TITLE : 西方の音    西方の音  五味 康祐 目 次 1 シュワンのカタログ 2 協奏曲 3 ピアノ・ソナタ作品一〇九 4 ペレアスとメリザンド 5 バルトーク 6 不運なタンノイ 7 タンノイについて 8 少年モーツァルト 9 ハンガリー舞曲 10 セレナード『ハフナー』 11 カラヤン 12 ワグナー 13 シベリウス 14 ラヴェルとドビュッシー 15 米楽壇とオーディオ 16 死と音楽 17 映画『ドン・ジョヴァンニ』 18 トランジスター・アンプ 19 わがタンノイの歴史 20 ドイツ・オペラの音 21 大阪のバイロイト祭り 22 ペンデレツキの『ルカ受難曲』 23 日本のベートーヴェン   あとがき 西方の音 1 シュワンのカタログ  シュワン(Schwan)のカタログというのは大変よくできていて、音楽は、常にバッハにはじまることを私達に示す。ベートーヴェンがバッハに先んずることはけっしてなく、そのベートーヴェンをブラームスは越え得ない。シュワンのカタログを繙《ひもと》けば分るが、ベートーヴェンとヘンデル、ハイドンの間にショパンと、しいて言えばドビュッシー、フォーレがあり、しばらくして群小音楽に超越したモーツァルトにめぐり会う。ほぼこれが(モーツァルトが)カタログの中央に位置するピークであり、モーツァルトのあとは、シューベルト、チャイコフスキーからビバルディを経てワグナーでとどめを刺す。音楽史一巻はおわるのである。  こういう見方は大へん大雑把で自分勝手なようだが、私にはそう思えてならぬ。今少し細分について言えば、ラフマニノフはプロコフィエフを越え得ないし、シューマンはひっきょうシューベルトの後塵を拝すべきだとシュワンはきめているように私には思える。  ことわるまでもないが、シュワンのカタログは単にアルファベット順に作曲家をならべてあるにすぎない。しかしバッハにはじまりワグナーで終るこの配列は、偶然にしてもできすぎだと私は思うのだ。いつもそうだ。月々、レコードの新譜で何が出たかをしらべるとき、まずバッハのそれを見ることをカタログは要求する。バッハに目を通してから、ベートーヴェンの欄へ入るのである。これは何者の知恵なのか。アイウエオ順で言えば、さしずめ、日本は天照大神で始まるようなものなのか。高見順氏だったと思うが、人生でも常に辞書は「アイ」(愛)に始まり「ヲンナ」でおわると冗談を言われていたことがある。うまくできすぎているので、冗談にせざるをえないのが詩人のはにかみというものだろうが、そういう巧みを人生上の知恵と受け取れば、羞恥の余地はあるまい。バッハではじまりワグナーでおわることを、音楽愛好家はカタログをひもとくたびに繰り返し教えられる。  素直に、このカタログのランクに従えば、ラヴェルはラモーを待たねばならない。アルバン・ベルクはシェーンベルクに先行し、そのベルクの前に君臨しているのはバルトークなのである。  誰でもそうだろうと思う、クラシックに主たる関心を寄せるレコード愛好家は、ヘンデル、ハイドンをほとんど同期の音楽家とみなすだろう、ハイドンからはすぐモーツァルトに心は移ってゆくだろうと思う。現代音楽に関心すれば、ベルクとバルトークは踵《きびす》を接して並んでいる。しかも芸格でハイドンはヘンデルに先んじえず、ベルクはバルトークを待たねばならぬこの序列を、かりそめごととは私には思えないのだ。  ヘンデルがハイドンより百年早く生れていることなど、この序列に対してなにほどの意味もない。バッハが巻頭に位するのも生れた年月とは関係あるまい。あくまでABC順である。それでいてJ. S. BACHはBARTKに後れることはあり得ない。カタログが不思議な叡知でそれをわれわれに示している。  レコードを聴けないなら、日々、好きな茶を飲めなくなったよりも苦痛だろうと思えた時期が私にはあった。パンなくして人は生きる能わずというが、嗜好品——たとえば煙草のないのと、めしの食えぬ空腹感と、予感の上でどちらが苦痛かといえば、煙草のないことなのを私は戦場で体験している。めしが食えない——つまり空腹感というのは苦痛には結びつかない。吸いたい煙草のない飢渇は、精神的にあきらかに苦痛を感じさせる。私は陸軍二等兵として中支、南支の第一線で苦力《クーリー》なみに酷使されたが、農民の逃げたあとの民家に踏み込んで、まず、必死に探したのは米ではなく煙草だった。自分ながらこの行為におどろきながら私は煙草を求めた。人は、パンをまず欲するというのは嘘だ。戦場だからいつ死ぬかも分らない、したがって米への欲求はそれほどの必然性をもたなかったから、というなら、煙草への欲求もそうあるべきはずである。ところが死物狂いで私は煙草を求めたのである。  この体験があるので、貧乏生活の中でも私はレコードを買うことに傲慢さをつらぬいた。おもに女房に対する傲慢さでしかなかったが、夫婦生活で、家計に苦しむ妻へ傲慢になれるなら男として十分だろう。それでも、金というやつは使いたくともないとなれば鐚《びた》一文ないのが普通だから、常にレコードが買えるとは限らない。  そこで三日聴けないなら死んだ方がましだという大袈裟な詠嘆になる。べつに死にもせず今もって生きているから大袈裟なと言っているまでで、当時は本気だった。妻はこの詠嘆の方が、どんな貧困よりも脅威だったと言っている。むろん私の立場で言えばああレコードが聴きたい、と怒鳴り散らせば気の済むものではなく、言い知れぬ寂寥感があとに残る。  そこでシュワンのカタログを取り出し、侘しさを紛らせるため一ページ一ページ、丹念にながめることで自分を慰める習慣がついた。昭和二十七、八年にかけてだから、今ほど多量にLPは出ていない。好きな曲と演奏の盤は、そのレコード番号まで諳《そら》んじるようになった。どの社のどのレコード番号は何番だから、この程度の録音だと、ほぼそのレコードのもつ弦やピアノの音質の密度まで見当がついた。  私に、音楽学生としての時代を区切るなら、この時期だろうか。文学青年として、青春と呼べるものを剣豪小説を書く頃まで私は保っていたと思うが、無名の文学者としてみずからに満たしえぬものを、音楽は満たしてくれた。主としてS氏の書斎で聴かせてもらった一曲一曲が、沁みとおるように私の内面で未だ形を成さぬものを潤し、啓発し、発芽させた。聴きたいものなら自由に購入でき、おそらくは再生装置が鳴らしうる最高の音質で、今はそれを聴くことができている。しかし、バスタオルがふるえるのに三十サイクルが鳴ったぞと随喜した当時に比べ、今は音楽的により良い鑑賞をしているとは限らない。むしろ当時の方がはるかにまっとうで、こういうのが許されるなら純粋な聴き方を知っていたように思う。  シュワンのカタログで、たとえばバッハのヴァイオリン協奏曲第二番のレコードは米国盤でたしか三枚あった。中でブッシュの弾いたのがアメリカ・コロムビアで発売されたLP最初の盤である。ステレオに馴染んだ今日の耳では、罐詰音楽としか言いようがないが、当時、他盤にぬきんでた名盤だった。ハイフェッツ、フランチェスカッティ、オイストラッフと次第に好録音でこのレコードは出されたが、バッハのホ長調のヴァイオリン協奏曲といわれて、私の胸内ですぐ鳴り出すのはブッシュの音である。押入に仕組んだプレイヤーで聴いたブッシュである。好きなところは特にボリュームを高くして鳴る。第一楽章から二楽章へ……と、これだけで二、三分はすぎてしまい結構私はたのしい。次はハープシコードの組曲。ああこの裏面はビバルディのだったな、と思う。次はミュンヒンガーの入れた遁走曲であり、その次がロ短調ミサ。次がエネスコの弾くパルティータ。これはひどいレコードだった。かんな屑でもプレスして吹込んだかと思いたくなるような、木目のあるレコードだ。しかも録音が極端に悪い。いかにLP初期とはいえ、またレミントンなる小会社の発売した盤のせいとはいえ、じつに哀れな音であった。それでもエネスコがついにパルティータをいれた——このニュースを聞かされたとき、ぼくはからだが震えたよ、とS氏は言う。S氏がLPの機械を備える気持にかられたのはエネスコのこのパルティータを聴きたいためだったと、この述懐はエネスコの名を口にするたびに繰り返し繰り返しS氏は私に話した。当然、だから《Partita No. 1 in b for Violin Unaccompanied》の欄を見れば、 「エネスコが君、パルティータをいれたというのにだよ、LPを聴かずにおられるかい」  S氏の述懐が聞えてくる。それにしては録音が悪すぎるなあ、と思う。パルティータはだから敬遠。次が同じ無伴奏でチェロ・ソナタ。これはシュタルケルのうなりたくなるような好録音の盤があった。いかなカザルスも(弾きながらの鼻息まで録音されているが)シュタルケルに比して老齢の憾みは覆うべくもない。すくなくともLPでどちらの一枚を買うかと聞かれれば、私なら、やっぱりシュタルケルにするなあ、と思う。  と言った具合に、一ページ一欄ごとに曲を甦らせ、或は逸話をよみがえらせ、私は音楽を堪能しながらレコードへの渇望を癒やした。車中でシュワンのカタログをひもとき東京大阪間をけっこう退屈せずに楽しんだこともある。座右の書と呼ぶにふさわしい、当時それは私に唯一のものであり、しかも月々、新譜を載せてそれは喜びを倍加させてくれた。  いかにカタログが私を退屈させなかったといっても、そこに楽譜があるのではない。楽譜は、名演奏の場合もそうだが、むしろ私にはないにひとしい。楽譜はなく、演奏される音楽だけがある。一つの曲を導入部から終章まで味わうというわけにはゆかぬ。カタログで想起されるのは、しょせんは曲の断片である。前後の秩序なく突然にたとえばフィガロはスザンナと結婚している。何度も何度も。村の乙女達が二人の結ばれたのを祝して踊り出すあの類いまれな美しい旋律の場面は、そこを聴くためだけに『フィガロの結婚』を私も入手したいと思わせたものだ。カラヤンの指揮したコロムビア盤だった。大袈裟に言えばモーツァルトの全作品の中から、この、第一ヴァイオリンの旋律に乗って村の娘達が踊り出し、かたわらでもっともらしく伯爵が独唱するくだりと、『魔笛』での終幕でパパゲーノがパパゲーナをたずねて出会うあの前後の音楽さえ残るなら、あとは灰になってもモーツァルトをそれほどうしなったとは思わないだろう、そう言いたくなるほど、この二章をきいていて私は歓喜した。(コロムビア時代のカラヤンのモーツァルトは良かった。)  さて、スザンナとの結婚が合唱のうちに終れば、私の内部で鳴る『フィガロの結婚』は、第四幕、ケルビーノが「さがせど探せどどこにもないわ」と詠唱するところで幕になる。レコードの最後の一面の、たしか冒頭にこのアリアは始まっていた。ここで私の内なるプレイヤーは停止し、再び針がおりるとそれはもうK・五一六のヴィオラ・クィンテットに変っている。  これはほんの一例だ。とにかくそんな順序で音楽は私の内に鳴りつづけ、私は次へとページを繰るのだが、別な演奏者の盤が新譜発売されているのを発見し、それが気に入りそうなものであればいつかは買える日のためにチェックしておく。赤鉛筆でチェックされた月々のシュワンのカタログが十数冊、いま私の手許には残っている。約一年半ちかく、貧乏生活のどん底で私は最も華麗な音楽を聴いていたわけになる。これが青春でなくてなんだろう。  ところでこんな習慣は、別な習慣を私にもたらした。  分りやすくするためにフォーレのヴァイオリン・ソナタを例にとるが、フォーレのこのソナタ一番をボベスコ、ジェンティの英国デッカ盤ではじめて聞いたとき、夜の海浜で、貴婦人に抱擁される私自身をはっきり幻覚させてくれた。彼女は未亡人であることだけは確かだが、金髪で、むろん名前も知らぬし会ったこともない。彼女は優しく貧乏青年の私を愛撫し、潮風に髪を乱して嫋々《じようじよう》たる彼女の過去の嘆きと過ちへの悔恨を訴え、どうかすると波濤の飛沫が私達の頬に降りかかったが、彼女はほそい指で私の頬を拭ってくれ、自身のは濡れるにまかせている。彼女の告白は、フランス語だから意味は一切私には分らない。一人の寂しく生きた婦人がここにいる、そう分るだけだ。  ことわっておくが、フォーレの音楽にのって浮び出した光景である。彼女と私に淫らな関係や場面を、フォーレが許すわけはない。あくまでやさしく彼女は私を愛撫し、それは彼女の母性的な、男というものを容易に近づけぬ清純感と、清純さが必然的にもつ不幸とを、繰り返し私に語りかけてきた。私は陶然と彼女のなすままにゆだね、あなたの言うことは分る、と何度も答えていた。優雅な、ひじょうに繊細な、気品に満ちた、愁いのある、つまりフォーレのヴァイオリン・ソナタ(作品一三)そのものが、人体と衣装を身に着け、私と彼女の肉感を藉りて、そこに有情の調べを展開させるのを、私は聴くと同時に視ていたのだ。フォーレのこういう聴き方もあるというだけでは、頬を撫でてくれた感触の生ま生ましさは説明のしようがあるまい。  確実に、これは私にとっては体験である。某女を現実に抱いたことの思い出と等質な、むしろそれ以上な、まぎれもなく体験された事実である。  ある瞬間には甘美で、その甘美さに堪えがたくて我から彼女は浜辺に足跡を残し、風にひるがえる裾を抑えながら闇の向うへ去っていったが、たちまちにまた渚に横ずわりして、私を抱いていた。どういうものか、二度とその後、フォーレを聴いても彼女はこの夜の海辺のようには現われてこなくなったが、さればこそ、なおさら私にとって貴重なこれは体験である。  実際にレコードを聴くと、きいている時々の周囲の状況や自分の置かれた精神的立場、肉体条件などによって、同じ曲が同じ幻覚をもたらすとは限らない。むしろ二度と同一場面は同一の感動では浮んでこない。私にできるのは、この楽章である光景が浮んだなあと、自家発電みたいに、しいてそれを再現させる努力をするぐらいである。レコード音楽は、それを鳴らしている時のボリュームや湿気の具合で、良くきこえたりつまらなかったりする。再生装置が変ればレコードまでが別物になると、極端には言っていい。おなじ感動を再現しえないものなら、だからいっそ、レコードをかけるよりは、思い出の中でその曲をなぞり光景を回想する方が自然にゆく場合すらあろう。  カタログを繙いて、そこで音楽に耽る私の情操操作にはこういう便宜があった。もう分ってもらえたと思うが、こうした習慣になれると、対人関係で、誰かに初めて会ったとき、彼(もしくは彼女)に似かよった音楽が不意に、彼の方から鳴り出してくることがある。私の人間評価は、その鳴ってきた音楽で決定的なものとなる。たとえば或る男に会った、彼はファリアの三角帽子を鳴らしてきた。こんな程度の男なのか、と思うようなものだ。  概して男性はまだいいが、女性となると、かりそめごとで済まない。直観はあやまたない、誤るのは判断だとゲーテは言ったが、当てにならない。一人の未知な女性が、目を見交わしたときフランクのヴァイオリン・ソナタを鳴らしてきたために、私はどれほど惨めなことになったか。ビバルディの『ヴィオラ・ダ・モーレ』が妻に幸いしたぐらいのもので、他はことごとく私をみじめな状態で失恋させている。それでも、フランクのあのソナタがきこえるならこの女性が悪い女であるはずはあるものかと思い、私は求め、しつようにもとめ、傷ついて置き去られる。そこでもはやその曲は私の聴きたくないものとなり、私は名曲を失ってゆくのだ。一枚、一枚、そうして私は失ってきた。  ごく最近も、一枚をうしなった。 2 協奏曲  私の旧友に桜井砂夫という詩人がいる。昭和二十七年夏だったか、『新潮』九月号に、彼は「東京の印象」と題するいい詩を発表した。それきり姿を消してしまった。  二十七年といえば、わたくしは連日S氏宅でLPを聴かせてもらっていた頃である。一枚のレコードも、むろん再生装置も当時のわたくしは持たなかったが、心にしみて聴いたそれらの一枚一枚を今に忘れ得ない。当時、S氏の装置のスピーカーはグッドマンとゼンセンの五一〇だった。ちかごろグッドマンはHi・Fiマニアの間に氾濫しているようだが、日本ではLP初期ともいうべきその頃、グッドマンで数多くの新盤を鑑賞できたのは実に幸運だったと思う。当時の古レコードを掛けると、それがどのスピーカーで、どのような音で最初は鳴ったか、部屋のたたずまいからキャビネットの置かれてあった位置まで、ハッキリ思い起すことができる。私だけにこれは限るまい。或る曲を、最初に、印象ぶかくどういう場所、または状態で聴いたか、その曲が鳴るたびに音楽のほうから想起させてくれるものだ。  桜井砂夫は、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のための詩を作っていた。みずから作詩したそれをメロディに合わせて彼はよくくちずさんだ。ずいぶん長い詩のようだったが、詳細をきこうとすると照れて、こたえない。人はみな詩を作り、歌い、仕合せになろう、大意はそんな文句だったように思う。カデンツァの部分では、さすがに詩文のあてはめようがなかったらしいが、第二楽章ラルゲットのあの暖かな、安らぎにみちた弱音部が鳴り出すと朗々とおのが詩を朗読した。この時だけは節づけせず、したがってレチタティーヴォを聴く趣きがあった。といって、声を高くするのではなく静かに朗詠する。そんな時ほど、彼が詩人であるのを羨ましく思ったことはない。  フランチェスカッティのベートーヴェンを聴くと、きまってこの友人を私は思い出す。彼が、フランチェスカッティのヴァイオリン協奏曲を聴いた頃にちょうど、東京に来ていたためかもしれないが、カデンツァのせいもある。周知の通り作曲者ベートーヴェンはピアノ協奏曲などとは違って、このカデンツァを自身では書きのこさなかった。したがってさまざまな演奏家が独自にカデンツァを用いたが、フランチェスカッティのはクライスラーのものを踏襲している。ジャック・ティボーに師事した彼が師のものではなく、クライスラーのカデンツァを用いていることに私は感動したのである。それは何か、大へん真摯な研究生の姿勢を私に感じさせた。それでいて、ベートーヴェン以前に彼の吹込んでいるパガニーニ(ヴァイオリン協奏曲第一番)は、まさにLP初期における名盤ともいうべきものである。ここにも明らかにクライスラーへの踏襲が見られるが、このパガニーニほどフランチェスカッティの未来に、巨匠を彷彿させるものはなかった。つまり演奏技術は巨匠の塁に迫り、しかも若々しく濶達で、青春感に溢れていた。ジノ・フランチェスカッティは当時四十すぎだから、青春を感じたのは曲そのもののせいだったかも分らない(パガニーニは二十九歳の時にこの曲を作曲している。)がそんなことは実はどうでもいいので、パガニーニによってフランチェスカッティというヴァイオリニストをわれわれは知った。私自身で言えば非常に注目した。その彼が、ベートーヴェンでは実に、真摯に、かつ謙虚にクライスラーのあとをなぞっていたのである。  カラヤンがLPに登場しはじめた頃、とくにモーツァルトの歌劇(『フィガロの結婚』『魔笛』)やワグナー(『ワルキューレ第三幕』)で、トスカニーニとフルトヴェングラーを模倣していたが、しかも芸術家としてのありようでは今のカラヤンより、音楽の純粋さにおいて数段、当時はまさったと私などには思える。同じようにフランチェスカッティの演奏も、初期のこのベートーヴェンやパガニーニの時代は、現在の彼より、すぐれた境地にいたと思えてならない。  ブラームスの協奏曲とフォーレのヴァイオリン・ソナタをフランチェスカッティが入れたのをシュワンのカタログで知った時、どんなに、私は期待して米国盤を取寄せたろう。ブラームスの協奏曲はそれまで、フルトヴェングラーのオケによるメニューヒンのものが名盤とされていた。別にオレフスキーのウエストミンスター盤があった。どちらにも慊《あきた》らぬものをフランチェスカッティ盤にわれわれは期待し、その発売を待ちこがれていたのだ。フォーレのソナタも同様だった。まずフォーレが出た。聴いてがっかりした。往年のコルトー、ティボーを言うまでもない。LP初期にロンドン十インチ盤でボベスコ、ジェンティ盤が出ている。今にいたるもそしてついに、ルーマニア生れのこの女性ヴァイオリニストの弾いたフォーレにまさるソナタに私は接し得ずにいるが、そもそもフォーレの音楽だけは男性より女流演奏家にふさわしい曲と、今では気づいたつもりでいるが、それにしても期待が大きかっただけに、フランチェスカッティに味わった失望は大きかった。  がまあ、何かの間違いだろうと思った。そこへブラームスである。何度かけてもブラームスのあのせつせつたる感じがない。お人好しで、人を裏切ることを知らなくて、ベートーヴェンをついに越え得ぬおのが才能に暗澹とし、しかもベートーヴェンのように癇癪持ちにもなれなかった愛すべき男——ブラームスの浪漫は、まるでなかった。わたくしは、初めてフランチェスカッティに疑念をもった。ラローのスペイン交響曲、ラヴェルのソナタ、ショーソンのポエーム、メンデルスゾーンの協奏曲など、フランチェスカッティのレコードは買える限り買って聴き直してみたが、初期のベートーヴェンのソナタを除いてはついに満足なものはなかった。  一、二年前になるが、カー・ラジオでたまたまベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴き、実に堕落した演奏なので誰かと思っていたら、アナウンスでこれがフランチェスカッティの新盤と分り、唖然としたことがある。家に戻るとあわてて初期の盤をかけた。まるで違っていた。私は安心し、ついでフランチェスカッティのために悲しんだ。やっぱり、私は彼が好きなのであろう。それにしても、芸術で誰かの至芸を模倣し、私淑している時の方が彼の個性を主張しはじめた作品より、優れているとはどういうことなのか。つまりは芸術家として駄目なのか、単にスランプと呼ぶべき性質のものか? みずからにかえりみて、今に至るも、これは私に一つの課題となっている。詩を書かなくなった桜井砂夫が、フランチェスカッティの印象にダブる。  桜井は、太宰治がかつて或る新人作家に結婚させようとした、その女性と結ばれた。人はみな詩を作り、しあわせになろうと歌ったのは独身時代である。砂夫というのはペンネームだが、夫人との間に生れた男児に彼は砂夫の名をさずけ、せっせとレコードをかけてベートーヴェンを愛児にきかせている。ここにも音楽を愛する人生があるのだと、私は思うのだ。  ベートーヴェンのそれが桜井を思い出させるように、ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲(イ短調)で眼前に彷彿するのは盤鬼西条卓夫である。物を言う口つきや目の表情が野村光一に似ているこの海坊主めいた巨魁は、どこかにシベリウスの面影もあり、大へんな大食漢である。揶揄でこれは言うのではないので、昨年ヨーロッパを回った時、紅毛人というのがいかに大食であるかを目撃した、その時にも私は西条さんを思い出した。そういう日本人ばなれのしたヴァイタリティで彼は音楽を語り、蘊奥を傾けてきたのである。レコード再生音にも一家言あり、近くこの盤鬼のレコード談義が出版されるそうだが(『名曲この一枚』文芸春秋新社刊 昭和三十九年)、何年頃誰がどういうレコードを吹込み、それはどの程度の演奏だったか、ことに第何楽章はどうだった、などと、興湧けば尽きることを知らぬ語り口に幾度か私は聞き惚れたものだった。いえば、レコード音楽の活き字引のような人である。ランドフスカやティボーについて、多くのことを私はこの人から教えられた。が、最もなつかしいのは彼がヴィオッティのヴァイオリン協奏曲に聴き入っていた姿である。たーら、たーら、たーらッた……子供がくちずさむふうに、しらべにあわせてくびを振り、暗誦している海坊主は、どんなに微笑ましく見えたろう。  ターラッタッタと、これをやるのは西条卓夫に限らない。ワルターやアンセルメの練習風景——リハーサルの録音を聴いても、気に入った具合にオケが演奏してくれると、指揮者自身しごく満悦してチーラッタ、チーラッタとやっている。まるで子供だ。ザ・マエストロと呼ばれた人たちでそうなのである。いつだったかカラヤンが来日したとき、これは演奏会の最中であったが、ffになると虚空を掴むように手を振り回してはエーイ、エーイとかけ声を発しているのにびっくりしたことがあった。おそらく、ことさら指揮者のポーズを意識し、その分だけ自意識過剰で、つまり一番味気ないタクトの振りようを見せているのは日本人指揮者ではあるまいか。音楽に没入すれば、かけ声はおろか指揮台で狂喜乱舞したって不自然なわけはない、ということを、ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲が教えてくれる。まったく西条卓夫でなくても首をふりたくなる、しかも典雅で優婉な曲だ。  ペーター・リバーの弾くこのレコードを私は実はもっていない。今は廃盤である。S氏が所蔵している。小林秀雄氏の話に、いい骨董というのは所蔵者が惚れ込んで入手したもので、絶対、売りには出されない。そこで所蔵者の死ぬのを待って、かっぱらってくるのだそうだ。それぐらいの執念をこめて人は所有し、愛蔵してきた。さればこそ何百年を経ても今にそれが遺っている。そんな話を聞いたことがあった。いい茶〓《ちやわん》なんかは、かねがねその所有者が死ぬのを愛好家は狙って待っているんだと。そういう人間の妄執めいたものに守られ、育てられたのがつまりは名器なのだろう。  さしずめこの伝でゆけば、ヴィオッティのヴァイオリン協奏曲のこの一枚など、私に狙われている盤である。西条卓夫もひそかに息をこらして狙っているかもしれない。そういう名盤が何枚かS氏のコレクションにはある。物騒しごくな話だが、そのS氏とてムザとはくたばりはなさるまい。どちらが早く死ぬか、小林氏の言い草ではないが、「くたばった方が負けだ」  ブラームスやヨアヒムが霊感を受けたというこのヴィオッティのイ短調協奏曲に比べれば、ビバルディのものははるかに数多くレコーディングされ、発売されている。もっともよく知られた『四季』を含む、十二の協奏曲(作品八)にしても、傑作『ラ・セトラ』にしても、ヴィオッティのようにアイザック・スターンごとき芸人が弾いた一枚きり、というみじめなことはなく(われわれはスターンを靴磨きの兄きぐらいにしか見ていない。このヴァイオリニストを芸術家だ、という男のつらが見たいものだ)、しかしビバルディの場合は、その音楽を満喫する何枚かを容易に入手することができる。が、ここでは、ビバルディの中の『ヴィオラ・ダ・モーレ』について書いてみたい。  このレコードはサバティーニのヴィオラでロンドン十インチ盤で出た。私が浮浪者の風体で上野駅の地下道あたりに何度か夜を明かし、飢えに耐えていた頃、S氏宅へ無心に行って聴いたのだから昭和二十七年春には、もう米国で発売されていたことになる。どんなおもいでこの曲に聴き入ったかは、私のその時の状態を語る以外に説明のしようはないが、空腹にたえているのを私はS氏には黙っていた。するとS氏は女中に言いつけ、生卵を二個割ったのを、黙って出してくださった。むちゅうで私は啜った。あまり空き腹だったので、これを嘔吐しそうになり、便所へ駆け込んだ。そのあとで聴いたのである。  実家へ帰している妻のことを、なんというあれはエレガントな人だろうと思ったのは、ヴィオラ・ダ・モーレの音楽的影響かも分らない。しかしビバルディのこの曲で、即座に妻の人柄を思い出したというのは私にはかけがえないことだ。サバティーニのこの盤には、イ短調、ニ短調が両面にはいっているが、妻がほうはいと眼前に浮んだのはイ短調のそれも第一楽章だった。これは言っておきたい。ややもすれば第二楽章のヴィオラ独奏部に感傷の心境を人は汲み易い。しかし断じて、妻のエレガンスは第一楽章にある。その合奏部の曲趣に私は離婚しそうだった妻を偲んだ。  ビバルディの音楽性を、大へんに優雅で高貴なものと私は思う。『竪琴《ラ・セトラ》』を聴いていよいよこの感を深くしているが、それなら、つまり妻は優雅で高貴な婦人なのである。この飛躍はきわめて私の内面では自然に運ぶ。日常の妻は、愚鈍なくらい万事ににぶく、おっとりしていて、お澄ましやさんで、繊細なセンスなどいささかもひらめかぬ女であるのに。しかし彼女はまぎれもなくエレガントな婦人だ。ビバルディという音楽が、もし、私という人間の分に過ぎているなら、彼女もまたわたくしには過ぎた妻である。  私の旧知にYというこれも詩人がいる。彼はある人妻を愛した。彼女の結婚前から肉体的交渉はあったようだが、貧乏詩人のためか、彼女は彼以外の男性と結婚した。その後も彼は貧乏暮しをつづけていたが何年かして、偶然、街で彼女と出会った。(二人は京都に住んでいた。)卒論に親鸞を書いたというこの友人は、おずおず、不日会うことを約束してもらえないかと申し出た。彼女は諾いた。何日かして、二人は叡山の四明《しめい》ヶ嶽《たけ》へ行った。冬だったそうだ。展望台に人影はなく売店は閉っていた。展望台のある遊園地のブランコに揺られて、遥かな夕靄に暮れる京の街を俯瞰しながらたがいの現在の境遇を語り合った。  彼は漠然と時間を勘違いしていた。ケーブルの終電はすでに発車した後で、そこへ引返して来たのである。  彼女は夫の帰宅するまでに帰らねばならない。ケーブルはすでにない。海抜八百六十メートル余の終着駅からケーブルの線路づたいに石段を降りてゆくしかない。彼女はしかし、案外落着いていたそうだ。降りましょう、と言った。ケーブル線路修理のためにつけられた、常とは落差の大きいその石段を、彼女の手をとって一段、一段、彼らは降りていった。彼女は革草履をはいていて、足がすべるので足袋を脱いだそうである。女の素足がどれほどなまめかしいものかを彼ははじめて知ったという。  そのうち、あたりはすっかり暮れていた。遥かな眼下に京の町の灯が点滅するのが眺められた。それは実にけざやかな夜景だった。石段の途中で幾度か休み、四囲は人気ない夜の静寂であり、山の夜気に取り囲まれて、ここにいるのは二人きりだと思うと、孤独な人間同士という感じが痛切に胸にこたえたと、彼は言っている。  何もなかったそうだ。二時間あまりかかってようやく今出川の駅にたどりついた。彼女は彼と別れ一人で帰っていった。——この話を彼にきいた時、突如『ダフニスとクローエ』第二組曲のあの曙に始まる混声四重唱が、どこからともなく湧き起ってくるのを、ハッキリ私は聴いた。ラヴェルのバレー組曲は(『マ・メール・ロア』も同様に)もともと私は好きである。よく聴く。しかし、こうあざやかに空《くう》で鳴り出すことは珍しい。「いい話をきかせてもらった」私はそう言うよりほかの言葉を知らなかった。彼も今では二児の父親になり京都の出版社につとめている。その後彼女は離婚したそうだが、「ぼくとは関係のない話だ」ぽつんと彼の言ったのが心に沁みた。以後、彼の口から彼女の話を聞かない。そういうものなのだろう。次第に彼の生活から遠い人になっているのだろう。  しかし『ダフニスとクローエ』を聴くたびに、無名詩人と人妻の恋愛は私の内に蘇り、冬の峰をつたい降りる男女の目に映じた京都の夜景はあたかも私自身の記憶のように、あざやかに眼前に浮びあがる。彼も含め、ぼくら学徒動員され、戦中派と人のいう時代に青春をすごした人間には、よかれ悪しかれこういう愛し方しかできなかった、そのことを、一つの文学的主題のように『ダフニスとクローエ』に私は感じとったのである。  今、桜井は幼児にベートーヴェンを聴かせているが、Yは平凡なサラリーマンになっているが、私とどれだけ違いがあるものか。日本という国に育ち、戦争にやられ、復員し、恋愛し、それぞれに妻をめとり、そんな四十代になろうというこの国の何百万人が、いま一緒に曙の唄を合唱している——そんなもう一つの『ダフニスとクローエ』がきこえてくる……。 3 ピアノ・ソナタ作品一〇九  こんなのは大変つまらぬ質問だが、ベートーヴェンの全曲から、たった一枚、レコードは何をえらぶかと問われれば、わたくしはやはり作品一〇九のピアノ・ソナタを採るだろう。一〇九が最高のソナタというのではなく、“第九”であっても、人は一三一の弦楽四重奏曲だと言っても別に構わない。ただ、レコードだから、それはバックハウスの演奏したもの(英国デッカ盤)でなければ私の場合困るし、厳密には、いつ、どこで聴いた一〇九かということになる。人が一枚のレコードを愛蔵するのは、畢竟《ひつきよう》は、人生の一時機にかかわった感銘を愛蔵するのに他なるまい。或る友人のために、たとえば詩人桜井のためにフランチェスカッティのヴァイオリン協奏曲を私は所蔵する。しかし所詮は、桜井より私自身のほうが大事である。ピアノ・ソナタ作品一〇九で私のつかんだつかのまの恋人は、男友達とは比較にならぬかなしいものを私の内面に残していったが、わるいのはあきらかに彼女ではなく、私の方だったろう。というこの自責と反省が、バックハウスの弾く一〇九とともに聴えてくるのは、つらいものだ。  作品一〇九がどういう由来で作られたかは私にはもうどうでもよい。ホ長調のソナタを、帰ったらあなたのために弾きます、と彼女は別れる時に言った。それだけで十分だ。夜の井ノ頭公園でその時私は、未練たらしくいつまでも彼女を離さなかった。未練ではなく、こういう花やぎを私は生涯に持たなかったからと告げたが、公園を一緒に散歩するだけでも精一杯、彼女は私のために尽していたのは分っている。ただしこんなことの分るのは一番つまらぬ精神である。下北沢へ帰る彼女を、吉祥寺駅に送って私は別れたが、それきり、彼女とは会えなかった。 『告別』や作品七八または一一一ではなく、一〇九をどうして彼女は私のために弾くと言ったのか、バックハウスのそれが、彼女が弾いてくれるようになぜきこえるのか? バックハウスの一〇九番が多分、私には一番気に入っていたからだろう。しかし恐らく、彼女はバックハウスのホ長調は聴いたことがあるまい。彼女はいわゆる良家の子女で、ふつうのお嬢さんだからそもそもホ長調を満足に弾けるかどうかも怪しいものだ。彼女が彼女の邸のサロンで、私をそばに憩わせ、静かに一〇九の第三楽章を弾いてくれるなら、そんな光景を空想するだけで気がとおくなる。彼女は薄地の白いドレスを着ているに違いないし、大型の電気スタンドが一基、傍らで彼女の横顔を照らしているだろう、多分アップライトだろう、黒塗りのそのピアノの上には白いレースが覆われ、青磁の花瓶に一輪挿しか何ぞがある。彼女の細いしなやかな指はいき物のように鍵盤の上で動く、そうして私を見てわらう。この時のわらうという字は、咲《えま》うでなければならない。——陳腐な、時代遅れなこんな光景が生命を甦らせるにはよほど大時代な空想力が現代では必要だが、音楽は、さしたる努力も必要とせず、私たちをそこへ運ぶ。  しかし独奏そのものは、彼女の弾く一〇九は、稚拙で、時にトチって、聴けたものではないのだ。そんなことは分っているのだ。第六変奏テンポ・プリモ・デル・テーマの一節でも彼女が鳴らしてくれれば、私の楽想は架空のバックハウスの名演をたどり、十八歳の娘マキシミリアーネに贈った五十男ベートーヴェンの思いをなぞることができる。いってみれば稚拙な演奏をバックハウスの音楽性で補ってやるのは私の内なる彼女への愛であり、そういう補足を最も容易ならしめるバックハウス盤だと言えば、ピアノ・ソナタ三十番(作品一〇九)について私の語りたいことは終る。  どういうものか、後期のこれらのピアノ・ソナタに比べてベートーヴェンのピアノ協奏曲には、気に入ったものがない。『皇帝』は、皇帝という傍題の大袈裟さからして気にくわない。むろんベートーヴェン自身のあずかり知らぬことだからなおさらである。第一、第二協奏曲はしばしばモーツァルトを追っかけすぎているし、第四の第二楽章冒頭の、あの陰鬱な弦楽器群のユニゾンはHi・Fiマニアを喜ばせるためにあるとしか私には思えない。(少々程度の悪い再生装置もこの部分だけはゾクゾクするような合奏音で鳴るように出来ている。)人が名曲と呼ぶ第四番でこれなら、ピアノ協奏曲にはいっそ触れずにおくべきだろう。  もっとも、そもそもピアノ協奏曲で、バッハの二、三、モーツァルトの一、二のものを除いては才能の浪費としかわたくしには思えぬものが多く、大方の協奏曲にそれの創られねばならぬ内的必然が感じられない。もっともひどいのがショパンとシューマンである。ピアノで十分語りつくされたことを、なんのためにわざわざ協奏曲に組み合せるのかと思う。ショパンの場合は、交響曲を作らなかったのだから、たまにはオーケストレイションも手なずけてみたかったのかも分らない。髷物作家が現代小説を書きたくなるようなものか。しかしショパンの音楽性にとって実は、作らなかったのではなく作れなかった、もしくは作る必要がなかったので、その言わんとするところ、ことごとくを彼はピアノで語りつくしている。それでも協奏曲で或るダイナミズムを欲求したのは、本心は、ピアノでは出しようのない弦のユニゾンの快味に惹かれたのではあるまいか、と素人のわたくしなどは思う。余談になるが、一人の作曲家がピアニストで出発したか、ヴァイオリンもしくはチェロでスタートしたかは、彼の作曲したものを聴けば不思議によく分る。ピアノから出た場合(近くはラフマニノフなど)必要以上に長く弦のユニゾンを聴かせる。シューマンもご同様である。さすがにベートーヴェンとなると交響曲の作られねばならぬ必然とピアノのそれとは分れているが、シューマンなどは単に双方のごっちゃ煮を食わされるにすぎない。しかもそのオーケストレイションたるや未熟で、ピアノの余技のそしりを免れまい。もっともひどいのが(内容空虚なのは)リストだろう。リストという男は、他のすぐれた音楽家を世に引き出す上には役立ってくれた。文壇でいえばさしずめ作家を世に出す名編集者であろうか。しかし彼自身の音楽は、世の中にこれぐらい才気走ったというだけの、気障な音はあるまいと私には思えるような仕事ぶりである。才気煥発なのがそれ自身、芸術の上でどれほど意味のないものかをリストの作品はわれわれに教訓してくれる。やたらに高度の演奏技術をリストが要求したのは、そういうテクニックを駆使することで彼自身の非芸術性を補ったからだろう。  私の知り合いに、奈良市在住のN氏というHi・Fiマニアがいる。某レコード会社会長の直系であるのに、脚が不自由なのと謙虚な人柄のため、今は会社の表向きには出ずひっそりと東大寺境内で暮していらっしゃる。この人はランプの収集癖という妙なくせがあるが、アンプやカートリッジやスピーカー・システムで新製品が業者に輸入されたと聞くと矢も楯もたまらず、上京なさるご仁である。目下N邸の書斎には日本に入った欧米の機械のあらかたは揃っている。ステレオ用のスピーカー・システムだけで五台はあるだろう。これに準じてアンプ、テープ・レコーダーが五基、日本では比較的めずらしいノイマンのカートリッジやアームが数個。  或る程度のメーカー品となれば、カートリッジひとつ替えてみたところでレコードの鑑賞にさほど違いがあるわけはない、などとウソブくやからは実はまるで音質のことは分らぬ手合いだと、ほぼきめつけて間違いはない。  レコード音楽を鑑賞するのはナマやさしいことではないので、N氏に限らず、およそ名曲を自宅でたっぷり鑑賞しようと再生装置をなんらかに心掛けて家庭に持ち込んだが最後、ハイ・フィデリティなる名のドロ沼に嵌まり込むのを一応、覚悟せねばならぬ。一朝一夕にこのドロ沼から這い出せるものでないし、ドロ沼に沈むのもまた奇妙に快感が伴うのだからまさに地獄である。スピーカーを替えアンプを替え、しかも一度良いものと替えた限り、旧来のは無用の長物と化し、他人に遣《や》るか物置にでもぶち込むより能がない。或る楽器の一つの音階がより良く聴えるというだけで、吾人は狂喜し、満悦し、有頂天となってきた。そういう体験を経ずにレコードを語れる者は幸いなる哉だ。  そもそも女房がおれば外に女を囲う必要はない、そういう不経済は性に合わぬと申せるご仁なら知らず、女房の有無にかかわりなく美女を見初《みそ》めれば食指の動くのが男心である。二〇から二万サイクル(ヘルツ)まで歪なく鳴るカートリッジが発売されたと聞けば、少々、無理をしてでも、やっぱり一度は使ってみたい。オーディオの専門書で見ると、ピアノの最も高い音で四千サイクル、これに倍音が伴う。それで一万サイクルぐらいが鳴る。楽器で最も高音を出すのはピッコロやヴァイオリンではなく実はこのピアノなので、ピッコロやオーボエ、ヴァイオリンの場合ただ倍音が一万四千サイクルくらいまで延びる。一番高い鍵を敲かねばならぬピアノ曲が果して幾つあるだろう。そこばかり敲いている曲でも一万五千サイクルのレンジが出れば鑑賞するには十分なわけで、かつ人間の耳というのが精々一万四、五千サイクル程度の音しか聞きとれない。とすれば、二万サイクルまでフラットに鳴る部分品が、どうして必要かと、したり顔に反駁した男がいた。なにごとも理論的に割切れると思い込んだ手合いの一人である。  世の中には男と女しかいない。その男と女が寝室でやることはしょせんきまっているのだから、汝は相手が女でさえあれば誰でもよいのか? そう私は言ってやった。女もひっきょう楽器の一つという譬え通り、扱い方によってさまざまなネ色を出す。その微妙なネ色の違いを引き出したくて次々と別な女性を男は求める。同じことである。確かに四千サイクルのピアノの音がAのカートリッジとBでは違うのだから、どうしようもない。N氏の書斎のように、本妻をどれとは決めかね、二号三号も雑然と同居させる仕儀にもなる。いいものが一つあれば足りるのが本来のあり方だが、オーディオ界の現状では、同程度に二万ヘルツが鳴る機械でも、Aはピアノを聴くに適し、Bはヴァイオリン、Cは臨場感、Dはより十分な高音領域と微妙な違いが生じている。大ざっぱに言って、各種のレコードを満足にきくには、クヮルテットもしくはソナタ用と、交響曲用と、最低二台の装置は必要ではないかと思う。パイプオルガンさえ完璧に鳴れば十分というものではないのであって、それほどオーディオというやつは、まだまだ未知で不可解な分野が多い。とりわけ厄介なのが低音である。  音(低音)がヌケると、よく言う。スピーカー・キャビネットに音がこもらず、風のように抜けるとでも言ったらよいか。「水の縁を切った水は甘い」とでもいうようなものだ。水を疲れさすという言葉があり、疲れた水は同じH2Oでも湧き出したばかりの山の水とは異なった味わいをもつ。即ち「水の縁を切った水」である。疲れて水の粗さを失った水は、滑らかで甘い。一丈の高さの滝と二丈の滝では、その滝壺に落ちた水の味は違うのである。風流士はそういう水の味の違いを味わうが、低音だって同じことだ。  私がまだ石神井の都営住宅にいた頃、当時はグッドマンの十二インチで聴いていたが、白昼さほど大きな音でなしに掛けていたのに、道路をへだてた三軒向う隣りの妊婦は、私の家で鳴らすスピーカーの低音部の共振で急に産気づき、大騒ぎになったことがあった。大型トラックがゆっくり通れる道路幅をへだてていて、低音は地面をつたい彼女の住居の畳を振動させ産気づかせたらしいのである。  また、西大泉の家に移ってから、コンクリート・ホーンで低音の性能の万全を期したわがリスニング・ルーム(二十畳)で一夜聴いていたら、隣家から文句がきた。この時も大して大きな音ではなかったと思う。しかしこちらはツンボだからと、ややボリュームを絞って聴きつづけていたら、こんどはパト・カーが来た。これには驚いた。隣家から一一〇番へ電話したわけなのだが、事情をきくと、隣家の雨戸を閉ざしガラス戸を閉めカーテンを掛けてある室内で、その部屋の障子が怪しくガタガタふるえたという。  わが家の試聴室は一応防音をしてある。トランペットやヴァイオリンの音は隣家へは聴えない。つまりレコードを鳴らしている音が隣家へ洩れるわけではないのに、夜の静寂に、突如として無気味に障子だけがふるえるのである。隣人でなくてもスワ地震かとノイローゼにもなろう。これまた、低音の仕業とあとで分った。  つまり低音は地を這うものだ。床を這う。あげくの果てに再生装置の音まで変えてしまう。振動(低音の共振)は、中高音をつつみ込んで、スコーカーやトウィーターから出ている音まで変化させてしまうのである。この妖怪な低音の働きを分ってもらうには、「疲れた水」が茶の味を変える例でも持ち出すほかはあるまい。  現在の私は、タンノイのエンクロージア(オートグラフ)をマッキントッシュ二七五のメイン・アンプで鳴らしている。プリは同じマッキンのC二二と、J・B・ランシング(J. B. Lansing)のグラフィック・コントローラー(SG五二〇)の併用である。タンノイについてはあらためて書くが、ほぼレコード音楽を家庭で鑑賞するには満足な再生音をきけるようになった。  自慢する気は毛頭ないし、むしろ不運の為だったと言いたいのだが、これまで、日本で入手できる著名な欧米の製品のほとんどを、私は聴いている。水は新鮮なほど味がよくなると思い込んでいたようなものだ。そう思い込ませたのは、例えば英グラモフォン誌や米“ハイ・フィデリティ誌”の紹介記事であり、これを孫びきして尤もらしく解説した日本の専門誌の記事だった。  だが、身銭を切ってそれらの機種を購入し、くり返し繰り返し、同一のレコードをかけた経験から言うのだが、再生音は、アンプや単体のスピーカーではなくて人間の住んでいる部屋がつくる。たとえばあなたの部屋で、J・B・ランシングのトランジスター・アンプにかえて音がわるくなれば、ジムランが悪いのだ。逆にジムランにかえて良くなったら、部屋の(又は音質の)諸条件にマッチしたそのジムランはいいと言わねばならない。自分の暮している部屋で聴いて、よくない部品を客観的に(あるいは特性の上で)いいはずだとどれほど専門家が推称したところで、何の役にも立ちはしないのである。つまり再生音といったものは、生活がつくり出す。日常、生きている場で論じられるべきであり、メーカーが公表するアンプやカートリッジの特性がつくりあげるものではない。音色を左右するのは、あくまでその人の生活である。  このことに想いいたれば、家具調度も満足に揃わなくて、再生装置だけベラ棒に高価なものを置いているのがどんなにカタワな生活か分るだろう。断言してもよい、そんな生活人が、碌な音で聴けたためしはないのである。その鳴らしている音は、やっぱり、カタワの音だ。  兼ねてあこがれていたアンプやスピーカーを入手し、取替えて、音が良くなった時の喜びは、たしかに喩《たと》えようもない。満ち足りたあの充足感は、いちど味を知ったらやめられるものではないだろう。私自身が、そういうカタワの充実感に随喜して、質屋通いをしながらも部分品をもとめてきた。番茶を煎茶にかえ、新鮮な水をもとめて沸かしたようなものだ。それを欠けた茶〓に淹れ、うまいと言って飲んだ。涙が出てくる。じつはそれほど、音楽そのものがかわったわけではないのである。  ふつう、周波数特性の平坦な、歪のまったくないスピーカーやカートリッジ、アンプなど、この世には存在しない。じつに大小さまざまなピークや谷間のある部品があるばかりだ。そういう部品を組合せてぼくらはレコード音楽を聴く。極言すれば同一メーカーの製品でも、すべて、音は違うのである。いわゆるバラツキだが、このことは同じ音で鳴る再生装置は世界に一台もないことを意味するだろう。  周波数特性の或る部分——たとえば二千三百ヘルツにピークがあれば、そのピーク個所の音はあたかも強く演奏されたようにきこえる。逆に劣下していればその音はぼやける。したがって、ピークや、或るヘルツで再生効力の劣る五百万台のステレオ装置でたとえば同じハイフェッツのレコードを鳴らしたとすると、厳密には、異なる五百万のハイフェッツの演奏を聴くことになるのである。そのどれを、真正のハイフェッツだと言えるのか?  ナマそのままの音で鳴るのが、本当のハイフェッツの演奏だという人がいるかも知れない。だがそれなら、演奏会場のいったい何処で聴いた音なのか? 一階正面か、三階のてっぺんか。実演を聴いた人なら容易に理解のゆくことだが、ナマの演奏自体が、会場の聴く位置でずいぶんと音はちがう。ピアノ・リサイタルで、ペダルを踏む音がわかるのは余程ステージに近い席である。  要するにナマの音だって千差万別だろう。それでいて、ナマの演奏を聴きにいって、そのアーティストが理解できなかったという人はいない。レコードの場合だけ、どうして、少々その装置がわるいからと、演奏を理解できぬなどと言えようか。  アンプやスピーカーを変えたぐらいでは実は何ほどのこともないのだ。装置がよくなれば、たしかに音はよくなる。よい音で聴く快感はだが、音楽の鑑賞そのものとは別個のものだ。別の喜びである。  今の私にはそれが言える。確かにマッキントッシュの真空管アンプはいい。その良さはジムランにもマランツにもクワードにも求められない。しかし同時に、その良さに比肩する別な美点をジムランはもっている。マランツはもっている。クワードが更にはナショナル・テクニクスやサンスイがもっている。別なハイフェッツがきけるのである。バックハウスが聴ける。サンスイをマッキントッシュに変えたところで、それで享受できる音質向上は、ベートーヴェンの音楽、バックハウスの演奏そのものの感銘に較べればわずかなものだ。ステレオ雑誌の紹介記事や広告にまぎらわされてはならない。重ねて言うが、たとえば拙宅で鳴っているタンノイ・オートグラフより、あなたの部屋の音楽がつまらないわけが、あるはずはないだろう。アンプやスピーカーが国産であろうとなかろうと、それであなたが音楽を聴き込んでいる限り、他人のどんな装置よりもあなたにとって、大切なはずだ。その大切さが、じつは本当の演奏を——つまり音楽を、あなたの内面にひびかせるのである。 4 ペレアスとメリザンド  インテリア・デザイナーでU女史という婦人がいらっしゃる。T美術大の講師でもあるこの人の写真を、婦人雑誌のグラビアで見たとき、その美眸なのに一目惚れし、その後、別の雑誌社で美女の推薦をもとめられたとき真っ先にU女史の名を挙げた。それが機縁になって彼女と交際するようになった。  私のような倫理感の案外つよい者には、大へん大事なことだが、彼女は独身であった。アメリカの州立大学に三年あまり留学してデザインの勉強をしたことよりこれは重大なのである。留学の前に、けっしてあちらで結婚生活には入らない、という誓約を彼女は書かされたそうだ。優秀な頭脳が向うへ行きっきりで帰国しないのを日本政府はおそれたのだとすれば、みみっちい話である。それでもこれが彼女の独身の理由とはならない。それほど、この人は美しかった。写真で見たよりは細づくりで、鼻すじもほそく、おちょぼ口であった。したがって瞳が容貌の面積に比して大きく睫が黒かった。こういう女性を処女でほっておくほど世界の男性は無能ではあるまい。年齢を問うのはエチケットに反するそうだから私は我慢をしたが、このころ二十八にはなっていたと思う。細い身で、不思議に肉感的な魅力のある人であった。いちど、ナイトクラブへ私は誘った。そうしてこの人を抱いて踊った。次第にわたくしはぶしつけになり、いろいろな質問をした。質問の内容によって彼女の瞳は警戒の色を深めたが、これは当り前だろう。むこうへ行くとき、清少納言を一冊もっていったという。枕草子にきまっているが、三巻本ですか七巻本の方かと私はきいてみた。季吟の春曙抄を底本としたもののように思うと彼女は答えた。気障な問答のようだが、国文科の学生でも今時こうすらすらとは答えられまい。留学してきたのなら英語は流暢にきまっている。踊りながらのこうした会話で、この人はホンモノだと私は思った。つまり女として、出来上がっている。  こののち、機会を見ては彼女とデイトをもった。T美大へ、聴講生になろうかと本気で考えた。奈良のN氏邸へお水取りに出掛けたのもこの人と一緒である。有名な後夜《ごや》の法要の晩ではなかったので御《お》松明《たいまつ》も法螺《ほら》貝もなく、良弁《ろうべん》杉の祠《ほこら》に参詣人もまばらで夜の二月堂はひっそりとしていた。参詣のあと、僧房を訪うて茶を請うたら、偶々《たまたま》拙作の愛読者という僧侶がいて、座敷に招じられた。ただし、女性であるU女史は上がり框《がまち》までしか入れてもらえない。仄暗い、大釜に湯のたぎる土間に彼女を待たせ、有難くお茶を喫して私は小一時間あまりも僧侶と雑談した。婦人を土間に待たせっぱなしにしておくいかにも男尊女卑の君主国らしいこの扱いは、彼女をいとしむだけに、奇妙に私には気持がよかった。一度だけ心細そうに彼女は私を呼んだが無視した。僧侶は紙衣《かみこ》を着ていた。フェミニストに慣れたアメリカ帰りの女史に、こういう粗衣をまとう男同士の、柳生十兵衛は剣術が強かったなどいう笑談はどれほど長時間にわたっても、彼女には無駄な待時間だろう。むろん僧侶との会話は土間へは聞えない。土間には下男が二人、竈《かまど》の火加減を見て悠然《ゆつく》り煙管《きせる》をくゆらせていた。彼女は才媛で、美貌で、教養があって、洗練されていた。こちらはどうしようもない田舎者なのは分っている。田舎者に安んじるこれほどの安堵感を、他の女性に私は感じたことはないのだ。多少、音楽について知識をもち、音をきき分ける耳をわたくしは持っている。しかしレコードの話を彼女としたことはない。彼女の前では努めて日本の美についてしか語らなかった。そういう美と呼べるものが現実に日本にあるのか、時々彼女はそんな疑いの目をあげたが、奈良の郊外を歩き、京都の高台寺付近を早朝に二人で散歩し、彼女の婚約者の話を聞いたりするこの現実に、正しくあえかなものがあるではないかと私は言った。竈のほとりで男を待つ女のすがたが美しくなくてどうしようか。  関西の旅から帰ると、間もなく私はヨーロッパへ飛び立った。そのあいだに彼女は結婚した。祝電の打ちようはなかった。挙式の日取りをわたくしは知らなかったから。あとから思うと、ハイデルベルクの古城を訪ねた日に、時差を差引いて、彼女は夫を持っている。わたくしは和服にもんぺを穿いていたので、土地の記者が珍しがって古城の坂道に立つ姿を写真に撮った。この写真が新聞に掲載された切抜きを、後日ニッサン自動車のO氏に東京で見せてもらった。O氏の令嬢がハイデルベルクの大学生で、彼女の案内で私たち一行は古城を見物したのだが、孤独な四十男が、内心の傷心にかかわりなく髭むじゃらで写っていた。これが客観というものか。  ハイデルベルクで私の考えたのはドイツの青春というものだった。ドイツには石がすくない。それで、土を捏《こ》ね、煉瓦に焼いて家を建てるのだと誰かに聞いたことがある。ねんどをこねて一つ一つ煉瓦をつくりそれを積み重ねる丹念さと、六十、七十の老年になっても執拗《しつこ》い恋をする彼らの生への執着心は無縁とは思えなかった。ワグナーのあの大楽劇が、つづまるところはそういう執念でうたわれている。わたくしはまたこの古城の広場に旅行者として立って、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』をおもった。広場にたたずむと、周囲に聳え立つ荘厳でしかも楼の朽ちた城壁が、この広場に整列し、夜警の任にあたった騎士たちを咄嗟に想像させる。高層な城の建物の窓の一つ一つが、夜には灯を洩らし、ある窓には姫君の影の動くのが見えたかもしれない。深窓の令嬢とよぶにふさわしい婦人を、ちかごろ、わたくし達は次第に周囲で見失いがちだが、この古城を一歩も出ずに育った典雅な姫君がふとしたことで、騎士の一人を見知り、次第に彼に好意をよせる。或る日、昼間の任務につく彼を広場の中央に認め、窓から合図のハンカチを振るのが見えたら、騎士は、恋のとりことなり、歓喜して姫君のため勇んで死地に赴くだろう。そういう青春をこの古城ははぐくむことができる。ニューヨークや東京の街角では絶対見られぬ、高貴で甘美なやさしい恋である。ハイデルベルクの夜景は有名だが、前夜にわたくしはホテルの窓からネッカーの流れをへだてて、霧の中に橙色に浮ぶこの古城の美しさに見惚れたせいかも分らないが、メリザンドが館で髪を梳る場面は、こういう城を見なければ分らなかったと、思い当った。わたくしがU女史にいだいたのは、騎士ではなく百姓の——しいて言えば地侍《じざむらい》の感情である。この自省には私だけのものではない痛みが伴った。どういう関連であろうか、二月堂の僧房で土間に彼女を待たせていたとき、わたくしの胸に鳴っていたのはヘンデルの『忠実な羊飼い』の一節である。注釈を加えると、横光利一の『旅愁』である。『旅愁』でもっとも印象深いチロルの山のシーンが、『忠実な羊飼い』を聴くたびに眼前に浮んだ。女主人公はたしか千鶴子という名前だったように思う。彼女にしめした『旅愁』の主人公の横暴ぶりは、彼女を待たせて寺僧と雑談するわたくしの内面に共通のものだった。日本の美をことさらに言挙げしたのも主人公と似ている。彼女と別れてからたまたま『忠実な羊飼い』を聴いて、卒然これに思い当った。ヨーロッパ旅行中、彼女が念頭を去るわけはなかったから、チロルの山にはぜひのぼってみようと考え、又ヘンデルの連想でロンドンに憧れたりしていた。私の内部で、彼女は漠然とロンドン婦人を想起させてきたからだ。  しかし、ハイデルベルクの帰途、しょせんわたくしはペレアスではなく、よくいってゴローなのに気がついた。愛の泉のほとりでペレアスとメリザンドの相擁する場面を見たゴローが、嫉妬で口走る、あのゴローの登場する寸前のティンパニーが、わたくしの耳の底で鳴ったのだ。むろん相手の男がペレアスなわけはない。現代にペレアスはいない。ただ、U女史に夢中になっていた頃、六歳になる娘の七夕祭りに妻は妻なりの嫉妬に苦しんでか、さり気なく短冊へ歌一首をしたためて吊っていた。「ながむれば心もつきて星合の空にみちぬる身のおもひかな」ひとことも妻はわたくしに非難めいたことは言わなかった。しかし幼い娘のために『天の川』や『ヒコボシ』と書いた短冊に混ぜてこの歌を飾っていた。そういう人である。短冊に妻の心懐を詠めた日からしばらく私はU女史から遠ざかったが、こちらが避けている限り、彼女は安んじて婚約者との親交をあたためていたわけだろう。  ——そんなことを、ハイデルベルクの古城を去りながら考えた。写真をうつされたのはこの時だった。執念ぶかいドイツ人なら、多分、こうもあっさり恋をあきらめたり不徳義漢と自省はすまい。ひっきょう、これは私がどうしようもない日本男児だからであって、ゴローの嫉妬など他愛もない話だった。  ——結局、このヨーロッパ旅行でチロルの山へはわたくしは行かなかった。『忠実な羊飼い』は、今後もとめては聴かないだろう。ヘンデルの音楽は大そうわたくしの愛好するもので、わけてボイド・ニールの指揮する『コンチェルト・グロッソ』全曲と、サー・エドリアン・ボールトの『メシア』はしばしば乱れた心を鎮めるのに役立ってくれた。ヘンデルはこの二曲があればわたしには不足はない。のちに、パリに着いてから、よせばよいのにオペラ・コミックでジャン・コクトーのアレンジしたという『ペレアスとメリザンド』を観たが、なんともつまらなかった。総じてレコードでもこれは言えるが、ペレアスというのは一歩間違えば軽薄ないかれポンチにすぎなくなってしまう。照明を暗くし、館の書割をならべただけで古城の王子が、舞台につくり出せるわけはないのだ。ドビュッシーのえがいた王子は、もうパリにもいない。いるのはせいぜいゴローである。メーテルリンクはついにお伽話しか現代へは残していないと、もう言っていいように思う。  さてハイデルベルクを去るあたりから、わたくしは同行の諸氏と別れ、スイスをほとんど一人で旅した。彼女のことは相変らず念頭を去らなかった。わたくしは英語にまったく堪能でない。レンタカーを運転し、行き当りばったりに山境の名もない田舎町のホテルに泊ったりした。どこでも英語が通じると思うのは日本人の浅はかさである。スイスの片田舎で、日本語も英語も変りはない。つまりどちらも通じない。ビールが勘定書であったり、コーヒー一杯まんぞくにもらえない、ということはない。わたくしは唖の手真似でホテルの親父でもある農夫を相手に、部屋をもとめ、食事をもとめた。どこの山境の安宿にも乙女はいた。わたくしは日本人である、予は日本の詩人である、とこれだけは英語で精一杯発音したが、彼女らは曖昧にわらっているだけであった。しぼりたてのミルクのうまかったこと、チーズのうまかったこと、パンの硬かったのが今に印象深い。  ブルンネンやグリンデルワルトや、そういう知られた観光地に行けば、むろん英語の話せぬのは不自由である。その不自由さに当面する度に彼女の流暢さを、思い出すなという方が無理だ。つまりチロルへは行かなくとも、しぼりたてのミルク、夕映えの山容を背景に角笛を吹く牧童——、『忠実な羊飼い』の楽想を私はなぞりながら旅していたといえる。  ジュネーヴからトリノへの途中で、ミュゾットの館に立ち寄りリルケを偲ぶのを日本を発つ時の念願にしていた。外国文学で、ドストエフスキーとバルザックをのぞけば、もっとも深く感銘し繰り返し読みふけったのはリルケの著作である。日本の先輩作家では志賀直哉と横光利一の文学ということになる。それに、小林秀雄と保田與重郎の評論と。そういう出発を無名時代にわたくしはもってきた。どういうわけか、しかしミュゾットへは立ち寄る気持はなくなった。もう一度、わたくしはヨーロッパへ来るにちがいない。その時に立ち寄ったほうがいい……漠然と自分にそう言いきかせた。ニースではモンテカルロの賭博にふけり、ミラノでは酒をくらいつづけ金髪女をはべらせて王侯のように放蕩した。フィレンツェに着いたときは嚢中一文もなかった。かろうじて同行のF氏に拝借してまた、一人で車をあやつってピサの斜塔を眺め、ローマへ走った。  ローマはつまらなかった。パリもわたくしには面白くなかった。安岡章太郎は、パリでいいおもいをしたそうである。「金がほしいと痛切におもったなあ」それぐらいパリでは金の使い甲斐があったそうだ。フランスのレコードは録音はいいがあまり盤質がよくない。オーディオの部分品で優秀なものも出ていない。その印象があるので頭からパリはルーヴルを見れば用事はないときめていた。そのルーヴルが一日で見つくせるわけがないと聞いて、気がくじけた。わたくしは早くロンドンへ行きたかった。  読売支局の某氏にようやく金を都合してもらうとロンドンへ渡った。沢野久雄の『夜の河』のモデルがロンドンで暮している。同行のO氏の知己なので彼女が案内してくれた。めざす目的は一つであった。デッカの本社に機械を見にゆくことである。ヘンデルの音楽を、世界中で、もっともふさわしい音できかせてくれるのは英国製の機械だと、盲信めいた確信がわたくしにはあった。その機械(Decca Decola)の発売を最初にグラモフォン誌で知ったのは一九六〇年の四月である。早速、日本楽器に輸入方を申込んだが、当時、英国製のこういうものは輸入できなかった。