TITLE : 普通の愛 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。    普通の愛——目次    変  貌    たたずむ瞬《と》間《き》    ファースト・フード    LOVE WAY    フェアリー・ウイスパー    普通の愛    雨の中の軌跡     後  記    変  貌      君のことだけを考えながら、明け方の高速道路を走っていた。自分がひどく醜く思えてならなかった。エンジン音がまるで短波放送の周波数のうねりのように聞こえて、頭痛がした。何時ハンドルを切り損ねて鉄柱に衝突するか分からない。そして僕は死ぬんだ。僕は人生が最終的に迎える死という奴に向かって、ただ思い切りアクセルを吹かしているようだ。脅《おび》えているのはその理由が分からないからだろう。分からないまま死ぬのか。死ねばいい。諦めるんだ。アクセルを吹かせ。そしてもし死なずに君の所に辿り着けたらこう言おう。君は何故、そんなに僕のことを踏みにじってきたんだいってね。  仕事が終わって部屋に帰ったのは午前四時だった。留守番電話に君の声が録音されていた。直美よ、電話してね。と、たったそれだけ。それだけの伝言が僕の休息を奪い取り、慌てて車を走らせたんだ。君を失うのが怖かったのは、君が僕を脅かし続けたからだ。出会いに付きまとう別れという悲劇が喜劇だと言って君は笑い飛ばしていた。僕はそんな君が許せなかった。だって別れ際に嘲笑されるのはとても惨めだし、それは君の方じゃなくて僕の方なんだから。分かり切ったことだが、諦めを知らない奴はいつだって騙されてしまうんだ。今まで君を抱こうとした欲求は、僕が僕であるために繰り返されている、存在証明を確保するための闘争本能からくるものだった。それは馬鹿らしいほどに孤独なものだったんだ。  僕は君に振り回され過ぎていた。振り回していた直美、君には分からないことだろうが、僕は本当にとても疲れてしまったんだ。明け方近く君に愛していると言うためだけに時間を割いてきた僕の気持ちが分かるか。そんなのあなたの勝手よ、と言われてしまえばそれでお終いだけれど……。愛という言葉よりもっと露骨で具象化されたものが僕らの間にはある。それは互いの身勝手さだけだ。そしてそこにようやく愛情という温もりが用意されていて、僕らはそこに逃げ込む。ねぇ、愛って何なんだ。  高速道路沿いに建てられたコンビナートの煙突から炎が燃え上がっている。まるでこの世の終わりを象徴しているようだ。それは愛の終わりだ。炎は僕を吸い込んでゆきそうな勢いで燃え上がっている。  僕は一人の女性への執着心が作り出したひとつの答えを出すために、馬鹿げた思いのひとつひとつを抱えたまま、明け方の薄っすらと赤みがかった朝焼けの空へとアクセルを吹かしていた。  けれども今夜はいつもと違うんだ。君を抱く前に殺してしまおう。抱きしめると僕は情に流されてしまう。二人の絆を深めるように君を殺すんだ。屍となった君はきっとまるで人魚のように体をしならせて、ようやく僕のものになり僕を自由にしてくれる。  愛はなんて無機質なものなんだ。愛を見つめていると不思議な気持ちになる。いくつもの速度の違う粒子がすれ違いながら一点に集まろうとしているようだ。まるで近くのものは早く遠くのものはゆっくりと消えてゆく車の外に流れる風景のように、僕の意識は吸い込まれてゆく。  僕はハッとした。前の車がブレーキを踏んだんだ。赤いテールランプがそれを意地悪く警告している。こっちは急いでいるんだ。速度を落とすぐらいなら追い越し車線なんか走るな。僕は左にハンドルを切り走行車線を走った。僕の前には白のセダンが走っている。速度は百キロ。僕はぎりぎりまでその車に近づいた。追い越し車線にはさっきブレーキを踏んだ車がちょうど車一台分のスペースを空けて僕の後ろを走っている。前の車にはこれ以上近づけない。車間は三十センチ位しかないだろう。それに追い越し車線の車が少しずつ近づいてくる。僕は思い切ってハンドルを右に切り、追い越し車線の車の前に割り込んだ。僕はハンドルをたてなおしてからめいっぱいアクセルを吹かした。速度は百キロを超し、どんどんとスピードが上がる。タコメーターが五千五百以上になっている。百三十、百四十、百五十キロ。  視界が狭まる。まるで君を見つめる時の僕のようだ。危険だけが悪戯に僕を捕らえ、もてあそぶんだ。なのに僕は諦めに辿り着くまであと少しという気がして安らいだ気持ちになるのは何故なんだろう。疲れているんだ……。  このまま飛ばせるだけ飛ばすんだ。車はスピードに耐え切れず僕はハンドルを取られ始めた。車は百六十キロぎりぎりで走っていた。ハンドルが触れると車はすこし後部を振り始め、ハンドルへの力加減がわずかに狂うだけで、もう走行能力を失う。愛もまた、まるで高速度で走っている時のようだ。ほんの少しのずれにさえ、もう軌道修正は効かない。まして人生なんてこの高速道路と一緒で、後戻りは出来やしないんだ。  百メートル位前方に大型トラックがいる。そのトラックはわざと排気ガスをまき散らし幅寄せしていやがる。そんな時にこそ僕はもう一度アクセルを踏み直すんだ。かまうもんか、死んでやる。でもみていろよ、のろまなおまえなんかにやられてたまるか。僕は思い切りアクセルを吹かし、狭まった視界の中に飛び込んでゆく。時間が逆行しそうだ。周りの風景が点に見え、トラックは停止して見える。速度は百八十キロを超した。そしてブラックホールにでも突入するように分離帯とトラックの合間をすり抜けた。あっという間の出来事だった。その瞬間、車も僕の体もばらばらになるような思いがした。  こんな時いつも彼女と出会った頃のことを思い出してしまう。そういえば何ひとつ確かなものなんてなかった。心がやすまるわけでもなかった。ただ本当に悪戯に時が過ぎてゆくだけだった。彼女も僕も心から笑えたことなんて一度もなかった。  それに僕は女の扱いをよく知らないのかもしれない。女なんていう生き物の喜ばせ方もよく知らないんだ。だけどあんな得体の知れないもの知らぬが仏って感じさ。  直美は僕の嘘をすぐに見破る。そして僕をまるでこけにして、ののしり、罵倒する。それが彼女の快感なんだ。  恋愛はゲームなんだ。よく考えてみろよ。逃れようのない快感に身をまかせている彼女はまるで僕の奴隷のようだが、いつも僕を見下しているようだとも思える。恥ずかし気に悶える直美の裸体は僕の宝物だが、底のない沼のような僕の性欲の象徴。  いつも彼女はこう言うんだ。私には大切なものがあるのよ。私には分かるもの。私はあなたの言うことばかりを聞いてあげられないの。私だって今の私の生活の方を大切にしなければならないのよ。ねぇ、もっと私にも合わせて生きてもらえない。そんなことも出来ないって言うの。ろくでなし。全く、ろくでなしなんだからしょうがない人。馬鹿みたいよ、あなたって……。そうさ君の言う通りさ。でもひとつだけ違う。よく覚えておくがいいさ。僕にとって大切なのは何よりも君さ。僕だったらそう言うだろう。それに君が僕を必要とした時には、僕も生き方を変えるように努力してきたじゃないか。それくらいが何だっていうんだい。僕は君の暮らしを壊さないようにしてきた。でも君は僕の心を壊し続けてきた。君の考えることは、単純に矛盾しているだけだ。それを平然とした顔で裏と表を周到にひるがえしながら、自分を正当化しているんだ。そしてそうしながら僕に罪悪感を与えている。  私を怒らせないで。君を汚しているのは僕じゃない。かと思えば、そうよ全部私がいけないのよ、ごめんなさい。と、いきなりそんなにしおらしく謝ってみせるが意味がない。私もうあなたのことがよく分からない。あなたと私は違い過ぎるのよ。もう私を一人にして……。そんな無責任なヒロイズムに酔う。確かに君の側から離れないでいるのは僕の方かもしれない。でも手を離さないのは君の方なのに……。  君は他の男性関係についてもあまり話さない。僕にも興味がないわけじゃないが、僕に言っているような付き合い方で全ての男性を手中に収められる筈もないだろう。一体誰が彼女にそんな入れ知恵をしたのかな。彼女が可哀そうに思えてくる。彼女は繊細な女じゃないんだ。子供のように矛盾している。そしてその矛盾の答えは、君にとって一番大切なのは君自身で、それ以外には何もないということだ、いくらなんでも可笑しくて悲しすぎる……。君は自分の死を待っているんだ。だから僕は君を殺す。そしてその時、君も僕を殺すことになる。  僕は百六十キロで、走行車線と追い越し車線を走る車の間を縫いながら走り続け、他に車がいなくなった直線でタコメーターがレッドゾーンを切るところまで加速した。百八十キロまでしかついていない速度メーターの針は振り切られ、エンジンが異常に熱く唸っている。  誰だって暮らしを守りたいんだ。だから人間は戒律を守る。自分の戒律を守るんだ。一人にされることがとても辛いことだとも知っている。それを良心と呼ぶもので縛り、人々は皆互いに責務を与え合って暮らしているんだ。けれど君に言わせれば、人間なんて自分が一番大切なんだろうね。  人は一人では生きてゆけない。だから心許せぬ他人をも許さなければいけない時もあるんだ。けれど君はそれを逆手に取る。結局君は一人ぼっちなのさ。もちつもたれつやっていくのが人間なのだろう。けれど、安っぽい信頼なんて、君にとってはつまらないことさ……。だいいち君は嘘つきだ。君はわがままだ。  だから君みたいな女性と付き合う時は、世界が自分中心に回っていると思っていた方がいい。勇気をだして思うように振る舞わなければ僕の存在価値に意味がなくなる。  時計の針は四時二十九分を過ぎたところだ。いつもかかる時間より一分早いな。もうすぐ彼女の住む街の出口だ。看板がでている。あと二キロ。僕は速度をだんだんと落としてゆきながら、車を左の車線に寄せ出口を出た。  まだ太陽の光のない街の道に転がっている朝はとても暗く感じた。街は安らかに寝静まっているのか、脅えて息をひそめているのか分からないさまを呈していた。僕は車のエンジンを静めながら走った。  人気のないバス通りを一匹の狼狽した猫が車の前を走り抜ける。まるで夜遊びしている子供のようだ。明かりの灯っていない店の看板。閉じられたシャッター。言葉をなくした街灯。まるで人の思考能力は太陽の輝きに左右されているようだ。現実に関与しながら躍動している僕の街への思いも、今は凍り付いたように動かない。二十四時間営業のコンビニエンス・ストアの明かりが妙に軽快に輝いている。雑然と並べられた商品のひとつひとつには何の意味もない。ただ賑やかにしているだけだ。  時計の針が四時四十四分を指している。  彼女はきっとパジャマ姿で僕を迎えるだろう。彼女は僕がいくら注意してもブラジャーをしない。街を歩く時もいつもノーブラだ。  彼女のアパートの階段を静かに上がって、部屋のドアを軽く叩いた。なかなか起きてこない彼女に向かって僕は気をとり直した。そして三度目にドアを叩くと、ようやく彼女はとても眠たそうな顔でドアを開けた。その姿はあまりにも無防備な色気に満ちて見えた。 「もう、こんな時間に何しに来たのよ……」  彼女のむき出しの怒りに僕は脅えた。そして僕は新たに殺意を確認していた。 「中に入れてもらえないかな」 「もう……。今日早いんだから……。まったく……」 「…………」 「しょうがないわね。そのかわり静かにしてね。私眠るから……」  彼女は背を向け僕のことなど忘れるようにしてベッドにもぐりこみ、温かそうなシーツに自分一人くるまりながら夢の続きを追いかけるように目を閉じて眠りに就こうとしていた。  ベッドの横の机には彼女が常用している何種類もの睡眠薬のシートが散乱して置いてあった。彼女は不眠症で、そのために月に二度病院の精神内科に通っているんだ。  僕はだらしなく散らばった睡眠薬をひとつにまとめた。  彼女の顔は明け始めた朝の光に青ざめていた。化粧していない彼女の普段の顔色はとても悪い。重たげな瞼を開き大きな瞳を虚ろに輝かせながら、いつも苛々しているのは、薬の効き目がきれてゆく時の副作用なんだろう。 「直美……」  彼女はだるそうな体に身をまかせて小さな寝息をたてて眠り、僕が何度呼んでも答えてくれなかった。僕はポケットから折りたたみ式のナイフを取り出した。そしてそっと彼女の首筋にあて……。  ベッドが血の海になった。僕は彼女の体に腕を回し血まみれの首筋に軽く接《くち》吻《づけ》してみた。彼女はまだ痙攣していた。そっと彼女を仰向けに寝かせしばらく彼女の寝顔を見つめ、今度は彼女の唇に接吻た。反応のない唇は柔らかく死んでいる。  僕は彼女の柔らかくてふくよかな胸に触れてみた。そのぬくもりの温かさはとても幸せに満ちたものだった。僕は片手でそっと彼女の胸のボタンを外していった。下着を付けていない彼女の胸は露にさらけ出され、僕は彼女の胸の上を這うように乳房に接吻た。透き通るほど透明なピンク色をした彼女の乳首とふくよかな乳房の上で、僕はまるで遊園地の乗り物に乗るように気分を軽やかにさせていた。  僕は無防備な彼女の衣服を脱がせ裸にした。もう彼女は目を開くことがない。  僕はそっと彼女を抱きしめた。時折小さな声をもらしながら彼女を抱いた。無抵抗で無防備な彼女の体は幻想に溢れていた。時折何度も現実的な妄想が呼び起こす虚無感に襲われながら僕はそれを必死に追い越すようにして果てた。  彼女は泣きもしない。笑いもしない。何も応えない。ただ静かに眠っているだけだ。  僕は彼女を見つめていた。  何かが始まろうとしているようだった。朝が訪れたせいだろうか。無のざわめきが止まらない。脳裏をかすめる時間が、高速を飛ばし続けた時のように逆行してゆくように感じた。わずかに耳で聞き取れるほどの甲高い音が響いていた。僕を無機質なものにしてゆく。ただ時間という観念だけが存在し散乱していた。色は無かった。形も無かった。僕がそこに無理やりにも当てはめようとする幾何学的な理論は意味を奪われてゆくことだけに価値を見出せるものだった。正確な実体も、その構造自体が持つ意味も分からない。何時間かそうして彼女を見つめていた。  彼女の体がすこし動いた気がしたが、気のせいだろう。僕は彼女を抱き起こし気だるく立ち上がり、バスルームに入って行った。バスタブの中に彼女を横たえ、シャワーを出し彼女にかけた。シャワーの音がレクイエムの旋律を奏でている。僕は黙ってその音に耳を澄ましていた。シャワーの旋律は単調に繰り返されていたが、一粒一粒の水滴の弾ける音には思い出が溢れているように思えた。バスルームの中で死に横たわった彼女は、血を洗い流しながらようやく現実的な感性や感覚を補給しているように思える。  僕はバスローブを体に纏い彼女のベッドの横に置いてあった睡眠薬を一粒一粒かみ砕きながら、そして全て飲み尽くした。何かを胸に秘めているような、いいしれぬ恍惚とした気持ちになった。シャワーの音だけが耳を突く。そして夢を見た。   「あなたもシャワー浴びる」 「あぁ、ありがとう」  彼女の瞳は僕の夢の中で凍り付くように寂しく輝いていた。そして突然バスローブを脱ぎ彼女は恥ずかし気もなく裸体を朝日の中にさらした。裸体は感情を刺激する言葉のようだ。  彼女は裸のまま鏡の中で口紅を塗りながら真理と嘘を対照的に比較している。自分に光を着けているようだ。 「ねぇ、今夜仕事が早く終わったら食事に行きましょ。美味しいお店が出来たのよ」  僕は笑って頷いた。 「でももし疲れていたら、無理しなくていいのよ」ワタシノコトハ ホオッテオイテネ 「大丈夫だよ」 「いいのよ、私お友達と行くから」 「僕も美味しいものでも食べて、元気にならなくちゃね」 「もう、あなたってわがままで馬鹿な人ね。全然分かってないんだから」  彼女は僕の方に振り返って笑顔を浮かべ、その言葉の意味を素早く隠してしまった。 「さぁ、早く行かなくちゃ」  いつの間にか幻想的な旋律が部屋を包み込み、こう語っていた。  We love you.  まるで音楽が部屋を占拠してしまったようだ。閉鎖的な気持ちの中に開放感がみなぎっていた。 「ねぇ、前から思っていたの、別れるのは嫌なの。だから私のあなたへの気持ちが変わらないようにしてね。本当に、あなたのことが好きなのよ」  彼女は変わりたがっていた。人間のその願望は自分の知性や感性を磨くための欲求なのだろう。いつも何かを試したいんだ。そうすることで新しい自分を発見してゆく。自分がたくさんの思考の中に生み出される集合体であることを認識し、個体としてそれら汚物を吐き出してゆかなければ、彼女は自分が自分でなくなってしまうことを知っていたのだろうか。変貌それは距離。それが愛情。愛情は変貌とのレースだ。答えは変わってゆき、彼女が違う笑顔を見せた時に消え去ってゆくもの……。  彼女は無邪気に微笑んで繰り返す。 「そこのお店本当に美味しいらしいの……。でも疲れていたら無理しないでね」  We love you. We love you.  それはただのシャワーの音が奏でるレクイエム。  僕は目まぐるしく変わってゆく君を追い続けている。君は変貌という名の、僕の愛だった。    たたずむ瞬《と》間《き》      俺は場末の酒場で毎晩ピアノを弾いている。リハーサルもなし。でも譜面なんか見なくたって、客のリクエストくらいは弾きこなせるさ。安物の酒をくらっている客にお似合いのフレーズを、朝方まで繰り返してる。  酔っぱらいは俺の教科書みたいなものさ。誰がそんなものを信じるかい。ただやつらは傷みを知っているのさ。二度と繰り返すまいと心に決めてきたものが、山ほどあるやつらさ。そしてやつらは覚えてきたそいつを忘れようと必死なのさ。  一曲目を歌い終えると肩に蛇の入れ墨のある体のでかい男がバーボンをあおりながら俺のピアノの前に近寄って来た。 「おい、おまえの歌は最低だな」  これは酔っぱらいの挨拶みたいなもんだ。 「あぁ、俺の歌は教会の賛美歌みたいに聞こえるはずないさ。俺はあんたの人生について歌うつもりはないんだよ」  俺は酒臭い息で話しかけるそいつの鼻をへし折ってやりたかったが、無視して二曲目のイントロを弾き始めた。  この店には色々なやつらが来る。薬中もいれば、街角で客を取ってる娼婦もいるし、浮浪者もいれば、同性愛者も来る。とにかくいろんなやつらが来るんだ。  カウンターでは冗談のひとつも言えない婆さんが、さえない男達の水垢で曇ったグラスに酒を注いでやっている。  ガータベルトで吊った下着の上に安物の毛皮のコートをはおった女達。新調したての黒い背広で上から下までぴかぴかにキメてる黒い肌の痩せた野郎。店の隅じゃ虚ろな眼をした薬中達が針の錆びた注射器をまわしている。ドレッドヘアーにラスタカラーの帽子を被った売人は紫の煙ふかして客を探してる。店中おかしな連中でいっぱいだ。だけど外は凍てつくような風が吹いていて、人っ子一人いやしない。だからこんな所に集まっちまうんだろう。  壁に貼ってある女の裸のポスターには下品な落書きが溢れてる。時々酔った野郎がその裸に見惚れてるけれど、俺には人生に染み付いた垢にしか思えない。  俺は、赤いセルロイドを貼りつけた薄暗い電球の明かりの下でピアノの鍵盤をグリスして二曲目を終えた。景気づけにジンをあおって次の曲を弾くことにするか。でもまるで刑務所から戻ってきた奴が久し振りに酒にありついたような気分だ。  時計の音が気になる。この店が終わってもアンジェロには会いたくないんだ。奴に借りた金も返せるあてがねぇからな。  ダーナの所にでも行って体を癒そうかな。ダーナはいい女だ。画家を夢見てるブロンドの女だぜ。すこし年はいってるけれど、俺には優しいいい女だ。時々前の亭主から慰謝料だとか言って金をせびっているらしいな。だけどまぁいいさ。今度彼女の絵が売れたら、花でも贈ってやろう。  カウンターの婆さんの名前はアンナっていうんだ。それにしてもアンナの手先は器用だよ。生まれたばかりの小鳥のように手を差し出す酔っぱらい達に、上手に酒を渡す。世の中のひとにぎりの生活をひとつひとつそいつらに配っているようだ。酔っぱらい達が何を求めているのか俺には分からないが、大切なものを失った時の傷がうずくんだろうって気がするよ。アンナはそれを知っているんだろうな。  俺には愛を失うことが怖くないと思えた時もあった。だけどそれは後に何も残せないほど愚かな思いだったな。この頃ふと思い出しちまうんだ。  アンナの無口な瞳に俺が映っている時は、小声で俺のピアノを口ずさんでいる時だ。俺は横目でアンナに微笑みながら、鍵盤の上を指先で何度も弾んでみせるのさ。  薬中達は鼻水を垂らしながらウオッカを飲み干してる。腕を紐で縛って血管を探し、そこに針をぶすっと突っ込んでるよ。いつまで経ってもそいつらには夜も来なけりゃ、朝も来やしない。気づいた時にはあの世行きってとこさ。やつらが薬欲しさに犯した罪が、この街にはたくさん溢れている。そう検事が言っていた。仲間だって何人も刑務所に行っちまっただろ。お前らが夢見てる頃、この街はお前らみたいなやつをどんどん追放しようと企んでるんだから。  三曲目を弾き始める頃、店がだんだん混んできた。  午後十時頃になると街灯の下に群がって客を待ってた娼婦達がひと休みしにくるんだ。足首を見ればすぐ分かる。立ち疲れた彼女たちの足首は丈夫そうだし、ピルを飲んでるからだろう、太って尻のでかい女ばかりだ。それに雨が降り始めたんだろうな、みんな傘をもってるし、肩がびしょ濡れだ。  雨が降ると街の感じが違ってくる。皆がっくりと肩の力が抜けちまうみたいなんだ。何故なんだろう。多分雨にはかなわないからだろうな。雨の寂しさにはかなわないんだ。  黒いビニールのゴミ袋を被って、グーが店にやって来た。こいつは便所に一番近い壁際の小さなテーブルに座って、店で一番安い酒を飲む。常連だが金をあんまり持っていなくてさ、どの客にも嫌な目で見られている。  こいつのあだ名はガーベージ。イスラエルから移住して来たが今は職がない。ここ三年程ずっと物乞いの生活を続けている。何か芸があるわけでもなければ、話が上手いわけでもない。一日中ブロードウエイの46ストリートに座って観光客から僅かばかりの小銭を貰っているって聞いたことがある。その金で毎晩この店に飲みに来てるってわけさ。  一口ずつちびちびと酒を飲み、つまみに小皿のバターナッツをつまんで、前の客のシケモクを灰皿から取り出し、楊枝に刺してふかしている。  惨めなやつらはこの街にはごまんと溢れているが、グーは毎晩この店に飲みに来て、愚痴をこぼすでもなく、ただ黙ってちびちび飲《や》っている。  四曲目はBフラットのマイナーブルース。別にどの客も俺のピアノに耳をかしているわけじゃないが、この曲は俺の曲なんだ。俺がこの曲を弾き始めると、アンナは俺にバーボンソーダをおごってくれる。  今夜は雨のせいか、いつもより客が多い。狭いアパートの部屋で雨音を聞いているのがみんなたまらなく寂しいからだろうな。  娼婦達も、今夜は客を取るのを諦めたのか、じっと席についたまま黙ってテキーラを飲んでいる。  薬中のやつらは店の隅でまた腕に針をぶち込んでいるところだ。  ぴかぴかにキメた黒い肌のあんちゃんは、ラスタのやつらからブツを買って、横に座った可愛い女の子とそいつをまわして吸いながら、店中に響くような大声で笑い始めた。  俺は五曲目にアプレーン・ブルースを弾いて、ワンステージ目を終えた。  楽屋に戻ってバーボンをストレートで飲みながら、俺は優しく降り注ぐ雨の音に耳を澄ましていた。そして上着のポケットから小瓶に詰めた白い粉を取り出して、鼻から吸い込んだ。  どうしようもないほど頽廃的な雰囲気がして、ただ寂し過ぎるのが可笑しくてたまらない気分になった。その鏡の中の自分の顔をじっくりとながめながら頬を撫で回し、年より老けて見える痩せこけた自分に呆れちまって、まるでこの街に虐げられた犠牲者みたいな気持ちになる。  タバコを五本吸って、次のステージだ。鏡の前で髪を整え、すこし気取った振りをしてから、俺はステージに向かって歩き出す。  客の連中ときたら、くだらない話を飽きることもなくしゃべり続けていた。店はけっこう盛り上がっている。  俺がピアノを弾き始めると、客のざわめきがすこしおさまるんだ。ピアノの旋律が酔っぱらった連中の頭の中を優しく撫でるんだろう。  一曲目はスターダスト。そいつを弾き始めると、ポリスの連中が見回りにきた。皆平然とした顔でそいつらを眺めている。  ポリスの連中は薬中のところに行って、二、三質問しただけで、あっさりと店から出て行った。暗がりの中で脅《おび》えて薬を打ってる連中なんかを、いちいちしょっぴいてたらきりがないんだろう。  グーの爺さんはまだちびちび飲っている。時々客にからまれながら、身を小さくして、もったいなさそうにウイスキーを口にはこび、ふっと笑顔でもない笑いを浮かべてみせるんだ。  ガーベージ、ガーベージ、ガーベージ。  体のでかい三人の男達が、ビールの大ジョッキをがぶがぶ飲みながら、グーをそう呼び、からかっている。  俺が二曲目のフライ・ミー・トゥ・ザ・ムーンを弾き始めると、雨に濡れた二人連れのゲイが店に入って来た。  店の一番奥の薄暗い席に座り、長いあいだ口づけしていた。片方のやつは呼吸困難になりそうなほど筋肉のついたマッチョで、もうひとりは線の細いやつで瞳が青く、二人とも耳におそろいの金のピアスをしている。  