現代悪女伝 欲望の罠 梶山季之 著   目 次 バラバラの女 閨秀志願 不倫な姑 良妻賢母 鹿追い蘭子 新宿あまぞん族 バラバラの女   一  ——その日の夕刊のトップ記事は、各社とも派手であった。むりもない。バラバラ死体の身許が確認され、しかも犯人であるバーテンが、逮捕されたのだった。  千葉県の埋立地で、赤いマニキュアを施した女性の片脚が、発見されたのが三日前のことで、つづいて右腕、胴体……という風に、それは発見されて行ったのだった。  しかし、肝腎の首が見つからず、ために身許が判らなかったのであるが、六本木のスナック・バーの共同経営者である高原という人物が、 「マダムの能勢《のせ》陽子が、五日前から姿を消しているが……」  と届け出たことから、事件は急転直下、解決したのだった。  マダムと一緒ぐらいに、姿を消していたバーテンは、大阪駅でうろうろしているところを不審訊問され、ボストン・バッグの中身を追及されて、とうとう自白した。バッグの中に、能勢陽子の生首が入っていたのである。  自供によると、陽子のマンションを訪れて金を無心したところ、 「使用人なんかに、貸す金はないよ」  と悪口を云われ、逆上して絞殺した。  そのあと、浴槽の中で、庖丁と鋸を使って首、腕、脚、胴体という風にバラバラにし、車で千葉まで運んで捨てた。  首は捨てることが、何故かためらわれ、自分のアパートの部屋へ隠していたが、腐爛《ふらん》しはじめたので、神戸港へ捨てに行こうと考え下阪したのであった。  犯人の自供をきいてみると、まことに単純そのものなのであった。  が——広い東京に住む人間の中で、少なくとも数百人の男性が、 〈ほう! あの女じゃないか……〉  と独り言を呟き、また十数人の紳士が、 〈ふーむ! どうせ、碌《ろく》な死に方はしないと思うとったが、やっぱりなあ……〉  と、憮然《ぶぜん》たる想いに駈られたことだけは、先ず間違いない。  西銀座のスタンド・バーである、〈クーキイ〉の常連客のなかには、ずけずけと、 「ヨッコなら、殺されても仕方ないさ」  という者がいた。  四年前に、能勢陽子は〈クーキイ〉で働いており、ヨッコと渾名《あだな》されて、人気者だったのである。  雑誌記者の下平啓助は、半年ほど前から、その〈クーキイ〉へ通いはじめていたのであるが、その事件が解決した夕方、たまたま、その酒場にいて、そんな客の放言を耳に留めたのだった。  それで下平は、マダムを呼び、そっと客の素性を聞いたのだ。  マダムは、 「あの子……水商売に入ったのは、私の店が最初だったのよ。一年ぐらい居たかしら? それからは、あれよ、あれよという出世ぶりで、凄かったわ……」  と云い、放言した客は、画家の榊山《さかきやま》だと教えてくれたのだった。  榊山伸といえば、日本の画壇でも、売れッ子に属する人物である。  下平啓助は、おそるおそる榊山に名刺を通じた。そして、死んだ能勢陽子のことを、話して欲しいと云ったのである。  榊山は苦笑し、 「どこか、行きますかな?」  と立ち上った。  つまり、それは承諾のしるしだった。  下平は、こんなこともあろうかと、編集長の名前で加入している、メンバー制のクラブへ案内したのだった。入会金は高いが、あとは酒を市価の三割高い値段で買うだけで、殆ど金はかからないのが特徴である。  榊山は、新聞をみて、つい懐《なつか》しくなって久し振りに〈クーキイ〉を訪れたのだと笑い、 「あいつはね、大変な女ですよ……」  と云ったのだ。 「ほほう。どう、大変なんです?」  下平は、ブランデーの水割りをつくりながら訊いた。 「俗に、カマトトと云いますね。あの陽子という女は、典型的なカマトト……いや、カマゴジラなんですよ」  画家は、パイプを掃除しながら答えた。 「ほう、カマゴジラですか」 「私が、はじめて会ったのは、ちょうど四年前の夏ですがね」 「ははあ……」 「ふらりと入って行くと、野暮ったい感じの女の子が、ポツンと立ってる。マダムに訊いてみると、週刊誌で見たけど、働かして呉れって、自分から飛び込んで来たって云うんですなあ……」 「なるほど?」  下平は肯いた。  酒場〈クーキイ〉は、文化人が集まるので有名な店だったのだ。  どういう訳で、そうなったのかは知らぬ。下平は、編集長に連れられて、その酒場を訪れて以来のファンなのだが、半年ほどの間に十指にあまる文化人や芸能人と、挨拶をかわす仲になっている。  大学教授も居れば、高名なジャーナリストも居る。作家や画家、音楽評論家から映画監督、落語家やテレビの司会者に至るまで、その〈クーキイ〉には出入りしているのだ。  そして、マダムは何かあると、週刊誌あたりに、よく顔写真と一緒に、コメントを求められているのだった。  能勢陽子ならずとも、酒場のホステスを志すほどの女性ならば、そうした活字や電波の世界の人気者たちの集まる酒場で、働いてみたいと思うのが当然であろう。  下平啓助が肯いたのは、そうした〈クーキイ〉の特殊な事情を、よく承知していたからである。 「私は、感心な女の子だと思うた。きいてみると、昼間はある会社で働いていて、アルバイトだという。それに私は心を惹かれてしもうたんでしょうな。姉夫婦の家に下宿していて、家にいてもつまらないから、勤めに出た。夜は、姉夫婦の甘い睦言《むつごと》にあてられるから、ますます家にいても、仕方がない。それでアルバイトに来たと云うんですな……」  榊山は、四年前を回想しながら、ふッと苦々しい表情になっていた。   二  榊山伸が、能勢陽子に魅力を覚えたのは、やはり、そのあどけない顔立ちと、子供っぽい言葉使いの故為《せい》であろう。  服装は、野暮ったかった。  スタンドだけの酒場だから、なにも派手な服装にする必要はない。が、それにしても榊山の眼からは、あまりにも泥臭いのだ。  榊山は、何度か通ううちに、夜食を喰べに陽子を連れて歩き、なにくれとなく、注意を与えるようになった。  そして必らず、タクシーに乗せて、自分の家まで送らせ、二、三千円ずつの小遣い銭をやって別れるのだった。  陽子はよく、姉夫婦の話をした。  恋愛の末に、結ばれた夫婦らしく、日曜の朝はいつまでも二人でベッドに入っており、なかなか起きて来ないのだとか、発泡性の避妊剤を買いに行かされて赤面したとか、そんな他愛のない話である。  榊山は、いつしか陽子のそんな姉夫婦の打明け話を、微笑ましいものとして、聞くようになった。姉夫婦と同居していると、信じて疑わなかったのである。  ホステスが三人しかいない〈クーキイ〉でいつしか能勢陽子は、服装も次第に洗練されて行き、化粧も上手になって、人気者となった。年齢がいちばん若かった故為もある。 「ほう、ヨッコ。恋人でも出来たのかい」 「美人になったなあ。馬子にも衣裳か……」  などと、揶揄《からか》われて、俯向いて赤い顔をしている陽子は、いかにも初心という感じであり、完全に処女のように思えたものだ。 〈クーキイ〉には、いろんな有名人がやってくる。  そうした常連客たちに、陽子は名前を覚えられて、 「おい、どうだ。今夜あたり、わしに水揚げをさせんか」  とか、 「ヨッコ。わしの女になれよ。うんと可愛がったるぞ……」  と云って、口説かれるのだった。  むろん榊山とて、木石の身ではないから、酔いにまかせて、タクシーの中で口説いたことがある。  陽子が〈クーキイ〉に勤めて、半年目——たしかクリスマス・イヴの夜だったような記憶がある。  いや、口説いたと云うよりは、千駄ケ谷の連れ込みホテルにタクシーを乗りつけて、陽子を降ろし、 「一時間だけ付合わないかね?」  と強引に誘ったのだ。  すると陽子は半泣きの顔をして、 「困ります。そんなことをしたら、お姉ちゃんに叱られます……」  と云い、 「とに角、寒いから中で話そう……」  と腕を掴む榊山に、 「勘忍して下さい。あたし今、生理中なんです……」  と哀願した。  酔っていた榊山は騎虎の勢いで、 「わしは構わん。メンスの時の方が、苦痛が少くて良いじゃないか」  と云った。すると陽子は、 「ご免なさい。生理と云ったのは嘘です。でも、そんなことをすると、子供が出来るって、姉が……」  などと云う。  榊山は、背広の胸ポケットから、ゴム製の避妊具をとりだして、陽子に示した。いつも持ち歩いていたのである。 「これで子供や、病気の心配もないよ」  榊山は云った。この用意周到さには、陽子も呆れたらしいが、ホテルの玄関口でオイオイ泣きだしたから慌てた。  結局、榊山は興醒めしてしまい、その夜は彼女を送って帰ったのだった。男としては、女をホテルの玄関にまで連れて行きながら、不首尾のまま帰って来るとは、全くだらしのない話だった。  そんな事件があってから、榊山はしばらく〈クーキイ〉に足を向けなかったが、二月の寒い夜、不図《ふと》おもいついて覗いてみると、陽子が懐しそうに笑顔をみせて、 「先生に、お会いしたかったの」  と云う。  聞いてみると、内密に相談がある、と云うのであった。 「ふん、怖いね。しかし逃げられるのでは相談に乗れないよ……」  と云ってみると、 「今夜は逃げませんから……」  という返事である。  榊山は、何軒か梯子《はしご》して、カンバン近く、いそいそとスタンド・バーに舞い戻った。  陽子を伴って、腹ごしらえがてら、寿司屋へ行き、内密の用件というのを聞いてみると、 「先生……実は、義兄《にい》さんから最近、変なことばかり云われてるんです……」  と陽子は切りだして来た。  陽子の云うところによると、姉が出産直後のため、医師から夫婦の行為を禁じられた故為か、義兄が義妹である彼女に、いやらしい目付きをして、 「一緒に映画に行こう」  とか誘い、この間などは、銭湯の帰りを待ち伏せていて、暗い公園へ散歩に連れだし、キッスしようとしたというのだった。 「ふーん。そいつは危険信号だね」  榊山は云った。 「それで先生……あたし、姉の家を出て、独立しようと思うんです……」 「なるほど?」 「ところが、アパートを借りるにも、高い権利金が要るし……それに世帯道具を買うお金もないんです……」  陽子は訴えるように云った。 「つまり、金を貸して欲しい、というわけだね?」  榊山がズバリと切り込むと、女は頷いて、 「ほかに、お願いする人が、いないんです……。先生、出資して下さいません?」  と哀願した。 「いいだろう。幾らだね?」 「あのう……アパートを探してから、ご相談に伺います……」  陽子は伏眼がちに答えた。  その夜、榊山が彼女をホテルに誘うと、しおしおと従って来たが、玄関先でやはり駄々を捏《こ》ねだした。  彼女の云い分は、ホテルから出てくる時、人に見られると、愧《はずか》しいから嫌だと云うのだった。  榊山は頑強な彼女にサジを投げて、 「じゃあ、どうしろって云うんだね?」  と云った。  すると陽子は、 「どこか、暗いところで……」  と云う。  二月の夜に、野天で交渉を持つことは出来ない。榊山は一計を案じて、タクシーを神宮外苑の暗がりに駐めさせて、運転手に金を呉れてやり一時間ぐらい散歩して来て欲しいと告げたのである。  その時、陽子が手帳に、なにかを記入しているのを見たが、榊山はさして気にもとめず陽子を抱き寄せたのであった。  陽子は、オーバーすぎるほどの苦痛を訴えつづけた。  そして行為が終了したあとは、顔をそむけて口を利かず、運転手が戻ってくると、しくしく泣きだしたのである。  二日後——榊山伸は自宅に、能勢陽子の義兄と称する男の、訪問を受けた。  一見して、ヤクザ者とわかる風体と、口調をした人物であった。   三 「なにしに、やって来たんですか?」  下平啓助は、画家に質問した。 「なにしに?」  画家は苦笑して、パイプを鼻の脇にこすりつけた。 「強姦罪で訴える、と云うんだなあ」 「えッ、強姦罪で?」 「そうなんだ。ご存じのように、強姦てえのは親告罪でね。保護者の立場にある義兄が、処女を奪った私を訴えると云うわけさ」 「ははあ……」 「私は、強姦ではなく合意の上だ。本人に聞いてみろ、と云ったんだが、義兄とはいい条完全なヤクザ者でね」 「それで……どうしました?」  下平は、雑誌記者としての職業的な興味を覚えつつ、そう訊いていた。 「勝手にしろ、と抛《ほ》ったらかしにしておいたのさ。そうしたら、裁判所から出頭命令が来たから、吃驚仰天したね」 「では、本気で告訴を……」 「うん。先方には、タクシー運転手の証言とか、ホテルの女中の証言とか、私に不利なものばかりが提出されていたよ」 「ははあ……。タクシーの中で、メモしていたのは、強姦されたという証人を、はっきりさせておく必要があったからですね?」 「そうなんだな……。そうして私を告訴しときながら、ヨッコ自身は、ケロリとして〈クーキイ〉に勤めに出てるんだ……」 「ほう! 大した心臓ですなあ」  下平は首を傾げた。  普通の神経では、とても考えられないことだからである。 「そのうち、私が強姦罪で告訴されたらしいという噂が、立ちはじめてね……」 「ほほう……」 「私は、これには参った。破廉恥《はれんち》罪だし、週刊誌あたりに、面白おかしく書き立てられたのでは、かなわない。それで弁護士とも相談して、示談にすることにしたんだが、百五十万円もふんだくられたよ……」 「へーえ、百五十万円もですか!」 「うん。これには泣いたが、腹が立ったのは陽子が〈クーキイ〉を辞めてからのことさ」 「また、何か、あったんですか?」 「いや、あったどころじゃない。強姦で訴えられていたのは、この私だけじゃなかったらしいんだよ……」  下平啓助は眼を剥いた。 「と……云いますと?」 「音楽評論家の下高原君に、映画俳優の水馬五郎、作家の近沢泡二、〈新興文芸〉の栗田編集長など、なんと私を含めて、七人の連中が強姦で告訴されて、みんな百万円前後で示談に応じてるんだね……」 「えッ、七人も……」 「そうなんだ……。マダムも、あとでそれと知って、駭《おどろ》いていたがね」 「へーえ、大変な女ですなあ……」 「そればかりか、〈セネタース〉の古江投手なんざあ、うまい工合に操《あやつ》られて、身を持ち崩してしまったよ」  榊山は、同情する面持で、目をしばたたくのである。 「そういえば、セネタースに古江という優秀なピッチャーがいましたっけね」  下平は肯いた。  古江修という、六大学野球で鳴らし、三千万円の契約金でセネタースに入った選手である。最初の年は、ぱっとしなかったが、二年目は十八勝三敗という成績で、最優秀投手にえらばれたのだが、次の年は成績ガタ落ちでいつの間にか、プロ野球から姿を消してしまった人物である。 「とにかく、口惜しいのは、奴さん、処女でも何でもなく、姉夫婦と一緒に暮してるということからしてが、作り話だった……ということなんだよ」  画家はいまいましそうな表情をつくった。 「作り話ですって?」 「うん。〈クーキイ〉に勤めた頃には、もう男と同棲してたんだね……」 「へーえ、達者な女ですね」  下平は、画家のために、またブランデーのコルク栓をとって、水割りをつくった。 「その同棲してた男ってえのが、ほら……陽子の首を持ち歩いてたバーテンさ」 「えッ、……すると、自分の男に、彼女は殺されたんですか?」  雑誌記者は目を丸くした。 「こいつは、新宿のY組のヤクザ者でね……陽子はなんでも、この男と手を切らねば、夜の蝶としては出世できんと思い、処女を売り物にして、一芝居打ったらしいんだなあ」 「ははあ、なるほど:…」 「なんでも、強姦で告訴という新戦術で、一千万円の金を掻き集め、ポンと男に呉れてやったらしいね」 「ふーん。いい度胸ですな」 「陽子は頭の良い女だから、男が韓国人だということを、うすうす感づいていたんだろうよ……」 「それだけ頭の良い女が、なぜ、そんなヤクザ者に欺されてたんでしょう?」  下平は云った。 「よく判らんがね……なんでも家出して、東京に出て来て、金がなくなり、新宿でうろうろしている所を、親切な言葉をかけて来た彼に、睡眠薬でも飲まされたんだろうな。躰を自由にされて、俺のスケになれ、と脅迫される……なんて図は、よくあるからね」 「かも知れませんな。じゃあ、陽子というマダムは、ヤクザのヒモから命令されて、あの〈クーキイ〉に勤めたんでしょうか?」 「と、思うね。だが、有名人の集まるあの酒場を、先ず第一弾に撰んだのは、ヨッコの頭のいい所さ……」 「へーえ、何故です?」 「何故って、その常連客を財産にして、一年後には、男と別れる手切れ金をつくり、自分から赤坂のナイトクラブ〈夜来香《イエライシヤン》〉に、売り込みに行ったんだからね……」 「ほほう……」  下平啓助は、ふッと能勢陽子という、殺されたマダムのことを、本格的に調べてみようと思った。猟奇犯罪の被害者といえば、それまでの話である。  しかし、榊山伸の話をきいただけでも、ヤクザのヒモと手を切るために、なかなか手のこんだ芝居をしたり、七人もの常連客を告訴しながら、平然と〈クーキイ〉に勤めていたりしているのだ……。 〈いったい彼女は、なにを追い求めていたのだろうか?〉  下平啓助は、その点に興味を抱いた。  金なのだろうか? それとも、経営者という身分なのだろうか? 「ホステスになったばかりで、一年間に七人の男を欺すような女だよ。あの頃、ヨッコは二十一だと云ってたっけが、夕刊によると、彼女は二十八歳だねえ。ということは、あの頃は二十四歳という計算だ……。まあ、女が三つ四つ、年齢のサバを読むのは、常識だろうが……」  画家は、苦笑しながら、ブランデーの水割りを飲み、舌打ちを一つして呟くのである。 「人から百五十万円もふんだくっておきながら、あの女ときたら、済みません、でもなければ、有難うでもない。全く、頭にくる女だったよ……」 「よほど、神経が図太いんですな」  下平は感心していた。 「作家の近沢泡二は、〈あれだけ見事にやられると、かえって腹も立たん〉と負け惜しみを云ってたっけが、そんなもんかも知れないね……」  榊山伸はパイプを咥《くわ》えて、 「まあ、元セネタースの古江修を探しだして聞いてみるんだね……」と、教えるように云った。 「先生……」  下平は改まった口調になり、 「あのう……先刻、彼女は殺されても、仕方がないと仰言ってましたが……お金をとられたからなんですか?」  と云ってみた。  画家は、ゆっくり首をふった。 「そりゃあ、車の中の遽《あわただ》しい一発で、百五十万円とられたのは口惜しいよ。しかし、それだけじゃあない。はじめから計画的に、人を欺したことに、腹を立ててるんだ……」 「なるほど……」 「銀座にホステスは、何万人といる。亭主がいるくせに、独り者だと云ってみたり、アパート代の旦那、着物の旦那、帯の旦那……と三人ぐらいの違うパトロンを持ったり、なんてのは、まだ可愛いい方だね。あの能勢陽子だけは、特別だ……」 「特別の悪女ですか?」 「考えてもみたまえ。そうでなければ、ホステス四年目にして、独力でマンションを買いとり、白バーをひらき、六本木にスナック・バーを出し、新橋駅前のビルに割烹《かつぽう》店を出すなんて芸当は、出来ないよ……」 「ははあ……。そう云えばそうですな」  下平は夕刊の記事から、ただ能勢陽子が、六本木のスナック・バーの共同経営者という風にだけ、考えていたので、榊山の話は意外であった。  聞いてみると、なんと彼女は、三軒の店の経営者でありながら、いまだに赤坂のナイトクラブで働いていたと云うのである。 〈うーむ!〉  雑誌記者は、そこで大いに唸ったのだ。   四  ……間もなく、バラバラ殺人事件の全貌が、あきらかになると共に、週刊誌あたりが一斉に、死んだ能勢陽子の男関係や、ドライな生き方についての特集記事を掲載しはじめた。  下平啓助は、それらの記事に全部、目を通したが、〈クーキイ〉時代の強姦恐喝事件については、一件も報じた週刊誌はない。  そのことが下平を、ある意味では勇気づけた。  さっそく編集長に提案してみると、 「よかろう。新版・女の一生というタイトルで、二十八歳でバラバラ死体になるまでの、能勢陽子の生き方、人生哲学を中心に、レポートをつくってみようじゃないか……」  と云って呉れた。  翌日——下平は、能勢陽子の郷里である、岩手県に飛んだ。  生まれたのは、日本のチベットと云われている山奥の、本当に�寒村�という形容がピッタリするような所であった。  産物は乏しく、わずかな陸稲《おかぼ》と、稗《ひえ》や粟《あわ》とを未だに常食にしているという。  魚を喰うのは、正月ぐらいなもので、それも塩鮭が一番のご馳走なのだというのだから他は推して知るべしであろう。  そんな貧しい村で、能勢陽子は生まれたのであった。  分教場の小学校を終え、曲りなりにも中学校を出て、尾張一宮の織物工場に、彼女は集団就職している。  下平啓助は、いったん東京へ戻って、新幹線で名古屋へ赴いた。  工員が五百名ぐらい働いている、毛織物の工場が、能勢陽子の最初の職場だった。  工場長に面会を求め、取材に協力を依頼すると、 「困りましたな。会社の名前を、絶対に出さないのなら、協力しましょう……」  と云った。下平は承諾した。  人事課長だった人物に会い、いろいろと聞いてみると、勤務成績は、まあまあだったらしい。  中学を卒業して直ぐと云うと、陽子は十六歳である。むろん寮生活であった。 「満二年間ぐらいは、真面目に働き、家にも送金してたようですが、そのうち妊娠しましてね……」  相手は、眉根を寄せて咳をすると、 「本人を呼んで訊いてみると、社長の息子さん……当時、大学生だったんですが、それが父親だと云い張るんですよ。吃驚しましてなあ……」  人事課長は、お家の一大事とばかり、彼女を説得して子供を堕ろさせた。  十八歳の能勢陽子は、社長の次男坊から口説かれて、結婚すると云う相手の言葉を、頭から信用し、堕胎した後も、まだ信じていたらしい。  むろん陽子が、社長の息子の嫁になれる筈もなかったが、欺されたと知った彼女は、睡眠薬を飲んで、自殺を図った。彼女が二十歳になった許りの春のことである。  幸い、命はとりとめたが、新聞に書き立てられたというので、代償として陽子は馘《くび》になったのだった。  そこから、陽子の運命が狂いだす。  男に欺されてからの彼女は、男に復讐しようという執念というか、自分で生きてゆく、という勝気な女となったのだ。  その手はじめが、岐阜のキャバレー勤めである。  ご存じのように、岐阜は中京の奥座敷と云われる歓楽境だ。名古屋から車で五十分ぐらいの位置にあるし、長良川《ながらがわ》の鵜飼《うかい》をはじめ、バー、キャバレーなどが犇《ひし》めいて、連日客を集めている。  陽子は、岐阜で一、二と云われるキャバレー〈翠《みどり》の国〉に飛び込んで、ホステスとなった。  馘になって、工場の寮から追い出され、働き場をとつぜん喪った二十歳の女性が、さっそく喰うために働くところとしては、ホステス稼業あたりが適当なところかも知れない。とにかく、キャバレーに寄宿舎があり、その日から住むところがあったからだ。〈翠の国〉では、さほど目立つ存在ではなかった。  至って平凡なホステスだったらしい。  下平啓助が取材した限りでは、男関係もあまりなく、ただ日曜や祭日になると、派手な恰好をして、豪華な手土産をもち、尾張一宮の、むかし勤めていた工場の寮へ遊びに行くのが、愉しみだった模様である。  そして陽子は、女子工員仲間を、次から次にとホステス稼業に引きずり込んで行った。  工場側としても、休日に、寮へ遊びに来ているのだから、文句は云えない。  だが、ホステスに引き抜かれるのは、大いに困るのであった。  どこの世界でも求人難で、とくに給料が安く、重労働である織物の工員たちには、なり手が少なかった。  いわば、鉦《かね》と太鼓で、集めて来た工員たちなのだ。その大事な工員を——勤めはじめて三年ぐらいの、仕事の面ではベテランになりかかったところを、 「キャバレーは面白いわよ。ただ坐って、客の相手して、ジュースでも飲んでればいいんだから……。ダンスは覚えられるし、立派なショーは毎晩見られるし、夕方六時から、たった六時間で工場で働くより三倍の収入になるのよ。寄宿舎もあるし、辞めて私の店へいらっしゃいよ……」  などと誘惑されるのだから、たまったものではない。  人事課では、二十人ぐらい切り崩されたところで、能勢陽子がこの引き抜きの首魁《しゆかい》であることを悟り、外部の人間が寮へ立ち入る時は、ホールで面会するように、規則を改めさせた。  つまり一階のホールでの面接なら、監視できるからだった。  すると今度は、陽子は新しい戦術を考え、パリッとした服装の、しかも美男子の青年たちを四、五人連れて、寮へやってくるようになった。  そして、誰彼となく呼び出しては、 「ねえ、ダンス習いに行かない?」  とか、 「ドライブに行きましょうよ……」  と、女子工員たちを外部に引っぱりだし、異性から口説かせる作戦をとったのだ……。  二十歳前後の女性たちは、男性に弱い。男に飢えているのだった。  一対一で誘われれば、警戒もするが、複数の時には、なんとなく安心感がある。  ……あとで判ったのだが、陽子が連れて来るのは、岐阜のキャバレーの用心棒とか、支配人クラスの男たちで、女扱いは特に上手な連中だった。  彼女たちは、男の毒牙にかかり、あるいは男に夢中になって、次から次へと工場を辞めて行った。そして岐阜の喫茶店やバー、キャバレーなどに勤めを変えたのである。  これには、人事課も頭を痛め、前代未聞の申し入れを、陽子に行なったのだった。 「……なんせ、七十人も一年に辞めて行くんですぜエ。かないまへんわ。入った許りの子なら平気ですけどエ、三年から六年目ぐらいの、一番脂の乗り切ったところを、すぱーッと抜かれるんですけんな。能勢陽子は、社長の息子さんに欺されたんを、恨みに思うて、うちの工場ばかりを狙いよる。この儘、放っておいたら、だちゃかんようになりよると思いましてエ、わしと総務部長とが、あの子に会いに行ったんですわ……」  元人事課長氏は苦笑しながら、能勢陽子に申し入れた結果、陽子は〈翠の国〉を、原則として会社では社用で使うこと、今後、工員たちを引き抜かないということで、金三十万円を支払う……という二項目をとり決めたと語った。  下平啓助は、〈ふーむ!〉と唸った。  栴檀《せんだん》は二葉より芳し、という格言はあるが陽子という女は、その当時から頭の切れる女であったらしいのだ。しかも、二十一歳の若さである。 〈翠の国〉には、三年半ぐらい勤めていたが、ある日、 「どうせ働くのなら、東京へ行く」  と、急に上京した。  店の支配人の話では、なんでも店にやってくる客に、東京で羽振りを利かしている、Y組の幹部と称する人物がおり、その男が、 「東京へ移らないか……」  と奨めたらしいと云うことだった。  下平の推測では、その人物が、陽子と同棲していた�義兄�であり、こんどのバラバラ事件の犯人である、金田竜雄こと、禹《う》金竜だったらしいのである。  東京へ帰る新幹線のなかで、下平啓助は取材メモを整理しながら、 〈これは大変な女だ……〉  と思いはじめていた。  社長の次男坊に欺されて妊娠し、堕胎の挙句に、自殺未遂で馘になる——。  能勢陽子が、自分の勤め先である織物工場を、恨むのは当然であろう。  しかし、彼女は泣き寝入りせず、逆に、仕事仲間を水商売の世界に引きずり込む……という攻勢に出て、遂には総務部長や人事課長に、白旗を掲げさせたのである……。 〈これが、新制中学卒の学歴しかない女性の、知恵なのであろうか?〉  下平は、その点に首を傾げ、大きく唸ったのではあった。  余談だが、能勢陽子の女子工員攻略以後、その引き抜きの手口は常套化して、次第に各織物会社へと拡がって行き、尾張一宮の業者たちを混乱に陥し入れるのである。思えば彼女も、罪つくりなことをしたものではあった——。   五  金田竜雄——殺害ならびに死体損壊遺棄の犯人である禹金竜の自供は、二転三転して、連日新聞を賑わせていたが、捜査当局は、やっと核心に触れた——として、次のような中間発表を行った。  箇条書きにすると、それは左の如くだ。 (1)禹金竜は、Y組のヤクザで、岐阜から能勢陽子を連れだし、新宿のキャバレーに勤めさせる一方、愛住町で同棲した。 (2)半年後、陽子は銀座に勤めを移し、上京後一年半目に、禹金竜との仲を清算した。 (3)Y組が解散し、禹金竜は職を転々としていたが、今年、陽子が六本木にスナック・バーを共同経営することになった際、バーテンダーとして採用された。 (4)競輪に凝って、金に困っていた禹金竜は犯行の夜、酔って帰宅した陽子に、金の無心をした。 (5)陽子は、「昔は男でも、いまは使用人だよ。私のオシッコを飲んだら、五万円ぐらい貸してやる」と云い、「どう、飲めないだろうが。この能なしめ!」と罵《ののし》った。 (6)逆上した禹金竜は、傍にあったボーリングのピンで、陽子を殴って失神させ、二度にわたって躰を犯した。そのあと、金品を物色中、息を吹き返した陽子が、「泥棒ッ!」と叫んだので、ネクタイで首を絞めて殺し、死体の処理に思い余って、切断して埋立地に捨てようと考えた。 (7)陽子の首を残したのは、彼女が奥歯に、二カラットのダイヤを嵌め込んでいることを知っていたからだが、その位置が判らず、腐爛して異臭を放ちはじめたので、六甲山あたりに穴を掘って埋めようと思った。  ——大体、以上が犯行の経過である。  禹金竜にしてみれば、陽子は自分の昔の女である。それを使用人だと冷くあしらわれ、小水を飲めとか、能なしなどと悪態をつかれたら、男としては逆上するのが当然であろう。つまり陽子は、現在の自分の地位に、酔うあまり、禹金竜を侮辱して、自から墓穴を掘ったことになる。 〈クーキイ〉を辞めた能勢陽子が、赤坂のナイトクラブに自から売り込みに行き、〈クーキイ〉に集って来ていた文化人、スポーツ選手などを、ごっそり自分の客として連れて行ったことは前にも触れた。  陽子は、ヤクザで、ヒモ的な存在である金田竜雄と別れてからは、水を得た魚の如く、いきいきと働いた。  なにしろ、三年間一日だって欠勤したことがなく、毎日、十人以上のお客に電話していた……という、その努力だけでも、尋常ではない。  