以来ひそかにわたくしはDecolaへのあこがれをいだきつづけてきた。クイーンストン街のデッカ本社の応接間に、このデコラの偉容を見たときの私の歓喜は。 「予は、一九六〇年四月の発売と同時に、この蓄音機の入手を欲した。予は、この通り、当時の切抜きをまだ持っている」  私はグラモフォン誌六〇年四月号の広告の切抜きを、そう言って取出した。あれから四年、この一片の紙キレを私は大事に保存してきた。この熱意がデッカ社のセールスマン氏をいたく感動させたらしい。言葉の通じぬもどかしさを補って、彼は大へん厚意ある態度で私をもてなし、こちらののぞむレコードを掛けてくれた。ピアノを先ず私は聴いた。それから声をきいた。それから協奏曲を聴いた。きいているうちに涙がこぼれた。はるばると来つるものかな、と思った。音質は、期待を裏切らなかったし、じつに渋く美しかった。ただ『忠実な羊飼い』の音楽はもう私のどこからも聞えてこなかった。しかし彼女のイメージは痛切に私の内部で拡大し、ふくらんだ。放心したようにそれからの半日を、飛行場の時間までロンドンの街を彷徨して私はつぶした。金がないものだから、日帰りで、ロンドンへ来たのである。その夜の飛行機で私はパリへ戻ったが、いかに呆《ほう》けていたとは言え、この時、空港のゲートを間違え、気がついたらわれわれのジェット機が発つ寸前だった。これには泡を食い、横っ走りにあの広大無辺な空港を駆け回った。羽田などとは規模が違う。何機もの翼が発着している。黒い巨大な蝙蝠のように。翼の両端に赤や青の灯を点けたジェット機が、或は滑走路へ移動し、或は飛び立っていった。どれが私の乗る飛行機か分るわけがなかった。私も周章狼狽したが二重廻《と ん び》に下駄ばきで、蓬髪という、異様な男が必死に、めくら滅法にジェット機の一台へ突進したのには彼らも驚いたようだった。たちまちサイレンを鳴らし、パトカーが三台あまり、四方から私を目懸けてやって来た。空港の警備員とも警官ともつかぬ彼らは、わたくしが「パリへ行くんだ、パリへ行くんだ」と絶叫するのをしばしポカンと見ていた。それでも事情を察すると、無線で各ジェット機に連絡した。わたくしの乗るはずの機はすでに飛翔していた。間もなく、パリを経由する別のジェット機から美女のスチュワーデスが乗用車で迎えに来た。彼女は大へん丁寧に私をもてなし、迷い子でも扱うように彼女の勤務するルフトハンザの特別席へ案内してくれた。約一時間後、無事わたくしはパリに着いた。パリに着くと突然、どうしてか分らないがU女史は結婚したことを知った。テレパシーというやつだろう。テレパシーとは、孤独な人間が外部と交信したくて編み出した才能の利用法に違いない——そんなことをパリの街を金もなしに彷徨して考えていた。 5 バルトーク  岡鹿之助さん宅のアトリエに据えられたHi・Fi装置のスピーカーが、ひとつ、盗まれたことがある。  私の記憶に間違いなければトウィーター(ワーフデール)二個の中の一つで、岡さんは盗まれた当座は、それと気づかず聴いていらっしゃったそうな。面白いことに、盗んだ犯人は分っていて、べつに泥棒を働かねばならぬ暮し向きの男ではない。むろん盗品を売ったのでもない、岡邸から盗み出したのを隠匿し、もって足れりとしていた、という。  十数年前の話だから英国製のこういう部分品が、珍重されたのは無理ないし、高音部だけを別個のスピーカーで鳴らすシステムはまだ一般化していなかった。限られたHi・Fiマニアだけがいわば知っていたことで、それが岡邸にあるのを知悉した人間となれば範囲は限られる。現実に、このトウィーターは鳴っていたのだから当然、これに配線された線を截らねば盗み出せない。スピーカー・キャビネットに取付けてあるボルトを、ドライバーで外さねばならない。岡邸に人の不在を見すまして侵入して、これだけのことをやれる人間は、ますます限られるわけである。警察が(正しくは岡鹿之助氏が)犯人を挙げる気になれば事は甚だ容易だった。しかし岡さんは黙許した。黙っていることではなく、知らないふりをして許しておくのが黙許だと、辞書は曰《い》う。盗んだ当人は、これはもうマニア心理で、美音のスピーカーと聞けば矢も楯もたまらなかったのだろう。一個無くても支障のないような(実際、岡さんは一個消えたのも知らずに聴いてらした)そんな装置に、貴重なトウィーターを二個も使う必要があるのか? といった皮肉な意図で盗んだわけではむろんあるまい。  この装置は高城重躬氏の製作になるもので、これも私の記憶に間違いなければウーファー、中音部とも、同じワーフデールの十二インチを使用し、いわゆる 3 Wayシステムでホーン型コーナー・キャビネットにおさめてあった。近頃で3 Wayは常識だが、十年以上も前の話である。  かんじんの音は、初めて岡邸を訪問した私に、岡さんはなんと仕合せな人だろうと嘆称させるものだった。  製作者の高城氏に、それ以前私はひとつの誤解をもっていた。当時或る夫婦雑誌で売ったM書房の社長というのがHi・Fiマニアらしくて、その大がかりな装置を自社の単行本に色刷りグラビアで載せたことがある。この写真の装置も高城氏の製作に成るものだったが、グラビアで見るリスニング・ルームの趣味の悪さは、こんな部屋のあるじに音楽が分ってたまるかと思わせた。当然、こういう主人のために嬉々として装置を造る高城氏の人格をも私は疑ったのである。大がかりなその装置(スピーカー)がこれ見よがしな成り金趣味のアメリカ製品なのも私には気に喰わなかった。英国製スピーカーは、音それ自体に教養と洗練味がある。いわばスピーカーの音そのものが教養をもっている。これに反してアメリカ製スピーカーは、せいぜいレンジをもつにすぎない、とその頃思っていたからでもあろう。高城氏の技術そのものは、かなりなものと聞いていたが私は問題にしなかった。  それが、たしかヤマハホールでだったと思うが、高城氏の製作になる装置でベートーヴェンのピアノ協奏曲第四番と、イ長調シンフォニーを聴き、その素晴らしいのに驚いた。ことわるまでもないが、単に音が良かったのではない、ベートーヴェンの音楽が良かったのである。第四はバックハウスのピアノで、イ長調はフルトヴェングラーのものだった。ともに私は聴き慣れている同じレコードだ。それが別のスケールで鳴った。いわばピアノは、はじめてグランドピアノの音をきかせてくれたのである。  高城氏への評価を、卒直にあらためねばならない、私はそう思い、当時レコードを聴かせてもらっていたS氏にこの旨を告げた。S氏も少々頑固な人だから、グラビアの悪趣味な先入観もあって容易に高城氏を信用なさらない。レコードコンサートなら馬鹿でかい音で鳴らすにきまっている、多少は、グランドピアノにも聴えるさ、ぐらいのところだったか。  そのうちしかし、偶然なことからS氏は岡さんを訪問し、はじめて本格的3 Wayの音をきいた。大へんな感動だったようだ。それまでのS氏は街の技術屋に作らせたアンプで聴いていたのである。(LP初期は、これが普通だった。レコード批評家某氏などは蜜柑箱に容れたアンプで聴いていた時代である。)  S氏は早速、君も聴いてくる必要があるぞと言う。岡氏を私は知らないので、S氏の紹介状を手にし、一人では心細いのでマニアの畏友・T君を誘い、二人で出掛けた。念のためわれらの知悉するシベリウスの一枚を携えて行った。  岡氏の装置を論ずるのが本旨でないから詳しい説明は略すが、とにかくこうして当時としては驚嘆に値する見事な再生音を知り、つまり高城氏の技術を私は知った。岡さんの最初に掛けて下さったのはバルトークの『ミクロコスモス』で、次にわれわれの携えた『レミンカイネンの帰郷』を聴いた。バルトークでは、これほど鮮明なピアノ音を私はそれまでに聴いたことがなかった。大事なことだが、レコードでは単に音ひとつが鳴っても、それが美しければ、われわれはすでに音楽の中にいる。レコード本来の役割は、誰がなんと言おうと、その曲が鳴り出せば、あたかも実演されている場所にわれわれがいるような現実感を感じられる点にある。本来そういうものである。——しかし、それなら最大限に高忠実度な再生装置がもし発明されれば、つまり演奏者の前で聴いているのと寸分かわらぬ音で鳴るなら、理論的には、レコードの音というのはただ一つしかない。音を変えるのは演奏者の個性でしかあり得ない。英国製も米国製もない。  そんな日がもしやって来たとして、私は今のようにレコードマニアでいるだろうか? この疑問は、考えれば理屈に合わぬ話だが、即座に、否と答えたい衝動をおぼえる。極端に言えば、こちらの気に入る音で私は鳴らしつづけるだろう。現在、世界にはさまざまなスピーカーや再生装置があり、そのどれもが実は少しずつ違う音色で鳴っている。完璧に原音を再生する技術はないから、そうなるのだと技術者なら言うだろう。だが完璧に原音を再生する機械が完成されたとして、美は、そこだけにしかないものか。現在われわれのレコードで聴いている音楽芸術は、ひっきょう、贋物ということになるのか?  分りすぎている話で今さらめくが、さまざまな再生装置は、極言すればその数だけのベートーヴェンやモーツァルトの音楽をもつ。私の言いたいのは、だからこそ再生装置の吟味に慎重でありたいし、より良いものを欲求するのである。いつも言うことだが、一人の男がレコードを集めるとき、彼の再生装置が、おのずからレコードを選択している。彼自身の好みよりも、この機械のなす選択の方が歳月を経るにつれて、つよい。しょせん、音楽を機械で楽しもうなどという文化人は、機械に復讐されるのかも分らない。レナーやカペーの演奏するベートーヴェンの弦楽四重奏曲は、戦前、レコード愛好家に、最高の芸術と見なされた。少なくとも第五シンフォニーに狂喜する手合いよりはクヮルテットの静謐に壺中ノ天を感知する境地の方が、高級だと言っていた。果してそうだろうか。  なるほど、クヮルテットもわるくはない。しかしカペーが一世を風靡したのは昭和二年頃、ベートーヴェン生誕百年を記念するレコードが初めて電気録音で吹き込まれた時である。レナーはさらにそれ以前である。むろんSPもいいところだ。  ——今、当時の盤で、当時のままのチクオンキで聴いてみるとよい。どれほどそれは貧弱な音を出すか。(カペーではなく、当時発売された交響曲のことを私は言っている。)音はビビり、かろうじて管楽器のソロが鑑賞にたえる程度で、大編成のオケらしく鳴っている部分は一カケラもない。それが大編成らしくきこえるのは音のビビるフォルテの個所だけという、皮肉な有様を呈している。  由来、むかしの日本人は極彩色なものより淡泊なのをゆかしいとか、高級とか思いたがる傾向があった。文学で申せば私小説を純文学と言いたがる人種だ。まんぞくに鳴りもせぬ大シンフォニーよりは、曲趣の鑑賞に支障ないソナタやクヮルテットを、より味わい得たのは当然すぎる話だが、構成の貧弱な私小説が長編小説より高級であるわけがないと同様、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲やトリオが交響曲より優れているわけは断じてない。時に巧拙はあるにせよ、同じベートーヴェンの芸術作品が、一は高級で他は低級などという阿呆な話のあるわけがない。  ひっきょう、明治生れの老生たちにそう思い込ませたのは、蓄音機と録音技術の未熟さによることだった。再生機械が彼のコレクションを変える、ひいては彼の愛好する芸術そのものを制約してゆく、と私の言うのはここである。ことわるまでもなくカペーの演奏そのものをつまらぬとは申さない。カペーの弦楽四重奏曲が神品と賛えられるなら、もし再生装置が大シンフォニーを鑑賞するに支障ない程度に進歩しておれば、当時、カペーと同格の神品とも賛うべき交響曲のレコードが、あったに違いない。録音技術が、音楽そのものを変えてしまったその危険性を、私は言うのである。  岡氏を仕合せな人と私の言ったのは、こういう理由からであった。感銘をうけて聴いた演奏やレコードは、記憶の中で、年を経るにつれて次第に神格化する。まして動脈硬化の、懐古趣味に偏する傾きのあるご老人たちには、カペーの演奏に比肩するレコードは、モノーラル、ステレオを含めて、ついに現われることはあるまい。それはそれで結構だ。だが断言してもよいが、十年後、カペーの演奏は伝説として残るだろうが、そのレコードを求めて聴く人間はいなくなっているだろう。弦楽四重奏曲そのものが、二、三を除いて、今では想像もつかぬほど、精彩を失っているに違いない。ベートーヴェンの精髄を鑑賞するには格別、クヮルテットに頼らずともミサ・ソレムニスや、第七や、第九、ヴァイオリン協奏曲でこと足りる、そういう音楽享受の変化が、時代とともにやってくるだろう。現にナマの演奏を手軽に鑑賞できたヨーロッパで、日本人が考えていたほど、弦楽四重奏曲のリサイタルに聴衆は集まっていない。繰り返すが、ベートーヴェンの音楽で弦楽四重奏曲の大半は、大してぬきん出た作品ではないのだ。  岡鹿之助さんは、むろんSPには造詣も深かったろうが、LPでは、他の愛好家のように苦心惨憺、少しずつ音質を改良して聴くあの苦しみはごぞんじなかった。いきなり高城さんによって、当時日本で求め得る最高の音質を入手なさったのである。いつまでも弦楽四重奏曲に拘泥せずに済む新時代の燭光を、逸早く浴びられたわけだ。『ミクロコスモス』を聴いて、しみじみ私はそう思った。すばらしい音だった。バルトークは再婚して得たペーテル(二男)のピアノ練習用曲にこれを作曲したというが、父親のそんな愛情が《いろいろな調を経過して》《両手のユニゾンで》《分割されたアルペジョ》など、小曲の一つ一つからあざやかに感じ取れる。ウエストミンスター盤(三枚)のこのレコードはその後わたくしも手に入れたが、わが家の当時の装置ではついに岡さんのアトリエで鳴った、バルトークのあのむせぶような父性愛は、ひびいてはこなかった。  もともとバルトークの音楽は私のもっとも忌避する芸術であった。彼の弦楽四重奏曲を、はじめて聞いた時の驚きを私は忘れない。かんたんに申すなら、バルトークは私を気違いにさせたいのか、と思った。そうでなくても何か一本、常人とはスジの狂った神経が自分にあるのを感じている。私は、常に正常でありたいし、こういう言い方が許されるなら目立たず平凡に一生を終えたいとどんなにつとめてきたかしれぬ。それでも最も自分らしくのびのび振舞えたと思えたとき、私の言動は常軌を逸し、人もそう言う。後で私もそう思う、だが常に、後でだ。  そんな常軌を逸し、すじの違った何かをバルトークはことさらに私の内部で拡大し、踏みはずせ踏みはずせと嗾《けしか》ける。ふみはずせばどうなるか、防御本能で私は知っている。俺は破滅したくないのだ、平凡人でいたいのだ……私は心で叫んで抵抗し、脂汗で皮膚がぬめってくるような感じに、なんども汗を拭いた。そんな音楽である。バルトークは周知の通りその作品があまり急進的なため、不評を蒙り、一時は創作のペンを折らねばならなかった、しかし彼はそういう精神的孤立の中で最も自分らしい音楽を書いた、それが第二弦楽四重奏曲だ。当時彼は三十五歳だった。  またそれからの二十年間、彼の充実した時期にその心の内奥を語りつづけたのが全六曲のクヮルテットであり、時に無調的、半音階的、不協和的作風(第四番)を経てヨーロッパを離れる六番にいたるまで、これら六つの弦楽四重奏曲には、つまり巨匠バルトークの個性のすべてが出ている。彼は晩年、貧乏のどん底でアメリカに死んでいったが、悲境のその死を一群のクヮルテットのしらべの中から予感するのは、さほど困難ではない——などと、もっともらしい音楽解説は実はどうでもよいことだ。  とにかく、私はバルトークの弦楽四重奏曲を——はじめに第二番、つぎに四番、六番と——ついにそのどれ一つ、終章まで聴くに耐えられなんだ。 「やめてくれ」  私は心中に叫び、それが歇《や》んだときホッとした。およそ音楽というものは、それが鳴っている間は、甘美な、或は宗教的荘厳感に満ちた、または優婉で快い情感にひたらせてくれる。少なくとも音楽を聞いている間は慰藉と快楽がある。快楽の性質こそ異なれ、音楽とはそういうものだろう。ところが、バルトークに限って、その音楽の歇んだとき、音のない沈黙というものがどれほど大きな慰藉をもたらすものかを教えてくれた。音楽の鳴っていない方が甘美な、そういう無音をバルトークは教えてくれたのである。他と異なって、すなわちバルトークの音楽はその楽曲の歇んだとき、初めて音楽本来の役割を開始する。人の心をなごめ、しずめ、やわらげ慰撫する。私には、バルトークは精神《こころ》に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった。言いかえれば、バルトークの弦楽四重奏曲を終章まで平然と聴けるのは、よほど、強靱な神経の持ち主に限るだろう。人はどうでもよい、私にはそうとしか思えないのである。  そのくせ、バルトークの全六曲の弦楽四重奏曲を、ジュリアードの演奏盤で私は秘蔵している。不幸にして私が狂人になったとき、私を慰めてくれる音楽はもうこれしかあるまい、と思えるし、気ちがいになっても、バルトークのクヮルテットがあるなら私は音楽を失わずにすみそうだ。狂人に音楽が分るものかどうか、その時になってみなければ分らぬが、モーツァルトとバルトークのものだけは、理解できそうな気がする。  そういう意味で、私のこれは独断だが、バルトークは現代音楽でモーツァルトに比肩し得る唯一の芸術家だ。アルバン・ベルクもビラ・ロボスもシェーンベルクも、ついに新音楽《ノイエ・ムジーク》ではバルトークの亜流にすぎない、そう断言してもよいと思う。  ところでそんなバルトークも、幼い者の練習用曲にはハンガリー民謡をピアノのために編曲した。《ハンガリーふうに》《ハンガリーの夜》《つぶやき》《舟遊び》など、『十のやさしい小曲』にはじまるこれら一群の練習曲には紛れもなく平凡な父親がいる。しかも今では明らかなことだが、この練習曲集には、あの恐ろしい第四弦楽四重奏曲、第五弦楽四重奏曲のスケッチと見られる小品が見出されている。民謡を単に編曲したのでなく、どうしようもない音楽家バルトークが、わが子のためにおのれの音楽を編曲した。慰藉は終ったところでしか始まらないあの音楽を。  平凡な父親になろうとした時、彼の音楽の持つ悲劇性が、弦楽四重奏曲におけるよりむしろ『ミクロコスモス』に、より強く出ているのを私は感じ取った。何とまあバルトークはかなしい音楽家だったろう……。  これは、むろん感傷である。あきらかにしかし、バルトークの音楽からこれだけの感傷を引き出すのは、容易なことではない。つまり岡さんのアトリエに鳴り渡った『ミクロコスモス』は、私のうちにこれだけのバルトークを投影した。大事なのはここで、それまで、S氏邸で聴いた『弦と打楽器とチェレスタの音楽』も『ヴィオラ協奏曲』も、こういうふうには鮮明にバルトークを浮き上がらせてはくれなかった。  同じ作曲家の音楽がこれほどに感銘を変えるのは、つまりは、街の技術屋さんが拵える機械ではおよびもつかぬ、音楽への高忠実度性(レンジの忠実度ではない)が、高城氏の技術にはあるからだろう。  その後、あらためて高城氏の門を叩き、三顧の礼をもってS氏も私も、高城さんに再生装置を依頼したが、一時、高城氏はわれわれにとって神のごとき全能の人であった。自由に、英国製アンプやドイツ・テレフンケンの再生装置やスピーカー・キャビネットが入手できる時代まで、こうして、実は高城さん自身をも含めたわれわれオーディオ・マニアの暗中模索はつづく。こんな言い方がゆるされるなら、敗戦国日本は戦争がおわってからも負けているのである。 6 不運なタンノイ  七歳になる私の娘は、近頃ようやくブルクミュラーの練習曲七番あたりを聴くにたえる程度に、弾けるようになっている。家内も娘のころピアノは習ったそうだが、とても聴くにたえるというわけにはゆかない。  ブルクミュラーは一八〇六年にドイツに生れ、六十何歳かで死んだ。フランスのバオーリューという所で死んだように覚えているが、間違っているかもしれない。一八〇六年生れといえばほぼショパンと同時代で、今日、ショパンの名は知っていてもブルクミュラーと聞いて咄嗟にあの情緒ゆたかな二十五の練習曲を思い浮べる人が何人いるか。有体に言えばこの私が、娘の弾く、やさしくて華麗な小品を耳にするまでブルクミュラーなる作曲家がいるとは知らなかった。早速、シュワンのカタログでレコードをしらべると、米国盤だがエチュードが一枚だけ出ている。演奏者はマルチン。ついでに演奏家大事典(音楽之友社版)を引いてみたら、David Martin——「イギリスのヴァイオリン奏者のようである」と出ていた。「ようである」とはかえって正直で、編纂者のずさんさを責める前に、つまり大「音楽之友社」をもってしてもヴァイオリン奏者と間違えるようなピアニストでしかなく、アメリカでもブルクミュラーのレコードは他に出ていないことに、むしろ意味がありそうである。  私の聴き方に間違いなければ、だがこれは実にいい音楽だ。人はショパンのエチュードを言うが、ブルクミュラーのものが格別ショパンに劣るとは私には思えない。弾奏のテクニックの上で、高度なものをショパンのそれが要求するしないは、われわれ素人にはどうでもよいことである。耳で聴いて好い音楽ならそれでいい。子供が弾いてももっとも気持よく聴けるのがモーツァルトなのは、多くの人が知っている。むしろしばしばひとかどのピアニストの弾くモーツァルトより、子供のそれは、純粋にモーツァルトを語りかけるが、純粋という、甚だ曖昧なようで、しかし紛れもなくわれわれの周囲に存在しているもの、日常に失っていてもそれを感じ取ることをまだわれわれの見失っていないもの、言えば幼児の無心さでしか、あらわしようのないものがモーツァルトのソナチネには無数にちりばめられている。——というこういう言い方が、実は一番モーツァルトの顰蹙《ひんしゆく》をかうだろうことも分っているが、ともかく子供にも音楽として弾き得るのが、ブルクミュラーを軽んじていい理由にならないことだけは確かだろう。しかも大方はブルクミュラーを知らない。二十五のエチュードは、彼の百番目の作品になる。あとの九十九曲をわれわれは知りようがない。  しかし、一方では、この二十五曲の小品を聴けばブルクミュラーを知るに十分だという人がいるかもしれず、モーツァルトを弾くのに案外臆病なピアニストが多いように、この二十五の練習曲もモーツァルトの場合と同様こわくて弾けないのかも分らない。モーツァルトのたとえばロンド(K五一一)を、ランドフスカのように見事に弾けないなら、いっそ弾いてくれない方がましだと、われわれは思う。なまじな者が弾けばかえって真のロンドをよごされるとわれわれは思う。そういう作品の愛し方があっていいはずで、したがってなまじな演奏でブルクミュラーをディスクにするのはピアニストには、恥ずかしいのだろうか。もしそうなら、ほとんど無名のマルチンなるピアニストは、この一枚を出したことで全ピアニストの軽蔑をかっているか、絶賛されるに値するかのどちらかだ。——こんなことを私が言い出したのは、個人的理由からにきまっているが、一つには、再生装置への疑問をあらためて考え出したことにもよる。  娘の弾いているピアノはベーゼンドルファーのセミ・グランドで、以前は防音装置をほどこした私のリスニング・ルーム(二十畳)に置いてあった。こんど私は新居に移転し、ピアノは娘の部屋(十畳)に移した。この部屋には防音装置はない。  ところで新しい部屋で弾く娘のピアノの響きと、その美しさは、大袈裟に言えばとうてい同じピアノとは思えない。娘が一朝にして上達するわけはない。つまり部屋の反響のせいである。それでいて、低音部の和音のひびきは、どうかするとこれがベーゼンドルファーかと耳を疑いたくなるくらい、品さがった鳴り方をする。しょっちゅうペダルを踏んでいるように、しつこく余韻をのこすのである。ピアノは正直のところ娘の愛玩用で、《音楽》に彼女が自然になじんでくれるなら、それでよい。だがレコードを聴く私の場合は、ただではすまない。以前私はテレフンケンの今では製造停止になっている大型のステレオ装置で聴いていた。意に満たぬ音なので同じドイツのSABAというのを購った。 「ドイツは堕落した」  と私を長大息させた音であった。そこで今度はクリプッシ・ホーン型キャビネットに納めた英国タンノイのスピーカーを取り寄せた。以前にも私はタンノイ二個を用いてモノーラルを聴いていた。これは、はじめは高城重躬氏の設計になる装置で鳴らし、次に日本製のキャビネットに納めて聴いた。ずいぶん好い音だと自惚れていて、テレフンケンと聴き比べて唖然としたものだ。高城氏を、この時ほど気の毒に思ったことはない。高城氏が悪いのではない。日本オーディオ界の水準の低さ、底の浅さを、高城氏のために嘆いたのだ。あたら高城氏ほどの有識をもってしても、末端のオーディオ技術が未熟ではこんな音でしか鳴らなかったのか、と思った。  さてテレフンケンの音の輝きに恍惚とし、満足し、そのうちステレオが盛んとなるにつれ高音部に不満を見出すようになって、昨秋のヨーロッパ旅行でSABAを得た。  ミュンヘンに世界的に有名な博物館がある。エジソンの発明になる初期の蓄音機から最新のステレオ装置までが進歩の順次に展覧されている。その最新のステレオはテレフンケンではなくSABAであった。私は勇気と喜びをあらたにして日本へ着くであろうSABAへの期待に夢をふくらませた。  さて昨年暮にはるばる海を渡ってSABAはわが家に運び込まれた。それを聴いて、どんなに絶望したか。もう一つの新しいテレフンケンの装置は、工場のほうから、不備の点を発見して製造を中止した旨の連絡があった。私は怏々《おうおう》とたのしまなかった。いまひとつロンドンで聴いたデッカ《デコラ》は、テレフンケンがベンツならロールスロイスではあろう、しかし、これはS氏のもので、今さら同じものを取り寄せることは日本オーディオ界のパイオニアを自負する私の気持がゆるさない。人さまはいい音で満悦至極であるのに、私だけがなんでこうも不運なのか。私がどんな悪いことをしてきたというのか? 私は天を怨んだなあ。  たまたまチューリッヒでスイス人のオーディオ・マニアからHiFi year book(一九六三)なる冊子を贈られていた。オーディオ部分に関するものでおよそ私の知る限りでデータの載っていないものはなかった。何気なくこれを見ていたら、タンノイのホーン型キャビネットに同じ十五インチのタンノイのスピーカー(一個)を容れて英貨百六十五ポンドと出ている。スピーカーのみの値段は三十八ポンドである。私の持っていたのも同じこの三十八ポンドのだが、それをキャビネットに納めて百六十五ポンド。邦貨で輸入して約四十万円だ。  ミスプリントではないかと私は思った。英国人がどんなにケチで頑固かは周知の通りである。ロールスロイスの《デコラ》さえ、セパレーツでならスピーカー・キャビネットともで約十万円。今もってSPのかからぬ電蓄は英国では売れないと言われる。そういう頑迷でケチな市民を相手に、ステレオを聴くためのスピーカー・システムだけで邦貨四十万円以上のものが、果して売れるのか?  ミスプリントに相違ないと思った。しかし念のために調べてみたら、ダブルチャネル・ホーンシステムの有名なクリプッシ・ホーンが百六十五ポンドしている。この二つだけがズバ抜けている。(コンデンサー型で日本でも人気のあるクワードが五十二ポンド。ワーフデールの最も良いもので六十五ポンド。)  半信半疑で私はこの話をS氏にした。S氏もかつてタンノイを和製のキャビネットで鳴らしていた人だ。日本で最初にタンノイを取り寄せたのはS氏だろう。 「英国でミスプリントとは考えられない。百六十五ポンドに間違いないと思う。そんなに高価なら、よほどいいものに違いない。取ってみたらどうだ。かんぺきなタンノイの音を日本ではまだ誰も聴いた者はないんじゃないか」  言われると、虫がおきた。金のなる木を私は持っているわけではないが怏々たる思いをタンノイなら救ってくれるかもしれぬと思うと、取り寄せずにいられなかった。念のために、貴社のタンノイで十全なステレオ効果を得るにはいかなるパーツを使用すべきやと問い合せた。カートリッジは『デッカ』、アンプは『クワード』、アームは『SME』を使用せよとの返事である。いずれもすでに日本に輸入され、店頭に出ている。私は早速指定どおりの部品を用意し、タンノイの到着を待った。  しばらくしてタンノイから塗装の色を指定せよと言ってきた。まかすと私は言った。ふた月ほどして、貴下注文の弊社製Guy R. Fountain Autographはすべての査定に合格し、近日発送の予定と知らせてきた。それから幾日、私は想像し得る限りの美しい音を思いえがき、胸をふるわせたことだろう。  一九六四年七月二十五日、はるばる海を越えてついにタンノイは私の家に届けられた。私は涙がこぼれた。キャビネットへ並んで立つとその高さは長身な私の口もとを越えた。予想以上の大きさである。カサドジュ夫妻と息子の弾くバッハの『三台のピアノのための協奏曲』を最初に掛けた。目の前が真っ暗になった。違うのだ。私の想像していたような音ではない。次にクリュイタンスの『逝ける王女のためのパヴァーヌ』を掛けてみた。全身から血がひいてゆくように思った。バーンステインのマーラー交響曲第五番をきいてみた。バックハウスの『皇帝』を鳴らしてみた。  もう涙も出なかった。私はあわて者だ、丹念さに欠ける人間だと自分で知っているつもりだから、各パーツの接続には十分注意した。少なくとも自分では、したつもりでいた。  なかば自棄になって、こんどはモノーラルをかけてみた。クワードのプリ・アンプは、モノーラルのボタンを押すとスピーカーの片側だけが鳴るようになっている。メイン・アンプの左右どちらかは自動的に消えるのである。なかば自棄だったもので、掛けたのは古いヘンデルのコンチェルト・グロッソ(エドリアン・ボールト指揮)のロンドン盤だったが、鳴り出してあっと叫んだ。夢中で私は家内を呼んだ。  なんといういい音だろう。なんとのびやかな低音だろう。高城氏設計のコンクリート・ホーンからワーフデールの砂箱型、タンノイの和製キャビネット型、テレフンケン、サバと、五指にあまる装置で私は聴いてきた。こんなにみずみずしく、高貴で、冷たすぎるほど高貴に透きとおった高音を私は聞いたことがない。しかもなんという低音部のひろがりと、そのバランスの良さ。古いカサドジュの弾くドビュッシーの前奏曲を次に聴いたが、盤質のよごれているのがこんなにハッキリ(つまり煩わしく)耳を刺したことはない。それでいてピアノの美しさはたとえようもない。  私は勇気を新たにした。もう一度接続をしらべたら、ピック・アップ・コードを挿し違えているのを発見した。それからの、ステレオの、さまざまな試聴のたびに私の味わった狂喜はどんなだったか、これはもう察してもらうほかはない。  ステレオ効果の最も明らかなのは現在の録音では楽器の数のすくないラテン・ミュージックか打楽器を主とした現代音楽というのが私の持論である。フルオーケストラでは録音技術に未だ完璧の臨場感はのぞみ得ない。私はコンガやボンゴを自分でたたくので、とりわけ打楽器の高忠実度性にこだわるのかもしれないが、とにかく私のもつ数枚のスタンダード・ナンバーは申し分ない演奏を聴かせてくれた。こんな俗曲を、タンノイよ、そう一生懸命鳴らしてくれんでもええ、と私は言いたかった。なにか伯爵夫人が私のために、安っぽいナイトクラブのステージでその高貴な衣を脱ぎ捨て、一心に、サービスにつとめてくれるような気がした。しかも彼女はなんと美しく、情熱的で、私を興奮させたことか。  こうなればもう占めたものである。私はブリッテンの『戦争レクィエム』を掛け、オルフの『アンチゴーネ』を掛け、『シェーンベルク集』を鳴らした。気がとおくなるほどうまく鳴った。安心して私は『ワルキューレ』に針をおろした……。  うまく鳴らないレコードがあれば、それは再生装置のせいではなくて録音が悪いという、こういう確信は容易に持てるものではない。ひっきょう、レコード鑑賞にはまず機械への全幅の信頼がなくてはかなわない。右のままで現在に至っていたら、だから私は、日本一の幸運児であったろう。  私は新築の家に移転した。ベーゼンドルファーが別物に聴える家である。娘の部屋は十畳余だが、私のレコードを聴く所は三十畳。うち十畳には一段高くして畳を敷いて客座敷にし、天井には薩摩葭《さつまよしず》を張った。この座敷の障子を開けると三十畳が見通せるようになっている。スピーカーを置いてあるのは絨氈を敷いて応接セットを据えた方である。天井は壁天井である。すべて新築の家は本建築の民芸造りにしたから、この壁のため聚楽土を取り寄せ、これを塗る左官を京都から呼んだ。おかげで実にしっとりと深味のある東京では見られない好い壁色が出たが、壁に、いまさら防音テックスを張るわけにはゆかんではないか。  それに、ステレオの効果をあげるためには或る程度の反響を部屋にもたせることは必要であり、天井は高い方だから以前のリスニング・ルーム以上に素晴らしい音で鳴ってくれるだろうと、期待するのが当然だと思う。  これが、案に相違して、エコーのひどい、きくに耐えぬ音だった。キャビネットの位置をどう変えようともエコーは消えない。すっきりした、スピーカーから出る純粋な音だけを聴かせてくれた以前と違い、楽器の音それぞれにエコーの幅がついている。したがって低音はこもり、風のようにさわやかに抜けてくれない。もごもごしている。私の最も軽蔑する低音なのである。  二十から二万サイクルをほぼフラットに再生すると公表されているスピーカー・システムだ。カートリッジをデッカからオルトフォンに替え、シュアーV一五にかえ、ADCも鳴らしてみた。アンプもマランツにかえた。私はオーディオの素人ではあるが、もう十年ちかくこの道では泣いてきている。あらかたの世界的著名な部分品は試聴している。そのたびにヌカ喜びし、失望している。またひとつ、そんなヌカ喜びから醒めたと言えばそれまでだ。しかしもうそういうことで片づく問題ではないように思う。タンノイが最高水準をゆくスピーカーであることに疑いはないし、事実それの置かれた前の部屋では、完璧に鳴ってくれていた。悪いのは装置ではなく今度の部屋だ。私はそう思う。ここに問題がありそうに思う。  試みに、タンノイとは聴き比べようもなく音質のキメの荒かったSABAを、こんどの新しい部屋で鳴らしてみた。実にふくらみのある、気持よく澄んだ音で鳴った。むろん、前のリスニング・ルームで聴いたタンノイの気品のある音質にはおよばぬが、このサバを初めから新築の家で聴いておれば、私はけっこう満足したろう。  それぐらい、部屋によってステレオの音は変る。音響効果ではなく、音自体が変る。読者諸賢にこのことを知ってほしいと思う。当然考えられることだが、防音装置など施して聴く毛唐はいないのだ。よほどのマニアでない限り、日本人だってそうだろう。住宅を音響効果のため、改築するだけの経済的余裕のある人は限られている。ふつうの家に住んで、ふつうの壁ぎわへ据えて聴くようにSABAは設計されていた。防音装置さえ施せば音がよくなると、素人考えで思い込んだ私の方があわて者なのである。ベーゼンドルファーの音のかがやきがこれを端的に表明しているように思う。念のためもう一度HiFi year bookをしらべたら、私の聴いているスピーカー・システムは、スタジオ・モニター用に放送局で使用するためのものだと、明記されている。放送局なら防音装置は完璧だろう。げに以前のリスニング・ルームの方が優れていたわけである。  こうなれば、私は、再び防音装置の試聴室を建てねばならない。こんどの家を新築するのに、二年かかっているがまだ塀もできていない。数寄屋大工が三人、二年越しに庭に建てた飯場で、今もコツコツまだ仕事をしている。私には借金こそあれ一文のたくわえもない。しかし建てねばなるまい。何年かかるか、タンノイをかんぺきに鳴らすために、高貴な婦人をいわば迎えるにふさわしい部屋を私は用意せねばならないだろう。それが愛情の責任というものだろう。  ついでだが、テレフンケンの工場から、私がボロクソに言った《ヒムナス》の製造は停止したが、これなれば十分な立体感により貴下の満足を得るであろうと、Opus 5430なる装置を紹介してきた。送ってみろと言っておいたら、この十月はじめ、横浜港に着いたそうである。移転の慌しさに紛れて家へは運ばせていない。そのうち来るだろうと思う。FMのステレオ放送を主に私は聴きたいので買ったが、値段は安かった。  どんな音がするだろう。テレフンケンのラジオの音質には定評があり、テキも私の悪口を承知で送るというのだから、自信はあるに違いない。SABAとの比較も楽しみである。タンノイが不運なことになっている現在、ようやく私はそうした期待でみずからを慰めている。 7 タンノイについて  レコードで音楽を聴く場合、音楽を流しているのはスピーカーではなく、スピーカーは単に振動するコーン(紙)にすぎない、鳴っているのは実は部屋の空気そのものだ、ということにようやく私は気がついた。  ことわるまでもないが、こちらはHi・Fi技術には素人だから、一個のスピーカー——そのレスポンスがいかほどで、磁力がどれほど優秀であろうと、つづまるところこの耳で良し悪しを聴き分ける以外にない。よいものが良くきこえれば文句はない。しかし人には各自に耳くせというものがある。癖は一朝一夕に改まらず、ものの良し悪しをしばしばこれで判断する。  一昨年秋、西ベルリンを見物したときに、私の目に最も印象深かったのは多くの人が言うような東西ドイツの現状ではなく、荒廃した、戦災時そのままな廃墟に残っている日本大使館ビルの、正面玄関に燦然と輝く菊の御紋章だった。  ベルリンを旅行した人なら知っていようが、この建物(その残骸)の周囲には金網がめぐらされ、ヒットラーの官舎や、他のナチスの重要な建物同様、いまだ修復の手を加えず捨てられている。西ドイツの繁栄は、こういう恥部をさらしものにせねば齎されなかったのか? ヨーロッパを旅行して、私はしばしば日本がいかに彼らにとって関心のない国であるか、ということを知った。日独伊三国同盟などと騒いでいたのは東洋の一小国のわれわれだけで、少なくともドイツ人は日本との同盟をあてにあの戦争をしたのではない。彼らは、ドイツだけが全世界を相手にするぐらいの心づもりで戦争をおっ始めた、ということを、痛切にドイツ人に接して私は知らされた。ドイツをかつての同盟国と思っているのはわれわれ日本人だけだ。おしなべて西洋を重視する(事大主義的とすら言える)われわれの欧米偏重の習性に、これは由来する感情だろうが、ともかく、ドイツ人とは「一緒に戦った」といった或る種の慣れ合いが、私ら戦中派の人間の内部になかったとは言えない。  見事すぎるくらい、そういう慣れ合いの感懐を私はドイツの市民に接して粉砕され、あらためて、目を日本の当時の軍部に向けた。ともに戦いともに敗れた戦後ですら、ドイツ人は日本に無関心なのである。イタリアへは「裏切られた」としばしば憤りの口吻を洩らしたが、日本についてドイツ市民一般が関心しているのは『ソニー』と『ホンダ』くらいのものだ。ひっきょうは、日本はまだその程度の国家でしかない。  戦前とて同様でなかったわけはあるまい。それでもわれわれはゲーテを読み、ベートーヴェンを聴くことで彼らになじんだつもりになり、無意識に、彼らドイツ人もまたそんなわれわれを知ってくれている、と思っていた。お人好しな話だが、この思い過し、認識の落差を当時訂正してくれた一人の政治家、ドイツ文学者、軍人がいたろうか? 「知らしむべからず」が封建以降、今に変らぬ政治家の感覚らしいから、日本がどの程度ナチス・ドイツに認識されているかを知らされなかったのはやむを得ないとしよう。しかし、同盟を結ぶとき、ドイツ人にいまだ認識されるに値せぬ日本であることを、政治感覚で、当時の外務大臣や大使や首相が知らなかったはずはない。それでもあたかも強大国のごとくナチス・ドイツに支持される日本だと、われわれに思い過させた外相や首相を、人間的良心の欠如の点で、私は悪《にく》む。日本人らしい羞恥心はなかったのかと憎むのである。  荒涼たる日本大使館跡に立ったとき、私の胸に去来したのはこういう当時の政治家たち、政治を煽動した軍人の、良識の欠如に対するいきどおりであった。つまりは、日本人たるわれわれの思いあがりへの怒りだ。しかも菊の御紋章は、廃墟の中で燦然たる輝きを失っていなかった。かつての大日本帝国の栄光は今、世界中で、ここだけに残っている——そう思えたくらいである。ベルリン市民が東西に分離される状況を、悲惨より、むしろ滑稽と私は見たが、同様に燦然たる御紋章が、涙の出るほど滑稽に見えたことだった。何はさて置き、この御紋章を取り除く羞恥心さえ今の日本人にはないのであろうか。  西ベルリンを訪問して、こういう見方をする私は人間だ。東西ドイツの境で、西側の立哨《りつしよう》兵の望遠鏡をかり、東側の衛兵を拡大して私は覗いて見た。向うでも驚いて私の着流し姿を双眼鏡で覗いていた。向うはソ連の将校らしかった。彼我に三十メートルの距離しかないのにたがいに双眼鏡で覗き合う、これが滑稽でなくて何だろう……私には、そう思えるのである。いわばこれは私の目の癖である。  耳について言えば、弦のユニゾンを金属的にではなくて、風にそよぐ茫《すすき》のように、颯々と爽やかに鳴らすスピーカーを私は好む。英国の音——たとえばGoodmansはロンドン盤のスイス・ロマンドの弦音に適応した鳴り方はするが、それはチリ、チリと高音域が鳴るので、風のごとく吹き抜けるというわけにはゆかない。Stentorianは高音域がより繊細ではあるがやはりチリ、チリである。Wharfedaleのトウィーターの音には砂金が混っている。Lowtherは砂金の粒子がこまかくなり米国人の好みにちかいと言うべきか。ElacやFaneのモデル三〇一型(受話器のダイヤルそのままに十二の孔から高音が鳴るようになっている)はしょせんはマニアに無縁だろう。さてそういう英国製スピーカーの中で、最初、もっともエクセントリックにチリ、チリした高音をきかせたのがTannoyであった。テレフンケンの超大型ステレオ装置(S八型)を入手するまで、私はこのタンノイをJ・B・ランシングのウーファー付きで鳴らしていた。アンプは高城氏の製作によるものだった。今から思うと、テレフンケンの高音域のレンジはあまりのびていない。総じてカタい音である。しかしそれがいかにもドイツ的な、かつ透き通った硬質ガラスを通して光明な風景を眺める感じで聴きとれたのは、こちらの耳がタンノイのエクセントリックな高音(ジュラルミン振動音)に慣れていたためだと、後になって気がついた。——話はここから始めねばならない。なんのことはない、テレフンケンの音もまたエクセントリックなものだったからである。耳に癖が残っていたのである。  テレフンケンの工場から、旧臘、「貴下の満足を得るであろう」とOpus 5430 MX型を送ってきた話は前に書いた。これはFMステレオの受信のために推称してきたもので、レコードプレイヤーの接続端子はついているが、申せばラジオだ。私の友人でレーダーの製作にたずさわる技術者——かつはHi・Fi仲間であるT君の言によると、なるほど最新の弱電技術を結集したレシーバーだそうである。また新しいだけに前のS八型よりは音は良いだろうと言ってくれた。  肝心のその音である。たしかに旨《うま》いこと鳴っている。国産のステレオ装置で最新盤のレコードをかけてもこうはゆくまい。音にひろがりがあり、かがやきがあり、楽器の分離がよく到底ラジオのステレオとは思えない。が、所詮はタンノイ・オートグラフで聴く音の比ではない。  だいたいタンノイのスピーカーほど、日本の愛好家に誤解されているものも珍しい。タンノイというスピーカーは、スピーカーだけ買ってもなんにもならないので、folded hornに収められてはじめて性能を十全に発揮する。十五インチのスピーカー一個が約七万円、それを収めたエンクロージアを日本で入手して約四十万円。箱だけでスピーカー四個分より高い。  こんなベラ棒な商法は日本では通るまい。したがって純正のfolded hornに収められたタンノイを、ほとんどの人は聴いていないと言っていい。高音部がエクセントリックだと私は前に書いた。和製のキャビネットに収めていたからだ。folded hornで聴くと、微風のように吹き抜けて鳴るのである。その音のひろがりと美しさには、声をのむ。実際に聴かねば信じられないほどだ。底知れぬ深淵に落下するのが見えるような、果てしなく延びのある低音。私は随喜し、こういうスピーカー・システムを黙って売っている英国人の腹芸、むしろ老獪さといったものに改めて思い当った。こんなベラ棒に高価なシステムがイギリスでもそうそう売れるわけはないのだ。大方はわれわれ同様スピーカーだけを買い、ただのバスレフ型かコーナー・キャビネットに収めて聴いているに違いない。そのエクセントリックな高音に泣かされているに違いない。しかしそれは、金惜しみする方が悪いので、指定のホーンでさえ鳴らせば文句のつけようのない、現今のHi・Fi装置が再生し得るトップクラスの音質をきかせてくれるのである。  一度この音を聴いた人はタンノイへの賛嘆を惜しまぬだろう。そうして財布の底をはたいてタンノイにイカれ、スピーカーのみを買うだろう。結果は、せっかくのモーツァルトやバッハの名曲が、弦音のみキンキンとび抜けた異常さできこえる妙な音楽を聞かされる仕儀となる。中音部は不協和音かと耳を疑うし、低音部だってうーん、うーんと、どんごろすを棍棒で叩いたような奇怪な唸りが間歇的にきこえるばかりだ。そういうタンノイに失望して、私はもう十年を過してきた。  くり返すが、folded hornではその耳を刺す高音が真綿の弦を、絹で撫でるように柔らかく聞える。同じスピーカーがである。スピーカーというのはそれ自体は単なる一機能にすぎず、函全体が、さらに優秀なのは部屋の空気の隅々が音楽を満たすようにできているものだということを、こうして私は知ったわけだ。専門家なら、はじめから分りきったことというにきまっているが、しかし、実際に、空気全体が(キャビネットやましてスピーカーがではない)楽器を鳴らすのを私は未だかつて聴いたことがない。鳴っているのはスピーカーでありキャビネットであった。今、空気が無形のピアノを、ヴァイオリンを、フルートを鳴らす。これこそは真にレコード音楽というものであろうと、私は思うのである。  むろんこうした室内の空気自体に楽器を奏さしめるためには、各部分品(カートリッジ、アーム、アンプ)に品質劣化が伴ってはならない。ほぼ、私はこの諸条件を、今は満たしていると思う。その上での話だが、右の、OpusのFMステレオ放送を聴いて痛感したのは、妙な言い方だが楽器がより広域のレンジで、鮮明にきこえるおもしろさと、音楽それ自体のもつ芸術性とは、レコードの世界ではまだ別だということだった。私はワグナーが好きで、たとえばフルトヴェングラーの『ワルキューレ』とラインスドルフのステレオ盤をもっている。フルトヴェングラーのはむろんモノーラルだが、現今、ワグナーを真正にきかせてくれる指揮者はフルトヴェングラー以外にはあるまいと当時思っていた。『ワルキューレ』第三幕だけは、LP初期にカラヤンの振ったのを幾度か聴いたことがある。ワグナー指揮者としてのクナッパーツブッシュを無視するわけにはゆかないが、しかし当時、フルトヴェングラーの『トリスタンとイゾルデ』全曲をきき、『ワルキューレ』をきいた時には、もうもう他のワグナーはいらぬとさえ思ったものだった。  最近になって、ワグナーのステレオ盤が相ついで欧米でも発売されている。ステレオは、ワグナーとマーラーを聴きたくて誰かが発明したのではあるまいか? と思いたくなるくらい、この二大作曲家のLPはステレオになっていよいよ曲趣の全貌をあらわしてくれた。それでも、フルトヴェングラーとラインスドルフを聴き比べ(フルトヴェングラーのは米国では廃盤。ショルティやカラヤンのワルキューレ全曲盤は、この時はまだ出ていなかった)ステレオのもつ、音のひろがり、立体感が曲趣を倍加するおもしろみを尊重しても、なお私はフルトヴェングラーに軍配をあげる。音楽のスケールが違う。最もステレオ的な曲と思えるワグナーでさえ、最終的にその価値をとどめるのは指揮者の芸術性だ。曲の把握と解釈のいかんであって、これまた、当然すぎることだが、しばしばそれがレコードでやってくる場合、装置の鳴り方いかんが指揮者の芸術を変えてしまう。  さてわれらのタンノイである。たとえば『ジークフリート』(ショルティ盤)を聴いてみる。この曲のステレオ全曲はショルティの指揮したものしかないが、「剣の動機」のトランペットで前奏曲が「ニーベルングの動機」を奏しつつおわると、森の洞窟の『第一場』があらわれる。小人のミーメに扮したストルツのテナーが小槌で剣を鍛えている。鍛えながらブツクサ勝手なご託をならべている。そこへジークフリートがやってくる。舞台上手の洞窟の入口からだ。ジークフリートは粗末な山男の服をまとい、大きな熊をつれているが、どんな粗雑な装置で掛けても多分、ミーメとジークフリートのやりとりはきこえるだろう。ミーメを罵り、彼の鍛えた剣を叩き折るのがヴィントガッセン扮するジークフリートの声だとも分るはずだ。しかし、洞窟の仄暗い雰囲気や、舞台中央の溶鉱炉にもえている焔、そういったステージ全体に漂う雰囲気は再生してくれない。私は断言するが、優秀ならざる再生装置では、出演者の一人一人がマイクの前にあらわれて歌う。つまりスピーカー一杯に、出番になった男や女が現われ出ては消えるのである。彼らの足は舞台についていない。スピーカーという額縁に登場して、譜にある通りを歌い、次の出番の者と交替するだけだ。どうかすると(再生装置の音量によって)河馬のように大口を開けて歌うひどいのもある。  わがタンノイでは絶対さようなことがない。ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口が歌うのだ。どれほど肺活量の大きい声でも彼女や彼の足はステージに立っている。広いステージに立つ人の声が歌う。つまらぬ再生装置だと、スピーカーが歌う。  器楽においてもこれは同様だろう。約五百枚のレコードを私はもっているが、繰り返し繰り返しタンノイで聴き、いわゆるレンジの広さ、そのバランスの良さはボリュームにはかかわりなく楽器そのものを、むしろ小さく感じさせる、ということを知った。私はタンノイ二基をdual concentric unitとして、約五メートル間隔で壁側においている。壁にはカーテンを垂らしている。ワルキューレやジークフリートはこの五メートル幅の空間をステージに登場するのである。部屋中に満ち溢れる音量——なぞいう安物ステレオ会社の宣伝文句、あんなものは真赤な嘘だ。だまされてはならない。出力ワットやボリュームはdb(デシベル)で表現さるべきものであって、音域の充溢感とは無関係だ。安物のステレオ装置ほど、どうかすれば部屋中割れるような音を出す。あれは音量の洪水であって音楽ではない。音楽は、けっして洪水のように鳴るわけはない。銘記せねばならぬ。  新着のテレフンケンOpusは、この点、さすがにうまくはできていた。音質の固さはドイツ特有のものだろうが、その録音テープをタンノイで鳴らすと、サバより違和感のはげしいのは、つまりドイツ的個性と英国のそれとの差違によるものだろうとおもいたくなるくらい、サバは明らかにアメリカナイズされた音である。言い換えると、ドイツの技術では二流品の音である。目下のところ、弱電技術でまだナマの音はとうてい再生し得ない。しょせんはらしさを出すにとどまる。Aの楽器をそれらしく出すにとどめるか、全体のハーモニーをえらぶか、それを選択するのは教養だろう。同じピアノでもベヒシュタインとベーゼンドルファーでは違う。ピアノという楽器の音でも、この違いはそれを選択する者の生き方の違いにつながる場合だってある。単に音とは言え、こわい話だ。そういう生き方につながる意味でも、わたくしはタンノイをえらんだ。わたくしのくさぐさなレコード遍歴は、もう一度、このタンノイを聴くところから出発することになろう。 8 少年モーツァルト  この間、新宿の有名な古レコード屋に寄ったら、モーツァルトの初期のシンフォニー(第一番から二十番まで)の五枚が出ていた。中古ながら「新品同様」なのは古レコード屋のきまり文句で、こういうレコード(米ウエストミンスター盤)を最初に求めた人がそう無茶な掛けようはすまい、盤質もさほどいたんでいるとも思えなかったので、ともかく購った。指揮はラインスドルフ。彼はこれ以降もつづけてモーツァルトの全交響曲を、同じロンドン・フィルを指揮してウエストミンスターから出している。たしか全十二集にわたっていたと思う。私の求めたのは第一集(一番から五番)、第二集(六番〜九番)および五集(十八、十九、二十番)だったが、ラインスドルフの指揮は奇をてらわず、至極あたり前に演奏していると、英国グラモフォン誌で読んだおぼえがあり、モーツァルトが最初の交響曲をどんなふうに創ったか、いわばその興味で買ったものである。(多分、このレコードをはじめに求めた人もそうだったろう。それを売りとばしたのは、曲がつまらないか、演奏がまずいか、音が悪いかのいずれかだ。金に困って売る人ならもともと、こういうレコードは買うまいと思う。)  古レコード屋に出ていたから、実は私は求める気になったので、シュワンのカタログから特にこれを選んで買う積極さはなかった。買ったにしても多分第一集と二集くらいだったろう。——その点、初期の二十番までを全部取り寄せたのは、どこの誰か知らないが偉い人である。ついでに言えば、わが家で聴いて気に入ったので残り二枚も購めに行ったら、もう売り切れていた。かくれた、熱心なモーツァルト・ファンはずいぶんいるのである。うれしいような、惜しいような気持であった。  さて交響曲一番(変ホ長調)だが、各二つのオーボエとホルン、弦楽部で編成されている。モーツァルト八歳の作という(K一六)。これを聴いて、今さらながらモーツァルトが神童であったのを知らされた。誤解のないよう言っておくが、わずか八歳でこれだけの交響曲を作ったから、彼を天才というのではない。五歳や六歳で、とんでもないあっ晴れなことをやってのける子供は実はざらにいるものだ。年齢は芸術を判断する基準にはならない。六歳で、大人もおよばぬ作品を創り出した少年が、二十歳すぎればただの男にすぎぬ例はざらにある。モーツァルトが偉大なのは、後期の作品と同じものを、八歳で作っていた、という点にある。これはまさにあり得べからざる驚嘆すべきことである。  たとえば交響曲第三番(K一八)を聴いてみれば分るが、その第一楽章モルト・アレグロの第一主題に、そのまま『リンツ』第一楽章のあの華麗な展開部——ヴァイオリンのうたうパッセージが続いても、人は怪しまないだろう。周知の通り『リンツ』はモーツァルトが二十七歳の夏、妻とリンツを訪れたときの作品で、父親への手紙では「トウン伯爵に新しい交響曲を作曲するよう依頼されました。目下、その作曲に無我夢中です。」そしてわずか三日間で書きあげたものである。『リンツ』はK四二五である。たしかに、無我夢中でそれは作られたものだろう。——むろん『リンツ』には、アダージョの管弦楽全奏の和音からくる序奏部が付いている。モーツァルトが序奏をつけたこれは最初の交響曲だ。そういう年齢的・技巧的成熟はあるかもしれぬが、音楽そのものは八歳の時とまるで変っていない。芸術的に成長がとまったということはモーツァルトには当て嵌まるまい。彼の後期の交響曲——『ハフナー』から『プラハ』を経て『ト短調』『ジュピター』にいたる——世に彼の六大交響曲と呼ばれるものの『リンツ』は二番目の作品である。いってみれば、人類がこれまで持った、最も傑出したシンフォニーをモーツァルトは晩年にのこしてくれたが、それと全く同程度のものを、八歳の時もう作っていたわけになる。  これはどういうことか。たとえば森鴎外や鉄斎の晩年の作——それがどれほどすぐれているかをわれわれは知悉している。ゲーテの『ファウスト』にしてからが、こう言っていいなら、年輪を経て、はじめてなし得る仕事だったろう。いかにゲーテや鉄斎が偉大でも、『ファウスト』や『富嶽図』を八歳の時に書けようとは思えない。ところがモーツァルトは音楽でそれをやっている。つくづく初期の交響曲を聴いて、私はそのことを痛感した。まさにimprobable(ありそうもない)神童だ。——と同時に、十歳くらいな鼻たれ小僧が少々なことをやっても天才などと呼んではならぬ。五十年、六十年の生涯をかけて、その晩年にいたって、ある確かな仕事をしてこそ彼に神童の名を冠し得る——ということを、少年モーツァルトに私は教えられた。天才とは努力する才だという、ゲーテの言葉が、ゲーテのどんな心情から洩らされたかを、はじめて知ったように思う。  レコードに関していえば、ラインスドルフのこの盤はつまらない。第一、音が悪い。しかし変ロ長調(第二交響曲)のメヌエット、プレストにつづいて右の第三交響曲のモルト・アレグロ、アンダンテ、第四の両端楽章、第五シンフォニーでは同じく初楽章のモルト・アレグロからアンダンテと、モーツァルトの全作品に共通なあの声を、いたるところで聴くことができる。それはもう偉大な音楽の萌芽などというものではなく、音楽そのものだ。死ぬまで、モーツァルトは神童だったという言い方が、間違いでないことがよく分る。その意味でもこのウエストミンスター盤、とくに第一集はモーツァルト・ファンならぜひきいてみるとよい。(音質はわるいが、モーツァルトの第一から七番までの交響曲のレコードは、目下のところラインスドルフ盤しかない。)  私は小説家だから、文章を書く上で、読む時もまず何より文体にこだわる。当然なはなしだが、どれほどの評判作もその文体が気にくわねば私には読むに耐えない。作家は、四六時中おなじ状態で文章が書けるわけはなく、女を抱いた後でつづる文章も、惚れた女性を持つ作家の文章、時間の経過も忘れて書き耽っている文章、またはじめは渋滞していたのが興趣が乗り、夢中でペンを走らせる文章など、さまざまにあって当然だが、概して女と寝たあとの文章と、寝るまでの二様があるように思える。寝てからでは、どうしても文体に緻密さが欠けている。自他ともに、案外これは分るものだ。女性関係に放縦な状態でけっしてストイックなものが書けるわけはない。ライナー・マリア・リルケの『マルテの手記』や、総じて彼の詩作は、女性を拒否した勤勉な、もしくは病的な純粋さで至高のものを思わねばつづれぬものだろう、と思ったことがある。《神への方向》にリルケの文学はあるように思っていた。私はリルケを熱読した。そんなせいだろうか、女性との交渉をもったあとは、それがいかほど愛していた相手であれ、直後、ある己れへの不潔感を否めなかった。なんという俺は汚ない人間だろうと思う。  どうやら私だけでなく、世の大方の男性は(少なくともわれわれの年代までに教育をうけた者は)女性との交渉後に、ある自己嫌悪、アンニュイ、嘔吐感、虚ろさを覚えるらしい。そういう自己への不潔感をきよめてくれる、もしくは立ち直らせてくれるのに、大そう効果のあるのがベートーヴェンの音楽ではなかろうか、と思ったことがあった。  音楽を文体にたとえれば、「ねばならぬ」がベートーヴェンで、「である」がバッハだと思った時期がある。ここに一つの物がある。一切の修辞を捨て、あると言いきるのがバッハで、あったのだったなぞいう下らん感情挿入で文体を流す手合いは論外として、あるとだけでは済ませぬ感情の盛り上がり、それを、あくまで「ある」でとどめるむずかしさは、文章を草してきて次第に私にも分ってきた。つまり、「ある」で済ませる人には、明治人に共通な或る精神の勁さを感じる。何々である、で結ぶ文体を偉ぶったように思うのは、多分思う方が弱くイジケているのだろうと。——なんにせよ、何々だった、なのだった、を乱用する作家を私は人間的に信用できなかった。  シューベルトは、多分「だった」の作曲家ではなかろうかと私は思う。小林秀雄氏に、シューベルトの偉さを聞かされるまでそう思っていたのである。むろん近時、日本の通俗作家の「だった」の乱用と、シューベルトの感情挿入は別物だ。シューベルトの優しさは、だったで結べば文章がやさしくなると思う手合いとは無縁である。それでも、ベートーヴェンの「ねばならぬ」やバッハにくらべ、シューベルトは優しすぎると私には思えた。女を愛したとき、女を抱いたあとにシューベルトのやさしさで癒やされてはならぬと。  われながら滑稽なドグマであったが、そういう音楽と文体の比喩を、本気で考えていた頃にもっとも扱いかねたのがモーツァルトだった。モーツァルトの音楽だけは、「ねばならぬ」でも「である」でもない。まして「だった」では手が届かない。モーツァルトだけは、もうどうしようもないものだ。彼も妻を持ち、すなわち妻と性行為はもったにきまっている。その残滓《ざんし》がまるでない。バッハは二人の夫人に二十人の子を産ませた。精力絶倫というべく、まさにそういう音楽である。ベートーヴェンは女房をもたなかったのはその音楽を聞けば分る。女房ももたず、作曲に没頭した芸術家だと思うから、その分だけベートーヴェンに人々は癒やされる。実はもてなかったといっても大して変りはないだろう。  だがモーツァルトの音楽には、そういう生ま身の手がかりはまるで掴めない。よく言われる通り、天空を翔《か》けている。以前はそう思った。しかし考えれば、三十五歳の生涯を終るまで神童でありつづけることが、人間くさいベートーヴェンや二十人の子をもうけるバッハに比べ、悲惨でないわけがあろうか。俗事に偏して言うのではない。モーツァルトだって生ま身の人間だ。パンを食い葡萄酒をのんだ。その音楽が美しすぎるから、彼は天才だから俗事にかかわらないだろうと思い込むのは、モーツァルトを好意的に誤解してゆくだけだろう。モーツァルトが美しいのは、彼が紛れもなく一七五六〜一七九一年の間この地上に生きていたことによる。これを見落しては、スタンダールの言うモーツァルトの音楽の根底にあるのは、かなしみだ、という意味は分るまい。モーツァルトにもわれわれ同様、身辺に俗事の煩わしさや辛苦はいっぱいあったにきまっている。一般には一七八二年から一七八四年の二年余が、その最も悲惨な時期ということになっている。  一七八二年といえば、右の『リンツ』のできた前の年だ。父親の猛烈な反対を押しきってコンスタンツェと結婚し、モーツァルトの生涯で最大の転機となったザルツブルクの大司教ヒエロニュムト・コロレド伯と袂《たもと》をわかって、ウィーンに定住し音楽家としての新生活に入った翌年である。