二人はジンライムを飲み、指をからめたり頬を寄せながら、飽きもせずにしきりにたがいの体を撫で合っていた。  カウンターでは爺さんと婆さんの言い争いが聞こえる。アンナはその話を聞きながらほくそえみ、タバコをふかしていた。  そろそろ雨が小降りになってくると娼婦達はテキーラを飲み干し、街へ出て行った。そしてまた街灯の下に群がって客を待っているんだろう。  店の中では、タンカレーをがぶ飲みしていたやつが、ふらふらになって椅子から転げ落ちた。皆そいつのことを笑って見ているだけで、誰もそいつを起こしてやるやつはいやしない。  そいつはわけの分からない独り言をぶつぶつとしゃべりながら床に寝転がってた。  俺はその後二、三曲弾いて、ツーステージ目を終えた。拍手なんてひとつもない舞台を下りて、楽屋まで歩きながら、俺はまたポケットの白い粉を吸い込んだ。  眠れない夜と退屈な時間だけが山ほどある。俺の弾くピアノの鍵盤の上でそいつが静かに遊んでいるのさ。  楽屋に戻って、俺は持っている白い粉全部をテーブルの上に落とし、そいつを一ドル札をまるめたやつで、一気に全部吸い込んでやった。  どうしようもないほどの虚無感が俺を襲う。何でこんなにも一日が無意味に感じられるのか分からない。  壁に掛けられた時計はもう午前三時をまわっていた。あともうワンステージやったら今日はお終いだ。  鏡を覗き込むと俺の目は黄色くなっていた。目のまわりにくまができてる。まぁ、いつものことだが……。  俺の人生は何のためにあるのかわからない。きっと意味なんかないのかもしれないな。毎晩こうして酔っぱらいに耳障りなピアノを聞かせて、日銭を稼いでるだけの暮らしなんか、はやくお終いにしたくなっちまうよ。あぁ神よ。願わくは俺のこの無意味な人生を早めにどっかへ捨ててくれませんか。でなければもうすこしだけいい稼ぎが出来ればいいんですがね。  そんなことを口にしていて馬鹿らしくなった。部屋の隅に置いておいたウオッカの瓶を手にとって、一口飲み込んだ。首の後ろが熱くなるようだ。ますますさえない気分になる。  いらいらしてきた俺は何本ものタバコに火をつけては消し、灰皿が一杯になるとそれを壁に投げつけた。床に吸殻とタバコの灰が散乱した。  そして俺はもう一本のタバコに火をつけてステージへ歩き出した。  店の客はほとんど酔っぱらっていて、まともに俺のピアノを聞けるやつは一人もいないだろう。  大声でわめきちらすやつ、眠りそうになっているやつ、ゲイのやつらはまだいちゃついてるし、言い争っていた爺さんと婆さんはもう黙りこくっちまって見向きもしない。薬中の連中はいくら打ってもまだ効いてこない顔して、あれから何度針を腕にぶち込んでるんだろう。ぴかぴかにキメたやつは飲み過ぎと吸い過ぎで倒れちまってるし、ラスタのやつらはずいぶん幸せそうな顔をして笑ってるよ。グーの爺さんは、椅子を蹴っ飛ばされて、すっ転んで、あげくのはてに体のでかいやつに殴られて、鼻血を垂らしながら涙を浮かべ、それでもにやにや笑ってる。  俺は点滅する赤や青や黄色や緑の豆電球の下をくぐって、無言でピアノの前に座った。太った黒人の爺さんだけが、ウイスキーを片手にこっちを見つめている。  俺は静かに鍵盤を押さえ、ゆっくりと弾き始めた。  もうしらじらと夜が明け始めてきた。雨も止んだようだ。小鳥たちがさえずり始めている。入口のドアから僅かな朝の気配が店の中に流れ込んでくる。  それでも皆、握りしめたグラスを手放そうともしない。時間がすこしだけ速度を落としたように、一人一人を孤独の中に包み込んでゆく。言葉が明確な意味を取り戻すように、夢は傷ついた胸の奥にそっと隠れてゆく。  俺は即興で歌い始めた。アンナがおごってくれたバーボンソーダがピアノの上で小さな氷を浮かべて揺れている。  またこの店の一日が終わっていく。朝が来てもどこにも行き場のない連中の夜が訪れた。  客を取れずにあぶれた娼婦がまた店に戻ってくる。そしてまたテキーラをたのんで、朝とも夜ともつかない茫然とした時を過ごす。  アンナは客が一人ずつ出て行くのを見つめながら、肩に寂しさをあらわしていた。  落書きだらけのポスターは壁に取り残されて、見つめられなくなった写真の裸の女は心を失ったようにポーズをとったまま動かない。  アンナが、もうお終いだよ、と言っても俺は歌い続けた。  客のまばらな店の中で俺のピアノはちっとも雰囲気とそぐわずに、ただうわっつらを撫でているようだった。  薬中のやつらは床に座って壁にもたれ、よだれを垂らして眠っちまってる。ゲイのやつらは抱き締め合いながら何度も何度も口づけしている。ラスタの連中はわけの分からないことを真面目な顔して話し続けている。ぴかぴかにキメたやつの新調したばかりの黒のスーツも、もうしわくちゃだ。グーは最後の小銭で酒を買って、鼻血をおさえながら、まだちびちび飲《や》ってる。あぶれた娼婦はタバコの煙を吐き出しながら空を見つめている。  俺は最後の言葉を口ずさんだ。    深く眠ってしまおう、白々とした朝が  夜を呑み込んだ俺たちを包んでくれるさ    俺が静かにピアノの鍵盤から手をはなして溜め息をつくと、アンナはグラスを洗いながら上目づかいに俺を見つめて、もう一杯だけ飲むかい、そう俺に言ったのさ。    ファースト・フード      恋なんてファースト・フードみたいなものさ。ハンバーガーにチキンサンド、ホットドッグにフライドポテト、それに極めつけがピザだね。それもトッピングが異常に多いやつ。だけどあんなもんは脂ぎった食塩のかたまりみたいなものだよ。食べればその十倍は水分をとりたくなる。それにそれと一緒に飲む、たいがいの清涼飲料水なんてものには大量の砂糖が入っているから、どちらも塩分や糖分の取り過ぎになって体にいいわけがない。  恋にしても同じさ。色々な彼女がいてもね。例えば映画を見るだけの彼女、週末に食事をするだけの彼女、芸術について論争を交わす彼女、メイクラブするだけの無口な彼女がいたとしても、皆がそれぞれ独特な魅力を持っていても、食べ過ぎは飽きる。贅沢な悩みだ。心の痛風だよな。  まぁ、そんな悩みを抱えているのは男だけとは限らないだろうし、彼女達にとっても同じような言い分があるに決まっているんだろうな。  だいたい恋なんて馬鹿げていることが多いと思うよ。純粋な恋って何。恋の約束なんていい加減なものさ。お互いを振り回すだけ振り回しておいて、結局お互いがお互いのことを諦めてしまわなければ、傷つけ合って終結を迎えてもいっこうに構わないものなんだ。  別れ際の、君と出会えてよかっただとか、君が幸せになるように祈っているよなんてもっともらしい言葉、あれは、多分何かの映画の名台詞のなごりに違いないさ。絶対にありえない夢みたいな言葉を役者にもっともらしく言わせるのが、名台詞ってもんだからね。  でも時々僕もこんな風に言ってみせるんだよ。僕らは互いに色々なものを分け合ってきた、最高の友達にも、最良の恋人にもなれたね。でももう分け合うものが何もないんだ。ツマリ キミニハ ツキアイキレナインダ。さようなら。なんて具合にね。まぁ、そう都合よくものごとが上手く運ぶわけでもないけれど。  熱々のファースト・フードなんて食べたことあるかい。どんなファースト・フードも冷めかかってるだろ。恋も同じなのさ。恋は冷めかけてなくちゃいけないんだ。でないと一口がぶりと頬張ったところで火傷しちゃうよ。まぁ、そりゃあ出来たての恋をふーふー言いながら食べるのもおつなものかもしれないけれどもね……。  実はね、僕には最近また新しい彼女が出来たんだ。とっても美人さ。なんていったって僕は大満足しているんだからね。彼女と出会って本当に人生が薔薇色になった思いがした。生きていることが輝き出したようだったんだ。だって彼女は、本当に僕を理解してくれているみたいだったしさ。みたい、なだけで完璧じゃないよ。完璧なんかありゃしないさ。  でもこんな幸せがこの世にあってもいいものだろうかと思うくらいの歓喜を覚えた。もしこの幸せが現実なのだとしたらば、僕の今までの不幸はこの日の幸せを知るためだったのだろうな。それ以外には考えられないよ。絶対にそうに違いない。他の彼女達には結構時間もお金も使ったけれど、石を蹴るような思いも多かったし、これだっていう女性がいなかったんだよなぁ……。  何人もの女性に囁いた「愛している」って言葉が生まれて初めて何の偽りもなく僕の口から溢れたようだった。  僕はカメラマンをやっていてさ、仕事場で知り合ったんだ。初めて見た時なんか、こんな美人がいるもんなのかって自分の目を疑ったくらいだったよ。それにまさか電話番号なんか教えてくれるはずないと思っていたのに、彼女ったらあっさり僕に教えてくれたんだ。それからは毎晩電話したよ。とにかく僕は彼女に夢中になったんだ。  それからようやく彼女とデートするようになって、三度目の時。そうそう知り合ってから二カ月目のクリスマスイブの日さ。二人でディズニーランドに行ったんだ。お互いの仕事が終わってから、僕の愛車ポルシェ911に乗って、首都高速の渋滞を覚悟して。だから着いたのは日も暮れた頃だった。  でもディズニーランドは大賑わいだった。なんせクリスマス・イベントの真っ最中で夜の十時までやっていたんだから。  彼女がちょっとだけ悲しんだのは、入口にテレビのコマーシャルで見るようなぬいぐるみのミッキーマウスやドナルドダックがいないことだった。でも何のことはない、僕らが乗り物に二つ乗っている間に、エレクトリック・パレードが始まったんだ。ミッキーマウスもドナルドダックもピーターパンも子豚ちゃんも愛嬌のいい狼も白雪姫も熊さんも皆いる。彼女はそりゃもう大喜びさ。  何十色もの光を放つ電光の白鳥や船や馬車や奇妙なロボットが派手で賑やかなマーチに合わせて通り過ぎる。通り過ぎるとその後しばらく場内はとても静かになった。すると何十発もの花火が一斉に上がり、僕らの心は充分過ぎるほど幸せに満たされた。  真冬の大空の片隅に咲く花火は、真夏の花火よりもどことなく悲しげに目に焼きついた。その時彼女が僕の手をそっと握りしめてきた。僕もその掌にそっと力をこめた。あぁ、これが恋だ。 「花火綺麗ね」彼女が呟く。 「あぁ、僕もこんなに楽しく時間を過ごしているのは何年振りだろう。それに素敵な女性と一緒にいられて幸せだよ」自分でも嫌気のさすキザな台詞だ。 「私もよ。徹さんと来られて幸せだわ」彼女は僕に合わせてなのか、そんな僕の馬鹿げたキザな台詞にも真面目に応えてくれた。 「徹さん、ディズニーランドに来るの何度目。私、実を言うと初めてなの」  おいおい、ちょっと待てよ。僕はもう二十回は来てるぞ。まいったなぁ。 「あっ、あぁ……。僕は二度目だよ。親戚が訪ねて来た時に子供が一緒だったんで連れてきてあげたんだ」僕は花火の終わった空をじっと見つめて心を隠した。 「嘘ばっかり。本当は何人もの女の子と来てるくせに」彼女は僕の腕をぎゅっと掴んだ。 「痛ててて……。本当だよ」僕は動揺していたし嘘の下手くそ加減に自分でも呆れていた。 「でもいいわ。クリスマスイブの夜を私と過ごしてくれたから許してあげる」  僕はそんな彼女の言葉を聞きながら心の中で思った。  この子本当にディズニーランド来るの初めてなのかな。今時珍しいな……。まぁ、中にはそんな女の子もいるだろうけど、この子売れっ子モデルだろ。今まで何で他の男が連れて来なかったのかな。まっ、どっちでもいいか。今は僕の彼女だし。誘いは多かったんだろうけど、仕事が忙しくて来られなかったのかもしれない。それとも本当は何度も来ていて、単に僕を喜ばせようとしているのかな。まっいいか、どっちでも……。  それから僕らは西洋のお化け屋敷やら宇宙船のジェットコースターやらジャングル探検の船に乗り、そして人目もはばからずに何度も接《くち》吻《づけ》ていた。夜の遊園地はカップルばかり。子供達はもういない。ディズニーランドは大人の国に早変わりしている。  やがて一つずつ乗り物の電気が落とされていった。メリーゴーランドは彫刻のように動かず、お城も青ざめた光の中にたたずみ、ディズニーランドは閉園を迎えようとしていた。 「じゃあ、もうそろそろ帰ろうか」 「うん」  彼女は小さく頷いた後、視線を遠くに向け、まだ明かりの消えていない乗り物の入口に目をやった。 「あっ、あれまだやっているわ。ねぇ、あれ乗りましょうよ」 「えっ」 マダ ノルノ……。でも僕は彼女の視線に逆らえなかった。 「いいよ。じゃあ急ごうか」僕は彼女に手を引かれるようにして、その乗り物の入口に連れてゆかれた。  彼女は僕がためらっていることに気付きながらも、それを無視するようにとても強引だった。  入口の前には係の女の子がぽつんと一人立っていた。慌てて乗り込もうとする僕らをうんざりした顔で見つめ、投げ捨てるような視線で僕ら二人を中へ入れた後、クローズドのロープを入口にかけていた。  別に無理して入れてくれなくてもよかったんだけどなぁ……。僕はそう思いながら入口で一日のバイトに疲れたように重たげにドアを閉める少女を振り返って見つめた。 「と・お・る・さん。私達が最後の乗客みたいよ。ラッキーね」  何がラッキーなんだよぉ……。とほほ。僕は乗り疲れたよぉ……。 「何だか二人の貸切りみたいよ。よかったわねっ」彼女の瞳は僕を食べてしまいそうなほどぎらぎらと輝いていた。 「あぁ……本当に二人きりだね……」  二十人は乗れるカヌーのような乗り物に乗り込んだのは僕達二人だけだった。僕らは海賊たちが町を襲い金銀財宝を奪い取っている残酷でユーモラスな光景を横目に見ながら何度も何度も接《くち》吻《づけ》ながら、結局乗り物を楽しんでいる暇もなかった。ただ彼女は最初からそれが狙いだったみたいにやけに満足していた。  人影もまばらになった園内にはだめ押しのようにまだお土産売場に光が灯っていた。 「何か買っていかない」  僕は彼女の言葉を焦った気持ちで飲み込んだ。 「うっ、うん。いいよ。ミッキーマウスのぬいぐるみでも買ってゆくかい」僕はすこし馬鹿にした口調で彼女にそう言った。すると……。 「だったらミニーちゃんとお揃いがいいわ」  ギャフン。僕は腰が抜ける思いだった。全く少女趣味にも程があるってもんだよ。 「だって二つ一組じゃないと寂しいもん……」 「はっははは。それもそうだね」僕はだんだん自分が情けなくなってきた。 「ねっ、行こう、行こう」彼女は夜になればなるほど僕を追い抜いてゆくように力強くなってゆくようだ。  僕らはもうほとんど客もいないお土産売場に入った。  彼女は何種類ものぬいぐるみを見比べながら、ああでもないこうでもないと、僕から見ればどれも皆同じに見えるぬいぐるみを手にしていた。  一番小さなぬいぐるみを手にした彼女は、 「ねぇ、このミッキーマウスちょっと怖い顔しているわね」彼女はそういってからそのぬいぐるみをもとの場所にほうり投げた。 「だったらあの一番大きいやつにすれば……」  僕の言葉を軽く受け流すように彼女はこう言った。 「あんなのぜんぜん可愛くないもん。あっ、これがいい」  ようやく彼女のおめがねにかなったやつが見つかったらしい。僕はほっと胸を撫で下ろし、セカンドバッグから財布を取り出そうとした。 「いいの。これ私が買うから。私からのプレゼントよ」  うわぁー。やられた。 「ねっ、可愛いでしょ。ちゃんと飾っておいてね。すいませーん、これください」  彼女はお金を払い、売店の人からミッキーマウスとミニーマウスの二つが入った袋を受け取ると、僕に、はいっ、と言ってそれを手渡した。 「あっ、ありがとう……」  彼女はふっと笑顔を浮かべてからつんと鼻をとがらせて、さも自分のしたことがよいことだと僕に誇示するように前を歩き出した。  僕の腕の中ではミッキーちゃんとミニーちゃんが袋の中で肌を寄せていた。いきなり幼少の思いを抱えさせられたような僕には照れだけが生まれ、目がずっと点になっていた。  出口の明かりはとても暗かった。広大な土地に吹く風が遊園地の思い出をぬぐい去ってしまうようだ。夜空は広かった。都会より少しだけ数の多い星々が冷たい空気の中で揺らめいている。 「寒いわ」彼女は身をすくめた。僕は片脇にかさばるぬいぐるみの入った袋を抱えて、もう片方の手で彼女の肩を抱きしめると、彼女はうつむき加減に幸せな表情を見せていた。 「すっごく楽しかったわ。また今度連れてきてくれる……」 「いいよ」僕もまた彼女が素直に喜んでくれたことで気分がよくなった。  二人は氷柱《つらら》のように吹く横殴りの北風をかばうように寄り添いながら、ゆっくりと車の方へ向かった。  帰りの道もとても渋滞していた。 「ああぁ……渋滞しちゃってるね」そう呟きながら僕は彼女に接吻した。バックシートでは袋の中でミッキーとミニーが抱き合っている。  渋滞の間しばらく二人は言葉を無くしていた。すると彼女は急に身を乗り出し叫ぶようにこう言った。 「私ね、道には詳しいのよ。ねえっ、次の出口で出て」 「えっ大丈夫かい」僕は都心に向かう道路には造詣が深くなかったので心配だった。 「いいからまかしておいて」  僕はウインカーを出し今まで下りたこともないような出口を下りた。  すると案の定、道は住宅街の裏側を走っていた。僕はがっかりした。道筋はどうみてもまたディズニーランドの方へ向かっている。まさか知ってる振りをしているわけじゃないだろうな。 「そこ左」 「えっ」僕は彼女の言葉に慌ててハンドルを切った。暗がりで道もよく見えない。 「次はそこの手前のところを右ね」  整備中の湾岸沿いに突き当たった。 「次すぐ右で、道なりに行って。そしたら次の交差点を左に曲がって」  まるで教習所の最終検定試験のようなコースだった。 「後は次を右に曲がって、その次を左、そしたら後はずっと真っ直ぐよ」  暗がりの中に商店街が見え始めた。商店街の全てのお店はシャッターを降ろしていた。暗がりの商店街を抜けるとそこは国道だった。  いきなり眩しいヘッドライトに巻き込まれ始めた。けれど首都高速道路なんかよりはずっとスムーズだ。すいすいと車も進んでゆく。この時間帯なら高速道路より下の道の方が断然すいていた。 「へぇー、君ってよく道のこと知ってるね」  彼女は平然としてこう言った。 「仕事で同じ所をよく通るから自然と覚えちゃったの」  それにしてもよく知っていると思う。前の彼氏がタクシーの運転手か何かだったのだろうか。  彼女は何か別なことを考えているようだった。僕は彼女の顔を覗かずにそれとなく尋ねてみた。 「どうしたの」  彼女は何も答えなかった。僕は自分の言葉が取り残されて馬鹿らしくなった。  が、そんな僕の気持ちとは裏腹に彼女は勢いよく叫んだ。 「次の大通りに出たら左っ!」 「おっとっ……」僕は彼女のナビゲートの真剣さに呆気に取られた。  するといつの間にか一の橋まで来ていた。何という裏道の達人であろうか。こりゃまたびっくりだ。  僕は気を取り直して彼女に尋ねた。 「ねぇ、お腹すいてないかい」 「うん。何か食べましょうか」 「何がいい」 「うーんと、何にしようかしら……」  これもまたお決まりといえばお決まりなのだが、ちょっとグルメで割りと値段のいい店に入った。デートでも使うし、仕事でも使う。ただ時間帯がそれぞれの用途に応じて変わるというだけのこと。  彼女もやはりこの店にはよく来るらしい。 「このお店でいいかい」 「構わないわよ」彼女はにっこりと微笑んだ。 「あっ、あそこが空いているからあそこに車止めるね」  縦列駐車は僕のもっとも不得手とするところで、切り返しを連続で十回以上しなければならなかったし、それでも車は真っ直ぐに並ばず斜めだった。 「まっ、こんなとこかな」  彼女もすこし呆れていた。 「じゃあ降りようか」  すると自動車電話が鳴った。  しまった電話を切り忘れてた……。やばい、そう思った。なんせ今日のデートは他の女の子をすっぽかしてのデートだったのだ。  この時間帯で自動車電話に仕事の電話がかかってくることはまずない。絶対にあの子だろう。 「でないの……」彼女はけげんそうな顔で僕を見つめていた。 「あぁ……。どうせ仕事の電話だろ。まいったなぁ、もう……」 「じゃあでなさいよ」 「えっ、あぁ……」僕はしかたなく電話を取った。 「もしもし……。えっ。うん。仕事。そう。後もうすこしかかるかな。分からないよ。折り返し電話する。えっ、違うよ。ちょっと待てよ……。何怒ってるんだよ。違うってば……」電話はすぐに切れそうもなかった。 「私、降りて待ってる」彼女はその電話が仕事ではないことに気が付き呆れ返っていた。 「ちょっと……」彼女を引き止めるわけにもいかず、電話を切ることも出来なかった。  電話口の彼女に言い訳するのに三十分はかかった。その間中、彼女は夜風に吹かれ、うつむいていた。多分心も体も冷え切ったに違いない。  ようやく電話の彼女をなだめてから車の外に出た。彼女はじっと遠くを見つめていた。デートでこんな醜態をさらしたのは生まれてこのかた初めて、というわけでもないが、いつも困る。僕は調子よく彼女の機嫌をうかがった。 「いやぁ……。仕事の相手が女性だと僕はなかなかやり辛くて困るんだよね。ごめんね、寒かったろ」僕が自分のコートを彼女の肩にかけようとすると彼女はそれをかわすように歩き出した。そして僕の顔を横目で見ながら小声で囁いた。 「もう……。風邪ひいちゃう……」彼女は甘えるように頬をふくらませそう言った。  あれっ、ずいぶん可愛いこと言うなぁ……。  僕らは店に入り軽い食事を取った。僕はビールを一杯だけたのみ、彼女はジンジャーエールをたのんだ。僕は遊園地で歩き疲れたせいか、たった一杯のビールにすら酔いを感じていた。  前菜のメニューにモッツァーレラチーズを調理したものが数品ほど記してあった。それを見ると彼女は子供のようにはしゃいだ。 「うわぁー。私の大好きなモッツァーレラチーズがあるぅ……」彼女の思考回路が胃と直結しているような口調だった。 「えっ、そんなにそれ好きなの」 「うん。大好物なのぉ……。ねぇ、これとこれとこれたのんでいい……」彼女はまるで親にでも甘えるような視線を僕に投げかけていた。  僕はただ可笑しくて微笑みを浮かべていた。 「いいよ。どんどん食べなよ」  えぇいっ、そんなに好きだって言うなら店中のモッツァーレラチーズ全部持ってきやがれ、べらんめいっ。こちとら江戸っ子でいっ。  彼女は僕のおどけた言葉に何の反応も示さなかった。まさしく彼女の頭の中はモッツァーレラチーズで埋め尽くされ、今まさしくモッツァーレラチーズの飢餓状態にあったのだった。  さっそくボーイが注文を聞きにくると、彼女ははやる気持ちを多少抑えながら、 「えっと、このトマトとモッツァーレラチーズっていうのとモッツァーレラチーズの空揚げと、えっと、えっとそれから、これは何ですか」  ボーイが紳士的な笑顔を浮かべながら彼女に答えた。 「これはズッキーニのお花のなかにモッツァーレラチーズをいれてオーブンで焼いたものです」 「じゃあそれもください」彼女はしつけのよい子供のようにオーダーした。  が、その後に、 「それぞれ何個お持ちしますか。何個でもご用意出来ますけれど」というボーイの気の利いた台詞に彼女はまた抑制の利かない食欲を覚えたようだった。  僕は彼女のはしゃぎっ振りに可愛らしさと馬鹿らしさを感じた。  ボーイさんっ、えっと、百個ぐらい持ってきてやってください。出来れば彼女の頭の上からバケツでモッツァーレラチーズをかけてやってください。実は彼女は水牛の子供なんです。僕はメニューで顔を隠しながらぶつぶつと呟いた。 「えっと、二つずつもらえますか。えっ、でも全部入るかしら。どうしよう」 「いいからたのんでおけばいいじゃない。残してもいいし」 「えっ、でももったいないわ」彼女は僕の言葉を右から左へ聞き流しながら、メニューと真剣ににらめっこしていた。  そして何かにとりつかれたように唸り声をあげた後、 「じゃあ、二つずつにしてください」と、きっぱりと言い切った。  僕は野菜のマリネと鰯のオーブン焼きとそれから生牡蠣を五つたのんだ。 「前菜の方は以上ですね。ではパスタの方はどうお持ちいたしましょうか。今日ですとイタリアのきのこをガーリックで炒めたものや、イカの黒墨などが用意出来ますけれど」  ボーイはメニュー以外の品を僕らに勧めてくれた。ずいぶん気が利いてるよな。さすがだぜ。流石《さすが》。流石。高いだけはある……。 「えっ、イカの黒墨って私初めてなの。私それにする。でも全部はお腹に入らないかもしれないわ……」 「残してもいいじゃない。僕はバジリコにしてください」 「はいかしこまりました。ではメインの方はいかがなされますか」 「メインはお腹に入らないわ、きっと……」 「じゃあ、僕がたのんだのをちょっとだけ食べればいいじゃない」 「うんっ。そうするわ」  僕は牛ヒレ肉の薄切りにアンチョビ風味のソースをかけて食べるティポペッツァというものを五枚ほどたのんだ。  次々にオーダーしたものが目の前に運ばれてきた。彼女はモッツァーレラチーズを目の前にすると狂喜乱舞してみえた。 「いただきまーす」二人は声を合わせ、そう言って微笑みを浮かべ合った。  ぱくぱく、ぱくぱく。前菜は彼女の口の中で美味しそうにとろけていた。