(注意) シリーズ前作「骸谷温泉殺人事件」のネタバレが含まれています。 【天秤座号殺人事件】 五百香ノエル   プロローグ  羽木島埠頭《うきしまふとう》に停泊した、衛星ナビゲーション・システムによってフル・サポートされた純白の船は、“豪華客船”の名にふさわしい威容《いよう》を誇《ほこ》り、彼女たちの目の前で巨大な胴体をさらしていた。 「写真で見ていたより大きいわね」 「ええ。シンガポールの進水式《しんすいしき》では、シャンパンが米粒にしか見えませんでした」 「処女航海式典には、マグナムボトルを用意させるわ。派手にかまさないとね」  年かさの上司のハスキーボイスには、男|勝《まさ》りで二十年、企画部最前線で戦い続けた女の意地と誇りが滲《にじ》んでいる。  負けられないなと、彼女は微笑して頷《うなず》いた。  身を粉《こ》にして働き、上司のように男顔負けのキャリアを社内で得たいと望んでいるわけではなかったが、いずれ独立して好きな仕事に単身挑戦するときでも、今回の試みと経験は、絶対に役立つだろう。  失敗は絶対に許されなかった。それはチーム全員の覚悟とは別の、彼女自身の確実なる目標である。 「こうなるとなによりも欲しいのは話題性だわ。タイアップはいくつでも必要よ。準備はできているんでしょうね?」 「もちろんです」  針のようにチクリと嫌《いや》なところをつついてくる上司の最終確認にも、彼女はひるまなかった。  計画は完璧である。 「抽選に当選して申し込まれた千名の一般客はもちろん、マスコミ関係者を含むお招きした各界著名人五百名のゲストまで、航海中はびっくりするような企画が盛りだくさんです」  彼女は自信たっぷりで上司に答える。  真夏の青い海原《うなばら》に、純白の豪華客船が乗り出す様は、それだけでニュースになるだろう。  それを思うといまから子供のように胸がワクワクしてたまらなかった。  くり返される会議でのわかりきった質疑応答、会社の外での人間関係、これまで戦って切り抜けてきた数々の難関など、きれいさっぱりと忘れられる。  彼女の切り札、国内最大級、最新鋭の客船。天秤座号《スター・ライブラ》。  その光り輝く雄姿を、胸いっぱいに思い描けば──。 1 蜜月《みつげつ》、出港、悪い予感はよく当たる、か?  ギャーンという甲高《かんだか》い泣き声もろとも僕の背中にぶつかってきた子供は、一言の謝罪もなくかたわらを駆け抜けていった。  子供の名前を呼びながら後ろに並んだ親がたしなめていたが、僕に対する謝罪は一言もなしだ。  肩越しに振り返って非難を込め親を睨《にら》みつけると、『ほら、お兄ちゃんが怒ってるからおとなしくしなさい』ときたもんだ。  僕が怒っているからおとなしくさせるのか? 僕が睨んだから注意するのか?  これだから人混みは嫌《いや》なんだ。まったく不愉快極まりない。  それとも二十代も後半に入って“オジチャン”と言われなかっただけ感謝しなきゃいけないんだろうか。  胸底《むなぞこ》からムカムカしながら動く歩道沿いの窓外を見ると、青い空を背景にした純白の客船をのぞむことができる。  船の名前は<天秤座号《スター・ライブラ》>。これから僕が乗り込む巨大豪華客船だ。  アメリカで造《つく》られ、シンガポールで組み立てられて進水した天秤座号《スター・ライブラ》の船籍は日本。“浮かぶ豪華ホテル”というフレーズにふさわしく、今は昔となったバブルのころを思わせるゴージャスな船内内装は、八日間かけて種子島《たねがしま》─羽木島《うきしま》間を往復する今回の特別処女航海用パンフレットの写真で明らかになっていた。  羽木島|埠頭《ふとう》には天秤座号《スター・ライブラ》のための乗船デッキ、<羽木島ピア>と呼ばれる建物が建設され、乗船に必要なすべてを賄《まかな》う施設が調えられていた。  キャビン数が千室というこの船の定員は二千名だ。乗客定員数が二千人、乗組員数は千人というから、とにかくなにもかもが大きい。  当然のことながら乗り込むのにも時間がかかる。  船では部屋ごとに三つのカテゴリー別に、色によるクラス分けが施《ほどこ》されており、乗船デッキも分けられていた。  最上級エグゼクティブ・スイート・キャビンはわずか七室、ジュニア・スイート・キャビンも十一室しかない。  たった十八室の客が金色のファースト・クラスであるのに比べ、次の赤色に属するバルコニー付きオーシャンビュー・ステート・キャビン、バルコニーなしオーシャンビュー・ステート・キャビンの数は七百室を超える。  僕が宿泊する赤色ビジネス・クラスは、もっとも人数が多いわけだ。  窓のないインサイド・ステート・キャビン、青色のエコノミー・クラスは、この下の階からの乗船だそうだが、赤色クラスが混雑するのには変わりない。  記念的処女航海の乗船申し込み抽選に当選して申し込んだ一般客一千名も、招かれて乗り込むことになった招待客五百名も、早朝ラッシュみたいな人混みの中で一緒くただった。  なにも好き好《この》んで、こんなに混雑したツアーに参加することないのに、世の中物好きばかりで嫌になる。  ……それは僕も同じだろうって責めたい人もいるだろうが、ちょっと違う。  ピアのガラス越しに照りつける八月の強い日射しに辟易《へきえき》しながら、僕はこんなところを一人で歩く羽目《はめ》になった理由を思い出していた。  僕の恋人は作家だ。  そういう僕も作家だ。  本名と同じ<宮古天音《みやこあまね》>という、“本格叙情ミステリー”と呼ばれるジャンルで鋭意活動中の二十七才の若造である。  恋人の名は<浮名聖《うきなひじり》>。本名は姓名ひっくり返した樋尻浮名《ひじりうきな》、別々の学校ではあったが、お互い高校時代に知り合った。  もっとも大学時代に同じ“推理”というジャンルでデビューしたものの、あちらはすぐに超のつく売れっ子となり、こちらは地味な作品を細々と刊行して低空飛行をつづける一方と、スタートから差は開く一方になったけれど。  関係を認めたうえで言ってしまえば、僕も向こうも正真正銘の男性なので、恋人同士としてはなかなか胸を張るわけにはいかない。世間とのズレを認めざるを得ないところだ。  なまじ同性愛者ではなかったから、僕たちだって易々《やすやす》とこういうアブノーマルな関係になったわけじゃない。葛藤《かっとう》だってあったし、出会ってから実に十年もたって、ようやく互いの間に恋愛感情があったのを認められたんだから、それだけに大切にしたい関係だった。  他人には理解してもらえないとしても、僕らの間でだけは最高のパートナーシップが得られる努力をしよう、そう約束したのは、付き合うキッカケとなった地方の温泉地での、とある連続殺人事件の直後だった。 “とある事件”とは、世間を賑《にぎ》わせたあの六久路谷《むくろだに》温泉の連続殺人事件のことである。  僕と浮名はたまたま六久路谷で再会を果たし、長年張り続けた意地を事件の渦中《かちゅう》で捨て、解決に協力することで、恋人という関係まで足を踏み入れたのだ。  しかしこの事件は、元々マスコミと近いところにいて顔も知られていた浮名を更に有名にする結果となり、せっかく恋人同士になった僕らの甘い蜜月《みつげつ》なんて、荒波にもまれてないも同然になってしまった。  それもこれも浮名が世話になっている7テレビの敏腕ディレクター、桑名晋平《くわなしんぺい》が、六久路谷事件で脚光を浴びている時期に<制服探偵シリーズ>の映画化をぶちあげてくれたおかげである。 <制服探偵シリーズ>っていうのは、浮名聖の出世作と謳《うた》われているポップでキュートな女子高生探偵が活躍する人気のシリーズ作品で、これまでも何度か桑名によってテレビドラマ化されていたんだけど、映画になるのは初めてだった。  これを最初に桑名はプロデューサー業にも挑戦し、浮名は初めて脚本を担当した。  映画は現在夏休みロードショー公開中だが、邦画ではヒットと呼べる躍進的《やくしんてき》な興行成績を記録しているらしい。  この結果とは別の意味でも、浮名は最近注目を浴びていた。主演女優、姫田貴美香との熱愛報道のせいである。  こんな報道、桑名がマスコミにリークしたウソっぱちだったが、要するに世間が注目しているのは、二十代で未《いま》だ独身のうえ、ハンサムでベストセラー作家の浮名が、いったいどんな女に引っかかって嫁《よめ》にするかという、実に下世話な問題なのだった。  浮名が若くて金持ちでも、太ってたりオタク風だったり、コスプレしてテレビに出てくるような奇人変人だったりすれば、世の中は大して注目しなかっただろう。所詮《しょせん》違う世界での話、勝手にやってろってとこだ。  でも浮名は大抵のハンサムが裸足《はだし》で逃げ出す美貌《びぼう》の持ち主である。  キテレツなところはないし、神経も至《いた》ってマトモ、おまけに長身のフェミニストだ。ちょっと軽薄で女好きだけど、そこがステキという女の子は多い。  甘い美声でインタビューに答えているところなんて、ワイドショー好きのオバサマ方、垂涎《すいぜん》ものだろう。  お茶の間の人気者になりたいと浮名が思っているわけじゃない。全部桑名の策略だってことはわかっている。  外見ではそう見られないが、浮名はどこか抜けたところがあって、ミステリーなんて書いている割には、人と競争したりもめたりができないお坊っちゃんだ。桑名みたいに、酸《す》いも甘《あま》いも噛み分けた百戦錬磨《ひゃくせんれんま》を相手にすると、どうしても言いくるめられてしまうのが常《つね》らしい。  恋人関係になっても、多忙|極《きわ》まる彼との逢瀬《おうせ》は、映画の準備から撮影、広報、公開と、段階を踏むごとにままならなくなっていた。  僕だって一応作家だ。その間なんにもしていなかったわけじゃないけど、とにかく圧倒的に仕事量が違う。  テレビなんかに出るより、僕と一緒にいる時間を少しでも持ってくれればいいのに、彼はちょっとした空《あ》き時間ができても、いきなり電話するのは悪いだろうと深読みして、会おうという連絡をよこさない。  真夜中だろうと明け方だろうと、呼び出されれば飛んでいくよと言った言葉は、決して意味のない睦言《むつごと》じゃなかったのに、ホントにとことん自分勝手ができない男なのだ。  業《ごう》を煮やして浮名のマンションに押しかけたこともあったが、貴美香との仲を映画宣伝に利用していた彼の部屋は、写真誌に強烈なマークをされており、映画の公開が終わるまでは来ないで欲しいと拒まれてしまった。  本当はそんな命令、無視しても構わなかったんだけど、新人のころ散々世話になったからと、桑名に逆らえない浮名を哀《あわ》れに思って、言うことをきいてやったのが仇《あだ》になった。  おとなしく部屋に行かなければ何ヵ月でも、浮名は僕を放ったらかしにしたのである。  恋人の勝手に振り回されて半年もたった初夏、欲求不満がピークに達した僕の見ていたワイドショー番組の映画宣伝コーナーに、浮名が例の姫田貴美香と一緒に登場した。  録画ではない、生放送というのを確かめた僕は、長い間放っておかれた憤怒《ふんぬ》に任せ、衝動的にテレビ局まで押しかけていた。  幸い浮名が出演したワイドショーは、5チャンネルの番組だった。5チャンネルには多少のコネがある。  六久路谷事件のとき僕の作品をドラマ化しようとしてくれたディレクター、城ヶ根《しろがね》みどりを呼び出した僕は、久しぶりの挨拶《あいさつ》もそこそこ、浮名の控室に乗り込んだ。  生放送を終え、可愛《かわい》らしいADの女の子を二人も従えて控室に戻ってきた浮名は、僕を見つけて嬉しそうに驚いたあとで、駆け寄る足を止めた。  そりゃあそうだ。久しぶりの恋人との逢瀬に、女の子相手に脂下《やにさが》っていた顔を見せたんだから、ちょっとは後ろめたく思ってくれなきゃ困る。  なにごとか告《つ》げて彼女たちを慌ただしく部屋の外に追い出したあとで、クルリと踵《きびす》を返した浮名は、とろけそうな笑顔を浮かべて室内に向き直った。 「久しぶりだね、天音」 「…………」  疑わしきは罰せずとは言え、僕は半眼《はんがん》になって、さわやかなバリトンを発する美しい恋人を見つめる。  控室で待っていた僕を見つけたときの嬉しそうな表情が本物だってことは認めてあげられるけど、あろうことか女の子を二人も両脇《りょうわき》にはべらせてご満悦《まんえつ》だった顔つきまでは忘れてやれない。  吊り気味の目の大きさでは定評のある僕だが、気の短さと心の狭さも、大酒飲みって以上によく知られている。 「お、怒ってるのか? 天音」 「へえ? どうしてそう思うんだい? 浮名」  おびえる浮名の上目遣いをブラウン管越しでなく生で見るのは、いったいどのくらいぶりなんだろう。  すわった声音《こわね》で答えた僕は、実際ここまですこぶる忍耐したと思うよ。 「その、連絡できなかったのは、忙しくて……」  通り百ぺんも聞いた言い訳を口にする浮名は、それでも相変わらず涎《よだれ》を垂らしたくなる色男だった。  軟らかなウエーブを描いた色素の薄い繊細な髪の毛、すべすべで色白の肌に、天然ものかどうか疑いたくなるほどまっすぐな鼻筋と形のいい唇《くちびる》。  しっとりと濡れた茶色い瞳で見つめられると、トロトロに溶けてしまいそうになる。  人形のように完成されていながら、限り無く生身の男らしく、彼は艶《なまめ》かしい。  怒《いか》りよりも恋しさで、僕は抗議を忘れてしまいそうになった。 「天音、まさか出不精のアンタがここまで会いに来てくれるとは思わなかったよ」  僕の内心の逡巡《しゅんじゅん》を見て取った浮名が、一歩ずつ慎重に歩み寄ってくる。  なきに等しい僕の恋愛経験と比べれば、モテる彼のことだ、波瀾万丈な経験がさぞや豊富なことだろう。忙しいから会えないというだけで苛々《いらいら》して、こんな場所まで追いかけてくるネンネの扱い方なんて、いくらでも心得《こころえ》ているに違いない。 「……別に……」  そう思うと悔しくて、僕はどうでもよさげについと首をそむけ、畳《たたみ》の上に置かれたリモコンでテレビのスイッチを入れた。  浮名の控室は六畳ほどの和室と洗面台が隣接した立派な個室で、もちろんマネージャーなんかいない彼は、生意気にも一人でここを使用していたに違いない。  こんな場所にあの女の子たちを連れ込んで、いったいなにをしようとしていたんだか……。  浮名と付き合うようになったからって、僕は学生時代から抱《かか》えてきた劣等感や嫉妬《しっと》、羨望《せんぼう》といったドロドロした感情と切り離されたわけじゃなかった。  いつだって本当は、浮名のそばにいるキレイな女たちに嫉妬して、浮名自身の溢れんばかりの才能にコンプレックスを刺激され、いっそ女になれたらとか、いっそ浮名とは縁のない遠い場所で世捨て人になってしまえたらなんて、ぶっ飛んだ願いを思い描いている。  こんな馬鹿な考えには浸りたくないから、ギュッと抱きしめてもらって安心していたいのに、せっかく恋人同士になっても当たり前の二人きりの時間が持てないなんて、浮名が悪くないならだれが悪いって言うんだ。 「あ」  和室に置かれた机を挟んですわった僕と浮名の視線が、ブラウン管に張りついた。  7テレビでは今週三時からの特別枠で、姫田貴美香出演のドラマ再放送が始まっている。  グラビア・アイドルだった貴美香のドラマ初出演作だが、彼女の役柄はほんのちょい役にすぎない。  彼女がブレイクしたのは、深夜の情報番組でレポーターとして、トボけたキャラクターがウケてからだ。  二話ずつ放映されている再放送の合間で、女子アナが貴美香へのインタビューを始めた。  まだハタチの彼女の表情は初々《ういうい》しい。『制服探偵シリーズ』の主演ということで、高校生役らしく制服を着ているが、まったく違和感がなかった。 「可愛いじゃないか」  本気でそう言ったつもりなんだけど、悲しいかな嫌味にしかならない。 「……あのさ、天音、アンタ覚えてるよね?」 「なにを」 「彼女は、桑名《くわな》とデキてるんだって、俺、言ったよね?」 「ああ、あのヒゲ面エロテレビマンねっ」  吐き捨てるように言ってやると、浮名は向かい側で頬を引きつらせる。 「次から次へと、まったく羨《うらや》ましい商売だよねっ。若い女の子を、食っちゃ捨て食っちゃ捨て食っちゃ捨てしてさっ」 「あ、天音」  声が大きいとばかり身を乗り出した浮名は、ブラウン管の中の貴美香が明るく口にした単語に気付いて動きを止めた。 「なんだよ浮名、急に止まって」 「ほらっ、アレ見て」  不審を抱いた僕に向かって、浮名はテレビ画面を指差して見せる。  貴美香の笑顔に替わってそこに映されていたのは、純白の巨大な豪華客船だった。  日本ではないどこかの青い空と青い海に浮いた白い船腹には、<STARLIGHT CRUISES>という文字と流星のロゴマークが記《しる》されている。スカイブルーの煙突部分には、金の杯《さかずき》を均等に吊《つる》した銀色の天秤《てんびん》が描《えが》かれていた。 「なに? 客船?」 「天秤座号《スター・ライブラ》だよ。JBTが企画した国内最大級のクルージングシップ」 「ああ、そう言えば最近ちょくちょく目にするな……」  JBT、ジャパン・ビッグ・トラベルと言えば日本最大の旅行社である。国内外どちらでも、格安から豪華まで、豊富なツアー数で知られていた。 『映画の前売り券を御購入していただいた方の中から、抽選で百名の方に、最新鋭巨大豪華客船、<天秤座号《スター・ライブラ》>でのクルージング優待券をプレゼントさせていただきます』 「ふぅん、優待ってことは費用は客持ちってわけか。気前よくご招待すりゃあいいのに」 「アンタも知ってた? 天秤座号《スター・ライブラ》」 「まぁ、言われてみれば最近話題だからな。種子島までだっけ? 処女航海が一般客の申し込みを受け付けていないせいで、ネットなんかじゃ早くも法外な値段で先物取引されてるって、ニュースでやってたし」 「そうそう」  なぜか満面に笑みをたたえた浮名は、ノーパソも入る自分のショルダーバッグからいそいそとカラーのパンフレットを取り出す。 「ジャーン」  と、彼が僕の前で広げたのは、たったいまテレビで宣伝していた天秤座号《スター・ライブラ》の処女航海用の豪華パンフレットだった。 「コレがなんだよ」 「なんだよって、凄いだろう?」 「…………」 「だからほら、な?」  いまいちピンと来ていない僕に向かって、浮名がピラリと二枚のチケットを取り出して見せる。 「まさかそれ……?」 「乗船チケットだよ。アンタと俺の」  浮名が少年のような笑顔になって、僕はやっと彼の言っている意味に気がついた。 「見せてみろよ!」  慌てて机を飛び越えた僕は、どさくさにまぎれて浮名の腕の中にすべり込む。  僕だって男として、平均より小柄ということはないんだけど、いかんせん、モデルばりの体型を誇る浮名の前では、たいていの平均的日本人青年は“小柄”になってしまう。 「でもよくこんなプラチナ・チケット……なん……で?」 『それでは貴美香チャンも、処女航海にはレポーターとして乗り込んじゃうわけですね?』 『そうでーす、貴美香の大事なセンセイも一緒でーす』 『うわぁ、じゃあ噂《うわさ》のセンセイと一緒に、貴美香チャンはラブラブクルージングまで楽しんじゃおうというわけなんですね?』 『それはご想像にお任せしまーす』 「…………」  久しぶりの浮名のぬくもりにウットリしている間もなく、僕はテレビの中の女たちの声で浮名がチケットを手にしている事情を知った。  浮名の顔を見上げるとわずかな後ろめたさがよぎったようだったが、ここは見ない振りをしてやるのが情けかもしれない。  なにしろあの船に乗れるのだ。  ブラウン管の中、優雅に浮かび上がる純白の船に……。  ──そんなわけで……僕は強運によって優待チケットを手に入れた一般客に混じり、乗船のため長い列に並んでいるわけなのである。  それというのも、浮名が自分の分とは別に用意してくれたキャビンは、エグゼクティブ・スイートに宿泊する彼とはワン・クラス違うオーシャンビュー・ステート、つまりもっとも一般客数が多い部屋だったからだ。  映画のタイアップスポンサーであるJBTに招待された浮名の部屋に、無関係の僕が泊まるわけにもいかない。  せめてツイン・ベッドの部屋だったら、“大親友”とかなんとか言い訳して押しかけるのも有りだっただろうけど、あいにく浮名のエグゼクティブ・スイート・キャビンはダブル・ベッド・ルームだった。 「しかし大したもんだよ。この羽木島ピア、天秤座号《スター・ライブラ》クルージング・ツアーのために建築したんだろう? このご時勢に、いったいいくらつかったんだ」 「東京都のバックアップがあればこそでしょう」 「それだけじゃないさ。博覧会が中止になって墓場になるところだった羽木島に、早々と移転しちまって島流しになるところだった7テレビも、せっかくこさえた埠頭《ふとう》を空っぽにされるところだった神永《かみなが》建設も、天秤座号《スター・ライブラ》の進水《しんすい》に向けて投資した企業は数知れないぜ」  動く歩道に乗って前を行く連中の、聞くともなしに聞こえてきた皮肉な寸評は、世間ではだれもが知るところである。  天秤座号《スター・ライブラ》に乗船することが決まって、僕も一通り資料を集めてみたけれど、この豪華客船クルーズに不況の打開を賭《か》けている企業は決して少なくなかった。  豪華客船でのクルーズは日本人には馴染《なじ》みが薄い。安価で港を巡るフェリーはともかく、クルージングをメインとした客船の乗船価格は異様に高いためだ。  しかも貯めに貯めた大枚を注ぎ込んでも、日本船籍の客船は規模が小さく地味な造りで、とてもゴージャスな船旅を味わえないときている。  しかしこうした豪華客船でのクルージングは、海外、特に東南アジアでは、日本とは正反対に驚くほど安く楽しむことが可能だ。乗客乗務員合わせて三千名クラスの客船でも、ホテル並みの料金で三泊四日過ごせるのだ。  アメリカで造船し、シンガポールで進水式を終えた天秤座号《スター・ライブラ》は、大きな赤字を抱えながらも、十年以上前、やはり同じように千葉に誕生した外資系巨大遊園地がそうであったように、数年の間には日本に定着し、海外からの観光客も集客できる目玉になると目《もく》されている。 「ようこそ、こちらへどうぞ。お客様はこちらです」  やがて通路は空港にある手荷物検査ゲートに似た分岐点にたどり着いた。  ゲートではガードマンや検査官のほかに、明るいコバルトブルーの制服を着た女性クルー、写真を撮るためのカメラマン、それに某有名キャラクターの着ぐるみを着たエンターティナーたちが出迎えてくれている。 「そちらの線でお待ちください。乗客の皆様のお写真を撮らせていただいております」 「なんなの? なにに使うっていうの?」 「こちらで撮らせていただきましたお写真は、船内の<ギャラリー・ショップ>でご購入いただけます。ツアー中、ギャラリーをご覧になれば、もしかしてお知り合いのお顔が見つかるかもしれませんよ? なにしろ今回の天秤座号《スター・ライブラ》処女航海には、乗務員を合わせまして二千五百名もの隣人が乗船いたしますから」  足止めを食らって不満げな顔つきをしていたオバサンも、物腰柔らかなクルーの言葉に『そういうことなら』と微笑《ほほえ》んで気を取り直した。  なるほど、徹底したクルーの教育も売り物にされているだけあって、窓口となっているゲートのクルーは、空のキャビン・アテンダント並みの接客プロらしい。 「お客様はお一人でいらっしゃいますか?」  埠頭でチケットと交換して買った赤いカードをチェックされている間に、別の女性クルーが話しかけてきた。  チェックされているカードは船内にいる間は現金の代用になるもので、身分証明の代わりでもある。部屋番号はもちろん、名前、キャビン・クラスが記されており、手書きのサインを記す欄もあり、驚いたことに部屋の鍵にもなっていた。  つまり船の中ではコレ一枚が、財布《さいふ》でありキャッシュ・カードであり、身分証明でもある命綱なわけだ。 「友人とは別行動なもので」 「ではわたくしといかがですか? それともマスコットの方がよろしいでしょうか?」 「美人と並んで写真なんて、一生の宝物になりますよ」  美人クルーの優しい申し出に、僕は悲しい独身男らしく答えてカメラの前に立つ。  そうしている間にも僕の荷物は探知機の間を通され、写真を撮り終えた僕も金属探知器をくぐることになった。  実は荷物はチケットとカードを交換したピアで預けられるのだが、事前に浮名から、一度に大勢の荷物を入れるから、部屋に運んでもらうまで凄く時間がかかるらしいと聞かされていて、それで自分の手で運ぶことにしたのである。  どうせ僕一人分の着替えがメインの荷物だから軽いものだ。部屋に荷物が運ばれてくるまでおとなしく待っている時間は確かに惜しい。  だから一週間分の荷物が入った旅行バッグを持ってここまで来たのだが、まさかこんなに混雑した通路をえんえん十五分も歩かされるとは思わなかった。船に乗るまでだけでエライ疲れる。 「うぇ」  と、辟易した気分で旅行バッグを肩に担いでゲートの先を進み出した僕の前には、まだ真新しい艶々《つやつや》の緋毛氈《ひもうせん》が敷かれていた。 「ようこそ」 「ようこそ、お客様」 「ようこそ、天秤座号《スター・ライブラ》に」  思わず『どーもどーも』と頭を下げそうになったのは、いよいよ船に直接乗り込む階段へと続く、ポッカリ開いた入口に並んだ盛装のブリッジクルーたちによって、にこやかな挨拶で招き迎えられたためである。  乗客が乗り込むまでえんえんとそこに立って出迎えるのが仕事なのか、疲労を見せないプロの笑顔には脱帽させられた。 「ようこそ、お客様」  半透明のビニールシートで覆われた結構急な階段を半階分くらい登ったところは、もう船のデッキである。  ムシムシした湿気と潮の香りが満ちたそこには、ゲートにいたのとは違う、お子様向けではないマスコットたちがいて、次々に現れる僕ら乗客に悩ましげな声で『ウエルカム』の言葉を言い続けていた。 「どうぞ、グランド・ホールの中でウエルカム・ドリンクのサービスを行っております」 「どうもありがとう」  流暢《りゅうちょう》な日本語ではあったが、そのマスコットは日本人ではない。流れる金髪も見事な、白人の美形コンパニオンだ。  蒸し暑いデッキには複数のコンパニオンがいたが、ありとあらゆる国籍が見て取れる。  なるほど、これは半端なやる気ではないらしい。  僕はツアーを企画しているJBTの、処女航海に懸けた情熱を見せつけられた気分になった。  その気分は、天秤座号《スター・ライブラ》の中心、冷房が効いたグランド・ホールに一歩足を踏み入れたときに一層強くなった。 「うわぁ……」  ホールは吹き抜けになっていた。自分がいま乗り込んだ場所を船だと知らなかったら、絶対に普通の建物の中だと思ったに違いない。  否、普通の建物にしても“豪華な”という冠がつくホールだ。  天井まで吹き抜けになった場所の真ん中には、船名の由来となった十二星座の象徴をデザインした金張りの彫刻が飾られ、その像の間にはハリウッドスタイルの幅広階段が上の階まで続いている。  フロアの船首側にはホテル並みに大きなフロントデスクが設けられ、複数のクルーが忙しげに働いていた。  幅広階段はこの向かい側、つまり船尾側にあり、階段中二階の奥にはガラス張りのエレベーターが三機、乗客を乗せて上下しているのが見える。  頭上までつづく天井の一部は星座の神話をモチーフにした色鮮やかなステンドグラスが張り巡らされ、壁にはギリシャの神殿のような飾り柱のアクセントが施されていた。 「ウエルカム・ドリンクのサービスでございます」 「ええっ?」  茫然と立ちつくしてあたりを見回していたのは僕だけではない。気がつけばホールには大勢の客がポカンとして突っ立っており、銀盆片手のクルーが優しく声をかけて回っていた。  酒飲みの僕だがワインはそれほど好きでないので、シャンパン・カクテルを選んだ。  冷たいカクテルはジュースみたいなものだったが、いまの僕には充分だった。 「宮古センセー!」  グラス片手に誘導マークに従い、人混みを避《さ》けてホールから出ようとしたところで、聞いたことのない声に名前を呼ばれた。歩きながら首を巡らせた僕は、大柄な一人の青年が駆け寄ってくるのを見つける。 「どうも! ようこそ天秤座号《スター・ライブラ》に! JBTの鞍馬《くらま》ですっ!」 「……ああ、どうも……」  JBTの鞍馬なる人物が僕を案内してくれる話は浮名から聞いていたが、こんなに暑苦しい奴だとは思わなかった。  一九〇は越してそうな長身に、分厚い胸板と逞《たくま》しい四肢《しし》を持った彼は、外人モデルサイズなんじゃないかと思えるスーツの胸ポケットから、名刺を取って差し出してくる。  大きな顔は四角く、目鼻口といったパーツはなんとなく丸い。受け取った名刺には、<JBT天秤座号《スター・ライブラ》ツアーコンサルタント“鞍馬夏彦《くらまなつひこ》”>と、キッチリ記されていた。 「一度もお会いしていないのに、よく僕のことがわかりましたね?」 「ええ、もうバッチシですよ。浮名センセーから写真見せてもらってましたから。ツアコンは顔を覚えるのが第一ですからね。ハズしませんよぉ」 「……ハハハ」  すぐさま荷物を奪われて部屋に案内されながら、僕は思わず乾いた笑いを返す。  浮名の奴、なんだってこんな押しの強い奴を案内人に選んだんだろう。声はでかいはガタイはでかいは、なによりいちいち仕草が大きいおかげで、エレベーターに乗っても、さすがに船内だけあって狭い廊下《ろうか》を歩いていても、やたらと目立ってしかたない。 