TITLE : スカートの風 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。 スカートの風 目 次 プロローグ[心の国境の間へ] だれも韓国のほんとうの姿を語っていない 韓国人のふたつの夢——お金と権力 田舎娘から陸軍士官の恋人への道 日本への旅立ちと最初の挫《ざ》折《せつ》 冷たい日本人と夢をなくした私の絶望 生死の別れ道に浮かび上がった日本人の笑い顔 夢がなくとも笑える自分の発見 残せるものが何もない人生の失敗者 韓国人ホステスのなかに見た自分自身の姿 第1章 日本で働く韓国人ホステス なぜ日本に永住したいと願うのか? 女としての自分をより高く売るために ママとホステスの権力バランス 自己防衛のためにつくられるグループ きまりを破ったホステスは店からはじかれる ママも手を焼くホステスの嫉《しつ》妬《と》とプライド 女は美人でなくてはならない 中年の田舎者が韓国人ホステスにもてる理由 韓国版「ジャパゆきさん」の渡航史 暗躍するブローカーの実態 この女たちは韓国では暮らしていけない? 結婚ビザから入籍まで 最も確実に日本に永住できる方法とは? 最大の権力機関としての入国管理局 不法就労摘発の現場から 女たちの運命を左右する入管のサジかげん 留学生からホステスへの必落街道 ホステスという職業の卑と尊の二面性 日本は勉強する場ではない? 愛人を手に入れた女子留学生 正妻に「家」を愛人に「女」を求める男たち 子供を産みたがるホステスたち 売春婦ではない女の売春行為 女が流出する国 第2章 現代韓国の女性事情 だれも語らない生と性のドラマ 「離婚したら日本へ行け」 実家には帰れない女たち 韓国でロング・ヒットを続ける女の「哀歌」 親友どうしで日本に渡った二人の女 無《む》垢《く》な少女の工員からホステス・売春婦への道 常軌を逸した処女重視の社会 ブティックで売り子をする売春予備軍 少女たちをママさんハウスに引き入れるテクニック ママさんハウスで成功した女 喫茶店での過剰なセクシー・サービス 日本人相手の観光キーセン 観光キーセンを愛人に持つ日本の男 女を抱かないと韓国ではビジネスにならない 韓国を批判しない韓日のジャーナリズム 旅行嫌いの韓国人 韓国と日本の男女観の違い 親友ヨンスギの行方を追って チョンノサムガでの再会 観光ガイドの副収入 見せつけられた親友ヨンスギの手腕 再びヨンスギが輝くとき 第3章 ヤンバンとキーセンの哀歌 現代を支配する李《り》氏《し》朝鮮の亡霊 五一九年間続いた李氏朝鮮の支配 古代以来の全羅道《チヨンラド》・慶尚道《キヨンサンド》の対立 キーセンは庶民には高《たか》嶺《ね》の花だった 人気歌手と結婚した現代ヤンバンの長男 卑しまれ続ける芸能人たち ヤンバンらしい男こそ夫にふさわしい 成り金を目指す人生観の肯定 会社で何もすることのない社長 韓国の企業と日本の企業の埋めがたい溝 貯金よりも目先の借金 銀行よりも「ケー」を信用する理由 奇《き》蹟《せき》好きとキリスト教 韓国の童話「シムチォン伝」 韓日伝承説話の相似と違い 一家の徒食者という女の価値 押しつけられる結婚と息子の出産 家族の情愛と目に見える愛の形 教育ママのすさまじき欲望 男への復《ふく》讐《しゆう》を開始した女たち 新しい時代のチマパラム 第4章 韓国人と日本人 知り合おうとしない隣人たち 理解しがたい日本人の「あいまいさ」 人の話を聞いたら負け 一人一人に力がないことを教える日本の学校 韓国人には見られない日本人の反省思考 トウガラシの韓国とワサビの日本 日本語は受け身の言語である なぜ日本人は「〜させて下さい」と言うのか 二つの言葉の用法を使い分ける日本人 日本人の文章力 敬語という日本語の壁 韓国語を習う日本のビジネスマンたち 韓国人ホステスの日本語の学び方 ビビンパとまぜごはん せっかちの歴史 最大の難関——いけばなの美 日本語は人格を変える? ハングルという文字の限界 反日世代と団塊世代との新韓日ビジネス 単行本版あとがき 文庫版あとがき プロローグ[心の国境の間へ] だれも韓国のほんとうの姿を語っていない  私は日本に来て、たくさんの日本人の韓国論、韓国人の韓国論を読んだが、いずれにも、大きな不満を持ち続けて来た。日本人は韓国に遠慮して言いたいことを言わず、韓国人は日本人にいいところばかりを話し、決して肝心な問題点を語ろうとはしていないからである。私が難しい日本語と格闘しながらもこの本を書こうと思いたったのはそのためである。  かと言って、私は韓国論を書きたいわけではない。  私はたまたま日本で働く韓国人ホステスたちと親しくなり、彼女たちが背負う特異な生活と体験に深く接することになった——そこに韓国を根底から揺るがすことになるかもしれない、きわめて大きな問題が潜んでいるのを発見したこと。それが書きたいことのひとつである。  日本に住みついて八年、どんどん日本人っぽくなり、逆にしだいに韓国人らしさをなくしていくように思える私は、なぜそのように変化していったのか——それを語ることによって、日本人が自分自身ではほとんど気づいていない、意外な「日本の顔」を示してみたい。それがもうひとつの書きたいことである。とくにこれは、どうしても日本語で書くことによってしか表わすことができないと思われた。  この二つのことは、実際には切り離すことができない一つのもので、現在の私の心のあり方そのものでもある。したがって、まず、一人の韓国の女としての私が歩んで来た人生と、そこで体験することになった心の葛《かつ》藤《とう》を率直にお話ししていきたいと思う。その上で本文を読み進めていっていただければ、私の言葉たらずなところもより通じやすくなるだろうと思える。 韓国人のふたつの夢——お金と権力  私の祖国韓国では、日本人には夢がなく、人生の目的がはっきりしていないとよく言うのだが、韓国人は一般に、はっきりとした夢や人生の目的を持つものだ。そして、その狙《ねら》いには大きく言ってふたつのものがある。  ひとつは経済力である。今日より明日はもっといい暮らしがしたい、他人よりもっといい生活がしたいということ。一般的にはお金持ちになりたいということであり、通俗的には、たとえば社長になりたいというようなことである。そうなることは恰《かつ》好《こう》がいいし、また人に羨《うらや》ましがられることでもある。そうした目的のために、常に他人と競争関係にあってこそ、力が出るし、また生き生きともする。もうひとつは、権力である。権力があれば経済的な問題も解決されるし、お金持ちよりもさらに恰好がよい——。  私はどちらかと言うと、権力を手に入れることを人生の目的としていた。しかし、女であるために自ら権力者となることが難しいので、権力者と結婚し、権力者の妻として生きたいと思った。そのため私は、高校生くらいのときから、世界各国のファースト・レディについて書かれた本などを読んで、自分がそうなったときのことを頭に描いては、将来の人生へと思いを馳《は》せるようになっていた。  ただ私は、世界のファースト・レディたちが、自らを洗練された美で装うことに最大の努力を傾けているところが、どうにも好きになれなかった。私はそれよりも知性を大切にする女性に魅力を感じていた。そんな私はやがて、権力者の妻になるにしても、好きな本を読みながら小さな家で暮らすことができたら、なおさらのこと素敵だと思うようになっていった。  大学に入ると、友だちどうし集まると必ずと言ってよいほど結婚の話が出てくる。そして、一〇人のうち八人まではお金持ちとの結婚を夢見ており、大きな家に家政婦を雇い、贅《ぜい》沢《たく》な暮らしを存分にできたらいいと言う。でも私は大きな家には住みたくなかった。私の故郷は田舎だったが、家は大きく、常に親《しん》戚《せき》の者たちやわが家の手伝いを仕事にする者たちの出入りが絶えなかった。家の中も庭も広く、とても一人では掃除できない広さだった。私の家は、田舎ではお金持ちの部類に属していた。  私はわが家の、単に広いだけでまとまりのない雑然とした感じが嫌で、小さな家にこぢんまりとした庭があって、可愛《かわい》い花壇とちょっとした池があるような生活に憧《あこが》れた。そして、一人で勝手にそんな家のイメージを頭のなかで創っては楽しんでもいた。  もし私が権力とお金を手にしたとしても、家政婦もいらないし大きな家も欲しくないと思った。そして、そんな話を友だちにするたびに、「変わっているわね」と言われていた。それでも私が、韓国一般の少女——権力者かお金持ちのお嫁さんになることを夢見る少女であることには変わりはなかったし、また自分の夢を何にもまして成し遂げたいとすることでも、私は典型的な韓国人であった。 田舎娘から陸軍士官の恋人への道  私の両親は特別な教育も受けていない素朴な田舎人だった。韓国ではだいたい、女はせいぜい中学まで行ってハングルが読める程度になれればよいという考えが一般的で、田舎ほどそうした考えが強かった。私の両親もそうした考えではあったが、五人の子供のうち上から四人までが女だったこともあって、本人の意志があれば上の学校にやりたいという気持ちをもつようになっていた。そのおかげで、私の姉妹たちはみんな上の学校に行くことができるし、それが私たちの自慢でもあった。でも周りの人たちから私たち一家は、「なんであの家はそろいもそろって女に教育を受けさせるのか」といぶかしがられていた。  私は上から三番目だったが、娘が上の学校に行くために家を離れ、田舎から地方都市へ、大都市へと移動しながら勉強することに、特にこだわりをもたなかった両親には大いに感謝している。大都市へ行けば行くほど女の教育水準が低く、都市では貧民層が田舎では考えられないほど大きな底辺を形づくっていることを知ったことだけでも、世間知らずの田舎の娘にとっては、大きな社会体験であった。  私は、学生生活を続けるとともに、そうした都市生活の実情を深く知ることになったが、それは私の人生の目的にひとつの理由づけを与えることにもなった。いまから思えば赤面の至りなのだが、貧困をなくすためにこそ権力が必要だと考えたのである。それから、私はなんとしても権力を手に入れなくてはならないと、強く思うようになっていった。  二十歳を過ぎると、私のもとへはお見合いの話がたくさん飛び込んで来た。しかし、それらの話はいずれも財産家の子弟との縁談であった。そうした結婚は望むところではなかったから、私はすべてを一貫して断り続けていた。  私は権力者と近づき、彼らと話をしたかった。韓国で最大の権力者と言えば、いまも昔も軍人である。そこで、人生の目的を限りなく現実的に考えた私は、自分の夢をかなえる近道は軍隊に入ることだと判断したのだった。必ず夢を実現させたいとの意気に燃える私は、思いたつやためらうことなく軍隊に入ったのである。  田舎出の娘がいきなり軍隊に入ることに、私の周囲の人たちは大変にとまどったようだった。何か心にキズを受けて逃避したくなったのではないのだろうか、男ばかりの集団に入れば女らしさもなくなってしまうだろうに——と。  しかし私には私の目的があった。  そして私は、やがて、ある陸軍士官学校出の軍人とつきあうようになっていった。まず第一の関門に手を触れることのできた私は、心が宙に浮くような思いで、彼が面会にやって来てくれる日を待ちわびて毎日を過ごしていた。彼は政治にも深い関心をもっており、彼の兄は政治家の卵として活動していた。私は、やがては政治家として出たいと言う彼に、退役したらすぐにでも結婚したいとの思いをつのらせていた。こうして、私の夢は着々とその現実化へ向かって歩を進めているように見えた。  私が軍人であり、また陸軍士官を恋人にもったこともあって、それまでは会うことすら考えられなかった権力者たちと話を交わすこともできた。またテレビでしか見ることのできなかった大統領を直接まぢかに見ることもできた。私の心は軍隊生活の毎日に、ほんとうに生き生きとはずんでいた。  しかし、運命の女神は私に味方してはくれなかった。私の初恋はみのらず、退役後に彼とは別れることになってしまったのである。このショックに私は大きく打ちのめされることになった。それは一人の男との間の愛を失ったばかりではなく、私の夢である権力へと接近していたひとつの道が確実に断たれたからであった。 日本への旅立ちと最初の挫《ざ》折《せつ》  まだ道はある。私はそう思った。よりすぐれた知識を身につけることで権力と向き合うことができると考えたのである。またそうでなくとも、私にはもっと勉強をしたいという知的な欲望も強かった。そのためには外国へ留学することだと思った。  ほんとうはアメリカへ留学したかったのだが、ビザの面などいろいろと困難なことが多かったので、ひとまず日本へ行って勉強しようと思った。それを足がかりにアメリカかカナダへという、漠然とした計画を胸に東京へと旅立ち、日本の大学の留学生として勉強することになったのだった。  東京は勉強をしながら生活するにはとても快適なところだった。生活や勉強に必要なものは、高級品さえ望まなければ、簡単に安く手に入れることができた。韓国では想像もできなかったほど、東京は消費物資に溢《あふ》れた都市だった。  そして、韓国で私が頭に描いていた小さな家が東京にはあった。私が生活の理想とした、小さな家によく整った小さな庭のイメージは、あくまで想像のなかのものであって、現実に見たことのあるものではなかった。が、なんと、そのままの家が日本のあちこちにあるではないか。私はすっかりごきげんな気分になってしまった。  こうして日本のことをあまり知らないまま、最初の一年ほどはけっこう楽しい気持ちで過ぎて行った。しかし、だんだん日本語がわかってくるにつれて、外国人ならだれもが感じることなのだが、しだいに日本の嫌な面が大きく見えて来るようになっていった。  表面でのきわめて親切な態度とは裏腹な現実の行ない——しばしばそんな感じを受けることになり、やがては日本人みんなが二重人格者に思えて来る。また、何を言うにもはっきりと意見を言わないあいまいな態度に嫌気がさすことが多くなる。友だちもできたが、韓国でのようにすべての秘密を話し合おうとすると嫌がられる。他人のことにはお互いに深く立ち入らない主義だと言う人が多いのだ。にこやかな表情の反面、現実の人間関係はいたって冷たい、というのが、当時私が感じた日本人一般の印象であった。  私はしだいに日本人とつきあうことが苦痛となって来た。しかし一人でいるのはなお苦痛なので、当時は韓国人の友だちと寄り集まっては日本人の悪口を言い合い、しばしば夜を明かしたりすることも多かった。そんなときに私がよく口に出したのは、「物がすべてじゃないわ。いくら物があふれていても、精神が貧しい日本人は野蛮人よ」といった言葉だった。  私は韓国に帰りたいと思った。でもたった一年で帰ってしまっては負けである。かと言って、このまま日本にいればなんだか頭がおかしくなりそうでもあった。そんなとき、日本語学校で一緒になったフランス人の友だちが、そうした私を見るにみかねてか、パリの自分の家を利用してカレッジにでも通ったらどうかと声をかけてくれた。かなり憔《しよう》悴《すい》していた私にとって、それこそ渡りに船、学問がどうとかいうよりは、ともかく日本でも韓国でもないところでしばらく生活できることが魅力だった。  それでも私は、どうせ行くなら英語学を専攻していることもあり、本場の英語を勉強してみたいと思った。友だちにその話をすると、彼女は、ロンドンの知り合いを紹介するから、その家にホームステイをしてロンドンのカレッジに通えばどうか、またパリの自分の家を基地にしてフランス人たちともつきあえるだろうしと、親切にすすめてくれたのである。  こうして私はフランス人の友だちの好意に甘え、ロンドンに住み、パリとの間をしばしば往来することによって、日本の堅苦しい環境とはうって変わった生活をすることができたのである。ヨーロッパ人特有の明るさにふれて私の心はなごみ、しだいに持ち前の元気な性格を回復していった。  しかし、こうした生活は長く続けられるものではなかった。日本では見た目だけで異邦人と知られることはなかったが、ヨーロッパではただそこにいるだけで、嫌でも自分を異邦人と意識せざるを得ない。また、韓国人と会う機会も話す機会もほとんどなかったことも辛《つら》かった。ほんとうに贅《ぜい》沢《たく》な話だけれども、このヨーロッパでの体験は、こと生活に関する限り、疲れた心を休め、精神に活力を養うための旅以外のものではなかったように思う。 冷たい日本人と夢をなくした私の絶望  数カ月の予定を終えて私は再び日本へ戻って来た。そして気分を一新した私は、今度はこちらから積極的に日本の生活に合わせていくんだと、自分自身に強く言い聞かせていた。  ヨーロッパでは、話をすればすぐに仲良くなって、互いに相手の住居に遊びに行ったり、食事を一緒につくって食べたりすることも多かったが、日本人との間にはなかなかそうしたつきあいが生まれない。どうつきあって行けばいいのか、その点での悩みにすぐにぶつかり、はやくも私の覚悟はくじけそうであった。  実際、日本人の友だち関係のあり方には、どうしても「ついて行けない」と思うことがしばしばであった。たとえばあるとき、友だちが財布をなくしたからと言ってお昼を食べないでいるので、私が「お金を貸しましょうか」と言ったところ、「借りても返せないからいいわ」と言われたことがある。それならと「ごちそうするから……」と言うと、「それは悪いわ」と断られてしまった。そのときから、私はお金を忘れて来てもなんだか日本人には「お金を貸して」とは言えなくなってしまった。  また、私がそれぞれを別々に知っている二人の日本人を引き合わせて紹介し、三人で食事をしたときのこと。食事を終えて支払いをする段になって、一人の日本人が何やらもう一人の日本人にコソコソと話をしている。明らかに、お金の持ち合わせがないから食事代を貸して欲しいと頼んでいるのだ。これには私も、腹をたてずにはいられなかった。  その日本人にとって相手の日本人は、今日はじめて会ったばかりなのであり、よく知り合っているのは私の方なのだ。それなのに、なぜ私にお金を借りようとしないのか。日本人にとって外国人は友だちではないのか。言いようのない怒りをおぼえながら、何気なくワリカンの支払いをする自分がなんだか情けなくて仕方がなかった。  外国人はお客さんだから迷惑をかけてはならないと遠慮し、同じ日本人なら身内だから多少甘えてもよいという心情が理解できなかった当時は、そうした態度をとる日本人は冷たい心の持ち主にしかみえなかった。  そのころ、私は大学へ行くかたわら日本の企業でアルバイトをしていたのだが、そこで日本のビジネスマンと接することになり、さらに日本人がわからなくなってしまった。彼らに「何のために仕事をしているのですか」と聞けば、「家族のためだ」とか「食べるためだ」とかしか答えが返ってこない。「夢は? 目的は?」と聞いても多くは笑ってごまかす。「社長になりたくないんですか?」と聞いても「なりたい」と言う者もいないし、有名になりたいと言う者もいない。そんな話を聞いているうちに、夢を持っている私が何か罪人のように思えてくるのだった。  人並み以上の経済力も社会的な地位も、ましてや権力も望まない人たちが懸命に働いている社会。しかも、そのことによって貧困をほぼ一掃することに成功した社会。その事実を目の前につきつけられて、私はそれまでまったく迷うことのなかった自らの人生観——夢を持って生き、その夢の実現へと向かうことで自分と社会を生かして行こうとする考えに、疑いの念を持たざるを得なくなっていったのである。  私は、それまでの夢を思い返してみるたびごとに、だんだんと、それがいかに安っぽいものだったかと感じさせられ、ついに小さいころから大事に抱えて来た「権力への夢」を失ってしまった。それと同時に激しい倦《けん》怠《たい》と無気力の感覚におそわれ、何をやる意欲もまったくなくなっていった。そうして笑うことすらできない状態に陥ってしまったのである。  しかし、日本人はテレビを見てゲラゲラとよく笑う。なぜ夢のない人たちが笑うことができるのか。私から笑いを奪った日本人が笑っている、いったいどういう人たちなのだろう……。何もかもがわからなくなってしまった。  すでに夢をなくした私は、もはや夢を語ることの好きな韓国人たちと話をして安らぐこともできない。日本人も嫌、韓国人も嫌、そして自分自身はなおさらのこと嫌になった。こんな状態が約二年続いた。その間、私はすこぶる病弱になり、何をしてもすぐに疲れ、またしばしば熱を出して寝込むようになっていた。 生死の別れ道に浮かび上がった日本人の笑い顔  このまま韓国に帰っても、歓迎してくれる人も場所もあるはずがない。勉強にも身が入ることがなく、日本企業でのアルバイトも、疲れるだけで収入が少ない。何のために私は働いているのか? 夢がないものならば、できるだけ簡単にお金を稼ぎ、できるだけ楽に暮らすのがせめてもの人生ではないかとも思えた。  私はそれまでに何回も、酒場で働かないかと誘われたことがある。一日四、五時間働いて二万円以上になると聞いていた。そうしてお金を残す女たちもいるが、いまの私のままでは何も残せるものがない。彼女たちは「若くて美人でなくては人気がないのがホステスなのよ」と言うのだったが、お金をたくさん儲《もう》けているホステスたちが羨《うらや》ましくもあった。また、愛人の子供を産んでそれを生きがいに暮らしている女たちも羨ましく思えた。  私はあるとき、私と同じように、ホステスをやろうかどうかと逡《しゆん》巡《じゆん》し、私と一緒にならばやってもいいと言っていた留学生の友だちに連絡をとってみた。だが、どうしても私は「一緒にやろうよ」とは言えなかった。男を相手に稼ぐ勇気を出すことが私にはできなかったし、ましてや他人を誘うことなどできるわけもなかったのである。  確かに私も、彼女たちのような何かを残したいと思った。たまに寂しくなって韓国に電話をしてみても、友だちはみんな結婚して子供を産んで暮らしている。そして母や姉たちからは、「あなたはいったい何をして暮らしているの。いつまで勉強、勉強と言っているの、周りに恥ずかしくて仕方がないわ」とこぼされる。  それはそうなのだ。日本に来て一年もすれば、大部分の女たちは、家になにがしかのお金を送るとか、弟の大学の学資を出してやるなど、親孝行をするものだ。それにひきかえ私は、日本に来て三年以上経《た》っているのに、家にはお土産以上のものを送ったことがないのだ。私は日本で働く韓国のホステスたちよりはよほど親不孝者であり罪人なのだ。  クリスチャンである私は、当時から新宿にあるキリスト教会を通じて、何人もの韓国人ホステスたちを知っていた。ホステス業は、韓国にいるときの私にとっては軽《けい》蔑《べつ》すべき対象だったのだが、日本では逆に私が彼女たちから、「日本でお金を儲《もう》けられない女」とバカにされる対象となってしまった。  正直、私はほんとうにバカなのではないかと思えた。夢もなく、また彼女たちのようにお金を稼いで親孝行をすることもできない。そう思うしかなかった私は、日々追い詰められて行った。そして、私は生まれてはじめて死を考えた。ほんとうに死にたいと思ったのである。  ただ、かすかながら、死の誘惑へと一歩を踏み出そうとする私をためらわせるものがあった。それは、夢もなく、お金持ちにも権力者にもなりたいとも思わずに、ただ黙々と働く日本人の、ほがらかな笑い顔——私を打ちのめしたはずの日本人の、あの笑い顔だった。なぜあの人たちは笑うことができるのか? 私にも、夢がなくとも笑うことのできる可能性があるのだろうか? ふとそんな思いになるとき、決まって私の瞼《まぶた》の裏に鮮やかによみがえって来るのが、私にとっては忘れることのできない、ある一人の日本人男性のくったくのない笑い顔だった。  彼は私がいったんは心を預けようとも思った、たった一人の日本の男——彼の笑い顔はほんとうに魅力的だった。思い返せば、あの言いようのない笑いに象徴されていたものが、プラスもマイナスも併《あわ》せての日本そのものではなかったのだろうか。私の思いは長い間そのあたりをめぐり、悩んでは思い返し、悩んでは思い返しを繰り返していた。  韓国人がしばしば相反する価値観を同時に持つ民族であるせいなのか、あるいは憎しみと愛は表裏一体のものという人間の自然な惑情のなせるわざなのかはわからない。いずれにしても私は日本人の笑いに打ちのめされ、また日本人の笑いによって立ち上がったのである。  そして私は一変してしまった。日本人を徹底的に理解したい欲望を燃え立たせるようになっていったのである。それは、再び心から笑えるようになりたい一心のことだと言ってよい。不思議と言えば不思議な変身であったが、そうした私の変わり身の激しさはまた、韓国人に特有な性《さが》でもあった。 夢がなくとも笑える自分の発見  まず私は、それまでなじめなかった日本の食事に挑戦することを趣味にしていった。また、まるで興味もなかった日本の古跡を歩き回っては、日本の歴史に関心を深めていった。さらに、あまりに奇妙に見えた日本の祭りだったが、偏見なしにそのリズム、トーン、色彩、喧《けん》騒《そう》のすべてに気分を浸してみようと思った。そして、できるだけ韓国人とは距離を置いてつきあうようにしていった。  その間私は、少なくとも自覚意識では、「韓国人としての自分」がスッポリとカッコに入ったような気分で、何か無前提に自然な態度でいられたような気がする。そのためか、それまでベールをかぶっていた日本が急速に私の前に姿を現わしはじめた。  そうした日々のなかで私は、日本人にはことさら意識されることのない、ありふれた物事が織りなす無数の心のドラマの面白さと出会っていった。そうした体験そのものが楽しかった。そう、その一つ一つはとても小さいことなのだ。日本人はまさしくこの楽しさによって生きているに違いないと思えた。  お金と権力を手に入れて振る舞うことのできる楽しみを思う心が、私のなかではっきりとしぼんでゆくのが感じられた。なぜなら、「ことさらな事や物」がなくても「平々凡々たる事や物」であっても充分に楽しく生きていける世界があることを、日本人の具体的な生活のなかで確かに実感できたからである。  権力の獲得を狙《ねら》う毎日であるからこそ充実していたはずの私の日々は、とくに壮大な夢がなくとも毎日をより楽しく送ることができる日本人の生活風景のなかに、消え入るようにして所在を失い、ようやく、夢がなくとも笑える自分を手に入れることができたように思う。  忙しい毎日の生活をぬってのたまの休みに旅に出れば、行く先々の風景や名所に心を動かし、旅館に泊まれば、今日はどんな料理が出るのか、またここの温泉はどんなお湯なのかと期待することが楽しく感じられる。もちろんそれは大きな感動としてではなく、つつましい、小さな心の動きなのである。  そもそも、ほとんどの韓国人のように、私も韓国にいるときには、知らない土地へ旅をすることは辛《つら》いことだと思っていた。なぜならば韓国では観光開発がすすんでいないからだった。旅は日本人がよくするレジャーのなかでも、最も素晴らしいものであるように思う。  日本人の一日一日はきわめて忙しく過ぎてゆく。でも、日本人の幸福とはまさしくそのことなのではないか。毎日忙しく暮らすというよりは、そのように暮らしていられること、それが日本人の幸せなのではないか。私が日本人にそうした言い方をすると、ほとんどの人は「そんなことはない、自分だって楽に生活したいよ」と言う。それならばと、「もし会社でお金をあげるから、三カ月でも半年でも好きなことをしてよいと言われたらどうですか?」と聞いてみると、「それは確かに、自分なんかだったら、仕事をするよりもっと苦しいかもしれないね」と、これまたほとんどの人が言うのである。 残せるものが何もない人生の失敗者  いつか、韓国人の友だちの母親が日本に来た折り、私はずいぶんと説教をされたことがある。彼女は「女はなんといってもよい男にめぐり遇《あ》い、子供を産んで暮らすのが一番幸福なのよ。それなのにあなたは……」と言うのである。もちろん、この言い方は韓国だけに特有なことではない。しかし、彼女の言う「よい男」とは、明らかに権力かお金のある男性を意味しているのである。  また彼女は、「男も大事だけど、子供にはかなわないわ、子供はつくらなくちゃ」とも言う。私が半分冗談に、「日本に来て毎日が忙しくて子供をつくっている暇《ひま》なんかないですよ」と言うと、「あなた、呪《のろ》われたわね」と言う。そして、「女が三十を過ぎれば、子供がいて当然じゃない、見ればお金もなさそうだし……」と言う。そのとおり、私には残せるものが何もない。  この「残せるものがない」ために、私が韓国に帰れないのも事実だ。この三年ほど、私は韓国に行くことがあっても実家には帰ったことがない。家族に対して私は親孝行のできない罪人であるし、帰れば「三十歳を過ぎて結婚もせずに子供もいないなんて、どこかおかしいんじゃないか」と、周囲の人から私も家族も白い目で見られることになる。そのため、とても帰る気分になれないのだ。たぶん、私がわが子を抱いて韓国の土を踏むときでなければ、決して実家に帰ることはないだろう。甥《おい》や姪《めい》の可愛《かわい》い姿を見たいものの、私はやはり実家には帰れないでいる。  他の女たちがお金を儲《もう》けたり子供を産んだりする間、私は勉強をしたのである。そうである以上、勉強をした何かを残したいと思う。が、たとえ私がたくさんの知識を残したとしても、故郷韓国では、子供とお金を残すことにはどうしてもかなうことができないのである。私は、一日一日を忙しく暮らす人生に大きな不満もないのに、故郷では人生の大きな失敗者になっているのだ。 韓国人ホステスのなかに見た自分自身の姿  私はいま、住居を新宿歌《か》舞《ぶ》伎《き》町《ちよう》に設け、韓日ビジネスの通訳・翻訳業のかたわら、韓国人ホステスたちに日本語を教え、日本人たちに韓国語を教え、相変わらず日本の大学で勉強をしている。韓国人ホステスたちとは友だちにもなり、彼女たちからは「オンニ(お姉さん)」と呼ばれてしばしば人生相談などを受けたりもする。  私は彼女たちから、お金を儲《もう》ける能力もあるのに、なぜかそうしたいと思わない変な女だと思われているようだ。しかし私の方からみれば、彼女たちは、お金を儲ければ儲けるほど、悩みごともそれだけ多く、また深くなっていっているように見える。  私は歌舞伎町についてはかなり隅々まで知っている。酒場で働くアジアの女たちのなりふりも、他の日本人よりは数段よく知っていると思う。また私は食べることが好きで、どの店のどんな食べ物が美《お》味《い》しいのかにも詳しい。しかし、夕暮れどき、酒場へと向かうホステスたちの群れのかたわらを歩く、OLのような服装の私はどうにも異様である。かと言って、深夜にジーンズ姿で歌舞伎町を歩き回る私の姿もやはり異様である。そこでは、私は何者か見きわめ難い異邦人のようだ。私が朝早く学校へ行くため、新宿の駅までの道を急いでいると、裏道からすでに酔いの醒《さ》めた男が現われて、「やあ、朝帰りかい?」と言われたこともある。  韓国人でも日本人でも、またホステスでもOLでも学生でもないような私がそこにいる。正直言って、いまでは韓国人よりも日本人といるときの方が気が楽である。しかし、彼らにとっては私はあくまで異邦人であって、容易なことで胸《きよう》襟《きん》を開いてはくれない。私には心から話せるような友だちがいまだにできないでいる。  こよなく親しみを感じ、愛着深い日本であり、日本人の友だちもたくさんいるのだが、心からわかり合え信頼し合える日本人の友だちがいない。私はそうした親友がとても必要に思えるのだが、どこか韓国人という一線が相手を緊張させるのだろうか。なんともない日常のなかにふとそうした寂しさを感じるとき、私は教会へ行って神さまにお祈りすることにしている。が、私は決して敬《けい》虔《けん》なクリスチャンとは言えないかもしれない。なぜなら、私は韓国人ホステスたちと同じように、自分の幸福を神さまに祈っているからである。  そんな私は、つい最近までは、カナダへ行ってこれまで続けて来た「アメリカ—カナダ比較文化研究」に本格的に手をつける計画の成就を神さまに祈っていた。日本を足場にアメリカかカナダへ行くことが当初からの狙《ねら》いでもあった。  しかし、私はいま日本を離れがたく思うようになってしまった。それは、日本で働く韓国人ホステスたちの抱える問題が、実は私が抱え悩んできた問題と同じものと感じられるようになったからである。また、そこから私の興味が韓日文化の比較、あるいはそれに中国を加えた東アジア文化史の研究に、より大きな興味をもつようになったからでもある。  そのため私は、まだまだ日本での生活を続けたいと思っている。そして、心を分かちあえる友だちと出会うためにも、また心を許しあえる恋人と出会うためにも、決して再び閉じることのない心を自分のものにしてゆきたいと思っている。 第1章 日本で働く韓国人ホステス なぜ日本に永住したいと願うのか? 女としての自分をより高く売るために  韓国人ホステスは決してキーセンではない。しかし、キーセンの伝統を知らなければ、韓国人ホステスたちがなぜ続々と日本へやって来るのかも、また彼女たちの多くがなぜ日本に永住したいと願っているのかも、ついにわかってもらえないだろう。が、問題はさらに複雑である。なぜなら、多くの日本人がキーセンをまったく誤解しているからにほかならない。  それにしても、キーセンをめぐる問題は、深く韓国の女たちの現在に、さらには韓国文化そのもののあり方にかかわってくる。そのため、後の章で詳しく論じようと思う。  この章では、まずは日本で働く韓国人ホステスの生き方、考え方、心情などについて、私なりの見聞をご紹介し、それを通して、韓国の女性の抱える切実な問題とは何か、だれも語ろうとしない韓国の憂うべき問題とは何かをお伝えしていこうと思う。そこではとくに、日本が韓国を映し、韓国が日本を映すという、合わせ鏡の関係から見えてくるものを大切にしていきたい。  さて、アジア諸国の女たちが働く代表的な酒場が、新宿歌《か》舞《ぶ》伎《き》町《ちよう》や赤坂の韓国クラブであり、台湾クラブである。が、同じアジアの女が働く職場でも、両者の性格はかなり異なっている。  たとえば、台湾クラブでは、台湾女性だけではなく他の東南アジアの女たちがたくさん働いているが、給料にそれほどの差はない。韓国クラブでも、韓国人ホステスが足りなければフィリピン人ホステスを雇うことがあるけれども、彼女たちの給料は韓国人ホステスの半分以下が普通だ。韓国人ホステスの給料は一日一万八〇〇〇円から三万円、フィリピン人ホステスは一万円が相場といったところ。こうした差をつけるところにも、韓国女性特有の性格がのぞいている。  また韓国人ホステスたちは、台湾クラブの女たちは誘われればすぐにホテルに行くけれども、韓国クラブの女はそうではない、そこに自分たちの価値があると強調する。そして、東南アジアのホステスたちは「自分を安売りする、まるで考えのない人たち」と無視するのが常だ。つまり、他の東南アジアのホステスたちは、同業者ではあってもなんら競合し合うライバルではないというポーズをとるのである。ようするに、一段も二段もランクが違うと言いたいわけなのだ。  女に必要なことは自分を高く見せること——。これが韓国人ホステスたちのモットーである。そのために格づけにこだわり、投資をおしむことなく、ミンクのコートを着、高級マンションに住まう。電車やバスは庶民の乗り物と決めてかかり、無理をしてでもタクシーに乗る。もし彼女たちの店で定期券でも見せようものなら、それだけで軽《けい》蔑《べつ》の対象になるかもしれない。韓国で高級酒場に来るような人は、電車の乗り方など知らぬ人ばかりなのだ。  そういうわけで、どうやらお金のない客は、韓国クラブに行く資格がないということになりそうだ。実際、韓国クラブの常連にはお金持ちが多いし、お金持ちでなくては韓国人ホステスを愛人にすることができないのも事実だ。  また、一、二回くどかれたくらいでは男について行くなというのが、彼女らの鉄則である。くどくのが難しいというイメージを与えることで、自分たちの価値を高めようとするのだろうが、そこに韓国クラブの人気があるとも言われている。日本人男性には、そうした彼女たちの優越性保持の性情が、かえって上品なふるまいと映るところがあるのかもしれない。 ママとホステスの権力バランス  人間ならば誰にも、多かれ少なかれ、他人より上に出たいとする気持ちがあるものだ。しかし多くの民族では、それはストレートに表現されることなく、適当に抑制されているのではないだろうか。日本人はとくにそうだと思う。ところがわが韓国人にあっては、正直と言ったらいいのか、そうした気持ちがまるでセーブされることなく表わされ、しかも、それがきわめて強固な意志に支えられているのだ。  そこで韓国クラブの運営も、おのずとそうした韓国人の気質を核に行なわれることになる。  新入りのホステスたちが店に入って第一にママに願うことは、まずお金のある客を紹介して欲しいということである。韓国から来たばかりで、まだ日本の客を見る目がない彼女たちにとっては、ママを通じて紹介を受けた人なら安心してつき合うことができる。一方、ママの方は、この子はまだ新人だとお客に紹介し、その新鮮さを価値として売り込むことができる。ようするに、新人であれば、まだ愛人をもっていないだろうということで、お客に期待感を抱かせることができるのである。  そうして紹介したお客が新人ホステスの愛人になれば、ママは次にお客に対して、彼女にはもっとたくさん手当てをやらないと他にとられてしまうとか、マンションの一つも買ってやらなくては韓国の女を自分のものにすることはできないとか、さかんに援護射撃をすることを忘れない。そうしてホステスたちは、自分のプライドを名実ともに守ることができるわけだが、その結果ママには頭が上がらないことになる。そこでママは、はじめて店の権力者であることができるのである。  