目次 風に吹かれて  赤線の街のニンフたち  おでん屋とテレビ局  25メートルの砂《さ》漠《ばく》  歌はどこへ行ったか?  横田瑞《みず》穂《ほ》先生のこと  先生商売に悔あり  鮨《すし》とカメラと青年  私たちの夜の大学  最初のミニスカート  SKDの娘たち  トーポリの流れる街  モスクワの天保銭《てんぽうせん》  古い街の新しい朝  欧州無宿の若者たち  誇りたかき日本人  アカシアの花の下で  二十二年目の夏に  新宿西口の酒場で  われらの時代の歌  サーカスの歌悲し  飛行機によせる郷愁  光ったスカートの娘  ある晴れた日の午後  奇妙な酒場の物語  競馬その他について  女を書くという事  わがダンス研究小史  おろしや語奇談  古新聞の片隅《かたすみ》から  流行歌はどこへ行く  花の巴里《パリ》の流し歌  奇妙な事務所の午後  古本名勝負物語  自分だけの独《ひと》り言《ごと》  十二月八日の夜の雪  独《ひと》りでする冬の旅  わが新宿青春譜  百年よりも二十年  優しき春の物語  明治百年の若者たち  あわて者の末期の目  森と湖に囲まれた国  赤線と青線の間に  北国のオブローモフ  春宵一刻価六千金  スポーツの戦後史  果てしなきさすらい 解説(長部日出雄) 風に吹かれて 赤線の街のニンフたち  ある作家から、 「きみはセンチュウ派か、センゴ派か」  と、きかれた。  ピンときたので、 「センチュウ派です」  と、答えた。  その作家は目《め》尻《じり》にしわをよせてかすかに笑うと、それは良かった、と言った。  良かった、と言うべきではないかも知れない。だが、私には、その作家の言葉にならない部分のニュアンスが、良くわかった。  おくればせながらも、センチュウ派の末尾に位置し得たのは、良かったと思う。だが、良かったから元へもどせ、などとは言いたくない。滅んだものは、もうそれでおしまいだ。どんなに呼んでみたところで、ふたたび返ってきはしない。  後はただ白浪《しらなみ》ばかりなり——。何の文句だったろうか。終ったお祭り。紀元節。失われた祝祭を復活させようとするのは、空《むな》しいことだ。私は、そう思う。  良かった、というのは、過去の記憶を飾るささやかなリボンにすぎない。センゼン派は皆、それぞれのリボンを頭に結んでいる。私のそれは、短くて貧弱だ。だが、風が吹くたびに、そいつが揺れるのを私は感じる。そのことを少し書こう。いわゆる赤線廃止のまえに、その巷《ちまた》に一瞬の光陰を過した〈線中派〉の感傷である。  そのころ私は、池袋の近くに住んでいた。立教大学の前を通りすぎて、もっと先だ。  十畳ほどの二階の部屋に、十人ほどのアルバイト学生が住み込んでいた。私もその一人だった。  呆《あき》れるほど金のない連中ばかりで、何だかいつも腹をすかしていたように思う。  仕事は専門紙の配達である。業界紙とは言わずに、専門紙と言っていた。世の中に、これほど様々な新聞がある事を、私はその職場ではじめて知った。有名なものもあり、そうでないのもあった。  株式新聞、重工業新聞、日本教育新聞などが有名なところだった。ほかに数十種の専門紙があった。  毎朝、まだ暗い東京の街を、私たちは青い自転車を飛ばして出動した。目白を通り、飯田橋を抜け、日本橋の一角まで、十数台の自転車を連ねて全力疾走する。  事務所で各自の新聞を揃《そろ》え、配達にかかるのだが、その地区たるやべらぼうな広さだった。  そのため私は今でも、月島や、佃島《つくだじま》のあたりの露路を頭の中に思いうかべる事ができるし、町屋や、葛《か》西橋《さいばし》あたりの地理もくわしい。 「ついに一ドル相場実現……」  という証券新聞の大見出しを憶《おぼ》えているから、たぶん世間は景気が良かったのだろう。  だが、私たちは、少しも、良くなかった。配達を終えて、また自転車を池袋方面へ走らせる時には、うんざりしていた。金もなかったし、ひどく疲れていた。  そんな中でも、やはり時には女のいる街へ出かけた。どこをどう工面したのか、記憶にはない。今おぼえているのは、ファジェーエフとか、カターエフとか、オストロフスキイとか、その度《たび》に古本屋へ持って行った作家たちの名前だけだ。  新宿二丁目あたりは問題にならなかった。あんな所はブルジョア階級が豪遊する場所だと思いこんでいた。一度だけ、配達用の青自転車で駆け抜けた事かある。豪華さと、美人が多いのに驚嘆した。少なくとも、当時の私には、そう思われた。  私が時たま出かけるのは、北千住《きたせんじゅ》の街だった。立石《たていし》や、鐘《かね》ヶ淵《ふち》の方面へは、近くの採血会社の帰りに寄ったりした。  新宿の街は、その辺といろんな面で違うように観察された。だいいち、名前が高級だった。英語や、フランス語や、ドイツ語の名前の店が、そこにはある。  私の知っている北千住の店は、〈正直楼〉といった。女の子の名前が、マツという。それにくらべると、新宿には、アンヌとかエリカなどという女がいそうな気がした。  視線が会うと、すっと伏目になって半身を扉《とびら》の陰に引くようにする。新宿の客は知的なので、こんなソフィスティケイションが有効だったのかも知れない。  私は新宿に感心したが、自転車からは降りなかった。私の行くのは、お化け煙突の街だった。  月のなかばに、週末をさけ、出来れば雨降りの夜をえらんで三河島の駅から歩いた。夜半を過ぎると、四百円位で泊れる事もあった。  だからといって、待遇が悪いという事はなかったように思う。女の足音を待ちながら、雨の夜明けに戦前の〈家の光〉などを読んでいると、そのまま眠ってしまう事があった。朝、五時から自転車を走らせているのだから、無理もなかった。  冬の終り頃だったろうか。女が金を帳場に持っていった間に、そのまま、眠り込んでしまったらしい。目を覚《さ》ますと、五時だった。女は私の隣りで寝ていた。 「なぜ起さなかったんだ」 「だって、兄ちゃんが、あんまりぐっすり寝込んでるもんだから——」  東北から出て来て六ヵ月という女の子は、しんそこ恐縮しているように見えた。自分が帳場に行ってもどってきた何分かの間に、あんたはもう眠っていた、よほど疲れているに違いないと思って起さなかったのだ、と彼女は言った。 「帰る」  と私は言って服を着た。配達の時間がせまっていた。 「まだ暗いよ」 「配達の仕事があるんだ」  彼女は、玄関で私の靴をそろえ、 「ごめんなさいね」  と、訛《なま》りの強い言葉で囁《ささや》いた。「そこまで送っていく」  私は、その日に限って青自転車て来ていた。車のスタンドを靴先でバタンとはねて、私は走りだした。 「ちょっと待って」  と、女が後ろから叫んだ。彼女は着物の前を片手で押えて玄関に駆け込んだ。何か果物でも持って出てくるのだろうか、と私は想像した。女が出てきた。 「ほら。後ろのタイヤが抜けてる」  と、彼女は手に下げてきた空気ポンプを差し出して言った。私は、がっかりしたが、自転車を立て、空気ポンプを受け取った。 「あたしがやってあげる」  女はたくましい腕を見せて、空気ポンプを押した。ギュッ、ギュッと音を立て、タイヤが固くなった。  女はポンプをはずすと、手でタイヤをにぎり、 「固くなった」  と、言って、一瞬、照れたように笑った。 「これで大丈夫」 「うん」 「あんまり来ないほうがいいよ、こんなところ」 「眠るだけなら家でも眠れるからな」  皮肉を言って私は走り出した。暗い空に、巨大なお化け煙突の影が見えた。みち足りた睡眠と、不満な欲望とが入りまじって、妙な具合だった。風が冷たかった。日本橋への道は遠かった。 「固くなった」  と、言って照れた女の顔を思い出すと、私は何となく、良かった、と思う事がある。  だが、それはすでに滅びてしまった祭りの笛太鼓だ。それを復活させようとは思わない。失われたものは、二度と返ってこない。それが本当なのだ。 おでん屋とテレビ局  私が大学をやめたのは昭和三十一、二年ごろだったと思う。  授業料の未納が重なると、文学部の廊下にずらりと名前が張り出される。そのうち、あわてて月謝を納めた者の名前の上に、赤インクで棒が引かれ、何名かの未納者の名前だけがぽつんと残るのだった。  私の同級生たちが卒業する頃に、私は学校を去った。そのため、いつまでたっても連中と一緒に学校を出たという印象が強い。  その頃、といっても、その前後からそうだったかも知れない。実に大変な就職難の時代だった。  政経や商学部の連中でさえ、なかなかまともに勤めるのが難《むず》かしかった時期である。まして、ロシア文学専攻、などという妙な学生たちに、それらしき就職先が待っていようはずがなかった。  私の親友の一人、仮にIとしておこう。Iは、北陸の富山の出身である。高校時代はバスケットで鳴らしたスポーツマンで、同時にドストエフスキイの熱烈な読者であるという独特の快男子だった。  Iにまつわるエピソードは無数にある。無言でいる時は地下生活者の横顔の厳《きび》しさをもち、笑えばナタマメ煙管《ぎせる》の一番よく似合いそうな無縫の人物であったが、時に初対面の他人に真価を理解されないうらみがあった。  Iは前に露文を受けて一度失敗していた。それは学力のためではなかった。のちにある先生からうかがったのだが、面接の際の某教授の心証がマイナスに働いたためだそうだ。たまたまその極度のハスキーボイスと、ドストエフスキイの作中人物のごとき風貌《ふうぼう》が、ある老先生をおびえさせたのだという。  ちょうど折しも、早稲田で学生運動と関連した事件が続発している時期だったので、先生方も極度に神経質になっておられる時代だったのがIの不運だった。  こういう面構《つらがま》えの男を入れたら何をやらかすかわからん、という凄《すご》味《み》のようなものがIの第一印象にあったのかも知れない。  入学の際に不運だったIは、卒業の際にも悪い時期にめぐりあった。  すでに郷里の北国から美しい恋人を上京させていたIは、就職運動にも疲れ、運を天にまかせたといったあきらめの表情で、中央線沿線のパチンコ屋に日参していたようだ。  いよいよ卒業をひかえた或《あ》る日、私たち友人に向ってIがつきつめた表情で言った。 「おれ、オデン屋かバーでもやってみようと思うんだが」  私たちは全員双《もろ》手《て》をあげて賛成した。彼が店を開けば、私たちは連日その店に押しかけて倒産させたかも知れない。中には、その店の従業員として使ってくれるように、売りこんでいた級友もいた。  その資金を彼は郷里の父君に相談したらしい。ご存知の通り万金丹《まんきんたん》の富山である。彼の家も売薬に関係した家業だった。父君は、彼のために、売薬の帳面を何冊か処分すると言ってくれたそうだ。売薬の帳面とは、私の勝手なネーミングで、正しくは何というのか知らない。  とにかく、全国津々浦々、その帳面をたよりにおとくい先を回って、薬を箱に補給したり、集金したりする帳面である。それを売ることは、同時に権利を売ることになるのであろう。当時でさえも、その帳面は高い金で売買されたもののようだ。  露文科でドストエフスキイに関する優《すぐ》れた卒論を書いたIが、売薬の帳面を売ってオデン屋の経営者になるというのは、なかなか味のある生き方だったと思う。  彼は私たちの級友の中で、最もデラックスな職場を持ちそうになったわけで、私たちは皆、彼をうらやんだものだった。私はといえば卒業証書を持っていてさえも就職できない時期に、大学抹籍《まっせき》の学歴でまともな職にありつけるわけがなかった。  しかし、その頃から、少しずつ世の中の風向きが変りはじめたらしい。週刊誌ブームとテレビ時代の本格化が、文学部出身の学生たちに新たな職場を開いてくれたのである。  私たちの級友は、少しずつ売れて行った。新聞社や雑誌社とならんで、民間放送局に採用される仲間がぽつぽつ現われて来た。Iも、また、当時関西に開局した某テレビ局に入社して、オデン屋への道は挫《ざ》折《せつ》した。  数年たって、会ったとき彼は第一線のディレクターとして活躍していた。私たちは、かつて学生時代の古戦場だった中野北口の呑《の》み屋《や》で再会した。Iはその頃、野球中継の仕事をやっており、南海の杉浦のカーブをどのようなカメラ・アングルでとらえるかについて、声涙ともにくだらんばかりの熱心さで喋《しゃべ》りつづけた。  私はIに作家としての最も重要な資質を見ており、文学をやっても良い仕事のできる男だと信じていた。それだけに、またかすかな淋《さび》しさを感ぜずにはいられなかった。  その後、Iとは時々会う機会があった。あれから十数年たって大阪のテレビ局で顔を合わせると、彼の頭がすっかり若白《わかじら》髪《が》でおおわれているのに私は驚かされた。もともとそういう資質だったのだが、私にはそれだけとは思えない。あの時代に卒業したり、卒業しそこねた連中は、みんな心の中のどこかに、そんな若白髪でおおわれた部分を持っているような気がする。  最近、私たちの年代、つまり昭和初年あたりから十年位までの間に生れた世代が、あちこちで目立って活溌《かっぱつ》な仕事ぶりを示しているような印象がある。  これまで機を得なかった世代が、ようやく長い沈潜の時代をくぐって、再登場してきたと感じるのは手前勝手な想像であろうか。  私は金沢に住んでいるため、つい最近まで11PMという高名なテレビ番組を知らなかった。  金沢ではNHKと、北陸放送の二つのチャンネルしか視聴できないからである。北陸放送では11PMをネットしていない。  だから私は週刊誌のグラビアであのA女史とか、K先生とかを知っているだけだった。先日、Iに会ったとき、私はその話をした。 「なるほど、日本中の連中が自分らのやってる番組を知ってると思いこむのは危険なことだな」  と、彼はうなずいて言った。そんな話をしながら、私はふと、そんな話をしている現在という時代が、どれほどあの十年前とかけはなれた地点まで来ているかを感ぜずにはいられなかった。  もしあの当時、民間テレビだとか、出版社系週刊誌だとかいった門戸が出現しなかったとすれば、Iと私は間違いなくオデン屋か酒場のマスターとして再会していただろう。さしずめ私は偽《にせ》洋酒を売りこみに行くインチキ・ブローカーにでもなっていたに違いない。そして、私たちは客の帰ってしまった店のカウンターで、グラスを傾けながら、とりとめのない話題にふけることだろうと思う。その時の私たちの話題はどんなものだったろうか、と考えた。  その日、TV局のあわただしいロビーで、タレントのA女史や、踊りのうまいUという子や、歌い手のKや、司会者のF氏などを私は見た。  私には、その人々が、なぜか遠い遠い国の異国の人間のように見えた。たぶん私は、その時、十年前のあの時代の空気の中にわずかながら再帰していたのではないかと思う。  タイムマシーンで過去にさかのぼったような感覚が、私の中にあった。そして、私は、そのあわただしいロビーにいて、自分たちが売薬の帳面を売ってオデン屋を始める相談をしている二人のとまどった学生であるような錯覚をおぼえていた。やがて、遠くまで来た、という感慨が一瞬後によみがえって来た。 25メートルの砂《さ》漠《ばく》  人生の楽しみには、いろんなものがある。  酒、女、賭《か》けごと、なども楽しみにはちがいないが、いささか単純だ。  悪口、貯金、浪費、などというのもある。最近の若い男の子たちにとっては、お洒落《しゃれ》も重要な楽しみのひとつらしい。一流新聞の誤植をさがす事に、生き甲斐《がい》を感じているような男もいる。  私も以前は、睡《ねむ》ることが楽しくてたまらない時代があった。  煙草をやめて六カ月になるが、禁煙というのも楽しみの一種かも知れぬ。肺ガンが怖《こわ》くて、煙を口先でふかしている相手に、 「うらやましいなあ。こっちは目下禁煙中でね。いや、なに、まだ半年そこそこさ」  などとうそぶくのは、いい気持のものである。どちらかと言えば、ひねくれた楽しみといえるだろう。  もっと違った楽しみもある。 〈他の人々と協力して何かをやる楽しみ〉というやつはどうだろう。あまりパッとしない楽しみのようだが、人間、誰しもこの楽しみを心の中で望んでいるのではあるまいか。 〈他の人々〉といっても、男と女の事ではない。あれは大変だ。 〈性交を終えたる後《のち》、すべての生物は哀《かな》し〉  ローマの詩人は、そんなふうに歌ったという。私の言うのは、男同志の仕事のことである。何か或《あ》る仕事を、何人かで力をあわせてやりとげる楽しみというやつだ。終った後に充実した高揚感が残るのは、その種の行為だけではなかろうか。  先日、東京から雑誌のグラビア撮影のために二人のお客さんが見えた。  タクシーをチャーターして、まず金沢の市内を回った。それから、内灘《うちなだ》へ車を走らせた。かつて米軍の試射場があった内灘の浜は、今は海水浴場に変っている。  ニセアカシアの群落をぬけて、赤や青のビーチハウスのそばまで来た。砂地の固い所へ車を回し、砂丘のあたりで少し撮影をした。それから、車に乗りこみ、波打際《なみうちぎわ》を走ってみようと運転手氏にけしかけた。 「さあ」  と、中年の口《くち》下手《べた》な運転手氏は首をひねった。「砂がどうかね」 「だいじょうぶだ」  と、私が彼をはげますように断言した。「この前に来た時も、タクシーで走ったんだ」  ビーチハウスの横から波打際まで二十五メートル位のものだろう。柔らかい砂浜で、ゴム草《ぞう》履《り》の片っぽだとか、コーラのびんだとか、夏の名残《なご》りが散乱していた。  前にタクシーで走った、と言ったのは嘘《うそ》だった。なんだかそんな気がしただけで、私は要するに砂というものをなめ《・・》ていたのだ。  タクシーは低いエンジン音をたてながら、砂の中へ進んで行った。砂地の中途まで来たところで、運転手氏の不安があたった。  車の後輪が砂地にめりこんで、空転しだしたのだ。 「やっぱり無理だったな」  私と、カメラマンのAさん、記者のOさんの三人は車から降りた。私たちは、まだその時は事態をはっきり把《は》握《あく》していなかった。三人がかりで押せば、車は楽に動くだろうと信じこんでいたのだ。  これがまちがいだった。車は、押しても引いてもビクともしない。運転手氏が舌うちして、私たちを咎《とが》めるような目つきで見た。  私たち三人の客は、何度か車をスタートさせようと試みた。だが失敗に終っただけだった。私たちは、とほうに暮れてあたりを眺《なが》めまわした。  季節はずれの浜《はま》辺《べ》には、外の車も見えなかった。ただ、波打際で二、三十人の小学生男女が、甲高《かんだか》い声を張りあげて遊んでいるだけだ。その中の数人が、砂地でエンコしたタクシーを見て近づいてきた。女の子も何人かついてきた。引率者の教師らしい青年は、タクシーを見つけて、ゆっくり歩いてきた。 「おい、君たちみんな、頼むよ」  私は小学生に声をかけた。  今度は人数が多くなった。車の周囲に、蟻《あり》のようにとりついた子供たちは、私のかけ声と共に、足をふんばった。  車は奇《き》蹟《せき》のように持ちあがった。エンジンをふかすと、身震いするように前方へ走り出した。そして波打際まで来て、またもや、砂に後輪を沈めてしまった。  私たちは、いろんな努力をした。後輪の下を掘ってみたり、子供たちに頼んで、もう一度、持ちあげてみようとしたりした。  だが、今度はだめだった。押せども引けども、びくともしない。運転手は、むくれたような顔で車から降りてきた。  波打際のため、日本海のしぶきが遠慮会釈なしに吹きつけてくる。  運転手氏は、怒っているようにも、あきらめているようにも見えた。車は、波打際の傾斜にのめりこんだまま、次第に高くなる波に洗われようとしていた。  私たちは、それぞれ、車輪の下に木片を差し込んだり、砂を掘ったり、必死で働いた。  私も、Aさんも、Oさんも、足もとを波で洗われ、裸足《はだし》になって頑《がん》張《ば》った。日本海の海水は恐ろしく冷たく、長く足をつけていると感覚がなくなる。風が出て来た。空は暗い。 「おーい、みんな来てくれえ」  私は子供たちを呼び集めた。小学生たちは、押しても引いても動かない車に飽いて、上の方でドッジボールをはじめていた。  子供たちに手伝ってもらって、私がかけ声をかけた。車輪が持ち上った。板ぎれをタイヤの下に素早くはさむ。エンジンの音。動いた。加速しながら、波打際を疾走して行く。百メートルほど走って、ビーチハウスのほうへ上りかけた所で、また動かなくなった。  子供たちは、もう興味を失ってしまったらしく、遠くへ行ってしまった。  その日、私たちは、わずか二十五メートルあまりの砂漠を横断するのに、四時間近くの時間をついやした。動いては埋まり、掘り出しては動かした。私たちは、近づいてくる夕暮れの気配におびやかされながら、必死で砂と闘った。  大げさだと思うが、私は砂漠の真中で、砂から脱出しようとする隊商の男のような気分を味わった。今日、はじめて顔を合わせた物書きと、カメラマンと、記者と、運転手の四人の男が、不機《ふき》嫌《げん》な顔をつきあわせて、それでも力を合わせて働いた。  キメ手はトタン板だった。車輪の下にしいたトタン板を、数メートル動くたびに順ぐりに前輪の下にはさんで、砂漠を突破したのだ。最後の数メートルを、思いきり後輪を空転させて車が渡りきりビーチハウスの方へダッシュした時、私たちは思わず歓声をあげた。 〈飛べ! フェニックス〉という映画のことを私は思い出した。砂漠に墜落した大型機を分解して、男たちが新しい飛行機を作りあげる物語である。あれにくらべると、何ともみみっちい話だが、それでも私たちは今日、何事かをなしとげた、という感じがしていた。私のカルダン・シューズは、潮を吹いて使いものにならなくなったし、Aさんのコートは、オイルで黒く汚《よご》れていた。四人とも、ひどく疲れて、むっと押し黙っていたが、私はAさんや、Oさんや、運転手氏に、一種の連帯感のようなものを感じていた。  たかが二十五メートルの砂地を越えただけの話だ。だが、〈性交を終えたる後、すべての生物は哀し〉といった感覚とは正反対のものが、そこにはあった。  遊べは遊ぶほど空《むな》しく、集まれば集まるほど孤独になるのが現代だ、という気がする。そんな時代に、孤独から抜け出る道は、こういった共同の行為にしかあるまい。ほかに何があるだろう。 歌はどこへ行ったか?  私が早稲田にはいって、最初に覚えたのは、〈国際学連の歌〉というやつだった。  九州の地方の高校からやってきた私にとって、その歌は一種の驚きだった。それまでに知っている歌といえば、軍歌と、流行歌と、外国民謡ぐらいのものだったからである。  戦争中は、〈ああ、特幹の太刀《たち》洗《あらい》……〉とか、〈轟沈《ごうちん》、轟沈、凱《がい》歌《か》があがりゃ……〉などと、ボーイ・ソプラノで歌っていた。  敗戦直後に覚えたのは〈……ウリ・ナラ・マンセイ〉とかいう朝鮮語の歌である。その歌は〈螢《ほたる》の光〉のメロディーなので、歌いやすかった。  引揚船のリバティの甲板《かんぱん》で、〈リンゴの唄《うた》〉というやつを教わった。仁川《じんせん》から乗った船に、コレラが発生して、博多《はかた》港外で長い間ストップをくらっていた時期だ。船の横っ腹から流れだす黄色の排泄物《はいせつぶつ》を、大きな魚が群がって食っていた。私は〈赤いリンゴに唇《くちびる》よせて……〉と口ずさみながら、それを見ていた。その時以来、私はチンという魚が苦手である。  九州に引揚げてきてからは、何を歌っていたのだろう。中学で音楽の時間に、〈追憶〉などという名曲を教わった記憶がある。〈星影さやけく またたくみ空……〉などと鼻歌を歌いながら芋掘りをやったものだった。英語の時間をつぶして、農業の実習にあてるのは農村の中学では、めずらしい事ではなかった。  当時、町の映画館で顔を切られた事があった。高校の徽章《きしょう》を刃物のようにといで、学帽につけている荒っぽい少年がいた。その帽子でビシッと顔を叩《たた》かれて、外へ出て見ると血が流れていた。その時かかっていた映画は、折原啓子という女優さんのメロドラマだった。〈……白い指先 入日がにじむ〉というメロディーを、今でも忘れないのは、その曲が、あの小事件のBG音楽だったせいだろう。  上京して間もなく、メーデー事件がおこった。続いて早大事件にぶつかった。 〈国際学連の歌〉は、その頃に覚えた。ほかにも続々と新しいレパートリイが増《ふ》えた。 〈憎しみのるつぼに 赤く燃ゆる……〉という革命歌は、当時の陰惨な文学部地下のせまい部屋に、よく似合った。生協の売店では、煙草を一本何円かでバラ売りしていた時代である。 〈若き親衛隊〉〈シベリア物語〉などのソ連名画が、大学で人気を集めていた。当時の私たちのナンバーは、〈シベリア大地の歌〉であり、〈バルカンの星の下に〉だった。気のきいた連中は、それをロシア語で歌った。学内では、〈自由舞台〉や〈劇研〉などが活溌《かっぱつ》な活動を続けていた。東京中の大学が、一種の高揚期、または躁《そう》状態にあった時期だったように思う。  友人のコミュニストが、当時、戸塚にあった〈らんぶる〉という名曲喫茶にしばしば通うのを、ブルジョア的であると、厳《きび》しく批判された時代である。 「おれはショスタコーヴィッチの〈森の歌〉を聞きに行ってるんだ。文句があるか」  と、彼は反論して相手をへこませたのだそうだ。  そんな中で、私はどこでどう間違ったか、ジャズや流行歌に興味をもちだした。ジャズなどというものは、アメリカ帝国主義末期の退廃文化のように言われていた時代だった。  私たちのグループは、しばしば銀座の〈テネシー〉だとか、高円寺の〈カブス〉だとか、渋谷の〈スイング〉だとかに通った。当時はディキシーランド・ジャズの活気があったころで、私たち初心者にもわかりやすいジャズが多かった。  私たちは当時、〈現代芸術の会〉というグループを作って、薄っぺらなパンフレットなどを発行していた。今にして思えば、私たちは、やはり一種の異端分子だったらしい。 〈凍河〉という露文科のクラス雑誌に、私は奇妙な〈毛沢東の文芸講話〉批判を書いている。私の立場は、基本的には今も変らないが、その文章に、ユーグ・パナシェの〈リアルジャズ〉の一部を引いているあたりが苦笑ものである。  アンドレ・ブルトンや、レーニンや、ロベルト・ゴーファンなどが五目ソバみたいにごたまぜになっているところが、私たちの会の面白さだった。 〈ホット・ペッパーズ〉が当時の私たちの親しいジャズバンドだった。のちに〈ディキシー・キングス〉に移った石川順三という地味なクラリネット奏者もアイドルの一人だった。なんでも予科練あがりのジャズメンだそうで、彼についてこんな話を聞いたことがある。  彼がまだプロになる以前、部屋で一生懸命にクラリネットを練習していると、見知らぬ客が現われた。「通りすがりに聞いたのだが、あんたの演奏は素晴らしい」と、その男は言ったそうだ。 「あなたはジャズの天分がある。どうかね、わしのバンドで吹いてみんかね」  アメリカのジャズ物語によくある話だが、石川青年は興奮した。早速その男について行くと、そのバンドというのが、大売出しのチンドン屋の楽隊だった、という話。  嘘《うそ》か本当か、私は知らない。だが、そんな伝説がぴったりくるようなプレイヤーだった。 〈シックス・ポインツ〉の森享《とおる》氏も、私たちのごひいきの一人だった。石川氏も、森氏も、私は個人個人に面識はない。当時、私たちは恐らくジャズを音楽としてではなく、一種の抗毒素のように服用していたのだろうと思う。  私たちは〈憂鬱《ゆううつ》なる党派〉ではなく、〈滑《こっ》稽《けい》なる党派〉をめざしていたのだった。 〈卑怯者《ひきょうもの》去らば去れ……〉といった歌声のパセティックな響きに、すっとぼけたディキシーのシンコペイションを対置しようと企《たくら》んでいたのだろう。  メーデーのプラカードに、 「原爆で殺すな キッスで殺せ!」  というコピーをかかげて、不真面目《ふまじめ》だと物議をかもしたのも私たちの仲間だった。当時そんな題のアメリカ映画が来ていたのを、もじった文句である。  その頃になると、〈国際学連の歌〉の悲壮な調子は、すでに私の心をとらえなくなっていた。私たちは中野界隈《かいわい》に基地をおく深夜のゲリラ化しており、友人のNは、その地区のサンドイッチマン組合の輝かしい創始者の一人として威勢をふるっていた。  最近の広告代理店時代に先がけて、彼が作ったユニオンは、〈ラグタイム宣伝広告社〉といった。  営業的には成功しなかったが、それは私たちが常に数周早過ぎるランナーだったためではないかと思う。  今はもうないが、中野北口、内外劇場手前の、〈ルドン〉という酒場が、私たちの基地だった。青春の追憶というやつは、物理的に甘美なものになりがちなものだが、この〈ヘルドン〉をめぐる一時期は、それだけで優に一編の物語が書けるだろう。  先日〈カルチェ・ラタンからモンマルトルへ〉という本をめくっているうちに、私はいつの間にか当時の中央線沿線の夜々を思いだしていた。  かつて、ある批評家が「過去を語らぬ」というスタンダールのモットーを信条としている、と書いているのを読み、感動したことがあった。私も、自分の過去を語りたくはない。たとえ、いかに客観的に書かれたとしても、自分について語る部分は、偽善か、偽悪かの匂《にお》いが漂うだろうと思う。  だから、私は、私をめぐる当時の風俗の表皮について、その記憶について書きたいと思う。そして、また、現在の私の漂流地点における個人的な感慨について書いてみたい。  いま、私はまたもや自分の歌を見失おうとしている。〈浪曲子《こ》守唄《もりうた》〉から〈がんばろう〉まで、〈○○灯油の唄〉から〈雨を汚したのはだれ?〉まで、目のくらむような亀《き》裂《れつ》をのぞきこみながら、歌うのをやめている。私の歌はどこへ行ったか? それを探《さが》すために、過去をふり返ってみるのも悪くはあるまい。 横田瑞《みず》穂《ほ》先生のこと  直木賞をもらった後で、いろんなかたから祝電をいただいた。先輩作家の方々からのものもあり、編集者や、未知の読者からのもある。赤い祝電の山の中に、灰色の弔電がなかったことが私をほっとさせた。というのは、以前ある雑誌の新人賞に決った当日、私の家人に不幸があり、お通夜《つや》の席にどっと祝電が殺到して大騒ぎになった経験があるからである。今回はその点、混乱はなかった。顔なじみの電報配達氏がニコリともせずに「こんどは赤だけです」と言い「よかったですね」とつけ加えた。よかった、と私も思いながら少し物足りない感じもした。  祝電の中に、横田瑞穂先生からのものもあった。賞をもらって良かった、とまたそのとき思った。文学賞についての、花田清輝氏の否定的なエッセイが頭に残っていたからである。  横田先生は、私が早稲田の露文科に入学し、はじめて教えを受けた先生である。昭和二十七年の、メーデー事件、早大事件と、いろいろ問題の多い年だったから、教室も何となく落ちつかぬ感じだった。学生たちも貧しかったし、私の考えでは先生も経済的には決して楽な時代ではなかったように思う。  私たちがロシア語の厄介な変化に疲れてくると、先生は授業をやめ、一服するのだが、この時間がとても良かった。  くしゃくしゃのたばこの袋から貴重品であるかのごとく一本を抜き出し、さらにそれを半分にちぎって火をつける。ちぎった半分はまた大事そうに袋にもどされた。そのもどす際の真剣な動作が、私にはおもしろかった。先生はまだその時分、助教授にもなっておられなかったはずだし〈静かなドン〉の名訳も世に出てはいなかった。  私自身、ひどく貧乏していたが、先生がそんなふうなので、こちらも気が楽だった。  どうにもならなくなると、私はしばしば京成電車に乗って、青《あお》砥《と》だったか立石《たていし》だったか、あの辺の製薬会社に血を売りに行って急場をしのいだ。ある冬の午後、やはり売血を終えて上野から高田馬場へ出た。授業に出るつもりで来たのだが、気分的に疲れていてどうも学校まて歩く気がしない。駅から学校まで二、三十分はかかるので、思いきってスクールバスに乗ることに決めた。学校まで片道十円、往復だと十五円になる。私たち学生はほとんど歩いていたし、それまで私はバスに乗ったことはなかった。それはたいへんなぜいたくのように思えた。だが、自分の血をガソリンに代えるだけだと考えると少し気が楽になった。  戸塚のロータリーを過ぎたあたりで、ふと窓の外に横田先生の後ろ姿が目にはいった。黒っぽいオーバーを引きずるようにして、時代もののカバンを下げ、少しねこ背の先生は、古いチャップリン映画にでも出てきそうな、疲れた感じで歩いておられた。  何ぶん初めてのバス旅行とあって、窓から首をつきだしてキョロキョロしていた私は、一瞬、ひどく狼狽《ろうばい》した。だが、まったくの偶然にちがいないが、その時ひょいと先生がバスを振り返って、私と目が合ったのである。  その時の先生の目の色を、私は今でもはっきりと思い出すことができる。時々ひどくこわい感じになる目だが、その時はちがった。 「やあ、バスに乗ってるな。いくらか景気がいいんだね。よかったなあ」  といった優しい感じでもあり、 「ぼくは今ちょいと景気が悪くてね。今日は歩きさ。風が冷たいねえ」  と自嘲《じちょう》されているようでもあった。私はどうにも身のおき所がなくて、もじもじし、もう血を売った日でもバスに乗るのはやめようと考えていた。寒い、風の強い日の午後だった。  米川《よねかわ》正夫氏とか、除村《よけむら》吉太郎氏とかいった先生たちは遠くにいたが、横田先生は私たちの近くにいた。私は先生の訳でゴーリキイや、ゴーゴリの短篇を読んだ。 〈静かなドン〉の完訳は、私が学校を追い出されてから、ずっと後に出た。見事な美しい日本語であり私は感動したが、そのとき思ったのは、これで先生はいつもスクールバスに乗られるかもしれない、ということだった。  金沢で先生からの祝電をいただいて、賞をもらって良かったと感じた。いつか、機会があれば早稲田をおとずれて、ご一緒にスクールバスに乗ってみたいものだと思う。 先生商売に悔あり  あれは去年の夏のことだったと思う。  私は、ある雑誌社の編集者に連れられて、銀座の〈M〉という酒場にいた。いわゆる銀座の高級バーに客として足を踏み入れた事は、それまで一度もなかった。そのため、私はいささか身心の平衡を失っていた。つまり、固くなっていたわけである。  私が緊張していたのは、左右に坐っている女性たちのためではなかった。私は、それまで、かなり長い間、女性たちを見て来ていた。SKDや、日劇の踊り手さんたちのために、放送台本を書いていた時期もある。またCMや、テレビや、レコードの世界にもいた。そのため、美しい女を見て動揺するようなナイーブな感性は、ほとんど失ってしまっていた。私が固くなっていたのは、その店のそこここに発見できる知名な客たちのためだった。  そこには、私がそれまで活字か写真でしか知らなかった、作家や、ジャーナリストたちが幾人もいた。その夏、はじめて文学賞の候補になり、落ちたばかりの私には、そこはかなり気の張る場所だったのである。私はやはりあがっていたのだろう。その晩、どういう人と会ったか、どんな会話を交《か》わしたか、ほとんど憶《おぼ》えていない。  ただひとつ、妙に鮮明に記憶にのこっている印象があった。それは、私の前に坐っていた、初対面の立原正秋さんが、その店の女性と交わした断片的な数語である。 「君、その立原先生《・・》という奴《やつ》はやめてくれないか」 「そう? だったら何と呼べばいいの?」 「立原さんでいいじゃないか」 「だって——」  その夏、直木賞を受けたばかりの立原さんは、その店でも少しも気押された風《ふ》情《ぜい》はなく、のびのびと振る舞っていた。だが、店の女性に先生、先生と連呼される事に対する含羞《がんしゅう》の表情が、ふともらした言葉の響きにあった。 〈正直な人なんだな〉  と、私は思い、その不敵な面構《つらがま》えの背後にある純粋なものを見たような気がした。  だが立原さんの言葉が、妙に頭にのこっているのは、その時、私が感じたあるうしろめたさのためである。私ならそんな場合どう応ずるだろうと考えたのだった。  私なら、たぶん、——先生、と呼ばれてもべつに何とも感じなかっただろうと思う。先生、という言葉の響きに対するイメージが、私の場合は、すっかり変ってしまっていたからだ。私は、自分を、ひどいすれっからしの中年女のように感じて、いやな気がした。  私は、それまで、先生、と呼ばれる事になれっこになっており、その言葉に対する正常な語感を失ってしまっていたように思う。  それまで、私が生きてきた世界では、先生という言葉が、よそとはかなり違った感じて用いられていた。  私は現在でも、あるレコード会社に作詞者としての専属契約が残っているが、ここでは社のアーチストは、すべて先生と呼ばれていた。作詩家、作曲家は、年齢、キャリアの如《いか》何《ん》にかかわらず、みな先生、だった。  先生の中にも、大先生と、木っ葉先生がいるのは、いたしかたない。だから、ディレクターや、社員たちが、彼らを呼ぶ時のニュアンスは、すこぶる微妙なものがあった。 「何とかひとつ良い歌をお願いしますよ、先生」  と、こんな具合に敬意をこめて発言される場合もあるが、そうでない時も多い。  何年たっても一曲も書かせてもらえぬ先生たちが、制作室の壁際《かべぎわ》にたくさん立っていた。そんな先生たちは、ディレクター氏が出入りするたびに、少しでも注目を引こうと腐心していた。彼らは、別に社に呼ばれたわけてもなく、用件があったわけでもない。ただ、ディレクターや社員たちに忘れられないために、毎日そこに顔を出しているのだった。何か偶然の事故や、担当者の気まぐれから、お声がかかるのを、じっと弱々しい微笑をうかべながら待ちつづけているのである。  そんなふうにして、チャンスを掴《つか》み、一発のヒットで有名になった先輩たちの伝説が、レコード会社には、いくらも転《ころ》がっていた。 「おまえ、そんなに毎日顔出したって無駄だよ。仕事なんかないんだから。あきらめたほうがいいぜ、先生」  そんな言葉をあびせられても、黙って通ったSは、今、ある社のスター作曲家の椅子についている。ディレクターの前に直立不動の姿勢で、最敬礼をくり返していた某先生は、近頃はテレビ番組に、にこやかな笑顔を見せるようになっていた。  その幸運が、いつ自分にも訪れるかも知れない、と、先生たちは思っているのだった。 「おい、先生、ちょっとハイライト一つ買ってきてくれ」 「はッ」  先生は、ディレクターに目をつけられた喜びに胸をふくらませながら、階段を転《こ》けつまろびつ駆け下りて行く。 「やあ、すまんな、先生」  ディレクターと対等に口をきける先生連中もいた。何々ちゃん、と呼ぶかわりに、そう呼ぶのだ。一種の親愛感がそこにはある。 「よう、先生」 「やあ、巨匠」  と、いった具合である。先生、という語感には、このような三つの用途があった。すなわち、蔑称《べっしょう》としての先生、愛称としてのそれ、そして敬称である。ほかに、事務的なものもあり、揶揄《やゆ》的に用いられるものも、イヤ味として使われる場合もあった。  十五、六歳の人気歌手が、先生、と付き人たちに呼ばせているのは、めずらしい風景ではない。政府から勲章をもらった某歌手が、敬意をこめて、先生、と呼ばれるのは、それほど似合わなくはなかった。  いずれにせよ、みな先生だった。レコード会社だけではなく、芸能の世界はそうだ。台本書きや、作詞者たちは、先生、と呼んでやりさえすれば、それで結構良い気持でついてくるもんだ、という見くびった感覚が、そこにはあった。  また、コメディアンや、漫才師たちの間には、楽屋では先生と呼ばないと返事をしない連中も少なくなかった。  そのような優越感と、劣等感のからみ合いの中で、先生、と呼ばれる事に私はなれて行ったのだった。  先生、と呼ばれて抵抗感を覚える人々を、私は正直、うらやましいと思う。  これまで私の生きてきた世界では、人々は経済的に不当な扱いに対する怒りを、先生、と呼ばれる事で中和されているようなところがあった。  私の知っている先生の一人は、バス代を節約するために、駅からかなりの距離を歩いて社に通ってきていた。別に用事があるわけではない。時に社宛《あて》に電話がかかってくる事がある。 「○○先生、Kテレビからお電話です」 「はい、はい」  女事務員から、そう呼ばれることのために顔を出したのだった。Kテレビなどとは嘘《うそ》っぱちだ。電話は夫がいつか大ヒット曲を書いてくれると、信じて、レストランに働きに出ている細君からである。Kテレビから、といって電話をかけるように先生が命じているらしい。さも忙しそうなポーズで受話器を耳に当てている先生の薄い肩に、西日が斜めにさしている。  �やるぞ見ておれ 口には出さず  そんな歌詞がふと頭にうかんで、しめた、と思った時、それがヒット曲の一節だと気づいて、淋《さび》しくなった、と、その先生は私に語った事があった。 鮨《すし》とカメラと青年  私は九州で生れた。育ったのは、かつての大日本帝国の植民地であった。外地からの引揚者である。  二十歳の時に上京してから、ほぼ十五年余りを東京で過した。いわゆる〈地方人〉というやつだ。福岡、京城《けいじょう》、平壌《へいじょう》、ハルビン、大《だい》連《れん》、開城《かいじょう》、仁川《じんせん》、大阪、モスクワ、レニングラード、ストックホルム、オスロ、金沢、等々、たくさんの街を見たり、暮したりしてきた。その中でも、東京は私の好きな街のひとつだった。だが、どうしても私にげせない《・・・・》部分も、いくつかあった。  例《たと》えば、食物の店で、調理労働者が客に対して、きわめて不当な取扱いをしたりするのが、私には理解できなかった。さらに奇怪に見えたのは、その暴言や非礼を、客たちがニタニタ笑って甘受している情景である。  そこには〈地方人〉のうかがい知れない、加虐と被虐の微妙な娯《たの》しみがあるのかも知れない。私はそう考えて、何度もそのような威勢のいい兄《あに》い連の店へ行った。そこで彼らの不当な扱いにじっと耐えていれば、それまで私に見えなかった新しい歓《よろこ》びが、突然見えてくるのではあるまいか、と思ったのだった。  だが、私は駄目な男だった。鮨などをつまみながら、ねじり鉢巻《はちまき》の男の冷笑的な言いたい放題を聞いていると、むらむらと腹が立ってくる。駄目なのである。  先日、面白い話を聞いた。話してくれたのは、ある中年の男性である。仮にA氏としておこう。  A氏は一流中の一流大学を出たサラリーマンである。ある年齢に達して、それにふさわしい〈長〉と名のつくポストが転《ころ》がりこんできそうになった。A氏の前には、エリートの道が坦々《たんたん》と続いているように見えた。普通の男なら、黙ってそのベルトに乗っただろう。だが、A氏は、自分からその場所を降りた。転がり込んできそうになったポストを辞退して、横道にそれたのである。その横道も、それなりに重要な部門だった。だが、それは明らかに重役へのコンベアーではなく、行き止りの道だった。A氏は降りたのである。何から降りたのかは、はっきりしない。だが、その決断が、A氏の背後に強く人を惹《ひ》きつける人間的な魅力として残った。A氏と話していると、そこには一箇の会社員ではない自分の顔をもった男が目の前にいる、という感じがした。  