僕は今にもほっぺたが落ちてしまう、と言わんばかりの彼女の幼い笑顔を見つめながら、なんだか幸せな気持ちになった。 「美味しいかい」そう僕が聞くと彼女は何の屈託もなく頷いて、ぱくぱく、ぱくぱくモッツァーレラチーズを頬張っていた。  前菜を食べ終えるとまるで背伸びでもするように、あー美味しかったと、彼女は恍惚とした笑顔を浮かべて僕にこう言った。 「あー、し・あ・わ・せ」  すると次にパスタが運ばれてきた。彼女のたのんだイカの黒墨のスパゲティーはぴかぴかと黒光りしている。僕はバジリコはそれに比べればあっさりとし過ぎているくらいに見えた。  彼女はくるくると黒墨のスパゲティーをフォークに巻き付け、またぱくぱくと食べ始めた。 「結構いけるわ、この味」彼女はイカ墨で真っ黒になった歯を見せ、にかーと微笑んだ。かと思うと突然一粒の涙を流し始めた。涙はとろーりと頬をつたい、彼女は話し出した。 「あなたのこと本気になっちゃいけないのよね。本気になると辛いのはきっと私の方だもの。あなたと付き合うと不幸になるような気がするの。でも好きよ。初めてあなたと出会ってからずっと好きだったの。きっとこんな風になると思っていたのよ。でも人を好きになった時にはきまって燃え上がった方が傷つくわ。そんなの嫌ぁ」うわーんっ。  話し終えると彼女は店中に響き渡るガラスを引っ掻くような声を張り上げて泣き出した。涙はアイシャドーを溶かし、目のまわりは黒く太く縁取られ、真っ黒な口を大きく開いて泣き出した彼女は、まるで目を回したたぬきのようになってしまった。  僕は可笑しくてふき出しそうなのを懸命に堪え、突然の彼女の精神分裂症状に対応すべく話さなければならなくなった。とにかく僕は彼女の涙の数より多く喋るように努力してみた。 「えりちゃん。僕だって君のことが大好きだよ。何で分かってくれないのかなぁ。君みたいな美人と食事出来て、それにそんなに綺麗な涙まで見せながら気持ちを打ち明けてくれるなんて思いもしなかったよ」  あーあーあーあー、そんなに口を広げて泣かないでよ。口の中真っ黒だよ。 「えりちゃん。僕だって本当は怖いんだよ。人を好きになるといつも傷つけ合ってしまうことぐらい僕にだって分かるから。でも求め合う時は求め合ってしまうものさ。逆らえるものじゃないよ」  おいっ、おいっ、おいっ、ナプキンで鼻をかむなってゆーのっ! 「でもね、恋だとか愛だとかいう言葉の後に何が残るのかな。僕はただ互いを待つことだけだと思うんだ。心が出会う時をただひたすらに待ちながら、寄り添ってゆく以外ないんだと思うよ。それが答えなんじゃないかな。求めてもいけないし、捨て去ってもいけないんだ。それが愛のルールなんだよ。時の流れの中でじっと見つめ合うこと。それが愛なんだと思う。息が詰まる時もあるだろうし、ふっと自分一人の世界に入り込んで目の前にいることを忘れてしまう時もあるだろうね……。でも目をそらさなければいいんだ。見つめ合うことにすら疲れてしまったら愛は終わりなんだよ」  ふぅー、一気に喋った。彼女っ! ちゃんと聞こえてますか。 「えりちゃん。どう思う……」  彼女はようやく涙を止め、ぽつりぽつりと話し出した。 「違うの。私はあなたといると不幸になるのかもしれないと思うといてもたってもいられない気持ちになるの」  だーかーらっ! 何を聞いてたんだよ。この子はっ! それでも僕は平静を装い、 「それで……」とクールに聞き返した。 「だから私を一人ぼっちにしないで。お願い、約束してね」 「絶対、一人になんかしないよ」 「でも、あなたとちゃんと付き合えるかもう少し考えさせて」  こーのーっ! 何を考えて喋ってるんだ。おのれっ! 余をたぶらかすでないぞよっ! 「あぁ……、勿論君がどんな答えを出しても構わないよ。君の人生だもの……」 「でも私を引っ張っていってくれる人がいいのぉ……」  あーあーあーっ。出たよ、出ちゃったよ。いい加減にしろいっ! 「勿論、男として君を引っ張ってゆくつもりさ」牛でも馬でも狸でもリヤカーでもトラックでも新幹線でもロケットでもこうなりゃ何でも引っ張ってやるよっ! 「でも私を縛らないでほしいの。私縛られるのって大っ嫌いっ」  ははははっ……。僕の苦笑を横切って彼女は話し続けた。 「私、今までこんなに人を好きになったことないのよ。私あなたと不幸になっていくのが怖いけれど、あなたと離れるなんて絶対に嫌。でも私諦めようと思えばあなたのことちゃんと諦められるのよ。あぁ……、私あなたのことずっと好きでいられるのかな。あなたは私のことだけを好きでいてくれるのかな。信じられない。でも、信じたいし。ねぇ、何で私のこと愛しているって言ってくれないの。私のことなんか愛してないんでしょ。他に好きな人が出来たら私のことなんかすぐに捨ててどっか行っちゃうんでしょ。そしたら私だって自由にやるんだから。私のこと好きだって言ってくれる人は、あなただけじゃないんだからね。他にもたくさんいるんだから。私だって、私だって……幸せになりたいのよっ!」彼女はもう一度大声で叫んだ。  幸せになりたーいっ! 「ちょっと待ったっ! 君の言いたいことはよく分かった。でも君は君一人幸せになる術を考えているだけじゃないか。何だか君の話を聞いているとファースト・フードみたいだよ。ハンバーガーやピザみたいに美味しそうなもの全部を一度にがぶっと食べようとしている。いやっ、そうじゃない。君はね、僕にはファースト・フードを食べさせておいて、君はもっと美味しいものを自分一人だけで食べようとしているんだ。だから怖いんだろ。君は僕に君と同じものを分け与える自信がないから、もし僕と一緒にいるようになって君自身が美味しいものを食べられなくなってしまうのが怖いんだ。ただそれだけだよ。でも目の前をご覧よっ! 今二人で食べてるのは何だ。イタリア料理だ。ちゃんと美味しいものを二人で食べているじゃないか。こんな美味しいものはゆっくりと食べるんだ。分かるだろ……。  ねぇ、せっかくだからイタリア料理の時はイタリア料理らしく食べようよ。値段だって高いんだしさ。高級な食べ物をファースト・フードみたいに食べたら、君の好きなモッツァーレラチーズちゃんだってかわいそうだよよよんっ。ねっ」  彼女は大きな目をぱちりと開き、きょとんとした顔で、 「それもそうね……」と、そう呟くとつつましやかにイカの黒墨のスパゲティーをたいらげ、メインのティポペッツァも僕と分け合い二枚と半分ずつ食べた。  僕は半分に切ったティポペッツァを彼女の口元に運び、彼女は残りの半分を僕の口元に運んでくれた。  それからデザートに僕はカシスのシャーベットをたのみ、彼女はティラミスとチーズケーキを少しずつ食べ、食事を終えた。完璧な食事だった。  店を出て僕の愛車ポルシェ911に乗り込むと、僕らの前を一台のお好み焼き屋のデリバリーの三輪バイクが通り過ぎて行った。 「最近あんなのも出来たんだ。今度あれ食べてみるかい」僕はバイクを見つめながら彼女にそう尋ねてみた。 「そうね……。でも美味しいのかしら……」 「さぁ……。それはどうだか……」  二人は首をひねりながらふっと互いの顔を見合わせて微笑み、かるーい接吻を交わして夜に溶けていった。    LOVE WAY      この物語は実存するある物体や観念との対決のドラマである。  ひどく煙たく寝不足の朝。  その日僕はアンフェタミンを0・5ミリグラム体内に投与したことによって、幻覚と幻聴の中にいた。  僕が薬を使いだしたのは何故だろうか。ことの始まりは現実を深く掘りさげそれを直視しようという行為だったんだ。そのためには既成概念を捨て価値観を変えることすら覚悟していた。だってこの事実に対して如何に対処してゆくかは、僕に残され課された、人間として生きることの意味を追求する最後の道だという気がし始めたんだから。でもこの狂い出しそうな興奮とぼやけた頭に訪れる幻覚と幻聴の中にいる僕は、人間というものから逸脱してしまいそうだ。だけどね、これは僕にとって人の求める幸福の答えを知る唯一の、神に近づこうという最大の挑戦なんだ。この行為が法を犯しているものだとしても……。  ただ客観的に見れば、単に僕が背負い切れないものから逃れようとしているだけの姿とも、それとも罪の意識をも無くして自分のことしか考えずに幸せを追求している貪欲な姿ともとれるだろう。そしてその結論が本当にそんなことだとしたら、人間を、まして神をも侮辱する最低の行為だ。  だけどごらんよ、流れ行く時の中で誰もが曖昧な幸福よりも絶対的な幸福を求め、時代に対応してゆくために古いイデーを捨て、生活形態すら変えてゆくんだ。そして誰一人として自分が背負わされた運命にあまんじて生きているわけじゃない。競争という形態を作り出し、可能性を試すという行動に置き換えながら、時には善意さえも踏みにじり、人間は人間自体をいともたやすく振り分け、差別している。それはまさに欲求の最大公約数を最小公倍数に置き換えた社会との折り合いで、それをあてがわれ続けている民衆の困惑と傷みに対してなど何もなす術《すべ》もなく、それを最も正しいものだとして信じ込まされる偽善的行為に身を委ねる……。僕は思うんだ。人間にとって幸福の欲求と追求こそが最大の醜さであり、また最高の美学だと。  だから今僕は、形而上による形而下を具体化出来ればいいと、そう望んでいる。この気違いじみた価値観の相違を生み出す幻聴と幻覚に呑み込まれながらね。    薬を服用し始めてから半年位になるかな。半年前までの僕は日常の生活にただとりとめもなくうんざりしていた。人間関係は親や学校の曖昧な倫理観によって成り立ち、独り暮らしの生活は資本家から支給されるわずかなお金でまかなわれていた。それだけで充分なのだとそう思い込ませて暮らしていたのだが、全てがいつもどこかで噛み合わない歯がゆさと、他の人々が背負っているように思える苦悩を感じながら、それらに疑問を持っていた。  そしてその生活に慣れてゆくたびに僕は僕自身に自己欺瞞や偽善を感じていたんだ。僕に対してなのかどうかは分からないが、友達や周りの人々の口からも時々そんな言葉がこぼれるのを耳にしたしね……。ただ僕には漠然とそんな思いが募るだけで、本当に何が足りなくて一体何をどんなふうにすれば全てのものから許され、解き放たれるのか全く分からなかったんだ。  多分ひとつは単純な価値観の相違だろう。体験的な生活環境が作り上げる性格は物事に対する見方やその角度を確実に決定させている。それに対してとやかく言ったり出来るのは、とてもわずかで信じるに及ばないほどの知識によって権力を強制的に行使する先生か警察くらいなものだ。だから僕にはその時点では、そんな価値観の相違をただ黙って見つめているより他、手がなかった。だって僕には彼らを裁く権限もなかったし、本当のことを言わせてもらえば、僕は性善説を信じていたから全ての人間は善行を施し、いつしかやがてはこの世の全てを浄化させるにいたるのだと本気で考えていたんだから。けれどいっこうに変わることのない僕の背負う呪縛の念は、日毎にすこしずつすこしずつその強度を増してゆくようだった。    ある日僕は新宿の繁華街を友達と三人で歩いていたんだ。街は暴力の渦中に生み出されたかの如く支配され、快楽と悦楽のネオンを卑猥に輝かせていた。いたるところに裸体の女の写真が溢れ、それらは性欲の対象とは別に、まるで全ての男達が浮遊しながら夢精し、吐き出した意味もない精液の残像が作り出したようにどろどろとして見えたよ。僕らは安酒をあおるために店を探し歩いていた。道すがら大人の玩具なんていう店に入り裏本や裏ビデオのカタログを見たりしているうちに、店員の上手いくちぐるまにのせられてね、僕らは三人で金を出し合って「元子の秘密」なんていう裏ビデオを買うはめになったんだ。そのビデオはまだ友達の部屋に置いてあるはずさ。結局僕は一度も見る機会がなかったんだけどね……。後でそいつから聞いた話じゃ、サイアク、だったらしいよ。  裏ビデオを一本買った時に、おまけに裏本を一冊つけてくれたんだ。皆すぐに中身が見たくなってさ、路地裏に入り込んで本を開いてみたんだ。えぇっと本のタイトルは「失神願望」だったっけな。それでもさ、中身を見たらすごいのなんのって。何がすごいっていうと、一人の女が三人の男と抱き合っているんだけどさ、まぁ女体の上から下まで穴という穴に男性器が入り乱れてるわけなんだ。でも思うんだけどさ、よっぽど女が好きか、でなければ女に恨みがあるか、もしくは女性自体に異常な執着心があってさ、例えばそれは幼少の頃に母親に抱いた何らかの気持ちと似たもので、憧れや失望や抱擁から訣別にいたるまで、ありとあらゆる女性にたいして抱き続けていた理想と現実の問題なんだろうな。  男達三人は一様に自己陶酔の中で試行錯誤を繰り返しながら、決して辿り着けない女性の領域へ手を伸ばしているみたいでさ、なんだか男って悲惨なくらい悲しい生き物だと思ったよ。女性の方はそれを理解しているのかしていないのか分からないけれど、恥じらいすらもなくした女性の姿を見るとさ、やっぱり男性の領域に触れたい気持ちの方が強いのかなって僕は瞬間的にそう感じたね。染色体が違うだけでこれほどまでに人生の役割分担があるっていうのも可笑しくも哀しい話だよな。こういうのを悲しみの役割分担とでもいうのかな……。それにしても、女の方は泣きじゃくっているシーンもあるしさ、男達は何だかわけも分からないほど興奮しまくって、まるで犬みたいなんだ。でもお笑いなのがさ、最後のページでさ、その男と女が四人で正座してカメラに向かってにっこり笑ってるわけ。こりゃもうだめだって僕には大ウケしたけど、友達なんか怒っちゃってさ。だからといって一体その友達も何を期待していたのかな。家庭の医学みたいに女性の断面図みたいな結末で締め括ってほしかったのかなぁ。わかんねぇや。  裏本はその場で捨てちゃったよ。だっていくら新宿とはいえ、裏本をまるだしで持って歩くなんて恥ずかしいからね。それに怒った友達がびりびりに破いて放り投げてしまったんだ。別に自分の彼女が写っているわけじゃないんだから、そこまで怒ってみせる必要もないと思ったけど、それを見ながら僕は大笑いしてたよ。  結局僕らは友達が何度か仕事の先輩に連れていってもらったことのあるっていう、小さなクラブに行ったんだ。そしたらそこのマスターがおかまでさ、体は筋肉質でがっちりとしてるんだけど撫で肩で、話すことといったらもっぱらおかまどうしの痴話喧嘩のことだったりするんだ。でも彼はさ、自分が本当は女なんだって本気で信じ込んでいるからかな、話し方にも仕種にも普段見ている女性よりよっぽど女っぽい繊細さがあるんだ。  都会の夜空って素敵よね、なんだか私の心みたい、なんてことをしゃあしゃあと言ってぬかす度胸にもまいったけどね。でも結構可笑しくてさ、おかまのマスターと一緒にカラオケを歌って、バーボンのボトルを一本空けちゃって、もうへろへろに酔っぱらったよ。  帰りがけに夜空を見上げたら、そのおかまのマスターの言葉だけが鮮烈によみがえってさ、へぇ新宿の夜空っておかま色なのかなんて真剣に考え込んで、三回も吐いたよ。別におかまがどうのこうのってわけじゃないんだけどさ、自分の価値観と全く違ったものが押し寄せて来て、自己喪失に陥ったんだ。友達も僕につられて吐いてたよ。そいつは吐きながら、あの裏本見なけりゃよかったよ気持ち悪いぃ、なんて言いながらいまだにあの本にこだわってたんだ。きっとそいつの期待していたいやらしさの想像よりも、その本のインパクトが強すぎて気持ちの悪いものだけになったんだろうな。人間の持つことの出来る愛欲の変容の許容量なんて本当は希薄でわずかなものさ。わずかだからこそ憧れるんだ。わずかだから大切なんだ。大切に思えてしまうんだ……。  午前二時頃だったかな、皆タクシーに乗って帰って行ったんだ。そしてその時タクシーを拾うのは僕が一番最後だったんだ。二人を見送ってから、僕のタクシーはなかなかつかまらなくてね。それに飲み過ぎてもどしたせいで喉が渇いてしょうがなかったんだ。だからさっきの店の方にあった飲料水の自動販売機の所までもどってみたんだよ。そしたら若いヤクザ風の二人の声が聞こえたんだ。 「兄貴も元気だよな。もう三日も寝てないんじゃないの。女の方はばんばんいくし、体力あるよな」 「そりゃおめぇ、シャブやってっからよ。三日ぐらい寝なくたって全然へいきってもんよ」 「へぇ」  その話し具合は結構危ないと思ったよ。それにその時、僕とそのヤクザの目と目が合っちゃったんだ。なんだかやばい気がしたよ。シャブって覚醒剤のことだろ。あの深夜のテレビスポットで、覚醒剤止めますか、人間止めますか、ってやつ。それにその時の僕は別に覚醒剤なんかに興味があったわけでもないし、出来ればそんなものに係わりたくはないと思っていたんだからね。でも酔っていたせいもあったのかな……。案の定ヤクザはさっそく僕に目を付けて近寄ってきたんだ。兄貴風のヤクザに顎で指図されたもう一人の背の小さい男がね、近づいて来た。そいつの肌は傷を負ったように荒れていて汚かったな。でも目だけは異常なほど輝いていた。そいつが僕にこう言ったんだ。今でもはっきり覚えている。 「兄さん面白いものあるんだけど買わない。一万でいいよ」  ニイサン ニンゲン ヤメマスカ イチマンエンデ イイヨ 「ちょっとこっちへおいでよ」  ソコニ メイロノ イリグチガアルンダ  僕は小さな路地に連れてゆかれた。何だか馬鹿にされてるみたいな気がしたんだ。怖かったんだけど、ヤクザ達の口調がやけに軽快だったんだよ。その時にきっと大きな勘違いをしてしまったんだよ。それが事実上の始まりかな、人間止めますかってやつのさ。  でもさこのヤクザ、覚醒剤やってるけど別に普通の人間に見えたし、それになんだかとっても楽しそうに思えた。常識を求めるのは無理かもしれないと思ったけど、僕の全く知らない価値観を兼ね備えているようだった。  その二人のヤクザは路地裏の下水管の後ろかなんかの見えない所から覚醒剤を持ってきてね。そして僕はそこで生まれて初めて小さなビニール袋に入れられた1グラムのシャブを見たんだ。お菓子の乾燥剤を細かく砕いたようなやつでさ。ただ異常なほど効き目がありそうに思えたし、絶対に素人が手を出して手に負えるものじゃないと思ったな。 「面白いからやってみろよ」  ソシタラ オマエモ シャブチュウノ ナカマイリサ  ヤクザの口調はだんだん強制的になってきた。 「面白かったら、そのうちもっと安く売ってやるからよ」  イチドヤッタラ ヤメラレナイヨ  僕が断らなかったのは現実から逸脱したい欲求のためだけだったのかもしれない。ただ、どうしても新しい価値観が欲しかった。それはいつも何かが自分に足りないと思っていたからだし、そしてそれがいつまでたっても変わらない呪縛の念となって僕を苦しめ続けていたからだ。何か新しい角度で物事を判断出来るようになれば、もっと社会や物事に折り合いがつくと思っていた。正しい理想は必ず現実化される。そう信じていた。何故、人々は同じことで喜び合い、互いの精神を浄化させるにいたらないのか、また、その理想の思いを言葉にしたり、表現したりすることが時に人を傷つけるのか分からなかった。その薬を買った瞬間から僕はもっともっと自分を苦しめる境地へと追いやっていくはめになったんだ。そしてそうなるなんて思いもしなかった。    どこから話せばいいだろう。  アンフェタミン、覚醒剤、シャブ、フェニルメチルアミノプロパン、ヘロイン、コカイン、アヘン、LSD、マリファナ、クラック、ハシシ、モルヒネ、etc……。  それらの類のものはたいがいやり尽くした。けれど語り尽くすことは難しい。それらが薬物であり、中毒症状や幻覚幻聴作用をもたらすことはいうまでもない。しかしそのもっと奥に人間という概念を縁取るものがある。そこには日常の常識が語られ用いられることもありうるが、全く想像を絶することもあるんだ。だが、現実にその世界が存在していることを証明する手だてが無いことや、その世界自体を何も知らない人々に無下に語り明かしてしまうことにも危険を思い知らされる。  僕の知る限りの常識で語るならば、人間というものは所詮一人きりであるというとてもペシミスティックな発想から呼び起こされる孤独と、その逆にまた一人の人間は触れ合うものの全てが心に宿り、成り立っているものだ。が、そんな事実を現実への関与に向けて語るとしても分かりづらいことだろう。もしある別種の世界が存在するとしても、それは限り無く異質で現実離れしたものなので、それを肯定する時には誰がどんな世界の価値観で生きなければならないのか、また生きようとしているのかに対して、善し悪しの判断を下すことはとても難しいことだ。それが人間愛における共存を意味するものであるならば。  仮に法律という名のもとで全てを判断するならば簡単に裁くことは出来るかもしれないが、それ自体はある断面的なものであり、これから僕が話す経験による事実を認めるには到らないであろう。  ある熱心な宗教家達の話には、必ず目に見えないものや、手にとって見せることの出来ない自然界への理解がある。例えば霊という存在がある。人間の肉体的な親子関係や兄弟関係は霊の世界では全く違うものだという話を聞いた。人間が現実の中で感じる孤独はその霊としてのつながりから来るものなのかもしれないと、その話を聞いた時そう思った。僕にはその事実を認めることが出来るんだ。何故なら……。    その日僕は薬を手に入れた後、ついでに娼婦を買いホテルへとしけこんだんだ。その女はどうみても四十歳はいっていた。痩せた体の皮膚のたるみや脂肪のつき具合で分かるんだ。その女はさかんに仕事に励んでいたが、僕は全く興奮しなかった。相性が悪かったのかどうかはよく分からなかったが、その行為はとても業務的に感じるものだったし、とてもかわいそうに思えてならなかったんだ。でも逆に僕が代わりに彼女を愛撫してやると彼女はすごく喜んだ。それでも僕はとても冷静なままで、それ以上の欲求はわいてこなかったんだ。そして彼女はすこしがっかりした表情で溜め息をついた後、ねぇあんたホストにでもなれば、なんて真剣な眼差しで僕を見つめながら、僕の愛撫を楽しんでいたよ。  それから僕は洗面所に行って、バッグから薬と注射器を取り出し準備したんだ。僕は腕をホテルの羽織の紐で結び血管を探しながら、彼女にもすすめたが、私はいいわ、と言って彼女は首を横に振って薬をやらなかった。それでもよかった。何故なら覚醒すると薬をやっていない奴といても、一緒にやったのと同じ様な気持ちになるからだ。結局現実には人間の考え得る限度などしれたものなのだから……。  ただその日だけはいつもと違うトビ方だった。僕の体中に薬が回り出すと彼女は何も期待しなくなったように黙りこくり、僕には幻聴が聞こえ出したんだ。  いつもは意味もないことばかりが繰り返される。例えば人間の醜さをさらけ出すようなことばかりだ。欲望の縮図みたいに……。何もかもそこには限界や規律がないものだった。でもその日はいつもと違ったんだ。幻聴がこう呟いた。  ネェ ワタシハ ホントウハ アナタノ オネエサンナノヨ  彼女は僕をじっと見つめていた。僕はわけが分からないといって呼び返すように彼女を見つめ返した。  ソンナコトモワカラナイノ ショウガナイワネ  彼女は僕に囁きかけるその幻聴に添うようにして溜め息をついて目をそらした。そんな彼女の肩をそっと抱きしめると、彼女は意識の中で僕を遠ざけながら目に涙を浮かべていたんだ。  イッタイドウシタンダイ  幻聴はそれ以上何も囁かなかった。彼女も意識の中に残像としてぽつんとひろがり、僕には幻覚が見え始めた。想像する全てのものが目に映った。まるで宇宙にでもいるような気分だった。意識が時間の中に止まる時に、時間は光の速さを超え、時間が意識の中に生まれる時に、時間はその流れを止める。時間という概念は光と闇を分けるには及ぶが、もし闇の中にだけ存在しているものと光の中だけに存在しているものがあるとしたならば、時間の概念は根底からくつがえされるであろう。  幻聴は、サヨナラ、とそう囁き、彼女は黙って部屋から出ていった。  仮に彼女が霊の世界では僕の姉だとするならば、それは一体いつの話なのだろう。前世だろうか。それともやはり現在の霊の世界にもとづいたものなのだろうか。霊の世界の姉は、それがどういった理由や原理にもとづくものなのかを何ひとつ話さずに消えていってしまった。  僕は薬を打ち続けた。やがて全身がしびれだして、何かにすがりつきたいほど落ち込んだ気分になった。だから僕はホテルのベッドにへばりつくように眠ろうとしたんだ。ベッドには彼女の臭いが強く染みついていた。彼女の娼婦としての業務的な行為に対して興奮しなかった僕の欲求不満が脳をかきむしった。  だいぶ前から感じていたが、多分、僕の心の囁きは誰かの幻聴となって聞こえているのだろう。それはもう一人の僕が喋ることで、僕の知る僕には一切分からないことだ。つまり僕の知りたいと思うことはいつまでも分からないままなのだろう。何故ならそれはもう一人の別の自分が知っているからだ。    薬を使いだしてからの生活は頽廃的だった。が、曖昧な倫理に縛られない本当の自然の姿に触れるようでもあった。現実からの逃避のようでもあるし、自然に帰ろうとする純粋な姿とも思えた。しかしだからといって平和でもなければ優しいものでもない。