TITLE : 松緑芸話 講談社電子文庫 松緑芸話    尾上松緑 著  目 次 ひとこと 父のこと——七世松本幸四郎 師匠のこと——六代目尾上菊五郎 兄たちのこと ——上の兄 十一代目市川団十郎   中の兄 初代松本白鸚 私の戦争体験 脇役の人々 義経千本桜 菅原伝授手習鑑 仮名手本忠臣蔵 一谷嫩軍記 傾城反魂香 勧進帳 毛抜 鳴神 土蜘 茨木 関の扉 隅田川 梅雨小袖昔八丈 新皿屋舗月雨暈 盲長屋梅加賀鳶 新作物 あとがき 文庫版へのあとがき 松緑芸話(げいばなし)   ひとこと  芸談といえばすぐに思い浮かぶ幾冊かの本があります。六代目の小父(お じ)さん(尾上菊五郎)の『芸』とか、五代目(中村)歌右衛門さんの『歌舞伎の型』など、どなたもよく御存じの名著ですが、私にはおこがましくてとても諸先輩に肩を並べるような、いわゆる「芸談」などできっこありません。  また、芸についてなぞ、聞いたり読んだりして分かるはずがありません。先輩の舞台を見て、そして実際に舞台に立ってみて、初めて身につくものです。そう辰之助たち若い者にも言い続けてきましたが、そうして渡すべき辰之助を一昨年突然なくし、孫の左近もまだ小さく、実のところ茫然自失の態でした。加えて私自身の体の不調です。眠られない幾夜かがありました。  そんな折に、この本についてのお話をいただきました。役を譲る相手を失った痛手もあり、昭和二年以来二十二年もの間お世話になった六代目の小父さんへのわずかながらの恩報じとも思い、お引き受けした次第です。  ほとんど全て六代目から教えられたことばかりで、私の工夫なぞはほんのわずかなものです。六代目の偉大さの、その一端でもこの本からくみとっていただけることができたら、私の小さな責任も果たせたというべきでしょうか。  親父(七世松本幸四郎)のこと、二人の兄(十一世市川団十郎、松本白鸚)のこと、小父さんのこと、お世話になった脇役さんたちのこと、そして戦争のことについてもしゃべっています。ことに、足かけ五年三度も出征した戦争について、近頃想い出されてなりません。九代目さん(市川団十郎)にも、親父や菊五郎の小父さんにも経験したことのない、あの戦場の体験が私の舞台にどこか反映しているのだと、そう思えてしようがありません。どこがどうとはいえないのですが。  この本の出版に際し、お世話になった方々にあつく御礼申し上げます。   平成元年五月 尾上 松緑   父のこと——七世松本幸四郎  偉大なる凡人、父七世松本幸四郎は明治三年、伊勢の津で土建屋の息子として生まれました。役者だの踊りだのとはまったく関係のない家でしたが、後に母親(私の祖母)と東京へ出てきました。なぜだったのか、はっきりしたことを私は聞いていません。上の兄貴(十一世市川団十郎)は聞いていたかもしれませんが、だいたい私と親父とは年齢が離れすぎていましたから、そんなことは話しにくかったんだろうと思います。とにかく親父は晩婚で、明治四十一年に三十九歳で結婚して、翌(あく)る年上の兄貴が生まれ、中の兄貴(松本白鸚(はくおう))がすぐで、それから三年経って私というわけで、親父と私とは四十四歳も違っていましたから、自分の生い立ちなどしんみり話してくれたことは一度もありません。また話をしてもこっちが分からないと思っていたんでしょう。  親父の幼名は秦豊吉(はたとよきち)でこの豊吉の豊の字が私のところへ来たわけです。  お祖父(じ い)さんは秦専治といったらしいんですが、コレラで死んだと聞いています。お祖父さんの婆やがコレラにかかったんです。今なら何でもなく治るのでしょうが、当時のことで薬がない。ましてや伊勢の津は田舎でしたから、かかると一種の檻みたいな所へ入れられてしまうんだそうです。お祖父さんがそれを、 「見るに忍びない」  と檻の中へ飛び込んだ。それで自分もコレラにかかって死んだと聞いています。  そんなことで母方は全部分かっていますが、父方は、祖父のことも祖母のこともほとんど知りません。それが、どんな理由があったのか親父は母親と東京へ出てきました。  親父の若い時のちょん髷(まげ)姿の写真がありますが、面長で大きな目でいい顔をしています。役者には最適の顔です。子供でいてあれだけ面長なんですから、そんなこと言ったら怒られるかもしれませんが、とどのつまりは、器量望みで藤間(ふじま)の家へ養子にもらわれていったんじゃないかと思います。  その頃、花柳(はなやぎ)の大きいおじさん(初世花柳寿輔(じゆすけ))がなかなか偉大な方で、芝居の振付(ふりつ)けはだいたいやっておられました。それが、何かわけがあって九代目(くだいめ)(市川団十郎)とうまくいかなくなり、花柳さんは五代目(尾上菊五郎)のほうへ行ってしまわれた。その穴埋めが家(うち)のお祖父さんの二代目藤間勘(かん)右衛(え)門(もん)でした。親父はこの祖父さんに連れられて小屋へ行ったり、九代目の所へ出入りしているうちに、これも器量望みで九代目の弟子になったんでしょう。第一、あの不器用な親父ですから、名子役ということで九代目が弟子に取るわけがありませんし、また顔が子役向きなんていうつくりじゃありませんでしたからね。  親父は非常に従順で、養父母に対して親孝行な人でした。後年、実父に逢ったそうで、その辺は親父の『松のみと里』(七世松本幸四郎著、昭和十二年、法木書店刊)にも書いてありますが、父親に対してという情はちっとも感じなかったそうです。自分が養子の身になったこうした体験から、 「子供は養子には出すものじゃない」  と言って、男の子が三人もいたのにとうとうどれも出さなかったんです。  親父はそんな風でしたから養父勘右衛門ともうまくいっていましたが、ただそのぶん、お養母(つ か)さんがなかなかうるさい人だったようです。このお祖母さんは大正元年、私の生まれる前の年に亡くなりましたから、私はまったく知りません。  私のおふくろは二十一歳で嫁いできまして、死んだのが二十九歳、わずか八年間です。お祖母さんにいじめ殺されたというわけでもないんでしょうが、当時の人気役者市川高麗蔵(こまぞう)(のち七世松本幸四郎)の嫁として苦労したんじゃないでしょうか。おふくろの姉さんが、このあいだ死んだ長唄(ながうた)(三味線方)の(三世)今藤長十郎(いまふじちようじゆうろう)の母親で、今藤綾子(あやこ)さんは私とは母方のいとこ同士に当るわけで最も近い親戚ですから、私が生まれる前のことをわずかながら聞かせてもらっているんです。  母方のお祖母さんは長生きをして、お祖父さん(二世勘右衛門)の茶飲み友達として長いこと浜町の家にいました。この人は一中節(いつちゆうぶし)がうまかったといいますが、こちらは小さい時ですから、そんなことは分かりません。いいお祖母さんでしたが、私は随分いびったものです。今になってみれば悪いことをしたと反省していますがね。  関東大震災の時は私たちと一緒に手に手を取って大阪まで逃げまして、戻ってからは、おふくろの姉さんの今藤の家へ戻りました。そそっかしいお祖母さんで、銭湯へ行って取り違えてよその子の背中を洗って自分の子はほっぽらかし。洗われてる子にしてみれば、知らないおばさんが背中を流してるんですから気味が悪いから逃げますよ。そうしたら、 「言うことを聞かない子だ」  と言ってピシャッとひっぱたいたといいます。これは伯母から聞いた話です。まるで落語を地でいったそそっかしさじゃありませんか。  お祖母さんのお稽古所が上槙町(かみまきちよう)という所にありました。当時の市電で出掛けるんですが、途中で電車を乗り換えるのにいつも間違って向かい側の電車に乗ってしまうもんですから、逆戻りして自分の家の前を通る。間違ったことに気が付いてこちら側へ乗り換える。しばらくするとまた戻って来る。何べん乗り換えても家の前で、しまいに両手で目をふさいで通ったというんですから恐れ入りますね。  いい人でした。そこひでしょうか目が悪かった。それを私はいびったんですから、本当に悪いことをしたものです。このお祖母さんは八十いくつまで生きました。  さて親父は、九代目の所へは十一歳の時から内弟子ということで入りました。初め藤間金太郎。金太郎は本名です。ところが、器量がいいというので九代目が市川染五郎にしましたが、ゆくゆくは幸四郎の名跡(みようせき)を継がせようと考えたんでしょう、程なく市川高麗蔵に変えさせました。それで四十一歳の時には幸四郎になったんですから、そりゃあ忙しい話です。  それにしても、親父はどうして晩婚だったんでしょうか、これは不思議です。よく親父は、 「俺は堅かったから、お前たち子供が五人もできたんだ」  と言っていましたが、これは大嘘。五人どころじゃない、ちょっと数えても外に十人くらい子供がいたんです。あれだけのいい男のうえにまた親切でしたから、とにかくもてました。相手も芸者衆ばかりでなくいろいろいました。それでいて素人も素人、本当のど素人だった家のおふくろに惚れたんです。  おふくろはお祖父さんの踊りのお弟子で、子供の時から家へ来ていました。それを親父はだっこしたりして可愛がっていたんですが、おふくろもだんだん年頃になってくる、それでなかなかの美形でしたから、恋愛的な感情が生まれたんでしょう。どうもそんな次第でおふくろと結婚したようです。さておふくろは、一緒にはなったものの大変な苦労の積み重ねで、身が細って死んだんですね。  親父が外に作った子供はだいたい分かっていましたが、みんなもう死んでしまいました。 「僕は弟です」 「妹です」  と訪ねてくれば、身内だと思いますから絶対に敬遠はしませんでしたが、中でも私の後にできた弟と妹を、私はことに可愛がったものです。その弟は中国の広東(カントン)で戦傷死しました。広東から私に当てた手紙は今でも取ってありますよ。  親父の親切は何も女ばかりには限らなかったんですが、そこはやはり男ですから、ことに女性にはやさしくなります。そのうえ人気役者の頃で、どれだけ収入があったか分かりませんが、すでに相当給金は高かったろうと思います。お祖父さんとは別途会計でしたでしょうし金の切れのいい人でしたから、それはもてて当り前なんです。それなのに、 「俺は堅かった」  と嘘ばっかり言ってました。役者なんですから堅くなくったっていいじゃないですか。  性格的にも陰でコソコソするという人じゃありませんから、倅(せがれ)たちも親父の色関係を知っていました。芝居がすんで、 「一緒に帰りましょうよ」  と誘うと、私と自動車に乗って彼女の所へ寄っていくなんてことさえありました。 「俺ちょっと」  と鞄を持って彼女の家へ入っていってしまうんです。これはこれで立派だと思いますね。  けれども、ともかく親父が「偉大なる凡人である」という一番の意味は、何よりも後のことを考えていたという点なんです。  親父はとにかく不器用な人でしたが、今思えば、不器用は不器用なりにもっと平然と、それはそれとして通していたら、もっと偉大な役者ができていたんじゃないでしょうか。自分が不器用だということを親父自身もよく分かっていたんです。ですから、何とか自分の不器用さを子供には移したくなかったんです。子を見ること親にしかずで、うちの兄弟も親父の子ですから、けっして器用じゃありません。ことに一番上の兄(十一世団十郎)は不器用でした。しかし、何と言っても役者っぷりのいいのは上の兄貴が一番でしたから、この不器用さと役者っぷりのよさというのを合致させて不器用さで通させました。それが成功したのが上の兄貴です。  兄貴は兄貴なりに実に一生懸命にやりましたが、本当に不器用な人でした。親父とはまた役どころは違いましたが、その不器用さが兄貴の味とも強みともなったわけです。親父は、不器用さと男っぷりのよさとがちょっとマッチしないところがありました。そのくせいろいろ細かいことを考えるんです。一時、親父の癖として、 「幸四郎は思い入れが多すぎる」  と言われました。すべてに念の入った人ですから、 「ここでこういう思い入れをしないと、見物に分からないだろう」  というようなことをしょっちゅう言っていましたね。それを『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の『熊谷陣屋(くまがいじんや)』みたいな古典物でもやるんです。私たちにはそれを強制したことはありません。あくまで自分の解釈でやったんですが、何十年もやっていますから、とうとうそれが親父の一種の癖というか型(かた)になってしまったんです。むろん初めは癖ではなく、 「こういうところはこういう思い入れをしなくては……」  と演技の一つとしてやったんでしょうが、器用じゃなかったから不器用さがそのまま出てしまう。そこで、演技過剰みたいなところが一つの癖だということになってしまったんですね。  けれども、癖があるということはけっして悪いことじゃありません。役者というものは個性が大事ですから。声色屋(こわいろや)なんかがいろいろな役者の真似をするのでも、役者の特徴を捉えて真似るんですから、むしろその癖を喜んでもらえれば、役者としては一種の成功と言えるわけです。しかし家(うち)の親父の場合は、その癖に見るほうがなかなかついていけなかったんです。それは親父にも分かってはいましたが、自分ではもうどうすることもできない、改良できないんで、「それでは」と、そこが親父の偉大なところで、自分ができなかったことを子供に託したわけなんです。  自分の子供ですから器用だとは言えないけれども、当時もっとも器用だと言われていた六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門に預けた。預けたからといって実の親子じゃありませんから、そのままで不器用さが取れるわけじゃありませんが、けれども、師を与えておけば自然と取れることもあるだろうと思い当ったんじゃないでしょうか。  もう一つは、総領にだけはその不器用さを生かしてやりたいと考えたんでしょうね。それに上の兄貴は病弱でもありましたから手元へ置いたんだと思います。  ところで、中の兄貴(松本白鸚)と私がそれぞれ自分たちで、播磨屋(はりまや)(初世中村吉右衛門)と六代目を望んだように書く人がありますが、これはそうじゃないんです。 「順次郎は播磨屋に、豊(ゆたか)は六代目の所にお願いする」  とさっさと親父が決めていて、私たちには初めから「どっちにする」なんという質問はむろんのこと、否やを言ういとまもありませんでした。  けれども、これが兄貴と私と行った先が反対だったらどうかといったら、絶対にうまくいかなかったでしょうね。やはり子を見ること親にしかずで、ちゃんと見ていたんですね。  踊りは三人の中ではあんまり好きなほうでもなかったんですが、一番稽古をしていたのは私でした。それが十五歳の年、稽古が嫌いになる盛りの年頃のその時にポンと、踊りの名人でもあった六代目の所へ預けられたんです。預けたとなると、もう舞台に対しては一言も言いません。それは実に徹底していましたね。まあ私のほう(菊五郎系)は世話物(せわもの)の畑でしたし、親父は自分が口が重いうえに世話物に向かない人ですから、ことに何も言いませんでしたが、中の兄貴は播磨屋の所で親父と同じ物をやりますから、いろいろ気に入らないことはあったはずですが、それでも言いませんでした。  ただ私が『大森彦七』を六代目の通りにやった時には、 「ああ、『大森』は俺の演(だ)し物(もの)なんだがなあ」  とそう言ったそうです。これも私に直接は言いません。親父の所の男衆(おとこしゆ)に言ったんです。その男衆から、 「旦那がこう言ってらっしゃいましたよ」  と聞いただけでした。 「俺の子でありながら、どうして俺の通りにやらない」  などとはけっして言いませんでした。  ことに『大森彦七』は家の親父の癖で固まったような芝居ですが、これは書き下ろしの九代目さんもいっぺんしかやっていません。それで親父には「自分が完成させた」という思い入れや何かが相当あったものなんです。ですから親父は陶然としてやっていましたが、舞台は生(なま)にそれが見物に伝わります。そこが舞台の一番の生命(いのち)です。それで、ニンはよし調子はよしということで親父の演し物になったんです。  けれども六代目にしてみますと、自分の所へ預かった以上は幸四郎の癖というのが気に入らない。それでまるっきり直されてしまったんです。見得(みえ)の首の振り方から何からまったく違いました。それを見て親父が、 「俺の演し物だがなあ」  と言ったという次第です。それでいて、直接私には何も言わないんです。  さて舞台の出来はどうだったかと言いますと、まだ二十歳ぐらいでしたし、私の腕では陶然とはどうしたっていきません。おまけに親父の真似でもしていれば、 「やっぱり倅だね。幸四郎にちょっと似ているよ」  ということで一応の評判は取れたかもしれませんが、六代目にすっかり直されていましたから、親父とはまるで違う『大森彦七』で、評判は散々でした。  六代目の『大森彦七』は私もいっぺんだけ見ていますが、極まり極まりの形はよかったには違いありませんが、調子はないし、活歴物(かつれきもの)ですから六代目の得意とする物のうちには入りませんでした。それを私が未熟な腕でやったんですから、評判の取れるはずがなかったんです。  若いうちの舞台というのはそういうことなんです。最初はいい物を見て真似をしていって、それからだんだんと自分の物にしていくわけです。真似る段階では、真似る相手のお師匠(し よ)さんのお得意の物であれば多少でもそのお手本に似るだけで、お師匠さんのお陰で自然と評判はよくなるんです。これは親子でも同じです。  その前に、若手の勉強会でやった『船弁慶(ふなべんけい)』がそこそこの評判を取りました。これは六代目の本興行(ほんこうぎよう)に一月ずうっと四天王(してんのう)で出ていましたので、否でも応でも見ていましたから覚えていましたし、覚えたところをまた教わってやったんです。そのうえ『船弁慶』は『大森彦七』とは違って、音羽屋(おとわや)の家の物で六代目の十八番でしたから、これは何と言ったってお手本も最高でした。見物にしてみれば、 「松本豊なんて、どうにもこうにもならねえような役者が『船弁慶』やるんだが、果たしてできるんだろうか」  と疑問を持って見にきたところが、まあまあともかく六代目をなぞってでもできたということで、ある程度の評判が取れたんです。  それならばということで、この『大森彦七』を新宿劇場で一月興行に出したんですが、評判のいい親父の癖でもってやればなんとか保(も)ったんでしょうが、それを六代目に全部削ぎ落とされて、見事に大根(だいこ)そのものが出てしまっているんですから、うまくいくわけがなかったんです。  若いうちのお手本ということで極端な例があります。松緑になってからだったと思いますが、『鎌倉三代記』の佐々木高綱(たかつな)を、(故・中村)勘三郎さんの三浦之助(みうらのすけ)と歌右衛門さんの時姫(ときひめ)でやりました。ところが、これは六代目も若い頃に(尾上)多見蔵(たみぞう)型で一度やっただけという程度で、うち(菊五郎系)の芝居には全然関係ない演し物です。  多見蔵型の高綱というのは、例の、   地獄の上の一足飛び  て、ぶっ返らないから地味なんです。井戸から出てくるのも仁王襷(におうだすき)を掛けて出てきて幕切れまでそのまんま。つまり本行(ほんぎよう)(文楽)に忠実な型なんです。私はそれまで見たことはなし六代目の本役(ほんやく)でもなし、お手本がないんですから実に困りました。  当時、高綱の本役は(七世市川)中車(ちゆうしや)さんで、これはだいたい関西風なやり方でなさっていました。ところが六代目は、 「お前(めえ)がやるからには、ぶっ返っちゃいけねえ。中車さんのやり方でもいけねえ」  と言うんですが、 「俺は佐々木は嫌いだ」  と言うだけで教えてくれません。六代目の番頭だった牧野五郎三郎という人がいろいろ調べてくれましたが、家の親父も若いうちにやったことがあるというので親父に聞きにいきますと、これも、 「俺も嫌いだ」  と言う。  お師匠さんと親と両方が嫌いだという物を子供がやって、うまくいくわけがありませんよ。仕方がないから、牧野さんの力を借りて多見蔵型でやることにしましたが、そういうことで、舞台稽古の時まで誰も見てくれません。舞台稽古になったらやっと播磨屋のおじさんが来てくれました。佐々木高綱はおじさんの演し物ですから、初めから六代目が、 「波野(なみの)(初世中村吉右衛門の本姓)の所へ聞きに行け」  とか、播磨屋のおじさんが、 「俺が見てやろう」  とか言ってくれれば楽なんですが、これまた両方ともそれを言ってはくれません。舞台稽古の時だけおじさんが来てくれて、入(い)れ黒子(ぼくろ)なども描いてくれました。という次第で、これは『大森彦七』よりもっとおっ放されてしまって散々でした。  この三つを見ましても、若い時の舞台にはお師匠さんの演し物ですとか、その時代の目標となるお手本とかが如実に出るということが分かっていただけるでしょう。 『大森彦七』の時にはまだ世帯を持っていない頃で、月の半分は親父と一緒に住んでいましたが、それでも言ってはくれません。預けた以上は何も言わない。また聞いてやったところで、すぐにまた六代目に直されてしまいますし、ましてや親父の所へ聞きにいったなどということが六代目の耳に入れば、 「じゃ何のために俺に預けたんだ」  と収まらなくなりますよ。家の親父は、そういう理屈はちゃんと分かっていた人ですから、預けた以上はたとえ何があろうがいっさい言いませんでした。  踊りにしても、六代目へ預けられてからは六代目一辺倒でした。私の踊りは最初、藤間藤子(ふじこ)さんのお養母(つ か)さんの勘八(かんぱち)さんが手ほどきで、その後は家でお稽古しましたが、親父は芝居で忙しいからお祖父さん(藤間勘翁(かんおう))が見てくれました。長ずるに及んで勘八さんがいなくなってからは、藤間勘次(かんじ)さん。この人は牛込に住んでいた森田草平(もりたそうへい)さんの奥さんで、お祖父さんの高弟でした。  なぜここへ行ったかといいますと、ともかくお堅いんです。流儀に対してこんなに忠義な人というのは他に知りません。これも珍しいことで、 「お師匠(つしよ)さんに失礼だ」  とついに一生、ご自分の踊りを一つも作られなかったくらいです。  お稽古でも、人間ですから時々は度忘れもありますよ。そんな場合お師匠さんはふつう、 「ここは、右へ回るんでしたか、左でしたか。まあ、どちらでも」  と言うものです。まして相手は家元の子供ですから、 「確か右だと思いましたが、左かもしれません。これはどうぞご判断なすって」  と言うのがふつうなんです。それが、 「ちょっとお待ちください。今思い出しますから」  と考え込んじゃう。 「お祖父様の踊りと違っていたら、お祖父様に申し訳がありません」  とおっしゃるんです。結論を言えば、右へ回ろうと左へ回ろうとどちらでもいいんですがね。踊りそのものは本当のお素人で不器用な人でしたが、古い型でも何でも実によく知っているんです。何しろお祖父さんに教わったまま、まったく変えなかった人でした。踊りというものは、ほとんどは自分のやりいい型に直すものなんですがね。  例えば六代目の『春興鏡獅子(しゆんきようかがみじし)』でも、九代目通りだった家の親父の『鏡獅子』とはちょっと違っていました。いくら九代目の物でも六代目としてはやりにくいところがあります。「川崎音頭(かわさきおんど)」の件(くだ)りで、九代目の振(ふ)りでは、   川崎(ポン)音頭(ポン)  と音頭の振りが付いているんです。だいたい音頭というのは盆踊りではありませんが、屋外で素人が踊るものですから単純なものです。九代目はそれを『鏡獅子』に取り入れたわけです。ところが六代目は、もともとそういう単純なことの好きな人ではありませんでしたから、音頭の手を嫌って柔らかな難しい手に変えたんです。今では、ここの件りの九代目の音頭の手はほとんど誰も知らないでしょう。つまり六代目が自分の好きなところへ振りを持っていってしまったんです。  取捨選択というのはこんなことなんですが、勘次さんはそれができない人でした。  家は兄弟三人とも勘次さんに教わりました。私は六代目の所へ世話になったのでいっぺん途切れましたが、藤間勘右衛門を継ぐとなって「こりゃいけねえ」というのでまた行くようになって、いろいろな物を稽古し直しました。けれども一つも覚えていない。どうしても舞台の踊りのほうにいってしまって、稽古をつけるわけじゃないから忘れます。やはりお稽古をしてお弟子さんに移していると忘れないんですがね。舞台の踊りばかりやっていては駄目です。『大森彦七』だの『勧進帳(かんじんちよう)』や『京鹿子娘道成寺(きようがのこむすめどうじようじ)』、『鏡獅子』などは覚えていますが、一般の、市井で踊りのお師匠さんが教えるような物はまるで駄目です。  昭和二年に十五歳で六代目に預けられてからは、親父とは本当に時々、帝国劇場で一座するくらいなものでした。また家の親父は、自分の子供に役を付ける人ではありませんでした。これは何も私ばかりがひがんで言うんじゃありません。三人ともそうなんです。『大森彦七』ならば、上の兄貴と私とを従者に使いますし、『勧進帳』ならば番卒(ばんそつ)に使うというように、ちっともいい役を付けてもらったことがないんです。これも親父らしい一つの手だったのかもしれません。というのも、こんな親父の仕打ちを見ていれば、六代目のほうでは、 「かわいそうだ」  ということになって凄くいい役を付けてくれるんです。十五歳の時に『勧進帳』の四天王をやらせてもらいましたし、新橋演舞場での『本朝廿四孝(ほんちようにじゆうしこう)』の『十種香(じつしゆこう)』ではご注進(ちゆうしん)に出ているくらいです。  そんな親父でしたが、例えば(七世沢村)宗十郎(そうじゆうろう)さんのような、先の分からない人とは仲があまり好くなかったんです。ですから、堅いと言えば堅いんですが、つまり融通無礙ではなかったということでしょう。  稽古にしましても、最後はそれで生命を縮めたようなものです。(市川)寿海(じゆかい)さんが初めて『助六(すけろく)由縁(ゆかりの)江戸桜(えどざくら)(助六(すけろく))』をやることになりましたが、花道(はなみち)の出端(では)が分からない。ところが、向こうは向こうで稽古があって泊まりがけで来られない。今なら飛行機も新幹線もありますが、その時分ですから、 「とても汽車では伺えない」  ということで、家の門弟で大阪にいた藤間勘寿郎が代理で花道の振りを習いに来ました。  その時、親父は心筋梗塞の気があって芝居を休んでいたんです。それなのに、 「教わりに来ました」  となると、 「あたしは具合が悪いんだ」  と言えないんです。そのうえことに念入りな人でしたから、荻窪の家でしたが廊下で下駄をはいて傘をさしてやって、その翌る日に死んだんです。そういう律義さでした。まあ寿海さんにしたらずいぶん恐縮したんじゃないでしょうかね。けれども寿海さんだって、親父が具合が悪いのはむろん、ましてやそんな下駄はいて傘もってやるとは思いもしなかったでしょう。  その時、私は新橋演舞場で初めての『勧進帳』の弁慶と、岡本綺堂(おかもときどう)さんの『半七捕物帳・春の雪解』を六代目とやっていました。六代目も六十四歳でだいぶ具合の悪い時でしたから、いつもなら三河町の半七と按摩の徳寿と二役を替わるんですが、半無精(はんぶしよう)で半七は私にやらせてくれまして、徳寿と解説の件りだけの半七をやりました。ちょうどその千秋楽の日、『春の雪解』の舞台で六代目と蕎麦を食べているところでした。六代目の徳寿が捨てぜりふで、 「親父が具合が悪いってじゃないか」  と言うんです。それで、 「どうも具合が悪くて、困った」  などと舞台で話をして、その晩に亡くなったんです。間に合ったのは中の兄貴だけ。親父は八十六歳でした。  この話だけをすると何だか寿海さんが悪いようになりますが、だいたい親父は稽古を頼まれますと、膝を突くところは五へんでも十ぺんでも完全に突くんです。私などは三度くらい突けば黙っていても弟子のほうで突きますから、それ以上はやりませんがね。  最後の『勧進帳』をやった時でも、もう狭心症やなんかを持っていましたから、最盛期の舞台のように「延年(えんねん)の舞(まい)」で飛ぶだろうかどうするだろうかと思って見ていましたら、いつも通りポーンと飛びました。そういう人なんです。  顔が立派で声が立派で、親父が声を嗄らしたというのはあまり聞いたことがありません。若い頃は長唄もやっていたと言いますが、あんな太い声の長唄など聞かなくて助かったかもしれません。  六代目はやはり親父の不器用なことも、また押し出しの立派なことも知っていました。ですから『春日(かすが)竜神(りゆうじん)』を六代目がこしらえましたが、これに出る範海法師(はんかいほうし)という悪僧を家の親父がやらない限り、『春日竜神』はやりませんでした。そういうところを利用するのが、六代目は実にうまいんです。それで範海法師と六代目の竜神とを比べてどっちがいいかと言えば、親父の範海法師のほうがよかったんです。親父はいかなる場合にもずぼらなことはしませんから、六代目も親父とやる時には怠けたことをすれば目立ってしまうので、真面目にやっていましたね。  長刀(なぎなた)を使って足を割った形なんかでも、親父は実にいい形をしました。私もその真似をしてやってみましたが、親父のようにはうまくいきません。『橋弁慶』で襷を掛けずに長刀を使ってみましたが、うまくいかないんです。親父は手に力もないくせにどうしてあんなことができるんだろうかと思うほど綺麗でした。  ですから六代目は『茨木(いばらき)』も、晩年は家の親父の渡辺綱(わたなべのつな)でなければやりませんでした。  我々兄弟三人の中では若い頃の私が、見得でも何でも一番親父の真似をしていましたから似ていたんでしょうが、その後変えてしまいましたから、さて三人、誰が一番親父に似ていますかね。 師匠のこと——六代目尾上菊五郎  私が子供の頃は、家の親父は帝劇で六代目は市村座でしたし、そのうえ私は学校ばかり行っていて舞台へ出ませんでしたから、六代目菊五郎が若くして名優であることは知ってはいましたが、お目にかかったこともなし、何のご縁もなかったんです。  それが昭和二年でしたから私が十五歳の年に歌舞伎座に親父が出て、『玄宗(げんそう)の心持』という新作をやりました。その二番目が六代目の『隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)(法界坊(ほうかいぼう))』でした。むろん法界坊は六代目。その後も切(き)りの『双面(ふたおもて)』だけをやったことがあったかどうか確かには覚えてはいませんが、六代目が『法界坊』を通してやったのは、これが最後でした。この時の大橋屋さん(尾上幸蔵(おのえこうぞう))の番頭が実によかったことは、他でもお話ししています。この時に道具屋甚三を家の親父が付き合いました。『玄宗の心持』は親父の玄宗皇帝で、楊貴妃(ようきひ)を(五世中村)福助さん、高力士(こうりきし)を大和(やまと)屋(や)のおじさん(七世坂東三津五郎)という顔触れだったと覚えています。これには私たち兄弟三人も揃って出ました。兄貴二人は女形(おんながた)、私は家来でただ座っているだけの役でした。  私を六代目へ預けたい、よし預かろうという相談がまとまったのは、この時の話ではなかったかと想像しています。と言いますのも、それから間もなくなんです、 「六代目の所へ行け」  と親父から言われたのが。  以前からじわじわ話があって、それではこうしようというのならば覚えてもいたでしょうが、とにかく突然の話でしたから、その日もはっきり覚えていません。ということは、播磨屋(初世吉右衛門)と中の兄貴との話もありましたし、また家の親父は三人の倅(せがれ)をよく見ていたんです。そのうえ決断が速くて、自分がこうと決めてしまえば、 「どうする」  と子供の意向などは聞かない人でした。  何と言っても、関東大震災で方針が変わってしまいました。その原因はやはり中の兄貴でしょう。私に対しては、役者にしなくても踊りのほうを継がせるつもりでいたんです。それは私もうすうす知っていました。そこで、役者にはしないにしても藤間の家にいさせたんです。やはり踊りの世界を離れさせないためで、舞台を踏んだ経験があるとないとでは大変違いますから。親父自身がそうでしたし、自分の経験を生かしてのことだったんでしょう。  一方、中の兄貴を役者にするつもりはまったくなかったんです。ともかく中の兄貴は役者が嫌いでしたから。これは今でも覚えていますが、お祖父さんの(藤間)勘翁が『六歌仙容彩(ろつかせんすがたのいろどり)』の『喜撰(きせん)』の稽古をつけていた時に、 「あ、もし」  と入れ替わるところで、お祖父さんは昔の人ですから、せりふもちゃんと言わなければ承知しません。それが嫌だと言って、とうとう中の兄貴はそれっきり踊りの稽古をやめてしまったくらいです。上の兄貴だの私は時々脅迫されると変わったりなどもしましたが、中の兄貴は嫌だとなると強いんです。駄目となったらどうやったって駄目なんで、親父はあまり勧めもしませんでした。前々から学者か絵描きにするつもりでいたんです。それが、大震災で親父も子供の将来をそうそう悠長に見ていられなくなったのと、中の兄貴は兄貴で、学校が続けられなくなったのとが重なってしまったというわけです。  それと藤間の家は三男の私に継がせるとして、幸四郎を上の兄貴に継がせるか中の兄貴にするかということをいろいろ考えたんでしょうね。ところが親父自身が養子に行ったわけで、そこで子供は絶対に養子にはやらないという主義でしたから、親父は悩んだんです。けれども、中の兄貴も芸の道へ進めることに決断はしたものの、さて、ではどうしようということになりました。性格から言っても中の兄貴は勉強好きで「初雪や……」かなんか言いそうで、お茶の稽古もしていました。お茶は上の兄貴も私も駄目なんです。長い間座ったきりであんなこととてもやっていられない。三番目のおふくろはお茶の嗜みがあってしょっちゅうお茶をたてていましたが、中の兄貴は呼ばれると必ず行くんです。  そういう人でしたから、それやこれやを親父は考えて播磨屋の所へ預けたわけです。これも親父の目にかなって行ったんですが、わたしの場合も親父が私を六代目に引き合わせてどうのこうのというのではありません。親父が六代目と一緒に出ていたこの時に楽屋あたりへ連れて行って、 「どうか倅を頼む」  というくらいのことは言ったんでしょうが、それさえも私は覚えていません。その年は顔見世(かおみせ)の芝居へ私は出まして、その翌(あく)る年のお正月にはもう市村座へやられたんです。  むろん六代目の家へ挨拶に行ったことは覚えていますが、どういうふうに六代目のおやじさんに会ったのか、どうしても思い出せないんです。また家の親父が、お祭り騒ぎと言ってはおかしいんですが大げさなことの大嫌いな人で、子供をよそへ預けるについても大騒ぎはしなかったのが、覚えていない理由の一つでもあります。  親父が地味だというのは、私の名題披露(なだいひろう)も込みだったことで分かります。もっとも尾上松緑になった時だけはこれは音羽屋の名前で、親父は自分から、 「こうしてください、ああしてください」  とは言えませんから、すべて六代目まかせでした。まだ五代目(菊五郎)の未亡人がおられましたから立ち会っていただき、市村のおじさん(十五世羽左衛門)、(六世尾上)梅幸おじさんは亡くなっていましたから梅幸未亡人、それに(六世坂東)彦三郎のおじさん、(市川)三升(さんしよう)さん、みなさん立ち会ってくださいました。家の一家もむろん出席しましたが、すべて音羽屋の家風によるもので、家のほうから望んだものではありません。  ですから、形式としては名前養子ということになります。松緑という名前は、もともと三代目菊五郎のお養父(と)っつぁんのもので弟子の名前ではありませんから。けれども松緑、松の緑というのは縁起がいい名前ですから、過去に田舎回りの人や何かが勝手に付けたのはずいぶんありました。中でも大阪の尾上多見蔵(たみぞう)さんは、大阪での松緑系の人ですし、映画の“目玉の松ちやん”こと尾上松之助の弟子にも松緑というのがいたりしました。多見蔵さんは歌舞伎役者として関西では相当な位置まで行った人ですが、東京へは出て来られたか分かりませんが、大阪の番付には松緑の名前が残っています。  一方、松之助の弟子は敵役の映画俳優で、 「俺のほうが先へ継いだのに、一言も断りがない」  と実際に言ったそうですが、もめごとにならなかったのは何と言っても相手は六代目ですから、いくら尾上松之助でも陰ではぼやいても正面切っては文句は言えません。また敵役というのはわりにとぼけた人が多いものですから、その人もきっと洒落で言ったんでしょう。  その他にも旅役者ではお墓が二つ、写真付きで来ました。 「東北に尾上松緑という人の墓が本当にあるから、お参りに来い」  と言うんです。よくよく調べてみたら、やはり旅役者のものでした。  こんなことがいくらもありまして、将来また面倒臭いことが起きてもいけないからと、六代目の指図で、いっさい無視して二代目尾上松緑ということにしたんです。  藤間の家にいたあいだ親父にじかに踊りの稽古をしてもらったことはありません。お祖父さんが健在の時はお祖父さん、その後は勘八さん、勘次さんなどいろいろ古いお弟子さんに教わりました。親父は自分が舞台があってできませんから、それでお弟子にまかせたんです。お祖父さんのお弟子がまだたくさんいましたし、当時の名取(なとり)というのは人に師範をするだけの価値がなくてはなれなかったんです。  その時分、家のお祖父さんにしても一日として休みがありませんでした。日曜だからといって休めない。それでいてわずかな月謝でした。それを夜中にお蔵の中で勘定していたのを、お蔵の前が私の部屋でしたから嫌でも見えたので知っていますが、それはささやかなものでした。会をすると言ってもいわゆる劇場でやったというのは、帝劇で家の親父が三代目藤間勘右衛門になってお祖父さんが勘翁になった時の披露だけでした。それ以外はお月ざらえを月に一度、家でやっていました。これは家ばかりではありません、どこでもみんなそうなので、当時のお稽古というのは厳しいことは大変に厳しい反面、表向きはお粗末なものだったんです。  あとはお中ざらえというのがありました。これは、習った以上人の前で踊りたいという人もいれば、当人はさほどでなくても、家の連中は娘なり何なりが踊るのを見たい。それで、お月ざらえよりはちょっと大きくお中ざらえというのをやるんですが、家の場合は日本橋倶楽部でやりました。  そのお中ざらえに素踊(すおど)りで『汐汲(しおくみ)』を踊ったのを覚えています。兄貴二人は衣裳を着けて『三社祭(さんじやまつり)』でした。けれどいい気なもんですね、私が『汐汲』というんですから。あれは素踊りだったからやれたんでしょう。坊主頭でしたしね。親父も私一人坊主頭だったから考えてしまったんだろうと思いますね。兄貴二人は髪を伸ばしましたが、私は子供の時から伸ばしたことがありません。長ずるに及んで、六代目の所へ行くとなってやっと毛を伸ばしたら、今度は兵隊検査になってしまいましたし……。  さて六代目の所へ行きましたが、やかましいことは聞いて知っていましたし、何より恐れをなしていましたから、かえって行ってみてことに驚いたというようなことはありませんでした。また行くからにはチャランポランでは行けませんよ、相手は菊五郎ですから。それに親しくしていてしょっちゅう遊びに行ったりしていた家なら別ですが、ともかく初めて会ったわけですからね。  稽古となると、いつも言う通りさるまた一枚でやるんです。これは私だけではありません。女形だってみんな裸なんです。六代目は私によく、 「シャモの皮剥きの稽古だ」  と言いました。ちょうど鶏が裸にされて踊っているようなものですから、女形などはずいぶんやりにくかっただろうと思います。(現)梅幸さんにしても(故)西川(鯉三郎(こいざぶろう))でも(先代)尾上(菊之丞)でも、みんな裸でした。そのうえ稽古は夜中なんです。  その時分、芝居は一部制でしたから、始まるのも遅いんですが終わるのも遅い。十一時にはなってしまうんです。当時の銀座はバーや何かはありませんが、カフェ・ライオンだのカフェ・タイガー、それに河原(かわら)崎国太郎(さきくにたろう)さんの所のカフェ・プランタンなどのカフェがありましたし、夜店が遅くまで出ていましたからそんなに遅い感じはしませんでした。ですから、ブラブラ歩いて帰れました。また時間に対する感じというのが今とは大分違いましたしね。表で食事を取ってから行くこともありましたが、だいたい「来い」と言うんで十時か十一時頃行って一緒に食事をするんです。私はお酒は飲みませんが、六代目はビール、日本酒、ウイスキーをチャンポンで飲みます。それからお稽古ですから、だいたい十二時くらいから始まります。  何を稽古するかは、月ごとに芝居に出るものが主でした。 「おい、来月は何々だよ。覚えておけ」  と言われます。つまり一つの踊りが主体なんですが、それだけではいけない。 「何でも俺のやっているものを覚えろ」  とよく言いました。 「俺が教える教えないってんじゃなく、俺は毎日舞台でやってるんだから、それを見て覚えないはずがない」  というのがモットーなんです。芝居となればもう楽屋入りから楽屋を出るまで、六代目とずっと一緒にいないといけません。第一部屋が一緒ですから、いなくなったら、 「どこへ行った」  になってしまう。けれども、芝居を見ている分には何も言いません。そういうところは本当に目が利きましたね。見ているか見ていないかすぐ分かってしまうんです。揚幕(あげまく)から一生懸命見ていると、ある日突然に、 「お前(めえ)、揚幕ばっかりで見るな」  とこうきますからね。それで上手(かみて)へ行ったり下手(しもて)へ行ったり、方々から見なくてはならなくなります。それともう一つ、千秋楽の晩になると、おさらいクイズみたいなことがありました。 「あそこのところをやってみろ」  と、これも突然くるんです。ですから、どうしても言われた物は覚えておかなくてはなりません。そんな時に声を掛けられるメンバーと言いますと、西川、尾上、私、梅幸さん、それに今の(藤間)勘十郎さんがおられました。そうした若いお弟子たち、他に(尾上)菊蔵とか、映画へ行った(尾上)菊太郎とか若い連中を千秋楽の晩にみんな集めてはこれをやるんです。いつ何を言われるか分からないという、これは本当に怖いものでしたね。  その頃、六代目の家には、梅幸さんの部屋の隣に応接間みたいな椅子が置いてある部屋がありました。そこで集まりをやっていた時に六代目が突然入ってきて、 「まだ『保名(やすな)』なんて踊りはお前にゃ早いや。これは覚えなくっていいよ」  とその月の中幕(なかまく)だった『保名』について言いました。  実際『保名』は本名題(ほんなだい)を『深山(みやまの)桜及兼樹(はなとどかぬえだ)振(ぶり)』という通り昔からあるはっきりした古典舞踊ですが、六代目の『保名』と言ったら独特の解釈による振付けのもので、まるでフワーッと虹の中を歩いているような保名でした。例えば暗いまんまに幕を開け、   恋よ恋、われ中空に、なすな恋……  と唄を聞かせて、   恋風が……  で徐々に明るくなる演出で、踊りも古風じゃなく新舞踊風に気分で踊るんで、大変に難しい物なんです。それで、 「覚えなくっていい」  と六代目は言ったわけですが、言われたこっちにしてみれば、いつもがいつもですから、 「ああは言うけれど、危ねえからな」  と眉に唾。ともかくやることだけは覚えておこうとなりました。  案の定、ほどなく花柳界(かりゆうかい)の人の稽古で『保名』を頼まれて、 「おい、振りを写せ」  ときました。いわゆる型付(かたつ)けをしろと言うんです。覚えていた通りにどうにか写しましたが、覚えなくていいというのをそのまま鵜呑みに聞いていたら危ないところでした。  こういうふうですから油断がならない。逆に言えば、常に芝居に対するいい意味での緊張感を私たちに持たせてくれていたんですね。  実際の舞台でも突然引っ張り出してやらせるというのは六代目独特で、他の人はしませんでした。『道成寺』の所化(しよけ)に出ていた時にもいきなり引っ張り出されまして、失敗したことがありました。こっちを引っ張り出しておいて自分はさっさと引っ込んでしまいます。いつも通りの『道成寺』を踊ればよかったんですが、さあ上がっているから何が何だか分からなくなって穴を開けてしまいました。ところが六代目はそういう時には怒りません。そうなるといっそう自分が恥ずかしくなって、いっそ怒られたほうが気が楽なんですが怒ってくれないんです。 『初霞空住吉(はつがすみそらもすみよし)(かっぽれ)』この「喧嘩かっぽれ」の時は初日からでした。「喧嘩かっぽれ」は、かっぽれの中でもちょっと難しいもので、いつも(七世坂東)三津五郎・六代目コンビで踊っていたのに、このあいだ(昭和五十年)亡くなった(八世)三津五郎さんと私とでやれと言うんです。向こうは覚えていたからいいでしょうが、こっちは覚えていません。これがせめて三日目か四日目というのなら別ですが、初日ですからね。それが舞台に出てから突如として「やれ」と言われたんです。この時は恥ずかしかったけれど、どうにもなりませんから舞台で謝ってしまいました。大和(やまと)屋(や)のおじさん(七世三津五郎)も、 「豊(ゆたか)には明日からやらせるから、今日は勘弁してやってくれ」  と舞台で謝ってくださったんです。それでその晩一晩掛かって覚えました。やはり翌る日からやらされて、それ以来、「喧嘩かっぽれ」は六代目は自分でやりませんから、ずうっと私がやってきました。  六代目という人はそういう独特な教え方をしました。それでいて細かいことは言いません。形のことより心から、役の胆(はら)から入っていきますからね。ですから激しく動くところなどはあまり言わないんです。  私も今は孫の嵐(あらし)(尾上左近)が踊っているのを見たりすると、六代目が言っていたことに「ああ」と気が付くようになりました。若いうちは精一杯に踊っていますから、手でも足でもみんな出てしまって着物がツンツルテンになるんです。これは着物が悪いんじゃない中身が悪い。けれどその中身だって、一生懸命にやるから、突っぱらかるからそうなるんです。  ある人が六代目に私のことを、 「豊はいつも裄(ゆき)が短いから、言ってやったほうが……」  と言ったら、 「まあまあ、今にその裄が長くなるから」  と答えたと聞きました。有り難いことでそこまで見ていてくれたんですね。確かに年齢(と し)とともにちょっとした余裕が出てくるんです。 「手でも伸ばしっ切りじゃ風情がないんだ」  といった反省というか、そんなことを考えられる余裕が持てるようになるんです。けれども、そこへ行くまでにはだいぶ時間が掛かります。  六代目は踊り方や何かは教えてはくれますが、 「ここがどうだ。そこがこうだ」  とはあまり言いません。それよりただ単に歩いて来るというようなところがうるさい。 「どういうつもりで出て来るんだ」  という質問を必ず食らいましたね。こっちは何も分からずにただ出て来ればいいと思っていますが、初めに、 「お前(めえ)のやっているのは、何々の役なんだぞ」  と言ってもらえますと、後は楽ですよ。  舞踊『江島生島(えじまいくしま)』で旅(たび)商人(あきんど)をやった時でした。出て行くと、 「もういっぺん出てこい」  と言われて出直して行くとまた、 「もといっ」  三度目に出て行ったら、 「お前、いったい何しに来たんだよ、ここへ」  ときた。 「お前の役は何だ」 「小間物屋です」 「ここはどこだ」 「八丈島です」 「そんなら、なぜそのつもりでやらねえんだ。ちゃんと唄の文句に出てるじゃねえか」  そう言われたからといって、「じゃあ、こうしたら」という具体的な仕草はないし、ただ自分で「俺はこういう役で、こういう場所へ小間物を売りに来たんだ」というつもりで出て行きましたら、 「うん、それでいい」  と初めて言ってくれました。つまり呼吸(い き)の入り方を見るんです。ただ無神経で出て来るのとは目付きや何かが違ってきますからね。   花のお江戸を(トチチリテン)後にして……  というところの振りは今でも覚えています。 後にして、というんですから「ああ、お江戸も遠くなったな」という気が表れなくてはなりません。ですから、ただ 花のお江戸、だけじゃ駄目なんです。遠くを見てお江戸を偲んで後ろを振り返らなくてはいけません。そういうことなんですよ。  この時はいろいろ注意をされました。   雁(かり)の玉章言伝(たまずさことづて)を、諸国の人に頼まれる、旅に馴れたる小(こ)商人(あきゆうど)……  の件(くだ)りでまず両手を上げるんですが、稽古の時に大きく上げましたら、 「お前、飛脚を兼ねている旅商人じゃねえのか。それなら、背中に荷物を背負(し よ)ってるだろう」  と言う。 「ええ、背負ってます」 「そしたら、そんなに手が上がるわけねえだろう」  とこうきました。確かに旅の小間物屋で四角い風呂敷包みを背負っていますから、肘(ひじ)の高さまでしか手は上げられないんです。次に、 「手に何を持っているつもりなんだ。 雁の玉章って言うんだから、そりゃあ頼まれた手紙を入れた文箱(ふばこ)だろう。そうしたら、そんなでけえ文箱があるものか」  と注意されました。ただ教わった通りにやっているだけでは、往々にしてこんなことが分からないものですが「文箱だ」と言われれば納得できましょう。合手(あいのて)の、   イヤ、トチトチトン、トチトチトン  で回りますと、 「何のつもりで、どういうリズムで回ってるんだ」  と聞かれました。 「お前は文箱を頼まれたんだろう。飛脚だったら、ハ、エッサッサのリズムで回ってみろ。トチトチトン、ホラエッサッサと回るんだ。口で言いながら回ってみろ」  それで言われた通りに声を出して、 「エッサッサ、 旅に馴れたる小商人……」  とやりますと、 「よし、もういっぺん、今度は黙ってやってみろ」  と、こうすれば否でも応でも身体(からだ)にリズムが入ってしまいます。そういう教え方をしてくれました。  亡くなった近沢さん(坂東八重之助(やえのすけ))が、若い人に立回りを教える時に、 「一、二、三とか、右、左とか、天、地とか言いながらやってみろ」  と言っていましたが、あれも六代目譲りの、リズムを身体(からだ)に染み込ませるという教え方なんです。  もともと近沢さんは六代目に信用がありました。 「八重之助は怖いよ」  と言っていました。下の人にそう言ったというのは、やはり近沢さんという人が芸ということに関しては忠実で、ごまかしがなくきっちりしていましたから、 「八重之助に白い歯は見せられないよ」  と言ったんです。  私の清元(きよもと)のお師匠さんの清元栄寿郎さんに対しても、 「今日、栄寿郎が来ていたろう」  と気にしました。  六代目が認めた相手というのはそういう腹に一物ある人か、まるっきりない人かどちらかでした。中途半端は軽蔑します。ですから、家の上の兄貴みたいに不器用で役者っぷりはいい、声の調子はいい、もっとも当人は相当神経質にやっていましたが端(はた)からはそうは見えませんから、やることが大きく見えました。そういう人を恐れるんです。それで暖簾(のれん)に腕押しみたいだった(二世市川)左団次さんとも、ついに一度も一座をしなかったというわけです。  そういう意味で一番やりよかったのはやはり播磨屋(初世吉右衛門)だったでしょう。必ず受けてくれますからね。ふだん両方で喧嘩ばかりしていたくせに、戦争が激しくなって芝居も駄目になった時、 「ああ、吉ちゃんと芝居がしたいな」  と言ったくらいです。その時、 「高島屋(二世左団次)としたい」  とは言いませんでした。高島屋としてもとてもいい芝居はできないことは知っていましたからね。  いくら六代目は高慢だの何だのと言われましても、やはり役者ですから、見物に感銘を与えるような芝居をしたいのは当然でしょう。それには打てば響く相手とやるのが一番なわけですよ。ただやれるからと言って暖簾に腕押しでは、自分のやりようがありません。 「六代目はよく芝居を投げる」  と言われましたが、 「気が乗らない時にはどうしてもできないんだ」  と言い訳を言っていました。つまり六代目にしてみると、相手役とのぶつかり合いがない芝居は心が許さなかったんですね。 『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』の吃又(どもまた)は(三世中村)梅玉(ばいぎよく)さんのお徳(とく)とでずうっとやっていましたが、梅玉さんですとやりいいんです。梅玉さんも無口で暖簾に腕押しみたいな人でしたが、女形としてけっして飛び出さない人でしたから。けれどもお徳は亭主の口代わりですからどうしたって飛び出す役なんですが、もともと飛び出さない人が飛び出すようにやるところに、何とも言えない魅力があったんだろうと思います。そこが禅問答めいて面白い。ただ飛び出されたんでは気に入らないけれど、梅玉さんの場合はあくまで底に愛情を持っていて、自分は吃又の、亭主の代わりに何でも前に出るんだというところが気持ちの上でよく出た方でしたから、六代目はそういう時は非常に感じてしまう人でした。飛び出すべくして飛び出したんでは気に入らないんです。  踊りのほうでは、同じようなことが大和屋のおじさん(七世三津五郎)とのあいだにありましたね。六代目の踊りと言えば、十四、五歳の頃にやった『紅葉(もみじ)狩(がり)』の山神(さんじん)のフィルムが残っていますが、確かにその頃からうまいものですよ。踊りはうまいんですが、本当の日本舞踊としてのリズム感とか身体(からだ)の流れや何かとなったら、大和屋のおじさんのほうが何か上のような気がします。けれども、それが二人とも徹底していましたからね。大和屋のおじさんは日本舞踊として最も格式正しい踊りをなさるし、一方の六代目は破格なんです。そこによさがあったんです。  中でも『三社祭』などは典型的な舞台でした。大和屋のおじさんの善玉(ぜんだま)は格式、六代目の悪玉(あくだま)は破格、このコンビが何とも言えず面白かったというわけです。これを両方とも破格でやったんでは品がなくなりますし、両方とも格式でやったんではつまらない舞台になってしまいますから。そこいらは二人とも、お互いに分かっていましたね。 『身替座禅(みがわりざぜん)』でもそうでした。大和屋のおじさんの奥方(おくがた)は、無理に笑わせようなどということはこれっぱかりもなさらない。   ええ、あんまりな……  の踊りでも立派な格式で踊られました。時に「アアーン」とにらんだりなさるのも、役柄(やくがら)からそういう顔をされるだけで、 「あの顔だったら、おかめみたいな、こんなことやるんじゃないか」  というような破格な滑稽味のかったことは、いっさいやられませんでした。そこが『奴道成寺(やつこどうじようじ)』だの『三面子守(みつめんこもり)』だのの、お面を着けての踊りとは画然と違っていました。おでこを白くして頬っぺたを多少赤くはしていられるけれども、ずばりおかめの顔じゃありません。ただ不器量な女性ということにして、格のある日本舞踊を踊っていらっした。それだからいいんです。一方の六代目の大名は、破格でなくてはできない役ですからね。そこの格式と破格との面白さで成功したんですね。  それともう一つは、播磨屋の時代物(じだいもの)に対して六代目の世話物という対照の面白さによる芝居も一方にあったわけです。お互いにお互いのいい所を認め合っていて、それでいてしょっちゅう喧嘩をする。『盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめがかがとび)』などでも播磨屋のおじさんが松蔵(まつぞう)に出てくれると六代目はやりやすいし、また面白く芝居がやれたんです。ですから昭和二十四年、六代目の最後の舞台になった道玄(どうげん)を私が途中から代わりましたが、とうとう千秋楽の日には播磨屋のおじさんまで休んでしまいました。よほど私の道玄ではやっていられなかったんでしょう。私の道玄に付き合っていたあいだのおじさんの気持ちは、今になればよく分かりますよ。  喧嘩と言いましても、直接みんなの見ている前でやるんじゃない。陰であれこれ言い合ったりする喧嘩でした。  だいたいに播磨屋のおじさんの時代物の演し物に六代目が出た時よりも、逆に六代目の世話の演し物におじさんが出た時のほうが効果がありました。例えば『蔦(つた)紅葉(もみじ)宇都谷峠(うつのやとうげ)』の伊丹屋重兵衛など、これは播磨屋のほうがよかったですね。  播磨屋はともかく子供芝居から叩き上げた人ですから、つまり、丁稚(でつち)から番頭になったというような育ち方をした役者でした。それに比べて六代目という人は子供の頃はやんちゃ坊主で、私たちには「芝居を見ろ」などともっともらしいことを言いますが、ご当人はほとんど芝居を見ていなかったということです。ですから初めは私も、 「ろくに芝居を見ていないくせによく言える」  と思ったこともありましたが、終(しま)いに、 「そこが偉いんだ」  と思いました。実際に芝居がうまくて説得力があるのですから、仕方がありません。ただただ恐れ入ってしまうんですね。  こんな話もありました。『茨木』の真柴(ましば)をやった時のことです。揚幕の中で出(で)を待っていた六代目が出る直前に、真柴が手にしている杖をちょっと持ち上げるようにして、 「おい、これ何だと思う」  とそばにいた西川(鯉三郎)と尾上(菊之丞)に聞いたんだそうです。あんなに頭のよかった二人も突然のことですから、 「へえっ」  と言ったまま答えられずにいましたら、 「これは鬼のしっぽだ」  と言って、そのままチリトチチンと花道へ出て行ったという話です。残った二人は、 「へえっ、さすがだねえ。あの杖は鬼のしっぽねえ」  とその時は感心したんですが、よく考えてみると日本の鬼にしっぽはありませんよ。西洋の鬼にはありますがね。そんな冗談も言う人でした。  また、 「『関(せき)の扉(と)』で関兵衛(せきべえ)のまさかりの柄(え)が折れたらどうする」  という突然の質問に、倅の(尾上)九朗(くろう)右衛(え)門(もん)が即座に、 「小町桜(こまちざくら)の立て札でやります」  と答えたら本当に喜びました。 「これなら七代目を継がせられる」  と思ったんじゃないでしょうか。六代目は九朗右衛門に自分と同じ道をたどらせたかったんですからね。  