同僚たちの話によると、陽子はつねづね、 「人生は、金よ。私は、男なんか屁とも思ってないわ。欺される男の方が莫迦なのよ。うるさい男なら、躰を貸してやればいいし、寝てしまえば、こっちの勝ちですものね……」  と豪語していたという。  彼女の手口は、昼食を男に奢らせ、金額次第ではそのあとホテルヘと直行する。そして夕方には、また別の男とデイトして、食事のあと店へ引っぱってくる……という徹底したものだったらしい。  つまり、昼食も夕食も、男に奢らせていたわけである。  夜、クラブが終ってからは、決して客の誘いに乗らない。つまり、身持ちの固いホステスを、装っていたわけである。  口説いても落ちないとなると、男の方は自然、カーッとなって通いつめる。陽子としては、自分の指名客が増える一方なのだった。  これは、なかなか上手な作戦と云うべきである。男の——客の心理を、よく衝《つ》いているからだ。  情事は、昼間もつ。夜には逃げる。  陽子に云わせると、男と寝るには、昼間に限るのだそうだ。なぜなら、昼間は人目につき易く、男の方でビクビクしている。それに素面《しらふ》で酔ってないから、 「ねえ、新しい店を出すんですけど、出資して下さらない?」  などとねだられて、つい、 「ああ、いいとも……」  などと返事しようものなら、言質となってその約束を反古《ほご》に出来なくなるからだった。  これも見事な作戦である。  また食事のあと、銀座に出て——彼女は食事は必らず新橋とか、銀座周辺を好んだ——靴だの、バッグを買わせる、その手口も、実に鮮やかで、男に財布をとり出させるように仕向ける話術、媚《こ》び方は、絶品だったと云うことである。  彼女は、自分の部下ともいうべきホステスたちに、よく説教したという。 「いいかい。男って動物はケチなんだよ。寝てしまったから、もう赤の他人じゃない……なんて考え方は甘いのさ。釣り上げた魚に餌をやるバカはないって、よく云うだろ? だから寝る前に、それに見合うものを、ふんだくっておかなきゃ駄目なんだ……」  と——。  能勢陽子は、下平の調べた限りでは、男に「金を貸して呉れ」とは、絶対に云わない女だったらしい。 「金を頂戴」か、もしくは、 「出資して頂戴」という言葉を使っている。  これは、借りたら、返さなければならないからであった。堂々と貰う分には、返済を迫られないし、また�出資�ならば、返せと云われても、正当な貸借関係ではないから、 「いま都合がわるいの」  と拒絶できるし、さらに愚図々々云うお客には、躰を任せて有耶無耶《うやむや》にしてしまうことも可能なのである。その時、彼女の肉体は、切札なのであった。  ナイトクラブに移って一年後——能勢陽子は、ナンバー・ワンの地位にのし上り、毎月百万の売上げは崩さず、その月収だけで三十万円と云われた。  彼女は、客のひとり——これはチョビ髭で有名な国会議員であるが、その人物にマンションを買わせ、自分の名義とすると、秘密の会員制の白バーを開業した。  都条例によって、東京の酒場は夜十二時には閉められる。  そのあと、物足りない酔客に声をかけ、 「私の知ってる所に、面白い秘密バーがありますの。行ってみません?」と誘うわけだ。  システムは、一人につき一回一万円で、酒は飲み放題だった。しかし、良い加減にアルコールが入っているから、そんなに飲めるものではない。  陽子と、何度もそのマンションの白バーに出かけた財界人の某氏は、彼女の死後、 「まさか、あの会員制の白バーの経営者が、ヨッコだとは知らず、俺は毎回、彼女の分まで払っていたんだよ……」  と口惜しそうに語っていたが、能勢陽子が店がはねたあと、決して客の誘惑に乗らなかったと云うのも、そうした深夜のアルバイトが残っていたからだろうと思われる。  ……こうして、陽子は、新橋駅前のビルに割烹料理の店をだし、そして六本木にスナック・バーを出し、死ぬ前には、サドやマゾの傾向を持つ紳士淑女のための、〈S&M〉という秘密クラブをつくる計画で、奔走していたのだそうな。  下平啓助は、たった三年間のあいだに、ナイトクラブのホステスを続けながら、三つの店——少なくとも自分名義の店を持ち、経営するようになった能勢陽子という女性のバイタリティに、目を瞠りつづけたのである……。   六  ところで、元セネタースのエース・古江修の居所をつきとめたのは、帰京して間もなくだった。  古江は、神田の不動産屋に勤めていた。  訪ねて行き、近くの喫茶店に引っぱりだして、用件を伝えると、元投手は一瞬、くしゃくしゃと顔を歪めて、 「ヨッコのことは生涯、恨みに思ってます」  と云うのだった。  古江投手が、〈クーキイ〉の常連となったのは、下平と同じく、他の客に連れられて行ってからであった。  古江修は、ある意味で、純情なスポーツマンだったのかも知れない。  陽子は、古江投手に、 「あたし、猛烈なファンなの。一生の想い出に、私の処女を捧げるわ……」  と云い、自分の方から誘惑して来た。  人一倍、健康で、脂の乗り切った二十代の青年が、陽子の躰に溺れるのは、当然のことであろう。  陽子は、後に古江を訴えたが、それは強姦罪ではなく、婚約不履行という告訴内容だったらしい。 「ぼくは、ヨッコのために毎月十万円、生活費を出してやりました。上京すると、千駄ケ谷のホテルに泊まるんですが、明日は先発だ……という日に限って、�腰を軽くして登板なさい�と云って、徹底的に私の躰を求めるんですよ……」  古江修は、不健康な生活をしているらしく荒れた唇を舐め舐め、云うのである。 「ほほう……腰を軽くですか……」  下平啓助は苦笑した。 「私は、ヨッコに夢中でした。結婚してもよい、と思った位です。あれは、たしか夏のオール・スター戦で、先発投手に選ばれた前夜のことでした。陽子が、�愛してるんなら、車を買って呉れ。そうでなきゃ、別れる。外人で、車を買って呉れると云う男がいるの�と云いだしたんです。そして、その夜に限って、躰を許して呉れない……」 「ははあ……」 「私は翌日、登板したものの、気が苛立ってしまって、とうと三回にノック・アウトでした。私のツキが落ちはじめたのは、その時からなんですね……」  古江修は、苦そうに珈琲を飲んだ。 「なるほど……」 「その後も、上京の都度、会ってましたが、大事な試合になると、ヨッコが、�店が欲しい。店出して呉れなきゃ別れる�とか、�ヤクザの親分が、月百万円の手当で、二号さんになれと云ってる�などと、云いだすんですね……」 「ふーむ。変ですな」 「そのたびに私はノック・ダウンです。とうとう、古江は東京では勝てないという、ジンクスまで生まれて来て……」  元投手は、また顔を歪め、それから大きな溜め息をして、 「日本シリーズで、第二試合に登板したときなどは、ネット裏に外人の五十男と並んで見に来て、�あなたを婚約不履行で、告訴しましたから、よろしくね�なんて云うんです。これで平静な心理状態を保て、と云う方が無理ですよ。六回に満塁ホーマーを喰って、セネタースは完敗です……」 「悪い奴ですな、やっぱり……」 「告訴は嘘かと思ってたら本当で、週刊誌あたりに書かれてはと、示談に持ち込んで、二百万円がとこ、いかれましてねえ。成績は下る、給料やボーナスは減らされる。すっかり自棄《やけ》になって、球団を間もなく辞めて、目下このていたらくですよ」  元投手は乾いた笑い声を立てた。そして一息つくと、上半身を乗りだすようにすると、 「あとで、判ったんですが、ヨッコの奴……私のライバルと云われてた、セネタースの一番ケ瀬投手とも通じていて、このエースの私を潰《つぶ》すことを、いくらかで請合っていたらしいんですよ……」  と思いつめた表情で云った。 「えッ、一番ケ瀬に?」  下平は吃驚した。  いまセネタースで、一番ケ瀬といえば、若年ながら主将で、エースのピッチャーであったのだ……。 「確証はないんですが……ほら、新橋の割烹料亭に、一番ケ瀬が二千万円投資しているという噂……あれ、本当ですよ。不動産仲間から聞いたんですから、間違いありません」 「ふーむ! 内部の人間からねえ……」  下平啓助は、またもや唸った。 「驚いたでしょう? 私を潰せば、当時のセネタースには、誰も怖い選手はいない……。一番ケ瀬らしいやり方だが、案外、ヨッコの方から奴さんに、持ちかけていたのかも知れませんなあ……」  元投手は、泣き笑いに似た表情を泛べて、 「あの女……殺されても仕方ないような女ですが、しかし、バラバラにされたと聞くと、なんとなく可哀想な気もしますな。いまいましい女ですが——」  と呟いた。  下平啓助は、古江ばかりでなく、榊山伸はじめ、七人の男たちが、〈クーキイ〉時代の彼女に、欺されていたのだと云う話をして、慰めてやろうかとも思ったが、不意に思い留った。  大事な試合の前夜に、きまって無理難題をふっかけ、エースを狂わせた女。  婚約不履行で、あるいは強姦で、関係した男を訴え、着実に金を握った女——。  下平は、慄然とした。  雑誌記者として、いろんな事件に、ぶつかって来ている下平ではあったが、これほど鮮やかに転身し、肉体とアイデアを武器に、ひとりでのし上って行ったホステスというのも珍しいのである。 〈いったい、何人の男が欺されているのだろうか?〉  古江修と別れて、地下鉄に乗りながら、下平啓助はそんなことを思った。  岐阜時代のことは判らぬが、東京での四年間に、能勢陽子の肥料となった男は、十人や二十人ではきくまい。  近頃では、日本人ばかりでなく、外国人とも頻繁《ひんぱん》に交渉があったという。それは彼女の死後、下着ダンスの中から、米ドル紙幣が七千ドルあまり出て来たことでも、推測できるのである。 「しかし、死んでしまえば、ハイ、それまでよ……だなあ」  下平は、バラバラ事件を伝える週刊誌の、中吊り広告を見上げつつ、独り言を呟いた。 閨秀《けいしゆう》志願   一  松川幸枝は、愛媛県の平凡な農家の次女に生まれた。もし彼女が文学好きでなかったら、そして高校生のとき、某誌の学生小説コンクールに入選しなかったら、彼女の一生もまた平凡な、しかし健康なものであったかも知れない。  幸枝は小学生の頃から、作文は上手であった。  ひとつには受持の教師の遠藤太吉が、文学青年で、作文教育に異常な熱意を、抱いていたこともあろう。  その意味では、遠藤太吉は、松川幸枝の一生を狂わせたと云える。  たしかに、自分の眼で見、感じたことを、素直に文章として表現することは、大切なことであった。  現在の日本の教育では、そのことが軽視されている。文章ではなく、口頭で表現する社会科の教育が、重視されすぎている。  遠藤太吉は、口で云うより書ける生徒を、つくりたかったのかも知れない。  そして多分に偏執狂的な遠藤にとって、松川幸枝は恰好の実験材料だったのだ。  小学校を卒業して、中学へ通うようになっても、遠藤は日曜日を作文教育の時間にあて幸枝に自分の家を訪ねてくるように命じた。  幸枝は、はっきり云って美人ではない。  むしろ醜女の方だった。  作文の上手な醜い中学生。  幸枝は色気づく頃、遠藤太吉の感化によって、すでに作家を夢みていた。  女流作家として、売れッ子になることを、彼女は考えていたのだ。  遠藤太吉には、むろん妻子があった。  が、この教師は、残酷にも、高校一年生の幸枝を、作文教育の名を借りて、凌辱したのである。  ここに、幸枝の作文がある。  遠藤太吉の筐底《きようてい》に深く納められていたものであった。それを引用した方が、当時の模様は判り易いであろう。 『 破瓜《はか》  高校一年 松川幸枝  それは、炬燵《こたつ》の欲しくなるような、初冬の日曜日のことであった。  私は、作文指導を受けるため、遠藤先生の家を訪れた。先生は二階から降りて来られ、  ——今日は、きみのために、家族を遠くに遊びに出しておいた。今日、先生は松川幸枝の人生のために、有意義なことをしようと思う。異存はないね?  と云われた。  私は、なんのことか判らなかったが、夢中で肯《うなず》いた。  二階へあがると、白いシーツのかかった敷布団だけが、のべてあった。  先生は、  ——幸枝は、男の躰を知っているか?  と訊かれたので、私は首をふり、  ——知りません。  と答えた。  先生は黙って洋服をぬぎ、素ッ裸になって仰向けに寝られ、  ——構わないから、触ってよく観察しなさい。  と云われた。  私は、おそるおそる先生の傍に近づいた。  父や兄が、風呂からあがる時、ちらッと眺めたことはあるが、そんなに真近かに、大人のそれを見るのは、はじめてである。  私が、ただ観察していると、先生は、声を荒げて、  ——だめだ、だめだ。こういう機会には貪婪《どんらん》になれ。びくびくせずに、手で触れ、匂いを嗅ぎ、しなければ駄目じゃないか。  と云われた。  手で触ってみた。ゴム毬のような硬さだったが、不意にそれは固く熱くなって来た。  私は、ビックリした。  先生は静かに、  ——それを勃起と云う。  と教えて下さった。  私は怖くなって、その動く物を眺めていたが、先生は厳《おごそ》かな声で、  ——幸枝。男はこうなると、あることが終らないと、元通り小さくなれない。それは知ってるね?  と云われた。  私は、知らなかったが、知らないというと笑われそうなので、  ——はい、知ってます。  と、お答えした。  すると先生は、  ——破瓜という言葉を知ってるね?  と云われた。  これは私も知っている。処女を喪うことである。頷《うなず》くと、先生は、  ——シーザーは、突然の死こそ幸福な死に方だ、と云った。先生も、そう思う。破瓜も同じく、突然の破瓜こそ、幸福な姿だと考える。幸枝。いい機会だし、先生が犠牲になってあげるから、破瓜を味わってごらん。いいかい、決して眼を逸《そ》らさずに、なにが起き、自分の肉体と精神の内部に、なにが揺れ動くかを、冷静に観察するんだよ。そして、その時の感覚を、大切にしておく。なまなましく覚えておくんだ、いいね。  と云われた。  私は、ためらいながらも、夢中で肯いている自分を見出した。  婦人雑誌などでは、処女を喪った時のことを、痛かった、とか、無我夢中だった、などと書いてある。  私は、先生に手伝われながら、身に纏《まと》ったものを、すべて脱ぎ捨てた。  先生は、息を荒くしながら、私の躰中に接吻された。ああ、恩師よ!  師の恩は海よりも深く、山よりも高い。  その恩師が、私の汚らわしい部分に、唇をつけて下さっている。  私は感動し、そのうち、云うに云われぬ気持になって来た。  なんと表現したらよいのであろうか。  嬉しいような、恥しいような、ぞくぞくッとするような感じだった。  ——どう?  先生は問われた。  ——はい、とっても!  と申し上げると、  ——陰核は、オルガスムス発生に大きな役割を演じる。初期においては、女性は陰門でオルガスムスを生じるが、馴れると、骨盤筋肉の収縮と弛緩という、一種の波動リズムを伴った腟オルガスムスに変ってゆくのだ。  と、教えて下すった。  それからあと先生は、  ——では、破瓜の儀式に移ろう。怖がらず肉体的なもの、内面に揺れ動くものを、直視するんだよ。  と云われて、私の躰の上に乗られた。  でも、その直後に襲った苦痛は、なんと云い現わしたらよいだろうか。  まさに、�破瓜�である。  私は、苦痛のため、先生の躰から逃げだして、気づいた時には、上半身がタタミの上に乗り出していた。  まるで竹の棒でも、突込まれたような感じであった。私は苦痛に顔を歪めた。  ——終ったよ。  と先生は云われ、用意したタオルで、私を拭って下さった。そして、タオルについた血潮を私に示して、  ——処女であった証しだよ。記念に先生が保存しておくから、あとで、墨で名前を書いておくように。  と命じられた。  私は、しばらく起きられず、目を閉じて、破瓜とは苦痛である、としみじみ思った。  終日、私は肢のあいだに、竹の棒を挟んでいるような気持がして、恥しくて風呂にも入れなかったのだった。  でも、私のために犠牲になって下さった恩師よ、ありがとう。幸枝は倖せでした』  ——読者は、おそらく遠藤太吉なる教師の図々しい手口に、あきれ果てたに違いない。  なにが�犠牲�であるか。  なにが�内面に揺れ動くもの�か。  しかし、処女を奪われながら、�恩師よ、ありがとう。幸枝は倖せでした�と書く、彼女の神経も、やはりどこかが狂っている。  文学を愛すること自体、やはり異常である——とは、�文学少女�を皮肉った、ある先達《せんだつ》の弁であるが、松川幸枝の文章をよむとその�異常�さがよく判る。  そして遠藤太吉という教師も、やはり�異常者�と呼ばねばなるまい。  高校二年生の時、幸枝は妊娠している。  普通だったら、堕胎を奨めるのであろうけれど、遠藤は逆に、 「子供を妊《みごも》り、それが成長してゆく過程を、身をもって味わうべきだ」  と云い、手術を許さなかったと云う。  幸いにも、流産したが、それを知って幸枝の母親が怒鳴り込むと、 「早熟な子供さんに、私は身をもって大人の世界を教えたに過ぎない。これも、すべて文学のためです。お母さん、芸術の道は厳しいのですぞ。名馬も、名|博労《ばくろう》なくしては生まれない。一朝こと成り、女流作家松川幸枝が誕生したら、その莫大な収入によって潤うのは遠藤太吉ではない。あなた方なのですぞ!」  と、逆に撥ねつけている。  女流作家。莫大な収入。  とんでもない�夢想�にすぎないのだが、田舎の人はよほどお人好しだとみえて、幸枝の母親は、 「今後とも幸枝をよろしゅう……」  と挨拶して帰った。  その日から、遠藤と幸枝との仲は、公然たるものとなった。   二  高校三年生の冬、受験雑誌で有名な欧米社が、懸賞募集した小説コンクールに、松川幸枝は一等入選した。  四百字詰五十枚以内の短篇小説だが、妊娠した子を堕すべきか、産むべきかに迷う女子大生の話で、選後評によると、 『平易な文体ながら、見るべき所はよく見ており、愛と宗教、生活と学問という交錯《こうさく》した世相をも織り混ぜて、高校生とは思えない纏《まと》った作品となっている。惜しむらくは、もう少し若さというか、情熱的なものが文体に欠けていることだ。しかし、他の作品が低劣なため、≪流産≫をとるよりなかった』  と、ある。  老成した文章となるのも当然で、この作品には、ところどころ遠藤太吉の筆が、加わっていたのだった。  十万円の賞金と、賞状を目の前にした時、幸枝の両親は、 〈もしかしたら、この子は、金の卵を産むかも知れない!〉  と思いはじめた。  遠藤太吉に、 「小説家になるには、どうしたらよいか?」  と訊くと、即座に、 「井の中の蛙、大海を知らずでは困る。東京の女子大へ進学させて、中央文壇で大いに揉《も》まれることが必要でしょうな」  と答えた。  そこで幸枝の両親は、山林を少しずつ手離してでも彼女を、東京へ遊学させることを決意したのであった。  かくて幸枝は、東京の女子大に入る。  寮生活でも、≪流産≫の作者だというので一目おかれ、入学の翌日、文芸部へ入りたい旨を申し出て大いに喜ばれた。  授業へは、気が向けば出席したが、ほとんど大学の図書館に通い、大学ノートをメモ帳代りに、文学書に読み耽《ふけ》った。  生れながらの縮れ毛で、背は低く、ずんぐりした幸枝は、スマートな東京人には、意識的に抵抗を感じていたようだ。  そうでなくとも野暮ったい彼女が、女子大の制服を嫌い、赤とか、緑とかのセーターにスラックス姿を好んだのは、田舎っぺではないという無言の意思表示だったのかも知れぬが、彼女が着飾れば着飾るほど、それは�野暮�にみえた。  真夜中、むっくり起き上って、大学ノートにペンを走らせる幸枝。  詩集を片手に、校庭を散歩し、眼中に人なしという態度の幸枝。  それは彼女の、文学的なポーズでしかなかったのだが、本人は自己陶酔していた。  青春には、そんな時期がある。  いわば�ハシカ�である。  常人は、このハシカを卒業するが、幸枝の場合、ハシカの儘《まま》、成長してしまったところに悲劇があった。  流石《さすが》に、一人ぽっちの寮での生活は、よほど心淋しかったとみえて、幸枝は、女体開眼をさせてくれた恩師の遠藤太吉や、級友たちに、頻繁《ひんぱん》に手紙を書いている。  遠藤に対する手紙には、恋文というより、妻から夫に宛てる文章さながらであり、学期末には、冬休みでの愛撫によって、エクスタシーを味わった故為《せい》か、早く妻子と別れて一緒に暮してくれ、という哀願の手紙となっている。  むろん遠藤太吉は、その哀願には乗らず、 『幸枝よ。恋とは苦しいものなのだ。その苦しみ、辛さ、佗しさをよく心に噛みしめるのだ。そこから失恋の文学が生まれる。失恋こそは、文学の母体なのだよ。妻子を捨てるのは容易だ。しかし、敢《あ》えて私は、幸枝の文学のために、心を鬼にして、幸枝が失恋する道を撰ぼう。手紙にも、もう返事は出さぬ。帰省しても、顔を合わさない。幸枝よ! どうか私の真意を酌み、泣き泣き文学に取り組んで欲しい。そして女流作家として、一家をなした時に、再び手をとり合おうではないか。その時こそ、幸枝が私の胸に還って来る時なのだよ。文学のためだ。この貴重な失恋を、文学に生かして欲しい』  ……などという、歯の浮くような別離の手紙で、婉曲《えんきよく》に逃げている。  しかし、なんと調子のいい文句だろうか。 �失恋こそは文学の母体なのだよ�  ——ああ!  なんと見事な逃げ口上ではないか?  文学のためと云って犯し、文学のためと云って別れる。こうなると、文学は処世術である。自己|欺瞞《ぎまん》である。韜晦《とうかい》である。  それを見事に使いわけた遠藤太吉もまた、立派な人物と云わねばならぬが、実を云うと遠藤には第二の幸枝——それは彼女より美人で、グラマーな高校生だった——がすでに誕生していたのである。  そして後に遠藤は、その第二の幸枝のために妻子を捨てて、再婚に踏み切った。松川幸枝は、その醜い容貌を嫌われ、捨てられたに過ぎぬ。  失恋は、たしかに松川幸枝をして、文学に立ち向かわせた。  彼女は、自分の苦しい初恋を、九十枚の小説にまとめ、≪暗い山河≫と題して、〈文学世界・新人賞〉に応募した。 ≪暗い山河≫は、候補作五篇のなかに残ったが、入選作とはならなかった。  新進評論家の某氏の批評を借りれば、 『人生に対する甘えが露骨で、月よ、菫《すみれ》よというお涙頂戴的な、小説以前の作品。筆者は若い人らしいが、誤字が多いのは困る』  と云うことになる。  審査員五人のうち、四人とも≪暗い山河≫に辛い点をつけたが、ひとりだけ、 「文体は稚いが、生活感情が滲み出ていて一服の清涼剤のような気がした。私は≪暗い山河≫と、両極端な作品ながら≪奔馬≫の二作品を推し、この二つよりないと思っていたが、決選まで残らず、先ず≪暗い山河≫が落ち、続いて≪奔馬≫が落ちた。  最後に私は棄権したが、着想の豊さは買うにしろ久我|瑛《あきら》の≪ホイ、ホイ、ホイ≫を当選作とすることには、若干の疑問がある。今回は水準が低かったようだが、時流に阿《おもね》ることなく、自からの力量を出し切った作品の出現を望みたい』  と批評した者がいた。  小説家の緒方吉之助である。  緒方は、〈文学世界・新人賞〉をとり、それが有名な文学賞の受賞と重なって、文壇に躍り出た作家であるが、受賞後はあまりふるわず、大学の講師をしたり、エッセイを書いたりして糊口をしのいでいる、いわば地味な作家であった。  松川幸枝は、自分の作品を賞めて呉れた緒方吉之助こそ、文学を理解する唯一の�師�だと思い込み、そして候補となりながら、落選した≪奔馬≫の作者、竹本耕次に親近感を覚えた。  ある夜、幸枝は、緒方吉之助に長文の手紙を書き、つづいて竹本耕次にも手紙をしたためて投函《とうかん》した。  竹本耕次からは、  ——ぜひ会いたい。  という返事が届いた。  幸枝は、地図を片手に、竹本の家を訪ねていった。  竹本は不在で、赤児を背負った竹本の妻が不自由な足をひきひき出て来て、 「今夜も残業じゃアと、云うとったでよウ、十時過ぎにならにゃ戻るまいて」  と告げた。  竹本耕次が妻帯しているということは、不思議のような気がしたが、幸枝は近親相姦を扱った竹本の小説が好きだった。  寮へ帰ってみると、緒方吉之助から、次の日曜日に遊びに来い、と端書《はがき》が来ていた。  緒方吉之助は、文京区の白山下ちかくに家を構えていた。  幸枝は、日曜日の朝からそわそわして、落ち着きがなかった。  緒方吉之助は、なかなかの好男子で、写真うつりがよい。遠藤太吉とは、異った都会人らしい風貌《ふうぼう》である。  幸枝は、スラックスを止めて、女子大の制服を着、羊羹の折を買って都電に乗った。  緒方家では、日曜日の午後を、面会日にあてている。  講師をしている大学の学生や、同人雑誌の作家たちが、なんとなく集まってくる。時には編集者も飛び入りして、なかなか賑やかなのである。  田舎者の幸枝は、それを知らずに飛び込んで、大いにショックを受けた。そのことは彼女の日記をみれば明らかである。 『緒方吉之助先生を訪う。十二畳の座敷に八人の若い人がいた。先生は私を、  ——文学世界で候補作の≪暗い山河≫を書いた松川幸枝さんだ。  と、みんなに紹介し、  ——これから御土産を持って来る時には、羊羹よりトリス・ウイスキーの方がいい。みんなが喜ぶからね。  と云われた。  そこまではいいのだが、あと集まった人たちの話題に、私は跡《つ》いてゆけなかった。やれ、ハイデッガーがどうの、やれ、ヤスパースがどうの、キェルケゴールの絶対無がどうの……。私は哲学を勉強しなければならぬ。私は恥しさのため、身の縮む想いであった。  夕方、一同で近くの居酒屋へいく。そのとき、いちばん雄弁だった人物が、久我瑛氏だと紹介される。眉目秀麗の男なり。ああ、才能と美貌とに恵まれた久我瑛よ。汝は憎き男なり。≪ホイ、ホイ、ホイ≫を繰り返して読む。相変らず難解な小説である。しかし、これを越えねばならないのだ』   三  久我|瑛《あきら》は数年後、やはり文学賞をとって、作家としての道を歩いたが、それだけに幸枝などには歯の立たない秀才であった。  松川幸枝は、その才能の故に久我瑛をにくみ、その美貌ゆえに久我瑛を憎んだ。  彼を越えねばならない——と、幸枝は、必死になって実存哲学の書物を、貪《むさぼ》り読んでみた。  だいたい哲学の本などというものは、わざと難解な文章を使い、晦渋《かいじゆう》に書いてある。  そうでなくても頭のわるい幸枝が、そんな哲学の本を読んだって、ニーチェの没価値論だとか、シェストフの虚無思想、キェルケゴールの実存などが、理解できるべくもない。  このとき幸枝は、自己の才能を疑ってみるべきであったのだ。  が、彼女は、自己の才能の方は疑わず、日記を引用すると、『かかる哲学を生半可わかったような顔をして、咀嚼もせずに人前で吹聴するKの偽善性をひき剥《む》くため』に、久我瑛の下宿へ押しかけるのだ。  久我は、その時の模様を、実に簡潔な文章で、小説の一部分に使っている。 『女は、とにかく貴方を知りたいのよ、と云い、自からの衣類を脱ぎ捨てた。男は無感動に、女を抱いた。女もまた、無感動に男を受け容れ、そしてそれは終った』  ところが、松川幸枝の筆にかかると、次のようなシーンとなる。 『昌子は、河津健のすべてを越える為に、先ず肉体から彼を知らねばならぬと思った。ヘーゲルの矛盾の統一としての存在は、この世には存在しないのだ。あれか、これかでなければならぬ。  あれか、これかを択一《たくいつ》することを迫る、決裂的な矛盾こそ、実存の姿なのだ。  昌子は、河津健に囁いた。  ——あなたが憎いわ。  と。河津は、白皙《はくせき》の顔を紅潮させ、  ——俺が、そんなに憎いのか。何故だ?  と呟いた。  ——憎いから、憎いのよ。  ——そうか。宿命だな。  河津は不意に昌子の唇を吸った。昌子は微笑して、  ——憎いから、私の躯をあげるわ。  と云った。  河津の表情は、少年のように輝き、  ——欲しかったんだ。  と皓《しろ》い歯をみせるのである。  ——断っておくけど、欲しいから、あげるんじゃないのよ。あなたを知りたいからよ。  昌子は冷静に云った。  ——後悔しないのか?  河津は、おずおずと訊くのだ。  ——後悔なんか、生まれる時、ママの胎盤の中に置き忘れて来たらしいわ。  昌子は、ゆっくりスカートをとった。  ——全裸になって欲しいな。  河津健は哀願した。昌子は首をふった。  ——なぜだ?  彼は跪《ひざま》ずく。  ——人間は矛盾を含んでいるわ。それが実存なのよ。  ——教えてくれ。なんのことだ?  ——あらゆる融和を拒否するということ。  ——わからない。  ——頭がわるいのね。実践的に生きるもののみが、実存を獲得するのよ。あなたは、ヘーゲルの学徒ではないの?  ——俺は秀才を装った秀才にすぎんのだ。昌子よ、全裸になってほしい。  ——実践的択一は、神に向けて自己を放棄することから、始まるのよ。あれもこれも、では困るの。この世は、あれか、これか、なのよ?  昌子は下着をとり、仰臥した。  河津健は奴隷のように、全裸となり、昌子女王の肉体に奉仕しはじめた。  河津が侵入して来たとき、昌子は、〈これでよいのだ。これから河津健を越えることが始まるのだ〉と、心に云いきかせた。  昌子の知識人的な不安は、河津の荒い息遣いと共に消え去ってゆき、牡がぐったりとなったとき、そこには昌子の原始に還すための実践的な勝利があるだけであった。  ——これが実存なのよ? わかって?  昌子は、冷ややかな声で、憐れな奴隷に向かって囁いたものである。  ——これが実存?  河津は頭を挙げた。虚脱した、形骸《けいがい》のような瞳の色だった。  ——そうよ。あれか、これかなのよ。  ——実存って、気持がいいものだなあ、これが実存だとすると!  ——やっぱり貴方は、秀才を装った秀才だったわ。行為のなかに、自己矛盾を探すことすら、できないのね。  昌子は、河津を軽蔑した。しかし河津健はいつまでも、  ——これが実存か。気持のいい実存だな。  