深く入り込めば入り込んでいくほどつまらなく感じるのは、所詮人間の考え得るものの狭さと、それに対する諦めの境地を思い知らされるようだったからかもしれない。共同幻想の中に生まれる個体表現の行く末などたかだか体験的な記憶を辿る個体同士の追い駆け合いに過ぎないのだろう。  薬は個体である。自我という欲求の現れだ。病んでいるものこそがそれを求めているんだ。様々な幻覚を見るが、それは自己の欲求を知らしめるもののようだ。現実という曖昧で不確かな生活よりはよっぽど真実をついている。幻覚のなす術は生存しようという欲求にあるようだ。しかし、もし今ここで現実とされているものから、この目の前に繰り広げられる未だ不確かな意味をもつ幻覚や幻聴の世界に移り変わったとするならば、僕はどう対応してゆくべきだろうか。  幻覚には様々なものが見えた。古代に生存していたといわれ図鑑でしか見たこともないような物体さえもが透明なまま現れていた。時間が流れていくものと逆流するものとで交差しているようだ。恐竜のようなものが宙を羽ばたいている。アンモナイトのような物体がいつも見ていた壁にへばりついている。そしてたくさんの小人たち。その顔は時に人間の姿をした豚のようだったり狼のようだったりした。あるものは銃を持ち、あるものはテレビカメラを抱えていた。そして漫画で見るような宇宙船が飛んでいる。ガラス窓には色のついた人の顔がへばりついている。もし僕が薬を使ったこともなく、使わずにこの状況に遭遇したならば、全てはお化けなんだとでも説明しまくっているだろうな。そしてそれらは幻聴よりももっと強く意思を投げかけているようだ。    僕は郊外に車を走らせ道端に車を止め、車中で薬を投与し、効き目が現れてから車を出て森の中を歩いた。誰もいないはずなのにいたるところに視線を感じる。そしてまるで映画でも見ているかのように、目の前をUFOのような物体が飛び交って見えた。一人乗りのその宇宙船のような物体にはまるで鬼のような顔をした老婆が乗っていた。僕がじっとその物体を見つめていると、その物体は飛行路を変え、あたかも僕に危害を加えようとするかのようにUターンしてきたので僕はその物体を無視した。小さな石仏の前に立つと、異様な光景を見た。いくつもの首がその石仏の中に落ちてゆくんだ。そして叫び声が聞こえる。オマエノクビモ キッテヤルという言葉と共に……。何かが裁きを受けその首を切られているようだ。そしてまだ首が半分つながった物体はまた天へと上ろうとしていたが、やがてその首はちぎり落とされている。あたかも天に裁かれて罰を下されているものたちの姿のようだ。これが死後の世界なのかもしれない。  車に乗り込み近くのモーテルまで走って部屋を取った。受付の女は体中に濃い体毛を生やしているように見える。そして僕には彼女が今にも服を脱ぎ出してセックスを求めてきそうに思えてならなかった。小さなシングルルームの鍵を受け取って僕は部屋へ向かう途中、廊下で表情ひとつ変えない女とすれ違った。見覚えのある顔だ。そうだ、芸能人の田中美穂に似ている。でもブラウン管で見ていたより背も大きく髪は天然パーマのようにひどくいたんでいた。その女はすれ違いざま僕に微笑んだようだった。全てを知り尽くしたかのように無言のまま……。  明かりのついていない部屋に入ると、そこにはありとあらゆる幻覚が見えた。僕は明かりをつけぬままゆっくりとドアを閉めた。さっきの受付の女が裸でベッドに横たわっている。原始時代を思わせる恐竜や単細胞動物達がうごめいている。顔見知りの連中が壁際によりそって口を動かし話し合っているが、言葉は聞こえなかった。幻聴の中で彼らの意識を探ると、彼らは口を閉ざし僕のまわりをくるくると回りながら暗闇の中で光の渦になった。僕が割り込むようにしてその光の渦から抜け出すと、光の渦はまた顔見知りの連中となってドアをすり抜けて消えていった。ベッドに横たわる彼女は裸のままあえぎ続け、どんどんと若返ってゆくようだ。小学生ほどの年齢に見える。部屋のありとあらゆる模様は何かを象《かたど》っていた。僕はテレビのスイッチを入れてみた。するとテレビは赤色や黄色や青色などの原色を交代に映し出し、音声はただホワイトノイズを唸らせているだけだった。僕が自分の意識を現実に引き戻そうとすると幻聴が激しくなっていった。鏡の中に警察の制服を着た男達が映っている。ツカマエテヤル。ツカマエテヤル。ツカマエテヤル。幻聴が脅迫するようにそう囁き続けた。ベッドの方を見ると制服のズボンだけを膝まで下ろした警官がベッドの女を抱こうとしていた。女は激しく抵抗し嫌がっている。コレモシゴトノウチサ。警察の制服を着た男はそう呟きながら無理やり女を暴行していた。コレモシゴトノウチサ……。  バスルームのドアがまるで僕を誘うようにひとりでに開いた。僕はさそわれるままにその扉の中へ入っていった。扉は勝手に閉まり僕は閉じ込められた。やがて全神経がぴりぴりとし熱くなり、もう立っていることすら出来なくなった。僕はごろんと横になり全ての力を失った。何かが僕を犯そうとしているようだ。そして裁いているようだ——いいや違う……。僕は自分の戒律を犯してしまったんだ。この世界にはどちらかひとつしかないのだろう。勝つか負けるか。捕まるか捕まえるか。犯すか犯されるか。虐げるか虐げられるか。戦うか逃げるか……。それらの相反するもののどちらかひとつだ。思い違いの優しさはただ弱さになって僕を犯し続けるのだろうから……。  僕は裏本の女や男達を思い浮かべていた。おかまのマスターは幻覚の光に縁取られ、僕の上にのしかかろうとしている。僕の姉だといった娼婦は横顔に寂しさを浮かべて泣いているようだ。友達の声が聞こえる。現実の世界の親の声が響きわたる。誰も何も止められない。そして止めようともしていないんだ。寂しさや孤独の原因が、こんな目に映らないものだとしたらどうすればいい。ただ孤独なだけのこの非現実的な世界に対して、どうやって対応すべきだろう。それは限り無い戦いと挑戦だ。  幻聴は、サイテイサイアク、と僕に向かって吠えまくる。何故最低最悪なのかと聞き返してもその答えは聞こえない。何故ならばその幻聴を囁く幻覚達と僕との折り合いがつかないからだろう。だからロジックが生まれるんだ。それは現実への関与のための何ものでもなく、現実に帰属するためにおいて純粋だ。僕が憶えてきた全てが、僕の持つ物理的精神的価値観を作り上げた。だからその反面それと全く違った価値観を持つ環境にいるものと戦うはめになる。社会はその範疇の中に想像された共同幻想だ。全ては個体として存在するものが生きようとする手だてだ。体が壊れそうなほど心が震えている。僕は想像によってレイプされている。一体何のためにこの世界は創造されたのか。食物連鎖、ハイ・テクノロジー、弱肉強食、平均化社会、平等、支配、偏見、時間、想像、時間の逆流、時間の停止、平和、幸福、苦悩、煩悩、欲望、老朽、輪廻、生と死。  全ての真理を求めるものよ。優しく戦え。優しさによって立ち向かえ。社会という共同体は常に誰もが己の欲求を抱えている。それを止めることなど出来はしない。社会の表面は平静を装ってはいるが、不安と怖れと脅威を物語る人の心のぶざまな生き方を責めることなど誰にも出来ないほど、社会の内部は腐食している。それを何かによって知ることは可能だろう。この話のとおりの事実を想像し直面すればいいんだから。そしたらどう折り合いをつけてゆくんだい。欲望、快楽、興奮、失望、悪意、情理、孤独、そんなシステムに繋がれながら表現する個体の祈り。しかし僕の祈りは神の名をもってしても、仏の御前に跪こうとも、幻聴によって一笑のうちに否定されたんだ。  僕は薬をさらに左腕に打ち込んだ。それはもはや幻覚や幻聴に触れるためのもの以外の何ものでもなかった。ただ薬を体内に無理やり押し込んでゆくように注入する時、僕はとてつもない放心した気持ちになってきた。何だか馬鹿げているじゃないか。今これ以上の現実からの逃避行に何の意味があるというんだ。幻覚や幻聴はある一定のところからは何も変わらない。今度は幻覚に色がついたり、僕にシャブを売りつけたヤクザが出てきて、ヨウヤクアエタナ、なんて話しかけてくるんだ。勿論、警察だって幻覚の中に現れて始終僕を監視している。ゼッタイニ タイホシテヤルカラナ。なんて言いながらさ。それにヤクザも警察もモデルやアイドルの女を強姦しまくってるんだぜ。笑うよな。  そして何より不思議なのはまるでテレビでも見ているかのように現実的な展開で、話し合ったりすることだって出来るんだ。折り合いのつくことはすくないけれどね。中には何だか可哀そう、なんて同情してくれる幻聴もある。小人みたいなのがいっぱい現れて、僕に銃を向けたから人差し指で弾き飛ばしてやったよ。いい加減頭にきていたんだ。  この幻覚と幻聴による世界と、今まで現実だと思わされてきた世界との違いとは一体なんなんだ。同じことじゃないか。ただ目に見えない現実の内面がはっきりと暴露されているだけだ。分かってくれるやつなんか一人もいないだろうが、これらは僕が経験して感じてきたことなんだ。  なんだか、もういい加減嫌気がさして僕は死のうと思った。僕の存在を打ち消そうとするものは山ほどあるけれど、理解しあえるものなど何もないんだから。そんなの死んでいるのと一緒さ。それが覚醒剤の真理かもしれないな。そして多分どこかで僕の確認出来ない、もしくは認識出来ないもう一人の僕が存在しているんだろう。そいつは僕の知っている僕よりもっと冷たくて残忍な奴なのだろうか。僕は一生懸命に真実を見つめようとしていたのに。陰と陽の関係の中で、隠しているものだけが暴露されている自分がいるのかもしれないな。  だから持っていた薬を全部投与することにしたんだ。底の浅い湯飲み茶碗に薬を全部入れて熱湯で溶かし冷まして注射器に吸い込む。そして腕を紐のようなもので縛り浮き上がってくる血管を軽く腕を叩きながら探すんだ。そしたら注射器に空気が入っていないように、針を上にして空気だけを抜くために、ぴゅっ、と軽くポンプを押す。そして腕の奥深くにある動脈に突き刺して、初めに血液を少しだけ抜くんだ。すると注射器の中に真っ赤な血が流れ込むんだけれどとても綺麗さ。中毒者にとってみると針を刺す時の痛みすらも気持ちがいいらしいって話も聞いたことがある。0・7グラムはあったかな。とにかくそいつを全部打ってやった。コレデシネル。そう思ったんだ……。そいつを腕にぶち込むと、どこからか乾杯という声がした。そしてやがて全ての物音が言葉を持ち始めた。やかましいほどの幻聴の渦だった。そして一つだけ気付いたことがあった。もしかしたら僕の体はその幻聴によって動かされているのかもしれないということだ。僕は幻聴から耳を外らそうとしたが、体に電流のようなものが走り始め、また今度はいつもよりももっと激しい虚脱感に襲われた。まるでなすがままにされてしまいそうだ……。僕は立ち向かわなければ。眠ることは出来ないし、そんな暇はないと思った。それが人間の体を動かす力なのだろう。だが逆にその言葉のとおりに生きてゆくことが幸福だと思う奴もいるかもしれないが、だとしたならば、その事実と真理は追求され世界を明日へと誘うべきだが、人の心によって成り立つその命令的幻聴はとてもちっぽけに思えたんだ。  それに付随して全てのものにはそれぞれの状況によって生み出された心がある。それが正しいものか間違ったものであるのかは誰にも分からないまま存在し続ける。そして全く正反対の意味を持つもの同士が、陥れたり傷つけ合ったりする。だから僕の心はまだ一つにならない。何故なら触れ合った全てのものが僕の心の中に宿っているんだ。人間の体験とは霊的な既存を享受してゆく姿だ。ひとつの言葉はたくさんの意味に置き換えられ、たくさん道を生み出す。この非現実的な言葉遊びの原理と由来は言語学の専門家でも絶対に解けないだろう。それは絶対に誰にも分からない。何故なら人は一人きりだからだ。一人きりの言葉は何も共通項を持たない。共同体になった時に初めて通じ合うものを見つけ出す。霊による思考は一つではない。自然の流れにそっているからだ。だからその事実を見つめる時には一つの物事に固執してしまってはいけない。そして一人一人の人間には無数の霊の声が囁いている。それらは一瞬に個体になり答えを持つ。そして矛盾し始める。諦めるか。戦う意思を持つのか。だが全ての答えも、ある一つの方向へとベクトルを向けている。たとえどんなに多くの思想が入り乱れ、どんなにたくさんの欲望が入り乱れようとも、それらの一つ一つは全て欲求を満たし幸せになりたいと願っているということに尽きるということだ。  また眠れない夜を過ごしてしまった。化学薬品の煙に呑み込まれてむせかえるようだ。  僕は結末のない薬の作用に飽き飽きして、もう薬には意味がないと思った。幻覚と幻聴はまだ僕を狂わすほど続いていたが……。  今まで気付かなかったが、部屋にある小さな机の上に手紙が置いてあった。遺書だった。誰に宛てて書かれたものかは分からなかった。そこにはこう記されていた。  死んでからも、一緒にいましょうね……  僕は涙がこぼれた。死んでからも一緒にいられるほどの愛があるなんて……。  そうなんだ……生はやがて必ず死を迎える。しかしこの混沌とした心の渦は永遠に死んでからも続くだろう。この幻覚と幻聴が巻き起こす迷路のような夢の中の世界のように。だから全ての世界は平和でなければならない。平和とは生きているあいだにそれを真っ直ぐに見つめることだろう。何故なら全てのものが形こそ違えているが、幸せを求めているのだから……。誰もが終わりという理念に基づいて生に対し死を覚悟しながら生きているんだ。そしてあるものは神に祈り、あるものは大切なものを失いながら刹那的な欲望に生きている。全ての個体表現は地獄の嘆きから来て、天へと昇華しようとする。  そう、それらは全て、何もかもが、愛の術《すべ》である。    FROM LOVE WAY    フェアリー・ウイスパー      ナナ・グレイス聞こえるか。君は僕の傍らで囁いている。    駅前の本屋の前を通り過ぎようとした時だった。ナナ・グレイスが表紙に掲載された雑誌が、店頭に山積みにされていたんだ。  その駅前の狭い二車線の通りには、両車線に違反駐車の車が止められて、ひどく渋滞していた。それにそこを通ろうとすると、両車線から向かって来る車はエンジンを震わせて酷く苛立って見えたし、今にも誤って僕を轢き殺してしまいそうに思えて、僕はね、本当に怖かったんだ。ナナはそれでも表紙の中で笑顔を絶やさなかったんだよ。  誰だってこんな通りを通り過ぎようとする時には、苛立ちと怯えに心を震わせてしまうはずさ。自転車を漕ぎ損ねて倒れそうになったお爺さんは、自分の人生はこんなはずじゃなかったんだっていうようなとっても辛く苦しそうな顔をして、渋滞のために混雑している歩道の中に取り残されながら自分を恥じているようだった。買物帰りのおばさんたちは片手にさげたビニール袋の重さに肩を傾かせて、人とすれ違うたびに体をよろめかせながら本当に恨めしそうで嫌そうな顔をしていたんだ。歩道をはみ出して走る子供たちが一体何を夢見ているのか僕には分からなかったけれど、家や学校で自分が何かに守られていることを本気で信じ込まされているんだろうな。でなければあの子たちがあんな意地悪そうな顔で、あんなにもずうずうしく、通りを行けるはずないさ。  とにかく、歩く人たちも自転車を漕ぐ人も車に乗っている人も、渋滞と混雑のおかげで苛立って見えたし、僕はそのせいで頭が狂いだしそうで、堪え切れない胸の傷みに気持ちを萎縮させてしまっていたんだ……。そして気付かぬまま、突然——。    午前六時。 「よっし、起床だ。ほらっ、いつまでも寝てるんじゃないぞ、起きろっ」  半円に並べられた留置房を見渡す、肩に銀色の一つ星を付けた警《けい》邏《ら》は、夜勤の見張りに飽き飽きしたように、ただただでかい声でそう叫んだ。  留置房にいる連中はたいがいその声よりも早くに目を覚ましているんだ。誰一人その声に気が付かない奴はいない。だからもしその起床の号令で起きない奴がいたとしても、そいつはきっと昨日の取調べで脅かされたか、国選弁護人にあんまりいいことを言われなかったかなんかでふてくされているだけなんだ。夜勤の警邏は驚きもしないで重い扉を蹴飛ばしながらそいつを怒鳴りつけて起こして、皆にそれぞれの留置房を掃除させるために鍵を開ける。それから皆しぶしぶと煎餠布団をたたんで、えっさえっさと棚の中にしまいに行くんだ。そうするとそこでほうきとはたきを渡されてさ、それを受け取ってからせっせと留置房を掃除する。畳敷きの床は抜け毛とか埃でけっこう汚れてるんだ。だから皆まめに掃除するし、六畳の部屋に四人も五人も押し込まれてるんだから汚れるのも当たり前なんだけど、掃除もすぐ終わるんだ。でもね、便器を磨くのだけは誰もやりたがらない。乾いた雑巾を、便器にたまった水で濯《ゆす》がなくちゃならないんだからね。僕だって本当は嫌で嫌でたまらないんだけど、渋々とやるはめになるんだよ。その役割はたいてい新しくパクられて入って来た奴がやるんだ。だから僕も最初のうちはしかたがなく便器を拭いてたよ。最初はね、水道の水で雑巾を濯ごうとしたんだ。そしたらさ、そこは皆が水飲んだり顔を洗ったり歯を磨いたりするところだからだめだって、今まで便器拭きやっていた奴が怒鳴るんだ。僕はすこし頭にきてそいつを睨みつけてやった。撫で肩で背の小さい奴だったしさ。でもそしたらそいつが、僕の持っていた雑巾をつかみ取って、いきなり便器の中に溜まった水で、じゃぶじゃぶ雑巾を洗い始めたんだぜ。僕は自分の目を疑ったよ。でもそいつは顔色も変えず便水で濯いだ後、馬鹿、こうやってやるんだよ、当たり前だろ、ってまた怒鳴って、そしてついでにその雑巾を固く絞って僕に手渡してくれたんだ。そう言いながら、そいつは少しだけ笑ってたよ。  それからあてがわれたロッカーから洗面道具を持って来て、顔を洗ったり歯を磨いたりするんだ。それでも水道場は混んだりすることがないんだ。皆ゆっくりと朝のひと時を過ごしたいんだろうな、誰一人水道場にいる奴をせかしたりしない。なるべくゆっくりとくつろいだ感じでやるんだ。それをせかしたりするのは見張りの警邏くらいなものかな。かといっていざ自分が洗面する時には、そんなに時間もかからないけどね。ただ冬の冷たい水で顔を洗うのは死ぬほど辛いよ。  洗面を終えると、皆、自分の留置房へ戻って行くんだ。そこにはまるで下宿人がそそくさと部屋にひきあげるような滑稽さがあるよ。スリッパなんかきれいに揃えちゃってさ。言葉も交わさず正座して、皆、点呼を待っているんだ。皆が留置房に戻ると、すぐに鍵を掛けられるんだよ。普通の家で使うやつの五倍くらいでかいやつ。だからさ、重たい扉を閉められて、その鍵を掛けられる時には、僕はいつも閉鎖恐怖を覚えるね。すると入口から夜勤の巡査長が点呼のためにやって来るんだ。今までだらだらとしていた見張りの警邏もその時は特別緊張した様子でさ、ピリピリした大声で叫ぶんだ。何月何日点呼を行います、一留置房五名、二留置房四名、三留置房……、六留置房五名、少年留置房無し、以上点呼を終わりますってな感じさ。いちいち名前なんか呼ばれないよ。人数さえあえばいいんだ。それにね、ここにいる連中は、誰も自分の本当の素性なんて話し合ったりはしないのさ。  それから朝食が配給されるんだ。日の丸弁当に、ふりかけと味噌汁と白《さ》湯《ゆ》。質素だけど、味噌汁と御飯があればいかにも日本の朝食って感じだろ。間違ってもそれ以上のおかずがついたりすることはないよ。毎朝それだけさ。あとはふりかけが何味だとか、パッケージがどうだとか、味噌汁の中にほんのすこしよけいに豆腐が入ってたりすると喜んだりさ、といっても二つが三つだったりとか、ちょっといつもよりでかかったりとかそんなもんなんだけどね。だから皆そんなことではしゃいだりする奴を微笑ましく見つめてさ、だから逆に豆腐の多い奴はわざと喜んでみせるのさ。  掌一個分の小窓から配給された質素な朝食は、皆、十分もあれば食べ終えちゃうよ。でも税金でまかなわれた朝食だもんね、格別の味さ。だってここに来た連中の大体は、税金なんか納めたことがないんだから。  食べ終えた後は、弁当箱や食器を皆の分をまとめて小窓から返すんだ。ごちそうさまなんて言いながらね。いかにも洒落っ気たっぷりだろ。  それから後二時間は、運動時間っていうやつをただひたすら待つ。その時間になると、ようやく煙草を吸わしてもらえるんだ。皆、煙草が吸いたいもんだから、うずうずしてさ。そしてその間に検察庁に取調べに行く奴が呼ばれて出て行くんだ。もちろんそいつは朝の煙草はなし。手錠をはめられて、鎖の真ん中に空いた大きな穴の間にロープなんか通されちゃってさ、道中引き回しって感じで護送バスに連れてかれるんだ。  運動時間がくるまで皆落ち着かないよ。モク吸いてぇーなんて奇声があちこちで飛び交うよ。その頃になると会話のなかった連中が、皆、急に話し始めるんだ。とりあえずお互いの判決を予想し合ったり、マエがあってもう絶対に刑務所行きの決まってる奴は、出来れば網走にでも行って炊事係でもやりたいなとか言ったりしてるよ。炊事は早朝三時起きで辛いけど、その代わり昼寝も出来るし、それに網走ってところは暑い夏は短いし冬は暖房がきいていてけっこう快適なんだってさ。しかし、そんな話本当かな。僕には信じられないし、誰も信じてはいないだろうけど、あっ、それ俺も聞いたことあるなんて、話を合わせたりする奴もいるから可笑しくって。  話し疲れると皆、黙ってもう一度床の上で眠りに就くんだ。でも、運動時間の五分前になると待ちかまえていたように起き上がって、ゆるめておいた寝巻きの紐を閉め直し、鉄格子にへばり付くように鍵を開けてくれるのを待っているんだ。  よぉーし運動の時間だって号令で、子供のおやつの時間みたいに喜んで運動場へ出してもらうのさ。それが午前九時四十五分なんだからいかにも大人のおやつの時間って感じだろ。見張りの係が夜勤の人と昼の勤務の人とが交代する時間でもあるんだ。だから警邏も倍の人数でさ、それに巡査長なんかもいるからけっこう制服姿が多くて割りと融通がきかない感じがしてしまうんだよな。煙草は一人二本までなんだけど、でもたまに、巡査長の機嫌の良い時とかは、三本も四本も吸えるんだ。でも二十分の間に体操が五分ぐらいあってさ、十五分の間にたて続けに煙草をそんなに吸ったところで、あんまり美味しいものじゃないな。やっぱりおやつみたいに満腹にならないくらいがちょうどいいのかもしれない。運動時間の間にトイレに行くって奴がいるけど、そいつらはたいがい溜まった男のアレをだしにいくんだよ。男のおやつさ。  運動の時間が終わると本を読んだりしてもいいんだ。差し入れの本を読んだり、新聞を読んだりしてさ。中には六法全書なんかを真剣に読んでる奴もいるよ。そしてその頃からようやく今日の取調べが始まるんだ。僕はその日の一番最初に呼ばれた。  藤堂光、取調べだ出ろ。  取調べで一番いいのは取調べの間に煙草が吸えることなんだ、だから逆に運動の後すぐの取調べはついてないってことになるんだ。その後煙草が一日吸えないんだからね。  留置房の鍵が開けられて、僕の名札が裏返される。出入口で手錠をはめられて腰に紐をまかれ取調室まで連れてゆかれる。僕の担当は保安課の人たちだ。今日は高橋さんだった。小太りで白髪頭でなかなかの恰幅をした、いかにも刑事って感じの人だよ。これで四度目の取調べだけれど、そのたびに僕を脅かすんだよな。まぁ嘘をついたりしないようにってことなんだろうけどさ。 「光。ここの暮らしはどうだ。中は臭いだろ。便器も丸見えだしな。やっぱりこんなところに来るもんじゃないだろ。なっ、どうだよ」  僕は黙ったまま頷く。刑事さんは留置場から出て階段を上がるたびにそんなことを言う。階段を上がる時に、ほんの少しだけ警察署の外の景色が見えるんだよ。ビルの裏側の陽のあたらないじめじめした景色なんだけどね。それでもなんだか無性に警察署の外が恋しくなるんだ。刑事さんのその言葉がきっと僕をそんな気持ちにさせるんだろうな。もちろん刑事さんだってそんなのは百も承知さ。それが狙いなんだから。  取調室に入ると手錠をはずされ、腰に巻き付けられた紐を机の脚に縛りつけられてから取調べが始まるんだ。 「よしっ、それじゃ始めるぞ。えっと、お前には黙秘権があるからな。答えたくなければ答えなくてもいい。ただしそれが不利になることもあるからな。なっ、光」  上目遣いに人を脅かしながら、警察特有の取調べが始まる。まっ、お手並み拝見といこうか。 「ええっと、藤堂光二十二歳、昭和四十年八月十五日生まれ。東京都練馬区……に両親と同居中で浪人か。今ので間違いないな」  答えなくてもいいって言っておきながら、もう尋問によって答えは強要されている。 「はい」僕はあたりまえの質問に素っ気なく答え始める。 「よぅし。お前は駅前の本屋から本を盗み逃げようとしたところ、それを本屋の店員に見つけられ、捕まえようとした店員を殴り重傷を負わせたんだな」高橋刑事の目がぎらりと光りながら僕を睨みつける。 「おまえ知ってるか。その店員、顎が砕けたうえに涙腺が切れて失明しかかってるんだぞ。判決が決まってもその人への償いは一生終わらないぞ。分かってるのか」ふんぞり返った刑事さんは僕の一生を断言するかのようにそう大声をあげた。  