もともと、五代目が六代目に菊五郎を継がせたがっているということをすべて知っていて、(六世尾上)梅幸おじさんは梅幸になったんです。それとまったく同じに今の梅幸さんが七代目梅幸を継いだというのも、一つにはその布石だったんですから。で、九朗右衛門が七代目菊五郎になっても、これはちょうど親父さんの通りをやるわけで、当り前の流れですから誰にも反対はなかったんですが、如何にせんということになってしまいましたからね。けれどもその時には、「こりゃ継げるな」と思ったようです。六代目が実に嬉しそうな顔をしたのが忘れられません。 兄たちのこと ——上の兄 十一代目市川団十郎   中の兄 初代松本白鸚     私たち三人の兄弟は子供の頃はいざ知らず、物心ついてからは喧嘩をしたことがありませんでした。  ただ家族構成が、上二人、十一代目市川団十郎と松本白鸚が年子、それから三つ離れて私、その下が二人女で、これまた年子、つまり子供五人の真ん中に私がはさまって何となく一人ぼっち。それで小さい頃はひがんだものです。物を買ってもらうにしても、兄貴二人には一つの物を次へ回すことができないから必ず二つ買います。妹二人にも男の子の物をお下がりへ回すわけにいかないから、これにも常に新しいものを二つ買います。あいだにはさまった私は、いつも兄たちのお下がりなんです。その代わり二つずつ来ましたがね。  おもちゃでは今でも覚えているものが三つあります。一つは兄貴からのお下がりの、その頃流行(は や)った鉄砲を担いだりしている鉛の兵隊。鉛を型へ入れて作ったお粗末なおもちゃです。一つは親父が私のために買ってくれた起重機です。これは私の初舞台のご褒美だったんですが、キュルキュルと巻き上がるようになっていて強く印象に残っています。帝劇の楽屋で、親父が景清(かげきよ)の装(な)りで私はその子供の役で腰掛けている側に、その起重機が写っている写真が残っています。  もう一つは刀でした。浅草の仲見世へ妹二人とそれぞれのばあやが一人ずつ付いて、六人で出掛けたことがありました。今でもあるかどうか知りませんがおもちゃの刀を売っている店があって、その刀が欲しいんですが買ってもらえなくて、店の前に突っ立ってじいっと見ていました。ところが、妹もばあやもそんな物には興味がありませんから、さっさと通り過ぎてしまう。しばらく行ってから私のいないことに気が付いて大騒ぎしたそうです。  五人が方々グルグル回ってもいないんで元の道を戻ってみたら、まだ刀屋の前に突っ立っていたそうです。結局、買ってもらえなかったんですが、その刀はよく覚えています。そのくらいいじましいところがあったんですよ。  このばあやは本名は忘れましたが、家でははなやと言いました。後に再婚して子供ができまして、その子供は今でも家へきます。私と比べても遜色ないくらいにすっかり禿げ頭になっていますが。はなやは私にとっては母親代わりの人で大変に可愛がってくれて、また私も慕っていました。最後までどうにか面倒をみることができましたが……。  これはみんな大震災前の話です。  当時は、今と比べて役者の家というのはうんと地味でしたが、ことに私の家は親父の方針で地味でした。子供はあまり舞台へ出しません。出るとなっても、当時の子役はみんな袖を長くして振り袖みたいな袂(たもと)の熨斗(の し)目(め)の着物に袴(はかま)をはいたものですが、家はそういう格好はいっさい駄目でした。  その時分の写真を見ましても、三人ともだいたい学生服とか十の字絣(かすり)とか、そんなものばかりです。帝劇でしたから、紀伊国屋(きのくにや)さん(七世沢村宗十郎)のご一家なんかはやはり役者らしい家でしたが、私の家はまず学校第一でした。しかし学校は、私は続きませんでしたし、兄貴たちは大震災で駄目になってしまいました。学校は三人とも暁星でしたが、その学生時代に「三人は本当の兄弟か」と言われたくらい、三人が三人共性格が違いました。  これは大仏(おさらぎ)次郎(じろう)先生も、 「君のとこの兄弟ってのは、ほんとの兄弟かねって聞きたくなるくらい違う。でもそれが面白い」  とおっしゃいました。それほど、顔も違えば性格も違って、それぞれ一生変わりませんでしたね。  上の兄貴は「お辞儀の金ちゃん(初舞台の名前が松本金太郎)」と一生言われて通しました。それでいて弟などに対しては癇癖が一番強い。釣りが好きでしたが、釣りというのはやはり気短な人がじょうずですね。ですから、カアーッとなるとひっぱたきます。ところが、子供の時分から痩せていてまた指が長いから、ひっぱたかれると痛いの痛くないの。とにかくすぐ手が飛んできました。  中の兄貴はまったく頭脳明晰、勉強家型でしたから、人に手を上げるなんてことはしない。私はとうとう一度も中の兄貴になぐられたことがありません。勉強はよくできました。級長か下がっても副級長で通したんですから。それに絵が上手でしたから、震災さえなかったら絵描きになるか学者になっていたはずです。  親父もそのつもりでいまして、上の兄貴に幸四郎を継がせて私が藤間を継げば、中の兄貴は絵描きなり学者なりにと、そういう計算でいたんでしょうが、それが狂ってとうとう三人とも役者になってしまったんですから、不思議なものですね。そんな三人ですが、長ずるに及んではただの一度も喧嘩したことがありませんでした。  上の兄貴は堀越(ほりこし)家へ養子に行ったんですが、あくまで高麗屋(こうらいや)の総領でいました。本当を言えば、藤間である中の兄貴が高麗屋の総領のはずですよ、向こうは堀越なんですから。  それで親父の十七回忌の追善興行(ついぜんこうぎよう)の狂言を決める時に、やはり幸四郎の追善ですから総領の幸四郎がやるのが当り前だと思って、中の兄貴と二人で相談したんです。上の兄貴は当時、海老(え び)蔵(ぞう)でしたが団十郎になる人ですから、別格ということにしてそうっと上へ奉っておいて、実務などの矢面には中の兄貴が立つようにしました。私は音羽屋になってしまっているから、兄貴たちの命令で「これをやれよ」と言われたら「はい」と言ってやる、というように段取りを取りました。  そうしたら、上の兄貴のご機嫌が悪い。  例えば、菊田一夫さんが私たち三人のために書いてくれた『むさしの兄弟』という新作がありました。中の兄貴が年寄り役で上の兄貴は色男、私が弟で一人の女を張り合うといった芝居でしたが、 「どうしても嫌だ」  と言って引き受けません。菊田さんは東宝で長いあいだ中の兄貴を見ていましたから、年寄りの役をはめて書いてくれたんですが、仕方がないから中の兄貴が上の兄貴の役に回って、年寄りの役はこのあいだ亡くなった(八世市川)中車さんがやりました。それでいて、「何がどうだから嫌なんだ」というようなことは、私たち二人には何も言わないんです。  その時ではありませんが、こんなこともありました。『敵討天下茶屋聚(かたきうちてんがぢややむら)』の『かまぼこ小屋』を三人でやろうという話が出たことがあったんです。東間三郎(とうまさぶろう)右衛(え)門(もん)を上の兄貴、早瀬伊織(はやせいおり)を中の兄貴、安達元(あだちもと)右衛(え)門(もん)を私という配役で。そうしたら、 「兄弟で殺し合いをするようなものをお客には見せられねえ」  と、これははっきり上の兄貴から苦情が出たので、止めになりました。もっともあの芝居は通せば面白いんですが、『かまぼこ小屋』だけですと陰惨で、だいたい女の人は喜ばない狂言ではありますがね。  しかし菊田さんの新作の一件では、何が気に入らないのかどうにも訳が分からなかった。中の兄貴も私も幸四郎の追善ですし、向こうは堀越の人になっているわけですから、それでいいもんだと思っていたんですが。  その後、海老蔵から団十郎になって、結局、上の兄貴としては親父の最後の追善興行になった二十三回忌の時です。 「どうしても二十三回忌をやらなくちゃならないが、上の兄貴がちょいと難しいから、どうしたもんだろう」  と中の兄貴と相談しました。 「話を持って行っても、何と言っても駄目だろうから、どうしよう」  なんて考え込んでしまいました。すると、中の兄貴が、 「上の兄貴が嫌だと言うのを無理に出てくれってのも、かえって具合が悪いから、いっそ幸四郎の追善は止めて、藤間勘斎の追善にしろ」  と言うんです。 「事のついでに、お前が主催でやれ。それだったら三日間ぐらいのものだから、上の兄貴だって文句は言えないし、出ないわけにもいかない。少々我慢してもらえばいいんだから」 「じゃあ、そうしましょう」  と二人で話し合って、上の兄貴に、 「一応、追善のことで相談したいから」  と言いましたら、 「じゃあ、お前の所へ行くよ」  となって三人で集まりました。中の兄貴が、 「兄さんは大変だから、いっそのこと藤間でやるようにしたらどうですか」  と口を切ったんです。そうしたら、 「そんなみっともねえことできねえ。やるんならばちゃんとやって……」  と帳面を出すんです。そこには何をやるか、誰が何の役をやるか、自分ですっかり書いてありましたよ。それで前回のご機嫌斜めの原因が初めて分かったんです。  こっちは悪い意味でじゃなかったんですよ。いくら兄貴でも、出敷居(でじきい)といってはおかしいけれども堀越家へ行って団十郎なんですから、こちらは遠慮をして、やはり幸四郎の追善なんですから幸四郎名義でやるつもりだったわけですよ。ところが、上の兄貴はそうじゃあない。あくまで藤間家の総領は自分だと言うんです。それが前回の追善では、そうした立て方をしてくれなかったということが原因だったんですね。あの人はそういう理由をいっさい言ってくれないんで、周りが困ったんです。  俳優協会を脱会した時もそれなんで、これにも困りました。あの頃はまだ花柳(章太郎)さんや荒川さん(三世市川左団次)たちもみんな健在の時分でしたが、中の兄貴と私とが協会の会合で花柳さんに、 「気に入らないことがあったら、まず協会の会合に出てきて文句を言って欲しい。何も言わないで、ただやめるじゃ困っちゃう」  と言われたんですが、二人とも理由が分かっていないんですから、何にも言えない。協会も困ったでしょうがこっちも困っちゃった。協会のほうも一応、当人に聞きに行ったんでしょうけれども、けっして自分からは言わない人でしたからね。  それでいて、あれは確か、私が初めて『シラノ・ド・ベルジュラック』をやった千秋楽の後の宴会だったと思います。この家をまだ建てている最中で、準備が整わなくてこの二階に集まった時ですよ。上の兄貴もやってきたんですが、その日はご機嫌がよくて、一人でベラベラ喋り通しに喋りました。ごく内輪の時にはそういうこともあるんです。けれども、お他人様が入るときっちり黙ってしまう人なんです。兄弟はもちろん親父とだって喧嘩するくらいですし、俳優協会の役員なんですから言ったらよさそうなものなんですが、お他人様に対しては駄目なんです。人見知りって言うのか何なのか、 「はあ、へい、はい」  と言っているだけで、ああだのこうだのなんて、ピカッということはいっさい言いません。  まあ俳優協会の運営に不満があったんでしょう。あるんならあるではっきり言っても、あの人の地位として誰も不思議に思う人はなかったんですがね。「外から止め金」というのはありますが、あの人は内から掛けてしまうから、誰にしても入って行くことができない。ちょっとしたことでも頭へきちゃうでしょ。そうすると蛤ではないけれども堅く口を閉じてしまいますから、話にならないんです。  大仏次郎先生の『大仏炎上(だいぶつえんじよう)』の時もそうでした。あれは中の兄貴が東宝へ行っている時で、大仏先生が上の兄貴のために書いてくださった本でした。さてやるということになって稽古に入ったら、 「嫌だ」  と言い出した。それも当人が来て言ったんじゃありません。番頭かなんかを通じて言って寄越しました。その時は大仏先生はむしろ誉めました。 「嫌なものをやろうなんて、そんな卑屈な考えじゃなくて堂々としている」  と。けれども、大仏先生はご自分の作品で上演されないものは他にない。この『大仏炎上』だけでしたね。  二度目にまた『大仏炎上』が議題に上がったことがありましたが、これもやはり稽古になって駄目になりました。この時は、とどのつまり中の兄貴がやりましたが、どうした行き違いだったんでしょうか、これが誰にも分からない。  私なりに推理しますと、次の興行の狂言を決める時に、私なら、 「これとこれで、どうでしょう」 「いや、これはちょっとおかしかないか」 「じゃあ、これとこれで」 「ああ、それで結構、それで行きましょう」  とそこまで納得して引き受けるわけですが、上の兄貴は言わない人ですから、 「これとこれで」 「ええ、まあまあ」  で終わってしまいますから、話を持っていったほうもやるのかやらないのかも分からなくて帰るより仕方ない。先方が帰ってしまってからつくづく考えるんですね。その段階で嫌だとなったら嫌なんです。また嫌なら嫌だとすぐに言えばいいんですが、それも言わない。それで平稽古(ひらげいこ)になってまた考える。 「さて、稽古場に入って平稽古になった時にどういうふうになるかなあ」  とそこまではやるんです。  で、せりふの受け渡しなんかを聞いてみる。これは平稽古ではちょっと分からないものなんですが、だいたいここいらで自分の計算違いに気付いて断る。それで周りが困ってしまうんです。興行会社ではもう宣伝を始めていますし、むろん役もみんな決まっている段階になっていますから大変です。ところが、嫌だとなったらテコでも動きません。誰が何てったって動かない。  大阪の新歌舞伎座の開場の時にもあったんです、宿屋の自分の部屋から出てこないということが。これも真相は誰にも分からないんですが、私の憶測ではこうなんだろうと思うんです。新歌舞伎座の松尾国三さんは、社長だけでなく支配人も兼務していました。あの人のことですから、支配人もしなくては収まらなかったんでしょうが、社長ならば裏(楽屋)だけ回って、 「ご苦労さん、ご苦労さん」  と言っていればそれで済んでしまうんですが、支配人も兼ねているとなると、裏と表と両方やらなくてはなりません。そこで目の回る忙しさになりますから、どうしてもミスが起こります。  どんな小さな、例えばホテルの開館披露などでも、だいたいそこの社長が楽屋へ来て、 「皆さん、今日はどうもご苦労さん」  と挨拶します。それで支配人は表にいるのが普通です。それが松尾さんは兼務で忙しすぎて、とうとういっさい役者のほうへは音沙汰なしになってしまった。これがあの時の原因だろうと、これは私の憶測なんです。  ところが、周りの憶測はちょっと違っていて、まず第一が『雪(ゆきの)暮夜(ゆうべ)入谷畦道(いりやのあぜみち)(直侍(なおざむらい))』の『蕎麦屋』での蕎麦。新歌舞伎座が建ってすぐのことですから、この蕎麦の段取りなどがうまく行かずに長いあいだ置いてあるから、のびてぶっ切れてしまってスウッと上がらない。兄貴は蕎麦が好きでしたし、食べるのもうまいものでした。あれは二、三回上げてチュッとたぐるんですが、それがスッと持ち上げようとするとプッツリ切れてしまう。この蕎麦が第一件。  もう一つは、『若き日の信長』の柿。信長が柿をもぎ取って齧(かじ)るという件(くだ)りがありますが、これは本物で蔕(へた)が付いているのを使うんです。ところが、この時は季節が違っていて柿がない。まあ今ならどうにかしたでしょうが、この時は本物が手に入らなかった。それで、兄貴の信長がいつも通りに柿を取ってガブリとやったら、中から餡(あん)こが出てきた。確かにこれでは芝居はできません。  そこで、そういうことだろうと周りが勝手に解釈してしまったわけですが、当人が言ったのではないから、真偽の程は誰にも分からないままです。  その日は大林組の貸切りでした。新歌舞伎座はスライド舞台を使っていましたが、これは日本で初めてでした。そこで、松尾社長が開幕前に演説をぶちました。 「これというのも、施工してくださった大林組の皆さんのおかげです。そのスライドをふんだんに使ったお芝居をこれから皆さんに、日本で一番初めに見ていただきます」  とすっかり宣伝しちゃったんです。一番目に新作物で(市川)寿海さんが瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、私が鬼みたいのをやって、上の兄貴が素(す)戔嗚(さのおの)尊(みこと)。それでスライドを使っての大立回りをやることになっていたんです。  ところが、宣伝はしたけれども何時間たっても幕が開かない。開くわけがない。座頭(ざがしら)の兄貴が楽屋にも入っていないんですから。松尾さんが私の所へ飛んで来ましたよ。けれども柿のことは言えませんよ。もしそれが本当だとしても、子供じゃあるまいし、みっともなくて言えません。そこで、 「兄貴は自分の責任で来ているにもかかわらず、楽屋にご挨拶がなかったことがちょっと何だったんでしょう。私らが行くにしても、もう衣裳を着けちゃってるから、社長、貴方が宿屋へいらしたほうがいいでしょう」  それで松尾さんが迎えに行って、やっと出てきました。ところが来た時にはもう時間切れで、一番目の新作も中幕の『若き日の信長』も飛ばして、二番目の『直侍(なおざむらい)』だけをやることになって、とうとう大林組の家族はスライド舞台を見ずじまいでした。  さあ松尾さんがおかんむりになっちゃって、当時まだ海老蔵でしたが、 「もう、海老蔵は呼ばない」  と言い出した。といったって、後で団十郎襲名披露には呼ぶことになりましたがね。  ことほど左様に、面白いと言えば面白い人でした。最後まで「自分は藤間家の長男である」を通した人です。  私が松緑になった時も、 「親父は年齢だから、俺がぜんぶ面倒をみるから」  と言って、地方などにも方々付いて回ってくれましたし、この家の舞台開きには、もう親父はいませんでしたから、ぜんぶ上の兄貴が実に親切にやってくれました。  兄弟三人、親父に似て几帳面なんですが、それから先になると、やはり兵隊生活が係わってきます。兄貴二人は、一生にたった一度も手を上げられたことがない人たちで、私一人なぐられました。人になぐられれば痛さも分かります。私だって腹を立てたことはずいぶんありますが、その痛さを忘れていませんから、ついつい我慢しますね。  ですから、事件が三つあったとして、上の兄貴だったら三つぶんなぐりますね。中の兄貴だったら二つぶんなぐる。私は一つぶんなぐりかけてやめますね。  私がNHKで『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)(関の扉)』をやったことがあります。後見(こうけん)は家の弟子の(尾上)佳緑(かろく)でしたが、 「俺はなんべんもやっているからいいけれど、この芝居は引き抜きが大変で、手数がかかるし忘れちゃいけないから、お前のために、家でいっぺん稽古しよう。だいたいお前はそそっかしいからな。ちゃんと頭に入れろよ」  と家の舞台で稽古をしたんです。 「ここはこうやってここで抜くんだよ。これは俺の稽古じゃないんだ、お前の稽古だよ」  さて本番になったら、案の定、忘れるなと言ったところを忘れた。袖口の玉を抜かなかったから袖が残ってしまった。この引き抜きというのはやり直しがききません。やり直すとしたら、また頭からすっかりやり直さなくてはなりませんから、その日はもう駄目なんです。そのうえNHKで、会場が押せ押せでしょう。とうとうそのままでやってしまいました。  この時もぶんなぐりませんでした。本当なら蹴飛ばしたっていいとこなんですよ。怒ることは怒りましたがね。 「だから、お前のために稽古をしたんだ」  と。けれどもみんなもいますし、なぐられるのは見るほうだってあんまりいいものじゃありません。そう思って我慢しました。  三人を比較して、上の兄貴が一番難しく見えて、中の兄貴は分かりにくいとよく言われますが、一番難しいのは本当のところ私じゃないでしょうか。三人が三人とも神経は細かいんです。その細かいというところで、兄貴二人は何か腹に一物あるようなふうに見られがちですが、持っていきようでは実は大ざっぱなんです。  中の兄貴にしても単純なんです。そのいい例が白鸚になる時でした。兄貴が家へ来て、 「俺は今度こういう名前になりたい」  と言い出しました。それが今ちょっと思い出せないような、どこから持って来たんだか知りませんが、聞いたこともない名前だったんです。そこで、 「あなたのファンだって大勢いるんだし、幸四郎がいなくなったら寂しくなりますから、改名はやめたらどうです」  と一応止めたんですが、 「もう、決めちゃっていることだから、どうしても変える」  と言うんです。  私だって尾上になっているんですから、人のことばっかりは言えませんし、 「これはもう俺がいくら止めたって、しようがない」  と諦めはしましたが、それにしても言い出した名前が気になりました。  ちょうどその時、部屋に掛け軸が掛かっていたんです。これは、うちの長女が生まれたのが昭和十九年の九月一日、その翌年の初節句に、親父も孫にお祝いを買ってやろうとしても戦争中でしたから何もない。ところが、親父のことですから仕立て上がっていて絵だけ描いてない掛け軸を持っていて、それへお雛さまを描いてくれたんです。  その絵に「七世松本幸四郎」と書いてその下に「白鸚(はくおう)」という印を押してあった。これはオウムでしょ。つまり七世団十郎の「白猿(はくえん)」をもじったわけです。  それがちょうど掛かっていたから、 「兄貴、ちょっといらっしゃい。これを見てください」  そうしたら一目見て、 「あっ、こりゃいいや」  とそれでおしまい。松本白鸚に決めてしまったんです。  ふつうなら、 「うむ、白鸚か、それも悪くないが、しかし、俺の付けたこの名前もこういうわけで……」  と思ったり言ったりするはずなんですが、それがたった一言、 「あっ、こりゃいいや」  で決まり。そういうところで、ちょっと誤解が生じる人でした。  上の兄貴は考え込んでしまって、「嫌だ」と言えばいいものを、三日も四日もかかって「こうやった場合、舞台効果がどうだ」とか何だとか見極めて、それから「やめます」と言うから大事になる。中の兄貴はあまり事細かに言わないで、嫌なら嫌とその場で言うので、誤解されるところがあったんです。  ですから、他人(ひ と)様は松本白鸚などという名前は初代ですし、ずいぶんいろいろと考えたんだろうとおっしゃいますよ。けれどもそうじゃない。掛け軸を一目見て思い立ったんです。  それからすると、私はおしゃべりなもんですから、そういう誤解はありません。ただ余計なことを言いすぎるところがありますね。  小さい頃から兄弟三人、本当に喧嘩はしませんでした。毎年クリスマスには三人で出掛けました。その時分、私は酒は飲みませんが上の兄貴は飲んでいましたから、銀座あたりで食事です。何だか変な帽子をかぶったりしましてね。  忘れもしません、昭和十九年のことです。私はその時、六代目に預けられて以来、初めて家にいました。芝居はなくなる食い物はなくなるで、もう何もない時代でした。そうしたら上の兄貴が、 「釣りにでも行こうじゃないか、三人で」  と言い出して、相模(さがみ)川(がわ)へヤマベ釣りに行ったのを覚えています。流れの所で糸を垂れました。中の兄貴と私にはちっとも掛からなかったんですが、上の兄貴だけは掛かりましたから、やはり釣りはじょうずだったんですね。中の兄貴や私の針の仕掛けや餌の世話までぜんぶやってくれました。その時が、三人きりで出掛けた最後でした。  上の兄貴がエピソードの多い人だったのに比べて、中の兄貴は本当に話題の少ない人です。その少ない話題もほとんどが色事ばかりなんです。一目惚れは団十郎、それが付き合っているうちにどうも中の兄貴に行ってしまう、などとよく言われました。これは中の兄貴と係わり合いがある女性からいろいろ聞いたことですが、やはり親切だったんですね。  上の兄貴は、いわゆる美男コンプレックスという一種の病気でした。自分でもいい男だし調子はあるしで、何もかも揃っていることを知っていたのと同時に、自分が病身であるということを初めから意識していましたからね。(市川)高麗蔵を継いで、その興行が終わった翌(あく)る日から四年間休みました。胸、結核だったんです。とどのつまりは病身ということで、短命に終わってしまいました。結核なんて色事に対しても最も悪い病気ですし、女性とそういうことになってうつしては大変だと、ああいう人のことですから思ったかもしれません。また女性が寄って来るのは、自分の芸に対してでもなければ心でもない、やはり自分の皮膚に寄って来るんだと考えていた、そういうところがありました。  それでいて色事がいっさいなかったかというと、そうじゃないんですがね。結局、あの夫人とのあいだに今の団十郎が生まれて妹娘もできました。兄貴が勝手に籍を入れようと入れまいと、私たちが何も言うわけではないんですが、そこがまた実に筋道を立てる人ですから、弟二人をつかまえて、 「子供たちのためだから、籍を入れたいと思うが、どうだ」  と相談がありました。戦争中、兄貴の家が焼けて私の家へ来ていたことがありました。その時、私はもう兵隊に行っていましたが、家の女房はつぶさにそのあいだを見ていまして、 「しょせんこの人でなければ、団十郎の身の回りの世話はできない」  と、そういう結論は出ていましたし、中の兄貴も同じ結論でしたから、 「どうぞ、どうぞ」  と決まったわけです。それを周囲では、舞台での好い男の団十郎と夫人とを比べて何やかや言う人もありましたが、それはあくまで上辺(うわべ)しか見ていないからで、実際には他の人では駄目だったでしょう。上の兄貴は身体は弱かったしずいぶん我が儘でしたが、それをいっさい耐え忍んだ人でしたからね。元来は丈夫な人でしたが、やはり団十郎と共に身体を壊してしまったんです。  とにかく上の兄貴は弱くて、ちょっと風邪をひいたといえば芝居は休んでしまうし、検査、検査で暮らしました。それもお医者さんから言われての検査じゃない、自分からでした。年に必ず一回や二回はドックに入って検査をする。その結果、とんでもない癌が見つかりました。それこそ早期発見でしたが、幽門癌で場所が悪かった。早期に分かっても手術ができないということで、ただ開いただけで癌の手術はしなかったんです。開いた時、中の兄貴はまだ東宝でしたから、私が立ち会いで慈恵医大へ付いて行きましたが、もう「開いた、閉めた」というだけでした。  兄貴は自分は胃潰瘍だと思っていました。最後まで癌だとは知らなかったんです。それに、いっぺんよくなって熱海だかへ出掛けたことがあって、あれで当人は安心したんでしょう。 「これは潰瘍が悪化したんだ」  ぐらいに思ったんでしょうが、実はその時には、もうどうにもしようがなくなっていたんです。  とまあ、上の兄貴はそういう話題になる要素がたくさんありましたが、対照的に中の兄貴という人はあの通り地味で、話題らしい話題というのはほとんどありませんね。だいたいにおいて役者は嫌いなんですから。関東大震災がなければ、それこそ学者になっていたか絵描きになっていたかなんです。それでいて嫌いな役者になっても、あの通り地道にやって、いい加減には終わらなかった人でした。  震災で人生設計みたいなものががらりと変わってしまって、播磨屋のおじさん(初世吉右衛門)の所へ預けられることになったわけです。これは、私が六代目に預けられたのと同じに、家の親父の「これは播磨屋の所へ行ったほうがいいんじゃないか」という眼鏡に従っただけで、例えば義姉(あ ね)(白鸚夫人、初世吉右衛門の娘)と結婚するなんて予定も何もなかったんです。それが播磨屋のおじさんの所へ行っているうちに、いつか義姉との間が親密になったというわけです。そりゃあ中の兄貴は若い頃、好き勝手なことをした人でした。女性関係は三人のなかで一番華やかで手も早かったんですが、一見、気難しそうでいてそうは見えない人でした。それがまたおかしいところで、往生観念仏じゃありませんが、 「子供もできたことだし、俺は決めた」  となったら、まあピタッととはいきませんよ、浮気をしないじゃあないけれども、若い頃のような派手なことはなくなりましたね。  昭和三十六年に東宝へ移りましたが、さてそれからちょっと苦労をすることになりました。しょせん東宝は中の兄貴に向く所じゃありません。第一、東宝としては息子二人、(現)吉右衛門と(現)幸四郎が欲しかったんですよ。息子たちは歌も歌えば踊りでも何でもやるでしょうけれども、中の兄貴は本当の歌舞伎だけですからね。兄貴にしてみれば、どこまでも歌舞伎でいきたかった。もともと帝劇で育った人間ですが、その帝劇が東宝系列になって、そのうえちょうど帝劇が新装した。これが一つのきっかけなんです。歌舞伎ができる劇場になるというので兄貴はとても喜んでいましたが、できてみたらしょせんはレビュー的で、歌舞伎の雰囲気は皆無の劇場になっていました。改装する時に菊田(一夫)さんの話や何かを聞くと、 「高麗屋(こうらいや)さん、この劇場はあなたの芝居のやりやすいように建てますから」  と言う。そこが中の兄貴の単純なところで、これですっかり喜んでしまったんです。けれども、菊田さんの腹は初めからそうじゃない。ミュージカルができる劇場を作ろうとしていたんですからね。ところがミュージカルというものは、中の兄貴にはもっとも向かない。出来上がった帝劇を見たら、どういたしましてという小屋で、花道一つにしてもあんな曲がりくねった花道で、とても芝居のできる所じゃない。これでガックリきてしまって松竹へ帰る気になりました。こういう噂はすぐ松竹の耳へも入りますから、話は急転して松竹への復帰ということになったんです。  帰って来たとなると、私は黙っていられません。事情が事情で兄貴二人を差しおく形で芸術院賞を受け、会員にもなっていましたからすぐに兄貴を推薦したら、その年に賞をいただき翌(あく)る年にまた推薦して会員になったんです。それで最後は文化勲章までいただきました。  その頃です、兄貴に皮膚癌の兆候が出ました。皮膚癌は治る可能性が高いから、夫婦二人が揃ったところで先生が、 「皮膚癌です」  と言ったらしいんです。ちょうど白鸚、幸四郎、染五郎親子三人の襲名の話があった後で、私の所へ夫婦二人で来て、 「実は先生にこう言われた」  と言うんで、私は、 「言われたぐらいなら大丈夫だ。悪い癌ならそんなことは言わない」  と答えたんですが、結局、これが生命(いのち)取りになってしまいました。癌のできた場所が場所でしたから病院へ行くのをとても嫌がりまして、もっと早くに手当てしておけば何でもなかったんでしょうが、ともかく手術をした時にはすでに手遅れでした。中の兄貴も上の兄貴も、本当に場所が悪かったんです。  また手術後でも、そのまま入院をして名前変えの興行がなければ治ったのかもしれませんけれども、会社はもう準備をしてしまった後でしたからね。病院のほうも、 「ともかく決まっちゃってるんだからしようがないけど、興行が済んだら、すぐ入院してください」  と言うんで襲名披露興行をやりました。兄貴はこの時もう覚悟を決めてしまったんだろうと、私は思います。文化勲章拝受に宮中へ行った時も、ブスッとして口もきかないというふうでしたが、 「いくら勲章をいただいても、自分の生命をかけてしまった」  という思いがあったんじゃないでしょうか。ですから、興行が終わっても、 「俺は病院へは入らない」  と。それで、とうとう自分のアパートへ帰って亡くなったんです。  中の兄貴の文化勲章は、中村歌右衛門さん、中村勘三郎さんの後で、偶然、役者が、それも吉右衛門劇団が三年続いたんです。すると、『オール読物』の「柳樽」というページに漫画家の山藤章二さんが、兄貴が勲章を持って足を踏み出して見得を切っている絵に、「役人の役者狂いも三年目」という川柳を書かれました。これは細かい事情を山藤さんが知っているわけはないんですから、山藤さんを恨んだってしようがないことなんですよ。けれどもその時は、こちらにしてみれば中の兄貴がそういう状態であるうえに、前の二人は何も言われないのに、偶然三人並んだからといって兄貴が犠牲になってと、どうしたって思いますよ。  ただいい塩梅に、兄貴はそれをとうとう見ないですんだんです。それはお正月号に載ったんですが、兄貴はお正月に亡くなりましたからね。けれども、私はそれを見た時に、 「兄貴は勲章をもらうだけの価値のあった男なんだ。いくらなんでも、これは……」  と、正直腹が立ちました。  私が勲章をいただいた時は、倅を亡くして身体の調子がよくないしで落ち込んでいたところでしたから何かそこでホッとしましたが、兄貴の場合は、いただいたところで自分はどうせということがありましたから、ぜんぜん状況が違っていました。そこには他人(ひ と)には分からない深い理由や成り行きがいろいろあったんです。  今度、中の兄貴の写真集が出ましたが、その中に誰がこう言ったという名前も川柳も書かずに、ただ「こういうことがあって」と事柄だけを書いて、「この写真集の出版が、兄貴にとって本当の文化勲章だ」と、そう書きました。  兄貴の死のついでに倅のことで何ですが、(尾上)辰之助に死なれて、芝居を伝承していくというか教えていくという点で、悔しいというより何より本当にガックリしてしまいました。  このあいだNHKの勘三郎さんの追悼番組を終(しま)いのほうだけちょっと聞きましたが、どなたでしたか当然のことを言っていらした。 「年を取った役者はこれからは休養を重ねて、舞台へはちょっと出るだけでいいじゃないか。若い人に伝承する義務があるし、また聞くところによれば、年を取った役者の修業時代は素っ裸でお稽古したということだけれども、今はそうじゃないから、そういうことも今の若い人に言って……」  と理の当然のことを言っておられました。  それはもちろんそうなんですが、 いろいろ考えてみますと、ともかく世の中の事情が違いますからね。このあいだも何かに書いてありましたが、中村屋(故・勘三郎)でも小学校五年まででしょう。あの当時では私など学校が長かったほうです。中学三年の二学期まで通いましたからね。けれども最高学府を出たからといって、芸の世界では決してプラスにはならないんです。まあ出ないより出たほうがいいんでしょうが、私たちの時代でさえ、他人様のことはさておいて、私も両立できませんでした。  中の兄貴はたびたび言うように、勉強一方で行けばそれで成功したような人でしたが、関東大震災で諦めたんですが、上の兄貴はそういうことでなしにやめてしまいました。私はともかく三年の二学期までは行きましたが、結局、舞台と稽古と学校とでどうにもならなくなってしまいました。それで親父も、 「役者にするには、このまま学校を続けさせても駄目だろう」  と考えたんでしょう。ついては上の兄貴は別としても、自分のような不器用さを下の二人には何とかして克服させたい。それではというわけで、菊五郎、吉右衛門が浮かんで、そこへ子供を預けようと親父は決めました。それで親父のほうから、 「お前、どうだ」  といわれて、こちらは得たりやかしこしで、有り難いとばかりに学校をやめてしまったというわけです。そのおかげで、六代目の所へ預けられましたから裸のお稽古もできましたし、何やかやとともかく勉強できたんですが、今はそういうことができない状況なんですから、 「今の若い子は勉強不足だ」  なんて言ってとがめられません。本当に好きならば、学校よりよっぽど楽しいはずなんですが、けれども親としてそれは言えません。  六代目にしても泰明(たいめい)小学校あたりでしょうが、ろくに行ってやしません。ですから自分ではあまり文章の解釈などできなかったんです。けれども自分がどんどん出世して、立石さんとか柳沢さんという大学出の書生さんを雇って、せりふや何かで難しくて解釈しにくい部分がありますと、その人たちに勉強させたんです。それを自分の声として出す。それで立派にできたんですから。  これは、恐らく当時はみんなそうだったでしょうね、播磨屋でも家の親父でも。播磨屋のおじさんには千谷道雄さんがいましたし、家の親父も出たのは寺子屋でした。それでも播磨屋のおじさんは字がうまかったんですが、六代目はへたでしたね。今でも私は六代目の絵の鑑定などを頼まれますが、絵もあまりうまくはなかったんですが、サインで「六代目菊五郎」とサラサラと書いてあったら「これは偽だ」、ガチガチに書いてあったら「大丈夫」と言うくらいです。  ですから、芸と学校とは実際に関係ないんです。けれどもそれを今の若い人に当てはめたらこれは大変なことになりますよ。そこでNHKでのお話はごもっともで、私たちもそういうことを言ってやりたいと思っても、今の若い人が置かれている状況ではちょっとそのままには言えません。  辰之助の場合は小さい時から私がそういうことを言っていましたし、当人も芝居が嫌いじゃありませんでしたから高校まででスッパリやめました。もちろん私は大賛成でした。それからは三味線、踊り、下方(したかた)と芝居そのものの稽古以外にもいろいろやっていました。ですから教育方針としてはよかったと思っています。  孫の嵐(あらし)(尾上左近)もそういう風にさせたいんですが、嵐の時代はまたいっそう厳しくなってしまいましたからね。  下方のお稽古でも別に鼓や太鼓がうまくならなくていいんです。ただリズムを身につければいい。芝居はせりふでも何でもリズムがすべての基本の一つなんです。けれども学者さんからはリズムは取れない。お能でもそうですよ。ちゃんとしたリズムがありますから、私もお仕舞(しまい)の一つや二つは親父にやらされたものです。若いうちはそうしたことへ打ち込むということが大切なんですが、今の嵐の時代ではどうにもなりません。ですから倅に死なれた時はもうガッカリしてしまいました。私も世話物ばかりはやっていません。親の子ですから年齢とともに時代物の勉強もしてきて、両方一通りの勉強を重ねてきて、さあという時に、それを渡す相手が亡くなってしまったんですからね。  そこで倅の代わりにと言っては何ですが、若い人に言いたいことはたった一言、 「舞台が好きになるか、ならないか」  ということだけです。舞台は辛い、苦しい。実際にそうなんです。その辛く、苦しい舞台が全部楽しみにクルクル変わっていくようになれば、もう心配ないんです。しかし、その苦しさを逃げていたら駄目ですよ。苦しいに決まっているんですから。例えば『勧進帳』でも、   海津(かいづ)の浦に  で、揚幕(あげまく)が上がって、 「ほら、来たな」  と思ったら、最後にトントントンと飛(と)び六法(ろつぽう)で入ってくるまでは、そのあいだの一時間というものは「無」なんです。そのあいだ、苦しいとか辛いとかいうところは随所にありますが、それを飛び越してしまうんです。それが嫌いだったらできません。やめてしまいますよ。ですから、揚幕へ入ってきてからが大変です。中の兄貴もそうでしたが、当分部屋へ帰ることなどできませんし、部屋へ帰ったところでぶっ倒れたきりで話もできません。その時に初めて辛さを知るんです。  けれども、幕の中へ飛び込むまでは、いっさい虚無です。これは弁慶がやっている仕事で、松緑がやっているんでも幸四郎がやっているんでもない。弁慶は義経をどうしたって逃がさなくてはならないけれども、松緑が義経を逃がさなくてはならない義理はない。そこで、舞台にいる時は弁慶として必死なんですよ。つまりそのあいだは「無」なんです。それが舞台から楽屋へ飛び込んだら、今度は自分になるから、そりゃあ苦しいですよ。そこを突き抜けなくてはいけないということです。  それこそ考えますと、中の兄貴の性格から言ったらよく役者をやり遂げたと思いますよ。本当に役者が嫌いだったんですからね。けれどもああいう人でしたから、嫌いでも「舞台へ出たならばやはり虚無になって」ということはよく分かっていたでしょう。私にしてもあまり好きなほうじゃありませんでしたが、まだ多少、兄貴よりは好きなほうでした。  もう平べったく一言で「舞台好き」と言えるのは成駒屋(なりこまや)(現・中村歌右衛門)でしょう。それでなくては、手の骨を折っていて出られるものじゃありません。たいてい骨を折ったりすればいくらなんでも休みますよ。それが出てしまうんですから、それは並たいていのことじゃないでしょう。私が初めてあの人と一緒にやったのは『大森彦七』で、私が十九歳あちらは十五歳。子供の時からのずいぶん長いお付き合いですからよく分かりますが、本当の舞台好きですね。  一方、(尾上)梅幸さんはあまり好きなほうじゃないでしょう。梅幸さんとは成駒屋よりもうひとつ前から一緒ですから遠慮なしに言ってしまいますが、器用な人ではないし芝居好きでもないんで、若い時分には周りの者が随分心配したんです。まあ梅幸さんの場合は好きになるというより、だんだん女形に対する責任ということを感じていった人なんです。その責任ということで今になった人ですね。  だいたい歌舞伎は女形に責任を持ってもらわなくては駄目なんです。ですから、 「ともかく女形に惚れろ」  とよく言うんです。女形に惚れなかったら、嫌々やっていたんではとても駄目です。同じ手を握るにも、女の手を握るよりは女形の手を握るほうが楽なんです。役で握るんで人でじゃありませんから。人になるとそこへ感情が入りますから、むしろ不純なものが生じます。これは生じて当り前です。美人の女優さんとでもやってごらんなさい、それは多少とも不純なものが出てきます。けれども女形だったら、こちらにアレの気があれば別ですが、気がなかったら堂々と握れます。  舞台が好きか嫌いかということでは倅も私程度でしたが、孫の嵐は幸いに舞台が好きな様子です。嵐は今十四歳ですが、そろそろ声変りがしなくてはいけません。声変りの頃は色気が出てきますから、その色気を利用するようになるといいんです。色気というのは、それに溺れてしまっては駄目なんです。女に惚れるべし、けれどもその色気を利用して、自分の彼女に舞台を見せて惚れさせるぐらいの気になってくれれば、しめたものなんですがね。  でも確かに時代が変わっていて、このあいだも嵐と話をしていましたら、 「学校の中でも、舞台に出ているというのがカッコいいんだ」  と言うんです。私たちの時分には学校でも「役者の子、役者の子」と侮辱されたものですが、今は反対に役者の子というとスター的に持ち上げられますから、どんどん上へ行こうと思ったら行けるんですが、さて実質が伴わない。かえって「役者の子」と侮辱されていた頃のほうが、稽古がやりよかったというのは皮肉ですね。  社会というか時代が変わっているんですから、これからますます歌舞伎も変わっていかざるを得ないでしょう。けれどもそういう状況の中でも、中途半端に頭の中だけで考えて「ああ変えよう、こう変えよう」というのではなく、とどのつまりは地道な芸の蓄積の中から生まれてきて、変わっていくべきだと思います。  それこそ「光陰矢のごとし」で、身体が利いて色艶のいい時分は何十年とは続きません。どんどん変わってきますから、やろうと思ってもやれなくなってしまうんですから。それではどうするかと言えば、最初から地道にいって、この地道だけはあくまで残していって、最後に年を取った時にその地道がパアッと表に出るように努めるということでしょう。  その意味でも、今シテ方は意外といるんですが、困るのは脇役です。 「勘平(かんぺい)ばかりじゃ芝居はできない」  とよく言うんですが、脇役をどうするか、これがこれからの大きな問題です。今の名脇役の人でも自分の子供を脇役にしたがらない。つらいことを骨身に徹して知っていますから。それでいてご当人は、結構その脇役でシテ方を踊らせて面白がってはいるんですがね。けれども、それを自分の子供には望めないんです。 (中村)又五郎さんでさえ子供を役者にしていません。あの人は背丈で損をした人であれで背が高ければむろんシテで通る人なんですが、持って生まれたもので損をした。けれども、とにかく腕は先人のいわゆるおじさん方を感心させるだけのものを持っているんですが、それまでになるにはあの人もずいぶん苦労していますからね。 私の戦争体験  今でも戦友との集まりをやっていて、このあいだも五十人ほど集まりました。(柳家)小さんさんがよく来てくれます。あの人は兵役をちゃんと務めた人で、二・二六事件へも出ているくらいですから、まあそのご縁みたいなものもあるんですが、もともと死んだママ(藤間愛子、昭和四十二年二月没)が咄(はなし)が好きで、また私も好きですから。事あるごとにずいぶんいい人に来ていただいています。(桂)文楽、(古今亭)志ん生を筆頭に息子の志ん朝さん、(春風亭)柳橋(りゆうきよう)さん、(三代目三遊亭)金馬さん。  それに中の兄貴が来た時に、『盲長屋』で松蔵のせりふにある、 「一蝶斎の蝶々を生きてるように……」  という、蝶々を遣う日本手妻(にほんてづま)の帰天斎正一(きてんさいしよういち)さんにも来てもらったことがありました。紙をちぎってちょっとひねって蝶々を作る。それを舞台で扇子であしらって蝶々が飛んでいるように見せるという、時代でなかなか風情がある芸でした。控え室の三畳間で支度をするんですが、 「部屋へ入らないでくれ」  と言う。分かっているタネですが、そこがしきたりなんですね。テレビでお会いして、 「家へ来て欲しい」  とお願いしたら、 「いいでしょう」  とやってくださいましたが、それはそれは見事なものでした。それから間もなく亡くなられましたが……。  このあいだは小さんさん、(江戸家)猫八さん、志ん朝さん、それから(柳家)小三治さんを新顔で呼びました。  今は小さんさんも年長ということになりましたが、以前は小さんさんの先輩たちがいくらもいました。柳橋さんなど凝った芝居咄(しばいばなし)をしてくれたこともあります。  咄が済みますとこの部屋(自宅の居間)で一杯飲むんですが、おっさんたちの集まりでそれはそれは賑やかで、それが楽しみなんです。咄家の連中というのはふだんでも高座(こうざ)の通りですから、馬鹿なことばっかり言って面白い。そんな時に、文楽さんが「あばらかべっそん」だのいろいろなことを言い出しました。 「これは、あばらかべっそんでげす」  などと言いますが、何だかさっぱり分からないんで聞いてみたら、ご当人も、 「分からない」  その後、文楽さんは『あばらかべっそん』という本を出されましたが、その時は、当人にも分からないんではしようがないと大笑いになりました。  ある時に海老一兄弟(染之助、染太郎)を呼びました。今はもう二人ともいい年齢(と し)になりましたが、まだ二十歳代の若い時で、飲むだけ飲ませて二人ともへべれけになって、それで寄席(よ せ)へ行ったんですよ。さあ毬(まり)も何もぜんぶ受けられない。その後籠毬(かごまり)をやったらこれも全部落っことした。 「旦那、ひどいや」  と恨まれました。何やっても落っことすのが逆に大受けに受けたらしいんですけれどね。  私は三度召集されましたが、一度目の中支(ちゆうし)へ行く前に予備召集というのがありましたから、軍隊生活は前後五回やったことになります。  昭和十三年の八月二十五日に結婚式を挙げて、その年の十月十三日、初めての戦地、中支へ赴きました。それまでに現役を、これは全部ではありませんが八ヵ月やって現役免除となり、昭和十三年八月一日から予備召集を三週間。帰った日に結婚したというわけです。  この予備召集というのはあくまで予備ですから、戦争へ行く本召集とは違うんです。それで改めて、一月半たってから本召集ということになりました。そこいらが面白いところで、同じ召集なんですからそのまま本召集へ切り替えたっていいだろうと思いましたが、「予備は予備だ」というわけなんですね。もっとも、私と一緒に召集されたのは予備ですから、みんな二十五、六歳です。それが次々に本召集に替わっていきましたから、 「これは俺も危ねえな」  とは思っていましたが、その時は帰れて、除隊の日が結婚式となりました。  それから中支へ行かされて十四、十五年といて、十五年のお正月ちょっと過ぎ、二月の早い時期に帰ってきました。  それが十六年にまた召集されて、今度は今の東北地方、満州へ行かされました。この時は長くてお正月を二度やって軍旗祭をやったりして、十八年の暮れに帰りました。  十九年いっぱいは軍服を着ないでいられたのですが、この年は東京に空襲が初めて来たりした年です。ところが、二十年になったらまた召集。もう行く所がなくて内地、東京師管区司令部に勤めました。そのおかげで帰りは早かった。八月十五日が終戦で、それから残務整理というのがあるんですが、私たちは残務と言っても別に何もないから、ただじっとしていただけで、九月早々に帰ってきたんです。  最初の時の十三年は日支事変が始まってすぐでしたが、召集は芝居の中でも私は早いほうでした。もっとも片市(片岡市蔵)は、野戦重砲で現役でしたから一番早かったんですが、召集では坂東君(現・市村羽左衛門)や私は早いほうでした。周囲の反応は、みんなとにかくびっくりしたというのが本当のところでしたね。  今だから言えるんですが、家の親父(七世幸四郎)は喜ばなかった。ともかく歓送会の時にお弟子が、 「おめでとうございます」  と言ったら、親父は怒って、 「何がめでたいっ」  と怒鳴りつけたくらいです。まあ当時のことですから表向きは「おめでとう」と言う場合なんですが、こういうところにも親父の人間的な部分が出ていましたね。  ところが、播磨屋のおじさん(初世吉右衛門)はぜんぜん違うんです。 「豊(ゆたか)、こっちへ来なさい」  と言って、私をお祖父さん(藤間勘翁)の銅像の前へ座らせると、 「一門の名誉これにすぎず」  とお辞儀をしました。いい対照でしたね、親父と播磨屋とは。  一方の六代目は何にも言いません。家の親父は大阪へ興行に行ってしまって、十月十三日には東京にはいませんでしたから、六代目が一切やってくれたんです。歩兵一連隊へ送ってくれた時の写真があります。六代目を中心に大和屋のおじさん(七世三津五郎)、今戸(いまど)のおじさん(七世宗十郎)などが写っておられます。  最近になって、戦争時代のことを殊に鮮烈に思い出すようになりましたね。今でも、長くいた南昌(なんしよう)(中国江西省の省都)の片田舎の土地などへもし行ったとしたら、この道はこういう所まで続いているというくらいまで覚えています。けれども、これは運のいい一つなんですが、前線へは行かずに一歩下がっていましたから、前線で戦ったということはついにありません。  私が配属された一〇一師団加納部隊というのは、現役は一人もいない。全員召集兵ばかりで一師団をこしらえたから一〇一というわけです。それがウースンクリークで叩かれ連隊長が戦死。それで加納さんは死後、少将になりました。その後へ来たのが飯塚大佐でしたが、これが廬山(ろざん)で叩かれてまた連隊長戦死という次第。だいたい東京の部隊ですから地方の部隊とは違って、それこそ「火事と喧嘩は江戸の花」で鼻っぱしばかりが強いんです。  もっとも弱いのばかりじゃありません。私の知っている兵隊で物凄いのがいました。みんなで博打を打っていると、賭場(どば)へ軽機関銃を持って行ってテラ銭を持って来てしまうなどという、アメリカのギャング映画もどきの猛者(も さ)もいましたがね。  日本の軍隊というのは、私たちが行っている時分はまだ第一旅団、第二旅団とあったのですが、いろいろな経験から旅団というのをやめて歩兵団、砲兵団、騎兵団というような兵団になりました。つまり三個連隊で一兵団となりました。師団というのは、だいたい四個連隊で一個師団になるんですが、旅団が兵団になったので三個連隊で一個師団ということになりました。  それで、私の歩兵第三連隊というのは運がよかったのか、第一師団から別になってしまって、それでフィリピンへ行かずにとうとう満州へ残ったんです。  市村亀蔵さんの息子さんの市村太郎という人はなかなか気っぷのいい男でしたが、フィリピンへ行って死んでいます。私も満州へ残らなかったらどうなっていたか分かりません。  それと私たちが一年余りも同じ所にいて、今行っても道をよく知っていると言った南昌で、(三世中村)雀(じやく)右衛(え)門(もん)さんの息子さんの中村章景(あきかげ)君は丙種(へいしゆ)の身体でしたが、召集ですから仕方がありません、出征(しゆつせい)間もなくもろに弾丸(た ま)に当って戦死してしまいました。東京師団と大阪師団が交代したんですが、彼は大阪の人でしたから、ちょうど私と入れ違いに南昌へ入りました。それが長くいた私たちと違って土地不案内でしょう。一方、相手方は自分の土地ですから、これは詳しい。そんなことでとうとう戦死してしまったんです。  南昌には日本へ引き場げるまでの待機期間、十日以上いましたが、この町は新興都市でした。不思議に中国でも土地柄というものがあって、城門のあるような所は発展が遅れますね。南昌は古いことは古い町でしたが、そういう発展性があったんでしょう、見る見るうちに家もお店も建っていきました。  おかげで私はとうとうお小遣いをはたく羽目になりました。何しろ「いい」と言われるまで待機しているだけで、それに加えて東京へ帰るんだと思うから気は大きくなっています。町では食べ物屋なども南京(ナンキン)帽(ぼう)をかぶって、出納簿も大福帳みたいな厚い帳面に筆で書いているような古風な中華料理屋がちゃんと店をやっていて、実に情緒がありました。電気も石炭を焚く火力発電で、占領して師団司令部が入るとすぐに電気を直しましたから、夜まで商売をしていました。  こっちは、それまで安い給金ですが一応戦時手当というのが付いて、内地よりは多少高くもらっていました。友達たちは酒だ、たばこだと使い道があったんですが、私は酒もたばこもやりませんから、お小遣いはみんなたまって相当残りました。それでこの時には、 「さあ、もう帰るんだ」  というので友達を呼んで、みんな飲んだり食べたり何やかやで使い果たして帰ってきたというわけです。  それで南昌を離れて汽車で九江(きゆうこう)まで行って、九江から南京へ向かう船に乗っている時に、南昌は敵襲に会ったんです。その時に章景君が戦死したわけです。  三個大隊あるうち私は第二大隊で、第一大隊と一緒に先に帰国しました。  第三大隊だけは、揚子江(ようすこう)の真ん中にある安慶(あんけい)という所へ上陸して、そこにいた安慶の守備隊と交代して安慶を守って事無きを得たらしいんです。したがって第三大隊だけ帰還が遅れましたが、この大隊長は少佐でしたが男爵か何かで素姓のいい人でもあり、後へ一個大隊残ったというのもいいというので、銀座を鉄兜をかぶって行進したと聞きました。私はすでに習志野(ならしの)へ入って復員になる時でしたが。  戦地へ行っていても芝居のことは忘れられませんでしたね。前線まで三味線を持って踊りを踊ったりする慰問団(いもんだん)が来ますと、その三味線を借りて弾いてみたりするんですが、言葉通りの感慨無量というやつです。  慰問団が来ると舞台を組みますが、芝居のことなら役者は何でもできると思っているから、屋台を組むのを手伝わされました。そんな時に夜中に歩哨(ほしよう)に立ちます。いわゆる不寝番(ふしんばん)みたいな動哨(どうしよう)です。けれども、内地での不寝番と違ってちゃんと鉄砲を持ってなんです。歩哨には動哨と立哨(りつしよう)があって、立哨は出入口にただ立っていればいいんですが、動哨は鉄砲を持って見回るんです。この動哨の時に、屋台を組むのを手伝わされてしゃくにさわっていたので、舞台へ上がって『三社祭』を踊ったことがありました。その頃は身体はいくらでも利きましたから、しゃにむに踊ったのを覚えています。  せりふはまた違う時にやりました。  内地では、射座(しやざ)と言ってお椀状に長く三百メートルぐらいまでの射場(しやじよう)が戸山ヶ原にあって、その中でドーンと撃つんです。ここなら弾丸も音も外へは出ません。それを満州などでは野っ原でやるんです。野っ原で実弾でやりますから、どこへ飛んでいくか分からない。それで警戒兵というのが出ます。警戒兵にはだいたい召集兵が当ります。私が満州へ行った時には、現役部隊へいわゆる補佐で召集兵が入ったんですが、召集兵というのはわりに楽をするんです。現役の兵隊がみんな射撃をしていると召集兵が警戒兵に出て、弾丸が当ると危ないからと言って通行止めをしたりする。そんな時は、周囲はコウリャン畑で誰もいませんからせりふをやるんです。『勧進帳』の「それつらつら……」なんかをやりました。どんなに大きな声を出しても聞くやつはいませんからね。  歌舞伎役者だということで嫌な思いをしなかったでもありませんが、まあ私は楽をしたほうでしょう。とにかくうちの中隊はとてもいい中隊で理解がありました。  洒やたばこの下給品(かきゆうひん)がきても、私はどちらもやりませんから、みんなに分けてやりました。また哈爾浜(ハルビン)にありました日の丸ホテルという所の養女が家(藤間流)の名取で、哈爾浜の花柳界のお師匠さんをやっていました。哈爾浜まで歩きますと三時間から四時間掛かりましたが、そこを自動車でちょっと迎えにきてくれます。行けばご馳走をしてくれてお土産をくれます。そのお土産を持って帰ってきて中隊の班の中へばらまいたりもしましたから、中隊では顔がよかったんです。まあ戦場の御牢内ではありませんが、やはりツルが入ると、牢名主や何かに受けはよくなりますよ。ですから楽ができたんです。  それに師団命令で慰問団を作ったなどというのは私くらいのもので、これはちょっと他にないでしょう。加東大介さんが『南の島に雪が降る』という本に書いていますが、あの人は兵隊仲間で慰安会みたいなことでやったことはあるようですが、私みたいに師団長の命令、いわゆる師団命令で「慰問団を組織しろ」と言われた例は他にはないと思います。  それで、哈爾浜の芸者や東京からお弟子を呼び寄せて慰問団を編成しまして、一月ほどあちらこちら哈爾浜郊外を慰問して回りました。私は団長でしたが、団長も何かやらなくてはならない。女形なら、それこそ『藤娘(ふじむすめ)』の一つも踊ればいいけれども、とてもそんなことはできませんから、どうしたらいいかと迷った揚げ句に『操(あやつり)三番叟(さんばそう)』をやって、そのあと芸者衆が女の踊りを踊ったりいろいろなことをやりました。  何と言ってもこの慰問団編成は師団長、つまり中将の命令でしたから、連隊長にしたら鼻が高い。それで私は進級しました。当時私は上等兵でしたが、師団長の命令でどうしても兵長(へいちよう)に進級させなければならなくなってしまったんです。  五中隊だったかの中隊長で高橋とかいう人が、私の顔を見ると、 「おい、慰問兵長、尉問兵長」  と軽蔑して言うんです。むかつきましたね。 「もういっぺん会ってやりてえ」  と思ったのはこの人だけです。