この新しい環境で確かにモーツァルトは創作意欲を燃やし、多くの傑作をこの時期の彼にわれわれは見ることができる。しかし『リンツ』が作られたのは、妻コンスタンツェの語るところによればモーツァルトのはじめての子供(男児)が出産二カ月後に、死んだ後である。有名な六曲のハイドン・クヮルテット——献辞のなかで、「これらの子供たちが私の長い間の辛酸の結実であることを信じていただきたい」とハイドンへ言い、「私は彼らに対する自分の権利を、この時以後あなたに譲ります。父親の偏愛で見落している欠点があっても、大目に見ていただきたい」と愬《うつた》えた六曲の、最初の傑作ト長調(K三八七)が作られたのもこの時期である。作品を《我が子》と呼ぶ習慣にわれわれは慣れすぎていないだろうか。最初の男児の死がなかったら、モーツァルトがそう呼んだかどうかは分るまい。  正確には、男児の出産中に作曲されたのはト長調の次のニ短調(K四二一)だった。ト長調ほどの名曲ではないにせよ、そのアレグロに見る憂いにとざされた第一主題がモーツァルトの実生活に無縁とはもう思えない。生涯、夫の偉大さを理解しなかったばかりか、そのわがままからモーツァルトの死期を早めたとさえいわれる妻との、生活を支えるために弟子を取ったり、演奏会をひらいたり、気乗りのせぬ貴族の作曲依頼にこたえたり、借金の申込みに寧日なかった時代である。つまりそんな経済的苦しさが、しだいに彼の健康をむしばみ、「結婚によりモーツァルトは創造力の一部を奪い去られた」(シューリヒ)とまで、見当ちがいな理解をうける仕儀となった。甚だしいのになると、モーツァルトの音楽生活に彼女は何ほどの寄与もしていない女だ、などと言われる。  当り前だ、女房の内助の功でいい作品が作れるような才能なら、もともとタカは知れている。たしかにコンスタンツェは悪妻だろうが、父親や姉の反対を押し切って彼女をえらんだのは他ならぬモーツァルトであり、つづまるところ彼女がモーツァルトには美しく見えた。そういう審美の目をもつ男だから、あれだけの作品を作るのである。彼女を悪妻だと非難するのは要らぬことだ、モーツァルトは父親に言ったろう、「ぼくを分ってくれないのですか?」と。 「ぼくは怒りで血もたぎりたつばかりです。親愛な父親もきっと同じ状態においででしょう。ぼくはこうして働くほどの不仕合せに二度とあわないと信じます」そう言って、大司教のもとに過したザルツブルクに決然と別れを告げ、自分の才能のみを頼りにウィーンの新しい生活へ踏み出したモーツァルトだが、そこで蒙った苦境のいくぶんかをでも、妻のせいにするような男なら、かさねて言うが、あんな作品が書けはすまい。  弦楽四重奏曲の傑作・K三八七や『リンツ』のほかに、モーツァルトは五曲のピアノ協奏曲と歌劇『後宮よりの遁走』をこの期間に書いている。ピアノ協奏曲のうち初めの三曲(K四一三、K四一四、K四一五)を聴いたとき、私は思わず涙が出た。これら三曲は、のちのウィーン後期の傑作と比較すると、いずれもきわめて穏健なサロン風スタイルをまもり、ウィーンの保守的聴衆の好みを驚かさぬよう、慎重な配慮がはらわれている。モーツァルトほどの天才でも、生きるためにはこんな遠慮をしていたのか! ハ長調(K四一五)の終楽章ロンドに至ってようやく彼らしい精彩の天翔けるのに接すると、よけいにこの感を深くする。 『後宮よりの遁走』は、ウィーンに移って間もなく、台本を手にし、翌年三月に出来上がった。初演は大成功だった。ヨーゼフ二世(のちにモーツァルトに宮廷作曲家の称号を与えた)が、この歌劇について、「音符が多すぎるようだ」と評したらモーツァルトは胸を張って、音符はちょうど必要な量だけ使ってあると答えた逸話があるそうだ。ニッコリわらって答えることがもうこの時はできたのだろう。しかし歌劇としては『魔笛』や『フィガロの結婚』にくらべ、大そうつまらない。ほかにモーツァルトは十二歳で最初のオペラを作曲し(『バスティアンとバスティエンヌ』K五〇)ついで、いわゆるオペラ・セリアの三幕物『イドメネオ』(K三六六)を書いた。まだモノーラルのLP初期(昭和二十七年)に、ハイドン・ソサエティの米盤で『イドメネオ』を聴き、これがモーツァルトかと、あきれたことがある。まるでうまくなかった。モーツァルトだってこんな才能の浪費をするんだなあと、妙に感心したのを覚えているが、この原稿を書きながら、念のため、今は廃盤になっている古レコード(ザリンガー指揮、ウィーン交響楽団、同国立歌劇場合唱団)を取り出し、聴き直してみた。いかにわが家のタンノイでも、こればかりはどうしようもない。録音が古すぎるからではなく(たとえばSPから再録したシゲティの、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第三番など、これがSPの再録かと耳を疑うほど華麗に、澄んだ音でわが家のタンノイは鳴ってくれるのだ。)この古盤の裏面には『イドメネオへのバレー音楽』も入っているが、最も有名なその中のガボットを聴いても特にモーツァルトでなければならぬという気はしない。しいて言えば、ここには『魔笛』や『ドン・ジョヴァンニ』以前の明らかな未成熟がある。八歳で後期の傑作に遜色ないシンフォニーを書いた神童にも、人間らしい成長の過程や好不調はあった、と知らされる意味で、天才への一つの手がかりを遺している音楽である。  未成熟といえば、『後宮よりの遁走』につづく『劇場支配人』も私には興味深い。これの作られたのは『フィガロの結婚』の作曲中というから、『フィガロの結婚』とひとしなみなオペラの傑作であってしかるべきだろう。だが『劇場支配人』を、フィガロに比肩する名曲と推す人がいるだろうか。三十九番とト短調と『ジュピター』をきわめて短期間に作曲したモーツァルトに驚くことはない。彼は神童だから。並みの人間なら、『フィガロの結婚』と『劇場支配人』のような傑作と凡作を同時に、しかも平気で作れる道理があるまい。  もう一つ、私に興味があるのはその初演者である。モーツァルトの有名な肖像画をのこしているランゲ——「モーツァルトはどう見ても大人物とは見えなかった」と述懐するこの画家が、『劇場支配人』のブッフ役で出演している。ブッフというのは俳優で、終幕前に、「皆で芸術のために和解しましょう」と四重唱する程度のチョイ役だが、モーツァルトの失恋したアロイジア(妻コンスタンツェの実姉)の夫でもあったこの素人画家が、当時著名なテノール歌手やソプラノの名歌手と混って、一生懸命うたっている舞台姿を想像すると、なんという誠実な人だろうと思う。小林氏の著作に教えられ、ヨセフ・ランゲの描いた肖像画をモーツァルトの肖像画中の傑作と私も思うが、あの絵は、こういう誠実な画家だからかけたのだろうと思う。ついでに言うと、オランダ総督の来訪を祝しておこなわれる祝祭のために、ヨーゼフ二世の依頼でモーツァルトはこれを作曲した。完成四日後に初演された。初演にはランゲのほかに、その夫人——あのアロイジアも出ている。彼女はヘルツ夫人という役で、これは夫のランゲとは比較にならぬ重要な役である。義姉とはいえ、かつて失恋した人に、皇帝に依頼されたオペラ初演の出演をうながしたモーツァルト。人間的に私はこんなモーツァルトが好きだ。 9 ハンガリー舞曲  フランクフルトの洋菓子店で、弦楽四重奏団の演奏を聞いたことがある。お茶をのみたい、というこちらの希望で案内されたのだから、市街でも有名な店だったろう。外国で洋菓子というのも妙なものだが、つまりは喫茶室だ。中はサロン風にできていて、中央フロアの周囲に、まばらに卓を据えてあり、太い柱の陰でパイプをくわえた老人や老婦人が、あるいは家族連れが、静かに休んで茶を喫していた。  そういうサロンの中央壁側にステージがあり、ヴァイオリンとヴィオラ、チェロ、それとどういうつもりか、電気オルガン奏者の四人が演奏している。いずれも五十を過ぎた老人たちである。ヴァイオリン奏者の前にマイクがあり、わけてこのヴァイオリニストは小首をかしげ、弓をしならせて楽しそうに弾いていた。私の知らぬジャーマンダンス風な小曲だった。マイクのボリュームは日本のように大きくないから、客たちの会話をさまたげない。  私は和服に二重廻しなので、人々の目についた。演奏している面々も私を見ていた。こちらが笑うとヴァイオリニストがにっこり笑った。フランクフルト郊外の有名な“森の中のレストラン”に招待された晩餐の帰りで、少々私も酔っていたせいもあったが、こちらの望む曲を演奏してもらえるか、と案内人にきいた。日本風にいうとリクエストである。そういうことを土地の人は誰もしないらしいと言う。かまわないから頼んでみてくれと言った。ポストホルン・セレナーデか、ブラームスのハンガリアン・ダンスが望ましいと言った。とくに聴きたかったわけではなくて、そういう曲がふさわしい演奏者と見えたのである。私のしていることは、田舎者まる出しか、とも思ったが、ヨーロッパ旅行で、フランクフルトは最初の都市だった。私はドイツに好意をもっていた。だから言えたのである。  演奏はプログラムを一巡すると二十分ほど休憩する。その間に案内人が交渉してくれた。「譜面を用意していない」断わるならそう言うだろうと思ったら、やがて、四人が額をあつめ何やら私語してから、弾き出した。むろん譜面なしである。ハンガリー舞曲十二番であった。これは意外だった。一般に知られる五番か三番、またもしドイツ人が律儀者だというなら、一番からはじめるのが普通だろう。ところが十二番が鳴り出した。それから十七番、五番。さいごが一番だった。  東洋の君主国の一旅行者(私は日本をデモクラティックな国家だと断じて思っていない)が赤ゲット根性で言い出したことを、たちどころに、それも譜面なしで弾き出すのは、こうした曲をいかに彼らがそらんじているか、つまり音楽的素養の浸透といったものを、改めて私に感じさせる。十二番からはじめ、四人ながら即興的に弾いてアンサンブルの不調和を感じさせないあたりはなおさらである。と言って、感心するには早すぎた。演奏そのものは実にまずかったのである。  周知のとおり、ハンガリー舞曲は本来ピアノ曲(二台用)として書かれた。それもブラームスがジプシー・ダンスの奔放で、精彩溢れたのに興味をおぼえ、その音楽を編曲したものという。現今われわれが聴きなれているのはしかし、これの管弦楽用にアレンジしたもの(またそのレコード)で、わけてブルーノ・ワルターとトスカニーニの指揮が私には印象深かった。彼らは変則のクヮルテットであり、管楽器も打楽器もない。だから聴いた感じが貧弱だったというのはしかし当るまい。本来がピアノ曲であり、また電気オルガンはオルガンには違いないが、鍵の押し方で打楽器的な鳴らし方もできる。つまりは演奏がまずかった。一番や五番の、狂喜乱舞する中にジプシー的哀愁のたたえられるあの感じが、まるでなかった。とくにヴァイオリニストが見ていられないくらい下手くそである。  好々爺で、われわれ旅行者をたのしませてくれようとしたその人の好さが、軽佻な演奏に終始したと思えたのは、こちらの耳がレコードで名演奏を聴きなれているからだろう。また彼は街の洋菓子店で雇われる四重奏団の演奏家にすぎず、もしかすればヴァイオリンを弾くこと自体が楽しくて、出演していたのかも分らない。いえば隠居の道楽仕事なのかも知れぬ。がそれならなおさら、譜をそらんじてこの程度にしか演奏できぬ彼らの、音楽教養の浸透度とは何なのか、と私はおもう。  チューリッヒの有名なナイトクラブで遊んだときに、映画『世界の夜』に写されたというヌードダンサーがショーに出ていた。かなりセクシーな踊りをやった。そのあとで、バンドがマチャーカを演奏し出したら、突如、ステージにかけ登ってコンガをたたき出した男がいた。アパッチのような長髪で、髯もじゃらの口をとがらせ、狂気のようにたたき出した。コンガというのは、リズムをきざめばいいのだから要領をおぼえれば、曲そのものは知らずともたたける。それでも異相の日本人が、着物姿で、外人のメンバーに混って(というよりコンガ奏者を押しのけて)素人芸を披露したのだから、クラブの支配人も客も驚いたらしい。しかし彼らはショーマンである。照明係はその日本人たる私にライトを浴びせてきた。ヨーロッパのナイトクラブは、室内の灯が総じてほの暗い。いやでもライトはきわ立つし、バンドマスターはトランペットを吹いていたが、曲の途中で、コンガのソロを入れるように他の楽員に指示した。ピアノだけがメロディを弾きついでいた。私はシロウトである。他の楽器が鳴っておればなんとかリズムもきざめる。ソロとなるとお手あげだ。「つづけてくれ、プリーズ」と言った。プリーズだけは英語だが「続けてくれ」は日本語だから意味が分るまい。バンドマスターは、ニッコリ会釈し、ピアニストへ何か言ったら、ピアノも演奏をやめた。私は無茶苦茶にたたいた。ほどのいいところで再びマスターはトランペットを吹き出し、曲が終ったとき、フロアで踊っていた紳士淑女まで、一斉に拍手をおくってくれた。その踊っている女性の中にさきほどのヌードダンサーも混っていたのを、スポットが照らしていた。彼女は他の誰よりも強く拍手していたのである。  ナイトクラブで、突如としてコンガをたたきたくなるのは私の持病である。チューリッヒに限らない。赤坂のナイトクラブでしばしばやる。いちど、メキシコの楽団が来日して出演していたとき、のこのこステージへ出ていってこの時はボンゴをたたいたら、あとで十人あまりの外人客のテーブルから、もらいが掛った。夫人の誕生パーティである、と言う。なるほど主賓は五十年配の品のいい女性だった。私は英語はしゃべれない。握手だけした。夫人の隣りにいた恰幅のいい紳士が名刺を渡してくれるので見ると、これがメキシコ大使である。カストロ・なんとかいう名前だったように思う。夏だったが、自国のメンバーに白絣を着た男が特別参加したのがおかしかったのだろう。名刺の電話番号を指さし、繰り返し、秘書らしい男が何か言ったが、むろん、一夜明ければ、照れくさくて電話などできるものでない。  別のクラブに、これはイタリアの有名なバンドが出ていたとき、このバンドの演奏が好きだったのでよく出向いた。そのたびにたたいていたら、ある晩、ベース奏者が私に恭《うやうや》しく巻物を進呈してくれた。見ると、コンガをたたいている私の似顔絵である。漫画である。私のうしろでメンバー五人が、必死に、私にリズムをかき回されまいと熱演している、そんな絵だった。 “ミカド”にリドの踊り子たちが来ていたとき、ある踊り子と、“ミカド”以外の場所で知り合った。私たちは親しくなった。フランス語はまるで私はいけない。彼女は英語はうまくない。それでも、楽屋へ花など贈ると、彼女から、今夜ハネたらいつもの場所で会いたいと、ことづけが来る。わたくしたちは深夜の食事をともにし、グランド・ホテルへ彼女を送るのが日課のようになった。彼女は名をリディアといい、私を「サ、ム、ラ、イ」と呼んだ。彼女を私に紹介してくれた米人パイロットの夫人が、やはりこう呼んでいたからである。多分、いつも和服で、時折りは袴をはいていたからだろう。  このほかにも沖縄へ明日は飛ぶ、という米軍の婦人将校に、明け方まで付き合わされたこともあった。わりあい私は外国人には人みしりしない習慣が、だからついていたので(よっぽど日本人に対する方が人ミシリする)演奏のまずさには、旅行者としてよりもブラームス愛好家として、我慢ならぬものを覚えたのである。踊り子のリディアはスペイン系の血が混っているような眉の線のハッキリした女だったが、日本をはなれるとき、「サムライと知り合えて、日本へ来た意味があった」とパイロット夫人に洩らしていたそうだ。  欧州旅行でパリに着いた時、このリディアに会えればという気持があったのを、私は否定しない。その証拠に、パリに着くまで——ローマで私は無一文になっていた。二台のステレオ装置と、デンマークではカートリッジ、スイスで時計、あとはカジノやらナイトクラブやら、レンタカーの支払いをすれば、もともと余裕のある所持金ではなかった。ともかくもテレフンケンとサバの二台を購ったことで、ほぼ渡欧の目的は果していたのだし、無一文とて、ニッサン自動車の一行におとなしく合流さえしていれば、ホテル代の心配もいらんのである。  レンタカーの支払いと書いたが、バーデン・バーデンから先はほとんどレンタカーで私は旅した。チューリッヒ、ジュネーヴ、フィレンツェ、ローマまで全くのひとりだった。何度も言うが、英会話は私は至って不出来である。なまじしゃべらない方がましである。あちらの地図は実に正確で、目的地へ着くに不自由はしないが、見知らぬ農村や田舎町で行きくれ、宿屋を探すときには困った。しかしどこにも女性はいるのである。美しい少女はいる。私はモンペをはいていたり、羽織袴だったのも役立ったように思う。美しく、清潔な村の乙女に、男性なら感じるおのずからな好意としたしみを素直に態度で示せば、相手は好意的に接してくれるものだ。多少の好奇心が彼女らにあるのはやむを得ない。スイスやイタリアの山間の名もない村に、日本のようなホテルはなくて、爺さまや牧場主が昼ひなかからアルコールを飲み、何杯目かのコーヒーをお代りし、五、六人で寄合みたいなことをしたり、窓ぎわの陽だまりでひとりうたたねしたり、カードを弄ったりしている。そういう村のレストランらしい店を見つければ、はいって行き、カウンターの村娘やおかみさんに、黙って、自分の顔を指さし、「予は眠りを欲する」手枕で目をとじる真似をすれば、意味は通じた。そこが宿屋でなければその場所を一緒に外へ出て、教えてくれる。リディアに似た娘もいれば、アメリカ女性を偲ばせる婦人もいた。  ことばは、エトランゼには要らない。それが旅行というものだろう。スイスやイタリアの田舎道で通行人を見かけることはほとんどなく、地図だけが頼りの疾走だったが、カー・ラジオをひねれば常に音楽がきこえた。見知らぬ村や山をそうして私は走った。孤独というものは群衆の中にいたってあるというが、うそだ。パリでもニューヨークの時も私は会話のできぬ単独旅行者であることに変りはなかったが、孤独はなかったと思う。はじめてハンドルをにぎる他人の車で、時速百二十キロで走りながら妻や子供は今ごろどうしているかと考え、カー・ラジオの音楽に耳をかたむけ、その感度のわるいのにこごとを言い、気の遠くなるほど水の碧い人っ気ひとつない湖のほとりを走っていて、孤独は、秒速何キロかで刻々私の後方へ置き去られてゆく時間を、意識した時にあった、と思う。  うまく説明できないが、そこが異国だから孤独だったというようなものではないことは確かだ。どこにあっても私は、どうしようもない日本人なのだし、しいて言えば私が考えていたことは"rake's progress"(蕩児の前進)ともいうべきものだった。ストラビンスキーの『ザ・レイクス・プログレス』は蕩児の遍歴と訳されているが、十年前、米コロムビア盤でストラビンスキー指揮のこのオペラを聴いた時の感銘は今も覚えている。作曲家でなければできぬ指揮だなあ、と思った。  何をそう思ったか。ストラビンスキーは音楽感動の余情といったものを全く認めず、気持のいいくらいそれを奏でた一瞬後にはもう捨てていった。停滞は全くなく、アンの美しいアリア(第一幕第三場)も、ババの怒り声のアリア(第二幕第三場)も歌手が楽趣に陶酔することを許さない。人間で言えば、未練をのこす余地を与えぬ演奏であった。当時ストラビンスキーのLPを、私達はアンセルメのスイス・ロマンドで最も多く聴いた。アンセルメは時に美化し過ぎ、耽美するかたむきがある。けっこう、それでもわれわれは彼のラヴェルやドビュッシー同様、ストラビンスキーを楽しむことができたが、なんと言っても少々コクがありすぎ、その情趣は古すぎる。ワルターのロマンティシズムやクナッパーツブッシュのあのオルソドックスすぎるテンポののろさを知っている人なら、これは分ってもらえると思うが、そういう豪奢ではあっても古い衣装がストラビンスキーの指揮にはもう全くなかった。蕩児は本来はドライな男ではない。近頃言う『ドライな人間』が蕩児になれるわけはない。しかもどうしようもなく女を次々捨ててゆく男はドライに見えよう。  ストラビンスキーの原曲がそう書かれてあるのかどうか、私には分らぬが、とにかくそういうドライな、しかも十分繊細な感性を横溢させた音楽をこの作曲家はきかせてくれた。近頃人気のあるバーンステインとは雲泥の差である。バーンステインを聴くたびにいつも思うのだが、いかにもアメリカで受けそうな彼の指揮は実にオーケストレイション(特に細部の音)が粗雑だ。それでいて俗受けするのは、程度の悪いステレオ装置で掛けると録音が良くきこえる、そんなオケの鳴らし方をしているせいだろうと思う。安物の装置で鳴らして耳に調子のいいレコードが、歪のすくない優れた再生装置でもうまく鳴るとは限らない。何台もの装置で同一レコードを聴き込んできてのこれは私のいつわらぬ感想である。レコードに刻まれた音楽は、真によいものなら装置が改良されればますますその美を発揮し、逆にまやかしものはたちまち馬脚をあらわす。録音特性でも、指揮者でも演奏家でもこれは同じである。  話がそれたが、ともかく『蕩児の遍歴』に私は遊蕩というものの表現法を学んだ。そのことを車の中で思い起していた。それに、あちらではダイヤルを回せば実にいろいろな局の音楽が入ってくるが、語学を解さぬためアナウンサーの説明が皆目わからない、それでも演奏や音をきけば、漠然とそのオケの国籍は分った。それから指揮者のくせであらかた楽団名と、こういう言い方がゆるされるなら何年に演奏したものかの見当がついた。曲が終ってアナウンスの繰り返されるときは、指揮者やオーケストラがほとんど予想どおりだったのを知ることができた。つまり自分はいま外国にいるが、まるで日本と変りはしないじゃないか、そんなことも考えたのである。まぎれもなく風景は違ったし、土の色も木々の紅葉も空気の乾燥度も違う。湖の色も違う。こればかりは実際を見ないと分らない。しかしほかはそれほど違っていない。雲ひとつない秋空に映えるマッターホルンやユングフラウの雪山の景観は、本当に素晴らしいが、それはそういうものを見た、というみやげばなしのたぐいだろう。私にはそうであった。即物的に言うなら、私の欧州旅行で予想外だったのはピサの斜塔が意外に大きかったのと、フィレンツェの美術館で見たボッチチェリのヴィーナス誕生の絵が、思っていたより小さかったことくらいだ。美術全集で見おぼえのある絵や彫刻の実物を見て、感動をおぼえたものなら他にもあるが、意外というのとは違う。よっぽどフランクフルトの小父さんの弾いてくれたハンガリー舞曲の方が意外だった。  こちらの言いたいことは、もう明らかだろう。レコードという、かんづめ音楽を私は聴いてきたにすぎないが、欧州各国で我儘自儘に振舞えたのは、すべて、日本にいる状態と変りのない、——しいて言えば、レコード音楽を通して理解の下地めいたものが、こちらに培われていた賜物だと思う。どれほど暗譜で好意的に演奏されてもまずいものはまずい、と言いきれるだけのものは日本に住んでいたって、身につくのである。  六年ほど前、私と同年代に生れた各国の作曲家のレコードを、百枚ばかり取り寄せたことがある。シュワンのカタログに記載されたレコードからの選択で、つまりアメリカで売るために発売されているレコードで、これが実にアメリカナイズされた演奏であり、またアメリカ現代作曲家のものが多く、そのため大方はつまらなかった。アメリカという国は、しょせんは野牛の群を追い、早撃ちなんぞを自慢し、肉体だけは頑健で、あきれるくらい単純で容易に付和雷同する(民主主義などというのは、おれもわれもとすぐ雷同したがる定見のない連中を権威づけるところから考えだされたものではないのか?)そういう連中が住みやすいようにつくり上げた国家である。レスリングや野球や、カウボーイあがりだから筋肉運動は強いかも分らない。オリンピックに勝つのは当り前であろうが、そんな手あいが創り出せる芸術はせいぜい安手な芸術映画作品だろう。ブロードウェイなど、行けば分るが、ちょうど日本の浅草である。まったく安手な繁華街である。ここで興行成績のよかったものが、付和雷同する連中に歓迎され、ドルの威光に乗って、大いばりで東京銀座まで進出する。あほうな話だ。アメリカへ倅や娘を留学させる日本の親の気が知れん、と以前から思っていたが、ヨーロッパを旅行中わたくしのしみじみ感じたことは、アメリカ文化の底の浅さである。これだけはヨーロッパへ行って確信を深めた。アメリカ市民は善人だというが、プロレスラーだって根は人は好いのだ。彼らと文化を語れるか。  レコードを通じて知ったこと、作曲家のみにとどまらず、スピーカー、アンプ、カートリッジ、録音特性——音の美学に関係ある一切で、私が感じつづけてきたものは幸か不幸か間違っていなかったと思う。あわれなのは、そういうアメリカ製品にも音質で劣る日本のレコードや、ステレオ装置である。その部分品である。テキサスの牧場主という好人物が阿川弘之と同じアパートにいてハイ・ファイ・マニアで、私を招待し、嬉々として掛けてくれたのはワリングフォード・レイガーの『ピアノとオーケストラのための変奏曲』だった。次がアレキシー・ハイエフの『バレーE(ホ長調)』。もうたくさんだ。それでも彼のはクワードのスピーカーをクワードのアンプ、エラックのプレイヤーで鳴らしている。これがそして一番よい音だ、と彼は自慢していた。音質はけっこう分るのである。金に糸目はつけぬ生活ぶりで、米価二千数百ドルのJ・B・ランシングの装置を買うぐらい彼には造作ないだろう。それでも英国製品で聴いている。チューリッヒ郊外に訪問したスイス人の応接間には、オルトフォンのカートリッジで聴くグッドマンが壁にはめこんであった。  意味もなく人はアメリカ製品を軽蔑するわけではない。より良いものを知っているまでだ。そのアメリカの音質に、まだ劣る装置しか日本では作れない。私も含めて、日本のいわゆる進歩的文化人がアメリカを軽蔑してみたところで、実はお先まっ暗が実情なのである。かなしい話である。 10 セレナード『ハフナー』  モーツァルトのセレナード第七番『ハフナー』(K二五〇)は、ザルツブルク市長で富豪のハフナー氏の依頼で、その娘エリザベートと、シュペーツ(Franz Xaver Sp閣h)の結婚式のために作曲されたという。  曲そのものは、特に華燭の宴で演奏されねばならぬものとは、今では思えないし、第四楽章(ロンド・アレグロ)をクライスラーが独奏ヴァイオリンのパートに編曲して有名になったほどには、名曲とも私には思えない。しかし近頃、ドイツ・グラモフォン盤(クーベリック指揮)で聴いてさまざまなことに思いあたった。主に人の贅沢というものについてである。  交響曲で有名な『ハフナー』(K三八五)の方は、同じハフナーの息子ジークムントの依頼で書かれたが、交響曲とセレナードの楽器編成はほぼ同じで、わずかにティンパニーが交響曲には加わっている。その程度である。これはハフナー家のおかかえ楽師の数がきまっていたためだろうという。つまり娘の結婚に際してモーツァルトに依頼されたこの曲は、お抱え楽師たちの手で奏でられるため作曲された。当時の富豪にはありきたりのことだろうが、現代のわれわれの身辺と思い比べ、なんという贅沢さか、と思う。  モーツァルトは稀世の天才だから、そういう作曲家がわれわれの身辺にいるとは思わない。が、さしずめ黛敏郎だっていい。彼に、娘の華燭の典のため(或は晩餐会のパーティのダンス用に)作曲を依頼するような富豪がいるだろうか。  セレナード第七番が書かれたのは一七七六年、交響曲の方は一七八二年だから、その間六年、少なくとも同じ人数の楽師がハフナー家には抱えられている。私の友人で、近頃自家用車をもつやつはゴマンといるが、自家用の楽団をもった奴はいまい、そう豪語して、私費でバンドを抱えた男がいた。それも腕のたしかなメンバーでなければ意味がないと、有名無名あわせ、一流どころの奏者を揃えた。莫大な出費である。バーなどでご機嫌になってさて「車を呼べ」とおっしゃる社長連はざらにいるが、気持よく酔ったところで「うちの楽団」を呼べる人はない。彼はそれをやる。一流のナイトクラブで、常備のバンドより腕のいい奏者連を電話一本で呼び寄せ、ホステスと踊るのである。  さすがに半年、一年となれば、そうそう彼もナイトクラブに出入りするわけはないから、出費は黙過し得ない。たまりかねて、この楽団を商売に利用することにした。つまりナイトクラブをはじめた。いま関西で第一流のクラブAは、もとはこういう、せっかくあつめた楽団を手放すのが口惜しくて経営に手をつけたというのが実情である。今でも彼は社長におさまっているが、商売となればもう興味もないだろう。それでもこの楽団で育てた歌手がカーネギー・ホールで歌った。  せいぜい十数人の楽団でこれである。交響曲を演奏するに不自由ない程度の楽員を揃えるには、今ならその人件費だけでも予想もつくまい。加えるに、交響曲を演奏するに足るホールを建てねばならぬ。聴衆などはどうせ家族数人だからサロンを建てれば事足りようが、それでも、常時、気が向いたとき、音楽が聴きたいとき、一人の欠員もなくパッとサロンに出揃ってもらわねばならぬ。すなわち楽員用の控え室が要る。食事の世話がいる。私邸で、これだけの条件を満たすにはどれくらいな坪数の家を建てねばならないか。  われわれはレコードで音楽をたのしんでいるが、むろん、どんなレコード偏執狂だって、ナマの演奏でモーツァルトが聴けるならその方がいいにきまっている。実演には動的な視覚上の妨げあり、純音楽的に心聴できん、などと気張ってみたところで、しょせんは、手軽に、一流演奏団体のナマの演奏には接しられぬ貧乏国民の依怙地である。わざわざ音楽会場へ出向いて行くのでなく、自宅で、数十人の楽員がずらりと並んで、好きな時に好きな曲を弾いて聴かせてくれるなら、誰がカートリッジの針圧に一喜一憂などするか。まして私のようなハイ・ファイ・マニアは、わが家で大オーケストラがナマで演奏されるなら、その音質の肉感だけで随喜の涙にむせぶだろう。  ハフナー氏は、それが可能だったのである。これは考え直してみてよいことだと思う。  かりに、私が今大富豪だとしよう。チェンバー・オーケストラ程度で聴ければ十分満足するとして、楽員が約三十人。各パートに腕の確かな奏者を揃えるとして一人あたりに月給二十万円を支払うとしよう。月に六百万円。年利六分の計算でゆけば、十五億円の銀行預金があれば月額七百五十万円の利息がつくから、楽員をまかなってお釣が出る。そして吹原事件を例にとるまでもなく、十五億程度の銀行預金を持つ人ならこの国にだってかなりいる。私がその「かなり」な一人になれぬという理由があるか? 一歩譲って、私でなくとも、たとえば金融業森脇某なら、その気になれば一流メンバーの室内管弦楽団を自費で抱えることはできるのである。  さて森脇某がそうしたと仮定する。果して、どれだけ優秀な演奏者が、実際に集まってくれようか。月給二十万円なら悪くはない、サラリーマンならそう思うかも知れぬ。一流の奏者——つまり芸術家なら、いかに生活のためとて、森脇ごときに自家用に雇われて満足するとは思えぬ。収入は少なくとも、芸術的自恃を傷つけぬ、或は大衆へ発表の場のある、NHK交響楽団にでも勤めたいと思うだろう。あなたのご主人はどちらへお勤めですか。高利貸しのお抱えのヴァイオリン奏者ですわ——舌をかんでも彼の女房はこう言いたくはないにきまっている。彼女にもプライドはあるのである。結局、森脇チェンバー・オーケストラには、一応は弾きこなせるがけっしてそのアンサンブルに芸術的香気と品位はのぞむべくもない、そういうメンバーしか揃わぬだろう。  一方にはパリからコンセール・コロンヌが来日した。純音楽的に心聴できぬなどと言ってみたところで、もし彼が本当に音楽を聴きたいなら、やっぱり、会場へ出掛けて行くだろう。  大事なことは、森脇氏の人格がいかがわしいから、メンバーが揃わないのではない。もし富豪がその気になれば、最もたやすく一流メンバーを集められると見られる——たとえばアメリカにおいてさえ、ロックフェラーが自家用のオーケストラをもったというためしを聞かない。  なぜか。ロックフェラーはハフナー氏より富裕ではないからか? それとも初めから自家用管弦楽団をもつことは考えてもみなかったのか。  実を言うと、財閥の規模は違うが、朝日新聞社の村山一家が毎年、大阪フェスティバル・ホールに海外一流団体を招聘して音楽祭を開催するのは、自家用の管弦楽団を楽しみたい夢の変形ではないかと私は思っている。フェスティバル・ホールそのものにしてからが、私邸で音楽サロンをもつ意図に構想されたものではないのか。  同じことを、ロックフェラーの誰かが意図して不思議はあるまいと思う。しかもそういうためしを聞かない。実際問題として、十五億の銀行預金があればと言ったが、今の政治は、これだけの預金にはベラ棒な税金をかける。実質月額六百万円の利息をまるまる得ることなど、およびもつかない。演奏家は集まってくれても、だから実現は不可能だと私に教えてくれた者がいた。あほうな話だ。十五億で不可能なら百五十億円溜めればいいではないか。ロックフェラーならそれぐらいは軽いだろう。銀行預金は税金をぶったくられるなら、他の方法で回転させればいいことである。ともかく、十五億の資本があれば、銀行金利程度の利益を得る手段はいくらもあろう。くどいようだが、資産十五億円級の金持なら、日本にだって掃いて捨てるほどいる。村山氏は、掃いて捨てるわけにはゆかぬ富裕者の一人であった。それでもステュットガルト室内管弦楽団級のオケを抱えることもできず、もしくはしようとせず、春秋二回、海外から招聘することで満足している。国際フェスティバル中の赤字は、まあ自家用を持つ出費に比べればと、諦めていらっしゃるのかも知れぬ。しかし、春秋たった二期と、任意にいつでもその演奏を(自邸で!)楽しめるのとでは、音楽愛好家にとって、歓喜は宇宙旅行と東京タワー見物くらいな差違があろう。ステュットガルトを丸抱えするのに一千億円かかるにしても、宇宙を楽しむ一千億円なら安いではないか。  現代人は、だがそれを失費というらしい。要するに合理的なのである。ハフナーの時代は、そうではなかった。何よりも大事なのは、ハフナー氏は、音楽をたのしむのに一千億円を用意する必要はなかった、ということである。手軽にお抱えの楽員は揃ってくれたし、モーツァルトほどの天才に、たやすく作曲を依頼できた。ザルツブルク市長としてでなく、やはりwealthy merchant富裕な商人だったからだが、時代が、それほどちがっている。楽員だって当時は、一商人の私的なお抱え奏者で一生終ることを、別に不満とも、屈辱とも思いはしなかったろう。家族ともども、それで事足れりとしていたろう。なんとかチャンスを掴んで世に出ようといった、今日的な野心とは、もともと無縁な心境で彼らは楽器を鳴らし、音楽をたのしんだ、と思う。  演奏家に限らない、画家だって昔は貴族や富商の肖像画ばかりかいていた。いい作品を創ろうなどとは考えもしなかった。画家だから、似るようには描いた。それだけで、もうどうしようもない傑作が出来あがっていた、というようなものである。能筆家は借金の証文を書いても作品になっている。  贅沢とは、一千億円かけたら、といえるようなものではあるまい。やすやすお抱え楽団を持ったハフナー氏のほうが、ロックフェラーより贅沢を満喫していたにきまっている。いとも手軽に、それこそ自在に、昔の人は最高の贅沢を味わえた。  同じ時代の、日本の大名がそうだ。能役者を抱え、世襲で扶持を与え、のんびり保護して育成したのである。不要な失費だなどとは口うるさい勘定方の誰も言いはしなかった。育成に費用がかかったから、下じもの者に入場料を払わせて——そんなさもしい根性は兎の毛ほどもない。  精神上の贅沢を昔の人ほど、われわれは味わうことを知らなくなった、と言えば当り前すぎてミも蓋もないが、芸術そのものが、現代、不当に高価になりすぎた、ということは言ってよいと思う。芸術ならいくら高くついても安いものだ、ということと、それが一流の芸術品だから値が張る、と思い込むこととは本来別だろう。芸術を享受するよりも、創造する側から見ればいっそうこれは明らかである。権威などというものは、本来、芸術品にはないのだ。芸術があるだけである。骨董品の値がかさむのは、そのベラ棒な値の付いている格差だけ、芸術の在りようなど分りもせぬ有象無象が芸術共有の権利を主張する——つまり馬鹿の数が多いほど、その社会での骨董品の値はあがる、と私は思っている。芸術を愛する人が多ければ芸術品の価格はあがる、というものではなさそうである。  さて私がロックフェラー家から遺産相続人に指定されることは、まずあり得まい。となればできる範囲で音楽を聴くしかない。やっぱりレコードにかえるわけだ。愉快なことに、蓄音機というやつはいつでもレコードに針をおろせば、音楽を演奏してくれる。蓄音機こそは、わが家の自家用管弦楽団というわけである。そうなると再生装置の良否は、いわば楽団の演奏能力だ。再生装置を良くすれば、自家用のオーケストラは世界一流の楽員で構成されたにひとしい。今にしておもうに、私が再生装置に血まなこになってきた、真の理由はここにあったか! さしずめタンノイのGuy R. Fountain Autographはロンドン・フィルの全楽員をお抱えに持ったに匹敵するか。先日、なんとなくレコードをかぞえてみたらモノ・ステレオをあわせて、七百枚あまりあった。七百曲のレパートリーをもつ管弦楽団とは、まず空前絶後であろう。  ——そんなことを、セレナード『ハフナー』を聴いていて私は思い耽った。モーツァルトやハフナー氏の生きた十八世紀後半と、現代の、生活者の最も大きな差違はなんだろうか。今さら、どうにもならぬことだが、それを考えた。 11 カラヤン 「モーツァルトのト短調を指揮する決心がついたとき、私はもう五十歳になっていた」  ブルーノ・ワルターの言葉である。ト短調交響曲(K五五〇)といえば、むせ返るような青春の息吹のつよい、奔放でかつは悲劇的で、大そう、魂を昂揚させる音楽のように私には思えるのだが、ワルターの指揮は、なるほど、中年男の分別臭い、行き届きすぎた思慮で演奏され、ワルターほどのロマンティストが、ト短調の激情の前ではすっかり呑まれている恰好だった。ロマンティストの分別などいうものが、情熱の前では、常に、いかに愚かな行為しかえらばぬかを、端的に教えてくれたレコードである。  この点、さすがにフルトヴェングラーとトスカニーニのは違った。とくにトスカニーニは、アッと息をのむ急速調で第一楽章から終章まで、一気に振っていた。「なみだの追いつけぬ」モーツァルトの疾走するかなしさは、これだというように。第一楽章はト短調アレグロ・モルトだから、誰が振っても速いにきまっているが、われわれの従前の常識を越える速さだったので、このレコード(米盤)の裏面には、ハイドンの『驚愕』が入っていたが、よっぽどト短調の方が「びっくり」だと言ったものである。それほどはやかった。ワルターに五十すぎまで指揮をためらわせた、その同じ懼《おそ》れを、トスカニーニは目くるめく速さで通りすぎたかったのかも分らない。  私は青春には、二つの音楽をもつタイプがあると考えたことがある。ト短調と、ベートーヴェンの『運命』だ。青春を、第五で通ったか、ト短調でとおってきたかは、人間を決定的に区別するような気がしたのである。私自身を言うと、青春時代に鳴っているのは第五の方である。今でもどうかすれば、アレグロ ハ短調の冒頭がきこえてくる。フルトヴェングラーの音で。第一楽章の二拍子ではなく、三楽章のあの暗い、貧乏というものを知ってくれているスケルツォで。よかれ悪しかれそれが私の青春だった。中学生の頃だ。ト短調に感嘆したのは比較的あたらしい。終戦後、浮浪者のように街をうろつく、ほんとうの貧乏を味わいつくしたあと、S氏の書斎でこれを聴き、溜息と、同時に涙が出た。モーツァルトを理解したのは、だから私の三十歳だった。——妙な言い方だが、こうしか言えぬ。自分がどれほど回り道をしていたかを私は教えられたのである。  それからモーツァルトの音楽が、すべてとは言わぬまでも、大へんよく分るようになった。べつにおそすぎたとは思わない。『運命』を、中学時代にくらべて今はよく知っているとは限るまい。どちらも、このさきまた、涙と溜息で聴き直すかも分らない。  ワルターのト短調に失望して、もっとも聴きたいのは誰の指揮だろうと自問し、念頭にすぐ浮んだのはカラヤンである。昭和二十九年だったと思う、フルトヴェングラーの名盤が最初に出て、二年くらい後にトスカニーニとワルターを聴いたが、フルトヴェングラーのは録音がも一つ良くなかった。それが憾《うら》みだった。トスカニーニは当時としての最新録音だが、やっぱり「びっくり」である。もっと、昂揚と疾走するかなしみを他の手段で歌いあげる指揮者がいるように思えた。ベートーヴェンの最後のソナタ(作品一一一)とともに、ト短調は私がもっとも数多く買ってきたレコードだが、当時、カラヤンしか期待させる人は残っていなかったのである。念のため言っておくが、これは「録音の良さ」を含めての話である。  カラヤンの指揮に、私が最初に聴き惚れたのは『フィガロの結婚』で、ついで『魔笛』をきくに及び、これほど美しい歌劇(モーツァルトの)をきかせてくれる指揮者は当代、他にあるまいと思った。LP初期の頃で、ト短調より早くモーツァルトには私は歌劇で馴染んだが、セッコの部分が省略されていたからだろう、その『フィガロ』はオペラというより、声をともなう一大管弦楽曲にきこえた。もともとカラヤンは、オペラで、弦や管を歌わせることのうまい指揮者だが、それにしても『フィガロ』の第二幕、園丁アントニオが植木鉢をかかえて登場するあたりから、第三幕のスザンナとフィガロの結婚式、また『魔笛』の終幕で、パパゲーノが笛を吹いて、「パパゲーナよ、かわいい小鳩よ、私の恋人よ」と歌い、彼女がみつからぬので死んでしまおうとし、やがて、パパゲーナを発見して「パ、パ、パ、パ、ゲーナ」「パ、パ、パ、パ、ゲーノ」と二重唱するあたり、モーツァルトの歌劇中でも圧巻だが、カラヤンの指揮も見事だった。  今もって、私はずいぶん『フィガロ』のレコードは買ってきたが、カラヤン盤にまさるものを知らない。さすがに録音の古さは、全曲とおしては聴くにたえないが、ドイツで、このカラヤン盤だけはいまだに現役で通用している、と聞いたときはわが意を得たおもいであった。モーツァルトならカラヤンと、だからきめていたのである。  ——こうした、カラヤンへの信頼が崩れだしたのは、いつ頃からだろう。ベルリン・フィルを率いて来日した彼を日比谷で見た頃は、まだ好きであった。一九三六年だかに『トリスタンとイゾルデ』を初めて彼が指揮し、“カラヤンの奇蹟”などとベルリン市民に騒がれて以来、彼がオペラをすべて暗譜でふるのは知られた話だが(一度、ヒットラーがこのカラヤンのミスを発見し、以後はスコアを使うように厳命したという逸話もあるそうだ)。日比谷のときにも暗譜で、ベートーヴェンの第七をふった。カラヤンの指揮ぶりはそののばした腕の位置が、普通の指揮者より少し高いそうだが、われわれ素人にはその辺のところは分らない。とにかく、演奏が満足すべき状態にあると、心地よげに目を閉じ、タクトの動きよりは両腕全体が、たなごころを内に向けて音楽を自分の方へ抱き寄せるふうにして、ゆるく、上下に波打って動いている。かと思うと、フォルテでは、虚空を鷲掴みにして感動を奪い取るように、肘をふるわせてはサッと垂直に棒をおろす。見ていて不愉快なわけはあるまい。  いちど、気に入った指揮者は、われわれの中でなかなかその権威を失うものではない。芸術を媒体とした偶像は滅多に毀れまい。それが、私の中で、とくに最近、急速にカラヤンは指揮者としての魅力を失っていった。ステレオになってから、再生装置が旧に倍して優秀になったため嫌味なところが拡大されたのかとも思うが、カラヤンの嫌味とは、なんだろう。はじめからそれはあったものか。カラヤンの方が堕落してしまったのか。  上野一郎氏の著述によると、カラヤンの体には実はチュートン——ドイツ人の血は一滴も流れていないそうである。カラヤンの父はオーストリアの医学界の重鎮だったが、祖父はギリシャ人で、母はセルビア人、つまりカラヤンの体内にはバルカン人の血が流れており、その熱狂的な指揮ぶりは、いくらかはこの血のせいだろうという。  カラヤンには、ドイツの貴族の称号たる"von"が名前の上についているが、これはギリシャから移住してきた彼の祖先が織物業者で、ドイツに住みつき大いに財を成した。その倅も父に劣らず財をなしてホーヘンツォルレン家から男爵号を授与された。その後、一家はオーストリアに移り、カラヤンの祖父と父がともにハプスブルク家の侍医となって、これまた財をたくわえたのでハプスブルク家から男爵号をもらったという。何にしてもカラヤン家はオーストリアの名門には違いない。が、こうした一般に知られる彼の閲歴には、実はかなりな修正があるという説もある。とくにナチ党員であったその過去に修正がはなはだしいと。  フルトヴェングラーとの、根本的な違いがここにありそうに私は思う。カラヤンは外見では今やヨーロッパ楽壇のみか世界にその名を謳われる指揮者で、楽壇のナポレオンだと看做す者さえいるらしいが、その実は、「極めて脆弱な神経の持ち主であり、インフェリオリティ・コンプレックスのかたまりみたいな男だった。」長年カラヤンのアシスタントをつとめたシュヒターは言ったそうだ。ナチの誘いがあったとき、生粋のドイツ人フルトヴェングラーは頑固に「ナイン」と言いえたことでも、血をドイツにもたないカラヤンは拒みきれなかった。コンプレックスとはそういうものだろう。そういう受諾が彼をフルトヴェングラーよりナチに好感をもたれ、つまりは先輩フルトヴェングラーに代って、次第にドイツ国内での音楽的地歩をかためさせたのである。彼とフルトヴェングラーが犬猿の仲だったとよく言われるが、犬猿とは、互角の間で言うべきものだ。カラヤンのはナチへの従順な奉仕であり、フルトヴェングラーはそうではない。カラヤンの生来のサービス精神と、同じ視点で論じられること、犬猿の間柄と見られること自体、フルトヴェングラーにはたえられぬ屈辱だったろう。  カラヤンの音楽的才能となれば、しかし話は別である。カラヤンは十九歳になったとき、ドイツのウルムという小さな町の市立オペラの指揮者になったが、三流どころと言っていいこのオーケストラを率いて、彼のデビューした『フィガロの結婚』は大成功だった。また三十五歳の頃に、みずから第二ハープシコードを弾きながら『ブランデンブルク協奏曲』を指揮したことがあるが、これを見た或るハープシコード奏者は、 「カラヤンは本物のバッハのスペシャリストになることもできたろう」と感嘆した。彼は言ったそうだ。「カラヤンはあらゆるヴィルティオーゾ的魅力をこめた素晴らしい音楽を聴かせてくれた。彼はまるで十八世紀のカペルマイスターのように、オーケストラの一員だった。しかも、カラヤンが控え目にコンティヌオ(通奏低音)を演奏していたときすら、オーケストラはまれな完璧度にまで訓練されているのが分った」(H・C・ロビンズ——三浦淳史氏訳より)  こんな話もある。或るソプラノ歌手は、カラヤンはオペラが望ましい成果をあげるまで、できるだけ言葉は節約してリハーサルを続けてくれるが、「たしかにカラヤンの指揮で舞台に立つほど安心なことはありません。カラヤンは磁石のようにオーケストラ・ピットからついて来てくれるのです。そして、いつも息をする時間を与え、楽句を気持よく作らせてくれるのです」(同右)  少年の頃ピアニストになろうとしたカラヤンだから、ハープシコードを巧者に弾いて不思議はない。私の記憶に間違いなければトスカニーニも実にあざやかにチェロを奏したそうである。オペラ歌手が当代とぶ鳥おとす勢いの名指揮者を賛美するのは当然なはなしで、これまた驚くにはあたらない。要は、彼のふった音楽である。ちかごろのレコードである。  指揮者は、コンサート・ホールで指揮するときと、レコーディング・スタジオで振る折りとでは、オーケストラの楽器配置を変える。金管と弦ではそのマイクの収音力にも差があるのだから当然な配慮で、コンサート・ホール自体の防音装置や、残響によっても、極端に言えば演奏が別物にきこえるのではなおさらだろう。  そんな、スタジオ個々の音響効果にきわめて神経質な指揮者のひとりがストコフスキーで、彼が管楽部を全部前方に、弦楽部を後方に置いたのは有名な話だ。それほどだからストコフスキーのレコードは、常にその時代の最高水準で録音され、またきわめて音響効果のいいレコーディングだと言われるが、ステレオ時代になると、これは他の指揮者にも当然波及し、今ではレコーディング・エンジニアを指定する指揮者までいるそうだ。  ドイツ・グラモフォンのレコード・ジャケットには、ステレオになってから、録音年月と合わせてこのレコーディング・エンジニアの名前を明記してある。(ただしアメリカ盤グラモフォンには記載がない。)私の好みで言うと、最近ではG. Hermannsの録音したレコード(例、カール・ベーム指揮シューベルト交響曲九番)が、弦合奏の音色に誇張がなく、素直で、各楽器のセクションも細部にわたって手にとるように聴き取れ、非常に好ましい。同じグラモフォンでもHeinz Wildhaugenの録音(例、モーツァルトの弦楽四重奏K・三八七。アマディウス四重奏団)は弦が強く響きすぎる。これよりはKlaus Scheibeのものの方が(例、クーベリック指揮セレナード『ハフナー』)はるかにいい。  ところでカラヤンは、グラモフォンに移ってからはもっぱらG殤ter Hermannsを起用している。さすがである。が問題はその音だ。  こころみに『春の祭典』でもベートーヴェンの『第三』、『第五』、『第九』でも、カラヤンのドイツ・グラモフォンのレコードをきいてみるとよい。同じヘルマンが録音した、ベームのシューベルトと、なんという違いだろう。オケは同じベルリン・フィルであるのに、まるで別のオーケストラの演奏だ。ベームに比べてカラヤンのは、音の強弱の対比が極端にすぎ、時折り見られるエクセントリックなテンポは、ただ他人とちがっていることを示すために、人より緩いか速いテンポをとっているだけ、という気がする。気軽に聞き流していれば、いかにも現代人好みな、ビートの利いた演奏だが、まともに聴き出せば、その浅薄なこと、厚化粧なこと、サービス過剰で、格調のないこと、まさにアメリカ人向けという気がする。カラヤンの評判高いレコードに『カルメン』があるが、歌劇ならと、私はいそいそこのレコードを買ったが、失望した。舞台はスペインでも、ビゼーが歌詞に託してとどめようとした気品や、洒脱味は、のぞむべくもない。カラヤンに比べればパリ・オペラコミックを率いて振ったウォルフの『カルメン』など、神さまである。ホセを誰が歌い、カルメンには誰がなったというもう問題ではない。オペラとしてでなくて、多才なカラヤンらしく管弦楽曲の楽しさで『カルメン』をきかせてくれると、賞めていた批評家がいたが、管弦楽できくならコステラネッツとその楽団でも間に合う。私はオペラを聴きたい。  念のために、古い『フィガロ』を私はきき直してみた。その清新で優美な奏法にうっとりした。気になって調べてみたら、これが録音されたのは一九四九年——約二十年前である。(当時のこのレコード・ジャケットに印刷された、指揮者カラヤンの文字の小ささよ。)わずか十数年で、同じカラヤンがどうしてこうも変るのか。バッハの『ロ短調ミサ』に見せたあの、けっして大きな声を出さぬカラヤンはどこへいったのだろう。  私は保守的で元来頑迷な人間だから古いものに固執するのかも分らないが、冷静に眺めても、近頃のカラヤンには、フォルテの残忍なほどの激しさと、ほとんど女性的すぎる技巧のこんだピアニッシモの対比がある。突如として両者はよく交替する。そういう音の変化だけで作り出せる世界にどんな美があろうか。彼の最近やっているのは、音楽の指揮ではなく、音の演出だけなのである。  ——それでも、カラヤンの人気はおとろえない。最近出た『ブラームス全集』でも人気は高まるばかりらしい。まったく、バーンステインの好評とともに、現代七不思議の一つだが、両者に共通して言えることは、どちらもハンサムであり、性的魅力がある。とくにカラヤンには、一般の人々にまで絶大な人気を得るに十分な、他の多くの魅力がある。ロビンズは言っている。  カラヤンは今やベルリン・フィルの音楽監督兼終身常任指揮者であり、ウィーン国立歌劇場の首席指揮者兼芸術監督、ザルツブルク音楽祭の主任指揮者、ミラノ・ラ・スカラ座のドイツ・オペラ主任指揮者、ロンドン・フィルの主任指揮者(これらのポストはどれもが世の指揮者のあこがれのまとであり、一生のうち、一度はどれかのポストを占めたいと彼らは念願している)の名誉を独占し、まさにヨーロッパ大陸のスター・コンダクター(ナポレオン的存在)であることは疑う余地がない。これまでの楽界でヘルベルト・フォン・カラヤンのような存在は一人もなかった。彼が黒いメルセデス・ベンツのスポーツ・カーを駆ってザルツブルクの祝典ホールに乗りつけると、警官は直立不動の姿勢をとり、彼のため、他の車を停止させる。カラヤンがそれを乗り捨ててホールへ入ると、まだエンジンのかかっているベンツを誰かがいち早く有料駐車場へ入れている。  またカラヤンはセスナ機を操縦するが、「パイロットから管制塔へ……着陸許可をもらいたい。こちらカラヤン」と、言えば、「かしこまりました、ヘル・ゲネラルムジーク・ディレクトール(音楽総監督様)。どうぞ第三滑走路へお回り下さい。繰り返します、第三滑走路へ……」そうしてスポーツ・セスナ機が着陸後、格納庫におさまるのをオーストリア税関・航空部ザルツブルク支所長は不動の姿勢で待っている。  たしかにフルトヴェングラーは有名だった。メンゲルベルクは有名だった。サザーランドも有名である。しかしカラヤンの名声は今や音楽界を越え、映画スターか王侯貴族、あるいは億万長者に限られていた名声にまで至っているというべきだ。私(ロビンズ)は昨年の夏ザルツブルクで、フルトヴェングラーがどんな車に乗っていたか尋ねたが、答えられる者は一人もなかった。フルトヴェングラーが車をもっていたかどうかも人は記憶していない。しかし、ザルツブルクのカフェー・バツァール(有名な喫茶店)で、オーストリアの新聞記者はほとんど誰もが、カラヤンがなんという車に乗っているかばかりでなく、車の番号すら教えてくれる(シトロエンのW一六一……)。  カラヤン自身は“クルトゥアイドール”(文化人の偶像)であることに別に責任をもつ必要はあるまいが、彼の意識するとせぬにかかわりなく(私は彼は意識していると思っているが)その生活は、ジャーナリズムの手中にある。彼はゴージャスなフランス人の夫人を持っており、フランス最高の店で仕立てられた夫人のイヴニングは彼女の出席するザルツブルク、あるいはミラノ、ウィーンの公演などで聴衆の目を奪った。  カラヤンはまた練達のスポーツマンとして広く有名になった最初の指揮者であろう。一流のパイロットであり、ドライバーである彼はまた、そのスキーで、一流のスキーヤーが“ヴェーデルン”(払子《ほつす》を振る)と称している完璧な柔軟さを示した、それは欠点がないばかりでなく、ウルトラ・モダーンであった。このようなことは、ヨーロッパでふつう指揮者といえば頭の禿げた腹のたるんだインテリだと思っている一般人に、魅力的にうつらぬわけはない。彼はまたカサブランカやコート・ダジュールの富裕な常連の一人であり、ハンサムなアイドルとして、多くの淑女達に最高にセクシーな男と見られた。  ——これらはむろん、カラヤンの指揮とはほとんど無関係である。しかし一九四九年ロンドンに渡ってしばらく、カラヤンはフィルハーモニア管弦楽団を育成した。フィルハーモニアは戦後イギリスのEMIがレコード録音用に、ロンドンの一流オーケストラ演奏家を集めて組織されたものだが、これが世界的レベルに向上したのはカラヤンの功績によるところ大であり、ここに紛れもなく、才能ある指揮者がいる。(三浦淳史氏訳『指揮者のポートレート』および上野一郎氏著『カラヤンのプロフィル』より)  言われてみればその通りだが一九四九年なら、『フィガロ』を指揮した年である。才能のあるのは分っている。——もっとも、ロビンズ・ランドンはさらにこう言うのを忘れないが。 「もっぱらレコードでカラヤンを聴く人たちは、彼の音楽性に欠くことのできない重要な面を見失っている。それはオペラのピットにおける彼の仕事である。カラヤンの録音したオペラは——ロンドンの録音技術にもかかわらず——ナマの舞台にとって代ることはできない。カラヤンの真髄を私がうかがい得たのは、オペラのピットにおいてである」 12 ワグナー  モーツァルトの『レクィエム』が「涙の日《ラクリモーサ》」の八小節目で中絶し(死によって完成をこばまれ——A・アインシュタイン)以後は弟子のジュッスマイヤーが書きついだことはよく知られている。べつだん知られなくても、八小節までと、それ以後とのどうしようもない音楽的差違は聞けば分ることである。『レクィエム』を耳にするたびに思うのだがモーツァルトほどの天才に、多少とも音楽的な才能のある男なら、長年月、師事できるわけはあるまい。弟子は心酔してそのつもりでもモーツァルトの方でお払い箱にするだろう。  なまじっかな才能は、こういう場合かえって煩わしいだけで、モーツァルトぐらいになればただ律儀で従順な下僕がいれば十分である。天才とはそういうものだろうと思う。ほんとうは、レクィエムの第一曲「永遠の安息を」と、第二曲「キリエ(主よ憐れみ給え)」しかモーツァルトは完成しておらず、これ以外の第三曲「怒りの日」から第四曲「賛美の犠牲」まではスケッチにとどまった。「涙の日」も含めて、声楽部と低音部および楽器編成についての指示をモーツァルトは総譜に記入しているだけで、「涙の日」の八小節までが「完成していた」わけではない。モーツァルトの自筆譜ということにせねば、依頼者(シュトゥッパッハ伯爵)から報酬の残額を支払われぬのではないかと、モーツァルト未亡人が心配してジュッスマイヤーに完成を頼んだ。正直者で忠実なこの弟子は、モーツァルトが基礎を置いただけのものをすべて筆写し、師の意図に最もよく添うように欠けている楽器編成を記入して、「涙の日」の終結部、第五曲、第六曲をまったく新しく作りあげて夫人に渡した。だから「怒りの日」にすらすでに小さな疑いを見出し得る、とアインシュタインは言っている。もしそうなら、スケッチに拠ったにせよ「怒りの日」から「涙の日」の終結部にかけて、さしたる違和感なしに聞けるのは、ジュッスマイヤーに確かな才能があった賜ではないのか。スケッチのない第五曲、第六曲はさすがにひどいが、同情的に言えばジュッスマイヤーがこの名曲を、師の意図に添うように書きついだのは二十五歳の時だった。モーツァルトほどの天才の円熟に対してすら十年若い。同程度に書けないのはむしろ当然で、彼には律儀があるだけで才能がなかったわけではあるまい、と私は思う。二十五歳のモーツァルトだって、「キリエ」ほどの入神の曲ばかり書けたわけではないのである。  とすれば、ジュッスマイヤーもいっぱしの才人だったかも分らない。この推定は興味深い。一般に、天才と見られる芸術家たちにも、或る序列のようなものがあって、モーツァルトから比べればジュッスマイヤーごときは従順な下僕程度にしか写らなかった、ということと、なまじな才能(つまり小才)のきいたものが身辺にいては、煩わしいなどと思うようでは、実は思う本人がさして才能ある人物でない証左なのを、モーツァルトとジュッスマイヤーの関係が教えてくれるからである。かりにリストやショスタコーヴィッチが当時生きていて、モーツァルトの隣りにいても猫か小鳥がそばにいるぐらいの関心しかモーツァルトは示さなかったのではないか。作曲しながら彼は平気で人と冗談を言い合い、与太をとばし、その態度は至って軽薄で、どう見ても大人物とは見えなかったのは、ランゲが言うように「そんな軽薄な外見のうらに、わざと内心の苦痛を隠してい」たわけではなく、それほど大袈裟なものではなく、単に「眼中になかった」にすぎまいと私は思う。一切が眼中にないから(傲慢な意味でなく、あくまで無念無想に似た境地で)時に、その生活態度は不真面目とも人には見えたのだろう。  これは、だが、一般によく言われる、或る偉大な仕事をした芸術家が個人的に話し合えば、実にいや味な男だというのとは性質が違う。モーツァルトは野鄙《やひ》なことを口走って時に家族の顰蹙《ひんしゆく》をかったかもしれないが、憎悪や軽蔑はされなかった。一般に《偉大な芸術家》は、身近の者に甚だしい憎しみや嫌悪を浴びることがよくある。モーツァルトの「眼中にない」のは、クライスラーがヴァイオリンさえ弾けるなら、どこでも、少々出来の悪いヴァイオリンでも、曲でも、これを嬉々として弾いたあの無心さに似ている。眼中にないなら人間を嫌悪する必要もあるまい。凡俗秀才ひとしなみに、モーツァルトには、気軽に冗談の言える相手だったに違いない。そんなモーツァルトを、誰が悪《にく》むものか。  リヒャルト・ワグナーは違う。ニイチェがはじめ熱烈なワグナーの崇拝者で、のちに甚だしく反駁したのは周知のことだが、題は忘れたが新潮社の社外校正をしていた頃に、ニイチェ全集で、ワグナーへのニイチェの反発ぶりを読み、どれほど彼が抵抗しても、ワグナーとニイチェでは、まるで人間のスケールが違うのに、何か、音楽と文学の差違を考えさせられ、憂鬱だった記憶がある。スケールの大きい、という表現のあてはまる芸術家は、ワグナーのほかにはミケランジェロぐらいではあるまいかと、その時におもった。ゲーテはワグナーに比べれば聡明すぎるし、バルザックは人間的な幅がまるでない。辛うじて、ワグナーに匹敵する感動を文学で現代にもたらしたのはドストエフスキーかと思う。何にしてもボードレール、マラルメ、ヴァレリーからクローデルに至る、二世代にわたってのフランスにおけるワグネリアンの輩出ぶりは、彼らが詩人なら当然の帰趨のように私には思えた。チュートン——ドイツ民族の昂揚にワグナーは不可分だが、フランス〓プロシヤ戦争の最中、ペンをとってワグナーがフランスを攻撃した直後でさえ、彼の音楽への最も強力な支持はパリから興っている。文人カチュール・マンデスは、「ワグナーはパリに対して卑劣で奇怪な諷刺文を書きおった。なんという時に書いてくれたものだ。われわれが空腹をかかえ、みじめな状態にいる矢先に、この巨大な象はわれわれをふみつけにしたのだ。彼は私の友人だったが、もう、私の方は友ではない」そう言って、 「しかしながら」とこの真物のワグネリアンは付け加えている。「今もなお私はワグナーの熱烈な使徒であることに変りはない。