よくよく考えてみると、人間の一生なんてそんな定められた運命ってやつから目をそらすことだけで終始しているんだろうな。そして誰だって皆、そんな自分の運命すら一人じゃ背負いきれるものじゃないんだ。 「おまえ空手やってるんだってな。だったらどうしてそんな時に人を殴ったりするんだ。えっ、俺たち警察だって空手とかやるから分かるけど、空手とかボクシングとかやってたら拳が凶器になることぐらい分かるだろ。おまえ段を持ってるそうじゃないか。空手、もうどれくらいやってるんだ」 「十年くらいです」 「何段だ」 「三段です」  僕はその時、訳が分からなかったんだ。街並みは喧騒と狂気に満ち満ちていたし、僕は本を盗むつもりなんて無かった。ただぼうっとしていた。浪人生活が三年も続いたあげく、四度目にも失敗して、友達もいなくなった生活は僕から自意識を欠落させていった。あるのは疎外感からくる孤独と闘うことと、それを認識してゆく術を見つけ出すことだけだった。そしてそれは、どんどんと僕の心を絶望の深みへと追いやって行ったんだ。僕の絶望は自信喪失へと繋がっていった。空手を習っていたことで、健康にも体力にも自信があったのに、そんなもの何の役にもたたなくなってしまったんだ。頭が狂い出しそうだったんだ。僕の能力のなさがそうさせるのだろうが、それも運命なのか。とにかく僕は絶望のどん底にいた。  二年前のある夏の日、予備校の模擬試験から帰る途中だった。公園の片隅で、八人ぐらいの僕と同じ年恰好の少年たちが、ピンクとブルーの派手なはっぴとはちまき姿に身を包み奇声をあげていた。何をやっているのだろうとよくよく目を凝らして見てみると、はっぴの背の部分とはちまきに、ナナ・グレイスという文字が縫い付けてある。彼らは夏の照りつける日差しの下で風に向かってこう叫び続けていた。  エル・オー・ブイ・イー・ナーナ・ラブリィ・ラブリィ・グレイス!  彼らはナナ・グレイスのファンなのだろう。ナナ・グレイスはその頃ラッキーという曲でデビューした十七歳のハーフの少女だった。それを応援しているのは彼女よりも二つか三つ年上の男たちだった。その頃の僕は、そういった芸能界に全く興味が無かった。でもギターやピアノは多少弾けたしジャズやクラシックは好きだった。だから彼らの意図するものが何なのかまるで見当がつかなかった。ただ彼らのあまりにも真剣な姿に僕は動揺を覚えたし、彼らの姿をじっと見つめてしまっていたんだ。  彼らの中の一人が僕の視線に気付き、僕を睨み返してきた。すると彼らの中のリーダーらしき奴が、おいもう一回やるぞ、よそ見するな、と言ってそいつを叱った。リーダーらしきそいつは、その頃の僕より一つか二つ年上に見えた。そして彼らはそのリーダーの声を先頭にまた大声で叫び始めたんだ。エル・オー・ブイ・イー……  彼らの声は風になびき、そして軽やかに夏の青空に溶けていった。そしてそれからずっと、僕の頭の中には彼らの声が夏の残像のような思い出となって響いていた。  それからたびたびナナ・グレイスをテレビや雑誌で見るようになった。というよりもナナ・グレイスという人物が作り上げていった虚像が世間に浸透し始めていたのだろう。とにかくナナ・グレイスが売れてきた。それまでの僕ならきっとそれだけで済んだはずだった……。だけどそんなある日僕が新宿御苑の前を歩いている時だった。薄化粧のすらりとした小柄な少女が一人、人気のない新宿御苑の前で僕の方へ向かって歩いて来たんだ。それはナナ・グレイスだった。彼女にはいつも目にしている女性とはどこか違ったところがあった。芸能人だからと一言で言い尽くせるものじゃなかったんだ。何か僕が今まで全く触れたこともないような純粋なものだけを、頑《かたくな》に胸に抱いているように見えた。そしてそれが何だったのかは、いまだに僕には分からない。そして彼女は僕とすれ違う時に、僕の方に意識を向けてまるで微笑んでくれているような優しさだけを残していったんだ。それは虚像の持つ原理なのか。いいや、それだけではないだろう。彼女の持つ個性、性格、それら全てを含む特別な魅力のようなもの……。彼女は祈り続けているように見えた。そして彼女はまるで妖精のように純粋で清らかな心を現していた。人の汚れを疑うこともせず、まるで恋に落ちたままそのためらいをじっと胸の奥に秘めているかの如く清らかに安らかに。僕は彼女に特別な感情を持つことを抑えることが出来なかった。届くはずもない心の想いはやがてどこかで逆転し始め、現実化していくようだった。その頃から少しずつ僕の中にナナ・グレイスという人物像が作り上げられていったのだろう。その三日後に彼女のデビューシングル盤の『ラッキー』というCDを買った。一日に何度も繰り返し繰り返し聴き入った。そのうち知らぬ間に、空で歌詞を覚え、レコードと一緒に歌っていた。浪人生活に花が咲いた思いだったよ。きっと傍目から見れば、寂しい浪人生活を紛らわす手段のひとつだと思ったに違いなかっただろうね。僕も最初のうちは、きっとそれだけなのだろうと思っていた。やがて彼女の写真を集め、彼女のカレンダーやポスターを張り、僕の部屋は彼女一色で埋め尽くされた。  二回目の受験に失敗した時の春、彼女が二十二曲入りアルバムをリリースした。タイトルは『I'm lucky』。僕はその中の「梨と桃とラブコール」という曲が大好きだった。曲の内容は、たわいもないこと。梨と桃が大好きで、それよりもっとあなたのラブコールが大好きなのよとか。お風呂に入っていると、突然あなたから電話がかかってきて、慌ててお風呂を飛び出して裸のままあなたの声に包まれてしまうの。とかいうへんてこりんな歌詞だったけれど、曲はブルジィーなセブンスやナインスやシックス、プラスファイブがふんだんにもりこまれ、メロディには工夫が凝らされていた。そんな曲をいともたやすく歌いこなしている彼女の魅力が、ますます僕を彼女へと引きつけていくようだった。僕の浪人生活の傍らで彼女はせつなくも優しく歌い続けてくれたんだ。  彼女のインタビューの記事を目にした時、彼女のプロフィールらしきものが語られてあった。彼女は両親ともどものクリスチャンであり、恋することはもちろん、人を愛することにとても敏感であるということ。だから孤独やそれに付随するヒロイズムへの挑戦、自分が他人と違っていることを恐れながらも、その中でいかに純粋であり続けることが出来るか、またそう生きることによって人の優しさや愛情に限り無く無垢に接してゆくこと、それが彼女の生き方であり、彼女の求めるものなのだ。煙草やお酒やカフェインは一切口にしない。母親や父親の愛情にひたすら近づきながら、それを自分の愛情表現の一端にして、限り無く愛情を広げてゆく強さと優しさを僕はその記事の中に感じとった。僕は憧れながらもますます、自分とは違う遠い存在なんだろうな、と、ふと目を落とし心のやり場をなくしてしまったんだ。  そんな思いを抱え、三度目の受験にも失敗して僕が落ち込んでいる頃に彼女に恋人の噂が持ち上がった。彼女よりひとつ年下のデビューしたばかりの男だった。それはまるで僕の思いこみの勘違いや到らなさを象徴する出来事のようでもあった。だって彼女は恋にすら……愛にすらも敏感で、もっとセンシティブな少女なのだから……と……。  彼女は二枚目三枚目と順調に売上げを伸ばし続け超売れっ子になっていた。  その男は彗星のごとく現れたちまち芸能界に旋風を巻き起こした風変わりな奴だった。そいつの歌は嫌でも耳に入った。街のどこを歩いていてもそいつの曲が店の軒先から聞こえてくるからだ。そいつの歌は熱愛する少年の歌だった。歌こそ上手くはなかったが独特な哀愁を感じさせた。あぁ、しょせん彼女への思いなどは、こんな結果に終わることは分かっていたんだと、僕はその男の歌う歌に、ナナ・グレイスという虚像への諦めの思いをつのらせながら耳を傾けていた。  だが、その男は一年も経たないうちに歌を一曲ヒットさせただけで消えていった。それと同時に二人の恋愛話も消えた。あぁ何のことはない、ただ芸能界が作り上げた作り話だったのだろう……。僕は胸のつかえがとれた思いだった。  その頃ちょうど彼女は四枚目のシングルを出していたが、それほどパッとしなかった。次々に新しい歌手たちが彼女の座を奪おうと躍り出たせいだろう。  それでも彼女は舞台やドラマに出るようになり、歌手であることの一線を越えて、またひとつずつ自分を磨いているようだった。インタビューにも、そんな記事が書かれてあった。「ナナ・グレイス女優への新たなる出発」。僕はその見出しにほくそ笑みながら、いつしかまた彼女を見守っていた。  やがてある日彼女が主演するテレビドラマも終わり、ナナ・グレイスはしばらく本当に姿を見せなくなった。その頃僕は、四度目の受験の追い込みに頭を悩ませていたんだ。三年もの間に集めた彼女のポスターも写真も色褪せていた。僕は同じ科目を何度となく繰り返し勉強してきたつもりだったが、彼女の表立った活動が世間から遠ざかってゆくが如く、僕の勉学に対する熱意も冷めかけていたし、自分の人生への何かの欠落にいたたまれなく、うちひしがれていた。参考書を開くこともノートをとる手もおろそかになった。四度目の受験の日はどれもが全部冷たい雨の日だった。結果は見るまでもなく失敗に終わった。二次募集や夜学の受験も勧められたが僕にはその意志がなかった。  親はもう完全に僕を諦めていた。僕も何か違うことを目標に生きることを考え始めていたのだと思う。だがその頃の僕には、自立する意志など全くなかったんだ。あとどれくらいこんなふうにのんべんだらりと生きてゆけるのだろうなんて、そんなことを考えていたようだった……。そんなある日のこと。僕にしてみればそれだけのこと。そしてそれだけにどうしようもないことだったんだ。  取調べが終わり僕は縄に引かれて留置場に戻された。僕は取調べの間もそんなことを繰り返し考えながら多くを語らなかった。昼飯は取調室で食べた。店屋物の出前に味噌ラーメンと、国が留置されている奴らに支給してくれる食パン四切れにマーガリンと苺ジャムとスティックチーズを食べた。食パンとチーズとジャムにマーガリンという組合せはどうも僕を懐古的にさせる。僕の取調べが長引いたおかげで、昼食後に煙草を二本吸わしてもらった。  留置房に戻ると、いいな、お前、昼飯後に煙草何本吸わしてもらったんだよ、俺も吸いてぇーとさかんに言う奴がいる。僕はもっともだっていう顔で、そいつに向かって笑った。  夕飯は夕方の五時三十分からで、それまでは一時間おきくらいに巡査部長や署長なんかの見回りがあるんだ。そのたびに正座しなくてはならないんだけれど、それ以外の時間は皆、寝っ転がって雑誌や本を読んだり、つまらない世間話をしたりする。昼飯を食ってから、そのまま昼寝している奴もいた。昼寝しながらいびきまでかいているたいそうのんきな奴もいるんだ。のんびりしたもんさ。  夕飯の時間は皆さほどしゃべりもしない。昼間喋り過ぎたか、明日の自分の判決という運命が刻々と近づいてくるのが分かるからだろうな。でもさすがに弁当箱を開ける瞬間には皆どきどきするらしい。メニューは決まっているんだけどね。アジか鮭のフライか、豚肉の炒めたやつか、ちくわとこんにゃくの煮物かな。それにレタスが二枚とお新香。あと御飯と白湯。それだけさ。夕飯時に本も回収される。飯を食っている間に検察庁に行った奴らが帰ってくるんだ。だから夕飯を食い終わった後の話といえば、たいていは自分が何年の刑をくらうかに尽きる。その時間になるとようやく太陽の姿も気配を消して、留置場も薄暗くなる。たぶん外にいれば太陽はちょうど綺麗な夕日になって地平線の彼方に消えようとしているのだろうが、ここはちょうど警察署の裏側にあるし、周りは塀で囲まれていて、それに高いビルの合間に隠れているから、留置房内は薄暗くぼうっとしている。その時間になると誰もが皆少しだけ自分の素性を明かす。暗闇の中に取り残されるのがたまらなく寂しいが故に、皆の口をそんなふうに開かせてしまうのかな。 「シャブ検の野郎、さんざんしぼりやがってよ。たまんなかったぜ」麻薬覚醒剤取締法違反で捕まって、今日検察庁に行ってきた奴が愚痴をこぼす。 「あっ、そいつ俺も知ってるぜ。あの眼鏡かけた奴だろ。あいつのしつこいのは有名だかんな。でもおたく何回目、捕まったの」 「二回目。前はシャブで執行猶予三年、今回はマリファナとヘロインとチャカ。ポケットに注射器も入れてたかんな、今回だけはしょうがねぇな。だけどよぅ……」 「そんじゃ、爆弾持ちで二つもあんのかよ。こりゃダブル執行猶予もねぇな」 「ああぁっ、ついてねぇ。くらって五年かな」 「安くてそんなもんかな」  もう一人のヤクザが二人の会話に口をはさんだ。 「俺なんか、前に道でシャブ売ってて捕まってよ。それで三年もくらったんだぜ。やっぱ組に入ってると重いんだよな」そいつはにやにや笑いながら、もうすでに自分の判決の答えを知っているかのようだった。  僕の留置房は全部で五人だった。トイレに一番近いところに座っている奴がだまって三人の会話に耳を澄まし見つめていた。そいつにさっきのヤクザが話し掛けた。 「おたくは何でパクられたの」 「えっ、俺。俺は空き巣。同じ部屋狙って入ったら、そのままパックリいかれちゃったんだよね。張られてたみたい」 「へぇ、何々、そりゃやべぇよ。それどうやってやったわけ」 「ええっと、手口はいつも一緒だよ。あんまりびくびくしないでさ、あらかじめその部屋のこと調べておいてから、窓ガラスの鍵のところ石かなんかで思い切って割って忍び込むんだ。これが一番安全だね。へんに周りのことなんか気にしてると、すぐ通報されちゃうもんね」 「ふぅん、やべぇな。あんちゃんは何やったの」ヤクザが僕に尋ねてきた。 「えっ、僕は万引きです」 「へぇ、かっぱらいか。初犯だろ、そんじゃ安いな。実刑一年半の執行猶予が三年か五年くらいだな」  もうひとりのスリのおじさんが口をはさんできた。 「あんちゃん、俺、知ってるよ。刑事さん話してたもん。おたく万引きと傷害でしょ。けっこう実刑いっちゃうんじゃないの」 「なんだよ、あんちゃん、傷害までついてんのか。そりゃ実刑いくかもしんねぇな」 「あんちゃん空手やってんだってね」空き巣のおじさんがからかうように口をはさんだ。 「へぇ、じゃ喧嘩強いんだ。俺もよ、空手やってたんだぜ。かかってこいよ」ヤクザは半身になって座ったまま構え、すり寄ってきて僕に向かって上下段の突きで、腹と顔を狙って突いてきた。  僕は慌てて、回し受けでそいつの両拳を払った。周りで見ている奴らは、予測もしていなかった一瞬のその出来事に息を呑んだようだった。 「おおっ、やるじゃん。けっこう強いんだな」 「これじゃ、やられた奴が病院送りになるのもむりねぇや」 「えっ、おまえ病院送りにしちまったのかよ。やべぇな」ヤクザのおじさんが唖然とした顔で僕を見つめて、耳糞をほじって鼻から吸い込んでいた。  警邏が明日検察庁に呼ばれている奴ひとりひとりに通告して回り始めた。 「藤堂、おまえ明日検察庁で取調べだぞ。朝飯食ったらすぐ着替えて行くからな」  皆にその通達が回り終わる頃ようやく留置場内に電気が灯される。 「検察庁の取調べって、あれ待ってるのが辛いんだよな」 「そうそう、狭いところに十人も押し込まれてよ。十一時間も木の椅子に座ってんだぜ。壁によりかかって寝てたりすると、警官が怒るしよ。たまんねぇよなぁ」  ほんとだぜ。マッタク。皆そろって頷いた。僕は第二の地獄に送り込まれる思いがしてすこし身震いがした。  就寝時間がくると皆すぐに眠りについた。何の運動もしていないはずの僕もすぐに睡魔に襲われた。  翌朝僕は朝食を食べ終えると、スリッパを紐の抜かれた自分の革靴に履き替えさせられ、長椅子に座らされて手錠をはめられ、真ん中にロープを通され、今日検察庁に呼ばれ取調べを受ける奴らと一緒にぞろぞろと護送バスに乗せられた。  バスが走り出すと警官が僕の前に立って罪状を確認した。 「藤堂光、二十二歳。窃盗傷害だな」  僕が頷くと警官は順々に他の奴に同じように聞いて回った。走り出すバスの前方と後方に見忘れていた外の景色が見えた。僕はそこに眩しい朝の光と街の雑踏を見た。そしてその中にナナ・グレイスを思い浮かべた。  バスは各警察署を順繰りに回り、捕まった奴らで満席になった。話し合うこと足を組むこと腕を組むことは禁止された。  一時間半から二時間くらいでバスは街を一周し検察庁に辿り着いた。検察庁には厩舎のような形をした敷地に、長椅子と便器だけが置かれた牢屋が幾つも並んでいた。そこにいれられると片手錠というやつにさせられ二つのワッパを左手首にはめられたんだ。そして僕はそこで自分の取調べまでに十時間も待たされた。十時間の間僕はずっとナナ・グレイスの歌をアルバム分全部、覚えている箇所箇所を何度も歌っていた。その間に昼食をとった。昼食は長いロールパン二つと苺ジャムとマーガリンとスティックチーズと白湯だった。皆パンを半分に割ってその間にジャムとマーガリンとチーズをはさんで食べていた。  食べ残したのは鉄格子の前に置かれたバケツの中に入れる。白湯を注いで渡されたお椀は、その横に積んでおく。鉄格子の間から手を伸ばしてそうやるんだ。  午後四時半頃ようやく僕の名前が呼ばれ、僕は手錠をもう一度両手にはめられ、警官の後を歩きながら階段を上った。部屋に連れてゆかれるとそこは警察の取調室よりはもっと広々とした外の景色の眺めも良い所だった。検事がたて続けに喋り始めた。 「藤堂光二十二歳。東京都練馬区……。今は浪人中、無職。本を盗み捕まえられそうになったが、捕まえられるのが怖くなり暴行に及んだ。以上だな」彼は僕が警察署で取られた調書を淡々と読み上げた。そして付け加えるようにこう言った。 「なんで本なんかを盗もうとしたんだ。興味本位からか……。盗みをやる奴らのだいたいは、皆、最初は興味本位なんだぞ。それでもそれが見つからないと、だんだん癖になってどんどんもっと高いものを盗むようになっていくんだ。おまえみたいに若い頃に癖になって、年をとってからもずっとそうやって強盗なんかをするようになった連中を俺は沢山見てきてるんだ。おまえは早くに捕まってよかったな。もう懲りたらするんじゃないぞ。まぁ今回刑務所に行ったら今より生活も厳しくなるからな覚悟しておけよ。それに怪我をした店員の永島さんにだってちゃんと償わなくちゃいけないんだからな……。それにおまえの盗もうとした本は女の子向けの雑誌じゃないか。なんだ……えぇっと。調書によるとお前はナナ・グレイスのファンでそれを盗もうと思った訳か。ナナ・グレイスっていうとあのちょっと外人みたいな女の歌手だろ。あぁ、そういえば最近なんとかというテレビドラマにも出てたな。そうか……。俺の家にも息子がいて、息子もその女の子のレコード買ってよく聴いてるよ。でも息子はまだ九つだけどな。おまえもいい年してアイドルとかそういうののファンやってるばっかりじゃないだろ。受験も……ああぁんと、大学はもう来年は受けないのか……」  延々と繰り返される無意味で表面的な僕の生き様の判定に、僕は半分も耳を貸さずずっとナナ・グレイスのラッキーを頭の中で歌い続けていた。 「よしっ、じゃあ起訴することになるからな。今日はここまでだ、帰っていいぞ」  僕はまた警官に連れられ厩舎小屋のような牢に放り込まれた。そして五時半頃検察庁を出発した。護送バスは来た時と反対回りに帰り、僕が留置場に戻ったのは六時半頃だった。検察庁に行ってきた僕らは別室で夜の弁当を食べさせてもらい、煙草を二本吸わせてもらったよ。留置房に入れられると、どうだったよ、と冷ややかに皆に尋ねられた。すると巡査長が入ってきて、僕の留置房の前に立ちこう言った。 「よおぅし。光、おまえの起訴状が届いたからな。後は裁判だな。その後まだ何度か検察庁で取調べがあるからな、それから検察庁が終わったら拘置所で裁判待ちだ。まっ、そこらへんのとこはこん中にいる連中の方がくわしいか」警邏と巡査長はその言葉に大笑いしながら去っていった。 「ああぁっ。おまえも拘置所行きか。でも拘置所の方がいいぜ。差し入れでお菓子とか食えるしよ。昼から夜までラジオ聞けるんだぜ。けっこういいよ……。でもよぅ、俺なんか別件が見つかって差戻しでここに半年もいるんだぜ。勘弁してほしいよ。あぁ、俺も早く東拘行きてえよ。お菓子よぉ、大福が食えるんだぜ。もし東拘いったら大福一日に五個くらい食ってやる」  皆はそいつの表情を見つめながらげらげら笑っていた。  僕が東京拘置所、略して東拘に行くのはけっこう早かった。その日の二週間後だった。僕の親が頼んだ弁護士の配慮で急速にことが進んだようだった。運動時間に僕より先に捕まった奴がふてくされてぶつぶつ文句を言っていたよ。 「なんで僕の方が遅いんだよ。やっぱり国選弁護人じゃだめなのかな。新しい弁護士雇おうかな」  誰もが皆一日一日を焦って暮らしているのが、そんな時にぽろりと顔を見せる。それでも唯一僕を支えているのは未だにナナ・グレイスのラッキーだったんだ。  その日も運動時間にトイレに行く奴がいた。その頃ようやく分かったのだが、雑誌類は運動時間にはもう用意されていた。みんなその中の雑誌でシゴクわけさ。  運動時間を終えると雑誌箱の中にナナ・グレイスのグラビアが載っている雑誌を見つけた。僕はそれをもって留置房へ戻った。するとどこかの留置房から声が聞こえた。  オレヨ サッキ ナナ・グレイスデ イッチマッタヨ アレカワイイヨナ  僕は自分の手元にあるナナ・グレイスを見つめ直した。なんだか、まるでそいつの性器を触っているような気持ち悪さを感じとるとともに、果てしもない虚無感に襲われた。  アァ ボクノオモッテイタモノナンテ ソンナモノカ キッタネェナ カナシイナ  僕の瞳からは涙がこぼれ落ちそうになった。ようやく自分が犯した罪のあまりのくだらなさと重さを知ったように思えた。  ナンデナンダロウ ナンデ ナンダ イッタイドウシタンダ  僕は目《め》眩《まい》の中に倒れ、本を抱きしめて涙ぐみながら壁際にすりつくように眠った。  昼の出前を見張りの警邏が聞きにきたが、僕は何も頼まなかった。 「なんだよ、あんちゃん、金ねぇのかよ。俺がおごってやるから、何か食えよ」ヤクザのおじさんがそう言ってくれたが僕には答える気力もなくただ首を横に振った。 「やべぇな、おまえ検事に判決のことで脅かされたんだろ。あんにゃぁ、心配するなってのよぉ。どうせ執行猶予つくから。実刑はいかねぇから。俺なんか相手の組、行ってよ、ドンパチやって捕まってよぉ、そんときゃやべぇと思ったけどよ。半年の実刑だぜ。だいじょうぶだから心配すんなっての」  その時ヤクザは僕の持っている本に気付いたようだった。 「おっ、可愛いねぇちゃんのってんじゃん。後で見せろよ、なっ」  僕は頷きもせず、黙って横になった。するとどこかから甲高い女の声が聞こえてくるようだった。その声に耳を澄ますと、その声の旋律は確かにナナ・グレイスのラッキーを奏でていた。僕は胸を締めつけられる思いの中で眠りに落ちていった。    それから二週間の間は取調べもなく、弁護士と親の接見が二度ぐらいあっただけで、僕はずっと留置場から出ることもなかった。落ち込んだ気持ちの中で時折ナナ・グレイスの歌を口ずさんだりしたけれど、虚しさはつのるばかりだった。  二週間の間には、拘置所に移される奴もいれば、新しくパクられた奴が入って来たりもした。それでも留置場内の雰囲気が変わるわけでもなく、ただ淡々と時が流れてゆくだけだったんだ。  ついに明後日、僕は拘置所に移されることになった。僕は雑居房と独居房のどちらかを選ばされたが、気《き》忙《ぜわ》しさや落ち込んだ気持ちのまま、また皆でがやがやと暮らすのが嫌で、独居房の方をお願いした。なんだか訳は分からないが、また一人きりの浪人生活に戻るような悲しみを覚えた。  そして二日後、僕は荷物をまとめ、警官の皆に挨拶するようにぺこぺこ頭を下げながら護送バスに乗り込み、警察署を後にした。拘置所行きのバスの中には、すでに実刑を免れない連中が頭を坊主にしていた。バスの中では、拘置所の暮らしに対する注意がなされた。 「拘置所はおまえらが今までいた警察署と違って刑務所と一緒だから、刑務官の指示に従わないと牢獄罪が適用され、罪が重くなるので厳重に注意し、刑務官の指示に従うこと。いいな」  バスは隅田川を渡り、晴々とした空の下を走り続けた。そして三十分で東拘に着いた。  東京拘置所の門は映画にでもでてきそうなものものしいつくりで、見張り台があり、扉は二重の分厚い鋼鉄で出来ている。門が開くのに五分もかかり、その門の中に誘われる僕たちはまるで本当に地獄という別世界に辿り着いたようだった。  拘置所内では、まず名前と罪名を告げ写真を撮られるんだ。その後荷物の検査と病気の検査が行われた。尿を取り、素っ裸で身長、体重、体にあるあざや傷、入れ墨、もしくは男のあそこに真珠や歯ブラシの枝を丸めて作ったプラスチックの玉を入れていないかなどがチェックされた。それが終わるとやっとそれぞれの房へ連れて行かれる。それを指示するのは留置場でも名前だけは有名な東拘の鬼、エースコックだ。体が僕の五倍ぐらいでかく見える。口癖も聞いていたとおりだ。こおぉらぁっ、こおぉらぁっ、真面目にやってんのか馬鹿もんがぁっ。こいつは本当に鬼の生まれ変わりなんだろうな。僕は本気でそう信じ込んだ。素っ裸の僕たちにゃ何の権限もありゃしない。