大きなお世話でしょ、よその中隊のくせにね。まあ中隊でもよく知っている人、可愛がってくれた人というのは随分いましたが、中には変にひん曲がっている奴もいたんです。  このあいだ、現役の時の二年兵が家を訪ねてくれまして、その時にその話が出ましたが、私の扱いには隊も困ったらしいんです。役者ですから、そうそう荒くれたことができるとは思えなかったんでしょう。 「あなたのことじゃあ、事務室で随分困っていたんですよ、兵隊としてはまったく役に立たないし……」  という話でした。  ところで、軍隊時代の私にはいろいろ不思議な付き物がありました。  兵隊は兵隊同士仲がよければ、それだけ得をするんです。というのは、夜になれば将校はみんな帰ってしまって兵隊だけの世界になります。そういう時に兵隊同士の仲がよければ、初年兵がいじめられたりぶん殴られたりするところでも、庇ってもらったりもできるわけです。  ところが私の場合は商売柄、将校の人と知り合いがあるんです。そのうちでも退役の陸軍大尉で、私が召集で入った一〇一師団にいて廬山で戦死された、これも高橋さんという方がいました。この人は六代目の知り合いで、また娘さんが六代目のやっていた俳優学校へ入っていたというご縁がありました。高橋さんは幼年学校から士官学校、士官学校から軍隊へという人ではなく、普通の兵隊から下士官になって大尉まで行ったという、世にもカチンカチンの人でした。  それやこれやでもって、その人が私の面倒を見てくれたはいいんですが、何と言っても相手は陸軍大尉です。それが心配しては班へ訪ねて来てくれます。けれども、訪ねて来られるとみんなが大変なんです。緊張、緊張でまことに兵隊にとっては迷惑なんです。それでも訪ねて来てくれるまではまだよかったんですが、心配されすぎて後にえらいことになりました。  軍隊には甲班と乙班とがあります。乙班というのは歩兵で言うと、ただ演習して鉄砲を撃つばかりではなくて、例えば靴の修理、服の修理、鉄砲の修理などのいわゆる修理班を編成してあります。ですから、これへ入れば演習の半分は行かなくても済むんですが、一方、甲班というのは鉄砲一点張りなんです。ふつう役者などは乙班へ入ります。このあいだ死んだ(市川)八百(や お)蔵(ぞう)君などは現役で近衛(このえ)へ行ったくらいです。それに(市川)染升(そめしよう)も現役で行っていますが、こういう人たちはみんな楽をして、衛生兵になったりしているんです。まあ身体付きが染升はオネエちゃんですし、八百蔵さんは小さいということもありましたが……。  けれども私は、身体は大きくてしっかりしていて、そこへもってきてその陸軍大尉が付いていますから、えらいことになりました。 「六代目の手前も、どうしても立派な兵隊にしなきゃならない」  と高橋大尉が張り切ってしまって、無理やり中隊長に頼み込んで私を甲班へ入れてしまったんです。  甲班の兵隊を上等兵候補者というんですが、さあそれからが大変。例えば朝六時起床といえば、乙班は当然それまで寝ていますが、甲班はもう五時半から起きています。二年兵曰く、 「朝まだ夜が明けないうちに起きて、みんなが起きる頃には、部屋の掃除がすっかり出来上がっていなければいけない」  と言うんです。ずいぶん無理な話でしょう。その掃除というのがまた大仕事。ほうきで掃けば埃が立ちます。ところが二年兵は寝ていますから、埃を立てて二年兵を起こしてしまったら大変です。そこで水を汲んできて初めから雑巾掛けをするんです。  入営がお正月で寒い盛りでしたから、二月、三月くらいまでは霜焼けで手は大きく膨れ上がって、毎朝そうっと雑巾掛け。また鉄の寝台は二尺くらいしか高さがありません。そこを潜って拭いて回る。それだけでは終わりません。バケツや何かをすっかり片付けて雑巾は所定の所へ干す。と今度はすぐに銃剣術で使う胴などの防具を着けて、木銃を持って朝の点呼を待つんです。ところが、待っているあいだがまた大変。週番士官というのが必ずいまして、これに見つかりますと、 「なぜ時間前に起きているっ」  と逆にどやされますから、これに見つからないように兵舎の壁にくっついているんです。  さてラッパが鳴ると、一斉にワアーッと駆けて点呼の席へ並ばなければいけない。それも甲班はまず先に並ばなければいけない。乙班はそれからブラブラ起きてきますから、一番後ろでも何も言われませんが、甲班がそんな所へ入っていったら大変な目に会います。  演習でも、済んで、 「解散。頭、右。いや、ご苦労」  というわけで教官と別れます。と、 「甲班は残れ」  こうくるんです。高橋大尉は、 「立派な兵隊にする」  と言ってくれたんですが、言葉通りの有難迷惑というやつでした。双方の食い違いと言ったって、こんな食い違いはありませんよ。  それで、とうとう中隊長へ願い下げにいきました。 「乙班に下げてください」  と。負けず嫌いでは人後には落ちないという自信がある私が、自分のほうから願い下げに行ったというんですから、私の性格を知っている方なら、どのくらい辛かったかお分かりいただけると思います。そんなことで乙班に下がりましたが、この指(右環指弾撥指)のけがで、つまり初年兵は八月まででしたから、現役免除ということになりました。  軍隊は、毎年八月になると二年兵は半分帰ってしまいます。そうすると数が少なくなりますから、二年兵がおとなしくなるんです。それで歌があります。   夏は嬉しや、基本体操銃剣術で、昼は午睡(ごすい)で床の上、気を付けラッパで目を覚まし、ちょっと行きましょ入浴へ  夏になりますと班の中で午睡(ひるね)ができます。普通は寝台へ腰を掛けてもいけないんですが、夏は許されます。それで、「気を付けラッパで目を覚まし、ちょっと行きましょ入浴へ」ということになるんですが、それができる頃に私は帰ってしまったわけです。  それでよかったんです。私はそんなことしなくてもいいからとにかく帰りたかったんですから。けれども残念ながら現役免除になったわけですから、簡単に言いますと悪い兵隊のブラック・リストへ載ってしまって、それで三度も召集を食らったんです。つまり「これでも死なないか」というわけです。なかなか三度食らっている人はいませんよ。だいたい三度も食らったら、たいてい死んでしまいますよ。ただ運よく、行く順がだんだんどこへも行けないようになっていましたから、終いにはとうとう内地になったわけで、これが逆だったら大変でした。  満州にいるあいだに、六代目が慰問に来てくれたことがありました。その時私は、靴擦れからばい菌が入って皮下蜂窩織炎(ほうかしきえん)というので足がこんなに太く腫れてしまって、班内で休んでいました、就寝許可という札を立てまして。そこへ六代目がやってきて、 「ひでえとこにいるなあ」  としみじみ同情してくれました。本当に嬉しかったですね。六代目は満州へ慰問で来ていまして、哈爾浜(ハルビン)まで来たからと寄ってくれたんです。  この慰問にはまた面白い話があります。私の病床を見舞ってくれたずっと以前に、まず新京(しんきよう)だったか大連(だいれん)だったかへ公式に六代目が着いた時に、 「会いたいから呼んでくれ」  という内容の通知が連隊へ入ったんです。軍の依頼で慰問に来ているんですし、六代目ほどの人ですから我が儘が通ったんでしょう。連隊副官で陸軍大尉の鈴木正夫と名前をちゃんと覚えていますが、その副官から、 「連隊本部へ、用があるから来い」  と呼び出されて、 「お前の親父が来ているそうだ。会いたいと言っているから、お前、行ってこい」  とこう言うんです。親父と言ったって家の親父が来るわけがない。けれども、六代目もまあまあ親父には違いがないし、説明したってしようがないんで、 「はあ」  と言ったら、行けば旅費から何からみんなくれると言うんです。軍から来ている連隊への命令ですから、これには連隊長が「いい悪い」とは言えないわけです。その時にちょっと男気を見せて、 「みんな同じ召集兵なのに、私一人がそういうことをするのはよくないから、ご辞退します」  これは大変によかった。そうしたらしばらくして、私がけがをした後に六代目のほうから訪ねて来てくれたというわけです。  戦争というのは言葉通り非常事態ですから、いろいろ変わった体験をしました。  初めて戦地へ行ったのは、さっきも言いましたが昭和十三年で、上海(シヤンハイ)のウースンという所へ上陸したんです。その時のウースンは塀も何もすべて壊れているというありさまでしたが、ともかくひどいベニヤ板みたいな建物ではあれ、兵舎は建っていて、一応兵隊はそこで休めました。これから戦地へ行くんですから、演習もなければ何もありません。ただ寝るとなったら寝ればいいんです。けれども、「これから戦地へ行くんだ」と思ったら寝られません。こっちは嫌々行くんですからね。  それでなかなか寝付かれないんですが、かといって外へは出られませんから、夜中に兵舎内をフラフラ歩いていました。すると庭にミカン箱みたいなものが幾つもあって、その中でチラチラチラチラ何か燃えている。  よく見ると、日本兵か向こうの人のものかは分からないんですが、どちらにしても人間の骨が詰まっていたんです。その骨の燐が燃えているんです。これが初めて出会った遺体でした。あの辺は今でも掘れば幾らでも人骨が出てくる土地です。  そこから汽車で南京へ行きました。今度、修学旅行の高校生が事故に会いましたね。あの場合は杭州(こうしゆう)へ行って、杭州から上海へ帰る時の不幸な出来事でしたが、私たちが戦後、訪中した時はあのルートを逆に南京へ向かったわけです。  一〇一師団の時の召集では、私たちは第七回補充でした。第七回ということは七回も補充したわけで、それだけ負傷したり戦死したりで兵隊が足りなくなっていたわけですね。それまで廬山でさんざん叩かれて連隊長が戦死という状況でしたから、この第七回補充兵は廬山戦に間に合わせるつもりだったんです。私が運がよかったというのはここなんです。こっちが召集を受けるちょっと前に南京は陥ちていました。これがもうちょっと早くに召集されて南京作戦に投入でもされていたら大変でした。それで急遽と言われていたのが急遽ではなくなったんです。そのうえ「それでは廬山へ」となったのが、南京へ着いてみると今度は廬山の敵が逃げてしまっていた。それでまたゆっくりになってしまいました。  それで、今度は南京から船へ乗って揚子江をさかのぼって九江という所で降りて、それからはいよいよ歩きになりました。その九江へ行くまでは揚子江の上ですから敵襲もありませんでしたが、着いてみると戦場はまだ整理ができていなくてそのまま。もう大変な死臭です。  けれども、嫌だの気味が悪いなんて言ってはいられません。飯を食べたりもしなければならないんですから。九江と南昌の中程にある徳安(とくあん)などという所へ行った時には、川があるんですがその中に死体が一杯。それを鯉が食って、それで栄養がついて丸々と太ってしまったやつを獲って唐揚げにして、隊長へ出したところが大変お気に入りましてね。その後、この徳安の警備についた時の警備隊長はうちの隊長でしたが、九州出身で粗食な人でしたので、この鯉の唐揚げの味が忘れられなくなったんでしょう、たびたびご注文がありましたよ。私はどうしても口に入れることができませんでしたがね。  この隊長は贅沢ということをいっさい知らない。ただお酒が好きというだけで、それも日本酒がどうの、何はうまいが何は口に合わないなどというんじゃありません。ウイスキーの小びんがあればいいんです。そのウイスキーを飲むだけ。それで肴は俗に言うイリコ、あのダシにする小魚をお醤油で炒めたのがあれば、それだけでいいんです。辛いだろうと思うんですが、お砂糖を入れてはいけないという不思議な人でした。  時々、豚だの牛だのを徴発して食べました。豚は知っての通り肉が軟らかいからすぐ食べられます。肉ばかりでなく臓物も非常に美味なものですが、そのおいしい肝臓を煮るのにも、この大隊長はお砂糖を入れさせません。けれども豚の肝臓を醤油だけで煮てごらんなさい、その辛さと言ったらありませんよ。それを平気で食べるんです。  私はこの隊長の当番をしていましたが、実に楽な当番でしたね。  中にはいろいろな人がいまして、ずいぶん贅沢を言ったものです。そういう人の当番兵は辛い思いをします。  四九と呼ばれた甲府の四九連隊の連隊長は畳の上でなければ寝ないんで、前線でも兵隊に畳を持って歩かせていました。これには実際に会ってこの目で見ています。また三大隊の大隊長という人は、水を一升びんに二本いつも当番兵の首へぶら下げさせていました。追撃戦だというのに、その当番兵はびんをぶら下げたままなんです。あれを見た時、 「俺は運がよかった。三大隊の当番になったらどうなっていたろう」  とつくづく思ったものです。二升も首へぶら下げていたら歩けませんよ。  水については無理もないとも言えるんです。ともかく中国は水が悪いですからね。みんな征露丸を持っていて、それを飲んでともかく水に当らないように注意するんです。ところが、三大隊の大隊長はそれだけでは承知しない。どんな場合でもいっぺん煮沸した水を運ばせ、それしか飲まない。行った場所で、井戸なり川なりで汲んだ水を濾過して煮沸すれば、それでいいはずなんです。もっとも井戸水は毒を入れられている恐れがありますから、よほど気を付けなくてはいけません。いっそ川の水のほうが安全なんです。それを汲んで濾過器で濾して沸騰させれば、ばい菌はなくなるんですが、 「それじゃ駄目だ。前から用意した水を持っていけ」  と言うんですから、当番兵はたまりません。  そうした当番兵に比べたらうちの隊長は単純な人でしたから、私は運がよかった。  ただ一つ困ったことは、隊長は少佐で佐官には布団が出てそれへ寝るんですが、その布団へ蝋燭を立てて寝る癖がありました。 「危ねえな」  と思っていたんですが、 「やめてくれ」  とはこっちからは言えません。それがある晩のこと、 「当番、当番、火事じゃ、火事じゃ」  と隊長が呼ぶんで行ってみたら、布団が燃えています。案の定、蝋燭が倒れたんです。その時になってようやく、 「隊長殿、布団に蝋燭を立てるのはおやめください」  と注文を付けることができました。燃えているのを消しましたが、布団は捨てるわけにいきません。誰も縫い手がいませんから、しようがない私がお針をしました。  この隊長は豚の内臓も醤油だけで料理させたくらいですから、甘いものはいっさい口にしません。下給品の羊羹などは当番が食べてしまっても大丈夫なんです。とにかく当番としては楽な隊長でした。何しろポケット・ウイスキーと、少々かさばりますがイリコさえ持っていればよかったんですからね。  私は二度目の召集の満州で、慰問団の団長ということで兵長になりまして、終戦の年の召集で最後ポツダム伍長ということになりました。満州では勲八等桐葉章というのをもらっています。けれども軍隊の面白いのは、こうした記録が今でも残っているというところでしょう。  考えてみますと大変な場面にいくらも出会っていますし、幸い自分は人を殺さないで済みましたが、あらゆる殺し方を見ました。  軍隊を経験している役者はいくらもいますが、だいたいが役者ですし、みんな運はわりにいいですから、実際にチャンチャンバラバラやったのは、(故・市川)高麗(こ ま)蔵(ぞう)くらいのものでしょう。高麗蔵は南京の城門へ上って足へ弾丸を食らったんです。弾丸というのは、それこそちょっとでも当ればそれっきりなんです。逃げても間に合いませんよ。鉄砲がポーンといった時には、もう弾丸は通ってしまった後なんですから。  そういう危険は私もいくどか経験してきましたが、当るか当らないかは、これはまったく運次第なんです。戦地へ来て初めての討伐戦で死んでしまった人もありますし。それは劇的と言うか、芝居と言うか、何とも言えない深い印象で……。  これは補充兵で、部隊へ着くやいなやすぐ討伐で戦死した若い兵の話です。その兵隊は討伐へ出て、口へ弾丸が入ってしまって口も利けない状態でした。私はたまたまその場所に居合わせましたが、ただ見ているだけで手も出せません。ただ、 「今、この人の親御は内地で何をしているだろう」  と思っただけでした。傍らでは戦友が、 「だいたいお前はふだんからそそっかしいから、こんなことになるんだ」  と泣きじゃくっていたのが目に浮かびます。なぜかその部屋の壁に『藤娘』の絵が貼ってあったのを鮮明に覚えていますよ。  こういった場面には、その後もずいぶん立ち会いました。  山田十郎君は南昌で戦死しましたが、勇敢なことで連隊では有名で、いい男でした。  私たちは、南昌を攻めて占領してそこの警備に当りましたが、これが皇紀二千六百年のことでした。いよいよ一部部隊が帰ることになって、どこを帰したら一番世間体がいいかということで、 「東京部隊が一番いいだろう」  という話になっていましたし、山田君は加納部隊の最初からの人でしたから、何もしなければ無条件で帰れたんです。  けれども、中国では日本と違ってあまり大きくない町にもよく市を使いますが、そうした市の一つだったマゴ市という所に、敵のアジトがあると内通がありました。撫河という川があって、私たちは、南昌からこの川の線までを警備していましたが、川を越えるとまた敵地なんです。敵兵が、流れが細くなっている上流の所を越えてこちら側へアジトをこしらえているという通報でした。  それを退治に出掛けたんですが、こっそり行ってワアーッと掛かっていきましたから、向こうは逃げられなくなった。まあ何人かは川を越えて逃げたでしょうが、その中の将校一人と下士官と兵隊が七、八人逃げ遅れたんです。向こうは地下を掘って上に住まずに下に住んでいたんですが、その地下へ入ったままで残ってしまった。それをぐるりと取り巻いたんですが、地下がどうなっているかが分からないので中へは入れません。それでいろいろ考えて、やはり地雷で爆破するよりしようがないと、入口の穴を掘りました。別に時間がかかるわけでもなし、掘った穴へ地雷を仕掛ければいいだけだったんですが、焦ったんでしょうか、山田君は掘った穴へアレッという間に片足を突っ込んだんです。  中には敵がいるんですから、まるで『夜討曾我(ようちそが)』の曾我五郎(そがのごろう)そのまま。下から足を引っ張られピストルでガーンとやられて重傷です。それで担架へ乗せて南昌の野戦病院へ送ったんですが、自動車も何もありませんから兵隊が担いでいきました。私は、ちょうど御飯を炊くのでいろいろ支度をしているところで偶然山田君に会いました。もうその時は断末魔で顔は真っ青でしたが、『絵本太功記(えほんたいこうき)十段目』の武智十次郎のような二枚目で、担架の上で起き上がって、 「目が見えない、目が見えない」  と怒鳴っていましたが、病院へ着くまでに亡くなったと聞きました。足を入れたばっかりに……、帰国直前だったんですがね。  その後、結局、掘った穴へ爆雷を入れてバーンといって、あと催涙ガスのようなものを投げ入れました。中の将校は死んでしまったそうで、兵隊たちが大変な鼻水と涎(よだれ)を垂らしてクシャクシャになって出てきました。  戦場での運命は実に不可思議なものです。山田君は俳優学校で知り合った洋舞家の山田五郎氏の弟さんというお話でした。  またある時は、雲ひとつない満月の夜、私は八中隊の命令受領者の警護の任務ということで、その命令受領者とたった二人、八中隊へ向かいました。  私たちの二大隊本部と八中隊の距離が離れすぎて敵がそのあいだへ入りやすいから、もっと大隊本部近くまで下がれという命令伝達でした。さて、行けども行けども八中隊に突き当りません。頭上にはいたずらに満月が皓々と照っています。静かなことと言ったら、廃屋の崩れた屋根瓦を踏む私たちの足音がザクザクと響くのみ。二人とも心細くなりました。何しろ命令受領者などと言えば強そうに聞こえましょうが、これがいたってやさしいオネエちゃんの軍曹さん、こっちは役立たずの上等兵。それこそガタブルでした。怖い思いをしてやっと着いた八中隊は、何と二千五百メートル以上も離れていたんです。  ともかくも大隊長の命令を伝えました。  この八中隊の島野中尉というのが召集兵でしたが優秀な人で、この人とも私は縁があって、三度目の召集で師団司令部へ行った時には、大尉になって司令部付きでいました。  それで大隊長の命令を島野中尉に伝えましたが、 「もう今からはとても引き揚げられない」  と言うんです。仕方がないから帰りかけて、中隊から百メートルか百五十メートルくらい行った所で、いきなりバッ、バッ、バーンときました。ここから大隊まではまだ二千メートル以上ある。敵の斥候(せつこう)が入ったらしい。 「さあ、どうしよう」  と二人で相談です。 「ともかく中隊へ帰りましょう」  とオネエちゃん軍曹。中国兵はおしゃべりでしたから、ワイワイ言う中国語が近くにいるように聞こえてきます。 「こりゃ大変だ。うまく見つからずに戻れればいいが」  と思いました。ともかく大事を取って、もう一度どうにか中隊まで戻って、 「実はこうこうだ」  と中隊長へ報告をしますと、 「それじゃ、一個分隊付けてやる」  ということで十何人かになりましたから、急に二人とも元気がよくなって、帰りは無事でした。  帰って、報告するために大隊長の所へ行きました。ところが大隊では、 「どうも敵があいだへ入りそうだ。途中の壊れた部落の所へ潜伏斥候を出そう」  となって、何中隊だが忘れましたが潜伏斥候を一個分隊出して、軽機関銃を据えて待ち構えていたら案の定、敵兵が入ってきたんです。ダダン、ダダン、ウワワワーという物音。すっかり夜が明けてから見に行きましたが、大変でした。向こうは潜伏斥候がいるのを知らなかったらしく、弾丸一発撃たずあわてふためいて逃げたらしいんですが、こっちは機関銃ですから、約二十人くらいが倒れていました。  この時は、本当に怖かったですよ。でも冷静な第三者が見たら、きっとおかしい喜劇と見えたでしょう。こんな経験を『盲長屋』の道玄の立回りなどで生かせたらとも思いました。 脇役の人々  私は帝劇で育ちましたが、その時分の帝劇の脇役は何と言っても(尾上)松助と(尾上)幸蔵この二人が双璧でした。けれどもこちらは子供で、とてもお話を聞いても分かるような年齢(と し)ではありませんでしたから、楽屋で挨拶をするくらいの触れ合いしかありませんでした。ただ印象としては、松助さんは穏やかな何もおっしゃらない方でした。それでも代表的な『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』ご存じ『源氏店』の蝙蝠安(こうもりやす)は、市村のおじさん(十五世羽左衛門)が帝劇に見えれば当り役の与三郎ということで、お富には(六世)梅幸おじさん、多左衛門には家の親父(七世幸四郎)という顔触れでなんべんも拝見しました。他の方が蝙蝠安をやっても、何か松助さんの声色をみんなお使いになるんです。「何とかだァよゥ」というような言葉尻の抑揚などですね。明石(あかし)屋(や)のおじさん(六世大谷友右衛門)がことさらに強かったですし、六代目でもやはりちょっと似せているところがありました。やはり耳についているんで、意識しないでも自然に出るんでしょうね。その頃の松助さんはかれこれ七十歳でしたでしょう、大正に入っていましたから。  一方の大橋屋の幸蔵さんという方はちょっと下でしたが、眼鏡の役つまり三枚目の番頭の役ときたら、これはもう絶品でした。それを幕内でもみんなが大変面白がって見ていましたし、また幹部方のいいおもちゃにもなっていました。何と言っても愛嬌のある方で、両方とも五代目さん(菊五郎)のお弟子さんでしたが、その時分からいろいろ逸話のある人でした。  けれどもこの二人には、直接物を聞いたり教わったりということはありませんでした。本当の脇役的な話になりますと、菊五郎劇団へ入ってからのことになります。  六代目はあれだけの人でしたから、方針として脇役を非常に重く見ていました。脇役といってもピンからキリまでありますが、ちょっとした役でも何でも、自分のそばへ出る役となりますと五年でも十年でも同じ役をやらせてしまうので、なかなか上へ行かれないということもままあったんです。これは一つには、うまいまずいではなくて自分がやりいいためにそうしたんですね。  したがって六代目の持ち役を私たちがやる場合には、そういう脇の人たちの非常な応援を得て覚えていったわけです。私にとっては、松助になって亡くなった(尾上)伊三郎さん、この方など恩人の第一でした。この方は『梅雨(つ ゆ)小袖昔八丈(こそでむかしはちじよう)(髪結新三(かみゆいしんざ))』の勝奴(かつやつこ)と『新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)(魚屋宗五郎)』の三吉をずっと持ち役にしておられまして、四十歳過ぎてやった時に、六代目が舞台で、 「おい、三吉爺さん」  とジョークを飛ばしたんですが、それを聞いて、 「あの役を三吉爺さんと言われたんじゃ、もう俺ゃあやっちゃいられねえ」  これ、怒ったんではないんですが、それで、 「三吉は引退するから」  と、それで私にやらせてやってくれと進言してくださったんです。そのおかげでそれ以来三吉と勝奴の二役は私に回ってきたんです。ところがこの二役とも何やかやが難しくてやらなくてはならないことが実に多い。六代目が「三吉爺さん」と言うまで伊三郎さんを使った理由はそこにあったんです。  それはそれはいろいろと結構分からない用事があって、それが変なへまをすれば結局シンの宗五郎だの新三に係わってきます。「エヘン」「ハイ」式にやらなくては駄目ですから、六代目も伊三郎さんをずっと使ってきたわけです。そのコツだの何だのを伊三郎さんは本当によく教えてくれました。私も好きな役ですから、ずうっと見てはいましたが、やはり見ているだけでは駄目なんです。といって新三や宗五郎をやるには、それにいつも付いている勝奴なり三吉なりをやっておかないと、やはりすんなりシテへは入れません。  初めての時にはむろん稽古場から総ざらい、舞台稽古と立ち会ってくださいましたし、芝居では「三日御定法(みつかごじようほう)」と言いますが、初日から三日間というものは「上手(かみて)へ行って」「下手(しもて)へ行って」とそれこそ駆け回ってちゃんと教えてくださった。それはお堅かったものです。こういう時、六代目は直接何にも言いません。任せたら任せっきりです。これは任せておいたほうがいいんですからね。  こうしたわけで、第一の恩師は伊三郎さん、福島さんでした。伊三郎さんは俳句がうまくて、芝居はどちらかと言うと世話物、新作物の人で、時代物はあまり得意ではありませんでした。見識がしっかりしていて、ともかく「ブリキの天神様」というあだ名がついたくらい、そっくり返って肩で風切って歩いていられた方でした。愛嬌のある人じゃないから、ちょっと見には付き合いにくい。ところが私などが教わると実に親切でした。  戦前、明治座で久しぶりに播磨屋のおじさん(初世吉右衛門)とのコンビで六代目が『四千両小判梅葉(しせんりようこばんのうめのは)』をやったことがありました。むろん六代目の富蔵(とみぞう)に播磨屋の藤十郎(とうじゆうろう)という名コンビです。  これは九代目さん(市川団十郎)がそういうことがお好きだったそうで、六代目も芝居の初日と千秋楽の晩にはお弟子などをみんな呼んで、初日のパーティと打ち上げのパーティを欠かさずやったものですが、その席上でいろいろ舞台の話が出るわけです。  この時の初日のパーティで、私には本当のところは分かりませんが、初日の舞台のことですから六代目に手勝手の悪いところがあったんだろうと思います。六代目が、 「おい、福島、吉っちゃんまずくなったねえ」  とこう言ったんです。そうしたら伊三郎さんが、 「いや、うまいねえ」  六代目が追っ掛けるように、 「いや、こういうところがこうで、ここんところがこうで、まずくなったと思うけど」  と言っても、 「いや、うまいね」  それしか言わない。六代目はいろいろ訴えてああだこうだと言ったんですが、とうとう終いには黙ってしまいました。まあ初日のことですし、二年も三年もブランクがあったんですから、初日からパッと呼吸(い き)が合うというわけにはいかなかったでしょうし、六代目も神経が細かいから、何かの感情で間(ま)が外れたか何かしたんでしょうね。けれども、こういう時にはゴマをすって、 「旦那のおっしゃる通りで、ちょいとあすこんところが……」  と言いそうなものですが、言わない。そういう人でした。  その後は、(菊五郎)劇団の脇役の人にはピンからキリまでご厄介になりましたが、例えば(市川)照蔵(てるぞう)さん。この方は(六世市川)門之助さんのお弟子で屋号は滝乃屋でした。  だいたい脇役さんというのは、決して悪いことではないんですが、どうしてもつねに不満を持っているものです。そこで夏場などに幹部がみんな休んでいるあいだに一座をこしらえるんです。その時分はいろいろ各土地に興行主がいましたが、興行すると言ってもなかなかこれは大変なんです。一人じゃ芝居はできませんし、いい役者を呼べば仕込みが高くつくで、儲けが薄いものなんです。  今は日本中どこへ行っても市民会館だ文化会館だと立派なものがあって、花道が短いくらいなもので、両花道にしても使おうと思えば使えます。また舞台装置と言っても東京で仕込んでトラックで運んでしまいます。かえって貨物などで行ったんでは遅れるくらい道も整っていて、幕が閉まるとどんどん積み出して次の場所へ届けるといったふうですから、よほどの事故がない限りは簡単にできます。けれども、当時そんなものは一つもありません。土間(どま)が桟敷(さじき)になっている本当に古い、金丸座のような芝居ばかりでした。その代わり奈落(ならく)などはありましたが、そこへ怪談話が一つや二つは付き物の、懐かしくて面白かった時代です。その時分の地方の舞台と言いますと、世話物をやっているのに突然、西洋館が出てきたりしたものです。それをまた、見るほうもやるほうも何とも思わずにやってしまう。  そういう時代ですから、夏場には幹部はみんな避暑に行ってしまう。と、これがまたちょっと面白いところで、それを「待ってました」とばかりに脇役の人が結束して一座を組んで、それほど高い給金ではないんですが、方々へ出掛けて行くんです。それを小さい興行主が安く買って一興行(ひとこうぎよう)打つ、脇役さんは脇役さんたちで腕を磨くというわけです。  ですから、私たちが初めての役をやるとなった時に、いきなり幹部の所へは教わりに行けないんで、まず脇役さんにお願いして教えてもらって、それからそれを幹部に見てもらうということができました。すると幹部が、 「それはこうだ、ああだ」  と初めて言ってくれます。ですから当時は習うほうも教えるほうも非常に順がよかったんです。それがこれからはだんだんできなくなるんではというのも、私が心配することの一つです。またその時分の人は何でもよく知っていました。  ところが照蔵さんは一生とうとう旅芝居へ行かなかったんです。 「俺の足の裏は檜(ひのき)舞台の匂いがするんだ」  と言って……。  六代目の一座はなかなか脇役さんたちの旅芝居を許さないこともあって、うちの座の人は内緒で行ったものです。六代目に知れると大変なんです。けれどもお金のことばかりでなく、役者としてたまにはいい役もやりたい見得(みえ)も切りたい、というのはこれは無理もないことです。  六代目から聞いた、こういう話があります。(九世)団十郎さんのお弟子で(市川)新十郎という脇役さんがいました。ちょうど六代目や播磨屋のおじさんなどが若い頃で、 「若旦那、こうしなさい、ああしなさい」  といろいろ教えた人です。  晩年を私も知っていますがなかなか面白いお爺さんで、何か気に入らないことがあったと言って『め組の喧嘩』ばりに喧嘩っ被(かぶ)りをして腹掛けを掛けて、さて出刃(でば)を仕込んだかそこまでは知りませんが、すっかり喧嘩支度をして出掛けたという人です。  六代目が『仮名手本忠臣蔵五段目』の定九郎を新十郎さんに聞きました。定九郎が与市兵衛を刺し殺して、タアッと左足を踏み出して刀をぬぐう時にチチチチ、チチチチという「ひぐらしの合方(あいかた)」でぬぐいますが、 「あそこは凄みだから、刀を拭うだけで絶対見得をしちゃいけません」  と言ったんだそうです。その新十郎さんが、夏芝居でだか旅でだか定九郎をやることになりました。ふだんうるさい新十郎さんの舞台ですから、若い連中がみんなで見ていたんです。そうしたらこの定九郎、トーンと足を踏み出してチチチチと大見得を切ったもんです、何とツケまでいれて。そこで六代目が、 「小山さん(新十郎の本姓)、僕たちにはあんなとこで見得するんじゃないと言っていてどうして自分は見得するんだ」  と言ったら、新十郎さん、 「坊ちゃん、あそこはどうしても見得がしたくなるところです」  ところが照蔵さんはこうした旅には行かずじまいでした。 『髪結新三』でも大家のおかみさんの、 「早く褒美がもらいたいもんだねえ」  なんというところは他の誰がやってもうまくいかない。それこそ照蔵さんの専売みたいなものでした。  私自身の照さんのエピソードとして忘れられない話があります。大仏次郎先生は、ご存じの通り上の兄貴がご贔屓(ひいき)で兄貴のものばかりお書きになりました。どうしても兄貴はいい男で若いさっそうとした役ですから、そのお相手の私の役は『若き日の信長』の平手中務(ひらてなかつかさ)のように何をやってもじじいばかりです。『霧笛』という横浜のチャブ屋を舞台にした芝居では、とうとう外人までやらされましたからね。先生のこの本には、英国人だかフランス人だかで「鶴のように痩せた男」と書いてありました。それが故国(く に)でさんざ悪いことをして飛び出してきて、横浜へやって来る。そこで兄貴の色男と張り合って負ける役でした。それにちゃんと「鶴のように痩せた男」と書いてあるんですよ。そこで、 「先生、うちのほうには、尾上鯉三郎さんという、これは、顔から言ったって、姿から言ったって、本当に鶴のようで、目つきは鋭いし、男っぷりはいいし、これは黙っていたってフランスなり英国なりで何かしてきたような人がいますから、私は遠慮します」  と先生に言いました。 「自分が嫌だと言うんじゃありませんが、先生がこうお書きになっていて、イメージがあんまり違いすぎると思いますから」  と。そうしたら先生ご自身が私の家まで押し掛けていらして、 「これは僕が書いたんだよ。他人の作品じゃ悪いけど、原作者の僕が、鶴のように痩せたという部分を取ってしまうから、君に合うようにイメージ・チェンジするから、やってくれ」  とおっしゃって「鶴のように痩せた」という所を削除されました。そこでとうとうやりました。やりましたが、これも老人の役でした。  私も終いに、 「先生、いくらなんでも私は弟なんですから、少しは若いのをやらせてください」  とお願いしました。それで書いていただいたのが、『たぬき』です。これはおかげさまで三度か四度かやらせてもらいました。初演の時は私が四十歳でしたから、照蔵さんはもう七十歳代でした。  私の役は仮死状態で、死んだつもりになって焼き場まで運ばれて生き返るという、なかなか皮肉で難しい役でした。  この時に焼き場の隠亡(おんぼう)を照蔵さんがやったんですが、これが何とも言えない出来でした。隠亡というのはいわば世捨て人ですが、運ばれてくる早桶(はやおけ)の中には案外いろいろな金目の物も入っていますから、焼く時にくすねたりするわけです。つまりは人間の行き止まりでしょう。それが黙っていてもよく出ていました。  それで、焼き場で生き返った私が早桶をポーンと蹴飛ばして出てきて、自分をだました女の所へ仕返しに行くんです。そのために隠亡が死人の着物をたくさんちょろまかしているから、お金をやって着物を買ってそれを着て、照蔵さんが提灯を持って道を照らしてくれるその後ろから私がトボトボ付いて行って花道を入ります。この芝居は私の演(だ)し物(もの)で、設定から言っても見物は私の芝居に喜んでくれるところのはずなんです。何しろ早桶から飛び出してくるというだけだっておかしいんですからね。それがこの時には見物から、 「照蔵ピカ一っ」  と照蔵さんへ声が掛かりました。そのくらい秀逸でした。せりふでも何でも捨て鉢なんです。いろいろなことをしてきた、いわゆる人生の上がりを実にうまく出していました。人生の上がりなどというのはなかなか表現できるものじゃありません。それでいて欲はあるというんですから難しい役です。そこのところの兼ね合いが実によかったんです。  また『紅葉狩』の三枚目の腰元と言えば必ず照蔵さんでした。踊れる人ではないんですが、頬っぺたを真っ赤にして、 「あ、もし」  なんというところもただ三枚目というんじゃない、独特の味わいがありました。実にいい脇役でした。大橋屋の幸蔵さんと同じように、六代目のいいおもちゃになっていました。また晩年まで六代目と照蔵さんはウマがあっていたようですね。  照蔵さんは胃癌でしたが、年を取ってからですから進行が遅くて、徐々に弱っていきました。それでも役者ですから、なかなか舞台を休まない。牛込の急な坂の途中に家がありましたが、そこから毎日上り下りして通うんです。最後にお見舞いに行った時にはもう寝たっきりで、覚悟のいい人でしたから、 「もう今度は駄目です」  と諦めていました。  何しろ元気な頃から、六代目と(六世坂東)彦三郎のおじさんと兄弟揃って、何やかやと照蔵いじめというのをやるんです。それでいて、私たちがそれを見て笑うと怒られましたから、笑うのをじっと我慢していたものです。  それが、坂東のおじさんが亡くなり、六代目も具合が悪くなって亡くなる前の年の一月に、『半七捕物帳・春の雪解』をやりました。そう言えば照蔵さんも六代目と同じ年に亡くなっているんですから、二人のそれこそ最晩年のことです。六代目は、本来なら半七と徳寿という按摩との二役なんですが、この時にはもう徳寿だけでいっぱいというくらい身体の具合は悪くなっていて、半七は最後に幕外へ出て説明しただけ、劇中の半七は私に回ってきました。そんな中でも、照蔵さんが婆さん按摩で出て来る『徳寿内の場』では六代目が悪戯(いたずら)をしていましたね。ちょうど終戦直後で物がない時分でしたから、 「お婆さんも大変だな。この頃じゃ物もなくなってきて……」  なんというありもしないせりふを言って、 「田舎からちょうど届いた物があるから、それをあげるから持ってお帰りなさい」  とレンガを風呂敷に包んで荷物を作って背負わせて帰すんです。  実に馬鹿馬鹿しい悪戯なんですが、二人とも身体が利かなくなっているというのに、そんなことをしていました。両方とも何とも言えない愛嬌がありましたし、またそんなことでしっぽを出すような照蔵さんじゃありません。それでいて照蔵さんはたいへん真面目な人でふざける人ではありませんでしたけれども、にじみ出る味というのがあったんです。  他にも(尾上)多賀之丞(たがのじよう)さん、(尾上)新七さん、(尾上)菊十郎さん、いっぱいいましたが、いつでも六代目のそばにいる役となると自分の股肱の臣で固めて五年、十年やらせていました。そのおかげで、私たちはその後六代目のものを手掛ける時にいろいろ教えてもらえたわけです。 『髪結新三』での鰹売(かつおう)りとなりますと、これは(尾上)音蔵(おとぞう)さん。この人も不思議な人でしたね。五代目(菊五郎)以来のお弟子さんで、脇役には違いないけれども、下のほうの脇役です。せりふも言えなければ立ち回りもできない、何もできないんです。ただ『髪結新三』の鰹売りだけはできたんです。お爺さんになっても生きている限り鰹売りをやりました。音蔵さんが、 「鰹(かつお)、鰹、初鰹」  と花道を出てくるとその瞬間、舞台も客席も何か五代目の時代になってしまうんです。これはたいしたものでした。ところが、他はせりふも言えなければ何もできない。ただ「鰹、鰹」だけで一生を終わったような人でした。魚を下ろしたりする手捌(てさば)きなどは、むろん当人が必ず勉強してきていますからきれいにやって見せます。また見物もそれを喜んで見るという雰囲気が昔はありました。けれども、鰹は「江戸っ子と初鰹」と言うくらいなもので、声によって生きもし死にもするんです。それが音蔵さんは逸品でした。音蔵さんが亡くなってからは(尾上)多賀蔵(たがぞう)さんが受け継いで長くやっています。  立ち回りでは(尾上)柏次郎(はくじろう)さんがじょうずでした。この人は役者としてはけっしていい役者ではなかったんですが、このあいだ亡くなった(坂東)八重之助(やえのすけ)さんを仕込んだ人で、当時の立師(たてし)のいわゆる頭(かしら)です。立回りの研究も偉いもので、活動写真の松ちゃん(尾上松之助)だろうと何であろうと、他の立師の仕事をちゃんと見ていました。 「ここは、大河内伝次郎がこうやった」  とか、 「ここがよかった」  と取り入れたりもしていました。  また馬のうまい人でしたね。『塩原多助一代記(しおばらたすけいちだいき)』の馬で見物を泣かした人です。もともと芝居の馬というのは前と後ろと二人入りますが、役者が馬に乗る時には前の人の背中に乗るわけで、後ろ足は重量が掛かるんで大変らしいんです。この『塩原』は六代目のを明治座でいっぺん見ています。父親の塩原角右衛門が先の(七世)中車さん、義母のお亀(かめ)が(四世沢村)源之助(げんのすけ)さんでした。この時の六代目の多助と柏次郎さんの馬のアオの別れの件(くだ)りはいいものでした。芒をずうっと前に置いて足を隠してやるんです。多助が、 「これ、アオ、よく聞けよ」  と愛馬に話し掛ける長せりふをじっと聞いていて、うなだれたり哀しそうに首を振ったりするところなど何とも言えぬいい舞台でした。六代目はそれ以来『塩原』はやりませんでしたが、それと言うのも、柏次郎さんが亡くなってからはこの馬がうまくいかなくなってしまったからなんです。  ですから、「馬の足」と悪口のように使いますが、この柏次郎さんとか九代目のお弟子の(市川)しゃこ六さんなどは、実にうまかったものです。市川家では海老蔵というくらいで海のものの名前に縁があるのでしゃこ六。私が知っているのは帝劇時代ですから七十歳は超えていました。この人も立回りもできない何もできない、馬しかできない人でしたが、七十歳超えて家の親父を乗せていました。まあ親父は実際に馬に乗った人でしたから、乗った人と乗らない人とでは多少違うでしょうが、それにしても鞍や鐙(あぶみ)の重さは大変なものです。また藤浪(小道具)には国宝級の本物でいい鞍だの鐙だのがありますが、それを着けたうえにだいたい胴体が重いんですから、 「よくあのお爺さんが……」  と思いました。こういう人がいたから、家の親父の『大森彦七』も『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の『檀特山(だんとくせん)』もできたわけです。  馬ばかりではありません。駕籠(か ご)でもそうです。映画やテレビならある瞬間だけ撮れば済みますが、芝居はそうはいきません。例えば『新版歌祭文(しんぱんうたざいもん)』の『野崎村』の幕切れでも、私と中村屋(故・勘三郎)とがご馳走でやったことがありますが、駕籠の底に車を付けてごまかしたくらいです。とてもふつうでは担げるものじゃありません。空(から)駕籠ならば担げますが、そこへ一貫目の物を入れると二貫目の重さになってしまうんです。ましてや、先棒(さきぼう)と後棒(あとぼう)と息杖が合わなかった日には持ち上がりっこありません。  当時はこうした一芸の達人で、また自負心の非常に強い脇役さんたちが大勢いたんです。 「俺がやってやるから、幹部がこれをやれるんだ」  という自負心。幹部を恐れていない。これが物凄いんです。身分は違っていても役者の姿勢と言いますか、「腕でこい」という。ですから、これから先そういう人が出るか出ないか、これが芝居にとっては大きな問題ですね。  トンボ一つ返るにしてもそうです。市川新十郎さんのお弟子に新右衛門さんという柄の大きな人がいましたが、この人の返り落ちはそれは見事なものでした。トンボというのは、ただグルッと返るからいいと言うもんじゃない。やはり空中へ止まっている時間が長いと綺麗なんです。グルッじゃ駄目でクルッ、トーンと返らなくてはいけない。(坂東)八重之助さんなどはやってくれましたが、そういう落ち方ができないと、『妹背山(いもせやま)婦女(おんな)庭訓(ていきん)』の『御殿』での鱶七(ふかしち)に絡む力者(りきしや)はできません。あれは長袴(ながばかま)をはいて高二重(たかにじゆう)から下へトンボを返って落ちるんですから、普通だったら袴の中で滑ってしまってやれっこない。やり損なったら大怪我しますよ。  やり損ないと言えば、うちの劇団が明治座で復活した時の『倭仮名在原系図(やまとがなありわらけいず)』、俗に言う『蘭平物狂(らんぺいものぐるい)』で、この復活の大功労者だった八重之助さんが、手水鉢(ちようずばち)の屋根から灯籠の上へトンボで落ちるところで失敗したことがありました。これは失敗して当り前なんです。その時は今と違って本物の石灯籠と同じ寸法で、おまけに灯籠の頭も本物らしく丸みが付けてあったんです。八重之助さんだって、若かったと言ってもすでに五十歳代でしたしね。この時以来、灯籠は今のように大きくなったんです。この芝居など、三階さん(下回り)たちがいなくてはできない芝居です。立回りというのは確かに覚えなくてはやれませんが、いわゆる師弟間での教える教わるだけではできないものです。今は役者をやめましたが、十五代目(羽左衛門)のお弟子で坂東緑三郎(ろくさぶろう)なんかもうまいものでした。棒の立回りでもよけるというより自然に飛んでしまうんです。他の人ともやりましたが、なかなかああはいきません。そういうところに腕の違いが出てくるんです。  うちの劇団の芝居には世話物の他にも、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはつけんでん)』の芳流閣(ほうりゆうかく)の立回り、『弁天娘女男白浪(めおのしらなみ)』の極楽寺楼門(さんもん)の立回り、『義経千本桜』の小金吾(こきんご)の立回りと、三階さんに助けてもらわなければならないものがたくさんあります。けれども立回りで掛かられるこっちにとっては、うまい人に掛かってもらうとやりやすいのは当り前ですが、逆に掛かる人にとっても掛かられる役者がうまいかまずいかで、ずいぶん違うものなんです。ですから、おさらい会などでよく『道行初音旅(みちゆきはつねのたび)(吉野山)』や『仮名手本忠臣蔵』の『道行旅路花聟(みちゆきたびじのはなむこ)』お馴染み「お軽勘平の道行」が出ますが、掛かるほうは相手がお嬢さんだの芸者だったりしたらよけいくたびれるだろうと思いますね。  六代目は、三階さんがおさらいへ出たりするのをとても嫌がりました。というのは相手が芸者衆やお嬢さんですと「一トンボ幾ら」ですから、「どうしても芸が落ちる」というんで嫌がったんです。もっとも、たとえ相手がお嬢さんであっても菊五郎と同じ意気で掛かるくらいにやれば何とも言いませんが。イージーゴーイングになったら、トンボでも何でもみんな質が落ちてしまいます。  この点、八重之助さんもうるさかった。ともかく非常に真面目な人でしたから、歌舞伎俳優研修生を取材したテレビ番組の時でもカメラなど意識になくって、えい、ポコンと研修生を叩いたのがそのまま映って抗議の投書が来たりもしました。けれども、投書するような人は芸を見ても分からない人ですよ。立回りは間合い一つ違っても大事故になってしまうんですからね。 (市川)升六(ますろく)さんという立師は本当のはげ頭でテカテカで、お月様の表面みたいな頭をしていて、坊さんと呼ばれた、愛嬌があって面白い人でした。自分が頭(かしら)で立回りをこしらえて、こしらえたそばから忘れてしまうんです。総ざらいの時にはシンの役者がやりますが、まだ付け焼き刃で覚えていないことが多いんで、 「それじゃ私がやって見せます」  と升六さんが立回りのシンを大見得切ってやってみせる。やはり役者なんですね、見得を切るところはいい気持ちらしいんです。ところが、見得と見得のあいだの手はみんな忘れちまう。掛かるほうは木刀を持っていますが、升六さん、忘れているからすぐぶんなぐられる。すると間髪を入れず、 「その意気」  そこが面白いんです。絶対に、 「痛え、この野郎」  などとは言わない。坊さんの立回りというと面白いから、見に行ったものです。忘れたところは、 「どうしようか」  と相談しながら付けていく。その時分は周りがまたしっかりしていましたから、 「頭、こう行ってこう行ったら……」  と周りが付けてしまう。すると、 「ああ、そうそう。そりゃあいい。ここはこうしろ、ああしろ」  と付けておいてまた忘れる。忘れるからまたポカーンと頭に食らう。そうすると、 「その意気」  立回りがうまいというのは、踊りとはまた違うんです。柏次郎さんは実に立回りがうまくて、ちゃんと覚えたらきっちりしていて、極まり極まりなどもいい形をしていました。一方、坊さんはそううまいというんじゃないんですが意気がいい。サッ、サッ、それっ、トン、そら、トンといい意気で、それで自分でツケを入れて見得を切る。それが嬉しくってしようがないという人でした。  播磨屋のおじさんのほうで脇役さんと言えば(中村)吉之丞さんに、一座ではないが村井さん(中村竹三郎)。こちらは暇があると一座組んで出かける方でしたからシテでも脇でも何でもできる。例えば『熊谷陣屋』なら、熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)もやれば平山武者所(ひらやまのむしやどころ)までやってしまいます。本舞台では平山、旅へ出れば熊谷というわけです。竹三郎さんは成駒屋(五世歌右衛門)のお弟子でしたが、実は『蘭平物狂』など竹三郎さんのお陰でできたんです。蘭平の狂乱の踊りは成駒屋の物なんですが、これもちゃんと覚えておられましたから、私の蘭平は村井さんに教わったままです。立回りは近沢さん(坂東八重之助)がいろいろ古い人に聞いたりもして研究してこしらえたのが、現在の『蘭平物狂』です。また播磨屋の物は播磨屋のおじさんに教わる前に、吉之丞さんの所に教わりに行きます。そのほうが確かなんです。私も、『腕の喜三郎』も『熊谷』も吉之丞さんの所へ行きました。『腕の喜三郎』などあの人しか知っていないものでしたが、私はもうこれは(現)吉右衛門に渡してしまいました。  つまり村井さんや吉之丞さんは自分がやっておいて、脇へ回ってシテを助ける。照蔵さんなどは自分はやらないけれど、その芝居へ入り込んでいって助ける。こういう二つの行き方があるんですね。照蔵さんなどは自分がいい役をしているわけではありませんから、何も言いません。またそれが誇りなんです。吉之丞さんですと、例えば『忠臣蔵』でも『七段目』の三人侍でござれ『六段目』の二人侍でござれ、狸の角兵衛でござれ、それこそ何でもやっていて、また何でもできたんです。ですから、吉之丞さんの晩年に私たちが三人侍をやって入ってきましたら、 「まずいもんだね」  と言われましたよ。でもこれはいいんです。私たちにしてみれば寺岡平右衛門や大星由良之助がまずくては困りますが、あべこべに三人侍がうまくては困るんです。しかしまあ、そういうことをズケッと言えた人でした。  身体(な り)は大きいし調子もいいんですが、持って生まれた愛嬌で芯から憎らしい敵役になれなかったのが(市川)団右衛門さん。『水天宮(すいてんぐう)利生(めぐみの)深川(ふかがわ)』の金貸しなどに髭を生やして出ましたが本当の憎らしさは出ませんでした。どちらかと言えば愛嬌過多なんです。  前に言った(尾上)幸蔵さんのほうはこれはもう溢れてしまうような愛嬌で、番頭役とか『助六』の通人(つうじん)なんかは天下一品でした。『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)(河内(こうち)山(やま))』の北村大膳などをやりますとただ憎らしいだけではなく、せりふに何とも言えない愛嬌がにじみ出ていたものです。何しろ『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゆてならいかがみ)』の『車曳(くるまびき)』の時平公(しへいこう)で、六代目の梅王丸(うめおうまる)につっ突き落とされる人でしたからね。つっ突き落とす六代目も六代目なんですが、轅(ながえ)を取って詰め寄る時にわざと時平公の顔の前に轅を持っていくんです。大橋屋(尾上幸蔵)もよければいいんですが、まっ正直によけずに前を向いているからだんだん危なくなってきて、みんなで押さえたんですが、とうとう終いに落っこちてしまった。  そういうたまらないユニークな人が昔は脇にいくらもいたんです。だから芝居が面白かったとも言えますね。  市川荒次郎という人は端敵(はがたき)が主の役者で、(二世市川)左団次さんの所にいたんですが、長くて愛嬌のある顔で、大向こうはよく「南京豆、南京豆」と声を掛けたものです。舞台では南京豆と言われても何も言わなかったんですが、ある時、明治座で楽屋口から出てきたところを「南京豆」と言われたら怒りました。 「楽屋口を出てきたら、普通の人間だ。それを南京豆とは無礼だ」  と。それで相手に謝らせたことがありました。それはそうですよ。舞台ではしようがないでしょうが、舞台以外で言ったら、これは侮辱ですからね。  そういう独特な人がみんないなくなってしまいました。脇役にも一級、二級、三級と階級がありますが、以前は役どころは狭くてもみんな何かを持っている人たちが各座にいたわけなんです。  私が『毛抜』を教わったのは左団次さんのお弟子さんで女形だった市川莚若(えんじやく)という人からでした。高島屋(二世左団次)が亡くなってから莚若さんがうちの一座に入ってきたんで、いいきっかけだといろいろ高島屋のものを教わったんです。とは言っても女形ですから、高島屋のやった役はむろん自分がやったことなどないんです。ただいつもそばにいて、舞台に並んでいたり後見をしたりして覚えていたんですね。今はなかなかそういう人がいなくなったというのが、歌舞伎にとって何より心配なことの一つなんです。 義経千本桜 義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)  義太夫節として書かれ、初演が人形芝居でその後歌舞伎に移された狂言群を「義太夫歌舞伎」あるいは「院本(まるほん)(丸本)歌舞伎」という。その院本歌舞伎の代表作の一つであるこの狂言は、延享四年(一七四七)十一月、大坂竹本座で初演され、作者は竹田出雲・三好松洛・並木千柳(宗輔)の合作。外題名にも入っているように義経流浪伝説に題材をとっているのだが、むしろ壇の浦で没落した平家の後日物語といったほうがよく、五段全篇の主人公は、大和下市のごろつき「いがみの権太」であり、初音の鼓の皮となった親狐をしたう子狐の化身たる「忠信」、悲劇の平家方武将「平知盛」である。この三役を過不足なく演じ切れる唯一の近代の俳優が尾上松緑であり、国立劇場における昭和五十一年十、十一月の二ヵ月にわたる通し上演で三役を勤め、これらの役々の規範を世にしめした。院本歌舞伎三大傑作の一つであり、松緑の代表的な役々でもある。   忠信 『義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)』を通しで上演しますと忠信(ただのぶ)は面白い役です。『伏見稲荷鳥居前の場』は荒事(あらごと)で火焔隈(かえんぐま)と狐隈とを一緒にしたような隈をとります。ですから『道行初音旅(みちゆきはつねのたび)』すなわち『吉野山』でも薄い紅で二本、狐隈をとるのが昔からの本当の型なんです。その同じ忠信が『河連法眼館(かわつらほうげんやかた)の場(四(し)の切(きり))』になるとああまで変わるんですから面白いものです。 『吉野山』の本当のやり方は狐隈をとって源氏車(げんじぐるま)の縫いの入った衣裳を着けますが、いわゆる(九世市川)団十郎型は隈をとらず衣裟も茄子(な す)紺(こん)のものになります。踊り方もそれぞれちょっと違って、隈をとった時のほうが派手になります。嘘か本当か知りませんが、九代目(くだいめ)が『吉野山』を踊った時に源氏車の縫いが初日に間に合わなかったんで、それで茄子紺の衣裳にしたという説があります。  大和(やまと)屋(や)のおじさん(七世坂東三津五郎)は時代な方でしたから団十郎型に反対で、六代目(尾上菊五郎)が茄子紺の衣裳でやるたびに、 「六代目にも困ったもんだ」  と言って、ご自分はいつも昔の型で踊られました。  家の親父(七世松本幸四郎)は九代目の弟子でしたが、似合わないこともあって必ず隈をとりました。団十郎型では一度もやっていません。ですから団十郎型の『吉野山』は、役者では九代目の後は六代目なんです。芸者衆などがよく団十郎型でやるというのは、こっちのほうが全体に柔らかいから女性には似合うんですね。  私は通しでやることが多かったんで団十郎型ではやりません。通しの場合、団十郎型では流れが合わなくなってしまうんです。もっとも九代目も隈を取らずにやったのは、その時、通し上演じゃなかったからですよ。 『吉野山』の道行で忠信が注意しなくてはならないことは、よく言われるように静御前(しずかごぜん)と忠信は男女であっても主従(しゆうじゆう)なんだということです。絶対に二人が出来ているように見えてはいけません。それをある劇評家が、 「主従であるということをしつこく考える必要はない」  と書いたことがあります。しかし六代目は、   女雛(めびな)、男雛(おびな)……  のところで、 「けっして静の後ろへ入るなよ。後ろへくっ付くと、訳ありの男女みたいに思われるぞ。だから、蟹じゃないが横から入るんだぞ」  と厳しく言いました。  まあ確かに通しでやる時には、忠信は頭は車鬢(くるまびん)で衣裳は江戸褄(えどづま)で前に大きな源氏車の縫いがありますし踊りの振りも荒い、そのうえせりふを聞けば二人の関係が主従だということは見物に分かります。けれどもこの頃は団十郎型が流行って二枚目風になっていますから、役者のほうで心得ておかないと訳ありに見えないとも限らない。それを役者の心得として六代目が教えてくれたわけです。それを単純に「考える必要がない」と言うのは、やはりちょっとおかしかないかな、と思うんですがね。  また『吉野山』での忠信は狐忠信ではありますが、親狐に対する情愛は後の『四の切』で顕著に出ますから、ここではむしろ忠信のほうを強く出すべきです。