私が書こうとしているのは、A氏のことについてではない。そのA氏が、仕事の合い間にふと喋《しゃべ》った話の事だった。  ある日、A氏は自分の下で働いている一人の青年を連れて、鮨屋に行った。その店は、主人の歯に衣《きぬ》を着せぬ八方破れの毒舌で有名だった。機《き》嫌《げん》の悪い時には、それこそ客はこてんぱんにやっつけられる。威勢の良い早口で、痛烈な啖《たん》呵《か》を切られると、慣れない客などは腰を浮かせて席を立ちかけるほどだという。それを嬉《うれ》しがる馴《な》染《じみ》客で、店はいつも混んでいた。そんな場所だった。  その日、どんなやりとりがあったかは知らない。親《おや》父《じ》はテカテカと額を光らせて、当るを幸い客に片っぱしから毒舌を叩《たた》きつけていた。A氏らが席に坐ると、親父が、何にするかとたずねた。A氏と、その青年とは、首をのばして、タネを眺《なが》めた。一瞬おくれた。 「えーと、そうだな」  それが悪かった。とたんに親父の額に青筋が走った。 「てめえが食うものもわからねえような奴《やつ》はけえれ! この朝鮮人野郎!」  こんな場合常連の客である事を示すためには、嬉しそうな高笑いをあげて、 「まあまあ」と手で制しながら、「きびしいからなあ、この店は」と、連れに囁《ささや》けばよかった。そうでなければ、むっと押し黙ることだ。だが、いずれにせよ、その親父は許さなかった。客が下手に出ようと、上手に出ようと、更にサディスティックな追い討ちをかけてくる。 「朝鮮人野郎!」  と、怒鳴られて、私ならどうしただろう。その時になってみなければ、わからない。だが、場合によっては変な事になっただろう。その時、A氏は黙っていた。そんな人なのだ。一瞬、間をおいて、A氏の連れの青年が、ぽつりと言った。 「おっさん——」  彼の声は静かで、ゆったりとしていた。 「あんた、おれたちが朝鮮人でなくて、良かったなあ」  良かったなあ、としみじみとした調子で言うと、青年は目をあげてじっと親父の目を正面からみつめた。  親父が、ごくりと唾《つば》を飲みこんだ。何か言おうとしたが、何も出てこなかった。親父はとまどったのだろう。反撥《はんぱつ》か、追従《ついしょう》か、沈黙かのどれかを予想していたにちがいない。それを舌なめずりして、待ち構えていたのだ。その親父が、一瞬、鼻白んで黙り込むのをA氏は見た。 「最近の若い連中を、そのとき見なおしましたよ」  と、A氏は、その話をした後で、うれしそうに私に言った。  私は偏見について語りたかったのではない。私はヨーロッパで、白人の婦人たちが、黒人の青年たちと腕を組んで街を歩いている風景をしばしば見た。道路にはみ出したカフェで白人女たちは、黒人の胸に頬《ほお》をすりよせ、周囲の人々は微笑してそれを見ていた。それは私にとって、恐ろしい風景だった。私はその美しい白人の女と、それを見ている群衆の中に、黒人に人種差別をしないヨーロッパの目を感じたのだった。彼らは、黒人を差別して見てはいなかった。彼らは、黒人を区別《・・》していた。人間と、テリヤや、九官鳥が違うように。  私はアメリカに一つの希望をもっている。それは、あの国に黒人に対する人種差別があるからだ。  アメリカの男たちは、白人の女の入浴を盗み見た黒人に、激しい怒りを暴発させるだろう。彼らは、その黒人に嫉《しっ》妬《と》し得るからだ。つまり、黒人を同じ人間として感じているに違いない。アメリカにおける人種差別の背後に、私は白人種の黒人に対する不安と、嫌《けん》悪《お》の葛藤《かっとう》を感じる。それは、彼らが、黒人を人間と区別せず、同じ族として考えているからではないかと思う。アメリカの人種差別問題は、肉親の愛憎に似てはいないだろうか。今後、黒人問題はアメリカの最も大きな苦しみになるだろう。そこには、誰かが言ったように黒人問題ではなく、白人問題がある。  だが私は、黒人を区別《・・》する人間たちと、その世界を、ひどく怖《こわ》いものに感じる。アメリカの差別のほうに、より人間的な苦しみを見るような気がする。この人種差別の問題に悩みつづけているアメリカに、ある種の希望をもっているというのは、そういう意味だ。  ヘルシンキで東京の大学生と一緒になったことがある。ある日、ホテルに帰ってきた彼が、憤然として言った。 「頭にきたな、全く。街を歩いてたら外人が、おれに聞くんだよ。お前は朝鮮人か、って」  若くて恰好《かっこう》のいい彼は、それからこう続けたのである。 「見りゃわかりそうなもんだろ、えっ? 朝鮮人がこんな上等なカメラ下げて歩いてるかってんだ」  彼は〈ナイコン〉のカメラと、〈ソニー〉の携帯ラジオを、いつも離さない青年だった。私がA氏にその話をすると、A氏はうなずいて「最近の若い連中にも、いろんなのがいますなあ」と、遠くを見るような目つきをした。 私たちの夜の大学  世の中を見るのに、ふたつの考え方があるように思う。  進歩、という観念がひとつ。  もうひとつは、世の中はだんだん悪くなって行く、という感覚である。 〈青春〉という、えたいの知れない時代について語るとき、誰でもが後者の立場に接近して行くようだ。グッド・オールド・デイズ。人間的な娼婦《しょうふ》。酒と、友情と、そして闘争。 「最近の若い連中は可《か》哀相《わいそう》だよなあ」  大人《おとな》たちのほとんどが、その青春回顧を、そういったセリフでしめくくる。そして変に嗜虐《しぎゃく》的な目つきで、青年たちの肩を叩《たた》くのだ。  こいつは本当だろうか、と、私は思う。本当に昔の方が良き時代だったのだろうか?  私にはわからない。自分の青少年期を、まるごと全体としてふり返ってみるとひどく怖《こわ》い気がする。もう一度、あの頃に帰ってみたいなどとは、金輪際《こんりんざい》おもわない。だから、今の若い連中を不幸だと考えた事は、これまでなかった。また同時に、うらやましく感じた事もなかった。 「ぼくらの時代は悲惨なものだったんだよ。きみたちは幸《しあわ》せだなあ」  こんなふうに微笑する大人もいる。だが、そんなふうにも言いたくないし、言えない。  昭和二十八年から三十年にかけての中央線沿線には、不思議な自由さがあったように思う。それ以前の事も、最近の事も知らないが、それは奇妙な季節だった。ある街の空気を作るのは、そこに集まる種族たちであり、また同時に、街が人間を惹《ひ》きつけるのでもあるのだろう。  当時、私たちは、中野駅北口の一画を中心にして出没していた。その地帯は、私たちにとってのメコン・デルタであり、〈私の大学〉でもあった。〈私の大学〉というのは、ゴーリキイの自伝青春小説のタイトルである。モーイ・ウニヴェルシチェート。私の大学。  当時、私たちの仲間の間では、ドストエフスキイが人気があった。ゴーリキイをかつぐのは、事大的な社会主義リアリストか、素朴なヒューマニストかに偏《かたよ》っていたように思う。 「ゴーリキイか。そうだな、初期の短篇にはいくつか良いのがあったっけ」  多少とも文学的なセンスのある連中は、そんなふうな言い方をする事が多かった。だから、ゴーリキイを好きだ、と公言する場合、私はいつも一種の抵抗と、いなおり《・・・・》を必要とした。しかし、私は彼の自伝的な小説や、エッセイが大変好きだった。ドストエフスキイを読む時に、私が受ける感動には、必ずある種の怖《おそ》れがともなっていた。だが、ゴーリキイは、偉大ではなかった。私は彼を、気の弱い、傷つきやすい友人のように感じたし、彼の小説もそういうものだった。  人はどう思うか知らないが、私は、自殺したマヤコフスキイや、批判されたパステルナークや、文化人エレンブルグなどよりも、もっと複雑な辛《つら》い生き方をしたソ連文学者が、たくさん居たと思う。たとえば、ファジェーエフとか、ゴーリキイとか、最近のショーロホフなどがそうだ。公的な立場に立つことを迫られ、それに企投した作家の悲劇といったものが、そこにはある。それは、〈テロリストの回想〉を書いたサヴィンコフに見られる不幸とは、また違った形での悲劇なのだ。  いずれにせよ、当時の中野界隈《かいわい》は、私たちにとって、本当の大学のようなものだった。私たちは、そこで酒を飲み、女とつき合い、議論をし、時には稼《かせ》ぎ、ごくまれに勉強をした。その時々の人間との触れ合いには、ひどく心に残るものがあった。  国電中野駅北口に降りると、当時は正面に〈中野美観街〉の入口があった。この美観街という名称には、横尾忠則《ただのり》氏描くところのイラストレイションみたいなユーモアが感じられない事もないと思うが、どうだろう。  左手に警察学校が見え、右手に公衆便所があって、雨の日にはよく臭《にお》った。美観街をまっすぐ行くと、ぽつりぽつりと私たちの記憶に残る店があった。今はもう消え失《う》せた名前が多い。いったいに中央線沿線の酒場の名前は変っていて、それぞれにイメージがあった。  美観街を少し行くと、〈人魚〉という酒場があった。私は何百回となくその店の前を通りながら、最後までその店にははいらずじまいだった。扉《とびら》を開けると、深海のように暗い店内に、人魚のような女たちがじっとこちらを見ていそうな気がしていた。そのイメージをこわすのが惜しかったのと、店頭に定価表が出ていないのが不安で、私はためらったのだった。こんな店名は損ではないかと思う。  さらに進んで、右に小路を折れ、体がやっとはいる位の暗い階段を上ると、〈シャノア〉という店があった。ここに最初に迷い込んだ晩に、非常な美人に遭遇した。友人たちは〈シャノア〉のミッちゃん、と彼女の事を呼んでいた。何でも銀座の松屋に勤めているという噂《うわさ》だった。今と違って現役のデパートガールのホステスというのは、めずらしかったので、われわれは一日、ベトコン狩りをめざす海兵隊員のように、松屋デパートをくまなく捜索した。あのデパートの中で、特定の個人を発見する事は、至難な作業だった。だが、〈シャノア〉のミッちゃんは、いた。私たちは仰天して、彼女に発見されまいと松屋の階段を駆け降りて逃げた。 「シャノワールじゃないのよ。シャノアよ」  と、いうのが彼女の客に発する最初の言葉だった。決して高い店ではなかった。学生が百円札一枚にぎってでも、行ける酒場だった。中野には、そんな人民大衆的なバーが少なくなかった。それでいて、〈シャノア〉のミッちゃんのような美人が確かにいた。美人とは言えなくとも、魅力的な女の子が随所にいたように思う。私にはその事が不思議でならない。中野に見事なマンモスビルや、近代的な商店が増《ふ》えるにつれて、そんなひとたちが少なくなって行ったような気がする。  美観街をさらに進むと、左に数本のせまい小路が走っており、その一本に風変りな喫茶店があった。いや現在も残っているから、ある、と書くべきだろう。  古典を意味する〈K〉という名のその店は、私たち中野コンミューンの昼間の議場のようなものだった。  その店は九州出身の画家が経営する喫茶店で、クラシック・レコードのコレクションでも有名な店だった。店に一歩ふみ込むと、最初の客は一瞬ぎょっとする。店内の構造は一種の木造の蜂《はち》の巣城であり、ブンブン言う羽音のかわりに、バルトークやバッハの音楽が響いていた。雑然というか、整然というか、とにかく様々なガラクタや、古色蒼然《そうぜん》たる蓄音器の砲列が客席をとりかこんでいる。回廊風の二階席は、歩くたびにきしみ、手すりにもたれるのは危険だった。  その後、改装したらしいから、今はもうあんなではあるまい。だが、当時の〈K〉は、きわめてファンタスティックなカフェだったといえよう。私はそこではじめて〈不合理ゆえに吾《われ》信ず〉などという奇妙な本を教えられたり、〈キージェ中尉〉のレコードを聞いたりした。詩人であり、戦後有数のオブローモフであった友人のNは、その暗い店内で、アポリネールの〈オノレ・シュブラックの失踪《しつそう》〉のあら筋をくり返し私に話してうまなかった。  入口で三十円の紅茶券を買えない連中も、中にはいた。そんな連中の名誉を守るためにも、仲間は絶えず〈K〉に現われなければならなかったのだ。 最初のミニスカート  ミニスカートばやりである。私などの所へも、あれをどう思うか、などというアンケートが舞い込んできたりする。  脚《あし》の形の良くない日本人にはどうか、などという良識派の抵抗もあるようだが、私はミニが嫌《きら》いではない。理屈でどうこう言うのではなくて、感覚的に好きなのだ。スカートという代物《しろもの》には、〈自由〉と〈解放〉の匂《にお》いがある。短ければ短いほど、それは強い。  これは私の個人的な感じ方であって、それを主張する気は毛頭ない。少年時代に、はじめてスカートなるものを見た時の印象が、あまりに強烈だったため、それが一種のフェティッシュとして定着したのだろう。  私の幼年期から少年期にかけて、女の脚はほとんど隠され続けていた。カスリの〈もんぺ〉か、国防色のズボンしか、記憶に残っていない。実際には、スカートをはいていた女の人にも会っているはずだ。また、家にあった古い〈主婦之友〉や何かで、スカートの形態や用途は知っていただろうと思う。  それにもかかわらず、私は敗戦までスカートに関する記憶はなかった。私はそれを、北鮮から脱出して、生命の危険にさらされながら三十八度線を越えた後で、はじめて見たような気がする。いわば、私にとって、「スカートは自由と手をつないできた」のだった。  その年の夏おそく、私たちは開城《かいじょう》の街とK江とを見おろす小高い台地のキャンプに集まって暮していた。  それは半島の北側から脱出してくる日本人引揚者たちを収容するアメリカ側の施設だった。うしろが小さな山になっているその台地には、何十という巨大な軍用テントが中近東風に盛大に立ち並んでいた。  私は十四歳で、大人《おとな》や老人たちを、自分と同じ水準の仲間のように心得ている、手におえない少年だった。  日本人たちは一日おき位に、行列を作って南下してきた。彼らは歩いて三十八度線の境界をこえ、それからまた歩いたり牛車に乗ったりしてやってきた。台地のキャンプからは彼らがやってくるのが良く見えた。  ふつう明け方に境界をこえるので、行列はたいてい正午か、午後に開城の街のむこう、K江のさらにむこうの赤い丘陵地帯に現われ、それからまっすぐに白い埃《ほこり》をたてながら街道を動いてくる。その行列は、長いこともあり、短いこともあったが、独《ひと》りでやってくるものはいなかった。  裸足《はだし》の女や、子供をおぶった男たちが多く、なかには目を閉じてかつがれてくるものもあった。彼らは、テントに入る前に、モーターつきのポンプで、体中に白い粉を吹きつけられ、予防注射をうたれる。男も女も、子供もみんなそうしなければならなかった。私たちのときも、そうしたのだ。それから、ふつうだと一週間ほどキャンプで待ち、もう一度注射をしてから列車で東海岸の港へ運ばれ、そこから引揚船に乗りこむことになっていた。だが、その夏は半島の南側て大きな鉄道の反米ストがあったため、かなり長い間そのキャンプから動けなかったのである。  私たちのテントは、台地のいちばん端の方にあった。そこからは、竜骨のように反《そ》り返った家家の屋根や、市街を迂《う》回《かい》して鋭くカーブするK江の水流、ギラギラ光るポプラの青い群落などが良く見えた。おまけに、盆地から吹きあげてくる上昇気流のせいで、暑さもそれほどはこたえなかった。  大人たちはテントの下をまくり上げ、みんな死んだように寝そべって一日中じっとしていた。日ざしの強いテントの外を駆け回ったりするのは、私たち少年や子供だけで、私たちは同じ年頃の男の子や、少女らが大勢いることで興奮していたのだろう。それに、もう荷物をかついでの、あのうんざりする徒歩旅行が終ったと知っていたし、学校も、大人たちの干渉も全くないのがうれしかったのだ。餓《う》えていても、それはやはり私たちにとってかけがえのない自由な夏休みだったのである。大人たちは妙に優しかったし、時たま支給される米軍のコーンビーフの罐詰《かんづめ》は、死ぬほどうまかった。そして、私はそこであのスカートに出会ったのだった。  ある日の午後、裏山のアカシアの木陰で仲間と花札をしていると、街道に長い行列が見えた。それは今までに見たどの行列よりも長く、動き方も早かった。 「大きいのがやってくるぞ」  と、私が言った。仲間の少年たちは立ち上って手をかざし、そちらを眺《なが》めた。 「ずいぶん人数が多いぜ」  と一人が言った。「どこの連中だろう」  その大きな行列は、いちばん暑い時間にキャンプへ現われた。私たちは花札をやめ、それを見物にゲイトの方へ降りて行った。  広場で、消毒がはじまろうとしていた。ほかの行列と違って、今度の連中は、比較的身なりが良く、荷物も多かった。四、五人の青年が列の前後につきそい、女たちの荷物をおろしてやったり、人数を数えたりしていた。 「どこから来た連中だろうな」  と、一人の中学生が言った。「すげえ荷物だ」 「こいつら、歩いてきたんじゃないな」  と、私が言った。「きっと途中までトラックをやとってきたんだ」 「金持なんだな、よし」  何が「よし」だかわからないが一人の中学生が、敵意を見せて呟《つぶや》いた。  やがて、消毒がはじまった。男たちはズボンの前を拡《ひろ》げて、一人ずつアメリカ兵の前に進み出た。黒いホースが震え、DDTの白い粉がぱっと飛び散った。 「あれを見ろよ!」  と、不意に仲間の一人が、すっとんきょうな声をあげた。「あいつ、変なものはいてやがら」  それは小学校六年生くらいの女の子で、たしかに私たちの見なれないものをはいていた。 「ばか。あれはスカートだ」  と、中学生の一人が笑って言った。「昔の女学生は、みんなはいてたんだぞ」  私は仲間をおしのけて、前にのり出した。たしかにそれはスカートだった。すごく短いスカートで、白い、まっすぐな脚が膝《ひざ》の上の方まで、すっかりむき出しになっていた。片方の足のふとももに、赤くマーキュロのあとがついているのまで見えた。  私は口の中が、ひどく乾《かわ》いて、息苦しいような感じがした。その女の子は、袖《そで》なしの少ない布でできたシャツを着ていた。まぶしそうに目を細めながら、白い額にはりついた前髪を、しきりに小指の先でかきあげていた。  私たち引揚不良の一群は、その高貴な美少女の白い脚を、恐ろしいものでも見るように息をつめて眺めていた。 「みろ! みろ!」  と、小学生がわめいた。女の子が、アメリカ兵の前に進み出て、スカートの上の方を両手でおし拡げたのだった。アメリカ兵は、太いホースを差し込み、レバーをおした。しかし白い粉は短いスカートの中を素通りして、地面にパッと煙をまきあげただけだった。  兵隊は苦笑し、ホースを引きぬくと、素早く女の子のスカートの下へ突っこんだ。 「あっ!」  と、私たちは思わず大声をあげた。スカートが一瞬、ふわりとめくれ上り、私たちの目の前に、ゴムの食い込んだ、少女の真白なふとももがむき出しになった。  彼女は、まぶしそうに目を細め、それから私たちの方をみて微笑した。 「すげえなあ!」  と、仲間の一人が言った。 「なんでえ。あんなの」  と、私は呟いたが、膝頭《ひざがしら》ががくがくするのが自分でもわかった。  それが、私の記憶に残っている、最初のスカートである。それは、大変なミニであり、戦争の終った事を告げる一つの象徴だった。私がミニスカートに与《くみ》するのは、その為《ため》かも知れない。 SKDの娘たち  浅草の国際劇場に出入りしていたのは、あれはいつ頃の事だったろうか。  たぶん私が二十代の終りに差しかかっていた時期だと思う。当時、私は三木トリロー氏のテレビ工房にわらじを脱ぎ、放送関係のライターとして働いていた。国際劇場に出入りしていたと言っても、遊びではない。と、いって、単なる仕事《・・》とも言いきれないところがあった。二十代の青年にとって、SKDの若い踊り手たちと一緒に番組を作る仕事が、楽しくないはずはなかった。今にして思えば、あれは私の苦い青春における、奇妙に幻想的な一時期であったような気がする。  その頃、CMソングの作詞や、音楽番組の構成などをやっていた私に、新番組のスクリプトを書いて欲しいと言ってきたのは、あるラジオ局のプロデューサーであるFさんであった。  Fさんと私は、かなり以前からの仲間だった。私は大学をやめて数年後に、ある広告代理店の制作部員として働いていた。その頃、局側の番組担当者として私と組んだのが、そのFさんだったのである。  このFさんの事を思い出すたびに、私は一種の感慨を覚えずにはいられない。Fさんもまた、私の青春放浪の中で出会った、記憶に残る顔のひとつである。創生期の民放ラジオマン気質とでも言える雰《ふん》囲気《いき》を、いつまでも失わない不思議な人だった。Fさんに関して、私は個人的な事は何も知らない。ただ、この一見童話作家ふうのプロデューサーが、ひたすらラジオとショウビジネスを愛している人物だという事だけは、信じられた。  Fさんと私が、はじめて会ったのは、四谷荒木町の料亭で、局と代理店側スタッフの顔合せがあった晩である。局側からは、当時報道部長で、またニュースキャスターとしても異色の存在だったI氏が姿を見せていた。代理店側からは社長と私が出席した。I氏も私の方の社長も、いずれ劣らぬ座談の名手だったから、私とFさんは、黙って箸《はし》を動かしていれば良かった。  私はビールを飲んでいたが、Fさんは酒は駄目らしかった。私たちは番組の話ばかりしていた。  その晩から、私とFさんのつき合いが始まった。私たちの作っていた録音構成番組は、時間こそ短かったが、かなり熱のはいった仕事だったと思う。制作費が限られていたので、遠出の取材の場合など、自腹を切って交通費に当てたりしたものだ。  一度、フェリーボートの取材に行った時、私たちの前にタブロイド版の新聞をもって、金をゆすりに来ている男がいた。その男と入れ違いに私たちが名刺を出すと、フェリー会社の気の弱そうな所長は、おずおずと千円札の包みを差し出して、頭を下げた。 「これで、ひとつよろしく」  と、彼は言った。私とFさんはあっけに取られてその金を眺《なが》めた。こいつがあれば、今度の取材費は心配せずに済むのに、と思いながら私たちはそれを丁重に辞退した。すると所長は、不意にそわそわして、金包みを引っこめ、机の下で更に何枚かの札を追加し出したのである。私たちは苦笑して彼を制止し、そのまま事務所を退散したものだった。それは風の強い日で、フェリーボートの窓から乗り出して波の音を録音しようとしたFさんが、何度も波をかぶってずぶ濡《ぬ》れになったのを憶《おぼ》えている。  かなり長くその番組を続けたのち、私たちは別れた。私の勤めていた代理店が左前になって、局とうまく行かなくなったためだった。  その後、私は引き抜かれて小さなPR誌の編集長をやっていた。そして、何年かたって私が放送ライターに転じた頃、Fさんは再び私の前に現われたのである。  私たちは今度は少し違ったニュースショウ的なラジオ番組をはじめた。その中に〈ダンシングパトロール〉という小さな、お喋《しゃべ》りの部分が出来たのは、もちろんFさんの仕事だった。  それは、SKDの幹部クラスから若手まで、毎日一人ずつ番組に引っぱり出して喋らせようという、はなはだ欲の深い企画である。Fさんの顔で、SKDの方が好意的なキャストを揃《そろ》えてくれ、私が彼女らのお喋りの台本を書くことになった。  これが普通の番組なら、ライターが自分で勝手なスクリプトを書きあげて、それをタレントに読ませるだけでいい。だが、今度の場合は少しちがっていた。  SKDの踊り手たちは、最初に自分の名前を名乗り、それから何かパーソナルなお喋りをして、最後をドライバーへの呼びかけでしめくくるという約束だった。この、パーソナルなお喋りの部分は、空想では書けない。彼女らの芸名の由来や、出身地や、歌劇を志望した動機や、日常生活や、趣味や、将来の抱負など、やはり一対一で面接し取材をする必要があった。  私が浅草の国際劇場へ出入りしていた、というのはそんないきさつである。毎週一回、私は浅草へ出かけ、国際劇場を訪れなければならなかった。それは私にとっては、かなり面倒な仕事だったが、反面、若い娘たちの王国を観察する得難い機会でもあった。  その頃、NHKの〈若い季節〉の音楽を書いていたSさんに、 「いいなあ。ぼくとかわろうよ」  と、まんざら冗談でもないような口調で言われたのを憶えている。  私はその仕事を通じて、あの華《はな》やかな舞台が、大変な重労働である事を知った。そして彼女らを、その労働に耐えて踊り続けさせるものが何かを考えさせられた。  その後、私はやはり同じ企画で、日劇ダンシングチームの楽屋へかよったが、その時はもうSKDの時のような新鮮な印象は、はね返ってこなかった。重山規《しげやまのり》子《こ》とか、立川真理とか、西川純代とかいった独特の個性をもったスターたちの記憶が残っているだけである。  国際劇場の正面から、ひとこと「事務所へ」と告げて通るのは、悪い気持ではなかった。すぐ左へ降りて行くと、航空母艦の内部へもぐったような気がした。頭をぶっつけそうな低い天井、曲りくねった通路、衣裳《いしょう》や道具が所せましと積み重ねられている小部屋、そして暗い階段。  私はその地下道を歩くたびに、現実というものの透視図を見るような気がした。私はすでに二十代の後半にさしかかっていたし、少年時代からすでに人生をあるがままに受け入れる習慣が身についていた。頭の上から響いてくるオーケストラの音と、地下道の沈んだ空気の間に、さほど違和感はおぼえなかった。  いちどヨーロッパのショウビジネス関係の人を、そこへ案内したことがある。 「驚いたでしょう」  と、私が地下道を通りながら言った。 「いいえ」  と、その人は首を振って言った。「ショウの世界はどんな国でも、みんな同じようなものですよ。ここは良いほうです」  屈折する地下道を抜け、階段をどこまでも上って行くと、少しずつ周囲が明るさを増してくる。網タイツの踊り手たちが上から駆け降りてきたり、弾力性のある笑い声がひびいてきたりした。  私の面接場は、楽食の片隅《かたすみ》にあった。楽食、すなわち楽屋の食堂であろうか。そこに一週間分、六人の踊り手たちが待っていてくれるはずだった。その時会った人々の名前を、私はもう全部は憶えていない。だが、学生時代の同級生の名前よりは、多く憶えているような気がする。一度か、二度、わずかな時間語り合っただけの人の名前を忘れないでいるのは、やはりあの楽食の印象が、かなり強烈だったせいに違いない。  レビュー《・・・・》という言葉には、どこかカフエー《・・・・》という言葉に相通じる、甘《あま》酸《ず》っぱい語感がある。  もちろん、ここでいうカフエー《・・・・》とは、私たちの知らない、あの伝説的な社交場のことだ。なにかの写真集などで見るカフエー《・・・・》は、エプロン姿のホステスがいて、主婦連の集会みたいな感じを受ける。あれはあくまでカフエー《・・・・》であって、カフェでないほうがいい。レビュ《・・・》ー《・》も、レヴュウと書くと感じがでない。  ラジオ局のプロデューサーであるFさんと仕事をするようになって、私はSKDのファンに意外に男性が多いことを発見した。それまで私は、SKDと宝塚を、ほとんど同じタイプのショウと思っていたのである。  だが国際劇場の天井裏の食堂には、私が予想していたような倒錯した奇妙な雰囲気は全くなかった。そこに充満しているのは、健康な舞台労働者の見事な食欲であり、若々しい笑い声と、汗と、網タイツに包まれた逞《たくま》しい脚《あし》のパレードだった。  私は後日、一度その楽食へ外国人のお客さんを連れて行ったことがある。 「これは何であるか?」  と、その外国人がきいた。 「当劇場のアーチストたちのための専用のレストランである」  私の説明に相手は一瞬とまどった様子だった。それは、こちらの英語がいいかげんだったせいもあるだろう。 「レストラン・フォー・アーチスツ」  と、私がくり返すと、相手はようやく納得したように手をひろげて、 「OH、ワンダフル」  と首を振った。  この「ワンダフル」は、なかなか含蓄のある言葉で、その外国人は、いろんな意味でそれを使う男だった。国際劇場の楽食を見て彼が発した「ワンダフル」には、二つの驚嘆が含まれていたと私は思う。  ひとつは、あの豪華な舞台を創《つく》り出すアーチストたちのレストランが、余りにもせまい小空間であり、貧弱であったことへの驚きであろう。その食堂へ足を踏み入れるたびに、私はいつも泰平ムードにたるんだ皮膚を鞭《むち》打たれるような感じがするのだった。そこは、余りにも敗戦直後のブラック・マーケットに似ていた。  私はそれまでに、ほぼ人生と現実というものの仕組みを、自分なりに理解しているつもりでいた。しかし、これほど鮮《あざ》やかなコントラストをもってその表裏の縮図を示されると、やはり一種の感慨を覚えずにはいられなかった。  その外人の「ワンダフル」のひとつの側面は、その感慨だったにちがいない。数分前にカブリツキで見たラインダンスが、感動的であればあっただけ、彼のショックも大きかったのであろう。その外国人のオッサンは、網タイツのラインダンスが続いている間、うわごとのように、 「おれはキョートへ行くのをやめた。明日もここへくるぞ」  と呟《つぶや》き続けていたのだから。  その外国人の「ワンダフル」の、もうひとつの意味は、その貧弱な食堂に充満している、陽気なバイタリティに対する嘆声であったと思う。  浅草という土地柄とは無関係に、私はSKDの持っている伝統的な大衆性が好きだった。楽食には、その良き伝統が集約的に表現されていたようだ。ガタビシのテーブルは、見事な果実のような娘たちの体重できしみ、ひくい天井は、彼女らの笑い声や叫びで震えていた。食堂が貧弱であればあるほど、踊り手たちの若々しさが印象的だった。ギリシャ神殿の円柱のような白く輝く脚が、現われては消え、交錯してはほぐれた。  真夏の午後、私はその食堂の一角で、彼女らのひとりひとりと、台本を書くための取材をしていた。彼女らは、驚くほど率直で、よく笑った。みんな平凡な、ふつうの娘さんたちで、地方から来ている人も多かった。取材を終えて帰りぎわに、客席から舞台をのぞくと、さっきの平凡な娘たちが、全く信じられない迫力て踊っているのだった。舞台の魅力のひとつは、あの変身の秘密にあるのではなかろうか。  私はそのラジオ番組の仕事を通じて、沢山の踊り手さんたちに会い、時には彼女らと個人的なお喋りをしたりした。  モダンダンスの勉強に渡米中の藤代暁子《きょうこ》さんとは、よく踊りの話をしたし、多角的な才能の持主である幸《さち》わたるさんには、ラジオの歌を何度も歌ってもらった。その頃、私とFさんは埼玉県庁がスポンサーになっている朝の番組で、月に一つずつオリジナルの歌を作っていて、乏しい制作費の中で四苦八苦しながら仕事を進めていた。毎月、何がしか自腹を切って作った歌を、私たちはSKDの踊り手さんたちに歌ってもらった。熱海かほるさんには、スタジオでずいぶんお世話になった思い出がある。先日、SKDをやめた彼女と何年ぶりかで出会ったら、銀座の〈蛙《かえる》たち〉というお店でまた歌ってます、と笑っていた。蛙が出てくる子供の歌を歌ってもらった事があって、その歌を、私も彼女も大変気に入っていたからだろう。  いつだか、都さくらさんに歌ってもらった歌があり、それも私の好きな歌のひとつだった。そのほかにも、小波月子、南州かほり、紅ひかる、嬢《じょう》珠美、などという人たちが印象に残っている。SKDの踊り手さんたちの芸名には、いろいろと変った面白い名前があり、勢眉子《きおいまゆこ》、鞠《まり》カンナなどという人たちの名前は一度で憶えてしまった。  考えてみると、これも何年も昔の話であり、今は舞台を退いた踊り手さんも多いはずだ。最近、行く機会がないので知らないが、あのせまい食堂も、もうなくなっているのではあるまいか。みんな昔の語り草で、今は「レストラン・フォー・アーチスツ」の名にふさわしい立派な食堂に変っているのかも知れない。  私が舞台裏をのぞいて、強く印象に残ったことのひとつは、レビューの仕事が、大変な重労働だということだった。踊り手は、アーチストとしてのセンスのほかに、肉体労働者としてのタフな体力が不可欠のようだった。そして、もうひとつ、彼女らの給与が、ほとんど給与の名に価しない額であることが私を驚かせた。それを支《ささ》えているのは、彼女らの踊りやショウビジネスに対する情熱以外の何ものでもあるまい。 「好きで踊っているのだから、給料は安くてもいいのよ」  と、いう娘もいるに違いない。しかし、ショウビジネスが企業として成立している以上、いつまでもそれによりかかっていては、良い舞台は創り出せないのではないかと思う。  楽団員や、美術や効果や演出をも含めて、日本という市場は、何と人間を安く使うところだろうという気がしてならない。  踊り手さんたちの中には、途中で退団して結婚する人や、テレビその他の世界に転進して行く人も少なくない。また、舞台で準幹部、幹部、大幹部待遇と階段をのぼって行く人もいる。  しかし、私は国際劇場のラインダンスを踊っている頃が、彼女たちの最も幸福な時代ではあるまいか、と思う。  長く歌劇団に残ってやって行く人たちは、いずれプロフェッショナルとして自分を規定する立場と、企業との間のギャップに悩むことがあるにちがいない。途中で去って行った人たちは、またそれで何がしかの心残りがあるだろう。朝、家を出て、夜おそく家へ帰ることの繰返しという、あの意外に単調な日常を耐えて行けるのは、やはりライトを浴びて舞台へ出る一瞬の燃焼感にほかなるまい。それだけに、あのラインダンスには、ショウとしての面白さより、うつろい易《やす》い青春の一瞬を燃えつくす可《か》憐《れん》な生きものの哀感が色濃く翳《かげ》を落していて、それが人々を惹《ひ》きつけるのではあるまいか。  二十代の終りにさしかかっていて、まだ自分の望んでいた作品ひとつ書いていなかった当時の私には、あの陽気なラインダンスが、ひどく哀切なものとして映っていたのだった。 トーポリの流れる街  一九六五年の夏、私はモスクワにいた。その年はモスクワで、ザ・ピーナッツの〈恋のバカンス〉が大流行していた。私たちがホテルのレストランへ顔を出すと、顔見知りのバンドの連中は、必ずその曲を演奏してくれるのだった。  バイオリンがかなでるジャズというのも、奇妙な面白さがあるものだ。ホテル・モスクワのバンドは女だけの編成で、ドラマーはもの凄《すご》いグラマーだった。彼女の手にかかると、ドラムのスティックが、本当にツマヨウジのように見えるのである。  私がミーシャという少年と知り合ったのは、六月下旬の深夜だった。プーシキン広場で夕涼みをしていた私に、彼の方から話しかけてきたのである。  彼はいわゆるスチリャーガだった。スチリャーガという言葉は、最近では余り使われなくなっているらしい。日本で言うなら、さしずめマンボ族とか、みゆき族などという感じだろう。  ミーシャは痩《や》せぎすの、少しひねた顔をした少年だった。粗末な服を着ていたが、それなりにスタイルには気を使っていたらしい。  彼は仲間のドラマーを連れて私の所へやってきた。 「煙草を一本くれよ」  彼が最初に発したのは、そんな言葉だった。私はピースを一本彼にやり、ガスライターで火をつけてやった。 「そのライターを売らないか」  と、彼は言った。 「いいとも。いくらだ?」  と、私。 「五ルーブル」 「十ルーブルだ」 「高いぜ」 「特別製のライターだからな」 「見せてくれ」  私は彼にそのライターを渡した。それは、私が訪ソする時に、ラジオ関東から托《たく》されたもので、モスクワ放送の連中に会ったらプレゼントしてくれとあずかった品物だった。ライターの横腹には、ラジオ関東と金文字が入っている謝礼用のやつだ。 「これは何と書いてあるのかね?」  と、少年は聞いた。 「ラジオ関東」  私が読んでやると、彼は「ラジオカントー、ラジオカントー——」と何度も口の中でくり返して、 「OK、八ルーブル」  私はそのライターを八ルーブルで彼に売った。彼は仲間のドラマーから金を借りて、私に払った。  次の日、私はまた彼とプーシキン広場で会った。少年は懐《なつ》かしそうに片手をあげて、私の所へやってくると言った。 「ゆうべのライターは良かったぜ。日本人からこれまでPとかMとか、いろんなメーカーの品物をもらったけど、あんたから買ったのが一番上等だ。あのラジオカントーというメーカーは、日本でも一流のライター会社じゃないのかね?」  ミーシャは、闇《やみ》商人としては、まだ駆け出しに違いなかった。私のところへやってきたある中年男などは、日本の弱電メーカーのカタログを、ずらりと揃《そろ》えて持っていた。日本人旅行者などが、旧式のトランジスターラジオなどを高い値段で売りつけようと企《たくら》んでも、彼には通用しなかった。 「これは二年前の○○型で、現金正価六千八百円の品物ですね。最近では、この会社からはもう出てないでしょう」  などと微笑しながら言うのである。腕時計や、電気カミソリのカタログなども持っていた。  逆にアメリカ人や、日本人に偽《にせ》のイコンを売りつける連中もいた。古い聖像を安く買い込んで、無智《むち》なロシア人を旨《うま》く欺《だま》したような気になっているアメリカ人たちは、帰国後、ロシアの熊《くま》さんたちが、彼らが思っているほど薄ノロではない事に気づくのだろう。商売の道のきびしさに東西の別はないのである。  ミーシャと私は、たびたび彼らのたまり場になっている音楽喫茶へ遊びに行った。その店は〈青い鳥《シーニャ・プチーツア》〉という名前だった。私は帰国後、ミーシャとその仲間たちの事を〈さらばモスクワ愚連隊〉という小説に書いたが、その中では〈赤い鳥《クラースナヤ・プチーツア》〉と変えてある。  ミーシャは音楽、ことにジャズの熱狂的なファンだった。一度、彼にモスクワで一番ヒットしている流行歌のレコードを買いたい、と頼んだことがある。彼はすぐに〈トーリコ・トゥイ〉という題のレコードを持ってきてくれた。日本語に訳すると、〈君だけを〉という題になる。  私は帰国後、そのレコードを、レコード会社へ持って行き、ソ連のヒット曲を聞かせると称して人々を集め、プレイヤーにかけた。  なんと、流れ出したのは重々しい赤軍合唱団の歌う〈オンリー・ユー〉だったのである。ザ・プラターズが歌って大ヒットしたおなじみの曲だ。おそらくミーシャも、それがアメリカで大流行した曲だとは、思っていなかったに違いない。  六月十四日の深夜、私とミーシャと、もう一人のドラマーの三人で、ゴーリキイ街の裏通りを歩いていた。  左が煉《れん》瓦《が》塀《べい》で、右手に古い建物が続いていた。街灯は暗く、中世のヨーロッパの街を歩いているような気がした。ミーシャは、東京へ行ってみたい、と言っていた。  突然三方から、目のくらむようなライトの照射が浴びせかけられた。自動車のエンジン音が響き、その光の輪は私たち三人を、塀ぎわに追いつめるようにせばまった。  一台の乗用車から平服の青年が三人、バラバラと飛びおりて私たちを取りかこんだ。 「ドキュメント!」  と、額の広い知的な青年が厳《きび》しい声で言った。 「おれたちは何もしていない!」  ミーシャが叫んだ。「ただ話をしてただけだ」 「ドキュメント!」  と、目の鋭い青年が私に手を差し出した。  私は、一通の政府の要人に当てた私自身の紹介状のコピーを出して相手に渡した。  青年が軽くうなずいて英語で言った。 「日本人ですね」 「そうです」 「早くホテルに帰っておやすみなさい」 「あなたは?」 「この少年たちの友人です。少し話があるので、彼らをお借りして行きますよ」  ミーシャはちらと私を見て指をあげ、 「グッバイ・マイ・フレンド——」と言った。  ミーシャと、その友達のドラマーとは、三人の青年たちに腕を取られて、乗用車の中へ連れ込まれた。エンジン音が高まり、ライトが消え、タイヤのきしみがきこえて車は見えなくなった。私は一人で暗い塀の前に立っていた。  ミーシャたちを連行していったのが誰なのか、彼らはなぜ逮捕されたのか、いったいどこへ連れて行かれたのか、私には何もわからない。ただ、そうなっても不思議ではないという気はした。あの少年たちを待っているのが、そんな結末だろうという予感はあったのだ。「グッバイ・マイ・フレンド——」というミーシャの呟《つぶや》きだけが残っていた。私は独《ひと》りでゴーリキイ街の裏通りを歩いて、ナショナル・ホテルへ帰った。  翌日、私はいつもの時間にプーシキン広場へ行った。だが、ミーシャは現われなかった。  私は次の日、レニングラードへ発《た》った。そして、七月下旬、再びモスクワに舞いもどって来た。モスクワは、暑い盛りで、街中に白い綿毛のようなトーポリの羽毛が流れていた。プーシキン広場のライラックは、もう散ってしまい、白夜の季節も、そろそろ終ろうとしていた。  その年の秋、私は北陸の金沢にいた。私は何年ぶりかで一つの物語を書きはじめようとしていた。 モスクワの天保銭《てんぽうせん》  もう少しモスクワの事を書こう。  モスクワの街を歩いていると、胸に大きなバッジをつけている男達をよく見かけた。夜のレストランなどにもバッジをつけている連中が少なくなかった。バッジと言っても、それはかなり大きなもので、一寸《ちょっと》した勲章のようでもあった。最初のうちはそれが何か分らずに、多分どこかの組合のマークだろうぐらいに思っていた。  ところが、モスクワに長くいる知人にたずねてみると、 「ああ、あれですか」  と苦笑して、「あれは大学卒業生のバッジなんですよ」 「大学卒のバッジ?」 「ええ。ほら、日本でもあるでしょう。よくバンドのバックルにいちょう《・・・・》のマークがついていたり、ワセダなどと横文字で彫り込んだ奴《やつ》などが」 「なるほど。するとソヴェートでも大学卒であると言う事が、一つの見栄《みえ》になり得るわけですね」 「勿論《もちろん》ですとも。大学卒業生はこの国のエリートです。殊《こと》にモスクワ大学出となると、日本の東大卒以上の権威をもってるんですな。モスクワ大学を卒業すると言う事は、この国の選ばれた人々の世界へ入ってゆく旅券を手にしたようなものです。それだけに卒業するのは大変ですがね」  モスクワ大学に入学するためには、勿論勉強が出来なくてはならない。競争率も激しいらしく、ソ連の高官や有名人達は子弟をモスクワ大学に入学させるために、一生懸命であるらしい。洋の東西を問わず裏口入学などの噂《うわさ》もある、フルシチョフが、地位を利用した入学運動を批判した事があるそうだ。  こうして苦心の末、やっと入学出来たとしてもそれから先が大変らしい。日本のように入ってしまえば何とか出られる、というわけのものではなく、入学するよりも卒業するほうが更に難《むず》かしいのだそうである。一度や二度は進級試験に落ちても、また受けなおす事が出来るが、それも限度があって余り何度もそれを繰り返していると学校を追い出されてしまう。モスクワ大学生は、部屋と生活費を国から支給されているので学生の身分を失うと、イコール失業という事になってしまう。それだけ厳《きび》しく仕込まれて卒業するのだから、モスクワ大学出は一種の優越感を持つのも無理は無いようにも思われる。  だが、胸に大きな学士様のバッジをつけて歩くのは地方から来た連中に多いそうで、気のきいた連中は少ないと言う話だった。 