そうつくづく思い知らされるよ。  それから僕は四階の独居房に連れてゆかれた。そこで指示を受けた。 「ここでは名前は一切使わない。お前は12578番だからな。覚えておくように。いいな」そう呟いたのは少し年のいったおじさんだった。  こんな所で会わなければけっこう優しそうな人だな、そう思った。 「あと、月に二回、買物が出来るから、欲しいものがあったらここに幾つ欲しいか印を付けておくように。あと、毎朝何か申告したいことがあったり、手紙を出したい時には毎朝ここに出しておくように。いいな。じゃあ、スリッパ、中にしまっておけ」そう言い終えると、僕を三畳一間の部屋に閉じ込め、それはそれはとても重たそうな扉を閉じた。もちろんだが、こちら側にドアのノブは無い。用事がある時は、赤い札が吊される仕組みになっているボタンを押して合図する。向こう側からの覗き窓が付けられているだけの、緑色をした鋼鉄の扉だった。その他に鉄格子で区切られたガラス窓があるだけだ。外の景色も僅かに高速道路が見えるが、そんなものを見ていることは許されないんだ。一日中壁にもたれて座っていなくちゃいけないんだ。中には洋式の水洗便器が隠すものもなくただそっけなく置かれてある。そこに僅かな流しがあり、粉歯磨きと石鹸とたわしとバケツがあった。  すると突然壁の上に付けられたスピーカーから放送が流れ始めた。僕はまた今日拘置所に移された連中への注意の放送かと思い、一瞬どきりと胸を詰まらせた。がよくよく聞いてみるとただの民間のラジオ放送だった。僕は拍子抜けした。お昼のバラエティー放送、お昼のニュース、全国歌謡ベストテン、夜のニュース、民謡、落語、演歌、シャンソン等の特集。まるきり外の娯楽文化と変わらないものが流された。なんだか妙に気分が浮かれてくるのが分かった。だが夜の放送が終わる数分後、こんな放送が流された。  地震時の注意をします。この建物は昭和三十……年につくられ、震度七・五度にも耐えられるようにつくられているので、もし地震が起きても、慌てず周りのものから身を離して、指示があるまで、そのまま部屋の中で落ち着いていてください。繰り返します……。それは女性の声で淡々と感情を押し殺したように二度繰り返され放送された。僕はその時また改めて自分が拘置所にいる身であることを思い知らされた。だって昭和三十年代につくられた建物が震度七以上に耐えられるはずないだろ……。それにもし日本が沈没でもしたら、僕はこの牢獄の中で窒息死するんだろうな、なんていう馬鹿げた空想にやるせない思いを浮かべてみた。逃げ場所なんかない、まして自由なんてありはしない。あるのは、あてがわれたお仕着せがましい横暴な権力の施行だけだ。  それでも僕は、唯一の娯楽であるラジオ放送に聞き入った。毎日番組の内容が違ったが、必ず歌謡ベストテンが流れた。僕はその中にナナ・グレイスの曲が流れるのをひたすら待ち続けたんだ。  食事は東京拘置所で刑に服す連中が作ったものだ。ここで刑に服す奴らは、一年半未満の刑期を過ごす連中だ。御飯は麦三に米七の割合で炊かれていたが、気になるほど不味くはなかった。ただ独特の臭いさえ我慢すれば……。朝は納豆と生卵と海苔と味噌汁と御飯。昼は煮物が二種類と御飯。夜は煮物と魚か豚か鳥肉と汁と御飯。土曜の昼だけはロールパンと苺ジャムとマーガリンとチーズにコーヒーが支給された。  刑に服す連中は、起床の声で起こされ、それから三十分後、号令とともに、一二三四、一二三四、一二……と列を成して歩き出し、それぞれの持ち場に連れてゆかれるらしい。  僕は六時半に起床の声とスピーカーから流れる朝の音楽と共に起きて、布団をたたみ、部屋の隅にきちんとかたづけて部屋の掃除をする。そして朝の点呼が始まると正座して順番を待ち、重たい扉がいきなり開けられると同時に、12578番と自分の番号を叫ぶんだ。12578番っ。  拘置所について二週間後、一回目の公判があった。裁判所に連れてゆかれ、地下室の牢屋で自分の順番を待たされた。漫画本と『近代小説』という雑誌が置かれてあった。漫画の内容はボクシングの話だった。挫折したり、苦悩に悩まされながらもチャンピオンを目指す少年の話だった。それを見守るトレーナーや仲間たち、そして女……。僕には何もかもが、人生の縮図に思えてならなかった。女……、何故だろう、男は何故に女を愛したりするのだろうな。女って決して男のために役にたつだけのものでもない。でもその愛情なくしては誰も男として生きられやしないなんて……。  僕の公判の番が来た。小さな法廷には裁判官と書記官と検察官と弁護士と親や親類が集まっていた。皆で礼をして裁判の公判が始まった。裁判長が僕に告げた。 「君には黙秘権があるから、答えたくなければ答えなくてもいい。ただしそれが不利になることもあるので気をつけるように。それでは第一回目の公判を行う。その前に何か言っておきたいことがあるかね」  僕は二カ月の間溜まっていた胸の内を吐き出すように叫んだ。 「何故この世に男と女がいるんでしょう。僕はナナ・グレイスが好きだった。それだけだったんだ。それに僕は本を盗むつもりなんて無かった。ただ僕は街の喧騒に耐え切れなかったんだ。今にも僕を轢き殺しそうな渋滞した車の群れ。苛立った人々はいつしか狂い出して必ず僕を殺す。振り返ると何を勘違いしたのか、物凄いけんまくで僕に向かってくる奴がいたんだ。まるでこの街中の苛立ちを、全て僕のせいだといわんばかりの顔をしてね。きっとそいつは間違いなく僕を殺すだろうと思った。だから……、反射的にさ、正拳で二発殴りつけたんだよ。まずいっ、そう思った。だって僕は空手を十年もやってるんだからね。拳の当たり具合でどれくらいの威力で殴りつけたか分かったよ。相手の顎の骨が砕けるのも、僕の拳がねじりこんでゆく具合で分かったし、左拳のもう一発は確実に相手の急所をとらえていたから……。だから逃げなかったんだ。それでも街中は狂ったまま僕をじっと見つめていたよ。この世の倫理とか正義なんて、僕の拳ひとつで崩れ去ってゆくのが分かったんだ。この街の全ての共同条理の虚像が僕のこの犯罪を作り上げたんだ。ナナ・グレイスの歌のように、もっと幸せになれたら……。僕はナナ・グレイスという虚像と闘いながら彼女を愛そうとしていたんだ。それが唯一の僕の倫理だった」  コンナコト ワカルヤツガ イルワケナイカ  僕はそこまで話すと弁護士に言われていた通りのことを話した。 「でも……、本を盗むようなことをし、なおかつ相手に怪我をさせたことは深く反省しています。申し訳ありませんでした」  僕が話し終えると、今までの話に唖然としていた周囲の雰囲気に割り込むように、焦った様子で弁護士が喋り始めた。 「さっ、裁判長。い、以上のように本人も深く反省しておりますので、なにとぞ穏便な配慮のうえ御審議くださいますようにお願いします」  それに反発するように検察側が喋り始めた。 「被告人は空手をやっていながら……。以上をもって被告人に実刑一年六カ月を求刑いたします」  その言葉で全てが締めくくられたようだった。後は軽い挨拶を交わすように何かが語られたが覚えていない。覚えているのは、二週間後に判決が下りるということだけだった。  帰りの護送バスからは大きな夕焼けが見えた。    二週間後。判決の日の前夜。拘置所のラジオ放送に聞き覚えのある声が流れた。夜のミュージックバラエティーという、いつもの番組だった。ナナ・グレイスだ。 「今夜は歌手であり女優であるナナ・グレイスさんにおこしいただきました。ナナ・グレイスさん今晩は」 「今晩は」 「ナナ・グレイスさんは、クリスチャンで日曜日には必ず礼拝に行っておられるそうですけれど」 「はい、父も母もクリスチャンで、日曜日には礼拝に行き、毎晩聖書を読んで勉強しています。神様はいつも私たちを見ておられ、私たちを幸せへと導いてくださるのです。私は神様に祈るように歌い演技をします。それが私の使命なのだと思っています。だから私の歌を聞いてくださった方が幸せになることを祈っています」 「そうですか。それではナナ・グレイスさんの新曲、フェアリー・ウイスパーを聞いていただきましょう。これはナナ・グレイスさん御自身が作詞なされたそうです。それでは、フェアリー・ウイスパー、どうぞお聞きください……」    一人きりの部屋で あなたのこと考えているの 優しさの温もりに触れていたいから  あなたが寂しさに包まれて泣きそうな時は 耳を澄まして聞いてみて 私の囁きを  泣かないで くじけないで 誤魔化さないで 見つめて  いつだって 一人じゃない あなたは神の愛に包まれた 優しい人だから 「私、何度も芸能活動を止めようかと思って悩みました。でもいつしか分かってきたことがあるんです。それは誰もが皆弱さを抱えた一人の人間なんだろうなって。それから私は神様の前で懺悔し、祈りました。この迷える私の魂をお救いください。もし人一人に何かができるとしても、それは私一人の力ではなく、皆で支え合って出来ているものなのだと。嫌な人もたくさんいます。目をそむけたくなるような出来事もたくさんあります。でもそれも何もかも全ては私たち人間の生きる糧なのでしょう。分からないことが余りにも多い時には、死にたい気持ちにもなりました。でもそれを乗り越えて……今私には聞こえます。目に見えるものより確かな勇気と希望の声が神様から……」  僕はただ茫然とナナ・グレイスの声に聞き入った。  えっ、君はこの世にある邪悪なもの全てを受け止めようというのか。この牢獄に閉じ込められた狭い狭い世界にまで、光を照らそうというのか。その清らかな気持ちで……。  僕の目からは幾筋もの涙がこぼれ落ちた。きっとこんな優しい寂しさを僕は待ち続けていたのだろうね。立ち向かう強さを、僕もいつか見つけるだろう。明日は判決公判の日。ねぇ、ナナ・グレイス、聞こえるはずもないだろうけれど、ありがとう。僕はようやく君の優しさの意味を知ったようだ。それは君が君であるために、強く祈り続けている美しさなのだと……。僕の目の前にはまだまだ沢山の困難があるだろうけれど、もし神様がいるならそれはそれでいい。ナナ・グレイス、君は神の使いの妖精。君の笑顔はきっとこれから僕に勇気だけを与えてくれるだろう。だって君も僕も、ふとした拍子に地獄に突き落とされるただの人間なんだ。弱さを持ち、優しさを待ち焦がれる……、そんな人間なんだから。だからもう何ひとつ君のせいにしたりしないよ。君が傷つかないような優しさを、いつか心に持てたら僕はどうどうと胸を張って街を行くだろう。優しい瞳のままね……。それがナナ・グレイス、君なんだ。君の囁きは僕の勇気にようやく変わったよ。ありがとう。  判決の日。僕は裁判所まで護送バスで運ばれた。流れる景色を眺めながら……。  裁判所の前に辿り着くといつもと違って、いきなり窓にカーテンがひかれた。カーテンの隙間から外を眺めると沢山の若者が裁判所の前に集まっていた。どうやらこのバスにはこの間捕まった芸能人がのっているらしい。僕はほくそ笑んだ。だって芸能人もそれをとりかこむファンも皆人間なんだぜ。ふとした拍子で地獄にも落ちるような弱い弱い生き物さ。誰もが一人で生きる強さを求める。誰もが何かに頼って生きる。きっと僕と同じ護送バスに乗っている芸能人も、戦場のような人生と闘っているんだろう。それを取り囲むファンはその闘う姿に、何かを見つけるんだろうね。  そして僕が覚えたのは、一人で生きなければならない、人生の孤独とそれらの人との繋がり。そして生きることの難しさと美しさ。  その意味を教えてくれたのはナナ・グレイスさ。今日僕はどんな判決がでようとも、心の中でこう呟き、祈るだろう。  愛の意味を教えてくれてありがとう。  ナナ・グレイス、君は永遠に僕の傍らで囁き続ける。  ナナ・グレイス。君に生きる輝きを……。    主文。被告人を懲役一年六月の刑に処す。ただしこの裁判確定の日から三年間右の執行を猶予する。理由。罪となる事実。第一……、第二……。証拠の目標。判示全事実について、法令の適用。量刑の理由。本件は、被告人が、……。しかしながら、一方、自己の犯した罪を率直に認め、反省悔悟するとともに、……。そこで、これらの諸事情を考慮し、被告人の刑事責任を厳しく問う反面、被告人の将来のために、この際刑の執行を猶予し、両親等の監督の下に社会内での更正の機会を与えるのが相当と思料する。よって、主文のとおり判決する。    そうだよ……、僕は妖精の囁きの下に、解き放たれたんだ。そしてね、新たに、強く優しい眼差しでこの街を見つめながら、僕は生きてゆくんだ。    普通の愛      秋の痩せた太陽の光が街を包んでいる。見上げる空の色は高く、街路樹は紅葉した枝葉をやわらかい北風になびかせ肌寒い。僕は彼女の持っている口座に月々の生活費を振り込むため、銀行へ向かって歩いていた。彼女とは今別居中なんだ。そしてもう半年が過ぎようとしている。    一週間分の衣類を詰め込んで部屋を出た。それからはずっとホテル暮らしを続けている。三年も一緒に暮らした彼女は勝気で、出て行く僕を見ても涙ひとつこぼさなかった。  部屋を後にする時、最後まで心残りだったのはたった一人の子供のことだった。  僕らには一歳になる子供がいる。それが唯一、二人を夫婦として繋いでいられるものだった。子はかすがいとはよく言ったものだ。そう思う……。  僕が部屋を出て行く時、一歳になる息子は、僕の布団の上で眠っていた。夜型の生活を送る僕達に似てだったのか、夜中の二時三時まで起きていた息子も、最近ようやく夜の十時近くになると自分で布団のところまで歩いていって眠るようになった。立ち上がったり、歩いたりすることを覚えてゆく子供を見つめていることは親としてとても心休まる光景だった。それと同じように子供がまたひとつ自分で布団のところまで行って眠ることを覚えたことは、あの頃の冷え切った僕らの家庭でただひとつの微笑ましい出来事だった。  それを見ながら僕も彼女も互いの顔にほんの少しだけ笑顔を見せ合うことができた。けれど、今日は公園でたくさん遊んだからね……と呟く彼女の言葉はいつもとてもなげやりに聞こえた。育児に疲れていたのだろう。  お洒落好きの彼女もその頃はもう、シャネルの洋服やカルティエやバンクリフの宝石を身に着けることはなかった。近所のスーパーで買ったダンガリーシャツにジーパンと白いスニーカー。二十三歳の若さではまだ彼女の友達でも結婚していない子達が多いというのに、彼女はもうお洒落する暇もなかったのだし、そんな必要もなくなっていた。子供ができるまではお洒落するのが生き甲斐のように好きだった彼女がそんな風に変わってしまったことは、はたから見てもいじらしかった。彼女が買物帰りに手に提げてくるものが、シャネルやカルティエやバンクリフから子供のおむつやミルクに変わったんだ。  僕の買えるものもなくなった。高いお酒を買って飲むことが僕の楽しみだったけれどそれもなくなった。彼女が僕の飲む量を減らしていったんだ。生活のためだと彼女は言ったが、子供のため互いに深酒できなくなったことが一番の理由だったと思う。夜泣きする子供をあやさなければならなかったんだ。そしてそれは彼女と僕が交代でやっていたことだった。  だから僕が酔うと彼女はいつも不機嫌になって悪態をついた。が、それでも子供を抱く彼女の体は優しく僕の目に映った。  きっと育児の疲れからくる僕へのあてつけだったんだろうな。でも僕だって死にものぐるいで働いていたんだ。彼女のお洒落のために稼いでいたお金が子供のためになったとしても、それは何もおかしなことはない当たり前なことだと思う。 「あたしなんかいつも子供の世話で家にいて大変なんだからね」  それが彼女の口癖になっていた。正直なところ、本当に疲れた彼女の顔を見ると、僕には返す言葉がなかった。  だから僕は諦めてあまり酒を飲まないようにした。彼女の厭味ともとれる愚痴を聞きながら、手酌でちびちびと晩酌をしても何も楽しいことなんかない。ただストレスと疲れがたまる一方だったからだ。  早すぎた結婚だったんだ。そしてこの結婚は誰が賛成したものでもない。無責任な言い方かもしれないが、ただ知らぬ間の成り行きでしかないと思う。  結婚当時から今に至るまで僕は彼女の親から好かれたためしがなかった。僕も彼女の母親が好きじゃなかったしね。  彼女の親は彼女が十三歳の時に離婚していた。父親の方に違う女ができたとまでは聞いたが、それ以上の理由は何も知らない。  彼女は僕と結婚するまでは、母親と妹と、母親が三年前から付き合い始めたという恋人と一緒に小さなアパートで暮らしていた。  その男性もまた離婚の経験がある人だった。それでも彼女の暮らしの父親代わりをしようとしていたのかな……。だからそこに僕がいきなり割り込んでいったことが彼にとってはあまり面白くなかったんだろう。それが原因で彼女の母親とも上手く行かなかったのだと思う。僕はその男に厭味ばかり言われるし、全くうまが合わなかった。  母親の方もその男の言うことに頷いて僕を馬鹿にしていたが、そこには彼女が早く金持ちとでも結婚してくれればいいと願う気持ちがこめられているようだった。それが僕じゃ夢も崩れるというものだったのだろう。  離婚という現実を見せられた彼女には、心に大きな傷ができてしまっていたようだった。僕が結婚した理由もそこらへんにある。頑固で強情だがしっかりしていた。だからまさか自分が離婚される立場に立たされるようなことをしたりしないだろうと思ったからだ。平凡でも幸せを考えてくれると思っていた。でも実際は逆だったのかもしれない。離婚という現実に慣れていたのだろうか……。  彼女の母親とは、あまり気が合わなかったな。何だかとても冗談が下手な人で、厭味にしかとれないことが多くて笑うに笑えなかったよ。でも彼女はそれを聞きながらおおうけして笑っていたから、やっぱり親子なんだなぁって思ったし、幻滅もした。  彼女の本当の父親の味方をするわけじゃないけど、父親の方はもっとシャイで結構律儀そうだったな。娘をよろしくって目で僕に訴えていたもん。涙ぐんでたんだ……。一度しか会ったことはないけれどね。  離婚することがどういうことなのか、その頃の僕には何も分からなかったけれど、きっとお互いにどこか欠陥があるからに違いないだろうと今でも思う。まさしく僕も矛盾と欠陥だらけだよ。だって、その離婚に直面しようとしているんだ。  ひとつだけ違うのは僕には別の女なんていなかったことくらいかな。でもそんなこと離婚という事実において本当はたいした理由じゃないんだ。  僕はただ彼女の粗暴振りが嫌になった。彼女にしてみれば僕が彼女の理想に届かなかったということだけ。まぁ、言ってみれば完璧な性格の不一致さ。だって別れ際の半年は、お互い厭味と悪口ばかり言い合っていたし、僕は彼女のその厭味ったらしい目付きに脅かされて、自律神経失調症にまでなってしまったんだから。僕が神経質になりすぎていたのかな。もちろん彼女はそれが自分のせいだとか、自分が何かひとつでも僕の助けになってやれることがあるのかなんて考えてもくれなかったよ。ただ、不健康な人ね、馬鹿みたい、と言って邪険にあしらわれていたんだ。でも僕の心が弱く未熟だったんだ。  彼女と暮らしていて思ったんだよ。彼女の父親も僕と同じような思いをしていたのかもしれないって……。それに離婚てこんなところから始まるんだ。  そんな情けない暮らしに今まで耐えていたのは子供がいたからだ。子供は可愛いもん。妻は愛せなくなったけれど、彼女の顔を思い浮かべるとまた心臓の辺りが痛みだして嫌な気持ちになるよ。  だいたい結婚する前から彼女とはやっていけないと思ったことがたくさんあったんだ。彼女と付き合い始めた頃だったかなぁ。僕は彼女に黙って彼女のバッグから手帳を取り出して開けて見ちゃったんだ。そこに書いてあった男友達の電話番号の数は凄かったな。それを見た時にはね、さすがにびっくりして彼女に聞いたんだよ。ねぇ一体この男達どうするの、もしかして僕もこの男達と同じなわけ、ってね。そしたらいかにも平然とした顔でお友達だもの関係ないわ……だってさ。でもあんまりたくさんの男を知っているっていうのは困るんだよな。こっちが彼女に対して冷めた気持ちになるから……。  だけどそれは彼女の社交性だったのかもしれないし、僕がもっと彼女を理解してあげればよかったのかもしれない。きっと僕の嫉妬深さが彼女を悪くとらえ過ぎていたんだろう。  結婚したばかりの頃に彼女が酔っぱらいながら話していたことがあった。僕と付き合い始めた頃には彼氏が二人いたらしいんだ。一人は青年実業家で一人は妻子持ちの小さな会社の社長。僕と昼間デートした後は他の男と夕食を食べて、それからまた他の男の所に行ってから朝方僕の部屋に訪ねてきたこともあったんだってさ。  僕は彼女の正直さに驚いて何も言えなかったけど、それを実行したという彼女のバイタリティーにはただただ驚かされたよ。ほんとにね……呆れたよ。でも最終的に選んでくれたのが僕だったのは光栄な話さ。  彼女が他の男と別れたからだったのだろう。いつの間にか同棲のような恰好になっていた。彼女と二人で不動産屋に行って色々な物件を見て回ったよ。彼女が結構色々とこだわってなかなか決まらなかったな。それでもようやく気に入った物件が見つかった時だった。南向きのその部屋からは青空が見えてとても綺麗だった。その時ふっとつまらない溜め息をこぼしたのを覚えている。本当にこの女と暮らしてゆけるのかなって……。  彼女といてもあまり気の休まる思いがしなかったからなんだ。肉体関係だけが僕と彼女を繋いでいたんだ。彼女は昔雑誌やテレビのモデルだったくらいだからすごく美形だった。ちょっとわがままだと思うところもあったけど、すこしくらいわがままじゃないと可愛気もないように僕は思っていたんだ。きっと僕の方がその時は彼女に夢中になっていたんだろうな。でも性格がなかなか合わなかったんだ。でも何とかなると思っていた。だってその時は本当に、醜いほど僕は彼女を愛していたはずだから。  同棲してからの彼女は毎日女性週刊誌を読んで、いつも芸能関係もののテレビばかりを見ていたな。今から思えば僕に負担をかけたくなかったのだろう。僕ときたらそれにも気付かず、僕のことをもっと心配してほしいと思っていた。  それならば僕も彼女にもっと気を遣ってあげればよかった。彼女に色々なことを楽しませてあげればよかったのかもしれないな。だけど、特別に共通の話題もなかったし、共通の趣味もなかった……。  彼女は僕が仕事に出かけてからこそこそと昔の男友達に電話していたらしいことは、同棲してちょっとしてから気がついていた。でもそれがわずかな彼女のぬけがけの楽しみなんだろうと思って、僕はそれを見て見ぬ振りをしていたんだ。  それに初めのうちは気にしないようにしようと思ったんだ。そんなことぐらいで同棲生活が壊れるとは思わなかったからだ。でも僕がそれを許していられたのも最初だけだった。僕はだんだん嫉妬深くなっていったんだ。そのうち本当に彼女が浮気しているんじゃないかという妄想に囚われ始めた。何でそうなったのだろう。  僕が彼女の虜になっていったように、他の男だって彼女に興味を持つだろうし、そんな大切な彼女が他の男と僕に隠れてこそこそと話すことはあまりに僕の神経を無視しているじゃないか。それでだんだんと許せなくなってきたんだ。  それだけじゃない……やっぱり僕と彼女があまり合わなかったからだ。だから余計に心配だったんだと思う。  嫉妬深くなる理由ってそんなものだろうな。僕が嫉妬深くなればなるほど彼女は遠ざかっていくようだった。彼女にすこしでもそんな僕の気持ちが分かってもらえればよかったのに……。  やがて僕と彼女は折り合いがつかなくなることが多くなった。何度も別れ話が出たし、僕は何度も怒り彼女は何度も泣いた。でもね、結局いつも謝るのは僕の方だった。彼女を引き止める役にまわっていたのは僕だったんだ。  いつもいつも僕は情けないくらいに彼女を慰めた。それに喧嘩した時の彼女から僕にごめんなさいの一言が出たことは一度もなかった。それは僕が彼女に嫉妬深い愛を持っていたからだと思う。もっと分かり合いたかったんだよ。だから僕は自分から何度も謝った。  それは本当に情けないことだと思っていた。だって喧嘩の理由は分かり合いたいということだったんだから……。けれど僕はそうしながらいつか彼女が僕の理想の女性になってくれると信じていたんだ。それに僕は寂しかった……。  彼女は喧嘩する度にこう言った。 「あんたのことなんか理解する人なんているわけないわよ」  泣きながらうずくまり、僕を睨んでそう叫んだ。潰れた泣き声は僕の胸に深く鋭く突き刺さっていたんだ。  だって僕には反論することができなかったんだよ。実は、僕が今まで付き合った女性はたいがいそういって僕から離れていったんだ。自分の男の友達にまでそんなことをいわれていたからね……。おまえは変わってるよ、ってさ……。  でも真面目に真っ直ぐ愛していたんだよ。自分の彼女がいる時は、他の女になんか興味を持ったことはなかった。それが変わっているのならば僕は本当に変わり者だ。  今思えばそれが独占欲というものだったのかな。もっと好きになった女性を自由にさせる余裕があればよかったのかもしれない。たとえ僕がその女性に心を奪われ縛られているとしてもね……。  喜びを分かち合いたかった。愛の約束のもとに互いを見つめ合いたかった。