「さぁ、どうぞどうぞ」  自分の部屋に招くようにして鞍馬がドアを開けてみせた僕の部屋は、オーシャンビュー・ステートの名前にふさわしく、海を見渡せる広い窓に、デッキチェアとテーブルのセットがついたバルコニーが特徴のデッキである。  小さいが充分な水場には、シャワーブースと洗面台、洋式トイレが完備されていた。二つのベッドは隙間なくくっつけられており、窓際には宿泊が三人となった場合に備えてのソファーベッドがある。  入ってすぐ右手にクローゼット、隣接した冷蔵庫スペースの上にはテレビが設置されていた。  高級ホテル並みの部屋とは言い難いが、一般的なビジネス・ホテル並みの施設は整っている。  荷物を置いて顔を洗った僕は、さっそく鞍馬に船内の案内を頼んだ。 「それでは、まずは七階のビューポイントにお連れいたしましょう」  にこやかなのはいいが、動くたびホコリが舞い立つ鞍馬と共に、僕は十階から七階までエレベーターを使って降りる。  千人単位の乗客が乗っているのだからさぞや混むだろうと思っていたが、前方、真ん中、後方と、それぞれ三機ずつ設けられているせいか、予想していたよりも移動はスムーズに行えた。 「宮古センセーはギャンブルはお好きですか?」 「人並みってところかな」 「では運試しをなさるのでしたら、どうぞこちらへ」  鞍馬が示した先には華やかな金色のアーチがある。アーチの入口には、<LIBERTY>という流麗なタッチの金文字が抜きで描かれた黒看板が掲《かか》げられていた。 「リバティー?」 「コイン制のカジノです。都知事が頑張ってくれれば、いずれマカオ並みのギャンブルが楽しめるようになるんですが」  こういう施設にも都の地ならしが始まっているのが予感させられる。僕は大して賭事《かけごと》には関心がなかったが、ラスベガス辺りでドンチャンするのが大好きなオヤジ連中が、人寄せに苦心して考え出しそうなアイディアだとは思う。  結局出港もまだという時間のせいで、案内されてもこの店には入れなかった。  七階の前方に向かうと、ガラス扉の向こうに大きな階段が見えてくる。 「おもては暑いですからね、すぐに戻りたくなるでしょうが……」  頬を真っ赤にして船内に戻ってくる人たちの顔つきに苦笑しつつ、鞍馬は自動ドアを先にくぐり、その奥のガラス扉を押し開けた。  途端にムウッとくる潮風が全身を包む。 「ここが船の突端、船首になります」 「へえ」  白い階段を登った先のビューポイントは、白い鉄柵に囲まれた眺望デッキとなっていた。  左手が羽木島桟橋、正面が東京湾になる。  なかなかの眺めだが、航行中はもっと美しいのだろう。いまは大して感動的なシーンも見られない。それどころか、大ヒットした映画のワンシーンを模したカップルがあちこちでイチャイチャしていて、ただでさえ暑苦しいのに居心地悪いったらありゃしない。  つまらなくなって鞍馬を急《せ》かし、さっさと別のポイントに行くことにする。  自分の恋路だって順調にはいっていないのに、他人の恋路を暖かく見守るなんてできっこない。増して真夏のこの暑さだ。  先刻見た人たちと同じように額に汗して船内に戻ると、きつすぎるくらいヒンヤリ効いた冷房がたまらなく心地好《ここちよ》く感じられる。  そのまま七階を船尾側に向かっていくと、廊下内にデッキに面してオープンしているカフェ・レストランに出た。 「こちらの飲食は格安となっております」  鞍馬の言葉通り、ガラスで囲まれた厨房《ちゅうぼう》の上部に並べられたメニューを見ると、どれも千円以内で飲み食いできる価格設定になっている。セットの数も多く、ガラスケースの中には数種類のサラダや飲茶《ヤムチャ》、アイスクリームなど、軽食類がびっしりと並べられていた。  廊下には椅子《いす》とテーブルのセットが置かれており、ガラス扉で行き来できるおもてのデッキにも、同じテーブルセットが用意されている。海を見ながら外で飲み食いするのもできるわけだ。  気取った海の家を彷彿《ほうふつ》とさせる店の名前は<BLUE SHELL>となっている。  更に進むと中間地点に最初に入ってきたグランドホールがあり、中華とイタリアン、それにフレンチの名店が軒《のき》を連ねていた。  一番後方、七階の船尾には、九百名を越す収容人数を誇るショールーム、<THE STAR>がある。  ちょっとだけのぞき込ませてもらうと、階段状の天井を冠《かん》した、地上と同じ大劇場ばりの客席とステージが、シンと静かに出番を待っていた。  後方の階段から八階に上がり、船首の方に進んでいくと、今度は和食、インド料理の名店が並んでおり、カラオケルームまで完備されていた。そのどれもが地上にある普通の施設となんら変わりなく、窓から見える景色さえ出港前で止まっているから、ここが船上とは、やはりなかなか思えなかった。  八階にはほかにも、百名を収容する映画館、土産物《みやげもの》を売るブティック、コンビニ、ビジネス・センターまで揃っている。  まさに至れり尽くせり、船内で快適な長期滞在が可能というクルージングの魅力を、これでもかと全面的|且《か》つ最大限に引き出しているのがわかった。 「ほら、あそこがギャラリーですよ。乗船のとき、宮古センセーも写真撮られたでしょう?」  鞍馬の示した場所は、八階の中央から前方に渡る付近で、デッキ側の壁の一部と廊下の内壁に、薄いガラスで覆われた廊下沿いのギャラリーがあるのが確かに見える。  さすがにまだ僕の写真が現像されているということはないだろう。  そうは思いながらも多少の興味もあって、ギャラリーの一番目立つ一角をしげしげと眺めてみると、頬が引きつりそうになった。 「あ、浮名センセーだ」  ノンキな声をあげ、鞍馬が改めて口に出す。  一番目立つ場所で、金色の額縁の中に引き伸ばされて飾られていたのは、ウエルカムデッキにいた外人のコンパニオンたちと姫田貴美香、それにどうやらこの船のキャプテンと思われる外国人男性と肩を並べて満面の笑みを浮かべている、僕の恋人浮名聖だった。  と、そのときだった。 「うっそ、マジで天音センセイ」 「マジでそうですわよ! 絶対御本人ですわっ! ほら!」 「キャーッ! 天音チャーン!」 「ッ!?」  けたたましい黄色い声で馴れ馴れしくも突然呼ばれた僕は、浮名の写真に不愉快《ふゆかい》をあらわにしたコメントを出す前に、ギクリと背筋を伸ばしている。 「天音サマァ! いやーん、こんなところで会えるなんてラッキーですわぁ!」 「どおしてぇ? なんでこの船に天音センセイが乗ってるの?」 「だからユイが言ったじゃないのよ、浮名ッチが乗ってるんだから、天音チャンだって乗ってるかもしれないって」 「でもまさかホントに乗ってるなんて、ああん、ケイ嬉しいですわぁ!」 「…………」  僕は全身からどっと生気《せいき》が失われていくのを自覚した。  まさかこんなところでコイツらに遭遇するとは……。 「宮古センセーのお知り合いですか?」  さすがの鞍馬も娘たちのパワーに圧倒されてか、いささか引き気味で尋ねる。 「だれ? このデカイの」 「イヤですわ、天音サマ、こんな体育会系と天音サマじゃ、ちっとも似合わないですわっ」 「浮名ッチは? 一緒じゃないの?」 「……神永……そうか、<神永建設>……」  立て続けのやかましい質問に答えず、僕は乗船のときに聞きかじったこの船のスポンサー企業名を一つ思い出していた。 「あのぉ、デカイのはよしてください、僕はJBTのツアーコンサルタント、鞍馬夏彦です。お嬢さま方」  ブツブツぼやいている僕の紹介を当てにするのをやめた鞍馬が、なんとか口を挟んで自己紹介する。 「ツアコン? ふぅん、私は神永舞《かみながまい》」 「ツアーコンダクターではなくツアーコンサルタントの方でして……」 「どっちでもいいわよ」 「私は倉川景《くらかわけい》ですわ」 「若村唯《わかむらゆい》です」 「……梅川利治《うめかわとしはる》」  最後の名前を聞いた僕はギクリとして顔をあげた。  まさかコイツまで一緒とは気付かなかった。  相変わらず暗い奴だ。まるで存在感がない。そのくせ上目遣いに僕をネットリと見つめる視線は、いつもながらゾッとする粘着力がある。 「神永様……倉川様、若村様、梅川様……と言いますと、ジュニア・スイート・キャビンのお客様方でしたか」  さすがツアコン、鞍馬の顔には営業スマイルが、声には太鼓持《たいこも》ち風の明朗快活な調子がそれぞれ戻ってくる。 「いかがですか? 快適におくつろぎいただけておりますでしょうか?」 「余計なお世話よ。私たち天音センセイとしゃべりたいんだから、ちょっと黙ってて」 「マイったら、ゴーマンですわね」 「私たち、天音チャンの公認ファンクラブの幹部なんです」  ウエーブした長い髪の毛が乙女《おとめ》チックなワンピースに似合う童顔の若村唯が、比較的友好的に説明してやると、鞍馬は『なるほど』と頷いてみせた。  勝ち気なショートカットのマイ、知的なボブカットに似合わぬお嬢口調のケイ、童顔ロングヘアのロリが入ったユイ、根暗男の梅川という四人は、僕なんかとはまったく縁のない上流階級、ブルジョワの家で生まれた典型的なお嬢さまとお坊っちゃまだ。  全員同じ有名私立大学の二年生で、なんの因果か僕がデビューしたときからずっと応援してくれており、最初にファンクラブを結成してくれた幼馴染《おさななじ》み四人組だった。  デビューしたばかりで、心細かった僕に彼女たちの申し出はありがたく、ついつい公認してしまったのが運のつき。彼女たちのストーカー的なファンクラブ活動は、いつしか僕の忍耐を超えるほど激しくエスカレートしていった。 「……ユイ、確か一昨年の春に、僕の<公認>は剥《は》がしてもらってるはずだよな?」 「でもぉ、活動はじめて六年目の大所帯ですよぉ? 公認でなくなったら、会員のみんな、きっと泣いちゃうなぁ」 「そうよ、天音センセイ」  動揺を殺した僕に向かい、ファンクラブの会長であり、このブルジョワグループのリーダー役でもあるマイが、細い腕を組みながらツンとして言う。  この娘どもはみんなそこそこの美人なんだが、特にこのマイはダントツで可愛らしく、恐ろしいほど生意気な性格を補って余りある魅力の持ち主だった。 「天音センセイのファンはほとんど女性なのよ。上は五十代から下は十一才まで、みぃんな天音センセイの笑顔のために日夜応援しているのに、どうしてそういうこと言うの」 「お前はなぁ……」  怒鳴《どな》りつけたい衝動を殺し、僕はギリギリと歯噛《はが》みする。 「それがオレの隠し撮り写真を通販で売りさばいた理由だって言うのか? 言っとくが犯罪だぞ! 犯罪!」 「あら、法律にくわしいセンセイとも思えないわ。ギリギリセーフよ」 「そうですわ、別におトイレにいるところを撮ったわけじゃないんですもの」 「原宿あたりだったら、アイドルの生写真がオマワリさんの前でだって売られているものねぇ」 「それだって犯罪は犯罪なんだよ」 「そんな怖いお顔なさらないでください」 「可愛らしいお顔が台無しだわ」 「ほら、笑って笑って」  悪びれることのない娘たちは『ねぇ』と微笑み合って、怒りに震える僕の抗議を受け流してしまった。  この悪びれのなさ、この結束力の強さが、僕を脱力させ、辟易とさせてきた原因だった。 「……浮名聖と一緒に来たんですか?」  頭を抱えた僕に追い打ちをかけるかのように、根暗な態度にふさわしい根暗な低い声で梅川が尋ねる。  コイツは見た目はごく普通の、いや普通よりかなりましな容姿の持ち主ではあるんだが、いかんせん中身は相当なフリークだ。それもこの僕の、である。  ファンクラブの間で通信販売された僕の生写真は、全部コイツが隠し撮りしたものだ。  自分の日常生活がフォーカスされていると知ったときの僕の恐怖と憤怒《ふんぬ》は半端ではなかったが、長く応援してくれた彼らへのせめてもの情けで、警察に訴えることだけはしなかったのであるが、訴えられたところで、金も権力もあるコイツらには屁《へ》でもなかっただろう。 「天音先生……僕……僕は……」  ジリジリとにじり寄ってくる梅川の不気味な態度に、手を振って追い払う仕草をしてみせた僕は、毅然《きぜん》としていられなくなって鞍馬と共に逃げ出した。  追いすがってくる気配を無視してエレベーターに乗り込むときには、情けないが駆け足になっていた。  会いたい浮名には写真だけで、会いたいとも思っていなかった連中とはこの大きな船内でもバッチリ遭遇してしまうなんて、この旅、どうやら相当ついていないらしい。      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆  娘たちプラス梅川を避けるため、僕はいっきに最上階のサン・デッキに上がった。  最上階と言っても、十二階はエレベーターで行けるてっぺんと言うだけで、実際にはこの階からおもてのプールサイドに面した階段を上がって行けるトップ・デッキがある。  十二階のサン・デッキには、競泳もできるスカイ・プールと隣接して、バスケットやバレーボールができるコートもあり、更にここからは三階分下のリラックス・デッキにあるクレセント・プールに降りられるようになっていた。  二つのプールを結ぶ長い階段の中央には、装飾用の段差がゆるやかな傾斜を描いて下へと続いており、三日月をモチーフにした九階のプールの眺めは最高だった。 「あ、あっちは本物の浮名センセーじゃないですか?」  娘たちから一歩でも遠く逃《のが》れようと早足になっていた僕に追いつき、鞍馬が暑さに汗を拭いながら声をあげる。  眼下に位置するリラックス・デッキの施設は、クレセント・プールを含めて、実用よりもくつろぎがテーマとされていた。プールサイドにはデッキ・チェアが並べられ、飲食店も隣接している。  神殿をモチーフにした半透明の屋根がプールを囲む四隅《よすみ》に並んでいて、ジャグジーがあるのだと鞍馬が教えてくれた。  よく見れば真っ青なプールの底には、白い天秤《てんびん》のイラストが描かれている。 「あの野郎《やろう》……」  我知らずつぶやいた僕は、炎天下急いで階段を降りることにする。この階段部分は、丁度船尾に位置する、あの巨大なショー・ルームの天井に当たるのだろう。  長い階段を下っていると、日射病になりそうになる。  いったいこの階段を使って上のプールと下のプールを往復したがる奴なんて、現実にいるんだろうか? 下りはともかく、上りは地獄じゃないか。特に真夏は……。 「おやおやぁ? 天音センセイじゃありませんかぁ」 「…………」  つくづく運がないのか、聞きたくもない声で呼ばれた僕は、荒い息をついて階段を降りきったところで、仕方なく疲れた視線をあげた。  ブルーの屋根がついたリラックス・デッキに、長身のヒゲ面《づら》男が一人立っている。  たくさん並んだデッキチェアには一般客は一人もいなかったが、彼の素性を知らなかったら、とても関係者とは思えなかっただろう。  タンクトップの上にアロハシャツを羽織《はお》り、七分丈《しちぶたけ》パンツを履いてすね毛を丸出しにした目の前の人物は、どう見ても仕事中の人ではなく休暇中のオッサンである。 「……どうも、桑名さん」 「ご機嫌斜めのようですなぁ?」  桑名晋平、7テレビのやり手ディレクターで、いまや映画制作者でもある三十八才の男は、ヒゲ面に色の薄いサングラスをかけ、唇に火のついていないタバコをぶら下げていた。 「ハンサムなナイトが一緒じゃないですか、ゴージャスな船旅を楽しみましょうよ」 「この人はJBTのツアコンの鞍馬さんですっ」 「なにも私に言い訳しなくても、言い訳しなきゃならない人はアッチじゃないんですか?」  会わないでいられるわけはないとは思っていたけど、まさかこのタイミングで会うとは、神様もひどすぎる。  ヒゲ面に脂下った笑顔が特徴の浮名の恩人は、皮肉な調子で言いながらプールサイドを示す。  プールサイドには大層な撮影隊がいて、ちょうどワンテイク撮り終えたのか、休憩に入るところだった。  人垣の中心にいるのは、痩せているのに胸はメロンくらいあるビキニ姿の姫田貴美香と、この炎天下に涼しげな顔をして、気障《きざ》っちい麻《あさ》のアンサンブルを着こなした僕の浮名である。  と、僕に気がついた浮名が、晴れやかな笑顔でこちらにやってきた。 「天音」 「……どうも、浮名センセイ」  なんの悩みもなさそうな浮名が笑って歩いてくる様は、それこそ映画のワンシーンを観るようで見惚《みと》れそうになったが、それとこれとは違う。  僕は浮名との二人きりの甘い時間が欲しくてこの船に乗り込んだのであって、暑苦しいお供と苦手な連中から逃げ回ったり、エロオヤジにドギマギするネタを振られたりしたいわけではなかった。 「あ、俺ちょっと打ち合わせが……」  不機嫌な僕の様子に気付いて逃げかかった浮名は、日陰から歩き出そうとしてバッタリと女性と鉢合わせる。 「あ、レイラ」 「とても素晴らしいレポートでしたわ、浮名先生」  白に近い金色に染めたベリーショートが似合う、背の高いボーイッシュな美女は、滑《なめ》らかな口調でそう言って華麗な微笑みを見せた。  後ろにもう一人、にこやかだが印象の薄い年上の男性を従えているのが、まるで女王様のようである。 「あちらから拝見しておりましたの。そちらの方は、ひょっとして宮古天音先生じゃありませんか? ご紹介していただけますでしょうか?」 「ああ、もちろん」  たったいま逃げ出そうとしていたことも忘れたのか、浮名は回れ右をして僕のかたわらに戻ってきた。 「レイラ、こちらが僕の友人で推理作家の宮古天音先生だよ」 「……どうも」  なし崩し頭を下げながらも、僕は相手がだれなのか、浮名にうろんげな視線を向ける。 「JBT企画室のプランナーの<天秤座号《スター・ライブラ》チーム>、笠井麗羅《かさいれいら》さんと瀬尾伸介《せおしんすけ》さんだ、天音。天秤座号《スター・ライブラ》周遊の企画を、実現に向けて飛躍的に進行させることができたのは、彼女の企画力のおかげだそうだ」 「まぁ、先生、いったい誰からそんなお世辞《せじ》を?」 「お世辞とは思えないけどなぁ。なにしろあのおっかない森崎《もりさき》チーフから直接そう聞いたんだから」  笠井麗羅の嫌味ない返しに、浮名はいつものフェミニストぶりを遺憾なく発揮した。 「チーフより大物になるって、ほかのスタッフたちも絶賛していたよ、レイラ」 「いやだわ、どこかでチーフが聞いていたらどうしましょう」 「お世辞なんかじゃないよ、笠井君、君は確かに僕らチームのエースなんだから。チーフもスタッフも本気で言ったんだよ」  苦笑した麗羅に向かい、瀬尾が歯の浮くおべんちゃら口調で言った。 「…………」  部署は違えど同じJBTの社員であるせいか、鞍馬でさえも浮名と麗羅たちの会話に笑っている。  いつだってわけ知り顔の桑名は当然笑っているし、ここで話が見えないのはこの僕だけだ。 「失礼いたしました」  不機嫌を隠そうともしない僕の顔つきに気がついたのか、麗羅はさりげなく表情を改めて名刺片手に前に出る。 「ご紹介にあずかりました、笠井麗羅です。宮古先生の御高名は兼《かね》がねお聞きしております。斯《か》く言うこの私も、先生の読者ですの。特に『夕映《ゆうば》えに消えゆく』が好きで」 「ありがとうございます」  クールな容姿に似合わず饒舌《じょうぜつ》な麗羅のしゃべりに、ムスッとしていたらいつまでも作品を誉め殺されると観念した僕は、たまらず素直に頭を下げた。  瀬尾のものと二枚の名刺を受け取ると、確かに両人とも企画部プランナーとある。  見た限り麗羅はまだ二十代半ばといったところだから、入社してすぐにこの企画に加わったのかもしれない。だとすれば凄い出世だろうし、凄いデキる人で、しかも運までツイているってことだ。  発散されるオーラは自信たっぷりで、見るからに意思の力が溢れているのも、モード系美人という外見からくる自負だけが理由じゃないんだろう。 「このたびは浮名先生から、ご親友の宮古先生もご案内させていただくように、せっかく直々《じきじき》お申し付けいただきましたのに、スイートの数が大変少なくて、ご迷惑をおかけいたしました」 「とんでもないです。僕は宣伝に協力するわけじゃないですし、浮名の口利きで部屋を割《さ》いていただけただけで充分です」 「でも本当に、料金は結構だったんですよ?」 「いえ、それだけは勘弁してください」  事情を知っているんだろう、頭の固い奴とニヤニヤしている桑名の表情が気になったが、僕はあくまでもそこらへんは妥協したくなかった。  クルーズの料金は、招待客がほとんどの処女航海ということもあって、種子島までの往復、七泊八日で十五万円と格安だった。  それくらいJBTに出してもらえばと浮名は軽く言ったが、宣伝に協力する彼と違って、僕はオブザーバーに徹したい。金を出してもらったら、なにも言えなくなるのが嫌だった。 『じゃあ僕が出そうか?』なんて浮名の奴は言ったけど、これこそ冗談じゃない。  たとえ低空飛行中とは言っても、僕だって無職じゃない、れっきとした作家だ。恋人とは言え、同業者の浮名に金銭的におんぶなんかしたくない。 「もう船内はご覧になりましたか? いかがでした?」 「ええ、すばらしかったです」  宣伝に協力する気がなくても、ここらへんは正直な感想だ。 「日本でこんな本格的なクルーズができるなんて嬉しいですね。低料金も魅力だし」 「ありがとうございます。冬は日本海を就航するプランもあります。またご招待しますわ」  そのときだった。自信たっぷりの麗羅の言葉にかぶって、不意に思わずといったような嘲笑《ちょうしょう》が聞こえてくる。 「仏木《ぶつぎ》さん……?」  さっき僕が降りてきた十二階のサン・デッキに続く階段に首を向けた麗羅が、そこで笑う人物を目に留めて驚きもあらわに目を丸くした。 「大した自信だね、レイラ。まるでJBTを一人で背負ってるようなお言葉だ」  パンパンとわざとらしく拍手しながら階段を降り切った男は、白い歯が眩《まぶ》しい陽光を反射してキラキラ輝く色男である。  焼けた肌に茶色い髪の毛、耳にはダイヤのピアスを光らせて、桑名より華やかなプレミアもののアロハに短パンというスタイルが実年齢を読ませないが、年は三十を越えているだろう。  男は自分よりも一層派手な金髪の若いギャルを連れており、ギャルの方は物凄いピンヒールサンダルのおかげで、まだ階段を降り切れずにいる。見ている方が危なっかしくなる動きだ。 「まるで幽霊でも見るような顔つきをしてるじゃないか」 「い、いいえ、そんな……」 「確かに僕は企画チームを外されたミソッカスだけどね、JBTでの貢献年数は君よりずいぶん長いんだよ。それにこの企画はそもそも僕が立案した愛着あるツアーだしね、パブリックの一員としてでも参加させてもらうことにした」  男の口調には嫌味と皮肉がたっぷりと味付けされていたが、その威力は実に効果的に発揮されているようだった。  さっきまで自信に満ち溢れて敵などなかったあの麗羅が、青ざめて小さくなったまま、返す言葉もなくなっているのだ。 「よせ、仏木、お前まだそんなこと言ってるのか?」 「なんだ、瀬尾、お前こそ年下の女の尻尾に巻きついて、男の沽券《こけん》もなにもあったもんじゃないな」  繕《つくろ》う風に前に出た瀬尾を馬鹿にした男は、僕たちをジロジロと眺めやって浮名で視線を止める。 「へえ、アンタがレイラの新しいオトコの浮名センセイか」 「仏木さん……! やめて、なに言ってるの!」 「あっちの巨乳アイドルともデキてるんだって? 作家センセイってのはお盛んで結構なことだねぇ」 「…………」  絡《から》まれても浮名はなにも言わなかった。秀麗な眉を顰《ひそ》め、日差しの強さを避けるのと同じようにして、淡い茶色の瞳をすがめてみせるだけだ。 「マリコ、危ないぞ」 「だってぇ、疲れちゃったぁ」 「ビールでも飲みに行くか?」  ギャルのマリコとやらを連れた“仏木”なる男は、チンピラのように肩をいからせて九階のリラックス・デッキから、水着での入店がオーケーのカフェ&バーに姿を消す。 「なかなか結構な紳士《しんし》ですねぇ」  いつの間にか一人でデッキ・チェアに腰かけてくつろいでいた桑名が、唇に“仏木”に負けない皮肉な微笑を張りつけて一同の内心を述べた。 「……失礼いたしました」  青ざめた顔色のまま、麗羅は丁寧《ていねい》に深々と頭を下げる。 「彼もチームお一員だったの? 貴女《あなた》とはただならぬ関係のようだけど」  知りたくても聞きにくいことを、桑名は平然と尋ねた。 「美人には秘密も必要だけど、ウチのセンセイを馬鹿にされたんじゃあ、そのままにはしておけないねぇ」  僕は疑わしげな眼差《まなざ》しを桑名に向ける。僕とは違う意味で、彼が浮名を非常に大切に考えているのは知っていた。  僕と浮名の関係を知っているのかどうかはわからないけど、たぶん知っているから絡んでくるんだろう。できれば別れて欲しいに違いない。  男の恋人がいるなんて、いまやちょっとした芸能人並みの有名人である浮名にとって痛いスキャンダルだ。 「申しわけありませんでした。彼は仏木雄平《ぶつぎゆうへい》と言って、半年前までは同じチームの一員だったんです。私とは……恋人だった時期もあります」 「やっぱりねぇ。男の嫉妬は醜いからなぁ」 「もうよせよ、桑名」  こういういざこざが全然ダメな浮名が、頭の痛そうな、どこか悲しげな顔つきになって首を振る。 「レイラ、失礼なことをしたのは君じゃないんだから気に病まないでくれ。根も葉もない中傷なんて、僕は気にしないよ」 「先生……」 「……ウソつけ……」  優しい浮名の言葉にウットリしてる麗羅を横目に、僕は口の中でつぶやいた。  気にしいの浮名があの男の言葉をまったく無視できるはずがない。桑名がここで絡んだのは、それをよく知っているせいだ。  僕だって恋人をあんな風に言われれば頭にも来る。  ──が、結局このあと浮名と親しく会話する機会に恵まれないまま、出港に合わせたレポート撮影が再開され、僕は口だけ残念がる桑名に見送られ、再び鞍馬に連れられて船内巡りに回ることになった。 「あ、いよいよ出港ですよ」  ボォーッボォーッという、ドラマなんかでは聞き慣れた汽笛の合図があったあと、ブラスバンドのマーチと、桟橋に集まった関係者、野次馬《やじうま》の一団に送られて、天秤座号《スター・ライブラ》は出港する。  デッキを囲む手すりに寄って眼下をのぞき込むと、たくさんの色鮮やかなテープが、桟橋と船の間をつないでいた。  陸を離れるとなって、なぜだかひどく頼りない気持ちになったが、手をつないで欲しい相手はそばにいない。  まさかだれでもいいとは思えなかったから、鞍馬に心境を語ることもなく、黙って手すりを握りしめていたけど、この気分がこれから僕を巻き込む事件の予感とは、まるで気づく余地もなかったのだった。      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆  船は石廊崎《いろうざき》を巡り、紀伊半島潮岬《きいはんとううしおみさき》を目指し、その夜は御前崎《おまえざき》で停泊した。  船中最初の夜は、夕方から三部に分けてのウエルカム・パーティーである。  その一部は一般客、二部は関係者、三部は招待客となっていた。  浮名のオマケとは言え、招待客の一員である僕は、八時からのパーティーに参加するため着慣れないスーツに身を包み、相変わらず鞍馬の案内でグランド・ホールに向かった。  旅行に誘っておいて鞍馬を宛《あ》てがったままの浮名に怒りは爆発しそうだったけど、華やかな楽団の生演奏とクラッカーが鳴らされるゴージャスなホールで、一部からずっとパーティーに付き合わされているらしい彼の、疲労のあまりハイになった様子を見たら、許してやる気になった。  これも彼の仕事であり、その仕事場に甘えて押しかけたのは僕なのだ。寂しくて苛々しても、我儘《わがまま》は言えない。  ドレスアップした姫田貴美香をエスコートした、スカイブルーのタキシードが似合いすぎの浮名は、白い盛装の外国人キャプテンともども、記念写真のリクエストのトップとなり、ひっきりなしにオバチャンやオジチャン、洟垂《はなた》れガキから生意気ギャルにまで、笑顔でカメラのフラッシュに焚《た》かれている。このうえ僕まで一緒にいてくれとねだり出したら、彼はストレスで早逝《そうせい》してしまうに違いない。  エレベーターが見える吹き抜けのホールの階段部分には楽団がいたが、彼らの立ち位置まで人でいっぱいである。  銀盆に軽食や飲み物を載せたクルーが、ひっきりなしに人の間を出入りしているが、みんないつまでも飢《う》えているようだった。  お揃いの真っ赤なドレスを着た外人コンパニオンたちもエンジン全開で働いており、盛り上がりに欠けたグループや、少人数で戸惑《とまど》っている連中のそばに行っては優しく話しかけている。 「君も大変だね、鞍馬君、こういうところには仕事じゃなくて、カノジョと一緒がよかっただろう?」 「いやぁ、天音センセーは可愛いから満足してます」 「……ああそう」  気を遣っているわけでもない、なんの裏心もない鞍馬の言葉がかえってムカついた。  こんなデカい男と二人きりで、お守りをされている僕の方が大変ってことらしい。  クルーが通りかかるたびに呼び止めてはシャンパンをあおり、僕は早々に酔っ払いに転じることにした。  シャンパンなんかでは酔えないとなると特別に日本酒を頼み、小瓶を三本まで空けたのは覚えている。 「いたいた、天音センセイ」 「キャア、可愛いスーツ姿ですねぇ」 「浮名ッチとのツーショット見たぁい」 「なんだお前ら、女ばっかで」  キャピキャピした声にも鈍感になっていた僕は、苦手な娘らの登場にも逃げることなく軽く答えた。 