と、空虚な声で呟きつづけるのだった』  久我瑛が、たった二行で片附ける描写を、松川幸枝は、えんえんと書いている。  しかも、決裂的な矛盾だの、実践的に生きるだの、知識人的な不安などという、哲学用語を矢鱈《やたら》と使っているのだ。  性行為をもったあと、 「これが実存なのよ? わかって?」  などと、女主人公に云わせるあたりは、まさしく噴飯物《ふんぱんもの》であるが、本人はとくとくとして書きつづけている。  おそらく相手の男性、河津健は久我瑛をモデルにしたものと考えられるが、作品の中では久我を頭のわるい男に仕立てて、思い切り悪口を云っている。  それをみても、彼女がいかに久我瑛に、敵愾心《てきがいしん》を抱いていたかが偲《しの》べるが、その実、彼女は久我の下宿に押しかけて、 「貴方を知りたいの」  と、キザなセリフを吐いて躰を任せた後、 「ねえ、結婚しましょう。そして二人で、オシドリ作家になりましょうよ」  と求婚しているのだ。  久我瑛は、 「結婚は厭だね」  と一蹴したらしい。  オシドリ作家とは、幸枝も思い上ったセリフを吐いたものだが、結婚を断られると、 「あなたは、女の感情がわからずに、よく小説を書いてるわね!」  と捨て台辞《ぜりふ》を吐いたという。  久我に躰を任せたあと、彼女は本気で結婚を夢みていたのかもしれない。  少なくとも久我瑛の美貌と才気とは、女性を夢中にさせるに充分であった。  しかし久我に一蹴された反動で、幸枝は、彼を追い落すことだけに、熱中するのだ。  久我瑛が主宰する同人雑誌〈陶酔〉に、彼女が加入したのも、あとから考えると、久我を見返してやろう……という気持が、大きく働いていたものと推測される。 〈陶酔〉は、季刊雑誌であった。  そして同人会は、毎月一回、高田馬場の喫茶店でひらかれる。  そして同人の原稿を朗読したあと、批評に入るというのが、常であった。  幸枝は、同人会には必らず出席した。  しかし作品は一度も提出していない。  久我瑛の批評が、怖かったのであろうか。  作品は出さなかったが、同人会の帰り、有力な同人と目星をつけると、酒を飲みについて行き、夜遅くまで交際《つき》合って、 「寮に帰れなくなったわ……」  というのが常だった。  醜女ではあるが、男には誰しも助平心がある。下宿へ連れて帰ると、幸枝は、 「一緒の蒲団じゃ嫌だわ。あたし、起きてますから」  などと云う。男は仕方なく、座蒲団を並べたりして、毛布にくるまるわけだが、 「寒いでしょう。変なことしないと誓うのなら、入って来ていいわ」  と声をかけられる。  蒲団へ入ると、若い男女のことだ、ことの成行は判っている。  幸枝は、あくまでも拒み、そして暴力で犯された形をとったあと、寝物語に、久我瑛に処女を、奪われたと打ち明けるのだ。 「秀才かも知れないけど、あの人、仮面をかぶってる相当な悪玉だわ……」  とか、 「処女を奪われた時の口惜しさって、わかって? 警察へ届けようかと思ったんだけど、文学仲間だし、将来のある人だからと思い直して、泣き寝入りしたの。でも、こんなこと他の人に話しちゃ嫌よ?」  などと、喋舌《しやべ》りちらすわけである。  むろん、その�寝物語�が、久我瑛に対する同人たちの批判、もしくは軽蔑という形で現われることを、松川幸枝は期待していたのだったが、どっこい、文学仲間というものは、彼女が考えていたほど甘くなかった。  処女を奪うぐらいは、蠅を殺す位の罪の意識しかない〈陶酔〉の同人たちは、松川幸枝を犯した久我瑛を英雄視して、 「あんな醜女を、よく女にしてやったなあ」  と、逆に讃美すらしたのだ。  そのうち、〈陶酔〉の同人達は、幸枝が簡単に肌を許すことを知り、蔭では�共同便所�と称した。  久我瑛は、ぞくぞくと秀れた作品を書き上げて発表し、文学世界から遂に、連載を依頼されるまでになる。  その連載小説が、一冊の単行本になったとき、文学賞の対象となり、久我は受賞するのだが、それを知ると彼女は、緒方吉之助を訪うて、 「先生。私は久我さんに、犯されました。復讐したいのですが……」  などと口走り、叱責されている。   四  緒方吉之助は、幸枝をもてあました。  久我瑛にきいてみると、彼女の方から裸になって蒲団へ入ったと云う。となると、�据え膳�である。  しかし、松川幸枝は�処女強姦�だ、と云い張るのだった。 「では、二人で対決を——」  と云うことになると、幸枝の方が必らず都合が悪くなる。  また〈陶酔〉の同人たちの間では�共同便所�だという噂もあった。  ある日、緒方は、大学の研究室に、松川幸枝を呼んだ。  そして、 「周囲から綜合してみるのに、君は強姦されたと嘘を云っているようだね」  と一喝した。  すると幸枝は泣きだして、 「結婚するって久我さんが約束したんで、許したんです……」  と訴える。 「久我君が、結婚するって云ったのかね?」 「はい。ところが、作家として、巧く行きそうになると、お前みたいな醜い女は、自分の出世のさまたげだと云って……」  幸枝は、しくしく泣きつづけた。  女が泣いて訴えると、迫真力がある。  緒方吉之助も、それに捲き込まれかかったが、思い直し、 「久我君が憎かったら、文学の上で�復讐�するんだね」  と教え諭《さと》した。  すると幸枝は泣き止んで、 「どうしても女流作家になりたいんです。一体、どうしたらよいでしょうか」  と云ったそうである。  緒方は苦笑し、 「そりゃあ、ただ書くよりないね」  と答えた。 「いちばん、手っ取り早い方法は、ないもんでしょうか」  幸枝は喰い下った。 「そりゃあ、僕や久我君みたいに、文学世界あたりの新人賞をとり、認められて世に出るのが一番早い」 「先生。私が云いたいのは、賞をとらずに世の中へ出られないか、と云うことなんです」  幸枝はとつぜん、人ッ気のない研究室で、緒方に抱きついた。 「先生!」  大学講師は狼狽した。 「これッ、きみッ!」 「先生! お願いです! あたしの躰は、どんなに汚されても構いません! それが、女流作家になる近道だったら——」  幸枝は、涙で濡れた顔をあげて、必死に緒方吉之助を掻き口説いた。  緒方も十数年ちかく、文壇に棲息しているから、新人賞によらず、登場してゆく幾つかの方法があることを知っている。  同人雑誌推薦作が端緒《たんしよ》になることもあったし、新人賞は受賞できなかったが、候補作として実力を認められ、すいすいと文壇へ出て行った者もあった。  また長篇小説を書いて、方々の出版社に持ち込み、やっと上梓《じようし》されるや爆発的な売れ行きで、一躍、寵児となった幸運な者もある。更にまた雑誌社に持ち込んだ生原稿が、そのまま下積みになっており、新しい編集長がそれを発見して一読し、才能を認めて、欠陥を直させ発表したところ、激賞されて世に出た……という、はじめ不運で、あと幸運というタイプもあった。  緒方の場合、私淑《ししゆく》している老大家の推薦状を貰って、新人賞に応募し、とんとん拍子に文壇に出たのだが。 〈もし、あの時、老大家の推薦状がなかったならば?〉  と考え、冷やりとすることがあった。  緒方の文字は、右下りの、蟹が這っているような下手糞な文字だからだ。  字の汚ない生原稿は、下読みの段階で、先ず損をするのである。もし推薦状がなかったら、荒択りの一次選考で、ポイと捨てられていたかも知れぬのだった——。  緒方は、自分のケースを考え、 「作品を書いて持って来なさい。いいものだったら、文学世界の編集長に、紹介して上げるから——」  と、親切に云った。 「わかりました。お願いします」  松川幸枝はそう云うと、はじめて笑顔をみせたのだった。  緒方吉之助は、その時ふっと、 〈案外、可愛いいじゃないか〉  と思った。 〈陶酔〉の同人たちから、共同便所と云われている女子大生だ、という先入観がある。しかも彼女は、女流作家として世に出るためなら、いくら躰は汚れても構わぬ、と云っているのだ。  緒方吉之助が、そのとき意馬心猿《いばしんえん》の身となったとしても、あながち彼一人を責められないであろう。 「どこか、食事に行こうか」  緒方は云った。 「ええ、先生となら、どこにでもお供いたしますわ……」  幸枝は大胆であった。  緒方には、美より醜を好む性格があった。  それは彼が、好男子に生まれついた故為かも知れなかった。  美人をみる時より、醜女を見た時の方が、凌辱してみたいという気になるのだ。  緒方は、十人並の妻を貰ったが、寝室ではさほど昂奮せず、糠味噌をつけている妻を汚い台所で犯したり、ピクニックへ行って野原でことを行うとき、自分でも可笑《おか》しい位に昂奮したのだった。  その意味で、醜女で縮れ毛の幸枝は、彼の愛玩物には相応《ふさわ》しかったのかも知れない。  ——その夜、幸枝は緒方吉之助に抱かれたが、彼女の日記を読むと、それが幸枝の�予定された�行動であったことが判る。 『緒方吉之助は、私の恋人になった。新宿の小さな旅館で、緒方は、遠藤先生のように息を荒くして、私を抱いた。私は恍惚を味わったのだ。はじめて——。  緒方吉之助は、  ——結婚はできないが、恋人でいて呉れるあいだは、作品の指導や、生活の面倒をみてもよい。  と云った。思う壺なり。  私にとって、肉体とは魂のない形骸にすぎないのに、男たちはどうして、その抜け殻に夢中になるのだろうか。所詮《しよせん》は、皮膚と皮膚との、粘膜と粘膜との接触にすぎない。莫迦《ばか》らしいことだ。  しかし、とに角、緒方吉之助という、私の橋頭堡《きようとうほ》は出来た。彼を踏み台にして、文学世界や、虚像や、新声の編集者に、肉体のコネをつけてゆこう。  そうして、緒方より実力のある作家や、評論家たちを、私の肉体で虜《とりこ》にして行くのだ。必らず私は作家になる。久我瑛を見返してみせる。十二時、就寝』  つまり松川幸枝は、肉体を武器に、文壇へ出て行くことを夢見たのであった。  でも彼女は、肝腎|要《かなめ》のことを、忘れていたのである。  それは——文学的才能であった。  一人の人間が、一篇の中篇小説を書くことは、慥《たし》かに可能である。誰だって、一生のうちに一度ぐらいは、数奇な体験をしているからである。  だが、職業となると、そうはゆかない。  毎月、一篇や二篇の小説は、ない知恵をしぼって、ひねり出してゆかねばならないからだ。そして、それが、才能というものなのである。  可哀想なことに、松川幸枝は、そのことを忘れていた。  自分は、学生小説コンクールで一位に入賞し、文学世界の新人賞では久我瑛と肩を並べて候補になったという自信が、彼女を盲目にさせていたのだろうか。  もしそうだとしたら、悲劇と云うよりないが、幸枝は自己の文学的才能だけは、信じて疑わなかったのだ。  書けないのではなく、書かないのだと彼女は思っていた。書く材料がないのではなく、それが機を熟するまでに胸の中で醗酵しないのだ。だからペンがとれぬのだと、彼女は考えたかったのかも知れぬ。  だが、十二分に醗酵したと彼女が信じ、緒方吉之助にみせたのが、久我瑛と自分とをモデルにした�実存小説�であったのだ。  緒方は、一読するなり呆《あき》れ、 「当分、小説を書くのは中止して、名作といわれる東西の小説を読んでみるんだね」  と云った。   五  竹本耕次は、郵政省に勤めている。  仕事は地味で、全く味気なかったが、竹本には文学という心の拠りどころがあった。  そして彼は、いつか文壇の片隅で、小さな花を咲かせ、それをせめて子供たちの遺産として残してやりたい、と考えていた。  これは文学青年らしい態度であった。またそれが、文学を志す者の姿勢である。  六畳一間のアパートに住み、夕食のあと、机に向かって原稿用紙の桝目を埋めてゆく。これが彼の唯一の道楽であり、そして生甲斐であった。  同人雑誌にも加わっている。職場のと、同好者のと二つ加盟していた。  それだけに発表の舞台は、多いとも云えるのだが、そのほか新人賞には必らず応募していて、妻に云わせると、流行作家なみに原稿用紙を消費しているわけであった。  また、文学世界、虚像、新声の三つの文学雑誌は、必らず買い求めていた。  とくに文学世界の、同人雑誌評を読むのが好きであった。  その月の文学世界の同人雑誌評には、彼が同人雑誌に発表した作品が出ていた。  彼のは比較的に好評で、今月のベスト・ファイブに択ばれていたが、それらの批評のなかで、彼は〈松川幸枝〉という懐しい名前を見出した。 『次に〈陶酔〉十七号であるが、栗原剛の論文≪二十一世紀の文学≫が面白い。小説四篇は可もなし不可もなしだが、≪悶絶≫の松川幸枝の、矢鱈と実存主義ばりの難渋な文章は気に入らない。この作者は、もっと平易な文章を書いた筈だが、久我瑛の二番煎じは、良い加減にして貰いたいものだ』  竹本耕次は微笑した。  どんな小説かは知らぬが、かつて二人の作品だけを緒方吉之助が賞讃してくれ、松川幸枝がわざわざアパートまで、訪ねて来たことがあったのを思いだしたのだ。  竹本は、女子大の寮あてに、松川幸枝に励ましの手紙を書いた。 『いつぞやは御|来駕《らいか》いただいたのに、不在のため失礼しました。〈文学世界〉で、またもや同時に批評されているのをみて、あれ以後も文学に精進されていることを知り、慶賀に堪えません。なにか難解な文章などと、酷評されているようですが、文学とは試行錯誤のはてに完成するのですから、気にするには及びません。お気落ちなさらないように』  端書の短かい文面であったが、折り返し直ぐ返事が来て、 「ぜひ、お会いしたい」  という。  竹本は、日曜日は、妻と子供を実家に遊びにやり、原稿を書く習慣だったから、 「日曜日にどうぞ」  と手紙を出した。  女子大生と云えば、なんとなく興味もあり未知の女性ながら、おなじ文学上の友ということで親近感もあった。  しかし、アパートの玄関で、松川幸枝を迎え入れた時、竹本耕次は失望した。  縮れ毛の、背が低く、ずんぐりした醜女が佇《たたず》んでいたからである。 「あなたが、松川さんですか?」  竹本耕次は思わず念を押した位であった。 「はい、そうです」  と松川幸枝は云い、 「お子さんに——」  と、ビスケットの缶をさし出した。  彼は恐縮しながら、粗末なアパートの一室へと導き入れたのだ。  松川幸枝は、女子大生らしく、なかなか雄弁であった。四年ちかく、東京の大学や、文学仲間と揉まれていたら、そうなるのであろう。竹本は、彼女が矢鱈と英語や仏蘭西《フランス》語を、会話の中にさし挟むので閉口しながらも、 「あたしなんざ、虚仮《こけ》の一念みたいなもんでしてね。いつ陽の目をみるか判らない小説をコツコツ書くのが愉しみなんですよ。発表しない儘、ねむっている作品が、さア行李一杯もありますかなあ……」  と自嘲《じちよう》めいて云った。  すると松川幸枝は、 「あたし、緒方先生と親しいんです」  と云いだした。 「えッ。緒方吉之助先生ですか?」 「ええ。あたし、先生の秘書兼女弟子みたいなこと、やってましてね。いい作品が書けたら、〈文学世界〉へ持ち込んでやるって、先生から云われてますの……」  竹本耕次は、低く息を詰めた。  ……羨しかったのだ。  彼には、そんなコネクションはない。  いや、竹本には同人雑誌作家の仲間こそいるが、現役の緒方吉之助のような作家とは、近づきがなかったのである。  松川幸枝の躰が、大きく膨《ふく》れ上って感じられ、 「そうですか……緒方先生の秘書を……」  と彼は、溜息と共に呟いた。 「先生ってね……」  と幸枝は思い出し笑いをして、 「あたしの、云いなりですのよ?」  と云うのだ。 「へーえ、先生が?」 「だって私と緒方吉之助とは、特殊な関係なんですもの……」  松川幸枝はそう云って微笑すると、 「もし、よろしかったら、竹本さんの自信作を、先生のところへ、持って行ってさし上げましょうか?」  と云った。 「えッ、本当ですか!」  竹本耕次は目を輝かせた。 「それが、自信のある出来栄えで、先生が立派な作品だと仰有ったら、文学世界へ掲載して貰えますわよ」  女子大生は、なんのためらいもなく、そう告げたのだ。  竹本は、押入から火急持出しと書いた行李をだし、その中から百五十枚の≪火宅《かたく》≫と題する中篇小説をとりだした。  新人賞の応募作品は、百枚以内という制限がある。同人雑誌に掲載するには、枚数が長すぎる。それで、いつかは手を入れて長篇に仕立てよう……などと考えつつ、抛《ほう》り出してあった三年前の作品であった。 「火宅って、火の車の家という意味?」  女子大生は、表題をみて訊いた。  竹本耕次は苦笑し、なんとなく救われた気分になった。彼女が、あまり学がないことが判ったからである。 「いや、現世とか、娑婆《しやば》という意味ですよ」 「あ、そうだったわね。とも角、お預りして緒方先生に拝見して貰いますわ」  竹本耕次には、幸枝の姿が、この時ほど神々しく眼に写ったことはない。  幸枝は、緒方の大学の研究室の電話番号を教え、 「水曜と金曜の午後は、緒方先生の研究室にいますから——」  と云って帰って行った。  その後、大学の研究室へ二度ばかり、電話を入れた。その都度、幸枝が応対に出て、 「先生、お忙しいらしいの。そのうち、また私から頼んでみますわね」  と済まなさそうに云った。でも、竹本耕次は、緒方吉之助が読んでくれさえしたら、どこかに推薦して貰えそうな気がしていた。  それから三ヵ月位たったろうか。  ある日、新聞をひろげると、ある婦人雑誌の広告が出ていて、トップに、 『女流作家賞入選作     ≪妻と泣く時≫松川幸枝』  という、大きな文字が並んでいた。 〈あッ、やったな!〉  と、竹本耕次は思った。  あの醜い女子大生にまで、遂に先を越されたか、という感じだった。しかし自分の知っている人物が、入賞するというのは、同人雑誌作家には嬉しいことなのだ。  竹本は、さっそくその婦人雑誌を買って読んでみよう、と思いながらも、多忙にとり紛《まぎ》れてしまった。  十日ぐらい過ぎ、新聞の文芸時評あたりに、 『遂に大型女流新人あらわる』  とか、 『本年度の収穫の一つ』  などと、松川幸枝の顔写真入りで、大きく作品がとりあげられはじめるのを、何気なく読むに及んで、竹本耕次は顔色を変えずには居れなかった。  小説の素材が、あまりにも自分の≪火宅≫と似ているのを感じたからだった。  彼は勤務中なのも忘れて、郵政省の図書室へ飛びこみ、今月号の〈婦人評論〉の頁を繰った。そうして、蒼白になった。 『妻の躰の肋骨が目立ちはじめていた。宍戸泰造は、そんな妻の胸をさすりながら、世の中にはいろんな夫婦がいるのに、なぜ自分たちは、こんなに薄倖なのか、この世に神も仏もいないのかと、青い吐息をつくのであった……』  書き出しの文句から、最後の一行まで、完全に彼の≪火宅≫である。ただ違っているのは、主人公や登場する人名と地名が、つまり固有名詞が違っているだけであった。  竹本耕次は、上司に早退届けをだすと、とにかく本人の云い分を聞こうと、松川幸枝を女子大に訪ねて行った。  幸枝は、大学にも寮にも居らず、級友たちに聞いてみると、第二作を執筆のため、駿河台のホテルに缶詰になっていると云うことである。  竹本は、蒼い顔をして神田へ赴《おもむ》いた。   六 「御免なさい! 悪気じゃなかったんです」  ……松川幸枝は、竹本耕次にとり縋って泣いた。 「緒方先生は忙しくて、読んで下さらないでしょ。私は読んでみて、とても良い作品だと思ったから、男文字じゃ変だから清書し直して、何気なく私の名前を使ったの……。そしたら、こんなことになっちゃって……」  泣きながら、松川幸枝は、着ていたホテルの浴衣を脱ぎ、下着すら自から脱いで、 「竹本さん。どうにでもして下さい。賞金は、あなたの物だから、一銭も手をつけてません。あなたの名誉を奪った罪は、この私の躰で償《つぐな》わせて下さい。ただ�盗作�だということだけは、公表しないで……。お願いします。あたし、一生、貴方の二号さんで暮したって構いませんから……」  と浅黒い女体を、竹本にすりつけるのである。 「あたし、女流作家にならないと、女子大を出たら、愛媛の田舎へ帰されちまうんです。そしたら二度と小説も書けない、竹本さんにも会えなくなるウ……」  竹本耕次は、女の裸身と、泪ながらの口説《くぜつ》に耳を傾けているうちに、あれだけ嚇怒《かくど》していた感情が、次第に萎《な》えて行き、 〈悪意はなかったのかも知れない〉  と思うようになって行ったと云う。  彼が、いかにお人好しであるか、という証拠であるが、 「仕方がない。ことを荒立てるのは、止めてあげよう。しかし二度と、こんな莫迦なことは、するんじゃないよ……」  と諭し、 「えッ、許して下さるの?」  と、飛びついてキッスの雨を降らす松川幸枝の肉体攻勢に、たじたじとなりながらも、その汚れた躰を抱かずには居れなかった——というのだから、ご念が入っている。  躰の関係ができると、幸枝は、竹本のことを、ダーリンと歯の浮くような文句で呼び、 「マスコミに気づかれないように、うまくやりましょうね」  と云ったそうである。  数日後、竹本は勤め先の郵政省に、幸枝からの電話を貰い、 「至急お会いしたい」  というので、再び駿河台のホテルヘ、彼女を訪れた。  幸枝は、物も云わずに、躰を投げかけ、行為が終ったあと、 「ねえ、あたしと貴方とは、恋人同志——つまり夫婦みたいなものでしょ?」  と切り出して来た。 「それで?」  竹本耕次は警戒もせずに、話を促《うなが》した。すると幸枝は、 「夫婦の財産は、共有でしょ?」  と遠廻しに話を持ってくる。 「それで?」 「男の名前で発表して、作品が売れない場合でも、女の名前だったら通用することが、文壇ではあるんじゃないかしら? ねえ、ダーリン、そう思わない?」  苦々しく竹本は、 「あるかも、知れんね」  と答えた。 「つまり、夫の作品を、妻の名前で発表したら、お金になるわけよね?」 「ふむ。それで?」 「財産は共有だから、入って来た原稿料は半分わけにする。どう? ダーリン……」  ぬけぬけと松川幸枝は云った。  いくら、お人好しでも、竹本耕次には、文学を志す人間の節操があった。彼は、拳を顫わせて、幸枝をみた。 「ダーリン! 一枚も、書けないのよ……。作家として、地位が確立するまで、幸枝を援助して!」 「バ、バカなッ!」 「いえ、こんどの受賞第一作だけでも、いいの。助けて、ね、お願い!」 「盗作に慊《あきた》りず、代作まで、俺にさせようというのか! ご免だね!」  竹本耕次は、縮れ毛の醜女の躰を、思い切り突き飛ばした。 「だったら、行李の中の、未発表の作品を、あたしに頂戴!」 「き、きみという女は!」 「竹本さん。冷静に考えてみて! お金になるわよ? 二十万円の賞金が、どれだけ貴方の家計を潤《うるお》したか、考えてみて!」 「うるさい!」  竹本は激怒した。 「陽の目をみずに、寝かせてある作品を、私に、ハイと手渡すだけで、原稿料の半分が、あなたに入ってくるのよ?」 「きみには、文学をやる資格はない!」 「ダーリン、考え直して! 恋人の私のために、作品の一つや二つ、呉れたって良いじゃないの……」 「きみは何一つ血を流さず、それで女流作家の�名誉�と�金�を得ようというのか。虫が良すぎるじゃないか! 苦節二十年の、俺の苦労はどうなるんだ!」  竹本耕次は、あまり身勝手な云い草に憤慨して、松川幸枝を殴りつけた。  鼻血が、シーツの上に飛び散った。  すると幸枝は、矢庭に、 「わかったわ!」  と不貞腐《ふてくさ》れた。そして、 「あたし、貴方を強姦と暴行罪とで、警察に訴えます!」  と云いだしたものである。  竹本は狼狽した。  お互いに全裸で、蒲団の中へ這入っていて、いまさら強姦罪でもないが、たしかに鼻血を流しているのだから、暴行罪で訴えようと思ったら出来る。 「人の作品を盗んでおいて、なにが暴行だ。こっちこそ〈婦人評論〉の編集部へ、あれは盗作だと訴えるぞ!」  竹本耕次は云った。  そのことを持ち出せば、相手がシュンとなると思ったのだ。  しかし松川幸枝は、せせら笑い、 「どこに証拠があって?」  と開き直った。 「な、なんだと?」  竹本は呶鳴った。 「静かになさい。あの作品は、まだ誰にも見せたことがない筈でしょ?」  松川幸枝は勝ち誇ったように云うのだ。竹本耕次は言葉に詰まった。幸枝が云う通りだったからだ。彼はやっと、 「でも、緒方先生が……」  と云った。幸枝は苦笑し、 「先生には、見せてないわ」  と冷たく云うのだ。 「えッ、すると君は……」 「はじめから、頂く積りだったのよ。緒方なんかに、見せるものですか。そして証拠になる古い原稿は、焼いてしまったわ……」 「畜生……」 「一体、どこの誰に、盗作だって証明して貰うのよ?」  竹本耕次は低く唸った。  盗作を証明するものが、なに一つ残ってないのだった。迂闊《うかつ》な話だが、全く幸枝が指摘した通りなのである。 「あたしは今や、女流作家賞を貰った、立派な小説家だわ……。その私と、無名の貴方と世間は、どちらを信用すると思って? 証拠もないのに……」  竹本耕次は唇を噛んだ。 「それより、このホテルに貴方の部屋を借りてあげるから、黙って五十枚書いた方が、こんどこそ�盗作�の証拠を、残せるんじゃなくって?」  竹本耕次は、全くお人好しな人物だった。 〈そうだ。盗作の証拠を残して、俺の名前を売り込むチャンスだ……〉  彼は奇怪にも、松川幸枝の申し出を承諾して、翌日から、公休をとって、そのホテルに籠《こも》った。  二日間で五十枚を書き上げると、幸枝は、書きちらしのクズ原稿にいたるまで、枚数を調べ、 「ちょうど百枚あるわね」 「ご苦労さま。稿料は半分わけよ?」  と、さっさと彼の部屋を出て行ったのであった。  翌月、婦人評論誌上に発表された≪ある盗作≫と題する五十枚の短篇は、またまた話題を呼んだが、その時になって竹本耕次は、自分が盗作された事件を、小説に仕立てて鬱憤《うつぷん》を晴らしてやろうという思いつきに夢中のあまり、その松川幸枝の第二作となった作品の、コピーをとっておくことを忘れていることに気づいたのだ。  つまり彼は、幸枝に第一作を�盗作�された挙句《あげく》、第二作は�代作�させられたことになる。  そして、二つながら、竹本耕次が執筆したという証拠がないのだった。竹本耕次はこの後、少し気が変になり、同人雑誌仲間に、 「松川幸枝は俺だ。この俺の、ペンネームなんだ……」  などと云っていたが、去年の暮に死んだ。  いま、松川幸枝は、緒方吉之助と結婚してその妻となっている。  そして第二作以後、その閨秀作家志願の緒方夫人が、作品発表したという噂はない。 不倫な姑   一  城南大学へ入学したばかりの今西秀哉が、下宿の経営者である遠山まさと情交をもったのは、彼に云わせたら偶然からである。  まさは、彼とは二十五も年長の、四十三歳になる未亡人であった。つまり二人の間は、親子ほども離れていたのである。  にも拘らず、二人は結ばれた。  それは梅雨に入った許りの、六月のある火曜日の午前中であった。  前夜から風邪でも引いたのか、躰が熱っぽく、今西秀哉は朝食の時間になっても、起き上れなかったのだ。  下宿人は五人いた。  普通のしもた屋である遠山家は、豊島区高松町にあって、五年前から未亡人になった遠山まさが、学生を下宿人にとり、家計を立てていた。  朝食と夕食とがついて、一万円という値段は決して安くはないが、押入のある四畳半を占領できて、しかも一日おきに内湯に入れるというのが取り柄であった。  また電気洗濯機なども、自由に使えるというのも魅力である。  今西秀哉は、郷土の先輩から紹介されて、その遠山家の下宿人となったのだが、そのとき先輩はただ一言、 「お前は色男だし、若いから気をつけろよ」  とだけ、気になることを云った。  あとで考えると、それは遠山まさに気をつけろよ、という意味だったのである。  四人の学生たちが、外出してゆく物音を聴きながら、今西はうつら、うつらしていた。大学は休む気であったのだ。  午前十時ごろだったろうか。  遠山まさが二階へやって来て、 「今西さん。まだ寝てるの?」  と声をかけた。 「ええ、躰が熱っぽいんで、今日は休むことにします」  と答えると、襖《ふすま》をあけて未亡人は彼の部屋へと入って来た。  そして枕許に坐って、額に手をあてがい、一方、自分の額にも手をあてがって、 「おや、かなり熱があるわね」  と、独り言を云い、 「体温計を持って来るわ……」  と呟くと、姿を消したのだった。  しばらくして戻って来た彼女は、お盆の上に熱いミルクと、体温計とを用意して来ていた。  熱を計ってみると、三十七度三分ある。  大したことはないが、熱がないわけではない。未亡人は、薬箱をとりにまた階下へ降りてゆき、親切に解熱剤を呑ませてくれた。 「さあ、ミルクを飲んでおきなさい……」  と彼女は、軽い媚《こび》を含んだ眼で、彼を見詰め、 「今西さんって、本当にいい男だよ……。惚れ惚れするわ」  と云ったものだ。  遠山まさは、先輩の話では、会津若松の芸者あがりで、その器量に惚れられて人妻となったという人物だけに、なかなか色っぽい女性であった。  三十八で未亡人になった訳だが、色が白くて、ふっくらした顔立ちの女性だったから、化粧をすると四十三とは見えない。  その未亡人から、惚れ惚れすると、まともに云われて、今西秀哉が顔を赧《あか》らめたのは、いわば当然であろう。  彼が黙りこむと、遠山まさは、 「あら、赧くなったわ。純情な人……」  と若やいだ声で笑い、 「今日一日、ママになったげましょうか」  と云いだした。 「それとも、私みたいなママじゃア、お嫌かしら?」  今西秀哉は、ますます赧くなる。 「今西さんは、あたしが怖いんでしょう?」  図に乗って、遠山まさは、そんな云い方をした。  この時、今西が正直に、怖いと返事をしていたら、彼の一生は、もう少し違ったものになっていたかも知れない。  が、その時、彼は首をふったのである。  遠山まさは顔を綻《ほころ》ばせ、 「じゃあ、ママになってあげますわね」  と云い、牛乳を口に含んで、彼の顔に自分の顔を近づけたのだ。  