冬に来た依頼人 五條 瑛 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)臆面《おくめん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)色|褪《あ》せた [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)わたしの[#「わたしの」に傍点]CD ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/01_000.jpg)入る] 〈カバー〉 「夫を愛しているの」その依頼人は、昔愛した恋人だった。キャバクラの女とともに会社の金を持ち逃げした夫を捜してほしいという。なんという役回りだろう。そんな夫でも、臆面《おくめん》もなく「愛している」と繰り返す女に呆《あき》れつつ、わたしは問題のキャバクラに出かけた。だが、そこでわたしはキリエという名の、完璧な美少女に出会った……。新感覚ハードボイルド。 〈著者・五條《ごじょう》 瑛《あきら》〉 大学時代に安全保障問題を専攻。卒業後、防衛庁に就職して、情報・調査専門職に就《つ》き、主に極東の軍事情報および国内情報の分析を担当。退職後は、フリーライターとして活躍。一九九九年、本格スパイ小説『プラチナ・ビーズ』でデビュー、スケールの大きさと物語の展開・人物描写の巧《たく》みさで小説界に衝撃を与えた。他に続編『スリー・アゲーツ』がある。 カバーデザイン 中原達治 [#改ページ] 書下ろし ネオ・ハードボイルド 冬に来た依頼人 五條 瑛《あきら》 祥伝社文庫 [#地付き]祥伝社文庫創刊十五周年記念 特別書下ろし作品 [#改ページ]  冬に来た依頼人 [#ここから5字下げ] 両親と妹へ——。 世界の果てにいようとも、彼らの幸福を祈る。 [#ここで字下げ終わり] 第一章 [#ここから2字下げ]  ——グロリア・ジョーンズの最大の功績は、三十歳まで生きられないだろうと嘯《うそぶ》いていたマーク・ボランを本当に二十九歳であの世に送ったことだよ。  わたしはそう言った。  ——あなたって皮肉屋ね。  彼女はそう返した。  それが、わたしと彼女が一番最初に交《か》わした会話だ。そしてわたしたちは恋人になった。 [#ここで字下げ終わり]           1  成美《なるみ》に会うのは六年振りだった。  再会を夢見たことは一度もないと言えば嘘になるが、いまとなってはきれいに忘れてしまっていたくらいだ。本当だ。誓って言うが、強がりなどではない。そんなありふれた見栄《みえ》を張ってみせるほど子供ではないつもりだ。  それどころか、心の片隅では、いつまでも彼女を恋しがるような純粋な男でいたいという仄《ほの》かな願望すら抱いていた。どんなときでも別れた女に誠意を尽くせるような、そんな不器用な人間性を失わない。たとえるなら高倉健《たかくらけん》が映画の中で演じるような、そういう人間であり続けることは男のロマンだ。  だが、時間《とき》の流れは残酷でありながら、ときどき甘い餌《えさ》を放ってくる。生来移り気なわたしには、寺男のような暮らしはとても無理だった。世界の人口の男女比は女の方が高い。しかも、わたしだってときどきは女にもてたりする。つまり、男が一生のうちで出会える恋の数は、一つとは決まっていないということだ。  成美と別れた後、わたしは何人かの女と会い、それぞれと異なった種類の人間関係を築いた。困ったことにどの女も過去を忘れさせるに充分なほど魅力的で(もちろん外《はず》れもあったが)、わたしは一瞬一瞬を楽しんだ。その代償を払うかのように、一つ楽しみを得るたびに成美の記憶が一つ色|褪《あ》せた。どうやらわたしが運命だと思った女は運命でもなんでもなく、なにものにも代え難《がた》い愛だと信じた営《いとな》みも、振り返れば若き日の恋の一つでしかなかったらしい。  世界には絶望と同じだけの希望が満ちている(少なくとも、わたしはそう信じている)。健康で若い男性がたった一人の女の面影《おもかげ》だけを胸に、清廉潔白《せいれんけっぱく》に過ごすには、あまりに街は賑《にぎ》やかで、素敵な誘惑が多すぎるのだ。  ——言い訳だな。  わたしは思わず苦笑した。  成美とていまさらそんな言い訳を聞きに来たわけではあるまい。別れた相手が、自分が期待したほどこちらに未練がないのはよくあることだ。そしてその未練のなさは、たいてい女の方が上をいく。成美の最初の一言《ひとこと》が、それを見事に証明してみせた。 「主人を捜して欲しいの」  彼女は言った。  場所は三田《みた》にある古い喫茶店。十年前もわたしたちはここで向き合って会話をしていた。あのときは、いまよりもずっと楽しい会話だったはずだ。  この店は昔〈ロンドン・ボーイズ〉という名前だった。どちらかと言えば、東洋的な内装だったにもかかわらず、主《ママ》はこの名前にたいへんなこだわりを持っていて、何度指摘されても絶対に改めようとはしなかった。  まず、この名前が気に入った。T・REXの曲名と同じだ。それだけの理由で、わたしは大学時代の四年間、悪友たちとこの店に通《かよ》い詰めた。ほとんど毎日のように入り浸《びた》り、理想だけの政治論や映画評論などを無責任に垂《た》れ流し、天皇賞二連覇の四冠馬に熱中し、節操なく行きずりの女を口説《くど》いたりして若い季節を過ごしていた。カウンターの奥にはいつも脂《あぶら》が乗りきった感のある中年の——魅惑的ではあるが悪評も高い——ママがいて、ウエイターや常連客とのプライベートな噂《うわさ》には事欠かない。来るたびに新しい恋が生まれ、古い恋が壊れている。そんな徒《あだ》っぽい空気すら、店の商品の一つだった。  他の多くの客と同じように、わたしも彼女のファンだった。人生も男もセックスも何もかも知りつくしたような仕草で客をからかう年上の女は、当時のわたしには別世界の人間みたいに見えたものだ。彼女と話した後に成美と話すと、いつもひどく子供っぽく感じられた。それを素直に彼女に伝えると、必ず口を尖《とが》らせて拗《す》ねたものだ。それから決まって、「わたしだってあの歳《とし》になれば、あんなふうに色っぽくなるわよ」と負け惜しみを言った。  だが、成美の言葉は間違っていなかった。  目の前の彼女は、あのママとは違うが、それなりに擦《す》れた女の匂いを醸《かも》し出している。俗っぽい言葉で言えば、熟《う》れた女の魅力とでもなるのか——。歳月はわたしを変えたが、その何倍も成美を変えていた。 「ここ、お店が変わってしまったのね。ぜんぜん昔と雰囲気が違うから、探すのが大変だったわ」  まるでそれがわたしのせいだと言わんばかりだ。いきなり電話をしてきて、何も説明せず、とにかくここで待っているからとだけ告げて一方的に切ってしまったのは彼女の方ではないか。釈然としないまま、それでもわたしは逆らわなかった。女に逆らうほど愚かなことはない。  成美は店中をゆっくり見渡し、それから少し目を凝《こ》らし、変わった箇所を探すかのようにわたしを見ている。そんな顔をすると、目尻に数本の細かな皺《しわ》が浮かび、まるで知らない女のようだ。 「俺たちが知っている〈ロンドン・ボーイズ〉はもうないよ。名前が残っているだけだ。経営者が替わったんだ。ママは店を売って、田舎《いなか》に帰ったって聞いたよ。新しい店になってからここへ来るのは、俺も初めてだ」  こういうときに使うのにふさわしい言葉が見つからず、とりあえずわたしは事実だけを説明した。しかし、成美にとってはまったくどうでもいい話題だったらしい。 「ねえ、お願い。主人を捜してちょうだい」  唐突に、切羽《せっぱ》詰まった声で——しかし、お願いというにはあまりに高圧的な声で、彼女は言う。  女は現実的だ。六年も前に別れた男になど、挨拶《あいさつ》をするのも惜しいと思うらしい。いくらなんでもその言い種《ぐさ》はないだろうとわたしは思った。  ——もっと他の言葉はないのだろうか。 「久し振りだね」  三十秒の沈黙のあと、わたしはゆっくりとそう言った。わたしは大人《おとな》だ。挨拶くらいきちんとできる。 「主人がいなくなったのよ」  これも無視された。  ひょっとしたら成美は幼児化したのかもしれない。昔はもっと大人びていて、礼儀も作法も心得ていたはずだ。 「六年振りになるのかな」 「いきなり、何も言わずに消えたのよ」 「元気だったかい」 「主人はそんな人じゃないのに……」  まるで噛《か》み合っていない。  わたしは大きなため息を吐《つ》いた。仕事|柄《がら》こういう反応しかしない女は見慣れている。だが、いままで接したのはわたしとは縁もゆかりもない女ばかりで、たいていの場合は不遇な状況にある彼女たちが自分のことしか見えなくなっていたとしても、それは仕方ないことだと諦《あきら》めもついた。だが、知っている女の——それも、少なからずどころか多くをだ——この態度はいただけない。がっかりしてしまう。 「結婚したんだね」 「なに言ってるの。だから、さっきから言っているじゃない。主人が——」  そこで、成美ははっとしたように言葉を止めた。ようやく、自分がいかに無礼なことをしているのか理解したようだ。下唇を噛みしめ、すまなそうに目を伏《ふ》せてそっと俯《うつむ》く。  懐《なつ》かしい。これが、彼女の得意のポーズだった。斜め四十五度からの横顔に一番自信があるに違いない。気の廻《まわ》らなさを反省するようなふりをしながらも、抜け目なく自分の一番いい部分を見せつける。女のしたたかさはいくつになっても消えないどころか、歳を重ねるほど強くなる。六年も経《た》てば、わたしだってそのくらいのことは学習しているのだ。 「——ごめんなさい。気が動転してて」  成美はありふれた言い訳をした。 「いいんだ。ただ、物事には順序があることを分かってもらいたくてね」 「そうだったわ」  成美は頷《うなず》き、顔を上げてわたしを見た。そこには、わたしが知らない女が座っていた。           2  成美とは大学一年のときに知り合った。彼女は二つ年上で当時は三年生。サークルのコンパで出会い、意気投合して付き合い始めた。二年間の交際の後、四年近く同棲《どうせい》し、わたしが会社を辞《や》めたことがきっかけで別れた。  当時、周囲はわたしたちが結婚するものだとばかり信じていたし、わたしもこのまま同棲を続けていれば、遠からずそうなるのだろうと漠然と思っていた。だが、現実はいつも人の予想を裏切る。わたしは誰もが羨《うらや》んだ大手酒造メーカーを退社し、決まった相手とされていた女と別れた。前者は自分の意志だが、後者はわたしの意志というより成り行きだった。成美は成美で、どうやらいまはままならない現実に翻弄《ほんろう》されているようだし、世の中どうしたって四方八方円満というわけにはいかないようだ。世界にはロマンティックな話題が溢《あふ》れているが、いまのわたしたちには縁がないらしい。  それにしても、わたしが知っている成美は、去る者は追わず、だが来る者は選ぶという、非常に合理的ではっきりした女だった。まず一番に自分のことを考え、それから周囲の状況を見|極《きわ》めるという、いたって当たり前の判断ができた。  わたしは彼女のこういったドライな面が気に入っていた。女性的な未練や恨《うら》みとはかけ離れたさっぱりした性格に思えたし、実際そうだった。だから一緒に暮らしていて、とても楽だった。自分で言うのも変だが、わたしたちは良いカップルだったと思う。きっと良すぎて別れたのだろう。得てして不安定な男女関係ほど、蜜月と危機を繰《く》り返しながらも長続きすると相場が決まっている。  わたしは決して心の狭い男ではない——つもりだ。別れた女がどこで誰と結婚しようが、とやかく言うつもりはない。だが、別れた男を木製のオブジェのように扱うのはルール違反だ。わたしだって感情はある。なにか話し出そうとする成美をわたしは制した。 「いいかい。俺に仕事を依頼したいのなら、こんな場所にこそこそと呼び出すのではなくて、ちゃんと事務所に来てくれ。いまの職場にはいまの職場の|決まり事《ルール》があるんだ。君のためにそれを破るつもりはない。まず事務所で料金とシステムを説明することになっている。うちのやり方に君が納得できれば、正式に仕事を依頼するといい。詳《くわ》しい話を聞くのはそれからだ」  わたしははっきりとそう言い、テーブルの上に名刺を置いた。不服そうな成美を残して、伝票を持って立ち上がる。  彼女と同じくらい、わたしも過去にこだわっていないところを見せたかったのかもしれない。           3 「——で、引き受ける気か?」  檜林真吾《ひばやししんご》はテーブルの上に足を載《の》せ、テニス・ラケットのガットをいじっていた。脚《あし》の長さでも見せつけたいのだろうか。それとも、こんなヤクザな商売をしてはいるが、実は資産家のお坊っちゃんで、小遣いには不自由していないところをアピールしたいのか——。おそらく両方だ。だいたい、たかがテニスをするためだけに、わざわざ赤坂《あかさか》の会員制高級スポーツ・クラブに入会するような奴の考えなど、分かりたくもない。わたしは檜林の正面に座り、こいつをどうしてやろうかと考えた。  シャツはポール・スミス、ジーンズはゴルチエ、靴《くつ》はトニー・ラマの鰐革《わにがわ》。個々の趣味はいいのに、全部を合わせるとこの上なく悪趣味に見えるのはなぜだろう。わたしは彼を見るたびにいつも同じことを考える。もっとも本人はそうは思っていないようだ。  残念ながら、彼の自信には根拠があった。わたしが知るだけでも天は彼に四物は与えている。どこに出しても恥ずかしくない家柄、容姿、頭脳、健康。逆に与えなかったものは、忍耐と慈悲深さと節操と常識と……他にもまだあるはずだが、思い出せない。  わたしたちはともに浜松町《はままつちょう》の倉庫街の一角に事務所を構えていた。より具体的に説明するなら、部屋をシェアしていると言うべきか。二つの事務所は入り口こそ分かれているが、中に入ると一つだ。以前は倉庫として使われていた二百�ほどの広い部屋を、可動式|衝立《ついたて》とアコーディオン・カーテンで仕切って共有していた。周辺は静かで、広い窓からは竹芝桟橋《たけしばさんばし》が一望できる。勤める者にとっては最高にいい環境だが、駅からは遠く、たいていの客は不便な場所にあると文句を言う。  檜林海運がオーナーであるこのビルには、倉庫の他に美術ギャラリーと広末《ひろすえ》法律事務所が入っている。名前から察しがつく通り、檜林はオーナーの縁者だ。そして広末法律事務所の経営者である広末弁護士は、檜林の元[#「元」に傍点]姉|婿《むこ》に当たる。なぜ元かと言うと、二人は五年前に離婚したからだ。この法律事務所のサポート業務を担当しているのが、わたしがいる(わたしだけしかいないという言い方もできる)桜庭《さくらば》調査事務所と檜林と他に三人のスタッフがいるオフィス・檜林である。  ともに資金を出しているのは広末だ。  二つの事務所は、まったく対極の立場にあると言っていい。わたしは、いわゆる失踪者の調査が専門、逆に檜林は連れ出し[#「連れ出し」に傍点]を専門としている。わたしは依頼を受けて人を捜し出し、結果を依頼人へ報告するのが仕事だが、檜林は正当な理由があって逃避を希望する人間の依頼を受け、それを実行するのが仕事だ。二つのクライアントがバッティングすると少々やっかいなことになるが、そのときはそのときということにしておこう(実際、そういうことは何度かあった)。  近ごろは夫や息子の|家 庭 内 暴 力《ドメスティック・バイオレンス》に悩む人妻や老いた夫婦、ストーカーにつきまとわれている女子大生など、止《や》むに止まれぬ理由があって現生活からの逃避を願う者は決して少なくない。おかげでオフィス・檜林は怪《あや》しげな坊っちゃん社長の経営にもかかわらず繁盛《はんじょう》している。  つまり、広末は商売がうまいということだ。  旧知の友に借金を押しつけて失踪した男を捜している中小企業の経営者も、ヒモ男の暴力から解放されたいという風俗嬢も、両方を自分の顧客として確保するためのシステムをちゃんと作り上げている。おかげでわたしたちは自分たちが逃げ出したくなるくらい酷使されていたが、ともにまっとうな会社員生活が性《しょう》に合わなかった身だけに、それなりに満足していた。 「引き受けるも受けないも、彼女が客としてここに来ればそうせざるを得ないだろう。ビジネスだ。断わる理由はない」  わたしはテーブルの上に載っていた檜林の脚を雑誌で払った。渋々《しぶしぶ》、脚がテーブルから降りる。 「だが、乗り気ではないってわけか」  ガットをいじりながら、檜林は面白くてたまらないという顔をしていた。いかがわしげな笑みを浮かべつつ、額《ひたい》の中央から分けた髪をかき上げる仕草は、どう見てもホストか女衒《ぜげん》にしか見えない。 「誰だってそうだろう。別れた女の亭主捜しなんて、楽しい仕事のはずがない」  わたしはコーヒーを啜《すす》りながら呟《つぶや》いた。檜林のスタッフは全員出払っているようで、部屋にはわたしたちしかいない。ビル全体にスチームが入っているおかげで、広い室内は汗ばむほど暖かい。 「しかし、結局は引き受けるんだろうな。なんて意志が弱いんだ。お前は女の頼みを断わるってことを知らない気の毒な男だ。これも、もてない男の性分かな」  芝居の台本を読むような言い方だった。こいつはかなり多くサディストの、そしてわたしはわずかだがマゾヒストの嗜好《しこう》がある。だから喧嘩《けんか》にならずにすんでいるのだろう。すべてはわたしの心の広さがなせる技だ。 「なんとでも言ってくれ」  黙って引き下がるのもしゃくだ。たまには檜林のレベルに合わせてやることにした。「お前に群がる女たちが、全員お前の魅力にのぼせていると思わない方がいいぞ。彼女たちは、お前以上に�檜林�の名前《ブランド》が好きなんだ」  わたしは酷な真実を告げてやったが、敵は動じなかった。 