ある程度ホステス生活に慣れてくると、次には自分で自分のお客を、つまり愛人をつくることへと向かってゆく。常連の中に、まだホステスと愛人関係にはない人を探すのである。こうして、韓国クラブでは、お客は店のお客からしだいに一人の女性へのお客へと変わってゆく。もちろん、自分のお客の多さは給料に影響するし、また毎月公表されるので、すこぶる彼女たちのプライドにかかわる問題でもあるのだ。  ともかくも、韓国クラブのお客は彼女たち一人一人のお客とみなされる。したがって、当のホステスの許しがない限り、他のホステスはお酒の相手をすることはもちろん、同席することすらできない。それはそのお客が連れてきた男性についても同じことになる。彼女の愛人が連れてきたのだから、彼女のお客として迎えられなければならない。それが韓国クラブのきまりなのだ。この点については、ママはいっさい行使することのできる権力をもっていない。 自己防衛のためにつくられるグループ  こうした韓国クラブのきまりは、同時にお客も守らなくてはならないきまりでもある。お客もまた、自由にホステスを選ぶことができないのだ。  もし仮に、お客が自分の愛人であるホステスに無断で他のホステスのお酌を受けようとすれば、大変なトラブルになってしまう。また、一度ある人に連れて来てもらって次に一人で来たお客が、そのある人の愛人以外のホステスからサービスを受けたいと言ったとしたら、同じように、許されざる由々しき問題が発生することになる。  もっとも、このようなきまりがあるにしても、ホステスたちはスキあらばとお客の争奪戦を深く静かに展開している。彼女たちにとっては、店のお客というよりは愛人をつくることに目的があるわけだから、愛人の心が他のホステスに移ることを何よりも警戒しなくてはならないのである。  かと言って、一人のホステスだけでお客をサービスしきれるものではない。当然ヘルプをつけなくてはならないことは多いのだ。そこでホステスたちは、それぞれ仲のよい相手が集まってグループをつくり、決して他人のお客を奪うことはしないという信頼関係のもとに、互いに同席するようにしている。  私の知っている三四、五名のホステスのいる店では、そういうグループが五つほどある。彼女たちはそれぞれ仲間意識をもって行動しているため、そうしたグループに入れないホステスは、どうしても大きな店で仕事をすることが難しくなってしまう。また、ホステスとママとの間にもめごとがあったりすると、グループ総出でママに向かうことになり、場合によってはグループごと店をやめてしまうことも多いので、ママは力のあるグループには大変に気をつかっている。  そういうわけで、韓国クラブでは、どのホステスとも楽しくお酒を飲もうとするお客は、考えのないお客としてホステスたちから嫌われることになる。だから、韓国クラブで楽しく遊ぼうとするならば、ママのお客としてではなく、だれか一人のホステスのお客として通うことである。そうしてはじめて、よりよい待遇を受けられることになるのだし、またそれが韓国クラブでの礼儀でもあるのだ。 きまりを破ったホステスは店からはじかれる  こうした韓国クラブ特有の倫理のため、日本人の間では考えられないようなトラブルが発生することもある。たとえば、ある小規模の韓国クラブでの話である。  そのクラブに寿花というトップクラスのホステスがいた。彼女の愛人はある不動産関係の会社の社長だったが、その社長がたくさんのお客を次々に店に連れて来るので、店は大いに繁盛し、そのため彼女の給料は一日三万円にもなっていた。  月の半分以上もその社長関係のお客が来るので、当然、他のホステスたちも同席してサービスすることになる。そしてあるとき、その中の若いお客の一人が、たまたま同席した春姫というホステスを大変気にいって、彼女目当てに一人でクラブに来るようになった。そこにはもちろん、例のきまりがあるから、寿花はその若い男性も自分のお客だと言い張って春姫のお客にしようとはしない。  春姫もプロである以上はと、その若いお客を無視していたが、熱心に誘ってくれるので断りきれず、店の外で一緒に食事をするなどデートを重ねていた。春姫は観光ビザだったこともあって、できることなら愛人をつくって結婚ビザを得たいと思っていた。そして、もしかしたらそのチャンスかも知れない事態を前に、手も足も出せないことに腹立たしさを感じないではいられなくなっていった。  春姫は寿花と仲がよかったこともあり、また、寿花はたくさんのお客を独り占めにして人一倍高い給料をとっているわけだから、一人くらいは認めてくれるだろうと期待をかけ、ある日のこと「同伴出勤」を敢行したのである。ところが、それを知った寿花は、人のお客をとった、裏切りだと、かんかんになって怒った。元来仲のよかった寿花と春姫とは、それ以来まさに日本で言う犬猿の仲となってしまったのである。  春姫は意地を張って、あからさまに同伴出勤を続けたが、寿花はあくまで彼女にそのお客のサービスをさせようとはしない。こうして店内には険悪なムードが漂うことになったのだが、他のホステスもこぞって春姫を非難する。春姫は孤立し、結局、二度と日本で働きたくないという思いを胸に、韓国へと帰って行った。 ママも手を焼くホステスの嫉《しつ》妬《と》とプライド  こうした韓国人ホステスたちのお客をめぐる激しいしのぎ合いには、さすがのママも手を焼くことが多い。  あるファッション関係の会社の社長を愛人にもつホステスがいたが、ある日、彼女がたまたま休んでいるときにその社長が店にやって来た。そこで他のホステスたちがサービスをつとめることになった。そのとき、その社長は、近くに寄ったら電話でもしてみてくれという程の、軽い気持ちでホステスたちに名刺を渡したのである。  いったん店に入ったお客を、まさか担当のホステスがいないからと帰すことはできない。また社長としても、相手をしてくれたホステスたちへの自己紹介の意味から言っても、名刺を渡すのはこれまた当然のことである。しかも、ホステスたちの方から名刺を要求したわけでもない。そこにはなんらルール破りはないように見える。  ところが、翌日それを知った彼女は凄《すさ》まじい怒りをホステスたちにぶつけたのである。つまり、そのホステスたちは、人の愛人から名刺をもらうような雰囲気をつくり出したと言うのだ。そして彼女は、当の愛人に対しても、他のホステスたちに名刺を渡したことは、およそ義理のないことだとなじったと言う。  そのときのことを、店のママは次のように話してくれた。 「ものすごい怒りようだったわ。あんたたちはどんな下心があったんだと言って、ホステスたち一人一人を責め立てるのよ。そして、みんなから名刺を取り上げていったの。で、私に対して、なぜ自分がいないときに他の女に相手をさせたんだって、くってかかるわけ。それで、さんざん文句を言ったあげく、こんな店にはいられないって言って、ほかの店に移っていったわ。あの社長さんはもともと私と仲がよくて彼女に紹介したんだけど、あれ以来ぴったりと来なくなったのね」  ママの落胆した話しぶりからすると、店にとっては大きなお得意さんを失ったようだった。 「それでね、この前その社長さんに道でばったり出会ったのよ。そしたら彼、『あんなやきもち焼きの女は見たことがない、韓国の女はたまらんね』なんて苦笑してたわ。ところが、それでいて彼女の次の店で常連になってるんだから、結局は女の意のままなのね」  確かに韓国の女性は嫉《しつ》妬《と》深《ぶか》いかも知れない。がそれよりも、彼女たちが守ろうとしているのは自分のプライドなのである。そしてこのプライドの高さ、あるいはその気《き》丈《じよう》夫《ぶ》な性格が、日本人のお客には日本人女性には感じられない魅力の一つともなっているようである。  また、ある店のママはこんなぐちをこぼしていた。 「店の常連だった人がね、ホステスの愛人になると店に来なくなることが多いのよ。これには困ってしまうわね」  つまり、自分の愛人を他のホステスに奪われるのを避けるため、ホステス自身がお客に店への出入りを差し止めるのである。こんなことは、日本人の店ではもちろんのこと、他の東南アジアの女性たちを雇う店でもあり得ないことだ。  ひとくちに嫉妬と言っても、韓国女性と日本女性とでは、その表し方には大きな違いがあるようだ。たとえば、亭主や恋人の浮気がばれると、日本の女性ならば、相手の女性のことよりもむしろ自分と男との関係を問題にし、二人の間での解決を図ろうとするだろう。しかし韓国の女ならば、まず相手の女を問題にする。そして彼女と対決しようとするだろう。場合によっては、女どうしの間で血をみることもある。  いずれにしても、自分の愛人を鎖につないでおかないと気がすまない韓国女性の情念には凄《すさ》まじいものがある。そうした地のままでホステス業ができるということは、それだけ女性の言いなりになって、はいはいと従う男性が日本に多いということなのだろうか。だとすれば、韓国人ホステスにとって日本は、需要と供給のバランスが絶妙に一致する、またとない好条件の国ということになるのだが。 女は美人でなくてはならない  こう言っては失礼かも知れないが、日本人のホステスは美人ばかりだとは言いがたい。いわゆる不美人とされるような女性もかなり見ることができる。それは、美人であるにこしたことはないものの、それよりも接客の技術がおおいにものを言うからのようだ。一方、韓国のホステスの条件は、一にも二にも美人であることである。  そのため、いきおい韓国クラブは美人の集まりとなるのだが、そこではさらに、美人どうしの美の競い合いが激しく闘わされることになる。そこで韓国クラブは、ある意味では女たちがみずからの美しさを試す恰《かつ》好《こう》の実験場ともなっている。  したがって、美容整形の手術に大金を惜しみなく投資する女性は少なくない。日本人には考えられないことかも知れないが、お金を儲《もう》けるためというよりは、一層自分を美人にするためにホステスをしている人も多いのだ。確かに現在は、かつてのように国へ仕送りするための出稼ぎという目的はしだいに薄れつつある。そこでは、お金のための美なのか、美のためのお金なのかも、だんだん定かではなくなっている。  美人は自分が美人であることをよく言えば素直に表に出すのだが、悪く言えば不美人の女性をあからさまに低い価値と見てしまうところがある。ホステスたちにはとくにその傾向が強い。日本的な他者への配慮や奥床しさの心情は、そこではまるで理解されることはない。  韓国女性の多くが、美人であることこそ女性の最大の財産と考える。それだけならば、諸外国の女性とそれほど変わるものではないと言われるかも知れないが、韓国の女性の場合はさらに、美をはじめ、よいもの、すぐれたものを他者に誇示すること、その直接的な表現に心地好さを感ずるという、国民性に根ざしたものがあるのだ。  私は韓国にいたときに、日本人はいいものを後ろに置いておき、あまりよくないものを前に出すというふうに聞いていた。韓国人とはまるで反対なんだなと感じていたが、日本に来てみると、そのとおりだったことに、あらためて驚いたものだった。たとえば、洋服店に行ってみると、安い服を表に出して、高い服を中に入れている。また日本人の家庭に行ってみても、大事なものはどこかにしまってあり、仲よくなると、「ところで……」と言って見せてくれることが多い。いずれも韓国とは正反対のことだ。  あるとき、大変な読書家だと自ら言う人の家に行ったことがあるが、部屋にあるのは週刊誌などの雑誌の類《たぐい》ばかりで、ほとんど書籍が見られない。私が「本を見せていただけますか」と聞くと、その家の主人は私を倉庫に連れて行って、山のように積んであるダンボールの箱を指さし、「この中がみんな本ですよ」と言うのである。当時、まだ日本人のことをよく知らなかった私はとても不思議な気持ちがしたことを覚えている。韓国人の読書家ならば、まず客間の本箱にきれいな本を陳列しておいて、ひとつのアクセサリーとするからである。  私もかつてはそのように、自分のより優れた部分を表に出そうと心がけたものである。ところが、長いあいだ日本で生活しているうちに、われながら不思議なことに、しだいにそうした自分に恥じらいを感ずるようになっていった。それは、日本の生活に慣れたからと言ってしまえばそれまでのことだが、私にはきわめて大きな心の変化だった。しかも、そこにはなぜか、単なる民族的な気質の違いでは解消できない、歴史的な問題があるように思えてならなかった。と同時に、そこから、それまでつかみ難いと思われた日本人の心情を知る糸口を、確かに見つけることができたように思えた。 中年の田舎者が韓国人ホステスにもてる理由  韓国人ホステスたちは、美人であることは男にとっての仕事と同じように、それなりの報酬を受けて当然のことだと考える。したがって、男が美人にそれなりのサービスをするのは当然であり、自分が美人であれば、愛人となる男はそれだけ高級な生活を自分に約束できる者でなくてはならないと考える。  彼女たちがそう考えるのは、およそ生まれついた自然の特徴でしか女が評価されない社会の問題である。そうした評価が社会にある限り、彼女たちの考えも変わることはない。そして、そうした社会の背景には、李《り》氏《し》朝鮮以来のキーセンの伝統がある。下の階級の子弟に美人があれば、キーセンに仕立ててヤンバン(両班=家柄のある上層富裕階級)の妾《めかけ》とする。これが伝統的な美人の出世の形であった。彼女たちが美人、愛人、出世という人生観を当然のごとく考えているところには、そうしたキーセンの伝統をおいてみなくてはならない。  彼女たちは現代日本にヤンバンを求めてやって来た。しかしながら、多極化、多層化の進む日本社会では、美人ホステスがその愛人へのパスポートであるような状態は崩れてきている。日本の都市社会のセクシャリティは韓国より数段複雑である。  たとえば、最近、韓国人ホステスの間でしきりに話題になるのは、このごろの東京の男たちはケチになったということ、そして、地方の中年以上の男性の方がよくお金を使うということである。そのため、地方にお金を使ってくれる男を求めて出かける女たちも多くなっている。とくに年を経たベテランホステスたちは、若い女たちには人気のない、田舎の地主層を狙《ねら》おうとする傾向が強い。彼女たちに言わせれば、そうした人はほんのちょっとやさしい言葉をかけてあげるだけで口《く》説《ど》けるし、また都会の男より使えるお金をたくさん持っているから、ということのようだ。  もちろん、東京の男たちが突然にケチになったわけではないのだ。ほんとうのことを言えば、最初は珍しいこともあって韓国人の美人ホステスに人気があったものの、日本の男たちは、彼女たちに当然のごとくお金を使わせられることに、しだいにバカバカしさを感じるようになったというのが正直なところだろう。そこで、さらにお金を使う人を、ということで行きあたったのが、田舎の中年以上の男性、というわけなのだ。  もっとも、彼女たちはお金のために我慢してそうしているのかと言えば、決してそうではい。そこにも奇妙な需要と供給のバランスが成り立っているのである。  それは一つには、ホステスに限ることなく、韓国の女性が自分よりかなり年上の、いわば完成された男性を好むからである。その点では日本の若い男性には隙《すき》間《ま》が多すぎ、韓国女性を充分満足させることは難しい。韓国では、男は六十代になってようやく魅力が出るものだということが、女性たちの間ではしばしば口に出される。一方、日本の男性は、とくに中年以上の男性ほど、また都会的でない男性ほど、男を立て男に優しい女性を強く求めており、彼らをして、日本にはそうした女性が少なくなったと嘆かせている現状がある。  韓国では考えられないことだが、日本人の男性と結婚した私の友人は、彼は二十歳以上も年上であるにもかかわらず、自分に甘えるような接し方をすると言っていた。女性に母性を求める日本人男性がいる。そして男性に父性を求める韓国人女性がいる。そこで両国の男女の結婚が幸福となるのはすてきなことだ。  そのことを、地方に新たなヤンバンを求める韓国人ホステスたちはどう考えるのだろうか。 韓国版「ジャパゆきさん」の渡航史  地方へと出かける韓国人ホステスたちは決して若くはないが、なぜ若いうちにお金を稼いで国に帰らなかったのかという疑問を、彼女たちに向けてみてもあまり意味がない。それは、彼女たちの多くが、もともと、国へ帰るつもりがないからである。日本での永住が目的なのだ。なぜそうなのかを語るためには、彼女たちの「現代ジャパゆき」の歴史を少々お話ししておかなくてはならない。  彼女たちの最初の一団は、一九七〇年代の半ば、四カ月有効の芸能人ビザで次から次へと日本に渡った女たちである。目的は、貧しい一家の生活を支えるため、弟の学費を稼ぐため、年老いた両親を養うためなど、すべてが貧困からくる問題であった。  彼女たちは芸能プロダクションを詐《さ》称《しよう》するブローカーたちに連れられてやって来たのだったが、彼女たち心は、「ただただお金が稼げれば」という、悲《ひ》愴《そう》感《かん》に満たされていた。韓国での反日感情は現在よりもケタ違いに強く、日本に関する情報はほとんど国内に伝えられることがなかった。しかも、歴史の教科書で教えられた日本は「鬼畜の国」であった。その国へ身を売るという屈辱に耐えることで家族を救うことができる。女たちの多くが、そうした覚悟を胸に渡日を決意したに違いなかった。  しかし、実際に知った日本は決して「鬼畜の国」ではなかった。それどころか、紳士的であり友好的ですらあった。私は韓国にいたころ、当時の体験者がそう語ってくれたのを、半信半疑で聞いていた。また、多くの日本人の男性が、韓国人女性の優しさとひたむきな情熱は、現代の日本人女性にはみられない魅力と感じてくれたと聞かされても、何か信じられない思いを持ったものである。  確かに、当時日本へ渡った韓国の女たちには稀《き》少《しよう》価値があった。そのため、在日韓国人の経営者たちも、彼女たちをずいぶんと優遇した。彼女たちにとって、当時の日本は、スポンサーも得やすく、また男たちへのわがままもスンナリとおる、まさしく「ホステス天国」だった。  こうして、新宿歌舞伎町を中心とする韓国人酒場の基礎を彼女たちが築いていったのである。当時日本で活躍した女たちのなかで、いま、韓国にマンションやビルをもって悠々とした生活を送っている者は多い。  彼女たちの成功は韓国の女たちをいたく刺激した。期待は過剰にふくらみ、とても韓国などでは生活していられないというムードも高まっていった。われもわれもと日本を目指す女たちが年々増えていった。そして日本にはそれに応《こた》えるだけの充分なニーズがあった。  こうした韓国の女たちをめぐる動きに対して、国際世論は「売春輸出」の名を与え、韓日の新聞も批判キャンペーンに乗り出した。韓国政府はそれに押されるようにして渡航制限をはじめ、ついに一九八四年に芸能人ビザが廃止されてしまった。  それ以来、現在に至るまで、彼女たちの激しいビザ闘争が巻き起こっている。  まず流行したのが学生ビザであり、なかでも最も手に入りやすい「日本語研修留学ビザ」に人気が集中した。そこで、日本側の受皿として、お金さえ払えば入学許可証や出席証明書を発行する、あやしげな学校が乱立することになった。これが大きな社会問題となったため、「日本語研修留学ビザ」そのものが廃止されてしまった。  次に的が校られたのが、同じ学生ビザによる専門学校への留学である。入学証明書さえ手に入れば一年は滞在できる。ただこれには、高校の卒業証明書が必要であり、三十歳までの年齢制限がある。そのため、高校卒業証明書や年齢を詐称したビザを偽造して売るブローカーが暗躍することにもなって現在に及んでいる。  最近の渡航手続きで最もポピュラーな手段は、一九八九年一月から自由化された海外観光ビザである。これは留学生ビザとは違って簡単に取得することができる。ただし、滞在期間はわずか一カ月間、運が悪ければ一五日間しか許されていない。そこで、どのようにしてこれを長期滞在へともってゆくかに、さまざまな知恵が絞られることになる。そして、彼女たちの最終課題は、この期間中に偽装の結婚相手を見つけて戸籍上の届け出を行ない、結婚ビザを取得することなのである。これで永住への可能性が開ける。 暗躍するブローカーの実態  いま、韓国からの海外旅行者の相手国ナンバーワンが日本であり、その九割が営利を目的とした渡航だと見られている。  韓国の女たちで現代の「ジャパゆきさん」を目指そうとする者たちの渡航手続きは、まずブローカーを探すことからはじまる。それは、韓国の女たちが他者に依存するように育てられてきたこともあるが、やはりその方面に詳しい専門家にメリットを期待するからだろう。  ブローカーの多くは、かつて芸能人ビザで女たちを日本へと送りこんだ芸能プロダクション所属の男たちだ。彼らはビザの変遷とともに歩んで来た。常に法の抜け道を探しては女たちから金を巻き上げ、日本へと送りこんで来た。彼らを抜きにして、今日の日本の韓国人ホステスの問題を語ることは決してできない。渡航後もなお、彼らは彼女たちの生活に深くかかわり続けるのである。  たとえば、彼らが留学生用の学生ビザを斡《あつ》旋《せん》するとしてみよう。  日本語学校ならば六カ月間有効だが、以後六カ月の延長ができるので、ブローカーたちはまず一年の契約を渡航希望の女性と結ぶ。そしてその際に彼らは、入学手続きやパスポート・ビザの手続き代行手数料として約五〇〇万ウォン、日本円にして一〇〇万円を受け取る。また、中卒者に高校卒業証明書や成績証明書を偽造したり、三十歳を越えた者に年齢を詐称したパスポートを偽造したりする場合は、それよりさらに二〇〇万ウォン(四〇万円)ほど高くなる。  これらのブローカーに支払うお金に、飛行機代、授業料、入学費用などの実費を加えたものが、渡航のために最初に必要となるお金である。  しかし、これだけのお金をすぐに用意できる者ならば、何もわざわざ日本へ行く必要もない。ではどうするかと言えば、その女性が勤めることになっている日本の酒場で貰《もら》う給料から差し引く約束で、ブローカーが彼女たちにお金を貸すのである。この契約を結ぶことによって、ようやく渡航が可能となるのだ。  ブローカーたちが得るのは、この給料から天引きされるお金だけではない。当然日本の店からは斡《あつ》旋《せん》料《りよう》を取るのである。  女たちの給料からのピンハネの仕組みは次のようになっている。  ブローカーは一人の女性について何軒かの日本の酒場と斡旋契約を結ぶ。だいたいは、四カ月間ずつ働く契約で順次三軒の店に一人の女性を送り込む。女たちの給料は約四〇万円。もちろん本人には正式な額は明かされない。  店のママたちは彼女たちの給料から二〇万円ほどをブローカーに支払い、残りの二〇万円を彼女たちに渡す。そして、彼女たちはその二〇万円ほどの給料のなかから、学校への授業料や家賃や交通費などを支払っていかなくてはならない。  こうして残るわずかな金額が彼女たちの自由になるお金である。一人の女性がブローカーから借りたお金は、ほぼ最初の四カ月の給料から天引きされて店から支払われる斡旋料に相当する。したがって、本来はそこで帳消しになってしかるべきなのだが、彼らはさらにあと二軒から斡旋料を受けるのである。  なお、女たちの多くはこの一年契約の間、店のママのもとに間借りする。またパスポートは必ずブローカーが保管することになっている。こうして彼女たちは逃げることのできない「かごの鳥」として働くのである。 この女たちは韓国では暮らしていけない?  とにかく酷《むご》い話なのである。そしてとても悲しい話だ。しかし、彼女たちと話をすることによって、悲しみはさらに私の心の底に深いしこりを形づくった。それは、当の女たちが口々にブローカーへの感謝の言葉を述べたてるからだった。  はじめてそういう話を聞いたときの私のショックは大きかった。 「一銭のお金もないのにちゃんと日本に来れるようにしてくれたのよ。魔法みたいでしょう? 面倒な手続きはいらないし、働くお店まで用意してくれるんだから」  あまりにも明るい顔。その顔を見ているうちにだんだん目頭が熱くなってくる。そんな感情を振り切りたかったからだろうか、私は思わず大きな声で叫んでいた。 「だって、給料の半分以上がブローカーの方へいっちゃうのよ!」 「給料? そんなの最初からあてにしてなかったのよ。最低限のものがあればと思っていたわ。それにしてはけっこう貰えてるし。とにかく、店のお客さんのなかからお金持ちの男の人をつかまえてね、うまくやっていくわ」  ブローカーたちが韓国女性の心理にいかに精通しているかを、またそれを最大限に利用しているだろうことを知らされて、私は問題の深さにたじろがざるを得なかった。  この、私にはじめに話を聞かせてくれた女性は、来日三カ月後にブローカーが検挙されて不法就労で摘発される危険が迫ったため、泣く泣く韓国へ戻って行った。が、彼女の初心はなまやさしいものではなかったのだろう。彼女は観光ビザで再び来日し、日本のブローカーの斡《あつ》旋《せん》で結婚ビザを手に入れ、いまも日本にとどまっている。  彼女もそうだったが、これら韓国の女たちの日本渡航の動機は、いまでは一家の生活を支えるなど、貧困からくるものではなくなっている。日本でずっと生活すること、それを目指して来る女たちがほとんどなのだ。  あるとき、私は知人を介して韓国人のブローカーに会うチャンスを得た。その男は長いあいだ、韓国と日本を往復しては女たちの上前をはねて来たベテランである。すでに韓国にビルや土地などの財産を所有する成功者なのだが、まだまだこの仕事は続けていくと言う。  落ち着いた風情を見せる老紳士。こんな人がと思うと、怒りが私のなかでぎゅっと凝縮して言葉となった。 「もう充分でしょう? そんなに儲《もう》けて。それなのになぜ、まだ飽きずに女たちを日本へ送りこもうとするんですか」  男の目つきが一瞬変わった。細めた目で私を睨《にら》みかえし、すぐに緊張を解いて笑みをたたえ、ゆっくりと口を開く。 「いいですか、私がこの仕事をやめても、ほかのだれかがとって代わるだけでね、この仕事そのものがなくなることはない。私がいるからあの女たちがいるんじゃないんだ。あの女たちがいるから私がいるんですよ。女たちが私を必要としているんですよ。とくに私のようなベテランは彼女たちにとってはなくてはならない存在でね、私がいなくてあの女たちはどうやって暮らしていけると思いますか?」  そして彼は最後にきっぱりとこう言った。韓国ではこの女たちは暮らしていけない——と。  私は認めるつもりはまったくないにせよ、彼の言葉の意味はよくわかっていた。そして、それを日本人にわかるように伝えることがそう簡単ではないことも。そもそも、このことをきちんと日本人に伝えたいというのが、この本を書いた動機の一つでもある。 結婚ビザから入籍まで  韓国の社会では、いまだに女性の処女性がことのほか重んじられている。それはまた一方で、家の観念が固く守られていることでもある。したがって、いわゆる「戸籍の汚れ」は致命的な問題となってくる。こうした問題は、階層が上でも下でも、職業が大企業のOLだろうがホステスだろうが変わるものではない。たとえば、離婚歴のある若い女性が同世代の若い男性と再婚できる見込みはほとんどないと言ってよいだろう。  こうしたことがあるため、学生ビザで来日してホステスとして働く女たちのなかには、帰国後の体面を考えて偽装結婚には持ち込まず、できるだけ長期滞在が可能な学生ビザを手に入れて来日する者も多い。かなり入手が困難ではあるが、それでも、と考える女たちもいる。  一方、一刻も早く来日して、てっとり早く長期滞在に持ち込むことを第一に考える女たちは多い。そうした要求に対しては、観光ビザに偽装結婚の斡《あつ》旋《せん》とその後の結婚ビザ取得がパックされたコースがある。戸籍よりは実利を優先する女たちのコースであり、ほとんど帰国の意志を持たない女たちのためのコースでもある。  このコースでは、一人のブローカーがすべてを手配する場合と、渡航の処理と偽装結婚の処理とを別々のブローカーが分担する場合がある。いずれにしても、このコースが最近の最もメジャーな日本滞在への道となっている。この市場獲得のため、多くのブローカーにセミプロのブローカーが加わり、激しい闘いが繰り広げられている。  このコースの相場は日本円で約二五〇万円から二七〇万円ほど。セミプロの業者だとこれが一六〇万円くらいになる。ただ、セミプロの業者は安いかわりに偽装結婚の成功率は低いと言われる。  偽装結婚に応じる日本の男性は、離婚経験のある中年以上の、お金に困っている人がほとんどだ。しかし彼らのなかには、必要書類(在職証明書や納税証明書など)をそろえる能力がなかったり、入国管理局の質問に口裏を合わせることができなかったり、また途中で投げ出してしまうなどの、信頼度の低い者がきわめて多い。しかも、成功しなかった場合でもセミプロのブローカーは、何らの責任を負わずにお金だけはそのまま手にするのである。もちろん、アフター・ケアの義務もない。  私はいろいろな女たちから体験談を聞いているが、ここでは、セミプロと知りながらあるブローカーに一六〇万円で結婚相手の斡《あつ》旋《せん》を依頼した女性の話をご紹介しておこう。彼女の相手の男性は、運が悪いことに必要な書類を用意できない人物だった。そのために、結婚ビザの手続きが一向に進まず日が経《た》ってしまっていた。彼女はそこで、別のブローカーにさらにお金を払って書類の偽造を依頼した。そして、観光ビザが切れるギリギリのところでようやく手続きを終え、結婚ビザをものにしたのである。  彼女は結婚ビザを手にした日に私のところへ電話をしてきた。そのときの彼女のはしゃぎぶり、笑い声。やはり私は「よかったわね」と言うしかなかった。  彼女の結婚ビザ入手の顛《てん》末《まつ》を聞いて、あるホステスが言った。 「大事なことでお金を出し惜しむから苦労することになるのよ」  プロのブローカーの場合では成功率は高いが金額も張る。相場は先に述べたように二五〇万円から二七〇万円ほどだが、最初の契約の時点で五〇万円を支払い、結婚ビザが入手できた時点でさらに五〇万円を、そして残りを月々五万円ずつ支払うという方式だ。また、途中で相手の男性との関係がこじれるなどして入籍がうまくいかなければ、契約は無効となるので、こうむる損害はセミプロのそれと比較すれば小さいのだ。  ブローカーは結婚相手の男性には七〇万円を支払い、それで三年間の婚姻関係の保障をとりつける。したがって、彼女たちはその間にほんとうの恋人を見つけるための努力にいそしむことになる。結婚ビザはだいたい六カ月単位で更新される。そのときどきの査問にひっかからなければ更新が進み、五年が過ぎれば永住権を手に入れることができるのである。 最も確実に日本に永住できる方法とは?  ただ最近は、入国管理局の偽装結婚への監視が非常に厳しい。そのため結婚ビザの確保と維持はかなり困難なものとなっている。たとえば、相手の男性がしっかりした人でなければ三カ月のビザしか発行されないようにするなど、結婚ビザさえ取れば安心、ということも言えなくなってきつつある。  そこでまた新たな方法が考え出される。  偽装結婚には、当然ながら「相手しだい」のこころもとなさがつきまとう。もっと確実な方法をと彼女たちが望むのはこれまた当然のことでもあった。そこで探しあてたのが、亡くなった人の戸籍を死亡届けを出す前に買い取る、という方法なのだ。  なんということなのだろう。体験者から嬉《き》々《き》とした口調でこの話を聞かされたとき、そっと涙を拭《ぬぐ》うといった私の悲しみなど、まったくのセンチメンタリズムでしかないことを思い知らされた。彼女にとって祖国とは何か、日本とは何か、そしてお金とは何か……。私が彼女たちの問題にほんとうに取り組もうと思ったのはそのときからだった。  それにしても、他人の戸籍入手はそう簡単にはいかない。とくに若い女性の戸籍はほとんど手に入ることはない。もし手に入ったとすれば、ブローカーへの報酬は三〇〇万円から五〇〇万円だと言われる。また、戸籍入手を手がけるブローカーは少なく、ブローカーに渡りをつけることだけでも難しい。死亡者の戸籍を扱うブローカーは、数あるブローカーのなかでもとびきり格が高く、いくつかのグループで市場を独占し、新規に参入しようとする者たちを徹底的に排除していると言われる。  私の知る二七歳のホステスは、学生ビザでの来日期間中に三六歳の女性の戸籍を入手している。彼女はこの戸籍に基づいたパスポートを使っていま、世界のあちこちへと愛人のお金で旅行している。韓国人にはなかなかビザをおろさないアメリカやカナダへも、日本の戸籍さえあればたやすく行くことができるのである。  彼女たちの最大の課題、つまり入国管理局の監視を離れて、何の心配もなく日本に永住できること、そしてお金持ちの愛人を得て贅《ぜい》沢《たく》な暮らしを送ることができること。あの二七歳のホステスはわずかな期間でその条件を獲得してしまった。ほとんどすべての日本で働く韓国人ホステスが、彼女のような生き方を理想としている。外国人でなくとも、いったい韓国という国はどうなっているのかと言わずにはいられない。 最大の権力機関としての入国管理局  日本人に知る人は少ないが、日本の入国管理局は在日外国人に大きな不満をもたらしている。まず疑いが先にあるとしか言いようのない対応ぶり、そして人を人と思っていないのではないかと言いたくなるような態度。在日外国人が集まれば口々にそうした感想をもらすことを、日本人はほとんど知ってはいない。  確かにあやしげな入国が横行する昨今、疑心暗鬼になることはわからないでもない。しかし、そのために正当な入国に対して発行すべきビザが発行されないといった事件があとを絶たないことも事実なのだ。  実際、私自身、入管の手続きのうるささには大いに迷惑をこうむっている者の一人だ。  ビザの期限が切れる一〇日前から書類作成に走りまわらなくてはならなくなり、出頭すれば面談までにたっぷり半日は待たされる。その上、ちょっとでも書類に不備があれば、また別の日に足を運ばなくてはならない。異国の生活に慣れることだけでも大変なのに、ビザ一つにあれこれと神経を遣わされ、またエネルギーを消耗させられるのでは、たまったものではない。とくに、落ち着いて学問にいそしもうとする本来の留学生にとっては無視できない障害となっている。  あるとき、私の住居が新宿歌舞伎町にあるということだけで質問ぜめにあったことがある。なんべん説明しても同じような質問が繰り返し続けられる。答えなければ時間がたつばかりだから、仕方なくまた同じことを答える。こうしてまったくの不毛な時間を延々と費やしたあげく、「まあ、大学の先生の推薦状が確かだから問題はないだろうが……」とのため息まじりの言葉があり、ようやくビザの発行となった。そこで「失礼」のひとこともないのだから、彼らは最低限の礼儀すら知らないと、多くの在日外国人たちに言われても仕方がないだろう。  私のように、疑う余地があるはずもない学生の立場でもこれだけの重圧を受けなくてはならない。とすれば、偽装結婚のために相手の男性と出頭するホステスたちに対しては、まさに遠《えん》慮《りよ》会《え》釈《しやく》のない言葉が浴びせかけられることは想像にかたくない。よほどの強い覚悟がなければとても耐えられるものではないだろう。  偽装結婚の場合は相手の男性と一緒に住むことはないのだが、彼女たちは入管の抜き打ち訪問に備えて、住居には必ず男もののシャツ、靴下、靴などをひととおりそろえている。事前に連絡があることもあるが、その場合には一日店を休み、偽の夫に来てもらって部屋で待機する。そこで入管の役人が何か不審な点でも見出すと、そのことについてビザの更新の折りにこまごまと詰《きつ》問《もん》されることになるから、彼女たちにはほんの少しの油断も許されない。不器用な女性が役人の誘《ゆう》導《どう》尋《じん》問《もん》にひっかかり墓穴を掘るはめになった例はいくつもある。 不法就労摘発の現場から  何人かのホステスたちと雑談をしているとき、一人のホステスが一九八九年に受けた不法就労摘発の体験を話しはじめた。他のホステスたちはなんべんも聞かされているのだが、また聞きたいと身を乗り出してくる。  彼女が赤坂のある店に勤めていたときに、入管の局員が不法就労の抜き打ち摘発を行なったのだ。店のホステス三四人に対して局員は二四人。彼らは店に入るやすぐに要所を固めて彼女たちに向かう。女たちは厨《ちゆう》房《ぼう》へトイレへ、はたまた天井裏へと隠れ場所を求めて散り、あるいは客をたてにしてでも逃れようとしたのだが、間もなく軒並みの連行となってしまった。その騒乱のさなか、話をしている当の彼女はトイレに逃げ込んでいた。やがて局員たちが化粧室にやって来るや、トイレのドアを一枚一枚開けはじめた。すぐに彼女の潜むトイレのドアに手がかかり、乱暴に開かれる寸前、彼女はさっとドアの後ろ側にまわりこむや、そのまま微動だにせずじっと息をこらした。  こうして、その店でただ一人、彼女だけが見つかることなく難を逃れることができたのだという。  黙って聞いていたホステスたちは、話が終わるや私の方を向いて「奇《き》蹟《せき》的よねー」「すごいでしょう」と、彼女の体験がいかにまれなことかを強調するのだった。 「ほんとに一瞬のことだったの。でも、ものすごく長い時間がたったような気がするのね、ああいうときって。このたった一枚のドアのあっちに入管の人がいる、すぐに見つけられちゃうだろう、ああ、これで私の人生も終わりなんだって思った。ほんの何秒かだったんだけど、その間に家族の顔や友達の顔が次から次へと浮かんでくるの。私、あのときはじめて神さまにお祈りしたわ。心のなかで、そっとね」  ここでやっと皆の緊張の糸が切れてまた雑談がはじまる。私も思わずフッとため息をついていた。この人ごとではないドラマは、あたかも伝承説話であるかのように、機会あるごとに彼女たちの間で話されているようである。  入管による不法就労摘発の多くが、韓国人クラブに出入りする者の告発によっている。