つまり、口移しに牛乳を飲ませて呉れようと云う訳である。  十八歳の多感な大学生と、成熟し切った年増の未亡人とが、そんな行為をもてば、あとはどうなるか、結果は判っている。  しかも今西秀哉は、童貞であった。  高校時代、同級生の女の子と、接吻ぐらいはしたことはある。しかし、ペッティングの味も、女性の肝腎《かんじん》な部分も、見たことのない彼であった。  ズブリと、女の生暖かい舌が、彼の口中に挿し込まれて来たとき、思わず彼は、躰を震わせた。そんな接吻の仕方があることを、はじめて知ったのである。  この稚ない男性の反応は、不意に遠山まさの性的興奮を誘ったらしく、彼女は今西の額に自分の額を押しつけ、 「きっと風邪だわ。風邪は、一汗かいて、ぐっすり眠るとよいの」  と、彼の瞳を覗き込みながら、そう低く呟くと、 「ママが癒してあげるわね」  と云い、玄関の内鍵をおろしに、自分から再び階下に降りて行ったのだった。  今西秀哉は、あることを想像した。  そして彼の想像通りの事態となった。  彼の部屋へ戻って来た遠山まさは、スカートを脱いでスリップ一枚になると、平然と彼の蒲団の中に入って来て、抗《あら》がう今西を抱きしめたのである。  彼は興奮のため、口も利けなかった。  遠山まさは微笑し、 「あなた……まだ女の人を知らないのね?」  と嬉しそうに呟くと、 「ママが、筆|下《お》ろし、したげるわ」  と云ったことである。  遠山まさは、今西の男性を巧みに指先で弄《もてあそ》び、やがて、彼の肌を剥きだしにすると、静かに口をつけた。  その瞬間、今西秀哉は云うに云われぬ快感に包まれ、思わず精をやっていた。  彼女は、たじろがずに、それを飲み乾し、 「さあ、今度はママのをよく触って……」  と云った。  生まれて始めて接する女体。  その女体の神秘は、いま、すべて今西の手中にあった。今西は、忽《たちま》ちにして欲情の虜となり、やがて一匹の獣となった。  芸者をしていた遠山まさは、おそらく童貞の男の扱い方を、よく心得ていたのかも知れない。  彼の男性を口に含み、満足をさせたのは、多分、毛切れを恐れたのと、そして自分が愉しむためであったのであろう。  その日から、遠山まさは、ママではなく彼の恋人となった。  はじめて知った女体の味は、とかく若い男性を狂わせるものである。  今西秀哉は、その日一日、なにか桃色をした雲の上でも、ふわふわと歩いているような気分であった。  世の中に、こんなに気持いいことがあるのだろうかと思った。陶酔とか、恍惚とは、こんな場合のことを指すのだろうと、彼は真剣に考えたほどである。  午後になると、下宿人の学生たちが遠山家に不意に帰ってくる。その故為《せい》か、遠山まさは、午後には今西の部屋に寄りつかなかったが、夕食だけは枕許に運んでくれ、 「今日のこと、誰にも内緒よ」  と、念を押すことは忘れなかった。  不思議なことに、熱は下がり、夕方には元気になっていた。  しかし彼は、その日の出来事が忘れられずに、その翌朝も起きなかった。  当然、遠山まさは嬉しそうな顔で、その翌日の午前中も、彼の蒲団の人となったのだ。  こうして今西は女体を知り、遠山まさは彼にとって忘れ得ぬ人となったのである。   二  ……普通のケースならば、下宿の未亡人と大学生の関係は、大学生が夜逃げでもすれば一巻の終りとなるであろう。  ところが遠山まさの場合は、決してそうではなかった。  下宿人の眼を盗んで、朝な夕な、今西の部屋を訪れては、声を忍んで情事を持とうとするのであった。  四十代とは思えぬ、真っ白くて、すべすべした肉体。そして技巧。  さらに加えて、遠山まさには、いわば�名器�と呼ぶに相応《ふさわ》しい、独特な味わいがあったのである。  それ以後に今西秀哉は、城南大学に在学中だけで、数人の女性と性交渉をもった。  女子大生もいたし、トルコ嬢もいた。またバーのホステスもいる。  が、その数人の女性との関係よりも、絶対に味わえぬ何か——それはセックスの技巧といっても良いし、肉体的な充実した満足感と呼んでもよかった——が、遠山まさにあったことだけは慥《たし》かである。  また彼女も、 「男と女とにはね、ピッタリ一致した組合わせがあるんですって。あたし達、年齢は離れてるけれど、どうもそうみたいだわ……」  と告白していた。  つまり、いわば�肉体の絆《きずな》�が、親子ほど年の離れた今西秀哉と、遠山まさというカップルを、つくり上げたのかも知れない。  しかし、どう考えても、結婚できる二人ではなかった。  二人の関係は、ずるずると続き、同宿の学生たちの中には、ようやく二人の仲を疑いだす者も出はじめる。  また露骨に、 「おい、今西君。ほかに女がいない訳じゃなし、手を切って下宿を出たらどうだい?」  と忠告する者もあった。  それを遠山まさに報告すると、たちまち色をなして、 「なんです! 私はただ、今西君を自分の子供のように思っているだけですよ! そんな色眼鏡でみるのなら、下宿を出て行って下さい!」  と、その忠告した学生のところに、呶鳴り込む始末である。  これには今西も閉口して、本気で自分から下宿を出ようと思い、荷造りしかかったことがあった。たしか大学三年生の秋である。  ところが、それを知ると、遠山まさは半狂乱になって、 「今西さん。うちを出ると云うことは、私と貴方との仲が、そんな不倫の仲だということを、認めることになるのよ! もし、遠山家を出て行くんだったら、あたし、自殺しますから!」  といまにも安全剃刀で、手首を切ろうとするのであった。  この騒ぎに辟易《へきえき》して、件《くだん》の学生は遠山家を出て行き、やっと悶着は納まったが、結局は今西秀哉は大学を卒業するまで、ずるずると関係をつづけることになった。  つまり大学在学中に、今西は下宿の未亡人に、肉体的に飼い馴らされたわけである。  なんどか、別れようと思った。  だが、気の弱い彼には、遠山まさの涙にあうと、実行できなかった。  一番に彼を捉えて離さないのは、成熟し切った彼女の白い肌であった。  その内腿のあたりの、すべすべして衰えを知らぬ雪の肌や、合致してアクメに到達する時の、遠山まさの荒い息遣いを思い浮べただけで、 〈やっぱり離れられない……〉  と、決意は鈍るのである。  そのとき、二十五歳の年齢差は超越している。ただ、男と女があった。  もう一つには、遠山まさの眼を盗んで、交渉をもった他の女性たちからは、一向に彼女の躰から得られるような、満足感を味わえないことも原因であった……。  遠山まさが云うように、  ——神様が引き合わせて下さった二人。  というような実感が、たしかに存在しているのは否《いな》めなかった。  花柳界に育っただけに、彼女の技巧とか、セックスの面での知識は抜群であり、今西秀哉が遠山まさに翻弄《ほんろう》されたのは、当然のことかも知れないが、彼女が次から次へと、新しい刺戟を考えだして、それで彼を�虜�にしていたと思えぬフシがないこともない。  たとえば、性器接吻などは序の口で、�玉転がし�と称して、ホーデンを包んだ袋の部分を口の中に頬ばり、ホーデンを刺戟してみたり、不潔な部分を舌先で弄《もてあそ》んでみたりするのだ……。  また、ホテルの浴室で行為をもったあと、わざとそのままの姿勢で尿を洩らす。すると生暖かい液体が、男性の肌を伝わって滴《したた》り落ちてゆく。その時の奇怪な快感といったら、またとないのである。  白粉《おしろい》刷毛《ばけ》で、男の弱い部分を丹念に攻めたり、さまざまな体位で彼を愉しませて呉れたのだった。  猥本や、エロ写真、それに性具だの、媚薬だのを、どこからともなく手に入れて来て、今西を昂奮させるのも彼女である。  ピタリと呼吸が合う……という表現があるが、二人の場合は、まさしくそんな感じであった。  いつ、いかなる場合でも、今西が早い時は早いように、遅い時には遅いように、ピッタリと二人は一致する。それは自分ながら不思議なほどであった。  そんなことも、二人を離れ難くしていたのかも知れぬが、卒業が決まり、大阪のある会社に、今西の就職が決まっては、そうも云っておれなかった。  大阪は、彼の郷里なのである。  就職が内定したことを、今西は、遠山まさに内緒にしておいた。  二十五も年の違う未亡人と、一緒に卒業後も暮す積りはなかったからだ。  ところが年が明けて二月に入ってから、その内定していた大阪の会社から、 『不採用に決定したから……』  という旨の通知が届いた。  今西秀哉は驚愕《きようがく》した。  理由を問い合わせると、人事課から、 『前略、御免下さい。不採用決定は、貴殿の意思を尊重したものにて云々』  という、簡単な文面のハガキが送られて来たものである。  彼は、二度おどろいた。  郷里の父に調べて貰うと、電話で、 「お前の方から、別の会社へ就職することに決めたから、誰か、他の人を採用してやって欲しいと、人事課に申し出たんやそうやないかい!」  と、叱責《しつせき》の言葉が伝えられたのである。  彼は、心当りを考えた。  なにも、他の会社に就職する意思もなく、また意思表示をしようにも、合格したのは、その大阪の会社だけだったのだ……。 〈変だな……。誰か、大学の奴等が、妬《ねた》んで悪戯《いたずら》したのかな?〉  と彼は判断した。  が、後で判明したところでは、就職取り消しの張本人は、遠山まさだったのだ。  彼女が、いつのまにやら、就職が内定している大阪の会社名を探りだし、彼の名前で、もっともらしく人事課に、就職辞退の手紙を投函していたのである。  それは、彼を大阪へ帰さないための、つまり離れたくないための工作だったのだ。  それと知らぬ今西は、級友の悪戯と思い込んで、憤慨しながら遠山まさに相談した。  彼女は、表面は同情するような口吻《くちぶり》で、 「ひどい人がいるものねえ。犯人は、誰だか判らないの? とっちめてやりましょうよ」  などと云い、 「いいの、いいの。あたしが、きっと探してあげるから。大船に乗った気でいなさいよ」  と彼を慰めて呉れたのであった。  三月半ば、今西は、蠣殻《かきがら》町の雑穀を扱う仲買店に就職が決定した。むろん、遠山まさが探して来た就職口である。  学生下宿に、サラリーマンが下宿していては……と躊躇する彼に、年上の未亡人は、 「どうせ住み馴れたところだし、結婚まではお願いだから居て頂戴……」  と云い、両手を合わせて伏し拝むのだ。  気の弱い今西秀哉は、千載一遇《せんざいいちぐう》のチャンスを、こうして棒にふってしまったのである。   三  仲買店での仕事は、なかなか面白かった。  当時は、�赤いダイヤ�と呼ばれた小豆の売買が盛んなころで、蠣殻町には、素人の投資家が足|繁《しげ》く出入りしていた。  今西は、雑穀の世界を知り、そして商品仲買人たちの実態を知ったのだ。  そして売りと買いとの、熾烈《しれつ》な相場の世界を知ったのである。  一年後、今西は同僚からそそのかされて、五月限の小豆を、依頼客に向かって逆売りしてみた。  つまり、客が二十俵一枚の小豆を、二十枚ほど空買いして来たのに対して、こっそり売り向かったのである。  むろん、場へ通さずの、ノミ行為だった。  彼は五月限小豆を、下げ必至と睨《にら》んでいたのである。  だから、空売りして値が下がれば、その分だけ利ザヤが稼げる。ところが思惑《おもわく》に反して五月限は暴騰し、彼は蒼くなった。  つまり、彼は店に対して、アナをあけたことになるわけだった。  そのアナをカバーしようと、五十枚ほど、買い乗せたのが悪く、中共小豆の緊急輸入で相場は急反落してしまった。  最高の天井値段で買い乗せ、暴落したのだから泣くに泣けなかった。  大阪の父に無心をしてみると、 「相場に手を出すような息子は勘当だ」  と取りつくシマもない。  彼は青くなった。  店をクビになれば行き場もないのだ。  遠山まさに、実はかくかくしかじかと打ち明けてみると、一晩考えた挙句、 「いいわ。家を抵当に入れて、金を借りて来てあげる」  と返事して呉れた。 「えッ、本当かい?」  彼は、目を輝かした。  遠山まさは大きく肯いて、 「ただし、一つだけ条件があるわ」  と云う。 「条件とは?」  と問い返すと、 「たった一つの私の財産を、抵当に入れて流れたら、私は喰って行けないでしょう」  と云い、 「だから、私と養子縁組みして頂戴……」  と切り出して来た。 「養子縁組み?」 「そう。あなたは、私の子供になるの。子供は、親を養わなきゃならないでしょ?」  遠山まさは微笑した。  彼女は、今西秀哉の失敗を奇貨《きか》として、永遠に二人が離れられなくなるしがらみを、彼に要求したわけだが、父からは勘当だと云われ、かと云って金策のあてもなく、自殺すら考えていた今西は、その未亡人の提案を一も二もなく受け容れたのであった。  かくて今西秀哉は、籍を抜いて、遠山まさの養子となり、遠山秀哉を名乗るようになるのである。  むろん、急場は救われた。  しかし、借金はその儘、彼の負債として残り、毎月一万数千円の金利を、支払わねばならなくなったのである。  彼女は、下宿料を大幅にまけてくれたが、それでも月々、二万円近い出費は、今西にとっては痛手であったことは事実である。  とにかく、金利と下宿代を払い、洋服などの月賦を支払うと、煙草銭にも、こと欠くような始末であった。  今西は、アルバイト探しに奔走した。  ……そんな矢先、遠山まさは、ある耳寄りな話を、持ち込んで来たのである。  耳寄りな話とは、なんと縁談であった。  相手は、川越市の呉服屋の次女だが、子供の時、右足に怪我をして以来、足が不自由になってしまった女性だという。  今西よりは二つ年上だが、そのような肉体的な欠陥があるため、嫁の口がない。  両親は、サラリーマンであり、身体強健な男性ならば、一軒の家を買い与えてやると断言しているというのだ。  遠山まさは、 「家を買って呉れると云うんだから、申し分ないじゃないかね。そしたら、この高松町の家を売り払って、借金も返せるだろう?」  と、なんの苦もなく云うのであった。 「この家を、売り払う?」 「そうさ、それ以外に、借金を返せやしないだろう?」 「じゃあ、ママはどうするの?」  今西がそう訊くと、彼女は、 「むろん、兄ちゃんと一緒に住むよ……」  と答えた。  いつの頃からか、遠山まさは、彼のことを�兄ちゃん�と呼ぶようになっていた。人前を憚《はばか》ってなのか、愛称の積りなのかは、わからない。  今西は肯いて、 「じゃ、本気で結婚しろ、と云っているんだね?」  と訊く。まさは微笑《わら》って、 「莫迦《ばか》だねえ、兄ちゃんは!」  と云い、 「あたいは、兄ちゃんとは別れる気は、毛頭ないよ。ただ、世間体というものが、あるだろう?」  と熱っぽい眼の色になる。 「世間体?」 「そうさ。仮にも二人は親子なんだよ、兄ちゃん。世間に二人の仲がばれたら、うまくないじゃないか……」 「……?」 「だからさ、兄ちゃんは一応、結婚式をあげて、その女を嫁に迎えるのさ。そして、あとは女中代りに、こき使って、二人は二人だけで、うまくやればいいだろう」  今西秀哉は駭《おどろ》いた。そして、返す言葉を見喪った。 「借金は返せる、新しい家は手に入る。それに世間の眼は誤魔化《ごまか》せるんだから、一石三鳥じゃないかね? そう思わないかい?」 「…………」 「それとも、まだ金の支払いに、追われていたいかい? 足が不自由だって、何だって、女中だと思えばいいやね……」  遠山まさは、こともなげにそう云い、なおも熱心にその縁談を奨《すす》めるのだった。  話をきいているうちに、今西秀哉は、いまの金利地獄から抜け出すには、彼女の云う方法しかないような気がして来た。  それで見合いをしてみると、先方の娘は、小柄で色は黒いが、内気そうな、扱い易い女性のようである。  二つ年上というハンディも、遠山まさとの関係の故為か、一向に苦にならない。  滑川泰子というのが、その女性の名前であった。  先方の両親は、娘より年下で、しかも好男子の彼にさっそく好感をもち、 「結婚前に新築の家を買って、あなたの名前で登記しましょう、何分とも、不束《ふつつ》かな泰子をよろしく……」  と、ニコニコ顔であった。 「養母と一緒に住まねばならぬが……」  と云うと、 「いや、是非とも親孝行をしてあげて下さい」  と二つ返事である。  今西秀哉——いや、遠山秀哉は、この縁談を承諾することに決めた。  不自由と云っても、右足をひきずる位で、大したことはなかったし、顔立ちも割合に整っている。  泰子とは夫婦なんだから、そのうち遠山まさの方でも、彼との関係を、あきらめるようになるだろう……と甘く判断したのだ。  が、それは早計であった。  遠山まさは、自分から探し廻って、深川に新築の二階家をみつけて来た。  二階に六畳一間、階下に六畳と八畳の二間があり、洒落た食堂がついている、値段も手頃な家である。なんでも建築主が、資金不足となり、手金流れとなった家なのだそうであった。  滑川家では、約束通り、その家を購入して遠山秀哉の名義で登記し、嫁入り道具を運び入れた。  そして結婚式をあげて間もなく、遠山まさの家も買手がついたのである。  これで無事に波風が立たねば、めでたし、めでたしと云うところだが、現実にはそうはゆかなかった。  もともと遠山まさは、彼と離れ難いがために、養子縁組みをしたのだ。  そして養親子間の、不倫な情交関係をカバーするために、滑川泰子との偽装結婚を強いたのだから——。  不幸なのは、そうした遠山まさの陰謀に気づかなかった泰子の両親であり、そして泰子自身であった。  また二十五も年上の、年増女の肉体に溺れ切った秀哉自身も、不幸な人物のひとりだったかも知れぬ。  新婚旅行には、伊豆めぐりをした。  新妻の肉体は、爛《ただ》れるような未亡人の躰と技巧とで、訓練された彼にとっては、まことに物足りなく、青臭かった。  ただし、新鮮味はなくもなかった。  新婚旅行から帰ると、遠山まさは、留守中に荷物を勝手に移動させ、二階に自分の荷物を上げていた。 「あたしが階下を、うろうろしていたら、気兼ねだろうから……」  と云うのが、彼女の云い分だったが、秀哉には、 「莫迦だねえ。あたしが二階だと、泰子が足をひきひき、階段を昇ってくる音が、すぐ手にとるように判って、便利じゃないか。下の六畳だってごらんよ。襖一つで、なにも出来やしない。ふふ……、名案だろ?」  と小声で云ったものだ。  親子だから、彼が、 「ママ。肩でも揉みましょうか」  と二階へ昇って来ても、怪しまれない。  そして堂々と情事ができるし、階段の軋《きし》みの音で、それと悟って、飛び離れ、なに喰わぬ顔で新妻を、二人で迎え入れることが出来る……と云うのが、彼女の主張である。  こうなると、執念であった。それ以外の、なにものでもない。   四  ……遠山泰子は、結婚生活に入ってから、間もなく、夫と義母との関係が、尋常ではないのではなかろうかと、疑問を抱くようになっていった。  つまり、そこには単なる親子関係以上の、なにものかが潜んでいるような気持がしてならなかったのである。  はじめの頃は、まさか……と思っていた。  いくら養子とはいえ、仮にも親子である。そんな醜い、不倫な関係が、世の中に存在しようとは、考えられなかった。  義母のまさは、嫁である彼女には厳しく、家事の一切に口喧《くちやかま》しく干渉した。  それは一向に苦にならず、教えられることも多いのだが、夕方、夫が帰って来ると、姑の態度は一変して、 「兄ちゃん、背中でも流してお呉れでないかい?」  と猫なで声になり、夕食の最中でも、 「兄ちゃん、これ、美味しいよ……」  と箸で、喰べかけのお菜を、夫の口に運んでやったりするのだった。  その態度は、仲睦まじい親子のようでもあり、また新婚の二人の仲を嫉妬して、厭がらせをしているようにも感じられた。  内気で、どちらかというと、鷹揚に育てられて、鈍感な方であった泰子ではあるが、姑が自分では入念に派手な化粧をする癖に、彼女に対しては、 「化粧するなんて、近頃の嫁はなってない。そんなクリーム臭い手で、糠味噌をつけられたら、味が変るじゃないかね……」  と云い、また洗濯物も、 「秀哉の下着だけは、触らないでお呉れ。昔から私が洗ってるんだから……」  と云う一方、自分の汚れた下着を、平然と嫁に洗わせることに、先ず疑問を抱いたのである。  これは幾ら考えても、無神経であった。  それでいて、機嫌のいい日は、台所で働いている泰子に、 「どう、兄ちゃんは上手かい? 色男だし女泣かせの兄ちゃんだから、さぞかし満足してんだろうねえ……」  と、淫《みだ》りがましい口を利いたりするのだ。そのうち泰子は、姑が機嫌のいい朝は、夫が、 「ママ……。起きて下さいよ!」  と、二階に姑を起しに行き、なかなか階下に降りて来ない日に、限られていることに気づいた。  台所で働きながら、耳を澄ましていると、なにやら「ウフッ! ウフッ!」という低い声と、小刻みな震動がある。  寝物語に、夫に訊いてみると、 「ママには持病の癪《しやく》があるから、ときどき背中を指圧してやってるんだよ。ウフッ、ウフッ! というのは、指圧したとき、ママが痛いので呻き声を出すのさ……」  と、平然と応じた。  なるほど、そんなものかと泰子は思ったのであるが、ある日、姑に、 「指圧でも致しましょうか?」  と云ってみると、にべもなく、 「あたしの躰は、まだそんなに、ガタが来てやしないよ……」  と断られた。  その時、泰子はなぜだか、 〈変だわ……〉  と思ったのである。  結婚して三ヵ月目に、泰子の生理がとまった。さっそく実家の母親と、医者のところへ行ってみると、 「間違いなく妊娠でしょう」  という返事であった。  泰子は姑のまさに、喜んで貰えると思い、さっそく、 「赤ちゃんが出来たらしいんですの」  と報告した。  すると姑は、云うに云われない不愉快な表情をして、 「まあ、いやらしいったら、ありゃしない」  と舌打ちしたばかりか、 「今夜から、別々の蒲団で寝とくれ!」  と、理由もなく当り散らしたものだ。  夕食のとき、姑は夫に、 「泰子は、おめでただってさ」  と冷たく云い、 「今夜から、兄ちゃんは、二階で、私の傍でお寝《やすみ》なよ。泰子は大切な躰なんだし、流産でもすると悪いから……」  と、命令口調で云ったのであった。  流石に、夫はすぐには姑の命令には従わなかったが、数日たってから、 「ママが、あまり喧《やかま》しく云うから、今夜から二階で寝るよ……」  と云いだした。  その翌日から、姑のまさは上機嫌である。  普段、そんなことを云ったこともない姑が泰子に向かって、 「映画にでも行って来たらどうだえ?」  と、猫なで声を出すのであった。  妊娠四ヵ月頃までは、妊婦にとって大切な時期であることは知っている。  だから泰子は、それが姑の嫁に対する労《いた》わりと考えたかったが、なんとなく釈然としないものがあった。なぜだかは判らない。  あるとき、泰子は夫のシーツをとり替えようと思って、二階へ行ってみた。  姑の寝床と、夫の寝床とが、ならんで敷かれてある。  みると、夫のシーツは殆んど汚れていなくて、姑のシーツだけが皺だらけであった。 〈まあ……〉  泰子は目を疑った。  その夜、夫と湯に入り、それとなく訊いてみると、 「ママは昔から汗っかきの上に、寝相がわるくてねえ……」  という返事である。 「だって、貴方のシーツは、汚れてないのはどういうわけ?」  と畳みかけて訊いた。  すると夫は、 「そりゃあ、寝相がいいからだよ」  と云い、話題を慌てて、変えてしまったのであった。  ところで、ある暴風雨のうちに迎えた、日曜日の朝のことである。  朝食の仕度ができたのに、まだ二人が起きて来ないので、泰子は夫を起しに二階へ出向いた。 「お早うございます……」  と声をかけると、襖の奥で、なにやら狼狽めいた気配があって、 「泰子かい?」  と、咳払いと共に、姑の声がした。  はッ! となり、夢中で襖をあけると、夫が姑の寝床の中で腹這いになり、莨《たばこ》盆を引き寄せているところである。  泰子は顔色を変えた。  ところが姑のまさは、平然として、 「いやだよ、全く、兄ちゃんは……。泰子と眠られなくて淋しいからって、私の寝床へ這入り込んで来たりしてさあ……。兄ちゃんは私の側が、どうして、そんなに好いんだろうかねえ……」  などと云うのだった。 (あとで思うと、そのとき二人は、暴風雨の物音に安堵して、泰子が階段を昇って来るのに気づかず、慌てて夫は姑の躰から、すべり下りるのが精一杯だったのだ。そして姑は照れかくしに、そんな言葉を吐いたのであった……)  泰子は呆《あき》れながらも、母ひとり子ひとりという環境では、そんな甘え方もあるものかと自分で反省したのである。  この日曜日の朝以来、二人はだんだん図々しくなって来て、堂々と二人で寝床を共にするようになっていった。  朝など、夫は朝刊を泰子に二階へ届けさせながら、姑の乳房に触れたりしてみせ、泰子の方を逆にうろたえさせるようなことも平気となったのだ……。  そんな時、姑のまさは、まるで若い娘のような若やいだ楽しそうな笑い声をあげて、擽《くすぐ》ったがり、 「泰子、叱っとくれなね……」  と、色気たっぷりの、にやけた笑顔をつくるのである。  泰子の方が、きまり悪く、かえって顔負けするていたらくであった。 〈これは啻《ただ》ごとではないわ……〉  泰子がそう訝《いぶか》ったのも、当然であろう。  彼女は、ただ夫と姑とが、同衾《どうきん》しているのを目撃しただけで、二人が醜関係にあることを確認したわけではないのだ。  泰子は、 〈真相を掴みたい!〉  と、日夜、そのことだけに、心を悩ますようになる。  たまに川越市の実家に帰っても、肉親にそのような疑惑は打ち明けられないし、また恥しくて相談すべき友人もなかったのだ。  秋に入って、彼女の腹部の膨《ふく》らみが、ようやく目立ちはじめた頃のことであった。  たまたま日曜日で夫は泰子に、築地の市場まで買い物に行くことを命じた。  泰子には、それが自分を外出させるための口実だと、わかっている。それだけに腹立しく、躰が顫《ふる》えんばかりであったが、命令なので外出し、タクシーで買物を済ませて、大急ぎで帰宅した。  二人はすでに起きており、まさは上機嫌な声で、 「お帰り。いま、兄ちゃんは、風呂に入っているところだよ……」  と台所から声をかけた。 「背中、流しますか」  と云うと、夫はのんびりと、 「ああ、流して貰おう」  と疲れて、倦怠《だる》そうな声であった。  泰子は何気なく湯殿に入り、ふり向いた夫の胸のあたりに、朱の紅葉を散らしたようなキス・マークがあるのを、発見してしまったのである。 「あなた! そ、それは!」  と顔を痙《ひ》き吊らせると、流石に夫もぎくりとした表情になって慌て、 「な、な、なんでもない!」  と叫んだのだった。  泰子は、夫の秀哉の背中を流すことも忘れて、湯殿を飛び出し、ひとり泪を流すためにトイレに入った。  そして彼女は、いったん流したらしい水洗便所に、異様なものが浮いているのを発見したのである。それは拾いあげてみると、男女がある目的に使うゴム製品であった。  そして、その尖端には、夫の物とおぼしき体液が、たっぷり入っていたのだ。  泰子は怒りと駭きのため、蒼褪めた。  情なかった。  あり得ないこととして、自分で自分の妄想を打ち消し続けて来たのに、なんとそれは妄想ではなく、真実だったらしいのだ。  親子としての、人倫に悖《もと》る醜い関係。それは今や現実のものとなって、泰子を打ちのめしたのである。  胸の鼓動ははげしくなり、血が逆流するのを彼女はおさえ切れなかった。  泰子は泣きながら、そのゴム製品を塵紙に拾いあげて包むと、湯殿から出ようとしている夫の秀哉に突きつけた。 「なんだ? なんの真似だ?」  と夫は云い、 「トイレに落ちてたのよ! これを、なんて証明して下さるの!」  と泣いて喰い下がる泰子に、姑のまさはニヤニヤしながら、 「泰子さん、莫迦だねえ。兄ちゃんが、貯っていたものを、自分で吐き出しただけのことじゃないの。変な嫉妬は、お止めなね、みっともない……」  と逆に泰子をたしなめたのである。   五  ……その時以来、泰子は�執念の鬼�となった。  夫と姑との、醜行現場を、はっきり自分の眼で慥《たし》かめたい、と日夜思うようになった。  ところが、その日の夜以来、夫の秀哉は、また泰子のそばに戻って来て寝るようになりなかなかに尻尾をつかませない。  事実、それ以後は、二人も自重していたようであった。  自重というよりは、家の中で関係することを、避けていたようである。  その年も押し迫って、大晦日の夜のことである。  正月のお節《せち》料理を重箱に詰めて、忙しく立ち働いている時、なにか二階から、獣の唸り声のようなものが聞えた。  みると、夫の姿も、姑の姿もない。  泰子は、 〈ハハア……〉  と直感し、テレビの音を大きくすると、静かに二階への階段を昇って行った。  廊下の端まで辿《たど》りついて、そっと様子を窺うと、襖をよく閉めもせず、電灯もつけずに黒い人影が絡《から》み合っている。  その人影は、瓦斯《ガス》ストーブの赤い焔に照らし出されて、シルエットの如くであった。  見てはならないものを見た——と泰子は臍《ほぞ》を噛む想いに迫られる反面、部屋の中へ飛び込んで行って二人を叩き殺してやりたいような、めくるめくような怒りに彼女は全身を包まれた。  全身が小刻に、まるで瘧《おこり》かなにかにかかったように打ち震え、歯はガチガチ鳴りだして、寒気すら覚えたのだ。  飛び出したい気持があるのに、見てならぬ物を目撃したショックから、全身は硬直し切っている。  泰子は、二人を殺して、自分も死のうかとすら思った。  幸い、廊下に背中を向けているため、泰子の存在は知られなかったらしいが、思いがけず、泰子に背中をみせていたのは、姑のまさなのであった。 「ああ、兄ちゃん……」  その背中をみせている人物が、低く呻くように呟いたのだ。