せいぜい、彼に拍手を送った手を、二度と彼へ差し出さぬよう自戒するつもりだ」  ニイチェはワグナーを捨ててモーツァルトに回帰したが、ドビュッシーもまた、一時はワグナーの熱烈な信奉者だった。文筆家とちがって彼はやがて音楽でワグナーを通過し、『ペレアスとメリザンド』を作る。ワグナーの過度の雄弁や饒舌が我慢なりかねたと、ドビュッシーは言っているが(「言葉で表現できないところから音楽ははじまるべきだ」)一方では、「従前の歌劇はどうも歌が多すぎる。台詞が《詩》本来の簡潔さで要求するドラマの進行を、何ものも、音楽さえ——いかにそれが美しく作られていようと——さまたげてはならないし、詩が要求せぬ音楽的発展はすべて、間違いだ」——そう言って『ペレアスとメリザンド』を彼は書いたが、このオペラの画期的傑作に、ワグナーの半音階的和声法を聴きとるのはさほど困難ではない。白状すると、私ははじめてアンセルメ指揮のLPで『ペレアスとメリザンド』全曲を聴いたとき(昭和二十八年)、音楽というにはあまりに詩的にすぎるその楽想の扱い方に、こんなオペラがあったのかと茫然としたが、その後、『ラインの黄金』全曲を聴いてドビュッシーがワグナーから、どれほど多くを汲み取ったかを知った。ドビュッシーのあの象徴性とワグナーの饒舌とはおよそ両極端のようだが、ワグナーの楽劇がなければ、やっぱりペレアスの絶唱はうまれなかったろう。  ワグナーの伝記作者アーネスト・ニューマンの著述によると、生前すでにワグナーを憎んでいた人間がずいぶんいたことが分る。彼は音楽史上稀に見る借金の名人だったし、ペテン師だったし、年とった女優をくどいて老後のたくわえをはき出させるくらいは造作もなかったそうな。ワグナーはまた、当時もっとも熱烈なワグネリアンだった指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻コジマと姦通し、彼女をして「なみだとすすり泣きで、私たちは二人だけのものである愛の告白に封印したのです」——聞きようによっては歯の浮くようなこんな告白を、平気でさせる巨匠でもあった。ことわるまでもないがこのコジマはリストの娘(私生児)であり、彼女がワグナーの胤で産んだ娘を彼はイゾルデと名づけている。けっきょく、彼女は夫ハンス・フォン・ビューローを捨ててワグナーと結ばれたし、彼女こそはワグネリズムの中核であり、バイロイトを今日の音楽的聖地とした真の演出者でもあるが、抜け目なく、どれほど老獪に彼女はそれをしたにせよ、献身的なワグナーへの愛なくてはかなわぬことだ。その意味で、ワグナーのせいではない。しかし彼女の写真を見れば分る、愛らしい婦人とはお世辞にも言えぬこんな女と、涙とすすり泣きで一体どうすれば平気で愛が語り合えるのか。  もう一人、これも有名すぎて今さら書くまでもないのだが、ワグナーの熱烈な支持者でありパトロンだったバヴァリアの国王ルードヴィヒ二世がいる。ワグナー崇拝の形式を設定したのはこの哀れな国王であり、F・グルーンフェルドのエッセイによれば、王は同性愛的偏向で、ワグナーを慕い、病的なその愛着がワグネリズムの発達に決定的な役割を果したという。たしかにバヴァリアは当時から貧しかったが、王は十八歳で国王となると、さっそく、官房長官を派遣してワグナーのゆくえを尋ねさせた。ちょうどその頃ワグナーは不名誉な或る事件で、ウィーンの債権者から逃げるため居所をくらましていた。よい時にだから、国王の密使はワグナーを訪ね、彼を護衛して王宮へ連れ帰ったのだとグルーンフェルドは言う。  以来、国王の内帑金《ないどきん》からどれほどの金がワグナーの芸術のために貢がれたか知れない。《多額あるいは小出しに、ワグナーは、錠をあけさせまいとする大蔵大臣の気違いじみた努力にもかかわらず、王室の金庫から、今の通貨にして約百万ドルを引き出させた。》(三浦淳史氏訳『ワグナーの黄昏』)最初のバイロイト音楽祭(一八七六年)におけるこけら落しの赤字十五万ドルを埋めてくれたのもルードヴィヒ国王である。またあるとき、十二万マルクを必要とした際、金庫係の役人は紙幣を使い果したと言い張って、ワグナーの使者コジマに銀貨で受け取らせたら、彼女は少しも騒がず、金を袋につめさせ、その数をかぞえてから二輪馬車に積み込んでワグナーのもとに帰ったそうだ。  しごく冷静に、そういうことのできるコジマは女性であり、くどいようだがそんな彼女にワグナーは「涙とすすり泣き」で愛を訴えた。《偉大な芸術家》ではあるが、個人的には実にいやな男だった——ワグナーはそんな典型だったかも分らない。  それでも、今もって、私はワグナーが好きである。「ワグナーの音楽は人間を壮大なものへそそのかす偉大な魂の発言だ」とボードレールは言ったが、壮大な、たしかに或るヒロイックなものへの興奮も彼の楽劇から私は感じる。  私が、最初にワグナーの音楽をきき覚えたのは戦前のニュース映画であった。戦中派の私にとって、これはどうしようもない事実だ。当時、海上を征《ゆ》く輸送船団がスクリーンにうつるたびに、伴奏にはワルキューレ第三幕の前奏曲が鳴った。あの当時、ニュース映画を観た人なら覚えがあろう。  戦後、それもLP時代になってワグナーは全曲をレコードで聴くことができたが、フルトヴェングラーの振った『ワルキューレ』を通しではじめて聴いたとき、私の頬を濡らすこの涙は何なのかと私は思った。白状するが、この時私はヒットラーのことを考えていた。誰に聞いたのか、或は本で読んだか、正確に記憶はないが、ヒットラーは師団の将兵を戦場に送り出すとき、よくワグナーを演奏させたという。ワグナーを聴いているヒットラーの気持が痛いほど私には分ったのである。とりわけ敗戦を明らかに自覚したとき、ヒットラーは心の中で、死んでくれ、ドイツのために死んでくれ、そう叫んでいたと思う。将兵の士気を鼓舞するためワグナーを鳴らすのではない。ドイツの破滅と、ドイツ人の死の首途《かどで》にもっともふさわしい音楽を、ヒットラーはえらんだ。これは同胞愛ではないのか? 敗戦は眼前の事実であるのに、黙って、特攻隊機が一機、一機とび立つのを見送った基地の指揮官と同じ思いが、この時ヒットラーの胸中に鳴っていたに相違あるまい。私の体験で言えば、部隊が兵営を出発するのはきまって夜だ。篝火があるではなく、暗夜の練兵場に黝々と、また錚々と兵隊は帯剣を鳴らして整列し、台上に立った部隊長の訓示をうけ、あくまで無言で、しずしずと兵舎の門を出ていった。外も暗かった。そんな暗い路上の両側に、いつとはなく家族が見送るために群がり、ひしめいていた。進軍ラッパなぞ鳴りはしない。どこへ、なんの作戦で移動するのかわれわれは知らなかった。無言のうちに私達は家族と別れ、或る婦人は行列に走り寄って息子に煙草を掴まそうとし、取り残されていた。死ぬかも知れぬ戦場へ出かけることだけをわれわれは自覚した。それでも私たちは征った。戦争だからだ。ヒットラーは、そんな将兵にワグナーを聴かせたのである。もっともドイツ的な餞別のしかただったと思う。  ナチスのユダヤ人への残虐さが戦後さかんに喋々《ちようちよう》されたが、ユダヤ人を憎んだのはヒットラーにはじまらない。ビスマルクが諸王国を一つのドイツ帝国に統合しようとしたとき、ワグナーは総合芸術作品による、ドイツの救済を宣言して、文化、宗教、演劇、キリスト教、神話学などあらゆる分野に健筆をふるい、わけてユダヤ人には激しい攻撃を加えている。ワグナーはユダヤ人を「胆汁が血液に必要なのと同様に私の性質に必要な憎悪」をもって、憎悪したのである。  ——むろん、こういう、ヒットラーに結びつけたワグナーの聴き方は危険なのは分っているし、戦時中だってナチズムからワグナーの音楽をまもろうと努力し、そのゆえに一そうナチを憎んだドイツ人もいた。トーマス・マンは、第二次大戦でのナチスの敗北のみが、ワグナーの作品に「政治的潔白を取り戻した」と言ったそうだ。いい言葉である。それでも、「教育あるドイツ人がワグナーとバイロイトおよびワグナー信者によって慣らされていなかったら、あれほど抵抗もなくヒットラーの武力に降伏はしなかったであろう」と言ったエーリッヒ・クービーの解釈は間違っているのではないか。そういう解釈のよって来たるもの、ありふれた表現だが「ドイツ精神そのもの」的なワグナーの音楽に、日本人のわたしではなく、全世界のワグネリアンがどうして感動するのか、それを、考えねばならない。  私の場合は、いわゆるナショナリズムが、孵《かえ》った雛の殻のようにまだお尻に付いている。戦中派の一人としてやむを得ぬ仕儀だ。時にそういう己れを反省し、うんざりし、考え直す。ワグナーを聴くのはこの自省の時機に毒薬となるかもしれない。しかし一時はいさぎよく毒をあおらねばなるまいと私は思う。それでアタッてしまいそうだとモーツァルトを聴く。この浄化はてき面に効くから羽目をはずさずにいられるのだろう。ワグナーの楽劇には、女性の献身的愛による救済がきまってあらわれるが、男子たる私にとって、この美酒はいつ酌《く》んでも倦むことがない。  ドイツ民族のサーガ神話は、楽劇のストーリーとして興味があるにすぎない私は聴衆だから、膨大な『ニーベルンゲンの指輪』の序夜に、ファーフナーなる巨人が登場したことなど、二日目の『ジークフリート』を聴く時には綺麗に忘れている。ジークフリートの剣に刺される大蛇が実はファーフナーだと、解説に読んでもぴんとこないくらいだ。神話に対しては、それほど私はずぼらな聴衆である。つまり真のワグネリアンでは断じてない。いつかはワグナーの楽劇の膨大さそれ自体にうんざりする日がくるかも分らない。  が今はまだ、ワグナーの楽劇をその完璧なスケールの大きさで再生してくれる、わが家のステレオ装置をたのしむ意図からだけでも、繰り返し聴くだろう。ドイツ的なワグナーがテレフンケンではなくて英国のタンノイでよりよく鑑賞できるのは、おもえば皮肉だが、バーナード・ショーは死ぬまで、イギリスは自国のワグナー音楽祭を持つべきだと主張していたそうだ。前にも書いたことだが、タンノイのfolded hornは、誰かがワグナーを聴きたくて発明したのかも分らない。それほど、わが家で鳴るワグナーはいいのである。 13 シベリウス 『レミンカイネン組曲』というのがシベリウスの作品にある。正しくはFour Legends from the Kalevala『カレワラにもとづく四つの伝説曲』(作品二二)で、カレワラというのはフィンランドの民族的叙事詩だそうだが、全五十章におよぶ膨大なこの叙事詩の基調に、民族古来の自然崇拝的汎神教があるという。これを背景に三人の主要人物が活躍し、その一人がレミンカイネンである。  曲は『レミンカイネンとサリーの少女』『トゥオネラのレミンカイネン』『トゥオネラの白鳥』『レミンカイネンの帰郷』の四曲から成り、角倉一朗氏の解説によると第一曲『レミンカイネンとサリーの少女』だけが現在(昭和三十四年)まだ未刊で、カレワラ協会に保存され、したがって一般に演奏されることはないそうだ。(音楽之友社『名曲解説全集』4)  しかし昭和二十九年頃、米コロムビア盤ですでに『レミンカイネン組曲』の中にこの第一曲も演奏されている。オルマンディ指揮のフィラデルフィア交響楽団のもので、米盤のジャケットには、第一曲の出典は明らかにされていないから、或はカレワラ協会に保存されている原譜とは、どこか違うのかも分らない。この点は私には分らない。一般には『トゥオネラの白鳥』だけが有名らしいが、原譜はどうあれ、第一曲は、他の二曲同様『トゥオネラの白鳥』より、シベリウスのものとしては白眉の曲のように思う。  ヤン・シベリウスは、普通には『フィンランディア』『悲しきワルツ』で知られ、やや高度のファンに、セシル・グレイが評したような「ベートーヴェン以後最大の交響曲作家」であるかどうかは兎も角、その『ヴァイオリン協奏曲』(作品四七)で愛好されているらしい。こうした一般の評価を、私は駁そうとはつゆ思わない。しかし本当に、シベリウスの真価はその交響曲(とくに第四シンフォニー以降)にあるのだろうか。  一人の作曲家の全作品を知ることは、いかにLP時代の今日でもわれわれ素人には不可能である。せいぜいが発売されるレコードを通じて聴く以外にない。それでも、発売されたレコード(作品)のすべてにわたって、一人の作曲家のものを試聴しているのはよほど、熱烈な愛好家に限るだろう。大概は、何かが抜けているものである。  シベリウスの作品を、たまたま私はLP初期から現在まで、レコーディングされた曲に関する限りは鑑賞する機会をもった。  最初に私がシベリウスになじんだのはヴァイオリン協奏曲である。なじむとは表現が適切でないが、私としてはその日、生れてはじめての歴史もの、それも剣術遣いの小説(「喪神」)を新潮社に届けた。締切はとっくに過ぎていた。『新潮』のごとき純文学誌に採用されるかどうか、わずか三日で徹夜で書き上げたそれが、もし掲載されるなら、私としては処女作ということになるが、あんな不出来の小説を世間の人に読まれて私という男はもう仕舞いではないか、できることならペンネームを許されぬものか、などと他愛なく思いあぐね、新潮社の応接室で、私は編集部から天丼をサービスされ、夕方六時頃だったと思うが、それからS氏に誘われLPコンサートに行った。シベリウスのヴァイオリン協奏曲が演奏曲目にあったからで、当時、裕福な愛好家の誰かが輸入盤を取り寄せると、それを拝借してコンサートで一般に聴かせたものである。NHKの音楽番組で放送もされた。そんな時代だ。S氏の所蔵する何枚かもコンサートやNHKに借り出されたのを私は知っている。少女ヴァイオリニスト、C・ウィックスの弾いたこの時の米キャピトル盤も多分、誰かが購入した一枚だったろう。会場には定刻前に大勢のファンが詰めかけていた。雨の晩だった。使用されたスピーカーはアルテック・ランシング六〇四B型のように覚えているが、キャビネットに張られた布が、音の大小につれて吸い込まれたり、ふくらんだり、フワフワ動いていたから別のスピーカーかも分らない。(A・ランシングの正規のものならキャビネットに布は張ってなかったはずである。)  S氏は、何ひとつ装飾を好まぬ書斎にシベリウスの写真を一時、飾っていた人である。シベリウスが好きというよりは、人間像として実にいい写真だったからだろうが、それでも嫌いな音楽家の写真を飾る人はあるまい。そのS氏が、ヴァイオリン協奏曲のはじまる前、何かの序曲集を聴いていて、腕組みしていたのが、いつの間にか居眠りを始めた。それから、とうとうすわり心地の悪い椅子をころげ落ちた。私も驚いたが、もっとも愕然としたのはご当人だろう。コレハシタリ、そんな姿態であわてて組立て式の椅子を立て直し、席に着くのを顰蹙した聴衆は一人もいない。それほど皆は熱心に聴いていた。LPというものに、まだわれわれは餓《かつ》えていた時代であった。私はと言えば、実のところ処女作を書き上げた直後で、うわの空でコンサートに臨んでいた。あのくだりはこう書けばよかった、あの形容は大げさすぎはしなかったか、そんなことばかり考えていた。  それでも、ヴァイオリン協奏曲が鳴り出したときは、思いなおって一生懸命きいたつもりである。記憶は何も残っていない。消音した弦部の主和音がppで響き出したと思ったら、突如、常の協奏曲のような管弦楽の長々しい呈示部はなく、独奏ヴァイオリンが鳴り出すのを、たしかにこれはシベリウスの声だ、と思ったのは印象にあるが、あとはついて行けなかった。小説のことばかり考えた。——C・ウィックスは、十七歳でデビューしたとき(指揮ロジンスキー、ニューヨーク・フィルで)同じシベリウスのヴァイオリン協奏曲を弾いたそうな。それを聞いていたためか、会場の装置が不良でやたらに、キン、キン、高音部が耳を刺したせいかも分らない、ウィックスというのは辻久子がデビューした時のように、痩せてぎすぎすした女性ではあるまいか、そう思ったのが印象のすべてである。  のちに、S氏宅にもこの盤は取り寄せられて、繰り返し聴く機会をもった。翌年だかに(昭和二十八年)アイザック・スターンがビーチャムの指揮で弾いた同じ協奏曲もS氏は取り寄せられたが、しかし一旦、或る人生的な岐路に立って聴いたものを記憶から消せるわけはない。シベリウスのV協奏曲が鳴り出すと、あの、今は会場のビルの名も覚えないコンサートでの、前晩徹夜で、朦朧《もうろう》とした頭で、小説のことばかり思い耽った状態を想起する。よかれあしかれ「喪神」が私の作家的スタートになったのでは已むを得ないことだ。LPがステレオになって間もなく、ハイフェッツの盤を買って聴いたが、冷静にその演奏だけを鑑賞できるまでに、ちょうど、十年の歳月が要ったのだな、とその時おもった。  右のヴァイオリン協奏曲を別にすれば、他のシベリウスの作品には、他のレコード同様の落着いた鑑賞ができる。私自身の好みで言えば後期のものより、比較的、初期の作品の方が素直にシベリウスの才能の流露が感じ取れて、好きである。極端な言い方をすれば、シベリウスという音楽家はフィンランドの叙事詩と、その神話を北欧人特有のメランコリーと資質で、素朴にうたいあげるにとどまる作家だ。後期の交響曲がすべて駄作というのではない。第四交響曲には、たしかに「最初から最後までこの曲に余分な音符は一つもない」(セシル・グレイ)かも知れない。しかしたとえば楽式的にヨーロッパの伝統にしたがわず、独自の形式を生み出そうと苦慮したり(第五交響曲)、シンフォニーを単一楽章だけでとどめてみたり(第七交響曲)、そんな努力や腐心が、一体、音楽となんのかかわりがあるのか。努力そのものは常に尚しと人はいうが、大努力をして大愚作をなす譬えもある。チャイコフスキーはバレー組曲に、その才能のすべてをちりばめていると私は思う。ショパンもピアノ協奏曲を作ったが、彼の二十四の練習曲やワルツやバラードやポロネーズ、即興曲以上の何がそこにあるというのだろう。ピアノ曲で、ショパンのすべては尽されている。それを言う。  シベリウスの第七交響曲(作品一〇五)はたしかに荘厳で雄大である。しかしシベリウスの音楽的才能がえがき得る雄大さはすでに『ポホヨラの娘』(作品四九)あたりに出ている。シベリウスに弦楽四重奏曲(作品五六)があるが、ベートーヴェンのクヮルテットとは比べようもないものだ。はじめシベリウスはフィンランドの神話によるオペラを企画したが、自分にオペラ作曲家としての才能のないのを悟って、この計画を放棄し、序曲だけを出版したのが『トゥオネラの白鳥』である。しかしシベリウスに才能の欠けていたのはオペラの分野に限らないような気がする。シベリウスをこれは譏《そし》る意味ではない。  ガブリエル・フォーレにオペラが作れなかったからとて、誰がフォーレの才能を疑うものか。ドビュッシーは『ペレアスとメリザンド』を作った、シベリウスも、フォーレも『ペレアスとメリザンド』を書いた。それぞれにシベリウスらしい、いかにもフォーレらしい味と気品のある作品だがオペラにはならなかった。  シベリウスはまた、歌曲集をのこしている。スーゼの唄ったフォーレの歌曲にどこか似通ったいい歌である。フランスと、フィンランドの民族性に差違のあるのは言うまでもないが、音楽家の稟性で、両者には共通点があるように思えてならない。フォーレは交響曲を書かなかった。少しも、われわれはフォーレのために惜しいとは思わない。本当は、シベリウスの才能も交響曲には不向きのものではなかったのか。それを無理したからシンフォニーの伝統的形式からのがれ、有機的な構成や語法を意図し、苦しまねばならなかったのではあるまいか。シベリウスの音楽の特徴として、金管群が急速にff、高潮し、クライマックスに達すると突如、停止する。それは、もうこれより先は歌い上げる必要はない、というのではなくて、楽想的に息切れがした、そんな停止である。無理に無理を重ねてきたのが息切れした感じである。一度や二度ならよいが、しばしばこれが——つまり豊潤な楽趣の枯渇した息切れが現われるのでは、深遠な楽曲というより、単に韜晦《とうかい》しているとしか思えない。後期の作品にとりわけこの傾向がつよい。  ことわっておくが、私は音楽家ではなく素人である。楽想の枯渇というのはシベリウス自身の、初期の作品に比較しての話である。『四つの歴史的光景』という作品がある。これを聴いた人なら分ってもらえると思うが、最初の『祭り』は作品二四、あとの『はね橋にて』『愛の歌』『追跡』は作品六六、ともに第四シンフォニーのあとに書かれた。『祭り』と以下の三曲では、すでにシベリウス独自な北欧的詩情に格段の落差のあるのを見ることができる。『カレリア組曲』(作品一一)に感じとれる彼の祖国フィンランドの風物に対する惜愛——豊潤で、厳格で、沈鬱な人格に裏打ちされた溢れるばかりな楽趣は、もうあとの三曲には汲み取れない。北欧人のメランコリーではなくて気むずかしさがあるばかりだ。  たしかに、シベリウスは三十代の後半から耳疾に悩んだ。同じ苦しみを通ったベートーヴェンは、気むずかしくはなったろうが韜晦はしなかったと思う。断わっておくが、私はシベリウスが好きなのである。どれほど好きでもベートーヴェンの交響曲とシベリウスのそれを、人類が今日享受する音楽の恩恵、価値の点で比較しようもないから、シベリウスは後期の作品で枯渇していたというのである。同じ交響曲でも、私は後期のものより第一、第二交響曲のほうが好きだ。シベリウスの個性がここではまだ十分発揮されず、チャイコフスキーの影響があることなど、われわれには大して気にならない。誰が見たってこれはチャイコフスキーではない、シベリウスの声が歌っているシンフォニーだから。組曲『レミンカイネン』では、『トゥオネラのレミンカイネン』と『レミンカイネンの帰郷』が好きである。レミンカイネンは、角倉一朗氏の解説によると、魔法をよくし剣術に秀でた向う見ずの青年で、北方の地ポホヨラの娘に恋をするが、彼女の母ロウヒが彼に三つの冒険を課し、それをなしとげねば娘を与えぬという。彼は第三の冒険——つまりトゥオネラの白鳥を射ることに失敗し、毒蛇に殺され、その身体は黄泉《よ み》の国トゥオネラの王の息子に切りきざまれて河に投げ込まれたのを、レミンカイネンの母が大きな熊手で河をかき回して倅の肉片を拾い集め、呪文の力によって蘇生させた。よみがえったレミンカイネンはなおもポホヨラの娘を思うが、母の愛に説得されて故郷へ帰るのである。  こういう劇的な神話を採りあげる初期の頃のシベリウスの才能には、間然するところがない。しかし同じ神話でも交響詩『タピオラ』(作品一一二)となると、音楽史家がどう褒めようと彼本来の才能をぬきん出るものは何一つなかった。——それは、ただの葡萄酒だって長年貯蔵しておけばうまくなる。初期に比べて無駄のない、緊張感に溢れる、きわめて効果的な楽器法や、構成、和音法が見られるのは当然だろう。  私はシベリウスはもっと芳醇な美酒になっているべきだったと言っている。ただの歳月を経た葡萄酒程度なら、歳月は芸術家には無駄にひとしいと言いたいのである。『カレリア組曲』から『タピオラ』のなるまでがほぼ三十年、ベートーヴェンは三十年を無駄にはしていなかった。誰よりもシベリウス自身、このことは痛切に感じたろう。さればこそ晩年、彼はかたくなに沈黙をまもり一切の創作活動をやめたのではないのか、そう私は思う。くどいようだが、そんなシベリウスの後半生を非難するのではない。私の言いたいところは変らない。ショパンが、かりになお三十年の余生を生きのびたとして、彼の遺した以上のどんなピアノ曲を諸君は聴きたいと言うか。畢竟シベリウスの音楽的生命と才能は、三十代の後半で咲ききるものだった、ベートーヴェンは五十余年の全生涯が必要な才能だったのである。芸術は酒と似ている。葡萄酒は何年貯めてもコニャックにはならない。  ——大事なことを忘れるところだった。シベリウスが、その良質の酒《ワイン》が、貯蔵される年月の長さに我から成分を変じてコニャックになろうとした、なまじ無理をするから酒の美質をそこないそうになったが、だからといって、彼の晩年は音楽家として蛇足だったとは言えない。そのことを考えてみたい。  S氏の書斎にシベリウスの写真を飾ってあったと前に書いたが、どういう気持でS氏はそれを飾ったか、他人である私には想像の外である。とにかく私はこのS氏の書斎で、月々、航空便で取り寄せられるシベリウスの新譜を聴かせてもらった。『伝説《エン・サガ》』(作品九)に始まって『ラカスタヴァ』(作品一四)『ロマンス』(作品四二)指揮者とオケが違うだけのいくつかの同一シンフォニー……幾度、くり返し聴き入ったろう。芥川賞を受賞しても貧乏に変りはなかった。かえって或る意味で私はみじめになっていたから、シベリウスの声にどれほど励まされたか分らない。シベリウスの声——つまりはフィンランドへの、祖国への愛である。  今になって気づくのだが、月々シベリウスの新譜が取り寄せられたのは、S氏のシベリウスが好きだったのは当然ながら、それがレコード会社で発売されたからだろう。いかなる国の商法でも売れぬものを出す道理はない。とすれば世界各国でシベリウスの音楽は、或る渇望を癒やし励ましとなった。東洋の無名の青年である私が励まされたように。当時(昭和二十八年前後)シベリウスはまだ生きていて、フィンランドの国宝的存在として全国民の尊敬をあつめたばかりでなく、世界楽壇における長老である。まだ生きているそのこと自体が、権威を、シベリウスの上にもたらした。権威によわいのはどこの国民にも共通だろう。だからレコードが売れたというのではむろんないが、アメリカあたりの商法なら、その辺を狙って売り出していたかもしれない。だがわれわれの癒やされたのは、シベリウスの音楽がフィンランドの民話と伝説と、心象風景への愛をうたいあげていたからである。シベリウスといえばフィンランド、それほど強烈な個性を、彼の音楽にはぐくませたのはほかでもない、母国への愛だったにきまっている。  われわれは、当時戦後のまだ混迷にいた。混迷の中で精神的支えを無意識にまさぐっていた。日本だけに限らなかったと思う。むろん青年層だけがそうだったのではない。戦争による社会的変動や、戦後のもたらす価値転換はむしろ中年以上のおとな達に、動揺と混迷を与えた。そういう時代にシベリウスは生きていて、彼の音楽は、北欧、フィンランドの存在を——つまり母国への民族愛のあることを想起させた。敗戦の惨めさから、国家への忠誠や《国籍ある感情》をすべて、うとましく人が思うのは確かである。いつの時代にも敗戦国のこれは風潮だろう。しかし、だからと、風潮に同調して安心できた人が何人いるか。やっぱり割切れぬ虚しさ、混迷はつづいていたと思う。シベリウスの音楽は、そういう風潮に一種の清涼剤の快さで聴かれたのではなかったのか。北欧の、雪ふかい大自然と、その雪を橇ですべる素朴な住民の姿が音楽から彷彿《ほうふつ》されることも、清涼感に役立ったかしれない。なんにせよ、シベリウスの作品が当時歓迎されたのは北欧フィンランドをそれは描いていたからだ、けっして大交響曲作家としてではなかったと私は思う。  シベリウスの作品は、ティンパニーの微かな連打と低音弦の保続音に、管やヴァイオリンの主題楽想が出て、しだいにクレッシェンドして突如沈黙し、またディミヌエンドしてゆく楽式が多い。たいがいの曲の出だしがティンパニーのトレモロで始まる。Hi・Fi的に言えば、ホ音、ヘ音のティンパニーやコントラバスのピチカートなどモノーラルでは十全に再生できない。曲そのものの上から見てもシベリウスも亦、ステレオでこそレコード音楽の興趣の湧くものなのである。しかし私にはもう、シベリウスを聴く時代はすぎた。 14 ラヴェルとドビュッシー  ワグナーの伝記を読んで、私などの圧倒されるのはコジマとの交渉である。五十代で人妻に二児を生ませ、彼女を先夫と離婚させて堂々と結婚式を挙げる。先夫はもともとワグナーの崇拝者だった。自分を崇拝してくれる男の女房を、寝盗るなど到底われわれの倫理観ではなし得ない。ワグナー楽劇のスケールの巨きさは、分りきったことだが、そういう生き方のできる男だから作れたのだろう。指揮者フルトヴェングラーの述懐では、ワグナーほど演奏する側に難渋な作品はないそうで("Ton und Wort")それでいて、ワグナーにはどこか〈大衆的〉なところがある、「最も矜り高い知的なコンサートでも演奏されれば、公園の野外演奏会、軍楽隊でも演奏される」とフルトヴェングラーは言っている。なるほど、そう言われればわれわれのワグナーへの感動——もしくは感動ぶり——には、〈大衆的〉と呼ばれるに近いものがあったか知れない。ニイチェ式に言えば、これはワグナーの作品が、ギリシャ悲劇の再現に他ならず、ディオニソス的劇作家であったせいにもよろう。——が、ここではワグナーの作品を論じるのが本旨ではなく、彼の楽劇が、いかにもその作者らしい生活ぶりで創作されたことを言えば足りる。わたくしは当年四十四歳である。不徳義な恋のためではなく、まして債鬼に追われるあこぎな借金のできる男でもないが、世の誹謗を浴びる立場におかれている。同時代人に反感をもたれ、憎まれつづけたワグナーが他人事には思えない。四十四歳といえば、それでも、ワグナーはすでにマティルデとの恋で『トリスタンとイゾルデ』前奏曲を書きあげた。コジマとはしかもまだ出会っていない。後援者ルードヴィヒ二世との邂逅もない。五年後、私にコジマのような人妻が現われようか? どれほど私にそんな女性の出現があると仮定しても、今の妻と娘を離別して新生活をもつことはできそうもない。自足しているからではなく、その勁《つよ》さがない意味である。ワグナーの貪欲さ、ヴァイタリティが自分にない自覚から、その楽劇に聴き惚れるならつまらぬことだが、尋常一様の生きざまで『指輪』が作れるわけのないのを、生涯を知って首肯するのは無駄ではあるまいと思う。  ただ言えることは、ワグナーの生活力の逞しさに対すると同等の羨望を、われわれは若い嫁や人妻が敢然とワグナーを愛したことに感じる。ベートーヴェンだってワグナーに匹敵する巨人には違いないのに、彼は女性の愛に恵まれなかった。ベートーヴェンは醜男だったから、というのでは味気なさすぎる話である。ブラームスを見るといい。この心の優しい音楽家は、とうとう結婚できなかった。十八も年上の女を妻とした父ヤコブのお人好しな所を彼も受け継いでいたのか知れない。ブラームスは、クララ・シューマンにシューマン亡きあと次第に魅了されていったが、自制した。二十二、三歳ごろであった。ついで大学教授フォン・ジーボルトの娘を恋しながら、彼女の美声に鼓舞され歌曲を作るのだが、結婚はようしない。ワグナーがバイロイトで花々しく祝祭劇を開幕した同じその年(一八七六年)、ブラームスはケンブリッジ大学から名誉学位を贈られたけれども、自身それを受け取りに往かなかったので、結局、授与されずに終ってしまう。パリでおのれの作品を売り込んだワグナーとは大変な違いである。  ブラームスはまた、ワグナーに妻を寝盗られたビューローと親交を温めた。心根のやさしい、誠実なこの男——ブラームスはクララ・シューマン死去の報に葬儀の行われるフランクフルトに急行するが、間違った汽車に乗ってしまう。ようやくボンで埋葬の式に列し、愛しつづけた彼女の跡を追うように一年目に永眠するのである。  ワグナーの(“悪漢ワグナー”と呼びたいくらいな)強さと、なんという差違だろう。つづまるところわれわれはブラームスの臆病さにちかい。ショパンもまた、同じ年代にコンスタンチアを愛しながらこれを口にせず、マリア・ヴォジンスカへの愛は彼女の母に退けられ、けっきょく大年増ジョルジュ・サンドに愛撫されて才能を滅ぼす。しかしサンドのショパンへの熱愛は、これは強調しておきたいが大変もとは理知的で、教養高い優れた婦人のものだった。サンドが悪女なのではなくて、ショパンのヴァイタリティの欠如がワグナー的にさせなかったのである。これには肺の悪化が原因していたと言える。  ところで、ラヴェルのピアノ曲集『鏡』である。周知のように、モーリス・ラヴェルは『水の戯れ』で、水の動静を描写した。ドビュッシーは対象を観照して、湧くイメージを捕えるが、ラヴェルは対象それ自体を描く。この『鏡』のタイトルも事物そのままを写し出すのを意図したのは瞭かだろう。第一曲『蛾』から、『悲しい鳥たち』『洋上の小舟』『道化師の朝の歌』『鐘の谷』で成るこの曲はいってみれば耳でとらえた聴覚的写生で、同じ描写でもドビュッシーの交響組曲『海』とは調性感覚が違う。『海』が印象主義的な独自の手法を用いてあるのに反して、ラヴェルは割合伝統的な音楽形式を踏襲した。これはラヴェルの、自己の作品に対する潔癖すぎる完成美の要求によるものだろうと専門家は言う。専門的なその辺は私には分らない。『水の戯れ』と『版画』などもよく比較されているらしいが、私の好みで言えば、およそ双方のピアノ曲集で第一等と思うのはドビュッシーの『前奏曲』第一輯である。印象派的なピアノ曲ではこれが一番好きである。が、こうした嗜好は姑《しばら》く措く。 『鏡』の第一曲『蛾』は、「羽ばたきながら飛ぶ蛾を音画ふうに描いて、沈鬱な夜の歌と対照させてある」と『名曲解説』(音楽之友社刊)にはあるが、白状するとこれを聴いて一向に蛾の妖しく飛び交う様は私には泛《うか》ばないのだ。第二曲『悲しい鳥たち』も同様で、はじめのが鳥の啼き声とは思えない。『洋上の小舟』に至って、どうにか漣のきらめきや波のうねりが彷彿する。ピアノ音で波の感じを出すのは比較的容易だからか。それでも、解説されてあるような「一陣の風に、波がしらは白く立ち騒ぐかのよう」な風景は想像できなかった。この点、第四曲『道化師の朝の歌』は、ラヴェルが母系にスペイン人の血を継いでいるせいだろう。ああスペインの何かだな、というのは分る。ピアノ技法ではなく、血がそれを教える。『鐘の谷』も同様である。解説されてはじめて「谷間を渡る鐘の音」がえがかれてあるのかと納得する。  これは、私に想像力——または感受性が欠如しているせいばかりとは思えない。ドビュッシーの『海』を聴いて、波の一片一片に陽光が燦めき、時に黄金色や、紺碧や、茜《あかね》色に波の反映するその色彩感を、絵具の一筆一筆で丹念に描きあげた風景画を彷彿した。確かな色彩感があったし、風と波の対話も聴き分けることができた。ラヴェルには、色がない。  ただしこれは演奏のせいかも知れない。私の聴くのはカサドジュの『ラヴェル・ピアノ曲集』であって、ギーゼキングの同じ内容のものよりはレコードは古いが、私はカサドジュが好きなのでこちらを聴く。概してカサドジュの演奏はドビュッシーを弾いてもギーゼキングのような厚化粧の陰翳はつけない。さらりと、淡い水墨画の筆致でとどめている。それが好きなのである。  ラヴェルの『鏡』に、色彩感のないことはだから一向私には差支えがない。蛾は飛ばなくとも一つのイメージは、確実に私の内に創り出される。元来気ままな音楽の聴き方をしてきたし、解説書で音楽を鑑賞しようと思ったことはなかった。ラヴェルにしたって『逝ける王女のためのパヴァーヌ』などと洒落た題はつけるが、王女の死にまるで関係ない作曲を楽しんでいる。鳥の啼き声には聴えずとも、或る、森閑とした山奥の静寂が感じ取れるなら十分だろう。——ただし、大蛇ファーフナーの場合はそうはいかない。神話は描写の現実感を伴わねばワグナー楽劇は成り立たない。ワルキューレの乙女たちは翼の生えた軍馬で、空中を飛翔せねばジークムントは生きないし、ラインの河底は、青みをおび、澱んでいなければドラマは始まらないのである。しかし夜の女王はいつ、どこから飛来しても『魔笛』は成り立つ。このことは、音楽がわれわれにもたらすもの——描写による感銘と描写をもたぬ純音楽的感動の二様について、つまり音楽から、われわれの受け取るものを考察する或る手がかりを呈示してくれている。  ドビュッシーがワグネリアンだったことはよく知られているが、彼もまた、妻を捨てて富裕な人妻と強引に結婚した。このため世の非難と譴責《けんせき》を浴び、対社会的な苦境に陥る。わるいことに、ドビュッシーに捨てられた妻の方は自殺をはかる、彼女は実は二度目の妻なのである。ドビュッシーは三十七歳の年に、両親の反対を押し切って、彼女ロザリー・テクシエと結婚した。その五年後に、ロザリーを捨て、エンマ・バルダック夫人と突然駆け落ちし、同棲ののち結婚した。バルダック夫人は富裕な素人声楽家で、音楽家仲間にも知られていたらしい。ワグナーにおけるコジマほどでないにせよ、仲間うちで知られた人妻との結婚には、勇気が要ったろうと私などは思うのだ。同じ条件におかれてもブラームスならとてもできないことだろう。  むろんこうしたプライバシーが彼の創作活動にかかわりないなら、知ってみても意味のない話である。事実はそううまくは行かない。芸術を鑑賞するのに、私生活は必要ない、などという至上主義は日本人好みな奥床しさ、というのが悪ければ作家の側の心構えの問題であって、創作活動そのものはもう少し血腥《ちなまぐさ》く、どろりと、濁ったものだと近ごろ私は思うようになっている。ドビュッシーの傑作は大方の見るところ、初期の『牧神の午後への前奏曲』と弦楽四重奏曲(作品一〇)を別にすれば『ペレアスとメリザンド』『ノクチュルヌ』『海』『ベルガマスク組曲』『影像』『版画』『子供の領分』『前奏曲・第一輯』などだろう。あとは晩年の『ヴァイオリン・ソナタ』との、幾つかに限られる。このうち『ペレアスとメリザンド』の推敲のなったのは、ロザリーと結婚できた後である。『ノクチュルヌ』もロザリーと結婚した年。交響詩の傑作『海』はバルダック夫人と同棲して生れた。『影像』もそうである。『子供の領分』は、バルダック夫人との間に生れた小さな娘に捧げられている。ワグナーは最初の娘にイゾルデの名を贈ったが、ドビュッシーは《あとにつづく者への、父のやさしい詫び言を添えて》と献辞した。詫び言を添えて、と書くところがいかにもドビュッシーらしい。この一語にわれわれはあの『ペレアス』や、『前奏曲』の作曲家らしい、こまやかな神経と、周囲の者への思い遣りで彼自身を苦しめたその弱さの半面を見るのだが、つまりはワグナーの尊大さ、仰々しさ、図太さ、饒舌に、ついてゆけなかった彼の必然をおもうが、何にせよ、『ペレアス』以下これら諸作が、父を喪った悲しみの直後に書かれてゆく『前奏曲』と思い合せ、何事か、身辺に重大事の起った時にいいものを創り出した作曲家であることを知らせてくれる。ふだんは創作欲が刺激されぬ意味ではなく、ましてや事に遭遇せねば才能の湧き立たぬ謂《いい》ではなくて、むしろ有りあまる才能のため日ごろは何から手をつけていいか分らない、それが重大事に遭遇し、余事をかえり見る余裕というより他へ行き届きすぎる才能の過剰さがおのずと整理され、一作品に結晶した、それが、一つ一つの傑作となって遺った——そう私には思えてならない。  ロザリーとの結婚を欲求させ、エンマ・バルダック夫人との駆け落ちに走らせたものはあくまで愛情であったろうが、愛を行為させたものが決断でないわけはない。こんな想像がゆるされるなら、決断——スタートの加速度が、対象の女性を越えて作品にまで持続する、ドビュッシーはそういう決断力の異常に持続の長い作曲家のような気がする。一つの楽器がけっして長いフレーズを持続しない、極端に言えば一つの音のみを奏する、それでいて無限旋律を彷彿させる彼独特の手法——いわばきれぎれなリズムのモザイクによってぼかされ、品のいい陰翳とニュアンスを醸成する彼独自の管弦楽法は、たぐいまれなこうした《決断の持続》に由来すると私には思えるのである。彼はまた、たいへん社交ベタで、空想癖のつよい子供っぽい人だったそうだ。ラヴェルの冷静で、計算の緻密な性格とは根本的にだからその音楽も異なるべきである。それが『水の戯れ』と『版画』に比較されるように、ともに印象派的なのは相互に交友をもち、同時代に生きたせいだろう。作家の個性が時代の風潮に影響されるのは当然のようだが、それなら時代の風潮を創り出した作家の個性はどういうことになるか。 『牧神の午後への前奏曲』がステファン・マラルメの、象徴詩『牧神の午後』の、このすぐれた詩の音楽化を意図して書かれたのは周知のことである。はじめは前奏曲、間奏曲、終曲の三部作になる予定が、この一作のみで、詩のもたらすものの音楽的再現はなし尽した、つまりあとは蛇足になると自省して『前奏曲』のみにとどめたという。当然ながら、詩の逐語的音楽化ではなく、ドビュッシー好みな、あくまで印象派風な作品である。  ところで、詩の音楽的再現——その音楽化とは、いったいどういうことだろう。たしかに現今、もう言葉は音楽を伴わねば感動を生み出せなくなっているかも知れない。劇場のドラマでバック・グラウンド(伴奏音楽)の必要なのがこれを物語っている。しかし一方、音楽も、グレゴリアン・コラールの時代から(ただ原始的に舞踏のリズムをふむ場合は別として)いつも常に言葉と合体し、ことに聖書の中の言葉と結びついて「ちょうど樹に蔦が絡むように、聖書の言葉に音楽は絡みつくことで発生した」(フルトヴェングラー『音と言葉』)、つまり音楽家と詩人が、音と言葉を、より高次元で作用させるよう努力を惜しまなかった。シューベルトは、そんな相互作用を一人でなし遂げた天才で、彼はリートにおいて詩に音楽を注入し、これによって詩のうちにかくされていた力を音楽の法則に同化させ、また、その逆をも実現した——とフルトヴェングラーは言っている。これはわれわれに分り易い解釈である。  が、最も詩的である詩——妙な言い方だが詩そのものは、たとえばゲーテの詩におけるように、音楽をこれに注入するのをゆるさないのではあるまいか。音楽の介入する余地のない完璧さこそ、詩そのものであり、さればこそリルケも言うように「一生をかけて、人は、ようやく数行の詩をうみ出せるにすぎない」のではなかろうか。  音楽も、たとえばベートーヴェンの『第九シンフォニー』のフィナーレにおけるように、《歓喜》のあのメロディは言葉なしで当初は書かれた。歌詞はあとから作曲に付け加えられたに過ぎない、というのが本当だろうと思う。シラーの詩を読んで、個々の部分にベートーヴェンが感銘をうけたことに間違いはあるまい。しかしその詩を音楽化しようとしたわけではあるまい。美しい花を見て、感動を詩人なら詩に託す。音楽家はメロディをつくる、だからこそ一人は詩人であり、一人は音楽家なのである。  わかりきったこの骨法は、ドビュッシーにも当て嵌まらぬわけはない。たしかに彼は、花や乙女でなく、マラルメの詩を音楽で捕えようとした。むずかしいことではない。ドビュッシーの中に棲む詩人が、『牧神の午後』で得た感動でもう一人の音楽家ドビュッシーを啓発したにすぎない。大事なのは、凡庸の詩ではなく、それがマラルメの詩でなければならなかったことである。  ここまで来ればワグナーとドビュッシーの違いは明らかだろう。ワグナーも詩と音楽の婚姻を意図したし、単に彼は作曲家であるばかりでなく、作曲のために創作する詩人でもあった、しかも見事に詩人であった、と言われてきた。『トリスタンとイゾルデ』の台本をすべて彼は自身で書いた。『指輪』に至ってはもううんざりするくらい詩と饒舌を混交している。それでも彼の楽劇では、「詩人と音楽家が真の意味で恋の同棲生活にあり、この二人のいずれもが、互いに優先権をゆるすということがない。詩人は全体の足場を、いわば“骨格”を与え、これに形象的な力をもつ言葉の意味をつけ加える。すると音楽家はアトモスフィアを、外皮を、色彩を、感覚を、力と温かみを与える。そういう時ワグナーの驚くべき天才は音楽の固有の法則を満足させると同時に、演劇の法則をも納得させてくれた」とフルトヴェングラーは言うが、偉大なこの指揮者が別の個所で指摘しているように、どれほど、楽劇でワグナーの才能が音楽と演劇の法則を満足させようと、「その音楽は純粋な作曲家の音楽ではないし、彼の詩作は真の詩人の創った詩になっていない」  つまり詩が一瞬たりとも饒舌に堕するわけはないし、詩の援助を待つようなものは音楽ではないのである。モーツァルトが、台詞をレチタティーヴォにまかせきったのは、モーツァルトが純粋に音楽家だからだろう。  ドビュッシーの中の詩人はかくてワグナーの饒舌に反発する。饒舌を必要としたそのことで、音楽家ドビュッシーはワグナー楽劇に飽きたらなくなる。ところで、ではマラルメの象徴詩やメーテルリンクの『ペレアス』に作曲意欲を啓発されたドビュッシーは、どうだろう。彼自身は常々「物事をなかば言うにとどめ、自分の夢がそのひとの夢に接ぎ木されうるような詩人。時や所を限定せず、音楽家としての自分に、自由を与えてくれる詩人。そういう詩人の台本で歌劇を作ってみたい」と洩らしていたそうだ。従来の歌劇は音楽ばかりがのさばり、詩は二義的役割しか果していない、どうも歌が多すぎる。「詩が要求しない音楽的発展は、みな間違いだ」とも言ったという。(平島正郎氏訳M・エマヌュエル『ペレアスとメリザンド』から)  メーテルリンクの詩は、たしかにこういう意味でドビュッシーを満足させた。彼はもっともこの原詩にふさわしいth脂tre lyriqueを作りあげるのに成功した。しかしその初演は大失敗におわった。当然だったと私は思う。先年のヨーロッパ旅行の折り、パリのオペラ・コミック座でジャック・ペルノーの指揮するこの舞台を見たが、まったく退屈であった。クリュイタンスのレコードと同じくジェラール・スゼーが、ゴローを演じていたし、少々演奏は拙くとも、ナマの音がレコードに劣るわけはない。アンセルメ盤以来、くり返し聴き込んでいる曲なので、舞台に照明や人の動きや、表情のともなうのがおもしろく見えぬわけはない。それでいて退屈なのは、出演者の巧拙ではなくて実にそれが詩の音楽化に他ならぬからだ、と私は気がついた。ワグナーの演劇の法則性に反発したドビュッシーは、そのことで、自作の演劇化に失敗している。詩が、饒舌を受けつけぬと同様に、詩の音楽化が登場人物の素顔の美醜や地声や所作を必要とする道理がない。夢幻の物語を、むくつけき男や女が演じたら、ぶちこわしにきまっている。どれほど、メリザンドやペレアスを演じる歌手が名スタッフ揃いであろうと、メーテルリンクの、或はドビュッシーのうちに創り出されていたペレアスとメリザンドより適役なわけはなかった。小学校の学芸会で幼女や少年の演じる方が、まだしも、ペレアスやメリザンドの恋物語にふさわしいだろう。ワグナーやヴェルディの音楽と、ドビュッシーの意図した音楽の根本的差違が、ここにある。象徴的に言えば、詩を音楽化するのは、五線紙に譜を書くにとどめるべきだった。五線譜から音を感じとれる人だけが、ドビュッシーの本意に添えるのである。なぜなら《譜面に忠実な再現》——そういう演奏は実はもう、もっとも簡単な場合すら、実際上不可能だと或る指揮者も言う程だから。作曲家が想定した「フォルテ」や「ピアニッシモ」の本当の強度はどの程度か、何一つ原譜には指示されていない。トスカニーニにフォルテであるものがフルトヴェングラーにはピアニッシモであるかも知れない。いえば譜それ自体がたいへん象徴《シンボル》的に、詩なのである。そういうもっとも詩的な発想から『牧神の午後』を《音楽しよう》とし、ついに前奏曲でとどまった。ドビュッシーはこんどは『ペレアス』にこれを果してみたかったのだが、いずれにせよ、歌劇『ペレアスとメリザンド』が舞台で見て、レコードよりいいわけはないのである。  さてラヴェルの『鏡』だが、ラヴェルはドビュッシーのように「詩心に接ぎ木して」音楽は作らなかった。あくまで対象そのものを音譜に写そうとした。『鏡』という題は、ここに由来する。仏教とキリスト教の違いをこう譬えた人がいる。キリストは罪びとを怒り、責める。たちまちに贖えという。仏陀は、非難せず黙って見ている。この無言の凝視が慈悲心なのかも分らないが、罪ある者に精神的に恐ろしいのは、非難や厳譴ではなく黙って見つめられることだろう。少なくとも心理的にはこの方が残酷である。そういう無言の凝視に似たものを、『鏡』は委託されているとは考えられまいか。お前はかような悪事をしたぞ、と憤るのではなく、その男に黙って鏡をつきつける。汝自身をこれに写せ、と。  ドビュッシーは憤るのではなくて対象をむしろ賛美し感動し、共鳴した。この時に音楽が作られた。が理屈は同じだ。ラヴェルは黙って対象を写したのである。すくなくとも『鏡』はそうだろうと思う。写された『蛾』や『洋上の小舟』に何を感じるかは各自の自由だ。蛾の羽ばたきやら波のうねりに漂う小舟を、ありあり眼前に彷彿すればラヴェルは満足だし、おのずと或る種の感動はそこに醸成されると信じたのかしれない。  蛾ではなく蝶の飛びかうさまを感じる者がいるかも知れない。この意味では、曲を聴いて音楽的感動を各自がそこに写すそれは『鏡』の謂でもある。つまり各人は各様な鏡をもっているとラヴェルは言いたいのである。  対象そのままをラヴェルのように音楽で表現するのはいってみればリアリズムである。ドビュッシーのように詩的印象では捕えない。ぼかさない。どちらが優れているかは私の問うことではない。ただし、蛾が蝶に聴えるならリアリズムの点で失敗したことになろう。譜もまた詩にひとしなみな象徴性をそなえるものなら、蛾が蝶に感じられるのはさしたる瑕瑾《かきん》とはならない。ここに音楽におけるリアリズムのばからしさがある。微妙さと言い替えてみたところで、つづまるところは同じだと私には思える。ハンス・ホルバインの描いた『墓の中のキリスト』という絵がバーゼル美術館にあるが、ドストエフスキーはこの絵を見て「人々から信仰を奪いかねない」と叫んだそうだ。たしかにこれほど凄惨なイエス・キリストを私は見たことがない。同時代のドイツの今一人の画家グリューネヴァルトの『十字架のキリスト』をコルマール美術館で見たときも、これほどの凄絶さは受けなかった。  ホルバインのは、言ってみればリアリズムである。一五二〇年代の作である。カンタベリーのアンセルムらにより、すでに神の存在の証明にリアリズムが顔を出しているとは言え、古くはギリシャやゴシック彫刻に神も人間的・現実的生体と肉感を付与されたと断わってみた所で、なんになるか。イエスがナザレの大工のせがれであることは分りきっている。十字架にかかったのは、だが、ナザレの子ではなくてすでにキリストなのである。神に一つの理想化された生体美を与え、崇厳にこれを描くことこそが、他ならぬリアリズムではないのか。宗教心でのリアリズムとはそういうものだと私は思う。イエスが放尿している図を描くのがばかげていると同様、『墓の中のキリスト』のリアリズムを私は採らない。  ラヴェルの『鏡』が、音楽でのリアリズムを言う限り、ばかげているのはこの意味である。サン〓サーンスの、『動物の謝肉祭』は、カンガルーや象や亀を描き、頬笑ましい音楽だがしょせんは、ヨク出来マシタで済むことだろう。せっかく東洋に近づき、聴く者の感性を写し出すべき『鏡』が、洋上の小舟や谷間を渡る『鐘』の音にとどまるなら、つまらない。『夜のガスパール』でラヴェルはA・ベルトランの幻想的散文詩にインスピレーションを得て、三幅対の描写的作曲を試みた。その楽譜には、作曲の契機となった原詩『夜のガスパール』を掲げ、彼における詩と音楽の関係を示している。伊吹武彦氏訳の『ベルトランの詩』を参照すれば、ここには詩の音楽的・直接的翻訳の試みさえ見られると貴島清彦氏は説いているが、音楽として、聴いた感じは私にはつまらない。とうていドビュッシーの業績の比ではない。  コルトーが言うように、「あくまでドビュッシーは対象を眺めることで起されるイメージを書きとめる」のに対し、ラヴェルは「対象そのものを描写」する作曲家である。音楽のリアリズムは、たとえば、今はヒンデミットとオネゲルに代表されるが、オネゲルの『ダビデ王』『火刑台のジャンヌ・ダルク』を聴いてみるとよい。畢竟するに音楽上のリアリズムとは、バッハがオクターブを数学的に十二等分して、いわゆる平均率クラヴィーアを作曲して以来、音楽芸術の中心は、作曲者の情緒でも表現観でもなく、音楽的な実体と楽器の発展それ自体から生み出される。すなわち音楽それ自身を描写原型とすべきものなのである。  われわれの音楽的感受性の被写体である限り『鏡』は正しかったが、ラヴェル自身は間違っていたというべきだろう。 15 米楽壇とオーディオ  アメリカの現代作曲家にチャールス・E・アイヴスという人がいる。たしか一九五四年に亡くなっているが大変かわった音楽家で、夥しい作品を書きながら楽壇に認められようといった野心は毛頭なく、生涯を生命保険会社の経営で送った人である。初期の三十年間に作曲したものの中から、百四十曲の歌曲をえらんで自費出版した時も、これを出版するのは「部屋の大掃除をするためだ」と言い、「世の中にはいろいろな著者が様々な理由で本を出す。或る者は、金を儲ける為に書くが、私はそうでない。ある人は名声を得るために書くが、私のは違う。ある人は愛情から書く、ある人は煽動する為に書くが、私はちがう。私はこれらの理由のいずれからも、またこれらの理由を合わせたものからもこの本——作曲集——を上梓するのではない。私は家の中を掃除しただけだ」と自序に言い、だから「頼まれもしないのに作曲した」これらの歌曲を、音楽仲間に届けるのは「装幀の綺麗な本を一ぺん友人に贈ってみたいから」であり、「そんなわけだから何処に棄てられようと——恐らくは紙屑籠の中に捨てられようと、それは勝手である」と書いたそうだ。(服部竜太郎著『廿四人の現代音楽家』より)何より大事なのはアイヴスは、本気で紙屑籠に捨てられるものと観念していたらしいことで、この歌曲集には、年代順の配列もなければ、曲種の区別もなく、あらゆる種類の歌曲——叙情的なもの、バラード風のもの、ドイツ語のもの、フランス語のもの、イタリア語のもの、宗教的なもの、軍歌調のもの、流行歌風のもの、カウボーイの歌らしいもの——実に千差万別で、なるほどこれなら音楽的大衆を眼中におかぬばかりか、進呈する《少数の友人たち》すら顧慮しない、まったく《大掃除》のためとしか思えぬ出版だったという。  最近、このアイヴスの第四交響曲が米コロムビアで録音されたが、A・フランケンシュタインの紹介記事を見ると、この曲はレコーディングに際して、演奏家や録音技術者を当惑させたらしく、曲の構成そのものがバラバラで、ストコフスキーの他にもう一人の補助指揮者(ホセ・セレブリエール)が必要だった。この二人が同時に(手前勝手に)棒を振って曲を進行させるので聴く方は鑑賞の焦点が合わず、混乱するうちにやがて紛れもない、音の立像と、音楽的感銘を享受させるものだったという。アイヴス自身で告白したそうだが、大体この交響曲の各楽章は、違った時期に独立に作ってあったのを組み合せたに過ぎず、交響曲的構成や統一など、はじめから無視していたというから、ひどいものだ。第四楽章に至っては、或る音は打楽器から、或る音は管楽器、弦楽部から、それぞれなんの関連もなしに同時に鳴り出すのに加えて、コーラス迄が合唱されるそうだ。およそアイヴスとはどういう作曲家か、これで想像がつくだろう。  私はまだこのレコードは聴いていないが、アイヴスの夥しい作品のうちでは最も有名な交響曲『休日』の中の、『ワシントン誕生日』『独立祭』をコンポーザー盤で聴いたことがある。予想外に巧みな不協和音の駆使ぶりに驚いたが、恥を言えば、もう一つ、ハリー・バートレットに『ワシントン誕生日』『独立祭』と、まったく同名の曲があって、これを先に聴いていたからアイヴスの方が若い作曲家なのかと錯覚していた。(アイヴスの『休日』は『ワシントン誕生日』『招魂祭』『独立祭』『感謝祭』の四楽章から成っているが、バートレットのも『四つの休日』と題され『ニューヨークのイヴ』『ワシントン誕生日』『独立祭』『キューバのクリスマス』の四楽章で成っている。これは一九五二年の作である。)  比較的わたくしはアメリカ在住の現代作曲家のものはよく聴いている方だろうと思う。ちょっと思い浮べただけでもJack Beeson, Marga Richter, Carlos Surinach, Robert Nagel, Irwin Fisher, John Lessard, Chou Wen-Chung, Josef Suk, Nicolai Peikoさらにファースト・エディション・レコードに入っている人たちのものを加えれば、四、五十人の有名無名の音楽家の作品を一応は聴いたことになる。右に挙げた人々のうちマルガ・リヒターは女性作曲家で(一九二六年生れ)、ヨセフ・スークはドヴォルザークの女婿、チョウ・ウェン・チュン(一九二三年生れ)は発音通り中国人だが、結論を言えばこれらの大方は、音楽としては大変つまらない。しかしここでは批判するのが主旨ではなく、これら私とほぼ同年輩の作曲家たちの作品に比べれば、なるほど、アイヴスはアメリカの生んだ最も偉大な音楽家の一人というのが頷けたことを言いたいのである。  そのアイヴスの、父親というのが音響学に非常に関心を寄せていた人だそうで(彼は軍楽隊のバンドマスターであった)いくつかのバンドの位置の高さを変え、それが異なった場所にいる聴衆に及ぼす音響効果をしらべたり、四分音の研究を楽器に則してしていたという。アイヴスは父の嗜好を受け継いで、音響学に深い興味を寄せ、今ならさしずめオーディオ・マニアというべき人であったらしい。楽壇へはまったく無関心でいて、彼ほどレコーディングを熱望した作曲家はなかったといわれるのも、こうした生い立ちを知ればうなずけるが、彼の業績の真価は、録音技術の進歩に伴ってむしろ今後に発揮される性質のものとも思える。早い例が右の第四交響曲である。  テープ・レコーダーを扱った人なら経験があると思うが、むかしは二トラックのモノーラルだった。それが四トラックになったが、ステレオのレコーデッド・テープ(四トラック)の再生以外、家庭で、FM放送を録音するのは以前はモノーラルだったから、当時の古いテープを今ステレオ装置で掛けてみると、右チャンネルと左チャンネルのそれぞれ別個の演奏が同時に鳴り出す。それが奇妙な混乱のうちに時折りハッとするほど見事な音楽的ハーモニー、アンサンブルをきかせてくれることがある。これは取りも直さず、アイヴスの意図した第四交響曲の混乱と調和に類似のものではなかろうかと私は思う。つまりレコードがステレオになるにつれて、従来の音楽とは別個な発想で創り出されたアイヴスの作品を、鑑賞する機会にわれわれはめぐり会えた、そんな気がする。あくまで想像で言うのだが、ストラビンスキーやシェーンベルクの活躍した時期に、同じアメリカにいて、彼らの名声とは無関心にアイヴスが黙々と、しかも近代音楽で見られる革新的なすべての技法を駆使し、ひたすら楽壇の動静と関わりないところで仕事をしたのは、ほんとうはレコーディングの発達にともなう新しい音楽享受層——つまりレコード・ファンを対象に考えたからではあるまいか。  レコードが今のようにステレオになることを、五、六十年前のアイヴスが(彼は一九五四年に八十歳で死んだ)知っていたわけがないという見方は、当らない。池田圭太郎氏の『ステレオ電蓄の歴史』によると、レシーバーで聞くステレオ、バイノーラルの効果が発見されたのは遠く一八八一年だった。エジソンが錫箔蓄音機を発明する四年前である。ついで一九〇〇年には、パリ博覧会で、米コロムビアの開発した三チャンネル・ステレオ蝋管器が展示され、これは吹き込みと同時に再生もできるマルチ・プレックスと名づけられたというが、この名は、今日ステレオ放送に用いられている。池田先生の解説を孫引きすると、第一次世界大戦で兵器としての電送技術は大いに研究開発され、その平和産業化は一九二〇年ラジオ放送、一九二五年レコード電気吹込み、翌年にはトーキーとして現われた。ついで一九三三年には、米国のベル研究所が豪華なステレオ音響の実験を行い、これには有名な音響技術者が総動員されたという。フィラデルフィアのホールで演奏される音楽を三個のマイクで受け、三つの中継線でワシントンのホールに伝送されたそうだが、この再生音のコントロールを行なったのはストコフスキーだった。この時の実験で、二チャンネル方式でも十分なステレオ効果の得られることが実証された。一方イギリスでは、一九二九年に英コロムビアのブラムラインは一本溝ステレオ盤の研究をはじめ、三一年に45/45とVL方式の特許を取り、三三年にはレコードとその再生器を作った。これが当時商品化されなかったのはSPレコードの音溝から発生するノイズが、両スピーカーから掛け合いで聞えてくる騒々しさのためだったという。  トーキーのステレオ化はストコフスキーにより「ファンタジア」で実現された。これは一九四〇年である。——以来、第二次大戦でビニール工業の急速の発達を見、LP盤から現今のステレオに至るのだが、これで見れば、音響学に深い関心を寄せたアイヴスがステレオディスクの普及にその音楽を賭けていたと見るのもあながち荒唐無稽ではあるまい。むろん大事なのは、ステレオ技術ではなく、音楽家にとっては芸術である。アイヴスはしかしこの点でも合格といえる。管弦楽組曲『ニューイングランド風景』や『三ページのピアノ・ソナタ』を聴けば分るが、マーキュリー盤の組曲『ニューイングランド風景』を「アメリカのペトルーシュカだ」と評したのは他ならぬこの曲の指揮者(自身作曲者でもある)ハワード・ハンソンだったし、確かにここには服部竜太郎氏の著書にも指摘されている通り、ストラビンスキーに匹敵する韻律の斬新さがある。長い一拍を細分したり不平均に分けたり、またポリリズムによって不思議な効果をあげている。ピアノ・ソナタはローレンス・ギルマンがこう評したそうだ——「この奏鳴曲は、比類のないほど偉大な音楽であり、事実、アメリカ人によって作曲された最大の音楽である。そして衝動と寓意において最も深く、最も本質的にアメリカ風である」  私はアイヴスの音楽解説をするつもりはない。解説なら服部氏の著書を読んでもらった方がいい。ギルマンの言うように確かにアイヴスの音楽はアメリカ的だが、最もアメリカ風な彼の作品に、ほかならぬオーディオ界の進展が根源で関与していたことを考察したいのである。つまり従前の音楽家は、良かれ悪しかれベートーヴェンやモーツァルト、バッハの亜流で音楽してきた。シェーンベルクさえそうだったと私は思う。アイヴスは違う。アイヴスは音の伝達——電波であれレコードであれ——が介在するそのおかしさに彼の独創性をかけたと思う。従来の、モーツァルト時代のサロンにせよ、以降の音楽会にせよ、ともかく、聴衆は会場に出向き奏者の前にすわることで音楽を享受した。この場合、奏者と聴衆の間に音の伝達物はない。だがそういうサロンやリサイタルに出向く機会を持てぬ貧しい人々にも、極言すれば、音楽を開放したいとアイヴスは考えた。ふつうわれわれがレコードの効用を思うのは、レコードを聴けば演奏会場の名演に接すると同等の感銘を得られることである。確かにこの意味でレコードは発達してきた。だがアイヴスはもう一つ先を考えた。音響学の知識があるだけに、いかに録音技術が進歩してもとうてい、ナマそのものの芸術性を得ることは永久に不可能なのを知っていたのである。