この話の場合も、以前に解雇されたホステスが腹いせでやった告発に端を発したものだったという。  韓国人はしばしば闘争的だと言われる。確かに激しい気性をもっているのはそのとおりだが、その反面では、力のある者や目上の者に対してきわめて従順な心を示すところがある。権力に服従することは恥《ち》辱《じよく》ではなく美徳だという教育を素直に受け入れる素地が、伝統的な生活倫理によって出来上がっているのである。  したがって、韓国人は他の外国人のように、観光ビザが切れてもそのまま不法に居座って滞在しようとはまず考えない。お金とエネルギーを駆使してでも、なんとか合法的な滞在の条件を得ようとするのだ。そこにブローカーがつけいるのである。 女たちの運命を左右する入管のサジかげん  入管はことさらに権力に弱い彼女たちにとっては、人生に決定的な決断をくだすおおいなる権力機関である。ある意味では局員たちのサジかげん一つで運命が左右される。先に、謹厳すぎるとも思える局員が多いといった話をしたが、わずかであるにしても、温情がまったくないわけではない。そうした一つの例をご紹介しておこう。  二八歳で六二歳の日本人男性と偽装結婚した女性が、その偽の「新郎」を伴って入管へビザの申請に行ったときのこと。入管の用意周到な質問ぜめにあって、男性がついにほんとうのことをベラベラとしゃべり出してしまったのである。きっかけは住居が別であることの判明だった。彼女は身体から血の気が引いていくようなそのときの気持ちを、「天がくずれるような気持ち」と表現した。これは韓国のコトワザなのだが、絶体絶命のピンチに遭遇したようなときの気持ちを表している。  彼女は万事休したことを悟るや、その場でワッと泣き出してしまった。局員は無言のまま、しばらくは泣きじゃくる彼女を見ているばかりだったが、やがて彼女の方に身を乗り出すようにして静かに口を開いた。 「充分なたくわえができたら、なるべく早くお国へお帰りなさい」  そう言って結婚ビザを発行してくれたのである。  確かにその局員はいい人だったのである。が、地獄に仏と言えば通俗的な言い方にすぎるだろう。権力はそのサジかげん一つで、彼女たちを追いやることもできれば、また救うこともできることを、この例は物語っている。  あのときの嬉《うれ》しさは生涯忘れられないでしょう——。心の底からそう言う彼女の気持ちは尊重されなくてはならない。が、してやったりとペロリと舌を出すくらいの図太さが欲しいとも思う。韓国の女たちの多くが、よかれ悪《あ》しかれ、こうしたウブな心情の持ち主なのである。金持ちの愛人になると言えば、日本ではそこに、したたかな女の生き方を見ることができるかもしれない。しかし、韓国の女では、自立精神の未熟さ、つまり他者に頼って生きることを当然のように考えて育った心のあり方を、そこに見なくてはならない。 留学生からホステスへの必落街道  韓国の女たちの強い他者への依頼心は、もちろんホステスたちだけに特有のものではない。それはたとえば、渡航手段としての留学生ではなく、ほんらい勉強を目的として留学生となった女たちについても同じように言えることだ。日本の大学に留学する多くの韓国女性が、やがてホステスとなり、プロのホステス同様にお金持ちの愛人を目指すようになってゆくケースが非常に多いのである。  韓国はご存じのとおり、世界でもまれな大学進学率の高い国だ。日本以上に、われもわれもと大学進学を目指すのである。近年とくにその傾向が強くなり、大学の数は圧倒的に不足している。その上、試験日が統一されているために競争率が高く、入学事情は非常に悪くなっている。かつては、家が貧しいからと、大学進学を考えない人が多かったが、いまではかなりな無理をしてでも大学入学を希望する人たちが増えてきている。そのため、経済的な理由よりは、実力の点で大学に入れない人たちの増加が社会問題化している。  女性の場合は進学希望者が増えていると言っても、いまだ大学卒業者は全女性人口の二パーセントを占めるにすぎず、大学生に占める女性の割合は一〇パーセントといったところ。つまり、世界に冠たる大学進学率を誇るといっても、ようするにそれは男社会内部の問題なのである。  男尊女卑思想の根強い韓国で、しかも激しい競争率のもとでは、たった一割の女子大生は非常に恵まれた存在であり、それだけ若い女性にとっては羨《せん》望《ぼう》の的となる。かつては女性ならば女子大生しか着なかったGパンとTシャツを、女子大生ではない若い女たちがこぞって身につけるようになっている。明らかに、現代韓国の若い女性のなかには、女子大生への強いコンプレックスとともに、大きなあこがれが広がっている。  そこで、韓国の大学に入れそうにもない若い女性たちが日本の大学を目指すことになる。日本には大学がたくさんあるため、韓国の大学に実力で入れない者でも、容易に入学できる大学がいくつもあるからだ。ただ、日本の大学を卒業しても韓国ではほとんど社会的な価値はない。アメリカかカナダならば価値があるが、試験が難しいこともあるし、また韓国人はなかなか受け入れてもらえない。さらに入学できたとしても生活することが難しい。  もっとも、何事もお金があればなんとかなるのがこの世の中というわけで、ほんとうのお金持ちの娘はアメリカに留学していることが多い。したがって、日本の大学に娘を留学させる親はとりたててお金持ちではないし、また家族の生活を切り詰めてまで娘を日本の大学にやる気持ちはない。そこで、物価の高い日本に留学しようとする若い女性は、アルバイトをしながら大学に通うのが通例である。そして、そのアルバイトの多くが水商売なのである。  留学生の九五パーセントは専門学校の学生で、なかではブローカーの斡《あつ》旋《せん》する酒場でのアルバイトつきで日本へやってくる者が多い。残りの五パーセントが大学の学部の学生で、彼女たちの多くは焼き肉屋や喫茶店などのアルバイターとなるのだが、そうした仕事では時給七〇〇円から八〇〇円くらいだから、生活は相当に厳しいものとなる。一日中立ちっぱなしの仕事もそう楽なものではない。そこで仲間から聞かされるのは、酒場に行けばもっと楽な仕事でしかも四、五倍の収入が得られるということ。これは魅力である。一人、二人と酒場のアルバイトをするようになり、多くの学生たちがプロのホステスたちと同じような道をたどっていくことにもなるのだ。 ホステスという職業の卑と尊の二面性  これは一種の「転落」には違いないが、ここにも韓国人特有の、美人尊重の観念と未熟な自立精神が顔を出している。  女の仕事ということで言えば、焼き肉屋や喫茶店の仕事は不美人だから仕方なくやる仕事とみなされる。たとえば、すでにホステスのアルバイトをしている先輩などから、「あなた、そんな仕事してるの? 容姿に自信がないからね」と言われると、韓国の女はそれでいたく自尊心を傷つけられるのである。  しかも、これはよく日本人からも言われることなのだが、不思議なことに、韓国からの留学生の女たちには美人がきわめて多いのである。これが偶然ではないとすれば、どうもそこには暗黙の意志、最初からのある「つもり」があるような気がしてならない。つまり、彼女たちはホステスたちの日本での成功を知っており、「いざとなれば……」という気持ちを最初から持っていたのではないかと勘ぐってしまうのだ。あるいは、自分が美人であるという自覚があるからこそ、予想される困難な日本での生活にも「ある」展望を感じてやって来たのかも知れない。  学費は年間七〇万円から八〇万円というところだが、韓国クラブに勤めれば月収五〇万円から六〇万円にはすぐいくことができる。通常のアルバイトならば、一日ヘトヘトに疲れるまで働いても一日七〇〇〇円そこそこ。そのまま毎日働いても月二〇万円程度、しかもそれでは、もはや学業どころではなくなってしまう。  韓国クラブに勤めるということは、単に店でお客の相手をしていればそれだけの収入があるということではない。店の外でのつきあいも含めて、女のセクシャリティをいかんなく発揮してこそホステスとしての収入が約束されるのは言うまでもないことだ。  確かにこれは一種の「転落」ではあるだろう。しかし、そこが韓国的なセンスでは少々屈折があって、本人がそれほどの悲哀感を感じなくてもすむようになっている。やはりキーセンの伝統がかかわることでもあるのだが、ホステスという職業は卑《いや》しまれている反面、不思議な尊敬の念が与えられてもいる。彼女はホステスの一線で活躍している。それは彼女が美しいことの証明なのだ——というように。 日本は勉強する場ではない?  韓国人の二面的な心情は、ホステスという職業についてだけではなく、学問をする女性についても言えることだ。女子大生があこがれの的であり、大学崇拝主義とも言うべきものがある一方で、勉強は不美人がするもの、不美人だから勉強の方でがんばろうとしているんだというある種の蔑《べつ》視《し》があり、この二つが一人の人間の意識の中に共存している。  日本ではことのほか中年の男性に女子大生が好まれる。したがって、韓国クラブでも女子留学生ということだけで人気の的になってしまう。日本の男性はなぜか彼女たちには他のホステス以上にお金を使う。そのため、女子大生ホステスの方が一般のホステスよりも給料が高いことも珍しくない。店としては、彼女たちの存在にはそれだけのメリットがあるのだ。そこで、女子大生ホステスたちが店に頼まれて同じ女子大生を勧誘する。そのときの誘い文句は、たとえば、こうである。 「わざわざ日本に来ているのに、なんで稼がないの? チャンスじゃない」  ようするに、日本という国は韓国の一般人にとっては、まず第一に「稼ぐ場所」とみなされているのである。私自身、同じ言葉をたびたび聞かされている。国に帰った折りに、日本に留学していると言えば、必ず返ってくる言葉はこうである。 「まあ、ずいぶん稼いだんでしょうね」  私は単に一介の留学生にすぎないし、たいした仕事をしているわけでもないから収入はたかが知れていると言うと、 「あなた、何のために日本に行ってるの?」 と、唖《あ》然《ぜん》とした顔をされるのだ。  これは決して、彼女がわかっていながら私にいやみを言ったという話なのではない。日本で女が勉強することが、そのまま正直な本人の意図だとは考えようもないところに、韓国社会のさまざまな問題点がはさみこまれている。  一般の韓国人にとって、日本で生活することは少なくとも前向きな人生ではない。韓国では甲《か》斐《い》性《しよう》がないから、稼ぐ能力がないから、いわば食いつめたからこそ行く場が日本なのだ。だから、「日本で勉強しています」では回答にならないのである。国で「甲斐性がない」からこそ日本へ行っているはずなのに、そこでも稼げないとは、なんとダメなやつなんだろうというのが、私のような存在に向けられる、韓国人一般の理解だと言ってよいだろう。実際、国へ帰れば親《しん》戚《せき》の者たちから、常に口うるさく言われることなのである。 愛人を手に入れた女子留学生  ホステスとなり、また日本人男性の愛人となっている女子留学生を、私は直接に何人も知っている。また、人づてに聞かされることもたびたびである。そうなってくると、私のような存在の方が珍しいのではないかとも思えてきてしまうのである。  ここで私の知る二人の女子留学生の話をしてみよう。  あるとき、日本への飛行機の中で隣り合わせになったことがきっかけで、仲よくなった女子留学生がいた。しばらくつきあいがなかったのだが、三年ぶりで彼女から連絡があり、久しぶりに新宿歌舞伎町のある喫茶店で再会した。  当時、デザインを専攻していると私に語った彼女は、夢見るような愛くるしさを満面にたたえた少女だった。三年ぶりに会った彼女の顔は、充分に成熟した女の魅力を備え、またそれをちゃんと自覚している者のそれであることがすぐに見てとれた。 「さすがに大人っぽくなったわね」 と私から話しかけると、「そうね」と言うや、彼女は素早い口調で独白をはじめた。  彼女は卒業とともに韓国へ帰ったのだが、まるで就職口がなかった。どんなに実力があっても就職できないし、また歳《とし》をとればとるほど身のおきどころがなくなっていく、それに「日本帰り」には何ら価値がないどころかかえって軽《けい》蔑《べつ》される……。母国での体験の不《ふ》条《じよう》理《り》が、乾《かわ》いた平《へい》坦《たん》なトーンで語られる。 「大学を出たという資格があるだけの話なのよ。それがまるでお金に結びつかないわけ。デザインは好きだけど生活できなくちゃどうしようもないわね。日本帰りが韓国で生きていくには、なんといってもお店の一つでも持てるくらいじゃないとやっていけないわ。お金がなくちゃだめなのよ。だから酒場で働く気になったの。それだったら日本で働く方がずっと収入がいいから、また日本へ舞い戻ってきたというわけ。私ね、お店ではナンバーワンなのよ。ママもね、私のことを一番大事にしてくれるの」  そう言って上手にウィンクをしてみせる彼女の顔は、確かな満足を表していた。 「でもね、もう韓国へは帰らないわ。あの国へは帰りたくない。愛人がいるのよ、日本の男性だけど、気前がよくて優しいわ。あの人と一緒にずっと日本で暮らしたいわ」  豊満な女の横顔の奥には、ほんとうにあどけない少女の顔が依然として宿っていた。  もう一人、次にお話ししようと思う女子留学生は、私が韓国で妹のように可愛《かわい》がっていた後輩である。  ある日街を歩いていると、後ろから「オンニ(お姉さん)」と呼ぶ、懐かしい声がきこえた。ふり返ってみると、そこに彼女がいた。彼女は韓国の古典舞踊の一流の踊り手で、小さいころから名手の名をほしいままにしてきた。その彼女がいま、日本に留学中だという。  私は韓国に帰るたびに彼女とは連絡をとるようにしていた。それがここ数年音信不通になっていたのだが、まさか彼女が日本にいるとは知らなかった。日本にいるのならばなぜ連絡してくれないのか、いろいろと助けてあげることもできるだろうにと、一瞬腹立たしさを感じたのだがすぐに思い直していた。というのは、才能のある彼女のことだから、それなりに芸術家方面からの充分なバックアップもあり、生活の苦労をすることもなしに踊りの腕を磨いているのだろうと思ったからである。彼女の母親も、彼女のために英才教育の労を惜しむことなく、まるで宝もののように育てていた。 「どうしてるの?」 と歩きながら聞くと、思いもかけない答えが返ってきた。 「いまね、前にホステスをしてたときのお客さんに、とてもよくしてもらっているのよ」  めまいに似た感覚と熱いものが込み上げてくる感覚に言葉がつまり、私は無言のまま彼女を連れて近くの喫茶店に入った。  私がどのような思いでいるかが、まるで伝わっていないことが明白な彼女の明るい顔。なぜそんなにもあどけないままでいられるのだろう? 「日本に来て一年くらいホステスしていたの。で、お客さんのなかで私をとっても可愛がってくれる人がいたのね。その人がホステスはやめろって言うの。だからいまは学校に通うだけなんだけど……。ねえ、一度私のマンションに来てよ。その人が買ってくれたんだけど、とっても広いのよ。その人のおかげでね、これまでみたいに学費とか生活費とか心配することがなくなって、いまはほんとに幸せに暮らしてるわ。だからオンニに心配かけることは何もない」  なぜ私はこうした話を聞くたびに悲しくなるのだろう。なぜ本人が幸せそうにしているのに心から喜んでやれないのだろう——。いや、ほんとうの幸せなんてそんなものではないはずだ。宝石のように、たかが自然な美形が珍重されているだけではないか——。心情、倫理、幸福、女……それらをめぐる意識が頭のなかでショートし、まるで壊れたネオンサインのようにジージーと音をたてているようだ。  彼女は私が黙っているので手もちぶさたなのだろう、きれいな緑色の石のついた指輪をくるくるともてあそんでいる。ヒスイだろうか、エメラルドだろうか。それまでは気がつかなかったけれども、よく見るとブラウスもスカーフも、その素材とデザインは大胆でしかも上質なものである。どんな男がこの子を、という興味が頭をもたげて聞いてみると、六十歳近い既婚者だという。彼女は確か二一、二歳だった。 「どんな人って……そうねえ、週に一回はマンションに来てくれるの。とても優しくしてくれるのよ。ねえ、日本の男の人ってほんとうに優しいのね。そうでしょう? 私、卒業したら韓国に帰るつもりだったけど、何となく気が進まなくなっちゃったなあ。それでね、できたら日本で就職したいと思うんだけど、どうかしら?」  なぜ、あなたはそうなってしまったの?  もし私がそう言ったとしても、会話にならないことははっきりしている。彼女は手に入れたいまの生活に微《み》塵《じん》も疑問をもってはいないのだ。それがまた彼女一人のことではないだけに、私はそれ以上話を進めるべき言葉を失ってしまう。 正妻に「家」を愛人に「女」を求める男たち  日本のホステスたちの愛人との関係と言えば、お金がもらえるから我慢するといったニュアンスが強い。実際、話をしてみると、「あのじいさんが……」などと、あからさまに嫌な顔をする女性は多い。ところが、韓国の女はそうではないのだ。  先に紹介した女子留学生の場合でもそうだが、決して相手の男を悪く言うことはない。それは体面上そうしているわけではなく、かなりな点で正直な言葉なのである。  彼女たちも、もちろん最初は純粋にお金目当てで男に接触する。が、そこに徹しきれないのだ。そのうち、必ず情が中心になってゆくのである。フィリピンや台湾の女たちはその点、一夜の相手と割り切って男とつきあうことができるが、韓国の女たちは自分だけを愛して欲しいと思うのである。そして思うだけではなく、それを韓国入特有のいちずさで求めてゆくので、いったん関係を持つと男たちはしだいに追い詰められてゆくことになる。  そこで、「韓国の女とつきあうと抜き差しならない関係になる」という、歌舞伎町に遊ぶ紳士族の常識も生まれることになるのだ。  愛人である韓国人ホステスに、「私と奥さんとどっちが大事なの」と迫られた男たちは多いはずである。とはいっても、彼女たちは結婚したいためにそう言っているのでもなく、また相手の家庭を崩壊させようなどと思っているわけでもない。ただ、自分のために男がどれだけ犠牲を払うつもりがあるかを知りたいだけである。先のことを考えているのではなく、そのときそのときの感覚で、強く求めたり簡単に放棄したりするのである。  このへんの問題については、韓国での結婚生活の実態を知らなくては、ほんとうのところがわからない。それについては後の章でご紹介することになるが、簡単に言うとこうなる。  男尊女卑の韓国社会で正妻の役割をつとめるのにはかなりの忍耐が必要であるのに比べて、愛人は贅《ぜい》沢《たく》もできるし気楽でもあるという事実が一つ。ようするに、愛しあう男女の甘い生活は、通常の結婚生活ではまず考えられるものではなく、むしろ旦《だん》那《な》と愛人の間にこそあるという現実がある。しかし一方には、韓国の女の正道は結婚だという社会倫理が厳然としてあることが一つ。この二つが彼女たちの心のなかで行ったり来たりするのである。事実、韓国では歴史的にも現在的にも、多くの男たちが、愛人には「女」を求め、正妻には「家」を求めてきている。 子供を産みたがるホステスたち  ホステスになる韓国の女たちのほとんどが、結婚、つまり正当なものではあるが不自由な結婚を放棄し、愛人になろうとしている。しかし、それが彼女たちの最終的な目的ではない。彼女たちが最後に求めるのは出産である。愛人を得てその経済力に頼って生きようとする女たちは、一様にその男の子供を産みたいと考えている。ここがまた、日本人には理解し難いところであるかもしれない。  韓国の世代間の倫理で最も守るべきとされているのが親孝行である。それはもちろん、単に心情的なことだけではなく、形をもって表す親孝行が重視される。年老いた両親、たとえば六十歳を越えた親を働かせている子供はもってのほかである。親に贅沢をさせ、箸《はし》の上げ下げ一つにも気を遣い力をつくすことが、子供にとっては義務であり、またそれが親への愛のあり方なのである。韓国人にとって「子は宝」であるのは、単にみずからの慈《いつく》しみの対象であるばかりではなく、将来、親に豊かな生活を約束すべき財産そのものでもあるからなのだ。  これは韓国人のリアリズムをよく表現していることだが、子供とは文字通り愛の結晶だと考える。心のなかの目に見えない愛ではなく、愛の証拠そのものが子供なのだ。韓国では、「結婚して下さい」よりも「ぼくの子供を産んで下さい」の方が、より強い愛の表現であり、女性も愛する人からはまずその言葉を聞きたいと思うのが一般的である。  したがって、結婚を考えない韓国人ホステスでも、子供だけは産みたいと考える。そうすれば、愛人が自分を見放すこともないだろうし、愛人の死後も子供名義の財産分与をしてくれるだろうと期待するのである。実際、子供を産んだために、愛人が亡くなったあとも商売の元手を得て韓国でクラブや喫茶店を開いた女性を、私は数人ほど知っている。  ある女性は四十歳のときに一〇年間つきあっていた韓国の男の子供を産んだ。そのとき男はすでに六十代の後半だったが、年老いてできた子供をたいそう可愛《かわい》がり、家族には内緒で生前から財産の一部を分与することを約束していたという。そして男が亡くなってみると、それが現実となり、いまは彼女は韓国でビルなどの不動産を所有して悠《ゆう》々《ゆう》自《じ》適《てき》の生活を送っている。  また、ある女性は二七歳のときに六十歳近い日本で知り合った韓国人の男の子供を産んだ。その後、男の商売が危うくなって彼女を養うことが難しくなったのだったが、男は子供のために二〇〇〇万円を確保してくれた。彼女は帰国してそのお金で韓国に喫茶店を開いた。男はその三年後に亡くなったというが、彼女はまだ若い。しかし、もはや男には興味がないという。「どうしてなの?」と聞くと、彼女は当然だという顔をしてこう言っていた。 「だって子供がいるのよ。それ以外に何が必要なの? なぜ結婚しないのかですって? 何のためにしなきゃいけないの?」  相手が韓国の男ならば、まず子供を産んでしまえば将来が約束されたと考えてもいいわけだが、これが日本の男となるとそうはいかないケースが多い。  二九歳で日本にやって来てすぐに、四五歳の不動産関係の仕事をする日本人の愛人になった女性がいる。マンションも買ってもらい、月々の手当ても充分もらえたので、韓国クラブに勤めはじめて数カ月でホステスの仕事をやめ、男に頼る生活をはじめた。そして一年後に彼女は妊娠したのである。  当然、大喜びされると思って男に報告すると、男はどうにも苦虫をかみつぶしたような顔をしている。彼女は不安にかられたが、子供を産んでしまえばより絆《きずな》が深まるはずだと考えて子供を産む決心を固めた。ところが、子供ができるとそれまで優しかった男の態度は、一変して冷淡なものとなっていった。仕事がうまくいかないからと、生活費も減らされてしまう。彼女には男の変心の理由がまったくわからないながらも、言うべきことは言っておこうと、男の所有するビルのひとつも子供のために分けてもらいたいと要求した。ところが男は、「とんでもない、何をあつかましいことを言う」とまったくとりあってくれなかったのだった。  韓国の常識が日本では通用しないことを悟るしかなかった。そして最近、生活費の支給がぷっつりと切られたという。マンションこそ自分のものになったが、毎日の生活にことかく状態になってしまったのである。 「子供がいなければまたホステスでもするんだけどね……」  三十歳をすぎて、しかも未婚の母である韓国の女。韓国に戻ってもまわりから疎《うと》んじられ、さらにまともな仕事がないことははっきりしている。子供をあずけてでもホステスに復帰するしかないだろうと思えた。 売春婦ではない女の売春行為  いま、日本で働く韓国人ホステスの数はある飽和点を越えているように思える。愛人獲得競争の激しさには目に余るものがあり、愛人をとった、とられたのトラブルはこのところ日常茶飯事となっている。限られたパイの分け合いを考えざるを得ない時代がやって来ているのだが、ホステスたちの間にそんな自覚は生まれていない。  日本人が韓国人ホステスに慣れて来たために、また彼女たちの数が増えて来たために、もはや彼女たちが稀《き》少《しよう》な「貴姫」でいることができなくなっているのだ。したがって、ことさら彼女たちに大金を注《つ》ぎ込む日本人も少なくなった。そのため、一人の愛人に囲われての生活が難しくなり、最近では四、五人の男たちの間をうまく立ち回らなくては、彼女たちの常識とするマンションでの贅《ぜい》沢《たく》な生活がおぼつかなくなっている。  そうしたこととともに、店のノルマが厳しくなっている。女たちには月六回の同伴出勤が強いられ、達成できなければ給料から相応分を差し引くことがあたりまえになってきてもいる。  すでに述べたように、韓国人ホステスは一夜限りの売春をしないところに誇りもあったし、またそれをステイタスとして自らを高く売ることができていた。しかし、店から要求される厳しいノルマを達成するために、仕方なく身体を男にあずけ、同伴出勤に協力してもらうという事態が出現するようになってしまった。一人の男につくす律儀な韓国の女のイメージが崩壊しかかっている。  これは、「まあ聞いてよ」と聞かされたあるホステスのボヤキである。 「売春婦じゃないんだから、ホテルに行くのは嫌なの。だから私の部屋でデートするんだけど、一つの部屋で五人の男と代わる代わるでしょ、そこでカチ合わないようにするのが大変なの。そう言えばこの前ね、曜日を間違えて夜中に花束を抱えて来た男がいるの。だって私と別の男とのデートの真っ最中のところへ来たのよ。これにはびっくりして、私も覚悟を決めたんだけど、日本の男の人ってどうしてなのかな、喧《けん》嘩《か》とか決闘とかってことにはならないのね。またあとで殴《なぐ》られたり怒られたりすることもないの。その人はね、別の男がいると知って、驚いて帰っちゃって、それっきり連絡してこないのよ。ま、また新しい恋人を見つけなくちゃね」  決して売春婦ではないというプライドが彼女を支えている。が、現実はだれが見ても売春行為そのものである。それでもなお、彼女たちはいまだにあどけなくも明るい。 女が流出する国  韓国では、お金持ちはひと握りしかいないが、彼ら一人一人のもつ財産は極端に大きい。そして彼らは湯水のようにお金を使う。いわゆる大盤ぶるまいをすることが、お金持ちの特権であり、またお金持ちはそうすべきものだという倫理めいた考え方もある。そこで、韓国でお金持ちと言えば、莫《ばく》大《だい》な資産を身内や気にいった相手にふるまう者、とイメージすることになる。一方、日本にお金持ちは多いが、極端な資産家はほとんどいない。また、生活は一般人とかわらずにつましいものだし、派手にお金を使うこともない。そういう意味では、韓国で言うお金持ちの絶対数は日本では非常に少ないのだ。  日本をお金持ちだらけの国とイメージして来た韓国の女たちにも、しだいにそうした現実がわかりはじめて来ている。しかし、いまだ「ジャパゆきさん」の成《せい》功《こう》譚《たん》につられ、それがそろそろ神話となりかけているにもかかわらず、日本を目指す女たちの数は増加し続けている。  そして、その増加する女たちはもはや国への送金とはおよそ無縁な目的でやって来る。ある調査によると、日本の外国人労働者の収入ナンバーワンは韓国人だが、本国への送金額は第七位、アジア諸国のなかではほぼビリだということだ。  ただ、年々増加する韓国人ホステスたちのなかには、かなりの離婚歴の持ち主が含まれている。これがまた韓国特有の事情によるものなのだ。  韓国の離婚率はこのところ急激に増えており、一九八九年にはついに日本と同率を示した。これは韓国社会の、ある意味では「よき」大きな変動の一つだとみたい。この現象は、儒教的な家族倫理の悪い面、つまり女の自由を束縛し、女に耐えることを求める家族観に、韓国の女たちがやっと反撃をはじめたことを示すものではないかと思うのだ。  こうした社会の流れは日本でもかつて体験したことだったろう。しかし、日本の場合、女たちが国外へ逃げることはなかった。日本の社会自体がそれを受け容れることができたからである。韓国ではいまだに、離婚した女が再び結婚することはきわめて難しい。そして、もちろん経済的な自立も、である。  いま、韓国の女たちに勇気をもって離婚する者が増えているのには、家から離れても女を受け容《い》れてくれる日本の社会の存在が大きい。事実、日本で働くことをあてにして、泣き寝入りをやめて離婚したと私に話してくれた女性を何人も知っている。  ただ残念なことには、彼女たちは日本に来てもまた男に頼ろうとしている。選択する職業はまず水商売に限られているのだ。確かに、日本のような高度産業の仕事が多いところに対して、それに見合った労働者の素養を彼女たちが培《つちか》うことのできる土壌が韓国にはない。それにしても、彼女たちができる仕事は日本にいくらでもあるのだ。  それはともかくとして、多くの女たちが自分の国に生きる場を見出せず、日本を頼って流出して来ている。女たちが外へ外へと流れ出す国、韓国。そしていま、この流れはすでに、だれの力をもってしても抑えることのできない、歴史的な力を持ちはじめている。 第2章 現代韓国の女性事情 だれも語らない生と性のドラマ 「離婚したら日本へ行け」  先に述べたように、韓国では近年離婚が急増し、一九八九年の離婚率は日本と同率を記録するほどの高さを示している。こういうことは、これまでの韓国社会からはおよそ考えられないことであり、まさに画期的なことと言わなくてはならない。  私がこのように話すと、ある大学教授からは次のような感想が返ってきた。 「そうですか、韓国の社会でも、ようやく離婚の自由が一般に認められるようになってきたんですね」  なるほど、当然そうお考えになるでしょうねと言って、私はそれが誤解であることを長々と説明したことがある。  確かに、古い社会体質をもった国で離婚が増加しはじめれば、社会の近代化が進み、人々の意識も大きく変わってきたことを意味するのが普通だ。ところが韓国でいま起こっていることは、離婚は増加しているものの、社会的な意識の方にはことさらな変化がみられないという、実に不思議な現象なのである。  韓国では、「女は死んでも嫁《とつ》いだ家の霊となれ」という、古くからのコトワザが、いまだに厳然と生きている。離婚は決してあってはならない社会的なタブーなのだ。李《り》氏《し》朝鮮時代では、出戻り女は父母がそっと差し出す毒薬入りの茶を飲んで死ぬべきものとされた。現代ではまさかそのようなことはないが、親は離婚した娘を厳しく叱《しつ》責《せき》し続け、決して許してはならないという通念が強く支配している。  離婚して実家に戻った女たちは、生涯にわたって「女の道を踏み外した失格者」のレッテルを貼《は》られ、家族や親《しん》戚《せき》縁者からの冷たい眼《まな》差《ざ》しと差別的な待遇を受けて生きていかなくてはならない。そのため、離婚しても実家に帰る者が少なく、また、いたたまれずに実家を飛び出す女たちは多い。  彼女たちはどこか遠くへ行って人知れず生きたいと思う。彼女たちの親も、まわりから辱《はずかし》めをうけなくてすむので、できることなら、娘にそうして欲しいと願う。そうした親《おや》娘《こ》の前に浮かび上がってくるのが、日本という国なのである。  国を離れた遠いところでならば、男のお酒の相手をしても、またたとえ身体を売ったとしても知られないですむ。それで経済的な自立ができるならば、だれにいじめられることもなく一人で暮らしてゆける。そこで近年、韓国の女たちの間でささやかれるようになった言葉が、「離婚したら日本へ行け」なのである。日本は、離婚した女でも歳《とし》をとった女でも、また外国人でも、関係なく雇ってくれる職場がたくさんある……。韓国の女たちのなかで最近とみに話題となる日本は、そのような日本なのだ。  家族に離婚した者があれば、その「被害」は、世間から後ろ指をさされる親だけではなく、家族全員にまで及ぶ。たとえば、娘が結婚する場合、彼女の兄か姉が離婚していたとすれば、それは大きな、いや、多くの場合決定的な障害ともなる。何はともあれ、家族に「きれいな戸籍」のそろった相手が第一に結婚の対象として選ばれなくてはならない。そのため、離婚して一回でも書きかえられた戸籍は、取り返しのつかない「汚《よご》れた戸籍」となるのだ。  この汚れが消えることのないものであれば、それが二回になろうが三回になろうが同じこと。そう考えて、結婚ビザを手に入れてでも日本に行こうとする女たちが出てくる。日本で働く韓国人ホステスの三人に一人が離婚した女たちである。 実家には帰れない女たち  私は韓国人ホステスたちと深くつきあっていけばいくほど、一つのことについての相反する二つの考え方の間で、どんどん引き裂かれていく自分を感じざるを得なくなっていった。韓国で離婚した彼女たちを、日本での結婚ビザ入手から売春へ、愛人へと落とし込んでゆく現実の力、それは「悪《あ》しかれ」とどこまでも否定していこう。しかし、だからこそ彼女たちは、一生を薄暗い精神の牢《ろう》獄《ごく》に押し込められて過ごすしかない、あの嫁ぎ先でのみじめな状況から脱することができている、この現実は「よかれ」と認めていこう——。  こう考える自分は彼女たちではない。でも、そう考えることができるようになって、はじめて、私のなかにも彼女たちと同じ自分が宿っていることに気がついたのである。 「他にも道はあるでしょうに」とよく言われるが、社会そのものに追い詰められ、無知とウブの世界をあてがわれ続けてきた韓国の女たちが、現実のその手で触れることのできる未来へと延びる道は、ほとんどそれしかありようがない。もしあるものならば、韓国の女たちはとうにそれを選んでいるはずである。  新宿歌《か》舞《ぶ》伎《き》町《ちよう》で働くあるホステスに誘われるまま、彼女の住む高級マンションで食事をごちそうになったとき、私は彼女の離婚体験と、日本にやって来たいきさつについて、たっぷり一日をかけて聞かされたことがある。  彼女は韓国で一般会社の経理の仕事をしていた。韓国で事務職につけるということは、それだけでかなり恵まれた家庭の出身であることを意味している。彼女は一年ほど働くと、通常の韓国の女のように見合い結婚をして会社をやめた。もっとも、一般企業ではほとんどの場合、結婚すれば会社をやめなくてはならないようになっている。  結婚して三カ月ほどすると、夫が会社の若い女性事務員と、結婚前からずっと関係を続けていたことがわかってきた。そして、夫はだんだんと浮気を公然化するようになっていった。彼女がそれに対して強く言うと、夫は「亭主のやることにいちいち口出しをするんじゃない」と凄《すさ》まじい勢いで怒り、彼女をしたたかに殴ったという。  それ以来、何か気に入らないことがあるたびに、夫は彼女を殴りつけるようになった。それも、平手でピシャッとやるようななまやさしいものではない。夜中に家に鍵《かぎ》を閉めて、大きな棒を持ち出して身体をガンガンと打ちすえるのだ。顔を傷つけると他人に知られてしまうために、外からは見えない身体の部分だけを殴るのである。  彼女はそれでもじっと我慢をしていたが、やがて一週間に一回は必ず殴られるようになっていった。夫の暴力におどおどして暮らさなくてはならない毎日、暴力を受けるときの恐ろしさ、痣《あざ》だらけの身体、常に痛む身体の節々、とてもこんな生活を続けてはいけない……。かといって実家に帰ることもできないのが韓国の社会だ。彼女は家を出て、まだ独身でいる高校時代の友だちのアパートに隠れて暮らすようになったのだった。 韓国でロング・ヒットを続ける女の「哀歌」  この男はちょっと極端なのではないかと思う方がいるかもしれないが、私が多くの女たちに聞いたところでは、それほどひどい分類に属すとも思えない。彼女は耐えきれずに家を飛び出したが、それでもなお耐えている女は多いはずなのだ。  一九六〇年代の歌謡曲だが、現在に至るまで三〇年近く、ロング・ヒットを続けている歌がある。その歌詞を直訳でご紹介しておこう。 がまんすることができないほど この胸が痛くても 女であるためにひとことも言うことができない私 数えきれない悲しみを一人抱えたまま つらい人生の道をあえぎながら歩むことを がまんしなければならないと人はいう がまんすることができないほど さみしくても悲しくても 女であるためにがまんしなければならない私 自分で自分の心をなぐさめながら 険しい人生の道をあえぎながら歩むことを がまんしなければならないと人はいう  歌のタイトルは「女の一生」、最初にイミザという歌手が歌い、いまでもさまざまな歌手が歌い、多くの女たちが口ずさむ、韓国の代表的な流行歌のひとつとなっている。  この歌を聞いて、男は「まさに女はそうあるべきだ」とうなずき、女は「まさにそうした現実に自分は置かれている」とうなずく。  結婚適齢期を過ぎて独身だと言えば、周囲はもはや、彼女は人生に失敗したものとみなそうとする。そのギリギリの年齢が二五歳くらいだ。親は家の名誉を考えて、いっときでも早く嫁に出したいと思う。娘の心には、周囲からの非難めいた視線が痛いほどに突き刺さってくる。気にいった相手ではないからと、もはやお見合いを回避することができなくなる。こうして、不本意な結婚に仕方なく同意する女は多い。 親友どうしで日本に渡った二人の女  夫の家を飛び出して友だちのところに身を寄せた彼女もまた、そうした不本意な結婚へと押し出された女の一人だった。が、そうした結婚はどこにでもあるごく普通のことだったから、彼女もあの流行歌のように、耐えていこうと思ったに違いなかった。しかし彼女は逃げ出した。それは、彼女を受け容《い》れてくれるだけの親友があったから——それ以外ではなかった。  彼女の友だちは頭もよく、学校での成績は常に一、二を争うほどで、日本で言う生徒会長をやったこともあったという。それでも、彼女には特別な縁故がなかったので一般の会社に入ることができず、洋服屋の店員になったのだった。