「僕らはあれを天保銭と呼んでいますがね」  と、その人は笑って言った。  ソヴェートにおけるエリートとは、官僚と文化人であろう。一時は共産党員の特権ぶりが目立った時代もあったそうだが、今はそれ程でも無いようだ。  行列を作っている群衆を尻《しり》目《め》に、ちらと党員証を見せて先に用を足す風景なども以前は見られたそうだ。そんな時、大衆がよく文句を言わないものだと不思議に思った。そもそもソヴェートの民衆は、さまざまな制限や、統制に対してひどく従順なところがある。これはドイツ風の事大主義ではなく、革命、内乱、戦争と、長い間の困難な道程が、それを必要としたからだろうと思う。  ソヴェートには目立った人種差別はなく、恐らく世界中で最も偏見の無い国の一つだろうと思うが、人種差別の代りに国民差別とでも言えるようなものがある。つまり、現在の中国人に対する民衆の反感などその一つであろう。中国人と間違えられて、不愉快な思いをした日本人旅行者もいる。つまり、或《あ》る人間に対する反撥《はんぱつ》が、〈人種〉ではなく〈国籍〉である事が特徴だ。  ユダヤ人に対する弾圧の歴史も、殆《ほとん》ど民衆の中から自然発生的に生じて来たものではなく、その時その時の為政者の政略的意向を反映したものであるようだ。肌《はだ》の色や髪の毛の違いに、これ程無頓着《むとんちゃく》な民衆も少ないのではないかと思う。  ソヴェートを旅行して、黄色人種であると言う事で差別された例を私はまだ聞いた事がない。  一度、小説の中でみみず《・・・》の闇《やみ》屋《や》の事を書いたら色んな人々からみみず《・・・》の闇屋とは一体何だと聞かれた。  ソヴェートでは最近レジャーブームで魚釣りのファンも大変な数である。どこで売っているのか知らないが魚の餌《えさ》を売っている店で品物が売り切れると、手に入らない事もある。公営の店であるからお客へのサービスなどと言う事にも余り関心が無いし、公務員である店員はあるだけ売ってしまうと後はニェートの一点張りとなる。だから小説やヒットソングの楽譜などは、あっと言う間に売り切れてしまい、楽譜の闇屋、本の闇屋などが現われる事になる。みみず《・・・》の闇屋と言うのも、その類《たぐ》いであろう。勿論値段は店で買うより高いに違いない。  趣味で作っていたアクセサリーを知人に頼まれて実費で分けているうちに、それが商売になってしまって検挙されたニュースを読んだ事がある。みみず《・・・》の闇商売が発覚して捕まった場合、裁判所が一体どういう判決を下すのだろうか。考えてみただけでも何となくユーモラスで面白い。  シベリア鉄道の中で車掌室の前を通りかかったら、専務車掌が腕まくりしてなまず《・・・》に似た大きな魚を料理していた。傍にこんろと鍋《なべ》が置いてあったから、多分煮て食うつもりに違いない。 「それは何と言う魚かね?」  と聞いたら〈オームリ〉と言う魚だと教えてくれた。バイカル湖て釣ったんだと言う。 「勤務時間中にそんな事をしていいのかい?」  と聞いたら、ぐいと飲む仕草をしてみせて、 「これでウォットカをやるとうまいぞ」  と言ってにやりと笑った。しばらくすると、私達が乗っている客車のキャビンの方までいい匂《にお》いが流れて来た。初めて海外旅行をしようという青年達に、私がソヴェート経由で行く事をすすめるのは、こういったひどく人間的な風俗にちょくちょくぶつかるからだ。いきなり白人社会の壁の前に立って、どうにもならない違和感を覚えるより、白人とアジア人の中間みたいなロシアを通過して行った方が楽ではないかと思う。  東京に江戸っ子と言う人種がいて、東京タワーなどに登った事はないのを自慢にするように、モスクワにもモスクヴィッチ(モスクワっ子)と言うのがいる。  ボリショイ劇場とモスクワ大学と経済博覧会に行った事が無いのが、本当のモスクワっ子だと啖《たん》呵《か》をきったお兄さんがいた。なるほど、一理あると言う気もする。  ただモスクワに関してだけは、一月前のニュースは、既にニュースではない。東京ほどのテンポではないが、ものすごいスピードで変ってゆきつつあるからだ。  大学出のおっさんが天保銭を誇らしげにつけて歩くような風景も、いずれ見られなくなるかも知れない。そのうちT・P・Oがどうの洋服のアンサンブルがどうのと言う時代になれば、ソ連人のバッジ好きも変ってこよう。別におしゃれの原則から言うのではないが、胸に色んな物をくっつけるのは余り恰好《かっこう》のいいものではない。バッジは、己《おの》れを他と区別しようとする気持のシンボルだからである。 古い街の新しい朝  朝方まで起きていて、新聞を読んでベッドにもぐり込む生活が習慣になってしまった。  明るくなり出すと、毎朝、山鳩が奇妙な声で鳴く。二羽の山鳩が庭先の樫《かし》の木に住みついているらしい。昼間、塀《へい》の上に止っているのを、よく見かける。猫のミーシャが狙《ねら》っているらしいが、雀《すずめ》を捕えるような具合には行かぬようだ。  山鳩の鳴き声と知るまでは、何の物音だろうと不思議に思っていた。ググウ・グルルル——といった調子の、奇妙な声である。  朝の新聞配達の小走りの足音と、この鳩の鳴き声を聞くと、条件反射的に睡《ねむ》気《け》を覚えるようになった。金沢も中心を離れた小《こ》立《だつ》野《の》台地あたりになると、朝はまだ静かなものである。  先日、夜明けの頃に、下駄を突っかけて兼六園まで出かけてみた。小堀遠州がレイアウトしたとかいうこの庭園は、昼間は観光客の隊列と、ガイド嬢の携帯マイクで引っかき回されて騒々しい。  金沢に住んではいるが、不風流な私には余り縁のない場所だ。未明の頃なら人も居まいと、散歩のつもりで出かけたわけである。美術館と山崎山の間を抜けて、庭園にはいって行く。空気が冷たくて良い気持だ。連日の晴天で乾《かわ》きかけた樹陰の苔《こけ》も、しっとりと生気を取りもどしているように見える。  誰もいまいと思ってやって来たところが、意外にも先客がいた。綺《き》麗《れい》な水が流れている曲水《きょくすい》のあたりに、立ったり坐ったり、七、八人もいるだろうか。  着流しの老人もいたし、中年の婦人もいた。私が寝ぼけまなこを慌《あわ》ててこすったのは、一見してそれと知れる廓《くるわ》の芸者衆の姿をその中に発見したからである。初老の紳士に連れられてやってきたらしい若い妓《こ》たちの着物は、明けがたの兼六園に良く映った。どちらかといえば、ミニスカート党の私だが、その朝だけは着物もいいもんだな、と思った。  彼等は曲水のほとりに、ただ何となくたたずんで、時おり小声で何か語り合っていた。 「何かあるんですか?」  と、私が聞いたのは生来の弥次《やじ》馬《うま》根性のせいである。 「いや、べつに」  初老の紳士が苦笑するのを若い妓の一人がくすりと笑って、 「なにがあるいうわけやないけど——」  曲水のカキツバタのつぼみが開くのを見に来ているのだ、という意味のことを金沢弁で喋《しゃべ》った。  カキツバタのつぼみが、夜明けに開く。その時、ポッと小さな音がするんだという。本当か嘘《うそ》か知らないが、その音を聞くために、夜明け前の兼六園へ出かける人が居るという話は、以前に聞いたことがあった。  すると、ここに集まっている人たちは、そのためだけに夜明け前から待っているわけであろうか。こんな所が、金沢という古い町の面白さだと言えるかも知れない。  さきに廓と書いたが、金沢には現在、三つの廓がある。東、西、主計《かずえ》町《まち》、の三廓《かく》である。浅野川の両岸に、東と主計町、犀川《さいかわ》にそって西の廓となる。  廓と聞いて、ある雑誌が遊廓と書いた。これは間違いである。花街ではあるが、仲々に格式の高い、伝統のある場所だという。新橋や祇《ぎ》園《おん》に劣らぬ気位の高さを保ちつづけて、今もなお北陸人士の遊魂をそそる存在らしい。  北陸は元来、ロシアと縁の深い土地である。一般に内閉的と称される裏日本の性格の中にも、大陸沿岸と結びついたスケールの大きな感覚がひそんでいるように思う。この、金沢の廓を背景に、革命直後のシベリアと北陸とを結ぶ日ソ交渉物語を書いてみたいと考えたのは昨年のことだった。ぼつぼつ調べにかかったが、わずか六、七十年前のことさえはっきりしないものである。結局は想像力を駆使して書く以外にはないのではないか、という感じがした。  こんな事を書くと、金沢が現代ばなれのした大そう古風な都市のように思われかねないが、この町の新しさも、また相当なものだ。サパークラブ、スナックなどは勿論《もちろん》、バニーガールも、フォークのグループも、ミニスカートも、およそ東京にあるものは何でもある。  先日の百万石祭りでは、加賀とび、武者行列などの前後に、CMカーや、マスゲームも現われて面白かった。古式に統一したほうがいいという意見もあったが、私は新旧入り混っている方がエネルギーが感じられて良いと思った。何事によらず、調和とか、統一とかいった発想は、貧血の証拠であろう。昔ながらの土《ど》塀《べい》の間にはさまるブロック塀も、あれはあれで一種の対立感があって悪くない。現代と前近代が、こぢんまりとうまくまとまるのではなく、むしろ火花を散らして対決し合ってるほうが金沢の未来には望ましいのだ。変に、古いものにマッチした街づくりを、などと小細工は用いないほうがいいだろう。古い土塀や、家並みを、圧倒し去る位の迫力のある建築物が出てきて欲しいものだ。  古九《こく》谷《たに》の赤などにある、いやらしいほどのどぎつさを、もう一度見なおす必要がありはしないか。今はすっかり落ち着いている尾山神社の建物なども、最初出現したときは相当にどぎついグロテスクな感じのものだったのではあるまいか、という気がする。  金沢の街を歩いて気付くことだが、赤い色彩が次々と減って行くようだ。そして、白い建物だけが無《む》闇《やみ》と増《ふ》えて行く。  これは世界的な建築界の傾向だろうが、白が本当に美しいのは、金色の陽光と、真青な空の下ではあるまいか。北陸の陰鬱《いんうつ》な背景の中では、赤がひときわ美しいはずである。  金沢の街にも、車があふれはじめた。私の住んでいるあたりも、大型バスや、トラックが轟音《ごうおん》をあげて走り抜ける。  先日、私のところで飼っていた犬が死んだ。ドンという名前の雑犬だが、とぼけた面白い犬だった。  ドンというのは、幼犬の時からワンともスンとも吠《ほ》えぬところからつけた名前である。〈静かなドン〉という意味だ。  私のところにはミーシャという猫がいて、ドンとミーシャは無二の親友だった。ある日、二匹で玄関の前でふざけていて、ドンが自動車にはね飛ばされたのである。ミーシャは信じられないような顔で、倒れたドンを眺《なが》めていた。  翌日からしばらくの間、ミーシャは玄関の所に坐ったきりぼんやりしていた。ドンはどこへ行ったのだろうと考え続けている風《ふ》情《ぜい》だった。  しばらくして、ドンの事を忘れると、ミーシャは猛然と雀を捕《と》りだした。ほとんど一日に一羽位の割で、口にくわえて見せにくるのである。  最近、なんだか少し怠《なま》けていると思ったら、彼女は大志を抱《いだ》いているらしい。昼間、庭の塀の上に姿を見せる山鳩に目をつけたのだ。さすがに鳩となると、事は簡単には運ばない。だが、いつかやられる日がくるような気がする。  毎朝、夜が明けて、新聞配達の足音が聞えだすと、それに起されたように山鳩が鳴きはじめる。その声を聞きつけて、眠っていたミーシャが、むっくり起き上ると、外へ静かに出て行く。私は朝刊を持ってベッドへもぐり込む。中国、水爆実験に成功。  金沢の朝は、まだまだ静かである。今朝も兼六園の曲水のあたりには、花を待つ人たちが集まっているのであろうか。 欧州無宿の若者たち  小田実《まこと》さんの世界一日一ドル旅行以来、ヒッチハイク組がわんさと海外にとびだした。みんな生きのいい若者ばかりである。私は外国のいたる所で連中に出会い、友だちになった。彼らはそれぞれ自由で率直で、ユーモアの精神にみちみちていた。  ストックホルムのコンサートホールの階段は、そんな仲間のたまり場の一つだった。ノーベル賞の授賞式が行われる由緒《ゆいしょ》あるホールだが、その入口の広い石段は、スウェーデンのみゆき族《・・・・》や世界のヒッチハイカーの集会場みたいになっていて、ちょっとした街の名所になっていた。その建物と向きあって、グレタ・ガルボがスターになる前に働いていたPUB百貨店がある。この中間の広場に毎朝露店の市が立つと、くすんだ北欧の空気が、花や果物や娘たちの声で、急に活気づいてくるのだった。みんなは新聞紙の袋いっぱいサクランボを買ってきて、プーシキンの小説に出てくる主人公みたいにサクランボの種子《たね》をプップッと吐き出しながら、世界各地の最新情報を交換しあうのである。  彼ら勇敢なる若者のシステムでやれば、日本から最低五万円の海外旅行だって不可能ではないだろう。慶応を二年で休学してやってきたH君もその一人だった。彼は横浜を出て十八ヵ国を回り、六ヵ月かかってスウェーデンまで北上してきたのである。彼が世界旅行のために準備した貯金が八万円ちょっと。これを資金に一年間の海外生活を続けようというのだ。  H君のコースはこうだった。まず、船でインドまで五万円でわたった。そこを出発点として、べらぼうに安いバス、鉄道、ヒッチハイク、時には徒歩でヨーロッパへ。泊る場所はアジア諸国ではポリス・オフィスか現地人のドヤ街。ヨーロッパではユースホステル。もちろんシュラーフ持参だから、星を眺《なが》めての野宿も何でもない。谷川や立山での雪中のビバークにくらべると、天国みたいなものであろう。ジュネーブとボンでしばらくアルバイトをして稼《かせ》いだ。金のかかるパリは素通りしてスカンジナビア半島へ。現在ストックホルムのレストランで皿洗いをしながらアメリカ行きの資金を貯《た》めているところだという。彼にいわせると「ユースホステルは高くて不経済」ということになる。なるほど彼はもっと安いアナ場を見つけていた。郊外のサマー・キャンプ場がそれだった。一日のキャンプ料金が一・五クローネ(百円強)だというからなるほど安い。しかも、スウェーデン娘をハントするには絶好の一等地だ。彼はそのキャンプ場から地下鉄で勤務先のレストランまで通っていた。こうして月に百ドルずつ残してアメリカへ渡り、また働いて帰国する。そして再び大学三年に復学する。彼のプランはまことにもって計画的、現実的なものだった。いわゆるバガボンド風の無銭旅行とはまったく違ったタイプなのである。  こんな日本の若者たちが、いまヨーロッパ中にごまんと散らばっている。私の見るところでは、彼らは海外旅行の三男坊といった面影が多分にあるようだ。  海外旅行の長男といえば、さしずめ戦後の官費組だろう。占領時代のエリートたちである。次男坊のチャンピオンが〈何でも見てやろう〉の小田実さんなどであろうか。貧乏旅行に徹底し、インドでは街路にゴロ寝してガンジス河でウンコをし顔を洗った。一日一ドルの予算で出費をおさえ窮乏にたえる方法は、彼のオリジナルである。  これとくらべると、いま世界にとびだしている連中は、いささか現実的だ。いかに少なく使うか、ではなくて、いかに多く稼ぐか、が彼らの課題なのだから。 〈何でもやってやろう〉的な度胸の良さは、さしずめ三男坊のノンシャランぶりをほうふつさせるものがある。連中は仕事のありそうな大都市を狙《ねら》ってスケジュールをくむ。  ヨーロッパ諸国と日本とは、目下正式の労働協定がないので実際にはモグリである。もちろん、仕事は楽ではない。だが賃金は日本よりはるかに高いから残る率も大きい。  こんな具合で、こと経済的な面に限って言えば、長男は消費的、次男は耐乏的、三男坊は生産的と見ることもできるだろう。  しかし、これをやるには、自由な時間と、体力と、図抜けた楽天性が必要だ。何しろ、たよるものは自分の頭と手足だけなのだから。コンサートホールの階段で知りあった青年の中には、中近東で山賊におそわれて危機一髪という目にあったという日本人学生もいた。彼は護身用のチェーンで相手をしめ殺して逃げてきたのだそうだ。  問題になるといけないのでくわしくは書けないが、大学では国文専攻で、卒論は太宰治《だざいおさむ》をやるつもりだ、などとちょっと照れながら喋《しゃべ》っていた。  フランクフルトで、仕事を探《さが》して雪の降る街を三日間あるき回ったという少年がいた。実に四十九軒目の料理店で彼は皿洗いの職にありついたのである。  ハイウエイの清掃夫を一日だけやったという青年画家の話も面白かった。モク拾いみたいな棒とバケツをさげて、ハイウエイをノソノソ歩いているだけで金になるよ、あんな楽な商売はないぜ、と彼は話してくれた。 「なにしろゴミなんて、どだい落ちてやしないんだから」  なぜ一日だけでその仕事をやめたのか、ときくと、彼は晩年のヴィンセント・ゴッホみたいな目つきをしながら言った。 「黄色と黒のダンダラ模様の服を着せられるのさ。バケツもだ。そんな恰好《かっこう》で、気が遠くなるほど長い長いハイウエイをのろのろ歩いていると、何だか自分がシマヘビみたいな妙な気分になってきてねえ。あんた、その感じわかる?」  ヒッチハイクは無銭旅行の常道だが、これも時にはエライ目にあうことがあるらしい。  二日間も道路に立ってがんばって、やっとつかまえた車が五百メートル先の農場どまりだった、などという失敗はまだ無邪気でいい。  ヒッチで怖《こわ》いのは南欧だというのがハイカーたちの一致した意見だった。若い女性だとそっぽを向いてても、車を寄せてくる。男を乗せると、カメラやラジオに関心をもちすぎる。  K君はある暑い日の午後、奇《き》蹟《せき》的にも凄《すご》いスポーツカーに拾われた。運転しているのは一見金持の道楽息子《むすこ》ふうの青年で、おうようにあごで助手席に乗れというゼスチュア。どうせ退屈しのぎの気まぐれに違いないが大助かりだ。しばらく走ると、きれいな森陰の湖のほとりに出た。  相手が車をとめて、どうだい、ひと泳ぎしてこいよ、俺《おれ》はちょっとエンジンの点検をやるから、という。一週間シャワーも浴びてないからありがたい。よしきたとばかりに裸になると「これを使え」と海水パンツを投げてくれた。水練の腕にはいささか自信がある。ザンブとばかりにとびこんで抜手をきって泳ぎだした。その瞬間、地を裂くようなメガホンマフラーの爆音を残して車は猛然と走り去ったのである。海水パンツ一枚の彼をのこして。  カメラもトランジスターラジオも、そっくりいかれてしまったという一場のお粗末であった。 「イタリアの車ってのは実に出足の良いもんだなあ」と彼は首をふって私に言った。「あれはまったく泥棒むきの車だと思うよ」 誇りたかき日本人  私の先生で、都営木造のボロ家に住んている貧乏学者がいる。たまたま外国へ行くチャンスがあって、半額自己負担で三週間ほど欧州を回ってきた。留守中に台風がきて、海抜0《ゼロ》メートル地帯にある先生の家は床上まで浸水した。私が景気のいい帰国談でもきくつもりて訪《たず》ねた日、先生はステテコ一枚でタタミ干しをやっていた。 「あちらじゃ、どんな所に泊ったんです?」と、私がきくと、先生は腐りかけた床板の上に石灰をまきながらヤケクソな声でどなった。 「ヒルトンホテル! ロイヤルホテル! パレスホテル! グランドホテル! アストリアホテル! くそ!」  くそ! とどなった先生の気持が、私にはよくわかった。先生が欧州へでかけたのはゼイタクをしにではない。先生の一生を捧《ささ》げた専門的学問の母胎であるヨーロッパの、風土と人情、そして現実の姿を、その目で確かめ肌《はだ》身《み》に感じたかったからにほかならない。格式ある一流ホテルの羽毛ぶとんに寝るために息子《むすこ》さんの子供銀行の預金までおろしたのではサラサラないのである。先生は簡素なミッション・ホテルにでも泊り、カフェテリアでサンドイッチをかじるような、貧乏学者にふさわしいつつましやかな外国旅行が望みだったのに。この先生の場合、悪かったのは旅行代理店の方であって、先生に罪はない。  だが、どだい私たちの精神構造の中には、外国へ出て体面を気にしすぎる要素が根強く生き残っているのではないかと思う。  私自身、そんな傾向がことに強かった。貧乏なくせに見栄《みえ》っぱりなのである。そのクセが少しなおったのは、フィンランドの少女のなにげない一言が骨身にしみてこたえたせいかも知れない。  ヘルシンキの学生広場の裏手に、〈ニッセン〉という大きな喫茶店がある。フィンランド人は日本人と似て、本を読むこととコーヒーの好きな国民だ。このカフェにも、お洒落《しゃれ》な若い女の子や学生たちがわんさと集まる。コーヒーが五十五ペニア(約六十円)だから日本より安い。レニングラードから着いた日の晩そこで大学生だという女の子と知りあった。北欧独特のプラチナ・ブロンドで、お尻《しり》が全日空のボーイング727みたいに跳《は》ねあがっていて、花模様のヒップボーン・スラックスがよく似合った。私たちは片言の英語とスケッチブックを使って、たあいのないお喋《しゃべ》りをした。言葉のせいだけでなく、しばしば話が食い違って困った。  たとえば彼女が、「ヴィンセントの絵はお好き?」ときく。ヴィンセント? それは北欧の画家かね? と私がきき返す。彼女は哀《かな》しそうに首をふって、スケッチブックに下手《へた》な糸杉の絵を描いてみせる。おお、ゴッホのことであるか! すると今度は彼女が不思議そうな顔をする。 「ゴッホって、だあれ?」  彼女が「チャーリイ」といえば、それはチャップリンのことである。「ローレンス」といえば、〈チャタレイ夫人の恋人〉の作者のことではなく、ローレンス・ダレルをさすといった具合だ。ややこしいことおびただしい。  ウェスターンの未来をどう思うか、と彼女がきく。「行きづまってるな」と私。「そうね。もう英雄《ヒーロー》の出る幕じゃないのよ」「そのとおり」「でも、ドゴールは……」「ドゴールだって�」。彼女は西欧諸国《ウエスターン》について語っており、私は西部活劇《ウエスターン》について論じているといった調子なのである。  まあ、そんなことはどうでもいい。語り疲れた彼と彼女は、どこか静かな場所へ行きたくなった。言葉の要《い》らない会話も悪くはない。  白夜のシベリウス公園はどう? そいつは結構。しかし問題はそのあとである。私はタクシーをおごるつもりだった。ベンツやクライスラーのタクシーが、ゴキブリみたいにうようよしてる街ではないか。ここはひとつ外国映画のムードでスマートにいこう。  ところが、である。彼女は頑《がん》として私のギャラントリイに応じようとしないのだ。やせ馬みたいな市電を指さして、あれで行くとがんばって一歩もひかないのである。 「あなたは百万長者《ミリオネーア》か?」と彼女がいう。 「ノウ!」と私。 「電車だと三十五ペニアよ」とかなんとか口走っている彼女をタクシーに押しこんだときには、正直ほっとした。  公園の近くで車がとまる。運転手のおっさんがさっと降りてドアを開けてくれる。良い気持で四マルカのところを五マルカ渡す。おっさんは首をふって、一マルカ札をおし返した。ソ連のタクシーだってチップは当り前のような顔でうけとったのに。  白夜のシベリウス公園はキスをするには余りに明るすぎた。歩きながら何を喋ったかはほとんど憶《おぼ》えていない。どうせ単語を勝手にならべただけの会話だ。記憶にのこっているのはたったひとつ、私が帰りに再びタクシーで行こうと言った時の彼女の言葉である。「I LIKE YOU,BUT……」と彼女は私の頬《ほお》を軽くなでて皮肉っぽく言った。「YOU ARE TOO PROUD.」  ユー・アー・ツー・プラウド。見栄っぱりの日本人。ユー・アー・ツー・プラウド。  それ以来、旅行代理店や、ホテルのフロントや、レストランで、私は幾度となくこの言葉を腹の中でくり返してとなえたものである。すると不思議に「サード・クラス!」とか「チーペスト・プリーズ」とか「ノー・サンキュー!」とかいった文句が、堂々と実に優雅な調子ですべりだすのであった。  もうひとつ、スウェーデンのホテル案内所での出来事を書いておこう。その時、私のうしろには、国籍不明の人品いやしからざる中年紳士が並んでいた。私が魅力的な案内嬢に「チーペスト・プリーズ!」と叫ぶと、彼女は「オーケイ」と微笑し、汗だくで何十回も電話をかけ、ホテルを決めてくれた。 「タック《ありがとう》」と、ひとつ憶えのスウェーデン語で礼をいい、私は中年紳士と交代した。彼がどんな交渉の仕方をするか、ちょっと興味があったので私は横で眺《なが》めていた。 「チーペスト」と彼ははっきりと発言し、それから何とも気品のある口調てサラリとつけくわえた。「アンド・クリーン」 「イエス」と女の子は丁重に答えたのである。「イエス・サー!」 「おれはまだ修業がたりんな」とその時私は思ったものだ。「チーペスト・アンド・クリーンか」  これで行こうと私は決めたのだった。見栄をはらず、卑屈にならず、しかも要求することは堂々と要求する。金銭に関してケチでなく、しかもブルジョア的な姿勢など断固として拒否しよう。それこそ庶民大衆の心意気ではあるまいか。  とは言うものの、言うは易《やす》く行うは難し。私自身、いつもお金に関しては自分の思う通りの使い方が出来たためしがない。終戦後のあのものすごいインフレの中で育ったせいか、お金というものに対する信頼感が全く欠如しているのである。  石油ストーブの灯油を買うのに、ドラム罐《かん》四、五本もまとめて買い込み物置にしまったりするのは、一体いかなる心境によるものであろうか。要するに頼りになるのは金銭ではないという物資へのフェティシズムが骨までしみこんでいるせいであろう。  それは戦後に精神の形成期をすごした人間の後遺症のようなものかもしれない。そういうわけで、たまたま手《て》許《もと》に現金があったりすると、貨幣価値の下落せぬうちに早く使ってしまわなければいけないような強迫観念にとらわれるのである。  ドラム罐の灯油は、いつも家人の物笑いの種子《たね》であったが、中近東の戦争が始まった時には、言わんこっちゃない、という気がした。  思うに、私達の世代は、どんな太平ムードの中でも、一刻も戦争を忘れる事の出来ない因果な世代なのだろう。 アカシアの花の下で  私は旧制中学の一年生の頃まで外地に住んでいた。旧大日本帝国の植民地で育ったわけである。  そのためかどうか、植民地という言葉に対して、他人より幾分敏感に聴《き》き耳を立てるような傾向があるらしい。それだけでなく、現在はすでに異国となってしまったそれらの土地に対して、常に一種の郷愁のようなものを感じ続けている。  いささか誤解をまねきそうな言い方だが、支配者側の一員として過した日々に懐旧の念を抱《いだ》いているわけでは毛頭ない。つまり、私の心をそそるのは、それらの土地の自然であり、風習であり、自分自身の幼年、少年期の記憶と固く結びついた〈時間〉そのものなのである。 〈ふるさと〉という語感に触発されるものは、私の場合つねに二つの引き裂かれた状態にあるわけだ。私は九州の出身であり、両親もその土地の人間だが、それとはまた違った〈ふるさと〉をも持っているといえるかも知れない。  あの乾《かわ》いた大気の中、見上げると吸い込まれて行きそうなほど見事に澄んだ秋空の青さとか、赤茶けた低い丘状の山肌《やまはだ》とか、冬の凍結した河《かわ》面《も》を渡る牛車の音だとか、そういったものが、ふっと時間の淵《ふち》を飛び越えて噴水のようにふきあげてくることがある。  そして、それらの土地が、すでに私とは全く無縁な、失われた場所として在《あ》ることが、私の感慨を一そう色濃いものとして強くよみがえってくるわけでもあろう。  そしてまた、それが私白身の意識するとせざるとにかかわらず、自分に取って一つの罪の土地であったという観念もまた逃《のが》れ難い重さで迫ってくるのだ。  私たちは敗戦後、非英雄的な栄光への脱出を強《し》いられた。  旧大陸から半島へ南下した難民の大群は、一つの民族移動のようなものだった。そこには、悲惨と滑稽《こっけい》の入りまじった集団的な極限状態があった。人々はデマと幻想の中で〈内地〉に帰る日を夢み、まるで盲目的に一定の地点を求めて直進するネズミの大群のように進んだり、倒れたりした。 〈内地〉はすでに私たちにとって、いや、正確には大人《おとな》たちにとって、一つのフェティッシュとなっていた。彼らは、現在の悲惨と不幸のすべてが、その約束された土地へ帰りつくことで解決すると信じ込んているようだった。  内地につきさえすれば——そんな文句を私たちは何度大人たちからきかされたことだろう。だが、私たち植民地で育った世代の少年たちには、それは全く実感のない呪文《じゅもん》のように思われた。  たとえ敗戦と追放という、異常な事態の中にあっても、人間としての現実的な苦悩や、階級的な対立は、明らかに存在していた。にもかかわらず、大人たちは、それが内地へ帰りつくことで全《すべ》て一挙に解決すると信じ込んでいるかのようだった。  大人たちは、発疹《はっしん》チフスで倒れた死者を片づける作業の中で、何度となく内地の素晴らしさと美しさについて語った。  だが、私たち少年に取って、それは信じられない物語に過ぎないように思われた。  時に夏休みに訪れた内地は、私たちにとって余り良い記憶につながってはいなかったためである。私について言えば、長い夏休みを内地で過すことになった間中、アカシアの木陰の涼しさや、黄色のウリの甘味を思い描いて、早く自分たちの土地へ帰りたがっていたものだった。ホームシックは、むしろ植民地の方へむかって作用したのである。  もちろん、子供心にも何らかの〈争い〉がその土地に存在することは感じ取っていた。祭日の人混みの中で、赤インクを筆にひたして白衣の老人を追い回す憲兵の姿を見たこともあったし、〈万歳《マンセイ》事件〉などという言葉を耳にしたこともあった。 「あいつらは民族意識が強くて」  などと大人たちが語りあっているのを聞いたこともあった。しかし、明確なそれについての知識はなく、自分たちはこの土地の住人であると素朴に信じ込んでいたのだった。  引揚時代の悲劇については、今更ここで語るまでもあるまい。それは、当然、世界各地で旧支配者側の人間が植民地を去る時の形式をとって現われただけの話だから。  しかし、その当時の私は、大人たちが日夜くり返す、「なぜ?」という言葉に、かすかに引っかかるものを感じていた。 「なぜこんな目に合わなければならないのか?」  と、大人たちはくり返していた。「内地に帰りさえすれば——」  しかし、と私は思ったのだった。それほど素晴らしい内地なら、どうして両親たちはその土地を離れてここへ来たのか? あの無数の難民たちは、なぜ内地からやってきたのか?  私は後になって、ロシア文学風の観念的な発想から、こんなことを思ったことがあった。  彼らが苦難に見舞われたのは、彼らが植民地で行なった何らかの行為のためではないのではないか。「なぜこんな目に?」と、呟《つぶや》く、その精神の構造そのものの罰を、引揚者は払わなければならなかったのではあるまいか。  私自身の気持としては、当時の大人たちと同じように、内地にあこがれる意識は毛頭なかったのだった。  内地とは、私にとっては異国だった。私はそのまま、自分の育った土地に留《とど》まりたかったのである。だが、私は、その土地から去らねばならなかった。私も日本人の一人として、そこに止《とど》まる権利を持たなかったためである。  物心ついてから、私の頭の中に大きな比重を占めた思考の場には、常にこの〈植民地〉という問題があった。私はそれを考えつづけ、論理的には一応の結論をみちびき出すことができたように思う。しかし、心情の問題は別だった。私はいまだに幼年時代の郷愁として外地の空の色の記憶を自分のものと感ぜずにはいられないのだった。  現在の私にとって、〈内地〉はやはり祖国であると同時に、〈異国〉でもある。個人的な事を語れば、私は母を敗戦の翌月、九月十五日に失った。それは当時のありふれた敗戦国民の側の被害の一つであり、その事件について感情的な怨念《おんねん》といったものは今の私にはない。  在外財産の補償うんぬんという記事を目にすることがあるが、補償に価するほどの財産を植民地に所有した人々とは、いったいどのような人々であろうか。  私自身も何がしかの金をもらう権利があるらしい。  だが私はそれは許されないことのような気がしてならない。  私は昨日、マドリッドの〈コロン広場〉という場所に立って、コロンブスの像を眺《なが》めていた。今日、リスボンの市内の一角でこの文章を書いている。リスボンの街には、アカシアの花がまっ盛りで、舗道にはり出したテラスには雪のように黄白色の花が降ってくる。私はこのヨーロッパ大陸最西端の土地で、アカシアとポプラと、青い空と、頭に物を乗せて運ぶポルトガル婦人たちの列を見た。それは私がかつて育った土地の自然と同じものだった。  私の足もとには七、八歳の子供が地面に坐りこんで、せっせと私の靴をみがいている。ホテルのドアボーイは、少年たちばかりで、新聞売子も幼児が多い。この国は、現在、世界で最も多い二十三の植民地を持つ国だという。  にもかかわらず、なぜこの国は貧しいかを私はアカシアの花の驟雨《しゅうう》の中で考え続けているのだ。 二十二年目の夏に  前に戦争中に精神の形成期を過した人間の後遺症について書いた。その後、様々な反響があった。その多くは、内心で自分の症状に気づきながら、周囲の連中に言うのをためらっていたらしい純情な方々ばかりのように思われた。 「何だい、お前さんもそうか。いや、実は俺《おれ》はな……」  といった調子で照れくさそうに彼らは喋《しゃべ》り出すのだった。  私が前に書いたのは、こういうことだった。日常使う石油ストーブのための灯油をドラム罐《かん》で何本も買い込み、物置にそれをしまいこんでは何となく安心感を覚える、そういった話である。  精神の形成期といったところで、第一次戦後派の人々のように、戦争中にその文学的、思想的基盤を形成したという意味ではない。もっと単純な、いわば物心つく頃に戦争の時代という一つの洗礼をうけた、というほどの事である。  思想は変るが、生活感覚や、歩き方や、目つきというやつは仲々変らないものだ。戦後二十数年たって未《いま》だに、三十四歳の私が当時の影響を日々の生活の中に見つけて奇妙な感慨にふけるのである。  後遺症の一つは、まず、金銭に対する不信感と、物に対するフェティシズムとして現われる。つまり、価値観がどこか歪《ゆが》んでいると言ってもいいだろう。  例《たと》えば、私は今なお〈純綿〉という単語に一種の畏《い》敬《けい》の念を感ぜずにはいられない。テトロンとかビニロンとかいった新しい材質よりも、〈純綿〉という言葉に対して、はっと身のひきしまる感じをおぼえるのだ。  それから〈砂糖〉。  外国空路の機上で、コーヒー用の袋入りの砂糖が出る。私がジンジャエールか何か飲んだために、それがテーブルの上に残る。スチュワーデス嬢がやって来て、そいつをつまんで持って行こうとする。その時、私の手が反射的にそれをポケットにすべり込ませる。  砂糖なんて、どこにでもいくらでもあるではないか。それはわかっているのだが、条件反射的にそうなってしまうのだ。私が子供の頃、さる宮様が童謡の作詞をなすって、歌学者たちから激賞された事があったように憶《おぼ》えている。その歌詞の一節は、およそ次のようなものであった。なぜこんな歌詞を今まで忘れもせずに憶えているのか、考えてみると情けない限りだが。   砂糖はあまくおいしくて牛乳なんぞに入れてのむ  砂糖は甘くおいしくて、牛乳なんぞに入れて飲む——時たま、ふっとこんな文句が頭の中に浮んできて、あの真夏の八月十五日を思い浮べさせるのだ。私の家は、当時、平壌《へいじょう》の航空隊と同じ一角にあった。その敗戦の数日間、若い飛行機乗りたちが、毎晩のように私の家へ砂糖の麻袋を運んできた。数年間、私の見た事もなかったような純白の輝く砂糖が、敗戦と同時に私の目の前に現われ、私を驚かせた。その若い飛行機乗りたちのうちの何人かは、深夜、飛行場の堤防に機銃掃射を行いながら、無意味な自爆をとげた。間もなく北鮮側の人民委員会の保安隊員が現われて、私の家の麻袋に入った砂糖の山を摘発して行った。私たちは、それから引揚げまでの一年半あまり、砂糖の味など全く忘れてしまう日々を送った。  砂糖は甘くおいしくて、牛乳なんぞに入れて飲む——。  戦中から戦後、そして今もなおしばしば私の胸中を去来する絶唱はこの歌詞である。ランボーでもなければ、中原中也《ちゅうや》でもない。そして、金髪碧眼《へきがん》のスチュワーデスに気がねしながら、私は未だに残された砂糖の袋をポケットにしまい込むのである。これが後遺症でなくて何であろうか。  ナイフ、磁石、マッチ、懐中電灯、乾パン、地図、ETC。  それらのものに対する偏愛も、また私の後遺症の一つである。それらは荒野に自分の生命を守る時に必要欠くべからざるものばかりだ。喫茶店で自由に手に入るマッチが、ある時代にはどのような偉大な物質であったか。  私は車を持っていない。なぜならば車はガソリンを必要とするからだ。ガソリンは我国には充分産出しないと国民学校の地理で教わった。ABCDラインはその血の一滴(ガンリンのこと)を絶とうとした。車のカタログを持ってくるセールスマンに私は首をふって言う。 「車はいいけど、もしガソリンが手にはいらなくなったらどうする?」 「それ、どういう意味ですか?」  若いアイビールックのセールスマン氏はキョトンと私をみつめて首をかしげる。私は車が嫌《きら》いではない。だが、自分で買い込んだ車のドテッ腹に代燃用のタンクをつけ、手回しのサイレンみたいなフイゴを回す悪夢が私の購買意欲を減退させる。これも後遺症の一つに違いない。  今年は金沢も例年にない、ひどい暑さである。仕事用にクーラーをつけないかという人がやって来た。私は断わった。金も問題だが、「ゼイタクはテキダ!」と、どこか頭の奥の方で声がしたからである。これは良くない症状で、幻聴という分裂病の徴候だそうだ。  四十代、五十代の人たちは、戦争のもう一つ前の時代を知っているのかも知れない。モボ・モガ時代とか、昔恋しい銀座の柳、とか。  しかし、私たちは人間がその生涯の歩き方のパターンを決める時期に、海洋少年団にいた。酒席で何かやれと言われて私の出来るのは手旗信号位のものだ。それに、あの、イトー、ロジョーホコー、ハーモニカ、ニューヒゾーカ、ホーコク、ヘ……  ヘ、とは何か。それはヘである。トンであって、ツーではない。モールス符号を憶えきれずに、自殺を計った幼き級友がいた。彼は、そのヘ、と、オ、だけを真先に憶えた。オ、はオショーショーコーである。ト・ツー・ツー・ツー。  戦没学生の手記を読んで、私は彼らが古今東西の古典を驚くほど読んでいることに、一種の反撥《はんぱつ》を憶えずにはいられなかった。  私たちはオショーショーコーであり、オヨソグンジンニハ、カミゲンスイヨリシモイッソツニイタルマデ、ソノアイダニカンショクノカイキュウアリテトウゾクスルノミナラズ、ドウレツドウキュウトテモ、テイネンニシンキュウアレバ、シンニンノモノハキュウニンノモノニフクジュウスベキモノゾ、だからである。  この荒々しい形成期の中で、やはり私たちはデフォルメされたし、それは私たちに抵抗の努力が足りなかったためだと責められる事柄ではあるまい。  そして戦後。私たちはインフレイションの嵐《あらし》の中で少年期を迎え、いま、三十四歳を迎えて金銭に対する不信感を固く抱《いだ》きつづけている。今日の一万円は明日の百円だ。今のうちに早く使っちまえ。そんな声がどこからともなく聞え、私は慌《あわ》てて財《さい》布《ふ》を掴《つか》んで外へ飛び出すのだ。  本当のところ、原稿料を品物、たとえば純綿のサラシとか地下足袋《じかたび》とかでもらえれば、もっと安心するに違いないのだが。  やがて八月十五日がくる。もう、以前ほど誰もそれを意識しないようになってきた。だが、私の中では戦争は変らず生きている。後遺症に悩まされてばかりいてもはじまらない。そろそろ、私白身の問題として、もう一度、戦争について考えなおしてみたい夏である。 新宿西口の酒場で  池田満寿夫《ますお》氏がベルリンからの通信の中で、「自分の語感が衰弱したように思う」という意味のことを書いていた。  英語、フランス話、ドイツ語、スペイン語と、雑然たる会話の中に身をおいていると、一種のアナーキイな語感の混乱を覚えるという意味の述懐である。  外国語と日本語、という問題について、このところしきりに考える。われわれはどうしてヨーロッパやアメリカの人間と全く平静な態度で対し得ないのだろうか、と私はそのことを考えていたのだった。  言葉の問題だけではない何かが、そこにあるように思えるのだ。  こんな事もわからないのか、といったさも苦々しい表情で外国人にまくしたてられるとき、相手の言葉を理解しかねている日本人は、ほとんど卑屈になるか、反対にふてくされた傲慢《ごうまん》さを示すかのどちらかになる。  しかし、それはまだいい。私が嫌《きら》いなのは、外国人とほとんど同じように英語、あるいはフランス語を喋《しゃべ》る日本人に対する相手方の反応だ。  そこには、一種独特のかすかな優越の感情が匂《にお》うように思う。自分らの国語を、さぞかし苦心してマスターしたであろうところの東洋人に対する、無意識の満足と思いあがりがひそんでいるのを感じる。  私たちは日本語を巧みに話す外国人に対して、無邪気な感嘆と、素朴な好意を感じる場合が多い。まれに悪達者な日本語をあやつる外国人に、一種のうさん臭さをおぼえる程度である。  その差異の背後にあるものは、やはりヨーロッパと、コロンの関係ではないか、という気がしてならない。彼らの自信を支《ささ》えているのは、ヨーロッパの文明と富に対する自負であろうし、更にその文化や富を支えてきたのは植民地の存在ではなかったか。  パリから帰って来た伊《い》丹《たみ》十三氏は、渋谷の街を眺《なが》めて暗然たる感慨を覚えた、という意味のことを書いていたように思う。その気持はわかる。わかるが伊丹氏がその時おぼえた感慨は、それだけではなかっただろうという気がする。  整然たるパリの街なみと、見事な街路樹の景色に、現在の私たちは、すでに無邪気に感嘆することは出来ない。少なくとも、エトワールからコンコルドの方角を眺めた私の感情は、強いアンビバレンツの状態にあった。この豪奢《ごうしゃ》を支えた富は、どこから来たのか? それはフランス人の勤勉と、美意識と、才《さい》智《ち》のみが創《つく》りあげたものではないことを私は感じていた。 〈にもかかわらず、なぜ?〉  と、私は道行くこの国の人々に問いかけたいと思ったのだ。〈なぜ君らは?〉  いつぞや〈パリは燃えているか?〉という映画を見たとき、私は激しい不快感をおぼえた。あの作品を作ったのがフランス人であるか、アメリカ人であるか、私は知らない。だが、あの、パリのみが世界の首府、人類の宝石であるかのような歌いあげかたには、私の体のどこかに強く反撥《はんぱつ》させるものがあった。かえりみて雑然たる渋谷ハチ公前に立つとき、私は強い嫌《けん》悪《お》感《かん》と、激しい愛着の念を同時におぼえずにはいられない。  不《ふ》揃《ぞろ》いな家並み。ラーメンとバーゲンセールの看板。都電のきしみと、タクシーの群れ、街頭放送の絶叫。