「もてない男の僻《ひが》みだな」  唇を歪《ゆが》め、にやりと笑う。そういう笑い方をすると本当に素人《しろうと》には見えない。どう見ても善人とはほど遠い顔なのに、なぜか女たちはこの笑みに弱く、危険な香りがするとか、野性的で素敵とか、まったくもって理解不可能な非科学的感想を並べたてるのだ。 「俺はもてないわけじゃない。愛情以外で女を釣《つ》らないだけだ」  本当は愛情以外に女を釣る餌がない、というのが正しい。檜林はくっくと声を押し殺して笑っている。 「——持たざる者よ。汝《なんじ》の名は貧しき庶民なり」  厳《おごそ》かな声で、逆に真実を告げ返されてしまった。そう、わたしはしがない庶民。そして、彼は王子さまだ。銀の匙《さじ》をくわえて生まれてきた奴と張り合う気はない。勝負は見えている。 「俺の仕事にいちいち口を出すな」 「口を出しているわけじゃない。六年振りに会った女に面倒を押しつけられそうなバカを嘲《あざ》笑っているだけだ」  そう言いながら本当に嘲笑うとは、まったく失礼な男だ。 「俺は仕事に私情を持ち込まないんだ」 「口では何とでも言える。それとも案外、後ろめたかったのかな?」 「バカ言うな」  わたしは居直った。「俺は男女同権主義だ。だから、別れた責任は両方にあると思っている。俺だけが悪かったわけじゃない」  とうとう檜林は腹を抱えて笑い出した。 「笑うな」  わたしは命令した。どう考えても、こいつにわたしを笑う資格があるとは思えない。 「野暮《やぼ》な仕事だな」  檜林はさっきまで脚が載っていたテーブルの上に今度は身を乗り出し、嫌味《いやみ》たっぷりに囁《ささや》いた。「だが、お前には似合ってるぜ」           4  もしわたしが若い娘なら、ガーベラの花でも買ってきて、来る来ない来る来ないと一枚ずつむしっていたいような、そんな心細い心境だった。どちらかと言えば来て欲しくない気持ちの方が強いのだが、そういう願いはたいてい裏切られる。待ち人は来ず、待ってはいない人に限ってやって来る。  翌日、成美はわざわざ浜松町まで来て、檜林ビルの玄関をくぐった。 「分かり難《にく》い場所ね」  事務所に入ってくるなり彼女は文句を言った。「それに、なにここ。隣の事務所と繋《つな》がっているの? 変なところね」  言い方に若干《じゃっかん》の差はあるが、ここまでは他の客とあまり変わらない。 「場所が分かり難いのは、客を少なくするためだ。事務所が繋がっているのは、経費節減のため」  わたしは淡々と答えた。  彼女は昔からはっきりものを言う方だった。歯の浮くような世辞は言わず、その場の雰囲気を読み取って適当に相手に調子を合わせ、心にもないことを言うこともない。かつてわたしが好感を持った彼女の美点の一つ、それが、いまはわたしを不愉快にする。  ——来る来ない来た来てしまった。  心の中ではまだいい加減な花占いが続いている。わたしは椅子《いす》から立ち上がり、檜林とうちの領域《テリトリー》の境となるアコーディオン・カーテンを閉めた。開《あ》けっ放しにしていると誰がやってくるか分からない。隣のオフィスの連中は揃《そろ》いも揃って好奇心が強いうえに、呆《あき》れるほど不作法なのだ。 「こんな状態で商売になるの?」  事務所の中を見渡しながら、成美が訊いた。わたしの調査事務所には秘書も電話番もいない。いないが、困ったことはない。 「いまのところなっている」  わたしは答えた。それから、わたしの領地の中央にある応接セットを指さし、座るように勧《すす》めた。 「あなたらしいわね」  成美は衿《えり》に毛皮の付いた薄茶色のコートを脱ぎ、それを自分の横に置いてソファーに座った。 「昔からマイペースだったものね」 「俺の性格分析はいい」  わたしは言った。「まず、うちのシステムを説明する。最後まで聞いて、それからよく考えてくれ」  マニュアル通りにパンフレットを取り出し、料金と仕事の内容を説明する。成美は最後まで黙って聞いていた。 「これがうちのシステムだ。——依頼されますか?」  やや業務的な口調でわたしが訊く。 「ええ」  はっきりと成美は言った。  大きなため息を吐き、弱々しく肩を落としながら、俯いて自慢の横顔をわたしに見せる。やがて囁くような声が続いた。 「——あの人が、いなくなったの」  わたしが出勤したときは晴れていたのに、いつの間にか外は雨が降り始めていた。同じ雨でも夏の雨は青く、冬の雨は灰色に見える。そんなことを考えているのはわたしだけだろうか。青い雨は成美との楽しかった時間を、そして灰色の雨は苦しかった時間を思い起こさせる。夏に始まって冬に終わった恋——安っぽい小説のようだが、当人たちにとっては決して安っぽくはない。少なくともわたしはまだそんなふうには考えられない。だが、成美の方はどうだろう。  わたしは常時セットされている業務用コーヒー・メーカーからコーヒーを取り分け、成美の元に運んだ。うちではコーヒーは紙コップに注《つ》ぎ、プラスティックのカップ・ホルダーに入れて所長|自《みずか》らが運ぶことになっているが、隣では陶器のカップ&ソーサーのセットを使用し、秘書が運ぶことになっている。  テーブルにカップを置き、成美の正面に座る。わたしは置きっ放しになっていた煙草《たばこ》に手を伸ばした。 「吸わないでくれる?」  間髪《かんはつ》入れず、成美が注文を出した。「うちの主人は煙草を吸わないから、わたしも好きじゃないの」  昔はそんなことはなかった。わたしは学生時代から喫煙者で、成美もそれを知っていた。彼女自身は吸わなかったが、それでも煙草が嫌いだなんて、一緒に暮らしている間だって一度も聞いたことはなかった。わたしは伸ばした手を引っ込めた。  雨が窓を叩《たた》いている。なぜか自分が叩かれているような気がしてしかたがない。 「——ご主人がいなくなったって、どういうことかな。できれば、俺にも分かるように説明してくれ」  わたしは不機嫌だった。声にもそれが表われていたはずだが、成美は気付いていないのか、それともそんなことはどうでもいいのか、まったく無反応だ。膝《ひざ》の上で両手を組み、彼女は記憶を探る。 「五カ月前のことよ。まだ暑かったころ——彼は朝起きて、食事をして、いつも通りに出勤したわ。玄関で手を振って、笑いながら今夜は早く帰れると思うよってそう言ったの。でも、それっきり。夕食の支度《したく》をして待っていたのに、彼は戻って来なかった。連絡もないまま、翌朝になっても帰って来ない。翌日は会社は休みだったから、電話しても誰も出ないし——」 「会社には行ってみた?」 「ええ。でも、主人はいなかった」 「捜索願いを出したのはいつ?」 「月曜日になって、彼が出勤していないのを確認してからよ。それまでに実家や友達の家に電話をして訊《たず》ねたけれど、主人はどこにも連絡していなかった」 「警察はどの程度まで調査をしてくれた?」 「会社だけよ」 「つまり、会社に行っただけでことは片づいたってことだな」  成美は話を中断し、カップを持ち上げた。だが、飲むわけでもなく手の中でそれを弄《もてあそ》んでいる。次の一言が言い辛《づら》いに違いない。 「——それで?」  わたしは先を促《うなが》した。だいたいのことは想像がつく。彼女がここへ来たということは、夫の失踪に関してある種の心当たりがあるということだ。 「あの人、どうやら会社のお金を持ち逃げしたみたいなの。彼の同僚の柴田《しばた》さんは、最初は言葉を濁《にご》していたんだけど、ことがことだけに正直に言いますからって断わってから、愛人がいたことを教えてくれたわ。クラブのホステスですって。念のために刑事さんがその店まで行って確認をしたわ。そのホステスは彼がいなくなった日から、店を無断欠勤しているの。刑事さんは、主人は愛人と一緒になるために会社の金を持ち逃げしたんだろうって……。それで警察の捜査は終わりよ」  なんともはや、わたしは言葉を失った。成美には申し訳ないが、ここを訪ねる女に一番多いパターンだ。 「……ってことは、横領だ。彼はいま手配されているのかな?」  成美はカップを置き、首を左右に振った。結局口すら付けていない。 「お金は主人の実家が立て替えたわ。このくらいのことで、あの人の将来をダメにしたくないからって。お金さえ戻ってくればいい、ことを荒立てる気はないと言って会社はお金を受け取ってくれて、表|沙汰《ざた》にはならなかった」  何を基準に�このくらいのこと�と判断するかは人それぞれだ。わたしには大変な犯罪のように思えるが、成美とその周辺の人間にはそうでもないらしい。 「金額は?」 「五百万よ」  なるほど、少し分かった。五百万は決して安い額ではないが、家族が調達できないような法外な金額でもない。億単位の横領も珍しくない時代だ。会社も身内も、その程度の額なら出来心の範疇《はんちゅう》だと判断したのだろう。成美の亭主は恵まれている。しかし、その恵まれているはずの男が、なぜ五百万という中途半端な金額を横領したのだろうか。金を工面する手立てならいくらでもありそうなものだ。 「家族に内緒で消費者金融に借金があったとか?」 「いいえ。どこからも取り立てはないし、そんな痕跡もなかったわ。そうした事情があったなら、まず貯金を崩すはずよ」 「君の手元に金は残っているんだね?」 「ええ」 「その話を聞いた限りでは、何も問題はない気がするんだが」  わたしは遠慮がちに、だが正直に意見を述べた。成美はすっと顔を上げ、これまで見たことがないようなきつい目でわたしを睨《にら》み付けた。 「確かに世間|体《てい》は取り繕《つくろ》えたわよ。でも、肝心《かんじん》の主人の行方《ゆくえ》が分からないの。警察も会社も、誰も真剣に調べてくれないのよ。実家、親戚、友達、同僚……全部問い合わせたけど、主人はどこにも連絡をしていないの。カードを持っているはずだけど、お金を引き出した形跡もない。ここへ来る前に、銀座《ぎんざ》にある有名な興信所にも足を運んだわ。だけど、しばらくして報告書が届いて、ご主人の行方は見当がつきません、ってそれっきりよ。調査を担当してくれた人は感じのいい人だったけど、でも『ご主人のことは早く忘れた方がいい』なんて言うの」  当然だろう。  本来なら犯罪者となるべきところを、たまたま幸運な偶然が重なり、首の皮一枚で繋がっただけだ。会社の金を盗んで、妻を捨て愛人と逃げた男がいまさらのこのこ出てきてなにになる。静かに忘れてやるのが一番だ。  わたしは仕事柄そういう人間を多く見てきた。犯罪の大きさに関係なく、一度道を踏み外してしまった者が立ち直ることは難《むずか》しい。特に、誰に訊いても「あいつは普通のサラリーマンだったんだ」と言われる人間ほど、その傾向は強い。経験から推察すると、成美の亭主はこのパターンのようだ。 「まず訊いておきたいんだが、君はご主人を捜し出してどうする気なんだ? 詰め寄って責任を取らせたいのか?」  成美はわたしから目を逸《そ》らし窓を見た。雨はますます強くなっている。今夜は冷えそうだ。  わたしはできるだけ事務的に会話を進めようと決心した。おそらく、それが一番相手を傷つけずにすむ。調査員が残された者へ同情するのは、一見当たり前のようでいて、実は一番愚かで危険なことなのだ。 「事情が事情だ。無理にご主人を捜し出さなくても、離婚はできるだろう。要は君の考え一つなんだ。ずっと専業主婦をしていたのなら、離婚によって生活は苦しくなるかもしれない。だけど非があるのはご主人の方なんだし、向こうの実家とよく話し合えば当面の生活費くらい、なんとかしてくれるんじゃないかな。もちろん、君が直接交渉する必要はない。この上に、広末法律事務所というのがあって、そこの弁護士は腕|利《き》きだ。きっとすぐに解決してくれ——」 「そんなこと望んでいないわ! わたしは——ただ、あの人を見つけたいのよ!」  成美が怒鳴《どな》った。  驚いた。こんな彼女を見るのは初めてだ。わたしと別れるときでさえ、彼女はこんなふうに怒鳴ったりはしなかった。  身体に蓄積されたあらゆる感情を一気に絞り出したような声だ。視線は鋭く、もはや斜め四十五度の横顔などどうでもよくなったように、正面からわたしを見据えて瞬《まばた》きすらしない。  全身に衝撃が走った。認めたくはないが、おそらくそれは敗北感と呼ばれるものに類似しているのではないだろうか。わたしはコーヒーを飲み、少なからず動揺した心を落ち着かせようとした。 「なあ、成美。俺が言うことをよく聞いてくれ。俺はいままで君のような女を大勢見てきた。もし君が、ご主人ともう一度やり直したいと思っているなら、じっと待つことだ。いま連れ戻したところで、また逃げるに決まっている。特に他の女が絡《から》んでいる場合はそうだ。ご主人は一時的に浮気の相手にのぼせ上がってバカなことをしてしまったが、やがて彼女に飽きるだろう。そして頭が冷えて、良き妻だった君を思い出し、自分のしたことを後悔し始める。それまで待つんだ。こういう場合、金が底をつき、相手の女とうまくいかなくなれば必ず妻に連絡してくる。やり直すのは、それからでも遅くないだろう」  目下のところ、これが一番率直で親切なアドバイスだ。しかし、成美は納得していなかった。彼女の表情から、哀願と怒りの真ん中あたりで激しく気持ちが揺れているのが分かる。 「わたしは彼と話し合いがしたいんじゃないのよ! 夫が……自分の夫が、突然なにも言わずに失踪したのよ! 捜したい、今頃どこでどうしてるんだろう。心配で仕方ない。とにかく会いたい……。そう思うのが自然でしょう。その気持ちに理由なんかないわ。わたしは責任を取らせたいんじゃない。ただ、あの人を見つけたいだけなの。——誰でもいい。あの人を見つけて欲しいのよ!」  誰でもよくてわたしのところへ来たわけか。思いやりの欠片《かけら》もない言葉だ。かつて、わたしがよく知っていた、冷静で合理的で明快な女はどこにもいなかった。目の前に座っているのは、失った愛にしがみつこうとしている、誰よりも女らしい——他《ひ》の男《と》の女だ。           5  わたしたちはどうして別れてしまったのだろうか。もう長いことそれについて考えたことがなかった。しかし、降りしきる雨の音と目の前の女のやるせなさが、わたしにそれを思い起こさせた。たぶん、わたしが若すぎたせいだ。そして、成美はわたしよりもほんのちょっと大人で、現実的だった。  彼女はわたしよりも二年早く社会に出た。彼女が製薬会社のOLをしているとき、わたしはまだ大学生活の後半を楽しんでいた。同棲を始めたのは、確か大学三年の春頃だ。ままごとのような生活には責任も将来もなく、ただ楽しいばかりだった。  いつからだろうか。成美は将来という言葉を口にするようになり、わたしはそれを無意識に避けて通るようになった。ままごとを現実に変えたい彼女と、ままごとはままごとのままでそっとしておきたいわたしとの間で溝《みぞ》は深まり、心は次第にすれ違うようになっていく。破局が決定的になったのは、わたしが退職を決めたことを成美に打ち明けたときだ。わたしは、いわゆる一流と呼ばれる企業への就職に成功した幸運な人間だったが、仕事も組織も退屈かつ陰湿で、すぐに飽きた。  成美はわたしの就職をまるで自分のことのように喜び、同時に退職についても自分のこと以上に反対し、なぜそんな大事なことを相談もせずに一人で決めてしまうのかとわたしを責めた。わたしにはそれが理解できなかった。  生活費はこれまで通り折半《せっぱん》する。わたしが、どこでその金を稼《かせ》いでこようと彼女には関係ないではないか……。そう思い、それをはっきりと口にした。成美はそれっきり貝のように口を閉ざしていたが、ある日|忽然《こつぜん》と部屋から消えた。別れに気付いたときには部屋に彼女の荷物はまったくなくなっていた。わたしの退職問題は、いつの間にかこれまでの二人の関係の清算という問題に入れ替わっていき——こう表現するのもどうかと思うが——話はとんとん拍子《びょうし》にまとまってしまったのだ。男女の関係を構築し、良好のまま維持するのは大変だが、その逆はほんの一瞬だとわたしは学んだ。  子供だったわたしは、ずっと気付かなかったのだ。成美がごく普通の結婚、ごく普通の主婦の暮らしを望んでいたことを。結局彼女は最後までそれを口にすることはなかったが。  いま目の前にいる女を見て、わたしは長年不思議だったことがようやく腑《ふ》に落ちた気がした。そんな当然のことすら察してやれなかったわたしはバカだったのだろうが、それをはっきり要求しなかった彼女も卑怯《ひきょう》だ。つまり、やはり別れたのはお互いに原因があったからで、結果だけ見ればわたしたちは共に運命の相手ではなかったということだろう。  驚いたことに成美は涙ぐんでいた。 「犯罪でなければ警察は熱心に動いてくれないの。これは駆け落ちみたいなものだから、司法が介入することじゃないと言って……。興信所の人もこれといった手懸《てが》かりはありませんって、そればっかりよ。主人の実家もわたしの両親も、これ以上調査を続けるのは無駄《むだ》だから止めた方がいいと言うの。できる限りのことはしてやるから……離婚をした方がいいって……。みんな、あなたと同じことしか言わないわ」  当然だ。この状況で他にどんなことが言える? 誰もが冷静に、そして最良の道を示しているのに、成美だけがそれに耳を貸さないのだろう。つい、わたしの口から大きなため息が漏《も》れた。こういう女を納得させる手立ては一つしかない。辛い現実を目の前に広げて見せてやることだ。 「俺がいまはこういう仕事をしているって、よく知っていたな」  成美の目に、わずかだが安堵《あんど》の色が浮かんだ。彼女はわたしの昔の遊び仲間の名前を挙《あ》げて、彼から聞いたと答えた。それから有無《うむ》を言わさない力強さで念を押した。 「主人を捜してくれるわよね?」  断わる理由が見つからなかった。           6 「ワン、ツー、スリー……」  人が仕事に専念しようとしているのに、檜林が横から子供じみた茶々を入れる。 