ジェラシーも悲しみもそうすることで消し合うことができるんじゃないかと思っていたんだ。悲しみがなくなれば喜びだけが残るのだろうと単純に考え過ぎていたのかもしれない。  だからかもしれない、共通の喜びを分かち合わなければ同棲も何をやっても意味がないと思っていた。それにそんな風に心配している僕を理解しない彼女に失望していた。  彼女もまた僕に失望していたのだろうけれど……。  それでもね、僕は彼女の喜びそうなことをたくさん探したつもりだった。僕の狭い見解の中から彼女の好きなものを見つけるのは大変なことだったよ。彼女が僕に合わせてくれることといったら一緒に部屋でじっとしていてくれるぐらいだったから。  ひょんなことから、僕は彼女が喜ぶものを見つけた。それは彼女のお洒落好きだった。何でそれが分かったかっていうとさ、彼女が前に付き合っていた彼から貰った十八金でできた時計があって、僕はそれが気にくわないから捨てるか妹にでもあげるかしてくれないかって頼んだんだ。  彼女はそれでも何がなんでも手放さなかった。だからね、僕はかわりのとっても高価な十八金にダイヤまでちりばめられた時計を買ってあげたんだ。そしたら彼女すごく喜んでくれてね……。それで彼女がお洒落好きだと分かったんだ。まぁ今から思えば、たいがいの女性だったら誰でも喜ぶだろうけど……。  そのお金は僕が旅行に行こうと思って貯めておいたものだったんだ。  僕が働き始めてからずっと貯めていたものだった。僕の仕事はサックスのスタジオミュージシャンでさ、下積みからようやく今の生活に辿り着くまでには五年かかったよ。それでも仕事仲間の中じゃ結構早く出世したほうなんだ。  高校を卒業してこの道を選んだすぐの頃は、年をごまかしてキャバレーのハコバンもやったりしたんだ。初見で楽譜を読むのが大変だったな。だから読めないところは吹かなかった。  それで今でこそ何とかお金になるようになったんだ。稼ぐ時は月に百万は稼ぐんだからね。だけど楽な商売じゃないよ。結構気を遣うしさ……。それに分からない人には得体の知れない商売だからね。彼女の母親なんて、結婚してからも僕がキャバレーで吹いているんだと思っていたんだから。  それから彼女との買物ごっこが始まったんだ。僕の貯金は全部彼女のお洒落代に変わっていた。結婚前だから彼女も経済観念がなかったんだろうな。僕もいけないんだよ。お金で彼女の愛を買おうとしていたようなものだから。  お金で買えるものを彼女に与えることで、彼女も僕に優しくなっていくようだったんだ。そんな気がした……。彼女は多分、僕が寂しいほど彼女を愛していたのを知っていただろうし、僕が何かを買ってあげる度に計算していたんだと思うよ。僕の愛と経済力の両方をね。  婚約指輪のダイヤモンドから始まって、毛皮のコート、たくさんのブランドものの時計や洋服、それからこまごまとしたアクセサリー。どれをとっても二つ買えば百万円じゃきかない。でも今日びそんなお洒落が当たり前なんだろうなって諦めたんだよ。  それに、そんなものぐらいしか与えるものがないんだからしようがなかった。僕は自分でも情けなかったよ。  でも彼女の笑顔を見るのは楽しかったんだよ。毎月百万も使ってさ、店に行けばお得意様扱いだったしね。それにしても彼女の欲しがるものは次から次へと際限無く出てきたっけ……。  最終的に別居することになる一カ月まえなんかも、百二十万もするパールの時計を予約してきちゃって。輸入してくるのに半年もかかるたいそうな代物だそうだよ。  離婚しようと思って決意の固まっていた時期だったし、馬鹿な女だよなぁと思ったな。  そういう訳で彼女はとってもゴージャスになっていった。彼女の母親もそれを見てびっくりしていたようだった。僕の仕事が意外といいお金になるのだとでも思ったんだろうな。それで急速に結婚の話が盛り上がったんだ。まぁ、僕もようやく結婚かなと思っていたし……。それに便乗するように向こうも乗り気になってきたんだ。でも貯金は結婚費用ぐらいしか残っていなかった……。  彼女が結婚話に酔い痴れて初めに浮かれて口にした言葉はこれさ。やっぱり新婚旅行はコートダジュールよね、あなたは仕事があるから先に帰っていていいから。私はむこうでカッコイイ彼でも見つけるからだってさ。それはいくら何でもさ、冗談にしてもきつすぎるよ。僕がどんなに辛い思いをして働いているのかなんて、これっぽっちも頭にないみたいじゃないか。まぁスタジオミュージシャンの仕事の辛さなんて分かるわけないとは思うけれど、特に彼女の場合……。でもその言い方は、彼女にとって僕の存在なんて金を運んでくる道具に過ぎないんだと思わされたよ。  僕が反論したりするとすぐ本気になって反撃するように悪態をつくんだ。笑って怒るくらいならばまだかわいげもあるのに……。ヒステリックになって怒鳴り散らしてさ、僕をさげすんだ目で見て、黙りこくって口もきかないかと思えばいきなり皿を投げつけてくる。あれは絶対に精神分裂症なんだと思うよ……。計算してたのかな。僕はやっぱり彼女が好きだったからなぁ……。  それにけっこう根に持ってみせたりするんだ。掃除も洗濯も一切しなくなるし、あげくのはてに黙って部屋を飛び出す。かなわないよなぁ……。でも、女性なんてそんなものなのだろうと思ってさ、結婚に踏み切ったんだ。好きだという気持ちがそれを許していたんだから。向こうはどんな気持ちで結婚しようと思ったんだろう……。  結局結婚式は挙げなかった。紙切れ一枚に判を押して役所に届けるだけのささやかなものだったよ。花嫁衣装を着せてあげればよかったななんて今さらながらに思ったりもするんだ……。  結婚する時、実を言うと愛も冷めかかっていたんだ。理解し合えないんだもの。  色々なものを買ってあげたし、それ以上に本当に愛していると思っていた。でも、もうその頃には愛することに疲れていたんだ。  彼女を見ても心は安らがなかった。いつも僕の何かを計算しているようで彼女を見ると心がいらついた。僕は彼女と人前に出るのが恥ずかしかったんだ。結婚すると決めていながら、何だかその時から離婚するんじゃないかと思っていた。そんな自分を見られるのも、彼女を見せるのも嫌だった。  彼女の親が離婚しているし僕の親も再婚しているから僕は絶対に離婚だけはしたくなかった。  そうそう僕の親も再婚なんだ。父親の方がね……。色々あったみたいだよ。僕の父親も母親もそういった意味では離婚や再婚の悲しみを知っていたからね。心の奥底では、僕は離婚は絶対にしない結婚にしたかった。  二人の親どうしに集まってもらってささやかに祝杯をあげたんだけど、その夜、僕は神経が壊れる思いだったな。彼女のことが嫌いになり始めていたんだろうね。なんせ結婚一カ月目でもう離婚話の喧嘩だった。でもその頃はまだ新婚だった……。男と女のことは結婚して初めて分かることの方が多いんじゃないかな、互いの役割分担がよく分かるから。僕の場合はそうだった。  そのことを言えば、たとえ僕が仕事のことで悩んでいても、僕は彼女に気遣われて慰められた記憶がないんだよなぁ。同棲時代なら気にならなかったし許せたけど、結婚してからの彼女はそれに輪をかけたように悪態までついてきたんだ。安月給。能なし。甲斐性なし。低能。まぁ、いつもとは言わないけど一度は耳にしたよなぁ……。  でもね、最初の間はぐっと堪えていたんだ。僕には彼女に変わって欲しいという願いがあったし、理解し合えなくてもせめてもっと優しい言葉ぐらいかけてもらえるだろうと期待していたんだ。でも無理だったよ。若すぎたんだろうな。理解を感じ合えない優しさなんてあるわけないじゃないか。それに僕だってそんな優しさの感情を彼女に上手く見つけられないに決まっている。本当はもっと違うところに潜在的に僕に恨みがあったのだろうか、それとも計算していたのかな。  大人になることって、もしかしたら嘘でもいいから人を元気づけることかもしれないと思うよ。それが大人としての唯一の優しささ。無邪気に人を傷つけていては大人になれないよ。  結婚して三カ月でもう本気で離婚の話になった。あの時に離婚しておけばこんな風に悩まずに済んだかもしれないと、今さらながら思うんだ。  でも僕はまだお互いの親が離婚しているんだという観念にとらわれて、やっぱり離婚できなかった。周りの誰に相談しても反対されたしね。事情をよく分かってもらえなかったんだと思うよ。でもさ、本当は離婚なんて二人の問題なんだ。周りの人達も係わりたくなかったんだろうと思う。  彼女に品を感じなくなってきた。それに彼女と話していると気がめげた。聞くに耐えない冗談と粗暴な振る舞いとヒステリー。僕にはそれしか目に映らなくなっていった。  最悪だった……。煙草の吸い方も嫌いになってきた。家のことなんか何もしないように思えた。お酒の飲み方も嫌いになった。  でもまだその頃は嫌いになりかけていたと言った方が正しいのかもしれないなぁ。  だってね、彼女を僕の好みの女性像に近づけたかったんだから……。結局失敗したけどね。彼女を刺激するだけだったんだ。なるべくそっとそうしたつもりが、彼女には理解されなかったんだ。自分が馬鹿にされているみたいで辛かったんだろうな。だって彼女はヒステリックになる一方だったから。  そして結婚して半年目で本当に別居になった。それは軽いジャブのような別居だった。でもそこからもっと悲劇は生まれたんだ。いきなり彼女にカウンターをくらった感じさ。  その別居の一カ月前から離婚の話は毎日のように続いて、その度に彼女と僕はやけくそになって言い争ったし、いつもお互いのあらばかりを探していた。女の卑屈な顔は醜いよ。  離婚のことになるといつもきまって僕は、おまえとはもうやってられない、離婚してくれ、とたのむ。そして彼女はこう言う、離婚できるもんならしてごらんなさいよ、あんたの仕事ができないようにめちゃくちゃにしてやるからね。  僕はそんな彼女の脅し文句に心底脅えた。それは彼女の言葉にではなく、彼女の心が本当に狂っているんじゃないかと思えて悲しかったからなんだ……。  ある日、彼女に分からないように僕は黙って部屋を出た。ようやく決心がついたんだ。でもそれからが問題なのさ……。  二カ月くらい父親の田舎で世話になって暮らすことにしたんだ。のんびりとした雪国の田舎町にはもうすっかり雪が降り積もっていた。十一月の半ば頃だったかな。その間は彼女を思い出すことはなかったな。このまま離婚することが一番いいんだとずっと思っていた。でも壊れた心を癒すには雪国は遠く寒すぎたのかもしれない。  ある雪の降る日こんな光景を見た。僕は雪道をてくてくと散歩に出かけたんだ。その時、雪に埋もれた犬小屋で飼われている一匹の痩せ細った犬を見たんだ。凍り付いた白い息を吐きながら僕を見て吠え続けていた。僕はしばらくその犬を見つめていた。何だかまるで自分の姿を見ているような気分がしたからだ。  あんなに大声で叫んでいるのは体を温めるためだろうか。それとも自分のみすぼらしさを嘆いているのだろうか。  雪国の視界は真っ白な壁に覆われ、どんな叫び声も届かないようだ。そしてこの冷たさは時が経たなければ溶けることもなく、どんな手だても通じない。  僕と彼女が誓い合った愛は雪のようだ。白く美しく覆い尽くすが、触ると火傷しそうなほど冷たいものだった。  もうすぐ僕の誕生日だった。僕は叔父さん夫婦にケーキを御馳走になった。せっかく祝ってもらったのにこんな言い方は失礼かもしれないけど、わびしくちょっと早めの誕生日だった。  叔父さんたちはお酒もあまり飲まないし、年寄りだから寝るのも早い。一人で飲み直そうと思っても、田舎の店は早く閉まってしまうし、東京のように夜中まであいている店などひとつもないんだ。だから一人布団にもぐり込んで、馬鹿みたいに、何でこんなに寂しいのかなぁなんて呟いていた。  でも眠れなくてその夜は一晩中一人で明け方まで飲んでいた。もう三カ月近くも田舎で生活していい加減にこの生活にも飽き飽きしてきていたしね。僕は雪国の遅い朝が訪れる頃、酔っぱらったまま、凍り付いた外気の中に飛び出した。そしてよせばいいのに僕は彼女に電話してしまったんだ。  離婚の話をするつもりだった。でも電話口で彼女は泣いていた。 「ごめんなさい。私が悪かったわ。帰ってきて。何処にいるの。寂しいわ。貴方に会いたいの……」  平謝りするばかりの彼女に僕はびっくりした。  酔っぱらった僕はそんな彼女をついに拒み切れなかった。  初めのうちは、 「何言ってるんだよ、離婚してくれるっていったじゃないか。今さらそんなこと言われたって信用できないよ。それに……本当に僕を愛しているのなら離婚してこれ以上僕を苦しめないでくれ」  なんて言っていたのに……、 「貴方の誕生日のプレゼントを買ったの……」  その一言で僕は、いつの間にか叔父さんの家の電話番号と住所を教えていた。 「そんなに愛しているって言うのなら今すぐここに来て俺に謝れ」  僕は頭に血が昇っていて余計なことを口にしてしまったんだ。 「分かったわ。じゃあ着いたら電話するからね……。もし許してくれるなら迎えにきてね……」  初めて聞くような彼女のまともな返事だった。  彼女はその日の昼過ぎに僕の前に現れた。彼女がこの町を訪れるのは二度目のことだった。一度目は戸籍謄本を取りにきた時だった。その時この町は春だった。  彼女は雪深い駅のベンチに座っていた。いつもより小さく見えたけれど、それでもやっぱり彼女を受け止め切れなかった。たぶんそれは彼女の自己主張の必要以上な強さを感じたからだろうし、僕は三カ月前と同じような気の重さを持ってしまっていたんだ。  電話で叔父さんに事情を話して、駅の側にある田舎の小さなホテルに泊まった。  その時叔父さんは受話器越しに僕にたった一言だけ呟いた。 「あんまり急ぐなよ」  突然そんなことを言う叔父さんの意図するものがすぐには分からなかったけれど、僕の傍らに立つ彼女を横目でちらりと見た時、きっとはやまって同じ過ちを繰り返すなという意味なんだろうと思ったんだ。  だから手も握らなかった。肩も抱かなかった。ただ彼女が泣いているので、僕はおでことおでこを合わせて彼女の言葉に耳をかした。ごめんなさい。彼女はその言葉ばかりを何度も繰り返していた。そしてしばらくの間ホテルのソファーに座りながら彼女の涙を見つめていたんだ。 「分かったよ。もう泣かないでおくれよ。本当に君は僕達の関係がよくなっていくように努力したいと思っているんだね」  彼女は泣きながら頷いた。僕は彼女の手を握りしめた。彼女は僕に抱かれるのを待っているようだった。けれど彼女は僕を抱きしめようとはしていなかったんだ。  彼女に接《くち》吻《づけ》ると彼女特有の匂いがした。汗ばんでいるのだろう。何だか懐かしい気持ちになった。僕はその懐かしさの中に溶け込んでいってしまったんだ……。  ベッドの上で彼女が呟いた。 「生理がこないの……」  僕は彼女の言葉にあっけにとられた。 「でも三カ月前まではちゃんときてたじゃないか……一体……」  彼女は僕を睨んでいた。僕もそれ以上は何も言わなかった。女性の体のことなんてよく分からないし、今ここで何がしかの疑いを持ってもしかたのないことだと思ったからだ。 「そうか……。もうどれくらいこないんだい」 「三カ月前の時からずっとないの……」  でも三カ月前の生理の後には何もしていないのに……。喧嘩ばかりしていたし、夫婦らしいことなんか何ひとつもしていなかった。それでも、そんなこともあるんだろうな、なんて思ってみたんだ。  二泊して部屋に帰ることにした。世話になった叔父に二人で挨拶した。帰りの電車の中でも彼女は女性週刊誌とずっとにらめっこしていて、僕との会話はひとつもなかった。はたしてもう一度彼女とうまくやっていけるのだろうか。僕は心配だった。  妊婦になった彼女は煙草やお酒を見事に止めた。つわりのひどい時には一日中横になって安静にしていなければならなかったし、その分栄養も取る必要があった。どんどんと太っていったが、もともと痩せていた彼女は少しぐらい太ってもあまり変わったようには思えなかった。彼女はずいぶん気にしていたけれどね。僕は彼女のぎすぎすした目元の鋭さが嫌いになっていたし、太って丁度いいと思ったぐらいだった。可愛かったよ。その頃が一番……。ひどいこと言ったけどね。  本当に自分の子供なのか心配だった。どう考えても日にちが合わないからだ。だから僕も彼女に随分ひどいことを聞いた。 「本当に僕の子供なの……」  それを夫に言われたと産婦人科の先生に彼女が相談したところ、僕の頭がおかしいんじゃないかと言って笑われたと彼女は言っていた。僕を馬鹿にしていたようだった。 「あなたの子供に決まってるじゃない」  激しいけんまくで彼女は叫んだ。  そして彼女との言い争いがまた始まった。今度は僕がいけないのかもしれない。ただ子供は好きだったから、やっぱり生んでほしいという気持ちが強かったんだけれどね……。だって生まれれば僕の子供なんだ。子供を愛してしまうだろう。  でも一度ケチのついた結婚生活の最中に生まれた子供だったからね、おろしてほしいなんて言ったこともあった。でも彼女が泣いて飛び出す度にお腹の子を心配して彼女を追いかけた。  人間なら誰でもそうだと思うけれど、たった一言の言葉に傷ついてその傷みはなかなか消せないものだよな。彼女も子供が生まれるまでは、かなり傷ついたと思う。彼女にも子供に対しても悪いことを言ってしまったと今さらながらに思う。後悔先にたたずかな……。  彼女の目付きがきつくなったから生まれてくる子は男の子だと思った。きつくなったといっても母性本能がはっきりと現れてきたせいで性格は穏やかになったんだよ。喧嘩は絶えなかったけど……。  でもね生まれてからずっと子供のことを愛していたよ。本当さ。  産声。三時間おきのミルク。ほにゅうびんの消毒。おしゃぶり。寝返り。首が座ること。離乳食。つかまり立ち。よちよち歩き。夜泣き。おむつのサイズが変わってゆく度に、色々なことを覚えてゆく。  子供の成長を見ていて思ったんだ。人間なんて所詮いつまでたっても子供のままさ。色々なことを覚えていくことは一人で生きていかなければならない宿命の現れだろう。  大人を見て育ってきた。けれど子供に教えられたよ。必死に生きようとする人間のあがきをね……。    僕は彼女の口座に家賃と光熱費と養育費を振り込んだ。まだ離婚したわけじゃないけれども、いずれそうなるんだ。  こうして別居するまで僕はずっと彼女の言葉や態度に脅えて暮らしてきた。脅えていたんじゃないかもしれない。何故、彼女とあんなに折り合いがつかなかったのか自分でも分からなかったということに対しての耐え切れない苦しみだったのかもしれない。  離婚が決まるまでにはまだ時間がかかりそうだ。協議離婚になるのか、調停にもちこむのかも分からない。一応僕の名前と判だけは離婚届に記したけれどもね……。  今はね、親が子供を愛する気持ちがよく分かるよ。親の愛情っていうのは自分を必要とされたい願望の現れのような気がする。それが本当の答えかどうかは分からないけれど。  僕は子供を諦めた。子供は僕の宝物だった。僕がいなくなったら一体誰が彼の面倒をみるというんだ。子供を愛するのは親しかいないさ……。  でも僕は親として失格だ。失格し、諦めなければならなくなったんだ。子供が大きくなった時、彼はきっと僕の顔を覚えてはいないだろう。  でもね、まだ一歳三カ月くらいの子供が僕を父親だと認識しているんだと分かった時、僕には二つの想いが生まれた。その時のことは一生忘れられないだろう。  別居して一度目の生活費を払う時に、子供の顔見たさも含めて部屋へ戻ったんだ。別居生活の初めの一カ月は本当に孤独だった。でもさ、その孤独に負けるようにして部屋に戻ったけれど、彼女と一緒の部屋にいると息もつまったし、付き合ってきた間に積もり積もった彼女への嫌悪感が蘇ってさ、それがその孤独以上のものだったんだよ。その時だいたいの荷物をまとめたんだ。  そして本当にもう帰らない決心で玄関まで行った時、子供が泣きべそをかきながらよちよち歩きで僕を追いかけてきたんだ。本当はただそう見えただけかな……。彼女は子供を抱き上げ僕を無言で見つめていた。僕は子供に大きな試練を与えてしまったんだと思ったよ。そして僕はそれ以上子供の顔を見ることができなくて……。  部屋を出た。時が昔に戻ったようだった。彼女と付き合い始めてから、胸の傷みの中でいつも抱えていた暮らしから解き放たれた思いがした。その時ふと胸によぎったものがあったんだ。子供は諦めよう。そしてこの子には離婚を経験しなくてすむような、ふさわしい女性が現れてくれることを祈ろう。  誠実さは諦めの中には生まれない。この世には本当にかけひきのない愛がある。それを探してほしい。それを見つけることはとても難しいことかもしれない。何故なら僕は失格者になって初めてそれに気付いたんだ。だから遠回りすることも多いかもしれない。でも負けないでほしい。きっと、きっと探し続けるその先に見つかるはずだから。そして背負う悲しみも多いだろう。けれど本当の愛には自分を偽って取り繕うものは何もないんだ。  息子よ。人間は愛を探し続けなければならない。愛を探し続ける人間として一番大切なものは、本当の愛の答えを見つけ出すことなんだ。僕は自分を偽って君の前で暮らしたくはない。多分一生君の前で彼女と憎しみ合う姿を見せてしまうから。それは君にとってもとても辛いことになるんだ。間違った答えを教えてしまうかもしれないから……。  僕の一生の誇りは子供を生んでくれた女性と出会えたことと、その子供にこの言葉を残せたこと以外は何もない。後はただ、人生の敗北者としての自分がいるだけだ。  そして本当に愛の答えは様々だ。僕はその中でたくさんの愛を守ろうとする人々に出会い、そしてある時は疎外されてしまったこともある。そして今僕は家庭を放棄した。  こんな恥をさらしている僕はみじめさ。ただ人生の中で愛の形があまりにも変容の多いものだということや、人一人を幸せにすることや家庭を守ることがとても難しいことだと思い知らされたんだ。  僕は人の愛を求め、愛し合おうとした。けれど受け止め切れず愛を失い、償いだけが残った。それは結局僕のせいなんだろう。彼女にも二人の間に生まれたたった一人の子供にもとても申し訳ないと思っている。  僕にはこれ以外の答えが見つからなかった。互いに理解し合えなかったことも、全て僕が愛を求めたことから始まったことなんだ。  何よりも大切なのは愛。心が求めているのは安らぎ。安らぎは笑顔。笑顔は優しさ。  晩秋の夕暮れは早かった。ぽつりぽつりと雨も降り出した。僕に傘はなかった。僕は僕に裁かれながら暮らしている。もう誰を愛する資格もないのかもしれない。僕は愛に心を引き裂かれた。なのにまだ愛を求めている。心脅えることのない愛を探しているんだ。  あぁ、もうすぐ僕の誕生日じゃないか。僕の誕生日には彼女にパールの時計をプレゼントしよう。お洒落は彼女の笑顔の思い出だから……。離婚するのか……。  彼女は僕の、愛という名の迷路だった。僕はその迷路に迷い込み愛に飢え、死んだんだ。  あぁ、誰もがいつしか心に安らぎを与え合い、愛し合える人にめぐりあえるように。  愛はきっとこれから始まるんだ。それは永遠の安らぎを分け合うだろう。  この思いやあがきは彼女の心にもきっとあった、悲しい愛の軌跡なんだから……。    僕は彼女の口座に時計代を振り込むためにもう一度銀行へ向かった。    雨の中の軌跡      振り返ると、僕はいつも夢を見ていた。  小さな小さな家で生まれ、大きくて温かな愛の温もりの中で育った。  小さな焚き火が出来る程の庭があった。庭は二メートルぐらいの高さの正木という常緑広葉樹で出来た垣根に囲まれている。一面を真っ白にする冬の雪化粧も、蝶を舞い込ませる春風も、照りつける真夏の日差しも、空気の縮んでゆくような秋の気配も、季節は全てその庭に訪れ僕に顔を見せていた。  僕はそれを捕まえるのでもない、それに呑み込まれるのでもない。ただ、泣き虫だった僕の暮らしは、ふうっと通り過ぎて行くそれぞれの季節の瞳にじっと見つめられていたようだった。  あれは何時の季節の夕暮れだっただろうか。共働きで両親の帰りが遅い僕の家の夕暮れの明かりは何時の季節も、慌てて帰ってくる親が点けてくれた。ぱちん、とスイッチを引っ張ればいいだけのことなのに、僕は夕暮れて薄暗くなってゆく部屋の気配に紛れ込むだけで、あまり自分で明かりを点けたことがなかった。  冬の闇は早く、夏の夕暮れはいつまでもその余韻を響かせている。  明かりのない部屋では磨《すり》硝子《ガラス》の窓には群青色の夜が集まり、僕の視覚は部屋の中で鋭角の家具たちが放つわずかな光に吸い取られていた。  そして後は僕は聴覚や嗅覚だけで、周りで起こるもの全てを感じ取っていた。家の前を歩く誰かの足音。走り過ぎてゆく自転車の軽快なチェーンの音。豆腐屋の笛の音。遠くの方では渦巻いているように車のエンジン音と路面を摩擦しているタイヤの音が聞こえる。そして近くでは近所の家の晩御飯を支度する音と賑やかな話し声が聞こえる。そして部屋の中で僅かに音をたてているのは、かちかちとリズムを取る振り子時計と震えているような冷蔵庫の電気ノイズだけだった。その部屋の中にそっとどこかの家の夕御飯の匂いが流れ込んでくる。