸には、もう隈部亮二が、自分を訪ねて来た用件が、はっきり読み取れていたのであった。 「井戸さん……私はね、テレビ・ドラマを当てさせようと思ったら、少くとも一時間番組で、しかもスタジオではなくフィルム物で、最低、半年から一年続くものでないと、駄目だと思っているんです」 「半年から一年も?」 「そうです。NHKを御覧なさい。あまり大した番組は、ないじゃァないですか。にも|拘《かかわ》らず、視聴率が高いのは、レギュラー・スターを使って一年も二年も続けているからですよ、違いますか?」 「それは、その通りです。しかし、民放のスポンサーは気が短いですからな。視聴率があがらないと、さっさと下りてしまう……」 「そうらしいですね。しかし、それでは困るんだ……。私は、少くとも、半年は続けて貰いたいと思ってます」 「さあ……どうですかな。そんなスポンサーが、いるか、どうか」 「ですから、お願いに来たんですよ。井戸さんは、かなり強力な関西系のスポンサーを、一手に持っていらっしゃるとか……」 「クラブ〈唇〉のマダムが、そんなことを云ってましたか」 「いや……他からも耳にしました」  隈部亮二は、そのときだけ、僅かにたじろいだ表情になった。 「それで、具体的には、どうやって視聴率の高いドラマを作るんです?」  彼は、煙草を吸いつける。靴の先が、汚れているのに気づいた。  井戸は、ズボンのポケットから、チリ紙をとりだすと、神経質にその靴の先を拭いはじめる。 「具体的に云うとですね……先ず過去五カ年位のあいだに、当ったテレビ・ドラマの要素を、徹底的に研究するんです。わかりますか?」 「徹底的に、といいますと?」 「ドラマにだって、いろいろあります。メロもあれば、スリラー、活劇もの、時代もの、いま流行の忍術もの……」 「それは判ります。その系統ごとに、調べなくては、なりませんね?」 「ええ、勿論。だから系統別に、当ったドラマの、当った要素……つまり視聴率をたかめたエキスを抽出するんです」 「ははあ……」 「むろん、時代的な流れというか、背景も無視できませんがね」 「なるほど……」 「こうして、当ったドラマを分析し、エキスを抽出する一方、かなり広範囲に、視聴者から、どんなドラマを望むか、というアンケートを募集するんです……」 「大衆の声を聞くわけですな」 「ええ。いわばマーケッティング・リサーチですな。私はテレビ局側には、こうした大衆の希望というか、関心を探ろうとする努力が、欠けているようにも思いますよ」  思いがけず、隈部亮二は雄弁であった。しかもインテリだけに、なかなか|辛辣《しんらつ》なことを云ったり、|穿《うが》った意見を述べたりする。 〈ふむ! 視聴者参加の大河ドラマか!〉  井戸毅は、少しずつ心を動かされはじめていた。 「この両面作戦によって、ドラマの性格づけ、方向づけが決定しますとね……三人ぐらい優秀なシナリオ・ライターと契約して、三人に競作させるわけです」 「シナリオを競作?」 「はい。その中で、一番できの良い脚本を、毎回、採用します」 「残りの二本は、捨てるんですか?」 「とんでもない。使えそうな良いシーンだの、アイデアを織り込んで、再び決定稿を執筆させるんですよ!」 「ふーむ!」  井戸毅は、低く唸った。  なるほど、隈部の云うような方式をとったら、必ず視聴率の高い番組が、できることは目に見えている。しかし、それでは物凄く金を食うのであった。  第一、それだけの制作費、準備費を、ポンと支払って呉れるスポンサーが、いるものか、どうか——。 「隈部さん……」  彼は、考え考え云った。 「お話は、いちいち|尤《もっと》もだと思うんですが、実現性は、かなり望み薄ですね。隈部さんが私をお訪ね下さったのは、私に、そんな気前のよいスポンサーを、捜して呉れと云う意味だと思うのですが……」 「その通りです。井戸さん……貴方は、敏腕家だと聞いている。一つ、侠気をだして貰えませんか!」 「ご存じのように、代理店というのは、スポンサーから手数料を頂いて、商売している弱い立場でしてね。スポンサーの口説き落しには成功しても、予想通り当らなかったら、それこそ責任問題で……」 「私と、篝千代子が、共演してもですか?」  喰いつくように、隈部は云った。その表情には、小憎らしい位の、自信が溢れている。井戸毅は、たじろいだ。 「あのう……今、なんと|仰有《おつしや》いましたか?」  彼は訊き返していた。  四十六歳の美男スターは、満足そうに微笑して、ゆっくり同じ言葉を繰り返した。 「僕と、篝千代子さんが、共演しても、そのドラマは当らないだろうか、と申し上げたんですよ」 「篝千代子というと、新興映画の?」 「もちろんです。僕は、彼女と親しい仲ですし、この間から、いろいろ二人で相談している所なんですよ……」  隈部亮二は、目を細めた。すると、目尻に細かい皺が、|縮緬《ちりめん》のお召のように寄って来て、やはり年齢を感じさせた。 〈ふーむ! 知らなかった! みんなが、篝千代子をマークしている! これはボヤボヤして居れんぞ……〉  井戸毅は、心の中では、そうした小さな|焦《あせ》りを覚えながらも、表情には出さず、かえって冷たい口調で、ボソリと云った。 「篝千代子……。あの人も、随分と老けましたねえ……」  客が帰ったあと、井戸毅は、女の子にタレント年鑑を持って来させ、写真名簿の欄をひらいて、篝千代子の自宅の住所、電話ナンバーなどを調べた。 〈東西製薬〉の新しい生理用品の、宣伝プラン作成にあたって、たえず井戸毅の頭の中にあったのは、篝千代子の日本的な、清楚な笑顔である。  たとえば篝千代子が、テレビの画面に出て、 「私も、使っておりますの」  と、一声しゃべって呉れただけで、この生理用品に対する女性たちの関心度は、ぐッと違ってくると思うのだ。  その場合、あまり製品を図示したり、〈生理日に〉などというタイトルを、使わない方がいい。あくまで製品のネームだけを、印象づけるようにする。  つまり篝千代子という、清楚な顔立ちと、生理用品のネームとを、視聴者の頭の片隅に連結させ、つづいて、〈なんだろう?〉と疑問を抱かせるに、とどめておく。  そのうち、薬局の店頭あたりで、その製品の名前や、パンフレットを見かけ、つい財布のヒモを解くようになれば、成功なのである。篝千代子は、現在、|乾《ほ》されているとはいえ、日本一の美女であり、大スターであることには、変りはないのだ……。 〈彼女を、スポット広告に使い……一方では東西製薬提供のドラマに主演させる……。これは、悪くないアイデアだぞ……〉  井戸毅は、重役室の受話器をとって、世田谷区成城町の、映画女優の家の電話番号を、交換手に告げた。すぐ電話は|繋《つな》がった。 「もし、もし。篝さんのお宅でいらっしゃいますか?」  彼は云った。 「はい。左様でございます」  応対に出たのは、女中らしかった。 「こちらはクラウン広告社の井戸と申しますが、篝さんがいらっしゃいましたら、お目にかからせて頂きたいんですが……」 「あのう、先程、お出掛けになりましたけれど」 「何時に、お帰りでございましょう?」 「さあ……ちょっとお待ち下さいませ」  女中が引っこみ、しばらく待たされたが、やはり女の声で電話の主は代った。 「私……マネージャーの榧原でございます」  相手は、ハキハキした口調であった。  彼は、もう一度、同じような挨拶をくり返した。すると榧原春江は、 「どんな、ご用件でございましょう」  と、切り口上である。 「実は……直接お目にかかりまして、お話を致したいんですが」 「クラウン広告と仰有いましたわね」 「はあ……」 「広告関係の仕事で、お会いしたいと仰有いますの?」  マネージャーだけに勘は良い女だ、と井戸毅は思った。 「はあ……大体まア、そんな処で……」 「それでしたら、私が|承《うけたまわ》ります」  榧原春江は、本人は外出中だから、用件があるなら、夕方五時に、西銀座の喫茶店にいるから、来て貰えれば有難い……という趣旨のことを、早口で述べ立てた。 「わかりました。では、五時十五分に伺います。私は大男で、|小鬢《こびん》に白髪がありますから、すぐお判りだと思います。念のために、週刊誌を、上衣のポケットに入れて、目印にしておきますから……」  電話を切ったあと、井戸毅は、夕方までをスポンサーや局側との打合わせ、その他に費して、五時十分かっきりに、指定された西銀座の喫茶店へ行った。  榧原春江は、彼をすぐ見定めて、自分から手をあげて教えた。 「先刻は、電話でどうも……」  井戸毅は、篝千代子のマネージャーに近づき、挨拶しようと腰をかがめたが、彼女と同席している人物の後姿をみて、ぎくりとなった。  |茄子《なす》紺のスーツを着て、シルバー・ピンクの長い爪が見える。細い首には、本真珠のネックレスが光っている。 「あのう……同席でも構いません?」  榧原春江が、立ち上りながら、そう云ったとき、|件《くだん》の後姿を見せていた女性が、上半身をかるく彼の方に|捩《よじ》った。 〈あッ?〉  井戸毅は|愕然《がくぜん》となった。  榧原春江と同席していたのは、彼がひそかに興信所員を使って尾行させ、その行動に疑惑の|虜《とりこ》になっていた女——桂巴絵であったからである。  お互いに広告代理店に勤めている関係で、顔見知りだけに、なおさら都合が悪い。 「井戸さん……暫くですわ」  桂巴絵は、キラキラ光る瞳を彼に向け、|嫣然《えんぜん》と微笑するのであった。その表情には、なにか勝利者の自信のようなものが溢れており、井戸毅はまたしても不吉な予感に、|虐《さいな》まれはじめた……。     三 〈これは、まずいことになったな〉  井戸毅は、正直にそう思った。こんなところで、桂巴絵にぶつかろうとは、計算していなかったのである。  だが弱味をみせては、かえって相手から乗ぜられる。一瞬のうち、井戸毅は|肚《はら》を決めた。 〈ふむ! 居直り戦術だ……〉  彼は、図太くニヤリとしてみせた。 「桂さん。久し振りですな」  井戸は、榧原春江が、自分の横の椅子をあけて呉れたのには目もとめず、桂巴絵のイタリヤ製らしい大型のバッグをとりあげて、彼女の隣に腰を下ろした。 「井戸さんたら、|神出鬼没《しんしゆつきぼつ》ね」 「そうですか。いつも、ぶらぶら遊んでいるんだが」 「嘘ばっかり!」 「本当ですよ。ゴルフと酒に、明け暮れてますわ!」 「あら。じゃァ私と似たようなものね」 「そうですね。お互いに、楽ですな」  井戸毅は、そんな応酬をしたあと、榧原春江に向き直って、礼儀正しい一礼を送った。 「クラウン広告の井戸でございます。お見知り置きを……」 「篝千代子の、マネージャーをしております、榧原ですの」 「今日は、とつぜん電話で……」 「いいえ、馴れておりますから……」  井戸毅は、今日は、仕事の話は、切り出さない積りであった。桂巴絵が、篝千代子のマネージャーと会っている以上、それは仕事になんらかの関連があると、考えなければならない。いずれ後には、知れることでも、〈東京エージェント〉の女専務の前で、口にするのは|危険《リスク》が大きすぎる。 「榧原さんは、桂さんを、よくご存じなんですか?」  彼が質問すると、桂巴絵は、すんなりとそれを受けて、 「あら! あたし、榧原さんの大のファンだったのよ」  と云った。 「ああ、歌劇時代に……」 「そうなの……」 「いつごろです?」  井戸毅は、篝千代子のマネージャーの顔ばかり眺めていた。 「さあ……そう仰有られても、私には……」  榧原春江は、当惑したように笑った。その言葉のニュアンスで、井戸は、彼女たちが、ごく最近の知り合いだということを見抜いた。彼は、微笑しながら、 〈女狐め!〉  と、心の中で|罵《ののし》った。 「ねえ、井戸さん。貴方こそ、榧原さんに、なんの御用?」 「さあ……私は、篝さんのファンでしてね」 「まァ、|狡《ずる》い。はっきり仰有いよ」 「いや、別に大した用事じゃないんです。ちょっと、拝顔の機を得ておこうと思いまして……」 「信じられないわ……」 「私の云うこと、信じなさい」 「あら、歌謡曲ですわね」  榧原春江は、新しい客が現れたので、当然、桂巴絵は席を立つだろうと考えていたらしい。しかし案に相違して、彼女が席を立ちそうにもないので、やはりマネージャーとしては、困ったことになったと思いはじめた様子である。云うに云われぬ、表情をしている。  井戸毅は、それと知っていながら、今夜はこの三人のメンバーで、食事でもしようか、などと考えた。その方が、桂巴絵の関心を、そらせて呉れるし、場合によっては、彼女の胸の中を探りとることもできるのである。 「榧原さん……」  彼は、微笑しながら云った。 「これから、お食事にでもと、思っているのですが……」 「まァ、そうですか? 私の方は、構いませんけれど」  井戸毅は、桂巴絵の混血児のように浅黒く整った横顔を見た。 「あなたは、いかがです、桂さん?」 「あら、私も?」 「ええ。食事は賑やかな方が、食欲が出ますからね」 「まあ、私をアペリチーフ代りに?」 「そんなとこです。……と、云っては失礼だが。でも、どうです?」 「悪くありませんわね」 「大丈夫ですか。僕は、酒癖はあまりよろしくない方ですよ?」  井戸毅はニヤニヤした。 「私もなの」  平然と、桂巴絵は受けた。 〈こいつめ! でも、面白くなって来やがった……〉  彼は、自分の右脇にいる、|茄子《なす》紺のスーツを着た女性に、猛然と闘志を駈り立てられていた。云うことが、いちいち|棘《とげ》があって、小面憎いのである。 「じゃァ、話は決定ですな」 「ただし、クラウンさんの奢りよ」 「勿論ですとも。もっとも、薄給ですから、ラーメンに毛が生えた程度の、おもてなししか出来ませんが」  井戸毅は立ち上りながら、すぐ近くにある関西系の、|美味《おい》しい日本料理を食べさせて呉れる店のことを、思い浮かべていた。そこは二階が座敷になっていて、密談などには、もってこいの料理屋だった。  その店には、預けっ放しにしてある映写機と、ブルー・フィルムが何巻か用意してあったのである。ときどき接待用に使うのだった。  珍しい料理が、つぎつぎに運ばれて来た。二人の女客は、かなりの|健啖家《けんたんか》で、彼に負けないぐらい、皿を空にして行った。  桂巴絵は、かなり酒も強そうである。  話題は——どうしても、芸能界と、広告界のことになった。  しかし、井戸が注意していても〈東京エージェント〉の女専務は、めったなことで、自分の仕事に関係のある話題は、自分からは口にしなかった。  でも彼は、意識して、業界の話題を、あれこれと口火を切っている。 「M電器が、いよいよやるそうですな」 「ああ、広告代理店をつくる話ですね」 「ご存じですか?」 「ええ、ちょっとばかり……」 「中止になったという噂もありますね」 「それは存じませんわ」 「結局、手数料がポイントでしょうか」 「ではありませんの? 年間八十億円の広告費として、手数料だけでも、十二億ですもの……」 「その手数料が、勿体なくなったのでしょうかね」 「さあ、どうでしょう」 「お宅あたり……かなり響くんじゃありませんか?」 「あら。うちは、M電器みたいな大手は、なかなか!」 「ほほう? スポットをかなりお持ちだと、いう話でしたがね」 「昔はね。いまはサッパリですの……」  ——といった按配である。  井戸毅が、かなり突込んだ話をして、その方向に彼女をもって行こうとすると、|巧《たく》みにはぐらかしたり、違った芸能界の話題で、榧原マネージャーに話しかけたりするのだった。その辺の呼吸は鮮やかで、井戸毅は、食事をしながら|苛立《いらだ》ちはじめていた。 〈ふむ! こうなったら、罠を仕掛けるより仕方がない!〉  井戸毅は、トイレに立って、放尿しながら策をめぐらした。  いま、彼が知りたいことは、二つあった。一つは、なぜ彼女が、篝千代子の女マネージャーに、接近しているか、ということである。  隈部亮二の訪問を受けた直後なので、この問題には、うす気味のわるい予感が働いてならなかった。 〈たしか隈部は、クラブ〈唇〉のマダムから、俺のことを聞いて来た、と云った。しかし隈部は、俺に会う前に、桂巴絵に会っていたのではないだろうか?〉  ……もう一つ、知りたいことは、やはり〈東西製薬〉のことだった。  彼女が、宝田広告部長らしき人物や、加倉井開発部長に妖しい手段で、働きかけていることは、興信所の尾行調査報告によっても明らかである。  また彼女が、いつも卑劣な手段で、他社の広告企画を盗むことも、知っている。 〈東西製薬だけは、なんとしても、物にしなければならん!〉  井戸毅は|不図《ふと》、興信所の記録のことを、強く記憶に|甦《よみがえ》らせた。 〈ふーむ!〉  井戸は、排泄作用を終えても、しばらく夜風に顔を|曝《さら》しながら、西銀座の重なりあった露地の軒を見上げていた。  なんとなく、面白いプランが浮かんで来そうであった。 〈女狐め!〉  彼は低く唸りながら、手洗所をでた。ちょうど表に、桂巴絵が|佇《たたず》んで、彼が出るのを待っている所である。  どういうわけでもないのだが、井戸は微かに狼狽した。なんとなく、自分の胸の内の、密かな計画でも、盗み聴きされたような感じなのである。 「あ、失礼!」  彼は、どもりながら云った。  すると桂巴絵は、少し斜視がかった眼に|媚《こび》をこめて、彼を見詰めた。 「このあとは?」  おそろしく早口であった。 「あと?」 「二人っきりで、お話ししたいことが、あるんですの……」 「いいですよ」 「榧原さんとは、仕事では?」 「平気です」 「では、九時に、クラブ〈唇〉で」 「わかりました」  彼は、ハンケチで|大袈裟《おおげさ》に手を拭きながら、廊下を歩いて行った。  だが部屋に|這入《はい》るなり、井戸毅は、打って変ったように、榧原春江にむかい、せきこんで訊いた。 「桂専務と、篝さん……あれしたって、本当ですか?」  |衝立《ついたて》のように大きな肩をすぼめ、井戸の表情は真剣な色に満ちている。芝居だったのだが、篝千代子のマネージャーは、完全に彼の俄かの演技にまきこまれていた。 「あれって……契約ですの?」 「ええ。本当ですか……」  井戸毅は、相手がきっと否定すると、思って安心し切っていた。  ところが、榧原春江の|唇許《くちもと》から漏れたのは、意外すぎるぐらい意外な言葉だったのだ。 「まだ、仮契約ですの」 「ええッ!」  彼は、自分の勘が、ピタリと的中していたことに|駭《おどろ》き、思いがけずたじろぎながら、少しロレツの廻らなくなった口調で訊いた。 「じょ、じょ、条件は?」 「篝千代子がフリーになったとき、電波関係の出演、およびコマーシャル写真その他については、桂専務と私の間の話し合いで、決定するという条件ですの……」 「な、なんです?」  井戸毅は、廊下を伝わってくる|跫音《あしおと》を耳にすると、唇に人差し指をあてがい、 「明日、電話します」  と、低く相手に伝えた。榧原春江は、首を傾けながら、それでも軽く肯いていた。  クラブ〈唇〉を出るとき、心持ち桂巴絵の足取りは、ふらついていた。 「もう一軒、廻りましょうか」  井戸毅は、さり気なく云った。  マダムに耳打ちして、彼が飲んでいたナポレオンの黒い瓶には、|琥珀《こはく》色をしたジュースを詰めさせておいたのだ。だから彼は、酔っていなかった。女の子たちも、ナポレオン級のコニャックになると、値段を知っているから、手を出さないのである。 「そうだわね。今夜は、飲み明かしたい心境よ?」  酔うと、黒い瞳の色が、魅惑的に濡れてキラキラ輝く。わざと大き目に塗ったシルバー・ピンクの口紅も、男の情感をそそるように光っている。 〈口惜しいが、いい女だな……〉  井戸毅は、そんなことを思いながら、用意したパンチを、いつ彼女に食わせようかと、その間合いを推し量っている。 「じゃア、ホテルのバーにでも、行きましょうか」 「そうね。行ってみたいわ」  ハイヤーは、銀座裏の車の洪水のなかで、肩をすぼめるようにして待っていた。 「代々木だ……」  彼は、努めて平然と云った。  女性をホテルに誘う場合、「ね、今夜いいだろう?」とか、「今夜つきあってよ」とか発言するのは、作戦としては下手だった。酒に酔わせた女性に、なんの抵抗感もあたえず、|件《くだん》の女性が気づいたときには、べッドの上にいた——というのが、理想の姿だと、井戸毅は思っている。 〈代々木〉という固有名詞を耳にしても、桂巴絵は酔って気づかぬふりを装っていた。井戸毅は、〈しめた!〉と思った。と同時に、彼女がしばしば、そうした場所を使用している、と|睨《にら》んだ。  彼が知っているのは、代々木駅から車で二分もかからない位置にあって、日本旅館と、西洋式の新館とに分れている。  玄関を入って左手に、かなり凝った作りのバーがあり、簡単な夜食も|摂《と》れるようになっていた。  バーテンにウインク一つ送れば、女の酔いっぷりをみて、足腰が立たなくなるカクテルだの、猛烈に睡気を催してくるフィズだのを調合して呉れる、重宝なバーでもあった。  これは、井戸にとっては、一つの罠であった。競争相手である、広告代理店の女専務と|躯《からだ》の交渉を持てば、先方に不利であって、決して彼にはマイナスにならない。  車から降りるとき、なまめかしく彼女はささやいた。 「誘惑する気?」 「困るんだったら、止めますよ。お酒だけ飲んで、帰ったって良いんだから」  鷹揚に答えた。 「いいわ……」 「いいわ、とは、オーケイの意味ですか」  バーに入ると、彼は女専務をボックスに坐らせ、電話をかけにカウンターの前に佇んだ。  さりげなく千円札を二枚、二つ折りにしてカウンターにおき、彼は自宅のダイヤルを廻しはじめる。バーテンダーは、ニヤッとしながら、その紙幣を、目にもとまらぬ素早さで、ポケットに|捩《ね》じ込んでいた。 「いつものようにね。部屋も……」  彼は、バーテンに告げて、自宅の妻には「少し遅くなる」と云った。  桂巴絵は、車の中では、かなり酔っている様子だったのに、ホテルのバーに|這入《はい》ると、途端に姿勢を正している。 〈おや、変だな……〉  井戸毅は、並んで坐った。逃さない用心のためである。 「ここ……来たことありますか」  彼がそう訊くと、女専務は含み笑い、 「ないと思う?」  と、逆に質問して来るのであった。 「さあ……わかりませんな」 「あたし……目下、独身なのよ。ご存じでしょうけど」 「なるほど!」  井戸毅は、運ばれて来たお絞りで、ゆっくり顔を拭い、つづいて口中清涼剤を五、六粒、口の中に|抛《ほう》り込んだ。 「ねえ、桂さん……」 「なァに?」  女の声は、ますます|婀娜《あだ》っぽくなる。 「東西製薬……気をつけた方が、いいですよ……」  不意に桂巴絵は、眉だけをピクリと動かした。 〈みろ! 反応があった!〉  彼は、構わず声をひそめる。 「ある重役が……貴女のことを、とても怒っていました……」 「私のことを、怒るですって? なぜかしら?」 「さあ、わかりません……でも、なんでも……貴女が両天秤かけるとか、なんとか、云ってたようですがね……」  女は、ハッキリ顔色を変えた。 「ねえ……もっと詳しく、教えて!」  井戸毅は、魚が|鉤《はり》にかかったと、目を細めながら呟いた。 「そんなこと……ここではねえ……」  情事の誤算     一  家に帰ったとき、宝田十一郎は努めて会社の中の出来事は、忘れようとしている。外部での不愉快なこと、心配事などを、家庭に持ち込みたくないからである。  しかし、その日は違っていた。 「お帰りなさい。食事は?」  妻の多津子が、条件反射のように玄関に出迎えて呉れたが、流石に彼の不機嫌な表情に気づき 「まァ、貴方。どうなさったの」  と云ったほどである。 「なんでもない」  彼は、むっつりと答えて、その儘、書類カバンを提げて、二階の書斎へ行った。  二階には、子供の勉強部屋と、彼と妻の寝室、それに四帖半の書斎がある。書斎といっても、納戸をかねた書庫という感じであった。  彼は部屋に入ると、すぐにドアに錠を下ろした。彼が、外から帰った服装のまんまで、書斎に閉じ|籠《こも》るなんて、珍しいことである。  しかも、鍵をかけるなんてことは、滅多になかったのだ……。これでは、妻の多津子や子供たちに、怪しまれない方が、どうかしている。  宝田は、窓際にある机の前に立ち、窓越しにぼんやり暗くなった狭い庭を覗き込んだ。 〈畜生……一体だれの|悪戯《いたずら》だろう!〉  彼は、心の中で|呟《つぶや》いた。  今日、勤め先の〈東西製薬〉に、彼宛ての一通の書留速達がとどいたのである。差出人の名前はなかった。  封を切ってみると、感光紙に複写された、興信所の行動調査報告書が入っていた。 〈なんだろう?〉  と、宝田十一郎は首を|傾《かし》げたが、被調査人・桂巴絵という名前を発見したとき、彼は愕然となった。  彼は、秘書を追い払うように右手をふり、慌ててそのコピーに眼を通しはじめた。  宝田の顔は、次第に|強《こわ》ばって行った。  彼女と、彼とが六本木で落ちあい、ホテルに行った日のことが、そこには明確に記録されている。だが、彼の表情を険しくさせたのは、なんと云っても、桂巴絵が社長の婿である加倉井紀彦とも、体の交渉があるという事実を知ったときである。  宝田十一郎は、それこそ煮えくりかえった鉛を、咽喉もとから流し込まれたような、云い知れぬ感情に迫られた。  怒りに近い感情のようでもあったが、そればかりではない。嫉妬めいたなにかも、混っている。裏切られたような、|欺《だま》されたような気持も、幾分あった。  彼は、顔色を変えながら、秘書の目を|懼《おそ》れて、そそくさとそのコピーを書類カバンの中に納い込んだのである。 〈畜生、だれだろう!〉  宝田は、机の前に|佇《たたず》んだまま、考え込んでいた。  ドアが軽くノックされた。妻の多津子らしい。彼は、生返事で答えた。 「あなた、どうなさったの? 電燈も点けないで……」  彼は、部屋の中が暗いことに気づき、〈だいぶ動顛しているらしい!〉と自嘲めいた笑いを浮かべた。 「ねえ、あなた……」 「いや、すぐ行く」  彼は、書類カバンの中から、例のコピーを取りだそうとしたが、また元通りに鍵をかけた。机の抽出しなどに隠すのは、かえって妻に怪しまれると悟ったのである。  彼はむっつりした表情で、書斎を出た。妻の多津子が、心持ち|蒼褪《あおざ》めた表情で、心配そうに、彼と暗い書斎の空間とを見較べている。 「なにか会社であったのね?」  確信ありげに多津子はそう云った。 「なんでもない。ちょっと、調べたいものがあったんだ……」 「あら、電気も点けないで?」 「暗くても、|在《あ》りかは判る」  彼は妻を促して、階段を下りはじめた。そのとき宝田は、はじめて自分が洋服を着たまんまだと悟った。 「お風呂は?」 「ああ、貰おう」  洋服を着換えながら、宝田は眉根をむずかしく寄せていた。 「ねえ、あなた」  多津子は、なにかを云いかけたが、彼の顔を見ると、黙り込んだ。 「今夜は、日本酒にして呉れ」  彼は、妻の機嫌をとるように云い捨てて、浴室に行った。  丁度いい湯加減だった。  彼は、|顎《あご》まで湯槽に身体を沈め、目を閉じた。瞼の裏には、複写された〈行動調査報告書〉が、鮮やかに浮き上っている。 〈畜生……〉  宝田は低く唸り声を上げた。  桂巴絵の個人の行動を、調べるために、誰かが興信所に依頼したのであろうが、先ずその目的がわからないのだ。  誰が、なんのために、調査をさせたのであろうか。桂巴絵を尾行させるからには、〈東京エージェント〉の女専務と、個人的な交渉をもった人間だと考えられる。  商売の関係か、あるいは性的な関係かの、いずれかであろう。 〈調査をさせた依頼人が、男だとすると、はて、誰であろうか?〉  宝田は、目を閉じたまま、顔をタオルで濡らした。  宝田は不意に、〈もしや加倉井が?〉と考えた。あの記録によると、加倉井はあきらかに巴絵と交渉がある。  宝田十一郎は、彼女の粘っこい閨のテクニックを思い浮かべた。おそらく巴絵は、彼に云い寄ったときと同じように、女の武器をちらつかせながら、加倉井に接近し、誘惑したのであろう。そうとしか、考えられない。  加倉井は、彼女の躯に夢中になり、ついで彼女の行動に不審の念を抱く。  誰か、男がいる、という疑惑の|虜《とりこ》になった加倉井開発部長が、興信所に調査を依頼する……というケースも、あり得ないことではない。  加倉井部長なら、それ位のことを、やりそうな気がした。 〈あいつ……|俺《おれ》と彼女の仲を知ったら、どんな態度に出るだろうか?〉  宝田は、愕然となった。  相手は社長の女婿である。その男に、広告部長がある広告代理店の女専務と、特別の関係にあることを知られたら! 〈ふむ! 桂巴絵には、仕事は廻してやれなくなる……〉  宝田は、タオルで頸筋を拭った。  多分、加倉井の性格として、正面からは彼を攻撃しないであろうが、〈東京エージェント〉に仕事を依頼することを、妨害するものと思われる。それは感じでわかるのだった。加倉井紀彦は、そんな男なのだった。 〈となると……今度の、各社の企画を、巴絵に教えてやるということは、考えものだぞ?〉  彼は、唇を噛んだ。  白い浴室のタイルに、小さな露の玉が汗のように貼りついている。  桂巴絵は、午後三時に各代理店のプランを締め切ったあと、一時間でいいから、見せて欲しいと懇願していた。  企画書の保管は、広告部長である彼の職掌である。だから、彼なら封筒をあけ、発表に先立って下検分しておいても、誰も文句は云わなかった。  危険だが、 「私が預かる」  と云い、宝田が書類カバンに入れて、家に持ち帰ることだって、可能なのだった。その途中、桂巴絵にホテルの一室あたりで、盗み読みさせることも出来る。  しかし、加倉井が桂巴絵の私行を調査させているとなると、話は別である。  ……この場合なら、平然と、彼が〈東京エージェント〉を使わない、と加倉井の前で断言すれば、かえって効果があった。  宝田は、六本木から尾行された日以来、巴絵とは会っていないことを確認し、なんとなく安堵めいた気持になった。  興信所の記録では、彼の正体は、〈四十七、八歳の中肉中背の紳士〉ということ以外に、わかっていないのである。服装も記録されてなかった。 〈だが、加倉井が調査の依頼人だったとしたら、あの記録を、彼女に見せて、問い詰めるのではないだろうか?〉  彼は、頸筋にカミソリでも、あてられたような気持になる。  流し場に坐ったまま、宝田は、しばらく考え込んでいたが、力無く躯を洗いはじめた。 「あなた……背中を流しましょうか」  多津子の声がしている。 「ああ」  宝田は低く答えた。  間もなく妻が入って来て、彼の手から石鹸をつけたタオルを受けとり、背中をゴシゴシ流しはじめたが、とつぜん宝田の脳裡に、 〈もしや多津子が!〉  という考えが閃いた。  桂巴絵と体の交渉を持って以来、彼はときどき酒場の女たちとも、浮気をするようになっていた。  浮気といっても、店の帰りにホテルに寄って、二時間ぐらいの情事を愉しむだけのことである。金銭で、お互いに割り切った上での浮気であった。  しかし、それでも帰りは午前三時前後になる。「仕事で忙しいんだ……」とは云ってあるものの、勘の悪い女ではないから、とうの昔に、彼の浮気を嗅ぎつけているのかも知れぬ。 〈ふむ〉  彼は、背中を流している多津子に、|畏怖《いふ》の念を覚えはじめた。 〈妻だということも、あり得る。だが、多津子なら、なにも会社にあれを送ってこなくても……〉  宝田は、不意に小さく、 「おい」  と声をかけた。 「なあに、貴方……」  妻は答えた。朗らかそうな、いつもの声音である。 「きみ……興信所か、私立探偵社に行ったことはあるのか?」  思い切って、ズバリと云ってみた。しばらくのあいだ、沈黙が訪れた。ややあって、多津子は、 「なァに、それ?」  と、質問の内容を、疑うように訊き返して来た。  宝田は、ほッとし、〈彼女じゃない〉と確信した。 