「なにを数えているんだ」  わたしはマクドナルドの新メニューとやらを胃に流し込みながら、成美が置いていった書類を広げ、ことのあらましを頭に叩き込んでいた。書類は成美が依頼した興信所の報告書だ。調査員の欄には「岡崎《おかざき》」という判子《はんこ》が押してある。 「テンカウントさ。彼女が帰ってから鏡を見たか? 見事にノックアウトを食らいましたって顔してるぜ」  当たらずと言えども遠からず。こいつは変なところで勘がいい。檜林は境界線のカーテンを開け、自分の事務所にある彼のオーディオ・セットにわたしの[#「わたしの」に傍点]CDを入れた。わたしが愛して止まない若きカリスマの声が流れてくる。 「T・REXは止《よ》せ」  わたしはすぐに抗議した。想い出が多すぎる。 「なぜ?」 「気分じゃない」 「いまさら繊細《せんさい》な男を気取っても無駄だぞ」  ハンバーガーをぶつけてやろうかとも思ったが止めておいた。いまはそんなことをして遊んでいる暇はない。 「とにかくそのCDだけは止めろ」 「——で、何が問題なんだ?」  自分の陣地の応接セットにどっかと座り(彼のところの応接セットは、わたしのところの三倍以上の値だ)、偉そうに檜林が訊いてくる。 「問題はない。あるとしたら、彼女の気持ちだけだ。会社の金をくすねて愛人と逃げた最低の男に、それでもまだ彼女は未練がある。いや、未練を通り越して執着と言うべきかもな」 「ある特定の相手に対する未練や執着——それを称して�愛�と呼ぶ。お前、知っていたか?」  いちいち痛いところを突く奴だ。 「うるさい。黙って最後まで聞け。要するに彼女の気持ちはいっこうに萎《な》えず、俺を含めた誰もが、失踪した夫を捜し出すことが彼女のためになるとは思っていないにもかかわらず、夫を見つけ出すことですべての問題が解決すると信じている。極めつけは、彼女は他人の説得に耳を貸さない頑固《がんこ》なところがあり、しかも意志が強く、簡単に物事を諦めない」 「その頑固さで、泣いてすがるお前を振り切ったわけだな」 「なんとでも言え」  檜林はソファーに座った状態でわたしに背を向け、二人の共有物であるCDラックを物色している。やがてモーニング娘が流れてきた。 「それも止めろ」  再びわたしは抗議した。言っておくが、モーニング娘はわたしのコレクションではない。「うちの事務所には、モーニング娘禁止令が出ているんだ」 「うちの事務所には出ていない」 「いいから止めろ」  わたしの猛烈な抗議に負け、再々度彼が選んだのはクイーンのアルバムだった。ようやくわたしは心が落ち着いた。これなら許容範囲だ。やっと心静かに報告書が読める。  成美が持参した報告書はよくまとまってはいたが味もそっけも無い代物《しろもの》で、微妙な点で彼女の話との差違が認められた。どちらが真実なのか、判断するのは難しいが、たぶんどちらも間違ってはいないのだろう。物事というのは、それを捉《とら》える人間の立場によって大きく変わる。一人の人間の人物評価が、それを下した人間によっていくつにも分かれるのは、むしろ自然のことだ。  柿沢浩一《かきぎわこういち》と広瀬《ひろせ》成美は見合い結婚だった。見合いをしたのはいまから約六年ほど前。驚いたことに、息も絶《た》え絶えとはいえまだわたしと暮らしていたときに、彼女はすでに他の男と見合いをしていたのだ。わたしはいまさらながら、女の変わり身の早さと自分の鈍《にぶ》さを再認識した。これでわたしばかりが責められるのは、どう考えても割に合わない。  浩一は成美より九歳年上。ということは、わたしとは十一歳も離れている。ますますもって、当時の成美が何を考えていたのか謎だ。とにかく、それからすぐに成美は同棲相手と別れ(わたしのことだ!)、二人は順調に交際を続け、一年半後にお決まりの手順を経《へ》て結婚をした。  二人の結婚には、双方の親の意志が大きく働いていたらしい。家同士が望んだ結婚とはいえ、成美はそれだけのことで一生の大事を決意するような殊勝な娘でもなかったはずだから、浩一に対してそれなりの愛情もあったのだろう。檜林の言う通り、浩一に対する執着は愛以外の何物にも見えない。  成美の話では、今回の浩一の不祥事について四人の年老いた親たちはそれぞれ心を痛めているそうだ。特に浩一の両親は、激しい誹謗《ひぼう》の矢面《やおもて》に立たされながら最後まで夫を庇《かば》おうとした嫁にいたく感激し、それ以上に同情した。だからこそ息子の無謀な行為に呆れはて、潔《いさぎよ》く離婚を薦《すす》めているらしい。慰謝料についてはそれ相応のものを用意するからと言われながらも、頑《がん》として首を縦《たて》に振らない成美の強情さも大したものだ。それとも妻の意地というやつなのか。  浩一は大学を卒業してから大手証券会社の常磐《ときわ》証券に就職した。部署は営業部。しかし、あまり有能な社員ではなかったらしい。成美の弁を借りるなら、 「正直すぎて、人を騙《だま》すような仕事には向かなかったの。客の損失を承知の上で、無理をさせるようなことはできない人なのよ」だそうだ。だが、会社の人事関係者の見方は少し違う。  優柔不断《ゆうじゅうふだん》で即決力に欠ける。理想主義に走る傾向があり、非現実的な一面がときどき表に出る。営業に不向き——そう評定され、二年前の人事異動で、完全な左遷《させん》人事と囁かれる部署に異動した。そこで仕事への情熱を失ったのだろうと上司は分析している。 「——違うわ」  この報告書を読みながらいくつか質問をしたとき、成美はきっぱりと否定した。 「営業から外れたとき、あの人はほっとしてたのよ。常磐証券は表向きは老舗《しにせ》優良企業ってことになっているけど、お金を扱う仕事できれいな商売をしているところなんてあるわけがないわ。個人の成績争いは激しいし、陰《かげ》ではみんな何をしてるか分からないような状態なの。でも、あの人はみんなと同じようなことができなくて、長いことずっと苦しんでいた。あんな詐欺《さぎ》まがいの仕事は自分には向かない、僕は出世できないタイプだなって——いつもそう言っていたのよ。むしろそれを誇りにしてた。だから、営業を外れたことで仕事への意欲を失ったなんて、そんなのは絶対に嘘よ」  わたしは口を挟《はさ》まなかった。  たとえそれが妻の前での強がりであったとしても(きっとそうだ)、とりあえず会社での立場の悪さを正直に配偶者に打ち明ける程度の風通しの良さは、二人の間にあったのだ。成美はそんな夫を理解していたようだし、浩一が家庭の金には手を付けずに消えたという点からも、妻の存在を完全に失念していたとは思い難い。そうなるとますます失踪の原因は、成美にというより愛人の方にあったという気がしてくる。  浩一は多忙な営業から外れたことで、時間をもてあますことになった。どうやらそのころから、歌舞伎町《かぶきちょう》のキャバクラに通うようになり、そこのホステスで通称�エミー�こと本名、木田江美《きだえみ》との交際が始まったらしい。  報告書にはこの辺《あた》りの事情に関する詳細がなかった。正直に、それを立証する証人はおらず、あくまでも状況からの推測だと付記してある。なかなか良心的な報告書だ。この際、いつ始まったかは大きな問題ではなく、続いていたかどうかが重要だと判断したのだろう。  五カ月前の金曜日、顧客へ渡すはずの現金五百万円を持ったまま、浩一は忽然と姿を消した。ホステス仲間の証言では、その日の夕方、浩一は店に電話をしてエミーを呼び出している。そして、それっきり彼女も行方不明だ。このころにはすでに浩一とエミーの仲は公然の秘密だったと会社の同僚は証言している。そんな状況から、二人は一緒に逃げたのだろうと判断された。ざっと報告書を読んだあと、わたしは成美にさらに追い打ちをかけるような質問をした。 「実際のところ、ご主人との仲はどうだったんだ。正直に答えてくれ。彼の態度が冷たくなったり急に外泊が増えたとか、それとなく別れ話を仄《ほの》めかされたとか、そんなことはなかったのか?」 「そんなことは一度もないわ。家庭はうまくいっていた。わたしはそう信じているわ」 「ここに登場する木田江美って女のことは知っていたのかい」  成美はしばらく黙っていたが、やがて窓の外を眺めながら唇を動かした。 「——ほんの出来心よ」  またもわたしは驚いた。  ずいぶんできた女房ではないか。こんなに話の分かる女だったかと、つい考え込んだが答えは出てこなかった。これが六年という歳月の力なのかもしれない。いや、歳月だけではない。昔から女を変えるのは男と相場が決まっている。わたしの知らない男が、時間をかけてゆっくりと彼女を変えてしまったのだろう。成美はなるべくわたしと視線を絡ませないようにするかのように、窓の外ばかり見ている。 「雨、なかなか止まないわね」という低い呟きの向こうにすら、九歳年上の男の影が見え隠れするようだ。  しばらくして成美は事務所を出ていったが、去り際《ぎわ》の言葉が、またもわたしの胸に深く突き刺さった。 「お願い早く見つけ出して。あの人、すごく優しい人なの。——本当に優しい人なのよ」  まるでわたしは優しくなかったと言われているようだった。  いきなり目の前で檜林が両手を叩いた。 「おい、自分の世界に浸《ひた》るなよ」  わたしははっとして、現実に戻った。「ソースが落ちてるぞ」  そう言われて慌《あわ》てて手元を見ると、ハンバーガーから茶褐色のソースがとろりと流れ出てテーブルの上に溜《た》まっている。急いでティッシュをむしり、汚れを拭《ふ》き取る。 「フレディの声に聴き惚《ほ》れてた」  下手《へた》な嘘だ。  檜林は『エスクワイヤ』の今月号を持ち、わたしの正面に座っている。わざとらしく本を広げ、その脇からわずかに顔を覗《のぞ》かせた。 「惚れ過ぎるとロクなことはないぞ」  いかにも思わせ振りにそう囁く。 「——そうだな」  不本意ながらわたしは頷いた。成美は浩一に惚れ過ぎているのかもしれない。こんな仕打ちに遭《あ》いながらも、ついぞ彼女の口から夫への恨《うら》み言《ごと》は出なかった。 「どうやら、彼女は本気で夫を愛しているようだ」  問題は、それがこの件にどんな影響を与えているかだ。 「素晴らしい。今日の調査結果はそれだけか?」  本の向こうで気障《きざ》な声がする。 「ああ、残念ながらな」  わたしは素直に敗北を認めた。 「俺の経験から貴重なアドバイスをしてやろう。いいか、愛が絡んだ仕事ほどやっかいなものはない」  檜林に言われるまでもなく、わたしの経験も同じことを告げていた。 [#改ページ] 第二章 [#ここから2字下げ]  ——あなたは自分のことしか考えない。わたしも自分のことしか考えられない。わたしたちは二人のことを一緒に考えられない。  彼女はそう言った。  ——それがそんなに悪いことか? 自分のことを考えられない人間に他人のことなんか考えられるものか。  わたしは反論したが、意味はなかった。  愛と正論は相容《あいい》れない。そのときはまだ分からなかった。 [#ここで字下げ終わり]           1 「——オン・ザ・ロック。それとエミーって娘《こ》を呼んでくれないかな。可愛い娘だって聞いたから見に来たんだ」  わたしは軽快な口調でバーテンに語りかけた。歌舞伎町にあるクラブ、〈ナイトダンサー〉は、どちらかと言えば格式よりも実入りを重んじるタイプの店のようだ。もっとも、歌舞伎町に格を重んじる店など、あっても商売にはなるまい。ここは女の幻想ではなく、現実を売る街だ。当然集まってくる男もそれを期待する。  バーテンはカウンターの上にグラスを置き、それから申し訳なさそうに声を落とした。 「すみません、お客さん。エミーは辞《や》めちゃったんですよ」  失踪したと言わないところがいい。わたしはほんの少し身を乗り出し、立ち去ろうとするバーテンを呼び止めた。中指と人差し指の間に畳《たた》んだお札《さつ》を二枚|挟《はさ》み、これみよがしにそれをちらつかせる。バーテンはわたしとお札を交互に眺めていたが、やがて低い声で訊いた。 「追加のご注文は何ですか?」 「エミーと一緒に逃げた男を捜している。彼女についてもちょっと訊きたいことがあるんだ。一番正確に答えられそうな娘をここに呼んで欲しい」 「——警察ですか?」  警戒心が籠《こ》もった目でこちらを見ている。 「いや、法律事務所だ。奥さんが離婚の申し立てを希望しているんで、彼女に有利な証拠を集めている。こんな事態になったからには慰謝料くらいがっぽり取りたいのさ」  わたしは適当に話をでっち上げたが、これが一番説得力があるという自信があった。思った通り、バーテンの表情が弛《ゆる》んだ。素早くお札を抜き取り、ぼそっと呟《つぶや》く。 「まったく、柿沢さんって人も面倒ばかり起こす人ですよ」 「まったくだな」  相槌《あいづち》を打ちながら店を見回す。お世辞にも上品とは言い難《がた》いが、女の平均年齢は高くなさそうだ。いまどき若い女と外国人のホステスは珍しくもなんともないが、プロポーションのいい女ばかりを揃《そろ》えているところは評価できる。こういう店では誰も女の顔など見ていない。  スパンコールをちりばめたキャミソールと短いスカート、高いヒール、濡《ぬ》れたような唇、薄暗い照明を反射するイミテーションの宝石たち。全部|紛《まが》い物だと分かっていながら、男はつい目を奪われる。寒い屋外から店に足を踏み入れれば、そこは偽《いつわ》りのパラダイスだ。 「キリエ、ちょっと来てくれ」  バーテンが店の奥に向かって呼びかけた。 「はーい」  間延《まの》びした返事とともに、こんがりと日焼けした娘が奥から出てきた。すらりと細い体型、とりわけ目を引くのは、日本人であることを放棄したとしか思えないような長い脚《あし》だ。厚底のブーツのせいで、それがますます強調されている。薄茶色の長い髪は、色とりどりの無数のピンとリボンで、前衛芸術家が造ったオブジェのように飾られていた。その髪自体も、あちこちワンポイントで赤や青や紫色に染めてある。着ているのはひまわりを連想させる真っ黄色のワンピース。まるで、世界中の色を集めてきたかのようなカラフルな娘だった。 「キリエ、こっちのお客さんを頼むよ」  バーテンは低い声で言った。キリエと呼ばれた娘はまたしても間延びした返事をし、わたしに向かって軽く頭を下げた。濃い化粧をしていたが、どう見ても未成年にしか見えない。野暮《やぼ》を言う気はないが、この若さと容姿なら、こんな場末《ばすえ》でなくとももう少しマシな仕事があるのではないかと、ついよけいなことまで考える。  奥のテーブルでは、サラリーマンの一団が南米系のホステスを膝《ひざ》に乗せて騒いでいた。その隣では、訛《なま》った日本語を話すアジア系の女が客と抱き合っている。つまり——ここはそういう店なのだ。  成美から聞いた柿沢浩一の人間像とこの店があまりに合わず、わたしは妙な気分だった。多くの人間は、外では聖人君子を気取っていても家に帰ればボロが出るものだ。それが普通だ。女だって、外で切れ者を演じている男が、家庭に帰れば緊張を解《と》き、自分だけには思わぬ素顔をさらしたりするから愛情も深まるのだろう(さらしすぎて破局の原因になることもままあるが)。成美が嘘を言っているとは思えないが、なにかズレているのは確かだ。浩一はこの店の女と逃げた。成美はそれを�出来心�の一言《ひとこと》で済ませようとしている。 「いらっしゃい」  キリエは明るい声で言うと、隣に腰を下ろした。近くで見ると隠した歳《とし》がばれてしまう女は多いが、彼女に限ってはまったく逆だ。近づけば近づくほど、ごまかしきれない若さが滲《にじ》み出る。それでいて身体は完全に成熟しているのだから始末が悪い。  街は誘惑が多い——まさに実感させられる。 「キリエです。よろしく。前に会ったことあったっけ?」  彼女にはちょっと目を凝《こ》らして人を見る癖があるようだ。大きな目と人工の睫《まつげ》を動かし、わたしの顔を見つめながら記憶の引き出しを探っている。 「初めてだよ」  わたしは助け船を出した。 「——やっぱりね。あたし、物覚えはいい方なんだ。一度見たお客さんは忘れないから、初めてだろうなって思った。どうして指名してくれたの。あたし、店の外のボードに写真は出してないはずだけど……」  柔らかな羽《はね》でくすぐられているような、そんな甘ったるい声を出す。いまどきの若い娘がみんなやっているバービー人形みたいな安っぽくて派手な化粧も服も仕草も、彼女にはよく似合う。完璧に造り上げられたマネキンのような娘、ありふれた流行の女神——。  だが、それがどうしたと言うんだ。わたしは、常に個性的であることにしか美を見出《みいだ》せないような頭の堅い人間ではない。 「なにか飲む?」  そう訊いた後で、ひょっとしたらこれは違法かもしれないなと考えた。はたして、化粧の下の彼女はアルコールを摂取《せっしゅ》していい年齢なのだろうか。 「じゃ、あたしも同じものちょうだい」  なんの躊躇《ちゅうちょ》もなく、キリエは言った。わたしは、彼女に歳を訊《たず》ねるような野暮はしなかった。どうせ二十《はたち》過ぎだと答えるに決まっている。ここへは営業妨害に来たわけではない。  カウンターの上に置かれた彼女の手の爪《つめ》を見る。絵本の中の魔女のように黒くて、凶器になるほど長い。おそらく人工ネイルだろう。わたしはその爪をじっと見た。爪に絵が描いてある。 「——暗天の星」  つい呟きが漏《も》れる。キリエの薬指に描かれた座標のような形には見覚えがあった。「射手《いて》座だね」  キリエがわたしを見て微笑《ほほえ》んだ。まったく感情が籠もっていないマニュアル通りの笑顔ではないか。わたしはこんなに冷たく笑える女を初めて見た。機械のような横顔、血の通っていないサイボーグのような身体つき、そしてこの若さで早くも身についている無慈悲なポーカーフェイス——正直に言おう。わたしはこの瞬間、彼女が気に入った。  人間的すぎる人間に振り回される日々が続くと、こういう機械のような娘が新鮮に思えるようになる。