が、給料が安かったので、なんとか転職したいと考えていたところ、幸い美人でしかも歌がうまかったために、ある酒場でお客のために歌う仕事にありつくことができて、最近、洋服店をやめたのだという。  それにしても、しがない酒場の歌手では、彼女をずっと住まわせてやれるだけのお金はない。でも、その友だちには親友の彼女を見捨てることもできなかった。そんなとき、友だちが酒場である噂《うわさ》を聞きつけてきた。日本に行けばなんとかなる——。  こうして二八歳になった二人の女は、一カ月の観光ビザを手に飛行機に乗り、日本へ着くとその足で新宿歌舞伎町へと向かい、すぐに採用されてホステスとなったのだった。それが半年前のことだったと彼女は話す。そしてビザの切れる一週間前に、なんとかブローカーの斡《あつ》旋《せん》で結婚ビザに切り換えることができたという。  ただ、友だちは六カ月の結婚ビザをもらうことができたが、彼女の場合は相手の男がしっかりした人物ではなかったため、三カ月のビザしかもらえず、ついこの前、すったもんだのあげく、なんとかあと三カ月更新することができたのだった。そして、まもなくその期限が来るのだが、更新できるかどうかわからないため、彼女はブローカーに、男の在職証明書や納税証明書の偽造を頼んだのだと言う。  彼女は、それが偽造だと発覚したらどうしようかと深刻に悩んでいた。 「もし私が韓国に帰されたとすれば、私は何をして食べていけばいいの、オンニ?」  何らの手助けもしてやることのできない私は、せめて彼女のために、「どうぞ結婚ビザの更新ができますように」とお祈りでもしてあげるしかなかった。  やがて彼女は「オンニにぜひ紹介するわ」と言って、歩いて五分もかからない近くに住んでいるというその友だちに電話した。やがて果物を抱えてやって来た彼女は、なるほど、なかなかの美人だった。揃《そろ》って立って私の方を見ている二人は、ほんとうに仲がよさそうに見えた。今度、私が仕事でお客さんを招待するときには、彼女の店に行って、得意だという歌を聞いてみたいと思った。 無《む》垢《く》な少女の工員からホステス・売春婦への道  日本で働く韓国人ホステスで、韓国での水商売の経験がある者とない者の比率はほぼ半々である。あれだけ女の生き方に厳しい韓国で、どのようにして女たちが水商売にはいって行くかの、典型的なパターンを簡単にお話ししてみたい。  韓国で企業に勤めたいと考える場合、最も募集が多く、また縁故関係にもそれほどうるさくないのが製造工場である。韓国では、技術的な仕事にタッチする者は卑しい者とみなされ、エンジニアすら事務職の下に位置づけられるほどだから、製造工場の労働者は社会の底辺の層の子弟で構成されている。したがって、中卒者や高卒者のほとんどが、製造工場に就職することになる。彼らの月収は一二万ウォンから一五万ウォン(約二万四〇〇〇円から三万円)だが、これは事務職の半分ほどである。  このように、製造業は社会的にさげすまれるだけでなく給料も安い。また男女別々の職場であることも多く、しかも、より豊かな暮らしを約束してくれる事務職の男性と知り合うチャンスもないため、若い女たちには人気のない仕事だ。そのため、他に働き先を求められない女たちは、嫌々就職しているというのが正直なところ。これでは当然労働意欲を湧《わ》かそうにも湧くわけがない。  活発な気性で容姿もまずまずならば、洋服屋の店員や食堂の店員として働くこともできるのだが、娘時代の韓国の女の多くは、男の前に出ることすら恥じらいを感ずるような、無《む》垢《く》の心に包みこまれている。こうして製造工場は、十代から二十代はじめの、若い女たちの世界をあちこちで作ってゆく。  この「豊富な資源」を狙《ねら》ってヤクザが暗《あん》躍《やく》するのである。やさしい仮面をかぶって少女たちに近づく狼たちの手《て》練《れん》手《て》管《くだ》については、どこの国でもそれほど変わりはない。ただ、韓国の女たちが第一に考えるのが処女性の堅持と親孝行であり、また根強い美人コンプレックス、友だちや先輩への強い義理の感情など、彼女たち特有の性格を逆手にとるのが、韓国ヤクザたちの常《じよう》套《とう》手段である。  韓国の社会では、処女か処女でないかは、価値が一〇〇パーセントあるかそれともゼロかの違いである。いったん処女でなくなれば、戸籍と同じこと、あとは二回になろうが、三回になろうがなんの違いもない。この変わり身は、極端な処女性尊重の裏返しで、極端に激しいのが特徴と言ってよいかもしれない。そして、お金があればあるほど親孝行もできる——。 常軌を逸した処女重視の社会  処女性を重んじない国はほとんどないと思われるが、韓国のそれは徹底しているのだ。日本人に言ってもまず信じてもらえないのだが、韓国の男は一般的に、結婚相手の女に処女かどうかを問いただすものである。ある任意抽出の調査では、「結婚相手は必ず処女でなくてはならない」と回答した男が八割を示している。そして、結婚後に処女でないと夫に判断されて破談となるケースも少なくない。そしてこれも日本人には信じられないことだろうが、この場合、男が被害者として世間から同情をかい、女はなんてあつかましいやつと非難の的になるということだ。  処女であるかないかを前にしては、美人だとか気だてがいいとかの問題はまるでかすんでしまう。何をおいてもいまだ男を知らない娘、それが第一条件である。したがって、結婚前に性体験のある女は、そのことをひた隠しに隠して結婚にのぞむわけだが、最後の手段として処女膜再生手術をする女はかなりの数に上るとみられる。韓国で処女膜再生手術がことのほか盛況なのは周知の事実である。  多くが見合い結婚だが、もし恋愛結婚をしたい場合は「初恋の人と結婚すること」が女たちの合言葉ともなる。なぜなら、まず恋愛をしただけで、もはや処女を失ったものと判断されるからだ。事実、私がそうだった。ある陸軍の若い士官とお互いに恋愛感情をもつようになってしばらく交際したのだが、先に述べたように、初恋はもろくも崩れてしまった。そのとき、親から「なんてことだ、お前はもう結婚できないよ」と言われたものである。  しかし私の場合などまだまだいい方だ。私の友だちには、いやしくも近代国家の市民ならばありうるはずもない、屈辱的な体験を押しつけられた女がいる。彼女は好きでもない男に騙《だま》されてセックスを強要され、抵抗したものの力つき、強《ごう》姦《かん》されるままに処女を失った。彼女には恋人があったので、それだけ悩みは大きかったが、泣きながら彼にそのことを打ち明けた。ところがその恋人は、いったん汚れた女とはつきあえないと彼女から離れて行った。  そこで両親はもはやこれしか道はないと、勝手に彼女を犯した男との結婚を決めてしまったのである。だれひとり彼女の立場になって考えてやる者もなく、絶望の淵《ふち》に落とされた彼女には、他に選ぶべき道などあるはずもなかった。それからの彼女は、石のように固い心の女になった。そして子供が生まれ、久しぶりに訪ねて行った私に、ポツッと「この子だけしか私にはないの」と語った。  処女重視の問題では、もうひとつ書いておきたいことがある。私は大学生活と重なりながら、四年間の兵役を経験している。韓国の軍隊にはほんの一握りの女性軍人たちがいるが、彼女たちは国家の軍事的意義に感じて軍人になるわけではない。密かに将来のファースト・レディを目指す者が多い。もちろん、射撃などの演習もやるが、それよりも女たちは事務仕事を中心に、いけばなや行儀作法の訓練にいそしむのである。  そして、この軍隊の入隊テストに処女審査があるのだ。処女でなければ入隊資格なしとされる。その当時の私は、なんの疑問ももたずに、このテストを受けて入隊した。  万事がこのような具合なのだ。したがって、処女ではない未婚の女が韓国で生きていく道は、酒場のホステスか売春婦しかないと言っても、決しておおげさではないと思う。日本の女性にこうした話をすると、「それじゃあ、まったく男の言いなりじゃないの」と言われる。まったくその通りである。しかし、そんなことを言っても何の意味もない。小さいころから、ずっと大切なものと暗示をかけられてきたものを失うことのつらさを考えて欲しい。 ブティックで売り子をする売春予備軍  ただ、最近の韓国の十代の女のなかには、確かに「新人類」が登場して来ている。「お母さんのようには絶対なりたくない」と考える女たちが、わずかながら顔を見せはじめている。しかし、韓国の社会にはいまだにそうした女たちを受け入れる器、つまり女が経済的に自立できるだけの基盤が育っていない。そのため、せっかく育った彼女たちの「母親のようには……」の考え方の延長に、ホステスや売春婦への道が待ち構えるしかないことにもなるのである。  韓国に多い「ネンネ」な少女を売春行為に引き込むには、すでにその道に入っている女たちに、自分の後輩や友だちを、ブティックや美容院の店員にならないかと勧めさせる方法がある。それらの店は、裏で酒場や売春宿とつながっている。店員にさせてから「落とす」までのすべてを女たちに任せるのである。  私はある日、日本からやって来た友だちと二人で、ソウルで服を買おうとあちこちの店を物色して歩いていた。ひととおり見てからまた最初のブティックにもどったとき、私は店の雰囲気がさっきとはまるで違っていることに気がついた。小さい店にしてはずいぶんたくさんの店員がいたのだが、それが中年の女一人だけになっているのだ。  奥からチラチラもれ聞こえてくる韓国語から、私はその理由を察した。 「急がなきゃだめよ、日本からの団体客はもうホテルに着いてるんだから……」 「だって私、今日は出られないわ、あの人が来る日だからここで待ってなきゃ……」  ざわざわとした数人の女たちのおしゃべりのなかに、あわただしげな口調で言い争う声が聞こえている。  明らかに、この店は裏で女たちに春を売らせているのだ。まだプロの売春婦になることを躊《ちゆう》躇《ちよ》している店の売り子たちが、アルバイトに出かけるところだったのである。  何も知らない日本人の友だちは、盛んにブラウスやスカーフを身体にあてては鏡をのぞきこんでいる。その間、店の奥からさっきとはうって変わった厚化粧をした女が出てきて、店の中年女に何事か耳打ちをし、さっと奥へともどる。やがて彼女たちは裏から出かけて行ったようだったが、私はなにやら恥ずかしくて友だちにそのことは黙っていた。彼女が韓国語を知らなくてよかったと思った。  さまざまな経路があるにせよ、彼女たちの行き着く先は酒場のホステスか、あるいは「ママさんハウス」と呼ばれる外国人専門の売春宿である。同じように男に身体を売ってお金を稼ぐには違いないのだが、ホステスたちは決してそうは思わず、自分たちは売春婦とは明らかに違うのだという誇りをもっている。  いずれにしても、たとえば日本人の男が相手ならば、一晩三万円が相場というところ。ママさんハウスならば、そこから二万円ほどを宿に納めなければならないが、残った一万円にチップをあわせれば、たった一日で、少なくとも工場での一カ月分の給料相当のお金を、優に手にすることができるのだ。 少女たちをママさんハウスに引き入れるテクニック  ママさんハウスの経営者は、もと警察官かその妻であることが多い。外国人を相手にするには一流のホテルを利用する必要があるが、こうしたホテルでは売春のチェックが厳しく、逮捕される危険性も高い。そのため、裏の事情をよく心得ている警察官出身者がこの商売に手を出すことが多いのだ。  ソウルのチョンノサムガ(鐘路三街)に行ってみると、ママさんハウスが軒を連ねている。近くには、韓国の企業が外国のお客を招待するときには必ずといってよいほど利用する一流の料亭街がある。この地の利を生かして、ママさんハウスは外国人観光客を狙《ねら》うのである。この地は住宅街ではないが、一般住宅にもまだ時折見られる、古典的な瓦《かわら》葺《ぶ》きの屋根を見せる家があちこちに建っている。それらのほとんどはママさんハウスである。他にはイテウォンなどにも多く見られるが、表面的にはまったくただの下宿宿を装っているのがママさんハウスの特徴だ。  韓国の女は自尊心が高いので、一足とびにママさんハウスに来る者は少ない。そこで韓国のプロたちは、本業はブティックや美容院の店員で、たまの小遣い銭稼ぎに売春をしているに過ぎない、という体裁を彼女たちのためにつくっているのだ。  こうして少し売春に慣れてくると、次にはママさんハウスの女主人に紹介される。 「いままでお客さんを世話していたのは、ほんとは私じゃなくて別の人なのよ。紹介してあげるから、これからはその人を通してやってね」  そう言われて引き合わされるのが、ママさんハウスの女主人である。ママは彼女を美人だとほめたたえながら次のように言うのである。 「あなたならいいお客が取れるから、いくらでもお金を貸してあげられるわ。五〇〇万ウォン(一〇〇万円)までなら保証人も担保もなしでいいのよ。それに、私の亭主はもと警察官だからね、捕《つか》まることも心配しなくて大丈夫よ」  ひとたび身分不相応なお金を手にして知ってしまった贅《ぜい》沢《たく》の味、そして最大限にくすぐられる女の虚栄心。ほとんどの女たちは喜んでママからお金を借りるのだが、やがて、たまにお客を取る程度では、とても借金を返してはいけないことに気づいていく。  女たちがそろそろ困りはじめたころを見計らって、ママは女たちに声をかける。 「店員さんをやってると時間もないでしょうし、エネルギーもけっこういるでしょう? たくさんお客さんを回してあげるから、この仕事に専念したら? それにね、あんた、もっと親孝行しなきゃだめよ。はい、これで国の親御さんを喜ばしてあげなさい」  そう言ってママは、一〇〇万ウォンから二〇〇万ウォンを女たちに握らせ、「あとで返せばいいからね」とささやく。  この瞬間には、だれもが「なんて親切なママさんなんだろう」と心から感激してしまう。この世間のどこにも、いままでこんなに自分に親切にしてくれた人はいなかった——。心からそう思うのだそうだ。  このように、田舎から出てきた固い蕾《つぼみ》のような少女でも、また「お母さんのようにはなりたくない」と言って女の自立をめざした都会の少女でも、驚くほど短期間のうちに、プロの売春婦に身を転じてしまうシステムが、巧妙に形づくられているのだ。 ママさんハウスで成功した女  日本に来て六カ月だというホステスと話をしていたら、彼女は韓国でママさんハウスにいたことがあると言う。話を聞いてみると、彼女はまるで典型を絵に描《か》くようにして水商売の女への道を歩み、そしてかなりの成功を収めたタイプだった。  彼女は全羅道《チヨンラド》の出身。田舎の中学を出て家の手伝いをしていた。一家は貧しかったが、両親は弟をなんとか高校に入れたいと望んでいた。そうした家庭の事情を受けて、彼女はソウルに出て工場に勤めたのだったが、まもなく先輩の口車に乗ってママさんハウスに身をおくようになっていった。  彼女のその美しい顔立ちのせいだろう。次から次へと上等のお客がついていった。そして二、三カ月後には日本人の愛人を獲得し、一九〇〇万ウォン(三八〇万円)のマンションをプレゼントしてもらった。それが三年前のこと、いま(一九九〇年)ではそのマンションは九〇〇〇万ウォン(一八〇〇万円)になっているという。  日本人の愛人は一カ月に一回韓国にやって来るのだが、そのときには必ず連絡してくる。彼女は普段はママさんハウスにいて、マンションには家政婦をおいて電話の番をさせておき、愛人から電話があれば家政婦から連絡を受けて出かけていくのである。  彼女はすでに充分なお得意のお客さんを持つようになったので、一年三カ月ほどでママさんハウスをやめ、自分のマンションで商売をするようになった。そうして彼女は一カ月に四〇〇万ウォン(八〇万円)から五〇〇万ウォン(一〇〇万円)を稼ぐことができるようになった。  故郷へは、ソウルで偶然に会った人がいろいろと助けてくれているからと言って、家族のために家まで買ってあげた。ソウルで高級自家用車を乗り回し、洗濯なんてやったことがないと言う彼女は、大企業の部長クラスの家族よりも数段豊かな暮らしをしている。ちなみに、ソウルの大手企業の部長クラスの給料は七〇万円から九〇万円ほど。  彼女が日本へやって来たのはほんの好奇心からだった。そして来てみて、彼女は日本人があまりにもケチなことに驚いたという。だって、そうでしょう? と言って、彼女なりの印象をこう語った。 「お金を払うのにね、十円玉から百円玉までポケットから引っ張り出して数えてるじゃない? あれが男なの? なんて心がせまいのかしら、私はもう韓国へ帰るわ。日本にいてもつまんないもの」  いかにも世間を知ったかのような口ぶりが、とんとん拍子に成功した者の天《てん》真《しん》爛《らん》漫《まん》さから勢いよく飛び出す。確かに、韓国では小銭を使うのは一人前の男がすることではないとされる。私も小さいころ、勤めから帰って着がえた父のズボンのポケットから、いつもジャラジャラと小銭が出てくるのが面白くて、父が帰るたびにポケットを探って遊んだものである。  ある土地で成功した者なら、他の土地で生きづらさを感じれば帰ることもできる。しかし日本で働く韓国人ホステスたちのほとんどが、彼女のようには決して帰ることのできない、母国での失敗者であり、またはずされ者たちなのだ。  二五歳は結婚適齢期の上限であり、働く女性の年齢の上限でもあることは、酒場でもママさんハウスでも変わりはない。水商売をして二五歳を過ぎた女が働ける場所が韓国にはない。だから彼女たちの多くが日本を目指す。同様に、離婚をした女たち、処女を失った結婚前の女たちを受け容《い》れる場は韓国には水商売しかない。そして同国人の目を気にする彼女たちがまた、日本を目指すのである。 喫茶店での過剰なセクシー・サービス  信じられないような「数字」が韓国にはたくさんある。たとえば、女性就業人口の七〇パーセント強を水商売が占めているということ。女性の労働力の水商売への一点集中という現象が、韓国が女性に何を期待しまた何を期待していないかを物語っている。  結婚して子供を産む、そうでなければ女は、男の性欲を満足させる対象以外としては、なんら期待されることのない存在なのだ。ごくわずかな女性事務員や教員たちは、男たちにとっては「職場の花」でしかなく、女たちにとっては一時的に世間を知るための「花嫁修行」以上の意味はない。  社会は男のものであり、その社会をきりもりする男たちの出入りするところに、男たちの相手をする女がいる。これが韓国社会の男女の位置関係である。そして、その「相手」の内容として要求されるものは、一にも二にもセクシャリティなのだ。そこで女は、多かれ少なかれ、精神を無視されたセックスマシーンへと自らを処していくしかない。  欧米や日本の場合、女のセクシャリティが商品と同じような消費の対象となることはあっても、そうでなければ女に社会的な価値がないということにはならない。自分のセクシャリティを商品化したければすればいいし、したくなければ他の道を選べばいい。そうした選択の幅が韓国では極端に狭いのだ。  韓国で喫茶店に行けば、華やかな衣服に身を包んだ厚化粧のウェイトレスたちが、注文を終えた客の側にまつわりついてくる。ちょっとお茶でも、と立ち寄った日本人たちが、彼女たちの過剰なサービスに辟《へき》易《えき》とし、キャバレーと間違えて入ったのではないかと焦ったという話をよく聞く。純粋にお茶を飲みたければ、学生街の音楽喫茶か外国人向けのラウンジなどに入ることである。  韓国で喫茶店と言えばおもに、ビジネスマンたちが打合せをしたり、お客を軽く接待する場として利用される。そのため、ウェイトレスたちのセクシーなサービスがつくのだ。ここでは女たちは、何杯のお茶をお客に提供したかで稼ぐ。喫茶店の女たちは、クラブの女たちさながらに、自分を目当てにたくさんのお客を連れて来る常連を獲得し、いかにして自分にもたくさんのお茶を注文させようか、いかにしてたくさんのチップをもらおうかと、必死にサービス合戦を展開する。  真《ま》面《じ》目《め》な留学生たちが、日本で焼き肉屋のアルバイトはしても喫茶店で働くことに抵抗をみせる者が多いのも、韓国のこうした喫茶店がイメージにあるからなのだ。  韓国のサービス業はおおむね、お客に精神的な心地よさを与えるというよりは、男たちに性的な快楽を与えることへと、営業の方針が絞りこまれている。もちろん、韓国の男たちがそれを求めているからである。 日本人相手の観光キーセン  韓国ではホステスたちに給料はない。彼女たちがホステス業で得る収入はお客にもらうチップである。チップは場末の酒場では五〇〇〇ウォンがせいぜいだが、一流の料亭へ出たり、一流のサロンなどになると、一席五万ウォン(一万円)ほどになる。が、彼女たちが目的とするのはチップより、愛人からの手当てであり、また売春婦による一晩一五万ウォンほどのお金である。だから彼女たちはホステスというよりは、上前をはねられることのない、よりよい売春の機会を獲得する手段としてホステスをやる女たちといった方がよい。  その意味では彼女たちは、店に雇われた労働者ではなく、店を営業の場とする独立の自営業者なのである。店はお客の飲食代やサービス代で運営するのだが、ところによっては、女たちから場所代を取ることもある。ママさんハウスが女たちから下宿代をとって仕事を斡《あつ》旋《せん》しまた斡旋料の名目で上前をはねて運営しているのと同じシステムである。  観光客を相手にする最もメジャーな酒場が観光キーセンハウスだ。キーセンには韓国人を相手にする一般キーセンと、外国人を相手にする観光キーセンがあって、一般キーセンの方がランクが上である。一般キーセンは若くてとびきりの美人で韓国のお金持ちを相手にする女たちで、観光キーセンの主なお客は日本人である。  一般の家庭を装って女たちを用意する下宿屋スタイルのママさんハウスとは違って、酒場の形をとりホステスとして女たちを用意しておくわけだ。韓国人のお金持ち相手の一般キーセンハウスほどの収入は期待できないが、韓国人相手の普通の酒場よりは清潔でお客の質もよく、手堅く稼ぐことができるので、水商売の女たちの人気は高い。また先に述べたように、同じ韓国人の知り合いに見つかることなく仕事ができるのも、大きな魅力のひとつとなっている。  観光キーセンで日本人の愛人を獲得した女たちは、だいたい月に二〇万円ほどの手当てをもらって、男が韓国にやって来たときに二、三日相手をするといった生活が普通だ。それ以外の日は遊びながら生活していればよいから、彼女たちは仲間で集まって花札をしたり、サウナに行ったりして毎日を過ごす。韓国のサウナのお客は二十代の酒場の女がほとんどだ。 観光キーセンを愛人に持つ日本の男  韓国に観光キーセンの愛人を持つ日本人から話を聞いたことがある。東京で不動産会社を経営する五十代半ばの男で、家庭には奥さんと二人の子供がいる。  彼は韓国旅行で知り合った二十歳の観光キーセンに、これまで経験したことのないような優しさ溢《あふ》れるサービスを受け、「こんな女とずっとつきあっていたい」と心から思ったという。そして、「あなたが好きだわ、愛人にしてくれれば、あなたとだけつきあうことができるんだけど」という彼女の言葉を、またとないチャンスと考えて愛人としたのだった。  彼は女にマンションを買い与え、毎週金曜日にソウルへと飛び日曜日の夕方に日本へ帰って来るという生活をはじめた。女への手当ては毎月三〇万円、また行くたびにアクセサリーや洋服などの土産を忘れなかった。  ところが最近、仕事が忙しくて二カ月ほど行っていなかったところ、女から国際電話がかかってきた。彼女は、田舎の母親が亡くなって、葬式などにいろいろとお金が必要になったので、二〇〇万円ほど送ってくれと言うのだ。しかし、いつかも、母親が亡くなったからと言われて二〇〇万円を送ってやったことがある。 「お母さんはこの前亡くなったって言ったじゃないか」  彼が不審な思いを隠すことなく言うと、彼女は一瞬焦ってしどろもどろになったが、すぐに普通の口調にもどって言った。 「ああ、あれは私を産んでくれたお母さんなの。今度亡くなったのは私を育ててくれたお母さんなんです」  女が自分を騙《だま》してお金をせびっていることを知った男は、ガックリして、「あんなに優しくて、また自分を愛していると言っていたのに、なぜ……」と私にぐちを言ったわけなのだ。  私は男に、「お金で女がいうことをきくからと、心まで買えるわけがないでしょう、それよりもご自分の家族をもっと大切になさったら?」と言いたかったのだが、わかっていながら求めるという、不思議な日本の男の心理を知っているので、むだなことだと思って口に出すことはしなかった。  私のみるところ、日本の男は、とくに中年以上の男は、浮気というよりも本気の感触を彼女たちから感じて愛人にする場合が多いようだ。お金で若い女の心を買えるわけがない、しかし、彼女だけは本気で自分に情を投げかけてくる、そう感じて感激するのだ。  確かに、彼女たちはそんな本気っぽさを感じさせるし、本人も本気のつもりなのだ。が、本人の無意識のなかではきちんとお金とのバランスシートが成立している。支払われたお金に応じて男への感情が支払われるのだ。  これは彼女たちが意識して故意にやっていると言うよりは、このバランスシートを当然のこととする文化によって養われた彼女たちの無意識が、無作為に行なわせる自動的な反応と言うべきだろう。 女を抱かないと韓国ではビジネスにならない  私は通訳として韓日ビジネスの会合に出席する機会が多いため、日本の貿易会社のビジネスマンたちに事前に打合せに呼ばれることがしばしばある。そんな席で彼らは率直に韓国の印象を語る。たとえばあるビジネスマンが言う。 「韓国では女を抱かないとビジネスにならないんだ」  それに対して、韓国でのビジネス体験のない男が言う。 「それは言い過ぎでしょう」  すると、韓国でのビジネス体験のある男たちがいっせいに口を開く。 「それは君が韓国を知らないからだよ」  そして一人の男が説明をはじめる。 「女を抱かせるのは、単なる接待じゃないんだよ。それが彼らの礼儀なのであり、また女遊びをすることは、信用できる男の条件のひとつなんだよ。だから、女を抱かなかったために、顔に泥をぬられたと思われたり、信用されなかったりして、取引がうまくいかなかった例がたくさんあるんだぜ」 「はあ、それは知りませんでした……」  したがって、日本でも接待には女を使わなくてはならなくなる。こうして、いつまでたっても、「韓日ビジネスに女は不可欠」の常識がなくならないのだ。  短い期間でたくさんの仕事をこなさなくてはならない国際ビジネスマンたちにあっては、外国に出張に行ったら、手早くビジネスライクに仕事を済ませ、ホテルでゆっくりと休養をとって明日に備えたいところだ。しかし韓国の企業人たちはそれを許さない。韓国人にとってお客さんを一人で寝させるなど、まったく礼を失したことなのだ。  ひととおりビジネスの話が終わると、では食事でも、となるところは日本と同じだが、案内された車のなかにはすでに女がいるのだ。そして、そっと「気に入ったら今夜は彼女を連れて行ってください」と耳打ちされる。そこで辞退したとすれば、その女が気に入らないからだろうと思われて、また別の女が用意される。「女はいらない、一人で寝たいのだ」と言おうものなら、大きな不信感を抱かれることになるだろう。  韓国のホテルにはほとんど「シングル」の部屋がないし、そもそもシングルベッドが置かれていない。ビジネスマンたちが商用で利用することが明らかなホテルでも、必ず男女が一緒に寝ることを前提に部屋が用意されている。  私が通訳として、ある韓日の企業の商談に出席したとき、前夜来日した韓国のビジネスマンが、席につくなりこう言った。 「昨晩はよく眠れませんでしたよ」  日本のビジネスマンは、「それはいけませんね」と軽い同情を表してすぐに会議をはじめていた。私はピンときたので会合の後で日本人ビジネスマンに聞いてみたところ、やはりその韓国人は、女をセットされないシングルルームをあてがわれていたのだった。 韓国を批判しない韓日のジャーナリズム  こうした実態に対して、非難されるのはいつも日本の方だ。また日本の良識人たちも口をそろえて、日本の男たちがいかに韓国の女を買いあさっているかを述べたて、国際的に恥ずべき行為として批判する。韓日の新聞もかつて韓国を侵略した日本が、今度は韓国の女たちを侵略していると報道し、被害者としての韓国を強調する。  私は一人の韓国人として、韓国をこそ批判して欲しいと思う。いくら日本を批判しても、この問題の本質に目を向けることにはならない。韓国では内部批判はほとんど不可能だから、ぜひとも日本のジャーナリズムには、韓国の側に「売春ツアー」をはじめとする問題の根源があることを抉《えぐ》り出し、厳しい批判をしていただきたいと思う。  韓国では自国に都合のよい報道しか行なわれない。そのため、私も韓国にいたときには、日本の男たちはみんな、女遊びにしか興味のないセックスアニマルで、韓国にまでその害を及ぼすとんでもない男たちだ、なんでわざわざよその国まで来て——と思っていた。ところが、日本に来てそれがまるで反対だということを知らされた。  シングルルーム、シングルベッドばかりの日本のビジネスホテルには、売春婦が出入りすることもない。いたるところに性の臭いがプンプンと漂うソウルやプサンと比較すれば、東京や大阪は数段も、いや十数段も、清潔で落ち着いたたたずまいをみせるすてきな近代都市だ。  また治安のよさも韓国とは格段の違いがある。ソウルでは夜の一二時以降は通行禁止となっている区域があちこちにある。誘拐防止のためだ。  韓国では、経済の発展とともに娯楽が多様化するという、日本のような道がなぜか開かれない。日本のビジネスマンのようなゴルフ熱も巻き起こらなければ、野球があるにせよ人気は低い。スポーツで人気があるのは、せいぜいボクシングくらいのものである。ここにも、韓国人の闘争好きがよく表されている。  したがって、依然として韓国の男たちの楽しみは女遊びである。韓国の経済は男たちをして、女遊びの大衆化をもたらしているのだ。そのため、年々性を売る女の需要が高まる一方で、女の不足が水商売で深刻となってきている。そこで、中学生や高校生の少女たちを誘拐し、酒場やママさんハウスに売り飛ばしたり、また学生売春婦にしたてあげたりする事件が多発するようになってもいるのだ。  ソウルの駅前には、田舎から出て来た家出娘をつかまえようと、水商売のママふうの中年女や、ヤクザ風の美男子たちがいつもウロウロしている。  こういう話を日本人にすると、「日本でもかつて、上野の駅前でそうして家出娘たちが狙《ねら》われたものですよ」と言う人が多い。しかし、それは日本が貧乏だったときの話だ。いまや韓国はNIESの旗《はた》頭《がしら》、GNP急上昇の経済成長のさなかでの誘拐なのである。  このことに限らないが、韓国の話をすると「ああ、昔の日本もそうだった」という比較がすぐにされるのが常である。しかし、それはこと韓国に関する限り、根本的に間違った見方である。経済の発展が社会の開放に多くの点で結びつかないところに、韓国特有の社会問題を見て欲しいと思う。 旅行嫌いの韓国人  前にも述べたが、韓国のホステスたちは電車はあまり利用せず、ほとんどはタクシーを利用する。それはひとつには、電車やバスに乗るのは「みっともない」という見栄からだが、もうひとつは、韓国人たちが生活環境から離れた地域に出かける習慣があまりなかったからでもある。  したがって、旅行を楽しむような習慣もなく、それだけ観光開発が日本のようにすすんでいない。ホステスたちが休みの日にどこに出かけるでもなく、友だちどうしで花札に興じたりサウナで過ごしたりするのも、そうした国民性をよく表している。  狭い国土のなかで、慶尚道《キヨンサンド》派と全羅道《チヨンラド》派とが激しく対立し、それが政治党派の基盤になるほどの国だ。かりに、全羅道に他の地域の人、たとえば慶尚道の人が生活しようとすれば、徹底的なよそ者扱いを受け、あらゆる関係から排除されることを覚悟しなければならない。各地方から人々が集まるソウルでも、たとえば慶尚道出身が経営する会社には、全羅道の出身者はほとんど入ることがない。もちろん、その逆も同じである。  血縁の次に重視されるのがこの地縁であり、出世するのも個人の能力よりは自分を引き上げてくれる同郷の上司しだいとなる。それはビジネスマンも国家公務員も変わることはない。入社の際にも、経営者や幹部の同族の次に同じ地方の出世者が優先されるから、いきおい同族、同郷のグループとのつきあいが出世の最大の要点となる。  全羅道で有権者の九〇パーセントが金大中《キムデジユン》を大統領に選ぼうとするのも、その政治姿勢や経済政策がどうかという以前に、同郷だからこそのことである。またここで日本と比較されることを防止するために言っておけば、彼らは日本の政治家のように、ことさらに出身地への利益導入を図ることによって支持されているわけではない。ともかくも、他の地域出身のやつに大統領をやらしてなるものかという思いが第一なのである。  韓国では、地方から他の地方への人口流動はきわめて少なく、地方人が動く先のほとんどはソウルである。しかし、逆にソウルの人が地方へ出ることはまずない。ソウルの都会人たちにとっては、地方についてはほとんど知らないのが、カッコいいお坊ちゃんでありお嬢さんである。それで世間知らずだと非難されることはない。  韓国人がこのようにほとんど動くことがないため、私にしてもそうだったが、ソウルから飛行機に乗れば一時間もかからないプサンなのに、あたかも地球の裏と表ほどの距離にあると錯覚してしまう。そのため、地域間に公的な信頼感もなく、縄張り意識だけが突出して、知らないところに行けば、すべてを敵と感じて警戒することになる。  これは、歴史的に外部からの侵略を受け続けてきたところから、外部を敵視し、外部へ出ることに臆《おく》病《びよう》になり、外部との接触に不安を感じる文化が持ち伝えられてきて、それがいまだに習慣として残っていることの不幸である。  韓国人のあくなき自己正当化へのこだわりも、プロセスを軽視し結果だけを尊重する意識も、こうした習慣と無縁ではない。旅行をして価値の多様性を学び、AからBへと移りゆくプロセスを楽しみ、またその体験を素直に貴重なものと自分の心に受けとめてゆくことのできる日本人は幸せである。  士農工商という身分制度も、移動の自由を規制するために設けられた関所の制度も、そのたてまえの裏でけっこう自由だったのが、日本の江戸時代の実態だったと聞く。こうした歴史的な素地の違いは、現代に大きな韓日社会の格差を生むことになった、無視できない要因であるように思う。 韓国と日本の男女観の違い  こうしたあまりに窮屈な韓国社会でも、少しずつ改革への動きは起こっている。一部の女たちが、男女差別をなくそうというキャンペーンを展開しており、また法律も若《じやつ》干《かん》変わってきてはいる。韓国では親の財産は息子だけに相続権があったが、一九九一年からは娘にも財産相続権が認められるようになっている。また、これまでは女は戸籍を持てなかったのだが、一九九一年からは持てるように法改正が進められている。  しかし、これまでの例からも、法律の改革がそのまま社会改革につながる展望はきわめて薄い。たとえば、姦《かん》通《つう》を罰する法律では、男性だけではなく女性の方からも訴えることができるなど、女性にも男性同様の権利を与える法律が作られてはいる。だが、およそ法律に訴えるような女は社会から白い目で見られるため、排除されることを覚悟で告訴しなくてはならないという現実がある。この現実が変わらない限り、あるいは、そうした現実の有効性を封じるようなところまで含んで法律が改正されない限り、韓国の社会に大きな変化が訪れることはないだろう。  日本の女たちは、私からこうした話を聞かされるたびにイライラとするようだ。「なんで韓国の女の人って、そうまでされていて黙っているの? もっともっと社会に発言すべきよ」というように。  そんなとき、私は私の体験を素直に話すしかない。  私は韓国の大学で臨床病理学を勉強したまぎれもない知識人である。したがって、ほんらいなら私のような存在が、「もっともっと社会に発言すべき」なのだ。ところが私は、韓国の一般の女と同じように、女の権利などというものを考えたこともなく、政治や経済についてはほとんどまともな興味をもっていなかった。  それは日本に留学してしばらくたっても変わりはなかったが、日本語が達者になり、日本の企業の通訳の仕事をするようになってから、しだいに変化が訪れるようになったのである。ある日本企業のビジネスマンたちの会議に出席した折り、韓国のある経済事情について、なぜか私にいきなり意見が求められた。  韓国ではあり得ないことなのでびっくりしたが、率直な感想でいいからと言われ、私はつたない知識で幼稚な見解を述べた。彼らはそれを熱心に聞いてくれ、「うん、それは一つの考え方だな」と言ってくれたのである。いまにして思えば、まるで考えとしてのまとまりすらない話をしたのだったが、それ以来私は、政治や経済の動きに興味が出て、いまではなんとか、ひととおりの意見を言えるようになった。  自分なりの意見を持てば、そういう話題が出たときには意見を言いたくなるのが人間というもの。いつか、韓国人ビジネスマンたちの集まりにやはり通訳として出た折りに、彼らの話している日本経済の話題のなかに事実的な誤りがあったので、つい口をはさんでしまったことがある。ところが、その場では、まるで私が発言しなかったかのように、まったく無視されたまま、男たちの話が続けられたのである。  結局私の言いたいことは、女だけの主張では社会は変わらないということ。女の権利を認めることが男にとっても大切であるような基盤が社会になければ、つまり男の方にもそれを求める必要性がなければ、いつまでたっても実際的な男女平等など達成できないということだ。  日本の場合は、もともと、たてまえの亭主関白があって、実質的なカカア天下があるという、「二重権力」で多くの庶民たちの家庭が支えられてきた。