「梅チャン、お前も甲斐性《かいしょう》ないねぇ、いつまでもオレのストーキングなんてしないで、この中から一人キメちゃいなさい」 「天音先生……、酔っ払ってるときは優しいですね」  ミニスカドレスのマイ、パンツドレスのケイ、膝丈ヒラヒラドレスのユイの後ろにいた梅川が、僕の揶揄《やゆ》にうっそりと笑って見せる。  彼も一応タキシードを着ていたが、金持ちの御曹子《おんぞうし》ということもあって、僕なんかよりも非常にこなれた着こなしをしていた。 「馬鹿ね、トシ、からかわれてるのもわかんないなんて」 「トシはマゾだから、からかわれるのが楽しいんですわ、マイ」 「いやぁよ、トシよりも浮名ッチと並んでぇ、天音チャァン」 「今日はダメダメ。浮名センセイはお忙しいのさ」  目の前で揺れたシャンパンのグラスを反射的に手に取り、僕は一息であおってからユラユラと手を振る。 「どうしても一緒にいたけりゃ、あの列に並ばなきゃダメダメ」 「あんな奴どうだっていいわ。ねぇ、天音センセイ、あたしと踊って」  僕の腕を取り、するりとその身を寄せたマイが、ほどよくふくらんだバストを肘《ひじ》にこすりつけながら誘った。  ヒールを履いた彼女との身長差はわずかしかなかったから、目の前に艶々したピンク色の唇があって、さすがに欲望が刺激される。  だけどその欲望はなんというか、変にしとやかなもので、男なんだからそう感じなければならないという程度に収まってしまうものだった。  心臓が破裂しそうな、せつないときめきを伴う激しい欲望は、もはや僕の中で浮名一人に限定して反応するようになっている。 「いいよ」  浮名のいない寂しさと、相も変わらぬアルコールの力が、僕を節操なしにした。 「ああっ、抜け駆けですわ、マイ」 「天音チャン、ユイとも踊ってぇ」 「順番順番」  笑いながらケイたちに言うと、僕も浮名みたいにモテモテになった気分になる。  人で充満したフロアの真ん中は、軽快な音楽に合わせて踊り出した陽気な人々のために開かれた。  マイと一緒にヘタクソなダンスを踊り始めた僕は、記憶がなくなるまで飲んでは踊り、最後までパーティーを楽しんだ。  パーティーのあと汗をかいてシャワーを浴びたのは覚えていたけれど、いつの間にか眠りこけていた僕は、ノックの音になかなか気づかなかった。  寝ぼけ眼《まなこ》で起き上がって、カーテンも引いていない窓の外が真っ暗で、その向こうが海であるのをようやく思い出してドアに駆けつける。 「浮名っ」  開くと案《あん》の定《じょう》待っていた恋人で、僕は残った酒気の力を借り、しごく素直に彼の胸に飛びついていた。 「や、やっと終わったから」  熱烈歓迎に泡を食いながら、浮名はよろよろと部屋の中に入る。タキシードのままの彼からは、ブルガリの甘い香水の匂いが漂った。 「……なにこの甘ったるい匂い」 「え?」  不機嫌に言われて初めて移り香に気づいたのか、浮名は自分の袖口に顔を寄せて小首を傾《かし》げる。 「キミカの香水だ。今日はずっと一緒だったから」 「ふぅん」  たちまち今日一日放っておかれたことを思い出した僕は、浮名から離れて窓際のソファーに腰かけた。 「天音、アンタ妬《や》いてるの? キミカは桑名のカノジョだって何度も言ってるだろう?」  疲労した顔つきの浮名は、僕がすわっている場所まで来るのも億劫《おっくう》なのか、そのままベッドに横たわってしまう。 「凄いな、運命って。つい半年前までは、アンタはずっと遠いところにいて、手の届かない星だったのに、いまは俺がほかの女と一緒にいたからって、そうして嫉妬してくれてるんだから」 「そう思うなら大事にしろよ。また手の届かないところに行ってもいいのか?」 「ダメ」  ゴロリと首を向けた浮名は、クスクスと笑いながら手を伸ばした。どうやらこのまま久し振りの行為に及ぼうということらしい。  もう少しご機嫌を取って欲しかったけど、僕の欲望も切実に昂《たかぶ》っていた。 「浮名……」  ソファーから立ち上がって寝そべっている浮名のそばに向かう。彼の白皙《はくせき》の美貌を見下ろすと、目の下にうっすらと青い隈《くま》が浮いているのがわかった。 「浮名」  疲れているんだろう。それはわかっているけど、僕はずっとこらえてきた欲求をどうしても抑えられなかった。 「天音、ゴメンよ、待たせて」 「いいよ」  けなげな彼に微笑んで、僕からキスをする。  ビロードのような唇、その柔らかな感触を楽しみ、望んでいた互いの舌を味わった。 「……ン……ッ」  思わず声が漏れてしまう。こんなに濃厚なキスは久し振りだった。  浮名のキスは絶妙で、からめた舌の動きは僕を夢中にさせる。 「浮名……」  そっと唇を離すと恥ずかしい糸が伝った。僕は唇を舐め、疲れている浮名のためにタキシードを脱がしにかかる。  途中で寝そうになった浮名を軽くビンタしてまで起こす僕は、我ながらセックス・アニマルみたいだったけど、ホントに、どうしようもなく飢えていたので弁解のしようもない。  彫刻みたいな浮名の体を剥《む》き身《み》にすると、僕は裸の四肢をからめて恍惚とその肌の手触りに感動する。 「浮名、浮名」  浮名は僕を遠いところにいる星なんて言ったけど、それを言うのはこちらの方だ。  キレイで優しくて繊細な人、あんまりデキすぎてて時々誤解もされるけど、みんな彼の本当の姿を知れば愛さずにはいられなくなる。  僕みたいにひねくれ者の、売れない作家の恋人になってくれるなんて、まして男同士なのに、奇跡みたいだ。 「アッ、アッ」  浮名のキスが体中を伝う。ポイントを押さえた巧みな愛撫に、未熟な僕はすぐに爆発しそうになった。  ずっとずっとこうされたくて、浮名は一人でもなんにも感じていないのか、不安になったときもある。  でもこの瞬間が続くなら、一人ぼっちだったときの寂しさなんて忘れられる。 「浮名……浮名、きてくれよ、もう……」  もどかしい箇所へのじれったい愛撫が続いて、僕は恥ずかしさをこらえて自分から積極的に求めた。 「なぁ……浮名?」  返事がなくて、そのうち動きもなくなって、僕は嫌な予感がして身を起こした。  浮名は僕の下半身にかぶさったまま、静かな寝息を立てている。その顔は限り無く善良で、天使みたいに神々《こうごう》しくて、暴力に訴えてでも起こして行為の続きを促すのはとても忍びない。 「この野郎……」  思わず拳《こぶし》を握ったが、どうしても振り下ろせなかった。  僕はやっぱりこのどうしようもない美貌《びぼう》の恋人を、熱狂的に愛しちゃっているのである。  しかたなく重い体をベッドの上に持ち上げてケットをかけてやり、僕はせめてもの慰めに大木に抱きつく蝉《せみ》のような格好で一緒に眠ることにした。  疲労していたのは僕も同じで、おもての潮っけも、うだるような蒸し暑さも忘れ、すぐに深い眠りの底に落ちていた。  そのころ同じ船の中で、最初の事件が起こっていたことなど、まるで知らずに──。  こんなことで人が死ぬとは思いも拠《よ》らなかった。  鉄でできた白い階段の中腹で、人形のような遺体をさらした女は、恨みがましい眼差しで夜空を見上げている。  ベージュの唇の端から溢れた血の泡が下顎《したあご》を濡らし、老いる寸前の痩《や》せた顔からは見る間に血の色が薄れていった。 「……いやだ……」  こんなことで失敗するわけにはいかない。人生はまだまだ長く、ここでリタイヤなどしたくはなかった。  あたりを見回せば人影などありはしない。  今夜はパーティーで明け方まで浮かれ騒ぐ連中がいるだろうが、蒸し暑い屋上まで出て来る輩《やから》はいないだろう。  幸《さいわ》いデッキに隣接した店はすべて十時で終了している。  まだなんとかなるはずだった。  階段を駆け降りて遺体の肩を掴《つか》み、必死で引き上げた。自分は力などない方だと思っていたが、いざというときにはなんとでもなるものだ。  予備のデッキ・チェアの影に重たい肉の固まりを寄せ、ビニールシートをかけて隠す。  上着を脱いで階段に散った血を拭い、デッキ・チェアを洗うための水場で袖口を濡らし、こびりついて残った痕跡《こんせき》も消した。  船室に戻るまで誰にも見られずに済むということはないだろうが、脱いだ上着は手に持てば、染みた血は見えない。  これは一つのチャンスなのだ。これまでそうだったように、運と実力が好機をもたらしたに違いない。  振り仰げば美しい星空が前途を祝福しているようだった。  あとほんの数時間だ。夜明けまで死体が見つからなければ、なんとかなる。  そう確信して運を天に任せた。 2 夢の航路で人が死ぬ 「オハヨオ」 「……ック……クションッ」  鼻をつまんでしばらくすると、ぼおっとしていても愛らしい浮名《うきな》が、長いまつ毛をしばたかせてクシャミを一つした。 「……天音《あまね》?」 「そう」  覚醒《かくせい》しきれず寝ぼけている唇に軽くキスして、僕は頭からタオルを引っかけてやる。 「早く起きろよ」 「……起きろって……物凄《ものすご》く眠いんだけど、いま何時なんだ?」  ベッドの上で半分体を起こした浮名は、明かりをつけた部屋の中を見回して時計を見つけると、現在の時刻を確認して小首を傾《かし》げた。 「ねぇ……もう夕方になったの?」 「ううん」  不審に満ちた質問に、僕はすっかりしたくを終えた格好《かっこう》でニッコリ首を振る。 「じゃあまさか……朝の四時なの?」 「だから早く起きろよ」 「……ウソ……」 「起きろ」  眠気のあまりに悲しくなってしまったらしい浮名に、僕は笑顔を消して鋭く命じた。  昨夜《ゆうべ》は酒も飲んだし、僕だってこんなに早い時間に起き出すつもりなんかなかったんだけど、うまい具合にトイレに起きたから、そのままプールに行くしたくをした。  思えば浮名と二人きりでプールで泳いだりジャグジーに入ってたりしたら、あからさまに奇異かもしれないが、こんな早朝、というかほとんど深夜の延長みたいな時間なら、さすがにほかの客は誰もいないだろう。  仮に誰かいたとしても構わない。二人でプールにも入れず、船の上にいてもただ部屋の中で疲れて眠るだけだったら、地上にいるのと変わりない。  男同士で朝っぱらから仲良く泳いでいるのは異様かもしれないが、これくらいの我儘《わがまま》は我儘のうちには入らないと思うね。 「……わかったよ……」  なにを言っても無駄《むだ》と、僕が固い決意でいるのを見て取ったのか、浮名は観念してため息をついた。  洗面所に向かう足取りがヨロヨロしてる。可哀相《かわいそう》だとは思うんだけど。  ゴメンね。  予想通り九階の船尾のクレセント・プールは空《から》っぽだった。  三日月型の美しい青い水は、僕たちを静かに迎えてくれる。  プールサイドには監視員もクルーの姿もない。  人目を気にする僕らにとってはありがたいけど、たとえば子供が一人で来ちゃったりしたらどうするんだろう?  子供用の浅いプールは船首の方に一つあったはずで、このプールは保護者同伴でなかったら子供は入れないはずだ。外国人の観光客も意識しているためか、それとも造られたのがアメリカのせいなのか、深いところでは二メートルもあるプールである。  まぁ、僕がそんな心配をしてもしかたないので、すぐに気持ちを切り替えた。  いまは人のことなんか考えたくない。ずっと待ち望んでいた浮名との二人きりの時間がきたんだから。  ずさんな管理なんだか自由度が高いんだか、どっちにしても僕にはありがたい無防備さだ。 「ああ、もう夜明けだ」  冷たいプールで一泳ぎしたあとで、僕らは直径五メートルくらいの丸いジャグジーに二人して入った。  たっぷりした湯の中にはライトがセットされていて、まだ薄暗いあたりから浮かび上がる幻想的な色合いを醸《かも》し出《だ》している。  バスタブはプールサイドからはコンクリートの段差を数段上がった場所にあり、同じリラックス・デッキ階層からの視線は完全に遮《さえぎ》られていた。  十二階のサン・デッキに続く例の階段と飾り段差からは見下ろされる位置だったが、階段側のジャグジーには半透明のガラス天蓋《てんがい》がついていた。上から見たときにギリシア神殿風に見えたあの屋根である。おかげで無遠慮にのぞき込まれる心配もない。  気づかぬ間に視線を浴びることはあるまいと安心した僕は、ほどよい温度の湯の中、向かい側でくつろいで東の空を見つめている浮名の膝上に、思い切って大胆に乗り上がった。  恥ずかしくないわけはなかったが、アルコールが残っているんだとか、のぼせているんだとか、拒まれれば言い訳はいくらでも口にできる。 「天音?」  不思議そうな顔つきをしたものの、浮名は拒みはしなかった。  自分でもなんというか、これじゃあそこらへんで公衆道徳もへったくれもなくイチャついている幼いカップルと変わりないとは思ったんだけど、構わず正面から恋人の首を抱きしめる。 「天音」  驚き顔の浮名の、それでもどこか嬉しそうなキレイな顔が目前にあった。そばかすの浮いた白いなめらかな頬が、少年のように清《きよ》らかである。 「もしかしてアンタ、相当寂しかったのか?」 「人ごとみたいに言って……。お前は? 平気だったのかよ?」 「平気じゃないけど、アンタって、ベタベタした関係は嫌いなんだと思ってたから」 「なんでだよ」 「……だって、学生のときよく、腕組んで歩いてるカップルの後ろから、聞こえよがしに『邪魔《じゃま》だ』とか『醜《みにく》い』とか嫌味言ってたじゃないか」  古い話を持ち出されて、しかもそれが本当の所業《しょぎょう》だったから、僕は真っ赤になって唇を尖《とが》らせる。  そりゃあ学生のときは、口が裂けても羨《うらや》ましいとは素直に言えなかったさ。ましていまは、浮名と腕を組んでおもてを歩いたりできるわけでもない。  思春期の乙女《おとめ》ではなかったから、そういうことが積極的にしたいわけじゃなかったし、別にそうできないから苛々《いらいら》するわけでもない。  ただ僕は一秒でも早く、恋人関係に至る前、浮名との間で学生時代から長くわだかまっていた溝を、隙間なくピッチリと埋めてしまいたかったんだと思う。  そうしてほかの、たとえば桑名《くわな》のように、自分の方が浮名をよく知っているという顔をした輩《やから》に、大きな顔をさせたくないというだけなんだと思う。  僕が狭量なのは認めるけど、たぶんそんな気持ちも恋なんだろう? 「そんな顔しないでくれよ。俺はいつだって、アンタから求めてくれるのは嬉しいんだから」  尖った僕の唇に優しい指先を触れた浮名は、間近で微笑《ほほえ》みキスをくれる。  柔らかなその唇は昨夜よりずっと繊細な仕草で、僕のそれとピッタリ重ねられた。  息も飲むように激しい口づけになるまで時間はかからない。あらぬ部分がたちまちたまらなくなって、僕はせつない呻《うめ》き声を漏らしてしまった。 「……部屋に戻ろうか? 俺の部屋、凄く広いんだ。ベッドも大きいし、窓つきのジャグジーもあるよ」 「ううん、駄目《だめ》だ」  一歩でも動いたら、また誰かに邪魔《じゃま》されてしまう気がする。  それよりもここで、できるだけ長く官能に浸っていたい。  恥ずかしいし、いまにもだれかに見つかってしまうのではないかという危機感に焦燥《しょうそう》は消せなかったけど、浮名の裸身に触れながらのキスは、ほかのなににも替えがたく誘惑的だ。 「こんなに積極的になってくれるなら、たまには会えないのもいいね」 「……いつまでも代わりがいないなんて思うなよ」 「え?」  あまりにも有利に立った浮名のおめでたくも勝手な物言いに、僕がムッとして言ってやると、さすがに顔色が変わる。 「代わりって、俺の代わりって意味? そんなのウソだろう?」 「お前がいい気になっていつもオレを放っておくって言うなら、代わりを見つけなきゃな。だって宣伝のためとか言って、お前にはあの可愛《かわい》いアイドルがいるんだから、オレにだって見せかけでも、遊び相手がいたっていいだろう?」 「ダ、ダメだよ! 絶対にダメッ」  慌てて首を振り、浮名は僕の体を強く抱きしめた。 「せっかく俺のものになったのに、絶対誰にもやらないからね」 「そう思うなら、ちゃんとずっとギュッとしてろよ」  子供っぽい言いぐさに対する嬉しさと照れ臭さと、混ざり合った悦びで思わず笑顔をこぼしながら、僕は浮名を抱きしめ返す。  しなやかなその感触は、湯の中でもほとんど変わりない。  白い首筋にむしゃぶりついて舐めなぞると、反射的に歯を立てたくなったけど我慢した。  きっとコイツはこのクルーズ中ずっと、人目にさらされる場所に立たなければならないんだろう。浮名がそれを嫌《いや》がっているなら止めもするが、別に嫌じゃないから桑名と付き合っているんだろうから、僕にはなにも言えなかった。  同じ作家だからこそ、僕は彼の仕事に口を挟みたくない。  映画の脚本を書いたことで、頭の固い同業者からの風当たりは強いようだが、そのほとんどがやっかみであるのは周知の事実だ。  才能と若さ、それに卓越した美貌《びぼう》に恵まれた浮名を陥《おとしい》れようと手ぐすねを引いている奴らに、彼を穢《けが》させるつもりはまったくない。 「浮名、浮名」 「天音、好きだよ、天音」  いとしさが募《つの》って水着一つの体をくっつけて名を呼ぶと、浮名もまた僕の名前を呼んで応えてくれる。  僕だけのものだと大声で叫べたら楽かもしれないけど、叫べないからこそ、こんなに切なく昂《たかぶ》るに違いない。  恥ずかしいけど同性相手にこうなってしまうのも、単に生理的な反応という理由だけじゃないだろう。 「ダ、ダメだ……ッ」  さすがにそれはまずいと、湯の中で海パンの縁をくぐってきた指を高い声で拒むと、なだめるキスが降らされた。  最初はそこまでは拒まなければと自分を律していたけれど、昨夜だって途中で止められちゃったんだから、すぐには止まらない。 「ア……アゥ……ッ」  屹立《きつりつ》した性器をくるむ指が優しすぎてもどかしかった。湯の中で微妙に感じにくい。 「浮名……」  こんなシチュエーションで僕一人イクんじゃ寂しすぎる。  まずいんだろうけど……、ここで射精なんかしちゃうのは凄《すご》くイケナイんだろうけど……。  いや、“だろう”なんてどころじゃない。確実にイケナイんだ。 「浮名、浮名……オレ、オレ……」 「天音ッ」  僕たちは互いの手の動きに中心を任せ、生身の肌を貪《むさぼ》りながらとうとう達してしまった。 「……ア……」  恍惚《こうこつ》と余韻《よいん》に浸《ひた》り、ピクピクと震えている僕のぼんやりした視界で、浮名がそっと湯の中から手を出す。  ほとんどが中にこぼれちゃったみたいだけど、わずかに残った粘液が、彼の美しい桜貝みたいな爪先《つめさき》をトロリと汚していた。 「ダ……ダメだよ……っ」  止める間もなく、浮名はペロリとその指を自分の口の中に突っ込んでしまう。 「バカッ! バイキン入ってるかもしれないぞ!」 「俺たちの出したヤツで中和されるかも」 「そんなわけあるかっ」  淫《みだ》らでアホな発言に頬を染め、一度極めたせいでちょっと落ち着いた僕は、浮名から離れて自分も手を出してみた。  僕の指にもわずかだが、粘《ねば》ついた浮名の残滓《ざんし》がこびりついている。  悲しくなるくらい久しぶりに握りしめた逞《たくま》しい浮名の性器の感触が思い出されて、沈んだはずの欲望がまたムクムクとよみがえるのがわかった。  ふだんだったら絶対にしないだろうし、自分でもそんな真似するなんて考えられなかったけど、静かな浮名の顔を見ていたら、自然とそうしたくなって、僕も濡れた指先を唇に含んでいた。  味はほとんどしなかった。しょっぱいかな、と思った直後には鼻の奥に独特のにおいが抜けていって、喉の奥に全部溶けてしまう。 「天音……アンタ……」  浮名がびっくりしたような、感動したような顔をしたので、それがおかしくてもう一度寄り添った。  どんなに離れていて会わずにいたって、心も体もいつもこんな風に夢中なんだとわかり合えたことが嬉しい。  ──ドォォォォッンッ 「ッ」  と、優しいたゆたいに身を任せて唇を重ねようとした瞬間、凄《すさ》まじい音がして僕たちは思わず首をすくめた。  東の空は見る間に明るくなっているというのに、雷《かみなり》でも落ちたのかと思って、上を見上げるのが寸刻遅れる。 「……なんだあれ……」  一緒にガラスの天蓋を見上げた僕は、そこにどす黒いタールみたいなものが張りついているのを見て困惑した。 「うわっ」  ズリッと、重い摩擦《まさつ》音を奏でてソレは天蓋から滑り落ちる。 「…………」  恐《おそ》る恐るジャグジーから身を起こし、外の段差を見下ろした僕らは言葉もなく固まった。  大音響と共に落ちてきたソレは、プールサイドで無料で貸し出しているバスローブを羽織《はお》った身動き一つしない人間だった。  いや、人間だったモノだったのである。      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆  当たり前だが死体が好きな人間はそうはいない。  浮名聖《うきなひじり》は自分はごく当たり前の、一般的な人間だと自認していたので、メディカル・センターでの異例の遺体検証に付き合うつもりはなかったし、極端に疲労もしていたから、恋人の宮古天音《みやこあまね》が宿泊しているオーシャンビュー・ステート・キャビンの三倍も広いエグゼクティブ・スイートで、束《つか》の間《ま》の、だが切実なる睡眠を取らせてもらった。  なにもかも夢になっていればと願って目覚めてはみたものの、九時になって現れた桑名晋平《くわなしんぺい》の楽しそうなニヤニヤ笑いが、すべてを現実に引き戻してくれる。 「十時からまた撮影だぞ」 「……撮影、続けるのか」  相手はいとしの天音ではない。寝起きの不機嫌な顔を隠さずに、浮名は憮然としてバルコニーに面したソファーに腰を下ろした。 「当たり前だろう」  青いカーペットの上を踊るようにして歩み寄り、桑名は可愛い浮名の乱れたくせっ毛を撫《な》でさする。 「これだからお前さんといると退屈しないよ、浮名センセ」 「……死体が降ってきたのは俺のせいじゃない」  どす黒い血の色を脳裏で思い出した浮名は、顔色を悪くして額《ひたい》に手を当てた。 「絶対天音の方の凶運だ」 「天音センセイね」  口の中でぼやかれた名前を聞き取って、桑名はニヤニヤを深くする。 「あのセンセも相変わらず可愛い顔をして、死体なんて屁《へ》でもねぇって平然と歩いてたぜ」 「……会ったのか?」 「遺体が収容された四階に行ったら、死体見てたぜ。顔見知りじゃないってさ」 「……当たり前だよ。JBTの企画チームのメンバーで天音に紹介したのは、昨日会ったレイラと瀬尾《せお》だけだ。死んでいたのは……」 「チーフの森崎徹子《もりさきてつこ》に間違いないそうだぜ」 「……そうか」  いまにも吐きそうな表情をしながら、浮名は今度は背もたれに倒れかかるようにして仰向いた。 「レイラに輪を掛けてバイタリティに溢れた女性だったのに、まさか死ぬなんて……」 「船医の検死で、一応事故って結論出されたみたいだけどな」 「“一応”って、ほかにどんな死因があるっていうんだよ」 「そこはほれ、生き馬の目を抜く業界ですから」  落ち込む浮名から離れ、桑名は向かいのソファーに腰かける。 「水着にガウンって格好だったからな、酒を飲んであの階段を滑り落ちたってことは、プールに入ろうとしてたんだろうって関係者の判断だ。もっとも正式な検死や現場検証は、次の足摺岬《あしずりみさき》で行われるらしいがな」 「…………」  口に出してはなんのコメントもせず、浮名はただ不愉快そうに桑名の説明を聞いた。 「船は転針《てんしん》しないそうだ。種子島《たねがしま》までのイベント企画もそのまま。まぁ、故人のチームが企画したツアーだ。これで頓挫したんじゃあ、かえって浮かばれないってもんだろうが……。浮名、お前もな」  身を乗り出した桑名は、ふざけた振りで厳しい眼差《まなざ》しになる。 「いつまでも落ち込んでるんじゃないぞ。この事故でケチがつくわけにゃあいかないんだ。前のときみたいに、俺らの関係者に被害が出たわけじゃない。運の悪かった女のことは忘れて、この事故で集まった注目を全部モノにするんだ」 「……わかってる」  頭ではわかっていた。桑名に言われた通りうまくこなす自信も浮名にはある。  だが簡単に死んでしまう人への苦しい虚《むな》しさに飲み込まれた彼は、天音に会いたくてたまらなくなった。  こんなときはそばにいて、ただ二人きりの世界に浸れたらいいのに……。  それができないとわかっているから憧れる世界なのだとしても、浮名にいま必要なのは、確かに天音との時間だという気がしてならなかった。      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆  朝っぱらから嫌《いや》なものを見てしまった。  死んだ女性には申しわけないけど、知らない人の遺体っていうのは、あんまり同情を引きずれるものじゃない。  気の弱い浮名はさっさと自分の部屋に引き上げちゃうし、僕だって死体と遭遇《そうぐう》したってだけの理由で関わりたくなかったけど、第一発見者である以上そうもいかなかった。  結局事故死だったという結末が出されるまで、船内にあるメディカル・ルームでの控室で一応|拘束《こうそく》されたのである。  もちろん拘束といったって縛られたりしていたわけじゃない。ただ一通りの検死が済むまで『そこにいてください』とやんわり命じられただけだ。  浮名はVIPだったせいなのか、それとも真っ青な顔をして震えていたせいなのか、扱いに差があっても文句を言える雰囲気ではなかった。まぁ、浮名が大事にされるのは、恋人である僕としてはやぶさかではないので、これがほかの奴だったらこうはおとなしくしていなかったかもしれない。  船内にはガードマンはいても警官はいなかった。だれ一人法的に事故を検分し、処理できる人はいないわけである。  外国人のキャプテンの代わりにキャビンマネージャーがその場を仕切り、死体を発見してから三時間近くたってから、ようやく僕は解放された。 「それでどういうことだったんです?」  各国の料理がバイキング形式で気軽に食べられる六階のレストランで、向かいにすわった鞍馬《くらま》がいつもは大きな声のトーンを極力落としつつ尋ねる。  彼は僕がいない間ずっと十階の部屋の前で待っていたのだ。まるでハチ公のように。  みずから探しに行こうとか、手っ取り早く船内放送してもらおうとかは思いつかなかったらしい。部屋の前で待っていればそのうち帰ってくるとノンキに構えていたのだ。  実際僕は帰ってきたわけだけど、二時間ばかり仮眠を取らせてもらったから、結局は彼には出直してもらった。 「酒を飲んでの事故らしいけどね」  気分的にはうんと冷えた大吟醸《だいぎんじょう》をグイッといきたいところだったけど、さすがにこんな朝から酒浸りになるのは不謹慎だろう。  しかたなく空《す》きっ腹に、かき集めてきたバラエティ豊かな料理を詰め込んでいく。  干しぶどうと一緒に甘く煮た豚肉、シャキシャキのコーンサラダ、ホタテと海老《えび》の海鮮ちまき、赤色と黄色のピーマンを散らしたゼリー状の冷製コンソメ、それから山盛りのフルーツと野菜ジュースという取り合わせにした。  ふだんは和食党の僕だけど、めずらしい料理には目がない。  モリモリ頬ばっていく僕を見ながら、鞍馬も負けずにバケツみたいなデカイ口に食料を放り込んでいた。もう十時になるから、彼にはこれが二度目の朝飯なんだろうが、満腹感は一向に訪れていないらしい。 「“らしい”てことは、なにか不審な点があるのね? 天音センセイ」 「六久路谷《むくろだに》以来の事件ですのね」 「キャッ、天音チャンと浮名ッチの出番だわ」 「…………」  キャピキャピとした声音《こわね》と独特の圧迫感に、ドッと疲れを覚えて振り返ると、いつでも明るい表情をした三人娘と、いつでも暗い表情をした梅川《うめかわ》が、背後のテーブルから当たり前みたいに身を乗り出している。  遅い朝食を取っている人たちはレストランにも大勢いたが、華やかだったり陰気だったり、いずれにしてもベクトルの強烈な彼らと一緒にいると、異様に目立って仕方ない。  ただでさえマイは神永《かみなが》建設、ケイは銀行系財閥、ユイは大手服飾メーカー、梅川はUM重工と、それぞれ名のある家に生まれた令嬢令息の集まりなのだ。彼らの顔から素性《すじょう》を知る関係者も多い。 「“ムクロダニ”ってなんです?」 「六久路谷事件よ。半年前に起こった温泉地の連続殺人事件」 「あの事件を解決したのは、私たちの天音サマなんですわ」 「マイ、ケイッ」  事情を知らない鞍馬にニコニコと恥ずかしいウソをつく二人の顔を睨《にら》みつけ、僕はうんざりと首を振った。 「そんなのウソだよ、鞍馬君」  三人娘たちはそれぞれのコネを最大限利用しては僕のプライベートを侵略する。  六久路谷事件の概要にしてからがそうだ。  事件の渦中には確かに僕もいたけれど、一般に報道されたのは、ワイドショーなんかで浮名のそばにいるのをたまたま撮影されたりしたところとか、写真誌でうんとはじっこに目隠しされて名もなく写ってたりとか、そんなんばかりだった。  彼女たちはコネを使い、発表されていない部分での僕の恥ずかしいトンチンカンな探偵ごっこを知ったのだ。  それを事あるごとにいろんな人にしゃべるものだから、最近では本当に探偵まがいの頼みごとをしてくる彼女らの知り合いが現れる始末なのである。  シッシッと、虫を払うみたいによそにやってしまいたかったけど、さすがにそれはできなかった。 