ひょっとしたら、本当に機械かもしれない。彼女の身体は温かいのだろうか。血は赤いのだろうか。 「お客さん、星に詳《くわ》しいんだね」  キリエは両手を広げ、自分の手を見ている。 「そんなことはない。よければ爪に射手座を描く理由を教えてくれないか」 「理由なんかないよ」  付け入る隙《すき》を与えない見事な回答だった。  カウンターの上に酒のグラスが並ぶ。キリエはそれを一口飲み、「ボトルを入れてよ」と言った。わたしは自分がすべきことをちゃんと分かっている人間が好きだ。世の中には自分のすべきことを分かっていない人間が多すぎる。 「いいよ。君が俺の質問に答えてくれたら、入れよう」 「——質問って?」 「以前、ここにエミーって女がいたはずだ」 「うん、いたよ」  キリエはまったく動じない。まるでその質問を予期していたかのようだ。 「彼女と一緒に逃げた男を捜しているんだ。なにか知らないかな」  わたしはずっと彼女の爪を見ていた。この狭い場所にどうやって描いたのかと思うくらい、小さな星がたくさん描いてある。自分で描いたのだろうか。だとしたら、そうとう手先が器用だ。それともどこかのネイルサロンで? どういうわけか、彼女にまつわるつまらないことばかりが気にかかる。 「お客さん、柿沢さんの会社の人?」 「違うよ」 「——じゃあ警察?」  つい笑いが漏れた。言うことはみな同じだ。 「それはもっと違うな。法律事務所の者だ。名前は桜庭《さくらば》。実は柿沢さんの奥さんが離婚を望んでいるので、彼の居場所を知りたいんだ。ご主人が見つからないと離婚も楽じゃないんだよ」 「へえ、そうなの。離婚はしたことがないから分からないな」  淡々としたものだった。この若さで物事に動じないというのはすごい。離婚は未経験だとしても、他にいったい何を経験したのか訊いてみたいものだ。  人生は長さが問題ではなく内容が大切だということは知っている。わたしのカリスマは二十九歳で死んだが、その人生はどんな星座よりも輝いていただろう。それと同じように、女も付き合った数ではなく、付き合いの深さが問題なのだ。だが、世の中はそんなに単純明快ではない。浅さを承知で付き合いたいと思うときもあるし、そう思わせてくれる女は貴重だ。 「その気になれば、離婚なんていつでもできる。君の若さで、あまり人生を急がない方がいい。ところで君はエミーと親しかったの?」 「エミさんは先輩。この店もエミさんの紹介で来たの。エミさんは優しいから好きだな」  彼女の言葉にはほとんど意味がなかった。子供が思い付きを並べただけのようなやり取り。ひょっとしたら、意味がないと思える言葉の中にも大切なものが潜《ひそ》んでいるかもしれない。わたしはそれを見極《みきわ》めようと努力したが無駄《むだ》だった。このズレをジェネレーション・ギャップの一言で片づけるのは簡単だ。しかし年齢には関係なく、おそらく彼女とわたしは、DNAの色から違うのだろう。それに若さという謎が拍車をかける。  わたしは若い娘を無理矢理、理解しようとは思わない。わたしに彼女が理解できないように、彼女もわたしが理解できない。それでいい。 「彼女、失踪する前に君になにか相談をした?」  キリエは首を横に振った。 「相談なんかないよ。桜庭さんの他にも何人も柿沢さんを捜しに来た。特に会社の人はしつこくて、何度も何度も来たな。あたし、そのたびに同じことを言ってるような気がする。今度のことはホントになにも知らないよ。あの日、エミさんは柿沢さんからの電話を取ったあと、『ちょっと出かけてくるわね』って言って、ドレスの上にコート羽織《はお》っただけで、ふらっと出て行ったんだよ。まさかそのまま彼氏と消えちゃうなんて思ってもみなかったけど……。エミさん、たまに頭が飛ぶから、そういうのもありかなってね」  キリエはにっこりと微笑んだ。まるで意味のない空虚な笑い。血の通っていない素敵な人形が人間のふりをしている。 「正直なところを聞かせて欲しいんだけど、柿沢さんはそんなにエミーに夢中だったのかい?」  キリエはムラなく灼《や》けた両腕をカウンターに突き、考え込むふりをした。もちろんただのふりだ。彼女に考える気がまったくないことは、分かっていた。 「そうね、柿沢さんはエミさんを一番|贔屓《ひいき》にしていたけど、でも全部マジってわけじゃなかったかもね。半分マジ。真剣だったけど、半分だけ。だって柿沢さんって、いつもいっぱいいっぱいの人だったもの。それに奥さんがいたし」  キリエの言葉は暗号だ。それはともかく、浩一は既婚者であることを隠して遊ぶような男ではなかったらしい。そこまで浅はかでなかったことはせめてもの救いだが、その慎重さが行動に反映されなかったのは残念だ。  浩一は成美のことを、この娘やエミーにどんなふうに話していたのだろうか。物分かりがいい良妻とでも吹聴《ふいちょう》していたのだろうか。 「柿沢さんは、奥さんのことをどう言っていた? 別れたいとか言っていたのを聞いたことある?」 「あたしはないな。いつも誉《ほ》めてたよ。いい女と結婚したって。自分はダメな男だけど、奥さんはそうじゃないって」  それならなぜこんなことをするんだと言ってやりたい。この男の優柔不断《ゆうじゅうふだん》のせいで、わたしは考えなくてもいいことまで考えているのだ。 「エミさんの方はどうだったんだ? 彼が好きだった?」  キリエはわずかに首を傾《かし》げ、グラスを持ち上げた。 「エミさんはまじめな人だよ。いつだって、好きな男と付き合うときは真剣ってタイプ。でも、真剣だけど深刻にはならない人よ。だから、いつもあたしは男に捨てられちゃうのって笑ってた。いろいろあったから、どこかで男なんて信用してないところもあるわって言ってたこともあった。柿沢さんとのことは真剣だって話してくれた。でも、深刻じゃないんだって。好きになってもどうにもならない人だから」  彼女の言葉は水と変わらない。なんの引っかかりもなく流れていきそうで、思わずどこかで堰《せ》き止めたくなる。 「エミさんはいまの暮らしから抜け出したがっていたかい?」 「知らない」  あっさりとしたものだった。分からないではなく知らないと答えるところに彼女らしさがある。そんなこと自分では考えない、知っているか知らないかだけがすべてなのだろう。0か1でしか反応しないデジタルな彼女は、わたしの理解の域を越えているからこそ輝いて見える。キリエは人生に疲れ始めた大人《おとな》にはないものばかりを持っているようだ。 「二人は愛人関係だったんだね?」 「みんなそう言うから、そうなんじゃない?」 「分かった。君にはもっと率直に訊ねた方がよさそうだな」  わたしは酒を飲み勢いをつけた。「二人の間に肉体関係はあった?」 「うん」 「頻繁《ひんぱん》に?」 「ううん」 「どのくらいの割合?」 「数えるくらい。そうエミさんは言ったよ」 「二人はずっと一緒にいたがっていたかい。たとえば結婚したいとか、二人で暮らしたいとか話してなかった?」 「あたしは聞いたことない。他の人に聞いてみたら?」  なんとも不思議な気分だった。一緒にしりとりをしないかと誘ったら、いきなり彼女が「ミカン」と言ってしまったような、そんな状況に似ている。次はなにを訊こうかと考えていると、思わぬことが起きた。 「ねえ」  キリエの方から呼びかけたのだ。 「なんだい」 「どうでもいいことなんだけど、今度は桜庭さんが柿沢さんの代わりをするの?」 「柿沢さんの代わりと言っても、誰にでもそう簡単にはできないだろ」  わたしは適当に返事をした。つまり、わたしが柿沢の代わりに彼女を贔屓にしてくれるのかと訊かれたとばかり思ったのだ。だが、一瞬、キリエのポーカーフェイスは崩れ、その下から不安そうな子供の顔が覗《のぞ》いた。その表情が新鮮で、そしてやけに印象的で、わたしはつい目を奪われた。  キリエはまじまじとわたしの顔を見つめていたが、やがて自分の中で合点《がてん》がいったように小さく唸《うな》った。 「そっか。桜庭さんって、ホントに会社の人じゃないんだね」  キリエはそう言った。 「どういう意味だい」 「ずっと会社の人がしつこく来てたの。だから、嘘|吐《つ》いてまた来たのかと思っただけ」 「会社の人はそんなに頻繁に来たのかい?」 「うん。最初のうちは毎日くらい。二週間は続けて来たね。そのうち、なにか思い出したり、柿沢さんについて情報が入ったら教えてくれって、念を押して帰ったよ」  ただ社員の身を案じてのこととは思えない。浩一が横領した金は全額返済されたはずだ。それなのに、なぜ常磐証券は彼にこだわるのだろうか。  答えは一つしかない。連中は金ではなく、浩一本人に用事があるのだ。 「連中はなにを訊きに来たんだ?」 「柿沢さんの居場所。だけど、店の人間は誰も知らないよ。エミさんは、お喋《しゃべ》りじゃなかったもの。——ねえ、そろそろボトルを入れてよ」 「ああ、そうだな。ジム・ビームにしてくれ」  彼女は立ち上がった。すぐにボトル、グラス、氷、それに簡単なつまみを持ってきた。仕事ぶりは悪くなさそうだし、客あしらいもうまい。わたしはボトルに名前を書き、キリエに渡した。  わたしたちはしばらく一緒に飲んだ。彼女はホステスらしい話題をそつなく並べ、わたしは内容は聞き流し、心地《ここち》よい甘い声だけを楽しんだ。セキセイインコのような色とりどりの髪、夜の空を凝縮したような爪——キリエは空想の中で生きている。よくできた3Dポリゴンみたいな女の子は、コントローラーを持つ客が右に動かせば右へ行く。左へ動かせば左へだ。この世界に、本当の彼女を知る者はいるのだろうか。 「その絵は自分で描いたの?」  わたしの質問に、彼女はそうだよと頷《うなず》く。 「器用だな」 「簡単よ。今度描いてあげようか」 「遠慮するよ」  意味のない短いセンテンスの繰《く》り返しだ。 「——また来る?」  唐突にキリエが訊いた。ホステスの常套句《じょうとうく》。意味などない。 「どうかな」  わたしは答えた。 「おいでよ」  さりげない口調だった。そのさりげなさがいい。意味などないと知っていながら、わたしはこういう誘いに弱い。 「また来なよ。——ねっ?」  約束はしなかった。だが、ひょっとしたら自分でも気付かぬうちに頷いていたかもしれない。           2  成美が最初に夫の消息調査を依頼したのは、都内に数カ所の支所を抱える大手の興信所だ。創始者が元警察官、役員にも警察OBが多く、そのコネを最大限に活《い》かして調査活動を行なっているともっぱらの評判だ。  わたしのボスに当たる広末弁護士とも繋《つな》がりがあるようで、彼の名を出すと、受付の女性はすぐに担当者に替わってくれた。わたしは岡崎という調査官に、翌日のアポイントメントを取った。  出勤前にまず銀座のデパートの地下で手土産《てみやげ》の菓子を買い、それから事務所を訪ねた。  目の前に座っているのが、浩一の事件を担当した岡崎だ。定年後の再就職ということで、すでに老人といって差し支《つか》えない年齢だが、まだまだ元気そうだ。この年齢で調査員歴は四年、しかし眼光鋭く会話の端々《はしばし》に独特の臭いがあることから、わたしは元警察関係者と睨《にら》んだ。訊ねてみると、やはり元警官という答えが返ってきた。警察出身の調査員の中には、退職後も桜田門《さくらだもん》風を吹かせる厭《いや》な奴が多いのだが、岡崎はそういう人間ではなかった。むしろできるだけ民間企業に馴染《なじ》もうとしているようで、真摯《しんし》な対応に好感が持てる。そのうえ、几帳面な性分らしい。  細かな字がびっしりつまった手帳を広げ、一つ一つ質問に答えてくれた。 「柿沢浩一が持って逃げた五百万円というのは、どういう性格のものだったんですか?」  わたしはいきなり、一番の疑問を口にした。 「しょっぱなからそうきましたか。実は報告書の内容について他言するのは禁じられていましてね。所長がいるとなにかとうるさいんですが……幸い今日は地方へ出張してるんです。わざわざここまでいらして、あなたも手ぶらでは帰れないでしょうからね」  岡崎はそう言って笑った。  前職も含め、かなりの場数を踏んだであろう調査員には、同業者が同じヤマに首を突っ込んでくることを不愉快に思う者も多い。しかし、岡崎の表情からそうした縄張り意識は読み取れない。よほど懐《ふところ》の深い人間なのか、それともこの件は早く余所《よそ》へやってしまいたいと思っているかのどちらかだ。わたしは後者と睨んだ。決して彼の人間性を否定するわけではないが、人間誰しもそうたやすく無償の優しさを振り撒《ま》いてくれるものではない。好意の裏にはなにかある——それを疑うのもまたわたしの仕事だ。 「会社側の説明ですと、得意先から株の売買のために預かったものだということです。柿沢はそれを返しに行く途中だったとか……。まあ、信用問題にかかわりますし、そこら辺のややこしい事情は言わないんですよ。金は全部返ってきたわけですし、こちらも根ほり葉ほり訊ねる理由もない」 「その話、岡崎さんは信用しておられるんですか?」  わたしは率直に訊ねた。岡崎はやや間《ま》を置くと慎重に切り出した。 「あなたが、柿沢浩一の消息よりもそっちの調査でいらしたんなら、ちょっと大変だと思いますよ。こう言ってはなんですが、法的な力がなにもない我々の出る幕ではないと——」 「そうですか」  裏に何があるのか、さっぱり予想がつかなかったが、とりあえず分かったような相槌を打っておく。少なくとも、岡崎はわたしがなにも知らないとは思っていない。「もうちょっとなんとかなりませんかね?」 「うーん、相手が相手だしねえ」  奥歯にものが挟まったような岡崎の話しっぷりに対し、急《せ》かすようなことはしない。急げばこちらのボロが出る。  わたしはポケットから煙草《たばこ》を出して、岡崎に勧《すす》めた。こういう場合に備えて、煙草を二つ持っている。一つは国産の低ニコチンの安い大衆|銘柄《めいがら》、もう一つはフランス製の高級銘柄。もちろん出すのはフランス製の方だ。強い煙草だが、それだけ効《き》き目もある。愛好家にはたまらない芳香と味なのだ。岡崎は煙草を受け取り、珍しそうに眺めていた。わたしはすかさず火を差し出す。会話を促《うなが》す絶妙のタイミングだ。 「やあ、どうも。最近は嫌煙者の権利がやたらと強力でしてね。うちの事務所でも依頼人の許可がない限り、喫煙は御法度《ごはっと》なんですよ。わたしのようなヘビー・スモーカーにとっては、他人の許可がないとちょっと一服すらできないというのは、なかなか辛《つら》いもんですね。そちらから勧めてもらえるとほっとしますよ」  思った通り、岡崎は最初の一服を実に旨《うま》そうに吸った。 「ほんの好奇心ですから……」  追い打ちをかけるようにわたしは囁く。「どうこうできるとは思っていませんが、とりあえず知っておきたいんです」  岡崎は小さく頷いた。 「あの会社は、松村《まつむら》興業と付き合いがあるんですよ。それもかなり深く」 「元ヤクザとですか。総会屋に使っているんですか」 「ええ。知る人ぞ知る——なんですがね。なんでもあの三八《さんぱち》抗争で死んだ先代のころからの付き合いだって言うんだから、かなりの腐《くさ》れ縁《えん》でしょう。どうやら柿沢は、左遷《させん》されてからそことの連絡役というか、もっと簡単に言うと使い走りをやらされていたみたいですよ」  わたしが岡崎の前に灰皿を置くと、彼は「どうも」と言い、話を続けた。これではどちらが客かよく分からないが、わたしにとってはこの状況の方が、遠慮の必要がなくていい。 「そうなると当然、大きな声では言えないような金の流れがあっても不思議じゃない。わたしは、例の五百万円もそこへ運ぶ途中じゃなかったのかと睨んでいたんですよ。本来なら横領罪で訴えるはずのところを、会社は金を回収するとあっさり不問に付している。客商売だけに体面を気にしたという見方もできますが、それ以上に警察の介入を嫌った。警察に柿沢を捜させるような真似《まね》をしたくなかったんじゃないかと。まあ、これはわたしの勘で、証拠はありませんがね」  岡崎は自分の考えを自嘲《じちょう》気味に披露《ひろう》したが、そこには長年積み上げられた経験を賭けた、絶対と言っていいほどの自信が潜んでいた。柿沢は左遷されてから会社の黒子《くろこ》役に回っていた。考えようによっては彼が嫌っていた詐欺《さぎ》まがいの仕事よりさらに汚い仕事に手を染めていた可能性がある。 「あの女についてはどうです。木田江美は本当に柿沢の愛人というだけの理由で一緒に消えたんですかね」 「そこはわたしも悩んだところなんですよ」  岡崎は首を傾げた。「とりあえず、柿沢の失踪は駆け落ちってことでカタはついたんですが——と言うか、つけるしかなかったんですがね——いろいろ納得できない点もあるんです。これは調べれば分かることなんでさっさと白状してしまいますが、あのキャバクラは松村興業の息がかかった店なんですよ。事実上の経営者は松村興業です。柿沢があの店に出入りし始めたのは、左遷されてからですよ。その後は、いきなりマメに顔を出すようになっている。いままでもそういう遊びをしていた人間ならいざ知らず、極端過ぎやしませんか? しかも、奥さんの話では家にはきちんきちんと金を入れていたという。一般的に、横領の動機の一番に上がるのは借金ですが、柿沢にはそれもありません。実家も五百万円をすぐに調達できるくらい裕福だ」  成美の話では、浩一の実家はかつては町田《まちだ》市で農業を営《いとな》んでいたが、いまはその土地で駐車場や賃貸マンションを経営しているという。資産家であることは間違いない。 「彼は自腹を切って遊んでいたわけじゃないってことですね」 「ええ。おそらくそうでしょう。だとすれば、ますます、柿沢が自分の意志であの店に出入りしていたとは思いがたい」 「——つまり、あそこが松村興業との連絡場所だった」  岡崎は否定も肯定もせず、ふわりと煙草の煙を吐きだした。これ以上は答えないという意思表示だ。わたしは質問を変えた。 