「いや、今日、ちょっと変な問合わせの電話が、かかって来たんでね……それで訊いてみたんだ」 「ヘーえ。興信所なんか、行ったことなくってよ。どんな電話なの?」 「大したことじゃない」 「そう。でも変なことがあるのね……」 「世の中は、変なことだらけさ!」  彼は、苦笑しながら目を閉じた。  夕食の途中、親戚から電話がかかった。彼の伯父が、危篤だというのである。  築地のがん研に、入院していたのだ。 「あなた、どうなさる?」  妻の多津子は、不服そうに云うのだった。久し振りに、親子揃って夕食する機会が、その電話のために奪われてしまった……とでも云いたげである。 「仕方ないじゃないか」  彼は、盃をおいて、 「すぐ御飯にして呉れ……」  と命じた。 「あたしは、どうしましょうか」 「きみはいいだろう。それに伯父は、もう年だ……」  ——結局、宝田は風呂に入り、かるくタ食をとっただけで、外出することになった。  築地のがん研附属病院。  ちかごろでは、年に何回も、この病院に足を運ぶようになってしまった。  彼は、伯父の病室のドアの前で、姪がハンカチを眼に押しあてているのを見た。その姪の行動で、彼は臨終に間に合わなかったことを知った。  ガンの患者は、死ぬまで意識がハッキリしているものらしい。臨終のときまで、苦しんで死んで行くのだ。だから、臨終に間に合わない方が、駈けつけた者にとっては、ありがたいのである。  ——くやみを述べ、葬式の手順などを打ち合わせたあと、彼は病院を出たが、なんだか、やり切れないイヤな気持であった。そのまま、家に帰る気がしないのである。 〈酒でも、飲むか!〉  宝田十一郎は、タクシーを拾うと、 「西銀座へやって呉れ」  と云った。  伯父の痩せ衰え、骨と皮になった死顔よりも、彼の脳裡には、尾行の記録のことが根強く|疼《うず》いている。 〈妻ではない。すると、加倉井ということになる〉  宝田は、腕を組んだ。  ふと、報告書の中にある一節が、鋭く甦って来た。それは、「該当の外車ナンバーによれば、所有者は大田区調布嶺町に住む、東西製薬開発部長、加倉井紀彦(四二)と判明す」という文句である。 〈そうだった……。たしか、そんな文句があった。もし加倉井が、依頼人だとすると、興信所はそのことを知らないのだろうか?〉  彼は、煙草をとりだした。  興信所とか、秘密探偵社の組織は、調査の依頼を受付ける窓口と、調査員に命令を下す部門とは、はっきり二つにわかれていて、調査マンにはどこの誰が、何の目的で調査を依頼したのかは、知らせないようになっていると聞いている。  だから、あの尾行を担当した調査マンが、加倉井紀彦の顔も、名前も知らないことも考えられた。  それならば、自分たちの調査ぶりを、忠実に記載するのも無理からぬことだった。 〈やっぱり、加倉井なのかなあ〉  彼は、とつぜん運転手に告げた。 「おい、行先変更だ……」  運転手は驚いて、振り向いた。 「悪いけど、青山へ行って呉れないかね?」 「わかりました」  車は昭和通りを左折して、新橋方面に向かいはじめている。  宝田十一郎は、桂巴絵のアパートを、探して訪ねる気になったのである。アパートの電話番号は、メモしてあった。  彼女のことだから、アパートと云っても、デラックスな鉄筋のアパートに住んでいるに違いない。宝田は、煙草をくゆらしながら、桂巴絵に会って、先ずどんな話から切り出そうか、と思案しつづけた。  青山通りの公衆電話から、彼女のアパートに電話を入れてみると、案の定、有名なある分譲アパートだった。そうして、彼女は珍しくアパートにいた。 「ちょっと、用事もあるんですよ」  宝田は、巴絵に云った。 「いま、どこ?」  巴絵は、なぜか迷惑そうな口吻だった。 「銀座なんです」 「そう……では、三十分ぐらいしたら来て下さる?」 「三十分後にね?」 「ええ……。いま、マッサージをして貰ってるの。だから……」 「わかった。ところで、道順を知らないんだがね」 「いま、云うわ……」  とつぜん、巴絵の声が聞えなくなった。彼は耳を澄ませた。不自然な語尾の消え方だった。  電話の途中で、誰かに口を|塞《ふさ》がれたような感じである。  すぐまた巴絵の元気な声が、アパートヘの道順を教えて呉れはじめたが、宝田十一郎は耳に神経を集中して、彼女の声以外のものを聞こうとしていた。 〈誰か、アパートにいる!〉  宝田はそう直感したのである。  男が、電話している彼女に、とつぜん接吻したに違いない、と彼は考えた。彼女のことだから、男関係は乱れているとは覚悟している。  しかし、謎のコピーを受け取った直後だけに、彼女がアパートに引き入れている男性には、いたく好奇心をそそられたのだ。  そうして少しばかり胸が痛んだ。 「道順は云うから、すぐ行ってくれ」  彼は、運転手に命じた。     二  公衆電話ボックスから、わずか五分間で、宝田は目的のアパートに着いた。六階建ての堂々たるビルである。  南に向いて、コの字型に建てられたその分譲アパートの中庭は、駐車場になっていた。彼は道路でタクシーを捨て、その建物に入って行った。  右側に管理室があり、玄関の突当りに自動エレベーターがあった。  郵便ポストを見ると、桂巴絵は〈603〉である。彼は、エレベーターを三階から呼び戻し、六階に行った。  六〇三号室は、階段のすぐ傍の部屋で、そっとドアに耳をつけてみると、陽気な巴絵の笑い声がしている。あきらかに客がいる証拠である。 〈やっぱり、だった……〉  宝田十一郎は、おそらく客が、六階から降りて行くのに、階段を使う筈はない、と思った。エレベーターを利用するに違いない。  彼は、階段の影に身を潜め、腕時計を睨みはじめた。  彼の時計が、十五分の経過を示したとき、六〇三号室の鉄製のドアが、ゆっくり内側から外に押しあけられた。宝田は、はッとなって躰を|竦《すく》めた。  靴ベラを使うような音がし、 「五年ぶりに上京して来た伯母さん……なんて云っているけど、髭の生えた伯母さんじゃないのかい?」  と云う男の声と、含み笑いが聞えた。 〈あ、加倉井だ!〉  宝田は、背筋を強ばらせた。 「あら。疑ってらっしゃるの? だったら、田舎者ですけど、伯母に会って下さる? 伯母も喜びますわ……」  すかさず桂巴絵は、そう|反駁《はんばく》している。いかにも男を扱い馴れた感じであった。 「冗談だよ……」  加倉井紀彦は、ちらっと廊下の左右に眼を配り、 「宝田の奴には、社長から云わせるから、大丈夫だと思うよ。まァ大船に乗った気で、居るんだな……」  と云い捨てると、「じゃァ」と片手をあげて、エレベーターのある方角に、大股に歩きだした。 〈宝田の奴……だと? 社長から、なにを云わせる気だ?〉  宝田十一郎は、鉄のドアが素早く閉められるのを目撃し、ポケットからハンカチをとりだして額の汗を拭った。  その二人の様子からは、かなり前から、交渉があるものと思われた。  少くとも一度や二度の関係ではない。二人の言葉のやりとり、廊下を去って行く加倉井の態度には、なにか生活の匂いが感じられたのだ……。  宝田は恐ろしいほど、自分の勘が的中したことに、なんとなく|畏怖《いふ》の気持を抱き、ついで例の〈行動調査報告書〉のことを思い描いた。  あの安心し切った加倉井開発部長の足取りは、彼が調査の依頼人ではないことを物語っている。少くとも、自分が桂巴絵の私行を調査している人間ならば、部屋を出るとき、張り込みの興信所員がいるか、いないか位は気をつけるであろう。また、問題の彼女のアパートに、堂々と出入りするとは、考えられない。 〈どうやら、加倉井でも、妻でもなさそうだ。すると、誰が?〉  宝田は、|逸《はや》る心を抑えながら、暗い階段で一本の煙草を吸い、それからドアに近づいてブザーを押した。 「宝田さん?」 「そうです」  彼は、ぎごちなく答えた。  すぐ桂巴絵は、ドアをあけ、彼を招じ入れながら、 「マッサージの人、いま帰ったところなのよ。丁度よかったわ……」  と、甘え声で云うのだった。 〈この嘘つきめ……〉  宝田は、心の中で煮えくりかえるような憤りを感じ、不機嫌な顔つきで、部屋のなかを見渡した。  なかなか凝った家具が、並んでいた。もしかしたら、特別に誂えたのかも知れない。  緑のカーペット。ゆったりしたソファー。マガジン入れ。居間の隅には、組み立て式のバー・セットまである。  カーテンは、白のレースと、グリーンの二枚になっている。大理石らしい暖炉があり、その暖炉の上には、幾つかのゴルフの賞牌が並べられていた。 「なかなか、良い住居ですね」  彼は、わざと丁寧な口を利いた。ふだんの口調だと、つい加倉井が何しに来たんだと、巴絵の首でも絞めたくなるからである。 「ありがとう。お酒でも、如何?」  彼女は、スラックスにセーターを着ていた。巴絵のそうしたスポーティな姿を見るのは、彼ははじめてである。 「ブランデーでも頂こうか」 「X・Oでいいかしら?」  女は、長く伸ばした朱色の爪で、新しい洋酒瓶の、口の銀紙をはがしている。 「ストレートですわね」 「うむ」  宝田は、ソファーに尻を埋めながら、女のよく発達した臀部の筋肉をみた。体にぴっちりしたスラックスなので、歩くたびにプリン、プリンと筋肉が上下する。それが、ひどく悩ましいもののように目に映った。 〈俺が電話する寸前まで、加倉井とこの女は、抱き合っていたに違いない!〉  彼は鼻を|蠢《うごめ》かし、巴絵の周辺から、なにか情痴の匂いを嗅ぎ出そうとしたが、それは無駄のようであった。  桂巴絵の顔は、いささか上気はしていたものの、そんな|淫《みだ》らな余韻も、疲れも宿してはいなかったのである。 「はい……」  女は、ブランデー・グラスを手渡し、彼のそれに自分のグラスを軽く打ちつけた。 「ご用事って、なあに?」 「うん……」  宝田十一郎は、先ず何から話すべきであろうか、と暫く考えた。 〈やはり、興信所のことを、話した方がいい……〉  彼は、ソファーに坐らず、立ったまま|琥珀《こはく》色の液体を、きゅッきゅッと口に含んでいる、三十五歳の女専務を見上げた。昼間みる彼女とは、別人のようで、肉感的な女性がそこにはいた。  浅黒い皮膚。|二重《ふたえ》瞼の、斜視がかった大きな眼。朱色の線の鮮やかな唇。 「実は、変なことを聞くようだけど……きみ、興信所か秘密探偵社に、調べられるような、心当りがあるかい?」  桂巴絵は、しばらくポカンと口をあけ、宝田十一郎の顔を見詰めていたが、 「私が調べることなら、ありますけど、調べられることはないわ……」  と答えた。彼女の話では、金融引き締めの余波で、取引き先は、こぞって広告費の節約を命じたり、いままで三カ月だった手形を、四カ月、五カ月と延期しはじめている。それで、新規に取引きを結ぶメーカーならずとも、たえず信用調査をしておく必要があるというのである。 「不景気だからなあ……」  彼は、そんな|相鎚《あいづち》を打ち、 「本当に、調べられるような、覚えはないのかい? たとえば、結婚だとか……」 「まさか!」  彼女は、一笑に附した。でも、すぐ心配になったらしく、彼の膝の上に坐ると、 「ねえ。なぜ、|藪《やぶ》から棒に、そんなことを訊くの?」  と云った。  宝田の心は、まだ迷っていたが、話の口火を切った以上、|辻褄《つじつま》を合わせなければならなかった。 「実は今日……会社に、怪電話がかかって来てねえ」  彼の口調は、芝居ッ気たっぷりなものにと一変していた。 「怪電話ですって?」 「うむ。興信所の者だが、あんたと〈東京エージェント〉の女専務とは、肉体関係があるだろ……」 「電話で、そんなことを云ったんですの」 「そうなんだ。私は、なにを根拠に、そんなことを云うと、呶鳴りつけた……」 「すると?」  桂巴絵の目は、|猜疑《さいぎ》の色を濃くしはじめた。彼の言葉の真偽を、疑っている眼の色である。 「すると相手は、この間のことを、すこぶる正確に云うんだなあ。私は、尾行されていたことを直感した」 「……宝田さん。それ、本当?」 「うん、嘘じゃない。非常に正確だった」 「目的は、脅迫の……」 「わからない。金なのかも知れないし、そうでないかも知れない」 「でも、そのことだけだったら、私を尾行しているのか、宝田部長さんを尾行しているのか、わからないじゃありませんか?」  桂巴絵は云った。流石に、頭がいい。彼は苦笑した。 「僕もそう思った。すると相手は、きみを尾行していると断言した」 「その証拠は?」  女の斜視めいた瞳が、一瞬粘っこく光り輝いた。小鼻が、|微《かす》かに動いている。 「証拠はね……きみに、こう云ったら、嘘じゃない、思いあたるだろう、と相手は云ってたよ」 「え、どんなこと?」  宝田十一郎は、女の顔を凝視し、今度もズバリと云って退けた。 「きみが、東西製薬のね……」  桂巴絵の表情が、案の定こわばった。 「東西製薬の、そのう……」  唇の端が、微かにめくれ上がった。 「東西製薬のなんですの?」 「ある重役と、だね」 「ある重役」  わずかに安堵の色が、眼の端に|滲《にじ》んできた。彼が、実名を出さなかったからである。 「私以外のある重役と……ニュー赤坂ホテルで二人だけの時間をすごし……自宅まで送って貰っていると云うんだよ……」  宝田の視線は、桂巴絵の一|顰《びん》一笑を見逃すまいと、強く顔に|貼《は》りついている。  彼女は彼の膝から下りると、くるりと背中を向けた。 「そう云えば、嘘でないことがわかる、と云った……」 「……嘘よ!」  巴絵は、背を向けたまま、声を震わせた。だが、心の動揺は、荒い息づかいにも、あらわれていた。 「嘘だって?」 「ええ。全部、嘘よ。誰かの、中傷だわ。私には宝田さん以外に、男はいないわ!」  宝田十一郎は、その桂巴絵の言葉を耳にしたとき、|憤怒《ふんぬ》としか表現のできないような激情に襲われた。これが妻の多津子だったら、|拳《こぶし》を振り上げているだろう、とも思った。  興信所の記録だけなら、彼もまだ半信半疑だったかも知れぬ。  しかし彼は、つい二十分ばかり前に、加倉井開発部長が|物憂《ものう》そうな顔つきで、帰って行くのを目撃しているのである。 「きみは……嘘を|吐《つ》いている」  彼は、やや青ざめながら云った。呟くような|声音《こわね》になった。 「嘘を? 私が?」 「そうですよ。私は、その重役が、誰かと云うことも知っている」 「まァ! 宝田さん。云って良いことと、悪いこととありますわ」 「それ位の分別は、わきまえている」 「だったら、なぜ事実無根な、そんな云いがかりみたいなことを……」 「無根ではない」 「ひどいわ!」  桂巴絵は、不意に強く彼の胸に取り|縋《すが》ると、眼に大粒の露の玉を浮かべてみせた。 「宝田さん。この眼をみて!」 「………」 「巴絵が嘘を云っているか、どうか、この眼をみて頂戴!」  ——名演技だ、と彼は思った。目からは|泪《なみだ》が溢れ、朱い唇の両端は、わなわなと|痙攣《けいれん》している。口調まで、真に迫っていた。  宝田は、この嘘つき女を、思いきり|虐《さいな》んでやりたい衝動に駈られる。 「ねえ、巴絵がそんな、ふしだらな女だと、思ってらっしゃるの? あたし……あたし、そのことの方が、口惜しい……」  |嗚咽《おえつ》になった。彼の胸に、濡れた顔を押しつけ、小さな拳をふりあげて、胸を口惜しそうに叩いてみせる桂巴絵であった。  宝田は、はっきり怒りに包まれたが、|不図《ふと》面白い計画を思いついた。それは、泣いている彼女に、一つの罠をかけることである。 「もう、泣かなくても良い……」 「だって、部長さん……」 「ただ私の勘なんだが……いいかい、私の勘だよ?」 「……ええ」 「興信所に依頼した張本人は……その、僕以外の重役らしいんだ……」 「えッ!」  桂巴絵の泪が、ピタリと止まり、急速に乾きはじめていた。 「信じられないことだが……僕には、加倉井君のように思えるんだよ……」 〈加倉井〉という実名を出したときだけ、彼女の眉がピクリと動いた。しかし、表情はどんな衝撃にも、たじろぐまいと云わんばかりに、能面のように強ばっている。 「どうやら加倉井君は、僕ときみの関係に気づいているらしいんだよ」 「それ……本当?」 「彼は、ある代理店と、特別なコネを持っている。それで、今度の新製品の広告を、その代理店にまかせたい気らしい……」 「まア!」 「きみ……加倉井から最近、なにか云われなかったかい? ネーミングの競争のことに関して……」  女は、ためらいがちに首をふった。 「彼は、社長の女婿だ……。私ときみの関係をあばいて、次期の広告部長になる工作をしている……」 「それ、どういう意味?」 「たとえば〈東京エージェント〉に、私が広告を担当させると明言したとき、あの興信所の調査報告書が役に立つわけじゃァないか……」 「加倉井さんって、そんな人じゃないわ」  知らず知らず桂巴絵は、加倉井を弁護する形になった。  問うに落ちずして、語るに落ちるというやつである。 「私もそう思う。しかし、どうやら私は、各社の書類を、外に持ち出せそうもないんだよ……」  心細そうに、彼は云ってみた。 「あら! それじゃァ巴絵、困るわ」 「仕方ないさ。加倉井部長には、なんと云っても、社長がついている」 「本当ですわね……」  顎を埋めるようにして、桂巴絵は、考えこむ姿勢になった。  宝田の胸の底に、ある種の狂暴性を帯びたドス黒い欲情が噴き上げはじめる。  彼は女の手からグラスをとり、ついで自分のグラスも、テーブルの上に置いた。 「おい!」  彼は、乱暴な口を利いた。  ついで素早く、女の躰を、自分の膝の上に抱き寄せた。 「この嘘吐きめ!」  彼は、欲情の炎に、躯を燃え立たせながら女の唇を強く吸った。 「巴絵。きみは嘘つきだ!」  恐怖の色を浮かべて、彼女は唇をパクパク動かした。 「マッサージに、かかっていただと?」 「………」 「加倉井紀彦は、マッサージ師なのか?」 「………」 「云え! どうだ!」 「あなた。なにかを勘違い……」 「勘違いだと? 俺は、この眼で|彼奴《きやつ》が、この部屋から出て行くのを、ハッキリ見たんだ……」 「部長さん……」  白い咽喉仏が上下した。 「お前は、俺と加倉井を、両天秤にかけている! この俺が、五年ぶりに田舎から出て来た、伯母さんだって? おい、巴絵。返答してみろ!」     三  その宝田の言葉を聞いたとき、桂巴絵は大仰に体を|顫《ふる》わせ、子供のように大きな声で泣きだした。聞いている宝田十一郎の方が、|愧《はずか》しくなるような泣き方であった。 〈芝居だ!〉  彼は、心の中でそう思った。  だが、彼の胸に|凭《もた》れ込み、オン、オン、オン……と泣き真似をしているうちに、どうやらそれは本物の泣き声となり、本物の涙にすり替ってしまったかのようである。  女性には、そうした特技……自分で自分を|騙《だま》す性が、潜んでいるのであろうか。芝居をしているうちに、ついつい本気になって行くのである。  桂巴絵という女は、その典型的なタイプと云えそうである。宝田は、女から縋りつかれながら、そんなことを考えていた。  彼女は、なかなか泣きやまない。  宝田は背広が、女の涙で濡らされているに違いないと思い、女を泣き止めさせなければならぬ、と思った。だが、それでは彼の敗退を意味する。呶鳴りつけた手前、女に「もう泣くな」とは云えなかった。  彼は、辛抱づよく待っていた。泣き止むのを、待ち続けた。  だが宝田十一郎は、ここで一つの誤算があることに、やがて気づかねばならなかった。  加倉井紀彦とも肉体関係をもちながら、平然と嘘をつく女に対する怒りが、彼の出発点であった。にも拘らず、女の泣き声を聞き、顫えている肩先などを見ているうちに、彼のとがった怒りは、次第に形を変えて、丸味を帯びはじめたのである。  つまりそれは、女の泣き声の効用というべきであった。ということは、男は女の涙に弱い、ということであろうか。  宝田十一郎は、なんとはなしに、怒りの気持が|萎《な》えて行くのを知った。これでは、彼の負けである。 「おい……」  彼は、投げやりな云い方で、桂巴絵の肩を|敲《たた》いた。 「泣くな、もう!」  しかし、女は更に大きく身を|捩《よじ》って、泣き声をあげるのである。わざとらしい泣き声であった。 「泣くな、と云ってるんだ……」 「………」 「近所迷惑だぞ!」  声を荒らげると、やっと巴絵は、泣き声を小さくした。そうして、間もなく|啜《すす》り泣きにと戦術を変えた。 「御免なさい……」  桂巴絵は、泣きじゃくりながら、途切れ途切れに云った。  詫びるからには、彼女は、加倉井との関係を認めたことになる。宝田十一郎は、〈それみろ!〉と思い、これで完全に優勢に立つことができた……と考えた。 「彼とは、いつからなんだ?」  宝田は、彼女の顔を仰向かせた。 「いや。聞かないで!」  女は、叫ぶように云った。 「なぜ?」  彼は、意地悪く訊く。 「なぜでも!」 「いつからなんだ?」  宝田は、同じ言葉を繰り返した。 「堪忍して……」 「云いたくない、と云うんだな」 「貴方にだけは、云いたくないの」 「ふーん。すると加倉井君には、僕のことをペラペラ喋ったのかね?」 「いいえ……」 「彼は、俺のことを知らないんだね?」 「ええ……」 「きっとか?」 「ええ、知らないわ、彼……」 「よし……だが、君という女は、大変な女性だね」 「御免なさい……」 「加倉井には、なにを頼んだのだ?」 「なにも……」 「嘘をつけ!」 「彼はただ、遊びに来ただけ……」 「ただ遊びに?」 「ええ」 「それは嘘だ……」 「いまの宝田さんには、なにを云ったって、駄目みたいね」 「そう思うかね?」  宝田十一郎は、歪んだ顔になった。大の男が、恋人でもない女の男関係に、ヤキモチを焼いている。それが内心、|可笑《おか》しかったのである。 〈加倉井が、この巴絵と寝ようが寝まいが、それはこの俺に関係のないことだ……。俺が知りたいのは、あの尾行調査の依頼人が、彼であるか、どうかと云うことだ……〉  彼は、そんなことを改めて自分に云い聞かせたのだ。 「ねえ、あなた……」 「なんだ?」  声が、とげとげしかった。 「怒っていらっしゃる?」 「当り前じゃないか……」 「御免なさい。ただ、あたし……」 「うん、なんだ?」 「加倉井さんとは、ちょっと火遊びがしてみたかっただけなのよ……」 「火遊び?」 「ええ。毎晩、あなたを誘うわけには行かないでしょう?」 「ふーむ……」  宝田十一郎は、渋い顔に戻って、ゆっくり腕を組んだ。 「加倉井は、宝田の奴には、社長から云わせるから大丈夫だ……と君に云っていたな?」  女は、|泪《なみだ》で濡れた|睫毛《まつげ》を伏せ、咽喉に声をつまらせながら頷いた。 「なんのことだ?」 「云わなくちゃア、いけない?」 「聞く権利はあるだろう、自分の名前が出ているんだから……」 「じゃァ私には、答える義務がある、というわけ?」 「ああ……」  宝田十一郎は、ソファーに腰を落し、静かにブランデー・グラスを掌で温めだした。 「さあ。人をじらさないで、云っとくれ」 「………」 「なにを社長から、云わせるんだね?」 「………」 「なにが、大丈夫なんだ?」 「あたし……風呂に入ります」  唐突に、桂巴絵は云った。 「風呂へ? なぜだ?」 「お湯の中で、これからの私達のことを、よく考えてみます……」 「あとで良い」 「いいえ。考えさせて」 「云い逃れを、考えたいと云うんだね?」 「違います……」 「だったら、いま返答して欲しい。それによっては、私としても考えがあるから」 「でしょう?」  桂巴絵は、斜視がかった瞳をキラッと光らせて、意味ありげに云うのだった。 「あたし……宝田さんを愛してます」 「えッ?」  彼は、ぬけぬけと、そんな言葉を口にしてみせる、女専務の顔を呆れ果てて打ち眺めるよりない。 「あなたと、別れたくないの……」 「それで?」 「なにもかも、宝田さんに話したいわ。でも話したら、きっと貴方は、私という女がイヤになるわ……」  桂巴絵は立ち上ると、ドアの外へ消えた。が、間もなく戻って来て、手にしていた籐製の蓋のある籠を、テーブルの上に置いた。 「なんだね?」  彼女は、宝田の質問には答えず、 「風呂へ入っている間に、貴方のお好きな品を、選んでおいて頂戴……」  と云った。  彼は、ブランデーの瓶を取った。グラスにゆっくり注ぐあいだに、巴絵の姿は消え、浴室らしい方角から、シャワーでも浴びているような音が立ちはじめた。  宝田は、籠の蓋を何気なくあけ、 〈ややッ!〉  と目を|瞠《みは》った。  その籠の中には、赤や黒やピンクの、特別製のパンティが入っていたのである。それもなかなか凝ったものだった。  たとえば、水色の三角巾を、二つ合わせるようなナイロンの布地がある。一見すると、スカーフのようだが、二つの布の端をボタンで留めると、立派なパンティになるのであった。  赤と黒と白の、透きとおるような薄いナイロンの布地があった。つまみ上げてみると、局部の部分は、大きく二つに割れているのであった。  つまり、|穿《は》いているときは、けばけばしい飾りのついたパンティに見える。しかし両脚をひろげれば、それを穿いたままで、異性の求めに応じられる仕組みなのだ……  豹の毛皮に似た、サテン地のビキニ・パンティもある。黒の網目の、小さな悩ましい下着もあった。 〈ふん! こんなもので、俺を誘惑しようと思ってやがる!〉  一度は彼も、そう思った。  だが、その薄い蝉の羽根のような、悩ましいパンティを穿いた、桂巴絵の裸体を空想すると、思いがけず宝田十一郎は、強い興奮を覚えたのだ……。  籠の底には、小さな香水の瓶が入っていて、ひどく良い匂いが、それらの下着にはしみついている。 〈あの女……こんな小道具で、男を欲情させては愉しんでるんだな……〉  彼は、巴絵を憎もうと思いながら、でも、籠の中身を覗いているうちに、知らず知らず欲情の|虜《とりこ》となって行った。  浴室から、バス・タオルを羽織ったままの姿で、彼女は戻って来た。 「ねえ、どれにします?」  事務的に、彼女は云った。その口調が、照れていた宝田に、勇気を与えた。 「どれでも良い……」 「じやァ貴方も、湯を浴びて来て!」 「私も?」 「ええ。いかが?」 「そんなことよりも、私には大切なことがあるんだ」 「わかってます」  桂巴絵は、籠をとりあげると、怒ったような顔つきで、寝室のドアにと消えた。  間もなく、彼女は、その飾りのついた蝉の羽根をまとい、ネグリジェ姿で居間にやって来た。  彼が、もっとも悩ましい下着だと思った、局部なしの網目のパンティを穿いている。それは黒の糸を使ってあるのに、皮膚につけてみると、全然なにも穿いていないように見えるのだった。  ただ腰と、太腿とに、真紅の飾り紐がついているので、穿いているのだと、知れるのである。宝田十一郎は、ゴクリと大きな音を立てて、唾液を飲み込んだ。  あっけなく行為が済むと、女は勝ち誇った人間のように微笑した。 「せっかちね」  宝田は、緑色のカーペットの上で、満足そうに微笑している女を見下ろし、のろのろと立ち上った。  急激に襲って来た欲望を、彼は制止できなかったのである。宝田は、ネグリジェ姿の巴絵を、床の上に押し倒し、ズボンを脱いだのだった……。  せっかちと女から云われれば、なるほど、せっかちな彼の行動であった。味も、情緒もない、野獣めいた交媾である。 「加倉井とは別れろ……」  宝田は、まだ起き上ろうともしない、桂巴絵に背中を向けて云った。 「お湯を浴びていらっしゃいよ……」  女は優しく云った。 「どうなんだ? 別れるのか、別れないのか?」  彼は厳しく云っている。 「むろん、別れるわ」  女は立ち上った。 「きっと、だな?」 「ええ。その代り……」 「その代り……」 「広告プランの方は、責任持って下さいます?」 「交換条件なのかね?」 「部長さん……私が加倉井に接近したのは、なんのためだと思ってらっしゃる?」 「……火遊び、じゃァないだろうね」 「ええ。宝田さんが、仕事をし易いためを思って、したことなんです」 「仕事をし易い?」 「はい」 「なんのことだ?」 「東西製薬の新製品の宣伝を、〈東京エージェント〉に担当させて下さるためには、社内的にも、いろいろと工作が必要ですわ……」 「ふむ」  彼は苦り切った顔になった。 「加倉井さんには、そのために接近したんです」 「この躰を、餌にしてか!」  宝田は突然、カーッとなって、女の頬を打った。バシッ! と強い音が、頬の肉を鳴らし、みるみる指の形が赤く浮き上って来る。  女は、沈黙したまま、彼を凝視していた。痛さに耐えている目の色である。 「失礼。つい、手が出てしまった……」  彼は詫びながら、 〈なぜ、愛してもいない彼女を、殴ったのだろう〉  と、反省した。  桂巴絵という女を、彼は決して愛してはいない。妻の多津子にはない、巧みな愛戯を、その躰を、彼は|貪《むさぼ》り取ろうとはしたが、愛していたのでは、決してなかった。  宝田に云わせたら、〈愛情〉とは、非常にエゴイスチックなものであった。  哲学者は、愛情には、二通りあると説く。一つは、アガペー的な愛であり、他の一つはエロス的な愛なのだそうだ。  アガペー的な愛とは、親が子供に対する、先生が教え子に対する、奉仕的な愛のかたちであった。つまり、反対給付を求めない愛なのである。  エロス的な愛とは、いわば男女間のそれであった。お互いに求め合い、奪い合う愛の姿である。  ……しかし、愛情とは所詮、独占するという感情の基盤に立つ、まことに利己主義的なものであった。  アガペー的な愛は、報酬を求めない愛情だというが、それは自分の子供であり、自分の教え子だから可愛がるのではないだろうか。自分の恋人だからこそ、凡てを与えても悔いないのではないのか?  他人の子供や、他人の恋人に、愛情を感じないのは、それが|自分の《ヽヽヽ》所有物ではないからなのである。  桂巴絵は、彼の恋人ではなかった。ただ、躰の交渉と、仕事上の|繋《つな》がりを持った女性にすぎない。彼の所有物ではなかったのである。  しかし、加倉井と別れろと云い、カーッとなって女の頬に平手打ちを喰わせた彼は、桂巴絵を独占しようとする危険な姿勢に立ちはじめていたことになる。 「痛かったかい?」  彼は、済まなさそうに云った。  女は首をふった。 「ううん……いい気持!」 「なんだって?」 「だって、宝田さんの、私に対する気持がわかったんですもの……」 「ふーむ!」  彼は低く唸った。  こんな場合には女性から、泣いたり喚いたりして、抗議して貰った方がいいのである。その方が、あっさり喧嘩別れできる。  でも、桂巴絵は怒らなかった。  彼女の方が、役者が一枚上であったのであろうか。 「あたし……もう、宝田さんとだけしか、こんなことはしませんわ」 「………」 「神様に、私は誓います」 「………」 「だから巴絵を、捨てないで!」 「………」 「新製品の宣伝は、この巴絵に下さい」  宝田十一郎は、女の頬を殴ったために、いま自分から底知れぬ沼の中に、ぐいと足を踏み入れたと悟ったのである——。  虎穴に入らずんば     一 「なんだって? 加倉井のあとに、宝田だって?」  ——井戸毅は、眉根を寄せた。  童顔が不意に、酒呑童子のような|険《けわ》しい顔に一変している。 「ええ、間違いありません。開発部長が帰る前に、宝田広告部長は、彼女のマンションに這入って行きました……」  興信所員は答えた。 「それから!」  井戸は、|苛立《いらだ》たしく呶鳴った。 「十五分後に、加倉井がエレベーターで降りて来たんです」 「加倉井ひとりか?」 「はい。宝田は、午前一時ごろ、ふらふらしながら、桂巴絵のアパートから帰って行きました」 「女は?」 「女の姿は、見えませんでした」 「加倉井部長がいるときに、宝田が訪ねて行ったんだね? 間違いないね?」 「はい、間違いありません」 「よし、わかった。今日、明日がヤマなんだから、しっかり尾行して呉れ。いいな?」  井戸は電話を切ったあと、苛立たしそうに煙草を探した。ズボンのポケットから、函のねじれたピースが出て来た。中には、一本しか残ってなく、それも|く《ヽ》の字に曲っている。 