清元(きよもと)の、   桃にひぞりて後ろ向き、羨ましゅうはないかいな  のところで、鼓(つづみ)に戯れるほんの一ヵ所だけ親に対する情愛を見せます。  この件(くだ)りで教わったのは、鼓に頬ずりをすると静御前(しずかごぜん)が手を出します。その時にそれをフッと見上げて「何しゃあがんだ」という目付きをしろ、「ちょっかい出すな」というところを見せるんだということです。 「この時は静を忘れるんだよ」  と言われました。それ以外はつねに二人は主従でいなくてはいけません。  俗に言う『四の切』すなわち『河連法眼館の場』では親子の情愛を顕著に見せます。 『四の切』の忠信は昭和二十年、終戦の年の十一月に東劇で初めてやりました。若手の勉強会で(現・尾上)梅幸さんの静御前、市村さん(十六世羽左衛門)の義経でした。ところがどうしたわけか、この時に六代目の忠信をろくに覚えていなかったんです。  昭和五年に六代目の忠信、(六世尾上)梅幸おじさんの静御前に十五代目(市村羽左衛門)の義経というのがあったんです。私は十代でこの時に覚えていなくてはならなかったはずなんですが、それが覚えていない。『吉野山』はそれまでに早見藤太(はやみのとうた)までやっていて、さっさと覚えていたんですがね。ことに昭和五年当時は、六代目も一番やかましい頃で、 「今月は何々を覚えろよ」  と興行ごとに言われます。それで千秋楽の日には必ず、 「やってみろ」  と言われてあっちこっちを直される。毎月が試験みたいなものでしたから、言われたものは必ず覚えていたものです。けれども『四の切』は、その時何があったんだったかちょっと思い出せませんが、数度しか見ていなかったんです。  そこで、この二十年の時には舞台稽古の時間がなくて、見物をすでに入れてから閉めた幕の裏側で稽古をしました。 「知りません」  なんて言ったら怒られるにきまっているんですが、この時は六代目も納得して、 「うん、それじゃあしようがねえ」  と改めて全部教えてくれました。それにしても昭和五年に何があったのか、どうしても思い出せないままなんです。 『四の切』で忠信は本物と狐と前後で分かれます。面白いことに『千本桜』を通して本物の佐藤四郎兵衛忠信(さとうしろうびようえただのぶ)は、ここと大切(おおぎり)にしか出ません。  この本物の忠信には顎に青黛(せいたい)を付けるすなわち髭(ひげ)を付けるのと、付けないのと、二通りの化粧の仕方があります。五代目の菊五郎という人は顔の作りが長いし、六代目も土台があの通りいい顔でしたから自信があったんでしょうが、 「ここは髭を付けなくっていい」  と言うんです。けれど考えますと、『源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき)』の斎藤実盛(さいとうさねもり)でも『梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)』の梶原景時(かじわらかげとき)でも、生締(なまじめ)の鬘(かつら)にはみんな青黛を付けます。付けないとちょっと似合わないんです。ですが六代目はそう言って、全然付けないでやりました。  昭和五年の時、忠信の化粧で面白い事件が起こりました。六代目は自分の主張通り青黛を付けずに、そのうえ本物と狐とはすっかり化粧を変えるんだと言って、本物で引っ込むとそのまま顔をシャボンで洗ってしまったんです。そのために舞台ではつなぎの腰元連中が大変なことになってしまいました。  どうしてかと言いますと、シャボンで洗った後は化粧が付きにくくなるんです。人間の顔には地の脂(あぶら)がありますね。その地の脂だけでも、濃い化粧は無理ですが薄いのならどうにか付きます。けれどシャボンで洗ってしまうとまるで脂っ気がなくなって、薄い化粧だってうまく付かないんです。六代目はじれますが、いつまでたっても化粧が仕上がらない。その長いあいだを腰元連中が、舞台をつないだんです。もっともその時分には女形(おんながた)さんにも一騎当千がいましたからね。先代の(市川)滝之丞さんなんか、高島屋(三世市川左団次)が名古屋で病気になった時に、『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)(吃又(どもまた))』の女房お徳をすぐ代わったことがありました。そういう腕の確かな人たちがいっぱいいたんですよ、当時は。  六代目の弟子が、 「まだです、まだです」  と舞台へ知らせても戸惑い一つしやあしません。「義経様がどうした」とか「頼朝様がああした」とか、『千本桜』を通しで喋っていくらでもつないでしまう。そりゃあシャアシャアとみんなで打合せがしてあったみたいで、実に大したものでした。この大騒ぎで六代目もいっぺんに懲りて、前後で化粧をすっかり変えることは、初日だけでやめました。  私が初めてやった時には六代目が付きっきりでいてくれまして、舞台の袖で、 「間に合わねえ、間に合わねえ」  と言う。間に合うのに「間に合わねえ」と。それでこっちも間に合わないような気になって、青黛を付けませんでした。  六代目没後に、年齢(と し)をとってくることも考えて髭を付けるようにしたんです。狐に替わる時は、その上から真っ白に塗るようにしています。本物のあいだが相当長いですから、そのあいだに、下地(したじ)に塗った油と地の脂とが一緒に浮き出てきます。その上から白く塗りますと照明も明るいですし、下の青黛が分からなくなるんです。  本物の忠信は純然たる立役(たちやく)の腹です。  遠藤為春(えんどうためはる)さんがよく言っていましたが、五代目さん(尾上菊五郎)のここが大変によかったんだそうです。   我が身危ぶむ忠信は、黙して様子(トーン)  と向こうを見込むところだの、   忠信をつくづくと打ち眺め  で、静御前に自分の姿の裏表を見せるその形など、何でもないことですが実によかったと聞いています。自分でやってみて推察しますと結局、肩の使い方がよかったのではなかったかと思います。また五代目という人はさほど足をパッと割らなかったそうですが、それでいてここの引っ込みが本当によかったと、遠藤さんは言っていました。  本物の忠信はなかなか難しいんですが、昭和二十三年、二度目にやった時には、 「お前(めえ)の忠信は六代目張りだな」  なんて六代目に冷やかされました。きっと、 「自分の真似してやがんな」  と思っていたんでしょうね。  後半の狐忠信はけれんですが、六代目のあの重い身体ででもできるように工夫がされていますし、情愛の出し方にしても原作に事細かに書いてありますからあまり難しくはありません。そのうえ六代目から手取り足取り教わっていますから、ほとんどそのままにやっています。  そう言えば五年の時、舞台稽古の日に六代目が、 「一緒に来い」  と私を高二重(たかにじゆう)の縁(えん)の下(した)へ連れて行き、忠信が出てくるあの仕掛けの三段(さんだん)に、 「乗ってみろ」  と言うんで乗りました。ところが大道具が本番通りの呼吸(い き)で、「それっ」と押し上げた途端に吹っ飛ばされてしまいました。あれはコツを知らないと本当に吹っ飛んでしまいますよ。六代目はそれを見ていて、 「ほれ見ろ、すっ飛ぶだろう。だからポーンと出る時に右の足でブレーキを掛けるんだ」  と教えてくれました。六代目は、こんなふうにまずやらせてみていっぺん失敗させる。それで身体で覚えさせるという教え方でした。  後半の忠信は出てきた時から狐の気持ちで通します。むろん狐の気持ちだの猫の気持ちなどというのはおかしいんで、本当のところは自分が実際に狐や猫になってみなくては分かりっこない。それを首の使い方、手の使い方、身体のこなしなどいわゆる型でもって、瞬間、けだものらしい演技として表現します。ですから後半の狐忠信は型をフルに使って形で見せられるだけ楽なんです。  六代目は、 「ここの狐の忠信は中性でやるんだ」  と言いました。中性という言葉をよく使いましたね。『六歌仙容彩(ろつかせんすがたのいろどり)』の『喜撰(きせん)』なんかも、「中性で踊れ」と言うんです。男でなく女でなく、まあ言うならばオカマですね。「オカマ的にやれ」というわけです。足も全部内輪(うちわ)にしますし身のこなしから目の使い方まで中性にして、声の調子も高い。人間がけだものを表すわけですからやはり中性なんですね。  狐手と言いますが、六代目には猫の手の工夫がありました。舞踊の『鳥羽絵(とばえ)』などで猫になりますが、両手の指を曲げる時に小指をグッと薬指の中へ畳み込むんです。するとそこへ神経が行くので、猫だということを忘れない。つまり自分への戒めなんです。狐の手のほうは小指を縮めるだけです。これは六代目は太っていましたから、まず細身(ほそみ)に見せるための工夫なんです。  狐と言えば思い出があります。私が六代目の所へ預けられましたのは、六代目が三田(みた)に住んでいた時分で、一ノ橋からずっと上がった所にある古いガタガタの家でした。そこへ尾上菊枝さんという人が舞踊会で『本朝廿四孝(ほんちようにじゆうしこう)』の『奥庭(おくにわ)』を踊るというのでお稽古に来たことがありましたが、その時に文楽(ぶんらく)の(吉田)文五郎さんがみえて狐を遣って見せて下さいました。文五郎さんが大阪風に「けつね」とおっしゃったのが印象的でした。この時に教えていただいたのは、 「狐は細身に見せるようにして、ちょっと顔を下向きにする。上向きになっては狼になってしまう」  ということでした。 『四の切』でも同じで、極まる時はちょっと身体をひねって片手を上にして片手を下にちょっと落とす。これが正面を向いて両手を揃えると狸になってしまいます。また狐は陰のけだものであって陽ではない、 「狐は陰の獣ゆえ、風を起こして振る雨に」  というせりふもあるくらいですから、それを心に置いておかなくてはいけません。  こうした型や口伝(くでん)というものが残っているところが歌舞伎のよさの一つでしょう。ことに狐忠信なんか新劇でやろうとしたら困りますよ。きっと手も足も出ないでしょう。  初めて『四の切』をやりました時も、それまで長いこと六代目に付いていましたから、 「俺の言おうとすることは、黙っていても分かるだろう」  という腹が六代目にもあったでしょうし、私が院本(まるほん)を読んでいるのも知っていましたから、字句の解釈は飲み込んでいるだろうと、「ああだこうだ」という注意はとくにありませんでした。  それでも二十年の時も二十三年の時も実際の舞台で手助けをしてくれましたが、それがもう気にして気にして大変だったんです。早替りなんかも屋体の廊下の下で待っていて、 「今日が日まで隠しおおせし身の上なれど」  のせりふに掛かると、 「もう来るぞ、もう来るぞ」  と縁の下で言い続けです。あんまりうるさいんで上から私が、 「いいですよ、大丈夫です」  と声を掛けるんですが、 「それ、来るぞ。もうじきだ」  と一生懸命。おかしかったですよ。静の、 「さてはそなたは狐じゃな」  で、下へ落ちると「それっ」と衣裳を剥がしてくれましたしね。やることはちゃんと覚えていて手間を掛けずにすんだんですが、裏の仕事で苦労を掛けてしまいました。けれどもありがたいことです。なかなかそこまでの面倒は見てもらえるものじゃありませんよ。そんなことが非常に印象に残っています。  狐忠信の出で、   世にたぐいなき初音(はつね)の鼓  と静御前が鼓を打ちます。五代目さんが忠信をやられた時に、先代の梅幸おじさんが、 「その鼓じゃあ出られねえ」  と大変いじめられたと聞いています。私の場合は今の梅幸さんが、 「忠信が出にくいといけないから」  と言うんで、(望月)太左衛門さんに付け鼓を打ってもらっています。確かにこれや『土蜘(つちぐも)』の出の、   月(テツツト)ポーン  の一鼓(ひとつづみ)だとかは、いい音でないと出にくいものです。  静御前の、 「そなたの親はこの鼓、鼓の子じゃと言やるからは、さてはそなたは狐じゃな」  のせりふは、このあいだに忠信が早替りの玉を袖、襟(えり)、脇と抜いていくわけですから、ゆっくり言うことになっています。   鳥は親の養いを……  で跳ぶところは、股に衣裳を挟んでポーンポーンと大きく跳びます。  ところで、忠信があまり袖から手を出さないのを見て、 「狐だからか」  と聞かれることがありますが、とくに狐だからというわけではありません。もともと六代目はどんな役でも、裸踊りはいざ知らず、衣裳を着けるものは何でも手を出すことを嫌ったんです。お姫様なんかほんの指先しか出しません。六代目という人はきれいな手をしていましたが、出すのを嫌がりましたね。  私は若い時分から大きいほうでしたからどうしても衣裳がツンツルテンになるんです。普通に着ていても動いているうちにだんだんずってくる。前にも書きましたけれども、 「豊(ゆたか)(最初の芸名は松本豊)はどうも手だの足だのが出るから、注意してやったらどうです」  と誰かが六代目に言ったら、 「まあ、今にあれが引っ込むようになってきたら、一人前になるだろう」  と答えたそうです。つまり芸ができていないうちは、神経がそこまで行っていないから出てしまうんです。  それにしても『四の切』の忠信は足にこたえます。 「親父様、母様、お詞背(ことばそむ)かず私は、もうお暇(いとま)いたしまする」  の頃になりますと、だいぶこたえてきます。私が足に無理をさせたのは、これと『倭仮名在原系図(やまとがなありわらけいず)』俗に言う『蘭平物狂(らんぺいものぐるい)』と、それに兵隊生活でした。またことに『四の切』は数多くやりましたからね。  さて狐の正体を現してからは、もう親狐に対する子狐ということが専らで、静も関係なくならなくてはいけません。   鼓の方(かた)を懐げに、見返り見返り……  で、下手(しもて)の垣根の向こうへ引っ込みます。最初の時には車仕掛けで飛び込みましたが、二度目からはやめました。六代目も私が知ってからは車を使ったことはありません。  二度目に呼び出され、義経から鼓をもらって、 「返す返すもうれしやな」  と鼓に戯れるところは絶対に振り事(舞踊)になってはいけないんです。ここはともかく鼓に対して焦点を当てていなくてはいけません。時たま踊ってしまう人がいますが、あれは結局逃げです。踊りに逃げてしまえば楽なんですよ。それはじっとしているほうがはるかに辛いんです。  その点、義経はどの狂言にしてもいい役じゃないのに、それでいて大変な役なんです。この『義経千本桜』にしてもわざわざ「義経」と書いてあるのにいい役ではありません。ことに『勧進帳(かんじんちよう)』の義経は本当の辛抱役(しんぼうやく)ですね。よく梅幸さんが、 「義経の辛さは、なかなか分かってもらえない」  とこぼしますが、本当にたまらない役です。長(なが)っ丁場(ちようば)じっと下手に座ったままなんですからね。一度、私の弁慶の金剛杖(こんごうづえ)が反ってしまったことがありました。あの金剛杖はすっかり枯らしてから使うんですが、その時はこしらえたばかりでまだ本乾きになっていないうちに使わなくてはならなかったんです。そうしたら千秋楽に、杖が反ってしまっているのに気が付きました。何故かと言いますと、義経はあの形で長いあいだ座ったままでいますから、辛くなってどうしても持っている杖に頼って力が入る。それで反ってしまったというわけで、それほど辛い役なんです。  さて忠信は、 「オオ、それよ。我が身の上に取り紛れ、申す事の怠ったり」  と化かされの衆徒を呼び出します。最近この化かされを大勢出す人がいるそうですが、これは昔から三人に決まったものなんです。  丁寧に通しますとこのあと『奥庭』になって、横川覚範(よがわのかくはん)が出ます。忠信と覚範と替わる演出もあって、そうなると座頭(ざがしら)になるわけですが、そうそう欲張るのもちょっと……。ですから私は覚範はやったことはありません。  二十三年の東劇では覚範を上の兄(十一世市川団十郎)がやりましたが、この時に面白い話があるんです。当時はまだ占領時でしたからGIが無礼千万で、切符も買わずにパンパンを連れては貴賓席へ入ってきたものでした。そんな手合いがその日、座席でいちゃついていました。芝居が進んで行って見顕(みあらわ)しのところで、上手(かみて)下手(しもて)から覚範を、 「今改めて、見参、見参」  と呼び止める。と覚範が花道(はなみち)の七三(しちさん)、ちょうど貴賓席の前の所で、 「なァにがァ、なァんとォ」  と答えます。  兄はご存じの通り堅い人でしたから、むかついていたんだと思います。ここで身上(しんしよう)ありったけの声を張り上げたもんです。そうしたら「なァにがァ」と言った瞬問、GIとパンパンと飛び上がって出て行っちまった。あの時は実におかしい思いをしましたよ。  ところで『吉野山』の忠信が、六代目は団十郎型だと言いましたが、これは六代目が小さい時に九代目からじかに教わったものだったようです。と言いますのも、私が預けられた頃から最後まで六代目の『吉野山』の忠信は一ヵ所も違いませんでしたから。ことほど左様に六代目は九代目崇拝でした。何でもすぐに、 「おじさんの……」  と言うくらい。  十九歳で六代目菊五郎になってその年に九代目さんは亡くなられたわけですが、十九と言えばもう分かりますからね。  もっとも自分の親父さんの五代目菊五郎も同じ年に亡くなられたんですが、これが自分の親となりますと不思議なんですね。九代目さんになら全面降伏できるんですが、自分の親にはなかなか降伏できないんです。 「ここのところを親父は……」  とは、ほとんど言ったことがありません。二言目には、 「九代目は……」  でしたね。  五代目さんのことはかえって遠藤為春さんが代弁者になっていて、こちらは九代目のことは何も言わない。何かにつけて、 「こりゃあ何たって、親父さんにゃかなわない」  なんて六代目の前で言うんです。と六代目が嫌ァな顔をする。  自分の親となると不思議なものですよ。私も親父ですと時々難癖を付けることもありますが、芝のおやじさん(六世菊五郎)には付けられません。なに、六代目にだってずいぶん失敗作はあるんですよ。  けれども何とかかんとかこっちで理屈を付けてしまう。それが親父のことですと、 「こんなことしなきゃいいのに」  とやっつけてしまうんです。  例えば『お夏狂乱(なつきようらん)』なども、せっかく(六世)梅幸おじさんの結構なお夏があるんですから、やらなければいいのに六代目もやりたくなってやりました。お夏の鬘(かつら)は普通つぶしの元禄風の島田ですが、それを六代目は下げ髪にしてそのうえ雁金(かりがね)を取らずに丸額(まるびたい)にしてしまったんです。それでなくても六代目が一番太っていた頃ですから口の悪いのが、 「岡本かの子みたいだ」  と言いましたね。 『お夏狂乱』という踊りはどう考えても粋(いき)なものじゃありません。  こういう具合に六代目だって自分の趣味が勝ってしまって失敗した作はあるんです。九代目さんでも、活歴物(かつれきもの)でだいぶ失敗されたようですしね。  そりゃ六代目にしても九代目さんにしても万能じゃありませんよ、人間のすることなんですからね。   知盛 『義経千本桜』三役中、知盛(とももり)は一番遅く、昭和三十三年三月の歌舞伎座でやりました。逆にこの幕へ出たのは一番早く、六代目のご厄介になってすぐの昭和六年七月の東劇で、六代目の知盛に(十三世守田)勘弥(かんや)のおじさんの義経で、四天王(してんのう)に出ましたからずいぶん早いんです。  その後、沢瀉屋(おもだかや)のおじさん(市川猿翁(えんおう))の時に相模(さがみの)五郎(ごろう)をやり、それから六代目在世中の昭和二十三年二月の東劇で家の兄弟三人で『千本桜』をめいめいやった時に、入江丹蔵(いりえたんぞう)をやりました。上の兄貴(十一世団十郎、海老蔵時代)が相模五郎・権太(ごんた)・覚範の三役、中の兄貴(松本白鸚(はくおう)、染五郎時代)が知盛・梶原景時(かげとき)の二役、私が忠信と入江丹蔵の二役でした。  親父(七世幸四郎)は知盛を自分の演(だ)し物(もの)にしていてずいぶんやっていますが、私は親父の縁が薄くてようやく昭和三十三年の三月に初めて手掛けたんです。六代目は知盛のニンじゃありませんでしたから、いっぺんやっただけのはずです。その時分、私は次から次へと役を覚えている最中でしたから、稽古に駆け込んだりしてよく覚えたものです。それに忠信・権太・知盛の三役は将来必ずやることになるだろうと思っていましたからね。その時に覚えたものを、三十三年にやったわけです。  私たち三人では結局、中の兄貴と私が知盛のニンでしょう。上の兄貴は権太のニンでしたが、その権太をとうとう一回やっただけでした。  三十三年の時は、今の(中村)芝翫(しかん)さんの典侍(すけの)局(つぼね)に上の兄貴の相模五郎、先代(三世市川)左団次さんの義経という顔触れでした。  知盛は、型と言っても大時代(おおじだい)のものですから、どなたがなすってもそれほど違いはありません。『大物浦(だいもつのうら)』で手負(てお)いになっての物語も動けませんし、立回(たちまわ)りも見得も昔から決まったものです。また『渡海屋(とかいや)』の銀平(ぎんぺい)は型がないようなものですし、後の白装束(しろしようぞく)になってからは大半腰掛けていますから。そのうえ幕切れの、   あれを見よ不思議やな……  と舞を舞うところにしても、これには舞の振りと言うか、お能(のう)の型みたいなものがありますから誰がやっても変わらないわけです。  知盛という役は『大物浦』の最後のところまで義経と顔を合わせません。会ってしまってはまずい。何しろ義経ほどの人ですから、一目見れば知盛の正体が分かってしまいます。それじゃ後が芝居にならなくなってしまいますからね。そこで典侍局が義経との応対をすべてやりますから、それだけ典侍局という役は、大変重要になってくるわけです。この役がどれだけ大役かと言いますと、女形があまりやりたがらないということでも分かっていただけるでしょう。  何と言っても安徳帝(あんとくてい)を奉持しているんですから、立(たて)女形(おやま)の位取(くらいど)りがなくてはなりません。それでいて前半は世話女房(せわにようぼう)で、例の、 「このように空合いも悪うございますれば」  の長ぜりふを聞かせたり、かいがいしさも見せなければなりません。それが、途中からは十二(じゆうに)単衣(ひとえ)を着たり、その形で安徳帝を抱いての長い芝居があります。ですから何より典侍局をやる女形がこれは重要な役なんだということを充分に分かっていてくれませんと、知盛もやりにくくなってしまいます。  相模五郎と入江丹蔵とが銀平の女房、すなわち典侍局を責め立てているところへ銀平が碇(いかり)を担いで帰ってきます。ここでの銀平の衣裳は縞(しま)の厚司(あつし)で、六代目は前結びに帯を締めましたが、私は親父の通りに後ろで結んでいます。今、前結びにする人はいませんが、写真で六代目の銀平を見ると前結びもなかなかいいものです。  この件(くだ)りは見物へのサービスです。五郎にしても丹蔵にしても本心で典侍局を責めているんじゃありませんから、ここを簡単にやろうと思えば簡単にすんでしまいます。それでは芝居として面白くないから、敢えてちょっと端敵(はがたき)、三枚目のところを見せるという次第です。  銀平と『ひらかな盛衰記(せいすいき)』の松(まつ)右衛(え)門(もん)とはやや似た経緯の役どころですが、両方をやってみるとまったく違いました。松右衛門は木曾義仲(きそよしなか)の家来にすぎませんが、知盛は平家を背負(し よ)っている大将で、いわば平家一門の象徴という役柄の大きさがあります。  五郎と丹蔵の二人が斬って掛かってくるのを押さえて、 「町人の家は武士の城郭……」  という長ぜりふになります。これは裏にすなわち奥にいる義経主従に聞かせるように、張って立派に言います。それでいて二人をあしらうのはごく簡単にするんです。ここはあくまで五郎と丹蔵の二人の芝居にしないと、見物は面白くありません。ですから銀平は大芝居をしてはいけないんです。  二度目の出は、上手屋体(かみてやたい)の障子(しようじ)を取っ払って、知盛として死装束(しにしようぞく)になっています。ある劇評家が、 「ここの知盛には死相(しそう)が現れていなくてはいけない」  と書いたことがありました。けれど私はその必要はないと思います。  これは、私が戦争へ行ったから分かるんです。誰だって戦争へ遊びに行く者はいやあしません。行く以上は私も帰って来られるとは思っていませんでした。戦地という所ではいつ弾丸(た ま)が当るか分からないんですから、いつ死んでも仕方がないと死を決しています。  知盛も死を決しているから白装束になるわけです。けれども死を決した人間というのは開き直っていますから、逆に陰気にはならないものなんです。ですからここでの知盛は、あべこべに颯爽と現れなくてはいけないと思いますね。  死相を現すと言ったって、白粉(おしろい)を塗って現すわけにはいきません。となると目の下へ隈を入れるより手がない。それをここでやってしまったら『大物浦』へ行って困ってしまいますよ。第一これから義経をやっつけに行く門出(かどで)なんですから、ここで死相なんか出ていて勝てるわけがないじゃありませんか。  幕切れのお仕舞(しまい)は本行(ほんぎよう)(能)に型がありますから、その通りに義経を討って帰るんだという決意を見せて堂々と舞います。 『大物浦』になります。前半に安徳帝入水(じゆすい)の場面があって浅黄幕(あさぎまく)を切って落とすと、手負いになった知盛の出です。まず軍兵(ぐんぴよう)との立回りがあって、これを追い込み、 「天皇はいずくにおわす」  のせりふになります。このせりふが原文通り「天皇は」と言えるようになっただけでも、今の世の中はよくなったと実感します。実に悲愴なせりふですが、戦前は「我が君はいずくにおわす」としか言えなかったんです。「天皇」ですと「てぇーんーのぉー」と下からせりふが出られますから保(も)てるんですが、「我が君」では「わが」まで言ってしまうので後が保てません。かと言って「わぁーがぁー」じゃおかしくなりますしね。  いわゆる第一声(だいいつせい)ですから、いいせりふでなくては芝居が死んでしまいます。「天皇はいずくにおわす。お乳(ち)の人(ひと)、典侍局」と、実に悲愴なせりふです。この第一声がこの一幕のすべてを象徴するようなものなんです。このせりふは立回りの後で苦しいところですが、絶対に一声(ひとこえ)で言わなくてはいけません。苦しいからといって絶対に息を継いではいけないせりふです。こういう場合には鼻を使います。つまりせりふを一息に言いながら鼻で息を吸うんです。  このせりふが終わりますと、安徳帝を助けて義経が出てきます。 「あら珍しや、いかに義経」   声をしるべに出船(いでふね)の……  の件りはお能の『船弁慶(ふなべんけい)』を利かせてあります。  この後の、 「果報はいみじく一天(いつてん)の主(あるじ)と生まれさせ給えども」  以下は充分にせりふ回しを付けます。  わたしはこのせりふが大好きで、いつも言っていて胸が一杯になってきます。状況から言えばいわゆるいい気持ちになるところではありませんが、実に悲愴ないいせりふです。義太夫(ぎだゆう)も悲愴感あふれる節付(ふしづ)けになっています。やはりせりふというものは詩がなくては駄目だと思うんですが、ここのせりふは実に何とも言えない詩を感じます。歌舞伎のせりふの醍醐味でしょうね。 「昨日の敵は今日の味方……」  のところは安徳帝は関係ありませんが、抱いている四天王が大事なんです。知盛の気持ちを察しての気がないと、知盛がやりにくくなります。つまり「間(ま)」なんです。つかつかと寄って来る、ハッと帝を見る、 「知盛、さらば」 「ははぁ」  となるわけですから、この間(ま)が狂ったら「ははぁ」が言えません。  その後いよいよ岩へ登ります。このあいだ久しぶりに文楽の『大物浦』を吉田玉男さんの知盛で見ました。人形では知盛が船を漕いでいって岩へ着くようになっています。それから碇を担いで岩へ登っていくわけですが、あの演出は人形だからできるんで人間にはできません。  六代目は長刀(なぎなた)を持ったまま登りましたが、親父の型は長刀を下へ置いていってしまいます。それでチンチリトチチンになって、手で岩をさぐりながら登っていきました。これは写実だったんだと思います。ロッククライミングじゃありませんが、芝居だから道が付いてはいるが実際には道などないはずです。ですから写実に言えば、長刀を突いて登っていけるような岩じゃないでしょう。けれども何と言っても、形は長刀を突いて登ったほうがいいですよ。登りながら安徳帝のほうを振り返ったりしますが、手でさぐりながら登っていったんでは格好が付きません。やはり時代物ですから、長刀を突いてちょっと半身(はんみ)になって振り返ったほうが芝居らしくなります。それで私は六代目のようにしています。  登り切ると、まず長刀を捨てて碇綱を身体へ巻き付けます。親父はこの時に刀を捨てました。刀を捨てて綱を巻いて碇を取る、という手順です。六代目のほうは、碇綱を巻く前に長刀を海へ放り込みます。  碇を持ち上げるのは重量挙げのやり方と同じで、一度胸の所へ持ってきてそれから上へ差し上げるようにします。これは六代目も家の親父も一緒でした。持ち上げるまでに、首を入れたりして碇の重さを見せます。悲愴感を強調するわけですね。  碇を背後の海へ放り込むと綱を股のあいだへ入れますが、これから後は芝居を離れた技巧が必要になります。七世(市川)中車(ちゆうしや)さんの芸談に次のような話がありました。  九代目(団十郎)が知盛をなさった時に、ここの跳び込みでどうしても岩でかかとを打ってしまう。 「痛くてしようがねえ」  と九代目が言うんで、中車さんがコツを進言したと書いてあります。そのコツと言いますのは、碇に引かれてドンドンと下がって行ってかかとだけを岩からはみ出させておく。そうしておいて跳び込む時に、足の裏で岩を蹴飛ばすんです。こればかりは、やった者でなくては分かりません。知盛は後ろ向きに落ちますから、へたをすると頭を打ったり、首の骨を折ったりすることさえあるんです。  お腹(なか)へ綱が巻いてあるんですから、あくまでお腹が引かれるわけで、本当を言えば、身体が二つ折れになっていなくてはおかしい。手を合わせてずっと胸へ持っていく、とお腹が引かれるから二つ折れになる。それで引かれながら跳び込む、という段取りになります。またこうすれば、顔も見えますし足も上へ上がります。だいたい四十五度くらいまで身体を折るようにします。  この時、岩の陰でお弟子さんたちが綱を引いたり、落ちてくる知盛を受けたりするわけなんですが、これがなかなか難しいということです。綱が弛んではいけないし、かといって早く引き過ぎたんでは、知盛が股のあいだへ綱を入れる暇がなくなってしまいますからね。今は知盛の身体を受けるのに消防署の救命用具の丸い網を使いますから安心ですが、昔は四角い布で受けたりしていました。布が四角いと引っ張っていても力が均等に入りませんから、ひとつ間違うと持っている連中が鉢合わせして、ガーンと頭をやってしまいます。  さて知盛の、 「おさらば」  という最後のせりふは、最前の「天皇……」のせりふと同じで、「おーさぁーらぁーばぁー」と絶叫なんです。「さようなら」の「おさらば」じゃいけません。最後の一声ですから、せりふというよりは絶叫なんです。それで「天皇……」と対になっている。『大物浦』の知盛の初めのせりふと最後のせりふは対になっていて、どちらも悲愴なものだというわけです。家の親父などは裏声を使ったくらいでした。  私がいっぺん安徳帝への気持ちで、つい目線の下手のほうへ右手を出したことがあります。と手の動きにつれて自然に右足が前へ出たんですが、早速、見ていた遠藤(為春)さんから、 「あれは前から見ていて未練たらしい。やはり堂々としていたほうがいい」  と注意されたことがありました。  ドーンと大太鼓(おおだいこ)が鳴る。束(そく)に仁王立(におうだ)ちに突っ立つ、ジーッと花道の向こうを見ている、とお腹を引かれてドドンドンドンと後ろへ下がる、下がったらゆっくりとかかとを掛けて極まり、両手を合わせる、とチョーンと柝(き)が入るという順序です。  ところでこの跳び込みのところを、家の親父は謡地(うたいじ)でやっていたと、床(ゆか)の(竹本)扇太夫さんから聞きました。   名は引き汐にゆられ流れて、跡白浪……  を謡地にしていたそうです。これは確かに謡地に合いますし、間(ま)が保(も)てますから、それだけ簡単と言えば簡単です。六代目がどうやっていたのかはよく覚えてはいません。  この役は『渡海屋』から『大物浦』までの長っ丁場で、中程でちょっとは休めますが、最後はまったくの独り舞台みたいなものですから、数多い立役の中でも大きなものの筆頭と言えるかもしれません。   権太  いがみの権太は『義経千本桜』の三役のうちで一番多くやっています。まだ松本豊の時代、昭和十三年一月の歌舞伎座で、本興行(ほんこうぎよう)ではなく若手の勉強会で初めてやりました。この時は『下市村椎(しもいちむらしい)の木(き)の場』、俗に言う『木(こ)の実(み)』は出さず、『下市村釣瓶鮓屋(つるべすしや)の場(鮓屋)』だけでした。むろん六代目が付きっきりで教えてくれましたが、この時は実に参りました。  というのは、それ以前に一通りは見て覚えておいたんですが、この芝居中とにかく六代目が付きっきりなんです。初め、おっ母さんと「泥坊に入られた」とか何だとか、やりとりがあります。すると暖簾口(のれんぐち)の所へ六代目が来ていまして、一つ一つに「声が小さい」とか「そこは違う」とか言うんですよ。  そのうちに見物が前にいることもすっかり忘れて、大きな声でせりふを付けるんです。それが客席の後ろまで聞こえたというほど大きな声でした。それじゃ権太はたまったもんじゃありませんから、芝居をしながらだんだん上手(かみて)へ上手へと逃げます。すると今度はちゃんと上手へ回って来ていて、上手から付け始めたんですから、実にあの時は参りましたね。  何でそれほどまでに一生懸命教えてくれたのかと言いますと、 「権太はお前(めえ)の家のもんだ。五代目(幸四郎)のもんだ」  というわけで、 「だからお前もちゃんと覚えておかなくちゃいけねえ」  と、ありがたいことでした。これが権太初演の何よりの思い出です。  ところで『木の実』は『鮓屋』の端場(はば)のような幕ですが、ここの権太は非常に難しいんです。素人の方は「どこが難しいんだ」と言いますが、ここの権太はとにかく難しくって、若いうちはとてもじゃないができっこありません。それでいながら後の『鮓屋』への伏線がいっぱい張ってある大切な幕でもあります。 『木の実』は本興行で初めて権太をやった昭和三十一年五月の歌舞伎座が最初です。確か今の(中村)雀(じやく)右衛(え)門(もん)のお里(さと)に十六代目の市村(羽左衛門)さんの弥助(やすけ)、先代(三世)左団次さんの梶原景時でした。  そう言えば、『木の実』では痛い思い出があります。兵隊検査の直前に名古屋で、六代目の権太で『木の実』の小金吾(こきんご)をやらせてもらったことがありました。この時はまったく省略なしに全部やりましたが、ドンタッポの立回りでけがをしたんです。  高島屋(三世左団次)のお弟子に市川男(お)の子(こ)というのがいて、これがポーンとトンボを返って小金吾の身体を越えた時に私の足の上へ落っこちました。さあ、その痛いの痛くないの。  すぐに骨接ぎが来て、乗られた所をグルグル巻きにして親指をグーンと引っ張られましたが、そりゃあ痛いなんてもんじゃなかったですね。あの痛さは今でも忘れません。けれどもそんな手当てじゃ危ないということになって名古屋医大へ連れて行かれたんですが、幸い骨に異常なしと言われてホッとしました。ちょうど兵隊検査の直前でしたから、異常があれば検査には落ちたでしょうがね。  それにしても痛いことは痛い。それで六代目に、 「休ませてください」  と頼んだんですが、 「ほかの役は代わらせてやるが、小金吾は休んじゃいけねえ」  と、どうしても小金吾は代わらせてくれませんし、むろん立回りも抜かさせないんです。こういうところは六代目は容赦がない。とうとう痛いのを我慢して勤め通しましたが、そのおかげで『木の実』の権太は、六代目のを覚えることができたというわけです。  この幕のどこが難しいかと言いますと、何でもないところが難しいんです。例えば幕の名にもなっているように、権太が六代君(ろくだいぎみ)のために本の実を礫(つぶて)で打ち落として拾ってやるところなどにしても、花道の七三まで行ってチョンチョンと手と足をテレコにして拾う仕種(しぐさ)、これが何でもないように見えて実は難しい。昭和二十三年二月に東劇で、上の兄貴(十一世団十郎)がやりました時にも、なかなかこれができなかったんです。もっとも私だってたいして器用じゃありませんが、長く六代目に付いて見ていましたから、多少、真似程度にはやりましたがね。  その後の引っ込みの「どっこいしょ」と振分け荷物を担ぐところも、なかなか軽くはいきません。見ているだけではちょっと分かりませんが、こうした何でもないようなことがかえって難しいんです。  一度入って二度目の出になり、わざとすり替えた荷物を、うっかり間違えてあわてて取り換えに来たように振る舞ってポンと手を打ちますが、この手の音についてもうるさく言われました。六代目という人はこういうことにはうるさいんです。「ピシャッ」という音じゃいけない。文字にはしにくいんですが「スポン」というこもった音にならないといけないと言う。けれど咄嗟(とつさ)の動きですし芝居の間(ま)がありますから、なかなか思ったような音は出ません。  この二度目の出から権太はまったく世話(せわ)になります。  小金吾から自分の荷物を受け取り、 「この中括(なかぐく)りの解けたのは」  と小金吾に尋ねますと、小金吾は権太の魂胆を知りませんから素直に、 「それは最前、あまりよう似た荷物ゆえ、もしやとちょっと見たばかり」  と答えます。ここで権太が、 「へええ、左様でございますか」  とガラリッと変わります。この「左様でございますか」のせりふ回しが鼻へ掛かるのは、権太を当り役にしていた五代目幸四郎の声色(こわいろ)なんだそうです。五代目幸四郎の遺風として伝わっていますのは、こうした鼻へ掛かったせりふ回しで、『浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなずま)』の『鈴(すず)ケ森(もり)』の幡随長兵衛(ばんずいちようべえ)のせりふ回しとか、『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』ご存じ『源氏店(げんじだな)』の与三郎の「釜の下の灰までもォ」なんかがいい例です。  もう一つは束見得(そくみえ)と言って足を揃えて切る見得で、権太が『鮓屋』で桶を抱えて花道で切る有名な見得なんかも、五代目幸四郎の型として残っています。  小金吾とのやりとりで、 「そっちに踟〓(ちちゆう)はあるめえが、この革行李(かわごうり)の中括りは、どうして解けた」  のあたりは、腰をドンと落としてしゃがんでの芝居になりますが、形が非常に難しいところです。  小金吾の、 「町人、そりゃその方の覚え違いと申すもの」  のせりふのあいだに解いた荷物を包みます。ここは短い時間に包まなければならないんで大変です。へたをすると潰してしまいますから苦労するところです。   血相変えれば……  のチョボで小金吾が刀を抜き掛ける。その肘を左足を伸ばしてグッと押さえての長ぜりふは権太の見せどころですが、ここがまた大変なんです。  権太はできるだけ足を真っ直ぐに伸ばしていなくてはいけません。小金吾の力と権太の力とで支え合うわけです。つまり小金吾も押さなくてはいけないんですが、押しすぎると権太がひっくり返ってしまう。といって力が足りないと権太が保(も)ちません。そのために『木の実』ではまず小金吾をやらせておいて、ここのコツを覚えさせるわけなんです。  けがをした名古屋での時の小金吾も、押し方が強すぎますと六代目が、 「痛え、痛え、駄目だ、引け」  と言いますし、ちょっとでも引きますと、 「駄目だ、もっと押さねえか」  と、それはまあうるさく言われました。   弱身へかけると突き退けて……  になり、かえって小金吾に投げられますが、ここはできるだけポーンと投げ飛ばされて、安っぽさを見せます。  小金吾はいい役ですから、六代目の所にいた者はみんなやらされました。昭和二十三年二月の東京劇場で、私たち兄弟で『千本桜』を通してやったことがあります。その時は又ちゃん(現・中村又五郎)が小金吾でした。六代目が舞台を見て、 「今度の芝居は、小金吾が一番うめえや」  と誉めていました。そのくらい又五郎君は六代目に認められていたんです。  若葉内侍(わかばのないし)、小金吾、六代君(ろくだいぎみ)が引っ込むと、 「元手いらずの二十両、いい商売(しようべえ)だなあ」  のせりふがありますが、これも『鮓屋』の筋を売っているわけですから、『木の実』を出しておくと後が楽だと言うことです。  行こうとする権太を、女房の小せんが出て来て、 「はてまあ、下にいやしゃんせいなあ」  と引き留めます。ここで権太はフッとなるんですが、この間(ま)がまた難しくて、うるさく言われました。  権(ごん)ちゃん(現・河原崎権十郎)が初めて権太をやった時に頼まれて型を写しましたが、何度やっても間(ま)がうまく合わないんで、終いに権ちゃん、泣き出したことがありました。『鮓屋』はまだしも『木の実』の権太はそのくらい難しくって、なかなかうまくいかない幕なんです。  私は幸せなことに「物には順」の言葉通りで、長いあいだかけて小金吾をやらせてもらい、梶原もやらせてもらって、そのうえとにもかくにも六代目在世中に権太をやらせてもらっていますから、どうにかやれたというわけです。  そう言えば私の権太で、六代目が梶原に出てくれたこともありました。  終戦直後、六代目の一座で旅へ行った時でした。一番目(いちばんめ)が『鮓屋』、中幕(なかまく)が『再春菘種蒔(またくるはるすずなのたねまき)(舌出し三番叟(さんばそう))』、二番目(にばんめ)が『人情噺文七元結(にんじようばなしぶんしちもつとい)』という演(だ)し物(もの)でしたが、六代目が、 「俺は中幕にしか出ない」  と言い出して、私に、 「あとはお前(めえ)がやれ」  ということになったんですが、この時は本当にいい勉強をさせてもらいました。  何しろ私は『文七元結』の左官(しやかん)の長兵衛と『鮓屋』の権太、六代目が角(かど)海老(え び)の旦那と梶原景時というんですから、まるで私の芝居になってしまいました。  プログラムなどない時代です。見物は六代目の一座でいがみの権太というからには六代目だと思っています。ですから私が出ていきますと、 「六代目ぇ」 「音羽屋ぁ」  と待ってましたとばかり声が掛かります。これには参りました。参りましたけれども存分に勉強させてもらいました。何と言ったって、六代目の目を通してやらせてもらえたんですからね。  女房小せんの襦袢(じゆばん)の襟(えり)は紫ですが、これと権太の肩入(かたい)れとは同じ布を使っています。 「これは共布(ともぎれ)にするもんなんだ」  と教わりました。まあちょっとしたことですが、夫婦の情を出すというのでしょう。  小せん、善太の引っ込みになって、善太が一文笛を吹きます。これを権太が見て、 「こりゃあ、父(ちやん)が財布の中へ入れて、預かっておくぜ」  と笛の始末を見せるのも、『鮓屋』への伏線の一つです。  次に善太の手を取って言う。 「冷てえ手だなあ」  のせりふは大切で、深く情を込めて言わなくてはいけないせりふです。ここで父親の愛情を見物へ印象づけるわけで、こんなに可愛がっていた我が子を身替わりに出すということが分かりますから、『鮓屋』の悲劇がいっそう深まるんです。  二十両の金、一文笛、善太・小せんとの肉親の情、またこの後に討死にする小金吾の首と、これらがみんな『鮓屋』へつながっていきます。それだけにこの幕は丁寧に出すのが本当だと思います。  花道の引っ込みは、かわいそうに善太役の子役が大変です。権太がおぶったなりで両手を前で組み、例の五代目幸四郎風に束(そく)に立って極まります。グッと反りますから、子役は手を深く掛けてしがみ付いていなくてはならないんです。ですから子役がしっかりしていてくれませんと、権太が充分に見得を切れないということになってしまいます。 『鮓屋』での権太の衣裳の格子(こうし)は五代目菊五郎の自伝に書いてあります通り、縦を一寸二分、横を一寸にしてあります。少しでも細身に見せる工夫なんです。真四角ではどうしても広がって見えるし、また格子が大きすぎると不粋(ぶいき)になってしまいます。六代目はこれを結城紬(ゆうきつむぎ)でこしらえました。私も贅沢ですが真似をしています。  関西の演出には、『小金吾討死』から舞台が回りますと、母親が権太のこの衣裳を縫っているというやり方があるそうで、権太が戻って来ると、母親がこれを着せてやるという段取りなんだそうです。江戸のほうは着たままで出てきます。そこでチョイ粋にこしらえて、まったく江戸前でやります。  権太の出は、『木の実』を出しておきますと『鮓屋』で母親をゆする権太の了見が見物に分かっていますから、   この家の総領、いがみの権太  の床(ゆか)でテンツツになり、花道へ出ていきますと、 「あ、来た、来た」  という見物の声が聞こえます。ですから『木の実』は大切な幕なんですよ。  初めての時、この出で失敗しました。手拭(てぬぐい)を肩へいなせに掛けて出ますが、その手拭を途中で落としてしまったんです。手拭はフワッと掛けているように見せて、実はちゃんと霧を吹いておいて、肩へ載せてからポンポンと叩いておくのがコツなんです。こうしておけば絶対に落ちません。けれどもその時は、六代目もそこまでは言ってくれませんでしたから、ものの見事に落としてしまったというわけです。  弥助とお里の二人に母親を呼んでこいと言いつける。二人の思い入れがあって権太の肩に当ると、 「ええ、早く行かねえか」  となります。  母親が出てくる前にお茶を一杯飲むのは、後で流す空涙(そらなみだ)のための用意です。この母親は長いこと(尾上)多賀之丞さんがやっていました。何しろ六代目以来の持ち役でした。権太が引出しの鍵を壊して三貫目の銭を盗み出すコチコチの後の、 「おお、器用な子じゃのう」  なんてところはいろんな人がやっていますが、なかなか多賀之丞さんのようにはいきません。権太は、 「この通り、涙がこぼれました」  と、先ほどの湯呑のお茶を目に付けて空泣きをします。  コチコチで三貫目を懐(ふところ)へ入れる時には、左右の手を胸から出して銭をつかんで懐へしまいます。こうすると、仕草が粋に見えるのと、理屈から言っても片手で持つには三貫目の銭は重すぎます。   奥と口とへ引き別れ……  の床(ゆか)で権太は、手拭をポーンと右肩へ掛け左手で裾(すそ)を取って納戸口(なんどぐち)へ引っ込みます。  ところで手拭というものは何の役でもそうですが、懐へ入れた時、必ず折って山になっているほうを中へ入れ、切り口のほうを前へ見せて、その切り口も不揃いにしておくようにします。「そうしないと不粋(ぶいき)になる」と教わりました。肩へ掛ける時には、下から上へと垂直の勢いで掛けずに、胸の前から回すように勢いを付けてピュッと掛けるようにするんです。それが粋に見える。勢いあまって左肩まで回ってしまうこともありますが、それでも差し支えないんです。それより掛ける仕草が大切なんで、何より粋第一ということです。  この引っ込みは、『バナナ』という映画へ出た時に監督の渋谷実さんから言われた注意を生かすようにしています。渋谷監督が紹介カットを二度、一度目は最初に、二度目はそのセットを壊す時に撮りまして、その二つを比べて見せてくれました。その時に、 「どうです、あなたはすぐに画面から逃げようとしているでしょう。でも二回目のほうはこれだけ身体が残っているでしょう」  と言われたんです。  それでハッとしたことは、六代目は自信がありましたから構わずポンポンと芝居を運んでいましたが、私もその通りにやっていたんですね。ですからここの引っ込みでも、息を抜いてすぐに入っていました。それに気が付きまして、渋谷監督の注意があってからは向こうをしっかりと見て、だいぶ身体を残すようになりました。六代目も、むろん若い時にはそうやっていたんでしょうが、晩年はもうそんな些細なところは考えなかったんだと思います。  父親弥左衛門でことに印象に残っていますのは、やはりあの(尾上)松助さんです。権太を覚えようと、毎日揚幕へ通っていた頃のことです。もう晩年でしたが品のいい弥左衛門でお人柄そのままでした。  穏やかな方ですから何もおっしゃらない。 「お早うございます」  と言いますと、 「お早うございます」  と答えられるだけでしたが、松助さんを見ることができただけでも私の財産です。 『鮓屋』を昭和四十六年の京都の顔見世でやった時に、亡くなった(野沢)喜左衛門お師匠(し よ)さんが総ざらいの日に芝居へ来られて、とうとう幕開きから終いまで椅子へ掛けて見てくださったことがありました。お堅い方ですし、私のたった一人の浄瑠璃(じようるり)のお師匠さんでしたから、こっちのやりにくいことと言ったら。実にあの時も参りましたね。  弥左衛門をやっていた権ちゃん(河原崎権十郎)なんか、 「ようやらはりますなあ」  とお誉めに与かって、すっかり恐縮していました。かわいそうに一番怒られたのが床(ゆか)の三味線の(鶴沢)英治君。何故と言って、文楽のほうの三味線はほとんど掛け声を掛けませんが、チョボはやたらと、それも大きな声を掛けます。ことに英治君は掛け声が多いほうでしたから、 「また大きな声飛ばしてっ」  と怒られっぱなしでした。   様子聞いたかいがみの権太……  で、暖簾口から出てくる前に定敷(じようしき)を引き取って地舞台(じぶたい)になります。今は地(じ)がすりを敷くこともありますが、これは十五代目(羽左衛門)以来のこと。市村のおじさんが権太をやられた時「冷たいから」と言われて地がすりを敷き、その下へ電気布団を入れたんです。  その後六代目もだんだん年をとってきて自分も敷くようになりましたが、電気布団までは使いませんでした。  暖簾口から出てきた権太は、平舞台(ひらぶたい)へポーンと飛び下りますが、昭和二十三年十月に新橋演舞場で六代目が権太をやりました時、私は梶原に出ていましたが、ここの件りを見て、 「あ、おやじさん、いけないな」  と思いました。わずかの高さなんですが、もうそれが飛べずに、ドンドンとただ下りてきました。二十四年の四月に倒れた時よりも、すでにこの時に「いけないな」と思いましたね。  もう一つ、市村のおじさんが桶を間違えるという大失敗をしたのを覚えています。 『鮓屋』では、初め権太が母親をだまして懐にした三貫目の銭を父親弥左衛門に隠すために、店先にある鮓桶へ入れます。次に前の幕で討ち死にした小金吾の首を弥助(実は平維盛(たいらのこれもり))の身替わり首にと弥左衛門が持ち帰って、これを銭の入っている桶の隣の桶に隠します。権太がこれを取り違えて首の入ったほうの桶を持って我が家へ戻るということが、この幕の重要なポイントでもあるわけです。  ところが十五代目は、間違えてお金の入ったほうの桶を持って引っ込んでしまったんです。この失敗ばかりは、どんなベテランの後見(こうけん)でも手品の使いようがありません。後に大事な首が残ってしまって大弱りだったのを覚えています。  市村のおじさんは、どちらかと言えば弥助をよくなすった方で、権太はあまりやっておられなかったのですからね。  ここの花道の引っ込みでは桶を抱いて、例の幸四郎型の束見得(そくみえ)があります。これから後の権太は、芝居が自然と山場(やまば)になるようにできているだけに、何と言うことはないんです。  二度目の出は、   いがみの権太はいかめしく、若君、内侍を猿縛り……  と小せんと善太に縄を掛けて出てきます。  この善太の子役が、六代目によく叱られていました。縄の寸法なんです。縄が弛まないようにピンと張るように歩いて、下手へ座る時も張ったままで、小せんと権太と善太の間隔を正確に取れと言うんです。  今は子役は臨時のことが多くなりましたが、昔はみんな本職でしたから怒られても仕方がないと言えばそれまでですが、やはりかわいそうでした。  子役の話で面白いのは、私の一番古い弟子で尾上緑(みどり)という子役がいまして、私が小金吾をやらせてもらった時に六代君と善太の二役をやったんですが、白粉(おしろい)を塗られたり剥がされたりで大変でした。この緑が、前の幕の小金吾の落ち入りで、 「若君様、ようお聞きあそばせや」  という悲しいせりふのところで、私がお師匠さんなものですから、 「へへへ……」  と笑うんです。その時は、 「駄目だよ、お前。お前はご主人じゃないか」  と小言を言ったことがありました。  さて、 「面(つら)ァ上げろ」  の見せどころでは、善太の頭へ手を、小せんの顎へ足を掛けますが、さすがに六代目はちゃんときれいに顎の下へ足が入っていましたね。それだけにまた、子役の座る場所にうるさかったというわけです。  梶原が「褒美をやろう」と言うので、 「やっぱり、レコ、へへ、お金がよろしゅうございます」  と手を出しますが、この指の出し方で大橋屋さん(尾上幸蔵)から聞いた話があります。大橋屋さんが権太を初めてなすった時、親指と人差し指で丸を作り他の三本は伸ばしたままで「レコ」と手を出したんだそうです。ところが五代目さん(菊五郎)から、 「指を伸ばしたままだと粋になり過ぎて、いやらしさが出ない」  と注意を受けたということでした。  続いて梶原に、 「金銀と釣替(つりか)え、速諾(そくだく)の相紋(あいもん)」  と言われてポンと手を打って、 「なぁるほどなあ」  となりますが、このポンもまた六代目にうるさく言われました。同じ手を打つんでも『木の実』での音と同じじゃいけないと言うんです。権太の気持ちが違うんですから音も違わなければならない。文字には書けませんが微妙に違う。「ここはポンなんだ」と言われました。  梶原の引っ込みで権太が梶原に向かって言う、 「お気づけえなせえますな」  のせりふ回しは、これも五代目幸四郎風だと言います。   梶原平三、縄付き引っ立て……  のチョボの後で小せんと目を合わせ、「早く行け」と目顔で知らせ、その目を善太へ持って行って善太のほうへ身体が伸び上がった権太が肩を落とすのと、ドーンという太鼓の音と、梶原の見得が一緒になります。  さて弥左衛門に腹をえぐられて、長ぜりふになりますが、この件りで六代目の先(せん)のおばさんから教わった秘伝があります。  この芝居は季節的に言ってもあまり暑い時分に出るものではありませんし、また地舞台へ長く座っていますからとにかく冷えるんです。まして昔の劇場には暖房なんてほとんどないようなもんでしたからね。それでおばさんが、 「旦那(六代目)もそうしているんだけれど、あんたも、お金玉を真綿(まわた)で包んでおきなさいよ」  とおっしゃった。つまり玉を真綿で包むんです。薄くした真綿でないと膨れ上がってしまって駄目なんですが、これはホカホカして暖かい。私も最初にやった頃は、教わったまま包んでいました。  何故こんなことを覚えているかと言いますと、六代目の先のおばさんはとても丁寧な方でしたから「お金玉」とおっしゃった。それがおかしくて覚えているんです。それ程この件りは冷えます。ですから十五代目も地がすりを敷いたんですよ。  権太の腹巻きの血糊(ちのり)は、昔は晒布(さらし)などいくらも手に入りましたから、そのたびに本当に付けましたが、今は何事にも物資節約で、上の白地を剥がしますと下に血糊の付いたのが出てくる仕掛けにしてあります。  また昔は、   災いも三年と、悪い性根の(ツン)年(ねん)の明時(あけどき)  のツンで、勘平じゃありませんけれど頬へ血を付けました。ですから後見も付いていたんです。私がそうしたのは最初の時だけで後はやっていませんが、むろん六代目が教えてくれたんです。六代目が血を付けている写真も残っていますから、以前はちゃんと付けていたんだと思います。  血糊というのは洗ってもなかなか落ちませんし、戦争になって物資はますます不足するし、何やかやで、それっきり付けたことはありません。  この前に、 「そのお二人に逢わせましょう」  と煙草入れの一文笛を出してもらい、母親に吹いてもらいます。  関西では本行(文楽)通りに権太が吹きます。自分で吹けば笛の音色で細工できますから一度やってみようと思いましたが、やはり幸四郎型では自分では吹けません。 「権太の切腹と勘平の切腹と、どっちが苦しいか」  と聞かれることがありますが、勘平はとにかく苦しい。どちらかと言えば権太のほうが楽です。  勘平は侍で、権太は町人という違いもあります。また勘平は舅(しゆうと)を殺してしまったと思い込んで切羽詰まっています。 「しばらく、しばらく……」  があって、 「夜前(やぜん)、貴殿にお目に掛かり……」  になりますが、このあいだが実に苦しい。そのうえ後に長ぜりふが続くんですからね。  その証拠として、六代目が晩年に勘平を放送した時の録音が残っていますが、これを聞きましても実に苦しそうなのが分かります。  権太の落ち入りは勘平と違い、手をきれいに合わせず指をちぐはぐにします。侍じゃないからきちっと合わせてはいけないんです。 菅原伝授手習鑑 菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)  これも院本歌舞伎の傑作である。竹田出雲・並木千柳・三好松洛・竹田小出雲の合作により、延享三年(一七四六)八月、大坂竹本座で初演された全五段の作品で、藤原時平の悪計にはまって筑紫に流された菅原道真(菅丞相)の悲劇と、北野天満宮の縁起を大筋にしているが、この作品においても脇筋の主人公たちが活躍する。道真の舎人だった梅王丸・松王丸・桜丸という三つ子の兄弟が中心となる『車曳』『賀の祝』などや、道真の弟子武部源蔵の苦衷と、松王丸が我が子を犠牲にする『寺子屋』の悲劇といった場面に、江戸庶民の嗜好がうかがわれて面白い。『車曳』の梅王丸や『寺子屋』の松王丸・源蔵の想い出が語られ、ことに六代目菊五郎と初世吉右衛門の比較から、自らの役作りの秘密が明かされる。梅・松・桜三兄弟に、七世幸四郎三兄弟の印象がオーバーラップされる。   