「木田江美についてもう少し情報はありませんか」  岡崎の口元が少し緩《ゆる》んだ。 「わたしは前の職場で、女の評判ほど当てにならないものはないから信じるなって、よく言われましたよ」 「わたしもこの商売に入ってから同じことを言われました」  それを聞き、岡崎は腹を抱えて笑った。 「職場での評判は悪くなかったですよ。あそこでは年長組で、成績はそう良くもないんですが、若い女たちのまとめ役みたいな存在だったらしい。どの女に訊いても、悪く言う者はいませんでした。気は好い女なんでしょう。とは言っても、歳もそこそこ食っていますし、裏世界の水も長く飲んでいる。うぶな窓際会社員など片手で扱えたんじゃないかな」 「松村興業の方は二人を捜しているんですか?」 「それはないようです。連中は会社から金さえ入れば、それを運ぶのが誰であっても構わないわけだし、あの女にも未練はないようです。対応も淡々としたものでしたよ。興味がないと言った方がいいかな」 「常磐証券の方はどうですか」 「わたしが聞いた限りでは、金も戻ってきたし、今回のことは不問に付すと」  しかし表向きの答弁とは裏腹に、会社はしつこく浩一の行方を追っている。 「いよいよただの駆け落ちですか」 「そうなるでしょうね。言葉にすれば陳腐なものだが、しかし、四十過ぎたうだつの上がらない会社員の男にとっては、思いつきだったとしても重大な決心だった筈《はず》ですよ。奥さんには気の毒だが、他に言いようがないし、やはり駆け落ちってことで落ちつくんでしょう。関係者にとっては、それが一番円満なんですよ」  わたしは成美に同情した。浩一が駆け落ちであってくれればいいと、彼女を除く人間のほとんどが思っているのだ。それにしても、わたしは岡崎の話から、いくつかの新たな疑問を抱《いだ》いた。誰がその答えを持っているのか、それが問題だ。 「わたしは独身なんでお訊ねしたいんですが、女房のいる男が、本気で愛しているわけではないプロの女と駆け落ちするってのは、どんな気分のときなんでしょうね?」 「いきなり難《むずか》しいことを訊くねえ……」  苦《にが》笑いしながら椅子《いす》にもたれ、岡崎は煙草を灰皿の上に置いた。「理由はいろいろでしょう。しかし、きっと死ぬほど辛くって現実から逃げたいときがそうじゃないかな。男ってのは馬鹿ですからね……。つい、そんな行動に出てしまうこともあるでしょう。こればっかりはどうにもできませんよ。——そうだ、よければこれを持って行くといいですよ。何かのお役に立つかもしれませんから」  岡崎は机の上に数枚のコピー用紙を置いた。 「これは?」 「奥さんへの報告書には載《の》せませんでしたが、わたしが調べた会社の内部調査書です。柿沢と同じ部署だった連中の名簿もあります。失踪事件ではなく金の件について調べておられるのなら、そこの名前の下に線が引いてある連中を当たるといいですよ。どこまで追えるかは分かりませんけどね」  わたしは岡崎に礼を言い、席を立った。           3  柴田|三郎《さぶろう》はとにかく太い男だった。身体も太いが、おそらく神経の太さはその倍以上だろう。午前中にふらりと会社から出て来て、それからは喫茶店、映画館、ゲームセンターをはしごして半日以上を非生産活動に費《つい》やした。夕方になってようやく接待にでも行くのかと思ったら、今度は女と新大久保《しんおおくぼ》にあるラブホテルにしけこんでお楽しみだ。これで給料が貰《もら》えるなら、こんな楽な商売はあるまい。世の中どこか間違っている。  柴田と連れ添ってホテルに入っていった女の顔には見覚えがあった。先日〈ナイトダンサー〉にいた南米系のホステスだ。柴田と彼女とのコミュニケーションは何語で行なわれるのだろう——ふとわたしはどうでもいいことを考えたが、すぐに思い直した。言葉を必要としない人間関係もある。仮に会話ができなくとも、柴田がすぐに出てくるということはまずあるまい。二人がホテルに入ったのを確認してから、わたしはオフィス・檜林《ひばやし》に電話を入れた。  柴田は浩一の元同僚だ。ともに、総務部の中に新規に設置された資料課という、閑職の巣に籍を置いていた。この男も〈ナイトダンサー〉の常連だ。岡崎から貰った資料には、柴田の名前の下に黒々と線が引かれていた。  わたしはホテルのはす向かいで、電柱の横に置かれた不燃物用ポリバケツに座って煙草を吸っていたが、三十分ほどして、目の前にメタリックブルーのトライアンフが止まった。一目で分かる檜林の車だ。こんな場所に外車で乗りつけるような奴は、ロクな人間じゃない。わたしはうんざりしながら助手席に乗り込んだ。 「もうちょっと地味な車で来い」 「俺の美意識が許さない」  バカにつける薬がないのと同様にナルシストにつける薬もない。 「〈ナイトダンサー〉について教えてくれ」 「その前に、うちの事務所のスタッフを使うなら使用料を払えよ」 「これからそうしよう。ところで、所長を使うのは無料なんだな」  わたしは訊ねた。できればわがままな所長よりも従順なスタッフの方が使い勝手がいいのだが、この際|贅沢《ぜいたく》も言っていられない。オフィス・檜林のスタッフはみんな働き者だ。おかげで所長だけが暇を持て余し、臭い匂いを嗅《か》ぎつけると嬉々《きき》として飛んで来るのだ。  車は細い路地を出て一番近くの有料駐車場に入った。わたしたちはそこに車を残し、歩いてホテルまで戻る。 「あそこは風営法で挙《あ》げられたことはないのか?」  冬の日は短い。まだ夕方の六時前だというのに、辺《あた》りはすっかり暗くなっていた。 「前の店が挙げられたが、その直後に名前と経営者を変えていまの店がオープンした。もちろん、警察の目をごまかすための上辺《うわべ》だけの処置だ。経営者が変わっても金の流れは同じ。最後に行き着くところは、お前もよく知っている[#「よく知っている」に傍点]松村興業」 「少し知っている[#「少し知っている」に傍点]——だ。常磐証券との関係は?」 「常磐証券が接待と称して頻繁にあそこを使っているのは確かだ。かなりの額の金を店に落としている。おそらく持ちつ持たれつの関係なんだろう。それともう一つ。常磐証券は、今年になって総会屋を巡《めぐ》る悪い噂《うわさ》に悩まされている。誰かが、歌舞伎町のキャバクラで総会屋と証券マンが仲良く飲んでいたことをリークしたんだ。兜町《かぶとちょう》周辺でほんの一時期噂になったが、すぐに立ち消えた。うちのスタッフが調べてきたところでは、噂の出所は常磐内部だ」 「素晴らしい」  わたしは口笛を吹いた。所長がロクでもないぶん、スタッフは優秀だ。すぐ近くに悪い手本があるというのもたまにはいいかもしれない。それにしても、企業の裏側なんてどこも一緒だ。かつてわたしが勤務していた会社もそうだった。メディアに垂《た》れ流される華《はな》やかな企業イメージの裏で、確信犯とも言える周到さで汚れた世界と癒着《ゆちゃく》していた。若かったわたしはあっさりと会社に失望し、早々に抵抗を断念し楽な道へと逃げ込むことを決めたが、成美はそれが理解できなかったのだろう。  わたしたちはホテルの前まで戻り、しばらくそこで柴田が出てくるのを待っていた。檜林は黒革《くろがわ》のコートのボタンを首まで締め、同じように黒い革のパンツと手袋、それにサングラスをしている。わたしはUSジャンパーのボア衿《えり》を立て、やはりレイバンのサングラスと手袋。時間とともに風が冷たさを増していく。ただし、我々が完全装備をしているのは、防寒のためだけではなかった。わたしたちは人相と指紋を隠し、次の仕事に備えた。  二時間が経過した。計ったようなタイミングで柴田と女が出てくる。これから一緒に店に向かうのだろう。わたしは柴田の前に立ちはだかった。 「常磐証券の柴田さんだろ」  わたしは訊いた。答えはなかったが、そうであることは分かっている。わたしは強張《こわば》った表情で立っている女の腕を掴《つか》み、先へ押しやった。 「先に行け。面倒にかかわりたくないだろう」  通じたかどうかは分からないが、女はすぐに走り出した。柴田の方は一度も振り返らない。柴田もすぐに踵《きびす》を返そうとしたが、背後にわたし以上に危なそうな檜林がいるのを見て思い留《とど》まった。柴田は二人の間に立ち、しばらくわたしと檜林を交互に見ていた。どちらが与《くみ》し易《やす》いかと考えていたのだろうが、三人の距離が次第に狭まっていくのを見て観念したようだ。  檜林がすぐに柴田の後ろにぴたりと付いて、背中に固いものを押しつける。あいつがなにを持ってきたのか、わたしは絶対に訊かないつもりだ。訊けば後悔するに決まっている。こいつは何事につけても本物主義ときている。レプリカの使用は、生まれながらの王子さまのプライドが許さないらしい。  柴田は檜林よりも頭一つ以上小さい。その表情が一瞬で凍《こお》りつく。わたしは柴田の横に身体を密着させ寄り添うように立つと、ゆっくりと歩き始めた。 「ちょっと顔を貸してくれ」  わたしはそう言い、言ったあとであまりのバカらしさに言わなければよかったと後悔した。檜林は黙っているが、きっと心の中では笑っているに違いない。  わたしたちは彼を連れて、ホテルの裏側にある路地に入った。人一人がやっと通れるくらいの幅で、空《あ》き缶《かん》やコンドームが無造作《むぞうさ》に捨てられている。先は行き止まりだ。その路地の奥へ柴田を追い込み、わたしが続く。肥満体型の柴田には窮屈らしく、コートの背中が壁とこすれ合って早くも黒く汚れていた。見張り番のような格好で、路地の出口を檜林が塞《ふさ》ぐ。わたしはコンクリートの壁に柴田を押しつけ、慣れない凄味《すごみ》を利《き》かせてみた。 「松村興業の女に手を出すとは、いい度胸だな」  檜林がくすっと笑う。この調子だと当分笑いものにされそうだ。 「ご、誤解だ。俺はちゃんと金を払ったぞ」  柴田の声は震《ふる》え、額《ひたい》に汗が滲んでいる。 「ふざけるな。あんた、うちの女たちとずいぶん楽しんでいるんだろう。その割には金払いが悪いって評判だ。そう言えば、エミーもよくぼやいていたな」  断わっておくが、口から出任せはわたしの得意ではない。ただ、何事もときと場合が優先する。臨機応変はわたしのモットーの一つだ。 「おい、待ってくれよ」  柴田が懇願するような声を出した。「俺はちゃんと金を払ってるぜ。エミーにだってしっかり払ってたんだ。お、俺じゃない。払っていなかったのは柿沢だよ」 「適当なことを言うなよ。柿沢だけが金を払わなくてすむわけがないだろう」  柴田は震えながらも、この状況を切り抜けるわずかな糸口を掴んだと感じたのだろう、鼠《ねずみ》のように小狡《こずる》そうな目でにやりとした。 「柿沢は特別だよ。自分で払わなくても会社が払ってくれるんだからな。あっちの遊びまで社費とは、こんな羨《うらや》ましい話はないよ。エミーもいいバイトを見つけたって喜んでたはずだぜ」 「下半身の面倒まで見てくれるとは、やけに社員思いの会社だな。たかが内部情報リークくらいでビクビクしやがって」  柴田の肩がビクッと動いた。図星《ずぼし》のようだ。 「し、しょうがないだろ。柿沢は融通《ゆうずう》が利かないから、なにをしでかすか分からない。会社もあいつの弱味を握っておきたかったんだろう。例の件は、あんたらにとっては取るに足らないことでも、会社にとっては社運を左右する大スキャンダルになる可能性だってあったんだ。柿沢に変な正義感を出されたら、みんな迷惑なんだよ」 「だから女をあてがって、金を運ばせて、自分たちと同じところまで落とそうと考えたってわけか」 「お、俺が考えたわけじゃないぜ」  不服そうに顔を歪《ゆが》めながら、柴田は頷いた。わたしはたまらなくなって、奴の腹を殴《なぐ》った。一発だけだ。柴田のような男を見ていると、殴る気すら失《う》せる。 「どうして、いつまでも柿沢を捜しているんだ?」 「う……上の連中は、どこかで奴が会社の信用と評判を落としはしないか心配なのさ。だから、居場所くらい押さえておきたいんだよ」  なにが信用と評判だ。昼間っから仕事を放棄して遊んでいるような男が寝言を言うなと思ったが、わたしの中ではそれとは違う何かが動いていた。 「そんなに評判が大事か?」  柴田は喘《あえ》ぎながらも精いっぱいの見栄《みえ》を張り、へへっと笑った。 「そ、そりゃあな。なんと言っても、信用第一だから、会社はどんな些細《ささい》な芽も摘《つ》んでおきたいんだ」 「なるほど。じゃあ、その会社に伝えてくれ。お前のようなザコじゃなく、今度の件で権限のある奴と話がしたい。帰って上司に、柿沢の代理人が話をしたがっていると伝えるんだ。分かったな?」  柴田は激しく首を振って頷いた。頷いた後で、わたしが松村興業の人間ではないことに気付き唖然としている。わたしは柴田のポケットに事務所の電話番号を書いたメモをねじ込み、ゆっくりと後ずさりを始めた。檜林を促《うなが》しさっさと路地を出る。 「もう終わりか?」  歩きながら檜林はあくびをしていた。 「ああ」 「つまらないな。俺の出番がなかった。——それで、成果はあったのか?」 「まあな」 「どんな」  駐車場に向かう途中、何度か周囲を確認したが、誰も我々を尾《つ》けてはいなかった。わたしたちは車に乗り込み、まず一服した。 「総会屋と証券会社。黒い交際がバレて損をするのはどちらだ?」 「清潔な経済人を演じている奴らの方」  檜林らしい答え方だ。 「——五カ月だ」  わたしは呟いた。「柿沢が最愛の妻にまったく連絡して来ないのは、忘れたからじゃない。薄汚い面倒に巻き込みたくないからだ」           4  わたしが〈ナイトダンサー〉で知り合った痩身《そうしん》でちょっと渋目の(だが話してみると、見た目よりずっと若いようだ)バーテンを飲みに誘ったのには二つの理由があった。一つは岡崎の話の裏を取るため。そして、もう一つは柴田の話の裏を取るためだ。そうでなければ、わざわざ待ち伏せて男を誘ったりするものか。二人の話に共通しているのは、このキャバクラが見かけの安っぽさにふさわしいだけの汚い役割を果たしていたという事実だけだ。常磐証券、松村興業、そして浩一を繋いでいたのがこの場所であり、最後に浩一が連絡したのもここだった。逆を返せば、この店の人間の証言以外に浩一とエミーの駆け落ちを裏付けるものはない。  ——迷ったら原点に戻れ。言い尽くされた調査員の心得にこそ、物事の本質がある。  などと檜林相手に気取ってみたが、早い話、引っかかりのようなものが胸に残り、どこか釈然としない。どうにもすっきりしないのでもう一度自分で最初から確認しようと考えただけのことだ。わたしの仕事は浩一の居場所を突き止めることで、他は関係ない。そして、依頼人の望みは一つだけだ。わたしはその望みをかなえてやりたい。 「柿沢はどのくらいの割合で店に来てたんだ?」  わたしはバーテンのグラスに『山崎』を注《つ》いだ。どんな店に行きたいかと訊ねたら、この男は、女のいない店で、いい氷と水を使っていて、『山崎』が飲める店と答えた。新宿《しんじゅく》でそんな店を知らないので、わたしは彼を浜松町まで連れて来た。河岸《かし》を変えたことで安心したのか、気持ちよさそうに酒を煽《あお》っている。 「月に二度、取り引き先の人を連れて来てましたよ。店で騒いで、それからそれぞれが気に入った女の子を選んで連れ出すっていうパターンですよ」 「あの店の女の子は全員それに応じてくれるのか?」 「いや、そんなことはないです。そういうのは絶対しないって女もいるし……。そっちの商売まで契約している子だけですよ。見栄《みば》えのいい白人と日本人にはすぐパトロンがつくから、よほど金に困ってないとそこまではしませんね。けど、外国からの出稼《でかせ》ぎ女はほとんど契約してますよ」  バーテンは声を落とした。確かに大声で話せることでもあるまい。わたしの頭の中を一瞬キリエの姿が過《よぎ》ったが、あえて訊ねなかった。このさい私情は抜きだ。 「エミーも契約してたのかな」 「あれはしてませんでした」  バーテンは栄養失調ではないかと思わせるほど痩《や》せているが、さっきからの酒量を見ていればそれも納得がいく。間違いなくこの男はアルコール中毒だ。 「それならなぜ柿沢と……」 「要するに、蓼《たで》食う虫もなんとかってやつですよ。エミーは陰気な女で、客の人気はなかったんですが、柿沢さんとは妙に気が合ってましたよ。それを知った常磐のお偉いサンが、じきじきに話を持ちかけたようですよ。エミーもあの男が気に入ったし、柿沢さんも接待に乗じて片っ端から女に乗るようなタイプじゃなかったですから、お互いにちょうどよかったんじゃないですか」 「二人が消えた日、あんたも店にいたんだろ」 「ええ。けど、俺はエミーのことなんてまったく気にしてなかったから、その日の経緯はよく知らないんですよ。柿沢さんからの電話を取り次いだのもキリエだし……」 「その電話でエミーは出ていったんだな?」 「——そうなるのかな。それっきりエミーの姿はなくなったんですから。あの日は結構忙しかったのに女が足りなくて、すごく困りましたよ。こればっかりは、俺たちにはどうしようもできませんからね」 「一人いなくなったくらいでか?」  わたしは冷やかすように笑った。バーテンは目を細め、その夜のことを思い出していたが、やがて頭を振り、それからグラスを持ち上げた。 「エミーだけじゃなかったんですよ。キリエまでフケちまって……。深夜には戻って来てましたけどね」 「キリエも?」 「ええ。どっかでさぼってたんでしょう」 「ちょっと面倒なことを訊くんだが……」  わたしは手の中で一万円札をちらつかせた。「あの店は松村興業のシマなんだろ?」 「——ええ」 「柿沢の失踪に松村興業がかかわっている可能性はないかな」  掠《かす》れた笑い声がした。 「これが他の男だったら、そういうこともあるかもしれませんが、柿沢さんにそんな度胸があるとは思えませんよ。もしそうなら、松村の兄さんたちから箝口令《かんこうれい》がきますよ。あれは、本当にただの色ボケじゃないんですか。