そしてあるリズミカルな運動が、展開されはじめた。  まもなく、下になっている黒い影の、 「あッ、あッ」  という獣めいた唸り声と共に、その動きは止まった。  ここに至って、泰子はわれを忘れた。カーッと逆上した。そして無意識のうちに姑の部屋へ飛び込み、壁の電灯のスイッチを押していた。 「ああッ!」  泰子は悲鳴をあげた。下の影と上の影とは、夫と姑の姿となって飛び離れたのだ。そして姑のまさは、立ち上れず、夫の秀哉の枕許のところで、蒟蒻《こんにやく》のように、ぐにゃぐにゃとへたばり込んでしまったものである。  呆然と夫は、上半身を起した。なにか、不貞腐れた感じであった。 「やっぱり! やっぱり!」  泰子は肩を顫わせて号泣し、狂ったように夫の躰を突きとばした。  その途端、一緒に夫と逃げようとした姑のある部分に、何本か白いものが点々と混っているのを泰子は見た。彼女はそれを他人ごとのように眺め、 「わあーッ!」  と大声をあげると、大晦日の夜の深川の町に飛び出したのであった。  つくづくと浅間《あさま》しかった。  陰毛に、白いものが混る年齢でありながら親子ほどにも年の違う夫と、不倫な情交関係をもっている姑。  戸籍の面では養母であり、養子でありながら、嫁の自分をないがしろにして、秘密の享楽に耽《ふけ》っている夫と姑。  深川の木場に佇み、いったんは自殺を考えたが、実家へ帰る決心に変った。だが、着のみ着の儘で飛び出して来たので、電車賃もない。  彼女は、台所の勝手口から、そっと家に入った。  それを耳敏《みみざと》く夫が聞きつけて来て、台所の板の間に平伏し、 「泰子。二度と過ちは繰り返さない。どうか許して呉れ。思い直して呉れ……」  と云った。  泰子は、 「実家に帰らせて貰います」  と主張したが、夫の秀哉が、泣くようにして頼むので、 「二度としないのなら……」  と彼女も思いとどまったのだった。  大晦日でもあり、実家に帰って、父や母にそんな夫や姑の不仕鱈《ふしだら》な関係を、あからさまに告げることが、恥しかったのだ。それに明日は、結婚以来、はじめて迎える正月だという気持もあった。  夫はその夜、姑は大学生時代の下宿の未亡人で、酒の上での過ちから未亡人を手ごめにしたこと、相場の失敗から養子縁組みさせられたことなどを、どこまでが真実か判らぬが打ち明けて呉れて、 「決して誘惑に乗らないから、俺の新しい人生の再スタートに協力して呉れないか。たのむ、泰子……」  と云った。  泰子も、姑と別居することを提案して、なんとなく倖せな年を迎えられるような気持で夫に抱かれて眠ったのだが、朝、目覚めてみると、枕許に西洋剃刀が転がっていた。 「どうしたの、これ?」  と夫にきくと、 「知らない」  という返辞である。  となると、姑のまさが夜中に忍んで来て、枕許において行ったものとしか、思われなかった。  湯殿に戻しておいたが、次の朝も、その次の朝も、剃刀がおいてあるのである。  四日の朝には、柳葉《やなぎば》の庖丁が置いてあり、五日の朝には出刃庖丁にかわった。  ……流石にこうなると、泰子はウス気味わるくて仕方がない。  大晦日の夜以来、姑のまさは一言も泰子に口をきかないし、用事を頼むのも、兄ちゃんこと夫を通じてであった。  そして終日、二階に閉じ籠っている。  あんな破廉恥《はれんち》な現場を、嫁におさえられたのだから、当然だと思うものの、この沈黙戦術と、枕許の刃物とは不気味だった。  どうやら夫が、別居をまさに申し入れたために、厭がらせをしているのだと、推測はついたが、 〈今夜は寝ずに、起きててやろう〉  と思い、やはり明け方ちかく、うとうとしてしまって、ふッと枕許の人の気配に、そっと眼をあけると、出刃庖丁を手にした姑が、夫の寝顔に見入りながら、思い入れよろしく自分の顎のあたりを撫でたり、夫の胸に庖丁を擬《ぎ》したりしているところである。  泰子は、血が凍って、声も立てられなかった。  つまり姑のまさは、夫を殺し、自殺しようというポーズを示しているのである。  息を殺して、半眼で様子を窺っていると、まもなく姑はすーっと跫音《あしおと》を忍ばせて、二人の部屋を出て行った。  その日の朝、泰子は夫の秀哉に、 「実家で子供を産みたいから、里帰りさせて頂きます……」  と申し出て、承知を得た。  荷物をまとめて、泰子はその日のうちに、川越の滑川家に帰った。  里帰りして子供を産む……という大義名分はあったにしろ、泰子が里帰りした理由は、別のところにあったのである。  そして彼女は、その夜、天下晴れて同衾しあい、さまざまな痴戯にふけりながら夫の秀哉と姑のまさとが、 「ふふ……、薬が効いたようだね。一ヵ月も早く、里帰りして呉れたじゃないか」 「そうだね。久し振りに、たっぷり可愛がってよ、ママ……」  などと、歯の浮くような、甘ったるい会話をかわしあったことを知らない。  厭がらせの芝居は、泰子を早く実家に追い帰す手段であったのだ……。   六  男の子を無事出産し、気が進まないが、三ヵ月目に深川に戻った。  夫は案の定、二階で寝ており、姑は別居した風もなく、以前よりもまして、二人の仲は露骨であった。  泰子は、子供のことにかまけて、二階の二人の様子が怪しいと思っても、それを確めるすべもなく、ただ夜分は悶々の時をすごすのみであったのだ。  だが、変な話だが、姑のまさと違って、夫の秀哉は子供好きらしく、勤めから帰ると、寝るまでは息子の傍にいた。  そして馴れぬ手つきで、濡れたオシメを取り替えたり、ミルクを飲ませたりして、あれこれと世話を焼くのである。  その時間は泰子をすっかり喜ばせたが、寝る時間になると、 「悪いけど、ママが淋しがるんで、上に行って寝るよ……」  と済まなさそうに云うのだった。  泰子は、気が気でなく、なんど階段の下に佇んだり、赤ん坊の泣き声に階段の途中で、足を踏みはずしそうになったか分らない。 (あとで考えてみると、二人はすぐ寝込み明け方、泰子が疲れ切って熟睡し切ったころを待って、交渉を持っていたらしいのだ。一つ屋根の下、しかも同じ部屋に寝《やす》む二人には睦み合う機会は、いくらでもあったのであった。また姑のまさも五十代で、残る色香はあるにしても、夫の秀哉の方で、鼻について来たような傾向がみえたのは事実である)  苛立つ泰子をよそに、夫と姑の二階の生活はつづいたが、半年ぐらい経つと、夜中に夫が寝床を抜けだして来て、泰子の躰を求めては、二階へ戻ってゆくようになった。  そして、ときには疲れているのか、その儘に寝こみ、朝方、クシャミをしながら二階へ昇って行くこともあった。  ……そんな日は、きまって姑のまさは機嫌が悪く、頑是《がんぜ》ない孫にまで、 「なんだって、こう、ピイピイ、ピイピイ泣くのかねえ。なんとか止められないのかい!」  とか、 「一思いに木場へ投げ込んでやろうか!」  などと、当り散らすのだった。  泰子は、姑に詫びながらも、ようやく夫の気持が姑から離れつつあるのを知り、なんとか別居の方向へ持って行こうと、夫をかき口説いたのだった……。  ところで、そんなある日、姑のまさが外出しがちになりはじめた。 〈もしや、夫と……〉  と、泰子は半信半疑だったが、ある日、珍しく姑がニコニコして、 「泰子。新しい下宿人をおくことにしたよ」  と云った。 「下宿人ですか?」 「ああ、私は下の六畳に移って、二階を貸せば、少しはミルクの足しになるだろ?」  まさは、そんな云い方をしたが、下宿人として、現われた人物をみて、泰子は正直のところ血が凍るかと思った。  十九歳の夏祭りの夜、むりやり中学校の雨天体操場で、泰子のバージンを奪った、従兄《いとこ》の恵吉だったからである。  滑川恵吉は、大工が本職だが、酒癖がわるく、女好きで親戚中の鼻つまみだったのである。  泰子は、姑がなぜ外出がちだったかに、漸《ようや》く気づいた。  彼女の過去の古傷を知っている、従兄の恵吉を探しだして、同居させ、無言の威圧を加えようと画策したわけだ。  正直に云って、泰子は恵吉と過去四度、脅迫されて躰の交渉をもっている。そして、それっきり忘れていた人物なのだった。目の前に、現れて貰いたくない男なのである。  恵吉はニヤニヤしながら、 「いい嫁御になったってなあ。泰子さんは果報者だ……」  と云い、大工の仕事が忙しくて、金廻りがよいのだと自慢し、赤ん坊のために大きな縫いぐるみの熊の玩具を買って来てくれたのだった。  夫の秀哉に、過去のことを告白もならず、ただ従兄だと告げると、 「いい人が下宿人になったじゃないか」  とだけ云った。  泰子は、いやな予感がした。  恵吉が来た夜から、仏壇のある六畳に、姑はひとりで寝たが、朝になると、 「兄ちゃん。背中を押しとくれなね……」  と夫を呼び込む。  廊下を隔てた向かいの部屋だが、新しい下宿人である恵吉の弁当づくりや、朝御飯の仕度に忙殺され、赤ん坊の世話もせねばならず窺う機会もなかった。  ある日曜日の午さがり、夫と姑とは映画にゆくと外出して行き、泰子が蒲団カバーを八畳でとりかえていると、遅く起きた恵吉が、ぬーっと入って来て、 「おい、泰《やつ》ちゃん。変なこと訊くようだが、お前の旦那と、義理のおッ母アとは、変な仲じゃねえのかい?」  と不意に云った。  泰子は赤くなり、ついで青くなって、 「馬鹿なこと、云わないでよ!」  と呶鳴った。  すると恵吉は、 「じゃあ、ちょっと来てみなよ」  と彼女を手招きする。  そして六畳に、敷きっぱなしの姑の寝床の掛け布団を剥いで、なにかを始末したと覚しきチリ紙を二つばかり拾い、 「……なあ、変じゃあねえか?」  と云った。  泰子は、今朝、夫と姑がなにやら楽しそうな笑い声をあげ、そのあと静かになったことを思いだし、 〈やっぱり、まだ……〉  と蒼白な表情になったものだ。  気が遠くなりそうで、よろよろと二、三歩よろめいた泰子を、恵吉は、待ってました、と許《ばか》り抱きかかえ、矢庭に姑の寝床の上に押し倒し、 「あっちが、あっちなら、こっちもこっちでうまくやろうじゃねえか。もともと、赤の他人でもなしよウ……」  と、乱暴に泰子の下着を剥いで、むりやりに凌辱《りようじよく》したのだった。  こうなると、人妻は弱い。  恵吉は、仕事をズル休みするようになり、機会を求めては、泰子の躰を弄んだ。  泣いて泰子は、恵吉に、 「出て行って呉れ……」  と頼んだことがある。すると従兄は、 「貰うものを貰ったら、出て行くさ……」  と、空嘯《うそぶ》いたのである。  なんのことか、判らなかったが、間もなく破局が訪れた。  夫が、姑の部屋へ入ったのを見澄まして、顔を洗いに台所へ下りて来た恵吉が、赤ん坊のオシメを換えに来た泰子に、とつぜん襲いかかって来たのである。 「すぐ済まあ……。三分。な、三分……」  恵吉はそう云った。  泰子は、どうしてよいか判らず、夫たちに怪しまれては損だと思い、パンティをとって畳の上に転がった。  そして行為の真ッ最中に、ガラリと襖の戸があき、夫と姑とが、 「不義者、みつけたッ!」  と、その現場に呶鳴りながら、闖入《ちんにゆう》して来たのである。 (あとで思うと、二人は廊下に佇んで、部屋の中の気配を窺っていたような様子であった。それでなければ、あれほどスムーズに飛び込める訳がない)  泰子は結局、夫の眼を盗んで、昔の愛人を下宿人として引き入れ、不義を働いた不貞の妻というレッテルを貼られ、子供と共に川越の実家に送り帰された。  彼女は両親に、 「不貞を働いているのは夫だ……」  と泣いて訴えたが、二十五も年齢が離れており、親子である二人がまさか——と、世間では相手にしなかった。  律義者の商人である泰子の父は、 「不義者の娘の罪を、どうかお許し下さい。家はもともと差上げた物、子供の養育費は、私が面倒をみます……」  と、逆に夫の秀哉や、姑のまさに詫びを入れて、大いに泰子を口惜しがらせたが、あとの祭りである。  事件が落着した夜、遠山まさは、不義の相手である大工の恵吉に、五万円を手渡しながら、「よく、やっておくれだったねえ。お蔭で、あたし達も、邪魔者なしに、のうのうと暮せるよ……」  と云った。  恵吉は苦笑しながら、 「しかし、よく、あっしという男の存在が、わかりやしたねえ」  と呟き、金を財布に納った。 「そりゃあ、女の一念だわね」  遠山まさは、微笑して、 「さあ、兄ちゃん。酒でもつけようか?」  と秀哉に云った。  秀哉は例によって、気弱に肯きながら、これから先も、まだ、この年上の女性と、暮さなければならないのか、と慄然としていた。  彼は、いわば悪魔に魅入られた、一匹の捕虜である。悪魔の云いなりに動く�傀儡《かいらい》�なのである。  妻を娶《めと》り、子供までつくりながら、ずるずると肉体の虜になりつづけ、そして家屋と交換に妻子を離別した男なのだ。  恵吉が立ち去ったあと、秀哉はつくづくと遠山まさの顔をみつめて、 「ママ……あんたは、悪い女だ……」  と呟いた。が、遠山まさは嬉しそうに、 「こんどは、もう少し金持の女を、嫁さんに貰おうね、兄ちゃん……」  と含み笑っただけであった——。 良妻賢母   一 『前略。突然、お手紙さし上げます。小生は小説現代の愛読者で、とくに先生の〈悪女伝〉は毎号、欠かさずに熱読しております。  さて、本日ペンを執りましたのは、他でもございません。私の妻のことです。  私と妻とは、昭和二十一年秋に結婚いたしまして、今日に及んでおりますが、その間、夫婦喧嘩したこともなく、子供も大学に入った長男をかしらに、三人おります。  私も、私大出ながら、国家公務員としては順調すぎる出世コースを歩み、大いに満足しておりましたが、昨年の暮の忘年会の席上にて、思いがけぬことを耳にいたし、大いに思い悩むようになりました。私の異例の出世は、すべて妻の�内助の功�によるものだったのです。それも、度の過ぎた内助の功です。  人は、山内一豊の妻などと、賞めて呉れるかも知れませんが、私には妻が、果して良妻なのか、悪女なのか判りません。いいえ、本当は空恐しい、超弩級《ちようどきゆう》の�悪女�のようにも思えるのです。  御多忙とは存じますが、一度、拝顔の機会を与えて頂きたく、その折、一部始終をお話し申し上げて、私は妻を離別すべきか、否かについて、先生の御英断を仰ぎたく、伏してお願い申し上げます。  末筆ながら、先生はじめ御家族の御健康と御繁栄を、心よりお祈り申し上げます。 伊野光次郎拝』  ……私が、右のような手紙を受けとったのは、台湾旅行から帰ってからのことである。  正確には、旅行の留守中に、わが家に届いた手紙類のなかに、伊野光次郎氏の封書が、混っていたわけである。  鳩居堂の上質便箋に、一字々々をゆるがせにせずに書いた万年筆の文字をみて、私は筆者が律義で、生真面目な性格の人物だと、直感したのだ。  職業柄、私の許《もと》には、いろんな手紙がやって来る。  農協の女事務員から、自分の躰を自由にしてよいから、千七百万円貸して呉れとか、千葉の未亡人から酒場を出したいから出資しろなどという、無心の手紙もくる。  小説の中で、性具の記述があったが、商品として販売しているのか、是非求めたいので教示して欲しいと、三十代の妻を満足させてやれぬ六十翁からの手紙もあれば、レスビアンの女性を紹介して呉れと、女教員からの手紙も混る。  私の家では、個人名で〈親展〉とかいてある封書は、だれも開封できない。  そして私は、旅から帰ると、ビールを飲みながら、親展の手紙の封を切り、読み終ると封筒の表に〈要返信〉とか、〈要取材〉とか書いて、次に移る。  ところで伊野氏の手紙であるが、一度、読み終えてから、気になって、もう一度、目を通した。そして、 〈妻を離別すべきか〉  という文字のところに、赤鉛筆で、一本、筋を引いた。  私は妻に、伊野氏の手紙を示して、 「どう思うかね? 会ってみようか?」  と云ったのだが、妻は即座に、 「そんな時間の余裕がある?」  と云う。  封筒の中には、一枚の名刺が入っていた。都内の大官庁の肩書が入っている名刺であった。  伊野氏の職階は、部長であった。  中央官庁で部長といえば、地方へ行けば大した地位になる。  私は、それほど立派な地位にある人物が、この作家風情の私を見込んで、思いあまって手紙を寄越したのは、よほど事情があるのだと思い、やはり会ってみよう、と決心したのであった。  翌日、仕事場のホテルから、私は伊野氏の勤め先に電話を入れた。  交換手は、無造作に繋《つな》いで呉れたが、部長室の女事務員は、 「どちら様でございますか?」  と私の名前をきき返し、それから、 「あのう……伊野部長は、お亡くなりになりましたけれど」  と、云いにくそうに告げたのである。 「えッ、亡くなった?」 「はい。一昨日の朝ですけれど」 「なんです、死因は! まさか、自殺じゃないでしょうね!」  私も、いろんな奇妙な場面に遭遇しているが、この時ぐらい駭《おどろ》いたことはない。  女事務員は、一昨日の夕刊に、くわしく記事が出ていると教えて呉れた。私は、電話を切りながら、唖然となったのだ。  さっそくホテルの人に頼んで、一昨日の夕刊をとり寄せ、目を通してみると、社会面の下方に、 『××省の部長、飛込み自殺?』  という、小さな見出しが出ている。  私は、眉根を寄せた。  それは、十数行ぐらいの記事であったが、一昨日の朝八時十分ごろ、品川発の山手線が浜松町駅にさしかかった際、五十年配の紳士が線路に飛び降りて轢断《れきだん》され、即死したという内容であった。  遺書はなく、所持品から、××省の△△部長である伊野光次郎氏(四九)とわかったが、上司も家族も、自殺する原因は思い当らぬ、と述べていると云う。  私は腕を組んだ。  そして、家に電話を入れて、伊野氏からの手紙を仕事場へ届けさせたのだ。  私は繰り返し、手紙を読んだ。  そして、私は、伊野氏の自殺の原因が、やはり手紙の文面にある如く、�妻�の内助の功への疑惑にあるのではないか、と思いはじめたのである。  私は、助手に、伊野氏の死因の手がかりを掴むべく、取材を依頼したのであった。   二    取材報告書 橋田健也  (1)国電浜松町駅。  当日は、小雨模様で、降ったり止んだりの憂鬱な天候だった。  助役の玖波《くば》千吉氏は、プラットホームに佇《たたず》んで、乗客が乗り降りするのを、眺めていたが、八時七分ごろ、コートを着て、渋いネクタイを締めた人物が、ホーム中ほどを行ったり来たりしている姿に気づいた。  玖波氏は、浜松町駅につとめて七年になるが、その紳士の顔に見憶えはなかった。  また、電車を待ちながら、ホームを往復する人の姿には、見厭きている。だが、朝夕のラッシュ・アワーの時に、ホームを歩き廻る人は珍しかった。  それで玖波助役は、 (変な人だな?)  と注目したのだという。  八時十分ごろ、品川発の山手線がホームにすべり込んで来て、 「白線まで下ってお待ち下さい……」  というアナウンスが行われた。  その時、件の紳士は、天を仰いで、長嘆息するようなポーズをとり、つかつかと、まるで駅の便所にでも入ってゆくような足どりで歩き、線路の上へ、ダイビングするような恰好で飛び込んだ。 (註 飛び込み自殺する人は、恐怖のせいか、足から先に飛び降りる人が多い。玖波助役の話では、頭から飛び込む人は、珍しいということである)  急ブレーキをかける暇もなく、死体は二十|米《メートル》ぐらい引きずられた。頸部、大腿部、右腕を切断され、線路上に点々と血、肉片などが散乱して、あと片附けが大変だったという。  助役の話だと、マグロ(轢死体のことを、鉄道関係者は、そう呼んでいるそうです)の後片附けよりも、先ず、身元をたしかめることが、自殺者の場合、むずかしいそうで、  1遺書があるか。  2身分証明書、名刺があるか。  3背広などにネームはないか。  を、先ず調べるという。  伊野氏の場合、遺書はなく、ただ背広の内ポケットに、名刺があった。  それで××省に連絡をとったら、まだ出勤しておらず、家の電話をきいて、奥さんに知らせると、ビックリして飛んで来た。  遺体は、無残な姿だったので、棺桶に収めたあと、死顔だけをみせて、確認してもらった。 「主人です。間違いありません」  と、奥さんは云い、涙をこらえている感じであったと云う。しかし、泣きだしはしなかった。  玖波助役の話。 「気の強い奥さんだと、思いましたね。小柄で、愛くるしい感じの、四十二、三の女性でした。髪の毛を、無造作に、くるくる巻いている、昔でいう束髪《そくはつ》ですかね、それがひどく印象的でした」 (2)松沢外科病院長。  私は、遺体を真っ先に検屍《けんし》したわけだが、文句なしの轢死です。直接の原因は、頸部左動脈切断による、急速な失血死でしょう。  死顔は、やすらかでした。苦悶もなく、天国へ昇ったという感じでした。  栄養はよい方で、中肉中背、まあ、日本人としては典型的なタイプですね。  遺書は、ありませんでした。  ただ、背広は英国製、ワイシャツもT屋の誂《あつら》えで、ネクタイもフランス製なのに、つぎのあたっている股引を穿《は》いているのが、気がかりでしたね。  奥さんにも、会いました。死体を、霊安室で確認したあと、私どもの病院に来られて、 「主人は、なにか云い残しませんでしたか」  と聞かれました。  云い残すも、なにもない。一発の即死で、首、右腕、両足、胴体とバラバラになっているのに、変なことを云う人だな、と私は思った位です。  奥さんは、そうだなア……呆然自失という感じでしたね。まもなく、子供さんたちが駈けつけて来て、オイオイ泣きだすと、これは看護婦からあとで聞いたのですが、奥さんは子供さんたちに向かって、 「パパは、莫迦《ばか》だねえ、全く! こんな死に方って、あるかしら……」  と、うつろな眼をして呟きつづけていたそうです。 (3)××省△△部 秋元則子。  私は、伊野部長が就任された時から、秘書役として、お手伝いして来ました。伊野部長は、一口に云えば温厚な、悪く云えば、可もなし不可もなし、と云ったタイプの、誠実型のサラリーマンだったと思います。  朝は、九時五分前に、出勤されます。  あとは会議の連続で、昼食は、省内の地下食堂か、虎ノ門へ出て、中華そばあたりで済まされていたようです。  人望はありました。日曜には必らず、若い部下の人たちを自宅に招いて、マージャンをしたり、碁を打ったりされていたようです。  奥さんの克子《かつこ》さんが、とても面倒見のいい方で、ドーナツを揚げたり、中華饅頭をつくったりして、よくもてなして呉れたそうですが、どういうわけか、招待される部下の人は国立大学を出た、毛並みのよい人ばかりでした。  それで若い人の間では、 「部長夫人が、将来の布石を打っているんだろうよ」  と、悪口を云われたりしました。  将来の布石とは、やはり部長—局長—事務次官というコースのことでしょう。私大出で四十代で、部長になれるというのは、異例の出世なのだそうです。むろん、上がつかえているので、伊野さんも、五十にならなければ局長にはなれなかったでしょうが。  私がお仕《つか》えした限りでは、時間はキチンとしているし、思いやりがあって、いい方だと思いました。  これは噂ですが、伊野さんが今日あるのは奥さんの克子さんが、いろいろと、上司の夫人に働きかけたり、あれこれと口添えして貰ったからなのだそうです。 「いい奥さんをもって、部長は倖せだ」  と、課長連中は申しておりました。  どんな働きかけを、奥さんがなさったのかは、具体的には判りません。  部長さんの趣味は、碁、マージャン、それに長唄で、いつか部長さんが、 「ワイフに、長唄を習えと云われて、閉口しているんだ……」  と洩らされたことがありました。  宴会には出席されますが、二次会へ行かれることは殆んどなく、また、浮気をしたとか云うような噂も、耳にしたことはありませんね。堅い人でした。  煙草はハイライト一本槍。服装は、地味な方ですが、持ち物——たとえば、ハンケチとか、ライターなどは、必らず一流の品物をお使いのようでした。  お子さんの話は、あまりされませんが、去年の春ごろ、長男の光彦さんが、T大に入られた時は、流石に嬉しそうで、 「秋元君。光彦がT大に合格したよ。きみ、T大だぜ……」  と手ばなしの喜びようでした。 (4)××省△△部○○課 梓耕二。  私は、伊野部長の下で、もう八年あまり働いています。まあ、部長のひきで、今日の地位を得たようなものです。  むろん、お宅にも、しばしば伺いました。  奥さんは、料理が上手でしてね、鍋ものなんか、美味しかったですなあ。なんという料理か、知りませんが、大きな土鍋に、野菜やら肉やら、スパゲッティなんかを入れて、チーズの粉をかけて喰べるんですがね。まあ、西洋風の寄せ鍋ですかな。  奥さんにきくと、材料費が安くあがって、しかも栄養があるから……と云うんですな。あの奥さんには、そんなところがありましたよ。良妻賢母タイプですなあ。  日頃から欲しい物を、よく見ておいて、バーゲン・セールの時に安く買うという、女性のあれですよ。合理的というか、健全な打算というか——。  ええ、伊野部長が出不精《でぶしよう》なので、奥さんがよく、局長のお宅などに、出入りしていたようです。さあ、だれの所へ一番よく出入りしていたかは、知りません。しかし部長が、省内の人事などに、意外と早耳だったのは、奥さんの情報網が発達していた故為《せい》じゃないでしょうかね。あの奥さんには、たしかにそんなところがありましたよ。  教育ママで、光彦君なんか、よく、奥さんからシゴかれていたようです。部長も、ときどき勉強の面倒をみてやるんだとか、云われてましたがね。   三  助手の橋田の取材原稿では、××省の人たちの間では、  ——なぜ自殺したんだろう。汚職の匂いもないし、女関係もないのに。きっと、ノイローゼにかかっていたのじゃないか。  とか、  ——自殺する理由がない。出世コースに乗っていたし、局長連中のうけもよかった。きっと、めまいかなにかで、線路に落ち込んだのじゃないか。  と云った意見が圧倒的であるということであった。  私は、首を傾げた。  伊野氏は、私に、妻は�度を越えた内助の功�を発揮した、と訴えて来た。  そのために、悩み、煩悶し、妻を�離別しようか�とすら、考えていたのだ。  その人間が、とつぜん自殺する。  そして、その死を知った妻は、あまり嘆きもしない代りに、子供たちに、「パパは莫迦だねえ」と呟いたというのだ。  なにか、そこに�原因�がある。そう考えなければ、可怪《おか》しいではないか。  私は、伊野克子あてに手紙をかいた。 『前略。ご免下さい。  私は小説家ですが、死の直前に、一面識もない貴女の御主人から、お手紙をいただきました。 お手紙の内容に、気がかりな点がありまして、お電話した時は、もう、急逝《きゆうせい》されたあとでした。  謹んで、お悔み申し上げます。そして貴女に、ぜひ、お目にかかって、ご主人のことをいろいろとお伺いしたいと考えるのです。おとり込み中のところ、恐れ入りますが、ぜひ拝眉の機を得たく、伏してお願い申し上げます。乱筆、お許し下さい。草々』  折り返し、伊野克子から返事が来た。  ペン習字を習いました、というような、細い達筆な文字であった。 『お手紙、ありがたく拝見しました。亡くなった主人は、先生のファンで、先生の御本は、ほとんど所蔵しておりました。その主人が、先生にどのようなお手紙をさし上げたのか存じませんが、さぞかし失礼なことを書き綴ったものと推量いたし、非礼の点を私からもお詫び申し上げます。  先生のお手紙では、主人の手紙の中に�気がかりな点�があった由ですが、その気がかりなこととは、一体なんなのでございましょうか?  主人個人のことでしょうか? それとも、役所の仕事のことでしょうか? あるいは私を含めた、家族のことで、ございましたでしょうか?  それこそ私も、先生のお手紙をみて、大変に気がかりになって参ったのでございます。主人は、引っ込み思案の方で、家では読書ばかりしておるようなタイプでございました。  たとえば、年始廻りなども、自分では歩かず、私に行って来て呉れ、などと申すのでございます。  年始廻りぐらい……と、私も申すのですが主人はひどく厭がりました。それで、いつしか年始廻りも私の仕事のようになりまして、お恥しい話ですが、今年までそれをつづけて参りました。そして来年からは、その必要もなくなったのだと思うと、なんとなく、がっかりしたような、淋しいような感じでございます。  くだらない愚痴を書きました。それよりも一日も早く、先生にお目もじの上、主人のことなど伺わせて頂きたく、心から楽しみにしております。  私事にわたって恐縮に存じますが、日中ならば、午前十時以降午後四時ごろまで、土曜から日曜ならば、午後はいつにても結構でございます。お電話を賜《たまわ》りますれば、どこにでも参上いたしますので、お気がねなくお願い致します。あらあらかしこ 伊野克子拝』  私は、すぐ電話をかけた。  伊野克子は、声の涼しい女性であった。  私は率直に、私の方は昼間仕事をしているので、夜の方が都合がよいと伝え、今週の土曜日の夕方六時から、銀座の〈鶴の家〉でお待ちしている、と云った。 「わかりました。喜んで伺います」  ふつう、こちらで料理屋を指定すると、相手は料亭の電話番号とか、位置をきいてくるものであった。しかし、伊野克子はそれをせずに、電話を切ったのだ。  私は首をひねりながら、 「大丈夫なのかな?」  と、仕事場で、ひとりごとを呟いたことを憶えている。  当日、私は締切りの原稿がなかなかあがらず、二度ばかり電話を入れて遅刻する旨を伝えて貰い、駈けつけた時は午後七時をかなり廻った時刻であった。  酒や料理を奨めて呉れるように、店の人に頼んであったのだが、伊野克子は、テーブルの料理に全然、箸をつけていなかった。  いや、手をつけないばかりか、端然と畳の上に正座しつづけていたらしいのである。私は、遅刻したことの詫びを云いながら、伊野克子をみた。  年の頃は、四十前後であろうか。  小柄である。  髪は、ひっつめにして、鼻筋の通った、なかなか立派な顔立ちである。  