車曳 賀の祝 『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゆてならいかがみ)』全幕の中で最も華やかな『吉田神社社頭の場』すなわち『車曳(くるまびき)』は顔と声は何と言っても家の親父(七世幸四郎)に尽きました。また極まり極まりの形となると、六代目と大和屋のおじさん(七世三津五郎)のものでした。  親父の『車曳』では面白い話があります。家の親父が大阪で、(初世中村)鴈治郎(がんじろう)さんの桜丸で梅王丸(うめおうまる)をやった時のことです。  桜丸と梅王丸が本舞台で一緒に笠を取って見得を切りますが、この時の鴈治郎さんはどうしても親父と一緒に笠を取らないんです。  ずいぶん邪道だとは思うんですが、親父が笠を取って見得を切ると、それから鴈治郎さんが笠を取る。つまり鴈治郎さんが逃げたということになりますが、鴈治郎さんだってあれだけのいい顔でしたから、何も逃げるには及ばなかったはずなんですがね。二人が一緒に笠を取れば、見物だってよけいカーッと燃えたでしょうに、どうしても取らないんです。  ですから親父が見得を切って、 「高麗屋(こうらいや)ぁっ」  と声が掛かってから鴈治郎さんが笠を取ると、改めて、 「成駒屋(なりこまや)ぁっ」  とうとう一緒の声は掛からずじまいだったんです。  ことほど左様に、あの鴈治郎さんさえ逃げたくらい、家の親父の隈取(くまど)りの顔はちょっと類がありませんでしたね。笠を取ったところなんか見ていて、倅の私でさえポーッとしたものです。  そのよさと言ったら、上の兄貴(十一世団十郎)もかないませんでしたね。ふっくらして隈取りの乗る顔でしたし、また隈取りがうまかったんです。  寒牡丹と言いますが、絵心がありましたからボカシがじょうずですし、まず土台がいいときていましたから。  けれども形のよさは六代目で、やはり自分の身体や声に自信がなかった分だけ極まり極まりを突っ込んでやりましたから、六代目のことをあまりよく書かなかった岡鬼太郎(おかおにたろう)さんでさえ、 「死んだお父さん(五世菊五郎)に見せたい」  と誉めています。  だいたい六代目は丸顔のうえに、やはり五代目の倅で隈取りを丁寧に綺麗に取り過ぎたんです。これは大和屋のおじさんも同じで、あの通りの小さい顔でしたから、隈を取ると顔がなくなってしまいました。「天二物を与えず」と言いますが、全部揃うということはなかなかないものなんですね。  私は『車曳』では、牛以外はすべてやっています。  ふつう『佐太村白太夫住居の場』すなわち『賀(が)の祝(いわい)』は、梅王丸が一本隈(いつぽんぐま)を取って松王丸(まつおうまる)が剥(む)き身(み)の隈を取りますが、不思議でならなかったのは播磨屋(はりまや)のおじさん(初世吉右衛門)の松王丸がいつも裃姿(かみしもすがた)でやっておられたことです。剥き身の隈を取った播磨屋の松王丸というのはいっぺんも見たことがありません。  梅王丸との兄弟喧嘩の「俵の立回り」も裃の肌を脱いでするわけですが、どう見てもピッタリきませんでした。その装(な)りで憎まれ口をきいても取って付けたようですし、第一どうしても三つ子に見えないんです。  私はそばにいて聞いたわけじゃありませんから、おじさんがどういう考えで裃になさったのかは分かりませんが、好き嫌いということだったんでしょうか。  そう言えば義士外伝(ぎしがいでん)の『松浦(まつうら)の太鼓(たいこ)』の松浦静山(せいざん)公を、播磨屋のお父さんの(中村)歌六(かろく)さんは史実に忠実におじいさんでなさっていましたが、播磨屋のおじさんは白紋付(しろもんつ)きの衣裳で若く装(つく)って、いっぺんもおじいさんでなさったことがありませんでした。  けれども静山公が若装りでは、奉公している大高源吾(おおたかげんご)の妹と出来ているように見えてしまいます。よく似た狂言でも、鴈治郎さんの『土屋(つちや)主税(ちから)』とはそこのところが違うんですがね。静山公にちょっと色気が出ていやらしくなってしまうんですが、結局おじさんはあの装(な)りがお好きだったんだと思います。  播磨屋という人はだいたい白塗りの似合わない人でしたから、逆に白塗りを好んだのかもしれません。二枚目なんかどちらかと言えばできない人なんですが、役によっては役者でいい男に見せたというのは、やはりおじさんの腕だったんです。それが『賀の祝』だの『松浦の太鼓』などは、そんなに自分を気になさらなくていいものなのに、逆にいい男に白塗りにしてしまってそれが邪魔になっていたと、この頃になってそう思います。  もっとも、 「他の人がああやっているから、俺はこう変えて」  ということは役者にはよくありますから、一概には言い切れませんが。  播磨屋のおじさんの武部源蔵(たけべげんぞう)なんか見るからにいい男に見えたものです。源蔵という役は通しで考えますと、戸浪(となみ)と駆け落ちをするくらいですから、それから推しはかれば『寺子屋(てらこや)』の源蔵も白塗りなんでしょうが、むろんおじさんは白くなんかしません。  それでいていい男に見えたというのは、播磨屋のおじさんにそれだけ腕があったという証拠なんです。  けれどもこういうことは端(はた)がそう認めるだけで、ご当人には一番分からないことですから、それで役によってはいい男に装(つく)りたがったとも考えられますね。   寺子屋  いつでしたか私の松王丸と板東君(現・市村羽左衛門)の源蔵で『寺小屋』のレコードを、舞台の上で録音したことがありました。衣裳は着けずに素(す)でしたが、いつものマイクの前と違って舞台で寸法通りにやったんですが、これは非常にやりよかったですね。 『寺子屋』は昭和十六年一月の歌舞伎座で、六代目の松王丸に播磨屋のおじさんの源蔵という今でも語り草になっている名コンビの舞台に、よだれくりで出たのが初めてです。  その後は春藤玄蕃(しゆんどうげんば)もやって、源蔵を最初にやりましたのは二十三年六月の東劇、上の兄貴(十一世団十郎)の松王丸に、戸浪が今の(中村)雀右衛門、千代(ちよ)が十六代目の羽左衛門さんでした。松王丸は二十六年二月の名古屋の御園座が最初で、この時は(三世)左団次さんの源蔵でした。  だいたい上の兄貴はいつも菊五郎劇団の興行に「参加」という形で出ていまして、松王丸は兄貴に回ることが多かったんで、私が松王丸をやるのは兄が不参加の時の菊五郎劇団単独興行という場合でした。  武部源蔵は何と言っても播磨屋の十八番(お は こ)でした。例えば千代が、 「菅秀才(かんしゆうさい)のお身替わり、お役に立ててくださんしたか、ただしはまだか、サ、サ、サ」  と源蔵に寄っていく、源蔵は千代に押されてトン、トン、トンと下がっていって二重(にじゆう)へ腰を落とす、千代の、 「様子聞かせて……」  で、千代は前を向き、源蔵は二重へ腰掛けたままで極まるといったところなど、五代目さん(菊五郎)の型ですが、播磨屋は何とも言えずよかったですね。私もいっぺんだけこの型を六代目から、 「やってみろ」  と言われて、やった記憶があります。  松王丸にはいろいろな型がありますが、源蔵は誰がやってもほとんど同じようなものです。ただ「首実検(くびじつけん)」の件(くだ)りで、昭和四十九年に亡くなった(十四世守田)勘弥さんも、その前の(十三世)勘弥のおじさんも、源蔵が後ろ向きになって右の袖を口に食(く)わえる型を見せました。またこれは私もやっていますが、小刀(しようとう)を戸浪へ渡す人と渡さない人とがあります。  この件りで忘れられませんのは、播磨屋のおじさんが、実検のあいだずっと腰を下ろしていながら、ピタッとは座られなかったことです。腰を浮かしたままで、それでいてグーッと足を中へ入れて息を詰めておられました。見ていまして、 「よく痛くないもんだな」  と感心させられました。こんなことは六代目は太っていますからとうていできませんし、むろん私にも真似ができません。ふつうに座っています。  それと、 「実検せよ」  と言った後グッと息を詰めた時に、播磨屋のおじさんはどちらかと言うと前へ身体を乗り出しましたが、六代目は逆に身体を引いていましたね。  松王丸にはいろいろな型がありまして、衣裳でも団十郎型は黒、五代目幸四郎型は銀鼠(ぎんねず)と型によって二つあるんです。  上の兄貴は黒でしたが、私はずっと銀鼠でやっています。「首実検」にもいろいろなやり方がありますが、中で一番無難なのは首桶の蓋へポンポンと両手を突くやり方でしょう。家の親父は七代目団十郎の型で、抜いた刀を右手で源蔵へ突き付けるというやり方でした。悪い型で、東京では、 「田舎臭い」  と評判が悪いやり方なんです。どうして親父がこのやり方を選んだかと言いますと、元来親父は、 「この役がやりたい。あの役をやらせろ」  と自分から言い出す人ではありませんから、松王丸は、東京では他の人へ行ってしまってあまりやっていません。それで多くは田舎へ行く時にやったんですが、田舎ではこの型が喜ばれるんです。何と言っても七代目以来伝わっている型で、 「誰もやらないから」  というので、親父がやったわけなんです。  そんなことがあって上の兄貴も一度この型でやりましたが、やはり型としてはあまりいいものじゃありませんね。  何のために刀を抜くかと言えば、源蔵に突き付けてはいても、もし贋首だと露見(ろけん)したら玄蕃を斬ってしまおうというんですから、無意味じゃありませんし腹は分かります。けれどもあの場面で刀を抜くというのは、やはりちょっといただけません。  他では、先の(七世市川)中車さんは右手を蓋へ載せ左は肘から曲げて頬の所で左手のひらを広げましたし、先代の(五世中村)歌右衛門さんは蓋へ両肘を突くやり方でした。また『寺子屋』前半での松王丸は病鉢巻(やまいはちまき)をします。ふつうこれは結んでありますが、成駒屋さん(五世歌右衛門)はタラリと垂らしていましたし、先々代の松島屋さん(十一世片岡仁左衛門)は刀の下げ緒を鉢巻にしていました。  思い付いただけでもこれだけあるくらい、松王丸にはいろいろなやり方があるんです。私は芝のおやじさん(六世菊五郎)のを見ていましたから、誰かに教わるということなしに六代目通りで、初めてやらせてもらった時からまったく変えていません。 「菊吉」と並び称されたほど、六代目と播磨屋のおじさんとはいわゆる名コンビでいて終生のライバルでしたが、だいたいにおいて吉右衛門さんは諸事派手で菊五郎は地味というのが定評でした。けれども不思議なことに松王丸に限っては、六代目のほうが派手でした。  というのも六代目は、 「梅王、松王、桜丸は三つ子なんだから、『寺子屋』の松王も前髪(まえがみ)の心持ちでなくちゃおかしい」  と若々しく見せて、老けてはやらなかったんです。  このことを私のたった一人の義太夫のお師匠さんだった(野沢)喜左衛門お師匠さんにお話ししましたら、 「それは正当でございます」  と大変に誉めておられました。ここの松王丸はどうしても老けてしまいがちなんです。それを六代目は、 「前髪で髭(ひげ)のあるのは松王ぐれえだ」  と言って、若々しくやりました。ですから、   奥にはバッタリ首打つ音  で、トントントンと下手へ下がってくる、戸浪と背中がぶつかる。 「無礼者めっ」  のところなんかも、口をカァーッと開いてバーッタリとツケを入れ、大見得を切りました。その後、頭を押さえて上手へ行くという段取りなんです。  一方、播磨屋のおじさんのここのやり方は、見得を半分までにして、 「ウッハッハッハッ」  と咳き込んで極まらないんです。  一事が万事で播磨屋の松王丸は、六代目に比べて地味でした。ただ後の、松王丸が、 「女房喜べ、倅はお役に立ったわやい」  と入ってくるところはさすがに播磨屋らしい派手なやり方で、また六代目の源蔵とよく呼吸(い き)が合っていましたから、見物は喜んだものです。  源蔵が千代に斬り付けたまま抜き身で持っている刀で松王丸に斬り付ける、松王丸は大刀を鞘(さや)ごと抜いてグッとこじりを源蔵に突き付ける、ジリジリッと付け回しになり上手と下手と二人が入れ替わる、松王丸は上手へ座って大小を前へ置きこれを指差す、二人が顔をパッと見合わせる、松王丸は左手を膝へ右手をグッと前へ差し出して源蔵を押し留めるように極まります。  六代目も播磨屋も糸に乗って呼吸(い き)がピッタリ合っていましたから、見物はいやがおうでも手を叩いたものでした。むろん逆の配役でならなおさらでしたがね。  また播磨屋の松王丸は幕切れの「いろは送り」をどういうわけかあまり好まれず、私の知っている限りでは必ず割(わり)ぜりふでやりましたね。ですから、幕切れが短いんです。播磨屋の芸風から言えば、チョボに充分語らせて腹芸で見せるほうが播磨屋好みだと思うんですが、そうはしませんでした。  それで六代目はまともに「いろは送り」をやりましたから、ここいらの対照がまた面白いじゃありませんか。ですから、私も上の兄貴も必ず「いろは送り」でやりまして、ここをせりふで言ったことはありません。  播磨屋のおじさんの源蔵は、 「せまじきものは宮仕え」  の後の、   ともに涙に  で立ち上がりトーンと刀を突きましたが、こうしますと、後で松王丸が、 「無礼者めっ」  で同じように刀を突きますからいわゆる付くことになるわけです。六代目はこういうことに非常にうるさい人でしたから、自分が源蔵の時は静かに立って手を組むようにしていました。  六代目には、踊りでちょっとしたつなぎに踊る時などでも、 「おい、その踊りをお前(めえ)よく考えてみろ。シテの踊りにそんな手が入ってるだろう。シテがやるものを先にお前がやっちゃっちゃいけねえ。そういうことはなるべく避けるもんだよ」  と教えられました。  例えば手を打つんでも、シテが大きく打つ時には小さく打つ、シテが小さく打つならばこっちは大きく打ってもいいと言うんです。 「なるべくシテに抵触しない型をやれ」  というわけですね。  そういう次第で、播磨屋の松王丸に六代目の源蔵ですと、両方とも地味になってしまうんです。そこで、 「やはり六代目の松王で、播磨屋の源蔵だ」  と言われたもんです。そのほうがワアーッと盛り上がって、確かに見ていて気持ちのいい舞台になりました。  私は、松王丸をやる時には六代目そのままで、源蔵の時には播磨屋で、ただ松王丸に抵触するところを省いてやっています。中の兄貴(松本白鸚)は黒の衣裳の播磨屋系統で、地味な松王丸でした。  これは自分の好みというよりは、長いあいだそれぞれの立場で師匠の物を見てきていますと、そうやらないと悪いというような、何だか師匠が出てきて怒られるような、そんな気になるもんなんです。  私はやはり、 「無礼者めっ」  で、バーッタリとツケが入らないとどうも乗りませんが、きっと中の兄貴は、 「ゴホンゴホン」  と咳き込まずにツケを入れたりしたら、何だか播磨屋に怒られそうな気がしていたんじゃないでしょうかね。 仮名手本忠臣蔵 仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)  院本歌舞伎の代表作であるばかりでなく、日本演劇の代表的な作品といってよいかもしれない。実際にあった赤穂浪士の仇討を題材にした諸作を統合するような形で、事件後四十七年を経て寛延元年(一七四八)八月、大坂竹本座で初演された。作者は、竹田出雲・三好松洛・並木千柳(宗輔)の合作。以後劇界の独参湯(起死回生の妙薬)と称されて、初演以来数限りない上演回数を経て、歌舞伎を代表する作品として定着している。歌舞伎役者にとって、『忠臣蔵』の役々だけはいつでも何でもできなくてはならないとされる。それだけに、各々の時代を代表する由良之助や平右衛門、そして師直や勘平の役者になることは大変なことなのである。「討入」の茶坊主から由良之助まで、松緑の役者人生の筋道を、『忠臣蔵』の役々が彩る。   高師直 『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゆうしんぐら)』へ初めて出ましたのはまだ子供時代のことで、『十一段目討入』で火鉢をひっくり返す茶坊主の役でした。その後、昭和十五年十一月に歌舞伎座で六代目の指導による若手の公演をしたりして大きい役はみんな若いうちに一通りはやりましたが、高師直(こうのもろのう)だけは昭和二十五年の明治座が初めてでした。『忠臣蔵』という狂言は歌舞伎役者たる者、常識として一応は何であろうと見ておかなくては、覚えておかなくてはならないものです。いろいろな型もありますし、またよく出る狂言でもあります。年に一回は出ますからやはり見ておかなくては怒られます。  師直は好きな役ですが、これは六代目が好きでしたからいつの間にか引き込まれていたということでしょうか。六代目は早野勘平(はやのかんぺい)から何からやり尽くしたその結果、師直が気に入って増補物(ぞうほもの)の『姿見の師直』までやったくらいです。私も一度だけ『姿見』をやりましたが、ただ師直の腹を見せるだけの何ということもない幕で最近はほとんど出ません。姿見の大鏡の前で大紋(だいもん)に着替えているあいだに次々と大名が通り掛かってお追従を言うのへ、 「時々は挨拶に来さっせえよ」  などと言うだけのことなんです。  ここをやりますと『三段目殿中松の間』の衣裳も大紋になりますから、烏帽子(えぼし)を着けます。私が師直の時は、塩谷判官(えんやはんがん)はだいたい梅幸さんですから、 「鮒だ、鮒だ」  のところなどで、こっちは身体が大きいうえに烏帽子を着けているんで気の毒なんです。それもあって一度っきりでやめてしまいました。  六代目は『姿見』を二度くらいやっているはずですが、本来は邪道だと思います。  六代目は何しろ師直が気に入って気に入って、当り役と評判の高かった判官様を他人(ひ と)へ回しても師直へ出るようになったんです。  私は判官様はやっていませんからよくは知りませんが、とにかく辛抱役でズカされてズカされて、それでジッとしていなければならない役です。そんなことから発散できる師直が気に入ったんでしょうかね。けれども六代目の判官様は実にいいものでした。もう十五代目(羽左衛門)の桃井若狭之助(もものいわかさのすけ)に六代目の塩谷判官といったら、その頃の極(きわ)め付(つ)きだったものです。  師直は確かに面白い役ですが、また難しさもあります。やはり高家筆頭(こうけひつとう)ですから、若狭之助や判官様をただズカせばいいというものじゃありません。  私は橋尾さん(七世市川中車の本姓)のを品があっていい師直だと拝見しましたが、それでさえ家の親父(七世幸四郎)は、 「橋尾は、どうも怒らせ方が足りない」  と言っていました。  話に聞きますと、史実では判官様のほうがよくないとも言えますね。我が儘大名で怒らなくてもいいことに腹を立てて、それであんなことになったんだという説があるそうじゃありませんか。  まあそれはそれとして、芝居は大衆へ見せるものですから、江戸城内などという上(うえ)つ方(かた)で起こった事件をそのまま見せてもピンとはきません。そこで尾ひれを付けて芝居に仕立てたからこそ今でも名狂言として残っているわけですが、やはり高家という、別に禄高(ろくだか)も多くない得体の知れない師直が、 「何であんなに威張ってるんだろう」  と見物は疑問を持ちますよ。  そうした疑問に対しても、幕府組織の中に礼儀作法を司るうるさ型の役があって、それが師直なんだという説得力を持たせなければなりません。そこでやはりそうした匂いと格とを、ことに『大序(だいじよ)鶴ケ岡八幡宮社頭の場』で出しておかなくてはならないと思います。  とは言えあまり品がよすぎても困るし、愛嬌もなくてはいけないし、それでまた助平ですし、そこいらの兼ね合いが実はやっていて面白いんです。何しろ『忠臣蔵』の元凶なんですから、師直がまずかった日には芝居にならなくなってしまいます。  役相当の苦しさがあってけっして楽な役ではありませんが、勘平とか塩谷判官や由良之助(ゆらのすけ)とかいったような、全部を内へしまい込んだ肺腑をえぐるような役とはまったく異質です。平(へい)右衛(え)門(もん)と同じに全部出せますからそれだけ楽ですし、やっていて面白い役だと言えますね。   由良之助  大星(おおぼし)由良之助は『七段目祇園一力(いちりき)茶屋の場』など雲をつかむような難しい役ですが、では『四段目扇(おうぎ)ケ谷塩谷館(やつえんややかた)判官切腹の場』とどちらが面白いかと言えば『七段目』のほうがやっていてはるかに面白いんです。『四段目』は何とも辛い。「駆け付け」からずうっと、表情にしても何のことはありませんから、つまり表立った変化が付けられないんです。ことに「焼香場(しようこうば)」は今はずいぶん短くしてあってもあれだけの長(なが)っ丁場(ちようば)です。昔はもっと長かったらしいんですが、とにかくシーンとする場面ですから、あそこは役者も見物も辛抱しなくちゃなりません。 「やれ待たれよ、おのおの方」  と諸士(しよし)を呼び止めて腹の中を打ち明ける件(くだ)りで初めて自分が出せるわけです。それまでは何もかもグッと腹一つに納めていなくてはなりませんから、この「呼び止め」まで来ると本当にホッとします。 「焼香場」が長くて大変なのは何も由良之助ばかりじゃありません。実は残りの諸士も同じように辛い役です。諸士は何度もやっています。最初に茶坊主を二、三度やりまして、その後市村座へ来てからは長いあいだずっと諸士をやりました。諸士を卒業すると『七段目』の三人侍(さんにんざむらい)になるのが順なんです。  諸士が大変なのは足のしびれです。   ゆん手め手に、詰め掛け詰め掛け  で立ち上がらなくてはなりませんが、その時にひっくり返ったら大変ですし、かと言って早く行かなくてはなりませんから、馴れないうちは実に困りました。「切腹」の件りはお辞儀をしていて、お尻が上へ上がって重心が上へ行きますから大丈夫なんですが、苦しいのはその後の「焼香場」です。長いうえに素足で座っていてしびれが切れるからと言って、あの場面ですからゴソゴソ動くわけにはいきませんしね。  そこで片あぐらをかくんです。これは長年の研究で得た工夫です。あぐらはお尻が落っこってしまって形が悪くなりますが、片っ方の足へ代わり番こにお尻を載せて片あぐらをかくと、どうにか保(も)ちます。初めはそんなことを知りませんから、真(ま)っ正直(ちようじき)に座って立てなくなってしまいました。  諸士の役はせりふの練習になるんです。 「郷(ごう)右衛(え)門(もん)殿、郷右衛門殿、殿ご存生(ぞんじよう)の内、ご尊顔な拝したき一家中の願い、この儀お取り次ぎ、お取り次ぎ」  というせりふはこの頃一人で言うようになりましたが、昔は順に言わせてくれました。先々代の(二世市川)段四郎さんは、 「こういうふうに言うんだ」  と、わざわざ出ていらして、若い者へせりふのお手本を示されたということです。  確かにこのせりふは悲愴ではありますが、遠慮があって怒鳴れません。大きな声は出せませんが、かと言って小さな声では襖越(ふすまご)しですから聞こえません。そのうえこの件りから、   諸士は返す言葉もなく、一間もひっそと鎮まりける  までのあいだは由良之助が駆け付けるまでの前哨(ぜんしよう)戦で、それだけに大事な難しいせりふなんです。それで若い役者にとっての勉強には持って来いの役だというわけです。  判官様が九寸五分を腹へ突き立てる、と、   廊下の襖踏み開き(ここは「押し開き」と語ることもある)駆け込む大星由良之助  で由良之助が花道へ出てくる、七三でヘタヘタと平伏する、石堂右馬之丞(いしどううまのじよう)が由良之助を呼ぶ、由良之助は本舞台へ行こうと立ち上がろうとして、   ヤッ、トーン  と呼吸を整えて、両手を懐へ入れる。  ここで腹帯を締め直すんだという説と、緩めるんだという説と二つの解釈があります。由良之助は国表(くにおもて)から長い道中を急いで駆け付けたわけですから、むろん腹帯を締めています。それを緩めるという人もありますが、私は改めて締め直すべきだと思います。すなわち言葉通り「褌(ふんどし)を締めて掛かる」といった意味ですね。これから一番の正念場という場面で腹帯を緩めることは私にはできません。  こんなところの解釈にも、戦争へ行った行かないの差が出てくるように思えます。戦争に行くという場合は、まず召集令を手にした瞬間すでに緊張します。けれども、まだ実際に弾丸(た ま)が飛んでくるわけじゃありませんから緊張するだけのことで、本心は死にたくないんですが、一応「褌を締めて掛かる」という一心でもって、仕方なく鉄砲を担いで出征します。  これは芝居で言えば『絵本太功記(えほんたいこうき)十段目』の武智十次郎の出陣などと同じで、これはこれで相当の緊張がいるものです。  さて外地へ行って陣を敷きます。この時には多少心に余裕は生じますが、内地じゃありませんから、川一つ隔ててなり山一つ隔てた向こうには敵がいて対峙しているんですから、まるっきり緊張を解くわけにはいきません。ただ作戦を開始しないうちはある程度の余裕を持っていませんと、それこそ本当の戦いになった時に参ってしまいます。それでも歩哨(ほしよう)に立つ時にはむろん弾丸(た ま)込(ご)めはしてあるんです。空鉄砲(からでつぽう)で立ってやしませんよ。でなければ、向こうが攻めてきたらアウトになりますからね。ですから、歩哨に立つ時にも緊張はあるんです。  いよいよ作戦ということになります。「どこどこ作戦」となれば一兵卒(いつぺいそつ)にも作戦内容を教えてくれます。さあこうなった時には、それこそ今度は生命(いのち)を懸けてやらなくちゃならない。そんな場合に気を緩めるはずがないじゃありませんか。私はずいぶん臆病でしたが、やはり作戦が決まって「もうこれはとても駄目だ」となった時は、心の帯を締め直しました。  ですから、由良之助が花道で腹帯を締めるのか緩めるのかということも、戦争へ行っていない方にはいくら説明しても分かってはいただけないでしょう。  判官様のそばへ行く、と判官様が、 「この九寸五分(くすんごぶ)は汝へ形見、形見じゃぞよ」  と向こう(花道揚幕のほう)を見て目で心のうちを知らせる、由良之助も向こうを見る、腑に落ちたところを見せてポーンと一つ胸を打って、判官様に決心を知らせます。人によってはここで、 「委細ぃ」  と言うこともありますが、私は胸を打つだけにしています。 「焼香場」が終わりますと、斧九太夫(おのくだゆう)との件りになります。九太夫で印象に残っているのはやはり(尾上)松助さんですね。帝劇時代に家の親父の由良之助でずいぶん拝見しています。  そう言えば最近では、亡くなった(中村)霞仙(かせん)さんが歌舞伎座でなさった九太夫を、遠藤為春(ためはる)さんが非常に誉めていました。霞仙さんは関西の方ですからどんな九太夫をなさるかと思っていましたら、江戸風で案外あっさりした九太夫でした。  上方(かみがた)の九太夫は知りませんが、関西風にやる場合は本当はもっとくどいんじゃないでしょうか。もっとも(二世市川)箱登羅(はことら)さんあたりが江戸風にやっておられたのかもしれません。箱登羅さんはずっと関西で活躍された脇役ですが、もともとは東京の人でしたからね。  この件りの、   評議のうちに由良之助、黙然(もくねん)としていたりしが  あたりが由良之助は大変なんですが、諸士が花道を駆け出していくのを、 「ヤレ、おのおのには血相していずれへござるぞ」  と呼び止めてからはだいぶ楽になるんです。  この呼び止めはいい調子でやればせりふ回しもいい気持ちです。九代目さん(団十郎)がよかったと言われますのもよく分かりますね。  次の「表門」へ道具が回る前の、 「ご先祖代々」 「我々も代々」 「昼夜詰めたる館(やかた)の内」   今日を限りと思うにぞ、名残惜しげに見返り見返り……  は、実に名せりふだと思います。けれども昔は一部制の興行でしたから、時間がないということでこの件りを省略していたんです。戦後の昭和二十二年に興行が二部制になって一時代前の大幹部が、 「ご先祖代々」  をちゃんとやりましたが、これが最後の大顔合わせになってしまいました。  それまでは由良之助が諸士を呼び止め、 「いずれもお席へ」 「はっ」   示し合わせて(チョーン)  で、舞台を回したんです。  私は、 「昼夜詰めたる館の内」  であたりを見回す、次に後ろを見回す、もう一度表を見る、懐紙を取り出す、とチョーンになって、泣いて舞台を回すという手順にしています。これは足が悪くて立てないんで、次の「表門」に間に合わないという私だけの変則なやり方なんです。 「表門」にもいろいろな型がありますが、東京ではだいたい家の親父がやっていた通りカーッと九寸五分の血を舐めて師直の首を斬る形を見せます。ここはまあ別に何と言うこともありません。  ただ花道の引っ込みで三味線の三重(さんじゆう)にチンテレチチンという弾き方のものと、九代目型のトッチンチン、トッチンチンという弾き方のものと二通(ふたとお)りあります。どちらを使っても構わないんですが、私の好みではチンテレチチンはちょっと軽くて足が浮いてしまいますから、トッチンチンを使っています。またトッチンチンのほうが「哀れな……」という感じが出るようにも思います。  遠藤さんから聞いた話ですが、九代目型でここで洟(はな)をかむというやり方があって、その洟をかむ音が九代目さんは、 「ピーン」  と響いて、実にいい音だったそうです。私もそれを聞いて一度やってみましたが、しょせんいい音なんか出せやしません。写実な音が出たんではぶち壊しになってしまいます。それで止めてしまいました。  明治以降最高の由良之助役者だった九代目さんですが、それでも『七段目』というと、名人(五世坂東)彦三郎にはかなわなかったと言われています。彦三郎という人は四十五歳で亡くなられたんですから、その生前になさった『七段目』がいいというのはやはり、大変な名人だったということですね。  私が知ってからの『七段目』の由良之助は、何と言いましても色気の点では初代の(中村)鴈治郎のおじさんでした。せりふには癖もあり難のある声柄でしたが、ニンはもう凄い方でしたし、上方独特の身に付いた色気がありましたから、いかにも祇園の一力あたりで遊んでいる由良之助でしたね。  九代目さんはだいたいお堅い方だったようで、そのうえふだん活歴物(かつれきもの)など堅いものをやっておられましたから、それがやはり『七段目』の由良之助にも出たんじゃないでしょうか。それで、『四段目』にはピッタリだけれども『七段目』はちょっと……という評判になったんだと思います。それが初代の鴈治郎さんになりますと、『四段目』よりは『七段目』のほうがよかったんです。これからしても、両方いい由良之助というのはなかなか難しい注文かもしれません。  けれども、名人彦三郎はどちらもよかったというんですから、それこそ理想的な由良之助役者だったことになりますね。  だいたい『七段目』の由良之助というのは雲をつかむような役です。亡くなられた(竹本)綱大夫さんが晩年、歌舞伎座で『八段目道行旅路嫁入(みちゆきたびじのよめいり)』をお語りになった時にいろいろとご注意をいただいたんですが、そのおりに『七段目』の由良之助の話になりました。  綱大夫さんが初めて『七段目』をなさった時にもう困り切って、このあいだの、その前の(三世竹本)津大夫さんの所へ教わりに行かれたんだそうです。 「どうにもなりません」  と教えを乞われましたところが、名人と言われた津大夫さんでも、 「そやろな、どもならんやろな。まあ、何べんもやるうちに、そのうち分かるわ」  とおっしゃったきりで、「ああだ、こうだ」とはおっしゃらなかったということでした。  ですから、 「何も考えずにやる」  と、そこまで悟ってしまったほうがいいんです。すなわちこの由良之助は、 「ああやろう、こうやってみよう」  などと考えれば考えるほどやれなくなってしまうという性格の役なんですね。  まあ芝居のほうは多少なりともお軽とのやりとりのあいだで、 「あの嬉しそうな顔わいやい」  だとか、縁の下をちょっと見るとか、見せるところがいくらかありますが、何しろ、 「獅子身中の虫とは己がこと」  まではまるで腹を出せませんし、ことに人形は動きが少ないですから、それはやりにくいことだろうと思います。まあそれだけ難しい役だということです。  六代目が歌舞伎座で由良之助をやった時のこと、ふつうは、 「九太(くだ)はもう」  でピシャッと刀を納め、 「いなれたそうな」  となるところで、ある日六代目が立ち上がって、刀を『寺子屋』の松王丸のように下へトーンと突き、 「いなれたそうな」  とやったのを見たことがありました。こんなことは他の人は誰もやりませんから、六代目が考えてやったんでしょう。鷺坂伴内(さぎさかばんない)が抜こうとして九太夫と二人で引っ張りっこをしなければ抜けなかったほどの錆刀(さびがたな)ですから、それを下へ突いてグーッと入れるということなんだろうと思います。  一度これを私もやりましたが、あの遠藤為春さんが、 「六代目はそんなことしない」  と言うんです。こっちは確かにこの目で見たことがあるんですが、六代目だって思い付きである日やってみたわけで、毎日やっていたんじゃありませんから、遠藤さんは見ていなかったんでしょう。けれども先方はお年寄りですし血圧も高かったし、逆らってもいけないと思ってそれっきりで止めました。   定九郎 二人侍 『五段目山崎街道』では「鉄砲渡し」をカットすることが多いんですが、あれをやっておきませんと『六段目与市兵衛住家の場』が分かりにくくなるんで、短いところですが大事な場面なんです。  ところで滑稽本の『七偏人(しちへんじん)』とか『八笑人(はつしようじん)』のような江戸時代に書かれた本は、当時の役者が「こんなことをした」なんという話が織り込んであって大変面白いものですが、その中に「鉄砲渡し」で、勘平は誰か分かりませんが、何代目かの沢村源之助が千崎弥五郎(せんざきやごろう)をやった話が載っていたのを覚えています。  今のやり方では、勘平と千崎とが顔を見合わせる、と千崎が、 「まずは堅固(けんご)で」  と勘平が、 「貴殿もご無事で」 「これはしたり」  と二人一緒に膝を叩く、という手順です。  それを、勘平が千崎に対して面目ないという思い入れでバタバタで逃げようとする、その勘平の袂(たもと)を千崎がとらえて、 「これはしたり」  と言う。そんなやり方を、源之助がやったんだそうです。 「これは理にかなっていて素晴らしい」  とその本には書いてありました。  確かにここでの勘平は、懐かしいより何より面目ないはずです。何しろお家の大事、ご主君の大変の時にお軽(かる)と駆け落ちをしたんですから、千崎に合わせる顔はありません。逃げようとしたって不思議はないはずです。そんなことがいろいろ書いてあって、この手の本は面白いんです。 『七偏人』とか『八笑人』それに『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゆうひざくりげ)』などという本は、若い役者は読んでおいたほうがいいですね。昔の人が使っていて今ではまったく通じなくなった言葉なども分かりますしね。ときどき家の親父が言いましたが、 「ようよう」  と言うのを、ああいう本には、 「イヨイヨ」  と片仮名で書いてあるんです。それで親父は一度『助六(すけろく)』をやった時に、 「ようよう、乞食の閻魔様(えんまさま)め」  というせりふを、 「イヨイヨ、乞食の閻魔様め」  と言ったことがありました。  役者はこんなことも知っていませんと、例えば『弥次喜多』で悪口に怒って、 「バンツランアヅマッコ」  と出てきますが、これが何だか、まったく分からないままになってしまいます。  もっともこれが「馬鹿な面な、俺は江戸っ子だぞ」という意味なのか、または江戸者を悪く言っている言葉なのか、正確には分からないんですがね。それにしても、ことに当時の流行(は や)り言葉などは、読んでいないと手も足も出ません。  ところでどうしたわけですか、私は若い頃から二人侍(ににんざむらい)というと不破数(ふわかず)右衛(え)門(もん)ばかりで千崎弥五郎をやっていないんです。千崎は次の『六段目』になりますと、芝居の上ではたいして用がないんですが、勘平が腹を切った後はあっちをしまったりこっちをしまったりと、へたにまごつくと何か忘れ物をしそうになるほど跡片付けが大変な役なんです。そのうえ幕切れには外へ行かなくてはならないんですから、忙しい役ですよ。  私は勘平より斧定九郎(おのさだくろう)を先にやりました。昭和十五年の勉強会でしたが、こういう役については六代目は細かいことを言いました。  定九郎の吐血(とけつ)は病気によるものではなく、勘平の鉄砲に腹を撃たれてのことです。それに雨に濡れているわけですから、ただ口からモゴモゴモゴモゴ血を出すだけでは感じが出ません。そこで口から顎を伝わって腿(もも)へ垂らすと、足にはあらかじめ霧が吹いてあって、その霧を伝わって腿から膝、膝から脛(すね)へと、下へ下へと流れていくような工夫が付けてあるんです。けれども一興行二十五日間、同じようにはいきゃあしません。定九郎が血糊(ちのり)を舞台へ垂らしてしまいますと、後で勘平が大変なことになりますから行儀が悪いとされているんですが、ひとつ間違うと、地舞台へみんな垂れてしまいます。  鉄砲に撃たれてクルッと正面を向く、足を広げる、右足を前へ出す、その時に褌(ふんどし)の下がりをパッと退けるんです。こうしておかないと、下がりへ血糊がくっついて取れなくなってしまいます。六代目はこういうことは器用でしたから、実に鮮やかなものでしたね。また前へ出した右足の膝をちょっと内輪にするのも定九郎のコツです。外輪にすると血糊が外へ流れてしまいます。内輪にすれば腿の面積がそれだけ広くなって垂らしやすくもなり、血糊が流れる様子も正面からよく見えるというわけです。  この血糊は、食紅を原料にしてお弟子さんがビニールの小さな袋へ入れて作ってくれるんです。昔は卵の薄皮で包んだと聞いていますが、今は薄いビニールの袋です。血糊の練り方の加減は、軟らかすぎるよりやや固めのほうがポタポタと垂れる具合がいいようです。後は霧さえちゃんと吹いてあればバーッと広がりますからね。  ビニールの袋を食い切って、目を下目遣いにして右足の膝っ小僧を見て、そこへ口の端から垂らすようにするんです。多少は調節しながら垂らしはしますが、そうそう綺麗にはいきません。  鉄砲で撃たれるところは、上手へ引っ込んだ猪を見込んでぬかるみに滑る、ちょうど前こごみになって背が猪の高さになった時に、ドーンと鉄砲が鳴る、とまあそういうつもりでやるんです。鉄砲が鳴って弾丸が当る、その勢いで刀を上手の藪(やぶ)の陰へ放り込みます。  ここで落ち入りの三味線は、「ひぐらし三重」でこき下げと言って、チリリリリリリリチチチチチチチ……と人差し指で三の糸を押さえたまま次第に高い音へ滑らせて行きます。やはり六代目はこれの注文がうるさかったんです。血刀を拭ったり袖や裾を絞ったり財布の中を探ったりする仕草と、三味線の呼吸(い き)が合わなかったり気に入らなかったりするとすぐに怒りました。  倒れる時に六代目は必ず左足を折り曲げ、それへ右足を乗せて倒れるようにしていました。勘平をやる人には分かることですが、こうしておかないと後で勘平が縄を掛ける時に困るんです。  定九郎が与市兵衛を殺して財布を奪うというのがこの場面ですが、掛け稲から出てくる時には、段取りとしてあらかじめ用意しておいた同じ縞(しま)の財布をくわえて出てきます。  ところが家の親父が定九郎をやりました時に、いい人の代表みたいだった(坂東)鶴右衛門さんという人が与市兵衛をやりました。定九郎が掛け稲のあいだから白い腕をヌッと出し、与市兵衛を掛け稲の中へ引きずり込む、脇腹へダンビラをグッと突っ込みそのまま与市兵衛を芋刺しにして、口に例の縞の財布をくわえて出てくる、と、まあこんな手順になっているいいところなんですが、この鶴右衛門さんの与市兵衛は、自分のほうから親父の定九郎へわざわざ財布を首にかけてくれたそうです。親父の定九郎は用意してあった財布と首にかけられた財布と、財布が二つになってしまいました。咄嗟(とつさ)のことですからどまつきます。けれども、そこが家の親父のことですから怒りもせずに、 「どうもご苦労様」  と礼を言ったという笑い話が残っています。   勘平  昭和二十七年に明治座で『忠臣蔵』をやりました時に、上の兄貴(十一世団十郎)が急に病気になりまして、私が勘平をやることになりました。さすがに『三段目道行旅路花聟(みちゆきたびじのはなむこ)』だけはご勘弁を願って、荒川さん(三世左団次)が代わりました。いかに踊りの家元と言っても勘平なんという役は、ことに『道行』なんかはよっぽど男っ振りに自信がなくてはやれるもんじゃありません。そこまで私は自惚れていませんよ。そんなわけでついに『道行』の勘平はやらずじまいです。『三段目』ではもっぱら鷺坂伴内(さぎさかばんない)。伴内はよくやりまして、俳優祭で幹部全員が四天(よてん)になった時も私は伴内でした。 『五段目』の勘平の鉄砲は「二つ玉の強薬」とありますが、これにも弾丸を二つ撃つから二つ玉だというのと、二発分の火薬が仕込んであるからだというのと、二説があります。けれども私は音羽屋型でやっていますから、揚幕の中でドーンと一つ撃つ、バタバタバタと花道七三へ来る、片膝を突いて狙いを定めもう一度ドーンと撃つ、その反動でポンと鉄砲の台尻を突く、ハッ、ヤ、トチチンとなってこれから本舞台へ掛かるわけで、すなわち私は二発撃ちます。  初めて勘平をやりました時、昔の火縄銃を買いまして、これは今でも持っています。というのは、芝居ですからこしらえ物の鉄砲を使うんですが、当時はまだ戦争へ行っていなかったんで、本物の鉄砲の重みが分からなかったんです。やはり舞台稽古なり、二、三日本物でやってみるなりしてからならばこしらえ物でもいいんですが、初めてではどんな反動が来るのか見当も付きません。それで火縄銃を買ったというわけです。この火縄銃は倅(尾上辰之助)がやった時と、(現)吉右衛門にも「貸してくれ」と言うんで貸しました。私たちは兵隊時代に、もう鉄砲ではさんざん苦労をしていますからどんな反動が来るかは分かっていますが、それでもこの場合「二つ玉の強薬」と言うんですから、相当強い反動だろうと思いますね。  ドイツのメルケルというライフル銃を試したことがあります。この手の鉄砲はたいてい銃身が一つなんですが、これは珍しく散弾銃と同じような縦二連式で縦に二発入るようになった物でした。  鉄砲は試し撃ちだけでもしないといけません。撃たない鉄砲は取り上げられてしまいます。それで軽井沢の射撃場へ行きました。するとそこの親爺さんが、 「六代目もよくおいでになりました」  と言うんです。六代目は鉄砲がうまかったから、きっと同じ場所へ試し撃ちに行っていたんでしょうね。  何しろメルケルは象撃ち用ですから、薬莢(やつきよう)も長いんです。三八式なんかなら肩当てはいりませんが、象撃ちとなると、サファリでみんなやっているように皮の肩当てが必要になります。けれどもその日私は肩当てを持っていかなかったので、そのままで撃ちました。  鉄砲の台尻は肩の軟らかい部分へ付けるんです。骨へ付けたりしたら反動で骨折してしまいます。軍隊でそこいらは馴れていましたが、さて象撃ちの弾丸はさすがに物凄くて、ダアーッという反動で痛いの痛くないの。とうとう三発ほどで勘弁してもらいました。いくら「二つ玉」と言っても昔の鉄砲のことですから、勘平の鉄砲はそんなにたいした強さじゃないでしょうがね。  今はもう止めましたから、みんな売ってしまいましたが、当時は射撃銃だの散弾銃だのいい物を持っていたんです。刀もいく振りかありましたが、鉄砲と一緒にみんな始末してしまいました。  刀なども目貫(めぬき)を取ったり、やすり目を入れたりする芝居がありますから、一応は知っておかなくてはなりません。銘(めい)が切ってあれば刀工が分かりますが、銘がない刀はやすり目でだいたい作(さく)が分かると言います。長船(おさふね)には長船のやすり目があるんです。調べようと思えば、今は丁寧に書いた本がありますからそれを読めば済むようなものですが、目貫を取ってトントン叩いて柄(つか)を取るとか、手入れなどでもじょうずに拭いて見せなくてはなりませんから、やはり本物で体験しておいたほうがいいんです。  長船の他に関の三本杉も持っていました。(六世)梅幸おじさんが持っていらしたのを、おじさんが亡くなられたからおばさんが、 「豊(ゆたか)さん、家にこういう刀があるんだけれど、私は女だから持っているのは嫌だから、もらってくれないかしら」  と言われるのでいただいた刀もありました。これは無銘ですが中子(なかご)に歌が彫ってありまして、目利(めき)きをした方が、 「宇多国宗(うたくにむね)だろう」  と鑑定しました。白鞘(しらざや)でそれに中山博道先生が歌を書かれていて、直刃(すぐは)それも中直刃(なかすぐは)のものでした。  六代目の所へ厄介になっていた頃ですから、十五、六歳でしたが、当時は、六代目が勘平をやる時には毎日欠かさず見ては書き込みをしていたものです。そのメモはそのまま取ってありますが、今では何を書いたのか分かりません。何しろ舞台を見ながら片仮名で書いたメモですから、暗号電報を読むようなもんです。けれども私が毎日見ては書き込みをしているのを知っていましたから、六代目はいろいろと教えてくれました。  例えば証拠の財布を見る件(くだ)り、   さては最前鉄砲で打ち殺したは舅であったか、ハッとばかりに……  のところで使って落とす煙管(きせる)と煙草盆の二つは、一文字屋(いちもんじや)に連れられてお軽が花道を引っ込んでしまってからもそのまま舞台に残っています。これの跡片付けは実は勘平がやるんだということも、その片付け方もその時に教わったんです。これはあの大事な場面ですから、片付けに後見(こうけん)を使いたくないための工夫なんです。 「ハアーッ」  と泣いて突っ伏すのと一緒に手を使い、煙管を煙草盆の所へさりげなく引き寄せます。そうして見物に見えないように、煙草盆の後ろで煙管を筒に入れて根付(ねつけ)をポンと煙草盆へ掛けてしまいます。後は何とか芝居のあいだに後ろへ持っていって、いっぺんに片付けるようにするんだと教えてくれました。こういうことにはうるさい人でしたから、私の気付かないことを注意してくれたわけです。  けれどもこっちはまだ十五、六でしたから、言われた時にはとても分かりっこありませんし、むろんやれるはずもありません。言われたことが本当に分かって役に立つのは、何十年か経ってからのことですよ。初めはなかなか言われたようにはいきませんが、それが何十ぺんとなくやっているうちに、馴れで自然と教わった通りになっていくものなんです。   深網笠の侍二人(ににん)  で二人侍(ににんざむらい)が出てくる、これを出迎えるところで刀身に顔を映して髪を直します。ここなども段取りを気にしていたらわざとらしくなって、勘平じゃなくなります。それか、たびたびやっているうちに自然になるんです。何でも馴れなんですね。  それと花蓙(はなござ)の片付け方です。これはいつも感心するんですが、『六段目』の初めで、祇園の一文字屋の女将(おかみ)お才を迎えるのに上手(かみて)に花蓙を敷きますが、この一事でいかに与市兵衛の住居が貧しく汚いか、一文字屋がいかに大事な客であるかということがいっぺんに分かるんですね。その花蓙を二人侍が出てくるところで勘平が巻き取って、ポーンと上手の付け屋体の所へはかすことが大事なんだと教わりました。つまり勘平が蓙を片付けるわけですが、ただ片付けるんじゃありません。無意識に蓙へ手が掛かって、 「とんでもねえことをしてしまった」  と独り言を言いながらキリキリと巻いていくわけで、勘平のこの時の心理を見事に表現しています。すなわち、たった一枚の蓙だけでこれだけのことを表現してしまうというんですから、実にいい工夫が付いているものだと感心しますね。  もう一つ教わったのは、   そこらあたりへ眼をくばり、袂(たもと)の財布見合わせば寸分違わぬ糸入り縞……  で、財布を見る時の煙管の扱い方です。  ふつうに持つように煙管を持ったのでは、ハッとした瞬間にポンと落とせませんから、親指と四本の指とで軽く挟むように持つんですが、中指だけは内側へ入れて、指の背が煙管に当るようにしておきます。それで落とす時に中指でポーンと煙管を弾きます。 「ただ落とすんじゃない」  と教わりました。けれども自分でやってみますとなかなかそうはいきませんがね。この煙管の落とし方などは、六代目から聞いた時の書き込みに、へたな絵まで付けたのが残してあります。   深網笠の侍二人  のチョボの後、   隣柿の木  の下座(げざ)になって二人侍が出てくる、これを出迎えようと勘平が立ち上がる、と母親が、 「これ婿殿、どこへ行くのじゃ」  と腰へすがってくるのへ、 「けっして逃げはいたしませぬ」  と自分の腰へつかまっているように言って、   腰ふさぎ、脇ばさんで出て迎え  と、おかやを後ろへ隠して戸を開ける、そこで二人とのやりとりになるわけですが、ここの勘平はいい形になってはいけない、及び腰になるようにするんです。ここは、六代目は太っていましたから苦労していました。どうしてもお腹が出がちになってしまいますからね。  勘平が二人へ、 「これはこれはご両所には見苦しき茅屋(あばらや)へ、ようこそご入来(じゆらい)」  と挨拶すると、二人から、 「見れば家内に取り込みのある様子」  と言われ、やや慌てたように、 「アイヤ、ずんど些細な内証事、お構いなくともいざまずあれへ、お通りくだされ」  と打ち消して二人を家の中へ案内します。この「ようこそご入来」や「ずんど些細な内証事」などは五代目さん(菊五郎)のせりふの特徴が型として残っています。  何しろ勘平は二枚目のいい男ですから、さぞかし気持ちのいい役と思われましょうが、やってみれば分かりますが、実に腹の中が苦しい役なんです。初めに戻ってきて足を洗ったり何だりしていて、着替えの時に財布を落として袂へ隠し、 「何でもござりませぬ」  と母親をごまかすところまではいいんですが、その後は切腹するまで一つも息が抜けません。  音羽屋の型では、勘平は帰ってきてすぐに紋服(もんぷく)に着替え、お軽に大小を持ってこさせます。あの解釈はいろいろ言われていますが、こういうことじゃないかと思うんです。  つまり『五段目』で旅人の懐から奪ったものにせよ五十両という大金を手に入れて、それを「鉄砲渡し」で聞いてあった千崎の旅宿へ届けて、それで帰ってきたわけですね。ですから、 「これで仇討ちの徒党へ加えてもらえるに違いない」  と心の内で喜んでいるんです。そこで、 「もう女房をやるには及びませぬ。チトこっちによいことがござりまして」  というせりふもあるわけです。そこで徒党へ加われる、ご主君へ忠義が立てられる、つまりは武士に戻れるということで、紋服に着替えるということじゃないでしょうか。  この紋服に着替えるのは、(七世市川)団蔵さんの型とはだいぶ違うようです。また関西では肩当ての衣裳です。これは贔屓目(ひいきめ)でなしに、やはり音羽屋型が綺麗で色気があっていいように思うんですが。播磨屋のおじさん(初世吉右衛門)も紋服に着替えないでやられたそうですが、私は見ていません。団蔵さんにしましても播磨屋のおじさんにしましても、浅黄色(あさぎいろ)の紋服が似合う方じゃありませんから、それで避けられたんじゃないでしょうかね。私も似合うほうじゃないんですが、何と言ったって他に知りませんから、五代目さん以来の型でやっています。 『五段目』で火縄の火を松の木へ当って消します。六代目は松の木の裏へ水を仕掛けておいてジュッと消しましたが、人によっては濡れ雑巾を木に巻いておいてそれで消すこともあります。  火が消えて真っ暗闇になると、トチチントチチンと鞘ごと抜いた山刀の鐺(こじり)で探りながら死骸へ寄っていくところは、姿だけで見せるわけですが、 「こうしたところは五代目さんは実にいい格好だった」  と遠藤為春さんがよく言っていました。 「いくら六代目でもかなわない」  と。確かに写真で拝見しましても本当にいい形ですものね。  五代目さんの勘平については岡本綺堂(おかもときどう)先生が『明治の演劇』に書いておられます。五代目がたった一度だけ『三段目』の『道行』をなさったのを岡本先生が見に行かれまして、 「何とも言えずよかった」  と誉めておられるんです。たった一度と言いますのは、その時分『三段目』はほとんど『裏門』でやっていましたから、『落人(おちゆうど)』なんてまったくやらなかったものです。  けれども、清元延寿太夫(きよもとえんじゆたゆう)が五代目さんのご親戚だった関係で、だいたい清元は五代目が使い、常磐津林仲(ときわずりんちゆう)さんを九代目さんが使っていました。そんなことで、五代目が晩年に『道行』をなさったというわけです。晩年とは言っても、五代目は六十歳ちょっとで亡くなられましたから、今で言えば役者として働き盛りの勘平だったわけで、 「本当に綺麗で、よいものだ」  と書いてあります。  五代目自身は当時の雑誌に、 「私は初めてなんで、まあ精々張り切ってやってみましょう」  などと書いておられますが、岡本先生は、 「花道でも何でも、実際何とも言えない色気があって実によかった」  というように評しておられます。   平右衛門 『七段目』の寺岡平右衛門は、やはり昭和十五年の勉強会でやっていますが、これにもいろいろな型があります。  六代目はむろんのこと、播磨屋のおじさんのも(七世)中車さんのも拝見しましたが、一番多く拝見したのは、やはり先代梅幸さんのお軽とのコンビでの市村のおじさん(十五世羽左衛門)でした。市村のおじさんの平右衛門は、簡単に言えば音羽屋型ですが、いろいろと入(い)れ事(ごと)がありました。いい入れ事ですが、我々には真似ができないこともあります。お軽が平右衛門に勘平の消息を聞く件りでの、 「角の豆腐屋の娘は、まめだ、まめだ」  なんという入れ事も面白いものでしたが、これは、私は六代目に、 「市村の兄さんなら愛嬌でいいが、へたにやった日にゃあ気になってよくねえから、お前(めえ)はそんなこと言うな」  と止められました。  すなわち悪いとかいいとかいうんじゃないんですね。市村のおじさんの平右衛門は派手で面白かったんです。他の者には真似ができないものでした。ですから、六代目でさえ自分が平右衛門をやる時には、 「俺は市村の兄さんのようにはやれねえ」  と断りがあったくらいです。お軽の癪(しやく)を介抱する、   チチリン、チチリン  のところでも市村のおじさんは独特の手をなさって、大当りで大変なものでした。同じ音羽屋型ですから六代目とすることはほとんど変わりませんが、ただ派手で面白かったんです。  一方、播磨屋の平右衛門は、中の兄貴(松本白鸚)がやっていたように音羽屋型とはまったく違います。  お軽から身請(みう)けの話を聞いて、 「互いに見合わす顔と顔……」  の後の、 「できたっ」  も播磨屋は、 「読めたっ」  と言いますし、音羽屋型はその後すぐに、 「さようでございましたか……」  とせりふに入るのが、播磨屋は、 「こうだこうだ、こうだこうだこうだ、こうなくちゃあならねえところだ」  などと入ります。  関西では前半の件りはすべて屋体の上でやってしまいます。平右衛門に斬り付けられて、初めてお軽が逃げて下へ降りるんです。ですからお軽は紙を上で撒いてしまいますから、後片付けは楽です。東京風に下で撒きますと、黒衣(くろご)が片付けで大変な思いをするんです。  斬り付けられたお軽が逃げて花道の七三まで行くのはどの型も同じですが、あれは本行(ほんぎよう)(文楽)のほうにはありませんから、役者の入れ事なんです。  ここも市村のおじさんは充分になさって、 「この面(つら)は俺の生まれ付きだあ」  なども六代目はあっさりやっていましたが、十五代目は見物を笑わせるようなところがありました。これは役者それぞれの味の違いということですね。  また梅幸のおじさんのお軽も充分になさいましたね。今の梅幸さんは先代のおじさんから比べたらずっとあっさりしています。どちらかと言えば成駒屋(現・歌右衛門)のほうが梅幸おじさんに近いように思います。  以前は、 「のるな、のるな」  のところは、平右衛門が帯の上締(うわじ)めを解いて上手(かみて)の手水鉢(ちようずばち)へ投げ込んで水を含ませ、お軽に飲ませるというやり方をみんなやっていました。けれども、これがなかなか入らないうえに、帝劇時分は劇場が狭かったから上締めも届いたんですが、歌舞伎座になってからは舞台が広くなりましたから、とてもとても届かなくなってしまいました。かといって、あまり上手へ行って芝居をするわけにはいかない、やはり真ん中の梯子段(はしごだん)の前でなくてはまずいんで、それでみんなやめてしまったんです。今は誰でも手水鉢まで行って水を持ってくるようにしています。 『忠臣蔵』の諸役では、平右衛門を一番多くやっています。由良之助より得な役なんですが、役者というのは妙なもので、やはり役の格ということをどうしても考えてしまうんです。何といっても座頭(ざがしら)の役は由良之助ですからね。  結局『忠臣蔵』の中で一番面白いのは、六代目と同じになりますが高師直ですね。『九段目山科閑居(やましなかんきよ)』の加古川本蔵(かこがわほんぞう)は二度ばかりやりましたが、どうも気が乗らない役です。 一谷嫩軍記 一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)  宝暦元年(一七五一)十二月、大坂豊竹座で初演された。並木宗輔・浅田一鳥・並木正三らの合作に成る。全五段の構成だが、こんにち歌舞伎では、二段目の『陣門・組討・檀特山』と三段目の『熊谷陣屋』がよく上演される。源氏方の侍大将熊谷直実と、平家の若武者平敦盛を軸にした物語の件(くだ)りが残ったというわけである。『陣屋』の型として、団十郎型と芝翫型が有名だが、その両型を実際に演じたことがあるのは、今や松緑一人である。そしてこの二つの型をミックスして、独特の松緑型を完成させた。九代目にしても実父幸四郎にしても体験することがなかった戦争経験が背景になって、反戦詩劇の色彩の濃い『陣屋』になっている。敵もない味方もない。ただただ殺し合いは嫌だ。「十六年は一昔」として出家した熊谷の哀しみがにじみ出る。   熊谷直実  この『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)のような、いわば軍国調の芝居をやるたびに思うことがあります。