大まじめな顔して、エミーにこんな商売を辞めさせたいとか言ってたくらいですから」  思わずため息が出る。成美の言う�優しい男�とやらがそういうものなら、わたしは別に優しくなくてもいい。浩一という男は、誰にも親切で同情的で、そして誰に対しても最後まで責任を果たせないような奴だ。むしろ、わたしには浩一を酷評した上司の気持ちの方がよく分かった。柿沢浩一は弱い人間だ。そして、その弱さを女たちは愛す。つくづく世の中は不平等にできている。  次にわたしは、松村興業と常磐証券についてバーテンに質問をし、少しでも多くのことを聞き出そうと、アル中の男に浴びるほど酒を飲ませた。時間があれば懺悔《ざんげ》すべき行為なのだろうが、時間がないのでそれは省略することにする。わたしは酔い潰《つぶ》れた彼を残し、一人で店を出た。外はまだ真っ暗だったが、時計の針は朝の四時を指している。ポケットに両手を突っ込み、空を見上げた。吐き出したばかりの息が白く変わって昇っていくが、空は真っ暗で星など一つも見えない。  ——射手座はどこら辺りだったろう。  遠い昔に受けた地学の授業を思い出しながら、そんなことを考えた。射手座はもはや空にはなく、ガラスの瞳をした少女の人工爪の上にしかない。彼女は気紛れに爪を弾《はじ》き、そのたび星は心許なく揺れる。  だが次の瞬間、いきなりわたしは瞬《またた》く星を見た。それも目の前でだ。もともと真っ暗だった目の前に閃光《せんこう》のようなものが見え、それから前以上に真っ暗になった。ふいに後頭部に走る強烈な痛みと衝撃。  ——この野郎。  誰かの声がした。わたしは反射的に振り向き、背後にいた男にすがりついた。両手でしっかり男を捕まえようとしたが、手に力が入らず、結局そのまま気を失った。 「——起きろ。それとも王子さまのキスが必要か?」  すぐ耳元で聞き慣れた声がする。わたしはゆっくりと目を開けた。目の前に檜林の顔があるではないか。 「俺にキスをしたいなら、膝をついて頼め」  わたしはそう言った。そのとたん、またも後頭部がずきりと疼《うず》いた。 「分かった。一生目覚めるな」  檜林は冷ややかに言うと、わたしの額の上にピシャリと濡れタオルをぶつけ、視界から消えた。だが、タオルの冷たさで意識の方ははっきりしてきた。 「——お前がいるってことは、ここは天国じゃないな」  ゆっくりと上半身を起こす。ここが自分の事務所であることはすぐに分かった。わたしはコートと上着を脱いだ姿でソファーに転がっていたが、全身からぷうんと厭《いや》な臭いがしている。服はあちこちシミだらけだ。 「可燃物のゴミ置き場に転がっていたお前をわざわざ愛車で拾ってやったんだ。ありがたく思え。おかげで、当分あの車に女を乗せられない」  檜林は不満そうに呟いた。 「トライアンフの助手席に乗りたがる女なんかたかが知れている。変な女を拾わずにすんだことを俺に感謝しろ」  わたしは言い返した。なんとか立ち上がり、自分のロッカーから着替えを取り出す。どうやらもう昼時らしく、竹芝|埠頭《ふとう》では多くの人が水上バスを待っていた。後頭部に触れてみたが、少し脹《ふく》れている。 「俺はどうしてこんな目に遭《あ》っているんだ?」  着替えながら、わたしは訊ねた。 「俺に訊くな」  檜林はCDラックを覗きながら憮然《ぶぜん》として答えた。わたしはシャツのボタンを締めながら冷蔵庫を開け、トマトジュースの缶を三缶出した。それを持って再びソファーに戻る。順番に飲みながら、テーブルの上を見た。松の字を象《かたど》った金色のバッジが置いてある。 「——松村興業のだな」  バッジを摘《つま》みじっくり眺める。小さな傷も塗装の剥《は》げもない。ほとんど新品だ。 「それは、お前が握っていた」  正面に檜林が座った。BGMはエラ・フィッツジェラルドの『あなたに飽きて』。傷がえぐられそうなほどいい選曲だ。「——つまり、このバッジを付けていた奴が俺を殴ったということになる」  煙草に火を点《つ》けながら、檜林が面白くなさそうに同意する。 「そういうことになる」  わたしは空《から》になった缶を指で潰しながら呟いた。「誰かの書いた筋書きでは——だろ」           5  松村|渚《なぎさ》は昔|気質《かたぎ》の連中からは「若頭」、若い連中からは「社長」、緊張関係にあるビジネス・パートナーからは「ジュニア」、そして極めて少数の私的な知り合いからは、深い友情を込めて「渚ちゃん」と呼ばれている。何を隠そう、わたしは彼をちゃん付けで呼べる数少ない人種なのだ。もっとも、それが自慢になるとは思えないが……。  松村は中学、高校の同級生だが、大学は違った。一時期松村は父親の商売を嫌い(いまでこそ実業家だが、当時は身も蓋《ふた》もなくヤクザ[#「ヤクザ」に傍点]と呼ばれていた)、大学卒業と同時にわたしと同じように普通の会社に就職した。しかし、やはりわたし同様に普通のサラリーマンというものが性《しょう》に合わないと悟り、わずか一年で退職してしまった。一般社会の汚さを学んだことで松村の中にどんな心境の変化が生じたのかは知らないが、結局彼は家に戻る道を選んだ。そしていまは父親の片腕として、松村興業の役職であるとともに、三件の高級クラブを経営するグループ会社の一つを任されていた。昔は見るからに汗臭そうな男だったが、近頃はすっかりヤクザ稼業が板に付いたようだ。ダブルのスーツの着こなしもさまになり、この稼業の人間独特の殺伐《さつばつ》とした雰囲気も漂わせるようになった。それが決していいことだとは思わないが、彼が自分の意志で選んだ道にケチをつける気など毛頭ない。これも一つの生き方だ。 「——渚ちゃん、元気だった?」  わたしは六本木《ろっぽんぎ》の『アマンド』で、座ったまま愛想良く手を挙げた。ここから歩いて四分ほどの場所に松村が経営するクラブがあるが、そこからここまで来るのでさえ、二人のボディガードが付いて来ていた。わたしはそれを承知で、わざわざ『アマンド』を選んだ。こういう店では、堅気《かたぎ》でない連中はひどく浮いて見える。 「元気ないと言ったら、慰めてくれるのか?」  松村はにこりともせず正面に座った。ボディガードたちは後ろの席だ。本人には申し訳ないが、こいつは中学のときからすでにオヤジのような貫禄《かんろく》があった。ラグビー部のスクラムハーフ、野武士のような頭と真っ黒に日焼けしたひげ面に「渚」という名前があまりに似合わず、よくそれをからかわれていた。もちろん、からかえる人間は限られていたが。  松村はさっぱりした気性で、豪放で気前が良い。それになかなか面白いところもある。しかし、同じだけ冷酷で暴力的なところも兼ね備えていて、気に入らぬ相手に対しては容赦ない。つまり、皮肉なことに松村には、自分が一番嫌っていた職業の資質が一番あったらしい。 「いいだろう。俺にできることなら何でも言ってくれ」  わたしは迷える羊を受け入れる神のように両手を広げた。 「じゃあ、さっそくだが店を変えようぜ。ここじゃ目立ち過ぎる」  強面《こわもて》の渚ちゃんが提案する。わたしは大きく頷いた。 「分かった。『アンナミラーズ』でいいな?」  立ち上がろうとしたボディガードの一人が動きを止める。断わっておくが、わたし以外の人間が同じことをしたら、絶対に翌日は足腰が立たないだろう。  会社組織になってからの松村一族はかなり手広く商売をしているが、組織自衛策として、それぞれの部署を独立させる形を取っている。ジュニアである松村は、クラブ経営というある意味健全な部門を任されているが、かつて「組長」とか「相談役」と呼ばれた者の会社の中には、いまだ昔ながらのシノギを続けているところもある。もちろんグループのトップは松村の父親だが、必ずしも一枚岩ではないという内部事情もあるだろう。  松村は悪い奴ではないが、彼が父親の傘下《さんか》に入ったときから、わたしと彼の間には絶対的な立場と価値観の違いが生まれた。松村は�ジュニア�としても責任を負い、それを最優先に考えている。わたしとの友情は二の次だ。同じジュニアでもとっとと責任を放棄して、極楽息子の四文字に甘えて自由気ままに生きている檜林とはえらい違いだ。あいつに渚ちゃんの爪の垢《あか》を煎《せん》じて飲ませてやりたい。わたしは本気でそう思っていた。  こういう商売をしていれば厭というほど実感することだが、ある程度の規模を超えると百パーセント健全な組織と人など存在しなくなる。どんな組織も裏と表があり、「健全」と呼ばれるか「不健全」と呼ばれるかの違いは、見えている面の違いに過ぎない。 「こんなものを拾ったんだ」  わたしはテーブルの上にバッジを転がした。結局わたしたちは、『アマンド』でも『アンナミラーズ』でもない、ボディガードが選んだ静かで見通しがいい喫茶店で顔を突き合わせていた。 「松村興業のバッジだな」  こともなげに言われた。「これがどうした?」 「このバッジを付けていた男に、背後から殴られた」  わたしは首を回して後頭部を見せた。見事な瘤《こぶ》ができている。 「殴られるようなことをしたんだろう」 「誤解だ」  わたしは弁解した。「松村興業のことを嗅ぎ回っていたわけじゃない」  松村の表情はまったく変わらない。キリエと張り合えそうなポーカーフェイスだが、松村の方が何十倍も人間味があるのはなぜだろう。ヤクザでさえ彼女の前では霞《かす》んでしまう。 「それじゃ何を嗅ぎ回ってたんだ」 「失踪した男を捜している。常磐証券の社員だ。女房に依頼された」  わたしは簡単に事情を説明した。松村はバッジを手のひらに載せ、ころころと転がしながら黙って聞いている。話が終わってから、低い声で呟いた。 「——新品だな」 「ああ。俺が思うに、誰かを襲うときに、わざわざ身元を示すようなバッジを付けてくるのは、よほどのバカか素人《しろうと》だ。しかも、それが初めて付けるような新品なら、ますます不自然だ」 「そうだな」  あいかわらず表情は変わらない。「俺が誰かを襲うときは、他組《よそ》のバッジを付けるようなせこい真似はしないな」 「だろうな」  わたしは笑った。言われるまでもない。本当に松村興業が動いているのなら、こんなものではすまなかったはずだ。ヤクザが本気で動き出せば、しがない調査員など一瞬で吹き飛ぶだろう。 「そのバッジは返しておくよ」  わたしはさり気なく言った。新品のバッジを使って松村興業の人間の仕業《しわざ》と思わせようとした連中への威嚇《いかく》としては、これが一番有効なはずだ。ヤクザはメンツを潰《つぶ》されることをなにより嫌う。わたしが何を要求しているのか松村は理解してくれたようだ。動いてくれるかどうかは別にして、自らの尻に火が付くようなことがあれば容赦なく討《う》って出るだろう。守るより攻める方が早いと考えるのは、こういう連中の共通した特徴だ。 「確かに受け取った」  松村はバッジを載せた手を握り、上着のポケットに突っ込んだ。カップに残っていたコーヒーを一気に飲み干し、椅子を引く。わたしは彼の対応に満足した。 「渚ちゃん、今度ゆっくり飲もうぜ」  立ち上がった松村を見上げて誘いかけると、彼はにこりともせず頷いた。 「それまで無事でいろよ」 「お互いにな」  わたしはウインクをした。敵の多さでは、わたしは彼の比ではない。檜林が日々女の敵を増やすことに精を出しているとしたら、こいつは男の敵を増やすのが日課だ。誰も彼もが面倒を抱えて生きている。自分だけが辛《つら》いわけではない。だが、誰もそのことを浩一に教えてやらなかったようだ。  その夜、わたしは腫《は》れた後頭部に氷を当てながら、事務所に泊まる覚悟で電話を待っていた。あれから柴田はすぐに帰って事情を説明したはずだ。彼から報告を受けた上司は対応を練った末に、いかにも頭の堅い証券マンが思い付きそうな下手《へた》な威嚇を実行に移すことにしたのだろう。  わたしは後頭部の瘤を撫《な》でてみた。痛みのおかげで頭が冴《さ》えたようだ。浩一の失踪に常磐証券が一枚|噛《か》んでいるのは間違いない。成美や警察に、浩一がさも女と逃げたように吹き込んだのもあの連中だ。わたしは当初、常磐証券が会社の恥部と一緒に浩一を隠したのではないかと疑ったが、ここにきてその可能性は完全に消えた。この慌《あわ》てようを見る限り、連中は肝心《かんじん》の彼の場所を把握していない。  ——どういうことだろう。  そのとき電話が鳴った。わたしは飛びついて取ったが、松村からだった。 「バッジの件だ」  挨拶《あいさつ》抜きで松村は切り出した。「うちは無関係だ」 「やっぱりな」 「常磐と叔父貴《おじき》の会社の関係は良好だ。下っ端の社員の不祥事など知りもしなかった」  思った通りだ。浩一にこだわっているのは常磐証券だけだ。 「助かったよ。渚ちゃん、今度デートでも……」  後半部は聞かずに松村は電話を切った。わたしは冷蔵庫から缶ビールを出し、再び電話番を始めた。二本目の缶ビールを空けたところで、やっと待ち人からの電話が来た。  男は悪びれる様子もなく、「柿沢と柴田の上司である�黒木《くろき》�です」と名乗った。別に本当でも嘘でもよかった。柴田とはまったく違う、低音の堂々とした話しっぷりがわたしを安心させる。この男なら、ある程度の力を持っているに違いない。 「柿沢君の代理と伺《うかが》いました。失礼ですが、広末法律事務所の方がどういったご用件でしょうか?」  電話番号からわたしの身分を調べたうえで連絡をしてくるあたり、さすがだった。おかげで名乗る手間が省《はぶ》け、ずっと話が進め易くなる。わたしが柿沢浩一の代理だという話が信憑《しんぴょう》性を帯《お》びるからだ。 「離婚訴訟のために必要な材料を揃えているだけですよ」  わたしは答えた。 「それにしては立ち入った調査をなさっているようですが……」 「立ち入られて困る場所でもあるんですかね」  黒木はしばらく黙り込んだ。早く、上辺だけの駆け引きに時間を費やすことが無駄だと判断すべきだ。 「どこの会社でも小さな問題はあります」 「わたしはいつまでもこんなことで時間を取りたくないんですよ。率直に申し上げます。柿沢さんの件から手を引いていただけませんか?」  わたしは単刀直入に言った。 「おっしゃってる意味が分かりませんね。ご存じかと思いますが、柿沢君は会社の金を横領して愛人と失踪した人間です。当社とはいっさい関係ございません」 「もちろん、その辺の事情は知っています。しかし、その金は本当に横領だったんですかね。実は柿沢さんに渡した正当な報酬だったんじゃないですか。『この金で、いままでのことは忘れてくれ』そう言って彼をそそのかしたのは、あなた方だとわたしは聞いています」  短い沈黙が流れた。わたしは自分が狙《ねら》った方向がそう大きくは外《はず》れていないという確信を抱いた。相手はどう返答したものか思案していたが、軽く咳《せき》払いした。 「どういう意味ですか?」 「柿沢さんは、あなた方のやっているような仕事には不向きな人だ。だからと言って、別にあなた方を窮地に追い込もうと思っているわけじゃありませんよ。わたしも同じです」  目下のところはな——。わたしは胸の中で呟いた。わたしが成美から依頼されたのは社会悪の一掃などではなく、一人の気弱なサラリーマンを捜し出すことだ。わたしは浩一のような優柔不断な男は嫌いだが、成美はそうは思っていない。 「それなら、なぜ柿沢君の件に首を突っ込まれるのか分かりませんね。失礼ですが、いくらかご入り用なのですか?」 「ケチな強請《ゆすり》屋と一緒にしないで欲しいな」  わたしは凄んだ。「常磐証券と松村興業の関係で稼ぐ気なら、こんな面倒なことはしませんよ。あんたたちに、これ以上柿沢さんに構うなと言いたいだけなんですがね……」  松村興業の名は切り札だ。これを出すと黒木の勢いはとたんに萎《しぼ》む。 「構ってはおりません」  黒木はことさら丁寧《ていねい》に言った。「柿沢君は失踪したきり、家にも帰っておりません。話し合いをしようにもお手上げの状態です」 「柿沢さんは取り引きを希望しています。彼は今後、あなた方のスキャンダルについてはいっさい口外しない。だから、彼のことを忘れて欲しい。捜さないで欲しいとね」 「柿沢君に会われたのですね?」  わたしはわざとその質問に答えなかった。ときとして沈黙は金《きん》以上の働きをする。黒木は大きなため息を吐いた。ため息の吐き方まで管理職っぽいと感じられるのが面白い。「彼は組織というものが全然分かっていない。理想ばかりで、青臭い罪悪感を我々に説《と》こうとする。甘えた組織人など、会社には必要ないんですよ」 「そうかもしれない。大企業の言い分はいつだってそうだ。しかし、わたしはここであなたと議論する気はありません。常磐証券にとって、柿沢さんは危険な人間ではないと承知していただきたいのです」 「なぜそう言い切れます?」  黒木が枕を高くして眠れる保証を求めているのが分かった。巨大企業の管理職としては当然だろう。できの悪い鬼子《おにご》一人のために将来が閉ざされるかもしれないのだ。それこそ一生の問題だ。 「彼の希望は静かな生活です。あなた方を敵に回して闘うほどの気力も体力もない」  これは希望的願望だった。浩一はやっかいを背負い過ぎている。それを自分でなんとかできる甲斐性《かいしょう》と気骨があればまだいいが、とてもそうは思えない。せめて妻だけは守ろうと、思い悩んだ末にただ逃げるしかできない男だ。 「本人がそう言ったんですか?」  再び沈黙——。「彼に会わせてもらえませんか?」 「それは無理です。下手に彼を刺激しない方がいい。あなた方だって、今度の不始末を松村興業に知られたくはないでしょう」  これはかなり効いたようだ。黒木が息を飲むのが分かる。わたしは畳みかけた。 「藪蛇《やぶへび》——って言葉もあります。窓際社員一人のために、社運を賭けることもないでしょう。柿沢さんは大人《おとな》しい人だが、それでも追い詰められたらなにをするか分かりませんよ。これ以上柿沢さんを捜すのは止《や》めた方がいい。なによりあなた方のために——」  これで黒木が、いや常磐証券がすんなりと浩一を諦《あきら》めるとは思えなかったが、ある程度の抑制にはなるはずだ。