〈あの女……加倉井と宝田を、両手玉にとっているだけかと思ったら、平気で二人をアパートに呼び寄せている。加倉井—宝田という連合軍が、桂巴絵に味方していると、判断しなければならん!〉  彼は、唇を噛み、宙の一点を見据えていたが、火を点けたばかりのピースを|揉《も》み消し、交換を呼んだ。 「おい、車だ。すぐ出掛ける」  井戸毅が、車を走らせたのは、世田谷区成城町の篝千代子の邸宅だった。  白いペンキを塗った、荒い鉄の網の柵がめぐらせてあり、|蔓《つる》バラがその柵には|絡《から》んでいるような、童話にでも出てくる感じの邸宅である。  門の左手に、ガレージ用のシャッターがあり、大谷石の門柱の、ベルを|捺《お》すと、間もなく玄関の戸があいて、背の高い女の子がサンダルを突かけて、やって来るのが見えた。  先日、東洋テレビ局で、カメラ・テストを受けていた、混血のメリー・保富だということは、すぐわかった。 「どなたさまですか?」  彼女は云った。 「やあ、メリーさん。クラウン広告の井戸です。篝さん、いらっしゃいます?」  井戸毅は、親しそうな口を利く。これも商売上の、駆け引きの一つである。 「ええ、いますけど……」  混血娘は、少し赤味がかった長い髪の毛を、うるさそうに背中に|刎《は》ね上げた。 「そりゃァ良かった」  門が開いた。 「どうぞ……」 「ありがとう。実はメリーさん、今日は貴女にお願いがあって来たんですよ……」  彼は、玄関への石畳を歩きながら、メリー・保富を振り返った。 「あたしに、お願い?」  混血娘は、立ちどまる。 「そうです。良い話ですよ、とっても!」 「なんかしら?」 「まア、篝さんと一緒に、聞いて貰いますよ。これ……貴方にプレゼント」  井戸は上衣のポケットから、用意して来た品物をとりだした。フランス製の、香水の小瓶だった。  彼の机の中には、|咄嵯《とつさ》に間に合うようにガス・ライターだとか、純金のタイ・ピンだとか、真珠のブローチだとか、一万円前後の品物が納い込まれている。贈答用に使うためだった。  徳川時代に悪政を布いた田沼|意次《おきつぐ》が、次のようなことを云っている。 「人間は金銭や、贈物を好むものだ。相手の好むものを贈るのは、礼儀の一種であり、相手を喜ばせることになる。私には、|贈賄《ぞうわい》が罪悪だという意味が、どうしても合点できぬ。人を喜ばせることは、罪なのであろうか?」  と——。  いかにも収賄政治家らしい、大胆な放言であるが、井戸毅はこの田沼意次が、現代に生を|享《う》けなかったことを甚だ残念に思っている一人である。  相手の好む物を与える……ということは、取引き相手の心証をよくし、より関係を緊密にすることに役立っている。なにも贈賄、収賄という大袈裟なことでなくとも、酒好きな客とは酒を飲み、ゴルフ狂とはゴルフを附合い、バクチ・マニアとはバクチを楽しむ。それでいいではないか、と彼は思うのだ。  メリー・保富に、フランス香水をプレゼントしたのは、なにも贈賄の積りではない。ただ彼女に、好感を持って貰おう、と思ったからに他ならない。  ……彼は、先日の東洋テレビのカメラ・テストで、東西製薬の宝田広告部長が、メリー・保富をコマーシャル・ガールに、使おうと考えている意図を見抜いたのだ。 〈東京エージェント〉の桂専務も、映画スターの隈部亮二も、みんな篝千代子に接近している。井戸自身も、宝田が篝千代子をマークしている、と思い込んでいたのである。  しかし、宝田十一郎の関心は、意外なところにあった。篝千代子の家に、居候をしている混血娘——メリー・保富が狙いだったのである。  井戸毅は、今日、一気にメリー・保富と、クラウン広告との間に、専属契約を締結しようと策したのであった。  彼の頭の片隅に、篝千代子のマネージャーだという榧原春江の冷たい顔と、桂巴絵の顔とが、ダブって浮き上り、そうして消えた。 〈だが榧原女史は、この混血娘のマネージャーではない!〉  井戸は、そう心に呟きながら、玄関で靴を脱いだ——。 「いつぞやは、酒場で失礼しました」  彼は、笑顔のまま一礼した。  篝千代子は、セーターにスラックス姿であった。|黛《まゆずみ》と口紅だけを塗っている。スクリーンの彼女よりは、なぜか骨ばって、男っぽく見えた。化粧と、服装のせいかも知れない、と彼は思った。 「クラウン広告の井戸でございます」  |怪訝《けげん》そうな表情をしている女優は、低い声で、 「ああ、クラブ〈唇〉で……」  と云った。 「憶えていて下さいましたか」  彼は笑い、事務的に切り出した。 「実は、本日お伺いしたのは、篝さんご自身のことではなくて、こちらに御厄介になってらっしゃる、メリー・保富さんのことでございます」  そう云うと、どういうわけか、女優の表情に、パッと光が射して来た。 「まァ、メリーちゃんのことで?」 「はい。いかがでございましょう……東西製薬の方でも、そう申しておりますし、この際ひとつ、私共と専属契約をいただき、大いに売出させては頂けませんでしょうか……」  井戸は、篝千代子の瞳を凝視していた。女優の瞳には、複雑な感情が揺れ動いているのが、彼には看て取れた。 〈なにを、彼女は動揺しているのだ? メリー・保富は、居候だし、彼女がゼニを稼げるようになることは、大歓迎ではないのか?〉  篝千代子は、キングサイズの外国煙草をとってためらいがちにライターの|焔《ほのお》を近づけている。 「いかがでございましょうか……」  井戸毅は、卑屈に云った。 「つまり、メリーちゃんを、広告代理店の専属タレントにしたい、というわけ?」  厳しく、女優は彼を見た。 「そういうわけです。もっとも、コマーシャル部門に限ってですが」 「他には出演させないのね?」 「いいえ。ご本人さえ、よろしかったら、映画でも、テレビでも、こちらで幾らでも御膳立ていたしますが」 「それは、困るわ!」  ピシリ、と打ち返すような、篝千代子の口吻であった。井戸は首を傾げた。 「は?」 「メリーちゃんを、映画や、テレビに出すのは御免よ……。そうでなくとも、芸能界には悪い虫が、ウヨウヨしているんだから……」 「なるほど」  井戸毅は、そんな篝千代子の云い方から、彼女が単なる居候というより、もっと親身になって、メリー・保富のことを心配しているのだと察し取った。 〈あの二人……一体どんな関係なのだ? まさか、篝千代子の隠し子では……〉  井戸は大きく頷いてみせた。 「わかりました。そういった点でも、メリーちゃんがクラウン広告の専属タレントということになれば、外部からの誘惑を、避けられると思います。その点、私が自信をもって、保証しますから……」 「そうね。そうして頂かないと、あの子はまだ、子供だもの……」  うっとりとした口調で女優は云い、|矢庭《やにわ》に訊いた。 「東西製薬さんとは、話は済んでいるの?」 「はあ。メリーさんが契約して下さいますと、自動的に、私の方から出演料を……」 「契約金は?」 「その点でございます、ご相談申し上げたいのは……」 「と、云いますと?」  篝千代子は、脚を組んだ。 「かりに貴女が、私共と契約して下さいますのなら、契約金も、五百万、七百万といった金額を惜しみません」 「………」 「しかし、メリーちゃんの場合、こんどが最初ですので、契約金は三十万円で一年更新、出演料はその都度……ということで、いかがでしょう?」 「月二万五千円の専属料ね?」 「はい。悪くない契約だと思いますが」 「少いみたいな感じだけど……」 「そうでしょうか?」  井戸毅は、話題を変えて、他から攻める作戦をとった。 「失礼ですが、篝さんは、〈東京エージェント〉と、仮契約をなさったそうでございますね?」  女優の顔が、さッと変った。  篝千代子は、しばらく彼を見詰めていたが、喰いつくように云った。 「あなた……いま、何と仰有って?」 「篝さんが……」  井戸は、微かに口ごもった。 「ある広告代理店と、専属の仮契約をなさったと……」 「それは、嘘です」 「はあ?」 「|出鱈目《でたらめ》ですわ」 「でも、たしかマネージャーの榧原さんの口から、そう聞きましたが?」  彼は云った。 「榧原の口から?」 「はい。二、三日前です」  篝千代子は、目を吊り上げた。 〈ふむ! こいつは、面白くなって来たわい!〉  井戸毅は、今日、とつぜん彼女の家を訪ねて来たことを、内心、幸運だったと思いはじめた。いや、奇襲戦法によって、彼は予想もしない拾い物をしたことになる。  篝千代子は、自分に知らせもしないで、マネージャーが、一方的に、そんな契約を結んだと知って、カンカンであった。 「私は許しません! 榧原ったら、ちかごろ増長して!」  とか、 「クビだわ。今日から、クビだわ!」  などと口走ったりした。  井戸毅は、榧原春江を|庇《かば》うような口を利きながら、しかし契約した相手の〈東京エージェント〉の悪口を云うのは忘れなかった。  直接、彼女のマネージャーの悪口は云わないまでも、契約相手が悪質な代理店だということになれば、間接的に榧原春江を|誹謗《ひぼう》することになる。  ……篝千代子は、次第にヒステリックな言動を、とるようになっていた。 「井戸さん。貴方はどう思います? あの人は、私のマネージャーよ。私に相談してから、仕事のスケジュールを決めたり、ギャラの交渉をするのが、マネージャーの仕事じゃありませんか!」 「ご尤もです。私も、そう思いますよ」 「本人の意志を尊重しないマネージャーなんて、マネージャー失格だわ。そう思いませんこと?」 「でも、榧原さんは、貴女のことを思って、仮契約したのかも知れませんよ?」 「とんでもない。あんな、ふしだらな女、今日限り追放だわ!」 「これは……どうも悪いことを、お耳に入れたみたいですな」  井戸は、殊更、恐縮したような表現をしてみせた。  篝千代子は、首をふった。 「あたしは、あの人のロボットじゃありません。あんな|汚《けが》らわしい女の……」 「汚らわしい?」  反射的に、彼は叫んだ。すると、女優の表情に、狼狽の色が走った。 「なんのことです?」 「なんでもありませんわ」  女優は立ち上って、大声で叫んだ。 「メリーちゃん! メリーちゃん!」  混血娘が、ドアの隙間から、顔をのぞかせた。 「なアに、お姉さま?」 「ちょっと、いらっしゃい」  メリー・保富は、応接室へ入って来た。そうして、甘えるような|仕種《しぐさ》で、女優の横に並んで坐るのだった。  見ていると、混血娘の左手は、ごく自然な形で、篝千代子の膝にかかっている。 〈おや?〉  井戸毅は、目を光らせた。二人の何気ない仕種に、正常な女性同士では|醸《かも》しださぬ、なにものかを嗅ぎ取ったのである。 「ねえ、メリーちゃん。あんた、この井戸さんの会社と、専属契約するのよ。よかったわね」  篝千代子は、隣の女性の瞳だけを見入っていた。その瞳の色には、なにか粘っこい体液の匂いが、潜んでいるようである。 〈ふむ! この二人……もしかしたら、同性愛では!〉  しかし、井戸毅は、そんなことは|※[#「口+愛」]気《おくび》にも出さず、|畏《かしこ》まった口調で一礼した。 「メリーさん、|宜敷《よろし》くどうぞ……」  混血娘は頷いた。プーンと、香水の匂いが漂ってくる。井戸は微笑した。 「お姉さまが、そう云うんでしたら、メリーは何でも……」 「有難うございます」  井戸は、二通ほど用意して来てあった、契約書を胸ポケットから取りだし、きわめて淡々と告げた。 「契約書を用意しておりますが、いかが致しましょうか?」  篝千代子は、はじめてメリーの手の置き場所に気づいたように、その左手をはずさせた。 「結構よ。サインで良いんでしょ?」 「はい」  井戸は、万年筆をとりだし、必要な事項を書き込みだした。万年筆を走らせながらも、この有能な連絡部長は、更につよく相手に攻め込むことを忘れなかった。 「いかがでございましょう、篝さん……」 「なァに?」 「もし、〈東京エージェント〉との仮契約に、ご不満でしたら、私共のクラウン広告社と、御契約いただけませんですか……」 「お宅と?」 「はい。私は、篝さんの連続ドラマを、かねてから作りたいと思っておりました。脚本、演出、すべて貴女のご希望に沿うよう、努力いたしますが……」 「みんな、初めはそう仰有るわね?」 「いいえ、篝さん……」  井戸は、きッと顔を挙げた。 「私を、そんな男と、お思いですか」 「失礼。貴方のことを、云ったんじゃァないんです」 「それはどうも。でも、御一考下さいませんでしょうか……」  すると女優は、切りつけるように訊いた。 「スポンサーは、どこ?」     二  井戸毅は、〈来たな!〉と思った。  篝千代子が出演を承諾してさえ呉れたら、さほど労せずして、スポンサーがつくことは明らかであった。  また、東西製薬にしろ、パンネにしろ、一晩でスポンサーにつける自信はあった。  だが、篝千代子を口説くためには、そうした正攻法では駄目だ……と、井戸毅は考えたのだ。いや、それは考えるというよりは、むしろ一種の勘——長年、公告代理業界で働いているあいだに身に備わった職業的な勘だったのかも知れない。 「スポンサーは、どこ?」  篝千代子は、低い声で、おなじ言葉を繰り返した。  井戸毅は、若白髪のあたりを、そっと指先で撫でながら微笑した。 「スポンサーは、決めてません」  彼の言葉を聞くと、女優の表情に、ある|蔑《さげす》みの色が浮かんだ。 「決めてない……。そう。そんな、アヤフヤな話なの……」  彼は、強くかぶりを振った。 「違います。これほど、確かな話はありません」 「あら、どうして? スポンサーも決めないで、連続ドラマの撮影ができて?」 「はい。スポンサーをどこに決めようか、などというような、不確実な話ではないのですよ。篝さん……」 「それ、どういうこと? よく判らないんだけれど」 「実は、スポンサーを決めなくとも、クラウン広告社の自主製作映画として、篝さんの主演ドラマを考えているんです」 「まア……代理店のサスプロなの?」 「はい。私共は、篝さんさえ乗り出して下さるなら、たとえ赤字出血でも、ぜひ共……という覚悟なのでございます」 「ほんとう……」  そのときだけ女優は、瞳を妖しくキラッキラッと輝かせた。 「嘘は申しません。いかがでございましょうか。クラウンと契約いただけますか?」  篝千代子は、ゆっくり立ち上り、 「メリーちゃん」  と甘ったるく混血娘の名を呼んだ。 「なァに?」  長い髪の毛を、かるく揺すり上げつつ、メリー・保富は篝千代子を見上げている。  その互に見交わす二人の瞳の色に気づいたとき、井戸毅はとつぜん、はッ! と胸を衝かれる思いがした。  メリーの眼は、なにかを恋する者の、幸福感に溢れた眼の色だったのである。 〈この二人は、同性愛だ!〉  井戸毅は、その二人の女性に、今こそハッキリと、確信をもってある秘密の匂いを嗅いだと思った。 〈そうか……。そうだったのか!〉  彼は、正常な人間であって、いわゆるホモというものを知らない。しかし、中学生のころ、同性の可愛い級友の躰を、力一杯、抱きしめたいという、奇妙な衝動に駈られたことはある。  だから、同性愛などという感情は、そんな幼い日の記憶の、延長線上にあるのだとは思っている。女性の場合には、どんな愛し方をするのかは知らない。しかし、それが同性同士であるという点をのぞいては、すべて男女間の恋愛と、大差ないものだと聞いていた。  従って、メリー・保富と、篝千代子とは、恋愛関係にあり、恋人同士なのだと、考えてよいことになる。 〈二人が恋人同士だとしたら、どちらか片方を攻めれば、いとも簡単に陥落する……〉  井戸毅は、目を細めながら、二人を|見戌《みまも》った。 「あなたはクラウンの専属になったわけよね?」  篝千代子は歌うように云った。 「ええ……そうね」 「あたしも、メリーちゃんと一緒になろうかしら?」 「そうなさいよ、お姉さま……」  すかさず井戸は、口を挿し挟んだ。 「そうですとも! そうしたら、メリーさんも安心だし、二人で共演のプランも立てられるんじゃないですか……」 「二人で共演?」  また、キラリと篝千代子の瞳が光った。 「お気に召しませんか」 「いいえ、面白いわ」 「こんなことを、素人の私が申し上げては、変なんですけれど、メリーさんは、女優としても、有望だと思うんです」 「ええ。私も、そう思うわ。まだ年齢的に云って、少し早いけれど」  篝千代子は、メリー・保富を賞められると、なぜだか心から嬉しそうな表情をした。恋人を賞められて、腹を立てる人間はいないように——。 「篝さん……」  彼は、ここぞと膝を進めた。 「いかがでしょう。契約金の点は今夜にでも決定するとして、私共と専属契約をして頂けないでしょうか」  篝千代子は、しばらく考えていたが、 「メリーちやん、ブランデーの瓶と、グラスを持って来て頂戴」  と云った。 「まァ、朝からお酒を?」 「いいのよ。持って来て。井戸さんと二人で、乾杯をしたいのよ……」  篝千代子は、意味あり気に、彼を見詰めると、|眩《まぶ》しそうな瞳の動きをみせた。 「……その、メリーとか、マリーとか云う混血娘を、東西製薬がコマーシャル・ガールに使うというのは、確かなんだね」  徳力専務は、シナ|胡桃《くるみ》をひとしきり、ガチャガチャと鳴らしてから、鼻脂をこすりつけている。 「九〇パーセント確実です」 「だったら、構わんだろう。で東西製薬の方には?」 「まだ、伝えていません」 「こちらが専属契約をしたというので、宝田部長がツムジを曲げるようなことは、ないだろうか?」 「多分、大丈夫だと思います……」  井戸毅は、一瞬、目を宙に据えたが、キッパリと答えた。 「もし何かあっても、私が巧くやりますから……」 「契約金は、三十万円だね?」 「はい。その通りです。高すぎましたか?」 「いや、そんなもんだろう」  徳力は、胡桃を薄い羊の皮で、きゅっ、きゅっと磨きだした。飴色に輝いているその胡桃の実は、帯留めに使っても可笑しくない位、美しい光沢を放っている。 「問題は……篝千代子だな」 「そうです……」  井戸は大きく|頷《うなず》いた。 「しかし、彼女がテレビに初出演ということになれば、マスコミはきっと大きく取り上げるでしょうし……スポンサーとしても、大きなパブリシティになりますよ」 「それは君の云う通りだ……。でも、契約金の額による」 「専務は、どの位なら適当だと、考えられますか?」 「高校野球の選手に、二千万、三千万の金を積む世の中だからなあ……」 「しかし、そんなに出せないだろうと思いますが」 「もちろんだとも!」 「せいぜい一千万円……」 「出せるか?」 「二年契約としたら、一カ月にたった四十二万円弱です……」 「ふーむ」 「一カ月が四週として、一週あたり約十万円なんですが」 「そう云われると、あまり高くない感じだなあ」 「でしょう? しかも、一時間ドラマだったら、ぐっと割安になりますよ」  井戸毅は微笑した。  専務の徳力は、彼に目をかけて呉れている。彼の我儘を、かなり認めて呉れた上で、思い切った仕事をさせて呉れている珍しい上司であった。  士は己を知る者のために死す——という|諺《ことわざ》がある。徳力専務は、その意味で、実に人使いの巧みな人物だった。部下の能力を見極めた上で、責任のある仕事をさせるのだ……。  人間は面白いもので、上司から実力を認められて抜擢され、責任を負わされると、実力以上の働きをする。井戸の場合が、そうであった。  井戸はときどき、現在のサラリーマン、特に若い人達は不幸だと思うことがある。入社する前から、自分がどの程度の昇進ができるか否かは、漠然とだが判っている。重役になれるか、否か。部長になれるか、課長止りかも……。  なにしろ、退職金の計算まで、すんなりと出来るのだから寂しい。  これは年功序列制度や、完全雇用制度などのもたらした一弊害だとは思うのだが、なぜ能率給制度を採用しないのだろうかと、彼には不思議で仕方がなかった。でなかったら、アメリカのように、腕の良いサラリーマンを、どんどん他の会社が引き抜く……という習慣を、つくればいいのである。次から次に、会社を移るサラリーマンは、優秀なのだ……という考え方を、世間の人々に持って貰いたい、と彼は思っている。  また、入社して十年間たったら、一応サラリーマン十年選手として、どこの会社にでも移籍できる資格を与えたら、どうだろうかと井戸は考えたりしている。つまり、野球選手と同じで、どこからもトレードできる状態になるわけだ……。むろん、トレード・マネーの多い会社に、移ればよいのである。 「一千万円か……。しかし、やはり大きいなあ」  徳力は、胡桃を羊の皮にくるんで、机の抽出しに納い込むと、ゆっくり腕を組み、椅子の背に頭を|凭《もた》せかけた。 「スポンサーの説得役は、私が引き受けますが……」 「スポンサーより、社内だよ。それに篝千代子自身だ……」  徳力専務は、手を伸ばしてブザーを鳴らした。井戸は頭を下げた。 「専務。お願いします」 「うむ。社長が何というかな?」 「それは、専務次第ですよ」  彼は微笑した。  クラウン広告社の社員たちの間に、徳力—井戸ラインという言葉があるのを、彼自身も知っている。  仕事のために、強引な手を打つ井戸連絡部長は、いわば憎まれ者だった。しかし、それはそれでいい。彼自身、〈文句があるなら、仕事で来い!〉と思っている。  たとえ一千万円の契約金を積んでも、二年のあいだには、篝千代子を使って、五千万円以上の利益をあげれば、文句はない筈なのである。  しかし、それも会社が篝千代子の契約金を、思い切って出して呉れての話であった。宝クジだって買わなければ当らないのだ。会社が、それを認めて呉れなかったならば、篝千代子を使っての画期的な連続ドラマも、成立しないのである——。  午後六時に、赤坂の料亭で落合う約束になっていたのに、篝千代子は七時すぎても、姿を見せなかった。  成城町の自宅に電話をしてみると、午後四時ごろすでに、車で家を出ている。 〈変だな……逃げられたかな?〉  井戸毅は、やきもきしはじめた。  午後八時には、東西製薬の宝田広告部長と、銀座の〈A&B〉というクラブで、会う約束がある。  宝田十一郎に、篝千代子と、メリー・保富の二人と、クラウン広告社が専属契約を結んだことを報告しようという肚だった。|搦《から》め手から、事前に工作しておく積りなのだ……。  しかし、一時間経っても、肝腎の女優がやって来なければ、契約どころではない。  流石に徳力専務も、不機嫌になって、先刻からアイス・ウォーターばかりを、口に含んでいる。  井戸が四度目の電話に立ったとき、玄関から華やいだ仲居たちの声が聞え、彼をホッとさせた。一時間二十分の遅刻である。 「お着きになりました……」  廊下の途中で、仁王立ちのまま待っている彼に、仲居が小走りに駈けて報告に来た。 「御免なさい……」  篝千代子は、黒メガネをとりながら、彼に挨拶した。 「心配してました」  メリー・保富が、ぴょこんと兎のように頭を下げている。 「マネージャーと喧嘩してたの」  女優は、彼の耳許に囁くのだった。 「え、榧原さんと?」 「ええ。驚いたわ……」  座敷に入り、専務を引き合わせた後、井戸毅は急いで質問していた。 「それで……どうなったんです?」 「驚いたことにね……榧原ったら、〈東京エージェント〉の専務から、百万円受取っていたの」 「仮契約で、百万円……」 「そうなのよ……。人に断りもなしに、勝手すぎるでしょ?」 「それはちょっと、無茶ですなあ。そのお金は?」 「父に渡したと云うの」 「ほほう……」 「父は、事情を知らないもんだから、そのお金で那須に土地を買ったと云うのよ……」 「堅実じゃないですか……」 「なにが堅実なもんですか。権利書の名義は、榧原になってるんだもの……」 「へーえ、駭いたなあ」  俳優のマネージャーが、出演料その他を使い込むという話は、よくあることであった。しかし、今度の場合は、仮契約金がマネージャーの手から、俳優の父親に渡り、その父親の手で不動産が購入されていたことに、問題がある。 「なぜ貴女の名義なの、と聞きますとね。ケロリとして、税金逃れのためです、なんて云うんです。憎たらしいったら、ないんですの」  よほど口論したらしく、篝千代子はまだ昂奮の醒めやらぬ面持ちである。 「それはとも角として、〈東京エージェント〉の方は、どうなったんです?」 「土地を売って、仮契約金を返し、契約書を破るように云いましたの」 「そうですか!」  井戸毅は、頭を深く垂れた。 「ありがとうございます!」  徳力専務も、それに|倣《なら》った。 「さっそくですが、契約金は先刻申し上げた額で、よろしいですね」  井戸は直ぐ切り込んだ。 「いかほどでしたかしら?」  女優は空とぼけてみせる。 「あとで税金のかからない契約金を、こちらで工面するとして、取りあえず七百万円……」  彼は、息を詰めた。 「あら、八百万円ではございません?」  篝千代子は、床の間を振り返って、掛軸を眺めたりしている。 「井戸は、八百万円と申しましたか?」  徳力が訊いた。  女優は、混血娘の顔を見詰めながら、「じゃァなかったかしら?」と云った。  このあたり虚々実々の駈け引き——とでも表現したいようなシーンである。  井戸は、姿勢を正して云った。 「篝さん。私共としては、赤字を覚悟なんです。それでも踏み切ったのは、徳力専務以下、みんなが貴女の大ファンだからなんですよ……。わかりますか?」  篝千代子は、微かに狼狽した。 「それは有難いと思いますわ……」 「無理なお願いかも知れませんが、後日かならず、この埋め合わせは、井戸が致します。どうか一つ、七百万円で……」  彼は、テーブルに額を擦り付けた。 「この通り……この通りです」  井戸毅は、わざと頭を上げなかった。 「メリーさん。貴女からも、お姉さまに口添えして下さいよ……」  彼は、その姿勢のまま、メリー・保富にも訴えかけていた。  ——不意に、含み笑いの声がしだした。篝千代子の声であった。 「負けたわ、井戸さん……。貴方の仰有る通りで、オーケイよ。でも、注文をつけさせてね……」     三  会社には、まだ瀬木、吉田の二人の次長をはじめ、第一連絡部の全員が、吉報を待ち|侘《わ》びている筈であった。  井戸毅は手洗いにでも立つような素振りで、そっと座敷を出ると、空いた座敷に入って、クラウン広告社に電話を入れた。交換手はすでに帰っており、直通電話しかないので、気楽であった。 「ああ、瀬木君か……。万事オーケイだ。だから企画は、第二案の方で頼むよ……」  彼は、言葉少なに云った。  篝千代子を専属タレントにした場合と、そうでない場合の、二つのプランを考えてあったのである。 「わかりました……。強く打ち出して、良いですね?」 「ああ。思い切って、篝千代子アワーなんて云う名称を、使った方が良いんじゃないかなあ」 「一時間ものですね?」 「うむ。東西製薬としては、パンネとの対抗上、スポンサーの相乗りは嫌うだろうが」 「それで、ドラマの原作は?」 「視聴者から、希望の作品を、募集するというのは、どうだろう?」 「なるほど。隈部亮二じゃないが、マーケッティング・リサーチ方式ですね?」 「いかなるプランも、早い者勝ちだよ。篝千代子のテレビ初出演。視聴者が決める主演ドラマ。堂々一時間の、単独スポンサー……。もっと他にないか?」  井戸毅は、人ッ気のない座敷の片隅で、大きな指を折っている。 「考えてみますよ、部長!」 「頼むよ、きみ……。それから企画会議は、ホテルを使うんだね、和室のあるホテルを……」 「徹夜になりそうです」 「構わん。そこに泊り込みでやってくれ。伝票は、いつものように」 「部長は?」 「このあと、宝田部長と〈A&B〉で会う」 「ホテル……覗いて呉れるのなら、〈A&B〉に連絡しますが」 「そうだな。落着き先が決まったら、電話だけ呉れ。八時には行っている」  井戸は電話を切ったあと、しばらく腕を組んで、床の間の掛軸に見入っていた。山水画に心を魅かれたのではない。  彼の頭の中では、〈東京エージェント〉の女専務の、どことなく演技の匂いのする、愉悦の声が揺らいでいたのである。  あの夜、桂巴絵は平然と、彼に躰を投げかけて来た。  それはまるで、娼婦のような素直さなのであった。  口説きの言葉も、ある種の|羞《はじ》らいも、彼女には必要ではなかった。ごく自然に、恋人同士のような雰囲気で、桂巴絵は彼の目の前に、その小柄だが引き締った裸身を、曝したのである。 〈あの女狐め……〉  井戸毅は、立ち上って座敷を出ると、篝千代子とメリー・保富を招待している席に戻った。  宝田広告部長は、新製品のコマーシャルに、混血のメリーを使いたい意向である。それはこの間の、カメラ・テストの並々ならぬ真剣な表情で、井戸にはピンと来ている。  その混血娘と、専属契約したクラウン広告社は、宝田十一郎にとっては、無視できない存在となる筈であった。  しかも徳力専務の果断によって、電光石火のごとく、メリー・保富とただならぬ仲にある大女優をも、手中に収めたのだ……。  これだけ手を打ってあれば、企画の点では完璧であろう。  篝千代子のマネージャーが、仮契約で百万の金を受取っている様子だが、法律上のマネージャー契約はとり交わしていないので、さほど気に病むこともあるまいと考えられた。  ……あと警戒しなければならないのは、むしろ東西製薬の内部事情であった。  開発部長の加倉井と、広告部長の宝田とに喰い入っている、桂巴絵が果して、どのような秘密兵器を抱いていることか……。 〈ネーミングは、あれで良かったろうか?〉  井戸毅は、腕時計を眺め、そろそろ立ち上らねばならぬ時刻だと悟った。 「篝さん……」  彼は、微笑しながら、クラウン広告の檻に入れられた大女優を見詰める。 「なァに?」  篝千代子は、疲れたような|声音《こわね》だった。マネージャーと喧嘩をした|所為《せい》であろうか。 「東西製薬の、宝田部長と約束がありますので、私は失礼します」 「あら、それは残念ですわ」 「しかし宜敷かったら、後程お目にかかりたいのですが」 「そーお?」  彼女は、傍らの混血の少女をみた。 「メリーちやん、どうする?」 「あたし、踊りに行きたいの」 「そう。では、ナイトクラブにでも、連れて行って頂こうかしら?」 「畏りました。専務……あとで、連絡いたしますから……」  井戸毅は、座敷を出ると、玄関に歩いて行った。  靴を|履《は》きながら気づいたのだが、彼はビールを二杯ぐらい口をつけただけで、運ばれた料理には、なにも箸をつけていなかった。  ……来年度のナイターの、獲得合戦がすでに始まっていた。  はっきり云えば、シーズンの終り頃から、ペナント・レースの始まる一カ月前——つまり三月初旬には、もうナイターのスポンサーと、ステーションの放送組合わせとは、決定していることになる。  井戸毅は、東洋テレビの|熊生《くまお》営業一課長から、東西製薬の宝田が、ナイターに異常な関心を持っていることを教えられていた。  東西製薬では、何度もナイターに名乗りを上げ、その都度、失敗していた。  ナイターは確実に視聴率の高いテレビ番組である。だからスポンサーは、ナイター目がけて殺到する。  しかし、ナイターの場合、一番手に立ったスポンサーは、どうしても|曝《さら》し物にされ、|潰《つぶ》されるケースが多いのだった。  なぜなら三番手あたりのスポンサーを抱えた代理店が、一番手のスポンサーの宣伝担当者や、テレビ局を両面から揺さぶり、|軋轢《あつれき》のタネを|蒔《ま》くからである。 「一番手のスポンサーは下りるらしい」 「あの局は、一番手スポンサーには、料金をダンピングしたらしい」 「予算が苦しくて、他局へ乗り換えるそうだ……」  といった、奇々怪々な情報、デマが業界に乱れ飛びはじめると、テレビ局としても捨てておけず、打診をかねて、ナイター料金の値上げを、一番手スポンサーに申し入れたりするわけだ。  三番手スポンサーを抱えた代理店としては、ただ他のスポンサー達と、テレビ局との間にトラブルを起し、喧嘩になるように仕向ければ良いのだった。