家族の原理が韓日では同じように儒教の影響を受けてきたとは言え、その根本の陰《いん》陽《よう》観《かん》(男女観)には根本的な違いがある。日本のそれは、陰(女)と陽(男)との調和、あるいは陰あっての陽、陽あっての陰という相互性をポイントにした陰陽思想である。これが西欧的な男女平等思想をよく日本的にこなしているように見える。ところが韓国のそれは、「陰か陽」という対立する陰陽思想なのである。  地域と地域の関係だけでなく、男と女の関係も対立が原理なのだ。この原理が韓国では、すべての人間関係を覆っている。  こう言うと、救いようがないように見える。多くの日本人が「そう言ってしまってはみもふたもない」と言う。確かにそうである。しかし、そう思えてしまうからこそ、韓国で社会改革を唱える多くの人が、「韓国を変えるには革命しかない」と考えることにもなるのだと思う。  どうしたらいいのか、私自身はさっぱりわからない。ただ安易に解決可能だと思うことは戒めなくてはならないと思う。近代国家がどこでも体験してきた民主化運動をそのまま真《ま》似《ね》ただけでは、韓国は変わることはないだろう。何かまだ、私たちには見えない、あるいは気がつかないものがあって、それを韓国人自身が発見しない限り展望は開けない。私はそれを映し出すひとつの鏡を日本が持っているように思えてならない。 親友ヨンスギの行方を追って  社会のどこかに生まれた、小さな透明な輝きが、しだいに社会全体へと波紋のように広がっていく風景は韓国には見られない。水面ではたくさんの小さな渦が、互いにぶつかり合うようにしてひしめきあっているからである。日本の水面の静けさは、いつもだれかから投げかけられる波紋を待っているかのようだ。  日本と韓国は、単一民族国家でありながら経済発展を遂げることを可能にした、世界でただ二つの国家だといわれる。しかし、その単一性の意味は、どこかで大きく違っている。五百有余年にわたる李王朝下の韓半島、その支配の倫理が、いまだ亡霊のように韓国人の意識に巣くっている。確かに私のなかにも「それ」はいる。そして、「それ」は私たちの内側から私たちをとらえている。  国家が強権を発動するから私たちが不自由だと言うよりは、それ以前にすでに私たち自身が亡霊の支配を受け容《い》れてしまっている——。私は、韓国の単一性をとりあえずこのように考えてきた。  こうした思いは、とくに、あるきっかけから私の親友がたどった人生に接して、理屈よりも先に感覚的に感じざるを得ないことでもあった。少し長くなるがその話をしてみたいと思う。  大学のときに同じ学生でヨンスギという親友がいた。彼女は語学が得意で勉強熱心な、実に聡《そう》明《めい》な女性であり、また可愛《かわい》らしい笑顔が男子学生の人気の的でもあった。私はそうしたヨンスギに密《ひそ》かな嫉《しつ》妬《と》を感じながらも、彼女が私の親友であることが自慢だった。  そんな彼女は、大学卒業を控えたある日、私たち友だちの祝福を受けながら、韓国で有名な繊維会社のビジネスマンに見初められて結婚した。初恋の人との結婚という幸福に恵まれた彼女を、私はいつも羨《うらや》ましく思っていた。愛するご主人の帰宅を待ちながら家事にいそしむ生活になんの不満もないと言う彼女は、私たち韓国の女にとっては、それだけで得難い幸運な人生を手にしたことを意味していた。  やがて彼女は女の子を産んだが、その後私が日本に来てしまったこともあって、ずっと会う機会をもてないまま年月が経《た》ってしまった。  五年ほど経って、私がたまたま韓国に帰省したときに、彼女が離婚したらしいという噂《うわさ》を耳にした。あの幸福そうだったヨンスギが……。私はいてもたってもいられなくなって、すぐさま汽車に飛び乗ってヨンスギの実家へ向かった。  彼女の実家にいたのは年老いた母親とヨンスギの娘だけだった。母親にヨンスギがどこにいるのかをたずねると、最近勤めに出ていてここにはいないと言う。何はともあれ詳しい様子を聞きたかったので、私は持ってきた果物を母親に渡して中に入れてもらうことにした。  しかし母親の口は重く、どうにも要領を得ない。それでもしつこく聞いて二時間も話しこんでいると、母親はいまにも泣き出しそうな顔をして話してくれた。 「酒場で働いているのよ。チョンノサムガという所の家に下宿してね」  なんということだ、ヨンスギはママさんハウスにいる——。  まさかとは思ったが、彼女に限ってあるはずがないと信じていただけに、はっきり「そうだ」と聞かされて、戦《せん》慄《りつ》に似た感触が私の身体を走った。次には心臓がドキドキと高鳴りはじめた。  ともかくも彼女の居どころを聞き出した私は、すぐにでもヨンスギに会いたくなって帰ろうとしたが、母親は「食べていって下さい」と、私が持ってきた果物を切りはじめた。「ヨンスギにいいお客さんがつくようにとね、先にいただき物を神さまにお供えしました。だから出すのが遅くなりましたが、どうぞ食べていって下さいな」  もらい物やたまの御《ご》馳《ち》走《そう》などは必ずそうして食べる習慣だという。  老婆は、確か今年五つになるはずのヨンスギの娘を膝《ひざ》に座らせ、うつむいたまま私に果物をすすめた。果物にはかすかに香《こう》のかおりが移っていた。 チョンノサムガでの再会  チョンノサムガで聞き回り、やっとのことでヨンスギのいるママさんハウスの所在をつきとめた。そこも、他のママさんハウスと同じように、最近では珍しい瓦《かわら》葺《ぶ》きの家ながらも、ごく一般の平穏な家庭を装っていた。家をのぞくと、入り口近くの部屋に五、六人の女たちが集まって花札をやっており、そのなかにヨンスギがいた。  ヨンスギは私の呼ぶ声で顔をあげると、びっくりした顔で立ち上がり、私の方に飛んで来るや、私を抱きしめてワアワアと声を出して泣きはじめた。私も同じように声をあげて泣いた。しばらくそうして泣いたあと、私たちはヨンスギの部屋に入り、これまでの五年ほどの間のことを互いに話しあった。  不幸のはじまりは彼女の夫の会社が火災にあい、それがきっかけで倒産してしまったことだった。韓国の会社のほとんどが、しっかりした財政的な基盤を持っていないため、たとえ有数の大手会社であっても、ちょっとしたきっかけで簡単に倒産することは珍しくない。そう言えば、男の会社の倒産もまた、女たちの運命を大きく左右する動力のひとつだった。  彼女の夫は失業したまま、なかなか次の仕事が見つからなかった。そのためにヤケクソになった男に、お決まりの酒とバクチの日々がはじまる。気もあらくなり経済的に逼《ひつ》迫《ぱく》する家計を顧みようとすらしない夫に、彼女ははじめて男の弱さを見た。そのときに感じた男への絶望感が、すぐさま彼女に離婚を決意させたのだという。  子供を連れて実家へ帰ったものの、すでに父親を亡くしており、母親も年老いていた。彼女に聞いてはじめて知ったのだが、彼女の母親はムーダン(巫《み》女《こ》)という、いわば占いのようなことをやって生計をたてていた。日本で言う「街の拝み屋さん」と言ったらいいだろうか。この仕事にはかなりのエネルギーがいる。年をとった母親には、もはや思うようにできる仕事ではなかった。  彼女は仕事を探した。大学を出ているため、掃除婦や家政婦などの仕事に就きたくはなかった。一般会社の事務職をと探して、ようやく人の紹介で小さな会社の経理の仕事に就くことができた。しかし給料はネズミの尻《しつ》尾《ぽ》(日本で言う雀の涙)。いつまでたっても生活が楽にはならないことも、子供が大きくなったら辞めなくてはならないこともはっきりしていた。  ここでそれ以上にどんな心の葛《かつ》藤《とう》があったかは私にはわからない。いずれにしても彼女はまもなく勤めをやめ、ママさんハウスで働く女へと転身したのである。 「だって、この仕事は子供が大きくなったらできないもの。子供自身が恥ずかしく感じるし、またみんなにいじめられるわ。だから、一年前からここに来て仕事してるの。韓国人の知り合いに出会う心配もないしね」  大学出の観光キーセンがこうして誕生した。 「みんな日本人を相手にするのはいいけど、他の外国人は嫌だっていうのよ。だけど私は英語ができるでしょ? だから日本人以外の外国人が来るときは、いつも私が呼ばれるの。日本人みたいにお金は使わないけど、だいたいがビジネス関係で来る人たちだから、清潔で紳士的な人が多いわ。最初からキーセン目当てで来る日本人とはその点が違うの。それに、なかには日本人以上にお金を使う人もいるのよ」  ヨンスギはそう言って、最近は大変なお金持ちのクウェート人に気に入られ、彼がちょくちょく韓国に来てくれるのだと話す。 「その人が言うにはね、クウェートでは結婚するときに、男はたくさんのお金を払って女を買う習慣があるんだって。それで、私にもビルをひとつ買ってくれるって言うのよ。だからお母さんの名前で買おうと思って、このごろは不動産屋を回っているのよ」  このチャンスを生かして不動産投機でもやってみたいという彼女は、今度は私に質問をしてきた。 「あなたは日本に行ってたくさんお金を儲《もう》けたの? 日本に一年もいれば、だいたい三〇平方メートルのマンションくらいは楽に買えるんでしょ? あなたは頭がいいからね、何か買ったでしょう」  女が日本へ行く理由はお金儲け以外にはない、この常識を私にもあてはめ、ヨンスギはフフッと微笑をもらしながら水を向けた。 「そう、私ね、勉強だけしているから……」  そう口ごもると、「勉強はいつまでするの?」と聞いてくる。私が「ずっと」と答えると、ヨンスギはいかにも呆《あき》れたというそぶりを見せて、たたみかけるように言葉を継いだ。 「勉強したことなんて、ひとつも必要なかったよ。お金しかないのよ、お金しか。日本での勉強って、いったい何の勉強なの?」  かつて、聡《そう》明《めい》さと純粋さこそ価値だと言い、私とロマンを語ることを楽しみとしたヨンスギ。が、このときの顔にはほんとうに殺気が走っていた。ヨンスギは私に何が言いたいのだろう。そう思ったときには、ヨンスギはもとの優しい顔にもどっていた。 観光ガイドの副収入  そのまま夕方になったので、私はヨンスギたちママさんハウスに住む女たちと一緒に、まかないのおばさんの作る食事を食べた。彼女たちは、こと水商売に関する限り、日本のことを私よりよく知っていた。 「赤坂では一日三万円、新宿では二万円だって言うわね。それに愛人をつくれば、一カ月に一〇〇万円の収入はかたいみたい」 「私は日本行きを準備中なのよ。観光ビザで行って結婚ビザに変わるのが一番やさしいんだってね」 「だけど、日本は物価が高いから、ここにいて日本人の相手をしながら円でお金をもらう方がもっといいんじゃないの?」  女たちの先行きの考え方もさまざまだ。  普通、彼女たちが日本人相手にもらうお金は、前にも述べたように一晩三万円でうち二万円をママに納め、残りの一万円とチップの一万円ほどが彼女たちの収入となる。ところが、聞いてみると、いろいろと副収入を稼ぐ方法があるようだ。  たとえば、二泊三日のツアーでやって来る日本人客を最初の日につかまえる。そして、ガイドを買って出て、昼間は土産物やその他の買物のためにいろいろな店を連れて回り、夜は日本人の好きなカラオケバアや高級レストランなどへ連れて行く。これでホテルで一緒に過ごす時間が短くなるばかりでなく、それぞれの店から「ガイド料」をもらうことができるのである。  これについては私にも面白い体験がある。  この話を聞いてからずっと後のことだったが、私は頼まれ仕事で韓国に行った折りに、日本人の団体客二〇名ほどを連れてある高級レストランに入った。すると、たびたび店の主人がやって来て、私に「どのようにしましょうか?」と聞いてくる。私は何のことかわからなくて、「そうねえ、適当に」とかなんとか言っていたが、支払いの段になって、「案内費です」と言って、料金に上積みした一〇パーセントを私に渡してくれた。そのとき、ああ、あのとき彼女たちが言っていた「ガイド料」とはこれのことなんだと気がついた。店を出て同行の日本人たちにその話をして、「今日私はお金を儲《もう》けましたよ」と言って笑ったものである。  私の場合は一〇パーセントだったが、彼女たちの話によると、お客への請求額はお客の質を見て彼女たちが決めることが多いらしく、二万ウォンの食事に五、六万ウォンの請求をさせることもあると言う。こうした方式は、日本人が多く立ち寄るほとんどの店でいまや常識になってしまっている。  したがって、一般の観光ガイドたちもまた店から「案内料金」をもらっている。ガイドの正規の収入は月に七〇万ウォンだが、副収入は二〇〇万ウォンから三〇〇万ウォンになるという。 見せつけられた親友ヨンスギの手腕  その夜ヨンスギは、ママに頼んで休みをもらい、私とソウルの街へ出た。シーチォン(ソウル市庁)前のニューソウルホテルのディスコクラブに行って、久しぶりに二人して酔っぱらおうというのである。少し時間が早かったので、二階のコーヒーショップで時間をつぶすことにした。  コーヒーショップには日本人客があちこちにいて、大変に混《こ》んでいたが、ヨンスギが「ここがいい」と見つけた席に私たちは座り、コーヒーを注文しておしゃべりを続けた。しばらくして、少し話がとぎれたとき、ヨンスギがとなりの席に座っている三人の男たちに向かって、「すみません、ボールペンを貸して下さい」と日本語で言うのだ。  男たちは大阪弁で答えていたが、その身なりからして、明らかに日本のビジネスマンであった。私は呆《あき》れて彼女を見ていた。日本語を話せないはずだと思っていたヨンスギが、まあまあの日本語で、男たちにニッコリと笑いかけて話している。  確かにヨンスギは学生時代からきれいな女だった。またその微笑は多くの男子学生たちを魅惑したものである。彼女の日本人の男たちへの笑いから、私は当時の彼女の笑いを思い出していたが、さすがに積年の隔たりを感じないではいられなかった。いまのヨンスギの笑いは、洗練された女の妖《あや》しげな魅力をたたえた、実にセクシャルな雰囲気を生み出している。一瞬私は、彼女に嫉《しつ》妬《と》している自分を感じ、思わず目の前のコップの水を勢いよく飲み干していた。 「あなたたち、いつ韓国に来ましたか? 彼女は私の友だち、東京に住んでいて、きのう韓国に来ました」  突然ヨンスギに指さされて紹介された私は、どぎまぎして何を言ってよいかわからず、つい「すみません」と言っていた。  一人がすぐに、「東京ですか、私たちは大阪から来たんです」と話を引きついでくれたので、私も気が楽になり、五人での軽い雑談がはじまった。彼らはここで韓国のある企業の社長と待ち合わせをしているのだという。  しばらくするとその韓国人の企業家がやって来た。彼らはわざわざ私たちの紹介までしてくれる。するとその社長は、「君たちも一緒に来なさい」と誘ってくれる。彼らもすすめるので私たちはおともをすることになり、日本式の料亭でビールと食事をごちそうになった。  ビールの力でいい気分になった私たちは、料亭で韓国人の社長と別れた後、二人で行く予定にしていたディスコへ五人で繰り出そうということになった。ディスコで盛んに飲みながら、私は何が何でこうなったのかわからないままに、ともかくも楽しかった。  しばらくすると、ヨンスギはトイレへ行って帰って来ると、ママさんハウスに電話をしてきたのだと言う。私は鈍いことにも、そこでやっとヨンスギの意図がわかったのだった。三〇分後に若くてきれいな三人の女たちが席にやって来た。ヨンスギは彼女たちを男たちに紹介しながら言った。 「あなたたちが、あまりすてきな紳士だから、私の後輩を呼んだのよ。私たち二人は帰らなくちゃならないけど、よかったらこの子たちと遊んでやって、三万円ずつあげてね」  三人の男たちは酔った勢いも手伝って、二十歳くらいに見える三人の女たちを喜んで席へ招いていた。  私たちはディスコを出た足で、そのまま仕事で出払ってだれもいないママさんハウスにもどり、彼女の部屋で二人して寝た。女たちのいない静かなママさんハウスでぐっすりと眠った私は、翌日、女たちが一人、二人と帰って来はじめた昼ごろにヨンスギと別れてママさんハウスをあとにした。 再びヨンスギが輝くとき  それから一週間ほどして私が日本へ帰る日、ヨンスギに電話をすると、彼女は空港まで送りに来てくれた。彼女が高価な朝鮮人《にん》参《じん》や海《の》苔《り》などのお土産をもって来てくれたので、「まあ、そう簡単に買えるものじゃないのに……」と言うと、彼女はニッコリ笑いながら言った。 「何言ってるの。この前ディスコへ行ったでしょ、あのとき日本人に紹介してやった彼女たち三人から二万円ずつで六万円の紹介料をもらってるのよ。みんなこうして副収入をあげてるんだわ。私一人でもらっちゃ悪いからあなたに半分あげようと思ったんだけど、どうせ受け取らないだろうから、こうして人参なんかを買って来たのよ。あなたは日本へ行ってやせたみたいね。人参を食べてもっと太ってね」  昔とは一八〇度変わってしまったヨンスギ。しかし私への友情だけは変わらないヨンスギ。何が善なのか、何が悪なのか、私にはとうていわからない。ただ涙ばかりが出てしまう。理性とか冷静さとかが、このときほどわからなくなったときはなかった。  私の国だからいつも帰りたいと思っていた韓国だったが、この国の何かが私を拒絶している——そんな感覚にとらわれながら、飛行機の窓からだんだん遠ざかるソウルの街を見下ろす私は、溢《あふ》れる涙を拭《ぬぐ》うことも忘れていた。  それから一年後、韓国に帰った折りにヨンスギに電話をしたのだが、ママさんハウスにヨンスギはいなかった。聞いてみてもだれもヨンスギの行方を知らない。母親も引っ越してしまってかつての住所にはいなかった。  クウェートの人とうまくいって、ビルを買って足を洗ったに違いない。私はそう思おうとつとめたが、気分は重くなる一方だった。もっと探してみようかとも思った。しかし、私もそれなりに忙しい。私は私、彼女は彼女だ。そう考えて、それっきり彼女を探すことはしていない。  五年ぶりに再会して人生に大転換のあったことを知り、まるで生き別れをしたような宙ぶらりんの気分のままに、さまざまなイメージで思い描くしかない親友ヨンスギへの思いは、私のいまの韓国への気持ちそのものでもあるように思える。  どんなに紆《う》余《よ》曲《きよく》折《せつ》を経ようとも、ヨンスギのかつての輝きはどこかに生きている、そしていつの日か再び輝き出したヨンスギと出会うことがあるかもしれない、そんな日には私自身も輝いていたい……。そう思うことが私にできなくなったとき、今度は私が宙に浮く番に違いない。 第3章 ヤンバンとキーセンの哀歌 現代を支配する李《り》氏《し》朝鮮の亡霊 五一九年間続いた李氏朝鮮の支配  ここで、簡単に韓国建国まで流れをたどっておこう。  韓半島にはじめて統一国家が形成されたのは、新羅《しらぎ》による七世紀後半のこと。それまでは、三、四世紀のころから、北には高《こう》句《く》麗《り》が、南には新羅・百済《くだら》・伽《か》耶《や》の三国があった。それら諸国の間では、建国当初から、中国をもからめて紛争の絶えることがなかった。新羅はまず伽耶を領有し(五六二年)、一世紀ほど経《た》った後、唐の援助を得て百済を攻め、百済支援に派兵した倭《わ》国《こく》軍《ぐん》(日本軍)をも打ち破って百済を滅亡させ(六六〇年)、さらに北の高句麗を滅ぼし(六六八年)、唐軍が韓半島から撤退した後の六七六年に、韓半島を統一支配下に置いた。  新羅の支配は九三五年に高《こう》麗《らい》(高句麗とは別の国)に亡ぼされるまで、およそ二六〇年間統いた。以後、高麗の支配がおよそ四六〇年間続き、一三九二年に李氏朝鮮にとって代わられる。  そのまま李氏朝鮮(李朝)の支配が五〇〇年余り続き、一八九七年に大韓国と国名を改めるが、一九一〇年に日本帝国の植民地となり、五一九年間にわたる李氏朝鮮の支配を終える。  以後、日本の支配が三六年間続き、太平洋戦争を経て日本が連合軍に降伏する直前の一九四五年八月、韓半島は北緯三八度線を軍事境界線とする米ソの分割占領を受け、一九四八年八月に大韓民国(南)が、同年九月に朝鮮民主主義人民共和国(北)が成立して現代に至っている。  ほんらいの韓日問題は、最低でもこれくらいの歴史スパンで論じなくてはならないと思うが、そのことはさておき、現在の韓国は(したがって北朝鮮も)、李氏朝鮮以来の文化を基盤にしているということが、ここで言っておきたいことである。 古代以来の全羅道《チヨンラド》・慶尚道《キヨンサンド》の対立  現在の韓国が李氏朝鮮時代以来の文化を基盤としており、それ以前の時代の伝統との間に断絶のあることは確かだが、それは、古代以来の歴史体験の影響が現在に見られないということではない。むしろそれは逆だと言った方がいいかもしれない。  文化的な伝統は断絶していても、意識のパターンとか歴史体験から受けた価値観とかは、形を変えて中世、近世、現代と生き続けている。そのかっこうの例が、韓国の地域主義の問題、なかでも最も大きな対立を形づくっている全羅道と慶尚道との対立である。  この対立は、それぞれの風土からくる気質的な違いをベースにした、古代の百済と新羅の対立にはじまり、さらには両国王権の出身種族の違いもからんでいる。  韓半島南部、ナクトン川(洛東江)の東の日本海側に新羅、ナクトン川の西に伽耶、そのさらに西の黄海側に百済が位置していた。現在の全羅道は百済の、そして慶尚道は新羅の領域に入る。この両地域は正反対の風土だと言ってよい。  百済地域には高い山も少なく、なだらかな丘《きゆう》陵《りよう》が続き、平野部の土地は肥《ひ》沃《よく》で韓国有数の穀《こく》倉《そう》地帯がある。また海岸は世界的に有名なリアス式海岸で魚介類も豊富だ。さらに多島海地域であることから、航海術も古くから発達していた。  一方、新羅地域は山また山で山岳地帯が多く、平野部は狭い。また海は玄海灘《なだ》(日本では玄界灘)の荒い海であり、また島も少ない。稲作、漁労、航海術、いずれも全羅道に比較すれば充分な発展の条件を持っていない。  こうしたことから、文明はおのずと百済を中心に発達し、仏教も百済がいち早く取り入れている。したがって、本格的なヤンバンは、かつて百済の首都であった扶《フ》余《ヨ》や公州などに多かった。また、百済の王家は扶余族の出身であり、新羅の王家はかつて中国にあった韓国を統治した辰《しん》韓《かん》族と言われる。  一般に、百済文化は丸みの文化であり、新羅の文化は鋭角の文化だと言われるが、確かに百済の仏像は丸みを帯びた優しさが基調で、新羅のそれはきわめて直線的である。方言について言えば、全羅道のそれはどこか間延びした感じを与え、慶尚道のそれは少々ぎすぎすした感じを与えるとも言えるだろう。  七世紀半ばに新羅が韓半島全土を統一してからは、百済的な文化は継承・発展されることのないまま歴史に埋もれていったのである。こうした百済・新羅の対立はなくなったが、地域的な対立はそのまま現在に至るまで統いている。  新羅の後の高麗もまた新羅的な文化を消滅させた。そして次の李氏朝鮮もまた、かつての青《せい》磁《じ》を捨て去り白《はく》磁《じ》を珍重したことでもわかるように、前代の文化の継承・発展には興味を示さなかった。  李氏朝鮮の建国された一三九二年と言えば、日本ではちょうど南北朝の統一の年にあたり、室町時代の出発に重なる。韓半島の封建時代はここにはじまるわけだが、それが政権交代も目立った社会変革もなく、そのまま五一九年間も続き、そこからダイレクトに近代に突入してしまったところに、これまで論じてきたさまざまな問題のほとんどすべてが由来している。 キーセンは庶民には高《たか》嶺《ね》の花だった  韓国には「犬のように儲《もう》けてヤンバンのように使う」というコトワザがある。そして、他人を最も軽《けい》蔑《べつ》した言い方に「犬のようなサンノム」という言葉がある。この場合、犬を最も卑しい動物とみなすわけだが、ヤンバン(両班)は上層身分を、サンノム(庶民)は下層身分を意味している。李氏朝鮮時代をとおして、韓半島では大きくこの二つの階級区分が行なわれていた。  村では地主がヤンバンである。ヤンバンは所有する土地を農民に耕作させて収穫物を手にするが、決して農作業に直接従事してはならず、ただ管理と指示だけを行なわなくてはならない身分である。そして、収穫物をどれだけたくさん農民たちに分け与えることができるか、またその他の面でもどれだけ大盤振る舞いができるか、さらには、個人的にもどれだけ気前のよい消費生活をしているかで、尊敬されるべき人間かどうかが判断された。  ようするに、振る舞いが豊かでも個人生活が質素であれば、また個人生活が派手でも振る舞いが貧しければ、ヤンバンとしての資格がないのである。  この時代に、技芸をもってヤンバンたちの相手をする、キーセンと呼ばれる女たちがいた。キーセンの登場にはそれなりの歴史があるのだが、ここではとりあえず、彼女たちは古代に芸能をもって王侯貴族たちに奉仕した、ある特別な女たちの伝統に連なっていると考えていただければよい。さらにその深《しん》淵《えん》には、神事に奉仕する巫《み》女《こ》たちとその持ち伝えた芸能があるのだが、すでに李氏朝鮮の時代では、それらの背景は、記憶の彼方《かなた》に霞《かすみ》のように消え入ろうとしていたと言ってよいだろう。  ただ、このような背景があってこそ、李氏朝鮮時代のキーセンは、単なる金持ち相手の娼《しよう》婦《ふ》ではなく、高貴な香りの漂う「貴姫」と人々にイメージされたのである。キーセンはサンノムたちには手の届かない高《たか》嶺《ね》の花であった。キーセンの踊りや歌を鑑賞し、彼女たちにお酒を注《つ》がせて遊ぶことのできるのはヤンバンだけである。大金を惜しみなく使ってこの遊びをこととし、また彼女たちを妾《めかけ》とすることが、ヤンバンの甲《か》斐《い》性《しよう》を示す大きな条件のひとつでもあった。  力のあるヤンバンはたくさんのキーセンを妾にしたし、そのことがまたヤンバンの権威を高めもした。そしてキーセンたちは、芸を磨き美を洗練させ、いかに力をつくしてヤンバンに気に入られ、妾の座を獲得するかで互いにしのぎを削った。  娘をヤンバンの妾にすることができれば、その一家はヤンバンの家に列せられて家柄の格も上がり、富と名誉を得て下層からの脱出をはかることができた。そのため、貧しいサンノムの家に美人の娘があれば、親は娘をキーセンに仕立ててヤンバンの妾にすることを常とした。しかし、ヤンバンの妾になれなかったキーセンは、正式な結婚をすることもできず、花と謳《うた》われる盛りをすぎれば、以後の人生を一人で寂しく暮らしていくしかなかった。 人気歌手と結婚した現代ヤンバンの長男  いまでも韓国では、「声のよい人は人生の波が激しい」という言い方がされる。浮き沈みが激しいということなのだ。そう言われるのは、よい声で歌うことができるのはキーセンの資格の一つだったからである。彼女たちは舞姫であり歌姫であった。そのため、声のよい男は「キーセンの弟」と言われ、チョムチャンチモッタダ(上品でない)と蔑《べつ》称《しよう》される。  こうした価値観は、このところ少し変わってきたとは言え、歌手を卑しい職業とみる目には相変わらずのものがあるし、男の歌手は男らしくない職業の代表的な存在になってもいる。娘がいい声で歌えば、「あなたはキーセンになりたいの」と戒める親はいまだに多い。  こうした風土で育った私は、日本に来てだいぶ価値観に変化が訪れたものの、石原裕次郎が亡くなったときの、全国のマスコミの取り上げように、また多くのファンの人たちが人間裕次郎をほめたたえる姿に驚くと同時に、一流の政治家、芸術家、企業家たちまでが、しきりに哀《あい》悼《とう》の意を表していることには心から驚かされた。こんなことは、韓国では天地が引っくり返ってもまずあり得ないことである。  さらに、お兄さんの慎太郎氏が政治家だということを知って、驚きは呆《あき》れに変わり、「容易なことでは日本を理解することができない」の思いを強くしたものである。  石原裕次郎は、韓国でも日本人歌手としてはトップクラスの人気があった。しかし、なぜ日本人が有名な歌手にあれだけの敬愛の念をもっているのか。また、アメリカではあるまいし、歌手を弟にもちながら、なぜ政治家になることができるのか、いずれも私の理解を絶していた。  韓国では、身内に歌手や俳優がいようものなら、それはとても恥ずかしいことなのである。とくに家柄を重んじる現代のヤンバンである上層階級の人間にとっては、それはとうてい許すことのできないものなのだ。  私の知る日本人ビジネスマンが、親しくしている韓国人事業家の話だとして、次のようなゴシップを話してくれた。  アメリカに留学させた長男が、アメリカで知り合った韓国の人気歌手を好きになり、結婚したいと手紙をよこしたと、憔《しよう》悴《すい》しきった姿で語ったことがある。彼はそのとき、「家柄を背負って行かなくてはならない長男が家を滅ぼそうとしている」と言い、長男には、決して韓国に帰ってくるなと電話をしたのだと言う。  何年か経《た》ってまたその事業家と会う機会があったので、その後のようすを聞いてみると、彼はいかに自分が不幸かと言わんばかりに話しはじめた。 「長男は家から追い出されてもかまわないから結婚したいと言う。仕方がなかったな、やはり長男に後を継《つ》がせるしかないからね、認めてやったよ。それで、ともかく長男の結婚だから、思い切り派手な結婚式を挙げさせてやろうと思った。ところが、あいつはまるで貧弱な結婚式を勝手に挙げてしまったんだよ」  これほど不孝な息子を持った親はいない、息子に裏切られて——と、希望を失った者の悲哀をあらわに見せていた。  やがて、息子夫婦はアメリカで生まれた子供を連れて韓国の実家に帰って来て両親と同居したのだったが、父親はまったくお嫁さんを無視して、あたかも存在しないかのように振る舞った。韓国では、嫁は新婚のある期間、朝起きると必ず夫の父親の部屋に挨《あい》拶《さつ》をしに行かなくてはならない習慣がある。彼女も韓国人だから、当然父親の部屋に行くのだが、父親は聞こえないふりをして起きようともしない。  こうして嫁を徹底的に無視するのだが、孫だけはこのうえなく可愛《かわい》がる。 「孫は可愛いさ。それにしても、テレビで見たことのある歌手がまさか自分の嫁になるとは思わなかったよ」  それからしばらくして会ってみると、その老事業家は、いまやお嫁さんをも可愛いと思うようになったと言う。 「とにかく誠実なんだよあの嫁は。心をつくして親切にしてくれるのがよくわかるから、だんだん無視できなくなったんだな」  日本人の歌手ならばとうに逃げ出していただろうが、さすがに韓国の女だ、徹底して舅《しゆうと》にかしずき、なんとか正妻の座を認めてもらうことができたのである。  このように、新しい世代の男たちも育ってはいる。それにしても、この事業家が歌手を卑しい職業と感じなくなったわけではない。間違っても孫を歌手にさせることがあってはならないと、息子夫婦にきつく言明しているそうだ。 卑しまれ続ける芸能人たち  卑しい職業とみなされるのは歌手だけではない。俳優にしてもそれは同じことであり、芸能人一般が卑しむべき者とされる。ここには、李氏朝鮮以来の芸能者キーセンの歴史が、そして庶民相手に諸国を漂泊しながら生活した芸能者たちの歴史が、大きな影を落としている。  日本にもそうした歴史があるようだが、韓国でも芸能者は普通の生活圏外に生きる、あたかも異人のような存在だった。その磨き抜かれた芸から繰り出される仕《し》種《ぐさ》は、一瞬でも日常性のわずらわしさを忘れさせ、喜怒哀楽をめぐる感動の楽しみを与えてくれる。人々はそのような芸能者に喝《かつ》采《さい》を浴びせたが、一方では、彼らは自分たちとは種別の異なる世界の住人だということで、激しく差別もしたのである。  彼らの興行には入場券が売られることもなく、観客が楽しくあればそれだけ客席からお金が投げられる仕組みだった。少し前までは、こうした芸能者たちの集団があったようだが、昔の人に聞くと、そのときにお金を投げる意識は、ほとんど、逆立ちをして見せる猿を愛《め》でて餌《えさ》を投げ与えるようなものだったという。  芸能者はいまなお普通の生活者ではない——。  彼らが一般人のような生活をしていないことは確かだが、そのことで芸能人たちを卑しんでいるわけではない。あくまで、旧階級社会の伝統的な価値観が現代へと持ち越されているのだ。そうした意味で、芸能人は卑しむべき者たちだという考えが、韓国の社会をいまなお強く支配している。  そのためか、芸能を文化として発展させようという気が韓国にはない。したがって、映画製作にもまるで力が入れられることがなく、世界に名作とうって出られるものが出来たためしがない。そこで、欧米の映画を見る人は上品な人たちだが、韓国の映画を喜んで見るようなものにろくなヤツはいないといったことが、国内ですら言われるようになってしまっている。  こうした環境下では、芸能活動やそのための技術にかかわって現場で働く人たちの苦労は並大抵のものではない。なにしろ、そうした芸術や技能を鑑賞し、楽しむことができるものこそがヤンバン、つまり一人前の人間だという通念に取り巻かれているのだから。 ヤンバンらしい男こそ夫にふさわしい  ヤンバンはチョムジャーヌンサラム(おとなしい者)でなければならないとされる。つまり、必要のないことをペラペラとしゃべったり、とくに冗談などを言ってはならず、口数を少なくしていなくてはならない。そして、たまに話す言葉は立派な説教の言葉にならなければならない。上の者が下の者にかける言葉は常に「教え」であり、下の者はその話を受けて「教えられる」ことが、李氏朝鮮時代のあるべき上下関係であった。こうした関係が、いまでも好ましい関係とされている。そこで、少ない言葉で人を動かす話のできることが男の条件ともなる。  日本には「口は災いのもと」など、口数の多いことを戒めるコトワザがあるが、韓国ではチョンニャンビスールカムヌンダ、直訳すると「数えられない借金を返す」という言い方がある。多言をよくないこととする点では同じものだが、その意味は正反対である。この言葉では、「言葉ひとつで莫《ばく》大《だい》な借金も返さなくてよくなるようにできる人は立派だ」ということが意味されているのである。つまり日本の場合には、言葉の働きが悪い事態を引き起こすことを恐れる慎みが評価され、韓国の場合には、言葉を積極的に働かせてよい事態を生み出すことが評価されているのだ。  口数を少なくする目的が自ずから異なっているところが面白い。欧米の人たちが、東洋人は一様に無口だとは言っても、なにゆえの無口かについては、やはりほとんどわかっていないに違いない。  人を感動させ泣かすだけの言葉は立派だが、間違っても笑わせてはならない。金大中《キムデジユン》の人気のひとつがこの弁舌の巧みさであるが、彼も聴衆を笑わせることは決してしない。日本の政治家や企業家が、欧米人ほどではないにせよ、演説やパーティーなどでは巧みに人を笑いに誘い、場の緊張を和らげようとする姿はまず韓国では見ることができない。  人をよく笑わせ、心を楽しく浮き立たせてくれる男性は、日本でも韓国でも女性の人気を獲得するが、韓国ではそうした興味をひく男はチョムチャンチアンタ(上品でない)、つまりヤンバンらしくない男だと言って、夫の対象としてはふさわしくないとされる。  こうした価値観は友だち関係では別だが、社会的な関係のすべてについても言える。私がロンドンのカレッジに留学していたときに、ホームステイをした家の女主人が私を盛んに笑わせようとするのだが、私にはそうして欲しくない気持ちがあってとても煩わしく感じたものだった。また女主人は、イギリスの政界で最も人気のあるのがエリザベス女王の娘、アン王女だと言う。その理由をたずねて、それは、彼女がウィットに富んだ話で国会の固い雰囲気を壊す才能を持っているからであり、そのため国民にもとても愛されているのだと聞かされながら、「なんて不《ふ》真《ま》面《じ》目《め》なんだろう」と心のなかで憤慨したものである。  厳粛な場の固い雰囲気をウィットをもって壊すことが、なぜ喜ばれるのかが長い間わからなかったが、その後の日本生活のなかで、それは壊すのではなく和らげるのだというニュアンスがわかるようになって、ようやく理解できたのである。  韓国の女たちにとって男らしい男とは「義力ある男」だ。つまりリードする力、あるいは征服する力のある男である。そのため女たちには、軍人や運動選手の人気が高い。頭がよくても弱々しいソウル大学の学生よりも、勇ましい陸軍士官学校の学生の方が数段人気がある。そのため、陸軍士官学校出身の男の妻には、韓国で最も名高いお嬢さん学校である梨花《イフア》女子大学の出身者か美人が多いのである。  陸軍士官学校出の男はすべての女のあこがれの的だったため、かつて陸軍士官を恋人にもっていたときの私は鼻高々であった。そして、会うときにはいつも軍服を着て来て欲しいとたのんだものだ。私の家族も「ほんとうに立派な男にめぐりあったものだ」と喜んでくれ、できるだけ早く結婚することを望んだ。  私は結局、その男とは別れてしまったために、今度は「結婚封じ」とでも言うべき状況を迎えることになったのだったが、友だちの羨《せん》望《ぼう》を浴び親の祝福を受け、前途の明るさに心を躍らせていたあの当時の私は、確実に私のなかから消え去っている。  当時は自分を強く押し出す男こそ真の男だと思っていた私も、いまでは、女の主張に受身で応《こた》えてくれ、女の側に従順さを押しつけることのない日本の男の優しさが、どれだけ女の気分を楽にしてくれるかを知った。そして、自己主張のないように見えた日本人が、お互いに自分を強く押し出さないことのなかで自分を主張し合おうとする人たちなのだということも、よく理解できたように思う。 成り金を目指す人生観の肯定  キーセンにした娘がヤンバンの妾《めかけ》になることができれば、これは現代では貧乏人がお金持ちの男の愛人になることを意味するのだが、その家は人々にビョウラックブーザ(カミナリの金持ち)になったと言われる。