それなら、音の媒体たるレコード(弱電技術)の介在性に発想される独自な、従来とは別個な音楽美を作り出せないか、アイヴスはそう考えたのではないか。たとえは異なるかも知れぬが、映画やテレビの普及で、劇場とは別個な演技が要求されるのに似ている。われわれはしばしば、いわゆる舞台俳優の発声や演技の臭味をブラウン管に見て、うんざりすることがある、あれと同じだ。ステージの観衆を前にした演技と、カメラの至近距離で映し出される所作や演出は当然ことなるべきだろう。同じことをアイヴスは考えたに違いない。劇場へ行けぬ貧しい人々に音楽を開放するとは、つまりはレコードを実演に隷属させるのでなく、レコードそのものが音楽の発源体となるそういう音楽美の創造に他ならぬと。言ってみれば、別に貧しくなくともよいのである。レコードを掛けることが、ナマの演奏を彷彿させるのとは本質的に異なる美の享受を人々にもたらせば。  アイヴスの音楽への、こういう見方を思いすごしと専門家は言うかも知れぬが、一概にそうばかりとは言えまいと思う。だいたいステレオの最も普及しているのはアメリカと、英国と、日本である。カートリッジで有名なデンマークのオルトフォンの社長が昨年来日した。アメリカについで、東洋の君主国で意外に自社製品のはけるのに驚いたかららしい。オルトフォン社は、当時ソニーと提携しているから別の目的で来日したのかも知れないが、そのカートリッジのよく売れること、米国についで日本が世界で第二位というのは本当だろう。多少Hi・Fiに関心のあるレコード愛好家なら、オルトフォンの名は知っている。こんなことはヨーロッパでは稀有《けう》な話である。そもそもステレオ装置なるものに、ヨーロッパ人の大方はてんで関心がない。米ドル百ドルからせいぜい二百ドル程度の月収で、カートリッジに二十数ドルを投じ、レコードを聴くことなど彼らには信じられないだろう。日本人はよほど、調度の整った贅沢な建物に住んでいるのかと思うか知れない。英国のグラモフォン誌など見れば分るが、英国人のレコード愛好家の大半は、オルトフォン級のカートリッジは月賦で買っている。アンプやスピーカーも大方は月賦である。これをキャッシュで買い取るのは日本人くらいだ。超満員の電車にすし詰めになって通勤して、うどんやラーメン一杯を昼食がわりにし、建てつけの悪い絨毯も満足に敷けぬ家屋に住んで、ステレオ装置の部分品だけは世界一級品を買う。まったく涙ぐましい音楽への愛好ぶりだが、自他ともに、笑うにわらえぬこの身の入れようを由来させたものは本当は何なのか。音楽が好きなのは、ヨーロッパ人も日本人とかわらない。むしろその造詣の深さにおいて、教養の水準において彼らはわれわれの比ではない。分りきっていることだが、それがステレオに無関心なのはつまりは立体音楽でなく、ナマそのものを聴けるからだろう。音の《媒体》はヨーロッパ人には必要ないのである。  ところでアメリカは、今やヨーロッパの第一流音楽家のほとんどをドルで吸収し、これらの人々に自由な活動の場を与えている。演奏団体として、年額十万ドル以上の予算をもつ交響管弦楽団だけでも二十数余におよび、楽譜出版でもヨーロッパの権威ある版元は相次いでアメリカに移った。ありあまる奨学資金で、有能な学生には勉学の機会を与え、作曲家に大作へ没頭させるための経済的援助が、これほど徹底した社会と時代は他に類を見ない。がこういう奨励と援助の根底にあるのは、いまだヨーロッパに比して自国に大音楽家や芸術をもたぬ劣等意識と、焦燥だろう。  一方、英国は、ヴィクトリア時代およそ一世紀半にわたって世界に君臨し、その富を誇ったが、ついにひとりの偉大な音楽家も出なかった。奇蹟に近いが、これは事実である。  今、オーディオ(ステレオ技術)の最も開発の著しいのは米国と英国が世界の双璧だろう。カートリッジ、アーム、アンプ、スピーカー・エンクロージア、そのいずれも両国の製品を凌駕するものはまだ世界にない。マイクロフォンやラジオで、一時ドイツが君臨したがステレオ・ディスクの再生では今では一歩を譲っているように思う。オルトフォンや、B&Oのプレイヤー、トーレンスのモーターのごとくデンマークも部分品で第一級には伍しているが、再生装置の総合性で両国に及ばない。このことと、英米両国についに一人の偉大な音楽家も出なかったことが無縁とは、私には思えないのである。もし日本が、オーディオ技術で英米の水準に近づきつつあるなら、やっぱり、日本に一人のまだ世界的な音楽家が現われていないことと無関係ではあるまい。  アイヴスのユニークさが、ここで物を言ってくる。いかにオーディオ技術が普及しようと、バッハやモーツァルトやベートーヴェンや、プロコフィエフ、ワグナー、ドビュッシーらと同じところで《音楽》を思考する限り、しょせん二流の作品しかもう生れないことを、夥しいアメリカ在住の作曲家の仕事ぶりが物語っている。私は三十人を越える彼らの作品を聴いてそう思った。何もアメリカ在住の作曲家に限らない、ヨーロッパの音楽家だってベートーヴェンやモーツァルトを永久に凌駕できぬことに変りはあるまいが、シェーンベルクとアイヴスを比較するとこの感を深くするのである。  シェーンベルクはむろん本来アメリカ人ではない。ウィーンに生れ、注目すべき作品のほとんどをヨーロッパで成しとげた。しかし、彼の得ている名声と、作曲家として果してきたその仕事の内容は少し検討してみる必要がある。  シェーンベルクはユダヤ人の商人の倅で、八歳のとき父が死に、少年時代は大へん貧しかった。二十歳まで、そのため独学で彼はヴァイオリン、チェロを稽古し、室内楽を作曲しているが、豊饒《ほうじよう》な音感とでも呼ぶべきものがあるなら、彼の作品に見られる豊饒感の欠如、何かひがんだ、独断にすぎる解釈はこの貧窮の生い立ちに無縁ではないだろう。彼の育ったウィーンには、モーツァルトやベートーヴェンなど偉大な音楽家の住んだ家、演奏した楽堂がそのまま遺っており、散歩道、料亭も昔のままであって、服部氏の表現をかりれば「ウィーンを包むこれら古典音楽の伝統は、鉄の鎖で後進者をしばりつけていた」し、ことにベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲は「若い作曲家に、手も足も出ないおもいを抱かせた」にっちもさっちもいかなかったのはシェーンベルク一人に限らないわけだ。ただ、そういう環境から何を生みだすかは、音楽的才能よりは人間のありようにもとづくものと私には思える。  シェーンベルクは二十五歳で最初の野心作『浄夜』を書いた。「霊感的な三週間で」この弦楽六重奏曲を書いたそうだが、当時の若いドイツの作曲家たちは、ワグナーの音楽に圧倒され劇作品に対しては手も足も出なかったので、交響詩曲に転ずる者が多く、その交響詩的内容をシェーンベルクは大管弦楽でなく室内楽の形式で現わしている。私はここに何か、貧困者の節約の精神を見るのである。その証拠に後年(つまり有名になってから)ロンドンで彼自身がこの曲を指揮した時は百人の弦合奏に編曲した。なぜ百人にふやす必要があったのか? なりあがり者の成金趣味の臭いがしないか。  彼が結婚したのは二十七歳の時で、対位法と作曲理論を最初に学んだ人の妹である。この結婚の年、彼はベルリンに出て芸術的キャバレーの一種であるユーバーブレットルの楽長となり、オペレッタの編曲や指揮をして生活した。かたわら交響詩『ペレアスとメリザンド』を作っているが、当時ドイツではまだ用いられていないホール・トーン・スケールがすでに採用され、旋律は多声的におそろしく複雑をきわめて、弱音トロンボーンのグリッサンドのごとき新奇な楽器用法がとり入れられている。しかしベルリンでは思うように仕事は酬われなかったので、二年後(一九〇三年)ウィーンに戻って彼は妻の兄であるツェムリンスキーの家に同居しながら、理論の教師として身を立てることにした。これは大切なので強調しておかねばならない。もし順調に、シェーンベルクが当時の楽壇に迎えられていれば、いわゆる彼の無調主義は成り立っていたろうか。たしかに、理論家として、義兄ツェムリンスキーの推挙でウィーン大学で作曲の講義をしたこの時期に、彼の教室からはアルバン・ベルクやウェーベルンが巣立っている。申せば不遇の時代にあって、これら後進者に革新的な芸術見解を注入した彼のエネルギーは賛えられていいだろう。だが彼自身は、十二音技法や無調による音楽をこの時期にはまだ作ってもいないのである。理論だけが先走っている。弦楽四重奏曲第一番(作品七)はニ短調だし、一九〇七年から八年(ウィーン大学で講義の四年後)に作った弦楽四重奏曲第二番(作品一〇)も嬰ヘ短調の調号をもっている。調性の放棄は一九〇九年——作品一六あたりからである。  理論だけが先走って無論わるいわけはない。しかし、世に認められぬ憤懣から、窮鼠かえって猫を噛むに似た熱弁を若い学生たちにふるう気負い立つ精神、その傲慢さは、シェーンベルクの人間を語る上でゆるがせにはできないだろう。傲慢さがもし、劣等意識に由来するならその情熱が口走った理論が生み出す音楽など、しょせん、人を救えはすまいと私は思う。ベートーヴェンも貧しかったし、シューベルトとて不遇だったが、本質的に音楽が違う。いま流行の岡潔先生ふうに言えば、シェーンベルクのは《無明》が作る音楽である。  何にせよ、こう見ればもうシェーンベルクとアイヴスの差は明らかだろう。シェーンベルクの無調主義について服部氏は書いている。「バッハ以後、われわれが親しんできた楽曲は、或るひとつの音調の上に組立てられたものである。それを具体的にいって、ハ長調の曲ならば、ハ音を主音として、その半音階的に配列された一個の音を運用して出来ている。ところがシェーンベルクの新しい理論によると、主軸となるべき主音の左右を無視して、十二個のそれぞれの音がいずれも同じ重要性を与えられることになる。これは彼が無調主義の音楽を書いていた結果として、作りあげた純粋理論であり、特殊な研究家にとっては穿鑿の対象となるものであろうが、多くの音楽的大衆にとっては親しみの乏しいものである。無調性の音楽によって、民謡や子守歌が書かれることは決してないであろう。シェーンベルクらの音楽は耳で楽しむものでなく、楽譜の上で見るべきものという所から《目の音楽》Augenmusikとさえ言われている。これは爛熟した音楽文化の絶頂で破滅したオーストリア人が、頭脳の中で生みだした理論としてはふさわしいかも知れぬが、これからの社会——アメリカのようなデモクラティックな社会にあって、音楽文化を拡大するためには役立たないものであろう」  シェーンベルクは『月に憑かれたピエロ』でようやく名声をあげ、現実と官能を離れた霊的な声——いわゆる『語る旋律』の効果をわれわれに示した。《二人の男女が枯れてひえびえとした林の中を歩いている。月がともに動き、二人はそれを見上げている。女の声が話す——私はみごもっていますが、その子はあなたのではない、私は罪を抱いてあなたの傍にいます……》こんなデーメルの詩で『浄夜』を作曲するシェーンベルクの才能は、確かに無視できない。彼はリルケの詩によってまたきわめて異色ある管弦配置の伴奏をもつ歌曲を書いた。門下生を養成し純粋芸術のための演奏協会を作ったりもした。彼がアメリカに渡り、ハリウッドに在住して市民権を得たのは、オーストリアに内乱が起ったためで、芸術に無知なヤンキー気質がその名声を鵜呑みにして迎合したわけではない。これは言っておかねばならない。しかし、シェーンベルクの生誕七十年祭や七十五年祭を、盛大に催したそのアメリカ楽界は、バルトークを餓死せしめているのもまた厳然たる事実である。バルトークとシェーンベルクと、どちらが偉大な音楽家かは日を経るにつれ明らかになるだろう。昨日、バルトークを無名のゆえに餓死せしめたアメリカは、同じ軽佻さで、とみに名声のおとろえるシェーンベルクを明日は忘れてしまうだろう。そういうアメリカ人一般の芸術的底の浅さを、《無明》によらず音楽したのがアイヴスだと私は思うのである。暴言を少々吐くなら、ミュージカルなぞという、衣装と身振りと照明で、つまり目で見なければおもしろさのないものならともかく、音楽自体は、これからも永遠にアメリカに育つことはないだろう。かつて同じく不毛だった英国にはヴォーン・ウィリアムズとベンジャミン・ブリッテンが出ているが、アメリカに彼らは育つまい。いわゆる英国調の音と、アメリカのスピーカーが鳴らす音を聴き比べればこれはた易く予知できる。同じステレオ技術の双璧でも、英国のは芸術を知っている。  ことわっておくが、だからアメリカが永遠に駄目だと言っているのではない。従前の、バッハやベートーヴェンの業績の延長上に音楽を考えるなら、アメリカの土壌は今後も不毛だろうが、演奏——つまり音の美を伝達する《媒体》の介在が今後必然視される限り、従前とは別個な、音の美が考え出されて不思議はない。たとえれば、バッハやモーツァルトはナマの演奏である。いかに周波数特性がよくなり録音技術が進歩しても、蓄音機がナマの音の臨場感にかなうわけはない。これはもう永久にかなわない。だからといって、かなわぬ劣等意識やひがみから、《無明》で音楽するのでなく、蓄音機自体を聴者にとっての楽器とするそういう新しいジャンルが、今後、創造されぬわけはあるまい。アイヴスの独創性は、ここに目をつけていたと私は思う。蓄音機自体がつまり楽器なら、ジャズ的になろうと一向かまうまい。ティンパニーもまた楽器であるように、それはそれで音の美をつくり出せる。英国調とは別種の当然音楽がうまれるわけだ。  こう見てくれば、アイヴスの作品は蓄音機(ステレオ装置)にかけて鳴り出さねば意味をなさぬので、従来の音楽解釈で楽譜などいくら積んであっても無意味である。それこそ大掃除した方がさっぱりするだろう。「装幀の綺麗な譜面」を贈ったアイヴスの遣り口は、この点で最も諷刺のきいた楽界への批判であったか知れない。  今後、米楽壇にかぎらない、再生装置で音楽をたのしむすべての世界の人々のあいだに、アイヴスの作品は真価を発揮し、なじまれてゆくだろう。が、この事はまた、ステレオの普及に伴って、従来モノーラル時代にありがちだった作曲家や演奏家のレコード観(レコードによる鑑賞を実演に比して何か軽視する安易さ)への警鐘となるだろう。 16 死と音楽  先般のあいつぐ航空事故で、エール・フランスのスチュワーデス某嬢からこんな話を聞いた。BOAC機の場合、空中分解がもし墜落の原因なら、機体のG度は人体より高いはずだから、理屈としては、尾翼やエンジンの脱落による墜落にせよ、それが脱落する衝撃で乗客の方は先に死んでいるはずだと。わかりやすくいえば、飛行機の中にすわっている人間が死んでしまうほどの衝撃ではまだ、飛行機は空中分解しない。それぐらいの強靱性を機体が保持するよう現今のジェット機は造られている。そういうことらしい。大事なことはだから、墜落する刹那の恐怖感を人間は知らずにいたということである。むろん、墜落せぬために要求された強靱さにきまっているし、科学はそれを義務として要求するだろう。しかし人間にとって本当に有難いのは、墜ちる心配のない強靱さではなく、墜ちた時こわさを知らずに済ませられる、そういう強靱性にある。人は、めったに墜ちないから安心だといって乗るが、墜ちてもこわさを知らずにいられるから安心している。由来、安心とはそういうものだ。  もう一つ、スチュワーデスはこんなこともいった。彼女らは、例えばエンジンの故障で不時着しそうになった時の訓練を経ている。どんな訓練かと聞いたら、乗客を叱りとばす訓練だという。救命具の扱い方を説明するよりこの方がよほど重大らしい。「当機はこれ以上飛行を続行することは不可能になりました。ただいまよりわたくしの指示通りに行動しなさい。万年筆を挿している人ははずしなさい。皆、靴を脱ぎなさい。婦人客は靴下も脱ぎなさい。救命袋を膨らますことは子供以外は禁じます」高飛車にそんなことをマイクを通じて命令する。この命令文句をすらすら言えるのが訓練の成果だという。  おもしろい話だ。つい先ごろまでは、茶菓のサービス、たえまない微笑、病人が出たときの看護などをもっぱらとしたスチュワーデスが、不時着の非常事態に遭遇したら高飛車な指揮者に一変する。誰が考え出したのか。  飛行機は、それまでに貯蔵タンクの全ガソリンを放出してある。不時着時に火災を起さぬためなのはいうまでもないが、つまり真実飛べない状態になっている。そこで命令するのである。  空中を飛んでいて、もうこれ以上は飛べない、突如、そう知らされたときの乗客の恐怖心は想像にあまりある。そんなときに、人間の聞きたいのはやさしい言葉ではなく、命令に違いない。狼狽する者、恐怖におののく者を一定の秩序で行動させるには「命令」以外に言葉はないではないか。  右の二例とも、死の恐怖に発している。恐怖が生み出した賢明さというべきかも知れぬが、私のように交通事故で人を死に至らしめ、死の恐怖を与える怖ろしさを味わった人間には、こんどの航空事故はよそごととは思えない。わけて機長のそのときの心底をおもう。乗客は恐怖を知らずに死んでいたかも知れないが機長だけは断じて知っていたはずだ。そうなら、一番残酷な死に方だろう。操縦ミスをあげつらう前に、彼はもうその恐怖で贖われていたのではないのか、そう思えてならなかった。  私の場合は、こちらは死ななかったから贖いようはない。私が死ぬまで、これは変るまい。と今はこんなふうに書いていられるが、当座は、いても立ってもおれず辛うじてレコードを聴くことで騒ぎ立つものを鎮めていた。私に音楽を聴く習慣がなかったら、事故の直後から現在にかけて、けっして、いまあるような状態にはなれていなかったろう。これだけは確実な、体験者の述懐と申してもそう不遜な言いざまになるまいと思う。  では何を聴いたか。音楽さえ聴いておれば胸の騒ぎは鎮まるわけのものではない。聴く習慣には、同時に選択のそれが含まれていたはずで、習慣が六百枚にあまるレコード・コレクションの中から限られた数枚を、私に抜き取らせたと思う。モーツァルトの『レクィエム』を聴いたのも、名曲、好きな曲であるからに相違はないが、それだけでああは聴けなかったろう。ほんとうに、何度、何十度私は聴いたろう。はじめは涙を流して聴いたが、ということは、茫然と、ただ事故の瞬間の光景や、私の車に飛ばされていった少年研治君の毬のようなあの軽さや、凝視、絶望感、悔い、血、そんなものが脳裏に甦って、かんじんの音楽は、何も聴いていなかったといっていい。レコードが終ると針をとめに立って行ったが、これこそ単なる習慣にすぎなかったろう。  それでも、私は聴いた。またはじめから。モーツァルトの『レクィエム』が「入祭文」のファゴットと、バセット・ホルンののびやかな旋律にはじまり、バスから順次ソプラノにおよぶ合唱で「主よ、永遠に安息を与え給え、絶えざる光をわれらの上に照らし給え」と唱い出すと、私のうちに或る安らいだ懐《おも》いがひろがってくる。私は旋律を聴く。ついで「シオンにて賛歌を主に捧ぐるはふさわし、天主よ」とうたうソプラノ独唱の声を、ここからレクィエムは始まると思って聴き入るが、およそソプラノの独唱で、この出だしほどに敬虔で美しい詠唱を他に私は知らない。三大鎮魂曲の一といわれるフォーレ『レクィエム』の第四曲——イエズスに死者の安息を求願するソプラノ・ソロも美しいが、敬虔さには劣るだろう。またベルリオーズはとうていモーツァルトの美しさにかなわぬのを知っていたから、「ホザンナ」を三部の女声合唱でうたわせた、そんなふうに私は思っている。私流に聴くことだが、ベルリオーズの『死者のための大ミサ』で一番美しい部分は、そしてこの「ホザンナ」だ。何にしても、天主よ、シオンにて賛歌をと願ってくれるのは、私への罪の贖いの声なのである。そうでなくて、どうしてレコードを聴く必要があるだろう。繰りかえし繰りかえし私は聴く。「彼らに安息を与え給え」、本当は合唱はそう歌っている。「我らに与え給え」と私には聴える。  ケネディが死んだとき、葬儀がモーツァルトの『レクィエム』で終始したのは知られた話だが、この時の実況レコードがビクターから出ている。ラインスドルフの指揮でオケはボストン交響管弦楽団だった、といった解説がこれほど無意味なレコードも珍しい。葬儀の厳粛さは、ケネディが大統領だったことにそれ程深い関わりはあるまい。ましてそれが暗殺された人だった暗さは、この大ミサの荘厳感の中ではおのずと洗われていた。しかし、夫を喪った妻ジャクリーヌの痛哭と嘆きは、儀式のどんな荘厳感にも洗われ去ることはない。当日の葬儀には数千人の参拝者が集まったそうだが、深いかなしみで葬儀に列し、儀式一切を取りしきっていたのはジャクリーヌという女性ただ一人だ。ケネディを弔うためのレクィエムではなく、彼女のための鎮魂曲だった。私はそう思ってこのレコードを聴いてきた。  こんど、私がレクィエムをもとめねばならぬ立場になって、さとったことは、右の実況録音のレコードは妻ジャクリーヌのためだけのものであり、これを商品化し、売り出すことの冒涜についてである。たしかに、売り出すことで葬儀に参列せぬ大勢の人は、たとえば私のように彼女の胸中をおもい、同情し、ケネディの冥福を祈りはするだろう。しかしそれがケネディ自身にとって一体何なのか。彼女の身にとっても。死者を弔う最も大事なことをアメリカ人は間違っている。私の立場でこれは言える。レクィエムを盛大にするのは当然なことだ。録音して永く記念するのもいい。当日の参列者がこのレコードを家蔵するなら微笑ましいだろう。しかし、何も世界に向って売り出すことはない。死者を弔うとは、のこされた妻のかなしみに同情の涙を流すことなどであるわけはないが、その業績を褒め称えることが、未亡人へのいたわりになるなら、飼い猫に死なれた人にあれは可愛い猫でしたと褒めるよそよそしさと、どれだけ違うか。しかも、死者に対し、その遺族への思いやりを示す以外の弔い方など本当はあるわけはないのである。葬儀の実況レコードを売って、その利益金で家族を補助しようというなら話は別である。世の中はもう少し辛辣にできている。そういう補助の必要ない大統領のレコードだから、売れる。けっきょく、アメリカ人はケネディを暗殺したことで間違い、未亡人をいたわることでもさらに大きな誤りを犯した。アメリカという国は、モーツァルトのこの『レクィエム』一枚をとってみても誤謬の上を突っ走っている国だとわかる。 『レクィエム』は、むろん、こんなことばかりを私に語りかけてきはしない。私は自分のためでしかレコードは聴かない。私の轢いてしまった二人の霊をどうすれば弔うことができるのか。それを、私はモーツァルトに聴く。明らかに救われたいのは私自身だ。人間のこのエゴイズムをどうしたら私から払拭できるか、私はそれをモーツァルトに聴いてみる。何も答えてはくれない。カタルシスといった、いい音楽が果してくれる役割以上のことは『レクィエム』だってしてはくれない。しかし、カタルシスの時間を持てるという、このことは重大だ。間違いもなく私は音楽の恩恵に浴し、亡き人の四十九日をむかえ、百カ日をむかえ、裁判をうけた。  こんどの連続した航空事故は、私の痛みを甦らせた。私は自分のためではなく、はじめて死者のためのレクィエムというものを聴いた。私の轢いてしまった二人と同様、あのジェット機の乗客たちは、まったく、何ひとつミスのない状態で死に追いやられてしまった。なんとも腹立たしい仕儀だと、生きていれば口走ることもできよう。今となってはかえらない。一切がかえらない。私は、知っているから、乗客の死をとむらう『レクィエム』をかけずにいられなかった。毎晩それで、きまった時間になると書斎に入ってモーツァルトの『レクィエム』を鳴らした。カール・リヒターの指揮したテレフンケン盤である。もう一枚、カラヤンのドイツ・グラモフォンがあるが、この演奏はひどい。『レクィエム』を純粋に音楽として鑑賞する人にはどうか知らぬが、私の耳には、腹立たしいくらい穢ない『レクィエム』だった。カラヤンという指揮者の近ごろのつまらなさは、『レクィエム』一枚に限らぬが、もう少し別な心境で私は今度の『レクィエム』をかけたつもりでいる。  もちろん、こうは誹っても、カラヤンの振る棒にうっとりする聴衆が世界にゴマンといるのだから、この事実をそしることはできない。カラヤンがわるいのではなく私の聴き方のせいだろう。が、ほかに、私にどんな『レクィエム』の聴きようがあるだろう。  フルトヴェングラーが、ウィーンで『レクィエム』を指揮した古い写真がある。『レクィエム』とは、こうして聴くものか、そう沁々思って見入らずにおられぬいい写真だ。フルトヴェングラーがいいからこの写真も一そうよく見えるにきまっているが、しかしワルターでもトスカニーニでもこの写真の雰囲気は出ないように思う。私はこんなレコードがほしい。  モーツァルトは、デカダンスだ、デカダンスとはどういうものかを音にした作曲家だ。——また、モーツァルトのオペラは美しすぎる、印象を書きとめようにもペンでは追いつかない。そんな言葉を誰かが書いていたのを読んだ記憶がある。言いまわしの巧拙で捕えられるようなモーツァルトは音楽とも思わないが、作家ならペンで語る以外にどんな方法があろう。モーツァルトを聴くとは、作家の場合はそれが言葉になっていることに他ならない。つまり音楽が文章に変っている。瞬間、瞬間、それを書きとめられないのは私のものぐさのせいだ。文章の速度が音楽にかなわぬわけはないのだから。——むろん書きとめたい文章ばかりが音楽からやって来るとは限らない。モーツァルトだってこれは例外ではない。私のものぐささは、だから、書きたくない文章のきこえる音楽を聴きすぎた、天罰かも分らないと近ごろ思うようになった。『レクィエム』を聴いているといっそうこの憾《うら》みが深い。  マーラーは、少し違うようである。事故のあと『レクィエム』とともに、マーラーの交響曲を私はよく聴いたが、聴けたと言いかえるべきかも知れない、そんな音楽だったが、マーラーもやっぱり肝心なことは何も答えてくれない。それでも『レクィエム』とは別な意味で、私に、負い目を背負うたままで生きてゆける勇気を与えてくれた音楽である。……ふたたび生活の喧騒の中にもどると君らは人生のたえまない流れが、恐ろしさをもって迫ってくるのに出会うだろう。それは、ちょうど君らが暗い外部から音楽のききとれぬ距離で眺めたときの、あかるく照らされた舞踊会の踊り子たちのゆれ動く様に似ている。人生は無感覚で君らの前に現われ、君らが嫌悪の叫び声で起きあがることのある悪夢に似ている……第二交響曲『復活』の第三楽章でマーラーはこう言い「自分は神から来て神へ帰らねばならぬが、愛する神は自分に光を与えてくれるだろう」と、アルト独唱に歌わせた。 「太陽は乙女たちの姿に光をなげて水面へ映す、中で最も美しい乙女が、彼に憧れの長いまなざしをおくる」  このやさしい詩を交響曲(『大地の歌』)に付したときには、マーラーはもう死ぬ前だった。晩年にえた二人の女児の相つぐ死と、宿痾の心臓病による死の恐怖の中にいた当時のマーラーにくらべたら、私なぞはまだ仕合せな方だろう。マーラーはそれでも短調の暗さと慟哭で最後の章(告別)をつくらなかったし、現世をあきらめ、むしろ大地の自然を最後まで称えた。「友よ、この世の仕合せは私には与えられなかった」おわりにほそぼそとそう言っただけである。そうしてふるさとへ向って歩こうと言い、愛する大地にふたたび春がくれば、いたるところ花は咲き、緑はふたたび栄えるだろうと言って、死んでいる。マーラーがボヘミアンであったこと、ユダヤ人だったことの悲惨さを告げているのは彼の伝記だが、彼の音楽はむしろ大へん東洋的な、西欧人にはめずらしい仏教的諦観を私に聴かせてくれた。あの事件以来私は数珠を手離せない。しかし経文を唱えることを私は知らない。私は大へん身勝手な音楽の聴き方をしているに違いないが、一番ほんとうのところで作曲家に近い聴衆の一人になったと、このごろおもうようになった。これは自負というものではなく、音楽に血のかよう聴き方をする人なら、皆そうだろう。かつてのベートーヴェンが、いつ、私のもとに還ってくるか、これは分らない。今の気持ちを偽わらず言えば、ベートーヴェンというのは大へん私にはロマンティックな存在になった。ベートーヴェンを聴けるのはロマンティストだ、そう言いきる人なら私のこの気持ちを分ってもらえるだろう。  バッハは、モーツァルトを通じてでないと今はかよって来ない。ビバルディは違う。モーツァルトの次に一番数多く聴いたのはビバルディだった。このことが私のいま置かれている立場の答を出しているだろうか。バルトークは敬遠した。こういう不幸な音楽は私には必要がない。フォーレは聴いた。何度も聴いた。何かが癒やされてくるにつれてフォーレのレクィエムと弦楽四重奏曲を聴く回数がふえたのは明記しておきたいと思う。案外つまらなかったのはショパンである。それとラヴェル。しかしこれには大して根拠はなく、しいて言えば演奏がまずかったせいかも知れない。だが、ここらになればもうどちらでもよかった。  大石内蔵《くらの》助《すけ》の生き方を考えたこともある。どういうものか、内蔵助ほど誤解の中で忠臣になっている武士も珍しい。歴史上、まず最も大勢の日本人に誤解されている大忠臣は、『忠臣蔵』の大石内蔵助だろう。日本人一般の、理解の埒外にはみ出るくらいに彼は人間として偉かった。理解をはみ出るくらいだから、不幸なことに忠臣に祭られてしまった。人間を見る、武士の目と町人の目の差が生み出した不幸にも思える。この辺のところはしかしここで触れる内容でもなさそうである。ただ、これだけは言っておきたいのは、過般の航空事故の、機長の誰かは、乗客を率いて大石内蔵助の不幸を味わったのではないか、ということだ。内蔵助が逆臣となる可能性は、彼が死んだ直後にだって、あったからである。 17 映画『ドン・ジョヴァンニ』  先日、フルトヴェングラーの指揮したオペラ『ドン・ジョヴァンニ』の映画を見た。フルトヴェングラーが死ぬ四カ月前にザルツブルク音楽祭で指揮したものの実況録画(天然色)で、オペラ全曲を映画で見るのは私には初めてである。フルトヴェングラーのモーツァルトのオペラというのも初めてだから、大変に興味があった。見おわって、腹が立ってきた。  映画そのものは実によくできている。はじめにザルツブルクのスケッチがうつり、カメラは祝祭劇場のオーケストラ・ボックスに入ってくるフルトヴェングラーの姿を捕える。聴衆の拍手にこたえて彼は客席に向って一礼し、くるりと後ろ向きになる。実際に劇場で見た場合もこれは変るまい。映画は、この指揮台に立つ巨匠の指揮棒の動きと、われわれに見なれたあの銀髪の生え際の禿げあがった、おでこの大きな風貌を大写ししてくれる。一瞬の重苦しい静けさののち、さっと指揮棒が振られてモーツァルトの三大歌劇のうちでも、最も美しい序曲が鳴り出す。私は目頭が熱くなった。フルトヴェングラーのワグナーやベートーヴェンの名盤は何枚となく聴き込んだが、指揮ぶりを目のあたりするのは初めてだ。けっしていい恰好とは申せない。カラヤンがベルリン・フィルを率いて最初に来日したとき、かぶりつきで二度見たがあのカラヤンの方が、よっぽど、指揮は颯爽としていた。フルトヴェングラーのは老いた百姓が何か、黙々と畠を耕す精勤さを思わせるものがある。時々、首をせわしく振り、左手で砂を掴みとるように手をにぎりしめては、低弦音のfをひき上げようと顔のあたりまであげる。それも力をこめて指をにぎるのではなく、てのひらを上にして五本の指が、軽く、しまるのだ。各奏者にたえ間なく目は配られているが、けっして鋭い目つきではない。右手のタクトはフィルムの回転するスピードを越える速さで、終始、小刻みに振られている。モルト・アレグロを要求するときはタクトより首のふりざまの方が早くなる。そんな指揮だ。まぶたに覆い垂れるような長く白い眉毛、見れば見るほどでっかい額、フルトヴェングラーは西洋人に珍しい面長な顔立ちだが、それもあごの方は細くなっているので生え際のぬけあがったおでこが、一層、特徴的である。曲がクライマックスになるとカラヤンは「えーい。えーい」と掛け声を出していたが、解説によればフルトヴェングラーも時には足でドンと、指揮台を踏み鳴らして興奮するらしい。映画では、この足ぶみは終《つい》に写らない。しかし、今は故人となった偉大なこの指揮者のこれほどなまなましい指揮ぶりを映画だから今に再現できるのである。この点で、たしかに映画『ドン・ジョヴァンニ』はわれわれに有難い。だが肝心な音楽がまるで、ひびいてこないのはどういうわけか。  ドン・ジョヴァンニを歌っているチェーザレ・シエピは、一九五八年だかに英国デッカから出たクリップス指揮の『ドン・ジョヴァンニ』でも同じ役をやっている。ドンナ・エルヴィラを歌うデラ・カーザも、オッターヴィオのアントン・デルモータもクリップス盤でそれぞれ同一役を演じていた。いってみれば、このレコードを聴きなれた私にはフルトヴェングラーとクリップスの歌わせ方の違いを聴けば済むのである。モーツァルトのこのオペラで、重要な役割のレポレロが、クリップス盤と映画では違うが、その差違も含めて、とにかく音楽がきこえてくれねば話にならない。鳴っているのは不必要にボリュームを大にした鈍重な和音の唸りとスクリーン一杯に咆哮《ほうこう》する歌声だけである。レコードの方がいいなどと私はいうつもりはない。レコードと比較する以前の問題だ。それほど、音が悪い。  むろん、オペラというのは、本来、舞台装置のととのった華麗なステージに人物のしぐさや動きを見て聴く方が楽しいにきまっている。いかなフルトヴェングラー・ファンも、幕があがれば舞台しか見ないだろう。オペラグラスなるものがあるのからみれば、登場人物の喜怒哀楽がアップで写し出される映画は、オペラ観劇の一つの理想形態といえる。エルヴィラの女中を誘惑するためドン・ジョヴァンニが、レポレロと扮装をかわるところ、また第一幕第五場、ジョヴァンニの邸内の踊りの場で有名な『ドン・ジョヴァンニのメヌエット』を、舞台上の楽士たちがヴェランダで演奏すれば、別の二つのオーケストラがコントル・ダンスとワルツを奏するあたり、《舞台の見えないレコード音楽》ではしょせん味わえぬ楽しさである。ドン・ジョヴァンニが炎の中へ絶叫しながら消えてゆく最後の場面も同様だ。視覚をともなって初めて、享受できる愉悦というものは断じてある。しかしこんなことは、映画なら初めから分っていることだ。われわれは芝居を見たくてすわっているのではない。エーデルマンのレポレロが、どれほど巧者に、表情ゆたかに剽軽さを演じて見せても、アリアを歌っても、肝心ののどがつぶれていてはオペラは台なしではないか。表情が大写しされるだけに、耳にこころよいはずの音楽的感銘が削減される場合だってある。クレオパトラは決して美人ではなく、ただ非常な美声の持主で、その会話が実に魅惑的だったから、「美しかった」と『プルターク英雄伝』に書かれているが、いわば映画の音のわるさはクレオパトラの鼻を低くする以上のとがを犯していた。  私はクリップス盤のほかに、フィッシャー〓ディスカウがドン・ジョヴァンニを歌ったドイツ・グラモフォン盤を近ごろは愛聴している。もう古い録音だが、この方はステレオだから、ステレオ音に慣れた耳が一そう、映画の音の悪さを顰蹙させたのかも分らない。私はまた映画館の経営者の家に成人した人間で、そもそもHi・Fiマニアになったのが、映画館で使っているトーキー用スピーカー(ウエストレックス)をなんとか自宅で鳴らしたいと、病みつきになったのにはじまっている。以来、トーキー音には常人以上の潔癖さを持つようになったが、映画『ドン・ジョヴァンニ』を私は日比谷公会堂の二階正面で見た。二階正面というのは、スクリーンのうしろにあるスピーカーの音を、最もダイレクトに聴く位置である。日比谷公会堂はせいぜい政治家の胴間声をきく所だから、映画館に常備されたスピーカーよりさらに程度のわるい音しか出さない。つまり音の条件はすべて悪すぎるところでこの貴重な映画を私は見せられた。これは私の不幸であって、映画そのものの価値とは別事だと一応は思ってみる。しかし、どうもそれだけではなさそうである。  疑念の二、三を言ってみよう。映画『ドン・ジョヴァンニ』は、序曲が終るとすぐ第一幕第一場、騎士長ドン・ペドロの邸宅の夜の庭を写し出す。レポレロが旦那は家の中でお楽しみだのに俺は見張番、早く俺も紳士になりたい、などと不平をこぼしている。エーデルマンのレポレロは音楽大の友人Mに言わせるとはまり役で、歌も実に巧みなものだそうだが、レコード(グラモフォン盤)で聴き慣れたカール・コーンに較べて、かくべつ上手とも私には思えない。やがて左手石段から、目を覆ったドン・ジョヴァンニと「殺されたって離しはしない」と歌うアンナ(エリザベート・グリュンマー扮)がもみ合いながら降りてくる。グラモフォン盤ではS・ユリナッチが英国デッカ盤ではダンコがこのアンナを演じているが、早くもこの場面で私は疑問につき当る。アンナは、このあと騎士長の父を殺されてドン・ジョヴァンニへの復讐を誓う女だが、三人の女性(エルヴィラとアンナと村娘ツェルリーナ)の中では、主役格で、ある意味でドン・ジョヴァンニへの敵役である。「しかし彼女ほど十九世紀を通じて誤解された女はない。ある人々は彼女は冷やかで愛らしさがないと説き、他の人々——たとえばドイツ浪漫派の詩人ホフマンは、彼女がドン・ジョヴァンニを愛していたという仮定によって彼女の謎を解こうとした。だがこんな解説はナンセンスだ」とA・アインシュタインは言っている。つまり石段をもみ合いながら降りてくる時、すでに彼女はドン・ジョヴァンニに貞操を奪われた後なのである。しかもジョヴァンニは、彼女の婚約者ドン・オッターヴィオに仮装して望みを遂げた。アンナは、事がおわってから自分の錯覚に気づいて、愕然とし、にくい男の正体をあばこうとする瞬間にオペラの幕は上がっているのだが、そんな、貞操を奪った男への曰く言い難い哀感はスクリーンのグリュンマーからまるで感じ取れない。ダンコのアンナにも、ステレオ盤のユリナッチにも、何か心細げなあわれさがあった。映画のグリュンマーは不埒者をなじる女丈夫の強情さばかりが目立つ。これは、彼女が大女で、というより婚約者オッターヴィオを演じるデルモータが貫禄に欠け(背も高くない歌手だから)余計にそう感じたのかも知れない。あるいはアンナを熱演しすぎているのかも分らないが何にせよ、アンナが、すでに身を許してしまったか、まだ許す前に不埒な男の正体をあばこうともみ合ったのかは、爾後のドラマに決定的な差をもたらすだろう。オペラが進展するにつれ、彼女とジョヴァンニの間にただならぬ気配のあるのをおとなしいオッターヴィオまでが感知して、一度は真相を追求するくらいだから、許してしまったことは聴衆には分ってくる。分らないのは当のオッターヴィオだけで、彼の詰問に、彼女がなんでもないと答え、「それでほっとした」と洩らす一語はいっそう悲喜劇的な感興を聴衆に与えるわけだが、そうならなおさら、アンナの開幕発端のこの役づくりは、もしフルトヴェングラーの演出なら私は採らない。——もっとも、同じドイツ人のホフマンとてアンナはジョヴァンニを愛する程度に解釈した。フルトヴェングラーも、あくまで肉体関係以前と見たかったのかも知れない。(アインシュタインはこの解釈について、十九世紀では誤解されるが、ふたりに関係のあったことは確実で、十八世紀の聴衆には誰の目にも明白なはずだと言い、さればこそ一切の謎は解けると説明している。すなわち、彼女に対するドン・ジョヴァンニの無関心——これは、彼がエルヴィラその他無数の女と同様に彼女をすでにものにしたからである——、ドン・オッターヴィオを愛しているのに彼のものになるのを彼女が拒むこと、さらに誘惑者が死んだあとのフィナーレでも、なお、婚約者の希望を一年経ってからかなえるとはぐらかすこと——これらが説明される、と。)  私は映画を見るまで、ドン・ジョヴァンニという蕩児をなんとなく教養をきわめた、むろん容姿端麗な、今日的にいえばエレガントなプレイボーイと想像していた。『フィガロの結婚』のケルビーノはドン・ジョヴァンニの前身だと、キエルケゴールが書いていたのを読んでいたためかも知れない。ケルビーノは周知のとおりソプラノである。エレガントな青年を、だから成長後のドン・ジョヴァンニに仮託したわけだが、フィッシャー〓ディスカウの風貌よりシエピの容姿は数段、そんな蕩児らしい。エーリッヒ・クライバーの指揮した『フィガロの結婚』で、シエピはフィガロを演じている。別のステレオ盤(ドイツ・グラモフォン)でフィッシャー〓ディスカウは伯爵を歌っている。漠然とそんなことも記憶にあったから、私の内面ではごく自然にドン・ジョヴァンニの像ができていた。映画で、シエピは見事にこの偶像を毀してしまった。私にすれば毀されたというべきだろう。さきのアンナ同様、レコード音楽だけで創りあげていた像の方がほん物ではないのかと、今でもまだ思うからだ。  第一幕第二場、あかるい夜明けの街道の場を見るといい。ドン・ジョヴァンニとレポレロの主従が町角で旅装の女(実はジョヴァンニに捨てられた女エルヴィラと後で分る)をひっかける場面だが、旗亭のかげで、彼女の近づくのを待ち受ける主従のありようは、軟派の不良学生——それも無頼の愚連隊の態たらくである。今だって繁華街へ行けば軽薄なこんな青二才が「よォ、お茶のみに行かねえかよォ」と呼びかけるだろう。ドン・ジョヴァンニは、だが貴族のはずだった。騎士長を一撃で刺し殺す剣の達者でもあり、豪壮な邸宅に住んでいる。ダンディーかも知れないが無頼漢ではないはずだ。演出がわるいのか、シエピの人柄がそうなのか、この舞台に見たのは品さがった野卑な二人の私語でしかない。街角の壁に身を凭らせ、片足を半歩ふみ出し、その足を小刻みに貧乏ゆすりさせている。好色漢のリアリズムとしても、最も低級な姿勢である。オペラ・ブッファなら、こんな低俗さが滑稽譚となるわけのものではあるまい。モーツァルトの音楽ではないか。歌謡曲で演じられるオペラではないのである。わたしはスペインをよくは知らないし、ドン・ジョヴァンニが十七世紀ごろのスペイン貴族と漠然と思い込んで見ているに過ぎないが、こんな愚連隊まがいの男に誘惑される女どもに、どうしてオペラが要るのか、と思う。女性は男とちがって、成長するのに時間は要らない。男に誘惑されて、一挙に生れる。「もっと正確に言えば、その瞬間に生れることをやめるのである」——キエルケゴールが日記に書いた、これは血を吐くような誘惑者の言葉だが、こんな誘惑にかかってこそ女の悲恋はオペラ・ブッファの台本に登場できる。そう私には思えるので、ドン・ジョヴァンニを憎みきれないエルヴィラにつまりはモーツァルトの音楽を聴けるのである。言い代えればドン・ジョヴァンニに重点をおいたとき、女主人公はエルヴィラであり、女の側で誘惑者を見ればヒロインはアンナとなる。その二つながらに、はじめのグリュンマーと第二場のシエピで、私は裏切られた。落胆するために大好きなフルトヴェングラーのこの映画を私は見たことになるのか。  反論の余地はある。前にも述べたがカメラは主要人物に焦点を合わせ、当然、画面一杯に一人ないし二人の挙措だけがうつし出される。いかに実況録画とて、実際のステージはスクリーンの何倍もの広さであり、そういう広さを演技力で埋めるには幾分の所作の誇張はやむを得ないだろう。  シエピやグリュンマーは、言ってみればオペラの舞台で歌っているので、それを映画的に、拡大して見る方が間違っているのである。誇張するのは出演者ではなく、カメラだ。といって、映画は本来カメラが捕えた動きをしか写すことはできない。つまり裏切るためにオペラは撮影されており、裏切られにわれわれはそれを見にゆく仕儀となる。——とすれば、そもオペラをなんのため映画化する必要があるのか。  大へん当り前なことわりで言うなら、登場人物の動作やら衣装やレチタティーヴォの口ぶりなどで、レコードを聴く以上に、オペラの進展が理解される。映画の一番の効果はこの「分り易さ」にあるだろう。『ドン・ジョヴァンニ』の舞台を見たことのない人は、一度は見ておいていい映画である。だが買いかぶってはならない、天然色カラーで騎士長とドン・ジョヴァンニの剣戟が眺められるからといって、このオペラを少しも理解したことにはならない、ということをむしろ自戒しておく方が大事だろう。キエルケゴールはモーツァルトの他のいかなるオペラよりも『ドン・ジョヴァンニ』に感動したが、それはエルヴィラを演じたウィーンの女優が、歩きつきから身のたけ、着物の着こなしまで、忘れようと努めた恋人レギィネにそっくりだったからだ。キエルケゴールにとって、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』でもっとも重要な人物はエルヴィラだが、オペラを見たからエルヴィラへの理解が深まったわけではないだろう。  それに、映画を見ておけば分り易いというが、声楽を専門に勉強でもしていない限りは、歌っているアリアやレチタティーヴォが逐語的にわれわれに理解できるわけはないのだ。原語を解さぬわれわれは、あらましの場面場面のストーリーを知っていて、その人物の所作で、今はあのくだりを歌っているなと察するにすぎない。しかもこれなら、レコードを聴いて舞台の進展を想像するのとさほどかわりはないはずだ。むしろ対訳を読みながら聴いている方が、手間はかかるが台詞の一語一語に理解がゆく。そしてそれで、オペラを音楽として享受するには十分なはずなのである。とすればますます、なんのために映画を見る必要があるだろう。一度は見ておくべきかと言ったが、一度見れば足りるものが由来、芸術であるわけはない。  見おわってから、隣りの席にいた音楽大の学生らしい青年が、「うまいなあ」と歌手の演技力に感心していた。あるいは歌がうまかったのかも分らないが、声楽家でない私にとっては、まるで芸術的感銘のない記録映画だった。せめてフルトヴェングラーの音だけでも、まっとうな録音で——もしくは再生音で——聴けたならと、この点は重ね重ね口惜しいと思う。フルトヴェングラーは序曲の場面にしか写らないが、彼の指揮が芸術を感じさせない道理はなかったはずだ。映画は私を裏切ったが、トーキーの音のわるさはこの意味で実にフルトヴェングラーを冒涜した、そう言いたいくらい腹立たしい、無神経な映写機の再生音である。モーツァルトをこの上なく愛する人の善意によってもたらされたフィルムだと聞くが、こんな粗雑な映写機で回して、貴重な音楽芸術もないものだ。主催者は何を間違えて日比谷公会堂なんぞで公開したのだろう。口惜しくてならない。 18 トランジスター・アンプ  カラヤンがベルリン・フィルの何かのリハーサルのあとで、匆々《そうそう》と会場を抜け出そうとした。来日中のことではない、たぶん、ベルリンでの話である。あまりそのひきぎわが唐突なので知人が、どこへ行くのかと聞いたら、「ドイツ人というのはなんとリズム感のない民族だろう。我慢がならん。ジャズ喫茶にでも行ってリズムを味わってくる」そういったという話を、何かで読んだ覚えがある。ベルリン市内にわれわれの知るようなジャズ喫茶があるかどうか、そんなことはどうでもいい。ナイトクラブだってかまわない。要は、常任指揮者の彼自身がオケのリズム感の欠如に辟易《へきえき》していたはなしを思えばいいのである。  カラヤンは「フォン」の称号のつく生れだが、生粋のチュートン(ドイツ人)ではない。インドゲルマニアのラテン系——正確にはギリシャ人——だから、音楽家としての見識以前に、血で、ドイツ人一般のリズム感の欠如を感知したわけだろう。こう見れば、ちかごろ終始目をつぶってタクトを振るのは、ひとつの指揮者のポーズというよりは目をあいていては楽員のリズムへの鈍感さが、腹立たしく、やりきれなくなるせいかもわからない、という解釈も成り立つ。もっともカラヤンの暗譜で指揮をとるのは有名で、ある楽員が、あなたもどうして暗譜で振らないのですかとクナッパーツブッシュにきいたら、「俺はだれかと違って譜が読めるからね」とクナッパーツブッシュは皮肉をいった。これを聴いて以来、単に暗譜でなく、目をとじて指揮をするようになったというゴシップもあるそうだ。本当かどうかは知らない、目をつぶるのはドイツ人のリズムへの鈍感さと無縁ではないような気もする。リズム感の欠如とはそもそも正確にどういうことなのか、素人の私によくは分らないが。  ——ただ、なるほど、そういわれればクナッパーツブッシュやフルトヴェングラーのあの、テンポののろい、悠揚迫らぬ大河の流れるごとき演奏は、どこかで、ドイツ人のリズム感の欠如につながっているかも分らないと、近ごろ思うようになった。カラヤンの今度のベルリン・フィルを聴いてもそう思った。カラヤンはレコードで聴いたのでは良さは分らない、彼は目で聴く指揮者だ、そんな評判のあるのも道理と思えるほど、何か、指揮台で《孤独な舞踊》をひめやかに踊って見せてくれる趣きがあるし、それはモダーンな《指揮者》の一つのタイプを創造しようと意図しているようにも受け取れたが、リズム感の欠如に由来すると見る方が私には納得がゆく。それに、彼がもし《指揮者》の新しいポーズを創り出そうと目をとじるのなら、それは、管弦楽団の演奏を聴かせるだけならレコードでこと足りる、それほどいまでは録音・再生の技術が進歩し、音楽そのものはレコードで十分、鑑賞できるのをだれよりも知っているからではないかと思う。いかにも手前味噌な素人考えだが、今ではわざわざ演奏会場へ出向いてくれる聴衆に(日本人は別だ)レコード以上のものを指揮者も与えねばならない、タクトを振る姿が、絵になっていなければならない。つまり絵になる姿としての指揮者像といったものをカラヤンは念頭においている、そう思えるのである。もともとカラヤンの指揮はその程度に演奏の本道から外れた所で音楽している、というのが悪ければ聴衆にアピールしているように、私には思えてならないのだからしかたがない。少なくとも、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュのオーソドックスな指揮と比較した場合そう思わざるを得ない。どうかすると、クナッパーツブッシュのテンポののろさには今のわれわれはついて行けぬもどかしさを感じることはある。カラヤンのは、良かれ悪しかれ現代人の感覚にあった指揮だという気はするが、クナッパーツブッシュがのろいのか、われわれが必要以上に忙しがっているだけなのか、これは分るまい。音楽自体にテンポがのろいも早いもあるわけがないのなら、どうやら責はこちらにありそうだ、とそう説得する力はカラヤンよりやはりクナッパーツブッシュの方にありそうにも思う。  先日、わが家のクワードのプリ・アンプがおかしくなった。欧米のアンプは、これまでもよく日本の湿気にやられるのは経験しているので、この機会に、近ごろ評判のトランジスター・アンプに替えてみようかと思った。クワードでも、十全に鳴っている限りはなんら不満はないのだが、以前に米ハーマン・カードンのチューナー(オール・トランジスター)を接続してFMステレオ放送を聴いたことがあり、その臨場感の迫真的なのに圧倒された。クワードでレコードだけを聴いていても、わが家では二個のスピーカー・エンクロージア(約五メートル間隔)の間にフルメンバーのオーケストラがずらりと並ぶ。ティンパニーは左手上段のかなたから必ず聴える。つまり音に奥行があり、スピーカーは音楽を鳴らすのではなく、楽器の位置を呈示するにとどまる。音は、その呈示された空間から鳴るのである。これは驚くべきプレザンスであり、他に私はわが家のこのGuy R. F. Autographほど臨場感の見事な音は聴いたことがない。  そのプレザンスが、一まわりハーマン・カードンのチューナーで聴いたFM放送では、広がったのである。音量ではなくて奥行が大きくなった。FM放送だから、音質そのものはレコードを直接掛けたのには劣るから、購入するのはあきらめたが、その奥行と広がりの記憶が忘れ得ない。たぶん、トランジスターのいいアンプで聴けば、この奥行の大きさを常時わがものとできるのではないかと考えていた。  たまたまオーディオ部品の専門店のおやじさんから、現在、アメリカで市販されているトランジスター・アンプの最も優秀なのはアコースティック〓型だと聞かされた。おやじさんのいうのでは、マランツと聴き比べても断然アコースティックの方がよいそうで、岡俊雄氏もアコースティックを購入したという、花森安治さんもアコースティック絶賛者だそうである。  そう聞いたので、一日、岡俊雄氏宅を尋ねアコースティックを聴かせてもらった。カートリッジはADC(一〇E)スピーカーはAR三とローザーである。岡さんには悪いが、がっかりした。なるほど、街のレコード屋の音などに比べたらよく鳴っている。しかし楽器が演奏されるのではなくスピーカーが、メロディをひびかせているにすぎない。オケの第一ヴァイオリンが左側から聴えるのは当然の話だ。こんなものは今ではステレオとはいえまい。左側のヴァイオリンの何十丁かが、一つ、一つ、音を出す、その合奏がユニゾンである。全体がごっちゃになって、第一ヴァイオリンという一つの楽器が鳴るのではない。私は、レコード雑誌で録音を批評している岡さんの文章を高く評価していた。村田武雄などという老獪な知識人よりよほど正直に物をいう人だと思ってきた。アコースティックはプリ・メインで四十万円ちかくする。岡氏の貧富にかかわりなく、こういうアンプを購入する批評家の良心というものを私は信じる。ただ恨むらくは、スピーカーが悪すぎた。私は、音の質はいいのですが音のかたちが出ていませんね、といった。「いちど私の家でお聴きになればお分りになるでしょう」と。精一杯の同情をこめていったつもりだ。  高城重躬氏にいわせると、だいたいこのアコースティックは初期のトランジスター・アンプで、トランジスターというのは半年たてば驚くべく性能の向上開発されている現状だから、古いものはそのまま批評の対象にはならないということだった。「アコースティックはもともとあまりよくないアンプです。今ならソニーのトランジスター・アンプの方がいいかもしれませんよ」  その高城さんのお宅で、ソニーのアンプで鳴らされている音に私は落胆して久しい。私は以前、高城さんを神のごとく尊敬し、そのお説に従ってわが家に巨大なコンクリート・ホーンを造った。マルチ・アンプ・システムで低音用にはジム・ランシングの十五インチ・ウーファー二個を鳴らし、中音、高音にも高城さんのすすめられる「最高の部品」を使った。それがどんな音で鳴っていたか私は知っている。その後テレフンケンS八型を購入し、音質を聴き比べて、コンクリート・ホーンをハンマーで敲きこわした。それからSABAを買い、テレフンケン工場の推称したOpus 5430を取り寄せ、今のタンノイの折り返しホーン型に落ち着いた。以前にも同じタンノイを高城さんのアンプで私は鳴らした人間である。知っている。高城さんの推称されるソニーのトランジスター・アンプは岡俊雄さん宅にもあった。目の前で岡さんはソニーとアコースティックを比較して鳴らしている。それを私は聴いている。  おもしろい話がある。日本におけるマランツの代理店は一時ソニーになった。さてソニーは自社製トランジスター・アンプの販売を始めたが、これを購入した人の中に、聴き比べて真空管式のマランツを求めようとする人が多く、おかげでマランツがよく売れる。代理店ソニーとしては有難いがソニー本社としては痛し痒しだというのである。作り話としても皮肉のきいた話だ。おそらく事実ではあるまいと思うが、マランツのオーディオ界におけるなかば信仰めく信用をこの挿話は語っていよう。さきのおやじの言葉を信用すれば、そのマランツにも優るのがアコースティックである。しかもアコースティックよりソニーがよいと高城先生はおっしゃる。誰を信用すればいいのか。自分の耳で聴き分ける以外にないではないか。  私はおやじのすすめに従ってアコースティックを家で鳴らしてみることにした。ハーマン・カードンのあの臨場感の鮮明さが期待された。おやじはいった。「クワードとアコースティックじゃパワーが違いますからね。周波数レンジも問題じゃないし。低音ののびが、凄いですよ。賭けてもいい」  おやじ自身、まんざらHi・Fiは嫌いでもない。商売用を名目にビルの一室をかりきってリスニング・ルームをこしらえ、輸入される大方のスピーカー・キャビネットを揃え、アンプを並べていた。客が望めばスイッチ一つでアンプとスピーカーの接続を自在に替える。つまり望むアンプで望むスピーカーを鳴らせる。アコースティックやサイテーション、ソニー、トリオまで揃っており、リチャードアレン、ジョーダンワッツ、ローザー、グッドマン、和製キャビネットでならタンノイも揃っている。AR三も並べてある。  念のため、家へおやじを同行する前に私はこのリスニング・ルームで聴いてみた。AR三をアコースティックで鳴らしてもらった。岡さんのところより音がわるかった。部屋の反響のせいでやむを得ないとおやじはいった。次にタンノイを鳴らしてもらったが話にならない。キャビネットが違うのだから仕方がない。私は確信をもっていうが、スピーカーというものを別個に売るのは罪悪だ。スピーカーだけを売るから世間の人はスピーカーを替えれば音が変ると思ってしまう。スピーカーというのは単なる紙なので、キャビネットが音を鳴らすのである。スピーカー・エンクロージアとはそういうものだ。おやじの試聴室のタンノイがいかに貧弱な音でもだから驚かなかった。わが家の折り返しホーン型で鳴らしてみなければアコースティックの性能は分らない。  それはおやじも承知している。Guy R. F. A.は日本にはたぶん私の家にしかないだろうから、おやじとて、アコースティックで鳴らしたらどんなに素晴らしいかと、内心期待していたに違いなかった。  家に着いた。慣れた手つきで新品のアコースティック〓型をおやじは包装から解き、私の家のスーピーカーに接続した。カール・オルフの『五つの基調音〓』(ドイツハルモニア・ムンデ盤)を私は試聴用に使った。音が鳴った。曲を詳述するのはここでは目的ではない。とにかくアコースティックが鳴ったのである。はじめは信じられなかった。それから、やっぱりそうかと合点がいった。  白状すると、あの交通事故以来、わたしの経済状態でアンプに四十万円の出費は苦しい。売るものは蔵書しかない。文学を売るにひとしい。それでも格段に音が良ければ買わざるを得ないのだ。そういう打ち込み方を、つまり、生き方を今日まで私はしてきた人間だ。文学に音楽が必要ないなら、そういう文学は私に必要なかったまでのことだ。  私は買うつもりだった。音が良ければ。事実は違っていた。クワードの方がよかった。ボリュームの少しイカれたクワードに継ぎ直して聴いて、仰天したのはおやじさんである。「凄い。クワードがこんなによく鳴るのをわたしは聴いたことがない」ウソをつけ。よい音を鳴らすのはクワードではない、スピーカー・エンクロージアだ。  世間では、真空管とトランジスターの良否が喋々されている。専門家の見るところ、いずれはしかしトランジスターになるらしい。現在の時点では、私の聴いた限り、真空管の音のほうにふくらみがある。この「ふくらみ」というのが誤解されやすいのだが、クラリネットのソロでいえば人間の吐く息のしめりや暖か味が聞き取れるとでもいおうか。トランジスターの方は音そのものは抜けている。だから派手ないい音にはきこえる。ピッコロになると、一層、音の抜けの綺麗さは際立つ。しかし人間の吹き鳴らす音ではなく何か、機械の鳴っている感じがするのである。音質が一見いかように綺麗にきこえても、人工感のあるこの感じは私は採らない。俗にトランジスターは音がカタイといわれるのは、ヴァイオリンの弦が、針金でできている、それを弾く感じをいうようで、高音域にトウィーターを鳴らし始めのころに、よくトウィーターなるものが、耳を刺すシャーという音で鳴った。今でも粗製のトウィーターにこの傾向は残っている。だから安物のスピーカーならトランジスター・アンプはマッチするかも分らない、とも思える。さすがにアコースティック級になれば、高音域ののびは、スピーカーが良くなればなるほど、張りのあるパワー感を伴う響き方をした。しかし岡さん宅の場合でも、スピーカーの再生音の能力までは変え得なかった。  明確にしておくが、岡氏宅のと私の家でアコースティックを鳴らしたのとでは、スピーカーの能力の差は歴然たるもので、それは問題にならない。いよいよ岡さんへの同情を禁じ得ない。そのアコースティックとクワードを比較して、躊躇なくクワードを採ると私はいうのである。理由ははっきりしている。クワードのほうがたぶんわが家のスピーカー・エンクロージアにマッチするからだ。アンプ自体の性能を専門家が比較すれば、パワー出力、周波数特性などでクワードは劣る点があるかもしれない。オッシロスコープその他さまざまな測定器に数字であらわれた特性ではそうだろう。だからアコースティックを駄目だと私はいうつもりは毛頭ない。ただ、現今のスピーカー・システムでわれわれが音楽を聴く限りは、まだ、今のトランジスター・アンプよりは真空管の方がより現実的に、演奏の雰囲気を鮮明に聴かせてくれる。何かまったく新しいスピーカーが発明されればその時はアコースティック級の能力を十全に発揮した音をきけるかも知れない。これは分らない。コーンの振動で音を出す今の方式では、まだ、石より球の方がいい。私の耳がそう聴き分けた。おやじも同意した。「あたしも道楽がしたい、同じタンノイGuy R.とやらを取り寄せますわ」そう呟いて帰っていった。何十という欧米のスピーカーを取り寄せ商売しているおやじが言ったのである。石とアンプとスピーカーの答がここに出ていはしないか。  ハーマン・カードンのあの一瞬の——それはまったく一瞬、眼前に展開された演奏ホールのスケール感だった。たぶんNHKの放送スタジオからだろうと思う——が、私の脳裏から消えたわけではない。聞くところによれば、クワードでもこの十一月、トランジスター・アンプを出すそうだ。ぜひともこれは聴いてみたい。今までに触れなかったがアコースティックにせよ、ハーマン・カードンにせよ、マランツも同様、アメリカの製品だ。刺激的に鳴りすぎる。極言すれば、音楽ではなく音のレンジが鳴っている。それが私にあきたらなかった。英国のはそうではなく音楽がきこえる。音を銀でいぶしたような「教養のある音」とむかしは形容していたが、繊細で、ピアニッシモの時にも楽器の輪郭が一つ一つ鮮明で、フォルテになれば決してどぎつくない、全合奏音がつよく、しかもふうわり無限の空間に広がる……そんな鳴り方をしてきた。わが家ではそうだ。かいつまんでそれを、音のかたちがいいと私はいい、アコースティックにあきたらなかった。トランジスターへの不信よりは、アメリカ好みへの不信のせいかも知れない。  オーディオ部品に限らない、自動車でも、映画でもアメリカのものは味気ない、というこれは私の好みだ。