腹を立てて、一番手あるいは二番手のスポンサーが、本当にナイター番組から下りれば、そのあとにスッポリ自分のスポンサーを、穴埋めという有利な条件で押し込むことができるからである。  もっとも、スポンサーが取引きしている広告代理店は、一社ではない。  東西製薬は従来、〈電報堂〉の一社扱いにしていたから、弱かったのだ。新広告部長の宝田は、その弊害を認めて、新製品の発売に際して、新しい広告代理店を入れようとしている。  むろん、電報堂としては、他社を入れまいと、盛んに裏工作をしていることであろう。  だからその意味での、布石をしておく必要はあった。  東西製薬が、その新しい女性の生理用品に、どれだけの広告宣伝予算を組んでいるのかは、明らかにされていない。  しかし井戸毅の見た所では、少くともテレビ部門宣伝費の、三〇パーセントは新製品に投入されるものと考えられる。  この三〇パーセントを、ネーミングと宣伝プランとで、一社で独占できるのだから、これは大きかった。  そのほかに、これを|橋頭堡《きようとうほ》として、残りの七〇パーセントを独占している、電報堂の仕事にも大きく喰い込める利点が生れてくる。  それには矢張り、電報堂と、宝田の前任者である広告部長が果し得なかった、ナイターの獲得がポイントになる。  ナイターといえば、どうしても矢張り、伝統のある〈東洋テレビ〉ということになるのであった。 〈熊生と近いうちに、飲んでおく必要があるなあ……〉  井戸毅は、銀座に向かうハイヤーの中で、そんなことを考えている。  彼に云わせたら、広告のセールスとは、大きな投網を打つようなものであった。  せっかちな、商売の下手な代理店ほど、一本釣りにかかる。竿をみせ、糸と|鉤《はり》をスポンサーの目に曝し、しかも餌までを見せつけて釣りにかかるのだ。これでは、スポンサーが逃げるのも道理であろう。  単発のドラマとか、スポット広告の|類《たぐ》いならば、それでも良い。しかし、大きなスポンサーを、永遠に抱え込むためには、それではいけないのである。  広告代理店は、あくまで忍者でなければならぬ、というのが井戸毅の持論だった。そうして大スポンサーをキャッチするには、時間と金をかけて、網を打たなければ駄目だった。  スポンサーの担当者は、自分めがけて、網が投ぜられたということには、気づかないでいる。  しかし、徐々に、その網の存在に気づいたときには、もう相手の誠実なペースに、抵抗できなくなっているわけである。企画も大切だが、スポンサーの身になって、誠実に尽すことが、なによりもスポンサーの心を動かすことになる。  早い話が、その誠実さとは、東西製薬のために、難関と云われている東洋テレビの、ナイター番組を取ってやることであろう。  ——設備投資の行き過ぎと、過当滞貨にもって来て、こんどの金融引締め政策のために、軒並み業界は不況に陥っていた。  ある弱電メーカーなど、年間八十億を投じる宣伝費の、ほぼ一五パーセントが広告代理店の手数料に持って行かれるのを惜しみ、自社で広告代理店を経営しようという動きを示した位だから、いかに不況であるかがわかる。  証券界ですら、無配の発表をした会社ばかりで、わずかに景気のいいのが、建設、フィルム、自動車……といった部門であろうか。  ビール、医薬品などは、今のところ決して悪くはないが、スポンサーが代理店に支払う手形の期限が、百二十日から百五十日に延長されたところをみると、さほど好況の波に乗っているとも云えない。 〈とにかく喰い入らねば! すべては、その後の問題だ……〉  井戸毅は、失禁しそうな|苛立《いらだ》たしさを覚えながら、近づく銀座のネオンの海に、ぼんやり眼を投げかけていた。  宝田十一郎が〈A&B〉に姿をみせたのは、午後八時をかなり廻っている頃であった。連れが一人いた。宣伝課長の、若尾功である。  彼も大男だが、若尾はそれに劣らず、色の浅黒い体をしていた。 「いよいよ大詰めに来ましたな」  井戸毅は、若尾課長に話しかけた。まるで|他人《ひと》ごとのような、そっけない口調であった。 「ほう。自信満々ですな」  若尾は、かなり酒が入っている様子で、大きな声で笑っている。 「自信はありませんよ。ただ、お二人に喜んで頂けることがありますので、ご足労ねがったんです」 「ほう? 私たちが、喜ぶ?」  宝田部長は、チョッキのポケットから、なにやら薬みたいな包みをとりだし、その中身を口に含んだ。よくわからないが、黒い小さな乾物みたいな感じだった。 「なんです?」  井戸毅は興味をもって訊いた。 「精力剤さ」  若尾課長は説明した。  その宝田が口に含んだのは、|蝮《まむし》の肝を天日で乾し固めたものなのだそうである。これを一日に一つ飲むと、胃病にならず、しかも疲れ知らずだと云う。 「なるほど……」  井戸毅は、いつかの興信所の報告などを思い浮かべ、なんとなくニヤリとせずには居れなかった。桂巴絵は、仕事もそうだが、セックスにも|貪婪《どんらん》だったのである。  井戸は電話をかけに立ち、徳力専務から、赤坂の〈ゴールデン・スター〉に行く予定を聞くと、篝千代子たちの専属契約の件は、赤坂へむかう車の中で打明けた方が、少くとも〈A&B〉で|喋《しやべ》るよりは安全だ……と思い直した。  ブランデーを二杯ずつ飲み、待たせてあったハイヤーで、三人は目的のナイトクラブに向った。 「実は宝田さん……。ある会社が、お宅の企画の妨害を画策していることを、耳にしましてね……」  井戸毅は、助手席から振向いた。 「うちの妨害?」 「ええ。宝田さんは、新製品のスポット広告に、ある女性を使うご計画でしょう?」 「ある女性?」 「メリー・保富さんですよ」  後部座席にいる二人は、思わず顔を見合わせていた。 「耳が早いね」  と若尾がいうと、宝田はすかさず、 「妨害って、どんなことだね?」  と云った。 「彼女を横|奪《ど》りしようとした、スポンサーがいたんです」 「ほう?」 「むろん同業者ですが」 「ふーむ!」 「その情報をキャッチしましたので、独断で悪いとは思いましたが、メリー・保富を釘づけにしておきました」 「釘づけ? 釘づけとは?」 「クラウンの専属に、契約したんです。ですから、もう大丈夫ですよ……」  二人はまた顔を見合わせた。 「むろん彼女を独り占めにする気はありません。篝千代子さんも諒解の上で、契約させて頂きましたし……当分は、東西製薬さんにしか、提供しない心積りでおります」  井戸毅は、|人懐《ひとなつ》こい微笑を浮かべた。 「すると……うちのために、彼女を専属にしたのかね?」  疑わしそうな表情で、宝田はそう云ったが、急に頭を下げた。 「いや、有難う。一先ず、お礼だけは云っておかねばなるまい」 「とんでもありません。私の方としては、差し出がましいことをしたと、お叱りを|蒙《こうむ》るかと思っていました」 「………」 「でも、篝千代子さんと専属契約を結ぶ時でもありましたし、いわばメリーさんとは、ついでに契約して貰う形でして……」 「えッ、篝千代子を……」  若尾功は、大声を出した。 「高い契約金でしたよ」  井戸は低く含み笑い、 「まァ、いずれ彼女も、お宅のためになら、仕事をするでしょうから……」  と言葉を|濁《にご》した。 「きみ……本当に、契約したの?」  若尾功は、信じられない表情である。各代理店やテレビ局が、篝千代子を追いかけていることを、よく知っているからであろう。 「嘘は、云いません。これから行くクラブには、うちの徳力と、篝さんとメリーさんが、貴方がたをお待ちしていますから……」  沈黙が訪れた。  ハイヤーは、二人の沈黙を乗せたまま、そのナイトクラブの入口にすべり込んだ。  宝田十一郎を先に案内させて、井戸毅がクロークで、コートなどの預り番号の札をもらっているとき、若尾功が彼に近づいて来て、低い声でささやいた。 「井戸さん……一つお願いがある」 「なんです?」  彼は微笑した。 「実は……部長は、あの混血娘に|ホの字《ヽヽヽ》なんだよ。一度、とりもって貰えないかなあ……」  愕然たる表情     一  ——その日、桂巴絵は久し振りに、午前中を柔かいべッドの中で過した。眠るというほどの積極的な姿勢ではないが、べッドの中で、うつらうつらしているのは、良い気持である。こんなことは、〈東京エージェント〉をはじめてから、滅多にないことだった。  新聞記者なみに、夜討ち朝駈けスタイルで、朝は早く起きてスポンサーの自宅へ行き、夜は夜でスポンサーの接待に飛び廻って来た彼女なのである。  人間というものは、面白い心理を持っていて、他人がいる前では、|突慳貪《つつけんどん》にものをいったりする男でも、二人きりになると意外に親切で、情報なども呉れたがる。まして彼女の肉体に、野心のある男なら、二人きりになる機会を、待っているような素振りすら示すのだった。  大企業の宣伝担当の部長クラスになると、たいてい重役だったから、毎日、会社の車で送り迎えされている。  だが、その会社の車の中では、運転手の目と耳があるから、突込んだ話はできない。  だから彼女は、ほとんど毎朝のように、ハイヤーを仕立てて、広告担当の重役の私宅を訪問し、相手を自分の車に強引に誘い込むのであった。  郊外に自宅を持っている重役だと、都心までは、たっぷり一時間ぐらいかかる。この時間が貴重なのだった。  とにかく宣伝を担当している、直接の責任者を、朝のあいだ、たっぷり一時間も占領して親しくなれるからである。  車の中では、仕事の話は殆どしない。 〈東京エージェント〉に、広告を扱わせて下さいなどと決して露骨ないい方はしない。  仕事の話をするとすれば、その会社がスポンサーになっているラジオ、テレビの番組の評判とか、コマーシャルの批判とかであった。相手は、自社の番組については、必ず関心を抱いているから、彼女のそうした話題には、必ず耳を傾けるのである。  でも大半は雑談で、仕事に無関係なことが多い。ゴルフの話、高血圧と癌、小豆相場、政界人のスキャンダル、宝石、変った酒場、新聞社の内紛……。  桂巴絵は、相手を決して退屈させない。相手の好みそうな話題を、つぎつぎに繰り出して、相手を微笑させ、満足そうな瞳の色を浮かべさせる。  つまりは、自分という人間と、〈東京エージェント〉という会社名とを、相手に強く印象づけておけば、所期の目的は果したことになるのであった。  実は〈東西製薬〉の、加倉井開発部長も、この朝駈け戦術で、彼女が|懐柔《かいじゆう》した重役の一人なのである。  社長の葛原耕平の、娘を|娶《めと》った加倉井は、まだ四十二歳で、重役陣の中ではいちばん若い。  彼は、ハイヤーの中で、これ見よがしに膝小僧を|剥《む》きだしにして、脚を組んでいる彼女のポーズに、幻惑されたのであった。彼女はそれと知っていて、何度も脚を交互に組み変えてやった……。  加倉井は、女性の新しい生理用品をつくる計画を、すでに四カ月も前に、彼女に教えて呉れていた。宝田十一郎が、広告部長に就任する以前のことである。 〈午後三時に締切り、か!〉  桂巴絵は、ベッドに這入ったまま、そんなことを考えた。  すでに、二段構えで、各代理店の宣伝企画書を、盗み読みできるように、手を打ってある。残された問題は、提出してある〈東京エージェント〉の企画書と、今夜中に|遽《あわただ》しく作成する筈の企画書とを、公開までにどうやって擦り替えるか、ということだった。  彼女の会社には、優秀なプランナーが不足していた。重役陣を女性で固めているため、折角引き抜いたプランナー達も、先の見込みがないと思うらしく、一年か半年で辞めて行くのだった。  企画の勝負だったら、他社のように優秀な人材を抱えていない彼女の会社は、負けることは最初から目に見えている。  従って、負けまいと思えば、敵の裏をかく以外に、勝利の道はないのであった。加倉井紀彦も、宝田十一郎も、実は彼女の体当り戦術で、もう否応なしの土壇場にまで追い込まれた。  宝田は、広告部長という地位を利用して、各社の宣伝企画書を、自由に閲覧できる立場にある。ことによったら、金庫に格納せず、自宅に持って帰ることだって、可能なのであった。  彼女は、その夜八時に、宝田広告部長と都内のホテルで、落合う約束をしている。もし企画書を持ち出せなかったら、各代理店の考案したネーミングと、宣伝プランの抜粋を、彼女に話して呉れる筈である。  夜十時には、加倉井紀彦が、彼女のアパートのドアをノックする予定である。  加倉井は、各代理店の企画書を、 「社長に見せる……」  という口実で、金庫から持ち出して呉れる約束をしていた。  社長は、彼の|舅《しゆうと》だし、同じ邸内に加倉井は住んでいるのだから、社内では誰も彼の言葉を怪しまない。  要するに、今夜中に、敵のプランを知り、新しく企画書をタイプし直すだけで、彼女は勝てることになるのだった。  乏しい人間の、振り絞った知恵なんて、たかが知れている。それよりは、各社の優秀なプランを失敬して、それを基礎にアイデアをひねった方が、利口なのである。  ブザーの音がした。  彼女は首を傾げた。この時刻に、やって来る人間は、集金人なのかも知れない、と思った。  夜しかアパートに居ない巴絵は、週に三回訪ねて来る家政婦に家事のすべてを|委《まか》し切っている。  六十を越えた家政婦だが、実にこまめで、洗濯や掃除はもちろん、台所の隅に転がっている野菜を使って、風変りな漬物や、煮しめなどまで作って呉れるので重宝している。しかしその日は、彼女の来ない日であった。  桂巴絵はベッドからすべり下りると、ガウンを肩から羽織った。  また、ブザーの音がしている。  急ぎ足で玄関へ出て、 「どなた?」  と訊いてみると、外から、 「榧原です」  という、聞き憶えのある女の声が返ってきた。 「あら、どうなさったの……」  桂巴絵は、篝千代子のマネージャーの、肩を抱くようにして迎え入れた。榧原春江は、思いなしか蒼い顔色をしている。 「会社にお電話したら、午前中はお宅だと伺いましたので……」  女マネージャーは、なぜか|眩《まぶ》しそうな目付をしながら、おどおどした態度を示すのだった。 〈なんだろう?〉  彼女は、そう思った。しかしまだ彼女は、その榧原マネージャーの訪れが、自分の作戦の|蹉跌《さてつ》を伝えるものだとは、考え及びもしなかったのである。 「実は、これをお返しに伺いました」  榧原春江は、白い封筒をとりだした。 「あら、なァに?」  封筒を受け取り、中身を改めてみると、一枚の小切手が出て来た。〈一金壱百万円也。篝千代子〉と記入されてある。日付は、昨日になっていた。 「これ……どういうこと?」  桂巴絵は、立ったまま訊ねた。 「わけは、聞かないで頂きたいの」  女マネージャーは低く答えた。 「どうして? このお金は、この間私たちが取り交わした、仮契約の内金なんでしょ?」 「ええ……」 「それを黙って受取れ、と仰有るのは、契約をなかったことにして呉れ……という意味なの?」 「はい。その通りですの」 「榧原さん。貴方は芸能界で仕事してらっしゃるんだから、契約というものが、どんなものなのか、よくご存じでしょうね」  桂巴絵は、粘っこい口調で食い下がりはじめた。 「ええ、存じてる積りです。しかし、私に断りなしに、篝千代子本人が、ある代理店と本契約してしまったんですから……致し方ないんじゃありません?」 「えッ、本人が……」 「私はマネージャーであって、篝千代子ではなかったんですわ」  榧原春江は、不貞腐れたような云い方をする。その様子では、女優とマネージャーとの間に、なにか揉めごとがあったらしい感じである。 「どこの代理店と、契約したんですって?」  桂巴絵は、小さな衝撃を覚えていた。 「本人は云って呉れません。私には、干渉する権利がないんだそうです」 「ねえ、あんた。こんな|莫迦《ばか》なことってある?」  桂巴絵は、ようやく怒りの感情に、躰を包まれはじめていた。 「申し訳ありません……」 「あたし、何がなんだか、さっぱり判らないわ! |委《くわ》しく話して頂戴!」  彼女はナイトガウンのまま、ソファーに腰を下ろして、乱暴にライターを鳴らした。いつもなら一気に焔が出る卓上ライターも、その時だけは何故か火が点かなかったことも、苛立ちを誘っている。 「実は、桂さんの会社と、仮契約をしたことを本人に、まだ話していなかったんです……」  マネージャーは説明しはじめた。  桂巴絵は、|相鎚《あいづち》も打たず、やたらと煙草をふかし続けた。  十分ぐらいで、榧原春江の説明とも、弁解ともつかぬ言葉は終ったが、桂巴絵の胸の底には、得体の知れぬ口惜しさ、憤りが残っただけである。 「要するに、本人が知らない間に締結した〈東京エージェント〉との仮契約は破棄する、ということなのね」 「ええ。私が桂さんとの契約の方が、先口だと口を|酸《す》っぱく説明しても、駄目なんです……」 「そして、他の代理店と、専属契約をしたということなのね?」 「はい……」  榧原春江は、黙って頭を下げた。  桂巴絵は、このままでは引き退れない、と思った。意地とか、虚栄ではなく、自分を出し抜いた広告代理店だけに、旨い汁を吸われてたまるものか、という欲得ずくの気持からである。 〈どこだろう、一体……〉  彼女は、小切手を封筒に入れ、榧原マネージャーに示した。 「このお金は、受取れないわ!」 「えッ、どうして……」 「納得できませんもの。私は、篝千代子のマネージャーである貴女の諒解を得た上で、仮契約をしたのよ。その書類は、会社の金庫に入っています……」 「桂さん」  榧原春江は、困ったように、彼女の名前を呼んだ。しかし彼女は、それに構わず言葉をつづけた。 「私は、一方的に契約調印した篝さんを告訴します。人をなめるにも、程がありますわ。私は、やると云ったら、トコトンまでやる女なんですからね……」  会社に出勤したのは、午後三時だった。桂巴絵は、部下の男性社員から、篝千代子と結んだのは、〈クラウン広告社〉だと云うことを教えられ、思わず、 「畜生……」  という、下品な呟きを洩らしたものだ。  まさか、と思っていたことが、的中したからである。桂巴絵は、井戸毅の巨体と、大男に似ず上手だった|閨《ねや》のテクニックとを、記憶の中に甦らせながら、唇を噛みしめた。 〈でも、これでクラウン広告が、東西製薬の宣伝企画に、篝千代子を使おうとしていることが、ハッキリしたわ……。でも、どっこい、そうはさせないから!〉  彼女は、心の中で呟いた。  社長室を覗くと、社長の北大路玲子と、常務の森田昌江とが、書類をはさんで、なにかを語り合っている所だった。  華族の娘で、上品な言葉遣いと、優雅な物腰とだけがとりえの北大路玲子。代議士の娘だけあって、理屈っぽく、それでいて実務のできない森田昌江。  この二人は、給料に値するだけの仕事はしていない。  しかし血筋だとか、父親の肩書だとかが、〈東京エージェント〉の仕事に役立っている以上、二人をクビにする手はなかった。 「ご機嫌よう、桂さん!」  北大路玲子が云った。 「むずかしい顔をしてるわね」  と、森田昌江が云った。 「不機嫌にもなるわ。こちらが手金を打って、キャッチしておいた篝千代子がクラウンに鞍替えしたんですから……」  彼女は、簡単に事情を説明すると、北大路玲子に、弁護士を紹介して欲しいと告げた。 「告訴する気?」  二人は、口を揃えて訊く。 「その積りです。どう考えたって、こちらの云い分が、正しいと思うでしょ?」  桂巴絵は、二人が話題にしていたのは、今日、東西製薬に提出した筈の、宣伝企画書のコピーであると知り、〈おや?〉と思った。いつもなら、このお嬢さん重役たちは、そんな会社の仕事には、殆ど見向きもしないからである。 「なにを話してらしたの?」  桂巴絵は云った。 「この企画書よ……」  森田昌江が、肩を|聳《そび》やかすようにして、テーブルを指さしてみせた。 「あら。それが、どうかしまして?」  彼女は微笑した。 「こんな企画……誰が書いたのか知らないけれど、これで競争に勝てる訳がないわ」  森田昌江は云った。 「勝てない?」  桂巴絵は心の中で、二人を|嘲嗤《あざわら》った。なにも知らない癖に、と思った。 〈あんた達は、なにも知らないんだ。あたし一人が、苦労して、仕事の段どりをつけていることも!〉 「こんな、いい加減なプランじゃァ、負けるに決っているじゃないの」  森田昌江は、やけに攻撃的だった。  自分たちは資本家なんだし、重役なんだから、会社の仕事は大いに批判する権利がある、とでも云いたげな|口吻《くちぶり》である。 「大丈夫よ。これは|囮《おとり》の企画書なの……。もう一通は、今夜タイプして、東西製薬に提出するわ」  彼女は、自信たっぷりに答えた。 「もう一通とは、どういう意味?」  北大路玲子が反問した。 「秘密兵器よ……ウルトラCの」 「だって、企画書は、午後三時までで締切ったんでしょう?」 「その通りですわ」 「明日の午前十一時に、各社の企画書が公開されるんだったわね?」 「その通り……」  桂巴絵は、玲子の机の上から、外国煙草をとって、火をつけた。 「だったら、もう駄目じゃないの」  森田昌江が、極めつけるように云った。 「あら、明日の十一時までには、二十時間ちかく残ってますわ」  彼女がそう云って含み笑うと、北大路玲子が軽く|怯《おび》えたような表情で云った。 「桂さん、あなた……この間のような離れわざを、やってのける気でしたの?」 「ええ……。いけません?」 「駄目……駄目なのよ……」 「なにが駄目ですの?」 「離れわざは、できないわ……」 「えッ、できないとは?」  彼女は、顔色を変えた。 「さっき報告があったんだけど……ある代理店から強硬な申し入れがあって、各社の企画書は、明日あらためて、午前十時に提出されることになったんですって」 「ええッ、明日……十時……」  桂巴絵は、|愕然《がくぜん》たる表情で、病み|呆《ほう》けた患者のように、ただ口をパクパクさせた。  信じられない言葉を、聞かされたと彼女は、遠い頭の片隅で考えていた——。     二  桂巴絵は、ややあって、冷静さを取り戻したが、そのときの自分の感情が、どんな風に揺れ動いていたかを、彼女は記憶していない。  なにか胸の中で、白い煙と共に炸裂するものがあったのは事実だ。それと一緒に、彼女は灰色の断崖が、不意に音もなく|墜《お》ちる幻影を目撃している。  巴絵は唇を噛みながら、低い声で云った。 「もう一度、ハッキリ教えて欲しいわ」  と——。  北大路玲子が苦笑混りに答えた。 「午後二時半ごろ、うちの木島が東西製薬にこの企画書を届けに行ったんですって」 「ええ……」  彼女は|頷《うなず》いた。 「すると各社からも集っていて、宝田広告部長を吊し上げているんですってさ」 「宝田さんを?」 「そうなのよ」  森田昌江が、華族の令嬢の言葉を引き取って云った。 「明日の午前十一時に、一斉公開するのならば、今日すぐ一斉に発表して呉れ……と云うんだって」 「まあ、どこ? そんなことを、云いだしたのは……」 「電報堂あたりらしいわ……」  二人の話を綜合すると、結局つぎのような光景が、浮かび上ってくるのだった。  午後三時の締切りだったが、午後二時ごろには、競争する十社のうち、九社まで企画書は出揃った。  ふつうだったら、その儘、引き揚げるところだが、その日は様子が違っていて、電報堂あたりから、緊急動議が出されていた。  つまり、今日午後三時から、明日の午前十一時まで、二十時間もあるというのは、疑うわけではないが、企画が漏洩する|懼《おそ》れもあるし、また発表を待つ身には辛い。従って、本日即刻、各社の企画書を公開して貰おうではないか……と云う動議である。  これは理屈としては、ちゃんと筋道が通っている。宝田十一郎は、不意にそうした代理店側の要求を受けると|狼狽《ろうばい》し、次には憤然として叫んだ。 「私はスポンサーだ。スポンサーが決定した事項に、代理店の方々から、文句を云われるのは不愉快だ……」  と——。  この辺の宝田の、苦境に立ったその心理は、桂巴絵にはよくわかる。宝田としては、彼女のためにも、各社の企画書を一晩だけ自分の手許に留めて置く必要があったのである。  宝田は云った。 「私は、貴方たちから提出された企画書に、きちんと封印をしたではないか。翌日、その封印が破られていたら、そこで初めて企画が漏れたと、文句を云えばいい……」  しかし電報堂の担当者は、強硬であった。だったら、なにも二十時間も、金庫の中に寝かせておく意味がないではないか、と云うのである。  各社は、この電報堂の提案した、即時公開案に賛意を示した。  宝田は苦り切っている。  そこへ〈クラウン広告〉から、両者の意見を折衷した一案が提示された。  というのは、みんな約束通り今日の午後三時までに、宝田広告部長の手許に、こうして企画書を提出した。  そうして、部長から封印して貰った。だから企画書はそのまま持って帰り、明朝十時に再び集まろう。そのとき、封印が剥がれていたりしたら、その代理店は審査から除外される、と云うことにしようではないか——。  宝田広告部長は、渋々だったが、このクラウン案に賛成した。各代理店とも|漸《ようや》く納得し、提出して宝田が封印した企画書を、それぞれ持ち帰ることになったのだった……。  桂巴絵は、敗北を意識せずには居られなかった。完全なる敗北。  企画書が金庫に眠っている二十時間に、凡てを賭けようとした彼女の秘密兵器は、事前に各代理店に察知されていたのであろうか。  それとも彼女と同じようなことを考えた代理店が、他にあったのか——。 「わかって? 離れ技が出来なくなったって意味が!」  北大路玲子は、なぜか皮肉っぽい口調で云った。  彼女は、カーッとした。 「玲子さん!」  桂巴絵は、社長の名を呼んだ。 「貴女は、仮にも社長でしょ。私が、いろんな苦労をしているのが、わからないんですか?」  彼女にしてみたら、自分ひとりが孤軍奮闘しているのに、ザァます言葉でゴルフに熱中している北大路玲子の、非協力的な態度が肚立たしかったのだ。社長なら、少しは会社の仕事に、関心を持って貰いたかった。  専務である彼女の失敗は、それだけ〈東京エージェント〉に、マイナスを|齎《もたら》したことになるではないか?  しかし、北大路玲子と森田昌江とは、なにかお互いに顔を見合わせて頷き合い、不意に冷たい表情になると云った。 「桂さん。私達はね、男と|淫《みだ》らなことをしながら、商売をして貰いたくないの。私達までが、迷惑をします」 「えッ、なんですって?」  蒼白になる彼女の顔に、叩きつけるような森田昌江の烈しい罵声が飛んだ。 「桂専務! あたし達の会社が、パンパン・エージェントと悪口を云われているのを、知ってるの、知らないの!」 「まあ、誰がそんなことを……」  桂巴絵は、喰いつかんばかりに、|眦《まなじり》を吊り上げる。 「貴女がいけないんだわ!」  森田昌江は、彼女に負けず怖い顔をして、極めつけるように低く叫んだ。 「私が……いけない?」 「そうよ。手当り次第に、誰とでもホテルに行くからよ」 「手当り次第に? 森田さん!」 「証拠がないことは、云わないわ」 「えッ、証拠?」 「そうよ。胸に手をあてて、考えて御覧なさいな!」 「森田さん……」  桂巴絵は、〈こいつめ!〉と思った。  誰のお蔭で、この会社は、大きくなったというのだ……。なるほど、資金をだしたのは、玲子と昌江の二人だ。最初の仕事がとれたのは、二人の父親の威力と、玲子の家柄のせいだろう。マスコミに乗って、会社の名前がPRされたのも、社長と常務の奇妙なコンビがあずかって力があった。  それは、彼女も認めている。しかし、その後、会社の仕事を順調に発展させて来たのは、この私じゃないか。資本金も一千万円にしたし、売上げだって創業の年に較べると、百倍以上にふえている。スポット広告が多いが、決して赤字はない。  この私が、あの手この手と知恵をふりしぼって、スポンサー間を走り廻り、企画を考え、テレビ局の営業マンに贈物をし、ときには誘惑するからこそ、資本金一千万円の広告代理店が、社員を抱えて、ほそぼそと生き長らえているのではないか……。  桂巴絵は、太い血管が幾つも音を立てて切れ、|赤漿《せきしよう》がどッと胸腔の中に、溢れて来るのを知った。自分をパンパン呼ばわりして、平然としている目の前の二人を、許しておけぬと、彼女は思った。 「云っていいことと、悪いこととあるわよ」  桂巴絵は、二人を睨み据えた。  自分でも、恐ろしい形相になっていることは、知っている。しかし、そんな自分の顔のことに、|拘泥《こうでい》している余裕はなかった。 「あら、なんのこと?」  森田昌江は、玲子という味方がいるものだから、鼻白みながらも負けずに云い返している。 「あなた……いま、何と云って?」 「貴女のために、我々までが、迷惑していると云ったのよ」 「それから?」 「少しは私生活を、慎んで貰いたいと云ったのよ」 「証拠があると云ったわね?」 「ええ。云ったわ」 「そう。証拠をみせて。私がいつ、どんなことをしたの?」 「………」 「もし仮に、そんなことをしたとしても、それは私自身のためではないと、前にも申し上げてある筈よ」 「それは、聞いたわ」 「だったら二人とも……」 「ちょっと待って!」  北大路玲子が、二人の間に飛び込むように口を|挿《はさ》んだ。 「あたし、桂さんに申し上げておきます」 「なにを?」 「男と不潔なことをしてまで、会社の仕事をとって貰いたくない、ということだわ」 「まァ、不潔ですって!」 「そうよ。不潔よ」 「貴女は、華族さまだから、不潔なのね。あたしは、そうは思わないわ」 「桂さん、男と女のあのことは、愛し合っているからこそ許されるんだし、だから清らかなのよ!」 「社長はたしか、カソリック教徒でしたわね?」 「それ、皮肉ざますの?」 「皮肉でも、何でもいいわ。私が云いたいのは、証拠もなしに、風評だけで、私のことをとやかく云って頂きたくない、ということ」 「ちょっと桂さん!」  森田昌江が低く制止した。 「なによ?」 「証拠を、お見せするわ」 「ええ?」 「私や玲子さんが、噂や風評だけで、親友の貴女に、そんな忠告をすると思うの?」 「………」 「玲子さん。あれを出してよ」  昌江が云うと、北大路玲子は壁際まで歩いて行き、静かに金庫のダイヤルを合わせはじめた。ストッキングの縫い目が、女優のように靴の踵から一直線に、スカートの奥に伸びている。バック・スキンの良い靴を穿いているが、おそらく向うの製品であろう。 〈あの靴だって……〉  と、桂巴絵は|歯軋《はぎし》りした。 「これよ……」  北大路玲子の手には、細長い封筒が握られていた。封筒の下部に、××興信所という文字が印刷されてある。 〈あッ……〉  巴絵は、宝田十一郎の言葉を、|咄嗟《とつさ》に甦らせていた。たしか宝田は、興信所から怪電話がかかって来たとか、話していたのである。 〈すると私のことを尾行させたのは、この二人だったんだわ!〉  紙のように白くなって立ち竦む彼女に、止めを刺すかのごとく森田昌江は告げた。 「私たち……この書類をみたときには、信じられなかったわ。だって毎晩、違った人を相手にしているんですものね。しかも駭いたわ、貴女とクラウンの井戸連絡部長とが、ツーツーの仲だなんて! 貴女……クラウンから引抜きの交渉があるって、本当なの?」  思えば、世の中とは|摩訶《まか》不思議なものであった。  一時間前までは、親友同士で、お互いに会社の重役であり、仕事のことについて、なごやかに語り合っていた三人なのである。それがちょっとしたことから、巴絵の私生活を攻撃することになり、たちまち戦線が拡大し、最後には決裂——ということになってしまったのだ。  巴絵にしてみたら、宝田十一郎を誘惑したのも、加倉井紀彦に抱かれたのも、井戸毅とホテルヘ行ったのも、それぞれ目的があってしたことなのだ。 〈東西製薬〉の新製品の宣伝を担当し、〈東京エージェント〉を更に飛躍せしめるのが目的だったのだ。  目的のためには手段を選ばない、と心に誓った桂巴絵であった。自分の躰だって、一つの武器だと思えばこそ、有効に使ったにすぎぬ。