「天音センセイ、今度の事件も調べてよ」 「事件じゃなくて事故」 「でも不審なところがあるんでしょう?」 「ノーコメント」  昨夜のウエルカム・パーティーで、慕《した》わしく体を合わせてダンスなんかを踊ってしまったためか、ただでさえ積極的なマイは特に執拗《しつよう》で強気だった。  せっかくのクルーズを死体との付き合いでつぶしたくない。ましてやこの連中と付き合っていたら、ただでさえちょっとしかない浮名とイチャつく余裕が、カケラもなくなっちゃうだろう。  僕は浮かれた与太《よた》を抜かす連中を無視して食事を終わらせ、若い娘たちに名残《なごり》惜しげな視線を送る鞍馬を連れてレストランを出た。 「もったいないなぁ、センセー、あんなに可愛い女の子たちがそろってセンセーに夢中なのに、どうして付き合ってあげないんです?」 「好みじゃないから」  心底残念がる鞍馬に冷たく言って、僕は図書室へと案内させる。  サン・デッキにめんした十二階のライブラリーは、ヘア・ビューティー・サロンのかたわらにあり、人気《ひとけ》なく静かだった。  図書室と言っても無味乾燥な場所じゃない。本棚はすべて味のある木製で、置かれている書籍はすべて真新しい。  柱まで木のぬくもりが大切にされており、低いテーブルの上には落ち着いた色の造花が飾られている。  ゆったりとくつろぐために設けられたソファーセットは余裕をもって配置され、いまは十人に満たない人たちが利用していた。  本棚の前を巡って巨大な画集を鞍馬に持たせた僕は、周囲に人のいないすみっこの席を取り、ちょっと考えることにする。  探偵ごっこはこりごりで、見当違いの当てずっぽうを自信満々に無関係の人にぶつけ、それが間違いだと知らされたときの激しい羞恥《しゅうち》は忘れられない。  あんなに恥ずかしかったのは小学生のときのあの……いや、僕の恥をわざわざ発表することはなかった。  とにかくもうあんな思いはしたくない。それだけは確かだ。  でも気になる……。 「鞍馬君」 「ハ、ハイ?」  ひじ掛けにもたれて眉を顰《ひそ》めていた僕が呼ぶと、一瞬で睡魔に取りつかれていたらしい鞍馬は、いまにも涎《よだれ》を垂らさんばかりの勢いで居住まいを正した。 「なんです? センセー」 「君は死んだ企画部のチーフ、森崎徹子さんって、どういう人だか知ってるのかい?」 「いや、部署が違いますから。まぁ、女性なのに男以上にできる人だとか、かなりキツイって噂《うわさ》は聞いてましたが」 「キツイ? 意地悪だったってこと?」 「いえ、そういうんじゃなくて」  鞍馬は困った風に短く切った髪の毛を掻《か》く。 「死んだ人のことをあんまり言うのは……」 「わかるけどさ、もしこれが事故じゃなかったらどういうことになるのか、君だってわかるだろう?」 「……事故じゃないんですか?」 「それはわからないよ。警察に調べてもらわないとね」  でも“デキる女性”って聞くとなおさらあんな死に方、不自然なんじゃないかって気がしてくる。  眠気ざましにプールに入ろうと思い立つのはわかるけど、朝っぱらから、いくらなんでも階段から転げ落ちるほど酔っぱらってるなんて……。  室戸岬《むろとみさき》に寄っていたのでは旅程をこなせないという理由から、土佐湾を突っ切って足摺岬まで予定通り航行はつづくそうだ。  港に停泊して遺体を下ろし、事故の検分もするらしいけど、警察から転針するように言われたら、いったいどうするんだろう。 「意地悪な人じゃなくてキツイ性格って噂なら、やっぱり仕事か」 「デキる人ってのは、やっぱりぶつかることも多いですからね」  言い難そうに、それでも鞍馬は頷いた。 「これだけ大きな企画を立てた功労者ってのは、誰でも自分だって胸を張りたくなるものじゃないですか。森崎さんはそのトップに立てる人だったのに、部下の……昨日会いましたよね、あの笠井《かさい》さんにその席を譲っているんです。そういうことのできる一方で、笠井さんの席を空けるためには、手段を選ばなかったっていうか……」 「なるほどね。つまり昨日いたあの男、仏木《ぶつぎ》とかって奴《やつ》、彼が笠井さんの席に陣取ってたんじゃないの?」 「……僕は部署が違うんで、詳しくは知りませんけど、仏木さんは自分で、森崎さんからチームをはずされたのは不当だったって、いろんな方面にしゃべってました。でも……」 「でも?」 「……そのぉ……笠井さんも言ってたじゃないですか」 「ああ、自分たちが恋人だったって話?」 「ええ」  言《い》い淀《よど》みながらも、鞍馬はそっと身を乗り出して小声で続ける。 「仏木さんが恨んでるとしたら、間違いなく笠井さんですよ、森崎さんより」 「それはどうして?」 「仏木さんはこのクルーズ企画、自分が最初に立案したんだって言い張っているんです。社内でも凄く問題視されていて……。なにしろ笠井さんと仏木さんは実際にプライベートな関係があったわけで、笠井さんには仏木さんのプランを盗む機会があったわけですから」 「なるほどね」  それであの男はあんな風に麗羅《れいら》に絡《から》み、彼女の方も複雑な顔をしていたわけなんだな。  それにしても……、きな臭《くさ》いにおいはあるけれど、僕はやっぱり探偵には向かないと思う。そんな話を聞いても、会社組織の中ではめずらしくないゴシップだと思うだけで、別に天啓《てんけい》の閃《ひらめ》きもない。  森崎徹子という人を知らないのも、興味が削《そ》がれる一因かもしれなかった。  なにしろ落下した遺体としか面識がないんだから、故人《こじん》がどんな人だったのか調べるのは、本当に警察の仕事だとしか思えないのだ。  でも鞍馬と話していて僕が思いついたのは、これを調べるという名目があれば、なにかと7テレビの撮影隊にくっついている麗羅に近づけるし、ということはつまり、自然と浮名にもひっついていられるんじゃないかってことだった。  彼女は一応僕のファンらしいし、まさか邪険《じゃけん》に追い払われることもあるまい。  かなり不謹慎ではあったけど、浮名との危なっかしくも甘い時間を邪魔《じゃま》してくれたんだから、こういう形で協力してもらうくらい、死んだ森崎徹子女史にも悪くないだろう。  まぁ、いずれにしたって僕の身勝手だとは思うけど……。 「よし、行こう」  僕は唐突に立ち上がり、事情のさっぱりわからないという顔をした鞍馬に、今日の七テレビの撮影予定場所へと案内させた。  すでにここでの撮影は終わったのか、ライブラリーと同じ十二階サン・デッキのプールサイドでは、撮影隊の移動が始まっていた。  下にあるリラックス・デッキのプールサイドで起きた事故など誰も知らぬげで、少しも暗いムードはない。  羽目《はめ》を外して酔っぱらった中年女性が階段から滑り落ちて事故死したという話題は、忙しい彼らを引き付ける派手なニュース・ソースではないんだろう。  むしろこの船を大々的に宣伝したがっている連中にとっては、事故は“なかったこと”にしてしまいたいくらいかもしれない。 「浮名」  今日もバッチリ水着姿の姫田貴美香《ひめだきみか》と一緒にいる浮名を呼ぶと、彼は貴美香をガードするために僕を止《とど》まらせたADに身元を保証してくれた。もしかしてこの点だけは、昨日よりも神経質になっているかもしれない。 「どうしたんだい?」 「ちょっとね」  説明をはぐらかした僕は、笑顔で僕を見上げる貴美香の視線を無視できずに、引きつりかけた笑いを返す。ずいぶん人なつこい女の子らしい。 「センセイのお友だちなの?」  テレビで見たときより背が高く、びっくりするくらい甘ったるい声をした貴美香は、お人形のように小首を傾《かし》げた。  男でも女でも、僕は浮名より美しいと思える人には会ったことがないけど、彼女はまた別の意味でめったにお目にかかれない魅力の持ち主である。  天性の無邪気《むじゃき》さがエロティックなボディに宿って、なんというか、これはやっぱりアイドルになるために生まれてきた女の子なんだなぁと思わせるのだ。  たった一人のものになるのではなく、大勢の人たちのものになることができる、好むと好まざるとによらず選ばれた人間だ。 「宮古天音先生だよ。僕と同じ推理小説作家なんだ」 「どうぞよろしく」 「天音センセイ、私、小説を読んだことないの。センセイの小説も知らないわ」 「いいんだよ」  あけすけだが心からすまなさそうな貴美香の物言いに苦笑がこぼれて、僕は嫌な気持ちにはならず穏やかに応えた。  彼女には図書館も本屋も似合わない。世の中のことをなんにも知らなくても、僕より大勢の人に夢や希望を与えている。それだけで充分な才能なのだ。 「僕は君を知っているよ、姫田さん。僕は<制服シリーズ>のファンだからね、試写も観せてもらったよ」 「私、お芝居《しばい》ヘタクソだったでしょう?」 「いままで映画化された浮名のヒロインたちの中で、一番魅力的だったよ」  一瞬なにを言われているのかよくわからないという表情をしてみせたあとで、貴美香は頬を染めた少年のように健《すこ》やかな照れた笑いをこぼす。  こんなに色っぽい女の子なのに、アンバランスなくらい中性的な表情は、浮名に夢中で、ほかの他人なんかそういう意味で目に入らなかった僕にもズシッとくるくらい蠱惑的《こわくてき》だった。 「じゃあまたあとでね」  急に間に入った浮名が、僕の肩を抱くようにして方向を変えた。 「サヨナラ、またね、センセイたち」  後ろ髪を引かれる思いで振り返った僕に、貴美香は別に名残《なごり》惜しげな風もなく手を振る。 「なんだよ、もう少し話したかったのに」 「……あのな」  浮名を責めると、物凄《ものすご》く不本意そうな、背が高いだけにもともとちょっと伏せ気味になる目を半分にして睨《にら》まれた。 「わかってるだろうと思うけど、アンタも人のモノだし、彼女も人のモノなんだからね」 「え? 天音センセー、カノジョいたんですか?」  黙ってついてきていた鞍馬が、会話を聞き取って頓狂《とんきょう》な声をあげる。 「だったらカノジョも一緒に連れてくればよかったのに。もったいない」 「……余計なお世話だよ」  ここにいるのがその“カノジョ”だと知ったらどんな反応を示すのか、興味はあったけど、もちろん言うつもりはない。 「センセー、貴美香チャンの恋人って誰なんですか?」  僕の冷たい対応など鞍馬は別に気にもせず、興味津々《きょうみしんしん》俗ネタを尋ねたが、浮名はキッパリ無視する。 「それで? なにしに来たの、アンタたち」 「来たら迷惑みたいな言い方だな」 「絡《から》まないでくれよ、わかってるだろう? 忙しいんだよ」 「ふぅん」  そういう態度に出るんだったらこっちにだって考えはある。 「お前が時間がないって言うなら、別にいいよ。なぁ、夏彦《なつひこ》」 「は?」  浮名の手をビシッと叩《たた》いて払った僕は、後ろにいた鞍馬を急に名前で呼び捨てて腕組みした。 「夏彦は僕とずっと一緒にいてくれるものな」 「はぁ、そりゃあもちろんです」  もちろんまったくこの場の微妙なニュアンスなどを解することのない鞍馬は、鷹揚《おうよう》な笑顔で頷いてみせる。 「どこまでもお供《とも》しますとも、天音センセー」 「じゃあ行こう。浮名がいなくても、君がそばにいてくれるなら心強い」 「ちょ……ちょっと! 天音!」  踵《きびす》を返して浮名を置いていこうとすると、慌てて追いすがられた。 「なんだよ、お前は忙しいんだろう?」 「そ、そりゃあ僕は忙しいけど、だからって別にアンタが彼と四六時中一緒にいる必要はないだろう?」 「夏彦にオレを任せたのはお前だろう?」  眼差《まなざ》しを尖《とが》らせた僕は、唇も一緒に尖らせる。  自分は勝手をしておいて、ちょっと僕が女の子に惹《ひ》かれてみたからって、勝手な奴だ。 「オレは笠井さんに聞いてみたいことがあるんだよ。お前に口きいてもらおうと思ったけど、考えてみたら夏彦だって一応JBTの社員だ、別にお前がいなくたっていいよ」 「レイラになにを聞くって……」  と、言いかけている浮名を置いて、僕は再び歩き出す。  浮名が慌てて追いかけてくる気配《けはい》を背中に感じながら、ちょっと思ってた展開とは違うけど、充分彼の気を引く計画は成功したと満足した。  浮名の気を引くためとは言え、正直言って森崎徹子女史の事故に対する僕の興味は、本当に些細《ささい》なものでしかなかった。  これは事件だと、こじつけで騒ぎにしたいわけでもない。  だが根が真面目《まじめ》な浮名にそれを告げれば、最初に言っていたように『忙しいから』という理由で、また僕との付き合いを後回しにされるだろう。  もちろん本当に忙しい浮名への申しわけなさがないではなかったが、とにかくこれまで強制された離れ離れの期間を思うと、我儘なくらいじゃないと恋人だなんて言ってられなくなるんじゃないかと思えてしまった。  だから僕や、たとえ同じ会社の人間だろうと、鞍馬が呼び出したのでは絶対に現れなかったであろう笠井麗羅が、サン・デッキにあるこじんまりしたアイスクリーム・バーに生真面目《きまじめ》な顔つきでやって来るのを見たときは、我ながら自分の恋路のために人を犠牲《ぎせい》にしている気持ちになった。 「ごめんよ、レイラ、大変なときに」 「いいえ」  顔色の悪い麗羅に向かって浮名が言うと、彼女は気丈にもニッコリと微笑んで見せる。 「なにか、聞きたいことがあるそうですが」  アイスクリームではなくホットコーヒーを頼んだあとで、麗羅は僕を見やった。  会社では花形部署とは言っても、裏方業務である企画チームにはもったいない……と言ってしまったら失礼なんだろうけど、やはりよくよく見ても営業や広報に回った方が利益をあげそうな美しい女である。  僕好みではまったくなかったし、浮名の好みとも違うだろうけど、気の強い自立した女が好みの人にはたまらない魅力の持ち主だろう。  僕は個人的な裏心を隠し、いい加減な理由で彼女を呼び出してしまったのを早くも後悔したが、花の香りのするアイス・ティーのストローから思わせぶりに唇を放した。 「笠井さん、このたびはご愁傷《しゅうしょう》さまでした」 「……ありがとうございます。宮古先生にはとうとうご紹介もできないままでしたね。森崎も残念だったと思います。こんなことになってしまって、一番悔やんでいるのは、間違いなく本人でしょう」  ありきたりの僕の言葉にも、麗羅は誠実な態度で答える。彼女がなにかを隠しているようには見えなかったが、僕の観察眼は当てにならない。 「……浮名先生から、宮古先生が森崎についてお聞きしたいことがあるとうかがって、私自身の中にも少なからぬ不審があるとわかりました」 「この事故は不審ですか?」  自分で水を向けてくれて助かった。安堵《あんど》の色を見せないよう気をつけながら、僕はそっと首を傾げる。  すでに退屈を感じているのだろう、隣のテーブルで一般客への壁になってアイスを貪《むさぼ》っていた鞍馬が、更にバナナ・チョコレート・サンデーをオカワリしていた。  下戸《げこ》で甘党の浮名は、麗羅の手前かカッコつけてホットをすすっていたが、鞍馬の注文を聞いて目を泳がしている。 「先生もお気づきでしょうが、森崎は亡くなったときパンプスを履いておりました。酔っぱらっていたからと言われてしまえばそれまでなんですが、プールへ行くのに、裸足《はだし》でパンプスを履くのはどうかと思ったんです」 「ああ、やっぱり女性から見ても変ですよね」  それは事故直後の現場を見て僕が一番|腑《ふ》に落ちなかった点だ。  遺体を見ても、僕みたいな素人《しろうと》には死因はわかりようがない。だけど女性が裸足でハイヒールを履くものなのかどうか、それは女性と付き合いの無い無骨者《ぶこつもの》でも不自然に感じられる。 「でも……私もそうなんですが、森崎も忙しさにかまけて、ずいぶんと粗忽《そこつ》なところがありました。言ってしまえば、ドジで気のつかない方だったんです」 「お仕事の性質からすれば、それはご自分で思っているほどひどくないのでは?」 「仕事とは別ものらしくて……。森崎は仕事でミスをすることはありませんでした。慣れないはじめのころはともかく、私もいまでは仕事でミスすることはありません。一度でもミスをしていたら、森崎が私を重用《ちょうよう》することもなかったでしょう」 「森崎さんという方は、完璧主義者だったんですね」 「……そうですね。そうでした」  過去形になってしまう故人への評価に、麗羅の表情はどんよりとした翳《かげ》りで包まれる。  そんな雰囲気も知らぬげに、明るいウエイトレスが可愛らしいガラスの器に盛られたバナナ・チョコレート・サンデーを運んできた。  僕らの目も思わずそちらに釘付《くぎづ》けになるようなサンデーは、ボリュームたっぷりなアメリカン・サイズで、縦切りにされたバナナが帯のように四方から突き出ている。  ついにたまらなくなった浮名が、去りかけたウエイトレスを呼び止めてスペシャル・ストロベリー・パフェを注文した。どうやらさっきメニューを開いたときから目をつけていたらしい。 「浮名先生、甘いものがお好きなんですね」 「あ、いや、たまに食べたくなるんだよね、甘いものって」 「コイツは下戸で甘党なんですよ。ずうーっと昔から、酒は一滴も飲めないくせに、甘いものとなるとアンコの固まりを平気で貪るような奴なんです」  微笑ましげな麗羅の言葉に照れた素振《そぶ》りを見せる浮名にムカついた僕は、嫌味たらしくバラしてやった。  浮名は頬を染めて目を伏せたが、まるで少年のように愛らしい。麗羅も同じ感想を抱《いだ》いたらしくて、暗かった顔にうっすらと微笑を浮かぶ。 「本当にお二人は仲がよろしいんですね」 「学生時代からの付き合いだからね」  ドキッとした僕とは逆に、この手の嘘には強い浮名がシレッとして笑った。 「僕が高校一年生のとき、天音は一学年上の二年生だった」 「先輩後輩なんですね」 「別の高校だったけど、ミステリー研究会が交流していたから、それで知り合ったんだ。一番怖い先輩だったよ」 「…………」  浮名が“怖がってた”なんて聞いたこともない。  学生時代の記憶は、僕にとっては甘く狂おしい。  せつないほど浮名の才能に嫉妬《しっと》した時間……。  そのうちそれが恋慕の焦燥に変わって、成人してから半年前の六久路谷での再会の折に報《むく》われるまで、長く胸の底で治らぬしこりとなっていた。 「あ」  いつまでも学生時代の話を交わされるのはご免だ。話を元に戻さなきゃと逡巡していると、浮名のパフェがやってきた。  これがまたスペシャルというだけあって鞍馬のサンデーを凌駕《りょうが》するボリュームで、僕には絶対食べ切れないと、見るだに恐ろしくなる。 「あ、ソレも美味《うま》そうだなぁ」  まさかと思っていると、鞍馬はペロリと平らげたバナナ・チョコレート・サンデーのガラス器を片付けさせて、更にキャラメル・マロン・パフェを追加した。 「おい、お前ら、大食い大会してるんじゃないんだぞ」 「ええっ? 俺いつもこんくらい食うんですけど」 「……………」  いささかラフな口調になってきた鞍馬の言葉に、僕はもうなにも言うことはない。 「男の人の食べっぷりは気持ちいいですね」  小麦色の肌をしたウエイトレスが残した言葉も、本気なんだかお愛想《あいそ》なんだかわからない。  浮名は見ていて恥ずかしくなるほど“本気で”、嬉しそうに長いスプーンを手にすると、巨大な生クリームの固まりを思いっきりすくいとって芸術的な形をした唇に運んだ。  子供のころ生クリームを食べて吐いたことのある僕は、以来ずっと甘いものが苦手なんだが、浮名の食べ方は本当に美味そうに見える。 「話を戻していいですか?」 「ええ、はい」  同じようにぼんやりと浮名に見惚《みと》れている様子の麗羅に気づいた僕は、あえて水を差してもう少し森崎徹子について尋ねることにした。 「ドクターの話では、十二階から九階に至る、あの急な飾り段差を踏み外して落下したという死因に不審な点はなさそうでしたが、ほかに詳しい話を聞いていますか?」 「いいえ、私はなにも。ただ死亡推定時刻だけは、ちょっと気になっているようです」 「今朝方《けさがた》亡《な》くなったんじゃないんですか?」 「それは間違いないようなんですけど……」  麗羅は食事中の浮名に気を遣ってか、わずかに声のトーンを落とす。 「ドクターは二人おりますが、どちらもこういったことの専門家ではありません。ただ、宮古先生たちが目撃されたときが、事故の直後だったのではないようで」 「ええっ? そうなの?」  驚きのあまり思わず声をあげて気安く聞いてしまってから、僕は口をふさいだ。  事故のことは本当にまったく知らない人も多い。クルーは聞かれれば事情を説明し、答えるように指示されているらしいけど、積極的に発表するつもりはないようだ。  僕の不用意な言葉でパニックを起こすわけにはいかない。  まぁ、これが天秤座号《スター・ライブラ》の処女航海なんだから、関係者にしてみればできるだけ隠しておきたいのが実情だろう。 「それじゃあ彼女はもっと前の時間に亡くなっていたのかい?」 「サン・デッキからリラックス・デッキまでの落差は、およそ地上三階分あります。階段の中央の飾り段差には、頭部を打ちつけたと思われる血痕《けっこん》もありました。ガードマンの調査で、森崎は深夜に中央部分に転倒、落下して引っかかり、早朝のエンジン始動の振動で、リラックス・デッキのジャグジー天蓋《てんがい》に落下したのではないかという推測がされました」 「でも、エンジンが動き出した振動なんて全然感じなかったよ?」  エンジンの始動だけじゃない。そりゃあこれだけ大きな船でも、動いているときこちらがジッとしていれば多少の揺れは感じるけど、今朝はそんなに揺れていたとは思えなかった。 「今朝この船は、沖合に停泊していた状態からエンジンを始動して潮の流れに逆らう形で方向転換しています。人によって差はありますが、敏感に感じる人は震度三の地震程度には思えるそうです」 「そうなんだ……」  もっと強くおかしいと訴えることもできたけど、そうすると僕らの今朝の行動をくわしく説明しなきゃならなくなるかもしれない。  これが風呂《ふろ》好きのオヤジならともかく、まだオヤジとは言えない年の──僕としてはそう思いたい──男同士で、仲良く早朝のジャグジーに入っていたというだけでも充分妙なのに、エンジン始動にも気付かずそこでなにをしていたのか、微塵《みじん》でも知られるわけにはいかなかった。 「じゃあ、亡くなったのは深夜で、パーティーで本当に泥酔していたあとだったんだね」 「はい」 「そうか」  だとするとやっぱり裸足でハイヒールというのも、不審に思うほどの出来事ではないのかもしれない。  なにも無理やり事件にしたいわけじゃないから、それはそれで納得してもいいんだけど、僕はなぜか麗羅と話す前よりも、ひどくモヤモヤした気分を味わっている。 「……笠井さん、もしかして言い難いのかもしれないけど、できたら貴女から聞きたい話があるんだ」 「仏木の件ですか」  カンのいい麗羅はすぐにピンときたのか、突然表情を固くした。  元々美人なだけに尖った印象のある彼女だけど、“仏木”の名前を口にした瞬間、それがより鋭くなった気がする。 「おっしゃる通り、私の口から彼のことは言いたくありません」 「なぜ話したくないのかだけでも、聞かせてもらっていいだろうか」 「…………」  黙りこくった麗羅の態度に、これはもう無理かなと思ったが、ややあってから彼女はぼそぼそとしゃべり出した。 「……彼はこの客船ツアーを最初に立案したのは自分だと、誰に対しても言ってはばかりませんが、それを主張したいのは私の方です」 「実際、君の案が通ったわけなんだろう?」 「はい。でも仏木も同時期に似たような企画を提出していた事実はあります。ただ、それは私と恋人関係にあったとき、私がしゃべった豪華客船ツアーの内容を模倣したものに過ぎませんでした。だからチーフは……、森崎は、レプリカだろうとオリジナルだろうと、実行価値がある方を認めて、私の企画を通してくれたんです」 「仏木氏の企画は森崎さんに却下されたんだね」 「外聞が悪いように聞こえるかもしれませんが、それはよくある話です。確かに仏木は企画室のエースでしたが、それは昔の話で、私が入社する数年前から、プライベートでの問題を抱《かか》えて、チーフの頭痛の種になっていたんです。企画を却下されたのは、仏木自身の実力不足のせいで、森崎チーフが彼への嫌がらせで決めたことではありません。そういう点で、チーフは非常にシビアな人でしたから、年功序列を重く見たり、公私混同しやすい人にとっては、逆恨みしやすい対象だったかもしれません」  麗羅の顔つきに再びあの翳りがよぎって満ちる。 「人事に影響した仏木氏のプライベートな問題って、なんなのかな?」 「それは私の口からは言えません。彼の個人的な問題です」 「そう」  もうそれ以上言うつもりはないらしい。  肩の力を抜いた僕が視線を巡らせると、浮名も鞍馬も乙女チックなガラスの器をきれいに空っぽにしていた。  麗羅からくわしい話が聞けない以上、あとはもう仏木本人に当たるしかなかった。  自分でも嫌な奴だとは思うんだけど、彼らの間になにが起こったのか、野次馬《やじうま》根性で気になるわけじゃないと言ったら、嘘になるだろう。  アイスクリーム・バーから出たおもてのサン・デッキに仏木の姿を見つけたときは、あまりのタイミングのよさに制止する浮名の声なんか耳に入らなかった。 「仏木さん」 「アンタ……」  デッキチェアで一人くつろいで体を焼いている仏木に声をかけると、サングラスをはずして顔を向けられる。  僕のことはともかく、後ろにいる浮名にはすぐに気がついて頬に歪《ゆが》んだ笑いが刻まれた。 「なんだい? 色男センセイ」  背もたれを起こした仏木は僕に視線を戻し、手持ち無沙汰《ぶさた》にサイド・テーブルの上に乗ったビールに手を出す。  サン・デッキには下のリラックス・デッキほどではないが、大勢の人たちが日焼けのためにデッキ・チェアを占領していた。プールにも人はいたが、ひたすら泳いでいる人もいれば、イチャついているカップルもいて、芋洗いみたいに雑然としている。  仏木が昨日連れていたマリコとかいう女の子の姿はなかった。 「ちょっとお聞きしたいことがあるんですけど」  派手な柄もののビキニ一つの仏木からは、剣呑《けんのん》なオーラが漂っていてあまり長く話していたくはない。なによりサン・デッキの暑さは尋常ではなく、服を着ていても上から焼けそうなほどで、とりあえず聞くことを聞いたらさっさと冷房の効いた船内に戻りたかった。 「アンタは?」 「宮古天音といいます。浮名の友人で、今朝、仏木さんもご存じの森崎徹子さんの遺体を発見した者なんですが」 「ああ……その件ね」  眉を顰めた仏木は、再びサングラスをかけてつまらなさそうに横になる。 「事故だったんだろう。俺は知らないよ」 「なにを知らないんです?」 「だから事故だってことしか知らないってことだよ」  サングラス越しでもギロリと睨んでくるのがわかった。 「アンタ、遺体を発見したかなんだか知らないけど、なにを聞きたいっていうんだい? 俺はプライベートで乗船したんであって、この船の安全に疑いがあるって訴えられても、ハッキリ無関係だよ」 「船の安全に疑いがあると思っているんですか?」 「問題があるとしか思えないだろう」  仏木は呆れた風にため息をつく。 「チーフは何度もこの船に乗って安全確認はしているはずだ。それが自分で階段から転げ落ちるなんて、死人にこう言っちゃなんだが、キッチリした安全の保証がなかったなら、自業自得ってやつじゃないのかね」 「自業自得って、そこまで言わなくてもいいんじゃないですか」  僕たちの会話をハラハラしながら聞いていた浮名が、ムッとして口を挟んだ。  彼にしてみれば森崎さんは知らない人ではない。突然事故で亡くなっただけでもショックなのに、かつての部下に死んでからこんな風な言い方をされるなんて、我慢できないだろう。 「たとえあなたが個人的に森崎さんを恨んでいたとしても、彼女はもう故人なんですよ」 「アンタ、レイラとデキてるだけじゃなくて、あのオバサンともデキてたのか」 「なっ……!」  めずらしくムキになって怒りかけた浮名を制止して、僕はみずから前に出て仏木と同じ目線になろうと隣のデッキ・チェアに腰かけた。  真新しく白いデッキ・チェアは頑丈《がんじょう》なプラスチックでできており、ひじ掛けもしっかりした造りをしている。 「仏木さん、なぜそこまで死んだ女性を悪く言えるんです?」 「…………」 「失礼だけど、貴方《あなた》は女性にはとても寛容そうですよね。どちらかと言えば、たとえ年齢が年齢でも、死んだ森崎さんに対しては、女性であるというだけで、貴方は好感を抱いてもおかしくないと思うんですが」 「俺が好感?」  無視しようとしていた仏木は、僕の言葉にたまらなくなったのかプッと吹き出した。 「どうして俺があの女に好感なんて持たなきゃならないんだ」 「むしろ悪感情を抱いていると聞かされる方が、僕には不思議なんですけど」 「それはアンタがなにも知らないからさ」 「どういうことです?」 「……フン」  うまいこと話を聞き出そうとしている僕の意図に気づいたのか、仏木はつまらなさそうに鼻を鳴らしてしばらく押し黙る。  だがこの男の性質なのか、やはりしゃべらずにはおれないのだろう。ややあってからうずうずした風に肩をすくめ、自分からしゃべり出した。 「どうせレイラからも同じように話は聞いているんだろう?」 「彼女は貴方についてはなにも言ってくれませんでしたよ」 「アイツはいつだってイイ子ちゃんになるのがうまいのさ」 「では僕たちに対する態度が演技だと?」 