日本語で近い言葉を探せば「成り金」に相当するだろうが、そこでは「成り上がり者」と言うよりは「突然の金持ち」の意味あいの方が強く、侮《ぶ》蔑《べつ》的《てき》なニュアンスはない。その過程がどうあれ、庶民ならばだれもが望むべきことを達成したという結果を肯定する言い方である。  現代の韓国人ホステスがお金持ちの男の愛人になり、家族に不動産のひとつでも買ってやりたいと思い、また家族がそれを娘に期待するのも、こうした価値観の延長にあることだと言ってよいと思う。  先に述べた「犬のように儲《もう》けてヤンバンのように使う」というコトワザはここから出ている。これは、どれほど汚れた手段を使っても儲けてしまえば、ヤンバンのようにお金を使うことができる——これを肯定した言い方なのだ。同じような意味から、韓国ではバクチの人気がきわめて高い。  韓国では三人寄れば花札がはじまると言われるように、休みの日に友だちどうしが集まれば、たいていは花札をやろうということになる。ゲームは娯楽として楽しまれるよりは、ほとんどの場合が賭《かけ》として行なわれる。ある心理学者が、「賭《と》博《ばく》をやる者には、最小の努力で最大の利益を得ようという心理があり、無限な浪費と無限な消耗のなかで、ある種の自《じ》虐《ぎやく》的《てき》な快感を楽しんでいる」と述べていたが、この見方は韓国人の人生観をよく映し出してもいる。  明日どうなるかはだれにもわからない、もし運がよければ一夜で巨万の富を得ることができ、また世に名声をはくすことができるかもしれない。それを夢見て常に賭に挑戦するのが人生の楽しみというものだ、一〇年先の自分の成功を夢見て計算ばかりの毎日を送る日本人は、いったい何が面白くて生きているのか——。こうした人生観が多くの韓国人のものである。もちろん、そのために家族を失い、職を失う者は多い。  ともかく、ヤンバンになるためにはどんな方法を使ってもよく、ヤンバンになってからいいことをすればよい——。  この倫理観が、「サンノムはそういう存在だから犬のようだ」ということになり、「犬のようなサンノム」という言葉が、人を最も軽《けい》蔑《べつ》する場合の表現ともなるのだ。  話が横道にそれるけれども、犬をさげすむのは韓国人が犬を食用にするからなのかもしれない。犬の肉の入ったボーシンタン(保身湯)というスープは身体によいとされ、古くから愛用されている。それで、ことさらに犬を可愛《かわい》がる欧米人から非難されることにもなるのだが、ソウル・オリンピックのときには、政府は一時的に犬の肉を売ることを禁じた。それでも実際には、名称を変えて鶏肉屋などで堂々と売られていた。 会社で何もすることのない社長  現代で最もヤンバンらしい男は会社の社長である。彼らは、部下に指示を与えるだけで、仕事の現場のようすについては報告だけを受ける。そして、一番遅く出勤し一番早く退社する。多くの日本企業の社長のように、社員よりも早く出勤したり社員よりも遅く退社したり、あるいは現場へ指示を与えに行ったりするような社長は、韓国では上にいただくにはふさわしくない軽い人物とみなされる。  韓国の社長はヤンバンたるべきことを旨としているから、具体的な仕事にはいっさい手をつけることがない。いったん出勤すれば、ほとんど一日中社長室から出ることもなく、ただただ社長の椅《い》子《す》に座り続け威厳を保っていなければならない。しかし、この「仕事」はかなり辛《つら》いものには違いない。何しろすることがないのだから、日本や欧米の社長のように、社長室でゴルフのパターを振るようなこともしなければ、ビジネス誌に目を通すようなこともない。もっとも、韓国にはビジネス誌もほとんどないのだが。  部下が報告に来ても、ほんのひとこと「そうか」という程度の形式的なもので、そこでいちいち細かい指示をすることもない。実際的な検討は重役なり部長なりにやらせて、彼らからまた報告を受けるのが通例である。彼らがみずからの手でやることと言えば、取引を決めることくらいのものだ。韓国のある著名な実業家が、私の知るある日本人ビジネスマンに、「ほんとうに退屈で仕方がない」とこぼしたと聞いた。  韓国の社長たちは早々と退社すると、社用の高級乗用車を専用の運転手に操らせて、一般人は出入りのできない特別の料亭へと向かう。そこは、かつてはキーセンたちがヤンバンの相手をした格調の高い料亭である。ここで事業家たちの相手をするのが、歌手や俳優などの芸能人たちである。  いまは芸能人はかつてのキーセンに匹敵する格をもって、現代のヤンバンの相手をするのだ。これらの芸能人たちは、昼はテレビに出演し、夜は特別の料亭で、これは秘密の料亭と言われているが、事業家や政治家の相手をする。もちろん、多くの芸能人が彼らをパトロンとし、また妾《めかけ》になっている者も多い。  事業家たちは、ここで商談したり政治家との取引をすることになるので、会社の実情は会社の重役や部長たちよりも、この料亭に出るキーセンたちの方がよく知っているというのは、韓国での常識である。実際、韓国では社長でなければもはや経営に口出しすることはできず、重役と言えども雇われ人と同じで、会社の詳しい内情を知らされることはない。 韓国の企業と日本の企業の埋めがたい溝  あるとき、日本の大企業と韓国の財閥企業が合弁で会社をつくろうということで、仲介役の日本の会社を含めた三者で会議が持たれ、私は仲介役の会社の通訳として出席した。私はそこで、実に印象的な韓日ビジネスの食い違いを見ることになって、ある種の言いようのない苛《いら》立《だ》たしさを覚えた。  韓国の会社からは、会長、社長、専務、常務が出席し、日本の会社で会議が持たれた。それに対して、日本側では担当の部長だけが出席した。そして会議がはじまると、日本側の部長は、「この問題に関しては、当社では私が対処することになっています」と自己紹介をして、話を切り出した。  部長は韓国側の重役たちに向かって盛んに意見を求める。しかし彼らは、聞かれるたびにただ会長の顔を見るだけなのだ。それは社長にしても同じことだった。日本の部長が意見を求め、私が通訳するたびに、いま会長に聞いてみますと言って、ボソボソと隣に座った会長と話をしている。  そのうち、韓国側の会長が「わざわざ日本まで訪ねて来たのに、部長しか出席しないとは何事か」と怒り出した。私は冷汗をかきながら通訳していたが、会長はともかくも社長を出せと言う。私がそれを部長に通訳すると、彼は、「なぜわざわざ日本まで重役が総出で訪ねてきたんでしょうね、暇《ひま》な人たちですね」と、小声で私に言う。もちろん、日本語がよくわからない韓国人には聞き取れない。  そこで部長は会社のシステムをかいつまんで話し、こういうわけでこの問題については自分に権限があるし、会社には後で報告することになっていると、丁《てい》寧《ねい》に説明した。しかし韓国側はどうしても納得しない。会長は、このプロジェクトが成功するかしないかに、自分の会社がどれだけ強い決意を持っているかを示すために、重役全員で訪ねて来たのに、部長しか出ないとは問題を軽く考え過ぎていると主張する。日本の部長は、それはおかしな話であり、権限のある者が一人いれば充分ではないかと主張する。ほんとうは、意見も言えない重役を連れて来て会議に出席させるなどは、失礼な話だと言いたいようであった。  韓国側では、部長にそんな権限を持たせることが自分たちの会社では考えも及ばないことであるため、あくまで相手の部長を軽く考え、なんて誠意のない会社だと思ってしまう。日本側では、社長以下の重役がそれぞれあちこちで会社を代表してビジネスを展開しているため、重役が全員揃《そろ》って商談を行なうことなど、これまた考えも及ばないことであった。  こうして、韓日両企業は、お互いの食い違いを解消することができないまま、会議を終えるしかなかったのだった。これはもちろん、何十年も前の話ではなく、国際ビジネス華やかな一九九〇年のことである。  一人のヤンバン以下すべてが従僕という李氏朝鮮時代の共同社会の構図は、いまだ亡霊のように企業内の関係を支配している。近年しきりに言われるように、日本の成功のひとつの理由が、封建時代から持ち越された人間関係をうまく現代ビジネスに生かしたところにあるのがほんとうならば、韓国はそれを悪く生かしていることで成功から見放されていると言うしかない。近年の経済成長が、あくまでバクチに似た短距離勝負の結果であったことを、いまでは疑うものはいないだろう。 貯金よりも目先の借金  こうした「目先の利益」を追う韓国人の金銭感覚は、経済制度の近代化をさまざまな面で押しとどめてしまっている。そのため、市民生活の経済的な合理性では理解できないような制度も生まれる。  最近人気を集めている生命保険の制度を例にとってみよう。  これは、三カ月間一定の金額を支払い続ければ、その十倍程度までの金額を借りることができるというものである。不動産を買う場合に限られているが、かりに毎月五〇万ウォンずつ三カ月支払うとすれば、五〇〇万ウォンまで借りることができるのだが、利子は年率一五パーセントである。したがって、毎月の利子が六万二五〇〇ウォンで保険料が五〇万ウォンだから、毎月五六万二五〇〇ウォンを、満期が来るまで支払い続けなくてはならない。  日本人ならば、それだけの支払いをするつもりがあるのならば、なぜ貯金をしないのかと疑問に思うだろう。毎月五〇万円ずつ貯金すれば一〇カ月で五〇〇万円になるから、一〇カ月の間貯金を続ければいいのに——と。しかし韓国人は、すぐに五〇〇万ウォンを手にしたいと思う。そこで、利子と保険料をずっと支払い続けるばかばかしさを感じることもなく、こうした保険制度を利用しようとするのである。  いずれにしても、韓国では金融制度はあまり発達していない。クレジットカードはあるにはあるが、専門会社も少なく、銀行の子会社が細々とやっている程度であまり普及していない。もちろん、国民の所得が安定していないからである。最も普及しているのは国民カードである。国民銀行に一〇〇万ウォン以上の普通預金口座があれば、一年後にはだれにでもカードを作ってくれる。  しかし国民カードは、普及すればするほど、その制度はガタガタになっていく。カード発行の一年後には預金をおろすことができるので、財政基盤のないカードの空利用が相次ぎ、利用するだけ利用して姿をくらますケースが多発しているのである。  所得の調査をきちんとやればそんなことにはならないのにと思われるだろうが、個人の所得調査を税務署がやろうとしても困難が多く、銀行が行なうことはまず不可能に近いのが韓国なのである。 銀行よりも「ケー」を信用する理由  韓国では脱税がほとんど常識化している。所得税がかなり高いために、企業である程度の地位にあるものには、ほぼ給料と同額の金銭を裏給与として支給することが一般的に行なわれている。そして多くの場合、男たちはこの裏給与を女遊びの費用にあてるのだ。この裏給与が酒場の女たちの収入になる。そして、彼女たちは給料をもらわないチップ生活者であるから、みんながみんな、所得をゼロとして税務署に申告している。  このような裏給与の存在、数多くのチップ生活者の存在、また税務署員に対してはワイロが効くし、韓国では領収書を発行したり受け取ったりする習慣がない。こうしたことから、韓国では個人の所得をつかむことは不可能に近い。そのために生じる韓日ビジネスのトラブルもかなり多いと言われる。  日本では取引先の信用調査を行なうことが常識だが、韓国の企業にも同じようにやろうとしても、まるで実態が把握できないために驚くことになる。個人にしても、相手にどのくらいの所得があるのか、またどのくらいの財産があるのかがまるでわからない。興信所で調べても、税金を検討しても、まるでつかむことができない。そのため、韓国では相手との対話をとおしながら、見当をつけなくてはならない。そこで、話がうまいこと、要領のいいことが世渡りの大きな条件ともなるのだ。  こんな状態では取引の信用というものが成り立たない。そこで、韓国人たちは古い時代の信用制度をいまだに踏襲するのである。それが「ケー(契)」という制度だ。日本で言えば「たのもし講」あるいは「無尽講」に相当する。つまり、信頼できる仲間が集まってお金を出し合い、それをプールしておき、必要なときにメンバーへの貸し付けなどに利用する、伝統的な民間金融制度と言ったらよいだろう。ただ、趣旨は相互の扶助であるものの、なかにはねずみ講のようなあやしげなものも多い。  このケーの結びつきの条件が、同族、同郷、同校などである。市民としての関係よりもこうしたつながりにある間柄を信じ、知らない人との関係では騙《だま》されることを極度に恐れる。したがって、銀行よりケーを信頼し、いつまでたっても人々の間に近代的な経済観念が育たないのである。 奇《き》蹟《せき》好きとキリスト教  経済制度が非近代的なものであるだけに、そのときそのときの運で収入が左右されることになる。そのため、計画性とは無縁な「時の運」が重視され、一足す一は二という計算による確実な答えではなく、奇蹟が求められる。国民の四〇パーセントがクリスチャンであるというのも、そのへんにひとつの無視できない原因があると思う。  キリスト教がというよりも、奇蹟をよぶキリスト教が人々の心をとらえる。病院で死の宣告を受けたガン患者がお祈りによって治った、懸命にお祈りしたところある日不動産の価格が上がって大《おお》儲《もう》けをすることができた、真剣にお祈りをしたことによってある人が商売の資本金を出してくれた……。こうした話が成功者によって語られ、興味深げに耳が傾けられる。韓国でたった一〇〇年の歴史しかないキリスト教がこれほどまでに急成長した理由は、こうした「おかげ」への期待によるものと思われる。  韓国人の心理をよく知って、それを布教に活用した宣教師たちの戦略は見事だったと言うべきだろう。  新宿歌《か》舞《ぶ》伎《き》町《ちよう》の純福音協会(プロテスタント)に所属する信者約七〇〇〇人の三分の二が韓国人ホステスだ。彼女たちは最低、収入の一割を献金し、別に毎週いくらかを献金するだけでなく、改築など何かのことがあれば一〇〇万円くらいは気前よく献金するのが普通である。  彼女たちのお祈りの言葉は、日本人のように「今日一日のお恵みに感謝します云《うん》々《ぬん》」といったものではなく、「どうかいい旦《だん》那《な》さんがつきますように」「お金がたくさん儲かりますように」と、いたって現実的な利益を求める言葉である。とは言っても、もちろん、彼女たちが深いところで求めているのは心の安らぎである。それは私にしても同じことだが、現実の関係のなかではどうしても癒《いや》されることのない心の痛みを感じれば感じるほど、彼女たちは足しげく教会に向かうのである。  傷つき、迷い、乱れ、苦しむ心……それがどれだけ深くとも、韓国人ホステスたちは、あの底抜けの明るさを失うことがない。それは彼女たちに、教会で静かに神に祈る体験があるからこそなのだと私には信じられる。  日本人が神社や仏閣でお祈りするときも、韓国人と同じように現実的な利益を求めることが多いと言う。しかし日本ではキリスト教はいっこうに広まることがない。韓国人が民間の信仰や東洋の信仰をあっけなく捨ててキリスト教に入信し、日本人がそうしないところには、どのような問題が潜んでいるのだろうか。これも私が日本に来てぶつかった大きな課題のひとつである。  いまだ多くを語ることはできないが、これは伝統の連続性の違いにかかわっているように思う。日本では古代以来の伝統が綿々と連続しており、韓国では三国時代、新羅《しらぎ》時代、高《こう》麗《らい》時代、李《り》氏《し》朝鮮時代のそれぞれの間で、伝統が断ち切れてしまっている。韓半島では新たな時代を迎えるとともに、なぜかそれ以前が捨てられて来た。しかし、それは古い風習を捨て去って社会を革新することとは、まったく別な伝統の廃棄なのである。  日本人は内容に応じてそれをどのような器に盛るかを重視するが、韓国人にとって器は必要に応じて使用されるものに過ぎないことが多い。何事も入れ物を重視する伝統と入れ物にはこだわらない伝統、そこにも韓日の伝統の違いがある。  たとえば、立派な桐箱に陶磁器を、あるいはカステラまでを入れ、その箱に入っていることを価値とする日本人が韓国人には理解できない。韓国人にとって、この場合の箱は単なる搬送の手段に過ぎないから、どんな高価な陶磁器でも、新聞紙でも敷いて適当な箱に入れておくのが普通である。  新しい時代の勝利者たる西洋のキリスト教を、自らの宗教性を盛る器として選んだ韓国人は多かったが、日本人のほとんどがそれを器としてはふさわしくないものとして選ばなかった——そういうことではないのだろうか。 韓国の童話「シムチォン伝」  話を女の問題にもどそう。  先に述べたように、処女性と親孝行のモラルは、小さいころからさまざまな形で植えつけられてゆく。そして、その最も深いところには、処女が神の生《い》け贄《にえ》となって家を守るという、伝承説話に涙する心情が色濃く流れているように思う。  このパターンの説話にはいろいろあるが、そこから題材をとって作られた、現代韓国の代表的な童話がある。簡単にご紹介しておこう。  ある貧しい盲人の男が妻を得、やがて妻は女の子を産んだが、産後の肥立ちが悪く一週間後に亡くなってしまった。盲人の父はシムチォン(沈青)と名付けたわが子を抱き、あちこちの家を訪ねては乳をめぐんでもらい、ちょっとした仕事をもらっては食を得るという生活を続けた。こうして育てられたシムチォンは、ものごころがついたころには、もう他家の手伝いに出て父を助けるようになっていた。  父はシムチォンを宝もののように可愛《かわい》がり、シムチォンはなんとか自分の手で父に楽な生活をさせてやりたいと必死に働いた。そして、どうか父の目が見えるようになりますようにと、日々神仏へ祈るのだった。  シムチォンが一七歳になった年のある日、三〇〇束の米を逆さまにして仏に捧《ささ》げれば、見えない目も見えるようになると、ある偉いお坊さんが言っているということを耳にした。しかし、それだけの米は彼女が一生かかっても手に入れられる量ではない。彼女が絶望の思いにうちひしがれていたとき、船乗りたちが処女の娘を探しているという話を聞いた。航海の安全を神に祈るために、処女を生け贄として海に投げ込む風習があり、そのために海商たちが処女を買おうと探しているのだった。  シムチォンは心のなかで「これしかない」と決心を固め、海商のところへ出向いて、米三〇〇束と父が一生食べていけるだけのお金と引換えに、自分の命を売ったのである。この話は村中に伝わっていったが、それを聞いたあるお金持ちの奥さんがシムチォンを哀れに思い、シムチォンに三〇〇束の米を提供しようと申し出た。しかし、シムチォンは、他《ひ》人《と》さまに迷惑をかけることはできない、これは私の家の問題なのだからと断り、ついに生け贄となる日を迎える。  その当日、やっと事実を知った父は、「お前を亡くして目が見えたところで何になろう」と言って泣き、彼女にやめるようにと強く迫ったのだが、シムチォンはそれをも振り切り、海の男たちに連れられて船に乗り、神への生け贄として海中に身を投じてしまった。船が去ると、シムチォンが身を投じた海面にプックリと大きな蓮《はす》の花が浮かび上がった。それを通りかかった漁夫が見つけて拾い、あまりに美しいので都に持ち帰って王さまに献上した。  この蓮の花からシムチォンが出て来て王の妃《きさき》となる、というように話は続く。そして王の妃となったシムチォンは、全国の盲人を集めて大宴会を催す。その盲人たちのなかに父を見つけたシムチォンが、「お父さん!」と呼んだその瞬間に、父の目が開き、親娘《おやこ》が抱き合って喜ぶ——。ここで話が終わるのである。 韓日伝承説話の相似と違い  韓国の延世《ヨンセ》大学の語学堂では、外国人のための韓国語の講座があるが、その教科書にこのシムチォンの話が載っている。私がそこの日本人学生たちと話したとき、これを読んだ彼らは一様に、シムチォンの気持ちはまったく理解できないと言った。そして、なぜこのような話が童話になるのか、大きな疑問を持つと言う。  韓国でこの童話に文句を言う人はまずいない。親孝行と言えばすぐにシムチォンが引き合いに出されるのである。私も長い間、この話をよき親孝行倫理のお手本のように思ってきたが、日本人学生たちはみな、「シムチォンの親孝行はあまりにも利己的なものだ」と言う。これを聞いて、日本に来て間もなかった私はかなりなショックを受けた。シムチォンには自分がないと言われるかもしれないとは思っていたが、まさか利己的だと言われるとは思ってもみなかった。  しかし日本に生活していることは恐ろしいもので、やがて私は、この童話では「親子の愛が戒律になっているため互いの愛が孤立している」ことを示している——そう考えるようになっていったのである。  間もなく私は、日本にも同じようなパターンの説話があることを知ったが、なぜ、日本で読めば戒律に縛られた不幸の話となり、韓国で読めば親孝行の手本を示す話となるのだろうか。どこでどう違って来たのかが疑問だった。そして最近、ある日本人と話していて気がつくことがあった。  日本の出雲《いずも》地方の神話に、毎年、大蛇《おろち》に処女を生《い》け贄《にえ》として捧げることと引きかえに、災を及ぼさないようにしてもらっていた村に、スサノオという神がやって来て大蛇を退治し、以後村に平穏が訪れ、スサノオと生け贄となるはずだった処女とが結婚して国土の開発が始められたという、有名な話がある。  私の出身地である済州島にも、これとほとんどそっくりな話が伝承されている。日本のスサノオの話と同じように、毎年大蛇に処女を捧げていた村があったが、後にある男がその大蛇を退治したという話である。  この韓日でともに語られる説話の意味するところが何であるのか、いろいろと推測ができるにせよ、私にとってはいまだ課題である。  処女が生け贄となって村の平和をはかったという伝承が、韓国では話の前半だけが強調され、親孝行の倫理に結びつけられて語られる。後半の、生け贄の廃止をもたらした神と処女との結婚で国土開拓の端緒がつけられたという話が落とされているのだ。やはりこれは、外部からの物理的な侵略を受け続けて来た歴史が変形させたものと考えるべきだろうか。 一家の徒食者という女の価値  ある日本人が私に不思議そうな顔をして尋ねた。 「この本の著者は梨花女子大学の出身と書いてあるのに、名前が李男徳とありますね。男の人が女子大で勉強することもあるんですか?」  これには私も笑ってしまった。  実は私も戸籍上は男の名前になっている。韓国では女が生まれると、次こそは男をと望み、女の子に男の名前をつけることがしばしばある。これも李氏朝鮮時代以来の風習のひとつだが、日本の封建時代にそのようなことはなかったようだ。  いつだったか、日本のある民俗学の研究家にこの話をした折り、次のような示唆を受けたことがある。 「この風習はもしかすると、古くから民間で行なわれていた習俗が、封建的な父権家族の考え方に取り込まれていまのようになったのではないでしょうか、その点をもっと研究されたらいいと思います」  そしてその日本人は、奄美《あまみ》大島では最近まで、子供を産むと柱にキズをつけ、男ならば「女だ」と、女ならば「男だ」と叫ぶ風習があり、それは子供を魔物にとられるのを防ぐためだとされていたことを話してくれた。柱にキズをつけるのは「決定」を意味し、男女を反対に叫ぶのは、魔物に嘘《うそ》を言って運命を左右されないようにするためだと言う。運命をつくるのはこちらの方だということなのだろうか。  私は不勉強で、いまだ韓国にそうした民間信仰があったかどうかを知らないが、あったとすると、いろいろと説明がつくことがありそうな気がして、大きな興味をかきたてられた。民間の信仰が支配層のイデオロギーに取り込まれて変質を遂げ、民間信仰の方はそれに負けて消えていってしまう——そうしたことが、韓国の長い歴史のなかで行なわれてきたのかもしれない。それは、韓国の文化を考えてみるとかなり可能性のあることのように感じられた。  ともあれ、私の両親は女が三人続けて生まれたため、ついに三人目の私に男名をつけたのであった。しかし四人目も女、そしてやっと五人目に男が生まれている。今度こそと思って生まれた私が女だったことで、わが両親がガッカリしたことはわかるが、そのために、男性に義務づけられている兵役の召集令状が私宛《あて》に出されるなど、いろいろと迷惑なことも多く、私はおおいに両親を怨《うら》んだものだった。  女の子を産んだ私の友だちも、それがあたかも嫁の責任であるかのように姑《しゆうとめ》になじられ、ことあるごとにいやみを言われるのだと言っていたが、そうした家はいまだに多い。息子なら将来両親を養う財産でもあるから投資を惜しまないが、娘は他家のものになるので一家の徒食者、やっかい者という価値観があるのだ。そのため、娘は嫁に行く前にそれだけ親孝行をすべき存在だとされる。  男が学び、女はその助けをしなくてはならない。弟や兄の学費を稼ぐために女たちが働きに出るという形がそこから生まれて来る。女たちはそれを負担に感ずる以前に、結婚前に親孝行をしなかった場合にやって来るであろう心の圧迫を予感しているのだ。  結婚してからも、夫よりも実家の両親を大切にする気持ちを強く持つ場合は、韓国ではそれほど珍しいことではない。実家が苦しければ、家計から実家に送金する女性も多い。そのため、できるだけ経済的なゆとりのある家に嫁入りすることが好ましい。またそうしたことが、家庭の経済にいちいち細かい男が嫌われる一因ともなっているようだ。 押しつけられる結婚と息子の出産  ある日、高校時代の友だちから国際電話がかかってきた。日本へ逃げたいのだが相談にのって欲しいというのである。びっくりしてわけを尋ねてみると、結婚したのだが家を出てしまった、しかも結婚式を挙げたのはなんと昨日のことだと言うのだ。  それはこういう事情だった。  彼女は高校を出て電話の交換手として働いていたが、嫌な男との結婚なんて絶対しないと、親がもってくる見合いの話を断り続けていた。そしてこの年に三十歳になったのだったが、ある日、彼女の両親が見合いの話をもってきて、ここで結婚してくれなければもはや生きてはいけないと、連日連夜泣きながら彼女に訴え続けた。さすがの彼女ももはや抗し切れず、せめてもの親孝行にと、見合いをして結婚を承諾してしまった。そして、親が手配するままに結婚式を挙げ、盛大な披露の宴を催した翌日、家を出てしまったのである。  三十歳を過ぎた女が結婚もしないで家に親と住むためには、親娘ともかなりの恥ずかしさに耐えなくてはならない。前にも述べたように、何か欠点があるに違いないという目で世間から見られるからである。そのため、三十歳を過ぎた未婚の女のほとんどが、親から離れて一人で暮らすことになる。しかし、三十歳以上で仕事に就くことがまずできないから、水商売に入るか、だれかの愛人になって生活していこうとする。そして愛人になれば、今度は自分の将来をみてもらうために、その男の子供を産もうとするのだ。  こうしたことが目に見えているからこそ、親は娘が結婚年齢を過ぎる前に、結婚をしつこく催促することになる。  しかし、結婚をしても、次には男の子を産まなくてはならないという難関が待っている。私の知っている人に、女の子を二人続けて産んだために、家のなかでまるでお手伝いさんのような扱いを受けていた女性がいた。が、ようやく三人目に男の子を産むと、彼女はこれまでの家庭での態度を一八〇度変化させた。それまでびくびくしながら対していた舅《しゆうと》と姑《しゆうとめ》に、大きな声を出して言うべきことを言い、夫にも大胆に対応する女に変わっていったのである。  また、男の子が生まれないという理由で離婚するケースがいまだに後を絶たない。私自身、そうした離婚体験者を二人知っている。  一人は、結婚して五年しか経《た》っていないのに、子供が生まれないために受ける苦しみと、自ら感じる責任感に追い詰められ、家を出て行方をくらましてしまった。もう一人は、夫婦の愛情はあったのだが、男の子が生まれないということで、両親に申し訳ないからと、夫婦協議の上で離婚している。 家族の情愛と目に見える愛の形  女が男より価値が低いからといって、生まれた女の子を家族が可愛《かわい》がらないということはない。可愛いものはやはり可愛いのである。とくに結婚した女たちにとっては、まず子供が唯一の生きがいとなるため、例外なく子供を溺《でき》愛《あい》する。  韓国の家族は普通、大きなひとつの布団に家族全員で寝る。日本のように、子供から大人まで一人用の布団に別々に寝るのではなく、ダブルベッドほどの布団に夫婦と小さい子供が一つになって寝るのである。母親はこの布団で子供を抱き抱えるようにして添い寝をするのが習慣で、なかには小学校を卒業するくらいまで続ける親もある。韓国の家族の情愛の深さも、ひとつにはこうして養われるのだが、この習慣は家族間にプライバシーを尊重する意識や子供の自立意識が育ちにくくなる大きな要因でもある。  家族主義、同族主義、地域主義を中心にめぐる社会では、多くの社会行為がそれら仲間の紹介、口きき、手づるといったルートで行なわれるから、社会的な自立精神を養おうという意識はどうしても希薄になる。そのため、依頼心の強い人格に育つことになり、社会に出れば当然のごとく、血縁や地縁の関係にもたれあいながら生きるのである。  子は宝であるが、それは親の所有する宝であるから、子供に関しては何から何まで親が干渉することになる。こうして、宝を磨き他人の宝との光り具合のしのぎあいがはじまる。たとえば、少しでもゆとりのある家では、母親たちは子供たちにはできる限り有名ブランドの服を着せるようにする。私は帰省した折りに、東京のバーゲンセールで子供服をたくさん買って行き、子供のいる親《しん》戚《せき》にドサッとプレゼントして、大いに迷惑がられただけでなく、ずいぶんといやみを言われたことがある。「あなた、日本に行って少しおかしくなったんじゃないの? それとも私の子供たちを可愛いと思ってないの」と。  家族の情愛や親子の愛を大切にするのはどこの国でも同じだが、韓国の場合はそれを、目に見える物質的なもので示さなくては意味のないこととされる。言葉や態度はもちろんのこと、何らかの物質的な与え合いをより重視するのだ。この価値観はまさしく、見るべき無形文化財をほとんど持たない、李氏朝鮮文化の根本にあるものだと思う。  日本の同族や同郷の関係は、韓国と比較すればごくゆるやかなものであり、明らかに封建的な規制からの脱却を遂げた、ほのぼのとした愛着とも言うべき「なごり」と感じられる。 教育ママのすさまじき欲望  ある日本の評論家の本を読んでいたら、日本の教育ママ登場の背景には核家族化があると論じられていた。簡単に言えば、核家族化によって戦後日本の家族の目的が一気に子供のよりよき成長へと集中されるようになったということだった。  韓国でも確かに核家族化が教育ママの増大に拍車をかけている。が、韓国の母親たちの子供への教育熱はいまにはじまったことではない。核家族化が進む以前から、すでにすさまじいものがあったのである。  韓国の家族は、着る服から学校の成績やスポーツに至るまで、よその子には決して負けないようにと子供を育てる。その対抗意識の激しさは、ヒエラルヒーをいかに昇りつめるか、いかに人より上に行くかを人生の目的とする、親の意識そのものの表れである。結局、子供たちは親の愛と言うよりは、多くの場合、親の欲望の対象となってしまっているのだ。  日本の教育ママにもすさまじい人がいることは知っている。しかし一方に、学校で宿題を出しすぎる、受験を目的にした勉強のあり方はおかしいと、これまたすさまじい勢いで学校に反発する逆の教育ママも同じくらいに多い。こうしたタイプの教育ママは韓国ではほとんど見ることができない。日本という国は常にどこか、バランスをとらないではいられないような文化の仕組みがあるように見える。  韓国の教育ママが、近代的な教育熱心な母親とは少々異なっていることを象徴的に物語っているのが、小学校の先生の収入の多さである。高等学校の先生より数段豊かな生活ができるのが、小学校の先生なのである。かと言って、格別に給料がよいわけではない。韓国の教育ママたちがこぞって「献金」をするからなのである。  日本でも「つけ届け」と言って、教師たちに盆暮の贈り物などをする人もあるようだが、韓国の場合はそんな「ケチ」なものではない。堂々と現金を手渡すし、贈り物も高価なものしか贈らないのである。私の知るお金持ちのなかには、教師の子供が音楽好きだと聞いて、グランドピアノを届けさせた者もいる。もちろん教師は、お礼を言ってあり難く受け取ってくれたと言う。  私の友だちが、小学校二年生の子供を置いて、観光で日本に一カ月ばかり来ていたことがある。多くの場合、小学生の母親は子供に付き添うようにして勉強をみているので、「子供はどうしてるの?」と聞いたら、「学校の先生にお金と贈り物をして頼んであるから安心なの」と言っていた。  また私の姉は、小学校二年生と三年生の子供をもっている。私は「いろいろ案内するから日本に遊びに来ない?」と誘ったことがあるが、姉はそのとき「毎月の試験の競争が激しくて、いつも私が側《そば》でみてないと成績が下がってしまうから行けないわ」と言うのだった。  子供が高校に入れば、教育ママたちは、子供の毎日の勉強のため、よりよい条件づくりに忙しく働く。また、資料を集めたりしながらどの大学のどの学部へ行くかまでを決め、子供にそれを目指して勉強をするように方向づけてやる。  お金持ちの家ではそれこそ湯水のように投資を惜しまず、また貧乏な家では家計をきりつめ、親の服や靴は粗末なものですまし、借金をしてでも子供への投資に努力を傾ける。  こうして、わが身を削り、磨くだけ磨いてきた宝物であるだけに、子供が親の期待とは異なった方向に進みたいと言おうものなら、母親はほとんど絶望せんばかりの悲しみとともに、大きな怒りを表す。母の努力に報いるという倫理が、母の欲望の犠牲を数多くつくり出してしまうのも事実である。  私があるアメリカ人の若い女性にこういう話をしたら、彼女は「結婚前は韓国で生活し、結婚後はアメリカで生活したい」と言って笑ったので、私も思わずつられて笑ったが、その途端にすぐ笑いが冷めて、何か急に気が重くなったことを覚えている。それは、彼女のジョークによって、私自身がそんな気分になっていることを、見透かされたような気がしたからである。 男への復《ふく》讐《しゆう》を開始した女たち  このように、子供への独占的な愛をあますことなく表す韓国の母親たちは、最近では夫に対してもそれを同じように向けようとしはじめている。たとえば、夫の浮気の相手である女に包丁を持って切りかかり、怪《け》我《が》を負わせたという事件が近年韓国で起こっている。それに類似した、夫の浮気の相手の女と妻との激しい衝突が、このところかなり起きるようになっているのだ。これまで夫の浮気には目をつむってきた女たちに、ようやく反抗の兆しが見えて来たのである。  この背景には、前にも述べたような、女の権利を保護する法律の制定もあるが、それが主な原因とは思えない。  たとえば、夫の姦《かん》通《つう》に対しては、夫と相手の女を妻が告訴することができ、その罪はかなり重い。しかし、告訴をすれば自動的に離婚しなくてはならないようになっている。さらに、処女性を重んじる韓国では結婚外の性交についてはすべて男に責任が負わされる。また、日本と同じように結婚詐欺罪もある。しかし現実には、これらの告訴を行なう場合は、女はまともな結婚をあきらめる覚悟が必要である。  それでも、妻たちが男の身勝手な性関係への反抗をあらわにしはじめたところには、ある程度、離婚もやむを得ないという意識がどこかにあるはずだ。確かに、女の独占欲を子供だけに向けさせるような社会にひずみが走りはじめたのである。女と男の役割をはっきりと区別することができていてはじめて、女が夫の浮気を「やむを得ない」こととして容認するのであり、もともと韓国の女が男の浮気を認めているわけではない。この区別がいま、ようやく崩壊の危機を迎えているのである。  それはなぜなのだろう?  私はその決定的な要因を、日本の社会の存在と見るのだが、もちろんその契機は韓国内部にある。それを社会的に言えば中間階層の増大であり、社会の情報化の進展であるだろう。しかしそこにも、日本で「戦後女が強くなった」と言われたような場合とは、どうも異なる問題があるように思う。  韓国は男の浮気天国であるとともに、浮気はすぐにばれるようにできている。韓国の男たちは感情をごまかすことが大の苦手で、すぐに表情に出てしまうのだ。そして、韓国では妻よりは愛人により愛情をそそぎ、またお金を使うことが一般的でもある。そうした夫の気持ちも、妻たちにはガラス張りの部屋のように、手にとるように見えてしまう。そして、目に見えた形で心の真実を問題にするのが韓国人だ。  それにもかかわらず、妻たちがそれほど文句を言うことがなかったのは、おそらくは、子供を産み育てることが、社会のなかでもトップクラスの尊重すべき価値としてあったからだった。子供は将来親を養ってくれるから宝なのだという家族の意識は、社会的には次の時代を彼らが作っていくことを信じる意識である。したがって、社会がこのことを信じている限り、女たちは我慢し続けたに違いない。  韓国でいまほんとうに崩れはじめているのは、この信じ方であるような気がしてならない。  経済が急成長し、それが突然頭打ちになるという事態は、韓国の社会に大きな価値観の揺らぎをつくり出した。人を産むことよりも物を産むことの重視が進む一方で、手塩にかけて産み育てた者をあぶれさせてしまう生産社会。たとえば、大学を出ても就職先がなく、展望のないまま就職浪人で年を過ごす人たちが年々増えてきている。  これまで信じられてきた価値が社会に不安な揺らぎを作り出す。そこで、韓国の妻たちがまず夫の浮気への反発という形で動きはじめたことは充分納得いくことであるように思う。なぜならば、妻たちがいま男を責めている姿は、処女性を重んじ、一人の人だけを愛し続けなくてはならないという、男の押しつけた倫理を、その正反対を生きてきた男たちにそっくりそのまま返して行こうとする、歴史的な復《ふく》讐《しゆう》と見ることができるからである。 