しかしこの耳の審美眼を私は信じる。世界で、最も優秀なカートリッジの一つはシュアーのV一五と大方のHi・Fiマニアはいう。同感である。シュアーはアメリカ製品だ。しかしシュアーの技術部長は日本人である。ミスター・ヤナギである。彼はブロンドの美人を娶って今アメリカに住んでいる。シュアーの性能を向上させた彼の耳が、日本人ばなれしているとは私は思わない。日本人は一般に耳がいい。高城さんだってシュアーに招聘されればミスター・ヤナギに比肩する存在だろう。高城家の音に失望したと私はいったが、誤解のないようことわっておく、高城家の装置は大きなボリュームで鳴る。ボリュームが大きくなれば歪は当然大となる、その歪を是正し得る限界で、高城さんは鳴らしていらっしゃる。  私は、ボリュームの大きな音などはじめから求めていないから、でかい音の歪がなくとも驚かないだけの話だ。この点、私は無責任な素人であり高城さんは研究家である。それに、高城さんほどの人なら、どんな素晴らしい音かと、その期待に、裏切られた。落胆とはそういう意味だ。高城さんはHi・Fiの神様だからもっといい音で鳴らしていてほしいのである。これまた、無責任な素人の願望だろう。  重いアンプを、無駄運びさせたのが気の毒なので、途中まで手を貸しておやじさんを送った。道々、あのリスニング・ルームには、ずいぶんいろいろなアンプやスピーカーが揃っているから、さぞ客が押しかけ、よく売れるだろうといったら、「だれも買わない」という。聴いてゆくだけだそうだ。つまり自分の家の音と、ひそかに聴き比べているだけだという。なるほど、うまいことをいうと感心した。自家の再生装置はいってみれば女房のようなもので、ひそかに他人と見比べはするが、結局落ち着いてしまう。さしずめ、すると私のタンノイなど容色絶佳の良妻かと声を立てて笑った。 19 わがタンノイの歴史  タンノイというスピーカーをはじめて聴いた当時から、今日までの、《わたくしにおけるタンノイの歴史》といったものを書きとめておきたい。オーディオ愛好家としてのわたくしが今、人さまに、はばかりなく言えることは、タンノイというスピーカーを日本人でわたくしほどムキになって聴いた人はないだろうということ、「骨までしゃぶる」という言葉がある、タンノイについてなら、スピーカーの機能の骨まで、わたくしはしゃぶったと思えることである。  はじめてタンノイを聴いたのはS氏のお宅で、昭和二十七年秋だった。当時S氏邸にはゼンセンの五一〇と、グッドマンの十二インチがあった。昨今オーディオ・マニアに評判のいいグッドマンを、おそらく日本で最初にS氏は輸入した人ではないかとおもう。LPのようやく普及しはじめた当時、グッドマンの音にどれほど、わたくしは感動したか知れない。ことにロンドン盤の弦音の美しさには恍惚とし、この上、どんなスピーカーが必要なのかと怪しんだ。しかしS氏は、英グラモフォン誌や、ハイ・フィデリティを月々購読し、タンノイの尋常ならぬ秀抜さをその記事で知って、購入されたのである。  それが届いたとき、わたくしはS氏邸の書斎で、梱包を解くのを手伝った。フランチェスカッティの、ベートーヴェンの『ロマンス』を聴いた。おもえば、ト長調(作品四〇)の冒頭で独奏ヴァイオリンが主題を呈示する、その音を聴いたときから、わたくしのタンノイへの傾倒ははじまっている。ヴァイオリン独奏部の繊細な、澄みとおった高音域の美しさは無類だった。あれほど華麗におもえたグッドマンが、途端に、まるで色あせ、鈍重にきこえたのだから音というのは怖ろしい。  といって、実はかならずしもすべてがうまくきこえたわけではない。タンノイ指定の箱というのが、日本では売り出されている。タンノイの音色を損うために作られたとしか言いようのない、でたらめなキャビネットだ。今ならそれをわたくしは言い切ることができるが、当時は、S氏邸のほかにタンノイはなく、どうかすれば耳を突き刺す金管の甲高い響きや、弦合奏で硝子窓をブリキで引っ掻くに似た乱れた軋み音を出すのを聞くと、これがHi・Fi誌の絶賛したスピーカーかと狼狽したのは、むろん当のS氏であろう。この時のタンノイはいわゆる、バスレフ型のコーナー・キャビネットにおさめてあった。  バスレフ型というのは、周知のように、箱の上辺にスピーカーを取付け、下辺に矩形の開口部をあけてあるが、タンノイ社の指定では、キャビネット内部で、スピーカーを取付けた部分とこの開口部の中間に厚板で仕切りをもうけ、厚板には「十インチ平方より広からざる穴を空けよ」と指示してあった。十インチ平方より「広からざるというのがくせ者だ。音がわるいのはキャビネットのせいにちがいない」そうS氏は言って早速、家具屋に新しく指定どおりの注文をなさる。今なら笑い話だろうが、わたくしが知っているだけでも、タンノイのためにS氏の発注されたキャビネットは「十インチ平方より広からざる」から、グランドピアノの重さのある巨大なの(これは高城重躬氏の設計になった)まで、ゆうに七個をかぞえる。キャビネットばかりは下駄箱にもならず、残骸が次々と納屋を占領して夫人を嘆かせていた。笑い話といえば、当時S氏のアンプを製作していた技術者は、「タンノイは磁石が強力だから低音が出ない」といい、それならとワーフデールのウーファーをS氏はタンノイに組合せて鳴らされたものである。グランドピアノの重さのキャビネットがこれである。  涙ぐましいこういう努力で、少しずつ音質はよくなり、しかし疑念は晴れない。ワーフデールでこれ位よくなるならさらにタンノイをもう一個取付け、低音だけを鳴らせば一層、音の美しさはまさるだろうと、二個目のタンノイをS氏は芳賀檀氏の渡欧の折に依頼された。当時神田のレコード社でタンノイ(十五インチ・モニター)は十七万円した。英本国でなら邦貨三万数千円で入手できる。芳賀さんはロンドンで購入したのはよいが、どんなにS氏がレコードを、その音質を、つまりスピーカーを大切にする人かを熟知していたので、リュックサックに重いタンノイを背負《しよい》込み、フランス、ドイツ、スイスと旅して回った。なんのことはない、国がかわる度に通関手続で英国製品の余分な税金をふんだくられねばならなかった。「これはぼくの友人のスピーカーだ。日本へ持って帰るのだ」何度説明しても、この真摯なドイツ文学者にリュックサックでスピーカーを持ち回らせる、そんな音キチが東洋の君主国にいようとは、彼らには信じられなかったのである。ハイ・ファイなどのことばすら当時は一般に知られていない。「日本に持ち帰るなら、なぜロンドンから直送せんか」「大切なスピーカーだからだ。これは、有名なタンノイだ。少しでも早く友人に届けたいからだ」なんと説明しても、「税金を支払わないのなら貴下を入国させるわけにはいかん。そのリュックサックは没収する」  これまた、語るも涙であろう。涙のこぼれるこういう笑い話を、大なり小なり、体験しないオーディオ・マニアは当時いなかった。この道は泥沼だが、音質向上するにつれて泥沼はさらなる深みを用意し、濫費を要求する。みんな、その濫費に泣きながら、いい音が聴きたくて悪戦苦闘するのである。  タンノイにおける、S氏のこの悪戦苦闘ぶりをつぶさに傍で見たことが、その後のわたくしの苦闘につねに勇気を与えてくれた。この意味でもS氏は、かけがえのないわたくしには大先達であった。  S氏邸に初めてタンノイが届いたころ、わたくしたち夫婦は一週間に二日は塩昆布だけで食事を済ます貧乏な生活をしていた。敷布を五十円で質屋に入れていた。それでもわたくしの魂は「昂然たる」とも称すべき状態にあり、満ち足りていた。ほとんど隔日に、S氏邸でレコードを聴くことができたから。神保町に『エンプレス』という名曲喫茶があった。一杯五十円のコーヒーを飲んで何時間も音楽を聴き耽った。こういう体験は、昔のレコード愛好家なら誰しも持っていると思う。S氏邸には『エンプレス』とは比較にならぬ名盤が数多くある。しかもS氏は御不満でも、タンノイの音の美しさは、レコード喫茶では望むべくもないものだ。LHMV盤で、ヴィトーの弾くブラームスのヴァイオリン・ソナタをタンノイが初めて鳴らした時の感銘を昨日のことのように私は憶えている。ピアノ伴奏はフィッシャーだから当然だろうが、こんな堂々とした、しかも綺麗なピアノの音があるのかと思った。LHMVの盤質と録音技術の秀逸さを肝に銘じて知った。アメリカ盤では、絶対きくことのできなかった気品が、わたくしの、《英国の音質》への傾倒を以後決定づけたと今にしておもう。カンポーリの弾いたヘンデルのソナタさえ、息をのむ美しさだったし、エネスコのシューマンのソナタにいたっては、こんなに無欲に枯れきった心境でヴァイオリンをひく芸術家が、まだこの世にいてくれるのかと目がしらが熱くなった。交響曲でフォルテの部分の歪むのを我慢する限り、つまりタンノイはわたくしにとって、他に比肩するもののない優れたスピーカーに思えた。それが誰の所有であれ、喫茶店で聴くものであれ、感動とともに聴いた音楽とその音は、誰のでもない、もうぼく自身のものだ、ぼくのベートーヴェンでありブラームスだ、とその頃わたくしはおもっていた。S氏邸で連日レコードを聴けるのは、だから私自身の音楽体験を日々に培うことに他ならない。精神の充足と、たましいの昂揚とを感じて当然のはずである。  昭和二十八年、わたくしは芥川賞をうけた。生活の貧しさは以前と変らなかった。小説はなかなかうまく書けなかったし受賞の時計は質屋に入れてしまった。レコードを聴かせてもらえる充足感がなかったら、わたくしは惨めな作家でおわっていたろうと思う。昭和三十年秋、剣豪ブームで、望外なお金がはいるようになった。翌年から週刊誌の連載が始まり、はじめて、わたくしにも自分のスピーカーとレコードを買える日が来た。  この時までのわたくしは、S氏が追放されたグッドマンを拝借し、同じく追放されたガラードのプレイヤーで、ひそかに一枚、二枚と買い溜めたレコードを聴いていた。S氏邸のタンノイを聴かせてもらう度に、タンノイがほしいなあと次第に欲がわいた。当時わたくしたちは家賃二千七百円の都営住宅に住んでいたが、週刊の連載がはじまって間もなく、帰国する米人がタンノイを持っており、クリプッシ・ホーンのキャビネットに納めたまま七万円で譲るという話をきいた。天にも昇る心地がした。わたくしたちは夫婦で、くだんの外人宅を訪ね、オート三輪にタンノイを積み込んで、妻は助手席に、わたくしは荷台に突っ立ってキャビネットを揺れぬよう抑えて、目黒から大泉の家まで、寒風の身を刺す冬の東京の夕景の街を帰ったときの、感動とゾクゾクする歓喜を、忘れ得ようか。  今にして知る、わたくしの泥沼はここにはじまったのである。  はじめは、現金なものだ、クリプッシ・ホーンという、S氏邸でついぞ見ないキャビネットに納まっているから、うちの音のほうがいいのではあるまいか、とひそかに期待した。あとで分るが、このクリプッシ・ホーンがでたらめで、当今街で売っている和製の「タンノイ指定の箱」とずさんさにおいて異ならない。当然ひどい音で、S氏邸とは比較にならなかった。わたくしは思った。これはしかし部屋が狭いからではないか、S氏邸のリスニング・ルームは十五畳あり、わが家は四畳半である、あちらは洋間、こちらは和室である。何を言ってもあちらは別のウーファーで低音を出していらっしゃる。  そこで、翌年分譲住宅に入ることができたとき、思いきって庭にリスニング・ルームを建てた。併《あわ》せて高城さんに音響効果上のくさぐさな指示を仰ぎ、ついに低音用にコンクリート・ホーンを造ることにした。部屋は二十畳、天井は防音材を張った二重張り、床は二重床、壁もすべて防音テックスを張り、低音のためにジム・ランシングの十五インチ・ウーファー二個を、高城さん設計の低音専用アンプで鳴らす。高音域はワーフデールのトウィーター、あわれにもタンノイは中音域だけを鳴らすにとどまった。これが高城氏ご推称のシステムであった。  米人から譲りうけた直後に、最初にかけたのはイーヴ・ナットの弾くベートーヴェンの作品一一一のソナタで、ピアノ音をきけばほぼスピーカーの良否がわかる。むろん当時はモノーラルだが、ピアノの高い音は、録音さえよければ少々程度の悪いスピーカーでもうまくきこえるものだ。かんじんなのは低音である。これがよくなかった。次にヘンデルの、エドリアン・ボールト指揮のコンチェルト・グロッソを掛けてみた。いっそS氏から拝借したままのグッドマンの方が無難にきこえた。  さて、高城氏ご推称のコンクリート・ホーンで低音を増幅し、同じく高城氏製作の別のアンプで高・中音域を鳴らし、二十畳のリスニング・ルームにきこえて来たのは、タンノイとは似もつかぬ異様な、雑然と騒々しくボリュームばかり馬鹿でかい音である。  この時の失望感を、なんといったらいいか。コンクリート・ホーンの開口部は、高さ二メートル、幅二メートルあった。これだけの開口部を二十畳のリスニング・ルームの片隅に設けるために、その奥へ約五畳半の部屋をつくり、部屋全体が一種のキャビネットになるわけだ。高城さんは低音には指向性がないから、開口部はどちらの方向をむいていても音楽の鑑賞には全然さしつかえないとおっしゃった。素人の悲しさで、その通りしたわけだ。しかし聴き込んでみると、どうも、ホーンの真価を発揮する低音は、正面に位置して聴かねば分らない。当初、きく位置は部屋の中央のソファで、高・中音はこの位置へ真正面になるよう壁に嵌め込み、低音ホーン開口部は横から音が出るようになっていた。その低音を満喫するため開口部の正面に位置するとなると、なんのことはない、リスニング・ルームの隅っこで聴くことになる。なんのための二十畳か。こんな馬鹿な道理があろうか。  わたくしは、高城先生に音のよくないことを訴えた。高城氏のご回答は明解そのものであった。「タンノイがいけないんですね。あれはね、ほかにも聴いてらっしゃる方がありましたけど、皆さん、よくないことがお分りになって、今ではほかのスピーカーになさってます。俳優の三橋達也さんもタンノイを売りとばしておしまいになりましたよ。岡鹿之助さんところでは、ワーフデールの三ウエイで作ってみたんですが、ずっといいです。タンノイとは、もう比較になりません」  三橋達也氏と同じに扱われては立つ瀬がないが、わるいものなら仕方がない。しかし、わが家で現実に鳴っているワーフデールのトウィーターが、タンノイの高音よりいい音のようにはどうしても私には思えない。なんとか、今のままで、よくなる方法はないものかと泣きつかんばかりに訴えた。それなら、コンクリート・ホーンの裏側に本を積んで、空間を埋めてごらんになったらどうかと高城さんは言われた。五畳ぶんの部屋一杯に本を積む、そうすれば低音がしまって、今より良くなるだろうとおっしゃるのである。いいとなれば、やらざるを得ない。新潮社に頼んで月おくれの『小説新潮』をトラック一台分わけてもらい、仰せの通りこいつをホーンのうしろ側に積み重ねた。古雑誌というのは荒縄で二十冊ぐらいずつくくりつけてある。それを抱え、一家総出で、トラックから、玄関をすぎ二十畳のリスニング・ルームを横切って奥のコンクリート・ホーン室の裏口へ運び、順次、内へ積み上げてゆくのである。実にしんどい労働である。(たまたまこの時来あわせていて、この古雑誌運びを手伝わされたのが、山口瞳ちゃんだった。)さてこうしてホーンの裏側いっぱいに、ぎっしり『小説新潮』を積み、空間を埋めた。なるほど低音が幾分締って、聴きよいように思えた。マニアというものは、藁をも掴むおもいで、こういう場合、音のよくなるのを願う。われわれはほんのちょっとでも音質が変れば、すなわち良くなったと信じるのである。  いろいろレコードを鳴らして試した。やっぱり雑然と、ボリュームだけはやたらにでかいが、音色に統一のない、音楽美というもののまるで感じられぬ音である。タンノイがやはり悪いのかとおもい、いやそんなはずはないと思い、そこで思いついてタンノイを壁の嵌め込みから外し、中音用のバッフルを付けただけで、ホーンの奥の方へ立ててみた。すなわちタンノイの後方からジム・ランシング二個の低音が出てくるようにした。——こうすると、がぜんまた、音がよくなったように思えた。中音部が即製のホーン・システムになったわけである。フルトヴェングラーの『ワルキューレ』を鳴らすと、あの劈頭の凄い低弦音の合奏が二メートル平方の開口部から、風洞より風を送り出すように、すさまじい迫力で溢れてくる。あほうな話だが、わたくしは嬉しくて涙が出た。フォルテで音のわれぬ抜けきる爽やかさを初めて聴いたからである。次にトスカニーニの、ヴェルディの『レクィエム』を鳴らした。「怒りの日」の爆発するごとき合唱。ついぞ、これも従前に聴いたことのない大迫力である。黛敏郎氏やら、吉川英治氏の依頼で次男英明クンにわが家の音をきかせ悦に入っていたのはこの頃である。  しかし、オケはいいが、ヴァイオリン・ソナタや弦楽四重奏曲はも一つよろしくない。カークパトリックのバッハのパルティータがS氏邸のタンノイの足もとにも及ばない。ランドフスカのピアノによるモーツァルトの『ロンド』——あの神品とも称すべき名演奏がよろしくない。わたくしはフランクのヴァイオリン・ソナタが好きで、『エンプレス』では古いフランチェスカッティとカサドジュのこの盤を、いつも必ず聴いた。同じ盤がわが家ではきくに耐えぬ鳴り方をする。このころも相変らずS氏邸でレコードを聴かせてもらっていたが、きく度に、わが家のシステムへの疑念ははれなかった。  またまたわたくしは高城氏に不満を訴えた。つねに高城氏の回答は快刀乱麻を断つ概あり、つねに高城氏はタンノイを冷評なさる。「中音部もね、国産ですけど磁力のつよい素晴らしいのができているんです。ジュラルミン振動の、本格式ホーン・システムのもので、タンノイとは比べものになりません、それに代えてみましょう」  なるほど、旬日を経て届けられたのは長さ二メートル近くもあろうという、長いラッパのついたホーン・スピーカーだった。発振部の口径はインク壜の口ぐらい、それが開口部で約一メートル平方ある。開口部は特製のキャビネットに繋がっているから、タツノオトシゴを塑像に仕立て、その尻尾をガバと一メートル幅で開口させたようなものだ。ついにわが家のスピーカー・システムから、タンノイは完全に追放されたのである。この音を、詳述するに今はしのびない。高城先生を譏《そし》っては申訳ない。わたくしがまだ不満なのを口にすると、高城氏は、こんどは、ジム・ランシングのウーファーがよろしくない、「今では国産で特別につくらせたもっといいのがありますから、それに代えて——」もうたくさんだ。  たまたま、わたくしの連載小説が好評で、お礼に望みのものを差上げたいと出版社の申し出を受けた。わたくしはワーフデールの英国製(衝立式)砂函のエンクロージアがほしい、と言った。これまでにも、すじの通った再生装置を持つ人があると聞けばわたくしは出掛けていって聴かせてもらった。ステントリアン、シーメンス、アコースティックのコーナー・リボン、アルテック・ランシング、エレクトロボイス……ずいぶん聴いている。その中で最も音の印象のよかったのは、キャビネットごと英国から取り寄せたワーフデールの製品だった。当時二十五万円ほどしたかと思う。これに、リークのポイント・ワンのアンプを添えて出版社は贈呈してくれた。大感激であった。ところが、輸入業者の手違いで、リークのメイン・アンプだけが届き、プリ・アンプは一便船おくれて着くという。待っていられるものではない。さっそく高城さんにプリだけを作ってもらって、これにメインを接続して鳴らした。当時のわたくしたちシロウトは、カートリッジやスピーカーは音質に影響するがアンプは国産でもなんら音に違いはない、と教えられてきた。高城氏製作のプリで聴いたワーフデールのエンクロージア(三ウエイ)は、さすがに音の調和がよく、ことに低音の延びていること驚くばかりである。高音域も鮮明で、同じトウィーターであるのにわが家のとは別製品としか思えない。わたくしはシュタルケルのバッハの無伴奏ソナタを鳴らしたが、このレコードは大概の装置でも目の前でチェロが演奏されるような生ま生ましさできこえる。しかも断然、その迫真力が際立っている。こればかりはS氏邸の音以上とわたくしには思えたのである。  ところで、月余を経て、リークのプリ・アンプが届いた。高城氏製作のものとつけ変えて聴いて、驚嘆した。まるで音のかがやきが違う。アンプばかりは国産もあちら製も変りはないとは、よくもホザいたものである。音の輪郭、つや、張り。リークに比べたら高城さんのは音が鈍く、音立ちわるく、冴えなかった。神様のように思えていた高城氏へ、この時はじめてわたくしは疑念をいだいた。疑うべきはタンノイではなくて、高城氏ではなかったのか、と。  わたくしは、試しに、このエンクロージアをS氏邸に運んだ。当時S氏はタンノイ二個を鳴らしておられた。つくづくS氏は言った。「いい音だ……うちの音より、いい」わたくしにはそうばかりとも言いきれない。エネスコのシューマンのソナタが、やはりタンノイに軍配があがる。もともとわたくしは欲の深い男である。こうなれば、もう一つタンノイを買って、S氏邸と同じにして両者を鳴らし比べようと思った。S氏邸のキャビネットは、この頃、グランドピアノの重量のものから三越の洋家具部特製のに変っていたが、猿真似でわたくしも三越に頼んで造ってもらった。そうして暫く高城さんのシステムと、ワーフデールの衝立式砂函と、三様に鳴らし、比べていた。安岡章太郎や遠藤周作が一日、うちの音をきいて、「五味はツンボだからこんなでかい音鳴らすのか」とタワごとを言ったのはこの時期である。縁なき衆生である。さて、こうしているうちに、世はステレオの時代となった。  今おもえば、タンノイのほんとうの音を聴き出すまでに私は十年余をついやしている。タンノイの音というのがわるいなら、《一つのスピーカーの出す音の美しさ》と言い代えてもよい。  ステレオが一般化したのは、日本ではここ七、八年来のことだろう。わたくしがステレオを最初に聴いたテレフンケンS八型は、一九五七年にドイツのハノーバー工場で造られた。ほぼ十年前になる。つまりタンノイの——英国の——レコードによる音楽鑑賞で何を重視し、美しい音としているか、それを知るのにテレフンケンの当時最高のこの機械を聴くことが、私には必要だったわけである。前にも述べたように、ずいぶんいろいろな部分品の、再生装置の音色をわたくしは聴いてきた。わたくしがHi・Fiにとり憑かれたのは昨日や今日ではない。戦前——まだSP時代に、わたくしは二A三のプッシュでウエスターンのラッパを鳴らし、日本一いい音だろうと随喜した男である。ひと通り、スピーカーやアンプやカートリッジが鳴らし得る音色の限界みたいなものは、わきまえているつもりだった。高城重躬氏のお宅で、どんな音が鳴っていたかを私は知っていた。だからこそ高城さんをハイ・ファイの神様とおもい、指導を仰いできた。  そのわたくしの、再生音の体験の限界を破る音を、テレフンケンS八型は鳴らしたのである。もっとも高城氏は或る座談会で、このS八型は値段の半分の値打もない音だと評しておられた。S八型は日本楽器で百二十万円で買った。そのうち数十万円は装飾家具的なキャビネット代だと、高城さんは言われたわけだ。これも道理である。しかし実際に、数十万円は関税やら取次店の利益分であって、S八型の音質そのものとは無関係だろう。私が買ったのは、あくまで音質であった。そしてたとえ百五十万円しても私は高いとは思わなかったろう。美に値段はつけようがないからであり、高城さんの作って下すったアンプやスピーカー・システムでは絶対、出なかった音の美しさをこのS八型はきかせてくれたのだから仕方がない。ハノーバーのテレフンケン工場で、日本価格の話をしたら彼らは溜息をついていたが、ほんとうは、溜息をつかねばならぬのは日本のオーディオ・メーカーではないのか。わたしたちは音を買う。いい音なら大金を投じる、単純な話だ。値段のわりに、なぞということは、音そのものの美しさとは関係しない。話はかわるが、アンペックスのテープ・レコーダーを購めようとおもい、高城さんに相談したことがあった。高城氏はおっしゃった。たしかにアンペックスはいいでしょうが、一般の家庭できく一一〇〇シリーズ程度のものなら、和製のティアックでもほとんど変りはありません。むしろトラブルの起きたとき、アフターサービスの行き届いているティアックをお購めになっておく方が、今後も何かと便宜でしょうと。「音質は、変りはないですか」と私は念を押した。でも、アンペックスの値段でならヤマハのグランドピアノが買えますよ、と高城さんはおっしゃった。ナマの音がきけるぞという意味だったか。私は高城氏の指示にしたがいティアックのR六〇〇〇を購めた。なるほどいい音である。それまでわたくしの持っていたテレフンケンの“マグネットホーン九七”型よりもメカニズムの点で、操作するにも優れていた。しかし、もう一つ音色が気に入らなかった。そこで改めてアンペックス一一〇〇型を購め、ティアックと聴き較べたのである。このときの悲しみを、日本人であるわれわれ共通のかなしさと今は言うにとどめたい。ティアック社は将来性あるメーカーであり、譏るよりは育てるべきであろう。そうは思っても、現実に、両者を聴き較べ、日本のオーディオ技術の未だしなのを痛感せざるを得なかった。R六〇〇〇が、我が家でまったき浪費となっているこの現実を。世界の、水準のもっとも高いところを相手に、今は業者も技術者も物を言うべきだろうと思う。  さてテレフンケンS八型で、おもにFM放送(モノーラル)の音の美しさに聴き惚れていたが、ステレオ装置としては十分でなかった。ノイマンのカートリッジがついていたが、このノイマンというのがずいぶんカタい音で、歯切れはいいかも知れないが交響曲の高音域など耳を刺すように鳴る。そこで別個にプレイヤーをこしらえ、オルトフォンのカートリッジをつないでみた。音はやわらかくはなったが今度は低音が響きすぎた。FMの音の美しさにとうてい及ばない。しょせんテレフンケンS八型は、電波をきく装置かと思ったくらいである。  そこでリークのステレオ・アンプで今度はタンノイ二個を鳴らしてみた。たしかにステレオでは鳴ったが、これがS八型のFMテープ(モノーラル)の足もとにも及ばない。どちらが立体音かと言いたいくらいだった。リークのアンプは、昨今でこそあまり評判はよくないが、当時は英国を代表するメーカー品でありKT八八の真空管をつかったその音質には定評があった。現にわたくしはワーフデールの衝立式砂函をこのアンプで鳴らして澄んだ音の美しさに驚嘆したのである。同じモノーラルで、そのワーフデールがテレフンケンS八型と聴き較べるとまるで冴えなかった。タンノイ二個をステレオ・アンプで鳴らして及ばなかった。  当時は、ステレオとは言っても欧米で発売されるレコードの大方は、『白鳥の湖』や『展覧会の絵』『コッペリア』『ウインナワルツ』などポピュラーなものが多く、せいぜいがメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』、ドヴォルザーク『チェロ協奏曲』、『四季』、『魔笛』、『メシア』(抜粋)などである。音が左右のスピーカーから出るといった程度の、子供だましのディスクがほとんどである。つまりステレオで聴く必要のあるレコードは皆無といってよかったから、テレフンケンS八型でモノーラルをきいていてなんら不満はなかった。  ところが一九五九年春に、英国デッカが“デコラ”を発売した。英グラモフォン誌でこの広告を見て、わたくしは買わねばなるまいと思った。わたくしは日本楽器に取寄せてくれるように頼んだ。HMVかデッカが、本格的なステレオ装置を売出すなら、音のわるいわけはない。無条件にそういう信頼感をHMVとデッカ(ロンドン・レコード)の音色は与えてくれていたからである。  日本楽器では、しかしなかなか取寄せてくれない。カートリッジやスピーカーだけなら別だが、完成品を輸入するのは当時はむずかしかったらしい。主として、日本に輸入されていたのはドイツ・グルンディッヒの製品だったようにおぼえている。これこそウィスキーグラスなどおさめるガラス戸棚の付いた、家具的ステレオ電蓄である。プレイヤーを見ただけで、あほらしくて聴く気にもなれない。米ジム・ランシングの装置も輸入されていたが、どうしてもアメリカのこの音は、わたくしは好きになれなかった。次第に、聴きたい新盤はステレオになっていたが、こういうわけでわたくしはモノーラル盤の方を求めていた。  三年余がむなしく過ぎた。一九六三年秋にわたくしは渡欧の機会に恵まれた。ヨーロッパの土をふんで、一番にかけつけたのは度々書いたようにテレフンケン工場である。しかしS八型はすでに発売を中止し、これに代る本格的装置は売出していなかった。それでドイツで一番評判のいいといわれたSABAを買った。テープ・レコーダーともで千百ドルだった。プレイヤーはDual、カートリッジはB&Oがついていた。(今はこのSABAの音について書くのも胸クソがわるい。SABAは伊賀上野の友人O君に進呈したが、トラブル続出でO君を嘆かせている。)ロンドンへは、ヨーロッパ旅行の日程の最後に渡った。まっすぐクイーンストン街のデッカ本社を訪ね、応接間に据えられたデコラを見た。ああ金がほしいと思った。この応接間で聴いたDecolaの、カーゾンの弾く『皇帝』のピアノの音の美しさを忘れないだろう。カーゾンごときはピアニストとしてしょせんは二流とわたくしは思っていたが、この音色できけるなら演奏なぞどうでもいいと思ったくらいである。東京のS氏に私は国際電話を掛けた。「ピアノの音がすばらしい、デコラをお購めなさい」と。  デコラは、いわゆるステレオ的な音のひろがりは出さない。むしろモノーラルにちかい鳴り方をする。レンジもけっしてよくのびた音ではない。それでいて、なんという気品のある、バランスのいいナイーヴなしかもエレガントな音だろう。レコードという、限られたプログラムソースからどういう音をひき出せば、もっとも自然に音楽を家庭で鑑賞できるか、それに英国の教養とオーディオ技術が、一つの答を出したのがデコラの音だという気がする。どれほど高忠実度を誇ってみたところでしょせん、ディスクから、カートリッジの針先から大オーケストラのボリュームをひき出せるわけはない。百人ちかい楽団員の演奏の全エネルギーが、二個や三個のスピーカーで出せる道理は初めからないのである。分りきったことだ。それなら、アメリカ的に、見てくれだけの大だんびらを振り回すに似た忠実度を誇示するより、小ぶりではあっても、音色の美しくまとまった、バランスのいい音をきかせるべきだと、英国人は考えたのだろう。英国製アンプにはアメリカ式な大出力ワットのものがない。出力の大きなアンプを小さなボリュームで鳴らすほど、歪の少ないたっぷり余裕のある音がきけるのは分っているが、限度というものを英国人は考えたのではないか。一般家庭で、多分五ワットの音が鳴ったら人は住んでいられないだろう。耳をつんざく凄まじさでせいぜいが三ワットである。どうして百ワットもの出力が必要なのか、英国人はそう思ったに違いない。  さてデッカ本社で、デコラのほかに小型のコンソール型ステレオ電蓄を試聴して、わたくしは日本に帰った。歳の暮にハンブルクを出航したSABAが到着した。SABAへの失望は前にも書いた。S氏のほうはご機嫌だったがわたくしは鬱々とたのしまなかった。一年を我慢したが、S氏にすすめられ、半信半疑でとったのがタンノイのGuy R. Fountain Autographである。このスピーカー・エンクロージアではじめて、英国的教養とアメリカ式レンジの広さの結婚——その調和のまったきステレオ音響というものをわたくしは聴いた。今まで耳にしたタンノイがいかにタンノイの特色を発揮していなかったか、むしろ発揮しないために音をわるくしていたかを痛感した。  何度も、これまで書いていることだがGuy R. Fountain Autographの鳴らす弦のユニゾンの軽やかな、風が吹き抜けるような耳に抵抗感のない緻密な音を、わたくしは他に知らない。ジム・ランシングのパラゴンもアルテック・ランシングA7のエンクロージアも奈良のN氏宅で聴いている。Guy R. Fountain Autographの範を越えぬプレザンスにまさるものをしかし知らない。当初はデッカM〓とオルトフォン、ノイマンで、ついでシュアーV一五で、いまはEMTとエンパイア九九九Eのカートリッジを使っているが、アンプはクワードからマランツへ、目下はジムランのグラフィック・コントローラとマッキントッシュをつかいわけて聴いている。大事なことだが、何時間きいていても好い音というのは耳に疲労感がのこらない。音のかたちが崩れていない。わたくしは、音色の美しさだけでなら、これほどまでにGuy R. Fountain Autographを推賞しないだろう。アルテックやジムランのほうが、時にパンチのきいた冴えた音を出している。しかし、コンサートホールの雰囲気、弦楽四重奏団の合奏者の位置を、奥行をともなってこれほど自然にきかせてくれるエンクロージアを他に知らないから、アメリカでベストセラーといわれるARや今売出しのハートレイより、タンノイは上位のスピーカーだというのである。  もっとも、わが家のスピーカーにも欠点はある。左右のエンクロージアがまったく同じ音質では鳴らない。やや右の音のほうが強い。つまり楽器が前に出て来て鳴る。それから、これも言っておきたいが過日東京都でのオーディオ・フェアで、タンノイのG. R. F.を貿易商社が出品しているのを聴いた。その音のわるいのに驚いた。アンプも拙宅と同じクワードであるのにまるで音にふくらみがなく、広がりも奥行もない、耳の疲れる音だった。会場が広く適度の反響音が伴わぬ為かとも思ったが、キャビネットの大きさの違うせいかとも思われる。仕様書によると、拙宅のはGuy R. Fountain Autograph折返し型ホーンで(Front and rear horn-loaded unit)となっている。大きさは 58〓×43×26〓 インチ、貿易商社の出していたのは単なるG. R. F.で、折返しホーン型ではあるが(Rear horn-loaded)であり、大きさも48×38×29インチ、すべてに幾らか小ぶりになる。しかし公表周波数特性はともに二〇—二万サイクルで、すべてに控え目な英国のことだからこのレンジにうそはあるまい。それがどうしてG. R. F.の音がわるかったのか不思議でならない。もう一つ、同じタンノイ社から、Rectangular G. R. F.というエンクロージアを出している。これは現在銀座の日本楽器にある。が(Single folded horn)で、大きさもかなり小さく17×23〓×42インチ、つまり奥行だけは拙宅のやG. R. F.よりも深い。タンノイの同じホーン型エンクロージアでこれだけ違っている。わたくしの推賞するのは大きな方なのである。低音をたっぷり出すには、折返し型でもこれだけの容積が必要なのかとおもう。といって、一番小さなG. R. F.でもタンノイ社のランカスター級のエンクロージアや英国の他のメーカー品にくらべたら非常に高価だ。一番小さなG. R. F.でもステレオ用に二個で日本楽器で五十八万円だった。  もう一つ、G. R. F.の音のわるかったことに関連するかとも思うので言っておきたい。同じクワードのプリ・アンプをわたくしは三台買った。その一台一台の音がちがう、よかったり悪かったりで、これがクワードだけかとおもっていたら、マランツのソリッドステートのプリもまた、二台を聴き較べると音がちがう。マランツなら真空管のをえらびなさいとよくわたしは言うが、たしかに以前に聴いたアンプではそうだったが、こんど、同じソリッドステートのマランツを聴くと、むしろトランジスターのほうが明らかにレンジがのびており、一長一短で、即断を下せないのに気づいたのだ。アンペックスの一一〇〇型も同様である。我が家で聴き較べたティアックとの場合、悲しみをもってティアックR六〇〇〇の及ばぬのを嘆いたものだ。ところが拙宅のアンペックスに故障が生じ、日本楽器に取替えてもらうと、新しい(といっても同じ一一〇〇シリーズだが)アンペックスの再生音は、低音がこもりすぎ、録音の場合の音質はむしろティアックに劣るように思える。わたくしは目下三台目のアンペックスを頼んでいる、まだ届かないので平均値は出せないでいるが、二台を比較した限りでは、いちがいにティアックを誹れない。それほど二台目のアンペックスの音質は劣るし、最初のはすぐれていた。  オーディオ部品には、カートリッジにせよ、チョーク、真空管にせよ、均一な性能のものを厳密には二つと揃え得ないという。玄人は、これを製品のばらつきといっている。そういうばらつきが、たとえばアンプで再生周波数特性やセパレーションやSN比、プレザンスに微妙な差をもたらし、音質がちがうように聴えるのだろうと思う。ただ、どれほどのばらつきがあっても一流品なら平均値は保っているから信頼するに足るのだろうか。——理論としては、そう思う。しかし実際に、われわれが入手するのはただ一個のマランツでありアンペックスである。わたくしの二台目のアンペックスのように、マランツのソリッドステートよりはナショナル一〇Aに接続したほうが、ピアノの音が華麗にきこえるなら、この両者の比較の上で、マランツよりナショナルが歪がなくて音がいいと言わざるを得まい。もし一台目のアンペックスで比較したのなら、やっぱり、国産は音が散って駄目だ、マランツは素晴らしいと私は言うにきまっている。  わたくしが或るオーディオ部品がいいという場合は、こういうばらつきによる誤差を或る程度考慮の上で言うのである。タンノイのGuy R. Fountain Autographを、家庭できく最もすぐれたスピーカー・エンクロージアだと確信をもってだから言う。十年かかって、ようやくタンノイのほんとうの音を知ったともいう。この十年余の歳月で、わたくしのしてきた回り道は、大なり小なりこの国のハイ・ファイ・マニアが辿ってきた道だろう。S氏がそうだし奈良のN氏もご同様だ。みんな、ずいぶん無駄をしてきた、そしてオーディオ専門家や技術者は、ついぞ無駄になることを教えてはくれなかった。Aが悪いと言えばBになさい、それだけだ。Aを使いきれぬからだとは言ってくれなかった。高城氏にぼろくそに言われたタンノイは二個、スピーカーのままで我が家の納屋にころがっている。高城さんは何を一体知っていらっしゃったのかと思う。Guy R. F. Autographに八十数万円もかけるのは、要らぬことだとおっしゃりたいのか。わたくしは聞きたい。高城さんはコンデンサーマイクで自家でピアノを録音し、生まそのままに再生して聴いていると音楽雑誌に書かれていた。わたくしも家のピアノを録音してみたいと思い、マイクを購入しようとしらべてみた。なんとエレクトロボイスの六四三型マイク(ムービングコイル)は、英国で四百五十ポンドしている。日本に輸入すれば、タンノイ式に関税や業者のマージンを加算すれば九十万円ちかくなる。マイク一個で九十万円。気の遠くなる値段だ。ノイマンのSM二C(コンデンサーマイク)で二百三十八ポンド、SM二三Cで同じく二百四十七ポンド、こんなのがごろごろしている。多分、これらのどれも高城家にはないだろうと思う。こういうものに馬鹿な金はつかわずともナマそのままに収録できるマイクが国産であるなら(高城家のソニーのマイクのように)どうしてソニーばかりを世界は使用しないのですか。しかもこれらのマイクのレスポンスは、エレクトロボイスで三〇から一万サイクル、ノイマンで四〇—一万五千サイクル(プラスマイナス二デシベル)。いったい、ナマそのままなピアノの音——その倍音が、四〇から一万五千サイクルどまりで収録できるものか。しかも高城家ではナマそのままに鳴るとおっしゃる。きいてみたいものだ。マイクばかりではない、かんじんのテープ・レコーダーにしてからが、スチューダーやスカーリー、EMIなどのプロ用を高城家で使われた話をきかない。昔のティアックである。  同じティアックの二トラック・プロ用で、品質の格段に向上したR三一三なら拙宅でも使っているが、このデッキでナマそのままに録音できるとは、私には思えないのだ。高城家のナマとやらをきいてみたいものである。 20 ドイツ・オペラの音  ベルリン・ドイツ・オペラを観た。わたくしのようにレコードでしかほとんどオペラを鑑賞したことのない者には、本格的な舞台装置と、演出と、ソリストによるこうしたステージを観る機会にめぐまれるのは有難い。レコードでオペラを味わうといっても、われわれは英訳の歌詞を読みあげながら聴くので、これでも内容を賞味するには一応コト足りるが、登場人物の所作をともなう舞台を観ながらのほうが、分り易いにきまっている。——ただ、残念ながらこちらは声楽の専門家ではないから、歌われているアリアの内容——その意味は皆目わからない。ストーリーの概略はつかんでいるので、またレコードを聴きながら英訳歌詞をたどった記憶で、今はこういう文句だったな、と思いうかべる程度である。この点はステージの動きは見えずとも、歌詞を丹念になぞることのできるレコードの場合と、分り易さという点でなら一長一短だろう。  それと、十年ほど前だがマンフレット・グルリットの演出、指揮で、日比谷公会堂で『魔笛』を観たことがあった。こんどのベルリン・オペラとはソリストも、舞台装置もおよそ比較にならぬ、貧弱かつ拙悪なもので、この時ほど、ヘタなソリストでのオペラは観るものではないと後悔したことはない。モーツァルトのオペラはとりわけそうである。はじめて観た『魔笛』だったせいもあるが、その後、レコードで聴いても舞台で見た時のヘタな、間の抜けたタミーノやザラストロが眼前に彷彿する。『魔笛』を当分きく気になれなかったものである。  ベルリン・オペラは、さすがにそういうことはなかった。オペラというものが目で見る音楽劇である楽しさを味わった。歌詞の文句が分らないのはやむを得ないが、『椿姫』などは大体、台詞にそれほど重い意味のないオペラだし、やたらと時代がかった歯の浮くような歌詞を繰り返す。なまじ意味のわからぬほうが、アリアを《声唱》として、つまり純粋に音の一部として聴いていられるので気がらくである。ああ恋は神秘的で、気高い宇宙の、全世界の鼓動なのだわ。とか、お泣き、お泣き。可哀そうな人よ、お泣き、お泣き、お泣き。なぞとやられてはフィッシャー〓ディスカウのジェルモンもクソもあったものではない。大メロドラマの陳腐なお涙頂戴もので、ものの五分間も見てはいられまい。  それを救っているのは、音楽なのはあきらかだ。歌詞の意味が分らないで、ストーリーの大すじさえ掴んでいればかえって観ていて楽しいわけである。第二幕第九場のフローラ邸の仮装舞踏会の場面などはことにそうで、ジプシー女の登場する夜会のにぎやかな雰囲気、光景は、通常、上演されることのないトラディショナル・カットを復元したプリッチャード指揮のロンドン盤でも味わえぬ楽しさだった。私は思った、モーツァルトのオペラは、どれほど演出や登場人物に贅を凝らしても彼の音楽の美しさに追っつかない。むしろモーツァルトが音譜で創りあげた唯美の、奔放自在の音楽性、崇高性、感興を、そがれることが多いが、『椿姫』のように適度に通俗的な曲は、せいぜい派手に絢《きらび》やかな衣裳で動きまわってくれるほうが、見て楽しい道理だと。歌劇『椿姫』を通俗的と言いきるのが当らないなら、あのアルフレードという男を、君は尊敬できるか、と問うまでのことである。女のくさったようなあんな青二才の生き方から、今のわれわれはドラマとしてのどんな感動も受けようはないのだから。 『若き恋人たちの悲歌』となると、話はちがう。作曲者ヘンツェ自身の演出・指揮によるこの新しい室内オペラを大そう期待して私は観にいった。第一幕を見おわってあっけにとられ、退屈し、うんざりした。第一幕のあとの休憩の時間、ロビーに出たら石原慎太郎がいた。「おもしろかったか」と聞いたら「あまりおもしろくない」という。そばに黛敏郎がいたので、あなたはおもしろいのかと同じ質問をしたら、くびをふった。これからおもしろくなるのだろうかときくと、「あの程度のものでしょう」という。もう一人、そばに大岡昇平さんがいたので感想をただしたら「ぼくはおもしろかった。いろいろ空想するものがあってね」そんな意味の返事である。すこしヘンツェの深読みではないのかと、私は大岡さんの顔を見なおした。  どうして、このヘンツェの舞台が見ていておもしろいんだろう。わたくしには理解がゆかない。独グラモフォンで、同じフィッシャー〓ディスカウ、キャサリン・ゲイヤー、ドリスコルの出演による『悲歌』の抜粋曲が出ている。指揮者も交響楽団も日本公演のと同じである。このレコードは全曲盤から良いところを抜き出したのではなくて、要領よく、音楽とドラマの全体からレコード一枚分を集めたものだが、まだしもレコードで聴いたほうがおもしろい。それにしても、しょせん、ヘンツェというのは第一流の音楽家ではなく「たしかに才能はあるが、作品の密度の緻密さに欠ける」「まあおびただしいこれまでの作品群に比べれば、《悲歌》は最初の傑作」(エイメルト)程度ではないのか。どうして一人ぐらいは、ヘンツェを軽蔑する批評家が日本にいないのかとおもう。  私は第二幕をあらためて見ながら、なぜこんなにつまらなく感じるのだろうと思った。同じ舞台のための作品にしても、カール・オルフの『月』や『アストゥトゥリ』『賢い女』『アンチゴーネ』のほうがはるかによくできた作品のように思う。もっともわたくしは、ステージでこれらオルフの作品を鑑賞したのではなく、すべてレコードによるのだから、舞台に登場する例えばゲイヤーやドリスコルの下品な姿態を見なくて済むせいかとも自問した。しかし、それだけではなさそうである。  そもそもヘンツェのこの作品で意図したものは、あくまで、オペラとしての歌唱性と舞台効果だという。この舞台効果というのが問題である。例によってドイツ語にうとい私には、歌詞はかいもく分らない。それだけに人物の所作や動き、表情には注意をおこたらなかった。そうして気がついたことは、トニーを演じるドリスコルの体——その体格がもつ品のなさと、ヒルダをやるゲイヤーの声質の卑しさである。教養のない、下品な声というものがある。流行歌手が鼻にかかって歌謡曲をアンあ、あーんと歌うのや、政治家の演説にしばしば声の下品さを感じる。容貌に美醜があるように、からだの動きにも品のない線というものがある。むろんドイツ・オペラに起用された右の二人に、卑しさを感じとったのは私の主観だろう。私だけかも知れぬ。それは分っているが、ではどうして、いやしいものと私は感じるのか。それが不思議でならない。  オペラのあらすじは、今世紀のはじめごろのウィーンの詩人(フィッシャー〓ディスカウ)が主人公で、彼は精神錯乱の女(ゲイヤー)を観察するために山のホテルに来ている。ゲイヤーは四十年前に、新婚早々行方のわからなくなった恋人を待ちつづけている。詩人の周囲には、貴族の老嬢や医者など、彼の芸術を崇拝してやまぬ取巻きがいて、身辺の世話をし、べつに詩人の若い情婦がいる。或る日、山のガイドが、ハンマーホルン氷河で死体が発見された、おそらくこれは四十年前に遭難したゲイヤーの夫だろうと告げる。この悲報をゲイヤーに知らせる役を詩人の情婦が引受ける。彼女の慎重な言葉をさえぎって、ゲイヤーは狂おしげに、あなたはもっと長くこの地にとどまるべきだと忠告する。偶然このシーンを目撃したのが医者の息子の二十代の学生(ドリスコル)で、彼だけは大詩人を盲目的に崇拝することを受けつけぬ人間だが、詩人の情婦に、彼は恋を感じる。ここにおいて狂気は交差し、ゲイヤーは夫を待つことの夢から現実の世界へ引戻され、息子(ドリスコル)は現実を捨てて恋の世界へ陶然と身を投じるのである。  さて情婦も息子を愛するようになった。これを知って周囲の者は別れるように懇願したり、抗議するが、詩人は理性ありげに、むしろ二人を結び合せる。二人は山へ登っていって、遭難する。  この遭難は防げば防ぎ得たのだが、詩人はわざと黙殺した。そして還暦祝賀会で新作の《悲歌》を朗読するが、狂女の幻覚も若い恋人たちの悲劇も、すべては芸術創造の名目のもとに犠牲に供されて当然という、はなはだ陳腐な芸術家の一典型をフィッシャー〓ディスカウは演じる。台本作者W・H・オーデンとチェスター・カールマンによれば、《人間の精神は決断しなくてはならぬ、生活の完成か、または作品の完成かに》というわけだ。——以上がオペラの概略である。もっともこの詩人は、情婦を奪われたときなど、人前では平静をよそおうが独りになると自尊心を傷つけられた屈辱感でカンシャクをおこし、暴れたりする。そういう人間の真実味を、というよりむしろ尊大ぶった詩人の内にある俗物性をえがいていると、私には思えたが、ことわるまでもなく、こういう俗物が実は詩人と呼べるかどうか。つまりフィッシャー〓ディスカウは詩人でもなんでもないので、それを大芸術家のごとく畏敬する貴族婦人や医者が、舞台上で右往左往するのでは、いっそパロディで劇を構成した方がいいのではないかと私には思えた。詩人だという作劇上の約束事だけでは、われわれは詩人を感じるわけにはいかない。せめて、音楽が、詩人らしい何かをえがき出してくれるならまだしも感動を味わい得よう。ドビュッシーの音楽に受けるような。しかるにヘンツェのは、時に打楽器を駆使して大そうモダーンな、むろん調性音楽ではなく無調の、適当に不協和音らしい心理の動揺を示す音をきかせてはくれる。断片的にはこころよい音色もある。しかし肝心の一貫した詩人の内的昂揚といったものがない。その場その場を小器用に処理した散漫な音の印象しかのこらない。これは、私がこういう現代オペラに無縁の徒だからか。果してそうだろうか。  話を戻してドリスコルの体つきだが、まるで無頼の沖仲仕か百姓である。とてもドクターの息子で勉強中の青年とは見えない。人それぞれに芸格というものがあって、日本の歌舞伎でいえば勘平や塩冶《えんや》判官は、二枚目でなければならない。容貌ではなく体つきでそうなのである。鎧《よろい》で泣くという言葉がある。武将がうしろ向きに、かすかに鎧をふるわせるだけで観客は彼が泣いているのを知る。そういう芝居を私が見慣れているから、ソリストたちの体の線に過敏すぎるのかとふと思ったが、ドリスコルのうしろ肩の下品さをこれは擁護することになりそうもない。  念のために、私は調べて知った。ローレン・ドリスコル——アメリカ西部出身、もとカウボーイ。カレッジ、ナイトクラブ、ブロードウェイ、シティ・センター・オペラを経て、サンタ・フェに来、そこでストラビンスキーの『遊蕩児の遍歴』に主役として起用されたのがオペラ界に登場するはじめだという。なるほど、そうかそうか。  どう見ても品のわるいナイトクラブで歌った、下積み時代のおりのようなものが体に沁みついている。顔写真だけを見れば、なかなかハンサムで、リリック・テナーの歌い手らしい風貌だが写真では首から下は写らない。舞台では動かない。  キャサリン・ゲイヤーも、やっぱりロスアンゼルスの生れであった。彼女はドリスコルに比べればまっとうな勉学時代を経ている。それでも音楽を専門に勉強したのは大学生になった頃らしい。フルブライト奨学生としてベルリン音楽大学に留学し、次第に頭角をあらわしたそうだが、声がよくて、音楽的才能があれば芸人にはなれるだろう、しかし醇乎とした本格オペラのタイトル・ロールは歌えない。芸術とは、それぐらいきびしいものだ。  歌舞伎役者は子供の頃から仕込まれる。能楽でも三味線でも同様だろう。今ではそんなのをギルド制度といってしりぞけるそうだが、おかげでフシまわしのうまい魚屋の娘が歌謡界の女王とやらになる。素人のど自慢で鐘を鳴らした出前持が大スターになれる時代になった。結構なはなしだが、どこにも芸術は創られなかった。カウボーイあがりがオペラの舞台をふめるアメリカに似てきているだけの話だ。職業にむろん貴賤はない。ただ芸術は、それを峻別すると私はおもう。  ふとした身のこなしや、発声法で生地の露呈するソリストをヘンツェが平気で起用したからといって、専門家でない私が文句を言えるすじはない。大事な点だが、私は二人がアメリカ人だから誹ったのではない、あまり品がなく卑しいので解説書を見たらアメリカ西部の出身だったといっている。私に区別させたものが、多分は、日常に聴きなれた英国の音の影響だろうかと、思い当った、そういう我が身の体験を告白しているまでである。アメリカを受けつけぬ何かが資質として私のうちにあるらしいが、そういう資質を育てたものと、英国製スピーカーの音色を好む傾向は無縁とは思えない。『悲歌』がフィッシャー〓ディスカウのために書かれたのは有名だし、むしろ名バリトン、フィッシャー〓ディスカウの著名さで、大方に知られている作品だが、フィッシャー〓ディスカウ自身が、これを歌うことでどれだけ向上しただろう。舞台を見れば分るが、フィッシャー〓ディスカウの従来の貫禄だけでもっているオペラである。そういうものを傑作とは、フィッシャー〓ディスカウのためにも言えまい。この夏、ザルツブルク音楽祭で注目を集めた同じヘンツェの最新作オペラ『バッサリーデン』を聴いていないから、大きなことは言えぬわけだが、『悲歌』で、まず未完の大器といわれてきたヘンツェのその未完ぶりだけは、よくわかる。  ついでに、『悲歌』の舞台を観ていて私は思ったのだが、同じ『悲歌』のレコードを聴いたときは、不明にしてドリスコルの沖仲仕みたいな体つきは想像できなかった。舞台を見て、気づいたことである。ヘンツェのオペラを鑑賞する上で、よけいな体つきを知ってしまうのが果してよいのかどうか。もし良くないなら、そもそもオペラをステージで見ることにどれだけ音楽的な味わい深さがあるのか、享受できたはずの感動を、そこなわれる場合の方を、おそれるべきではないのかと。これは、一概に答の出せるものではないと思うが、少なくともモーツァルトのオペラでは、その音楽の美しさには、なまなかな人間の登場する余地はないと、私はおもっている。  もう一つ。耳で感じたことを書いておきたい。公演のあった日生劇場で、その全曲目を私はグランド・サークルで聴いた。俗にいう中二階、ステージを一番見やすい席である。この中二階正面から左右に延びるにつれて、舞台に近くなるわけで、芝居でいえば桟敷だが、もっとも舞台に近い位置は、劇場ことばで出ベソという。ここからはオーケストラ・ピットが見下ろしである。『後宮よりの遁走』を私はこの出ベソで観ていた。そして驚いた。私の席は、舞台に向って左側の突端だったが、オーケストラボックスの右端で叩かれたティンパニーが頭上で鳴るのである。スピーカーがそこに付いていたからである。そのスピーカーの、音のわるさよ。  私たちオーディオ・マニアがオペラを観劇にゆく喜びの一つに、ナマの音を聴くたのしみのあるのは否めない。しかるにレコードより悪い音で聴かされるのはたまらない。  この原因はハッキリしているようだ。だいたい建築設計家は(音響設計の場合)収容人員何百人はどれほどの吸音材に匹敵するか、どのあたりに音がこもるか、そういうことは知っているし配慮をおこたらない。まんべんなく、三階のてっぺんでも音がとおるようには設計する。問題は拡声器に使用されるスピーカーの種類である。天井の(もしくは側面の)どことどこに、どの程度の出力のスピーカーを取りつけよと設計家は指示するにとどまり、あとは音響メーカーが入札で、製品を納入する。スピーカーの取付け、配線装置など、音響設備の一切を落札で決めるのは設計家ではなく、土建業者である。安い値段で入札したメーカーに仕事をまかせるにきまっている。つまり設計家の音響管理は十分かも知れぬが音質管理まではしない。極言すれば、きこえさえすればいいことになる。スピーカーのいかんによって、音の美しさにどれほど大きな差があるかを、もしかすれば設計家は、われわれオーディオ・マニアほどには気づいていないのかも知れない。とにかく、かくて大劇場に納められるスピーカーはタチのよくないものになる場合が生ずる。  日生劇場の場内スピーカーは、きけばM社のものだそうである。むろんメーカー品である。私の悲しいのはこの点だ。何も、シーメンスやタンノイを取付けよとは言わない。P社でもN社のでもいいが、そのいずれもが音色の美しさで外国製品に、どうしてもかなわないのを憾《うら》む。音にうるさいのは、オーディオ・マニア、音キチだけだと一般にまだ思われているが、実はそうではなくて、劇場で鑑賞する芸術全般に影響するのを、大方は気づいていない、その無知を嘆くのである。それは、劇場ではナマが演奏され、スピーカーのボリュームは極力しぼられているはずだから、ほとんどナマそのままにきこえるだろう。だが聴く位置によっては、実に不快な音をきかねばならぬ。聴衆の一人でもが、そういう不快な質のわるいスピーカー音をきかされることに平気でいられる劇場支配人、建築家、演奏家がいる間は、まだまだ日本の音楽水準は低級と言わねばならない。無念なはなしである。 21 大阪のバイロイト祭り  大阪のバイロイト・フェスティバルを聴きに行く十日ほど前、朝日のY君に頼んであった調律師が拙宅のベーゼンドルファーを調律に来てくれた。この人は日本でも有数の調律師で、来日するピアニストのリサイタルには、しばしば各地の演奏会場に同行を命ぜられている人である。K氏という。  K氏はよもやま話のあと、調律にかかる前にうちのピアノをポン、ポンと単音で三度ばかり敲《たた》いて、いけませんね、と言う。どういけないのか、音程が狂っているんですかと聞いたら、そうではなく、大へん失礼な言い方だが「ヤマハの人に調律させられてますね」と言われた。  その通りだ。しかし、我が家のはベーゼンドルファーであってヤマハ・ピアノではない。紛れもなくベーゼンドルファーの音で鳴っている。それでもヤマハの音がするのか、それがお分りになるのか? 私は驚いて問い返した。一体どう違うのかと。  K氏は、私のようにズケズケものを言う人ではないから、あいまいに笑って答えられなかったが、とにかく、うちのピアノがヤマハの調律師に一度いじられているのだけは、ポンと敲いて看破された。音とはそういうものらしい。  大阪のワグナー・フェスティバルのオケはN響がひく。右の伝でゆくと、奏者のすべてがストラディバリウスやガルネリを奏してもそれは譜のメロディをなぞるだけで、バイロイトの音はしないだろう。むろんちっとも差支えはないので、バイロイトの音ならクナッパーツブッシュのふった『パージファル』で知っているし、ベームの指揮した『トリスタンとイゾルデ』でも、多少フィリップスとグラモフォンの録音ディレクターによる、音の捕え方の違いはあってもまさしく、バイロイト祝祭劇場の音を響かせていた。トリスタンやワルキューレは、レコードでもう何十度聴いているかしれない。その音楽から味わえる格別な感銘がもし別にあるとすれば、それはウィーラント・ワグナーの演出で肉声を聴けること、ステージに作曲者ワグナーの意図したスケールと色彩を楽しめることだろう。そうして確かにそういうスケールがもたらすに違いない感動を期待し、何カ月も前から大阪へ出掛けるのを私は楽しみにしていた。この点、モーツァルトのオペラとは違う。モーツァルトの純音楽的な美しさは、余りにそれは美しすぎてしばしば登場人物(ステージの)によって裏切られている。ワグナー論をここに述べるつもりは今の私にはないし、大阪フェスティバルへ行くときにもなかった。ワグナーの音楽は私なりにもう分ったつもりでいる。舞台を観たからって、それが変るわけはない。そんな曖昧なレコードの聴き方を私はしていない。これは私に限るまい。強いていえば、いちどステージで観ておけば、以後、レコードを聴くときに一そう理解がゆくだろう、つまりあくまでレコードを楽しむ前提に、ウィーラント・ワグナーの演出を見ておきたかった。もう一つ、大阪フェスティバル・ホールでもバイロイトのようにオーケストラ・ボックスを改造して、低くさげてあるそうだが、そうすれば音はどんな工合に変るのか、それも耳で確かめたかった。  ピアノの調律がおわってK氏が帰ったあと(念のため言っておくと、調律というのは一日で済むものかと思ったらK氏は四日間通われた。ベーゼンドルファーの音にもどすのに、この努力は当然のように思う。くるった音色を——音程ではない——元へ戻すには新しい音をつくり出すほどの苦心がいるだろう)私は大へん満足して、やっぱり違うものだと女房に言ったら、あなたと同じですね、と言う。以前、ヤマハが調律して帰ったあとに、私は、十歳の娘がひいている音を聞いて、きたなくなったと言ったそうである。「ヤマハの音にしよった」と。自分で忘れているから世話はないが、そう言われて思い出した。四度の不協和音を敲いたときに、音がちがう。ヤマハに限るまい、日本の音は——その調律は——不協和音に、どこやら馴染み合う響きがある。腰が弱く、やさしすぎる。  ベーゼンドルファーはそうではなかった。和音は余韻の消え残るまで実に美しいが、不協和音では、ぜったい音と音は妥協しない。その反撥のつよさには一本一本、芯がとおっていた。不協和音とは本来そうあるべきものだろう。さもなくて不協が——つまりは和音が——われわれに感動を与えるわけがない。そういう不協和音の聴きわけ方を私はバルトークに教えられたが、音を人間にかえてもさして違いはあるまいと思う。  大阪フェスティバルのワグナーの音楽は、印象を言えばひとことで済む。N響はよくひいた。しかし、メロディは流したがワグナーの音楽はついに鳴らしきらなかった。『トリスタンとイゾルデ』と『ワルキューレ』を比較すれば、その精彩において『ワルキューレ』は数段劣る。これは、イゾルデを演じたニルソンに比肩する声が、『ワルキューレ』では聴かれなかったこと、総じて出演者が『トリスタン』にくらべ『ワルキューレ』のは小粒だったことにもよるが、音楽そのものの成熟・完成度において後者はしょせん『リング』の一部にとどまるからだろう。ニルソンのイゾルデはしかし、ふんだんにレコードで聴いている。ステージで観る楽しさなら『ワルキューレ』にあるはずだと思っていた。それが、ワグナーの楽劇においてさえ、その音楽性はあらゆるワグナー的なものに優先しているのを知った。さほど演出を必要とせぬ『イゾルデの愛の死』が、トネリコの巨木を見せる第一幕や、ワルキューレの騎行で知られるあの第三幕の火炎のシーンより感動的だったとは。なんのためにステージを観に来たかということになる。こんどのワグナー祭に私は切符を四枚用意した。二度ずつ見るつもりで。二度も観に行ったのはプライベートな事情のためだが、そうときまればあとの方はもう適度に目をつぶり、そのうち居眠りし、好きな場面になればおのずと目覚めて、かなりリラックスな気分でステージの推移を眺めた。