「そいつは知らないがな、少なくとも、チーフが死んで一番得をしたのはアイツだろうよ」 「…………」  僕と浮名は横目に不審な眼差しを交差させる。 「これで企画室のアイツの地位は一足飛びじゃないか。あの若さでチーフになるのも夢じゃなくなったってことだよ」 「それは森崎女史がいたら、ままならなかったことなんですか?」 「言っちゃなんだが、チーフはもう時代のニーズに応えられる感性は持っちゃいなかった。レイラがいたからこそ、今回のチームは成果を為《な》し遂《と》げたんであってね。それは企画室のだれもが承知していたことだ。瀬尾あたりは森崎チーフのあとは自分がチーフになるとでも信じているんだろうが、長年貢献した俺を爪弾《つまはじ》きにするような会社だ。漁夫の利をねらうしか能のない瀬尾をチーフに据えるとは思えないね」 「貴方自身も彼女の才能を認めているんですね」 「ソレとコレとは別だよ」 「“ソレとコレ”、とは?」 「つまりアレさ、アイツが俺から横取りしたこの豪華客船クルーズの企画案のことさ」  手持ち無沙汰の仏木は、ふだんは煙草《たばこ》を吸うのだろう。喫煙場所が限られている船内では、相当ストレスがたまるに違いない。ビールが乗っかったテーブルの縁を指先でコツコツと叩いている。  まぁ、僕は酒はともかく煙草はいっさいやらないので、喫煙者がそばに来ないでくれる環境はありがたい。  もっともこの船には英国式にシガーとコニャックを楽しむフロアが設けられていたから、そういった紳士的な趣味を嗜《たしな》む喜びも味わえないのは、ほんの少し寂しくはある。  酒だけ楽しむなら入り浸ってしまいそうだ。 「アチラはアチラで、貴方がそれを盗んだと思っているようですが」 「なんとでも言うがいいさ」  唇を尖らせた仏木は、晴れ渡った夏の青空を見上げて眠りに入る素振りを見せた。 「レイラは人に取り入るのがうまかった。森崎チーフはアッチの人だって噂もあったしな。アッチってアレだぜ? レズ。俺とアイツ、同時に似たような案が提出されれば、当然軍配はアチラに挙げたくなるだろうよ」 「……なんて奴だ」  仏木には聞こえぬように浮名が吐き捨てる。  確かに死んだ女性をここまで中傷できる男もそうはいまい。たとえ仕事のことで恨みがあったとしても、ここまでペラペラと悪《あ》し様《ざま》に言うのは相当しつこい。  たいていの人は、相手が死んだ直後であれば、たとえそれが憎い相手だったとしても、公然と『ザマヲミロ』的なことは言えないだろう。  仏木という男にはそういった恥はないのか、森崎徹子に対する感情に死を悼《いた》む表れは微塵《みじん》もなかった。 「ところで、別におっしゃりたくないならいいんですけど、貴方はどうして今回の企画チームからはずされたんですか?」  仏木に対する個人的な意見はおいておいて、僕はレイラが答えてくれなかった疑問をぶつけてみる。 「同じような企画が出たならなおのこと、貴方と彼女が協力すればよかったじゃないですか。それとも、貴方たちが恋人関係でなくなったから、それを理由に別々な仕事に就《つ》くことになったんでしょうか?」 「……どうせ隠しておいたところで、それとなくレイラがしゃべるに決まってるだろうからな、自分の口から正直に言っておくよ」  仏木は苦笑してサングラスをずらし、色男らしく切れ長の眼差しで僕をまっすぐに見つめた。 「借金さ」 「借金ですか?」 「そうさ、俺は少々|羽目《はめ》を外した生活がお気に入りでね。ときどき度を越した買い物をしちまうのさ。だから町金融から借金をした。その借金を返すためのアルバイトも少々ね」 「それが発覚して、よその部署に回されたということですか?」  よくクビにならなかったなと、むしろ僕はそちらの方に感心する。  クビを切られるのではなく、部署異動程度で済んだのならば、いっそ寛大な処置ではないかと思う。 「言っておくけどな、こんなこと、別に俺が初めての不祥事ってわけでもないんだぜ?」 「そうなんですか?」 「そうさ。バイトの件はともかく、借金してる奴なんて、会社の中にはゴロゴロいるんだ」  そりゃあ住宅ローンだってローンはローンだから、借金を持っていると言えばそうなんだろうけど。 「いい車に乗って、いい部屋に住んで、いい女と寝る。男として生まれてきて、いまよりランクの高いステータスを追及するのは当然なんじゃないの?」 「なるほど、それが貴方の持論なんですね」  なんだか頭が痛くなってきた。  こういう男がいるのを頭では理解できても、実際に目の前にいると対処に困ると初めて知った。  桑名もこういったタイプだと思っていたが、自分の不出来を人のせいにしない分、奴の方がまだ全然ましだ。  アイツの立場からすれば浮名の評価を横取りして、才能を食い潰すことだってできただろうに、それをしないのは理性があってのことだろう。  ちょっと話しただけでもわかる。  仏木は間違いなく、他人の手柄は自分のもの、自分の手柄は自分一人だけのものにしてしまう貪欲な野心家だった。 「わかりました。それじゃあ」  立ち上がり、僕はこれ以上の会話をやめにする。 「おい」  浮名と鞍馬と共に熱波《ねっぱ》を避けて去りかけた僕の背中を、仏木が笑いを含んだ声音で呼び止めた。 「まさかアンタたち、俺があの女を殺したとか思ってるんじゃないだろうな」 「……まさか」  いったん振り向いた僕は微笑んで答える。  そのまま歩き出すと、浮名が眉を顰めるのがわかった。 「天音、アンタ、本気で今度の事故が事件だったと思ってるのか?」 「さぁ」  浮名の問いかけにも簡単には答えられない。  事故なのか事件なのか、それはこの船の名前の通り、あまり上出来とは言えない頭の中の天秤にかけてもわからなかった。  ただ一つわかったことは、森崎徹子の死に対して、感情的、営利的に得をする人間が、確かに複数いたということだけだった。      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆  ふだん飲み慣れない酒を浴びるように飲んだ小塚千穂《おづかちほ》は、夢のような感覚に現実感を麻痺《まひ》させていた。  テレビ番組のプレゼント抽選で今度のツアーの申し込み権が当たったとき、迷わずに申し込んだ甲斐《かい》があった。  船旅がこんなに楽しいものだとは思わなかった。  のろくて狭くて嫌なにおいのするフェリーとは一線を画している。  帰港したら知り合い全部にこのクルージングがいかに安くて楽しいものか、せいぜい喧伝《せんでん》してまわろうという気になっていた。  広い船は、その独特の雰囲気から、そのまま外国にいる気分を味わわせてくれる。ついつい羽目を外して飲みすぎたのもそのせいだ。  知り合いは誰もいない。  理性ではないだろうと承知しているものの、映画ばりのすてきなロマンスがないものかと、風を浴びるためにデッキに出る。  期待に反してデッキに人影はなかった。腕時計を見下ろすと、すでに時刻は深夜を回っている。  ずいぶん飲んだものだ。同行者の女友達も、絶対にナンパされようねと、バーには気合いを入れたドレスで望んだのだが、そんな連中ばかりだったおかげであぶれてしまった。  一度あぶれるとなかなか手ごたえがない。  バーに戻って、酔い潰れている女友達を起こしてキャビンに戻らなければ。ゆっくりと酒気が抜けていくのを感じながら、千穂はそう思って踵《きびす》を返しかけた。 「あ、ご、ごめんなさい」  いつの間に後ろにいたのか、肩口からその人物にぶつかってしまい、千穂は呂律《ろれつ》の回らない口調で慌てて謝罪する。  向こうも酔っているのか、足もとがおぼついていない。せっかく頭を下げたのに、一言の返りもないのが腹が立つ。  ムッとしながらデッキをあとにしようとした千穂は、ぶつかった人物がついてくる気配を感じて気味が悪くなる。  船の中に入れば必ずだれかいるはずだ。  夜とは言え真夏の海上は蒸し暑くて、この時間ではデッキを散策する人もいない。  思えばデッキの外は海なのである。突き落とされたら死んでしまうだろう……。  陸で夜の公園を歩くより怖いかもしれないと、千穂は唐突に現実感覚をよみがえらせる。  変な真似をされたらすぐに大きな声をあげてやろう。  中に入るためのガラス扉に向かいながら、千穂は早足になった。早く廊下《ろうか》に面した窓のある場所まで行かなくては……。  窓のある場所まで移動すれば、視界が開けて変な真似もそうはされまい。 「あ」  もう少しで扉の取っ手に手が届く。  よかったと安堵《あんど》した一瞬で、憐れにも彼女の意識は永遠に失われた。 3 天音《あまね》、本懐《ほんかい》を遂《と》げる  僕が二人目の犠牲者の死を知ったのは、森崎徹子《もりさきてつこ》の事故翌日、すでに昼近い時刻になってからだった。  関係者であるはずの鞍馬《くらま》さえ知らなかったおかげで、午前中のんびりしているうちに事故処理は終わった。  僕ら乗客に知らされたのは、十二階サン・デッキと九階リラックス・デッキをつなぐあの外階段の使用が全面的に禁止されるという注意事項だけだった。  足摺岬《あしずりみさき》上空はおりしも雲が発生し、いまにも雨が降りだしそうにどんよりとしていた。  予定通り港に寄港したため、下船して陸を観光する人たちも多く、浮名《うきな》も貴美香《きみか》や撮影スタッフたちと共に降りてしまった。  事前にたくさんの人たちが下船するのは聞かされていたから、僕は人の少なくなる船内で遊ぶことをあらかじめ決めていた。  船は広く、千人を越える乗客が乗っていても人混みの中にいる感覚はまるでなかったが、それでもさすがに昼間はジャグジーもデッキもいっぱいで、男一人で、もしくは鞍馬と男二人で寂しく泳いだりするには人目も気になる。  大半の人たちが、事故が続いて警察が乗り込み、暫定的《ざんていてき》とはいっても立ち入り禁止区画が増えた辛気臭《しんきくさ》い船内に残るよりも、下船して陸を観光する方を選んだから、予想した以上に船内はガランとしていた。  僕が起き出した昼近くには、事故を検証するために乗り込んでいたはずの警察もほとんど姿を消しており、すっかり時流に乗り遅れた感さえあった。  朝食と兼用になった昼食を終えてから、僕は予定通りプールに向かった。  二人目の犠牲者も森崎徹子同様、酔っぱらって階段を踏み外し、途中階で絶命しているのを発見されたという鞍馬の情報だった。  被害者はごく普通のOLだったそうで、僕には森崎徹子との接点は見えない。  警察も船に転針《てんしん》を要求してはいないようだから、二つの事故はやはり事故として処理されるのだろう。  立ち入り禁止のテープが巡らされているせいもあって、気分的に上のプールに行く気になれず、僕は九階のクレセント・プールでゆっくりと水に浸かることにした。  曇《くも》っているとはいえ、真夏の屋外は充分に暑い。島に降りた連中の中には、マリン・スポーツを楽しんでいる者もいるだろう。  浮名があのキュートな貴美香と共に土佐《とさ》観光の紹介VTRかなんかを撮影しているのかと思うと、抑えられない嫉妬《しっと》を確かに感じた。  反面やっぱりしかたないとも思ってしまう。ここがいいように放ったらかされている僕の弱いところなんだろう。 「セーンセイ」  借りた浮き輪に伸《の》し掛《か》かって三日月型のプールに浮いていた僕は、船内ではすでにお馴染《なじ》みになってしまった声の方にうろんげな視線を向けた。 「ラッキー、残ってよかった。ここでセンセイと遭遇できるなんて」 「……僕はそうは思えないけど」  実際部屋に盗聴機でも仕掛けられたんじゃないかと思う。そうされてもおかしくないような偶然じゃないか。  神永舞《かみながまい》は、いつものようにケイとユイ、それに梅川《うめかわ》と一緒ではなかった。  金のパールが入った薔薇色《ばらいろ》のビキニを着て、僕と同じように貸し出し浮き輪を胸に抱《かか》えプカプカ浮いている。  プールサイドにはデッキ・チェアでイビキをかいて寝こけている鞍馬のほかに、まどろんでいる年配の人が数人いるだけだった。  ギラギラした太陽の下もいいけど、曇り空の下の静かなプールは、マイの存在をのぞけばそれなりにのんびりと居心地好《いごこちよ》かったのに。 「ほかのみんなは陸に降りたのよ。お土産《みやげ》を買いたいって」 「ふぅん」 「どうして私は降りなかったのか、聞いてくれないの?」 「どうして?」 「センセイと会える気がしたからに決まってるじゃない」 「…………」  気乗りなげに反応しながら、僕はますます盗聴疑惑を濃くする。  その不審を察したのか、マイは舌打ちしそうな表情でため息をついた。 「わかったわよ、正直に言うわ。ホントはセンセイが船の中で事件を調べてるかもしれないからって残ったのよ。ねぇ、マイが言った通り、事件を調査しているんでしょう?」 「事故のことなら警察が調べてるだろう。僕は知らない」  うんざりしながら言って、僕はマイから逃げてバタ足を始める。  マイも負けじとバチャバチャ音を立てて追ってきた。 「ねぇ、センセイ、内緒にしなくてもいいじゃない。マイ、誰にも秘密をしゃべったりしないわ。センセイが探偵役で、マイがワトスン役になるわ。いいでしょう? もう調べはついてるの? 誰が犯人なのか、手がかりは見つかった?」 「あのなぁ、マイ、僕は推理作家で探偵じゃないし、このクルーズはあくまでも休暇なんだ。どうしてわざわざ事故を事件にこじつけて、自分で嵐を巻き起こしたりすると思うんだよ」  そりゃあこういう事態にまったく興味がないと言ったら嘘《うそ》になるし、浮名と一緒にいる時間が長くなるならと、昨日は邪《よこしま》な思惑《おもわく》がなかったわけでもない。  でも二人もの人が不幸にも亡くなったいまとなっては、遊び半分で関わり合いになるのはよくないだろう。  事件についてあれこれ口を挟んだりするのは、ワイドショーやサスペンス・ドラマの見すぎの、いかにも荒唐無稽《こうとうむけい》な発想をしては笑い者になる非現実的なコメンテーターみたいで気が引ける。 「じゃあセンセイ、やっぱり気がついてなかったのね」 「……どういう意味?」  意味深なマイの言葉に、僕は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。  僕の気を引くためにわざと謎めいた言い方をしているのはわかっていたけど、それでも気になってしまう悲しい野次馬《やじうま》根性だ。 「トシのことよ」 「梅川君がなんだよ」 「あの子、センセイにマジなんだから、どんなことでもするわよ」 「そんな話聞きたくもないね」  うんざりして目を背《そむ》けたが、マイはなおも接近してきて水の中で僕の浮き輪を掴《つか》む。 「ホンットにそれがどういう意味かわからないの? センセイ」 「わかりたくもないね」 「もうっ」  マイはぷくっと頬をふくらませた。  そうしているとごく普通の女の子みたいで可愛《かわい》らしいと思えなくもなかったが、中身を思えば“可愛い”なんてどんなに危険な感覚か、僕は思い起こして身を引き締める。 「あたしたち心配なのよ。トシったら、なんだか思い詰めていて、特にこの旅行でセンセイと遭遇《そうぐう》したこと、運命みたいに思ってるんだもん」 「困るよ、マイ、僕にそんなこと言われても」  ホントに困る。困る上に気持ちが悪い。  そりゃあ梅川は、よその作家のファンに多いような、オタク色が強い気持ち悪い系や、小説のあらをつついて喜ぶインテリ系とはちょっと違って独特の雰囲気の持ち主で、それなりのハンサムではあるけど、仏木じゃないが、ソレとコレとはまるで違う。  僕は浮名以外の男に関してはまるで興味を持てないし、そういう意味では自分はノーマルなんだと思っている。  別にそっち系の趣味に偏見《へんけん》があるわけではないが、もしも浮名とこういう関係になっていなかったら、別にさしたる疑問も抱《いだ》かず、ごく普通に女と結婚して、ありきたりの家庭を築き、ささやかな一生を終えていたんじゃないかと、人生の最期まで予想がつくぐらいだ。  僕は自分って男はそれくらい平凡な男性に過ぎないんだと自覚している。  こんな僕を熱愛しているらしい梅川の存在は、いっそありがたいのかもしれないけど、やっぱりソレとコレとは違うよ。 「だからね、あの強烈な思い込みで、アイツ、ヤっちゃったんじゃないかって」 「は? なにを?」 「だからぁ、コロシをよ」  ヒソヒソ声で耳元にささやかれ、僕はくすぐったいのと思いがけないのとで、複雑に歪《ゆが》んだ表情を浮かべてしまった。 「コロシって、殺人のこと?」 「そうよ、ほかになにがあるの?」 「ソレって、この二件の事故のことなのかい?」 「事故じゃなくて事件でしょう、絶対に!」  なにをそんなに確信しているのか、やけにキッパリとマイは断言する。 「センセイ、マイの推理を聞いてくれる?」 「……うぅん」  聞きたいような、聞きたくないような……。  しかしマイは僕の返事などどうでもいいらしく、勝手に講釈を始めた。 「トシの奴はセンセイを愛するあまり、センセイに手柄を立ててほしくて今度の事件を思いついたのよ」 「僕に手柄? なにそれ」 「もうっ、鈍いわね。だからっ、センセイが事件を解決すれば、また名声があがるでしょう? なんたって本物の名探偵が書く推理小説なのよ。名声が上がれば本の売り上げも上がるし、センセイそうしたら嬉しいでしょう?」 「わけがわからないよ」  真面目に聞くのも馬鹿らしくなってきたが、マイは止まらない。 「どうしてわからないの? トシはセンセイのために罪を犯したのよ?」 「なんでカレがヤったって決めつけるんだよ、マイ、証拠でもあるのか?」 「証拠? 推理に証拠なんていらないわ」  ……なんという至言《しげん》だろう。  僕は頭の中で何度も万歳《ばんざい》をした。今度編集に突っ込まれたら、マイみたいに自信をもって断言しようと思う。『推理に証拠なんていらないだろう』って。 「トシは自分が犯罪を犯すことで、センセイに近づきたいと思っているに違いないわ。センセイの名推理で自分が捕まれば、センセイの手柄にもなるし、なにより犯人となれば自分がセンセイに追っかけられて追い詰められるのよ? アイツにしてみれば、究極の愛情表現に違いないじゃないの」 「馬鹿《ばか》馬鹿しい」  そんな説はありえない。  僕は聞いているうちにだんだん具合が悪くなりそうになって、マイから逃げて水からあがることにした。  雲はますます色濃くなってきた。そろそろ第一陣のテンダーボートが港に迎えに出るころだ。  ほかのことはどうでもいい。今夜は浮名とゆっくりできるのか、僕が気になるのはそれだけである。 「センセイ……!」  遅れて水からあがったマイが、飛沫《しぶき》を散らして僕のあとについてきた。  金持ちの娘で、器量もよくて、そりゃあちょっとばかり思い込みは激しいけど、ワガママな点も男の征服欲をそそるし、僕なんか追いかけなくてもよりどりみどりの身の上だろうに、まったく頭が下がる。  僕を追いかけている時間があるなら、それこそ浮名みたいにイイ男がそばにいるんだから、チャレンジしてみればいいのに……。  まぁ、本当に浮名にアタックされたら、こんな風に余裕をもって彼女と相対するのはとても無理だったろうけれど。 「センセイ、センセイが真面目に取り組んでくれなかったら、また次の事件が起こっちゃうかもしれないのよ? それでもいいの?」 「あのな……」 「トシが犯人でないって、センセイがちゃんと調べてそう言ってくれるんなら、あたしは全面的に信じるわ。でも調べもしないでそんなことありえないなんて言わないで、お願いよ、センセイ」 「……マイ……」  思っていた以上に深刻にすがられて、僕は驚きを隠せなかった。  マイは照れたように顔を背け、小さな声でもう一度『お願い』と言い募《つの》る。  馬鹿みたいに思えた彼女の推理も、身近で梅川の奇行を見ている人間にしてみたら、笑い飛ばせない不安なんだろうか。  確かに梅川は、目的のためには手段を選ばない猪突猛進《ちょとつもうしん》なところがある。  自分で言うのもなんだが、僕のためなら犯罪に手を染めることも厭《いと》わないかもしれない。  こうまで言われてまだ一笑に付せるほどには、僕も非情になりきれなかった。  同じように船に残って部屋に閉じこもっているという梅川に、一応話を聞いてみると、結局僕は言葉に出してマイと約束してしまった。  これでもう関わらないと決めたはずの事件に、僕は再び関わることになったのだ。  さすがUM重工の御曹子《おんぞうし》と言おうか、梅川の部屋は十一しかないジュニア・スイート・デッキの一つだった。  十階の船尾側、扉からして雰囲気が違うデッキの前で、僕は少しだけ躊躇《ちゅうちょ》する。  ずっとくっついて行動していた鞍馬は、日に一回あるツアコン会議に出席するためいなくなってしまった。  僕は一人で梅川と対峙《たいじ》しなければならず、それで躊躇している。  鞍馬が戻るまで待ってもよかったが、なんだかそれではあまりにも情けない気がして、一人で大丈夫とここまで来たのだ。  これで本当に奴が犯人だったらどうするのか、マイの推理は当てにならなかったし、ありえないと笑う事で、やっぱりほんの気持ち分、疑問が足を重くする。 「ええい」  いつまでも部屋の前でウロウロしていても始まらない。第一そろそろ夕刻で、陸に遊びに出ていた連中も三々五々に戻ってきている。梅川が部屋でじっとしているとも限らなかった。  僕はままよと白いシャコ貝の形をしたノッカーをコツコツと叩いた。 「天音先生……ッ」  バタバタッと、室内で暴れる音がしたあとで、ドアはすぐに開かれる。  頬を紅潮《こうちょう》させた梅川は、男っぽい顎《あご》を震わせて慌ただしく僕を室内に招き入れた。『どうして』とか、『なぜ』とか、訪問の理由を聞きもしない。 「……また隠し撮りしているのか」  梅川は急いで片付けたようだが、部屋の隅に寄せただけの荷物の間からは、デジカメで撮影して船内施設でプリントアウトしたらしい写真が顔をのぞかせている。  端っこだけでは僕の写真かどうかはわからなかったが、慌てて隠した素振《そぶ》りといい、僕の言葉に唇を震わせている様子といい、指摘は間違ってなさそうだ。 「ふぅん、ぜいたくな部屋だな」  入口から入った場所はテーブルセットの置かれたリビングになっている。バルコニーのついた窓辺にはソファーが置かれて、無造作《むぞうさ》に荷物が散らばっていても居心地はよさそうだった。  右手側にドアがあるが、そちらはベッド・ルームになっているのだろう。確かジュニア・スイート・クラスからは、室内に専用ジャグジーがついているはずだ。  ジロジロと内部を観察してから、僕はやはり昨日は外のジャグジーでイチャつくのではなかったと後悔する。  浮名の誘いに従ってアイツの部屋でイチャつけば、死体なんかと遭遇する羽目《はめ》にもならなかったし、自分が最初の遺体の第一発見者になったせいで、こんな風に我慢しきれない好奇心につき動かされることはなかったはずだ。  それともやっぱり、事故が立て続けに起これば、不審になって探偵じみた行動を起こしていただろうか……。 「先生、ぼ、僕が先生の写真を黙って撮ってしまうのは、先生に、僕の先生に、少しでも近づきたいからなんです……」  沈黙したままの僕がなにを考えているかわからなくなったのだろう、梅川が頼りない声を出して言い訳を始める。 「せ、先生は、僕にとって、雲の上の神にも等しい存在だから、それで、つまり……」 「よせよ、そんな馬鹿らしい」  僕は冷たく言ってから、こんな調子では聞きたいことも聞き出せないと思い直し、せーので繕《つくろ》った笑いを浮かべた。 「いや……ゴメン、光栄に思ってるよ、梅川君」 「先生……」  懸命の笑顔で見やった梅川は、黒目がちの瞳をウルウルさせて、大きな図体をモジモジと恥じらってよじる。  僕は決して小柄ではないのだが、浮名といい、鞍馬といい、どうしてこう長身の奴ばかり周りにいるのか、腹が立つ。こういう大きな奴がそばにいると、小柄じゃなくても小さな奴という印象を人に与えてしまう。  必要以上に見栄《みえ》を張りたいわけじゃないけど、そりゃあ僕だって男として“ちっちゃい人”という先入観をもたれるのは不本意だ。  大体学生のときから……。 「うわぁっ!?」  頭の中でグチってる間に、梅川の顔が間近にあって、僕は声をあげて飛びすさる。 「な、なんだい? 急に」 「だって先生、僕に笑いかけてくれたなんて、はじめてのことで……」  両手を広げた梅川は、切迫した表情を浮かべて少しずつ接近してきた。 「僕の気持ち、ようやく通じたんだね」 「いや、ちょ、ちょっと待って」  そういう意味での“気持ち”はまったく通じてはいなかったし、一生通じることもないよと、言えれば簡単だったが、この局面で言えるはずがない。  思い詰めた梅川がどんな行動をしでかすか、想像がつかなかった。 「う、梅川君、実は僕は君に聞きたいことがあってね」 「なんです? なんでも言います。先生の望む言葉を……。好きです、先生、ずっと、ずっと大好きでした」 「いや、そんなことは別に聞きたくなくて……」 「愛しています」 「い、いや、それも違うよ、とにかく話を聞いてくれって……」 「結婚してください」 「あのな……ッ!」  結婚って、なんなんだよ!  うわずった梅川の言葉に対して、僕は答えるのも馬鹿馬鹿しい気持ちになった。もうマイに約束した彼への疑いを晴らす質問なんてどうだってよくなって、これまでだと首を振りかける。 「先生……ッ!」 「……ッ……」  しかし僕が踵《きびす》を返す間はなかった。声もなく、僕は梅川に突進されて、いつの間にか追い詰められていた窓辺のソファに組み伏されてしまったのである。 「う、梅川……君っ! 落ち着いてくれ!」 「先生っ! 好きだっ、好きだっ! 好きだぁぁあっ!」  こうなってしまっては、落ち着いてくれと頼んだところで意味もない。  梅川は案の定、欲望にギラついた眼差《まなざ》しで僕を見つめると、恐ろしい力で頬を固定し、ブチュウッといきなり口づけてきた。 「ぐううぅぅっ!」  必死で首を背け、何度も唇をはがしたけれど、ガタイの違いがてきめんに出てしまって、最後には舌を奪われ、強引に官能の渦《うず》に引き込まれている。 「ん……んぅっ」  何度も言うようだけど、僕はこういうことには慣れていない。  経験値の低さは、同じ年頃の男性と比べたら涙を誘っちゃうくらいで、浮名のリードがあって初めて、行為自体にリズムと言おうか、センスと言おうか、独特の世界への段階を踏むのが可能だったのである。  覚えると楽しくて、僕はこの官能の学習に夢中になったわけだけど、なにしろ相手がいないと非常に虚《むな》しくなるという感覚も、この学習の成果だった。  僕は誓って梅川に一片《いっぺん》の恋慕《れんぼ》も欲望も抱いてはいない。  だけど覚え立ての官能中枢を刺激されて我知らず応えてしまったのは、この反射を僕に教え込んだ浮名のせいである。  舌を吸われて、口の中いっぱい舐め尽くされて、愛情をこめて唇を甘噛みされれば、そりゃあちょっとは感じてしまう。腰もビクッとなってしまう。 「……や……ぁっ!」  物凄《ものすご》く恥ずかしくて、『ヤメロ』と怒鳴《どな》るつもりが、少女のようにはかない声をあげてしまって更に恥ずかしくなった僕は、クレセント・プールに面した窓際に逃《のが》れてソファから身を乗り出した。 「先生、先生っ」 「……るさい……っ!」  呂律《ろれつ》が回らず奇妙な叱咤《しった》になってしまった。  金持ちの息子で顔立ちも整っているだけあって、梅川は未経験ではなかった。そのうえ未熟な僕でもわかるくらい、キスがうまい。 “うまい”とか“へた”とか、梅川のセックス技量なんか計りたくもないのだが、わかってしまうものはしかたない。 「やめろ……っ!」  腰のあたりを押さえようとする手を子供みたいにいちいち叩いてはずし、僕は必死で逃げまくる。  情けないことにソファの上をニョロニョロと体を動かすだけの逃げ方ではあったが、それでも逃げようという意思に変わりはなかろう。 「やめろってのに……っ」  これはもう恥を捨て、大きな声をあげて本気で助けを求めなければならないかもしれないと、動けるうちになんとかせねばと大きく半身を起こしたときだった。  ひじ置きに仰向《あおむ》けになった背中を乗り上げた僕の体勢は、ちょうど頭が窓に向かって逆さまになった状態だった。  梅川は鼻息荒くズボンのボタンをはずそうとしており、僕の貞操は風前の灯《ともしび》と化していた。 「あ」  絶望しかけた僕の目の前を、ハイスピードで登っていく人影があった。  こう言うと語弊《ごへい》があるが、逆さまになった僕の目線である、実際には誰かが上のデッキから落下していったわけだ。 「だ、誰か落ちた……」  僕がそれを言い終わるのとほぼ同時に、階下のデッキで窓越しにも聞こえる悲鳴が轟《とどろ》く。 「な……なんの声です……?」  さすがの梅川もまばたきして動きを止めた。 「ヤバイ」  僕はキョトンとしている梅川を押《お》し退《の》けると、階下に向かうために駆け出した。  誰かの死によって危機を切り抜けたとホッとするのも不謹慎だったが、それはむしろ梅川にこそふさわしいだろう。  彼はたったいま僕と一緒にいたのである。  誰かの落下が事故だろうと他殺だろうと、少なくとも梅川には僕が保証できるアリバイがある。それも計画的に用意されたものではなく、偶然のアリバイだ。  たとえマイに焚《た》きつけられたせいにしても、僕がタイミングよく梅川の部屋に行くとは限らない。