美人という形容が、数年前までは、あてはまったであろうと思われる、そんな顔立ちであった。  うすい雀斑《そばかす》があるが、それがかえって、男の情欲をそそるような感じで、さぞかし故人は、やきもきしたに違いない……と、私は奇妙なことを考えながら、 「なぜ、先にやっていて下さらなかったのですか。お待たせした上に、これでは——」  と云った。 「いいえ、お招きをうけて、先生がいらっしゃらないのに、私ひとり先に箸をつけるだなんて、そんなこと、出来ませんわ」  と伊野克子は云った。  すぐ熱い酒が運ばれて来て、私は克子に酒を注いでやったが、彼女は私が酒に強いことを、なにかで読んでいたらしく、 「先生は、盃でなく、グラスの方が——」  と含み笑って、私にはグラスに酒を注いでくれるのであった。  私たちは、しばらく当り障《さわ》りのない、世間話をした。  三本目の徳利がカラになる頃、私はやっと本題に入って、 「ねえ、奥さん。旦那さんの死を、自殺だと思いますか?」  と云ってみた。  伊野克子は、しばらく考えていて、 「自殺かも知れません」  と答えた。 「では、自殺の理由は?」 「それが、私にも、よく判らないんです」 「よく判らない?」 「はい」 「変だな……」  私は呟いた。 「人間、自分で死のうと思うからには、なにか、直接の動機とか、原因がある筈です」  私は、伊野克子の顔を見詰めながら、低い声で喋舌《しやべ》った。 「あたしも、そう思いますわ、先生——」  彼女は低く応じる。 「二十年あまり、旦那さんと一緒に暮して来られながら、旦那さんの死因がなにか判らない。それは私には、信じられませんよ。なにか理由が、奥さんが思いあたる理由が、あるでしょう?」 「…………」 「それとも、夫婦でも結局は赤の他人で、わからないことが多いと仰有《おつしや》るんですか?」  私は酒を注いだ。  伊野克子は、しばらく考えていたが、 「あの人……そんな人なんです」  と、低い声で、しみじみした口調で述べたのだ。 「そんな人とは?」 「自分の思っていることの、半分も人には云わない人でした」 「それは、日本人によくあるタイプですよ。なにも伊野光次郎氏に限ったことじゃない」  私は苦笑して云った。 「でも、主人のは度が過ぎたんですわ」  伊野克子は、酒がかなり飲める方らしく、顔色にも出さずに返事をするのだ。 「度が過ぎる?」  私は、伊野氏の手紙の中に、〈それも度の過ぎた内助の功〉という文句があったようなことを思いだし、話したものか、どうかとためらいながら、伊野克子を眺めやる。 「先生——」  不意に、伊野克子は私を真剣な目差しでみつめて、にじり寄るような調子で、 「あの人、先生になにを、手紙で書いていたんでしょうか?」  と云ったのである。  私は、暫くためらった挙句、 「では、云います。しかし、気を悪くされては困りますよ……」  と前おきして、伊野光次郎氏が訴えて来た�内助の功�なるものについて、具体的な説明を求めたのであった。  だが、その時、伊野克子は、はッと息を嚥んだまんま、私の質問には答えず、 「あの人……そんなこと、書いてたんですか……。やはり、駄目な人ね……」  と呟いたのである。   四  伊野光次郎と克子とは、平凡な見合結婚をした。  伊野が、復員して間もなく、伊野の両親の希望で、婚礼が行われたのである。  年老いた伊野光次郎の両親は、跡とりである長男の陽太郎が、太平洋の島で戦死したことに、多大なショックを受けていた。  そして、その影響か、一日も早く孫の顔が見たい……と、まだ復員したばかりの彼に、見合をさせたのである。  一方、克子の方は、貧しい農家で生まれていた。  ただ子供の頃から器量よしで、勝気な方であった。  克子の母親は、 「お前は、器量よしじゃから、そのうち、おッ母アが玉の輿《こし》に乗せてやるぞい」  と云い、克子自身も、そう思い込むようになっていた。  従って、伊野家から見合の話が出たときには、克子の母親は大喜びで、 「これで、おッ母アも楽ができる」  と目を細めた。  伊野家は、伊豆地方でも、名を知られた資産家で、幾つもの蜜柑山をもち、旅館を経営していたのだ……。  光次郎は当然、その家業をつぐものと思われていたのに、 「人にペコペコ頭を下げたり、算盤《そろばん》をはじくのは性分に合わない」  と云い、こっそり国家公務員の試験をうけて、合格してしまった。  そして家業を、弟にゆずり、結婚したばかりの克子を連れて、東京に出て来たのであった——。  克子の母親も、そして克子も失望した。  旅館を継いでいたら、なにもせずに食って行けるのに、安サラリーマンに転業してしまったからである。  だが——克子は考えた。  夫は、私立ながら、大学出である。  東大とか、京大といった国立大学系ではないが、一応はインテリである。  この夫に、自分の一生を託した以上、出世して貰わねばならない。  彼女は、そう決心したのだ。  夫は無口で、温厚で、交際下手だった。  食うや、食わずの時代だったから、克子は東京と伊豆を往復して、実家から蜜柑を運び、それを夫の上司の家へ持ち込んだ。  そして、就職したばかりの光次郎を、つよく印象づけようとしたのである。  むろん、それは冬のあいだだけの、ことではあったが、物資の乏しい折柄、大いに喜ばれたのだった……。  克子の狙い通り、夫は、昭和二十五年、××省の本省へ転勤を命じられた。たしか、朝鮮動乱が、はじまった年である。  しかし、明治時代から培《つちか》われて来た官庁人事の、�学閥�の大きな壁は、やはり容易なものではなかった。  伊野光次郎は、やっと本省勤務になった許りで、泣かず飛ばずの状況だったのである。  長男の光彦が生まれ、長女の織江が生まれして、家計も苦しく、そして克子も育児に追われて、当分は夫の�出世�どころではなかった。  克子が、 〈これではいけない!〉  と思いだしたのは、昭和三十年——ちょうど長男の光彦が、小学校にあがり、長女が幼稚園にと通いはじめた頃である。  国立大学を出た連中は、すでに係長になっているのに、夫の光次郎は、未だに平の課員であったのだ。 〈せっかく本省へ来ながら——〉  克子は、そう思って口惜しがった。  夫に対して、 「あなた、少しは課長さんの家に、遊びに行ったら?」  とか、 「若い人を可愛がらなきゃだめじゃないの」  などと口に出しはじめたのは、その頃からである。  しかし夫は、 「俺は私大出だから、どうせ局長にはなれないよ。それより、大過なく一生を送れたら、それでいい」  と答えるのが常だった。 「はじめから、諦めてては、いけないわ。なにか、方法がある筈よ」  克子は執拗に夫を責めた。  夫が出不精なのは知っている。  しかし、上役にゴマをすらなくては、光次郎のような温和しい人物は、目立たないばかりか、忘れられてしまうのである。  彼女は、マージャン牌《パイ》を買って来て、嫌がる夫の尻を敲《たた》いて、ルールを覚えさせ、夫の同僚たちを家に招いた。  それは、交際下手な夫を少しでも同僚に親しみを持って貰う……という狙いもあったけれど、その実は、いろんな情報をとるのが狙いであった。  ——N課長夫人は刺繍《ししゆう》に凝《こ》ってる。  ——S課長補佐は洋酒党だ。  ——M次長は、養子で、奥さんに頭があがらない。  などと云った�情報�を、マージャンの合い間に、夫の同僚たちからとり、克子は、いろいろと作戦を練ったのだ。  そして、�作戦�を実行した。  たとえば、刺繍に凝っているN課長夫人を自宅に訪ねて、 『刺繍を教えて頂けませんか?』  と切りだせば、N課長夫人の覚えの悪かろう筈はない。  そして伊野の妻が、刺繍を習いに来たことは、いずれN課長の耳に入り、妻同志がおなじ趣味を持っているというので、N課長としても、部下の伊野光次郎を記憶するようになるのであった。  またS課長補佐に、歳暮や中元の季節をはずして、ウイスキーでも贈れば、 〈ほう。いい物を呉れたな、伊野の奴!〉  と、S課長補佐は大喜びして、伊野光次郎に�借り�があるような気持になるであろう……。これは人情であった。  克子は、夫を出世させるために、そうした方法を考えては、せっせと実行しはじめた。  夫には、節約を強い、少しでも金の余裕があれば、上司への贈り物とか、夫の同僚たちを家に招いて、接待費に投じたのである。   五  ところで、伊野克子にとって、ある決定的な事件が起きた。  それは夫が、やっと係長の椅子に坐った、昭和三十一年の秋である。  ××省のなかで、若手の実力者の三羽烏と云われている、堤恵吉という上司がいた。  むろん、夫の光次郎などからは、ぐッと雲の上の存在で、当時、△△局長であった。  係長と局長では、ぐっと位が違う。  兵隊でいえば、上等兵と大佐ぐらいの、開きがあるのだ。  そして堤局長は、××省を将来は牛耳る人物だと云われていた。当時、四十代の若さだったが、父親が政治家であったことも、大いにプラスしていたのであろうか。  克子は、なんとか、この堤局長に夫を認めて貰いたいと考え、堤恵吉の妻に、接近を図ったのである。  堤局長の妻は、高子と云った。  地方の財閥の三女だということであるが、いい年をして宝塚ファンだという。  克子は、宝塚歌劇団の知識を詰め込み、そして、これを橋頭堡《きようとうほ》にして、堤高子へ近づいたのだった。  幸い、宝塚に顔のきく友人があって、そのツテで楽屋へ出入りしているうちに、偶然の機会に、堤高子に自己紹介するチャンスが訪れたのだ。 「まあ……堤局長さまの奥さまでいらっしゃいますか。あたくし、おなじ△△局で係長をやらせて頂いています、伊野光次郎の家内でございます」  彼女は挨拶した。  堤高子は、克子が、自分の可愛がっている宝塚スターのファンだと知ると目を細め、 「お食事でも一緒にいかが?」  と云ったのだった。  堤高子は、あとで判ったのだが、俗にいうレスビアンだったのである。  そして一目で克子に惚れ、自分の性愛の対象にしようとしたのだ。  数日後、ある劇場の前で落ち合う約束をさせられて、克子は胸を弾ませながら、約束の場所へ行った。  高子は、車を自分で運転して来ていて、 「今日、あたしに附合って下さる?」  と云った。  むろん、克子に異存はない。  すると高子は、彼女を車に乗せて、日比谷のホテルヘと連れて行ったのである。  部屋へ入ると、堤高子は微笑して、 「あなた、いま何か欲しいものある?」  ときいた。  克子は、しばらく考えて、 「望んだって、何も叶えて貰えませんわ」  と淋しく笑ってみせた。  すると堤高子は、 「云ってごらんなさい」  と云う。  克子は苦笑して、 「出来ないこととは思うんですけれど、私の主人に出世して貰いたいんです」  と呟く。  堤高子は、それを聞くと俄《にわ》かに顔を輝かせて、 「あなた、本気でそんなことを、願っているの?」  と云う。克子は肯いた。 「そう。わかったわ。今日、これから、私の云う通りに従ってくれたら、私が主人に、あなたの旦那さんのことを、よく云っておくことにするわ……」  堤高子は、そう云ったのだ。  克子は、女同志にそのような倒錯した愛のかたちがあることは、知っていたけれども、まさか上司の妻が、その趣味だとは気づかなかったのである。  高子は、全裸になることを要求し、そして克子をベッドに誘った。  克子は、ためらった。  しかし、 〈夫の出世のためだ〉  という気持と、 〈夫が出世をすれば、自分も贅沢ができるんだ……〉  という気持があった。  女でありながら、同性から接吻されるというのは、あまり良い気持のものではなかったけれど、高子の巧みな指の動きは、次第に克子を昂奮させて行ったのだ……。  それは、夫の光次郎からは、与えられたことのない、不思議な愉悦であった。  克子は、喘ぎ、そして、のたうち廻った。高子は、残忍な攻め方をして、彼女がアクメの寸前になると動きをとめて、自分の愧《はずか》しい部分に克子が顔を埋めることを要求したのである……。  こうして、伊野克子は、局長夫人である堤高子の�愛人�となった。  そして、その効力は偉大だったのである。  昭和三十三年——課長補佐。  昭和三十五年——課長。  昭和三十九年——部長。  伊野光次郎は、とんとん拍子の出世ぶりを示しはじめた。  克子は、夫に、局長夫人の高子と、親しくなったことを報告してあった。  そして、週に一回、堤高子のお伴で、徹夜マージャンを打つことも、公認して貰っていたのだ。  だが——人間には面白い性癖がある。  はじめ、不快だったものでも、それに馴れれば、それが�異常�だとは思わなくなる。人間なんて、そんなものかも知れないが、伊野克子は次第に、堤高子的な性愛——つまり�同性愛�に溺れはじめたのだった。  夫の出世のためだ——という大義名分が、彼女を倒錯した世界へ、引きずり込むことになったのである。  そして夫の伊野光次郎は、長いこと、自分の妻の献身的な、度のすぎたサービスに気づかないでいたのであった。   六 「あなたの旦那さんは、去年の暮の忘年会の席上で、なにか重大なことを耳にして、ショックを受けたと手紙に書いてましたがね」  ——私は、伊野克子に告げた。 「ですから、あたしが……堤局長の奥さんと心ならずも、そんな変な仲になった……ということではないでしょうか?」  伊野克子は俯向《うつむ》いて、膝のハンケチを指で弄《もてあそ》んでいた。 「しかし、自分の妻が、上司の奥さんと、同性愛ということが披露されたとしても、それを度の過ぎた内助の功と、旦那さんが思うでしょうかね?」  私は云った。  伊野克子は首をふり、 「わかりません……」  と呟く。 「しかし奥さん……考えても、みて下さい。かりに堤局長の……」  と云いかけて、私は「堤代議士の」と云い直した。  堤恵吉は、××省の局長から事務次官となり、去年の衆議院選挙に打って出て、一年生代議士であったのだ。 「堤高子と、奥さんとが、同性愛だったというだけで、旦那さんは自殺するような人だったんですか?」  私は追及の手をゆるめなかった。 「だから、役所で、なにか死ぬような原因があったとしか……」  克子は云い澱《よど》んだ。 「奥さん。はっきり云いますよ。あなたの旦那さん……つまり伊野光次郎氏は、あなたが�悪女�だと書いて来たんです……」 「えッ、私が悪女ですって?」 「そうです。超弩級の悪女かも知れない。だから私の意見をきいて、離婚するか、どうかを考えると……」 「まあ、離婚ですって!」 「そうです」 「あの人が?」 「ええ、手紙はとってありますので、いつでも、お見せしますよ?」  私は云った。  あきらかに、伊野克子の表情には、ある動揺と、疑心暗鬼めいたものが、漂《ただよ》いはじめていた。 「温厚な旦那さんが、あなたを、自分の出世のために堤夫人と、同性愛まで陥入ってくれた糟糠《そうこう》の妻を、離別したいと考えるのは、もっとなにか、重大な事件があったような、気がするんですがね?」  私がそう云っても、伊野克子は沈黙しつづけていた。 「どうなんです、奥さん……」  私は、たたみかけて聞いた。  伊野克子は首をふり、 「先生。先生って、冷たい方ですのね」  と悲しそうに呟いた。 「冷たい?」 「ええ。主人は、死んだんですわ」 「だから私は、旦那さんが死んだ理由を、知りたいんですよ」 「死んだ主人は、還って来ません」 「それは、知ってますが、しかし……」 「あたし、先生が、なぜ、そんな些細なことで、私を責められるのか、私には判りませんわ……」  不図《ふと》、伊野克子は泪ぐんだ。  私も、それ以上、追及することは止めにして、デザートの果物を喰べた。二人で向かいあっているのが、なんとなく居堪らない感じだったのだ。  私は、世間話に移って、しばらく雑談したあと、 「そろそろ、帰りましょうか」  と云った。 「それとも、バーを覗いてみますか?」  ときくと、克子は首をふり、 「帰りますわ……」  と云った。私は車に一緒に乗り、 「お送りします」  と儀礼的に云った。すると彼女は、 「お願いしますわ」  と云うのだった。  彼女の住居は、中野区の鷺宮《さざのみや》だった。公団住宅であるが、町名変更になって、いまは白鷺と云うのだと、克子は云った。  車の中で伊野克子は、ひっそりと、 「もしかしたら——」  と呟いた。たしか、新宿御苑のあたりを、走っていた頃である。 「もしかしたら、あたし、主人が云うように悪い女だったかも知れませんわね」 「そう……本気で思ってらっしゃるんでしたら、なぜ、全部、しゃべって呉れないんですか?」  私は、未練たらしく云った。 「人間には、しゃべれない部分が、ありますわ」  克子はそう呟いて、 「先生……月曜日は、お忙しいですか」  と云う。 「いや、別に?」  私はそう答えて、彼女の応対を待つ。すると伊野克子は、 「月曜の正午ごろ、私の家をお訪ね下さいますか」  と云ったのだ。  私は、なんとしても、伊野光次郎の死因を知りたい心境だったから、 「伺いましょう」  と強く応じていた。  そして、月曜日の正午ちかく、公団住宅の一棟の階段をのぼったのだ。 〈伊野〉と名札のあるドアを敲《たた》くと、すぐに克子が顔をみせて、 「お待ちしてましたわ」  と微笑した。  スカートに、セーター姿であった。  私は、落ちつかない表情で、居間に通ってピースを吸った。  克子は、ビールと肴を用意していて、すぐにそれを出して呉れて、 「先生。あたし……今日は、本当のことを申し上げる積りですの」  と云った。 「本当のことって……なにか、隠していたんですか」  私は苦笑する。 「ええ。先生……あたし、迷いました。でも夫が、私を憎んで、衝動的に自殺したということが判って……それで、申し上げる気になったんです」 「なるほど?」  私は、ビールを口に含んだ。 「あたし……はじめは、夫の出世のためだ、と思い込んで、局長さんの奥さんにも、変なことをされたんです」 「それは、判りますよ」 「でも、そのほかにも……」 「えッ、その他に?」 「はい。N課長にお目にかかって、夫の出世のためなら、あたし……あたし、どんなことでもしますと……」 「ええ?」  私は、耳を疑った。 「あたし……夫のために、夫のために、という口実で、いろんな男の人に、夫に隠れて抱かれてたんです」 「ふーむ……」 「夫の人気が出て来たのは、そのためです」 「…………」 「だれだって、あいつの女房と、密《ひそ》かに通じているんだと思うと、罪の意識がありますものね……」 「なるほど? あなたは、それを利用したわけですか」 「それに……」  克子は口を噤《つぐ》んで、しばらく指先を見詰めたりしていたが、 「あたし……夫が出世すると、こんどは、子供のために……と思いだしたんです」 「ええ? 子供のために?」 「はい。子供の学校の内申書の成績なんかをよくつけて貰おうと思って……」 「すると、学校の先生に?」 「はい」 「おどろいた人だな……」  私は、低く息を嚥んだ。 「光彦が、T大に入れたのを、ご存じでしょうか?」 「ああ。秘書の人が、私の助手に語ってくれました」 「あたし……あの光彦のためにも、躰をはったんです」 「その……あなたの躰を?」 「はい。先生……主人は、私のその秘密を知ったんですわ……」 「子供のために……」 「ええ。主人は、温和しい人でしたから、知っても、それを私に直接つよく、云えなかったんでしょう……」 「なるほどね。それに、あなたのお蔭で、自分の今日の地位があるという、負い目もあったろうし……」 「結局、あたしは、悪い女だったのかも知れません。主人ひとりでは、満足できない淫乱の女……」 「なにを云ってるんです」  私は苦笑した。 「いいえ。あたし、淫乱の女です。夫は、そんな私の�魔性�を知っていて、世の中に嫌気がさして、死を選んだのかも知れませんわね……」  伊野克子はそう云うと、矢庭に私に抱きついて来て、 「先生!」  と云った。私は狼狽して、 「なんです?」  と彼女を押し返す。  伊野克子は、それでも私に抱きついて来ると、息を弾ませながら、 「あたし、今まで、夫のため、子供のためと云って、自分で自分を誤魔化して来ました。でも、今日は、先生……あたしのためです。あたしのために、私を抱いて下さい。だれも相談する人がなくて、淋しいんです……」  と、私の耳に囁いたのであった。  私は、唖然となりながら、 〈なるほど、超弩級の悪女か……〉  と心の中に呟いたことである。 鹿追い蘭子   一  ……それは珍しく東京に大雪が降り、交通麻痺の状態に陥入った夜のことであった。  東亜銀行京橋支店長の中原は、馴染みの銀座の酒場で、ハイヤーの到着を待っていた。ところが吹雪のごとく降りしきる雪のため、都内のいたるところで、車がスリップし、事故が続出し、なおかつ、のろのろ運転のさなかとあって、なかなか車は到着しない。  中原は、カウンターからボックスに移り、居残りのホステス達と、ダイスをはじめた。  彼は、自からインターナショナル・ギャンブラーと称するだけあって、勝負には強い方である。  麻雀だって千点千円の、しかも自民党ルールで平然と牌《パイ》を握り、決して負けなかったし、また、花札にしろ、トランプにしろ、ルールを覚えたら常勝という有様であった。  だから、ダイスなんて、彼に云わせたら、子供の遊びで、勝負には入らない。単なる時間潰しである。  客の殆んどは帰り、残っているのは、中原と、同じく車待ちの二人連れの客だけで、あとはマダムの瑛子、ホステス二人、バーテンダー位のものであった。  中原はかねてから、マダムの瑛子に気があった。  旦那もちで、二人の子供もあると知っていながら、日本調の瑛子の楚々《そそ》とした美貌に魅かれていたのだ。  あの、和服に包まれた瑛子の肉体を、全裸にして電灯の光に曝《さら》し、思う存分に苛《さいな》んでみたい……という気持が、つねに彼の脳裏にあったのだ。  そして、今夜のような大雪の晩は、瑛子としても外泊の口実に相応しく、浮気のチャンスというべきであった。  もしかしたら中原は、そんな情事の計算をしており、ハイヤーの到着が、より一層おくれることを、望んでいたのかもしれない。  ところで、中原自慢のパラックの金時計が午前一時をさした頃であった。  酒場のドアが勢いよくあいて、頭から真ッ白になった人物が飛び込んで来た。  その人物をみた瞬間、中原は、 〈あ、雪女だ……〉  と思った。  黒地に赤の水玉模様のコートをきて、頭にはショールをかぶっている。しかし、ショールも、コートの肩も、吹きつける雪のために真ッ白であった。だから〈雪女〉のような錯覚をしたのである。 〈こんなに遅く、誰だろう?〉  と、バーテンが訝《いぶか》しそうな顔で、その人物を眺めやったとき、二人連れの客の相手をしていたマダムの瑛子が、 「まあ……蘭子さん!」  と、バネ仕掛けの人形のように立ち上りながら叫び、それから、 「どうしたのよ……」  と駈け寄ったのであった。  蘭子と呼ばれた女は、ショールをとり、コートを脱いでから、 「大変な雪。ひどいもんよ……」  と微笑している。  大柄な顔立ちの女性である。  濃い眉。大きな二重瞼の眼。  鼻は少し上向いていて、肉感的である。  そして唇の脇の大きな黒子《ほくろ》が、男の情欲をそそるのであった。 〈美人だな……〉  中原はそう思い、ダイスに打ち興じながらも、隅のボックスで話し込みだした蘭子を、無視できなかったのである。 「だれだい? あの女性……」  と、ホステスに聞いてみても、マダムの友達というだけで、さっぱり素姓は判らないと云う。  職業柄、中原は随分と多くの人に接して、服装や物腰から、 〈あ、この人は官僚だったことがあるな〉  とか、 〈いまは酒場のマダムだが、昔は花柳界で働いていたな……〉  と云った風に、過去を類推して殆んど適中できる特技を身につけていたが、瑛子の友達であるというその女性の前身については、さっぱり見当もつかなかった。  玄人《くろうと》のようでもあり、人妻みたいにも思える。仇っぽいが、過去は育ちのいいお嬢さんのような感じである。  中原は、バーテンに命じて、ホットウイスキーを二つ、蘭子の席に届けさせた。雪の中を寒かったろう……という思いやりからであった。  それが契機となって、二人連れの客が帰ったあと、瑛子が蘭子を連れて、中原のボックスに移って来た。  近くでみると、本当に、ふるいつきたいような美《い》い女である。  年の頃は、二十七、八であろうか。  声が僅かにハスキーで、それも中原の好みに適っている。  それに耳朶《じだ》のくびれが、いわゆるマッチの軸木を挿し込んでも落ちないほど、細長く切り込まれていて、性感帯の鋭さを物語っているのだった。  中原の経験では、こういった耳柔の持主の女性は、アクメが烈しく、しかも何度も何度もエクスタシー状態に陥入り、男を堪能させるのである。 〈ふーむ。この女性は!〉  彼は一目で惚れ切った。こうなると、マダムの瑛子など、どうでもよくなる。  蘭子は、タクシーを拾おうとして、新橋駅に向かったが、雪があまり烈しいので、瑛子の店に灯がついていたのを幸い、飛び込んで来たのだと云う。 「そりゃあ都合がいい所へ来たわね。中原さん、ハイヤーを待ってらっしゃるの。みんな一緒に、送って下さるんですって」  と瑛子は云い、それから、 「ねえ、支店長さん……」  と甘ったるく云った。 「なんだい?」  中原は飲み物を追加して訊く。 「今夜、蘭子さんの所で、夜明かししないこと?」  瑛子は云った。 「夜明かしだって?」 「ええ。彼女……これが好きなの」  マダムは、人差し指で、自分の小鼻をこすった。花札が好き、という意味である。 「ほう。なにをやられるんです?」  中原は訊いた。  花札を使うバクチはいろいろある。  一般に行われるのが、八十八——つまり馬鹿花である。また本式の八八、俗にいう横浜花もよく行われている。  だが、バクチとなれば追丁《オイチヨ》カブ、バッタなどが多く行われるが、このほか素倒《すだおし》、ケコロ、六短、ポカ、猪鹿蝶、讃岐メクリ、六百間、百落、アトサキ、四ピン、十二支合せ、目勝馬鹿花、十枚、指込、三十ツッパリ、二四六、馬鹿七短、千六十、一東行……と枚挙に遑《いとま》がない位に、花札バクチの種類はあった。 「追丁カブですわ……」  蘭子は微笑した。  追丁カブは、胴親と客とが勝負をするバクチだが、加入客の数が無制限なところに、面白味がある。  雨と桐の八枚をのぞき、残り四十枚を使って、最高点を九とする、最低は十の数——つまりブタである。  ヤクザ者の名称は、八九三をプラスして、二十点のブタになるところから、どうにもならない奴……という意味で、使われはじめたのだという。 「シッピン(四一)、クッピン(九一)は?」  中原は微笑を返してきく。 「親の総取りですわ……」 「なるほど。では、お手合わせ願いますかな?」  彼は、自宅に電話を入れるため、立ち上りながら、 〈雪の夜のバクチも悪くない!〉  と思ったことである。まして蘭子と、近づきになれる絶好のチャンスなのであった。   二  蘭子の住居は、想像していたより立派であった。神宮外苑にほど近いマンションで、居間、食堂、寝室の三間があり、間取りはひろびろとしており、家具も立派である。 〈ふむ。家賃は十万というところかな?〉  中原はそう値踏みした。  居間には、応接用のソファーやテーブルがおかれてあるが、蘭子は、彼と瑛子たちを、食堂の方へ案内して、 「炬燵の方が気楽でしょ」  と云った。  厚手のジュータンの上に、電気炬燵がおかれ、マージャン台が載せてあった。  そして炬燵の脇の棚には、麻雀牌、花札、トランプ、ルーレット、ポーカー・チップ、碁石などが雑然と並んでいる。 〈ふーむ。相当なバクチ狂だな……〉  中原はニヤリとした。  彼は、花札で負けた蘭子が、賭け金を支払えずに、彼に躰を任せるシーンを、空想していたのである。  バーテンと、その恋人らしいホステスとが、間もなく帰り、瑛子と、リカと呼ぶホステスとが、追丁カブの仲間として残った。 「チップを買うんですか?」  と瑛子がきくと、蘭子は笑って、 「面倒だから、現ナマでやりましょうよ」  と云う。  それはむしろ中原も、望む所であった。  先ず、親決めをやった。  追丁カブでは、菊の九月札が最高である。  一月は松、二月は梅、三月は桜、四月が藤で、五月が菖蒲《あやめ》、六月は牡丹、七月は萩、八月は薄《すすき》、菊が九月、紅葉は十月で勘定する。  しかし追丁カブでは、数字を独特な符牒で呼ぶのが普通であった。  一をチンケ、二をニゾウ、三をサンズン、四をヨツヤ、五をゴケ、六をロッポウ、七をシチケン、八をオイチョ、九をカブ、十をブタと呼ぶ。追丁カブの名称は、この八と九の別名を取ったものである。  親決めでは蘭子が菊の青短をとり、最初の親になった。  彼女は、手際よくウイスキーの用意をしてから、寝室から財布をもって来た。  みると、ぎっしり札が詰まっている。 〈ふむ、カモだぞ!〉  銀行の支店長は目を細めた。  彼は、バクチの時は酒を飲まない。  酒を飲むと、注意力が散漫となった上に、気分だけは大きくなる。それだから、勝負には負けるのである。  ラスベガスあたりで、賭け客に、酒を無料サービスするのは、実はサービスではなく、客から金を毟《むし》り取るためなのだ……。  中原は、コーラを貰って一気に飲み乾し、自分も千円札をあるだけとりだした。  ところが見ていると、蘭子は良い加減の目分量でとりだした紙幣を、横に二つ折りにせず、縦長に二つ折りにして、左手に構え、それから切った花札を配り出したのだ……。  中原は、 〈あ、この女は!〉  と思った。  ……その金の持ち方は、いわゆるヤクザ者が、鉄火場でみせるポーズであった。  この縦の二つ折りだと、金の勘定が、実に早く出来るのである。そして間違いが少ない。  彼の予感通り、蘭子は実に鋭い勘の持ち主であった。  それに場馴れしている。  手の悪い時は、決して無理をしない代り、良いと思った時は強気に、五千円ぐらい賭けて来る。  