僕は日が暮れるのをたった一人で待ち続けていた。  その日の夕暮れはいつもより疲れているようだった。というより僕がいつもと違っていた。頭痛がしてその中に全てのものが吸い込まれてゆくようだった。僕には夕暮れのひとつひとつを確かめることも出来なかった。いつもと同じように待っていた夕暮れが、まるで僕に意地悪するように、いつもとは全く違った顔で僕を見つめ、時折僕の背中をつついた。体中がぞくぞくした。関節の節々が痛み出していた。  そうだ……あの時僕は縁側に腰掛けていたような記憶がある。そう、きっとあれは夏だった。夏の夕暮れだったんだ。鳴き尽くした蝉の亡骸のような闇の残骸の周りを、狂った夏の余熱が走り回っているように感じた。周りの何もかもと僕のテンポがずれていた。  まるで夢でも見ているようだった。怖かった。夕闇の孤独は僕を背中から抱きしめている。  寂しくなった。見渡す近所の夕べのだんらんも、耳元をかすめる色々な音も、僕をぽつんと一人残したきり近寄って来ないんだ。  知らぬ間に涙がこぼれていた。体が熱く、肌寒かった。涙がこぼれているのにようやく気付いた僕は、しくしくと小さな声をあげて泣き出していた。  日はすっかり暮れて、夜の輪郭が庭の正木に染み込んでしまうと、僕は声高に泣き出した。その声は近所中に響いた。僕は夕暮れの森の中で帰る時間も忘れて遊ぶ自分を思い描いていた。そして思い切り叫ぶように泣き続けた。泣き声は心の森の中でこだましていた。  部屋は真っ黒な闇に覆われている。僕は部屋の闇を背中に感じながら背筋をぞくぞくさせ震えていた。そして自分の泣き声に塗りつぶされてしまいそうな闇の中に、僕がいつも耳にしている、寂しくも楽しげな賑わった夕べの音を探しながら、平静を保とうとしていた。それでもなお涙は止まらなかった。  僕は待ち続けていた。闇を遮る部屋明かりが点く時を……。  どれくらい泣いていたのかは覚えていない。一時間近くだっただろうか。僕は泣き過ぎたのと頭痛で頭が変になりそうだった。  その時だった、遠くの方からかたかたと音をたてる原動機付き自転車の音が聞こえたんだ。母だ。僕の泣き声はその母の乗る原付きの車体を揺らすエンジン音と共鳴した。  きっと泣き声は母の胸には届いたのだろう。母は縁側に座って泣き続けている僕を見つけると、即座に原付きから下りて僕に向かって走って近づいて来た。 「どうしたの」  母の瞳は暗闇の中で深く柔らかな光を映していた。そして僕をすっぽりと自分の胸の中に抱き寄せて、どうしたの、どうしたの、と何度も力をこめて僕を抱きしめてくれた。仕事で疲れた母の胸は固く、だがとても温かだった。  母は僕の額に手を当て、 「まぁ、熱いわ」  と言った。  僕は高熱をだしていた。夏の直射日光の中で帽子も被らずに遊んでいたせいだろうと思う。  母は、一人闇の中に取り残され置いてきぼりになって泣きじゃくっていた僕の、熱にうなされた体を抱きしめ、たった一言こう囁いた。 「ごめんね」  その声は天使の囁きより優しかった。そこに僕の母がいる……それはとても温かな夜だった。    僕の家の朝はいつもお仏壇の線香の匂いに包まれていた。朝日は障子を青く染め、北側の窓の木製の雨戸のすきまから漏れる朝の木漏れ日も、まだ朝になったとは思えないほど微かなものだった。けれどそっと雨戸のすきまから北の空を見つめると、いつもそこには絵に描いた海のようなさめざめとした紫色の空と雲が広々と広がっている。  静かに唱える父と母のお経は厳格な規律を示しながらも、僕の朝を優しい笑顔で包んでいるようだった。その合唱の声の中でもう一度眠ってしまう。  日曜の朝は家族の誰もがいつもより遅い朝を迎えた。僕が目覚める頃、障子にあたる日差しは輪郭を整え、雨戸のすきまから漏れる光も真っ直ぐに床を照らしていた。僕はまだ家族の誰もが布団の中で眠る朝、雨戸から漏れる朝の光の中で本を読んだ。そして一冊の本に読み疲れるとまた眠りに就いていた。  もう一度目覚めると、線香の匂いが微かに狭い家の中を流れ僕の鼻をつき、そして父の奏でる尺八の音が聞こえる。それが僕の日曜の朝だった。  尺八の旋律は畳敷きの部屋のまばゆい朝にゆっくりと流れていた。父の尺八を吹く息づかいと尺八の穴を叩く指づかいが小さく弾けている。僕は父を見つめていた。  譜面を畳の上に置き、正座しながら確固たる眼差しでそれを見つめる父は、目に見えない何かに押しつぶされそうな気持ちを、たった一人で懸命に堪える孤独と戒律を揚々と尺八の旋律の中に刻み込んでいた。  やがて夏を迎えようとしているじめじめとした梅雨の日曜日に、僕は一度だけ父が尺八を習う家に連れてゆかれたことがある。その時父は、今度僕が自分のお小遣いで買おうと思っていた漫画本を買ってくれた。  その家はバスを二回も乗り継いだ所にあった。僕は父がその家に集まって尺八を習う他の人達に交じって練習をしてる間中、ずっと漫画本を読んでいた。バスに乗っているのが長かったのと練習時間の長さとで、僕はその本を繰り返し三回も読み直しながら、父の姿をちらちらと上目遣いで気にしていた。  そのうち練習も終わり皆一人一人が師範の前で練習曲を吹いて帰って行き、次第に習いに来ていた生徒の人数も減っていった。父の順番は一番最後から三番目だったと思う。お弟子さんは三十人程もいたから父の順番が来る頃には日もすっかり落ちようとしていた。  順番が来て師範の前で緊張しながら練習曲を吹く父の姿は、とても安らいでいるように思えた。三人しかいなくなった広い間取りの広い部屋の隅から、僕はそんな父をじっと見つめていた。間違える度に吹き直す父の背中には、望郷の思いが溢れているようだった。  見つめていると涙がこぼれた。父が何度も間違えるからじゃない。練習時間が終わるのを待っているのが長くて辛かったからでもない。尺八の音色を高めながら、父がそっと心を開いているのが分かったからだ。優しいな。そう思いながら僕は涙を堪えた。  帰り道、父は僕をラーメン屋に連れていってくれた。タンメンの大盛りをふたつ頼んでくれた。そしてそれを急いで食べさせられた。 「おいっ、家に帰るのが遅くなるから早く食べろよ」  父は家に帰るのが遅くなって母に心配をかけたくなかったのだろう、ラーメン屋を出てすぐに家に電話していた。  バスに乗りながら僕はもう一度漫画本を開いて気に入った所だけを読み返していた。すると父はそんな僕を叱った。父の一言には重みと強さがある。 「目が悪くなるから暗いところで本を読んじゃいかん」  僕は慌てて本を閉じた。僕がぼおっと外を見ていると、父は僕の方に体を寄せてこんな風に話しかけてくれた。 「どうだ。待っててつまらなかったか。……。わしはどうも師範の前だと上手く吹けんわい。師範が言うにはな、あんたは下手だけど一生懸命吹いているから気持ちがよい、だとさ」  父は笑顔を浮かべていた。 「わしゃ、そんなに上手くならんもんかなぁ」  父は恥ずかしげに首を撫でていた。  僕は心の中で思った。思ったけれど言葉に出来なかった。お父さん、そんなことないよ。お父さんの尺八は上手だよ。僕は涙がでちゃったくらいだもん。  そして家に帰ってからもう一度父は尺八を吹く。孤独と戒律とそして僕がこぼした一雫の涙の中で、父は人生を揚々と奏でている。それはとても静かな梅雨の夕暮れ時だった。    兄の夜は長かった。兄の机の上の電気が消えるのは決まって夜中の二時頃だった。受験勉強のためだった。  その頃は、親も初めての子供の受験にせかせかとしていて、家中が兄の受験勉強一色に染まっていた。兄は中学というコースを走るマラソンランナーだった。  一年生の時初めて受けた中間テストの成績は学年で十番だった。そこでスタートの合図が鳴らされたのだと思う。兄はとにかく走り出した。  近所の同じ学年の子供を持つ親同士の井戸端会議の間を上手く切り抜け、暴走族の勧誘も見事に切りかわした。一年生の間に学年で三番の座をとった。全国模擬試験では三科目が五十番以内に入った。親はまずまずだと思ったのだろう。  二年生になると勢いがついた。進学塾に兄を入れた。兄もますます勉強意欲に拍車がかかったようだった。かりかりというノートをとるシャープペンシルの音が夜に響いた。僕は同じ部屋の二段ベッドの下にカーテンを張って眠っていた。兄の机の明かりがぼんやりとカーテン越しの兄を映し出していた。  二年生の三学期には学年で一番をとった。競り合っていた同級生をわずかに兄が追い抜いた。その時は家中で大喝采が起こった。全国模擬試験では国語と英語が五位、そしてなんと数学が一位に燦然と輝いた。親は狂喜乱舞して喜び、近所の皆さんに申し訳ないくらい鼻高々としていた。  兄は息も切らさずに走り続けた。そして三年の間はずっと好成績を守り、みごと希望高校の大半に合格した。そして兄のマラソンもまた終わったかのようだった……。  でも兄の一生の財産はその後にあったのだと思うし、新たなるスタートラインにもう踏み込んでいたのだと思う。  兄は勉強をやめたわけではないが、あまりしなくなった。けれど、たくさん友達が出来たようだった。気の合った仲間と兄なりの高校生活を送り出したんだろう。それに兄の友達には僕はとても可愛がってもらったんだ。    僕は登校拒否児になっていた。共働きの家は昼間になると空っぽになる。僕は家に閉じこもったきりの生活を送った。その時、兄が高校の入学祝いに買ってもらったギターを弾き始めた。兄はそのギターを弾かなかった。兄にはギターなんか弾かなくても、楽しいメロディーを奏でてくれる友達がいたからだろうな。僕はたった一人、孤独に暗くギターを奏でていたんだ。僕が小学校六年の時だった。  自殺も初めて考えた。死を初めて意識したのは小学校四年の時だった。いつかは僕も死ぬんだ。そうしみじみと思い知らされた。身震いがする思いだった。自殺を意識したのはその時が初めてだった。生きているより、死んだ方が楽だ。それが僕なりの自殺の動機というものだった。  飛び下り自殺をするにも家の屋根からじゃ低すぎると思ったし、手首を切るにも共働きの家の包丁はとっても切れ味が悪い。という単純な理由で、幸運にもなかなか死ななかった。  兄がアマチュア無線の免許をとった。一発で合格した。兄はアマチュア無線関係の本をたくさん買っていた。でも無線機は買わなかった。近所迷惑になるという親の意見からだった。家のテレビは新宿の高層ビルのおかげでただでも映りが悪いのに、無線機なんかやったら苦情が来る、とか何とか言って買わせてもらえなかった。もっともらしい話だが、本当だったのだろうか……。  だから兄は何冊かのアマチュア無線の本と免許だけを残し、アマチュア無線という存在を僕の前に置き去りにして行った。そしてあまり家に寄りつかなくなった。僕はその逆で、家で毎日テレビを見て、暇になるとギターを弾いていた。  そしてある日、とうとう僕の担任の先生が家に訪ねてきた。 「一体どうして学校に来ないの」  その実、先生も訳知り顔だった。  まだ両親は仕事から帰ってきていなかった。だから僕は嘘をついた。 「ずっと風邪をひいていたから……」  何カ月も風邪をひいた奴がぴんぴんした体で先生にこんな風に挨拶するだろうか……。小学生らしいすぐばれるような正直な嘘だった。 「明日から学校にちゃんと来てね」  先生は親が仕事から帰ってきていないことを察してそう言っただけですぐに帰ってしまった。  僕はほっとした。が、その夜先生から親に電話がかかり、今まで学校に行っていなかったことがようやくのように親にばれてしまった。でも何だか僕には三カ月以上も学校を無断欠席していたことが今までばれなかったことの方がもっと不思議だった。  僕は近所の友達と一緒に学校に行く羽目になった。三カ月振りの登校だった。  自分のクラスに入ろうとすると皆は僕を奇異の眼差しで見つめていた。そして僕の机の上には一輪の花が花瓶にさして置かれてあった。僕がそれに驚くとクラスの中の何人かが笑い出した。僕はその嘲笑に耐え切れず、振り返り走り出した。僕の孤独なマラソンはその時から始まったのだろう。  僕は電車に乗った。百円でとにかく行けるところまでの切符を買った。どこの駅だっただろう。そこからは無鉄砲に歩き続けた。止めるものは何もなかった。  あるデパートに入った。デパートの屋上の陰でシンナーを吸っていた少年達二人が、少年課の私服警官に捕まっていた。  僕の側になれなれしく一人の少年が近寄ってきた。少年は僕にこう聞いてきた。 「ねぇっ、君っ。ちょっとこっちおいでよ。あのさ……僕が君に何話したいか分かる」  唐突で訳のわからない質問に僕は首を振りながら、分からないと答えた。 「君一人でしょ。それとも友達と一緒」  そこまで話すとその少年は、たじろいだようにゆっくりと歩き出した。 「やべっ。少年課のおばさんだよ。君も気をつけなくちゃね」  その少年の作り笑いには寂しい暴力だけが刻まれていた。僕が他の所に行こうとすると、その少年は僕を睨み付けながらこう言った。 「もっと近くに、おいでよ」  その少年はまるでハイエナのようだった。 「君いくつ」 「十二歳です」 「えっ、十二歳っていうと、小学六年」  少年はびっくりしていた。 「嘘じゃないだろうな」  少年の額に青い陰と怒りがはっきりと浮かんでいた。  僕はその少年の瞳をじっと見つめた。 「本当なのか。しょうがねぇなぁ……じゃあ行っていいよ」  何のことなのか僕には分からなかった。  その少年の仲間達二人が屋上の物陰から合図しているのが見えた。その少年はその子達に向かって大きく手を振りながらこう言った。 「こいつはだめだ。他んとこ行こうぜ」  じゃあな、と言ってその少年は振り返りもせず走り去っていった。実は恐喝だったのだとだいぶ後で分かった。  デパートを出て街の中を歩いた。ごみごみとした街の色々なものが、僕に向かって押し寄せてくるようだった。見知らぬ街の見知らぬ風景は、それぞれが勝手に悪戯なものを生み出しては風や時が消し去ってくれるのを待っているようだ。  夕暮れ時になった。もう帰らなくちゃ。でも帰り道が分からなかった。僕はポケットの十円で家に電話してみた。本当ならまだ誰も帰っていないはずの家に、先生から連絡をもらって仕事を早引きした母親が家にいた。 「皆に心配かけて何やってるの。どこにいるの」 「分からない」  すると突然、電話口に兄貴が出た。これから遊びに出かけようという時だったのだろう。 「よぉ。おめぇどこにいるんだよ」  兄は怒ってはいなかった。 「分からないよ」 「近くに電車は走ってるか」 「うん」 「何か近くに駅とか見えないか」 「なんかアキハバラとか書いてあるけど……」 「何だおまえ秋葉原にいんのか。そっから一人で帰れんのかよ」 「…………」  僕は黙っていた。  兄は僕を鼻で笑ったようだったが、電話口からはこんな言葉が返って来た。 「そんじゃあよ。おまえそっから動くなよ。俺が迎えに行ってやるからよ。秋葉原っていったらアマチュア無線とか色々売ってんだぜ。俺よく知ってるから、そこから動くなよ」 「うん……」 「まぁ一時間くらい待ってろよ」 「うん……」  僕は電話を切って焦った。兄に殴られるんじゃないかと思ったからだ。  一時間ぴったりで兄が僕を見つけた。 「おいっ。お前疲れてっか」 「ううん」  僕は首を横に振った。 「んじゃよ、家まで歩いて帰るか」  兄はてくてくと一人歩き出した。  僕は兄を追うように歩き、やがて肩を並べて歩いていた。 「あれがよ武道館ってんだよ。向こう側に国会議事堂っていうのがあるんだぜ。こっちからじゃ見えねぇけどな」  兄の言葉に耳を傾けながら、僕は見知らぬ街の地図の上を歩いているようだった。 「これが神田川っていうんだぜ」 「あの、かぐや姫の歌の神田川のこと」  僕は兄の顔色をうかがいながらそう尋ねた。  兄は僕の質問には答えてくれなかった。 「んじゃよ、歌でも歌って帰ろうぜ。中央フリーウェイって知ってっか」  僕は首を横に振った。 「じゃ、教えてやるよ」  兄は歌い出した。チュウオウフリーウェイ……。  僕は聞き覚えのあるその歌を聞きながら時々一緒に口ずさんだ。  家の近くに来て兄がふっと立ち止まって僕を見つめた。 「迎えに行ってやったんだから何か言えよ」 「ア・リ・ガ・ト・ウ」  僕は首を引っ込めて謝るようにそう言った。 「よぉし。後少しで家だけどよ……。まっ、俺も人のことなんか言える身分じゃないけど、心配かけんなよ」  兄はそれから先の道は一人で歩いてゆくように早足になり、僕はとても追いつけなかった。    それからも登校拒否は治らなかった。ただ後はもう学校の出席日数が足りるように気を配っただけだった。卒業式にも出なかった。後から卒業証書と卒業名簿が送られてきた。  中学校に入って少しはまともになったが、僕は兄の百分の一も勉強しなかった。その時間ギターを弾いていた。毎日毎日指にまめが出来てそれが破れているのも気付かずに弾いていた。やがて指の皮が足の裏のように固くなった。  僕の夜もまた長かった。僕はスエットの上下に着替え、兄のバンダナを頭に巻いて、夜中の一時までマラソンを続けた。家の前で腹筋三百回。腕たてふせ百回。十キロのマラソン。  一年中走った。平坦な道、上りの坂道。下りの坂。曲がりくねった道。雨の日も、雪の日も、台風が来ても走った。電信柱一本一本を目標に、次はあそこへ次はあそこへと遠く遠くへと、いつか何かの形になって現れてくるはずのものに向かって僕は走り続けた。  なぁ兄貴、いつか僕も誰かを迎えに行って、歌を歌った思い出を残してやることが出来るのだろうか。兄はいつも僕の前を走りながら、僕の肩を優しく包んでくれていた。    子供の頃眠る前に読んでもらった絵本がある。僕の軌跡はそこに象徴されているようだ。  題名は『難破船の少年』と『父を思えば』だった。僕の記憶の奥深くにはいつもその物語がある。毎晩母が読んでくれた。『難破船の少年』も『父を思えば』もどちらも犠牲心と思いやりの話だった。僕にとってみればそのふたつの物語にとても強い思い入れがあるんだ。 『難破船の少年』という物語の内容は、ある船の上で少年と少女が出会うところから始まる。それはまるで僕の父や母の出会いのように……。  そしてお互いに何故この船に乗っているのかを話し合うんだ。僕の知らない父や母の悲しみがあるように……。  少女は生活の貧しさのせいで他の家に売られてしまい、遠く離れて暮らさなければならなくなった親にやっと会いに行ける時だった。少年は両親を亡くし仕事を探しに行くところだった。  突然嵐が訪れ船をのみこんだ。それはまるで僕の知らない親の苦労を物語っているようだった。恋愛や結婚や仕事という大人だけが知る嵐。  激しく揺れる甲板の上で少年が頭に怪我をする。少女は自分の服を破り少年の額に巻いてあげる。そしてやがて間もなく船が沈没しようとする時、一艘の救助ボートから声が聞こえた。後一人なら乗れる。それも子供がいい。少年は少女を海へ突き落とした。そして少女はボートに救助される。少年は叫ぶ。だって君には親がいて、君のことを待っているんだ。幸せに。さようなら。少女は沈没してゆく少年が自分に手を振っているのを見つめている。そしてやがて船は海の中に沈んでしまう。  この物語は死を選んで少女を助けた少年の愛と、愛によって助けられた少女の悲哀を僕の心に刻み込んだ。  僕はこの少年のようになれるか。その人のためにならば命を犠牲にしても構わないと思えるように愛してゆけるのか。そんな風に考えていた……。いつもそう思ってきた。 『父を思えば』という物語は、貧しい宛名書きの仕事をする父親の一家の話だ。一見ごく平凡な暮らしを過ごす、僕の家のような……。  父親は毎日一生懸命宛名を書いていた。それは自分の子供達を学校に行かせるためだった。三人兄弟だった。ある日父は体を弱らせてしまい、仕事が半分しか出来なくなってしまう。すると三人兄弟の真ん中の男の子が、父が眠ってから徹夜で自分の勉強をする代わりに父の仕事をしてあげるようになる。僕には子供に仕事が出来るなんて思いもしなかった。そしてそれは子供が働き出す時の象徴のようだった。  すると不思議なことに父の貰ってくる給料がいつもより上がっている。なんだかそんなおかしなことに気付かない親が滑稽だったが、仕事の忙しさは子供のことすらも忘れさせてしまうのかもしれない。それは僕が登校拒否になっていたことを知らずにいた親の心と似ているのかもしれない……。  その少年は成績が下がって父や母に怒られてしまう。けれど父の体が治るまでずっとその少年は父の代わりに仕事を手伝い続けていた。ある夜、少年は父の仕事を手伝いながらインクの瓶を床に落としてしまう。少年も疲れていたんだ。そしてその物音に気がついて父は仕事部屋に入ってくる。そこで初めて自分の息子が仕事を手伝っていてくれたことに気がつき、泣きながら自分の息子を抱きしめる。私のためにこんなことをしてくれていたのか。でももういいからお休み、明日からはいつもの通り働いてもいいとお医者さんに言われたんだよ。そう言って息子をいつくしむ、という親子愛の話だった。  親と子の絆を結んだ小さな労働の叫び。僕は自分がこんな子供になれるかどうかは、分からなかった。ただきっといつか僕も仕事を見つけ大人になるのだろうと思っていたんだ。    小雨の降る日、僕の家はしんと静まり返った。誰もいない一人ぼっちの部屋に振り子時計の音だけが鳴りひびいていた。何でこんなに一人ぼっちなんだろう。それが僕の最初の溜め息。  その溜め息は、いつまでも降りやまぬ小雨に静まり返った部屋にこぼれ落ちて、小さな夢を描いた。  振り返ると、僕はいつも夢を見ていた。雨に濡れそぼった僕は溜め息をつく。僕の雨の軌跡。 後 記    精神はすさんでいた。隔離された全ての部屋からは解放されたが、首には縄が付けられたままだった。毎日は歪んだ常識との駆け引きに終始し、愛情の糸は途切れていた。  そして苦悩を消毒しようと酒をあびるほど飲み倒れるように眠るのだが、二時間おきに目を覚ました。その時はまるで蝋燭の炎の中にいるようだった。体が焼かれるように熱く、見つめるものは陽炎のように揺らぎ、静寂は心を打ちのめし、すがれるものは何ひとつ無かった。豪雨が降り続いているのをじっと見つめながら、身動きひとつもとれないで、いつかその中に放り出されてしまうことに脅えているようだった。  上手い言葉にはめられて裏切られ失い、何ひとつ上手くゆかなくなり始め、落ち目と呼ばれ、今までちやほやしてくれていた連中は見向きもしなくなった。新聞は事件を面白可笑しく叩いたが、真相など何ひとつ語られず、騙したやつらを裁きもしなかった。そして誰もが皆それを見て見ぬ振りをした。自信をなくした人間を慰めてくれる者などはいない。あいつもこれまでだな、その言葉に耳をかすことがせめてもの社会との折り合いだった。  目の前にたくさんのものが落ちていたが拾わなかった。ゴミなんか拾うものじゃない。そう言い聞かせた。奪い取ってこの悲しみを背負わせたやつらがのうのうとのさばっていたし、落ちているものは全てそいつらのものだったからだ。  新しいものが流行り、また同じような犠牲者が生み出される。社会はその戦いだ。そして勝利か敗北かのどちらかしかない。だから今こうして誓って言うのだが、同じように奪うような者にはなりたくはないと願っていた。  拳を握りしめ走っていた。拳は空振りしていた。空振りする拳は体力を奪ってゆくだけだとも知っていた。近寄ってくる者全てにその拳を向けていた。だがその拳で打ちのめすことは出来なかった。打ちのめすための正当な理由は、生きてゆくための妥協だけにあってはいけない、そう信じていたからだ。そして背を向けるとかならず後ろから傷を負わされていた。  ある時、男が側に来てこう言った。おまえはそこで何をしているんだ。だからこう答えた。全ての扉を開いているんだ。男はさらにこう言った。そして何をしようというのだ。  その男の瞳に悲しみを覚え、ゆっくりとこう話した。言葉を知らぬものと話そうとしているんだ。何故なら罪深きこととは、もの語る者と言葉知らぬ者とが関わる時、生まれるからだ。そして言葉知る者は、誰も皆、罪人だ。だが誰一人として同じ言葉を持つ者はいない。罪人の友は悲しみだけだ。人は皆、悲しみのしもべである、と。  その男は決して拳を恐れなかった。そして決して脅かさなかった。    この七つの作品をつくるにあたって僕を刺激してくれたその男たる「月刊カドカワ」編集長、見城徹さん。そして温かく励ましてくれた丸谷直美さんをはじめとする「月刊カドカワ」の編集部の皆さん、斉藤由貴さん、坂本龍一さん、村上龍さん、須藤晃さん、その他出会った全ての皆さんに感謝し、僕の罪を証言します。   尾 崎  豊   本書は平成三年二月小社刊行の単行本を文庫化したものです。  普《ふ》通《つう》の愛《あい》 尾《お》崎《ざき》 豊《ゆたか》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成13年4月13日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Yutaka Ozaki 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『普通の愛』平成5年4月10日初版発行