そんなあやふやな計画を立てて、何人も人を殺す理由は彼にはもちろん、マイにもあるまい。  ジュニア・スイート・デッキを飛び出して階下に向かいながら、三度起こるならば、これはもう事故ではないと僕は確信していた。  リラックス・デッキに出るためのガラス扉の前には、すでに物見高い人だかりができていた。  中には悲鳴をあげて逃げていく人もいる。  前の二件とはあきらかに状況が違っていた。またしても僕はその一人になってしまったが、この時間ならほかの目撃者も大勢いるだろう。  曇り空はどんよりとして、すでに夕方というよりも夜のにおいが濃厚になってきている。 「すみません」  前にはだかる人垣を避け、僕は図々しいのを承知で最前列に出た。  浮名なら泣いて逃げ出しているだろう。僕だって死体を前にすれば平静ではいられない。  倒れていたのは、落下しているのを室内から見たときにはわからなかったが、まだ若い青年だった。  階段からではなく、中央段差の部分から落下したのだろう。まるで人形のように変な風に手足を折りまげ、段の角に引っかかってぶら下がっている。  頭が下になっていたが、どす黒い血がゆっくりと床に染みを作っていた。  さすがに気分が悪くなって、僕は踵を返す。  反射的に上を見上げると、サン・デッキの方にも人だかりができていた。 「……あ……」  その中に知った顔を見つけ、声をかけようかどうしようか、悩んでいる間にその人は去ってしまう。  青ざめた顔を固くこわ張らせて去ったのは、犯人ではありえまいと思っていたあの笠井麗羅《かさいれいら》だった。      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆  関係者が頑《かたく》なに拒んでいた転針が決定したのは、三人目の犠牲者が出たその夜だった。  三人目の犠牲者、それは僕も知る人物、麗羅と共に初日に名刺を渡してくれた、JBTの瀬尾伸介《せおしんすけ》だった。  僕の知っていることといったら、彼がJBTで笠井麗羅と同じ企画チームの一員だったことぐらいだが、それは同時に最初の犠牲者、森崎徹子もまた同じ企画チームのチーフだったという事実を思い出させる。  たった三日で一人ずつ、二人目の犠牲者以外がJBTの職員だったのは、偶然では片付けられないと考えられたが、瀬尾がどうして落下したのか、船内で発表があって疑問を口にするのはやめた。  瀬尾伸介は企画チームの一員として事故に責任を感じ、個人的にあの時間、リラックス・デッキとサン・デッキをつなぐ階段の安全検査を行っていたのである。  そのことは笠井麗羅が証言したらしい。  警察からは階段への立ち入りが禁じられていたから、麗羅たちはそれを破ったということだ。  だが禁を犯してでも、なぜ続けて事故が起こったのか、気の強い彼女のことだ、調べずにはおれなかったんだろう。  恐らくはあの金魚のフン的人物だった瀬尾は、付き合わされて安全点検をしていたに過ぎなかったに違いない。  麗羅自身のくわしい話は、僕が聞くことではなかったから耳には入ってこない。聞きに行けば教えてくれるかもしれなかったが、三人もの犠牲者が出て転針となったいま、落ち込んでいるのは想像に易《やす》い。  自分の興味だけで彼女の心を乱すのは気が進まなかった。  転針決定の船内放送が入り、連日行われる予定だったイベントの変更内容が記されたチラシが配られ、最終日の目玉だったフェアウェル・パーティーも、転針旅程に合わせてくり上がって行われることが知らされた。  こんなときによくパーティーをやる許可が降りたものだが、一連の事故は殺人とは断定されていないし、犯人だって現れちゃいないから、お金を払って乗り込んだ客側にしてみれば、目的地にたどり着く目前での転針は不満だろう。  どうせ一部返金はあるんだろうが、払ったお金が戻ってくれば気が済《す》むわけではない。せっかくの夏休みが台無しになるのだ。  下船して飛行機で東京に戻りたい客とか、別の船で旅を続けたいという要求を出した客もいたらしい。  それらの主張すべてに応えるわけにはいかなかったようだが、理由はともかく人死にが三件も続いては、東京に戻る船内に異様なムードが発生するのは誰にも止められない。  乗船してからずっと、鬱陶《うっとう》しいほど明るくて落ち込む素振《そぶ》りなど見せなかった鞍馬でさえも、チラシを持って転針を告《つ》げに来たときには、しょんぼりとうつむき加減だった。  夕方には一旦引き上げた警察も、前の二件の事故を洗い直すためだろう、ずいぶん長い時間船内の至る箇所で立ち入り検分をしていた。  最初の被害者である森崎徹子の遺体を発見した参考人として、僕の元にも警官が来た。  東京に戻った後日、またくわしい取り調べがあるだろうと言われて気が重くなった。  血生臭《ちなまぐさ》い事件に巻き込まれれば浮名が落ち込むだろうし、警察の連中は人を表面的にしか判断しない。  僕自身の人となりにしてもそうだ。  確かに他人から見た僕の容姿は、男として“カッコイイ”とか“クール”とは言えないかもしれない。  だけど大の大人の、しかもれっきとした男をつかまえて、“カワイイ”って表現はあんまりなんじゃないかと思う。  そんな風に見られるものだから、構わず正直に口をきくと、たいていの人は『もっとおとなしい人だと思ってました』とか、『意外とキツイ人なんですね』とか言う。  大酒も飲まず、いい年をしてモジモジと恥じらっていれば印象に違わないのだとしても、そんなのは僕じゃないんだからしかたない。  浮名も同性からの第一印象は最悪だから、前の事件のときもなにも知らない警察ではずいぶんと絞られていた。 “軽薄で思考能力が欠落したエロ作家”、アイツをそんな風に見たがる連中は大勢いる。  確かに性格的に軽薄は当たってるかもしれないが、浮名は決してバカではないし、断じてエロ作家でもない。  他人の誤解があるたび、僕がいちいちかばって回っているわけじゃないけど、今度の場合はどうなるんだろう。  またあの桑名《くわな》がしゃしゃり出て、浮名をかばったりするんだろうか……?  そう思うと、自分でも驚くほどムシャクシャした。  これは嫉妬なんだ。  僕は悔しくて悲しくてじっとしていられなくなった。  一度も会社経験のない、結構人見知りの激しい僕の狭い世界で、浮名は輝く星だった。そしてそれは、僕一人だけのものじゃない。わかってる。  桑名が僕を見る目は、才能を蝕《むしば》む毛虫に対するそれだ。  僕は男だから、桑名の皮肉な視線を浮名に言いつけてとっちめてやりたいなんて思わない。  だけど浮名があんな奴と仲良くして、僕より長い時間を一緒に過ごすのは、どう考えても納得できなかった。  納得なんかできるもんか!  ──瀬尾伸介の遺体が発見されたその日の夜。  不安と苛立《いらだ》ちに駆られた僕はじっとしていられなくなって、強引に浮名の元に向かった。  まだ夜の九時だというのに、昨日までは騒がしかった船内のどこも人気が薄かった。  みんな部屋の中に閉じこもってしまっているに違いない。  そりゃあそうだ。事故だったらともかく、もしも事件なら、船内のどこかに殺人鬼がいるかもしれないのだ。  親は子供を外に出したくないだろうし、大人だって気軽にデッキを散歩する気にはなれまい。  浮かれたクルージングが、いっきに呪《のろ》われた航海だ。  眉を顰《ひそ》めて歩いていくと、十階にある浮名のエグゼクティブ・スイート・デッキはすぐにわかった。  あの梅川のジュニア・スイート同様に、艶々《つやつや》した重厚な木製のドアからして、ほかの部屋とは一線《いっせん》を画《かく》している。  金色のノブを見て夕刻の梅川を思い出し、嫌悪してしかるべきキスに感じた自分を卑下《ひげ》した。  思春期のころはともかく、僕は自分を淫《みだ》らな奴だと思ったことはない。  性欲だって普通の男より、むしろ淡泊なくらいだと思っていたのである。  それがちょっとばかりうまい奴にキスされたら、その気になりそうだったなんて、いくら欲求不満だったとは言え、どうかしている。  それもこれも浮名が僕を放っておくからだとムカムカして、キスされた自分の無防備は置いておいて、シャコ貝のノッカーを叩いた。  なかなか返事がなくて苛々《いらいら》しながら、もし部屋にいなかったらどうやって彼を捜せばいいのかと心配になる。  頑固《がんこ》じじいみたいに携帯電話を拒みつづけてきたけれど、こんなときに激しく後悔した。  いくら貴美香という魅力的な恋人がいても、桑名なら浮名の居場所を常に把握しているだろう、そう思うと益々《ますます》ムカつく。 「クソッ」  苛立ちをノッカーにぶつけ、僕は船中に響き渡っても構わないと覚悟して力を込めて何度もノックした。 「ハイ……ハイ……ッ!」  本当にほかの部屋から苦情が出そうだったけど、意地になって五分近くも叩いていると、とうとう浮名がドアを開ける。 「天音」  色白の面貌《めんぼう》に眠気を張り付けた浮名は、僕を見て取って呆《あき》れた顔つきになった。 「どうしたんだよ」 「“どうしたんだよ”?」  恋人の訪問に“なぜ”なんて聞く奴がどこにいるんだろう。  あの梅川なんて、僕が訪ねてやったら、もう手を挙げて大歓迎したんだぞ。 「……なぁ、もうよしてくれよ」  説明せずにズカズカと室内に入っていくと、浮名は疲れた口調でそう言った。 「安易に事故をつついて殺人事件にしても、だれも報《むく》われないよ。茶化《ちゃか》して騒ぐのは不謹慎だ」  なにを言っているのかわからなくて振り向くと、彼は恋人に対するとは思えない態度で、早く出ていけとでも言うようにドアを開けたまま、そのかたわらに立っている。 「探偵ゴッコはご免だ」 「……お前……」  僕がそんなことをまた言いに来たと思ったのか、情けなさに腹が立つやら悲しいやら、茫然《ぼうぜん》としていると浮名の顔つきがまた変わった。 「違うの……?」 「ああ、そう」  自業自得かもしれないけど、信用のない自分にも腹が立つし悲しい。  たとえ誰になんと思われても、金魚のフンみたいにどこまでもくっついていればよかったって言うのか。  ものわかりのいい大人の恋のつもりで、カッコつけて離れてても平気だなんて……。  僕よりずっと長くそばにいる桑名や貴美香なら、むしろ大切にされて、こんな風に突き放されることもないだろうに。  他人になれば優しくしてもらえるんだったら、いっそ他人になりたい。恋人だなんて胸を張ったって、都合《つごう》がいいときだけの遊び友達みたいなもんじゃないか。  いや、遊び友達の方がまだましだ。少なくとも遊びには誘ってもらえるんだから。  僕は恋人だけど、そういう関係になってから誘うのはいつだってこっちだった。  だからこそこのクルージングは楽しみにしてたのに、蓋《ふた》を開けてみればやっぱり放ったらかしで……。 「天音……っ!」  自分でも思いがけず頬を濡らすものがあって、僕はハッとした。  浮名がドアから離れて寄ってくるのを見て、慌てて涙を拭う。 「いいよ……! もういいよっ!」  子供みたいに言い張って、肩に触れかかったしなやかな手を払った。  本当は優しくしてもらいたくてたまらないのに、僕は素直じゃない。 「ゴメン、天音、ゴメン、俺……」  怒ったと思ったのか、浮名はオロオロしながら僕の前で腰を屈める。 「俺、疲れてたんだ、寝起きで、ほら、今日ずっとロケなんてしてて……」 「……どうせ、貴美香チャンや桑名と一緒に楽しんでたんだろう」 「だからあの二人は恋人同士なんだってば」 「いいよっ! だからそれはもういいって言ってるだろう!」  そんなことで嫉妬しているんじゃない。どうしてわかってくれないんだろう。  口に出して訴えれば、僕の言いたいことが、どんなに我儘《わがまま》で陳腐《ちんぷ》な願いかわかっている。  でも我慢できないんだから仕方ないだろう? 「こんな嫌《いや》な気分、初めてだよ……!」 「天音……」 「お前のこと好きで、お前がオレのこと好きだって知って、凄《すご》く嬉しくて舞い上がって、それでハッピーエンドなんだと思ってた……!」 「ハッピーエンドだよ、それでいいんだよ」  繕《つくろ》う素振《そぶ》りの浮名の言葉が僕の耳をすり抜ける。  彼は疲れていて、いまとても眠いんだ。僕をなだめたりしている時間は凄く無駄に違いない。そうと思われているのがつらい。  桑名のせせら笑いが聞こえてきそうだ。 「天音、ゴメンよ、アンタはただ俺に会いに来てくれたんだろう? 茶化して騒ぐなんて言って、俺が悪かったよ」 「オレがムカつくのはな、お前にそんな風に思われるばっかりだった自分の存在理由が、ほかになんにもないってことなんだよ」 「なに言ってるの、天音?」  不思議そうな浮名の声。  そうだ、僕は自分の劣等感を強く意識する。  浮名が浴びている喝采《かっさい》を心底喜ぶ一方で、僕は同じ作家として華やかなところとは無縁な自分に嫌気がさしていたんだ。  そういう自分が自分なんだってことはわかっているし、浮名みたいにテレビに出たいとか、脚本を書きたいとか、まして自作を映画化したいなんて野心はない。本当にない。  だけどそういう気持ちとは別のところで、やっぱり浮名の大きさに嫉妬している。どうしようもなく羨望《せんぼう》している。  この苦しみも悲しみも、恋しさが募《つの》れば募るほど激しさを増した。  僕は浮名にとってライバルでありたい、心から対等の存在でありたいと思っている。  なのに現実は、作家として、人間として、男として、なんてちっぽけなんだろう、宮古天音って奴は……。 「天音、天音、頼むよ、なに言ってるんだ。アンタの存在理由がこんな騒動のほかになんにもないなんて、そんなわけないだろう?」 「……いいんだ、どうせオレは三流だよ。お前のあとをくっついて、事件だ事件だって騒いでる、愚《おろ》かでくだらない男なんだ」 「ちょっと待ってくれよ」  いじける僕のおでこを強めに小突《こづ》き、浮名はため息をついた。 「俺がどんなにアンタに憧れてたか、知らないとは言わせないよ」 「…………」 「寡作《かさく》のアンタが眉間に皺《しわ》を寄せて世に出す作品に打ちのめされているのは、俺だけじゃないだろう?」  僕はなにも応えずに唇を尖《とが》らせる。 「アンタの作品の、ミステリー雑誌や、同業者からの評価のどれだけ高いことか。批評を見るたび“軽い”“ノーテンキ”“推理じゃない”って評されてる俺と違って、“巧妙”“緻密《ちみつ》”“繊細”って言われてるアンタなら、自覚があるはずだよ」 「そんなの」  そんなのどうだっていいとは言い切れない。  確かにそういう高い評価を受けるたび、僕の鼻は少しずつ高くなっていったし、だからこそ断絶状態にあった浮名に対しても、六久路谷《むくろだに》で会った時過度に強気の態度が取れたんだから。 「ねぇ、アンタの作品だけのことを言ってるんじゃないよ。わかってくれよ、オレがまだ十代だったガキのころから、どんだけアンタに惹《ひ》かれてたか」 「……浮名……」  熱を帯びた浮名の告白に、僕はようやく頑《かたく》なだった心の扉が軋《きし》む音を聞く。  ただでさえ長く放っておかれて、傷ついて閉ざされかけていた僕の心の扉は、ついさっきの浮名の心ない一言で完全に塞がってしまっていたけど、隙間からのぞいた光は、確かに優しい恋の色をまとっていた。 「アンタは俺には冷たかったよね、いつもツンと澄ましてた。ほかの先輩が俺の作品を見てベタ誉《ぼ》めしてても、アンタだけはいつだって満点はくれなかった。憎たらしくて、悔しくて、でもアンタの作品を読まされるたび、なにも言えなくなるんだ。俺にはない綺麗《きれい》な世界観、それはそのまんま、アンタって人に結びついてた」 「オレは……そんな綺麗なんかじゃ……」  恥ずかしくなって背を向けようとすると、浮名の手がガッチリと肩を掴んで、今度こそ離さない。 「浮名」 「いつも横を向いてた。俺を見るときはいつも冷たかったね。アンタが俺を好きだったなんて、全然気がつかなかったよ。嫌われてると思ってた」 「……お前を嫌える人間はいないよ」 「みんなに嫌われてもいいよ。アンタがいてくれるなら、どうなったっていい」 「……浮名」  そこから先は、もう余計な言葉はいらなかった。  愚痴《ぐち》も言い訳もいらない。  長いキスが交わされて、浮名は僕をベッドへと誘う。  ジュニア・スイートにはなかったバーカウンターを横切って、開かれていた木製のドアをくぐると、その先にダブル・ベッドが置かれている。  カーテンはしまっていなかった。暗い夜の向こうは、静かな海原《うなばら》のはずである。  ベッドサイドのスタンドは金色の光を放っていた。壁と天井は赤みを帯《お》びた艶のある木で覆われている。  入って左手の壁に張られているのは外を映した横長の鏡、ベッドヘッドには金屏風《きんびょうぶ》をモチーフにした華やかな額がかけられていた。  訪れたキスの甘さに、目まいさえした。  浮名の美しい顔を間近に、僕は陶然《とうぜん》となる。  キスだけじゃない、その存在感は圧倒的で、いつものように僕を何度も打ちのめした。  だが何度絶えても、僕はまた彼を求めてしまうんだろう。  この快さは、ほかの誰にも替えがたい。梅川のキスなんて思い出しもしなかった。  浮名は僕を“綺麗な”なんて言ったけど、それは全然違う。  綺麗なのは浮名だった。  どんなときでも、彼は本当に、誰よりもなによりも美しい。 「ア……ア……ッ」  切迫した声を漏らしながら、僕は後ろの方を愛撫された。  浮名が僕のその部分をどんな風に思っているのか、どう見ているのか、聞いてみたい気もしたが、本当に聞いたらあらゆる意味で憤死《ふんし》しそうだったのでやめる。  ヌルリとしたローションがたっぷりと塗り込められて、性と官能の匂いが室内に充満した。  恥ずかしさはつきまとう。後ろを向いて、鏡が目に入ると、羞恥心はほとんど拷問《ごうもん》に近いほど強まった。 「浮名……ちょ……方向を……」  喘《あえ》ぐ息の瞬間、必死で訴えたが、鏡の存在に気がついた浮名にあえて無視される。  彼は両方の手指を使って僕の性欲に奉仕した。  愛撫の手は休みを知らず、僕はひっきりなし泣かされる。  わけがわからなくなったころに、いよいよ挿入が果たされた。  一ヵ月……いや、二ヵ月ぶり近いかもしれない。体は悲鳴をあげたが、僕があげたのは甘い嬌声《きょうせい》だった。  浮名への愛情のあまり、すぐにも爆発してしまいそうになる。そうして、僕は実際先に爆発してしまう。  萎《な》えた僕の性器を、浮名は後ろから握りしめて愛撫してくれた。  僕は苦痛に喘ぎながら、やがて再び勃《た》ちあがった。  鏡の存在は羞恥ではなく官能を呼ぶアイテムとなり、僕は背後から抱かれながら快感に歪む浮名の美貌《びぼう》を見つめることができた。  歪んでいても、やっぱり浮名は最高に綺麗だった。  眉間に浮いた皺に汗が散り、唇に痛みを訴える表情が走る。白かった頬に血の色がのぼり、乱れた髪の毛が耳にかかって光を反射した。  僕を抱いた白い体が魔的に美しくて、幸福感に泣きたくなる。  ずっと欲しかったのはコレだったんだなと思った。  強く抱きしめて体をつなげて、同じ悦楽に溺れて、言葉がなくても好きだって感じられるこの時間……。  浮名が極めるときの表情を鏡の中で確認した僕は、彼の指が優しく先端を撫でて促すのに従い、後を追ってその手のひらの中に愛の証を噴出した。 4 傾く天秤《てんびん》  悲鳴に近いような歓声が湧き上がったとき、グランド・ホールに集まっていた人々は、一瞬まただれか死んだのかと疑ったと思う。  僕もそうだったし、隣に立っていた鞍馬《くらま》のガッシリした肩口も大きく揺れた。 「……びっくりしちゃいました」  彼は正直に言って、丁寧《ていねい》に整髪して艶々《つやつや》輝く髪の毛を掻《か》いて見せる。 「触らない方がいいぞ」  シャリシャリと音がするほど、ビッチリと固められて立ち上がった青年の短い髪の毛が、変形してしまうのではないかと他人事《ひとごと》ながら不安になって、僕は苦笑してたしなめた。 「もったいないなぁ、ここからでもちょっとは見られないかな……」 「それは無理だろう」 「ですよねぇ」  七階のグランド・ホールからは、九階のリラックス・デッキで行われている花火大会の様子は見えない。  花火大会は本来十二階のサン・デッキで行われる予定で、クルーズの最終夜、フェアウェル・パーティーのメインとなるはずだった。  屋外の立食形式で、デッキのすべてを開放し、乗客全員が参加してのダンスコンテストやゲーム大会が行われる予定だったメニューは、ウエルカム・パーティーのときと同様、三部に分かれてのこじんまりした集まりになってしまった。  リラックス・デッキでの花火大会は、子供連れの一般客が優先的に招待され、ホールではウエルカム・パーティーとは逆に、招待客が第一部の集まりに参加していた。  このあとの食事会が各レストランで行われ、席の予約においてゲストが優先されたためである。  最後まで浮名《うきな》のオマケとしてではあったが、僕もまた、一応招待客として第一部に参加することとなり、このあとの食事も、船内でもっとも予約倍率が高かったというイタリアンの名店<エンゾォ>に席を取ってもらっていた。  本当は彼とは別々の方が都合《つごう》がよかったんだろうけど、実を言うと繰り上げとなった五日目の今日、つまり瀬尾伸介《せおしんすけ》が亡くなってから二日後の今夜まで、浮名は仮病《けびょう》を使って仕事をキャンセルしてしまっており、たまりかねた桑名《くわな》が制約を解いたのである。  僕と会う機会が、桑名によって意図的に減らされていたのだと知っても、『やっぱりな』という思いしかなかった。  浮名は、『映画の仕事が一段落するまでの話だよ』と言ったけど、それはどうか知れない。  煮詰まっていた僕を抱いたあとで、子供のように駄々《だだ》をこね、これまでの働きっぷりからは嘘《うそ》みたいに、彼は豪奢《ごうしゃ》なキャビンから出るのを拒んだ。  それで昨日は一日中、二人であのゴージャスな、夢みたいな部屋の中で過ごした。  たっぷりと愛し愛されて、ようやく今夜になって働く気持ちが戻ったのだろう、浮名は初日の夜同様に、キャプテンや貴美香《きみか》と一緒に、ほかの客にリクエストされて写真撮影に参加している。  漆黒《しっこく》のタキシードに身を固めた浮名は、蝶《ちょう》ネクタイもよく似合ってノーブルだった。  貴美香はバストを強調するミニドレスに、肩からスパンコールがきらめくサマー・パシュミナを引っかけている。  二人とも白い正装姿のキャプテンの両脇に華を添えて、撮影会は盛況だった。  今夜は僕も着慣れないタキシードをまとっていた。  もちろん鞍馬も特注と思われるタキシード姿である。どこかのマフィアみたいだったが、ガタイが大きい分|貫禄《かんろく》があって、とてもよく似合っていた。  ウエルカム・パーティーでの泥酔《でいすい》を反省した僕は、シャンパンをチビチビやるだけにとどめ、顔を覚えられていて日本酒を持ってきてくれたコンパニオンの女性に、よそに持っていってくれと丁重に謝辞した。  僕が恐れていたのは三人娘と梅川《うめかわ》だった。  鞍馬にも彼らがいたらすぐ教えてくれと、恥を忍んで命じておく。  あんなことがあったあとでは、梅川には二度と会いたくなかった。  本当を言えば、僕は彼らが自分のファンである限り、完全には嫌いにはなれなかったし、むしろどちらかと言えば好きな方なんだろうという、甘ったるい自覚がなきにしもあらずではあったんだけども……。  どちらにしてももう無理だ。  梅川が本気で僕に惚れているなら、応えられない以上そばには寄りたくない。  自分の気持ちを隠しながら彼は本気なんだと、牽制《けんせい》しているマイにも、同様に応えられないから近づけなかった。  幸い番犬のごとき鞍馬が目を光らせてくれていたおかげで、僕はパーティーの間彼らと接近せずに済んだ。  ……このあとのことを思うなら、本当はもっと早くに彼らと話をつけておけばよかったのだが、後悔しても後の祭り。  花火大会の歓声に驚いたのも最初のうちだけで、あとはまるで、誰一人死者なんか出なかったかのように、パーティーの第一部はお開きになった。  わかっていてもよさそうなものだったんだけど、高級イタリアン・レストラン<エンゾォ>の静かな店内には、知った顔ぶればかりが揃《そろ》っていた。  エンゾォは船内で一番高級な店で、席数は五十に満たない。  その十に満たないテーブルに、浮名、桑名、貴美香といった宣伝撮影隊の主立ったクルーと、笠井麗羅《かさいれいら》を含めたJBTの偉《えら》いさんたちというメンバー、そして三人娘と梅川というグループがそれぞれ陣取っている。  彼らだけじゃない。  あの鼻つまみ者の仏木雄平《ぶつぎゆうへい》と、そのカノジョのマリコもいる。  考えてみれば仏木みたいな見えっぱりが考えそうな嫌《いや》がらせだ。関係者ゲストに呼ばれなかったのが相当頭にきたのだろう、わざわざ居心地《いごこち》の悪い思いをさせようなんて、まるっきり腹いせのつもりに違いない。  自分だって相当に嫌な思いをするだろうに、変なところで精力的な男だ。  浮名やマイらの誘いを断って、僕は鞍馬と一緒に二人用の小さなテーブルセットにすわった。  浮名と一緒にいたいのは山々だったけど、周りは全部気の乗らないメンバーで、振り放したはずのコンプレックスに、またがんじがらめになりそうで嫌だった。  もちろんマイたちと食事をするなんてご免である。  パーティーの最中に意識して避《さ》けていた連中と、結局ここで一緒になってしまうなんて、なんとも間の抜けた話だった。 「美味《うま》いッスねぇ」  たぶん初日に彼とここで食事していたら、暑苦しくて鬱陶《うっとう》しくてたまらなくなっていたかもしれない。  だけどこれでお別れかと思うと、最後の夕食を賑《にぎ》やかに彩《いろど》ってくれる鞍馬のはしゃぎっぷりは、心地好《ここちよ》くありがたかった。 「そうだね」  僕は素直に前菜を口に運ぶ。  ほかのテーブルのメニューもみんな同じらしい。  選べるのはメインディッシュを肉にするか魚にするかということと、飲み物、それにデザートを七種類のうちどれにするかということだけだった。  僕は魚を、鞍馬は肉を頼む。  シャンデリアの輝く天井がさして高くなかったせいか、店内は異常に小さく思えた。  実際テーブルの数は少ないし、席の数も少ないから、その印象に間違いはないんだけど、どちらを向いても知った顔というのも、店が小さく見える一因かもしれない。  赤い布張りがされた金縁の豪奢《ごうしゃ》な椅子《いす》に腰かけた鞍馬の、不器用で楽しいフォーク使いが、ともすれば萎縮《いしゅく》してしまいそうな気持ちを和《やわ》らげてくれた。  テレビクルーとJBTメンバーは、特にオッサン同士で話が合うとみえて、声をあげて笑ったりしている。  彼らは憎たらしいほどイイ酒を飲んでいるらしい。遠めにも美しいワインの色を見て、僕は歯ぎしりしそうになった。 「センセーも飲めばいいのに」 「また酔っぱらって醜態さらせってのか?」 「醜態なんかじゃなかったですよ」  よせというのにフォークをふりふり、鞍馬は僕の言葉を否定する。 「彼女たちと一緒に凄《すご》く上手に踊ってたじゃないですか。また見たいなぁ」 「……それがまずいっての」  頭を抱えそうになった僕は強い視線を感じて目を向け、マイの鋭い眼差《まなざ》しとぶつかった。 「…………」  なにか訴えたげな、僕を責めるような、そんな強い眼差しだった。  梅川の容疑は僕が晴らしてるわけだから、事の顛末《てんまつ》を説明していないのは悪いとは思うけど、思い込みの強さが表情に表れていて怖い。  あえて視線をはずすと、今度は貴美香と楽しそうに会話している浮名が目に入った。  見られていることに気がついた桑名が忌《い》ま忌ましい顔つきでウインクしてくる。 「先生、どうしたんです? お飲みになられていないようですが」  と、ヒゲ面《づら》男は立ち上がり、ワインのボトルを持ってやってきた。  ほんの数歩という距離だけど、居酒屋じゃないんだからボトルを持ってテーブルを渡るなんてマナー違反だろう。  しかし店内にいるかしこまった顔つきのウエイターたちはなにも言わず、ただ後ろにひかえて白いナプキンを桑名に手渡した。 「さぁ、どうぞ」 「……すみません」  禁酒中だと言いかけて、浮名が心配そうにこちらを見ているのに気づいてやめる。  テーブルの上に空《から》っぽのグラスが置かれ、僕は注がれる赤い液体を眺めた。  赤ワインは好きじゃない。桑名のことだから、それを承知で赤を選んだんじゃなかろうかと邪推《じゃすい》したくなる。 「ごちそうさま」  笑顔を浮かべる気にはなれず、僕は不機嫌な顔つきのまま一息に飲み干した。  渋みと酸味が喉を潤し、芳香が鼻腔を抜けた。しかし美味いというのとは違う。  僕にはやっぱり赤の良さはわからないらしい。 「そんなお顔をなさって」  ふふふと、桑名は意味深な笑いをこぼして身を屈めた。 「今度は浮名を夢中にさせる秘密のお顔も見せて欲しいものですね」 「ッ!」  そっとささやかれた言葉の内容にギョッとして、反射的に飛び上がりそうになる。  桑名は笑顔で自分のテーブルに戻った。  なにも知らない浮名は、桑名がなにをささやいたかも知らず、僕が喧嘩《けんか》を売ったりしなかったのでホッとした顔をしている。  耳たぶに毛虫が触れたみたいだ。桑名の髭《ひげ》のサワサワした感触におぞけを感じつつ、僕はミネラル・ウォーターをオカワリする。  