常磐証券にしてみれば、浩一が表に出てきては困るが、消えたままでも不安だという微妙な状態にあるのだろう。残された問題は、これだけ周囲を騒がせている浩一が、いまどこにいるかだけだ。  電話を切ったあとで、わたしはふと虚《むな》しくなった。どちらかと言えば、これは檜林の領分だ。失踪した柿沢を連れ戻すどころか、わたしは彼を連中の前から消し去ることの手助けをしているではないか。  わたしは窓辺に立って、竹芝埠頭を眺めた。夜見る冬の海は、真っ暗で陰気でひどく気が滅入《めい》る。常磐証券が柿沢浩一のことを忘れるのは簡単だ。だが忘れない女もいる。こんなものでは成美は納得しないだろう。彼女が求めているのは事実ではなく、夫という存在そのものだ。会社の斡旋《あっせん》とはいえ、浩一に愛人がいたのは本当だ。女と彼の間に情が通っていたのも、浩一と同時期に女が消えたのもまた事実——。  成美が浩一とどんな決着をつける気でいるのか、わたしには想像できなかった。 〈ナイトダンサー〉のバーテンの台詞《せりふ》ではないが、これだけ面倒の多い男など忘れてしまうのが一番だと思う。だが、もう一度夫に会いたいと激しく望んでいる気持ちを止める術《すべ》もまた、持ってはいない。まして、それが愛だと言うのなら、あかの他人のわたしになにが言えよう。  今回の件で、図《はか》らずもわたしは思い知ることになった。お互いをここまで熱くさせるものを、あのころのわたしたちは二人とも持っていなかった。二人の間に、理屈や正義をねじ曲げてまで貫きたいほどの想いはなかった。六年前、成美が忽然《こつぜん》とわたしの前から姿を消したとき、わたしはいまの彼女ほど強く彼女に会いたいと感じただろうか? わたしは考えた。答えはとっくに出ている。わずかな後ろめたさが胸を覆《おお》う。  ——会いたいと思う気持ちに理由なんかない。  成美はそう訴えた。だが、わたしはそうは考えず、消えた女を素直に諦めた。理由すら見出せないような不可解な感情に溺《おぼ》れたりせず、過去は忘れようと努力し、本当に忘れていた。  彼女に未練があるわけではないのだ。わたしは彼女を簡単に忘れることができた自分が少し哀しくて、切なくて、そして惨《みじ》めなのだ。  わたしたちは再会したが、過ぎた年月の長さとお互いの甘さを思い知っただけで、きれいな思い出すら語り合うことができなかった。いまの成美にとって、そんなことはまったく意味がない。彼女の言動は無意識のうちにわたしを傷つけ、わたしはわたしで、いまなおそんなことでいちいち傷つく自分に呆《あき》れている。きっとわたしは、わがままで自己中心的で甘えた、それでいて他人には冷たい人間なのだろう。図《はか》らずも成美の存在がそれを実感させる。  ——愛が絡《から》むとやっかいだ。  檜林もたまには本当のことを言う。  夜の海を見ているうちに、わたしはわけもなくキリエを思い出した。熱を感じさせない少女の中にも、あんな熱さがあるのだろうか。彼女も成美くらいの年齢になれば、あんなふうに変わるのだろうか。  想像がつかない。だが、いまのわたしは変温動物のような彼女の冷ややかさを好ましく、そして懐《なつ》かしく感じていた。 [#改ページ] 第三章 [#ここから2字下げ]  ——爪《つめ》や髪をいじるのが好きなの。好きな形にして好きな色を付けて、飾りを選んで、思うままに飾るの。  マニキュアの瓶《びん》を振りながら、彼女が言う。  ——なぜ、髪と爪なんだ?  わたしは訊《たず》ねた。  ——切っても血が出ない。叩《たた》いても痛くないから。痛みを感じない場所が好きなの。他の場所は嫌い。痛いから。  それは、傷つくことの痛みに耐えられないと言っているのと同じだった。自分の血が赤いことすら、きっと彼女は知らないだろう。 [#ここで字下げ終わり]           1  女はいつも一番大切なことを言わない。  頭が悪くてうまく表現できないというのならそれほどやっかいでもないが、そうではない。動物的な雌《めす》の本能を以《もっ》て、あえて物事の本質を言葉にしないから、ますます問題が複雑になるのだ。おそらくその女特有の習性が、ときに「神秘」や「魔性《ましょう》」などと表現されて、徒《いたずら》に男を混乱させる元凶となる。  翌日、わたしは比較的まだ早い時間に〈ナイトダンサー〉に足を踏み入れた。週の始めだけあって、客はまだ一人もいない。店の中では、キリエと他にもう一人、外国人の女が掃除《そうじ》をしていた。 「マダ、カイテンシテナイヨ」  片言の日本語が飛んでくる。 「いいんだ。キリエに用があるんだ」  わたしは囁《ささや》いた。キリエに向かって軽く手を振ると、彼女はすぐにそばに駆け寄って来た。 「やっぱり来たね。でもちょっと早いよ」 「ああ、君に会いたくなってね」  キリエは笑う。それは上辺《うわべ》だけで表現すれば�嬉《うれ》しそうに�ということになるのだろう。だが、その裏に何もないことをわたしは見抜いていた。きっと彼女は、本当に嬉しいときには笑わないタイプだ。 「それ、嘘だね」  そのうえ勘もいい。おそらく頭も悪くないだろう。キリエは愚鈍《ぐどん》には見えない。 「そう言わないでくれ。心を見透《みす》かされているみたいで胸が痛む。実は頼みがあるんだ」 「なに?」 「店外デート。承諾してくれるかい?」  わたしは彼女が断わらないことを知っていた。自惚《うぬぼ》れではない。わたしにはわたしの、キリエにはキリエの下心がある。それだけのことだ。  どう言って店長を丸め込んだか知らないが、キリエはその夜、早めに店を上がることに成功した。待ち合わせた新宿コマ劇場の前に現われたキリエの姿を見たとき、わたしはあまりに彼女が普通なので少し拍子《ひょうし》抜けした。普通と言っても、白金辺《しろがねあた》りを歩いている娘を基準にした普通ではなく、あくまでも深夜の歌舞伎町を基準にしたうえでの�普通�だ。  柔らかそうな薄いブルーのセーターとジーンズのミニスカート、厚底のブーツ。それに黒いロングコート。ポニーテールの上にさらにカラー・ウィッグをつけ、リボンとビーズで飾っている。睫《まつげ》も爪も人工。目の周囲を飾るパールのような細かな粒子。  新宿にたむろする他の少女たちとまったく同じだ。みんな同じように派手で、同じように奇抜だから、誰一人目立たない。きっとこれがクリアすべき、そして絶対に超えてはいけない新宿の標準《アベレージ》に違いない。  彼女の服装をどうこう言う気など毛頭なかった。ありふれた綺麗《きれい》な女子高校生(あるいは女子大生)のような彼女は、サイボーグみたいで素敵だ。キリエという名前の他にシリアル番号でも付いていそうでわくわくさせられる。  わたしは聖人など望まない。ただのスケベな中年男でいい。でれでれと鼻の下を伸ばして、人が羨《うらや》むほど若くて綺麗な少女を連れて歩くことに、いまさら罪悪感など感じない。雪が降るのではないかと思えるほど冷え切った夜に連れて歩くのに、キリエほどふさわしい娘はいない。寒気も避けて通るほど、彼女はクールだ。 「どこ行くの?」  キリエが訊いた。十五センチはありそうな厚底のせいで、わたしと彼女の目の位置はほとんど変わらない。 「前もって聞いておきたいんだが、君はもしここで俺がホテルに誘えば、ついてくるような人種かい?」 「あたしはどんな人種でもない。誘われたら考える」  わたしは頷《うなず》いた。いい答えだ。 「どこかで飲もう」  わたしはありふれた彼女にふさわしいありふれた提案をし、簡単に合意を得た。わたしたちは二丁目にある、気のいいオカマが経営するバーに入った。 「彼女にはノンアルコールの飲み物を」  わたしはウエイターに注文した。 「勝手に決めないで」  キリエは言った。「人にあれこれ決められるのは嫌いなんだ」 「君の年頃の子はみんなそうだ」  わたしはため息を吐《つ》いた。長い長い反抗期——それが終わらない連中も多い。わたしもそうだ。 「ひょっとして、大人《おとな》になれば変わるとか言おうと思ってる?」 「思っていたけど止《や》めた」 「それがいいよ」  キリエは子守歌でも歌うような優しい声で囁いた。「無駄《むだ》だから」 「そうだな。俺も自分より若い人間の気持ちを理解したいと思うほど暇じゃない。ジェネレーション・ギャップは自然の摂理《せつり》だ。若者文化を理解した気でいる間抜けなジジイだけにはなりたくない」 「そう。好きに生きて」  背筋がぞくぞくするような答えだった。わたしがこれまで出会った女は、みんなわたしの生き方に口を挟《はさ》みたがった。人生の切り売りを要求した。しかし、彼女は逆だ。泣いて頼んでも、そんな優しいことはしてくれないだろう。 「今日は射手《いて》座じゃないんだな。ユニオン・ジャックか」  キリエの爪を見ながら、わたしは訊いた。 「そう。——行ってみたいな、ロンドン」  いい台詞《せりふ》だ。気が合う。わたしも昔そう思った。ささやかな�ティーンエイジ・ドリーム�だ。——T・REXなんて、きっと彼女は知らないだろうが。 「頼みがあるんだ」  わたしが切り出すと、キリエは簡単に頷いた。「木田江美は、いまどこにいるんだ」  滅多《めった》なことでは、ポーカーフェイスは崩《くず》れない。  初めて会ったとき、キリエはわたしに会社の人間かと念を押した。彼女は常磐証券が執拗《しつよう》に浩一を捜していることを承知しており、わたしが会社の人間でないと知ると安心をした。さらに、キリエは仲が良かったはずのエミーの失踪に動揺していない。あまり心配もしていなかった。考えてみれば、世間の表も裏も知り尽くしているような女が、ドレスの上にコートを羽織《はお》っただけで、男を追ってふらりと失踪するとは思い難《がた》い。エミーは行く当ても金もあり、キリエもそれを知っていたに違いない。  それに、よく考えてみれば浩一とエミーが一緒に逃げたという確証はないではないか。『柿沢からの電話でエミーが出かけたきり戻って来なかった』というキリエの証言以外には……。その一言《ひとこと》で、警察も興信所も二人を駆け落ちだと判断することになる。 「——二人は一緒に逃げた。君の言葉の裏には、皆にそう思わせる狙《ねら》いがあった。どうしてそんな必要があったのか。たぶん君はエミーをあの店、いやあの生活から解放してやりたかったんじゃないのかな」  キリエはシェリー・グラスの縁《ふち》を指でなぞりながら、わたしの話を聞いている。わたしは横から眺める彼女もいいと思った。今度、男と会うときは必ず横顔を見せろと教えてやろう。もちろん、今度があればだが……。わたしはあって欲しかった。キリエはグラスを眺めながら、淡々と話し出す。 「エミさんのことは放っておいてあげたら? 捜してどうするの。エミさんはなにも悪いことはしてない。店とか、ずっとつきまとわれてるヤクザのヒモとかに嫌気《いやけ》がさしただけ。桜庭《さくらば》さんって、柿沢さんの奥さんに雇われているんでしょう。どうしてエミさんにこだわるの?」 「確かに、俺はエミさんではなく柿沢を捜している。それさえ分かれば、エミさんのことをあれこれ詮索《せんさく》する気はないし、仮に彼女の居場所を知ったとしても、誰にも言う気はない。ただ、これだけは確かめたい。二人は本当に駆け落ちなのか、それとも別々に逃げたのか。君にとってはくだらないことでも、柿沢の帰りを待つ女にとっては、これはすごく大切なことなんだ」 「どうしてそんなことが大切かな。逃げたい人は逃がせばいい」 「そうだな」  わたしは心から相槌《あいづち》を打った。総論には賛成。だが、各論になるとそうもいかない事情がある。「だが、彼女はそうは思っていない。きっと若い君にはまだ分からないと思うんだが、つまり——彼女は柿沢を愛しているんだ。周囲の誰のアドバイスも耳に入らないくらい——。彼女が欲しがっているのは、夫の言葉だけだ」  言ったあとで、なにか自分のことのように照れ臭かった。こんな子供の前で、愛などと口にするとバカにされるような気がする。だがキリエは笑ったりせず、小さく息を吐いた。 「それはやっかいだね」  驚いた。彼女はすでに、愛がやっかいなものだということを知っている。 「そう、やっかいだ」  わたしは答えた。  キリエはグラスの前に両手を広げ、しばらく自分の爪を見ていた。そうでないときは七色の髪をいじっている。彼女は痛みを感じない部分をこよなく愛し、大事にする。そうでない部分は見ようとしない。かつてのわたしのようだ。 「エミさんは会社に頼まれて、柿沢と無理矢理付き合っていたんだろ?」 「そう。でも柿沢さんって正直で嘘吐くのが下手《へた》ないい人だってエミさん言ってた。商売気抜きで気に入ったんだって。最初は会社の人に雇われて柿沢さんをハメただけだったけど、どんどん好きになったんだってさ」  常磐証券は浩一の生真面目《きまじめ》さを怖れた。意図《いと》的に噂《うわさ》を流しているうちはまだ手の打ちようもあるが、総会屋との癒着《ゆちゃく》を嫌う彼が、内部告発という大胆な手段に出る前に、なんらかの弱味を握っておこうと画策したのだろう。エミーというキャバクラのホステスと無理矢理関係を持たせることで浩一の動きを牽制《けんせい》し、金の運び屋に仕立てて、同じ穴の狢《むじな》へと引きずり込む。単純で汚い手だ。  キリエは人差し指でテーブルになにか描いている。なにを描いているのか、わたしには分からない。射手座、ユニオン・ジャック、それとも他のもの……。彼女の中にはなにもなさそうで、なにかがある。そして、なにかがありそうで、なにもない。 「あの日、柿沢さんから電話があった。あたしが出たんだ。会社は金で自分を買収しようとしている。こんなやり方には我慢できないが、他に手もない。どうすることもできない。もう逃げる、身を隠すって……。ちょっと興奮してた。それでエミさんにも逃げてくれって」 「本当に柿沢がそう言ったのか?」  キリエはわたしを見て頷いた。 「そう。でも、みんなが考えているのとは、ちょっと意味が違う。柿沢さんは、エミさんに会社からもらった金を全部あげるから、どこか別の所でやり直してくれって、そんな意味で言ったの。『バカよねぇ、あの人って……』エミさんは泣きながら、でもそう言って少し笑ってた。会社の命令で柿沢さんの相手をしていたエミさんに、申し訳ないと思ってたんだと思う。きっと、あんな仕事は辞《や》めて欲しかったんだね。エミさんはあの人が好きだった。無理して付き合ってるんじゃなかった。好きだから、付き合ってたんだよ」 「なるほどね……」 「桜庭さんの言った通り、一緒に逃げたってことにした方が簡単で良かったの。店もエミさんを諦《あきら》めるし、きっと会社もうるさく詮索しないだろうと思って。それに、奥さんも柿沢さんに愛想《あいそ》尽かすだろうから、それでいいんだって柿沢さんが言うんだもの。きっと全部うまくいくと思ったんだよ」  冗談じゃない。身勝手にもほどがある。自分はそれでいいかもしれない。だが、成美はちっとも納得などしていない。そんなことで愛想を尽かしてもらえると考えた浩一は、救いようのない間抜けだ。 「それで、エミさんはどこに?」 「エミさんの昔の仲間が、軽井沢《かるいざわ》で夏の間だけ自分のお店を出してるんだ。冬の間はもっぱらペンションの手伝いだって言ってたけど、そこにいると思う」 「ありがとう」  わたしは呟《つぶや》いた。 「いいよ」  キリエはグラスを持ち上げ、どこか違う世界を見るような目をしていた。「どうせ、あたしには関係ないことだから」  人形はそう囁き目を伏せる。わたしは彼女の横顔に見とれながら、心の中で数年後の彼女を想像するのはもう止めようと誓った。  これから先のことなど、なんの意味もない。かつて、「将来」という言葉を忌《い》み嫌ったわたしが、彼女の将来を案じるなど滑稽《こっけい》以外のなにものでもない。キリエにとって、いまこの瞬間がすべてだ。彼女の中から、二度と出会えない若さが溢《あふ》れ出している。わたしは目の前で、自分が失ったものの貴重さを思い知る。           2  それから四日が、あっという間に過ぎた。  事務所の留守番《るすばん》電話には一日一回、ほとんど変わらぬ時間に成美からのメッセージが入っている。『なにか分かったら連絡して下さい。番号は……』内容はいつも同じだ。その声を聞くたびにわたしは受話器を取り番号を押すのだが、結局最後まで押すことができずに受話器を戻す。その繰《く》り返しだ。我ながら往生際《おうじょうぎわ》が悪いと承知しているが、それも仕方あるまい。これまでの調査でどんなすごい事実が分かったとしても、成美は満足しないだろう。なにせ肝心《かんじん》の浩一の行方《ゆくえ》が不明のままなのだ。だが、少しずつ彼に近づいている予感はあった。  わたしは軽井沢に行き、木田江美と会った。  キリエの言った通り、彼女はペンションに住み込み、友達の店で働いていた。そのペンションの中で、彼女の昔の仲間が、冬はスキー客相手のビア・レストラン、夏は喫茶店を経営している。エミはそこを手伝っていた。  前もってキリエが連絡をしておいてくれたので、わたしはすんなりと彼女に会うことができた。軽井沢駅の構内にある喫茶店でわたしの前に現われた女は、すっぴんのうえ質素な身なりで、とてもあの〈ナイトダンサー〉のホステスとは思えなかった。  年齢は二十八歳ということだが、化粧を落とした顔はそれよりもずっと老《ふ》けて見えた。遠くを見るような目をして、ぽつりぽつりと話す。なんとなく影の薄い女だ。わたしは、浩一がどうして彼女を贔屓《ひいき》にしていたのか分かるような気がした。この陰気さが、逆に目を引いたのだろう。 「キリエちゃんから電話があって、事情は聞きました」  エミは小さな声で言った。 「彼女と仲がいいんですね」  まず、当たり障《さわ》りのない会話から入る。「失礼ながら、ああいうタイプの子に懐《なつ》かれる人は貴重だと思いますよ」 「別に懐いてるわけじゃないと思いますよ」  エミは寂しそうに微笑《ほほえ》んだ。