ところが、彼女の肉体の武器のお蔭で、のうのうと重役の給料をとっている玲子と昌江の二人は、その行為を〈不潔〉で〈淫ら〉だと云い、挙句の果てには、彼女のことをパンパン呼ばわりしたのだ。  彼女はモーパッサンの〈脂肪の塊〉という短篇を思いだした。淫売婦のために、危機を脱しておきながら、同じ馬車に乗り合わせた紳士淑女たちが、礼も云わずに立ち去る……という短篇である。  その小説の中にあてはめてみるなら、さしずめ彼女は、脂肪の塊と呼ばれるプロスチチュートだった。そうして玲子と昌江は、彼女のお蔭で、食欲を充たし、貞操を守られながら、お礼も云わない貴族の娘たちであろうか。  しかも、桂巴絵を憤慨させたのは、二人が密かに興信所に依頼して、自分の行動を洗わせていたらしいという現実である。  依頼者が誰かは知らぬ。しかし、興信所からの尾行報告書が、二人の手許にある以上、玲子と昌江が共謀して、調査を依頼したものと考えてよい。  それが、二人の云う〈証拠〉だった。淫らな女だという証拠だった。これが、親友のやることなのか。  親友だったら、調査する以前に、それとなく忠告して呉れたら、よいではないか。巴絵は、その点で怒りを爆発させていた。  その上、森田昌江は、彼女と井戸毅とが〈ツーツーの仲〉であり、クラウン広告社から〈引き抜かれよう〉としている、と明言したのである。  井戸毅に接近したのは、クラウン側の情報をとるためで、私利私欲のためではない。それなのに二人は、|恰《あたか》も彼女が、会社の不利な情報を井戸毅に流し、|剰《あまつさ》え鞍替えしようとしているとすら邪推するのである。 〈許せない!〉  と、彼女は思った。  次には、 〈こんな連中と、仕事をするのは御免だ〉  と思った。  北大路玲子も、森田昌江も、会社の牽引力となっている彼女の存在が、目の上のタン瘤のように思えはじめて来たのであろう。だから、私行を洗って、追い出しにかかっている。彼女を追い出し、利益を二人で折半しようと思っている。  ——桂巴絵はそう解釈した。  いや、彼女ならずとも、同じ立場におかれた人間なら、そう考えるであろうと思われた。 〈辞めてやる!〉  彼女は、心で叫んだ。 〈しかし、会社はこの儘にはしておかないわ。ガタガタにしてやるわ!〉  桂巴絵は、専務室にもどると、煙草を咥え、部屋の中を歩き廻った。まるで檻の中の獣のように——。  彼女の頭の中には、〈東西製薬〉の新製品宣伝プランの件は、すっかり雲散霧消して、ただ憎悪と復讐心とが、ドス黒く渦巻いている。  辞表を提出し、彼女の持っている株券を引き取らせたら、いつでも彼女は身軽になれる。  退職金なんか、どうだって良かった。  腕利きの社員を六、七人連れ、彼女の顔で|繋《つな》いでいる大口のスポンサーを、そっくり彼女が引き継げばよい。その方が、退職金より大きかった。 〈辞めてやるわ……〉  彼女は、歯軋りしながら、|呻《うめ》くように呟きつづけるのだった。 〈辞めてやるわ。そうして二人に、吠え面かかせてやる!〉 〈二人とも、世間知らずのお嬢さんの癖に! 自分たちで、商売ができると、思っているのかしら!〉  三本目の煙草を吸い終る頃、やっと彼女の頭の中には、一つの構想が浮かび上って来ていた。  自分が連れて出る、男子社員の人選も、殆ど終了している。彼女が、挨拶に行けば、十中八九まで間違いなく、彼女に仕事を呉れるスポンサーの顔触れも、固定したイメージになりつつあった。あとは、事務所と運転資金である。  それも多分、なんとか出来るだろう。銀行にだって、彼女の顔はきくのである。     三  桂巴絵は、長いあいだ机の脇に|佇《たたず》んで、その妖しい妄想の|虜《とりこ》になっていた。  だが、不図、われに返って、机の上のハンドバッグに気づいたとき、彼女は小さく、 「よかったわ!」  と叫んだ。  バッグの中には、篝千代子のマネージャーが返済しに来て、受け取ることになった百万円の小切手が入っているのだった。貯金もなくはないが、百万円という金は、この際ありがたい。  独立するとしたら、すぐに事務所を借りなければならないのである。金は、いくらあっても足りないのであった。 〈そうだわ。人間も大切だけど、資金をなんとかしなくちゃあ……〉  彼女は、そう思った。  かりに十人ぐらいの規模で、スタートするとしても、一人当り百万円の取扱いがないと、採算がとれない。広告代理店の手数料は、電波の場合は一五パーセントから二〇パーセントというのが、公定相場であった。むろんこれは、電波料に対してであって、製作費については、僅か五パーセントしか支払って貰えない。しかしスポンサーの中には、現金で支払うから……と云って、手数料を一〇パーセントに値切って来たり、すんなり代理店へのリベート率を認める代りに、台風手形——ということだってある。  月に一千万円の取扱い高があれば、先ず百五十万円の収益があるわけだが、それはスポンサーがすんなり金を支払って呉れたときの話である。  よくて三カ月、悪ければ七カ月の台風手形だから、代理店は少くとも三千万円の資金ぐりの、めどを立てておかなければならないのであった。なぜなら、代理店は、新聞社や放送局に、その広告料金を支払わねばならないからである。  資金繰りこそは、どの企業でもそうであろうが、広告代理店のすべてを左右するのであった。  桂巴絵は、二、三の銀行の貸付課長の顔を思い描き、早急にあの連中を訪問しなければならないと考えた。  彼女は、机の抽出しをあけて、整理をはじめた。いつのまにか、雑多な道具が、抽出しの中には納い込まれている。それは、自分で考えても、意外なほどであった。  たとえば、毛抜きが名刺函の中に入っていたり、なくなった一方の手袋が、書類ばさみの下から、顔をのぞかせたりするのだ。  彼女は、事務室のドアを、内側から鍵をおろし、ゆっくり整理にとりかかった。 〈東京エージェント〉という会社名には、愛着があった。それは彼女が、文字通り自分で築き上げて来た商標だったのだ。でも、いまや未練はない。 〈あたしが辞めたあと……二人はどうするかしら?〉  彼女は、ふッとそんなことを考えた。 〈資本家づらして、気に喰わないったら、ありゃァしない!〉  彼女は、森田昌江が、「クラウン広告から、引き抜きの交渉がある……」と、憎々し気に云い放った言葉を、記憶から|甦《よみがえ》らせていた。  不意に桂巴絵は、 「そうだわ!」  と呟いた。 〈東京エージェント〉を辞める以上、すでにクラウン広告社は、彼女の敵ではなくなったのである。いや、この場合、もっとも強力な味方かも知れなかった。  桂巴絵は、整理しかかっていた抽出しの品々を、また机の中に納めると、電話のダイヤルを廻しはじめた。クラウン広告の、井戸毅に、会うためである。  井戸毅の巨体が、西銀座の小料理屋に、のっそり現われたとき、桂巴絵はなぜか幸運が訪れたような気持に襲われた。  ふぐ料理で有名な店だったが、関西風の味つけが評判をとって、いつも混雑している。  急だったので座敷はあいてなく、カウンターに坐らされていた。 「やあ。電話をどうも」  井戸は、象のように目を細め、低い声で、 「いつぞやは」  と云った。代々木のホテルで、一夜を共にしたことを、云っているのであろう。小憎らしい云い方であった。 「お忙しいのに、わざわざ……」  彼女は眼に優しい|媚《こび》を含ませる。 「いや、いや。貴女のお呼び出しなら、なにはさておいても、駈けつけますわ」  井戸は、顔を蒸しタオルで拭いながら、生真面目な口調をしてみせるのだった。 「ところで、お飲み物は?」 「ビールを貰いましょう」  桂巴絵は、ガス・ライターを鳴らして、相手の煙草に近づける。 「サービス満点ですな。どうも、気味がわるい」 「なにを仰有ってるの……」  彼女は、井戸の肩を芸者のように|敲《たた》いた。  あなたと私は、赤の他人じゃないんですよ、ということを、その仕種で匂わしたのだった。  だが、井戸の方は、なにを勘違いしたのか、 「桂さん、貴女の用件……あててみましょうか?」  などと云いだした。  桂巴絵は、ギクリとなった。  その口吻では、井戸はなにか、情報をにぎっている様子なのである。 〈この人……もう私のことを、知っているのかしら?〉  まさか、と思った。しかし、情報というものは、案外早いものなのだった。とくにクラウン広告社の井戸連絡部長と、彼女とが親密だということは、北大路玲子たちは知っている。  だから玲子たちが、井戸毅に、電話を入れて、 「うちの桂専務を、クビにしましたから、よろしく」  などと、云わなかったとも、限らないのであった。 「どうです?」  井戸は、また眼を細めている。 「なんのこと?」  桂巴絵は、考えごとをしていたため、そんなとんちんかんな返事をしてしまっていた。 「用件を、あててみましょうか?」 「あら、ご存じなの?」 「ええ。東西製薬の件で、怒っているんでしょう?」  井戸は得意そうに、そう云ったが、その言葉で彼女は安堵した。自分が、会社を辞めるということは、この耳の早い広告マンにも、まだ伝わっていなかった様子だからである。 「別に、怒ってはいませんわ」  彼女は云った。 「しかし、企画書をすぐ公開しろ、という電報堂さんの緊急動機は、あれは正論ですよ。そう思いませんか?」 「ええ、そう思うわ」 「でも、桂さん……貴女には痛手だった」 「え?」 「違いますか?」  井戸は、笑い声をあげはしたが、眼は油断なく彼女の表情の動きを追っていた。 「痛手ですって?」 「そうですよ。私は……こんなことを云うと失礼だが、桂さんの手口を知っている」 「私の手口ですって?」 「ええ、|鳶《とんび》が油揚……という忍法をね」 「ふふ……。そんな忍法があったら、教えて頂きたいわ」  桂巴絵は、自嘲めいた笑い声をあげた。  笑いながら彼女は、井戸毅は、やはり頭の鋭い男だと思ったことである。 「教えて貰いたのは、こっちですよ」  井戸は、子持ち|若布《わかめ》を頬張りながら、ニヤニヤ笑いを続けている。 「実はね、井戸さん……」 「なんです?」 「折り入って、ご相談したいことがあるのよ……」 「ほう?」  井戸は、警戒する瞳の色になった。 「わたし……会社を辞めたいと思っていますの」 「会社を……辞めたい?」  案の定、井戸毅は駭いた顔色になった。だが、すぐ元通りの表情に戻った。 「信じられないな」 「どうして?」 「桂巴絵あっての〈東京エージェント〉でしょう?」  井戸は、そんな云い方をした。 「貴方には、判って貰っていたのね」 「というと?」 「北大路さん達には、私の存在は、目に入らないらしいからよ」 「ほほう?」 「貴方と私が、仲が好いから、クラウンに企画が漏れる……なんて云いだすの」 「ふーん。仲が好い、か!」 「あたし、愛想をつかしたわ」 「むりもないね」 「お嬢さん達のお守りは、もう真っ平。どこかで気楽な仕事でもしたいと、思いはじめましたの……」  桂巴絵は、しんみりと囁くように語りかける。心理的な効果を、つよめるためであった——。  ——二時間後。  二人は、巴絵のアパートの柔かい、ベッドの中にいたのである。  二人は当然のことのように、お互いの衣服を剥ぎとり、蛇のように|絡《から》みあった。  ベッドは低く|軋《きし》みつづけ、シーツは二人の汗で濡れ、部屋の空気は獣のような二人の荒い息遣いで|攪拌《かくはん》されつづけた。  やがて悦楽の頂上が訪れ、部屋には|静謐《せいひつ》が立ち戻った。 「あなたって……上手だわ」  桂巴絵は、謳うように呟く。 「どういたしまして」  井戸はそう答えて、さっさと起き上るのであった。 「いや。暫くじっとしていて!」  彼女は云った。 「仕事の話が残っているんだから……」  井戸は彼女の手を静かに振りほどいて、浴室の方へ歩み去る。汗ばんだ背中に、黒い毛が生えていた。  シャワーの音がしている。  それを聞きながら、桂巴絵は今朝、この、ベッドで朝寝をしていたことを思いだした。 〈朝には、まさかこんなことになろうとは、想像もしていなかったのに!〉  彼女は、世の中の有為転変の凄じさに、目をみはる感じであった。  バス・タオルで下半身をまといながら、井戸毅は寝室に戻ってきた。 「さあ、起きた、起きた!」  男の口調には、すでになんとなく打ちとけた響きがあった。  彼女は起き上って、ネグリジェをまとっている。 「会社を辞める、というのは本気なんだね……」  井戸は、ピースの罐をとって、その一本を太い指で抜き取っている。 「本当を云うと、もう辞めたのも同じなの」 「ふーん?」 「明日、辞表を渡して、株を買い取って貰うわ」 「いくら持っているの?」 「三百万円よ。玲子と昌江が、三百五十万円ずつ」 「なるほど。株の面でも、きみに差をつけていたわけか」 「創立のときは、私は一株も持ってなかったわ。増資したときには、買えたけど」 「では辞めるのは本気だとして、これからは?」 「だから、相談に乗って頂きたいのよ」 「僕にかい?」 「ええ……。あたし、矢張り広告の世界で働きたいの」 「うむ。それで……」 「井戸さんに来て頂きたいのよ」 「ええ?」 「貴方が社長。私が専務。……だめ?」 「実現の可能性はないね、それは」 「あら、どうしてよ?」 「僕は当分、クラウンを辞める気はない」 「……そう。やっぱり、ね」 「それよりも、桂さん……うちで働かないかね?」 「クラウンヘ?」 「そうさ」 「面白いけれど……待遇は?」 「徳力専務に相談してみる。貴女さえ、その気ならば、満足いけるように、努力するけれど」  井戸は、旨そうにピースを喫っていた。桂巴絵は、咽喉の乾きを覚えた。 「なにか、飲む?」  彼女は優しく訊いた。心の中では、クラウン広告社に入って、バリバリ仕事をして、玲子たちを見返してやりたい気持も、若干|萌《きざ》しはじめている。 「ビールを貰おうか」  井戸は、下着をつけはじめた。 「お帰りになるの?」 「うむ」  彼は、なぜか微笑を浮かべながら、 「実は安心したよ」  と云うのだった。 「どういう意味?」 「ライバルが一人減りそうなんでね」 「あら、ライバル扱いして下さっていたの? 光栄だわ」  彼女は含み笑った。  井戸はワイシャツを着ながら、彼女の臀部をポンと敲いた。 「東西製薬を攻略しようと思っていたろ? 作戦を公開して呉れよ……」  男は|狎《な》れ狎れしく云った。 「作戦なんか、ないわ」 「嘘をつけ。加倉井や、宝田をこのベッドの上で、|誑《たぶら》かしていたのは、なんのためだい?」 「まあ?」  桂巴絵は、血の気を|喪《うしな》った。彼女は、まさか井戸毅が、そんな秘密を知っていようとは、夢にも考えていなかったのである。 「井戸さん……それ、ひどい侮辱だわ!」  彼女は、声を震わせた。 「侮辱だったら、謝るよ。しかし、事実は事実だ」 「………」 「まあ、きみが来て呉れれば、東西製薬の担当は、桂連絡部長ということになるだろう。それだけの、実績があるんだからなあ」  桂巴絵は、このときほど、井戸毅を憎いと思ったことはなかった。  銛 で 刺 せ     一  ——東西製薬が、新しく開発した生理用品のネームは、〈セル・パッド〉という名称に決定された。このネーミングを考えたのは、|老舗《しにせ》の〈電報堂〉である。  だが、〈クラウン広告社〉の宣伝企画には、電報堂も勝てなかった。  クラウンには、テレビ初出演の〈篝千代子〉という、とっておきの決め手があり、向こう三カ年にわたる長期計画の青写真まで、添えられていたのである。むろん、需要の上昇率については、我田引水めいた甘い観測の数字が並べられてはいたが……。  しかし、月産百万ケースでスタートし、売上げを三年間で四倍にする——という会社の生産本針には、ピタリと符合している。  その点、電報堂を含めて、他の広告代理店は、独走している〈パンネ〉の市場占拠率を重視し、せいぜい二百万ケースを売り切るのが、飽和点だろうと考えているらしかった。  宝田十一郎も、なんとなくそんな気はするのだが、広告すれば薬は売れるのだ、と考えている(いや、信念を持っている)社長の葛原耕平には、これが大いに不服であるらしく、鶴の一声でクラウン広告に新製品〈セル・パッド〉の宣伝企画の一切を、委任することに決まった。一切とは云っても、活字媒体と電波関係だけである。ネーミングで勝利をおさめた〈電報堂〉には従来の交渉の関係もあり、野外広告(ネオン・野立看板など)を委嘱することになった。  つまり、十社で競争した新製品の企画戦は、クラウン広告社の勝利に終ったのである。  これが決定したのは、午後二時ごろだが、その重大な会議の最中、宝田はただビクビクと怯える気持であった。  電報堂の連絡部長の、とつぜんの提案のために、各社の企画書を〈東京エージェント〉の桂専務に、こっそり見せてやれなかったからである。  止むを得ない、とは云うものの、その秘密工作に凡てを託していたらしい桂巴絵の、失意ぶりが目に浮かぶようであった。おそらく彼女は、都内のホテルに姿を見せなかった彼を、大いに怨み、裏切りを怒っているに違いない。  宝田は、彼女に合わす顔がない気持になり、約束の時間にホテルヘ行ったものの、 『事故のため、品物は入手できませんでした。不悪』  というメモを残したまま、帰って来たのであった。  夜、自宅の方にでも、電話があるのではないかと、冷や冷やしていたのであるが、電話は一度もかかって来なかった。それで彼は、桂巴絵だって子供ではないのだから、部下から各社のプランが翌朝再提出されることになった事情を聞き、あきらめて呉れたのだろう……と改めて考えた。  その意味で、彼は善良な小市民だったとも云えるが、会議がはじまると、なんとなく後めたさに附き|纒《まと》われて、社長や、加倉井部長の顔が、直視できなかったのである。  甲論乙駁で、さぞかし揉め抜くだろうと思っていたのに、クラウン広告の企画は、ズバ抜けた出来であったから、さほど波瀾はなかった。  加倉井紀彦も、敢えて口をさしはさまない態度を示したのは、不思議ではあるが、有難いことである。多分、加倉井が〈東京エージェント〉の企画を、強硬に支持して呉れるのではないか——と、彼は期待していたのだったが。そうであれば、彼も広告部長として、口を添える心積りではいたのである。しかし意外にも、加倉井の発言はなかった。  もっとも、〈東京エージェント〉の企画は、いわゆるパブリシティに主眼をおいた、抽象的な文章の羅列で、これといって具体的な提案はされていないものだったのだ。これでは、合格する道理がない。  各代理店の担当者に、応接室に集合して貰い、この決定事項を発表し、みんながゾロゾロ帰って行くと、流石に春からの疲れが、どッと雪解け水のように襲って来る。 「……部長。これからですな」  若尾課長が、ずんぐりした肩に、|頤《あご》を左右に振って埋めるような|仕種《しぐさ》をしながら、笑顔で話しかけて来た。 「ええ?」  彼は駭いたような声音になった。  宝田は、広告代理店を決定したことで、やっと仕事が終った……と思っているのに、この部下は、これからだ……と張り切っているのである。  考えてみれば、若尾功の云う通りで、実は新製品の売出しは、これからなのだった。  宣伝企画を一任したとは云うものの、クラウンに凡てを自由にさせる訳ではない。東西製薬の広告部と、クラウン広告社の担当者との、両者の知恵をふりしぼってのニ人三脚が、今日から始まるのであった。|譬《たと》えて云うなら、二人の組合わせが決まり、いま二人は、スタート・ラインに立ったところなのである。  号砲一発で、明日から二人は、駈け出さねばならないのだった。 「そうだな……。いよいよ、だな……」  沈んだ口調で、宝田は答えたが、そのとき彼の脳裏には、大学時代の親しい友人が、再婚した新妻を連れて、上京したときの光景が鮮やかに|甦《よみがえ》っていたのだった。  地方に住んでいるこの友人のために、その折、彼が幾人かの同級生に電話し、新宿の寿司屋の二階に集ったわけである。  新婦は初婚であった。会合は三時間ぐらいで終ったのだが、その時誰いうとなく連歌をやることになり、|奨《すす》められて友人の新妻が下の句をつけた。  宝田は、彼女が誰の上句を受けたのかは、記憶していない。たしかに晩秋で、食後のデザートに青蜜柑が出ていたから、誰かが蜜柑の句でも詠んだのであろう。  しばし|呻吟《しんぎん》した挙句、新婦はさらさらと懐紙に筆を走らせた。  ——当っても当らなくてもこの|夫《つま》と。  宝田は感動した。  見合い結婚だから、未来のことは判らない。しかし、その友人と添い遂げようと、|健気《けなげ》にも心に誓っている新妻の気持が、しみじみと溢れ出ているのを、彼は看て取ったのである。  宝田は、声に出して呟いてみた。 「当っても、当らなくても、この夫と」  若尾課長は、|怪訝《けげん》そうな顔になり、 「ええ? なんですか?」  と訊いた。 「いや、なんでもない。友人の細君の句を、思いだしたんだ……」 「ほほう?」  若尾功は、黒い顔を、掌でつるりと撫でまわしている。 「当っても、当らなくても、この夫と。どうだい……いい句だろう?」 「なんです、それ?」 「判らないかい? セル・パッドが成功するか、否かは、私達とクラウン広告の二人三脚が、うまく行くかどうかにかかっている、という意味さ……」 「なるほど。ところで、それで思いだしましたけれど、クラウンの井戸君から、耳寄りな情報が入っています」  宣伝課長は、風流などは意に解さない様子で、矢庭にそんな話を持ち出して来る。 「耳寄りな情報というと?」  彼は煙草を|咥《くわ》えた。 「パンネですよ……」 「どうかしたのかね、パンネが?」 「東洋テレビに、ゴールデン・アワーの交渉中だそうです」 「なに、東洋テレビに?」 「はい」 「ふーむ!」  宝田十一郎は、つけたばかりの煙草を、灰皿に強く押しつけた。  彼は、電波宣伝は、あくまで東洋テレビを中心に考えている。  そのなかで、どうしても獲得したいのは、東洋テレビの定評のあるナイター番組であった。〈セル・パッド〉の広告は、ただスポット放送だけを考えている。クラウンの提出した企画書にも、生理用品の広告なので、上品なスポットだけを最初は採用する、と書かれてあった。  ……その企画書の概要を示すと、次のようになる。  十月に発売されるまでを準備期とし、この期間は、婦人雑誌、女性週刊誌、新聞の婦人欄など、活字媒体を中心にしたパブリシティ活動を行う。  パブリシティというのは、いわば広告界における〈忍びの者〉であった。  露骨な云い方をすると、マスコミに巧妙に働きかけて、無料でPRして貰う戦術なのである。  たとえば、東西製薬のライバル会社では、中年のサラリーマン層に向けて、神経安定剤を売り出す前に、『貴方はイライラしないか?』というような特集記事を、新聞や週刊誌に書いて貰い、まんまと成功を収めたことがある。  つまり世論を沸かせておいて、そこへ神経のイライラを鎮める薬を、売り出したのだから、これは大変なパブリシティだったと云えるわけだ……。  生理用紙綿に対抗してタンポン型の圧縮綿を売り出すのだから、新しい商品のイメージづくりが是非とも必要だった。  一週間の映画だって、予告広告、本広告、|追《おい》広告と宣伝しなければ、客足を誘えない時代なのだ。人気スターを使わなければ、なお予告宣伝は必要となる。  まして〈セル・パッド〉は、今後、東西製薬のドル箱として、何十年となく売り|捌《さば》かねばならぬ製品であった。  最初に上品なイメージづくりに成功しなかったならば、このマイナスは将来まで大きく響くのである。タンポン型の生理用品に対して、投げかけられる悪口というものは、殆ど想像できる種類のものである。たとえば、不潔とか、異物感、女学生は使えない、使用が恥かしいなどなど。  そして悪口を、前もって除草しておくために、クラウン広告では、米国をはじめ諸外国の生理用品の紹介、タンポン使用者の比率などを、活字媒体にパブリシティとして流し、紙綿より更に一歩進んだ、都会的な商品であることをPRする企画を立てていた。  日本の女性が、外国人に弱いことを、積極的に利用しようというわけで、この企画には宝田も基本的には賛成である。  準備期が終ると、発売期の三カ月が訪れる。クラウン広告では、この三カ月間に〈セル・パッド〉の知名度を高め、大いに売りまくるために、次のような大胆な企画を立てた。  △新聞  ㈰全国三大紙に、発売日に一頁広告を掲載し、試供品モニターを募集する。  ㈪地方十紙に、半頁広告を掲載し、同じく試供品モニターを募集。  △雑誌  ㈰四大婦人雑誌にグラビア広告二頁を掲載。  ㈪女性週刊誌三誌に、グラビア二頁広告を毎週掲載。  △電波  ㈰ラジオはスポットを連続的に。  ㈪テレビは昼から夜にかけて、スポットを四局に、一日二十回流す。  ……大体、以上のような構想だが、たとえばスポット広告にしても、なかなか耳|触《ざわ》りがよく上品で、しかも都会的な文句が、幾つも用意されてあるという周到さである。  グラビアやテレビのスポットには、混血児のメリー・保富が起用され、篝千代子主演の連続テレビ・ドラマは、新春から東洋テレビをキイ・ステーションとして、一年間つづけられる予定であった。だが、その電波広告の邪魔をするがごとく、〈パンネ〉は東洋テレビに触手をのばしているという情報なのである。 「若尾君……それ、本当か?」  宝田は低く声を押し殺した。 「らしいです。井戸君の情報ですから、信用できると思いますよ」 「ふーん。そいつは、一大事だ」 「パンネの佐渡さんの、やりそうなことですわ」  若尾功は、また顎のあたりに掌をやった。出勤前に、慌てて髭でも剃ったのか、あちらこちらに赤い傷の線がついている。 「情報の主は井戸君か……」 「これから、こっちと手を組むクラウン広告ですからね。嘘は云わないでしょう」 「すぐ電話して、来るように云って呉れ給え……」  宝田は、立ち上って、応接室を出ようとした。目の前に、加倉井開発部長がいた。なぜとはなしに、彼はドキンとなった。 「やあ……」  加倉井は、縁なし眼鏡を指先でぐいと押しあげる、いつもの癖をしながら、 「発表……済んだかい?」  と云った。  開発部は最上階にある。だから加倉井が、彼に会うために、降りて来たことは、無言のうちに察しられた。 「いま終ったところです」  若尾課長が、代って答える。 「ちょっと宝田さんに、話があるんだがねエ……」  加倉井が云うと、若尾は頷いて、 「クラウンの電話……ここへ廻さなくても良いですね?」  と云い、自分の部屋の方に歩み去った。  宝田十一郎は、この葛原社長の娘婿に対すると、いつも気|後《おく》れがする。それは彼が将来の社長……という気兼ねからだったようだが、桂巴絵との一件を知って以来、ますます敬遠したい心境だった。  彼はまたソファーに戻り、静かに腰をおとした。加倉井は、セル・パッドというネーミングの採用が、多数決できめられたが、自分はあまり良い名称だとは思えない……というような話をしたあと、にわかに改まった顔つきになった。 「実は……宝田さん」 「はあ……」 「ここだけの話なんだが、ね」 「はい、承りましょう」  宝田は、表情だけを引き締める。 「例の……スポットに使う娘のことなんだが」 「え?」  彼は、桂巴絵の話でも出るのかと、警戒していた矢先だけに、タイミングをはずされた感じであった。 「あのう……メリー・保富のことですね」 「そうなんだ……」 「気にしないで、聴いて呉れ給えよ」 「はあ……」  宝田は、どうせ彼が、メリー・保富にケチをつけるのであろうと思った。しかし、加倉井紀彦は意外なことを云いだしたのである。 「君も知っての通り……うちの親父は、スケベ人間だ……」 「はあ?」 「僕のワイフは知らないが、隠し女だって、三人もいる」 「ははあ……」 「ところが、みんな揃いも揃って、三十代ばかりなんだ……」 「そうですか……」 「それで親父は、かねがね、若い娘を欲しがっていた……」 「なるほど!」  宝田は、ようやく加倉井の云わんとするところが、呑み込めて来ていた。 「親父はその他に、もう一つ希望をもっている」 「と、いうと?」 「青い眼の女性と、寝てみたいんだそうだよ……」 「ほほう?」 「今日、あの広告写真をみてから、親父はことのほか、彼女に執心でね……」 「メリー・保富嬢に、ですか?」 「うん」 「葛原社長が?」 「うむ」 「それで、私にご相談とは……」  宝田は冷たく云った。  だが、加倉井紀彦は、彼にも負けず、冷たい口調で答えたのだった。 「あの混血娘を、親父に世話して欲しいんだ……。いちばん接触の深い、君にね」  彼は、|蒼褪《あおざ》めた顔つきで、加倉井を静かに睨んだ。  |女衒《ぜげん》の真似をしろと、相手は命令しているのであった。     二  加倉井紀彦は、本当に社長から、そんなことを頼まれたのだろうか? どうも怪しいものだ、と宝田は思った。  葛原社長が幾人かの女性を、囲っているという噂は耳にしている。妾を持つのは、男の甲斐性だ……と広言する葛原社長のことだから、メリー・保富にぞっこん一目惚れしてしまった、というのも嘘ではないかも知れぬ。だが、それでは自分の女を、〈セル・パッド〉のテレビ・コマーシャルに使うことになるではないか?  ある映画会社の社長で、 「女優を二号にしたのではない。二号を女優にしたのである」  という名言を吐いた人物がいたが、宝田十一郎はちょっとそんなことを思い描き、加倉井開発部長を直視した。 「ねえ、加倉井さん」  彼は、穏やかな声音で呼びかけた。 「なんだね?」 「いま私の頭の中は、セル・パッドをいかに宣伝するか、と云うことで一杯なんですよ……」 「それは判っている」 「メリー・保富嬢は、私が商品イメージに合う女性として、苦心惨憺して掘りだした女性です」 「それも知ってる」 「私自身の抱いている、清潔で、上品で、しかも都会的な……というイメージを、もっと大切にしたいと思いますが」 「と、云うと?」 「彼女が、社長の二号だと云うことになれば、私自身も使いにくくなります」 「そうかな? 親父が専属料をポケット・マネーから支払って呉れるんだから、予算を節約できるし、一石二鳥だと思うんだがね」 「一石二鳥ですと?」  彼は、むっとした表情をわざと露骨に示した。すると加倉井も、流石に失言だったと思い直したらしく、 「怒らないで呉れよ……。僕はただ、親父の意の存する処を、宝田さんに告げに来ただけなんですから……ね」 「わかりました」 「なにも今すぐとは云わないさ」 「………」 「とに角、親父が欲しがってる、と云うことだけを記憶に留めておいて下さい」 「|畏《かしこま》りました」  宝田十一郎は、やや向かッ腹を立てながら、しかし言葉だけは、|自棄《やけ》に丁寧に使ってみせる。  丁寧な言葉を使うことで、自分の腹立ちを抑制しようと努めているのだった。 「じゃあ、どうも。お邪魔したね……」  立ち上った加倉井は、ドアの方へ行きかけたが、不図なにかを思いだしたように、彼を振り向いた。 「宝田さん……きみは確か、〈東京エージェント〉の桂さんと、親しかったね?」  ——宝田は、|俄《にわ》かに顔の筋肉を強ばらせた。〈やっぱり、来たか!〉と、彼は心で叫んだ。しかし、ここで狼狽の色をみせてはならなかった。 「さほどでもありませんが……」  用心深く彼は云った。 「そうかい? 親しいと、聞いてたけれど」  加倉井は、右手を上衣のポケットに入れたまま、なぜか微笑をうかべている。 〈隠さなくたっていいよ。知ってるんだぜ……〉とでも云いたげな微笑であった。 「まだ仕事のおつきあいもありませんし、ね。そりゃァ酒場などで、お会いすることもありますが」 「ふーん」  疑わしそうな瞳の色で、ジロリと彼を|一瞥《いちべつ》してから、加倉井はさり気なく口を利いた。 「彼女のこと……知ってますか?」  宝田十一郎は、なんとはなしに、短刀か何かを首筋に、突きつけられたような気持になった。 