メインが運ばれ、誰もがその美味さに耽溺《たんでき》したあと、デザートとコーヒー、紅茶が用意された。  僕は比較的甘みが薄そうなフルーツのムースを、どれも選びかねて脂汗《あぶらあせ》を出し始めた鞍馬には、ウエイターが最終日のオマケと苦笑して、全デザートを少しずつ分けてくれた。  どうやら浮名も全種類欲しがったらしい。一人も二人も一緒なんだろう。  第一部が終わってから、早くも一時間半はたっていた。  満腹感は幸福感にも直結していて、僕らの大半が一連の事故を忘れていた、と思う。  僕から見て正面のテーブルにいたマイが立ち上がったのは、店内のムードがほんわりとした満足に侵されていたときだった。 「恐縮ですけど、皆さんよろしいかしら」 「マイちゃん?」 「マイ、どうしたの?」  同じテーブルのケイもユイも驚いている。僕からは見えなかったが、梅川の背中も動揺しているようだった。 「真実を知る以上、これ以上沈黙はできないわ」 「お、お客様」 「引っ込んでて」  錯乱《さくらん》したのかと近づいてきたウエイターを凛々《りり》しく一喝《いっかつ》したマイは、一日めとは別のフォーマルなブルーのドレスを着ていたが、強い思い込みのせいか元からか、女王のように威厳《いげん》たっぷりとした態度で、瞳をギラギラ輝かせている。  その凄い迫力に店内にいた全員が黙らざるを得なくなり、呆気《あっけ》に取られてマイのワンマンステージを見守った。 「今回の事件は本当に残念でしたわ。亡くなった皆さんのご冥福《めいふく》を心から祈りたいと思います」 「…………」  JBTの連中もテレビクルーたちも、顔を見合わせて眉を顰《ひそ》めている。  そりゃあそうだ。  だれだか知らない女の子に急にお悔やみを言われたって、ピンとこないのは当然である。  覚えのある恥ずかしさに、僕はいても立ってもいられなくなって本気で逃げたくなったが、そうもいかず、こそこそと立ち上がってマイに近づいた。 「マイ、君のお説はあとでまた……」 「センセイ、もういいのよ、かばってくれなくたっていいの」  この場を収めようとする僕に向かって、マイは芝居がかった態度で身をよじる。 「罪は償《つぐな》わなきゃいけないわ」 「君……それはどういうことかね」  JBTの偉いさんがびっくりして声をあげた。 「まさか今度の事故は……」 「そうよ、殺人ですわ」  どよめきが起こり、僕は羞恥《しゅうち》でみずからの頬が赤くなるのがわかる。  この感覚はたぶん、六久路谷《むくろだに》の事件のとき浮名が味わったそれだろう。  僕は事件のことをなにも知らない女性を犯人だと思い込んで、きちんと警察もアリバイを確認していた彼女を、ハチャメチャな推理で追い詰めたのである。  結果的には“追い詰めた”というか、“追い詰められた”というか。 「ハハハハハッ」  パチパチと拍手の音がして、軽く酔った風な仏木が大笑いしてマイを見つめた。 「凄いな、お嬢ちゃん。三十年以上生きてきて、こんなドラマチックなシーンに遭遇するとは思わなかったよ」 「ユウちゃん、よしなよ」 「なんでだよ? ドラマなんかじゃこんな風に探偵に絡《から》む奴が次に殺されるんだぜ? 楽しみじゃないか」  悪趣味な仏木の言葉に、カノジョのマリコでさえも嫌な顔をする。 「お嬢さん……確か、神永《かみなが》建設の……」 「神永舞ですわ」  オッサンの誰何《すいか》に答えたマイは、本当にドラマの中の探偵みたいに、意味もなく店内をフラリと歩き出した。 「今度の事件は、すでに宮古天音《みやこあまね》センセイが解決していましたわ」 「……ッ……」  全員の視線がコソコソしている僕に集まったので、慌てて手と首と両方をブルブル横に振る。  恥ずかしくてすわりこんでしまいそうになって、それもみっともないのであきらめて、結局僕は席に戻ることにした。  ああ、もう、こうなったら誰も止められまい。僕だってそうだった。 「悲しいけど、自首するべきよ」 「いったい誰が? 誰が……っ」  うわずった声にオヤ? と視線を向けてみると、笠井麗羅が真っ青になって震えている。  彼女はずっと顔色が悪くて、転針《てんしん》の決定にもっとも落ち込んでいる様子だった。まさかこの一大プロジェクトを、事故のために頓挫《とんざ》させられるとは思いも寄らなかったのだろう。  あれほど強烈だったオーラが、突然の不運つづきでこんなにも萎《しぼ》んでしまうものなのかと気の毒になる。 「トシ、センセイを愛してるなら、もう人を殺すのはやめて」 「え?」  梅川、ケイ、ユイが、ほとんど唖然《あぜん》といった様子でマイを見上げて固まった。 「アンタがやったことをセンセイは知ってるわ」 「え?」 「君! 本当かねっ!」  愕然《がくぜん》としている梅川に向かって、さっきまで上機嫌だった赤ら顔のオッサンが怒鳴《どな》りつける。 「いったいどうして……!」 「彼は宮古天音センセイの熱烈なファンなんです。センセイの気を引くために、いままでも犯罪すれすれの活動をしてきました」  それは自分も同様だろうにと、ケイもユイも複雑な顔をしていた。 「今回偶然にセンセイとクルーズをご一緒することになったと思っていましたけど、それも最初から計画だったに違いありません。彼は船の中で犯罪が起こり、センセイが鮮やかな推理で事件を解決することを、我が身を犠牲にして望んだんです」 「そんな」  おおっというざわめきが起こり、視線は困惑して固まっている梅川に集中する。 「……彼じゃないよ」  僕が生徒のように手を挙げて、シンとなったのを機に発言した。  途端に今度は僕に視線が集中したけど、照れている場合じゃない。無実とわかっている人間を、糾弾《きゅうだん》の渦《うず》に落とせなかった。 「かばわないで! センセイっ!」  マイはまた女優みたいに細い腰をねじる。 「トシッ! 愛するセンセイをこんなに苦しめて、嘘までつかせていいと思っているの!? 自首しなさい! 自首するのよ!」 「グェッ」  突進してきたマイに首を絞められた梅川は自首するどころの騒ぎじゃない。死にそうになってほかの連中に助けられる。 「でもマイちゃん、今度のクルージング、誘ってきたのマイちゃんだよぉ」 「そうですわ、マイ、トシは私たちが誘ったんじゃありませんか」 「…………」  梅川はケイとユイの言葉にコクコクと必死で頷いた。  とり憑《つ》かれたようだったマイの顔に、うっすらと理性が戻ってくる。 「マイ、彼は瀬尾伸介さんが亡くなったとき自分の部屋にいたんだ。僕と一緒だったんだよ。アリバイは僕が証言できる」  ようやく僕が全部告げると、マイは酸欠を起こした金魚みたいに口をパクパク開閉して見る間に真っ赤になっていった。 「で、でも、でも……っ」 「彼はよくも悪くも僕が好きなんだよ、マイ。刑務所に入ったら僕のストーキングもできなくなるんだ。人を殺して僕から離れようなんて、思ったりしないよ」 「そんな……じゃあ、あたしの推理は……」  そこから先はとても見ていられなかった。  半年前の我が身を見る思いだ。  よく若者の青臭《あおくさ》い行動を見て、『あるある』なんて年寄り臭く思ったりするけど、この恥ずかしさはてっぺん級だ。  マイはハンドバッグもスカーフも放り出して、エンゾォからすたこら逃げ出してしまった。  ケイ、ユイもあとにつづき、梅川も僕に何度もペコペコお辞儀《じぎ》しながら去った。  ホッとしたお騒がせにまぎれて、苦笑や嘲笑《ちょうしょう》が残される。  僕はふと気になって麗羅を見やり、眉間を顰めた。  彼女は思い詰めた表情で押し黙っている。その横顔にクールな面影《おもかげ》はない。  彼女はやはりなにかを知っているのだ。  脳裏をよぎる数々のキーワードをまとめきれず、僕は冷めてしまったコーヒーを淹《い》れ直《なお》してもらう。  自分を見つめる思い詰めた浮名の視線には、店を出るまで気づかなかった。  レストランでもマイの独壇場《どくだんじょう》は、その場にいた人々の心に様々な波紋を残した。  僕の心にもまた、拭い切れないある疑惑が浮かび上がる。  だがその疑問に夢中のあまり、かたわらで難しい顔をしている浮名の気持ちにはまったく気づかなかった。 「宮古センセー、あの、浮名センセーが……」 「へ?」  レストランを出ると、グランド・ホールではまだフェアウェル・パーティーの第三部が途中で、にぎやかな声と生バンドの演奏が聞こえていた。  ぼけっとしていると鞍馬が肩口をつついて、僕は首を向ける。 「浮名?」  桑名や貴美香らと一緒にまだ店内にいると思っていた浮名が、早足でこちらに向かってくるのが見えて、僕は首を傾げた。 「どうしたんだ?」 「鞍馬君、ありがとう」 「はい?」  前置きもなく突然礼を言われた鞍馬は、キョトンとなって恐縮する。 「あの? なにがでしょうか?」 「今夜はもういいから」 「いいって、あの……?」 「いいからっ」  浮名は強引にそれだけ言うと、僕の手を掴《つか》んで引っ張った。 「浮名?」  いったい恋人がなにを興奮しているのかわからず、僕も驚きの声をあげる。 「どうしたんだよ?」 「…………」  浮名は答えずに僕の手を引っ張り続けた。  後ろで鞍馬がどうしようか悩んでいる気配《けはい》があって、僕は振り返って頼りない視線を交わしてしまった。 「浮名? おい」  エレベーターを使わずに上の階に登り、廊下《ろうか》を端まで歩いていくと息が切れる。  船首左手にある浮名のエグゼクティブ・スイートに向かっているのだと気づいてしかたなく黙った僕は、掴まれるまま手を預けておとなしくついていった。 「どうしたんだよ? いいのか? 引き上げちゃって?」  部屋に入った途端に解放されて、僕は眉間を顰める。  この部屋で散々愛し合って勝手をしてきたのだ。浮名の性格からすれば、これ以上桑名たちを困らせたいとは思わないはずである。 「まだ連中とつき合わなきゃならないんじゃないのか?」  食事のあとはバーでの飲み会があるのが通例だろう。  浮名は下戸《げこ》だが、付き合わざるを得まいし、彼は自分が飲まないでいても酒席にいるのを嫌がる人間じゃない。 「どういうことだ? 天音」 「どういうって……だってお前にとっては大事な仕事なんだろう?」 「あの梅川とかいう男のことだよ」  尖《とが》った声には激しい苛立《いらだ》ちが含まれていて、僕はようやく浮名が怒っているのだと気づいた。 「……なに怒ってるんだよ」 「俺はあんな男のことはなにも知らなかった」  覚えのない怒りをぶつけられていると逆にムッとした僕に、浮名はひるまず訴える。 「だから……アイツにはアリバイがあるんだから、犯人じゃないし、アレはマイの思い込みなんだよ」  とぼけていたわけではなく、本当に僕にはなにを言われているのかわからなかったんだ。  エンゾォで僕が恥ずかしさに身もだえしていたのは、あくまでも過去の自分を思い出していたからで、店を出る段になってから気にかかっていたのは、笠井麗羅の思い詰めた表情だったのである。 「アンタがアイツのアリバイを証言するっていうのがわからないんだよ」  真剣な眼差しに射抜かれて、一瞬なんのことかわからなくなった僕もはたと思い至る。 「ああ、なんだ、そういうことか……」 「キミカとの件じゃあ人のことばかり責め立てて、いつの間にかアンタは、本気であんなスペアを作るつもりでいたのか?」  カッコイイタキシード姿のままだというのに、浮名は地団駄《じだんだ》を踏んで僕の肩を揺さぶった。 「あんな陰気な男のどこがよくって」 「ちょ、ちょっと、人の話を聞けって」  揺すられて舌を噛みそうになりながらも、僕は馬鹿らしい誤解の言い訳にやっきになる。 「聞くよ、言って」  ピタリと動きを止め、浮名はムスッとした顔で、豪奢《ごうしゃ》なソファーにどっかり腰を下ろした。  フォーマルな席に合わせて撫《な》でつけた髪の毛が乱れていて、白い頬を怒りで上気させた彼は常にない艶《あで》やかな気配《けはい》をまとっている。  僕と梅川の関係を疑って嫉妬《しっと》しているのだと思うと、悪趣味ではあるんだが嬉しくて、物凄くときめいてしまった。  付き合いはじめてからは、いつだって浮名の方が優位に立っていて、嫉妬するのも焦《あせ》るのもいつも僕の方だった。  それが今回ばかりは逆転して、責められる立場がこんなに楽しいものだとは思わなかった。 「馬鹿だな、浮名」  僕は思わずヘニャヘニャと脂下《やにさが》った表情になって、たまらずに彼の前に膝《ひざ》をつく。  浮名の膝に手を置いてその象牙細工《ぞうげざいく》みたいな顔をのぞきこむと、胸が絞られるみたいにキュッと縮んだ。 「オレがあの小僧とどうかなるって、本気で思ったのか?」 「どうかなるとか、仮定じゃなくて、具体的なことを言ってみろよ」  文字通り下手に出た僕の態度に、わずかだが浮名の顔つきが軟化する。  怒っている顔もキレイだしカッコイイけど、彼はやっぱり優しい表情が一番美しい。 「どうしてアンタがあの男のアリバイを証言できるんだ。部屋で一緒だったなんて、鞍馬君はなにも知らなかったみたいじゃないか。二人きりだったのか? どうして? アイツはストーカーなんだろう?」 「厳密にはストーカーとは違うんだろうけど、それは置いておいて……」 「置いておけないよ!」  いったんは平静さを取り戻していた浮名の形よい唇が、見る間にワナワナと震えだす。 「もし俺が一緒じゃないときに、アイツがアンタの家に押しかけたりしたらどうなるんだ? それでもし大変なことになったらと思うと、ちっともどこにも置いておけるような問題じゃないだろうっ!」 「……浮名……」  そこまで僕を心配してくれるのかと、ほとんどウットリ感激しつつ、いやいやと首を振った。  確かに梅川はストーカーまがいの真似をしてきた。それはマイたちも同罪である。  だが彼は本気で僕を困らせたり怒らせたりは絶対にできない性格だ。  僕を好きだという気持ちも、きっとあれ以上にはエスカレートしないだろう。  それは僕の勝手な考察なのかもしれないけど、変な話、彼の巧みなキスで思ったんだ。  彼は僕を好きだと言うけど、別のところできちんとこういう関係を構築できる人間で、こちらが拒絶すれば、それ以上はないとあきらめられるタイプなんだって。  怖いのはきっと、あきらめられなくて思い詰めるタイプの人間で、少なくとも梅川はそういう奴じゃない。  そういう奴なのかと思っていた時期もあって、怖かったり鬱陶しかったりもしたけど、違うとわかったからもう怖くはなかった。 「浮名、彼は僕のファンの子なんだよ。危なっかしいとこもあるけど……基本的には害はない。それに、僕とお前のこともわかってると思う」  彼らは一貫して僕と浮名をセットで考えていた。  マイたちもそうだし、梅川もそうで、鬱陶しいとあしらう一方で、どこか本気で遠ざけられなかったのは、浮名と自分との関係を、身近な社会として認めてもらっている気になっていたからなのかもしれない。 「……心配なんだ……」  浮名はムッとしたまま、不安そうに瞳を細めた。 「アンタは自分から危ない場所に飛び込んでいくから、俺の目の届かないどっかで、どんな目に遭うかと思うと……」 「失礼だな、オレだって男なんだぞ」 「そうじゃないよ、天音が男だとか、女だとか、そういうこと言ってるんじゃないよ」  せつない仕草で頭を抱き寄せられて、拗《す》ねかけていた僕は言葉を失う。 「離れてても、不安なんて感じなかったのに、知れば知るほどたまらないよ」 「……浮名……」  泣きつかれているという感覚は、僕に喜びをもたらした。  彼の弱さは、ときに僕の強さにもつながっている。 「不安なんて感じなくていいよ、浮名」 「そばにいるほど不安になるなんて、つらい」 「ホントに奴はなんにも……」 「一緒に暮らさないか」 「え」  思いがけない言葉を唐突にぶつけられた僕は、唖然として首をあげた。 「なに言ってるんだよ」 「一緒に暮らそうよ」  冗談を言っているのかと吹き出しかけた僕をたしなめるかに、浮名は真剣で強気だった。 「東京に戻ったら、すぐにどこに住むか検討しよう」 「ちょ、ちょっと、お前なに熱くなってんだよ」  これは本気だと、さすがにまずいとあえて笑い飛ばした僕は、ダラダラ溢れる冷汗を拭って立ち上がる。 「そういやちょっと、暑いかも」 「天音、話をそらすな」 「そらしてるんじゃないよ」  いや、僕は混乱した頭をなんとか建て直したくて、確かに話をそらそうとしていた。  即答できなかったのは、浮名と暮らすのが嫌なせいじゃない。  彼を好きでたまらないのは、むしろ僕の方が激しいくらいだ。  でも僕は自分がもう社会人で、彼も社会人だと痛感している。一緒に暮らせば好奇の目にさらされるのは間違いなかった。  もしそういう好奇の視線を避けるために、浮名がカモフラージュで女の子と遊び歩いたりしたら、僕はそれこそ離れて暮らすよりつらい思いを味わうだろう。  自分たちはただの友達なんだと言い張ったところで、どちらも結婚しないでいれば、いずれ恋人同士だとわかるだろう。  そんなに長いスパンで考えなくてもいいと言うなら、なおのこと僕は嫌だ。  浮名とのことを、一時の激情に任せて決定したくない。 「オレ、プールで泳ぎたい」  言いながら、僕はさっさと浮名から離れてドアに向かう。 「天音」  制止する浮名の声が苦しげで、心臓を直接掴まれた痛みを感じたけれど、まだそのときじゃないんだとしか思えない。 「プールで会おう」  振り向いて笑顔で言ったけど、うまく笑えた自信はなかった。      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆  浮名が来てくれなかったらどうしよう……。  そんな風に思いながら水着に着替えてクレセント・プールに向かった。  考えてみればまだパーティーをやっている連中がいて、リラックス・デッキは騒がしかったりするかもしれないと後悔する。  もし人がたくさんいたら浮名を待ってさっさと引き上げようと考えつつ九階にあがると、すでに花火大会も終了して、明かりだけは煌々《こうこう》と灯《とも》っていたけど、人影と言えばカップルしか見えなくなっていた。  カップルばかりというのもなんだったけど、ライトアップされて黄金色《こがねいろ》に染まった十二階に向かう飾り段差は美しく、半透明のジャグジーの天蓋《てんがい》も、美しい照り返しが輝いていて、このまま泳がずに部屋に戻るのはいかにも惜しい気がする。  連夜と違うのは、監視員のクルーが数人、プールサイドに常駐していることだった。彼らはときどきプールサイドを回り、デッキ・チェアでくつろぐ人に親しげな声をかけている。  浮名の姿は見当たらなかった。  来ないかもしれないと寂しく自答しつつ、乾いたデッキ・チェアに持ってきた身の回り品と、羽織《はお》ってきたガウンを置く。  バスタオルを借り出してからひんやりしたプールに身を浸すと、思わず苦笑が漏れた。  こんなに美しい場所にたった一人で、傍《はた》から見ても僕は相当寂しい男だろう。 「…………」  三日月型のプールに浮きながら平泳ぎして目を上げると、サン・デッキへ向かう階段にはロープが張られ、侵入できなくなっている。  手すりに沿ってライトが点《とも》されており、安全に問題があるようには見えなかった。  こんなに美しい場所で三人もの人が亡くなったとは、いまだに信じがたい。  六久路谷温泉での事件のときもそうだったが、人はなんて呆気なく死んでしまうんだろう。  今日は生きていても、明日には思いがけない事態に陥って死んでしまう可能性があるのだ。  病気でなくても、事故でなくても、人は死んでしまう。 「……浮名……」  寂しくてたまらなくなって、僕は浮名を待っているのがもどかしくなった。  急いで端まで泳ぎきって、浮名の部屋に戻ろうとプールの縁に手をかけたときだった。 「なに急いでるの」 「あ」  長身の影が落ちて、見上げると浮名がいる。  ブランドものの海パンを履いていて、意外とガッチリとした体が夜の光を眩しく反射していた。 「む、迎えに行こうかと思って」  思わず照れてしまって、僕は口ごもる。 「お前、来ないかもしれないからって……」 「ふぅん」  浮名はつまらなさそうに言いながら、プールの出入りを手助けする水に浸った階段の手すりに寄りかかった。  長い手足がそのままでもモデルみたいで、確かに彼をテレビに出したいという制作者側の気持ちはわからなくもない。  だけど彼は本当は、恋人の僕だけのものであるはずなのだ。  それはきっと、浮名から見た僕にも言えることなんだろう。  萎縮《いしゅく》気味に水に浮いている僕を見つめる浮名の目は、先刻の嫉妬の名残《なご》りを未《いま》だに孕《はら》んでいる。 「俺が来ないかもしれないと思えるようなこと言ったって自覚はあるんだね」 「……浮名」  なんだかあまりにも子供っぽい、だけどそれ以上に僕を愛しているんだと訴えかける言葉つきに、愛情について繕《つくろ》っていても仕方ないんだと反省した。 「浮名、オレと暮らしたいなんて言ったら、きっと桑名さんに反対されるぞ」 「桑名には関係ないよ」 「だけど実際、映画のロードショーが終わるまでは僕と会うのを控えるように、注意されたりしていたんだろう?」 「それは……映画は大勢の人の協力で成り立っているから……」 「つまりオレとつき合ってることで、その関係者たちに迷惑をかけるんだって、桑名さんは言いたかったんだろう? それにお前も納得したってことだよな?」 「……それは……」  いままでそんな風に自覚したことは本当に少しもなかったのか、浮名は寝耳に水みたいな顔つきでしょんぼりしてしまった。  僕は彼のかたわらに寄り添うため、水の中で段差を探して一緒に手すりに掴まる。 「いいんだよ、浮名。お前が桑名さんを信頼しているように、桑名さんはお前が可愛《かわい》いんだから、世間体《せけんてい》の悪い恋人の存在で傷つくのは避けたいと考えて当然だよ」 「…………」 「オレもお前が、オレって恋人がいるせいで痛い目に遭うのは許せないよ」  しなやかな髪の毛に指を伸ばした僕は、ほかのカップルたちも自分たちでいっぱいいっぱいでいると信じて、間近の顔に頬を寄せた。監視員たちも、プロならたとえ目に入ったとしても黙っていてくれるだろう。 「天音は、俺と暮らすのが嫌だってわけじゃないんだな?」 「そりゃあ……」 「だったらいいよ」 「浮名」 「桑名のことは考えなくていい」  浮名はキッパリと言って僕の手を取った。 「もしも桑名が駄目だって言っても、関係ない」 「浮名」  途端に目の前が開けたように感じられて、僕は思わず微笑《ほほえ》んでしまう。  聞きたかったのは、この言葉だったのだ。  やっぱり僕は桑名に嫉妬していたのか、こんな単純なことだったのかと、自分で自分の底の浅さが馬鹿らしくなる。  さすがにデッキにいる人たちがいつこちらを見てもおかしくない状況だと判断して、僕らはそろって水からあがってジャグジーに入ることにした。  例の使用禁止の階段側とは反対の、船尾側のジャグジーに入ろうとすると、先客のカップルたちがそそくさと出ていった。  追い出す形になったけど、別に一組のカップルのためにあるジャグジーじゃないんだから、いたければいたいでもよかったんだけど、出ていってくれるならそれはそれでありがたい。  僕は内心はしゃいで、湯の中で浮名に抱きついた。 「なんだかていよくごまかされた気がしないでもない……」 「なにが」 「あの男のこと」  浮名はまだ梅川のことを気にしているらしかった。 「まだ言ってるのかよ」  ため息をついた僕はいったん体を離して“ないない”と手を振る。  こうなったら絶対にあのキスのことはしゃべれない。 「確かに瀬尾さんが亡くなったとき、オレは彼と一緒にいたけど、それはマイからあの推理を聞かされたせいだよ」 「あの推理って、梅川って奴がアンタに自分を捕まえて欲しくてやったっていう、アレ?」 「そう」 「あんなの推理じゃなくて妄想だろう」  浮名もため息をついたけど、僕は着眼点はあながち悪くなかったとは思う。  いや、思いたいだけなのかも。  なにしろあのときのマイときたら、六久路谷で若女将《わかおかみ》を追い詰めたときの僕そっくりだったんだから。 「あんな与太話を聞いて梅川なんかに会いに行ったのか?」 「彼女たちが作ってくれたファンクラブ、一昨年《おととし》までは公認してたんだよ」 「それとこれとは関係ないだろう?」 「デビューしたばかりのときに、凄く応援してくれてたんだから、オレにとってはお前にとっての桑名さんみたいなもんなんだよ」  浮名のうろんげな眼差しに、僕はまたこの話を蒸し返すのかとウンザリした。 「あのときはたまたま鞍馬君が会議でいなかったんだよ。いれば一緒に行っただろうけど、もしそうだったら奴の部屋には入れてもらえなかっただろう」 「部屋」  ピクッと、浮名の眉は大きくつったけど、僕の表情を見てそれ以上文句をつけるのはなしにしてくれる。 「オレだってマイの言ったことが全部正しいとは思わなかったよ。でもなんというか……今度の事件の根本的な部分は、やっぱりデモンストレーションだったんじゃないかとまでは思ったんだよ」 「やっぱり事故じゃなくて事件にするわけ」 「見ろよ、浮名」  不機嫌な浮名の手を引っ張り、僕はジャグジーのまるい縁に身を乗り出して、サン・デッキに向かうライトアップされた階段を示した。 「確かに階段は長い、手すりもあの幅で両サイドに一つずつじゃ少なすぎるだろう。だけど事故が起こるとすれば最初の一件だけだよ。事故のことを知っていれば、あの階段を酔っぱらって降りようと思うはずがない」 「酔っぱらってたらそんな考えも巡らないんじゃないの?」  疑い深げな浮名は、まるで興味が湧かないと言いたげに湯の中に戻る。 「第一、二番目の被害者の人は、森崎さんとはなんの関係もない一般客のOLだっただろう?」 「だから、こうは考えられないか?」  僕は自分でもまたマヌケなことをしているのかもしれないと不安を抱《かか》えつつ、濡れた腕を組みながら考えをまとめた。 「一件目は事故だった。或《ある》いは殺人だったかもしれないけど、恐らく計画的ではない偶発的な事態だったんだと思う」 「なぜ?」 「最初から計画していたなら、わざわざあの階段であの時間に落下したように見せて僕らの頭上に遺体を落としたりしなかっただろうからさ」 「だって遺体は振動でずり落ちたって……」 「それは事故という結論から考え出した関係者の意見だよ。もしも森崎さんがスーツを着ていて、水着でなく、まだ暗いうちに階段の途中で亡くなっていたら、事故は事件として扱われていたと思わないか?」 「それは、つまり?」  目を細めた浮名はピンときたようだ。  僕は頷いて見せる。 「そうだよ、もしも森崎さんが突き落とされて殺されたとなったら、犯人にされる可能性のあった人物が、自分に都合の悪い死に方をされてしまったとうろたえて、遺体を移動させ、水着に着替えさせて、あの時間に落下して亡くなったと見せかけたんだよ」  口に出して言うと本当にそんな気になるから不思議だ。  これもやっぱり妄想だからなんだとしたら、マイにしても僕にしても、単純に妄想癖があるってことなのだろうか。 「でも……どっちにしたって、つまり、事故に見せかけたんだろうと、本当に事故だったんだとしても、森崎さんの死は事故だってわけで片付いたんじゃないか。なぜそのあとで無関係な人を殺したり、瀬尾さんまで……」 「森崎さんの死がうまく偽装できたと知った犯人は、それで連続殺人を思いついたんじゃないかと思う」 「連続殺人……」 「ABCの法則だよ。二番目には無関係な人を殺す。三番目に殺したい人を殺す」 「じゃあ犯人は瀬尾さんを殺したかった?」 「たぶん、瀬尾さんだけじゃない」  真夏の屋外は蒸し暑く、お湯の温度も決して低くはないのに、言いながら僕は背筋に冷たい感覚が走るのを覚えた。 「六久路谷のとき、オレは犯罪者ってのはこんなに簡単に人を殺すんだって愕然としたよ。一人殺すと、二人も三人も一緒なんだって」  小林久吾《こばやしきゅうご》……。  六久路谷殺人事件の犯人は、若くて美しい苦境の女将を救うためという大義名分をかかげながら、裏には邪《よこしま》な欲望があって無関係な人を殺しつづけた。  彼は最後には僕の首を絞め、あとで浮名も殺さねばと言っていたのである。  もう誰も殺したくないと言いながら、彼はきっと、警察に捕まらなければいつまでも若女将のためにという言い訳を用意して、人を殺しつづけたに違いない。  本当はだれかのためなんかじゃない。自分の欲望を果たすために。 「森崎さんが亡くなって一番得をする人が犯人だ」 「まさか」  僕が言うと、浮名は笑おうとして引きつる。 「まさか、レイラが犯人だって言うのか?」 「お前もやっぱり彼女が一番得をする人物だって考えるわけだな。森崎さんが亡くなっても、彼女はチーフにはなれない。でも瀬尾さんが亡くなれば、彼女がチーフになるのは確実なんじゃないか?」 「だからって彼女は人を殺したりはしないだろう」 「僕が心配なのは彼女じゃない。彼女はまだ、きっと終わりだとは思っていないだろう」 「なんだって?」 「事件のせいで船は転針した。彼女の思い詰めた顔が気になる……」  本当に心配になって、僕は止めようとする浮名に首を振って立ち上がった。 「仏木さんの言葉を覚えてる?」 「仏木? あの感じの悪い男がなんだって言うの」 「彼は自分が殺されるかもしれないって言ってたんだよ」 「天音?」  すべてのピースが嵌め込まれて、僕はいても立ってもいられなくなる。 「天音! どこ行こうってんだ!」 「彼女を探す! お前も探してくれ! 仏木が危ない!」  