それは、こうした芝居が表そうとしているものは戦争礼賛などではけっしてなく、かえって俳句で言う「無残やな兜の下のきりぎりす」そのままの一般民衆の声なんだということです。  動物の中で本当に大きな声で笑えるのは人間だけでしょう。怒ることなら、ばい菌でも喧嘩の時には怒ります。その唯一笑うことができる人間が人を殺して「ばんざい」と言うんですから、いかに人間なるものも詰まるところけだものの一種であるかということを、こうした芝居ははっきり主張しているんだと思いますね。  武士は「当然だ」としているのに対して、民衆は「そうじゃない」と考えているところに、俳句にしても軍国調をえぐるような名句が生まれたわけでしょう。  私自身、経験があります。前にも書きましたが、戦争に行って上海のウースン港へ上陸しました。兵站部(へいたんぶ)などは大砲でやられて崩れていましたが、一応の戦場処理はついていて、ちゃちな板塀のような建物ではありましたが、兵舎はできていました。  内地と違い衛兵勤務くらいしか用はありません。その日の当番が衛兵として要所要所へ立っていて、残りの者は休みなんです。外へは出られませんが、兵舎の周りくらいなら歩いていてもいい状態でしたから、ブラブラしてみました。その時に、整理がまだ完全ではなかったからきっと相手方の無名戦士のものでしょう、そこら中に散らばっていた骨を集めて箱へ入れ、兵舎の外の片隅へ置いてある所を通り掛かりました。するとその箱から燐がチョロチョロと、芝居で使う幽霊火(ゆうれいび)のように燃え出ているではありませんか。  私はたびたび召集(しようしゆう)を受けましたが、日本を離れて外地へ来たのはこの時が初めてでしたから、この光景は何とも言えない強烈な印象でした。それこそ文字通りの「兜の下のきりぎりす」でしたね。多かれ少なかれこんな体験を味わって、私たちの世代はできあがっているわけです。  この熊谷は家の親父(七世幸四郎)も演(だ)し物(もの)にしていましたが、親父は本当の戦(いくさ)というものを知りません。あくまで芝居の『一谷嫩軍記』そのもので、(九世)団十郎そのままを忠実にやっていました。今になって考えてみて、親父と私と同じ熊谷でいて大変感じが違うと言われますのは、戦争体験の有無というその違いじゃないでしょうか。  私が初めて熊谷をやったのは、昭和三十年三月の歌舞伎座でした。この時はやるからにはというので、(四世中村)芝翫(しかん)型でやりました。  この芝居の『熊谷陣屋の場』での代表的な演出には芝翫型と団十郎型の二つがあって、芝翫型は院本(まるほん)に、つまり原作にずっと近いやり方なんです。それでまず芝翫型を選んだわけなんです。二つの型には衣裳をはじめ要所要所に違いがありますが、最も違うのは幕切れの演出です。芝翫型では原作通りですから、熊谷は妻の相模(さがみ)と本舞台(ほんぶたい)にいて、中央の屋体の上に義経、下に弥陀六(みだろく)と絵面(えめん)の見得で幕になります。  この芝翫型でやった後に文楽の舞台を見ましたが、いろいろと考えることができて面白い勉強になりました。人形では主役以外の余計な者は舞台へ出ていない。四天王(してんのう)も堤(つつみ)の軍次(ぐんじ)もいません。ですから芝翫型がうつしている通り、熊谷が有髪(うはつ)の僧形(そうぎよう)で白綸子(しろりんず)の着流しでいて、相模と夫婦連れで幕になっても見物の気は散りません。もう一つの要点は人形が持つ哀れさというものです。どうしても、どこまで努力しても人間にはなれない。あの檜(ひのき)になれないあすなろの哀れさがあります。これは人形を見ているだけでも感じます。そこで院本通りにせりふを言っても、団十郎型の花道の引っ込みを見せなくても、充分に哀れなんです。  けれどもそれは人形なればこそで、役者がやって軍卒(ぐんそつ)だの四天王だのいっぱいゴタゴタ出ていては、見物の集中力は散漫になります。どうしても哀れさが希薄になって、へたをすると原作の意図とは逆に戦争礼賛の印象さえ与えかねません。こんな比較ができますのも、自分が両方の型で一応やっているからです。いわゆる院本物と言われる演目をやる場合には、原作を一通りこなしておかなければいけないと言うのはここなんです。  二つの演出を比較して、九代目さんの型がいかに偉大であるかが本当に分かりました。舞台へ相模を残したままスーッと幕を閉めてしまう。熊谷が花道の付け際に一人ぼっちになる。つい先ほどまで源氏方の武将として立派な鎧(よろい)や太刀で身を固めていた身が、今はみすぼらしい墨染(すみぞ)めの僧形で頭陀袋(ずだぶくろ)を下げた姿になって、花道の七三で、 「十六年は一(ひと)昔……」  のせりふがあってトボトボ行き掛けると、それへかぶせて遠寄(とおよ)せで、法螺貝(ほらがい)・陣太鼓・銅鑼(どら)などでジャジャンボボンと戦(いくさ)を表す勇ましい音が鳴る。この遠寄せの音と僧形の熊谷という対照が、非常に効果を高めます。  偶然読んだ夏目漱石さんの『趣味ノ遺伝』に、これと同じような話がありました。その文中に、 「世間には諷語と云ふのがある。廃寺に一夜をあかした時、庭前の一本杉の下でカツポレを踊る者があつたら、このカツポレは非常に物凄からう」  とありました。また漱石さんが知り合いだった浩(こう)さんという人が戦死して、その墓参りへ行ったところが、墓場にたった一人、美しい妙齢の婦人が立っているのに会います。 「妙齢の婦人は蓋して活気に満ちてゐる。見るからに陽気な心持ちがするものだ。それが汚い墓場に立つてゐると、その美しさより一層静けさ淋しさを感じる」  この美しさと一本杉の下のカッポレの怖さとは同じだと、漱石さんは言っているんです。  あの『マクベス』でも夫婦でダンカン王を殺す。とその時突然、ダダダダッと人が訪れる。これの応対にへべれけになっている下男が出る。この酔っぱらいが、滑稽な仕草をすればするほど凄みが出るということです。  こうした例と、ここの引っ込みでの遠寄せとは同じ理屈で、「兜の下のきりぎりす」を強調させる効果を上げているわけです。喜劇に涙が必要なのと同様で、これでも泣かないかこれでもかとやったんでは、人は泣きません。そこがチャップリンの名作のうまさであり、九代目団十郎の偉いところです。  また芝翫型の幕切れでは、これで『一谷嫩軍記』が終わったということになって、見物に余韻というか、戦というものの無残さとか無常感が残りません。それを団十郎さんは幕外(まくそと)へ熊谷を残すことで、そうしたものを見せようとしたわけなんです。  実際にやっていても、団十郎型のほうが気持ちがいいんです。そんなこんなで、今では芝翫型をやる人はまったくと言っていいほどおりません。けれども、こんなことも両方やってみたから分かったんですし、人にも言えるんです。  芝翫型は中村竹三郎さんに、団十郎型は中村吉之丞さんに、それぞれ教わりました。それまでにも四天王や義経には出ていましたから一応は知っていましたし、親父の書いたものも持ってはいたんですが、六代目は義経の人でしたし、うちのほう(菊五郎劇団)では誰も熊谷はやっていなかったんで改めて教わったわけです。  それにしても九代目さんの偉さには感服します。団十郎全盛期というのは、それこそ軍国主義謳歌の時代だったはずです。そうした時代に、芝翫型という軍国主義謳歌の印象の強い演出がすでに定着しているにもかかわらず、それを否定するような演出を作って演じたというのは、実に気骨のあった人だと思います。  これを昭和四十四年のアメリカ公演へ持っていった時は、あの反戦ミュージカル『HAIR』があちらで大当りしている頃で、サンフランシスコ公演では、隣の劇場でちょうど『HAIR』を上演していたんです。ですから、向こうの出演者なども私たちの芝居を見にきました。ある日のこと隣に出ている十八、九の可愛い女の子が二人楽屋へやって来まして、 「よくこんな反戦の芝居をやってくれた」  と言ってバッジをくれたんです。  アメリカ人で十八、九の若い子ですから、おそらく歌舞伎を見たのは初めてのことだったでしょう。そんな人たちでも、自分の家族や親戚、知り合いがベトナムでひどい目に会ったり死んだりもしているでしょうから、初めて『一谷嫩軍記』を見ても、そこのところが分かったんだろうと思います。  この体験からしても九代目の型は現代にも一番合っていると言えますし、くどいようですが、この演出を作り上げた偉大さに頭が下がります。一般に歌舞伎は型を中心に伝承される演劇と言われますが、熊谷一つを取っても、時代時代によって演じる人間の精神面の受け止め方は違ってくるものなんです。 『須磨浦組打の場』を『檀特山(だんとくせん)』と俗称するのは、幕切れにある熊谷の、   右に轡(くつわ)の哀れげに、檀特山の憂き別れ、 「悉多太子(しつたたいし)を送りたる、車匿(しやのく)童子の悲しみも……」  というせりふに因っています。  この前の『陣門の場』から波幕(なみまく)を切って落とすと、須磨浦の浜辺になります。花道から馬に乗って出てきた熊谷が、海に乗り入れた平敦盛(たいらのあつもり)を見つけて、 「おーい、おーい」  と呼び止めますが、この呼び止めは『義経千本桜』の『大物浦(だいもつのうら)』での知盛の「天皇はいずくにおわす」と一緒で、大切な第一声(だいいつせい)です。 「おーい、おーい、おおーいっ」  と呼ぶ中にいろいろな意味が込められているんです。ここの敦盛はすでにすり替わった熊谷の息子の小次郎ですから、ここで呼び戻せば、親が手ずから我が子を殺さなければならない。その「ようし」という覚悟の意味も入っていますし、小次郎の敦盛もこの「おーい」で死ぬ覚悟を新たに浜辺へ戻って来るというわけです。  筋から言えば、事前に親子で話し合いはついているはずですが、この呼び止めで、半分は見物を惑わせ、半分はせりふ回しの調子で盛り上げていくということです。  身替りだの、何(なん)の某(なにがし)実は誰某(だれそれ)というのは歌舞伎の常套ですから、ここでも、どこまでが小次郎でどこからが敦盛を見せてなんということは強いて考えなくていいと思います。第一、理屈を言い出せば、二人の組討にしても舞台中央へせり上がってくるわけで、砂の中から熊谷と小次郎の敦盛が出てくることになります。  そんな細かい理屈より大事なのは形です。やはり見物に熊谷次郎直実と平敦盛との組討だという印象を与えなくてはいけません。小次郎と熊谷では芝居にならなくなってしまいますからね。  ここへ敦盛の許婚玉織姫(たまおりひめ)が出てきます。前の『陣門』で、横恋慕する平山武者所(ひらやまのむしやどころ)の手に掛かって手負いになっていますが、熊谷が敦盛の首を打ち落としたと聞き、今わの際にその首にすがって愁嘆(しゆうたん)を見せます。  この愁嘆でも、前で敦盛という印象を強くしておきませんと玉織姫が生きません。実際の小次郎と玉織姫とは何の関係もありません。すでに目が見えなくなっている玉織姫がおいおいと泣くのは、あくまで許婚の敦盛が死んだと思い込んでいるからです。また見物がこの愁嘆に涙を誘われるのも、恋人を亡くした若い女の悲劇として同情するからで、変な理屈が入る余地なんかない場面のはずです。つまり非情な戦の中で、将来ある少年が無残にも殺される悲劇、またその少年を殺さざるを得なかった男の悲劇、かてて加えて愛する人を戦のために奪われてしまった若い女性の悲劇というのが、この幕の眼目(がんもく)なんです。  九代目さんは晩年、玉織姫に敦盛の首を渡すと、いったん引っ込んだと聞いています。というのも熊谷が身に着けている白檀(びやくだん)の鎧が実に重いんです。九代目さんは私より若くて亡くなられましたが、小さい方のうえに、いろいろ若い時から苦労をなさっておられましたから、肉体的にも体力のある方じゃなかった。それでいて、あれだけ偉大なことをなさったんです。そこで肉体的に保(も)たないということで、いったん引っ込んだんだろうと思います。  私もこの頃は『檀特山』の熊谷が辛くて、岩へ腰掛けたりしましたから、九代目さんの辛さがよく分かります。けれども本当は、腕を組んで後ろ向きに海を見詰めてじっと立っていなければいけません。そうやって玉織姫の愁嘆を聞いていませんと、後へ気持ちがつながりにくくなってしまいます。この役を当り役にしていた播磨屋のおじさん(初世吉右衛門)も、むろんそうしていました。  玉織姫が落ち入ってしまうと、 「いずれを見てもつぼみの花……」  のせりふになって二人の亡骸を海へ流し、小次郎の敦盛の首を母衣(ほ ろ)に包んで馬の首へ結び付け、形見の品を馬の背へ載せます。こうしたところは、播磨屋のおじさんは義太夫の三味線に乗って、丁寧な実にいい舞台を見せてくださいました。  すっかり片付け終わり、 「流転三界中恩愛不悩断、南無阿弥陀仏」  と拝みます。何でもないようなところですが、ここが非常に難しい。とにかく見物の目が熊谷へ集中していますから、丁寧にやらなくてはいけません。  家の親父も書いていますが、『檀特山』は半分は馬の芝居なんです。『塩原多助一代記』のように馬が芝居をするわけではありませんが、やはり馬に情愛がないと、いい舞台にはなりません。もっとも親父の時代には、いい馬がまだいました。ことに、 「悉多太子を送りたる……」  で、馬の首をくぐって泣くところなど、名馬と駄馬とでは大きな差が出てしまいます。  敦盛の形見を馬に一つずつ着けていく場面は、ゆっくりやらなくてはいけません。またどんなに丁寧にやっても、見物は付いてきてくれます。鎧を載せる、太刀を着ける、兜をかぶせると、すべて生きている人間が馬へ乗っている形にしていくんですから、そうそう簡単にはできません。見物の目も、そうやって一つずつ着けていくから、そこに敦盛が乗っているように感じるというわけです。  ですから若い人に言うとすれば、前半の組討の件りと同じにここの場面も、雑にならないよう丁寧にやらなくてはいけないということでしょう。組討のあいだは雑になりっこないんですが、馬に物を載せるなんというと、ただそれだけのことなだけに、どうしても雑になりがちなんです。けれども、ここは気持ちがずっと続いているところですから、けっして気を抜いてはいけないわけです。熊谷はむろんのこと、馬の役も仕事を手伝う後見も、敦盛を乗せているんだという気持ちで、いい加減にならないように気を付けなくてはなりません。  それにしても「兜の下のきりぎりす」の芝居はいくらもありますが、その中でも『檀特山』は最も詩があって、いい芝居ですね。 『生田森熊谷陣屋の場』になります。  ここでの熊谷は自分の手で我が子を殺したことと、これからの首実検で義経がどう出てくるかという二つが屈託としてありながらの花道の出(で)になるわけです。ですから数珠を持って出て、七三でその数珠を出す時はズルッと何気なしに出すようにします。顔も上げてはいけない。ズルズルッと数珠を出し、気が付いてハッとなるという段取りです。  熊谷の衣裳は、人形のほうも芝翫さんの明治時代の写真を見ても、赤地錦の裃(かみしも)で通しますが、気分が変わらないので私は織物の長裃にしました。  堤の軍次を奥へやり、   跡見送って熊谷は……  の床(ゆか)の次のせりふは、芝翫型ですと原作そのままに、 「こりゃ女房、その方(ほう)は何しに来た」  と言いますが、団十郎型では、 「やい、女」  で、だいぶ違います。初めて団十郎型でやりました時に、以前の芝翫型とは勝手が違って、なかなかうまく言えなかったことを覚えています。  相模の、 「シテ、その手傷は、急所ではござりませぬか」  にかぶせて言う、 「ソレソレソレ、まだ手傷を悔やむ顔付き」  のところで芝翫型は煙管(きせる)を使いますから、相模はその前に煙草盆を熊谷のそばへ持ってきておかなくてはならないというように、団十郎型よりだいぶ相模の仕事が増えます。  藤(ふじ)の方(かた)の顔を見て驚き、   飛び退(の)きうやまい奉れば  のところも、芝翫型は文字通りポーンと飛びますが、団十郎型は「飛び退き」で刀を前へ出し、袂をポンポンと払って口を開け、「カーッ」と頭を下げます。口を開けるのは芝翫型も同じですが、本当に飛ぶんですから、ずっと派手なんです。 「物語」は、親父は何も書き残していませんが、ここは親子の情愛のほうが出てくるのが自然ですから、私はすべて相模へ聞かせるようにしています。藤の方へ聞かせる必要はないわけですからね。むろん藤の方への礼はちゃんと尽くしますが、相模に対して「お前も聞けよ」という心のほうが強いはずです。  院本ではここで真実を明かしてしまいますが、芝居ではそれを隠すようにしています。そのほうが、含みがあって奥行きができていいと思います。 「返させ給え、おーい、おーい、おおーいっ」  の物語での呼び止めは『熊谷陣屋』だけを出す時には、いわゆる第一声風にいっぱいに張って言いますが、『組討』から通す場合には重なった印象を与えないように、微妙な違いを工夫しなくてはいけません。すなわち『組討』は事実、『陣屋』では物語という違いを出すわけです。   逃げ去ったる平山が、後ろの山より大音声(だいおんじよう)  でも、芝翫型は前へ出てきて三段へ足を落とし、「大音声」で軍扇(ぐんせん)を開いて下から顔を上げていきます。これも人形の型で、団十郎型よりずっと派手です。細かいことですが、芝翫型でも、むろん本行(文楽)でも「後ろの山より」ですが、団十郎型では「向こうの山より」と直して語ります。   千々(ちぢ)に砕くるもの思い  で、制札を使った大見得になります。制札の字を書いたほうを上にして見得を切るのは芝翫型、下に突いて極まるのが団十郎型です。  義経に首を見せるところで、播磨屋のおじさんは首をグイッと前へ出し義経へ突き付けるようにしました。けれども、そうしてしまうと義経がかわいそうなんです。何故かと言いますと、義経は熊谷を信じているんですし、同時に熊谷も義経を信じているはずの関係であるべきですからね。また突き付けなくても一目見れば、誰の首かは分かりますよ。ですから私は、   言上(ごんじよう)す  とむしろ首を手前へ引いて、義経がどう出るか顔でもって義経の気持ちを窺う、というほうへ主眼を置くようにしています。  播磨屋のおじさんのこの件りは、おじさんの癖なんですが、襟(えり)から何からよだれとつばきでドロドロになって大変でした。  団十郎型でずっとやるようになってから一度、梅幸さんの相模で熊谷をやったことがありました。梅幸さんとは芝翫型でやった時にも一緒でしたから、ちょっと二つの型の折衷を相談して、実際にやってみました。というのは、 「コリャ女房、敦盛卿のおん首、藤の方へお目にかけよ」  のところが芝翫型は実に情があっていいんです。今は首を下へ置いてスーッと出すだけで、これは団十郎型です。そこを芝翫型は、熊谷が右脇へ首を抱えて前へ出て三段へ片足を落として首を差し出す、と相模が立っていって熊谷の手にすがる、二人が見合ってチンとなる、という手順になっています。  これはいい型ですよ。ですから、これからは一概に「これは誰々の型だから」と忠実に守っていくばかりでなく、他の型でもいいところは採り入れて折衷していくことも大切だと思います。もっとも私も、芝翫型をやってみたから分かったんですが。  芝翫型では二度やっています。ただ芝翫型ならば、幕切れは、本文通りに有髪の僧でなければおかしいんですが、私はお師匠さんの竹三郎さんに言われた通り、坊主頭になりました。それを三宅周太郎(みやけしゆうたろう)さんが、 「有髪の僧になるべきだ」  と書きました。こっちも知らないんじゃないんです。知ってはいても、お師匠さんが「こうやれ」と言うのには逆らえないんです。けれども今後、芝翫型でやってみようという人がいるとしたら、やはり本文に「有髪の僧」とありますし、人形もそうなんですから、有髪にすべきでしょう。  他の役では、親父の熊谷に堤の軍次を東西でやりましたが、東京の時は藤の方に(七世沢村)宗十郎のおじさん、大阪では相模に(三世中村)梅玉(ばいぎよく)さんが出られました。  この東京の時に聞いたのが、宗十郎のおじさんの洒落の聞きじまいになりました。楽屋へご挨拶に行って、 「おじさん、お元気で結構ですね」  と言いましたら、 「もういけやせん。もうすっかり駄目でやす」  とおっしゃって、男の一番大事な所を指差して、その手首をダラリと下げると、 「これでやすからね。もうすっかりいけやせん。これが本当の、マン毒(満足)、マン毒」  義経の『陣屋』でのせりふの地口です。これには大笑いしましたが、これが聞き納めでした。  こんなふうで、宗十郎という人は昔風の実に洒落た方でしたが、家の親父とは仲が悪かったんです。相手は何事も洒落なんですから、「はいはい」と聞いていればいいんですが、それが堅い気性の親父のことですから我慢ができなかったんでしょうね。  大阪での時はまだ白井(松太郎)さんが健在で、ある日、 「松緑君、梅玉さんの所へ行って、聞いてこい」  と言うんです。白井さんには変わったところがありまして、たとえ変てこでもいい、何か変わったことを舞台でさせたがるんです。けれども私は堤の軍次ですから、シャシャリ出る役じゃありませんし、ただ普通にやっていなければいけない役です。それが白井さんには気に入らなかったんでしょう。いつもの癖で、何か変わったことを私にもやらせたかったに違いありません。それで、 「梅玉さんに聞いてこい」  と言う。仕方がないから出掛けました。 「実は白井さんからのお話で、おじさんに堤の軍次のご教示をお願いします」  さあ梅玉さんも困ってしまって、 「うーん」  としばらく唸っていましたが、 「ま、なんでんな、言うたら、わてをかぼうてくれはったらよろしおます」  それでお終い。さすがに梅玉さんでした。確かに軍次は相模をかばうより他に仕事のない役ですからね。  白井さんにはそんな癖がありました。このあいだ亡くなった(二世)鴈治郎さんのお徳(とく)で、私が『吃又(どもまた)』をやった時にも面白い話があるんです。二人が師匠の土佐将監(とさのしようげん)の住居を訪ねて、又平に土佐の苗字を許して欲しいと、女房お徳が大津絵に懸けて頼む件りで、   いつまで浮世又平で藤の花かたげたおやま絵や。鯰押さえた瓢箪のぶらぶら生きても甲斐なしと……  のところはお徳の見せ場で、梅玉さんのここは手拭を使ったいい型があって、実によかったものです。  ところがこの時は鴈治郎さん、そうやりません。どうしたかと言いますと、和紙を広げてしわを伸ばしたり絵の具を溶いて大津絵を描く振りをしたりしているんです。それでご当人が言うには、 「これなぁ、白井さんが、いつものは見飽きたさかい何ぞ工夫して、と言われたんで考えてこないしたら、白井さん、えろう喜びはってな」  とご自慢なんです。私はちっともいいとは思わなかったんですがね。  それがあの方には喘息がありまして、急に咳き込んで二、三日休まれて、(中村)扇雀(せんじやく)が代わりました。さすがに扇雀は、 「兄さん、親父さん(鴈治郎)のやり方は嫌ですから、いつも通りにやってよろしゅうございますか」  と言いますから、 「ああいいよ、好きなようにやりなさい」  と言ってやったんで、いつも通りにやりました。するとその日、病院へ行った弟子に鴈治郎さんが、 「坊(ぼん)(扇雀のこと)どないしてる」  と聞いたんで、 「いつも通りです」  と答えたら、 「そら、あかん」  扇雀が早速呼び付けられて、翌(あく)る日のことです。楽屋で私に申し訳なさそうに、 「兄さん、えらい親父怒りまして。しゃあないから、また妙なあれでやります」  ことほど左様に、白井さんに誉められようと思ったら、何か余計なことをしなければならなかったんです。  一方、梅玉さんという方は、前の(初世)鴈治郎さんから注文を出されますと、どんな注文にも、 「やります」  と言った人です。そう答えませんと鴈治郎さんのご機嫌が悪くなるんです。ところがある時、梅玉おじさんのほうがご機嫌斜めのことがあって、いつも通りに鴈治郎さんが、 「ここ、こないして」  と注文を出しましたら、ピシャリッと、 「やれたら、やります」  こう答えられてしまったらどうにもなりません。つまり本当は強い方だったんですね。  六代目の相手もなさっていますが、六代目は梅玉さんが怖かったんです。何も言わないから、それが六代目には怖いんです。やはり『吃又』で、六代目の又平が願い通りに土佐の苗字を許されて、裃を着けるところで弾く「物着(ものぎ)の合方(あいかた)」をどうするかが、稽古でなかなか決まらなかったことがありました。それでも梅玉さんは何も言いません。六代目が困りに困ったもんです。  そんな梅玉さんですが、花札(おはな)をやり出すと人が変わったようによく喋るんです。賭事がよほどお好きだったようです。  このあいだ亡くなった(坂東)八重之助君が、梅玉さんの所へ内弟子に入っていましたからよく聞いて知っているんですが、先立たれた奥さんと梅玉さんは駆け落ちした仲でしたが、この奥さんがまた何も言わない人だったそうです。どっちもどっちで何も言わない。着物なんかも奥さんが出しておいたのを黙って着て出掛けて、そのまま二号さんの所へ行ってしまう。奥さんのほうも何も言わずに切り火を打って送り出します。帰ってきても、 「どこへ行ってた」  とも何とも言わない。それでいて若い時に駆け落ちをしたというんですから、どんな相談の仕方だったんだろうと、みんな不思議がったという話でした。  そんな方でしたから楽屋でも何も言いません。昭和天皇の「あ、そう」みたいなもんですが、まだ陛下のほうがお話しになられましたよ。  こうした無口とか不器用さに対して、六代目は非常に弱かった。相手が器用なら平気なんです。矢でも鉄砲でも持って来いでした。ですから、播磨屋のおじさんとは呼吸(い き)が合うわけなんです。播磨屋も器用でしたから、それで二人の芝居は面白かったんです。  けれども、不器用さには圧倒されてしまうんですね。上の兄貴(十一世団十郎)が『義経千本桜』の権太をやった時のことです。権太は器用でないとちょっとやれない役ですが、なんせ兄貴は不器用でしたから、 「おい、兄(あん)ちゃん、こうやれ」  と六代目が教えますが、なかなかできないんです。その時も、 「不器用で困った、困った」  とは言いましたが、それ以上は何も言わなかったくらいです。まあ一方で「器用貧乏」ということもありますから、それで言えなかったということもあったんでしょうが。  有名な話ですが、二代目の左団次さんとはとうとう一生、同座していません。二人は高島屋のほうがやや年上の、ほとんど同期でしたから、楽屋などで会いますと、 「おい、高橋(左団次の本姓)」  と呼び捨ての仲でした。この高島屋さんが無口なんです。六代目が一方的に、 「おい、高橋、こうだ、ああだ」  と話すだけでしたから、よく六代目は高島屋のことを、 「あの野郎、歯入れ屋の看板みてえに白い入れ歯で笑ってばかりいやあがって」  と言ってました。高島屋はきれいな歯をしていましたが、六代目の話にお愛想でただ「ハハハ」と笑うだけで相手にしなかったんです。これが六代目には怖くてなりません。かえって播磨屋のように喧嘩したり、刃向かってきたりする人に対しては強いんです。  それでいて終生、高島屋をライバルと見ていました。私は実際は見ていませんが一時、高島屋のやったものばかりを六代目がやっていた時代がありました。『慶安太平記(けいあんたいへいき)』の丸橋忠弥(まるばしちゆうや)だの『勧善懲悪覗(かんぜんちようあくのぞき)機関(からくり)』の村井長庵(むらいちようあん)だのの写真が残っていますが、村井長庵なんか様(さま)になっていませんよ。また高島屋の村井長庵というのは、これは大したものでしたから。  つまり長庵と『盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめがかがとび)』の道玄(どうげん)の違いなんです。高島屋には道玄はできないけれども一方には長庵ができない。芝居というものは、芸というものはそれでいいんですし、またそれだから面白いんですね。  六代目は『慶安太平記』の丸橋忠弥もやりました。これは『捕り物』の立回りが物凄い狂言で、当時の市村座には立回りのうまい者がいっぱいいましたからやってもみたんでしょうが、これもうまくいかなかった。  立回りにどんなに力を入れてみても、『濠端(ほりばた)』になりますと、一方は見得でも何でも大きいから比べものにならないんです。  高島屋の『鳴神(なるかみ)』の柱巻きの見得なんていうのは、形が悪くてずいぶん失礼なものでしたが、見物にはそんなことは微瑕(びか)としてしか印象に残りません。全体的に何とも言えないよさですから、これはもうどうにもしようがないんです。  六代目は私たちに、高島屋の芝居ですと、 「行くな」  とは言わず、かえって、 「行ってこい」  と勧めたくらいです。それで帰ってきますと必ず、 「どうだった」 『番町皿屋敷(ばんちようさらやしき)』を見ました時はまだ十代でしたから、非常に新鮮な芝居に見えました。高島屋の青山播磨(あおやまはりま)が幕切れに、長押(なげし)の槍を取って小脇にかい込んでトントントンと飛んで、花道で何もしないで、そのままタタタタと走って入ってしまうのを初めて見た時の感激は今も忘れません。普通なら七三で槍を抱え直すくらいのことはしたくなる場面ですからね。それで帰ってから六代目に、 「ずいぶん面白い芝居です」  と報告しましたら、 「うん、そうだろうなあ」  と言いましたね。  高島屋という人は何も言いませんが、錦絵の研究をしたり、真山青果(まやませいか)さんの作品を読んだりやったり、いろいろ勉強した方でした。伝説かもしれませんが、ご自分の部屋の床柱へ寄り掛かっては沈思黙考されるんで、頭の油で柱が真っ黒になっていたと言います。それほど苦労をなさっていましたが、ご自分からは何もおっしゃらない。一方の六代目は、 「何をやった、かにをやった」  とすぐに言う。ですから、言わない人が怖いんです。  六代目も物によっては負けたでしょうね。何もしない役なんかでしたら、どうにも太刀打ちできなかったでしょう。それだけに六代目にとって、一番怖かった人だったんじゃないでしょうか。  十五代目(羽左衛門)などには、 「市村の兄貴は、あんなことをして」  と批判もしましたが、高島屋の芝居には何も言えなかったんです。人気者の二人のことですから、菊左一座なんという話がなかったはずはないんですが、終生、一座しなかったのは、六代目のほうで避けていたような気がします。相手と自分をよく知っていたんでしょうね。  高島屋が亡くなった晩に未亡人が六代目を訪ねてきまして、 「左団次の名跡(みようせき)を、誰か継ぐ人はいないかしら」  と相談したくらいですから、やはり名人、名人を知るという関係だったんですね。それでなければ六代目の所へは来ませんよ。順から言って沢瀉屋(おもだかや)(市川猿翁(えんおう))あたりに頼んだはずです。  今だからもう時効でかまわないでしょうが、実は三代目左団次襲名の話は最初、六代目から私へあったんです。 「どうだ、高島屋を継がねえか」  と六代目に呼ばれて聞かれました。けれども左団次という名前は堀越(市川団十郎)家の弟子頭(でしがしら)なんです。  となると上の兄貴のこともあり、後々おかしなことにでもなったりするのは嫌でしたし、左団次を継ぎたいとも思いませんでしたから、 「私は松緑で結構です」  とはっきりお断りしました。 「じゃあ、清(きよし)(荒川清・三世左団次)に話を持っていくが、お前(めえ)、絶対他人(ひ と)に言っちゃ駄目だよ」  と口止めされました。 「お前が断ったと言うと、清も行く気がしないだろうから、俺は初めてあいつに話すことにしといたほうがいいから」  と。ですからこれは、荒川さんが在世中は、一言も言ったことのなかった話です。 傾城反魂香 傾城反魂香(けいせいはんごんこう)  これも義太夫歌舞伎で、近松門左衛門の作。宝永五年(一七〇八)八月、大坂竹本座で初演された。全三段構成で、狩野元信が土佐光信の女婿となり絵所の預かりとなる史実や、吃りの又平が手水鉢を石塔に見立てて自分の姿を描くと、それが裏面に抜ける、という仏説、そして死者の霊を呼び寄せる反魂香の説話と、幾つかの要素を織り込んだ作品である。こんにちよく上演されるのは、上の巻の『土佐光信閑居の場』の独立したものである。江戸期以来、歌舞伎独特の演出が行われていたが、六代目はその初演時の原作により忠実な演出を考案し、お徳に大阪の三世中村梅玉を迎えて六代目独自のものを作った。現行の演出はそれ以来のもので、以前の旧演出を踏襲している人はいない。いかに六代目という人が際立った力を持っていたか、その証拠ともなるべき作品である。   吃又  私の『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』、俗に言う『吃りの又平(吃又(どもまた))』はまったく六代目(尾上菊五郎)通りにやっていますが、六代目の『吃又』は、九代目(市川団十郎)の『一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)』の熊谷次郎直実の場合と正反対なんです。  九代目の熊谷は、原作に近かったそれまでの芝翫(しかん)型が、時世の流れから言ってもどうしても余韻に乏しいのと、九代目がこの作に感じた戦(いくさ)の無残さ、はかなさといったものを表現するのに適当と思えなかったので、自分で工夫なさってやや原作を離れて、幕切れなども熊谷一人が幕外の引っ込みになるといった、あの九代目型を作り上げられたわけです。  一方、六代目の『吃又』の場合は、昭和十四年五月にこれをやった時、それまでやられてきた型が原作を離れていろいろ入(い)れ事(ごと)があったのを、六代目は不具者の悲哀というテーマを強く表現するためには原作に戻るべきであると考えて、本行(ほんぎよう)(文楽)に忠実な六代目型を作り上げたわけです。  けれども、九代目にしても六代目の場合も、それまで踏襲されてきたものをこれ程まで大きく変えられたということは、実に大変な頭脳と実力だと頭が下がります。  家の親父(七世松本幸四郎)も『吃又』をやっていますが、親父は九代目さんがやっておられた通りでした。このやり方は(三世中村)仲蔵(なかぞう)さんから来ていまして、その頃はみんなこの型でやっていたんです。ですから、むろん大和屋のおじさん(七世三津五郎)もこの古いやり方でした。  古い型は幕が開きますと、最初から又平夫婦が在所(ざいしよ)のお百姓と一緒に出ています。又平の頭は、朴訥さだのちょっと足りないところのある役どころの時にかぶるぼっとという鬘(かつら)で、三枚目風な装(つく)りです。狩野(かのう)元信(もとのぶ)が描いた虎が絵から抜け出して近隣を荒らしているのを、修理之助(しゆりのすけ)が筆で描き消す件(くだ)りも又平夫婦の目の前でやりますし、原作にない瀬田鰻(せたうなぎ)などを出したりして喜劇じみた演出で見物を笑わせるようになっています。さすがに代々の名優が工夫を重ねた型ですから、これはこれで一つのやり方なんです。と言いますのは、チャップリンの喜劇に涙があるのと同じで、前で笑わせておいて、お百姓たちが、 「みな帰りましょう」  とワイワイと花道を帰っていく、後に夫婦が残る、ここで女房のお徳が、 「お願いでございます……」  と、夫に土佐の苗字を許して欲しいと願い出るという段取りになりますから、ここから舞台はグッと引き締まるわけです。  これで昔の見物は泣けたんですね。喜劇風な軽いところからそのまま吃りの件りへ入っていきますから、さほどに肺腑をえぐるほど車輪にやらなくても見物には受けます。けれども、そこに同時に落とし穴もあるんです。  気の毒なことですが、吃りというのは端で見ていますと三枚目と言っては何ですが、半分は滑稽にも見えてしまうものですから、うっかり幕開きからのちょっと足りない人間のような演技にそのまま乗ってしまいますと、吃りの悲哀というものがなかなか出てこなくなってしまうんです。そこで時世の流れと共にこれでは見物が泣けなくなってきました。六代目はそこへ気が付いて、原作を読み直し、 「これは原作通りやったほうがいい」  と判断して、すっかり変えたというわけです。  又平夫婦の登場も、虎の件りがすっかり終わってお百姓が帰り、将監(しようげん)夫婦、修理之助も引っ込んで舞台を空(から)にしておいて、   ここに土佐の末弟、浮世又平重起(うきよまたへいしげおき)という絵かきあり  の床(ゆか)で夫婦が花道から出てくるようにしました。  雅楽(う た)之助(のすけ)が狩野の館から駆け付けて、一大事が起きたことを告げます。そこで将監に、 「又平、物見いたせ」  と命じられ、又平は花道の付け際へ座って向こう(花道の揚幕のほう)をジーッと見張ります。この時に昔の型ですと鉢巻をして腕を組みますが、六代目型はただ座ってタタッと手を膝へ突いてかしこまるだけです。どこまでも絵描きということを基にしていますから、衣裳も袴付きで小刀(ちいさがたな)を差しています。  将監が狩野の館へ討っ手として誰をやったらよいものかと思案していると、又平が「自分を行かせて欲しい」と申し出ます。けれども師匠からかえって叱られて、「吃りでなければ許されるだろうに」と嘆く長ぜりふの後の、   さりとはつれないお師匠や……  の件りで将監にちょっと手を振り上げる型もあるそうなんですが、これは昔の演出ならやれましょうが、六代目の型では将監を指差すだけで、行儀よく、ただ悔しさを出すことを第一にしています。  将監に、 「邪魔ひろぐとこの将監が手は見せぬぞ」  と叱られて、 「サア、斬らっしゃりませ、このお願いが叶わずば、死にたい、死にたい、死にたい」  で三段へ座る時も、六代目はあぐらをかかずにちゃんと正座します。  いよいよ望みを絶たれて腹を切る覚悟を決めます。この時も六代目は羽織を下へ敷きます。どこまでも行儀よくできているんです。この羽織は手水鉢(ちようずばち)に絵を描き終わり、元へ戻って改めて腹を切ろうとする時に、お徳が引いて片付けるという段取りです。  又平という役は絵を描く時にウーンと力を入れますから、筆を持って構えた瞬間にチョボの三味線が強く腹へこたえるように弾いてくれませんと、魂が入りません。  描き終わってしまうと又平は魂が抜けてしまいますから、何につけてもお徳に引っ張られて動くだけでただ茫然としています。腹を切ろうとするのでも二度目の時には意気込みません。まったく無意識に刀や手が勝手に動いていくようにやらなければいけません。お徳に教えられ、手水鉢の絵が裏から表へ抜けたのを見て、 「嬶(かか)、抜けたっ」  と、ここで改めて魂が入るわけです。  これから後はもう楽なんですが、何と言っても吃りのせりふのあいだは本当に苦しみます。吃りには引き吃(ども)と突き吃(ども)の二通りがあるんです。  六代目は吃りのせりふ回しを、文楽の鶴沢綱造という三味線の人から『吃りの口伝(くでん)』という本をもらって教わったということです。私もこれを見せてもらい写しておいたノートを今も持っていますが、「アイウエオとマミムメモは吃らない」とか、細かいことがすべて書いてあります。  私には、これも軍隊時代の体験があるんです。初年兵に豊田という引き吃の男がいまして、実にかわいそうな目にあっていました。 「豊田っ」  と呼ばれただけで、何も言葉が出なくなってしまうんです。 「ハハハハハ」  と言ったきり次が出ません。 「ハハハハハ、はい、豊田……」  と答えないと出てこないんです。けれども軍隊という所は、 「便所(かわや)へ行って参ります」  でも何でも、いちいち報告をしなくてはなりません。それが、突き吃ならすぐに言葉が出るんですが、引き吃は出ないんです。それでいて何故か豊田も芝居の又平と同じで、歌を歌う時は吃らない。で、戦争が終わったらケロッと治ってしまったんですから、あれは、非常に精神的なものなんですね。  私が『吃又』を初めてやりましたのは戦後すぐでしたから、又平のせりふ回しは豊田の真似でやりました。現在も豊田とは付き合っていて、 「お前のお陰で芝居ができたよ」  と言いましたら、当人キョトンとしていましたが。  引き吃のせりふというのは、例えば、 「この討っ手には拙者めが参り……」  と言うのを息を引きながら、 「ホ、ほのふってには、へっしゃめが……」  となるんです。  こうしたことが、綱造さんがくださった『吃りの口伝』には細かく書いてありまして、六代目も私もその通りにやっています。また六代目のことですから、こうしたことは大変にうまいものでした。  吃りだからせりふの数は少ないんですが、それだけに一つ一つのせりふが肺腑をえぐります。足の悪い人はなるべく足が悪くないように見せるというように、不具者ほど悪い所を他人(ひ と)に見せたくないのが情ですから、吃りもなるべく吃りたくないようにするんですが、それがかえって肺腑をえぐることになってしまうんですね。  さて又平は手水鉢に描いた絵によって、将監から土佐の苗字と討っ手に行くことを許されて、「台頭(だいがしら)の舞」になります。これは仲蔵の型ですから南蛮(なんば)で踊ります。初代の中村仲蔵は志賀山(しがやま)流の踊りを中興した人で『関(せき)の扉(と)』などが有名ですが、もう一つ、志賀山流は南蛮で踊ることでも有名です。南蛮というのは、右手と右足、左手と左足を一緒に出す。よく小さな子供が「前へ進め」で同じほうの手足を出して歩く、あれが南蛮です。家の親父も大和屋のおじさんも、ここは南蛮で踊っていました。きっと九代目さんもそうだったんだと思いますが、六代目は南蛮が嫌いでしたから、写実な踊りにしていました。ですから私は写実な中へ多少南蛮を取り入れるようにしています。  私が『吃又』を正式にやりましたのは昭和二十七年六月の歌舞伎座ですが、それ以前、終戦直後ですから二十一年だったと思いますが、茨城から千葉と方々回っての巡業で、これを初めてやりました。  それまでに雅楽之助を二、三度やっていたので、六代目がやらせてくれたんです。A班とB班に分かれまして、A班は高島屋(三世左団次)を頭に、今の梅幸さん、市村(羽左衛門)君などで、確か関西から四国まで行ったはずです。当時のことですから、食べ物なんか大変だったと聞きました。私のほうのB班は私が座頭(ざがしら)で、脇役陣が凄いメンバーでした。(尾上)多賀之丞さん、(市川)照蔵さん、(尾上)梅朝(ばいちよう)さんなんという顔触れでチョボの扇太夫から作者などもこっちへ付いてきました。  ところがこの巡業の時の演(だ)し物(もの)が、最初『吃又』をやって中幕が『素襖落(すおうおとし)』、二番目が『人情噺文七元結』で左官(しやかん)の長兵衛をやったんです。会場はちゃんとした劇場などない時分で、野天(のてん)だったり飛行場の格納庫のようなだだっ広い場所ばかり、そのうえ一日二回公演でしたから、もうヘドノトヘトヘ。声なんか満足に出やあしません。  またいろいろな声を出さなくてはなりません。『吃又』は吃りですから口先では駄目なんで、腹から声を出します。次の『素襖落』はお狂言ですから調子が高い。その後が世話物で左官の長兵衛。あれで時代物でも加わっていたら、完全に声が出なくなっていたはずですよ。終いにはとうとうマイクロホンを置いてもらいましたが、まあ分かりやすい演(だ)し物(もの)ばかりだったのが幸いして、どこでも見物はいっぱいに入りましたがね。 勧進帳 勧進帳(かんじんちょう)  能楽の『安宅』から題材を得て、天保十一年(一八四〇)三月、江戸河原崎座の中幕として市川海老蔵(七世団十郎)が初演した。三世並木五瓶作、四世杵屋六三郎作曲、四世西川扇蔵振付。こんにちでは、あまりに有名な歌舞伎第一の人気狂言だが、初演時には「初代団十郎百九十年の寿、歌舞伎十八番の一」と標記したものの、それほどの評判をとるに至らなかったが、明治維新以後九世団十郎の典雅高尚趣味によって改訂され、荘重さを増して声価を高め、明治天皇の天覧に供した。団十郎の高弟七世幸四郎はこの弁慶を生涯に千六百回以上演じたといわれ、三人の子息をはじめ諸優に受け継がれて、こんにちに及んでいる。戦後の弁慶役者として、松緑の語るこの役に対する情愛には、明治の団十郎から父幸四郎を経て百年の歌舞伎の歴史が感じられる。   弁慶 『勧進帳(かんじんちよう)』に初めて出たのは大正六年十一月の帝劇で、家の親父(七世幸四郎)の武蔵坊弁慶、先代(六世)の梅幸おじさんの富樫(とがし)で、太刀持ちの役でした。太刀持ちはその後(二世)左団次さんの富樫で大正十四年三月の歌舞伎座の時に、もう一度やっています。その後は六代目へ預けられて十六歳の年、昭和四年三月の新橋演舞場で、六代目のその時で終わりの弁慶に先代(七世)の中車さんの富樫で、初めて四天王に出ました。  六代目は声に自信がなかったから、聞いた話によりますと、大正三年四月の市村座で初演の弁慶をやった時には、夜中に外へ出て怒鳴りまくったそうです。それだけに「延年(えんねん)の舞」になるとホッとしたんでしょう。けれどもそれをかえって自分への戒めにしたんだと思いますが、 「弁慶ってのは、踊っちゃいけねえ」  と口癖のように言っていました。  何と言っても六代目は声がないんで、前の「読み上げ」だとか「問答」はどうやったって無理なんです。すると、逃げ場はやはり後半へいっての「延年の舞」になります。舞になればお手の物なんですが、それだけに、 「菊五郎の弁慶は、前半がよくない」  と言われるわけです。  映画の紹介カットでもお能の前シテでも同じですが、芝居は総じて前半が大事です。後半になって見顕(みあらわ)しなどになってしまえば正体が現せますから、一生懸命にやるだけでもある程度はエネルギーで解決がつく場合もありますが、そこへいくまでの前半が大事ですし、やっていて骨が折れるんです。弁慶でも音吐朗々と勧進帳を読み上げて、いい声で富樫との問答を盛り上げておきますから後半が生きてくるんですが、六代目にはその自信がありませんでした。それであまり弁慶をやらなかったんです。 「弁慶は、踊っちゃいけねえ」  と言う時にいつも喩えに出したのは、九代目さん(団十郎)が『清正誠忠録(きよまさせいちゆうろく)』の二幕目『阿弥陀(あみだ)ケ峰廟所(みねびようしよ)の場』で、   梅が枯るれば尾花が茂る、ヨーイヤサ、いつも都に……  と踊るところで、 「あの踊りの名人が、実に不器用に踊られたんだ」  という話でした。けれども加藤清正は武将ですから確かに踊りには縁がなかったでしょうが、弁慶は、   舞延年(まいえんねん)のときのわか  と長唄(ながうた)の文句にもあり、本行(能)でもちゃんと舞います。ですから「踊っちゃいけねえ」と言ったのは、六代目の自戒の言葉だとはっきり受け取るべきでしょう。舞えないのに弁慶をやったんでは困りますよ。  近年では家の親父は弁慶役者と言われましたが、九代目さんの後見(こうけん)をずっと勤めておりましたから、やはり九代目さんを偲ばせるところはあったように思います。むろん私も子供時代の帝劇の時から親父の後見をしていまして、親父の最後の弁慶も私が後見を勤めました。  それで分かったんですが、親父は親父なりにだんだんと自分の型の『勧進帳』にしていったというところが見えました。例えば花道で義経が、 「いかに弁慶」  と声を掛けると、弁慶が、 「ハアー」  と答えるところでも、私が初めて梅幸おじさんの太刀持ちに出ていた時には、親父はちゃんと座っていました。それがそのうちに座らなくなりました。  だいたいが大正時代に入って能掛(のうが)かりになってから次第に変わっていきましたね。昔はお能の方に非常に権威があって、歌舞伎なんか全然相手にしてもらえなかったと言います。嘘か本当か知りませんが、九代目さんが『勧進帳』の足取りが分からなくて、宝生九郎(ほうしようくろう)さんをお訪ねした時に、奥へ案内なさった九郎さんの足取りを見てようやく悟られたというような話もあるくらいでした。  それが大正時代になりますと、時世と共にお能の方も開けてきていちいち勿体振らなくなられたんで、お願いすれば教えてくださるようになって、それで『勧進帳』なども次第に能掛かりに変わっていったんです。またお能の方もちょくちょく芝居へおいでになるようにもなりました。そうなると歌舞伎はまず着付けが違いますから、気に入らないのでご注意があります。  弁慶でも義経でも上へ着る水衣(みずごろも)が、九代目さんまでは全部前を開いて着ていました。これは私が太刀持ちをした頃までそうでした。けれどもお能では前を合わせて着るんです。それで歌舞伎でも前を合わせるようになりました。六代目の義経も親父の弁慶も、若い時には前を開けて着ていた水衣の前を合わせるように変わったんです。私は幸いに最初の頃からお能の方とお付き合いがありましたんで、したがって舞の型なども違っています。  衣裳の袖の露(つゆ)も、九代目さんは初めから取っておられましたが、親父は本行通りに、   それ山伏といっぱ……  の前のテンテンツンツンの祝詞(のつと)掛(が)かりから露を取って、後の「舞地(まいじ)」になって再び下ろすように変えました。面白いことに九代目さんは、「舞地」になっても露は取ったままでした。  富樫に怪しまれ、四天王や弁慶が「さては」となって花道から本舞台へ戻る、   おのおの跡へ立ち返る  のところでも、昔はトーントーントーンと踏み込んだものでした。九代目さんは『関(せき)の扉(と)』なんかでもトントントントンと踏み込んでおられましたし、親父も帝劇時代までは踏み込んでいましたが、『関の扉』の関兵衛(せきべえ)も『勧進帳』の弁慶でも自分の趣味に合わなかったのかどうか知りませんが、お能の影響だったんでしょう、途中から止めてしまいました。それ以後はずうっとそうなってしまいましたから、この頃では誰も踏み込みません。けれども芝居ではもともと踏み込んでいたんですから、踏み込んだっていいんです。 「延年の舞」でテテテンテンテン「えいーいっ」と跳び上がって、チチチンチチチンチチチチチチンとなりますが、あの跳び上がるのも、本行を写してからのことです。その時に弁慶は袖を巻いて跳び上がりますが、昔通りに露を取っていたんでは袖は巻けません。つまり昔は跳び上がらなかったというわけなんです。このように能掛かりになってから、あっちこっちが変わったんです。  ところでこの頃「滝流し」をやる人がありますが、私から言わせてもらえば「お偉い」としか申し上げようがありませんね。あんなに体力に自信があった親父が、 「家の師匠(九世団十郎)のあのエネルギーで弁慶をやったら、俺は花道だけで参っちゃう」  と言ってましたから、九代目さんという方はよっぽど精力があったんでしょうが、そのくらい弁慶というのは大変な役なんです。  ですから親父でも「滝流し」で花道まで行くなんという余裕は、とてもじゃないがなかったろうと思います。あの向こうっ気の強かった市村のおじさん(十五世羽左衛門)でさえ、初めて弁慶をやった初日には飛び六法(ろつぽう)で揚幕(あげまく)へ入った途端にぶっ倒れてしまったというくらい、体力と気力のいる役なんです。家の親父にしても私にしてもそうですが、揚幕の中で暫時休んでからでなくては、入ってすぐでは、とても梯子(はしご)を降りて楽屋へ帰るなんてことはできません。  ですから、なおかつ「滝流し」がやれるなんというのは、お偉いと申し上げるか、前半の「問答」だの「呼び止め」だのをよっぽど怠けていらっしゃると申し上げるかですね。むろん九代目さんは「滝流し」などやっておられませんが、親父はただ、   鳴るは滝の水……  と長唄の文句にありますから、ほんのちょっぴり型らしいものを入れて振りを変えた、と言うより加えました。それを「滝流し」の代わりにしたんでしょう。  弁慶はそれほどしんどい役で、腹からのエネルギーを大変に消耗する役なんです。若い頃にこれをやりますと、十のものを十二くらいでやってしまいがちなんです。そうするともうヘドノトヘトヘになってしまって、かえって本当の腹になかなか力が入らなくなって、ただただ肉体的にくたびれるだけという結果になってしまいます。それが三回、四回とやってきますと、だんだんコツが分かってきます。ここのところは無駄な力を入れてはいけないとか、ここはこうだと分かってきて、それはそれで大変にいいことなんですが、今度はお調子に乗りすぎてはみ出してしまうんです。弁慶がはみ出すと、富樫もはみ出したりして、「問答」にしても「呼び止め」の後にしても非常に行儀の悪い舞台になってしまいます。  こうした危険性は何にでもありますが、ことに『勧進帳』などに顕著です。馴れてくると危ない。そこでもう一度、褌(ふんどし)を締めてかかる気が大切なんです。  弁慶は親からの役ですから、やる機会は多くありがちなものですが、私としては、 「やはり五年に一度くらいにしてください」  と言ってきました。そうでないと振り返ることができないんです。振り返ってようく見極めますと、ずいぶん発見があって、 「ここはこれで、今までやりすぎたな」 「ここんところはちょっと足りなかったかな」  とかいくらでも出てくる。それだけに、常に自分で自分をチェックすることも大切になってくるわけです。  今ではビデオがあって自分で自分を見ることができますから、だいぶ昔とは違ってきましたが、以前『勧進帳』を三、四回立て続けにやった時に尾崎宏次(おざきこうじ)さんが劇評で、 「松緑の弁慶は、壁に突き当っている」  と書かれました。その時はありがたい言葉だと思って、考えましたね。本当だったんですよ、ベストは尽くしているんですが、どこがいいんだか悪いんだか分からなくなっちゃっていたんです。当時はそれこそ年に二回くらいやらされていましたから『勧進帳』が惰性になっていたんですね。尾崎さんにそういうところを見抜かれてしまったんです。何年か経ってお目に掛かった時、 「あの時はどうも……」  と言いましたら、 「そんなことを書きましたかね」  と覚えておられなかったようでしたがね。  そういうことってあるんです。どこがいけないんだか分からない。全体的に行き詰まってしまうってことが。 『勧進帳』の弁慶と言えば、私の場合父親譲りと言われますけれども親父から教わったことは一度もないんです。親父とは声柄(こえがら)も違いますから、親父そのままではありません。また兄弟三人ともやっていますが、それぞれに少しずつ違います。  中の兄貴(松本白鸚)は例えば「問答」なんかはいいんですが、声が低かったから甲(かん)の(高い)声があまり出ません。私は逆に呂(りよ)の低い声が出ないんです。その点、上の兄貴(十一世団十郎)は一番楽だったでしょうね。父親譲りで高い声から低い声まで全部出ましたから。それでいて上の兄貴は弁慶のニンじゃありません。もう出てきただけで富樫の人でした。富樫役者としては、当時ちょっと太刀打ちできる人はいませんでしたね。  私が見ている『勧進帳』では、やはり十五代目(羽左衛門)の富樫、六代目の義経、それに家の親父の弁慶というのがいわゆる三幅対(さんぷくつい)で、近来の白眉っていう大舞台(おおぶたい)でしたね。  そういえば私の所に鳥居清満(とりいきよみつ)さんが描かれた肉筆の弁慶の絵がありました。この軸は八百(や お)善(ぜん)さんから家の親父がいただいて、『勧進帳』をやる時には必ず楽屋へ掛けていたものなんです。それが私の所へ回ってきましたんで、私も親父のように『勧進帳』のたびにいつも掛けていました。  昭和五十九年です。歌舞伎座で舞納めの弁慶をやりました時のこと、ちょうど新しい清光さんが襲名され、字は違っていても同じ鳥居キヨミツで滅多にない肉筆で、出が八百善さんであるうえにちゃんと履歴も書いてある由緒正しい絵でしたから、それを機会に鳥居さんへお返ししました。  偉がるわけじゃありませんが、あの時はもう足は悪いし、体力や気力の衰えを考えまして、あんまり下がった『勧進帳』を見物へ見せるのは嫌でしたから、舞納めということにしたんです。 毛抜 鳴神 毛抜(けぬき)・鳴神(なるかみ)  二世市川団十郎によって寛保二年(一七四二)二月、大坂佐渡島長五郎座(大西芝居)で初演した『雷神不動北山桜』には、後に七世団十郎によって制定された歌舞伎十八番の『毛抜』『鳴神』『不動』が含まれている。『毛抜』は、筋としては他愛のない御家騒動物だが、磁石を使って推理小説もどきに謎を解く趣向の大胆さや、大らかな古劇の味わいが全体にあふれている。七世団十郎以来絶えていたが、明治四十二年九月二世左団次によって復活され、同優の当り芸になった。一角仙人伝説から材を得た『鳴神』は二世団十郎以前にも同種の狂言があるが、独立した一幕としてこんにちに残ったのは、明治四十三年五月二世左団次によって復活されて以来であった。昭和四十二年一月国立劇場での『雷神不動北山桜』の通し上演は松緑によって成功し、江戸歌舞伎の復活としての意義は大きかった。   粂寺弾正 鳴神上人  歌舞伎十八番物の中でも『毛抜(けぬき)』と『鳴神(なるかみ)』の二演目は何と言っても高島屋(二世市川左団次)のものです。菊五郎劇団とは縁のない演(だ)し物(もの)のうえに、六代目と高島屋はとうとう同座せずに終わりましたから、六代目は相手役さえ手掛けたことがないばかりか、見たことさえないんじゃないでしょうか。私たちには、 「高島屋を見てきたか。どうだった、どうだった」  と必ず聞きましたが、自分は見にいったことはないはずです。  六代目が実に偉かったのは、何度も言うようですが、自分をよく知っていたという点です。例えば、 「六代目は芝居を捨てる」  とたびたび批判されましたが、 「俺だってそれが我が儘だってことは分かってるんだ。けれどもどうしても乗ってこねえ時があるんだよ」  と言っていました。客席で赤ん坊が泣くとか静かであるべき芝居でガヤガヤされるとか、大向(おおむ)こうの掛け声でも、演し物によってはそれだけで乗れなくなってしまうんですね。  六代目はだいたい声を掛けられるのは嫌いでしたが、これは私にも経験がありますからよく分かります。大時代(おおじだい)の物は別ですが、新作ではことに影響します。また子供に泣かれたりしますと、現実に返ってしまいますしね。例えば『暗闇(くらやみ)の丑松(うしまつ)』なんかで「ジッと立つ」とト書きがあるようなところで、照明がフェイド・アウトします。一人でジーッと立っていてフーッと照明が消えていくのは、やっていていい気持ちなものです。  そんな時に大向こうから、 「音羽屋ぁっ」  と声が掛かると、フッと糸が切れてしまうんです。  六代目はことにそういうところでは、見物も一緒にジーッとなってくれることを望んでいました。けれども、望んだからといってその通りにはなりゃあしません。