〈どういう意味だ? どんな性質の女か、知ってるかと云うのか?〉  彼は苦笑してみせた。  しかし心の動揺は、はっきり顔面筋肉の動きに現われ、苦笑のつもりが、泣き笑いめいた表情をかたちづくったらしい。 「知らないですね、あまり……」  宝田は、社長の娘婿の、そんな唐突な質問の仕方を、心ひそかに憎みはじめている。 「いや、知らないんですか?」  加倉井は念を押すような云い方をする。それは彼の解釈が、間違っていることを暗に教えていた。 「知りません。なんです?」  宝田は相手に近づいた。 「彼女……会社を辞めたんだって」 「えッ、本当ですか?」  彼は唖然となっていた。 〈辞めただと? 桂巴絵が、会社を辞める……。そんな|莫迦《ばか》なことが!〉  宝田が信じられない、と云うように静かに首をふると、加倉井紀彦は安堵した表情をたたえた。 「先刻……電話があった」 「桂さんからですか?」 「いや、北大路さんからさ」 「ほう?」 「なんでも、セル・パッドの企画が、失敗した責任をとったのだとか……」  宝田十一郎は、ぐいと眉根を寄せ、じいーっと加倉井開発部長の瞳に見入った。縁なし眼鏡の奥で光っている加倉井の黒い瞳は、彼を静かに見返していた。加倉井はすぐ視線をそらし、「じゃあ……」と口ごもるように呟いて、ゆっくり彼に背中を向けた。  ふだんはニコニコしていて、愛想のいい人物が、俄かに生真面目な顔をしていると、なにか改まった気持にさせられるものだ……ということを、宝田十一郎は知った。  目の前にいる井戸毅が、すこぶる厳粛な表情で、挨拶をしているからである。  クラウン広告が、新製品〈セル・パッド〉の宣伝を担当することになった、お礼をかねての挨拶だった。 「こちらこそ、よろしく頼みますよ、井戸さん。こいつは私にとっても、初仕事なんだし、これに失敗したら、|これ《ヽヽ》ものだからね」  宝田は首に手をあてて、のこぎりのように引いてみせる|仕種《しぐさ》をした。  井戸毅は相変らず、一流の仕立の背広を着ていた。ワイシャツも特別|誂《あつら》えだろう。カフス|釦《ぼたん》は腕時計の中身だけを剥き出しにしたような、変った品をつけている。視線を凝らしてみると、その釦は音を立てて秒を刻んでいるようであった。 「いや、こちらこそ、よろしくお願いします……」  クラウン広告社の連絡部長は、大きな手で若白髪の|小鬢《こびん》のあたりを撫でるのである。 「ところで……」  宝田十一郎は、若尾課長の顔を眺めながら云った。 「なんです?」 「パンネが東テレと契約したんだって?」 「ええ、そうらしいです」 「どんな条件?」  宝田は、拇指の爪に煙草をトントンと打ちつけた。 「それはまだよく判りません」  井戸毅は、首を振った。 「佐渡君の狙いは、なんだろうね?」  東西製薬の広告部長は、ガス・ライターの焔を慎重な手つきで吸いつけている。 「それは……お判りでしょう?」  井戸は|擽《くすぐ》ったそうな表情を|湛《たた》える。 「やはり、妨害か?」  若尾功が云った。 「妨害とまでは行かなくても、類似の商品が販売されるんですから、パンネとしても心中穏やかならず、と云う処でしょうな」 「それで?」 「対抗上、セル・パッドがスポット広告をやるなら、その前後に、スポット広告をパンネも入れるという作戦ではないでしょうか」 「え、スポットを?」 「私が広告担当でしたら、そうしますね。セル・パッドが一回スポットを出すとしたら、その前と後に、スポットを挿入します」 「ふーむ」 「佐渡君は、そんな男ですよ」 「いやなことをするな……」  宝田は〈パンネ〉の佐渡の顔を思い浮かべながら、煙草をふかし続けた。  彼の頭の中には、パンネの持つ強力なマーケット・シェアが、巨大な恐竜の姿に化身して、揺れ動いていた。その恐竜は、これから生れ出ようとする新しい卵を、その大きな足で踏み潰して行くのである。  自分以外の動物の存在は、認めないような|傍若無人《ぼうじやくぶじん》ぶりであった。棲息している自分以外の動物は、すべて|殺戮《さつりく》してやるぞ、とでも云いたげな憎らしい顔つき。  宝田十一郎は、〈畜生め〉と心の中で唸った。生存競争のはげしいこの世界では、当然のことかも知れないが、新しい製品を売り出そうとする側の人間にとっては、敵の妨害作戦ぐらい|癇《かん》に触るものはないのである。 「敵がその気なら、こっちだって……大いに抵抗してやる」  若尾功が|歯痒《はがゆ》そうに呟いていた。  井戸毅をみると、彼は手帳をとりだして、なにかを覗き込み、計算するような表情である。 「東洋テレビ一局だけかい?」  宝田は、いまいましそうに訊く。 〈セル・パッド〉が発売されているのなら、敢然と立ち向かうことも出来るが、発売前ではどうにもならない。これから販売しようとする製品の、予告宣伝ぐらい、阿呆らしい金の使い方はないのだ……。  スポットは特Aクラスの時間だと、十五秒で十五万円ぐらいかかる。同じ時間に長時間スポットを流せば、定価の六〇パーセント位に割引きして呉れるのだが、それでも一回につき九万円であった。  一日十回ずつスポットを流せば、月間の金額は二千七百万円となる。これはバカにならない広告費であった。 〈パンネは、どんな手を打ってくるのだろうか?〉  宝田十一郎は眉根を寄せながら、煙草を揉み消している。 「今のところの情報では、東テレだけのようですよ」  井戸毅は手帳を納いながら、静かな微笑をみせた。この男の頭の中には、仕事のことしかないらしい、と宝田は考え、〈当っても当らなくてもこの|夫《つま》と〉という友人の妻の句を心の中で呟き返した。宝田は口調を変えて、 「井戸君」  と呼びかける。 「はあ。なんでしょう?」 「話は違うが、桂さんが会社を辞めたんだってねえ。知ってる?」  彼は、なんとなく優越感を露骨に示しながら、そう云っていた。井戸毅が、きっとまだ知らないだろうと思ったのだ。井戸連絡部長は、さして|駭《おどろ》きもせず、 「ほう、とうとう辞めましたか」  と答えただけだった。 「知ってたの?」  宝田は、なんとなく不服そうに訊いた。 「いいえ。噂だけです」  井戸は、若白髪のあたりを、また癖のように掌で撫でつけた。  ——その夜も、クラブ〈唇〉は相変らず混んでいた。宝田十一郎はボックスがあくまでカウンターに坐ることにし、井戸毅と並んで腰をおろした。  井戸に会社に来て貰い、雑談しているうちに退社の時刻となり、西銀座の小料理屋で軽い食事をしたあと、二人は連れ立って酒場へ姿を現したのであった。  一つには井戸毅が、 「メリー嬢と篝さんに、クラブ〈唇〉に来るように連絡しときました」  と囁いたからである。  篝千代子の方はとも角として、彼にはあの混血のメリー・保富の方に、異常なぐらいの関心があったのだ。  それは加倉井から、社長に世話をして欲しい……などと云われたからではなく、一目みたときから、彼女を犯してみたい気持が強く心に巣喰いはじめていたのであった。加倉井から変なことを云い出されたお蔭で、彼の関心度は俄かに強まり、ボヤボヤしては居れんというような、焦った心の状態に陥ってもいたのだ……。 〈あの混血娘……どうしたら、口説けるだろうか?〉  ブランデーを|舐《な》めるように口をつけながら、ふッと宝田はそう思った。  間もなくボックスがあいた。  二人はホステスに導かれて、その席にと移ったが、すぐに井戸は電話をかけに立ち、宝田がホステス達に、 「なにか飲みなさい……」  と奨めている時に、ボーイが二人の女性を案内して来た。黒メガネをかけているので、篝千代子も、メリー・保富も、暗いクラブの中でも異彩を放って感じられる。 「あら、あの二人……同性愛だわ」  不意に、彼の隣に居たホステスが、低い声で呟いた。陽子という名前の、シナ服をきたホステスである。 〈ん?〉  宝田は、厳しい目付で、陽子を見た。陽子の方は、二人の女性が、自分達のボックスに導かれて来たので、失言を聞き咎められたと思ってか、ドギマギと|赧《あか》い顔になり、 「済みません……」  と小声で彼に詫びた。 〈この二人が同性愛……。なるほど、云われてみると、そんな感じだなあ〉  彼は、二人に愛想よく椅子を奨めながら、心の中でそんなことを思い、二人を観察する姿勢になっている。 「今晩は……」  メリー・保富は快活に挨拶した。 「ああ、今晩は」  宝田は笑顔で応じた。  今夜のメリーは、白い純毛の、ふわふわした男の子の用いるような帽子をかぶり、赤いワイシャツを着ている。そうして白の半ズホンを穿き、膝の下まである赤のソックスに、ゴルフ・シューズという扮装であった。  |彫《ほ》りの深い顔立ちのせいか、こうしたボーイッシュな服装でも、ひどくよく似合う。  宝田は密かに、このメリー・保富の着ている服を、一枚ずつ剥いで行く光景を想像し、彼女がブラジャーと、パンティ一枚になった姿を空想していた。 「宝田さん。いかが?」  篝千代子は云った。 「なんです?」  妄念の虜となっていた彼は、慌てて姿勢を立て直した。 「メリーちゃんの服装のことですの。似合います?」 「ああ!」  彼は強く顎を引いて、大声で応じた。 「素敵じゃないですか」 「本当に、そうお思い?」 「そう思いますよ」 「よかったわ……」  篝千代子は彼の言葉を聞くと、嬉しそうにそう云って、メリー・保富を惚れ惚れとした顔で見詰めるのである。 「陽子ちゃん。踊ろうか」  いつになく宝田は、シナ服の子に自分から声をかけて立ち上った。二人が同性愛だと口走ったホステスである。 「あら、あたし……下手なんですけれど」 「僕だって同じさ。さあ、行こう」  彼は陽子とフロアヘ出ると、形式的に女の腰を抱いて、ステップを踏みながら女の耳に口を寄せた。 「きみは先刻……あの二人が同性愛だと云ったね?」  陽子は首筋まで顔を赤くした。 「たしか、そう云ったね?」 「ご免なさい。思わず、口をすべらしちゃったんです……」  陽子は困惑したように、口ごもる。 「いいんだよ」  宝田は、井戸毅がボックスに戻って行くのを、目で追った。 「証拠でも、あるのかい?」 「……証拠って?」 「二人が同性愛だという証拠さ」 「部長さん達の、お客さまだとは知らなかったんです……」  恐縮した口吻で、シナ服のホステスは云った。宝田は苛立たしそうに繰り返した。 「詫びなくたって、いいんだよ。それより、証拠は?」 「この間……神田のレスビアン・バーで、あの二人の方を見かけたんです」 「レスビアン・バー?」 「同性愛の女ばかりが、集まってくる会員制のバーなんですの」     三  宝田十一郎は遊び人の方ではないが、ゲイ・バーくらいは知っていた。しかし、女性だけが集まるレスビアン・バーがあるというのは、初耳だった。しかも会員制だと聞いては、大いに関心が湧く。 「きみ……そこの会員なの?」  宝田は、踊っている相手に訊いた。 「いいえ、違いますわ」 「じゃあ、どうして会員制なのに、入れたんだね?」 「お客さまに……貿易会社の、女社長さんがいるんです」 「ふーん」 「その方が、同性愛の癖があって……」 「なるほど?」 「その方に、連れられて行ったんですわ」 「そのとき、あの二人が?」 「ええ。踊りながら接吻したり、二人で小声で歌をうたったり……とても親しそうでしたの」 「ほほう。それで君の方は?」 「あら!」  陽子は彼をかるくにらんで、ステップを踏むのを止めた。 「あたし……そんな趣味はないんです」 「だったら、何故ついて行ったんだい」 「その夜まで、その女社長さんが、そんな変ったご趣味があるとは、知らなかったんですもの……」 「どうだね。その酒場には、男は入れないのかな?」 「さあ、判りません。でも、なぜ?」 「行ってみたい」 「まあ、部長さんも物好きね……」 「おいおい。わが社では、女性の生理用品を売り出すんだよ。女性ばっかり集まるバーなら、大事な大事なお客さまじゃないか……」 「本気で、そんなこと、思ってらっしゃるの?」 「本気さ。銀座のバーに来るのは、男性ばかりだろう。客もホステスも、女性だけというのは有難い話だよ」 「いやな仰有り方!」  陽子は、シナ服の割れた裾から、太い脚をくねらせながら、彼の手を|抓《つね》った。 「だって仕事だもの、仕方ないさ。近頃ではうちの社員の奥さんが、子供を産んだとするだろう……」 「ええ」 「僕は先ず、男か女かと聞くね」 「お祝いも云わないうちに?」 「うむ。そうして女の子だと云ったら、おめでとうを云うんだ」 「男の子は、おめでたくないの?」 「ああ。セル・パッドのお得意さまじゃァないからなあ」 「まあ、ひどい!」  しかし陽子は、声とは別に、嬉しそうに笑いだしていた。  二人が席に戻ると、井戸毅が、 「なかなか愉しそうですな」  と、グラスを目の高さに示しながら、顔を|綻《ほころ》ばせた。 「人生は愉しくないと、ね」  宝田十一郎は、そう答えながら、メリー・保富の顔を見入る。混血娘は、彼の視線に気づかず、狭い店のフロアでサーフィンを踊っている一組に見|惚《と》れていた。 〈この娘……なにを考えているのか?〉  彼には、そんなことが気になってならなかった。商売のことも一瞬、彼は忘れ去って、今夜この混血のメリー・保富をどうしたら口説けるだろうか……と云うことだけが彼の大脳の|襞《ひだ》を埋めはじめる。  彼はブランデーをお代りし、煙草を吸いつけた。  宝田十一郎の頭の中には、不意に桃色をしたガス状のものが充満しはじめる。いろんな情景が、彼の脳裏に幻の如く浮かんではすぐ消えて行く。 〈俺は、あの女を犯す……いや、犯したい……〉 〈どこへ、なんと云って連れだす? 一番いいのは、井戸君に篝千代子のお守りを引き受けさせて……この娘を、俺が、かっ|攫《さら》うことだ……かっ攫う……かっ攫う……〉 〈うまく行くだろうか? 逃げないだろうか? いや、俺はスポンサーだ……彼女を使うも、使わないも、俺の裁量ひとつで決まるんじゃないか……〉 〈スポンサーの命令は絶対だ……いくら十八歳だって、それくらいのことは、メリー・保富だって心得てるだろう。篝千代子の家に居候しているんだし……芸能人の世界のしきたりも、わかりかけているだろう……それに、二人は同性愛と云うじゃないか……〉  ふッと宝田は正気に戻った。気がつくと、正面にいる井戸毅やメリー・保富が、|愕《おどろ》いた顔つきで彼の顔を見詰めているのだった。彼は照れながら、 「やあ、どうも! ちょっと、考えごとをしていたもので」  と云った。  すると井戸毅が、 「だめですよ、部長……」  と、顔を笑いで埋めながら、首をふるのだった。 「なんだね、井戸君……」 「だめですよ。考えごとしたら! バーヘ来たら、仕事のことは忘れるんです。綺麗さっぱり忘れ去って、スケベな話をしているのが一番ですよ……」 「まさか、ね」 「いや、部長。忠告します。一日に一回必ず頭を空っぽにしないと、広告という仕事は絶対に駄目です」 「そんなものかね?」 「そうですよ、宝田さん。頭を空っぽにするからこそ、明日になったら、新しい泉が湧いて来るんです。いつも水を溜めといたら、ボウフラがわきまっせえ!」  宝田十一郎は、井戸毅の言葉を聞きながら、なかなかうまい表現を使うと思った。  だが、彼も頭を空っぽにするために、メリー・保富を誘惑する方法を、熱心に考えていたとも云えるのである。 「篝さん。一つ御相手して下さい。メリーちゃんも、部長さんと踊ったらどう?」  井戸毅は、そう云いながら立ち上っている。篝千代子の承諾の言葉を待たず、タイミングよく立ち上って、|一揖《いちゆう》するあたり、流石であった。これでは、断れないわけである。  二人がフロアに出て行ったあと、彼はチャンスだと思い、混血児にこう呼びかけた。 「ちょっと話があるから、隣に来ない?」  メリー・保富は、切れ長の目をきらりと向け、軽く首を傾げた。 「こっちに坐りなさい」  今度は、命令口調で告げた。すると、素直にこっくりをして、彼女は宝田の隣に移って来た。 「いま……一番なにがしたいね?」  彼は、漠然とそんな質問をした。心の中では、もっと他のことを云いたいのだが、それが云い出せないもどかしさ。紳士という面目を保つのは、辛いことであった。 「そうね。いろんなことがしてみたいわ」  彼女は、無邪気に云った。 「たとえば……」 「踊りを習いたいの。日本舞踊にバレエ、タップダンスも覚えたいわ」 「それだけ?」 「歌も勉強したいの。それから、フランス語の会話と、芝居と、洋裁と料理」  宝田は苦笑していた。  なんという貪欲さだ、と彼は思った。しかし若い頃は、これ位の意欲を持った方が、いいのかも知れなかった。|諺《ことわざ》の文句ではないが、棒ほど願って、針ほど叶う世の中なのだから——。 「では、今とっても欲しいものは?」 「そうね。宝石も欲しいけど高いし、革のコートかな? いや、あったわ。欲しいのはね……銀の拍車のついた、婦人用の乗馬靴なの」 「変ったものが、欲しいんだね」 「あたし……馬に乗れるんです」  なにげなく混血の女性は云った。  そのとき——宝田の胸に、パッと閃光のように輝き渡ったアイデアがある。  それは、乗馬服に身を固めたメリー・保富が、草原を疾駆して画面を左から右に、右から左に消え、最後に高障碍を飛び越えて、ピタリと馬を止める。そのあと、清楚な白のワンピース姿で、秋の草花を手に現れて佇むと、コマーシャル・メッセージが入ってくる……というアイデアだった。 〈ふむ。乗馬か!〉  宝田は、この思いつきに、嬉しくなって、メリー・保富の膝をつかみ、軽く揺さぶっていた。 「きみい! いいこと云って呉れた!」 「え?」  混血児は慌てて、彼の手を払い退ける。 「本当に、乗れるんだね?」 「はい。中学二年生まで、乗ってたの。だから、少し練習したら……」 「よし、乗馬靴を買ってあげよう」  宝田は、大きな声で云った。 「あら……本当ですか?」 「うむ。その代り、テレビでも馬に乗って貰うかも知れないよ?」  宝田は、高い鼻の下で、朱い整った唇が、|悪戯《いたずら》っ子のようにとんがらかされ、首をすくめて笑い声を吐きだすのを見た。可愛らしい仕種であった。 「馬……練習していいんですか?」 「ああ。ちょっと二人きりで、相談したくなったな」  彼は琥珀色の液体を、グビリと音を立てて飲み下し、くるくるとグラスを掌の中で弄んでいたが、 「いつが都合がいい?」  と、声を低めて訊いた。 「さあ……お姉さんに相談してみないと」  彼女は俄かに、おどおど答える。 「あとで駭かした方がいいよ、篝さんには。お姉さんが仕事のあるとき……いつ?」 「明日はテレビ番組のゲストで、夕方から出かけるんですけど」 「篝さんがだね?」 「はい。私は、お留守番」 「じゃあ、私が訪ねて行こうか」 「ええ。お願いします」  混血娘は、頭を下げた。体が大きいだけに、それは大袈裟な身ぶりに見えた。 「少し、踊ろうか?」  彼は云った。 「サーフィンしか、踊れません」  白い毛の帽子を、かぶり直して、彼女は赤い舌を覗かせる。  そうした小さな態度の、どれを見ても彼の情欲の火は、ぎらぎらと油のように燃え|熾《さか》るのであった。 〈明日の夕方……果して、チャンスが訪れるだろうか〉  宝田は、サーフィンは踊れない。だから彼女と踊るのは、あきらめるよりなかった。  井戸と篝は、三曲目のワルツを踊りはじめている。天下の大女優としては、大サービスであったが、井戸毅はなんら臆することなく、女優の腰をやや深めに抱え込んで、達者なステップを踏みつづけている。 「メリーちゃん……」  彼は顔を寄せた。 「はい?」 「お姉さんは、神田に面白いバーを知ってるんだって?」  日本人の血を証明する黒い瞳が、怪訝そうに彼の顔に貼りついた。 「ほら……女性ばっかり、集まるバーだよ。行ったこと、ない?」 「………」 「僕も行ってみたいんだが、案内して貰えないかなあ……」 「訊いてみます」  怒ったような口調で、彼女は答えた。笑うと子供の顔になり、怒ると大人の顔になる、と宝田は新しい発見をしたように目を細めた。  井戸毅は、踊りから帰ってくると、熱いお絞りを貰って、額の汗を拭きだした。拭きながら、クラウン広告社の連絡部長は、 「ねえ、宝田さん……」  と声を潜めるのだった。 「なんだい?」  彼は、浮き浮きと弾んだ声で応じる。  メリー・保富と、明日二人っきりで会えるということと、彼女に乗馬をさせてテレビの画面にだすというアイデアが、彼の心を弾ませていたのである。  乗馬とか、水泳とかは、運動のなかでも激しい競技である。とくに生理日などには、絶対に忌避されるスポーツだと云ってよい。しかし挿入式タンポンの場合には、乗馬でも、水泳でも平気だと云うことを、言葉にこそ出さないが、画面から訴えかければ、効果は大きいのである。  夏は水泳、秋は乗馬、冬はスキー、春はテニスという風に、季節に応じて、スポーツの種類を変えることも、新鮮味をだすかも知れない。  宝田はそんなことを、ちらッと頭の片隅で思い描きつつ、井戸毅に視線を当てた。 「ここだけの話ですが……思い切って、パンネに刺客を放ったら、どうです?」  井戸は、小鬢のあたりを気にしつつ、テーブルの上に、大きな躰を乗りださせた。 「刺客を放つとは?」 「新発売の前哨戦に、景気よく、パンネを叩くんですよ……」 「パンネを叩く?」 「ええ。いま踊りながら、ふッと思いついたんですが、下手なパブリシティより効果のあるのは……」  井戸毅は、上体をしゃんと起して、ニコリと微笑した。二人の間には、小声で話せない距離ができる。 「それは、なんだね?」  今度は、彼が上半身を乗りだす番であった。  単なる思いつきとしても、そんな方法があるとしたら、職務上聞き逃すことはできない。 「パブリシティは、いうなれば|搦《から》め手から、投網を打つようなもんでしょう」 「うむ。しかし、大衆が投げられた網の存在に気づかねば、うまいもんだ」 「近頃の読者は、利口ですよ。マスコミの動きに対して、敏感です」 「それはそうだが」 「私は投網を打つより、いっそ水中メガネをもって潜り、|銛《もり》でグサリと突いたら……と考えたんですよ」 「パンネをかい?」 「ええ」  宝田は眉をしかめた。  パンネは、彼に云わせたら、今や順風満帆の機帆船であった。  そうして〈セル・パッド〉は、これから船出しようとするヨットでしかない。しかも、このヨットは、下手をすると港を出たところで、突風をくらって、横転するかも知れないのである。 〈大型機帆船……いや汽船かも知れないパンネを、銛でグサリと突け、だと?〉  彼には、井戸毅の言葉の意味が、よくわからなかったのである。 「井戸君……」  彼は、声をひそめた。 「そんな方法が、あるのかね?」 「ある、と思います」 「で、誰が潜るんだ?」 「それは、私が物色して潜らせますよ」 「まさか、パンネの佐渡宣伝課長を、引き抜こうと云うんではないだろうね?」 「その方法は、わかりません。しかし、もっと別の方法で、敵をこっぴどく叩くことは可能のように思えるんです」 「ふむ……」 「投網より銛。パブリシティより妨害……。どうです、このプランは?」  宝田十一郎は、息を詰めた。  やっと井戸の云う意味が、わかりかけて来たのである。 「……宝田さん。やってみて、いいですか?」  井戸は微笑していたが、その目だけは微笑してはいなかった。宝田は、静かにそれを見返した。  二人の間に、ある種の気合のようなものが漲り、パッとお互いに撃ち合って、左右に別れた。 「だめですか?」  井戸は、同じような口調で云った。  彼は低く溜息を吐いた。 「きみは、敵にしたら、怖い男だね」  井戸毅は、若白髪を掌で撫で上げると大きく目尻に皺を寄せた。 「では、やりますよ。いいですね?」 「私は、知らないよ。それも、いいね?」  宝田は言葉とは反対に、悠然とうなずいて顎を何度も胸に埋めた。  あ る 情 報     一  ビデオ撮りを終えて、スタジオを出た田島五郎は、廊下で、芸能プロダクションを持つ鍋島芙佐、虎彦の夫妻と、立ち話をしている〈パンネ〉の佐渡宣伝課長に、ぱったり出会った。 「やあ、アメリカヘ行かれたとか……」  彼は、新しい音楽番組のスポンサーに、そう親しく挨拶していた。 「ああ、どうも。ビデオ撮り……終った?」  佐渡は云った。 「ええ、終りました。今週は、脚本もいいし、なかなか上出来でしたよ!」  田島は、鍋島芙佐の綺麗な横顔に、見入りながら云った。 「そう。それは良かった。しかし……」  佐渡は一瞬、喰い入るように彼を見詰めながら、 「しかし、視聴率……よくないなあ」  と云った。 「佐渡さん。はじめから視聴率三〇パーセント、なんて番組はありませんよ。それに、まだ始まったばっかりですぜ……」  彼は、照れ臭そうに、そんなことをスポンサーに訴える。  番組を制作している、民放局のディレクターにとって、スポンサーから視聴率について文句をつけられるのが、いちばん辛いことであった。  ディレクターにしたら、視聴率の高い、しかも良い番組をつくりたい。しかし、制作費には|自《おの》ずから枠というものがあり、良い歌手を使わせて貰えない。それに、その歌手のスケジュールというものがあった。  予算、スケジュールなど、幾つかの厳しい制限のなかで、ディレクター達は仕事をしている。精一杯、いい仕事をしている。  だが、金を出すスポンサーは、良心的だとか、芸術的だとかには無関心で、ただ口を開けば、視聴率というのであった……。 「でもね、田島君。視聴率三パーセントというのは、ちょっと|酷《ひど》いとは思わないかね?」 「えッ、三パーセント? それは、どこのデータです?」 「ニールセンだよ」 「へえ、それは知らなかったなあ」  田島は内心ギクリとしながら、面目なさそうに頭を下げてみせた。 「とにかく、なんとかしろ、というのが森本会長の命令でね」 「ははあ……」 「それで、鍋島夫妻ともども、きみの意見も聞きたいと思って、こうして待っていたわけさ……」 「私を……待ってたんですか?」 「その通り。不意討ちで、悪かったけれど」 「いやだなあ。僕これから……三スタで仕事があるんですぜ」 「どの位かかる?」 「さあ……コマーシャルですから、早く終ろうと思えば、終りますけれど」 「よし、じゃあ待ってるよ」  佐渡課長は、静かに腕を組んだ。 「待って頂くのは恐縮ですから、どこか落合う先を云って下さい……」 〈いやなことになったな!〉  田島五郎は眉を|顰《ひそ》めた。  実は、これから第三スタジオで、メリー・保富のコマーシャル撮影が行われるのである。  彼は、担当ではないが、カメラ・テストをした縁故から、助言役を買って出ていたのであった。  東西製薬の新製品〈セル・パッド〉はあの美しい混血児のもつ、清潔で、どことなくバタ臭いイメージを主体に、視聴者に訴えかけてゆく方針らしい。  コマーシャルはすべてフィルムで、激しい|動《どう》と、|静《せい》との対比で成立している。  テニス・コートに立つ彼女のアップから始まり、球を打ち込み、返球に応じてコートを飛び廻る彼女の姿……。つづいて、飛び込み台に立つ水着姿の彼女。鮮やかなダイビング。クロールで力泳する彼女の姿……。最後は軽井沢の林の中を、乗馬姿で駈けて行く……というところで、動きの部門は終る。  そうして和服姿で、活け花をするメリー・保富が、ふと手をとめてカメラに微笑みかける……  という静の部分が、今日これから、三スタでフィルムに納められるのだった。 「なるべく早く、仕事を終らしてよ。そうだな……西銀座のうちのビルにいる」  佐渡は、むっつりと命令するように云い、彼の肩を|敲《たた》くと、鍋島夫妻を促すのだった。  いかにもやり手の宣伝課長らしい、きびきびした動作だが、その場合、田島五郎には、なんとなく押しつけがましいものに見て取れたのである。  第三スタジオに入って行くと、クラウン広告社の大男の連絡部長の姿が、すぐ田島の目に入った。  なんでもメリー・保富ばかりでなく、女優の篝千代子まで、井戸毅は専属契約をしたという評判である。 〈あの男……いったい、いつ仕事をしてるんだろう!〉  田島はいつものことながら、井戸毅にあうと、なぜか脅威を覚える。多分、忙しい筈なのに、井戸毅は暗いスタジオの一隅で、平然と煙草を片手に、明るいセットに見入っているのである。それは全く仕事を離れて、余暇を愉しんでぃる姿のように思えた。 「井戸さん……」  彼は、そう声をかけながら近づいた。 「やあ、これは!」  井戸は象のように眼を細め、癖になっているのか、若白髪の|小鬢《こびん》のあたりを、掌でかき上げている。 「いよいよ、戦争ですね」  田島は微笑した。  彼は、〈パンネ〉提供の音楽番組を制作している。井戸毅は、新しい対抗馬である〈東西製薬〉の、新しい製品の宣伝広告を、担当している。  戦争といったのは、その|所為《せい》である。 「田島さん。冗談じゃないですよ。そっちは戦艦武蔵だ。こっちは、小型機帆船でっせ」  井戸毅は、首をふり、それから声をひそめて、 「視聴率はどうです?」  と訊いた。  彼は佐渡課長の顔を思い浮かべつつ、 「まあ、まあという所ですか」  と答えた。 「そらア強敵だなあ。先刻、玄関でパンネの佐渡課長に会うたら、視聴率は一三パーセントだから、出足は好調のようだ……なんて自慢してましたが」  井戸毅は、そんなことを云った。  田島は〈畜生め!〉と思った。  視聴率が一三パーセントというのは、佐渡のハッタリであろうが、その数字を聞いて知っていながら、なにも知らない人間のような顔をして、声をひそめて訊いて来た井戸連絡部長の手練手管に、彼は腹を立てたのであった。  でも、こうした駈け引きは、放送界では日常茶飯事なのかも知れない。  スタジオの中央に、茶室風のセットが組まれてあった。美しい床柱。明り障子。小さく切られた炉と青畳。その炉の前に坐って、メリー・保富が|茶筅《ちやせん》を使ってお茶を|点《た》てているシーンから、スタートされるのだった。  画面にうつると、なんとなく立派な座敷に感じられるが、現物のセットでみると、実にチャチなものである。これはやはり、レンズの魔術のなせるわざであろうか。  彼は、振袖姿で心細そうに、椅子に坐っているメリー・保富に近づき、 「どう? 心臓の方は?」  と笑顔で話しかけた。 「もう、あがっちゃって、大変なんです」  混血児は、本当に胸がドキドキしているらしく、少し青い顔をしていた。 「あとで、食事でもしようか?」  彼がそう云うと、メリー・保富は、そのときだけ眼を輝かして、 「あら、貴方で四人目だわ!」  と|蓮《はす》っ|葉《ぱ》に云った。 「四人目?」 「ええ。夕食に誘ってくれた人」 「ふーん?」  田島五郎は、彼女を誘った人物が、ほかに何人もいると知って不愉快な気持を味わいながら、未練たらしく、 「じやあ、明日は?」  と訊いていた。 「明日は、軽井沢なの」 「あ、乗馬か?」 「そうなんです」  メリー・保富は、カメラの用意ができたことを告げられ、おずおずとスリッパを脱いでセットの炉の前に坐る。  下半身が発達しているせいか、彼女が正坐すると、膝のあたりが、こんもり盛り上って見えた。  カメラは、その膝のあたりを避けて、半ばうつむき加減で、茶筅を使う彼女の横顔と白く長い指の動きとを、最初にフィルムに納める様子である。彼は、ポーズをつけられながら、ペロリと赤い舌をだしているメリー・保富を見つめ、腕を組んだ。  離れていた井戸毅がやって来て、彼の隣に並んだ。 「パンネさんの景気は、どうです?」  クラウン広告の連絡部長は、ニヤニヤしながら訊く。 「物凄く、いいらしいですよ」  田島五郎は、なにげなく云っていた。 「なにしろ、オートメの機械包装が間に合わない位で、工場の近くの農家に、アルバイトして貰っているそうですからねえ」  田島は、そのとき井戸毅の耳が、兎のようにピクリと動いたのを見たような気がしたものである。 〈ふむ!〉  井戸毅は、田島ディレクターと並んでメリー・保富の着物姿に視線をあてながら、これは耳寄りな情報だと、思った。  生理用品には、衛生的で清潔である、という前提が必要だった。