ジャグジーから飛び出した僕は、デッキ・チェアからガウンを拾って駆け出した。 「天音センセー!」  と、慌てて船内に駆け込もうとした僕を、どこからかのぞいていたのか、三人娘と梅川が呼び止める。 「どうしたの?」 「浮名に聞いてくれ!」  いちいち説明するのも億劫《おっくう》で、僕は言い捨てて冷房の効いた船内に駆け込み、階段をダッシュで降りる。  部屋を訪ねるにしても部屋番号がわからない。鞍馬を探した方が早いだろうから、ホールでクルーを見つけるつもりだった。 「危ないっ、先生っ」  と、濡れた体でサンダルを引っかけたままだった僕は、階段の途中で転びそうになって梅川に助けられる。  掴まれた後ろ手が引っ張りあげられて、僕はついて来るなと文句を言うより先に、とりあえず礼を言わなければならなかった。 「すまない」 「先生……先生があのとき僕の部屋に来てくれたのは、マイのあの推理を確かめるためだったんですね」 「……ああ、うん、そう」  憔悴《しょうすい》した梅川の顔を見てわずかだが良心が痛む。  手段を選ばず話を聞き出そうと、あざとい色仕掛《いろじかけ》を利用した自覚があった。彼にしてみれば、好きだった僕に殺人犯と疑われていたのかと思うと、さぞや情けなくつらいだろう。 「マイたちと話し合ったんです。そうしたら、最後の思い出をもらったんだと思って、これからは活動を自粛《じしゅく》しようって結論になりました。先生には、たくさん迷惑をかけてしまったって、反省しました」 「そうなの?」 「はい」  消沈した言葉にどっと安堵《あんど》がこみ上げて、途端に現金だけど目の前にいる彼を許してしまっている僕がいた。 「おっと、こんなとこで止まってる場合じゃなかった」  自分がなぜ走っていたか思い出した僕は、ついてくる梅川をもう制止せず、七階ホールのカウンターまで突進する。  フェアウェル・パーティーはお開きになっていた。  クルーが常駐しているカウンターも静けさを取り戻しており、ガウン姿の僕が駆けてくるのを見てさすがにびっくりされる。  直接麗羅の部屋に連絡を取ってもらおうとしたが、それはできないと言われ、本命の鞍馬の呼び出しを頼む。 「それで、いったいどうしたんですか?」  疲れてしゃがみこみそうになっている僕を黙って見守っていた梅川が、オロオロと問うた。 「そんなに急がないと、まずいことでも……」 「そりゃあ、だって次が……」  答えようとして僕はハッとした。  こんな風に麗羅を探している間に、すでに彼女がサン・デッキに仏木を呼び出していたとしたらどうだろう。  あるいは三流の展開かもしれないが、麗羅の犯罪を知って強請《ゆす》ろうと、仏木自身が彼女を呼び出していたら……。 「いけない……っ」  僕は背筋を正して梅川に向き直った。 「梅川君、君、ここにいて鞍馬を待ってくれ」 「え、ええっ?」 「彼が来たら、笠井麗羅という女性の部屋か、仏木雄平という男性の部屋に当人たちがいるかどうか当たってもらって欲しい」 「そ、それは、わかりましたけど、せ、先生はどうするんですか?」 「僕は確かめたいことがある」  言い捨ててまた駆け出した僕は、うろたえてすがろうとする梅川を睨んで、一人“現場”に向かう。  もうこれ以上だれにも死んで欲しくない。  もしもこれが取り越し苦労なら、それが一番いいんだ。  マイに続いて、僕も滑稽《こっけい》なオポンチ探偵になっても構わない。  だれかが死ぬのを見過ごすよりも、笑い者になった方が数段ましだった。      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆  海パン一つで濡れたまま後を追うわけにもいかず、浮名はしかたなく自分もパーカーを着て神経質に体を拭ってから、置いて行かれた天音の荷物を取りに行った。 「あ」  見当はずれであることを確信しつつも、さすがに気になって麗羅が部屋にいるか確認しようと、船内に入りかけて舞たちと遭遇する。 「君たち、まさか僕らのことのぞいていたの?」 「いえ、そうじゃないんですけど……」 「偶然そうなってしまったんですわ」 「私たち、天音チャンにこれまでのこと謝ろうと思ってたんですけどぉ」 「それよりなにかあったんですか?」  台風のように走り去ってしまった天音が残した言葉を、舞が浮名にぶつけた。 「私たち協力します」 「いや、そんなにしゃちほこばることはなにもないよ」  なんでもないと言えば言うほど疑わしいと、自分でも思いながら浮名は結局彼女らと一緒に麗羅の部屋を訪ねることにする。  天音の考えは浮名にしてみれば飛躍しすぎとしか思えない。  本当に殺人事件だとすれば大変だが、浮名には麗羅という女が人を殺せる人物ではないとわかっている。 「でも、天音センセイの推理は、的を射ていると思うわ」  先刻恥辱にペシャンコになった舞だが、生意気な身上を取り戻してか、落ちついている浮名に食ってかかった。 「こんなに短期間に偶然で同じ会社の人が二人も死ぬなんて」 「今度の転針で一番傷ついたのは彼女なんだよ。自分で自分が大切にしてきた企画をつぶすような真似は絶対にしないはずさ」 「でも、天音サマは最初の事件は事故だったかもしれないとおっしゃったんですわよね?」 「企画はつぶれてもぉ、会社の中で偉くなれば、またいくらでもチャンスはあるものねぇ」 「だからって人を殺してまで……」  ロリッぽい結《ゆい》の言葉に苦笑した浮名は、ほんのカケラの疑問をもって麗羅の部屋のドアホンを鳴らした。  ややあって鍵の開く音がして、暗い顔をした麗羅が現れる。 「あ、いた」  娘たちはそろってガッカリした声を漏らした。 「……どうなさったんですか? 先生」  そろそろ遅い時間である。潜めた声音で麗羅は尋ねた。 「いや、いいんだ。お邪魔《じゃま》したね、おやす……」 「よくないわよ、浮名センセイ」  笑ってドアを閉ざそうとした浮名をぐっと横に押しやって、舞はお嬢さまとは思えない態度でズンズンと室内に侵入する。 「あの……っ」 「もしも貴女《あなた》が犯人なら、すべては天音センセイが白日《はくじつ》のもとにさらしたんだから、おとなしく自首して、これ以上だれも手にかけないことをおすすめするわ」 「はぁ?」  ビシッとばかり舞に指さされ、麗羅はクールな面差《おもざ》しを奇妙に歪めた。 「私が犯人?」 「違うの?」 「違います」  決然と首を振り、麗羅はわずかな迷いを見せたあとで浮名と向かい合う。 「先生、もっと早くにご相談するべきだったかもしれません」 「レイラ?」 「……今夜、こんな手紙が……」 「どれ?」  差し出された紙片を浮名が手にすると、娘たちもそろってのぞき込んだ。 「これは……」 「私、行く勇気がなかったんです。もうすぐ時間です。一緒に行ってくださいますか?」  麗羅の問いかけに、しかし浮名は答えなかった。  彼は嫌な既視感《きしかん》に苛《さいな》まれていたのである。  六久路谷事件の最後、彼があと一歩遅れていたら、大切な宝物は永遠に失われるところだった。  もしもいまがそのときだとするならば、じっとしている場合ではない。 「あ、先生っ!」 「浮名ッチ!」  女たちの高い声を背後に、浮名は走り出した。  期せずして彼もまた、恋人と同じように、これが取り越し苦労になっても構わないと思っていた。  もしもなんでもない顔をして天音が元気にしていたとしても、苦しむところに遭遇するよりずっといい。  ましてもしも、もしも間に合わなかったら……。  全身からどっと血の気が引いていくのを意識しつつ、浮名は短距離走の選手のような前傾姿勢で廊下を疾走した。      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆  十二階のリラックス・デッキに出た途端、息が詰まるほど熱い空気が僕を包んだ。  全身から噴き出した汗がぬるい風によって乾き、さっき浮名と一緒に九階にいたときには感じなかった夜の冷気が肌の上をなぞる。  それが身の危険を感じてなのか、単なる自然の摂理なのか、焦る僕には判断つけている時間はない。 「…………」  十二階にはまだ何組かのカップルがいた。みんなデッキの縁に寄り添って暗い海の方を眺めている。  ふっと、三番目の被害者、瀬尾伸介が亡くなったときの状況を思い出した。  僕は梅川の部屋にいて、おもてがどういう状況だったのか正確には知らない。  だがあの時間、どんよりとした雲に覆われた夕刻、たいていの人たちが上陸して船内には人気がなかった。  プールサイドに人がいたとしても、目を開けて階段を凝視している人はいなかっただろう。  犯人にとってはいちかばちかの賭《か》けだったに違いない。  それがあの強運の持ち主、笠井麗羅であるとしたらなおのことだ。彼女は自分の運を信じていただろう。  僕は人気ない階段に寄り添ってから、あたりを見回した。  ここは最上階じゃない。十三階と、更にその上がある。  突き落とすとしたら、上からの方が確実ではないかと考えた僕は、意を決して上に上がる階段を目ざす。  階段は真ん丸い衛星ナビゲーションの受信装置を段差の向こうに見下ろす箇所にあった。  受信装置の向こうには、船でもっとも高い場所に位置した、金の杯《さかずき》を吊った銀の天秤《てんびん》マークが記された青い排気口を眺めることができる。  真っ暗な夜空を背景に、排気口は怖いくらい巨大に浮かび上がっていた。  僕は強い風にガウンのすそをあおられながら、鉄の階段を登った。  上は客が行くような場所ではない。デッキ・チェアの予備が積んであり、それらを洗うための水場になっていた。 「なにしてるんだ」 「ッ!」  突然暗がりから男の声がして、僕は悲鳴をあげそうになる。 「なんだ、アンタか」 「仏木さん……?」  首を傾《かし》げながら現れたのは、心配していた仏木雄平だった。 「なぜここに?」 「…………」 「まさか笠井さんに呼び出されたんですか?」 「どうしてそう思うんだい?」  仏木はつまらなさそうに聞き返し、煙草《たばこ》をくゆらせる。  こんなところで煙草を吸うなんてマナーの悪い奴だとムッときたが、命の危機が迫っている以上、警告は怠《おこた》れない。 「今度の事件、僕は笠井さんが犯人だと思うんです」 「へえっ?」  くわえていた煙草が、仏木のどこかゆるんだ印象のある下唇にだらんと引っかかった。 「またアンタもあの女の子と一緒で、探偵ゴッコってわけかい?」 「どう取られても構いませんよ。でも次にねらわれているのは貴方《あなた》だと思います。こんなところに一人でいるのは、落としてくださいと言っているようなものじゃないですか」 「こんなところから突き落とされたって、死にゃあしないさ」  煙草をくわえ直して、仏木は頼りない鉄の段差に近づいて嘲笑する。 「せいぜい一階分の高さもない。ここから落ちて死ぬとしたら、相当運が悪いのさ」 「僕もそう思います」 「だろう? レイラが野心家だってのは認めるが、ここから人を突き落として殺そうとは思わないさ」 「…………」  仏木の言葉になにかが引っかかった。 “ここから突き落とされても死なない”とは、僕も賛成する。  人気がなくて呼び出すには好都合かもしれないが、高さは半階程度だし、まさかここから突き飛ばしても、サン・デッキとリラックス・デッキを繋ぐ幅広階段まで転がり落ちていくはずがない。  ここで誰かが死んだなんて、僕は言っていない。思ってもいなかった。  仏木は“ここから人を突き落として殺そうとはしない”と言った。  その通りだ。  でもなにかおかしい。彼の言い方は、どこか違和感がある。 「……だから僕は、森崎さんが亡くなったのは、純粋に事故だったんじゃないかと思うんです」 「へえ」  浮かび上がった違和感に戸惑《とまど》いながら、沈黙に耐え切れず言った僕の言葉に、仏木はどうでもよさそうな声を返した。 「だったら誰も犯人じゃなくて、めでたしめでたしでいいんじゃないの?」 「しかし二人目の小塚千穂《こづかちほ》さん、三人目の瀬尾伸介さんは、意図的に殺害されたに違いありません」 「なんでそんな断定できるんだ?」  抑えた僕の声に笑いを浮かべ、仏木は小首を傾げる。  彼の位置は僕の正面にあり、鉄階段を背中にしている。本能的にこちらが階段を背後にしなくてよかったと、僕は彼の命を助けに来た目的も忘れて安堵した。 「森崎徹子さんの事故死は工作された痕跡《こんせき》がありました」 「ふぅん」 「水着でハイヒールというのは、レースクイーンでもあるまいし不自然です」 「でも相当酔っていたって話じゃないか」  手すりに寄りかかり、彼は死者に対してなのか、僕に対してなのか、小馬鹿にした様子で肩をすくめる。 「チーフはドジだったからな。女としちゃ、そういうとこ抜けてたよ。レイラも同じ人種だ。確かに、レイラが事故を工作したとするなら、水着にハイヒール履かせちまうかもしれないな」 「なぜ事故死だと届けずに、あえて危険を犯して遺体の発見を他人に委《ゆだ》ねたのか、僕は考えて思ったんです。きっと犯人は、森崎さんが階段から落ちて死んだのを見つけたと言い出せば、自分が彼女を殺したと疑われる立場にあった人に違いないって」 「それがレイラか」 「そうです、でも」  言おうか言うまいか、言ってはいけないという理性の声はガンガン警告を発していたのに、僕は黙っていられなかった。 「貴方も同じ立場でしたね」 「俺がアイツらを殺したって言うのか?」  声をひそめ、噴き出して仏木は笑う。 「おいおい、狙われているのは俺じゃなかったのか?」 「僕はいまいち自信がありません。これは全部仮定です。もしかしたらの話です」  仏木から一歩離れ、僕は無意識に距離を取った。 「森崎さんは事故で死んだ。僕はそれは間違いないと思っていました。なぜなら笠井さんが犯人だと思っていましたから。彼女なら、事が発覚したとき転針の危険があるのを思えば、殺人の可能性なんか少しもあってはならないと考え、完全な事故死を工作する必要があると考えたからです。サン・デッキからリラックス・デッキまで落下すれば、足もとのおぼつかない時間、ハイヒールという悪条件もあって運悪く墜落死するのはわかります。だけどいま、もう一つの可能性があるんだってわかりました」 「…………」 「森崎さんが亡くなったのが、あちらの階段ではなく、こちらの階段だったら……」  僕は仏木の背後の暗がりに続く階段を見やった。  ライトアップされているのは僕の方から見た側で、仏木の側からはこちらはただの暗がりにしか見えないだろう。 「もしも亡くなったのがここなら、たとえ事故だとしても、森崎さんがなぜここにいたのか、なぜ階段から落ちて死ななければならなかったのか、不審死として扱われるに違いありません。ウエルカム・パーティーという華やかな舞台裏で、あの夜森崎さんがこの場所に訪れる必要など普通ならありません」 「…………」 「彼女は呼び出され、この場所に訪れた。そして偶然にも落下し、運悪くそのまま絶命してしまった」 「なぜ事故だってことにこだわるんだい? レイラが呼び出して殺したとは思えないのか?」 「彼女はなによりも転針を恐れていました。今回のクルージングが頓挫《とんざ》すれば、責任の有無を問われるだけでなく、貴方が言ったように、野心家である彼女の野望は何年も停滞するでしょう。笠井さんには、そんなリスクを冒してまで、このタイミングで殺人を犯す理由はありません。少なくとも僕は知らない」 「痴情のもつれかも」 「それは可能性の一つですが、やはりこのタイミングはありえないと思いませんか? 別れ話をするにしても、どんな危険な話をするにしても、あの夜こんな場所に呼び出してする必要はないはずです。何度も言うようですが、この航海の途中で、というのも、おかしなタイミングだと思います」  話しているうちに、僕の考えはしだいに形を成してまとまっていく。  仏木の言葉に感じた違和感も、新しい推理に当てはめれば解決した。 「なぜ呼び出したのが俺なら納得がいくって言うんだ? 俺だって同じJBTの社員なんだぜ? いつだってチーフと話し合う場所は設《もう》けられた」 「果たしてそうでしょうか? 鞍馬君に聞いた話からすれば、森崎さんは相当手厳しいタイプの上司だったのではありませんか? 貴方が話したい事柄は、失礼ですが負け犬の遠吠え、泣き言に過ぎないと判断され、きちんとした話し合いの場所を設けてもらい、貴方が自分の言い分を認めてもらう機会はつくってもらえなかったのではありませんか?」 「大した想像だな」 「そうです。だから間違っていたらそれでいいと、僕は思っています」  本当に、この不安感が誤りなら、いっそ安心できるのにと思う。 「それで? 話し合いを拒否されていたんだとすりゃあ、なおのことチーフがノコノコとここまで呼び出されてやってくるはずないんじゃないのか?」 「いいえ。むしろ反対だったと思います」 「どうして?」 「笠井さんが、クルージングに合わせては危険な話し合いを避けただろうと思う理由の反対側で、貴方なら、話し合いの場所を強引に作ることができたのは、むしろこのクルージング中だったと思うからです」 「…………」 「僕は森崎さんとは面識がない。彼女の心の動きは想像でしかありませんが、性格を鑑《かんが》みれば、なんとたやすい想像かと思います」  本当に、そのときの彼女が目に浮かぶようだ。 「笠井さんから貴方が一般客にまぎれて乗船していると聞かされて、森崎さんはさぞや驚き、怒りを覚えたことでしょう。彼女は貴方という存在を、部署からはずしてまで突き放した当人です。貴方がなにをするつもりなのか、彼女がなにを心配したのか、あまりにも簡単に想像できませんか?」 「いったいなにを心配したって言うんだい」 「間違いなく、貴方がクルージングを頓挫させるように仕向けるだろうと心配したんだと思います」 「まさか」 「いいえ、だからこそ、彼女は危険な話し合いになるのを承知で、この場所まであの夜、あえて呼び出されたに違いありません。呼び出した内容も想像がつきますよ」 「脅したって言うのか、俺がチーフを」  仏木は苦笑を浮かべたつもりらしい。だがうつむいた表情は僕からは見えなくなった。 「……そこまでわかっているのに、どうしてアンタはいつまでもそこにいるんだい?」 「ッ!」  地の底から響くような昏《くら》い声が、突然仏木からぶつけられる。  僕だって馬鹿じゃない。六久路谷事件のときの教訓が生かされているはずだ。  充分に距離は取っていたから逃げられる。 「アウッ!」  そう思っていたのに飛びかかられてガウンの裾《すそ》を掴まれ、僕はあっけなくその場にすっ転んでしまった。 「イタタッ」 「馬鹿《ばか》な奴ッ、死ね……っ」  どす黒い殺意がスマートなプレイボーイだった仏木の顔つきまで変えている。  僕はのしかかられて暴れ、ガウンを脱ぎ捨てて脱皮するみたいに海パン一つで逃げ出した。 「待て……っ!」  そう言われて待つわけもない。  この場所は狭すぎる。階段に逃げなきゃというのはわかっているのだが、足もとは暗くておぼつかないし、なにより長身の仏木が邪魔だった。  仏木に殺すつもりがなかったとしても、ハイヒールを履いた女性が視界の悪いこの場所から、興奮して階段を降りようとしたら、確かに運悪く落下するという事態もあるだろう。 「誰か……っ!」  こうなったら誰か助けを呼ぶべきだと判断して声をあげた僕は、後ろから髪の毛を掴まれて引きずり倒された。  毛が抜けたらどうするんだと文句をつけてやりたくて、しかし命を奪われるかどうかの瀬戸際で、毛の百本や二百本、やむを得ないのか……。 「この……っ」  もはや殺し方を統一している場合ではないと考えたのか、仏木は僕の背中に乗っかってギリギリと首を絞めてきた。 「ウウッ」  ああ、もうっ。やっぱり教訓なんて生かされていない。  僕は情けなく反省しつつ、浮名の名前を必死で呼ぶ。  声は出なかったけど、きっと届く、そう信じていた。 「天音っ!」 「う……き……っ」  目の前がチカチカし始めるまで、長く感じたけど数秒だったに違いない。  首にまわった手がスルリと抜けた。 「天音っ!」  悲鳴が聞こえた。  バタバタという慌ただしく駆け去る音。追いすがる音。 「……浮名……」  抱き起こされて視界が開け、僕は狭い場所での捕り物を眺める。  歯噛みして呻《うめ》く仏木が私服刑事らしいガタイの大きな男たちに羽交《はが》い絞《じ》めに拘束《こうそく》されているのを見て、警察が乗り込んでいたのかとガックリきた。  だったら任せておけばよかった……。 「このバカッ!」  ぼんやりしていると頬がはたかれて、僕はギョッとする。 「……浮名?」 「人の寿命をなんだと思ってるんだ! もう絶対に一人で勝手はさせないからな!」  滑稽《こっけい》な言葉を真剣な表情でぶつける浮名の顔を見上げ、僕は唖然となり、すぐに笑い出した。  浮名の怒鳴《どな》り声が心地好《ここちよ》かった。  絶対に来てくれると信じていたから怖くなかったんだと、あとで怒りが冷めたころに言ってやろう。つい調子に乗って、ハンパ探偵を演じてしまったんだよと。  刑事たちが無線でやり取りしている。  暴れていた仏木は引っ張りあげられて、やがてガックリとおとなしくなった。  浮名に支えられて鉄階段を降りていくと、三人娘たちが泣きながら駆け寄ってくる。  梅川が言いつけた通り、鞍馬を連れてやってきた。  仏木が連行されるのを、麗羅が子供みたいな泣き顔で見送るのが視界に入って、僕は女心の不思議を想う。  彼女はおそらく、半ば以上仏木の犯行を疑っていたに違いない。  それでも告発できなかった理由が、愛情なのか、それとも後ろめたさなのか、たぶん僕たちが知らされることは永遠にないだろう。  華やかな天秤座号《スター・ライブラ》の殺人事件は、こうして幕を下ろした。   エピローグ  期待に満ち溢れ、見送られるときにはマーチングバンドが整列し、たくさんのテープが前途を約束した純白の豪華客船の航海は、航路途中で終わった。  真夏の太陽は眩《まぶ》しくて、出発の日となにも変わらないのに、ただ気持ちだけがおいてきぼりを食らったようだ。  天秤座号はゆっくりと、パトカーとマスコミでいっぱいの羽木島埠頭《うきしまふとう》に入っていく。 「どうしたの?」 「うん……」  隣に立つ浮名《うきな》は、僕と違ってすがすがしい表情だ。 「ちょっと、思い出して」 「事件のことなら、俺はもう考えたくないよ」  ため息をついた浮名は、本当にもう知らん顔をしている。  僕もそんな風に思えればいいのに、なかなかうまくいかない。  ──事件の概要を教えてくれたのは、笠井麗羅《かさいれいら》だった。  憔悴《しょうすい》し、化粧っ気もなく泣いた赤い目をした彼女は、男|勝《まさ》りの少女が悪戯《いたずら》をしでかしたあとのように頼りなく、自信に溢れていた最初の面影《おもかげ》はどこにもなかった。 「彼が金融機関に多大な借金をしていたことは、森崎《もりさき》にとっては許しがたい欠点だったんです」  日差しを浴びた窓辺で、麗羅は語り出した。 「でも個人の生活に口出しすればキリがないことを、チーフはよく知っていました。だから上司と相談して、チームからはずしたんです。でも彼は、チーフが自分をチームからはずしたのは、個人的な制裁行為だと信じて疑っていませんでした」 「……個人的なお付き合いがあったんですね?」 「はい」  つい一時間前のことだ。僕と浮名が麗羅から話を聞いたのは、あの明るいアイスクリーム・バーだった。  広い窓から見渡せる青い海が眩しくて、冷房が心地好《ここちよ》い場所は、太陽が明るいほど影が濃いことを教えてくれる。 「彼は男女の関係を結んだのは、たった一度のことだと言っていました。私もそう思います。仏木《ぶつぎ》はああいう男ですから、個人の付き合いが仕事にコネを作る近道だと信じていました。でもチーフはそういう人ではありません。付き合ってもなにも変わらないと知って、仏木からチーフと別れたんです。私がチームに入る前のことです」 「彼が貴女《あなた》と関係したのは、お仕事抜きではなかったんですか?」 「それはありません。だって私も、彼と関係したのは打算からでしたから」  歪《ゆが》んだ笑いをこぼし、麗羅は涙を拭う。 「本気で好きだった時期もあります。彼のドライな、物事を計算で考える姿勢は、子供だった私には新鮮でした。別れたのは、彼と付き合っていても仕事面でプラスになることはないと判断したからです。私が温めていた豪華客船ツアーの原案を固めたのは、経験値の高い仏木の功績です。それを奪ったのは、私です」 「レイラ」  目に見えて落胆した表情を浮かべた浮名が、悲しい声音で名前を呼んだ。 「それを正直に言って企画を立ち上げたとしても、君以外の手でこのクルーズが成り立つものではなかっただろうに」 「それでも私、カケラまで自分の手柄にしたかったんです」  麗羅は泣き濡れた瞳で浮名を見つめ返し、小さな声で言う。  恥ずかしいだろう、つらいだろうが、彼女の中で、真実を知っていた森崎徹子がいなくなってしまった以上、新たな懺悔室《ざんげしつ》が必要であるに違いなかった。  僕らは彼女の後ろめたさを消すための、懺悔を聞く神父《しんぷ》役というわけだ。  最初の事件の中身は、僕の大ざっぱな推理が正解していた。  航海中に船の問題を暴き立ててやると脅《おど》して森崎徹子を呼び出した仏木は、なんとかチームに復帰できるように頼み込んだが、これまで通りけんもほろろの扱いを受けた。  脅してもすかしても思い通りにならなかった森崎徹子は、金額を口にして仏木を追い払おうとしたらしい。  借金のある仏木はとりあえずそれで納得しかかったが、これで終わりだと思うなよという恫喝《どうかつ》を投げかけるのは忘れなかった。  振り向いた森崎徹子は怒り、戻りかけて階段を登ろうとして転倒した。  打ち所が悪く亡くなった彼女を見て、仏木は自分が犯人にされると直感したと言う。  もっとハッキリとした事故の形を取らなければならない。目撃者も要る。  彼は森崎徹子の遺体を隠し、キーカードを奪って水着などを用意した。  森崎徹子の部屋で自分の呼び出し状などを始末して、遺体を着替えさせ、スーツはドアの外に置いてクリーニングに出した。  同行者のマリコを酔い潰し、自分も酔い潰れた振りをして屋上に戻り、夜明けを待った彼は、タイミングを見計らって遺体を階段に放置した。  僕らが入っていたジャグジーの天蓋《てんがい》に落下してきたのは、計算ではなく本当に偶然だったらしい。  ハイヒールに関しては、彼は完全に失念していた。  森崎徹子の遺体を始末した彼は、遺体を眺めながら邪魔《じゃま》な同僚たちの殺害計画を思いつく。  実質的な損得の面からも、また個人的な恨みからも、最終的に殺したかった森崎徹子は死んだ。  彼が邪魔だったのは、自分の功績を奪い、次期チーフの候補として出世街道の真ん中を歩む麗羅《れいら》だった。  しかし森崎徹子が死んだ直後に麗羅が死ねば、本物の事故死を演出したせっかくの労も潰《つい》え、一連の殺人事件だと断定されてしまうだろう。  間にまったく無関係の人物を殺すことで、仏木は麗羅殺害計画を遂行しようと考えた。  そうして二人目の被害者、小塚千穂《こづかちほ》は、偶然によって選ばれ、殺されてしまったのである。  殺害自体は、酔っ払って単独だった彼女を待ち伏せし、意識を奪って階段から落とすだけでよかった。  息を確かめ、死ぬまで三回、階段から落としたそうである。  森崎徹子のときもそうだったが、小塚千穂の場合も、遺体をくわしく検死すれば、仏木の犯罪はすぐに判明しただろう。  この事件は航行中の船の中で起こったからこそ、事故にされる可能性があったにすぎない。  三人目の瀬尾伸介《せおしんすけ》は、笠井麗羅を狙っていた仏木が、安全確認していた彼と遭遇し、見咎《みとが》められて突き落としたために起こった。  仏木は麗羅を殺したかったのだが、気づかれた以上瀬尾も生かしてはおけなかったのである。  彼にとっては幸か不幸か、デッキにはほかにも人がいたにもかかわらず、目撃者は誰一人現れなかった。  同時刻、少し離れた場所にいた麗羅は、仏木の瀬尾殺害を直接は目撃しなかった。しかし現場を離れる仏木を見て、なにごとか不穏を感じたと言う。 「昨夜、仏木から私あてに届いた呼び出し状には、このままでは犯人にされかねないという彼の訴えが綴《つづ》られていました。だけど私は怖かった。今度は自分が殺されるんじゃないかと思って、呼び出しに応じるなんてありえませんでした」 「…………」  彼女はよくも悪くも、自分だけが大事な人なんだな。  浮名にもそれがわかったのだろう、最初のときみたいな慕《した》わしげなムードは、悲しいかな霧散してしまっていた。  身勝手な男と、身勝手な女。  犠牲になった人たちは、もう戻ってこない。  言い知れない苦さが、泣いている麗羅を見つめる僕らを包んだ。  それでもやっぱり、彼女が殺されなくてよかったと思った。  僕自身が殺されなくてよかったという思いと同じウエイトで──。 「あーあ」 「悪かったよ」  思わず出てしまった僕の不満げな声に、浮名が困った風に謝罪した。 「今度の旅行は俺が誘ったんだから、俺が悪かった」 「…………」  そういう不満は別になかったんだけど、一応責任は感じてくれているなら、それはそれでいいや。  僕はあえてなにも言わないことにして笑いながら彼に寄り添った。  たくさんの人がデッキに出ていたけど、みんな自分たちの思い出に夢中で、人のことなんか見ていない。 「今度は……」  今度は二人っきりになれる静かな場所に行きたいとリクエストしかけて、気が変わった。 「今度は警察がすぐに来てくれるところに連れていけ」 fin.