新しい時代のチマパラム  韓国でも最近は核家族化が進んでおり、子供が学校に行くようになると家で特別にする仕事がないため、暇な時間を持つことのできる女たちが増えて来ている。日本では女がそうした年齢に達した以後の人生を女性の第三期と言い、女たちは再び仕事に出たり、文化活動に専念したりしながら、子育て以後の活発な人生を展開している。韓国では、そうした女たちが向き合える人生の場がまったくない。そこにまた、さまざまな問題が生じることになる。  いわゆる韓国の有閑マダムたちで、ある程度経済的な余裕のある者たちは、サウナやスポーツクラブに行ったりするのだが、一般的には友だちどうしがどこかの家に集まって花札をすることが多い。そして、しだいに遊び友だちの間に日本のネズミ講さながらのケーが流《は》行《や》っていく。このケーで得たお金で女たちが誘い合い、キャバレーへと繰り出すのである。  こうした遊びが地についてくると、次には韓国でチェビゾクというホストクラブでの遊びへと発展する。こうして遊びに深入りし、若い男たちにお金を貢《みつ》ぐことの楽しみを覚え、男以上に気前よくお金を使うようになる有閑マダムたちが多いという。  いま述べたような女たちの一連の動きをチマパラム(スカートの風)と言っている。チマパラムという言葉は、女が浮気をしたり、あるいは社会へ出てワアワアと騒がしくすることを意味している。  かつて韓国の男たちが、盛んに中近東に出稼ぎに行ったことがあった。そのころ、亭主から送られてくるお金をチェビゾクに投資したり、愛人をつくってしまう女たちがかなり登場して、ひとつの社会問題ともなった。このときにも、チマパラムが起こったと言われたものである。  圧迫を受け続け、一時的に圧迫がなくなったことから生じた反動には違いない。それでも、条件さえあれば、韓国の女たちも家の外に自由を求めて行動することがあり得ることを、これらのことは物語っている。  男たちが、世の中のことを知った女はチマパラムを起こす可能性が高いと言って、社会のことを何も知らない箱入り娘を結婚相手に望むことが多い。そして、結婚してからも、妻を社会的な場にできるだけ触れさせないようにする。確かにそうした男たちの見方は正確である。いま、社会のことを少しずつわかりはじめてきた韓国の女たちのなかに、ホストクラブの遊びに行き着くようなものとは別の、新しいチマパラムが起こりつつある。  日本の韓国人ホステスは新宿歌舞伎町だけで約三〇〇〇人、赤坂にそれ以上、さらに上野が大きな拠点としてあり、その他の繁華街にも入り込んでいる。東京だけでも一万人を越えるとみられるが、その他に、留学生をはじめ、工員、雑役、料理店員などの仕事をしている女たちもまた、かなりな数にのぼるだろう。  仕事をして自分の力で生活すること。そうした女たちの動きがようやく、日本の社会を背景に、韓国の女の歴史の地平線上に浮かび上がってきている。 第4章 韓国人と日本人 知り合おうとしない隣人たち 理解しがたい日本人の「あいまいさ」  私はいまでも、外国人留学生たちが集まる国際サークルに行くことがよくあるが、日本へ来て三年近く経《た》ったある時期、頻繁に足を運んだことがある。欧米人やアジア諸国の人たちとしきりに話したかったのである。  そのころ、私は日本人特有の「あいまいさ」をどう理解したらいいかがわからなくて深刻に悩んでいた。他の外国人たちはどう考えているのだろうかと、盛んに彼らの話を聞いて回ったのである。そして聞く先々で、彼らが私以上に理解していないことを知らされ、愕《がく》然《ぜん》とするとともに、余計に落ちこんでしまったことを覚えている。  深いところでは、韓国人は日本人以上に、多くの外国人たちに理解されていないと言えるのだが、表面的にはきわめて欧米人と韓国人は互いの理解がしやすいのである。まず第一に、欧米人も韓国人も言いたいことをはっきりと言う。これで、ともかくも、相手が何を考えているかを知ることができ、一応コミュニケーションが成立する。  ところが日本人はそうはいかない。たとえば自宅を訪ねて来た日本人に、「コーヒーにしますか? それともお茶にしますか?」と聞くと、「どちらでもけっこうです」と言う人が多い。これがわからない。何か食事をとろうと、「何がいいですか?」と聞くと、「なんでもいいです」と言う人が多い。仕方がないので、「お寿《す》司《し》にしますか? 丼《どんぶり》ものにしますか?」と聞くと、またまた「どちらでもけっこうです」となる。これであっけにとられる外国人が多いのだ。  先にも述べたように、学生と話してみても、彼らにはよりよい成績を取りたいという欲望が感じられない、ビジネスマンと話してみても、出世してトップを目指そうとする夢もないようだ、歳《とし》をとったら仕事をやめて、楽をしてのんびりと暮らして生きたいという気持ちもないようだ、いくら話をしても、はっきりとした自分の主張が出てこない、いったい彼らは何を考えているのか、ということになってしまう。  ようするに、ただただ毎日学校に通い、また職場の仕事をこなし、死ぬまで仕事を続けること、それ自体に喜びを感じているとしか思えないような反応が、多くの日本の男たちから返ってくるのだ。そこで、「何が楽しくて仕事をしているのだろうか」ということになり、結局、日本人が何のために人生を送っているのかがわからなくなる。  こうして、外国人にとっては日本人が実に得体の知れない存在と見えてくることになるのだ。  物事の見方についても同じようなことが言える。私が通訳で出席するさまざまなビジネスの会合にも、いつもこの「あいまいさ」が登場する。  ある問題について、ある人がとうとうと自分の見解を述べたてる。論理的に緻《ち》密《みつ》な分析を披露しながら、問題点を煮詰め、結論へと話をもってゆく。ところが、そのように話を進めながら、「しかし、一概にそうとも言えません」「あくまでこれは論理であって、感じ方は個々あろうと思います」など、わざわざ自分の立論を崩すような話をあちこちに挟むのである。そして、最後に「これは私一個人の見方で……皆様のご批判を仰ぎたい」と断るのである。  だいたいがこのようなパターンで話が進められる。どうみても、自分が正しいと思う考えを一貫させて他人を説得しようという話しぶりではないのだ。議論の常道から言えば、相手に弱点を自らさらけ出すようなもの。自分の意見というよりは、まるで他人の意見を紹介するような感じである。  集団のシステムもあいまいである。たとえば、私がある日本の代表的な企業グループの支社長クラスの人に聞いた話である。特定の取引については、しかるべき手続きをとることが、グループのトップの会議で決定されて本社から各社に通達される。ところが、取引の現場では、いちいちそのようなことをしていたらビジネスがスムースに運ばないことも少なくない。そこで、決まりは決まりだけれども、わざわざ本社との間で所定の手続きを踏まないケースがたくさんあるし、また本社もそれに対して文句を言うこともなく、黙認しているのだと言う。  こういうやり方は韓国の企業では考えられない。それは欧米の企業にしても同じことであるに違いない。多少の犠牲を覚悟のうえで最大公約数を求め、それを基準にメンバーが一致して行動することは、民主主義の基本でもある。ところが、トップの指令といえども、ケースバイケースのあいまいな含みのなかで、流動的に解釈されるのが日本なのだ。  個人にしても集団にしても、どこに主体があるのかわからない日本。が、その日本が、世界の奇《き》蹟《せき》と言われる経済成長を達成し、なおかつ世界で最も貧富の差の小さい豊かな社会を実現させている。批判を行なうべき点が多々あるにせよ、まずはこうした事実をきちんと評価することを、韓国人も日本人自身も課題とすべきであるように思う。 人の話を聞いたら負け 「あいまいさ」に加えて、日本人のもう一つの特徴は、自己主張があまり見られない反面、人の話をよく聞く、ということである。そのため、日本人からはしばしば、「韓国人は人の話を聞く耳をもたない」と言われる。  それはそのとおりだと思う。韓国人は、話を聞く側にいるのは能力がないからであり、人に話を聞かせることのできる者が能力ある者だと考える。そこで、人の話を聞くよりも自分の話を人に聞かせることに努力を傾けるのである。  韓国ではよく、「女が三人寄れば皿に穴があく」と言う。日本では「女が三人寄ればかしましい」だが、このニュアンスの違いは、かなり韓日の国民性の違いのポイントをついているように思う。「かしましい」と言えば、雑然とした騒がしさで、とりとめもなく拡散するイメージだが、「皿に穴があく」と言えば、何か鋭い力が同じ一点にぐんぐん集中するような感じだ。  韓国では女に限らず、人々が集まればみな大きな声を出して自分を主張しようとする。そしておのずと、声が大きく言葉数の多い人が話の中心になってゆく。そこでは、人の話を聞いてしまったら負けであり、相手に判断の余裕を与えることなく、「よいか、悪いか」「好きか、嫌いか」など、いち早く答えることが望まれる。じっくり考えていようものなら、「鈍い」と言われることになるから、とにかく思いついたことをパッと答えることになる。  声が小さい、しゃべり方のゆっくりした人に話すチャンスを与えようなどという配慮はまずされることがない。もっとも、韓国人にそういう人はあまりいない。だいたいが、自己主張の覇権争いとなる。そのため、抜きんでた強さがないと自分の考えをとおすことが難しい。  したがって、多くの者たちが、強い個性の者が話している間、どこかイライラした気分を抱え込むことになっている。ところが、日本人が相手だと、ほとんどが聞く側に回ってくれるので、韓国人は大いに快感を感じることができるのだ。人の話を聞いてゆっくり考えている日本人は、なんと頭が悪いのだろうと思えてしまうので、しばしの優越感にひたることができるのである。  こうした「自己主張」をめぐる国民性の違いは、教育のやり方の面でも、かなりくっきりとした対照を映し出していて面白い。  韓国の小学校で先生が子供たちに質問するときには、先生は必ず第三者の立場から「これは何ですか?」というように、生徒一人一人に問いかける。「先生はこう思うんだけど、みんなはどうかな?」などとは決して言わない。  先生が質問すると、子供たちは競って手を挙げる。手を挙げなければ主張がないとみなされるからだ。このとき子供は「なになにです」とはっきり答えなければならない。それをもし「なになにだと思います」と答えれば、「無責任な答えをするな」と先生に叱《しか》られる。先生は子供たちに、「答えに自信がなくても、はっきり『こうです』と主張しなさい。それで間違っても本人の責任だと心得なさい」と教える。  大学でも事情は変わらない。先生が提出したテーマに一人一人が答えることが授業であり、学生たちはテーマを受けて、どれだけ立派なレポートを発表できるかに集中して授業に臨む。  私もこうした韓国の授業に慣れていたので、日本の大学の授業を受けて面食らうことがずいぶん多かった。たとえば、あるレポート発表の日のことである。  四〇人くらいのクラスで留学生は私一人だった。私は日本人に負けないような立派なレポートを発表しようと意気に燃えていた。私は、他の学生たちが発表する間もそれを聞くことなく、自分のレポートを読み返し内容を反《はん》芻《すう》することに集中していた。やがて私の名前が呼ばれたので立ち上がり発表しようとすると、教授は「前に発表した人のレポートのアウトラインを説明し、感想を述べなさい」と言う。あわてた私は、日本語が難しくて内容がよくつかめなかったと逃げてしまった。  韓国の授業ではこのような質問をされることはまったくなかった。思い返してみれば、私は韓国での学生時代、他の学生のレポートに関心を持って耳を傾けたことは一度もなかったのである。日本の大学で学んで、私は世の中には「人の話を聞かなかったら負け」があることを、身をもって知らされたのである。 一人一人に力がないことを教える日本の学校  もう少し韓日の学校の授業の違いについてお話ししてみたい。  たとえば、韓国の学校で英語の単語を一〇コ書く試験があったとすると、これはだれが一〇コの単語を完《かん》璧《ぺき》に覚えることができるかの競争以外のものではない。この、他人をしのごうとする意志が勉強への意志そのものとなるように、授業のシステムがつくられている。そして、一〇コできた人は八コしかできなかった人より立派で、八コできた人は五コしかできなかった人より立派だという評価がはっきりと行なわれる。韓国ではこの場合、より多くできた人はそれ以下しかできなかった人には何も学ぶことはないと無視してよい、あるいは無視をしなくてはならないと言ってもよいほど、知識の上下関係が決定的に価値づけられる。こうして一番、二番、三番……という成績の順列が明示され、それが学生の価値の順列であることがはっきりと打ち出される。  日本の大学では、他人の成績を知ることすらない環境で、ともかくも単位さえ取ればよいという気分からか、学生一般がしごくのんびりとしているように見える。授業の進め方も韓国とはおよそ異なっている。たとえば、英語の単語一〇コの語源を探しなさいという問題が出されたときのことである。  教授は、一〇コもの語源調べは一人ではかなり難しいから、四、五名がグループになって、一人が二つずつの単語を分担するようにと言う。私も近い仲間と誘い合って五人のグループをつくり、私は私の分担である二つの単語の語源を調べるため、図書館へ行ったり文献を探して書店を歩いたりした。こうして二つの語源を探しあてた一人一人が集まって突き合わせ、全員が一〇コの単語の語源を知ることになる。  こうした授業を受けて私は、「なるほど」と感じることがあった。日本人の集団意識がどう形成されるかの一端をのぞいたように思えたのである。まず、自分がさぼると他人に迷惑がかかる。また力のある友だちがいないと自分も生きてこない。一人一人の不充分な知識を寄せてみると、短い時間で突破口が見えてくる。安心して、自分の分担だけを深く突っ込んで調べることができる——。  聞いてみると、こうした教え方は小学校のときから行なわれている。それだけの素地があれば、確かに社会に出て仕事に就いても、自分に与えられた分野だけを深く突っ込むことに専念できるだろう。私が話を聞いた多くの日本人ビジネスマンたちが、仕事を面白いと言い、仕事を遊びのように感じていることも、こうした背景を考えれば充分に納得がゆく。  欧米の人たちはしばしば、「日本人は仕事と遊びの区別がついていない、お酒を飲むのもゴルフをするのも、ほとんどがビジネスがらみだ、仕事を忘れて純粋に遊ぶことができない人たちだね」と笑う。欧米人にとっても韓国人にとっても、仕事はひとつの苦痛であり、遊びは快楽である。ところが、日本人にとって仕事は苦痛ではない。逆に、遊ぶことしかなくて仕事ができないことの方が苦痛なのだ。確かに日本の男にとって、いや最近の日本のキャリア・ウーマンにとっても仕事は恋人なのである。  日本のビジネスマンはだれが見ても仕事熱心だが、大学生はあまり勉強熱心ではないように見える。韓国の学生は実によく勉強するけれども、日本の学生はいつ勉強しているのかわからない。遊んでばかりいるように見えるのだ。  しかも日本人は、一生懸命に勉強する者を「ガリ勉」と軽《けい》蔑《べつ》的な言葉で表現する。韓国人が「ガリ勉」という言葉のニュアンスを理解するのは難しい。韓国では「ガリ勉」は模範とすべき勤勉以外の何ものでもないからだ。  しかし、日本の学生がみんな勉強をしないわけではない。現実にはかなりのガリ勉がいるのに、だれもが決して自分をガリ勉のようには見せないのだ。私の体験から言うと、これは人づき合いのなかでの心理的な負担をずいぶんと軽くしてくれる。韓国ではだれもが反対にガリ勉のように振る舞うから、常に人間関係から圧迫を受けることになる。また本人の方も、突っ張り続けなくてはならないから心理的な負担が大きいのである。  このへんにも、自分一人の力の弱さをアピールし、他者との協調をつくっていこうとする日本人の行動様式を見ることができる。これを「もたれあい」と批判する人が多いけれども、前にも述べたように、現実には韓国人の方が同族的・同郷的な「もたれあい」が顕著なのである。 韓国人には見られない日本人の反省思考  もうひとつ、韓国の教育との比較で言えば、日本では物事を反省させる教育が盛んに行なわれていると思う。「何かと言えばすぐ反省させる」とあまり評判がよくないようだが、反省的な思考は日本人の大きな利点であるように思われる。  生活面での行為に対する反省だけではなく、授業でも試験でも、ある結果に対して「なぜこうなったのか?」を考えさせる設問が出されることが多い。この点も韓国とは大きく違っている。  韓国では、ある努力の結果、目的が半分しか達成できなかったような場合、半分でも達成できたことがいかに評価に値するかを教える。しかし日本では多くの場合、「なぜ半分しか達成できなかったのか?」と設問が投げかけられ、反省的な思考が要請されるのである。  このような教育の違いは当然ながら現実の社会に大きく反映している。日本でならば、他人のアイデアに対して、「ここが足りない」と指摘すると感謝されることが多いが、韓国人だと気分をこわし怒ってしまうのが普通だ。自分の弱点を反省するよりも、弱いと指摘されることへの耐えがたさが先にたつのである。  日本人の友だちの家に遊びに行ったときの話である。紹介されたご主人は有名な家電販売会社にお勤めだとのこと。ちょうどそのとき、その会社のある商品が爆発的に売れていたので、私は「ずいぶん業績を上げていらっしゃるのでしょうね」と、まあ日本的な挨《あい》拶《さつ》のつもりで言葉をかけた。すると彼は、「確かに売れています。でも、まだまだ営業部門が弱くて、もっとお客さんのサービスに力を入れないと、すぐに抜かれてしまいますよ」と笑いながら言う。特にどうということもない会話だが、韓国人の男には「女の私に」こんな言い方をする人はまずいない。  日本的なお世辞と謙《けん》遜《そん》の交流には違いないが、謙遜が単なる自己卑下ではなく、自然な反省として伝わってくることがほとんどである。  太平洋戦争の話をすれば、日本人からは反省の言葉がまず口をついて出る。韓国人はそれを聞きながら、当然とばかりにうなずくのだが、自らの側の反省をいっこうにしようとはしない。すべてが日本の責任であり、自分たちは被害者だというお決まりのパターンなのだ。なぜ自分たちは植民地支配を許してしまったのか、許してしまった自分たちの側の弱点は何だったのかと反省する姿勢は、教科書にもまったく見ることができない。  日本人は南北分断を自らの責任であるかのように言い、歴史的な過ちを深く反省する姿勢を隠さない。それでもなお、日本国内には「反省が足りない」の声の絶えることがない。しかし、いかに米ソの軍事制圧下にあったとは言え、私たちが銃をとって同じ民族どうしで殺し合いをしたことは隠すことのできない事実である。なぜひとつになって「非戦」の姿勢をとることができなかったのか——この反省ももちろん行なわれた例《ためし》がない。  インドやインドネシアの独立が、西欧列強のアジア支配に対する日本のアジア進出を契機にもたらされたことは、まぎれもない世界史的な事実であるのに、日本人は決して日本が独立に貢献したと語ろうとはしない。太平洋戦争はすべて日本が悪かった——日本人はこの姿勢をずっと取り続けようとしている。なんとお人よしの民族かと思わずにはいられないが、こうした反省的な思考が、結局はいま、日本に勝利を収めさせていることに、韓国人は気づかなくてはならないだろう。 トウガラシの韓国とワサビの日本  欧米の人たちに韓国人と日本人の印象を聞いてみると、韓国人はとにかく気性が激しく、日本人はおとなしいと言う。確かに、韓国人は一般的にきわめて感情が激しく、何をするにも情熱的に心を傾ける民族だ。恋人に対しては言うまでもなく、友だちに対しても、親や子に対してもその愛は情熱的だ。したがって、それだけ嫉《しつ》妬《と》心《しん》も強く、恨みの意識も根深いものとなる。感情の起伏もきわめて激しいのだ。  こうした国から日本へやって来た私は、最初は、日本人はなんて冷たい人たちばかりなのだろうと感じていた。感情があるのかないのか、好きなのか嫌いなのか、得体の知れない不安感に陥ってしまった。情熱を燃やしていると見えるのは暴走族の若者くらいで、青春の特権とも言える、政治と恋と芸術に情熱を燃やす若者の姿はほとんど見られない。ともかくも、おとなしい人たちだという印象だった。  あるとき、テレビでトウガラシとワサビが人体に与える作用の差についての番組を見た。そして、この韓日両国を代表するふたつの香辛料が、あまりにも両国の国民性を上手に物語っていることを知って感心させられたことがある。ふたつとも辛いことは同じだが、身体が受ける反応は大きく異なるのである。  番組ではだいたい次のような違いが、人体内部を循環する血液の動きを映し出しながら紹介されていた。  トウガラシを食べたときの人間の血液は身体全体をめぐりながらも、とくに頭部の方へのかたよりを見せる。したがって、トウガラシを食べると神経に刺激を与え、血液の循環をよくし、食欲を増進させる。また脂肪分を分解する役割をするため、太り過ぎを防止するが、同時に精神的に興奮しやすい作用を産み出してもいる。  一方、ワサビを食べたときの血液は、トウガラシとは逆に心臓の方へのかたよりを見せている。そのため、ワサビを食べると鎮静作用が働き、精神に落ち着きをもたらしてくれる。  まさにズバリ、韓日の国民性の違いが指摘されているようで、思わず「なるほど」とうなずいたものである。  事実、韓国人には太っている人が少ない。スタイルのよい人が多いのだ。そして、社会全体がカッカしていることは間違いない。落ち着きがないというよりは、むしろ平穏無事な社会が続くことの方にイライラを感じるようなところがある。何か事を起こして常に人々の注目を浴びていたいのである。そういう意味ではことさらな他意があるわけではない。  おおむね、日本に対して神経が逆立ちしているような社会が韓国のものである。日本の社会は、事が起こればどう鎮《しず》めるかに関係者が努力する社会である。「興」を好む社会と「鎮」を好む社会と言ってもよいかもしれない。  ののしりあいや大声を上げての喧《けん》嘩《か》は、韓国では珍しくもないから、強いて止めようとする人は少ない。喧嘩と大声は、韓国では一般的なストレス解消法でもある。「日本人のように我慢ばかりしていたら病気になってしまう」とは、韓国人がよく口にすることである。  夜遅くの盛り場では、客とホステスの口争いがあちこちで見られる。だいたいは、ホステスの「チップが少ない」という文句からはじまる。また、道路の混雑する夕方にタクシーに乗ると、運転手の態度に怖くなることがしばしばだ。朝から働いて疲れている上に、混雑した道路を走らされるわけだからわからないでもないが、それにしてもまるで客が罪人でもあるかのような口振りなのだ。クラクションをガンガン鳴らし、急加速に急ブレーキを繰り返す。文句を言おうものなら確実に喧嘩になる。  日本に来てワサビの味を知ってしまった私は、たまにソウルの町をめぐるとぐったりと疲れてしまう。もちろん、ソウルの町の喧《けん》騒《そう》はトウガラシのせいばかりではあるまい。また、人口密度が高いからと言っても、それはどこの世界都市でも同じこと、ソウルだけに特有なことでもない。だとすれば、韓国社会の仕組みは、どこかストレスが溜《た》まるように出来ているのではないだろうか。  そこで、韓国にワサビが普及したらどうなるだろうか……と夢想するのである。しかし、ワサビと言えば日本、日本と言えばワサビ、反日感情の強さから言って、日本のにおい漂うこの香辛料が普及することを望まない人が多いに違いない。 日本語は受け身の言語である  日本人の特徴は、なんといっても言葉遣いにあると思う。そこで、少し日本語についてお話ししてみたい。  あるとき、自分の考えはあまり日本人的ではないと強調する日本人と話していて、失礼ながら思わず吹き出してしまったことがある。言葉遣いがあまりにも日本人的で、そこに当人の意識とは無関係に、日本人的な性格が隠しようもなく表れていたからである。それは、受け身形を用いる日本人独得の言葉遣いである。  たとえば、「どろぼうに入られた」という遣い方。受け身形はもちろん英語などにもあるが、英語でも会話ではまず使用されることのない用法だ。そもそも韓国語には受け身の発想がないから、このへんが日本語の勉強ではとくに難しい。韓国では「どろぼうが私の家に入った」と、どろぼうが主語になるのである。  〜に言われた、〜に逃げられた、〜に褒《ほ》められた、などの「〜された」という発想すら理解するのが難しいのだから、〜に取り残された、〜飲まされた、〜買わされた、などの「〜させられた」という使役の受け身形となると、もはや、なんのことやらさっぱりわからなくなる。しかも、これがわからなくては日本語がほとんどわからないと同じことになるから、これらの用法を理解することが、日本語を理解する上では大きなポイントとなる。  私もはじめのうちは、「どろぼう」を主語にすればよいものを、なぜわざわざ受け身にしなくてはならないのか、どんな必要があるのかと考えて壁にぶつかっていた。そしてあるとき、「受け身形にすれば常に主語が『私』になる」ということの意味に気がついた。「どろぼうに入られた」は「私はどろぼうに入られた」なのだ。主語を省略した言い方であることは当然わかっていた。しかし、主語を書き加えてみることで、私はようやく、「どろぼうが悪い」ということよりも、「責任が私にある」ことを問題にしようとする発想がそこに潜んでいることを知ったのである。  韓国語の用法からすれば、主語は「どろぼう」だから、何よりもまず「どろぼうが悪い」ことを問題にしようとする発想であることがわかる。つまり、加害の側の責任を問うているのである。これは単に言語表現の形式上の違いだけではなく、人々の無意識を規制する発想の違いとみなくてはならない。  たとえば、車の接触事故を起こした場合、韓国人はどちらが悪かったかと考えるより先に、まずは悪いのは相手で自分は被害者だという意識を持ってしまう。そうして、あくまで自己正当化に執《しつ》拗《よう》な力を注ぐのである。最近は日本人でもそうだと言われるが、それは損害賠償責任の問題があるからで、真意は別にあるとみた方がよい。  一方、使役の受け身形の場合は、「残業をさせられた」「煮湯を飲まされた」「高い物を買わされた」というような目にあった自分が情けないわけであって、だから「気分が悪い」というニュアンスをそこに受け取らないと、まるで理解が不可能になってしまう。  通常の受け身形になり得るのは、せいぜい「叱《しか》られた」を「叱りを受けた」、「頼まれた」を「頼みを受けた」、「言われた」を「言葉を聞いた」などで、いくつかは名詞化して使うことができる。しかし、「逃げられた」を「逃げを受けた」とは使えないし、「見られた」「聞かれた」も名詞化のしようがない。なぜそうなのかが理屈の問題ではないだけに、外国人には覚えるのが難しいのである。  こうした用法で最も理解し難いのが「あなたに死なれるとこまる」という言い方である。この言い方では、もし日本語の用法を知らなければ、「あなたが私を殺すとこまる」という意味にとられてしまうのだ。この用法で私もたびたび驚かされたものである。  知り合いの韓国人にこの話をしたとき、なぜ「あなたが死ぬと私がこまる」と率直に言わないで、ぐるりと反対に回したような言い方をするのか、その気持ちがわからない、日本人は二重人格なのではないか、と言われたことがある。  日本人に聞いてみても、ほとんどの人が「そう言えばそうねえ、なぜそんな言い方するのかしら?」と、おおむね自覚されていない。これは「どろぼうに入られた」でも「女房に逃げられた」でも同じこと、やはりそこには「その現象を生んだ責任、あるいは生むかもしれない責任は自分にある」ことを示そうとする気持ちが語られているのである。  したがって、「あなたに死なれるとこまる」を正確に言えば、「あなたは私にとって必要な人だから、あなたが死ぬような目にあわないようにする責任が私にはある、だから危ないことはしないで欲しい」となるように思う。そう解釈しなければ、なぜ「こまる」のかがまるでわからなくなってしまう。他の解釈の仕方もあるようだが、私はこう考えるのがよいと思う。  およそ日本語は、短い言葉のなかでたくさんの内容が語られる言語である。また、話す相手によって、話される場によって、同じ言葉でもそこに盛られる意味が違ってくる言語である。そのために、話されるわずかな言葉のなかに、相手の言わんとする内容を聞く側で探さなくてはならない言語である。  日本人がこうした言語の発想を背景に持っているため、まともに渡り合おうとすればするほど、外国人は疲れることになる。日本語と同じ内容を伝えるのに、韓国人ならば倍の言葉を必要とする。そのため日本人からは逆に、「韓国人は話が多くてとても疲れる」と言われることになるのである。 なぜ日本人は「〜させて下さい」と言うのか  日本語の使役の用法でさらに重要なものが、「〜させて下さい」「〜させていただきます」という言葉遣いだ。こうした表現も韓国語にはない。  この言葉遣いからは、「自分の行動は相手にお願いして行なうべきものだ」という、無意識の発想を受け取ることができる。たとえば「失礼させて下さい」と言って上着を脱げば、「上着を脱ぐことは礼を失したことではあるが、どうか認めて欲しい」と、相手にお願いをして許しを乞《こ》う言葉である。  ところが、この用法が「自分の行為の許しを願う」言い方だということがわかっただけでは、ほんとうに日本語をわかったことにはならない。だから日本語は難しいのである。  たとえば、韓国では大統領が演説を終えるときに「これで終わります」と言うのだが、テレビを見ていて、日本の首相が「これで終わらせていただきます」と言ったのにはびっくりした。いやしくも一国の首相の言葉である。なぜ国民に演説を終えることをお願いするのか、もっと威厳をもってしかるべきではないか、なんと弱々しいのだろうと思ったものである。  またあるときは、行きつけの美容院へ行くと、「今日は休ませていただきます」と張り紙があった。私は日本語の意味を反《はん》芻《すう》しながら、自分勝手に休んでおきながら、なんでいまさらお客にお願いをするのか、どうにも解釈に苦しんだこともあった。  ある日、日本人の友だちが私のところに遊びに来たいと言うので待っていたのだが、何かお菓子でも買っておこうと思って、部屋に鍵《かぎ》をかけずに机の上に書き置きをして買物に出た。帰ってみると友だちはすでに来ていたが、買物に手間がかかったので、彼女はだいぶ私を待ったらしい。「何をしていたの?」と私が聞くと、彼女は「本を読ませてもらっていたの」と答える。そこで私は思わず、「いつ私が本を読んで欲しいと言ったの?」と言ってしまい、二人で大笑いしたことがある。  日本の会社で働いていたときにも、「今日、先月ご請求分のお支払いを振り込まさせていただきます」との電話をしばしば受けて、私は、支払いをすることがなぜ申し訳ないことなのか、いつも疑問に感じていた。  こんな話は日本人にはそれこそ疑問だろうが、生活体験なくして机の上だけで日本語をマスターすることは、ほとんど不可能だということなのである。  このような言葉遣いがあるから日本人が常に謙《けん》遜《そん》の姿勢をなくすことがないのか、謙遜の意識があるからこうした言葉遣いがなくならないのかという、ニワトリが先か、卵が先かの議論には意味がない。ただ少なくとも、こうした言葉遣いをしている限り、日本人から謙遜の意識も姿勢も消えることがなく、したがって、トゲのない柔らかな感覚をもって人と接することができるのは確かなことのように思われる。  また、こうした言葉の遣い方が小さいころから習慣づけられるため、相手の真意を思い計ってすばやく引き出せる力が身につき、また相手を知ろうとする興味と研究心が自然に発揮されてゆくことになるのだと思う。 二つの言葉の用法を使い分ける日本人  日本にももちろん、「〜させていただきます」だけでなく「〜します」の用法もある。「これからお金を送らせていただきます」ではなく、「これからお金を送ります」でもよいわけだ。でもこの場合のニュアンスは、「私の意志でお金を送りたいから送る」というもの。相手の立場を考える余裕を必要としない用法である。  日本語ではこの二つの用法が、ケースバイケースで使い分けられているのだ。韓国語には「〜したいから私の意志で〜する」という用法しかないから、そのまま韓国式の日本語を話すと、日本人には「なんて性格の強い人なんだろう」と思われてしまうことにもなる。が、これもまた言葉の形式だけの問題ではない。韓国人はしばしば、相手の立場より自分の都合を優先して、日本人をギョッとさせることがあるのだ。  たとえば、人と待ち合わせてよんどころない都合で時間に遅れたとしても、日本人ならば理由のいかんにかかわらず、まず自分の非礼を詫《わ》びるものだ。ところが韓国人は、自分が遅れた理由がいかに自分にとって重要なものだったかを力説する。これで日本人は、韓国人はなんて自分勝手なのだろうと思ってしまう。  日本で生活する韓国の女たちは、普通に話していると常に日本人からきつい女だと言われることになるため、そう言われないようにと、日本の女の言い方を真《ま》似《ね》しようとすることが多い。ただし、用法が難しいので、より語調の方に重きがかかっている。たとえば、「そちらにうかがわせていただいてよろしいでしょうか」と言うべきところを、声を小さくして「そちらに行きたいんですが、行ってもいいですか」と言うのである。  それでも、なんとか相手の意見を聞くつもりの言葉遣いにはなっている。しかし、どうしても「〜したい」という自分の意志を直接に表現する習慣は隠せない。この言葉遣いの違いが、韓国語を知らない日本の男と、なまじの日本語を話す韓国の女との間に、しばしばトラブルを発生させる一因ともなっている。  日本人と結婚した友だちが、かたことよりはもっと言葉が通じれば結婚生活がうまくいくと思って、懸命に日本語を覚えたのに、言葉が通じるようになったら、亭主との間に年中トラブルが発生するようになったと、困惑して相談にやって来たことがある。自分にはそんなつもりは決してないにもかかわらず、「自分勝手な言い方をするな」と怒られるのだそうだ。  日本人と結婚した韓国の女は、「国際結婚は三年間はうまくいくが、三年を過ぎてもうまくいく人は少ない」とよく言う。それは、言葉があまりできなかったときには可愛《かわい》がってくれていた亭主が、うまくなった妻の韓国式日本語に、神経をさかなでされたような思いを感ずるようになってゆくことが、大きな原因ともなっているように思う。  一方、妻の方も、日本語を覚えてゆくにしたがって、あたかも自分が罪人でもあるかのように、常に「〜させて欲しい」とへりくだって、自分に対してだけでなく、あちこちにお願いばかりしている夫を見るにつけ、しだいに魅力を薄れさせていくことが多い。相手にお願いを立てて頭をぺこぺこさせている様子は、韓国人にとっては無能力そのものに映ってしまうのである。 日本人の文章力  言葉の話をもう少し続けよう。  アメリカに留学して後に日本に勉強にやって来た韓国人の知り合いがいる。彼はアメリカで同じ留学生の日本女性と友だちになった。そこで気になったことが一つあると言う。それは、日本の友だちは英語の文章を実にきれいに書くが、それに比較すると自分のはかなり粗いと言わざるを得ないということだった。会話での英語の実力の差はほとんどないのに、文章の実力に格段の差がある。そこにどんな秘《ひ》訣《けつ》があるのだろうかとずっと考えていた。そして日本に来て、日本語の独得な受け身の形を勉強してみて、ようやく納得ができたと言う。  第三者の外国語をとおしてみてはじめて知ることになるのだが、日本人と比較すると韓国人の書く文章の方が、一般的に粗いと言えるように思う。韓国人の文章は、「AはBである」という直《ちよく》截《せつ》な表現が目立ち、日本人のように含みを持った文章、微妙なニュアンスを表現する文章が、なかなかうまくこなせないのである。  そこには確かに受け身形の問題もあるが、話し言葉とは違う、これまた日本語独得の文字の用法が大きいと思う。  日本語には、まったく同じ発音でも、文字で表現しなくてはわからない言葉がたくさんあるし、またニュアンスの異なる類似語もたくさんある。会話では同じ発音による意味の混同を避けるためもあって、それほど微妙な使い分けはされない。また会話では一般的に、あまり難しい言葉は使われないし、類似の意味の言葉をそれほど厳密に区別して使ってはいない。書き言葉ではそうした拘束がないため、さらに言葉が自由に使われることになるが、日本語には書き言葉でしか使わない言葉、あるいは表現方法がたくさんあるのである。  たとえば、「思う」と「考える」という言葉がある。これに対応する言葉は韓国には「センガクカダ」という言葉一つしかない。それで、日本語を勉強するときには、「考える」は頭で、「思う」は心でするものだと覚えることになる。しかし、この程度のことならばそれほど問題ではない。  日本語の書き言葉では、「思う」だけでも、他に「想う」「偲う」「恋う」「憶う」「懐う」など、さまざまな漢字を使って微妙な書き分けをすることができる。これをひとつひとつどんな場合に表現されるのかを覚えることは至難の技だ。さらに、「現れる」と「表れる」の違い、「聞く」と「聴く」の違いなど、いくら用例を見ても、どこがどう違うのか容易にはわからない言葉も多い。そして漢字とひらがなの他に、カタカナがあることがさらなる日本語の文章への戸惑いを形づくる。  そんなわけで、多くの日本人が日本語をこなし切れないような状況もあるのだが、私は日本語の簡略化には反対である。