大向こうには大向こうのファン意識がありますからね。それで声が掛かる、と六代目の糸が切れてしまうんです。  歌舞伎役者の一番嬉しいことは、嫌な現実の世の中から離れて、ロマンティックに言えば夢の世の中へ生まれ変われるという、それが一番嬉しいんです。これは、見物するお客さんも同じような境地を楽しんでくださるものだと思います。それに対して、 「六代目はくそリアルだ」  という声もありました。確かに演技術としてはリアルな芝居を狙ったかもしれませんが、頭にはちょん髷の鬘を着けているんですから、やはり現代の人物じゃありません。自分は江戸時代とかいろいろな時代にさかのぼって、その中の人物になっているわけなんです。それが何かの拍子にフッと気が逸れてしまう。 「俺だって捨てるのはよくないと分かっちゃいるんだが、どうにもこうにも乗れなくなることがあるんだよ」  とよく言っていました。つまりそんなところも自分をよく知っていたんですね。  それでいて口は悪かった。私も生意気盛りには六代目の真似をして、偉そうな口をずいぶんきいたものでした。これは後になって他人(ひ と)から聞いた話なんですが、京都へあまり行かなかった六代目がようやく行くようになった頃のことです。うるさい土地柄ですから、何か私が言ったことが気に障ったんでしょう、あるお客が六代目の所へ来て、 「豊(ゆたか)が小生意気な口をきくけれど、将来のためだから、あんたから言ってやってください」  と言い付けたんだそうです。ところが六代目が言うには、 「俺には言えねえ。俺がそうなんだから」  六代目という人はとにかくえげつないことを言って他人(ひ と)をけなしましたが、それでいて、けっして軽蔑はしないんです。頭がよかったから何でも分かっていてやってたんですね。高島屋とは一生同座しなかったというのも、高島屋が自分にないものを持っていて、それは、自分の技術をもってしてもどうにも太刀打ちできないことを、よく知っていたからなんです。  高島屋という方は不器用でした。踊りにしても踊れないわけじゃないんです。家のお祖父さん(藤間勘翁(ふじまかんおう))の所へお稽古にみえていたということですから。ただおじょうずな踊りじゃありませんし、見得をなさっても形は悪いしで、本当に不器用な方でした。けれどもそんな傷を超越した魅力を持っておられたんですね。『毛抜』とか『鳴神』などには、高島屋一流の不思議な色気がありました。  一方、六代目には『毛抜』や『鳴神』のような非写実な物は、高島屋のようにはできません。形は立派なんですが、だいたいこうした十八番物に適した声がありませんし、第一に芸の質が違いましたからね。  ですから六代目は口では悪口を言っても、そういった高島屋に対して非常に敬服していたんです。私の知る限りでは、六代目ほど自分と正反対のことをやっている人の演技力を買った人はありません。  これは高島屋ばかりじゃありません。例えば(三世中村)梅玉(ばいぎよく)さんに対してもそうでした。梅玉さんはおっとりした古風な上方(かみがた)の味の方でしたが、六代目は自分の『吃又』の女房お徳をお願いすると言って、わざわざ大阪から連れてきたくらいです。  また晩年に東劇で『助六』をやった時にも希望して、揚巻(あげまき)に(七世沢村)宗十郎のおじさんをお願いしたこともありました。宗十郎のおじさんは癖っぽい人でしたが、何と言うか、古風と言ったらいいか写実なんということはこれっぱかりもありませんし、他人に物を教えるという方でもありません。ただ自分の思った通りにやるという型の役者でした。ですから、技術がどうのというんじゃないんですが、持って生まれた言うに言えないよさがありましたね。『助六』の白酒売りなんかはご当人は何とも考えずにやっておられるんですが、それでいて天下一品でした。そういうところを六代目はすぐに買ってしまいます。  他人は六代目を「傲慢」だの何だのと言いましたが、それは、思うことをすぐに口に出して言ってしまうからなんで、あれでずいぶん損をしています。結局はそれだけ正直だったということになりますね。けれども自分にないものを持っている人に対しては、もう先輩後輩なしで非常に敬服していました。晩年に家の上の兄貴(十一世団十郎)を可愛がったのも、兄貴のああいうボーッとした不器用なところが六代目自身にはなかったからなんです。さて可愛がりはしましたが、『鮓屋』の権太を兄貴がやることになった時には、六代目もさすがに困っていました。  何しろ兄貴はご存じの通りの不器用。権太は音羽屋系の芸で、ことに器用にやらなくてはならない役です。いっそ不器用なら不器用に徹してしまって、十五代目(羽左衛門)のように自分の権太にしてしまえばいいんですけれどね。十五代目はもう自分の権太にしてしまっていて、随所に十五代目臭さのある権太でしたが、それに徹していてそれなりにいいものでした。けれども兄貴の場合はそこまでいかないうえに、教えるのが正反対の芸風の六代目でしたから、六代目のほうがずいぶん困ってしまったんです。 「ここは、こうやるんだ」  と教えてもそれが兄貴にはできません。ところがそのできないところが、実はよかったんです。  禅問答めいた難しい問題ですが、芸事というものは、できたからそれで何でもいいというもんじゃないんです。私は六代目の手元にいましたから、全部が全部じゃありませんが、ある程度はできました。けれどもある程度できたということが得をしている反面、一方で損をしているかもしれないんですよ。上の兄貴みたいに徹底的にその通りできなければ、これはこれで立派なものなんです。そこが大きな問題なんですが、六代目はそれをよく知っていました。  家の親父(七世幸四郎)にしましても、自分が不器用でどうにもならないことを知っていたんで、私たち兄弟をいわば後輩たちへ預けたわけですが、それが我々三人にとって幸せだったんです。  もし六代目が高島屋の『毛抜』だの『鳴神』だのを見たとしたら、「うーん」と言うところはあったでしょうし、仮りに六代目がこうしたものをやったら、立派ないいものを見せてくれたに違いありません。けれど役者のニンということもあり遠慮もあって、いっさい触れずじまいになったわけです。  私はどちらかと言えばどうやらやれそうですから、やらせてもらっていますが、高島屋のおじさんのお弟子さんだった市川莚若(えんじやく)という人に一から十まで教わりました。  むろん高島屋のを二、三度見てはいましたが、要所要所くらいしか覚えてはいませんし、左団次の三代目を荒川さんが継ぐことになって、莚若さんが「改めて厄介になりたい」とこちら(菊五郎劇団)へ来ましたから、ちょうどいい機会だと思って教わったんです。そういう機会ってものはやはり逃してはいけませんね。  教わるのにもコツがあって、いきなり幹部の所へ行って、 「何々を教えてください」  と言っても駄目なんです。それよりはそばに付いている人のほうがよく知っています。私の経験では『蘭平物狂(らんぺいものぐるい)』を(中村)竹三郎さんに、『熊谷陣屋』を(中村)吉之丞さんに、『本朝廿四孝(ほんちようにじゆうしこう)』の山本勘助を坂東薪蔵(ばんどうしんぞう)さんにそれぞれ教わりました。演技そのものはおじさんたちのを見ておいて、細かいところはお弟子さんから教わるというのが一番なんです。それでないと、どこまで行っても真似になってしまって、自分のものにはなりません。  踊りで言えば、大和屋のおじさん(七世坂東三津五郎)写しと評判だった(坂東)三津之丞さんがそうでした。まあお弟子として師匠の真似をするのはしようがないことなんですが、自分で、 「私の踊りは三津五郎そのものだ」  と自認してしまったから、そこで止まってしまったんだと思います。  大和屋のおじさんの清元(きよもと)の『流星(りゆうせい)』などは今でも目に残っていますが、得意中の得意の演し物で、小さい身体を生かして実に綺麗に動かれていいものでした。それを三津之丞さんもその通りに踊りましたが、ここが面白いところで、おじさんがご存命中は三津五郎の影になっていて、 「三津五郎の名舞踊に似ている」  というだけで世間が認めてくれたんです。ところがおじさんが亡くなられて、三津之丞さんにしてみれば、 「もう三津五郎の踊りは俺のでなくちゃあ見られない」  と思ったでしょうが、どっこい見るほうはそうじゃなかった。逆にお手本がなくなると、 「やっぱり弟子は弟子だ」  となってしまったんです。おじさんが亡くなられた時に、 「お師匠さんが亡くなったんだから、ここでもって自分は自分の踊りを作らなくてはいけない」  と考えたら、より素晴らしい舞踊家になれたでしょうにね。  結局、似ていれば似ているほど、うまければうまいほど、似て非なるものになってしまうんですね。ですから芸事というのは、うまいまずいでは決着がつかないもので、そこが怖いしまた面白いところです。  上の兄貴は、今言いました通り独特の芸風でいきましたが、中の兄貴(松本白鸚)にしても、もう一杯播磨屋らしく突っ込んだ真似はしませんでした。中の兄貴は中の兄貴なりに自分のものをこしらえたのが、成功したポイントだったんです。  とは言っても、一時期はその通りにやらなくてはなりませんし、またやらないと怒られる時期もあります。それが言葉通りの修業時代です。ただ六代目だったらどうしたでしょうか、強いて、 「俺の通りにやれ」  とは言わなかったかもしれません。  これもいまだに覚えていますが、六代目の『梅雨(つ ゆ)小袖昔八丈(こそでむかしはちじよう)(髪結新三(かみゆいしんざ))』で勝奴(かつやつこ)をやりました時に、私が何もかも六代目の真似をするものですから、批評に、 「新三が二人いるようだ」  と書かれたことがありました。気が引けたんで、 「こんなことを書かれました」  と六代目へ言いますと、 「いいんだ、いいんだ。今はそれでいい。この先は、お前(めえ)は新三をやるんだから、今はそれでいいんだよ」  と言ってくれたことがあります。つまり勝奴という役そのものが新三の影法師みたいな役ですから、真似をしていいんです。けれども自分が新三をやる段になったら、ただその真似だけじゃいけません。六代目と私とでは声も違えば形も違う、第一に腕が違うんですからね。  私が豊(ゆたか)から松緑、梅幸さんが丑之助(うしのすけ)から菊之助になった時です。お扇子を描いていただいたお礼に、六代目が新橋の金田中(かねたなか)だったかへ横山大観(よこやまたいかん)先生をお招びしたことがありました。その時に先生が六代目を指して、 「君たち、今後この人の真似をしちゃ駄目だよ。真似をしたらこの人より上へ行けっこないんだから、絶対に真似しちゃ駄目だよ」  とおっしゃった。そうしたら六代目も、 「そりゃそうだ」  と相づちを打っていましたが、この横山先生の言葉は大変印象に残っています。  そんなわけで、『毛抜』も『鳴神』も莚若さんから教わりました。  高島屋のおじさんは癌で早くに亡くなられましたから、体力的なこともあり、この二つを別々になさったわけですが、お陰様で私は親の子で体力には自信がありましたから、演技のいい悪いじゃなしに原作に近い形で『雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)』として、この二つへ『不動(ふどう)』を加えてやらせてもらいました。昭和四十二年一月の国立劇場でしたが、まとめるとまた芝居が深くなって、一つずつやるのとは意味が違ってきます。これは自分にとって非常に幸せなことでした。  この二つは十八番物といっても『勧進帳』とはまったく性格が違う物です。高島屋のおじさんが明治の末に、土台になる台本はあったんでしょうが、ご自分でいろいろ工夫なさって作り上げられた物です。  若い時分の高島屋は「大根(だいこ)、大根」と言われていましたが、それをものともせずにやってしまったんですから偉い人です。私には、恐らく芸の好きな人じゃなかったように思われるんですが、それでいて、全精力をかけて芝居に打ち込まれて、それで早く亡くなられたんじゃないでしょうか。  私は、『毛抜』の粂寺弾正(くめでらだんじよう)は昭和三十一年以来たびたびやっています。  おじさんご本人は別に愛嬌のある方ではありません。どちらかと言えば、『箱根霊現躄仇討(はこねれいげんいざりのあだうち)』の滝口上野(たきぐちこうずけ)など実悪(じつあく)がよかった方です。出てくるだけで一腹も二腹もありそうに見える風なんですが、それが『毛抜』や『鳴神』になるとクルッと愛嬌が出たんです。独特で本当にいい方でした。お父さんの初代左団次さんもそうした風であったようで、やはり血なんでしょうが、役者としては息子さんの二代目のほうが大きかったんじゃないでしょうか。まあ初代さんは「団菊」というものがありましたから「左」がだいぶ損はしたんでしょうが、ともかく二代目は十五代目(羽左衛門)と並んで芝居をしても劣らなかったんですから、いかに大きな役者だったか分かります。  私は好きでしたね。最後になられた歌舞伎座での『好色一代男』の浮世与之助なんかも助平の本家のような役ですが、あれだけ身持ちの堅い方でありながら何とも言えない色気がありました。  ご両親とも胃癌で亡くなられていましたから、非常に癌を恐れて身を堅くされたんですが、結局、前立腺癌にかかられてしまいました。ことに印象深いのは、亡くなられるちょっと前に、芝居をお休みになるというちょうどその時に、私が最初の召集から帰ってきまして、新橋演舞場へご挨拶に行きました。 『寿曾我対面(ことぶきそがのたいめん)』の工藤祐経(くどうすけつね)をしておられましたが、もう老けてヨタヨタでした。奥さんが、 「藤間の息子さんが凱旋してこられて、ご挨拶にみえたんですよ」  とおっしゃいますと、 「ああ、ご苦労様でした」  と非常に暖かく言ってくださったんです。それがお会いした最後になりました。それから間もなく休まれて、それで亡くなられましたから、強く印象に残っているんです。  ところで、六代目は遠慮していっさい手掛けなかった二狂言ですが、もし六代目がやったとしても、型々の極まりなどはたいして違わなかったんじゃないでしょうか。馬鹿と天才とは紙一重の喩えじゃありませんが、不器用だとか何とか言いましても、とどのつまりまで突っ込んでいけば、そこに共通点が出てくるものです。また『毛抜』なんかはオカマを口説いたり女を口説いたりで、神経の細かいリアルな演技は必要がありません。かえって写実に変なことをしたら時代味(じだいみ)がなくなってしまいますから、六代目だってきっと似たようなことをしただろうと思います。  ことに『毛抜』で高島屋の型通りにやっていますと、それはもう時代味が横溢しているのが分かります。腰元の巻絹(まきぎぬ)が出したお茶を飲もうとして、傍らへ置いた毛抜や小柄(こづか)が立つ件(くだ)りにしても実によくできていて、 「ここのところはこうしてみようか」  などとは思ったこともありません。  だいたい高島屋のおじさんは浮世絵を収集されていましたから、見得だの、小原万兵衛をやっつけてからの動きだのに、浮世絵からいろいろいいものを取り入れておられます。また市川家の極まり極まりの不動見得(ふどうみえ)や元禄(げんろく)見得なんかもちゃんと入れておられます。ですから、「あれが足りない、これが足りない」ということがないんです。それで結局、私でも誰でもみんな、おじさん通りにやっています。  粂寺弾正で大変なのはこの毛抜の件りが勝負で、ここで見物をグッと引き付けておかなくてはならないことです。見物に「馬鹿馬鹿しい」と思わせたら、それでぶち壊しになってしまいます。  磁石を仕掛けた忍(しの)びの軍内(ぐんない)を天井から突き落とし、 「何とご覧なされたか……」  の長ぜりふがありますが、これが高島屋のようなせりふ回しなら楽なんでしょうが、何しろ立て板に水で、切らずに言わなくてはならないのが苦しいんです。  あの磁石は高島屋も、私がいつもやっているような船の羅針盤を使いました。実に洒落ていていい工夫です。ところが、前進座などは磁鉄鋼という本当の磁石を使っています。まあ理屈を言えばそのほうが正しいんでしょうが、これは、私は高島屋の考えのほうへ軍配を上げますね。あの舞台の流れの中で石を抱えて軍内が出てきたんじゃ絵になりません。これははっきり「改悪だ」と言い切れます。 『鳴神』は昭和三十九年に歌右衛門さんの雲(くも)の絶間姫(たえまのひめ)でやったのが最初ですが、その後は意外にやっていないんです。  これは上の兄貴も中の兄貴もやっていますが、別に色男ではなく武骨でもいい役ですから、私でも中の兄貴でもいいわけです。  ただ『鳴神』の勝負どころは、絶間姫に色仕掛けでそそのかされてのお酒の件りです。絶間姫にたらされているあいだのユーモアと、 「わしゃ坊さんを良人(おつと)に持つはいや」 「坊主は脚気(かつけ)の薬じゃがな」  のあたりの愛嬌が見せどころなんです。高島屋の鳴神上人(しようにん)は耳にはっきり残っています。 「名を変えるじゃて」 「何とえ」 「オオ、市川ぁ左だぁん次ぃ」  何とも言えない愛嬌に聞こえたものです。  それと、成功するかしないかの鍵を握っているのが実は白雲坊(はくうんぼう)・黒雲坊(こくうんぼう)なんです。この二人がちゃんと運んで盛り上げてくれないと、芝居にならなくなってしまいます。この二人の坊主は『道成寺(どうじようじ)』の坊主とは訳が違います。当時おじさんの所には不思議な味を持った人がいました。荒ちゃん(市川荒次郎)とか(市川)左升(さしよう)、それにこのあいだ亡くなられた(市川)寿美蔵(すみぞう)さん、ここいらが白雲坊・黒雲坊で脇を固めていました。  私も上人をやる前に、上の兄貴の鳴神上人で坂東君(現・羽左衛門)と二人で坊主をやっています。  この『鳴神』もほとんど高島屋通りですが、ただおじさんは上人が酔い潰されてからも、 「あら無念や口惜しやなあ……」  まではすべて下でなさって、化粧を直す時も緋毛氈(ひもうせん)で囲った中でなさいました。けれどもこのやり方では、絶間姫が引っ立たないんでかわいそうなんです。もっとも左団次一座ですと、絶間姫は(初世市川)松蔦(しようちよう)さんで、おじさんを「兄さん」と呼んでいらした関係でしたから、 「ここはこうしたい」  と思われても、言い出せなかったんじゃないでしょうか。その後になって、確か沢瀉屋(おもだかや)(市川猿翁)がこのやり方でやっていたのを見たことがあります。  ここだけは、 「いやとは言いもいたしゃせぬのに。モウならぬ。たわい、たわい」  と絶間姫と一緒に庵(いおり)へ入り横になる、伊予簾(いよみす)が下りて二人を隠す、絶間姫のせりふがあって、   相宿りする嬉しさは……  の独吟(どくぎん)になる、という今のやり方のほうが、情緒もあり、絶間姫も儲かり、化粧を直すのも楽と何から何までやりいいんです。  上人がたぶらかされたことを知って荒事(あらごと)に変わってからのせりふも、高い庵の中でのほうがいいですし、経本(きようほん)の見得もすぐそばに経本があるから、手順がずっとよくなるというわけです。 土蜘 茨木 関の扉 隅田川 土蜘(つちぐも)・茨木(いばらき)・関の扉(せきのと)・隅田川(すみだがわ)  この四作品はいずれも舞踊劇である。昭和十二年に四代目の藤間勘右衛門を継ぎ、藤間流を背負い、歌舞伎役者と日本舞踊家の二足の草鞋(わらじ)を履いた尾上松緑は、七世幸四郎、六代目ゆずりの歌舞伎舞踊にも数々の名舞台を残しているが、その代表的な四作品について語っている。『土蜘』は河竹黙阿弥の作で、五世菊五郎によって明治十四年六月、新富座で初演された。あざやかに繰り出す蜘蛛の糸の演出が見事で、尾上家の新古演劇十種の一つに数えられている。『茨木』はこれも新古演劇十種の一つ。黙阿弥作、五世菊五郎により明治十六年四月、新富座で初演。六世梅幸の茨木、七世幸四郎の綱の競演が有名。『関の扉』は天明四年(一七八四)十一月初演の常磐津所作事。上下二段の大曲で、変化に富んだ秀曲として、古風な味わいを伝えている。『隅田川』は能の『隅田川』に拠る数多くの作品の一つ。名曲、清元浄瑠璃を地に、子を探し求める狂女の哀愁を見事に表現した名品として評価が高い。   土蜘 『土蜘(つちぐも)』は『勧進帳』より早く昭和十三年の勉強会でやりましたが、私はその時に『勧進帳』がやりたかったんです。けれども、そんな勝手なことは言えませんからやりましたが、これが不思議なもので、自分で言うのは何ですが、わりに評判はよかったんです。と言いますのは、やるにはやったんですが、自分としては『勧進帳』がやりたいんで、『土蜘』は半分くらい気乗りがしない。その了見が出てモサモサやっていたのが、見るほうにはそれがかえってよかったらしいんです。それでわりに悪くは言われなかったという思い出があります。  この役は若いうちは気が引ける役です。それで私は六代目に相談をして、額にしわを描きました。六代目も若い時には丸々と太ってもいましたし、頬へ陰(かげ)を付けたりもしていますから、やはり気が引けたんだろうと思います。そんなわけで若いうちはしわを描くだけでも嫌だったのが、年齢(と し)と共に無理をしなくてもいいようになるに従って好きな演(だ)し物(もの)になりました。ですから、近年はずいぶんやっています。  これは『勧進帳』以上に前シテが何とも難しい。ことに花道へ出て舞台へ歩いてくるまでが勝負なんです。 『勧進帳』同様『土蜘』も、能掛かりになってからあっちこっちが以前とは違っています。初演の五代目さん(菊五郎)の写真を拝見しますと、こう言っては何ですが、沙門頭巾(しやもんずきん)まででたらめです。今は本行(能)の『土蜘』通り頭巾の両脇が角(つの)のように立っていますが、五代目さんがかぶっておられるのは、『蝉丸(せみまる)』のようにスポーとした沙門頭巾です。袖の露(つゆ)も『勧進帳』と同じで、五代目さんも若い時の六代目も初めから取っていましたが、途中から能掛かりになって変わりました。  そのために、前シテの終わりのところで蜘蛛の巣を撒く手順も違えました。昔は巣を撒くために袖無しの衣裳を着ていたから、充分にパーッと投げてサッと切れたんですが、本行(ほんぎよう)通りに袖の長い衣を着るようになったんで、撒くのが大変なことになってしまいました。ですから私は投げた巣を切らずに、投げたらそのまま後見へ渡してしまいます。そうしませんと蜘蛛の巣だらけになってしまいますから、後見へ渡して後見に巻き取らせるようにしています。もっとも花道だけはしようがありませんから、自分で切っています。   茨木  家の親父(七世幸四郎)と(六世)梅幸おじさんのコンビと言えば、他に『茨木(いばらき)』と『戻橋(もどりばし)』が有名ですが、自分で実際にやってみて、私は『戻橋』のほうを買いますね。これは本当に、幸四郎と梅幸がやったからどうにか見られたんですが、私なんかではもうどうにもなりません。『戻橋』はちょうど(六世)梅幸・(十五世)羽左衛門コンビの『色彩間刈豆(いろもようちよつとかりまめ)』、俗にいう『累(かさね)』と同じで、それまでほとんど知られていないものでしたが、二人が復活してからはおさらい会にまで出るようになったほど当ったんです。 『茨木』がよくないと言うんじゃありません。ただ『茨木』は能掛かりが入りますし、ストーリーに起伏もあります。けれども『戻橋』はいたって単純な物で、戻橋に女の姿の鬼が出るというだけのことなんです。ふつう芝居では途中から鬼だと分かるようにこしらえてありますが、これは初めから鬼だと分かっているんですから、ストーリーなんかないに等しい。それをあれだけの舞台にもっていったというのは、やはり梅幸おじさんと親父の力です。  楽ということでは『茨木』の渡辺綱(わたなべのつな)よりずうっと楽ではありますが、それだけに質の違う難しさがあります。 『茨木』のほうは『戻橋』とは違って作はいいし、親父の綱に梅幸おじさんの真柴(ましば)とくれば、これはもう神品でした。そりゃあ誰にも真似のしようがありませんね。私も親父の子ですから多少は似ているところもありましょうが、とてもとてもかないっこありませんよ。  綱は幕切れに、茨木童子を見込んで太刀を払って両手を開いて極まりますが、家の親父はバランスよく実にいい形をしました。あれは右手に太刀を持って左手はグーッと後ろへ引いて、左手から肩から太刀までずうっと一直線に並ぶようにするんですが、これが痛いわ苦しいわで大変なんです。ですから親父は、 「早く幕を閉めてくれ」  とよく注文を出していました。  どのくらい大変かと言うと、この綱をやっていて親父は心筋梗塞で倒れたんです。それを知っていますから、私は怖くて、とても親父ほどには左手を引けません。  あの時のコツは、顔は真っ平らに水平を見て目だけ上へ上げるんです。茨木童子は空へ舞い上がっているんですから当然目は上を向きますが、と言って顎まで上げたんじゃ間抜けになってしまいます。それで目だけを上げるんです。口をカァッと開けて舌を見せるのは、舌を出すんじゃありません。下唇の裏へ舌の先を持っていって歯を隠すためなんです。  梅幸おじさんの真柴はくっきりと目に残っていますね。綱に斬り落とされた自分の腕を取り返して喜ぶところなど、老女の喜びと鬼の喜びと両方の喜びをはっきり出しておられました。また声から何からモアーッとした味の方でしたから、 「これは津の国の……」  なんというせりふが、今でも耳に残っています。   関の扉 『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)』俗にいう『関(せき)の扉(と)』で近代の決定版と言えば、家の親父(七世幸四郎)の関兵衛(せきべえ)に(六世)梅幸おじさんの墨染(すみぞめ)、それに宗貞(むねさだ)は(十三世守田)勘弥でよし(七世沢村)宗十郎でよし、まずこの顔触れにとどめをさすでしょう。関兵衛は九代目さん(団十郎)もなさいましたが、家の親父のほうが売っているんじゃないかと思います。なぜかと言いますと、この『関の扉』も前半の関守(せきも)りの関兵衛のあいだが骨も折れますし難しいんです。小町(こまち)と宗貞の仲立ちをしてみたりと、ちょっと狂言回しめいていろいろやることがあります。親父は綺麗なうえにそうしたところの軽く三枚目風な感じがよかったですし、後半の大伴黒主(おおとものくろぬし)になれば、顔にしても声にしてもあの通り立派でしたからね。  六代目の関兵衛もむろん見ていますが、やはり声なんかで苦労していました。  墨染は六代目も他の人も、いろいろなさっておられますが、やはり、   墨染の立ち姿  とくれば、どうしたって梅幸おじさんのものでしたね。誰が見たって墨染桜の精に見えました。  人によっては小町と墨染と一人で替わってやることもありますが、当時の帝劇では、先の(沢村)宗之助さんが小町をなさいました。つまりそれぞれの一級品が揃ったんですから、いかにいい『関の扉』だったか分かっていただけるでしょう。   隅田川  六代目が晩年に、東劇と名古屋と二度『隅田川(すみだがわ)』を出した時のことです。それまで船頭役をずっとなさって名コンビと定評があった大和屋のおじさん(七世三津五郎)がまだご健在でしたのに、私にその船頭役をさせてくださいました。これは今でも光栄の至りだったと思っていますが、むろんうまいまずいということで私へ回ってきたんじゃありません。  大和屋のおじさんは六代目の先輩で、きっちりした芸の方でした。前にお話しした『吉野山』の忠信の衣裳一つにしても、それまでの型をけっして崩そうとはなさらなかったことでも分かっていただけましょう。  私もずいぶんお相手をさせていただいて、昔の大阪新歌舞伎座で『戻駕(もどりかご)』をおじさんの次郎作(じろさく)で、与四郎(よしろう)をやらせていただいたこともありました。この時に当時の新歌舞伎座名物だった大きなエレベーターの中で、 「テテテンテンテンで、いっぱいにちゃんと首をお振りなさい」  とご注意を受けました。一方、六代目はどう振ろうとも何も言いません。そういうふうに二人は違っておられたんですよ。  ですから、菊五郎・三津五郎の『三社祭(さんじやまつり)』なんかが名舞台として評判になったんです。おじさんは善玉(ぜんだま)できっちりした踊り、六代目は悪玉(あくだま)で気分で踊る。それでいてどちらも踊りの神様みたいにうまいんですから、そりゃあ結構なものでした。  ところが『隅田川』となりますと、九代目様(よう)の演出のものですから、その日によって段取りが違ってくるんです。まして狂女の役ですから、ある日突如としてスーッと花道まで行ったりします。と、船頭も花道まで追っ掛けていって止めなくてはならなくなります。大和屋のおじさんはそういう舞台がことのほかお嫌いでしたから、どうにも承知できないんです。それは六代目にもよく分かっていて、私が相手ならば勝手ができるというんで、それで晩年には私に船頭をやらせてくれたというわけなんです。  東劇で初めて船頭をやりました時に、最後の、   空ほのぼのと明けにけり  で、六代目の狂女がダダダダダッと舞台の前面(まえつら)すれすれの所まで出ていって、グーッと反ったもんです。あまり前へ出すぎましたから幕を閉められません。私はこっちで見ていまして、よんどだったら受けるつもりでいましたが、気が気じゃありませんよ。いつまでたっても幕が閉まらない。またあの人のことですから、そうなったら途中ではやめません。自分じゃグーツと反っていってぶっ倒れるつもりなんですからね。あの時には参りましたよ。  その後、私の振付けで梅幸さんの狂女で『隅田川』をやったことがありました。遠藤為春さんが亡くなるちょっと前でしたが、この舞台を大変に誉めてくれました。誉めてはくれましたが、その誉め方が踊りがどうの振付けがこうのというんじゃないんです。 「あんた方二人の舞台を見ていると、先代たちを思い出す。先代の幸四郎と梅幸を思い出す」  ということでした。遠藤さんとはそれが最後でした。九十いくつかでしたが、最後にそう言ってくれました。 梅雨小袖昔八丈 梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)  明治六年六月、東京中村座で初演された河竹黙阿弥作の世話物。五世菊五郎のために書き下ろしたものだが、主人公の髪結新三に扮した菊五郎の出色の出来によって大成功を収め、江戸世話狂言の代表的な一作となった。黙阿弥が得意の筆で江戸庶民の生々とした生活を描き、江戸っ子のきっぷのよさを演じてはこの人以外にないといわれた名優菊五郎演ずる髪結新三の小気味のよい悪党ぶりは、生世話物の代表作といわれた。五世没後六代目にこの役は受け継がれ、その名演も絶賛された。菊五郎系の財産ともいえるこの演目を、これからも沢山の人が舞台にかけることだろうが、そのお手本ともなる松緑の新三に多くを学ぶことができるはずである。すでに遠くなった江戸市井の香りがただよってきそうな芸談である。   髪結新三 『梅雨(つ ゆ)小袖昔八丈(こそでむかしはちじよう)』は、舞台装置から小道具から何から何まで汚(きたな)ずくめの芝居です。主人公の髪結新三(かみゆいしんざ)にしても弥太五郎源七(やたごろうげんしち)に向かって、 「好かねえおじさんさねえ」  などと言っていますが、当人だってずいぶん嫌なやつです。  それを世話物(せわもの)では周りで小綺麗にします。嫌なやつをそのまま出したんでは歌舞伎の世話物にはなりません。あの鰹(かつお)にしましても、当時はそれこそ江戸前で東京湾でとれましたから、初鰹という言葉そのままに新しくてすぐ食べられたものなんでしょうが、現代で考えますと、そうそう威勢のいい魚じゃありません。けれどもやはり、初鰹の威勢のよさ活きのよさを出さなくてはなりません。  ですから、『深川佐賀町新三内の場』の花道の出も、例の平せいの入った手拭(てぬぐい)を仕立てた浴衣(ゆかた)で足駄(あしだ)をはいて、スカッと粋(いき)な姿で出てきますし、小判(こばん)でも、儲けたら儲けただけ勝奴(かつやつこ)に半分やってしまいます。すなわちどこまでも江戸っ子を見せなくてはならないところが、難しい芝居だと言えましょう。  私は幸いに、六代目の新三で勝奴を長いあいだやらせてもらっていました。ことに『新三内』から一度『家主長兵衛内の場』へ舞台が回りますが、そのあいだはどうしても勝奴は新三と差し向かいでいるんで、その時間にいろいろ教えてくれましたから、ほとんど完全と言ってもいいくらい覚えてはいました。  そんな時に、 「お前(めえ)に新三をやらしてやるからねえ。俺は舞鶴屋(まいづるや)(三世中村仲蔵)のやり方で大家(おおや)さんと弥太五郎源七を二役替わってやってみてえんだ」  と言ってましたが、六代目はいっぺんどうしても大家の長兵衛をやりたかったんですね。残念ながら一度も大家さんはやらずじまいになりましたが、もし実現していたとしたらずいぶんと面白い大家さんができていたと思いますし、またいろいろと教えてもくれたでしょうにね。  これは役者というものの欲の深さです。六代目は『夏祭(なつまつり)浪花(なにわ)鑑(かがみ)』でも団七九郎兵衛(だんしちくろべえ)はやっていましたが、義平次(ぎへいじ)をどうしてもやりたくなったことがありますし、また『忠臣蔵』でも書いたように高師直(こうのもろのう)をやりました。つまり役としてただ綺麗だとか何とか言うのではなくって、役の面白味というものを年齢(と し)と共に追求したくもなりますし、同時にそうした年齢になりますと、やって味が出てくるものでもあるんです。  私は『髪結新三』を昭和二十五年に初めてやりましたが、六代目から手を取って教わるということはありませんでした。もともと生世話物(きぜわもの)というのは、教えてできるものではなし、教わってできるというものでもない。そこが芝居の中でも非常に難しいジャンルなんです。ことに生世話物は理屈っぽいことを言っていたんでは駄目なんで、第一に大切なのは雰囲気を身につけることなんです。  もっとも生世話物はこれに限らず、『神(かみの)明恵(めぐみ)和合取組(わごうのとりくみ)(め組の喧嘩)』からはじまって『盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめがかがとび)』に至るまで、どれ一つとして稽古してもらったことはありません。六代目のおやじさんがやっているのを身をもって見ていて、その中へ自分から勝手に入っていって、それでもしおやじさんがいなくなったら入ったままで自分がやってしまう、そういうつもりでなくては駄目なんです。ここはこうしたら、あそこはああしたらなんて言っていたんでは生世話物はできません。  とは言っても、人間ですから忘れることもあります。けれども要所要所で分からないことを書き留めておけばいいんです。例えば『髪結新三』には髪(かみ)を結うところがありますが、これは手順ですから、何べん、何十ぺんでもやって覚えて、自然に手に入っていなくては生世話物は駄目なんです。  私の場合は六代目がやる生世話物の中に、必ず何かの役に出してもらっていたのが何よりの財産でした。『め組の喧嘩』ならおもちゃの文治、『盲長屋』なら加賀鳶の伝七、『新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)』俗に言う『魚屋宗五郎(さかなやそうごろう)』なら三吉というように、六代目のそばにいる役を何か必ずやらせてもらっていましたから、否が応でも身体へ染み込んでしまったわけです。  序幕は『白子屋の場』ですが、ここの新三の装(つく)りは六代目が変えました。それまでは五代目も(七世市川)団蔵さんでも、写真を見れば分かりますが、盲縞(めくらじま)の着物に平絎(ひらぐけ)の三尺(さんじやく)帯を締めて白の襷(たすき)を掛けています。ところが、六代目は床山(とこやま)から、 「普段は商売回りの髪結(かみい)で、方々旦那衆(だんなし)のいい所(とこ)へ行くんだから、平絎の三尺などで行くわけがない。ちゃんと角帯(かくおび)を締めている」  と言われて変えたんだと、これは六代目からじかに聞きました。またあくまでも粋に見せるということから、衣裳は藍(あい)の無地にして、襷も元結(もつとい)をこよって襷にするようにしたんです。これなども江戸前の粋で小綺麗な小悪党(こあくとう)に見せる工夫なんですね。新三が小綺麗でないと、見物にしても溜飲が下がりません。この小綺麗ということは『髪結新三』ばかりでなく、江戸の世話物には共通して大事なことじゃないでしょうか。  ここで新三が忠七の髪を撫で付けますが、これは、もう実際に床山さんから習わなくてはできっこありません。ただ見ているだけじゃ駄目ですね。やはり鬘(かつら)を借りてきて、坊主みたいなあの台へかぶせて、自分で撫で付けながらせりふを言って稽古しなくては合いません。油を付けたり、鬢盥(びんだらい)に入っている櫛(くし)を取ってチョンチョンと水を忠七の頭へ掛けたり、という手際が難しいんです。本当に付けるわけではありませんが、「いかにも」というらしさを身につけなくては生世話物になりません。  そのうえ、やりながらせりふを言わなくてはならないんです。 「忠七っつぁん、粋な男になられました」  と言って、ポンと鬢盥を叩いたりしますが、こうしたせりふと仕事の間(ま)が外れますと、せりふも言えなくなってしまいます。また、こういうところで聞いているほうがいい気持ちになれなくては、生世話物の本当のいいところは出ないんです。  むしろ『永代橋の場』での例の、 「これ、よく聞けよ……」  の厄払(やくはら)いのせりふなんかのほうが何とかいけるもので、かえって髪を結っているところのほうが難しいんです。この髪を結っているあいだに、見物をズバッと世話物の世界へ引っ張り込まなくてはいけないんですね。 『永代橋』から勝奴が登場します。勝奴は新三のミニチュアみたいな役ですから、何から何まで新三を見習っていればいいんです。  私が勝奴をやった時に、 「松緑の勝奴は、ただ六代目の真似ばかりしている」  と批評に書かれたことがありましたが、六代目がそれを読んで、 「それでいいんだ。勝奴ってのはそういう役なんだから、俺の真似をしてりゃあいいんだ」  と言ってくれました。  勝奴は仕事が多いんですが、つまりは狂言回しですから、これがうまく運んでくれないと新三はやりにくい。それだけに、『魚屋宗五郎』の三吉と同じことで神経を使う役です。  前にも書きましたが、私に三吉と勝奴をやらせてくれたのは(尾上)伊三郎さん、後に松助になった人です。両方ともずっとこの人の持ち役だったんですが、三吉をやっていた時に宗五郎をやっていた六代目が、普通は、 「おい、三公」  と言うせりふを、 「おい、三吉爺さん」  と言ったんです。そうしたら怒りましてね、 「そんなことを言われちゃあ、俺はやっちゃあいられねえ」  気骨のある人でしたから、 「あたしゃあ、もうやれないから、豊さんに渡してください」  と両方とも辞職してしまったんです。  その翌(あく)る日から私に三吉が回ってきましたが、それからの三日間というものは、御定法(ごじようほう)とは言いながらピッタリ付いていてくれましたし、稽古もしてくださって、よく教えてくださいました。  私は、忠七はやったことがありません。これは(十三世守田)勘弥(かんや)のおじさんが実によかったものです。ですから荒川さん(三世左団次)が初めてなさった時には六代目が、 「好ちゃん(本名・好作、十三世勘弥)の所へ行って聞いてこい」  と言ったくらいです。私もよく拝見しましたが、橋の上で、 「上手(うわて)を下ろす風につれ、誰(た)が唄うやら屋根船で……」  なんてところは、姿と言い何と言い実にいいものでした。  初めて新三をやりました時、『永代橋』で失敗をしでかしました。例の「これよく聞けよ……」の傘尽くしの厄払(やくはら)いのせりふの後で、 「ざまあみやぁがれ」  と大黒傘(だいこくがさ)をポーンと引いて片手で開くんですが、これがお猪口(ちよこ)になってしまったんです。咄嗟(とつさ)のことですから、本当に困りました。それからというものは、出る前に必ず傘に差し込んであるヘソを確かめるようにしています。これもたびたびやって慣れてくれば軽くポーンと開くんですが、慣れないうちはどうしてもバーンと力任せに引いてしまいますから、お猪口になりがちなんです。  厄払いのせりふは言っていても実に気持ちがいいんですが、難しいのは忠七の肩へ足を掛けて長ぜりふを言うんですから、忠七の腕がじょうずに足駄の歯のあいだへ入りませんと、忠七が痛くてやっていられなくなってしまいます。ですから逆に言うと、忠七をやる人は痩せていないと辛いというわけです。  新三の引っ込みに、ズドーンドーンと波頭(なみがしら)を打ち込むのは、永代橋あたりはまだ大川(おおかわ)なんだからおかしいじゃないかという有名な話があります。けれども、ここは忠七を蹴っ飛ばしたりして荒い場面ですから、やはり、  ズドーンドーン   吹けよ川風上がれよ簾(すだれ)……  とこなくては新三は引っ込めません。  さて『新三内の場』になります。  新三は前の幕までとガラッと気分が変わっていることと、湯上がりで出てくるわけですから花道へ出た瞬間、身体から湯気が立っているように見せなくてはいけません。浴衣は平せいが入っている手拭のつなぎの浴衣というのが、五代目さん以来の約束になっています。こんなこともきっと六代目が、当時存命だった(尾上)松助さんだの(尾上)幸蔵さんだの(尾上)菊三郎さんといった五代目さん以来のお弟子さんから、いろいろ聞き出したことの一つだろうと思います。  初鰹売りの(尾上)音蔵さんなどは、とうとう倒れるまで、 「俺は五代目の新三の時代から、この役をやってるんだ」  とこの役を続けていたものです。これがまた不思議なことに、音蔵さんは当時七十いくつのお爺さんでしたが、この役をやる段になりますと、気分が五代目在世の頃に返るんでしょうか、天秤(てんびん)を担ぐにしても大変な威勢のよさで、また作り物の鰹を捌(さば)くんでも実に鮮やかなものでした。  こうした役ができるのは、今では(尾上)多賀蔵さんしかいません。聞けるうちに脇役の人たちからいろいろ聞いておくというのも大事なことなんですがね。  六代目の新三に対しての弥太五郎源七は、何と言っても播磨屋(初世吉右衛門)でした。この役は、親分とは言っても、江戸の市井の隅の事件に出てくる親分ですから、幡随長兵衛みたいな大親分じゃありません。先々代の(七世市川)中車さんが弥太五郎源七をおやりになったことがありましたが、これは立派すぎました。播磨屋ですと、打々発止と噛み合って何とも言えない面白さでしたが、中車さんでは、新三がどう毒突いても、立派すぎてとても怒り出しそうには見えないんです。 「取るに足らねえ手前(てめ)ぇたちに、そんなことを言われるのも、事の大きくなるのを嫌って、じっと我慢はするものの……」  なんというせりふも、播磨屋と六代目ですと、本当に負け惜しみで言っていますから、後の『閻魔堂橋(えんまどうばし)の場』の待ち伏せも実現して当然と思えますが、中車さんだと、新三なんか頭から相手にしていないような大親分になってしまうんです。  私が初めて新三をやった時には、上の兄貴(十一世団十郎)が弥太五郎源七をやりました。ところがご存じの通り上の兄貴はいい男すぎて、どちらかと言うと中車さんの形ですし、また実際にも実の兄貴ですから見物の目もそう見てしまいます。それが坂東君(現・羽左衛門)ですと、そのまま友達みたいな関係ですからやりいいんです。  また同じ兄貴でも中の兄貴(松本白鸚)ですと、『四千両小判梅葉(しせんりようこばんのうめのは)』の藤十郎(とうじゆうろう)などは播磨屋の匂いを持っていますから、上の兄貴とやる場合とはちょっと差がありました。こっちもさんざ六代目の匂いを嗅いできていますから、多少やりいいと言うか、自然に「菊吉」の雰囲気でやったほうが感じが出るように思いました。つまり気分ということだったんでしょうか。  この『髪結新三』に限りませんが、世話物ことに生世話物では、これからは小道具が大変になってくるでしょうね。新三にしても、元結(もつとい)は大相撲があるからまだ大丈夫ですが、房楊子(ふさようじ)には困ります。私はいいあんばいに初めて新三をやった時にご贔屓(ひいき)がくださいました。房楊子はただ頭へ挿すだけで別に使わないから、まだそのまま五、六本残っています。新三が家へ入ると頭から取って勝奴へ渡します。勝奴が火鉢で乾かした後、ポンポンとはたいて楊子入れの箱へしまいます。これは柳の枝をつぶして作るんですが、小道具方には作れません。  新三の小道具では他に、象牙の箸と染付けの湯呑を大事にとってあります。大家さんが新三の家へ掛け合いにやって来ますが、その時に新三が、 「前祝いに一ついかがです」  とお酒と一緒に鰹の刺身を勧めます。この時に、箸を湯呑でチャラチャラとすすいで鰹を挟んで渡します。このチャラチャラという季節まで感じさせる涼しげないい音、これが出ませんと鰹がまずそうになってしまいます。安い木の箸だったり悪い茶碗では、重々しくなって駄目なんです。六代目もむろん象牙と染付けでやっていましたから、私も真似をしたわけですが、考えてみると新三みたいなやつは、きっと贅沢をしていい物を使っていたでしょうしね。  湯呑はもう一つ『魚屋宗五郎』用の物も持っていますが、小道具は自分の生活につながっているものですから、借り物でやったんでは駄目なんです。  演目は違いますが、『盲長屋』では二つの煙草入れを使います。道玄が持つ叺(かます)の煙草入れというのは本当は紙で作った安物なんですが、今ではこしらえるのが大変な物なんだそうです。私は六代目使用の物を持っていますが、古くなりましたから、舞台で使うのは、これを手本にして新しく作らせた木製のものです。六代目が使った紙製の叺の煙草入れもありますが、これは宝物ですから、使わずに大切に置いといて、これも自分用の物をこしらえて持っています。  二つの煙草入れとはこうなんです。松蔵が紙製の叺の煙草入れを持ってきて、終いにこれに質流れの札を入れて道玄へ返します。普段道玄が使っているのは丸い木で作った物なんです。五代目さんがどんな物を使っていたのかは知りませんが、六代目はそうしていました。どこからヒントを得たのか分かりませんが、木製の物と紙製の物と二つを使い分けるんです。  道玄がせりふの合間にスポンと音をさせて煙草入れの筒を抜きますが、あれが間(ま)になるんです。けれども、これが六代目使用の物でないと、どうしてもいい音がしないんです。またあの丸い何とも言えない愛嬌のある形が、芝居を生かしています。  他には『四千両』の『御茶ノ水の場』で使う朝顔の皿も二枚持っています。これは、一度どんな物を持ってくるだろうかと、自分のを使わずに小道具に持ってこさせたことがありましたが、厚手の物でとても見られたもんじゃありませんでした。どうやったって旨そうにお酒が呑めないような代物(しろもの)でした。  この他にも煙管(きせる)や何やかやと、いろいろ大事な小道具が必要なんですが、これからはますます吟味しなくちゃならなくなるでしょうね。  大家の長兵衛は、私の新三では荒川さんが一番多くやってくれました。この役は、何と言っても松助さんなんですが、残念なことに拝見していません。私がよく見たのは、明石屋(あかしや)さん(六世大谷友右衛門)と(二世河原崎)権十郎のおじさんでしたが、せりふ回しでも何でも、みんな松助さんを取っておられました。 「おい新三、どうするんだよぉ」  なんといった、語尾を延ばす言い方なんかがそうなんです。  私は帝劇で育ちましたから、大家さんそのものは拝見していませんが、松助さんの芸風は知っていますから分かるんです。また六代目も、 「ここは、チャン(松助)はこうやってた。チャンはこうだった」  と教えましたから、みんなに松助さんの風があったんですね。  そのチャンはなかなか教えてくれない方でしたが、新三が弥太五郎源七へ、 「二つ名のある弥太五郎源七」  と時代に張って言って、ガラリと、 「オゥ、その親分風が気に食わねえんだ」  と世話に砕けるというせりふ回しは、松助さんが六代目へ、 「五代目さんはこう言っていました」  と教えたんだということです。  六代目は十九歳で五代目に死なれていますし、また九代目さんの所へ坂東のおじさん(六世彦三郎)と兄弟で預けられましたが、もう茶目で二人で悪さばっかりしていて、落ち着いて芝居を見たことなどなかったと聞いています。  それだけに六代目が偉いと思いますのは、古い人が、 「九代目はこうやった」 「叔父さんはこうしていましたよ」  と聞かせると、一言ですべて得心したことです。得心できるというのは、それだけの腕があるからこそなんです。どんなに言って聞かせても、また手を取って教えたとしても、腕がなければ得心できませんよ。そのうえ六代目は頭がいいから、一を聞けば十を悟ることができたんです。  もう一つには世の中が違いましたね。何と言っても、まだまだ世の中全体に歌舞伎の匂いが色濃く残っていた時代ですから、強いて目を皿にしなくても自然に芝居心が身についてしまいます。とにかく当時の役者というものは、一年の大半を芝居で過ごしたくらいでしたしね。  六代目が九代目さんから手を取って教えてもらったものと言いますと、『吉野山』の忠信とか『子宝三番叟(こだからさんばそう)』などは最後まで手が変わりませんでしたから、これは確かにじかに教えてもらったようでした。けれども『鏡獅子』となりますと、六代目独特のものを出していましたね。それほどに手を取って教えてもらったことというのは、もう身体へこびりついていて、自然にそのまま出てくるものなんです。  これも有名な話ですが、九代目さんのお稽古に音平(おとへい)という六代目のお弟子が付人(つきびと)として一緒に付いて来ていて、六代目が教えてもらうあいだ九代目さんを団扇(うちわ)であおいでいたんだそうです。ところがあんまり六代目ができないのにじれて、思わず目の前の九代目さんの頭を団扇でひっぱたいてしまったという話が残っています。  大家さんで忘れられない思い出は、(八世)中車さんの最後の舞台になった国立劇場です。中車さんはこの役がお好きだったんですね。あの時、楽屋へみえて、 「豊君、僕はこれやりたくってね」  と非常に喜んでおられたんですが、公演途中で最後になってしまいました。それだけに、やっていただいておいて本当によかったと思っています。  新三は、六代目から手を取っては教えてもらっていませんが、折々にいろんなことを言ってくれました。例えば、お熊(くま)が大家に連れて行かれるところで下手の柱へ寄り掛かって顎へ手をやって、ジッと見送りますが、 「お前(めえ)、新三はあすこで何してると思う」  と聞かれましたから、 「顎へ手をやって……」  と見た通りのことを答えますと、 「いや、そうじゃねえ。あすこは握り金玉をするんだよ」  みすみす上玉(じようだま)を逃して惜しいことをしたということで、実際に握らなくてもいいが、 「その気持ちでいろ」  と教わりました。  大家のおかみさんは最近まで(利根川)金十郎さんがやっていましたが、これは何と言っても(市川)照蔵さんのものでした。金十郎さんもよくやっていましたが、ちょっと人の好い所が出てしまいました。やはり照蔵さんですと、何とも言えないあの大家の欲張り婆あという小面憎(こづらにく)い感じが出たんです。返しの『家主長兵衛内の場』での、 「早く褒美が(チョーン)貰いたいものだねえ」  なんというところは実にいいものでした。  そこへもってきて、『新三内』の最後で、 「大変だ大変だ、大家さんの所へ泥棒が……」  と出てくるのが(尾上)新七っつぁんの持ち役なんですから、どうやったって芝居が面白くなるわけですよ。 「何か置いていったかえ」 「何を置いていくものか。箪笥(たんす)の物と四つ引き出しとも、そっくり持って行きました」  と聞いて、 「ウーン」  とおかみさんが目を回す。こうしたやりとりが実に生きていたものですが、今では残念ながら、こうした面白さは出そうと思っても出なくなってしまいました。  この照さんと大橋屋の幸蔵さんの二人はいじめやすかったんでしょうか、六代目は舞台でしょっちゅういじめていました。そのくせ松助さんには怖くってできない。松助さんはいつもきちんとしていましたし、家にいても行儀のいい方でしたから、ふざけるなんてできっこなかったんです。  この『新三内』でも照さんのおかみさんが目を回しますと、新七っつぁんの長屋の住人がおぶって下手へ入るんですが、その照さんのお尻を六代目が、つねったり突き飛ばしたり、もう大変な悪さをするんです。 『半七捕物帳・春の雪解』の時なんか、緞帳(どんちよう)を上げ下げする鉛の錘(おもり)がありますが、それを包んで背負わせるんですから歩けっこありません。照さんの晩年で七十歳過ぎていたんですから、何ともかわいそうな話でした。六代目だってもう六十歳を超えていましたが、いくつになっても子供っ気が抜けなかったんですね。  まったく出ない芝居ですが、『川中島』といういわば愚劇の書き物をやったことがありました。軍師の山本勘助とその旗持ちとが戦場で別れて、勘助が討死にするというつまらない芝居なんです。勘助が坂東のおじさん(六世彦三郎)で旗持ちがまだ四十歳代だった六代目、私は若侍(わかざむらい)で出ていました。  私たちは初めに大立回(おおたちまわ)りをやって引っ込みます。その後へ照さんたちが出てきて立回りがあって、悪いことには照さんがそこで討死にするんです。斬られたら陰へ入ってしまえばいいんですが、そこが昔型のお堅い人ですから、そこで倒れたら倒れたままでいなくちゃいけないと思ったんでしょう、舞台の邪魔にならないように中央後方へ倒れています。そこへ勘助と旗持ちが出てきて二人のやりとりがあって、それで二人とも討死にして幕になるという段取りです。  どうやったって面白くない芝居だもんですから、二人はおふざけの相談をして、照さんの死骸を見つけると、 「この者はかわいそうなやつだ。せめて家の者へ形見にこれを届けてやれ」  とか何とか本にないせりふをでっち上げまして、二月の寒い盛りの舞台だというのに、鎧(よろい)から何からひっぺがして褌(ふんどし)一つの裸にしてしまうんです。それでいながら二人ともその場で死んでしまうんですから、実にひどい話でしょう。もっとも私などそれが楽しみで、毎日ここを見に幕溜(まくだま)りへ通ったものでしたがね。  坂東のおじさんのいじめ方というのは、一倍えげつないものでした。『文七元結(ぶんしちもつとい)』では、照さんは大家さんが持ち役なんです。頭(かしら)が坂東のおじさんで、私はその倅で出ていました。  この頭が、舞台へトンカチだとか何だとかいろんな物を持って出ます。長兵衛夫婦の喧嘩を照さんの大家さんが止めに入るところで、おじさんは持ち出した物を長兵衛の六代目へ渡します。六代目はそいつで照さんを引っ掻いたり叩いたりする。こりゃあたまったもんじゃありませんよ。照さんも怖いから早く長兵衛の腕を押さえると、今度は懐中電灯の強力電池を仕込んだのを持っていってビリビリッ。かわいそうに照さん、舞台の上で跳び上がります。それを見ておじさんたちは喜ぶんですから、もう照さんは命懸けでしたね。  この二人の他に、(六世)梅幸のおじさんも(十五代目)羽左衛門のおじさんも、大橋屋の幸蔵さんをよくいじめていました。ずいぶんひどい目に会っていましたが、それでいて、大橋屋さんは何をされても平気なんです。  この人は番頭をやらせたら、それこそ天下一品でした。『青砥稿(あおとぞうし)花紅(はなの)彩画(にしきえ)』ご存じ『浜松屋』でも『切られ与三』でも『隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)(法界坊(ほうかいぼう))』でも、実にいい番頭でしたからね。  六代目の『法界坊』を最後に見ましたのは昭和二年九月の歌舞伎座で、六代目がまだ四十歳代で、家の親父(七世幸四郎)が道具屋甚三に出ていました。六代目はこれっきり『法界坊』をやっていませんから、ずいぶん早くやめてしまったと言えますね。この時の大橋屋の番頭長九郎が、 「太郎兵(ひよう)に次郎兵(ひよう)、しめこのうさうさ」  とよめ菜の小さな籠を背負って入っていかれた姿など、今でも瞼にこびり付いています。 『助六』では通人をなさるんですが、実にいろいろな物を持って出てくるんです。一度は風船まで持って出られたことがあったくらいです。これも大橋屋ですと、誰も何も言いません。逆にそれを楽しみにみんなで見に行ったものでしたし、また見物も一緒になって喜んでいましたね。今だったら大変ですよ、叩かれて。投書まで来かねませんからね。思えばいい世の中でしたね。  悪戯(いたずら)ってことで思い出しましたが、今の(市村)鶴蔵のお祖父さんの(尾上)菊三郎という人は、年を取ってから白内障にかかっていて目がよく見えなかったんです。それが『四千両小判梅葉』の『大牢(たいろう)の場』での囚人役で何番目かへ座っていました。  牢名主(ろうなぬし)が小判をポーンと舞台へ放りみんなに振る舞うところで、あらかじめ菊三郎さんの前へ小判を糊付けしておくという悪戯を、六代目が考えつきました。舞台は暗いわ白内障だわでよく見えない。そこへ小判を放ると、チャリンと音がします。それで菊三郎さんが下を見ると、確かに自分の前に小判がありますから、これを取ろうとしますが、糊付けで取れません。それを見て喜ぶんですよ。  けれどあんなお年寄りを、何だってああまでしてみんなでいじめたんですかね。  鼠小僧次郎吉の新作が出た時のことです。私は小間物屋の手代(てだい)で出ていましたが、店で何か買った六代目の鼠小僧に連れられて、料理屋へ行ってご馳走になるんです。  この料理屋の女中に(尾上)琴升(きんしよう)さんという人が出ていましたが、毎日、六代目から本にないことをいろいろ聞かれるんです。 「姉(ねえ)さん、姉さん、お前、生まれはどこなんだい」  なんてことを聞く。 「はい、野州(やしゆう)でございます」  とか何とか答えればいいんですが、咄嗟(とつさ)のことですから琴升さん、 「はい、東京です」  この時は、舞台で吹き出しそうになるのを堪(こら)えるので苦労しました。  気の毒に怒られましてね。何しろ毎日いろいろ聞かれますから、琴升さんも気が気じゃありません。祭りの日という設定でしたので、ある日には、 「おい姉さん、御神酒(お み き)所(しよ)はどこだい」 「はっ」  と言ったきり言葉が出ない。 