そしてクモの巣の如《ごと》き電線。ネオン。演歌と地下道を走るネズミたち。灰色の群衆。  だが、これは私たちが自国の植民地を持たずに作りあげた精一杯の街ではないか、という気がする。しかし、フィンランドはどうなのだ、という声が頭の中できこえる。戦後、巨額の賠償をソ連に払い、国土を割譲し、引揚者と多数の戦傷者を抱《かか》えたあの小国の、静かに整然たる街並みは? また逆に、現在最も大きな植民地を持つといわれるポルトガルのスラムは? 「渋谷だけが東京じゃない。新しい日本の市街が見たけりゃ、新宿の西口へ行ってみろ」  と、ある晩、友人の一人が言った。私は彼の車で新宿の西口へ行った。そこには、新しい巨大な鉄とセメントの街があった。私はまたそこで別な感慨をおさえきれなかった。私は自分の国が、再び奇妙な道へ歩みを出しかけていることを感じたのだった。  私はそのとき、自分の感慨を整理できぬままに一つのいやな観念にとらわれていた。 〈見事な街を作るのは、富の偏在ではないのか?〉  富の偏在がある種の文明を開化させる、という考えは、私にとってひどく重い観念のように感じられる。それは自明の理かも知れないが、私はそれに慣れることができない。私には、新宿西口の、巨大なビルの集団が、ひどく不吉な暗いもののように感じられた。私と友人とは、その日車を捨て、国電の沿線にしがみつくようにして残っている旧マーケットあとの、〈コーシカ〉というロシア酒場でウイスキーを飲んだ。客が五人も坐れば満員になりそうなその店は、大デパートの陰に、点として存在しているに過ぎない。いずれ消滅するにちがいない、その〈点〉のカウンターで、私たちは黙って飲んでいた。  最初、友人はオールドの水割りを頼んだのだった。 「そんなものおいてないわ」  と、少し疲れた顔のロシア婦人が日本語で言ったのだ。「角ならあるけど」  恥じいった友人と私は、角を頼み、十年前、中野の酒場でトリスのグラスを宝石のように大事に抱えて、カウンターにねばっていた時のことを思い出していた。電車が通るたびに、私たちの椅子と、私たちのグラスが震えた。  これからの日本の街を作るのは、日本人の美意識だろうか?  私には必ずしもそうとは考えられない。日本の市街を作るのは、日本の経済力だろうという気がする。少なくとも新宿西口の様相には、それが露骨に感じられた。そして、今後は、あらゆる場所で、そのような街づくりが進められて行くに違いないという予感がする。新宿西口のあの市街は、深夜になると数十人の守衛氏たちを残して、無人の都市になるだろう。暗黒の中にそそり立つ、鉄骨とセメントとガラスの巨大なノーマンズランドを想像するとき、私は何かひどく空《むな》しい思いにかられる。〈点〉のような小さな酒場には、少なくとも数人の客と、疲れた顔の異邦人がいた。だが、その〈点〉を踏みつぶして次第に拡大して行く無人都市は、何によって支えられ、何によって維持されるのであろうか。私は少なくとも古い伝統とか、風《ふ》情《ぜい》とかいったものに対しては無関心な人間である。滅び行くものの哀感などといった洒落《しゃ》れたものより荒々しい建設の雑然を愛している。だが、〈点〉を消して無気味に広がり行く〈面〉の現実は、ある薄気味悪さをおぼえずにはいられない。いま、なにか得体の知れない新しい季節が始まろうとしていることを私は感じる。ほんのわずかの期間、あわただしく外国へ飛び出して帰って来てみると、〈風の音にぞ驚かれぬる〉といった気がしないでもない。  あの光彩にみちた「太陽の季節」は、どうやら終りを告げて、奇妙な「白夜の季節」がやってきたようだ。〈コーシカ〉という新宿西口の小さな酒場で、そんな事をぼんやり考えた。蛇《だ》足《そく》だが、〈コーシカ〉とは仔《こ》猫《ねこ》の意味である。年寄りの方のオバさんが弾《ひ》くバラライカにダルな哀感がある。オールドはおいていない。 われらの時代の歌  このところ、ユパンキに凝っている。  ユパンキというと、何かカード遊びかオイチョカブの類《たぐ》いのようにきこえるが、そうではない。  ユパンキ——正確に言うと、アタウアルパ・ユパンキとなる。インディオの血をひく五十九歳の男。アルゼンチンの魂の声といわれる、腰の低いギター弾《ひ》き。  いや、肩書きは外にも書ききれないほどある。哲学者、神学者、詩人、民謡歌手、そして、邦訳〈インディオの道〉の作家。  ユパンキの名前は以前から知ってはいた。今年の夏、彼は金沢の古い町に、ギターを一《いっ》梃《ちょう》かかえて飄然《ひょうぜん》と現われた。〈孤独の石〉〈五月の山〉などの作家として欧米でも有名な彼は、北陸の聴衆のつつましい拍手に、いちいち低く腰を折って実に物静かなお辞儀をくり返していた。家の者はその晩から、熱烈なユパンキの支持者になった。家人が買い込んできたレコードは、今も私のささやかな再生装置の上に乗せられたままである。このところ、旧式の扇風機をかけながらユパンキを聞き、縞瓜《しまうり》を食べて昼寝をするのが日課の一つになってしまった。  先月、私はヨーロッパの端っこの田舎《いなか》町で、ユパンキの名前を聞いた。レストランのテーブルで一緒になった南米のマダムと、手真似《てまね》足真似で話し合った時である。 「トーキョー」  と、彼女が言って、両手をひろげ肩をすくめる。私は苦笑してうなずく。 「サンバ」  と、今度は私が言う。マダムが微笑して、ちょっと踊りの手付きをする。そしてお互いに笑いあう。つまり、そんなふうの、とぎれとぎれの対話である。話がとぎれた後、 「ヴィラ・ローボス」  と、私が言った。ジョーン・バエズが歌った彼の曲は、〈ブラジル風バッハのアリア〉となっていたはずだった。私はそのポルトガル語の詩につけられたメロディーの美しさに、昨年の秋頃、ひどく夢中になっていたのである。  マダムは大きくうなずいて、ニコニコ笑い、それからうっとりと目を閉じて見せると、 「ユパンキ——」  と呟《つぶや》いた。そして深いため息をついたのだった。「——カミニート・デル・インディオ」  その歌は、私も知っていた。  石ころだらけのインディオの道。谷間より遙《はる》かな星につづく道。インディオの嘆きは夜と共に深く、日と月とわが歌と、道の小石に口づける。ああ、はるかなるインディオの道よ——。  ユパンキがパリで国際民謡コンクールで優勝したのは、一九五○年のことだと言う。彼はその旅行中、ベルギーで文芸講演会を行い、〈抒情詩《じょじょうし》の作文法〉という話をしたらしい。  いま、私がレコードで聞く彼の声は、決していわゆる職業歌手の声ではない。少しかすれた、どちらかといえば無器用な歌である。だが、どうしてこのような歌をユパンキは歌う事ができるのだろうか、と私は思う。それは聞く者の体の奥にある、乾《かわ》き果てた荒野に降り注ぐ驟雨《しゅうう》のような歌だ。その歌を聞くたびに、私は激しい嫉《しっ》妬《と》の感情を覚えずにはいられない。  なぜ、私たちには、民族の魂にまっすぐつながる現代の歌がないのだろうか? と。 〈最《も》上川《がみがわ》舟歌〉や、〈南部木《こ》挽歌《びきうた》〉や、〈江《え》差追分《さしおいわけ》〉や、〈島原地方の子《こ》守唄《もりうた》〉などという、数多くの民謡が私は好きだ。だが、それはすでに過去の美しい遺産ではあっても、わ《・》れらの時代《・・・・・》が創《つく》り出した私たちの歌ではない。私がユパンキに惹《ひ》かれれば惹かれるほど、私は自分たちの一筋の血の流れから離れて行く感じがある。それが私をいらだたせるのだろう。  私たちが早稲田の学生だった頃、新宿の二丁目の近くに〈モン・ルポ〉という喫茶店があった。その頃はまだ少なかった新しいシャンソンのレコードを沢山集めている店で、私たちの仲間は、よくそこへ通った。若い、和服の似合うほっそりしたマダムがいて、そちらの方にも惹かれていたのかも知れない。 〈ブラマント通り〉、たしかそんな題の歌があったように思う。その歌の奇妙な味が気に入って、私たちの仲間が行くと、その歌をリクエストするのだった。  フランス語が判《わか》らないので、どんな意味だかさっぱり解《わか》らない。だが、それでもあのしゃがれた低音で歌う女の声には、私たちをひきつけるものがあった。  その喫茶店の中で、一杯のコーヒーをちびちびなめながらねばっていた私たちの姿を、いま思い出してみると、かなり照れくさい感じがしないでもない。その頃はまだ、東京でパリ祭などという奇妙な騒ぎがあり、その晩は深夜まで新宿はにぎわうのである。  ともあれ、私はシャンソンのレコードを聞きながら、かすかな嫉妬を感じていたのだった。 〈おれたちのシャンソンは、いったいどこにあるのか?〉  その後、タンゴに凝った時期があった。といっても、レコードの生き字引きみたいな鑑賞法には関心はなかった。私は、今でも上等の録音より、下手《へた》くそな生の演奏の方が好きなのである。そこで、よく日本人のタンゴバンドを聞きに出かけたものだった。硬質のバンドネオンの音や、その花火のような束《つか》の間《ま》の豪華なソロが気に入って、一日に二つのステージをハシゴしたこともある。その演奏が面白ければ面白いほど、私は胸の奥のどこかに、冷たいすき間風が吹いて通るのを感じていた。  やがて私はジャズに夢中になりはじめた。当時はディキシーランド・ジャズが受けていた時代で、ステージもとても活気があったように思う。今は無くなった銀座の〈T〉で、少年少女にまじって演奏を聞き、その足で渋谷の〈スイング〉などへ回ることもあった。私は案外、正統とか本格とかいった権威に関心のない方だったから、ディキシーのレコードに関しても、そうだった。クリス・バーバーなどという妙なバンドが好きだったり、そこでクラリネットを吹いていたモンティ・サンシャインがひいきだったりした。いずれにしても、私はジャズから、強いよろこびと、一種の嫉妬の感情をあたえられた。それは、未《いま》だにそうである。ヨーロッパのジャズメンとくらべると、日本人のプレイヤーは大変優秀だと思う。そのうちにアメリカよりも巧《うま》いジャズをやるのではないか、という気もする。  しかし、日本人が最も見事にジャズを演奏するということは、いったい何だろう。それは、彼が一歩踏み出した分だけ、自分の民族から離れて行ったことになりはしまいか?  アメリカ人がジャズをやる、ということと、日本人がジャズをやる、ということの間には、これまで余り取りあげられなかった、大きな問題があるようだ。アメリカ人に近づくだけ、日本人から離れる、というのでは困るのである。  ミュージカルについても同じことだ。  私はミュージカルというものを、アメリカ人の、欧州と十九世紀に対する独立宣言だと思っている。ヨーロッパのオペラに対する強烈な否定の姿勢に支《ささ》えられているのが、アメリカのミュージカルではないか。とすれば、日本でミュージカルをやるということは、どういうことか?  それはアメリカの創り出したミュージカルに、強い否定の情熱で立ちむかうことだろう。あちらの舞台を、寸分違わず上演するなどという試みは、出発点から錯覚があるのではあるまいか。それが解った時こそ、私はあの奇妙な苛《いら》立《だ》たしさを感ぜずに、国産ミュージカルを見ることができるにちがいない。ユパンキのかすれた歌声は、私にそんなことを考えさせるのである。 サーカスの歌悲し  私の家の庭つづきに、J病院がある。そこの精神科の患者さんたちが、同人雑誌のようなものを作ったので、時たま相談に乗ることになった。  患者さんの中には、なかなかの文学青年や老年もおり、地元の新聞に度々《たびたび》入選しているような歌人もいて、油断はできない。時には六、七百枚の長篇などが持ちこまれて、ぎょっとさせられたりもする。全文改行なし、句読点なしの六百枚であるから、ジョイスやヌーボーロマンを読むより骨が折れる。  時に庭の世話をしてくれる患者さんがいて、この人がまた仲々の読書家である。だが、時々、話が前後したりすることがあって、こちらがあわてることもある。 「最近、誰々さんは良く書いとるなあ。少し書き過ぎとちがうんか」  などと言う。 「五木さんはどんな作家が好きかね」 「さあ。坂口安《あん》吾《ご》のエッセイなんか読んでるけど」 「坂口安吾か。坂口もいいけど、最近あんまり書いとらんようだな」 「え?」  相手があまり自信たっぷりだし、最近の文壇事情など手にとるように通じているので、私の方が不安になったりする始末だ。  今朝、女房が一冊のスケッチブックを持って来た。やはりお隣りの入院患者さんで、二十をいくつか越えたばかりのH君のものだという。  H君は、うつ病と闘っている若い人である。以前に数回、自殺をはかったことがあり、つい先日も、犀川《さいかわ》の上流で危ないところだった。 〈青樹《せいじゅ》〉というガリ版刷りの雑誌に彼が書いた短文も、何かを感じさせるものがあったが、このスケッチブックを見て、私は或《あ》る種の興奮を禁じることができなかった。  それは表紙に、最近はやりの怪獣を印刷した、安っぽい子供用のスケッチブックである。〈水爆怪獣エイモンズ〉などと赤い活字が躍《おど》っているやつだ。  そのスケッチブックが、H君の手に渡って全く違うものになった。左のページに彩色された絵。右のページにスミで詩のような文章が書いてある。絵も、文章も、ひどく私をおどろかせた。正気と狂気の深淵《しんえん》をじっと見つめつづけて闘っているH君の、ぎりぎりの叫び声がそこにはあったように思う。  いつか私は、ジャズは一つの闘いの旗だ、と書いた。このH君の絵と、文章は、まぎれもなく彼の病との闘いの旗ではないかという気がした。 〈踊り子〉〈海にあこがれる〉〈サーカスの歌〉〈空を飛ぶニヒリスト〉〈逆立ち小僧〉〈凧《たこ》あげの少年〉〈売られた花嫁〉などの文章の一つを、ここに紹介しておきたいと思う。  H君はそれを、自分の命を絶とうと試みる日々の間に、病院の片隅《かたすみ》で書きつづけた。それは彼の孤独の対話であり、独《ひと》りだけの闘いだったのであろう。私はH君の幻想に満ちた絵を、ここに示せないことを残念に思う。いま、戦後二十二年を経て、私たちの周囲は、声高に叫び合う活気のある声に満ちている。その世界の片隅で、ひっそりと自分だけのつぶやきを呟《つぶや》く、孤独な兵士たちのことを、私たちは忘れ過ぎてはいないだろうか。    サーカスの歌 サーカスの歌悲し 最近では祭にサーカスも来なくなった 道化の子はラッパを吹けどラッパを吹けど誰も笑わず 僕の サーカスの描かれた点景人物が 画面の中で僕の筆で静止させられると あたかもこの世界が この世界が生きているものが動きをやめたと感じられて 僕はふっと恐ろしくなる ああ道化師よ 君は笑いを売るけど 君の悲しみを買ってくれる者はどこにもいない サーカスの歌悲し サーカスは滅び行く芸術なり 二十世紀の遺産なり レモンの切口の断面のような一輪車の上で輪投げをする道化師の子の兄弟 君達はその芸を別に誇ることもなく淡々と輪投げをする この世に降りて来た神がその権威の衣を脱ぎ捨てて一人の人間として振舞う自然さでその自然さで兄弟二人は 黙々と輪投げをする 多くの観客が帰ってしまって観客席に誰もいなくなっても サーカスの団長が夕食をまずしい夕食を食べ終えて眠りについても 明日の朝まで一度も輪を落したりする失敗もせず 誰かが「もうおやめなさい」と言わぬ限り兄弟二人はていねいに輪投げをするだろう 若い若い道化の子 子供子供した道化の兄弟 ああ君たちは幸《しあわ》せだ この世で何をしていいか迷うこともなく 生れてすぐから本能的にこの芸を この輪投げをして来たかの如《ごと》く 今日も一日レモンの切口の断面のような一輪車の上で輪投げをする サーカスの歌悲し 楽師のラッパからするりと抜けたサーカスの歌のメロディは もう一人の楽師のラッパの中にするりとすべり込んで この世に形を残さない ああ サーカスの歌悲し  この文章の古典的ともいえる均衡を、面白くない、と考える人もいるかも知れない。だが、そんな人は、H君らを、自分らと違った人間と見る傲慢《ごうまん》の罪を犯しているのではないかと思う。これは、狂気の人の心理分析のための資料でも、新しいLSD芸術の一種でもない。  一人の人間の内面の呟きを、彼の美意識の中でまとめあげた文章であり、私を打つのはこの作者が、現に一つの精神の病との苛《か》酷《こく》な闘いと闘いつつある若い人だということなのだろう。  ここに紹介した文章は、彼の絵につけられたキャプションに過ぎないかも知れぬ。サーカスの歌の絵は、およそこんなものだ。画面上方に緑色の僧服のようなものを着た、観客が数十人、奇妙な沈黙のうちに向き合っている。中央に〈レモンの切口〉の断面のような一輪車に乗って、輪投げをしている少年二人。この少年の頭からは三本のアンテナのようなものが出ている。彼らの頭上を、虹《にじ》のように渡るのはメロディーの速音符だ。そして、青いラッパを持った左の演奏者の楽器から、音符は右の演奏者のラッパへと吸い込まれて行く。中ほどに玉に乗ったピンク色の豚。左下に緑色の二匹の烏。  そして、その間に黒い細字で、いくつかの句が書き込まれている。 「雪山の輝ける日も母病めり」 出雲《いずも》  久屋三秋   「東風《こち》の鷺撩乱《さぎりょうらん》と落つ竹《ちく》生《ぶ》島《しま》」 近江《おうみ》八幡《はちまん》  山本隆弥《りゅうや》    絵の説明は空《むな》しい。だが、その絵と文章を通じて、H君が外界との対話を回復しようと苦しんでいることが私にはわかる。  私たちの住む外界は、果してそれに価するほどのものであろうか。  私はそれを考えていまひどく暗い気持でいるのだ。 飛行機によせる郷愁  飛行機のことについて、少し書きたい。  最近、仕事の都合で飛行機を多く使うようになった。  なにぶん、金沢と東京では新幹線を利用しても六時間半はかかる。信越回りの特急だと八時間だ。  これを飛行機で飛ぶと、一時間半あまりで東京・金沢(小松)間を一またぎすることができる。  時間に追われて仕事をしていると、つい飛行機にたよりがちだ。だが、考えてみると、それだけではない。本来、私が飛行機という代物《しろもの》を好きだ、という理由もある。  飛行機、それもジェット機でなく、プロペラ機が私は好きだ。  滑走路の白線の所で、勢いよくエンジンをふかし、ぐぐっと加速してふわりと浮き上る感じは列車にはない。  バイカウントだとか、フレンドシップだとかいった飛行機に乗っていると、飛んでいる間、エンジンが営々と働いているといった感じを受ける。  エンジンの横腹に、Rの字が二つ重ねて書いてある。ロールス・ロイスのマークだろう。はじめての飛行機旅行でそわそわ落ちつかぬ乗客に、隣りの英国紳士が、そのRのマークを指して、 「ロールス・ロイス」  とただ一言、落ちつけといわんばかりに大きくうなずいた、などという旨《うま》いコマーシャルを思い出させるマークである。  ロールス・ロイスだって、故障する時は故障はするだろう。いかにもイギリス人らしい自信ぶりを旨く利用した、巧妙なパブリシティにちがいない。  度々《たびたび》乗っているうちに、飛行機が怖《こわ》くなった。慣れて平気になるかと思ったら、逆である。この飛行機はこの位走って、こんな角度で上って、この辺で旋回して、などとおよそ見当がついてくるからいけない。そのうちに、操縦士の個人的なくせ、のようなものがわかってくる。  着陸の時などもそうだ。滑走路の端に、この位の高さで進入するという見当がついてくると、その時その時の高低が、ひどく気になってくる。F空港などという、せまい滑走路などの時は、それが実によくわかるのだ。まず、荒っぽい離陸をする機長の時は、着陸も相当の覚悟がいる。  これは何も国内の話だけではない。世界のいろんな飛行機に乗った時の印象が、それそれひどく違った。  アエロフロートのTU一一四でモスクワに着陸した時、調理室のコップが棚《たな》からガシャガシャンと音を立てて床にこぼれ落ち、スチュワーデスが転《ころ》んで悲鳴をあげたことがあった。あれは、かなりの荒っぽい着地だったと思う。安全性では定評のあるTU一一四だが、あの時は少々ショックだった。隣りのロシアの小母さんは平然として、編物の手を休めなかったから、あの位で驚く必要はないのかも知れない。  それにしても、私たちの少年時代は飛行機が当時の花形だった。今でいうなら、さしずめスポーツカー並みの人気があった。  私たちは木片をけずって、当時の軍用機のモデル作りに専念したものだ。日本の飛行機だけでなく、敵国のものや、同盟国の飛行機も注目の的だった。  ノースアメリカンP五一ムスタング。  ロッキードP三八。(これは双胴の妙な戦闘機だった)  グラマン・ワイルドキャット。  主翼がW型になったヴォート・シコルスキー艦上戦闘機。(これはいかにも強そうに見えた)  英国でホーカー・ハリケーン。  名機、スピット・ファイヤー。  ナチス・ドイツのメッサーシュミット。  ソ連のE十六型戦闘機。  この辺《あた》りが私たち当時の小学生のスターだったと思う。  もちろん日本のハヤブサ、ショーキ、ヒエン、三式戦、新司偵、なども人気があった。私たちは爆音ではっきりとそれらの機種を識別することができたし、細かなデーターについてもくわしく知っていた。  たとえば、ショーキは、ハヤブサに比べて速度、上昇力、火器等においてはるかに優《すぐ》れているが、旋回半径が大きく格闘能力において劣る、などということは私たち子供仲間の常識であり、中でも粋《いき》な少年たちは新鋭機よりも、脚《あし》の引っ込まない九七戦などを高く評価したりもしたものだ。  いま、男性週刊誌などでは、新しいスポーツカーのカラー写真や仕様が必《ひっ》須《す》の頁《ページ》として重要視されている。若い男の子や女の子たちは、恰好《かっこう》のいい車に夢中である。しかし、私には、彼らの車によせる情熱と、私たちがかつて戦闘機に示した関心との間に、ひどく大きな差異があるのを感ぜずにはいられない。  私たち当時の少国民にとっては、飛行機は単に恰好のいいメカニズムだけではなかった。新鋭機とは、戦《いくさ》の局面を、すなわち祖国の運命を左右するに足る力を持つ代物であった。そして、いつかは自分たちも、その操縦席に身を沈め、敵の機種と生死を賭《か》けた戦闘を演じるであろう武器でもあった。  したがって、当然、私たちの飛行機によせる関心には、歴史と、自己の生死がそれに依《よ》るところの一種荘重な感動があり、それはまた実に深い魅力として感じられたのである。  私はこれまで、「今時の若い者は——」などという言い方をした事もなければ、書いたこともない。  だが、彼らと自分の間に越え難い断絶を覚えるのは、あのスポーツカーに対する彼らの熱中ぶりである。熱中することは問題ではない。  私が理解し難いのは、彼らは果してスポーツカーへの情熱から、どのような感動をくみ取っているか、という一点につきる。  かつて私たちは、幼稚な愛国的少国民であった。私たちの目の前に現われる新鋭機は、子供なりに自己の未来の生死と、民族の運命に関与するものとして映じていた。その視線にうつる飛行機には、一種独特の美が感じられたように思う。  そんな時代をくぐって来た私たちは、あの見事なスタイルと能力を持つスポーツカーや、フォーミュラーカーの美に対して、それほど感動しないところがあるように思う。そこには、かつて私たちが戦闘機に覚えた、あの叙事詩的な感動というものは存在してないのではなかろうか。  現在も戦闘機はあるではないか、と、言う声がきこえる。  たしかに、それはある。私がいつも行き来する小松飛行場にもF八六だのE一○四だのといった自衛隊のジェット戦闘機が、金属質の爆音をひびかせながら空を引き裂いては飛び去って行く。  だが、今や私もかつての少年ではない。それらのジェット機を眺《なが》めても、かつてのあの旧式なプロペラ機に心を躍《おど》らせたような感動はよみがえってはこない。  そして、現代の青年たちは国産のスポーツカーと、外国製のそれとの優劣を論ずることに熱中しているだけだ。飛行機は彼らの関心の外にある。  それはなぜだろう、と、飛行場の青草の中に立って考えた。  ジェット機という化物は、すでにそのような情熱の対象とはならないものなのであろうか?  それとも、外に何か理由があるのだろうか?  さきの中近東の戦乱で、あれほど活躍しながら、ミラージュ機の熱狂的なファンであるという子供に、私は出会ったことがない。ミグにいたってはなおさらである。 光ったスカートの娘  何が面白いといったところで、やはり人間ほど面白いものはないと思う。  三十四歳の今日まで、様々な人間を見てきた。それほど深く魂の相寄るところまて踏み込んだことは少ないが、それは私が人間同志お互いの内部にまでかかわり合いを持つことを好まないせいかも知れない。  人間は、ある距離をおいて眺《なが》めている時がいちばん面白いようだ。無責任な言いかただが、君子の交わりは何とやらで、適当に離れて接する友人ほど良く続いている。  人間の内部にわけ入って、いろいろ探索するなどというのは、私には気恥ずかしくて、とても出来ない。自分が分析されるのは平気だが、他人は外から眺めているほうが、いろいろと楽しいように思う。  時々、ふっと全く関連のない人の顔が頭に浮んで来て、思わずニヤリとすることがある。何人かの思い出す人々の顔を、ポップ風にあげてみよう。悪意あっての文章ではなく、私にとってはそれぞれ懐《なつ》かしいイメージばかりなので、ご当人も笑って見《み》逃《のが》していただきたい。  夏であったか、それとも秋であったか、はっきりした記憶はない。  私はNHKテレビのMさんというディレクター氏と一緒に、浅草のとある二階家の座敷にいた。私のほかに、放送ライターのOさん、Nさんなどがいたように思う。  前に坐ってウチワで悠々《ゆうゆう》と風を送っている中年の婦人がいた。簡単服を涼しそうに着てニコニコ笑っている。堂々たる体格で、ゆったり坐ったところが、実に頼もしく感じられるような女性である。ちょっとした目つきや、身ごなしにいなせ《・・・》な歯切れの良さがあった。  何かのひょうしに、その人は、ウチワを持ちなおし、トントンとこぶしで膝《ひざ》のそばの畳を叩《たた》いた。トントンであったか、ドンドンであったか憶《おぼ》えがない。ただ、その太い二の腕の内側の女らしい白さが目にしみた。  トントンと叩く。二階の座敷である。とたんに下から若い衆の声。 「へーイ」  たったったっ、と足早に階段をかけ上ってくる足音。ふすまの向うですっと腰を下ろす気配。ふすまがひらく。半てんを着た角刈りの兄貴が、 「お呼びで?」 「お客さんに冷たいお茶を差し上げておくれ」 「へえ」  さっと一礼して、たったったっと歯切れよく駆け降りて行く足音。 「こちらのお兄さんも、どうぞお楽に」  ニコッと笑って声をかけられて、私も思わず、 「へえ」  ウチワの女性は浅香光代さんであった。私たちがやっていたNHKのカラー番組に、赤《あか》城《ぎ》の名月の一幕を演じていただこうと、お願いに参上つかまつっていたわけである。カメリハの時から、VTRのロールの時まで、彼女は実に誠実なアーチストであった。  最近あまりパッとしない女剣戟《おんなけんげき》の世界だが、浅香さんには江東から東武線の沿線にかけて、強力なおかみさん連の支持があるという。あの、畳をトントン、ヘーイ、という呼吸の良さを思い出すたびに、何となく楽しくなるのである。  私がCMソングを自分の名前ではじめて書いたのは、いつだったろう。  その年月もはっきり憶えていないが、商品名と、歌ってくれたタレントさんのことは良く憶えている。なんであれ、自分の最初の仕事というものは、愛着のあるもので、忘れ難い記憶となって残ってしまう。特にその作品があまり人目を引かず、不遇のうちに埋もれたりするとなおさらだ。評判になったものより、何倍もの執着を感じたりするから不思議なものである。  それは〈○○のパピー〉という新製品のCMソングであった。何でも水気を拭《ふ》きとる道具だったらしい。カタログを暗記するほど読み返して、ようやく一篇のヴァースを作りあげた。   �パピー パピー      何でもふいちゃう パピー  みたいな、たあいのない文句である。だが、処女作を発表する私としては、言葉を洗って洗い流した末に出来上った不朽の傑作と思われた。  作曲は、桜井順さんと並んで売れっ子の越部信義先生。その後、長くコンビを組んで曲を書いていただいた作曲家である。  日本短波放送の薄暗いスタジオで、録音が行われた。歌い手さんは私の知らない名前の人だった。用意が出来たころ、マネージャーに連れられて、一人の小柄な女学生がやって来た。カバンを下げ、セーラー服を着ている。 「この人が歌うんですか?」  私はいささかガッカリして聞いた。私は自分の最初の作品を歌うタレントさんに過大なイメージを抱《いだ》きすぎていたのだった。 「だいじょうぶ。この子は凄《すご》い才能がありますよ。将来きっと大物になります」  マネージャー氏が、私をなぐさめるように言った。 「はあ」  私は半信半疑であった。何でも学期末の試験で大変疲れているという。マイクに向ったセーラー服のスカートのお尻《しり》の所が、ピカピカ光っているのが目についた。  テストが始まったとき、私は軽いショックを受けた。張りのあるパンチのきいた声と、その声の背後ににじむ可《か》憐《れん》なお色気が私を驚かせた。そして、それにもまして、額に吹き出る汗を拭こうともせず、体ごと叩きつけるように歌っているセーラー服の少女の後ろ姿に、私はなみなみならぬ歌い手の気迫のようなものを感じたのだった。  アイロンの当てすぎだろうか、ピカピカ光っていたスカートのお尻を、私は今でも思い出す。私の横の長椅子には、少しくたびれた、蛙《かえる》の腹のようにふくらんだカバンがあった。前の晩、試験勉強で徹夜をしたという少女の横顔には、〈芸〉の世界の重いカーテンを体ごとぶっつけてくぐって行こうという、一種の執念のようなものが光っていた。彼女のカバンにつまっているのは、教科書だけではなかったに違いない。それははかなくも華《はな》やかな、ショウビジネスの世界に生きようと志した少女の、夢と決意でもあっただろう。  私はタレントの生活というものが、必ずしも人間として望ましい生き方であるとは思わない。それは、ある意味では虚《むな》しい世界でもある。だが、この世のことで、虚しくない世界が外にあるだろうか。いずれにせよ、年若い少女が、ひたむきにその世界をめざす姿には、一種の哀切な感動があった。  その少女が、中尾ミエ、という名前であることを、私は後で知った。その日から私は彼女に会ったことがない。やがて〈可愛いベイビー〉という歌で彼女は、望んでいたショウビジネスの世界に存在権を得た。新聞によると、近くリオの音楽祭に出演するという。  せっかく歌ってもらった私の処女CMは、もう月日の流れに消えうせてしまっているが、私の脳裏に今もチカチカと光っているスカートの記憶は残っている。おそらく私が見たのは、一人の歌い手の卵ではなく、幼くして一つの道に賭《か》けた人間の後ろ姿だったのだろう。そして、小説を書くという年来の抱負から遠ざかって、一向にめざす仕事のいとぐちに近づけずにもがいていた私自身に対する、恥ずかしさだったのかも知れない。 ある晴れた日の午後  私が金沢に住んでいるのは、べつにこの土地の風物人情が好きで好きでたまらないから、というわけではない。  住んでみたら、意外に面白い所で、気に入ってしまった、というのが本音である。  私が裏日本の地方都市に移住することを決意したとき、私の頭の中にあったのは〈東京との断絶〉という意識だった。  東京という文字に集約されるところの、いわば現代的と言われる生き方そのものに、一種の疑念を抱《いだ》いたからである。  だが、現在、私は金沢に住んでいて、全く東京と離れて生きているということを感じる瞬間が、ほとんどない。  電話と航空路線が、この北陸の都市を、東京の郊外都市にしてしまった、という気がする。  それは金沢に限らず、日本中どこでもそうだろう。日本と限らず、スペインでも、ポルトガルでもそうだった。先月、私は短い海外旅行をしたが、行く先々のホテルで東京からの、或《ある》いは東京への国際電話が私を待っていた。  つい先ごろも、小説の中で使うため、今年の夏のモスクワ競馬の模様を、モスクワにいる友人の神馬氏に電話で問い合せたばかりである。  こうなって来ると、金沢にいても、東京にいても、さして変らぬという事になってくる。しかし、それは私の本意ではなかった。  私は、マスコミの世界に逆もどりして一年半に満たないが、マスコミとの接し方に、自分なりのポリシーを持ち、それを押し通してみようと考えて来た。それは、危険なことかも知れない、という予感があった。また、友人のジャーナリストたちも、それに関して警告を発してくれてもいた。  まず、私は一ヵ月の執筆の限界量を自分で定め、それ以上の仕事は辞退することを決心した。それは、様々な意味で当事者にしかわからぬ困難があった。今年のはじめ、ある文学賞を受けてからは、なおさらだった。その賞を辞退せずに、受けた瞬間から、私はマスコミに対して一種の責任を引き受けたことになると、自分で感じたためである。  私はまず怠《なま》け者であり、オブローモフ主義とトリビアリズムの鉄鎖に骨がらみにされたタイプの人間だった。  原稿は遅々として進まず、といって私は酒を飲んでストレスを発散させる豪快さも持ち合せてはいなかった。私としては、結局、定められた小説のノルマ以外の、様々な執筆依頼を峻拒《しゅんきょ》するしかすべはなかった。  それが通り一ぺんの注文である場合は、何でもないかも知れない。しかし、若い作家を迎えるジャーナリストの好意と、同世代の共感に支《ささ》えられた編集者の意図にもとづく企画であり、依頓であるような場合は、それにどう対すればいいのだろうか。  しかし、幸運にも私は今日まで、どうにか自分の限界量をかたくなに守り通してくることが出来た。これは先輩作家の方々と、編集者諸子の例外的な配慮のたまものであって、私の能力ではない。  だが私は、電話で、あるいは手紙で、わざわざ執筆の申入れがあるたびに、それこそ受話器を持って脂汗《あぶらあせ》を流しながら、辞退させてもらいたい意志を喋《しゃべ》ったのだ。それは、徹夜で原稿を書く苦しみに数倍するエネルギーと精神の消耗を必要とした。  今年の夏のはじめ、金沢に突然、ある若い作家が来られた。仮にK氏としておく。  K氏と私は浅野川に面したゴリ料理の店、〈ごりや〉でビールを飲みながら、何とはなしに仕事の話などをした。  そのK氏は、私より数回前に、私と同じ文学賞を受けていた。だが、K氏は、最近あまり原稿の注文がない、今度も出版社に原稿を持ち込んでの帰りだ、と何のてらいもない口調で淡々と私に語った。 「あなたは忙しいでしょう」  と、K氏は言った。その語調に、少しでも皮肉や、気負いのニュアンスがあれば、私は反撥《はんぱつ》しただろうと思う。小説を書く者同志の残酷非情な魂ぐらいは、私とて持ちあわせていないわけではない。  だが、K氏の目は、窓の下を流れる浅野川の水よりももっときれいに澄んでいて、平静だった。それはK氏が今もなお自分の書くものを信じて、ゆったりした歩調でジャーナリズムの背後の自分だけの道を歩み続けていることを、私に感じさせる目の色だった。 「ええ」  と、私は答えた。「忙しいです」  それから私たちは、しばらく黙って窓の外の流れや、黒く光る瓦《かわら》の波、その向うの兼六園の木立ちなどを眺《なが》めて坐っていた。  やがて〈ごりや〉の仲居さんが、一冊の揮《き》毫帳《ごうちょう》と硯《すずり》を持って現われた。私たちは辞退したが、きき入れられず、それを開いて見た。  吉田健一氏や、河上徹太郎氏や、大江健三郎氏や、そのほか沢山の文学者の署名を私たちは眺めた。高見順氏の、 「ごりは鳴くとも云《い》ひ、鳴かぬとも云ふ」  という文章もあった。  私もK氏も、お互いに尻《しり》ごみしたが、その場の空気は、辞退を許さない感じだった。仕方なしに私は、はじめての筆を取り、短い文章を書いた。K氏に筆を渡すと、彼は、力のこもった確かな字で、 「詩酒生涯」  と、書き、自分の名前を置いた。その字の筆勢には、いま不遇のうちに沈黙している作家の屈折した心理や暗さは、全くなかった。  私はその時、自分がいつかK氏と同じように、仕事の場を持たずに沈潜しなければならぬ時が来たとき、果してそのような確かな字が書けるだろうか、と考えた。私はその自信はなかった。だが、そんなふうでありたいと思った。  私はK氏が、K氏にしか書けない世界を描いた力のこもった作品をひっさげて、やがて思う通りの仕事が出来る場所をかち取る日がいずれ必ずくるだろうと信じている。私たちは、中間小説、或いは読み物、と呼ばれている領域で仕事をしているが、この世界にもそれなりの厳《きび》しい創作と売文の弁証法はある。その中で、無口で控え目なK氏が、「詩酒生涯」と呟《つぶや》きながら、ゆっくりした歩調で歩いて行く姿は、私を感動させた。  こういう文章を書くことが、K氏に対して失礼ではなかったか、と私は怖《おそ》れている。だが、あの夏の初めの午後の一刻は、私にとって、とても貴重なものだった。そして、それを書かずにいられないのが物書きの哀《かな》しい性《さが》なのかも知れない。  その日の午後、〈ごりや〉を出て、私たち二人は、浅野川ぞいの道を、大橋まで歩いた。日ざしは強かったが、空気が乾《かわ》いて、気持のいい日だった。  子供たちが川の石の間で魚を取っていた。私は下駄ばきで、K氏は少し古風なズボンをはき、遠くの医《い》王山《おうぜん》などを眺めながら、ゆっくり歩いて行った。  そんなふうに金沢の街を二人で歩いていると、私たちには、文壇とか、作品の評判とか、今後の行く末とか、そんなふうなものが、はるかな遠い国のことのように感じられた。  おそらくK氏もそうだっただろうと思う。  物を書く仕事が決して嫌《きら》いではない人間同志で、天気のいい川っぷちを歩いているのは、大変いい気持のものだった。 「こんどまた来てください」  と私は言った。K氏はうなずいて、まぶしそうに空を見て顔をしかめた。大橋を渡らずに、私たちは右に折れ、東のくるわ《・・・》を抜けて別れた。とてもいい日だった。 奇妙な酒場の物語  どんな男でも、それぞれ自分の青年期を彩《いろど》る、いくつかの酒場を持っているものだ。  先日来、ひとしきり騒がれたフーテン族たちのベースキャンプが新宿駅前の芝生であったように、私たちもまた自分らの〈自由の天地〉を持っていた。  十数年の年月を経て、いまその跡を訪《たず》ねてみると、様相はすでに一変してしまっている。それは当然のことであろう。店も変れば、人も変る。それは逆らうことのできない時の流れというものだ。  私たちの大学生活は、二つの相を持っていた。昼と夜との生活が、はっきりと別箇の世界に属していたといえるだろう。  日没は私たち二十歳をわずかに越えた青年たちの夜の生活の開幕であり、私たちはその新しい舞台へ、日ごと新たな戦慄《せんりつ》をもって登場して行くのだった。  私たちは当時の中央線にそって棲息《せいそく》していた。中野の北口が私たちの〈自由の天地〉であったことについては、前に書いた。その地は、私たちのグループが開拓したのではなく、多くのフロンティアたちが先に住んでいた荒野だった。  だが、私たちは、新たな侵略者として夜の中野の舞台に登場し、そこを根城に数年間の黄金時代を持ったのである。  中野美観街の一角にあった喫茶店、〈K〉について語ったからには、その姉妹店であり、また本格的な酒場であった〈R〉について述べねばなるまい。 〈R〉は、美観街を突き当って右へ折れ、更に左、内外映画へ向って曲った場所にあった。〈R〉とは、欧州の幻想画家の名前をとってつけられた店名であるが、私は最初そのことを知らなかった。  その酒場は、一本のカウンターと、数箇の木製の椅子からなっており、当時の酒場としても、やや古風な造作の部類に属しただろう。  その店で、私たちはもっぱらウイスキーのシングルを飲んだ。私の友人たちの中には、アワモリ専門の男もいたが、私はアワモリを飲んだ記憶はない。  ウイスキーのシングルは三十円である。十円銅貨三枚を、手の中に汗ばむほど握りしめて、私は西武線の下落合から中野まで歩いてやってくるのだった。  当時、私たちは皆、例外なく貧しかった。にもかかわらず、なぜあのように毎晩、酒場で酒が飲め、かつ、若く個性ある女性たちに支持されたか、判断に苦しまざるを得ない。  思うに、それはある時代に不意に現出するエアポケットのようなものだったのだろう。私たちのグループの性格と、その店のキャラクターが、全く偶然に一致したためとしか考えられない。  その店のマダムは、コミュニストだという事だった。私は今もコミュニストに対して一種の親愛感を抱《いだ》いている。それは、私の個人的な感情に過ぎない。コミュニストと聞くたびに、私はあの中野の〈R〉のマダムの顔や言動を反射的に思い出すためだ。  私たちの仲間には、有能なコミュニストもいたし、激烈なアンチ・コミュニストもいた。文学部の地下の暗い部屋で、奇々怪々な査問にかけられ、下着一枚で窓から逃げ出した女子学生もいた。コミュニストに対する反応を見ることで、私はある人のかなり多くの精神生活のパターンを見抜くことができると思う。  中野の〈R〉のマダムは、決して男たちを魅了しつくす美女というのではなかったが、まことに女そのものの可《か》隣《れん》さと、現実性とをかねそなえた愛すべき女性であった。  彼女には恐らく事業家としての才能はなかったに違いない。その店は決して景気が良くはなかったし、いつの間にかマダムも、店そのものも中野から姿を消してしまっていたからである。  彼女は、若い学生たちのことを、年中ぐちりながら、それでも自分の同志と感じているようであった。彼女は私たちと共に酒を飲み、歌い、大声で笑うのだった。  実際には中年に達していながら、その心情においては少女のような女性だった。  私たちは時に十円も持たずに〈R〉へ行き、マダムに頼んで店の名前を書いたプラカードを持たせてもらった。そのプラカードを肩にかついて数時間、中野駅前をうろついて帰って来ると、マダムは何がしかの労賃を払ってくれるのである。その金で私たちは酒を飲み、看板まで坐っていた。 「しようがない連中ね」  といいながら、彼女は私たちを追い出そうとはしなかった。そして、私たちは、その店に働く若い娘たちと、たちまち家族的な友情を持つことになった。 〈イン〉と〈アウト〉という思考方法について、誰かが語っていたが、私たちは〈R〉とその店の女性たちにとって〈イン〉的な存在だったと思う。  酒場の女性と親密な関係に入るためには、ある独特の方法があり、〈イン〉に属している人間は、面倒な手続きをふまずに、いきなり彼女らの友人として遇されるのである。私たちは、〈R〉において〈イン〉のグループであった。コミュニストのマダムを筆頭に、その店に働く娘たちは、ほとんどはっきりした個性の持主だった。  客の誰よりも大酒飲みで、酔うと無《む》闇《やみ》と大地からの脱出を試みて跳躍するくせのある演劇少女がいた。ある惚《ほ》れた学生の下宿を訪れる時、わざわざフトン一組を抱《かか》えてやって来た奇妙な娘もいた。  