女性の最も大切な局部にあてがうのだから、それは清浄で、殺菌されているものでなければならない。 〈パンネ〉では、それをモットーに工場を設計した筈だった。  ところが、いまの田島の話では、ビニール包装の段階か、化粧函に詰める段階かはよく知らないが、機械で間に合わず、下請けに出しているという。 〈こりゃア、いけるぞ!〉  井戸毅は、目を細めた。だが、そうした心の動きは悟られないように、彼は大きな声で云っていた。 「なあに、そのうち東西製薬の方も、そういうことになりますよ」  と——。 「しかし、現実の問題として、どうなんですか? 圧縮した棒状の綿花を、膣内に挿入するというのは?」  田島は低い声で云った。 「まあ、馴れでしょうな。使って、馴れてしまえば、中学生だって平気ですよ」  井戸毅は、頭から強く断言していた。  ……宣伝という仕事は、奇妙なもので、その製品に強い自信を持っていなければ、広告もヒットしない。あやふやな気持であればあるほど、広告はあたらないのである。  これは外交員という仕事にも、共通することであるが、先ず自分の仕事に自信と誇りを持つことが、成功の秘訣なのだった。 「ところで、その農家の人たちは、いくら位で内職してるんでしょうね?」 「さあ、それは知りません。出来高払いじゃないですかね」 「パンネさんは、なかなか商売上手らしい」  井戸毅はそう云って微笑し、田島五郎の腕をつかんだ。 「また、来ます」  彼は、ゆっくり大股に歩いて、第三スタジオを出た。彼は、医薬関係の業界紙の電話番号を調べ、東洋テレビの受付から電話を入れた。 「|那珂《なか》さん、いますか? クラウン広告の井戸です」  那珂というのは、彼と同じ中学の出身で、いま業界紙の社長をしている人物である。たしか、系列からいうと、|道修《どしよう》町の三大メーカーといわれた、三星製薬が内緒で金をだしているという噂だから、三星系の業界紙だということができる。  那珂は外出中だったので、彼はすぐ会いたい旨を女事務員に伝えて、待たせてあった車に乗った。 〈調べてみなければ判らないが、うんと不潔な農家の納屋あたりで、汚い指をした老婆あたりが、パンネの包装をしている写真でもとれたら!〉  彼は腕を組んだ。 「どちらです?」  運転手は云った。 「静かなところを、十分ばかり走って呉れんか……」  井戸は、そう命じた。  考えごとをするとき、彼は車を意味もなく走らせながら、瞑想するのが好きだった。  別に、そうしたら名案が浮かぶ、というわけではない。ただ、|遽《あわただ》しい時間のなかで、車という密室に閉じこもり、独りで考えるという雰囲気が、好きなのである。 〈そうだ……これは先ず、事実をおさえてから、新聞に書き立てさせる必要がある!〉 〈新聞で攻撃されたら、パンネは狼狽するだろうし、厚生省だって、放っておかれなくなる……〉  井戸毅の頭の中には、次第に秘密潜行作戦の、青写真がつくられつつあった。  彼は、ゆっくり脚を組み、目をあけて煙草を咥える。 〈とにかく、調べることだなあ。もし、それが事実なら、いくらでも攻撃できる!〉  いま彼の頭の中にあるのは、〈セル・パッド〉を売りだすために、いくらかでも〈パンネ〉の人気を崩しておくことだった。  人気に水をぶっかけ、相手がひるんだところに、衛生的でかつ便利なセル・パッドの登場——という構想である。 〈この仕事は、那珂に依頼しよう。そうして、大新聞に売り込む方法を、考えないと、これは失敗する……〉  一本の煙草を吸い終ったところで、井戸毅は運転手に、 「会社に戻って呉れ」  と云った。いま時分、桂巴絵と社長とが、クラウン広告社の重役室で、あれこれと入社の条件について話し合っていることであろう。  彼は、桂巴絵の脂の乗り切った肌を思い浮かべ、ついでメリー・保富に執心している宝田広告部長のことを連想した。 〈あの男は、桂巴絵と関係がある。だから彼女には、たしかに弱い……〉  彼は、女という存在が、ある意味では取引きに凄く強力な武器となったり、あるいは潤滑油の役目をすることを考え、桂巴絵の入社が決してマイナスではないと思っている。 〈まあ、あの女も、仕事には使える……〉  井戸毅は、意味もなく目を細め、また太い腕を組み直した。     二  会社に戻ってみると、〈ファーマシー・ニューズ〉の那珂社長から、伝言があった。今夜八時半以降なら、体があいている、という伝言である。  井戸毅は、すぐ連絡をとって、赤坂の待合で落ちあう約束をきめ、〈富司林〉に電話を入れて座敷をとった。  彼は、吉田と瀬木の二人の次長を呼び、 「手の空いている連中を、第三応接室に集めてくれないか」  と命じる。  八時半までの時間を、頭脳の嵐——ブレーン・ストーミングで|費《ついや》そう、と彼は考えたのである。  アド・マン(広告業者)たちは、共通して夜遅く家に戻る。たいていは、体内にアルコールが入っていることが多い。それでいて、朝は早かった。  だから、これは井戸毅の持論なのだが、アド・マン達の午前中の頭脳は、使いものにならない。昨夜のアルコールが、まだ体内に残っている二日酔の状態か、睡眠不足の頭では、冴えたアイデアなど生れてくる道理がないのである。  歌手や声優に聞いてみると、朝起きて四、五時間は、まだ|声が眠っている《ヽヽヽヽヽヽヽ》のだそうである。  声が眠るとは、面白い表現であるが、これはマイクに声が乗らないとか、自分の調子のいい時の声が出ない、というほどの意味であろう。  それと同じで、人間の頭だって、朝のうちはまだ眠っている、と井戸毅は考える。正確には眠っていない。が、まだハッキリ覚め切った状態ではないと、井戸毅は思うのだ。  たとえて云うと、新しい車のエンジンと同じで、調子が出ないのだ。三万キロぐらい走ると、やっと車のエンジンは調子がよくなると云われている。つまり朝のアド・マンの頭の回較は、新車のエンジンに似て調子がわからないのである。  だが、午後三時ごろからやっとアルコール気が抜け、頭脳が本来の働きをとり戻して、イキイキと活動しはじめる。そうして、この状態は、夜になるまで続く。だから夕方から、ブレーン・ストーミングを行うのが、いわば理にかなっている……と井戸毅は思うのだ。  第三応接室で待っていると、居残っていた幾人かの部下が、煙草や灰皿をかかえて、姿を現しはじめた。  |飴色《あめいろ》の眼鏡をかけ、茶目ッ気のある有馬という六年社員が、 「部長……ビール飲ませて下さい」  と、笑いながら云った。 「ああ、いいだろう」  彼は鷹揚に答えた。  八人ばかり、社員が来た。 「どうだい、みんな。いい知恵はないかい?」  井戸は、瀬木次長の顔を見ながら、そう云っていた。このところ瀬木秀雄は、〈セル・パッド〉の宣伝企画の担当者として、いろいろ頭を悩ましている。それは、かねて予想していた以上に、ライバルである〈パンネ〉が、活字媒体や、電波を使って、攻勢に出て来たからだった。  東西製薬の新しい市場への進出を、パンネが恐れているのだった。だから、それまでに一大宣伝を行って、少しでも自社製品のマーケット・シェアを拡大しておこう、というわけであろう。  たとえば、歌手、女優、作家、美容体操家、料理研究家、デザイナー、美容師など、十六人を使って、新聞の一ページ広告をつくり、あッと云わせたのなどもそのいい例である。十六人の女性が、ずらりと顔写真を並べて、パンネ絶讃のメッセージを贈っているその広告は、一部の識者のひんしゅくを買ったにしろ、いわゆる大衆に訴えかける力は偉大であった。  おそらくパンネを使用している女性たちは、めったに口も利けないような一流の女性たちが、自分と同じ製品を使っていることに満足し、優越感を擽られたことであろう……。  だが、新しく発売される〈セル・パッド〉には、こうした意表をついた、大胆な広告はできない。なぜなら、その一ページ広告は、パンネが発売後三周年を迎えたからこそ、はじめて可能な広告方法なのだった。東西製薬のセル・パッドには、許されない広告なのである。  でも、担当のアド・マンとしては、新発売だけに、ぐっと顧客を吸い寄せるような、広告の方法で、派手に打って出たいのである。  井戸毅は、パンネの秘密攻撃も、さることながら、活字広告をする以上、スマートで、どうしてもセル・パッドを使ってみたいような欲望を、抑え切れない宣伝方法なり、キャッチ・フレーズを考えたかったのである。  部下を集めたのは、そのためだった。 「ねえ……部長。どうせ、新製品は大量の試供品をバラ撒くんでしょう。だから、〈二十五歳以下の方は、ご遠慮下さい〉式なキャッチ・フレーズを考えてですね……新聞に交換券を印刷して、反応をみたらどうですか?」  有馬が、ビールを|美味《うま》そうに飲みながら、そんなプランを出した。  いくら試供品でも、ただ誰にでも、バラ撒くわけには行かない。だから、三大新聞の読者に限定して、その交換券を切り取って持参した女性にだけ、薬局が試供品を手渡す。  後刻、その新聞の切り抜き券を、地域別に集計し、統計をとってみると、何新聞の読者がいちばん関心を示したかと云うことや、どの都市の女性にセル・パッドが関心を持たれたか、ということがわかるのだった。  有馬のプランは、そうした統計をとる意味では無意味ではない、と思われたが、いかにも新鮮さがない。  それに交換券を切り抜いて、薬局へ持参してサンプルを受けとるというシステムは、よく調味料などの食品メーカーがやっている、手垢のついた便法で、斬新なものとは云われないのである。  ……ブレーン・ストーミングは活発につづいた。  一人の人間の頭脳の働きには限界がある。  それを、多人数で、テーマを決めて議論すると、いわば核分裂に似た作用が、各人の大脳の中で拡がって、思いがけないアイデアを産んだり、難局の打開策が生れて来たりする。  ときには方角違いの、愚にもつかない意見も飛び出したりはするが、井戸毅は、それはそれで良いのだと思っている。結局、日本人はアメリカの女性に弱いのだから、ハリウッドの女優あたりに交渉して、彼女たちの顔写真とメッセージを載せ、 『私は×年前から、タンポン式生理用品の愛用者です』  と云わせたらどうだろう、という意見が残った。  なるほど、ハリウッド女優が使っているとなれば、日本の女性の、この新式の生理用品に対する注目率は、ぐっと違ってくるだろうし、人気をたかめることは、火を見るより明らかである。  しかし現実の問題として、では誰がアメリカ女優に交渉し、ギャラの取り決めを行うかと云うことになると、これは難問だった。 「パンネみたいに、十六人も出すのは無理だな。せいぜい三名だろう……」  井戸毅は、腕時計を眺めながら、そう云った。そのとき、電報堂のパブリシティ部から引き抜かれて来た、加藤という、井戸が目をかけている男が、おずおずと、「部長……実は、ちょっと変な話なんですが……」  と発言した。 「なんだい、加藤君」  彼はビールを、まわりにいた部下たちのコップに注いだ。 「女性がいちばん弱いのは、音楽だと思うんです。とくに、インテリ女性は……」  加藤は掌の垢をより出すような仕種で、二つの掌をこすりつけながら云った。 「ああ。インテリ女性は音楽に弱い。とにかく、一流品に弱いんだ……」  井戸毅も、大きく相鎚を打った。すると加藤は意味ありげな微笑を|泛《うか》べて、 「実は、その一流品で、|彷徨《さまよ》っている話があるんですがね」  と呟くように告げ、瞳を|精悍《せいかん》にキラッと光らせたものだ。 「彷徨える一流品か……。なんだね、それは?」  井戸毅は、さほど期待もせずに訊いた。加藤は瀬木次長の顔を|一瞥《いちべつ》し、ちょっと沈黙したあと、 「西独オペラなんです」  と、低い声で云った。 「なに、西独オペラ?」  彼は聞き返した。  西独オペラと云えば、世界的にも有名な歌劇団である。その歌劇団を、西独からの文化使節として、日東生命の劇場(東生ホール)が、アメリカのカーネギー・ホールと張り合った末、遂に招聘に成功したというニュースは、彼も新聞で読んだことがある。  そうして、その放送はたしか、NHKで行われるということだったのだ……。 「話を聞いてみますとね、西独政府の援助は七千万円なんです。しかし歌劇団員は総勢二百八十人。滞在費その他を含めて、ざッと二億円あまりかかるそうですよ」  加藤は説明した。 「なるほど」  彼は頷いた。 「東生ホールでは、劇場のコケラ落しに招聘し、日本での一カ月公演のスケジュールを決めたものの、果して入場料収入だけで、ペイできるかどうか自信はない。そこでNHKに売りに行ったらしいんです……」 「それで?」 「NHKでは、なんとか考えましょう、という返事だったので、安心していたところ、このほど念を押すと、たった一千万円しか出せないと云うんですな」 「東生側の希望は?」 「いくらだと思います?」  加藤はニヤニヤしていた。 「いくらだね?」 「六千万円」 「ふーむ。そいつは、ベラ棒だなあ」 「でしょう。おまけにNHKは、秋にイタリア歌劇を招いているんです……」 「それでは無理だな」 「そこで東生側は、NHKとの交渉をあきらめ、民放中継を考えたんですよ」 「代理店はどこだい?」 「旭エージェントです」 「ああ、東生ホールの重役だったな」 「ええ。旭では、西ドイツ・オペラという発想から、ドイツならビール会社だと云うんで、ビール会社に話を持ちかけた模様です」 「なかなか、イメージは優秀じゃないか」  井戸毅は苦笑した。 「しかし、いまどき、いくらビールはドイツが本場だと云っても、製作費六千万円を、ポンと出すスポンサーはいませんよ。なにしろ、電波料を加えたら、一億円でしょう?」 「北欧風の味で売りだした、カンツリー・ビールはどうなんだ? あそこの|嘉治《かじ》社長は、インテリだし、音楽通の筈なんだが……」  瀬木秀雄が云った。 「嘉治さんも、白井常務と検討したらしいですが、なんせ一億円ではと、手をひいてしまったらしいんです。ビールは駄目なので、次は弱電のパッショナル、西芝……」 「全部あかんのか?」 「ええ。旭エージェントでは、もうサジを投げています……」  その部下の言葉を耳にしたとき、井戸毅の脳裏に、パッと|閃《ひらめ》いたアイデアがあった。  なるほど、ビールはドイツが本場で、労働者たちは飲料水代りに、ビールを飲んでいると云われている。しかし、ドイツが誇るものは、まだ他にある筈だった。剃刀のゾリンゲンにしろ、高級車のベンツにしろ、生れたのはドイツではなかったか?  彼は不図、医師がドイツ語を使い、医学とドイツ語とは、切っても切れない関係にあることを思った。つまり彼の頭の中では、〈ドイツ→医学→医薬品……〉という風に、瞬間的に結びついたのである。  彼の瞼の裏では、西独オペラの華麗な舞姫たちの舞台姿と、東生ホールのコケラ落しに集った、日本の上流階級の紳士淑女たちの姿とが、鮮やかに揺れ動いていた。ついで、ソプラノのかん高い美声や、胸の内側を擽るようなバスの響きなども、鼓膜の底でゆらぎはじめる。 〈ふむ! 悪くない!〉  井戸毅は、目を細めた。  超一流の歌劇団である西独オペラの日本初公演。超一流の観客層。そうして、新しい生理用品のセル・パッド。  オペラの重味と、華麗さ。バタ臭い本場の味と、芸術味。これはインテリ女性の心をそそる、絶好の条件だった。  そうして、それらのインテリ女性層こそ、〈セル・パッド〉を勇敢に使用して貰わねばならない旗手なのだ……。 〈だが、文化使節だ……〉 〈この国家的文化事業と、生理用品とを、いかにスマートに結びつけるか、が問題になってくる……〉  井戸毅は腕時計をみて、いつのまにか八時半を二分ばかり廻っていることを知った。 「加藤君……。その話は、誰にも吹聴しないで呉れ。少し、考えてから返事をするからな」  彼は、そう云いながら立ち上り、ブレーン・ストーミングの閉会を宣したのだった。  車を拾って、赤坂の富司林へ行った。  三階の奥まった小座敷が、那珂社長と彼のために用意されてある。  那珂は、相変らず痩せて、神経質そうな表情で、煙草をふかしている所だった。 「やあ、待たせたね」  彼がすわると、間もなく料理が運ばれて来た。  二人は、ブランデーの水割りを貰い、お互いにグラスの縁を打ちつけあった。 「なんだい、用事ってえのは?」  那珂は、乱暴な口を利く。 「うん。実は、あまり自慢できないことなんだが、一つ頼まれて貰いたいんだよ……」  井戸毅は、苦笑しながら云った。 「頼まれて貰いたい? ハハア、用件をあててみようか?」  那珂は、筋ばった手で、頬の肉を撫でた。学者のように、細い|皺《しわ》ばった手であった。 「わかるか?」 「ああ。女だろう。別れたいが、どうもうまく行かない。手切れ金の予算は限られておる。だから一つ、きみが交渉してみてくれんか……とまァ、大体こういったところじゃないのかい」 「冗談じゃない」  井戸毅は低い声で笑い、 「仕事ですよ」  と、きわめて事務的に切りだした。  用件は、パンネの工場が近くの農家の人々に、製品の包装を依頼している事実を調べて貰いたい、ということである。 「できたら、写真を撮っておいて、貰いたいんだ。後日の証拠にね……」  そう彼が云うと、業界紙の経営者だけに、那珂社長も話のわかりが早く、 「東西製薬さんのために、パンネの足を引っぱろうと云う訳だな……」  と、井戸の肩を|敲《たた》いて笑った。 「そうなんだ……。なんとしても、セル・パッドは成功させたい。そのためには、敵の企業イメージを、崩す必要があるんでなあ」 「わかった。事実だったら、厚生省詰めの記者団や、週刊誌あたりに働きかけて、火の手をあげてやろう……」 「ぜひ、頼む!」 「ところで、裏面工作の報酬は?」 「心得てるよ。損はかけない」 「よっしゃ。それで用事は終りか」  那珂社長は、不景気風のために、各社とも業界紙の広告出稿に対して、|吝嗇《けち》になりはじめた……というような話をしはじめた。     三  ——数日後の夜、井戸毅は東生ホールの、若い重役たちと会っていた。いわゆる実業畑から生れた重役ではなく、文学や演劇や音楽といった、芸術畑から東生ホールの経営に参加した人たちである。  井戸毅は、その会見の場所を、新橋の小さな待合に指定していた。  密談に便利だからである。  彼は、困惑している若い重役たちに、 「旭エージェントが、はっきり手を引いたのなら、西独オペラを民放側に売ることに、協力しますよ」  と、頭から云ったものだ。  ビール、弱電、洋酒、化粧品……という風に、スポンサー探しに奔走し、いずれも失敗して疲れ果てていた東生ホールの青年重役たちは、この彼の一言ですっかり頭を下げた。 「頼みます。なんとかして下さい。特別席一万円、A席六千円で売って、期間中満員でも、五千万円から八千万円の赤字が出る見込みなんです……」  若いだけに彼等は、率直かつ明快な打ち明け話をして呉れた。これは、井戸にとっては、大いに参考になった。  彼は、興行というものには、皆目その知識を持ちあわせていない。井戸は、西独オペラを招聘するにあたっての、|委《くわ》しい経過報告を聞き、東生ホール側としての収支の予算表を検討した。  待合を出てから、井戸は三人の青年重役たちと銀座方面に流れて行った。  そうして、いつものように三軒ばかり、ハシゴをしたが、彼の頭のなかにあるのは、西独オペラのことだけだったのである。 「あら、イーさん。今夜は、元気がないわね。どうしたの?」 「疲れてるの? 浮気がすぎたんじゃないこと?」  ホステス達は、そんなことを云って、彼を|揶揄《やゆ》したが、井戸はただ、 「オンスだよ。月に一度の、ね」  と答えただけであった。  彼の頭の中には、西独オペラの来日、東生ホールのコケラ落し……という輝かしい条件と、東西製薬の広告宣伝のこととが、大きく二重の映像となって、揺れ動いていた。  しかし、なかなかそのものは、ピタリと重なり合わなかった。どこまでも、異質の分子のように、結合しなかったのである。  客と別れ自宅に戻ってからも、彼は不機嫌だった。 「ちょっと、考えごとがある」  井戸毅は、そうむっつり妻に云ったあと、「先に寝てくれ」と告げた。  それは珍しいことだったから、彼の妻を大いに不安がらせたが、こと会社の仕事に関する限り、口をさしはさませない方針だったから、そのまま、妻は引き退った。  井戸毅は、先ず、東生ホールの若い重役たちが、西独オペラの来日と同時に、西独首相であるアデナワー氏を日本に招聘しようとしている事実を、重要視すべきだと思った。  アデナワー首相の来日が実現したら、これも戦後はじめてのことになる。 〈そうだ……。若し、西独の首相が、東生ホールのコケラ落しに、出席して呉れたら、国賓だから礼儀として、日本の首相、大臣なども、出席することになる……〉  井戸は、書斎の机に、肘をついて考えこんだ。これは、もし実現するとすれば、実に大きなパブリシティ効果をもつ。 〈よし。このアデナワー首相の日本訪問を、一つの条件として、東生ホール側に引き受けさせよう……〉  それから彼は、次にこれだけの文化的かつ国家的な事業なのだから、ただ単に、〈東西製薬〉を攻めても、どうにもならないと、思った。  たとえば、クラウン広告社が、表面に立って、東西製薬を西独オペラのスポンサーとして口説き落すことよりも、もっと効果的な攻め方がある筈である。東西製薬は、いわばワンマン会社だった。社長の葛原耕平の、|肚《はら》ひとつで、どうにでもなる会社だった。 〈だが、果してそうだろうか?〉  井戸毅は、なにしろ電波料を含めて、一億円をオーバーする大仕事だけに、はたして葛原耕平の決断だけで、すべてが左右されるか、否かと危うんだ。  彼は、書斎の机の上の、小さなシェードをつけた電気スタンドを眺め、静かにピースの缶を引き寄せる。果して、葛原社長を、口説き落す自信があるか、否か——。  彼は、頭の中に、モヤモヤと浮かんでは消え、消えては浮かぶさまざまな雑念を、メモをとりつつ整理して行った。  東生ホールのコケラ落しということは、この場合には黙殺する必要があった。なにも、劇場の宣伝に、医薬品メーカーが片棒をかつぐ必要はないからである。  だから、世界的な権威をもつ〈西独オペラ〉の、初の来日という事実と、西独首相の来訪とを、大きくクローズ・アップする必要があるだろう……。 〈そうだ……。新聞社を口説こう。新聞社と東西製薬の協賛ということで、これを連日、新聞の紙面で書き立てさせるんだ……〉  あれや、これや考えていると、周囲の外的な条件は、ほぼ満足な形で、次第にかたまってくる感じである。 〈しかし……〉  井戸毅は、太い腕を組んだ。問題は、葛原耕平だということに、彼は気づいたのである。 〈あの金儲け一途の男を口説くには、なにか盲点があるのではないか?〉  葛原社長は、およそ音楽などには、興味のない人物だった。  ただ絵画の方は、税金を誤魔化しながら、財産的な意味をもつだけに、かなり有名画家のものを、蒐集していると伝えられている。 〈そうだ……。彼は、女好きだった!〉  井戸毅は、目を輝かせた。葛原社長には、幾人かの妾がおり、また絶えず女性関係の噂が絶えないことを、彼は思いだしたのである。 〈うむ、これだ! 葛原社長が、目下どの女性に夢中になっているか、を探りだすんだ……。そうして、その女性にはたらきかけ、その女性の口から、西独オペラの偉大さを、寝物語りに吹き込ませる……〉  大 詰 め     一  朝食の前に、その日の朝刊に目を通すのは、宝田の長年の習慣である。  だが、広告部長に就任してからは、その読み方が変った。  むかしは政治、経済欄にざっと視線を注いでから、社会面をのぞき、ついで文化欄の見出しを眺める程度だった。  でも最近は、まず新聞をひらいて紙面の下方をみる。つまり、広告欄を見るのだった。  ひとあたり広告欄だけを見ていったあと、薬品メーカーの広告があると、そこを丹念に検討するわけである。  キャッチ・フレーズ、写真レイアウトなど、批評するような目付きで、仔細に眺めたあと、食事にとりかかるのだった。  妻の多津子は、彼のそんな変貌ぶりを、 「あなた。食事のときぐらい、仕事をお忘れになったら?」  と云って|揶揄《からか》うのであった。  ——その日の朝、彼はいつものように新聞を下から読み、食事にとりかかったが、妻の多津子が、電話を知らせて来たので、|箸《はし》をおいて立ち上った。彼は、朝御飯に味噌汁がないと、落着かない方である。 「だれ?」  彼は訊いた。 「井戸さんと仰有ってますけど」 「ほう?」  宝田は玄関先まで歩いて行った。 「もし、もし……」  声をかけると、クラウン広告社の連絡部長の元気な声音が、鼓膜にピンピン響いて来た。 「部長……新聞を読んでいただけましたか?」  井戸毅は云った。 「ああ、いま目を通した所だが」  彼は答えた。答えながら、婦人欄にでも、〈セル・パッド〉のパブリシティ記事が掲載されているのだろうと思った。 「どうです、部長……」  井戸は、なにかを催促するように云った。 「どうって……何がだね?」 「ちょっと、いいでしょうが? そう思いませんか?」 「ええ?」  宝田十一郎は、相手がなにを云ってるのか見当もつかず、曖昧に問い返した。 「実は、広告しか読んでないんだが」  彼が白状すると、井戸は苦笑して、 「じゃあ早く読んで下さいよ。あとで、感想を聞きに伺いますから」  と電話を切った。 〈なんのことだろう〉  宝田は、テーブルに戻って、味噌汁を一口すすり、朝刊をひろげた。  第一に婦人欄をみた。しかし三紙とも、なにも関連記事らしいものも掲載されていない。 〈変だな?〉  彼は経済、スポーツを覗き、最後に社会面をみて、目を輝かせた。 『厚生省、パンネKKにお|灸《きゆう》』  という三号明朝活字が、彼の網膜に飛び込んで来たのである。  宝田は、その記事に|貪《むさぼ》るように読み入った。  オートメーション設備をもつパンネ工場が、量産につぐ量産で製品の包装が間に合わず、直接近くの農家に包装を下請け作業にだした。ところが、その下請け作業にあたった農家には、消毒設備がなく、そのために厚生省から下請け作業に出すことを禁止され、お叱りを蒙った……という趣旨の記事なのであった。 〈ふーむ! 井戸君が言っていたのは、このことか!〉  彼は、他の二つの新聞にも、目を通してみた。  一方はトップ記事で、一方は片隅に小さく扱ってある。 〈なるほど! 秘密兵器が、活動しはじめたわけか!〉  宝田は、妻を呼んだ。 「おい、パンネがやられとる」  しかし多津子は無関心で、 「あら、そーう」  と答えただけで、台所で水洗い仕事をつづけていた。 〈やった! やった!〉  彼は、もっと騒ぎが大きくなってくれればいい、と思った。  できたら、その不潔なパンネを陰部にあてたがために、膣炎とか、腎盂炎とか、とにかくそういった病気に|罹《かか》った被害者が、現れて欲しいと思った。いやその患者の出現を、心から神に願った。 〈パンネの佐渡課長は、動転していることだろうな?〉  彼は、そう考えながら、この厚生省の処罰の記事が、はたして井戸毅の演出なのか、どうかと疑った。  近頃の広告代理店——とくにパブリシティ担当部門では、なかなかがめつくなっていて、自分たちで売り込んだ記事でもないのに、 「あれは私の方でやったのだ……」  といい張り、料金をスポンサーに請求したりするのである。  たとえば、ある雑誌の編集部が、独自の企画で、Aという会社を取材して、特集記事を書いたとする。  すると、その企画を嗅ぎつけた何軒かの代理人が、A社に駈けつけて来て、 「うちの斡旋で、某誌にお宅の会社を扱わせるが、料金を決めて貰いたい……」  とヌケヌケと切り出してくる時代なのである。  宝田は、このパンネ摘発の記事が、もしクラウン広告社の隠れたる妨害作戦の一環だとしたならば、いったい幾らの金を支払わねばならないだろうか、と考えたことである。  会社に出勤すると、広告部はパンネの話で持ちきりだった。  若尾宣伝課長など、ニコニコ顔で、 「実にタイミングがよろしいですな」  と彼に話しかけてくる。 「ふむ!」  宝田は、むっつりと答えただけだった。  連絡会議のあと、正確には宝田が部下の提出した販売拡張計画を検討しているとき、女事務員がクラウン広告社の井戸毅の来訪を伝えて来た。 〈来たな……〉  彼は、心の中でそんな風に思いつつ、井戸を第四応接室に案内するように命じた。  ふだんなら、彼の部屋に|這入《はい》って貰うところだが、今日ばかりは二人きりでないと、どうも工合が悪いのである。  応接室へ彼が行くと、井戸はタイプした文書を読み|耽《ふけ》っていた。 「やあ、どうも……」  井戸は片頬だけを崩して、若白髪の|小鬢《こびん》のあたりに、いつもの癖で大きな手をあてがうのであった。 「いろいろと、御苦労さん」  宝田十一郎は、ひとまずそう挨拶して、ゆったりとソファーに腰を埋め、脚を組んだ。 「今日の夕刊を見て下さい。面白いですよ」  井戸毅は低い声で云った。 「夕刊を?」 「ええ。追い討ちをかけるんです」 「ほほう……。すると、今日の記事は」 「この間、約束した潜航艇ですよ」  クラウン広告の連絡部長は、含み笑うのであった。 「どうしたんだね、今度の作戦は」 「なあに、東洋テレビのディレクターから、パンネが売れて売れて、仕方がないという話を聞いたんですよ。それで包装が間にあわないから、近所の農家に下請けさせているというんです……」 「なるほど!」 「私の知り合いの、業界新聞の社長に調べさせたら、噂は本当でした」 「それで厚生省に?」 「ええ。友人が厚生省にねじ込んだんです」 「ふーむ!」 「一方、新聞各社に働きかけて、厚生省がパンネを営業停止処分にする……というデマを流しました」 「それで各社が、どっと……」 「はい。これはニュースですからね。もっとも、こっちの狙いは、パンネが不潔であるという、イメージを与えればよかったんですから……」 「いや、これだけ書き立てて貰えれば、こっちの上陸作戦も、いささかやり易くなったよ」 「さあ、それはどうですか。ただ、発売のときに、包装まで、清浄空気のなかの、オートメーション設備で、一貫作業された新製品だ……ということを、強調するのは効果がありましょうがね」 「ところで、今日の夕刊というのは?」 「パンネ側の答えが出ます」 「どうするかな?」 「おそらく下請けに出した製品は、回収して廃棄するんじゃないでしょうか」 「何ケース位あるだろう?」 「さあ。農家に下請けに出したのは、三週間ばかり前だそうですし、それも四十軒ぐらいだと云うことですから……せいぜい十万ケース位でしょう」 「それでも、大きいな。百円として、一千万円……」 「そんなもんでしょうね」  井戸毅はニヤリとして、また髪の毛を撫で上げる仕種をした。 「ところで、今日はお願いがあるんですが」  相手は、疲れも知らぬ気に、手にしていた書類を軽く彼に示した。 「ほう。怖いね」  宝田は、神経質に煙草を咥える。 「西独オペラについては、よくご存じだと思いますが」  井戸は、前置きするように云った。 「いや、知らんね。音楽のことには、|疎《うと》いんだ……」  彼は正直に答える。 「私だって、同じですよ。とにかく世界一流の歌劇団で、日本へ来るのは、神武以来はじめてです」 「なるほど?」 「例の日東生命ホールの、コケラ落しに、この西独オペラが、文化使節としてやって来るんですが」 「ああ。その話なら知ってる」 「日本の女性たちは、この西独オペラをどれだけ聞きたがっているか、わかりません。なにしろ、一万円の指定席券が、もう二万円のプレミアつきで売買されているという、うわさもある位で……」 「ふーん。それで?」 「海を渡ってきた文化使節。東生ホールのコケラ落し。世界一のオペラ。華やかな衣裳……。女性たちの憧れ」 「なんだい、そりゃァ」  宝田は笑い声をあげた。  彼は、井戸が、パンネ攻撃のパブリシティ料金を、請求するだろうと睨んでいたのだが、そのことに相手が微塵も触れる様子がないので、ますます機嫌がよかった。  