「わたしたちは同じ施設の出身なんです。だから、他の人よりも話しやすいというだけでしょう。あなたの言う通り、キリエちゃんが懐く人なんて、いないんじゃないかしら。あの子、すごく強い子だから……」 「そうでしたか」  つまらないことを言わねばよかったと後悔した。 「柿沢さんの奥さまにはいろいろとご迷惑をおかけしました。申し訳なく思ってます。あたし、いまここで飲食業の見習いをやっているんです。いずれ、自分でも小さなお店でも出せればと思って……。でも、柿沢さんから預かったお金には手をつけていません。ですから、もし奥さまが必要なら……」 「そんな心配はいりませんよ」  わたしは言った。「彼があなたにやった金だ。あなたの好きにしたらいい」 「すみません」  蚊《か》の鳴くような声だった。成美とて、この女から金を取り戻そうとは思うまい。取り戻したいのは、もっと他のものだ。 「わたしは柿沢さんの行方を捜しているんですが、ご存じありませんか? あなたと一緒ではないんですよね」  エミは、弱々しく首を振った。 「ええ。あの日、キリエちゃんから伝言を聞いて、あたしは急いで東京駅に行きました。そこで、柿沢さんからお金を渡されたんです。最初はびっくりしましたけど、でも彼の気持ちが嬉しかった。柿沢さんとは東京駅で別れました。彼のことが心配で、あたしは一緒に行こうって誘ったんですが、柿沢さんはうんとは言いませんでした。それどころか、『この金を持って行って、どこかでやり直してくれ。いい加減な付き合いをしてすまなかった』って言うんです。謝《あやま》らなきゃならないことなんてなにもないのに……。悪いのはあたしの方なんです。常磐証券の黒木さんに頼まれて、彼を強引に誘ったのはあたしです。それなのに、柿沢さんったら怒らないんです。逆にあたしに同情してしまう。そういう人なんですよ。あの人、優し過ぎるんでしょうね」  成美と同じことを言う。  男の浩一評はさんざんなのに、女の浩一に対する評価はみんな高い。わたしはそれを忌々《いまいま》しく思った。おそらく彼は、わたしが一番嫌いなタイプの男だ。 「あなたと別れてから、柿沢がどこに行ったか知ってますか?」  エミは申し訳なさそうに俯《うつむ》いた。 「すみません。あたし、本当に知らないんです。柿沢さんはなにも言いませんでした。でも、きっとどこにも行ってないと思うんです。だって、家以外に行く所なんかない人だし……」 「しかし、実家や女房の元には戻っていません。あなたと一緒でないならどこかに隠れているはずだ。一文無しの柿沢が頼れる人間に心当たりはありませんか?」  細い首が力無く振られた。 「ごめんなさい。ぜんぜんありません。彼は会社では孤立していたみたいだし、親しい友達の話も聞いたことありません。店の娘《こ》だって、知ってるのはあたしとキリエちゃんくらいで、他には……」 「そうですか。ところで、柿沢はあなたには奥さんのことをどう言っていました。別れたいとか言ったことはありますか?」 「いいえ。彼は奥さんをすごく大切にしていたと思いますよ。自分が不甲斐《ふがい》ないばかりに申し訳ないって、いつも言っていました。奥さんってね、彼と結婚する直前まで恋人がいたんですって……」  わたしは一瞬ビクッとした。エミは少し微笑み、話を続けた。「でもね、柿沢さんったら土下座《どげざ》して、お願いだから僕と結婚してくれってプロポーズしたんですって。よく、その話を聞かされました。でも、近頃の彼はときどきそれを後悔しているみたいでした。自分なんかと結婚しなかった方が、彼女は幸せだったかもしれない——そう言ってました」  言葉がなかった。そんな勝手な話があるだろうか。わたしや成美の人生を自分の都合《つごう》で振り回しておいて、自分は何様のつもりだ。そう言ってやりたい。だが、本当はそうではないのだ。  わたしにはもう分かっていた。そして、成美はもっと前から分かっていたのだろう。浩一の存在はただのきっかけにすぎず、わたしと成美は、その前からもう崩れかけた砂の城で暮らしていたのだ。  わたしはエミに礼を言い、席を立った。  キリエちゃんをよろしくお願いします——なぜか、別れ際に彼女はそう言った。よろしくされても困るが、わたしはとりあえず分かりましたと答えた。お任せ下さいとまで言わないところが、わたしの良いところだ。           3  五日後の深夜、店の外に立っているわたしを見ても、キリエは驚かなかった。夕方から天候が崩れ、街は霙《みぞれ》で濡《ぬ》れている。吐き出すとすぐに真っ白に変わる息を見ながら、わたしはキリエを待っていた。 「寒いね」  キリエは言った。少し酒臭いが、これが彼女の仕事なのだから仕方あるまい。愛《いと》しい人形は、思いのほか働き者だ。 「ああ。そんなに短いスカートでだいじょうぶなのか?」  わたしは文句の付けようがないほど美しい彼女の脚《あし》を見ながら言った。 「寒いよ」  キリエはさも当然という顔で答えた。「エミさんに会えた?」 「会えたよ」  わたしたちは並んで歩き出した。わたしもキリエも傘を持っておらず、すぐに身体が濡れ始めた。わたしは彼女の腕を取り、近くにあったゲームセンターに駆け込んだ。  二人して空を見上げたとたん、やけに心細い気持ちになる。世界にわたしと彼女しかいないような、そんなとんでもない甘い勘違いをしてしまいそうだ。少女は男に幻《まぼろし》を見せる。本当だ。男なら誰も憶《おぼ》えがあるだろう。  わたしたちの背後では、格闘ゲームのファンファーレやUFOキャッチャーの音楽が騒々しく鳴っていた。わたしは空を見上げたまま訊いた。 「キリエ……君も柿沢と寝てたのか?」 「ううん」  あっさりとしたものだ。もし肯定したとしても、やはり同じようにあっさりと答えるに違いない。 「寝てたのはエミさんだけ」 「そうか」 「うん」 「それなら、なぜ柿沢を助けたんだ?」 「他に誰も助けそうになかったから」  キリエはそう言った。わたしの愛しいサイボーグ——彼女の頭の中は0か1だ。なぜ、どうして、という質問はあまり意味がない。 「それだけの理由?」 「うん」  もうじきこの霙は雪に変わるだろう。それまでわたしたちはこうして二人でいられるだろうか。仮に彼女が忌《い》むべき連続殺人犯だとしても、わたしはこうしていたかった。 「柿沢はエミを連れ出し、そのあとどうする気だったんだ?」 「何も考えてなかったんじゃないの」  キリエは淡々と言った。「柿沢さんね、自分はどうやっても未来のない人間だから、誰かと一緒にいれば必ずその人間に迷惑がかかるって言うんだ。あたしもそう思う。あの人は、自分じゃ何も解決できないよ」 「だから協力してやろうと思ったのか」  キリエの頭が少し動いた。彼女の柔らかい髪が触れた場所にくすぐったいような感触だけが残り、わたしは思わずその感触に溺《おぼ》れそうになる。彼女が愛する彼女の髪——確かにその価値はありそうだ。 「あたしはエミさんのことが心配で、黙って後を付いて行った。二人はホームでしばらく話し合っていたけど、結局エミさんだけが電車に乗ったの。エミさんが行ったあと、柿沢さんはぼーっとホームに突っ立ったままだった。邪魔《じゃま》だから、早くどこかへ行ったら? ってあたし言ったの。そしたら、柿沢さんは、どこへ行っていいか分からないって言うの」  ついため息が出た。結局、答えは一番近い場所にあったのだ。エミが去ったあとで浩一に会う可能性が一番高いのはキリエではないか。彼女が店を抜け出し何をしていたのか、やっとこれではっきりしたわけだ。 「柿沢はいまどこにいるんだ?」  わたしは彼女の顔を見た。  ゲームセンターから漏《も》れたさまざまな色の光が、ただでさえカラフルな彼女をますます賑《にぎ》やかに照らす。それでも、光の中にいるキリエはモノクロの絵のように味気なく、儚《はかな》げだ。 「あたしの知り合いのところ」 「どんな知り合い?」 「昔、施設で先生やってた人。いまは愛媛《えひめ》のお寺の住職。あたしが紹介したの。行くところがないならそこへ行けばって言ったら、そうするってさ」 「そうか」  どういうわけか、わたしは涙が出そうだった。怒鳴《どな》る気も、諫《いさ》める気も、誉《ほ》める気にもなれない。それは、彼女の行動がわたしに理解できる「親切」や「同情」といった単純な感情とは違う、もっと複雑な部分から生じたものだと分かっているからだ。おそらくキリエが柿沢を助けた真の理由は、永久に、誰にも説明がつかないだろう。飾り立てた髪、緻密《ちみつ》な爪、長い脚、重そうな睫、転びそうな靴《くつ》——いちいち大げさで、それでいてまったく記憶に残らない彼女のパーツの一つ一つが無性《むしょう》に切なく、見ているだけで泣けそうだ。  彼女はなぜこんなに——。  いや、考えても仕方のないことだ。自分以外の人間を自分の物差しで理解しようとすることほど虚《むな》しいことはあるまい。  わたしはキリエの肩に手を回し、自分の方に引き寄せた。ぴったりと身体を密着させ、二人で黙って空を見た。霙が雪に変わる瞬間を見るのも悪くない。キリエの手がごそごそと動き、わたしのコートのポケットに滑り込むのを感じたが、わたしはなにも言わなかった。思った通り、彼女の身体は冷たかった。それは霙で濡れたせいではなく、彼女の心の温度だとわたしは信じて疑わなかった。           4  ようやく、わたしは成美に電話をすることができた。短い会話の末、わたしたちは〈ロンドン・ボーイズ〉で待ち合わせをすることにした。もう成美にオフィスに来てもらう必要はない。わたしは約束の時間よりも十五分早く店に着き、すっかり変わってしまった店内を観察した。わたしの知っていた〈ロンドン・ボーイズ〉はどこにもない。同じように、わたしが知っていた女もどこにもいない。  わたしは熱いコーヒーを飲みながら、この雪はいつまで続くだろうと考えた。雪が降っても、キリエはあのブーツで歩く気だろうか。だとしたら、誰かが手を取ってやらねば危険ではないか? そんなことを想像する。やがて、約束より五分早く成美が到着した。 「早かったのね」  彼女はそう言いながら、コートに積もった雪を払う。気の置けない良い友人に対するようなさり気ない仕草の一つ一つが、わたしに彼女の変化を知らしめる。わたしたちの間に、もはや緊張は生まれない。それを実感した。 「少し時間があってね」  わたしは笑い、成美もわずかに微笑んだ。  少しだけ穏やかで意味のない会話を交《か》わし、彼女はわたしがなにを言い出すのかじっと待つ。わたしはポケットから携帯電話を出して成美の前に置いた。それから、彼女の前にくしゃくしゃになったメモ用紙を広げた。昨夜、キリエがわたしのポケットに残していったものだ。子供のような字で書かれた十|桁《けた》の数字が並んでいる。成美は怪訝《けげん》な顔でわたしを見た。 「そこに電話をしてみてくれ。愛媛の寺なんだが、見習いをやっている男が出るはずだ。君はなにも言うな。相手が『もしもし』とか『どなたですか』と言うのを聞くだけでいい。分かったね?」  成美は呆然《ぼうぜん》としていたが、それからゆっくりと頷いた。電話を取る手が震《ふる》えている。わたしは彼女が取り乱すのではないかと心配になったが、なんとかだいじょうぶだった。成美は緊張しきった表情で、番号を一つ一つゆっくりと押した。それから、爪を噛《か》みながら、相手が出るのを待つ。  わたしは成美の表情の変化をじっと見ていた。言われた通り、成美は一言も発せず、相手の声を確認し、しばらくしてから電話を切った。だが切るや否《いな》や、いきなり電話を落としてしまった。彼女は両手で口元を押さえ、震えながらわたしを見つめた。 「——あの人だわ」  成美は囁くような声で言った。「間違いないわ。あの人よ」  わたしは成美に寺の住所を書いた紙を渡し、それから柿沢浩一をめぐる常磐証券の対応について一通りの説明をした。木田江美との関係もそのまま告げた。彼女は黙って聞いていた。特に怒った様子も怯《おび》えた様子もなかった。ただ、「あの人、苦しんでいたのね」とぽつりと呟いた。 「一つ確認しておきたい」  わたしは言った。「彼が抱えている問題は、すぐに解決がつくようなものじゃない。会社はほとぼりが冷めれば、また彼について考え始めるはずだ。完全に忘れてしまう可能性もないわけじゃないが、俺には保証できない。最悪の事態を避けるために、おそらくこれからも彼は逃げ続け、巨大な企業の影に怯え続ける生活を余儀なくされるだろう。つまり、君の夫に明るい将来はない」  これが厳しい現実だ。人は綺麗な理想だけでは生きていけない。 「それで?」  成美は訊いた。 「俺が行くなと言ったら、君は残るかい?」  一晩寝ないで考えた言葉だったが、驚いたことに成美は笑った。それも、「ふふふ」という子供の悪戯《いたずら》を見つけた母親のような笑いだ。 「桜庭君、ぜんぜん変わっていないわ」  成美は微笑んだ。「そんな気もないくせに、曖昧《あいまい》な言葉で人を試すのね。あなたは絶対に行くなとは言わない。昔からそうよ。他人の人生に口は出さない。だけど、自分の人生にも口を出させない。あのころも、そしていまも、あなたにはわたしの人生を引き受ける覚悟はない」  図星《ずぼし》だった。 「——ひどいな」  わたしは苦《にが》笑いするしかなかった。もしここに檜林《ひばやし》がいれば、またもテンカウントを入れそうな台詞だ。 「あなたと違って、主人は弱い人間なの。誰かがそばにいないとダメになってしまう。でも、わたしはその弱さが好きよ」 「君も危険な目に遭《あ》うかもしれないんだぞ。それでもいいのか」 「いいわけないじゃない。でも、それがあの人を忘れる理由にはならないわ。探せば道はあるはずよ。なにより、わたしはこれからも二人で生きて行きたいの」  成美はぼんやりとした声でそう言った。 「これからどうする?」  訊くまでもなかったが、とりあえず訊いてみた。 「愛媛に行くわ」  彼女は大切そうにメモをバッグにしまっている。どうやら、わたしは最後まで木製のオブジェ並みの扱いしか受けられないようだ。 「ご主人はまた逃げるかもしれない。彼は君に負い目を感じているし——」 「そうしたら、また捜すわ」  揺るぎない意志がそこにあった。昔から頑固《がんこ》で気丈《きじょう》だった彼女。いまもそこだけは変わらない。 「そのときはどこか他の事務所に依頼してくれ。俺はもうごめんだ」  わたしが言うと、彼女は微笑んだ。 「わたし、あなたを裏切って彼と結婚したことを後悔してないわ」  潔《いさぎよ》い告白だ。成美は繰り返した。「本当に良かったと思っている」 「それなら行くといい」  わたしも笑った。愛が絡《から》めば、どんな問題もやっかいだ。他人が口を挟む余地はない。結果は関係なく、成美は自分の思う道を行くだろう。そこにあるのが「幸福」か「不幸」かを決めるのは彼女自身だ。思い余った浩一が、自分から解放してやろうと放り投げたブーメランだったが、結局はわたしの頭上を掠《かす》めただけで、浩一の元に還《かえ》るらしい。 「ありがとう。さよなら」  立ち上がって彼女は言った。わたしは、ようやく彼女からまともな挨拶《あいさつ》を聞くことができた。それでよし——とするしかなさそうだ。           5  事務所に帰ると、檜林が部屋でラケットを振っていた。 「外は雪だ。そんなものを振ってないで、ボーゲンの練習でもしろ」 「とっくの昔にマスターした。俺はコートでもゲレンデでも完璧だ」  檜林は得意気に答える。それなら、次は大道芸でもマスターしろと言ってやった。自分では意識していなかったが、わたしは少し不機嫌だったのかもしれない。コートを脱ぎ、ハンガーに掛け、そのハンガーをスチームの前に掛ける。東京の雪は湿気が多くてすぐに服が濡れると文句を言うと、檜林が笑った。 「女に振られて気が立っているな」 「好きに解釈してろ」  否定する気にもなれない。  なにかを失ったのは確かだが、人間三十を過ぎれば、どうせなにをやってもなにか失ったように感じるものだ。マーク・ボランは二十九歳で死んで、本当に幸福だったかもしれない。わたしはコーヒーを入れ、それを持って椅子《いす》に座った。 「疲れた顔だな」  檜林がラケットを置く。 「お前と違ってよく働いているから、疲れてるんだ」  わたしはぐったりして言った。それでも哀しき習慣から、クライアントのために留守番電話をチェックする。机の上には、不在中に隣のスタッフが残したメモが貼《は》ってあった。その中の一つに、「キリエさんから」とある。慌《あわ》ててはがすと、そこにPHSの番号が書いてあった。わたしは急いで電話を取る。  檜林が聞き耳を立てているのは分かっていたが、それよりもすぐに電話をしたかった。十回ほどコールが鳴り、キリエが出た。 「外は雪が積もっている。もう見たか?」  わたしは高校生のようなことを言い、自分で自分の言葉に呆《あき》れた。初めてできたガールフレンドと話をしている少年みたいだ。 「明日、店が休みなんだ」  キリエはそう言った。それだけで充分だった。 「行きたいところはあるか?」  わたしは即座に訊ねた。向こう一年檜林にバカにされようと、鼻の下が何メートル伸びていようと構わない。いまのわたしには彼女のクールさが必要だ。 「映画」  キリエは言った。 「じゃあ、映画を観《み》よう」  檜林がわざと聞こえるような音で口笛を吹いたが、わたしは無視した。 「キリエ」  わたしは彼女の名を呼んだ。 「なに?」  目を閉じて、ずっとこの声を聞いていたかった。どんなきれいごとを並べたところで、若さという武器には抗《あらが》えない。わたしだって、いつもいつもなにかを失ってばかりではないのだ。 [#改ページ] 底本 祥伝社文庫  冬《ふゆ》に来《き》た依頼人《いらいにん》  著 者——五條《ごじょう》 瑛《あきら》  平成12年11月10日  初版第1刷発行  発行者——村木 博  発行所——祥伝社《しょうでんしゃ》 [#地付き]2009年1月1日作成 hj