実のところこの方が愉しかったし、いろいろなことを考えた。  いままで、私は音楽を聴くのにその作曲家の声をきいてきた。ピアノ曲であれオーケストラであれ、楽器を通してかなたからきこえてくるのは作曲者の声である。案外、初期の作品の頃から死ぬまでこの声は変っていない。モーツァルトがいい例だが、フォーレも、ブラームスもマーラーもシベリウスも、みな終始、同じ声でうたいつづけて死んだ。進歩というようなものは、極言すればなかったと思えるくらい、同じ声しか出さずに死んでいる。わずかにベートーヴェンは違うらしいが、じつのところ私にはまだ本当にベートーヴェンは分らない。十五歳の頃にきいた彼のシンフォニーを四十五を過ぎて聴いて感じるおもしろさは、人の推賞する後期の弦楽四重奏曲のそれと、さほど違うようには思えないし、私は耳が遠くなってから、よくベートーヴェンを聴いていて耳を削ぎ落したあのゴッホの自画像を思い出す。ゴッホの狂気は、どこかでベートーヴェンと会話していたのではなかったのか。私はベートーヴェンが好きだ。ゴッホはかなしいだけだ。私ならいのちを取られても耳は護りたい。これは私にしか分るまい。  ワグナーは、ベートーヴェンを酵素にしてうまくふくらませた美味なパンのようなところがある。無限旋律とか、第二幕第二場で、半音階的旋律はいつ途絶えるともないイゾルデとトリスタンの愛の恍惚を描き分けてゆく、その手法の素晴らしさとか、専門家はうまいこと説明してくれる。しかしべつに知らなくとも曲の理解をさまたげはすまい。音楽が鳴ればいい。そして舞台いっぱいに鳴り響いているのはワグナーの声である。英雄と、英雄を愛した気丈な乙女を見てやってくれ、ワグナーはそう言っている。ここにいるのはドイツ民族を象徴する英雄と、その愛を死によってあがなおうとした一人の乙女だ、そう言っている。英雄はワグナーに他ならないし、その愛をイゾルデは死であがなったがワグナーを愛するものは音楽であがなわれるだろう、ワグネリアンとは、つまりは音楽に贖われる人々の謂だ。彼は舞台一杯に、イゾルデを歌わせ、マルケ王を立たせ、結局はそう言いたかったのだと私は思った。ウィーラント・ワグナーの極度に照明を暗くした演出は、そんなワグナーの声だけを響かせるためのように私には思えてならない。歌われているのはそしてチュートンのものだ、ゲルマンの歌を歌いたかった偉大な一音楽家の声だ。この声に、背後でしずかにユニゾンをきかせているのがベートーヴェンのような気が私はする。双頭の鷲ではないのかと思う。  楽劇としての『トリスタンとイゾルデ』を語ることはかんたんだろう。ここでえがかれているのは、戦争やその悲劇のドラマではなく、トリスタンとイゾルデの内面的世界である。その台詞の大部分は愛の言葉であり、音楽もまたはなはだ官能的な愛欲そのものを表現しようとしているらしい。中世の詩人シュトラースブルクの作にワグナーは題材を借りているが、ステージを眺めていると、何か、シェークスピアの原作にワグナーが曲づけをしたような気が私はした。こればかりは、ステージを観るまで思いもつかぬことだった。イゾルデもトリスタンのも、舞台の動きはどこかそして大へん謡曲のそれに似ている。お能舞台を鑑賞する趣きがある。第一幕第五場で、トリスタンを呼んだのに無視されたイゾルデが、水夫たちにまであざけられて大へんプライドを傷つけられるところは、ニルソンのあの、誇り高げで一見、高慢そうな素顔にピッタリで、イゾルデではなくてビルギット・ニルソンという現代の女性も、内心の愛を訴えられず傷つけられたら多分、あんなふうだろうと思った。  そういう、演じている彼女のキャラクターがイゾルデに溶け込んでいるのは、彼女の輝くばかりな声量とともに、当代無比のイゾルデ歌手であることを納得させる。舞台を見ている方が、その迫真力もありドラマティックだ。しかし、やがてトリスタンが彼女のそばへ来て、自分は彼女の許婚者の仇なのだから殺せと言い、イゾルデはマルケ王の股肱《ここう》の臣であることにかこつけて殺せないと言い、愛を伏線にした小ぜり合いのあと、トリスタンがイゾルデの手から、毒杯を奪って両手で、唇にあてて飲む。このときのウィントガッセンはそれが毒杯であることを明らかに態度であらわしていた。ここらは大へんドラマとして表現の微妙なところだ。「ためらわず飲んでやるぞ」と言って飲むのだから、このためらわずは死を覚悟の意味だろうが、それを、「この期に及んでまだ私を欺すつもり? 半分は私のよ、卑怯者。あなたのために飲むわ」イゾルデはそう鋭く歌って、杯を奪い取り、飲み乾す。この楽劇で最も気迫の激しいシーンだが、多分死ぬかも知れぬ寸前まで、愛するトリスタンを「卑怯者」呼ばわりする彼女の誇り高さは、四度の不協和音のあの激しさを私に想起させた。しかしこれが毒薬ではなくて、愛の媚薬だった——と、ここを書くとき、台本作者ワグナーはドラマとしての盛上がりの効果よりは、むしろ、照れ臭さを感じたろう。ものを書く人間の知っているこれは羞恥心だ。そこで、ティンパニーのトレモロをワグナーは入れる、このトレモロにのってはじめて、木管がイゾルデの「トリスタンへの愛の苦しみ」の旋律を奏する。ところがなんと、舞台からこのトレモロが響いて来ない。唖然《あぜん》とした。二度目の『トリスタン』を観たとき、自分がツンボだからだと思い、息をこらして、ここで補聴器をかけた。我ながら涙が出た。私はこういうワグナーの大切な羞恥心を、補聴器の厄介にならねば聴きとれないのだ。補聴器は、ボリュームさえあげればいくらでも大きな音を出す。だが、二度目も、羞恥心のトレモロではなかった。耳のいい人なら最初の舞台でもきこえたろう。たしかに鳴っていた。だが羞恥心で鳴るトレモロではなかった。ワグナーはそんな男ではない、君らの敲き方は違うぞ。私は大声で叫びたかった。何を一体演奏しようというのだ。フルトヴェングラーの『トリスタンとイゾルデ』を君らは聴いたのか? あのクナッパーツブッシュの響かせているワグナーと、ショルティやラインスドルフの鳴らす音の違いを、一度でも、君らは聴き分けたことがあるのか? フルトヴェングラーのは、ニルソンのイゾルデではない。録音もモノーラルでかなり古い。しかし、舞台で聴くような(ショルティ盤のような)無神経なトレモロではなかった。羞恥のティンパニーがあってはじめて、死を予感した極度の興奮と緊張の中に凝視し合う二人の目は、互いを求め合い、あわてて伏目になるのではないのか。そこで『あこがれの動機』が木管で奏せられ、二人は抱擁できるのではないのか。  けっきょく、指揮者がわるいのである。ピエール・ブーレーズは、しょせんはフランス人で、N響同様大へんよくやってはいたがワグナーを響かせてはいなかったと思う。かんじんな所では、だからことごとくニルソンの声量に圧倒され、音はかすんでいた。 『ワルキューレ』となるとさらにひどい。「嵐のように」低弦音のスタッカートで鳴り出す前奏曲は、ワグナー楽劇のプレリュードの中で最高傑作と私は思っている。どうしてこれをもっと人は褒《ほ》めないのか不思議だが、N響は、予想したよりうまくひいてくれた。ただボリュームが足りなかった。ここのところは、レコードを聴けばよく分るのだが、低音のレンジのせまい蓄音機ほど低弦音がうなる。だんごになってうなるからすさまじくはきこえる。しかしスタッカートのボーイングがひき出す切れ味は、はるかに爽やかで躍動している。ボリュームをあげてもうなったりはしない。さすがに、N響のはナマだから、つまりレンジは延びきっており耳に快かった。ボリューム不足と感じたのは、だから弦音の芯の弱さに由来したかとおもう。が、まだここまではよかったのである。がっかりさせられたのはジークムントのジェス・トーマスだ。こんな軽薄な、英雄らしくないジークムントは想像もできなかった。  だいたいジェス・トーマスは『ローエングリン』でタイトル・ロールを演じたが、これは白鳥の騎士という、同じ神話によるオペラでも童話的要素がつよいものなので、雄々しさはなくとも聴けた。『ワルキューレ』はそうはいかない。ジェス・トーマスのテナーは、咽喉《の ど》だけでころがしている声だ。マイクの前ならこういう歌い方も「美声」にきこえるだろうが、ニルソンのイゾルデを聴いたあとでは、浅薄で、ブロードウェイのミュージカル・ショーでも見ているみたいだった。ジークムントは英雄なのである。アルベーリヒの呪いにうち勝つように、ウォータンが地上に生ませた英雄だ。声量ではない、ドイツ民族の性格と、伝統を音楽で聴かせてくれねばならない。ジェス・トーマスはバイロイトにしばしば出演している。クナッパーツブッシュの指揮でパージファルを歌っている。ドイツ人以外の、ワグナー歌手の最初のアメリカ人だといわれているらしいが、どうしてこんな歌手がバイロイトで人気があるのか不思議で仕方がない。多分、バイロイトにやって来る、なんの取柄もない「初日《プルミエ》めあての野次馬」——アメリカ人観光客に人気があるのだろう。つまらないといえば、もう一人、フリッカを歌うグレース・ホッフマンの唱法も気に食わなかった。ワグナーの音楽になっていない。水と油である。妙だぞと思ったら、このメツォ・ソプラノもアメリカ育ちだ。芸術はこわいと思う。  ニルソンはまた、当代一のブリュンヒルデ歌いである。せっかく来日しているのに、どうしてブリュンヒルデをやらないのだろうとあやしんだが、なるほど、こんなジークムントやフリッカを相手では歌う気になれまい。大阪ワグナー祭で、『ワルキューレ』第二幕がもっとも退屈だった。第二幕は、ウォータンの正妻フリッカが、不義な「あつかましい兄妹」ジークムントとジークリンデを罰することをウォータンに要求する。とやかくウォータンは言いのがれようとするが結局妻の正論に負かされてしまう、この問答が約三十分つづく。テオ・アーダムのウォータンも小粒だから、一そうこの三十分は退屈である。ようやくフリッカは姿を消してくれる。やれやれとおもっていたら、第三場、第四場で軽薄才子のジークムントがジークリンデを抱擁してあらわれ、興奮する彼女をなだめ、やがて「わたしをごらんなさい、あなたは死ぬのよジークムント」と姿を現わしたブリュンヒルデとの問答になる。すでにジークリンデは身籠っており、自分が死ぬ運命にあるなら、ジークリンデをここで刺してしまうと彼は剣をふりかざす。本来、退屈なわけはないのだ。レコードで聴いてみるといい、美の動機、剣の動機、運命の動機、死の予告の動機……それらが弱音でステージの底を流れ、英雄の死の悲劇を伏線している。それをジェス・トーマスはわれわれにあくびを出させ、居眠りさせるために歌う。舞台が極度に暗くなるせいもあるが、暗い舞台で動くのがゲルマン人の神話的英雄ではなく、ショーマンならどうしようもないではないか。  第三幕になって、フリッカやジークムントがいなくなるとはじめて『ワルキューレ』は精彩を取戻す。アニア・シリャのブリュンヒルデはなかなか可憐で、英雄ジークフリートをまだ愛する以前なのだから、清潔な乙女でありすぎても悪くはない。ジークリンデを助けたことを父ウォータンに責められ、「お父さまが愛したものをわたしも愛したのです、お心に願っていらしたことを、代ってしたのがそんなに悪いでしょうか」と訴えるところなどレコードで聴くニルソンとは別な、乙女らしい一途さがあった。結局ウォータンも娘の可憐さ(アニア・シリャの場合は《いくさ乙女《ワルキユーレ》》の激しさではなくて、その可憐さで父親を感動させたと見える)にほだされ、彼女の眠っているまわりを火でかこみ、勇気ある者だけが近づくことのできるようにしてやる。この辺の「お前は愛の力に従って、しあわせをおぼえた、こんどは愛さなければならぬ男に従うがいい」とウォータンが諭すあたり、それはウォータンではなくてワグナー自身が愛娘に語りかけているように私には見えた。ステージに登場したのは神々の司ウォータンだが、しゃべっているのは正しくワグナーである。ワグナーの父性愛である。ニルソンのブリュンヒルデではこれは神の国の話だったが、アニア・シリャの舞台を見て、娘をいとしむ父親ワグナーのドラマだと私は納得した。  このブリュンヒルデにながい接吻をあたえて彼女の目をとざし、眠る娘を岩に横たえてから、ウォータンは、ワルキューレの大きな鉄盾で彼女の身をまもってやる。一人の父親の姿だ。ここで奏される運命の動機は、火の神ローゲを呼び炎々たる炎の中に、娘をのこして歩み去る終末へかけて、ワグナー音楽の圧巻だが、ステージでは炎は大きな輪になって燃え広がる。その炎の輪の中に、ぼうと浮びあがってくるワグナーの貌《かお》が私には見えた。モーツァルトのオペラのどれにもモーツァルトの顔は浮んでこない。ワグナーは炎の輪の中にいる。火炎にまもられているのは娘ではなくワグナー自身だ。わが槍を恐れる者はこの火を越えるな、そうワグナーが叫んでいた。その声に私はこらえきれず、涙があふれた。私は、彼の楽劇を聴きたいためどんなに蓄音機をいじって来たか。私は間違っていなかったと思う。すべての音を、私は聴きもらさなかったように思う。レコードでである。 22 ペンデレツキの『ルカ受難曲』  ポーランドの若い作曲家で、ちかごろ有名なK・ペンデレツキの『聖ルカ伝による主イエス・キリストの受難と死』を、拙宅へ来訪される外人の何人かにつづけて聴いてもらう機会があった。フランス人M・ミゲル、スペインのS・R・パンチョ、スイスのロイエンバーガー博士、それに晃華学園校長マザー・メリ・ローラの諸氏である。  このうち、ロイエンバーガー博士は目下国際基督教大学に客員講師として来日中とかで、博士はカール・バルトの弟子ということだったから、レコードを聴いたあとはバルトの弁証法神学がわれわれの話題になった。  ことわるまでもなく、私は基督教徒ではない。日本のジャーナリズムでマゲ物作家とよばれる私が、バルトの弟子と神学について語るなどといっても、日本では通用しないだろうし、私にどれだけバルトが理解できているかも疑問である。第一、バルトの主著"Die Kirchliche Dogmatik"(教会的教義学)や"Credo"(我信ず)を原書で読んだわけではない。せいぜい、日本の神学者諸氏の紹介文や翻訳を、それも二十代後半にむさぼり読んだ程度だ。私の二十代後半といえば終戦後まもなくだった。弁証法神学に限っては、バルトの抄訳しかなかった。  ただ、幸いなことに、今では私はこの国の多少は知られた小説家の一人にかぞえられる。私を紹介する人は、「日本の有名な作家だ」と言う。そんな私が——きまって「日本の歴史にのっとった作品を書く」と紹介されるが——神学《テオロギー》に関心を示し、文壇に認められた処女作に「神を喪う」人物をとり上げ、個人としては、かなりなレコードを持つ音楽愛好者だ——と聞けば、私を訪ねた異国の人たちの私に対する印象は、文壇におけるそれと、かなり変るのはやむを得まい。むしろ、神について日本の作家はほとんど語ることがない、ということの方が、ロ博士には異様に思えたろう。——その点ミゲル氏は(彼自身もクリスチャンではあるが)拙宅のステレオ装置への関心で来訪されたので、日本人の神を論じる必要もなく気は楽だった。パンチョ氏も同様である。スペインのどこかのオーケストラ(名前は失念した)のコントラバス奏者だったこの人がいちばん、前衛音楽家ペンデレツキへの批判を口にしていたが、ともかく、レコードをこちらは掛けていればよかった。マザー・メリ・ローラの場合は少し事情はちがうが、何にせよそうした人たちの来訪で、私ひとりなら当分二度と聴く気にはなるまいと思える『ルカ受難曲』を、繰り返し聴きなおす機会をもった。そのことで、幾つかの疑問——主として宗教音楽を鑑賞する上での——に思い当ったので、それを書いてみたい。  ポーランドの前衛音楽に関して、最初に私が聴いたと言えるのはウィットルド・ルトスワウスキーの、何か夢のような印象ののこる合唱曲——『アンリ・ミショーの三つの詩』と、『弦楽四重奏曲』であった。これらはヨーロッパの現代音楽祭で初演され以後ひろく国際的に知られたそうだか、正直のところ、『弦楽四重奏曲』は近頃のカラヤンの指揮のように極端に音が大きくなったり小さくなったりで、おもしろくなかった。  どういう閲歴の人か知らぬが、コトニスキーという作曲家のピアノと打楽器の作品をわけ分らずに聴き終った記憶もある。つまりポーランドの前衛音楽には、(あえてポーランドに限らぬが)私は縁なき聴衆というべきだろう。  そんな私に、ペンデレツキの『ルカ受難曲』をぜひきくようにすすめられたのはマザー・メリ・ローラであった。昨年夏頃だったとおもう。彼女は英紙の切抜き(『ルカ受難曲』の音楽評)を私に示し、感動的な口調で、英会話にうとい私に時に苛立つようにカタコトの日本語をまじえ、『ルカ』の解説をして下さった。西独ケルン市のミュンスター大寺院七百年記念祝典に初演され、ヴァーベル城の中庭でのポーランド初演には、一万五千人の聴衆を集めて大反響をおこしたというこの曲の解説なら、今ではレコードを取寄せた人は付属《アクセサリ》のパンフレットで読むことができる。ペンデレツキ自身が、語尾をエコーのように長く余韻をもたせる唱法やら、オーケストラのクラスター(集団群音)、シュプレッヒコール的騒音、無声音、人声、を駆使してこのユニークな前衛音楽(同時にカトリックの典礼音楽でもある)を、アウシュビッツの悲劇的犠牲への哀悼にしていることも、解説を読めば分る。  私はここで、ペンデレツキ論をするつもりはない。その資格もあるまい。また彼の意図した所が、どの程度、音楽としてわれわれを搏《う》つかは、これはもう各人の前衛音楽への感受性と、理解に俟つことだ。たしかにペンデレツキは、今日のポーランドを代表する作曲家であり、まだ三十五歳であり、かつて五十二の弦楽器のため『ヒロシマの犠牲への哀歌』を書いた、彼自身熱烈なカトリック信者として、可愛い一人の息子(ナザレのイエス)が磔になる十字架の下に立った聖母マリアの嘆きを、マリアの側で作曲しためずらしい音楽家であることも閲歴をしらべれば分ることだし、それが『ルカ』の理解に役立つのも確かだろう。——が、私の逢着した疑念は、ペンデレツキの音楽に限らない、およそ神観念をもたぬわれわれ日本人にどの程度、宗教音楽への真の理解がゆくだろうか、ということだった。  マザー・メリ・ローラは、拙宅でレコード鑑賞のあとの手紙で、「あなたに私はお詫びしなければなりません。ペンデレツキについて、誤ってお話したように思うのです。ご親切にも録音していただいたPassionのテープを聴いておりますと、この作品には、第二義的な、まったく聖書的事柄とは関係のない部分が含まれていることが分りました。ことにPopule meusの部分(五味注。混声合唱が十字架を背負い、ゴルゴタの丘へ向うイエスを、暗く、重い管楽器のひびきにつれて歌っている部分。)がそうです。  これは聖金曜日の祈祷書の有名な部分ですけど、厳粛なこの部分をペンデレツキはまったく二義的な粉飾で扱っているように思われるのです。そんな曲を、私は熱狂的な言葉をもってあなたにご紹介したのですから、すくわれません。いちどPopule meusの本物《オリジナル》をきいて下さい。バッハやペンデレツキの後では、グレゴリオ聖歌は確かに単純ですし、多分に退屈なものでしょうが、私のような者にとっては、それ故にかえって好ましく思えるのです」と書いて来られた。そんなマザーが『ルカ受難曲』で、ペンデレツキを一個所褒められたのを聞いて、私は息をのんだのだ。 『ルカ伝福音書』第二十二章後半に、イエスが大司祭の家に捕えられ、イエスを非難する人々がまわりに集まった中に、使徒ペテロもいるのを、女中が見て「彼もイエスの仲間です」と指さすと、「知らぬ」とペテロが否《いな》む有名な場面がある。鶏の鳴くまでに、ついに三度ペテロはイエスを否み、それを後悔して泣くのだが、同じ場面はバッハの『マタイ受難曲』にもえがかれている。バッハはペテロを「まるで上品な紳士のように歌わせた」とマザーはわらう。本当のペテロは粗野で頑健な男だ。イエスに従い、イエスを否むこのころのペテロは漁師でなければならない。「バッハは間違った」と、だからマザーは言うのだが、ところがペンデレツキのペテロは、なんとも荒々しい声で登場する。これはもうリアリズムで片付く問題ではない。バッハの『マタイ』は、ペテロをワルター・ベリイにうたわせるクレンペラー盤と、同じベリイがイエスで登場するオイゲン・ヨッフム盤があり、マザーはそのどちらも拙宅で聴いた。レコードとしては、いつもながらテンポののろい、体質的に私などにはその勿体ぶった重厚さの我慢ならないクレンペラー盤が、この『マタイ』に限っては、かえって崇高感の横溢した“偉大なバッハ”を聴かせてくれる。ベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』と共に《勿体ぶり屋クレンペラー》の数尠ない名指揮の一に挙げられるだろう。それでも、ヨッフム盤を一度でも聴いてしまえば現代感覚では、クレンペラーはもう過去形でしか語れない。まるまるレコード一枚分、クレンペラーの方がテンポがのろく、しかもバッハ音楽の神性の流露でヨッフムに劣る。マザーもこれに同意見である。ただ、前《さき》のペテロの登場に限っては、ヨッフムのペテロはクレンペラーのそれよりさらに弱々しい。醇朴だが気の荒い漁師ではなく、まるでインテリの声だ。ことわるまでもないが、ナザレの大工の息子を支持したのはインテリでなかった。知識階級には、蔑みの眼で見られた人たちだった。いつの時代にも神の子はインテリに嘲られ、付和雷同する民衆には石もて追われ、最底辺の極貧の人々にのみ慕われる。ペテロをインテリにしたのでは当時のイエズス・キリストの悲劇は分らない。この点、ペンデレツキは正しかった。  もう一つ、これはペンデレツキの誤りをマザーは指摘する。第一部第五曲——ユダが接吻でイエスを売る例の場面で、「お前は人の子を裏切るのか?」とイエスはユダに言う。ここをペンデレツキはイエスに声を大にして叫ばせるが、バッハの『マタイ』ではむしろユダを憐れむように、「友よ、何をしに来た?」  むろんイエスはユダが自分を裏切るのを知っており、過越《すぎこし》の食事〓最後の晩餐〓のときすでにそのことを口にした。今さら、汝は裏切るのか? でもないだろう。ユダを咎めるイエスの声に、ユダへの非難や怒りの呻きがあろうわけはない、とマザー・メリ・ローラは言う。 「きっとイエズス様は、低いお声で、たしなめるようにユダをお叱りになったはずです」と。  私はその通りと思った。ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』で、ふたりが愛を告白し合う場面がある(第四幕第二場)。ペレアスがメリザンドを抱き寄せ、「あなたはぼくが城を出てゆくわけを知らないでしょう。なぜ出て行くか、そのわけは……」と突然メリザンドに接吻しながら"je t'aime"と言う。これに答えてメリザンドも"je t'aime aussi"と言う。劇的にも昂揚した激しいこの愛の場面で、だが"je t'aime"(あなたを愛する)という台詞《せりふ》はほとんど聴きとれない。どれほどステレオのボリュームをあげても聴きとれぬ小さな、秘めやかな愬えである。告白するというよりは、溜息にちかいが、恋をした者のこれこそは本当の姿だろう。指揮者アンセルメが演出したのか、スコアにそう明記されてあるのか、私には分らないが、戦前に青春をもつ私たちにはペレアスのこの含羞は、痛いほど、分る。  しかしクシシトフ・ペンデレツキはちがう。終戦のとき彼はまだ十二歳だった。戦後の風潮として愛はもう、未婚の青年にとって声をひそめて語るものではなくなったのだ。  むろんそれが、《裏切ったユダ》をなじるイエスの声を大にさせた直接の理由にはならないかも知れないが、尠なくとも衆人環視の中で裏切り者を譏るほど、イエスは無神経ではなかったろう、そっとユダだけにきこえるようにたしなめる哀《かな》しさを持つ男だったろう。四十男の私はそう思う。バッハの『マタイ』はこのイエスをユダの背信を神へ嘆きかけ、あわれみを乞う声で歌わせている。ペンデレツキは怒りで歌わせる。私はマザーの不満を正しいとおもう。  ——が、じつは、そんなことはどうでもいいのだ。白状すれば私はバッハの『マタイ受難曲』を幾度感動して聴いたか知れないが、ついぞ、ユダへのイエスの思い遣りに心をとめたことはない。私が『マタイ』に感動するのは主としてコラールと合唱の部分である。アリアは概して退屈である。福音史家のレチタティーヴォのあとにアリアばかり続くなら到底、三時間を越すこの大曲について行けないだろう。バッハの『ロ短調ミサ』は、第三部は私にはもう退屈だ。(『ロ短調』のよさは「キリエ」と「グローリア」までだと思っている。)『ヨハネ受難曲』にも似たことが言える。その点『マタイ』は、第三曲——無実の罪を負うイエスをいたむコラールから、終末合唱まで、感動にいきをひそめて、私は聴く。幾度この曲にわたしは涙を流したろう。ゴルゴタで十字架にかけられたイエス。汝もし神の子なら己れを救えと学者長老に嘲られ、同じ十字架につけられた強盗たちにさえ罵られながら、「我は神の子なり」と叫び、ついに三時ごろになって“エリ・エリ・ラマ・サバクタニ”とイエスは叫ぶ。神よなんぞ我を見捨て給う……学生時代、ここを新約聖書に読んで感嘆した無名の文学青年は、どこへ行ったのか。神のことばを売れもせぬ原稿に書いたあの詩人はもう私の中で喪われたのか。私は、通俗作家か?……イエスよ。あなたは人を轢いたことがありますか?……私は自分にむかって涙を流した。ベートーヴェンの後期クヮルテットにも、ヘンデルの『メシア』やオネゲルの『ダビデ王』を聴いても私は哭くが、それは女を愛し、人を裏切り人をあやめた悔いを癒やそうとつとめた日々が、合唱の中に甦るからだ。そんなふうにしか私は音楽を聴かなかったし、そういうことで音楽を理解したと思ってきた。はなはだ手前勝手な、或る種の倫理感と結びつけてしか曲の是非を私は考えない人間であった。  テオドル・ロイエンバーガー博士との場合さらに事情ははっきりする。弁証法神学ともなれば専門の熟語がふんだんに飛び出す。私のは和訳されたことばである。博士のはドイツ訛りのつよい英語である。私は、辞書を片手に話さねばならない。マザーに通訳してもらわねばならない。そういうもどかしさと障害を通しての会話だから、多分にこちらの独断や誤解があったかも知れないが、博士は、アウシュビッツへの実感を抜きにしてペンデレツキの音楽は語れないと言う。 「ポーランド人は苦難には慣れています」と博士は言った。「あたかも圧制と圧制のほんのわずかな隙に、喜びを見出すのに慣れたように。しかし、かつて味わったことのない最も恐ろしい苦難を彼らに与えたのは、ドイツ人です。ポーランド人にとって、ドイツがなした暴虐の記憶はまだ生々しい。そんなドイツの依頼で、ポーランド人ペンデレツキは作曲しているのです。このことは『ルカ』を理解する上に重要なはずです。  たいていのポーランド人は、キリストの拷問と殉死を信じている。彼らは眼前で打たれたり、処刑された同胞を見ています。キリスト受難はポーランド人には他所《よ そ》ごとではなかった。それがあの《スターバト・マーテル》(注。聖母の嘆きの側で作られた作品)をペンデレツキに作らせたとも言えるでしょう。しかも、アウシュビッツの悲惨は儼然たる事実でした。ペンデレツキはこの事実を超克しなければならない。単なるヒューマニティで『ルカ』が作曲されるわけはないのです」  つまりポーランド人の血の部分だけ、かえって第二義的にならざるを得なかったと博士は言いたいのか。この辺、私の質問はうまく訳されなかったらしく、博士はさらにアウシュビッツの悲劇に言及する。  一人のすぐれたドイツ系ユダヤ人で哲学者でもあったエーディット・シュタイン(Edith Stein)——彼女の偉大さに関する挿話と、その無残な死について。ポーランドの牧師M. Kolbeの自殺について、現存する老詩人——AgnonとNelly Sachsの受難について。  このうちエーディット・シュタインの説明をすれば、彼女は日本ではほとんどまだ知られていないが、カトリック教徒の間で「二十世紀のもっとも秀でた女性の一人」と賛えられた婦人である。はじめは哲学研究にすぐれた才能を示し、現象学の大家フッサールの助手となった。それからカトリックの思想——とくに聖トマス・アクイナスの著作に親しんで、三十一歳のとき洗礼をうけ、ついでカルメル会修道院に入った。彼女は、聖トマスの『真理に関する論題』をわかりやすいドイツ語に翻訳したが、その哲学的主著『有限の存在と無限の存在』は、近代哲学とカトリックの伝統的思想体系との対決を試みたものだという。  アウシュビッツで処刑された彼女の最期の消息は、詳しくは分らない。二十世紀のもっともすぐれた女性が、この報道機関の発達した時代に、どうして死んだかも分らぬとは、ナチスの暴虐を目のあたりせぬわれわれには信じられないほどだが、事実である。彼女の伝記は、エリザベート・カーヴァの『十字架に祝された者』(ヴェリタス書院刊)にくわしいが、ユダヤ人であるというだけで、修道院にいてさえどんなに彼女たちが迫害をこうむったかを同著は記している。彼女ははじめケルンの修道院にいた。ユダヤ人であることは伏せられていた。しかし、そのことがナチスに知れ、他の修道女の迷惑になってはと彼女は外国の修道院へ移転できるように修院長に頼む。一度はその必要を認めなかった修院長も、一九三八年十一月、ナチスがユダヤ教会堂を焼きはらい、ユダヤ人及びその仲間の住家を略奪するのも見て、彼女をオランダの修道院(リンブルク州エヒト)に移らせた。  だがここもナチスにおびやかされる。第二次大戦勃発後九カ月目に、ドイツ軍は不法にも中立国オランダを占領し、オランダに住むユダヤ人への迫害を加え出したのである。彼女はそこで、こんどはハ・パキエにあるスイス唯一のカルメル会修道院に入れてもらうことができるかどうかを照会してもらいたいと、上長者の許可を得て依頼した。間もなく入会の承諾が、スイス政府および教会当局から得られたが、この時じつは彼女の姉ローザも一緒に伴いたいと彼女は願った。しかしスイスの修道院では外人修道女を一人しか受け入れることができなかった。姉をオランダに残して、自分だけの安全を彼女がはかれるわけはない。彼女は姉ローザのスイス移住を、フランスの第三会員の上長者に依頼する。その間に多くの無駄な時間がついやされ、ついにゲシュタポの目にとまってしまう。そのときの模様を『十字架に祝された者』はこんなふうに述べている。「姉とともに秘密警察《ゲシユタポ》の事務所へ入っていったとき、ベネディクタの童貞(エーディット・シュタインの洗礼名)は『イエズス・キリストに賛美せられ給え』というカトリック信者としての挨拶の言葉を使った。ナチスたちの事務室ではかつて聞かれなかったこの挨拶を、役人たちは故意の挑戦と受取った。そこで彼らは二人の姉妹を非常に手あらく扱い、公衆の前にユダヤ人の素性をあらわす黄色い星をつけるように強制した」  このあとは、お定まりのナチスによる逮捕、強制送還——収容所送りである。カルメル会修道院では、あらゆる手がかりを尽して彼女の安全と、消息を知ろうとはかるが、分らない。分ってるのは最後まで修道服を身につけていたいと望んだ彼女も、収容所での《検診》を名目に裸体にされ、兵士たちの前を走らされたろうこと、そして確かにアウシュビッツで殺されていることである。「かつてスペイン内乱のとき、多くのカルメル会修道女たちが虐殺された。これらの人々は公然と殉教したが、今世紀の最もすぐれた一人の女性は、まったく人知れず、キリストのための証《あか》しを血をもって印したのだ」とカーヴァは書いている。  私は、ペンデレツキに関係ないことを引用しすぎたかもしれない。あきらかに、E・シュタインにとって重要なのは(他のカトリック信者にも)彼女がどんな虐殺を今はうけたかではなく、その死をイエス・キリストの受難にどう結びつけ、昇華させ得たかだろう。肝心なこのことを抜きにしては、信仰は語れまい。同じようにペンデレツキの『ルカ』も語れないのではあるまいか、そんな気が私はした。  博士はまた、いまドイツで、詩人としての評価は彼(または彼女)がアウシュビッツにどう対処するかできめられている、と言い、さらに「神は死んだ」といった神学者Paul Van Burenの話を、マザーとこもごも語ってくれた。「バレンはバーセル大学を創立以来かつてない優秀な成績で卒業し、真に天才でした。その頭脳の明晰さに、心ある世界の人たちが、彼こそは現代を救うために遣わされたと、期待しました。そうです、彼は牧師になったのです。でも、戦争で、亡くなりました」牧師Kolbeも同様だという。アウシュビッツで、かつての仲間の苦悩者たちに向けられた死を、彼もえらび、自殺した。すぐれた詩人で、亡命しつつ生きているのはアグノンとネリー・サッシぐらいだと。この二人は、前年のノーベル文学賞候補に挙げられたと。  私は日本人だから、ノーベル文学賞といえば——川端康成、三島由紀夫氏らを連想するが、このすぐれた日本人も、しょせんは井の中の蛙ではないか。全世界の人々に、救世主として待ち望まれる文業を本当に想定できるだろうか。日本でいうエリートとは、せいぜい東大出である。神を有たなくても彼自身痛痒は感じないし、ジャーナリズムもそんなことは気がつかない。そういう国に、私はいる。まぎれもなく私はそんな日本人の一人だ。大学はかつて神学を講義する場として建てられた。およそ神を抜きにした思想など西洋にあり得ない。神観念をもたぬ哲学はない。音楽も同様だろう。日本人だけが、神をほったらかしてヘーゲルを論じマルクスを語る。バッハやベートーヴェンを聴いている。断じて私もそんな一人だった。博士やマザーと、あのミゲル氏とペンデレツキを聴いた時でさえ、どんなに自分が狭義な音楽鑑賞しかできていないかを痛感した。  といって、日本人である私に、受肉者イエス・キリストの意義に目覚めよと今さら言われても無理だ。アウシュビッツの惨状をユダヤ人のように(ポーランド人のように)知れと言うのは無理である。ましてこの惨状でイエスを懐うのは。神を信じるという人間の決断が生じるのは、それを生来せしめる神の客観的行為であり、そうした神の行為—啓示—は聖霊の働きかけによる、聖霊の働きかけを待つ状態をのみ信仰とよぶ。つまり信仰とは持つものではなく、待つことである——バルトの弁証法神学で私のおぼえているのはこれくらいだ。これなら分るからだ。そしてこれは親鸞の『教行信証』に似ているとおもう。私は博士やマザーとの話で、シュライエルマッヘルのこと、ピオ十世のパスケンディ・ドミニ・グレキス(十憲章)のこと、ブルンナーとバルトの有名な論争に話題が移り、じつはこちらが分らず話が行き詰ると、親鸞のこの他力信仰を持出した。さらに念仏宗の説明をした。すると博士の口から、急にニヒリズムや、カフカやカミュの名がとび出してきた。まさか博士にこんな言葉をきこうとは思わなかったが(さらに意外だったのは、ベートーヴェンのニヒリズムを博士が指摘したことである)しかしどうにか、これなら私見をのべられる。私はボソボソ勝手なことを言い、通訳のマザーを困らせたらしい。私はまた美について問うた。究極のところ、われわれ日本人が音楽を味わうのは、美の享受にあずかるからではないか、と思っているからだ。私にペンデレツキはおもしろくない。迫害者のドイツ人やそれを赦すポーランド人のようには感動しない。どうしようもあるまい。同じドイツの作曲家で、牧師シュネーベルの作品『アムヌ』(A・M・N)を聴き、ベルギー人リゲティの作品など聴くと、どうして、ペンデレツキばかりが騒がれるのか分らない。『アムヌ』はアラビア語、ギリシャ語、ドイツ語など七つの声部が神の言葉を語り、時々ワッと叫び声を挙げる。それだけである。しかし『ルカ受難曲』と本質でどれほど差違があるのか。マザーは、第二義的だと言われたが、じつのところ私におもしろいのは第二義的部分だった。一義的なものはもうバッハが創ってしまっている、と私には思えた。私が聴いたハルモニア・ムンディ盤の解説によれば、ポーランドの司教たちは、画期的声明ともいうべき、一通の手紙をドイツの司教に宛てて送った、それには「我々は容赦することを認め、汝らを許す」と書かれていたという。その手紙の宛名に書かれた一人の司教の大伽藍で、『ルカ受難曲』は初演され、手紙を送った司教の一人は初演に立会ったという。たしかに劇的な立会いであろうが、それが、『ルカ』の反響を高めたのなら私にはつまらない。第一、同じ神に仕える人がどうして一方の司教を「許す」などと言えるのか。キリスト教に国境があったのか? それなら日本人のわれわれがこの曲に一向感動しないのは当り前すぎはしないか。  恐らく、そうではないのだろう。われわれが(または私が)神を知らなさすぎるからだろう、とは思う。思うだけである。在ベルリンの吉田秀和氏は、過日この曲のベルリン初演を聴いて「公衆の憑かれたような感動と終ってからの拍手は、現代音楽としては、かつてどこでも経験したことのない熱狂的なものだった」と『ドイツ通信』(読売新聞)に書かれている。  ドイツ人が熱狂したのはもう分っている。だが本当に音楽として、この曲は素晴らしいのか。私は問うてみたい。私はペンデレツキを聴いた人——ほかの日本人に、たずねたい。 「あなたはこの作品に、感動できるか?」 23 日本のベートーヴェン 1  音楽とは、あくまで耳に聴くもので、頭の中で考えるものではない——ことにベートーヴェンにおいてそうだとフルトヴェングラーは言っている。ぼくたちの青年時代、いわゆる“名曲喫茶”には、いつも腕を組み、あるいは頭髪を掻きむしり、晦渋な表情でまるで思想上の大問題に直面でもしたように、瞑目して、ひたすらレコードに聴き耽る学生がいた。きまってそんなとき鳴っているのはベートーヴェンだった。今のようにリクエストなどという気の利いたことは思いも寄らなかったから、彼はいつまでも、一杯のコーヒーで自分の好きな曲のはじまるのを待つのだ。念願かなって例えばニ長調のヴァイオリン協奏曲が鳴り出せば、もう、冒頭のあのpのティンパニーをきいただけで、作品六一の全曲は彼の内面に溢れる。ベートーヴェンのすべてがきこえる。彼はもう自分の記憶の旋律をたどれば足りたし、とりわけ愛好する楽節に来れば顔をクシャクシャにして感激すればよかった。そんな青年が、戦前の日本のレコード喫茶には、どこにでも見られた。たしかに彼は耳ではなくて頭脳でベートーヴェンをきいている。大方は苦学生だったと思う。  ——当時、自宅に蓄音機を所有し、竹針をけずって好きなとき好きな曲を鑑賞できたのは限られた学生だったろう。大部分のレコード愛好家が、いちどはこうした“名曲喫茶”に自分の姿を見出した。ここには紛れもなく戦前の、日本の学生生活——その青春の一つの典型があったとおもう。彼はコーヒーのためではなく、明らかにベートーヴェンのために乏しい財布から金を工面したのだ。あっけらかんと音楽をたのしめていたわけではない。郷里の親もとの経済状態を懐い、下宿代の滞ったのをなんとか延ばす口実を考えねばならなかったし、質屋の利息のこともある、買いたい本もある。今様に言えばアルバイトのあてはなく、しかも、小遣いもほしかった。そんな時に、突如としてベートーヴェンは鳴る。しらべは彼の苦悩にしみとおる。どうして、それはラモーやハイドンやドビュッシーではなくて、必ずといっていいほどベートーヴェンだったのか?  私は、こうした音楽を愛した学生——苦学青年の心を、ベートーヴェンがゆさぶったのは、当時日本の中産階級の、一般的な生活水準に一つの理由があったとおもう。若者の時代に、ベートーヴェンの第五交響曲『運命』を通るか、モーツァルトのト短調シンフォニーを知るかはその人の育った環境に拠るところ大と、今でも思っている。貧乏人ほど、より『運命』に共感しやすい素地があるのではないのかと。もしそうなら、子弟の教育を何よりも重視した当時の日本人の父母が(多くは地方の小地主か俸給生活者・中小商工業者だった)わが子のためにみずからは倹約して月々の仕送りをしてくれた、そういう環境下でぼくたちはほとんどが学生生活をもった。とてもヨーロッパの貴族や、富豪の息子たちのように、姉妹の弾くピアノをかたわらにし、自家用車を駆って湖畔の別荘や城に休暇をすごす青春などは、望むべくもなかったし、そんな友人もいなかった。満足にレコードすら買えなかった。他の何にもまして、だからベートーヴェンに惹かれる素地はあったといえる。貧しいのだから、耳だけで楽しんではいられなかったのである。——これが日本人のもっとも普通なベートーヴェンの聴き方だろうと私は思っていた。  ところが、そういう必要のない、つまりレコードによるまでもなく、音楽など日常ふんだんに聴けるヨーロッパで、しかも指揮者フルトヴェングラーが、ベートーヴェンは頭で聴く音楽ではないという。頭で聴きすぎる連中が、つまりヨーロッパにもいるわけになる。フルトヴェングラーがこれを言ったとき、じつはベートーヴェン自身のことを指していた。ベートーヴェンにとって、音楽は耳が聴くものであり、頭の中で作り出せるものではなかったと。考えれば、これは残酷な話ではないか。ベートーヴェンは聾だったのである。  むろんフルトヴェングラーがこう言ったとき、彼はベートーヴェンの作曲法を論じているので、ヨーロッパにも日本人と同様、貧しくて碌に音楽もきけぬ学生のいることなど、念頭にはなかったろう。いずれはこの、フルトヴェングラーが指摘する、《耳で聴かれるようにしかベートーヴェンは音楽を考えなかった》問題に触れるにしても、もう少し、今は日本人一般のベートーヴェンの聴き方を考えてみたい——  一九四九年以来、日本でも、戦後ふたたびレコードがプレスされ国内盤として発売されるようになってから、同一曲でその数の最も多く売出されたのはベートーヴェンの交響曲第五番である。その数五十六組に及ぶそうである。これらはすべて現在、国立国会図書館に保存されているのを知っている人は尠ないようだが、図書館の蔵書と同じで、もちろん借り出すことができるし試聴室の設備もある。しかし滅多に聴きにくる人はいませんと係員は嗤っていた。知られていないためだろうが、中には、B面が変っただけのや、同一オケと指揮者の再発売ものが含まれているにせよ、いかに日本人が『運命』を好きかはこの数を見ても分る。  アメリカのシュワンのカタログで、もっとも多量にレコードの出ているのはベートーヴェンの『序曲集』である。一九六八年四月現在、それは三十四枚ある。シュワンのカタログは廃盤になったものは次々削除されるから、国立国会図書館のように一九四九年以降のすべてというわけではない。それにしても、モーツァルトの『序曲集』なら話は分るが、周知のようにベートーヴェンのオペラは『フィデリオ』しかないのだ。  ベートーヴェンは、一八〇一年頃にはもう耳がきこえなくなって、「聴覚が次第に弱くなってきた……昼も夜も(耳鳴りが)ぶんぶん鳴りどおしです」と医師ヴェーゲラー宛に書き送り、「つんぼのこの状態を分ってもらうために一つの例を挙げます。劇場で、ぼくは演技者たちの言葉を聴きとるためには、オーケストラのすぐそばにいなければならないのです。少しでも遠ざかると、肉声はおろか、楽器の高い調子さえ聴えなくなってしまう」と嘆いている。「耳がきこえないために、どんなに人間は独善家たらざるを得ないか」を、おのれに省みて、痛いほど私は知っているつもりだが、ベートーヴェンがオペラを作らなかったのは一つにはこの難聴に理由がありそうだ。なんにせよ、そんなベートーヴェンの『序曲集』をアメリカ人はもっとも多く発売している。『フィデリオ』には、たしかに『レオノーレ』第三番などが含まれ、他に『コリオラン』も短いものだし、レコード会社がレコードの余白に挿入するには好都合だろう。今時の人は、一枚のディスクに、一曲でも多く録音されていれば得《とく》をしたようにおもうらしいから(どんな下らぬ曲・演奏でも!)いかにもプラグマチズム好みなアメリカ的経営法とはいえるだろう。それにしても、では、どうしてモーツァルトの序曲をそうしないのか?(同じシュワンのカタログで、モーツァルトの序曲のどれかの入ったレコードは二十枚ある。)やっぱり、アメリカでも、大衆に人気のあるのは、モーツァルトよりベートーヴェンという名前だからといってしまえばミもフタもない。ベートーヴェンに他のどんな音楽家にもまして、大衆の心をつよく捕えるもののあるのは事実だろう。こればかりは、日本もアメリカも渝《かわ》るまい。純粋に音楽として鑑賞するなら、ベートーヴェンの述懐を待つまでもなくモーツァルトは素晴らしい。「どんなときでも私はモーツァルトのもっとも熱心な賛嘆者の一人であった。死ぬまでそうだろうと念う」とベートーヴェンは言う。(一八二六年—僧シュタットラーに。)それほどのモーツァルトが、ではどうして、ぼくらの若い頃、ベートーヴェンほどの共感をよばなかったのだろう。アメリカの話ではなく、戦前の、われわれの青春時代にかえりみて、それを貧乏のせいに私はしたのだが、むろん貧乏ということをベートーヴェンにむすびつけるだけでは彼の音楽をじつは何も聴いたことにならないぐらいは、分っている。しかし、貧しいというあの切なさを抜きにして、当時ぼくらはどれだけベートーヴェンを聴き得たろうか。第一、ベートーヴェンのどんな曲をぼくらは聴かしてもらえたのか。  レナーやカペーの演奏する弦楽四重奏曲や、シュナーベルのピアノ曲全集を家庭で聴けた人は仕合せである。コルトー、ティボー、カザルスの『大公トリオ』をまるで神品のように、世紀の名盤のようにレコード批評家が解説しているのを本屋で立読みしても、ぼくらはすぐには聴けなかった。やっぱり、名曲喫茶で鳴っているのはしばしば『田園交響曲』であり『皇帝』であり、『英雄』だったから。ピアノ・ソナタといえば、第二楽章で鍵盤を敲きこわすようなパデレフスキーの『月光』が主だった。(白状するが、ギーゼキングのピアノではじめてハ長調(作品一五)のピアノ協奏曲第一番を聴いたとき、てっきり、モーツァルトかと思ったのを憶えている。)フルトヴェングラーとトスカニーニの『運命』、ワルターの『田園』、メンゲルベルクのこれはベートーヴェンではないが『悲愴』、ワインガルトナーの『英雄』と『第九』……これらが昭和十五、六年頃の名曲喫茶で、もっとも一般的な交響曲のレパートリーだった。『未完成』と『ジュピター』をこれに加えれば、ほぼあの頃の学生が喫茶室で楽しんだシンフォニーはおわるだろう。ブラームスを私はあまり聴いたおぼえがない。『未完成』以外にシューベルトのシンフォニーを知らない。百いくつの多量なハイドンのものでさえ、時折り耳にできたのは一〇〇番以降の交響曲であった。  ベートーヴェンに話を戻すと、彼がしばしば恋をしたことをぼくらは知っている。とりわけテレーゼ・フォン・ブルンスヴィックとのことを。ベートーヴェンは彼女と婚約し、その歓喜のさなかに突如『第五交響曲』の作曲を中止して、一気呵成に『第四交響曲』を書いた。「幸福が彼の前に現われかけていた」からだ。ロマン・ローランはその辺を説明してくれる。 「一八〇六年の五月に、彼はテレーゼ・フォン・ブルンスヴィックと婚約したのである。テレーゼはずっと以前から彼を愛していた。ベートーヴェンは彼女のピアノの先生だった。二人の間には愛情が深まり、幸福なこれらの日々の想い出を彼女自身でこう書き残している。 〈ある日曜日の夕方、食後に、月の光の中でベートーヴェンはピアノに向って坐りました。手を鍵盤の上に、平たく置きました。フランツ(テレーゼの兄)と私は、それがベートーヴェンの習慣であることをもう知っていました。彼は、弾き始めるときいつもそうするのです。そうして、低音の幾つかの和音を敲きました。その後で、ゆっくりと、深い荘重な調子で彼はJ・S・バッハの一つの歌を弾いてくれたのです……《おんみの心をわれに与えんとならば、先ずひめやかに与えよかし。われら互《かた》みに持てる想いを、何人《なんぴと》もさとらぬぞよき》……私の母と牧師さまは居眠りをしていました。兄は重々しく前方を見つめていて、私はベートーヴェンの歌と眼ざしに心をつらぬかれ、いのちの豊かに湧き上る思いがしました。——翌朝、わたくし達は庭園で出会いましたが、その時ベートーヴェンは言ったのです。「ぼくは今歌劇《オペラ》を書いています。主役の人物の姿が心に泛んで、どこへ行ってもどこに居ても、それがありありと見えるのです。今ほど、心が高められたことはありません。一切が光です。清浄です。明るさです」……わたくしは、親身に愛していた兄フランツの即座な同意を受けて、ベートーヴェンと婚約したのは、一八〇六年の五月でした〉」(片山敏彦氏訳より)  同じ年に『第四交響曲』は書かれたのである。彼の一生の中で最も静穏な、これらの日々の薫りが『第四交響曲』には漂っているとロマン・ローランは言う。だが、そんなベートーヴェンの重大な作品を、彼を熱愛した日本の青年の何人が、当時きいていただろうか? この頃のベートーヴェンは、陽気さに満ち溢れ、溌剌として嬉しげで、才気煥発、社交界でも慇懃であり、面倒くさい連中にも気長に応対をした。服装にも「凝っていた」そうだ。つまり「獅子が恋をしたのだ」とロマン・ローランは言うが、そんな恋の幸福感は一八一〇年までつづく、いや、彼女以外の女性がぼくの心を占めることは「絶対に、絶対に、絶対にあり得ない」ベートーヴェンにそう言わせ、そんな《不滅の恋人》テレーゼに作品七八のピアノ・ソナタを彼は捧げる。くどいようだが、あの頃のぼくたちの誰がこの『告別』の前に作られたソナタ——作品七八を聴いていたろう?  昭和十五、六年といえば、岩波文庫で片山敏彦氏の名訳によるロマン・ローランの『ベートーヴェンの生涯』はもう発行されていた。忘れもしない、私がこの文庫本を買ったのは昭和十三年の暮である。むさぼるように私は愛読した。旧制中学五年生だった。つまり「大好きなベートーヴェン」をその作品の大部を聴く前に、私は書物で知りすぎてしまった。耳ではなく、頭脳で聴かざるを得なかった由縁だとおもう。私だけではなかったとおもう。  あらかじめ、曲にまつわる逸話やら、何年ごろどうして作曲されたかなどと、よく、ラジオの番組でくどくど解説されるのは私は嫌いだ。レコード・ジャケットの解説などもよほどでなくば読もうとは思わない。第一、碌なことは書かれていない。予備知識なしに、いきなりレコードを聴く方がわかり易いし、興趣もふかいように今では思われる。これは、ほしければ自由にレコードの購入できる今の境涯にもよるだろう。昔のように小遣い銭を節約して買ったものは、解説のすみずみまで目を通したいのが人情だ。私は、ベートーヴェンが好きであった。ベートーヴェンのことならなんでも知りたいと思い、しかも肝心の音楽そのものを聴く機会は限られていた。そんな不満をベートーヴェンの伝記や、生い立ちや手記を読むことで癒やしたのだ。  あの頃のベートーヴェン愛好家のすべてが、そうだったとは思わないが、はじめて、日本で『第九交響曲』の全曲レコードが聴けたとき、それの入手できたとき、どんなに人々が興奮し、感激したかを古老たちは語っている。日本という国は、レコードによるしか名曲や名演を日常には味わえない。そういう国に私たちは青年時代をすごした。モーツァルトの『魔笛』の全曲SPが戦前、どれぐらいの嵩《かさ》と重さだったかを老人の思い出に聞いた人はいると思う。ヘンデルの『救世主』を、野村あらえびす氏が令息の臨終に聴かせたいために、どれほど腐心されたかを私は聞かされたことがあった。ベートーヴェンのものに限らないが、とりわけベートーヴェンの作品に、こうした渇望のつよかったこと、そういう渇望を他のどんな音楽家よりも彼は抱かせる芸術家だったことが、一そう、この国に頭脳ばかりで聴くマニアを育てたと言えるだろう。貧しいのは個人ではなくて、音楽に接する機会が乏しいという意味で、日本全体がそうだった。それが、作品そのものよりベートーヴェンへの知識をぼくたちの周囲に氾濫させた。結果、ベートーヴェンはもう分ったと人は言う。かつて熱烈な愛好家ほど「げっぷが出る」という。そうか? げっぷが出るのは知識のほうではないのか。それも上っ面《つら》の浅薄な。  ベートーヴェンの音楽を真に理解するために、もう、ぼくたちは彼にまつわる伝説や知識のこうした過剰を、払拭するところから出直す必要があるようにおもう。さいわい今では、日本人のわれわれも彼の全作品を聴く恩恵に浴することができる。音楽は、一切の知識、一切の哲学よりさらに高い啓示であり、自分の音楽をきいた人はあらゆる悲惨さから脱却してくれるだろうと、ベートーヴェンは言った。彼自身、しばしばたしかに貧窮に苦しめられ、難聴に泣いた。「耳さえこんなでなかったら」地球の半分を旅することもできたのにと、彼は言い、耳がきこえないためにぼくは厭人家と見なされるよう振舞う他にはしようがなかったのです、本当は少しも人間嫌いではないのにと、友人に愬える。ベートーヴェンはあらゆる苦難を超人的ともおもえる強さで克服した人だ。これは確かだ。  しかしそういうことが彼の音楽を、たとえば『運命』のあのフォルテッシモ——指揮者フルトヴェングラーに言わせれば「それは近代のオーケストラの途方もない爆発力をさえ、色あせさせるほど強大でなければならない」——そんなffを書かせた理由には、じつは少しもなっていないことを見きわめねばならないと私はおもう。ゲーテを辟易させたベートーヴェンの不覊尊大ぶりをぼくらは知っているが、そのベートーヴェンが別のところでは「ぼくを独りだけにしないでくれ」と友人に縋っている。『第九』が初演され、大変な感激を聴衆に捲き起したとき、感動のあまり気絶したのは誰でもないベートーヴェンだった。愛する者を喪ったある母親のそばで、何も言わず黙ってピアノを弾いて慰めたベートーヴェン……「パンを稼ぐために作曲するのはつらい」と言い、靴の底に穴があいていたため外出も意のごとくならなかった極貧の日のベートーヴェンを、ぼくらは片山敏彦氏の名訳で知っている。やさしさと、倨傲と、耳疾……そういうことからしかし、一切きりはなしたベートーヴェンの音楽そのものを、もう一度、初期の『トリオ』(作品三)あたりから聴き直してベートーヴェンを考えてゆきたいと思うのだ。  けっしてベートーヴェン論を説こうというのではないし、私にそんな資格があるわけもない。作品論ならワグナーの『ベートーヴェン』(高木卓氏訳)などを読んだ方が早い。伝記的文献ならルードヴィッヒ・ノール"Beethoven Leben"以下、手近なロマン・ローランの著作に至るまで枚挙に遑ないほどある。ただ、私は日本人だ。あくまで日本人の一人としてしか、人間形成の上でもベートーヴェンの感化・影響をうけなかった。——むろん、喫茶店でかけてもらったにせよ、いちど心に沁みて聴いた『クロイツェル・ソナタ』や『バガテール』は、喫茶店のものではない、もう私のレコードだ。かけがえのないこれは体験だ。初恋や、受験勉強の日々やと同じ、終生忘れ得ぬ体験である。紺のスカートから絹の靴下の脚線美を見せていた喫茶ガールの後ろ姿は、その名曲喫茶の片隅で、将来のことを思いあぐねた中学生の私とともに、『英雄』を聴けば今も眼前に甦る。あの日々を忘れ得ようか。  ただ、作品一七の『アパッショナータ』を聴いたときビスマルクは、 「これを予が度々きけたら、予は常に勇敢であったろうに」  と言ったというが、同じ憾みを私はおもうのだ。『ハンマークラヴィーア』をあの頃聴けたら。作品九五のクヮルテットを本当に自分で聴いていたら。くりごとではない。日本はすぐれたもう一人の詩人を持ったかもしれないとおもう。 本文中、フルトヴェングラーの言葉は芳賀檀氏訳『音と言葉』(新潮社刊)を、ベートーヴェンの逸話にはロマン・ローラン『ベートーヴェンの生涯』(片山敏彦氏訳)より多くを参照したことを付記する。 2  ベートーヴェンの作るヴァイオリン曲は、「いい音に弾きにくい」と当時の提琴家は文句を言ったそうである。ベートーヴェン自身が、ピアニストとしては指の使い方が我流で、音質はぞんざいだったともいう。(しかし、我流の指で表現したそのピアノの音の思想に、まったく人は魂を奪われたと、ド・トレモン男爵は言っている。)  この二つの挿話を作品一のピアノ・トリオを聴いていて私は想い出した。これらのトリオ(変ホ長調、ト長調、ハ短調)はカザルスがサン・ミッシェル修道院で、イストミン、フックスとの三人で演奏したもの(変ホ長調)、イストミン、シュナイダーとの三人でのもの(ト長調)およびアルマ・トリオのレコードがモノーラル時代に出ていたが(いずれもアメリカ盤)演奏の良否はここでは問題にしないでおく。作品としては、これらはベートーヴェンが二十五歳余で書いたものであり、「誇張でなしに後期弦楽四重奏曲にも比すべき、ベートーヴェンの傑作だ」とカザルスは言ったそうな(コレドール『カザルスとの対話』—佐藤良雄氏訳より)。また大木正興氏の解説によれば「これら三曲のピアノ・トリオはリヒノフスキー侯爵に捧げられ、同侯爵邸の夜会で初演された。その時たまたま居合せたハイドンが、ベートーヴェンにハ短調の曲だけは出版しないようにと勧告した。ハイドンは多くの賛辞をのべはしたがこの曲だけは認めなかった。しかしベートーヴェンはハ短調の出来ばえに最も満足していたので、気分をそこね、ハイドンが自分を嫉妬してそう言うのだと考えたらしい」という。  どうして、ハ短調だけをハイドンは認めなかったのか、われわれに分るわけはないが、アルマ・トリオ盤でこの曲を私が聴いた一九五六年夏頃、シュワンのカタログでは、作品一のピアノ・トリオの中で、ト長調が一番多く(三枚)録音されている。ところが五九年には早くも三枚とも廃盤になり、ステレオのあり余る現在でもト長調のトリオだけは、レコードが出ていない。かえって作品一の三曲中、いま最も数多く録音されているのはハ短調である。  ハイドンに先見の明がなかったのではあるまい。ベートーヴェンがハイドンに勝った、などという単純なものでもむろんないにきまっている。たしかにハ短調は、前二曲に比して、大成後のベートーヴェンを彷彿させる《劇的な》作風をすでに示しており、それがハイドンの好みに合わなかったかも知れないが、ハイドンほどの音楽家が、自分の嗜好だけで評価を左右するわけはない。素人の臆測だが、その時、ハイドンの分るように実は、演奏されなかったからではないのかと、私はおもう。「いい音にヴァイオリンを弾きにくい」と喞《かこ》った提琴家を想いあわすまでもなく、ト長調のトリオが今日、廃盤になるのは、同様にベートーヴェンの意図したように今では誰も演奏しないからだろう。好い例がヴァイオリン協奏曲である。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲といえば大傑作なのを疑う人はもういない。しかしヨアヒムによって、それが演奏されるまで、——ベートーヴェンの生存中も、死後も、——ほとんどかえりみられなかったのを信じられる人は、今では少ないとおもう。巨匠ヨアヒムが出なかったら、ヴァイオリン協奏曲中の王者と称されるこの作品も時たま「楽聖への敬意で」演奏されるにとどまったろう。「ヨアヒムこそが、この協奏曲を傑作に仕立てたのだ」とイザイは言う。  演奏とはそういうものだ。『カザルスとの対話』で初めて知ったのだが、あの神品のようなバッハの六つの『無伴奏組曲』さえ、カザルスがチェロをこすって聴かせるまで誰もそんな曲がバッハにあることも知らなかったそうである。そしてヴァイオリン弾きといえば——カザルスの子供の頃——ほとんどが盲人か、乞食に限られていたという。ついでながら、我々にこよなく懐かしいあのティボーにしたって、パリのキャフェ・ルージュで弾いていた芸人だった。イザイがそうである。ヨアヒムに見出されるまでベルリンのキャフェで毎晩つまらぬ曲をひいていた——。  作品一といえば、申してみればベートーヴェンの処女作であり、それ以前にどれほどの習作が積み重ねられているにせよ、芸術家は、処女作に向って成熟するという見方もある。作品一のピアノ・トリオ三曲には、なるほどベートーヴェンのすべての資質と才能の萌芽は含まれている。その意味では正しく後期のものに比肩すべき傑作だ。聴けば分ることだが、これに作品三や九の弦楽トリオを聴き併《あわ》せば、運命が戸を敲く『第五』をきいてもぼくらは当時の聴衆のようには愕かないだろう。——ただ、バッハやモーツァルトと違い、ベートーヴェンには、楽譜を一ページ見ただけでその作品の年代的位置をうかがえるほどの、人間形成的に正直な痕跡がある。この人ほど正直に、一歩一歩、苦悩に打ち克ち作品を深めていった音楽家は例を見ない。二十五歳でピアノ・トリオを作った時代は、むろんベートーヴェンはまだ聾ではなかった。しかしつんぼにならなければ彼は偉大ではなかったと、思うのは間違いだ、ということを処女作がわれわれに教えてくれる。指の使い方を時々間違えた頃の、「ピアニストとして正確ではなかった」ベートーヴェンも、もう耳がきこえなくて木製の棒の一端をピアノの箱の上にのせ、他の一端を自分の歯でくわえて音を聴いた——また英国の一旅行者の述懐だが——ベートーヴェンは静かにピアノを弾いているつもりでも、音は少しも鳴っておらず、しかも彼が感動にあふれる様子で力をこめて指を動かすのを見ていると、少しも音楽のきこえないその光景はかえって胸をしめつけるようだったという——そんなベートーヴェンも、ピアノ曲を作る上ではちっとも変っていないことを、作品一のピアノ・トリオはわれわれに語りかけてくる。私にはそうきこえる。  前にも書いたが、ベートーヴェンの作品論をするのが私の目的ではない。日本人の一人として、自らの青春のうちにベートーヴェンによる教化をかえりみるのが主旨だが、それにしてもぼくらは(わずかな作品しか当時聴けなかったにせよ)いい時代に生きていたとおもうのだ。いい演奏の聴けた時代、というこれは意味だが、そのことをしみじみ作品一や作品三の弦楽トリオを聴きなおして思い当った。  あるレコード会社の話によると、近頃、さっぱり売れないのがヴァイオリンのレコードである。ベートーヴェンのものに限らない、およそ楽器別に分けて、いちばん売れないのはヴァイオリンを独奏楽器としたものだそうで、三大ヴァイオリン協奏曲さえ例外ではないという。ピアノ協奏曲に比べたら情けないほどヴァイオリン曲のものは若い世代に受けないそうだ。  昔はそうではなかった。ぼくらがSPでもっとも多く愛聴したのは、パハマンやブゾーニ、コルトー、シュナーベル、プニヨらの独奏曲を除いて、すべてなんらかにヴァイオリンを主役としたものだった。ヨアヒムやイザイを私は聴いた記憶はないが、レナー、カペー、クライスラー、エネスコ、ティボー、ブッシュ、シゲティからエルマン、クーレンカンプにいたるまで、いまその名前を聞いただけで胸のおどるあまたのヴァイオリニストを記憶している。