だが、あまり上機嫌なところを見せては、相手につけ込まれる恐れもある。 「いかがでしょう。この西独オペラの名声を、〈セル・パッド〉に結びつけようと、私は考えたのですが」 「オペラとタンポンを?」 「そうです。これ位、セル・パッドの製品イメージに、ぴったりした物はありませんよ。第一、西独オペラという言葉からも、ヨーロッパの歴史や伝統、それにドイツという国家のもつ科学的な合理性などが、イメージとして流れて来るじゃないですか」 「ふーむ」 「それにドイツ語は、医学者に共通した学術語です。薬品メーカーとは、無縁ではありません」 「いったい、どれ位かかるんだね?」  宝田十一郎は、ズバリと切り込んだ。井戸毅は、彼の瞳を覗き込んだ。二人の間に、白い火花が飛び交った。 「たった一億円です」 「えッ、たった一億だと!」 「そうです。安いもんですよ。こんな安い、パブリシティはまたとありません……」  井戸毅は、まるで茄子か、南瓜でも買うような、気易い口吻をとるのであった。  宝田は、広告部員たちを会議室に招集して、〈西独オペラ〉と、〈セル・パッド〉の商品イメージとが結びつくか、否かという討論をさせた。  意外に多くの部員が、西独オペラの来日について知っており、女子社員たちは、 「商品イメージとして、ぴったり」  という結論だった。  かりにこの新製品と音楽とを考えてみた場合、セル・パッドはシャンソンでもなく、黒人霊歌でもない。かといって、モーツアルトやベートーベンの交響曲でもなかった。  その点、オペラは独唱あり、合唱ありで、芸術的で洒落た味わいがある。  女子社員たちは、西独オペラのテレビ中継に、上品なセル・パッドのスポット広告が挿入されれば、それだけで女性たちは、強い関心を惹き起すだろうと云うのであった……。 〈なるほど。井戸毅という男は、カンの鋭いアド・マンだ。いい男と組んで、仕事ができる!〉  宝田は井戸が持って来た話に、感心はしたものの、だが、この計画を実現するためには、一億円もの金が必要だとなると、流石に二の足を踏んだ。  若尾功に云わせると、 「部長。こいつは駄目ですよ。社長がウンと云うもんですか!」  ……ということになる。 「そうだなあ」  宝田も、折角の名プランだが、重役会議にかければ、猛反対されることが目に見えているだけに、躊躇する気持の方が大きかった。  ——翌日の夜。  彼は井戸に誘われて、クラブ〈唇〉に出かけた。  篝千代子と、メリー・保富の二人が来ていた。  篝千代子を使った〈東西劇場〉の出演企画の方は、着々と準備がすすんでいた。  これは、セル・パッドとしてではなく、東西製薬として行う宣伝広告の一つと、彼は考えている。  また、メリー・保富の、テレビ用のフィルムも完成していた。あとはテーマ音楽の録音だけである。  井戸毅は、ブランデーを注文した彼に向かって、 「昨日の話……どうですか」  と訊いた。 「興味はある」  彼は答える。 「だが、問題は金だよ」 「それはそうですが」 「金額が大きいからなあ」 「そうですかね」  井戸毅は、皮肉めいた云い方をして、にわかに顔を綻ばせた。 「ねえ、宝田さん」 「なんだい?」 「篝さんに、社長さんを口説いて貰ったら、と思っているんですが」 「ええ?」  彼は低い声でそう云った。 「お宅の社長は、たしかに美人には、お弱い筈で……」 「だが、一億円ですからな」 「一億や二億円がなんです。西独から、はるばる親善のために訪れてくるオペラ使節を、日本のスポンサーは手を|拱《こまね》いて、傍観するんですかい?」 「いくら社長でも……どうかなあ」  正直に云って、社長が女道楽なのは事実である。  そのために、たえず家庭争議は絶えない。  だからと云って、篝千代子のような大女優が、 「社長さん。ぜひ西独オペラをテレビで中継して下さいませんか……」  と猫なで声で口説いても、社長が首をタテにふるとは限らないのであった。  薬品メーカーだから、広告は嫌いな方ではない。  しかし、それも無駄な金は、使わない主義だった。はっきり目に見える広告には金を出す。  でも、今度のケースのような、目に見えない企業PRに、果して一億円もの大金を投じるか、どうか——。  彼が考え込んだとき、井戸がどんな風に頼み込んだのかは知らないが、篝千代子が微笑しながらこう云ったのだ。 「ねえ、宝田さん。あたしでよければ、社長さんの説得役にならせて頂きましてよ。だって、大いに意義のある仕事なんですもの……」  と——。  宝田は、静かに腕を組んだ。     二  宝田が腕を組んだとき、クラブ〈唇〉のマダム辰子が、急ぎ足で近づいて来て、 「若尾さんから、お電話!」  と云った。 「電話? よく判ったな」  宝田は首を傾げた。 「私が出ましょうか?」  井戸毅が気軽に立ち上った。 「なんだったら、こちらへお越しになるように、そう云ってよござんすか」  クラウン広告の連絡部長は、笑顔を向けた。宝田は小さく頷いた。 〈セル・パッド〉の発売は、目前に迫っていた。  準備はすべて、|怠《おこた》りなくスムーズに運んでいる。  大新聞のスペース取りも、東西製薬というネームのお蔭で、比較的らくに三大紙を、同じ日の朝刊の、同じ場所をとることができた。  女性週刊誌、婦人月刊誌に載せるグラビア広告も、メリー・保富をつかって、先ず先ずの出来栄えのカラー写真が仕上っている。  電車の中吊り広告も、薬局のウィンドーを飾るポスターなども、すでにレタリングを決定して、印刷にとりかかっている。  セル・パッドは、PRによってマスコミに乗せて売る商品なのだ、と彼は考えている。つまり広告即販売なのだ。 〈若尾課長……今夜あたり、飲みたかったんだろうな〉  彼がそうボンヤリ考えていると、井戸が首を傾げながら引き返して来た。 「急用だそうです」  井戸は告げた。 「急用? こんな時間に?」 「ええ。部長に直接でないとお話しできないとか……」 「そう」  彼は立ち上り、電話機のある入口の方に歩いた。受話器をとると、若尾の、 「大変です……」  という声が、真ッ先に飛び込んで来た。 「どうしたんだ……」  宝田は部下をたしなめるように笑った。 「男が妊娠したとでも云うのかね?」 「部長。だいぶ御機嫌ですな。しかし、氷水を二杯ぐらい一気に飲んで、すぐ本社に来て下さい」  若尾宣伝課長は云った。 「本社に来い?」  彼は受話器をにぎり直した。 「大変なんです。富山県で、うちの〈ポンシロン・C〉を飲んだ女子高校生が、ショック死をしたんです……」 「な、なんだって!」  宝田は青|褪《ざ》めた。  薬品メーカーにとって、なにが嫌だと云っても、自分の会社の薬を使用した人間が死亡したというニュースぐらい、嫌なものはあるまい。 〈ポンシロン〉は、東西製薬の売りだした栄養剤で、ポンシロン・Cは、風邪に利くというのが|謳《うた》い文句の、内服液であったのである。 「新聞社には手配して、薬品名と会社名だけは、伏せて貰うように頼んでおきましたが、明日の朝刊には出ます……」  若尾は、早口でしゃべった。 「わかった。すぐ行く」  宝田は受話器をおき、因果応報という言葉を思いだした。 〈パンネ〉の包装工程の非衛生ぶりを、こっそり暴露して、〈してやったり……〉と思っていたら、こんどは自分の方の〈ポンシロン・C〉に火がついたのである。  宝田は、このことを井戸毅に、告げるべきか、否かと戸惑ったが、やはり止めることにした。クラウン広告社は、〈セル・パッド〉の担当代理店であって、他の薬品についてはここ暫くはノータッチという条件だったからである。 「電話……なんです?」  井戸毅は生真面目に訊ねた。 「野暮用だよ……。しかし、すぐ行ってやらなきゃならん」  彼は、形だけブランデーにロをつけ、 「では、失礼する」  と立ち上った。 「お急ぎですね。車を呼びましょう」 「いや、タクシーを拾うよ」 「拾えないと困りますから」  井戸は、彼を押しとどめて、席を立ち、すぐ戻って来た。 「五分で来ます」 「有難う……」  宝田は仕方なく、また腰を下ろした。  本当に五分間で、ハイヤーはやって来た。しかし、その五分間は、彼にはひどく長い時間のように思えた。  それに、井戸毅がなにかを嗅ぎ出そうとするかのように、いろんな質問をして来るのを、さり気なく|躱《かわ》すことも苦痛であったのだ……。 「篝さんに、葛原社長と会って頂くか、どうかは、いずれ返事しよう。ただ、東西製薬としては、西独オペラに大きな関心を抱いているということだけは、忘れずにいて欲しいね……」  宝田十一郎は、それだけ云い捨てて、クラブを出た。いやな夜だ、と彼は思った。  若尾の話では、女子高校生がポンシロン・Cを欲んで、ショック死したということであった。  でもそれが、事実だとしても、ポンシロン・Cだけを飲み死亡したのか、他の薬品を併せて飲まなかったか、どうかは判らないのである。 〈いずれにしろ、いやな話だ……。セル・パッドの商品イメージが傷つけられる! 下手をしたら、売出しを遅らすより仕方がなくなる……〉  車の中で、彼はまた腕を組んだ。  翌日の朝刊にはどの新聞にも小さく、その事件が報ぜられていた。  ——栄養剤でショック死?  ——女高生、風邪薬であの世へ。  ——風邪薬でショック死亡。  これは三大紙の、小見出し活字の文句であるが、いずれも|某メーカー《ヽヽヽヽヽ》の栄養内服液とか、風邪薬アンプルとか書いてあって、東西製薬の社名も、〈ポンシロン・C〉の商品名も、出ていない。  宝田は、ほッとすると共に、富山県警の解剖の結果を、ひたすら待った。風邪に効果があるように、ポンシロン・Cには、幾つかのピリン系の薬品が混入されていた。  だから研究所員の話では、死亡者はアレルギー体質で、ピリン系のものに弱いのではなかろうか、という見解だった。  それにしても、東西製薬の内服液で、人命が奪われたとなると、これは社会的な大事件である。  薬品関係の業界紙が、さっそくこの富山県での事件を嗅ぎつけ、広告部や、弘報課などをウロつきだした。  社内には、関係者だけしか知らせず、それも|緘口令《かんこうれい》を|布《し》いていたのに、やはり専門家とは怖いものであった。  三日後——事件の真相は、明るみに出た。  死亡したのは、陣内初子という十七歳の高校生である。しかも死亡したのは、五日も前のことだった。  風邪で寝ている初子に、従兄の陣内辰男という男が、ポンシロン・Cを|嚥《の》ませたのであるが、その中には毒物が入っていた。  陣内辰男は、初子を妊娠させてしまったので、彼女を殺して保険金で一稼ぎしようと考えたのだった。初子がアレルギー体質なのを知っていた辰男は、殺しておいて医者にショック死じゃないかと暗示をあたえ、死亡診断書をかかせようとした。  陣内辰男は、医大でインターン中の学生だったのである。|耄碌《もうろく》しかかっていた村の医者は、ポンシロン・C内服液|嚥下《えんか》によるショック死と、死亡理由を記載した。だが、火葬の寸前に、警察がその噂をきいて、 「変死体は解剖しなければならない」  と、火葬をストップさせたところから、事件が報道されたのである。  人騒がせな事件であった。  宝田は、〈やれ、やれ!〉と思った。  そうして、あのとき若尾課長が、裏から手を廻して社名と商品名を伏せて貰っていなかったら、〈ポンシロン〉の売行きは、がたッと落ちていたことだろうと思い、背筋を凍らせたものである。  東西製薬の重役たちが、その真相を知って、|愁眉《しゆうび》をひらいた日の午後のこと、宝田十一郎は開発部長の加倉井の訪問をうけた。  加倉井は、セル・パッドの使用者二百名の、いわばモニターのアンケートを統計にとり、広告資料として持参してくれたのだが、雑談のあと、 「ねえ、宝田部長……この間の混血娘の件、あれ、どうなっている?」  と、不意にきいた。 「ああ、あのことですか」  宝田は、顔を綻ばせた。 「どうも、だめのようですよ」 「どうしてだね」  加倉井は、喰いついてくる。 「理由は簡単です。彼女が、ノウといったからですよ」 「ほう。メリー・保富に云ったのかい?」 「むろん。社長の女婿である、あなたのお言葉ですからな」 「ふーん、そうか。だめなのか」 「まあ、セル・パッドが大いに当って、二、三年もしたら、彼女も大人になるでしょうからな。それまで社長に、待って頂くんですなあ」  宝田十一郎は含み笑った。 「親の心、子知らず、か……」  加倉井紀彦は縁なし眼鏡の奥で、切れ長の目を光らせ、そんなことを残念そうに呟いていたが、 「いや、先刻ね……とつぜん社長が、西独オペラが来るそうだな、なんて話しだしたもんだからね」  と云った。  宝田は、耳を疑った。 「西独オペラ?」 「そうなんだ……。社長は、とつぜん西独オペラの話をしたんだ。だから、混血娘のことで、謎をかけられたのかと思ってねえ」  宝田十一郎は、これは変だ、と考えた。だいたいオペラなどに関心を持つ人物ではないのである、葛原耕平という男は——。 〈社長が、西独オペラに関心を持っている……。ということは、誰かが社長に、進言したのだろうか?〉  彼は、井戸毅の顔を|瞼《まぶた》にちらつかせた。  あの男なら——と彼は思った。 〈あの男なら、なにか手段を考えて、社長の耳に入れないとも限らない!〉  宝田は、部長室を出て行こうとする加倉井紀彦に、 「ちょっと待って下さい。社長に、篝千代子が会いたがっているんですがね。もし、お嫌いでなかったら、いつが都合がいいか、お聞きして頂けませんか」  と声をかけた。  篝千代子と、葛原耕平の対面は、土曜日の夜、赤坂の料亭で行われた。  案ずるより産むが易しとは、このことであった。  葛原社長は、加倉井部長からその話をきくと、すぐ彼に電話して来て、 「今晩でもいい」  と云ったのである。  彼は、先方の都合を聞いてみるといい、その足で井戸毅を訪問した。 「おい、きみ。社長が西独オペラに、関心を持ってるよ……」  宝田は、大発見でもしたように云った。  すると井戸は、若白髪のあたりを、掌で撫でながら、ニヤニヤして、 「そうでしょうな……」  と答えたものである。  彼は、たじろいだ。 「やっぱり、君か!」  宝田は、一体どんな方法をとったのか、と不思議でならなかった。井戸は微笑したまま、首をふった。 「私は、なにも知りませんよ……」 「嘘を吐くんじゃない。なにか工作したんだろう」 「さあ。そいつは、調印が済んだ後でないとねえ。いくら宝田さんでも……」  井戸毅は、低い声で笑った。 「頭の働く男だな、君は!」  彼は口惜しがったが、井戸は決してその時は、裏面工作について語ろうとしなかった。  あとで知ったのだが、井戸毅は、広告部長の彼が、西独オペラを電波に乗せるという企画に、不賛成ではないと看て取ると、綿密な作戦を立てたのだった。  一つは、社長の耳に、〈西独オペラ〉の来日とその前評判を、そっと口コミで伝えることである。  井戸毅は、葛原社長の運転手を口説いた。そうして、社長が囲っている女性のうちで、もっとも寵愛を集めている古賀理恵子という人物の、住所を聞きだしたのである。  井戸は、古賀理恵子を訪れ、西独オペラを電波に乗せたいという計画を打ちあけた。 「スポンサーは、東西製薬のほかに考えられません。セル・パッドの東西製薬が、日本の音楽ファンの女性に贈る——西独オペラの独占放送。私は、これをやりたいんです。古賀さん、私に協力して頂けませんか」  井戸は、誠心誠意、葛原社長の愛人に自分のプランを|披瀝《ひれき》し、 「どうか貴女の口から、西独オペラの素晴しさを、社長に吹聴して頂きたいんです。見に行きたいとか、切符を買って欲しいとか、ねだって頂きたいんです」  と頭を下げた。手土産は、メロン一籠とLPレコード五枚だけであった。  でも、古賀理恵子は、彼のプランを聞いているうちに、 「面白いわ。協力するから、招待券を下さいね……」  などと云いだしたのだそうである。  これは井戸の話術というよりは、矢張り人柄の偉大さなのかも知れない。  一方、井戸は運転手から、葛原社長が毎朝、テープに吹き込んだニュース解説を、出勤の途中で聴いていることを知り、その録音テープを経営者に提供している新聞社の傍系会社も訪ねた。  そうして、 「広告料金をだすから、一週に一回、西独オペラの来日とその意義について、なんでもいいからテープに吹き込んでくれ」  と交渉したのである。  井戸毅の強引な説得に、相手はとうとう折れて出て、週一回として一カ月だけ、なにかをアナウンスすることを承知したのだった。  つまり井戸毅は、日本の経営者たちの何百人かの耳に、車内で聞けるニュース解説のテープを利用して西独オペラの前宣伝を試みたことになる。  しかも、ニュース価値のあるものとして……。  愛人を口説いて西独オペラに興味を持たせ、ニュース解説を装ってその価値を認識させるという、口コミ戦術。どうやら朴念仁の葛原耕平も、この巧妙に仕掛けられた罠の、虜にされてしまったらしいのであった。  後で聞けば、「なあんだ……」と思うようなことだが、その方法を考えだした井戸毅の、なみなみならぬ仕事への情熱が、爽やかに感じられたのを、宝田は不思議だと思ったことである。  篝千代子、葛原耕平、それに宝田の三人だけで会ったのだが、宝田はその座敷で、芸者たちが、自分の方から、 「ねえ、社長さん。西独オペラの切符、手に入りません?」  とか、 「どうせ、テレビで放送するんじゃないかしら……」  などと語りかけて来たのを目撃し、そのときハッキリと、井戸毅の工作の手が、今夜の座敷にも廻っていることを嗅ぎとったのだった。  篝千代子は、そんな芸者たちの発言をとらえて、 「あら、西独オペラのテレビ放送は、まだ決ってないのよ。NHKが一千万円ぐらいしか出せないと云ったんで、蹴られたんですって……。一億や二億、国民のために、出したっていいのにね……」  と、やんわり話を本題に引き入れた。 〈なかなか、立派なもんだ……〉  宝田十一郎は、篝千代子の水の向け方が鮮やかなので、感心しながらも、思わず社長の葛原の顔を眺めていた。反応ぶりを知りたかったのである。     三  そのとき葛原耕平は、ピクリと眉を動かして、女優の方に視線を貼りつかせただけだった。  最前までの好色そうな瞳の色が薄れ、なにかを考えるような瞳の焦点が、かるくずれている。 「ねえ、社長さん。日本の女性のために、スポンサーになって上げて下さいません?」  篝千代子は、冗談めかして云った。 「ふむ!」  葛原耕平は苦笑とも、咳払いともつかぬような声を押しだし、 「宝田君……」  と云った。 「はあ……」  宝田は、わざと西独オペラに無関心なような、表情を装った。 「きみ……知っているか」 「なんでございますか?」 「西独オペラのことだよ……」 「ああ、家内から聞いてます。うちの家内は、別に音楽狂でもないのに、この西独オペラだけは、行列して前売券を買うんだとか、申しておりました……」  むろん、即興の嘘である。だが、彼の言葉に、社長は敏感に反応して、 「ふん、君のところもか」  と云った。 「社長さんは、音楽には、ご趣味はおありなんでしょ?」  すかさず篝千代子が訊く。  葛原耕平は渋い顔つきで、「うん、まア……」と口の中でムニャムニャ云った。 「テレビ中継の話は、聞いとるのか?」  宝田は軽く首をふった。 「NHKに決ったものと|許《ばか》り思っておりました。うちの〈セル・パッド〉は、インテリ女性を対象にしておりますので、商品イメージにぴったりなんですが……」  彼は社長を真似て、あとの文句は口の中に|納《しま》い込んだ。 「ふん!」  葛原は、鼻の先で|嗤《わら》った。 「NHKがしないのなら、どこかが独占放送するわね」  芸者の一人が女優のためにブランデーの水割りをつくりながら、座敷の隅から発言する。すると、残りの芸者たちは頷いて、 「早く聴きたいわ……」  とか、 「NHKは|吝嗇《けち》なのねえ」  などと相鎚を打つ。  宝田十一郎は心の中で、〈井戸のやつ!〉と思った。心憎いばかりの潜行作戦なのである。 「そんなに聴きたいか」  葛原は、ポツンと呟いた。  篝千代子は言葉を添えた。 「アメリカのカーネギー・ホールが招待しても西独オペラは公演を承知しなかったそうですわ。そんな世界一流の歌劇団ですもの、みんな音楽ファンなら聞きたいんじゃございません?」 「そんなものかな……」 「オペラは女性に、不思議な魔力を持っていますのよ、社長さん」  女優は微笑した。 「ほう、魔力をねえ」 「ええ、だって女の子は年頃になると、宝塚だの、松竹歌劇だのに、みんな|憧《あこが》れるでしょう? あれがよい見本ですわ」 「なるほど?」  葛原耕平は腕組みをした。 「かりに西独オペラに、一億円を投げだすとしても、日本の人口から考えれば、一人に一円ずつ配った計算じゃありませんか」 「全部の人が、見て呉れればね」 「いまテレビの普及率は二千万台を越えていますわ」 「うむ……」 「かりに半分が見て呉れれば、一千万台でしょう。一台で三人が見るとしたら、三千万人にPRできますわ」 「篝さんは、広告代理店みたいな口を利く方だね」  葛原は、宝田十一郎を|一瞥《いちべつ》して、 「宝田君。すぐにでも、検討して呉れたまえ……」  と云った。 〈ほう! 乗って来た!〉  宝田は目を細めた。  井戸毅の作戦に、葛原耕平は、完全に乗せられたことになる。 「畏りました」  彼は篝千代子を見て、社長に気づかれないように一礼した。女優は笑い、 「もし実現できたら、日本のインテリ層は、きっと東西製薬のファンになると思いますわ……」  と、駄目押しの言葉を放ったのだった。  これらの話の進め方は、おそらくクラウン広告の井戸毅が、彼女の耳に吹き込んだものであろうが、それにしても葛原社長は、女に甘いという弱点を巧みに利用されたことになる。  宝田としては、社長の英断さえあれば、この〈西独オペラ〉の単独スポンサーになるという壮挙を、マスコミに吹聴し、パブリシティ効果を上げる自信はあったのである。  薬品メーカーは、人命を預るだけに、学術的な雰囲気に包まれていなければならぬ。  その意味でも、単独で、西独オペラを買うという行為は、ジャーナリストからは賞讃の拍手を浴び、一般大衆からは信頼度を|昂《たか》めるに違いなかった。その点では、自信があったのである。  西独オペラの独占放送という、降って湧いたような企画は、重役会議をかなり紛糾させた。  反対の急先鋒は、開発部長の加倉井である。 「道楽にしても、電波料を含めて一億円の支出は高すぎる。それに視聴率が、極めて高いものだとは思われない。その証拠に、音楽評論家は十人が十人、西独オペラの日本興行はあたらないと云っている……」  というのが、加倉井の反対理由だ。  宝田は|反駁《はんばく》した。 「大衆に媚びる娯楽番組よりは、こうした芸術的番組の方が、パブリシティ効果としては大きいと思うんですが。誰もがスポンサーにならなかったものを、東西製薬がポンと一社で買い切る。この行為の方に、ウェイトをかけて考えて下さい……」  彼としては、このときぐらい重役会議で、熱弁をふるったことはなかった。 〈セル・パッド〉の新発売と、西独オペラの独占放送とを結びつけて、新製品のイメージづけを行いたいと云うのが、彼の本音であったのだ。  重役たちの賛否は完全にまっ二つにわかれた。しかし葛原耕平の鶴の一声が、宝田に勝利をもたらして呉れた。 「道楽で一億円を出すんじゃない。|道修《どしよう》町の連中から、道楽やと笑われんように、宝田部長は頑張って欲しいと思う……」  葛原は、そんな云い方をしたのだ。 「わかっております。私も、セル・パッドとこれには、全精魂を打ち込んでやります。はっきり云うと、これに賭ける積りでおりますから……」  彼の挨拶は神妙だった。  重役会議の結果を知るために、クラウン広告社の連絡部長は、宝田の部屋に来て待っていた。彼は部長室に戻るなり、 「さあ、やろう!」  と掛け声をかけた。  井戸毅は、巨体をゆるがせて立ち上り、 「決りましたか」  と、安堵したような声をだした。 「決った。あとは突撃だよ」 「よかったですな」  井戸は何故か一瞬、鼻のあたりをくしゃくしゃと歪め、慌ててハンカチをとりだして、|洟《はな》をかんだ。見ると、井戸の|眦《まなじり》には、光るものがあった。 〈おや、この男は……〉  宝田十一郎は、井戸毅にそんな感激性みたいな、子供みたいな所があったのかと、改めて見直す感じになる。 「泣いているのかい?」  彼は皮肉にきいた。 「いや、嬉しかったんですよ。一億円を、ポンと出して呉れた、葛原社長の度胸のよさが……」  井戸毅は、ハンカチを納い込みながら、照れ臭そうに笑うのだった。 「なに云ってる……。さんざん自分で工作した癖に!」 「それは、云いっこなしですよ」  井戸は慌てて手をふった。 「だが、それにしても、至れり尽せりだったよ。感心した」 「いやア……」  井戸は無邪気に笑い、 「社長ひとりに、集中攻撃をかけたのが、よかったんでしょう」  と、|小鬢《こびん》のあたりを撫で上げた。 「いや、本当にお見事でした」  宝田は相手の手を握り、 「あとは、突撃だよ」  と、同じ言葉を繰り返した。 「ところで、パブリシティ計画ですが、こんなものを作ってみました」  井戸毅は、懐中から封筒に入った分厚いものをとりだす。見ると、極秘のゴム印が捺されて、セロテープで封印がしてある。 「この書類が、陽の目をみないのではないかと、心配してたんですが」  井戸は太い指で、その封を切りながら、 「N電器が、二百人の課長に、休職を命じたそうですよ……」  と云った。 「二百人の課長に?」 「ええ。その連中がいない方が、会社がうまく行くと云う訳でしょうか。しかし、給料はやるが、会社に出て来るな、と云われた当人は、あまり嬉しくないでしょうなあ」 「ふーん、驚いたな」 「思い切ったことを、やるもんですね。私はその休職を命ぜられた、二百人の課長のとる態度に、大いに関心が湧きます」 「全くだね。人事の合理化のための大量休職命令か……。厭な気持だろうね」  宝田十一郎は、そんな話をしながら、井戸毅がいつ、どこで、こうした情報を仕入れてくるのかと、不思議でならなかった。  封筒の中から現れたのは、パブリシティの進行表だった。  いつ東西製薬が、西独オペラに協賛したことを、正式にマスコミに発表するかとか、東生ホールとの契約書の草案、新聞社の社告掲載をいつにするか、企画書のマスコミ配布の方法、ラジオ、テレビの放送日時、オペラ団員歓迎の計画、テレビの放送CMの私案などなど、実に綿密につくられた進行計画表なのである。 「うーむ! 驚いたねえ、井戸君。いったい何時、きみはこれを作っていたんだね……」  宝田十一郎は感嘆の声を放った。 「夜、家に帰ってからですよ」  こともなげに、井戸毅は云うのだった。 「ええ? あれだけ飲んで、帰ってからね?」 「そうですよ。こういうこと、考えるのが好きでしてねえ……」  井戸毅は、|俯《うつむ》き加減になると、進行表をおさえて、 「主催新聞の社告に、なんとか〈東西製薬〉の名前を、はっきり打ち出して貰おうと、いま策を練っているんですがね。なにか、いい方法はないもんでしょうか……」  などと云うのである。宝田十一郎は、この人物の、|飽《あ》くことを知らぬ企画力と行動性とに、脱帽せざるを得なかった……。  九月に入ると、東西製薬の販売部、広告部は、目立って忙しくなった。  販売部の方では、試供品を女性にもれなく提供するという問題について、次から次にと難問題が出て来ており、頭を痛めている。広告部の方は、幸いに順調だった。  販売部のように、流通機構上での、うるさい難問題はない。  だが、東生ホールと共催する新聞社の、朝刊第一面に、西独オペラ来日の社告が発表されたのを契機として、俄然、宝田個人は忙しくなった。  東西製薬が六千万円という、空前絶後の協賛料をポンと積み、このオペラの放送権を独占したことが、マスコミの食指を動かすに充分な材料だったがためである。  彼は、ジャーナリストとの応対に忙殺され、たちまち悲鳴をあげた。でも、それは嬉しい悲鳴であった。  新聞社系の週刊誌は、主催新聞社に対する腹癒せか、いずれも西独オペラの来日公演については、黙殺する態度に出た。しかし有難かったのは、雑誌社系の週刊誌である。  ある女性週刊誌が、〈そのオペラ、一億円で買った!〉という派手なタイトルで、八ページにわたる特集記事を組めば、つづいて娯楽週刊誌も〈西独オペラがやって来る〉という四ページの紹介記事を掲載する……というわけで、とりあげられたのは、週刊七誌(合計三十四ページ)、月刊十二誌(合計二十八ページ)、新聞二十七紙(合計八百五十九行)にも及んだ。  むろん、東西製薬のこの壮挙を、賞め讃えて呉れる記事ばかりで、わずかに大阪から発行されている業界紙が、〈血迷った、東西製薬の愚挙。とらぬ狸のソロバン勘定〉という中傷記事を掲載しただけであった。  クラウン広告社から、それらの関連記事が十部ずつ、毎日のように送られて来た。  週刊誌の記事の一ページ広告の値段は、雑誌によって異るが四十万円から十五万円の間だった。  平均して二十五万円としても、七つの週刊誌にとりあげられた記事の頁数をかけ合わすと、ざっと八百五十万円ということになる。 「ふーん! 人のやらんことをやれば、マスコミちゅうもんは、黙っていても、向こうから書いて宣伝して呉れる! 有難い話じゃないか……」  葛原耕平は、記事に掲載された自分の顔写真を、飽くことなく眺め入りながら、ご満悦だった。  シブチンの彼のことだから、それらを広告料金に換算してみて、 〈ふむ! 二千万円はもう回収でけた!〉  などと、心の中で考えていたのかも知れない。  だが、栄養剤のメーカーとしてしか、人々に知られていなかった〈東西製薬〉が、この西独オペラの放送権を買ったことで、どれだけ世間に好い印象を与えたか判らない。 「どこへ行っても、大評判ですよ。この不景気に思い切ったことをやるなあ、なんて云われます」 「いや、嬉しいのは、この西独オペラのために、わが社の製品イメージが、ぐッとハイ・クラスになって来たことですよ。セル・パッドは、西独オペラで地ならしされた芸術的な雰囲気に乗って、登場するわけでしょう。部長のアイデアには感心しました……」  宝田の部下たちは、わけもなく張り切っていた。  宝田は、つくづくと人間は感情の動物だと思うのだった。  就任以来、半年目を迎えた宝田だった。前任者が、かなり長い年月、広告部長の椅子にあったため、その色をなかなか払拭できないことを、密かに彼は悩んでいた。  が、こんどの西独オペラのヒットで、部員たちの気持が、ぐッと宝田に傾斜し、彼を中心に、なにかモリモリ仕事をしよう、という意欲に燃えて来ている。  もし、井戸毅が西独オペラの独占放送というアイデアを持ち込んで呉れなかったら——いや、持ち込んでも裏工作をして、社長の葛原を説得する方向に持って行って呉れなかったら——と思うと、宝田十一郎は、自分は幸運な人間だと考えるよりないのだった。  そうして宝田は、あのクラウン広告社の連絡部長を、決して自分が在任中は、放してはならないと思うのだった。 〈俺は、あの男の知恵を徹底的に、俺の仕事に利用するのだ……。それが俺の仕事だし、それが井戸君にとっても、プラスなんだからな……〉  宝田は毎日のように、井戸毅と会い、次から次にと持ち込まれるアイデア——たとえば、テレビのスポットで、〈セル・パッド売切れました。しばらくお待ち下さい〉という、筆文字だけの広告を週に一度、挿入したらどうだろうか、というようなプランの取捨選択を決めて行った。  そうして彼が気づいた時には、東京にはすっかり秋が訪れており、社運を賭けた〈セル・パッド〉の発売日は、寸前に迫っていた……。 [#地付き]〈了〉 〈底 本〉文春文庫 昭和五十二年十一月二十五日刊  初出誌 週刊文春 昭和三十九年五月四日号〜           昭和四十年四月二十六日号