親になったり、子になったりで、取ったり取られたりしているうちに、みるみる蘭子の左手の紙幣の厚味が、加わりだした。  午前四時ごろ、マダムの瑛子が、 「蘭子さんには敵わないわ。あたし、お金がなくなったから止める」  と云いだした。  きいてみると、八万円ばかり、すってしまったと云う。リカも三万円、中原も五万円の沈みであった。つまり蘭子は、十六万円ほど勝ったことになる。 「それじゃあ、麻雀をしない?」  と蘭子は云った。  中原は、 「マダム。融資しても良いよ……」  と、暗に麻雀に転向してもよいという肚《はら》を示したものだ。 「そうね。花札はゲンが悪いから、麻雀なら附合うわ」  瑛子は同意した。  蘭子は、千円札を財布に納い、紅茶を淹《い》れに立ったが、中原はその厚味を見やって、いまいましくてならない。  女ごときに一敗を喫した……という苦々しさが、彼を苛立《いらだ》たせるのだ。 「子でも、親でも取るというのは、よほど今夜の彼女は、ついてるんだな……」  中原はそう云ってみた。  瑛子は肯いて、 「むかしから、強い人なのよ」  と云う。 「むかしって……何時ごろ?」  彼は、いい機会だと思って質問した。 「あたし達、踊り子だったのよ……」  瑛子は、有名な劇場の名前をあげ、 「蘭子さん……着物をきてるから、いまは判らないけれど、脚は綺麗よ……」  と云った。 〈へーえ、踊り子だったのか〉  中原は、それで素人とも、玄人ともつかぬ感じなのだと、改めて彼女を見直す気持になる。  点棒が配られ、紅茶を一啜りしたあと、麻雀がはじまった。ありきたりのリーチ麻雀で場に二翻《リヤンフアン》ついている。  千点三百円だから、高い方ではない。  学生時代から、牌《パイ》を握って、毎晩のように卓を囲んでいる中原は、麻雀には大いに自信があった。  瑛子、リカの二人の腕は未熟だが、蘭子の方は、なかなか巧みである。  それは牌さばき、目の配り方でも、わかるのだった。  誰かが、リーチをかけると、決して無理をしない。安全牌を放りながら、手づくりしてゆく堅実型であった。  中原と蘭子とは、着実に点数を重ねて行った。  ところで、中原は、ときどき、なにか匂うような気がして、その都度、顔を顰《しか》めた。  その匂いとは、なにか甘酸っぱいような、饐《す》えていて馨《かぐわ》しい匂いなのだ。  酒が醗酵する時を連想させるような、そんな感じの匂いであった。 〈なんだろうな……〉  中原は、自分の履《は》いている靴下が、炬燵の中で蒸れているのかと思い、トイレに立った時、足の裏を嗅いでみた。  しかし、その靴下の匂いではなかった。  ところで二局目に入って、その匂いが、彼が膝を動かした時だけ、炬燵の内側かち匂ってくることが判った。  しかし、膝を動かしてみても、匂わない時だってある。 〈変だな……。なんの匂いだろう?〉  彼はそう思いながら、また麻雀に没頭していたが、蘭子が緊張した顔で、リーチを宣言した時、中原は、 「危ない、危ない」  と呟いて坐り直した。  その時また、プーンと例の甘酸っぱい匂いが、一際つよく彼の鼻を撲《う》ったのだ。 〈また、匂うな……〉  中原は、その匂いに気をとられ、何気なく手の内の紅中《ホンチユン》を切った。二枚ほど、頭にして残してあり、場にすでに二枚曝されてあるから、安全牌だと考えていたのだ。  ところが、蘭子は、 「ロン!」  と短かく叫んだのであった。  ——国士無双である。 「あッ!」  中原は唖然となった。  蘭子は微笑して、 「ご免なさい。あきらめてたのに……」  と白い歯をみせた。  唇脇の黒子が大きく揺れ、大きな牡丹の花が咲きこぼれているような感じで、妖しく中原の欲情をそそった。 「忘れてた、忘れてた……」  彼は、そう愚痴《ぐち》りながら、点棒を数えだしたが、気づくと炬燵の中の匂いは、すーっと煙の如く消え失せているではないか。 〈おや、変だぞ?〉  彼は蘭子をみた。  彼女は無心に牌をかき廻している。 〈そういえば先刻《さつき》も、あの匂いがした時に彼女は、大きな手役であがったぞ?〉  中原は、自分の対面《トイメン》にいる蘭子が、その芳香の主だと悟ったのだ。  つまり、大きな役がつくと、彼女は緊張する。緊張すると、ある部分の分泌液がつよくなり、それが炬燵の熱で蒸れて、向かい側にいる彼にだけ匂うらしいのである。 〈ふーむ!〉  その蘭子の秘密がわかってからは、中原は気分的な余裕をとりもどし、敢然と蘭子に挑戦して、大勝したのだった。  夜が明けても、雪は降りしきった。  そして中原が蘭子のマンションを出るときには、彼は五万円の負けをとり戻し、なおかつ九万円の浮きであった。  蘭子は玄関まで送りに出て、 「久し振りに楽しかったですわ」  と云い、 「また、お誘いしてよろしい?」  と妖しく微笑した。  彼も微笑を返しながら、 「いつか、さしでコイコイでも、やりたいですね」  と云った。  また牡丹のような笑顔になって、蘭子は大きく頷《うなず》き、 「あたしも……ですわ」  と呟いた……。   三  ……この雪の夜が機縁となって、中原市郎は、土筆《つくし》蘭子と親しくなった。  二度ばかり麻雀に誘われ、この時は四谷の旅館なので蘭子を抱くチャンスはなかったが、あの云うに云われぬ蘭子の芳香だけは、堪能するほど嗅いだ。  三度目は、中原の方から誘った。  乃木坂の旅館で、得意先の重役と、その恋人の赤坂芸者、彼に蘭子というメンバーである。  蘭子は珍しく洋装でやって来て、中原にその均整のとれた美しい脚を、はじめてみせたのであった。  掘り炬燵で、しかも洋装だけに、スカートの裾から匂う香りは、いっそう凄まじく、中原の欲情をいやが上にも昂ぶらせた。  午前二時ごろ、重役と芸者は帰り、麻雀でまたしても大敗した蘭子は、中原に、 「ねえ。いまから私の家に行って、コイコイをしません?」  と云いだした。  中原は承諾した。  今夜こそ、彼女の躰を抱ける、と胸がわくわくしたのだ。  コイコイとは、横浜花または吟味花とも呼び、本式の八八である。手役《てやく》の出来た者が、勝算ある時に、相手に向かって、 「来い」  と挑戦するところから、その名称がある。  手役、重《かさね》手役、出来役の三つがあって、いちいち説明はできぬが、手役は、三本、赤、短一、十一、光一《ぴかいち》、三双《くつつき》、空素《からす》、手四《てし》、二三本《ふたさんぽ》、ハネケン、一二四、四三の十二種があった。  重手役は、赤の三本、光一の三本、短一の三本、十一の三本、空素三本、赤の三双、十一の三双、短一の三双、光三双、赤二三本、赤の手四、空素三双、十一手四、短一手四、光手四、赤のハネケン、空素手四、短一ハネケン、十一ハネケン、空素二三本、光ハネケン、赤の一二四、短一の一二四、空素ハネケン、十一の一二四、光一二四、空素一二四、短一四三、光四三、十一の四三、空素四三の三十一種類。  出来役は、松、桐、坊主に桜で知られる四光から、雨入り五光、赤短、青短、青裏、青四光、裏四光、青裏四光、素十六、素十七、素十八、素十九、素二十のほか、総一杯といって三人で勝負して、いずれも八十八点をとった時に親の負けとする規定や、ニタ八十八と称して、八十八点を引いて尚かつ八十八点ある時を十二貫役とするという規定がある。  複雑で、はじめは混乱するが、覚えてしまえば、これほど面白い花札はなかった。  二人は勝負をはじめたが、十二回を一段落として、蘭子が三万円負けたところで、中原市郎は不意に云った。 「ああ、今夜はとくに匂うね」  と——。 「え、なんのこと?」  と、蘭子は問い返す。 「匂うって、云うんですよ……」  彼がそういうと、蘭子は訳もなく顔を赧らめながら、 「あのう……なにが、匂いますの?」  と云う。 「あなたの体臭……」 「体臭?」  蘭子は、自分の手や、肩の付け根を、くんくんと嗅いで、首を傾げ、 「そんなに、匂います?」  と怪訝《けげん》そうである。  中原は微笑し、 「匂うところを、教えてあげようか」  と云った。 「ええ……。香水をふってあるからでしょ」  蘭子は、そんなトンチンカンな返事をした。  中原は立ち上って、背後から蘭子を抱きかかえるようにしながら、 「きみは気づかないだろうけど……きみが手役の大きい時は、どういうわけか……」  と、右手をすべり込ませて、 「ここから、云うに云われぬ匂いが、プーンと漂ってくるんだよ……」  とささやいた。  蘭子は、抵抗も忘れて真ッ赤になり、 「ほんとうですの?」  と口ごもった。 「ほんとうだよ……。今夜だって、麻雀のとき、七回ばかり匂った。きみは五回ほど、満貫をとったけれど、流れた時……二回ばかり大きな手じゃなかったかい?」  中原は、そう云いながら、左手で乳房を揉みつつ、右手でスカートの上から撫でる仕種をつづけた。 「まあ……本当だわ」  蘭子は愕いたように、 「ハネ満の手が、たしかに二回あったわ」  と呟く。 「そうだろ?」  中原は、躰をずらせて、蘭子の唇を素早く盗んだ。 「ところで、あの匂いを、思う存分、私に吸わせて呉れないかね……」  彼がそういうと、蘭子は赤い顔をして、 「いやな人……」  と優しく彼を睨《にら》み、それから、 「お湯を入れてくるわ……」  と浴室の方へと去ったのである。  その夜——中原市郎は、彼の云う蘭子の芳香を満喫した。  彼が予想していた如く、蘭子は、すばらしい性感の持ち主で、昂奮したり、緊張したりすると、分泌が烈しくなり、そして流れ出る透明な液は、強い香りを放つのである。  中原は、なんどもなんども蘭子をのけぞらせ、悶え狂わせたあと、営みを持った。  アクメの絶頂が過ぎ去って、彼が合わせていた胸を離そうとしたとき、おどろいたことに、蘭子は気を喪っていた。  失神したのだ。  中原は、生まれて初めて体験したのだが、こういう時には、心臓の部分を、濡れ手拭で冷やしてやり、頬をかるく敲《たた》いていると、息を吹き返すものだ……ということを、その道の識者から聞いていた。  それで蘭子の躰から離れようとするのであるが、強い吸引力があるので、どうにもならない。 「蘭子! きみ! 蘭子!」  と肩を揺さぶっていると、やっと彼女は目をあいたが、目尻からすーっと一筋、泪を流して蘭子は微笑し、 「あの時、女の人が、死ぬ、死ぬって云うのは、本当なのね。あたし、死んでもいいって思ったわ……」  と呟いたのである。  その途端、彼は、弾み切ったゴム毬で押し返されたような感じで押し出され、やっと空気に触れたのであった。  中原は、蘭子が、年齢の割合には、男をあまり知らぬな、と思い、なんとなく嬉しく感じながら、 「愛しているよ……」  と口走ったことを忘れない。  むろん中原には、妻子がある。そして妻子と別れる気は、毛頭なかった。  だが、蘭子の躰の味の素晴らしさは、中年者の支店長を狂わせたのだ。  仕事をしていても、あの蘭子の、云うに云われぬ香りを憶いだすと、わけもなく胸が疼き、情欲の焔が燃え立ちだすのだった。  あの、ふくよかな白い、豊満な太腿に顔を埋めて、芳香を吸い、鼻腔いっぱい体臭を嗅ぎたい……と考えると、彼は執務中、慌てて脚を大きく組みかえなければならなくなるのである。  ……しかし蘭子は、不思議な女だった。  十万円近い家賃を払い、マンションで暮すからには、それなりの収入がなければならない筈である。  だが、働いている様子もない。  かといって、特定のパトロンがあるのかと観察していると、そうでもないのであった。  車はフォルクスワーゲンを持っている。  和服姿が多いが、着物は箪笥二|棹《さお》に、ぎっしり入っていると云うことであった。  宝石には趣味がないとのことだったが、エメラルドとか、翡翠《ひすい》などの指輪は、どれも三十万円以下の代物ではない。  故郷は鹿児島だと云うが、ときどき蘭子がふざけて、 「よこそ、おさいじゃったもした」  とか、 「がっつい、うめごわんど」  などと云う鹿児島弁をきけば、それは嘘ではないと考えられる。  しかし、そのほかの過去については、一切語りたがらないのだった。  踊り子をしていたことは、マダムの瑛子がしゃべったので認めたが、踊り子を辞めてから何をしていたのか、また現在、なにをして生活しているのかも云わない。  そればかりか、中原が問い詰めると、 「麻薬の密売人をしてるの」  とはぐらかしたり、 「外人相手の、高級コールガールなのよ」  とか、中原の胸が痛むような言葉を吐いて平然としているのだ……。  彼は苛立たしくなってくる。  中原市郎は、とても十万円は出せないが、せめて自分の気持だから……と、毎月、五万円ずつ蘭子に手渡すことにした。  蘭子は拒まずに、 「助かりますわ」  と、さらりとした口調で答え、その実は大して有難がっている風情でもない。  中原は、なんとか蘭子の正体を探り出そうと思い、朝早く、不意にマンションを訪れたり、真夜中にベルを押したりした。  留守のこともあったが、居れば必らず蘭子は出て来た。  徹夜でマージャンを打っていたり、ポーカーに打ち興じていて、そのメンバーは、たいてい女性の方が多いのだった。  中原は、凡人である。  凡人だけに懊悩《おうのう》しながらも、蘭子に溺れて行ったのだった——。   四  あるとき、瑛子の酒場にいる彼に、蘭子から電話があって、浅草の旅館に、金を届けてくれないか、と云って来たことがある。  さっそく赴《おもむ》くと、旅館の玄関に、ヤクザ者らしい若い衆が二人いて、「なんの用だ」という。 「土筆蘭子に、金を届けに来た」  と彼が云うと、相手は最敬礼して、 「これは、これは。お蘭姐さんのお友達でいらっしゃいますか」  と、途端にニコニコ顔になった。  階段の下や廊下にも見張りがいて、通された大広間では、丁半バクチの真ッ最中であった。  親分と覚しき人物が、竪盆《たてぼん》に坐っているぐらいだから、かなり大きなバクチである。  竪盆とは、ふつう親分が丁の場の中央に坐を占め、半の場の中盆及び壺ふりに相対するのだが、盆が長い(つまり客が多い)ときには監視の都合上、丁と半の両側中央に坐ることをさす。  蘭子は、右側の半の側に坐っていた。  九半十二丁といい、奇数の半の目が出るのは九つの組合せしかない。偶数の丁の目の方が多いのだ。  中原は蘭子の背後に坐り、自分の財布を手渡した。彼女は「有難う」と呟いたのみで、また勝負に挑みだしたが、間もなく、一騒ぎが起きた。  客の一人が、矢庭に壺振りの右手に、短刀を突き刺したのである。  右手を畳に縫われた壺振りの若い男は、 「痛いッ! なにしやがる!」  と絶叫した。血潮が、その男の顔にまで、飛び散っていた。  イカサマ賽《さい》に、すり替えたのを看破られたのである。  中原もバクチは好きだが、いわゆる鉄火場へ出入りしたことはないから蒼くなり、蘭子の袖を引いて逃げだしたが、彼女の方は不服顔で、 「これから、つく所なのに……」  と文句を云った。  きいてみると、昨夜から二百七十万円も、すってしまったという。  中原は愕然となり、 〈この女は!〉  と、空恐しくなったものだ。  いったい、どっからそんな大金が、出るのであろうか。いや、誰から貰うのだろうと、中原は薄気味わるくなったのである。  だが、その蘭子の�秘密�を知る日は、旬日を出ずして訪れたのであった。  それは蘭子から電話がかかって来て、珍しく土曜の午後、蘭子の家を訪れたことに端を発している。  訪れると、すでに客があった。 〈麻雀の相手かな……〉  と中原は思った。女客だったからである。  彼と同年輩の、水商売をしている感じの女性であった。  蘭子は、彼女を、 「料亭〈酔月〉のお女将さんよ……」  と紹介したあと、 「ねえ、中原さん。この人を説得して下さいな……」  と矢庭にいった。 「え、藪から棒になんだい?」  中原はきいた。 「このお女将……欺されていることに、気づかないのよ……」  と蘭子は云うのだった。 「欺されてる?」 「ええ、この間、〈見切ガッパ〉で、がっぱりとられたのに、その復讐戦に行くんだってきかないの……」  と蘭子は云い、客の脇においた小型トランクをとって、蓋をあけてみせた。  一万円の束が、ぎっしり並んでいる。  少くとも四千万円はある、と彼はみた。 「見切ガッパとは、なんだい?」  中原は質問した。  蘭子は、手をのばして、碁笥《ごけ》をとり、炬燵の上の台に碁石をならべた。 「見切ガッパというのはね……胴親と子方が勝負するんだけれど、親が先ず、こうやって後手で碁石をにぎるの……」  蘭子は実演してみせた。 「ついで、二ガッパとか、三ガッパと親が云うでしょう。それをきいて子供は賭ける。一と二と三の目があって、親はこの碁石を二ガッパなら、二個ずつ取って行って、残った碁石が一個か、二個かで勝負をきめるの。三ガッパなら、三個ずつとるわけ……」 「なるほど。マカオでみたバクチに似ているね」  中原は肯いた。  蘭子は言葉をつづけた。 「ふつうは、カッパと云って、掴み丁半ともいうわ。丁半の道具がない時に、掴み銭で遊ぶ単純なバクチなの……」 「へーえ。そのバクチに、何千万円も注ぎ込むのかい?」  中原は目を剥《む》いた。 「バクチは単純なほど、面白いわ」  と蘭子は云い、 「でも、お女将さん。本当に、お止めなさいよ。見切ガッパは、子供が負けるように出来ているのよ……」  と忠告するのだった。  ところが酔月の女将は、 「なにを云ってるのよ。勝ったり、負けたりが、バクチじゃないの。親が勝つとは、きまってないよ……」  と、向かっ腹を立てている。 「わからない人ね……。嘘だと思ったら、あたしとやってみる?」  と、蘭子は笑った。  その笑い声をきくと、酔月の女将は、矢庭に憤然と、 「ああ、やろうじゃないか!」  と、喰ってかかるのである。  中原は苦笑した。  蘭子も負けていない。 「待ってらっしゃい」  と寝室から、百万円の束を持って来て、 「さあ……お女将さん。行くよ!」  と坐り直すのだった。  中原は、目を丸くした。 「おい……止めろよ」  彼は慌てて叫んだ。 「百万円……まさか一回に、百万円を賭けるんじゃないだろうね?」  中原は云った。 「まあ、見てらっしゃい。見切ガッパは、子供が勝ったら、賭け金は五倍になるの……」  と蘭子は平然としている。 「親が勝てば?」 「子の賭け金をとるだけよ……」  そういった蘭子は、後手で碁石をつかみ、 「さあ、はって下さいな」  と胸をはる。 「いいわ……」  女将は、トランクから百万円の札束を、無造作にとりだして、 「さあ、百万!」  と云った。 「勝負は?」  蘭子はきく。 「むろん、二ガッパでお願いするわ」  女将はそう云い、ついで、 「二に百万。勝負ッ!」  と叫んだ。  蘭子は、碁石を並べて勘定して行った。  二個、ついで二個……という風にとって行き、残り二個なら女将の勝、一個なら蘭子の勝なのである。  注視しているうちに、蘭子は碁石を数え終り、中原をみて妖しく微笑した。  ——一個、半端が残ったのである。 「それ、御覧なさい……わかった?」  蘭子は、そういって素早く、相手の札束をとり、自分の札束に重ねた。  女将は平然と、 「勝負は一回では判らないものよ」  と、呟き、 「おなじく、二に百万! いや、二百万!」  と叫んだのだった。  中原は、はらはらした。  しかし蘭子は、自信に満ち溢れた表情をしている。 「また、頂くわ……」  蘭子は、嬉しそうに中原を見つめ、軽いウインクすらしたのであった。  二度目も、蘭子は勝った。  一瞬のうちといっては大袈裟だが、ほんの数分間で、彼女は三百万円の現金を手にし、酔月の女将はそれを損じたのである。  ところが、酔月の女将は、よほど頭に来たらしく、 「こんどは一千万円はる!」  と云いだしたのだ。  中原市郎は大いに呆れた。  だが、さらに呆れたのは、蘭子がその挑戦に、敢然と応じたことであろう。 「ええ、いいわよ……」  と彼女は云い、 「だけど、現金はないの」  と呟いたのだ。  すると酔月の女将は、 「バクチは現ナマだい! 一千万円でも応じると云ったんだから、現ナマを耳を揃えて持って来やがれ……」  と悪態をついたのだった。  蘭子は、その悪罵に耳を傾けながら、歯を喰いしばり、 「この家の一切合財を、抵当に入れるわ」  と云うと、中原に、 「あなた……ちょっと来て!」  と声をかけて、自から寝室へと入って行ったのだ……。   五  蘭子は、中原に寄り添い、 「ねえ、お金を貸して!」  と云った。  プーンと、あの時の芳香が、いつもより強く鼻を撲つ。 〈よほど緊張してるな!〉  中原はそう思いながら苦笑して、 「莫迦《ばか》。一千万円の大金なんか、持ち歩いてないよ……」  と云った。 「ねえ、チャンスなのよ……」  蘭子はそう云い、白の碁石をもって来て、 「あたし、自信があるの」  と云った。 「自信って……なんだい?」 「見切ガッパは、奇数を握りさえしたら、親の勝に決まっているのよ……」  と蘭子は微笑し、自分で、中原の目の前で何度も碁石をにぎってみせた。  その数は、十三とか、十五とか、十七という奇数になり、何回にぎっても、偶数は出ないのだ。 「あたし、練習したのよ」  蘭子は苦笑まじりに、奇数をにぎれば、二ガッパでも、三ガッパでも親が勝つ……という理由を説明した。  なんのことはない。  奇数をにぎっておいて、相手の賭けた目をみて偶数ならその儘、奇数ならそっと一個おとして勘定するわけだった。  つまり、インチキである。  蘭子は、ますます芳香を強くしつつ、金に困っていること、酔月の女将は大金持で、同情するに値しないことなどを述べ、中原をかき口説いたのである。 「そんな大金は、出せないよ……」  と中原市郎は当惑して云った。 「現金は、要らないわ」  蘭子は答え、 「どうせ、あのトランクの金は、こっちの物だわ。だから、私がいま四百万円あるから、六百万円の小切手を書いて頂きたいの」  と甘えた。 「えッ、小切手を?」 「そう。すぐ戻って来るわ。だから書くだけよ……」  蘭子は云った。  芳香が、寝室に甘酸っぱく拡がっている。  中原は、蘭子の説明をきいて、数理上、当然、勝てるとは思ったが、踏み切れないでいた。 「ねえ。蘭子を信用して!」  彼女はとり縋《すが》って叫んだ。 「匂うな……」  と彼は呟いた。 「そうよ。一千万円、とれるか、どうかの瀬戸際よ。蘭子……昂奮してるのよ……」  彼女は、中原の唇を吸い、 「ね、一千万円、枕許において、たっぷり蘭子を可愛がって……」  と躰をくねつかせる。  中原は芳香にむせびながら、不意に、 「よし。やろう!」  と云ったのだった。  酔月の女将は、東亜銀行京橋支店長である中原の小切手なら、 「現ナマと同じことや……」  と云い、三回目の勝負に応じた。  そして、まんまと蘭子に、一千万円をせしめられてしまったのである。  さあ、そうなると酔月の女将は、頭に来たらしく、 「仏の顔も三度や! おい、支店長はん! ここに三千万円ある! 三千万円の小切手書きなはれ! 三回勝負や!」  と開き直った。 「お止めなさいよ、お女将さん……」  と蘭子は云うのだが、女将は悪態の限りを尽して、二人を罵倒するのだ。  中原は、こんどは自分で、蘭子を寝室に誘った。  女将の悪罵に立腹したのと、六百万円の小切手を目の前で取り戻し、一千万円プラス四百万円になったのを見ているだけに、欲が湧いて来たのである。  中原は蘭子に、 「おい。勝つ自信があるか?」  と云った。  蘭子は目を輝かせ、ツンと強く裾からの匂いを昂まらせながら、 「あるわよ、そりゃあ……」  と云うのだった。 「それでは、やろうじゃないか。三千万円は山分けだ……」  中原は声を潜《ひそ》める。 「女将が、貴方とサシで勝負といっても、大丈夫よ……。あたしが、碁石を握らせてあげるから……」  と蘭子は唇を吸い、 「四千万円を枕に寝れるのね……」  と恍惚とした表情になる。  中原は、運が向いて来た、と思った。  食堂の炬燵に戻ると、中原は、三千万円の小切手を書いた。 「金を出すのは、支店長さん……あんたやから、あんたと勝負や!」  酔月の女将は叫んだ。 「仕方がないわね。しかし、石は私が握って中原さんに渡すわよ?」  蘭子は一本釘をさす。 「まあ、連合軍やよって、仕方ないやろ」  女将は肯いた。一千万円ずつ三回の勝負は、一回、二回とも、中原の勝利に終った。 「畜生め! 最後の一千万や!」  女将は喚いて、息をつめ、低く、 「勝負!」  と叫んだ。気の籠《こも》った声だった。  中原は、蘭子が握らせてくれた碁石を、 〈今度はやけに多いな……〉  と思いながら、ためらわずに炬燵の台の上に落して、自分も、 「勝負!」  と叫んだ。  三千万円が、これで自分の物になる、と思ったとき、女将が、バッグから札束をとりだして、「三百万、追加してよろしいか?」  ときいた。中原は独断で、肯いた。  儲けがまた、増えたと内心は、ホクホクだったのである。  ところが、意外や意外——奇数であるべき碁石は、その時に限って偶数だったのだ! 「あッ!」  と彼が蒼くなり、 「勝った! 五倍や、五倍、六千五百万円の大当りや!」  と、女将が手を叩いて飛び上るのとは、殆んど同時であった。 〈どうしたんだ?〉  と訝《いぶか》って蘭子をふり向くと、蘭子は彼の背中をイヤというほど殴りつけ、 「なぜ、しっかり掴まないのよ! あたし、知らないッ!」  とヒステリックに叫んで、わあーッと泣き声をあげながら、寝室へ駈け込んでしまったものだ。  碁石が一個、彼の尻の方に転がっていた。中原は、それを発見し、蒼白な顔をさらに痙《ひきつ》らせたのである。  女将は、いち早く彼の書いた小切手と、炬燵の上の三千四百万円の現金を、トランクの中に納い込み、 「六千四百万円……。あと百万円の不足や。小切手、追加しなはれ……」  と云ったものである。  自分の失策で、損失を招いたと思い込んだ中原市郎は、額に膏汗《あぶらあせ》を浮かせながら、仕方なく小切手を書いた。  蘭子は、寝室の内鍵をかけ、ドアを叩いても出て来ず、 「帰って頂戴! 顔を見たくもないわ!」  と叫びつづけた。  ……中原は、なにも知らなかったが、土筆蘭子は、別名を〈鹿追い蘭子〉という、女ペテン師だったのである。 〈鹿追い〉とは、彼がひっかかった詐欺の別名で、サギ師仲間の言葉では、酔月の女将となった者を〈尽大《じんだい》〉といい、蘭子の役を〈忠兵衛〉と称する。  尽大とは、お大尽の意で、カモ役を演じるわけだ。これに忠義立てして説得するのが、忠兵衛というわけである。  つまり、蘭子と女将はグルなのである。  それを知らず、女と油断して、中原市郎はまんまと芝居に乗せられ、三千百万円の損失を、銀行支店に与えたことになる。  そして、その彼の小切手の金が、蘭子の懐ろに大半流れ込んだのは、云うまでもない。  蘭子は、その〈鹿追い〉で、がっぽりと金を捲き上げては、賭博に打ち興じている女白浪だったのだ。  それと知らず、東亜銀行京橋支店長は、自分の�過失�と信じこみ、三千百万円の�穴埋め工作�に狂奔していることであろう。  思えば、苦い�茶番�ではあった——。 新宿あまぞん族   一  藪亀《やぶかめ》英子はそのころ二十三歳であった。  ある大会社の社長秘書をしていたが、老齢の社長は夜の宴会にも出ず、午後三時ごろ自宅に帰るから、仕事は楽であった。  ただ朝は早い。  八時半が出勤時間と、会社の内規に決められてあったが、朝五時に目を覚ます老社長だから、七時に運転手が迎えに来ないと、機嫌がわるかった。  それで英子の会社では、部長以上の役職者は、七時半出勤である。  出勤すると会議室で、重役会があった。  英子たち女秘書は、トーストを焼き、コーヒーを淹《い》れて、この重役会議に間に合わすのが、朝の大事な日課であった。  朝早いので、英子たちは、帰宅する社長を玄関まで送ると、あとは帰ってよいことになっている。  男性の秘書は、このあと、重役たちの宴会その他に附合わねばならぬのだから、大変であった。  秘書というものは、会社の中では、孤立した存在である。  とくに大組織の中ではそうである。  他の平社員たちは、重役と毎日、鼻をつき合わせている秘書を、なんとなく妬《ねた》みながらも、つきあってうっかり会社の不平でも云おうものなら、告げ口されるのではないかと、敬遠してしまうのだ。  社長秘書の英子は、常務の次女であるということ、英語がペラペラで美人であることも重なって、とくに煙たがられた。  若い独身社員なんか、エレベーターで顔を合わせても、眩《まぶ》しそうな目つきをして、おどおどするのだった。  話しかけてくる者すらない。  英子は、中学校を出ると、父の命令で、カリフォルニアの高校へ入れられた。卒業後、大学へ進んだが、教養課程を終了したところで、アメリカが嫌になって帰って来た。  そしてそれ以来、父の命令で、社長秘書をつとめている。  英子にとって、悲しいのは、誰もボーイ・フレンドがいないことだった。そして、午後三時以後の時間を、もてあますことだった。  日比谷に出て、映画をみたり、銀座でショッピングを楽しむ位が、せいぜい時間潰しになる。  ところで一昨年の秋だった。  いつも銀座ではつまらないので、英子は不図《ふと》、新宿へ出てみよう、という気になった。  山の手の、しかも田園調布で、いわゆる�ざアます言葉�で育った英子は、渋谷や銀座には馴染みがあるが、新宿とか、池袋というと、なんとなく怖い感じがする。  それで買物もつい、渋谷か銀座になってしまうのであった。  地下鉄丸ノ内線に、はじめて乗り、伊勢丹口から地上に出る。  地理は知っているが、しばらく見ない間に新宿は、はなやかな大都会になったようであった。  デパートを覗き、一度きたことのある喫茶店へ入ってみると、ヒッピー族というのか、奇妙な風体の男たちが、一群に屯《たむろ》している。  英子は、サンフランシスコや、ロスアンゼルスの街を思いだした。そこはヒッピーの発祥地なのである。  紅茶を飲み、勘定を支払って出ようとすると、学生風の若い男が立ち上って追いかけて来た。  そして、 「済みません。サインして下さい」  と云った。  