レコードを聴くとは、前述のピアニストや声楽のものを除けば、五大マエストロ(フルトヴェングラー、メンゲルベルク、トスカニーニ、ワインガルトナー、ブルーノ・ワルター)の指揮する交響曲においてさえ、耳を傾けるのは主として弦楽部のしらべであった。  いまは違う。音楽を愛好する若い世代はヴァイオリンを敬遠する。それはそして世界的傾向だという。その理由があるていど私には分る。一言で言えば、いまはもう旋律の時代ではなくリズム楽器の世代だからだ。ピアノは、メロディを奏するためと見るよりより多く打楽器にちかい。息の長いメロディをうたうヴァイオリンの時代は過ぎたのである。このことはつとにオネゲルも言っている。 注 音楽の将来への悲観的見解をオネゲルは述べている。——「今後主導的な役割をつとめるのはリズムの衝撃であって、もはや旋律の楽しみではない。今世紀の終らぬうちに、われわれは初歩的なメロディに乱暴にぶち切られたリズムをつけたような、きわめて簡単で野蛮な音楽をもつようになるだろう」(佐藤良雄氏訳より)  そういえば、たしかに近頃の前衛音楽は「初歩的なメロディを乱暴にリズムでぶち切った野蛮な」のが大部分で、しかしそれが若い世代に迎えられるなら仕方がない。喧噪以外の何物でもない、大方が内容空疎のエレキ・バンド——あのグループサウンズの音楽にしてからが、メロディではなくてリズムの快感だろう。そういう世の中になった。もう美の鑑賞能力のいかんではなく「正確には良心の問題だ」と嘆くカザルスのような人もいようが、ともかく、メロディは退けられ、リズムがいまや世界楽壇を風靡している。  私は思うのだ、ちかごろピアニストに比して、若い優秀なヴァイオリニストが出なくなったのは、こうした風潮に無縁ではないだろうと。ジネット・ヌヴーの急逝いらいぼくらは第一級のヴァイオリニストを持たない。私個人の気持を言えば、リパッティの死後、彼ほどの逸材を知らないがそれでも、まだ、ピアニストには将来の楽しみな何人かの演奏家がいる。だがヴァイオリニストはいない。そして将来ともにエネスコやティボーのように神韻ひょうびょうたる音を聴かせるヴァイオリニストは、出ないだろうというのが音楽愛好家に共通の嘆きである。  私は思うのだ、そうなってしまってベートーヴェンの音楽はどうなるだろう。カペー以後、ジュリアードやブダペストやアマディウスがどれほど力演したって後期弦楽四重奏曲のあの幽玄の境地は聴けないと人は言う。クライスラーが最初の電気吹込みでL・ブレッヒの指揮で入れたヴァイオリン協奏曲に勝るものを、ついに今にいたるも聴けぬと言う。だがそんなことはいいのだ。バッハの平均率をランドフスカほどに弾ける人はいないし、ショパンの前奏曲、練習曲さえ昔のようには聴けない。あらゆる他の芸術分野にもこれは見られる傾向である。でもそういう意味でなら、いつ、忽然と天才が出現してぼくらの渇望を癒やしてくれるかも分らない。こればかりは分るまい。が、ヴァイオリンだけは、一人の天才が現われてもソリスト一般の水準が劣化したときに、どんなシンフォニーを聴けるんだろうか? むろんベートーヴェンのものに限らないが、およそベートーヴェンの芸術から『運命』や『英雄』『第九』を除外することは他のどんな作曲家におけるよりも不可である。モーツァルトはシンフォニーはなくともオペラを聴ければいい。バッハは極言すれば『カンタータ』と『受難曲』があればよい。シューベルトは歌曲を聴けば足りる。交響曲を抜きにしてその音楽の語れないのは、いまならかろうじてマーラーとブルックナーくらいだろう。百余のシンフォニーを書いたハイドンさえ、ベートーヴェンの下敷みたいなものだった。ブラームスは、ヴァンサン・ダンディ式に言えば「その交響曲の大荷物は、進歩としてではなく以前のものの継続としてしか価値がない」  ことわるまでもなく、青春時代にクラシックを聴く初心者の側で私は言っているが、だからチャイコフスキーの資性は、バレー組曲にすべて結晶していると言う。メンデルスゾーンやドヴォルザークはしょせんは亜流の交響曲だろう。なんにしても、ベートーヴェンからシンフォニーをはずすことだけはできない。  そんなベートーヴェンの交響曲を、むかしは優れた弦楽器群の演奏でぼくらは鑑賞することができた。曲目は限られていてもベートーヴェンを満喫するに不自由なかった。——今は、そして将来はさらに、力量の低下したヴァイオリン群で聴かされねばならぬ。若い世代にヴァイオリンの敬遠される実に最大の被害を、ベートーヴェンの芸術は蒙る。  こうしてヴァイオリンの敬遠される、世界的風潮が興ったのは、私の独断には違いないだろうが、レコード音楽の普及に原因がありはしないかとおもう。SP時代の蓄音機は、ダイナミック・レンジも音域もせまく、歪が多かった。そんな狭い音域で比較的鑑賞をさまたげなかったのはヴァイオリンと人声である。ピアノは低域なぞ満足に鳴るわけがなかったし交響曲もフォルテになれば阿鼻叫喚にひとしかった。昔のぼくらがクヮルテットやヴァイオリン・ソナタやクラヴサンに心酔したのは、一つには、こうした録音再生技術の問題が、陰の役割を演じていたといえる。いまは違うのである。しかもステレオ技術の驚くべき進歩を見た現在、皮肉なことに、もっとも音の出しにくいのはヴァイオリン曲になった。左右二基のスピーカーから音を出す現在のステレオ方式で、一丁のヴァイオリンの音を、空間のただ一点から出す技術はまだないそうである。ヴァイオリン協奏曲を聴けば一層これは瞭然で、およそ独奏ヴァイオリンが管弦楽器群を背景に完全に一個所からきこえるようなレコードは世界に一枚もない。弓の運行につれて、どうかすれば左右どちらかのスピーカーに音は片寄り(これを音がとぶという)あるいはヴァイオリンそのものが、ヴィオラかチェロみたいな楽器にきこえてしまう。オーディオに関心を寄せる人ほど、ヴァイオリンの音の再生のむつかしさを知っている。  また弦楽四重奏曲ともなれば、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの音色がそれぞれ鮮明に聴き分けられるのでなければ、曲を鑑賞したとは言えないだろう。かろうじて鳴っている位置で、今のステレオは(チェロは別として)ヴァイオリンとヴィオラを識別できるにすぎない。曲の鑑賞にこれほどまだるっこしい組合せはない。かくて弦楽四重奏曲も、しだいに若い世代に疎んぜられていった。そこへ、旋律ではなくリズムが人の心を打つ風潮が追討ちをかけたのである。そうとでも思わねば、名曲の宝庫のような弦楽四重奏曲やらヴァイオリン・ソナタが若い人たちにうとんぜられる口惜しさを、癒やしようがないではないか。逸話にたよらず、あくまで音楽としてベートーヴェンを聴き直すべきだと私は言ってきた。そのベートーヴェンの幾つかの名品が、だが今後はもう従前の格調をもってはきけなくなる。それでもベートーヴェンの偉大さは無論そこなわれないだろう。しかし、青年時代に、ベートーヴェンの音楽から受ける感銘の幾らかは、もう、全人類の青年たちから永遠に失われてしまうのだ。そんなことを作品一のピアノ・トリオを聴いていて私は思った。  戦後、トスカニーニの『第九』を聴いて、あまりにそのテンポが早いのに呆れ返ったことがある。このテンポはベートーヴェンを冒涜するものだと、一瞬思い、怒りをおぼえた。その後モーツァルトの『ト短調』を聴き、裏面のハイドンのシンフォニー(驚愕)より、よっぽどびっくりした記憶があるが、カザルスがこんなことを言っている。「ある時友人の家でレコードをきいた。私が客間へ入っていったとき、それはメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』のスケルツォで、ちょうど始まったばかりだった。誰が演奏しているか分らなかったが、その技術の完璧さと特に過度な速さとで、てっきりアメリカのオーケストラだろうと思った。アメリカは組合《ユニオン》がうるさいからね。しばしば楽趣によるよりも時間的制約でリハーサルを、音楽さえをまとめてしまう。レコードが終ってから、それがヨーロッパの最も有名なオーケストラだと分って、テンポの故意の加速が、いかに悪い影響を与えているかを痛感したよ」  なるほど、アメリカのオケが総じてテンポを早く取るのは、ユニオンの悪影響かも分らない。だが欧州でも同じテンポを真似てゆくことの方が、私には怖ろしい。われわれは、いちど早いテンポに接すると、のろいのは我慢ならなくなる傾きがある。クナッパーツブッシュのあの冗長さがいい例である。それは冗長ではなくて、そういう音楽だと分っていても、プロコフィエフではないが、「今日、すべての物事と同様、音楽においてもわれわれは速度、エネルギー、運動を要求する」しかも故意にテンポを早めることは巨匠の作品を歪めてしまう。  そういう歪で、これからのベートーヴェン(の交響曲)は演奏されるのだ。本来の楽想を聴きとるためには、もう一度ぼくらは、おびただしい彼の逸話や伝説に頼らねばならぬのかも知れない。  さきに日本の貧しいわれわれは、限られた作品しか戦前は聴けなかったのを憾んだが、私は間違っていたようだ。狂信的ワグネリアンから「まるで毛虫のように嫌われたブラームス」は、ダリウス・ミヨーに「背伸びした贋の偉大さだ」と誹られ、ドビュッシー、ラヴェル、フォーレさえブラームスの曲などろくに聴こうとしなかったそうだし、第一なにもブラームスのことを知らなかったという。一方ほとんどのドイツ人が、フォーレを聴いたことすらなかった。——今日、ぼくらのコレクションにブラームスやフォーレのレコードを一枚も加えずに、平気でいられる人はよほどのん気な愛好家である。それほど、いまではLPレコードのおかげで、あらゆる価値ある作品が、世界のどこにいても鑑賞できるようになった。限られた音楽しか知らなかったのは、日本の初心者ばかりではなかったのである。  ぼくらは名曲喫茶では、ベートーヴェンのごく一部の作品しか聴けなかったにせよ、すぐれたそれは演奏家に恵まれた時代であり、しばしばすぐれた演奏がその曲を傑作にする。すぐれた演奏の音楽は、言葉よりはるかに多く正確な意味を語ってくれるのである。  憾むことはなかった。メニューを持って近寄って来る髪の美しい少女に、一杯のコーヒーを注文するとき鳴っていたヘ長調の『ロマンス』は、ぼくと少女の心性に調べを与えてくれ、紺のスカートで去って行くうしろ姿からもうぼくは目を閉じていればよかった。あとはフリッツ・クライスラーの弾く『ロマンス』が、少女とぼくの気持を、終尾楽章《コ  ー  ダ》の顫音《トリル》まで秘めやかに空間に展開してくれる。なんという恵まれた青春だったろう。「小生に至急六〇ドゥカーテン送金して下さい」誰宛に書いた手紙か知らないがベートーヴェンのそんな文句が、ふと想い浮んだりした。「ウィーンでは人間が多すぎて、もっとも優れた者さえ生計を立てるのは困難なのです。六〇ドゥカーテン……お返しに、できしだいすばらしいコンチェルトをお送りします……」大事なことだ、ベートーヴェンが貧乏でなかったら、こんなにもぼくらを励ます音楽とはならなかったろう。ベルリンのキャフェで、若い日のイザイはどんな気持でベートーヴェンを弾いていたんだろう。 3  ベートーヴェンのピアノ・ソナタは指に莫大な力を要求するので、従来の技巧ではうまく弾けない、という意味のことをケンプが言っている。「ベートーヴェンは指の使い方が我流で、音も美しくなかった」とド・トレモン男爵の嘆いたわけがわかる。ケンプが従前の技巧といったのは、ピアニストが修得しているテクニックの意味であろうが、ベートーヴェンのフォルテそのものは、彼の生存中から「聴衆を刺激しすぎる」とウィーン人には顰蹙され、ピアノはもっと優雅に——あのヨハン・ネポムック・フンメルのようになめらかに、弾くべきだと非難されてきた。  たしかに、ウィーン人でない今日のわれわれにもある種のソナタは、どうしてそう強く弾く必要があるかと理解に苦しむし、ベートーヴェンの意図すら疑わせる。作品二七の一(変ホ長調)第一楽章アレグロがそうであり、『テンペスト』の第三楽章アレグレット、『ワルトシュタイン』のロンドがそうだ。作品五七(いわゆる『熱情』)第一楽章コーダに至っては、出版屋が勝手につけた“熱情”という題も俗っぽいが、下手なピアニストほどここを強く弾きすぎて作品をつまらなくする。ベートーヴェンはもともと、ピアノ曲における真価をすべて緩徐楽章(アダージョ)に凝結した。『熱情』の場合は、テレーゼ・ブルンスヴィックのこともあって、たぎり立つ感情を荒々しいパッセージに叩きつけたかったらしい。しかしリーツラー(W. Riezler)の見解をまつまでもなく、弾く方は「激しく動揺する旋律を支配したベートーヴェンの統御力」を浮き出さねば、演奏の意味はない。むしろ禁欲者の手で『熱情』は弾かれるべきだろう。ベートーヴェンが要求した指の力は、だから禁欲に耐える勁さでなければならない。それをケンプは言いたかったのだろうと思う。  もっとも、そんなケンプが『熱情』をあまりうまく弾けなかった。ケンプに限らない、私の聴いたかぎり、バウアーの演奏を除いてはバックハウスも、イーヴ・ナットもギーゼキングも、ゼルキンのも感心しなかった。バウアーのがこころよかった理由に今はふれないが、考えればこれほどの名手たちの演奏がすべてつまらないのは、結局、『熱情』そのものがベートーヴェンの作品では大したものではないからだろう。若い頃シュナーベルで聴いたこの曲の思い出の方がむしろ、今の私には大切な『熱情』になっている。  ケンプは言っている。 「ベートーヴェンが音楽に新境地をうち立てたのは、ピアノ・ソナタと交響曲たるとを問わず、アダージョにおいてです。終楽章に関する限りベートーヴェンは、モーツァルトを凌駕できないのを知っていました。モーツァルトは『ジュピター』のフィナーレで完璧なものを創造したのですから。しかし、ベートーヴェン以前、いかなる音楽家もアダージョで彼ほどの深淵に達する音楽を書いてはいません」  ケンプがこれを言ったとき終尾楽章《コ  ー  ダ》のことも念頭にあったらしい。コーダは、ケンプに言わせれば、「作品のしっぽで、追加物にすぎなかった」が、ベートーヴェンの天才は、もう一度、楽曲の終焉にいのちを与えた。だから彼の音楽はコーダでしばしば楽想の謎を解く、と。ケンプは言う。「言葉が機能を失うところ、音符さえが感動の前に停滞し、沈黙しはじめるところ——すなわち《休止》の来るところへ、ベートーヴェンは滲透した。それが彼のコーダである。そしてこの休止のはじまりにこそ唖の、つんぼとなった人間の音楽があった」と。  たしかにベートーヴェンのピアノ曲は、通常の作曲家が曲をおわらせるところで、もう一度、しらべを、天才の煌めくばかりな美しい調べを、謳いあげる。それはベートーヴェンの最もプライベートな《自己告白》にほかならなかった、とケンプは言い、その好例を『ハンマークラヴィーア』のアダージョ(第三楽章)に挙げるのだが、専門家のこうした注釈は、じつはどうでもいい。作品一一〇、一一一の各アダージョと、一〇九の第三楽章——Gesangvoll, mit innigster Emptindung(歌うように心の底からの感動をもって)とベートーヴェン自身の記したアンダンテに始まるあの呼吸のとまりそうな、美しい、あえかな旋律が聴ければ、ほかにピアノ曲は要らないくらいだ。まったく美しい。しかも諦観の極北で、全人類への慰藉をベートーヴェンは施してくれるように、私にはきこえる。  一般にベートーヴェンは激越で、気むずかしく激しい人間のように思われているが、そんな音楽家が「ぼくをひとりにしないでくれ」と友人にすがるだろうか。ベートーヴェンが醜男だったのは誰でも知っている。彼のデスマスクは口が尖り気味で、西欧人というよりは東洋人種の風貌にちかい。加えるに、つんぼで、貧乏な音楽家だった。伯爵令嬢や貴婦人にどう考えても愛されるはずはないのだ。しかも彼のピアノ・ソナタ——なんらかに重要なソナタのほとんどは、女性に捧げられている。作品七の変ホ長調がそうである。Die Verliebte《愛する女》と呼ばれたこの曲はケグレヴィッチ伯爵令嬢バルバラに捧げられた。当時ベートーヴェンは二十七歳だった。バルバラはのちに或る侯爵と結婚し、一八一三年——まだベートーヴェンの生存中に他界したが、彼女は才能ゆたかなピアノ奏者で、ベートーヴェンの弟子だった。ベートーヴェンはこの変ホ長調のほかにも、ピアノ協奏曲第一番や、ヘ長調の変奏曲(作品三四)を彼女に捧げている。ふたりの間には当時、恋愛感情があったという説もあるそうだが、第二楽章の多彩な色彩感と深い情緒をともなう、この曲の緩徐楽章の気品は、バルバラの影響によるものとしか私には思えない。  作品一〇のピアノ・ソナタも同様である。三曲のこのソナタはブロウネ伯爵夫人アンナ・マルガレーテに捧げられた。彼女は夫ヨハン・ゲオルクとともに若い日のベートーヴェンの熱心な支持者で、ベートーヴェンは彼女の夫に作品九の弦楽トリオを贈っている。この時ベートーヴェンは、「私のもっとも優秀な作品を、私の芸術の最高の愛護者に捧げる」(大木正興氏の解説より)と記した。なお彼女は一八〇三年にウィーンで他界したが、その死を悼んでベートーヴェンは『ゲレルトによる六つの歌曲』の傑作を喪にある伯爵に送っている。 「不当に閑却されたソナタ」とケンプの嘆く作品二七の一も、ヨゼフィーネ・ゾフィー——あのワルトシュタイン公爵のいとこだったリヒテンシュタイン公爵夫人——に捧げられた。彼女は十六歳で公爵と結婚した。やはりベートーヴェンにピアノを習い、熱心な支持者の一人だった。『月光』という見当違いな題で知られる嬰ハ短調(作品二七の二)もそうだ。伯爵令嬢ジュリエッタ・グィチァルディに捧げられた。大木氏の解説によれば、ベートーヴェンはこの十四歳年下の少女とブルンスヴィック家を通じて知り合った。このときジュリエッタは十五歳の若さでウィーンに来てベートーヴェンのピアノの弟子になった。彼女の従姉妹テレーゼ・フォン・ブルンスヴィックもベートーヴェンにピアノを教わっていたことはよく知られているが、ベートーヴェンははじめは、魅惑的なジュリエッタに心を奪われてしまい、一八〇一年十一月のヴェーゲラーあての手紙に「彼女は私を愛し、私も彼女を愛している。二年ぶりで幸福な瞬間がやって来た。結婚して幸福になれるだろうと考えたのはこれがはじめてだ」と書いた。ただ「残念なことに身分が違いすぎる」と書き添えねばならなかったが、果して、三年後、彼女はガルレンベルク伯爵と結婚し、イタリアへ去ってしまう。そしてテレーゼには『熱情』がのこされる。もっとも、ブルンスヴィック伯爵には三人の令嬢があって、テレーゼの妹ヨゼフィーネは、一度或る伯爵と結婚して、間もなく死別、その後ベートーヴェンと熱烈な交渉と手紙のやりとりがあったが、シュタッケルベルク伯爵に嫁いだ。テレーゼだけはベートーヴェンの死後ハンガリーで託児所をつくり、生涯、独身のままその仕事をつづけるのである。彼女には情緒纏綿たる可憐なソナタ(作品七八)をベートーヴェンは捧げたが、この作品(テレーゼ・ソナタとも呼ばれる)は『熱情』の四年後に作られ、「ぼくの気に入っているソナタです」とベートーヴェンは言ったそうである。  ——少し、引用が長すぎたかも知れない。ベートーヴェンがあの風貌で、どんなに、繰り返し恋をしていた男だったかを知ってもらいたいからだが、これは実は、大へんなことなのである。今では、音楽家は自由に恋愛し、何よりも芸術家として放恣な生き方をゆるされている。しかしベートーヴェンのいた頃は、われわれが現在考えるような待遇を彼らはされてはいない。音楽家とは、当時のドイツではまだ単に貴族階級の上品な趣味を満たすもの、言ってみれば腕のいい料理人や園丁と同じであった。宗教音楽を布教の一手段と看做す教会の司祭あたりから見れば、オルガニストにしたって、堂守や鐘つきと大差ない一職人にすぎなかった。(このことは辻荘一氏の著作『バッハ』にくわしい。)つまり音楽のもっとも有力な需要者は貴族であり、ことにドイツの貴族は音楽好きで、大がいの領主や貴族が常傭楽団を持っていた。中には、あるじのため、夫人のため、嗣子のためと、別々の楽団をもった領主もいたという。辻氏の著作の一部分を引用しよう。「貴族は来客に御馳走するとき、音楽をメニューの一部と考えていた。来客はご馳走をうまいといってお世辞を言うと共に、音楽も面白いと言わねばならなかった。元来貴族は虚栄心のつよい連中だから、無理算段をしてまで、りっぱな音楽をその宮廷できかせるようにした。したがって貴族にやとわれている音楽家は、ひとたび主人のきげんを損じると、すぐ首になったり、俸給をへらされたりする。また主人公が死んだら、一度はお払い箱になり、あとつぎの気に入りのものだけが、やとってもらえた」(岩波新書『バッハ』)  ベートーヴェン自身はもう、好きな時だけ作曲し、それを金銭にかえればいい自由職業的な音楽家であったというが、気儘に仕事をする者は貧乏すると相場は、きまっている。カザルスの幼年時代さえヴァイオリン弾きは乞食か盲人だった。ベートーヴェン当時、どれほどの地位が約束され得よう。しかもベートーヴェンは貴族の令嬢に真剣に恋をした。次々と。なみだがこぼれるほど稚い人だ。このおさなさだけで、失恋しなければどうかしている。相手が同じ子供っぽさをどこかにとどめた深窓の少女だったのも当然だろうが、純真無垢な、そういう神のようなやさしさをもつ乙女だけが、階級制度に関わりなくベートーヴェンを慕い、その音楽を愛した、などと言っているのではない。ベートーヴェンでなくったって恋をした男は子供っぽくなる。私の圧倒されるのは、あの『ハンマークラヴィーア』の底知れぬ侘しさの中に、また未曾有としか言いようのない清澄さ《セレニテ》でつづられた作品一〇九の楽想にベートーヴェンの子供っぽさが、まだちりばめられていることだ。私が言わなくてもベートーヴェンは苦悩に打ち克った人である。英雄的《ヒロイツク》で、つねに堂々としていて「偉大なDドゥア(ニ長調)」のように大きかった。あまり知られていないがずいぶん、酒も飲んだ。(「坐ると飲んだ」と医師マルファッティは嘆いた。)それで肝臓をやられたが、「人類のために役立つのは音楽家のつとめだ」と言い、さらに《美しい》ためなら、破り得ぬどんな法則もないと言いきる。要するに激しく、つよい人である。ロマン・ローランは「ベートーヴェンはおのが幸福を犠牲にした」と身贔屓で言うが、あれだけすぐれた音楽を創り出せて、どうして不幸なのか? 羨ましいくらいベートーヴェンは幸福な芸術家だと私は思う。  要するに、世俗的な意味の不運と幸福、偉大さと子供っぽさ、性格の激しさ(ゲーテは「余りにも無制御な激しさだ」と辟易した)と優しさ(レルシュターブは言っている「ベートーヴェンの優しい眼と、その眼が示す素直さを見た時は泣き出したくなった」)そんな混沌が後期ピアノ・ソナタには点綴されている。それでいて、なお、女性を愛さずにいられなかった醜男のまぼろしのような恋の賛歌を、ピアノ・ソナタに私は聴くのである。私はベートーヴェンのピアノ曲が好きだ。ことに『ハンマークラヴィーア』と作品一〇九、作品一一一の終楽章——この三つがあればほかにピアノ・ソナタは必要ないとすら思う。ワグナーはライプチッヒの大学生時代『第九』の譜の全部を自分の手で写し取るほど心酔した。それが後年、彼に楽劇をつくらせたのだと、何かで読んだおぼえがある。ピアノを私は弾けないが、作品一一一のアダージョを写してみたら小説が書けるようになるかも知れないと、本気で考えたのを忘れない。  ベートーヴェンは左の耳がわるかった。ベートーヴェン自身は「耳鳴りが大分おさまった。ことにつんぼの左の耳がそうだ」と友人宛に書いているが、左が難聴なのは私と以ている。たしかに難聴の度が増すとかえって、耳鳴りはおさまる。ただ、ベートーヴェンの場合は、調子の高い音より低いほうが良く聞き取れたそうで、これは私とは逆である。  人は、ベートーヴェンが不運で悲惨であった理由に聾を持出すが、少々不便というぐらいで、みじめなほどのものではない。かえって好都合なこともある。ベートーヴェンくらいになれば心の中にあらゆる楽器は鳴っているだろう。——ただ、私の体験で言うと、女性に対しては大きなハンディがつく。女性というのは、本来、羞恥して自分の愛をめったなことでは打明けない。多感な乙女ほどそうだ。少なくとも昔はそうだった。だから内心を男性との、ふとした散歩の折などに洩らす。何かのはずみで洩らす。きまって面を伏せ、低い声で。ところが、つんぼにはこれがきこえない。何か言ったとは思うが、「え?」と聞きなおしてももう女は二度と言わない。そういう、ただ一度ふと洩らす真実な声というものがあり、難聴者はそんな女性のもっともデリケートな言葉から永遠にとざされているのである。この隔絶感は、つんぼでなければ分らないだろう。女性の側で言えば、耳の遠い男ほど振舞いは粗暴と見える。みずからを省みて、しばしばつんぼの人間は行動が唐突だし、粗暴だ。言いつけや、願いや、命令がきこえないのだからそうならざるを得ないのだが、上品でつつましい女性にはもうこれだけで、嫌悪され、疎んぜられるだろう。加えるに、「身分の賤しい」音楽家で、醜男ときている。ベートーヴェンに、伯爵令嬢との恋が結実するわけはあるまい。(伝記作者の記述によれば、ベートーヴェンは背は低く、ずんぐりしていて、その鼻は短い獅子鼻で口は下唇が上よりもやや突出し、声を出して笑うときは不愉快な荒っぽい「顰め面の笑い方をした。いつも短くとぎれてしまう笑い」だったという。)  そんなベートーヴェンを、もし、本当にテレーゼが愛したのならまさに“永遠の恋人”だ。しかし彼女の愛の有無にかかわりなく、ベートーヴェンには聾による女性との隔絶感はあったに違いない。これだけは断言できるが彼のピアノ・ソナタに、珠玉のように鏤められた繊細で優雅なメロディは、女性の本心のつぶやきを聴くことのない己れへの慰藉だったろう。もしくは、現実にはきけないからあれほどの美しさで、女性を、鍵盤で補ったのだ。  ベートーヴェンは音楽芸術の本義である《暗示すること》、《ほのめかすこと》の代りに《叙述した》とドビュッシーは攻撃したそうだ。たしかに、現実にきくことのない令嬢の愛の言葉を、ベートーヴェンはピアノで語らせた。ヴァンサン・ダンディが「ベートーヴェンのソナタは、理念に支配されすぎる」と言うのも《つんぼである隔絶》に想い当らぬからだとおもう。フルトヴェングラーは言っている。「どんな他の音楽家よりもベートーヴェンは、純粋に音楽的な手法で自分の対処すべき課題に解答を見出す。彼は詩人に至る道を進まない、だからシューベルトのような叙情詩人でもなく、ワグナーのように楽劇作家にもならないが、ベートーヴェンが彼らよりも音と言葉の融和に鋭敏でないのは、音楽家でないからではなく、より生粋の音楽家だったからだ」——  少しこだわりすぎたようだ。私はある事情で妻と別れようと悩んだことがある。繰り返し繰り返し、心に沁みるおもいで作品一一一の第二楽章を聴いた。どうしてか分らない。或る時とつぜんピアノの向うに谷崎潤一郎と佐藤春夫氏の顔があらわれ、谷崎さんは「別れろ」と言う、佐藤先生は「別れるな」と言う。ベートーヴェンは両氏にかかわりなく弾きつづける。結局、私は弱い人間だから到底離別はできないだろうという予感の《自分の》声が、しらべを貫いてきこえてきた。私にはしょせんいい小説は書けまい、とその時ハッキリおもった。イーヴ・ナットの弾く一一一だった。このソナタを初めてこころで聴いて以来、モノーラルのバックハウス、日比谷公会堂のバックハウス、カーネギー・リサイタルのバックハウス、ステレオのバックハウス、四トラ・テープのバックハウス、それにE・フィッシャー、ラタイナー、ミケランジェリ、バーレンボイム、ハイデシェック、ケンプ……入手できる限りのレコードは求めて聴いた。その時どきで妻への懐いは変り、ひとりの女性の面影は次第に去っていったが、ベートーヴェンだけはいつも私のそばにいてくれたとおもう。私的感懐にすぎないのは分りきっているが、どうせ各自手前勝手にしか音楽は鑑賞はすまい。  有名な『皇帝』をはじめとするピアノ協奏曲は、わけても『皇帝』は、どうして人気があるのか私には分らない。こればかりは音楽喫茶でねばった頃も今もかわらない。『ハンマークラヴィーア』や作品一一一に比べて、いよいよつまらないと思う。第四番の協奏曲では、独奏ピアノで開始する独自なゆき方を試みたベートーヴェンが、『皇帝』では独奏ピアノのカデンツァで始まるという斬新な手法をとった、「だから豪華な印象を与える」と専門家は説明してくれるが、どうでもいいことである。だいたい専門家は、たとえば第一交響曲について、「ベートーヴェンがこの曲で特に作り出した新規の点は、まず木管楽器の編成が、モーツァルトでは最高五本であったのを八本用いた。つまりベートーヴェンはフルートを二本にし、クラリネット二本を採りながらオーボエ二本を捨てなかったことである」などと言って、解説したつもりでいる。むしろ『皇帝』でおもしろいのは、作曲されたのがフランス軍がウィーンを占領し、いろいろいじめられていた時代で、フランス将校とすれ違ったベートーヴェンは拳をふるわせ、「もし私が戦術のことを、対位法くらいよく知っていたら目にものみせてくれように」と言ったという伝説だろう。珍しく、ここではベートーヴェンはその作品のように生きているのだから。  ピアノ・ソナタのほかに、たとえば『ディアベリの主題による変奏曲』を音楽史上に比類ない名曲という人がある。私には分らない。比類ないのはやはり『ハンマークラヴィーア』と作品一一一だと私は思う。『ハンマークラヴィーア』といえば、いつか友人の令嬢(高校二年生)が温習会で弾くのに招待され、唖然とした。十代の小娘に、こともあろうに『ハンマークラヴィーア』が弾けるとおもう、そんなピアノ教師が日本にはいるのだ。技術の問題ではない。ベートーヴェンのソナタの中でも最も深遠なこの曲を、本当に、弾けるピアニストが日本に何人いると教師は思っているのだろう。だいたい日本の専門家《ソリスト》には、レコードなど、ろくにきかない人が多いが、だからオーボエが何本ふえたなどと言っていられるのだろうが、そういうピアノ教師たちに教育ママは子供を習わせ、音楽的教養が身につくと思っている。あわれと言うも愚かで、済む問題ではない。ベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタが女性に弾けるわけはない。晩年のベートーヴェンの歳になって、やっと、限られた、世界でも数人のピアニストがその心境を弾き得るだろう。そういう曲である。恐らく当の教師にだって満足に弾けはすまい。それが、こともあろうに発表会で少女に演奏させる。どういう神経なのか。こんな教師たちで日本の楽壇は構成され、ベートーヴェンが語られる。日本はその程度のまだ、水準でしかないのだろうか。 4  ベートーヴェンの交響曲——ことに『運命』あたりになると、音楽はまず記憶の方からきこえてくる。スピーカーの前にいるのは四十男の私だが、音が鳴り出せば、詰襟の制服に、ゲートル巻きで通学した中学生が、制帽を阿弥陀にかぶって現われ、思春期が、音楽に溶けて聴えてくる。過去の私が甦るのか、三十年前の昔にこちらが引き戻されるのか。確かなことは、私の、三十年の歳月を閲《けみ》した全人生で今は『運命』を聴いているということだろう。その意味では記憶からきこえるという言い方はあたらない。しかし、記憶のほうが停止したままだときめられるわけもない。三十には三十になっての少年時代が、五十になれば五十歳でふりかえる思い出というものがある。中学時代の私は、今でいうハイ・ファイ・マニアのはしりだった。なんとかいい音でレコードを聴きたいと夢中になり、代数の時間に、教室で、2A3x + 2A5y=……そんな方程式を見ただけで真空管が思い出され、胸の熱くなる生徒であった。  今からおもえば、『英雄』や『田園』さえどの程度に理解できていたかあやしいものである。あの頃のSPとデンチクで、ベートーヴェンのフォルテッシモ——作曲家の内的意図からすれば、近代オーケストラの途方もない爆発力さえ、色あせさせるほどの強大音でなければならぬという——そんなフォルテッシモが、満足に再生できたわけはない。フォルテを聴かずにベートーヴェンのシンフォニーは語れまい。と言って、ではあの頃に比べ、今の、驚異的高忠実度の再生でステレオのきけるわれわれが、ベートーヴェンをよりよく理解できるとも言えまいと思う。ちょうど性能のはるかに秀抜な真空管——ECC八四やKT八八という名を聞いても今の私は、むかしのようには感激しなくなったが、ベートーヴェンの交響曲の理解に、もっとも不可欠なのはそんな感激の下地だとおもうのだ。 『英雄』や『運命』で、フルトヴェングラー、トスカニーニ、メンゲルベルク、ワインガルトナーをたしかに私は聴いている。あの重いアルバムの装幀の色や、金文字の字体さえ今にありあり記憶にある。第何面のどのあたりで音がビビるかを、そのときのわがデンチクへの絶望感と憂鬱を、私は今に忘れない。それでいて、皆目、音楽はわかっていなかったのではないかという気もする。私がベートーヴェンのシンフォニーで、一番感激したのはローゼンシュトックの指揮でナマの“新響”を聴いたときだったから。『英雄』と、別の日には『運命』とを。 『運命』は何回聴きに行ったろう。中学生の小遣いでは、切符の入手は容易ではなかった。参考書を買うと偽って小遣いをくすねては出掛けて行った。それほど経済的に、わが家が貧しいわけはなかったが、勉強をおっぽり出して音楽なぞ聴きに行くのは、けっして優等生のすることではないという儒教的な、日本人一般の考え方が根強く私たちの周囲にはまだあった。大袈裟に言えば、まずそんな罪の意識をくぐらねばベートーヴェンには出会えなかった。レコードを聴くのもこれは同じだが、家にいて出歩かぬというだけで幾分、寛容にあつかわれたかともおもう。いずれにせよ、中学生の私はオーケストラ・メンバーの並ぶステージを目の前にできるだけで、すでに十分すぎるほど感激している。やがてヨセフ・ローゼンシュトックが颯爽と登場する。彼の指揮棒は、神技のように巧みに音をひき出すと私には思えた。私はこの外国紳士に畏敬の念すらもった。それとあのティンパニーを敲《たた》く頭の禿げた“新響の名物男”といわれた人に。  なんという素晴らしい音だろう、なんとベートーヴェンはすごいんだろう。私は、レコードで聴きおぼえた好きな旋律の個所にさしかかると、もう俯向き、頭をおさえ、こぶしを握りしめて感動した。わが家でレコードを鳴らすときは、それからは、こっそりローゼンシュトックのタクトを振る恰好を真似した。若い人なら誰もが経験していることだ。 『英雄』がナポレオンと結びついた音楽なのは誰でも知っている。あの『葬送行進曲』を一度でも聴いたら人は忘れ得まい。ナポレオンの栄光にベートーヴェンほど、傑出した作品で献辞を呈した芸術家は他にいない。セント・ヘレナにおけるナポレオンの死を、ベートーヴェンほどまさに英雄にふさわしい音楽で弔辞した人もいない。ナポレオンとシーザーは、われわれが西洋史に持った最も英雄らしい英雄だと私には思えるが、人類のもつ至高の葬送行進曲はベートーヴェンのあの第二楽章だろうとも思う。ワグナーもジークフリートのすぐれた葬送曲を書いてくれた。だが結構において、音楽そのものの気宇において、到底ベートーヴェンにかなわない。  私は『葬送』の第一主題に、勝手なその時その時の歌詞をつけ、歌うようになった。歌詞は口から出まかせでいい、あの葬送のメロディにのせて、いちど自分でうたってごらんなさい。万葉集の相聞でも応援歌でも童謡でもなんでもいいのだ。どんなに、それが口ずさむにふさわしい調べかを知ってもらえるとおもう。ベートーヴェンの歌曲など、本当に必要ないくらいだ。日本語訳のオペラは、しばしば聞くにたえない。歯の浮くような、それは言語のアクセントの差がもたらす滑稽感を伴っている。ところが『葬送』のあの主旋律には、意味のない出まかせな日本語を乗せても、実にすばらしい、荘重な音楽になる。これほど見事に、全人類のあらゆる国民が自分の国のことばで、つまり人間の声でうたえるシンフォニーをベートーヴェンは作った。こんな例は、ほかに『アイネ・クライネ』があるくらいだろう。とにかく、口から出まかせの歌詞をつけ、少々音程の狂った歌いざまで、『英雄』第二楽章を放吟する朴歯にマント姿の高校生を、想像してもらいたい。破れた帽子に(かならず白線が入っていた)寸のつまったマントを翻し、足駄を鳴らし、寒風の中を高声に友と朗吟して歩いた——それは、日本の学生が青春を生きた一つの姿勢ではなかったかと私はおもうのだ。そろそろ戦時色が濃くなっていて、われわれことに文科生には、次第にあの《暗い谷間》が見えていた。人生いかに生きるべきかは、どう巧妙に言い回したっていかに戦死に対処するかに他ならなかった。大きく言えば日本をどうするかだ。日本の国体に、目を注ぐか、目をつむるか、結局この二つの方向しかあの頃われわれのえらぶ道はなかったと思う。私自身を言えば、前者をえらんだ。大和路に仏像の美をさぐり、『国のまほろば』が象徴するものに、このいのちを賭けた。——そんな青春時代が、私にはあった。  ベートーヴェンのシンフォニーを音楽的に解説するのは、今なら手近な専門書を繙けば足りるだろう。ワグナーのすぐれた考察があるし(ベートーヴェンが真に何ものであるかを、言葉によって、それ以上の情熱と全人格を注ぐ演奏によって、われわれに最初に示した、唯一の人がワグナーだとフルトヴェングラーは指摘する)人生の初一歩から「私はベートーヴェンに手をひかれて成長した」と述懐する、ロマン・ローランの立派な著述もある。ベートーヴェンのシンフォニーは、それまでの作曲家が、高踏的な一部貴族の歓心を満たすためだけに作っていた交響曲というものをその小集団の慰み物を、大衆のための音楽に作りかえた、「思い切った言い方をすれば彼は新しい音楽を作曲したのではなく、新しい聴衆を作曲したのだ」という、パウル・ベッカーの言葉は、何よりもベートーヴェンの交響曲がどういうものかを語ってくれている。  私は日本人である。あの戦争を、日本のためだと信じる方向で体験し、生き残った。ただ素朴な、幼稚な感想だが、ベートーヴェンがドイツ人だということに、あの日独伊同盟とやらへの安らぎを感じた。ベートーヴェンがアメリカ人か英国人なら、あんなに戦争を自分に納得させ得たろうか? 私だけではないとおもう。ゲーテを愛読し、ドイツ浪漫派の文芸を思春期に知り、カントやヘーゲルが偉大であるのを漠然と感じ、バッハやモーツァルトやブラームスの音楽を、クープラン、ラモー、マスネー、フランク、フォーレなどより、遥かに作品の多量さとそれを鑑賞する機会の多い環境の中に、ぼくらは育った。同じヨーロッパに住んでさえ、フォーレをほとんどのドイツ人は知らなかったという。ブラームスはパリでは誰もが相手にしなかったという。東洋の島国で、あの学生時代、ぼくらに何が見分け得たろう。  重ねて言う、私は新響をふるローゼンシュトックが好きであった。ベートーヴェンに心酔して、その音楽を聴き耽ることでいかに生きるかの解答と、支えと、勇気を得た。戦争もたけなわとなり、次第に重苦しい、軍閥の狂躁だけが異常な《暗い日常》に国民が追いやられ始めた頃、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲第二楽章ラルゲットの、あの安らいだ調べに陽溜りの暖かさをしみじみ味わったと、述懐してくれた人がいる。その頃私はもう出征して戦地にいた。人間は、こんな能力を発揮してまで戦さをするものか。自らの体力の限界を越える過重な労力を強いられてもまだ、必死に闘っている自分を見出して、私は怖ろしくなった。何度、進撃から落伍しそうになったろう。それでも陸軍二等兵は二等兵の戦争をしたわけだ。これだけは間違いない。だから生きて帰っている——。背嚢《はいのう》を枕に、篠つく雨に顔を仰向けて、全身濡れねずみになって私は仮眠した。「五味、前へ」と命令されれば銃を執って進撃した。そうさせたものは、国を護らねばならぬ意識などでは、もうない。「ねばならぬ」ではない。戦闘がおわって、どうにか無事なおのれを見出して、はじめていろいろな「ねばならぬ」やら覚悟やら、恥ずかしさが甦った。銃に剣を着け、真っ暗な夜の歩哨に立たされるとき、交替までの二時間は平常心にとっては、ずいぶん長い。私の経験では、兵隊が人間にもどるのは、便器に跨がっている時間と、この歩哨線に独りで立っている時である。ふるさとを懐う。たばこを吸いたいなあと懐う。片想いに終った女性のことをおもう。片々《きれぎれ》にベートーヴェンが、それから聞えてくる……なんと大らかで純情そのものな、あれはフューネラル・マーチだったか。あの友だちの某や、某はどうしているだろうか?……  まあ、私個人のことはどうでもいいが、兵隊にとって、自分の時間ほどほしいものはないし、自分の時間にいるときほど、そこから逃げ出したくなる時もない。  特攻隊の人たちは、そんな時どうしたんだろうと今、私はおもう。あの学徒出陣で、われわれが対決をせまられたものは理念や思想でどうなるものでもなかった。あの頃のかしこい思想家や文芸評論家のことは知らない、ぼくらは、大人がヴァイオリン協奏曲のラルゲットに心のやすらぐ、暖かさを見出したように、もっと切迫した苛立ちと暗中模索の中でベートーヴェンの音楽から何かを得ていた。少なくとも私自身はそうであった。ほんとうに、あの時誰がぼくたち学徒を慰めてくれたろう、ベートーヴェンの音楽のほかに! 特攻隊は、歴史に永遠に記憶される青春者の行為だ。日本は間違った戦争をしたかも知れないが、民族の血であんな見事な叙事詩を書いたんだから、罪は洗われてゆくだろう。あの戦争への贖《あがな》いは広島、長崎に落ちた原爆によってではなくて、特攻隊がしていたと私は思う。私の友人の一人は、特攻隊で死んだ。彼も『英雄』に歌詞をつけてよく口ずさんだ。かならず、音程は狂っていたが、まぎれもないそれはベートーヴェンの音楽であった。  大へん当り前な想像として、あの戦争で、ベートーヴェンの音楽が好きでそのシンフォニーに鼓舞され、勇気づけられ、死んでいった学生はほかにもいたに違いない。国家のためには死んでも、国粋主義のために死んだのでは断じてあるまい。そういう《死》を慰藉してくれるものが『英雄』や『運命』や『第七』『第九交響曲』にはあったと思う。あの頃の日本の青春にベートーヴェンの(主としてシンフォニーが)果してきた役割を無視して、ぼくらにどんなベートーヴェンを語れようか。  ベートーヴェンを聴きつづけるには、或る精神の勁《つよ》さが必要である。勁さは若い者だけがもつ《無謀な行い》に包含される場合もある。シューベルトの音楽は、優しいが、彼のやさしさは梅毒《ジヒリス》で死んだという説を首肯させる性質のものだった。むろん人はシューベルトはチフスで死んだというにきまっているが、ジヒリスで死んでなぜわるいのか。彼の音楽の美しさは、チフスよりはジヒリスで死ぬ芸術家のものだという、この見解をどれほど否定してみたところで、シューベルトの人間的な弱さを覆《おお》えはすまい。カザルスは年をとるにつれて、ますますシューベルトが好きになったと言っている。小林秀雄氏も同じような感懐をもらされたことがあった。結構だ。老人をなぐさめるやさしさなら、本物にちがいない。しかし断じてやさしく慰藉されたくはない依怙地なものも、青年にはあるはずだ。  それがあるから青年は、無茶もするだろう。しかしジヒリスに罹るような生き方だけはしない。ベートーヴェンは、しない。『ドン・ジョヴァンニ』を書いたモーツァルトを、その天才を濫用しすぎるとベートーヴェンは憤ったが、たしかにベートーヴェンには、ドン・ファンというのは言語道断な不埒者であり、そういう男を神聖な音楽で扱うことに我慢がならなかったに違いない。そんな融通の利かぬ、ベートーヴェンの頑迷さが神のようにおもえる同じストイシズムの中に、あの頃、ぼくたちは生きようとしたのだ。むろんシューベルトは、女たらしではない。それどころか背は低く、猫背で、強度な近視で、さっぱり風采のあがらぬ、女性に対してはいつも小心な青年だった。この小心ぶりは、痛いほどぼくらにも分る。彼のやさしさが分る。しかし小心でいて、ジヒリスに感染してゆくのは、これはもう弱さだろう。あえて言うなら不潔きわまる弱さだ。ベートーヴェンの交響曲は、そんな弱い精神には所詮ついて行けないにきまっている。ワグナーがベートーヴェンのシンフォニーから生れるのが偶然ではないことが分る。  ヒットラーは、ナチスの若者を戦場に送るとき、ワグナーの音楽をきかせた。ワグナーがユダヤ人を憎悪したのは有名だが、ベートーヴェンだって「キリストは結局は、はりつけにされたユダヤ人さ」ととんでもないことを放言し、官憲といざこざを起しそうになった。あの『ミサ・ソレムニス』を書いたベートーヴェンがである。「ソクラテスとイエスが私の模範であった」ともベートーヴェンは言うが、ベートーヴェンのとんでもない放言は、だからユダヤ人への嫌悪感による誇張だろう。要するにユダヤを憎むのがチュートンだ。どうしてヒットラーだけが責められるのか。ヒットラーを庇うつもりは毛頭ないが、しかしあのアウシュビッツの虐殺を、原子爆弾を投下したアメリカが非難するのはすじは通るまい。どちらも戦争なら、もともと戦争をやり遂げる異常に強靱な感性の持ち主がしたことではないか。シューベルトの音楽に慰められる人だけが、ガヤガヤ言ってればいい、ヒットラーならそう嘯《うそぶ》いたかも知れない。アウシュビッツのあの大虐殺を、ワグナーはどう思うか。ベートーヴェンならどう言うか。そのことのほうが、よほど、ヒットラーには気がかりだったろう。  私の言いたいことはもう分ってもらえると思う。ベートーヴェンの音楽は、ことにシンフォニーは、なまなかな状態にある人間に喜びや慰藉を与えるものではない。次々と戦線へ若者を送り出したヒットラーの胸中に、痛哭がなかったと誰に言えるのか。ベートーヴェンの『英雄』と『第九』は、あの時誰よりもヒットラーの心の中で鳴っていたとおもう。ベートーヴェンがナポレオンの即位に失望して、『英雄』の楽譜を床に叩きつけた話は、ナポレオンの独裁を非難する人たちに鬼の首でもとったように持囃《もてはや》されているが、本当は、ナポレオンを愛していなくてあんな見事な葬送行進曲のうまれるわけはあるまい。英雄は、ベートーヴェンの心の中にいたのだ。ヒットラーは、そんなベートーヴェンの中の独裁者への葬送を、あの時聴いていたはずだ。 『第七交響曲』も私個人には忘れられない大切なシンフォニーである。あれは酔っぱらいの作品だと、北ドイツで酷評された話をロマン・ローランの著作で読んだとき、『ミサ・ソレムニス』を予約出版したら、七人しか申し込みがなかった挿話を思い出した。申し込んだ中に音楽家は一人もいなかったことを。ワグナーは侮蔑の言葉を死ぬまでウィーン人へ叩きつけている。モーツァルトがどんなにウィーンで冷遇されたかをぼくたちは知っている。それなら、ベートーヴェンを日本人のぼくが誰よりも理解したと思い込んだって、少しも不遜ではあるまいと名曲喫茶で、本気で私は考えたことがあった。一体ベートーヴェンの何を聴いてそんな気持になれたのか、肝心の曲目は忘れているからたわいのない話だが、でも、これだけは今は言える。運命というものについてである。  ベートーヴェンの交響曲を語るとき、あまりにしばしば“運命”ということを耳にする。ベートーヴェンに限って、運命は苦難という言葉ですり代えられる。苦難との闘い、その克服、つまり「運命はかく戸を敲く」だ。しかし、私は自動車事故の体験で知った。天才に運命はない、運命というようなものは天才にはないことを。或る事件や偶然の出来事が動機で、一人の人間が何事かを成し遂げたとき、その事件は運命的なものだったと人は言う。嘘だ。運命を口にしたがるのは鈍才だけだ。運命に左右される程度で何が天才なものか、天才は、だから戸を敲かれたりはしない。天才ベートーヴェンは、そのことを言いたかったに違いない。しかし弟子のシントラーには分らなかった。天才ではないから。そこでベートーヴェンは比喩を言った。多分——天才が、運命を敲く「こんなふうに」とベートーヴェンは自分の胸をたたいたろう、シントラーはそれを誤って解釈したに違いない。 5  弦楽四重奏曲となると、こちらの裡《うち》に甦る青年時代は、シンフォニーとはよほどおもむきは違ってくる。このあいだ考えることがあって後期弦楽四重奏曲のモノーラルと最新ステレオ盤を、二日ばかり立てつづけに聴いてみた。両者の本質的な違い(主に溝から音をひき出すメカニズム上の)が、音楽そのもの、演奏自体を変えざるを得なくなっている道理も、私なりに納得がゆきおもしろかったが、ワグナーの時代から、作曲家が演奏上で不満としたものは、案外、いまも変っていないようである。  ワグナーはこう言っている。「弦楽器編成で、第二ヴァイオリン、とくにヴィオラがいつも楽旨をぶち毀してしまうのはどういうわけか、それはわが国(ドイツ)のオーケストラ編成において、第二弦部に配置されるのは、いつも未熟者か引退寸前の老ソリストだからだ。はなはだしい時は老弱の吹奏者さえ、もといくらかヴァイオリンを弾けたというだけでヴィオラに回される。真にすぐれたヴィオラ奏者は、ただ一人が首席にすわるというのがせいぜいで、それもときどき楽譜にあらわれる独奏部のためにすぎない。その独奏部さえ、第一ヴァイオリンの首席演奏者で間に合わされた例さえある」  ワグナーはまた、こうも言う。「こうした悪弊が正当視されてしまったのはイタリア歌劇の低俗な音楽(楽器編成)のせいだが、いつまでもこんな状態がつづけば、ヴィオラは常にただ伴奏の埋め草に堕してしまうだろう」そんなことで、どうしてあの素晴らしいベートーヴェンの後期クヮルテットをわれわれは自分のものにできようか——ワグナーはそうまでは言っていないが、そう言いかえても別段彼の意には背くまい。  たしかにワグナー時代と今とでは問題なく、弓で弦を弾くという技術そのものはヴァイオリン、ヴィオラにかかわりなく一般にも普及し、認識も高まっていようが、では『ラズモフスキー』はどうかとなると、やはり簡単に割り切れはしないように思う。ワグナーの憤懣は不死鳥のように黒い翼を今もまだ世界楽壇に拡げているのではないか。  中期の代表作といわれる作品五九の三曲は、ラズモフスキー伯爵に捧げられた。この伯爵邸には、当時、全欧に並ぶものなしといわれた歴史的な弦楽四重奏団が抱えられている。ベートーヴェンがこの四重奏団のために作品五九のクヮルテット三曲を作ったのは言うまでもないことで、初演もまたこの四重奏団に演奏された。話がむつかしいのはこの先である、極言すれば、ベートーヴェン自身が三曲のこのクヮルテットをやがてつまらなくしてしまう。  さきにも触れたが、一部貴族の歓心を満たすために作られていた交響曲というものを、ベートーヴェンは大衆の音楽にした。彼は、「新しい聴衆を作曲した」そこで、大勢がオーケストラを聴きに行く。首席ソリストは衆目をあつめ、引退者的な老ソリストや未熟者がヴィオラ、第二ヴァイオリンを受持たされる仕儀となる。こういう編成の大綱は今も大して変るまい。弦楽四重奏団にしてからが、ほとんどがその演奏団体に第一ヴァイオリニストの名を冠しているのがいい証拠である。なんにしてもベートーヴェンの交響曲のお陰で、第二ヴァイオリンやヴィオラを受持つのは、「馬の尻っ尾で弦をこする技術」には熟達していても、第一ヴァイオリニストに比して多少、芸格で劣る奏者が当るという、妙な了解が暗黙裏に成立ってゆくのである。  むかしはそうではなかった。少なくともベートーヴェンが作品五九の三曲を作ったとき、その意図の中でヴィオラや第二ヴァイオリンが伴奏か埋め草程度に片付けられていたわけがない。ヴィオラには、フランツ・ワイス(Franz Weiss)という当時のヴィオラの名人がいた。第二ヴァイオリンにいたってはラズモフスキー伯自身が演奏を受持った。この三曲のうち二曲まで、曲中にロシア民謡が採り入れられているのはそんな伯爵のためだったと、W・ド・ランツは説いているが、そう言われれば確かに『ラズモフスキー』には他の弦楽四重奏曲に比して第二ヴァイオリンの活躍する部分が多い。  今はどうだろう、当代一のヴィオラ奏者プリムローズがたとえば、ハイフェッツと組んでベートーヴェンの弦楽トリオを弾いた例はあるが、プリムローズを一員とする四重奏団が定期的にクヮルテットを演奏したためしはない。楽壇においても分業化が発達し、今ではそれぞれの楽器にぬきん出た奏者はいる。その代り権威という厄介なものが幅を利かせ、或は専属制度が邪魔をして、当代の名人四人が顔を揃えた弦楽四重奏団などは望むべくもなくなった。コルトー、ティボー、カザルスのトリオがかつて音楽愛好家を狂喜させたのも道理だが、私に言わせれば、イザイ、エネスコ、クライスラー、カザルスの四人が、パリで「内輪のクラブをつくって」クヮルテットを演奏した話こそは、神話である。時にはティボーも仲間に加わったという。このとき、好んでヴィオラをひいたのはイザイだったそうだ。「しかし、ヴァイオリンを弾くときの彼こそは誰もくらべようのないほど光彩を放った」とカザルスは懐かしんでいるが、これがクライスラー自身の回想録になると、第一ヴァイオリン〓クライスラー、第二ヴァイオリン〓ティボー、ヴィオラ〓イザイ、チェロ〓カザルスとなり、これにピアノ〓ブゾーニまたはコルトーかプニヨ……で。第一次大戦前の話である。こんな顔ぶれで一度でもベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴けたら!  ベートーヴェンが『ラズモフスキー』を作曲した当時は、ほぼこんなメンバーでの演奏が可能だったと空想しても、イザイなら文句は言わないだろう。なんにせよ、完璧な演奏によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲——とりわけ後期のそれを味わうことは、時代とともに不可能になって行くと言っていい。昭和の古老たちがいまだに熱っぽい口調で絶賛してやまぬカペー四重奏団にしたって、イザイやエネスコやカザルスが顔を並べた光景にくらべれば、せいぜいアンサンブルで拮抗しうる程度ではないか。暴論を吐いているわけではない。カペーによる後期弦楽クヮルテットの復刻盤を聴いて、私がつかんだこれは絶望的な確信だ。絶望の真因を、遠くベートーヴェンの交響曲に見出したというのである。  溝の音を、針で拾うメカニズムは、ステレオもモノーラルもかわりはない。かわったのは驚異的な再生音の高忠実度だが、この進歩はかならずしも演奏(レコードによる)の進歩をもたらしたとは限らない。断わっておくが、録音・再生技術が進歩したから、ヴィオラや第二ヴァイオリンの質的低下が鮮明に聴き分けられるというのではない。そんなことはない。むしろ分業的に——音の分離が良くなった賜物で——かえって巧みにすらきこえる。そのくせ、ちっともおもしろくないのは、ジュリアードやブダペスト弦楽四重奏団をステレオで聴いていて気がついたが、緩徐楽章《アダージヨ》のせいである。アダージョが聴えてこないのだ。  ベートーヴェンの音楽を支えているのは、言うまでもなくアダージョであり、重要なアレグロ楽章においてさえ、その大多数は、よりふかい意味でアダージョの性格に属する基本旋律によっている。これは少しベートーヴェンを聴き込めばわかることである。ところで、もっとも純粋なアダージョとはいかなるものか。しろうと考えだが、その基底をなすものは持続音に違いない。したがって真のアダージョなら、いかにテンポを緩やかにとっても緩やかすぎることはない。音の弛緩が恍惚に変ったのが、アダージョだろう。モーツァルトの場合、アレグロはいかに早く演奏しても早すぎることがないと同様に、ベートーヴェンでアダージョが遅すぎたら、そいつは、下手な演奏にきまっている。ステレオからアダージョが聴えて来なくなったというのは、こういう意味である。  では、こんなことになった理由は、どこにあるか。弦のひびきの違いにある。わかり易く言えば、レコードが再現してくれる弦と管の音の違いによる。  弦楽四重奏曲に管の音がする道理はむろんないが、本当の弦の音を、昔のレコードで聴いたと言える人はいないだろう。むかしは、どうかすればヴァイオリンの高音はラッパかピッコロにきこえたものだ。あの竹針というやつをサウンド・ボックスに付けて鳴らせば、少なくとも松脂がとぶ(弓で弦をこする)生々しい擦音はきこえない。ところでピッコロは、すぐれた奏者の口にかかれば朗々たる余韻を湛えて鳴るが、いつか呼吸がきれてしまう。かならず休止がくる。これに反してヴァイオリンやヴィオラは、弓の端から端まで、弓の上げ下げによって或る旋律を、途切れることなく鳴らしつづけることはできる。  このことから、これはワグナーが言っているのだが、旋律のテンポをゆるやかにとるべきアダージョは、本来管楽器のものなのである。ところが、オーケストラの実際において、均等な強さ《フオルテ》で音を持続させるのが管楽器では呼吸的に困難のため、作曲者はその代役を弦楽器にさせた。結果、滑稽にも弦楽器奏者たちはわがドイツでは管楽器への均衡をはかって、半強音《メツオフオルテ》以外の演奏ができなくなったとワグナーは言う。したがって真のフォルテも、真のピアノも、ドイツのオーケストラは出せなくなったと。  ステレオとモノの弦楽四重奏曲を聴き比べて私の合点したのはここのところである。独断かも知れないが、オーケストラを聴いているわれわれの耳のほうも、いつの間にかドイツのオーケストラに似た過ちを犯してきたのであるまいか。アダージョがフォルテで鳴らされるためしはない。したがって、それは弦においては嫋々たる旋律につづられる。ところが弱音の持続となれば、弦は管楽器の反響《エコー》にかなわない。あまたの作曲家のアダージョを聴き慣れたわれわれの耳が、そこで、アダージョになると無意識に管の音をなつかしむ。つまり弦楽四重奏曲においては、ベートーヴェンの場合は特に、再生音の忠実でない弦音のほうにアダージョを聴くのである。  むかしの、と言っても昭和初期にサウンド・ボックスで拾った弦音を聴き込んだ音楽愛好家ほど、クヮルテットに限っては往年の演奏のほうが良かったと口を揃えて言っているのも、あながち、演奏のためばかりではないことがわかる。今の若者たちには見当もつくまいが、われわれはサウンド・ボックスでベートーヴェンの弦楽クヮルテットを聴いた。聴きふけったのである。  私自身は、けっして後期のすべてを聴いたのではなく、細部まで聴きこんでいたのでもない。それでも作品一三一の冒頭にあの第一ヴァイオリンが鳴り出せば、胸がふるえる。カペーのではなく、アポロンの竹針用鋏を使ったあのカチリという音がきこえる。他のどれよりも作品一三一こそは後期弦楽四重奏曲中の傑作だと、当時はおもい、今もこの懐いは変らない。第五楽章プレストから、第六楽章のちょっと退屈なアダージョ・クワジ・ウン・ポコ・アンダンテを経て、終楽章アレグロのユニゾンが響き出すと、きまって涙がわいてきた。ベートーヴェンが甥の自殺未遂に悩んだ話など知る必要はない。一三二のモルト・アダージョを聴くこともない。だが一三一のこのアレグロだけは、聴け。人にも、おのれ自身にもそう言いきかせて、何度なみだをこぼしたろう。今でもアマディウスやブダペストでここを聴くと、目頭は熱くなるが、明らかに感傷のせいにすぎない。感傷的にさせるのはやっぱり昔の音の記憶である。記憶が、さも権威ありげに、ステレオの一三一はどれもこれもつまらんぞと言わせる。或る程度その通りなのだから一層、始末がわるいが、ステレオでしか後期クヮルテットを聴かぬ今の若い人たちの方が、あきらかに、この意味では仕合せかも知れない。そしてもし、自分が、今のステレオでレコード音楽を聴き始めたのだったら、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲をどんなふうに受取ったろうか。そう思うと、歳月の移り変りというもの、自分の年齢に思いあたって大いに狼狽した。  あと何年、ぼくはレコードを聴けるんだろう。 あとがき  ハイデルベルクで、ウイーク・デーの午後、ひっそりした教会へ入ってみたことがある。ステンドグラスや殉教壁画の崇厳感とは別に、私の心をとらえたのは、宏壮な教会内のいたるところに、こっそり蔵されていたスピーカー・キャビネットだ。大きさにしてスコッチ・ウィスキー一壜を納めた箱くらいだが、それが何十となく教会の天井から下がり、或は円柱のわきに装備されていた。すべてシーメンスの製品だった。シーメンスのオーディオ部品は、日本では一般に知られていないが、テレフンケンより高級なものである。  ドイツだからシーメンスを使ったと言えばそれ迄だが、司祭の声を信者に伝えるためにせよ、音質への配慮がなくて選択されるスピーカーではないだろう。いい音への、こうした心くばり、音楽的教養とは、つまりこういうものだろうと私は思う。  ずいぶん沢山なレコードを私は聴いてきた。いろいろな装置で聴いた。レコードで音楽を鑑賞するとき、むろん、われわれは音楽そのものとむき合うので、機械の介在する余地はない。しかし装置がかわれば、どうかすれば音楽そのものが一変してしまう。演奏が変る。そういう例を身につまされて知っている人は多いとおもう。私自身のことを言えば、装置を改良するにしたがって、レコードのあの細い溝に、何とまあ繊細な音が刻みこまれていることか、針さき一つでこんな美しい音がひき出せるのか……初心はそんな感動を味わいつづけ、感動に憑かれて更に機械をいじった。ふり返ると、三十年になる。  この集には、ステレオ装置をもとめてヨーロッパへ渡った一九六三年秋から最近まで、“西方の音”と題して『芸術新潮』に折々発表した文章をまとめてある。オーディオ部品というのは日進月歩で、今では規格の古くなったものもあるが、初めてそれを聴いたときの感動をとどめる意味で、訂正はしなかった。多少、だからズレがあるだろうが、よかれあしかれ、レコードを聴くについやした私の三十年の半生がここには出ているとおもう。 著者        一九六九年五月 この作品は昭和四十四年七月新潮社より刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    西方の音 発行  2001年6月1日 著者  五味 康祐 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861092-X C0873 (C)Yufuko Gomi 1969, Corded in Japan