なぜなら、言葉は確実に意識を変えるからである。日本語のように、これだけ微細に人間の心のあり方や動きを、また自然の諸相を描写することのできる言葉は珍しいのではないだろうか。もし簡略化されれば、きっと言葉の数だけしか人間や自然を知ることができなくなってしまうに違いない。 敬語という日本語の壁  ところで、世界で最も敬語の多い言葉が韓国語である。いつ、どんなときに用いるかが決められているわけではなく、そのときどきの雰囲気によって使われると言ってよいが、韓国語の敬語は日本語とは逆に、自分の側に対しても用いられるのである。  たとえば、こちらから韓国の会社に韓国語で「社長をお願いします」と電話をすれば、相手が不在の場合なら「私の方の社長さまにおかれましては、いまはいらっしゃいません」と返事が返ってくるだろう。また、友だちの病気のお父さんの具合を尋ねれば、「私のお父さまにおかれましては、いまお身体をお痛がられておられます」といった具合なのである。なお、韓国語では「痛い」などの形容詞も敬語化される。  このように、外に対して身内に敬語を用いることは、日本語では決してあってはならない語法だが、韓国では逆に使うことが好ましい語法なのである。日本語をある程度使う韓国人たちも、敬語だけはどうも日本式の用法になじめない。そこでつい韓国式に敬語を使って、日本人に異様な感じを与えることになる場合がしばしばある。  韓国でも謙譲語は一般に用いられるが、日本語の「〜します」は韓国語ではそのまま謙譲語になっているので、日本語には「〜して差し上げます」としか訳せない。この言葉は韓国語では最大級の謙譲語である。それで、日本語を少し覚えた韓国人は、「教えて差し上げます」「助けて差し上げます」「送って差し上げます」「話をして差し上げます」と、「差し上げます」を連発することが多い。  しかし、日本語では「差し上げます」と言えば、「いくらかの犠牲を払ってサービスをして上げましょう」というほどの言葉になる。相手が困っているときなどのように、相手がそれを受けて当然と思われる場合に使うのが一般的である。相手に恩を着せることになるので、それを和らげるため、自分をへりくだった位置におこうとする言葉だ。したがって、これもケースバイケースで使わなくてはならない。  私の知る日本人食堂店主は、日本へ来て間もない韓国人の店員を雇っている。この店員が「差し上げます」をよく使うのだと言う。最初のうちは言葉を知らないのだからと、あまり気にしないようにしていたと言うが、「明日、旅行に行くから」と言って「送って差し上げます」と言われたり、自転車のパンクを直していて「手伝って差し上げます」とか言われているうちに、なんだか親切の押し売りをされているような感じがしてきたと苦笑いをしていた。  このように韓国人の日本語がなかなか韓国的な日本語から脱却できないのは、韓国人にとって日本語は、はじめのうちは覚えやすい言葉であるため、それがかえってあだになっている場合が多い。  日本語学校には世界のいろいろな国の人たちが勉強しているが、そのなかで最も早く日本語を覚えてしまうのが韓国人だ。それは、文章の語順が同じであり、同じ母音調和があり、漢字にも違和感がないため当然のことなのだ。が、そのためにいい気になり、ひととおり通じることで満足してしまう者が多く、さらに深く日本語を知ろうとする者が少ないのである。  一年も日本にいれば、どんな外国人でもその程度の日本語はマスターできる。問題はそれからなのである。そのへんからやっと、受け身の語法のある欧米人や、漢字の意味と用法にたけている中国人などが、日本語のコツをつかむ本領を発揮してゆくのだ。  そこで残念なことに、適当に日本語を話せる韓国人は外国人のなかでも圧倒的に多いにもかかわらず、深いところまで日本語を理解して使っているかどうかの点では、最もこころもとない部類に入れられることになってしまう。日本に一年いる韓国人も三年いる韓国人も、ほとんど日本語の実力に差がないのである。  韓国人にとって、日本語はかなり早く覚えられる言葉だが、すぐに壁にぶつかってしまう。それにはやはり、もともとの発想の違いが大きい。とくに敬語に関しては、私にしても、知識としてはわかっているのに、いざ使う段になるとすぐに出てこないこともあり、また間違ってしまうことも少なくないのである。 韓国語を習う日本のビジネスマンたち  私が韓国人と日本人の比較を語る場合、どうしても言葉の問題が多くなるのは、私が韓国人に日本語を教え、日本人に韓国語を教えるという仕事をしているからである。ここで、私という「教師」に向き合う両国の「生徒」たちのエピソードを少しご紹介してみたい。ただし、韓国人の場合はほとんどが新宿歌《か》舞《ぶ》伎《き》町《ちよう》のホステスであり、日本人の場合はほとんどがビジネスマンであることを考慮してお聞きいただきたい。したがって授業の時間帯も、前者は昼間、後者は夜ということになる。  まず日本人「生徒」の話である。  ほとんどの人が、受講をはじめたい月の一カ月くらい前に、申し込み金を添えて受講を申し込んで来る。授業の回数は毎週一回か二回を希望する人がほとんどだ。そうして、六カ月以上、一年〜二年と長い時間をかけてゆっくり覚えようとする人が多い。  授業は私のやり方にしたがって、整然と進められ、計画どおりに予定が消化されてゆく。そのことに対して意見を言う人は皆無である。そのため、私の教え方がいいのか悪いのか、どのように受け取られているのか、私にはまるでわからないが、私としてはずいぶんと気が楽なことは確かである。それでも彼らが、すぐに読み書きできるようになろうとは思わずに、文法からはじまって、着々と勉強していきたいと思っていることはよくわかる。したがって、私もそうした授業を進めていった。  あるとき、貿易会社の社長が二カ月ほど通った後に、仕事が忙しくなったからと私の教室をやめた。そしてしばらくたって、その社長から電話がかかってきたのだが、そのときに私は指導法に対してのかなりな批判を受けることになった。「学校のシステムが悪い」「教科書がよくない」「教える方法が悪い」などである。どうも、早く話せるようになりたかったらしい。  日本人から批判を受けたのは、後にも先にもこの社長だけであったが、ともかく批判も賞賛もなかったため、それまで私は自分の教え方を反省する機会がまったくなかった。だからこの批判は大変ありがたかったが、具体性に乏しく、実際の授業の参考にできることは少なかった。  それにしても、なぜ通っている間に私に指摘してくれなかったのかと私は言いたかった。そうすれば、私のやり方を再検討するなどして、辞めなくてもよいようにできたかもしれなかった。自己主張を抑えるのがいくら日本人的ではあっても、高いお金を払っているわけだから、自分の利益を守るためにも自己主張しないのはおかしい。しかも、利益を逸してから自己主張するのはなおさらおかしいと思う。  ただ、教え方とは別なことで指摘を受けたことがある。それは、私の日本語の敬語の遣い方であった。私の教室の「生徒」たちは、多くが韓日ビジネスに関係する企業の部長や課長クラスの人ばかりだった。そのため、私は自分の気がつかないうちに、例の「差し上げます」を連発していたのである。しかも、「私のお父さまにおかれましては……」の敬語も相当使っていたらしい。まだまだ無意識に日本語を使えていないのだ。このときから私は、敬語の使用にはかなり意識的にならざるを得ないことを知ったのである。 韓国人ホステスの日本語の学び方  次に韓国人「生徒」の話である。  私は教室の宣伝のために、韓国人のよく集まっている場所で定期的にパンフレットをまくようにしている。韓国人の場合はそれから、二、三日以内で勝負が決まる。勉強をしたいと思うものは、パンフレットを手にしてすぐに電話をかけて来るからだ。それでやって来た者は、ほとんどが明日から勉強したいと言う。こうして、二、三日たって集まって来た人たちでクラスを編成し、即授業開始となるのである。  時間割としては、週に二回、三回、四回のコースがあるが、ほとんどが四回コースを希望する。なかには週五回を希望する者もいる。いち早く覚えたいという気持ちでいることがよくわかる。日本人は週に一回か二回が普通だから、韓国人は一人で日本人三人分の収入を私にもたらしてくれることになる。  また、日本人が韓国語を習いたがる熱意よりも、韓国人が日本語を習いたがる熱意の方が数段高いため、その限りでは教えやすいと言える。しかし私は、日本人五人を相手に教えるより、韓国人一人を教える方が数段疲れるのである。  授業中のおしゃべりが多いのはよいとしても、ともかく身勝手なところが多いのである。たとえば、欠席するときには、必ず前もって連絡してくれるよう頼んであった。日本人でそれを守らなかった者は一人もいなかったが、韓国人で守る者はほとんどいなかった。そのために待たされたり、こちらから電話をしたりでずいぶん手間をとらされるのである。  韓国人の場合は、最初はかなり長い間勉強するつもりで来るのだが、これまでに三カ月以上続けて通った者はほとんどいない。したがって、日本人の授業料は六カ月でいくらと決めてあるが、同じように決めたら韓国人はだれも来ないだろう。韓国人には一カ月でいくらというシステムをつくらなくてはならない。  そして授業を進めるについては、日本語の文法を一つ一つ説明し、日本語と韓国語の違いなどから始めようとすると、「動詞、形容詞、形容動詞なんていらないから、はやく会話から教えて下さい」と、途端に文句を言われることになる。こうなるともうどうしようもないから、酒場で使えるような言葉をいくつか教えて興味をかき立てながら、「連体形ではこうよ、自動詞ではこうなの、他動詞だとこうなるのよ」と言いながら、自然に文法へと入っていく教え方を学んでいった。  しかしこの「授業改革」に関しては、教室を辞めた後で文句を言った日本人よりも、現場で直接私に文句を言った韓国人の方が、私にとってはより尊い糧《かて》になった。また「生徒」の方にしても、「授業改革」の要求もせずに上達のスピードの遅さを一方的に教える方に押しつけて辞め、再び新たな場を探さなくてはならなくなった日本人よりも、その場その場で言いたいことを言うことによって、結局、自分たちに合った教え方を結実させた韓国人の方が、より多くの糧を得ることができたはずである。  ともかくも、これだけ、大きな違いのあるふたつの国の人々と、そのときどきにきちんと向き合うには、自分にとっても相手にとっても、不必要な食い違いが起こることのないよう、かなりの努力を傾ける必要があった。そのため、私は一日の半分は日本人のように、一日の半分は韓国人のように振る舞うことを徹底しているうちに、いまでは、日本人でも韓国人でもない中途半端な人間になってしまったような気分に陥っている。  このように言っても、私はことさら「日本人論」を勉強したわけでも、日本文化や日本の伝統を学んだわけでもない。徹底して日本語の遣い方に注意し、日本的な生活習慣を身につけようとしたのである。そのように、私が日本語を知識や便宜のために利用しようとする意識を捨て、日常的な生き方として身につけようとしていったために、こんなところまでやって来てしまったのだと思える。 ビビンパとまぜごはん  このへんで言葉の話から少し離れて、食べ物について話してみたい。  韓国人に人気のある食べ物のひとつにビビンパがある。ビビンパは、ごはんの上にいろいろな野菜を載せてトウガラシの味《み》噌《そ》をかけ、これをまぜて食べる簡単な料理である。ビビンパはそのまま「まぜごはん」と訳せるが、日本のまぜごはんは最初からまぜてつくるのに対して、ビビンパは食べるときにまぜるところが違う。  ビビンパは古く、戦場で食事をしなくてはならなかった武将たちがはじめたものと言われる。簡単につくれる、食器も最少の一つですむ、しかも素早く食べることができ、充分な栄養を補給することができる——こうした戦場食の必要性から発生し、民間料理のひとつになっていったのがビビンパである。  韓国人はビビンパでなくとも、普通のごはんの上におかずをのせ、まぜて食べるとか、スープのなかにごはんを入れて食べたりするのが好きだ。一方、野菜は野菜、魚は魚、汁は汁というように、ひとつひとつの味を一緒にしないで食べることが日本人の伝統だ。それに対して韓国人は、いろいろな材料をまぜ合わせて、そこにいかにおいしい味を産み出すかを料理の第一の課題とするのである。  韓国のプルゴーギ(焼き肉)は世界でもかなり知られているが、なぜそれほど肉食が盛んでもない韓国の肉料理が有名になったのだろうか。肉そのもののおいしさではなく、いろいろな調味料をミックスしてつくられた、その独特の味が人気の秘密であることは間違いない。  日本のスーパーマーケットへ行くと、同じ牛肉でも、肩肉、ロース、すき焼き用、ステーキ用、シャブシャブ用などとさまざまな分類をして売っている。韓国では分類することなく、全部一括して牛肉として売っている。どの部分でも一斤(六〇〇グラム)単位で売るのである。この例でも、韓国では肉そのものではなく、調味料の加減でつくられる味の方に重きがおかれていることがわかる。キムチもそうした韓国料理の典型であり、日本のように白菜の味を生かした漬物ではなく、さまざまな材料を大量にまぜ入れて漬ける。  ある意味で、韓国の料理はすべてがビビンパなのである。多種類のものをまぜ合わせることによって、ひとつの料理でトータルな栄養補給を可能とするようにつくられるのだ。どれもが戦場食の条件を持っている。常に外敵に脅かされ続けて来た歴史が、このような食文化を産み出したのだろうと思う。 せっかちの歴史  このまぜる料理の歴史は、一方では手っ取り早さを好む歴史でもあり、その点では韓国人のせっかちな気質形成の歴史でもあったように思う。世界で人々が最も速く歩いている街がソウルだと言われる。そのソウルを外国人が見ると、韓国人はいたって勤勉な民族と見えるらしい。が、特別なことがなくとも、常にソウルの街は日本で言う「師走《しわす》」さながらのあわただしさのなかにある。  私も韓国にいるときは、半分は走っているような歩き方がクセになっていた。東京に来て間もないころは、そのすこぶるのろい人々の歩行の列の間を、イライラしながら駆け抜けていたものである。東南アジアに行ったときなどは、あまりにものんびりしている人々の姿には、情けなさすら感じていた。いまでは私もすっかりのろい人になったつもりでいるが、それでも日本人の友だちからは歩き方がずいぶん速いと言われる。  韓国人は歩き方だけではなく、すべてにせっかちである。とくに話し方が速いし受け答えも速い。そして、最近は言葉そのものが縮められて使われることも多くなっている。たとえば、「何をめしあがりますか」(ムオスドウシゲスムニカ)という言葉が「な、めしゃが」(モルドウシルレヨ)とでもいうような具合に、どんどん簡略化してしまっている。現在の韓国は、一般的に言っても、なにやら、せわしなさがますます激しくなっているような感じである。  私は日本へやって来た韓国人のビジネスマンと雑談をする機会があれば、しばしばこうした質問をしてみている。 「一年後の一〇〇万ウォンといまの一〇万ウォンとどちらを選びますか?」  大半が「いまの一〇万ウォンさ」と答える。  一年後にはどうなるかわからない、戦争でも起きて地球に終末がやって来るかもしれない、どうしてそんな先のお金を目当てに今を生きられようか——それが彼らの正直な心情だと思う。  韓国の交通事故発生率は世界トップ、一九八九年の数字では一日に平均三六人が死亡している。人口四二〇〇万の国で、である。タクシーは市内では八〇キロから一〇〇キロで走るのが普通だ。生来のせっかちな性格の上にノルマを課せられるわけだから、彼らのスピード感覚は極度に加速されたものとなっている。  せっかちな韓国人がさらにせっかちに動くようになったのは、やはりソウル・オリンピックを目指しての高度経済成長がもたらした結果だと思う。当時の韓国の経済成長は、成長率ではかつての日本をしのいでいた。それが大きな自慢であった。しかしそれがご存じのように突然にストップしてしまった。日本のコトワザで言えば、韓国はどうやら「急《せ》いては事をし損じる」をやってしまったのだと思う。  攻撃に入ったらその手を休めてはならないというのが、韓民族が歴史的に受け取ってきた教訓だったと言うべきなのだろうか。外敵の侵略に備え、外敵の支配下に耐え、そこでしたたかに生活をすることに技量を発揮して来た韓民族。この歴史はどのように生かすことができるのだろうか。 最大の難関——いけばなの美  話はいろいろと飛ぶのだけれども、われながら呆《あき》れるくらいに日本理解に貪《どん》欲《よく》になり、またほとんど抵抗なく受け入れることができるようになっても、なお長い間、たった一つだけ容易に入って行くことのできない壁があった。それが伝統いけばななのだが、その話をしてみたい。  日本のいけばなは室町時代に花開き、江戸時代にその様式美を完成させたと言われる。日本の封建時代が産み出した庶民の芸事の最たるものがいけばなだろう。韓国にも花をいける習慣がないことはないが、日本のような様式美の追究としての伝統いけばなはついに起こらなかった。  韓国のいけばなは、強く派手な色の花を使い、花の存在をはっきりさせるようにして、いけるというよりは器に盛るのである。野に咲く花で生活を飾ることがとても楽しくて、いけばなは、韓国で生活していたころの私の最大の趣味でもあった。そのため、日本に来て一番関心を持ったのもいけばなだった。休みの日には、デパートなどで催されている花展を求めて、あちこちと見て回ることが多かった。  そうして知った日本のいけばなの美は、私にとっては理解を絶するものだった。  現代花はそれほどではないものの、伝統いけばなについては、まず、はっきりとした色の花を使った作品がほとんど見られない。多くがあいまいな中間色の花が用いられ、韓国的なセンスから言えば、いかに目立たないかに工夫を凝らしたとも言いたくなるような、地味な作品ばかりなのである。  花ならば、すぐに目をひく鮮やかさ、山野の緑の中に際立った赤や黄、一面に咲き乱れるとりどりの色、色、色……。その花を愛《め》でなくてなんの花かの思いが私にはあった。簡素で色彩に乏しい村落の生活にとって、凜《りん》として立ち伸びる一輪の花の輝きは、異境からの艶《つや》やかな恵みそのものでもあった。それなのに、日本人はなぜそうした花の美をことさらに退けるようにしていけるのだろうか?  私は日本に来て、物質的にも感覚的にも、できるだけ日本式の生活を取り入れようとした。事実ほとんどのものに抵抗感がなくなったばかりか、しだいに親しみの度合いを増していった。食べ物も遊びも、絵も踊りも歌も……。しかし、いけばなだけは頭が痛かった。この美的な感覚だけは、どうしても変わってはいかないのである。また、私自身いけばなの感覚だけは、なぜか変えたいとも思わなかった。  日本の伝統いけばなを見て美しいと感じるようになったのは、日本に来て五年ほど経《た》ってからのことである。いつ、どのようにしてそうなったのかはよくわからないが、あるとき、いけばなの美はその奥行きにあると感じ、そこから私の前に突然に美があふれ出てきたのである。  清《せい》楚《そ》なる存在へのいとおしさ、静と動のバランスがかすかに崩れた構成の美、生の花の由来を忘れさせてくれるもうひとつの自然世界、たおやか・しなやか・すずし・侘《わび》し・つまし、など、やまと言葉でなくては形容不可能な古趣の味。そのすべてが感受できるとは言えないが、いまの私は日本の伝統いけばなに、惜しみなく愛情を注ぐことができている。  手前勝手な言い方になるが、伝統いけばなの美が日本を理解する最後の難関として私に残ったのは、その美が日本人の意識の、相当に深いところで感じられているからであるような気がする。うまく言えないのだが、日本のいけばなは「不安な存在」である。形も色も明暗も全体の姿もすべてが不安である。韓国の花はどっしりとした安定感をもっているし、それは西洋のフラワーアレンジメントにしても同じことだ。  日本は韓国と比べれば安定の国ではないのか。その美的表現がなぜ不安になるのか。それがなぜかはわからないが、不安は優しいのである。そして、不安は精神を動かさずにはおかないし、安定はややもすれば精神の眠りを誘う。 日本語は人格を変える?  韓国の伝統文化に最も欠けているのが無形文化である。いまなお見るに耐えるものは、ほとんどつくられてこなかった。李氏朝鮮以来、文化を担うものは、存在感のはっきりとした、目に見える物質・肉体・権力——それ以外にはなかった。物質としての形の美あってこその文化であり、精神性はあくまでそれに付随する二次的なものでしかなかった。  日本では、物質や肉体はあくまで精神を宿らせる、仮の存在とみなされているようだ。たとえば、あの弱々しい天皇がなぜ日本の象徴なのだろうかと、韓国にいる間はずっと疑問に思っていた。それが、目に見える存在としての天皇ではなく、日本人の精神文化に深く根ざしたところに由来をもつ、ある精神性の象徴としての天皇だということを知ったのは驚きだった。韓国の大統領は精神的な象徴ではまったくなく、はっきりと権力の象徴である。韓国の大統領はみな軍人出身、陸軍士官学校出身である。  古代以来綿々と天皇位が継承されてきたことも驚異的なことだが、さらに恐ろしいのは日本語である。なぜなら、日本語は人格を変える言語なのである。このことに気づいている人は韓国人でも日本人でもほんとうに少ないように思う。  人格と言うと気《け》色《しき》ばむ人もいるかもしれないが、実際的にはその人の気分を変えるのである。そして、この気分のなかに「日本」がいっぱいつまっているのである。それを知らなかった私は、確実に「罠《わな》」にはまってしまったように思う。これは実に恐ろしいことである。  韓国語にはそうした「危険性」はない。テクニックとして覚える韓国語で充分通用させることができるからである。しかし日本語は、文法や言葉の意味をいくら覚えても上達することがない。ほんとうに上達しようと思えば、意味ではなく「言わんとするところ」を悟るセンスが必要となる。記号としての言葉ではなく、そのもうひとつ奥にあるとでも言うべき、ある種の沈黙に触れなくてはならないのだ。そのへんの日本語のあり方に気づいて突っ込んで行こうとすれば、これは日本的な非論理思考そのものをたどることになる。だから、どうしても理論ではなく、話す相手から伝わってくる気分の流れに乗せられて行く先に、「わかる」という体験をするしかなくなる。つまり自分の気分を相手の気分に変えなくては、「言わんとするところ」がわからないのである。  この「わかる」体験がある程度習慣になったときに、人はきっと日本人になるのだ。その寸前で立ち止まることが果たしてできるものなのかどうか——これが日本語の恐ろしさである。  日本語はおそらく、想像もつかない歴史的な重層構造、民族的な多重構造を入り組ませて形づくられてきた言語である。直観的にそう思うのにすぎないのだが、日本列島の地理的な位置と歴史的な連続性から言っても、充分そのように想像できるのではないだろうか。 ハングルという文字の限界  韓国にはハングルという独特の文字がある。ハングルは李《り》氏《し》朝鮮時代の世宗大王《セゾンデワン》(一四四三年即位の四代王)の時代につくられた。世界で最後につくられた文字だけあって、文法的な例外も少なく、文字形と音声の関係にも合理的な関係づけが行なわれていて、実に科学的な思考でつくられている。  李氏朝鮮時代、一般庶民は学問を受けることができなかったので、庶民で漢字を読める者は皆無に等しかった。そのため、だれにも簡単に読み書きができる文字をということでつくられたのがハングルである。しかし、簡便に読み書きできるものの、深い思考や高度な概念を駆使する言葉としてはおよそ不向きな文字である。  漢字の文化をもっている韓国では、ハングルを表音文字として用い、意味は漢字のそれをそのままで使っている。ある意味では、全部をひらがなあるいはカタカナで書いたようになるため、どうしても深い思考を導く力を持つことができないのだ。  それにもかかわらず、韓国では、わがハングルこそ世界で最も科学的な文字であり、世界のどの言葉も発音できるようにつくられている、誇るべき万能の文字であると自慢される。しかし、ハングルを勉強した外国人はすぐに文字としての限界を知ってしまうから、国内だけの自慢話の域を出ることがない。  漢字・ハングル混じり文がなぜ考案されないのかとか、日本語を参考に改良できないのかとよく言われるが、韓国ではハングルが民族精神の象徴として持ち上げられているため、そうした方向性が目指されることがない。ハングルを用い、ハングルを尊重してはじめて愛国者だと言われるのである。  このハングル絶対主義がある限り、韓国は精神的に貧弱な文化と科学しか産み出せないことに甘んじるしかないだろう。これは自分の国の問題としては、あまりに決定的であるだけに、とうてい残念などという言葉では言い表すことができない。身を切りきざまれる痛みとともに訴えるしかない悲しい問題である。 反日世代と団塊世代との新韓日ビジネス  かつてのいきさつがどうであれ、戦後の韓国はたくさんの日本語を話せる世代がいてこそ、韓日の相違点や互いの特徴を的確に判断することもできていた。彼らのなかには親日派が多く、そして彼らこそ、対日ビジネスの窓口となり、日本との関係を今日に至るまで深めてきた主役であった。教養ある韓国財閥の会長たちのほとんどがこの世代に属し、これまでの韓国経済を率い、現在なお君臨している。  しかし、彼らの最年少層を構成する、終戦時に中学を卒業した世代でも、すでに六十歳くらいになっており、その多くが定年を迎えようとしている。彼らの次の世代である四十代、三十代の韓国人たちは、徹底した反日教育を受けて来たために、最も先鋭的な反日感情を持つ世代である。彼らはハングル絶対主義下で育ち、日本語をただテクニックとしてしか勉強して来なかったため、上の世代のように日本語を覚えることによって日本的な思考を理解するといったプロセスはまるで体験していない。  これから、日本企業はこうした世代の韓国ビジネスマンたちを相手にしなくてはならない。これから韓国に進出する企業は、いままでは親日派の長老たちのおかげで避けてとおることもできた壁に、正面からぶつからなくてはならないだろう。それは韓国社会そのものを相手にすることなのである。そうした時代がこれからはじまろうとしている。  一方、日本の四十代、三十代のビジネスマンたちは、戦争を知らない世代であり、いわば民主主義の申し子であり、全共闘世代であり、また高度経済成長とともに成長した団塊の世代の人々である。すでに日本が世界の先端に躍り出た以後に、ビジネスの中心位置にやって来た人々である。  この両者がどうわたりあうことになるのか。そして、今後も増え続けるだろう女たちの日本流入がどのような反応を韓国社会にもたらすのか。世界の歴史もようやく「戦後の時代」を終えようとしている。新しい世代の韓日交流は、果たして世界に足並をそろえてポスト戦後時代を歩んでゆくことができるだろうか。  問題はどうしても韓国側にある。  韓国の女たちが、なぜ、これほどまでに日本に流入し、また日本に永住したいと思うようになっているのか。そのことの意味を、韓国の新しい世代の男たちは、真剣に考えてみなくてはならない。この問題を放置しておいて、反日も反米もないのである。  海外へ、海外へと流れ出て、他国に漂着して生きようとしている韓国の女たちは、韓国がいまどうあることが望ましいのか、そのことをよく知っている。 単行本版あとがき  この本を最後まで読んで下さった読者に、心から感謝の言葉をささげたいと思います。ほんとうにありがとうございました。  さまざまなご感想があることと思いますが、日本という国が私に多くの心の糧《かて》を与えてくれたことは間違いありません。生きることの喜びと悲しみを、また物事を深く考えてゆくための、たくさんの知識を持たせてくれました。  でもそのなかには、地獄がこれほどの苦しみを受けなくてはならない所だとしたら、自ら死を選ぶことすらできないと、そう思えるくらいの精神的な苦痛もありました。私はなんとかそこから抜け出ることができましたが、日本にいる韓国人ホステスたちの多くは、いまなお、そうした苦痛を心に受け続けているように思います。  ひとつの心で、またひとりの女の身で、そうした韓国の女たちと日常的に接し、何らの解決策も提示できないでいるいまの私は、負いきれるはずのないたくさんの荷物を背負っては、よろよろとよろけ、へたりこんでしまっています。ひとりでは耐えられないから、ひとりでも多くの人に彼女たちの抱えている現実を知らせていこう、そして、ひとりでも多くの人たちとこのたくさんの荷物をほどいていこう……。そんな気持ちで力いっぱいこの本を書いてきました。  この「荷ほどき」をするには、韓国人も日本人も、東洋人も西洋人もないと思います。ひとりの人間としてこの「荷ほどき」を考えて下さればありがたいと思います。  本を書こうと思いたったとき、何をどのように書けばよいのかまとまりがつかず、なかなか手がつきませんでした。でも、とにかく身近なことからと思い、広く浅く、目についたこと、気になったことを書きとめてみることにしました。  そうして書き上げたものをみて思うことは、もし再び機会があれば、今度はもっとひとつひとつの深みへと降り立って書いてみたいということです。そのためには、私自身がさらなる知識を身につけ、一層の努力をすることが必要なのは当然ですが、同時に、多くの方々のアドバイスが不可欠なものとなってきます。それは、本書をつくる過程で私がまさに体験したことでもあるからです。  あるものを完成させるために、自分の能力と技術が六〇パーセントしかなくとも、残りの四〇パーセントを周りでつくってくれるという日本の社会構造が、日本を世界の経済大国にしたことは間違いないことだと思われます。私自身も、そうした日本の社会の恵みを受けて、一冊の本をつくることができました。そのことに私は心から感謝しています。  最後になりましたが、この本が出版されるまでに、たくさんの方々からいただいたお力ぞえにお礼を申し述べたいと思います。とくに、本書出版への道をつけて下さったNHKニュースディレクターの高野宏さん、出版企画にご尽力をいただき、励まし元気づけて下さったトライプランニング代表取締役の浜名純さん、この本を書くにあたって旅行にも一緒に行ったりして、誰よりも力になってくれたフリー編集者の宮本文恵さん、本書の出版を快諾され、原稿をより充実した内容にする上での貴重な示唆をいただいた三交社代表取締役の高橋輝雄さん、そのほかたくさんの方々からいただいたご援助に深く感謝致します。   一九九〇年十月吉日 呉  善 花   文庫版あとがき  私が最初に書いた本『スカートの風』が出版されてから七年が経つ。  世界で最もたくさんの書物が出版されている国、世界で最大規模の読者人口を抱えた国、その日本で本を出すことができる、自分の考えを訴えることができる……それは私にとっては夢のようなことだった。それだけで心が躍った。しかしその時の私は、まったく無名の一韓国人女子留学生にすぎない。どれだけの人が読んでくれるのかと考えると大きな不安に包まれ、このまま時間が止まってくれたほうがいいとすら思った。  わずかな部数刷られた『スカートの風』は、書店の棚の奥の方に、一冊か二冊、密かに差し込まれるような姿でデビューした。その様子を見て私は、すさまじい書物の洪水に飲み込まれ、その所在すら知られぬうちに消え去っていく数々の書物の運命を知らされた思いがした。この一冊を、誰かがわざわざ引き抜いて買うなど、どんな場合にあり得ることなのか、とうてい想像がつかなかったのである。  ところが、初版は発売後一週間でなくなり、出版社には連日注文が殺到した。あの膨大な量の書物を陳列した書店の棚から、あれほど目立たない形で置かれた本が、あっという間に売り切れてしまった。この事実は以後の私に大きな影響を与えた。  書棚の隅々にまで目を光らせ、自分の読みたい本を丹念に探そうとする一群の読者がいる。私の本はその出発点で何よりまず、この人々に大きく支えられ、そのおかげで他の多くの人々にも知られるようになったのであるに違いない。この素晴らしい出来事をけっして忘れてはならない。これからも本を出すことができるならば、そこに物を書く私の原点を置こうと思った。  新聞や雑誌に次々と好意的な書評が出るようになって売れ行きは加速した。読者カードが出版社の机上にあふれ、読者からの手紙が私の狭い部屋の片隅に山積みとなった。マスコミからインタビューの申し込みが続いた。原稿の注文が、新しい本の企画が、次から次へとやってきた。どう応対したらいいのかとまどいながらのやり取りに忙殺される中、韓国人からのほとんど恫《どう》喝《かつ》・脅迫ともいえる抗議に悩まされ続けた。私を取り巻く世界が一夜のうちに一変してしまったのである。『スカートの風』の出版は、私の人生にとって最大の事件であった。  この本が出てからわずか数年の間に、日本の社会も韓国の社会も大きく変化した。第一に日本のバブル経済の崩壊である。これは新宿や赤坂などで働く韓国人ホステスたちに大きな打撃を与えた。最大の上客であった不動産関連業者たちの支えを失ったからである。  かつての、高額の前金を支払っての韓国人ホステス獲得競争は消え去り、ホステスの方から頭を下げて、自分を雇ってくれないかと店々を回らなくてはならないようになった。美人でさえあれば、数千万円のマンションを買い与えてくれ、毎月数十万円の手当てを支給してくれるパトロンがざらにいたことは、いまから思えばまるで夢のような話である。接待業者としての実力など身につける必要もなく、ただ鼻を高くしてパトロン選びをしていればよかった天国のような生活が終わったのである。  毎月の給料に頼るしかなくなった彼女たちは、ようやくプロの接客業者への道を歩みはじめた。そしていま、彼女たちの接客サービスは当時とは比較にならないほどよくなっている。  また、毎月の収入が給料でしかなくなったため、私の知り合いの韓国人ホステスたちの多くが、これまでに貯めたお金で、自ら店をもつ道を選んでいる。そればかりではない、来日して二、三年も働けば、借金をしてでも自分の店をもとうとする者たちが増えてきている。小さくても、数名のホステスを雇ってママとなること、それを夢として働くものたちが多くなっているのである。  新宿・歌舞伎町を歩いてみると、毎月のように新しい店の看板が目に入る。また新旧の看板の入れ代わりが激しく、店の寿命がとても短くなってきていることがわかる。経験の浅いホステスが店を開いてはママとなり、あっという間につぶれていく。二年以上もつ店はわずかしかない。  半年ほど前に、私が日本語を教えていたある韓国人ホステスから、店をオープンしたから利用して欲しいと連絡があり、数名の日本人ビジネスマンに声をかけてその店へとくりだし、御《ご》馳《ち》走《そう》になったことがあった。それから三カ月経って、どこかいい店があったら紹介して欲しいと言われたのでその店に連絡をしてみると、すでにつぶれて経営者は他の韓国人ホステスに代わっていた。  このような交代が日常茶飯事に起きている。事業に失敗したホステスは、それまで稼いだお金を一気に吹き飛ばされ、借金地獄へと落ちていく。そして、その苦しみから逃れるために、お酒やギャンブルに走る。そんな女たちの話を頻繁に聞くようになっている。  そこで、危険性の比較的少ない商売が最近は目立つようになっている。カラオケ居酒屋や韓国家庭料理店などである。こうした店ならば、従業員は二、三人で足りる。人件費の節約になるし、ホステス間の人間的なトラブルで悩むこともなくなる。それが大きな理由だという。  こうして、彼女たちが働く飲食店の多様化がはじまった。第一が大型クラブで、そこでは三〇—四〇名のホステスをようして、生バンドの演奏が行われる。第二がカラオケスナックで五、六名のホステスが働く。第三がカラオケ居酒屋で二、三人の女性を置く。第四が韓国家庭料理店。しだいにホステス業から遠ざかることになるが、韓国家庭料理店となると、もはやホステスは存在せず、結婚して夫婦二人で経営するといったケースが多い。従来の、焼肉屋というイメージを破った、新しい形の韓国式レストランといってよいだろう。  昨年、韓国の一人当たりのGNPが一万ドルを越えた。経済規模では世界一一位、日本に次ぐアジアで二番目のOECD加盟国ともなった。この本を書いた当時からするとほとんど二倍の成長ぶりである。それにつれて韓国の国民生活の水準が飛躍的に高まったのはいうまでもない。  にもかかわらず、日本の韓国酒場で働くために来日する韓国人女性は増える一方なのだ。新宿・歌舞伎町を例にとっても、七年前に三〇〇〇人ほどだった韓国人ホステスの数が、いまでは一万人を越えているといわれる。韓国の人件費は年々高くなり、しだいに日本の水準へと近づこうとしている。日本ではホステス業は、かつてとは比較にならないほどの厳しさがある。濡れ手に粟の儲《もう》けなど望むべくもないのだ。  それでも彼女たちは、昔以上に日本にやってくる。そこに、彼女たちの来日目的が、単に出稼ぎだけにあるのではないことが見えているのではないだろうか。   一九九七年一月 呉  善 花   スカートの風《かぜ》 日本永住をめざす韓国の女たち 呉《お》 善《そん》 花《ふあ》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成13年11月9日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Sonfa O 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『スカートの風 日本永住をめざす韓国の女たち』平成9年2月25日初版発行                            平成12年7月10日8版発行