「そこの町内の頭(かしら)の所です」  とでも言えればよかったんですが、困ったあげく、 「さあ、存じません」 「町内の御神酒所を知らねえわけはねえだろう」  とまた怒られてしまいました。 新皿屋舗月雨暈 新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)  通称『魚屋宗五郎』といわれる。これも黙阿弥・(五世)菊五郎のコンビで明治十六年五月の市村座で初演された。菊五郎は愛妾お蔦と魚屋宗五郎の二役に扮したが、妹のお蔦を殺された兄の宗五郎が禁酒を破って、次第に酔いを発し、ついには酒乱に及び磯部邸に強訴に押しかけるという段どりに無理がなく、菊五郎の至芸による評判も高く、日延べの大当りをとった。生世話物作者黙阿弥老年の手なれた作であり、これまた生世話物の名優菊五郎の名演ともあいまって評価の高い名作として定着した。その巧みな演技は六代目菊五郎に継承され、松緑を経てこんにちに伝承されている。六代目の宗五郎で何度か三吉を勤めた松緑に、五、六代の菊五郎の至芸が正しく、高い境地で受け継がれている。   魚屋宗五郎  まだ六代目菊五郎在世中の昭和二十三年八月の新橋演舞場が、『新皿屋舗月雨暈(しんさらやしきつきのあまがさ)(魚屋宗五郎)』をやった最初です。女房お浜(はま)はその時以来ほとんど梅幸さんで、時たま(市川)門之助君や(中村)芝翫(しかん)さんになったこともありました。門之助君にしても芝翫さんにしても、ずっとこっちのシマ(菊五郎劇団)にいましたから分かっていてくれますからね。やはりお浜が馴れて呼吸(い き)の合った人でないと、この芝居ばっかりはやれません。  最近では私の他に前進座の(中村)翫(かん)右衛(え)門(もん)さん、以前には(十三世守田)勘弥のおじさんもなさっていますが、いずれも見ていません。何しろ三吉をずっとやらせてもらっていましたから、私の宗五郎は、脇目も振らずに六代目一本槍です。  勘弥のおじさんの宗五郎は、話に聞いたんですが、お酒を入れる片口(かたくち)がこしらえ物で、底へ紅(べに)が仕込んであってポンと開くようになっている細工の物を使ったということです。飲んで酔っ払うにつれて顔へ紅を塗っていき、だんだん赤くなるところを見せたらしいんです。ことによると、五代目さん(菊五郎)がそうなさったのかもしれませんが、六代目はいっぺんもそんなことはしていません。  六代目の解釈では、宗五郎は酒乱なんですから、酔えば酔うほど顔は青くなるはずだというわけです。だいたいこの芝居は、お殿様の酒乱と町人の酒乱、二種類の酒乱というのが一つの見せどころなんですからね。それで六代目は何もせずに仕草だけで酒乱になっていくようにしましたが、これは非常に難しい。けれども、それが実によかったんです。  ところで六代目は、お酒は好きでしたが、酔うのは嫌いな人でした。古いお弟子さんに聞きましても、若い頃からへべれけに酔ったなんてことは一度か二度しかなかったそうで、私が知ってからはいっぺんも六代目が酔った姿を見たことがありません。ですから、他人が酔ってだらしなくなってしまうと嫌な顔をしましたね。  そのくせ初日とか千秋楽とか会食のあるときにはみんなでお相伴(しようばん)しましたが、そういう場では必ずチャンポンで、ビールとウイスキーとお酒とを飲みました。それでも酔ったことはなかったですね。いつも、飲んでご飯が済んでそれからお稽古という順でした。  家は上の兄貴(十一世団十郎)は飲みましたが、だいたい親父さん(七世幸四郎)が飲まなかったから中の兄貴(松本白鸚)も全然飲まず、私も若い頃も足掛け十年間の軍隊生活のあいだも飲まなかったんですから、お酒はあまり好きだとは言えません。六代目の所へ預けられましても、六代目から、 「飲め」  と勧められたことはいっぺんもありません。  これはよく言うんですが、嫌いなものを無理に飲まなくてもいいと思うんです。ただ六代目から、 「酔った味だけは知っておかないとなあ」  とは、しょっちゅう言われました。歩き方一つにしても、足を取られるということが、 「飲まないと分からない」  と言うんです。酔った足取りというのは後ろへトントントンと引かれるようになります。あれで前へ前へと行ったんじゃひっくり返ってしまいますからね。そういうことが、 「やっぱり口で言ったんじゃ分からない。飲まないと分からない」  というわけです。  初めて宗五郎をやった時に困ったのは、三十歳とっ掛かりの頃でまだお酒を飲みませんでしたから、何杯目でどのくらい酔うのかが分からない。六代目はこの辺で酔うというのは決まっていまして、私はずっと三吉に出ていたから知っていましたが、こういうことは自分の呼吸(い き)で決めることなんです。別に口伝(くでん)があって、何杯目でこれくらい酔って何杯目でせりふがこうなるというわけじゃありません。急にへべれけになったんじゃいけませんし、転がって、 「矢でも鉄砲でも持って来いっ」  と酒乱が高じるところまで、どうやって自分なりの段取りで運んだらいいのか、その見当が付かないんです。とはいえ飲まないお酒を実際に飲んで「矢でも鉄砲でも……」という境地に至ってしまったら、何が何だか分からなくなって、芝居の工夫どころじゃなくなってしまいますしね。  そこで考えて、まず片口へ水を入れてそれをお湯呑へ注(つ)いでいき、何杯でもってこれが終わるかを量って目安にすることから始めました。この片口も、昔通りの口がただ刳(く)れているだけの物がなくなってしまいました。今のは注(つ)ぎ口(くち)の所へ橋みたいな渡しが付いた物ばかりなんで、あれでは指を入れて持つことができないんで困ります。古い形の片口は今は小道具にさえないんですが、当時はいくらも売っていましたから、私はこの時に買いまして、今でもそれを使っています。  またお酒を注ぐ湯呑も小さな物では感じが出ません。六代目は、宗五郎と髪結新三の二つは、専用の湯呑を持っていました。それぞれどんな物だったかは、三吉と勝奴をやらせてもらってよく覚えていましたから、私も染付けのいいのを持つようにして、今でも使っています。  湯呑へ注いだ水はむろん飲みませんでしたが、 「コレお浜、これへ一杯(いつぺえ)注いでくれ」  のせりふから始めて、一杯ずつ表面張力で盛り上がるくらいに注いでいき、量りながら工夫を付けていったんです。  ずいぶん何度も宗五郎はやっていますが、初めの頃は何杯目というのを意識してしまって、それがどうしても頭へこびり付いていて離れないんです。それがたびたびやっているうちに、不思議なことに、無意識でいても次第次第に顔がカーッと火照ってくる。そうなればもうしめたもんです。ですから稽古へ入る時から、ちゃんと酔い方の手順を頭へ入れておかなくてはいけません。夫婦の呼吸(い き)をちゃんと合わせて稽古をしておきませんと、お浜のほうも勧め具合と止め具合に困ってしまいます。  最初のうちは梅幸さんも私もずいぶんと骨を折りましたが、終いには向こうも馴れるこっちも馴れるで、黙っていてもピッタリ合うようになりました。これもいわゆる世話物の地芸(じげい)ということですね。  二十三年の時、おなぎは芝翫時代の成駒屋さん(現・中村歌右衛門)でした。その後は今の芝翫さんがほとんどですが、この役もなかなか大事な役です。宗五郎の妹の悲劇の真実を伝える役ですし、また『宗五郎内の場』で宗五郎が酒乱であることを知らないのは、おなぎだけですから、いわば見物の代表みたいな立場でもあるわけなんです。  六代目の舞台では、おなぎはだいたい荒川さん(三世左団次)がやってらして、お浜は樋口さん(尾上多賀之丞)でした。  父親太兵衛は、私の初めての時は(市川)照蔵さんでしたが、これは六代目の宗五郎でもやっておられました。六代目の舞台での太兵衛は他に、(二世河原崎)権十郎さんのも播磨屋のおじさん(初世吉右衛門)のも見ています。私も身体が利かなくなったので、倅(尾上辰之助)へ宗五郎を譲って太兵衛をやろうと思いましたが、この役も大変な役ですよ。  宗五郎という役も他のものと同じことで、実は酔っ払うまでの前半が難しいんです。最初のうちはお酒を飲み出す時から、 「さあ来たぞ」  と酔っ払うことで苦労しましたが、何回かやってきて、逆に前のあいだが難しいということに気が付きました。 「父(と)っつぁん、忘れやしめえ、去年の九月菊茶屋へ……」  の長ぜりふなどは、よほど丁寧に気を入れて言っておかなくてはいけません。これだけ物の分かった男が酔うとああなるんだから、という伏線にもなっているせりふなんですからね。  繰り返すようですが、芝居というのは総じて前半が難しい。時代物だろうが世話物だろうが、後の山へ持っていく布石を打つだけに、前は難しいんです。  シェークスピアの『オセロ』もやりましたが、あれにしても狂ってくるまでの、どこからどうなのかという前のほうが難しい。頭がおかしくなってきたら後はもうしめたものです。狂ってくる要素がだいぶ出てきますからね。けれども、その要素をこしらえるまでが実に厄介なんです。『シラノ・ド・ベルジュラック』にしましても、『僧院の場』がやっていて一番気持ちがいい。ギィーッと扉を開け、頭へ包帯を巻いて杖を突いて出てくる時になればもうしめたもので、今までの積み重ねで見物を感動させるだけの要素が発酵してきていてここで盛り上がるわけですから、後はロクサーヌが本当にしっとりやってくれれば、もうこっちのものです。けれども、そうした一つ一つの要素を積み上げていく初めのほうの『酒場の場』とか『露台の場』あたりは、大変に骨が折れるんです。すなわち、芝居の手順でもって見物を引っ張ってこなくてはならないあいだが非常に難しいということですね。また引っ張ってこられないような脚本では、どんなに役者が苦労しても成功はしません。  それにしても、歌舞伎はやはり大衆の方が感じてくださるような起承転結がはっきりした、分かりやすくていい芝居を見せなくてはいけないだろうと思います。一日働いて疲れた心と身体を慰めるためにお金を払って見てくださるんですから、例えばクタクタになっていても、じょうずな按摩さんを頼んで肩を叩いたり足を揉んだりしてもらうと後スーッと寝られるような芝居、それが歌舞伎の、ことに時代物と違って肩が張らない世話物のよさだと思います。なかには皮肉に、 「当り前の芝居じゃ面白くない」  と言う人もいるでしょうが、試演会ならいざ知らず、常にそういった人を相手の芝居をしていたのでは、歌舞伎でも何でもなくなってしまいます。  そう言う人はピカソの絵を見て、 「顔が三つあるのがいい」  と言うかもしれませんが、よく見ればその下に隠れているデッサンはまともですよ。デッサンの上へ構想を練っていくうちに、ピカソは画家としてのああいう画境へ入っていったわけで、突然変異でも狂っているのでもありません。しっかりした若い頃のデッサンがあって、それを下敷きにしたうえでの「顔が三つ」だということが大事なんです。基本も何もなしで突然あんなことをしたんでは、当然失敗しますよ。  芝居も同じことで、時代物は時代物として楷書をさんざんやっておいて、それから行書になり草書になってくるんです。それで按摩さんに掛かっているような気分に見物を引き入れていくということが、ことに世話物では大事なんです。オーバーに一線を超えたのでは、逆に見物に苦痛を与えてしまいます。  と言いましても、そこまでいくまでに最初はどうしたって苦痛を与えてしまうんです。地芸というものができあがってはじめて、スラーッとじょうずな按摩さんの療治のようにいけるようになるんです。  五代目さん(菊五郎)は宗五郎と妹お蔦の二役をやっておられます。六代目はやったことがあるのかもしれませんが、私は見ていません。宗五郎と磯部のお殿様とをやったのは見ていますが、この場合は、『磯部屋敷庭先の場』にはお殿様でなしにご家老か何かが出てきます。つまり六代目一人で、お殿様の酒乱と庶民の酒乱と二つ演じ分けようというのが、この演出のミソでした。  この芝居は『芝片門前(しばかたもんぜん)宗五郎内』で花道を泥酔して入り、『磯部屋敷玄関』になって花道を出てくるまでは揚幕の中にいるんですが、そのあいだもウツラウツラしていて全然しらふにはなれません。またしらふになってしまっては、後の芝居がやりにくいんです。  六代目が赤ん坊の泣き声だの大向こうの掛け声を嫌ったというのも、こういうところなんです。見物の反応の仕方によってハッと現実に返ってしまう。そうなったら、やりにくいことこの上なしなんです。ことに世話物は本当になりきってしまわないとできません。そこで六代目は掛け声を嫌った。これが播磨屋と正反対なところで、播磨屋のおじさんは、 「大播磨(おおはりま)ぁっ」  と声が掛かると乗ってしまう人でした。 盲長屋梅加賀鳶 盲長屋梅加賀鳶(めくらながやうめがかがとび)  これも黙阿弥・(五世)菊五郎の名コンビで明治十九年三月の東京千歳座で初演された作品である。別名題を『盲長屋』とも『加賀鳶』とも称し、按摩道玄と加賀鳶の頭梅(かしら)吉を主人公に、町火消しと加州侯抱えの加賀鳶の喧嘩と、小悪党道玄の悪事がない交ぜになって劇は進行する。黙阿弥お得意の江戸の庶民の、それも際立って異なる二人の主人公を菊五郎が演じるのがミソであった。粋でいなせな加賀鳶とどこまでも陰気でジメジメした裏長屋の小悪党という対照が面白く、またこれに加えて死神まで勤めて大評判を得た。その後は、三役を一人の役者が勤めるという通し上演はなく、道玄の件(くだ)りを中心に勢揃いの梅吉だけを見せる六代目式の上演の仕方が主流となっている。六代目の最後の役であり、代役を勤めた松緑にとっても忘れられない役であった。   道玄  この作品は、明治十八年に河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)さんが五代目さん(尾上菊五郎)へ書き下ろした物です。もともと名人四世市川小団次(こだんじ)さんの当り役だった『勧善懲悪覗(かんぜんちようあくのぞき)機関(からくり)』の村井長庵(むらいちようあん)を五代目さんが、 「やりたいんだが」  と言い出した時に、黙阿弥さんも守田さん(勘弥)もそれを止めて、五代目さんに合う按摩の竹垣道玄(たけがきどうげん)と加賀鳶の頭(かしら)天神町の梅吉、それに死神という三役が働くこの本を提供したわけです。それで六代目も同じように三役をやりましたが、この三つの役の対照が実に面白く書けている芝居です。  五代目さんの初演当時の批評では、梅吉は誉めてありますが、 「道玄は成功したとは言えない」  というようなことが書いてあります。梅吉は加賀鳶の頭ですから、スッキリしている役です。むろん六代目だって端から見れば、やはり血というもので粋な格好はしていましたが、自分では太っているのを非常に気にしていましたから、そのうちに、 「梅吉は、やっぱり五代目風な……」  と言って、十五代目(羽左衛門)などにやってもらうようになったんです。  六代目の道玄は実にいいものでした。なにせ愛嬌がありますし、もう何から何まで六代目そのものでした。遠藤為春さんも、 「道玄は、親御さんでも六代目にはかなわない」  と認めていました。  けれども、これも親子なんでしょうか。六代目も五代目同様、村井長庵がやりたくなりまして、大正九年一月の市村座でやっているんです。その時の写真が残っていますが、これがどう見ても長庵らしくありません。  そこへいくと、高島屋(二世左団次)の長庵は悪が利いていて線が強くって、長庵らしいいいものでした。けれども、その高島屋には道玄はできないんですね。すなわち小団次と五代目、高島屋と六代目、五代目と六代目というそれぞれの持ち味の違いが分かって面白い。こうした世話物というのは、むろん型も器用にしなくてはなりませんが、何と言っても難しいのは地芸(じげい)なんです。地芸で見せなくてはならない、その地芸に、一人一人の味の違いが出てくるというわけです。  私はもっぱら道玄ばかりで、梅吉は『本郷通町木戸の場』、俗にいう『勢揃い』だけで『天神前梅吉内の場』は昭和五十年一月の国立劇場が最初で、同じ年の五月の大阪新歌舞伎座での二回目をやったきりです。  昭和二十四年四月に六代目が倒れ、その三日目から代役をさせられました。それがこの役の最初です。この道玄は、直接には教わっていません。教わる間もなく、六代目が倒れてしまい、 「お前(めえ)やれ」  と言われたんです。けれども、それまでにもずっと『勢揃い』には出ていましたし、何と言っても六代目の道玄は素晴らしいものでしたから、自分がやるやらないより先に、一生懸命、型だけは覚えておかなくてはと見ていましたから、急に代わっても一通りは何とかなりました。  その時、加賀鳶の頭日蔭町(かしらひかげちよう)の松蔵(まつぞう)は播磨屋のおじさん(初世吉右衛門)だったんですが、千秋楽の日にはとうとう休んでしまわれました。これは無理もない話で、それまで名コンビと言われた六代目から突然私の道玄を相手にするんでは、ずいぶんとやりにくかったに違いありません。  みんな故人になってしまっていますから、もう言ってもかまわないでしょうが、この興行では他にも代役でちょっとした事件が持ち上がりました。実は六代目は播磨屋の源蔵で、『寺子屋』の松王丸もやっていたんです。それが倒れてしまったんで、 「松王は、治雄(はるお)(十一世団十郎の本名)にやらしてくれ」  と六代目は言いました。つまり自分の代役を松王丸は治雄、道玄は豊(ゆたか)にと言ってくれたわけです。正直なところ道玄は、急に代わるといっても他にやる人もいませんし、私は六代目のそばに付いていて覚えていたから、何の抵抗もなく代われました。ところが、松王のほうは播磨屋が、 「俺がやる」  と言って、勝手に出てしまったんです。  これにはいろいろと困りました。だいたい六代目の松王丸の型は若い頃から五代目(松本)幸四郎の型でしたから、銀鼠(ぎんねず)色の衣裳、それが播磨屋は団十郎型ですから黒の衣裳なんです。それで代わったその日から自分の衣裳を持ってきてしまいました。こういうところがちょっと……。  芝居道では「三日御定法(みつかごじようほう)」と言いまして、代役をやる場合には代わった三日間は、本役(ほんやく)だった人のそのままの型でやるとされているんです。三日経ちますと、出られるかどうかを改めてご当人に確かめます。どうしても出られないとなったら、四日目に「触(ふ)れ直(なお)し」ということをします。ですから三日間というものは、あくまで仮りの役ということですから、前の人の型でやらなくてはいけません。それが四日目になれば代役の人が今度は本役ということになりますから、自分の型でやっていいというわけです。こういうことに関して六代目は非常にうるさかったんですが、その点、播磨屋はわりにルーズでしたね。  さあそういうわけで、自宅で寝ている六代目は当然、上の兄貴(十一世団十郎、当時は海老蔵)が松王をやっていると思っていますから、誰も本当のことを話すわけにいかなくなってしまいました。何しろ高血圧で倒れましたので、周りが気を使うの何のって、そりゃあ凄いもんでした。おいそれと見舞にも行けなくなってしまったんです。私は代役で代わってやらせてもらったその夜、六代目の寝ている枕元へ座って、自分のことだけを報告しました。 「今、帰りました」 「おお、豊か」 「何とかやりますから、ご心配なさらずに」  と言いますと、その時にあの六代目が涙をボロボロこぼして、 「お前(めえ)まずくってもいいから、ともかく行儀よくやれよ」  と言ってくれました。今でも私はこの言葉を座右銘にしていますが、こればっかりを言っていましたね。  六代目の涙を見たのは、後にも先にもこの時だけでしたが、 「ああ、もういけないな」  と私なりに覚悟を決めたのもその時のことです。  さて、私はそれで済んだのですが、兄貴はどうにも行くことができません、行ったら分かってしまいますから。何とか下までは来るんです。けれども六代目が寝ている二階には上がって来られない。 「畜生っ、畜生っ」  と兄貴が悔しがって……。けれども、六代目は頭のいい人でしたから、 「治雄はどうしてる」  と聞かれた周りが、 「どうにかやってらっしゃいます」  なんてごまかしたつもりでいても、 「おかしい」  と思っていたんじゃないでしょうかね。それくらいのことの分からない人じゃありませんでしたから。  後日、とどのつまり知られてしまったのは床山(とこやま)さんの口からでした。鬘(かつら)の話が出てチョロッと喋ってしまったんです。兄貴は頭が小さいんです。むろん播磨屋も頭の寸法は違うんですが、六代目と比べてそれほど小さくはありませんでした。それで、代わった当日には自分の鬘が間に合わなくて、六代目のをかぶって出たんです。そのことを六代目の枕元で、話の流れだったんでしょう、チョロッと、 「旦那の頭が波野(なみの)の旦那(初世吉右衛門)の頭によく入りました。間に合いました」  とついつい言ってしまったんです。そうしたら、 「何だ、波野がやったのか」  と、それ以上は何も言わなかったということです。ですから事の成り行きはうすうす分かっていたんだと思いますね。  ところで『加賀鳶』ですが、初めに言った通り梅吉は『勢揃い』以外は一度しかやっていません。六代目も『梅吉内』はそうはやっていないんです。結局あまり面白い役じゃなし、『梅吉内』をやるとなると、死神もやらなくてはなりません。これが六代目は嫌だったんです。自分の身体からしてどうしてもあの死神の姿になれないもんですから、それでやりたがらなかったということもあります。  それで、たった一場ですが『勢揃い』の梅吉に出てスッと道玄に替わるのは、これはいい気持ちのものです。それに、俗に言う加賀鳶というのは加賀藩だけにあった特殊な大名火消(だいみようびけ)しで、その珍しい風俗を見せるという狙いもこの本にはあったんですね。ですから、『勢揃い』だけを見せればそれでいいわけなんです。やはりこの芝居は道玄の件(くだ)りだけでまとめたほうが、筋も通るし見物も退屈しなくていいようです。  道玄の見せ場でもあり、この芝居全体の見せ場でもあるのは、『竹町質見世の場』のゆすりです。ここでの松蔵は、やはり播磨屋が独特の味わいでいいものでした。私は今まで荒川さん(三世左団次)、上の兄貴、中の兄貴(松本白鸚)と三人の松蔵で道玄をやっていますが、結局、中の兄貴とやりますと、向こうに播磨屋の匂いがあり、こっちのお手本が六代目ですから、何か自分たちばかりじゃなくって、そこにおやじさんたちがいて両方で教えていてくれて、それを二人でやっているという感じがしまして、一番やりよかったですね。  不思議なことに『質見世』の質屋の旦那伊勢屋与兵衛は、(市川)三升(さんしよう)さんがよかったんです。訥弁で、いかにもああしたゆすりに引っ掛かりそうな人に見えました。これも世話物ならではの地の味なんですね。  道玄という役は身体つきから言えば、これからは(中村)富十郎のものになっていいはずですが、彼の難(なん)はせりふがはっきりしすぎることです。諸先生方は、 「富十郎はせりふがはっきりしていていい」  などとおっしゃいますが、せりふというものは、はっきりしていればいいというような、そんな簡単なものじゃありません。松蔵にやり込められて、 「戸板返しを打ち返し、後は灯入りの祭り提灯」  なんというところは半分やけくそなんです。 「明るい身体にならねえ内は、何と言っても帰(けえ)らねえ」  という場合なんですから、こうしたせりふはあまりはっきり言ってしまってはいけない。ちょっとかぶせて陰気に言わないと道玄になりません。ですから、せりふというのは難しいものなんです。  この代役の時、どちらかと言えば『質見世』は何とか六代目の真似でやれましたが、後の盲長屋、『菊坂道玄借家の場』はどうにもならなくって辛い思いをしました。ここはまったく地芸でこなさなくてはならない幕なんです。  この幕の樋口さん(尾上多賀之丞)のお兼(かね)は絶品でした。その樋口さんと六代目とのやりとりなどまるで素(す)でやっているようなものでして、何とも言えずよかったんです。それが私にはできないんですよ。この幕は本当に一ヵ月苦労しっぱなしでした。その後も道玄をやると言えば、お兼は樋口さんがやってくれましたから、だんだん引っ張られて慣れっこになりましたがね。  この芝居はお兼が悪かった日にはどうにもなりません。私もお兼に、樋口さんに引っ張られて、ということが大きかったんです。何しろ樋口さんのお兼は六代目も買っていて、いかに名女形と言われた(尾上)菊次郎さんでもかないませんでした。樋口さんのほうがお兼のいやらしい味が出るんです。おさすりお兼と言うんですから一種の淫売で、 「二朱より安い仕事はしねえよ」  という役ですからね。  樋口さんは何とこの役を、大正十三年から昭和五十年まで、五十二年間もやっていたんですから、たいしたもんじゃありませんか。  アドリブのじょうずな方でスカスカといきます。どこまでが本(ほん)ぜりふでどこからが捨てぜりふなのか分からないくらい。それが、 「ここをこうしてください。ここをどうしてください」  というようなものではありませんから、ピッタリ呼吸(い き)が合うようになるには実に大変なことなんです。もっともそういう芝居だから面白いんですがね。結局、樋口さんのお兼は、六代目のおやじさんとより私のほうが長いということになりました。  そんなこんなで、道玄は何と言っても印象深い役です。  世話物は役者にとって、馴れてきますと面白いものですが、ことに道玄は非常に面白い役です。例えば『四千両小判梅葉』の富蔵なども同様に小悪党ですが、いわゆる世話物の枠にはまった役にすぎません。ところが道玄は、ただはまっているだけでは面白くない。世話物の枠からはみ出さなくてはなりません。と言って変にはみ出したんでは、いやらしいものができあがってしまいます。六代目が、 「行儀よくやれよ」  と言ってくれた意味は、ここにあるんです。もともと行儀のいい役ではないだけに、道玄を「行儀よく」と言ったのは、「はみ出し方に気を付けろよ」ということだったんですね。  嫌な言葉ですが、見物に媚びて「これでも笑わないか、これでもか」とやってしまうのを「行儀が悪い」と言うんです。あんなに行儀の悪い役をやりながら、だからこそ行儀を保っておけという注意だったんです。ですから難しい。いい気になって調子に乗ってしまったら、いくらでもふざけることができる役ですからね。 「そうなったらお終いだぞ」という教えだったと肝に銘じています。  六代目もあの人のことですから、舞台でずいぶんふざけたりもしました。けれどもけっして行儀は崩していません。舞台の行儀ということに関しては非常にうるさい人でした。  大切なことですから、舞台での行儀についてもう少しお話ししましょう。例えば『質見世』で松蔵から、 「しかも正月十五日、月はあれども雨雲に、空も朧の御茶ノ水」  と突っ込まれて、ハッとして煙管をポンと落とし、手を膝へ置きますが、 「この手の返し方が、この一幕の全神経を集中させるところだ」  と教わりました。ここで何だかんだとやってはいけません。やるところは後にいろいろあるわけですからね。ここいらに舞台の行儀というものがあるわけです。この後の、 「道玄という名前のある、質屋でよこした流れの書出し」  と松蔵のせりふに驚くところは、コミックも大変コミックでやりますが、前では、 「空も朧の御茶ノ水」  と言われて、 「ハッ」  とすると、合方(あいかた)が入る。この三味線は早間(はやま)に弾きますが、動作はゆっくりと腹へ充分に気を溜めてポンと煙管を落として、手のひらを下へ向けるようにゆっくり返して膝へ置きます。  それが、二度目に驚く時にはコミカルにやって、驚き方の相違を見せます。一方は静(せい)でやっておいて片方を動(どう)でやる、そのいずれもに工夫が必要なんです。  すなわち野球のピッチャーが誘いで高い球や外へ外れる球を投げておいて、真ん中へ投げるとつい打てませんね。あの呼吸と同じことだと思います。  また逆にこれをはき違えて、何でも「行儀、行儀」と言ったんでは、今度は面白くもおかしくもない物ができあがってしまいます。この兼ね合いが難しいところです。  最初はどうしても遠慮してしまいますが、一番危険なのは三、四回やった時なんです。役者は何と言っても人前でやって見せる商売ですから、やはり、 「いいや、いいや」  でいたんじゃいけませんね。反省心というものを忘れちゃいけないんです。  六代目にしても、あれほど傲慢だと言われた人でしたが、傲慢なことを口にするからには、それだけ自覚していなくては言えないわけですよ。言う以上は、 「何だ手前(てめえ)は、言いたいことを言ったって、やってることは……」  と言われたら何にもならないわけですから。つまり六代目は、言うだけのことは自分でとことん考えていた人でした。あれだけ自分で口に出して言っていた以上は、よほど自分で自分の舞台を反省しなくてはできません。ですから、一方で松助さんだの幸蔵さんなど五代目さん以来のお弟子さんたちに、どんどん積極的に聞いたらしいんです。松助さんは「ああだ、こうだ」とはおっしやらない方でしたが、こちらからよほど聞きでもすれば、言ってくださったということです。六代目は松助さんを「チャン、チャン」と呼んでいましたが、事あるごとに、 「チャンや、ここはどうやって……」  と聞いていたようです。  ところで地芸の話に戻ります。『菊坂盲長屋の場』の幕開きに按摩さんが何人も出てきますが、世話物ではああした役が大事なんです。何でもないような役でいて、結局あれで盲長屋というものを、江戸の下町、それも貧民窟みたいな盲長屋の生活を彷彿とさせなくてはなりません。これなどもいわば地芸の勝負です。私が知っている頃にはまだまだ腕相応の人が出ていましたから、こんなところも面白かったんです。  大詰(おおづめ)の『加州侯表門の場』、俗に言う『赤門』での立回りも六代目当時そのままでやっています。あの立回りをこしらえた人は誰なのか知りませんが、私が知った頃は尾上柏次郎(はくじろう)さんという人が頭(かしら)でやっていました。私が道玄をやる場合にも、このあいだ死んだ近沢さん(坂東八重之助)も全部覚えていたように、六代目の時にやっていた連中がみんなまだ生きていましたから、これはまったく同じにやれたんです。  ここのおかしみの立回りで思い出しましたが、私の戦争体験が芝居に生きた例はいくつかありますが、この立回りもそのうちの一つです。  他でも触れましたが、私は陸軍の兵隊で中国へ行きました。日本の海軍の飛行機が私たちを援護するように頭上へ飛んできますと、相手はサッと隠れます。ところが、当時の戦闘機のことですから二、三時間しかもたずに帰ってしまいます。飛行機が帰るとすぐに相手が出てきて、また撃ってくるんです。  私たちが田んぼ道を突っ切って向かい側の小さな部落へ入り掛かった時のことです。それまで頭上で飛行機が飛んでいてくれたから、私たちはずっと進んでいられたんですが、いつも通りガソリンがなくなって飛行機は帰っていってしまいました。  その時、私たちは横隊(おうたい)になっていましたから、相手に対してちょうど横向きに歩いているところを突然撃たれる形になりました。さあ、戸惑ったの慌てたのって、びっくりして、小さなクリークと言うより溝みたいな中へ飛び込んだものです。  その時のこっちの格好たるや、後で振り返っても、どうにもこうにも様(さま)になる形じゃありませんよ。鉄砲担いでいるからって、とても「勇ましい」なんて言える格好じゃありませんでしたね。  こんなことを思い出した時に、この『赤門』の立回りについて考えました。すなわち、あの暗がりでのおかしみの立回りは、見物を笑わそうとしてやるんじゃないんです。手は笑わせるようにじょうずに付いてはいます。金玉を握ったりもするんですからね。けれども、金玉もついつい目の前へ来たから「南無三」で握るわけでしょう。すべてを「南無三」でやっていることが、第三者にはおかしく見えるというわけですよ。  あの時の私たちの姿なんかも、もし第三者が見ていたとしたら、無様(ぶざま)でおかしかったろうと思います。けれどもこっちは不意打ちを食らって一生懸命だったんです。命懸けでやっていることが、第三者から見たり、世の中が冷静になってから振り返ってみたりすると、滑稽に見えるということも、覚えておいていいことじゃないでしょうかね。そうでなしに、あんまり笑わそうとして無理にやっては、あざといものになってしまいます。  一代の名優と謳われた六代目尾上菊五郎も、この舞台が最後でした。この年の七月に亡くなりました。それだけにこの芝居は、私にとってことに印象が深いものなんです。 新作物 一本刀土俵入(いっぽんがたなどひょういり)・坂崎出羽守(さかざきでわのかみ)・南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)  いわゆる「新歌舞伎」といわれる作品群がある。明治後半から昭和にかけて歌舞伎役者によって初演された新しい歌舞伎作品の多くを松緑も手がけているが、そのごく一部の作品について、ここでは語っている。『八犬伝』は新歌舞伎ではないが、戦後二十二年九月の帝国劇場で、渥美清太郎脚色により菊五郎劇団の若手が初めての六代目不在の興行でとりあげ、以後の劇団の基礎ともなった記念すべき作品としての意義をもって、この項の最後にとりあげた。『一本刀』は、昭和六年七月の東京劇場で六代目菊五郎の駒形茂兵衛、五世中村福助のお蔦で初演された長谷川伸の作。新国劇や前進座でも上演されて、新歌舞伎の代表的な作品として人気がある。『坂崎出羽守』は、六代目の求めにより山本有三が書き下ろした作品で、大正十年九月市村座の初演。心理描写の優れた菊五郎の新境地を拓いた名作で、歌舞伎劇の可能性を世に知らしめた意義も大きかった。   一本刀土俵入 『一本刀土俵入(いつぽんがたなどひよういり)』は、昭和六年七月の東劇で六代目菊五郎がやったのが初演です。お蔦(つた)は(五世中村)福助さんで、私は二幕目『布施の川の場』の船頭の息子をやらせてもらいました。その幕開きで、   いなさ吹こうが……  という船頭唄を歌わなくちゃならないんですが、どんな節回しにしたらいいものかまるで分からないんで、梅幸さんと二人、 「船頭唄にゃ違いないけれど、利根川あたりにこんな歌があるんだろうか」  と利根川まで探しに行きましたが、とうとう見つからずじまいになりました。そこで舞台ではちょっと船唄風に歌いました。  これはむろん長谷川伸(はせがわしん)先生の新歌舞伎ではありますが、六代目は世話物の役の捉え方でやっていましたね。  もっともこの『一本刀』も、長谷川先生の他の作と同様にいろいろな人がやっています。中には亡くなった沢瀉屋(おもだかや)(市川猿翁(えんおう))のなさったのを見て、 「泥臭いところが、六代目よりもいい」  という批評もありました。 「六代目の駒形茂兵衛(こまがたもへえ)は、前半あんなにだらしがない褌(ふんどし)かつぎの相撲取りなのに比べて、後半がスッキリしすぎる」  と言うんです。  六代目にしてみればその替わり方が狙いだったわけで、太ってはいましたが、一本刀を差して出てくると実にスッキリするんです。これは持って生まれたものなんで、私も六代目通りにやってはいますが、ああはスッキリいきません。けれども、沢瀉屋さんは背が低いうえにあまり世話物などやっておられない人でしたから、どうにもスッキリしません。泥臭い茂兵衛でした。まあその批評家の見方ではそこがよかったんでしょう。「物の見方」というのはこうしたものなんで、ですから批評なんというものも見よう、書きようで何とでも書けるんですね。  いつもそうでしたが、長谷川先生は別に、 「これは世話物だから」  とか何だとかいっさい指示なさいません。任せっ放しでしたから、六代目が中心になってあれこれ工夫してこしらえた物なんです。 『お蔦の住居』で、お蔦が茂兵衛と気付くところなども六代目の工夫ですが、これについては六代目がこんなことを言いました。 「人間というものは顔で人を覚えることはむろんあるけれど、後ろ姿のほうが印象が強いこともある」  と言うんです。 「顔は年月のうちに変わってしまうけれども、後ろ姿は変えられない」  と。そこで『お蔦の住居』でも、茂兵衛の後ろ姿でお蔦が思い出すような段取りにしたんです。他の方のやり方はいろいろあって、波一里儀十(なみいちりぎじゆう)の子分が掛かってくるやつへ茂兵衛が「ヨイショッ」と頭突きをかますのを見て思い出す、という風にやる人もあります。それを六代目のやり方は、茂兵衛が戸の隙間から外の様子をずいぶん長いあいだ窺っている、その後ろ姿をジッと見ていたお蔦が、 「アッ、思い出した」  と言う、茂兵衛が振り向いてジーッとお辞儀をする、と舞台が回るという段取りにしていました。  原作通りですと、新国劇で島田(正吾)さんがなさっているように、儀十をやっつけてから花道の付け際で例の、 「しがねえ姿の……」  のせりふを言って中央へ戻り、石に腰掛けて、 「あの人たちが……へ行くまでは」  なんというせりふがあるんです。それを六代目は舞台中央で、 「しがねえ姿の土俵入りでござんす」  と言って、そのまま幕にするようにしました。  ただここのところで、六代目ならではの工夫が付けてあるんです。それはまず、 「土ひょーぉ入りでござんす」  のせりふ回しで相撲取りを表現します。そうしておいて、頭を下げる時に両膝の上へ手を広げて置くんですが、親指は手のひらの中へ折り込んで隠すようにします。実は、この親指を隠すことでやくざを表しているんです。やくざは手を握るんでも開くんでも、必ず親指は手のひらの中へ隠すものなんだそうです。なぜかと言いますと、御用となって取り調べの時に、十手でもって親指を骨が折れるほどビシッと打ち叩くのが御用聞きの手なんだそうで、それを防ぐために、内側へ折り込んで隠すのが習性になっているんだと聞きました。  すなわち六代目の幕切れのやり方は、せりふで相撲取りを聞かせ姿でやくざを見せるというのが狙いなんですね。  私が初めて茂兵衛をやったのは昭和二十六年ですが、この時に戸板康二(といたやすじ)さんが、 「六代目を忠実に写している」  と書かれましたが、私は六代目の物しか知らなかったんです。  お蔦はずっと梅幸さんです。六代目初演の時は福助兄さんがなさいましたが、もう晩年で胸をだいぶやられていて、舞台で本当にお酒を飲まれました。このお蔦は、今でも語り草になっているほどいいお蔦でした。もともと綺麗な人のうえに肺病が進んでいましたから透き通るようで、私は可愛がっていただきましたから、ことに思い出に残っています。  また新派の喜多村(緑郎(ろくろう))さんも一度なさいました。喜多村さんの六代目の思い出話に、序幕の『取手宿の場』で、茂兵衛が礼を言いながら花道へ行く、お蔦が二階から、 「イヨーッ、駒形ぁっ」  と声を掛けてまた酒を飲もうとする、と茂兵衛が捨てぜりふで、 「アア、姉さん姉さん、そんなに飲んじゃいけない」  と止める、 「この間取(まど)りが実によかった」  と言っておられます。  それほどよかった六代目の茂兵衛ですが、失敗談もあるんです。いつのことでしたか名古屋でやった時なんですが、二幕目『布施の川』で六代目が刀を忘れて、差さずに出てきたことがあったんです。あの件(くだ)りの茂兵衛の出が、花道からならば男衆のチェックも行き届いたんでしょうが、あそこはあいにく下手(しもて)から出ますから、ヒョッとした手落ちだったんでしょう、差さずに出てしまいました。  私は、この時は儀十の子分の駕籠(か ご)屋(や)彦左衛門で出ていましたが、六代目が丸腰で出てきたんで、こっちのほうが、 「ハッ」  としましたね。  人違いして乱暴を仕掛けた子分たちへ茂兵衛が、 「手前(てめえ)たち、これが見えるか」  と道中差しの柄(つか)を叩いて、 「他の者ならズバリとやるぜ、俺だから止まったんだ。馬鹿野郎っ、気を付けろっ」  いいところですよ、スカッとして。ところが、その刀がないんです。けれどもまた、そういうことになってもうろたえない人でした。即座に、 「これが見えるか」  と拳固を作り、身体の真ん中(意味深長)へもっていって、 「ガーンといくぜ」  どこをガーンといくんだって言うんですよねえ。そんな所をやられちゃたまりませんよ、目を回しちゃう。もうおかしくっておかしくって、こっちが困ってしまったことがありました。けれども、見物にはその穴をまったく気付かせなかったんですから、六代目尾上菊五郎という人はやはりすごい役者でした。  序幕『取手宿我孫子屋(あびこや)』で、茂兵衛が上手(かみて)からいつ出てきたんだか分からないようにフラフラッと出てきますが、いつもの歌舞伎とは主役の登場の仕方があまりにも違うんで、初演当時の見物は驚いたものです。  ここで茂兵衛が着ている浴衣は、新しい物ではいけないというので大変だったんです。結局、新規に染めてクシャクシャにして作りました。  前にも言いましたが、長谷川先生は本を渡されてしまいますと後は何もおっしゃいません。それで、『一本刀』にしても『暗闇(くらやみ)の丑松(うしまつ)』にしても、ぜんぶ六代目の演出なんです。 『暗闇の丑松』も私は二度ほどやっていますが、これもぜんぶ六代目そのままです。ただ最初にやることになった時に長谷川先生が、 「おい、松緑、ここは六代目はやらなかったけれど、君やってくれよ」  とおっしゃったのは、序幕の引っ込みの件りでした。家の中で殺しがある、丑松が屋根へ逃げてうずくまる、表のほうで人声が、 「静かになりましたね。もう夜も更けます。じゃあ寝ましょう。おやすみなさい、おやすみなさい」  などとあって戸を閉める、と物陰から丑松がお米(よね)を連れて出てきてあたりを窺い、タタタタッと花道へ行き、そのまま駆けて入る。これが原作通りなんです。  六代目はここをやらず、殺して屋根へいったん出る。お米を抱えてそこから飛び降りる形で、暗転、というようにやっていました。  それを先生が、 「やってくれ」  とおっしゃられたので、一日やりました。けれども、別に効果がないので先生も、 「ア、松緑、そこはいらないや」  ということになって、とどのつまりは六代目通りになってしまいました。  二度目にやった時には長坂元弘君が凝りに凝って本雨を降らせましたが、これがもう大雨なんです。その中での芝居でしたから、これも大変でした。   坂崎出羽守  山本有三先生の『坂崎出羽守(さかざきでわのかみ)』も他の新作物の多くがそうであったように、六代目菊五郎の演出なんですが、本当にいい芝居ですね。  私はこれを二度やっていますが、初めての時に、もと六代目の弟子で尾上英二郎を名乗っていた木村英二郎という劇評家が、六代目と比べてどうだこうだと難癖を付けました。六代目と比べられては問題になりませんが、こっちも若い頃ですからカッカとして、山本先生のお宅へ、 「こうこう言われましたが、先生どう思われます。もういっぺん見てください」  と電話を掛けました。  そうしたら、先生が改めて見てくださって、 「俺がいいと言うんだから、いい」  と、おっしゃってくださったことがありました。  六代目の坂崎出羽守はむろんいいものでしたが、ことに記憶に残っていますのは、六代目はジーッとしていて頭の筋肉を上へ上げることができました。これは(尾上)鯉三郎さんもできましたね。ジーッとしていながら感情の昂まりに連れて目が釣り上がっていく。それが何とも言えない凄みになって、ことに四幕目の『坂崎出羽守屋敷の場』など、実にいい出羽守でした。  六代目は市村座時代に、大坂城で千姫(せんひめ)を助け出す件(くだ)りもやったそうですが、私が厄介になってからは一度も出していませんから、どんな舞台であったのか知りません。面白いところではありませんし、なくても芝居の流れのうえで困る幕ではありません。  六代目の『坂崎出羽守』では、私は序幕に真田幸村の首級を持ってくる使者を、ずうっとやっていました。  三幕目第二場『駿府城内表座敷の場』での崇伝(すうでん)と出羽守とのやりとりが、一つの見せ場です。後の四幕目『坂崎出羽守屋敷の場』になれば、もういくらでもやることがあって楽なんですが、ここは二人の会話だけでもっていくんですから難しい幕です。六代目の時は崇伝が(尾上)松助さんでしたから、そりゃあ面白い幕になりました。  この幕切れの太鼓で、六代目は苦労したんです。崇伝から千姫を諦めるように説得された出羽守が、勧められたお茶を断り、 「有難う存じますが、気分がすぐれませぬから、これで御免をこうむります」  と崇伝へ一礼して力なく立ち上がる、と暮六つの刻(とき)の太鼓がドーンドーンと入ります。この音に自分の動きが合ってしまっては、いつもの歌舞伎になってしまってまずい、かと言って合わなくては芝居にならないというので、非常に苦労をしていました。  この芝居は家の倅(尾上辰之助)も好きでしたね。  こうした新作物の演出のうまさを見ても、六代目という人は父親の五代目さん(菊五郎)と、心服していた九代目さん(団十郎)双方の影響を、強く受けていたということがよく分かります。  五代目さんは手順から何からきっちり運んで、それをまた苦労して考えた方なんです。私を育ててくれた家の弟子がよく言っていましたが、五代目さんの芝居は、腰元がお膳を運んで持ってくるのでも、ちょっと違ってもいけなかったそうです。毎日ピタッと決まった所へ置かないと怒られる。つまり五代目の芝居は毎日、一寸と違わなかった。ところが九代目さんの芝居では、どこへ置いてもいいんだそうです。それでいて、芝居の運びや役の気分には非常に厳しい。  こうした両方の影響が六代目へ受け継がれたわけです。   南総里見八犬伝  つくづく考えれば考えるほど、私のお師匠さん(六世菊五郎)は偉い人でした。芝のおやじさんから教わった恩は大きいですよ。  私が十代だった頃、鎌倉の由比ケ浜に六代目の別荘がありまして、そこでずいぶん稽古してもらいました。踊りの『浮かれ坊主』などはここで教わった物です。六代目のことですから尻をまくらされて、畳の上でのお稽古なんですが、足袋をはかせてくれません。素足で畳の上では足が滑らないので、ずいぶん大変な思いをしました。  六代目は夏場になると鎌倉へ行きます。この別荘のついそばに、実は六代目の行き付けの家があったんですが、別荘にはおばさんも一緒に行っているわけですから、六代目もなかなか出られず別荘にいることが多い。そうなるともう、お稽古ということになるわけなんです。おばさんも偉い人でしたから何もかも知っていましたが、ことお稽古となれば六代目も出掛けたがらずに、ビシッと座っていましたからね。そういう時にはそれこそ清元(きよもと)の『隅田川』のレコードなどを聞かせてくれます。そうなるともう、お稽古だの芸談だのに真剣になってしまって、六代目は彼女のことを忘れてしまうんです。  私がまだ長唄を習っていた頃に、一度『船弁慶(ふなべんけい)』を聞かせたこともありました。長唄の『船弁慶』は、芝居のとは違うんです。   春のあけぼの……  ではなくて、   陶朱公は勾践(こうせん)を伴い……  というんです。それを、 「弾いてみろ」  と言われたんで聞かせましたが、 「こりゃ踊りにはならねえな」  などと言ったこともありました。  また十二月になりますと、鉄砲打ちに行くんです。私は犬代わりによく付いて行きましたが、御用のあるのは私だけで、他のお弟子は何もすることがありません。ところが六代目という人は、お弟子さんがよそで働くのを非常に嫌がるんです。六代目は高給を取っていますから、一月くらい休んだところで何でもないんですが、下の者は困りますよ。よんど困ってよその芝居へ出たりすると、しくじってしまうんです。  そのうちに私たちもだんだん年齢(と し)になってきまして三十歳代に入り、ちょうどやる盛りになったからということで、渥美清太郎(あつみせいたろう)さんが大変に骨を折ってくださいました。渥美さんが私たちのために、それまであった古い本を新しくすっかり構成してくださったのが、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはつけんでん)』なんです。  上演は昭和二十二年の帝劇でした。東宝系の小屋へ出るんですから、そうなると、六代目から松竹へ一言言ってもらわなくてはなりません。たまたま荒川さん(三世左団次)は出なかったんですが、あとの市村座関係は全部出ることになっていますし。  それが、へそを曲げちゃって、 「だいたい俺が出ねえのに、あいつらが芝居ができるってのがおかしい」  と言うんです。むろん無断でやったりしたら大変ですし、また六代目が昔からの『八犬伝』で犬山道節(いぬやまどうせつ)だのいろいろやっているのを知っていますから、 「見てください」  と、ちゃんと一同揃って鵠沼(くげぬま)まで頼みにも行きましたが、 「俺知らねえよ」  とけんもほろろです。  ですから、むろん稽古にも来ない、初日にも来ない。まるで影覗(かげのぞ)きさえしません。  舞台のほうは、私たちも一生懸命で、わりに成績もよかったんです。  いよいよ千秋楽になりました。来ましたよ、しぶしぶ、劇場までは。ところが客席に入りません。ホールまで来て、そこにあった豪華な椅子へ腰掛けたまんま、 「見ちゃあいられねえ」  などと言っていて、とうと見ずじまいでハネてしまったんです。  さて六代目は、家へ帰ることは帰りました。けれども元来気が小さい。で、私たちは何一つ悪いことはしていない。初めから筋を通して「お稽古を見てください」と頼んでもいるんです。それを勝手に断って、とどのつまり、千秋楽にだけは来ることは来たものの舞台を見もしない。さすがに自分が恥ずかしくなっちゃったんですね。  こっちはあくまで筋を通そうと、改めて荒川さんを頭に鵠沼へお礼に行きました。そうしたら、「いない」と言うんです。小さな舟を仕立てて釣りに出掛けたらしい。みんな、帰ってくるまで待ちました。六代目の倅の(尾上)九朗(くろう)右衛(え)門(もん)も私たちと一緒ですよ。  と、ようやくのことに帰ってきました。玄関を上がってくる、みんなが揃っているのをチラッと横目に見る、それだけで奥へスーッと消えちゃった。奥の部屋で、九朗右衛門のお乳母(ん ば)さんだったお虎婆さんに、 「あいつら何しに来たんだ」  と聞いたそうです。 「何しにって、お礼にみえたんです」  と言われまして、さあ出てこられなくなっちゃった。そりゃそうでしょう、お礼と言ったって自分は何もしていないんですからね。それでもようやくしぶしぶ出てきました。けれども一言も喋りません。何しろ見ていませんから照れちゃって。この時は完全に六代目の負け、何も言いませんでしたね。  このことがあってから、自分が休んでもお弟子を働かせるようになったんです。  けれども、 「俺が出ねえで、芝居ができるわけがねえ」  というのは、六代目らしくていいじゃありませんか。   あとがき  辰之助さんが、四十歳という若さで、まさにこれからという時に亡くなられたことに、最も深く強い衝撃を受けられたのは、間違いなく尾上松緑さんでした。  歌舞伎の芸は、いわず語らずのうちに、父から子へ、師匠から弟子に伝わってきたものです。その子を失った悲しみは、芸の継承を断ち切られた嘆きと重なって、いかほどに大きかったか、察するに余りあります。  この本の企画をいただき、松緑さんにお伝えした時、ただちにご承諾を得たわけではありませんでした。「芸のことが文字で分かってたまるものか」という、お気持ちだったと思います。しかし、いま辰之助さんなく、孫の左近さんもまだ小さいとなれば、六代目菊五郎から伝えられた芸の数々を、こういう形ででも残しておこうと考えられたのだと思います。  この本で語られているすべては、わが子辰之助さんに聞かせたかったことであり、そして辰之助さんを通じて孫の左近さんに伝えてもらいたかったことなのだと思います。  この一冊にまとめられたのは、すべての聞きとりの半分にも及びませんし、昭和という時代を生きた歌舞伎役者尾上松緑という人を知っていただきたいがために、広い読者の方々を対象にして構成もされています。そのため「芸談」としての突っこみや、役の選択に不満を持たれる向きもあろうかと思いますが、その責任はすべて私にあります。  時あたかも昭和が終わり、平成と改まった元年に、こうしてこの本の出版をみるというのも、歴史の大きな流れを感じざるをえません。次の世紀へ向かって、歌舞伎はいったいどんな道を歩んでいくのでしょうか。  出版にあたり、全体のまとめに多大な労力を傾注して下さり、この人の力なくしてはとうていこの本の成り立ちは考えられなかった中嶋典央さんに、あつくあつく御礼申し上げます。長い期間、あたたかくこの仕事を見守って下さいました紀尾井町の御家族の方々、そして、写真を選んで下さった尾上扇緑さん、年表作成等に協力してくれた手島敦子さんにも、心より御礼申し上げます。  終わりになりましたが、この本の企画の口火を切って下さいました共同通信社の松田基弘氏、言叢社の原沢幸子さん、そして出版をこころよくお引き受けいただいた講談社にも、あつく御礼申し上げます。   平成元年五月 織田紘二   (国立劇場)   文庫版へのあとがき  平成元年六月二十五日を忘れることができない。六月の国立劇場は、歌舞伎鑑賞教室で「仮名手本忠臣蔵」の五、六段目“山崎街道の場”“勘平切腹の場”を、松緑さんの指導で中村福助の勘平、中村松江のお軽で上演していた。舞台稽古をビデオに収録し、自宅で療養中の松緑さんに見ていただき、出演者一同に注意とお叱りを頂戴したのが六月一日。長年にわたって後輩の指導をお願いしてきたが、これが松緑さん最後の舞台指導となった。  国立劇場を二十四日に打ち上げ、二十五日には山梨県の文化ホールに移動し、三日間の公演がある。私は出演者と共にバスに乗り中央高速を行く。いつも通り談合坂のサービスエリアで休憩。なぜか胸さわぎがしてならない。東京の藤間事務所に電話を入れてみる。つい今しがた亡くなられた、という。入院されたことも、あまり良い状態ではないことも知ってはいたが、こうも早く亡くなられるとは思ってもみなかった。涙はでなかったが、受話器を持つ手がふるえ、顔が強張るのをはっきり自覚していた。甲府市での初日の舞台を開け次第、帰ることを約束して電話を切った。  松緑さんのお弟子さんたちも出演していて、何も知らずにバスの中にいる。言うべきかどうか迷ったが、私の顔を見て、それと察したのであろうか、異様な静寂が車中を走った。隣の席の田之助さんに一言、「紀尾井町が亡くなりました」と言った。「エッ」と言ったきり窓の外、遠くの一点を見つめ続けていた。菊五郎劇団での共に過ごした何十年の日々を想っていたのであろうか。  文化ホールでは、あわただしく初日の準備が進んでいた。すでにテレビでも報道されていて知れ渡っている。裏方の人たちにも人気があって親しまれていた松緑さんの逝去を、一人一人がその悲しみを静かにかみしめているかのようであった。その夜の幕の開くのを確認して東京へ戻った。五反田のマンションの前に、大勢のマスコミや関係者が集まっている。人々の間をすり抜けて部屋にたどりつく。ベッドが片づけられた広い部屋の奥に布団が敷かれ、枕元に嵐君が暁星の制服で座っている。顔にかぶせられた白布を嵐君がとってくれる。この日初めて泣いた。「ありがとうございました」としか言えず、泣いた。  亡くなられる一ヵ月前に、『松緑芸話』は単行本として出版された。できあがった本を持参した折、手にとって表紙を撫でていたのを覚えている。松緑さんの亡くなられたのを知った甲府行きのバスの車中で、この本の出版が何とかギリギリで間に合ってよかった、と思った。まだ幾分かでもお元気な内に手にとってくれて、本当によかった。聞きとりを始めて何ヵ月かの間、次第次第に一回の時間が短かくなり、声に力が失なわれてくるのが分るのはつらかった。急がねば、とあせる気持を抑えつつ、体調に合わせての聞きとりであった。テープレコーダーを間にして、枕元に座ってじっと顔を見つめつつ、何時間の時をご一緒したろうか。私にとっては幸せな時間だった。  後日ある人に、「紀尾井町の側にいる織田さんは空気みたいだった」と言われたことがある。自然体だったのだと思う。自分を全て消し去って、何を聞こうとかどうしゃべってもらおうとかいった考えも想いもなく、無心にただただ松緑さんの口からでる一言を聞きのがさず、表情を見のがすまいとだけ思っていた。病状の進行との競争でもあった。  平成の歌舞伎もいま激動の時代にある。世紀末から次の世紀に何がどう変わって行くのだろうか。歌舞伎の未来を想う時、昭和という時代を生きた一歌舞伎役者の言葉に耳を傾け、その言葉の中に真実を発見することを、疎かにしてはならないと思う。歌舞伎の永劫性とは「芸」の永劫性なのだと、そして「芸」とは修錬を経た「肉体の技術」にほかならないことを、著者は語り続けている。  松緑さんが去って四年近い歳月が流れ、『松緑芸話』が文庫本化される。嬉しいことである。長く広くこの本が読まれることを願うものである。  出版に際しお世話になった方々に再度御礼を申し上げるとともに、文庫本出版に当られた関係諸氏にも御礼を申し上げます。  最後に、亡き尾上松緑さんに、つつしんでこの本を捧げます。   平成四年七月 織田紘二   〔著 者〕 尾上松緑 二代目尾上松緑。本名藤間豊。 大正二年三月二八日、東京浜町で七代目松本幸四郎(藤間金太郎)妻すえの三男として生まれる。 大正七年一〇月帝国劇場「出世景清」の石若で初舞台。昭和二年六代目菊五郎に師事。昭和一〇年三月尾上松緑を襲名。 昭和二七年芸術祭奨励賞受賞。 同 三〇年第一回テアトロン賞受賞。 同 三九年第九回テアトロン賞受賞。 同 四〇年芸術院賞受賞。 同 四二年NHK放送文化賞受賞。 同 四七年重要無形文化財保持者(人間国宝)指定。 同 四八年日本芸術院会員。同五九年文化功労者認定。 同 六二年文化勲章受賞。 平成元年六月二五日死去。 ・本書単行本は、一九八九年五月、小社刊。 ・本電子文庫版は、講談社文庫版(一九九二年八月刊)を底本としました。 ・“(現)(先代)(故)”などとあるのは、底本刊行時のままです。また、単行本・文庫版収載の写真、および巻末の「上演年表」は、割愛しました。 松緑芸話(しようろくげいばなし) 電子文庫パブリ版 尾上(おのえ)松緑(しようろく) 著 (C) Fujima jimusho 2001 二〇〇一年四月一三日発行(デコ) 発行者 中沢義彦 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社 *本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。