客にすすめられて少しアルコールが入ると、無闇と気が大きくなり、マダムが横を向いているスキを見て、私たちのグラスにゴボゴボとウイスキーを注《つ》ぎ足す女がいたり、私たちの伝票を故意につけ忘れたりする少女もいた。  私たちのテーマソングが、その店で受けていた。それは例の有名な童謡〈こがね虫〉の一部をアレインジしたものである。こんな歌詞だった。   こがね虫は 虫だ   金倉たてた 虫だ   なぜ虫だ   やっぱり 虫だ  これはナンセンスの限りであり、歌としては正常な構成を欠いている代物《しろもの》である。しかし、   なぜ虫だ やっぱり 虫だ  という一節には奇妙なペーソスがあり、他の客たちは呆《あき》れはてたような顔で私たちの合唱を聞きながら、もう一度やれ、と私たちにリクエストするのだった。  私たちは店の女性たちと、アバンディポポロ……と声を合わせて歌い、もしもし亀《かめ》よ いい気持……と合唱し、時に、こがね虫の歌を歌った。金がなくなるとマダムに強要して、プラカードをかついで街に出た。  実際、よくあんな酒場があったと思う。〈R〉が中野から消えたのは、やはり直接的、間接的に私たち学生グループの責任に違いない。 〈R〉のマダムとは、その後七、八年たって一度だけ会った。五月一日の午後、新宿を通るメーデーの行列の中に、麦ワラ帽をかぶったマダムがいるのを、私は見た。私はその頃、ある小新聞社にいて、スピグラをかついで走り回っていた。  最近、中野へ行ってみたが、もちろん〈R〉はなかった。その辺には巨大なビルが建ち並び、人々があわただしく歩き回っていた。 〈R〉のような店は、今でもあるのだろうか。現在の学生たちには、それなりの〈自由の天地〉があるのかも知れない。だが、私には、もう二度と〈R〉のような酒場が現われてくることはないだろう。たとえ、そんな店があったとしても、私自身がすでに変ってしまっているからだ。 競馬その他について  賭《か》けごとについて書くのは、難《むず》かしいことだと思う。  自慢げに自分の戦歴や方法論を開陳するのは、すでに敵の前に持ち札をさらすようなもので、ギャンブラーの心掛けとしてはすでに失格といわねばなるまい。  といって、無《む》闇《やみ》と謙虚に構えるのも、大物を気取っているようで、いささか面《おも》映《ば》ゆいものだ。  私が競馬場にはじめて父に連れられて行ったのは小学生の三年か、四年の頃ではなかったかと思う。  当時、私は北鮮の平壌《へいじょう》に住んでいた。  父は教育者で、それも先生を養成する学校に勤めていたのだから、競馬場などに出入りするには可成りの抵抗があったにちがいない。 「他人に競馬に行ったなどと言うんじゃないぞ」  と、念をおされたのを憶《おぼ》えている。  父は統計的に資料を集めるやり方をとっていた。分厚い大学ノートが、切抜きで魚の腹のようにふくらんでいる。それをスタンドで拡《ひろ》げて、鉛筆で何やら計算をしてはマークをつけていた。コンピューターなどという便利なものが出来た現在なら、きっとそのお世話になる口ではないかと思う。  平壌の競馬場は、それほど大きなものではなかった。それだけに、観客の数も少なく、空気はきれいで平和ないい遊び場だった。向う正面のアカシアの花の下を、原色の騎手の帽子がチラチラ見え隠れに走る風《ふ》情《ぜい》は、抒情《じょじょう》的な風景でさえあった。  なにぶん子供の頃のこととて、具体的な数字も何も記憶に残ってはいない。ただ、ゴール寸前で、それまで悠々《ゆうゆう》とトップを走っていた馬が不意に崩《くず》れるように転《ころ》んだ時、そばの朝鮮人の老人が、「哀号《アイゴー》!」という絶えいるような叫びをあげた、その声だけを良く憶えている。  この「哀号」という叫びを、その後、私は何度きいただろうか。  一度は、関《かん》釜《ぷ》連絡船(下関—釜《ふ》山《ざん》間)の長いブリッジの上で、私服の官憲に連れの男を引き立てられて行く白衣の美しい娘の号泣として聞いた。  また、ある時は、一尺ちかい魚を、手もと寸前ですくいそこねた少年の叫び声としても聞いた。話はそれるが、ポーカーや、麻雀《マージャン》や、花札などのゲームで、千慮の一失というべき失策をやらかした時など、思わず「哀号!」と呟《つぶや》いて相手に変な顔をされることがある。そんな場合に、実にぴったりな感じなのだ。  敗戦後、引揚げて来て競馬場へ行くようになったのは、しばらく千葉県の中山に住んでいたためだ。  中山競馬の開催日は、下駄ばきで歩いて出かけた。私が中山に住んでいた頃は、カツラシュウホウにはじまり、キタノオー、ハクチカラの対決が人気を集めていた時代である。  金のない時は、船橋へもよく行った。ここには、二十円で買えるノミ屋が繁盛していて、百円札一枚持って競馬をやることが出来たからだ。  金沢に移ってからは、一、二度金沢競馬をのぞいて見たことがあるが、以前、大井とか、その他の場所で見た馬に再会するのが、何となく気分的にいやで、余り行かなくなった。  一昨年の夏、モスクワで競馬場へ行ったときの事は、小説の中で使った。東宝のロケ隊が今度、モスクワから帰って来て、競馬場のフィルムを見せてもらったが面白かった。どんな風にそのフィルムが使われるか楽しみである。  モスクワ競馬の単勝は、日本と同じだが、連勝はない。重勝式というやつで、二つのレースの頭を続けて当てる形式のものである。以前、こちらであったトリプル式みたいなものだ。  レニングラード大通りに面して、余り都心にあるのでびっくりするような場所に競馬場はある。モスクワ銀座といわれるゴーリキイ通りを真っすぐ行き、左手に当る。入口の門など、堂々たる凱旋門《がいせんもん》のような代物《しろもの》で、数頭の馬が天を駆けるような姿でいなないている彫刻が乗っているので、それとわかる。  ソ連でも、やはり競馬場へ行くのは余り感心しないことと見えて、タクシーの運転手にレース場へやれ、と言うと、意見をするおっさんなどがいた。 「お前さん、わざわざ外国からやって来て、もっと大事な見る所があるじゃないか。見ればいい若いもんが、競馬場とは何だい。よし、安くしてやるから経済博覧会かモスクワ大学でも行ってみなせえ」  といった調子で早口のロシア語をまくしたてるひげ面《・・・》の運転手もいた。  馬の名前にも、面白いのがいた。ガガーリン、とかライカなどと宇宙衛星にちなんだ名前も目についた。スターリンという馬はさすがにいなかったようだ。  レーニン賞というレースはあるらしいが、いずれにしても、日本のように大観衆が押しよせることはないだろう。それに、どうもあのケイガ・レースというやつは面白味が少ない。  いつか日ソ親善レースでもやったらどうだろうと考えた。何しろ、コサックの伝統を誇るロシアのことだから、相当ハッスルすることは間違いない。万博で、全世界の馬でも集めて、世界競馬大会でも開くという手もある。  競馬の専門紙を見るたびに思うのだが、競馬新聞の見出しや、文章には、すでにマスコミの世界で失われたパーソナリティが横溢《おういつ》していて、実に面白い。  おそらく日本の競馬新聞ほど季節感や、物語的要素を多くもりこんだ予想紙はないのではあるまいか。浪曲とか、講談といった古来の伝統的な大衆文芸の要素を、自由に駆使して、読者を引きずって行く筆力はたいしたものだと思う。  よく当る、ということと同時に、血湧《わ》き肉躍《おど》るといった楽しみ、すでに新聞紙上からは失われてしまった原始的な文章機能が、ここにはある。  当節流行のマクルーハンなどの理論では、活字文化はすでに十九世紀的なものとされているが、果してそうか。  最近の野球記事のつまらなさなどは、一には、すでにニュースとして周知の試合の経過を、クールなタッチで書いているからではないかと思う。時代に逆行するようだが、テレビを見るより、新聞記事を読む方が野球を楽しめる、といった具合にやってみてはどうだろう。私個人の好みを言えば、冷静客観的に事実を述べた記事よりも、舞文曲筆といった類《たぐ》いの記事に、より魅力を感じる。  時たま競馬新聞をひろげて見る度《たび》に、文章の伝達力も、まんざら捨てたものではないと思ってみたりする。  私は大学の頃、体育の実技に、馬術を選択したことがあった。いちおうその実技の最後の週には、障害までやることになっていた。  障害をやるという日、私は少し緊張して学校へ行った。落馬して病院にかつぎこまれても恥をかかないように、下着なども着かえておいた。馬は、以前競馬で走っていて、払下げを受けた中央競馬のスターのなれの果てである。腐っても何とやらで、勇ましいところを見せてくれるに違いないと信じていた。馬場に出ると、中央に、ハシゴが一本横に立ててある。 「あれを飛び越すんだ」  と講師が言った。私たちはそれぞれ馬にうちまたがって、そのハシゴを越えた。老馬はさも物《もの》憂《う》げに脚《あし》をあげ、ゆっくりとハシゴをまたいで行った。 「昔、馬をやったんだってね」  と言われることがある。 「ええ」  と、私はいささか照れながら答える。 「いちおう障害までやりました」  大学を出る出方に、二つある。タテに出るのを卒業といい、ヨコに出るのを中退という。ハシゴを横に越えた私は、その数年後、大学をヨコに出ることになった。 女を書くという事  女について語ることは、ひどく難《むず》かしいことだ。特に私は女を描くのが下手《へた》だと定評がある物書きである。  いかにもその女の息づかいや、体臭が匂《にお》いたつような描写などというものは、私のよくするところではない。  そもそも、この連載をはじめるに当って、編集部のほうでは、私の青春放浪を女性を縦糸として物語らせようという考えだったらしい。  だが、それは私には無理な話だった。私とても、自分なりに女性とのふれ合いはある。だが、それを書くためには、人生や、人間や世界に対する確固たる視点を持たねばならぬように思う。  精神とは何か、肉体とは何か、希望とは、絶望とは、そして自己とはいったい如何《いか》なる存在であるか?  それらの終局的な結論は、おそらく誰にもみちびき出すことは不可能であろう。しかし、それにアプローチする各人各様の姿勢というものはある。そのはっきりした姿勢が、私にはないと思えてならないのだった。  たとえば、ジャズや絵画に関しては、私は素朴な経験主義からはいって行ったと言っていい。しかし、人間や、世界に関しては、私は最初から観念的な道から近づいて行ったのだった。私は少年時代から友人を持たずに生きることになれていた。それには、私個人の問題ではない、外的条件が重なっている。  私は幼児期を南朝鮮の地方で過した。私の父が校長として勤めた学校は、父を除いてはすべて朝鮮人の職員、生徒からなっていた。  その村に住んでいた日本人といえば、私たち一家と、たった一人の日本人巡査がいただけである。  私はそこで友人を持つことが出来なかった。私の唯一の仲間は、冒険ダン吉であり、タンク・タンクローであり、ベティちゃんであり、のらくろ上等兵であった。  私の父は、私を質実剛健な九州男子に育てたかったらしい。父は私が父の書庫に出入りするのをひどく嫌《きら》った。  父が買いあたえてくれる本は、科学物語か偉人伝のたぐいばかりだった。しかし、それはそれで私にとって大変興味ぶかい種類の本だったと思う。  今になっても、私の精神の深い部分に眠っていて、時にちらと顔を見せる観念は、その当時の本からあたえられたものが多い。  たとえば、私は原宿あたりの深夜のスナックで、全く不意に〈潮目〉などという単語をふっと思い出すことがある。  それはおそらく、私が幼年時代に読んだ、岩波書店の〈少国民科学文庫〉の〈海の話〉から記憶に残ったものだろう。ほかに〈地震の話〉〈トンネルの話〉などといった本の中の単語やフレイズが、全く何の脈絡もなく私の内部から意識の表面に浮び上ってくることがある。  やがて私の一家は京城《けいじょう》に移り、また平壌《へいじょう》に移った。その転勤生活の中で、私は小学校だけでも五回は変っているはずだ。  新しい学校へ移るたびに、私はせっかく出来かかっていた友人と別れねばならなかった。  しかも、奇妙なことに、私たち一家があたえられた官舎は、いつも、その学校の内に、一軒だけぽつんと孤立しているのだった。  そのため、私は、他の少年たちのように、学校から帰って仲間とカンケリをしたり、集まって遊んだりすることがなかった。私の友人はほとんど一匹の犬か、父の教え子である青年学生であるかのどちらかだった。  私が最も長く住んだ平壌では、私の父の官舎は学校農園の片隅《かたすみ》にあり、同じ建物の中に図書室が同居していた。  最近の小学生たちがどのような類《たぐ》いの本を読んでいるか私は知らないが、当時の私の読み得た書物のレパートリイは、今考えても実に奇妙なものだったように思う。  山中峯《みね》太《た》郎《ろう》や、南洋一郎などは友人から借りて読んだ。半七捕物帳《とりものちょう》や、江戸川乱歩などは年上の学生が貸してくれた。父の本棚《ほんだな》からは、〈小島の春〉や〈もめん随筆〉や〈碧巖《へきがん》録《ろく》〉や〈暗夜行路〉などが手にはいった。母の押入れからは、〈主婦之友〉や、〈女の一生〉や〈生活の探求〉や〈大地〉などが出て来た。谷崎源氏や宮本武蔵《むさし》は、図書室で読んだ。そして、父は毎朝、小学生の私を叩《たた》き起して〈古事記〉の素読と、剣道と詩吟を交互に強制するのだった。  小学生の私にとって、 「アメツチノハジメノトキマズナリマセルカミノミナハ——」  とか、 「コウベヲメグラセバソウボウタリナニワノシロ——」  だとかいった文句は何やら無気味な印象をあたえた。父は私に〈雲峯《ウンポウ》〉という俳名をつけてくれ、むやみと俳句を作らせようともした。  当時の私の作品は、今なお記憶の底にあって、何気なく呟《つぶや》いてみることがある。たとえば、父にほめられた句の中には次のようなものがあった。   秋空に 響く爆音 隼《はやぶさ》機  隼機とは、当時の少年のあこがれの的だった戦闘機の名前である。 〈アキゾラニ ヒビクバクオン ハヤブサキ〉とは一体なんであろうか。 「写実に徹して、主観を出さないところがいい」  しかつめらしい顔で言った父親の言葉を私は今だに苦々しい思いで噛《か》みしめることがある。  そんな父親を私は好きでなかった。そもそも学校で倫理などを教える父親を持つことは、子供にとって耐えがたい不幸であると思う。  私が少し父を好きになったのは、敗戦のどさくさの中で母が死んだ時、不意にリヤカーを押しながら手放しで泣き出した頃からだ。  やがて引揚げて来てヤミ屋に転向し、走るトラックからカーバイトを田んぼに投げおろす深夜の犯行を手伝った時から、父親は私の友人になった。  九州の人《ひと》気《け》のない福岡、熊本県境の山の中で、ドラム罐《かん》を加工した器具で密造酒をやりだした時には、私は父親を兄弟のような親愛感で見るようになっていた。  やがて教職に復した父親は、すでに戦時中〈みそぎの哲学〉などと講演して回っていた頃の教育者ではなかった。教壇でこっそり黒板の方を向いてウイスキーの小びんをあおったりするような生活ののち、胸をやられて入院したが、それでも医師の目をかいくぐって久留米《くるめ》あたりの競輪場に血を吐きながら出没したという。  敗戦は私にとって、いわば、父親との友情を回復する一つの大きなきっかけだった。だが、戦後二十数年たって、その大きなコペルニクス的転回が、私の内部に、ある奇妙な偏執的な観念を育てていることに気づくことがある。  つまり、私は一つの定まった確固とした実体というものを、どうしても信ずることが出来ないのだ。したがって私の視点、私の姿勢は常にあいまいで不確かである。それは、人間についても、世界についても、現実についてもそうであり、特に女性に関してそうなのだ。なぜ女性においてそれがいちじるしいかといえば、やはり、早く母親を失って、大人《おとな》の目で彼女を観祭する機会がなかったことに原因があるだろう。すべての男性は、母親を通過した視線で周囲の女性を見るからだ。  したがって、私の書くものの中の女性は、常に観念的で、ブッキッシュである場合が多い。  有馬頼義《よりちか》氏が、いつか、 「女をわかるには一生かかるよ」  と言われた言葉を頼りに、何とかがんばってみようと思う。 わがダンス研究小史  私がダンスというものを覚えたのは、いつ頃だったろう。  あれは確か、私が新宿二丁目の業界紙の会社に勤めていた時代だったと思う。  その新聞社は、社長と、経理の女の子と、編集長の私と、記者の少年との四人しかいないミニ・コミだった。  内外ビルというピンク色のビルの二階にオフィスがあり、窓からは隣りの建物の裏口が手に取るように見えた。隣りの建物というのは、恐らく内外ビルと同系列と思われる内外ニュースという劇場で、実演のストリップが呼び物というおかしな映画館だった。  紙面の割付けをやっていると、時たま窓から美味《うま》そうな秋刀魚《さんま》の匂《にお》いが流れて来たりする。見おろすと、バタフライをヒラヒラさせたストリッパーが、七輪の上に秋刀魚を並べて、うちわで熱心にあおいでいたりするのだった。  天気のいいインディアン・サマーなどに、下のせまい空間で、彼女たちが日なたぼっこをしたり、大声で新興宗教の話をしたりしているのを見おろすのは悪くはなかった。  そのうちに、彼女たちと私は、顔みしりになって、オフィスに遊びに現われる——というような具合に行けば面白いのだが、そうは行かなかった。何しろ私はカメラマンと、記者と、編集長との兼任で、ほとんど事務所にはいなかったからである。私は重いスピグラをかついで走り回ったり、印刷工場で大組みに立ち合ってインテルをさし込んだり、時には運輸省のスキャンダルを追って深夜、赤坂に張り込んだりしなければならなかった。  その時代のことは、いま思い出してもおかしな事ばかりだ。いずれ小説に書くつもりだが、とにかく奇妙な生活だった。その生活のさ中で、ある日突然に私はダンスを習う決心をしたのである。  私はどちらかといえば、完全主義者であり、実践よりも理論に重きを置く傾向があった。ダンスをやると決めた瞬間から、私はそれに関する様々な書物を読みあさった。  作家の石川達三氏や、埴《はに》谷雄《やゆ》高《たか》氏がダンスの先達であることも、私は書物で知り、勇気づけられたものである。  ダンスの歴史と理論を、私は一応きわめつくしたが、勿論《もちろん》、それだけで踊れるわけのものではない。  私は正式にレッスンを受けることに決めて、教習所を探した。  私が見つけたのは、新宿の末広亭《すえひろてい》の近くにある喫茶店の二階の教室で、あまり流行《はや》っていないように思われる教習所だった。私はそこで、三人の教師を発見したが、私の担当をしてくれたのは、その中でも最もお年寄りの眼鏡をかけたレディだった。  彼女は、私以上の完全主義者で、まず歩き方をくり返し練習させた。そして、最初はふつうブルースなどから始めるものを、ワルツから教えてくれたのだった。 「ダンスはワルツにはじまって、ワルツに終る」  と、いうのが彼女の持論だった。最近の人当りのいい人物ばかり見なれていると、何かしら一箇の定見を持った彼女が、なつかしく思えてくる。  私は仕事の合い間を見ては、教室に通った。ワルツをやり、ブルースをやり、タンゴをやったが、先生はジルバを教えてくれようとはしないのである。今でこそ、ジルバなどというと時代おくれのダンスみたいだが、私が一番やりたかったのは、実はジルバだったのだ。 「ジルバを教えて欲しいんですが」  と、おずおずと申し出た私に、先生は言った。 「ジルバはダンスじゃありません。早いリズムのものは、クイックステップで踊るものです」  そこで私はクイックをやり、スローをやった。このクイックなるものは、あたかも水鳥が波打際《なみうちぎわ》を小走りに歩くが如《ごと》き風《ふ》情《ぜい》のもので、その後、私がキャバレーやクラブなどに行く機会があっても、一度として役に立ったことがないという代物《しろもの》だった。  私はしかたなしにジルバを理論的に研究した。それは、遠心力とシンコペイションを基調とした、刺激的な踊りで、なかなか独習は難《むず》かしいものである。  こうして、私は一応ダンスと名のつくものをマスターしたが、実践面における弱さは如《い》何《かん》ともし難く、今だに自分で納得のいくダンスを踊ったことがない。  だが、まだ、五、六年前まではよかった。マンボとか、チャチャチャとか、ドドンパとか、ツイストとか言った、単独で踊る事の可能なダンスが流行していたためである。  私はモスクワでツーステップのドドンパを紹介して若い連中に尊敬されたし、ストックホルムの地下クラブでは、シェイクという流行の踊りを教わったりした。これらの踊りには、まだ一定のセオリーがあり、多少ブッキッシュな入り方でも何とかこなせたからである。  ところが、最近のGOGOになると、私は自分がすでに過去の時代に属する人間であることを感ぜずにはいられないのだ。GOGOの面白さは、フォービートに乗って表現される各人各様の即興的なフィーリングにある。GOGOは習う踊りではなく、創《つく》り出す踊りであり、そこにはシュールリアリズムにおけるオートマチズム的な肉体諸機関の運動が必要なわけだ。  私は数年前に、フィンランドの民族音楽であるジェンカを覚えたが、これは単純きわまりない代物だった。やさしくはあるが、あのツービートの踊りは、すでに現代のものではあるまい。すでに本場フィンランドでも、ジェンカはダンスの中のアクセサリー的なものになっているようだ。  ヘルシンキのダンスホールは、一風変っていて面白かった。  男と女が、ホールの両側にきちんと分れて並んでいる。音楽が始まると、さっと出て行って女の子を引っぱり出す。三曲踊り終えると、いやでもまた二手に別れてゾロゾロと壁際にもどらねばならないのだ。  私は最初の晩、それがわからなくて、戸惑った。もし、意気投合した場合は、さっさとホールを出て行けばよかったのである。三曲踊って、真正直に「タック」などと別れるのは、相手を気に入らなかったことになるらしい。随分、えり好みをする日本人だと思われたことだろうと、今考えると気になってしかたがない。  今年の夏、パリでは、左右の脚《あし》をけだるく後ろに交互に引く、妙な踊りが流行っていた。これまでの踊りは、ほとんど相手と組んで踊るのだが、最近は、各人が勝手に独《ひと》りで踊っている。東京の地下酒場などで踊っている連中を見ても、お互いに関係ないみたいな顔で、黙々と踊っている連中が多い。現代人の孤立化傾向、人間同志のコミュニケイションの断絶、連帯への不信、そういったものが踊りの世界にも色濃く反映しているのだろうか。  先日、ある店で、GOGOを教わるはめに立ちいたったが、その時、コーチを買って出た青年が曰《いわ》く、 「まず自意識を捨ててください」  三十面《づら》さげてモンキーの真似《まね》など出来るか、みたいな気持から脱皮することが先決問題と厳《きび》しく批判されたものだった。  しかし、考えてみると、日本の若い世代もようやく感覚の面で、インターナショナルな地点に立ったという気がする。  自分で踊りをつくって行く能力と、歌をコーラスで楽しむことを覚えただけでも、大した進歩だろう。  明治の青年にくらべて、最近の若い連中は——などとよく言われるが、何も大声叱《しっ》咤《た》して天下国家を論じるだけが青年の特権ではない。思いきり歌ったり踊ったりするのも、人間にとって基本的な重要事だという気がするのだ。 おろしや語奇談  風に吹かれて、ほうぼう流れ歩いた。今は裏日本の金沢に住んでいる。  妙な街だが、住みついてみると、なかなか面白い土地だ。当分は腰をおちつけて、のんびり暮すつもりでいる。  家の前の道路に出ると、白く雪をかぶった医《い》王山《おうぜん》の山腹が見える。裏手に回るとはるか下のほうに、浅野川が光っている。今年は雪がよく降った。屋根から滑《すべ》り落ちる雪の上に、さらに雪が降り積んで、庭先に白い丘ができたほどだ。  水芦《みずあし》光子さんの〈雪の喪章〉という小説が、テレビや映画化され、話題を集めた。そのせいかどうか知らぬが、金沢という街が、最近なんとなく若い女性たちに受けているらしい。  金沢に住んでいる、というと、「まあ」と目をみはって、ため息をつく女の子もいる。 「いいじゃない。わたしも行きたいわ」  行きたいわ、とはおっしゃるが、住みたいとは言わない。その辺が微妙なところだ。  澄んだ用水の流れる町、兼六園に雪《ゆき》吊《つ》りの映《は》える町、土《ど》塀《べい》を曲ると金箔《きんぱく》を打つ音のきこえる町、出前の小僧さんが謡曲を唸《うな》りながらやってくる町、能登《のと》のブリと犀川《さいかわ》のゴリの美味な町、本妻と二号さんが平和共存する町、などと、夢見るような目つきで喋《しゃべ》りたてたあげく、 「いいわねえ」  とくる。冗談じゃない。  なるほど金沢は古いものが、かなり多く残っている街だ。人々の挙止動作も、東京にはないまろやかさがある。  だが、金沢はまた、まぎれもない千九百六十年代の都市なのだ。古いものを古きままにとどめしめよ、というのは無責任な旅行者の郷愁に過ぎない。金沢の顔はどちらを向いているか? 足もとを見つめているのでもなく、東京へ向いているのでもない。金沢は今、シベリアへその古い顔を向けている、と私は思う。  今朝の新聞を読んでいると、金沢とソ連のイルクーツク市が姉妹都市になるそうだ。そういえばしばらく前に、犀川の上にある〈つば甚《じん》〉でロシア人と出会ったことがあった。  どこかの部屋で謡曲の会でもやっているのだろう。低音のコーラスが流れてくる廊下で、その人とすれちがった。 「誰だい、あれは?」 「ソ連の代理大使さんや」  女中さんが何でもないような調子で答えた。市内でも指おりの古い料亭、〈つば甚〉でソ連の代理大使と会っても、別に不思議はない。そんな空気が、最近の金沢にはある。いや、ずっと以前からそうだったのかも知れない。  日露戦争当時、金沢にはロシア軍の捕虜が収容されていたそうだ。捕虜の中には、帝政ロシアの貴族の子弟などもいた。彼らは黒い長靴《ちょうか》を光らせ、将校服にカイゼルひげという伊達《だて》姿で、街を濶《かっ》歩《ぽ》したという。  何しろ赤十字を通じて、どしどし仕送りがあるので、金回りはいい。のんびりしたもので、彼ら将校の中には、廓《くるわ》で芸者をあげて豪遊する者もいたそうだ。  金髪碧眼《へきがん》、ペテルブルグ仕込みのギャラントリイで、当時の売れっ妓《こ》を射落した色男もいた、と聞いた。  金沢という古い町には、そんなのびやかな気風もあるのである。せせこましい袋小路の奥から、金箔を打つ音のかわりに、ロシア語の変化を暗誦《あんしょう》する声が流れてきたとしても、驚くにはあたるまい。  東、西、主計《かずえ》町《まち》など、風《ふ》情《ぜい》のある古い廓が残っている一方、網タイツのバニーガールのいるクラブもある。ただし、トルコ風呂と、ストリップの常打ち小屋だけはない。この辺が、金沢らしい所と言えるのだろうか。  ロシア語といえば、シベリア上空を飛ぶTU一一四機上で会った大先生を思い出す。  ハバロフスク空港を離陸するやいなや、空港で買ったコニャックをやりはじめた。年の頃は六十五歳前後であろうか。なんでも、大学の偉い先生なのだそうだ。  飲むほどに酔うほどに、豪快さを加えた。アエロフロートの美人スチュワーデスを、ドイツ語でからかって睨《にら》まれたり、隣りの女子学生にY談の講義をしたり、あれよあれよである。  四十歳前後の他の日本人乗客は、借りてきた猫のようにかしこまっていた。赤ら顔の大先生だけが意気けんこう。二十代の学生たちは、笑って見ているだけだ。  ひと騒ぎおえて、大先生が私に言った。 「おい、君、わしにロシア語を教えてくれ」  教えるほど達者なわけではない。だが簡単な挨拶《あいさつ》ぐらいなら何とかなる。 「何をやりますか?」 「お早よう、は何と言うんだ」 「えーと、ドブロエ・ウートロ」 「よし。わかった」  大先生はポケットから手帳を取り出して、なにか書きこんだ。 「つぎは、ありがとう、をやってくれ」 「スパシーボ」 「よろしい」  また鉛筆をなめながら、書く。 「つぎは——」 「もうよろしい」  口の中で二、三度もごもごと呟《つぶや》くと、大先生は手帳をテーブルに伏せたまま、シートを倒していびきをかきだした。  そこには、私たち戦後に精神の形成期をむかえた人間とは、まるで違ったタイプの日本人がいた。明治生れの日本人という種族である。声が大きく、姿勢がいい。 「最低ね」  と、隣りの席の女子学生が言った。彼女はパリへ私費留学するグループの一人だった。 「大したサムライだなあ」  と、ソ連教育事情視察団の中年の紳士が首をふった。  気流のせいか、飛行機が揺れた。大先生の手帳が、私の目の前にある。隣りの女子学生も、中年の紳士も、眠りはじめた。私は先生の手帳の鉛筆がはさんである部分を、指先でひろげて見た。よくないことだと思ったが、先生がさっき書きつけたロシア語の発音を見てみたかったのだ。カタカナだろうか? それとも表音記号だろうか? 「お早よう」という文字の下に、達筆で、 「丼《どんぶり》ウォーター」とあった。 「有難う」と書かれた下には「千葉水郷」とある。 「丼ウォーター」がドブロエ・ウートロの日本式表音であり、「千葉水郷」がスパシーボである事を理解するまで、しばらく時間がかかった。  私は手帳をそっと閉じて、大きないびきをかいている赤ら顔の男を眺《なが》めた。自分とちがう種族を見ているような気がしたが、思わず頬《ほお》がゆるんだ。  モスクワに着いて、三日目に、大先生とぱったり出会った。ゴーリキイ通りの、商店の地下から、大先生はグルジアの葡《ぶ》萄酒《どうしゅ》のびんを両手に抱《かか》えて、ヒグマのように現われてきたのだ。 「よう」  と、大先生は、大きな声で言った。 「あんたに習ったロシア語はよく通じたぞ」 「丼ウォーター、に千葉水郷ですか」 「うん?」  と大先生は私を眺め、それから豪快に笑って言った。「なんだ。手帳を見とったのか。まあ、よかろう。だが、あれはまったく役に立った。朝起きて丼ウォーター。あとは何でも千葉水郷で大威張りさ」  その晩、私はホテルのエレベーターをおりる時、中年のマダムに、「千葉水郷」と言ってみた。ちゃんと通じたらしく、彼女は優雅に微笑して、私にうなずいた。参った、と私は思った。 古新聞の片隅《かたすみ》から  物置を整理していたら、古い新聞が出て来た。  例によって退屈まぎれに、庭の日《ひ》溜《だま》りに椅子を持ち出して腰をすえ、読みはじめる。  めずらしく晴れた初冬の午後で、怠《なま》けるにはもってこいの日和《ひより》である。原稿の締切りが、数日後に迫っているのだが、こういうギリギリの瀬戸《せと》際《ぎわ》に半ば破滅的な気持で怠けるのは、得もいわれぬ快楽なのだ。ひょっとしたら出来上らないのではないか、そうなったらどう責任をとればいいか、すでに表紙に題名を刷り込んだと編集部は言っていたが、もし原稿が上らなければ雑誌社はどうするだろう、などと考えたあげく、世界の終末を祈りながら全然必要のない雑用に手をつけたりするのが、困った私のくせなのだ。  新聞は変色した地方紙である。題字の下に日付がある。 〈紀元二千五百六十八年 火曜日 明治四十一年一月二十八日〉  かなり古い、古新聞もここまで来ると貫禄ものだ。日付の横に定価、〈一枚金二銭。一ケ月分前金四十銭〉とある。  発行所は、〈石川県金沢市南町三十番地〉  一面は〈言論〉〈雑報〉〈漫録〉〈新刊紹介〉、それから下段に絵入りの〈講談〉がはいっている。 〈一立斎《いちりゅうさい》文車講演・朝《あさ》比奈《ひな》三郎・第六十五席〉  二面に〈東京電報〉の見出しが並ぶ。  ○西国皇帝訪問  ○御陪食の延期  ○英領印度騒擾《インドそうじょう》  ○米回航艦隊  ○欧州財界と日債  ○東京大相撲 〈東京大相撲本日(九日目)の勝負如左《さのごとし》。(中略)太刀《たち》山《やま》預《・》朝風 荒岩分《・》浪《なみ》の音《おと》 梅ケ谷分《・》錦洋《にしきなだ》緑島よりきり《・・・・》両国〉  天気予報は〈金沢地方、少雪のち曇り〉とそっけないが、下につけ加えて曰《いわ》く、 〈午後六時より向二十四時間有効〉  向う二十四時間有効、などというあたり大変信頼感がある。当る当らないより、明治人の断《だん》乎《こ》たる自信のほどがうかがえるような気がするではないか。  その下に、 〈絶交広告〉などというのがあり、何町の何次郎は不徳の行為があるので絶交するという広告が出ている。  三、四面には検事のスキャンダルが大々的に報ぜられ、六面には、〈海賊横行〉の記事が目に付く。 〈——海賊三百余名の為《ため》に停船を命ぜられたり、是《これ》等《ら》の海賊は五十余隻のぼーとを有し旅客を乗せたる小蒸気船見ゆるや先づ発砲して停船を命じ旅客の手荷物其《そ》の他の貨物を掠奪《りゃくだつ》し去れり、云云《うんぬん》〉  この面のハイライトは、 〈姦通《かんつう》中将恐喝《きょうかつ》事件〉だろう。  伊東中将と藤井げんの姦通に端を発するおどしのレポートである。これは女房の不義の相手、陸軍中将に女の夫とその友人が二万五千円を請求して事件になったものらしい。  その友人の弁護士の弁論の模様を記事はこう結んでいる。 〈——彼は決して私欲によらず、一片稜々《りょうりょう》たる侠骨《きょうこつ》友人の不遇に同情してたまたま恐喝に問われしなりと、両者の無罪を主張せり〉  小見出しでは〈陸軍軍楽生徒募集〉の記事が見える。体格が良く歯並びのいい青年を求めているのだが、身長四尺九寸以上、という条件がついている。 〈——軍楽生徒は陸軍戸山学校条令にもとづき華士族平民中志願の者にして優等の者より順次採用す〉  六面が広告面。 〈——治《なお》セザレバ�イラズ〉  などという薬の広告が見える。紙面の左下に、山中大聖寺《だいしょうじ》間の馬車時間表が出ている。金沢・松任《まっとう》間が馬車鉄道となっているのは、レールの上を馬車が走ったものであろうか。 〈社頭松進詠《しんえい》歌《か》の批評〉などというのがあり、どことなくとぼけていて面白い。  〈中島晶子の批評左の如し  ○高崎正風氏作   かぎりなく生いそふ松を男山      神ぞ守らむ 我君のため 一寸《ちょっと》拝見しますると又例のめでたし��の歌で、調子も宜《よろ》しいようですが二度拝見すると、さて解《わか》らなく成ります。年毎《ごと》に生いそふ松の木を、なぜ我君の御為に男山の神様が御番を遊ばすのでしょうか。神様の松を人が御番いたすのであれば聞えますけど、神様が松の御番は変に伺われます。其《そ》れが大君《おおきみ》の御為めであるとは、いよいよ変に存じます。(後略)  ○西三条実美氏作   いつの世に根ざしそめけむ千木《ちぎ》よりも      高くそびゆる 松のむら立《たち》 (前略)新派の目で見ると又やはり歌では無い、私共のもっとも嫌《きら》う座談平語です。いや、常識のある人は、小児でもかような事は座談にも出しませぬ。今の旧派の作者は、なぜ此通《このとお》り詩人らしい空想を欠いて居らるるのでしょう〉  どうやらこの日はニュースが足りずに紙面にアキが出来たらしく、雑文があちこちに目立っていて、編集者の所へ来た友人からの絵葉書について書いたこんな雑文で埋めている。 〈北ドイツ、ワーレンスタインの片《かた》田舎《いなか》なる少女等が、露国より帰れる日本俘《ふ》虜搭載《りょとうさい》の火《か》車《しゃ》、今にもここを過ぐるとて、皆手に手に小布を持ち、万歳ならぬハラーハラーを連呼する其様《そのさま》を見て、日本俘虜はいかが感ずるであろう。処《ところ》は異なれど小児の情は、いずこも同じである〉  こういった記事を読むには、声を出して読むに限る。  郷里の田舎の老人たちが昔やっていたように、御詠歌の調子で読みあげていると、良い気持だ。私たちは、最近、新聞を読む、というより見るという感じで眺《なが》めることが多いように思う。いつの間にかそうなってしまったらしい。  印刷された活字の行間から、その書き手の顔つきや歩き方までが何となく想像できるような記事など、もう考えられないことなのだろうか。そのうちに電波新聞などという代物《しろもの》が、各家庭に電送されるようになるという。配達の面倒がなくなるのはいいことだ。  しかし、それらの記事がどんなものになるのか、私には見当がつかぬ。現代という時代は、すべてについて〈関係〉の確かな手ごたえが希薄になった時代ではないかと思う。人と人との関係、読者と記事との関係、物と使い手との関係、国家と民衆との関係、あらゆる〈関係〉が、一方的になり、相互の平等な関係というものが失われているのではあるまいか。  電送機械から音もなく滑《すべ》り出てくる電波新聞のイメージが、私にはなぜか怖《おそ》ろしいもののように感じられる。その記事を書いたのはコンピューターではないか、という気がするにちがいない。それは何となく淋《さび》しいことだ。  しかし、いずれそうなるだろうという予感はある。それが現代なのだ。すでに翻訳を機械が引き受ける時代が近づいているらしい。  このまま人類は、どこまで歩いて行くのだろうか。進歩の果てにある世界は、いったいどのような風景なのか。そこにも、いま目の前に揺れている痩《や》せたコスモスの花は咲くのだろうか。  ぼんやり考えていると、電話のベルがけたたましい音で鳴り出した。東京の編集者からの追求にちがいない。  私は古新聞を椅子におき、頭をうなだれて電話の場所へ行く。  この時ばかりは小説を一瞬にして書きあげ、雑誌社へ送るコンピューターが欲しいと思うのだ。 流行歌はどこへ行く  テレビが好きである。原稿の締切りがせまればせまるほど、えい、もうどうにでもなれというやけくそな気持でテレビの画面に首をつっ込んで眺《なが》めている。  といって、特にこれといって面白い番組があるわけではない。ぶつぶつ文句を言いながら、それでもテレビの前に寝《ね》転《ころ》がっている。テレビの本質には、そういった面があるように思う。ぼやきながら見る。つまらないと思いながら、つい時間をすごしてしまう。これが本なら、そうはいかない。  テレビ番組の中で何を見るか。  大きな事故のあった時など、その実況中継にチャンネルを合わせる。ニュースは横目で見るだけだ。テレビのニュースというやつは、どうも部分と全体のバランスがとれてないように思う。  まず、いちばん多く見るのは歌や踊りの番組である。最初は家人の批判を受けたが、近ごろは呆《あき》れ果てて何も言わなくなった。  都はるみを見る。カーナビーツなどという不思議な連中を見る。中尾ミエを見る。何とかジュンのミニスカートを見る。一節《ひとふし》太郎を見る。美空ひばりは見ない。最近へんに教訓的な歌をうたうようになって、いやな気がするからだ。 「都はるみはいいね」  と、遊びに来ている青年が言う。 「あの白目をむくところが何とも言えんですよ」  最近、一種のスノビズムで艶《えん》歌《か》を好きだという人たちが増《ふ》えた。これはなげかわしいことである。  本当はアカデミックな本ばかり読んでいるくせに、マンガ本を得意気に持ち歩く心理と共通のものがあるようだ。  演歌と書かずに、艶歌と当てている。これには私なりの理由があってのことだ。  演歌の持つ痛烈直截《ちょくせつ》な社会諷《ふう》刺《し》の精神は、いまの流行歌には、すでにない。外へ向けられる論理的な批判の目を閉じて、内なる情緒の世界に向うところに現代の艶歌の世界が成立する。  それはしょせん、一つの共鳴板に過ぎない。だが、そこには霧や港や女や列車や汽笛に托《たく》された大衆の怨念《おんねん》と、それを歌うことで内部の哀《かな》しみを吐き出そうと願う自己防衛の祈りがある。  流行歌は、みずからをなぐさめる歌であると思う。なぐさめることで、その場かぎりの安らぎと連帯感が生れる。それが、その場かぎりであることは、歌っている当人たちが一番よく知っているのだ。  それを指して、現実逃避の手段だと批判する理論を、私はもっともだと思う。しかし、歌は世につれるもので、世が歌につれるものだとは、私は考えていない。  前向きの歌を作ったところで、前向きの社会が近づくわけではない。前へと進もうとする社会が、積極的な人々が、そのような歌を生むだけだ。  〈新宿ブルース〉を歌う扇ひろ子の顔が大変いい。  西を向いても駄目だから、と歌って、眉根に官能的なしわを寄せ、東を向いてみただけよ、と歌う。  この歌詞には、大衆の本能的な現状分析と、苦い自嘲《じちょう》のひびきが感じられるような気がする。  現在の歌の世界を二分しているのは、艶歌と、グループ・サウンズだといえるだろう。ぼくの考えでは、艶歌を支《ささ》えているのは、歌詞であり、グループ・サウンズを支えているのは、曲の魅力だと思う。  艶歌の歌詞には、どうにもならぬていのものも多いが、中には私たちの心情を、かなり正確に写しているものがある。少なくとも、現在の時点における私たちの世界の雰《ふん》囲気《いき》を感じさせる、何ものかが存在する。だから艶歌は、このような世の中が続く限り、いくつかの作品はスタンダードナンバーとして残り、歌いつがれるだろう。  たとえ、理想の未来社会が私たちのものとなったところで、人間の孤独といったものは、やはり存在する。  可愛がられていい子になって、とふと口ずさんでみる。落ちて行くときゃ一人じゃないか。  人間は自分を写す鏡が欲しいのだ。歌は一種の鏡であって、弱い心情が前に立てば、弱々しい姿を写す。自信と明るさに満ちた民衆が前に立てば、そのような輝かしい画像を返すだろう。  鏡だけを建設的な、前向きのものに変えようとすると、誰もが振り向かぬ鏡が出来る。軍歌の中にも、正確な鏡と、意図的な歪《ゆが》んだ鏡がある。  また、その反映の仕方において、薄っぺらな写り方と、そうでない写り方をする鏡の差はあるだろう。   「夕日が沈むのを      見るのはいやだ」  という、あの黒人のブルースの写り方には、商品として大量生産を強《し》いられるプロ作詞家の書けない何かがある。  グループ・サウンズの支持層は十代の少女が中心のようだ。これに対して、艶歌には男のファンが多い。  私がグループ・サウンズに対して持っている観念は、〈通過されるもの〉というイメージだ。つまり、少女たちが大人《おとな》になった時、彼女らは、「グループ・サウンズを卒業した」というふうに感じるのではあるまいか。支持者の世代とともに歩いて行くのではなく、通過されるのである。過ぎて行った人々は、もう誰も背後を振り返ろうとはしない。そして、また新しい年少者たちが、通過するために下からやって来る。  これに対して、艶歌は通過するのではなく、〈ついて来るもの〉の粘りを持っている。〈赤《あか》城《ぎ》の子《こ》守唄《もりうた》〉や、〈枯すすき〉や、〈大《おお》利根《とね》月夜〉は、たしかに人々について来た。  私の感じでは、私たちが老年にいたって、泥酔した時、肩を組んで、バラが咲いたバラが咲いた、などと歌うことはあるまいという気がする。少なくとも、あの歌詞には一九六○年代の私たちの心情を写す何ものも存在しないからだ。  艶歌の課題は、これまでの月並みな曲づくりから脱皮することにあり、グループ・サウンズの課題は、詞をもっと真剣に考えることだろう。  