英子は苦笑した。 「あたし、俳優じゃありません」  と答えて歩きだすと、男はなおも追って来て、執拗《しつよう》に、 「ねえ、僕と交際して下さい」  と云うのだった。  英子は振り返った。  白のワイシャツにネクタイを締めて、V字型に胸のあいたセーターを着ている。ズボンの折り目もピンとしていて、短靴もよく光っていた。  色白の、腺病質な顔立ちが気に入らぬが、育ちはよく温和《おとな》しそうである。  英子は、興味を持って、 「交際って、どんなことですの?」  と訊いた。  男は頭を掻き、 「そのう……困っちゃうなア。たとえば、映画をみたり、喫茶店でだべったり、です」  と口ごもりながら応じる。 「わかったわ。じゃあ映画をつきあいます」  英子は微笑した。  勇敢に、自分から話しかけて来た癖に、彼は映画館へ行くまでに、 「どんな映画がいいですか」  と質問し、英子が、 「洋画ですわ」  と答えると、 「じゃあ……」  と云っただけだった。  伊勢丹の近くの映画館には、英子のみたい洋画はなかった。  男は、黙々として都電通りを横切り、コマ劇場の方へと先に立って歩いた。  その後姿は、照れているようでもあり、気負い立っているようでもある。  英子は、クスクスと忍び笑った。  マカロニ・ウェスタンと呼ばれるイタリア製の西部劇をみた。  入った時は、映画の終りに近い頃で、間もなく場内が明かるくなり、客席の人が立ちはじめる。  英子は素早く二つ席をとって、その男を呼んでやった。 「席をとるのが、上手だなあ……」  男は照れたように云った。 「あなたに、騎士精神がないからですわ」  英子は皮肉を云って、 「お名前は?」  ときく。 「香月文男です」  男は、ズボンのポケットから、名刺をとりだした。城南大学仏文科一年と、肩書が入っている。  大学一年生なら、英子の弟と同じ年齢であった。弟はいま、スイスの高校に留学中である。一年遅れているのだ。 「あたし……田中京子です」  英子は、とっさに偽名を使った。  映画が終ると、外は真ッ暗だった。 「食事は?」  ときくと、香月は、 「映画を奢《おご》って頂いたから、僕、ラーメン位なら奢ります」  と云う。  香月が連れて行ったのは、カウンターだけの、しかも、そのカウンターの板が脂でべたついているような汚い店だったが、容器は意外に清潔で、出された湯麺《タンメン》は美味しかった。しかも値は安い。  店を出て、時間をみると、まだ八時前である。  香月は、 「お金がある時なら、ぜひ、連れて行きたい店があるんだけど……」  と口籠《くちごも》り、 「また、会って頂けますか?」  と訊く。  英子は、 「お金なら、あるわ。そこへ連れてって!」  と香月文男に命令口調で告げた。  彼が案内したのは、ゴーゴーを踊っている地下の酒場である。  ビートルズを模倣した若い楽士が、電気ギターを掻き鳴らしながら、怪し気な発音で英語の唄を歌っている。  そして二十前後の男女が、陶酔し切った表情で、好き勝手に、リズムに合わせて肩や膝をゆすっていた。  店の入口で千円券を買い、なくなったらまた券を買う仕組みである。  ロスアンゼルスの、しばしば閉店を命じられるので有名な、ウイスキー・ア・ゴーゴーという酒場に、しばしば出入りしていた英子には、不徹底で物足りない雰囲気だが、香月に、 「一曲、お願いします」  と誘われて踊っているうちに、英子も次第に熱っぽくなって来た。  女秘書らしく、きちんと地味な服装をして美貌の英子が、ゴーゴーが踊れるとは香月も思わなかったらしいが、そのあと、他の男性から踊りの申し込みがあって、彼女が何回か席を立ち、戻ってみると、香月は仏頂面をしていた。 「どうか、なさいまして?」  ときくと、 「きみを誘ったのは、僕なのに……他の人とばかり踊って……」  と不服顔である。  英子は苦笑し、 「誘ってくれたのは貴方だけど、券を買ったのは私ですわ」  と云った。  すると香月は、面目なさそうに顔を伏せたが、その時、英子の心の中に、一つの悪魔が棲みついたのであった。  その悪魔とは——金も勇気もない若い、年下の男たちを、金で買い馴らしてみたい、という欲望である。  香月とは、土曜の夜八時に、その地下の酒場で会うことを約して別れた。   二  英子は、近頃の日本の男性は、つくづくとだらしがないと思っている。  なるほど、服装とか、髪のスタイルなどはスマートになったが、なにか一本、男らしさが欠けている。  男臭さがないのだ。  どれをみても、規格品にみえる。  会社で働いている新入社員だって、そうであった。  英子は、幸い、働いて得る給料は、すべてお小遣いに廻せる身分である。  そして夜の時間は、自由だった。  門限は十時と決められているが、外国の生活が長い英子の父母は、すべてアメリカ的な考えで、二十歳すぎたら自分の責任で行動しろ、と云っている。  英子は、十八歳の夏、処女を喪った。  相手はヘンリーという、スーパー・マーケットの経営者の三男で、なかなかハンサムな同級生だった。  それから十数人の男性の肉体を知った。  そのうち二人の男性が、英子に夢中になって、求婚した。それが煩《わずら》わしくて、一つには帰国したのである。  だが、帰った日本には、そんな奔放な自由な生活はなかった。  大会社の重役令嬢という身分や格式が、周囲から彼女を束縛してくるからである。  英子は、それを物足りなく思っていたが、新宿の一夜の経験から、土曜日の夜を、そのアバンチュールにあてよう、と考えはじめたのである。  土曜の夕方——彼女が、その地下のゴーゴー酒場へ入って行くと、十九歳の大学生は、入口ばかり気にしていた様子で、さっそく駈け寄って来た。  そして、 「友達を一人、連れて来たんですけれど」  と云う。  香月はセーター姿だが、紹介された田沢克巳は背広姿で、どうやら金持の息子らしかった。 「はじめまして」  と挨拶すると、赧い顔をして、 「こちらこそ」  と云った。  京人形を思わせる、日本的な整った顔立ちながら、背は高くて筋肉質タイプである。  英子は、結婚してくれと付き纏《まと》ったエリックという青年のことを思い浮べながら、 〈今夜、田沢を誘惑しよう〉  と心に決めた。  英子は、交互に、二人の大学生と踊った。  十一時ちかく、田沢は、河岸《かし》を変えよう、と云いだした。代々木に深夜まで飲める、会員制のキイ・クラブがあると云うのだった。 「兄が会員で、まさかの時は、使っていいと云われているものですから」  と田沢は云った。 「あら、今夜は、そのまさかの時ですの?」  英子は笑った。  タクシーで、そのクラブへ行き、田沢の兄のブランデーを三人で飲んだ。  その頃から、二人の青年のあいだに、微妙な苛立ちが目立ちはじめる。  英子が、田沢とばかり話し込むものだから香月文男が、ヤキモチを焼いているのだ。  英子は、香月がジューク・ボックスに、五十円硬貨を入れに立った隙に、 「ねえ、二人っきりになりたいと思いませんこと?」  と云った。  田沢は吃驚したように、 「いいんですか?」  と云った。 「いいんですの。この間、香月さんとは、知りあいになったばかりなんです」  彼女は微笑した。 「じゃあ、お言葉に甘えて——」  田沢は目を伏せた。 「では、必らず戻ってきますから、待ってて下さいます?」  英子は、きっとよ、というように靴の尖で田沢の靴を踏んだ。  大学生は、赧い顔をして、消え入りたい風情である。 〈まあ、純情だわ……〉  英子はひそかに満足した。  おそらく田沢は�童貞�だろう。  その童貞で、純情な大学生を、自分の思いのままに従わさせる快感……。英子は、ぞくぞくッと背筋を顫《ふる》わせた。  英子は香月に、 「帰りますわ。外まで送って!」  と告げた。  未練そうに、しかし従順に香月は、クラブの外へ送ってくる。 「お家はどこ?」  ときくと、 「すぐ近くです」  という返事である。 「では、送りますわね」  英子は、大木戸近くの下宿に、香月を送ってから引き返した。  二人っきりになると田沢は、話題がないのか、友人の香月の話ばかりした。  英子は、ピシリと、 「あなたの話なら伺うけど、お友達の話はたくさんですわ」  と云い、 「さあ、出ましょう」  と、ビジター料や、つまみ料を自分の財布から支払った。  英子はタクシーの運転手に、 「静かなホテル」  と命じた。  日本で、しかも自分から連れこみ宿へ行くのは、始めての経験である。  彼女は、田沢克巳の様子を、それとなく窺い見る。  田沢は困ったような、恐ろしいような、それでいて胸を弾ませているような、複雑な横顔をみせて、落ち着きがない。  ホテルへ這入る時も、おどおどしてためらい、英子の方が、 「なにしてらっしゃるの?」  と声をかける始末であった。  インチキの住所氏名を記入した宿帳をもって、女中が消えたあと、英子は、 「キスして頂戴!」  と云った。  田沢は、狼狽して、 「あのう……あのう……」  と生唾を嚥《の》むばかりだった。  頬や、首筋までが火照っている。 「早く、して!」  というと、 「はい」  と返事してから、おずおずと唇が唇に触れてくる。  鼻と鼻の頭がぶつかった。 「そういう時は、自分の顔を少し傾けるの」  英子は命令口調になる。 「こう……ですか?」  大学生は、ゴクリと咽喉を鳴らす。 「唇を、ただ触れるだけでは、だめ」  英子は、四つん這いになって、首をさしのべている田沢に、 「私と並んで坐って!」  と叱った。  大学生は英子と肩を並べて正座する。 「もっと、私に寄って!」 「は、はい」 「私を横抱きにして!」  大学生は、ブルブルと肩を顫わせている。 「抱くのよ!」 「は、はい……」 「キスして!」  それは、ぎごちない接吻だった。  生まれて始めてなのか、歯がガチガチと鳴っているのだ。  英子は陶酔した。  陶酔しながら、相手の口中に、舌をさし入れて行く。  その時、田沢克巳は咽喉の奥で、声にならない声をあげた。  英子は、さりげない風を装って、田沢の男性のある部分を、右手で触れてみる。  それは鉄のように怒張していた。 〈この子ったら……〉  英子は嬉しくなる。  彼女は、巧みに田沢の舌を、自分の口の方へ誘導した。  そして、彼の舌を自分の舌先で、十二分に弄《もてあそ》んだ。  弄びながら、田沢の恥しい部分に触れる。大学生は、大きく喘いだ。  荒々しい息遣いになった。  田沢が、わけもなく昂奮して来たところで英子は、 「もう、帰って下さって結構ですわよ」  と突き離すように云ってみる。 「帰れ……ですって?」 「そう。あなた……童貞でしょう?」  ズバリと彼女はきく。  田沢は真ッ赤に耳朶を染めて、 「……そ、そうです」  と云った。正直である。 「それに、無断で外に泊ったりしたら、お家の方に、叱られますでしょ?」 「……いいんです。そんなこと」  英子は微笑した。 「童貞を……捨てたいのね?」  男は肯いた。 「そう……。では、何でも、私の云うことをきくわね?」  英子は妖しく眼を光らせながら、 〈最初の獲物の飼育だわ……〉  大学生は、憐れみを乞うような顔になり、 「は、はい!」  と頷くのだった。 「そう。では、先ず湯に入ってらっしゃい。よく洗うのよ?」  英子は謳《うた》うような口調で云った——。   三  田沢が湯から上ると、ビールをあてがっておいて、入れ替りに英子は湯に入った。  浴衣に着換えて出てみると、冷静さを装ってはいるが、コップを持った手が、小刻みに震えているのであった。  はじめて女性の体を体験するという、その期待で胸が高鳴っているのだろう。  英子は、下着をわざとつけずに、田沢と向かいあってソファーに腰をおろし、 「あたしにも一杯、下さいません?」  と云った。  ビールを注ぐ手が、震えて、コップと瓶とが触れあい、ガチガチと音を立てる。 「では、記念すべき今夜のために、乾杯!」  英子は微笑した。  田沢は、目のやり場に困ったように、あちらこちらと視線を移している。 「ねえ、田沢さん……」  英子は話しかけた。 「は、はい」 「あなたも、他の男の人のように、トルコ風呂へいらっしゃいますの?」  そう彼女がきくと、大学生は怒ったような表情になって、 「トルコぐらい、行ったことあります」  と答えた。 「どんなこと、して貰いますの?」 「し、しらないんですか?」 「……ええ」 「スペシャルです」 「特別サービスなのね」  英子はビールを飲んで、 「私の目の前で、やってみて下さい」  と注文した。  大学生は愕然となって、 「そ、そんなこと、出来ません」  と云う。 「あら、私ではだめで、そこで働いている女の方には、平気なんですの?」  英子は艶然と笑うのだ。  彼女は再び、背筋がゾクゾクしはじめるのを感じた。 「あの人達は……商売です」 「商売の女の人なら、平気なわけですか」 「そのう……貴女がいるから、恥しくて出来ません」 「変な方ね……。これから私たち、そんな変則的なことより、正常のセックス行為をもつわけですのよ?」 「…………」 「命令よ。やってみて!」  英子は云った。  大学生は、仕方なく観念したという、無残な顔つきになって、後向きになると、ブリーフをとりはじめる。 「浴衣も、お脱ぎなさい。汚したとき、困りますわ……」  英子は愉しい声をだす。  大学生は自棄のように、浴衣を脱ぎ捨てたが、英子には背中を向けた儘であった。 「こっちへ、お向きになって!」  大学生は、前を手で蔽った。そして向き直るのだ。 「手をとって!」 「嫌です!」  田沢克巳は激しく首をふる。 「なぜ、ですの?」 「だって……恥しくて!」 「ええ、恥しくて?」 「縮こまってるんです!」  大学生は赤い顔をした。 「そうでしたの」  英子は、自分の浴衣の胸を、ゆっくりはだけて行った。  エリックが、輪切りのメロンと云っていた自慢の乳房である。 「これを見ても、感じない?」  彼女は云った。  田沢は首をふる。 「そう。では、これでは?」  浴衣を脱ぎ捨てて、英子は、すっくと立ち上り、横向きになる。 「だめですの?」 「……ええ」  大学生は苦しそうだった。  生まれて始めて、女体に接する若い大学生は、英子の高飛車な命令で、すっかり萎縮してしまったらしいのだ。  むりもない。  それに丁寧な英子の言葉遣いが、ますます男性を精神的なインポに追い込んでゆく。  ……しかし英子には、そんな純情な大学生の、苦悶し、屈辱感に虐《さいな》まれる姿をみるのが堪らなく嬉しかった。  一種の爽快な、征服感すら覚えたのだ。 「だめな方ですこと……」  英子は声を立てて笑った。  この笑いの一撃で、大学生は完全にダメージを受けたかの如くである。  大学生は、泣きだしそうな顔をして、立ち上ると部屋の隅に行き、肩を顫わせた。  英子は軽やかな足どりで近づき、 「そこへお坐りなさい」  と云った。  渋々と田沢克巳は正座する。  彼は憐れなほど、竦《すく》み上っていた。  英子は、それにふれて、 「さあ……男らしくなるのよ」  と含み笑い、すっくと大学生の前に立ちはだかった。 「田沢さん。目をあけて!」  大学生の目の前には、黒い繁みがある。 「キスなさい!」  英子は云った。  その途端、大学生の男性は、元気を回復しはじめたのだから、現金なものである。 〈この坊やは、生まれて始めて、女性に接吻したんだわ。この私の……〉  そう考えると、英子は途方もなく昂奮して来る。 「さあ、キスは中止よ!」  英子は、先刻《さつき》の命令を、ふたたび実行するようにと大学生に云った。  田沢は仕方なく、面目なさそうな顔つきで右手を使ったが、それは一瞬にして終り、壁を汚したのだった。  大学生とても、人生で最初に嗅ぎ、味わった異性の�味�に、狂おしく興奮していたのであろう。  英子は、そのあと、大学生を寝室へと誘った。 「乳房にキスして!」  英子は命令する。  大学生は、奴隷が女王の命に従うが如くに従順であった。  抱きあって、接吻しながら、英子は大学生に、ペッティングを要求する。  大学生は、歯をガチガチ鳴らしながら、おそるおそる未知の世界へと触れてくる。 「もっと優しく!」 「もっと、ゆっくり!」  英子は、自分の快感が、ある昂まりまで近づくと、中止を命じて、男に触れる。  すると、それは忽ちにして、エヤクラチオンしてしまうのだった。  ——若いのだ。  泉は、溢れ切っているのだった。  その証拠に、やっと正常な行為に移り、英子が田沢を誘導した一瞬後、 「ああッ!」  と、大学生は叫んだ。 〈失敗したわ、この人!〉  英子は、心の中では苦笑しながらも、わざと拗《す》ねた表情になって、 「つまらない方!」  と、男の躰を刎《は》ねのける。  田沢克巳は、赤い顔をして、 「ごめんなさい……」  と呟く。 「あなたって、招待をうけたお家へ、入りもしないで帰る方なのね? 失礼ですわ」  英子は云ってやる。  田沢は、本当に恐縮したような表情で、 「す、すみません」  と詫びるのだ。 「許しません」  英子は、プンプンした口吻で云った。 「では、どうしたら……」  と大学生は口籠る。 「あなたが、私を満足させられるような状態になるまで、私の躰にキスしてらっしゃいませ!」 「は、はい……」  門口で失敬した大学生は、間もなく、英子の躰に顔を埋め、さかんに接吻の物音を立てつづけていたが、やはり若さであった。  忽ちにして、エレクトして来た。  英子は、目を細め、 〈ああ、飼育って、なんと楽しいんだろうな!〉  と思いながら、 「さあ、勘忍してあげますわ。こんどは、失敗しないように、しっかり私を抱いて下さいましな……」  と呟いたのである——。   四  次の土曜日の夜八時、地下のゴーゴー酒場へ行くと、香月文男が浮かぬ顔をして、人待ち顔に坐っていた。  英子は、素知らぬ顔をして、別のテーブルに坐る。  香月は、英子を睨《にら》むようにして、彼女の席に近づき、 「坐って、いいですか」  と云った。 「少しの間でしたら」  英子は答える。  すると香月は、怒った顔つきで、 「あなたは、この間の夜、私と別れてから、また引き返したそうですね」  と云った。 「ええ、忘れ物に気づきましたの」 「都合のいい、忘れ物ですね」  香月は云った。 「あら、そうですかしら……」  英子は、微笑した。  おそらく田沢は、童貞を英子によって喪ったことを、とくとくとして親友の香月に語ったのであろう。 「あなたのお蔭で、僕たちの友情は、ダメになった!」  香月は云った。 「あら、私が原因みたいな仰有り方ですね」 「直接ではないが、間接的にはそうです」  その時、英子の席に、 「踊って下さい」  と、ヒッピー族みたいな男がやって来た。 「失礼します」  英子は立ち上って、香月を無視した。 〈苛立ってるわ。ああ、愉快、愉快!〉  英子は、背筋を顫わせながら、ゴーゴーを踊りつづけた。  二時間ほど踊って、香月に、 「外へ出ません?」  と口をきくと、嬉しそうに従って来た。  英子は、その儘、代々木のホテルに車を走らせた。  香月も、童貞だった。  英子の心の中に巣喰う悪魔が、その彼の告白をきくと、ニタリと笑った。  香月文男は、田沢克巳よりも惨めな、筆おろしの洗礼をうけた。 「私の躰が欲しいのなら、なんでも命令をきいて下さる?」  と彼女から云われ、 「なんでも!」  と答えたからだ。  スペシャルの実演から、屈辱的な�犬�の真似までさせられたのだ。  四つん這いになった彼は、英子の汚れた下着を口でくわえさせられたり、彼女の足の裏を舐めさせられたり、尻にキスを命じられたりした。  でも——童貞の男たちは、ある目的のためには、全く従順そのもので、唯々諾々《いいだくだく》として英子の命令に忠実だったのだ。  ……あとで考えると、それが藪亀英子を、増長させたのかも知れない。  つまり、男とは、どんな苛酷な命令にでも従うものだ——と、英子に思い込ませてしまったからである。  女を知らない童貞の男を、一夜の奴隷として弄ぶ……。  それは英子のように、アメリカで教育をうけて来た女性には、恰好の遊びであったかも知れないが、一つだけ恐ろしい�種子�を含んでいたのだ。  それは、男を虐《しいた》げて喜ぶ——という、サディスティックな種子である。  つねに被征服者である女性が、寝室で�征服者�となる、異常な欣びと快感。  藪亀英子は、その計算を忘れていたのだ。  ——新宿には、若い男性の集まる場所は、いろいろとあった。  ゴーゴー酒場もあれば、深夜喫茶、大衆的なマンモス酒場から、怪し気なアングラ酒場などもある。  英子は、香月、田沢の二人の大学生を、弄んだ快感が忘れられず、土曜の夜となると、一人で酒場や喫茶店を歩くようになった。  会社から、いったん家に帰り、夕食を済ませ、服を着換えて出てゆくのだ。  しまいには、英子は、代々木のホテルへ行くのが勿体《もつたい》ないような気がして来て、父にねだって金を出して貰い、アパートを借りようとした。 〈田中京子〉という架空の女性の存在を、確立させるための�遊び�である。  しかし、それでは、不意に訪ねて来られたりしては迷惑だと思い、計画をあきらめた。  土曜の夜だけ、〈田中京子〉という別人の女性となって、年下の、気の弱そうな学生をえらんで誘惑し、奴隷の如く苛め抜き、そのあと筆下ろしをしてやる怪奇な趣味。  英子は、単調な生活に慊《あきた》りないあまり、自分でそんな刺戟的な遊びをつくりだしたのだった。  若い、年下の男たちは、全くだらしがないの一語に尽きた。  金がない。  勇気がない。  女を知らない。  田中京子こと藪亀英子には、そんな男たちが、みんな�莫迦《ばか》�にみえたのだ。  そして二重人物の女性を演じる自分が、なんとなくエリートであり、しかも秘密の匂いに満ちた存在であるような気がして、嬉しかったのである。  彼女は、五つの戒律《かいりつ》をつくった。  筆おろしをした男性とは、二度と交渉をもたないこと。  偽名の田中京子を名乗り、決して本名や住所を明かさず、ハンドバッグの中には、身分が知れる物を一切入れないこと。  癖になっている、ざアます言葉を改め、できるだけ中流家庭に育ってる女——という態度をとること。  飲食費、ホテル代は必らず自分で支払い、男に経済的な圧迫感を与えること。  必らず一つは、新しい刺戟のつよい趣向を考えること。  ——以上である。  ジキル博士とハイド氏ではないが、英子は次第に、土曜の夕方になると、ハイド氏的な傾向を帯び、そして深夜は、それが最高潮となった。  そして日曜の朝、もとのジキル博士に戻って、田園調布の自宅に帰ってゆく。  奇怪といえば、奇怪な生活であるが、藪亀英子はそれを実際に実行していたのだ。  ——南米のアマゾン川の上流に住む、野蛮人の種族のなかには、女性が、好みの男性を掠奪《りやくだつ》して来て、夫として可愛がる風習があるのだそうである。  さしずめ、藪亀英子は、その�あまぞん族�の女性にも匹敵する、一種の先覚者だったかも知れない。   五  ところで、筆者が、新宿で遊ぶ若い、カッコいい男の子達から、その�あまぞん族�の女王ともいうべき�田中京子�という女性の話を聞いたのは、今年のはじめであった。  ある大学生は云った。 「私は、トリス・バーで飲んでいて、誘われたんですよ。私たちの行けないような、高級な酒場へ連れて行って呉れました。その時、黒メガネをとったんですが、凄い美人なんです。びっくりしましたね。  そのうち、冗談みたいに、女を知ってるかって訊くので、知らない、と云ったら、ついてらっしゃいと云うんですね。代々木のホテルへ連れて行かれて、私が欲しいのなら命令をきけって……。  ひどいんですよ。先ず、自分の服をぬがせろ、と云って、素ッ裸になるんですよ。こっちはもう、興奮しちゃって……。そうしたらスペシャルしてあげるって、云うんです。はじめて女の裸を目の前でみたんだから、あッという間ですよ。  そしたら笑うんです。こっちは、ズボンを汚すやら、その後始末が大変なのに……。腹が立ちましたね、ええ。  次は風呂です。私が欲しいか、とまた訊くので、返事をしたら、目を瞑《つむ》って! と云うでしょう? その通りにしたら、急に生暖かい物を咽喉のあたりにぶっかけられました。  何だと思います?  おしっこなんですよ。あんまり酷いじゃないか、と文句を云ったら、文句があるのなら帰りなさいって、叱られちゃった。人の躰におしっこかけて、目を細める女がいるんですねえ。  背中を流したあと、また、こっちは石鹸をつけて、しごかれちゃって、パーです。彼女ケラケラ笑ってんの。腹立ったなあ。  そのあと、ベッドに入るまでが、大変なんです。紐で両手を縛られて、顔の上に彼女が坐るんですよ。息苦しいの、なんのって、たまらなかったな。  シックス・ナインというんですか? あれもやらされました。  そのあと、やっと彼女と本番に入ったんですが、今度は早すぎるって叱られて、自分が満足するまで接吻しろ、と云うんですからね。ひどい女ですよ。解放された時は、文字通りクタクタでした。  いいオッパイしてましたよ。そして自分がアクメの時には、英語を口走るんです。若いけど、誰かのオンリーでも、してたんじゃアないでしょうか。  金は持ってますね。僕には、一銭も支払わせませんでした。変な女です。もう一度、会いたいんですが、それっきりです。人妻みたいには見えませんでしたね。  躰の特徴って……そうですね、耳朶に黒子《ほくろ》があったような気がしますよ。ええ、洋装のよく似合う人でした」  と——。  ついで浪人中の予備校生。 「西口のデパートの前で、友達を待ってたんですよ。三十分待って、来ないから帰ろうとしたら、夜なのに、黒メガネをかけた女の人がやって来て、代々木へ行きたいんだけど、案内してくれたら千円あげるって云うんだ。  それで代々木へ着いたら、禁断の木の実を喰べさせてあげるって、変なことを云うんです。それで、部屋へついて行ったら、服をぬぐから手伝って……と云って。  うん、手伝ったら、昂奮しちゃって、僕、ズボンの中に洩らしちゃったんだ。そしたら女の人が笑って、帰る時間をきいたなあ。それから、ああしろ、こうしろって、いろいろ注文されて……。  恥しいから、云えないなあ。だって、無茶苦茶なんだもん。お尻に接吻しろとか、僕のお尻にさわったり……。  朝近くなって、やっとOKが出たけど、その時は僕がダメなんだ。彼女、怒って、物凄くしごくんだから、僕の物、バカみたいになっちゃった。悲しかったよ。  東京には、いろんな怖い女の人がいるんだなあ。もう、あれから西口へ行くの、恐ろしくって。二度と会いたくないよ。女って、もう少し優しいのかと思ってたけど、幻滅だよなあ。  僕の場合、入ってないから、まだ、肉体的には童貞なんだろ? 一生、童貞で過した方がいいよ。美人は美人だけど、セックスするのに、あんな苛められる手続きがあるんじゃアおっかないもんなあ……」  ——あと数人の若者から、�あまぞん族の女王�の話はきいたが、どうやら同一人物のようであった。  私は、なんとかして、この彼女を掴みたいと思い、新宿の夜を探訪するうちに、セックスの面では非常に割り切った、自分から年下の男を誘い、経済的には一切、迷惑をかけずに、気に入った男とあらば一夜を徹底的に遊ぶ、�新宿あまぞん族�とも云うべき、二十三、四位の女性グループが、存在していることを知ったのだった。  私は、それらの女性グループをつきとめ、インタビューして行った。  だが、 「附合った男の子から、�女王さま�という渾名《あだな》の田中京子という美人がいることは聞いてるんだけど、会ったこともないわ。きっと、一人で行動してるんじゃない?」  という、大方の返事であった。  私は、失望した。  しかし現実に、何人もの、女王の被害者が存在する以上、それは�幻�ではない。  でも、私の取材網には�田中京子�はひっかかって来なかったのだ。  私は、この�あまぞん族の女王�の取材で厄介になった、城南大学の仏文生・田沢克巳君から、ちかごろの大学生気質について、話をきくため、今年の四月のある日、都心のホテルのロビーで話を聞いていた。  あまり、大して収穫はなく、全学連三派の内情をきいても仕方ないので、 「じゃあ、また。これ、車代に——」  と私は立ち上った。  と——その時である。  エレベーターから、新婚らしい美男美女が、両親やら仲人たちに送られて出て来て、正面玄関に向かう風景が目に入った。 〈今日は大安吉日か……〉  と私は心に呟いて、田沢君をみたが、彼は私のさしだした紙幣を受けとりもせず、玄関へ向かう新郎新婦を見戍《まも》っている。 「どうしたんだ。ホテルで、結婚式なんか、珍しくないじゃあないか?」  ときくと、田沢克巳は、咽喉をつまらせながら、 「あ、あ、あの女です!」  と云う。 「あの女とは?」 「あ、あ、あまぞん族の女王ですよ!」  彼は、声をふりしぼるようにして叫んだ。 「えッ、あの美人が?」  私は唖然となった。しかし直ぐ、 「まさか! 見間違いじゃないのか?」  ときくと、 「いいえ、右の耳の黒子に、見覚えがあります。間違いありません!」  と云う。  私は、半信半疑ながら、ボーイに近づいていまの新婚の二人が、二階の宴会場から下りて来たことを教わり、さっそく会場へと行ってみたのだった。  その日の結婚式は三組だったが、花嫁の人相、服装から判断すると、 『小鶴家   藪亀家結婚式場』  と名札の出たところらしい。  そして、花嫁の父の藪亀仙之助氏とは、私はかなり親しい間柄であった。藪亀仙之助氏は、ある製鉄会社の専務に、去年秋の株主総会で選任されたばかりである。  数日後、私は、令嬢の英子さんの縁談について、仙之助氏に電話した。  すると、彼は、 「いや、そろそろ年頃ですからな。恋愛でなく、見合ですわい」  と答えた——。 �新宿あまぞん族�の�女王�は、果して彼女だったのか、どうか?  それは今となっては、誰ひとり証明できる者はない。 本書は一九六八年一二月、小社より単行本として刊行され、一九八四年六月に講談社文庫に収録されました。