現在、多くの知識人は、流行歌やポピュラーソングを、しばしば語ったり歌ったりするようになった。しかし、その歌い方には、背後に、おれたちはこんなものふざけて歌ってるだけなんだぞ、たまには馬鹿馬鹿しい遊びもいいじゃないか、といった、冷笑的なポーズがひそんでいるような気がする。 「好きな歌い手? うん、北島三郎なんかいいねえ。ハールバルきたぜハコダテーか」  などと高笑いするような人が、多くなった。やはり、野暮であろうと何であろうと、真剣に考えた方がいいように思う。  落語家が方言を茶化すような姿勢で、流行歌を語るのは、あまりいいものではない。  流行歌便所論というのがあったが、私はべつに床の間にしたいと言っているのではない。好きで歌うものを、変にひねくれた扱い方をする必要はないと言いたいのだ。私は、流行歌は私たちの大切な財産だと思っている。もちろん、全部が全部というわけではない。  昨年の芸術祭には、有名な艶歌の歌い手が参加リサイタルをやった。私は流行歌手の勲章は、聴衆の拍手だけだと思う。それで充分ではないか。  流行歌手は庶民大衆の中に身を埋めて、生きるべきだろう。まして艶歌の歌い手なら、なおさらのことだ。偉くなりすぎるのは商売としても、まずいように思う。  それにしても、最近、われわれのうらみつらみを如実に歌うような歌が少なくなったという気がする。戦意高揚歌ではないが、何だか景気づけの歌ばかりが耳にはいる。そろそろテレビの歌番組もつまらなくなって来たようだ。 花の巴里《パリ》の流し歌  フランスのことを書こう。  花の大巴里である。もう書くことが何もないような気がする。  マロニエ? ノンである。 「何とか何とかというレストランで食事をしましたか?」  これもノン。 「ルーブルは?」 「ああ、外側の掃除がすんで建物がとても綺《き》麗《れい》になってました」 「中は見なかったの」 「はあ」 「リドのショウはどうでした」 「毎日、前を通ったんですが」 「じゃあカルダンの店に行ったでしょう」 「いいえ」  話のつぎほがなくて困ってしまう。  帰って来て、女性雑誌の編集長氏に銀座の〈R〉というお店でごちそうになった。フランス料理では有名な老舖《しにせ》である。  パリから帰ったばかりとあって、皆さんは私にカタツムリやワインをすすめてくださった。  これがぜんぜん関係なし。 「あんたパリで何を食ってたの?」  ということになる。 「さあ?」  自分で思い出してみると、スナックでハンバーグとジャガイモばかり食ってたような気がする。あとは中華料理。  食い物をちゃんと食う事が、その国の文化を確かめる大事な方法であること位、私も知ってはいる。だが、何となく、スナックでケチャップをかけたハンバーグばかり食っていた。  スペインや、ポルトガルなどでは、ちゃんとその国の飯を食っていたのに、なぜパリだけが、こんなことになったんだろう。  私はパリでジャズ喫茶をあちこち歩き回った。コーラを飲んで、ハンバーグを食って過した。もっともそれだけではない。  いちどコメディ・フランセーズで、〈シラノ〉を見た。大そう人気のあるキャストだったらしいが、感心しなかった。フランス語がわからなくとも、舞台の良し悪《あ》し位はわかる。セーヌ川は、犀川《さいかわ》よりは汚《きた》なく、隅《すみ》田《だ》川《がわ》よりは澄んでいた。革命記念日、むかし日本でパリ祭といった日の朝は、ジェット機の爆音がうるさい限りだった。  ホテルは二つ星の安直な所に泊ったが、気持のいいホテルだった。シャンゼリゼの真裏にあり、下駄をつっかけて買物に行ける便利なホテルだった。その名をオテル・ロワイアルという。  パリのロイアル・ホテルに泊っているというので電話をかけて来た。東京の雑誌社である。よほど堂々たるホテルに違いないと思ったらしい。  オテル・ロワイアルといって電話番号をきいたら、交換手が言ったという。 「パリにはロワイアルと名のつくホテルが五十八あります。どのロワイアルです?」  正しくはロワイアル・コリゼーという。安くて窓からの見晴らしのいいホテルだ。その向う側にも、ロワイアル何とかいう二つ星のホテルがあった。  あちらで、ある映画会社のパリ駐在員であるN氏にいろいろ面倒を見てもらった。お世話になった人に、もう一人Kさんがいる。Kさんは、パリでフランス歌曲の勉強をこつこつやっているバリトン歌手である。マドレーヌ寺院の専属ソリストでもあり、フランス政府から勲章をもらったアーチストだ。  この二人のコントラストが、非常に面白かった。  N氏は早稲田の英文学科の出身で、ハーディやジョイスに強い。そのくせ、やたらに日本の流行歌を愛していた。酒も強く、酔うとメトロの中ででも艶《えん》歌《か》を歌った。   �風か柳か 勘太郎さんかァー  という小節を頬《ほお》ずりするような目つきで歌うのである。外国での生活が長くなればなるだけ、N氏の中の日本人が表に出てくるようであった。  いっぽうKさんの方は、フランスの市民生活に見事に溶け込んで生きているように見えた。買物ひとつにしても、実に堂々と店のマダムとやり合っている。異国のアーチストの中で、着々と自分の地歩を固めて行く、日本人にはめずらしいタイプに見えた。  ある日の午後、Kさんがオテル・ロワイアルに私を誘いに来た。 「マドレーヌ寺院で結婚式があるんだけど、来てみませんか。ぼくが歌います」  私たちは連れ立ってホテルを出る。気持のいい日なので、シャンゼリゼを下り、コンコルド広場を抜けて、マドレーヌ寺院まで歩いていった。 「ぼくねえ、ちょっと妙なことにねえ——」  Kさんは本当に不思議そうな顔で苦笑しながら私に言った。 「こないだNさんの流行歌をきいたでしょう。あのメロディーが、どうも最近ふっと口をついて出てくることがあるんですよ」 「どの唄《うた》です?」 「ほら、あの、カンタローさんかァという例のメロディー」 「ははあ」  Kさんの困惑したような表情が私には楽しかった。 「いつも婚礼とか、お葬式とかあるでしょう。すると、当日、先方に行くまで何を歌うかわからないわけです。十九世紀の歌を渡されることもあるし、新しい歌のこともあるしね」 「ええ」 「どうも、大事な時に、ふっとそのメロディーが出て来やしまいかと、何度か気になってね」  私たちは顔を見合せて笑った。  マドレーヌ寺院でKさんと別れ、私は内部の椅子に腰かけて式の始まるのを待った。やがてパイプオルガンがウォンウォンと鳴りひびき、新郎新婦が姿を現わした。奥さんは十七、八歳の美少女だったが、新郎というのが五十歳は越したと思われる妙な男である。なぜかひどく残酷な感じがした。やがてKさんが祭壇の裏で歌い出した。女声のソプラノが、それに和した。歌がとぎれた瞬間、ふとさっきのKさんの言葉を思い出した。だが、さいわい艶歌のメロディーが流れてくる気配はなかった。  その晩、もう一人のN氏の方とあちこち飲んで回った。N氏は大正・昭和のあらゆる流行歌を片っぱしから歌い出し、深夜のシャンゼリゼに艶歌のメロディーがこだました。  Nさんと別れて、ひとりでエトワールからホテルへ歩いていると、シャンゼリゼの一望の街灯が、パッと一斉に消えた。時計を見たら四時半だった。  洗濯《せんたく》のすんだパリの街並みは、まっ白で軽快な感じがした。赤いサンビームに乗った美人が車を寄せて来て、何か言った。おそらく高級な娼婦《しょうふ》だろうと思われた。私が手をふると、その女はニコリと笑って、街灯の消えたシャンゼリゼを凄《すご》いスピードで走って行ってしまった。その時、私は車道のまん中に立って、美しい建物の連なりを見ていた。私の頭の中にあったのは、渋谷や新宿のあの雑然たる町の姿だった。だが、私はその東京の街の混乱したイメージを少しも恥ずかしいとは感じなかった。  この目の前の壮麗な建物の列を作ったのは君たちか? と私は口の中で呟《つぶや》いた。そうではあるまい。これは君たちの父親や祖父の残した町だ。だが、新宿や渋谷は、われわれが作った。あれは汚ない街だが、まごうことなき戦後の街だ。ちがうかな?  難《むず》かしいものだと思う。外国にいて、平静な気持で毎日を過すということは、大変なことだろう。先日来たN氏からの葉書では、ダブリンへ行ってジョイスの親戚《しんせき》のおばさんと話をしたという事だった。アイルランドでは、艶歌は歌わなかったのだろうか。 奇妙な事務所の午後  今から何年ぐらい前になるだろう。  銀座の通りに面した、細長いビルの何階かにいた。  いたといっても住んでいたわけではない。  そこで仕事をしていたのである。その事務所は、テレビやラジオのマスメディアに人間のアイディアを売る会社だったと言ってもいいと思う。  いわゆるコント作家や、放送ライターや、作詞家や作曲家、また歌い手やタレントたちが、そこの部屋に出入りして働いていた。  それは実に奇妙な事務所で、そこに一日坐っていても、全く退屈することなどなかったにちがいない。  退屈になれば、壁際《かべぎわ》に並べてある厚い背表紙の本を引っぱり出して眺《なが》めてみるだけで思わず吹き出しそうになってくる。  そこには、過去何年もの間、その事務所に出入りして働いた青年たちが、頭をしぼってひねり出したコントの台本が資料として保存されていたのだ。  よくもあんなおかしな事を考えつく人間がいると、びっくりする。コントに著作権があるのかないのか知らないが、そいつを考え出したコント作家たちは、果してそのエネルギーに見合うだけのギャラをもらっていたとは思えない。  例《たと》えば、こんなやつがあった。  当時は、カズノコがべらぼうに高値を呼んでいた時代である。それと同時に、いわゆるマイカー時代の初期の頃で、自家用の車を持つということが、ひとつの特権と見なされていた頃だ。そこのところが背景にあって、このおかしさが生きてくる。  奥様風の二人が、道ですれ違う。 「あらまあ奥さま、どちらへ?」 「ええ。デパートへ参りましたの」 「そうざますか。何かお買物でも?」 「はあ。カズノコを少々——」 「あらまあ、それはそれは」 「ときに奥さまはどちらへ?」 「わたくしもこれからデパートへ」 「そうざますの。やはりお買物で?」 「はあ。クルマを少々——」 「クルマを少々」というのが何ともいえずおかしい。これは一にも二にも演ずるタレントの呼吸の問題で、こんなたぐいのコントを実にうまくやる人たちがいた。  また今も憶《おぼ》えているので、こんなのもある。  二人の客、汽車の座席で向い合って坐っている。新幹線のない頃だから、ゴットンゴットンとレールの音がきこえる。片方の客あくびをして、向いの客に話しかける。 「汽車の旅は疲れますなあ。あなた、どちらまで?」 「わたくしは東京から大阪まで」 「そうですか。それはそれは」 「あなたはどちらまで」 「わたくしは仙台まで」 「それはそれは」  レールの単調な音。  これはちょっとわからないときもある。しばらくたって、反対方向へむかう二人が同じ座席に向き合っているという状況がわかって、おかしくなる。  こんな話を、一つ考えると何百円かに売れたらしい。私はその事務所に顔を出すたびに、一日中そんな話を考えて暮している人たちが天才のように思えてしかたがなかった。  その事務所には、歌い手もいた。今はうんと有名になってレコード大賞ももらった歌い手さんだ。  彼女が事務所てチャーシューメンか何か食べていた。ちょうどおひるで、私はチキンライスが来るのを待ちながら、その歌い手さんの食事を眺めていた。  たいへんエレガントな美しい人である。ただし、ひどい近眼で、ふだんは目の前のものもはっきりしないという。  これからステージでもあるのだろうか、重たいツケマツゲをつけて、チャーシューメンの丼《どんぶり》に向っていた。そのうち、何かのはずみに、パラリと片方のツケマツゲが丼の中に落ちた。たぶん湯気のせいかも知れない。 「あっ」  と思ったが、私は黙っていた。とても優雅で、気品のある人だけに、 「ツケマツゲが落ちましたよ」  などと言うのをはばかれるような感じがあったのだ。だが、私はその時そう言うべきだったと思う。私の見ている前で、彼女は、ふと箸《はし》の先端にそのツケマツゲをつまみあげ、ちょっと眉《まゆ》をしかめてまじまじとそれを眺めると、呟《つぶや》いた。 「これ、なんだろう。フカのヒレかしら」  彼女の眼鏡をかけていない視力は、湯気の中の黒い奇妙なものを、はっきりと識別する能力がなかったのである。私が制するいとまもなく、彼女はポイとそれを口の中に放り込むと、少し首をかしげて二、三度噛《か》み、ごくりとのみこんでしまったのだった。そして、何事もなかったように黙々と箸を動かしはじめた。  あの歌い手さんは、たぶん恐ろしく声帯が太いにちがいない、と私は思った。彼女ののびやかなアルトの声は、おそらくそのたくましい声帯から発せられるにちがいない。  その事務所にいる間に、私はたくさんのCMソングの歌詞を書いた。私の名前で出たものもあり、事務所の名前で制作されたものもある。  ある時期から、CMソングにかわって、企業ソングというたぐいのものが多くなった。  ○○生命だとか、○○重工だとかいった会社名のPRソングである。  そういった歌詞が出来上るまでに、どの位の制作費が動くのか、当時の私は全く知らなかった。だが、ある有名な会社の社名を謳《うた》いあげ、テレビやラジオの媒体に乗せる大事な代物《しろもの》だという事はわかった。しかし、わからないこともあった。私たちが、頭をひねって作りあげる歌詞の作詞料が、おどろくほど安いことだった。  後で聞いたところでは、その歌を作るための全制作費の約百分の一にしか相当しない額だった。資本主義というやつは、ひどくきびしいものだと思った。そして、その一方ではまた、ひどくおかしくもあった。堂々たる巨大なビルを構え、テレビやラジオから社名を連呼しているその会社の歌が、わずか何千円かの料金で売られたものだとは、誰が知っているだろう。  きびしさと、こっけいさの交錯したそんな時代を、私たちは現代と呼んでいる。その銀座のビルにある小さな事務所は、そんな現代の交《こう》叉《さ》点《てん》だったともいえるだろう。  私はその事務所で何年か働き、マスメディアの下部構造を支《ささ》える虚実の作業を、風景のように眺めて過した。  その事務所も今はない。仕事のない日に、ぼんやり古いコントを読みふけった午後は、時間がふっと停止したような不思議な感じとともに記憶に残っている。 「はあ。クルマを少々——」  もう、こんなセリフを聞いても誰も笑わない時代になった。東京は車ばかりが増《ふ》え、今はもう私の同級生たちも、大半自分の車を持っているらしい。  新幹線になってからは、レールもゴットンとは鳴らない。ツケマツゲをフカのヒレと信じて飲みこんだ歌い手さんだけは、今もますます良い歌を聞かせてくれている。やはり彼女の声帯は太くたくましかったにちがいない。 古本名勝負物語  古本屋とのつき合いは、これまでの私の人生でかなり大きな部分を占めていると言っていい。二十歳で東京に来てからが、本格的なつきあいの始まりだった。  私は早稲田に籍をおいていたので、当然のように戸塚界隈《かいわい》の古本屋に通うこととなった。  私が最初に集めだしたのは、戦前の改造社版のマクシム・ゴーリキイ全集である。露文科に入学したばかりで、語学の才も薄かったから原書というのは気骨が折れた。そこで翻訳で全部読んでみようと決心したわけである。  当時は本当に金のない時代だった。いや、時代がではなく、私個人の方がである。  したがって、戸塚一丁目から高田馬場へいたるコースをスクールバスに乗るのが惜しくて、徒歩で往復していた。その行き来の途中で古本屋を毎日のようにのぞいて歩くのである。  その改造社版のゴーリキイ全集というのは一種独特の装本で、私には今も強い印象がある。表紙は灰色で、黒の線と題字が印刷してあるその本は、文学書というより、機械工学の本か何かのように見えた。  私は一冊ずつ、見つけ次第にその本を買い込んだ。ほとんどばらばらで店頭に並べてあるので、それが全巻揃《そろ》うことは、とうてい考えられない事だった。  いけない事に、私自身の生活が時たま完全に行きづまる事がしばしばあった。そんな時には、古本屋の顔なじみの親《おや》父《じ》さんに頼んで一定の期限をおいて買い取ってもらうのだった。  古本屋では、その本を一週間とか、二週間とかは店頭に出さず、私が代金を持って買いに行くと、奥の部屋からヒモでくくった数冊の本を出して来てくれるのである。  たぶん、売った時の二、三割高くらいの値段で引き取らせてもらったように思う。  私はそのうち、あちこちの古本屋の親父さんと個人的につき合うようになった。神田で市《いち》がある時など、小僧がわりについて行くこともあった。  店先に坐って雑談を交《か》わしていると、痩《や》せた顔色の悪い学生が、数冊の本を持って売りにくる。私はそんな時、いつもその店の性格と本の評価とのバランスを取って、頭の中で親父さんがどの位の値をつけるかを計算していた。そして、その数字は、ほとんど十円と狂うことがなかった。  後に私が中央線沿線の方へ進出した時代には、もっぱら中野と高円寺の古本屋さんとつき合いが出来た。  以前の高円寺の阿佐ヶ谷寄りの踏切りの近くにTという古本屋さんがあり、そこが私の最もよく売り買いした店だった。  Tには眼鏡をかけた品のいい中年の婦人が坐っていて、実に良心的な値のつけ方をしてくれた。他の人では私として少し納得の行かないような時でも、その婦人のつけた値には、全面的に信頼することにしていた。  私がその店に売った本は、相当な量に上るにちがいない。自分の処分した本が、ちゃんとハトロン紙か何かかぶせて、書店に並んでいるのは複雑な感じである。当時、私は本を買うと必ず紙カバーとか、帯とかを大切に保存しておいたものだ。最近は売ることを考えずに買うようになったが、未《いま》だに帯やカバーを捨てる時には一瞬の抵抗がある。  本を売りに行く時というのは、ほとんどぬきさしならぬ状況で行く場合が多い。したがって目指《めざ》す本屋の主人が留守だったり、定休日だったりすると、本当にお手あげになる場合があった。  そんな時、あわてて初会の店を探《さが》すと、ほとんど見るも無残な叩《たた》かれかたをする。だが帰りの電車賃さえ持たぬ時は、どんな安値であれ売らないわけには行かない。あの情けなさと屈辱の感情は、永く私の中に残った。  ある日、私が大事にしていたツルゲーネフの作品選集を持って高円寺に出かけたことがある。折《おり》悪《あ》しくTは休みで戸がしまっていた。私は十円の金もポケットになかった。あちこち歩いた末、全く面識のない小さな古本屋をみつけた。私はそこの赤ん坊をおぶった中年の小母さんに、私が考えたより数百円も安く七冊の選集を売らねばならなかった。  私は怒りと口惜《くや》しさで熱くなりながら雨の中を駅に走った。私をそうさせたのは、手もとにある金額の多少ではなく、その本が不当な評価をされた、というその一点にあった。  私は中央線を新宿で乗りかえて高田馬場へ出た。そして、ロータリーを越えて、顔なじみの古本屋へ向った。  そこの親父さんは、私の顔を見て、久し振りだ、というような挨拶《あいさつ》をした。私は、そこで、その親父さんに千円ほど貸してもらえないか、と言った。 「本が無けりゃ困るね」  と親父さんは苦笑しながら言った。 「いったいどうしようってんだい」  私は高円寺の知らない店で、これこれの本をこの額で売った、と、そのいきさつを話した。そして、今から行って、あれを買いもどしてくる、その上で、改めてあんたに売りたい、と申し出た。 「ほんとにそれは安すぎる値段だろうかね」  と、古本屋の親父さんは首をかしげた。「わたしが見ても、それだけしか出さないかも知れんよ」 「そんなことは絶対にないと思うね」  私は、そこで粘り抜いた末、ようやく十枚の百円札を借り出した。私は再び雨の中を高田馬場へ取って返し、山手線、中央線と乗りかえて高円寺についた。例の古本屋に行くと子供を背負った小母さんは居ず、角刈りにした兄《あん》ちゃんふうの青年が一人で店番をしていた。私の本は、すでに私が売ったよりも倍以上高い値で店頭に出ていた。 「これをくれ」  と、私は言った。そして、さっきこの本を売ったのは自分であること、故《ゆえ》に定価をいくらか値引きしてもらえないか、と頼んだ。 「駄目だね」  と、青年は言った。「うちは商売やってるんだからな」  私はあきらめて、さっき手に入れた金と、戸塚の古本屋で借りて来た金を合わせて、その代金を払った。手もとに丁度六十円ほどの銅貨があまっただけだった。  私は買いもどした本を抱《かか》えて、中央線に乗り、更に山手線に乗りかえ、高田馬場で降りて戸塚一丁目の方へ歩いた。私の服はすでに下着までぐっしょり濡《ぬ》れていた。新聞紙に包んだ本だけは濡らしたくなかった。私は本を上半身でかばうように抱いて戸塚のロータリーのあたりを過ぎて行った。  古本屋の親父さんは、笑いながら私を迎えてくれた。 「どれ、見せてごらん」 「ほら、これだ」  私はツルゲーネフを親父さんの前に積みあげた。 「この本は、たぶんこれだけの値段で引き取っていいはずだよ。おれのここ数年の古本修業からいくと、そういう計算になる」  私は絶対の信念を持って、或《あ》る数字をメモし、それを親父さんの前にたたんで置いた。 「よし」  親父さんは、にわかに居ずまいを直し、眼光紙背に徹せんばかりの目つきで、一冊一冊手にとって見た。そして、何やら口の中でぶつぶつとなえていたかと思うと、やおらソロバンを取るやパチパチとはじいて、 「これだ」 「勝負!」  私はたたんだ紙片をさっとひらいて見せた。 「お見事!」  と、親父さんが唸《うな》った。その数字は私の書いた値段と十円の端数まで一致していた。親父さんは引出しの中から、その値段だけの金を出して私に渡した。私はポケットにその金をしまい店を出ようとした。その時、親父さんが、私に向って手を出して言った。 「さっき貸した分を返してもらおう」  私は千円をその中から返した。残ったのは数枚の銅貨だけだった。私はなぜ本を処分したのにこういうことになったのかと理解できずにいた。その時私は、高円寺の店で倍近い値段で買いもどした事を忘れていたのだった。私は数枚の十円銅貨をにぎったまま、雨の戸塚の町を高田馬場の駅へ歩いて行った。 自分だけの独《ひと》り言《ごと》  たとえば講演会というやつがある。人前で何かを話さなければならない。或《ある》いはアンケートというものがある。自分の考えなり、生活の一部を公開しなければならない。  自分を人々の面前にさらすのはいい。それは恥をかけばすむことだからである。だが、私たち普通の神経を持った人間にとって、最も耐え難いのは、人々に何かを期待されることだろう。  たとえばテレビ局の人から電話がかかってくる。 「今の若い者に対してですね、一言その、何か言って欲しいんです」  と、担当氏。 「一言何かって、何をですか」  と、私。 「つまりですね、マイホーム主義に毒されるなとか、体制に埋没してしまってはいけないとか——」 「しかし、ぼくは——」 「いや、ご自分の学生時代とくらべてですね、今の大学生のあり方を批判していただいてもいいんです。何かあるでしょう」 「…………」  こういう時、何と言えばよいか。  みずからの学生時代をふり返れば、今の連中に面をあげて言えることなんぞ、一言もありゃしない。深夜、ふと目覚《めざ》めて自分の三十五年の生き方をふり返ってみる。気が滅入《めい》って、酒でも飲まなければ眠れない心境におそわれる。  いくつか思い出しても不愉快でない事はある。だが、人間の生きてきた過去の世界なぞというものは、裸の目で振り返ると無残なものだ。 〈私の歩んだ道〉などという本が書ける人々を、私は尊敬せずにはいられない。何という大胆さ。そして神経の太さ。  私はマルクス主義も近代経済学の素養もないが、わかっている事が一つある。それは、世界というものは、Aが得をすればBが損をする、そういうしくみに出来ているという、素朴そのものの観念だ。Aが生きるためにはBは死ぬ。  Aの歓《よろこ》びが同時にBの歓びでもあるのは、セックスの行為のみだ、と考えたイギリス人がいたが、私はその思想も疑っている。女性の有頂天を見おろして男性の心に去来するのは、一点の虚無感でなくて何であろう。  戦中派の元将兵諸氏でなくとも、私たちの生き永らえて来た背後には、他者の死が隠されている。かえりみて今の若者たちに何を言えというのか。自分の歩いて来た道を振り返ってみる度《たび》に、私は冷汗が出る。あの若い時代にもどってみたいなどとは、二度と思わない。  外地から引揚げて来て、およそ五年あまりを私は九州で過した。その間の記憶も、今にして思えば屈辱と自嘲《じちょう》の記憶のみが多い。  私は今、金沢に住んでいる。この土地のことを時たま書くのは、それが自分にとって一種の異国であるせいだろう。  作家のI氏は上海《シャンハイ》から引揚げて来て金沢に住んだ事があると聞いた。金沢一中にいたそうだから大秀才である。  I氏にとって、引揚げて移住した金沢の記憶は、まことに無残なものらしい。 「あなたはお客さんだから金沢の事が好きだなんて言っていられるんだ」  と、l氏は言う。上海から引揚げて来た少年にとって、金沢は思い出すだにおぞましい屈辱の町だったという。  先日、ある出版社の主催で、地方の講演会に参加した。私はこれまで講演というものを引き受けたことがなかった。みずからをかえりみて、人々に何を言えるかという、うしろめたさがあったからである。  だが、その講演会は、新人作家にとっての一つの義務のようなものであり、私はしりごみしながら引き受けた講演だった。 〈日本人を考える〉というのが、私のテーマだった。  私は一般に言われるように、老人の自殺が多いのは北欧諸国などではなく、経済的に貧しい国であること、また日本の方が北欧などより、はるかに老人の自殺が多いことなどをあげ、最近の日本大国説に反省をうながすつもりでいたのである。  ところが、予期せぬ事態がおこった。私の話に先だち、司会者の方が私と、私の演題について前説を述べはじめたのである。それは情熱的なスピーチであり、本人は誠意をこめて話されたには違いないが、私の考えている内容とはおよそかけはなれたものだった。  私は舞台の袖《そで》でたちまち上ってしまって、一体自分は何を喋《しゃべ》るつもりだったのだろうと疑いはじめる始末だった。  司会者の方は、〈日本人を考える〉という題から、早飲み込みして、そう判断したのだろう。「神国日本」などという言葉がポンポン飛び出してくるのである。  私の講演は勿論《もちろん》不出来なものだった。自己嫌《けん》悪《お》に駆られながら喋っている上に、「神国日本」という言葉が強迫観念のように頭にこびりついていたからなおさらである。  師《し》走《わす》のあわただしい気配が、あたりにある。私にはこの追いたてられるような師走の感じがひどく懐《なつ》かしいもののように思われる。  学生時代に、年末になるとどういうものか浅草の方へ足が向いた。乏しい小《こ》遣《づか》いをポケットに入れて、中古服の店を眺《なが》めて歩き、屋台のヤキソバを食った。あの辺はどういうわけか、朝鮮服の生地《きじ》を売る店が多い。その独特の光沢や色彩をぼんやり眺め歩いたり、靴屋で皮を見たりする。  そしてカジノ座のせまい客席に坐って毎年同じ顔の踊り子を眺め、絶対に入らぬパチンコを少しやり、小遣いを使い果すと、どぜう屋の店の前を歩き、時には橋を渡ってビール工場を眺め、都電に揺られて師走の街の灯を見ながら帰る。  何の目的もないそういった日が、師走にはきっと一度くらいはあった。ただぼんやりと人々のあわただしい様子を眺めて歩くだけだ。  一度、そんな季節に京成電車の市川真間《まま》駅で永井荷風に出会ったことがあった。寒い日で、その作家は集金バッグみたいな袋を膝《ひざ》の上に握りしめて私の向い側に坐っていた。あの老作家も、たぶん浅草に出かけるところだったにちがいない。  自分の学生時代を振り返って、ふと思い出すのは、そんな事である。  断片的な、フィルムの切れ端のような、そんな思い出を拾い集めてみたところで、とうていそこから今の学生に一席弁じることなど、出て来るわけがないではないか。  早大事件や、メーデー事件や、アルバイトの記憶や、友人たちのことや、それらの全《すべ》ては、あくまで私の経験であって、それが現在の学生たちと結びつくことはないだろう。  先日、ある席で、私は対話によるコミュニケイションへの不信を語った。その席には若い人々が多く集まっていたが、彼らは一様に不満げな表情だった。 「何かをぼくらに言って下さい」  と、彼らの一人が言った。 「何か行動の指針になるような、そして勇気づけられるような、そんな話を聞きたいんです」  そこで私が彼らの求めるような何かを喋れば、それは嘘《うそ》になる、と思った。私はその考えを、そのまま彼らに喋った。 「五木さんの考え方は、ちょっと退廃的だと思います」  と、女子学生の一人が言った。  そうかも知れない、と私も思う。だが、あまりにも自信に満ちた空《むな》しい演説が多すぎる時代のような気がしないでもない。  無理やりに何かを語らせられる度に覚える自己嫌悪の中で、私は誰にもきこえない位の声で、「これが最後」と呟《つぶや》くのである。 十二月八日の夜の雪  十二月八日未明、金沢には雪が降った。午後になっても降りやまず、夜になってもまだ降り続く。  こたつにもぐり込んで、さらさらと降る雪を眺《なが》めているのも悪くはないが、一日中坐っていると飽きてくる。時おり、どさりと屋根から滑《すべ》り落ちる雪の音も、何やらこちらをせき立てるような気配。  家人の呆《あき》れ顔を尻《しり》目《め》に、防寒用の長靴《ながぐつ》、ヤッケ姿もものものしく、北国随一の繁華街、香林坊《こうりんぼう》は片町周辺へ出かける事にする。  私の家は小《こ》立《だつ》野《の》台地の一角にあり、市の中心部に出かける時は、街に降りる、という感じだ。市電廃止後の石引の通りは、何やら少々もの足りぬ景色。兼六園の横を抜け、坂を下れば雪片ひらめくかなたににじむ赤い灯、青い灯、とまでは行かぬが、どうやら人里に来た心地がする。  金沢という町は面白い所で、これまで市の中心部にいかがわしきトルコ風呂とストリップの常打ち小屋がなかった。文部省から賞を受けた作家のT氏に言わすれば、 「そりゃいかん。早急に何とかせにゃ」  ということになる。最近、トルコ風呂が出来るとか出来ないとかで、しきりに新聞紙上をにぎわせているのは、のどかな風景だ。この辺が金沢のいいところであろう。  先日、地元の新聞紙上で、読者の声の投書欄を舞台に一大論戦があった由《よし》。残念ながら私はそのころ出《で》稼《かせ》ぎに上京中のため、くわしい事情は知らぬ。私はそれを東のくるわ《・・・》の芸者衆に聞いたのだが、何でも二号さんと一号さん、ではない本妻さんとの丁々発止の投書合戦が行われたそうだ。お互いに相互の立場を主張し合って金沢市民三十数万の耳目をそばだてたという。  さて、こんな晩にはどうすればよいか。例《たと》えば遊心雲の如《ごと》くに湧《わ》いて東か西か主計《かずえ》町《まち》あたりのお座敷に出かけたとする。山中節だの白頭山《はくとうさん》節だの加賀囃《ばや》子《し》など一しきり拝聴して、さて帰途につくとする。そのまま帰るんじゃつまらないし、折しも夜半のぼってり重い牡《ぼ》丹雪《たんゆき》。  傘《かさ》でもさして少し歩こうじゃないか、ということになる。なるかならぬかは保証の限りではない。さて、雪《せっ》駄《た》ばきの相合傘《あいあいがさ》。泉鏡花先生の〈義血侠血《きょうけつ》〉変じて〈滝の白糸〉の舞台となった浅野川は天神橋のほとりなど回り、川べりの松の木の下を経て、木ざま《・・・》の奥にアンコウの匂《にお》い漂う鍋《なべ》屋《や》〈太郎〉の裏から坂を登ると新町の神明社。 「もうちょっこし、おそうらと歩いてたいま——」  そうせかせか歩かないで頂戴《ちょうだい》、と言われて、そうだ、ここは町人どもの跋《ばっ》扈《こ》する江戸ではなかった、加賀百万石の城下町であったなと、お能めいた足どりを真似《まね》るも浅ましい。  さて、それじゃこの辺でとサヨナラしようとするが、いえ、お送りしますと勝手知ったる街の中、さっさとタクシーを止めてこちらの住所を言う。  ここで慌《あわ》ててはみっともない。たちまち車は自宅の前、ごていねいにもクラクションを鳴らすから隣近所の人たちも窓を開けたりする。家人出て来て、少しもさわがず、ご苦労さまとか何とか芸者をねぎらえば、 「それじゃ確かに——」  お引き渡ししましたとは言わぬが、いずれ請求書は、とニッコリ笑って家人に頭を下げ一目散に闇《やみ》の中。タイヤに鳴るチェーンの音の遠ざかるのを見送って、家人もの静かに、「お疲れでしたでしょう。お茶でも——」  ……と、こんな調子の妄想《もうそう》にふけりつつ香林坊の鋪道を雨靴踏みしめ散策する心地もまた格別。東は高いからやめたとばかり、目の前のおでん屋ののれんをくぐる。  金沢のおでん屋は、東京とは少しちがう。安直でありながら、かなりぜいたくだ。まず、タコにフキ。可愛らしいタコの頭を丸かじりすれば香《こう》ばしい匂いがあたりに漂う。タコの後にはセリがいい。こいつはさっと浸すだけで、青々とした色合いを楽しむ。次はカニを食うとするか。ちょうど掌《てのひら》に乗る位の大きさのカニの甲《こう》羅《ら》を合わせて、中に身をつめ、カンピョウでひとしめくくってある。地元の人は大きなズワイガニ(越前《えちぜん》ガニ)より、こちらのコウバコガニの方を珍重するようだ。紅白ガニと書いてコウバコガニと呼ぶ由。  甲羅を開ければ、中から赤い子と白い身のきっちりつまった鮮《あざ》やかさ。  こいつは一箇いくらだろうと、値段を気にしながら三つ目をもらう。親《おや》父《じ》さんは手元で何やら麻雀《マージャン》の点棒にあらず、小さな下足札の如き木片をカチャカチャ鳴らしながら、 「はい、六百五十円」  ことのついでに飯でも食うかと注文すれば、 「茶飯かね」 「いや」 「はい、ホワイト一ちょう」  デパートなどで、ライスでございますね、と念を押される不快さはなく、むしろ愛敬《あいきょう》がある。番茶の茶碗《ちゃわん》に、 「明暗を香林坊の柳かな」  有名な小松砂丘さんの句である。  店を出る。雪はますます激しく、風さえも出て来た。酒場やキャバレーに行くには、長靴とヤッケが邪魔。バッティング・センターも、もうおそい。  今はむかし、赤玉とか、銀座会館とかいったカフエーが流行《はや》った頃の探訪記事に、 「ビールが五十銭。チップを含めて一円もあれば足りるだろう」  とあったのを思い出す。  一人で歩いていても、しかたがない。タクシーを拾って帰る。小立野台地に雪ふかく、などと軍歌の節で歌っていると運転手氏、首をかしげて、 「それ、どこの校歌やったかね」  最近、〈香林坊ブルース〉とか、〈金沢の夜〉とかいった歌謡曲が出来て、大変流行っているそうだ。但《ただ》し、金沢での話である。  タクシーは広坂から兼六園にそって登る。右手に赤煉《あかれん》瓦《が》の旧陸軍の武器庫が見えてくる。  今は美術工芸大学の校舎になっているが、赤煉瓦の兵舎というやつは、奇妙に雪がよく似合う。  カーブを切れば、雪のちらつくライトの中に夜目にも白きなまこ《・・・》塀《べい》が浮び上る。  やがてタクシーが家の前につく。金沢のタクシーは高い。冬期料金の割増の上に、更に深夜料金というやつまでつく。これを高いと感じさせないのは、運転手氏たちの人柄だろう。  中にはひどいのもいるが、おおむね話好きで親切な人たちが多い。 「金沢のタクシーじゃ、中でお茶を出すって聞いたが本当かね」  と、ある作家が真顔で聞いた。おそらく誰かにかつがれたのだろう。その話はいささかオーバーだ。 「お疲れでしょう。お茶でも——」  とは家人は言わなかった。「こんな雪の中を、物好きねえ」と笑っている。空想と現実の落差は、おおむねかくの如きものであろう。 独《ひと》りでする冬の旅  大そう賢く美しいことで有名な、或《あ》る女優さんとの、対談や、グラビア撮影の依頼が年末にかけて何度もあった。  不思議に思ってきいてみたところが、昭和四十三年は申年《さるどし》だという。こっちはエトなどという古典的な教養はないので気がつかなかったが、言われてみれば昭和七年九月生れのサルである。  サルが二匹でテレビに出ても仕方がないので、勘弁していただいたが、少し残念な気がしないでもない。  どだい、こういった十二支《し》には関心がない方である。だが、サルだと言われてみれば、何となくサル的な要素が自分にあるような気がしてくるから不思議なものだ。  以前から私は、自分のことをオッチョコチョイだと信じて生きて来た。好奇心が強すぎる。人の集まる所へ顔を出したがる。目先の興味を追いすぎる。  これではいけないと、けんめいに努力してきたが、人間の性分というものはそう変るものではないらしい。  先日、文芸講演会というものに、はじめて出かけた。講演そのものは恥をかいただけだが、ご一緒に旅をした漫画家のKさんと、作家のOさんに教えられるところが、沢山あって楽しかった。  続いて文士祭りの前座で講演をやった。あの大きな劇場の舞台に立ったとたん、客席が全く見えなくなってしまった。話の方は勿論《もちろん》なにを喋《しゃべ》ったか記憶にない。  そして年末に、性こりもなく京都の同志社大学に出かけた。  文化祭とか、研究会には出たことがないが、二部の学生のためのアッセンブリー・アワーだというのでお受けしたのである。  これが、とても気持のいい会だった。前の二回と違って、相手は若い学生たちである。女子学生の姿も少なくなかった。私はひどく安心して、講演というより、雑談のような調子で気楽なお喋りをした。脱線しっぱなして、どこへ行くかわからないという話だったが、それでも学生たちは最後まで私の話を聞いてくれた。うれしかった。  この時に喋ったことは、断片的におぼえている。ダークダックスはモスクワ大学で、ブルーコメッツはロンシャンの教会だ、とか何とか喋ったようだ。この時は、教室に集まっている学生諸氏の顔が、はっきりと見えた。そのまま終れば大出来だったが、途中で、思いがけない失態をしでかした。  何やら喋っていて、ふっと前後の脈絡もなく胸がこみあげて来たのである。一瞬、私は絶句し、大いにあわてながら言葉を探《さが》した。だが何故《なぜ》か、適当な言葉が見つからず、みっともない事になってしまった。  その日の晩、私は鴨川《かもがわ》ぞいの雑踏の中を歩きながら、あの時こみあげて来たものは何だったろうと考えていた。  おそらくそれは、私の神経がひどく消耗していたためにちがいない。私はその日の朝八時すぎまで原稿を書き、一時間足らず眠ってまた仕事を続け、会場に五分前に駆け込んでいたのである。そんな日が数日続くと、人間の情緒は不安定になる。私は自分で自宅の近所の或る施設のことを連想したとたんに、ふっと感情が激したのだった。  おそらく、前に二度出かけた講演会では、そんな事はあり得なかっただろう。私を絶句させたのは、私を包む学生たちの雰《ふん》囲気《いき》であり、自分の学生時代へのフィルムの逆回転のような想起と重なったその場の空気だった。  青春、とか、若者、とかいった語感が私は余り好きではない。にもかかわらず、私の心をその時感傷的にしたのは、やはり一つの青春の匂《にお》いだったと言える。  私は大学を横に《・・》出て以来、長い自分独りの旅を続けて来た。そして、十数年たって、京都の縁もゆかりもない他の大学へ来て、ふっと非行少年の感化院に寄せる郷愁のようなものを覚えたのだった。  教室、というものを私は嫌《きら》っていた。大学に対しても、愛憎二筋のアンビバレンツの目でそれを眺《なが》めている。私は大学を追われた学生であり、そこには事務的な手続きが介在しただけだった。  私が話の途中で絶句した本当の理由は、おそらく自分でもそれを明確に分析することは不可能だったろう。  ただ判《わか》っているのは、その時、全く不意に、目の前の学生たちの顔を触媒として、プルーストの小説の中に出て来る水中花のような記憶の開花がおとずれて来たということだ。それは予期しない不意打ちだった。  消耗し、弱められていた私の神経は、その不意打ちを持ちこたえることが出来なかったにちがいない。  私がその時おぼえたのは、立ちこめる青春のブルーな匂いであり、世界と存在するものの不条理の感覚であり、大学を追われた自分が、十数年後によその大学の演壇に立っているという違和感でもあった。  私は、しどろもどろに話を終え、学生たちに謝《あやま》って壇を降りた。私はその時、灼《や》けるような恥ずかしさを感じていた。  ドライ・ハードネスを提唱し、アパティアの精神、ニル・アドミラリをとなえる私としては、どうしようもないぶざまな失態だったと思う。  橋の上から眺める夜の河は、ひどくクールに光って見えた。その晩は、とても冷えた。私は京都の町を歩きながら、あの時突然に訪れて来て私を絶句させたものの正体を、いつか小説に書いてみたいと思っていた。私は次の日、金沢へ帰ることになっていたのである。三日間の東京と、一晩の京都から、再び霙《みぞれ》の降る暗い北国の数週間が近づいていた。私の心の中に、いつものあの鬱《うつ》状態が静かに近づいてくる予感があった。   ささくれだつ消しゴムの夜で死に行く鳥     兜《とう》子《し》  坂口安《あん》吾《ご》の、あのエッセイのような文体で自分の過ぎた青年時代を語れないものだろうか、と思うことがある。  私が愛してやまない〈長崎チャンポン〉や〈富山の薬と越《えち》後《ご》の毒消し〉のような姿勢で書けたらどんなに素晴らしいだろう。  明治百年は、またゴーリキイ誕生百年でもある。彼は間違いなくマイナーな作家だが、忘れる事のできない見事な自伝的な作品を残した。私はよく人をチェホフ型とゴーリキイ型に分けて考えることがあるが、私などタイプとしてはやはりチェホフ型ではあるまい。  とぎれとぎれに、そんな事を考えながら、青森行きの急行〈日本海〉で金沢に着いたら、雨だった。  次の日も雨が降った。だが、庭の雪は頑《がん》固《こ》に消えずに残っている。雨に打たれた雪というものは灰色で、少しも美しくない。見ていると気が滅入《めい》る存在だ。次の日一日、何もせずに、こたつの中で新聞や、雑誌や、本を読んで過した。  ロープシンの〈蒼《あお》ざめた馬〉が新しい訳で出たのを読んでいる内に、たまらなく暗い気分になって来る。こういう時は、何を読めばいいか。おそらく本など読まずに、雪かきでもやればいいのかも知れない。  仕方がないので、べビイ・ドッズの古いレコードを引っぱり出してドラムを聞く。これはカメラマンの三木淳さんから貸していただいた面白いレコードだ。お喋りと、ドラムのソロがはいっている。聞いているうちに、こたつの中で眠ってしまったようだ。目を覚《さ》ました時は、もう暗くなっていた。外では雨が霙に変ったらしい。 わが新宿青春譜  野坂昭如《あきゆき》氏が月刊誌のエッセイで新宿回顧の文章を書いているのを読んだら、ふと私も学生時代の新宿を思い出してしまった。  私は昭和二十七年度の早大入学生であるから、武《む》蔵《さし》野《の》館《かん》裏の和田組マーケットは知っている。私が通ったのは、〈金時〉という店だが、庶民的な名前に似ずかなり高い店だったように思う。もう一つ今の高野の手前あたりにマーケット風の一画があり、いま新宿で高度成長をとげた〈ノアノア〉のオリジナルや、〈満洲里《マンチューリ》〉や、〈長崎〉などという店が軒を並べていた。当時の〈ノアノア〉は、ひどくせまい店で、女主人もそれにふさわしいスリムな体つきだった。あれから幾星霜、店が大きくなると共に女主人も立派になったようだ。  当時はまだ今のようにモダン・ジャズの店が流行《はや》っていなかったので、私たちのたまり場は自然とシャンソンの店に落ちついた。 〈モン・ルポ〉という店が、私たち当時の仲間にとっては忘れ難い記憶となって残っている。今の〈どん底〉のちょうど向い側にあり、そこには和服の似合うほっそりとした若いマダムがいた。ウェイトレスは女子美のアルバイトの娘《こ》で、これもツイギー風のなかなかの美人だった。  私たちはその店で、〈ブラマント通り〉だとか〈枯葉〉だとかいった曲を聞き、カウンターの中のマダムとの一瞬の会話に胸をときめかせ、一杯のコーヒーで終日ねばり続けたものだった。私たちはその頃、どんな事を話し合っていたのだろう。記憶の底からよみがえってくるものといえば、どれもまとまりのないナンセンスな会話の断片ばかりである。〈地獄〉の作者の名前が、バルビュスであるかバビュルスであるかなどと、ある友人と大《おお》喧《げん》嘩《か》したりしていたのだから、たあいのない事おびただしい。  アポリネールといえば、有名なシャンソンの作詞家であるとだけ信じ込んでいる女子学生があり、その店での激論が原因で絶交する破目におちいったりした。私の方では、これまたアポリネールは小説家でしかないと信じ込んでいたのだから、どっちもどっちである。  ロシア文学の先達《せんだつ》として知名な、神西清《じんざいきよし》の名前を、カンザイキヨシと呼んて同級生に軽《けい》蔑《べつ》された思い出もある。  ある日、仲間のリーダー格であったMが、家から送って来た授業料をその店で皆に見せたことがあった。その金を眺《なが》めているうちに、私たちは何かそれをそのまま大学の事務員の手に渡してしまうことが許せない事のように思えて来た。 「せっかく国のご両親が送ってくれたんだからなあ」  と、無責任な仲間の一人が言った。 「このまま他人の手に渡してしまうというのも、ちょっとどうかと思うな」  Mもまた一ぷう変ったサムライで、しばしその金を深刻な顔でうち眺めていたが、 「そういえばそうだ」  とうなずいた。「だが、何に使う?」  その金は当時の私たちに取っては、かなりの金額だった。私たちはお互いにある一つの答えを心の中に抱《いだ》いていたのだが、自分の方から切り出すのがはばかられて、お互いに顔を見合わすばかりだった。 「えい、めんどうくせえや。やっぱりそう《・・》するか」  と、Mがうなずいて言った。私たちもガン首をそろえ、うなずいて一斉に立ち上った。 「そう《・・》する」事がどうする事であるかは、私たちはお互いに何も言わずとも通じあっていた。  Mは歩きながら慌《あわただ》しく授業料を四人に分配し、私たちは都電のレールをこえて、迷うことなく新宿二丁目の赤線の灯に直進して行ったのだった。 「〈モン・ルポ〉に十時に集まろう。いいな」  とMは言い、少し猫背の長身を風に傾けて銀色に光る都電のレールを越えて行った。今その時の光景を思い出す度《たび》に、ふっとこんな文句が私の脳裏によみがえって来る。 「風ハ蕭々《しょうしょう》トシテ二丁目寒シ。壮士ヒトタビ去ッテマタ帰ラズ」  あの時のMは、まことに颯爽《さっそう》としていたと思う。Mは後年、NHKの警視庁記者クラブの一員として私たちの前に現われ、当時失業中だった私たち仲間を旗を立てたハイヤーで飲みに連れて行ってくれたりしたが、やはりあの夜の彼が一番恰好《かっこう》が良かったようだ。  さて、そのとき私たちは自然と二人ずつパトロール風に分裂し、二丁目を遊弋《ゆうよく》することとなった。私と組んだNも引揚者で、大陸型のぼうようたる人物であったから、私たちはせかずあわてずじっくり時間をかけて歩き回った。その途中でMたちのカップルとばったりぶつかった時の照れ臭さは、筆舌につくしようがない。何も今さらお互いに照れることはないのだが、やはり変なもので、 「やあ」  とか何とか手をあげてすれ違った時は身がすくんだ。内地育ちの人間も、やはりこういう場面になると気が長くなるのだろうか、と私はMの事を考えたが、本当は彼の久保田万太郎ふうの感覚の繊細さが、安易な選択を許さなかったに違いない。  私たちは約束の時間に再び〈モン・ルポ〉に集まった。店にはシャルル・トレネが〈カナダ旅行〉か何かを陽気な声で歌っていた。 「どうだった?」  と先に来ていた組が相手にきいた。 「うん」  何となくお互いに戦果を自慢する気分ではなかった。Mはなおさらだっただろう。一時間余の後に、彼の授業料は見事に消え失《う》せてしまっていたからである。失ったものの重さを、彼は一見、御家人ふうの顎《あご》をなでつつ想起している風《ふ》情《ぜい》だった。 「どうしたの皆さん。そんなに憂鬱《ゆううつ》そうな顔をして——」  と、マダムがほほえみかけたが、私たちの心は、いつものように弾《はず》まなかった。その時の私たちの気分に、シャルル・トレネは向かなかった。やはりグレコの、サルトル作詞とかいう変な歌のほうが合っていたように思う。  当時、私たちは奇妙な谷間にいた。MSA発効と、六全協のちょうど中間の時期で、どこか屈折した感情を、小説を書いたり、ポーカーをやったりしてまぎらわせていた。学生生活は当然のように苦しく、デパートの螢光《けいこう》灯《とう》の下では三十分ともたなかった。慢性の栄養失調で、目が弱っていたからである。  そんな苦しさの中で、どうして女を買ったり、シャンソンの店へなど通ったのか、と問いつめられても、うまく説明できそうもない。青春とはそんなものだ、と小声で呟《つぶや》いてみるだけだ。  フランス語の出来ない私は、〈ブラマント通り〉の歌詞をMに頼んで仮名で書いてもらい、九州ふうの発音でそれを歌いながら深夜の新宿を彷徨《ほうこう》していた。  昼間の新宿の記憶といえば、ほとんどない。わずかに紀伊《きの》国《くに》屋《や》の喫茶室と、木造だった以前の風月堂、それに中村屋ぐらいのものだ。のちにオペラ・ハウスが昼間ジャズ喫茶をやっていた頃、ウェスターン音楽を聞きに通った事を憶《おぼ》えている。それからフランス座の記憶が続く。新宿ミュージック・ホールと名前の変る前のフランス座は大変面白かった。後年、その頃私がひどく気に入っていた三笠圭《けい》子《こ》というストリッパーが、北海道のキャバレーに出ているのを見て、懐旧の念にかられた事がある。浅黒い肌《はだ》をした、くせのある踊り手だったが、池袋フランス座の斎藤昌子と共に忘れ難い真のアーチストであった。  当時のコメディアンたちは、今や毎日のようにテレビで再会するようになった。彼らは今や昔のあのどこかニヒルな陽気さと質の違った雰《ふん》囲気《いき》を身につけて、ブラウン管の中に現われてくる。だが、あの頃の女たちは、みんなどこかへ消えてしまった。〈モン・ルポ〉のマダムの顔も、もう忘れかけている。憶えているのは、あの二丁目にかかる都電のレールの白い輝きだけだ。 百年よりも二十年 「衣食足って礼節を知る」  という言葉が好きだった。幼少の頃より、私は礼節を知らない。他人にそれを指摘されたり、自分で恥じたりする度《たび》に、 「衣食足らざれば礼節を知らず」  と、うそぶいて来た。  ところが、いかなる風の吹き回しか、どうやら文章を書いて人並みに食えるようになった。今さら「おれは引揚者だぞう」などと尻《しり》をまくったところで、最近の若い連中には「引揚」などという語感が通じないのだから仕方がない。  今年の年頭に、何を決心したか。  明治百年である。それがどんな意味を持つのか、私にはさっぱりわからないが、何でも復古調の世の中が来るという。  これは隣りの精神病院の患者さんに聞いたのであるから、当てにはならないが、そんなムードも確かにある。精神病の患者さんの意識には、世間の動きが敏感に反映するからだ。かつて、誇大妄想《もうそう》の対象は総理大臣とか、陸海軍大将だったらしい。それが敗戦後一転して、 「おれはマッカーサーであるぞ」  と、自称する患者さんが増《ふ》えた。しかるに朝鮮戦争の後期から、自分を天皇だと信じ込む妄想が流行し出したそうだ。  そんなふうに、動物的な勘で世の中の移り変りを見抜く人たちだから、馬鹿にはできない。今年は復古、といえば、そうなるかも知れぬ。  と言うわけで、私も心を入れかえて古式にのっとり礼儀作法を学ぶことにした。本来怠《なま》け者だから、先生の所へ茶の湯を習いに行ったりする気はない。早速、古本屋へ行って作法書を一部、百五十円也《なり》を投じて買って来た。最近のエチケット読本まがいの代物《しろもの》ではない。正真正銘の古式にのっとった作法書である。明治三十一年に発行されていらい、数度の版を重ねているらしい。当時の定価、金三十五銭也。  その日以来、原稿を書くのを一時休んで、日夜営々として礼節を学んだ、今年、東京で出会う友人たちが、さぞかし驚くにちがいないと、今から楽しみである。  さて、一日に一課ずつマスターして進んでいる。形を改めれば心も改まるの道理、最近では、かなりの程度に人品高雅になったような感じがする。家の者に言わすれば、ちっとも変ってないなどと鈍い事を言うが、それは毎日少しずつ進歩しているのが、身近にいるため目につかないだけの話だろう。  ところで今日は何を勉強したか。  参考のために書いておこう。本日は、第五章、書籍について、という所をやった。  古い人とは偉いものである。本が好きで、最近は自分の本を出したりしながら、本に関して、これほど面倒な礼儀作法があるとは、全く知らなかった。例《たと》えば、来客または目上の人に本を渡す場合、本のどちらを頭にして相手に差し出すべきか、などというマナーがちゃんと明記されているのである。 〈——書籍を出すには、字頭を向うに、すなわち我が読むようにして両手にて胸の辺《あた》りに捧《ささ》げて持ち出《い》で、ほど良き所に坐《ざ》し、そのまま左の掌《てのひら》に載せ、右手にも右の向角を取り、字頭の我が前になるよう右の方に取り回して先者の膝《ひざ》前に置き、少し推し進めて参らすべし。云々《うんぬん》〉  本を他人に見せるにも、かくの如《ごと》き順序があるのだ。それを受け取るにも、当然、受け取り方の作法というものが存在する。これでは肩がこるので飛び越して楽器の項を見る。 〈——バイオリンを出されたる時は、会釈して之《これ》を受けたる後、左手にバイオリンを持ち、右手に弓を取り、静に調子をととのえて弾ずべし〉  バイオリンを出されたりする気づかいはないので、この辺は飛び越える。すると次は食事が出て来る。いや、食事ではなくて、食事の作法の問題である。飯を食う時のタブーとして、こんな事項があげられている。 〈また盛り〉箸《はし》にて飯を椀《わん》の中へ押付けて食するを言う。 〈受吸い〉汁の再進等を受けて一旦《いったん》置かずして其《そ》のまま吸うを言う。 〈こみ箸〉食するものを箸にて口中に妄《みだ》りに押込むをいう。  といった調子の講義が続く。 〈移り箸〉〈そら箸〉〈膳《ぜん》越し〉〈袖《そで》越し〉〈箸なまり〉〈にらみ食い〉〈探食〉〈もぎ食〉〈ねぶり箸〉  等々、まだまだ続くのである。こういうのを眺《なが》めていると、厄介で食事もおっくうになりそうだ。  先日、新聞を読んでいたら、先日芥川賞を受けられた作家のO氏が、色紙の表裏を間違えられた話の紹介があった。読んでいて、つい私も赤面した。  昨年の夏であったか、あるデパートで色紙展が開かれ、私も五枚の色紙を割り当てられた事がある。その時、金粉をまいた方が表か、それとも裏かで大そう悩んだ事があったのだ。  私は、迷った末、やはり金粉を散らした方に筆を走らせて五枚を書いて渡したが、あれはすべて反対だったらしい。受け取った担当者の一瞬、はっとした表情を後から思い出して、なぜその時これは反対ですと言ってくれなかったかと恨んだものである。  さて、例えば銀座などをふらふら歩いていて、知人の作家、編集者などに会った場合は、どうするか。それが偉い人である場合は、できるだけ早く見付けて逃げるから問題はない。仲間であったらどうすればよいか。作法書によれば、次の如くになる。 〈——同輩に行き逢いたる時は、四、五尺手前にて互に左の方へ二歩避け、斜に向き合いて静に礼を施し、挨拶《あいさつ》終らば双方同時に歩み出て行き過ぐべし〉  それでなくとも混んでいる銀座で互いに左の方へ二歩避け、斜めに向き合って礼を交《か》わすことなど、とうてい不可能だろう。だが、明治百年である。今年は誰かに会ったらサッと左へ二歩飛び、斜めに向いて静かに礼をしようと思う。交通事故にあったりしたら、責任は明治百年に取ってもらおう。ひょっとすると、サッと飛びかわした瞬間に、大変な美人と衝突し、物のはずみで一緒にお茶でも、という事にならぬとも限らない。そうなれば明治百年万歳である。  今年は明治にちなんで、様々な催しが行われるだろうが、まず礼儀作法を百年前にもどしてみたらどうか、〈一日明治の日〉などという記念日をもうけて、フーテン族も、グループ・サウンズの連中も、三派全学連も、古式にのっとった典雅な一日を送ってみるのである。勿論《もちろん》、デモ規制の機動隊も、代議士諸先生もまた然《しか》り。  だが、それは妄想をたくましくするだけで、実際には不可能なことだ。それは誰もが知っている。とすれば、明治百年とは、いったい何だろう。それが単なる時間の区切りであれば、百年にこだわる必要はあるまい。二百年でもよければ、逆に半分でもいい。今年は米騒動五十年でもあれば、シベリア出兵五十年でもある。  聞くところによれば、街角に出ているEXPO' 70 のポスターのEXを、ANに書き変えて歩くいたずらが流行しているそうだ。今年は礼儀を正しくしよう、と決心したが、それも食えている間だけの話だ。物価がべら棒に上ったり、生活が不安になった時には、いつでも礼節を知らざる者に逆もどりするつもりである。ボクシングの藤選手に大和《やまと》魂があるなら、私にも泥水すすり草をはみつつ半島を縦断して来た引揚者魂がある。私は昭和二十二年に九州へ上陸したから、昨年は引揚二十年の年でもあった。「遠い親戚《しんせき》より近くの他人」という言葉を信じるなら、私もまた、「遠い百年より近い二十年」を大事に考えている一人である。たとえさし当り作法を守って生きても、やはり礼節を知らざる性根だけは失うまいと思う。 優しき春の物語  正月は金沢で暮した。雪が深く、せっかく作った和服も、着る機会がなかった。羽織にゴム長靴《ながぐつ》では、いくら気取ったところでさまにはなるまい。  二日に、東京からのお客さんが現われる。こちらも退屈していたところなので、街へ出た。先日結婚したばかりの、私の大学の後輩に当る青年である。見上げるような長身の奥さんを伴って、香林坊の北国書林の地下で待っていた。  正月なので、タクシーが仲々つかまらない。歩いて雪の兼六園を一回りし、石川門をくぐって金沢大学の構内をのぞく。それから犀川《さいかわ》べりの道をぐるっと回って、卯《う》辰山《たつやま》に登り、雪に埋れた秋声の碑を眺《なが》めて望湖台へ上った。  北陸にはめずらしく晴れた日で、日本海が間近に迫って見えた。背後に真白なアルプスの山なみも光っている。  浅野川べりを迂《う》回《かい》して、東のくるわ《・・・》を歩く。昼間なのでどこも静かだ。お茶でも一杯ごちそうしてもらおうと、知合いのお茶屋をのぞいた。おかみが正月らしく改まった恰好《かっこう》で、挨拶《あいさつ》にくる。何が苦手といって、形式ばった挨拶ほど苦手なものはない。外地育ちの引揚少年だった私は、およそしつけ《・・・》というものを身につけずに三十五歳になってしまった。金沢弁で何やら言われても、受け答えのすべを知らず、 「やあ、どうも」  とか何とか口ごもりながら上衣《うわぎ》のボタンを掛けたり外《はず》したりするだけだ。  昼間なのでひまと見えて、日本髪にゆった女の人たちが何人もやって来る。長い裾《すそ》を引きずって、しきいの所で手をつくと、 「ながいこって」 「ながいこって」  裾の長い着物なので歩きにくい、とでも言ってるのだろうと考えていたら、そうではなかった。 「ながいこって」というのは、「おひさしぶりねえ」という土地の挨拶だという。何やら〈徳川の夫人たち〉のテレビでも見てるような具合で、落ち着かない。  年輩の姐《ねえ》さんが良い声で、知らない唄《うた》を歌う。 「その唄は何ですか」  と聞くと、 「そうやねえ、これは端《は》唄《うた》のようなもの」 「——ようなもの、というのは厳密に規定するとどういう事ですか」 「だんさん、唄は理屈やないがや。黙って聞きまっし」 「しかし——」 「はい、お茶」  新婚夫婦は屈託なく笑いながら、数の子をつついている。外で雨戸に当る雪の音がきこえる。さっきまで晴れていたのに、また降り出したらしい。  前におでん屋のカニの事を書いたら、いろいろ意見が出た。  コウバクガニというのはズワイガニ(越前《えちぜん》蟹《がに》)のメスである由《よし》。地元の人はコウバクとコウバコの中間のような発音をする。北国新聞の田中学芸部長に、 「コウバクガニというのは、どういう漢字を当てるんですか」  と聞いてみたが、はっきりしない。 「ううむ。あれはどう書くのかな」  腕組みして首をひねっただけだった。  この土地は昔から源平に縁の深い土地である。正月には子供たちが集まって、旗源平などという風流なお座敷遊びをする。私は紅白《コウバク》蟹《ガニ》と書いたが、源氏と平家の紅白の旗をカニの中身の紅白に当てたのではないかと考えていた。  その後、日本海側の魚については有数の権威者である岡良一氏から、こんな話を聞いた。岡氏は中野重治《しげはる》氏、窪川鶴《くぼかわつる》次《じ》郎《ろう》氏、森山啓氏などと共に四高で活躍していた往時の文学青年で、国会釣クラブのリーダーとして活躍した政治家だ。  地元の詩人だった村井さんという友人と、当時金沢に住んでいた犀星《さいせい》の家へ呼ばれて行った時の話である。  犀星は目の前にコウバクガニを数匹並べて首をひねって曰《いわ》く、 「コウバコガニとはどう書くのかね」 「さあ」 「定まった漢字がないのなら、ひとつわれわれで字を考えようじゃないか」  というわけで三人で頭をひねった。カニの時期から言っても、冬だろう。沈思黙考、やがて村井青年が、 「日本海の香りを秘めたカニということで、香箱蟹というのはどうでしょう」 「うむ、香箱蟹か。なるほど」  犀星先生、何度か掌《てのひら》に字を書いてみて、 「君、箱はちょっとあれだ。香筐蟹とした方がいいじゃないか」  香筐蟹とは悪くない語感だ。紅白蟹より、こっちの方がいいと私も思う。もっとも、箱と、筐《はこ》のニュアンスの違いなど、当世では問題にならぬかも知れぬ。  香筐蟹か。  今年は能登《のと》のブリも、カニも、ひどく少ないそうだ。一匹千二百円のズワイガニが、話題になっていた。 「越中泥棒、加賀乞《こ》食《じき》、越前詐欺」  などという。それぞれの住民の気質を、いかにもうまく皮肉った文句だ。悪くとらずに、進取の気性に富んだ富山人、平和を愛する石川人、知的な福井人、というふうに考えればよい。たしかにそんなところはあるように思う。  だが、正月に聞いた言葉でちょっと凄《すご》いのがあった。  バニーガール風の網タイツをはいた女性がはべる店があって、そこの女の子が能登の出身だという。 「うちは能登や。こっちの人も」  と指さしながら、ふと、 「能登は優しや人殺し——」  と呟《つぶや》いた。 「なんだい、それは」 「そう言うがや」 「能登は優しや人殺し、か——」  表面は優しく、内には沈んだ殺意を秘めている能登人の気質を言うのだという。人間だけでなく、能登の自然もまたそのような優しさの中に、日本海の怖《おそ》ろしさを隠しているというのだ。  それは判《わか》るような気がする。おそらく、城下の金沢の街の人々は、能登の人々と自然に一種屈折した警戒心を抱《いだ》いていたのかも知れない。 「能登は優しや人殺し」  私はこの文句に、何かひどく惹《ひ》かれるものを覚えずにはいられない。  能登も半島である。半島には、独特のものが隠されているような気がする。何か凄味のある重いものがある。  朝鮮半島、スカンジナビア半島、イベリア半島、という具合に私は歩いて見た。今年はバルカン半島とアラビア半島を回ってみようと思っている。  能登は優しや、という言葉に私が思い出したのは、黄海道や、平安南道の山河であり、田園と家並みの優しさだった。私が幼年期を過した論山《ろんざん》という半島の町には、アカシアの花と、優しい弥《み》勒《ろく》菩《ぼ》薩《さつ》の記憶が、万歳《マンセイ》事件の時の話と共に残っている。 「勘定をたのむ」 「はい」  と、立ち上ったバニーガールが、しばしあって優しい微笑をたたえてもどって来た。 「たけえなあ」 「能登は優しや人殺し——」  そう呟いて網タイツの娘は、そっと私の手に公給領収書を握らせたのであった。  加賀百万石の正月風景、およそ右の如《ごと》し。 明治百年の若者たち  一九六八年である。明治百年の春がきた。  新しい年を迎えると、奇妙に昨日までの一年間がはっきりした遠近法で見えてくる。  昨年、最も多く質問されたことは何だっただろう。私の場合、それは小説についてでも、政治に関してでもなかった。もちろん、女や酒についてでもない。 〈現代の若者たちをどう思うか?〉  おそらく最も多く浴びせられたのは、そんな質問だったように思う。  これは何を意味するのか? 大人《おとな》たちは、その回答に何を求めているのか?  私はそれらの質問の背後に、ある一つの無言の期待を感じた。質問者たちは、時にはジャーナリストであり、時にはアナウンサーであった。彼らの立場や、表情は、それぞれにちがった。だが、あらかじめ一つの方向づけられた答えに対する期待で、彼らは体をふくらませていた。私がその言葉を吐けば、間髪《かんはつ》をいれずそれをくわえて走り去ろうという構えである。私が求められているのは、警棒だった。その棒で私が若者たちの背骨を痛撃するのを、彼らは期待していたのである。  思うに、昨年はミニスカートの完全勝利の年であった。PTAの集まりをさえ、ミニは堂々と制圧したのである。だが、それと同時に、一九六七年は若者総批判の年でもあった。フーテン族、三派全学連、そしてグループ・サウンズ。そして小市民的若者たち。  スカートの短いのはいいが、髪の長いのはいけないという。目的はいいが、手段が間違っているという。大人の酒はいいが、若い連中の睡眠薬はけしからんという。  私に求められていたのは、それらの若者批判の、ちょっぴりひねった発言だったにちがいない。私は、まだそれほど老いず、といって若者の同類でもなかったからである。  私は北朝鮮からの引揚者であり、きわめて貧しい学生生活を送った。社会に出てからも、いわば現代社会の底辺を縦断して生きてきた。  そんな私の目に、花模様のブラウスを着、エレキギターを抱《かか》えて長髪を振り乱し、イェイェイェイとしなをつくる連中が、どう映るか。カルダン調の背広に身を固め、マイカーで大学に乗りつける学生に何を感じるか。またはカラーヌードのグラビアと、女性ハント術を満載した男性週刊誌読者をどう思うか。  質問のねらいは、その辺にあったのだろう。だが、私の答えは彼らを満足させなかったようだ。私は常に口ごもるか、支離滅裂な長広舌をふるうかのどちらかに偏したからである。  現実のさまざまな事件や風俗に関して、たずねられれば言下に意見をのべることのできる人々を、私は畏《い》敬《けい》の目で眺《なが》めてきた。  たとえば、明治百年の日本の歩みをどのように評価するか。革命五十年のソ連におけるスターリンの役割を否定するか。それとも必要悪とみとめるか。学生運動の暴力は、是か非か。アラブ連合とイスラエルは、どちらが正しいか。  二者択一の答えを求められ、口ごもらずに即決できる自信と決断を、私は正直うらやましいと思う。私はいつもそのたびに絶句するか、錯乱とも思える多弁におちいるのである。  歴史は常に対立する現実を止揚しながら動いてきた。私が立ち止ろうと、口ごもろうと、世界は容赦なく進んで行く。にもかかわらず、私には現実のすべての相が二重にダブって見える。どんなに目を凝らしたところで、影の部分をかき消すことはできない。かつて早大事件の時、警官に蹴《け》ちらされる側にいた際でさえも私は警官を人間的に憎むことはできなかったし、スクラムを組んだ学生を百パーセント信じることも不可能だった。  私の母は敗戦後の外地の混乱の中で、死ななくともよい死に方をしたが、その事件さえも私には二つの相をおびて見える。  このような人間が、傍観者としてでなく生きて行くためには、どうすればよいか。私は思うのだが、それには一つしか道はあるまい。つまり、その口ごもり、立ちすくむ姿勢を堅持すること。現実が大きなターニング・ポイントにさしかかっている時には、粘り強くあいまいさに固執することさえも力の要《い》る仕事だろう。なぜならば、強風の中で立ち続けることは、風の方向にさからうことなしには不可能だからである。 〈現代の若者たちをどう思うか?〉  こういう質問に対して、私はあらかじめ質問する側が抱《いだ》いている期待に、かすかな反撥《はんぱつ》を覚える。今の若者たちに痛棒をくらわし、叱《しっ》咤《た》激励しようという人々は、エレキギターのかわりに何を彼らに持たせようというのか。おそらく今年は、昨年の若者総批判に代って、若者をほめ、持ちあげる年になるのではないか、という気がする。そして、その持ちあげられるヒーローたちは、多分すでにこの世にいない過去の人物であるにちがいない。新年早々えんぎでもない言い方だが、今年はお化けの年になりそうだ。  相対的安定期といい、昭和元禄《げんろく》という。グループ・サウンズをどう思うか、とたずねられるたびに私の頭に浮んでくるのは、斎藤緑雨の次のような戯《ぎ》文《ぶん》である。 「音楽は即《すなは》ち国のささやき也《なり》。彼れの曲と此《こ》れの歌、強《しひ》て東西の異《ことな》るを綴《つづ》り合せて妖怪《ようかい》に似たるの声をなすの音楽あるときは、妖怪に似たる声をなすの日本国なることを知るべし」  君の国の青年を見せ給え、君の国の未来を占ってみせよう、と言った男がいるそうだ。私はこういう言い方が、好きではない。  先日、ある集まりで、私は今の青年たちに何も期待はしていないと発言した。彼らは率直に「ぼくらも大人たちには期待していません」と言い、そして私たちはお互いに何となくおかしくなり、笑い合った。  それはとてもさわやかな気分だった。私は若者たちを粘土のようなものだとは考えない。こねたり、たたいたり、水を注いだり、焼きを入れたりして、自分の思うようなものを作りあげるわけには行かないだろう。  今年は〈青年〉という言葉が巷《ちまた》に氾濫《はんらん》するのではないかと思う。曰《いわ》く〈青年の船〉〈青年日本〉〈青年の歌〉〈期待される青年像〉〈青年の思想〉。  私白身も〈青年〉という言葉を使った小説を書いた。だが、それはジャズ気違いで、ナショナル・コンセンサスなどとはさっぱり関心のない青年が主人公である。私たちにとって、大切なのは、ナショナル・コンセンサスなどではなく、インターナショナル・コンセンサスではあるまいか。もしくはその両者の対立関係に目を向けることだろう。明治百年は同時に、ロシア革命五十年とほぼ重なり、それはまたスペイン戦争三十年、フィンランド独立五十年と同じ線上にある。  一九六八年は、若者たちにとって、どのような年になるであろうか。 あわて者の末期の目  昨年から今年にかけて、面白い本が次々と出た。形《けい》而下《じか》的な意味で本が好きな私にとっては、有難い季節だったと思う。  ロープシンの〈蒼《あお》ざめた馬〉の翻訳が、二つの出版社からほぼ同時に刊行されたのも、最近である。  ——今ぞよみがえる幻の名著!  と、版元の広告コピーにも迫力があった。書評紙からの注文で、短い文章を書くために両方を通読したが、こなれた良い訳で感心した。  ソ連文学関係では、かつての粛清作家たちの作品が体系的に紹介されたのが目立った傾向だった。お蔭《かげ》で、バーベリやヤセンスキイなど、これまでのソ連ではタブーとされていた幻の作家の作品にも、お目にかかる事ができた。  雑誌に載った時から注目していた松永伍《ご》一《いち》氏の〈荘厳なる詩祭——影の詩史のニンフたち——〉も、また幻の詩人たちの復権の書といえるだろう。私はこの本で、はじめて九州の影の詩人たち、藤田文江、淵上毛銭《ふちがみもうせん》などという人々の名前を知った。  私は元来、非常な怠《なま》け者で、最近はことにその傾向がひどい。足もとに六百ワットの電気ストーブを置き、コール天のズボンにナイロンの厚いヤッケという完全武装で原稿用紙に向うのだが、仲々すぐに仕事がはじまらないのである。  一字も書いていない原稿用紙を前に、鉛筆を二、三十本もけずってみたり、手足の爪《つめ》を全部切ってみたり、最近急に増《ふ》えて来た白髪を数えたり、鼻毛を抜いて猫の鼻に植えてみたりして貴重な時間を浪費し、ようやく原稿に取りかかる頃には殆《ほとん》ど精力を使い果してしまっている始末だ。  そんな時には、書くのを一時中止して、読む側に回る事にしている。他人の書いた本を目の前において、締切りを気にしながら拾い読みをする。そんな時、読書は一種の快楽となる。  締切りは数時間後に迫っている。小松空港から航空貨物でフレンドシップ機に乗せるためには、一時間前にタクシーに託さねばならない。そんな時に、仕事と全く関係のない本を読み出すというのは、一体いかなる心理のメカニズムであろうか。  残された時間は、後わずか三時間。編集者の厳《きび》しい顔が目にうかぶ。活字を追う視線は、すでにして極限的な切迫感に満ち満ちている。これこそ〈末期の目〉というものであろう。目前の活字は生きものの如《ごと》く起《た》ち上り、文章は岩《いわ》清水《しみず》のように脳《のう》味噌《みそ》にしみ渡る。  これが私の読書のスタイルてある。困ったものだが仕方がない。私はこれまでに、こうして何冊かの貴重な本とめぐり合った。人々はそれぞれの個性にもとづく読書法があるものである。 〈末期の目〉に写った自然、または人間とは、どんなものだろう。  私はまだ死を決してどこかへおもむいた経験がないので判《わか》らない。だが、それらしき緊迫した状況の中で事物を見た記憶はある。  私たちが敗戦後の北鮮から、ソ連軍のトラックを買収して三十八度線へ脱出をはかった夜がそうだった。日本人難民を乗せた大型トラックは、深夜の街道を、平壌《へいじょう》から開城《かいじょう》の方角へ轟々《ごうごう》と唸《うな》りながら突っ走っていた。途中の検問所の前まで来ると、さも停止するかのようにスピードを落し、ぐるぐる回される懐中電灯の信号の直前で、突然、エンジンを全開してダッシュするのである。背後で自動小銃の発射音が響き、車体をかすめる弾丸がオレンジ色の火花を散らした。  検問所は何カ所もある。次のチェック・ポイントにさしかかるまでの行程は、エンジン音と車体の風を切る音だけが単調に続く。タイヤを射《う》ち抜かれれば、それまでだった。保安隊に捕えられた脱出者たちを待っている運命が何かを、私たちは知っていた。  車の両側を、黒いポプラ並木の影が飛び去って行く。空は青黒く冴《さ》え、満天の星は金属質に輝きわたっている。  後続車のへッドライトと、押し殺した幼児の泣き声。  それらの全《すべ》ては、その時の私にとって、ひどく抒情《じょじょう》的なみずみずしさに満ちていたように思う。そこには、一種の爽《さわ》やかな、硬《かた》い存在の感覚があった。私はその時、内ポケットに刃物を隠した十五歳の少年だった。  二十代の終り頃の事だろうか。私は新宿駅の近くを歩いていて、異常な音響を頭上に聞いた。その瞬間、私は三メートルあたり横っ飛びに飛んで地上に伏せていた。その私の数十センチ横に、巨大な鉄骨が地面深く突き立ったのだった。  それは建設中のビルの九階から落下した、七、八メートルはあろうという巨大な鉄骨で、アスファルトの道路を、まるで柔らかいパンの表面ででもあるかのように突き刺しているのである。  私は起き上って、急ぎ足でその場を離れた。あの瞬間、無意識のうちに飛び離れたのは、私たち戦時中に少年期を過した人間の習性だろう。 「今日、あぶなく死にそこねたぜ」  などと会社に出て喋《しゃべ》っているうちは何ともなかったが、その日、家へ帰って寝床の中へ入ってしばらく後に、不意に震えが来た。死に直面することの恐怖とはそんなものかも知れない。翌日、私はわずかばかり残っていたボーナスの貯金を全額おろして、一夜のうちに消費してしまった。人間、いつ死ぬかわからないと思うと、一銭でも残して死ぬのが惜しくなったためである。その発想は、永く私の生活を支配して、建設的な生活設計を不可能にした。 〈人間、いつ死ぬか判ったもんじゃない〉  そう呟《つぶや》くと、不意に周囲の風景の遠近法がぐにゃぐにゃと歪《ゆが》んでしまうのだった。  私はかつて池上線の沿線に住んでいた事がある。いつも電車で都心に通っていた。  その電車のパンタグラフが突然火を噴《ふ》いた事があった。当然、車内は大混乱におちいった。だが誰も悲鳴をあげて逃げまどうばかりで、非常ドアさえ開けようとしないのだ。私は靴の踵《かかと》で窓ガラスを叩《たた》き破るや、ひらりと車外に身を投じ、線路の上に飛び降りた。その瞬間、左足に鈍いショックを感じたが、ともかく、脱出に成功して車中の乗客に「早く出ろ!」と呼びかけた。だが、窓ガラスの破片の中から飛び出してくる乗客は一人もいず、ただ悲鳴をあげて煙の中を走り回るばかりだった。  その事故は、幸い大事にいたらずに収拾された。やがて車掌がドアのコックを開け、乗客たちは、青ざめた顔でぞろぞろ降りて来た。  私は痛む足を引きずりながら、或《あ》る種の得意さを押える事が出来なかった。危機に際しての動物的な防御本能は、死線をくぐった少年の感覚が未《いま》だに体内に流れている事を示しているように思えたからである。もし、送電が停止されず、車内が火の海となったならば、私以外の乗客は全員焼死したかも知れなかった。私は左足をくじいただけだった。  翌日の新聞を、私は目を輝かせて開いた。私の迅速な行動について、なぜか当然、新聞が賞讃《しょうさん》の記事を書くにちがいないような気がしていたからである。  池上線の事故の記事は、社会面の左隅《ひだりすみ》に小さい見出しで出ていた。 「あわてた乗客 飛び降りてケガ」  と、いうのがその見出しの文句だった。あわてた乗客とは、私の事だった。  それ以来、私は主観と客観の落差について常にペシミスティックな判断をくだすようになった。自分だけいい気になっていても、世の中というものは、どんな事を言い出すかわからない。何らかの行動に移ろうとする時に、私の頭によみがえって来るのは、いつもその非情なフレイズだった。 「あわてた乗客 飛び降りてケガ」  新聞とは意地の悪いものである。 森と湖に囲まれた国  フィンランドは、私に取って忘れ難い国である。フィンランド人は、自分たちの国を呼ぶ時に、〈スオミ〉と呼ぶ。フィンランドというよりは、スオミと書いた方が、私にもぴったり来る。——スオミとは、多くの湖の国、といった意味だと或《あ》る本に書いてあった。正確な語源については、私は知らない。だが、スオミという発音には、どことなくあの国の持っている独特の暗さ、重さ、そして抒情《じょじょう》の味と含羞《がんしゅう》のニュアンスがあって好ましい。  旅先で知り合った女性に、アイノ・コスチアイネンという娘さんがいた。お互いにたどたどしい片言の英語で、それぞれの国の事を語り合うのは面白かった。 「ぼくらの国にはアイヌという民族がいる」  と、私が喋《しゃべ》ってからは、彼女は冗談に自分の事をアイヌ・コスチアイネンと名乗るようになった。  アメリカやフランスの女に見られない、素朴な人柄と姿態は、私に原生のすくすくとのびた白樺《しらかば》の木を連想させた。  北欧の女は全部が全部、美人ばかりだと思っている人が少なくない。だが、それこそ偏見というものだろう。北欧で本当に憎らしいほど綺《き》麗《れい》なのは、スウェーデンの都会の娘たちだけだと私は思う。ノルウェーでは、それこそ、アッと驚くほどの不美人に街のいたる所で会った。デンマーク美人も、いわば健康美人が多い。近代の憂愁と、悪魔的な造型の美を感じさせるのは、やはり、イングリッド・バーグマン、グレタ・ガルボ、アン・マーグレットを産出したスウェーデンの女たちだ。  フィンランド娘は、決してスウェーデンの女性ほど、美しくはない。だが、私はスオミの娘たちが好きだった。スウェーデンの美女たちは、正《まさ》に白夜のニンフたち《・・・・・・・・》という言葉にふさわしい美しさを持っている。これに対して、スオミの娘らは、どこか意志的で、重く、暗い瞳《ひとみ》をしていた。それは単に造型的な問題ではなく、スオミという国の歴史的、社会的な一つの宿命(——私はこれを半島の宿命と呼んでいる)の翳《かげ》りにほかならないと思われる。  スオミの首都、へルシンキの事を、〈北の白都〉とか、〈バルト海の宝石〉だとか言ういい方がある。それは確かに、そのようなイメージをたたえた美しい街だ。  しかし、私が数年前の夏、レニングラードからやって来た日は、その街はひどく暗く、陰惨な感じがあった。冷たい小雨が終日降り続いて、駅にはユースホステルを追い出された渡り鳥旅行者たちが、ザックを抱《かか》えてふるえていたのを憶《おぼ》えている。  それは、北欧というファンタスティックな先入観とはひどく違ったものだった。  その後、スカンジナビア半島を回って、私はその時の第一印象が、ある意味ではスオミという国の、ある本質的な一面に触れていると思うようになった。  一口に北欧という。だが、スカンジナビア半島の四カ国は、それぞれ驚くほど違った国と民族の集まりである。  ただ、お国柄が違っているというだけではない。それぞれの国のあり方は、むしろ一種の対立と抗争の関係にあるように思われた。  NATOに加盟している国、ソ連と条約を結んでいる国、そしてどちらにも属しようとしない国がそこにはあった。  スオミは、決して豊かな社会福祉国家ではない。それは、ノルウェーのように漁業や、海運業の伝統も持たず、スウェーデンのように巨大な地下資源と近代工業の基盤もない。また、デンマークのような合理的な近代農業国家でもなかった。それは無数の小さな湖沼と、森林からなる暗い冷たい風土であり、人々は半年の長い暗夜を耐えて生きねばならない国だった。  スオミは、つい五十年前まで、帝政ロシアと、スウェーデン王国との二つの外国に支配されて来た国である。何百年もの間、戦火と圧制が、そして強国の兵士と権力が、ローラーをかけるように、その国の上を行ったり来たりした。  その長い冬の季節を通じて、スオミの人々は、その暗く、どこか激しい沈黙をかたちづくっていったものらしい。  北極に近い世界で二番目の国土の厳《きび》しい自然と、痩《や》せた土地が、スオミの人々の表情に更に深い内省と克己のひだをきざみ込んだのだろう。私がその街で見た男や、女の顔は、他の北欧人の顔つきとは全くことなっていたように思う。  スオミとソ連の国境地帯はカレリアと呼ばれる土地である。それはスオミの人間にとって、一種の魂の故郷といえる土地らしい。そこはもともとスオミの人々が、遠いアジアの果てから遠い旅を続けてやって来て、そこに定着し人間の生活を始めた。スオミ人の母なる土地だった。深い霧と、露呈した灰色の岩石と、無数の沼におおわれた暗い荒涼たる地帯である。  そのカレリアをめぐって、ロシアとの間に度々《たびたび》の争いが行われた。そして、第二次世界大戦にドイツと組んでソ連と戦い、それに敗れたスオミは、賠償としてカレリアの上地をソ連に割譲しなければならなかった。今でもカレリアは、スオミの人々にとって失われた土地なのである。世界的に有名な伝承詩〈カレワラ〉は、その土地からもたらされたものだった。  六月下旬、白夜の季節に、その街では、シベリウス祭という、お祭りがあった。世界の各国からオーケストラや合唱団などが集まって来て、コンサートホールでシベリウスの作品を演奏するのである。その国の生んだ作曲家、シベリウスに寄せるスオミの人々の愛情には、ただ音楽的な共感の範囲をこえた何かが感じられた。シベリウスの作品には、〈カレワフ〉に触発されて書かれたものが多くある。そして、彼のあの音楽に流れる情念の陰には、カレリアへの愛と、悲痛なスオミの宿命に対する重い激情が色濃く流れているのを感じ取る事が出来る。  私たちが、音楽的なスタイルや、官能として受けとめるものの背後には、どんな場合にもそんな何かがひそんでいるのだろう。その〈何か〉とはなんだろう、と、私は小雨の降る緑のシベリウス公園の遊歩道を歩きながら考えていた。  私はその時の感想を、〈霧のカレリア〉という作品の中に描いてみようと試みたことがある。小説としては、主観的な感慨が先に立って、いささかバランスを欠いた作品になったような気がしないでもない。だが、私にとっては、それは忘れ難い作品の一つだ。  オーマンディの指揮するフィラデルフィア管弦楽団の〈トゥオネラの白鳥〉や、〈フィンランディア〉は、私には、いささか明快すぎるような気がする。スオミの国土と人々の持つ、あの重いどろどろしたコンプレックスが、爽《さわ》やかな音の流れの中からどこか脱け落ちているような気がするのだ。  シベリウスを聞くたびに、私は強国に隣接した小国の悲劇性といったようなものを感ぜずにはいられない。  音楽をそんな風に聞くのは正しくない、純枠に芸術的な感興を音として楽しむべきだ、とある友人に言われた。しかし、私は必ずしもそうとは思わない。  芸術的であることが、深く人間的であるということならば、民族の運命と音楽は、必ずどこかで生《なま》の形でつながっていると思うからである。それは、私たちの国のクラシック音楽にも、ジャズにも、グループ・サウンズにも、そして、艶《えん》歌《か》の嘆き節の中にもあるはずだ。最初にもどって言えば、その国の運命は、その国の娘たちの顔にも反映しているといえるだろう。  ところで、私たちの国の娘たちは、スオミの国の女たちより、美しいか、美しくないか。これから、じっくりと彼女らの顔の中に、日本の運命をさぐってみようと思うのだ。 赤線と青線の間に 〈赤線〉という言葉は、いつまで生きのびるであろう。  先日、大学生を相手に、 「新宿のH神社のあたりは昔の青線地帯《・・・・》で——」  と喋《しゃべ》ったら、青線地帯とは何か、と男の学生に質問された。 〈青線〉なる言葉が危機にひんしているとすれば、〈赤線〉の命脈もいずれつきると見ねばなるまい。雑誌社に勤める友人に聞いた話では、ある新入社員は、〈アオセン〉を野天で行うオナニーの事だと信じ込んでいたという。おそらくこれは〈アオカン〉という市《し》井《せい》の卑語から連想したものやも知れぬ。  明治百年よりも、戦後の二十年を大切にしたいと考えている私としては、これら〈赤線〉〈青線〉の記憶もまた大切にしたいものの一つである。  私の学生時代は、まさに赤線末期の数年間と重なっていた。そのため、亡《ほろ》び行く街の最後の光芒《こうぼう》のようなものを、私たちは見たように思う。それは決して先輩諸氏の語られるように、美しくも哀《かな》しいものではなかった。むしろ大変なまなましく、しかも薄汚《うすよご》れた遠景として記憶の底に残っている。  当時、私たちは貧しすぎて一流の赤線地帯には殆《ほとん》ど縁がなかった。二流、ときには三流の古い陰気な街を訪《たず》ねる事が多かった。  それらの取り残された暗い街並みには、それなりの雰《ふん》囲気《いき》が色濃く漂っていて、奇妙にくすんだ楽しみを味わう事が出来た。たとえば、部屋を出て行ったまま一向に帰って来ない女を待ちながら、床の間に投げ出されている古雑誌などを拾い読みするのは、一種低迷した情緒があって面白かった。二流、三流の赤線といえば都心を離れた地域にあるため、それらの雑誌も〈家の光〉とか、〈果樹栽培〉などという類《たぐ》いの本が置いてあったりした。新小岩あたりには、まだ水田が残っており、夏は蛙《かえる》の声がしきりにした。東京都内にも農協の倉庫があるんだな、とびっくりしたのもその頃である。  私をそういった土地に案内してくれたのは、露文科の先輩でTという真面目《まじめ》な青年だった。その人はいつもロシア語の原書を手離さず、立石《たていし》とか北品川などの暗い小部屋で、女を待ちながらシーモノフの〈夜となく昼となく〉だとか、オストロフスキイの〈鋼鉄はいかにきたえられたか〉だとかいった本を読んでいるという話だった。  非常にきちんとした人で、貧乏学生がそのような街に出かける際の心得のようなものを、くり返し私に教えてくれた。 「できるだけ月曜日か火曜あたりに行くんですね。土曜は駄目です。それから月末、労働者達が労賃を支払われた直後はさけたほうがいい。雨降り、風の日、雪の時などはいいが台風の晩は止《や》めること。それから下手《へた》な同情や、ヒューマニズムはいけません。彼女らは自分を商品として扱う男には反撥《はんぱつ》しないが、人間として接しながら、それを買おうという相手には憎《ぞう》悪《お》を覚えるからです」  Tさんは面白い人で、自分はかなりの趣味人でありながら、プロレタリアートを心から尊敬しているふしがあった。後年、一度いっしょに麻雀《マージャン》をした事がある。  大きな手で待っている時に、私の上家《かみちや》がひどく安い手でさっとあがった。 「このどん百姓め!」  と私が怒ったらTさんがニコリともせずに私をたしなめて言った。 「農民と言いなさい。百姓はいけない」  それから私たちの間で、 「この農民め!」  という言い方が流行《はや》ったものだった。  一度やはりTさんと一緒に青線的な場所に行った事があった。そこでTさんは見ただけでズベ公とわかる一人の少女を拾った。いや拾われたといった方が正確かも知れない。  右手の甲に煙草の火を押しつけて焼いたあとがいくつもあり、目のすわり方にただものではない雰囲気がある少女だった。  その晩、Tさんはその少女と一緒に私を残して消えた。次の日、正午ちかくに帰って来たTさんは、私にこんな話をした。  その少女に連れられて、場末の天井の低い宿屋に行った。Tさんはその相手に、少なからぬ警戒心を抱《いだ》いていた。 「いくら要《い》る?」  ときいた時に、 「泊りで二千五百円」  と、その少女は言った。 「いま払ってよ」 「駄目だ。金はここにあるが払うのは明日の朝だ。金だけ持って逃げるのがいるからね」  そしてTさんは金をこっそり脱ぎ捨てた靴下の中に丸めて部屋の隅《すみ》に投げ出しておいた。  ポウの〈盗まれた手紙〉にヒントを得たTさんの戦術である。  翌朝、Tさんが目をさました時、部屋には陽《ひ》がさしていた。隣りに少女の姿はなかった。ふと見ると、靴下が枕元《まくらもと》においてある。その中にTさんは昨夜、虎《とら》の子の五千円札を一枚まるめて突っ込んでおいたのだ。 〈やられた!〉  瞬間そう思ったTさんは、震える手で靴下をまさぐった。すると中から千円札が二枚と百円札が五枚出て来た。  その女の子は五千円をくずして、自分の分を取り、わざわざ二千五百円の釣りをおいて行ったのだった。 「なあ、君、人間というもんは信ずべきもんだと思うよ」  と、Tさんはその話をし終ると首を振って言った。  当時は学生運動や、政治の中に様々な奇怪な事件が続発した時期で、デモの先頭に立ってアジったり火《か》焔《えん》びんを投げたりする学生が警視庁の人間だったり、都学連のリーダーがスパイだったりした時代だった。不信のどす黒い空気が、いたる所にメタンガスのようによどんでいた。  そんな時代の中で、いつの間にか私たちは人間不信を自己防御の姿勢として身につけて来たが、最後のところでそれに徹しきれないままに私は自分の青春を通過したように思う。  いま考えてみると、その最後のところで私が引っかかっていたのは、当時、愛読していたゴーリキイの自伝小説と、Tさんの存在だったように思う。 「なあ、君、人間というもんは信ずべきもんだと思うよ」  と、げっそり精力を消耗した顔で頬《ほお》をなでたTさんの声は、その後、長い間私につきまとっていた。  これまで、私は、人間を信じない部分と、人間を信じる部分とにかけられた一本のロープを渡って生きて来たような気がする。  その一方の岸には、いつもおぼろげながらTさんの顔があった。 「農民といいなさい。百姓はいけない」  と言ったTさんの声と、雨の夜、廊下の足音を気にしながら読んだ〈家の光〉の記事が、私の記憶の底からしばしばよみがえってくる。〈赤線〉も〈青線〉も、それなりに裸の人間の率直なかかわりあいの場であった、と私は思う。今のGOGOを踊る地下クラブにも、やはりそのような何かは存在するのだろうか? 北国のオブローモフ  トキという鳥がいる。朱鷺という字を当てるが、桃花鳥とも呼ぶらしい。翼と尾の一部が淡紅色をおびていて、くちばしが長い。  石川県の能登《のと》に一羽だけ残っているほか、佐渡にわずかに棲息《せいそく》するだけだという。国際保護鳥として大事に保護されているが、やがて絶滅するかも知れぬ。  つい数日前、県で五十万円を投じて残りの一羽を捕えようとした記事が新聞に出ていた。たかが鳥一羽のために五十万円とは、と感じないでもなかったが、それも爆弾やジェット機にくらべれば物の数ではあるまいと考えなおした。  小説に使う必要があって、調べていたのだが、朱鷺という字体が気に入ってタイトルにも使用する事にした。若い人達に、シュロと読まれなければ幸いである。もっとも、私は最初これをアカサギと読んで笑われた記憶があるから、偉そうな事は言えない。  こういう知識がないためのミスとは別に、よく人名や固有名詞を間違って憶《おぼ》えこむくせが、私にはある。  つい先日まで、例の〈星の王子さま〉の作者をテグジュベリ《・・》と思いこんでいた。これをペリだと知って驚きかつ大いにあわてた。  中学生の頃、ベテランを、ベラテンと信じ込んでいて嘲笑《ちょうしょう》された時の恥ずかしさは今も忘れ難い。  田舎《いなか》の方へ行くと、老人達がデバートなどという。ギヤカというのはリヤカーのことだ。  ブロマイドをプロマイドという人には、今もしばしば出くわす。バドミントンはバトミントンの方が本当らしく聞えるから妙だ。  最近さすがにキッチャ店という人は少なくなった。昨年、パリで地図を買い、タクシーに乗って、チャンプ・エリゼーへ行けと言ったら、鳥打帽をかぶった運転手が笑って、 「シャンゼリゼー」  と訂正してくれた。これはひどい。  お互いに外国人同志となると、どうも話がややこしくなる。  たとえば〈あゝ水銀大軟膏《だいなんこう》〉などという、ふざけた小説の題のおかしさは、〈あゝ忠臣大楠公《だいなんこう》〉という文句がパッとだぶって、はじめて生きる。エンツェンスベルガーの〈何よりもだめなドイツ〉が〈世界に冠たるドイツ〉を踏まえて、そのアイロニーが冴《さ》えてくるのと同じだろう。このへんは解説ぬきでは、とてもお互いにわかりっこない。  大阪では、東京でいうアイス・コーヒーのことを〈冷《れい》コーヒー〉と称する。 「アイス・コーヒーをください」 「はい。レイコーですね」  おそらくこれはカウンターの中で使う専門語を、客までが用いるようになったものだろう。 「レイコーふたつ」  などと中年のカップルが言っているのは、慣れるまでは何となく照れくさい風景だ。  レコード業界では、作詩、作曲、編曲家らを総称して〈作家〉という。Cレコード会社のアーチストが熱海《あたみ》に旅行した時、〈C作家クラブ〉と電話で申し込んでおいたら、着いてみると〈Cサッカー・クラブ様〉と大看板が出ていた。 「運動選手にしては余り体格のいい人はおらんね」  と、女中さんらが話し合っていた。  ふり返ってみると、間違いだらけの人生である。どうやらこうやら世の中を渡ってこれたのが不思議な位だ。  小さな言葉のミスから、大きな失敗まで、数えあげればきりがない。  これから先も、またこんな恥をかきながら生きて行くのだろう。それはそれで仕方がない。  夢が人生か、人生が夢か、と首をかしげたくなるような瞬間が、ときどき訪れてくる。外は吹雪《ふぶき》で、家の中も静かで、本も読みたくない。テレビも見たくない。そんな時、うつらうつらとコタツの中に身を横たえていると、頭の中がぼうっと霧がかかったようになってくる。半分眠って、半分目覚《めざ》めている状態のまま、時間が流れて行くのを感じているのは何とも言えぬいい気持だ。 「寝るより楽はなかりけり。浮世の馬鹿が起きて働く」  などと死んだ父親が床に入る時、誰にともなく呟《つぶや》いていたのを思い出す。ロシア文学の流れの中の一つの典型として在《あ》る、オブローモフの魂が乗りうつったのであろうか。電話を毛布でくるみ、コタツの中へ入れておくと、時々、虫の鳴くようなジジッという音がする。悪いとは思うが、いたしかたない。眠りに落ち込んではならず、目が覚めてしまってはいけない。ギリギリの綱渡りのような地点に辛《かろ》うじて意識を支《ささ》えて、うとうとして日を過す。これが果して人間の生活といえるだろうか。気にはなるが、仕方がない。 「走《そう》狗《く》ってのは何だか知ってるか?」  と、家内にきく。 「ソークって?」 「ほら、幕府の走狗、などというだろう」 「ああ、あれね。走る天《てん》狗《ぐ》でしょう」 「天狗?」 「ちがうの?」  走るイヌだと思っていたが、そう真顔できき返されると自信がなくなってくる。 「じゃあ、天狗ってのは何だ」 「天狗は天の……」 「狗《ぐ》かね」 「ええ」 「それじゃ、狗《ぐ》とは何だ?」 「そんな事より屋根の雪でも降ろしてくださいな。縁側のガラス戸が開かなくなってるのよ」  頭《こうべ》をめぐらせば雪はヒヒとして——  漢字というものは、実に便利なものだと思う。疲れている時は、文章の中に漢字の割合が多くなる傾向がある。便利な言葉をつい使いたくなるのだろう。  こんな時には、如何《いか》なる音楽がいいか。それはボサノバに限る。ボサノバは倦怠《けんたい》の音楽なり。中国人民に聞かせたところで、ぜんぜん受けつけないに違いないと思う。私自身も、ふだんはボサノバは苦手だ。どちらかといえばR&Bのほうが性に合う。  日本海波高し。古都ユエは依然として解放戦線の手中にあり。眠ってなどいる時ではない。起き上って顔を洗う。机の前に坐って鉛筆をけずる。  物を書くという事は、一体どういう事なのか? そもそも自分は何ものか?  窓の外で昨年から棲《す》みついている山鳩が、ククウ、ククウと妙な声で鳴いている。仕方がない。立ちあがって、ヤッケを着込み、長《なが》靴《ぐつ》をはいて外へ出る。  チェーンをまいたライトバンが、道路の端で立往生している。空転する後輪から、雪が空中に舞う。 「押しますか」 「すまんの」 「よいしょ」 「駄目やな。ジープにでも引っぱってもらわんなん」 「降りますね」 「昭和三十八年以来やな」 「それじゃ」 「ありがと」  首をすくめながら真白な道を歩いて行く。ひとつ、天徳院へでも行ってみるか。空気は清らかで冷たい。少しずつ目が覚めて来るような感じがあった。 春宵一刻価六千金  東京へ出てくると、ホテルへ泊る。前もって早目に予約しておけばいいのだが、仲々そうはいかないものだ。  ホテルというやつは妙に官僚的なところがあって、日本ではことにそうだ。  シングルの部屋が空《あ》いていない時には、仕方がないのでツインの部屋に入れられる。こんな時、外国ではシングル料金か、又は、割引になる場合が多い。日本ではそうではない。正規のツインの料金を取られてしまうから辛《つら》い。サービス料、税込みで約六千金。  辛いのは金の面だけではない。仕事とはいえ、春宵、独《ひと》りで広い部屋にぼんやり坐っているのは馬鹿馬鹿しいような気がしてくる。隣りに真白なベッドが空いている。勿体《もったい》ないと思うのが男だ。あのベッドには料金が払ってあると考えればなおさら腹が立ってくる。仕方がないので、深夜、ベッドの上に立ち上り、パンツ一枚のあられもない姿で、エイヤッ! とターザンの如き奇声をあげ、ぼいーん、とこっちから空いたベッドへダイビングをするのである。  スプリングがきいていると、落下してまた跳《は》ね上る場合もある。今度は逆に向うのベッドへ、ぼいーん。出来るだけ高く飛び上ってベッドへ落ちれば、バネがキーンとなる音が耳にひびく。エアコンディショナーの非人間的な唸《うな》り。窓外の東京タワーの灯。ぼいーん。ぼいーん、である。  汗をかいて空中を飛行するパンツ一枚の男。一六七センチ、五十五キロ。職業、小説家。ぼいーん。  こういうのをよしなしごと、という。書きつづれば、あやしうこそものぐるほしけれ。  ツインの部屋でも空いている時はいい。今日は、東京中のホテルから断わられた。いつも顔見知りのフロント氏が、気の毒そうに、 「この一、二週間は全く駄目なんでございます。本当に相済みません」 「ダブルでもいいんですが」 「それもないんでございます。申し訳ない」 「国際的な会議でもあるんですか。それとも万博か何か——」 「万博はまだ先でございます」 「観光シーズンには早いし——」 「いえそれが——」  と、クローク氏も、ふっと言いよどんで苦笑しながら、 「受験シーズンなんでございます……」 「…………」  とっさに私はわからなかった。それを見てとって、彼曰《いわ》く、 「地方から大学受験の高校生のお客様で都内中のホテルがふさがりました」 「なるほど——」  しかし、げせないところもある。 「受験生でねえ。だけど、受験生がダブルやツインというのは、どういうんです。まさかクラスメイトの女友達と一緒なんて事じゃないでしょう」 「ええ、お母さまと御一緒の方や、ごきょうだいと御一緒の方も多いもんですから」  なるほど、小生は地方に住んでいて都会の事情にうといと自己批判した次第だ。ダブルの部屋にお母様と受験生が一緒にお泊りになって、深夜はげましあってるの図なんてものは、まず珍なる風景と申せましょう。独り、ぼいーん、なんてのは時代おくれなのである。  ひるがえって私たちの受験の頃は、と考える。  この発想が、まずいけないと再度自己批判した。自分の若い時代をふり返って、現在を批判するのはステレオタイプだ。現在は現在、過去は過去、と、バーのホステスがヒモ氏に説教してるのに出会った事がある。 「おれたちの若い頃はこうだった」  などというのはナンセンスだ。私などは九州の高校だが、雨の日は、往復二里以上の道を裸足《はだし》で歩くのが当然だと思っていた。天気のいい日は、タカボクリという厚歯の下駄で通った。だから今の高校生に、ハダシになれなどとは言えない。  だが個人的な感慨というやつは、憲法で保証されている個人の自由だ。個人的感慨を言えば、大東京を見おろすマンモスホテルのダブルの部屋に泊るような受験生たちを、私は嫌《きら》いだ。  ホテルが結局安上りだという説もある。だが、合理、非合理は別として、好きではない。これは個人的感慨であり、私の勝手である。  日本には本当の市民のためのホテルがないと私はかねてから文句を言って来た。今の日本なら、一泊二千円以下の部屋のホテルが、東京には無数にあってしかるべきだ。原稿を書いたり、仮眠を取ったりするためなら、一坪の部屋で充分だ。しかるに現在、私の部屋はドアの入口の所から奥の机の所まで歩いているうちに日が暮れるかと心配になる。  受験生たちがどこに泊ろうが、勝手だが、恐らく東京の大学へ息子《むすこ》をやるために、入学金を、恩給証書を高利貸に渡して工面し、友人縁者の間を恥をしのんで金を借り歩いた親がないとはいえないのではないか。国立であろうと私立であろうと、東京へ出て来て受験のためには相当の金はかかるはずだ。私は思う。どんな受験生が私は好きか。  それは数枚の一万円札を用意するために、見栄《みえ》も恥も捨てて駆け回った父親の涙を知っていて、あえて上昇志向を心に抱《いだ》き大学へ進もうとする青年であり、自分が家庭を犠牲にし、兄弟の前途をふさいで、彼らの絶望の上に自分の希望を打ち立てようとしている事を痛いほど知っている高校生が好きだ。  九州出身者なら、九州から鈍行を乗りつぎ、参考書を枕に通路でごろ寝しつつ悠々《ゆうゆう》上京してくるような受験生が好きだ。東京の宿が高いと思えば、新宿あたりのフーテンと共に街に眠ってデパートの便所を使い、大学の池で顔を洗って試験場へのぞむような高校生が好きだ。場合によったら、ジャズ喫茶か何かで金持の遊び人女子学生でも引っかけ、相手の車でも貸してもらって、その中で寝るような若者が好きだ。新宿旭町《あさひちょう》付近でも、どこでも一泊二百円のベッドハウスぐらいびくともしない受験生が好きだ。  そんな事を先日、喋《しゃべ》ったら、一人の学生が、 「おれは山《さん》谷《や》あたりのベッドハウスで原稿を書く作家が好きだ」  と言った。なるほど、ツインの部屋に一人で泊って、空中飛行などしている作家が、他人の事を好きの嫌いのと、言えた義理ではない。もうやめよう。おれはおれ、彼らは彼らである。自分は若者を理解する、青年に関心がある、彼らの世代を支持する、などと言う中年男や老人は私も嫌いだ。世代とは他の世代に対する敵対者である。われわれは芽むしり仔《こ》撃ち、他の上下の世代を食い殺すべきであり、若い世代は、われわれ昭和ヒトケタ派を打倒し、追放するためにがんばらねばならぬ。ゆめ仲良くすべきではあるまい。私の高校時代に、最も思い出深いのは、校舎の裏で決闘を行なって勝敗決せざる不良少年の一人であった。仲の良かった友達の事などもう忘れてしまっている。人生とはそんなものだ。  疲れて深夜、ホテルのスナックへ行ったら女子高校生らしい二、三人が、受験参考書を椅子において煙草をふかしながら、ジンリッキーなどを召し上っているのにぶつかった。  あれも青春、これも青春。  春宵一刻価六千金。ダブルの部屋で共に進学の夢安らかな母子もあろうし、空を飛ぶ作家も、ジンリッキーで目元を染めた女子高校生もある。人生はまことにさまざまだ。 スポーツの戦後史  野球の事を書こうと思う。自慢の出来るような球歴は全くないが、野球は好きだった。だった、というのは、最近、野球が余り面白くなくなって来たからである。  私がはじめてグラブを持ったのは、半島から九州に引揚げて来て二年ほどたった頃だった。  当時、私の住んでいた地方では、少年野球という奴《やつ》が全盛期で、私もその一員に参加したわけである。  アメリカから何とか言う神父がやって来て、 「野球をやる少年に不良はいない」  などと無責任な事を言っていた時代である。  だが、その宣教師の言葉が嘘《うそ》である事は、私たち少年の全員が知っていた、と思う。私たちは、その神父の白々しい言葉に激しい恥ずかしさを覚えずにはいられなかった。  なぜならば、私たちの周囲で野球のリーダーたちは、ほとんど不良であるか、または不良がかった少年ばかりだったからだ。こんな事を書くと、おれは不良じゃない野球少年だった、と抗議が出るかも知れない。それは確かに真面目《まじめ》な野球少年や、野球部員も少なくなかっただろう。しかし、野球の花形選手やボスが、少年達の日常でも、やはりボスである場合が多かった事は否定出来まい。  最初、私は皮のグラブを買う事が出来なかった。そこで、私は頭をひねって、軍用のキャンバスを大きな掌《てのひら》の形に切り、それをぬいぐるみにして布製の自家用グラブを作りあげた。形こそ悪かったが、それで結構キャッチボールの役には立った。  夕暮れの山際《やまぎわ》の平地で、バシッ、バシッと掌にボールの衝撃を感じながらキャッチボールをするのは、爽《さわ》やかな気分だった。当時、野球とアメリカと民主主義は、三《さん》位《み》一体《いったい》のごとき印象で私たちの周囲に充満していた。  やがて、村内の少年野球大会に左翼手として出場した私は、決勝の一点を相手方に献ずる大失策をやらかし、自分の才能にかすかな疑問を抱《いだ》く事になった。当時の少年野球では、声を出す、というのが一つの熱意の証拠であり、特に外野手は守備についている間中、何か怒鳴り続けなければならない。私はそれが苦手だった。そこで、投手の練習をはじめた。  高校に入ると、野球部員と、他のアマチュアとの間に一線が引かれる。最初の年、クラス対抗で投手としてデビューした私は、間もなく下手投げの変則投法がわざわいして肩をいため、毎回ノックアウトを食ってメンバーから外《はず》される事となった。それが野球との別れだった。だが、あのピシッと掌に吸いつくボールの感触、ストライクを見《み》逃《のが》した際の苦い後悔、走者としてセカンドをうかがう心のふるえ、などは、永く私の記憶に残った。  早稲田にはいって、バイトの間に神宮に通った。当時は、広岡、小森、荒川、沼沢、岩本、石井、宮崎、などという選手が早稲田におり、ひどく彼らは大人《おとな》だったような印象が深い。立教の小島、慶応の多胡《たこ》、山本などという選手が活躍した時期で、秋山、土井、近藤など明治勢力も人気を集めていた頃だ。小柄なセカンド宮崎が卒業の年の早慶戦で大活躍したり、なにせ面白い時代だった。  私の関心はやがてプロ野球に移った。以前、西日本パイレーツといった時代からの西鉄ファンだった私は、長い間、西鉄を応援し続けてきた。考えてみると、当時は西鉄の全盛時代であり、早稲田、西鉄とも、景気のいい側だけを私は好きになってきたような気もする。弱小球団に肩入れするのが本当のファンかも知れないが、私は弱い早稲田チームなどというものに関心はなかった。  やがて、いつの間にかプロ野球にも飽きて来た。といっても、代りに高校野球を見ようという気もおきなかった。  いつの間にか、野球が遠いところへ行ってしまったような気がしていた。  先日、ある男性週刊誌の編集長から、近頃の若い読者が、野球にほとんど関心がなくなったらしい、という話を聞いた。 「野球ってのはカッコわるーい、と言うんです、連中は」  と、その人は言った。 「なぜでしょうね」  私はその時、こんな説明をした。 「今の三十代の男までは、誰でも一度はキャッチボールをやった事があるでしょう。あれが最近はなくなったからじゃないでしょうか」  私は野球を見ながら、自分の記憶の中から一つの追体験を行なっていると思う事があった。つまり、選手の一挙手一投足に、自分の過去を重ねて共にプレイしていると感じる事がある。ライナーを横っ飛びに捕球する野手の掌にピシッと来る衝撃を私は自分のものとしてスタンドで味わっているのである。バッターボックスに立った時の不安と動揺、強打者に対面した時の投手の心境、外野でぼんやりと打球をみつめる孤独感、そのようなものが、私たち観客の側に重ね合わされた体験として感じられる時、はじめて野球はひとつの主体的な行為となるのだろう。 「だから、スタンドでぼくらは単に見てるだけじゃない。感覚的にゲームに参加してるんです。だから野球は面白いんでしょう」 「そうですね」  と、相手は言った。 「そういえば、ぼくも少年時代に野球らしきものをやった事がある。ほとんどの少年は戦後の一時期、キャッチボール位はやったはずだ。だけど、今の若い連中はそうじゃない」 「アメリカと民主主義と野球ですよ」  と、私は言った。 「この三つがきり離し難く結びついていた時代にぼくらは少年期を過した。だから野球が面白いんだ。しかし今は——」 「一度もボールを握った事のない青年が多くなって来ましたね」 「そこでは、野球は完全な見るだけのスポーツショウになる。だからつまらないんでしょう」 「じゃあ、今の若いもん全員にキャッチボールをやらせりゃいいわけですな」 「さあ」  野球の将来について、私は何とも言えない。だが、次第次第に少年たちが自由にキャッチボールをする場所が少なくなって来たような気がする。勿論《もちろん》、高校野球や大学の野球も盛大に続くだろう。だが、昔のように、少年皆野球といった風潮はなくなり、野球部に入って専門的に野球をやる少年と、そうでない全くボールをにぎった事のない少年とのグループが、はっきり分れてくるのではないか、という気がする。  大学へ進んてエリートになる連中は、専門的に勉強する。野球をやる少年は、部にはいって専門として野球をやる。そんな時代になって来たのではないか。  戦後の一時期はそうではなかった。優等生も、不良も、好きな少年は誰もが野球をやった。その機会があり、その場所があった。  今はそうではない。野球の観客がへるというのは、野球をやる人間がへったということではないか。ただ見るだけのゲームなら、野球よりも更にスピードがあり、ドラマチックなゲームがあるかも知れない。野球は私たちにとって、単なるゲーム、またはスポーツではなかった。それは、戦後、という時代そのものではなかったか。  男性週刊誌の若い読者が、野球記事に関心を持たないというのは、一つの時代が終ったというような感慨がある。野球が終ったというのではない。私たち当時の少年たちを捕えた、あの時代そのものが終ったといえるかも知れない。  スポーツに政治や社会の影を見るのは邪道だろう。だが、そういうものと切り離したスポーツや芸術があると思うのも、また錯覚だ。今の少年たちは、果して何を自分たちの時代のスポーツとして選び取るであろうか。 果てしなきさすらい  最初、三カ月の予定で書き始めたこの勝手な文章も、ようやく五十回を迎えた。およそ一年ちかくになる。この辺で一応、最終回という事にしたい。  スタートしたのは、私がN賞をもらってから間もなくの頃だったと思う。ちょうど自分がプロとして物書きの道に踏み込んだ時期だ。その意味で、この〈風に吹かれて〉を書き続けてきた一年は、私のプロ小説家生活の一年と重なりあう、まことに印象がふかい一年でもあった。  恐らく私の人生の内でも、最も激しく、あわただしい季節だったと言えるだろう。この一年間、私は自分なりに全力をつくしてマスコミの潮流の中を泳ぎ抜こうと努力して来た。  はたから見れば、おそらくそれは荒海に放り出された人間の、必死のあがきとしか見えなかっただろうと思う。私はそこで、これまでに考えてもみなかった様々な体験を数多く持った。どれも企業としてのジャーナリズムの利害と、人間としてのジャーナリストの哀歓につながる、虚実のドラマだったと言える。  それは一人の無名の人間が、世の中に出て、外部と内部の誤差をはかりながら次第に最初の目的地からそれつつ動いて行く、ありふれた過程なのかも知れない。  私には私なりの航海図も、羅《ら》針盤《しんばん》も有った。それにしたがって、目的地への最短距離を泳ぎ抜くつもりだった。だが、荒れ狂う深夜の海に放り出された時、私はそれまでの計画の何もかもが全く役に立たないものである事を発見したのだった。  風は激しく西へ、時には東へ吹き荒れていた。ジャーナリズムの奈《な》落《らく》は、大きな口を開けて獲物を待っていた。板子一枚下は地獄、とは現代のマスコミの事だ。前に人を使う側にいて、その世界の裏方をつとめた事もあるだけに、それがある程度はわかっていた。私が東京へ移転せず、北陸に居すわったままだったのは、そういった世界への怖《おそ》れが私を躊《ちゅう》躇《ちょ》させていたからである。一言で言えば、私はまだ逃げ腰だったのだ。  一度、その世界から抜け出して、別な人生を選びかけた時点で、私は再びその世界へ引きもどされたのだった。もし、うまくやれなければ、いつでも最初の目的通り地方でマスコミに無縁な人間として生きて行く積りだった。  その気持は今でもある。だが、すでに私の住んでいる土地も、マスコミとは無縁な場所ではあり得なくなっている。逃げる所はどこにもない、というのが最近の私の心境だ。  金沢はとても気に入った土地だった。東京から帰って来ると、ほっとする感じがある。だが、以前は私という人間にとって、この古い街は一種の敵だったともいえる。この街において、私はまぎれもない異邦人であり、よ《・》そもん《・・・》として遇されていた。そして、私はそれが嫌《きら》いではなかった。  私は朝鮮半島において、よそものとして少年時代を過し、九州に引揚げて来てからは、外地からやって来た余計者として扱われて来た。当時の日本にとって、外地から体一つで帰って来た引揚者たちは、まぎれもない厄介者であったわけである。故郷は私たちに取って異国も同じだった。そこでは、むしろ追放されて来た外地の山河の方が、私の郷愁をそそるのだった。   ——今日も暮れ行く 異国の丘で  という、あの流行歌を、私はむしろ自分のその当時の立場に引きよせて聞いたものである。その時の私にとって、異国とはハバロフスクでもナホトカでもなく、日本列島であり九州であったと言っていい。  青年に達して東京へ出て来た私は、そこでようやくそのような違和感からまぬがれる事が出来たように思う。東京とは大いなる植民地であり、そこは異邦人同志の街だったからである。  私はその時から、東京でおよそ十五年間を過した。奇妙な生活だったが、それはやはり東京以外のどの都市でもあり得なかった生活だったような気がする。  数年前に東京から金沢へ住所を移した。そして、きわめて強い異邦人意識を抱《いだ》きながらこの街で暮して来た。前に何度も書いた事があるが、それは一種の〈城〉の世界だった。  私はそれまでの異邦人生活から、他国者の取るべき最良の処世術を身につけていた。それは、〈城〉の内部へ性急に入りこもうとしてはいけない、という事だった。また、力づくで〈城〉を攻める事も不可能であり、さらに一番いけないのは卑屈に〈城〉へ入れてくれるように懇願する事だった。  そこでは、ただ待つことが大事なことだと思う。無関心をよそおって、自分に向けられる視線を黙ってうけること。そして自分を人々の目の下にさらして、じっとしていればいいのだった。  そのうちに、彼らはその異邦人が少しずつ風化し、その土地になじんで来るのを認めるにちがいなかった。或《あ》る日、突然、何気なく通りかかった城の門が、わずかに開かれているのを私は見た。  私がその門から中へ入って行く事を、誰もとがめなかった。いつの間にか、私はその城の支配する国に同化してしまっている自分を発見するのだ。  現在の私の状態は、ほぼそんなところである。しかし、私は自分を忠実な〈城〉の国の市民のようには考えたくなかった。私はやはり、隠密《おんみつ》の魂を心のどこかに残しておきたかった。  最近、私は私の前に開かれた城門をくぐる事を意識的にさけるようになって来た。やはり異邦人の自分の方が自分らしい、と思うようになったのである。  私は金沢に住み、一月に一週間から十日ほど上京して仕事をする。東京へ来る度《たび》に、全《すべ》てのものが生き生きと新鮮に目に映る。そして、もみくしゃにされて金沢へ帰ると、ここはまた静かで、とてもいい所だ。だが、はたしてこれでいいのだろうか、という気持が日増しに色濃く私の中に拡《ひろ》がって来るようである。  私はやはり基地を失ったジェット機でありたいと思う。港を持たぬヨット、故郷を失った根なし草でありたいと感じる。逃げ場を持っている人生というものが、果して人間にふさわしいものかどうか、私は疑うのだ。いつかはこの土地を出て行かねばなるまい、と私は今、思うようになった。金沢という閉鎖的な土地が、私をうけ入れてくれた時に、私は異邦人でも、うさん臭い存在でもなくなっている。私とて人並み以上の名声や栄光へのあこがれはある。しかし、その反対のものへ傾斜するひねくれた心情もまだ失ってはいない。  金沢というかたくなな〈城〉が、私を公認《・・》してくれた時、私はこの土地に住む一種の張りのようなものを失ったように感じる。いずれ私は風に吹かれて再び別な街へ漂流することになるのだろう。  この四月は南太平洋の島々をヨットで回る予定だった。出来ればボラボラ島周辺の無人島で海と風と太陽だけの孤独な一週間を独《ひと》りで過すつもりでいた。だが、先発したパイオニア号が不運にも太平洋でSOSを出し、引き返す事となった。艇長の天尾君は輝かしい記録をひっそりと自分だけの胸にひそめて、黙々と海との対話を続ける優《すぐ》れたヨットマンである。私は彼の指揮下に一艇員として加わり、マルケサス群島からフィジー諸島への航海を夢にまで見ていただけに、残念でならない。天尾君らはいずれ再び果てしない航海へ出発するに違いない。私もまた風に吹かれてどこまでも漂い続けて行くだろう。  この文章を書き続ける事は、私にとって苦しくも実に充実した経験だった。ながながと拙《つたな》い仕事を支持して下さった読者の方々ならびにこれを書かせて下さった編集部のスタッフに、心から感謝したいと思う。 解説  『真夏の夜のジャズ』という映画で、セロニアス・モンクが鍵盤《けんばん》の上にかがみこんでいるシーンに、かれは失われた音をさがし求めて弾《ひ》き続けているのだ、といった意味のナレーションがあったように記憶する。このエッセイ集を読みかえしていて、その言葉をおもいだしたのは、五木寛之氏もまた、失われた時を求め続けているようにおもわれたからだ。たとえば〈赤線〉について、氏は次のように書く。 ——それはすでに滅びてしまった祭りの笛太鼓だ。それを復活させようとは思わない。失われたものは、二度と返ってこない。それが本当なのだ。  それが本当なのだ……と、強く念を押している。注意深い読者ならおそらく見落さないであろうけれども、この一見懐旧的ともおもえるような連作エッセイの基調低音は、過去に対する反撥《はんぱつ》であって、そのことは、「かつて、ある批評家が『過去を語らぬ』というスタンダールのモットーを信条としている、と書いているのを読み、感動したことがあった。私も、自分の過去を語りたくはない」「自分の青少年期を、まるごと全体としてふり返ってみるとひどく怖《こわ》い気がする。もう一度、あの頃に帰ってみたいなどとは、金輪際《こんりんざい》おもわない」「自分の歩いて来た道を振り返ってみる度《たび》に、私は冷汗が出る。あの若い時代にもどってみたいなどとは、二度と思わない」といったふうに、強い否定形でくりかえし反復されている。だが、そういいながらも、作者の意識は、まるで魅入られたように〈過去〉へ向って行く。自分の過去に対するこうした反撥と執着の相剋《そうこく》は、多分だれの胸底にもあるものには違いないが、その裂け目の深さに、作家五木寛之氏の秘密がかくされているような感じがする。  反撥しながらも過去へ向う理由を、作者はこう書いている。「私の歌はどこへ行ったか? それを探すために、過去をふり返ってみるのも悪くはあるまい」。この〈歌〉は、すでに失われてしまったなにものか《・・・・・》の象徴にちがいない。が、その章で書かれた通りにまず音楽として考えると、これまで氏がいちばん関心を示している歌は、艶《えん》歌《か》とジャズである。だが、五木氏が艶歌の絶対的な信奉者であるとはおもえない。というのは、初期の代表作のひとつである『艶歌』のなかで、対立している主人公の津上と高円寺の二人に、ともに作者の分身を感じるからである。艶歌を聞くと、嫌《けん》悪《お》感《かん》を覚えてぞっとするという津上に、「あんたは、ほんとうは流行歌が好きなんだ。しんから好きなんだよ。ぞっとするんじゃない。ぞくぞくするんだ。あんたの中の日本人の血が、あのメロディーに騒ぐんだ。そいつをあんたの知性とやらが、押えつけようとする。その混乱で鳥肌《とりはだ》がたつんだ」と、高円寺はいう。(この言葉は、くだくだしい心理描写よりも主人公の生理と論理を重視する五木氏の小説の特質をも物語っており、氏がハードボイルドなタッチのアクション・ドラマの名手である理由もそこにあるのだが)『艶歌』のなかで対立しているのは、実は津上の生理と論理なのである。前近代的な艶歌を論理的に否定しようとして、自分の生理の底に下降して行った津上は、そこでどうしても否定しきれない暗い情念のマグマに突き当る。この小説で作者が試みたものは、いわば生理の論理化であり、論理の生理化であった。そして、この津上と艶歌の関係は、作者と〈過去〉の関係にも通じているようにおもわれるのだ。  五木氏の主人公はいつも〈旅〉をしている。その旅は、ソ連やヨーロッパの各国へ向う地理的な旅行でもあるが、また歴史を遡《そ》行《こう》する時間旅行《タイム・トラベル》でもあって、この『風に吹かれて』も、そうした異なった時間と空間への旅行記である。インターナショナルな〈歌〉をさがしに出たその旅のなかで、作者はたえず民謡やユパンキなどの民族的な歌に心をひかれている。おそらく海外の旅で得たものは、世界は民族と風土に応じて多様だが、しかしその底にはなにか通じているものがある……という生理的な実感だったのであろう。それを確かめるために、旅は民族の根もとにある過去へ溯《さかのぼ》って行く。まえにいった〈生理の論理化〉は、この場合、ナショナルなもののインターナショナル化であるといってもいい。そして、前記の小説の一登場人物は「艶歌は、未組織プロレタリアートのインターなんだよ。(中略)日本人のブルースかも知れん」といい、ポルトガルを舞台にした『暗いはしけ』の主人公は、「ファドの本質は何だ。それはサウダーデスと呼ばれる感情だ。それは黒人におけるブルースと同じ意味を持っている」という。作者のイメージのなかで、艶歌(やファド)とジャズは、地底の情念のマグマにおいて通じているのである。  ジャズの核心にあるスイングについて、『青年は荒野をめざす』に出てくる老“プロフェッサー”はこういっている。「スイングとは何か。それはアンビバレンツの美学である。アンビバレンツ、つまり二つの対立する感情が同時に緊張を保って感覚されるような状態の中で、激しく燃焼する生命力がスイングだ。愛と憎《ぞう》悪《お》、絶望と希望、転落感と高揚感、瞬間と永遠、記憶と幻想、それらがスパークする所にスイングが生れる——」。この言葉は、そのまま五木氏の小説の魅力を解き明かしているようにおもわれる。巨大なジェット・コースターに乗ったときに味わうような落差の大きい転落感とそれに先立つ高揚感、いま見たとおもった青空が一瞬のうちに地表にたたきつけられるような感覚は、氏の熱心な読者にとってすでになじみ深いものだろう。このジェット・コースター上の〈白日夢〉のなかでは、いま見たばかりの青空が、たしかな記憶のようにも、あるいはつかのまの幻想であったようにもおもえ、希望のようにも、または絶望の象徴であるようにもおもえる。大衆社会という巨大なジェット・コースターに乗っているわれわれにとって、それはまことに身近な感覚であり、その意味ですこぶる現代的な感覚だといえる。氏の小説の魅力をつくり出している劇的な構成と、切れ味のいい文体は、ともにそうした現代の感覚から生れている。  かつて、五木氏のいう「幼稚な愛国的小国民」であった世代には、戦後も、アメリカン・デモクラシーや、ソ連の革命を素朴に信じた一時期があったようにおもう。だが、いまや世界の多極化はだれの目にもはっきりして、単一の絶対的な原理を信ずることは難かしい。そこで、強い不安に駆られながらも、その宙ぶらりんの状態に静止しそうになるのだが、そうした安定を肯《がえ》んじようとしない五木氏の主人公たちは、たとえばインターナショナリズムとナショナリズム、土着と近代、ロマンチシズムとリアリズム……といったふうに、二つの原理が劇的に対立している作品世界のなかで時計の振子のように揺れながら行動し、短いセンテンスでその行動を追う文体は、文字通りスイングして、ジャズの即興演奏を聞くような高揚感を読む者にもたらすのである。スイングというのは、演奏のあいだに感じられる〈自由〉の感覚であるのかもしれない。また、その二つの極に引き裂かれた深い谷間から、ときに陽《ひ》の当らない場所に生きている大衆の情念や、(作者がきらっているはずの)青春への感傷が水のように溢《あふ》れ出すことがあり、五木氏の作品が知的に組み立てられていながら、読む者の情感をよびおこす理由も、そのあたりにあるようにおもわれる。  このエッセイ集のなかで、氏は学生時代に通った喫茶店Cや酒場Rがあった中野の街の一角を回想して、そこは〈自由の天地〉であった、と書いている。だが、貧しく、いつも食物と異性に餓《う》えていて、紅茶代やウイスキー代の三十円を手の中に汗ばむほど握りしめていたそのころ、作者は果してほんとうに〈自由〉を実感していたであろうか。もしそうだとすれば、「もう一度、あの頃に帰ってみたいなどとは、金輪際おもわない」というはずはない。この青春のイメージもまた、作者のたしかな記憶のようにも、あるいは幻想のようにもおもえる。が、疑えないのは、五木氏がたえず自由を求めて異なった空間と時間への旅を試みているということだ。セロニアス・モンクがさがし続けている失われた音も、祖先が暮していたアフリカの〈自由の天地〉の記憶であり幻想であるのかもしれない。とすると、〈すでに失われたもの〉は〈まだ獲得していないもの〉の別名だということになる……。  アメリカの黒人が、かつて故郷アフリカから根こぎにされたように、五木氏も幼少年期をすごした外地から引揚げてきた。が、黒人の場合とちがうのは、その〈ふるさと〉が旧大日本帝国の植民地であって、郷愁とともに、罪の意識をともなわずにはおもいだすことのできない場所だという点にある。過去に対する作者の根深い反撥と執着の相剋は、まずここから生れている。氏の小説の主人公には、過去に傷を負った人物が多い。暗い眼をして自分の〈傷〉に固執しているかれらの意識は、しばしば二度とおもいだしたくない過去のなかへ引きもどされる。が、見のがせないのは、『内灘《うちなだ》夫人』に示されているように、その傷の痛みが、主人公に新しい旅への出発をもうながしていることだ。五木氏においても、〈失われた時〉は〈まだ獲得していない時〉の別名なのである。  氏の主人公たちは、青春の一時期にふとかいま見た〈幻〉を求めて旅に出る。そして、その旅のほとんどは、壮大な幻影の城が一瞬にして崩れ落ち、燦爛《さんらん》と砕け散るような破局《カタストロフィ》に遭遇する。あるいは作者は、自分のさがし求めているものが現実には手に入らず、旅が結局は徒労に終るであろうことを感じとっているのかもしれない。が、そうした幻滅を予感しながらも、さらに旅を続けていくことが、五木氏の書くことであり、生きることであろうとおもうのである。   昭和四十七年一月 長部日出雄